山田悠介
@ベイビーメール
目 次
事 件
異 変
リミット
流 産
子供達
事 件
空気が蒸れている。
まるで水の中にいるようだ。
湿気が溢《あふ》れている。
六月から七月の中旬まで続いていたジメジメとした空気。スッキリとしない曇り空。雨。不快感。苛々《いらいら》する。今年は異常に蒸し暑かった。
関東地方に梅雨明けの発表があった。
七月十八日木曜日。
今年の夏は例年に比べ猛暑が続く。
気象予報士のその言葉。
照りつける太陽。
鬱陶《うつとう》しい蝉の声。
日本国民の大きなため息。
ため息だけではない。
子供達には待ちに待った夏休み。
海水浴。キャンプ。笑い声。
暑い夏。思い出の夏。
そのはずだった。
事件が起こった。
同日。
午後八時二十分。
奇妙な事件が、起こったのだ……。
閑静な住宅街。一目見ただけで高級住宅地だと誰もが分かるその場所に、一台のパトカーが到着した。後ろのドアが開かれた。
背広姿の刑事が降りる。事件現場には何台ものパトカーが停まっている。赤色灯がクルクルと回っている。辺りにはすでに大きな人垣が出来ていた。救急車はまだ到着していない。
「こちらです」
部下に促され武田《たけだ》は白い手袋をはめながら後に続いた。
「どうでもいいけど、夜なのに蒸し蒸しとしてあっついなぁ」
武田はグチをこぼす。事件現場に近づくにつれ、野次馬の声も近づいてくる。
「はいどいてどいて」
部下が人混みをかき分けていく。中では現場検証が行われていた。武田は表情一つ変えずにキープアウトと書かれた黄色いテープをくぐり、事件現場を目の前にした。
気配を感じたのか、死体の前に屈《かが》んでいた部下の刑事が振り向いた。
「武田さん」
部下の困惑している表情を見て武田は冷静に何度か頷《うなず》いた。
「見て下さいよ、これ。酷《ひど》い殺され方ですよ。こんな殺され方見たこともない」
渋い表情を浮かべ、武田は死体に目を置いた。殺しの現場は慣れている。それが職業だからと言ってしまえばそれまでなのだが、今回ばかりは衝撃が走った。
「ひでえな、これは。腹をえぐられてるじゃねぇか」
血塗《ちまみ》れになった女性の死体。苦しそうに両目が開いたまま死んでいる。その殺され方は酷いものがあった。腹部がメチャメチャにされて、まるで野獣にでも喰《く》われてしまったかのようにポッカリと穴があいているようなのだ。
「目撃者は?」
死体に目を置いたまま武田は部下にそうたずねた。部下は頭《かぶり》を振った。
「いえ、目撃者はまだ見つかってはおりません」
武田は、そうかとため息を吐く。
「身元は?」
同じく部下は頭を振った。
「それもまだです」
武田は黙る。
「おそらく、コンビニ帰りの途中で何者かに殺されたものと思われます。今言えるのはそれだけです」
死体の目の前にはセブン−イレブンの袋が落ちていた。中にはおにぎりが四つにウーロン茶のペットボトルが二本入っていた。ウーロン茶はまだ冷えている。
ただ一つ言えるのは誰が見ても奇妙な事件だった、ということだ。
もし殺しだけが目的の通り魔の犯行ならば、どうしてここまでやらなければならないのか。通り魔的な犯行ではなく、この女性に恨みを持った人間が犯人だとしても、普通ここまでやる必要があるのだろうか。もしそうだとしたらこの女性に相当な恨みを持っていたか、もしくは犯人は精神障害者。
そこまで考えさせられるほど、この殺し方は常軌を逸していた。
「とにかく、捜査を進めていくしかないな」
「そうですね」
改めて死体を見つめる武田。上半身から腹部へ。武田の視線がピタリと止まった。
「ん?」
眉間《みけん》にしわを寄せながら腹部に目を凝らす。
「武田さん? どうかしました?」
その言葉に一言も発する事なく武田は死体の腹部の前にゆっくりと屈んだ。
「武田さん?」
武田は気になる物を発見した。腹部の中から人差し指と親指である物をつまみだしたのだ。それは長い管の様な物だった。血に染まっている長い管。
「何です……それは」
管を見つめる武田にある言葉が浮かんできた。それは誰もが産まれてくるまで母親の胎盤と繋《つな》がっている物。
「……へその緒」
七月十九日金曜日。
スッキリとした空。
心地のよい風。
雲一つない青空。
晴天だった。
斉藤雅斗《さいとうまさと》は新宿駅を降り、人混みの中をひたすらに走っていた。呼吸が乱れる。汗が噴き出す。袖《そで》で額の汗を拭《ぬぐ》った。その繰り返しだった。
ネクタイをゆるめて腕時計を確認する。七時三十五分。あと十分。
「やっばいなぁ。遅れちゃう」
情けない声を洩《も》らしながら速度を落とす事なく必死で駆ける。ちんぴら風の若者に肩がぶつかった。体がよろける。
「おいコラ!」
止まるわけにはいかなかった。雅斗はクルリと回転して、すみませんと早口で謝り再びクルリと回転しその場を足早に去った。
「待てコラ!」
後ろで罵声《ばせい》が飛んでいたが構っている訳にもいかず、雅斗は振り返る事なくひたすらに走った。逃げる、というよりも急ぐ、というほうが脳を支配していた。とにかく遅れる訳にはいかなかった。一学期の最後の日。この日は終業式だったのだ。
雅斗は高校の教師だ。社会科の教師。ずっと夢だった。教師になるのがずっと夢だった。
教師になろうとした理由があった。小学校二年生の時だった。雅斗の両親は離婚をした。
あまり仲はよくなかった。低学年の雅斗にも分かるほどだった。ほどなくして両親は離婚。雅斗は母、公子《きみこ》と暮らす事となった。
当然裕福ではなかった。女性一人の収入では満足に生活する事が出来なかった。古いアパート。外装のペンキだってほとんどはげていて小さな部屋が二つしかなかった。中ももちろん狭かった。勉強机がアイロン台に変わった。
それくらいに部屋が狭かった。満足に勉強も出来なかった。満足に食うことも出来なかった。学校の給食が一番豪華だった。もちろん仲間の話題には入れなかった。昨日あのテレビ観た? 何もついていけやしない。ましてやみんなが持っていた流行のおもちゃなど買えるはずもなく、雅斗は仕方なく我慢をした。我慢して我慢して我慢し続けた。そんな家庭状況を知る者が一人。いや、二人いた。その一人が当時の担任だった。赤坂学《あかさかまなぶ》先生だった。
公子が夜になっても帰ってこない日は珍しい事ではなかった。仕方のない事である。生活のため。食っていくため。そして生きていくためにはお金が必要だった。夜になっても帰ってこない日は一人で雅斗は公子の帰りを待ち続けた。静かな部屋でずっと待ち続けていた。十一時に夕飯を食べる事が当たり前の様になっていた頃、突然赤坂先生が家にやって来たのだ。両手には買い物袋。中にはいっぱいの食材が入っていた。牛肉だと歓喜の声を上げたのを雅斗は今でも覚えている。
赤坂先生はその日、雅斗の母親の事は一言も口には出さず、ただ一緒に食べようと思ってなと明るい笑顔でそう言った。今日はカレーを作ろう。手伝ってくれるか斉藤。
雅斗は元気に頷いた。台所に向かい、二人は野菜を切り始めた。米を研ぎ、ご飯を炊いた。カレーのルーも一緒に作った。そしてカレーライスができあがった。小さなテーブルにお皿が二つ。二人はテーブルを挟んで一緒にカレーライスを食べた。甘口だった。ジャガイモが大きかった。もちろん、公子の分まで作っておいた。公子が帰ってきた頃には赤坂先生はいなかった。事情を話し、冷めたカレーライスを公子に食べてもらった。おいしいとその時、公子は微笑んだ。
それから公子が仕事で遅い時は必ず赤坂先生が来てくれた。公子もそれには感謝し、安心している様だった。仕方なく赤坂先生に甘える事にしたのだ。
赤坂先生とは色々な料理を作っては一緒に食べた。料理は決して上手《うま》くはなかった。でも料理の味は美味《おい》しかった。その頃から雅斗は自分も学校の先生になろうと決めていた。
そして赤坂先生の様に思いやりのある先生になろうと決めたのだ。
赤坂先生はずっと雅斗の担任だった。
偶然ではなく、赤坂先生の配慮があったのだろう。小学校を卒業するまで担任は一度もかわることはなかった。
小学校を卒業し雅斗は区立の中学校に入学。そこで雅斗は必死に勉強した。成績で一番を取る事は一度もなかった。それでも優秀な成績は常におさえていた。やがて中学も卒業した。あっという間の三年間だった。
高校は都内で一番の学校へと進学した。当然私立など行けるお金もなく、行く気すらなかった。併願する事なく、都立一本で雅斗は受験を勝負したのだ。
そして大学。国立大学に進学した雅斗はそこで念願の教員免許を取得した。これで教師になれると思いこんでいた。だが、期待は裏切られた。
都立高校の教員試験を受けたのだが、採用される事はなかった。考えているほど甘くはなかった。それから途方に暮れる毎日が続いた。公子にも心配をかけた。これからどうしようとバイトをしながら何日も悩み続けた。そんなある日の事だった。
まだ教員の募集をしている私立高校を見つけたのだ。私立|光輝《こうき》学園。現在雅斗が勤務している学校だった。雅斗はすぐさま連絡をいれ、三日後に面接が行われた。採用の電話が掛かってきた時は子供の様に雅斗ははしゃいだ。当然公子も喜んでくれた。やっとのおもいで教師になる事が出来たのだ。雅斗はこうして夢を掴《つか》んだ。現在も公子と二人暮らし。あの頃よりはずっと楽な生活をさせてあげる事も出来ている。全ては赤坂先生に出会ったおかげだと今年で三十になる雅斗は今でもそう感じていた。今では深刻な悩みもない。幸せな生活が続いていたのだ。
私立光輝学園の校門前に到着したのは七時四十三分の事だった。校庭には誰一人として生徒はおらず閑散としていた。激しく呼吸を繰り返しながら雅斗はラストスパートをかけた。校舎まで全速力で走り教員玄関で靴を履き替え、急いで職員室に向かったのだ。
光輝学園の出勤時間は七時四十五分。もうギリギリである。雅斗は勢いよく職員室の扉を開けた。
「お早うございます!」
威勢のいい挨拶《あいさつ》が職員室内に広がった。職員室内の光景が瞳《ひとみ》に広がる。雅斗は安堵《あんど》の息を洩らした。ギリギリセーフである。まだ教師達のミーティングは始まってはいない。遅刻ではなかった。それよりも一気に視線が集まっていた。突き刺さるようだった。この学園には生徒が千三百人以上在籍している。従って教師の数も都立とは比べものにならない。講師も含めて百人以上にもなるのだ。そのほとんどの教師が注目をしているのだ。それでも羞恥心《しゆうちしん》よりも呼吸を落ち着かせる事で大変だった。とりあえず雅斗は自分の席に着いた。鞄《かばん》をデスクにドスンと置いた。
呼吸はまだ落ち着かない。汗が噴き出してくる。ハンカチを忘れた事に今気がついた。
「お早う斉藤君。ギリギリだったね。今日はどうしたの? 珍しいね遅れそうになるなんて」
声をかけてきたのは雅斗よりも四つ年上である山田《やまだ》であった。現代国語の教師である。山田とはデスクが隣という事で教師の中では一番親しい仲である。何よりもお喋《しやべ》りな教師で生徒達には人気がある。ただ授業中に世間話が多すぎてカリキュラムが時折遅れるというのが玉に瑕《きず》なのだが。
「何かあったの?」
雅斗は呼吸を落ち着かせてから口を開いた。
「実は目覚まし時計が壊れていましてね、大変だったんですよ。ここへ来る途中にちんぴら風の奴に肩ぶつけちゃって怒られるし……今日はついてないですよ。終業式の日に遅刻なんて出来ませんよ。しまりが悪いですからね」
「あらそう」山田の口癖である。
「それは大変だったね」
「本当ですよ全く」
山田との会話もほどほどに、教師達の朝のミーティングが始まるようだった。
「それではみなさん集まって下さい」
教頭である新井《あらい》の声が職員室内に広がった。一人また一人と教頭の前に集まっていく。
当然雅斗もその中の一人であった。間もなくミーティングが始まった。
「えー、それではみなさんお早うございます」
教頭が挨拶をする。
「お早うございます」
礼がそろった。
「えー、今日は終業式という事で一学期最後の日になります。今日の流れを簡単に説明しますと、八時五十分から体育館で終業式。そこで校長先生からのお話があります」
校長の話。これがまた長い。雅斗は大きくため息をついた。
「その後、担任の先生方はクラスに戻り、一時間のロングホームルームを行って頂きます。そこで生徒達に通知表を渡し、夏休みの宿題となる各教科のプリントを配布……」
教頭の話は十五分ほど続いた。終わったのは八時二分。それから雅斗は自分のクラスで配るプリントを整理した。気がつけば八時四十分。間もなく、朝のショートホームルームが始まろうとしていた。
「先生。お早う」
八時四十五分。チャイムが鳴った。後ろで生徒に挨拶をされ、雅斗は振り返った。雅斗が受け持つクラスの生徒だった。
「おお、お早う。早く教室入れよ」
「先生も早くね」
雅斗は苦笑いを浮かべながら階段を上っていく。三階まで一段一段上っていく。毎日上り下りしているせいか、自然と足腰が強くなっているようだった。
雅斗が受け持つのは二年C組。この学校は三年間クラス替えを行わない。故に一年生の頃から見ている生徒達である。一年以上も同じ顔と一緒にいると、一人ひとりが家族に思えるのだ。三十人の一家族。雅斗は自分が受け持つ生徒達が大好きだった。
教室の扉を開くと、そこはまるでジャングルのようだった。ほとんどの生徒が席に座っていない。座っているのは三人ほどで、後の生徒は空っぽの鞄を投げ合ったり、お喋りをしあったり、チョークで黒板にイタズラ書きをしていたりと、やりたい放題であった。本当にこれが高校二年生なのかと呆《あき》れてしまうほどだった。
「ほらほらほら座れ」雅斗は両手をパンパンと叩《たた》きながら生徒達を促した。だがほとんどの生徒には聞こえていない。雅斗が教室に現れた事さえも気がついていない生徒がいる。
「ほら座れ座れ! ホームルーム始められないぞ」
更に声を張り上げるとようやく全員が席に座りだした。そのほとんどがダラダラとしながら席に着く。
「ほらダラダラしない。今日は終業式なんだぞ! しゃきっとしろしゃきっと」
教壇に上がり雅斗が喝をいれると一人の生徒がだらけた口調でこう言った。
「でもよ、暑いんだからしょーがねーじゃん。どうしてクーラーが壊れているわけ?」
それには雅斗も困っていた。
「仕方ないだろう。壊れたもんは壊れたんだから。夏休み中になおすって言ってたから教頭先生が。だから我慢しろ」
「でもさ、俺達が来るのって九月じゃん? もうその頃にはクーラーいらなくねえ?」
今時の口調。雅斗はやれやれと息を吐く。言葉ばかりは仕方ない。別に悪い生徒ではないのだから。
「まあそう言うな。明日から夏休みだからいいだろ」
「まーね」
雅斗は小さく微笑み、全員に指示をする。
「さあ、もうそろそろ終業式始まるから、体育館シューズだしとけよ」
「忘れた人は?」
一人の男子生徒が訊《き》いてきた。
「仕方ないから上履きでいけ。二学期からはちゃんと持ってこいよ」
また違う男子生徒がこう言った。
「てゆーかさ、また校長の話長いのかねえ。俺、もう退屈でしようがないんだけど、彼の話」
今の台詞《せりふ》に雅斗は慌てた。
「おい、彼って言うな彼って」
声をひそめて注意する。笑い声が起こった。
チャイムが鳴り響き、放送で体育館へ集まれと指示があった。
「さあ行こう。あまりダラダラするなよ」
こうして二年C組は体育館に移動したのだった。一段落がつき、雅斗は笑みを浮かべながら小さく息を吐いたのだった。
体育館のざわつきは、教頭がステージに上がりマイクの前に立つまで絶えることはなかった。何しろ千三百人以上の生徒達をまとめるのは容易ではなく、結局終業式が始まったのは九時五分を過ぎてからだった。
教頭が咳払《せきばら》いをする。
「えー、それでは、これから一学期の終業式を行います」
各クラスの担任は、受け持つクラスの列の最後尾に立ち、目立つ生徒がいれば注意をする。もちろん雅斗は二年C組の最後尾にいた。一番後ろの生徒が振り向いた。
「校長の話、長いの?」
露骨に嫌な顔を浮かべ、そう訊いてくる。そんな事は校長ではないので分かるはずもない。大体は予測がつくが。
「いいから前向いて」
雅斗は声をひそめて注意する。
「えー、これから校長先生のお話がありますので、生徒達は静かに聞くように」
そこで一旦《いつたん》教頭はマイクを切った。ステージ上で何やらお願いしますと言っている様だった。
校長である大和《やまと》がステージに姿を現した。生徒達のため息が今にも聞こえてきそうであった。教頭が号令をかける。
「礼」
生徒達が一斉に頭を下げる。その後に大和が皆に向かって頭を下げた。光輝学園は何より礼節を重んじる学校である。それがよく表れていた。
校長の話が始まった。
「えー早いもので、梅雨も明け、一学期も今日で最後という事になりました。これから本格的な夏を迎える事になるのですが、生徒達皆さんはこれからの夏休みを無駄にしないで頂きたい。と言いますのも、目的もなしにただ家でダラダラとしては欲しくない。この期間がどういう期間かというのを是非考えて頂きたい。例えば一年生の諸君。一年生の諸君は是非、自分の将来を考えて頂きたい。まだ一年生という事で将来の目的を持っていない生徒が大勢いると思います。しかしそれは間違いなのです。あっという間に高校という三年間は過ぎ去っていきます。今からしっかりと目的をもって頂きたい。二年生の諸君。二年生の諸君は自分の進路の準備をする期間です。三年生になってから迷うことがないように今からしっかりと足固めをしていただきたい。そして三年生の諸君……」
校長は切れ目なく次々と話を進めていく。
結局、校長の話は九時三十分にまで及んだのである。
「以上」
その途端、生徒達の間でため息がドッと洩《も》れた。立ち続けているのにも疲れたのであろう。ざわつきが起こり始めた。
気がつけば教頭がステージに立っている。
「これで終業式を終わりたいと思います。一年A組から順番に体育館を出て下さい」
教頭の指示にしたがい、クラス毎に体育館を後にしていく。
「それでは二年C組」
指示があった。
「それじゃあC組。クラスへ戻って静かに待っていてくれ」
生徒達に返事はない。よほど校長の話にうんざりしたのであろう。ダラダラとした歩調で体育館から姿を消していく。それを見送った後、雅斗は職員室へと戻ったのだった。
チャイムが校内に鳴り響いた。後はロングホームルームでこの日は終わりである。雅斗は教室へ向かうため、階段を一段一段上っていた。
雅斗は山盛りの宿題を抱えながら教室の扉を開いた。光景は相変わらずであった。
「はい号令係。頼む」
山盛りのプリント類を教卓に置きながら雅斗は言った。
「それじゃあみんな席座って下さい」
号令係の女子生徒が皆を促す。
「早く座ろう。始められないじゃん」
学級委員も後に続いた。それでようやく生徒達全員が席に着いた。
「はいそれじゃあ号令」
「礼」
雅斗は小さく頭を下げた。
「それじゃあこれからロングホームルームを行います」
「早く終わらせようね先生」
女子生徒の声。
「早く終わるか終わらないかはお前達次第だよ」
雅斗は続けた。
「それじゃあまず、お前達の嫌がる物から配ろうかな」
「え〜」
生徒達からため息が洩れる。
「どうせ宿題でしょ?」
「当たり。それじゃあまず現国の宿題から配っていくからな」
雅斗は列の先頭にプリントを配っていく。それを受け取った先頭の生徒は後ろにリレーしていく。
「次は社会。やってこなかったら承知しないからな」
順序よく雅斗はプリントを配っていく。
「最後に理科、物理」
配り終えた雅斗は生徒達に確認をする。
「いいか? 全員に回ったな」
次に雅斗は夏休みの過ごし方をマニュアル通り言葉にした。
「いいか? 夏休み中はついつい気が緩んでしまう。明日も休みだからといって夜遊びばかりはしないように。それと事故にはくれぐれも気をつけるんだぞ。間違ってもバイクの免許を取りに行く事はしないように、いいな?」
光輝学園ではバイク免許の取得は禁止されている。だがクラスで二、三人の生徒が免許を持っている事は雅斗も密《ひそ》かに知っている。
「それからしっかりと宿題を済ませてくるんだぞ。くれぐれも始業式の時に忘れましたという様な事はないように」
それから雅斗の話は十分間続き、通知表を返す時がやって来た。
「それじゃあ最後になるな。通知表を返したいと思います」
「え〜」
波が起こった。生徒達が露骨に嫌な顔を浮かべている。雅斗は淡々と生徒達の名前を呼んでいく。中身を見て喜ぶ者、落ち込む者、開き直る者、笑う者、とそれぞれだった。最後の生徒に通知表を返した雅斗は全員に向かってこう言った。
「どうだった? まあ、中には絶望的ってな生徒もいるけどな。これからがんばれば絶対に大丈夫。後は自分次第って事だ」
以上、これでホームルーム終わり。雅斗は号令係に促した。
「起立」
全員が立ち上がる。
「それじゃあ、九月二日にまた会おう。一人もかける事なくな」
「礼」
「さようなら」
挨拶《あいさつ》が終わると、生徒達は一人二人と教室から出ていった。何人かの生徒は教室に残り、仲間と会話を楽しんでいる。雅斗は教室から出ようと教壇からおりる。
三人組の女子生徒が近づいてきた。
「先生」
「どうした?」
三人組はお互いの目で確認しあっている。
「お願いがあるんだけど」
なるほどそういう事かと雅斗は内心で思う。
「何だ、お願いって」
一人が代表してこう言った。
「あのね、二週間後の八月二日って……あいてる?」
「八月二日?」
雅斗は頭の中にカレンダーを作る。八月二日。いや駄目だ。大事な予定があるのだ。
「いや、ちょっと無理だな」
「え〜」
三人組が同時に残念そうな声を出す。
「どうして? どうして駄目なの?」
「いや、ちょっとな」
雅斗は曖昧《あいまい》な返事をする。
「それより、何だったんだよ。お願いっていうのは」
「もし先生の予定があいていたらね、キャンプ場に連れていってもらおうかなって思ったから」
「キャンプ場ね……」
「だってバーベキューとかしたくない?」
雅斗は微笑む。
「まあな、楽しいだろうな」
雅斗はすぐに釘《くぎ》をさす。「でも悪いけど駄目なんだ。それに先生、車持ってないしな。すまないな」
三人組の表情は明らかに沈んでいた。
「なんだ、つまんないの」
一人の生徒がそう呟《つぶや》いた。
「ほんとにごめんな」
一人が頭《かぶり》を振った。
「いーよ。仕方ないからね。じゃあね先生」
三人組は教室から出ていった。
「気をつけて帰れよ」
反応はない。廊下で突然歓喜の声が上がった。
「あれ? 飛鳥《あすか》じゃん。どうしたの? 久しぶり」
雅斗は敏感に反応する。
「小川《おがわ》……」
雅斗は飛び出すようにして廊下へと出た。そこには小川飛鳥が三人に囲まれていた。
「小川……」
飛鳥の表情は暗い。三人組はそれに気がついてはいない。質問を容赦なく飛鳥に浴びせる。
「今どうしてるの? 何か大人っぽくなっちゃったよね」
飛鳥は作った笑みを三人に見せる。
「どうしたの飛鳥? 何か元気なくない?」
雅斗は慌てて口を挟んだ。
「何でもないんだ。さあ小川、ちょっと保健室行こうか」
飛鳥は、はいと小さく返事をした。三人組が大げさに騒ぎ立てる。
「なになになに? どういう事? なに話って」
「いいんだ。お前らには関係ないんだから。さあ早く家に帰れ」
さあ行こう小川。雅斗は保健室に小川飛鳥を連れていく。
「飛鳥。話が終わったら遊ぼうよ。待ってるからさ」
飛鳥は三人組を振り返り、何も返事をしないまま再び前に向き直った。飛鳥の様子を見て雅斗は思った。一年生だった頃の明るい小川飛鳥はもういない。別人の様だった。
保健室の扉を開くと、そこには誰もいなかった。ベッドにも誰も寝ていない。カーテンも全て閉まっていた。雅斗は明かりをつけた。
「適当に座ってくれ」
小川は、はいと頷《うなず》き、テーブルの前に腰を下ろした。雅斗は、お茶でいいかと後ろ姿のまま小川に尋ねた。はいという小さな返事。
雅斗が小川の前に座るまで、お互いが無言のままだった。明るい言葉さえ、かける事が出来なかった。
小川飛鳥は雅斗が受け持つ生徒だった。十ヶ月間だけ彼女の担任だった。三学期の途中、飛鳥が突然学校を辞めると言い出したのだ。当然雅斗は理由を訊《き》いた。クラスで何かあったか。嫌がらせでもうけたのか。だが悩みを抱えているようには見えない生徒だった。明るく、活発な生徒で、友達も多い。人気もある。制服のスカートを短くし、ルーズソックスだって履いていた。何処にでもいるような明るい生徒。故に雅斗はどうして飛鳥が学校を辞めたがっているのかが理解出来なかった。結局は出来るはずがなかった。
理由はただ学校がつまんなくなりだしたから。それだったのだ。近頃の高校生は、そんなつまらない理由で学校を辞めていく。それが徐々に増えているのが現状で、目的も何もない少年少女は引きこもりや性犯罪、更には大きな事件を起こしてしまう。それが今の日本なのだ。
雅斗は必死になって飛鳥を引きとめた。学校を辞めるなと。家にも出向き、飛鳥の父親と母親の四人で話しあったりもした。しかし、最終的に決めるのは本人である。結局、雅斗の説得も虚しく、飛鳥は学校を辞めたのだ。
それが一ヶ月前の事であろうか。突然飛鳥が雅斗の前に姿を現したのだ。明るい姿はもうなかった。どうしたのだと雅斗が訊くと、飛鳥は言った。
妊娠している。
現在六週間。
つき合っている彼との間に出来た子。
彼は同い年。
彼氏は産むことに反対している。
でも私は産みたい。
突然の言葉に雅斗は戸惑った。相談にのってやる事は出来たが、答えをだしてやる事は出来なかった。ただ経済的に一人の子供を育てる事は今の二人には難しい。内心では、産むことに賛成する事は出来なかった。それから一ヶ月が経ったのだ。
「まあ飲んでくれ」
雅斗は飛鳥の前に茶碗《ちやわん》を置いた。飛鳥は無言。雅斗は飛鳥の前に腰を下ろした。何から話し出そうか。時だけが進む。時計の針が耳障りに感じた。
「それで……今日はどうした? 何かあったから来たんだろ?」
笑顔で問いかけているつもりなのに、どうしても表情が硬くなる。飛鳥は茶碗を持ちながら小さく頷いた。
「どうした?」
穏やかな口調で雅斗はたずねた。飛鳥の口が開くまで、雅斗は待った。しばらくすると飛鳥が決意したのかこう言ったのだ。
「私、先週、赤ちゃん、おろしたの」
途切れ途切れに言葉が出てきた。言葉をつなぎ合わせ、確認が出来ると雅斗の中で時が一瞬ストップした。何て言ってやればいいのだろう。
「そ、そうか……今日はその事を」
「はい」
力のない返答。雅斗は次の言葉に困る。どんな言葉をかけてやればいいのだろう。先に口を開いたのは飛鳥のほうだった。
「先生? 私、前にも言ったようにやっぱり赤ちゃん産みたかったんだ。診察室で私のお腹にいた赤ちゃんをモニターで見た時にね、その気持ちは更に膨らんでいった。でも現実を見つめ直したら、やっぱり産むことは出来なかった。一つの命を育てていくという事は本当に大変な事なんだって分かった。決意するまで相当悩んだけど……仕方ないよね。自分の事すらしっかりと出来ない私だもん」
最後の台詞《せりふ》は無理に微笑んで言った。
「その後、彼は?」
その問いに、飛鳥は首を横に振った。意味が分からなかった。
「連絡がとれないんだ。どういうつもりなんだろう。ショックだったのかな。それとも……」
語尾を引きずり、飛鳥は暗い口調でこう言った。
「捨てられたのかな……私」
雅斗は真っ先にそれを否定する。
「そんな事はないよ。彼氏はきっと、気持ちの整理ってもんがついてないんじゃないかな。だから小川と会う事ができないんじゃないか? 小川にかけてやる言葉が見つからないんだ。きっと」
「そうかな」
「そうさ」
雅斗は優しく微笑んだ。しばらくの沈黙。
「それで、これからどうするつもりなんだ? やりたい事とかないのか? 目標があれば少しは違うんだけどな」
飛鳥は考える素振りを見せる。
「目標か……ないよ。そんなの」
「彼は今何をしているんだっけ?」
「工場で働いてる。アルバイトだけどね」
そうかそうだったよなと雅斗は返す。
「お前、働く気はないのか? それとも何か資格をとってそれを生かすとか」
「さあね。どうだろう」
小川は迷っていると雅斗は思った。今何をしたいのか。何をしたらいいのか。自分でも何が何だか分からないのだろう。学校がつまらないからという理由で辞めた少年少女に見られる事だ。しかし小川の場合はやはり頭の中から赤ん坊の事がどうしても離れないのだろう。仕方のない事だった。
「本当は、後悔しているんじゃないか? 学校を辞めた事」
飛鳥はフッと笑みを浮かべた。
「さあね、どうだろう。後悔してないって言ったら嘘かもしれない」
その言葉を聞き、雅斗は飛鳥に力説する。
「それならまた学校へ行けばいいじゃないか。別に一からやり直したっていいだろ。両親だって安心するぞ、そのほうが」
間髪入れずに飛鳥は返す。
「無理だよ」
「どうして」
「だって二人の反対を押し切って学校を辞めたんだよ? また行きたいなんて言えないよ。私にもプライドってもんがあるし。それに、学校へ行きたいのか行きたくないのかさえ今の私には分からない」
いや行きたいのだ。行きたいはずだと内心で雅斗は思う。だが幼さ故の意地。それが捨てられないのだろう。
「まあ色々あったんだ。今すぐにって訳にはいかないと思うけど、落ち着いたらしっかりと自分の事を考えていかないと。自分の事なんだから、自分で決めないとな」
飛鳥は深く頷いた。
「それと、しっかり彼氏とも話し合う事。このままって訳にもいかないだろ」
「でも連絡が」
「それなら家にでも職場にでも行けばいい。とにかく……一度話し合え」
飛鳥もその事はしっかりと分かっている様だった。
「そうだよね」
「ああ」
飛鳥は多少元気を取り戻したようだった。表情も先ほどと比べて多少は明るくなった。
「今日はありがとう。少し、スッキリした」
「そうか。よかった」
「先生。今考えると私、今回の一件で、もしかしたら目標っていうか、夢をみつけたのかもしれない」
続けて飛鳥はこう言った。
「赤ちゃんを産んで、立派に育てる事」
意表をつかれた気がした。
「そうだな。それも立派な目標だ。いい学校へ進学するとか、いい会社に就職するのが目標の全てじゃないもんな」
飛鳥は力強く頷いた。先生今日は本当にありがとう。そう言って、飛鳥は保健室を後にした。
保健室の中に一人だけとなった雅斗は飛鳥がいなくなってからもしばらくの間、扉のほうに視線をじっと置いていた。飛鳥の一件は解決したのか、していないのか、重い空気が何故か今も残っていた。
最後にああは言っても、やはり赤ん坊の事はまだ頭から離れないだろう。自分のお腹に宿っていた一つの命。飛鳥の前では口にしなかった、飛鳥自身も口にはしなかったが、おそらく、飛鳥の中にあるのは罪悪感。仕方なかったにせよ、その一つの生命を殺してしまったのだ。いつだったかこんな言葉を聞いた事がある。始まりは終わりへの幕開け。だが飛鳥のお腹にいた赤ん坊は始まりすらなかった。未来を閉ざしてしまった。飛鳥の中で罪悪感は一杯だった。苦しかったに違いない。そう思うと、雅斗自身も苦しかった。
突然携帯電話が鳴りだした。
雅斗はポケットの中から携帯電話を取りだした。着信表示を確認する。
『斉藤|慎也《しんや》』
同じ斉藤は斉藤でも兄弟ではない。小学生の頃から続いている親友だ。どうしたのだろうと雅斗は携帯電話を耳にあてた。
「もしもし? 慎也? どうした? 何かあったの?」
明るい声が聞こえてきた。
「おう雅斗。今いいか? 二週間後の事でちょっと確認したい事があったからよ」
「おうそうか。全然今は大丈夫だよ。終業式も終わったし、落ち着いたところかな」
「そうだよな。明日から夏休みなんだよな。いいよなあ教師はさ。ましてやお前は部活の顧問でもないんだろ? 楽だよな」
「まあな、部活の顧問をしてるしていないだけで全然違うからなあ」
「平和だよ全く」
その言葉の意味が分からなかった。慎也は続けてこう言った。
「実はよ、昨日……ちょっと変な事件がうちの管轄内で起こったんだ」
慎也は武蔵野《むさしの》東警察署の少年課に現在勤めていた。
「変な事件? 何だよ」
声をひそめて慎也が話し始めた。
「うちは少年課だから直接は関係ないんだけどな、昨日の八時頃に女性の変死体が住宅街の道端で発見されたんだ。後々の調べで身元が分かった。死んでいたのは川又春子《かわまたはるこ》。二十五歳。今年の春に結婚したばかりだったそうだ」
「気の毒に……それで?」
妙に先が気になった。
「変死体とさっき言ったろう? 殺され方がな……普通じゃなかった、いや殺されたのかどうか……とにかく変な事件なんだ」
「どういう事だよ」
「腹部にポッカリと穴があいていたんだ」
「は?」
「穴だよ。喰《く》われちまったような、破裂しちまったようなって刑事課の人間はそう言ってたよ。とにかく死体の腹部には穴があいていた。穴といっても綺麗《きれい》な穴じゃない。腹部がグチャグチャになっていて、穴があいているような状態だったらしい」
雅斗は頭の中で映像を浮かべてしまった。
それでも冷静でいられたのは想像しても想像が出来なかったからだ。リアルな映像が浮かんでこない。
「でもそれが一体どうしたっていうんだよ」
その通りである。おそらく犯人は相当な異常者に違いないと雅斗は決めつけていた。しかしその先がまだあったのだ。
「まだあるんだよその先が」
雅斗が反応する前に慎也は言葉を続ける。
「おかしいのはここからだ」
「おかしいって?」
「妊娠していたんだ」
「妊娠? 誰が?」
「死んでいた女性がだよ」
苛《いら》ついた様な口調で慎也はそう言った。
「別におかしくねえじゃねえか」
雅斗も苛ついた口調になる。
「それがおかしいんだ」
「だから何が」
「いなかったんだ。腹の中に赤ん坊が」
「え?」
鳥肌がたった。どういう事だ。
「本当に妊娠してたのかよ」
雅斗の問いにだんだんと慎也の口調も真剣になっていく。
「それは明らかだった。へその緒が発見されたんだ」
「へその緒?」
「ああ。発見された時には、ちぎられていた。胎盤だってしっかりと出来上がっていた。妊娠四ヶ月以上が経っている事がわかった」
「胎盤って……」
「へその緒と繋《つな》がっている場所だ」
「それじゃあ本当に」
雅斗の言葉を慎也が奪った。
「ああ、女性は妊娠していた。けど赤ん坊はいなかった。変だろ」
確かに変である。奇妙な話だ。
「という事は、犯人が赤ん坊を」
「いや、そんな事をしても意味がない。すぐに赤ん坊は死んじまうさ。それにそんな大胆な事をすれば誰かに見られちまう。けど目撃者はまだ誰一人として現れていないんだ」
「そうだよな……それじゃあ」
「そう。今回起こった事件は謎ばかりなんだ。何が何だか分からない。前例がないし、上の者は相当頭を抱えているようだぜ。旦那《だんな》も結婚したばかりの妻が突然死んだんだ。今はショックで口がきけなくなっちまったらしい。徐々に回復するのを待つしかないらしいんだ」
「そうか……」
雅斗が一人で考えていると、慎也が言った。
「なあ雅斗」
雅斗は我に返る。
「なんだ」
「自然発火事件って知っているか?」
「自然発火事件? さあ、知らないな」
「アメリカのほうで、いくつかあった事件なんだけどな、突然人間の体が燃えちまって死んでしまうという事件なんだ」
「そんな事件があったのか? 他殺じゃなかったのか?」
「いや他殺ではないんだよ。密室の中で起きた事件だし、自殺でもないようだ。調べの結果、火元になるようなものは何処にもなかったそうだからな」
「変な事件だな」
「そう。変な事件なんだ。内容は全く違うけど、今回の事件と今のアメリカの話。奇妙な事件は多いって事さ」
「そうだな」
それともう一つ。慎也がそう口にした。
「まだあるのか?」
「ああ」
「今度は何だ」
「その二時間後。夜の十時頃に今度は同時に三件も事件が起こった」
「またその……事件か?」
「違う。それとはまた別なんだ」
「どんな事件なんだよ」
「同時に三件の事件が起こったって言ったろ? それがまた変なんだ」
「何が」
「三人が三人とも同じ死に方をしているんだ」
「どういう事だよ」
たまらず雅斗は携帯電話を持ち替えた。
「まず一人目。江東《こうとう》区砂町」
咄嗟《とつさ》に雅斗は言葉を挟んだ。
「俺達が育った町じゃねえかよ」
慎也はそうだと答える。
「まず一人目。坂本正《さかもとただし》。二十四歳独身。友人と夜の道を歩いていた彼は、突然異常な発作を起こしたそうだ。そして狂うようにして倒れたらしい。泡をブクブクと吹いてな。すぐに救急車が来たらしいんだが、その時はもう遅かった」
「死んだのか」
訊《き》くまでもなかった。
「ああ。即死さ」
「次は」
「二人目は東京都|町田《まちだ》市。大津和也《おおつかずや》。二十三歳独身。その時の状況を見ていた人間が一人目の時と同じ事を言ったそうなんだ。狂ったように暴れ出して泡をブクブクと吹きながら倒れ込んだってな」
「何だよそれ」
「俺にだって分からない」
「三人目は?」
「三人目は神奈川県横浜市|中《なか》区。高本忍《たかもとしのぶ》。二十二歳。これまた独身の大学生。やはり同じ死に方をしている」
「一体どうなっているんだよ。どうして昨日ばかりそんな集中して変な事ばかりが?」
「俺だって分からないさ」
「何かその、共通点とかはないのかよ。どう考えたって三人が同じ死に方をするってのはおかしいだろ。それに時間も同じなんだろ?」
「ああ確かにおかしい。でも今は何も分からない。その三人の事は変死という事で捜査を進めているらしいんだ」
そうかと雅斗は大きく息をついた。すっかり空気が重くなってしまった。慎也がそれを感じたのだろう。
「いや悪かったな。ちょっと変な事件が続いたもんでよ、ついつい全部|喋《しやべ》っちまった」
「いやいいんだ」
「すっかり話がずれちまったな」
雅斗は表情を和らげる。
「ああそうだったな。二週間後の事だったな。それで二週間後のバーベキューはどうするんだ?」
雅斗は三人組の生徒に詫《わ》びた。実は二週間後に慎也達とバーベキューをする約束があったのだ。
「バーベキューはキャンプ場でやろうと思うんだ」
「キャンプ場ねえ。それで場所は?」
「秋川《あきかわ》渓谷なんていいんじゃないか?」
雅斗は自然に囲まれた映像を思い浮かべる。
「秋川渓谷か、いいねえ」
「それで、お前の家に朝の八時に迎えに行こうと思うんだけど、いいか?」
「朝の八時な」
いいよ。雅斗は弾んだ口調でそう返した。
少々の間があった。慎也は言った。
「朱美《あけみ》も……楽しみにしているんだ」
雅斗は照れくさそうに微笑んだ。
「そうか……よかった」
少々の間。
「ありがとう」
突然慎也が礼を言い出した。
「どうしたんだよ。一体」
「朱美の事さ。お前のおかげで、朱美もショックから立ち直って元気を取りもどしたよ」
「いや俺は何もしてないよ」
「そんな事はない。この頃朱美の奴……明るいんだよ。それだけでいいんだ」
「もういいじゃないか」
雅斗がそう言うと、改めて慎也はありがとうと口にした。それじゃあ二週間後。慎也の台詞《せりふ》を最後に電話は切れた。
雅斗の家庭状況を知っている者が二人いた。一人は赤坂先生。そしてもう一人が斉藤慎也だった。慎也とは小学校、中学校が同じだった。もちろん同じクラスになった事だって何度もある。ただ斉藤という名字が一緒だからという事で初めは仲良くなった訳だ。それから二人は親睦《しんぼく》を深めていった。
雅斗は信頼の出来る慎也にだけ自らの家庭状況を話した。すると慎也が言ったのだ。俺の家だって離婚してるぜ。父ちゃんと妹と三人暮らしだ。
それを聞いた途端、僕は一人ではないと雅斗は思った。ホッとしたのは確かだった。その事があってか、二人は更に友情を深めた。
雅斗が教師を目指す一方で、慎也は夢を語る時、俺は警察官になりたいといつだってそう言った。現在では二人ともその夢を叶《かな》え、なに不自由なく生活は出来ている。
ただ一つだけ問題があった。朱美。慎也の妹である。九つ離れた実の妹。雅斗は今、その朱美と交際しているのか、そうではないのかという微妙な関係なのだが、その朱美に少々問題があったのだ……。
亀戸《かめいど》にある3LDKマンション206号室の扉を雅斗は開いた。
「あらお帰り。今日は終業式のはずだったわよね? 随分と遅かったわね」
公子が笑顔で迎えてくれた。
「今日は色々あってね。書類を整理した後に山田先生につかまっちゃってさ、ちょっと遅くなっちゃったよ」
時計は午後の七時を回っていた。お腹が悲鳴をあげている。
「何も食べてないの?」
「うん全然。今日は何?」
公子が自信満々といった表情を浮かべながらこう言った。
「今日はシチューよ。あんた好きでしょ?」
「ああ、それなら早くちょうだい」
「はいはい。早く着替えていらっしゃい。用意しておくから」
分かったよ。
雅斗は自分の部屋のドアを開けた。
現在勤めている光輝学園の教師になる事が決まってから雅斗と公子は今住んでいる亀戸のマンションに引っ越しをした。昔住んでいた砂町とは目と鼻の先だった。ただずっと生活は楽になった。公子は毎日三時間のパート勤め。ずっと家にいるのもちょっとね、という公子は今も多少は働いている。逆にそのほうが自分が生き生きとしていると実感出来るのだろう。だが公子には昔のような負担をかけずにはすんでいる。
部屋から出るといい匂いが胃袋を刺激した。
「あー腹減った」
雅斗は皿に盛られたシチューを見て、すぐさまテーブルの前に腰をかけた。
「いただきます」
大きなスプーンで口一杯にほおばる。昔からの味。何も変わらない。
「どう? おいしい?」
雅斗は声を出さずに、うんうんと夢中になってシチューを口にした。落ち着いてようやく、うまいとそれだけを口にし、変わらぬ勢いで顎《あご》を動かした。
十五分後に皿は真っ白となった。ご飯が盛られていた茶碗も当然真っ白だった。
「まだおかわりする?」
雅斗は腹をおさえて辛《つら》そうに言葉を洩《も》らす。
「もういい。限界。ごちそうさま」
すでにシチューを二杯おかわりしていたのだ。
「じゃあ、かたすわよ」そう言って公子は食器を台所へと運んだのだった。
雅斗はそのままソファへと腰を下ろした。
げっぷを一つ。リモコンをテレビに向けた。バチンという音と共にテレビが映り出す。野球中継が始まっている。一応は巨人ファン。見るテレビもないので、そのままのチャンネルにしておく事にした。
テーブルの上で携帯電話が振動している。マナーモードになっていたようだ。
どうやらメールのようだった。
誰からだろう。予測はついていた。
朱美からだろう。
「やっぱり」
雅斗は笑む。案の定、メールを送ってきたのは朱美であった。メールを開く。
『七月十九日金曜日。晴れ。ずっと続いていた梅雨がやっと明けてくれた。今日は凄《すご》く暑かった。家から一歩でるとそれが凄く分かった。モワモワとしていてこれから本格的に夏が始まるんだなと思うと気が滅入《めい》った。特に仕事で扱っているお花さん達には気を遣わなくちゃいけない。
今日は仕事でいい事があった。お客さんにお花を渡すときに、がんばっているね、ありがとう、と言われたから凄く嬉《うれ》しかった。初めてのお客さんにそう言ってもらえると頑張っている甲斐《かい》があった。本当に嬉しかった』
メールを読み終えた雅斗は一旦《いつたん》携帯電話の蓋《ふた》を閉じた。慎也の言葉が蘇《よみがえ》った。あいつこの頃明るいんだ。ようやくショックから立ち直ってくれた。雅斗はそう実感していた。
慎也と朱美の父親は建設会社に勤めていた。昔から酒飲みで酒を飲むといつも機嫌が悪くなる。そう慎也が言っていた事がよくあった。それに喧嘩《けんか》になった事だって何度もあると。妻がいない父親に妻の役をしていたのは慎也である。酒が過ぎると注意をする。それで喧嘩になるのだろう。まだそれだけならよかった。
今年の三月。慎也の父親が人員整理、通称リストラにあった。そのため慎也の父親は職を失い自宅でゴロゴロとしている生活。慎也の収入だけが頼りだった。
そんなある日だった。慎也の父親はその日も酒を飲んでいたそうだ。いつもの事である。
だが、慎也が家に帰ってみると何故か朱美の悲鳴が聞こえたそうなのだ。嫌な予感が脳裏をよぎった慎也は居間へと急いだ。そこで衝撃的な現場を見てしまったのだ。
全裸の朱美が毛布で全身を包み、ブルブルと震えていたそうなのだ。俺はすぐに予測がついた。慎也は怒りの口調でそう言っていた。案の定、そうだったのだ。酒に酔った父親が朱美に性的な乱暴を働いていた。慎也は父親をその場で気絶するまで殴った。殴って殴って殴り続けた。そして慎也は朱美を連れて家を出た。それからは二人で生活をしなければならない彼らは2DKのアパートを借りた。新しい生活ですべてがうまくいく。そういう訳にはいかなかった。朱美の精神的ショックは測り知れないほど大きかった。しばらくの間は言葉を失っていたそうだ。どうにかならないかと雅斗は相談をうけたのだ。
雅斗は朱美を助けたかった。どうにかして救ってやりたかった。親友の妹である朱美の事は昔から知ってはいたが、カウンセラーでもあるまいし、ショックを受けている朱美にどう接したらいいか分からなかった。それに慎也は言った。この事は誰にも話したくはない。朱美の事は雅斗と慎也で解決するしかなかったのだ。
雅斗は来る日も来る日も朱美の事で悩んだ。慎也のアパートに行っては朱美とコミュニケーションをとろうと努力はしたが、何を言っても何を訊《き》いても、うんと頷《うなず》くだけか首を横に振るだけだった。人と接するのが今は出来ない。そんな意思表示にも感じられた。そこで雅斗は考えたのだ。別に会話をしたくないなら今は無理にする必要はない。ただそれではいけないと思った雅斗は朱美に雅斗名義の携帯電話を渡したのだ。
メールのやり取りをしよう。
いやメールではない。
携帯電話での交換日記だ。
そう言って雅斗は朱美に携帯電話を手渡したのだ。初めは当然の如く、朱美からのメールは届かなかった。それでも毎日毎日、懸命に雅斗は朱美に日記のメールを送り続けた。
一週間が過ぎた。
朱美からのメールが届いたのだ。
文章は短かった。
『このままではいけない。
私が駄目になってしまう。
でもどうしたらいいか分からない』
調理の専門学校を卒業したが、不況の中、就職が出来なかった朱美はフリーターの身であった。そこで雅斗は知り合いの花屋に朱美を紹介し、雇って貰《もら》う事が出来たのだ。それから徐々に朱美は自分を取り戻していく。メール日記の文章も少しずつ長くなり、嬉しいや楽しいといった感情も日記の文章で多くなった。今では必ず朱美とメール日記を交換している。近頃は朱美から送って来る事が多い。
雅斗は心配ないと安心していた。気がつくと雅斗の中では朱美に対して恋という感情が芽ばえていたのだった。
雅斗は携帯電話の蓋を開いた。返信で朱美に日記を送る事にする。
『七月十九日金曜日。晴れ。やっとジメジメとした梅雨が明けてくれたね。でもこれから暑い毎日なのかと思うと外に出るのも嫌になっちゃうね。夏バテする事なく夏をのりきらないとね。
今日は学校の終業式。教師の僕が言うのはどうかと思うけど、相変わらず校長の話は長かった。何とかならないものかな。
今日、一年生の時に辞めてしまった一人の女子生徒が僕のもとへやって来ました。実はその子は妊娠をしていたのだけれど、今の事、将来の事を改めて考えた彼女はお腹にいた赤ちゃんをおろしてしまった。相当悩んだと思う。でも仕方がなかったんだ。本人は産みたがっていたのだけれど、一つの命を育てるという事は本当に大変なんだと思う。彼女はそう言っていた。
おろした。その言葉を聞いただけで僕は心から悲しくなった。会話を重ねていくうちに彼女は少し元気を取り戻してくれたのだけれど、今も心配です。彼女には本当に幸せになってもらいたいのです。何だか重い内容になってしまった。そうそう、今日慎也から電話が来て二週間後のバーベキューの事を聞きました。今から凄く楽しみ』
書き終えた雅斗はメールを送信した。送信しましたという表示を確認して携帯電話の蓋を閉じた。
ふと小川飛鳥を思い出す。
心配ないだろうか。
「赤ちゃん……か」
雅斗はポツリとそう洩《も》らす。自分が幼い時の事を無意識のうちに思い出していた。公子が仕事でいつも遅く一人の時、雅斗は公子の前では強がっていた。僕一人で大丈夫。寂しくないよ。
本当は寂しかった。一人が嫌だった。弟か妹が欲しかった。そのためか、いつしか想像するようになっていた。弟の存在。妹の存在。
雅斗は想像の中で作っていたのだ。
その時、雅斗は思った。そうだ名前をつけよう。もし本当に弟か妹が出来たら名前が必要になる。そうだ、弟なら海斗《かいと》、妹なら雅《みやび》。そうしよう。
だが結局は、きょうだいが出来ることはなかった。だから雅斗には夢があった。もし自分に子供が出来たなら、男の子の場合は海斗。女の子の場合は雅。それなら夢は叶《かな》うかもしれない。雅斗はその夢を密《ひそ》かに抱いている。だから飛鳥が子供をおろしたと言った時、もの凄く辛《つら》かったのだ。まるで自分の子供まで失ってしまったかのように。
雅斗は立ち上がる。携帯電話を手に、自分の部屋へと戻った。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
公子が心配そうに言葉をかけてくる。
「いや、そんな事ないよ。ちょっとね」
「あらそう」
雅斗は部屋のドアを開き、中へと入りドアを閉めた。
もうすっかり頭の中からは消えていた。この日の昼に、慎也から奇妙な事件を聞かされた事を。
その日の夜、慎也と朱美のアパートには慎也の恋人である高田順子《たかだじゆんこ》が遊びに来ていた。慎也と順子は交際してもう二年が経つ。慎也とは同じ職場で交通課に所属している。大人しい性格でとても優しい女性であった。毎日のように朝、顔を合わせていた慎也が順子に声をかけたのがきっかけだった。そんな順子はいつもの様に語っている。結婚をしたら子供が二人欲しい。子供を育てるのが私の夢なんだと。朱美も落ち着いてきている。慎也は真剣に順子との結婚を考えていた。
「まだ? 俺もう腹ペコペコだよ」
ソファに座っていた慎也が台所に立つ朱美と順子に子供の様な口調で言った。
「もうちょっとで出来るから待ってなさいって」
順子の声が返ってくる。その後に何やらひそひそと小さな声で朱美ちゃんのお兄ちゃんは全く子供で困るわねと聞こえてきた。いや、わざと順子が聞こえるように言ったのだ。
「何か言ったか?」
「い〜え。何も」
ニヤニヤとしながら順子が言った。
「ね? 朱美ちゃん?」
朱美は笑顔で頷いていた。その光景を見て、慎也は思わず微笑んだ。腹が、ぐ〜と音を立てた。慎也は再び順子と朱美に催促をした。
十分後、テーブルには豪華な料理が並んだ。揚げたてのフライドチキンにモッツァレラチーズを加えたチーズサラダ。最後に順子が得意である海鮮パエリアがテーブルを彩った。慎也の口からはもう涎《よだれ》が垂れそうであった。
「うわ〜うまそ〜」
料理に釘付《くぎづ》けの慎也が声を上げた。
「じゃあ食べよっか。ね朱美ちゃん」
朱美は嬉しそうに頷いた。
「うん。そうだね」
三人はテーブルの前についた。
「俺もう食べるよ? いただきます」
慎也は順子の言葉を聞く間もなく、料理を勢いよく口に詰め込んだ。
「まじでうまいやこの料理」
口をモゴモゴとさせながら慎也は料理の出来を誉める。
「当たり前じゃない。ね? 朱美ちゃん」
いつもより順子のテンションが高い。三人で料理を食べるのがよほど嬉しいのだろう。
「もうちょっとゆっくり食べたら? 喉《のど》詰まるよ?」
順子が慎也に注意する。案の定、慎也が喉を詰まらせた。水水水と慌てて三回口にした。
「だから言ったでしょ! はい」
順子が慎也にコップを手渡す。それを一気に慎也は飲み干した。
「あ〜苦しかった」
その光景を見て、朱美が笑った。慎也がそれに気がつき照れ笑いをした。幸せな光景だった。ずっとこんな幸せな日が続いて欲しい。慎也は心からそう願った。
朱美が携帯電話を手にしている。
「メールか?」
照れくさそうに朱美が頷いた。
「雅斗からか?」
「うん。メールが来てたみたい」
「そうか」
朱美はメールを確認している様子だった。
慎也は何も言わずに料理を口にする。
「そういえば、雅斗君に再来週の事話したの?」
おもいだしたように順子が慎也にそう訊いた。
「ああ。今日電話でな」
「そう。で、何だって?」
「分かったって。楽しみにしてるって」
「そう。それはよかった。ね? 朱美ちゃん」
朱美が我に返る。
「え? う、うん。そうだね」
再び朱美はメールへと視線を戻した。慎也はそれ以上何も訊くことはしなかった。
食事も終わり、朱美と順子が台所で食器を洗っている。どうやら朱美が食器を布巾《ふきん》で拭《ふ》く係りのようだった。
「はい、これで最後」
順子はそう言って朱美に最後の皿を手渡した。慎也が座っているソファに歩み寄る。
「少し休んでから私帰るね」
テレビ鑑賞をしていた慎也は順子に体を向ける。
「おうそうか。それじゃあ、そこまで送るよ」
その前にトイレと慎也は立ち上がる。空いたソファに順子が座った。トイレに向かう途中、順子の携帯電話の鳴る音が聞こえた。メールだ。と順子の声が聞こえる。慎也は気にせずトイレに入る。鼻歌を歌いながら用を足した。
トイレから出た慎也の目には順子の姿が映っていた。未《いま》だに携帯電話の液晶画面に目を置いている。相当長いメールのようだ。慎也は順子に歩み寄る。
「メールか?」
その時だった。順子の携帯電話から赤ん坊の泣き声が聞こえてきたのだ。うぎゃーうぎゃーと赤ん坊が泣き叫んでいる声だった。
「どうしたんだよ」
慎也が訊くと、今度は順子が、あっと驚きの声を洩《も》らした。同時に赤ん坊の泣き声もやんだ。
「どうした?」
神妙な顔つきで順子に問うと、順子が携帯電話の液晶画面を見せてきたのだ。
「なんか突然割れちゃった」
呆然《ぼうぜん》とした口調で順子は言った。何故か携帯電話の液晶画面が割れているのだ。
「どうして割れてんだよ」
さあ。順子は首を横へと振った。
「何かしらないけど、変なメールが来て、適当に読んだらメロディーがついていて、それを押したら赤ん坊の泣き声が聞こえてきたの。そしたら突然液晶が割れちゃって」
「変なメール?」
慎也が訊くと、順子は頷き、こう言ったのだ。
「ベイビーメール。題名にそう書いてあった」
「ベイビーメール?」
慎也は復唱する。何だそれは。あまり深くは考えなかった。
「偶然だよ。さあ送るから行こう」
気にはなっていたようだが、順子も深くは考えてはいない様子だった。
「うん分かった。でも困っちゃうな携帯電話が使えないと」
「携帯屋に行くしかないな」
「うん。そうね」
二人は玄関の前に立つ。
「朱美。ちょっと順子を送ってくるから」
部屋の奥から朱美の声が返ってくる。
「うん。分かった」
「さあ、それじゃあ行こうか」
順子は頷いた。使えなくなった携帯電話をしまい、二人は部屋を出たのだった……。
異 変
二週間後の八月二日の金曜日を迎えていた。約束をしていたバーベキューの日。空は晴れ渡っていた。雅斗はマンションの下で慎也が迎えに来るのを待っていた。
七月十八日の夜、奇妙な事件が起きた。三人の男性が同時に死亡した事件。そして川又春子が不可解な死を遂げた事件は未《いま》だ解決する事はなく捜査は難航していた。雅斗の頭からはすっかりその事件は消えており、慎也も口には出さなかった。ただ警視庁の調べでまた一つ、不可解な事が分かったのだ。
川又春子の夫である川又|明男《あきお》の証言によると、川又春子が妊娠していたとは思えないというのだ。川又春子は子供が欲しくて欲しくて仕方なかったそうだ。だが、川又春子自身にそのような徴候はなかったと言う。悪阻《つわり》。これは誰しもがそうなる訳ではないのだが、それはなかったと言うし、第一生理だってしっかりとあったのではないかと言う。だが調べの結果、妊娠して少なくとも四ヶ月以上は経っていたのだ。ますます事件は謎を深めた。いや、気味の悪い事件だった。
一方、三人の男性、坂本正、大津和也、高本忍が同時に死亡した事件はまだ何一つつかめていない状況であった。
「おっそいなあ」
雅斗は腕時計を確認した。約束の朝八時はとっくに過ぎている。八時十五分。慎也は時間にルーズではない。
「何かあったのか」
あまり心配はしていなかった。腕組みをして息を吐く。
突然携帯電話が鳴りだした。
慎也からである。
「もしもし? 慎也? 今どこだよ」
すると明るい声が聞こえてきた。
「悪い悪い。ちょっと道が混んでいてさあ。もう少し待っててくれよ」
「そうか道がね。それで、朱美ちゃんも順子ちゃんもいるのかよ」
「ああいるよ。だから後はお前の家に向かうだけだから。もうちょっと待っててくれよ」
道が混んでいるのでは仕方がなかった。
「ああ分かった。待ってるから」
それじゃあ後でな。慎也からの電話は切れた。慎也と朱美は現在|九段下《くだんした》に住んでいる。雅斗の住む亀戸まではもう少しであろう。今、何処を走っているのかは知らないが。
結局、それから三十分後に三人を乗せた4WD車は到着した。陽気にクラクションを二度鳴らしての到着だった。
「悪いな。道が混んでてな」
「いいよいいよ」
後部座席に座る順子にまず視線を向ける。
「お早う」
「お早う雅斗君」
そして視線は朱美に移る。
「お早う」
照れくさそうに雅斗は挨拶《あいさつ》をした。
「お早う。今日は楽しみだね」
ああ。雅斗は頷《うなず》く。
「さあ、それじゃあ行こうか。雅斗、乗ってくれ」
慎也の声で雅斗は朱美から視線を慎也に戻した。
「おう、分かった」
雅斗は助手席に座った。
「お前を隣に乗せるのは久しぶりだな」
朱美の相談を受けた時以来である。
「ああ、そうだな」
一瞬二人の空気が重くなる。
「さあ行くか」
それを振り払うような声で慎也が言った。
「行こう」慎也がシフトをパーキングからドライブに入れた。目的地、秋川渓谷キャンプ場へ向かって車は走り出したのだった。
午前中に何とか四人は秋川渓谷キャンプ場に到着する事が出来た。夏休みという事で家族連れが多かった。
車内は終始、慎也の会話で盛り上がっていた。ただ雅斗には気になる事が一つあった。順子の様子がいつもとは違う気がしたのだ。あまり元気がないような気がしていた。気のせいといえば気のせいかもしれなかった。
四人は河原でバーベキューをする事に決めていた。駐車場に車を停め、バーベキューの道具を河原まで運んだ。
「それと……後は食材だな」
大体の準備は整った。雅斗の視界に順子が入る。やはり元気がない。具合でも悪いのだろうか。
「順子ちゃん。どうかした? あまり元気がない様子だけど」
ハッとして順子は笑ってみせた。それでも何かが引っかかる様子。
「ううん。全然大丈夫。ちょっと考え事」
考え事のようには見えない。体が怠《だる》そうだ。
「無理しなくていいよ。具合が悪いんだったら休んでいればいい」
順子は頭《かぶり》を振った。
「本当に大丈夫だから」
さあ始めよう。順子は心配させまいと無理に明るく振る舞った。少なくとも雅斗にはそう映っていた。
準備は全て整った。まず炭に火をつける。その上に網をおいてしばらく経つのを四人は待った。
「そういえば俺、朝何も食べてないんだよね」雅斗が言う。
無性に腹が空《す》いている自分に気がつく。
朱美が慎也の腕をポンポンと軽く叩《たた》いた。
「お兄ちゃん。そろそろ焼いてもいいんじゃない?」
「おおそうだな」
それじゃあ肉からだなと慎也が無造作に肉を網にのせていく。ジューと弾《はじ》ける音が広がった。
「野菜も焼かないと」
朱美が慎也に母親のような事を言う。
「分かってるよ」
その光景に雅斗の顔から笑みがこぼれた。順子はやはり元気がない。二人はそれに気がついているのだろうか。
「よしそろそろ食うか」
慎也が断を下した。充分焼けているようだった。
「いただきます」
一番初めに肉へと割り箸《ばし》を伸ばしたのは慎也だった。タレをつけ、一口で食べる。食べ終えた慎也はうなりを上げた。
「うまい!」
「どれどれ」
雅斗も肉に割り箸を伸ばす。うまい。その一言だった。
「私も食べよ」
朱美も肉に割り箸を伸ばした。おいしい。
可愛らしい口調だった。順子の様子に気がついたのはその朱美だった。
「あれ? 食べないんですか?」
順子はその言葉で我に返る。
「ううん。食べるよ」
「どうかしたのか?」
何でもない。順子はそう言って野菜に割り箸を伸ばした。
「ほら野菜じゃなくて肉食べろ肉」
慎也が強引に順子の皿へと肉をおいた。その様子を雅斗は黙って見ていた。
「あ、ありがとう」
無理に笑顔を作っている様子だった。雅斗はその一瞬をも見逃さなかった。順子は肉を重たそうに口へともっていく。慎也と朱美は焼けた肉や野菜を次々に口へと運んでいく。
その時だった。順子がウッと右手で口を押さえたのだ。
「順子ちゃん」
咄嗟《とつさ》に雅斗が順子に駆け寄る。それに気がついた慎也と朱美も順子に駆け寄った。
「どうした吐きそうなのか?」
慎也が心配そうに声をかける。順子に反応はない。ただ口を手で押さえたまま下を向いているだけだった。
「とにかく休ませよう」
大丈夫。辛《つら》そうに順子が言った。
「どうしたんだろう突然」
慎也が呟《つぶや》いた。
「朝からちょっと調子が悪かったみたいだ」
雅斗が言うと、そうだったのか気がつかなかったと慎也は自分を責めるような口調で言った。
「とにかく車の中で休ませよう」
雅斗が言うと慎也が動いた。
「俺が連れていく」
さあ順子。慎也は順子の肩を抱いて車まで連れていった。その後ろ姿を見守りながら朱美がポツリと洩《も》らした。
「大丈夫かな」
不安にさせないためにも雅斗は微笑みながら言った。
「大丈夫。ちょっと気分が悪かっただけだよ。朝から具合が悪かったようだからね」
そうは言っても二人でバーベキューを再開する訳にもいかず、川で遊ぶ子供達を雅斗と朱美は無意識のうちに眺めていた。三歳か四歳の子供達であろうか、川の水をバシャバシャとかけあって騒いでいる。
「楽しそうだね。こっちまで子供の時に戻った気分になる」
「そうだね」
朱美は笑顔でそう返す。それから朱美は子供達が遊ぶ光景に見とれている様子だった。
何を考えているのだろう。雅斗は見当もつかなかった。
しばらくして慎也が戻ってきた。少し休めば大丈夫との事だった。具合が悪くなるのは人間なので当たり前である。深く心配する事もなかった。少し休めば体調もよくなるだろう。雅斗はそう考えていた。
「仕方ないから三人でやろう。食材があまるとそれはそれで面倒臭い事になっちゃうからさ」
「ああ、そうだな。食べちゃわないともったいないしな。順子ちゃんには悪いけど」
「それじゃあ俺が焼いていくから二人はどんどん食べてくれ」
慎也のそれでバーベキューは再開された。ただ順子が抜けているため、三人は心底楽しむ事が出来なかった。焼いては食べ、焼いては食べるの繰り返し。少ない会話のままバーベキューは終了したのだった。
「さあ入って」
雅斗は家の中に朱美を招き入れる。
「おじゃまします」
この日の夕方、雅斗のマンションには朱美がいた。バーベキューが終わった後、しばらく順子の様子をうかがい、四人は帰宅する事になった。随分楽にはなったと順子は車の中で言っていたのだが、体は怠そうだった。心配していた慎也はこの日は順子の側にいてやりたいので彼女のアパートに泊まるとの事だった。慎也と一緒に暮らしている朱美はそのため一人になる。今日は家に来るか。雅斗のその提案に朱美は悩んでいたようだがそうすると頷《うなず》いたのだった。
丁度この日は公子がいない。パート仲間が辞めるという事で送別会だそうなのだ。その人とは仲がよかったからこれからは寂しくなる。公子はそう言っていた。
「適当に座って。今コーヒーいれるから。テレビでも観てて」
うん。朱美は頷き雅斗の言う通りテレビの電源を入れる。雅斗はカップを二つ用意しインスタントコーヒーをいれる。
「あまりおもしろいテレビやってないね。ニュースばっかり」
台所から雅斗が返す。
「そうだね。七時になればまた違うんだけど」
朱美はニュース番組からチャンネルを切り替える事はしなかった。両手にカップを持ちながら雅斗は朱美に歩み寄る。
「はいどうぞ」
「ありがとう。頂きます」
二人はカップに口をつける。熱い。朱美は唇からコップを離す。
「味はどう?」
「うん。丁度いい」
「にがかったら言って。砂糖持ってくるから」
「大丈夫」
言って朱美はもう一口飲む。そしてカップをテーブルに置く。
「順子さん大丈夫かな」
まだ心配している様子だった。
「大丈夫。慎也だってついてるし。ただ具合が悪いだけだから」
「そうだね」
そういえば。朱美が何かを思い出したように口を開いた。
「どうしたの?」
「今日、川へ行ったでしょ?」
「うん行ったけど。それがどうしたの?」
「そこで子供達が楽しそうに遊んでいたのを覚えてる?」
雅斗は微笑みながらこう言った。
「当たり前じゃないか。だってさっきの事なんだから」
「うん。そうだよね。それでね、楽しそうに遊んでいる子供達を見てね私……思ったんだ」
「何を?」
カップを両手で持ちながら雅斗がそう訊くと、恥ずかしそうに朱美が言ったのだ。
「私もね、可愛い子供が欲しいなって。子供がいたら幸せなんだろうなって」
思いもよらぬ台詞《せりふ》。雅斗は嬉《うれ》しかった。朱美には暗い過去がある。今の台詞を聞いた途端、雅斗は心から安心した。
「そうか」
うん。朱美は照れながら深く頷いた。今しかないと雅斗は決意し、朱美に神妙な顔つきで言ったのだ。
「あのさ……」
「え? 何?」
キョトンとした目で雅斗は朱美に見つめられる。
「あの……」
なかなか口に出すことが出来ない。
「どうしたの?」
躊躇《ためら》うことはせず、雅斗は一気に言った。
「結婚してくれないか」
たっぷりの間、え? 朱美が訊き返す。
「いや、今すぐって言っているんじゃない。いずれ……そう、いつか結婚しよう。そしたら子供を作ろう。三人作ろう。そして幸せな家族になろう」
言い終えた雅斗は朱美の様子をじっと窺《うかが》う。朱美が優しく微笑んだ。反応はそれだけだった。朱美の答えはなかった。
いや、微笑んだというのが答えだった。雅斗も優しく微笑んだのだ。
その時、突然朱美の携帯電話が鳴りだした。
メールのようだった。
雅斗はあまり気にはしていなかった。
「誰だろう?」
朱美は携帯電話を取りだし、液晶画面を確認する。
新着メール。
メールボックスを朱美は開く。雅斗も隣で画面を確認していた。
「ベイビーメール?」
雅斗は呟《つぶや》く。題名にはベイビーメールと書かれてあるのだ。
「何のメール?」
雅斗が朱美にたずねると朱美はさあと首を傾げる。雅斗は何故か気になって仕方なかった。
「開いてみてよ」
催促すると朱美は頷き何の躊躇いもなくメールを開いた。
「誰から?」
画面を確認するとメールを出した人物は不明だった。何も書かれていない。真っ白だった。文章はこんな始まり方だった。
[#ここから1字下げ]
開いたからにはこのメールを最後まで読め。途中で消したりメールを捨てたら私は許さない。
[#ここで字下げ終わり]
雅斗は思う。イタズラメールかまたはチェーンメールだろう。捨ててしまえ。普段ならそう思う。だがこの冒頭文で捨てさせようにも捨てさせられなくなっていた。たかがメールにもかかわらず、本当に捨ててはいけないのではないのかと雅斗の脳は支配されていた。朱美もそうだったのだろう。だから朱美は続きを読んだのだ。雅斗も内容を目で追っていく。
[#ここから1字下げ]
『私は佐賀県|藤津《ふじつ》郡|太良町大浦乙《たらちようおおうらおつ》という場所で育った。父は病気で死に、母と二人暮らしだった。貧しい生活だった。それでも私と母は必死に生きた。
私は一人が嫌だった。弟か妹が欲しかった。だがその夢が叶《かな》う事はなかった。その夢が叶わないと分かってからだろうか、私は自分の子供が欲しくなった。自分の子供を育ててみたいと本気で思った。
二十歳の時だった。私は妊娠をした。初めての妊娠だった。愛する人との子供だった。産まれてきたらその人と大切に育てようと当然のように決めていた。それなのに彼は違った。私のお腹にいる赤ん坊が邪魔だったのだ。結局、私の事は遊びだった。神社に呼ばれた私は彼に石段から突き落とされた。呆気《あつけ》なく赤ん坊は死んでしまった。だから私も彼を殺した。
私はどうしても赤ちゃんが欲しかった。欲しくて欲しくて欲しくてたまらなかった。それなのに今度はS・O・Tという三人の男達に、もてあそばれた。それでも私はTの子供を身ごもる事ができた。それなのに……それなのに……。
私は幸せな人間が許せない。幸せな家庭が許せない。子供を欲しいと思っている人間は……もっと許せない。
だから私はこう決めた。そんなに子供が欲しいのなら私の子供を育てさせてあげる。私の赤ちゃん、早く外に出たいみたい』
[#ここで字下げ終わり]
そして最後にこう書かれていたのだ。
大切に育ててあげて。
「何だよこれ。やっぱりただのイタズラメールじゃないか」
雅斗がそう言うと間髪入れずに朱美が言ったのだ。
「ちょっと待って」
「何?」
「メロディーついてる」
メロディーが貼りつけられてあるメールだった事に朱美が気がつく。
「本当だ」
でもこれまた妙だった。普通メロディーが貼りつけられてあるのなら、そのメロディーの題名や効果音、例えば踏切の音なら踏切の音、と書かれてあるはずなのだが、このメールに貼りつけられてあるメロディーの題名は少し変だったのだ。
『@』
アットマーク。これだけだった。一応聞いてみな。雅斗がそう言う前に朱美がボタンを押したのだ。
その時だった。
赤ん坊のけたたましい泣き声が聞こえてきたのだ。うぎゃーうぎゃーと泣き続けるのだ。妙にリアルだった。携帯電話の中に赤ん坊がいるのではないかと思わせるほどに。
「何、これ」
うぎゃーうぎゃー。朱美は戸惑っている。更にその時だった。
携帯電話の液晶画面が突然パキッと割れたのだ。
泣き声も同時にやんだ。
「あれ? なんで。割れちゃったよ」
怪訝《けげん》な表情を浮かべながら朱美は携帯電話のすみずみを確認している。
「やだ……壊れちゃってる」
雅斗は唖然《あぜん》とした。
何故だろうか、妙に嫌な予感が、胸の中で、広がっていた。
八月五日、月曜日。バーベキューへと四人が出かけてから三日後の午後だった。
突然慎也から電話がかかってきたのだ。電話がかかってきたその途端、雅斗は何故か確信を得ていた。順子に関する電話であろうと。その予測は的中していた。携帯電話を手にとり、ボタンを押して耳にあてる。
深刻な声が聞こえてきた。
「もしもし? 雅斗?」
「ああ俺だ。どうした?」
雅斗が訊《き》くと慎也はたっぷりと間をおき、こう言ったのだ。
「順子の事なんだけどな」
雅斗は内心で思う。やはりそうだったか。
「どうか……」語尾を引きずり、
「したのか?」
何かが起きたとは思いたくない、だが慎也の口調から一言一言が慎重になる。
「どうした?」
反応がない慎也に雅斗は再び問うたのだ。電話の向こうで慎也がハッとしたのが雅斗には分かった。
「いや、悪い。実は順子の事なんだけどな、三日前にバーベキューへ行ったろ? 順子の体調が悪かったのだって覚えているだろ?」
覚えているに決まっている。慎也は明らかに動揺している。
「何かあったのか?」
たまらず雅斗は慎也にそう訊いたのだった。すると慎也はあっさりとこう言った。
「妊娠してたんだ」
「え?」
雅斗は拍子抜けする。突然のそれに雅斗も戸惑ってしまったのだが、よく考えてみれば、それは喜ぶべき事なのではないだろうか。
「今日の午前に順子と一緒に産婦人科へ行ったんだ。あれから俺はもしやと思って順子に訊いてみたんだが、それはあり得ないと言った。でも念のために今日の午前に産婦人科へ行ったんだけど、やっぱり順子の奴、妊娠してた」
何かが違う。何故慎也は喜ばないのか。子供が出来たという事実に慎也自身何か問題でもあるのだろうか。そうでなければ普通は喜ぶはずなのだ。二人は結婚だって考えているし、いい機会だとは思わないのだろうか。
「何故喜ばないんだ? よかったじゃないか」
雅斗は続けてこう言っていた。
「二人の間の赤ん坊なんだろ?」
まずい。その事なのか。雅斗は内心で慌てた。まさか二人の子供ではない。だが雅斗のそんな考えは慎也の「うん」という小さな頷きで消し去られた。
「だったら何がどうしたって言うんだ? 何か問題があるのか?」
焦《じ》れったいなと言わんばかりの雅斗の口調。間をおいてから慎也が突然こう言った。
「妙なんだ」
「妙って……何が」
「順子が妊娠していた事がだよ」
「別に妙でも何でもないじゃないか」
「まあ確かにその事に関しては妙じゃない」
慎也の言っている意味がさっぱり雅斗には分からなかった。だったらどうしたと言うのだ。
「じゃあ何が」
あきれかけた口調で雅斗が言うと、ようやく慎也が話の核心に入ったのだ。
「実はな、順子のお腹にいる赤ん坊は……もう四ヶ月をすぎているんだ。順調に育っているって」
「四ヶ月?」
それまで気がつかなかったのだろうか。雅斗はそこに疑問を感じた。慎也もそれが言いたかったらしいのだ。
「そう。でもおかしいんだ。妊娠をして四ヶ月が経っているんだぞ? 普通気がつくだろう」
「そりゃそうだ」
「それに」
「それに?」
「順子には一ヶ月前にだって生理があった。本人が言ったんだよ」
神妙な顔つきで雅斗は言う。
「どういう事だよ」
「分からない。とにかく変なんだ。でも一つだけ言えるのは順子は妊娠していなかった」
そして最後の言葉を強調した。
「一ヶ月前までは」
「でも確かに妊娠四ヶ月なんだろ?」
そこは認めざるえなかったのだろう。ああそうなんだけど、そう言って慎也は黙ってしまった。
「妙だな……」
そこで雅斗は思い出したのだ。三日前に朱美の携帯電話に届いた奇妙なメール。奇妙な泣き声。
「そういえば慎也」
「何だ」
「妙と言えば、三日前、朱美ちゃんの携帯電話に変なメールが届いたんだ」
慎也が訊き返す事はなかった。
「聞いたよ。ベイビーメールとかいう変なメールだろ?」
「ああそうなんだ。内容も内容でちょっと俺には衝撃的なものを感じたんだけどな、その後に赤ん坊の泣き声が聞こえてきてな、突然その後に携帯電話の液晶が割れちまったんだ。携帯も壊れちまった」
電話の向こうの反応がない。
「どうした?」
そこで慎也は反応した。
「実はな雅斗」
「どうした」
「そのメール。実は順子にも届いたんだ」
「ベイビーメール。それがか?」
「ああ。もう二週間前くらいになるのかな。俺自身、その内容は知らないんだけど、突然赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、突然液晶画面が割れちまったんだ。どうしたって順子に訊いたらベイビーメールって書かれたメールが届いたって言っていて……液晶画面が割れたのだって、あまり深く考えなかったんだ。だからそれ以来、順子にそのメールの事は訊いていないんだけど、朱美にもそのメールが届いて、赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、最後には液晶画面が割れてしまった。順子のあり得ない妊娠の事もあるし、何か俺……嫌な予感がするんだけど」
二人は押し黙る。嫌な予感。それは確かにあった。だが気のせいだ。雅斗は自分に言い聞かせた。慎也にもそう諭す。
「気のせいだよ。考え過ぎだよ。そう深く考えるなよ」
それじゃあ順子の不可解な妊娠は。そう慎也に訊かれたら雅斗は何も答える事は出来なかった。
「そ、そうだよな。そうだよ。考えすぎだよな」
それはメールの事である。順子の不可解な妊娠は解決していない。あえて慎也もこの時はそれを言わなかったのだろうと雅斗は思った。
「そうだよ。ただのイタズラメールさ。気にするな」
慎也は無理に明るい口調でこう言った。
「分かった。考えすぎない事にする。それじゃあまた何かあったら電話するよ。じゃあな」
じゃあな。雅斗は電話を切った。
何かあったら電話する。
慎也の声が繰り返される。
何かあったら。
それは十一日後の金曜日だった。慎也からの電話がかかってきた時には、もうすでに遅かったのだ……。
八月十六日、金曜日。予報通り、今年の夏は例年以上に暑く、猛暑に次ぐ猛暑。寝苦しい夜が続いていた。日射病に倒れて救急車で運ばれるというニュースは昨日も流れていた。テレビをつけると温暖化対策。いつ見ても政治家は頼りにならない気がする。
蝉の声。更にこの日、関東地方は日中、三十六度をこす記録的な猛暑に襲われていた。全国民のため息が今にも聞こえてきそうであった。
雅斗もその一人であった。扇風機の風を浴びながらため息を一つ。時計の針は午後の一時を示している。一番暑い時間帯。道理で暑いはずである。
「暑い……」
だらけた声を出す。
公子はパートに出かけていた。ソファに座ったまま雅斗は動かない。何もしたくない。何かをする気も起こらない。ただソファに座り扇風機の風を浴びていた。テレビは一応流れている。そして悪夢が訪れたのだ。
携帯電話。
気がつけば鳴り続けている。
雅斗は慌ててハッとなる。
携帯電話に駆け寄った。
慎也からだった。
「もしもし? 慎也? どうした?」
反応がない。様子がおかしい。車の通り過ぎる音が聞こえるだけだ。
「慎也?」
雅斗の表情が真剣になる。何かあったのか。
「雅斗……」
今にもちぎれてしまいそうな声だった。慎也は呆然《ぼうぜん》としている。電話越しでもハッキリと分かった。
「どうした」
すると慎也が力のない声でこう言ったのだ。
「順子……順子が」
嫌な予感。それが脳裏をかすめた。
「順子ちゃんが……どうした」
慎也の声と同時に車のクラクションが重なった。
「何て言った」
すると慎也はポツリと言ったのだ。
「死んだんだ」
「死んだ……」
一瞬にして頭の中が真っ白になった。
「冗談はよせ」
声が震えているのが自分自身でも分かっていた。
「冗談じゃない。死んだんだ。死んでいたんだ」
嘘を言っているとは思えなかった。それが事実だとしたならば、それを受け止める事しか他にはできなかった。
「どういう事なんだよ」
震えながら雅斗は問うた。
「今朝、順子のアパートの部屋の前で順子が死んでいるのを隣の部屋の人間が発見したんだ。もうすでに手遅れだったそうだ。実はな……」
「実は?」
雅斗が続きを促すと慎也は大きく息を吐く。
「なあ雅斗」
話がそれた気がした。
「なんだ」
「今から約一ヶ月前、うちの管轄内で妙な事件が起きたのを覚えているか? それもその後、三件続いて妙な事件が起きた日だ」
頭の中からはすっかりと消えていた。だが言われればすぐに蘇《よみがえ》る記憶である。
「もちろん、覚えている。それがどうした?」
信じられないと言ったような口調で慎也がこう言ったのだ。
「同じなんだ」
「同じ?」
「死に方が……同じなんだ」
雅斗の言葉が更に震える。
「ど、どういう事だよ」
「順子の腹部には破裂したような穴があいていた。血だらけだった。でもその中に」
雅斗は息をのむ。慎也はこう続けたのだ。
「またへその緒が見つかったんだ。切られてた」
雅斗は戦慄《せんりつ》した。不可解な事件に拳《こぶし》が震える。
「順子ちゃんのお腹の中には赤ん坊がいたはずだ。赤ん坊は?」
いない。消えてるんだ。棒読みのような口調の慎也に雅斗はますます混乱する。そんな馬鹿な。
「じゃあどうして」
その時突然雅斗の脳裏にある映像が浮かんできた。
お腹にいる赤ん防。
母親のお腹の中で急激に成長していく。
赤ん坊は外に出たくてたまらない。
赤ん坊は動き出す。
母親のお腹の中で力強く動き出す。
赤ん坊とは思えないほどの力で暴れだす。
やがて赤ん坊は母親のお腹を突き破り、胎盤と繋《つな》がっているへその緒を自らちぎる。まるで猫の赤ちゃんを産んだ母親がへその緒を自らちぎるように。
雅斗は妄想を遮断した。そんな馬鹿な事があるか。
「慎也? 今どこにいるんだ?」
「今は署にいる」
いまにも消え入りそうな口調。慎也の言葉に力がない。
「分かった。それなら今すぐ行く。いいな?」
ああ。慎也の声はそれだけだった。電話を切った雅斗は飛び出すようにして家を出たのだった。
照りつける太陽。噴き出てくる汗。今にも倒れてしまいそうな暑さだった。
武蔵野東警察署の前で立っていた雅斗の目の前を小さな子供が通り過ぎた。ポタポタと垂れるソフトクリームをペロペロと舐《な》めていた。もちろん今はそれどころではなかった。警察署の前についた雅斗は慎也の携帯電話に連絡をしたのだ。
警察署の中から一人の中年男性が外へと出てきた。その後ろに慎也がいたのだ。ボーッとしながら両手をダラリと下げて歩いてくる。雅斗には気がついていない。
「慎也!」
その声に反応した慎也は力無く顔を上げる。雅斗は慎也に駆け寄った。両手で慎也の肩を掴《つか》んだ。
「大丈夫か?」
慎也は呆然としたまま二度ほど頷《うなず》いた。
「あ、ああ……大丈夫」
「現在の状況はどうなっている」
慎也はポツポツと言葉を返す。
「まだ調べは続いてる。俺もさっきまで調べを受けてた」
そうか。雅斗が洩《も》らすと慎也は独り言を言い出した。
「どうして、どうしてこんな事にどうして……どうしてだよ」
どうして。慎也はボーッとした表情でどうしてと言い続けた。雅斗は何も言ってやる事が出来なかった。慎也の様子を見守る事しか出来なかった。すると慎也が今度は何か閃《ひらめ》いたのか声を上げたのだ。
「そうだ」
「な、なんだ」
「メール」
突然のそれに雅斗は訊《き》き返す。
「メール?」
「そうだよメールだよあのメールだよあのメールなんだよ」
「慎也落ち着け。メールって何だ」
「あのメールだよ。ベイビーメールとかいう変なメール。あれから順子はおかしくなったんだ。突然の妊娠。そして突然の死。あのメールのせいなんだ」
「いやちょっと待てよ。それじゃあお前はあのメールが順子ちゃんに届いたから順子ちゃんが死んだって言いたいのか。そんな馬鹿げた話があるか」
間髪入れずに慎也は返す。
「そうだそうだよ。あのメールが原因なんだ。あのメールが届いた瞬間、お腹の中に子供が宿る。そして死ぬんだ」
そんな馬鹿な。雅斗は内心で思う。あまりのショックに慎也は混乱している。だが慎也は真剣だった。その時、雅斗の脳裏にメールの内容が浮かんできたのだ。
私の子供を育てさせてあげる。
大切に育ててあげて。
育ててあげて。
ソダテテアゲテ。
頭の中で言葉が何度も繰り返される。
「まさか……」
雅斗は混乱した。メールが届いた瞬間、その者のお腹の中に子供が宿る。
そんな事があり得るか。子供が出来るという事は精子と卵子がくっつかなければならないのだ。男性の精子がなければ子供は出来ないのだ。
だが考えさせられるところもある。確かに順子は妊娠をしていた。妊娠四ヶ月だった。しかし順子には生理があった。四ヶ月というのはあり得ない妊娠だった。何もかもがおかしかった。
だとしたら本当にメールが届いた者のお腹の中に子供が宿る。そしてその子供は急激に成長する。腹の中にいられなくなった子供は母親の腹を突き破り、自らへその緒を切る。
「馬鹿な」
常識では考えられない。信じられる話ではない。だがすべてはメールが届いてからなのだ。現実に事件だって起きている。
もしあのベイビーメールとかいう奇妙なメールが全ての原因だとしたならば。
「朱美」
慎也が突然ポツリと言ったのだ。雅斗も同じ事を考えていた。そう、朱美にも同じメールが二週間前に届いているのだ。読み終えた後、赤ん坊の泣き声が続き、突然携帯電話の液晶画面が割れてしまった。それ以来、あの携帯電話は使えなくなった。
「慎也……」
雅斗は急に恐ろしくなった。あのメールが原因だとしたならば、慎也の仮説がその通りだとしたならば。雅斗は震え始める。
朱美のお腹の中には赤ん坊がいる。
赤ん坊は急激に成長をし続ける。
そして朱美には死が待っている。
「まさか……」
雅斗と慎也は表情を強《こわ》ばらせたまま見つめ合っていた。
「慎也どうする。朱美ちゃんに話すか?」
駄目だ。慎也は強く否定した。
「黙っていてくれ。動揺させたくない」
「でも、でももし本当にあのメールが原因だとしたならば……時間が」
慎也は迷うことなくこう言った。
「俺が単独で調べる。もう警察の捜査を待っている暇はないんだ。朱美を助けなきゃいけないんだ俺は」
「そ、そうだけど、どうやって調べるんだよ。ましてや誰がメールを送っているかなんて分からないんだぞ? 送り主が不明なんだあのメールは。チェーンメールでもない。一体どうやって調べるんだ」
慎也は考える仕種《しぐさ》を見せる。
「一番目の被害者がいるだろう。確か川又春子という女性だ。その旦那《だんな》に直接話を聞いてみる。今はそれしかない」
雅斗は納得するように頷く。
「そうだな。それしかないか」
「雅斗」
雅斗は慎也に視線を向ける。
「協力してくれるか」
ああもちろん。雅斗は強く頷いた。
「もう時間がない。早速明日から俺は調べ始める」
雅斗が続く。
「俺も一緒に行く」
慎也は頷く。
「それと、一つ頼みがあるんだ」
「何だ」
雅斗が返すと慎也はこう言ったのだ。
「メールの内容。思い出してくれ」
一拍間をおき、分かった。雅斗は力強く頷いたのだった。
一方その頃、朱美は慎也と一緒に暮らしている部屋の中で寝込んでいた。朝から具合が悪く、働いている花屋に連絡を入れ、この日の仕事は休んだのだ。その事を慎也は知らない。また朱美も順子が死んだのを知らなかった。知る由もなかった。
朱美はベッドの上。一向に体調はよくならない。吐き気もする。体が怠《だる》い。重い。こんな症状は初めてだった。
寝返りをうつ。
寝てしまえば体調もよくなると思う。
だがなかなか寝つけない。
冷房はつけていない。
あまり好きではない。
部屋は蒸し風呂《ぶろ》のような暑さ。
汗がどんどんと噴き出してくる。
もう一度寝返りをうつ。
すると突然何処からともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。うぎゃーうぎゃー。すぐ近くに赤ん坊がいるようだった。
「なに……」
朱美はベッドから起きあがる。赤ん坊は泣き続けている。どうやら自分の部屋から聞こえているのだと朱美は察知する。だが部屋を見回しても当然赤ん坊はいない。それでも泣き声だけは聞こえてくる。気味が悪い。朱美は耳を澄ませてみる。うぎゃーうぎゃー。
泣いている。
どこからだ。
分からない。
朱美はハッとなる。思い出したのだあの時の事を。メールの事を。泣き声が聞こえてきたあのメール。以来携帯電話は壊れてしまった。それからずっと机の引き出しにしまってある。
「まさか……」
朱美は机の引き出しの前に立つ。聞こえてくる。引き出しの中から泣き声が聞こえてくるのは確かなようだった。
深呼吸を一つ。
朱美は一気に引き出しの中を調べた。
うぎゃーうぎゃーうぎゃーうぎゃー。やはりそうだった。液晶画面が割れてしまった携帯電話から泣き声が聞こえていたのだ。うぎゃーうぎゃーうぎゃー。
泣きやまない。
まるで本当の赤ん坊が携帯電話の中にいるようだった。
「静かにして、静かにしてお願い」
泣き声は止まらない。けたたましい泣き声に朱美はノイローゼにでもなってしまいそうだった。目をつむり耳をふさぐ。
「お願いやめて!」
耳をふさいでも泣き声は聞こえてくる。
「いい加減にして」
朱美は部屋を飛び出した。後ろから泣き声が追ってくる。慎也が普段体を鍛えるために使っている鉄アレイを持ち出した朱美は自分の部屋へと戻る。そして泣き声のする携帯電話を机の上に叩《たた》きつけ、鉄アレイを上にかかげた。
その瞬間、携帯電話が赤ん坊に見えた。うぎゃーうぎゃーうぎゃー。
泣き続ける赤ん坊。
いや幻覚だ。妄想だ。
朱美は再び鉄アレイを上にかかげた。そして思い切り携帯電話に叩きつけたのだ。
同時に朱美はベッドの上から飛び上がっていた。酷《ひど》い汗。額に髪の毛がベッタリと貼りついている。呼吸が酷く乱れていた。
「夢……?」
夢に気がつき朱美は大きなため息を吐いた。泣き声は聞こえない。無性に引き出しの中に眠っている壊れた携帯電話が気になった。ベッドから起きあがり机の前に立つ。そして引き出しを引いたのだ。
壊れた携帯電話が中にあった。朱美は手に取る。もうこの電話は使えない。壊れている。
そのはずだった。
突然赤ん坊の笑い声が聞こえてきたのだ。あまりの驚きに朱美は携帯電話を落としてしまった。
幻聴だ。
笑い声はしない。
朱美は携帯電話を拾い上げた。そして携帯電話をまじまじと見つめてみる。
思えばあのメールが届いてから何かが自分の中で変化していると朱美は思った。携帯は壊れるし、変な夢を見る。実は先ほどの夢が初めてではなかった。メールが届いてから何度も同じ夢を見る。体は怠いし重くも感じる。何かが違う。あのメールが届いてからは。朱美は直感する。嫌な予感というものを。
携帯電話をしばらく見つめた後、朱美は再び引き出しの中へとそれをしまったのだった……。
リミット
八月十七日、土曜日。この日も前日に続き猛暑だった。順子が死亡するという不可解な事件が発生した翌日、雅斗と慎也は事件を解明するために一人目の被害者である川又春子が住んでいたマンションの前にいた。夫である川又明男に話を聞くために訪れたのだ。
「行こう」
慎也が雅斗を促した。
「よし」
雅斗は慎也に従い後に続く。二人はマンションの中へと入った。
すでに雅斗は慎也にメールに書かれてあった内容を覚えている限り全て話した。メールの主が佐賀県藤津郡太良町大浦乙という場所で育ったと書かれてあった事、二十歳の時に妊娠をしたが愛する人に神社で突き落とされ流産した事、突き落とした彼を殺したと書かれてあった事、その後にS・O・Tという三人の男性にもてあそばれた事、それでもTの子供を身ごもった事、それなのに……、というところで一旦《いつたん》メールが途切れている事、その後に幸せな人間が許せない、子供が欲しいと思っている人間はもっと許せないと書かれてあった事、最後に私の子供を育てさせてあげる。私の赤ちゃん早く外に出たがっている、だから大切に育ててあげてと書かれてあった事。
そして『@』を押すと赤ん坊の泣き声が聞こえてきた事全てを慎也に聞かせたのだ。
やはりそのメールはおかしい。
内容も呪いのような、そんなものを感じる。
そういうものはあまり信じるほうではないが、やはり原因はそのメールだ。
慎也はそう言い切っていた。
確かにあのメールは普通ではない。
雅斗もそれは感じていた。
「ここだ」
川又明男の住む部屋は三階の六号室だった。土曜日という事が幸いしたのか、川又明男は部屋にいた。それでもインターホンを三度は押した。
インターホンの受話器に出る事なく、川又明男は迷惑そうに扉を開いた。無精髭《ぶしようひげ》にTシャツ短パンというラフな恰好《かつこう》であった。
「どちらさま?」
川又はぞんざいにそう尋ねてきた。目に力がない。頬もこけている。最愛の妻を亡くしたのだ、無理もなかった。
「川又明男さんですね?」
慎也が尋ねる。
「ええ、そうですが」
「わたくし、こういう者なんですが」
言いながら慎也は警察手帳を川又に見せた。個人的な調査で警察として動いても大丈夫なのだろうかと雅斗は思ったが、今はそんな事を言ってはいられなかった。
「刑事さんですか」
もう慣れた。そんな口調だった。
「お話を伺いたいのですが……よろしいですか?」
川又は疲れた様子でこう言った。
「もう話す事はありません。知っている事は他の刑事さんに話しましたし、春子の事は……もう」
「川又さん」
真剣な口調に川又は慎也の顔を見る。慎也は続ける。
「確かに奥さんの死は不可解な出来事だった。でもね、僕はその解明に繋《つな》がるヒントを得たんです。あなたの協力が必要なんです」
すると川又の表情が微妙に変化した。驚いている様子だった。
「ほ、本当なんですか?」
「ええ、本当です。少しだけお話を聞かせて下さい」
川又は一度|俯《うつむ》き、顔を上げ分かりましたと頷《うなず》いた。
「ありがとうございます」
雅斗と慎也は川又の部屋に上がる事になったのだ。
「どうぞ、少し散らかっていますけど」
「お構いなく」
二人は川又春子の仏壇が置かれてある部屋に通された。部屋中、線香のにおいが漂っている。
笑顔の写真が飾られていた。
「奥さんですね?」
雅斗が訊《き》くと川又は辛《つら》そうに頷いた。
「結婚してからずっと幸せな生活が続いていました。春子とは二年間つき合って結婚した訳ですけど、結婚してからは喧嘩《けんか》は一度もしなかった。あまりに期間が短すぎた。春子は優しい人でした。思いやりがあって誰からも好かれる人だった。それと子供が好きでした。子供が欲しい子供が欲しいと毎日のように言っていたんです。多ければ多いほどいい。春子は本当に子供が好きだったんだと思います」
二人は言葉を返せない。
「もう春子が死んでから一ヶ月が経ちます。夫の僕が言うのはどうかと思いますが、変な死に方だった。刑事さんの話によると、腹部に破裂したような穴があいていて、その中に何故かへその緒が発見されたんです。ちぎられたへその緒です。春子が妊娠していたと言うんです。でもその事に僕は疑問を感じました。春子の口からそんなような事は一切出なかったし、そんな気配もなかった。妊娠していたとは思えないんです。なのに」
「辛い事なのに話して頂いてありがとうございます」
川又は首を小さく横に振る。
「突然で驚くかもしれませんが、実は昨日……僕の恋人も春子さんと同じ死に方をしたんです」
川又は心底驚いている様子だった。
「本当ですか?」
「本当です。へその緒が発見されました」
「妊娠していなかったのに?」
「いや妊娠はしていました。でもおかしな話だった。医者の言う事によると妊娠四ヶ月だったんですが、あり得ない妊娠だった」
「あり得ない妊娠?」
「順子というんですが、順子には一ヶ月ほど前に生理があった。自分でそう言っていたんです」
「それじゃあ、なぜ? 春子と順子さんに何か共通点でもあったんでしょうか?」
慎也は力強く頷《うなず》いた。
「おそらくは」
「おそらく?」
川又は復唱しこう続けた。
「そういえば刑事さん。さっき刑事さんは何かヒントを得たとそうおっしゃっていましたよね? 一体それは何なんですか?」
慎也は即座にこう言った。
「メールです」
川又は怪訝《けげん》そうな表情を浮かべる。
「メール?」
「ええ。ベイビーメールというメールです。ご存じないでしょうか?」
川又は首を傾げる。
「いや……知りません」
「では奥さん、携帯はお持ちでしたか?」
それには迷うことなく川又は肯定した。
「ええ、持っていました。友達が多かったですからね」
「そうですか」
慎也は返す。次の台詞《せりふ》を雅斗が奪った。
「もしかして、その携帯電話……壊れませんでしたか?」
その質問に川又は驚いた様子だった。
「どうしてそれを?」
雅斗と慎也は顔を見合わせた。やっぱり。慎也が呟《つぶや》いたのだ。
「どういう事でしょうか?」
「原因はメールです」
慎也は言い切った。
「その、ベイビーメールとかいうメールですか?」
「そうです。奥さんにもそのメールが送られてきたはずです」
「知りませんけど。携帯電話が壊れてしまったのは確かです。細かく言うと液晶画面が壊れたんです」
「川又さん」
「はい」
川又は慎也に視線を向ける。
「信じてもらえないかもしれないが、真剣に聞いて下さい」
「は、はい」
戸惑いながらも川又はコクリと首を動かした。
「実はそのベイビーメールというメールが届いた人間のお腹の中には、赤ん坊が宿るんです。信じられないかもしれないが、僕はそう考えています」
「赤ん坊……ですか?」
何が何だか分からない。そんな言い方だった。
「そうです。赤ん坊です。その赤ん坊はお腹の中で急激に成長する。お腹の中にいられなくなった赤ん坊は母親のお腹を突き破る。そして自らへその緒を切る。全て僕の推測なんですがね」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
「いや、信じてもらえないかもしれない。信じられるはずがないでしょう。でも事実なんですよ。現実に順子と春子さんの携帯電話にはそのベイビーメールというメールが届いた。そして不可解な死を遂げている。全てはそのメールが原因なんです」
川又は混乱している様子だった。無理もなかった。
「でもどうしてそのメールが届いただけでお腹の中に赤ん坊が……」
「それは分かりません。でも不可解な事が現実に起こっているんです」
信じられない。川又はそう呟いた。
「それじゃあ、そのメールが届いたから春子は死んだと?」
慎也は辛そうに頷いた。
「おそらくは」
慎也のその返答に川又は拳《こぶし》を握り、悲しみに震えていた。
重い沈黙。破ったのは雅斗だった。
「あの……川又さん」
川又はフッと顔を上げる。
「なにか」
「その、壊れた携帯電話というのは今は?」
「ええ、一応あると思いますよ。ちょっと待っていて下さい」
そう言って川又は部屋から出ていった。しばらく経つと川又が携帯電話を手に、部屋へと戻ってきた。
「これです」
雅斗は携帯電話を受け取った。やはり朱美のと同じように液晶画面が割れてしまっていて画面には何も映ってはいない。
「俺にも見せてくれ」
慎也に言われ雅斗は慎也に携帯電話を渡した。慎也は鑑定するような目で携帯電話を隅々まで確認していた。そして一つため息を吐き、再び雅斗に渡す。改めて雅斗は携帯電話を確認した。目にとまるのはやはり液晶画面が割れているという事だけでそれ以外は何も分からなかった。そして今にも赤ん坊の泣き声が聞こえてきそうな気がしてならなかった。
「ありがとうございます」
雅斗は川又に携帯電話を返した。突然慎也が口を開いた。
「おそらくベイビーメールというそのメールは、恨みのメール。いや、妬《ねた》みのメールなんでしょう」
「妬み、ですか」
「そうです。そのメールに書かれていた内容からすればそう考えられるんです」
「ちなみにそのメールにはなんと書かれてあったんですか?」
慎也は雅斗にバトンタッチした。雅斗は答える。
「私は子供が欲しかった。妊娠をした事があったが愛していた人に神社で突き飛ばされて流産をした。だから私は幸せな家庭が許せない。子供が欲しいと思っている人間はもっと許せない」
川又は気味悪そうに言う。
「本当ですか?」
「そして最後に、私の子供を育てさせてあげる。私の赤ちゃん早く外に出たがっている、だから大切に育ててあげて……と」
その内容を聞き、川又も慎也の言っている事が嘘ではないのではないかと思い始めたようだった。
「だとしたらやっぱり本当に」
「ええ、やはり原因はメールでしょう」
そうだ。雅斗はある事に気がついた。
「そういえば川又さん」
「はい」
「奥さんの携帯電話が壊れてしまったのはいつ頃の事なんでしょうか?」
川又は記憶を辿《たど》るような目をしてこう言った。
「確か……六月の中旬くらいでしょうかね。ハッキリは覚えていませんよ。でもそう言われてみると、春子の体、前に比べると少しふっくらしたかもしれない」
川又春子が死んだのは七月十八日。およそ一ヶ月。順子が死んだのは八月十六日金曜日。慎也|曰《いわ》くメールが届いたのは七月十九日金曜日。二人ともおよそ一ヶ月。いや、順子に関しては丁度四週間である。
「朱美……」
雅斗は呟く。朱美の携帯電話にベイビーメールが届いたのはバーベキューに行った八月二日の金曜日。そして今日は約二週間経った八月十七日。もし一ヶ月がリミットだとしたならば。
「慎也……」
雅斗の中で焦りが芽ばえた。
「ああ、時間がない」
そのやり取りを見て川又が訊《き》いてきた。
「あの、何かあったんですか?」
それに対し慎也はこう答えたのだった。
「僕達には、守ってやらなきゃいけない人間がいるんです……」
こうして二人は川又のマンションを後にした。
川又のマンションを後にした二人は近くの喫茶店に入った。カランカランと鈴の音がなる。寒いくらい冷房がきいていた。
「いらっしゃいませ」
ウエイトレスのかん高い声が店内に響いた。雅斗と慎也は適当に席についた。
もう順子の死にいつまでも悲しんでいる訳にもいかなかった。時間がないのだ。二人はなんとしても朱美を助けなければならなかった。
「ご注文お決まりでしょうか?」
せかすようにウエイトレスが立っている。
「それじゃあ、アイスコーヒー」
慎也が注文をする。
「同じ物を」
「アイスコーヒーがお二つでよろしいですね? ありがとうございます」
ウエイトレスは厨房《ちゆうぼう》へと下がっていく。それを確認してから雅斗が口を開いた。
「お前の言うとおり、やっぱりあのメールか」
腕組みをしていた慎也が頷《うなず》いた。
「ああ。川又の話でそれがハッキリと分かった。確信して言える。原因はあのメールだ」
「でも、どうやって朱美ちゃんを助ければいい……このままじゃ」
それ以上は言わなかった。言いたくなかった。
「何かいい方法はないか」
慎也はずっと黙っている。何か方法を考えているのだろう。だが。
「分からない。どうすればいい」
慎也がため息混じりにそう呟《つぶや》いた。行き詰まった雅斗は大きなため息を吐いた。
「このままだと被害はどんどんふくらむかもしれない」
雅斗のそれに慎也も頷く。
「確かに」
「せめて、そのメールを送っている人間が分かればな……」
「確かにな、けど見当もつかないよ」
ウエイトレスがアイスコーヒーを運んできた。二人は会話を中断する。
「お待たせいたしました。アイスコーヒーになります」
ウエイトレスはテーブルの上にグラスを静かに置いた。
「ごゆっくりどうぞ」
ウエイトレスがいなくなるまで二人は口を開かなかった。
「原因は掴《つか》んだ。でもこれからどうする」
慎也は黙る。
「分からない……」
「じゃあ俺達はどうすればいい。どうすれば朱美ちゃんを助けられるんだ」
どうすれば。どうすれば。それしか思い浮かばない。雅斗は自分自身に苛立《いらだ》っていた。
「分からない……」
両手で顔を覆い隠しながら慎也はそう言ったのだ。分からない。分からない。それだけだった。混乱している様子だった。二人は完全に足止めをくらっていた。焦りが募る。だが何も出来ない。苛立つばかりだった。
二人はこの時焦っていたせいか、ある一つの手段を全く考えだせないでいた。朱美に何も知られたくはないという考えが邪魔していたのだ。それに気がつくのはもうしばらく経っての事だった。
こんな事に巻き込まれるとは。よりによってどうして朱美なんだ。雅斗は内心で何度も何度も叫んだ。その答えは出なかった。
それから二人は三十分ほどで喫茶店を出た。話し合ったところで手がかりなど見つける事は出来なかった。この日はそのまま帰宅するしかなかったのだ。しかし。
この日の夜、同じ事件がもう一つ発生する。この時、当然二人はそんな事を知る由もなかった。
ベイビーメールの発信を止める事など、今は誰にも出来なかった……。
その日の夜、野次馬達で現場は埋め尽くされていた。ざわつきはいつまで経っても止まなかった。
死体が発見されたのは午後九時の事だった。世田谷《せたがや》区|上馬《かみうま》。
住宅街に建つある一戸建て。
一人の主婦が倒れていた。
発見したのは川上裕太《かわかみゆうた》。
死んでいたのはその妻である川上|秋子《あきこ》。
死んでいたのは自宅前だった。
会社帰りの夫が発見した。
被害者の側にはゴミ袋。夜のうちにゴミを出しに行こうとした模様。そして。
「こちらです」
部下に促され吉田《よしだ》は現場に到着した。白い手袋をはめながら野次馬をかき分けていく。
「はいはいどいて」
人混みをかき分けると、無惨な光景を目にしたのだ。
「吉田さん。見て下さいよ。また例の事件です」
吉田は息を吐く。
「酷《ひど》いな。これまで続いている事件と全く同じようだな」
「ええ。そうですね」
「それで、やはり発見されたのか」
「はい」
言うまでもない。へその緒である。
「どうなってんだ一体。どうしてへその緒が切られている」
苛立つ吉田。そしてこう言ったのだ。
「とにかく捜査を進めろ。夫である川上裕太には署に同行してもらう。話はそれからだ」
分かりました。部下は吉田の前から立ち去った。
改めて死体に目を向けた吉田はこう呟いたのだ。
「肝心の赤ん坊は一体何処へ消えたんだ」
しかしその後、警察が捜査を進めても手がかりはまったく掴《つか》めなかった。
その日のうちに慎也に一本の電話があった。現在、世田谷東警察署に勤務している知り合いからだった。また一人被害者が出た。例の事件だ。内容はそれだった。それを知った慎也はすぐさま雅斗の携帯電話に連絡を入れた。雅斗に緊張が走った。更に慎也の口から不安にさせる言葉が発せられた。朱美の体調がよくないんだ。
どうする事も出来ずに雅斗は電話を切った。その夜は一睡も出来なかった……。
八月十八日、日曜日。この日の暑さは多少落ち着いていた。それでも三十度はゆうに超えていた。雅斗は一人、部屋の中にこもっていた。
昨日の夜、また一人被害者が出た。今度は世田谷。雅斗と慎也にベイビーメールを止める術《すべ》はない。
そして一番の心配は朱美である。順子の死を知った朱美から連絡はない。相当ショックを受けているのだろう。それよりも朱美の調子がよくないようなのだ。焦りが募る。だが今は動けない。昨日の被害者である夫、川上裕太から話を聞きたいところなのだが、慎也|曰《いわ》く、それはまだ出来ないようだ。警察がまだ川上裕太を解放していないようなのだ。動きたくても動けない。気持ちだけが焦ってしまう。
苛立つ時間が多かった。
雅斗はベッドの上で仰向けになり身じろぎ一つしなかった。カーテンを閉めていた。明かりもつけない。テレビの音もラジオの音も部屋にはなかった。冷房の音も扇風機が回る音さえもない。日曜だというのに公子はパートに出かけている。それ故何も音がなかった。
ただ時間が経つにつれ、大切なものが一気に崩れ去っていくようなそんな音がする。嫌な予感を雅斗は遮断した。
可愛い子供がほしい。子供がいたら幸せなんだろうな。
朱美の言葉を思い出す。
確かに朱美の言うとおりになった。
朱美のお腹には赤ん坊がいる。
だがその意味が違うのだ。
どうしよう。どうすればいい。大丈夫今は落ち着くのだ。でも。
ベッドから起きあがった雅斗は落ち着かない。一旦《いつたん》部屋から出た雅斗は冷蔵庫に向かいミネラルウォーターを取りだした。一口。二口。冷たい水が胃に流れ込んでいくのがよくわかる。冷蔵庫にミネラルウォーターをしまうと突然チャイムが鳴ったのだ。雅斗は受話器を取った。
「どなたさまですか?」
すぐに声が返ってきた。
「小川です」
小川飛鳥だった。声ですぐに分かった。一体どうしたというのだろう。
「ちょっと待て。今すぐ開けるから」
雅斗は玄関に向かい鍵《かぎ》を開けた。そこには小川飛鳥が立っていた。暗い顔はしていなかった。
「どうした? 家にまで来て。とにかくあがれ。暑いだろ」
はい。飛鳥は小さく頷いた。
「何か話があって来たんだろ?」
その内容は分かっている。だが今の雅斗に話を聞いてやる余裕などなかった。頼れる教師を自分の中で無理に作っていた。
雅斗は飛鳥をリビングルームへと招き、適当にソファに座らせた。
「何か飲むか? 暑かっただろ? オレンジジュースでいいか?」
「はい、頂きます」
深刻な表情ではない。話というより報告があるのかもしれない。雅斗は内心で思う。それもよい報告のような気がした。
冷蔵庫からオレンジジュースを取りだし、それをグラスに注ぐ。グラスがオレンジ色へと変わっていく。
「あまり冷えてないな」
言いながら雅斗は冷凍庫から氷を取りだしそれをグラスにポチャンと落とした。
「お待たせ」
言って雅斗はグラスを飛鳥に渡した。
「ありがとうございます。頂きます」
飛鳥は一口飲んでからグラスをテーブルの上に置いた。
「それにしても本当に暑いな」
どうでもよい内容から雅斗は入る。
「そうですね。でも今日は多少温度が下がってるみたいですけど」
「それでも暑いものは暑いよ」
「そうですね」
言って飛鳥はグラスに口をつける。再びテーブルへとグラスを置いた。
雅斗は内容を変える。
「それにしてもよくここが分かったじゃないか。教えた事あったっけか」
「緊急連絡網ですよ。そこに先生の住所も書いてあったから」
雅斗は納得する。
「そうか。そうだったな」
それで。雅斗は本題に入った。
「今日はどうしたんだ? 何かあったか?」
以前彼女の心は傷ついていた。だから真剣に聞いてやらなければならない。そう努力はするのだが、どうしても朱美の事が気にかかっている。雅斗はそんな自分に気がついている。
「実はあれから、彼氏と話をしました」
「例の彼だな?」
「ええ、そうです」
「それで?」
「先生の言うとおり、あんな事があったから、私と会いにくかったみたいで」
「やっぱりそうだったか。それで彼は何て?」
すると飛鳥は突然|俯《うつむ》いてしまった。
「どうした?」
長い間の後、飛鳥がこう言ったのだ。
「最初に彼……私にごめんって。俺にはまだお前と赤ん坊を養っていく能力はないって」
「そうか……」
「でもね、将来必ずお前を幸せにするよう頑張るからって。そう言ってくれたんです」
それを聞き、雅斗はホッとする。
「そうか、よかったじゃないか」
「それでね、その時が来たら、二人の子供を作ろうって」
恥ずかしそうに言う飛鳥を見て、雅斗は優しい笑みを浮かべた。
「その時私思ったんだ。私のために彼が頑張っているんだから、私も何か頑張らないといけないんだって」
「そうだな。これからどうするんだ?」
「もう一度学校へ行く。定時制でもいいから、両親には心配かけないようにしないと」
飛鳥が大人になった気がした。いやもう大人になったのだ。しっかりとした考えを持っている。
「そうだな。それがいい」
「自分の夢を叶《かな》えるためにはとりあえず今は何かを頑張らないとね」
「夢?」
「赤ちゃんだよ。赤ちゃんを彼と二人で育てる事。三人くらいは欲しいかな」
すっかり忘れていた。いや、そこまで頭が回らなかった。
「なにはともあれ安心したよ。お前のその顔を見たらな」
「顔?」
飛鳥が怪訝《けげん》そうな表情を浮かべる。
「ああ、以前来た時とは全然違う。生き生きとしてるよ」
「そうかな」
「そうだよ」
飛鳥は照れている。この時雅斗は思った。
彼女には幸せになってもらいたい。このままずっと笑っていてほしい。それだけでいい。
「実はね、これから彼と会う事になってるんだ」
「そうか。何時からだ?」
「二時半」
現在時計は午後の一時五十分を示している。
「それじゃあ、そろそろここを出ないとまずいんじゃないのか?」
「うん。そうだね」
雅斗は立ち上がる。
「それじゃあ、ちょっと待て、下まで送るから」
「いいよいいよそんな事しなくても」
雅斗は飛鳥の言葉を背にしてトイレへと向かった。扉を開きズボンを下ろす。便器に座り一つ息を吐いた。
急に静かになった気がした。朱美が心配でたまらない。狭い部屋にいると不安で押しつぶされそうだった。
トイレットペーパーを流し、雅斗はトイレから出た。
耳に違和感を感じた。
水の流れる音。
その中に違うものがある。
微《かす》かに聞こえる。
赤ん坊の声だった。
「小川!」
雅斗は咄嗟《とつさ》に叫んでいた。急いで飛鳥に駆け寄った。うぎゃーうぎゃーうぎゃー。
「何よこれ……」
愕然《がくぜん》となった。雅斗はその場に崩れ落ちそうになった。
「ベイビー……メール」
「え? 何? 変なメールがきたんだけど」
その途端、液晶画面がパリッと割れた。赤ん坊の声も消え去った。
「え? 何? どうして? 割れちゃった」
ほら見て。飛鳥が液晶画面を見せてきた。
何も危機感を感じていない表情だった。雅斗は言葉を失っていた。もう遅かった。
「やだ。困るなあ。連絡出来ないじゃん」
しようがないか古い携帯だったしね。飛鳥はすんなりと諦《あきら》めていた。柱時計を確認している。飛鳥がスッと立ち上がった。
「もういかないと。先生今日はありがとう」
放心状態の雅斗。
「先生?」
ハッと我に返る。
「あ、ああ。帰るのか?」
「うん。もういくね。今日はありがとう」
「いや、気にするな。また遊びに来い」
動揺を必死に隠しているつもりだった。表情はガチガチに強《こわ》ばっていた。
「それじゃあね先生。おじゃましました」
気がつくと飛鳥は玄関の扉を開けていた。
玄関まで見送る事さえ出来なかった。
「じゃあね先生」
そう言って飛鳥は出ていった。バタンと扉が閉まる。部屋中が静まり返った。飛鳥の笑顔、言葉が浮かんでくる。さっきのさっきまで幸せそうだった。それなのに。
雅斗は放心状態のままだった。すっと手を伸ばし、携帯電話を取り、慎也へと電話をかける。
ワンコール。
ツーコール。
スリーコール。
「もしもし? どうした雅斗」
慎也の声。雅斗は放心状態のまま言ったのだ。
「まただ。今度は俺の生徒にメールが届いた。ベイビーメールが」
そこで雅斗は大きく息を吸い込んだ。そしてつけたした。
「また届いたんだ」
助けなければならない人間がまた一人増えてしまった。罪のない人間にメールが届く。雅斗の中で焦りと怒りが交差する。
順子さんが亡くなってから一人で何を調べているの。
朱美にそう言われたんだと慎也はこの日そう言った。朱美の調子もよくはないと。どちらにせよ二人にはもう時間がなかった。
八月十九日、月曜日。
ウンザリするほどの暑さ。
もう慣れた。どうでもいい。
ただ蝉の鳴き声だけは耳障りだった。
この日、二人は世田谷にいた。川上裕太のマンションを訪れるためだった。一昨日死亡した川上秋子の事で話を聞きたかったのだ。確信して言えるのは川上秋子にもベイビーメールが届いていたという事だった。
「また刑事さんですか?」
三十代半ばの男が川上裕太であった。酷《ひど》く疲れている様子だった。
今日から強引に有休を入れた。慎也はマンションに着く前にそう言っていた。完全な単独行動だった。処分も覚悟のようだった。
「ええ、少しお話を聞かせてもらえませんでしょうか?」
「話って、さっきまで色々聞かれていたんですよ。少し休ませてください。一人になりたいんです」
慎也は食い下がる。
「本当に少しの間でいいんです。僕達は奥さんの身に起きた不可解な事件を解決したいと思っているんです」
「だから全てお話ししました。そんな事よりもあなた、ここの管轄の刑事さんじゃないでしょ」
痛いところをつかれた。慎也はごまかす事なくそれを認めた。
「そうです。単独で動いています」
「だったら話すことはもうありません。お引き取り下さい」
川上が扉を閉めようとすると慎也がこう言ったのだ。
「僕の恋人も死んだんです」
「え?」
「奥さんと同じ死に方で死んだんです。妹だって危ないんだ」
「どういう事です?」
「僕は奥さんが死んだ理由を知っています」
それだけで充分だった。川上はその言葉に食らいついてきたのだ。
「本当ですか?」
「本当です。少し話を聞かせて下さい」
迷っている様子だったが、川上は分かりましたと頷《うなず》いたのだった。二人は部屋の中へと招かれた。そこでようやく雅斗と川上が挨拶《あいさつ》を交わしたのだった。
僕が単独で動いている事は誰にも言わないで下さい。そしてこれから僕の言う事もです。座布団に座るなり慎也が川上にそう言った。分かりました約束します。川上の返答だった。
「それで、秋子が死んだ理由を知っているという事だったのですが……本当なんでしょうか」
「本当です」
「聞かせて下さい」
慎也は確信の口調で強くこう言ったのだ。
「メールです」
「メール?」
「そうです。メールです。奥さん、携帯電話はお持ちでしたでしょうか?」
「ええ、持っていました。持っていましたけど……」
「液晶画面が壊れてしまった」
雅斗が横から割って入った。
「ええそうです。どうしてそれを?」
ここまでの会話は川又と全く同じである。やはり川上秋子にもベイビーメールは届いていた。
「そのメールが原因なんです。全てを読み終え、『@』と書かれてある場所を押すと突然赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。その後突然液晶画面が割れてしまうんです。妹にもそのメールが届いたんです。彼の教え子にも」
困惑している様子で川上はこう言った。
「あの、意味が分からないんですが……」
無理もない。メールが原因だと言われて、そうだったんですかと納得する人間など何処にもいない。
「川上さん。これから僕が言う事は信じられないかもしれない。それでも信じて聞いて欲しいんです。いいですね?」
押しつける言い方だった。
「は、はい」
戸惑いながらも川上は小さく頷いた。
「おそらく、奥さんの携帯電話にはベイビーメールというメールが届いたはずです」
「ベイビーメール?」
雅斗が横から入る。
「初めはただのイタズラメールだと思っていました。ところがとんでもないメールだった」
「どういう事でしょうか?」
慎也が答える。
「そのメールが届いた人間のお腹の中には子供が宿るんです」
川上が呆《あき》れたような笑みを浮かべた。
「何をおっしゃるんですか。そんな事ある訳ないでしょう」
慎也は冷静に受け答える。
「信じられないでしょうね。でも事実なんです。事実、奥さんのお腹の中には赤ん坊がいた。へその緒がちぎられていたのが何よりの証拠です」
川上は納得するようにこう言った。
「確かに、秋子のお腹の中に赤ん坊がいたと言われて、おかしいと思いました。それはあり得ないからです」
「あり得ない?」
ええ。川上は頷き、そしてこう言ったのだ。
「秋子は不妊症でした」
「不妊症?」
雅斗が復唱する。
「ええ。私達はその不妊症にずっと悩まされていましたから」
不妊症。言葉通り妊娠しにくい病気の事を不妊症とよぶ。ある期間たっても子供ができない場合を不妊症としている。通常避妊をしていないと二年間の間に約九割の夫婦が妊娠するといわれるため、不妊症であるかどうかは二年を目安に判断するそうだ。
最近では、二年以内でも子供が欲しいという希望が強くても妊娠しない場合や、妊娠早期に流産に終わってしまう不育症も含めて不妊症として扱う。不妊夫婦の割合は、十組に一組と言われている。
この病気は必ずしも女性に原因がある訳でなく、一般的には不妊の原因が女性の側にあるケースが四十パーセント、男性側が四十パーセント、原因不明が二十パーセントと言われている。
女性では卵管因子が三十〜五十パーセント、排卵因子が五〜二十パーセントを占め、男性では造精機能の障害が八十〜九十パーセントを占めている。子供がどうしても欲しいというこのような不妊症夫婦にとっては大きな障害なのである。
「僕達は結婚した当初から子供が欲しくてたまりませんでした。子供がいればどんなに明るい家庭になるだろう。子供がいればどんなに毎日が楽しくなるだろう。僕と秋子はずっと子供を育てる夢を抱いていました。ところが」
「なかなか子供が出来なかった」
川上の言葉を慎也が奪う。
「ええ。医者にも不妊症だと言われました。だから僕達は子供ができるためにできる限りの努力をした。でも結果的には駄目だった。児童養護施設から子供を貰《もら》おうかと話した事もありましたが、秋子はどうしても自分の子供が産みたかったみたいです。その事にずっとこだわっていました。だから本当は秋子が妊娠していたはずがないんです」
「そうだったんですか」
痛々しい口調で雅斗はそう呟《つぶや》いた。慎也が口を開く。
「奥さんが妊娠しているはずがなかった。けれど奥さんのお腹の中には赤ん坊がいた。僕の恋人は妊娠をしていた。すでに四ヶ月が経っていた。けれどあり得ない妊娠だった。二人ともベイビーメールが届いていた」
言いたいのはそれだけです。慎也は言った。川上を納得させるには充分だった。多少は疑っているにしても。
「それじゃあ、やっぱりそのメールが原因なんですか」
「それしか考えられません。しかもメールに書かれている内容が内容だけに」
「どういう事が書かれていたんですか?」
雅斗は自分が覚えている限りを川上に伝えたのだ。川上はそれを聞き黙ったままだった。
恐ろしさというものを感じていたのだろう。
「早く外に出たいみたい……」
川上は小さく復唱した。慎也が自らの推測を川上に伝える。
「馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、おそらく、お腹に宿った赤ん坊は急激に成長する。考えられないほど急激に。そしてお腹の中にいられなくなる。赤ん坊は母親のお腹を突き破り、へその緒を自ら切る」
「そんな事が……あり得るんでしょうか」
「普通なら考えられません。それにこれまで目撃者が一人もいません。だから断定する事は出来ませんが……おそらくは」
信じられないと口にした川上が、突然|閃《ひらめ》いたようにこう言ったのだ。
「それじゃあ、その赤ん坊は今どこに?」
それに関しては首を振るしかなかった。首を振りながら慎也はこう言ったのだ。
「分かりません。それが謎なんです」
しばらくの沈黙。雅斗が破る。
「あの、川上さん」
「はい」
「奥さんの携帯電話が壊れたのはいつ頃の事なんでしょうか」
長く考える事なく、川上はこう言ったのだ。
「確か、一ヶ月ほど前でしょうか」
一ヶ月。一ヶ月。
「一ヶ月……」
リミットは一ヶ月。結果的に手がかりになるようなものは何も掴《つか》めなかった。何も見えない暗闇に立たされているようだった。
夜を迎えた。慎也と別れた雅斗は自分の部屋にこもっていた。明かりもつけずにボーッとしている。
突然メールが届いた。雅斗は携帯電話に急ぐ。蓋《ふた》を開くと明かりが眩《まぶ》しい。新着メールが一件と表示されていた。まさかと思う。
考えすぎであった。クラスの生徒からだった。
『ヤッホー先生元気? 暇だからメールしました。今何やってるの? 私はね、今家族と福井にいます。お父さんの実家なんだ。何だか超田舎って感じかな。だから何? と言われてしまえばそれまでなんだけどね。もう少しで学校だね。これといって用はなかったんだ。それじゃあ、また学校でねバイバ〜イ』
ため息を吐き、雅斗は携帯電話の蓋を閉じた。今は返信する気になれない。
順子が死んでから朱美とのメール日記交換がピタリと止んだ。まだ朱美が新しい携帯電話を買っていないせいもあるのだが、朱美自身、そんな気になれないのだろう。立ち直るには時間がいる。そっとしておいてやりたい。でも雅斗と慎也には時間がない。けれど手がかりがない。どうしようもない。
そう思った矢先だった。
携帯電話が再び鳴った。
雅斗は蓋を開く。
慎也からだった。
すぐさま雅斗は電話に出たのだ。
「もしもし? どうした」
分かったぞ分かったんだ。それが慎也の第一声だった。
「何が分かったんだ」
「ようやく手がかりを掴んだんだ。間違いない」
本当か。雅斗は声を上げる。
「でもどうやって」
「一から俺は考えた。そして俺はお前に聞かされたあのメールの内容を初めから思い出していったんだ。ヒントはメールの中に隠されてあったんだが、恐るべき事が浮かび上がってきた」
「どういう事だよ」
間をおいた慎也がこう言ったのだ。
「S・O・Tだ」
雅斗は復唱する。
「S・O・T?」
「そうだ。確かその三人の男に私はもてあそばれたと書かれてあったんだよな?」
「ああ、そうだ。そうだけど、それがどうしたんだよ」
「分かったんだ。そのS・O・Tが誰なのかがな。全く知らない人物達ではなかったんだよ」
「誰なんだ、それは」
「実はお前も知っている。一ヶ月前に俺はお前に話をしていたんだ。覚えているか、あの事件」
そこで雅斗の中に衝撃が走った。川又春子が死んだ一ヶ月前の夜、奇妙な事件が三件続いて発生している。それを雅斗は思い出したのだ。死んだ三人の名前まではさすがに覚えてはいないが、まさかその三人なのか。雅斗は内心で自問する。
「まさか、奇妙な事件?」
そうだ。慎也はそう断言した。
「一ヶ月前に川又春子が死んだあの夜、奇妙な事件が三件続いて発生した。坂本正、大津和也、高本忍。その三人は突然狂乱しながら死んでいる。泡をブクブクとふいてな。死に方はどうでもいい。その三人の頭文字をとってみてくれ。S・O・T。坂本、大津、高本。全てが一致するんだ。どうしても俺にはあのメールに書かれていた事と関係しているとしか思えないんだ」
関係しているかもしれない。それとも考え過ぎなのではないか。それは迷いどころだった。ただ、この先にはもう道がない。動くしかなかった。
「調べる必要があるな」
ああ。慎也の声。
「俺は今から三人の事について調べてみようと思う。何か分かったらすぐに電話する。それまで待っていてくれ」
雅斗は焦る気持ちをグッと堪《こら》えた。
「ああ、分かった。頼むぞ」
「それじゃあ」
電話を切ろうとするその直前、雅斗は慎也にこう言った。
「慎也。時間がないんだ。急いでくれ」
分かってる。そう言って慎也からの電話は切れた。雅斗は大きく息を吐く。今は待つしかないのだが、雅斗はその夜、なかなか眠りにつく事が出来なかった。
ようやく眠りについたと同時に雅斗は恐ろしい夢を見た。朱美が死ぬ夢だった。
音のない映像。
ここは何処だろう。
夜の住宅街。
怠《だる》そうにしている朱美が一人。
体が重たそうなのだ。
突然朱美の体に異変が起こる。
お腹が急激な勢いで大きくなっていく。
朱美は狂乱する。
なおもお腹は大きくなっていく。
あまりの出来事に朱美は倒れ失神する。
倒れた朱美のお腹が動き始める。
中から表情のない赤ん坊。
朱美の腹部を食い荒らし外へと出てくる。
いつしか赤ん坊は立ち上がれるまでに成長している。
立ち上がろうとして何かが引っかかる。
へその緒である。
赤ん坊はへその緒を右手にとる。
そして、朱美と繋《つな》がっていたへその緒を自らちぎった。朱美はもう、ピクリとも動かなかった。
雅斗は飛び上がるようにして起きあがった。激しく呼吸を繰り返す。辺りを見渡し、夢かと小さく呟き安堵《あんど》の息をドッと洩《も》らした。全身が汗にまみれていた。考えたくもない夢だった。
八月二十日、火曜日。
もう時間がなかった。
二人は手がかりを掴《つか》もうとしている。
この日の正午に慎也から電話があった。一ヶ月前に死んだ坂本正、大津和也、高本忍に関する情報を全て手に入れたとの事だった。
一時に待ち合わせをしたい。江東区砂町にある俺達がよく遊んだ公園で待っていてくれとの事だったので、雅斗は急いで仕度をし、二人でよく遊んだ砂町公園のベンチに座って慎也を待っていたのだ。坂本正が死んだ場所が砂町である。慎也は坂本正の事から調べ始めるのだろうと雅斗は予測していた。
公園は母親とその子供で賑《にぎ》やかだった。三歳から四歳くらいの子供達であろうか、駆け回ったり砂場で遊んだりと様々で、その様子を母親達が見守っている。ほらほら危ないわよ。どこからか母親の声が聞こえてきた。走り回っている子供にそう言ったらしい。
子供達の騒ぐ声は終始絶えなかった。子供が嫌いではない、むしろ好きな雅斗にとってそれは苦痛ではなかった。
不意にボールが足に当たった。バレーボール程の大きさをした柔らかいゴムボールである。転がってきた方向に目をむけると三歳くらいの男の子がやってくる。雅斗はボールを手に取り、目の前にやって来た男の子に、はいと渡したのだ。ボールは受け取ったのだが反応がない。子供の顔を見て雅斗はハッとなる。表情のない死んだ顔。まるで夢で見た赤ん坊の顔のようなそれだった。
雅斗は思わず目をそらす。ボールを持ってあっちに行ってくれ。そんな思いだった。すると子供がこう言ったのだ。
「邪魔するな」
子供とは思えないほどの低い声。恐ろしい口調だった。思わず雅斗は顔を上げ、子供の顔をもう一度見た。全くの別人だった。後ろから母親が、ありがとうって言いなさいと促している。子供はにっこりと笑ってありがとう、と言って母親の元へと駆けて行った。
疲れているのかもしれない。雅斗は今さっきの幻覚幻聴にそう感じた。平和な光景が恐ろしい幻覚に変わってしまう。自分自身がおかしくなってしまうのではないかと深くため息を吐くと、ポンポンと肩を軽く叩《たた》かれた。
「慎也……」
すがるような声を雅斗は出した。
「どうした? 顔色が悪いぞ?」
雅斗は頭《かぶり》を振った。
「いや、何でもないんだ」
「そうか。それならいいんだ」
それじゃあ早速行こう。慎也のことばに雅斗は従った。
「まずは何処へ行くんだ?」
「坂本正が死んだ状況を調べに行く。実はその時、坂本正の友人が一緒にいたそうなんだ。その友人の自宅も調べてある。まずはそこへ行く。隠された何かが分かるかもしれない」
「そうか。分かった」
そこに車を停めてある。行こう。慎也のそれに雅斗は、ああと頷《うなず》いた。二人は車へと移動したのだった。
車で十五分。二人は坂本正が不可解な死を遂げた時、その場にいた友人である内田和広《うちだかずひろ》の自宅に到着した。白で統一された綺麗《きれい》な一戸建てで、ベランダには多くの洗濯物が干されていた。風で洗濯物が大きくなびいている。まるで踊っているようだった。
車から降りた二人は早速インターホンを押し、中の様子をうかがった。
階段を下りてくる音がドタドタと聞こえてきた。鍵《かぎ》の開く音がした。扉が開いた。
「どなたさまでしょうか?」
中から出てきたのはエプロン姿の中年女性だった。雅斗と慎也を不審な目でみつめている。内田の母親だと想像がついた。
「あの、内田和広さんはご在宅でしょうか?」
「和広ですか? ええ、いますけど……失礼ですがどなたさまでしょうか?」
刑事です。慎也は堂々とそう名乗った。すると母親はそういう事かと納得したように部屋の中へと戻っていった。間もなく、内田和広が外へと出てきたのだった。
「どうも」
内田は頭を下げる。何故か落ち着かない様子だった。それを雅斗は見抜いていた。
「あの……何の用でしょうか? 警察の方には全てを話したつもりなんですが……」
内田は何故かおどおどとしている。何かを隠しているようにも思えた。
慎也が内田にこう言った。
「今日ここへ来たのは他でもありません。一ヶ月前に亡くなった坂本正さんの事について少々お話を伺いたくてやってきました」
内田は俯《うつむ》いたままこう口にした。
「いえ、だから全てお話ししたと……話す事はもう……」
内田のそれにはお構いなしに慎也は言ったのだ。
「内田さん。ベイビーメールというメールをご存じですか?」
慎也のそれに内田は顔を上げる。
「ベイビーメール? さあ、知りませんが」
何なんですかそれは。内田の問いに慎也は答えた。
「信じられないかもしれない。でも聞いて下さい。そのベイビーメールというメールは恐ろしいメールで、簡単にいうと、そのメールが届いた人間は必ず死ぬんです。妹にもそれが届いてしまったんです。彼の教え子にも。だから僕達は手がかりを追っているんです」
慎也は話を短縮し、内田にそう聞かせた。すると内田は呆《あき》れた笑みを浮かべたのだ。
「まさか」
雅斗が横から慎也に続いた。
「いや本当なんです」
「仮にそれが本当だとして、正と一体どんな関係があるって言うんです?」
「直接メールには関係していない。けれどメールに書かれてある内容が坂本正さんと関係しているんじゃないかと思いましてね」
「どういう事です?」
「一ヶ月前、坂本正さんが不可解な死を遂げたあの夜、もう二人の人物が坂本さんと同じような目にあっているというのはご存じですよね?」
「ええ、それは。刑事さんから聞かされました」
「実はその三人の事が、そのベイビーメールというメールに書かれてあるようなんです」
内田がゴクリと唾《つば》をのみ込んだ。
「どのようにです?」
「私は二十歳の時に妊娠をした。けれど、愛する人に神社から突き落とされ流産をした。私は赤ちゃんが欲しかった。それなのに今度はS・O・Tという三人の男達にもてあそばれた」
そう書かれてありました。神妙な顔つきで内田にそう聞かせると、それは本当なんですかと内田が訊《き》いてきたのだ。何か心当たりがあるようだった。
「本当です。そのメールのせいで、何人もの犠牲者が出ているんです。Sは坂本。Oは大津。Tは高本。あの日の夜に突然不可解な死を遂げた三人です。この三人がメールに関係しているとしか思えないんです」
慎也の熱弁に内田は黙ったまま口を開こうとはしなかった。
「何かを知っていますね?」
慎也の追い打ちをかけるようなそれに、内田は小さく「はい」と頷いたのだ。
「そのメールに書かれてある内容と、僕の知っている事からすれば、おそらくそれは、正の事かと」
雅斗は身を乗りだすようにこう言った。
「何でもいいんです。知っているなら教えて下さい」
場所を変えましょう。内田はそう言ったのだった。
三人は近くの喫茶店で車を停めた。その間に、内田には今までに起きている全ての事情を聞かせたのだった。メールの内容から、そのメールが届いた人間のお腹の中に赤ん坊が宿る事、お腹の中に宿った赤ん坊は急激に成長し、これは定かではないが、赤ん坊はお腹を突き破り、自らへその緒を切る。それ以上の事は何も分からない事、そして妹の朱美にもそのメールが届いた事など全てを話したのだ。
店の中へと入り三人はアイスコーヒーを注文した。注文したアイスコーヒーがテーブルに置かれるまで三人は口を閉じたままだった。
初めに口を開いたのは雅斗だった。
「内田さん。早速なんですが、あなたは何を知っているんです? 坂本さんが死ぬその直前、一体何があったんですか?」
内田は自信なさそうにこう言った。
「知っている限りで、いいんですよね?」
慎也が返す。
「結構です。お願いします」
内田はグラスに入ったコーヒーに口をつけた。一口飲んでテーブルにグラスを置いた。そのゆっくりとした動作の後に、内田が突然こう言ったのだ。
「あまり僕は関わりたくなかったんだ。だから警察の人にも本当の事は隠していた」
「何を隠していたんです?」
「正が死ぬ直前に発した言葉をです。それと、過去です」
「死ぬ直前に発した言葉? 過去?」
雅斗のそれに内田は深く頷いた。
「坂本正は一体、死ぬ直前になんと?」
「突然でした。夜の道を正と一緒に歩いていると、急に発作を起こしはじめて、狂ったように暴れ出して、首をおさえて苦しそうに言ったんです」
平本《ひらもと》と。
二人はその平本という名字に敏感に反応した。
「平本? それは一体誰です?」
すると内田はこう言ったのだ。
「簡単に言えば正の、メール友達でした。いや、メール友達の限度はこえていた」
「メール友達……」
雅斗が復唱する。はいと内田の声。
「今年の三月頃です。僕と正は携帯電話の出会い系サイトにはまっていました」
「出会い系サイト?」
「ええ。ご存じですよね?」
もちろん。雅斗は返した。
出会い系サイトとは出会いを求める男女のためにあるサイトであり、当然純粋な恋愛を望んでいる人間だけではない。出会うまでの図式はサイトによっても異なるのだが、もっとも一般的な例を挙げると、女性がサイトの掲示板にメッセージを載せておき、そのメッセージを読んだ男性が女性にメッセージを送る。そこまでのやり取りまではお互いのメールアドレスが知られる事はなく、よって男性はポイントを定められた額で購入し、そのポイントを使って女性にメッセージを送るのだ。そのメッセージを読んで気に入った女性が男性にメッセージを返す。そこでようやくメールアドレスを交換する事ができる。それからは本人達の自由であり、サイトを通す事なく、メールを交換できる仕組みとなっている。もちろん、実際に顔を合わせる事だってできるのだが、それが引き金となって事件が起きるという事も現在では少なくない。
「その出会い系サイトを使って、正は平本|愛《あい》という女と知り合う事になったのです」
「平本……愛」
「もちろん最初はメールからのやり取りでした。二十三歳の女の子です。佐賀県の太良町という場所で育ちました」
佐賀県太良町。メールに書かれてあった場所と同じである。内田は続ける。
「今は東京に住んでます。あなたは何処に住んでるの。最初はごく一般的なメールのやり取りでした。最終的に平本は現在何処に住んでいるのかは教えてはくれませんでした。それはどうでもよかったのですが……。そんなメールが三日間くらい続いたんです。すると正が僕にこう言ってきたんです。相手が俺と会いたがっている。早すぎやしないかなと」
「相談された訳ですね? それであなたは?」
慎也の問いに内田は答える。
「僕は軽い気持ちで言いました。会ってみればいいじゃないかと。でもそれが間違いだったんです。とんでもない女だった」
「間違い……と言うと?」
「僕と正は二人で平本愛に会いに行きました。二人といっても、僕は陰で正の様子を見守っていただけですけど」
「それで?」
雅斗が先を促す。
「平本愛は時間通りに正のもとに現れました。恰好《かつこう》は今時とは違って古くさかったけど、髪はセミロングで顔もスタイルも悪くはなかった。顔はむしろよいほうだった。けれど、何か狙いがあるような、魂胆があるような、そんな表情をしているように僕は感じたんです。何せ三日目で、しかも女性から会おうと言ってくるなんてあまりないケースですからね」
確かに。慎也が呟《つぶや》く。
「僕は正と平本愛の後を追いました。正も警戒していたのでしょう、とりあえず一緒にいてくれとの事だったので、帰る事はしませんでした。ずっと二人の後を追いました。ところが」
雅斗は語尾が気になった。
「ところが?」
「二人の後を追い、行き着いた先に、僕は思わず驚いてしまいました」
「どうして」
「二人はいきなりラブホテルに入ったんです。真っ昼間ですよ。しかも、平本愛が強引に正を誘っている。そんなように僕には見えました。服を強く引っ張っているんです」
なんだそれは。慎也が小さく口にした。
「僕は困りました。困りましたけど、結局二人はホテルの中に入ってしまったし、待っているのも馬鹿馬鹿しかったんで、僕は正の携帯電話に先に帰るよとメールを入れて帰ったんです。返事もなかったし、正だってまんざらでもないのかなと思い僕はそれから一人で帰りました」
けれど。内田は続ける。
「その夜に正から電話があったんです。まいったよ。正の第一声はそれでした。ホテルに入った後、すぐにセックスはしなかったそうです。色々と平本愛から話を聞かされたそうなんです。それも同情を誘うような。私は母親と二人で生活をしていた。お父さんは死んでしまったから。ずっと弟か妹がほしかった。けれど弟や妹ができる事は当然なかった。だから私は自分の赤ちゃんがほしい。一度流産した事があるの。愛する人に神社から突き落とされてしまったから。私は赤ちゃんがほしい。赤ちゃんを産んでみたい。育ててみたい。名前は決めてある。男の子の場合も女の子の場合も決まってる。将来は音楽に関係する仕事につかせたい。父親がいなくたって私は充分赤ちゃんを育てていける」
何て事だ。メールに書かれてある内容とほぼ同じなのだ。
「僕が覚えているのはそこまでで、何故か彼女は自分の子供に対する話が多かったようなんです。病的なほどだと正は言っていました」
平本愛。雅斗は確信していた。メールの主はその女だと。
「それだけじゃないんです。いざセックスをする時になって平本愛がこう言ったそうなんです。コンドームは使わないでと」
雅斗と慎也は顔を見合わせた。言葉を失っていた。内田は続ける。
「それにはさすがに正も困ってしまったみたいで、万が一って事もありますからね。それでも平本は必要以上に避妊具を用いる事に拒絶反応を示していたそうなんです」
「普通逆だがな……」
慎也が呟く。
「そうなんですが、結局そのまま正も平本とセックスをしたそうなんです。その後はあっさりしていたそうです。ホテルを出ると、また会える? また電話するねと言って帰ってしまったそうなんです」
何なんだその女は。慎也はまたも小さく洩《も》らした。
「それから一週間後に平本から連絡がありました。渋谷《しぶや》に来られるかという誘いでした。出会い系サイトを利用する半分の理由は、それ目当てみたいな事もあって、正もまんざらではなかったみたいで、再び正は平本に会いに行きました。けれど、会った途端に正はまたもやラブホテルに連れていかれたそうなんです。内容は一度目と一緒でした。避妊具は絶対に使わないでと」
「理由は何なんだ」
慎也のそれに内田は返答しなかった。
「それから平本の誘いはだんだん回数が増えてエスカレートしていきました。三日に一回。更には一日に何十回もの連絡が平本からくるようになりました。電話に出ると早く来て、セックスがしたいのとか、その目的は言うまでもありませんでした。平本からしたら正はただの道具でしかなかったようです。あまりのしつこさに正は平本からの連絡には出ないようにしていたんです。今度はしつこくメールが来るようになりました。どうして電話に出ないの。あなただってセックスしたいでしょ。私を無視しないでよとか。極めつけのメールはこれですね。
私はどうしても赤ちゃんがほしいのよ。
あまりの異常さに正はメールアドレスだけを変えるのではなく、携帯電話の機種自体を変えて完全に平本からの連絡を絶ちました。幸いにも正は自宅の場所までは教えていなかったので、平本愛との関わりはそれまででした」
あまりに常軌を逸していた。今の話を聞いた雅斗はその平本愛という女に辟易《へきえき》した。狂ってる。雅斗は小さく洩らしたのだ。
「おそらく、平本は正の事を恨んだに違いないでしょう。状況はどうであれ、平本は自分が捨てられたと思っていたはずですから。だから僕は正が死ぬ直前に平本と口にした時、本当に怖かった。まるで目の前に平本愛が立っているかのような正のそれでした。僕は怨念《おんねん》とかそういうのは信じませんが、平本の憎いという気持ちが正を死に至らしめたのではないかと思ったんです。だから僕は関わりを持ちたくなかったんです」
僕は本当に怖かったんだ。内田は両手で髪の毛を強く掴《つか》んでそう言ったのだった。
喫茶店を出た雅斗と慎也は内田に礼を言ってそこで別れた。平本愛という女の居場所さえ分かればすぐにでも向かうところなのだが、そこまで内田は知らなかった。手がかりが他にないので、次に二人は大津和也が住んでいた東京都町田市に向かって車を走らせたのだった。
平本愛。思わぬところで一つの影が現れた。メールの内容。言動。そして赤ん坊に対する強い想い。内田の話を聞いた二人は確信していた。ベイビーメールの主がその平本愛であるという事を。
二人を乗せた車は赤信号で停止した。
「内田に会って正解だった。間違いない、メールの主はその女だ」
ハンドルを握りながら慎也が言った。その口調は確信に満ちていた。
「ああ。話を聞く限りではどうやらそのようだ。全てが一致している」
「おそらく、後の二人も平本愛と関わりを持っていた。大津和也。そして高本忍。ただし高本に限っては少し違う。メールに書かれてある通りなら、平本は高本の子を妊娠した。そこからどうなったのかは分からないんだよな?」
分からない。雅斗は答えた。答えてすぐに内田の話を思い返していた。
子供を産むためなら男は問わないといったその異常な行為。赤ん坊に対する病的な想い。どう考えても異常である。どうして平本愛はそこまでして赤ん坊が欲しかったのか。それは雅斗にも分からなかった。
「電話鳴ってるぞ」
慎也の声にハッとなる。携帯電話が鳴っているのだ。液晶画面を確認すると慎也自宅と表示されてある。朱美からの電話だとすぐに理解できた。
「朱美ちゃんからだ」
前方を向いていた慎也と一瞬だけ目を合わす。
「出るぞ?」
一応雅斗は慎也に確認をした。
ああ。慎也の答えだった。
「もしもし?」
長い沈黙の後、朱美の声が聞こえてきた。朱美の声を聞くのはしばらく振りの事であった。
「もしもし? 私」
うん。雅斗は頷《うなず》く。
「何だか、久しぶりに感じるね」
うん。今度は朱美の声。
「仕方ないよね。色々あったから」
うん。朱美はそれしか答えない。寡黙な頃に戻ってしまったのではないかと雅斗は心配する。それ以上に心配なのは朱美の体なのだが、今はその事についてはふれられない。
「どう? 少しは気持ち、落ち着いた?」
「うん。でもショックが大きすぎたから」
「そうだね」
「凄《すご》く優しくて、本当にいい人だったから……」
「そうだよね」
その後に、朱美の深いため息が聞こえてきた。
「慎也から聞いたんだけど、具合のほうはどうなの? あまりよくない?」
「うん。よくない。怠《だる》いっていうか、体が重いっていうか、気持ち悪い。この頃、変な夢もみるし……何かが違うの」
「変な夢?」
「私の携帯に、変なメールが届いた時があったでしょ? その夢を見るの。赤ん坊の泣き声が携帯電話から聞こえてくる夢」
雅斗はどう答えていいか迷っていた。そのメールのおかげで現在朱美のお腹には赤ん坊が宿っている。大切な教え子のお腹にもだ。結局は答えられないまま朱美が話題を変えてきたのだ。
「それより今、何しているの?」
「今?」
言って雅斗は慎也と顔を合わせた。慎也は首を横に振った。
「ああ、今は……学校にいるんだ」
咄嗟《とつさ》に学校という嘘が出てしまった。
「学校? どうして?」
「ほら、もうじき学校が始まるでしょ? だからそのための準備とかで学校にいるんだ。ずっと休みって訳にもいかないんだ」
そうなんだと朱美が言った。
「どうしたの?」
雅斗が問うと、朱美がこう言ったのだ。
「実はね、お兄ちゃんの事が心配なの」
「慎也が?」
「うん。順子さんが亡くなってからお兄ちゃん、仕事も有休入れて、一人で何かを調べているみたいで、何だかコソコソしているし、訊《き》いても何も答えてはくれないし、ちょっと心配なんだ」
答えに戸惑っている雅斗に朱美はこう付け足した。
「何か、聞いていない?」
「いや、俺にも分からない。連絡もないし」
「ハッキリ言って、順子さんの事件はちょっと変だったし、お兄ちゃんがその事でおかしくなったりしないかって……」
間髪入れずに雅斗は返した。
「大丈夫だよ。ただハッキリさせないと慎也自身、納得がいかないんだよ。だから今はそっとしておいてやろう」
しばらく考えている様子がうかがえた。
「うん。分かった」
「朱美ちゃんも、元気ださないと」
「うん。そうだね。ありがとう」
それじゃあ、また連絡します。朱美のそれで、会話は終了した。雅斗は携帯電話をポケットにしまいこんだ。
「朱美……何だって?」
慎也に訊かれた雅斗は今の会話を全て話したのだった。
午後の四時前に二人は東京都町田市に到着していた。慎也が調べた通り、大津和也の自宅は住宅街のど真ん中にあった。世帯主と思われる大津|雅彦《まさひこ》と書かれた表札の隣に千鶴《ちづる》、和也と小さく書かれてある。それを見て二人は確信を得たのだった。
インターホンを押したのは慎也だった。しばらく待つと、母親と思われる人物が現れた。千鶴であろうと雅斗は思った。
「あの、どちらさまでしょうか? セールスの方とか……」
当然慎也はそれを否定した。
「いえ、違うんです。突然お伺いして申し訳ございません。実は、こういう者なんですが」
言って慎也は警察手帳を見せた。千鶴は納得するように頷いた。
「刑事さん……」
千鶴はポツリと小さく呟《つぶや》いた。
「それで今日は、何の用ですか? 和也の事で何か分かったとか」
「いえ、実は僕、現在単独で和也さん達の事件を追っていまして、それで今日は和也さんの事でお話を伺いに来たんです」
「そうですか、けれどここへ来たのは無駄足でしたね」
雅斗は言葉|尻《じり》をとらえる。
「無駄足?」
「ええ、そうです。他の刑事さんにもそう話しましたが、あいにく私には和也の事は本当に何も分からないんです。申し訳ありませんがお引き取りください」
千鶴が何かを隠しているようには思えなかった。まして大津和也の死に一人の女が関わっていたかもしれないという事実など知る由もないのだろう。それを話すか否か雅斗は迷った。その前に慎也が口を開いた。
「僕達は和也さんの事件を解決したいと思っているんです。小さな事でもいいんです。和也さんが亡くなる前、何か変わった事とかはありませんでしたかね」
千鶴は残念そうに首を横に振ったのだった。
「申し訳ありません。私には和也の事は何も分からないんです。それは今回に限った事ではなく、学校でどんな生活をしているのかとか、将来は何をしたいのかとか、夫と私は和也との会話をあまり積極的にはしていませんでした。和也も私達に一日の出来事とか、そういう話をしてくれた事はありませんでした。家の中にいても、あまり顔をあわせない生活でした。家では親と子がバラバラだったんです。だから今回の件で心当たりとかそういう事を訊かれても、私は何も分からないんです」
申し訳ありませんと千鶴は再度頭を下げたのだった。
「どうする?」
雅斗が耳元で慎也にささやくと慎也が千鶴にこう言ったのだ。
「そうですか。分かりました。それじゃあ一つだけお願いします。和也さんが使っていた携帯電話が今もありましたら、それを見せてもらえないでしょうか」
「携帯電話でしょうか?」
「ええ、もしまだありましたら」
「一応、和也の部屋には置いてありますけど」
「お願いします」
慎也の真意が分からないようだったが千鶴は分かりましたと頷き、そのまま一度家の中へと戻ったのだ。
「メールを調べるのか?」
雅斗が訊くと慎也は、いやと口を開く。
「もし平本愛と関わっていたとしてもメールはもうなくなっているか、大津和也自らメールは消去しているだろう。それよりも知りたいのは大津和也と親しくしていた友人だ。親しい友人ならおそらく相談しているに違いない。平本愛が坂本正にしたような行動をとっていたならな」
「そうか、そうだな」
雅斗は納得する。
「母親がああ言う限り、もうそれしか方法はないからな」
ああ。雅斗は頷く。二人は千鶴が出てくるまで、扉をじっと見つめていたのだった。
しばらくすると再び玄関の扉が開かれた。千鶴の右手には携帯電話が握られていた。
「これです。一ヶ月経ってもまだ解約する事ができなくて……」
慎也は千鶴から携帯電話を受け取った。
「拝見させていただきます」
言って慎也は携帯電話のボタンを押し始めた。雅斗も液晶画面の中を覗《のぞ》いていた。
まず慎也はリダイアル履歴から確認をし始めた。残されてある履歴は全部で二十件。友人と思われる様々な名前が残されていた。すぐに目に付いた名前があった。二十件残されているうちの七件に堂本明男《どうもとあきお》と表示されている。次に着信履歴を慎也は調べた。こちらは三十件のうち十件ほど、その堂本明男と表示されているのだ。特に親しかった人物だと予測ができた。更に慎也はメール履歴を確認した。二百件残されているメールの中に平本愛という名前はなく、そのほとんどが堂本明男のメールであった。メールの内容も特に親しかったのを物語っていた。
『明日は何時だっけ。
ごめん寝てた。何の用。
話していたゲームソフト買ったぞ。
てゆーか、あれ駄目だった。
バガボンドてどういう意味』
他愛もない内容でメールをやりとりしている。この人物なら何かを知っているのではないかと二人は考えた。
「お母さん。この堂本明男という人物は?」
「堂本君ですか? 堂本君は和也の幼なじみです。小学校から続いているお友達です」
「かなり仲がよかった」
「ええそうですね。堂本君とは特に仲がよかったと思います」
堂本明男の番号をメモした慎也は携帯電話を千鶴に返しこう言ったのだった。
「彼の自宅を教えてください」
千鶴が不意をつかれた表情を浮かべた。
「え? それは堂本君の自宅ですか?」
はいそうです。慎也は千鶴に答えたのだった。
堂本明男の自宅は大津和也の自宅からそう離れてはいなかった。千鶴に教えてもらった通りに道を進んだ二人は堂本と書かれた表札を目にしたのだ。建物自体は古く、木造二階家の一戸建てだった。
「ここだな」
「そのようだ」
慎也は頷《うなず》く。
早速二人はインターホンを押したのだった。
ピンポンという音が中から聞こえた。
反応がない。
雅斗はもう一度押してみる。
やはり反応は同じであった。
足音が聞こえてこないのだ。
「いないみたいだな」
雅斗が慎也にそう言うと、何も言わずに慎也が携帯電話を取りだした。
「連絡をとろう」
そう言って慎也は堂本明男の携帯電話に電話をかけたのだ。コールする音がもれてくる。二人は無言のままその時を待った。
しばらく待つと、慎也が口を開いたのだ。
「もしもし?」
堂本明男の声が電話からもれる。慎也は堂本明男との接触を試みる。会話がとんとんと進んでいった。雅斗にはそう見えた。
「何だって?」
電話を切った慎也に雅斗は訊《き》いた。
「今、マンガ喫茶にいるらしい。来てくれるのならって言っている」
迷うことはなかった。
「それなら行こう」
「そのつもりだ。ここから近いらしい。分からなかったらもう一度電話をしてくれとの事だ」
よし行こう。雅斗は言った。堂本明男に話を聞くため、二人はすぐさま動いたのだった。
二人の行動は早かった。堂本明男に電話を入れてから二十分後にはマンガ喫茶の階段を上っていた。カウンターの店員に慎也が警察手帳を見せるとすんなり中へと通された。
「こういう所なのかマンガ喫茶という所は」
雅斗は見渡しながらそう口にした。マンガ喫茶というだけにマンガばかりが置いてあるものだと雅斗は思っていた。だがそれは大きな勘違いであり、インターネットやテレビゲームなどもできる仕組みとなっているのだ。しかも飲み物が飲み放題なのだと客の行動でそれが分かった。本当はそんな事どうでもいい事だった。とにかく堂本明男を探さなければならなかった。
「あれだ。フードつきの白いトレーナーを着ているのがそうだと言っていたんだ」
慎也の目線に雅斗は視線を向ける。マンガの単行本に見入っている長髪の男がいた。二人は静かに歩み寄った。
「堂本明男さんですね?」
その声に反応し、男は顔を上げたのだ。
「そうです。斉藤さんですよね?」
はいそうです。慎也は答えた。
「そちらの方も……刑事さんですか?」
堂本に訊かれた雅斗はそれを否定した。
「僕は教師です。僕も斉藤と言います」
その答えに堂本は疑わしそうな表情を浮かべたが、理由は何も訊いてこなかった。
「ここよろしいですか?」
慎也が堂本に向かいの席を示した。
「どうぞ」
雅斗と慎也は堂本の向かいの席に腰をおろした。
「ここで話しても大丈夫ですか? 料金とか取られてしまうんじゃ」
雅斗は堂本に気を遣う。
「いえ、大丈夫です。四時間のパック料金ですので、少しくらいの間なら気にしませんから」
安心しました。雅斗は堂本にそう返したのだった。
「それで、僕に訊きたい事というのは何なのでしょうか」
マンガ本を裏返しにしながら堂本はそうたずねてきた。二人はもう、メールの話はしなかった。平本愛という女の情報がほしかった。
「先ほども言いましたように、大津和也さんの死について、色々訊きたい事がありまして」
「何ですか」
慎也が堂本に質問をしていく。
「堂本さんと大津さんは幼なじみだったとか」
「ええ、そうです。和也とは幼なじみでした。ここにも二人で何度か来たこともありましたし、会わない時でも連絡だけは頻繁にとっていました」
「そうですか。それで一つお訊きしたいんですが、大津和也さんの死について何か心当たりとかは」
堂本が迷う事はなかった。
「いえ、何も分かりません。突然電話で聞いた時は、信じる事ができませんでした。何日か前に一緒に遊んでいた人間が突然死んだなんて、しかも不可解な死に方だと聞いて、僕は信じることができませんでした」
「そうですよね」
雅斗がそう返すと、堂本が目を見開いて言ってきたのだ。
「もしかして、何かが分かったとか」
慎也は残念そうに頭《かぶり》を振った。
「そういう訳ではないんです」
「それじゃあ、どうして僕に話を?」
その問いに、慎也は率直に言ったのだった。
「実は、平本愛という女を追っています。ご存じないでしょうか」
平本愛平本愛と口を動かし、ああと思い出した様子でこう言ったのだ。
「知ってますよ。和也とメル友だった女ですよ」
やはり大津和也にも平本愛は関係していた。これで間違いないと雅斗は確信を得た。メールの主は平本愛だ。
しかし堂本の反応は意外なものだった。内田とは違い、淡々とした口調だった。
「大津さんから、その女に関する何かを聞いてはいませんか?」
すると堂本は聞いてましたよと、これもまたあっさりとした口調で言ったのだ。
「教えてもらえますか?」
ええと頷き、堂本は話を始めた。
「四月頃だったのかな、出会い系サイトで知り合った女らしくて、でも何だか変な女だったみたいですね。すぐに縁を切ったらしいですよ」
「変な女というのは?」
「メールで知り合ってからすぐに会いたがっていたというのはいいとして、会ってからが異常だったらしいですね。妙に誘ってくるらしいんです。和也もそれがほとんど目的だからすぐにヤッちゃったみたいなんですけどね、それからが更に異常で、やるためだけに何度も何度も電話をかけてきたらしいんです。それだけじゃなかったらしいですよ。会うと必ず赤ん坊の話をすると言っていましたね」
「赤ん坊の話?」
雅斗が訊き返す。
「そうです。何故かそういう話ばっかりみたいで、おかしいんじゃないかって話した事もありました」
「どういう話か覚えてはいないかな」
「僕が聞いたのは、へその緒がなんたらこうたらって話ですね」
「へその緒……」
「ええ、赤ん坊ができると母親と赤ん坊がへその緒で結ばれている。それって神秘的だと思わない、とか色々言われたそうなんです。何が言いたいのかさっぱり理解できないって和也は馬鹿にしていましたけどね」
それに、と堂本は続ける。
「とにかく電話やメールの数が半端じゃなかったそうっすね。さすがに嫌気がさした和也はアドレスを変えて奴の電話番号を着信拒否にして連絡を絶ったそうです。それからは僕は何も。和也の口からもそれ以上は出てこなかったから、てっきり縁が切れていると思っていましたけど」
二人は顔を見合わせた。今、その女は何処で何をしているのだろうか。雅斗はそれが知りたかった。
「それよりも、その女がどうかしたんですか? まさか、和也のそれと関係あるんですか?」
そう訊《き》かれた二人はどう話そうか迷った。任せると雅斗が慎也に目で送る。慎也が堂本にこう言ったのだ。
「その平本愛という女が、ちょっと訳ありでね」
追っているんですよ。それ以上、慎也が事情を話すことはなかった。メールの事はあえて避けたのだ。妹の命が危ない。口が裂けてもそんな事は言いたくなかったのであろうと雅斗は思った。
一分。一秒。時は容赦なく進んでいく。朱美や小川飛鳥のお腹に宿っている赤ん坊も、急激に成長を続けているに違いなかった。
平本という女は一体何処にいるんだ。
苛立《いらだ》った口調で慎也が突然そう口にした。確かに平本愛を捜さなければならなかった。しかし、居所が全く掴《つか》めなかった。仕方なく二人は三人目の被害者である高本忍の自宅に向かうしかなかった。メールに書かれてある通りだとするならば平本愛は高本忍の子供を身ごもったはずなのだ。とにかく何か手がかりになるような情報が欲しかった。二人を乗せた車はひたすら神奈川県横浜市中区へと走ったのだった。
神奈川県横浜市中区。高本忍の自宅の前に着いた時にはすでに空は真っ暗だった。
「このマンションか?」
五階建てのマンションだった。マンションを見上げながら雅斗は慎也に訊いたのだ。
「俺の情報が正しいならな」
「何階だ?」
「三階だ。307号室」
二人はマンションの中へと入る。管理人はいなかった。そのままエレベーターに乗り込んだのだった。
二人は三階でエレベーターをおりた。307号室まで廊下を歩く。向こうから中年の主婦が歩いてくる。どうも、と二人は頭を下げた。主婦は不審そうな顔をしながら二人を見ていた。雅斗はあまり気にしなかった。
「ここだな。押すぞ」
307号室の表札には高本と書かれてあった。インターホンを押したのは雅斗だった。ピンポンという音が外にもれた。中から足音が微《かす》かに聞こえてきたのだ。インターホンに出ることなく、突然扉が開かれた。警戒心はまるでない様子だった。
「どなたさまでしょうか?」
出てきたのは高校生と思われる青年だった。慎也が答えた。
「あの、高本さんのお宅ですよね?」
「はい、そうです」
「実は、こういう者なんです」
言って慎也は警察手帳を見せた。
「刑事さんですか……」
「はい、そうです。高本忍さんの事についてちょっとお話を聞きたいんですが、ご両親は?」
二人ともいません。青年の答えだった。
「あなたは?」
無論、予測はしていた。
「僕は弟です。直哉《なおや》と言います」
「それではあなたに、お兄さんの事を少しお訊きしたいんですが、よろしいですか?」
はい。直哉は自信なさげに頷いたのだった。
部屋の中へ通される事はなかった。二人もそれは望んでいなかった。ただ平本愛という女の情報が欲しかった。それだけだった。
「お兄さんの事を話すのは辛《つら》い事かと思いますが、ご協力お願いします」
直哉は無言で頷いた。
「それでは早速お訊きしたいんですが、一ヶ月前の事件で、何か心当たりになるような出来事はありませんでしたか?」
平本愛にはまだ触れない。慎也は徐々に訊いていくつもりなのだ。
慎也の問いに直哉は首を横に振った。
「心当たりと言われましても……僕には」
「ちょっとした事でもいいんですが」
考える仕種《しぐさ》を見せるものの直哉の答えは同じだった。
「そう言われましても……」
分かりません。直哉は首を横にと振った。
「そうですか」
慎也は一つ息を吐く。雅斗と慎也は一度顔を見合わせた。二人はとうとう核心に触れる事にした。
「それでは質問を変えます」
「何でしょう」
「お兄さんが亡くなられる前に、ある人物の名前を聞いた事はないかと思いまして」
「ある人物?」
そこで雅斗がこう言ったのだ。
「平本愛という女の名前です」
その途端、直哉の表情に驚きの色が浮かんだ。
「平本愛……ですか」
慎也が問いつめる。
「ご存じですね?」
はい。仕方なく頷いた様子であった。やはり高本も平本愛と関係していた。
直哉は続けて言ったのだ。
「やっぱり兄の死には、そいつが関係しているんでしょうか」
やっぱり。雅斗はその部分が気になった。
「やっぱり、と言うと?」
「実はその平本愛という女に、兄は相当悩んでいたんです。向こうがどうだったのかは知らないですけど」
雅斗が先を促す。
「どういう事かな」
「四月の終わり頃でしょうか、兄はその平本愛という女と出会い系で知り合ったんです」
全ての始まりが出会い系サイトであった。無差別に迫ってくる平本愛に雅斗は改めて辟易《へきえき》した。
「メールで知り合って間もないのに、平本愛は直接会いたいと向こうから言ってきたんです。面白半分程度にしか考えていなかった兄は平本愛と会うことになりました。ところが会って間もないにもかかわらず、兄はラブホテルに連れていかれたそうなんです。そこで色々な身の上話を聞かされたと兄は言っていました。父親が死んで母親と二人で暮らしていたとかなんとか」
何もかもが一緒だった。ただ妊娠させたという部分を除いては。二人はその事に触れる事はまだしなかった。
「結局兄も流れで平本愛とセックスをしてしまったそうなんですが、それからが酷《ひど》かった」
予測はできていた。雅斗は直哉の言葉を奪った。
「平本愛から異常なほどに連絡がきた」
「そうです。メールも酷かった。けれど兄が悩んでいたのはその事ではないんです」
それも大体の予測はついていた。二人は黙ったまま直哉の話に耳を傾けた。
「連絡が酷くなりはじめてからでしょうか、結果的にはそれが最後となったんですが、兄は平本愛と会う約束をしたんです。けれど帰ってきた兄の携帯に平本愛からのメールが届いたんです」
「どんな内容だったんですか?」
「今日ので、もしかしたら妊娠したかもしれないと」
雅斗と慎也は顔を見合わせる。やはりメールに書かれてある通りである。平本愛は高本忍の子を身ごもった。それからは定かではない。
「それで?」
「それから平本愛からの連絡がピタリと止まりました。それでも兄はビビってしまって、どうしようやばいどうしようやばいってそればかりを連発していました。多分大丈夫だって安心させたんですけど、いざって時に気が小さくなる人間だったんです。頭からその事がどうしても離れなかったようなんです。それで後々厄介な事に巻き込まれない様に兄は携帯電話をかえ、連絡を絶ったんです。もちろんそれから平本からの連絡はありませんでした」
「そんな事があったんですか」
雅斗のそれに直哉ははいと頷《うなず》いた。
「それで刑事さん」
「なにか?」
「兄の死には、本当にその平本愛という女が関わっているのでしょうか?」
「分かりません。ただ調べを進めているうちにその平本愛という名前を耳にしたものですから」
そうですか。直哉はそれ以上追及してはこなかった。
「もう一つよろしいですか?」
慎也のそれに直哉はハッとなる。
「なにか」
「その平本愛という女が、現在何処に住んでいるかとかそういう話は聞いてないんでしょうか」
直哉は残念そうに頭《かぶり》を振った。
「いえ、それは一度も聞いてはおりません」
その途端、絶望につつまれた気がした。
そうですか。慎也はため息混じりにそう洩《も》らす。雅斗も深いため息を吐いた。結局決定的な手がかりは掴《つか》めなかった。今でも何処かであの危険なメールを手にする人物がいるのかと思うと、心の底から、ゾッとした。
八月二十一日水曜日。新たな被害者は出ていない。問題はそんな事ではない。朱美の携帯電話にメールが届いたのは八月二日の金曜日。リミットが一ヶ月だとしたならばもう時間がない。二人は焦っていた。メールの主である平本愛をなんとしてでも捜しださなければならなかった。
迷うことはなかった。決定的な手がかりが掴めない二人は、メールに書かれてある場所へ向かう事にした。佐賀県太良町大浦乙。賭《かけ》ではあるが、向かうしかなかったのだ。なんとしてでも平本愛の実家を見つけ出してやる。慎也の決意はかたかった。
二人は東京駅から新幹線に乗り込んだ。東京から一度博多へと出る。そこから特急ハウステンボスで佐賀へと向かう経路をとった。
今日も黙って家を出てきた。慎也はそう口にした。もし佐賀まで向かい、何も掴めないようなら絶望的だった。そんな不安が隠せなかった。そのため車中、雅斗と慎也は終始無言のままだった。佐賀県までの約七時間、二人はほとんど口をきかなかった。平本愛は何処にいる。雅斗の頭の中はそれ一色に染まっていた。
午後三時。一度乗り換えて二人はどうにか佐賀県太良町大浦乙に到着した。
朦朧《もうろう》とする暑さ。
肥前《ひぜん》大浦駅から二人はタクシーを呼んだ。待っている間、汗が噴き出てくる。ハンカチで拭《ふ》いても拭いてもきりがなかった。雅斗は暑さで倒れてしまいそうになった。
タクシーが到着し二人は車に乗り込み、適当な場所に一度停車した。
「ここからどうする」
慎也の言葉に雅斗は言葉を返せなかった。
東京とは違い、気温は高いが不快感はそれほど感じられなかった。それでも二人の表情は厳しかった。自然が広かるこの場所で、平本愛の実家をどうやって捜そうか、それが一番問題であった。
佐賀県太良町大浦乙。東京とは比べものにならないほど、一言でいえば田舎であった。気がつく事といえば、何しろ店が何処にもないのだ。少し離れたところまで行かなければ必要な物を手に入れる事ができない。不便といえば不便であった。
これまで二人の調べは困難を極めていた。ここへ来たのは無謀だったかと雅斗は息を吐いた。現在、二人の立つ場所は三百六十度自然に囲まれており、一つ一つの民家が大きく離れている。苦労するかと考えていたが、それが逆に幸いしたのだ。
役所にでも人に聞き込んででも必ず平本の実家を見つけだす。慎也がそう口にすると、赤いバイクに乗った定年間近と思われる男が目に留まった。郵便局員だった。もしやと思い、すぐさま雅斗は声をかけたのだ。その行動が二人を救った。
「すみません」
大声で雅斗はバイクに乗った男に声をかけた。その声に気がついた男はゆるゆると走りながらやって来たのだ。
「どげんしたと?」
愛想のよい人物だった。雅斗は男に訊《き》いたのだ。
「ちょっとお訊きしたいんですが」
「なんばとね」
「平本愛さんという方が、この辺に住んでいた、もしくは住んでいると聞いたんですが、場所が何処か分からなくて……郵便局の人ならもしやと思い声をかけたんですが」
誰が何処に住んでいるか、頭の中にはインプットされていたのだろう。男はこう言ったのだ。
「平本さん家《ち》ね、もう何年もこの仕事をしとるけん、分かる事は分かるんだが、娘さんのほうは転居しておって、今は母親一人で住んでおるたい。それに……」
警戒しているようだった。郵便局の人間には守らなければならない事がある。それは家の場所を訊かれても、絶対に答えてはならないという規則だ。慎也はそれを察知した。
「実は私、こういう者なんです。ある事件を追って東京からやってきました」
「刑事さん……」
本来、警察に訊かれようが郵便局の人間は答えてはならない。
「お願いします。時間がないんです」
雅斗のその言葉でようやく男は頷《うなず》いたのだった。
「分かりました。そやけど、ここから少し離れた場所にあるけんね……」
すぐさま二人はタクシーに乗り込んだ。
「僕達はこれに乗ります。案内して下さい」
乗り込んだ二人は運転手にこう告げたのだった。
「前のバイクに、続いて下さい」
赤いバイクは走り出す。続いて車も発進した。車内は終始、緊迫していた……。
男を乗せた赤いバイクは坂道を上がっては下り、下っては上がりの繰り返しだった。三百六十度自然に囲まれており、景色は何も変わらなかった。赤いバイクの様子をじっと見守っていると、今度は細い道を上がっていくのだ。
「近そうだな」
慎也が呟《つぶや》く。予測した通りであった。道を上がりきったところで赤いバイクが停車しているのだ。その先には道がない。一軒の古い平屋が建っているだけだった。
「停めて下さい」
雅斗が運転手に指示をした。タクシーは速度を緩め停車する。ドアが開いた。一旦《いつたん》雅斗が外へと出た。
「ここですか?」
そうです。男は頷いた。それを確認した慎也もタクシーから降りる。
「ここで結構です。おいくらですか?」
慎也が運転手に料金を渡すと、タクシーはその場から去っていった。
「ここなんですね?」
慎也が再度確認する。
「ええ。そやけどおるかどうか分からんですよ?」
「そうですか。とにかく伺ってみようと思います。ここまで案内していただきありがとうございました」
慎也が深く頭を下げると、これから仕事に戻りますといって男は赤いバイクにまたがりその場から去っていった。何事もなかったかのように男は去っていったのだ。
二人の目の前には、古い平屋がポツリと一軒建っている。何故か雅斗の目に映る平屋全体の映像が煤《すす》けていた。
不気味な雰囲気をかもしだしている。
とうとうここまでたどり着いた。だが平本愛は転居していていまこの家にはいない。そして現在の居所が掴めない。しかし母親なら何かを知っているはずだった。
「行こう」
二人は玄関の前で立ち止まる。雅斗はゴクリと唾《つば》をのみ込んだ。
錆《さ》びついた鉄の赤い郵便ポストには名字も何も書かれてはいなかった。インターホンもなかった。薄いガラスの戸を二度|叩《たた》いた。ガラスが細かく振動した。せかすようにもう一度叩いた。中から足音が聞こえてきた。二人は顔を見合わせた。人の気配を二人は感じた。
ガラガラガラ。戸が開いた。五十代後半と思われる女性が怪訝《けげん》な表情を浮かべて立っていた。皺《しわ》が多く髪も薄くなり始めている。疲れているような印象をうけるが、何とも優しそうな顔をした人物だった。
「どちらさまで?」
二人はそれぞれ名乗った後に、慎也が警察手帳を見せたのだ。
「刑事さんですか……」
九州独特の発音でそう呟いたのだ。
「平本さんでいらっしゃいますね?」
「そうですが……何か」
「実は僕達、平本愛さんの行方を追っています。愛さんは娘さんでいらっしゃいますよね?」
「え、ええ。そうですが、愛にどのような用件で?」
慎也はまだ話の核心には触れなかった。
「少し、お母さんにお話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか」
そう言うと、構いませんがという答えが返ってきた。
「そういう事やったら、中へどうぞ」
平本愛の母親はそう言って中へと入る。二人も母親の後ろに続いたのだった。
「どうぞこちらへ」
二人は六畳ほどある畳部屋に案内された。
襖《ふすま》で囲まれた部屋。部屋の隅には洗濯物がたたまれてある。綺麗《きれい》とは言えない部屋の柱には、古い柱時計がかけられている。テレビの上には写真立て。幼少時代の平本愛と思われる人物が母親と笑顔で写っている。目に留まる物といえばそれくらいだった。部屋は暗かった。
二人は畳の上に正座した。雅斗は卓袱台《ちやぶだい》の上に指を組んだ両手を置いた。外は妙に静かだった。
間もなく、平本の母親がお盆に茶碗《ちやわん》を二つのせて部屋へと戻ってきた。
「どうぞ。これくらいしかないもんでねぇ。飲んで下さい」
「どうもすみません。それじゃあ頂きます」
雅斗と慎也は茶碗に口をつけ、静かに卓袱台へと置いた。その間、母親が静かな目でこちらを見据えていたのは気のせいだろうかと雅斗は内心で思った。目が合うと、母親は優しい表情へと戻る。
「どうです? 濃かったかねぇ」
雅斗は首を横に振る。
「いえ」
しばらくの沈黙。いつしか部屋中が緊迫した空気に包まれている事に雅斗は気がつく。沈黙を破ったのは母親のほうであった。
「それで、今日はどのような用件でこちらまで」
慎也が返す。
「先ほども言いましたように、僕達二人は愛さんの行方を追っています」
「どうして刑事さんが愛を?」
「実は今、ある恐ろしいメールが女性の間で広がっています」
母親は慣れない口調でメールと口ずさむ。
「そうです。ベイビーメールというメールです。信じられないかもしれないがよく聞いて下さい。今言ったベイビーメールというメールを受け取った女性のお腹の中には赤ん坊が宿ります。そして一ヶ月後に死にます。赤ん坊がお腹を突き破り、自らへその緒を切るんです。到底信じられる話ではないが、調べていくうちにその事が分かったんです。現実に妊娠しているはずのない女性が妊娠をしていた。その証拠にへその緒が発見されているんです」
言っている意味があまり理解できませんがと母親が口にした。
「それと愛と何の関係があるとね?」
慎也は息を吐き、こう言った。
「申し上げにくいんですが、よく聞いてください。今言ったベイビーメールという恐ろしいメールを送っている人物が、平本愛さんなんです」
まさかという表情を浮かべて母親は言った。
「どげんしてそんな事が分かるとですか?」
「メールに書かれてあった内容を僕達は一つ一つ調べていきました。すると一人の人物が浮かび上がってきたんです」
「それが愛やったと」
「そういう事なんです」
母親は複雑な表情を浮かべていた。再びの沈黙。何かに気がついたのか母親の口が開いた。
「一体、どんな内容が書かれてたと?」
その質問には雅斗が答えた。生まれた場所から、父親が死んでしまい、母と二人で暮らしていた事。二十歳の時に愛する人の赤ちゃんを妊娠したが、恋人に裏切られ流産をした事。その人物を殺したと書かれてあった事はあえてさけた。次にS・O・Tとの関わり、そして最後に私の赤ちゃんを育てさせてあげると書かれてあった事全てを母親に話した。
「要するに、妬《ねた》みのメールです。このメールを受け取り、死んでしまった人物が何人もいるんです。僕の教え子にもメールが送られてきた。そして、彼の妹にもです。彼女たちは何も知らない。だから僕達は愛さんを捜しているんです。事件を解決するために」
雅斗が言うと、母親は本当に、と小さく洩《も》らす。
「何です?」
「本当にそんな事が書かれてたとですか?」
「ええ。確かに書かれてありました」
言うと母親がポツリと言ったのだ。
愛かもしれん。
「やはりそうですか」
母親は頷く。
「父親を亡くしこの土地で二人で暮らした事。自分の子供をほしがっていた事。そして何より、好きやった人に、裏切られた事」
「本当にそんな事があったんですか?」
「ええ。二十歳の時に、愛は妊娠をしたんですけども」
その先を言いにくそうにしている母親に気づき、雅斗が言葉を奪った。
「神社から突き落とされてしまった」
辛《つら》そうに母親は頷いた。
「本当にかわいそうやった。酷《ひど》く落ち込んでしまってねぇ。なにせ、ずっと夢にみとった赤ん坊やったけん」
雅斗が返す。
「無理もないでしょう。初めての赤ん坊を流産してしまったのだから。誰だって悲しいはずです」
「その日から愛はずっと恨んでおったようです。神社から突き落とした男の事を……」
その言葉に、雅斗は唾をゴクリとのみ込んだ。メールには、男を殺したと書かれてある。
その辺に触れてもよいものか、雅斗は困惑した。
「それで……」
訊かずにはいられなかった。訊きたいという欲望に抗《あらが》えない。
「それで、その彼は……」
雅斗は口を噤《つぐ》んだ。愛は彼を殺しました。母親の口からあっさりとした口調で返ってきそうで怖かった。
「と言うと?」
「いや、その後、愛さんと彼の関係というか、どうなってしまったのかと思い……」
「実はその件があってから、彼の姿は一度も目にはしておりません。実は今も行方不明だそうで。一体、何処へ消えてしまったのか」
行方不明。平本愛は神社から突き落とした恋人をやはり殺している。メールに書かれてある通りだ。そんな事よりも、母親の今の言い方が妙に白々しく感じられた。気のせいだろうと雅斗は自分に言い聞かせた。
「あの、よろしいでしょうか?」
母親が雅斗に声をかけた。
「何か」
「今日、わざわざここまでこられたのは、そんな事を聞くためではないのでは?」
そうである。ここへ来た目的は平本愛の過去ではなく、平本愛の居所なのだ。それにしても今の言葉にも雅斗は違和感を感じた。あまりその事には触れてはほしくないといった様子がうかがえたのだ。
「そうでした。それでは、話を戻しますが、現在、愛さんは何処におられるのでしょうか」
雅斗が訊くと母親はこう言ったのだ。
「東京です」
「東京」
雅斗は復唱する。内田和広の口からそれは出ていた。そこまでは知っているのだ。もっと具体的な場所を知りたいのだと雅斗は思う。
「東京の、何処で愛さんは暮らしているんでしょうか?」
母親は、考える仕種《しぐさ》を見せてこう言った。
「もう、一年前になるでしょうか、突然愛がこう言い出したんです。東京へ出ると」
「本当に突然ですか?」
「ええ、何の前触れもなく言い出したもんですから、あてはあるのかと訊きました。そしたらあてはある言うもんですからねえ。もちろん訊いたんです。そしたら友達の家に居候する言い出しましてね、結局、その友達いうのが小学校時代からの同級生でしてね、もう連絡はしてある言うもんですから、私もそれならと了解したんです。ずっと田舎育ちだったでしょう。縛り付けるのはどうかと思いましたし」
「それで、愛さんは今どこに」
成り行きなど、どうでもよかった。とにかく平本愛の居所を知りたかった。
「ちょっと待っとってくださいね」
言って母親は立ち上がり、隣の部屋の箪笥《たんす》の引き出しを開けて何かを探している様子だった。その様子を雅斗と慎也は黙って見守っていた。
「これです。これが愛から送られてきたハガキです。何通も送られてきたうちの一枚です」
雅斗は母親からハガキを受け取った。そこで初めて母親の名が、菊江《きくえ》だというのが分かった。裏をかえすと、富士山が描かれた絵ハガキだった。
「読んでもよろしいですか?」
「どうぞ」
雅斗はハガキを表に戻した。下段に細かい字がビッシリと書かれてある。一文字一文字丁寧に雅斗は追った。ハガキにはこう書かれてあった。
『母ちゃん元気ですか。私は元気です。東京へ来てから一週間近くが経ちました。佐賀とは違い、東京の人は何だか全てに対して急いでいるような気がします。私も早く環境になれないといけませんね。
心配かもしれんけど、こっちはしっかりとやっとるけん大丈夫。バイトもしとるからお金の心配もないし、幸代《さちよ》が一緒だから心配はいりません。母ちゃんも体を壊さないよう注意して下さい。それではまた電話や手紙で連絡します』
意外とあっさりとした文だった。読み終えた雅斗は口を開いた。
「この幸代と書かれているのが、愛さんの同級生ですよね」
「ええ。そうです」
「この方と今も一緒に住んでいらっしゃる」
菊江は頷く。
「ええ」
それを確認した雅斗はもっとも重要な場所に視線を止めた。差出人の住所である。
『東京都江戸川区|一之江《いちのえ》××× ガーデンフラッツ103』
平本によって書かれた住所を雅斗はメモした。ここに平本愛が住んでいる。遠回りをしたが、とうとう居所をつきとめたのだ。
「それとお母さん」
「何か?」
「もしよろしかったら、愛さんのアルバムがあれば見せて頂きたいんですが」
それには菊江も怪訝な表情を浮かべていた。
「アルバムですか? はいはいちょっと待っとってくださいね」
そう言って、菊江は部屋の奥へと消えた。
「どうにか平本愛には会えそうだな」
耳元で慎也が言った。
ああ。雅斗は小声で返した。
「ただ……」
気になる事が雅斗にはあった。
「ただ?」
「何となく、あの母親が気になるんだ。何かを隠しているような、そんなような気がする」
「隠している?」
慎也のことばに雅斗は答える事ができなかった。菊江が部屋に戻ってきたのだ。
「これくらいしか今は見つかりませんでした。それと、中学時代の卒業文集もありましたので、よかったらどうぞ」
「ありがとうございます。拝見させて頂きます」
雅斗が受け取ったのは中学時代のアルバムだった。
「愛は三年一組のところに写っております」
雅斗は早速三年一組のページを開いた。一人ひとりの顔写真がアップで写っている。あかさたな順で追っていくと、平本愛の顔写真にたどり着いた。髪が長く、童顔で、可愛らしい顔立ちだった。笑顔から見える歯は矯正しているようだった。どうしても目がそこにいってしまう。それがなければもっと可愛らしく見えたのだろうが、仮にそれがなかったとしても、平本愛という人間を知ってしまっている。普通の女としては到底見られなかった。
「可愛らしかったんですね」
それでも菊江にはそう言った。
「結構学年でも人気があったみたいでねえ」
菊江は満足そうにそう言ったのだ。違和感はそこでも感じた。この母親は、自分の娘のせいで今どんな状況にあるのか本当に分かっているのだろうか。雅斗は憤りをも感じた。少々の沈黙の後、菊江が思い出すようにしてポツリとこう呟《つぶや》いた。
「今頃、あの子……何をしとるかねえ。誕生日の日は、何も送ってやる事が出来なかったけんねえ」
誕生日。
雅斗はその言葉が気になった。
「愛さんの誕生日は、いつだったんですか?」
そう尋ねると、菊江は言った。
「先月の、十八日です」
「七月、十八日」
菊江は平然と、ええと頷《うなず》いた。
七月十八日。
全てはその日からだった。坂本正、大津和也、高本忍が三人同時に死んだ日もその日なのだ。平本愛は、自分が生まれてきた記念すべき日に、三人の男を殺した。直接、三人同時に殺せるはずもない。平本は、恐ろしい怨念《おんねん》で三人を呪い殺した。そうとしか考えられない。
「あの、文集のほうを見せて頂いてもよろしいでしょうか」
雅斗は話題を変える。
「どうぞ」
雅斗は文集を受け取った。三年一組のページから平本愛の文章を探したのだ。
私の夢という題名で平本愛の作文はあった。その時、妙に菊江の視線を雅斗は感じた。
一旦《いつたん》作文から目をはなし、菊江に視線を向けると菊江が冷めた目つきで睨《にら》んでいた。目があった途端、菊江の表情は緩んだ。
「ありましたか?」
先ほどから感じていた。
妙な視線を。
雅斗は思った。
この母親は変だ。
どこかがおかしい。
「読ませて頂きます」
「どうぞ」
菊江の視線を気にせずに雅斗は作文に再び目を戻した。一文字一文字を追っていった。
[#ここから1字下げ]
『私の夢』
平本愛
私にはささやかな夢がある。いつ頃からだろうか、私は自分の赤ちゃんを産んでみたいという夢を抱いている。
私には父親がいない。小さい頃に死んでしまった。だから母親と二人暮らしやった。私はずっと弟か妹がほしかった。そやけど、それは叶《かな》わぬ願いだと分かった。丁度その頃からだろう、自分の赤ちゃんを産み、自分の手で育ててみたいと思い始めたのは。それから毎日夢を見る。私が赤ちゃんをこの手で抱いている夢を。毎日見るのだ。
自分の赤ちゃんは欲しいけど、父親はいらない。自分一人で育てる自信が私にはある。そもそも父親がいない私には子供と共に暮らしてくれる父親などいらない。ただ子供が欲しいのだ。
もし赤ちゃんが産まれたら一番初めに私の母に赤ちゃんを抱かせてあげたい。一人で私を育ててくれた母には感謝している。恩返しとまではいかないが、赤ちゃんを母に抱かせてあげたいのだ。そして三人で暮らしたい。
平凡だけれど幸せな毎日を送りたい。もしそれが叶うのならば、何もいう事はない。私は十分幸せである。
[#ここで字下げ終わり]
作文はここで終わっていた。全てを読み終えた雅斗は思った。
これは中学生が書く文章ではない。
そもそも題名が夢にもかかわらず、希望の光が何故か見えない。
この時からすでに、赤ん坊に対する思いは病的なものである。
父親はいらないが子供は欲しいという箇所は特に異常を感じる。いや、確信して言える。奴は狂っている。
「この子には父親がおらんかったでしょう。その事で随分と寂しいおもいをさせてしまってねえ。その寂しさを紛らわすために、いつしか赤ん坊が妄想で生まれていたんでしょうね。それはだんだんと強い願いへと変わっていった。そういう事なんでしょう」
雅斗は思う。自分にも父親がいなかった。寂しかった。だからいつしか弟と妹が妄想で生まれていた。平本愛と自分は何処かが重なる部分がある。けれど平本愛は違う。赤ん坊を産むためなら手段を選ばない。何が何でも赤ん坊を産もうとしている。平本の目には、自らが産む赤ん坊の姿しか見えてはいない。それ以外、彼女には何も見えてはいないのだ。
この時、雅斗はある事を初めて考えていた。
ベイビーメールが妬《ねた》みのメールというのは理解できる。だがどうして、平本愛はメールを送らなければならなかったのか。どうして送る必要があったのか。本当に妬みだけなのだろうか。他の目的があるのではないかと、雅斗はこの時真剣に考えていた。
視線を菊江に戻す。
菊江はいつまでも穏やかな表情を浮かべていた。不気味に感じた。
二人はこの夜、佐賀県の民宿に一泊する事になった。そして明日の早朝に佐賀を発ち、平本愛が住んでいるアパートに向かうと決めていたのだ。
菊江の話によると、平本愛は金丸《かねまる》幸代という小学生時代からの同級生と暮らしているという。どちらにせよ、アパートに向かえば平本愛はそこにいる。ようやく二人は平本愛の居所をつきとめたのだ。
二人は眠りに就こうとしていた。
部屋の電気を消す。
暗闇の中、雅斗は天井を見つめながら、仰向けで寝ている慎也に声をかけたのだ。
「さっきも言ったけど、あの母親、やっぱりおかしいよ」
暗闇から声が返ってくる。
「まだ気になっているのか」
「だってそう思わなかったか?」
「そう言われても、どういうところがだ」
「話していて、違和感を感じるというか、なんというか……」
「気のせいさ」
雅斗は思い出す。いつしか静かな目でじっと見つめられていた事を。
「視線が気にならなかったか?」
「視線?」
「ああ。気がつくとあの母親の視線を感じたんだ。冷たい目というか静かな目だった。目を合わすと、穏やかな顔に戻るんだ。違和感を感じた原因の一つかもしれない」
「俺は感じなかったけど」
「そうか? 気のせいなのかな」
口ではそう言うものの、間違いではないと雅斗は内心で思っていた。あの母親も何処かがおかしい。
「どちらにせよ……慎也」
「なんだ」
「とうとう平本愛の居所をつきとめた。これで何とかなるよ」
「ああ、そうだな。でも……」
慎也は何かが気になる様子だった。
「でも?」
その時だった。雅斗の携帯電話にメールが届いたのだ。暗がりの中、テーブルの上に置いてある携帯電話を手に取り、雅斗は布団の中に戻った。
「メールか?」
慎也のそれに、そうだと雅斗は答えた。メールを開くと、知らないメールアドレスからだった。本文には携帯電話の番号も付けられてある。誰からだろうと雅斗は本文を確認した。すぐにそれが誰なのかが分かった。朱美からだった。
『夜遅くにメールしてごめんなさい。朱美です。ようやく新しい携帯電話を買ったのでアドレスと番号を送りました。こうやってメールするのは久しぶりだね。順子さんの件があって私も混乱してしまっていたけど、今はどうにか落ち着いています。何故か今日、お兄ちゃんがいません。こんな時間なのに帰ってこないのです。連絡もありません。あれからずっとお兄ちゃんの様子は変わりません。けれど雅斗さんが今はそっとしておいてやれとの事だったので今はしばらく様子を見ようと思います。それと、私の調子もあまりよくありません。体が重く感じます。今日は吐き気もありました。フッと思ったんですが、何だかお腹の中に赤ちゃんがいるようなそんなような……でもそんな訳ないよね。でもこんな調子がまだ続くようなら、病院へ行こうと思います。大した事ではないと思うんだけど、だから病院へ行こうと思っても行けないんだよね。気持ちも落ち着いてきたし、久しぶりに会いたいです。都合があえば、会いたいと思っています。もし時間があるなら連絡下さい。待ってます』
読み終えた雅斗は携帯電話の蓋《ふた》を閉じた。
「朱美か?」
慎也の直感に雅斗は驚いた。
「ああ。新しい携帯を買ったからメールをくれたんだ」
「そうか」
慎也はそれ以上|訊《き》いてはこなかった。あえて訊かなかったのだろう。
「それより慎也。さっき何かを言いかけただろう。何だよ」
慎也は黙っている。何かを考えているのか、それとも言いにくかったのだろうか、暗闇の中の雅斗には分からなかった。
「何だよ。言えよ」
すると慎也がこう言ったのだ。
「俺……思ったんだ。初めは平本愛を見つけだせば何とかなるかもしれないって考えていたけど、平本愛を見つけだす事ができたとしても、果たして朱美は助かるのかって」
ここへきて、慎也が急に弱気になり始めた。考える間をおく事なく、雅斗は大丈夫と強い口調で慎也に言い聞かせた。
「朱美ちゃんは助かるよ。もちろん、小川も」
慎也の不安は雅斗にもあった。平本愛を見つけだしたとしても、解決しないかもしれない。それでも朱美や飛鳥を助ける手段が一つだけある事に雅斗は気がついていた。それは最悪の手段。最終手段である。しかし、これまでの平本愛という女を知っている雅斗にしてみれば、その手段はあまり使いたくはなかった。何故なら、嫌な予感を感じているからだ。
「さあもう寝よう。明日のために」
雅斗の声に慎也はああ、と反応した。
「おやすみ」
雅斗が言うと、おやすみという声が返ってきた。そのやり取りを最後に、二人の会話はなくなった。静まり返った暗闇の中、慎也に背を向けた雅斗は携帯電話の蓋を開き、朱美に返信メールをうったのだった。
送信を完了した雅斗は携帯電話の蓋を閉じた。枕の側に携帯電話をそっと置いた。目を閉じる。朱美の携帯電話にベイビーメールが送られてきたあの日の夜を思い出す。赤ん坊の声。雅斗は咄嗟《とつさ》に遮断する。再び目を閉じる。いつしか雅斗は眠りに就いた。翌日の朝まで目が覚める事はなかった……。
流 産
八月二十二日、木曜の朝を迎えた。すでに緊迫した空気が張りつめている。この日はどんよりとした曇り空だった。確か天気予報では、全国各地、晴れの予報のはずだった。あてにはならない。だが雅斗には関係のない事だった。
一刻も早く、東京へと戻りたかった二人は朝食も摂《と》らずに民宿を後にした。新幹線に乗っているその間、雅斗と慎也はあまり口を利かなかった。焦りと不安が入り交じり、お互いが窓から見える景色に目を注いでいるだけだった。頬杖《ほおづえ》をつきながら、身じろぎ一つしなかった。まるで置物のように、その状態を二人は保ち続けた。
窓から見える景色を眺めながら、東京へと戻るにつれて、平本愛にこれから会うという事に対し、雅斗の中で恐怖心が芽ばえ始めていた。明らかに人間とは思えない恐ろしい力を、平本は持っている。自分を捨てたS・O・Tを恐ろしい怨念《おんねん》で恨み殺し、更には罪のない幸せな人間、いや、子供を欲しがっている人間をメールによって殺害する。そんな事が簡単にできる女に近づくのだ。無論、それは朱美のため、教え子だった小川のためだ。もう後戻りはできなかった。
車内のアナウンスで東京と聞こえた。間もなく到着する模様だった。無言の状態に痺《しび》れをきらし、慎也がポツリと呟《つぶや》いた。
「やっと着いたか」
そして、トイレに行って来ると言って、慎也は立ち上がった。その間、雅斗はポケットから平本が現在住んでいる住所がメモされている紙をとりだした。改めて確認する。
ここにいる。
平本愛。
奴に近づいている。
徐々に徐々に近づいている。
アルバムで見た中学生の時の顔。
可愛らしい顔をしていた。
今は多分違うだろう。
醜い顔。
いや歪《ゆが》んだ顔だ。
歪んだ顔に近づいている。
徐々に徐々に近づいている。
広い暗闇の中に、平本愛の顔がリアルに浮かんだ。その時だった。リアルに浮かんだ平本愛が、不気味な笑みを浮かべたのだ。
咄嗟《とつさ》に雅斗は映像を遮断する。映像が砂嵐に変わった。
「どうした?」
気がつけば荷物をまとめる慎也がいた。慌てて雅斗は我に返る。
「い、いや……何でもない」
新幹線は東京駅に到着していた。二人はホームに降りたった。都会の臭いが、やたらと鼻を刺激した。
東京駅に到着した二人は休憩することなくそのまま山手線内回りで秋葉原《あきはばら》へと出た。そこから岩本町《いわもとちよう》まで歩き、都営新宿線へと乗りかえた二人は、一之江駅まで向かったのだった。
一之江駅に到着した二人は、メモに書かれた住所を調べるために交番に立ち寄った。警官とのやりとりは全て雅斗が進めた。慎也は交番の中にすら入っては来なかった。何となく入りづらかったのだろうと雅斗は内心でそう考えていた。
「分かったか?」
交番から出てくると慎也がそう訊《き》いてきた。
「ああ、大体」
「そうか、なら早速いこう」
いつにもまして慎也がたくましく見えた。
どんな覚悟もできているという様な言い方だった。雅斗も力強く頷《うなず》いた。二人は表情を引き締める。そして、平本愛が住んでいるアパートへと二人は歩み始めたのだった。
交番で調べた通りの道を進んでいくと、三階建ての青いアパートが目についた。
ガーデンフラッツ。紙に書かれてある名前だった。
「ここじゃないのか?」
慎也のそれに雅斗は頷き確信した。
「間違いない。このアパートだ」
緊張の糸が張りつめる。目と鼻の先に平本愛が今、いるかもしれないのだ。
「号室は?」
心なしか、慎也の言葉が震えて聞こえた。
103。雅斗は短くそう返す。
「行こう」
慎也は躊躇《ためら》うことなくそう言った。雅斗は無言で頷いた。
雅斗はゴクリと唾《つば》をのむ。
そして二人が同時に息を吐く。
心臓の鼓動がましていた。
二人はアパート内へと足を踏み入れたのだった……。
「どなたさまでしょうか?」
103号室のインターホンを鳴らすと、訝《いぶか》しげな表情を浮かべた女性が現れた。一目で平本愛ではないと分かった。おそらくこの女性は平本愛の友人である金丸幸代であろうと予測ができた。
「私、こういう者なんですが、金丸幸代さんでいらっしゃいますか?」
「ええ、そうです。それで、愛の事で何か分かった事でもあるんですか?」
突然言われても理解出来ないような台詞《せりふ》を金丸は当たり前のようにそう言った。金丸の意外な言葉に、二人は拍子抜けした。
「え?」
その反応に今度は金丸も拍子抜けした様子だった。完全に空気が空回りしていた。
「え? 愛の事ではないんですか? 刑事さんが来たから、てっきり愛の事かと……」
言っている意味が分からなかった。この時からすでに何かがおかしいとは察知していた。一体平本愛に何があったというのだ。
雅斗が金丸に事情を訊いた。
「どういう事でしょうか? 僕達はただ平本愛さんにお会いしたくて今日はお伺いしたんですが」
雅斗がそう言うと、金丸は困った表情を浮かべてこう言ったのだ。
「本当に何も知らないんですか? 刑事さんなのに?」
同様に困惑した表情を雅斗は浮かべる。
「いや、知らないも何も……」
語尾を伸ばしながら慎也と顔を見合わせた。嫌な予感が脳裏をよぎった。
「一体何があったんですか?」
神妙な顔つきで雅斗が問うと、金丸がこう言ったのだ。
「実は、ずっと行方不明なんです。もう二ヶ月近くが経ちます」
行方不明。行方不明。雅斗は自分の耳を疑った。茫然《ぼうぜん》自失の中、繰り返し行方不明と反芻《はんすう》する。次第に頭の中に真っ白が広がった。
「ここじゃなんですから、とりあえず中へどうぞ。話の続きはそれからという事で」
二人は金丸の言葉に反応することが出来なかった。
「どうぞ中へ」
「え? ああ、はいすみません」
雅斗は慌てて我に返った。動揺している自分に気がつく。
「慎也」
声をかけると慎也も反応を取り戻す。
「あがらせてもらおう」
「あ、ああ」
慎也はこくりこくりと頷いた。二人は状況が掴《つか》めないまま、部屋の中へと案内されたのだった。
部屋は二つに分かれていた。2DKのアパートであった。女性が住んでいるだけあって中は綺麗《きれい》だった。金丸は閉ざされたほうの部屋の扉を開いた。雅斗の目には様々な物が映っていた。まずはベビーベッド。おしゃぶり、ほ乳瓶にガラガラ。後は赤ん坊が遊ぶようなおもちゃが多数目についた。何故か、部屋の中がベビールームの様なのだ。その光景を見て雅斗は理解できた。こちらが平本愛の使っていた部屋なのだと。
「ここが愛の部屋です」
そこは異様な空間だった。赤ん坊などいない。それなのについさっきまで赤ん坊がいたのかと思わせる光景。赤ん坊の泣き声が幻聴として聞こえてくる。気のせいか。
「愛がここへ来たのは、もう一年前くらいになるでしょうか、部屋が見つかるまでとの事だったんですが、一向に部屋など探す気配などなく、昼間は何処に行っているのかも分からず、私も仲のよい友人でしたから、あまりそういう事について愛に言う事が出来なくて、結局ここが愛専用の部屋になってしまいまして……」
「赤ん坊などいなかったんですよね?」
雅斗がそう確認すると金丸はええ、と頷いた。
「愛が部屋の中をこのようにしたのは、いつ赤ちゃんが産まれてきても安心だからって、愛はそう言っていました」
「赤ん坊がずっと欲しかった」
「そうでしたね、特に赤ん坊に対する思いは異常なほどだったと思います。子供の名前は決めてある。将来はこうしたいああしたい。ある時、私言ったことがあるんです。安心するからだって言っても、部屋をこうまでする必要はないんじゃないかって。それは仮に赤ちゃんがお腹にできたか、あるいは産まれてきてからでもいいんじゃないかって。そしたら」
雅斗はかまえる。
「そしたら?」
「愛はこう言いました。真剣な顔をして言ったんです。私には十月十日《とつきとうか》も必要ない。四週間で充分。私は四週間で赤ん坊を産める。私の赤ちゃん、成長が早いから、って」
「馬鹿な」
馬鹿馬鹿しいというふうに慎也がそう吐き捨てた。
「私だって冗談で言っているんだと思いましたよ。けれどあの時の愛は凄《すご》く真剣な顔をして言ったんです。何だか笑ってしまうのが悪いとさえ思ってしまいました。それくらい愛は真剣に言ったんですよ」
それを聞き、雅斗と慎也は黙り込む。時計の針の音が沈黙を埋めていく。ベイビーメールを受け取った人間が死亡するまで一ヶ月。いや、四週間だったのだ。平本は赤ん坊を四週間で産もうとしていた。いや、産めると言った。何かが引っかかる。引っかかるそれは、どうして平本がベイビーメールを送る必要があったのかという事だと雅斗は分かっていた。
四週間。
私は四週間で産む事が出来る。
私の赤ちゃん成長が早いから。
「金丸さん」
雅斗は核心にふれる。
「なにか?」
「一体、どうして愛さんは行方不明に? 何があったんですか?」
すると金丸はポツポツと語りだしたのだ。
「二ヶ月くらい前の事です。その日は雨が降っていて肌寒くて、だから愛を心配していたんです。夜遅くになっても帰ってこなくて、携帯に電話しても出ないし、どうしたのかなってずっと部屋で待っていると、ようやく愛が帰ってきたんです。ずぶ濡《ぬ》れでした。明らかに何か辛《つら》い事があったのだろうと予測はしていたんです。だから何も訊かないほうがいいのかなって思ったんですけど、愛のほうからこう言ってきたんです。子供が出来たって」
「子供が出来た」
それは高本忍の子供であろうとすぐに分かった。
「ええそうです。けれど流産していたって」
雅斗の中で時が一瞬止まった気がした。予測すらしていなかった言葉に、雅斗は思わず声を上げてしまった。
「流産?」
言って慎也と顔を見合わせた。一体どうなっているのだろうか。
「その日、愛は産婦人科へ行ったそうなんです。お腹には赤ちゃんが宿っていた。四週間だったそうです。けれど、胞状奇胎《ほうじようきたい》という聞いたことのない病気で、いわば異常妊娠で、愛のお腹に宿っていた赤ちゃんはすでに死んでしまっていたそうなんです」
雅斗は復唱する。
「胞状奇胎」
聞いたことのない病気だった。平本愛はとことん赤ん坊に恵まれなかったという事か。
「私、その病気を後々調べてみたんです。胞状奇胎というのは胎盤の絨毛《じゆうもう》という繊細な組織が嚢状《ふくろじよう》に丸くなり嚢胞《のうほう》を形成するものだそうです。この病気はほとんどの場合、胎児は形成されないか、妊娠のごく早期に死んでしまうそうなんです。怖いのはその後で、絨毛ガンが発生する事があるそうなんです。絨毛ガンは進行が早く、死亡する確率が高い病気なんです。それなのに次の朝、愛の姿はありませんでした。まるでシャボン玉が消えてしまうように、パッと消えてしまったんです。何だか初めから嫌な予感を感じていました。あれほど言っていた赤ちゃんが流産してしまったんです。ずっと嫌な予感というものはありました」
「それで?」
雅斗は先を促す。
「三日経っても愛が戻ってくる事はありませんでした。まず初めに私は愛の実家に連絡をいれました」
「母親にですか?」
「そうです。愛にお父さんはいませんから」
そこでも二人は顔を見合わせた。
どういう事だ。母親は何も言っていなかった。愛が行方不明だと、母親は知っていたのだ。それなのにどうして。
「次に私は警察に捜索願いを出しました。全ての事情を話すと、一応警察は動いてはくれたんですけど、結局愛は今も見つからない状態で……」
雅斗はその時直感した。
もしかしたら平本愛は死んでいるのではないか。しかも、ベイビーメールが広がる以前。要するに二ヶ月くらい前に。何故かそう確信して思えた。
自殺したのだ。二度もの流産に耐えきれず。
母親は何も言わなかった。行方不明だという事を。隠していたのだ。娘が死んだ事を。
だとしたらこれでやっと分かった。
どうして平本愛がベイビーメールを送る必要があったのかという事を。
一つ目に妬《ねた》み。結局産むことの出来なかった赤ん坊を他人が産みたいと思うのが許せなかった。
そして二つ目。
平本愛の本当の目的は、代理出産だ。自分が産めなかった、だから他人に自分の子供を産ませようとしたのだ。四週間で産ませようとした。目的は叶《かな》った。そしてこれから次々と平本愛の子供達が産まれてくる。誰も止められやしない。全ての鍵《かぎ》を握っているのは、あの母親であると雅斗は確信していた。
「訊《き》いてもいいですか?」
雅斗が答える。
「どうぞ」
「愛が行方不明だという事を全く知らなかったんですよね? だとしたらお二人は、どうして愛の事を捜しているんでしょうか」
雅斗はその質問に、単刀直入にこう訊いたのだ。もう何も隠す事はしなかった。
「ベイビーメールというメールをご存じですか?」
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、金丸が復唱した。
「ベイビーメール?」
「そうです」
雅斗は金丸に一から全ての事情を話した。頭の中は、もうあの母親の事だけだった。
八月二十三日、金曜日。平本愛の誕生日である七月十八日に川又春子が死んでから全てが始まった。まさか朱美や小川飛鳥まで巻き込まれるとはあの時、考えもしなかった。そしてもう朱美には時間がない。あと一週間。平本愛は代理出産をさせようとしている。時間がない。しかし、全てが明らかとなった。平本は死んでいるに違いない。母親は平本愛が消えた事を知っていた。それなのにその事を隠していたのだ。全てを握っているのはあの母親だ。もう一度、あの母親に会わなければならなかった。
この日の早朝、二人は東京を発った。佐賀県大浦乙に七時間以上かけて舞い戻る事になったのだ。新幹線に乗り込み、揺られているその間、雅斗は確信していた。この日が、自分達にとって運命の日になりそうだと。
新幹線で博多に出た二人はそこから特急ハウステンボスで佐賀へと出た。そして、肥前大浦駅に到着した二人はそこからタクシーに乗り込み、平本愛の実家へと向かったのだった。
車中、雅斗と慎也が短い言葉を交わすと、タクシーの運転手が話しかけてきた。
「もしかしてお客さん、こちらの方ではなかと?」
慎也は答える気がなかったようだった。雅斗が、ええ一応と返事をした。
「そうね、どちらから?」
運転手とのやりとりが鬱陶《うつとう》しいと思う。雅斗はぞんざいに答えた。
「東京です」
それでも運転手は能天気に話しかけてくる。
「東京。へ〜東京からわざわざねえ。それで、こんな田舎に何の用があって?」
雅斗は無愛想に短く返した。
「いえちょっと」
その態度に勘づいたのか運転手はそれきり何も訊いてはこなかった。車内は沈黙となるが、緊張の糸を張っていた二人は、重い雰囲気など感じてはいなかった。タクシーは徐々に徐々に、あの家へと近づいていた。
平本愛の実家に着く少し手前で二人はタクシーを停めた。
「ここでいいです」
その言葉で、スピードを緩めタクシーは停車した。料金を支払うと、ありがとうございましたと運転手は言い残し、その場からいなくなった。一つ息をした二人は歩き出す。
ポツリと建つ一軒の平屋が目に映った。
その先にはもう道はない。
土地が広がっているだけだった。
そして気のせいだろうか。やはりモヤモヤとした黒い存在が家の周りを支配している。
「行こう」
言った慎也が平屋に歩み始める。雅斗は慎也に続いた。雅斗が息をのむと、慎也が玄関を乱暴に二度ノックした。
反応がない。
足音すら聞こえない。そういえば雨戸が全て閉まっているのだ。まるで誰も住んでいないかのようだった。
「いないか?」
後ろから慎也に問いかける。否定するように慎也は無言のまま更に強く戸をノックした。四回続けてノックしてみたがやはり反応がない。そんな事は認めないというふうに慎也は何度も何度も強く戸を叩《たた》いた。連続で何度も何度も叩いたのだ。それでも中からの反応がないので雅斗は一旦《いつたん》慎也をおさえた。そして今度は雅斗が開き戸の前に立ち、ノックはせずに恐る恐る戸を横へと引いたのだ。するとガラガラと戸が開いたのだ。雅斗と慎也は顔を見合わせる。慎也が頷《うなず》いた。雅斗は静かにゆっくりと戸を横へと引いていく。ガラ、ガラ、ガラ、ガラと遅いリズムで音を立てながら戸は開かれた。
「御免下さい」
声をかけるがやはり反応がない。
「平本さん」
怒鳴るが反応はおなじであった。部屋の中はシンと静まり返っている。
「どうする?」
後ろを向いた雅斗は声をひそめて慎也の意見を訊いた。
「入ろう」
決心したように言う慎也に雅斗は迷う。
「大丈夫か?」
不安な雅斗とは対照的に慎也は強気だった。
「大丈夫だ。入ろう」
雅斗は大きく息を吐く。
「よし」
雅斗は気をひき締めた。二人は静かに靴を脱ぎ、部屋の中へと上がり込んだ。その時だった。微《かす》かに物音が聞こえたのは気のせいだろうか。
「何か聞こえなかったか?」
足を止めて雅斗は言う。慎也も足を止め、耳を澄ませている。
「いや、気のせいだろう」
言って慎也は以前に通された畳の部屋へと入っていった。続いて雅斗も畳の部屋へと入ったのだった。
薄暗い畳の部屋を二人は見渡しながら一応声をかけてみる。
「平本さん。平本さん?」
反応はない。それなのに微かな気配を感じる。写真立ての中に写る母親と平本愛の笑顔がこちらを見ている。気配はその視線か。それに気をとられていた雅斗はしばらく写真に目を置いていた。
「おい雅斗」
慎也の声に雅斗は写真から目をはなし、反応する。
「どうした?」
慎也が卓袱台《ちやぶだい》を指さしている。一枚の紙切れが置かれてあった。
「こ、これ」
「なんだ?」
慎也が卓袱台に手をのばし、紙切れを手に取った。二人は顔を近づけ、文字を追った。紙にはこう書かれてあった。
『お母さんごめんなさい。
私、もう駄目です。
私は二度の流産にたえられません。
赤ちゃんを二度も殺してしまったんです。
ずっと赤ちゃんを産むのが夢だった。
けれど、私には縁がなかったのかな。
もう諦《あきら》めるしかないようです。
ううん、まだ諦めない。
私は諦めない。
生まれ変わったら今度こそ赤ちゃんが産める。
今度こそは絶対に。
だからこんな私を許して下さい。
勝手な私を許して下さい』
「これは……」
読み終えた雅斗は衝撃を受けた。
「遺書……」
直感は現実となった。やはり平本愛は死んでいたのだ。おそらくこの場所で死んだのだ。
その時雅斗は一瞬こう考えた。
どうして遺書がわざとらしく目につくように置いてあったのだろうか。雅斗はふと考えたのだ。
答えが出た時にはもう遅かった。
慎也の手から紙がスルリと落ちた。
突然慎也が呻《うめ》き声を上げて頭を抱えながら横にドサリと倒れ込んだのだ。
「慎也!」
倒れている慎也にしゃがみ込もうとしたその時だった。雅斗の視界に一人の女が立っていたのだ。言うまでもなく、それはあの母親だった。平本菊江が立っていたのだ。呼吸をあららげ、両手でシャベルを上にかかげている。
鬼のような形相で睨《にら》みつけているのだ。
その姿に雅斗は戦慄《せんりつ》した。菊江との睨み合い。ただ雅斗の目は睨むような強い視線ではない。菊江の目から視線をそらすことができないのだ。
「い、一体、どういうつもりですか」
精一杯の言葉だった。震えを隠すも言葉が震える。雅斗の唇はブルブルと震えが止まらなかった。
「どうしてここへ戻ってきた」
一度ここを訪れた時の菊江とは全くの別人だった。口調が全く違うのだ。
「あ、あなたが僕達に、大事な事を、隠していたからです」
言葉を返しゴクリと唾《つば》をのむ。一瞬だけ慎也に目を向ける。完全に慎也は気を失っていた。
「どうして全てを話してくれなかったんです」
「お前達に何の関係がある。愛は私の子。お前達には関係のない事」
思わず雅斗は言ってしまった。
「自殺だったんですか」
その言葉に菊江の表情がピクピクと動き出す。
「首をつっとったわ。少し目を離した隙に愛はこの部屋で首をつっとった。携帯電話を首にダランとぶらさげて」
その時の映像が何故か鮮明に雅斗の脳裏には映った。首や両手をブランとたらして死んでいた平本愛。瞬時に遮断する。
「どうして警察に報告しなかったんです。愛さんの遺体は何処に」
すると菊江はあっさりと言ったのだ。
「埋めたわ。裏の庭に。今もあの男の近くで愛は眠っとる」
「あの男……」
すぐに想像がついた。平本愛を裏切った男だ。
「あの時は愛と一緒やったけん、楽だったけれどもな」
愕然《がくぜん》となった。母親も一緒に裏切った男を埋めたというのか。だが、今はもうそんな事を追及している場合ではなかった。とにかく菊江を落ち着かせなければならなかった。慎也もこのままではよくない。頭を思い切り強打されているのだ。
「お母さん」
菊江には反応がない。無表情のままシャベルを手にこちらを見据えている。
「とにかく、それをおろしてください」
雅斗の言葉に菊江はこう言った。
「去れ。ここから去れ」
雅斗は慎也に目を向ける。朱美、小川飛鳥の事を思い出す。
「そういう訳にはいきません。あなたの娘さんのせいで、大事な人達が犠牲になるかもしれないんだ」
菊江は小刻みに震え出す。
「愛の邪魔をするのか」
菊江の言葉に雅斗は迷いなくこう言った。
「愛さんからすれば……そうかもしれない」
俄然《がぜん》菊江の表情が鋭くなった。
「私は愛の母親だ愛の味方だ。邪魔な人間は死ねばいい」
言って菊江はピクピクと震えながらシャベルを振りかざす。雅斗の心臓は敏感に反応する。菊江は本気だ。あまりの恐怖に言葉は出なかった。無意識のうちに身構えていた。睨み合う。そして。
死ねばいいと狂ったように叫びながら菊江が突進してきたのだ。
「きいいいいいいいいい!」
菊江の金切り声で、雅斗の金縛りはとけた。雅斗は横へと避ける。シャベルがガラスに当たり破片が激しく飛び散った。
「落ち着いて下さい」
菊江には聞こえていない。完全にとち狂っている。息をゼーゼーとあららげ、鋭い目つきで睨みあげている。菊江は雅斗に間を与える事なく、再びシャベルを振りかざし突進してくる。バットを振るように菊江はシャベルを横に振ってきた。花瓶が割れ破片が飛び散る。雅斗は頭をさげ、間一髪のところでそれを避ける。今度は縦に攻撃してくる。しゃがんだまま雅斗は横へと転げ攻撃を免れる。息を吐くことなく菊江はシャベルを突いてくる。立ち上がる隙もなかった雅斗は再び横へと転げる。シャベルは畳へと突き刺さる。その間に雅斗は立ち上がり体勢を整える。ギロッと振り返った菊江は容赦なくシャベルを思い切り振りおろしてくる。雅斗は全身で避ける。雅斗をとらえられない菊江も徐々に苛立《いらだ》ちはじめ、髪を乱し、奇声を上げながら無造作にシャベルを振り回す。菊江の渾身《こんしん》の一振りが襲ってくる。素早く身をかわせるはずだった。が、足がもつれて畳に尻餅《しりもち》をついてしまったのだ。
見下ろす菊江。
身じろぎできない雅斗。
逃げる隙を与える事なく菊江は思いきりシャベルを振り下ろす。雅斗は耳元で風を感じた。
間一髪のところで雅斗は頭を横へとそらし、シャベルの柄の部分を両手で掴《つか》んだのだ。
「あああああああああああああ!」
奇声を上げながら菊江はもがく。そうはさせまいと雅斗は柄をしっかりと握り離さない。菊江は狂乱する。もの凄《すご》い力でシャベルをもぎ取ろうとする。雅斗は極度の危機感を感じた。本当にこのままでは殺される。防衛本能がはたらいた雅斗は無意識のうちに菊江の腹部を思い切り蹴《け》り飛ばしていた。同時に手を離すと、その反動で菊江は後ろへと飛ばされる。そして勢いよく柱に頭部をぶつけたのだ。あまりの衝撃に菊江はよろける。それでも倒れない。再びシャベルを上にかかげたのだ。
「よ、よくも!」
雅斗は覚悟を決める。拳《こぶし》を握ったその時だった。立っていた菊江がピタリと止まったのだ。停止ボタンを押されたかの如くに一瞬ピタリと止まり、バタンと激しく倒れ込んだのだ。頭部を柱にぶつけた衝撃が少し遅れて襲ってきたのだろう。倒れ込んだ菊江は気を失っている。とにかく助かったのだ。静まり返った光景に雅斗は安堵《あんど》の息を吐く。呆然《ぼうぜん》から立ち直り、すぐさま慎也に駆け寄った。
「おい。慎也。慎也」
軽く体を揺らす。息はあるが反応はない。
「慎也」
すると慎也は薄目をあけた。大丈夫というように小さく頷《うなず》いたのだ。その反応に雅斗は安心する。視界の隅にシャベルが入る。
埋めたわ。
菊江の言葉を思い出す。ハッとして雅斗は立ち上がり、シャベルを手に取り無意識のうちに裏庭へと向かう。もうすぐそこに、平本愛が眠っているのだ。
異様な光景だった。裏庭へ出ると殺風景な景色が広がった。
一面が土だらけで草も花もない。一体何処に平本愛が埋められているのか。雅斗は呆然と一人|佇《たたず》む。違和感を感じたのは殺風景なこの場所に、一輪の花がポツリと咲いているのが目についたからである。咲いているというよりも土に挿してあるのだ。
雅斗は生唾《なまつば》をゴクリとのみ込む。
間違いない。
あの場所に平本愛は眠っている。
雅斗は歩み寄る。一輪の花へと。
立ち止まった雅斗は花を見下ろす。風が強く吹く。しゃがんだ雅斗は一輪の花を土から抜き取った。そして立ち上がった雅斗はシャベルを両手でしっかりと持った。
決心した雅斗はシャベルで土を掘っていく。夢中で、闇雲に、雅斗は土を掘り続ける。暑さで汗がポタポタと土に落ちていく。それでも必死になって、我を忘れて掘り続けた。遺体はなかなか出てこない。相当深く埋められたのだろうと雅斗は思う。手を休める事なく掘って掘って掘り続けた。すると、土の中から赤ん坊の泣き声が微《かす》かに聞こえてくるのだ。気のせいか。一旦《いつたん》動作を止めた雅斗は再び掘り続ける。幻聴ではない。やはり聞こえてくる。雅斗はなおも掘り続ける。今度は青白い何かがシャベルに当たる。雅斗はヒッと小さな悲鳴を上げた。
足だ。
平本愛の足が出てきたのだ。
赤ん坊の泣き声はなおも聞こえてくる。
更に掘ると両足がしっかりと確認出来た。今度は上半身のほうを掘っていく。
赤ん坊の泣き声。
だんだんと平本愛の全てが現れる。下半身から上半身。そして顔。平本愛の顔。
雅斗はゴクリと唾をのみ込む。この女が平本愛。厄《わざわい》の種。
大きく息を吐く。緊迫感。
だが恐れる事はもうなかった。
青白い体。
平本愛は仰向けの状態で眠っていた。両手を組み、その間には携帯電話が挟まれていたのだ。無論、泣き声はその携帯電話からだった。うぎゃーうぎゃーと泣き続けている。
液晶画面はモザイクのようにぼやけており、赤ん坊が呼吸をしているかの如く、一定のリズムで光が点滅している。信じられない光景だった。
雅斗は平本愛の表情を見据える。微かにかかった土を丁寧にはらってやった。冷たい感触が伝わってくる。
それなのに何故だろう、平本愛の表情が優しく見える。
誰もがこの女の事をこう思う。
狂った女。
不気味な女。
恐ろしい女。
だが今の雅斗は平本愛の事をそんなふうには見ていなかった。同情をするという気持ちのほうが強かった。ごく平凡な母親として生きてほしかった。そうなっていれば、何も始まってはいなかった。犠牲者も出なかった。全ての原因はこの携帯電話だと雅斗は確信した。この携帯電話からメールが送られる。全てはそこから始まるのだ。
雅斗はこう思う。
この携帯電話を壊せば全てが終わる。
そして、二人だってきっと助かる。
壊せ。
今すぐ壊せ。
決心した雅斗は携帯電話に手を伸ばす。
徐々に徐々に右手は携帯電話に近づいていく。そして、泣き続ける携帯電話に触れたその時だった。突然平本愛の両目がパッと開いたのだ。睨《にら》みつけられた雅斗は悲鳴を上げて尻餅をついた。呆然としながら再び平本愛の表情を確認すると、それは幻覚だった事に気がつく。深いため息をドッと吐いた雅斗は改めて携帯電話に手を伸ばした。平本愛から携帯電話を奪う時、赤ん坊を奪っているような感覚に雅斗は襲われた。それでも躊躇《ためら》う事なく携帯電話を奪った雅斗はそっと地面に置いたのだ。携帯電話は泣き続けている。呼吸し続けている。
いつしか、雅斗の目には携帯電話が本物の赤ん坊に見えていた。裸の赤ん坊。母親の手から離され泣いている。その赤ん坊を今、この手で殺すのだ。そう思うと涙が溢《あふ》れ出す。雅斗は声を出さずにボロボロと泣いた。しばらく泣き続けた雅斗は袖《そで》で涙を拭《ぬぐ》った。ぼやけた視界から泣き続ける携帯電話が目に映る。
そうだ赤ん坊は幻覚だ惑わされるな。これはただの携帯電話だ。
自分に言い聞かせた雅斗はシャベルを頭上にかかげた。そして。
これで終わりだ。そう呟いた雅斗は躊躇う事なく思い切り携帯電話に振り下ろしたのだ。
その瞬間、携帯電話の泣き声がピタリと止んだ。
全てが終わった。雅斗はそう思いこんでいた。
子供達
九月二十二日、日曜日。
あの日から一ヶ月が過ぎ去った。
例年に比べ残暑は厳しく、三十度を下回らない日がなおも続いた。
九月二日から新学期が始まり、雅斗は普段の生活に戻っていた。夏休みの間に起こった出来事がまるで嘘だったかのように、ごく普通の生活に戻っていたのだ。
この日、雅斗と慎也は多摩《たま》川にいた。遠く離れた場所には朱美と小川飛鳥がバーベキューを楽しんでいる。その光景に二人は優しい笑みを浮かべていた。
平本愛の携帯電話を破壊したそのあと、雅斗は警察と救急車を同時に呼んだ。間もなく、菊江は警察に連行され、慎也は救急車で運ばれた。事情聴取のため、警察に協力をした雅斗は何もかも喋《しやべ》った。無論、警察は何も信じようとはしなかったが、実際に起きている不可解な事件に警察はようやく動いた。しかし、結局は何も解決はしなかった。順子のために動いたと言っただけで、雅斗は朱美や小川飛鳥の事は誰にも言わなかった。あれこれ調べてはほしくなかった。動揺させたくはなかったのだ。
それでも、最終的には朱美と小川飛鳥には全てを話さなければならなかった。いくら携帯電話を壊したからといって、二人の命が助かるという保証は何処にもなかった。不安だったのだ。
全てを話した雅斗は二人を産婦人科へと連れていった。もし、二人のお腹に宿る赤ん坊がなおも成長を続けているようなら最終手段を使うしかなかった。しかし。
やはりあの携帯電話が赤ん坊の生命だったというのだろうか、二人のお腹に宿っていた赤ん坊は流産していた。何もかも普通では考えられない事実だが、二人の命が助かったという事に雅斗はようやく安堵《あんど》の息を吐くことが出来た。二人の命が助かった。もうそれだけでよかった。それ以上、何かを考える事はしなかった。
埋められていた平本愛は火葬され、間もなく、平本愛に殺され埋められていた男も発見された。これで事件の幕は閉じた。雅斗はそう思いこんでいた。
「なあ雅斗」
慎也の声に反応し、雅斗は我に返る。
「なんだ」
「もし、もし朱美の腹に宿っていた赤ん坊を無理に殺していたら……一体どうなっていただろう」
雅斗はしばらく考えてからこう言った。
「平本愛という女は、憎み、恨んだ人間を殺せる女だった。ましてや携帯電話を使って自分の子供を産ませようとした女だぜ。もし無理に赤ん坊を殺していたら……」
雅斗はそこで言葉を切った。もう何も考えるな。自分に言い聞かせたのだ。
「もういいじゃないか。全て忘れよう」
そう言うと、慎也はそうだなと頷《うなず》いた。
向こうから飛鳥の声が聞こえてきた。
「ねえ何やってるの? 早くおいでよ」
遠くで二人が手招きをしている。二人は顔を見合わせる。
「行くか」
ああ。雅斗が元気よく頷いた。
この日の企画は慎也が提案したものだった。順子の死から立ち直り、朱美に元気を取り戻させるためのものだった。
「先生お肉焼けてるよ。早く食べてよ」
朱美に紙皿を手渡されると飛鳥が強引に焼けた肉をのっけてきたのだ。
「分かった分かった」
雅斗は焼けた肉を一口で食べた。
「どう? 先生」
「うまい!」
子供みたいな声をあげると三人が同時に微笑んだ。朱美と目があった雅斗は照れくさそうに微笑んだ。朱美もすっかり元気を取り戻した様子だった。幸せな光景だった。
ベイビーメール。
平本愛。
二つの言葉が嘘のように、様々な出来事がまるで夢の様に思えた。本当にあの出来事は現実のものだったのか、雅斗は今そう思っている。
「あれ? そういえば俺……携帯電話どこにやったっけ?」
ふと気がついた雅斗はポケットの中に手を入れる。何処にもない。こうなると気になって仕方がない。
「落としたんじゃないか?」
慎也のそれに、そうかもしれないと内心で思う。
「よく思い出して」
朱美にそう言われるが、全く覚えてはいない。
「車かもしれない。車の中に落としたのかも」
雅斗は続けて慎也に言った。
「慎也。車のキー貸してくれ」
慎也はポケットからキーを取り出す。
「はいよ」
キーを受け取った雅斗は言った。
「ちょっと行ってくるわ」
歩調を早めて車に戻る。
「早く帰ってきてね。じゃないと全部なくなっちゃうからね」
冗談めいた言葉が後ろから聞こえた。振り返ると朱美の笑顔が瞳《ひとみ》に映る。向き直った雅斗は車に急いだ。
三人の姿は見えなくなった。慎也の車に到着した雅斗はキーを差し込み、助手席のドアを開いた。座席の下を捜してみる。案外|呆気《あつけ》なく携帯電話は見つかった。安堵の息を吐く。車から降りた雅斗はドアを閉め、車に向いた状態で一応携帯電話の液晶を確認してみる。
『新着メール』
メールが届いている。一瞬嫌な予感が脳裏をよぎる。馬鹿な。考えすぎだ。
メールを開くと雅斗の生徒からだった。その内容は他愛もないものだった。読み終えた雅斗は携帯を閉じ、ポケットの中にしまい込んだ。その時何故か、平本愛の事が脳裏に浮かんだ。二人は助かった。メールだってもう届かない。全ては終わっているが、気になる事がまだ一つ残っているのだ。
不可解な事件。
赤ん坊だ。
赤ん坊が実際に産まれていたのかという事だ。
現実、被害にあった三人のお腹の中には赤ん坊がいた。だがいなくなっていた。急激に成長する赤ん坊。自らへその緒をちぎり、自らお腹の中から産まれてくる。
それはあくまで推測だった。それしか考えられなかったから。しかし。
赤ん坊が自ら産まれてきたとして、一体赤ん坊は何処にいる。何処にいるのだ。
その事を深く考える事はしなかった。二人の事で精一杯だったから。
一体赤ん坊は何処にいる。
その時だった。
「斉藤雅斗さんですよね?」
後ろで子供の声が聞こえたのだ。それなのに大人が使うような言葉遣い。振り返る雅斗。そこには信じられない光景が映っていた。全く同じ顔をした三人の子供達がそこには立っていたのだ。どうしてだろう、平本愛にそっくりなのだ。まさかとその時雅斗は思った。
「い、一体……どうなってやがんだよ」
「僕達、自分達で産まれてきたんだよ」
夢だ。夢に決まっている。ガクガクと震えながら雅斗は後ずさる。車にペッタリと背中が貼りついた。子供達は笑顔でこちらを見据えている。助けてくれ誰でもいい頼むから助けてくれ、雅斗は今にも叫びそうになっていた。
「それでね、ママに言われて、僕達あなたを探していたんです。僕達の兄弟殺したでしょ」
子供達は笑顔でそう言ったのだ。
ママに言われて。
ママというのが誰なのか、もう思い出したくもなかった。
「ママ……?」
雅斗がそう洩《も》らすと、真ん中に立っていた子供がこう言ったのだ。
「ママの名前は愛。愛って言うんだ」
真っ暗な闇が広がった。夢なら早く醒《さ》めてくれ。
「平本……愛」
雅斗が言うと、笑顔だった三人の子供達の表情が突然なくなった。無表情のまま、そうだよと言ったのだ。そして、近づいてきた三人のうち真ん中の子供がこう言ったのだ。
「どうして兄弟殺したんだよ」
突然の変貌《へんぼう》に、雅斗はゴクリと唾《つば》をのむ。
夢なら一刻も早く醒めてくれ。
ガクガクと震えながら雅斗は思い切り唇をかみしめた。
雅斗は携帯電話を握りしめる。ギギギと潰《つぶ》れるような音がした。
瞬《まばた》き一つ出来なかった。
小刻みに震えていると、無表情の子供達が、一歩、また一歩と近づいてくる。
もうどんな覚悟もついていた。
額からは汗が止めどなく流れていた。
子供達はもう、目の前に、立っていた。
角川ホラー文庫『@ベイビーメール』平成17年7月10日初版発行
平成18年3月20日5版発行