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8.1
Game Land
山田悠介
CONTENTS
ジェットコースター
写真メール
人間狩り
[#改ページ]
ジェットコースター
プロローグ
十一月十五日。
また、同じ夢を見た。
この日だけは必ず同じ夢を見る。そして、魘《うな》されて起きるのだ。
あの日の事は決して忘れてはいけない。何人もの人間が犠牲になり、自分だけが生き残った。だからこうして生活している。元気に仕事にだって通っているのだ。
机の中にしまってある大切な箱を取り出し、そっと開いた。
そこには、光沢を失った十字架のネックレス……。これだけは一生大切にしなくてはならない。自分がずっとこれを持っていてもいいのかと思う時があるが、約束したのだ。
ネックレスのある右手を閉じた。
すると、あの時の映像が蘇《よみがえ》ってきた。
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十一月十五日。月曜日。
風の強いこの日の空を見上げると、雲の流れが異常に早かった。時も同じように早く進んでいるのではないかと思うくらいだった。
ずっと雲に隠れていた太陽が顔を覗《のぞ》かせた時、金子達也《かねこたつや》の表情は晴れやかになった。良かった。雨が降るのではないかと心配していたのだ。特別なこの日を雨で潰《つぶ》されたくはない。一ヶ月前から今日を楽しみにしていたのだから。でも、もう大丈夫そうだ。空一面を占領していた雲は風で流され、太陽と入れ替わってくれた。今日は想い出に残る楽しい一日になりそうだ。
穏やかな光を浴びながら、南大野の駅前で辺りを確認していた達也は、しきりに腕時計をチェックしていた。
九時五分。
待ち合わせの時刻より五分遅れている。
全く、児島美沙《こじまみさ》は何をしているのだ。今日の計画は彼女が立てたものなのに。
「もう……遅いなぁ……」
とブツブツと文句を垂れながら、達也はあっちへ行ったりこっちへ来たりを繰り返していた。
金子達也は、都内の大学に通う三年生。小学生の頃からずっとバスケットボール部に所属していた彼は百八十五センチと背が高く、体格もがっちりとしていて、身体能力は高い。髪の毛は短く、スプレーで立たせている。顔はどのパーツもハッキリとしていて、眉《まゆ》も太い。初対面の人には必ず沖縄出身ですか? と訊《き》かれるくらいだ。
性格はおっちょこちょいで、ちょっとした事でもすぐに慌てる所がある。昔、横断歩道で腰の曲がった老婆が青信号でも何故か進まないのを見ていた達也は心配になり、急いで駆け寄り、どうしました? 大丈夫ですか? と声をかけた。すると老婆は、は? と怪訝《けげん》そうに顔を上げた。二人はしばらく、見つめ合ったまま、お互いどうしたらよいのか困惑してしまった。達也は、老婆の体に何か異変でも起こったのではないかと思ったのだ。が、全く大した事ではなかった。老婆はただ、下を向いて考え事をしていたらしく、信号が変わっても気がつかなかっただけだった。それを知った達也は、その場で大恥をかいた。老婆はニッコリと微笑んで、ありがとうと言って歩いていった。そのくらい達也はおっちょこちょいで、すぐに早とちりする。だが裏を返せばそれは人一倍、正義感が強い証拠である。他人が困っているのを見ると、どうしても放っておけない質《たち》なのだ。クラスメイトがイジメられているのを助けた事もあるし、ドブに落ちた小学生を救った時だってある。達也は、誰にでも好かれるような優しい人間だった。
ただ、服のセンスだけはどうしようもなく悪い。いつも友達に、どうにかしろよと言われる。今日もデートだというのに、白いジャンパーにジーパンと、何の工夫もない。達也自身、ファッションには興味がないのだ。
それから更に五分が経過し、いい加減、美沙に電話をしようと携帯電話を取り出したちょうどその時、前方からヴィトンのバッグを腕にぶら下げ、見慣れたピンクのダッフルコートを羽織った児島美沙が、クリーム色のミニスカートを揺らして走って来るのが見えた。
この大事な日によく遅れてこられるな、と達也は呆《あき》れながら美沙を迎えた。
「おせ〜よ」
文句を言うと、美沙は息を切らしながら笑ってごまかした。
「ごめんごめん。待った?」
「当たり前だろ。今日のデートは美沙が計画立てたんだぜ」
ちょっと頬を膨らませると、美沙にほっぺたをツンツンと突っつかれた。
「怒らない怒らない。別に十分くらいいいじゃんよ。達ちゃんだって遅れる時あるでしょ」
と、美沙は全く悪びれた様子を見せなかった。
この性格どうにかならないものかね、と達也は内心で思ったが口には出さなかった。これ以上文句を言い続けると喧嘩《けんか》になると悟ったからだ。
「あ、そうそう。喉《のど》渇いたからコンビニでジュース買ってくるね。達ちゃんも来る?」
マイペースの美沙は遅刻の事などもう忘れているかのように言った。
それよりもまだ肝心の一言を聞いていないんだけどな、とはまだ言わなかった。達也は黙って美沙の後ろをついて行った。
児島美沙とはつき合ってもう二年になる。おっとりとした目と大きな口が特徴の三歳年上の彼女は一般企業のOLで、平日にも拘《かかわ》らず、今日のためにわざわざ休みを取ってくれたのだ。と言っても、仕事は別に忙しくはないらしく、本人もあまりやる気がないそうだ。結婚したらすぐに会社を辞めるタイプだろう。肩まで伸びた髪の毛は全然いいとして、茶色く染めるのは会社的にOKなのだろうかと、大学生の達也ですら疑問に思う。
性格は活発で、とにかくお喋《しやべ》りでマイペース。時間にルーズなのが悪い癖で、そのたびによく喧嘩をする。二十四にもなるのに、いつまでも彼女は大人になれない。どっちが年下か分からなくなるくらいだ。年上の彼女に甘えるどころか、気がつけばいつも説教している。だから美沙に対して不満は多い。達也自身、よく二年も関係が続いているなと思う。が、何だかんだ言って、彼女と一緒にいると落ち着くのだろう。そうでなければとっくに別れている。
コンビニから出た美沙は相当喉が渇いていたらしく、袋からペットボトルを取り出し、一口、二口とジュースを飲んだ。
「あ〜生き返る〜」
おばさん口調でそう言って、達也に体を向けた。
「それじゃあ、行こっか」
その台詞《せりふ》に、達也は膝《ひざ》から落ちそうになった。
「おいおい。ちょっと待てって」
「ん? なに?」
惚《とぼ》けているのか、それとも本気なのか、美沙は怪訝そうな表情を浮かべる。
「あのさぁ〜何か言う事ないの? 今日は何の日だっけ?」
と思い出させると、美沙はハハハと手を叩《たた》いた。
「なに? それを待ってたの?」
この女、とことん性格が悪いな、と達也は改めて思った。
「はい分かりました。達ちゃん。お誕生日おめでとう」
そう、この日は達也の誕生日だった。お祝いデートで遊園地に行こうと言ったのは美沙なのだ。それなのに何なんだこの扱いは。
「じゃあ、行こう」
もう気が済んだ? と言わんばかりの美沙は体を駅の方に向けてさっさと歩き出した。
「もう……何なんだよ全く……」
と達也は呟《つぶや》き、美沙の後を追った。
あの女を甘く見過ぎていた。
誕生日なんて関係なく、ただ遊園地に行きたかっただけなのではないかと、達也は今さらながら気づいたのだった。
十時三十分。
ガラガラの電車に揺られ、ようやく成徳駅に到着した二人はそこから更にバスに乗り換えて、コスモランド前で下車した。
「やっと着いたねえ」
上機嫌の美沙に、達也は疲れた表情を浮かべながら頷《うなず》いた。
「ああ」
今日のデートの理由が自分の誕生日ではなく、結局は遊園地だった事に気づいた達也は電車に乗るまでふてくされていた。が、電車内での美沙の世間話にペースを握られ、何もかも忘れて腹の底から笑っていた。今はもう誕生日など、どうでもよくなっていた。楽しければそれでいい。と思わせる力が美沙にはあるようだ。喧嘩してもいつしか二人は笑みを浮かべている。それは美沙の明るさがそうさせる。昔からそうだった。
月曜日だというのに、意外にも客は多かった。ほとんどがカップルだが、子供連れの家族もまじっている。男同士の寂しい連中も。勿論《もちろん》、女同士も。
達也と美沙は腕を組みながら、入り口手前でフリーパスポートを購入し、中に進んだ。その瞬間、美沙の顔が更に輝いた。
「うわ〜」
目をキラキラとさせながら、観覧車やジェットコースターやその他のアトラクションを眺めている。今自分が夢の世界に立っていると感じたいのだろう。
「いつまで突っ立ってんだよ。行くぞほら」
立ち止まったまま動こうとしない美沙に達也は焦《じ》れて、組んでいる腕を引っ張った。すると美沙はしつこくこう迫ってきた。
「ねえねえねえ! 何から乗る? ねえどうする?」
もう達也の声など美沙の耳には届いていない。完全に自分の世界に入ってしまっているようだった。
「初っぱなから絶叫系はやだぜ?」
と達也が言うと、美沙からは全く反対の答えが返ってきた。
「お化け屋敷からっていうのもいいわね」
「おい。俺の話ぜんぜん聞いてねえだろ」
「お化け屋敷に決まり! レッツゴー」
「おいおい……」
こうなったらもう美沙は誰にも止められない。黙ってついて行くしかないと、達也はお化け屋敷に歩を進めた。
自分が大人だというのを忘れて、美沙がこんなにも無邪気になるのには訳があった。二年間つき合って、二人で遊園地に来るのは今日が初めてだったからだ。前から行きたいねとは話していたのだが、なかなかチャンスに恵まれず、いつも計画は潰《つぶ》れていた。それがようやく達成できた。だから今日一日、遊園地内での行動は美沙に全て任せようと思う。これではどっちの誕生日か分からないが……。
わざとらしく赤いペンキが所々に垂れ、蜘蛛《くも》の巣のはったぼろい館の前には、全身に包帯を巻いた男がポツンと立っていた。明るい場所だからだろうか、全く威圧感などなく、むしろその恰好《かつこう》がおかしくてたまらなかった。恐らく、この人が一番恥ずかしがっているのだろうなと達也は思った。
「マジ怖そうじゃない?」
と、美沙は体を近づけてくる。
「そうか?」
雰囲気を壊すように、達也はサラリと返す。
二人がパスポートを取り出すと、包帯人間はさあ中へ入れ、というように扉を開けた。不気味さを演出するためか、キーという錆《さ》び付いた音がした。先は真っ暗で、一瞬入るのが躊躇《ためら》われた。
「行こ行こ達ちゃん」
達也は美沙に腕を引っ張られ、館に足を踏み入れた。その途端、バタンと扉が強く閉められた。二人は咄嗟《とつさ》に振り返り、驚きの声を出す。
「うお! びっくりした!」
「もう〜」
外の光が遮断され、暗闇に包まれる。いつの間にか二人は抱きついていた。
「ちょっと離れろって」
「達ちゃんこそ」
お互いの顔が見えない中で二人はそう言い合って、そっと離れた。そして暗闇の狭い通路を、達也を先頭にゆっくりと進んだ。
「おい。後ろにいたんじゃ意味ねえだろ。横に来いって」
と後ろを向いて美沙に指示した。この時、達也は全くの油断状態だった。前方から何者かによって投げられたゴムで出来た長細い物体を頬に受け、飛び上がった。
「うわ!」
つられて美沙も驚く。
「なによ!」
「何か当たった!」
と達也は屈んで落ちている物を摘《つま》み上げた。
「なにそれ?」
美沙の問いかけに、達也は馬鹿馬鹿しいとため息を吐《つ》いた。
「オモチャの蛇だ」
「やだ! そんなの捨ててよ」
暗くて表情は見えないが、美沙はきっと相当嫌な顔をしているはずだ。彼女は昔からこういった下手物系が大嫌いだった。
「いやいや大丈夫だって。ほれ」
「いいから早く捨ててよ!」
オモチャとは言え、冗談は通じなかった。達也が美沙の顔に蛇を持っていくと、手を思い切り叩《たた》かれた。そのせいで蛇は再び地面に落ちた。
「あ〜かわいそうに」
と、ふざけた発言をすると、達也は体をグイグイと押された。
「ほら! 前に進んで!」
「おいおい。押すなって」
本当に怒っている様子だったので、これ以上美沙を刺激出来ないと感じた達也は、命令通り歩を進めた。
「さあさあ何でも来やがれ!」
強気な達也は美沙に注意を受ける。
「緊張感がなくなるから静かに歩いてくれない?」
蛇でよほど腹が立ったのか、機嫌が良くない。達也は反論できなかった。
突然、横から髪の長い女お化けが包丁を手に、訳の分からない言葉を発しながら襲ってきた。
「きゃあああ!」
達也と美沙は狭い通路を全力で駆け抜けた。今のは結構ビビッた、と言う直前、今度は白い衣装に身を包んだノッペラボウに追いかけられた。
「連続かよ!」
と叫んで達也と美沙はどうにか振り切った。
「もう疲れたんだけど」
達也がそう言うと、美沙からは何も返ってこない。いい加減、機嫌直せよ、と呟《つぶや》くと、
「何か言った?」
と、それには文句が飛んできた。
「いえいえ何も言ってません」
二人は更に先へと進んだ。
どこからともなく気味の悪い声が聞こえてきたり、首のない雛《ひな》人形が並べられた雛壇が急に光ったりと、そのたびに美沙は絶叫し、達也の服を掴《つか》んだ。そして、出口の一歩手前で頭上から勢い良くドライアイスの煙が噴射され、気を緩めていた達也は最後の最後で情けない叫び声を上げた。横にいた美沙に、プププと馬鹿にされたように笑われたのが悔しかった。達也にしてみれば、納得のいかないお化け屋敷だった。
出口の扉を開いた瞬間、太陽の光が射し込み、あまりのまぶしさに二人は目を細めた。
「またおいで」
横にいる魔女の恰好をした係員に見送られ、達也と美沙はお化け屋敷を後にした。しばらく無言のまま歩いていると、美沙の方が先に口を開いた。
「何だかんだ言って、達ちゃんの方がビビッてたよね」
「はあ?」
逆だろうと達也は思う。
「最後のやつなんて、めちゃめちゃ恰好悪かったし」
確かにそうだが、美沙には言われたくない。
「いやいやいや! お前だってずっと怖がってたじゃん。俺の服引っぱっちゃったりしちゃってさ」
「私はそんな事してません」
「してたよ」
「してないって」
「してたじゃん!」
「はいはい」
本当に憎たらしい女だ。言い争いになった時、美沙は絶対に負けを認めない。不利になると必ず話題をそらしてくる。
「あ! アイスクリーム食べたい」
そらきた。
「俺はいらないね」
と、達也はそっぽを向いた。
「あっそ。じゃあ私一人で食べてくる」
そう言って、美沙は勝手に売店の方に行ってしまった。
「もう何なんだよ〜」
今日は俺の誕生日じゃなかったのか?
後を追えば美沙はまた調子に乗る。だが結局、達也は売店に向かっていた。仕方ないと言い訳を繰り返しながら。
列に並んでいる美沙の後ろに達也は黙って立った。
「なんだ。来たの」
「別に」
「食べたいなら食べたいって最初から言えばいいのに。素直じゃないんだから〜」
全くかわいげのない女だ。ついてきている自分もどうかとは思うが。気がつくといつも美沙に主導権を握られている。
「いらっしゃいませ。何にいたしましょう」
紙の帽子を被《かぶ》った女の店員にそう訊《き》かれ、美沙が言った。
「私……バニラ。達ちゃんは?」
急にふられて戸惑う達也は、
「じゃあ、俺もバニラ」
と適当に答えた。それを隣で聞いていたもう一人の店員が、コーンの上にアイスクリームを乗せた。素早くもう一つ。
「お待たせしました。五百円になります」
美沙が財布から五百円玉を取り出し、店員に手渡す。アイスクリームは達也が受け取った。
「ありがとうございました〜」
二人は空いているベンチに同時に腰掛けた。
「ほれ」
達也は美沙にアイスクリームを差し出した。美沙は何も言わずに受け取り、女の子らしくペロペロと舌で舐《な》める。達也は一気にかぶりつく。
「あ〜アイスクリームなんて食べるの久しぶりだ〜」
美沙が独り言を呟いた。
「ねえ次、何乗る?」
と訊かれ、達也はそっけなく答えた。
「何でもいいんじゃねえ?」
「自分の誕生日なんだから好きなの乗らなきゃダメだよ」
こういう時だけ誕生日かよと、達也は内心で文句をたれる。
「美沙が選んでいいよ」
と優しく言うと、美沙からは遠慮の言葉も何もなかった。
「じゃあ食べてから決める」
「はいはい」
全くどちらが年上なんだかと考えながら、達也はコーンをボリボリと食べた。
「もう食べ終わったの? 早すぎじゃない?」
「美沙が遅すぎんだよ」
それから十分間、達也は美沙がアイスクリームを食べ終わるまで黙って待っていた。
「それじゃあ行こっか」
スカートの上に落ちたコーンの欠片《かけら》を払って、美沙は立ち上がった。達也も一緒に。
「さぁてなに乗ろうかな〜」
腕を組みながら二人は園内をうろうろと歩く。
「次こそ絶叫系は勘弁しろよな」
「どうしようかな〜なににしよ〜」
達也の言葉など美沙にはもう聞こえてはいなかった。一人で勝手に悩んでいる。
その時だった。
突然、美沙が閃《ひらめ》いたように、前方を指さした。
「あれ! あれに乗ろう!」
達也が目を向けた先には、一番嫌いなアトラクションが大きく構えていた。
それは遊園地の顔。
頂点から一気に落ちるスリル満点の絶叫マシーン。
ジェットコースターだ。
しかも、ぶら下がり式だ。足がブラブラ状態で走るやつだ。CMで見た事がある。確か、頂点に達した時の高さが、世界一と言っていたような……。
「ふざけんな! 俺ジェットコースター駄目なんだよ」
地上から見ても相当高い位置にレールが敷かれている。あれはマジでやばそうだ。
「やめない? あれは」
「ダメ! 次はあれ! ほら行くよ」
妙に興奮している美沙に、達也は強引に引っぱられ、ジェットコースター乗り場に連れて行かれた。その間にずっとダダをこねていたが、美沙には通じなかった。結局、達也はぶら下がりコースターに乗るはめになってしまったのだった。
「さあどうぞ。バッグはこちらでお預かりいたします」
満面の笑みを浮かべた男性係員に達也と美沙は誘導された。その笑顔が達也からしてみれば、もの凄《すご》く不気味に感じられた。
「やっぱやべ〜って」
どうしても気が進まなかった。小学生の時に家族と初めて遊園地に行き、ジェットコースターに乗ったのだが、あまりの恐怖に気持ち悪くなってしまい、楽しかったはずの一日がそのせいで台無しになってしまったのだ。だからそれ以来、ジェットコースターだけは絶対に乗らないと誓っていたのだが、もう遅かった。達也は座席に座らされてしまっていた。どうしようもなく不安で、ブラブラの足をばたつかせる。隣の美沙は心を弾ませ、まだかまだかと興奮している。
「勘弁してくれよ〜」
と情けない声を出し、達也は前方を見た。
二人が位置しているのは六列目だった。後ろにもう一列あり、その二つの席が埋まれば動き出すのだろう。要するに十四人で満員になる訳だ。が、どうしてこうもジェットコースターに乗りたがる人間が多いのだろうか。前に座っている全ての人たちが動き出すのを心待ちにしている。一体、これのどこが楽しいのだろうか。
「どうしたの達ちゃん? 落ち着かないね」
当たり前だ。
平然としている美沙が不思議に思えて仕方ない。
「早く出発してよ〜」
と、美沙が文句を言い出した。
頼む! お願いだからこのまま止まっていてくれ! と祈る達也は、係員が連れて来た父親とその娘であろう、長い髪の毛を後ろで二つに縛り、目をくりくりとさせた可愛らしい小学三年生くらいの子供を見て、諦《あきら》めた。
分かっていた。いずれ動き出す事くらい。
「お父さん早く早く!」
女の子は父親を困らせていた。腕を思い切り引っぱって、強引に座らせようとするのだ。
「やだな〜お父さんこういうの」
後ろから聞こえる父親の嘆きに、達也は共感した。そうだ。やはり無理に乗るのはよくないのだ。がっちりとした体格の、一見たくましそうなこの父親でさえ怖がっているのだ。ストップするべきだ。
「それではみなさん発車いたしま〜す」
列の先頭に立つ係員がそう言うと、プシューと音を立てながら上から安全装置が下りてきた。その瞬間、達也の表情はガチガチに強張《こわば》る。動かしても、ビクともしない。これでもう逃げられない。
「ワクワクする〜」
隣の美沙は深呼吸する。達也はギュッと目を瞑《つぶ》る。
「レッツゴー」
後ろに座っている女の子の声とほぼ同時に、ぶら下がり式のジェットコースターはカタカタと進み始めた。
「あ〜やべえって〜無理だって〜」
どうしても前を見る事のできない達也は呪文《じゆもん》を唱えるようにブツブツと繰り返した。すると横から美沙に注意された。
「達ちゃんマジうるさいから。静かにしてよ!」
知るか。そんな注文受けてられるか。こっちは命がけなんだ。
「もうやだ〜ありえね〜」
今どの辺りにいるのかを確かめるために、達也はそっと目を開けた。斜め四十五度の体は、エスカレーターのように、ゆっくりとゆっくりと頂点まで上がっている。いや、吸い込まれて行く。地獄に。
「もうやばいじゃん〜頼むよマジで〜」
いつまでもうるさい達也を美沙は叱るように言った。
「情けないわね〜いい加減にしなさいよ!」
カタカタカタカタ。
てっぺんまでの距離、あと十メートル。
そして、五メートルまで来たあたりで達也は再び目を瞑り、
「やだやだやだやだ! 勘弁して!」
と叫んだ。同時に、達也の体は一気に急降下した。もの凄い風圧に首が後ろに持って行かれた。
「うおおおおおおおおおお!」
安全装置を思い切り掴《つか》み、達也はスピードに耐える。ブラブラの足が地面に着くのではないかと心配になる。今度は左右に激しく振られる。スピードはぐんぐんと増していく。勿論《もちろん》、景色など眺める余裕はなく、終了地点まであとどのくらいなのかなど分からない。もう少しだ、もう少しだと頭の中で唱える。だが、機械はなかなか止まってくれない。上がり下がりを繰り返し、左右に大きく揺さぶられる。急所は縮み上がり、手には汗がびっしょりだった。唯一救いだったのはループがなかった事だ。ぶら下がり式というのが幸いした。
アッという間の出来事だったが、達也にとって、三分間の恐怖はかなり長く感じられた。スピードが徐々に落ちているのを体で感じ、目を開けるとようやく終了地点が見えた。
「最高! 楽しかった〜」
美沙も満足したようだ。達也は全身の力を抜いて、ため息を吐《つ》いた。
やっと地獄が終わった。
もう二度とこんな物には乗らない。もうこりごりだ。と心の中で愚痴っていた達也は、完全に安心しきっていた。当たり前だ。一周すれば降りられると思っていたのだから。しかし、何かがおかしいと気づいたのは、この直後だった。
「ん?」
スタート地点に戻ってきたはずなのに、何故か機械は止まろうとはしなかった。係員も別段、慌てている様子ではない。それよりも不自然に感じたのは、乗り場周辺に立っている黒いスーツを着た五、六人の男たち。そのうちの一人と達也は目が合った。トランシーバーを片手に何かをやりとりしている、くらいしか分からなかった。何しろ終了地点を通り過ぎ、ジェットコースターは再びカタカタと上り始めたのだから。
「は? おい! 意味分かんね〜よ!」
達也は大げさに騒ぐ。
「ねえどういう事?」
先ほどまで興奮していた美沙もさすがにこの事態には不思議がっていた。前に座っているカップルも、何かヒソヒソと話している。みんな、訳が分からないといった様子だった。
「も〜ふざけんなよ〜聞いてないよ〜」
不可解なこの状況に、達也はダダをこねる。
「なになに? サービス?」
「しらね〜よ。マジ勘弁してくれよ〜」
何回乗っても慣れるものではない。またあの恐怖を体験しなければならないのかと思うと、暗澹《あんたん》たる気分になった。そんな達也とは裏腹に、後ろに座っている女の子は、大はしゃぎだった。
「やったやった〜。やったやった〜」
そのうるささに、段々腹が立ってきた。小さな子供に切れたって仕方ないと分かっているが、どうしてもう一周しなければならないのだと考えると、子供のキーキー声がむかついてしまう。
達也の頭から黒いスーツを着た男たちは、もうすっかり消えてしまっていた。
不機嫌な顔をする達也に、美沙は笑ってこう言った。
「ま〜ま〜達ちゃん。いいじゃん? もう一回乗れるんだから」
お前はいいだろうよ。こっちの身になって考えろ。
「多分……誕生日プレゼントだよ。遊園地からの」
誕生日プレゼントねえ……。
「いらね〜よ! そんなの」
もし仮にそうだとしたら最悪のプレゼントだ。最低の日だ。
カタカタカタカタ。
とうとう、頂点に辿《たど》り着いてしまった。
もう少し進むと、一気に急降下だ。
「レッツゴー」
後ろの子供は相変わらずうるさい。
カタカタカタカタ。
「いけえ!」
突然、美沙が吠《ほ》えた。
もうやだ! 止まってくれ! 止まってくれ! 頼む!
安全装置を握りしめ、達也は瞼《まぶた》をギュッと閉じた。我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ! と、自分に言い聞かせる。
様子がおかしいなと思ったのは、その直後だった。
止まってくれ、という祈りが通じたのか、いやそんなはずはない。落下する手前で、ジェットコースターがピタリと停止したのだ。足をふらつかせて達也は何事だろうと動きを止めて、目を開けてみる。
「うわあ!」
頂点から見る下の世界は、全てが小さかった。人なんて蟻のようだ。
それにしても一体……。
故障だろうか?
だとしたら……。
ふざけんな!
「ねえ達ちゃん?」
美沙が不安がる。当たり前の事だった。こんな所で止められたら、誰だって。
強い風が吹く。
「お父さん。お父さん」
後ろの子供も涙声で父親にすがっている。
「大丈夫。大丈夫だから」
前に座るカップルも怯《おび》え出す。
下にいる人間が集まってきた。ざわつきが少しずつ大きくなっていく。
そして、ジェットコースターに乗っている全ての人間が、パニックに陥った。
「ねえやだ……達ちゃん。何よこれ」
美沙の問いかけに達也は答える事ができない。下を見ていると、どうにかなってしまうのではないかという考えが頭の中を駆けめぐるのだ。
早く修理してくれ。動いてくれ。
「ただの故障だよね?」
達也は間髪入れずに返した。
「当たり前だろ」
それにしても係員は何をやっているのだ。故障なら故障で、乗客を安心させるために場内アナウンスくらい流せ、と思ったちょうどその時だった。
ピンポンパンポーンという音が場内に鳴り響いた。アナウンスだ、と達也は聞き入る。
すると、かん高い男の声が流れた。
『ジェットコースターにお乗りの皆様、この度はぶら下がりレースにご参加いただき、誠にありがとうございます』
達也は、自分の耳を疑った。
ぶら下がりレース?
何だ、それは?
ふざけているのか?
訳の分からない説明に、乗客が再びざわついた。
「ねえ達ちゃん? どういう事?」
美沙の問いかけに達也は首を傾げる。
「さあ……」
その時、達也の脳裏に、スタート地点に立っていた黒のスーツの男たちが過《よぎ》った。トランシーバーで何かやりとりしていたようだが、それと何か関係があるのか?
かん高い男の声は、こう続いた。
『それではこれより、レースを行います。ルールは簡単。今から、座席部分が全て外れます。皆様には安全装置にぶら下がっていただき、限界まで我慢してもらいます。尚、安全装置の上に乗っかるのは違反です。射撃隊により射殺されます。ずっとぶら下がっていてください。レースは最後の一人になるまで続きます。皆様、ご協力お願いします』
一瞬の沈黙の後、女性の怒りの声が聞こえてきた。
「何よそれ!」
皆が、続く。
「やだ! 怖い!」
「ふざけるのもいい加減にしなさいよ!」
乗客全員が、混乱し出す。
「達ちゃん! 何かの冗談だよね……」
達也は、自分の座席に視線を移す。
ここが、外れる……?
俺たちは、安全装置にぶら下がる?
レースは最後の一人まで……。
という事は……。
その一人以外、ここから、落ちる?
「達ちゃん!」
あまりに突然すぎて、達也は呆然《ぼうぜん》としてしまっていた。美沙の言葉に反応できないくらいに。ようやく我に返ったのは、後ろの女の子がワーワーと泣き出してからだった。
「怖いよ〜、怖いよ〜お父さん」
父親も驚きを隠せないのだろう。子供に何も言ってやる事ができないようだった。前方から男の子の声も聞こえてくる。
「やだやだ! 帰りたい!」
どこからともなく、女性の叫びも。
「降ろしてよ! ねえ降ろして!」
それらの言葉を耳にしているうちに、達也の中で段々と恐怖心が芽生えていく。これは夢でも何でもない。現実なのだと。
それにしても、これは一体、何なんだ?
驚かせるというテレビの企画か?
いや普通、そこまでやるだろうか。
テロリストの犯行?
いや違う。スタート地点に立っていた男達の側にいた係員は、別段慌てている様子ではなかった。
だとしたら、これは……。
達也と美沙の、瞳《ひとみ》が重なる。
「ねえ私たち……どうなっちゃうの?」
涙目の美沙の声が震えている。
この時、大丈夫だとか、心配ないとか、美沙を安心させてやる事が出来なかった。達也も不安で仕方なかったから。
『それでは準備はよろしいでしょうか。皆様、安全装置をしっかりと握ってください』
恐怖する者、唖然《あぜん》とする者、抵抗する者、泣き叫ぶ者、全ての人間が一斉に、その指示に従った。
「綾《あや》、しっかりと掴《つか》まっていなさい!」
ただ、後ろの女の子だけは泣いてばかりで、安全装置にすら触れていない様子だった。父親が必死に説得する。
「ほら! お父さんみたいにこうやって!」
それでも言うことを聞かない女の子に、父親の怒声が飛んだ。
「綾! 早くしなさい!」
泣き声が、ピタリと止んだ。辺りが急に静まり返る。
前に座っているカップルは見つめ合い、お互いの名を呼び合っている。
「隆《たかし》……」
「佐枝《さえ》……」
美沙に目を向けると、安全装置を強く握りしめ、目をギュッと閉じていた。
「美沙……」
声をかけると、美沙は怯《おび》えた表情でこちらを見た。達也は何も言わずに、頷《うなず》いた。
『では、座席を外します』
男が一方的にそう言うと、映画が始まる直前に鳴るブザーに似た音が場内に響いた。
空気が一気に張りつめる。
そして、ブザーが鳴り止んだと同時に、乗客全ての座席が、ガタンと一斉に外れた。
空は相変わらずの晴天だった。穏やかな天気には似合わない、信じられない光景だった。
「きゃああああああああああ」
場内が悲鳴に包まれた。乗客全ての座席が地面に落下し、激しい音が響きわたった。その周辺から、人は誰もいなくなった。
達也ら十四人は安全装置を必死に掴む。まるで、物干し竿《ざお》につるされた洗濯物のようだった。風のせいで、ゆらりゆらりと体が揺れる。地上、何メートルあるのだろう。世界一というのは確かだ。こちらを眺めている人が点に見える。手を離せば、地面に叩《たた》きつけられ即死だろう。下を見てしまった達也は、両手に更に力を込めた。この安全装置に体全体を乗せる事はできない。射殺すると男は言っていた。
当然ながら、今日が自分の誕生日だという事など頭の中から消えていた。今はしっかりと安全装置を掴むんだ。
まさか、こんな事になろうとは……。一体、誰がどんな目的で……。
「た、達ちゃん」
達也は美沙に顔を向ける。
「大丈夫か!」
極限状態の美沙は、達也の問いかけにしっかりと受け答えできない。
「私……死ぬの? やだ! やだよ!」
「落ち着け! 大丈夫! とにかく安全装置から手を放すな!」
「無理だよ……私」
下を見ながら諦《あきら》めの言葉を洩《も》らす美沙。
「いいから放すな! 下も見るな!」
叱咤《しつた》する達也。美沙は涙を流しながら小さく頷く。達也は下を見つめながら、ふと思った。一体どれだけの時間を二人は耐えられるだろうか。俺はずっとバスケをやっていた。だから体力には自信がある。だが男は、一人になるまでこの状態が続くと言った。たとえ二人が最後まで残ったとしても、どちらかが死ぬ。もしそうなった時……手を放すのは俺だと、達也は心に決めていた。
約、一分後。
後ろの女の子の苦しむ声が嫌でも聞こえてきた。
「痛い、痛いよ〜お父さん。助けて」
もう限界が近いのかと、達也は心を痛めた。このままでは遅かれ早かれ小さな命が犠牲になってしまう。
「綾! 綾!」
父親の必死の声。
「お父さん!」
「綾! お父さんの体にしがみつきなさい!」
父親の提案に、そうか、その手があったかと、女の子の事は安心する。だが、今度は父親の方に負担がかかる。小さい体とはいえ、時間の問題なのではないだろうか。
「さあ! 綾!」
どうやら、女の子は父親の体に抱きついているようだ。父親の苦しそうな声が耳に伝わってくる。でもこれで少しは時間がかせげるのではないかと、自分の命がかかった非常事態にも拘《かかわ》らず、達也は他人の事が放っておけなかった。
良かった……とそう思った、矢先だった。あれは何列目だろう。先頭に近いのは確かだ。小さな男の子の悲鳴が、こちらにもハッキリと聞こえてきた。
「ちぎれちゃうよ! 痛いよ! お母さん!」
「お願い優《ゆう》ちゃん! しっかりと掴《つか》んで!」
「駄目! 落ちる! 落ちちゃうよ!」
二人の会話を聞いているのが辛《つら》かった。耳をふさぎたかった。
子供の力ではもう、限界だ。
駄目だ、と達也がギュッと目を閉じたと同時に、母親は叫んだ。場内が悲鳴に包まれる。
「きゃあああああああああ! 優ちゃん!」
見てはいけないと思うのに、達也は下に目を向けてしまった。男の子は泣きながら母親に手を伸ばしたまま、落ちていく。そして……。
「優ちゃん! 優ちゃん いやああああああああ!」
とうとう、最初の犠牲者が出てしまった。
地面に広がる真っ赤な血。ピクリとも動かない子供。悲惨な光景だった。
何故だろう、遊園地の係員が遺体を担架で運んでいった。
一体どういう事だ。どうして遊園地側がテロ行為に協力する。誰が首謀者なんだ!
「もういや! 私見てられない!」
子供から目を離した美沙が怒りを込めて叫んだ。達也は一人の子供が死んだのが悲しくて、涙を浮かべた。
耐えられない……俺にはこんなの。
だが、次の悲劇はすぐにやって来た。
息子を失った母親が、こう言ったのだ。
「ごめんね優ちゃん……お母さんも今すぐ行くからね」
誰も何も言う事はなかった。母親は安全装置から手を放し、子供の後を追った。
「いや!」
前の女性が地面から顔を背ける。
「仕方ないさ……」
と、彼の方は冷静だった。どうしてそんな言葉で片づける事ができるのだと、達也には不思議でたまらなかった。
人が死んでるんだぞ? 何とも思わないのか? 俺の考えはおかしいか? みんな胸の内ではどう思っているんだろう。何も感じないどころか、また一人減ったと、冷笑を浮かべる者もいるのだろうか。ここからでは、一人ひとりの表情は見えないが。
ただ一つ言える事は、この中にどんな人間がいようと、我慢に耐えきれず手を放し、みんな死んでいく。最後の一人になるまで。犯人も、目的も、分からないまま。意味もない事をさせられて……。
そう考えると、達也の中で沸々《ふつふつ》と怒りがこみ上げてきた。理不尽にも程がある。ここにいる全員に、未来というものがあるのに。
ただこの怒り、誰にぶつければいいのだ……。
その瞬間、達也の頭の回線がプチッと切れた。
「あああああああああああ!」
空に向かって、ただ吠《ほ》えた。
早くも三分が経過した。
最初の親子以外、犠牲者は出ていない。だが、時間の問題だ。このままでは死亡者は増えていく一方だ。達也はまだまだ体力に余裕があるが、美沙は少し苦しそうだ。他のみんなだって……。
そうだ! 全員が助かる方法はないのか?
こんな無意味な事、今すぐに止めるべきだ。みんなが力を合わせれば何とかなるのではないのか。
だが、周りに何もない、ただぶら下がっているだけのこの不利な状態で、脱出方法など浮かぶはずがなかった。力を振り絞って上に敷かれているレールに上れば何とかなるかもしれないと考えたが、場内の何処かで射撃隊が待機していると思うと、そんな危険をおかす事はできない。
じゃあ、どうすれば、と頭を働かせる達也の後ろで、娘に抱きつかれている父親がこう言った。
「綾……少し……我慢してくれ」
小さい子供とはいえ、かなりの負担になる。喋《しやべ》るのもきつそうだ。
「お父さんの安全装置に掴まるんだ……さあ」
そう言うと、女の子は素直に言うことを聞いた様子だった。少し楽になったのか、父親の吐息が洩《も》れる。
「美沙……美沙」
頭から辛さを消そうとしていたのか、美沙は目を瞑《つぶ》りながら、何か違う事を考えている様子だった。少し息を切らしながら、
「なに?」
と返す。
「大丈夫か?」
心配する達也に、美沙は途切れ途切れに、こう言った。
「私は……大丈夫。達ちゃんの方は……どうなのよ」
普段の口調に戻っている。パニック状態から少しは落ち着く事ができたのだろうか。
だが、良かった、などとは思えなかった。美沙が最後まで保《も》つだろうかと、暗い想像ばかりが浮かんでくる。今残っている者全てが助かれば……と考える達也はすぐに現実に引き戻された。死を予感させる一言が先頭の方から聞こえてきたのだ。
「もうダメ……私」
「僕も……もうダメだ」
二人とも声が幼い。ここからでは全く見えないが、大人のカップルではないようだ。高校生か……いや中学生か? どちらにせよ、俺には何もしてやれない……。
「どうして……こんな事になっちゃったの……私たち、初めてのデートなんだよ……」
初めてのデート。
その言葉に達也の胸は締めつけられた。そんな彼らの命も奪うのか!
彼女の問いかけに、彼は答えてやる事が出来ないようだった。
「ねえ清水《しみず》君?」
彼の名を呼び、彼女はこう言った。
「私……一人で死にたくない! 怖いよ!」
涙声が、空に響く。
「……ぼ、僕だって」
二人の会話は、最悪の方向へと進んだ。彼女は最後に静かに、
「一緒に死のう?」
と彼に提案した。彼はしばらく迷ったあげく、こう答えた。
「分かった……行こう」
「……うん」
これは自殺ではない。達也が止めたところで二人の体力がもう限界なのだ。自分の無力さに、腹が立った。俺は幼いカップルを救ってやる事はできない。見て見ぬふりなのだと。
もう何度目だろう。場内に同じ悲鳴が広がった。幼いカップルは抱き合いながら落ちていき、地面に叩《たた》きつけられた瞬間、離ればなれになった。
「私たちも……いずれ」
美沙の腕が震えていた。恋人同士の死に怖くなったようだ。
「美沙は生きるんだ……絶対に」
今の言葉で、もし二人になった時は俺が犠牲になるという意味を美沙は悟ったようだった。
「変な事考えないで」
「え?」
「達ちゃんがダメな時は……私も一緒に行くから」
その瞬間、達也はこの二年間を思い出した。そして初めて気がついた。会えばいつも喧嘩《けんか》ばかりで、いつ別れてもおかしくないような関係だったけど、美沙は自分の事を大切に考えていてくれたのだと。
「……ありがとう」
達也は改めて思った。何が何でも、美沙だけは助けると。
「やだ! 裕子《ゆうこ》! もう少し頑張って!」
その声で達也は我に返った。
死んでいったカップルと親子に挟まれていた、あれは二列目だろう。大学生くらいの女の子同士だ。
「もう……無理……手に……力が……」
「お願い! 頑張って!」
「聡美《さとみ》……」
「……なに?」
「聡美が、生き残って……二人が残ったって、どっちかが死ななきゃいけないんだから」
「そんなこと言わないで……」
諦《あきら》めようとしている彼女に、もう何を言っても無駄だった。友人の説得も虚しく、別れの言葉を告げたのだ。
「聡美……ずっと仲良しでいてくれて、ありがとう……サヨナラ」
友人が止める前に、彼女は安全装置から手を放した。
「裕子! いやああああああ!」
冷たい風が吹いた。それは始まってから五分後の出来事だった。
早くも五人が犠牲になってしまった。
残り……九人。
更に一分が経過し、ぶら下がり状態で六分が過ぎた。
警察はまだか! 救出隊は何をやっている! でもこのテロ行為に遊園地側が協力している。脅されているのか? いや、今思うと計画通りに事が進んでいるような気がする。黒いスーツを着た男達の隣に、係員は怯《おび》える様子もなく立っていたし、遺体の処理も手慣れている。訳が分からなかった。とにかく下だけは絶対に見るなと自分に言い聞かせ、心の中でまだいける、まだいけるとひたすら唱え続けた。まだ余裕はある。もうしばらくは耐えられるだろう。だが、肝心の美沙に異常が見え始めた。苦しそうに、安全装置を何度も何度も掴《つか》み直している。額から汗も出ている。呼吸も荒い。極力、会話は避けた方がいいかもしれない。
「お父さん……お父さん!」
焦っている娘を、父親はすぐに感じ取った。
「……お父さんの体にしがみつきなさい……ゆっくりとな」
「……うん」
みんながもがき苦しんでいるというのに、どこからそんな力が湧いてくるのだろう。子供が死の縁に立たされた時、親というのは人間の予想を遥《はる》かに超えた力を発揮する事ができるのだろうか。
「だ、大丈夫ですか?」
達也は首だけを後ろに持っていき、父親に声をかけた。娘は悲しそうな表情を浮かべて、父親を見つめている。
「ええ……何とか……でも、後どれだけ持ちこたえられるか……」
いくらガッチリとした体格とはいえ、限度がある。どうにかして救ってやりたいが、残れるのは一人だけだ。この親子もいずれ……。それに俺は誓ったはずだ。なんとしても美沙を助けると。でもそれは決して他人に犠牲になってほしいという意味ではない。自分の命にかえてでも美沙を残らせるという意味だ。
「私たちは……運が悪いですね。神様は残酷だ。こんな小さな子の命を……ううぅ」
「あまり……喋《しやべ》らない方がいいです」
達也が止めても、父親は自分の思いを言っておきたかったのだろう。
「私は……まだまだ耐えられます。でも、もし限界がきたら……この子と一緒に、行きます」
父親の決意に、達也は喉《のど》を詰まらせた。
「ここでこうして会えたのも何かの縁でしょう。あなたにお願いがある」
突然そう言われ、達也は戸惑う。
「な、なんでしょう」
「もし……もしあなたが最後まで残ったとしたら、私の妻に、伝えてほしい」
「奥さんに、ですか?」
「ええ。妻はここのどこかにいます。恐らく事務室かどこかでしょう。実は一緒に来ていたんです。今思えば、妻がこれに乗らなくて本当に良かった。私達がこんな状態にさせられ、あまりのショックで倒れたのでしょう。担架で運ばれて行くのが見えました。多分、あれはそうです」
「で、何を……」
尋ねると、父親はしばらくの間を置いて、こう言った。
「綾を救えなくてすまない……と。そして、愛していると……」
達也は、そっと頷《うなず》いた。
「分かりました……僕が生き残ったら必ず」
達也は前に向き直った。そして、心の中で美沙に託した。今の聞いていたか、これでお前は何が何でも残らなければならなくなったんだぞ、と。
その直後だった。新たな犠牲者がまた一人出ようとしていた。
「隆……隆」
達也の前にいる大人のカップルだ。彼女の今にも消えてしまいそうな声。
「どうした……」
「ごめん……私、落ちる」
それは突然訪れた。彼は何も返せない。
「たった一ヶ月だけだったけど……私、楽しかったよ。もっと一緒にいたかったのに……」
言葉が見つからないのか、彼は黙っている。
「諦めてゴメン……ゴメンね」
彼女はそう呟《つぶや》き、彼を見つめながら、落ちていった。彼は体力的に相当苦しいのか、彼女の名前すら叫ばなかった。ただ下を眺めていた。担架で処理されるまで、ずっと。それは悲しすぎる別れだった。
これで、あと八人。それぞれの人生が、一つ、また一つと、終わりを告げていく。
達也の体にも、とうとう異常が出始めた。
八分が、経過した。
犠牲者の数、六人。
十分後には、全てが終わっているのではないかと、達也は考えていた。あれほど平気だったにも拘《かかわ》らず、腕が痺《しび》れだしたのだ。額にも汗がうっすらと。握力も弱ってきている。美沙はこれ以上の辛《つら》さなのだろう。他のみんなだってそうだ。荒い呼吸が入り交じる。願いを託してきた父親は、今は娘にも頑張ってもらっている。すぐにまたハンデを背負う事になるだろうが……。
それよりも……。
美沙……。
達也は美沙に顔を向けた。辛そうに目を閉じて、口で呼吸を繰り返している。落ち着かない様子だ。あとどれだけ保《も》ってくれるだろう。今日で別れるかもしれないというのに、話すこともできない。本当はいっぱい喋りたいのに、彼女に負担はかけたくない。頑張ってくれ、と心の中で願うことしかできない。
俺たちも、後ろの親子も、そして他のみんなも助かればいい。でもその方法がどうしても思いつかない。考える余裕もなくなってきた。結局はこのまま、一人、また一人と落ちていくのだろう。最後まで、その繰り返し。これまでがそうだったように……。
だが。
「聞いてください! みなさんにお願いがあります!」
空に、響いた。
それは突然起こった。注目を集めたのは、達也の前の前にいる、高級そうな紺色の洋服を着た中年女性。その隣には、ピンク色の綺麗《きれい》なドレスを着た高校生くらいの女の子。親子だろうか。達也はこの時、まさかこの二人のせいで場が荒れようとは、思ってもみなかった。
「みなさん! どうか……どうか私の娘を生き残らせてやってください!」
達也は唖然《あぜん》とした。急に何を言い出すのだ。その気持ちは分かるが……。
限界に近いのだろうか、腕をブルブルと震わせながら、母親は続けた。
「この子は優秀なんです! 特別なんです! 将来のある子なんです! だからどうかお願いします!」
そんな事を言ったって、みんなが納得するはずがないだろうと達也は思った。勿論《もちろん》、口には出来なかった。が、彼女に先立たれた達也の前にいる男が、こう言った。
「って事はあんた……俺たち全員に手を放せと?」
その質問に、母親は口ごもる。達也自身、問題があるのは母親の方だと思っていた。しかし、代わって娘がこう答えたのだ。
「そうよ! 当たり前じゃない! 私を誰だと思ってるのよ! 花輪グループの娘よ! 私が残った方が多くの人間に喜ばれるのよ!」
花輪グループ……知っている。
建設業界のトップに立つ会社だ。
その娘か……。
腹を立てるというよりも、達也は呆然《ぼうぜん》としてしまった。言葉がなかった。美沙もさすがに口をポカンと開けている。
「ふざけるな!」
前にいる男が怒声を放った。
「……不満かしら」
娘は息を切らしながら返す。そして、こう言った。
「なら……いくらほしいのよ! 言ってみなさいよ! あんたの家族に支払ってやるわよ! お金ならたくさんあるんだから!」
母親も娘に続く。
「それで満足していただけるなら……いくらでも」
達也の中で徐々に怒りがこみ上げてきた。
人の命を金で買うだと?
「もういい加減にしろ!」
力を振り絞り、達也は叫ぶ。前方から声が飛んでくる。
「あなたも不満? いくらほしいか言ってみなさい!」
何を言っても無駄だ。死の恐怖に精神状態がおかしくなっている。
「てめえ……」
前の男が静かに口を開く。
「な、なによ!」
あまりの迫力に、卑劣女の怖《お》じ気《け》づいた声。男はこう言った。
「生き残るのは……生き残るのは……この俺だ!」
彼女と別れる時、ずっと黙っていた男が発狂した。
「いいか! 生き残るのはこの俺だ! 女が先に死んでくれたんでな! もう誰にも遠慮する事はねえ!」
驚くべきその発言に、達也は固まってしまった。
先に死んでくれた?
何という事だ……。
彼女は彼をあんなにも愛していたのに。もっと一緒にいたかったと泣きながら死んでいったのに。
「私よ! 私が生き残るのよ!」
卑劣女の声とは違う。言ったのは先頭から二列目の大学生くらいの女の子だ。彼女は友人の女性を失っている……。
「私は友達と約束したの! 絶対に生き残ると!」
その言葉に、達也の前の男がフッと笑う。
「しるか! 俺はあの女に束縛されて迷惑してたんだ! 俺はやっと自由を掴《つか》んだんだよ! 邪魔されてたまるか!」
「いい加減にしなさいよ!」
卑劣女が割って入る。
「早く手を放しなさい! これは命令よ!」
間髪入れずに男が反論する。
「黙ってろ! ふざけてやがるとぶっ殺すぞ!」
殺すという言葉に、全員が敏感に反応した。静まり返る。
「人間というのは……醜いですね」
後ろの父親が、ぼそりと呟いた。達也も同じ事を考えていた。何故自分一人だけ助かろうとするのだ。みんなで力を合わせようという気はないのか。
「……最低ね、あんた」
横から、見下したような声。
まさかと美沙に顔を向けると、前の男を睨《にら》み付け、ワナワナと怒りで震えている。
「聞いてるのかよ……このくそ男」
ようやく自分の事だと判断した男は、首をこちらに動かした。そして、
「ああ?」
とちんぴら口調で美沙を睨んだ。目のつりあがった、意地汚そうな顔をしている。
やめろ美沙。こんな男に構うな。
「最低だねお前。彼女がどんな気持ちで死んでいったのか……」
「お前に言われる筋合いはねえんだよ! すっこんでろ!」
男は顔を顰《しか》めて安全装置を掴み直す。
「お前みたいな男……早く消えちゃえばいいんだ」
彼女の気持ちを踏みにじった男にどうしても我慢が出来なかったのだろう。ひどく興奮している美沙に、
「おい」
と達也は止めた。が、美沙の怒りはおさまらなかった。
「彼女も可哀想だよ……こんな男に……」
「おいてめえ!」
とうとう男が切れた。まずい、と達也は思う。
「大概にしとけよ! てめえから殺してやろうか!」
その言葉に、美沙は臆《おく》してしまった。達也はもう既に自分を見失っていた。
「やれるものならやってみろ! そのかわりただじゃすまさねえからな」
「な、何だと……」
達也の殺気に、男はそれ以上何も言ってこなかった。達也と美沙は疲れ果てた表情から、うっすらと笑みを浮かべた。
険悪なムードが流れる。
突然、卑劣女のただならぬ叫び声が聞こえた。
「お母様!」
「由香里《ゆかり》さん……いいわね? お母様がいなくても一人で大丈夫ね?」
「いや! いやよ!」
「ごめんなさい……お母様を許して……ちょうだい……」
その言葉を最後に、達也の視界から母親の姿が消えた。
「お母様!」
卑劣女の泣き声が虚しく響く。地面に落ちた母親の頭からは、ジワリジワリと血が広がる。
残り、七人……。
「いやああああああああああ!」
卑劣女の悲鳴が、場内を包む。
「お母様が死んだのはあんたたちのせいよ!」
母親が死んで、完全に取り乱している。すると最低男が冷たく言い放った。
「罰が当たったんだ……金で解決しようとするから」
「なんですって!」
無意味な喧嘩《けんか》を続ける二人に、達也が怒りを放った。
「もうやめろ! 言い争ったって何も始まらない」
最低男がこちらを振り向く。
「なんだと?」
「それよりも、どうしてみんなが助かる方法を考えないんだ! もっと冷静になろう」
そう言い聞かせると、卑劣女の声色が変わった。息を切らしながら、落ち着いてこう呟《つぶや》いた。
「全員が……助かる方法……」
「ああ、そうだよ」
「そんな方法……あるの?」
自信はないが、達也はこう答えた。
「……きっと、どこかにあるはず……」
「もう無理よ!」
達也の言葉を遮ったのは、二列目の女の子だった。よく見ると腕がもう限界にきている。小刻みに震え、呻《うめ》き声を洩《も》らしている。精神力だけで安全装置を掴んでいるような、そんな様子だった。
もう、ダメか……。
「みんな死ぬのよ! 助かる訳ないわ! もう力が出ない……掴めないのよ……もう……いやあああああ!」
絶叫しながら、女の子は落ちていった。結局はこの繰り返しかと、達也は歯を食いしばる。残り、六人。時間が経つにつれて、数がどんどん減っていく。
どうする……どうすればいい。
会話のない状態がしばらく続いた。全員の呻き声が入り交じる。
みんなをまとめれば何とかなるかもと考えたが、もう遅すぎた。達也の限界も近づいていた。腕の感覚がほとんどない。指先も、ピクピクと痙攣《けいれん》しだした。美沙にだってもう時間がない。その前に美沙を。
俺には死の覚悟が出来ている。
「私たち全員を助けるんでしょ! 早くその方法を考えなさいよ!」
卑劣女も辛《つら》いのか、相当焦っている様子だった。
そんなこと言われても、いい考えが浮かばない。誰でもいい、提案してくれと願う達也の耳に、苦しそうな声が微かに聞こえてきた。
「うぅ……うぅ……」
前の男だ。状況も考えず怒鳴り散らしていたせいか、様子が急変したようだ。
「く……くそ」
もう諦《あきら》めるのかと思ったその矢先だった。
「あああああああああああああ!」
どうしたことか、とうとう最低男が我慢に耐えきれず、暴れ出したのだ。
「あああああああああ!」
狂ったような叫び声を上げ、空に向かってこう吠《ほ》えた。
「俺様が生き残るんだ! こんな所で……死んでたまるかぁ!」
男は最後の力を振り絞り、苦しみながら安全装置に上半身をいったん乗せ、そして立ち上がり、レールの上によじ登ろうとし始めたのだ。達也は唖然《あぜん》と、その様子を見つめる。
「俺は逃げるぞ……逃げてやるぞお!」
息を荒らげ、目をギラギラとさせながら男はそう言った。
「死んでたまるかぁ!」
その瞬間、男の動きがピタリと止まった。
達也の顔に、ピチャッと血が飛び散った。
どこからか飛んできた銃弾が、男の頭を撃ち抜いたのだ。
「あ……ああ……」
頭をおさえながら、男は真っ逆様に落ちていった。
「いや!」
小さな悲鳴を上げて、美沙は目をそらす。
一瞬すぎて、達也は何が何だか分からなかった。しばらく頭の中が真っ白だった。心臓が、ばくばくと音を立てる。
「怖いよお父さん! 怖い!」
後ろの女の子の泣き声で、達也は自分を取り戻す。そして、場内のありとあらゆる所を確認した。射撃隊など、見当たらない。だが、どこかで待機している。見えない、どこかで。やはり下手には動けない。これでは残り一人までという首謀者の計画通りに事が進んでしまう。
あと……五人。
そして、彼女にも……。
更に一分半が経過すると、とうとうタイムリミットが訪れた。
「助けてお願い助けて……」
涙混じりのか細い声。
「死にたくない……死にたくないの……」
痙攣する体。安全装置を掴《つか》み直す。
「さっきはあんなこと言って、ごめんなさい。お願い何でもする……何でもするから……私を助けて……お願い」
あれほど傲慢《ごうまん》だった卑劣女が、必死になって達也たちに懇願している。
正直、助けてやりたい。どんな人間だって。だが達也もギリギリだった。喋《しやべ》る事すら、辛かった。
「聞いてるの……ねえ聞いてるの……」
卑劣女の態度が、急変する。
声色に、怒りが混じる。そして、
「聞いているのかって言ってんだ!」
と叫んだ。
「お前ら全員落ちろ! 私の命令よ!」
頭の回線が切れたのか、足をバタバタさせながら、卑劣女が暴れだす。
「命令が聞けないって言うのか! 私は花輪グループ会長の娘よ!」
達也は心を無にして、ただ安全装置を掴む事だけに集中した。
「覚えていなさいよあなたたち! どうなっても知らないから……どうなっても……」
再び泣き声が響く。喋り方にも力がなくなっていく。
「いや……いや……」
卑劣女は下を見ながら首を振る。
「もう……だめ……」
両手が少しずつ少しずつ開いていく。
「たす……けて」
最後にそう洩らした卑劣女の手が、安全装置から完全に放れた。
「きゃああああああああ!」
達也はもう、地面を見る余裕もなかった。
ただこれだけは認識していた。
あと、四人。
達也と美沙……そして、後ろの親子……。
風の音が、耳に伝わった。
場内が、妙に静かだ。
下からざわついた声が、一切聞こえてこない。
最初は十四人もいたのに、今が嘘のようだ。
達也と美沙の前にはもう、誰もいない。
みんな、死んでいった。泣きながら、苦しみながら、叫びながら、狂いながら。訳も分からず……。
卑劣女が落ちてから、一分が経過した。普段の六十秒はアッという間なのに、今は違う。数十倍の長さに感じる。手に握力はなく、腕はビリビリ痺《しび》れている。頭はクラクラしているし、目の前がチカチカする。汗の量もひどい。実際、あと三分も保《も》たなそうだ。
「わ、私たちがまだ残っているなんて……」
後ろの父親がそう言った。今は娘も隣にぶら下がっているが、さっきまで負担を抱えていた。もうさすがに限界だろう。達也の予想は当たっていた。
「娘を助けてやれるのは、あと……一回が限度です。もう無理だ……」
この親子が残っている事自体、奇跡に近い。子供を守ろうとする父親の力は、人間の常識を遥《はる》かに越えた。だが、無限ではない。必ずタイムリミットが存在する。
「私がさっきお願いした事……頼みますよ」
妻への想い。それは俺の使命ではないと思いながらも、達也は何も言わずに頷《うなず》いた。そして、美沙の方に視線を向けた。
「ううう……ううう」
今にも手が放れてしまいそうな美沙に達也は、
「が、がんばれ……もう少し……だから」
と声をかけた。もし後ろの親子が自分たちよりも早く落ちた時、すぐに俺が手を放すからという意味を込めて……。
「お父さん! お父さん!」
最後の時が来てしまったのかというように、父親は優しく、
「お父さんの体に……しがみつきなさい」
と言った。
この時達也は、自分達の別れもそろそろかと、悲しい気持ちになった。
この二年間……色々あった。
達也は、美沙と初めて会った時の事を思い出していた。
当時まだ大学四年生だった美沙とは合コンで知り合った。
『ど、どうも……金子達也です』
あの時、慣れていない合コンという場に戸惑っていたせいか、喋り方もぎこちなかった。
『初めまして! 美沙です。よろしくぅ』
第一印象は、派手な人だな、だった。髪は金色に近いし、エクステンションもつけてるし、顔は可愛いが、正直こんなギャル系の女とは絶対に仲良くならないだろうなと思っていた。それが何故かどの女の子よりも話が弾んだ。
『じゃあ今度、遊びに行きますか?』
お酒も入っていたし、その場のノリでデートに誘ったのがきっかけだった。
『行こうよ! ねえねえどこ行く?』
彼女は案外乗り気だった。でもまさか、つき合う事になるとは思ってもみなかった。
『映画でも……観に行きますか』
それから何日後だろう、二人はデートを楽しんだ。
『私たち、つき合ってみちゃう?』
彼女も最初は軽い気持ちだったのだろう。達也も、まあいいか、といった具合だった。それから、美沙とのつき合いが始まった。この二年間、様々な場所に遊びに行った。達也は車を持っていないので、いつも電車で。
喧嘩《けんか》もよくした。達ちゃんのファッションセンスどうにかしてよと言われた時は、心底腹が立った。
マイペースで自分勝手な美沙だ。そのせいで別れの危機も何度もあった。でもいつの間にか、仲直りしていた。
本当に……楽しかった。
まさか、こんな事になるなんて……。
達也の瞳《ひとみ》から、ジワリジワリと涙が溢《あふ》れ出す。死の覚悟を決めたはずなのに、離れたくないと訴えている。ずっと一緒にいたいと。
諦《あきら》めるな!
その時、もう一人の自分が勇気づけてくれた。最後まで戦えと。生き残るんだと。
達也は、歯を食いしばりながら顔を後ろに向けた。死の恐怖に怯《おび》える子供。我が子を守ろうと必死に耐える父親。
この二人にだって、死んでもらいたくない。母親に会わせてやりたい。俺は美沙を失いたくない。美沙だって、そう思っているはずだ。まだ遅くない。四人が生き残る方法を考えろ。何が何でも助かるんだ……。
だが、神は達也にチャンスすら与えなかった。美沙の口から、こんな台詞《せりふ》が洩《も》れたのだ。
「今日は……最悪の誕生日だね……達ちゃん」
力無くそう言って、美沙は微笑む。
「こ、こんな時に何を……」
「いいから聞いて……聞いて」
達也の言葉を制し、美沙は続ける。
「私たち……二年間も一緒にいたんだね……」
美沙の様子がおかしい。妙に穏やかだ。
「ねえ、憶えてる? 二人で海に行った時……ち、小さな男の子が……溺《おぼ》れてるのを見て……達ちゃん……助けに行ったんだよね……」
「もういいから……喋《しやべ》るな!」
「いつの日だっけ……二人でお酒飲みに行った時……両方とも酔っちゃって……お、大きな声で喋ってたら……お店の人に怒られたよね」
あった……そんな時が。
達也の目から涙が止まらない。どうして想い出を振り返るのだ。お前が生き残るはずなのに。
「分かった……分かったからこれ以上はもう……」
「達ちゃん……?」
「な、なんだ……」
美沙は、静かにこう言った。
「私……もうダメみたい……」
10
美沙のその言葉に達也はショックを受けた。柄にもないことを言い出してから、もう諦めてしまうのではないかと、薄々は気がついていたのだ。でも、絶対に認めたくなかった。死なせるものか!
「ふ、ふざけんな……ふざけんなよ」
息を乱しながら、美沙にそう投げつける。
「もう少し……もう少しでいいから」
美沙は首を横に振る。
「もう……無理……ごめん」
「無理じゃねえ……」
達也は溢れ出す涙を抑え、
「無理じゃねえ!」
と叫んだ。取り乱す達也に対し、美沙は妙に冷静だった。
「ありがとう達ちゃん……達ちゃんの事だから、私を助けようとしてくれていたんだよね……」
その台詞に、言葉が詰まる。
「で、でも、もういいよ……私の代わりに……達ちゃん……生きて」
達也は泣きながら必死になって懇願する。
「嫌だ……頼む……頼むから手を放さないで……」
美沙は、うっすらと笑みを浮かべた。
「わ、わがまま……言わないで……最後くらい……年上らしくさせてよ」
いつもそうだ。都合のいい時だけ年上、年上って……。
「こんな時だけ……ずるいよね……いつもわがまま言ってたの……私……だもんね」
痙攣《けいれん》する美沙の指が、少しずつ少しずつ開いていく。呻《うめ》き声を洩らしながら、必死に耐えている。
「そんな事、もういいから……」
「懐かしいな……この二年間……楽しかった……」
美沙の目には様々な想い出が映っているのだろうか。何もない空を見つめながら、静かに呟《つぶや》いた。
「ありがとう……達ちゃん」
達也のすすり泣く声が、空に響く。
「そうだ……達ちゃん」
そう言って、美沙は右手だけを残し、コートの内ポケットから、綺麗《きれい》に包まれた長細い何かを取り出した。そしてそれを、苦しそうに左手をふるわせながら達也のジャンパーのポケットに入れた。
「プレゼント……今日の帰りに渡そうと思ってたんだけど……まさかこんな形で渡す事になるなんて……」
いつの間にこんな物を……。
ありがとう、とは言えなかった。言った瞬間、美沙が消えてしまう気がしたから。
「ネックレスだよ……大事に……してね」
悲しみを堪《こら》え俯《うつむ》いている達也に、美沙は、
「……達ちゃん?」
と呼びかける。
美沙の顔が、涙でゆがむ。
「元気でね……」
行くな……俺を置いて行くな。
「おい……おい!」
とうとうその時が、来てしまった。
美沙は最後に、言葉を震わせ、一粒の涙を瞳《ひとみ》からこぼし、達也に告げた。
「……さよなら」
達也の視界から、美沙の姿が……消えた。
「美沙! 美沙!」
一瞬にして、美沙の体は地面に叩《たた》きつけられた。
「嘘だろ……嘘だろおい!」
美沙の体が、動かない……。
血が……地面を真っ赤に染める。
係員が、美沙を担架で運んで行く。
「どこ連れて行くんだよ! おいこのくそ野郎ども!」
係員は何も聞こえていない振りをする。やがて、美沙の姿はどこにも見えなくなってしまった。
「くそ……くそ……くそおおおおおお!」
怒りの叫びが、場内に広がった。
達也は安全装置を強く強く握りしめた。そして、悔しさに震えた。
一分後……。
達也はしばらく、放心状態のまま、美沙、美沙と呟いていた。
隣にはもう、美沙はいない。残り三人。
美沙を死なせてしまった達也は、悲しみの底にいた。
俺は、美沙を助けてやる事ができなかった。美沙がさよならと言った時、手を差しのべる事すらできなかった……。
なんて男だ……俺は……。
その時、ジャンパーのポケットの中に入っている美沙からの最後のプレゼントを感じた。
『ネックレスだよ……』
ついこの間、美沙は言った。
達ちゃんはファッションセンスがないんだから、せめてピアスとかネックレスとかつけたら? と。
『大事に……してね』
美沙の言葉が、脳裏に響く。
涙がスーッと、こぼれ落ちた。止めどなく溢《あふ》れてくる。
美沙が最後に見せた、優しい顔。それが少しずつ、薄れていく。
『生きて……』
俺は美沙に……生きてほしかった。
「……俺のせいだ」
人が変わったように、達也は呆然《ぼうぜん》と呟いた。
あの時、どんな手段を使ってでも美沙を助けていれば、彼女は死なずにすんだのに……。
たとえ生き残れたとして、美沙のいない生活なんてあり得ない。考えられない。
「俺はこれから……どうすればいい?」
美沙の声は返ってこなかった。ただ、強く生きろと言っているような気がした。だが、もう体力的に無理だ。美沙を失い、全ての力がなくなった。今にも手が安全装置から放れそうなのだ。
「もう……限界だ」
ギブアップだ……。
その時だった。
運命か……。最初からこうなる事が決まっていたのか。
俺一人が、残ると。
後ろの父親が、達也に向かってこう言った。
「私との約束……お願いします……」
達也は、ギュッと閉じていた目を、ゆっくりと開けた。
「私たちは……もう無理だ」
11
レースは、全て終了した。
暗闇の会議室に集まっていた政府の官僚ら十五人全員が、スクリーンに映る最後の一人に不満を感じ、目の前にある札束を思い切り叩きつけた。
「外れた!」
オールバックの若い男が声を上げると、
「私もですよ!」
と、七三分けの中年男が続いた。
「おや? 全員、外したようですな」
十五人の中で一番権力のある犬顔の男が、葉巻を右手に持ちながら涼しい表情でそう言った。
「この場合、どうなるんです?」
レンズの小さいメガネに真っ赤な口紅が特徴的な女が皆に尋ねた。すると犬顔が、スクリーンの横に立つ黒いスーツの男に偉そうに訊《き》いた。
「で? どうなるんだ?」
黒いスーツはこう答えた。
「どなたも的中なさらなかった場合……次のレースに持ち越されます」
会議室に、安堵《あんど》の息が洩《も》れる。
「落ちた十三人は……全て死んだのか?」
どこからか飛んできた質問に、黒いスーツは小さく頷《うなず》いた。
「そのように聞いております」
「まあ仕方あるまい」
「それにしてもこのレース……大荒れでしたな」
七三分けの男がそう言うと、ざわつきが起きた。
「そうですな〜」
「全くです」
「楽しませてもらいましたが」
「こんなスリルのあるレース初めてですよ。実行したのは正解ですな」
ニヤリと微笑んだ犬顔が、黒いスーツに目で合図した。
「皆様!」
注目を集めた黒いスーツは、こう言った。
「次のレースが始まるそうです」
そして、リモコンを手に取り、スイッチを入れた。
「スクリーンをご覧ください」
12
閉じていた右手を、ゆっくりと開いた。
十字架の……ネックレス。
それを見つめながら、綱島《つなしま》綾は最後の一分間を再び思い出していた。あまりの恐ろしさにあの日の事はあまり記憶にないのだが、父があの人に最後に願いを託したあたりから、鮮明に憶えている……。
「私との約束……お願いします」
小学生だったあの時の私は、死ぬというよりも、こんなにも高い所から落ちるという事の方が怖かった。
「私たちは……もう無理だ」
無理もなかった。父は何度も何度も私という負担を抱えていたのだから。いくら体育の教師だって、体重が軽いとはいえ、相当|辛《つら》かっただろう。腕が引きちぎれるくらいに。それでも父は私を守ろうと、ずっと我慢してくれていた。
落ちちゃうの? と怯《おび》えていた私は、ただ父の苦しそうな顔を見つめていた。
「あなたが生き残ってくれるなら、それでいい」
その言葉を最後に、父は手を放すつもりだったのだろう。本当なら私はその時点で死んでいるはずだった。
あの人は慎重に体を反転させて、こちらを向いた。
「私は……この子を守ってやる事ができなかった。父親失格です。妻に……申し訳ないです」
あの時が初めてだった。父の涙を見たのは。
「だからお願いします。君しかもういないんだ……」
彼女を失ったあの人は、力のない目で私を見た。その瞬間、あの人の顔がハッとなった。
「僕も……彼女を守ってやれなかった……最低な男です……」
無気力状態のあの人を、父が慰めた。
「そ、そんな事はない。彼女だって……そんな風には絶対に思っていない。この先、彼女の分も一生懸命生きるんだ。そして……私たちの分も……」
あの人は父の言葉を遮った。
「いえ……僕にはもう何も残されてはいません。一番大切な人を……失ったのだから」
「そんなことを言ったら……死んだ彼女が可哀想だ……」
「いや、違います。生きる気力をなくした訳じゃない。でも、僕は守ります」
「え?」
不可解な表情を浮かべる父に、あの人は私にうっすらと笑みを見せ、こう言った。
「この子を……」
「な、何を言っているんだ。それは……出来ない」
「こんな事ってあるんですか……似てるんです……小さい頃の彼女とこの子が……僕は、偶然じゃないような気がする」
「いやしかし!」
「いいんです。僕はこの子に生き残ってほしい。僕は……それで満足です。美沙だって、達ちゃんらしいねって、言ってくれると思う」
時間は、もう限られていた。父もあの人も、今にも安全装置から手が放れそうだった。
胸を痛めていたのであろう父は、俯《うつむ》きながら静かにこう言った。
「本当に……いいのか」
「はい」
あの人に迷いはない様子だった。父はボロボロと泣きながら、あの人に心からお礼を言った。
「ありがとう……ありがとうございます。このご恩は……」
「そんな事はもういいです……それより」
あの人の視線が、私に戻る。
「お嬢ちゃん……何て名前だい?」
そう訊《き》かれ、私は恐る恐る答えた。
「綱島……綾です」
あの人は笑みを浮かべ、ジャンパーの中から紙に包まれた長細い物を取り出し、私が着ていたカーディガンのポケットに、それを入れた。
「綾ちゃん……これだけはずっと大切に持っていてほしい。いいね?」
私はただ、
「うん」
と頷《うなず》いただけだったと思う。
数十秒後、全ての幕は下りた。
あの人が呻《うめ》き声を上げながら、こう言った。
「ぼ、僕は……もう行きます」
あの人の台詞《せりふ》と共に、父との別れが訪れた。
「い、いいか……綾? お母さんと二人で……頑張るんだぞ」
「お父さん?」
「さあ……安全装置を掴《つか》みなさい。しっかりと握っているんだぞ」
そう言われた私は、安全装置に手を伸ばし、自分の力でしっかりと掴んだ。
「さよなら……綾ちゃん」
「綾……愛している」
最後に父とあの人は私にそう告げて、同時に手を放した。それから約一分後、場内で待機していたのであろうヘリコプターに、私は救出された。
あの時の映像から覚めた綾は、流れる涙をハンカチで拭《ふ》いた。あれから十五年が経った今も、あの日の事を思い出すと、涙が止まらなくなる。
結局、未《いま》だにあの事件は謎に包まれたままだ。犯人は捕まっていないし、当時ニュースにもならなかった。ヘリコプターで救出され目が覚めると、何故か部屋のベッドで眠っていた。夢だったんだと安堵《あんど》したが、やはり現実だったんだと、母から話を聞き理解した。こう思う時がある。
あんな事がなければ、あの日犠牲になった十三人は今も生きている。
もし、ジェットコースターに乗らなかったら……。
いや、そう考えるのはもう止そう。悩んだところで、父が帰ってくる訳ではない。あの人が生き返る事はない。
私は父とあの人が最後に言ったように、強く生きればいい。犠牲になった、みんなの分まで……。
「綾! 綾! そろそろ起きなさい! 仕事に遅れるわよ!」
一階から聞こえる母の声。
綾は涙を拭《ぬぐ》い、十字架のネックレスを箱に入れ、机の中に丁寧にしまった。
「ありがとう……」
綾は二人の顔を思い出し、そう呟《つぶや》いた。そして、
「今行く」
と大きな声で母に言って、自分の部屋を後にした。
[#改ページ]
写真メール
七月十五日。
例年より少し早く梅雨が明けた。
気象予報士が今年は冷夏だと言っていたが、本当なのだろうか。
頭がボーッとして、目の前の物が霞《かす》んで見える。呼吸するのが苦しくて、もう死にそうだ。クーラーが欲しい。
暑くて仕方ない。セミの鳴き声が鬱陶《うつとう》しい。踏みつぶして殺してやりたい。
額や背中から汗が噴き出し、気持ちが悪い。
頭が無性にかゆくてボリボリとかいたら、髪の毛がパラパラと抜け落ちた。
冷静なのは、ラジオから聞こえてくる男の声だけだった。
『昨夜、山梨県青葉市のコンビニにナイフを持った男が押し入り、店のレジから現金五万六千円を奪って逃走しました。男は、三十歳前後の痩《や》せ型。犯行当時、黒い帽子に黒いジャンパーを羽織っていた事から、警察では、先日起きたコンビニ強盗と同一犯とみて、捜査を続けています。
さて、次です。今日未明、長崎県|佐世保《させぼ》市のあずま荘101号室で、女性の変死体が発見されました。発見当時、この女性は浴室のバスタブの中にガムテープでグルグル巻きにされた状態で……』
「違う……違うんだな〜」
途中で興味をなくしてしまった本田輝《ほんだてる》は、そう呟《つぶや》きながら、赤いラジカセのスイッチを切った。
二つ目の変死体事件は興奮させられるが、何しろここは神奈川県|厚木《あつぎ》市だ。長崎県はいくら何でも遠すぎる。その時点で、聞く気が失《う》せる。暑すぎるというのも理由の一つだが、どうせならここから近い場所で事件が起きればいいのに。
運が良ければ、捜査現場にだって紛れ込める。さすがにそれは困難かもしれないが、もし成功すれば、念願の。
「う〜ん。ワクワクしてるな僕」
衝撃的瞬間を想像した輝は、テーブルの上に置かれた携帯電話に視線を向けて、上唇を浮かし、不気味に微笑んだ。
「それにしても退屈だ〜、あ〜退屈だ。異常者の僕に、楽しみをくれ〜」
自分のその独り言がおかしくて、輝は大笑いしながら、絨毯《じゆうたん》の上に広がった漫画本や雑誌を乱暴にどかして仰向けに寝転がった。
「あ〜何だかな〜つまらないな〜」
六畳一間の狭い部屋の中には、輝を満足させる道具がなくなってしまった。
もともとテレビはないし、漫画は面白くないし、動物を撃つ目的で買ったエアガンは飽きたし、昆虫の解剖はそんなに機会がないし、一時期ハマッたアイドルのポスターを見ていてもつまらないし、チャットするために購入したパソコンもあまり使わなくなった。
そんなつまらない事よりも、今自分の中で流行《はや》っているのは携帯電話で写真を撮る事だ。ただ、凡人が撮るような、友達同士の写真とか、風景とかじゃ駄目だ。誰も撮れないような、いや、撮りたくないような現場をおさえるのだ。そして、自己満足する。
例えば、カマキリが共食いをしている所とか、車同士の衝突事故とか。
いや、それでは満足しない。
実際にそれらの写真を今までにいくつも撮ってきたが、気持ちは満たされなかった。
もっと刺激が欲しい。
毎日そう願っているのだが、なかなかチャンスが巡ってこない。今一番、撮りたい写真は。
「無理かな〜やっぱり」
本田輝は、昔から周りに、お前は頭がおかしい、狂ってると言われ続けてきた。感覚がずれている。異常者だと。だがそれに対して輝は、怒るどころか、むしろ喜びを感じていた。ありがたいとさえ思っていた。何故なら、自分でもそう思っているからだ。
ラジオのニュースで悲惨な事件を耳にするとワクワクするし、実際にその現場に行ってみたいと思う。虫を火であぶって殺すのが小さい頃の楽しみで、その快楽を他人に知ってほしかった。だが、普通の人間にはその考えが分からないらしく、輝はいつの間にか孤立していた。気味悪がって、誰も近づかなくなった。マニア野郎とイジメられた時期もあった。
でも別に輝は何とも思わなかった。こいつらは自分とは合わないんだな、という程度にしか考えていなかった。そんな事よりも、もっと自分を熱くさせる出来事はないのかと、そればかりを求めてきた。そしたらいつの間にか二十歳を過ぎていた。女と遊ぶ楽しみだって、まだ知らない。つまらないからという理由で大学を辞めたら、家を追い出されてしまい、やむなく一人暮らしを始めた訳だが、ボーッとした生活が続いている。ハマッている携帯電話も、今は出番がない。
「蟻でも捕まえて解剖するか」
ふとそう思い立ち、窓を開けてベランダに出た輝は、直射日光を浴びながら、蟻が入り込んでいないかとコンクリートに這《は》いつくばって、まるで犬が臭いをかぎ分ける時のように、全神経を集中させた。
ポツ、ポツと、顎《あご》から汗が地面に垂れる。
そのたびに、体力を消耗している気がする。
今日は水分を口にしていないのだ。買い置きしていたジュースを切らしてしまった。水はまずくて飲む気になれない。
このままではひからびてしまう。だが。
「ない……か」
いくら探しても獲物が見つからず、こっちも命がけだったのに、と落胆していた輝の視界の端から、思いもよらぬ物体が飛び込んできた。
隅っこに落ちているこの死骸《しがい》は……。
「スズメバチだ!」
予測もしていなかったこの事態に、輝は思わず大声を上げていた。
こんな代物、なかなか手に入らないぞ。しかもベランダに落ちているなんてラッキーだ。
よし、早速解剖しよう。
滅多に拝む事の出来ないスズメバチの死骸に興奮していた輝は、親指と人差し指で摘《つま》み上げ、ひとまずテーブルの上にちょこんと載せた。そして二本のピンセットとガラス板を用意し、スズメバチの死骸をその上に載せた。
目の前の獲物にまずは深呼吸から入り、鼻に浮かんだ汗を拭《ふ》いてから、じっくりと観察してみる。
それにしても、見事なツヤと形だ。スラリと伸びた羽に、黄色と黒のシマシマ模様。そして、愛くるしいこの顔を見よ。
「あ〜もったいない」
輝は、心の底からそう思った。
が、解剖はしなければならない。
特に理由はないのだが。
「ではこれより、解剖に入る」
助手も看護師もいないのに、一人でボソッと呟いて医者になりきった輝は、右手と左手にピンセットを持ち、スズメバチの頭と胴体を切り離そうと力を入れた。
微かに聞こえたプチッという音を耳にした輝は、生唾《なまつば》をゴクリとのみ込んだ。
この感触、たまらない。
そして次は、胴体を真っ二つに切り離した。
ブチ。
今度は音だけではなく、ドロッとした液体も出てきた。
「おおおおお〜」
思わず声を上げた輝は、ピンセットでその液をねばねばとかき混ぜた。
「よ〜し。次はお楽しみの」
針だ。お尻《しり》から針を抜き取ってやる。
ハチにとって、これほどの屈辱はあるまい。だがこちらとしてみれば、その一瞬に、最高の快楽を得る事が出来るのだ。
もう、ムシャクシャするような暑さなど、すっかりと忘れていた。イライラするセミの鳴き声も聞こえない。輝の全神経は、指先に集中した。
改めて深呼吸する。もう一度。
そして、スズメバチのお尻にピンセットを伸ばしかけた、その時だった。
「お〜い輝君? 輝君? いるんだろ〜。開けておくれよ〜」
この声……。
あいつか!
緊張の一瞬をぶち壊され、輝は興醒《きようざ》めしてしまった。
「何だよも〜、良い時に!」
と、苛立《いらだ》ちの声を吐き出して、ピンセットをテーブルに叩《たた》きつけ、玄関の扉を乱暴に開けた。
「よお〜やっぱりいるんじゃんか」
そこには満面の笑みを浮かべた、福田隼人《ふくだはやと》が立っていた。いやらしそうなこの目を見ると、全身が痒《かゆ》くなる。いつもの癖で、右手をヒョイと上げながら挨拶《あいさつ》するこの男に、輝はウンザリとした表情を浮かべた。
「なになになにその顔は」
と言いながら、図々しく勝手に部屋の中に入ってきた福田は、露骨に嫌な顔を浮かべた。
「うわ! 何この部屋! 暑い。暑いですよ〜。しかも臭い。臭いですよ〜」
何故こいつは一度言った事をリピートするのだろうか。初めて会った時からそうだった。
「で? 何の用? それよりも、髭《ひげ》そったらどう? まるでホームレスじゃないか」
何日間、髭をそっていないのだろうか。顔が毛で覆われていて、別に白い毛ではないが、汚いサンタクロースのようだ。そのせいで、口元の大きなほくろが見えなくなっている。
あ! まさかそれを隠すためか!
「何を失礼な! 君だって髪の毛はボサボサだし、無精髭をはやしているではないか」
福田は押入れから座布団を取り出し、背負っていたリュックサックを絨毯《じゆうたん》に置いて、勝手に座りだした。
「僕は髭を伸ばしているんだ! ホームレスとはなんだ!」
会話がかみ合っていない気がするが、もう別にどうでもいい。部屋の中の暑さと、こいつのむさ苦しい顔を見ていたら、何もかもがどうでもよくなってきた。
「君だって人の事をどうこう言う前に、クーラーくらい買ったらどうなんですか」
「余計なお世話だよ。だったら来なければいいじゃないか」
「それにテレビすらない。これではゲームができないじゃないですか。ゲーマーの僕にしてみれば、拷問ですよ拷問」
「だから来なければいいだろそんな事を言うなら。こっちはスズメバチの解剖で忙しかったんだ」
「またそんな事をしているんですか。全く生き物を何だと思っているんですか」
「こいつは死んでたんだ。だから解剖したまでさ」
「本当に君は昔から悪趣味というか何というか……」
「君に言われたくないね。君だって、爬虫類《はちゆうるい》を飼っているだろ。それはまだいいとして、いい加減、アイドルのおっかけをするのは止めたらどうだい?」
輝が鋭い部分をつくと、福田はわざとらしく、
「うっ」
と声を出した。これも苛つく癖だ。
「どうせそのリュックサックの中身は誰かの写真集なんだろ?」
と、リュックを指さすと、福田は開き直り、こう言った。
「そうだ。そうだよ。別にいいじゃないか。僕はアイドル命なんだ。君だって、一時期ハマッただろ」
確かに、そうだ。でも今はもうハマッていない。そういう問題でもないか。
「え? どうなんだ?」
福田はしつこく絡んでくる。だがもう輝は何も言い返さなかった。冷静に考えてみると、何ともくだらない争いをしている事に気がついたからだ。
「はいはいそうですね」
「何ですか? 開き直りですか? 開き直るんですか?」
この男はいつまで経っても幼稚だなと、輝は黙って台所に行き、コップに水をくんで福田に差し出した。
「あ……どうも」
と小さく礼を言った福田は、相当喉が渇いていたのだろう。水を一気に飲み干した。
「あ〜生き返った〜」
コップをテーブルに置き、口の周りを服でゴシゴシしている福田のその仕草が何とも馬鹿らしくて、輝は小さく微笑んだ。
福田隼人とは、一年前に通い詰めていた漫画喫茶で知り合ったのだが、何故か今もこうしてつき合っている。部屋にいる時はゲームばかりで、未《いま》だに就職もしていない。輝がそんな事言える立場ではないが、福田は二つも年が上なのだ。いい加減、将来の事を考えろと怒鳴りたくなる。ただ、そんな福田がうざったいとはいえ、オタク、というその部分で、何か共通するものがあるのだろう。街で一緒に歩きたくはないが、喋《しやべ》っていると楽しい存在だ。
「で? 目的は果たせましたか?」
突然、福田が意地悪を言ってきた。
撮れていないのを知っているくせに。
「まだだよ。撮れたら連絡すると言ったでしょ」
「その携帯電話が良くないんじゃないですかね?」
と、福田は輝の携帯電話を指さし、訳の分からない事を言った。
「それは関係ないでしょ。ただ機会がないんだ。滅多にある事じゃないからね」
「まあそうですが、早くしてくださいね。なにせ君は僕に約束したんですから。人間の死体を携帯電話で撮る、とね」
その瞬間、部屋中が、ダークな空気に包まれた。
「分かってますよ。いずれね。いずれ」
そうである。
輝が今、一番欲しがっている写真。
それは、人間の、死体だ。
焼死体。水死体。変死体。
何でもいい。
いつかは撮りたいと思っているが、なかなかチャンスに恵まれない。
「さぁさぁ、そんな事を言いに来ただけなら、帰ってくださいよ。僕はスズメバチの解剖の続きをするんですから」
と、強引に帰らせようとすると、福田は寂しそうな顔をして、こう言った。
「え〜じゃあ、僕も隣で見てるよ」
期待通りの言葉に、輝はワザと呆《あき》れた表情を浮かべた。
「全く……しょうがないな〜」
輝と福田は互いの顔をくっつけて、バラバラになってしまったスズメバチの体に没頭した。福田がアパートを出て行ったのは、それから六時間後の事だった。
三日後、輝はボサボサの髪を自分なりに整えて、一週間分の食料を買いに近所のスーパーに向かった。この時期は暑くて外に出るのが辛《つら》いので、まとめ買いをするのだ。毎日のように買い物になど出かけていたら、体力がもたず倒れてしまう。普段の食生活を怠っているので、尚更である。
自動ドアをくぐると冷たい空気に包まれた。だれきっていた輝の表情も生き返る。ユラユラとぼやけていた視界も蘇《よみがえ》った。
ここは、天国だ。
「いらっしゃいませ」
モジャモジャパーマのおばさんに頭を下げられた輝は、クスクスと笑った。このおばさんはずっとこのスーパーに勤めているのだが、見るたびに腹が痛い。
自分では似合っていると思っているのだろうか。
そのパーマ、似合いませんよと、小さく呟《つぶや》いて、輝は店の奥に進んだ。
緑の籠《かご》を右手にぶら下げた輝が、一つ目に取った商品はカップラーメンだった。これがなければ生きていけない。一人暮らしの必需品だ。しかも。
「これ、今日の特売品じゃないか。一個、七十八円! 安い。これはラッキーだ」
と、安さにつられた輝は、籠の中に十五個、放り込んだ。
「それにしても今日はついてるな〜」
上機嫌の輝が次に向かったのは、ジュース売場だった。
「二リットルのペットボトルが、百九十八円か。まあまあだな」
偉そうに値段に評価をつけて、二本のペットボトルを籠の中に入れた輝は、お菓子売場に移動した。
棚にずらりと並べられたスナック菓子やチョコレートや飴《あめ》の数々に、輝は目を光らせた。昔から、三度の飯よりおやつ好きだった輝には、たまらない売場だった。そのせいで、ガリガリな体になってしまったのだが。
「これと、これと、これ。これもだな。お! これは新商品」
気に入った品物をどんどんと籠の中に詰め込んでいき、もういいだろうと満足した輝は、その他にパックに入ったご飯やパンを適当に選び、レジで精算を済ませ、主婦の隣で買った品物をビニール袋に入れ、自動ドアに向かった。
「ありがとうございました」
覚悟は決めていたのだが、外に出た途端の暑さと猛烈な太陽の光に、輝は一度買い物袋を置いて頭を悩ませた。
「しまった。四リットルのペットボトルは、きつかった」
とはいえ、払い戻してもらう訳にもいかないし……。
「も〜仕方ない。我慢だな我慢」
と、自分に活を入れた輝は、自宅までの道のりをトボトボと歩いた。
戦争で足を撃たれた兵士のようにヨロヨロになりながら、ようやくアパートに到着した輝は、部屋の扉を開けて買い物袋をドスンと落とし、三和土《たたき》に腰を下ろした。静止していると、余計もわもわと熱がこみ上げてくる。
「あ〜怠《だる》い。死にそうだ」
額や背中から噴き出してくる汗をTシャツで拭《ふ》いて、よっこらしょっと、と立ち上がり、息をゼーゼーと荒らげながら靴をほっぽって、絨毯《じゆうたん》に仰向けになって倒れた。
暑さのせいでとうとう頭がやられたか。
天井がグルグルと回っている。
「はは、ははは」
意味不明の笑みをこぼした輝は、やばい、とハッとなり、玄関に急いで、買い物袋の中から二本のペットボトルを取り出し、何も入っていない冷蔵庫にしまった。
「とりあえずはこれでよし。危うく腐るところだった」
と、訳の分からないギャグを言って自己満足した輝は、十五個もあるカップラーメンとおやつ類も押入れに整理した。
「さてさてさてさて……何もやる事がないし、暑いし、ちょっくら寝るか」
と独り言を呟いた暇人輝は、座布団を枕にして絨毯に横になった。
が、数秒でパッと目を開け顔を顰《しか》めた輝は、暑くて眠れるか、と一人で突っ込んだ。
「しかもセミうるさいよ!」
当たる物がなくて、仕方なくセミに文句を言ってみたが、虚しかった。
つい癖でラジオのスイッチに手を伸ばしていた。
『……警察の調べに対し男は、自分がやりました、と容疑を認めているそうです』
一体どんな事件だったんだろう。もう少し前から聞いておけばよかったと後悔していると、次のニュースが流れてきた。
『昨日の午後三時頃、神奈川県厚木市上北、ドミール上北102号室に住む二十八歳の女性、アイザワトモコさんが、何者かに頭を強く叩《たた》かれ、死亡するという事件が発生しました』
それを耳にした途端、輝は絨毯から飛び上がった。急に心臓がばくばくと躍り出す。
「き、昨日? ここから近いじゃないか!」
『殺されたアイザワさんには、八歳になる長男、ヒカル君がいるのですが、事件が起きてから今も行方が分からず、警察では、事件に巻き込まれた可能性が高いと、ヒカル君の行方を捜しています……次です』
もう他のニュースには興味がないと、輝はラジオのスイッチを消して頭を抱えた。
「嘘〜嘘だろ〜おいおい聞いてないよ〜なんて僕は馬鹿なんだ。せっかくのチャンスを! もしかしたら死体を撮れたかもしれないのに! うわあああ!」
もう遅い。死体はとっくにアパートから運ばれてしまっている。千載一遇の事件を逃してしまったのだ。ドミール上北は、ここから徒歩で十分足らずの場所にある。
それなのに。それなのに!
「うわああああああ!」
悔やんでも悔やみきれず、輝は何度も叫んだ。
「外に出てれば、遭遇したかもしれないのに〜」
一瞬、福田の嘲笑《あざわら》う顔が脳裏に浮かんだ。
ほ〜ら、と口を動かしている。
「にっくたらし〜」
いや、聞き間違いだ。近くで事件などなかった。と、事実を受け入れたくなかった輝は、玄関の扉を開けて、そーっと顔を出し、誰もいないのを確認して、隣の部屋の朝刊を抜き取った。隣人がいつも夜七時まで朝刊を取らないのを輝は知っていたのだ。
早速、新聞を開いた輝は、パラパラとめくり、先ほどの事件を探してみた。
「昨日の午後三時頃、神奈川県厚木市上北にあるドミール上北で……やっぱりそうだ〜本当だったんだ〜」
さすがに新聞を疑う事はできず、輝は自分の負けを認めた。
相沢知子さん(28)
相沢光君(8)
内容はラジオと大体一緒だった。
「まあいい。ちょっと、現場に行ってみるか」
と、別に期待はしていないが、アパートの周りが今、どんな様子なのかと興味を抱いた輝は、携帯電話をポケットにしまい、ドミール上北に向かった。
照りつける太陽とジメジメとした湿気に苦しめられながら、十分間の死闘に耐え、ようやくドミール上北に到着した輝は、顔中の汗をTシャツでゴシゴシと拭いて辺りを確認した。
「あれ……?」
昨日、事件が起こったというのに、案外、静かだ。警察らしき二人の男がアパートをうろちょろしているだけで、野次馬も少ない。殺人の起きた102号室の扉も閉められている。
「な〜んだ」
最初から死体の事は諦《あきら》めていたが、あまりにも冷めたこの状況に、輝は拍子抜けしてしまった。本当に昨日ここで殺人事件があったのか? と疑ってしまう。
せめて死体がどこに運ばれたかを、警察の人間に訊《き》いてみようか。
いや、訊いたって無駄だろう。第一、教えてくれないだろう。
それなら事件の内容を詳しく尋ねようか。
「てゆうか、別に内容には興味ないしな」
あくまで輝は人間の死体にこだわっている。
「あ〜あ。こんな所にいても暑いだけだし、帰りましょうかね」
と、あまりにつまらない現場にふてくされてしまった輝は、ドミール上北に背を向けて、ユラリユラリと歩き出した。
「全く……時間の無駄だったよ。こんなくそ暑いのにさあ」
輝は何度も何度も文句を吐き捨て、自宅までの道のりを進んだ。
「あ〜でも、もったいなかったな〜悔しいな〜」
と、太陽に向かって吠《ほ》えた輝は、前方に横倒れになっている物体に、ハッとなって駆け寄った。あれは……。
「猫の死体だ。車とぶつかったんだろうな」
茶色の毛の大きい猫は、歯をむき出しにして死んでいた。このまま放っておけば誰かが死体を処理するだろう。
「が、その前に……」
ポケットの中から携帯電話を取り出した輝は、写真機能に切り替えて、人の死体を撮れなかった代わり、には物足りないが、猫の死体を違うアングルで三枚撮った。その時の輝の目はぎらついていた。舌をチョロと出し、上唇を浮かし、不気味に微笑んでいた。
「よし、この辺でいいだろう」
そうは言うが、実はもう飽きてしまった。
やはり、物足りない。
猫の死体を見れば見るほど、昨日の事件に悔いが残る。
「まいっか」
と、自分を強引に納得させた輝は、五十メートルほど先にある公園に足を踏み入れ、日陰のベンチに腰掛けた。
今さっき撮った猫の死体を鑑賞したかった。いや、自宅までの体力が持たないので休憩したかったというのが、正直なところだ。我慢に弱い輝は、ただ暑いというだけですぐにこうしてへこたれる。
「どれどれ」
写真機能に再び切り替えて、先ほど撮った猫の死体をじっくりと眺めた。
「う〜ん。我ながらいい写真じゃないか」
と唸《うな》り声を上げ、しばらく自分の腕に酔っていた。写真におもしろフレームなんかをつけて遊んでもみた。
「そうだ。これ、あいつに送っちゃおう」
ふと、そんなイタズラを思い立った輝は、メールに画像を貼りつけて福田隼人に送信した。
「はははははは!」
福田がこれを開いた時の顔を想像し、一人で笑い転げた。が、すぐに虚しさへと変わっていった。
「あ〜あ」
急につまらなくなってしまった輝は、ため息を吐《つ》いてベンチにもたれかかった。
それにしてもここは静かだし、涼しいし、最高の場所だな。家にいるよりずっといい。いっそ、ここで寝泊まりしようかな。
と、冗談を考えていると、どうしたというのだろうか。突然、Tシャツに短パンの、目がくりくりとした可愛らしい小学四年生くらいの男の子が、慌てているというよりただ事ではないという風に、何かに怯《おび》えながらこちらへと走ってきた。
「お、お、お兄ちゃん!」
かん高い声でそう呼ばれ、周りには誰もいないし、お兄ちゃんとは僕の事であろうかと、輝は自分を指さした。するとその男の子は額や首から汗をダラダラと流し、息を切らしながら何度も頷《うなず》いた。
「どうか、したのかい?」
この男の子がどうしてこんなにも慌てているのか、輝には見当もつかなかった。
「こっち来て! こっち!」
「え? こっちって……」
一体、何なんだと混乱していると、男の子に服を掴《つか》まれ、強引に引っ張られた。
「ちょっとちょっと。なになに?」
「いいから来てよ! いいから!」
この暑い時に体力を消耗させるような事はよしてくれよと愚痴りながらも、輝は仕方なく男の子について行った。
男の子が向かった先は、公園のすぐ近くにある林だった。空を隠してしまうほど大きな木々が立ち並ぶこの林に入った途端、太陽の姿が見えなくなった。と同時に、セミの鳴き声一色へと変化した。地面は雑草やゴミばかりで、歩きにくいし、ここに何かがあるとは思えない。
「ねえ君」
声をかけても、男の子は先へと進むばかりで、返事をしてくれない。相当、動揺しているようだ。
正直、困ったな、と頭をボリボリかきながら思っていると、急に男の子は足を止めて、
「……あれ」
と、深刻に指さした。
「え? どれ?」
輝は指の方向に目を凝らす。が、よく分からない。
「もう少し、近くへ行ってくれないか」
とお願いすると、男の子は首をブルブルと横に振って、こう言った。
「やだ。僕、怖いもん。お兄ちゃん、見てきてよ」
怖い? この先に一体、何があるというのだ。
急に、ヒンヤリとした涼しい風が吹いた。
輝はゴクリと唾《つば》をのみ込み、
「分かった」
と頷いた。そして、ゴミや雑草を踏みながら、一歩、一歩、前へ進んだ。
「どこだよ……」
と辺りをキョロキョロしながら歩いていた輝の足が、ビタッと止まった。
雑草で覆い隠されたあれは……手? それと……足?
ピクリとも動かないが……。
まさか!
人間ではないのかとハッとなった輝は、心臓をばくばくとさせながら、急いで駆け寄り、手や足の上にのっかっている大量の草をバサバサとどかしてみた。すると。
「う、う、嘘……」
そこには、ほっそりとした小学二年生くらいの小さな男の子が、眠っていた。
顔が青く変色しているが、生きてるのか? それとも。
輝は恐る恐る、男の子の顔に近づき、息をしているのかを確かめた。
「……死んでる」
男の子の心臓は、止まっていた。
こんな所で死んでいるという事は、殺されたのか。
それにしても、願っていた死体が、こうして現れるなんて。
まさかこれは神が与えてくれた絶好のチャンスなのではないだろうか。これを逃したら、僕は馬鹿だ。
「よし……撮ろう」
いやその前に、ここへ連れてきてくれた子供をどうにかしなければならない。
輝はいったん死体から離れ、子供が待っている所に戻った。
「ねえお兄ちゃん……」
今にも泣き出しそうな子供の肩に、輝は手を置いた。
「君……よくやったよ」
「え?」
「いや何でもない。それより、どうしてあれを」
「探検ごっこしていたら、見つけたんだ。で、死んじゃってるの?」
「うん。残念だけどね。でも大丈夫。お兄ちゃんが、何とかするよ。だから、約束をしよう」
「約束?」
「そう。あれを見た事は、誰にも話しちゃいけない。お父さんやお母さんにもだ。お兄ちゃんと君との秘密だ。いずれ、警察の人があれを見つける。だからこの事は、ずっと黙っているんだ。いいね? そう、君はあれを見ていない。見ていない」
子供はしばらく考える仕草を見せて、
「分かったよ。誰にも言わない。二人だけの秘密なんだね」
と言った。
「よし。それなら、もうお家に帰りなさい。お兄ちゃんは、もうしばらくここにいるから」
「……分かった」
「じゃあね」
走り去っていく子供の後ろ姿が見えなくなったのを確認した輝は、死体の場所に急いで戻った。心臓は、ワクワクへと変わっていた。
改めて死体の目の前に立った輝は、胸についている学校の名札に目をつけた。さっきは興奮しすぎていて、気づかなかったが、名前が書かれてある。
「相沢……光」
相沢、光?
その名前にようやく気がついた輝は、
「あ!」
と声を上げた。
「昨日殺された女性の子供だ。行方不明だとニュースでは言っていたが……そうか」
輝は自分なりに推理してみた。
恐らく、この子の住む部屋に犯人がやって来た。そしてその犯人はこの子を誘拐しようとしたのだが、母親に見つかり、母親を殺害した。その後、計画通りこの子を誘拐するのだが、言うことを聞かなかったか、他の理由でこの子を殺し、林の中へと隠した。
これはあくまで推測で、他の動機があるかもしれんが。
となると、犯人は何処にいる?
警察に自首しにいったか?
それとも、まだ逃げている?
それに何故、この子を誘拐した?
「まあそんな事はどうでもいい。僕がここにいるのを誰かに知られたら、たちまち怪しまれる。早いとこ、撮ってしまおう」
いや待て!
既にどこかで犯人がこちらの様子を見ているとしたら……どうする。
僕も殺される。
ふと危険を感じた輝は、辺りを確認した。木の陰に人の姿は見えないし、遠くから見られてもいない。
「ふ〜大丈夫だ」
誰もいない。隠れている様子も、ない。
「よし……とうとうこの時が来たのだ諸君」
周りに何人もの助手がいる事を想定し、輝はポケットから携帯電話を取り出し、写真機能に切り替えて、子供の死体にピントを合わせた。
無意識のうちに目は輝き、舌をちょろりと出していた。
カシャ。
カシャ。
カシャ。
いつものように違うアングルで三枚撮った輝は、うっかりミスでデータが消えないようにしっかりと保存して、死体の顔を見つめた。
「光君。ありがとう。君の死は、無駄ではなかった」
相沢光の死体の写真が収められた携帯電話をしまった輝は、急いで林から姿を消した。そして、あの男の住むアパートに向かったのだった。
「何だ……輝君か。珍しいじゃないか、君が僕の部屋に来るなんて」
しつこくドアを叩《たた》いても出ないから、最初は居留守かと思ったが、どうやら寝ていたようだ。髭《ひげ》は相変わらずだが、寝癖が酷《ひど》い。本当にホームレスみたいだ。
「で? どうしたんだい? ニヤニヤとした顔をして気持ち悪い」
念願の目的を果たしたのだ。とうとう貴重な写真を手に入れたのだ。無意識のうちに、顔がにやけているのは無理もない。
「やっと、約束の物を見せられる時が来たからね」
と誇らしげにそう言うと、福田は惚《とぼ》けた顔をして、こう言った。
「約束?」
「まあまあ。とにかく、上がらせてもらうよ」
「あ! ちょっと! 勝手に部屋に上がらないでもらいたいね」
いつものお前と同じ事をしているだけだよと内心で突っ込みを入れたが、口には出さなかった。
そんな小さな事、どうでもいい。
僕は今、興奮で心臓が破裂しそうなのだよ福田君。
「それにしても汚い部屋だね」
まるで、輝の部屋と同じだった。
食べた物はそこらにほっぽってあるし、漫画や雑誌類で絨毯《じゆうたん》が見えない。それに、アイドルグッズはどうにかならないものなのか。カゴに入っているとはいえ、イグアナを部屋で飼ってほしくはない。普通、部屋で飼うものかもしれないが。
「うるさいな。君だって人の事は言えないはずだぞ!」
普段はここからちょっとした口喧嘩《くちげんか》が始まるのだが、輝は一刻も早く福田を驚かしたかった。
「まあまあ。おさえておさえて」
「なんだ。今日は妙に余裕ぶっているじゃないか」
「へへへ。そうだよそうに決まっているじゃないか福田君」
「むむ! さては、よほど良い事があったとみえるぞ」
突然、侍の口調に変わった福田が馬鹿っぽくて、輝はクスクスと笑った。
「な、何がおかしいんだよ〜」
どうやら自分の恥ずかしさに気づいた福田は、普通の喋《しやべ》り方に戻した。
「でさ、早く教えてよ。何があったんだい?」
改めてそう訊《き》かれ、輝はもったいぶった。
「ふふふ。聞きたいかい?」
「だから早く!」
輝は、携帯電話を福田の顔にグリグリと押しつけた。
「な、な、何だ〜痛いじゃないか〜」
「まだ気がつかないかい? 最初に言ったじゃないか。約束の物を見せられる時が来たって」
そう言うと、福田は、約束、約束、と何度も呟《つぶや》き、
「え! まさか」
と身をのりだした。
「そう。そのまさかなのだよ」
「人間の……死体を?」
「ああそうさ」
輝が真剣に言っても、福田はなかなか信じてくれなかった。
「ははは。また嘘をつく〜」
「本当さ! 今さっき、撮ってきたんだ」
「じゃあ見せてごらんなさいよ」
挑発的な口調でそう言われた輝は、少しムキになりながら、携帯電話の画面を写真に切り替えて、
「ほら!」
と、福田に見せた。すると、何秒か間を置いて、福田は呆《あき》れた顔でこう言った。
「な〜んだ。これ、猫の死体じゃないか。やっぱり嘘か。ガッカリさせないでおくれよ」
だが輝は慌てなかった。むしろ、不敵な笑みを浮かべた。
「ふふふ」
「な、何だい」
「今のは冗談さ」
「冗談?」
「そう。これは人間の死体を撮る前のものだよ。本物は……」
と語尾をのばし、
「これだ!」
と、改めて福田に携帯電話の画面を見せた。今度は一瞬で、福田の表情が、固まった。
林の中の、人の死体。
仰向けの子供。
「こ、こ、これ……」
「そう。だから言っただろう。本当だって」
福田の顔が一気に青ざめていく。携帯電話を持つ手がガタガタと震え出す。それを見て輝は、にやっと上唇を浮かした。
「これ、本物なのかい? 冗談だろ? 輝君が仕組んだものなんだろ?」
「違うさ。僕も驚いたよ。探検ごっこをしていた小学生がこれを見つけたんだけど、この子供……実は」
「実は?」
「昨日、近くで殺人事件があっただろう?」
「う、うん。ニュースで見た」
「この子は、殺された女性の子供だったんだよ」
「ええ! 本当かい?」
「うん。行方不明だったらしいんだけど、殺されてしまったんだよ。犯人に」
「警察には通報したのかい?」
輝は、不気味に微笑んだ。
「してないさ。いずれ、誰かが見つけて、警察に通報するだろう。僕は事件に興味はないからね」
「いや、でも……」
「何を怯《おび》えているんだい? 僕は事件に関与していないし、ましてや君はもっと関係ないんだよ?」
何だかんだ言って、小心者なんだなと見下していると、福田は顔を引きつらせながら、
「いい加減、本当の事を言っておくれよ。この写真は、嘘のものなんだろ?」
と、何が怖いのか知らないが、事実を認めたくなさそうだった。
「君もしつこいな。本物だってさっきから何度も言っているだろう。いずれニュースだって流れる。それが証拠さ」
その言葉が決定的となった。事実、福田はもう疑ってはこなかった。がしかし、意外な事を言ってきた。
「帰ってくれ」
「は?」
「帰ってくれないか?」
「どうしたんだい急に?」
「これ以上、僕を巻き込まないでほしい。今回の事件が解決するまで、君とは会えない」
どうしてこうなるんだと、輝はため息を吐《つ》いた。念願の目的を達成したのだ。今日は二人で盛り上がろうと思っていたのに。
「頼むよ。帰ってくれよ」
「分かった分かった帰りますよ。帰ればいいんだろ?」
と、輝は福田に背を向けて、玄関に進んだ。このまま何も言わずに帰ってもよかったのだが、輝はどうしても納得がいかなかった。
「うわあああああああ!」
大げさに悲鳴を上げると、
「ど、ど、どうしたの?」
と、裏声を出しながら福田は驚いた。
「い、い、今、死体の目が……開いた!」
「う、嘘!」
その慌てぶりに輝は満足げに微笑み、
「嘘〜」
と言った。
「いい加減にしてくれ! 驚いたじゃないか! 早く帰ってくれ!」
「はいはい分かりました」
福田の怒声を浴びながら、仕方なく輝は自分のアパートに帰る事にした。
それにしても、この達成感は何だろう。全身汗だくにも拘《かかわ》らず、妙に気持ちがいい。まるで大きな仕事を終えた後の心境だ。
体中が満足感で溢《あふ》れている。
この喜びを早く声に表したい。
玄関の扉を閉めた輝は、部屋の窓が少しでも開いていないかを確かめた後、大きなガッツポーズをとって、大声で叫んだ。
「すげえええええええ! 撮ったぞおおおおおお! やったぞおおおおおお!」
誘拐されて殺されてしまった子供の死体を撮ったのだ。しばらく興奮は止まなかった。この収穫は大きい。一生、大事にする。
今の喜びを体全体で表現した輝は、座布団にあぐらをかいて、改めて子供の死体を鑑賞した。
太陽の光を遮る不気味ともいえる大きな林のど真ん中に、仰向けで死んでいた小学生。腕も足もまだ細くて、力の弱いあの子は抵抗する間もなく殺されたのだろう。
「それにしても素晴らしい」
まさか、昨日の事件の被害者の子供の死体が見られるとは。
こんな代物、もう手に入らないぞ。それなのに福田は馬鹿だ。自ら離れていきやがった。今となったら奴の事など別にどうでもいいが。
「もう、発見されただろうか」
ふと、林の今の状況が気になった輝は、ラジオのスイッチをオンにした。
いや、さすがにまだか。
どちらにせよ、またニュースで取り上げられるだろう。
その時が楽しみでもあった。
何故なら、警察もマスコミもまだ知らないあの死体を先に見ているからだ。ラジオでニュースが流れた途端、僕はもう知っていたよ、と鼻で笑ってやりたい。
「いや〜それにしても、本当に素晴らしいよ」
自分の芸術作品に酔っていた輝は、写真から目を離さなかった。カップラーメンをすする時も、ジュースを飲む時も、トイレで用を足す時も。動物をエアガンで撃ったり、昆虫を解剖したりという今までに味わってきた快感が、本当に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
夜になっても、輝は携帯電話を一時も手放さなかった。
今日は記念日だ。
興奮していた輝は、この日は一睡もする事なく、次の日の朝を迎えたのだった。
それから、二日の時が流れた。
七月の猛暑は相変わらずで、八月に入ったらこれ以上暑いのかと思うと、気が萎《な》えた。
この調子じゃ残暑も厳しいだろうし、二、三ヶ月は地獄だろう。
そういえば奴は今頃、何をやっているだろう。
別に待っている訳ではないが、あれ以来、福田からの連絡がピタリと途絶えた。
昨日も輝はずっと部屋に閉じこもり、うちわであおぎながら一人で写真を眺めていた。常にラジオはつけていたのだが、死体のニュースが流れてくる事はなかった。
そして、今日という日を迎えた訳だが、あれだけ生き生きとしていた輝も、さすがに無気力状態になっていた。死体写真に飽きたのではなく、これから先の楽しみがなくなってしまった事に気づいたのだ。また新しい目標を立てなければならない。
次は、何を目指そうか。
「それにしても、やらないな。ニュース」
今の輝には唯一の楽しみとなってしまったラジオのニュースも、まだ流れない。あちこちダイヤルを回してみるのだが、どの局もあの事件に触れなかった。
まさか、まだ発見されていないのではないだろうか。もしそうだとしたら、死体はもう腐っているかもしれない。それは別にいいが、その予測が当たっているとしたら、誰か早く見つけてくれ。
「もう一度……行ってみようか」
いや駄目だ。タイミング悪く住民に目撃されたら、まずい事になる。
それなら、いっそ、僕が警察に連絡してしまおうか。
そうだ。それがいい。そうしよう。
だが、携帯からは連絡出来ない。非通知でかけても、ばれてしまうかもしれない。
だったら公衆電話からかけようと思い立った輝は、Tシャツと短パンに穿《は》き替え、家の鍵《かぎ》を持ち、昨日からずっと流れているラジオを消そうと、スイッチに手を伸ばした。
ちょうど、その時だった。
『さて、次のニュースです。昨日、午後二時頃、神奈川県厚木市上北の林で、小学生の男の子の遺体が発見されました』
それを耳にした輝の表情が生き返った。
「これだ!」
絨毯《じゆうたん》にあぐらをかいて、ラジオに集中する。
『発見されたのは、上北小学校に通う小学三年生、アイザワ、コウ君。七歳』
その瞬間、部屋の空気が変わった。
何かが、違う。
アイザワ、コウ?
輝はラジオに向かって、
「え?」
と、呟《つぶや》いた。
ヒカルではなかったか? どういう事だ。
『コウ君の胸には学校の名札がついており、発見した当初、警察は、先日同じ市内で殺された女性の長男、アイザワヒカル君として捜査を進めていましたが、行方不明となっているヒカル君ではなく、同じ市内に住む、コウ君だということが、後の調べで分かりました。警察では……』
「嘘だ……」
ニュースはまだ続いているが、輝の頭の中は、グチャグチャに混乱してしまっていた。
「あの子は、行方不明の子じゃなかった……ヒカルではなく、コウ、だった……ええ? 訳が分からん」
相沢光。同じ字ではあるが、読み方が違ったという事か? まさか、そんな事が。
輝は携帯電話を急いで開き、何度も繰り返して見た死体の写真を、もう一度確認した。そして、一つの疑問を抱いた。
「じゃあ、行方不明の子は、誘拐されたまま?」
では何故、コウ君が殺された?
読み方が違う、相沢光を。
これは、計画的犯行ではないのか?
だとしたら……。
「誰が」
と、呟いた、その時だった。玄関の扉がトントンと叩《たた》かれた。不可解な謎に緊張していた輝は、ハッと敏感に反応した。
「ど、どなた?」
応答は、ない。ただ、扉をトントンと叩くだけで。
何だよ気味悪いな。
なかなか立ち去ろうとしないので、仕方なく輝は玄関に向かい、扉を開けた。するとそこには、小学四年生くらいの男の子が立っていた。こちらをギラリと睨《にら》みあげ、にやっと笑った。
「き、君……」
一瞬で分かった。あの時の子だ。林の中に死体があるよと走ってきた、小学生だ。
どうして、この子が?
「やあお兄ちゃん」
驚きのあまり、輝は声を出す事が出来なかった。後ずさる。
服装に注目する。
あの時と同じTシャツと短パンだ。酷《ひど》く汚れているが、あの日から着替えていないのか? 家に帰っていないのか?
「僕の事、憶えているよねぇ」
こちらへと走ってきた時の小学生とはまるで別人だった。表情も違うし、喋《しやべ》り方も妙に落ち着いている。不気味ともいえるほどに。
「う、うん……」
「部屋に上がってもいい?」
何故か輝は、この小学生の雰囲気に恐怖していた。どうしたらいいのか分からないまま、
「あ、ああ」
と頷《うなず》いていた。嫌な予感がする。空気が一気に緊張へと変わる。
「そこ、座って」
輝は座布団を指でさし、そう促した。男の子は無言で体育座りした。輝は、立ったままだった。見下ろす形で、こう尋ねた。
「どうして僕の家が、分かったんだ?」
すると男の子は、顔を上げ、答えとは違う言葉を返してきた。
「ねえお兄ちゃん。この前のニュース見た?」
何だ、突然。
「う、うん。今さっき、ラジオでね」
と答えると、男の子は不可解な台詞《せりふ》を呟いた。
「やっぱり、駄目だったね」
「駄目……だった?」
「うん。駄目だった。本当はね、あの子を殺したの、僕なんだ。驚いた? 今、驚いたでしょ? 面白い話があるって呼び出したら、素直について来たから、首を、絞めてね」
男の子は、淡々とそう言った。
だが、この子が再び目の前に現れた瞬間から、薄々、分かっていたのかもしれない。もしくは、殺人という二文字に価値を感じなかったのか。どちらにせよ、輝はあまり驚かなかった。
「君……」
そして、こう付け足した。
「アイザワ……ヒカル君だね?」
もう、それしか考えられなかった。
すると男の子は、下を向いて、コクリと頷いた。
「母親を、殺したのも?」
「うん」
「どうして」
「だって……毎日毎日、僕を叩くんだ。痣《あざ》が出来るくらいに。灰皿で殴ったりするんだ。褒めてくれた事なんて一度もないんだ。いっつも僕をぶってばっかし。だからお母さんが寝ている時に、野球で使ってる金属バットで、思い切り仕返ししてやったんだ。そしたら、死んじゃって」
「お父さんは」
「お父さんは、家から出て行っちゃったよ。お母さんが暴力をふるうもんだから、嫌になっちゃったんだよきっと」
「じゃあ、どうしてコウ君も殺したんだ?」
「同じ小学校にその子がいるのを知っていて、その子を殺せば、同じ漢字だし、僕は捕まらなくて済むかなって思ったけど、やっぱりコウってばれちゃって」
当たり前だ。そんなんで警察が騙《だま》される訳がない。それにしてもコイツ、恐ろしい小学生だ。何という発想をしているんだ。
初めはこの子に恐怖心を抱いたが、今は違う。輝は、妙にワクワクしていた。
「ねえお兄ちゃん」
顔を上げたヒカルと、輝は目を合わす。
「なに?」
「お願いがあるんだ」
「お願い?」
訊《き》き返すと、ヒカルは小さく頷き、こう言った。
「僕をここで、匿《かくま》ってくれない?」
それにはさすがに輝も驚いた。
「君を?」
「うん。僕、逃げるのもう疲れちゃったよ。暑いし、何も食べれないし、このままじゃ死んじゃうよ」
この意外な展開に、輝はある想像図を頭の中で創りあげた。この時、眠っていた狂気が目覚めたのかもしれない。
「最初から、そのつもりだったのかい?」
「違うよ。お兄ちゃんに会ったのは、偶然だよ? 跡はつけてったけどね」
「じゃあそのつもりだったんじゃないか」
ワザと意地悪を言うと、ヒカルはしょんぼりと、こう呟《つぶや》いた。
「だって本当にもう限界なんだよ〜」
最初からそう素直に言えばいいじゃないかと、輝はヒカルに微笑みかけてやった。
「ねえ、いいだろ?」
「どうしようかな〜」
「お願いだよ〜」
輝はしばらくの間を置いた。
「それよりもお兄ちゃん?」
「なんだい?」
「僕を強引に帰した後、一人で何をやっていたのかな?」
その台詞に輝はビクついた。まさか見ていたのではないだろうな。
「ねえ。何やってたの?」
その質問には答えず、輝は、
「分かった分かった。特別にここにいていいよ」
と了解した。
「やったやった!」
「そのかわり」
「何?」
「君は絶対に外に出たら駄目だよ。警察にばれちゃうからね。大声も出しちゃだめだよ? 隣の人にばれちゃうからね?」
ヒカルは目を輝かせながら、
「うん。分かった!」
と頷《うなず》いた。
こうして改めて見てみると、本当に可愛い小学生だ。
まあ、どうって事ないだろう。子供の一人や二人、置いておいたって。
それに、事件が解決する、しない、などどうでもいい。この子が人殺しだからって、警察に差し出すつもりはない。
何故なら福田君、僕はまた新しい目標が出来たからだよ。今からワクワクしてるんだ。
「お兄ちゃん。トイレ、どこ?」
「ああ、あそこだよ。行っておいで」
ヒカルがトイレに入った後、輝は不気味に笑った。
もう、君を部屋に入れる事はできないだろうね。あの子が生きているうちは。
いずれ、この部屋に小さな牢屋《ろうや》を作らねばなるまい。そしてそこにあの子を閉じこめて……。
「いつになるだろうねぇ」
白骨化した写真を、撮れるのは。
大丈夫さ福田君。
あの子は、行方不明なんだ。
僕が警察にバレる事は、ないよ。
一方、ズボンも下げずに便器に座っていたヒカルはほくそ笑んでいた。
まさかこんなにうまくいくとは思わなかった。これで寝床や食料に不自由する事はない。あとはこの先どうするかを考えるだけ……。
警察に捕まる訳にはいかない。あの男が言うように、しばらく外には出られないだろう。今はただひたすら時間が経つのを待つしかない。そして、世間が僕を忘れた頃……。
あの男が馬鹿そうで良かった。これから思いっきり利用してやればいい。もし万が一、僕の思い通りにならなければ……。
「ふふふ……ふふふふ」
僕はもう二人も殺しているんだ。
全然怖くない。慣れてしまったよ。
「ヒカル君? どうしたんだい?」
しまった。
笑い声が聞こえてしまったようだ。
「ううん。何でもないよ」
ヒカルは愛らしさを装い、便器から立ち上がり、水を流してトイレから出た。
[#改ページ]
人間狩り
陽が正午を示した時であった。
数少なくなった村民が暮らす龍楼《りゆうろう》村に警鐘が鳴り響いた。藁《わら》と竹と牛の皮で作られた住居からタミオは飛び出した。他の住居からも蜂の巣をつついたように一斉に村民が出てきた。村全体が慌ただしくなる。
今も尚、村民を煽《あお》るように警鐘は鳴らされている。タミオは北西の方角に体を向け、遠くの方に目をやった。彼の目は血走っていた。
また奴らがきやがった。
龍楼村から約十キロ離れたところにある虎藩《こはん》村の奴らだ。虎藩村とは敵対関係にある。龍楼村にとってこの鐘は戦争を意味している。しかし虎藩の奴らには戦争という意識はかけらもない。奴らは退屈しのぎにこの村にやってくる。そして『人間狩り』を始めるのだ。
まず、下級村民が龍楼の人間を追いつめ、上級村民が矢で仕留める。矢が外れれば側近たちは落胆の声を出し、的中すれば拍手し上級の機嫌を取る。仕留めた獲物は放置し、また違う人間を捜しに行く。それが飽きるまで繰り返される。その間、龍楼の村民は隠れたり逃走するのみである。
奴らは動物狩りでは飽きたらず、一年ほど前にこの龍楼村をターゲットに人間狩りを考え、実行に移した。事実、虎藩村に弄《もてあそ》ばれるほど今の龍楼村は武力をなくし、食料に飢え、壊滅の危機にある。唯一の救いは、まだ住居が残っている事だ。住居が破壊されれば、村民はもうじき訪れる冬の寒さには勝てず全滅するであろう。虎藩もそれを知っているからあえて住居は破壊しない。凍死させてはつまらないからである。どちらにせよ村の壊滅は時間の問題である。
いよいよ村民は五十人を切ってしまった。十年前と比べると十分の一である。
あの戦争から、村の運命が変わった。
タミオが五歳の頃だった。龍楼対虎藩の大規模な戦争があった。女子供も武器を持ち、村の未来のために戦った。しかしその頃から虎藩とは武力に大きな差があり、龍楼は敗北した。村は何もかも失い、タミオは両親と兄を失った。
彼は生きるのに必死だった。食い物を探すのに明け暮れ、時に草や土を食べて飢えを凌《しの》いだ。救いだったのは、両親が建てた住居が辛うじて残った事である。あの戦争で住居までも無くしていたら、寒さと飢えで死んでいたかもしれない。親をなくした子供の面倒を見られないくらい、当時の龍楼は貧困を極めていた。
戦争に負けた村は惨めなものである。龍楼は気力体力ともに失ってしまった。しかし村民は村を復活させようと一丸となって懸命に働いた。が、虎藩がそれをさせなかった。盗賊のように突然やってきては、畑を荒らし、建物を破壊し、龍楼の村民を嘲笑《あざわら》うかのように奴らは村を好き放題に荒らし続けた。それが十年間も続き、気がつけばそれは人間狩りに変わっていた。奴らが狩りにくるたびに村民の数は減っていった。それでも皆、村を捨てようとは思わなかった。意地でも、悔しいからでもない。勝算がある訳でもない。それぞれの住居の裏には、家族と先祖の墓がある。皆、それを守ろうとしている。墓を捨てて村を出ることは許されない行為であった。家族や先祖を捨てるくらいなら死んだ方がましであった。どうせ散るなら、この地である。
警鐘が止んだ。しかし奴らが引き返した訳ではない。見張りが警鐘を鳴らす余裕もないくらいに虎藩の奴らが近づいている証拠であった。
村民は四方八方に逃げていく。女の悲鳴、赤ん坊の泣き声が遠くの方に消えていく。タミオだけが未《いま》だ奴らが来る方向を見据えていた。
地響きが段々と大きくなってくるのをタミオは自覚していた。人間と馬の足音が迫ってきている。それでもまだタミオは逃げはしなかった。それどころか、住居の方に歩を進めた。中には入らず、裏に建てられてある先祖、家族の墓に向かった。
墓石には、先祖、家族の名前と、その横には神龍の絵が刻まれてある。タミオの腕ぐらいの長さで描かれてある龍の角は逞《たくま》しく、見るからに強そうである。神龍とは、先祖代々伝えられてきた伝説の龍である。今から約百五十年前、村の百姓が畑仕事をしている時に、雲の上にある影を見たそうだ。百姓はそれを龍と思いこみ、村民たちに話した。村民はその百姓を馬鹿にしたようだが、なんとその日、村の土の中から大量の金が掘り当てられたのだ。これは偶然ではないと、村民は百姓が話したそれを龍と認め、それ以来、皆はその龍を幸運の神龍と名付け、崇《あが》めてきた。
前に村長がこう教えてくれた。私たちには神龍がついているから、村は決して滅びないと。タミオは、それが嘘ではないと信じている。
彼は先祖、家族、そして神龍に祈った。
今日も無事狩りが終わりますよう。
タミオは、心の中で母の声を聞いた。その声は、母が死ぬ間際に残した言葉であった。
お前は絶対に生き延びるのです。そして敵《かたき》を討つのです。
母はそう言って死んでいった。
祈りを終えたタミオは墓を真っ直ぐに見つめ強く頷《うなず》いた。
虎藩の奴らに好き勝手に暴れられて悔しくない訳がない。でも今は戦ってはならない。太刀打ちできる武器がない。あるのは護身用の弓と矢だけである。もちろん一人ではどうにもならない事は分かっている。何より大事なのは命だ。この命は自分一人のものではない。父、母、兄の魂が宿っている。想いが詰まっている。生きていれば必ず好機が訪れる。その時期が来るまで耐えるのだ。奴らには情けない小動物に見えるだろうがそれでいい。
タミオは、下半身にまとっている皮の衣類から一本の紐《ひも》を取りだし、長い髪を束ねた。
虎藩の奴らは村に進入してきたようだ。近くで馬の嘶《いなな》きがした。次に小太鼓の音が鳴り響いた。下級村民が獲物を動揺させるために鳴らしているのだ。
いよいよ現れた人間の数にタミオは息を呑《の》んだ。まだ十六の彼が、百数十人の敵を前にすれば縮み上がるのも無理はなかった。
それにしても、とタミオは思った。いつもより敵の数が多いのは明らかであった。
どういうつもりであろうか。ただの気紛れとは思えなかった。
大勢の敵を前にしたタミオの全身に電気のようなものが走った。前回の狩りで龍楼の村民はついに五十人を切った。もしや虎藩は今日で龍楼を全滅させるつもりではあるまいか。
タミオの体は火のように熱くなった。先祖家族の眠るこの村を潰《つぶ》させてはならぬ。虎藩の思い通りにさせるものか!
敵が近づいてきているが彼は逃げなかった。硬直しているからではない。奴らの興奮を高めさせるためだった。
百数十人と言っても、馬に乗っている上級村民は七人。その他の者は決して危害を与えてはこない。矢を射るのはその七人だけである。彼らにとってこれは戦いではない。あくまで趣味の一環である。馬に乗っている七人が楽しめればそれでいいのだ。
先頭にいる者が合図をすると、集団は一旦《いつたん》立ち止まった。百数十人対一人の青年が睨《にら》み合う。彼らにしてみれば滑稽《こつけい》であった。お前一人で何ができるのだと言いたげである。頭が不敵な笑みを浮かべた。タミオは今にも心臓が張り裂けそうであったが表情には出さず、まだ背は見せなかった。
「私が奴を射止めよう。すばしこそうだから手こずるかもな」
面白い、というように頭は余裕の笑みを見せて宣言した。頭の表情とは裏腹に、周りの奴らの目が一変した。前方に立っている青年を追い込むんだと、瞳《ひとみ》を鋭く光らせた。
今だとタミオは素早く振り返って逃げた。一拍遅れて、下級村民が追いかけてきた。がその刹那《せつな》である。背後から男たちの奇声が上がった。タミオは走りながら振り返り拳《こぶし》を握った。龍楼の者が作った落とし穴に見事引っかかったのだ。深さ二メートルの穴からは周囲を覆い隠すほどの砂埃《すなぼこり》が舞った。全く警戒していなかった虎藩は雪崩のように落ちたに違いなかった。
馬から落ちた頭は表情に怒気を表し、発狂したように地団駄を踏み空に向かって叫んだ。
「奴を追え! 追え!」
何とか穴から抜けた下級村民が猛然と追いかけてくる。タミオは、今度は雑木林の中に入り込んだ。
最初の落とし穴が奴らに強烈な印象を与えたようだ。青年が今度は雑木林に導いていると予測をたてたのであろう。虎藩は急に警戒心を強めた。タミオが逃げ込んだ雑木林は出口の見えないほどに広く、木々の葉が太陽の光を遮っているので薄暗く、そして肌寒い。今の虎藩の目にはただの雑木林が樹海のように映っている事であろう。あまりの不気味さゆえにたまらず足をとめたようであった。
しかしこの林には何の仕掛けもない。タミオの狙いは成功であった。百人以上の大人が一人の青年に惑わされている。武力で勝てないのは明白である。ならば地の利をいかし心理戦にもっていくしかない。
タミオは気配を消し、林を一直線に駆けた。他の者たちはどこに逃げたのであろうか。特に気がかりなのは村長である。虎藩はこの日の狩りで龍楼を全滅させるつもりだ。いつもはあえて村民ばかりを狙っていた虎藩であるが、今日は村長の命も狙ってくるに違いない。
村民が村の長を守るのは当たり前の事であるが、タミオは特にその想いが強かった。
家族を失い毎日食うのに困っていたタミオに、当時村の長になったばかりの彼は、他の村民に気づかれぬよう、僅《わず》かではあるが食料を幾度も譲ってくれた。住居の修理や、衣類を届けてくれたりもした。与えてくれたのは物だけではない。村長は様々な事を教えてくれた。生きるための術《すべ》や、生活の知恵。常に感謝の気持ちを持つ事。そして優しさを忘れない事。思いやりの気持ちを忘れなければ、自分が困った時に必ず周りが助けてくれると村長は言った。事実そうであった。
自分が辛《つら》くとも、まずは村のため、困っている人のために何かできないかと考え行動した。すると、周りの大人たちが今度は自分を助けてくれた。そのおかげで、今こうして自分は立っていられる。村長のあの教えがなかったら、自分は独りぼっちだったかもしれない。いや、死んでいたろう。
陰で支えてくれていた村長には感謝してもしきれない。自分の命にかえてでも守らねばならぬ。
虎藩はよほど慎重に行動しているらしかった。気配を感じるが足音までは聞こえてこない。タミオは、太陽の光が前方に射しているのを見た。出口である。だがそれは、雑木林に村長がいないという事を意味していた。樹木の陰に隠れているかもしれないと捜してみたが村長の姿はなかった。
一刻も早く村長を見つけなければならぬと走り出したタミオはすぐに急ブレーキをかけた。出口付近で小さな女の子が泣いているのだ。一目でそれが、牧畜を営むナギ夫婦の一人娘、ナエだと分かった。
「ナエ」
声をかけるとナエは肩をびくりとさせて顔を上げたが、彼を見て安心したようであった。
「タミオお兄ちゃん」
と声を上げて彼に抱きついた。
「父さんと母さんはどうした?」
タミオは訊《き》いた。
「途中ではぐれちゃったの」
ナエは目を真っ赤にして答えた。タミオはナエの手をとって立ち上がった。
「よし、二人のところへ行こう」
しかしすぐにタミオは屈み、木の陰に隠れた。虎藩が大名行列を作ってこちらにやってくるのだ。タミオはナエの口に手を当てて虎藩が過ぎるのを待つ。ここで見つかれば二人は終わりである。微動だにすら許されない。石のように固まった二人は遠くの方のただ一点を見つめ意識を違う方に向けようとした。しかし動悸《どうき》までおさえることはできず、心臓は壊れるくらいに暴れていた。ナエがごくりと喉《のど》を鳴らした瞬間、背筋に冷たいものが走った。風が吹き葉が揺れるたび虎藩の会話が途切れる。周囲に何者かが潜んでいるのではないかと警戒している。木から陰がはみ出ているのではないか。こちらに近づいてくるのではないか。二人は、生きた心地がしなかった。
緊張のピークは、あの頭が二人の隠れる木を通り過ぎる時であった。
「あの小僧、どこへ行った」
小僧とは無論、タミオの事である。彼はひとりでに拳を握りしめていた。勿論《もちろん》怒りからではなく、不安と恐怖を押し殺す気持ちからその動作が出た。
百人以上の行進である。行きすぎるまでの時間は長かった。二人には特に長く感じられた。その間、ナエは立派であった。息を殺し、身体の震えを必死にこらえた。まだナエは五歳である。普通なら耐えきれず、泣くか叫ぶかする。彼女の頑張りもあって、二人は難をのがれた。雑木林を抜けた虎藩は、四方向に分かれて消えていった。ここからはそれぞれ好きな場所で狩りをするつもりらしい。
ひとまず安堵《あんど》の息を吐いたタミオはナエに指示した。
「この先へ行くのは危険だ。お前は戻って住居に隠れてろ。大丈夫、父さんと母さんは必ず戻ってくるから」
「タミオお兄ちゃんは?」
「俺は村長を捜す」
ナエは素直にタミオの言う事を聞いた。
「大丈夫だ、敵は全て向こうへ行った。出くわす事はない」
タミオが軽く背中を押すと、ナエはこちらを振り返りながら走って行った。タミオは強く頷《うなず》きナエを見送った。立ち上がった彼は雑木林を抜けた。虎藩の姿は遠くに消えていた。狩りが始まっているとは思えぬほど、辺りはしんと静まり返っていた。
昨日の曇り空とはうってかわって日射しの強い午後であった。空は穏やかで平和だが、村は危機を迎えている。しかし辺りは静寂に包まれている。
村長は一体どちらの方向に逃げたのであろうか。村の者が村長の周りを固めているであろうが心配である。
もちろん全く見当がつかない訳ではなかった。
タミオは、注意を払いながら村長の住居方面に進路を取った。その先には子供たちが安心して遊べる小さな川が流れており、川を越え、森を抜けると、広大な平野に出る。その先には、マスル山脈が壁のように広がる。山岳地帯には隠れる場所がいくつもある。村長等はそこを目指しているのではないかとタミオは予測をたてた。
タミオは息せく思いでマスル山脈に向かった。村長の住居を越え、太陽の光をキラキラと反射する川に到着した。既に息はあがっていたが川の水は口にしなかった。そのままの勢いで森に入った。
しかしすぐにタミオの足が止まった。前方から、虎藩の下級村民の鳴らす小太鼓の音が聞こえてきたのだ。誰かが虎藩に追いつめられている。
タミオは気配を消し、小太鼓の音のする方に進んだ。一頭の馬が視界に入ると、タミオは咄嗟《とつさ》に木の陰に隠れ、そっと顔を出した。上級一人に、下級が八人程度のグループであった。穴に落ちて憤激した頭ではないようだった。
ここにいるべきか。それとも出ていって攪乱《かくらん》するべきか。タミオは腰元にある弓を手にした。それでも行動に迷う彼の表情が止まった。
獲物を射貫いたに違いなかった。前方で拍手|喝采《かつさい》が起こったのだ。
お見事、さすがハン様でございます、と下級村民は口を揃えて上級の機嫌をとっている。
タミオは力無く弓の弦を離した。木に隠れたままのタミオは、近くにいる狩りグループの声が遠くなっているのを知り、木の陰から姿を現した。そして、犠牲となった者の元に歩み寄った。
死んだのが自分よりも二つ下の女の子、ミナだったと知り、タミオは己に腹が立ち、情けなくなった。
虎藩の放った矢は、ミナの心臓に突き刺さっていた。即死であった。剥《む》かれた目は、恨むようにこちらを見ていた。
タミオは怒りを拳《こぶし》に込めた。あの時、迷う事なく奴らの前に出ていき攪乱していれば、こんな結果にはならなかったのではないか。こんなにも幼い子の命まで奪う虎藩の奴らが許せなかった。それでも立ち向かえない自分にもっと腹が立つ。
「すまない、ミナ」
タミオはミナに突き刺さった矢を抜き、それを腰元にしまい、目を閉じてやった。
「おい、タミオ」
背後から男の声がした。彼の名を知っているのだから敵ではない事は確かであった。しかし今のタミオは瞬時に冷静な判断を下せないほど怒りに満ち、神経過敏になっていた。
彼は腰元から矢を抜き素早く振り返った。
そこに立っているのがトキオだと知ったタミオは、肩の力を抜き矢を下ろした。
「トキオか」
少し声が震えた。親友に会えたタミオは、安心感が胸に広がっていた。
トキオとは同い年で、タミオの一番の親友であった。彼は目は小さいが誰もが怯《おび》えるほどに鋭く、加えて尖《とが》った八重歯が彼を野獣のように見せている。体は大人よりも大きく、がっしりとした体つきはまるで壁のようである。一見乱暴そうに見える彼だが、人に対する優しさはちゃんと持っている。村長の教えは、トキオの心にもしっかりと伝わっている。当然今は普段の彼ではなく、野獣の顔を見せている。この戦いは気を抜いたら最後、命を落とすのだ。
彼とは物心ついた時から一緒にいた。思えばチャンバラで剣術を磨いたり、弓の訓練をしたり、いつ戦争が起こってもいいように準備する日々であった。まさか十年後、逃げるばかりの自分たちがここにいるとはあの頃は想像すらできなかった。二人が先頭をきって、虎藩に攻め入る夢ばかり見ていたのに。
トキオは、息をしていないミナを見て悲痛の声を洩《も》らした。
「ミナ」
タミオは、死んでいるミナを目の端に入れながら言った。
「助けられなかった。俺の責任でもある」
トキオは、落ち込むタミオに同調はしなかった。
「自分を責めるな。仕方のない事だ。お前が出ていっても、ミナが助かる保証はない。お前まで死んでいた可能性だってあるんだ」
冷酷なようだが、トキオの言っている事はもっともだった。ここに二つの死体が並ぶより、一人が生き残った方がいい。
「それより、今自分のやるべき事があるだろう」
トキオは強く言った。今自分がやるべき事。彼の意識も、タミオが想っている人物に向けられている。
「分かってる。村長を捜して、助けなければならない」
「そうだ。その通りだ。俺もずっと捜してるんだが、なかなか見つからない」
「トキオは、どこにいると考えている?」
タミオは訊《き》いた。
「俺は、湖の方に行ったんじゃないかと思ってる」
「湖か……」
勿論その可能性だってあるが、ここからは正反対である。
「お前は?」
「俺は、山岳方面だと考えてる」
トキオは、顎《あご》を触りながら頷いた。
「考えられるな」
「どうする。二手に分かれるか?」
「いや、一緒に動いた方が安全だ」
トキオは山岳、湖方面、交互に視線を向けた。
「ではどっちから行く?」
これは大事な選択である。一刻も早く村長を見つけださなければならないのだ。
「ここからだと山岳の方が近いな」
トキオは言った。
「ああ、そうするか」
迷っている時間はなかった。タミオは決断した。
「そうしよう」
二人は鳥の鳴き声響く森の中を駆け抜けた。ここを抜け、平野に出れば山脈が広がる。もっとも、そこから一里半ほどは走る事になるが。
広野が見えてきた。このまま突っ走るのみであった。
しかし森を出る直前でいくつもの影が行き先を遮った。虎藩が木々に身を潜めて待ち伏せしていたのだ。馬に乗る上級村民は、ミナを殺した者とは別であった。部下は小太鼓を鳴らしながら前方を塞《ふさ》いだ。
迂闊《うかつ》であった。村長を捜す事ばかりに気をとられていた結果であった。
「クソ!」
トキオは舌打ちした。敵はヘラヘラと笑いながら歩み寄ってくる。二人は敵に背を向け、二手に走った。雑魚《ざこ》が小太鼓を鳴らしながら追いかけてくる。馬は余裕の動きであった。闊歩《かつぽ》する馬の上で、上級がトキオ目がけて矢を放った。トキオは間一髪のところで木に隠れ、矢をのがれる。そして再び走り出す。タミオはトキオから離れた木の陰で敵の動きを窺《うかが》っていた。
今度はこっちに矢を射てくるとタミオは予想していた。だが、またしても上級はトキオを狙った。三度目もそうだった。
こちらが見えていないのか。トキオだけを狙うのは上級の気紛れか。
その時、タミオの脳裏に虎藩の頭の顔が過《よぎ》った。
あの小僧だけは射止めるな、私が始末する。と、そんな声が聞こえてくるようであった。タミオの想像は外れてはいないようであった。タミオが木の陰から姿を現し、無防備に立っていても一向に矢を放ってくる様子はないのだ。
トキオは器用に逃げ回ってはいるが、疲れ果てるのは時間の問題である。
タミオは腰元から弓を取り、矢を抜き取った。そして、面白そうにトキオと部下の追いかけっこを見ている上級目がけて矢を放った。惜しくもその矢は人間には的中しなかった。しかし、馬の尻《しり》に突き刺さったのである。興奮した馬は嘶《いなな》き、暴れ回った。上級は馬の興奮を抑えるどころか、派手に落馬した。部下が慌てて駆け寄る。
今だと、タミオとトキオは敵目がけて矢を射た。伊達《だて》に弓の訓練はしていない。二人の狙った矢は下級の首、背中に突き刺さる。森に奇声が響いた。壁が次々と倒れていき、いよいよ上級を仕留める機会がやってきた。だがさすがの武芸者である。敵は俊敏に木に隠れ、弓で応戦してきた。もっとも、タミオには一切矢を射てくる事はなかったが。
「行けタミオ! ここは任せろ! 早く村長を捜せ!」
矢を射ながらトキオは叫んだ。一瞬|躊躇《ためら》ったタミオにトキオはもう一度言った。
「早く行け!」
タミオは仲間を信じた。彼は、任せたぞと言って森を抜けた。目の前には広大な平野と、マスル山脈が瞳《ひとみ》いっぱいに映っていた。
タミオは広野をひたすらに走った。呼吸が辛《つら》くとも、膝《ひざ》に痛みが走っても、決して止まる事なく走り続けた。
タミオはふと空を見上げた。太陽の日射しは痛いくらいであった。このところ肌寒い日が続いたが今日は嘘のように暑い。さすがに喉が水を欲しているが、雨が降る気配は微塵《みじん》もない。
大自然も水を欲しているようであった。土は赤茶色に干からび、地面の草は力無く倒れてしまっている。今の龍楼を表しているようであった。
幸い、虎藩に出くわす事はなかった。しかし、村長たちの姿も一向に発見できない。これは根拠もない、ただの第六感であるが、村長たちはこの平野を通っていないのではないかと思った。だからといって確かめないまま引き返す訳にはいかなかった。
気が急《せ》いているせいか、それとも体力の限界に達しているからか、山脈までが異様に長く感じられた。もっとも、山脈までは約一里半はある。馬に乗っているならともかく、人間の足では早々に着く事はない。
それにしても遠く感じた。
手が届きそうで届かない。異常な暑さで生まれた蜃気楼《しんきろう》によって山脈が揺らいで見えた。タミオはぼやける山脈を見て錯覚した。むしろ遠ざかっているような気がして、気力までも奪い取られた。
山脈に到着したのはトキオと別れて約一時間後の事であった。前方にそびえ立つ山は壁のようである。陽の光が作る巨大な影は不気味にすら感じた。タミオは肩を激しく上下させながら、目の前に立ちはだかる山の麓《ふもと》で力一杯に叫んだ。
「タミオです。村長、いるなら返事してください」
タミオの声は虚しく響いて戻ってくるだけであった。何度呼んでも結果は同じであった。
それもそのはずだ。村長たちがいつも辿《たど》る山道に一つとして足跡がないのである。
この時タミオは、自分の予想と判断が誤っていた事を知った。同時に、彼の脳裏にトキオの姿が浮かんでいた。
ここに村長が隠れていないとなると、彼の予想が正しかったのではないか。
あの時、湖方面に行くと決断するべきだったのだ。
タミオは麓に立ちつくした。重大な過ちを犯した罪悪と後悔が、波のように一気に押し寄せてきた。同時に、不吉な風が胸の中を通りすぎていくのを感じた。
ここには敵も仲間もいない。村は一体どうなっている。
風の音が、タミオには悲鳴のように聞こえていた。
村に戻るまでの長い時間はタミオを焦らせ苛立《いらだ》たせた。
やっとの思いでトキオと別れた森に戻ってきたタミオは妙なほどの静けさに一旦《いつたん》足を止めた。敵の気配はない。感じるのは葉のこすれる音と自分の激しい呼吸だけである。
警戒しながら前へ進むと、タミオとトキオが仕留めた五つの遺体が転がっていた。その先に、防具で全身をまとった上級の死体もあった。喉元《のどもと》に矢が刺さっている。敵は相手を恨むような顔を残したまま死んでいた。これを倒したのはトキオだというのは容易に想像がついた。一騎打ちを制し、トキオは湖方面に進んだに違いない。
森を抜け、川を越えても依然として辺りはひっそりとしていた。
狩りは終わったのか。勿論《もちろん》終わっていればそれに越した事はないが、そうとは思えない。村にはまだ敵の殺気がある。それをひしひしと感じるのである。
タミオは、草むら、畑、住居の陰に注意を払いながら湖のある方に足を進ませていった。
タミオの住居はすぐそこである。その他の住居もいくつも建っているが、やはり一つも破壊されてはおらず、それだけを見ると村で狩りが起こっているなんて思わせない。しかしタミオはどこからか血の臭いを感じていた。神経過敏の彼は普段よりも数倍の嗅覚《きゆうかく》が働いていた。
それに間違いはなかった。住居の並ぶ道端に、三人の村民が夥《おびただ》しい血を流して倒れていたのだ。三人の体には無数の矢が刺さっており、惨殺された彼らの姿を見てタミオの足元が震えた。
どうしてこんな惨劇が繰り返されるのか。龍楼の者には何の罪もない。武器を持たない者を殺して快感を得る虎藩の奴らは人間ではない。悪魔である。
これは決して戦いではない。虐殺だ。神はなぜ虎藩に天罰を下さないのか。
当然のように村の惨害はそこだけに止《とど》まらず、あちこちに広がっていた。逃げる気力を失ったら最後、虎藩は有無を言わさず、徹底的に矢を突き刺す。男だけではない。死体の中には女子供も含まれていた。親の腕の中で幼い子供が死んでいるのだ。
いくつもの死体はタミオを脱力させた。その場に立ちつくす彼は、責任と罪悪を感じていた。皆が苦しんでいる時に俺は……。
不意にどこからか弱々しい声が聞こえてきた。その声にハッとなったタミオは周囲を見渡す。唯一、まだ息のある者があった。
必死にこちらに何かを訴えているのは、雑木林で一人泣いていたナエの父親、ナギであった。彼の姿を見た瞬間ナエの姿が浮かび、タミオは胸が苦しくなった。
「ナギさん」
急いで駆け寄り上体を起こしてやると、ナギは細く目を開いた。
「タミオか」
ナギは途切れ途切れに言った。
「しっかりしてください」
ナギは微かに首を動かした。
「ナミとナエは無事か」
ナミの行方は分からないが、タミオはすぐに頷《うなず》いた。
「無事です。二人とも無事ですよ」
良かったというようにナギは薄く微笑んだ。そして腰元から象牙《ぞうげ》のペンダントを出し、それをタミオに手渡した。
「これは、俺の父の形見だ。これをナエに渡してやってくれ」
タミオはそれを受け取らなかった。弱気になっているナギの拳《こぶし》を握った。
「何言ってるんですか。死んではだめです。二人を残して死んではなりません」
ナギはゆっくりと息を吐き出し、目元を綻《ほころ》ばせて言った。
「そうだ。そうだったな」
しかしその言葉とは裏腹に、ペンダントを握る彼の右手が落ちた。タミオは悔しそうにきつく瞼《まぶた》を閉じた。
「ナギさん」
タミオはナギの右手を開き、象牙のペンダントを預かった。
彼はナギの遺体をそっと置き立ち上がった。タミオは悔しさを堪《こら》え、前を見据えた。
村長はどこだ。せめて村長だけでも。
彼は走った。がむしゃらに走り続けた。死体は線のようになって続いていた。それが途切れ、村の牧場にさしかかった時であった。
やはりまだ狩りは終わってはいなかった。虎藩の鳴らす小太鼓が、遠くの方から聞こえてきたのだ。
タミオの体は、火のように熱くなった。
村長が危機に陥っているのではないか。タミオはそんな直感がした。
弓を抜き、矢を右手に持ち、タミオは音のする方に猛然と走った。顔は鬼のようになっていた。罪のない仲間たちを次々と殺す虎藩が憎い。絶対に許さぬ!
音の出所は、田園からであった。村一番の田園には様々な食物が実り花が咲く。ここが龍楼の命を繋《つな》いでいるといっても過言ではない。しかしその植物や花は虎藩によってずたずたに荒らされていた。
上級は二人、その部下は八人であった。その八人が輪を作って音を鳴らしながら左右に忙《せわ》しなく動いている。獲物を逃さないためである。
輪の中心にいたのはトキオと、去年成人したばかりのサヤ姉さんであった。サヤは体が小さく、顔もおよそ成人したとは思えないほど幼いが、動きは俊敏で、弓の技術も長《た》けている。負けん気は人一倍強くて、正義感も強い。母を早くに亡くし父親一人に育てられたせいか、男勝りの性格となったようだ。
二人は檻《おり》に閉じこめられた鼠であった。飛んでくる矢をかわすので精一杯である。壁を作っている下級は、その様子をヘラヘラと見ていた。上級は余裕の顔で矢を射る。わざと外して二人が疲れ果てる様を楽しんでいるようにも見えた。
タミオは弓を構えた。そして上級に矢を放った。その矢は敵の左腕に命中した。攻撃を受けた上級は叫び、馬にもたれかかった。敵も味方も動作が止まる。全ての目がタミオに向けられた。
トキオとサヤの声が重なった。
「タミオ」
二人の表情は疲労|困憊《こんぱい》であった。肩は激しく上下し、今にも膝《ひざ》が折れそうである。タミオが少し遅れていたら危なかったかもしれない。
タミオはすぐさまもう一人の上級に矢を放ったが、それはかわされてしまった。
「おのれそこを動くな」
憤怒した部下が一斉にタミオに向かっていった。とはいっても奴らに攻撃する権利はない。タミオを囲み、上級に狩らせるのである。
「待てお前たち」
止めたのはタミオに左腕をやられた上級であった。敵は痛みに顔をしかめながら言った。
「忘れたのか。その小僧はミナト様の獲物なんだ」
ミナトとはあの頭であろう事は容易に想像がついた。やはり想像した通り、タミオは頭の獲物になっていたのだ。
「そうだ。私たちが小僧を狩ったらミナト様に何をされるか」
もう一人の上級が言うと、部下は青ざめて戻っていった。
「私たちはこいつらを狩ればいいのだ」
敵と二人は睨《にら》み合う。トキオはその視線のまま言った。
「タミオ、サヤさんと一緒に早く行ってくれ。この先に村長がいる。まだそんなに遠くには行っていないと思う。村長はもう一人なんだ」
それを聞いたタミオは、村民が連なって死んでいたのを思い出し合点した。皆、村長を守って死んでいったのだ。
「早く行けタミオ!」
トキオは言って、サヤにも促した。
「サヤさんも早く」
サヤはトキオを一人にするのが心配なのである。
「でも」
と、行くのを躊躇《ためら》う。トキオはサヤの背を押した。
「いいから早く」
敵は、一瞬の隙を見逃さなかった。矢は、トキオの右手をかすめた。トキオは、
「うあっ」
と小さく痛みの声を洩《も》らした。歯を食いしばり左手でおさえるが、一筋の血がポタリポタリと垂れる。
「トキオ!」
タミオはトキオに駆け寄り、サヤは彼の身体を支えた。
「来るな!」
トキオはタミオに叫び、そしてサヤを突き放した。
「こんなの何ともねえ。こいつらにやられるほど俺は腐ってねえ」
矢を射た上級は片頬だけで笑った。
「だそうだ。早く行かなければ村長が殺されるんじゃないか?」
躊躇《ちゆうちよ》する二人にトキオはもう一度言った。「早く行け!」
二人は、この場をトキオに任せる決心をした。タミオはサヤに目で合図し走り出した。合わせてサヤも走った。
田園を去ったタミオとサヤは、腹の底から叫んだ。
「村長! 村長!」
声を上げながら移動するのは敵を誘っているようなものであり危険であったが、今は村長を見つけるのが最優先であった。
村長はどこかに隠れている可能性もある。それならいい。村長が無事なら何でもよい。
やはり村長はどこかに身を潜めているのかもしれぬ。一キロ以上は走ったか、村長の姿はなかった。敵に見つからない安全な場所に隠れているのなら安心であった。引き返して、トキオを助けに行く事ができる。
しかしタミオのそのシナリオは一気に崩れた。緩やかな下り坂に、白髪の老人の姿があった。村長に違いなかった。
二人が肝を冷やすほど、村長は無防備であった。足を引きずりながら道の真ん中を遅々と歩いていたのだ。あれではまるで、どうぞ殺してくださいと言っているようなものである。逆に罠《わな》なのではないかと警戒するほど村長は無防備で目立っていた。
「村長!」
二人は急いで駆け寄った。村長は立ち止まり振り返る。その動作もやはりゆっくりであった。
タミオは村長の姿を見て心を痛め、そして悲しくなった。いつも綺麗《きれい》に束ねている白髪は乱れ、顔や手や足は土に汚れ、衣服も所々破けている。堂々としているのは龍楼の村の長となる者が身につける龍をかたどったシルバーの髪飾りだけであった。
「タミオ、サヤ、無事であったか」
村長はしゃがれた声で言った。こんな危機的状況でも、村長の目は穏やかで優しかった。見窄《みすぼ》らしい姿であっても、村長が無事だった事にタミオは心から感謝した。
「はい。村長も無事だったんですね。本当に良かった。ずっと捜してたんです。さあ、安全な場所に隠れましょう」
タミオとサヤが肩を支えても、村長は動こうとはしなかった。
「村の者はどうした」
村長にとって村民は皆自分の子供みたいな存在である。どう答えるのが正解なのか、タミオはすぐに返答できなかった。しかしその迷いが答えであった。村長はタミオの表情を見て全てを察した。
「何て事だ。私は、また何人もの村民を死なせてしまったのか」
急に力が抜けたのが分かった。二人は村長の体を支える。
「そんなに自分を責めないでください。皆、村長の無事を祈っています。さあ行きましょう」
サヤがタミオに続く。
「そうです。村長、気をしっかりもってください」
村長はそっと目を閉じ、左右の指を絡ませ、懺悔《ざんげ》のポーズをした。死んだ者の顔を思い浮かべているようだった。
「皆の者の命は無駄にはせん」
そう言って、歩き出した。
「タミオ、どこに隠れるのがいいかしら?」
サヤは訊《き》いた。タミオは思案する。この坂を下りれば湖である。湖の周りには、タミオの腰のあたりまで伸びた草がいっぱいに生えている。この位置から考えて、そこが一番得策だろう。
「湖へ行こう。草に隠れるんだ。連中も、まさか草の中に隠れているとは思わないだろう」
「そうね」
サヤは納得した。
「すまない。私のために」
村長はまだ責任を感じているようであった。
「何言ってるんですか。僕は村長に幾度も助けてもらいました。今の僕があるのは村長のおかげです。村長は僕にとって命の恩人なのです。今度は僕の番です」
「私もタミオと同じ気持ちです。母が死んだ時、村長は私を励まし、寂しい私の遊び相手をしてくれたり、様々な事を教えてくれました。私にとって村長は親みたいな存在なのです」
村長は二人に、
「タミオ、サヤ、ありがとう。私は嬉《うれ》しい」
と言って、空を見上げた。
「私は幸せ者だ。こんなにも私を思ってくれる子供たちがいるのだから。神様、ありがとう」
タミオとサヤは村長に歩調を合わせてはいるが、内心は焦っていた。このペースでは発見されるのは時間の問題である。だからといって今の村長の足では急ぐ事はできなかった。タミオは、虎藩がこない事を天に願った。これまで天は一切味方してくれなかった。この日だけでもどれだけの村民が犠牲になったか。それを考えれば自分の願いは小さなものであり、受け入れられてもよいはずだとタミオは思っていた。しかし天は最後まで味方してくれる事はなかった。
影は、足音立てず近づいてきていた。タミオが気づいた時にはもう遅かった。五十以上の敵が迫ってきていたのだ。
村長の足で五十の敵から逃げる事は不可能であった。三人は逃げる事はせず、降参するように立ち止まった。
「タミオ、サヤ、いよいよ終わりのようじゃの」
村長は覚悟を決めたようであった。怯《おび》えた様子はなく、静かに言った。
「村長、諦《あきら》めてはなりません」
タミオはそう返したが、何一つ策は浮かんではいなかった。
「どうする、タミオ」
サヤが訊いた時であった。部下全員が左右に分かれ、道を空けだした。何事かと目をみはっていると、奥から馬に乗った男が現れた。
虎藩の頭、ミナトであった。ミナトはタミオを見て、とうとう見つけたぞというように上唇を上げて笑った。
タミオはこの時、逆にこの男で良かったと思った。彼は、ミナトを見据えながら村長とサヤに言った。
「二人とも逃げてください。奴の狙いは僕一人です。奴は僕を狩れれば満足なのです」
村長とサヤはタミオの言う意味が理解できなかった。
「その通りだ」
ミナトは言った。
「小僧以外に興味はない。私はその小僧を狩れればいい」
「聞いたでしょう。奴の獲物は僕一人です」
「いや、しかし」
決断できずにいる村長の手をサヤは引っぱった。
「行きましょう。ここはタミオに任せるのです」
それでいいというようにタミオはサヤに頷《うなず》いた。
「タミオ」
サヤに引きずられていく村長は瞳《ひとみ》を潤ませて彼の名を呼んだ。タミオは、穏やかな顔で言った。
「村長、無事を祈っております」
別れの言葉であった。タミオは死を覚悟していた。未練の残る村長に、タミオは背を向けミナトと対峙《たいじ》した。
ミナトは右手を挙げた。その合図で部下たちがタミオを取り囲んだ。大きな円の中心に立つ二人は睨《にら》み合う。しかし二人の立場は大きく違う。人間とその獲物である。ミナトは、この状況で堂々としているタミオを褒めた。
「なかなかの度胸だ」
「狩らないのかい?」
「まあそう慌てるなよ。名前は?」
タミオはもったいぶる事なく教えた。
「タミオだ」
「年は」
「十六になる」
「そうか十六か。若いな。残念だ、お前のような男は戦力になるんだがな」
「余計なお喋《しやべ》りはいいから早く狩れよ」
精一杯の虚勢であった。心臓の鼓動は外にまで聞こえるほどである。挑発を続けるのは、その動揺を隠すためでもあった。
「それとも自信がないのかい?」
「なに?」
余裕を見せていたミナトの顔つきが変わった。目が底光りした。
「お前の腕で俺を狩れるかな。たった一人じゃ何もできないんだろうお前は。情けない奴だぜ」
ミナトのこめかみに青筋が浮かび上がり、全身がワナワナと震えた。十六の小僧にコケにされるのは相当な屈辱である。
男は弓を抜き取りタミオに矢を向けた。
「小僧! 二度と減らず口を叩《たた》けないようにしてやるわ」
タミオは素早く横に転げ矢を避けた。すぐに二発目が放たれるがそれも間一髪のところでよける。どうにかして一矢報いたいが、そんな余裕はない。
「おのれ小僧、ちょこまかと動きおって!」
ミナトの怒りは最高潮であった。目が狂気に満ちていた。しかし弓の精度が低いのは明瞭《めいりよう》であった。虎藩の頭になるくらいの男だ。普段は精密機械のような腕をもっているはずである。相手が動き回っているとはいえ、距離は十メートルもない。興奮が逆に腕を鈍らせているのか。だとしたらタミオの挑発は成功であった。
「何だ、腕は大した事ないな。名ばかりの男か」
タミオは更に挑発を浴びせた。もう我慢ならないと、ミナトは馬から降りようとした。しかしそれは踏みとどまった。最後のところでプライドが勝ったようだ。あくまで小僧は『狩り』で殺すと決めたらしい。それに部下たちの手前もある。『狩り』で殺さなければしめしがつかない。
この時、タミオは良案が浮かんだ。彼はすぐに実行した。
タミオはふいとミナトに背を向け、壁を作っている下級たちに走った。そして適当な一人を捕まえ背後にまわり、腕で敵の首を絞めた。人質となった下級は、青い顔をしてミナトに助けを求める。
「ミナト様」
これで形勢逆転したとは思っていない。しかし時間は稼げる。問題は、次にどうしたらよいかである。
「さあどうする、ミナトさんよ」
声が少し震えた。動揺を押し殺すように、タミオは腕の力を強めた。敵は、
「うっ」
と声を洩《も》らした。
「さあさあ、撃ってみろよ」
タミオの誘いに、ミナトは滑稽《こつけい》だというように鼻を鳴らした。そして、迷う事なく部下目がけて矢を放ったのである。
矢は、下級の喉仏《のどぼとけ》に突き刺さり血しぶきを上げた。もがき苦しんでいた下級の動きが止まった。
「ミ、ミナト様……」
周りの部下たちはどよめき、そして後ずさった。飛び散る血に怯えたのではない。ミナトの冷酷さに戦慄《せんりつ》したのだ。
タミオもさすがにこの結果は予想外であった。憤激しているとはいえ、まだ冷静さが残っていると思った。だからこその作戦であった。ミナトは最初から部下を人間とは思っていなかったのだ。男にとって部下は道具の一部であった。
目の前にいるのが悪魔だと知ったと同時に、これ以上敵に下手な策は通じないと悟った。生き残る道はただ一つ。悪魔を力でねじ伏せるしかなかった。
タミオは素早く弓を抜き取り矢を構えた。しかし相手に矢を射る前にタミオの右腕はダラリと落ちた。ミナトの攻撃の方が早かったのである。今度は足に撃たれた。タミオはたまらず膝《ひざ》を落とした。
腕と足をやられたタミオは、羽をもがき取られた鳥のようであった。攻撃もできない逃げる事すらできないタミオはミナトにとってはいい的である。しかし男は簡単に止《とど》めを刺す事はしなかった。
三発目は左肩であった。タミオは激痛に耐えきれず空に向かって吠《ほ》えた。四発目が右|太股《ふともも》に刺さった時、タミオはかすれた声を出し横倒れとなった。あまりの惨さに部下たちは目を背けていた。
「私の恐ろしさが分かったか」
男の声が二重、三重にもなって聞こえた。意識は朦朧《もうろう》としているくせに、痛みだけはハッキリとしていた。全身が燃えるように熱かった。
「そろそろ止めを刺してやろうか」
ミナトが合図すると、部下が一本の矢を手渡した。ミナトはそれをタミオに向けて言った。
「この矢には毒が塗られている。即死はさせん。お前は毒に苦しみながら死んでいくのだ」
ミナトはとても愉快な顔であった。タミオが苦しみながら死んでいくのを想像し、興奮しているようでもあった。
タミオは、いよいよ終わりなんだなと思った。次に、家族と村長、そして仲間たちの顔が浮かんできた。
ごめんなさい父さん、母さん、兄さん。僕は敵討ちできないままそっちに行く事になりそうです。村長、今までありがとうございました。どうか長生きしてください。トキオごめんな。一緒に虎藩の奴らを倒すって約束したのに。
タミオは最後の最後まで勇敢であった。目を閉じる事なく矢をしっかりと見つめていた。
「あの世へ行け小僧」
タミオは口元を強く結び、死を待った。
しかし、矢は飛んではこなかった。それどころか、なぜかミナトは弓を下ろしたのである。部下たちが急にざわめきだした。皆が一斉に空を見上げた。それにつられてタミオも空に顔を向けた。
あれだけ綺麗《きれい》に晴れ渡っていた空が、いきなり夜になったように暗くなった。次に人が立っていられないほどの強風が吹き、竜巻が起きた。しかし雨が降る気配はない。雷も落ちてはこない。
異常現象が起こっている。下級たちはこの気象に恐怖し、蜂の巣をつついたように逃げ去っていくが、無論タミオにはもうそんな体力はない。どちらにせよ死ぬのだ。最後まで見届けようと思った。
馬から振り落とされたミナトは強風に飛ばされぬよう立ち向かって言った。
「これは神の悪戯《いたずら》か!」
ぼんやりと空を見ていたタミオは、そうかもしれないな、とまるで他人事のようであった。
それならもっと風よ強まれ。雨も降れ。雷も起これ。ここにいる敵全てを恐怖のどん底に陥れろ。
しかしタミオの願いとは裏腹に風はピタリと止み、辺りは妙な静けさとなった。そのかわりに、遠くの空から巨大な影が迫ってきた。
あれは一体何なのだと、タミオ、ミナト、その他の敵全てが注目する。
どこまでも伸びている一本の影はタミオたちの頭上で動きを止めた。
その影が厚い雲を破り正体を現した瞬間、ぼんやりと様子を見守っていたタミオの目が見開かれた。ミナトは腰を抜かし、口をあわあわとさせながら後ずさる。
俺は幻を見ているのではないのか。
底光りする二つの目。強さを誇示するような巨大な角と牙《きば》。奇妙な動きをする触覚。そして不気味な艶《つや》を放つ黒い鱗《うろこ》。
やはり幻覚ではない。タミオの瞳《ひとみ》には、はっきりと黒い龍が映っていた。
空に浮かぶ黒い龍は、人間たちをじっと見つめている。
タミオの脳裏に、強い光線が走った。彼は、先祖、家族の眠る墓に彫られている伝説の龍、神龍をこの龍に重ね合わせた。
間違いない。昔、龍楼に現れたと言われている龍、神龍である。
タミオは、龍を怯《おび》えるような目で見つめながら、そんなはずは、と首を振った。伝説の龍の話を聞いた時からタミオは神龍を崇《あが》めてきた。神龍が村を守ってくれているのだと信じてきた。しかし実際に村に現れたとは心の底からは信じていなかった。あくまで伝説だと思ってきた。
それがまさか本当に存在していたとは! タミオは今までにない興奮をおぼえた。死ぬ間際に神龍を見られたのである。こんな幸運な事はなかった。
タミオとは逆に、あまりの恐怖に声をなくしていたミナトが龍を指さし吠えた。
「皆の者! 撃て! 撃て!」
しかしミナトの命令は誰の耳にも届いていない。皆、金縛りにあったように立ちつくしている。
龍はミナトたちを敵と見なしたのであろうか、突然|咆哮《ほうこう》した。すると再び風が吹き荒れ、地面が揺れた。
「逃げろ!」
どこからか声が上がると、それが引き金となり下級たちは四方八方に逃げていく。
龍の手がある者に伸びた。その手は人間を簡単に捻《ひね》り潰《つぶ》した。その破壊力を見て、ミナトは一瞬でも立ち向かおうとしたことを後悔したに違いない。彼は蹌踉《よろ》けながら立ち上がり、走り出す。しかし龍はそれを見逃さなかった。巨大な影が、ミナトに伸びた。
依然、横倒れとなっているタミオは上唇を上げ、目を光らせた。
虎藩ども、恐怖を味わえ。そして苦しむがいい。
これからが本当の人間狩りである。
角川文庫『8.1 Game Land』平成19年11月25日初版発行
平成20年4月10日3版発行