[#表紙(表紙.jpg)]
8.1
Horror Land
山田悠介
CONTENTS
8.1
黄泉の階段
骨壺
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8.1
プロローグ
雨は、降り続いた。
関東地方全域を襲った豪雨の威力はすさまじく、海は荒れ、山で土砂崩れが起き、街では車までが水に流され、人々は自然の脅威に怯《おび》えた。そして、天に許しを請うた。
トンネルの筒の外では、強い風と激しい雨。中では、ポタリ、ポタリと滴《しずく》が落ちる音。
真夜中のトンネルの中にただひっそりと佇《たたず》む若い夫婦も、おくるみに包まれた赤ん坊を見つめながら、神への祈りを心の中で唱えた。
二人とも、ノイローゼに近い状態だった。押入れに遺体を隠し、どうやって処理したらいいのかと、悩み続けた。
殺したのだ。期待していたはずの、生まれたばかりの、二人にとって初めての息子を。いくら叱っても泣きやまない子供の首を絞めて。だから、峠道の途中にある、車だって滅多に通らないこの暗闇トンネルにやって来た。ここなら、大丈夫だろうと思って。
ごめんね。
髪はボサボサに乱れ、げっそりと痩《や》せ細った青白い顔をした女が力のないかすれた声でそう呟《つぶや》くと、神の怒りか、心臓にまで響く大きな雷が落ちた。その瞬間、目に映った赤ん坊の表情が悲しそうに見えた。
「さあ」
意外にも冷静な声の男に肩をポンと軽く叩《たた》かれた女は静かに頷《うなず》き、夢見たはずの赤ん坊を地面に置いた。
「どうか僕たちを許してください」
無表情の男は遺体に手を合わせながら、台詞《せりふ》を棒読みするかのように、そう言った。そして、
「行こう」
と女に体を向けて、肩を抱いた。
「ええ」
このトンネルに入ってから、まだ一台も車は通っていない。この嵐なら尚更だ。
二人は赤ん坊に背を向けて、逃げるようにして、車に乗り込んだ。
そして、男がエンジンをかけたその時、女は確かに耳にした。
暗闇の奥から、ジワリジワリと響いてくる、寂しいよ、と伝えているような赤ん坊の泣き声を。置いていかないで、お願いだから、と。
「ね、ねえあなた……」
男は聞こえなかったのか、それとも、聞こえないふりをしているのか、
「行くんだ」
と強引に車を走らせた。
こうして二人は、死んだ赤ん坊を置き去りにして、土砂降りの雨の中に、消えた。
そして、二十年後。
一人の少女が、このトンネルに、引き寄せられた。
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「マジでそのトンネル怖いの? またいつものような、嘘話のバケトンじゃないの?」
赤い軽自動車の後部座席に座る朝比奈舞《あさひなまい》が、運転に集中している黒田浩介《くろだこうすけ》にそう言った。三つも年下の舞に小馬鹿にされた黒田はバックミラーを一瞥《いちべつ》し、必死に説明した。
「本当だって! 友達から聞いたんだ。昔そこで若い女が自殺したんだって。それからというもの、遊び半分でそのトンネルに入った奴らは、事故を起こしたり、気分が悪くなったりするんだって。な? やばいだろ?」
「やだ〜マジで大丈夫なの? そこ」
舞の隣に座る豊田美保《とよだみほ》が、怯えた表情を浮かべて、怖々と洩《も》らす。
「な〜に大丈夫だって! どうせ何も起こらず終了って感じだって! いっつもそうなんだからよ〜」
助手席に深々と座り、ゆったりと足を伸ばしている佐野大佑《さのだいすけ》は、これから入ろうとしている心霊トンネルになど、全く臆《おく》していないという風に言った。
舞は佐野に続いた。
「だよねだよね。黒田さんのはいつも中途半端に終わっちゃうからね〜だから早くマジのバケトン行ってみたいよ〜」
「おいおい中途半端ってなんだよ」
黒田が口を尖《とが》らせると、佐野が横から、
「だって実際そうじゃん」
と、笑いながら言った。
「でも一応は怖いよ。私、今から震えちゃってるもん」
豊田が身を縮めながらそう呟くと、先程からずっと叩かれっぱなしの黒田は可愛らしくちぇっと舌打ちをして、
「一応ってなんだよ一応って……まあとにかく、行けば分かるって」
と、話題を強引にしめてしまった。
「で? あと何分くらいで着くの? そのバケトン」
舞が黒田にそう尋ねると、
「二十分くらいかな」
と前から声が返ってきた。
「ふ〜ん」
余裕とでも言うように適当に返事をして、窓から見える夜の景色を舞はボーッと眺めた。さっきまでは車も多かったし、民家やお店の光で明るかったのだが、徐々にトンネルに近づいているのだろう。辺りは暗く、道は狭まり、周りは畑で囲まれているように感じた。遠くにぼんやりと見えるあれは、お寺の墓だろうか。それを見た舞は勝手に女の霊を墓に想像して、すぐに目をそらした。
それらしい雰囲気になってきたじゃん。
「早く着かないかな〜」
胸をドキドキと高鳴らせながら、今の気持ちを声にした。
「も〜舞ったら〜」
恐怖のかけらも見えない舞に、豊田は呆《あき》れる。
「いやいやお前が怖がりなだけだよ」
と、助手席から振り向いた佐野が馬鹿にする。
「おいおい君たちには緊張感ていうものがないのか?」
トンネルの近くになってもまだはしゃいでいる三人に、黒田は大きなため息を吐《つ》いた。
「もっと怖がりな人間を集めるべきだったよ……」
「だってしょうがないじゃん。千葉の人間が少ないんだから。私たち以外の千葉の人は集まり悪いし……普通、バケトンサイトなんて、来ないよ」
舞がそう言うと、黒田は、
「まあそうだけどね」
と、納得した。
ネットのお化けトンネルサイトで知り合ったこの四人は、怖いトンネルがあるという噂を聞きつけるたびに、こうして夜中に、スリルを味わうためだけに、わざわざ現地にまで足を運んでいた。
最年少の朝比奈舞は、千葉県内に住む高校一年生。腰まで伸びた真っ黒な髪と、細すぎる眉毛《まゆげ》と、大きな目が特徴的で、じっと見つめられると、瞳《ひとみ》に吸い込まれそうになるくらいだ。性格は明るく、口調も、今風だ。例えば、やばくない? とか、怖くない? という言葉の語尾を必ず上げる。服装も、今日はデニムのパンツに白いパーカーだが、友達と遊びに出かける時などは、ミニスカートにピンクのセーターを合わせ、その上に毛むくじゃらのコートを羽織るなど、派手系を好む。そして何より大好きなのが、心霊スポットだ。この頃は特に、お化けトンネルに凝っている。舞自身、霊感が強い訳ではない。むしろ、幽霊など一度も見た事がない。だから見てみたい、という訳ではないが、本物の恐怖を体験したいがために、このサークルに入ったのだ。が、期待とは裏腹に、これまでにいくつかのバケトンに連れて行ってもらったが、全てが噂だけで、怖いトンネルなど一つもなかった。
子供が事故で死んだとか、今日のように女性が自殺したとか、雰囲気は出ているが、本当にそうなのか? と疑いたくなるくらいだ。確かに、舞は普通の女の子よりは気が強く肝が据わっている。だからちょっとやそっとの事じゃビビりはしない。でも、こっちは両親の目を盗んで家を抜け出して来ているのだ。せっかくなら、本物のバケトンを体験したい。と、怖い物見たさの舞は、いつもそう思っている。
運転席に座りいつも誘いをかけてくれる黒田浩介は、ストレートの長い髪を真ん中でピッチリと分け、少しでも形が乱れれば、すぐに両手でかき上げるのが癖で、腫《は》れぼったい目と、分厚い唇の、オランウータン顔の彼は別に恰好《かつこう》良くないのだが、多少ナルシストが入っている。その彼が、この中でのリーダー役だ。年も一番上である。訳あって大学には通わず、今はフリーターをしているそうだ。その理由は教えてくれない。
黒田も舞と同じく心霊スポットマニアで、トンネルに入る時はいつも先頭を歩き、存在の大きさをアピールしている。だが、少しビビりが入っていて、だらしない場面をいくつか見ている。以前、強い風が吹いた時、それが不気味に聞こえたらしく、ひゃっと声を上げた事がある。その時が一番、情けなかったとはいえ、いつも情報を仕入れてくれるし、こうして車も出してくれる。一応は、頼りになる男だ。
その隣に座っている佐野大佑は、盛り上げ役とでも言っておこうか。悪く言えば、ただのお調子者だ。舞より一つ年上だというのに、落ち着きが感じられない。服装は少しヤンキーが入っていて、真っ赤なダウンジャケットに、趣味の悪いジャージを穿《は》いている。
スプレーかジェルか知らないが短い髪をツンツンと立たせ、つり上がった目が特徴的な狐顔は、とにかくお喋《しやべ》りが大好きで、終始、楽しませてくれる。かん高い声がときたまうざったいが、このメンバーには欠かせない存在だ。彼はトンネルに入っても緊張感がなく、後ろからいつも、ワッと言って脅かしてくる。それでいつも黒田に怒られる。ビビらせるのはマジで止めろ、と。そのやり取りのせいで、恐怖が冷めてしまう事もあるのだが、舞的には、こういう奴が居た方が面白いと思っている。
そして最後に、舞と同い年の豊田美保だ。長い髪の毛を二つに縛って、まるでウサギのような頭の豊田は、絶対に可愛く喋っているだろうと思うくらい甘えた声が特徴的で、愛くるしいその垂れ下がった目と艶々《つやつや》とした厚い唇に、男の子は騙《だま》されるんだろうな、と舞は豊田を見るたびにそう思っている。そして、彼女の最大の武器は、ワザとらしく何でも怖がるというところだ。噂を聞いてまず悲鳴を上げて、目的地に着いたら猫なで声になる。ちょっとでも音がしようものなら怖いと縮こまって黒田か佐野の袖《そで》を引っ張る。この女は本当に怖いのか? と疑問に思い、少しやりすぎだろうと舞はいつも感じている。別に嫌いではないが、同性には拒否されるタイプである事は確かだ。
そんな仲間と共に、舞はバケトンツアーを楽しんでいた。生まれてから一度も恐怖体験をした事がないせいか、気持ち的には遊び半分だったのだ。
「さあそろそろ着くぜ」
ハンドルを回しながら、緊張を含んだ声で黒田が言った。辺りには草や木ばかりで、民家はもちろん、街灯すらなく、真っ暗だ。車のライトを消したら何も見えなくなるだろう。道も細く、上り下りが激しくて、車同士のすれ違いがギリギリ出来るくらいだ。
「おうおう。何かやばそうじゃんよ」
佐野が手をパンパンと叩《たた》きながら興奮する。
「いいじゃんいいじゃん」
と、舞も後に続いて座席でピョンピョンと飛び跳ねる。
車は道に沿って進んで行く。
「ちょっと二人ともいい加減にしてよ〜」
豊田がまたわざとらしく怖がる。
「おい……あれだよ」
急に、黒田の声色が変わった。
その途端、車内は静まり返った。舞以外の誰かが、唾《つば》をゴクリとのみ込んだのが、微かに聞こえた。
大きなカーブを曲がると、前方に先の見えないトンネルがあった。一度中に入ったら、二度と出て来られなくなるような雰囲気を醸し出している。入り口に、白いセーターにロングスカートを穿いた女がこちらに手招きしている映像を、舞は想像した。
「ねえもう入るの?」
豊田が黒田に尋ねる。
「当たりめえだろ」
佐野が強がって、そう答えた。車内はまた、沈黙する。時速十キロで走る車は、トンネルに少しずつ、少しずつ、近づいて行く。前方からも後方からも、車は来ない。舞たちを乗せた一台だけが、吸い込まれるようにして、トンネルに向かって行く。そして、目の前で一旦《いつたん》停車し、
「入るぞ」
と、黒田が三人に言った。舞が代表して、答えた。
「いいよ」
合図が出されると、黒田はゆっくりとアクセルを踏んだ。再び、タイヤは動き出す。暗闇の中に入っても、舞は瞬き一つせず、ガラス越しに見える、まるで洞窟《どうくつ》のようなトンネルから目を離さなかった。バケトンには珍しく、落書きが一つもない。ここを訪れた人間達が、恐怖した証拠なのだろうか。
「ねえ? どう? 大丈夫?」
豊田に服を掴《つか》まれ、そう訊《き》かれた舞は、無視した。何でこの女は目を閉じているのだ。一番、緊張する場面なのに。
車を真ん中辺りで停めた黒田は、
「どうする?」
とこちらを振り向いた。
「もちろん、降りるでしょ」
舞はそう返した。
「当たり前だよなあ」
と、佐野もそれに賛成した。
「ええ? やっぱり降りるの? 私……怖いなぁ」
本当はそれほど嫌でもないんだろうと、舞は思った。
「よし。じゃあ行こう」
エンジンは切らず、ライトだけを落として、四人は車から降りて、ドアを閉めた。
「それにしてもさみ〜なおい。何度だよここ」
佐野の口から白い息がふわりと舞う。無理もない。今は二月の中旬なのだから。冷たい風が吹くたびに、顔が痛い。耳の感覚が失われていく。
「じゃあ、俺についてきてくれ」
懐中電灯を手に持った黒田が、指示を出した。
「おい。聞いてるか?」
辺りをソワソワと確認している豊田に黒田が光を向けると、
「わ! びっくりした! やめてよもうぅ!」
と、大げさに驚いた。舞はププッと嘲笑《あざわら》った。今のは本気でビビッたらしい。
「ほら行くぞ」
黒田を先頭に、豊田、舞、佐野の順番で列を作り、まるでRPGのパーティーのように、ゾロゾロと前に進んだ。後ろにいる佐野が、寒い寒いと落ち着かず、舞は、うるせえ、と口だけを動かした。
「ねえ……やっぱ怖いよぉ」
黒田の服を後ろからツンツンと引っ張りながら、豊田がお得意の猫なで声を発した。
「大丈夫だって。俺に任せろ」
内心|怯《おび》えているはずの黒田のその台詞《せりふ》が、舞からしてみたら恰好《かつこう》悪かった。
「てかよ、やっぱ全然怖くねえよな。なあ? 舞」
「まあ雰囲気は出てるけどね」
その時、黒田が光の方向を変えた。そこには自殺した女性への花束と、お菓子などが丁寧に並べられていた。こういうのを見ると、さすがに気が重い。四人はしばらくの間、その場で静止していた。そして、さてそろそろ前へ進もうかという時に、佐野が調子に乗って豊田の肩に両手を置いて、
「わああああ!」
と脅かした。間髪入れずに豊田の悲鳴がトンネルに響いた。
「きゃああああああああ!」
佐野の声より、むしろ豊田の叫びに舞は背筋を凍らせた。
「ちょっといい加減にしてよ!」
不意の事だったので、舞は佐野に怒りをぶつけた。
「そうだ。お前はいつもそうやって人を脅かすんだ」
黒田からも叱られた佐野は、へへへと笑ってごまかした。豊田はもう半泣き状態だった。
「もう私車に戻る!」
わがままを言う豊田に、佐野は冷たくこう言った。
「あそ。じゃあ一人で戻れば〜。俺たち三人はもう少し先に行くからよ。さてさて一人で戻れるかな〜、怖いぞ〜、お化けが出るぞ〜」
「もういい! やっぱり行く!」
結局、一人で戻る勇気がないらしく、豊田は列から抜けずに、一緒に前へ進んだ。
が、それから先は、いつもと同じでつまらないものだった。幽霊は出ないし、仲間に異変が起きる事もなかった。最終的に一番怖かったのは、豊田の悲鳴という何とも寒いバケトンツアーになった。
興醒《きようざ》めした舞が、最後に車に乗り込んだ。
「やっぱりこんなもんだったね〜。途中まではなかなか良かったんだけど、これじゃあ人が一人死んだ普通のトンネルだよ」
舞がそうコメントすると、
「だな。やっぱまだまだだな。黒田君はさ」
と、佐野が文句を言った。
「え? 俺? 俺かよ〜」
「だって黒田君の情報なんだぜ? 次はマジでやばいとこ連れてってもらわないとさ〜」
「あ〜あ〜分かった分かった。俺の責任だよ。でも次は覚えておけよ。本物のバケトン探してくるからよ」
「期待してるよリーダー」
舞が煽《おだ》てると、黒田はハンドルを握りしめ、
「じゃあ今日はもう帰るか」
と言った。
「そうだね。帰ろう」
舞が頷《うなず》くと、車は走り出した。
隣の女は、ちゃっかりともう眠ってしまっていた。さっきまでのあのリアクションは何だったのだと、舞はやれやれと呆《あき》れて笑った。こうして今回のツアーも、舞の望んでいたスリルを体験する事は出来ずに終了してしまった。
翌朝、舞は不覚にも寝坊した。黒田の車が自宅に着いたのは夜中の二時十五分だった。舞は三人に別れを告げて、家の扉を静かに開けて、泥棒のようにこっそりと、ディズニーキャラクターのぬいぐるみが所狭しと置かれた自分の部屋に戻った。父と母には気づかれなかったようで、セーフ、と呟《つぶや》き、洋服からパジャマに着替えた舞は、パソコンの電源を入れて、自分で作ったバケトン日記を開いた。心霊ツアーに行く前の意気込みや、ツアー後の感想を書くのだ。いつものようにトンネルの怖さと、噂の真実度を五段階の星の数で評価して、やっぱり期待はずれだったとコメントし、電源を切って、目覚ましをセットして、ベッドに潜り込んだ。そして、次こそはホラー映画のような体験が出来ますようにと祈って、深い眠りに就いた。ちなみに昨日のトンネルの評価は、共に星二つずつだった。
一階から、いつまで寝てるの? という母の声が聞こえてくる。その時、急いで制服に着替えていた舞は、無視をした。いや、学校に遅れそうで、それどころではなかった。
「いい加減起きなさいよ?」
自分の部屋から出た舞は、ドタドタドタと一階に下りて、洗面所に向かい、腰の辺りまである髪を櫛《くし》で綺麗《きれい》に整えて、ファンデーションを軽く塗ってアイシャドーを入れ、鏡に映る自分をしばらく見つめてOKサインを出し、学校の鞄《かばん》を持って、そのまま玄関に急いだ。
「ちょっとご飯は? 食べて行かないの?」
母の声を背中で受けた舞は、革靴を履きながら、
「いらない。遅れちゃうもん」
と慌てて答えた。
「それよりも舞」
母の口調が急に真剣になる。
「なに」
振り向くと、母は何故か怒っていた。
「昨日、何時に帰ってきたの。お父さんはごまかせても、お母さんにはお見通しよ。アンタこの頃、いい加減にしなさいよ? 黙って家を抜け出して、夜中に帰って来て。一体、いくつだと思ってるの? まだ十六なのよ? ちょっとは自覚しなさい。で、何処へ行ったの?」
ばれてたのかと、舞は顔を顰《しか》めて、
「へへへ。ちょっとね。お父さんは? もう会社?」
と舌を出して笑ってごまかした。
「あなたまさか彼氏なんかいるんじゃないでしょうね」
「彼氏なんかじゃないよ」
「じゃあ何? 友達?」
舞は適当に相槌《あいづち》を打つ。
「そうそう友達。じゃあ行ってくるね」
そして逃げるようにして、玄関の扉を開けて家を出た。
「それにその短いスカートは何? お化粧だってまだ早いわよ」
扉が閉まるまで、母の声は聞こえていた。舞は、鬱陶《うつとう》しいというような表情を浮かべながら自転車に乗って、学校に向かった。
一人娘の舞は、両親にもの凄《すご》く可愛がられて育ってきた。父と母にぶたれた事は一度もないし、公園で転んで足に擦り傷を作って家に帰った時などは大変だった。本当は大した事ないのに、二人は大慌てで舞の足を消毒し、絆創膏《ばんそうこう》を貼り、さらにその上から包帯を巻いた。それぐらい舞は大切にされてきた。ただその分、両親の期待も大きく、口うるさかった。小さい頃は勉強や習い事を強制的にやらされた。父が大手企業の部長だからという理由で、舞を一流大学に進学させようとしていた。だが、舞はそれが嫌だった。仲の良い友達と何処かへ行ったり、お喋《しやべ》りしたり、将来は好きな人と結婚して子供を二人作って、幸せな家庭を築くというのが夢だった。それなのに二人は分かってくれなかった。
だから舞は両親に反発していた。レールから外れたかったのだ。服装も、母が嫌うような派手系に変えた。友達の影響もあるが、口調も今風にして、夜遊びにも出るようになった。制服も、スカートを短くした。化粧だって始めた。でも、両親はその意味を理解してくれなかった。舞がだんだん悪い子になる、とばかり考えている。だから最近は前にも増して厳しくなった。確かに夜中の二時や三時に帰ってくるのはよくない事だと分かっている。でも友達と一緒にいるのは楽しいし、そういう年頃なんだ、と理解してほしい。そして、もっとお互いを分かり合えるような家族にしたい、と舞は望んでいた。
白い息を吐き出しながら、猛然と自転車をこぎ続けて十五分。舞はようやく、千葉県立|箕浦《みのうら》高校に到着した。今年で創立三十周年を迎え、外壁を塗り直した校舎は真っ白に統一され、まるで建てられたばかりの大きな教会を連想させる。学力も県内トップクラスだ。勉強の出来る舞ですら、ギリギリで入れたくらいなのだから。
自転車を停めて、カゴから鞄を手に取った舞は、生徒たちで溢《あふ》れる下駄箱で上履きに履き替えて、一階の一年二組に歩を進めた。自分のクラスが階段を上らない場所にあるというのは、めんどくさがりの舞にとって嬉《うれ》しい事だった。
教室の扉を開けると、朝からやかましい声が飛び交っていた。男女共にグループを作って話に盛り上がっている。その他の、要するに友達のいない生徒は、机を枕がわりにして寝ていたり、静かに小説を読んだり、つまらなそうにボーッとイスに座っている。高校生にもなって黒板にイタズラ書きをしている男子については、いい加減にしろ、としか言いようがない。
「おっはよ〜舞。遅かったじゃん」
自分の机に鞄を置くと、舞は後ろから抱きつかれた。全く、中村英美《なかむらひでみ》は相変わらずのハイテンションだ。と、少し呆れながら舞は振り返り、英美の調子に合わせた。
「おはよ〜。ちょっと寝坊しちゃってさ〜マジやばいとこだったよ」
そう言うと勘の鋭い英美は、こう訊《き》いてきた。
「まさか、昨日も行ったの? バケトン」
「ピンポーン。当たり」
「好きだね〜アンタも」
そのおばさん口調は止めろ、と内心で突っ込み、こう言った。
「でもさ、昨日のはハズレだったよ。女の人が自殺したらしいんだけど、全然って感じ」
すると英美は残念そうに、
「な〜んだ。怖かったら私も連れて行ってもらおうと思ってたのにさ〜」
と洩《も》らした。
「英美はいいじゃんよ。恰好《かつこう》いい彼氏がいるんだから。そっちと遊んでた方が楽しいって」
「まあそうなんだけどさ〜私もスリルを味わいたいっていうか、そういう年頃っていうか?」
「な〜にがそういう年頃よ、全く」
舞がその部分を突っ込むと、英美はがはははと大声で笑った。それを見た舞は、よくこの子が県内トップクラスのこの学校に入れたな、と改めて思った。
中村英美は、高校に入って初めて出来た友達で、人生の悩み事など一つもないだろうと思うくらい能天気な女の子である。茶色く染めたショートヘアーの前髪を垂らし、耳にはピアスをつけている。顔にはよほど自信があるのか、化粧は薄い。パッチリとした二重瞼《ふたえまぶた》は、整形をしたのではないかと思うくらいキュートである。
そんな彼女はとにかくお喋りで、世間話をし始めたら止まらない。こちらから電話をかける時は、さっさと用件を喋って切らなければ、通話料が恐ろしい事になる。口数の多さで比べると、心霊ツアー仲間の佐野と競うくらいだ。
学校が終わると、バイトか彼氏の方に行ってしまうので、放課後に遊ぶ事は滅多にない。最近は体が相当疲れているのだろう。授業中に、しょっちゅう寝ている。そして教師に怒られて、みんなに笑われるのだ。そんなところが英美らしくて可愛い。
「とにかくさ、怖いバケトンを見つけたら、英美も連れて行くからさ。もうちょっと待ってよ」
英美とは、前からそう約束をしていた。面白い心霊スポットに連れて行くと。でもなかなか一推しのバケトンに巡り合う事が出来ないのだ。
「分かったよ〜早く行ってみたいけど、もう少し我慢してあげる」
英美が生意気にそう言うと、朝のホームルームのチャイムが校内に鳴り響いた。そして五分後、担任が教室の扉を開けた。自分の席に着いた舞は、今日もこれから何時間も授業が続くのかと思っただけで憂鬱《ゆううつ》になった。
この日の学校を終えて、自宅に着くと四時半を回っていた。授業だけでも疲れるというのに、お昼の休み時間も英美の会話につき合っていたので、体はくたくただった。昨日のテレビの話題とか、流行《はや》りの雑誌にあれこれ書かれてあったとか、話は盛り上がるのだが、とにかく口が止まらない。気がつけば、相槌《あいづち》を打つだけの役になっているのだ。そして、お昼ご飯もろくに食べられぬまま、昼休みは終わっている、とそんな感じだった。
もしも放課後に一緒に遊ぶ事になったら、舞の体は壊れてしまうだろう。が、英美は授業を終えると、そそくさとバイト先に向かってしまった。別に彼女の事が嫌いではない。むしろ好きなのだ。それなのに、解放されたという気分になるのは何故だろう。
自分の部屋に入り、制服のままベッドに飛び込んだ舞は、疲れ切った中年のサラリーマンが風呂《ふろ》に入った時のように、はぁ〜と息を吐き出した。
こうしてボーッとしているだけで幸せと思うようになった私は、おばさんなのかしら? と下らない考えに没頭し、突然何かを思い出したようにハッと起きあがると、パソコンの前に向かい電源を入れた。そして、帰ってきた時に欠かさず行っているメールチェックをした。大抵、一件は送られているからだ。
『新着メール一件』
案の定、届いている。しかも、リーダーの黒田からだ。時間は二時と表示されているが、あの男は一体そんな時間に何をしているのだ。今日、バイトは休みなのだろうか。
まあいいと、舞はマウスで矢印を移動させて、メールを開いた。
『おは。昨日はお疲れさん。俺的にもあそこはあまりって感じだったかな。まあそんな事はどうでもいい。昨日はお前たちにさんざん言われたからな、俺は一生懸命探したよ。次のバケトンをな。そしたらな、もの凄《すご》い場所を見つけたんだ。これはマジでやばいぞ。今までにないような話なんだ』
もの凄い場所? 今までにないような話? と舞は期待に胸を膨らませた。
『そこはな、通称、捨て子トンネルと呼ばれているらしい。館山《たてやま》の峠道の途中にあるそうなんだが、何でも二十年くらい前、嵐の夜に、若い夫婦が自分たちの手で殺してしまった赤ん坊をトンネルに捨てて逃げたらしいんだ。でも、その帰り道に事故を起こして病院に運ばれたらしいんだが、その夫婦は死んじまった。けれど死ぬ直前に、女は言ったそうなんだ。トンネルに自分たちの子供を捨ててきたと。それで、すぐに警察が調べに行ったそうなんだが、赤ん坊はそこにはいなかったらしい。姿を消していたのさ。その件があって以来、そのトンネルに入ると赤ん坊の泣き声が聞こえてきたり、赤ん坊の手が急にハンドルに伸びてきて、事故を起こしたり、突然、気分が悪くなったりするそうなんだ。どうだ? これは今までと違って、そそられるものがあるだろう? で、日程なんだが、明日の夜に決行しようと思っている。できるだけ時間を空けておいてほしい。残りの二人も来ると思う。では、返信メールを待っている』
読み終えた舞は、これまでにない興奮を感じていた。
「捨て子……トンネル」
今までは大体、誰かが自殺したとか、子供が事故に遭《あ》ったとか、そういう噂話ばかりだった。が、これは違う。自分たちの子供を殺して、トンネルに捨てた。その夫婦は結局、事故に遭って死んでしまうのだが、肝心の赤ん坊が、姿を消していた……。
「やばいでしょこれは」
ドキドキとワクワクが混ざり合った舞のテンションは、最高潮に達した。行きたいという気持ちに抗《あらが》えない。行かなければ後悔する。
すっかり疲れを忘れてしまった舞は、すぐに返信メールを作成した。
『まだ信用はできないけど(笑)絶対に行く! 夜に出ると親がうるさくてうざいけど、何とか抜け出すよ。任せといて。集合は何時くらいになりそう? それに合わせて準備しておく。今度こそ期待してるからね〜』
書き終えた舞はマウスをクリックして黒田に送信した。もう既に、明日の夜が待ち遠しくて、まるで遠足に行く前日の小学生のように、目を輝かせていた。
そして、待ちに待った夜を迎えた。この日の授業は全く集中する事ができず、早く学校が終わらないかと、時計ばかりを眺めていた。話そうかどうか迷ったが、黙っているのが我慢できなくて、昼休みに中村英美に全てを聞かせると、赤ん坊がだだをこねるように、いいないいな、とうらやましがっていた。あまりにそれがしつこかったので、やっぱり話さない方が良かったかなと舞は苦笑いを浮かべながら、もし本当に怖かったら一緒に行こうと約束をして、何とかその場を抑えたのだった。
家に帰ってきてからは、更に大変だった。仕事でいない父はいいとして、母に気づかれないように振る舞わなければならなかった。舞はすぐに表情に出るので、何か企んでいるんじゃないの? と言われないかずっと胸をドキドキとさせていた。
何とか心の奥を読まれずには済んだが、まだ油断はできなかった。舞には、家から抜け出す、という最大の難関が残っていたのだ。それをどうクリアしようかと、待ち合わせの午後十時まで、舞は作戦を練っていた。
午後九時五十分に、合図は出された。携帯電話に黒田から、もうすぐ着くというメールが入ったのだ。それを確認した舞は、真っ白のタートルネックにジャンパーを羽織り、自宅の鍵《かぎ》をポケットにしまって、静かに自分の部屋を出た。そして、珍しく早く帰ってきた父と母がリビングでテレビを見ている隙に、玄関で靴を履き、扉を閉めて、鍵をかけた。
ステージクリアだ。どうやら今日は私の勝ちのようねと、まるで女スナイパーのように心の中で台詞《せりふ》を決めて、そんな自分が馬鹿に思えて、舞はニヒヒと笑って、待ち合わせをしている近くのコンビニに急いだ。
駐車場には既に、黒田のぼろい軽自動車が停まっていた。豊田は後部座席でボーッとしており、能天気な佐野は、コンビニで飲み物を選んでいた。今日もこのメンバーかと呆《あき》れながら、内心ではホッとしていた。
車のドアをコンコンとノックして、車内にいる二人に手を振り、舞は豊田の隣に座った。
「おう。意外に早かったじゃん。すんなり抜け出してこれたんだ」
黒田がこちらを振り返り、髪をかきあげながら言った。
「うんまあね。今日は全然問題なしって感じかな」
そう返すと、黒田はハハハと笑った。
「舞ちゃんは心配してもらえるだけまだいいよ。うちなんかさ、夜遅くに家でても、何も言われないよ?」
舞からしてみれば、逆にそれは羨《うらや》ましいくらいだった。少しは放って置いてほしいと思う。
「でもうざいよ? うるさすぎるっていうのも」
「そうだろうけどさ、何も言われないのだって悲しいもんがあるよ? 私ってもう見捨てられてる? みたいな感じで」
「そういうもんなのかな〜」
「そうだよ」
舞は、無意識のうちに両親の事を思い浮かべていた。何事にも厳しい父と、口うるさい母。それは、私のためを思って……。でも、もう少し子供の気持ちも理解してほしい。
「ところで本当に今日のトンネル怖いんでしょうね?」
両親の姿を頭から消して黒田にそう尋ねると、自信満々の答えが返って来た。
「任せろって。メール読んだろ? 捨てられた赤ん坊が姿を消したんだぜ?」
「でもそれって作り話なんじゃないの?」
「そうだとしてもさ、やばそうじゃん? 行ってみる価値はあるじゃん?」
確かにそうだ。だからこうしてリスクをおかしてまで、やって来たのだ。
「何だかこわ〜い」
突然、豊田が身を縮めてわざとらしくそう言った。その瞬間、場の空気が一気に下がった。やれやれ、と外を確認すると、ようやく佐野がコンビニでの買い物を終え、車に戻って来た。
「いや〜寒いわ寒いわ。こんな日は暖かいコーヒーでも飲まね〜と体が凍っちまうわ。いや〜寒い寒い」
舞がいる事に気づいていないらしく、佐野はそう言いながら、缶コーヒーをズルズルとすすった。
「あの〜お兄さん」
と、軽く肩を叩《たた》くと、佐野はビクリと反応し、こちらを振り向いた。
「うわお! いたのかい! だったら早く声かけろよ!」
普通、気がつくだろうと思うだけで、口に出す事はしなかった。ここからまたお喋《しやべ》りが長引くと思ったからだ。
「じゃあ揃ったところで、行きますか」
黒田はハンドルを握り、アクセルを踏んだ。
「何分くらいで着くの?」
舞がそう尋ねると、
「一時間くらいかな」
と、黒田は答えた。
「どんなトンネルでも受けて立ってやるぜ」
佐野がそう意気込むと、
「今日は脅かすの止めてよね」
と、豊田が言った。
そのやり取りを見て、今日もいつもの調子でツアーは終わってしまうかもしれないと、舞は思った。
車を走らせてから四十五分が経とうとしていた。黒田の言う昴《すばる》峠にはまだ到着する気配はなく、一般道路を進みながら、四人はいつもの調子で話に盛り上がっていた。
「ところで黒田の兄さんよぉ」
佐野の言葉に黒田は前を見ながら、
「ん?」
と返す。
「どうでもいいんだが、アンタ昨日、二時くらいにメール送ってきただろ。あんな昼間に何やってたんだ。バイトは?」
別に訊《き》こうとは思わなかったが、舞も一応、それは気になった。
「昨日は休んだの! お前たちがリベンジしろリベンジしろうるせ〜からな。だからトンネル情報を色々調べてたんだ。いいか? こっちは一人暮らしで生活かかってんだ。こんな事で休ませるなよ。責任者にだって怒られたんだぜ?」
黒田の文句に、佐野が食い下がる。
「いやいやいやいや! 誰も休んでなんて言ってね〜し! 勝手に休んだんだろ?」
「まあそうだけどな」
なんだそりゃ、と舞は首を傾げた。
「でさ、何で大学へは行かないの?」
ついでだからいいだろうと、前にも訊いた質問を舞はぶつけてみた。
「またそれかよ。だから色々と事情があるんだって」
一度目もそうやってかわされた。だが今日はしつこくねばってみる事にした。
「いいじゃんいいじゃん教えてよ。私の今後の人生のためにさ」
「は〜い。私も訊きたいで〜す」
舞の後に豊田も手を上げて黒田に迫った。すると黒田は突然、黙《だんま》りをきめこんだ。
急に様子がおかしくなるなんて、あまり触れちゃいけない事だったのかなと舞が心配していると、空気を読めない佐野は、
「どうしたリーダー。いいから喋っちゃえよ。仲間だろ?」
と、軽い口調でそう言った。もう止めなよ、と小さな声で佐野を注意しようとしたのだが、黒田がようやく口を開いたのだ。
「俺なあ、本当は今頃、大学生だったんだぜ」
何かを思い出すように、それは重い口調だった。
「じゃあどうして?」
と舞が尋ねると、
「聞きたいか?」
と逆に訊き返されてしまい、教えてくれるのならと、舞は頷《うなず》いた。
「実はな、俺は城西大学に受かったんだ」
その事実に、舞は思わず声を上げていた。
「凄いじゃん」
城西大学に入るためには、かなりの偏差値が必要であろう。それに通るとは。
「じゃあ、何で?」
豊田がその先を知りたがる。そう、肝心なのはここからだ。
「聞きたいか?」
またそれか、と舞は黒田をはたいてやろうかと思った。佐野がたまらず、
「早くしろ!」
と吠《ほ》えた。
「手続きミスだ」
ポツリと言ったその言葉が聞き取りにくくて、舞が、
「え? 何?」
と確認すると、
「だから手続きミスだ。俺が日にちを間違えていて、入学手続き出来なかったんだ。はいおしまい」
と、黒田はあっけらかんとそう言った。その瞬間、静まり返った車内に、ドッと笑いが起こった。
「ははははは! なんだそりゃ〜。絶対馬鹿だ! アホすぎる〜」
佐野が黒田を指さして、腹をかかえる。
「おいおい笑うなよ。俺にとっては辛《つら》い過去なんだからな」
それは分かるが、間抜けは間抜けだ。笑いを抑える事が出来ない。舞は座席の上でコロコロと暴れた。
「お腹痛い。ちょ〜ウケるんだけど」
出だしが深刻だっただけに、相当ブルーな出来事なんだろうなと予測していたら、あの落ちである。三人の笑いが止んだのは、しばらく経っての事だった。
「それにしても、もったいね〜な〜」
落ち着きを取り戻した佐野が、そう言った。
「今更そんなこと言ったって仕方ないだろ。やっちまったものはやっちまったんだからよ」
「でもね〜」
「ね〜」
と、舞と豊田は顔を見合わせ、ププッと吹き出す。
「うるせえお前ら! 人の不幸を笑うんじゃね〜」
黒田のお説教など、三人には効かなかった。再び車内は騒がしくなった。舞の頭の中からは、トンネルの事などすっかり消えてしまっていた。それを思い出させたのは、黒田の、この一言だった。
「おい。あれ見ろよ」
その声につられて前方を確認すると、標識の右斜めの矢印の上に「昴峠」と書かれていた。それを認めた佐野、豊田、舞の三人は、押し黙った。
「なんだ。急に怖じ気づいたか」
と黒田にそう言われ、佐野が反論した。
「んな訳ないじゃん! 行こうぜ」
そうは言うが、車内が突然重苦しい空気に一変した。それが何故だか、霊感がない舞にも分かっていた。人間を寄せ付けようとはしないこの独特の雰囲気は、何だ。今までにこんな事は一度もなかった。
黒田がハンドルを右に切ってしばらく進むと、雨がポツポツと降り出してきた。
来るな、という赤ん坊の警告だろうか。その声に逆らうようにして、舞たちは真っ暗闇の峠道に入り込んだ。
右に左にクネクネとした上り道を、黒田はゆっくりと進んで行った。前方はライトでしっかりとよく見えるのだが、左右は真っ暗で、ガードレールですら確認しづらい。その先は崖《がけ》のようで、派手な事故を起こせば即死するだろう。
ドラマで車が転落するシーンを思い浮かべてしまった舞は、急に不安になった。
「ねえ運転、気をつけてよ?」
黒田に注意を促したが、返答はない。キュキュキュ、というワイパーの窓をこすりつける音が聞こえるだけだった。運転に相当神経を遣っているのだろう。
「だ、大丈夫だろ。こんなにゆっくりと走ってんだから」
赤ん坊の噂と、妙に物静かなこの雰囲気に臆《おく》しているのか、それとも、今走っている道があまりにも危険でビビッているのか、佐野の口調もひきつっていた。峠に入ってから口数も減ってしまった。明らかに、いつもの彼では、ない。本当ならここら辺で怖い怖いと騒ぐ豊田も、じっと前方に集中している。口には出さないが、みんな、何かを感じとっている。事実、舞はいつものように、キョロキョロと周りを確認しなくなっていた。自分の横顔が映っているサイドガラス越しに、見覚えのない何者かが、こちらをじっと見つめているような気がしてならないのだ。後方からは赤ん坊を捨てた両親の幽霊が追っかけてきているのではないかと考えてしまうのだ。このシトシトと降る雨も、捨てられた赤ちゃんの涙なのではないかと。
ううん考えすぎよ、と舞は、自分の想像を否定するように、左右後方を確認した。
ほら。何もない。ただみんなにつられて、私も怖がっていただけよ。
でも何故だろう。これを望んでいたはずなのに、引き返したいと心のどこかで願っている。トンネルを見てみたいという気持ちの方が勝っているのに。
いや、どちらにせよ、引き返すという選択をとっても受け入れられないだろう。黒田が目の前にある、先の見えない大きなトンネルに、もう指をさしてしまっていたのだから。
「あれだ」
黒田がそう言うと、たっぷりの間を置いて、
「あれが、捨て子トンネル」
と、豊田が呟《つぶや》いた。
もう、頂上に近いのだろうか。いつの間に、館山の街を見下ろす高さまできていたのだろうか。サイドガラス越しの眼下には、辺り一面、建物の光がちらばっている。風がもの凄《すご》く強くて、窓を完全にしめているのに、ビュンビュンとハッキリと聞こえてくる。雨は、更に強くなり、横殴り状態となった。
黒田は一度車を停めた。
一直線の先にあるトンネルに近づいたら最後、吸い込まれて戻って来られないとでも思ったのだろうか。ただそれは舞の想像で、舞自身、全身に鳥肌を感じるが、いざ目にしてみると、やはりいつもと変わらぬバケトンで、少し考えを膨らませすぎていたのかもしれないと思ったのも確かだった。
「入るぜ?」
黒田の合図には、誰も返事をしなかった。
「行くぞ?」
佐野も豊田も何かを迷っている様子だったので、舞が代表して、いいよ、と答えた。
「よし」
息を凝らした黒田が、アクセルをほんの少しだけ踏むと、歩く速度と変わらないくらいノロノロと、車はトンネルの中に入った。
先の見えない、洞窟《どうくつ》のような、筒の中。進んでも進んでも風景は同じで、出口が、見えない。
「おい……ここ、大丈夫か?」
佐野が真剣な口調で、そう言った。こんな台詞《せりふ》を吐くのは初めての事だった。
「どうしたの?」
舞がそう訊《き》き返すと、
「いや……何か変だぜここ」
と、右、左と首を動かしながら、怖々と呟いた。
「何が変なのよ」
舞も一緒に周りに目を持っていくが、見る限りでは、いつものトンネルと何ら変わらない。
「誰か、いねえ?」
その瞬間、舞は背中に冷たいものを感じた。
「冗談でしょ」
佐野の事だから、どうせまたみんなを驚かすつもりでしょと、その時は思った。だが、明らかに、佐野の様子は違うのだ。
「冗談じゃねえって。何かどっかで見られてる気がする」
「嘘だろおい」
黒田もそんな気配は感じないのか、舞と同じで、疑いの目を佐野に向ける。
「どうするよ。車から出る?」
一応のつもりで黒田は言ったのだろうが、彼自身、その気はなさそうだった。
いやそれどころではなかった。今度は、先ほどからずっと口を閉じていた豊田が急に、ゼーゼーと息を荒らげだしたのだ。
「ねえ大丈夫?」
舞が心配そうに声をかけると、豊田は辛《つら》そうに、こう洩《も》らした。
「なんか……気分悪い。息苦しい」
「お、おいおいマジかよ」
黒田の言葉が、微かに震える。これはただ事ではないと、一旦《いつたん》真ん中辺りで停車させて、豊田の様子を窺《うかが》った。
「大丈夫かおい」
黒田の問いかけに、豊田は目を瞑《つぶ》りながら首を小さく縦に動かした。それを見て、舞は少し安心した。が、今度は佐野の呼吸がおかしいのだ。
「お前もかよ。どうした」
「体が、怠《だる》い……大丈夫だけど。でも、早く出た方がいいよ。ここやばい」
別に霊感がもの凄く強い訳でもないこの二人の急変に、舞も少しパニックになっていた。実際にこのような現象を目の当たりにして、初めて分かった。自分は、心霊スポットを馬鹿にしすぎていたと。
「ねえまさか、赤ん坊の噂って本当なんじゃないの?」
体の異変を訴える者まで出てきているのだ。今はそれどころではないと分かっているのに、確かめられずにはいられなかった。
「そんなこと知るかよ!」
黒田の怒声が飛んでくる。
「どうするのよねえ!」
舞に決断を迫られた黒田は、
「やべえな! 出よう!」
とハンドルを両手で強く握った。
その時だった。
何処からともなく、おぎゃーおぎゃーと、赤ん坊の泣き声が聞こえてきたのだ。初めのうちは幻聴かと思うくらい小さかったのに、段々と大きく、ジワリジワリと響いてくる。目の前に、赤ん坊がいるのではないかと思うくらいに。
「いや! 何よこの声!」
混乱する黒田と舞は耳を塞《ふさ》いで泣き声を遮断させようとする。が、脳にこびりついて離れない。佐野と豊田は座席でグッタリとしてしまっていて、何の反応も、ない。
「もういや! ねえ早く!」
耳に手をあてながら、舞はそう叫ぶ。黒田は小刻みに頷《うなず》き、慌てて車を走らせた。
おぎゃーおぎゃー。
まるで追っかけてくるように、泣き声は止まらない。出口にまだ、辿《たど》り着けない。黒田はアクセルを踏み込み、急加速させた。逃げるように、振り払うように。
舞は目を瞑る。体を震わせながら、両手の内にある耳を引きちぎるくらいの力で握りしめた。
お願いもう許して。お願いだから!
と、心の中で叫んだ、その時だった。突然黒田が狂ったような悲鳴を上げた。
「うわああああああ!」
急ブレーキで助手席の背中に突っ込んだ舞は、頭を抱えながら、痛みを堪《こら》えて黒田に尋ねた。
「ど、どうしたの!」
気がついた時にはもう、けたたましい泣き声は、消えていた。それなのに、黒田の様子がどうもおかしい。目を剥《む》きだして、前方を指さし、あれ、あれ、と繰り返している。
あれ?
声に出す前に、舞は、ゆっくりと、黒田の指の方向に、目を向けた。するとそこには、真っ白いおくるみに包まれた赤ん坊が、寂しく地面に置かれていたのだ。まるで、捨てられたかのように。寒いよ、寒いよ、と。
それをハッキリと見た舞は、こみ上げてくる恐怖を口から吐き出した。
「きゃあああああああああああああ!」
翌朝、凍るような寒さに身を縮めながら自転車をこぐ舞は、手を繋《つな》ぎながら仲良く歩く二人を見つけて、気づかれないように接近した。そして、中村英美の耳元で、ワッと驚かした。
「きゃあ! びっくりした〜。何だ〜舞か〜朝から脅かさないでよ」
その声に、隣にいた英美の二つ上の彼氏である秋野太一《あきのたいち》も、まだ醒《さ》めてないトロンとした目を大きく見開き、敏感に反応した。
「何だよ〜舞ちゃんか〜」
期待以上のリアクションに、舞はクスクスと笑う。
「どうも先輩。おはようございます」
舞は自転車から降りて、二人のペースに合わせる。
「何よ舞〜何かいいことでもあったの? ニヤニヤしちゃってさ」
英美にそう言われ、舞は、不気味な表情を見せた。
「実はね、昨日、行ったのよ」
「え? その、バケトン? で? どうだった? 怖かった?」
「それがね……」
語尾を伸ばし、たっぷりと間を溜《た》めてから、こう言った。
「めちゃめちゃ怖くてさ! マジやばいのなんのって」
「そんなに凄《すご》かったの?」
「え? 何が何が」
横で聞いていた秋野がすかさず割って入ってきた。
「だから昨日ね、舞がお化けトンネルに行ったんだって」
秋野に適当にそう答えた英美は、再び舞に体を向ける。
「それでそれで?」
「でね、トンネルに入った途端、友達が急に気分悪くなっちゃってね」
「え? マジ?」
「それで、ここは本当に危なそうだから、出ようって、もう一人の友達と話してたの。そしたらさ」
英美は、唾《つば》をゴクリとのみ込み、
「そしたら?」
と顔を近づけた。舞はヒソヒソ声でこう言った。
「今度は赤ちゃんの泣き声が聞こえてきてね、逃げようって車を走らせたらさ、真っ白いおくるみに包まれた赤ん坊がね、道の真ん中に、置かれていたのよ」
予測もしていなかった展開に相当驚いたのか、先に声を発したのは、秋野の方だった。
「うわ! マジかよ!」
「それ、本当なの?」
「本当よ。もうビックリしちゃってさ」
「それで……どうしたの?」
続きを知りたがる英美に、舞は意地悪な表情を浮かべて、
「ヒ、ミ、ツ」
と焦《じ》らした。
「え〜何で〜」
「そんなに聞きたい?」
「うん。聞きたい聞きたい」
「じゃあ……行こうよ。バケトン」
その提案に、英美は心底、驚いた顔を見せた。
「え? 昨日の?」
「モチそうでしょ。怖いスポットがあったら行きたいってずっと言ってたじゃん」
「そうだけど……やばいんでしょ?」
「そりゃ少しはやばいけど、大丈夫。次の日になれば、楽しかった、に変わってるよ」
舞の説得に、英美は眉《まゆ》を下げて考え込む。
「え〜どうしようかな〜」
「行こうよ。行くべきだって!」
「う〜ん。じゃあ……行く!」
「おいおいマジかよ!」
英美の決断に、秋野が躓《つまず》いた。
「一回くらい行きたいと思ってたからさ!」
「俺はしらね〜ぞ。どんな目に遭《あ》っても」
「何言ってんの? 太一も行くんだよ。そうでしょ? 舞」
「勿論《もちろん》。車がないからね。この中で免許を持っているのって、先輩だけだからさ」
「ふざけんなよ。俺は嫌だぜ」
行くことを拒む秋野に、英美が猫なで声で、
「え〜お願い。一生のお願い。行こうよ。行ってみようよ〜」
と可愛く迫った。
「お前、本気かよ」
「うん。もしやばかったら、すぐに帰ってくればいいんだし」
それでも秋野はなかなか了解しなかった。ブツブツと何かを言いながら、ずっと躊躇《ためら》っていた。しかし、英美の前で怖じ気づく訳にもいかなかったのか、ようやく決意したようだ。表情がたくましくなった。
「よし。行ってやる。そのかわり、すぐ帰るんだぞ」
「さすが先輩。そうこなくっちゃ」
「やった! で、いつにする?」
英美にそう訊《き》かれ、舞は即答した。
「今日だよ。その方がいいって」
「今日? 今日か……」
「まあ、俺は平気だぜ」
「うん。私も、バイトはないし、大丈夫かな」
「じゃあ決まり! 時間は……夜の十時くらいがいいかな」
「十時ね。OK!」
「よし分かった。親の車借りて迎えに行くわ。どこで待ち合わせる?」
「う〜ん。じゃあ、私の家の近くにコンビニがあるの。そこでいい? 英美なら分かるはずだから」
「ああ。あそこね。じゃあ、太一と一緒に行くから」
「うん。分かった」
一通りの打ち合わせを終えた頃には、三人は学校の校門をくぐっていた。秋野とは下駄箱で別れた。上履きに履き替えた二人は一年二組に向かう。
「何かマジ興奮してきちゃった! なんてったって、お化けトンネルなんて初めての体験だからさ」
「大丈夫。余裕よ」
教室に着き、舞は自分の席に座る。落ち着かないといった様子の英美が、机に鞄《かばん》を置いてこちらに歩み寄って来る。
「ねえねえ」
手鏡で自分の顔を見つめながら舞は、
「うん?」
と返す。
「もし、気分が悪くなったり、赤ちゃんが現れたら、どうすればいいのよ」
不安そうな英美に対し、舞は簡単に、こう答えた。
「その時は逃げればいいのよ」
「さすが経験者は違うね。冷静だもんね」
そう言われた舞は、英美を一瞥《いちべつ》し、
「ええ。そうね」
と、サラッと返し、再び鏡に目を持っていった。
「とにかく今日はお願いね。太一も私も、そういう所は慣れてないんだから」
「分かってる」
「それと、今日の授業は基本的に寝させてもらいます。夜に眠くならないようにね。だから、後でノートお願いね」
片目を瞑《つぶ》り両手を合わせる英美に、舞は体を向けて満面の笑みを浮かべた。
「分かったわ。任せといて」
「ありがとね!」
そこで、朝のホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。英美は自分の席に戻って行く。舞は、その後ろ姿を見つめて、前髪をかき上げた。
この日の授業を終え、学校から自宅に戻ってきた舞は、自分の部屋に閉じこもり、パソコンの前でカタカタとキーボードを叩《たた》いていた。
睨《にら》み付けるような目で画面に釘付《くぎづ》けになっていた舞は、ふと、英美の顔を思い出す。
彼女とは途中まで一緒に下校し、じゃあまた後でねと、別れた。あの様子からすると、今日の夜を相当楽しみにしているに違いない。
「十時……夜の十時」
と確認するように呟《つぶや》き、舞は再びキーボードを弾《はじ》く。そして作業を終え、手鏡で自分の顔をしばらく見つめた後、分厚い赤色のアルバムに手を伸ばした。
一ページ目を、ゆっくりと開く。
そこには、髪もはえそろっていない、生まれたばかりの赤ん坊の写真。
舞は顔の部分を優しく丁寧になでる。うっとりとした瞳《ひとみ》で、見つめながら。
次のページには、保育園内で友達と遊ぶ写真が収められている。その光景に舞は、微笑む。
更にページをめくると、赤いランドセルを背負って、小学校の校門前で笑っている写真。次に、運動会。合唱会。修学旅行。
様々な想い出が詰まっている。長い年月が一冊にしまわれている。
「そうよ。これからなのよ」
舞はそう呟いて、今度は中学時代の写真が収められている青いアルバムを開いた。そして一枚一枚見ていった。時間をかけて、じっくりと。時が過ぎるのを、すっかりと忘れて。気がついた頃にはもう夜の七時を回っていた。
あと、三時間。舞はそう、口を動かした。
母の声が一階から聞こえてきたのは、七時を回ってから十分後の事だった。
「舞? 舞? 夕食が出来たから下りてらっしゃい」
アルバムを閉じた舞は、元の位置にしまい、無言で自分の部屋を出た。静かに階段を下りる。丸いテーブルには食事が並べられ、父と母が席に着いていた。テレビからはニュースキャスターの声。
イスに座った舞は、箸《はし》を手に取り、いただきますと小さく言ってご飯を口に運んだ。父と母は黙っている。テレビの音が空間を支配している。舞は二人に一瞥もくれない。
「舞」
母が急にテレビを消して、怒ったように口を開いた。舞は目だけを持っていく。
「何か言うことはないの?」
「言うこと?」
「昨日の夜にまたこっそり家を抜け出したんじゃないの?」
舞は思い出すような素振りを見せて、
「ああその事」
と呟いた。
「その事じゃないでしょ? あなた本当にいい加減にしなさいよ?」
舞は聞こえていないという風に、箸を止めずに食事を続ける。
「お父さんとお母さんがどれだけ心配していると思っているの!」
父の方に目をやると、鬼のような目でこちらを睨んでいる。
「真剣に聞きなさいよ!」
母の怒声が飛ぶ。舞は、表情一つ変えない。
「いい? もう次はないと思いなさいよ? もし今度夜に家を抜け出したら、家に入れないから。そのつもりでいなさい」
無反応の舞に、とうとう父が口を開いた。
「おい! 返事くらいしたらどうなんだ!」
父の激昂《げつこう》に、舞の箸が止まった。
「あなたまさか、今日も抜け出そうと考えているんじゃないでしょうね」
母にそう突っつかれて、舞の眉毛《まゆげ》が、ピクリと動く。
「そうなの? そうなのね? じゃあ今ここで言っておく。いい? 絶対に行かせないからね? 分かったわね?」
何度も何度も念を押す母は、黙っている舞に呆《あき》れた表情を浮かべる。
「ねえ舞? どうしてお父さんとお母さんがこれだけうるさく言うか分かる? あなたが大好きだし、期待してるのよ。それなのに横道にそれて私たちを裏切らないで。お願いだから。ね?」
優しい言葉にも、舞は何も答えなかった。ただ、
「ごちそうさま」
とだけ言って立ち上がり、自分の部屋に戻って行った。舞の頭の中には、十時に待ち合わせ、という文字しかなかった。
机の上で両手を交差させ、目を瞑《つぶ》りながら静かにその時を待っていた舞は、カッと瞼《まぶた》を開いた。
九時五十分。もうそろそろ待ち合わせの時間だ。準備は整っている。あとは家を出るだけだ。そして二人をトンネルまで案内すればいい。スーッと立ち上がった舞は、自分の部屋を後にした。
両親の事など気にせずに堂々と階段を下りた舞は、玄関に座って靴を履く。右の紐《ひも》をしめて、左も同じように。そして、さあ、と立ち上がった瞬間、今だ、というように、父と母が駆け込んできた。
「舞!」
母の声を背中で受けて、舞は、驚いた様子も見せずに振り返る。
「何してるんだ!」
父の怒りは最高潮に達していた。
「別に」
「別にじゃないでしょ! さっきお母さんが言った事、忘れたとは言わせないわよ! 家から一歩でも出てみなさい! もう家には上がらせないから!」
母の目一杯の脅しにも、舞は、動じなかった。
「いいよ。それでも」
その態度にとうとうキレた母が、舞の服を掴《つか》んだ。
「どうしてお母さんの気持ちを分かってくれないの舞は!」
「離して! 離して!」
「いい加減にしなさい!」
二人はもみ合う。父はどうしたらいいのか分からず、立ちすくむ。
「いいからこっちへ来なさい! ほら靴ぬいで!」
強烈な力でしつこく引っ張る母を、舞はギラリと睨《にら》んだ。そして、母の手首を思い切り掴み、
「離せ」
と突き飛ばした。よろけた母は、父に受け止められた。
「ま、舞……」
今までこんな反抗的な態度をとった事がなかった舞に二人は驚き、呆然《ぼうぜん》と固まってしまった。その沈黙の間に、舞は、扉を開けて外に出た。
「舞! 舞!」
母の呼び止める声が聞こえてきたが、舞は闇の中へと消えていった。
待ち合わせのコンビニに到着すると、シルバーのセダンから英美が降りてきた。
「舞」
「英美」
「寒いね〜さあ乗って。早速、行こう」
「うん」
舞は後ろのドアを開き、後部座席に座った。英美は助手席に。秋野がこちらを振り向き、笑顔を見せた。
「待ってたよ」
「すみません先輩。わざわざ車だしてもらっちゃって」
「まあそれはいいんだけど……本当に大丈夫? 危険って事はない? 昨日は赤ん坊の幽霊が出たんだろ?」
臆病《おくびよう》な秋野に、舞は、
「大丈夫です」
と言った。
「それならいいんだけど……何か心配だなぁ。あまりそういうの馬鹿にしない方がいいと思うんだけどな〜」
いつまでもグダグダ言っている秋野に、英美が割って入った。
「いいからいいから行こうよ! せっかくこうやって集まったんだよ? ずっと楽しみにしてたんだから。やばかったら逃げればいいんだし。ね? 舞」
「ええ」
「私たちは初めてだけど、経験者がいるんだから心配ないって!」
二人の説得に、秋野は躊躇《ためら》いながらも、
「……よし! 行ってみるか!」
と、自らを強引にその気にさせていた。
「……では、レッツゴー」
英美のその合図で、三人は昴峠へと向かったのだった。
舞に家を出て行かれ、抜け殻状態となってしまった母、美奈子《みなこ》は、ソファの上で、頭を抱えていた。その隣には、目を瞑り腕組みをしながら何かをじっと考えている父、俊夫《としお》。
沈黙の中、美奈子が呟《つぶや》く。
「あの子があんな態度をとるなんて……今まで私たちに反抗した事なんてなかったのに」
俊夫の反応はなく、美奈子だけがブツブツと繰り返す。
「どうしてあんな子になってしまったのよ。私はあの子を愛しているのに。何で分かってくれないの」
そして美奈子は、こう付け足した。
「あの日から私は、舞を一生大切にしようと決めたのに」
「おい」
ずっと口を閉じていた俊夫が、美奈子を止めた。
「それはもう言わない約束だろ」
「分かってる。分かっているわよ。でも……私」
両手で顔を覆い隠して魂の抜けたため息を吐《つ》いた美奈子は、表情を一変させて立ち上がった。
「もういいわ。こうなったら強引に連れ戻すわ」
「連れ戻すって言ったって、居場所が分からないだろう」
確かにそうだ。口ではそう言ったものの、舞が今どこにいるかなんて知る由もない。だが、意地になっていた美奈子は、ここで引く訳にもいかなかった。大きな音を立てながら階段を上り、舞の部屋に入った。ちょうどその時、机の上のパソコンが視界に入り、美奈子は夕方の出来事を思い出した。
いつも学校から帰って来た時は、舞は必ずただいま、と声をかけてくるのだが、今日は何も言わずに自分の部屋に閉じこもってしまった。何か様子が変だなと思った美奈子は、扉をノックして中にいる舞に呼びかけたのだが、無反応だった。ただ、カタカタとパソコンのキーボードを打つ音だけしか聞こえてこなかったのだ。
あの時、舞は何をしていたのだろうか。
ふとそう思った美奈子は、パソコンを立ち上げた。そして、慣れない手つきでマウスを動かし、気になるところはないかと、目で追った。すると、こんなファイルがすぐに見つかったのだ。
「バケトン……日記?」
バケトンとは何の事だろうと疑問を抱き、美奈子はマウスをダブルクリックして開いてみた。
『二月十五日』
「……三日前だわ」
『黒田さんに誘ってもらって今日もいつものメンバーでバケトンに行ってみたけど、やっぱり期待はずれだった。次こそは必ず本物のバケトンに行くぞ!』
読み終えた美奈子は、画面から一旦《いつたん》、目を離し、
「黒田? いつものメンバー?」
と首を傾げた。
舞が夜中に抜け出す原因を作っているのはこの子たち? その子たちと一体、何をしているの。それに、バケトンって。
『二月十六日』
一昨日だ。
『今、黒田さんからメールが送られてきた! しかも今度のバケトンはかなり凄《すご》そう。何てったってそこは、捨て子トンネルって言われていて』
その瞬間、美奈子は身震いを感じた。次第に耳が熱くなり、体中が締めつけられた。
「捨て子……トンネル」
嘘よ嘘でしょ?
まさかあの子。
『二十年くらい前に若い夫婦がそのトンネルに死んだ赤ちゃんを捨てたらしくて、でもその夫婦は事故で死んじゃうんだけど、捨てたはずの赤ちゃんは、トンネルから消えていたらしい。確かに今までとは違う気がするし、もし噂が本当なら……。ちょっと怖いけど行こうと思う。場所は館山。もう頭の中、明日の事で一杯だぁ〜』
まるで何かに取り憑《つ》かれるかのように画面に釘付《くぎづ》けになっていた美奈子は、マウスを力強く握りしめていた。
十六日にこう書いてあるという事は、昨日、舞はあのトンネルへ行ったの? そうなの? 嘘でしょ? 冗談でしょ? 本当なの?
八月一日。
強い風が吹く暗闇のトンネル。
あの日、私たちは。
「舞……」
日記に書かれてある内容に混乱してしまった美奈子は、眩暈《めまい》を起こした。目の前がちらついていて、立っているのがやっとだ。イスに手を置いてようやく落ち着きを取り戻した美奈子は、再びマウスを握り、先ほど書いたと思われる、今日の日記を開いてみた。が、そこには美奈子にとって、衝撃的な内容が記されていた。
「ね、ねえ……何よこれ。どういう事」
ヒンヤリとしたものが背筋に走る。手の平にはじんわりと汗が滲《にじ》み、震えがこみ上げてきた。
どういう事よ!
「あ、あ、あなた! あなた! 来て! 早く来て! あなた! ねえ早く来て!」
悲鳴にも似た美奈子の叫び声に、何事かと俊夫が部屋に駆け込んで来た。
「ど、どうした!」
青白い顔の美奈子は、画面をただ指さした。
「なんなんだ一体!」
「い、いいから、こ、これ読んで」
言葉にできるのはこれがやっとだった。喉《のど》が渇いて、うまく言葉を伝える事ができない。
「なんだって言うんだ」
俊夫は愚痴りながら、画面の文章を、目で追っていく。次第に、俊夫の顔色も、段々と真っ青に変わっていく。目を剥《む》いて、口を大きく開いて、あ、ああ、と洩《も》らす。
「こ、これは……」
「ねえ、どういう事よ」
「こ、これはどういう意味なんだ! どうして!」
「ねえ! あなた!」
「黙ってろ!」
二人の怒鳴り声が重なる。部屋が再び静まり返る。
「行くんだ」
俊夫が突然、決意するようにそう言った。
「え?」
「行くんだよあのトンネルへ! 舞を助けに行くんだ!」
放心していた美奈子はようやく意味を理解し、
「え、ええ」
と頷《うなず》いた。
舞の部屋から出た二人は玄関に急ぎ、車のキーを手に取った俊夫が扉を開いた。その時、ふと美奈子がこう洩らした。
「ねえあなた……」
「なんだ」
「もしかして私たち……幸《ゆき》を捨てたんじゃなくて、舞を捨てたんじゃないの?」
そんなはずはないだろう。
俊夫の背中から、小さな声が返ってきた。
昴峠と書かれた標識を発見した秋野は、
「次を右に曲がればいいんだな?」
と舞に確認した。
「そうです。右に曲がって真っ直ぐです」
「了解」
秋野はウインカーを右に出してハンドルを切る。車の多い大通りから、民家ばかりのひっそりとした道に入る。
「ここをずっと真っ直ぐ行けば、峠に入ります」
舞がそう説明すると、
「じゃあもうすぐなの?」
と、興奮気味の英美が言った。
「そうよ。もうすぐ」
そう答えると、秋野が妙にキョロキョロとし始めた。
「この道ですら少し気味悪いもんな〜。本当に大丈夫かよ」
峠にすら入っていないというのに、秋野は既に雰囲気にのまれている。
「まだそんなこと言ってんの? ここまで来たんだからもう引き返せないからね」
「分かってるよ。分かってるけどさ〜」
情けない声を出しながらも、秋野は車を前へ前へ走らせていく。舞は後部座席から秋野の後ろ姿を見据えていた。
その時突然、携帯電話の着信音が聞こえてきた。
「舞じゃないの?」
そう言われてやっと、舞はポケットから携帯を取り出した。
「誰?」
英美の問いに、舞は、
「あの二人か」
と呟《つぶや》いた。
「え? あの二人?」
「ううん。何でもない」
「出なくていいの?」
「ええ。別にいいわ」
どうせここに来るんだし。
「え? 何か言った?」
「言ってないよ。気のせいでしょ?」
そう言い聞かせると、急に英美が話題を変えてきた。
「ねえ。そういえば舞」
「何?」
「訊《き》こうと思ってたんだけどさ……その赤ん坊の噂話ってのは、本当にあった事なのかな?」
英美の素朴な疑問に、舞はハッキリと、こう断言した。
「ええ。そうよ」
「え?」
予想外のその答えに、車内が一瞬、凍り付いた。英美が咄嗟《とつさ》に舞に振り向いた。どうして言い切れるの? と言いたげな表情を浮かべて。
「どうしたの? 私の顔をジロジロ見ちゃって。何かついてる?」
ポカンと口を開けたままの英美は、その言葉にハッとなり、作った笑みを浮かべた。
「う、ううん。何でもない。それよりも舞? さっきから何か、様子変じゃない?」
「全然変じゃないわよ? ねえ先輩」
「ああ。別に普通だろ?」
「そう? そ、そうよね」
とは言うものの、英美はあまり納得がいかない様子だった。微かに首を傾げたのを舞は見逃さず、フッと笑った。
英美は今、何を考えているのだろうか。
この時にはもう車は、昴峠の真っ暗な坂道を上ってしまっていた。
十キロくらいのスピードで車は徐々に道を進んで行き、目の前にある大きなトンネルを確認した舞が、とうとう車内の沈黙を破った。
「あれよ」
その一言で、一気に空気が張りつめた。
周りには霧がかかり、先の見えない、通行人をのみ込むような、長いトンネル。
あまりの緊張に耐えきれず、秋野がブレーキを踏み一旦《いつたん》停車させ、重い口を開いた。
「あれが……捨て子トンネル」
「ええ」
「たくさんの人が、あそこで事故を」
それには舞は、何の反応もしなかった。
「やっぱり……引き返すか?」
秋野のその意見に、英美も、否定はしなくなっていた。
「大丈夫ですよ先輩。ゆっくり入れば事故なんて起きませんよ。さあ、行きましょう」
舞が強引に説得すると、秋野と英美は顔を見合わせた。
「まあ、そうだな。慎重にいけば、大丈夫だよな」
自分に言い聞かせるように、秋野はそう言って、アクセルを、踏んだ。そして、車はとうとう、捨て子トンネルに、入ってしまった。
「何だかんだ言っても……見た目は普通のトンネルだよな」
右、左と確認しながら、ゆっくりと先に進んで行く。洞窟《どうくつ》の中を、探検するように。
「そう? 何だかやっぱり……気味悪いよ」
秋野と英美のやり取りを、舞は黙って聞いていた。
「やっぱり興味半分で来るんじゃなかった。マジで何かが出そうだし」
「だから言っただろ。こういう所をなめるんじゃねえって」
「う、うん」
それからしばらく、会話のない状態が続いた。トンネルの風景は、入り口から全く変わりなく、出口まで、このままのはずだった。
「さっきから黙ってるけど、ねえ舞は怖くないの?」
前方を向いていた英美が、舞に振り返る。
「全然。怖くないけど?」
平気な顔をしてそう言うと、
「やっぱり経験者は違うね。私、やっぱりこういう所だめだわ。来てみて初めて分かった」
と、英美は向き直った。
「だからさっきから言ってるだろ。懲りればいいんだそれで。ね? 舞ちゃん」
「ふふふ。そうね」
もうツアーはこのへんでいいだろうと判断したのだろう。秋野がトンネルの真ん中でゆっくりと進ませていた車を停めた。その途端、マフラーから出る音が小さくなり、車内が静かになる。
「さて。そろそろ帰ろうか」
行く前の英美なら、この発言を許さなかっただろうが、今はすっかり意気消沈してしまっていた。
「そ、そうだね……何も、出ないうちにね」
「舞ちゃんも、それでいい?」
振り返る秋野に、舞は、何も言わずに頷《うなず》いた。
「じゃあ、行こう。今日はいい経験になっただろ。これで満足だな? 英美」
しつこい秋野に、英美は、
「だから、うん、って言ってんじゃん」
と少しムキになりながら答えた。
「では、出発」
と、秋野がハンドルを握った、その時だった。キーも何もいじっていないはずのエンジンが、急にストップした。
その瞬間、前方の明かりが消え、エンジン音が、ピタリと止まる。車内が一気に、静まり返る。外からの風が、ひゅーひゅーと聞こえてくる。
「やだ! 何どうしたの?」
前も何も見えない状態の真っ暗闇の中、英美が叫ぶ。
「あれ……おかしいな」
突然の異変に、秋野は混乱しながら、何度も何度もキーを回す。が、エンジンはかからない。チッチッチッチと鳴るだけで。
「おいおい」
秋野は苛《いら》つき始める。英美は左右をキョロキョロとして、不安がる。
「ねえ……大丈夫なの?」
「ちょっと待て。すぐ動くから」
「もうやだ……」
冷静なのは、舞、ただ一人だった。
「舞、これ、大丈夫なの?」
「ええ。大丈夫よ」
「だってこれ何よ! 車が動かないじゃない!」
パニックに陥り思わず叫ぶ英美に、秋野が怒鳴る。
「黙ってろ! 冷静になれよ!」
「だって!」
「うるせえ!」
震える手でカチャカチャとキーを動かすが、エンジンは、かからない。
「くっそ!」
両手でハンドルを思い切り叩《たた》きつけたと同時に、今度はスピーカーから、キーキーという雑音が聞こえ出した。エンジンはまだ、かかっていないにも拘《かかわ》らず。
「お、おい……なんだよこの音」
慌てて秋野がラジオをいじる。その隣で英美が心配そうに見つめる。
キーキーキー。
それは段々と、男と女の言葉に変わっていく。
『やべえな! 出よう!』
緊張した男の声が聞こえると、今度はおぎゃーおぎゃーと、赤ん坊の泣き声が雑音に紛れて入ってきた。
『いや! 何よこの声!』
女の子の声が流れてきた途端、これは、というように、俯《うつむ》いていた英美が咄嗟《とつさ》に顔を上げた。そして舞に、振り向いた。
「……舞?」
舞は目を瞑《つぶ》り、微動だにしない。
「ねえ舞? 何よこれ舞!」
『もういや! ねえ早く!』
女の子の命令が飛ぶと、車が加速する。そして、しばらくの沈黙の後、
『うわああああああ!』
と男が叫ぶ。
『ど、どうしたの!』
女の子がそう尋ねると、あれ、あれ、と、男が洩《も》らす。その数秒後に、今度は女の子が絶叫した。
『きゃあああああああああああああ!』
「ねえ舞! これ舞の声じゃないの! ねえどういうことよ! 目開けなさいよ! 聞いてるの! 舞!」
英美が怒鳴っても、舞は依然、何の反応も見せない。スピーカーから聞こえてくるやりとりは、まだ続く。
『何よあの女の子! 手と足が……ない』
女の子がそう言うと、
『お、おい!』
と、男は声を震わせながら声を上げる。
『なによ!』
『あの女の子……お前じゃないのか』
一瞬、車内が静まり返る。
『私……』
女の子のその発言が引き金を引いてしまったかのように、男の次の台詞《せりふ》は、こうだった。
『や、やべえ! く、く、車が!』
『ええ!』
『と、止まらねえよ! アクセル踏んでねえしブレーキだってほら! こうやって踏んでるのに!』
ガチャガチャガチャ、と激しくペダルが音を立てる。
『やだ! ねえ早く止めてよ! スピード上がっていってるよ!』
『分かってるよ! 分かってるけど、くっそ! 止まらねえ! ブレーキきかねえんだよ!』
車がどんどん加速しているのがスピーカーから分かる。
「ねえやだ……ちょっと」
英美が心配そうに身を乗り出す。
『やべえ! マジやべえよ!』
『どうにかなんないの! ねえ!』
『ハンドルも! きかねえよ! くそおおおおお!』
『いや! 私、死にたくない! 助けてお願いだから!』
号泣する女の子のその声が聞こえてから数秒間、無言が続き、そして最後に、二人の叫び声が、重なった。
『もうだめだ! あああああああああ!』
『いやあああああああああああああ!』
ドン。
凄《すさ》まじい勢いで車が障害物にぶつかったのが、分かった。そこで、スピーカーからの音が途切れた。秋野と英美は、呆然《ぼうぜん》と固まっていた。二人とも、舞に振り返る事すら出来ない。
再び、スピーカーから声が聞こえてくる。
『昨夜未明、千葉県館山にある昴峠のトンネル付近で、車の横転事故が発生しました。第一発見者であるトラック運転手からの通報を受けた警察は、すぐに事故現場にかけつけましたが、中には誰一人として乗っておらず、車の所有者をナンバーから割り出したところ、千葉県内に住むフリーター、黒田浩介さん十九歳と判明しました。昨夜、黒田さんは友人らと遊びに出かけると知人に話しており、現在も行方が分からない状態です。警察では、黒田さんとその友人が何らかの事件に巻き込まれた可能性があるとみて、捜査を進めております』
プツリとニュースが途切れると、秋野と英美は、ゆっくりとお互いの目を見合わせ、そして、恐る恐る舞に体を向けた。その瞬間、二人はハッとなる。オオカミのように目を光らせて、こちらを睨《にら》む、舞を見て。
「舞……」
「舞ちゃん……」
明らかに様子のおかしい舞に、二人の背筋は凍りつく。次第に吐き気がこみ上げ、心臓が締めつけられる。
「事故って……どういう事? もしかして、舞の乗っていた車じゃないの?」
舞は、ただ、笑う。
「ふふふふふ。ふふふふふふ」
「舞ちゃん! ふざけるのはよせ!」
叱咤《しつた》する秋野の服を、英美が強く引っ張る。
舞はゼンマイ仕掛けの玩具《おもちや》のように、笑い続ける。
「ふふふふふ。ふふふふふふ」
「ね、ねえ! この子……」
舞を凝視しながら、英美は、思い切って言った。
「……舞じゃない!」
「なんだと?」
「違う! この子違う!」
「違うっていったって……」
英美の言動に困惑する秋野は、背後に何かを感じ、体を前の方に戻した。
長髪を真ん中で分けた男と、短い髪を立たせた青年。そして、髪の毛を二つに縛った女の子が、目を見開いてフロントガラスに張り付いている。はぁはぁはぁと、白い息を吐き出しながら。
「ぎゃああああああああ!」
戦慄《せんりつ》の光景に、秋野は全身で叫び声を上げた。それに敏感に反応した英美も前に向き直り、フロントガラスに張り付く三人に一瞬の金縛りにあい、解けた瞬間、大声を上げた。
「いやああああああああああああ!」
二人の手と手が重なった時、車が動き出した。まるでジェットコースターが最初にカタカタと上って行くように、ゆっくりと。いつの間にか前方に立つ三人を、かきわけて。
「お、おい!」
慌てて秋野がブレーキを踏む。何度も何度もペダルを叩《たた》きつけるが、車は止まらない。
「ねえ! ちょっと!」
英美が秋野の服を思い切り引っ張る。そして舞を振り返る。
「舞! 止めて! お願い!」
「ふふふふふ。ふふふふふふ」
「冗談はよして! お願いだから!」
前を向く。スピードはどんどんと上がっていく。十キロから二十キロへ。そして三十キロへ。
「英美! 飛び降りろ!」
最悪の事態を予測した秋野が、英美にそう命令する。
「ドアを開けて飛び降りるんだ!」
壊れてしまった舞の事など、もう構ってはいられなかった。英美は頷《うなず》いて、ドアを開けようと手を伸ばす。が、ロックされてはいないはずなのに、開かない。
「駄目! 出られないよ!」
「こっちもだ! くそ!」
その様子を見て嘲笑《あざわら》うかのような舞の不気味な声。
「ふふふふふふ」
速度は上昇していく。五十キロ。六十キロ。スピードメーターはぐんぐんと上がっていく。
「もう駄目よ! 助からない!」
英美は泣き叫ぶ。諦《あきら》めるかのように秋野は英美を抱きしめる。
そして、車は減速せずに、トンネルを出た。
その時にはもう、激しい音と共にガードレールを突き破り、車は崖《がけ》から落ちていた。転落後の車内に残された二人に息はなかった。
舞の身を案じ、ようやくトンネルに到着した俊夫と美奈子は、入り口手前に停車させ、車を降りた。
吹き荒れる風が、真っ暗闇のトンネルに吸い込まれていく。
その瞬間、二人の脳裏に、十六年前の悪夢が過《よぎ》る。真夜中のトンネルに、我が子を……。
「ねえあなた……舞は……」
どこにいるの? と美奈子が言いかけたその時、霧のかかったトンネルの中から、舞が何事もなかったように、こちらに歩いてやって来た。
「舞!」
姿を確認した二人は、安堵《あんど》し、舞に駆け寄る。
「良かった……無事だったのね」
舞の冷え切った体を、美奈子は思い切り抱きしめる。
「どうしてこんな所に……いや、何もなかったのならそれでいい。さあ帰ろう」
俊夫の優しい言葉にも、舞は表情一つ変えない。
「さあ舞。行きましょう。さあ行くのよ」
と、美奈子が肩を抱き寄せた、その時だった。舞の上唇が、つり上がった。
「まだ気づかないのか」
声色も、喋《しやべ》り方も全く違う舞に、二人は驚き立ち止まる。
「舞?」
美奈子が顔をのぞき込むと、舞の目が、ギラリと光った。
「私は舞ではないと言っているだろう」
その言葉に、俊夫と美奈子は狼狽《ろうばい》する。
「冗談を言うんじゃない! からかうのもいい加減にしろ!」
「からかってなどいない。お前たちが一番よく分かっているだろう? 私の……事を」
「私の事って……ねえあなた」
美奈子は俊夫を見上げて腕を掴《つか》む。すると舞はポケットの中から一枚の写真を取り出し、それを二人に見せた。それは、ベビーベッドで眠る二人の赤ん坊。
「幸だよ」
その名前に、二人はハッとなる。
「ど、どうしてその写真を……幸の写真は、全て処分したのに」
と、美奈子は口元に手をあてる。
「お前たちは十六年前の八月一日に、舞の双子であるこの私を……手も足も無い状態で生まれてきた私がいらないからと首を絞めて殺した」
過去が少しずつはがされていき、二人も冷静ではいられなくなる。
「そしてお前たちは、この捨て子トンネルに私を捨てた。四年ほど前に、捨てられた赤ん坊が姿を消したという噂を知っていたお前たちはな」
全てが暴かれて、俊夫が恐る恐る口を開く。
「お前……本当に……」
「こうなる事は、お前たちが私を捨てた時からもう既に決まっていたのさ。舞が、このトンネルにやってくる事も全て。でも長かった。十六年間、一人で私はこの時を待ちわびた。そしてとうとう、私は舞の体を手に入れた。自由を掴んだ」
「ねえ嘘でしょ? 冗談を言っているだけでしょ? 舞」
今まで隠されていた事実を、舞がここまで知っているはずがない事くらい、美奈子だって分かっていた。だが頭が混乱していて、信じられないのだ。
「私は舞の体を奪った。私はこれから舞として生きる。このトンネルで、道連れを増やしながら」
舞はケラケラと笑う。膝《ひざ》からガクンと落ちた美奈子を見下ろしながら。
「お願い舞を返して! 幸……お願い。あなたには……本当に申し訳ないと思っている。でも仕方なかったのよ! あの時の私は、頭が、おかしくなっていたのよ。私は……」
「お願いだ! 私たちを許してくれ。お前には悪い事をした……」
二人の懇願を遮って、舞は怒鳴る。
「黙れ!」
「舞……」
「お前たちに私の気持ちが分かるか。トンネルに置き去りにされ、夜を寂しく独りぼっちで過ごした私の気持ちが! それなのにお前たちは幸せそうに、私の存在を頭の中から完全に消し去り、何事もなかったかのように、この十六年間を!」
「すまない……許してくれ」
「許すものか。私を裏切った人間など許せるものか」
「舞……」
「もういい。私はずっと一人だ。それでいい。そして、独りぼっちで育ったこのトンネルで……道連れを」
二人が次の台詞《せりふ》を言う前に、舞は、こう付け足した。
「お前たちも」
その言葉に危険を感じた美奈子は立ち上がり、俊夫に抱きついた。
「あなた」
「舞……許してくれ……頼む」
俊夫と美奈子は後ずさる。舞は、ニヤリと微笑み、二人に一歩、近づいた……。
「……死ねばいい」
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黄泉の階段
「おい板垣《いたがき》。それは、ここへ運んでくれ」
「はい。分かりました」
先輩にそう指示されて、僕は忠実に動いた。額から汗が流れてきたので、軍手で拭《ぬぐ》って、すぐに作業を再開した。
僕はウキウキとした気持ちで、アルバイトとして一年前から勤めている工場の仕事に、汗水流してせっせと頑張っていた。
二十五日の今日は、給料日なのだ。
そう考えるだけで仕事に対するやる気も起きるし、何より、由美子《ゆみこ》の喜ぶ顔が見たかった。ただそれだけのために働いていると言ってもいいくらいだった。
由美子とは、あるきっかけで出会い、一年前から交際している。今年で二十歳になった僕と同い年の彼女の顔は幼く、背も小さいので、いつも高校生に間違えられてしまう。性格はおっとりとしていて、上品で、素直で、優しくて、誰にでも好かれるようなタイプの女の子だ。そんな彼女は小さい頃から絵を描くのが好きだったらしく、これまでにいくつもの作品を隣で見てきた。筆遣いが本当に滑らかで、特に夕焼け空を飛ぶ鳥の絵なんかは、実際に自分が大空を飛んでいる気分にさせられてしまうほど魅力的で、その世界に引きずり込まれてしまう。それくらい、由美子の絵は特別なものを放っている。だからこれからもずっと、彼女の描く風景画を側で見ていたい。
本当なら、遊びに連れて行ったり、ドライブを楽しませてあげたい。けれど一人暮らしでバイトの僕にはそんな贅沢《ぜいたく》をするお金がない。ぼろい1Kといっても、東京の家賃は馬鹿にならない。だからデートの時はいつも由美子の側に寄り添って、彼女の描く絵を眺めている。他人からすればそれはつまらないデートであろう。僕だって、マンネリ化した日々に由美子が内心ではどう思っているのか心配だった。けれど彼女は、今のままで充分幸せだと言ってくれた。いつもの小さな公園で待ち合わせをして、ベンチに座って一緒に絵を描くのがいいと言ってくれたのだ。そんな彼女の優しさが僕には嬉《うれ》しくて、せめて給料日だけは、おいしいお店で小さな贅沢をして彼女を喜ばせてあげようと、そう決めた。
そしてようやく、給料の日がやって来た訳だ。今日は二人でイタリア料理でも食べに行こうと約束していた。だから僕は今から楽しみで仕方なかった。一ヶ月にたった一度しかない特別なこの日を、ずっと待ちわびていたのだから。
午後三時五十五分を、ようやく回った。作業終了まで、あと五分。僕はもう全く仕事に集中していない。
バイトの定時は五時までなのだが、今日は一時間早く上がらせてくださいと、事前に責任者にそう頼んでいた。その分給料は減ってしまうが、そうも言っていられない。彼女には門限があるので、早く帰さないといけないのだ。
あと三分。
僕が時計ばかり気にしていると、責任者の坪井《つぼい》がこちらへとやって来て、こう言った。
「おい板垣。今日は大事な日なんだろ? もう上がっていいぞ。時間に遅れると、彼女に怒られちまうぞ?」
坪井にそう冷やかされ、僕は照れながら、それを否定した。
「いやいや。そんなんじゃないっすよ。そんなんじゃないっすから」
「分かった分かった。とにかくもう上がっていいから。それと……」
僕は、坪井の次の台詞《せりふ》を、待ってましたと言わんばかりの表情で待ちかまえた。
「はいよ。給料だ。よく頑張ったな」
坪井から茶色い袋を丁寧に受け取った僕は、そーっと中を覗《のぞ》いた。無意識のうちに顔がにやけている。
「おい。無駄遣いするなよ」
呆《あき》れ顔の坪井にそう注意され、僕は袋の中身にニンマリとしながら、小刻みに何度も頷《うなず》いた。
「分かってます。分かってますって」
「それじゃあ、お疲れさん。明日もよろしくな」
坪井は僕の肩を軽くポンポンと叩《たた》きながらそう言って、仕事に戻って行った。僕は坪井の背中に向かって、お疲れ様でしたと頭を下げて、急いで仕事場からアパートまで自転車をこいだ。頭の中は由美子の事で一杯だった。僕はドキドキと胸をときめかせていた。
本当は、彼女に隠している秘密があるのに。
言わなければならない事実があるのに。
僕は彼女の事を、心の底から愛していた。
平和な日々が続くのなら、それでいいと思っていた。
赤間《あかま》荘という、嵐や地震で崩れてしまうのではないかと心配になるほどぼろいアパートに到着した僕は、自転車を乱暴に置いて、興奮しながら部屋の木の扉をガチャッと開けた。その途端、六畳一間の空間から何とも言えない臭いが鼻をついた。全く掃除をしていないので、外から帰って来ると一人暮らしの独特の臭いが一気に飛び出してくるのだ。
「うわぁ〜、くせえ」
鼻をつまみながら僕は、急いで窓を開けて空気を入れ換えた。ついでに干してあった洗濯物を取り込み、部屋の中に投げ入れた。そのせいで、更に部屋が汚くなってしまった。これじゃ由美子に嫌われてしまう。勿論《もちろん》、この部屋に由美子を上がらせた事はない。足の踏み場もないほど服やガラクタで占拠されているこの部屋に連れてくる事など決して出来ない。
それ以前に、連れてこられるはずがない。
「そうだ。こうしちゃいられない」
由美子と四時半にいつもの公園で待ち合わせをしているので、あと二十分しか時間がない。家から公園まで十分たらずで行けるので、もう十分はシャワーと着替えに使おう。
と、頭の中で素早く計画を立てた僕は、急いで服をその場に脱ぎ捨てて、汗くさい体をシャワーで流し、先ほど取り込んだ洗濯物の中からバスタオルをあさって、髪と全身を乾かし、服を着替えようと洋服ダンスの扉を開いた。
その中には、この汚い部屋とはあまりに不釣り合いなほど綺麗《きれい》なスーツが一着、ぶら下がっていた。
一ヶ月に一度の特別な日だけは、正装をして由美子をエスコートするのだ。それにスーツを着れば、自分がしっかりとした大人に変われた気がして、テンションも高まる。由美子と会う寸前のドキドキ感が、更に強くなる。
僕はYシャツに袖《そで》を通し、ズボンをはいてネクタイをつけた。少し窮屈だが構わない。その上にジャケットを羽織った。そして、携帯電話と財布をポケットにしまい、鏡の前でYシャツの襟をただした。
「よし」
これで準備は整った。
深呼吸した僕は、脱ぎ捨てた洋服を踏みつけて玄関で革靴を履き、扉を開けて、鍵《かぎ》を閉めた。
午後四時二十分。
僕は由美子と待ち合わせをしている第一野原公園へと向かった。
公園に到着した僕は、近くのベンチに腰掛けて腕時計を確認した。
四時二十九分。
まだ、由美子は来ていない。
もうじき来るだろうと、僕はブランコの側でシャボン玉をして遊んでいる母親とその子供に注目した。子供がストローにふーっと息を吹きこむと、先端からいくつものシャボン玉が大空に舞った。光の加減で虹色へと変わるそのシャボン玉を、嬉しそうに眺める子供と母親。僕もいつしか一番大きなシャボン玉を目で追っかけていた。
自分も小さい頃はよくシャボン玉で遊んだっけな。公園のど真ん中で、飽きもせずに何度も何度も。
目で追っかけていた一番大きなシャボン玉が風でパッと割れた瞬間、懐かしい想い出から僕は我に返った。その後も子供は、数え切れないほどのシャボン玉を大空に飛ばした。
由美子にも見せてやりたいな。
それにしても遅いな。
僕はもう一度、腕時計を確かめた。
四時三十二分。
約束の四時三十分を、過ぎてしまった。といっても、まだ二分しか経っていないので、何も心配する事はないだろう。由美子はもうすぐそこまで来ているはずだ。
僕は由美子が現れるのを今か今かと楽しみにしながら、嬉《うれ》しそうにはしゃぐシャボン玉の親子を見つめていた。
だが、それから更に二十五分が経過した辺りから、僕の気持ちにゆとりがなくなった。シャボン玉の親子も公園から姿を消し、独りぼっちになり心細くなった僕は、余計由美子の事が心配になった。
何かあったんだろうか。
ふと、そんな嫌な考えを巡らせてしまった僕は、真っ先にそれを否定し、それでもやはり心配は消えなかったので、携帯電話に連絡を入れる事にした。
出ない。一回コールするたびに不安は、増していく。
「やっぱり……何かあったんだろうか」
十五回ほどコールして電話を切った僕は、公園から出て辺りを確認した。が、由美子らしき人物はいない。
ここから家は近いのだから、やっぱり家まで迎えに行くべきだったんだろうか。でも由美子にそう言っても、この公園が好きだから待ち合わせは絶対にここがいいと、彼女は言う。だから待ち合わせは必ずこの公園なのだが、ここまで遅いと、やはり何かあったのではないかと考えてしまう。携帯にだって出ないし、心配だ。由美子にもしもの事でもあったら、僕は……。
そうだ。由美子の家に行ってみよう。
もしかしたら、家から出られない理由があるのかもしれないし。
初めからそうすればよかったんだと、僕は由美子の家の方向に歩き始めた。が、この時から既に、心のどこかでは嫌な予感というものがあったのだろう。ポケットの中の携帯電話が振動した瞬間、僕の心臓は今にも破裂してしまいそうなほど、圧迫された。
「……公衆電話?」
どうして公衆電話からこの携帯に?
僕はそう疑問を抱き、激しい動悸《どうき》をこらえて、第一声を発した。
「もしもし?」
間髪入れずに、女性の怒鳴り声が耳に響いた。
「板垣君! 大変なの!」
ただ事ではないその声に、僕は何が何だか分からず混乱してしまった。
「あの、どちら様でしょうか」
「早く来て! 由美子が!」
由美子というその名を聞いても、僕は妙に、落ち着いていた。この時は、ただの間違い電話だと思っていた。
「何かの間違いでしょう」
「何言ってんのよ! 私よ! 舞美《まいみ》だよ!」
舞美?
佐久間《さくま》?
「ねえ聞いてんの! ねえ!」
そこでようやく、この電話をしてきているのは、僕と由美子、共通の友人である佐久間舞美だって事がのみ込めた。
「それよりも早く来て! 由美子が、車にはねられて、重体なの!」
その瞬間、時が、止まった。風が、ピタリと止んだ。
由美子。
車。
重体。
一つひとつをつなぎ合わせ認識した途端、僕の体はカッと熱くなり、頭は真っ白となり、息が苦しくなった。
「え……嘘だろ?」
「いいから早く来て! 相模《さがみ》総合病院よ! とにかく早く来て!」
詳しい事を聞かされぬまま、佐久間からの電話は勝手に切れた。僕は放心したまま、しばらくの間、動く事が出来なかった。受話器から聞こえてくるツーツーという音だけが、一定のリズムを保っていた。僕の体は段々と震えだし、汗ばみ、視野が狭まり、口の中の水分が一気に涸《か》れた。唾《つば》がうまくのみ込めない。体をどうやって動かせばいいのかが、分からない。今日は、今日は、今日は。
そう今日は、特別な日だ。僕は由美子と一緒にイタリア料理を食べに行こうと約束していた。由美子の笑顔が見たくて、ほんの小さな贅沢《ぜいたく》をするつもりだった。そして二人で色んな事を語り合うはずだった。ずっと待ちわびていた。それなのに。
交通事故。
由美子が車にはねられた。
「嘘だろ……」
『相模総合病院よ!』
佐久間の声が、頭に響いた。
「……由美ちゃん」
無意識のうちに、僕は全力で駆けだしていた。相模総合病院、相模総合病院と繰り返しながら。
「タクシー」
前方から走ってくるタクシーに手を上げた。
僕の声は、震えていた。何かの間違いであってくれと、それだけを祈っていた。
もしタクシーの運転手が相模総合病院までの道のりを知らなかったとしたら、地元であるにも拘《かかわ》らず僕は案内する事が出来なかっただろう。それくらいに僕は動揺していた。実感がわかなかった。信じたくなかった。由美子が死ぬなんて、絶対にあり得ない。
病院の入り口の手前でタクシーを停めてもらい、僕は運転手にしわくちゃの千円札を三枚手渡し、お釣りはいいですと早口でそう言って、タクシーから降りた。
「板垣君!」
病院の玄関を抜けると、女性に声をかけられた。先ほど電話してきた佐久間舞美がこちらに気が気ではないといった様子で駆け寄って来た。
「由美ちゃんの容態は」
僕は佐久間の肩を揺らしながら、そう尋ねた。
「まだ、意識が戻らないらしいの」
普段は明るくて活発な佐久間の顔が青ざめていた。こんなに怯《おび》えている彼女を見たのは初めてだった。
「どうして事故なんかに」
「私も詳しくは知らないんだけど、若い男が四人乗った軽自動車に突っ込まれたらしくて」
「突っ込まれた?」
「信号無視だって。運転していた男は、無免許だったそうよ」
それを聞いた僕は、力強く拳《こぶし》を握りしめた。
頭の中が真っ赤に染まった。
ふざけやがって。
「とにかくこっちよ」
僕は佐久間に長イスの並んでいる待合室に連れて行かれた。そこで由美子の母親と顔を合わせた。落ち込んだ表情を浮かべ、酷《ひど》く疲れている様子だった。父親はまだ到着していないようだった。
こんな事になった原因は自分にあると、僕は申し訳なさで、いっぱいになった。
「すみません。僕が今日、デートになんか、誘わなければこんな事には」
由美子の母親に僕は深く頭を下げた。
「板垣さん。謝らないでください。板垣さんは何も悪くないのだから。由美子は絶対に助かります。信じましょう」
そう元気づけられても、僕は何も返す事が出来なかった。
「そうよ。大丈夫よ」
と、佐久間に肩を軽く叩《たた》かれ、僕は小さく頷《うなず》いた。その時、目の端から白衣が飛び込んで来た。由美子の母親は聴診器をぶら下げた医者に駆け寄った。
「先生。由美子は、由美子は、大丈夫なんでしょうか先生」
どうやらこの医者が由美子を担当しているのだと、僕は認識した。
「非常に難しい状態です。脳からの出血が酷くて……とにかく今は、手当を続けています」
その事実を知らされた僕は由美子を失う事が急に怖くなり、気がつけば医者の胸ぐらを掴《つか》み、取り乱していた。
「難しい状態ってなんですか! あんた医者でしょ。何が何でも由美ちゃんを助けてくださいよ! ねえお願いしますよ! お願いですから……ねえ先生。頼むよ」
最後の方は医者の足にしがみつき、僕は泣き崩れていた。怖いモノを見た子供のように、ブルブルと震えていた。
それはあの時と同じ光景だった。
僕はあの時も医者の足にしがみついて、泣き叫んだ。
一年前だった。弟がバイクで事故を起こした。出血多量で病院に運ばれたが、間もなく息をひきとった。やんちゃな性格の弟は本当にバイクが好きで、バイクに乗るのが、毎日の楽しみだった。レーサーになるのが俺の夢だと、そう語っていた事もあった。それなのに、あいつは。
だからもう、決して大事な人を失いたくない。
「竹下《たけした》先生!」
看護師が廊下を走りながら、こちらにやって来た。緊迫した空気が張りつめる。僕は床に膝《ひざ》をついたまま、看護師を見つめた。
「どうした!」
「女性の意識が戻りました」
「本当ですか?」
間髪入れずに佐久間が看護師にそう尋ねると、看護師はその問いには答えず、こう言った。
「板垣|純平《じゆんぺい》さんというのは、あなたですか?」
突然の指名に僕は少し戸惑い、はい、と答え、立ち上がった。一体、どうしたというのだ。
「あなたに、話したい事があるそうです。すぐに来てください」
由美子が、僕に?
助かった訳じゃ、ないのか?
「さあ早く」
状況が理解出来ないまま、僕は集中治療室に連れられて行った。
部屋の前で立ち止まり、看護師はドアを開けた。
「こちらです」
少々薄暗い部屋の奥に案内された僕の目には、頭には包帯を巻かれ、鼻や口に管を通された由美子の姿が映った。その瞬間、意識が戻った、イコール、助かった訳ではないと、僕は現実に引き戻された気がした。
二人の医者と一人の看護師が見守る中、僕はベッドの上で眠る由美子に歩み寄り、涙混じりの声で名を呼んだ。医者がもう慌てていないという事は、そうなのかと、半分は覚悟していた。
「……由美ちゃん」
その声に少々遅れて、由美子は反応した。うっすらと目を開けて、無理に笑みを作ろうとしているのが、分かった。それを見て僕はとうとう堪《こら》えきれず、涙をこぼした。
「純……平……さん?」
苦しそうに口を開く由美子の右手を、僕はギュッと握りしめた。その途端、今までの由美子との想い出が走馬燈のように駆けめぐった。いつもの公園で待ち合わせをして、由美子の描く絵を横で眺めた。散歩もした。買い物にも行った。月に一度はおいしい物を食べた。
今思えば、僕たちはこうしてずっと手をつないでいたような気がする。この一年間、僕たちはキス一つしなかった。それだけ僕は、由美子を大切に思っていた。だから握っていた手は、何が何でも離さなかった。
「ご……なさい」
ハッキリとは聞こえないが、ごめんなさい、と言いたいのだと、僕には分かった。
「もういい。喋《しやべ》らないで。お願いだから」
あの時弟も、僕にごめんと言った。その後、すぐに息をひきとった。だからその言葉が、別れを告げる合図のような気がしてならなかった。
「純……平……さん?」
「な、何。何?」
僕は更に強く、由美子の手を握りしめた。ちゃんと聞こえているよ、と。
「あ……う」
「え? 何?」
もう一度、僕は訊《き》き直した。すると由美子は口をパクパクとさせながら、こう言った。
「今まで……ありがとう」
ありがとう、というその一言で、僕の目にはまた、じわりと涙が滲《にじ》んできた。さよなら、と言っているような、そんな口調だった。
「由美ちゃん……」
泣きながら僕がそう洩《も》らすと、由美子はうっすらと笑みを浮かべて、最後に、こう言った。
「手……暖かいね」
その言葉を聞いて僕は、ホッとした気分になった。が、次の瞬間、由美子の目が、ゆっくりと閉じた。
「由美ちゃん? 由美ちゃん?」
僕は何度も名を叫んだ。
二人いるうちの一人の医者が由美子の脈を確認し、僕に、こう告げた。
「ご臨終です」
ご臨……終?
僕はしばらく、それを認めなかった。
「由美ちゃん? ねえ由美ちゃん?」
手を握りしめ、耳元で呼びかけるが、由美子の手に反応はない。
「ねえ起きてよ。頼むよ。今日、一緒においしい物を食べようって、約束したでしょ。ねえ由美ちゃん。由美ちゃん!」
諦《あきら》めきれない僕の肩に、医者が軽く手を置いた。その時、僕はようやく、由美子の死を受け止めた。
「ああああああああああ!」
思い切り泣き叫んだ後、全身から力が一気に抜けていき、枯れた花のように、僕はガックリと肩を落とした。
突然の、別れだった。この前まであんなに元気だった由美子が、僕の前からいなくなった。
これが運命なのだと、分かっていれば。
僕は、最後まで由美子に隠し事を打ち明けることができなかったと、ただただ、後悔していた。
由美子との突然の別れから一夜明けた朝。
僕は、一睡もする事ができなかった。
由美子が息をひきとってから、一体どれくらいの時間を一緒に過ごしただろうか。だんだんと冷たくなっていく由美子の手が、悲しかった。顔色が少しずつ青白く変色していくのが見ていられなくて、僕は何度も何度も、泣き崩れた。そして、気がつけば自分の部屋の真ん中で一人、正座をして、由美子の事ばかりを考えていた。
僕は、由美ちゃんを守ってやれなかった。無免許で運転していた男が許せない。いやそれ以上に、自分の無力さに腹が立つ。そして何より、由美子に対して申し訳なさでいっぱいだった。僕は由美子に嘘をついていたのだから。こんな事になるのなら、全てを打ち明けておけばよかったんだ。
「ごめんね……ごめんね」
僕の頭の回路は、少しおかしくなってしまっていた。目の前に由美子がいるような気がして、僕は何度も何度も、謝っていた。
その日の夕方、由美子の葬儀が自宅で執り行われる予定となっており、仕事になど行く気になれなかった僕はバイトを休み、無気力状態のまま、由美子の家に向かった。
裕福な家庭で育った由美子の自宅は立派な一戸建てで、いつもは真っ白い家が、この日は黒と白の垂れ幕で覆われていた。もう既に葬儀は行われているらしく、どこからともなく、すすり泣く声が聞こえてくる。まるで蟻の行列のように、喪服の人間が列を作っていた。僕はその最後尾について、しぼんだ風船のようにションボリとしながら、ちょろちょろと前に進んだ。順番が近づくにつれ、由美子との別れが迫っているような気がして、列から逃げ出したいと思った。気がつくと、由美子の眠る棺《ひつぎ》の前に僕は立っていた。
無気力状態の父親と、口にハンカチをあててすすり泣いている母親に、僕は頭を下げた。
由美子の両親には申し訳なさでいっぱいで、僕は顔を上げる事が出来なかった。俯《うつむ》いたままでお焼香を済まし、由美子の顔写真をしばらく見つめた。話しかけると、言葉が返ってくるんじゃないかと思うくらい、元気な笑顔だった。けれどもう、二度と由美子の声を聞く事はできない。僕の話を聞いてもらう事ができない。
僕は棺の小窓を開けて、由美子の寝顔を見る事はしなかった。この写真に写る最高の笑顔を脳裏に焼きつけて別れる事にした。
由美子の両親の悲しい顔を見ているのが辛《つら》くて、僕は二階に足を進めていた。最後に由美子の部屋に行っておきたかった。
ドアにベルのついた部屋の中に入った僕は、明かりをつけずに部屋中を見渡した。
由美子が寝ていたベッドに、絵を描くための道具ばかりが置かれた机。そして、壁に飾られた、これまで由美子が描いてきたいくつもの絵を懐かしんでは、想い出を蘇《よみがえ》らせた。
夕日の周りを鳥たちがまるで遊んでいるかのように無邪気に飛び回っているこの絵は、僕が由美子と初めてデートをした時のものだ。あの時は何を話したらいいのか僕は戸惑ってしまっていて、隣でただ由美子の描く絵を見つめていた。
犬と主人がボールで遊んでいるこの絵は、お互い楽しみながら時間を過ごした。何故なら、主人が犬からボールを返してもらえず、全く逆の立場になっていたからだ。そんな主人が滑稽《こつけい》で、僕は笑い転げ、由美子はクスクスと笑みを浮かべながら、この絵を完成させた。
それと……。
僕は次の絵にハッとなり、喉《のど》を詰まらせた。
これは……。
高校生のカップルが寄り添って楽しそうにお喋《しやべ》りしているこの絵は、由美子の最後の作品だ。あの日はポカポカと暖かくて、つい居眠りをしてしまいそうになるくらい穏やかな天気だった。由美子も気持ちよさそうに、平和な光景を描いていた。それなのにまさか、この絵が最後になるなんて。あの時はそんな事、考えもしなかった。
もう、由美子の描いた絵だって見られなくなってしまう。そう思うと、再び目から涙がジワリと滲《にじ》んできた。吸い込まれそうになるくらい繊細な絵が霞《かす》んでいく。
「由美ちゃん……」
僕はこの部屋にいるのが辛くなり、一階に下りた。そして、由美子の両親に挨拶《あいさつ》する事なく、由美子の自宅を後にした。また由美子のあの写真を見てしまうといつまでも由美子と離れられないと思ったからだ。
が、その直後だった。僕は呼び止められた。
「板垣さん!」
その声に反応した僕は立ち止まり、振り返った。そこには由美子の母親と佐久間舞美が立っていた。二人がこちらへゆっくりと歩み寄る。
「すみません。黙って帰ろうとして」
僕は母親の顔を見ずに、頭を下げた。
「そんな事よりも板垣さん」
「はい」
「あなたには、色々と苦労かけたわね」
「いえ……僕は何も」
「由美子の事、本当にありがとうございました」
ありがとう……か。
「でも、僕は最後まで由美ちゃんに嘘を……」
僕の台詞《せりふ》を遮るように、母親は首を横に振った。
「ううん。由美子にとって、それが一番、良かったんだと思う」
本当に良かったんだろうか。
僕は今も、後悔している。
「すみません。今は一人に、してください。失礼します」
今は誰とも喋りたくなくて、僕は由美子の母親と佐久間に背中を向けて、歩みを再開させた。
「あ、ちょっと板垣君!」
後ろで佐久間に呼び止められたが、僕は振り返る事はしなかった。
この日からしばらく僕は家に閉じこもり、人との関わりを、断った。
葬儀から、十日あまりが経とうとしていた。
由美子が死んでからまだそれくらいしか経っていないのに、やけに昔の出来事のような、そんな気がする。
その間、心の中の蟠《わだかま》りに苦しんでいた僕は、三日間アパートに閉じこもったまま一歩も外には出ず、飲まず食わずの状態を続けていた。別に死のうと考えていた訳ではない。由美子の死に対するショックと、彼女に嘘をついていたという罪悪感でいっぱいで、食い物を口にする気になれなかった。
かといって、このままの状態を続ける訳にもいかなかった。生活するためには仕事も再開させなければならず、僕はずっと休んでいた工場のバイトに復帰する事にした。が、当然仕事など手につくはずもなかった。気がつけばボーッとしていて、責任者や先輩に声をかけられた。失敗を繰り返すたびに、周囲に迷惑をかけた。そんなどうしようもない僕を、職場のみんなは心配してくれていた。けれど僕は無愛想な態度をとり、他人との接触を拒んだ。
今はみんなも同情してくれているが、この状態を続けていれば周りには誰もいなくなるだろう。そうなった時はここを辞めなければならないかもしれない。
それならそれで、まあいいか。また次を探せばいい。
仕事からの帰り道、僕はそんな冷めた考えをしながら、ユラユラと自転車をこいだ。
何だかもう、全てがどうでもよくなっていた。由美子を失った僕は、壊れる寸前まできてしまっていた。地球が滅びてしまっても構わないとさえ思っていた。僕にしてみれば、由美子がいなければ、何の意味もないのだから。
閉ざされた道は、もう二度と開く事はないのだろうと、僕は思っていた。希望も全て失ってしまった。この先にあるのは闇だけだ。
ところが、僕はこの日、思いがけぬ噂を聞く事となった。それは今までに聞いた事もない話だった。
アパートの自転車置き場に自転車を停めた僕は、気の抜けた表情を浮かべながら、部屋の扉の鍵《かぎ》をカチャリと開けた。そしてドアノブに手をかけて、扉を開いた。
その時だった。
「板垣君」
真後ろから声をかけられ、僕はそろりと振り向いた。そこには佐久間舞美が立っていた。佐久間に会うのは葬儀の時以来だ。携帯電話に何度か連絡がきたが、僕はそれを全て無視した。
「やっと帰って来た。部屋にいないから、心配したよ。どこ行ってたの? 電話にだって、全然でてくれないし」
元気のない僕を励ましにでも来たのだろうか。佐久間の口調は明らかに僕に気を遣っていた。
僕は佐久間の問いには答えず、冷たくこう言った。
「何の用」
その態度に佐久間も一瞬引いたが、すぐに笑みを作ってみせた。
「ちょっと、話があってね。部屋に上がっても、いい?」
今は人と接するのが嫌で、誰とも喋りたくはなかったのだが、門前払いはいくら何でも酷《ひど》いだろうと、僕は部屋に佐久間を上がらせた。
「も〜、ちゃんと掃除してるの? 散らかり放題じゃない」
あまりの汚さに、佐久間が嫌そうな声を上げた。おそらくは気まずい空気を明るくさせようとわざとそう言っているのであろうが、僕は言葉を返さなかった。テーブルの前に座布団を二つ敷いて、座れ、と手で示した。
しばらく沈黙が続き、先に口を開いたのは佐久間の方だった。
「もう、あれから十日も経つんだね。早いよね」
僕は由美子がゆっくりと目を閉じていくあの時の映像を思い出し、遮断した。
「で、話というのは」
単刀直入にそう訊《き》くと、佐久間は何かを悩んでいる仕草をみせた。
「あのね……板垣君に、話そうかどうしようかって、迷っていたんだけど……」
佐久間は、こう訊いてきた。
「黄泉《よみ》の神社、って聞いた事ある?」
黄泉の神社?
その問いに、僕は首を傾げた。
「知らないけど」
「そうだよね。私も噂でしか聞いた事がないから、それが本当なのかはよく分からないんだけどさ」
「で、それがどうしたっていうの」
「うん。あのね、これはあくまで噂だからね? 噂として聞いてよ?」
「分かった」
しつこい佐久間に僕は顔を顰《しか》めて、苛《いら》ついた口調で、そう返した。
「実はね……その神社に行くと、死んでしまった恋人に、もう一度だけ会えるっていう、話なんだけど」
それを耳にした瞬間、僕はハッとしてテーブルに手をついた。
「それで」
「うん……でもそのかわり、その恋人を本当に愛していた人でないと、会えないんだって。私も聞いただけだから、あまりよく知らないんだけどね」
「本当か」
「うん……でも、噂だよ? あくまで噂だからね?」
もう佐久間の言葉など僕には聞こえていなかった。
黄泉の神社。
死んだ恋人に、会える。
そんな噂話、一度も聞いた事はない。だが。
由美子に、もう一度。
「板垣君? ねえ」
佐久間の言葉で我に返った僕は、すぐさまこう、訊いていた。
「その神社……どこだ」
「え? でもマジで私は知らないよ? ただの噂なんだからね?」
「いいからどこだ」
僕がそう迫ると、佐久間は一つ頷《うなず》いて、自信なさそうに、
「静岡県平田市ってところなんだけど……」
と答えた。
「静岡県平田市」
「しつこいようだけど、本当に分からないよ? 私だって、そんなのあり得ないって思った。でも噂でそう聞いたから、もし由美子に会えるんだとしたらって……ねえ板垣君? ねえ聞いてる?」
僕の頭の中には、もう由美子しかなかった。消えかけていた由美子がハッキリと浮かぶのだ。
「私……帰るね。じゃあね」
佐久間はそう言って、部屋から出ていった。僕は見送る事もせず、由美子と会えた時の映像を思い浮かべていた。
夜になっても僕は座布団に座ったまま、暗闇の中で体をブルブルと震わせていた。期待と興奮で自分をおさえる事が出来なかった。
行ってみよう。
噂でも何でもいい。
由美子にもう一度だけ会えるかもしれないのなら。
そして、全てを打ち明ける事が出来るのなら。
僕はこの時すでに、明日の朝にでも東京を発《た》ち静岡県平田市という場所に行ってみようと、心に決めていた。
いつしか畳の上で眠ってしまっていた僕は、早朝に目覚めた。昨日に引き続き外は晴天で、小鳥が気持ちの良い朝を喜んでいた。
僕の方は現実に戻され、もう少し眠っていたかったと深いため息を吐いた。
さっきまで、由美子の夢を見ていたのだ。
あの日、一緒に行くはずだったイタリア料理の店で、お喋《しやべ》りをしながらパスタを食べた。どんな会話をしていたのかまでは憶えていないが、あたたかい時を僕たちは過ごしていた。
ところがふと気づくと、僕と由美子はお互い違う崖《がけ》のてっぺんに立っていて、僕は由美子に手を振ったり何かを叫んでいたのだが、由美子はそれに対し何も反応せず、崖からパッと姿を消してしまった。その時僕は何とも悲しい気分になったのだが、幸せな一時はまた訪れた。いつもの公園で、しかもそこは花だらけの世界に変わっていて、由美子はその綺麗《きれい》な景色を嬉《うれ》しそうに描いていた。当然、僕はいつものように由美子にくっついていた訳だが、目覚める直前、僕は由美子に何かを言おうとした。それはもしかしたら、由美子についていた嘘を告白しようとしていたのかもしれない。けれど、何も言い出せないまま、映像は途切れてしまった。
洗面所の前に立った僕は、冷たい水で何度も顔を洗い、鏡に映った自分をじっと見つめた。
一夜明けても、僕の気持ちに変わりはなかった。静岡県平田市という場所に行ってみようと思う。それは、噂の真相を確かめるためではない。由美子に会えるのを信じて、そこへ向かうのだ。
ぐずぐずなどしていられなかった。一時でも早く、由美子に会いたい。その願いが叶《かな》うのなら、僕は何でもする。その一瞬のために、死んだって……。
早く会いに行かなければ、由美子がどんどん遠ざかって行ってしまうような気がして焦っていた僕は、カーテンを閉じ、財布と携帯電話をポケットにしまい、バッグの一つも持たず部屋の鍵《かぎ》を握りしめた。バイト先に連絡を入れようとは思わなかった。今日限りでクビになったって別に構わなかった。生活より何より、今は由美子が最優先だ。
静岡県平田市。
黄泉の神社。
嘘か本当かも分からないその場所に、僕は全てを賭《か》けてみる事にした。
吐き気がするほど人で溢《あふ》れている東京駅から新幹線に乗った僕は、静岡に着くまでの間、終始、窓をスクリーンにして、由美子と初めて会った頃から病院のベッドで目を閉じていくまでを思い出していた。
それは、窓から見える景色がビュンビュンと流れているのと同じだった。由美子との想い出も、まるでビデオを早送りしているかのように、アッという間に終わってしまった。だから僕はその映像を巻き戻しては再生し、由美子を懐かしんでいた。そしてそれを何度も何度も繰り返しているうちに、商業ビルや高層マンションといった都会の風景から、山や畑といった田舎の風景に変わっており、それに気がついた時には、車内アナウンスで、静岡、と流れていた。
とうとう静岡に着いた、と僕は拳《こぶし》をギュッと握りしめ、逸《はや》る気持ちをグッとおさえた。
静岡駅に到着した僕は、初めての場所に戸惑いを隠せなかった。右も左も分からなかったので、駅員に、平田市に行くにはどうしたらいいのかと尋ねた。するとその駅員は、ここから普通電車に乗り換えて、平田駅という小さな駅で下車すればいいと丁寧に教えてくれた。僕はそれを頭にインプットし、その通りに行動した。
駅員の言っていた電車に乗り換えた僕は、何より車内の空き具合に驚いた。東京はいつ乗っても混んでいるというのに、ゆったりと座る事ができた。お年寄りの表情も安心しきっている。景色だって東京とは違い、川や畑や山や民家ばかりでのんびりとしている。都会から少し離れているだけで、時間がゆっくりと流れているような、そんな気がした。
それでも確実に時は進んでいる。目的の平田駅に近づいて行くごとに、僕の心臓は速さを増していった。
三十分ほどで着くと、あの駅員は言っていた。だとすると、あと三分ちょっとだ。
由美子にもしかしたら、と思うと、落ち着かなかった。微かに震える体を、おさえる事ができなかった。次は平田、と車内アナウンスを耳にした僕は、たっぷりと吸い込んだ息を吐き出し、イスから立ち上がった。
駅のホームが見えると、電車は減速し、停止線でピタリと止まった。プシューとドアが開き、一息置いてから、僕は平田に降り立った。その途端、僕は自分の目を疑った。電車から下車したのは僕ただ一人で、乗り込む人間だって一人もいなかった。それを確認した車掌は、さっさとドアを閉めて電車を出発させてしまった。向こうのホームにも誰もいないし、東京とは違いキオスクもないし宣伝の看板だって一つもない。ここはまるで無人駅のようだった。
駅の改札を抜けた僕は、またも驚いてしまった。平田市がこれほどまでに田舎なのかと、思わず立ち止まって体を一回転させていた。
駅前だというのに僕以外に二人しか歩いていないし、売店は一つもないし、信号だってない。誰も乗っていないバスが一台あるだけで、タクシーなどどこにも見えないので、移動するにも不便そうだ。遠くに見える山が一番の目印だった。これでは市というより、村である。こういう所もあるのかと、都会から出た事のない僕にしてみれば、衝撃的だった。だが、佐久間の言っていた神社があるのは、この市に間違いはない。少しずつ由美子に近づいているとそう思うだけで、また胸がドキドキと騒ぎ始めた。
よし、早速、黄泉《よみ》の神社を探そう。
そう意気込み、改めて見回してみたものの、当然、駅前に神社などある訳がないし、かと言って、右も左も分からないこの土地で、神社を探せるはずもないので、仕方なく僕は地理に詳しそうな人に尋ねる事にした。まず目についたのはバスの運転手だった。車内には誰も乗っていないし、まだ出発まで時間がある様子だったので、僕はバスに乗り込み運転手に話しかけた。
「あの、すみません」
「はい」
「ちょっとお訊《き》きしたいんですが」
「どうぞ」
「黄泉の神社って……どこらへんにあるんでしょうか?」
僕がそう訊くと、運転手は怪訝《けげん》そうな顔をして首を傾げた。
「黄泉の神社? さあ、聞いた事ないな」
その答えに、僕は拍子抜けしてしまった。
「え? でも確かに、この市のどこかにあるはずなんですが」
「いや、聞いた事ないですね。実は私、最近、この市に異動してきたばかりなんでね」
まだ不慣れとはいえ、この土地の交通の仕事に携わっている人間が聞いた事もないのか? どういう事だろう。
黄泉の神社を知らないという運転手に噂の事を話そうと思ったが、止めた。神社のところで躓《つまず》いているというのに、噂について尋ねたって、笑われるのが落ちだろう。
「そうですか。ありがとうございました」
礼を言ってバスから降りた僕は、どうしようかと考え、丁度その時こちらに向かって歩いてくる四十代くらいのおばさんがいたので、その人に尋ねてみる事にした。
「あのすみません。ちょっといいですか」
腰を低くして、丁寧な口調で声をかけたつもりだったのだが、おばさんはこちらを一瞥《いちべつ》して、さっさと駅の方に歩いて行ってしまった。
「何だよ無視かよ……」
おばさんの耳には入らないような小さな声で愚痴った僕は、人は頼れそうにないと、本屋を探してみた。が、辺りに本屋らしき建物はない。これでは地図すら見る事が出来ない。
どうしようか。
とりあえず、こんな所で突っ立っていたって仕方ないと、ひとまず僕は歩いてみる事にした。時間だってまだ正午前だし、いずれは見つかるだろうと思っていた。
だが、そう簡単に神社を発見する事は出来なかった。歩き出してから三十分が経過しようとしているが、未《いま》だに神社らしきものは見当たらない。息も少し切れてきた。
少し休憩しようと、僕は近くにあった公園のベンチに腰かけた。そして、ジャングルジムでワイワイと遊んでいる小学四年生くらいの二人の男の子に視線を向けた。
そういえばどうしてこんな時間に小学生が? と、どうでもいい疑問を抱き、今日は土曜日だという事に気づいた。
由美子が死んでから、曜日の感覚すら失っていた。
もしここに由美子がいたら、この光景を絵にしているだろうな。独特な色遣いで、由美子の世界を創りあげていくだろう。そして完成したそれを僕に見せては、感想を訊いてくるんだろうな。
そんな事を考えながら、現実には隣に由美子はいないと気づいた僕は寂しくなり、ベンチから立ち上がり公園を出た。が、念のためにあの子達にも訊いておこうと、僕は公園に引き返し、ジャングルジムで遊ぶ二人の小学生にまさかと思いながらも声をかけた。
「ねえ君たち」
すると、二人の子供は遊ぶのを止めてジャングルジムから下りてきた。
「何?」
オレンジのパーカーを着た方の子供が、そう返してきた。灰色のつなぎを着た子供の方は黙ってこちらを見上げている。
「あのさ、黄泉の神社がどこにあるのか、知らないかな?」
子供の調子に合わせてそう尋ねると、オレンジの子供は、さあ、と首を傾げた。
「君は、知らないかな?」
片方が知らないのだから、もう片方だって知らないだろうが、一応は訊いてみた。
「僕も、知らないな」
「……やっぱり」
案の定そうだったかと、僕はため息を吐《つ》き、二人に礼を言って公園を後にした。
もう少し歩いてみようか。
これも由美子に会う試練だと、僕は歩みを再開させた。
歩いてきた道とは違う別の道を使って駅に戻るように歩を進めてから更に十五分。
神社はまだ発見できないが、僕は、やっとか、と息を吐いた。ようやく本屋を見つけたのだ。そこは個人商店で小さな建物だが、地図くらいは売っているだろう。僕は早速店の中に入った。
「いらっしゃい」
暇そうにレジの向こう側に座っている中年のおばさんの声が、閑散とした店内に広がった。僕はそのおばさんを一瞥し、地図の置いてある場所に急いだ。
この市の地図は案外すぐに見つける事ができた。パラパラとめくってみたが、ここがどこらへんなのかよく分からない。それから一分か二分は睨《にら》めっこしていただろうか、レジのおばさんが、白々しく咳払《せきばら》いをして立ち読みするなと注意してきた。この時に店内に客がもう何人かいれば僕は無視をしていたが、一対一となると訳が違う。今すぐに店から出るか、本を買うかだ。このまま立ち読みを続ければ、気まずい雰囲気は更に悪化するだろう。さすがに僕もそれには耐えられそうになかったので、どうせこの先必要になるだろうと地図を購入する事にした。
「すみません。これ」
地図を手渡すと、おばさんは勝ち誇ったような表情を見せた。僕は財布から五千円札を抜き取り、カウンターに置き、お釣りをもらった。
「どうもね」
愛想のない挨拶《あいさつ》を背中に受けて、僕はさっさと店の外に出た。
これで誰に遠慮する事なくゆっくりと地図が確認できると、僕は早速ページを開いた。
「ここは……」
ちょうど電柱に住所の書かれたプレートが張られてあったので、それを確かめてみた。
「平田市大井町……」
そう呟《つぶや》きながらページをぺらぺらとめくっていくと、今自分が立っている場所が分かった。
「ここからだとすると……」
平田市全体を上から眺めてみた僕は、ハッとなった。神社のマークが、二つある。一つはここからさほど遠くはないが、もう一つは大井町をこえて稲田町にポツリとある。しかも周りは林のようだ。まあそれはいいとして、何より僕が疑問を抱いたのは、どちらの神社も黄泉《よみ》の神社とは書かれていないのだ。近い方は三鷹《みたか》神社。遠い方は境《さかい》神社とある。これは一体どういう事だろう。その他にまだ神社があるのだろうか。いや、地図を見る限りでは神社は二つしかない。地図を見て更に混乱してしまった僕は、ひとまず交番で訊いてみる事にした。いったん駅に戻り、最初に選んだ道とは逆の方向に進めば、交番があるはずなのだ。
お巡りさんに尋ねれば、何か分かるだろうと僕は思っていた。
地図を辿《たど》って駅に戻り、そこから交番まで五分かけて到着した僕は、交番の扉をコンコンと叩《たた》き、返事が聞こえる前にガラガラと中に入った。
「あの……すみません」
交番には若い警察官と、道に迷って訪れたのか、それとも何かの被害にあったのか、それは定かではないが、和服の老婆がイスに腰掛けていた。だが扉を開ける前の警察官の表情がニコニコしていたので、もしかしたらただの世間話をしていただけかもしれない。
「ちょっとお訊《き》きしたい事があるんですが」
若い警察官はこちらに体を向けて、こう返してきた。
「ええ。何でしょうか」
「実は、黄泉の神社を先ほどからずっと探しているんですが、地図を見る限りではそんな名前の神社がないので、寄ってみたんですが……」
そう尋ねると、若い警察官もバスの運転手と同様、さあと言わんばかりに首を傾げた。
「黄泉の神社……ええっと」
中にある地図を確かめながら警察官はうなり声をあげ、迷っている様子を見せた。
「いや……ちょっと分からないですねえ」
「え?」
一体、どうなっているんだ。
警察官にすら分からないと言われ、僕はしばらくの間、困惑してしまっていた。これではお手上げ状態だ。
やはり噂だったのか……。
すると先ほどからこちらのやり取りを見ていた老婆が、申し訳なさそうな口調で話に入ってきた。
「あの……もしかしたら、境神社の事を言っているのかねえ」
初め僕は、この老婆は耳が悪いのだろうと相手にするつもりはなかった。
「違いますよ。黄泉の神社です」
と、僕は軽く流した。が、老婆はしつこく、こう言ってきた。
「だから、境神社の事でしょう?」
そして、こう付け加えたのだ。
「噂を聞いて、やって来たんだろ?」
その言葉を聞いて、僕は俄然《がぜん》興奮した。心臓がどくんと反応した。拳《こぶし》をギュッと握りしめた。体がジワジワと熱くなり、全身が汗ばんだ。
「噂を、ご存じなんですね?」
言葉が震えた。
僕がそう訊くと、老婆は満面の笑みを浮かべながら三度ほど小刻みに頷《うなず》いた。
「噂というより、昔からの言い伝えだねえ」
「……言い伝え」
「ちょっと待ってくださいよ、お婆ちゃん」
会話に参加出来ずにポカンと突っ立っていた警察官が、すかさず割り込んできた。
「言い伝えってなんですか。僕にも教えてくださいよ」
お前には関係ないと、僕は内心ではそう思っていたが、噂の確認ができそうなので特に会話を遮ることはしなかった。
「そうかい。お前さんはこの町で育った訳じゃないから知らないのかい」
「そうですよ。だから教えてくださいよ」
どうやらこの警察官はせっかちなタイプのようだ。僕は、少し黙ってろと、顔を顰《しか》めた。老婆はゆっくりと口を開いた。
「隣町の稲田町にある境神社には、昔から死んだ恋人に会えるという言い伝えがあってな」
「死んだ恋人に会える? そんな馬鹿な……」
老婆の話を止めて、警察官は笑いながら茶化した。だが老婆の真剣な顔を見て、警察官は口をつぐんでしまった。
「その昔、境神社の近くの山の中で恋人を事故で亡くした男性がいてな。その男性は恋人を亡くしたショックから立ち直れずに、毎日のように事故現場に花を供えていたそうなんだが、ある日、帰り道の神社で、その恋人に再会できたらしくてな。それ以来、本当に恋人を愛していれば、境神社で再会できるという噂が広まり、いつしか黄泉の神社とか再会の神社と呼ばれるようになってな」
「へ〜そんな事があったんですか。でも、それ本当なんですかねえ」
「嘘か本当かは定かではないが、境神社で死んだ恋人に再会できるという言い伝えは、実際にある。と言ってもそれ以来、恋人に会えたという話は、私が知る限りでは出てないがね」
「ふ〜ん」
噂の元となった話を知った僕は俯《うつむ》きながら、胸に熱いものを感じていた。
自分も本当に会えるかもしれない。
「で、アンタ」
老婆に声をかけられ、僕はハッと我に返った。
「アンタも恋人を、亡くしたのかい?」
その問いに室内は静まり返った。ここまで訊いておきながら、僕は嘘をつく事はできなかった。
「ええ。そうです」
「どうして会いたい?」
迫るような老婆のその質問に、僕は口を閉じてしまった。
「どうしてだい?」
改めてそう訊かれ、僕は一言で、こう答えた。
「彼女に、秘密にしていた事があるからです」
すると老婆は、納得したように何度も頷き、最後に、こう訊いてきた。
「で、その彼女の事を、本当に愛していたのかい?」
僕は迷わず、
「ええ」
と返事した。
「そうかい。会えるといいねえ。もう一度だけ」
僕は交番を後にした。そして右手に持っていた地図を開き、黄泉《よみ》の神社に目を置いた。ここからだと相当な距離になる。近くにタクシーでも走っていればすぐに隣町に行けるのだが、一般車すらあまり走っていないこの状況で、それは望めなかった。それに、僕は最初から楽して行こうなんて思っていない。むしろ自分に苦痛を与えたかった。そうすれば由美子が待っていてくれるような、そんな気がしていた。
由美子にもう一度だけ会うために。
僕は黄泉の神社に向かった。
10
歩き始めてから一時間四十分。
大井町から稲田町に入った僕は、休憩をかねて改めて地図を開いた。少し前に辺りが木々にかこまれたゾーンに僕は突入しており、申し訳程度に道があるだけで、もしかしたら神社はもう近いのではないかと実感した。
「……よし!」
僕は息を切らしながら希望に満ち溢《あふ》れた声をあげた。あとどれ程か詳しい距離は出せないが、地図を見る限りでは神社はもう近い。クネクネとした緩やかな上り坂にずっと耐えてきた足は限界に達しているが、もう少しの我慢だ。
神社にはきっと由美子が待っていてくれる。そして優しく僕を迎えてくれる。
そう思うだけで、今までの疲労はどこかにすっ飛んでいってしまった。僕は、神社で由美子と待ち合わせをしているような錯覚にとらわれていた。本当に会えるかどうかも分からないのに、デートの時のようなドキドキが、僕を緊張させていた。
「……行こう」
そう自分に言い聞かせ、ガクガクの足を再び歩かせた。
そして、あと少し、あと少しと、僕は神社に着くまでの間、何度も何度も、唱え続けた。
それからは更に過酷なものだった。緩やかな上り坂から段々と急な上り坂へと変わっていき、全身にダメージが響いた。そして、もう二十分間休むことなく歩き続け、今までで一番急な坂を上がりきったその先の赤いものを目にした途端、僕は幻でも見ているかのように、ポカンと口を開けたまま、しばらく動くことが出来なかった。極度の疲労で視界がぼやけるのだ。
あれは……。
いや、幻覚ではない。
鳥居だ。
という事は、ようやく、神社に。
そう認識した僕は一気に力が抜けてしまい、道端にへたり込んでしまった。
「やっと着いた……」
あれが、黄泉の神社。死んだ恋人に、会える場所。
あそこに、由美ちゃんが?
急に心臓が、暴れ出した。
地面から立ち上がった僕は歩を進め、鳥居の前に立ち止まった。そして何十段もある石の階段の先にある神社に目を凝らした。
見る限りでは、普通の神社のような気がするが、本当に由美ちゃんに会えるのだろうか? 一体、どうすればいいのだろうか。
佐久間から聞いた話の段階では、それはあり得ない事でも、もしかしたら起こり得るのではないかと思っていた。が、実際こうして神社を前にしてみると、やっぱり作り話だったのではないかと、正直考え込んでしまっていた。ここでこうして待っているだけで、由美ちゃんに会えるはずがないじゃないかと。
それでも僕は、しつこいくらいに自分に強く言い聞かせた。信じろ、信じてみようと。
そして、明日の朝になろうと、由美ちゃんに会うまでは絶対にここを動かないと、そう決意した。
とりあえず今はじっと待ち続けてみようと、僕は石の階段に腰を下ろした。お尻《しり》にヒンヤリとした温度が伝わった。腕時計を確かめると、時刻は午後三時を回ろうとしていた。
いつしか、ボーッとしながら階段に座っていた僕の影が細長く伸びている。辺りに広がる光景が綺麗《きれい》な紅に染まっていた。
あれから早くも二時間が経とうとしているが、何の変化もなかった。一度、階段を上って神社の前にも行ってみたが、結果は言うまでもなかった。
僕は大きなため息を吐《つ》いた。
紅い空を飛び回るカラスの鳴き声が、むなしさを増した。
本当に来てくれるのだろうか?
僕はその言葉を必死に腹の中に押しとどめ、無の時間をじっと堪えた。更に一時間、二時間が過ぎ去り、辺りが暗くなっても、僕は階段から一歩も動かなかった。
必ず来てくれる。
僕はそっと瞼《まぶた》を閉じた。目を開ければ僕の前に由美子が立っていてくれるのを思い浮かべたが、気配すら感じなかった。それでもいつか肩を叩《たた》かれるのではないかと、僕はしばらく瞼を閉じていたのだが、自分のシナリオ通りにはいかなかった。
ただ無情な時間が過ぎていくだけだった。
午後九時を回っても、僕は未《いま》だに階段に座っていたのだから。
11
とうとう夜中の十一時半を回ってしまった。五月の静岡の夜は肌寒く、僕は身を縮めながら静かに呼吸を繰り返していた。
もう、駄目か。
そんな事はない信じろと、僕は強く自分に言い聞かせてきたが、さすがにもう諦《あきら》めの気持ちの方が強くなってしまっていた。どちらにせよ、もうこんな時間に電車など走っていないだろうから、明日の朝まではここで野宿するしかないと覚悟していたのだが、日付が変わるあと三十分がタイムリミットのような気がしていた。
それ以上、待っていても駄目なのなら。諦めよう。
仕方ないだろう。と思った、その時だった。
急に月夜の空に雲が覆い被さり、強い風が吹き荒れた。
いきなり、なんだ?
僕は風で暴れる髪をおさえながらソワソワと立ち上がった。すると今度は濃い霧がモワモワと発生し、瞬く間に辺りは白に包まれた。そのせいで視界がぼやけてしまい、神社に体をむけて目を細めながら僕は、何かが起こる、と確信した。
まさか。
由美ちゃん? と、口を小さく動かすと、若い男の声が、どこからともなく、僕の耳に聞こえてきた。
『愛する者を失いこの神社に再会を願うそこの者よ』
一体、どうなっているんだ。
幻聴などではない。
空からなのか神社からなのかは分からないが、確かに声がするのだ。
そこの者というのは、僕の事だろうか?
「……はい」
目をキョロキョロとさせながら空の方にそう答えると、こう聞こえてきた。
『本当に彼女を愛していたか』
「……愛しています。今でも」
自信を込めてそう返答すると、男は考えてもみなかった言葉を発した。
『それでは本当に彼女を愛していたのかどうかを試させてもらう。一番下まで階段を下りよ』
そう命令された時、意味がよく理解できなかったが、この状況に既に混乱していた僕は、言われた通り階段を下りた。神社が更に遠ざかってしまった。
『亡くなった彼女の名は』
間を置くことなく男にそう訊《き》かれ、僕は俯《うつむ》きながら、口を開いた。
「中山《なかやま》……由美子です」
『もう一度だけ再会したいという理由は』
理由。それは、ただ一つだけだ。
「僕は彼女に、重大な事実を隠していました。だからそれを、打ち明けなければならないのです」
これで由美子に、会える。
僕は胸をドキドキさせながら、その時を待った。だが、僕の目の前に由美子は現れなかった。それどころか男は、僕に試練を課したのだ。
『それではこれより彼女についてお前に問うていく。お前は答えていくごとに階段を一段上がって行くがよい。もし一つも間違う事なく神社まで辿《たど》り着ければ、彼女に会えるであろう。万が一、一つでも間違えれば、その時点で終わりとする。もう二度と、彼女に会う事はないであろう』
それが由美子に会うための、条件?
答えていくごとに一つずつ階段を上がって行く。そして神社まで辿り着ければ。
僕は神社までの段数を、ざっと数えてみた。
おそらく、四十近くはあるだろう。
しかも、一つでも間違えれば、ジ・エンドだ。
由美子を知り尽くしているとはいえ、それだけの問いを完璧《かんぺき》に答える事ができるだろうか。
いや、由美子と再会するためには、答えなければならないのだ。僕なら、できる。
僕は深呼吸をし、表情を引き締めた。
男からの問いは、始まった。
『彼女の生まれ育った場所は』
それは、佐久間から聞いて知ったのだ。由美子はずっとこの町で育ったのだと。
「東京都江東区港町」
僕がそう答えると、男の声は間を置くことなく続いた。
『彼女の血液型は』
僕は石の階段を一つ上がり、その問題にはすぐに答えた。
「B型」
確信があった僕は、そう言いながらまた一つ階段を上がった。
『彼女の生年月日は』
その問いに、僕は思わず喉《のど》を詰まらせた。つい一ヶ月前、由美子の誕生日を祝ったのだ。二人でケーキを食べて、僕は安いペンダントをプレゼントした。成人した由美子にはやりたい事がまだまだいっぱいあったのに。それなのに。
「一九八三年。四月六日」
僕は三段目を、踏む。
『彼女の利き腕は』
絵を描く時の由美子はいつも、右手で筆を走らせていた。
「右」
『彼女の星座は』
この問いは簡単だ。
「牡羊座」
『彼女の持っていた携帯電話の色は』
「赤」
『彼女の通っていた小学校は』
これも別に迷う事はなかった。由美子は佐久間と高校までずっと同じ学校に通っていた。
「江東区立港第一小学校」
次の段に行く前に、男の声は続いた。
『彼女の中学は』
「江東区立港第一中学校」
『中学時代の部活は』
この問題は、考える必要もなかった。
「美術部」
高校も、美術部だった。
『彼女の高校は』
「私立関東女子学院」
『専攻していたのは』
「文系」
僕は、トントン拍子に階段を上って行った。徐々に神社までの距離が狭まっていく。
『彼女の大学は』
そこで僕は少し躓《つまず》いた。
大学?
由美子は大学には進まなかった。高校を卒業してからは、自由に絵を描いていたはずだが。
「大学へは、行っていません」
そう言った直後、僕はしまったと顔を顰《しか》めた。まさか大学を中退した? いや、佐久間はそんな事、一言も言っていなかったが。
『高校の卒業文集で彼女が語っていた夢は』
次の問題が出され、僕はドッと息を吐き出し、階段を一段上がり、その問いについて考えた。高校の文集は、由美子の部屋に入った時に由美子に隠れてこっそりと読んだのだ。
「こんな私だけど、将来は、幸せな家庭を築きたい、と」
そう書かれてあったのに、由美子は幸せな家庭を築く前に。
その問題が終わると一つ呼吸が置かれた。その間に僕は、また一歩神社に近づいた。
『それでは、彼女と初めて会ったのは、何月何日か』
「……由美ちゃんと、初めて会った日」
と、僕は繰り返し、記憶を蘇《よみがえ》らせた。
しっかりと憶えている。あの頃僕は、弟を事故で亡くしたショックで今のようにふさぎ込んでいた。食欲もなくて、仕事も手につかないような、そんな時期に僕は初めて由美子に会ったのだ。
弟が死んだのは、一年前の五月六日だ。それから三日後の事だった。
「一年前の、五月九日」
自信はあったが、怖々とそう答えると、次の問いが出された。
『待ち合わせ時刻は』
「待ち合わせ時刻……」
段々と細かくなっていっているのは気のせいか。だがこれを答えなければ次に行けない。
確かあの日は夕方の……。
そう、由美子が事故で亡くなった日と同じ時間を約束したのではないか。
「午後、四時半」
そう答えると、少しの間が置かれた。間違ったか、と僕は目をギュッと瞑《つぶ》った。
『その時の場所は』
あっていた、と僕は安堵《あんど》し、一つ階段を上がり、その問いにはハッキリと答えた。そこは由美子との想い出の場所だった。いつも待ち合わせをしていた公園だ。
「第一、野原公園」
問題は間を置く事なく進んでいく。僕はまた一つ階段を上がった。
『その時の彼女の、第一声は』
第一声?
僕はその問いには、少し迷った。確かあの時の僕はどうしたらいいのか分からず、戸惑っていた。すると彼女はこう言った。
「どうしたの。いつもと様子が違うようだけど」
その時の映像を思い出し、僕は由美子と同時に口を動かした。心の中を見透かされた僕は、内心ドキッとしたのだった。
『その日の彼女の服装は』
これは鮮明に憶えている。間違う事はないだろう。
「ピンクの、ワンピース」
『その日に彼女が描いた絵の内容は』
僕は、由美子の部屋に飾ってあったいくつもの作品を思い出した。僕と由美子の初めての絵は。
「夕日の周りを鳥たちが飛び回っている、絵です」
『鳥には何色を使っていたか』
それは確信して言える。
「青です」
『完成した時の彼女の最初の言葉は』
あの時由美子は嬉《うれ》しそうな顔をして僕にこう言った。
「今日もいい絵が描けた。つき合ってくれてありがとう」
その言葉を思い出すと、胸が苦しくなった。
『その日、二人が別れたバス停の名は』
別れはいつも秋葉公園前だった。僕はずっとつないでいた手を離し、彼女の姿が見えなくなるまで見守っていた。由美子はそれに気がついていただろうか。
「秋葉公園前」
その日から僕の嘘で固められた生活が始まった。素直で純粋な彼女を、騙《だま》し続けた。
階段を一つ進み、僕は神社までの道のりを確認した。もう既に、半分くらいまで到達している。後ろを振り返ると結構な高さになっていた。
もう少しだ。もう少しで、由美子に会える。僕はそう強く言い聞かせ、改めて気を引き締めた。男からの問いは、こう続いた。
『初めて二人で食事に行ったのは、何月何日か』
これも自信を持って答えられる。いつも同じ公園でデートをしていた僕は、実は由美子はマンネリを感じているのではないかと心配し、翌月から特別な日を作ったのだ。
「六月二十五日」
『その時の店の名は』
僕はあの日、由美子に少しでも贅沢《ぜいたく》をさせてやりたくて多少値の張る店を選んだ。
「パスタ・ガーデン」
『彼女が最初に注文したものは』
僕と由美子は少し緊張しながら店に入り、向かい合って座った。そして僕がメニューを開き、一つひとつ読み上げていくと、由美子はそれ、と言ったのだ。
「蟹《かに》クリームパスタ」
『その次の言葉は』
その次の言葉?
何だったろう。
ピザ? 紅茶? いや違う。
なかなか思い出せず、僕は焦る。あの日の記憶を必死に蘇らせて、由美子の口の動きを何度も何度も再生した。
そうだ。蟹クリームパスタと言ったあと、由美子は申し訳なさそうに僕に頭を下げたのだ。
「本当にご馳走《ちそう》になっちゃっていいの」
確実にあっている、と僕は階段をまた一歩進んだ。もうすっかり僕はあの日の想い出に入り込んでいた。
『その日、彼女が最近好きだと言っていたアーティストは』
それは食事を終え、デザートを食べている時だった。急に話題を変えてきた由美子は、こう言った。
「桜野智則」、が好きだと。
『特に好きな曲は』
「光の中」
まだいける。全然答えられる。由美子に会える。もうすぐだ。
『その一週間後に会った時の彼女の第一声は』
初の食事から一週間後?
七月に入っても梅雨は明けず、でもその日は晴れていて、僕達は公園で待ち合わせをした。僕が由美子の姿を確認し声をかけて手を握ると、由美子はあの時。
そうだ。あの日は由美子にとって悲しい一日となったのだ。
「うちのワンちゃんが、死んでしまった、と」
『ペットの名は』
「ラブ」
『種類は』
「ヨークシャーテリア」
愛くるしい顔をした小型犬だった。由美子はラブを本当に愛しており、しばらくはブルーだった。
『その日、描いた絵は』
落ち込んでいた由美子は、絵を描く力もなかったのだろう。ベンチに座ってずっと泣いていた。僕は側で慰めてやる事しか出来なかった。
「何も、描いていません」
その日から、僕たちは一ヶ月間会わなかった。二十五日の食事の誘いも、由美子は断った。ラブの死がよほどショックだったのだろう。僕は長い空白の期間を作ってしまった。既に由美子との別れのカウントダウンは始まっていたのに。あの頃はそんな事、考えてもいなかった。
『それ以後、お前の前で彼女はいくつの作品を描いたか』
その問題には長い時間を要した。ラブの死からようやく立ち直った由美子は、自分にはもう絵だけしかないと言わんばかりに、無我夢中で作品に取り組んでいた。復帰してからの第一作目は、雲一つない澄み切った青空だった。次に、夕方から手持ち花火をして遊ぶ小学生。その次はベンチに座って首をこくりこくりと揺らしながら寝ている老人。更にその次は飼い主と犬がボールで遊んでいる光景。
滑り台で遊んでいる親子。
鬼ごっこをしている子供たち。
キャッチボールをする少年たち。
公園から見える五階建てのマンション。
二匹で仲良く居眠りする子猫。
ベンチで読書する女性。
水鉄砲で水をかけあう元気な男の子たち。
ゲートボールを楽しむ老人グループ。
ラジカセを持参してダンスの練習をする今風の若い男の子。
そして最後に、ベンチに座って仲良くお喋《しやべ》りをする高校生のカップル。
「……十四作」
あんなにも人を描くのが好きだった由美子に、僕は一度も描いてもらった事はない。勿論《もちろん》、それには理由がある訳だが。
答えた僕はまた階段を一つ上がった。神社はもうすぐそこだ。あと何段かを数えてみると残り八つに迫っていた。それを認識した僕は緊張に襲われた。口で息をしなければ苦しいくらい、僕には大量の酸素が必要になった。ここまで来たのだ。絶対に間違えられない。
『彼女が絵の道具を入れていたバッグの色は』
落ち着け。これは大丈夫だ。初めて会った時から由美子は同じバッグを持ち歩いていた。「ピンク色」
あと七段。
『クリスマスには何処へ行ったか』
十二月二十五日。あの日、東京はホワイトクリスマスとなった。ちらりちらりと落ちてくる雪は街のムードを演出し、恋人たちの気持ちを盛り上げた。思えば、あんな人混みの中に二人で入ったのは初めての事だった。僕は由美子とはぐれないようにしっかりと手をつなぎ、店の中を歩いた。そして、クリスマスプレゼントだよと言って、安いアロマテラピーセットをあげたのだ。
「駅前の、デパート」
あと六段。
『その日、彼女は何色のマフラーをしていたか』
雪の降ったあの日は十二月で一番寒い日となった。由美子は真っ白いコートに、マフラーをグルグル巻きにして寒さをしのいでいた。
「赤です」
もう少し。あと五段。
『お前が誕生日の時、彼女に何をもらったか』
それを忘れるはずがない。僕の誕生日の一週間前、由美子は佐久間を誘って洋服店に行き、僕のプレゼントを買ってくれたのだ。
「フードのついた、白いトレーナー」
僕は前から由美子にそう言っていた。でも別にねだっていた訳ではない。お金がないから洋服も買えない。トレーナーが今一番ほしいかも、と。だからそれをプレゼントされた時は、憶えていてくれたんだと涙が出るほど嬉《うれ》しかった。
僕は更に一段、歩を進めた。あと、四段。
もう少しで夢が現実となる。
けれど、神社に近づくにつれ、由美子との想い出が段々と終わりに向かっているのも確かだった。もうじき由美子に会えるというのに、僕の心は一瞬、複雑にこんがらがった。いや、躊躇《ためら》っている暇はない。由美子に会わなければならない理由をもう一度、思い出せ。
『いつの日かお前たち二人に寄って来た子供の名前は』
僕たちに寄って来た子供?
「……あの時か」
それはいつ頃だっただろう。いつものように公園で絵を描いている時、四歳くらいの子供が僕たちに歩み寄って来た事があった。そしてその子は、こう言った。
お姉ちゃん絵を描いているの? と。
可愛らしい声でそう訊《き》かれた由美子は、そうだよ、と頷《うなず》き、あなたのお名前は? とその子に訊き返した。するとその子は、ミサキですと答えた。その時由美子は、ミサキちゃんか、いい名前ね、と言った。もしもあの時、あの子ともう少し喋れる時間があったのなら、由美子は自分の勘違いに気がついただろう。でもその子は母親に呼ばれて、帰って行ってしまったのだ。
女の子っていいよね。と、その子がいなくなってから、由美子はそう呟《つぶや》いた。でも僕はあの時、あの子は女の子じゃない、男の子だよとは、教えなかった。そんな些細《ささい》な間違いが僕には悲しかったのだ。
「ミサキ」
そう答えると、男は少々、間を置いた。僕はまた一歩、神社に近づいた。残り、三段。
あと、もう三歩なんだ。
ここで男は初めてゆっくりとした口調で問いを出してきた。
『では、彼女の、初恋の相手の名前は』
佐久間の話では、由美子は今まで一度も恋愛をした事がないようだった。小さい頃から差別されていた由美子に、優しく接した男性はいなかったようだ。でも、それを聞いた時僕は、それは仕方がないよと、佐久間に言った。
「初恋の相手の名前は……板垣純平」
きっと、そうだろう。そうであってほしい。
僕はまだ次の段には行かず、男の反応を待った。いつしか風はピタリと止んでおり、辺りは妙に静まり返っていた。
『彼女はこれまでに何度、お前に愛していると言ったか』
あと二段というところで、どんな問題が出されるかとヒヤヒヤしたが、意外にもこれは簡単だった。由美子は決して、好きとか愛しているとかを、口にはしない女の子だった。僕がその言葉を求めた事がなかったのも理由の一つだが、由美子自身、言葉にしてしまうと、本当の愛が薄れてしまうと感じていたのではないだろうか。だから僕は由美子に会ってから一度も、彼女の口から、愛している、という言葉を聞いた事はない。
「一度も……ありません」
僕は静かにそう答えた。そして、ゆっくりと最後の段に上がった。
とうとうここまで来た。
神社はもう目の前だ。
次の問題に答えられれば、由美子に会える。もう少しで、由美子に手が届くのだ。
僕は大きく息を吐き出し、ラストの問題に臨んだ。だが最後の最後で、僕にとって一番|辛《つら》い問題が課せられた。
『彼女の一番……好きな色は』
「由美ちゃんが……一番、好きだった色」
由美子と一緒にいた一年間。二人でいくつもの絵を完成させてきた。けれど、それだけは訊かなかった。いや、訊けなかった。そもそも由美子は、色というものを判断していたのだろうか。例えば、普通の人が思い浮かべる肌色を、由美子も思い浮かべていたのだろうか。
いや、恐らく、それはない。
生まれた頃から目の見えなかった由美子は、想像の世界で色を創りあげていたのではないか。その証拠に、鳥に青を使ったり、夕日を緑で塗ったりする。けれど側で見ていた僕は一度も何も言わなかった。僕はただ、彼女に訊かれた公園の風景を、忠実に教えるだけだった。絵の具を塗る時だけは、彼女の手を取って、一緒に作業した。
前までは想像だけで絵を描いていたようだが、本当は現実の世界を作品にしたかったらしいのだ。だから僕はそれに協力した。
物には感触があるし、口で言えば何とか伝わる。しかし、色を知らない由美子に、青や緑を教える事はできない。だから由美子が一番好きだった色を答えろと言われても、僕は困るのだ。
でも、青と緑がどんな色かは分からなくても、想像の中では青と緑を創っていたに違いない。その他にも赤や白や黄色や紫……。
そうだ。むしろ、その方が色の世界は無限なのではないか。本当は僕達よりも、由美子の方が色の数を知っているのではないか。
だとすると……。
由美子が一番、好きな色は。
僕は大きく吸い込んだ息を吐き出し、最後の覚悟を決めた。これに、賭《か》ける。
「彼女に、一番はない。彼女は全ての色を、心の底から、愛していた」
僕は由美子の姿を思い浮かべながら、そう答えた。そして最後の段を上がり、神社の前まで歩んだ。
12
辺りは妙に静かで、男の声は、もう聞こえなかった。
会えるのか。
会えないのか。
足を止めた僕は、目を閉じて、全てを運命に委《ゆだ》ねた。
が、いくら待っても何の変化も起こらなかった。
駄目だったんだ、と僕は目を開け、振り返ろうとした。
その時だった。
背後から、ゆっくりと歩く足音が聞こえてきた。
まさか。
ハッとした僕は、後ろを振り返った。すると、左手でピンクの鞄《かばん》を持ち、右手でステッキをフラフラさせながらこちらに歩いてくる由美子が、確かにいたのだ。
「嘘……だろ」
その時、僕の目からは涙が溢《あふ》れ出し、体がブルブルと震えた。
幻なんかじゃない。すぐそこに、本当に由美子がいるのだ。死んだはずの、由美子が本当に。
「……由美ちゃん」
声を絞り出すと、由美子は立ち止まり、顔をキョロキョロとさせながら、
「純平さん?」
と呟いた。
「ねえどこ?」
目の見えない由美子は、僕の気配を必死になって感じ取ろうとしていた。僕は見つかる前に、由美子に駆け寄り、思い切り抱きしめた。
「由美ちゃん……」
僕は更に手に力を込めた。そのまま僕たちはしばらくの間、抱き合った。そして、由美子から離れ目を開けた僕は、いつの間にか辺りがいつもの公園の風景に変わっている事に気がついた。
「ど、どうなってんだ……」
しかも、時間が昼間に逆転してる。太陽が空から顔を出し、僕たちに光を注いでいた。
「純平さん? どうしたの?」
突然の場面転換に僕は少し混乱したが、これは現実の世界ではない。これが最後のデートなんだぞ。場所と時間が変わろうが、そんな事はどうでもいいだろうと自分に言い聞かせ、何事もなかったように、僕は笑ってごまかした。
「何でもないよ。とりあえず、ベンチに座ろうか」
僕は由美子の手をとって、いつも二人で座っていたベンチに連れていき、腰掛けた。
お互い何から喋《しやべ》ったらよいのか分からず、しばらくの間、僕たちは口を開かなかった。僕は誰もいない公園の風景に、由美子と過ごした想い出を重ね、懐かしみ、隣の彼女に視線を置いた。
まるで夢を見ているようだった。今でも信じられないくらいだ。僕の前から姿を消した彼女がすぐ隣にいるのだから。
「……純平さん?」
見つめられている事に気づいたのか、由美子が小さく口を開いた。
「何」
僕は慌てながら、言葉を返す。すると由美子は、こう言った。
「また会えるなんて、嘘みたいだね」
それには僕が一番、驚いている。
「そうだね」
「でも私が事故なんて起こさなければ、こんな事にはならなかったのに……」
申し訳なさそうに言う彼女を、僕は明るく励ました。
「もういいよ。せっかくこうして会えたんだから、この時間を、大切にしよう」
由美子は俯《うつむ》きながら、ほんの小さく頷《うなず》いた。頭ではそう分かっていても、やはり元気など出せない様子だった。僕はそんな彼女にどう接してやったらいいのか分からず、しばらくの間、気まずい空気が二人を包んだ。
「あ、そうだ!」
僕はこの空気をどうにかしようと、無理に明るさを装い、
「これから、イタリア料理でも食べに行こうか。あの日の約束……だったから」
と、提案した。
確かに、最後のデートを楽しむための再会ではない。僕は彼女に秘密を話さなければならない。それが今回の本当の理由だ。でもこのまま事実を由美子に聞かせて、別れるのだけは嫌だった。もう少しだけ、彼女と一緒に過ごしたかった。
「ねえどう? 行こうよ」
改めてそう訊《き》くと、由美子は考える仕草を見せて、首を横に小さく振った。
「ううん。いい。こうしてベンチに座って、色々な事を話しているだけで私は」
「そっか。そうだね」
残念だけど、むしろそっちの方が時間を大切にできて良いのかもしれないと、僕は思った。そしてそれならと、僕は過去を振り返った。
「この一年間……本当に楽しかったね」
由美子は、頷く。
「うん」
「この公園で……って言っても、ほとんど絵を描いているか、お喋りするか、だったけど」
「純平さんには本当に、感謝してる。目の見えない私の側で、ずっとサポートしてくれていたんだから」
「サポートだなんて」
「ううん。純平さんがいなかったら私、リアルな絵を描く事なんて、できなかったもん」
心から僕を必要としてくれていたんだ、と思うと、言葉が詰まった。
「ねえ憶えてる?」
由美子が突然話題を変えて、僕に訊いてきた。
「なに?」
「いつの日だったか、私が絵を描いている時に、近くでボール遊びしている小学生がいたみたいで、そのボールが純平さんの頭に当たったんだよね」
そういえばそんな事があった。隣の由美子の絵に夢中になっていた僕は、近くでサッカーボールを蹴《け》りっこしている小学生に全く注意していなかった。そして、ボールが飛んできているのに気づかなかった僕は、避ける事ができずぶつかってしまったのだ。突然の事だったので、大げさに、痛い! と僕が叫んだもんだから、由美子も慌ててしまい、大した事ないんだと説明してやると、由美子は呆《あき》れて笑ったのだ。
「あったあった。あの時は本当に驚いたよ」
「それに、子供の喧嘩《けんか》を止めに行った事もあったよね、純平さん」
勿論《もちろん》それも憶えている。あれは八月に入って最初の日曜日だったろう。猛暑の中、僕と由美子が日陰に入ってお喋りしていると、砂場でおもちゃの取り合いをしている子供たちが殴り合いの喧嘩を始めてしまい、僕がそれを由美子に説明してやると、止めに行ってあげてと言われ、その時僕はたかが子供の喧嘩なんだからやらせておけばいいと言ったのだが、由美子は許してくれず、仕方なく止めに行ったのだ。
「あの日は本当に暑くて、汗だくになりながら止めたんだっけな」
「でもそのおかげで、子供たちは怪我をせずに済んだでしょ?」
由美子にそう言われ、僕は苦笑いを浮かべた。
「まあそうだけど、男の子なんだし、たまには喧嘩の一つや二つしないと」
そう言い返すと、由美子は頬を膨らませながら食い下がってきた。
「駄目。暴力反対。いくら子供でもね」
「はいはい。そうですね」
「何よその言い方」
そこで一つ間があいて、僕と由美子はクスクスと笑った。
「それとそれと、あんな事もあったよね」
それから僕たちは時間を忘れて一年間の想い出を懐かしみ、たくさん笑った。冷静に考えれば、僕は今、現実とは違う世界で由美子とこうしてお喋りしている。でも二人にしてみれば、これは普段と何ら変わらないデートだった。だから、これが最後なんだという実感が薄れていく。できる事ならいつまでも二人でいたいと、僕は願った。が、そんな願いが叶《かな》うはずもなかった。それは一体、どれくらいの時間が経ってからだろうか。由美子が突然、想い出話を遮って、深刻そうに、こう言った。
「ねえ純平さん。お願いがあるの」
そして僕は次の言葉で、やはり別れなければならないのだと、再認識した。
「最後に、純平さんの絵を、描かせてほしいの」
そう言われて、僕はドキリとした。
「僕の……絵を?」
「うん。そう。純平さんは、じっとしていてくれればいい」
最後に、僕の絵を?
「ね? いいでしょ?」
改めてそう訊いてくる由美子の純粋な表情を見て、僕は決意した。
「うん。いいよ」
「ありがとう。じゃあ、ちょっと待ってね。準備するから」
そう言って、由美子はピンクのバッグから鉛筆と丸めた画用紙を取り出した。
「今日は、絵の具は使わないの?」
バッグの中身を見ながら、僕は由美子に問うた。
「うん。今日は、使わない」
「そう」
別に大して深く考える事でもなかった。絵の具を使わない日は、過去にも一度だけあったのだから。
「じゃあ、顔は動かさないでね」
「分かった」
と了解した僕の顔に、由美子の左手が優しく触れた。僕は目をパッチリと開け、緊張しながら、そのままの姿勢を保った。
「私の手、冷たい?」
「ちょっとね」
由美子の左手は、目、鼻、唇、顎《あご》、首へと下がっていき、ほっぺから耳へと移動した。
「なんだか、くすぐったいな」
「我慢して。すぐ終わるから」
そう言いながら、左手で僕の顔をなぞり、右手でサササと画用紙に写していった。
「あ、それと」
「何?」
「完成するまで、絵、見ないでね」
「どうして」
「いいから。目、瞑《つぶ》ってて」
その時、僕にはその意味が分からなかったが、言うとおりに瞼《まぶた》を閉じた。
「ねえ純平さん」
「ん?」
「これが私の、本当に最後の作品なんだね」
ふと、由美子が寂しそうに呟《つぶや》いた。その言葉に僕は涙を堪《こら》えるのが精一杯で、何も返してやる事ができなかった。
それ以来、僕たちの会話はなくなった。
そして、気まずい空気の中、一時間が経過した。由美子の左手が僕の顔から離れると、声がした。
「できたよ」
その合図で僕は、そっと目を開けた。
描き始める前と随分、辺りの景色が変わったなと思ったのは、太陽が西に大きく傾いていたせいだ。由美子の頬が紅く染まっている。
僕はこの時、嫌な予感がした。二人が別れるのは、いつも夕日が沈む頃だった。
別れの時が……近づいている。
「これ……私の最後の絵」
そう言いながら、僕は由美子から丸められた画用紙を渡された。
「ありがとう」
「私の前では、見ないでね。恥ずかしいから」
僕は画用紙を見つめながら、
「分かった」
と頷《うなず》いた。
それから僕たちは別れを意識してか、何を喋《しやべ》ったらいいのか分からず、僕の方は、いつ秘密を打ち明けようか、ずっと考えていた。
「純平さん」
先に口を開いたのは、由美子の方だった。
「この一年間……」
僕はこの時、その先は言わないでくれと、内心で叫んだ。次の台詞《せりふ》で、僕達は別れてしまうのではないかと、思ったからだ。
「本当に……ありがとう」
僕は悲しみを堪え、首を小さく振った。
「そんな」
「私、純平さんに会えて、本当に良かったよ」
それからまたしばらくの間、重い沈黙が流れた。
そして、とうとうその時は来てしまった。
別れは現実とまるで同じだった。
突然、由美子がそれを切り出した。
「私……行くね」
「え?」
あまりに急だったので、僕の決心はまだ固まっていなかった。
「いつまでもこのままって訳にも、いかないから」
そうだ。いずれは別れの時がくる。だが、僕にはまだ言い残した事がある。
「純平さん……元気でね」
僕の言葉を待たず、由美子はベンチから立ち上がり、こちらに小さく手を振った。
今しかない。早く事実を、打ち明けるのだ。
「さようなら」
由美子は僕に背を向けて、一歩、一歩、ゆっくりと進んで行く。
さあ、早く。
僕は拳《こぶし》を握りしめ、叫んだ。
「由美ちゃん!」
公園に僕の声が響くと、由美子は一つ間を置いて、振り向いた。
「なに?」
声を震わせながら聞き返す由美子の目からは、大量の涙がこぼれていた。
「……由美ちゃん」
その姿を見て、僕は思った。
由美子だって、本当は離れたくなかった。でも、涙だけは、見せたくなかった。
最後は明るく、去りたかった。
だから、自ら別れを。
由美子の心を悟った僕は、握りしめていた拳の力を緩めた。そして。
「さよなら。由美ちゃん」
と、別れを告げた。
最後の最後で、僕は気づいた。真実を知らない方が、由美子にとっては幸せなのだと。
「さようなら……元気でね」
由美子は再び僕に背を向け、歩みを再開させた。僕は由美子の後ろ姿を見守りながら、ボロボロと涙を流し、そして、心の底から、詫《わ》びた。
「ごめん……由美ちゃん」
僕は君に、ずっと嘘をついていた。
僕は本当は……板垣純平じゃない。
板垣、純一《じゆんいち》なんだ。
純平は僕の、弟だ。
けれど弟はもう、死んでいる。
それをずっと、隠していたんだ。
僕と純平は、双子だった。顔も声もそっくりで、どちらが純一でどちらが純平なのか見分けがつかないほどだった。だから子供の頃はよく、それで人を騙《だま》したもんだ。特に純平はそういったスリルを味わうのが好きだったのでバイクを乗り始めたのかもしれない。走りの楽しみを知ってしまった純平は、女より友達よりバイクを優先した。休みの日には家にいなくなった。それくらい走るのが好きだった。
だが、そんなある日の事だった。純平にとって、衝撃的な出来事が起こった。
由美子である。
バイト先で知り合った佐久間舞美の紹介で由美子と出会った純平は、目の見えない彼女に同情し、優しく接した。そして、何度も会うようになり、純平は次第に由美子に惚《ほ》れていき、由美子もまた純平に心を許すようになっていった。そして二人は、つき合い始めた。が、その一ヶ月後の事だった。二人の幸せは、音を立てて崩れ去った。純平がバイク事故で死んだのだ。
事故の知らせを聞いた僕は病院に急いだ。だが、僕が病室に着いた頃には、純平はもうほとんど喋れない状態で、僕が声をかけても微かな反応しか返ってこなかった。それでも、僕は何度も何度も純平と叫び続けた。すると最後の力を振り絞り、純平がこう言ったのだ。
由美ちゃんには俺が死んだ事を知らせないでほしい。兄貴が俺になって、由美ちゃんを助けてやってほしい、と。
そして、兄貴ごめん、とそう言って、純平は、息をひきとった。
あの時、純平が死んだ事実よりも、純平の最後の頼みの方が僕の頭には響いていた。いくら双子とはいえ、目の見える人間ですら間違えるとはいえ、僕が純平を貫き通せるはずがないと。
確かに、純平からは由美子の事情や趣味や、お互いをどうやって呼んでいるかなどは聞いていた。それでもやはり、僕には自信がなかった。ばれるに決まっていると。そうなった時の彼女のショックは大きいと。だから、ちゃんと事実を伝えてやろうと。
だが、僕の隣で純平の言葉を聞いていた佐久間の意見は、違った。
どうしたらいいのか迷っている僕に、できることなら、由美子のために純平君になってあげてほしい。由美子にとって、純平君が初めての恋人だったんだからと、言ったのだ。
決して、佐久間に説得されたから僕は決断した訳ではない。やはり純平の最後の望みを叶《かな》えてやるべきだとそう思ったから、彼女の前で弟のふりをしようと決めたのだ。
ただ、この嘘は、僕一人がつき続ければいいという話ではなかった。勿論《もちろん》、周囲の協力が必要だった。由美子の両親には純平の話が出てもいつも通り接してもらわなければならなかったし、何より僕には、佐久間からの由美子の情報が全てだった。彼女の過去はもちろん、この一ヶ月で純平と由美子がどのような会話をしたのかというところまで知る必要があった。純平に兄弟がいる事を由美子が知らなかったのは幸いだった。もう少し長くつき合っていたら知られていただろうが、双子の兄弟というのは、自らそれを話さない。同じ人間がもう一人いるというのが嫌なのだ。純平もそうだった。
その件については、佐久間が、純平君って兄弟っているのかなと、さりげなく訊《き》いたようで、そういえば今まで訊いた事がなかった。今度、訊いてみよう、と由美子は言っていたのだそうだ。
そこまで徹底しなければ、彼女に嘘がばれてしまう。だから僕は、完全に純平になりきった。
そして、純平が死んで三日後。
僕は、由美子に初めて会った。が、いくら完璧《かんぺき》に純平になりきっているとはいえ、最初はさすがに戸惑ってしまった。
どうしたの。いつもと様子が違うようだけど、と言われた時には、冷や汗をかいた。それでも僕は冷静に由美子と接した。由美子も別に怪しんでいる様子はなかった。が、初めのうちは、嘘がばれたらどうしようとハラハラの毎日だった。でもそれも少しずつ慣れていき、今のままなら大丈夫と確信を得た辺りから、僕は純一として、優しくて素直で純粋な彼女に恋をしていた。そして段々と罪悪感を感じるようになっていった。いつかは話さなければならないと思っていた。だが結局は、この再会の場でも真実を打ち明ける事はできなかった。けれど、結果的にはこれで良かったと、僕は思っている。純平だってそう思っているはずだ。何も知らないまま別れた方がお互いのためだと、僕はようやく気がついた。
由美子の後ろ姿はもう、小さな点になっていた。最終的には嘘をついたまま別れる事になってしまったが、僕の気持ちはスッキリとしていた。
『私の前では、見ないでね』
僕は由美子の言葉を思い出し、そうだ、と自分の顔が描かれた画用紙を広げてみた。それを見た僕は、優しい笑みを浮かべた。由美子らしい。
目が見えないというのに、しっかりと特徴をとらえている。濃い眉《まゆ》や厚い唇なんかはそっくりだ。目の部分だって、よく描かれている。
「ありがとう……由美ちゃん」
僕はそう呟《つぶや》き、歩き出した。
が、ある部分に注目した僕は、ハッとなった。
まさか、と、由美子を追いかけようとしたが、もう彼女の姿は見えなかった。それどころか、辺りに濃い霧がかかり、僕の意識も朦朧《もうろう》とし始めた。
「……由美……ちゃん」
そこで意識は途切れた。それから先の事は、憶えていない。
13
ふと気がつくと、僕は神社の前で倒れていた。空には太陽がのぼっており、いつの間にか朝を迎えていた。
ゆっくりと立ち上がった僕は記憶を巻き戻した。
そういえば、僕は……。
この神社に辿《たど》り着き、由美子を待っていたところまでは憶えている。だが、真ん中の辺りが空っぽで、何も憶えていない。
最終的に由美子には会えた。あれが夢だったのかどうなのかは分からないが、再会できたのは確かだ。だから記憶に関して深く考える事はない。
それで僕は結局、真実を打ち明けず……そう、絵を、開いた。
そして僕は、重大な事に気がついたのだ。
僕は、由美子の描いた絵を思い出した。
やはり、間違いない。
「……由美ちゃん」
そうか。そうだったんだ。
あの絵は僕への、メッセージだったんだ。
君はあの時、気がついたんだ。
いや、いつからかは分からない。もしかしたら初めて会った時からかもしれない。どちらにせよ君は、気がついていたんだ。
僕が純平ではないという事を。
口には出さないが、微妙な違和感を覚えていたんだ。
その証拠に君は、僕の首の下あたりにある膨れたほくろを、ワザと描かなかった。
最後に僕の絵を描いたのは、確認の為だったんだ。だから私がいなくなってから、見て、と。
純平には、そんなほくろはないのだ。
純平は由美子と初めてデートした時、似顔絵を描いてもらっている。それを僕は一度見ている。勿論、ほくろは描かれていない。実際ないのだから。由美子もそれは憶えているはずだ。それなのに僕の首の下には、ほくろが、あった。
そこで疑いから、確信へと変わった。
やっぱりこの人は、純平さんじゃない、と。
でもここまで似ているという事は、もしかしたら純平さんには、双子の兄弟がいたのではないか、というところまで推理しただろう。
でも由美子は何も言わなかった。追及しなかった。
そんな素振りさえ見せなかった。
彼女は、誰かも分からない僕の罪を許してくれたのだ。
いや、そうじゃない。
あの、ありがとう、あれは、僕、純一への、言葉だったんだ。どんな事情があったのかは知らないが、私の為に、と。
そして最後は、僕に純平を重ねて、由美子は去った。僕の気持ちを傷つける事なく。これがお互いにとって、一番良い別れ方だろうと。
「由美ちゃん……」
僕はそう呟き、心の中で礼を言った。
まるで暗闇のトンネルの先から光が見えたような、そんな心境だった。
いつから僕が純平ではないという事に気がついていたのかなど、もうどうでもいい。
僕はようやく二人の一年間に、終止符をうてた。
これで由美子への罪悪感も消えた。
僅《わず》かな時間しかいられなかったが再会もできた。もう、由美子の死にくよくよなんてしない。
明日からは、死んだ純平と由美子の為に、精一杯、生きよう。
嘘で固められていたとはいえ、由美子との想い出を、大事にして。
僕は太陽の光を浴びながら、そう誓った。
そして、大空に向かって、思い切り吸い込んだ息を吐き出して、僕は言った。
「帰ろう……」
三人の町へ。
僕は神社の階段を、一つ、また一つと、下りた。
「さよなら……由美ちゃん」
僕は神社を振り返り、改めて由美子に別れを告げた。
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骨  壺
骨壺《こつつぼ》の噂は、二週間ほど前に放課後の教室で赤星美津子《あかほしみつこ》から教えられた。彼女らの住む神奈川県|厚木《あつぎ》市からほんの少し離れた海老名《えびな》市に、小さな寺に隣接している青田墓地というところがある。その墓地の隅っこ、まるで邪魔者扱いされているかのように、稲田《いなだ》家之墓と彫られた真っ白い墓石がポツリと建っている。この墓に遺骨が入った骨壺が納められているのだが、その骨壺の中にある粉骨を憎い人間にふりかけると、その人間は必ず三日以内に死ぬ、と美津子は言ったのだった。
そんな噂話、どこで仕入れてきたんだと室田絵里《むろたえり》は訊《き》いた。美津子は、兄貴の友達の情報と答えた。
二人は好奇心|旺盛《おうせい》な十六歳だ。噂話を終えた美津子が、確かめてみない? というのは分かりきっていたし、ごくごく自然の事とも言えた。しかし、今回ばかりは絵里は乗り気になれず、止めようと言った。それには当然理由があった。
ここ最近、奇妙な事故が相次いで起きている。海老名市、座間《ざま》市、相模原《さがみはら》市、そして平塚市に住む四人もの若い男女が行方不明になっており、いずれも青田墓地周辺で目撃されているのを最後にその後の目撃証言は得られていないという。ニュースでも伝えられているように、絵里自身もその奇妙な一致が単なる偶然とは思えず、また彼女の言う噂話と事件が繋《つな》がっているような気がしてならず、美津子の誘いを断った。が、美津子はそれでも行こうとしつこかった。絵里が行かないなら私一人で行くと、絵里の説得をきかなかった。
彼女がこうも執拗《しつよう》になるのは、殺したい人間がいるからである。二人のクラスの担任である市田雅雄《いちだまさお》を美津子は憎んでいた。今年で四十になるにも拘《かかわ》らず未婚の市田の瞳《ひとみ》の奥には常に美津子がいた。美津子は容姿端麗で高校一年とは思えないほどの大人っぽさがある。教師とはいえ、美津子の魅力に虜《とりこ》になってしまうのは分かる。
しかし、それ以上の事実がある事を絵里以外の他の生徒は知らない。
その事件が起きたのは二週間前だった。残暑の厳しい日であった。美津子は市田に理科室に呼ばれた。以前から市田が美津子に特別な感情を抱いていたのは彼女自身自覚していた。しかし市田も一応は教師だ。教師、の二文字が歯止めをきかせていたのであろう、特別行動に出る事はなかった。だがとうとう市田の想いは爆発した。
「すまないね、休み時間に呼び出したりして」
市田は言って理科室の扉をピシャリと閉めた。
「今日呼んだのは他でもないんだよ。最近、君の成績があまりよろしくないと思ってね」
そうは言うが、美津子は別の気配を感じた。
何が言いたいんですか、と美津子が恐る恐る聞くと、市田は急に挙動不審になった。いきなり、お前の成績を上げてやると市田は言った。あまりに唐突すぎて混乱する美津子の体を市田は急に触ってきた。その時、胸も尻《しり》も触られた。それだけではない。汗ばんだ指先がスカートの中にまで入ってきた。
瞬間、金縛りにあってしまった美津子は棒のように立っていた。市田の吐息が耳にかかり我を取り戻した美津子は市田を突き飛ばし泣きながら絵里の元に逃げた。話の一部始終を聞いた絵里の背中に寒気が走った。汗の滲《にじ》んだ肥えた体、脂でべたついた長めの髪、そして生徒たちに希望を与える教師とは思えない濁った瞳。あれが迫ってきたと想像するだけで吐き気がした。屈辱と恐怖で声を上げて泣く美津子に絵里は、信頼できる女性教師に訴えようと言った。しかし美津子はそれを拒んだ。こんな事実誰にも知られたくないと言うのだ。確かにその通りであった。大人に話すという事は事実が公になるという事だ。いくら美津子が被害者とはいえ、白い目で見る人間が出てくるだろう。絵里は親友のために、どうにかならないものかと策を練った。が、結局良案は浮かばず、事実が隠されたまま二週間の時が流れた。
市田は美津子が事を公にするつもりはないと悟ったのか、何食わぬ顔で生徒たちに授業を行っていた。絵里は悔しくてたまらなかった。卑劣な男にどうにか仕返ししてやりたかった。被害者の美津子の方がもちろん、その想いは強かったであろう。だからあの骨壺の噂話を聞いた時は絶好の機会と思ったのだろう。網膜に染みついているあの男をどんな形でもいい、殺してしまいたい。死ねば少しは思いが晴れる。
市田に対する恨み憎しみが美津子の心を支配し、侵食していったようだった。脳の冷静な部分を破壊された美津子は根本を忘れてしまっている。
あの噂話は、あくまで噂なのだ。つまり例の骨壺にある粉骨を市田にふりかけたからといって市田が死ぬとは限らない。いや、決して死にはしないだろう。無論絵里はそれも美津子に言った。しかしやはり美津子は聞こうとはしなかった。
美津子の気持ちは痛いほど分かる。それでも絵里は悪い予感がし、墓地に行くのだけは駄目だと美津子に言い聞かせた。実際に事件が何件も起きている。噂話と繋がっているかは定かではないが決して近づいてはいけない気がした。青田墓地の風景は見た事はないが、禍々《まがまが》しいオーラが漂っているのが見えるようだった。しかしいくら説得しても彼女は分かってはくれなかった。
昨夜、美津子が忽然《こつぜん》と姿を消したのだった。
美津子が家に帰ってきていないと知ったのは昨晩、十一時を回った頃だった。自宅に彼女の母親から連絡があった。
美津子がそちらにお邪魔してないかしら。
その言葉を聞いた瞬間、悪い胸騒ぎがした。同時に、自転車で自宅に帰っていく彼女の後ろ姿が瞳に映った。昨日の放課後、美津子とはいつもの場所まで一緒に帰った。その時にまたあの骨壺の噂話を美津子から振ってきたのだ。しかし彼女の口からは意外な言葉が出た。絵里が行くなと言うならもう行かない、市田には別の形で復讐《ふくしゆう》すると言ったのである。それを聞いて絵里は安心したのだが、今思えば美津子はあえて普段通りを装っていたのではないか。微笑を見せて手を振ってこちらに背を向けた。あの時は何も感じ取る事はできなかった。が、もしかしたら美津子はこちらを振り返っていたのではないか。そうだとして、彼女はどんな顔をしていたのか。別人のように鋭い顔つきだったかもしれない。
どうして美津子の心の奥を見抜けなかったのか。こんな事になったのは自分の責任でもある。
事態を知った絵里は一晩中、彼女に連絡し続けた。しかし美津子は携帯に出るどころか、電波の届かない場所にいるか電源を切っているらしく、女性の声がむなしく聞こえてくるだけであった。そうなるとますます悪い想像ばかりが膨らんでいき、絵里の不安は大きくなる一方であった。
朝になっても美津子から連絡はなかった。
やはり美津子は墓地に行ったのではないかと、絵里は改めて考えてみた。確信を得るような証拠はないが、その可能性が濃厚である。別れ際に彼女は、噂話はもう忘れるような事を言ったがそれは嘘で、絵里を安心させるための演技だったのではないか。
眩暈《めまい》に襲われた絵里は膝《ひざ》を落とした。次に震えが走った。体中の血が一気に冷めていくのが分かった。決して行ってはいけない場所なのに。
放課後、絵里は真っ直ぐ家には帰らなかった。
インターホンに自分の名前を告げると、すぐに玄関が開かれた。中から出てきたのは美津子の母であった。ずっと寝ていないのであろう、目元にはクマが生じ、顔色も良くない。いつも綺麗《きれい》に整えられている髪の毛も乱れ、艶《つや》を失っている。美津子の母とは四日ほど前に会っているが、一気に老け込んだようだった。
美津子の母は柵《さく》を開けこちらに歩み寄り、
「絵里ちゃん」
とすがるような声を出した。
「おばさん、やっぱり美津子から連絡は」
彼女の様子を見れば返ってくる答えは予想できるが、ほんの少しの期待を込めて聞いた。しかし答えは想像通りのものだった。美津子の母は首を振った。
「絵里ちゃん、あの子が行きそうな場所、心当たりない?」
心臓がドクンと跳ねた。美津子から聞いた噂話が鼓膜に響いた。未《いま》だに噂話の件は誰にも話していない。表情に狼狽《ろうばい》の色が浮かぶ。
絵里の喉元《のどもと》が動いた。次に口を開いた。
「いえ、ありません」
嘘をつき、すぐに別の質問をした。
「警察には連絡したんですよね?」
「ええ、ええ。でも未だに」
絵里は肩を落とし目を伏せた。
「そうですか」
突然悪い想像が過《よぎ》ったのであろう、美津子の母は急にしゃがみ込んでしまった。
「おばさん」
「美津子に何かあったら、私」
美津子の母の肩に手を置くと、小さな震動が伝わってきた。絵里は彼女を立たせようと肩を持った。
「大丈夫ですよ。美津子は必ず見つかりますから。だからおばさん、しっかりしてください」
ヨロヨロと立ち上がった彼女は、魂まで抜けてしまうほどの大きなため息を吐いて、小さく頷《うなず》いた。
「ありがとね絵里ちゃん」
絵里はもう一度勇気づけた。
「大丈夫ですよ。絶対」
それで少しは希望が湧いたか、美津子の母は声に力を込めて言った。
「そうね。連絡があったら、すぐに知らせるから」
「はい」
「気をつけて帰ってね」
「失礼します」
扉の閉まる音を確認した絵里は歩みを止めて、美津子の家を振り返った。湿っぽくてなま暖かい風が通り過ぎた。しかし体は寒気を感じていた。
彼女は罪悪感を抱いていた。
美津子の母に嘘をついた理由は自分でも自覚している。
骨壺《こつつぼ》の噂話を話せば、きっとこう訊《き》かれる。
どうして美津子は人が死ぬと言われている粉骨が必要だったのかと。
美津子はそれを知られるのを何よりも恐れていた。両親にも知られたくはなかったろう。もし話せば、親友を裏切る事になる。美津子は私を軽蔑《けいべつ》し、離れていくだろう。
彼女は自分の考えに首を振った。裏切るとか裏切らないとか、そんな事を迷っている場合ではないはずだ。ただの言い訳だと思った。
本当は怖かったのだ。
私は美津子があの噂話を信じていた事を知っている。どうして止めなかったんだと様々な人間に責められるのが怖かった。少なくとも高校生活残り二年間は白い目で見られるに決まっている。
噂話と美津子の失踪《しつそう》が関係ないものだと思いたかった。だから話さなかったのだ。
私は何て人間なんだと情けなくなった。こんな自分がつくづく嫌になった。
親友の美津子には今まで色々助けてきてもらったではないか。支えてきてもらったではないか。なのに、自分は噂話に足を踏み入れた美津子との関わりを恐れている。
美津子とは小学五年生からの仲で、仲良くなったきっかけは、当時全く流行《はや》っていなかったある少女マンガの単行本を二人が全巻もっていたから、という単純なものだった。それを知った時、絵里はたまらなく嬉《うれ》しかった。美津子もそうだろう。二人は少女マンガの話題で盛り上がり、段々と仲を深めていった。
中学では一緒にブラスバンド部に入り、お互いサックスに明け暮れた。大会ではいい成績を残す事はできなかったが、親友とサックスができた事が宝物になった。
偶然偏差値も同じくらいで高校も一緒になり、これまた偶然でクラスも同じになった。
美津子と出会ってからの約六年間は、ほとんど彼女と過ごしてきた。
その中で特に忘れられない想い出がある。
小学六年生の時だった。放課後、男子も交えてかくれんぼをした事があった。鬼は美津子で、絵里は隠れる役だった。ところが、絵里が隠れた場所の難易度が高すぎて、美津子は見つける事ができなかった。あまりに暇だったので絵里はつい眠ってしまい、目を覚ますと夜になっていた。広場にはもう誰もいなかった。このまま見つけてもらえなかったらどうしようと考え、絵里は怖くなり、その場から動けなくなってしまった。しかしすぐに安堵《あんど》することができた。かくれんぼを始めてから四時間は経っているのに、美津子の自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきたのである。皆が帰っても美津子一人が探してくれていたのだ。絵里は泣きながら美津子の元に走った。その時に美津子は本当に安心した表情を浮かべ、心の底から良かったと言ってくれたのだった。
自分の事を思ってくれている優しい彼女を見て、心に決めたではないか。美津子が困っていたら、私が助けると。今がその時である。
正直今でも青田墓地に近づくのは怖い。でもこのまま逃げていては、それこそ美津子を裏切る事になる。美津子が実際青田墓地に行ったとしたら、そこに何か手掛かりがある可能性がある。
他人は頼れない。美津子には、誰にも知られたくない過去がある。全ての事情を話せば、美津子がさらし者になる。それだけはならなかった。
まだ陽は落ちてはいない。青田墓地に行くのなら、今であった。
地図で場所を調べた絵里は、小田急線に乗り海老名駅で降り、バスに乗り換えた。
最寄りのバス停に降りた瞬間から絵里は吐き気を催した。これが霊気というものなのか。何かに押し返されているように、彼女の足取りは重い。こんな体験は初めてであった。引き返すべきなのではないか。そう思ったが美津子を裏切ってはならない、という気持ちの方が強かった。
バス停から約三百メートルほど歩くと、森林に囲まれた小さな寺が見えた。その隣が目的の青田墓地である。外から見ると当たり前だが、多くの墓が建てられてあり、ポツポツと花が供えられてある。
彼女は思わず足を止めていた。絵里は一瞬、墓地に黒い靄《もや》のようなものがかかっているのを見た。しかし錯覚か、よく見ればごくごく普通の墓地である。人間の魂が眠る墓地の風景に気圧《けお》されているだけだ。
この辺りでどうして事故が起きるのか、不思議でならない。不気味なほど静まり返ってはいるが、人影がないのも事実である。
まだ陽は傾いてはいない。墓地に足を踏み入れるのなら今のうちである。
そうして中に入り故人が眠る墓地を横目に歩いていく。
しばらくすると絵里の体は硬直した。ある物が目に映ったからだ。
美津子の言う通りであった。墓地の隅っこに、真っ白い墓が寂しくポツリと建てられてある。あんなに美しい墓なのに、なぜかその墓だけが隅に追いやられているように見えた。
あれが例の墓なのだろうか。噂話を聞いて多くの若者が、あの墓目指してやってきた……?
突風が吹いた。ジメッとした心地の悪い風で思わず、絵里は身震いした。
絵里は口元を結び、一歩を踏み出した。そろりそろりそろりと近づいていく。はっきりと聞こえるほど、心臓は暴れていた。押し寄せてくる緊張と恐怖に勝てず、息が乱れた。残暑のせいではない。全身が汗でまみれていた。
『稲田家之墓』
墓に彫られた文字を見た絵里の喉《のど》がゴクリと動いた。見てはならないものを見てしまったかのように、絵里の目元はピクピクと痙攣《けいれん》し、頬が引きつった。
しかし、目の前に立ったからといって何かが起こる事はなかった。なぜこの墓地で多くの若者が姿を消すのか、想像すらできなかった。
本当に美津子はここへやって来たのだろうか。何らかの事故に巻き込まれたのならば、抵抗、もしくは逃げる際に私物を落としたのではないかと期待した。が、辺りには何も落ちてはいない。
しゃがみ込み美津子の手掛かりを集中して捜していると、カサカサと葉を踏みつけたような音がした。絵里は小さな悲鳴を上げ振り返った。背後から気配を感じたのだ。が、気のせいだったようだ。どこにも人影はない。どうやら自身が黒い影を想像で生んでしまったようだ。神経が過敏になっている証拠であった。
ここから一刻も早く離れよう。
そう思った彼女はふと、ある場所に目をやった。いや、引きつけられたのだ。それは、墓石の土台部分であった。
その土台部分には小さな引き戸がある。
もしやこの中に、噂の骨壺があるのか。
絶対に開けてはならないと自分自身に言い聞かす。帰るんだと指示をする。
だが、腕が引き戸に伸びていた。確かめてみたいという衝動に抗《あらが》えない。絵里は息をのみ、そっと引き戸を開けてみた。
想像通り、中には白い骨壺《こつつぼ》が置かれてあった。
人間の魂が眠っているせいか、骨壺は独特の空気を放っていた。
これ以上は踏み込んではならないと思い、絵里は引き戸を閉めようと手を伸ばした。
音を立てながら小さな戸は閉まっていく。
しかしすぐに絵里の手が止まった。彼女の目が見開いた。
気のせいではない。骨壺の底が今、蛍のように薄い光を発した。何かを訴えかけているように。
絵里はもう一度引き戸を開けた。調べずにはいられなかった。壺の中を見たい衝動に逆らえなかった。
とうとう絵里は骨壺を手にとった。ゆっくりと引き寄せ、外に出した。彼女は息をするのも忘れていた。
壺の中を覗《のぞ》いてみる。当たり前のように壺の中は闇であった。見る角度を変えると、うっすらと白い粉が確認できた。粉骨である。
穴を覗きながら絵里は首を傾げた。あの光は気のせいであったのか。いやそんなはずはない。ほんの微かではあったが確かに発光した。
溜《た》めていた息を吐き出した絵里の表情が停止した。
こんな事があり得るのか。
闇が、突如ある映像に切り替わった。
一戸建てかマンションかアパートかそれは定かではないが、十畳ほどのリビングには中型テレビと白いレースのかかったテーブル、そして水色のソファが置かれており、そのソファに、一人の若い女性が腰掛けている。顔は決して綺麗《きれい》とは言えない。化粧をしていないから余計か。髪の毛も二つに束ねているだけであまり身なりには気を遣っていないようだ。
彼女は鼻歌でも歌っているのか、上半身を小さく揺らしながら編み物をしている。
よく見ると彼女は身重であるのが分かった。今編んでいる物は、生まれてくる赤ん坊のための物か。彼女の表情はとても幸せそうであった。
その彼女の表情が一変した。
絵里は、リビングに現れる影を見た。女は編み物を捨て尻餅《しりもち》をついたまま後ろに下がる。くるなくるなと首を振る。やがて影は正体を見せた。出刃包丁を持った大男であった。絵里には背中しか見えていないので顔は分からないが、その顔が殺意に満ちているのだけは感じ取れた。男の狙いが何なのかは不明である。強盗殺人か、それとも顔見知りの恨みによる犯行か。どちらにせよ一つの疑問が残る。
男はどうやって部屋に侵入したのか。
まさか鍵《かぎ》が開いていたとは思えない。とすると、これは夫なのか。だとしたらどうしてだ。そんな残酷な事があっていいのか。
逃げ場を失った女は窓にはりつき男を見上げた。
男は、一切の猶予も与えなかった。包丁を振り上げ、有無を言わさず女の胸を突き刺した。真っ赤な血が真っ白いマタニティードレスを染める。
その一撃が致命傷であるのは明らかであった。しかし男は刺すのを止めなかった。返り血を浴びながら何度も包丁を振り下ろす。精神の異常な者か、それともよほど女に恨みがあるのか。どちらにせよ自分が人間であるのを忘れてしまっている。
男は最後の一撃を喰らわせようとしたのだろう。両手で包丁を握りしめ、高く振り上げた。が、何かに気づいたのか、男の動作が止まった。急に冷静になったようであった。最後の一撃は与えず、包丁を下げた。もっともその一撃がなくとも女は既に息絶えていた。
男の様子がおかしいのは明白で、彼は逃げるようにして部屋を去った。その際、絵里は男の顔を見た。一瞬だったので詳細までは分からなかったが、怯《おび》えていたようにも見えた。
絵里は、女の無惨な姿を見てしまった。血にまみれ、顔は真っ青に変色し、目を大きく開けたまま死んでいる。最後までお腹の赤ん坊を守ろうとしたのだろう、彼女は両手でお腹を……。
絵里の瞳《ひとみ》にあるモノが飛び込んできた。瞬間、絵里はヒッと声を上げた。
それが、まだ完全な形を成していない赤ん坊だと知った絵里はのけ反っていた。女のお腹にある赤く変色した物は赤ん坊に違いなく、男が怯えていたのもそれであった。
悲惨な結末であった。
こんな形で外に出る事になろうとは。
一瞬にして、女と胎児の幸せは奪われた。赤ん坊の悲しい泣き声が今にも聞こえてきそうであった。これ以上見ていられず、絵里は目を伏せた。
その時であった。
骨壺の中から、蛙のような小さな手が伸びてきたのだ。同時に、粉骨が外に舞った。あまりに一瞬すぎて絵里は避ける事ができず、その蛙のような手は、彼女の髪を掴《つか》んでいた。必死に振りほどこうとするが、小さな手には似合わず力が強く、離そうとはしない。恐怖におののく絵里は骨壺を掴んだ。壺を割ろうと考えたのだ。
しかしその手はそれを許さなかった。
なんと、絵里の身体は骨壺の中にのみ込まれていった。到底入れるはずのない壺に引きずり込まれていく。
彼女の上半身をのみ込むとその後は早かった。ばたつく二つの足はアッという間に吸い込まれ、絵里の姿はそこから消えた。
壺の中から彼女の悲鳴がするが、それもやがて聞こえなくなった。
意識を取り戻した絵里はうっすらと目を開けた。長く眠っていたのか、墓場での記憶が遠いもののように感じる。しかしあの一瞬の出来事は鮮明に残っている。
夢であってほしいがそうでない事は分かっている。
骨壺から蛙のような小さな手が現れて、その手に私は……。
絵里は記憶を遮った。
そうだ、ここはどこなんだ。
肝心な事に気づいたと同時に、新たな恐怖が生まれ、それは一気にせり上がってきた。
彼女の今いる場所は闇の空間であった。どこを見ても闇。無であった。混乱のせいで、全ての物が色彩をなくしたように見えてしまっているのではないかと思ったがそうではなかった。
私は今、闇の空間に一人ポツリと置かれている。
彼女は想像してみた。
もしやここは、骨壺の中なのではないか。到底あり得る事ではないが、私は骨壺から出てきたあの手に引きずり込まれた。それは事実なのだ。
ふと、目の端に何かが映った。
咄嗟《とつさ》にその方を向いた絵里は絶叫した。『それら』は突然現れたようだった。
生きているのか、いや全員が死んでいるように見えた。
人間数体が、積木のように重なって一つの固まりとなっているのだ。今にも崩れそうであるが、誰一人としてピクリとも動かない。
口をパクパクとさせながら後ずさる絵里は、その固まりのある部分に目を凝らした。
女の穿《は》いているスカートである。間違いなく絵里の通う高校の物であった。
「美津子!」
絵里は美津子の元に急ぎ、彼女の上に乗っている三体を引きずり下ろした。崩れた拍子に一体がうつ伏せから仰向けに体勢が変わった。絵里はその男をまじまじと見てしまった。
血色のない冷えた顔。肉のない、骨と皮だけの体。不可解なのは頭髪がほぼ全てなくなっていること。引きちぎられたような跡がある。これは自らの行動か。それとも何者かによってこのような姿にされたというのか。
どちらにせよ男は死んでいた。他の者もそうだった。異常な死に方をしている。目や爪や指といった、小さな部分を引きちぎられている。
まさに地獄絵図だった。気が狂いそうであった。胃液が喉《のど》までこみ上げてきた。
それをグッとのみ込み、絵里は美津子を地面に下ろし、仰向けにさせた。その作業は絵里の気力体力を奪い取り、彼女は今にも気を失いそうであった。
瞳に映る美津子は、自分の知る美津子ではなかった。まるで若さを吸い取られてしまったかのように、彼女の全身は皺《しわ》だらけになってしまっていた。美津子に似た老婆を見ているようだった。しかしこれは紛れもなく美津子であった。そして彼女の場合は、右耳を引きちぎられていた。
声をかけようとしても喉から声が出ない。皺だらけの頬に手をやると氷のように冷たかった。その冷たい頬に、絵里の暖かい涙がこぼれた。目を覚まして、と何度も心で祈ったがそれは叶《かな》わなかった。
絵里は泣きながら美津子に詫《わ》びた。あの日、彼女の様子に気がついていればこんな事にはならなかった。心配する私を気遣って、一人で墓地に来させてしまった。全ては私のせいなのだ。後悔してもしきれない。
だが今は悲しんでいる場合ではなかった。絵里は涙を拭《ぬぐ》い口元をきつく結んだ。
青田墓地で相次いで起こった事故の真相はこれだったのだ。皆噂話を信じて青田墓地にやって来た。憎い人間の姿を頭に描いて。だが骨壺《こつつぼ》を手にした瞬間、壺の中にのみ込まれていった。そこで美津子たちに何が起こったのか。何を目にしたのか。その謎は解けていない。
絵里は、美津子の頬にもう一度手を置いた。
この事件、謎のままで終わらせてはならない。私が必ず解決してみせる。美津子のために。
しかし決意はしたものの、解決するにはどうすればいいのだろうと絵里は思案する。
美津子たちをこんな姿に変えた人物がいるはずであった。これは腐敗による変貌《へんぼう》ではない。何者かによって美津子たちは醜い姿にされたのである。しかしこれは人間の仕業であろうか。ある者は髪を引きちぎられ、またある者は手足の指が喰われたようになくなっている。絵里の脳裏に獣の影がちらついた。
と同時に、背中に異なった空気を感じた。それはヒンヤリとした不気味な冷気を放っていた。
音を立てて迫ってくる訳ではない。しかし背後に誰かがいるのは明らかだった。
一瞬硬直した絵里は振り返った。
気のせいであろうか、そこには誰も立ってはいなかった。だが、首を折り安堵《あんど》した刹那《せつな》、絵里は悲鳴を上げ後ろに飛び跳ねた。足元に赤ん坊がいたのである。赤ん坊は、
「アーアー」
と言いながら地面を這《は》ってくる。顔を伏せているのでどんな表情をしているのか絵里には分からなかった。絵里は、赤ん坊相手にくるなくるなと首を振って尻餅《しりもち》をついたまま後ずさる。
「こないで!」
絵里が叫ぶと、弾《はじ》かれたように赤ん坊が顔を上げた。赤ん坊の顔を見て絵里は凍りついた。
目の血走った赤ん坊が、鬼のように牙《きば》を剥《む》いて絵里を睨《にら》んだのである。気づいた時には赤ん坊は飛びかかってきていた。
赤ん坊は絵里の首に噛《か》みつき、吸血鬼のように血を吸い込んでいく。耳元でごくごくと音がする。体内の血全てを飲み干す勢いであった。初めは激しく抵抗した絵里であったが、赤ん坊の力は大人以上に強く、いくら暴れても振りほどく事はできなかった。
赤ん坊は血とともに絵里の体力を奪っていく。首筋、手、足が急速に細くなっていくのを彼女は認めた。次に眩暈《めまい》に似た症状が襲いかかってきた。倒れたら最後だと自分に言い聞かせても体が言うことを利かなかった。血を抜き取られた絵里はとうとう崩れ落ちた。同時に赤ん坊は絵里の首から離れた。
絵里の血を飲み干した赤ん坊は、次に彼女の右手親指を食い始めた。骨まで食べているようだ。ボリボリと音を立てながら、美味《おい》しそうに味わう。
絵里は痛みを感じなかった。全身が麻痺《まひ》していた。自分の親指がなくなっていくのを、ただボーッと見つめているだけであった。
赤ん坊が口にしたのは右手の親指だけであった。もうお前はいらないというように、這ってどこかへ向かう。血を抜かれたせいか、絵里の身体は皺だらけとなっていた。まるで浦島太郎であった。この数分で五十年、年をとったみたいだった。
朦朧《もうろう》とした意識の中、絵里はぼんやりと赤ん坊を見た。
その赤ん坊の体は明らかに不自然であった。
一歳にも満たない赤ん坊の髪の毛は生えそろい、鼻や口は赤ん坊のそれなのに、目だけは成人の目であった。手の指、足の指も赤ん坊と大人とが混じっている。が、腕や足は赤ん坊のままだ。デタラメに、そして強引に組み合わされているパズルを見ているようであった。
奇妙ではあるが合点した。
骨壺から出てきたあの手は赤ん坊のものであり、赤ん坊は骨壺を覗《のぞ》いた人間を引きずり込み、今みたいに若い男女から様々な部分を奪い取り、少しずつではあるが成長していく。その証拠に、絵里の血を吸った後の赤ん坊は一回り大きくなったようであった。右手の親指も急激に成長している。
赤ん坊がどこへ向かうのか。絵里の意識はまだ残っていた。
微かではあるが、絵里の目元が反応した。
赤ん坊が向かった先は、あの母親の元であった。
殺された女の顔は蒼《あお》く、落ちくぼんだ目をしている。しかしその瞳《ひとみ》は鋭い。
女は薄く笑って赤ん坊を抱き上げた。そして、絵里を見て頷《うなず》いた。頭を下げたようにも見えた。
私の赤ちゃんのために犠牲になってくれてありがとう。
そう言っているようであった。
女と赤ん坊は闇に消えていった。また人間が現れるのをどこかで待つのであろう。
ふと、女がこちらを振り返った。今度は女に微笑みはなかった。自分を殺した男を恨むような目であった。しかし赤ん坊は大事そうに、愛おしそうに抱いている。
その赤ん坊がジロリと目を向けたと同時に、絵里の意識もなくなった。
その頃、誰一人としていない青田墓地には、何かが擦れているような奇妙な音がしていた。その音は、『稲田家之墓』からであった。外に出ていた骨壺が、まるで生きているように勝手に動いていたのだ。骨壺を動かしているのは女か、それとも赤ん坊か。
骨壺は吸い込まれるように墓石の中に戻っていく。その動きはゆっくりではあるが、確実に住処《すみか》に近づいている。
ようやく、骨壺が墓石の中に入った。しかしまだ墓石にある戸は閉まってはおらず、骨壺は外の空気に触れている。
まだこの一部始終は誰も目にしてはいない。が、そこに一人の中年男が現れた。供養花を手にしたその男は『稲田家之墓』に向かっていると思われたが、違う墓で足を止めた。
青田墓地に、バンと戸の閉まる音がした。墓参りに来ていた男はビクリと肩を弾ませ、何事かと周囲を見渡す。しかし変わった様子はない。
男は、今噂となっている『稲田家之墓』を振り返った。気味が悪いな、と思った程度でそれ以外は何も思わず、無論不自然な所は見当たらない。
今日も不気味にこっちを見ているな、と心の中で呟《つぶや》いた男は先祖の眠る墓に向き直った。
角川文庫『8.1 Horror Land』平成19年11月25日初版発行
平成20年4月10日3版発行