山村美紗
殺意のまつり
目 次
残酷な旅路
恐怖の賀状
五〇パーセントの幸福《しあわせ》
黒枠の写真
死 者 の 掌《てのひら》
孤独な証言
殺意のまつり
残酷な旅路
1
沖縄行きのジャンボジェット機が、伊丹空港を飛びたち、ベルト着用のサインが消えると、西園《にしぞの》亜沙子は、ほっとして、隣席の達也の顔をみた。達也は三十すぎの色の浅黒い男だ。亜沙子も達也も、サングラスをかけたままである。
「うまく出られましたね」
「ええ」
亜沙子は言葉少なに答えて、握られている手に力をこめた。
二人は、じっと顔をみつめあっていた。
「なんといって出てきたんですか?」
「同窓会で鳥取へいくといったの」
言いながら、亜沙子は、夫の顔を思い浮かべた。
亜沙子の夫の西園秀之助は五十二歳。工作機械メーカーとしては一流の新日機械の社長で、関西経済連合会の副会長をしている。
二年前、亜沙子が、ミス・キモノに選ばれたとき、審査員の一人であった西園と知り合ったのである。
最初の印象は、でっぷりと太り、押出しの利く、いかにも実業家という感じであった。禿《は》げかかった頭も、赭《あか》ら顔も、社長らしい貫禄に見えて、かえって好感を持った。
審査員とミスというだけの関係で、三度ばかり食事にさそわれたあと、突然、求婚されたときには、亜沙子はびっくりした。当時、西園は妻と離婚してやもめ暮らしだったから、彼女に求婚してもおかしくはなかったのだが、彼女の方では、結婚の対象とは考えていなかったからである。
しかし、求婚されてみると、亜沙子は、自分でも不思議だったほどあっさりと承諾してしまった。三十歳近い年齢の差は、気にならなかった。
亜沙子が、何よりも惹《ひ》かれたのは、西園の地位と財産だった。といっても、彼女を非難するわけにはいかないだろう。女が、豊かな生活にあこがれるのは当然のことだし、西園に対する愛情もあったからである。
二人の結婚は、さまざまな理由から、週刊誌ダネになった。ふたまわり以上の年齢の差、審査員とミス・キモノという組合わせ、二人の写真に、「美人は実業家にあこがれる」とキャプションをつけた週刊誌もあった。
結婚した当初、亜沙子は、幸福だった。平凡な家庭に育った彼女には、社長夫人の地位は、幸福のシンボルのように思えた。西園の資産は、五億とも十億ともいわれていた。その数字も、彼女を幸福にした。西園も、彼女には優しかった。
その幸福惑が、次第に灰色に変ってきたのは、結婚三カ月あたりからである。
第一に、亜沙子が耐えられなかったのは、異常ともいえる西園の吝嗇《りんしよく》ぶりだった。関西風にいえば、ドケチである。
台所は委《まか》されたが、西園は、毎日の買物の金額を報告させ、もう少しうまい買い方をしろと叱った。彼女が文句を言うと、西園は、出る金を押さえるのが、勝利者になる一番の早道だといい、どうせ、お前のものにもなる財産だから、その財産を増やすのに協力するのが妻の道だと説教した。
前の奥さんが、西園のあまりのケチぶりに呆れて離婚したとわかったのは、この頃である。西園は、その時も、あれこれと理由をつけて、一銭の慰謝料も払わなかったらしい。
財界人三大ケチの一人として有名なことも、そのとき知った。
まだ二十三歳の若さの亜沙子には、使う金を制限される毎日は、耐えがたかった。ぜいたくが出来ると考えて結婚したのに、これでは、独身の時代よりも、みじめだと思った。西園が死ねば、全財産が入ってくるのだからと思っても、彼の脂切《あぶらぎ》った赭ら顔を見ていると、二十年は生きそうだった。二十年間の辛抱。それは、亜沙子には、まるで永遠のように思えた。
不思議なことに(というより、当然なことというべきかもしれないが)西園の長所と思えたものが、全《すべ》て、嫌悪の対象に変ってきた。でっぷり太った身体は、貫禄のかわりに、醜悪さのかたまりに見えてきたし、赭ら顔は、精悍《せいかん》さではなく、淫蕩《いんとう》さの印に見えてきた。
西園に対する愛も急速に冷えていった。それでも、亜沙子が別れる気にならなかったのは、主として見栄のためだった。彼女の結婚は、祝福され、羨《うらや》ましがられた。内実はどうであろうと、外面は、いぜんとして、新日機械の社長夫人であり、関西経済連合会の副会長夫人だった。その肩書を失いたくなかった。それに、ミス・キモノに当選したときだったら、モデルの話や、テレビ出演の話もあったが、今では、平凡なOL生活に戻るより仕方がない。それは、嫌だった。
また、二十年も、西園が死ぬのを待つのは辛いが、交通事故で、来年にも死ぬかもしれないのだ。
彼女は、我慢した。我慢する代りに、浮気をした。
浮気の相手は、夫の弟の達也で、母親が違うせいで夫より二十歳も年下だった――。
スチュワーデスが食事を運んで来たので、亜沙子は、我にかえった。
二人とも、なるべく顔を見られないよう、スチュワーデスの視線から顔をそらせていた。亜沙子には、食欲はなかったが、それでも出されたペーパーウエアの機内食を珍しそうに眺めた。今までに飛行機に乗ったことがなかったのである。
達也が、それを見ていたわるように言った。
「今度は、海外旅行にいきましょう。きっと僕が連れていってあげますよ」
亜沙子は、あやうく涙ぐむところだった。
同窓会へ行っても、最近は、OLをしている友達や、平凡なサラリーマンの妻になった友達まで、この夏はグアム島へ行った、ヨーロッパへ行ったと、海外旅行の話がはずむ昨今である。
誰も、亜沙子ほどの社会的にも経済的にも恵まれた夫人が、海外旅行をしたことがないなんて思わないらしく、今度行ったらお土産《みやげ》買って来てよとか、海外でどこが一番面白かったかなどきいて、亜沙子をその度に困惑させた。一度、海外旅行にやって下さいと、真剣な面持で頼んでみたが、ケチな夫は、ニベもなくはねつけた。今度の旅行だって、いつも断っているんじゃ友達にみっともないからと頼んで、やっと許してもらったのである。
夫とちがって、達也は一介のサラリーマンで、金はあまり持っていなかった。それでも、ボーナスをはたいて、こうして沖縄に連れて来てくれるのである。亜沙子は、本当にうれしかった。
機内では、幸い知った顔にも会わず、十一時五十五分、飛行機は那覇空港に着陸した。
2
抜けるような真っ青な空が、亜沙子を迎えてくれた。大阪はすでに秋の色が深くなっていたが、ここには、まだ夏が居すわっていた。
亜沙子は、タラップを降りながら、久しぶりに解放感を身体に感じていた。南の島のここまでは、夫の眼も届かない。ここにいる間は、自由なのだ。その思いが、彼女を、快活にし、大胆にさせた。
「ここにいる間は、何もかも忘れたいわ」
亜沙子は、達也に向って、そんないい方をした。
二人は守礼之門の近くにあるMホテルに泊った。内地の有名なホテルと同系列のホテルである。
その日から、二人は、タクシーで、沖縄各地を見て廻った。亜沙子は、子供にかえったように楽しかった。
美しい万座毛《まんざもう》ビーチでは、沖縄に来て買った水着で、二人は、サンゴ礁の海を泳ぎ廻った。空色や黄色や、赤色の熱帯魚が、彼女の足もとにまつわりつき、亜沙子は、若い娘にかえったように、はしゃいだ声をあげた。
達也は、亜沙子のビキニ姿を見て、
「兄貴なんかには、美し過ぎてもったいないよ」
と耳もとでささやき、ボートの上で、強く抱きしめた。ボートが、ぐらりとゆれ、亜沙子の頭上で、青い空もゆれた。達也の指先が、彼女の水着の下に入って来た。太陽の下でのセックスに、亜沙子は、眼を閉じ、喜びの声をあげた。
沖縄の自然が、二人の仲を、前よりも一層深いものにした感じだった。前には用心して撮らなかった亜沙子の水着姿の写真も、達也は撮ったし、自動シャッターで、並んで写真も撮った。
沖縄市に近い植物園にも行った。さまざまな熱帯植物の前で、何枚も写真を撮った。それは、亜沙子にとって、自分が、まだ十分に若いのだという証明でもあったし、達也に対する自分の愛のあかしでもあった。夫に対する反発から、浮気のつもりで親しくなった達也だったが、亜沙子は、本当に、彼を愛し始めてしまっていた。
「僕は、君が欲しいんだ」
達也は、同じ言葉を、ホテルのベッドの中でも、サンゴ礁の海の中でも、植物園の中でも、いってみれば、沖縄の旅行の間、亜沙子の耳元でくり返した。
しかし、亜沙子は、彼の愛撫には応えられても、西園と別れて、達也と一緒になる勇気はわいて来なかった。達也は好きだ。だが、西園が離婚を承知するかどうかわからなかったし、達也との結婚には不安があった。
達也は、優しい男だ。彼と一緒にいると、とても楽しい。子供のようにはしゃいでしまうし、彼の愛撫に身を委せていると、身体中がしびれてくるような喜悦がある。
だが達也は、生活力がある青年とはいえなかった。現在、新日機械で課長補佐の椅子にいて、二十五万近い月給を貰っていたが、それは、兄である西園の庇護が大きくものをいっていた。
亜沙子が達也を愛していることがわかったら、西園のことだから、冷酷に、達也をその椅子から追い払ってしまうだろう。
それを考えると、亜沙子は、今、すぐ、夫と別れて達也のふところに飛び込む勇気がわかないのだ。
達也の方も、彼女を欲しいといいながら、兄と別れてくれとはいわなかった。達也自身にも、自分が兄に頭の上がらぬことが、よくわかっているのだろう。
3
二人は、三日目の十四時四十分、伊丹空港へ帰ってきた。
せめて三泊したかったのだが、達也のつとめの関係もあったし、亜沙子もあまり長くては夫にバレるおそれがあった。
空港へつくまでの飛行機の中では、かたく手を握りあい、別れがたい想いの亜沙子だったが、空港へ着くと、やはり、家のこと、夫のことが気になった。
時計を見ると三時近かった。空港から、車をとばせば、一時間あまりで京都の家に着く。それから夕食を作って六時頃帰ってくる夫を待ち受けなければならなかった。
亜沙子は、飛行機に積まれていた手荷物が一個一個回転して出てくるのを待つ間ももどかしかった。やっと受け取ると、すぐに化粧室へいって顔をなおし、タクシー乗場へ並んだ。達也は、わざと二、三人後に並んでいる。一緒に京都まで帰りたいのはやまやまだったが、それより人目の方がこわかった。
順番がくると、亜沙子は達也に目礼してタクシーに乗りこんだ。
名神高速を通って京都南のインターチェンジから市内へ入り、京都駅までくると、亜沙子は車を待たせて、家へ電話をかけてみた。
ベルが三つ鳴ったところで、聞き慣れたお手伝いの信子の声が聞こえた。
「はい。西園でございます。……あ、奥様ですか。今、どこでいらっしゃいますか?」
落着いた信子の声を聞いて、亜沙子は、ほっとした。留守宅に変化のなさそうなことが感じとれたからである。
自分の浮気がバレたのでなくても、こういうときに、火事で家が焼けていたり、夫が事故で病院に入院したりしていたらどうしようかと不安だったからである。
「ええ。今、京都へ着いてお友達と別れたの。すぐ帰ります。旦那様まだ? ああ、そう、じゃ……」
電話を切ると、亜沙子は、あらかじめ買っておいた鳥取のみやげものを駅のロッカーから出して来て、待たせてあったタクシーに乗った。
家に着いたのは四時二十分である。いつものように信子が玄関に出むかえた。五十歳あまりの、仕事はよく出来るが陰気な感じの女である。
亜沙子が、結婚する前から、この家にいるお手伝いで、ケチな西園がなぜか、亜沙子が来て女手が足りるようになってもやめさせないでおいている。二人で住んでいたときに、関係でもあったのか、これだけの家でお手伝いの一人ぐらいはおかないと外聞が悪いからなのかは知らないが、亜沙子は気にしないことにしていた。お手伝いがいることは、友達に対してカッコウもいいし、こうして外出するときにも便利だからである。
彼女に土産物を渡して、一方的に鳥取の話をしたあと、亜沙子は、自分の部屋に入り、カギをかけた。西園が帰るまでに、スーツケースから取り出して始末しておかなければならないものがあったからである。
一つは、達也と並んで撮った水着のフィルムだった。とりあえず、どこかへかくし、明日にでも遠方の写真屋へ出そうと思った。
もう一つは、今までに達也から来たラブレターの束だった。これもスーツケースから出して、元の場所へかくしておかなければならない。家へ置いて行っても、滅多にわかりはしないと思ったが、用心のためにスーツケースに入れて持って行ったのである。
沖縄の土産は、用心深く一つも買わなかったし、水着はむこうで買って、泳いだ後、むこうで捨ててきたから大丈夫だ。
それでも、何か記念がほしくてハイビスカスの花だけは、航空会社のパンフレットにはさんで持って来た。それも何かの本にはさみかえ、パンフレットは捨てなければならない。
亜沙子は、外出着を普段のワンピースに着かえ終えると、テーブルの上にのせたスーツケースを開けた。とたんに、彼女の顔色が変った。
「違う!」
4
外見は同じ型の白いスーツケースだが、中身は、カラフルなビキニや男女の下着、トランジスタ・ラジオ、それに沖縄土産の風鈴やムウムウなどが入っていた。見たこともない品物ばかりだった。
一体、どうしたのだろう?
どこで、すり替ってしまったのだろうか?
すり替ったのは、飛行機から降りて、コンベアベルトにのって出てくる荷物を受け取ったときではないだろうか。「あれだ」と思って、コンベアベルトの上から降ろしたのは、亜沙子自身だった。そういえば、このスーツケースは、一番よくある型だった。
行きがけに、那覇空港で荷物を受け取ったときには、同じようなスーツケースがいくつもあるので注意したが、帰りは、帰って来たという心のゆるみと、時間がないというあせりから、たしかめもせず持って来てしまったのだ。
彼からのラブレター、いっしょに写した写真――間違えてもって帰った相手の人は、もうそれを見ただろうか? 写真はまだ現像してないから安心だが……。
亜沙子は、しばらく呆然《ぼうぜん》としていたが、気を取り直して、空港に電話をかけてみた。
しかし、荷物が間違っていたと届けて来た人はまだいないという返事しかかえって来なかった。
がっくりとして電話を切った亜沙子は、もう一度、スーツケースの前にすわりこんだ。
(間違えた相手は、まだ家に帰っていないのかもしれない。いや、家に着いたとしても、鞄《かばん》の中をまだ見ていないのかもしれない)
そう希望的に解釈してみたが、時間がたつにつれて不安が高まってきた。
(うっかりしていたが、あの鞄にはダイヤの結婚指輪が入っていた。あれだけでも百万はするだろう。それに比べて、こちらのスーツケースは、安っぽい衣類や土産物ばかりで、たいした金目のものはないから、相手は、黙っている方が得だと思っているのじゃないだろうか)
いつものくせで、結婚指輪をはめたままで行ってしまったのだが、達也の前では、はめているのが悪いと気がついて、はずして鞄の中にしまって旅行していたのである。
ケチな西園が買ってくれた唯一のプレゼントだから、なくしたといってすますわけにはいかない。ダイヤが惜しいというよりも、西園の眼が怖かった。
(やはり、罰《ばち》があたったのだろうか――)
そんな暗い気分になったとき、ふいに、ドアがノックされた。
亜沙子があわててスーツケースを閉め、
「なんなの?」ときくと、
「旦那さまからのお電話で、すぐお帰りになるそうです」
と信子が、ドア越しに言った。
5
翌朝、西園を送り出すと、亜沙子は、もう一度、空港に電話してみた。やはり、スーツケースが替ったと言って来た人はないということだった。
どうやら相手は、間違ったのを知っていて猫ババを決める気なのかもしれない。
(ダイヤの指輪は、二、三日してから紛失したことにして夫に話そう。今なくしたといえば、鳥取の警察に問い合わせなさいなどといわれたら困る。ラブレターと写真は、相手が脅迫でもしてこない限り、なくなっても仕方のないものだ。相手だってダイヤの指輪のことがあるから、何もいってこないだろう)
そう考えると、亜沙子は少しは気持が落着いてきた。気分直しに居間の花を取りかえていると、信子が夫にたのまれた手紙を投函に行くとかで、買物カゴを持って出て行きかけたが、ふと気がついたように、
「写真お出しになるのがあったら持っていっておきましょうか。郵便局の隣ですから」
と、言った。この女には珍しい気のききようだ。写真といわれて亜沙子はどきっとしたが、さりげなく、
「いいわ。あとで私が持っていきます。いろいろ注文つけないといけないから」
と、断った。
信子が外に出てから、亜沙子は、昨夜、食事のときに、写真のことで夫と会話をかわしたのを思い出した。
「友達何人と行ったんだ?」
「えーと、十人ぐらいかしら」
「砂丘はきれいだったか?」
「ええ。とっても」
「記念撮影なんかしたんだろう?」
「ええ」
「出来上るのが楽しみだな。お前が一番美人だろう?」
「ふ、ふ」
と、そのときは笑ったが、笑えるような心境ではなかった。鳥取で写した写真などあるわけがない。どうしたらいいだろうか。写真屋が現像するとき一本全部失敗したことにしようか。いや、それではまずい。怒った西園が写真屋にかけあいにいったらバレてしまう。
(早速、友達何人かに電話して、鳥取にいった写真がないかどうかきいてみよう。そして、その中に、一、二枚、背景のわからないところで撮った私の写真を入れてみせる……)
そんなことを考えながら、もう一度、スーツケースの中をかきまわしていた亜沙子は、トランジスタ・ラジオを取り出した。型の古い安物である。
何ということなしに、いじっているうちに、ラジオがいきなり二つにわれて、中からナイフがとび出した。折りたたみ式ナイフである。ひろげて見ると刃渡り十五センチもあるものだった。
亜沙子は、蒼くなった。どうして検問所を通過したのか知らないが、こういうものを持ち歩いている相手というと、暴力団か思想犯か、とにかくまともな相手じゃないだろう。脅迫されるかもしれないと思ったからである。
そのとき、突然電話のベルがなった。場合が場合だけにはっとなって、亜沙子は、しばらく受話器をみつめていたが、おそるおそる手を伸ばした。
相手は、達也だった。達也だとわかると、ほっとすると同時に涙がこみあげてきた。泣きながら、亜沙子はスーツケースの替ったことを訴えつづけた。
「……大変なことになりましたね。僕が荷物のとき、もう少し注意していたらよかったのに申しわけありません。……で、どうします、ダイヤの方は? 僕が買ってあげられるだけのお金を持っていたら、すぐにでも買いに行くのですが、今すぐにはどうにもなりません。とりあえず、イミテーションで同じような型のものをこしらえさせましょうか。あとで、型を教えて下さい。その他のものは、相手がなにも言ってこなければ、いいじゃないですか。まだ何もいってこないのですか。……じゃ、大丈夫でしょう。むこうにもナイフという弱味があるし、ダイヤも盗《と》ったことだし……」
受話器のむこうで、一生懸命なぐさめてくれる達也の声を聞いているうちに、亜沙子は少しは心が落着いてきた。もう少し話していたかったが、お手伝いの信子が帰ってきたらしい音がしたので、亜沙子は電話を切りあげた。
再び電話が鳴ったのは、偶然にも、夕方の買物に信子が出かけた留守であった。
達也が、さきほどのつづきをかけて来たのだと思って気軽に電話に出た亜沙子の耳に、聞き覚えのない若い女の乱暴な声が、飛び込んできた。
「あんた、西園亜沙子さん? スーツケース替えてったでしょう。返してよ」
6
「あんたの家のそばからかけてるの。門のところにスーツケースをおいといたから、わたしのもそこに持って来てよ。あれには大切なものが入ってるのよ。ヘンなまねをしたらひどいよ。私の彼が見張ってるんだから。今すぐよ」
いきなりの電話にはびっくりしたが、とにかくむこうの方が返してほしいと言っているので亜沙子はほっとした。
電話のときには、大事なものというのはナイフだと思ったが、ひょっとすると、どこかに麻薬でもかくしてあるのかもしれない。亜沙子は、急いでスーツケースを門まで持って行った。
門のところには、約束どおり、スーツケースが置いてあった。相手のを置いて自分のを手元にひき寄せると、周囲に眼を配りながら、念のため、自分のを細目にあけて、ちらっと中を見た。衣類は大体みんな入っているようだった。ふたのポケットに、封筒の端がのぞいている。撮り終ったフィルムも隅の方にころがっていた。指輪は? と思ったが、そのとき隣の家の犬が、けたたましく吠えたので、亜沙子は、スーツケースをかかえて家に走り込んだ。
自分の部屋に入ってカギを閉めても、しばらくは息がはずんでいた。
一刻も早く、中が見たかった。息を吸いこむと亜沙子は、スーツケースを開けた。
ハイビスカスをはさんだパンフレットも、衣類も、フィルムもあった。手紙もある。だが、その一通を取りあげて、中身を出したとき、亜沙子の顔色が変った。中から出て来たのが、コピーだったからだ。
ダイヤの指輪はあるだろうか? ひっかきまわすようにして衣類を放り出すと、隅に見覚えのある封筒がみつかった。
テーブルの上に、たたきつけるように振ってみると、指輪が転がり出た。あった! と思ったが、よく見ると、どうも亜沙子のダイヤとはちがう。よく似てはいるがダイヤではなく、銀台のホワイトジルコンらしかった。亜沙子の肩から力が抜けた。やはり盗られたのだ。取りかえるとき、ちらっと見ただけではわからないように似たものにしたのだ。
もう一度、門のところへ出てみたが、スーツケースはなくなっていたし、人影もなかった。
亜沙子は、新しい不安に怯《おび》えた。
相手は、あの手紙をどうする気なのだろうか。「脅迫」という言葉が、脳裏をよぎる。
ぼんやりと考えながら自分の部屋にかえって来た亜沙子は、部屋から出て来た信子と、あやうく鉢合わせしそうになった。
「あ、すみません。奥さま。今、買物から帰って来たのですが、奥さまがおられないので探していたのです。どこへいらしてたのですか? ……これおつりとメモです」
信子は言いおわると、おつりとメモを渡してすっと台所に消えた。
亜沙子は、呆然として部屋の入口につっ立っていた。
さっき亜沙子が、あわててとび出したので、スーツケースはあけたままだったし、部屋の戸もあけっぱなしだった。
信子はスーツケースの中を見たかもしれない。もし見たとしたら、達也と不倫の関係であること、今度の旅行の行先が、鳥取ではなく沖縄であることも、わかってしまったのではあるまいか。
亜沙子は、廊下に出ると台所の方をそっとうかがった。
しかし、台所の方では、不思議にコトリとも音がしなかった。
7
翌日、亜沙子達が夕食をすませて居間でテレビを見ていると、訪問客を知らせるチャィムが鳴った。
「達也さまです」
と、信子が言って彼を案内して来たとき、亜沙子は、思わず腰を浮かしてしまった。
達也と夫の西園とは兄弟だし、前から家に出入りしていたから、こうして夕食後に訪ねて来ても、決して不自然ではなかった。達也も、その後の様子を知りたくて、さりげなく訪ねて来たにちがいなかった。しかし、お手伝いの信子には、何もかも見すかされているような気がして、亜沙子は何気なく達也に接するのが苦痛だった。
信子は、達也を案内して来たときも、別に変った表情も浮かべてなかったが、飲物を運んできたあとで言ったひと言が、亜沙子にはこたえた。
「奥さまが、鳥取《ヽヽ》で買ってこられたぶどうと梨をお出ししましょうか?」
「そうして頂戴」
亜沙子は、小さくそう言っただけだが、胸がどきどきした。達也は、平気で調子をあわせている。
「ねえさん、鳥取へいかれたんですか? どうでした砂丘は? きれいだったでしょう。あそこには、ハワイというところがあるそうですね。兄さんとご一緒だったんですか?」
と、西園の方へ話をむけたが、西園は、短く、
「いや」
とだけ言った。夫も信子からきいて知っているのではないかと思い、亜沙子は、はらはらした。
しばらくして帰る達也を送って廊下へ出たとき、亜沙子は、
「信子が知ってるような気がするの」
と、ささやいた。驚いて立ちどまった達也が、
「知れたってなにが? どこまで知れたんですか?」
と、顔を寄せてきたが、信子の姿が玄関に見えたので、二人はあわてて話をやめてしまった。
あとで電話するのもなかなか困難だし、日中は、達也は勤めがあって連絡がとりにくいので、亜沙子は思いきって達也を送って外へ出た。信子には、どうせ知れているんだからと、居直ったかたちだった。
歩きながら、亜沙子は、スーツケースをかえたこと、しかし、大切なものは返ってこなかったことを話した。そして、信子に見られたらしいことも。
「脅迫してこないといいですがねえ」
達也は、さきほどまでの元気はどこへやら、小さく肩を落として口の中でつぶやいた。
8
亜沙子の恐れていた電話がかかったのは、その翌朝の十時頃だった。最初のときと同じ女の声で、手紙と写真を返すから、こちらの言う方法で、二十万円を渡すようにというものだった。
手紙はわかるが、写真もときいて亜沙子はびっくりした。
「写真って?」
「あら、まだ気がつかないの。ちゃんとこちらで現像してみせていただいたわ。だから現像代がいるのよ。二十万円。あなたって案外ボインなのね。ビキニ姿もいいけど、一番いいのは、ベッドで眠っているところね。あなたの彼が撮ったのだと思うけど、ご主人がみたらなんて言うでしょうね」
亜沙子が、蒼い顔で立ちつくしている間に、女は、金の受け渡し方法を一方的にしゃべりまくって電話を切ってしまった。
亜沙子は、スーツケースの中から、フィルムをとり出した。多分これは、なにも写っていないサラのフィルムなのだろう。
寝顔を撮られたということは知らなかったから、撮ったという達也にまで腹が立った。
二十万という金額は、脅迫の金額としてはそう高いものではないが、果たしてこれ一回きりですむだろうか。また、本当に、写真と手紙を返してくれるだろうか。たとえ返してくれても、手紙のコピーとか焼きましした写真ぐらいは向こうの手元においておくだろう、不安な気持は、永久にぬぐいきれない。
いろいろ思い悩んだが、とにかく渡すことにきめた。渡さないことには、すぐにも西園に知れるだろう。亜沙子は黙々と金を集めた。わずかなへそくり貯金をおろし、それに家計費の一部をたして二十万にすると、それを封筒に入れ外出した。
駅前のコインロッカーに封筒を入れ、ロッカーの鍵をハンドバッグにしまった。
家に帰ると、その鍵を門の外にとりつけてある牛乳箱の中へ入れた。相手は、密かに牛乳箱から鍵を出し、コインロッカーをあけて金の封筒を出すと、代りに手紙と写真を入れておき、鍵を再び牛乳箱に入れておくと言った。
亜沙子は、その鍵を取り出して翌日ロッカーをあけて中のものを出すという要領だ。
まるで儀式のように、七面倒《しちめんどう》くさかったが、万事スムーズに終った。再びロッカーをあけて、中に入っている手紙と写真をみつけたとき、亜沙子は、むしろ意外なくらいだった。
金はとっても、多分、手紙とか、写真は返さないだろうと思っていたからだ。
その点、脅迫者は妙に義理がたかった。でも、写真も手紙も一通ずつだった。そして、それは、脅迫がまだ続くということを示していた。
手紙が十通。写真は、三十六枚撮り、ハーフサイズだから七十二枚――そう考えたとき、亜沙子は、めまいを覚えた。
一枚の写真が二十万円だったら、七十枚では、千四百万円にもなる。気の遠くなるような金額だ。
家に帰って、亜沙子は、返ってきた手紙と写真をみつめた。ネガも一枚分だけきりはなしてつけてあった。写真には、ビキニ姿の自分と達也が並んで写っている。端の方にボートがあり、万座毛ビーチが見える。これ一枚でも西園の目にふれたら、いいわけの余地がない。
手紙の方も、読み直してみて顔の赤らむような愛の言葉が並んでいる。
なまじっか一部を返してもらったことで、次は、何を返してくれるだろうと、亜沙子には、知らず知らずのうちに次の脅迫を待つ姿勢が出来てしまっていた。
三日ほどおいて、第二回目の脅迫があった。今回は、五十万円だという。ただし、手紙を三通と写真を五枚かえすといった。
「随分サービスでしょう」
と、女は、受話器のむこうで笑った。
亜沙子は、唇をかみしめた。女は、方法は前のとおりと言って電話を切った。
前のとおりというのは、なかなかいい方法だった。第一に、亜沙子の家の中からは、門のところは死角になっていてどうしても見えないのだ。
それに、相手は、あんたの顔もあんたの彼の顔も写真でよく知っているから、ロッカーのところに張っていても駄目だと釘《くぎ》をさしている。むこうはこちらを知っていて、こちらは、相手の顔がわからないのだからどちらにしろ不利である。
それに、誘拐《ゆうかい》事件などとちがって、相手をとりおさえたところで、写真と手紙が大っぴらになってしまえばなんにもならないのだから始末がわるい。
亜沙子は、あきらめて金を払うことにした。時間をかせごうと思ったのである。
夫は、近く、ヨーロッパへ仕事でいくことになっている。行けば一カ月ぐらい帰ってこないから、その間は大丈夫だし、作戦も考えられる。
しかし、亜沙子に五十万の金はなかった。五十万どころか五万の金もなかった。仕方なく亜沙子は、達也に連絡をとり、会社の近くの喫茶店で会った。
達也には、二十万円を脅迫され払ったことをまだ話してなかったので、そのことから話した。達也は、黙って聞いていたが、
「心配しないで下さい。五十万円は僕がなんとかします」
と、いってくれた。
9
時間ぎりぎりに、達也が金を持って来てくれた。午後六時に十分前だった。指定では、午後七時までに鍵を牛乳箱に入れておくようにということだった。六時になって夫が帰ってきてしまうと、金をロッカーに入れるために外に出る口実がなくなる。
亜沙子は、達也に礼を言うのもそこそこに、その金をもって、駅のコインロッカーに入れにいった。入れ終って時計を見ると、六時十分であった。亜沙子は帰りを急いだ。
鍵を牛乳箱へ入れ、やっと間に合ったとほっとして家へ入ると、夫が一足先に帰っていて不機嫌な顔をしていた。その不機嫌は、夕食後まで続いた。信子が食器を下げて台所にさがり、二人きりになったとき、夫が言った。
「達也が来てたそうだな。金を借りに来てたんじゃないか?」
「いいえ。どうしてですか?」
「今日、会社の会計で三十万円前借りしたらしい。会計課長に、弟さんですからお貸ししましたといわれて恥をかいたよ。マージャンかなにかで借りが出来たんだろう。おまえもあまり交際《つきあ》わない方がいいな。あいつとは」
勿論その三十万円は、今日の五十万金策したうちの三十万なのだ。
亜沙子は、達也が会社で恥をかいてまで、金を作ってくれたことに感激したものの、もうこれ以上は無理だと思った。
二回目のときにも、きちんと約束通り手紙三通と写真五枚が返されてきた。
それからしばらくは、なにごともなくすぎた。不思議に、電話の鳴らない日が続いた。まだ、相手には、手紙と写真があるはずなのに、なぜ、脅迫をやめてしまったのか。
ほっとしながらも、一方では、不気味な気がした。
そんなある夕方、西園は、会社から帰ってくると、いきなり、来週ヨーロッパに出張すると亜沙子にいった。
亜沙子の顔が輝いた。出発の日まであと一週間無事に過ごせば一カ月間時間がかせげる。今度は、もし言ってきても、今までのように、相手のいいなりにはならず、少しずつわたして日をのばそうと思った。
そう考えると、亜沙子は、久しぶりに陽気になり、夫の相手をして、ビールを少しすごしたりした。
翌朝、亜沙子は、めずらしく寝すごした。
ぼんやりした頭で、食堂へ出ていくと、信子が、いつもの冷たい口調で、
「旦那さまは、もう、お出かけになりました」
と、いった。わかっているわ、というように、亜沙子がうなずいたとき、電話が鳴った。
受話器をとると、あの女の声が聞こえた。
「今度は、五百万円頂きたいわ」
と、相手はいった。
10
亜沙子はねむけが、いっきに吹き飛んでしまった。
「そんな、五百万円ものお金、とてもありませんわ。この前の五十万だって、やっと作ったんです」
「あなたが駄目ならご主人に貰《もら》うわ。いいわね。三日待って出来なかったら、ご主人に電話するわよ」
女は、勝ちほこったように笑うと、亜沙子が何か言いかけるのを無視して電話を切ってしまった。
五百万円――亜沙子は、本当に眼の前が暗くなるような気がした。それで、残った手紙や写真を金部渡すとはいったが、あまりにも大きすぎる金額だった。
駄目なことはわかっていたが、やはり達也に相談せずにはいられなくなって、亜沙子はこの前の喫茶店に達也をよび出した。
達也はじっと聞いていたが、決心したように、
「いっそ、兄貴に全部告白してしまったらどうでしょう。よそから聞く前に言ってしまった方がいいんじゃないだろうか?」
と、亜沙子の顔を見つめた。
脅迫されることに疲れた亜沙子の気も動きかけたが、打ち明けたとき、西園が、寛大に許してくれるとは、思えなかった。不貞を働いて離婚されたときいたときの年老いた両親の悲しみ、職場を追われた達也との行末を考えると勇気が出なかった。亜沙子はずっと黙りつづけていた。
そんな亜沙子の気持を敏感に察したらしく達也は、
「じゃ、十万、二十万でもなんとか作ってみます。そちらもなにか金に換えられるものがあったら換えてくれませんか。期限がすぎても金が入ってなかったら相手が怒って電話してくる。そのとき、これだけしか出来ない。後は待って欲しいといって頼んだらどうでしょう。相手だって全然とらないよりいくらかでも取った方がいいから承知するかもしれない。そうなれば少しでも引き延ばせるじゃありませんか」
亜沙子は、家に帰ると、めだたないもので金になるものはないかと、家の中を探してみた。時計も指輪もたいしたものはない。それでも全部集めて袋に入れた。
香炉とか花びんもいっしょに持って、亜沙子は質屋のノレンをくぐった。生まれてはじめての経験だった。
質屋は、花びんにだけ執着をみせた。花びんだけで三十万円出すという。しかし、そう言われてみると、花びんを渡すのが心配になってきた。
李朝の花びんだというが、それだけ値うちのあるものだったら、西園は、すぐ見えなくなったことに気づくだろう。三十万円は欲しかったが、思いきって花びんはやめ、それ以外のものだけにした。質屋は、急に興味を失った眼でそれらを見て、五万円にしかならないといった。いくらなんでも五万では恰好《かつこう》がつかない。
亜沙子は、あと一週間したら花びんを持ってくるからといってもう少し出してくれるように頼んだ。結局、十万円の金を貰って亜沙子は質屋を出た。西園が外国へ行っている間に花びんを処分し、夫には割ったと言おうと考えた。
達也の方からは、二十万円出来たという電話があった。あわせて三十万円で、急場をしのげたらと考えたのだが、相手は、そんなに甘くはなかった。
その日の午後、女からかかった電話に、亜沙子が三十万でしばらく待ってほしいと頼むと、女は怒り出し、今日一日待って出来なければ、主人に言うといって電話を切ってしまった。
11
翌日の夕食のとき、恐れていた電話が掛ってきた。
ベルが鳴った瞬間から、亜沙子には、暗い予感があった。食べかけていたエビのグラタンをおいたままじっとしている亜沙子の耳に、電話のところへ走っていく信子の足音が聞こえた。出来れば、自分が出たかったのだが、足が動かなかった。やがて小走りで食堂へ入ってきた信子は、夫の西園に、
「あの、旦那さまにお電話です。女の方から……」
「誰だ?」
「それが、お名前をおっしゃらないんです。出てもらえばわかるとおっしゃって……」
「よし。わかった」
西園は立ち上って大またに部屋を出ていった。出ていく前にちらっと亜沙子の顔をみた。亜沙子は、どきんとして思わず食事をやめてしまった。聞き耳をたてたが、電話に答える西園の声は聞こえなかった。
しばらくして戻ってきた西園は、不機嫌にだまっていた。健啖家《けんたんか》の西園が食事を途中でやめてしまい、信子に下げさせてしまった。
「どなたからでしたの?」
と、普段は軽く口に出るそのことばが、亜沙子にはなかなかいえなかった。いわないとかえって不自然だと思って亜沙子は、やっとの思いで口にしたが、声がかすれているのが、自分にもわかった。
「いや、仕事のことだ」
と、西園はそっけなくいい、自分の書斎へひっこんでしまった。亜沙子は、じっと身体を硬くして、西園を見送っていた。やはり、あの女からなのだと思った。
翌朝、西園は亜沙子にちょっと話があるといって書斎へよんだ。珍しいことだった。
昨日の電話のことだと亜沙子は直感した。書斎へ入ると、案の定、夫は難しい顔で、
「今夜、ここで人とこみ入った話をしなければならん。だから君は、友だちの家にでもいっていなさい。あ、それから、信子も、どこかへ行かせておくんだ」
と、命令するようにいった。
だが、西園は、亜沙子を非難するようなことは、一言もいわなかった。あの女は、どんな風に、西園に話を持ち込んだのだろうか。
「会うのは、女の人?」
と、西園の顔色をうかがうと、西園は、
「くわしいことは、あとで話す。君に関係のあることだから」
としか、いってくれなかった。
亜沙子は、覚悟を決めなければいけないかもしれないと思った。ケチな西園が、女のいうがままに、五百万円もの金を払うとは、とうてい思えない。その結果、どうなるのかわからなかったが、女が、亜沙子あてのラブレターや、沖縄の写真を、西園に買わせようとして見せることだけは確かだ。西園は、怒って、亜沙子を叩き出すだろう。前の奥さんにそうしたようにである。亜沙子の浮気が原因では、無一文で、追い出されそうだ。
夕食のあと、亜沙子は、西園にいわれた通り、お手伝いの信子に、金を渡して、遊びに出した。信子は、久しぶりに母の所へ行って来ますと、例によって、嬉しいのか嬉しくないのかわからない無表情さでいい、出かけていった。
亜沙子も、外出した。
足は、自然に、達也のアパートへ向いてしまう。
達也の部屋には、あかりがついて、客があるらしくにぎやかな笑い声が外まできこえていた。彼女がベルを押すと、達也は、外へ飛び出して来て、
「こんなときに、マージャンなんかやっていて申しわけないんですが、友人が押しかけて来ちゃったものですから」
と、頭を下げた。
亜沙子は上がることもできず、戸の外であわただしく話をかわした。
「それで、あの問題はどうなってますか?」
「今夜、主人は、女と会うわ」
亜沙子は、朝からのことを達也に話した。
「とうとう、最悪の事態になったわけですね」
「主人は、きっと、あたしを追い出すわ。そうしたら、達也さんは、どうなさるの?」
「もちろん、君と結婚します。かえって、君も僕も、ふんぎりがついて、いいかもしれないでしょう」
達也が、微笑し、亜沙子は、その笑顔に勇気づけられた。
そのとき、奥から「おーい、いつまで待たせるんだよ!」という声がした。亜沙子は、「ありがとう」と、達也にいった。
「あなたの言葉をきいて安心したわ。これから、家に戻って、どんな具合か様子を見てみるわ」
「無茶なことしないで下さいよ」
「大丈夫」
と、亜沙子はいった。達也が、なぜ、そんな言葉を口にしたか、彼女にも、よくわかった。彼女には、妙に気の強いところがある。家に戻ったとき、電話の女がいたら、カッとならないか、西園が浮気のことで罵倒《ばとう》してきたとき、何かしないかという心配だろう。姿を見せず、声だけで脅迫しつづけた電話の女を、殺してもあき足りないと思う。だが、私には、人は殺せないという気が亜沙子にはしていた。それに、今度のことで、達也の愛が確かめられたのだ。西園に追い出されても、達也との愛に生きよう。達也も決心してくれるだろう。
家に戻ったのは、九時頃だった。
邸は、ひっそりとしている。二階の書斎に明りが灯《とも》っているところをみると、あの女は、まだ西園と話をしているのだろうか。亜沙子は、足音を忍ばせて、勝手口から、邸の中に入ってみた。
どんな女なのか姿だけでもこの眼でみたい。書斎にあがる階段の下に立って、上の様子をうかがったが、物音も、話し声も聞こえて来なかった。そのまま、十二、三分もいたろうか。少し変だなという気がしてきて、亜沙子は、階段をのぼって行った。
書斎のドアが開いていた。大事な話をしているはずなのに、ドアを開けたままというのはおかしかった。西園らしくもない。
亜沙子は、そっと近づき、書斎をのぞいてみた。
書斎の床には、花模様の絨毯《じゆうたん》が敷きつめてある。その上に、西園の大きな身体が俯《うつぶ》せに倒れていた。髪の毛のうすい後頭部に、血がこびりつき、あの李朝の花びんが、粉々になって、散乱していた。
12
死亡推定時刻八時から九時。
大狩《おおかり》警部は、蒼《あお》い、というよりも、白っぽく見える顔で、夫の死体を見たときの様子を話す西園亜沙子を、じっと眺めた。
亜沙子の話は、いささかとっぴであった。少なくとも、大狩には、そう聞こえた。
「すると、こういうことですね」
と、大狩は、メモに眼をやって、亜沙子にいった。
「今日、食事のあとで、突然、ご主人に、しばらく外へ出ているようにといわれた。お手伝いも、母親の所へ帰した。それから、心配になったので帰ってみると、ご主人は、書斎で殺されていた」
「はい」
「ご主人が、なぜ、そんなことをしたかわかりますか」
「いいえ」
「度々、こういうことがあったのですか?」
「いえ。初めてです」
「初めてなのに、理由を聞かなかったのですか?」
「きいても、教えてくれない人ですから」
「奥さんは、外に出て、どこへ行かれたんですか?」
「七時半頃に、家を出て、ただ、フラフラと、街を歩いて来ました」
「なぜです?」
「なぜといっても、ただ、何となく、歩いていただけなんです」
亜沙子は、硬い表情でいっただけだった。
彼女が、奥の寝室に消えてしまうと、大狩は、眉を寄せて、部下の鈴木刑事を見やった。
「奥さんは、何かかくしているな」
「そういえば、さっき、鑑識が、庭の焼却炉の中から、手紙と写真の焼けた破片を見つけています。内容はわかりませんが、焼却炉がまだ熱かったところからみて、一一〇番する直前に焼いたものと思えます」
「どうも秘密の匂いがするな。太田信子というお手伝いと連絡は取れたのか?」
「取れました。すぐ、帰ってくるそうです」
その太田信子は、十五分ほどして、邸に帰って来た。五十過ぎの、カサカサした感じの典型的な中年女だった。が、大狩の質問には、ハキハキと答えてくれた。
「奥さんから、母のところへ帰っているようにいわれたのは本当ですけど、それが、旦那様のご指示だなんて、聞いていません」
「こんなことは、初めてだそうだね?」
「はい」
「ご主人を恨んでいた人に心当たりはないかね?」
「よくわかりませんが、犯人なら知っています」
「誰のことをいってるんだ?」
「もちろん、奥さまです」
13
「理由は?」
「奥さまは、旦那さまを愛していらっしゃいませんでした。旦那さまに十年もお仕えした私には、よくわかるんです。それでも、この邸にいらっしゃったのは、旦那さまの財産のために決っています」
「しかし、ご主人は五十二歳、奥さんは二十三歳だ。あせって殺さなくても、辛抱強く待っていれば、財産は手に入るんじゃないのかな?」
「何にもなければでしょう。でも、旦那さまが、奥さまの浮気に気づいていたら違いますわ」
「浮気?」
「本当のことはよく存じませんけど、旦那さまが、私に、一言、おもらしになったことがあるんです。どうも、男が出来たらしいと」
「それで、ご主人はどうする気だったのかね?」
「存じませんが、旦那さまは、気性の激しい方ですから、離婚なさる気だったんじゃないでしょうか。そういうことを、お許しにならない方ですから」
信子の話が事実とすれば、重大な動機になり得ると、大狩は思った。西園の財産は、数億といわれている。十分に、殺人の動機になり得る金額だ。
「もう一度、西園亜沙子を呼んで来てくれ」
と、大狩は、鈴木刑事にいった。
再び、書斎に入って来た亜沙子は、大狩の質問に、顔色を変えた。が、首を横にふり、
「誰がいったのか知りませんが、私に、主人以外の男があったなんて、嘘です」
「しかし、奥さん。庭の焼却炉から、手紙の焼き残りが見つかりましてね。それに、奥さんの名前と、ご主人以外の男の名前が読めたんですがね」
大狩が、ベテランらしく、カマをかけると、亜沙子は、唇をかんで、黙りこんでしまった。
「奥さんには、署まで来て頂かなければなりませんな」
と、大狩は俯《うつむ》いている亜沙子にいった。
14
亜沙子は、捜査本部に連行されてからも、犯行を否認しつづけた。
しかし、彼女には、不利な点が多過ぎた。被害者の他に男がいたという確認は、まだつかめなかったが、
アリバイがない。
一一〇番する前に、手紙と写真を焼くという不審な行動をとっている。
当日の行動が不可解であり、証言にあいまいな点があり過ぎる。
凶器になった花びんを最近質屋にもちこんだことがある。
などが、警察の心証を悪くしていた。仕事上の敵が犯人という線も考えられるが、そういう相手と、自宅で、しかも、妻やお手伝いを外出させて会うというのは、ちょっと考えられなかった。
(逮捕状を請求できそうだな)
と、大狩が考えたとき、鈴木刑事が、部屋に飛び込んで来て、
「西園達也が、自分が犯人だといって自首して来ました」
と、大狩に報告した。
「西園達也? 被害者の腹違いの弟だったな。本当に、殺したといっているのか?」
「そうです」
「よし。会ってみよう」
と、大狩は立ち上った。
西園達也は、膝の上に両手を揃え、じっと天井を見つめていた。やせた背の高い男だった。
「本当に、あなたが、兄さんを殺したんですか?」
大狩がきくと、達也は、まっすぐに警部を見つめて、
「警察は、義姉《あね》を逮捕したようだけど、とんだミスですよ。殺したのは、私なんだから」
「なぜ殺したんです?」
「彼女のためですよ。義姉《ねえ》さんは、私のために黙っていてくれたと思うけど、私は、兄の眼をかすめて、彼女を愛してしまったんです」
「浮気の相手は、あなたか」
「私も、彼女も本気でしたよ」
「それで、なぜ、殺したんです?」
「この間、二人で沖縄に行ったんです。もちろん、兄には内緒でした。ところが、帰りに、彼女のスーツケースが取りかえられたことから、最悪の事態になってしまったんです。家に帰ってから、彼女が、スーツケースが替ってしまっていると、知らせてきたんです。私も蒼くなった。その中に、二人の間の手紙や、沖縄で撮った写真が入っていたからです。困ったことに、スーツケースを間違えた相手が、その手紙と写真をタネに、次々に、彼女を脅迫して来たんです。私も、金を作って、彼女に渡していましたが、彼女は、脅迫者が、とうとう、兄に会うといって来たといいました。そうなれば、全て終りです。それで、今夜、八時半頃、兄に会いに行って、いろいろ話をしたんですが、兄がどうしても二人を許さんというので、カッとして殺してしまったんです」
「邸には、被害者の他に誰かいましたか?」
「いや」
「脅迫の話ですが、あなたも、脅迫者の声は聞いたんですか?」
「それは――ただ、彼女が、女の声で脅迫されたと」
「じゃあ、また聞きですな。全て」
「そりゃあ、そうですが、私が兄を殺したことに間違いありませんよ」
西園達也は、大きな声でいった。
大狩は、達也を一応留置したが、亜沙子をすぐ釈放することはしなかった。彼女の疑問点が消えたわけではなかったからだ。
達也の自供が本当かどうか、裏付け捜査が行われたが、調査に当った刑事たちは、本部に戻ってくると、
「ありゃあ、シロです」
と、大狩にいった。
「完全なアリバイがあります。あの日の午後六時から十二時まで、達也のアパートで、会社の同僚三人とマージャンをやっています。一度も外出していません。どうやら、妙な犠牲的精神を発揮して、亜沙子の身代りをかって出たというのが事実のようです」
あっけない結末だった。大狩は、さんざん油をしぼってから、達也を釈放した。
警察の狙いは、亜沙子一人にしぼられた。彼女は、達也との関係を認め、スーツケースが取りかえられたことから脅迫され続けていたと話し、犯人はその女に違いないと、大狩にいった。だが、それらの話は、大狩たちの心証を悪くしただけだった。
お手伝いの信子も、そんな脅迫の電話を取りついだことはないと証言したし、達也の証言にしても、亜沙子が、脅迫されているというのを聞いただけのことに過ぎない。また、取り違えたスーツケースがなくなっているのも、亜沙子の言葉の信用度を薄くした。
(本当は、スーツケースの取りかえなどなかったのではないのか。彼女が、でっちあげ、架空の脅迫者を作りあげて、その女の犯行ということにして、夫の西園を殺したのではないか)
と、大狩は考えた。動機は、夫の財産だ。達也という恋人が出来ているのを夫に感づかれたため、追い出されれば、数億の財産は、彼女の手に入らなくなる。だから、離婚されない前に殺した。
亜沙子は否認しつづけた。が、アリバイのなさが致命傷になり、検察は、否認のまま、亜沙子を起訴することに決めた。亜沙子は、その時間達也のところへ行っていたといい、達也もそうだと証言したが、達也とマージャンをしていた三人のだれも、亜沙子の姿を見ていなかったからである。
京都郊外のモーテルのベッドで、西園達也は、泉万里子の身体を片手で抱きながら、亜沙子が起訴されたというニュースののっている新聞を読んだ。
「計画どおりだよ」と、達也は、万里子の唇に軽く自分の唇を合わせた。
「僕の自供で、警察も動機をつかんだからね」
「でも、本当にうまくいったのは、あたしがいたからよ」
と西園社長の秘書だった泉万里子は、ニッと笑った。
「あたしが、彼女の脅迫役を引き受けたからうまくいったわけよ。それに、西園も、あたしとの関係があったから、妊娠したといっておどかしたら、あの邸でひとりで会うことを承知したのよ。でも、殺すのは怖かったわ」
「感謝してるさ。君がいたからこそ、スーツケースを取りかえることを思いついたんだからな。沖縄へ行く前に、伊丹空港のロッカーに同じスーツケースを入れておき、帰ってきて、彼女が、顔を直しに化粧室へ行ったときに取りかえたんだが、ロッカーの使用期限が三日間だから、飛行機の欠航などで三日以上沖縄にいることになったらどうしようかと、冷や汗ものだったな」
達也は、肩をすくめてから、
「君の嫌がっていた、お手伝いは、五十万やって、ヒマを取らせたよ。大金を手にして、大喜びしていたよ。単純な女さ」
その太田信子は、その頃、机の前にすわり便箋を広げていた。
五十一歳までひとりで生きて来た彼女にとって、唯一の楽しみは、盗み見だった。だから、西園家のことは、何でも知っていた。ただ一人の肉親の母親も、二年前に死んだ。それを、生きていると西園家では嘘をついていたのは、奥さんを安心させるためで、あの日は、そっと、邸に引き返して、様子をうかがっていたのだ。
そして殺人を目撃した。
数億の財産!
一カ月に百万円貰っても、あれだけの財産を全部貰うには、十年以上はかかりそうだ。
信子は、鉛筆をなめ、脅迫書の作成に取りかかった。
(西園達也さま。あたしは、――)
恐怖の賀状
1
休日の証券会社の中は、閑散としている。
一月十五日。成人の日も、そうだった。事務整理のために出社した数人の社員が、無駄話をしながら仕事をかたづけていた。
その中の一人、二十七歳の笠原洋一は、煙草をくわえ、先ほどから白川夫人との肢体の絡まりを思い浮かべていた。
小柄で色白な夫人は、三十代後半という年のせいで、いくらか太り気味だが、それでも男の食欲をそそるだけの魅力を持っている。
笠原は、始め、客の一人としてつき合いを始めたのだが、いつの間にか身体の関係が出来てしまった。夫人といっても、三年前に夫を失った彼女は、貪欲《どんよく》だった。笠原は嫌いではなかったし、自分も強い自信があったが、その若い笠原が時には音《ね》をあげるときがある。しっとりと、からみついてくる彼女の身体は、いつも濡れていて、指先を沈めると、吸い込まれる感じだった。あれほど大声をあげ、時には、彼の胸や背に爪をたててくるのに、身体が離れたとたん、ひどく冷たい理性的な眼になってしまうのである。セックスはセックス、金は金という割り切り方だ,エリート社員で、若い恋人もいる笠原には、その方がかえって有難かった。
しかし、終局は思いがけず早くやってきた。暮の二十五日に、店頭にやってきた彼女は、激しく彼をののしったのだ――。
時計を見ると、二時を過ぎていた。
「そろそろ帰るか?」
笠原が、向かい側の席にいる林にそう言った時、電話が鳴った。笠原の机の上だった。笠原は、ゆっくりと受話器をとりあげ、不機嫌な声で、もしもしといったが、相手の声をきくと、受話器を握りかえ、急に愛想のいい声を出した。
「へえー、それはどうも。光栄です」
「―――」
「どうも有難うございます。こちらこそよろしく」
「―――」
「……はい、あ、そうですか。ちょっと待って下さいよ。えーと、大日本石油、十万株、二八七円、二円|計《はか》らい、明日朝の寄《より》つきで、わかりました」
林の方からは、笠原の受け応えする声しかきこえなかったが、相手が証券の客であることは、容易に察せられた。受話器をおいた笠原に、林はひやかし気味に言った。
「休みの日まで掛けてくるとはなかなかの持てようじゃないか。相手は女だろう?」
笠原は、悪びれもせず、
「うん、例の白川夫人だ」
と、答えた。
「え、もう仲なおりしたのか、暮には大分やられてたじゃないか」
林は、おどろいたように言った。
白川夫人は、いつも三千万から五千万の金を動かしている笠原の上顧客の一人である。
不動産会社の社長をしていた亡夫の遺産があって、服装や持ち物など高級なものを揃えていた。一年ほど前、はじめて店頭にあらわれたとき、笠原が応対したのがもとで、ずっと笠原の係になっている。時々店にもあらわれるので、林などとも顔見知りである。
その白川夫人が、先月末、つまり、去年の十二月二十五日に興奮した面持で店先へやってきて笠原をよび出すと、いい争いを始めたのである。
理由は、自分の言うとおりに売ったり買ったりしてくれなかったから、二、三百万|儲《もう》かるところを七百万円の損をしたというものだった。笠原は、後で同僚たちに、女だから、ちょっと損をすると頭にきてこっちのせいにするから困るといってとりつくろったが、実際は、全面的に笠原が悪いのだった。
笠原は、白川夫人の買った株を担保に入れて、他の株を買い、上ったところで売り払って利ざやを取ろうとしたのだが、笠原の買った株は、どんどん下ってしまった。ちょうどそのとき、白川夫人が、自分の株を売って、違う株を買ってほしいと電話で言ってきたのである。
白川夫人の株は担保に入っている。この株は、夫人が配当をとるつもりだといっていたので、笠原は三カ月後に書きかえに出すまで売買しないと思いこんでいたのである。
笠原はあわてて、今売っては損だと説得した。夫人は、いつもなら最後に笠原に任すのだが、この時ばかりはどうしてもきかなかったので、笠原は、その通りするといって電話を切った。どうせ、白川夫人が売るという株も下っているし、買うという株も大したことはないから、なんとか操作できると思ったのである。ところが、夫人の買いたいといっていた株がどんどん上がり、笠原の担保になっている株が、下がりつづけたのである。
「で、注文か?」
林が重ねてきくと、
「うん、まあな。暮に金を持って行った時には、相当強硬で怖かったよ。もう駄目だと思ってたんだが、一度、株をやったものは、やめられないらしいな。それに、正月からずっと上ってるし……」
「光栄だとかいってたが、誘われでもしたのか?」
「いや、年賀ハガキのことさ。今、テレビで、抽選してるらしいが、俺が暮に出しておいた年賀ハガキがあたったんだそうだ。切手シートだけどな。それで、あなたとは、御縁《ごえん》があるらしいから、また買いたいってさ」
「株やる人はエンギを大切にするからな」
「それもあるけど、まあ、そろそろ、また買いたくなって、暮に金を引き上げて喧嘩《けんか》わかれをした手前、潮時を待ってたんだろう。本当にあたったかどうかわかるもんか。でもまあ、彼女は切手マニアだから、切手には関心があるんだろうが」
こんな呑気《のんき》な話が出るのも、休日のせいである。いつもなら、客の心理など分析しているひまもない、戦争のような職場だった。
「帰るか?」
「ああ」
二人は、いっしょに外に出た。
外は寒かったが、成人の日なので、和服を美しく着飾った娘たちがあふれていた。
「田上美子とはうまくいってるのか?」
林がたずねた。
「ああ、これからデートだ」
「じゃあナ」
二人は、京都の四条河原町角で別れた。
2
それから五日後、一月二十日。月曜日。
朝九時から始まった前場は、荒れに荒れていた。
大村食品五十円安。河上建設ストップ高。中川紡特設ポスト行。三星電機増資発表。新規上場一社。
前場が終わると、大蔵省の規制で後場は休みである。笠原は、オーバーを着はじめた林をよびとめた。
「四日目決済で、今日、白川夫人のところへ十六日に買った大日本石油十万株の金をとりにいかなきゃならないんだよ。手数料入れて三千万近い。いっしょに行ってくれないか」
証券マンは標準語でしゃべる人が多い。関西弁だとまどろっこしくきこえるからだろうか。
「ああ、いいよ」
といって、林はニヤリと笑った。
白川夫人に誘惑されたら困るからだろうと勝手に考えてのニヤリである。
今日は、夕方に、笠原の恋人である田上美子が、友達を林に紹介することになっている。だから、林もいやとはいわない。もともと、独身で、仕事以外はヒマな男だ。大体、株式取引は、売買してから四日目に、金を受け渡し、清算するならわしになっている。
しかし、普通は、一度ずつ金を受け渡しせず、顧客は、常に金をあずけておいて、それでまかない、出し入れが通帳のようになっている。
「辛いよ」
と、笠原は、林に向っていった。
「去年の年末に、夫人と喧嘩して、金を全部引き上げられてしまったろう。おかげで、こうして四日目には、現金を入れて、いちいち、決済して貰わなきゃならん」
「自業自得じゃないのか」
と林は、無責任に笑ってから、
「そのうちに、夫人の機嫌も治るさ」
「そう願いたいね」
と、笠原は言った。白川夫人のように、前に取引の実績があり、現金があることがわかっている場合には、こうして金を受け取ってなくても、電話一本で何百万、何千万の買物をするが、はじめての客だとか、信用のない客の場合にはそうはいかない。
金を先に受け取ってないと、買った株が四日間のあいだに下ったような場合、注文しなかったといって逃げる場合もあるからだ。
とにかく、白川夫人の場合、常に、三千万円くらいは現株や、金であずけっ放しにしていたし、それ以外に、二千万くらいは余裕金があって、|ナンピン《ヽヽヽヽ》をかけたりも出来たから、その点では、まず、心配はなかった。
ナンピンというのは、高く買いすぎて、後下った場合、安い値で追加買いし、平均買値を下げることである。上っている時だと、客は機嫌がいいし、エラーも大目に見る。しかし、下ったときは、誰でも機嫌がわるい。それも、女はことにそうである。
林は、暮のこともあって、笠原が、嫌味や愚痴をいわれたくないため自分を誘ったのだろうとも思っていた。
「夫人が電話注文した大日本石油下ったな。約三百万の損か」
「ああ、でも、むこうから指定してきたんだからな。それに二八七円、二円|計《はか》らいだったが、指値《さしね》より三円も安い二八四円で買ったんだ。こちらからすすめたわけじゃないし……」
笠原は、むすっとこたえた。二人は、会社の車を使い、笠原が運転して走らせた。
白川夫人の家は宇治市|木幡《こわた》にあった。
京都四条通りにある笠原たちの証券会社からは、車でいくと五条通りを通って山科へぬけ、醍醐を通って六地蔵から府道を宇治へ行く方法と、京都市内を伏見の方へ出て、観月橋から入る方法とある。どちらも片道四十分、往復だと一時間半ちかくかかる。
笠原たちが、宇治市木幡へついたのは、午後の一時半だった。白川夫人の家は、前庭のある二階建であった。
二人は、玄関のポーチに立って、チャイムを押した。こたえはなかった。続けて笠原が二、三回ならしたが、ドアはあかない。
「おかしいな。午後伺うという約束だったんだがな」
しばらく二人は、近所をぶらついて二時にまた戻って来たが今度も応答はなかった。
「去年一年、約束を守らなかったことはない人なんだがおかしいな」
「まさか逃げてるんじゃ……」
林が心配そうな顔をした。仕方なく二人は、もう一度くることにして、伏見へ車をとばした。伏見には、女子大生の田上美子がいる。林に紹介するといっていた井川真奈美も電話でよんで、二時半から三時半まで四人は彼女の家で過ごした。
三時半に四人はドライブを兼ねて車に乗り宇治へ向った。女二人を近くの喫茶店で待たして笠原と林は、白川夫人の家へ行った。やはり出てこない。
二人は横の木戸から南側の庭へまわった。洋室、和室と並んでいる和室の障子のすきまからのぞいた二人は、同時にあっと叫んだ。
首にベルトを巻きつけられ、苦悶《くもん》の表情を浮かべてのけぞっている白川夫人の姿が目にとびこんできたからである。
「死んでる!」
林が、サッシュの戸に手をかけると、思いがけなく戸はあいた。白川夫人は、化粧し、外出着らしいロングドレスを着て、横においたオーバーの端をにぎっていた。手袋もはめたままだ。
「外出から帰ってきたところらしいな」
笠原がつぶやいた。林は、部屋の隅に、電話機があるのを見つけて、はじかれたようにとびつき、一一〇番した。
3
白川夫人殺害事件の担当になった高木警部は、慎重に調査を開始した。
死体を発見した二人の証券会社員によると、被害者から電話で注文された大日本石油の株十万株の金三千万近くを受け取りに来たのだという。しかし、その三千万の金はどこにも見つからなかった。
白川夫人が、外出着を着ているところから、金を銀行に出しに行って、それを尾《つ》けてきた流しの犯人に殺され、奪われたかと思われたが、夫人の通帳を調べた結果、当日金を引き出した通帳は見つからなかった。
通帳ごと犯人がもって行ったのかも知れないと考えて、被害者宅からいける範囲の銀行に連絡したが、該当するものはなかった。
「偽名で預け入れしているんでしょうか」
ベテランの森刑事が首をひねりながら、高木警部を見た。
「そうだな。税金対策で、三千万もの金になると、架空名義を使っているかも知れんな」
「各銀行に連絡して、どんな名前ででも、当日、三千万円前後出した人物について照会してみましょう。被害者の写真もまわしてみます」
といって、森刑事が出て行くと、証券会社員の笠原が遠慮がちに、
「私は、白川さんが、現金で持っていたと思いますよ」
といった。
高木は、びっくりして、
「三千万もの大金をですか?」
「ええ。株をやっている人は、僅《わず》かな期間なら、銀行に入れないで現金で持っている人も多いですね。株は一日一日が勝負ですからね。いい買物があったとき、すぐ買えるように、二、三千万ぐらいの金を、手元においておくんですよ」
「しかし、そんな大金を家においておいて、不安になりませんか?」
「毎日、常に何千万もの取引をやっていると、千万単位の金は、そう怖がらなくなるものですよ」
「というと、被害者も、そうだったということですか?」
「ええ」
と笠原は、うなずいた。横にいた林という社員もそれが株の世界の常識だといった。もちろん、そのたびに銀行にいれて銀行から直接証券会社に入金している人もいるとのことだった。
高木は、そんなものかと思ったが、皮肉な眼になって笠原を見て、
「すると、被害者がいつも現金を家においていたのを知っているあなたは、疑われることになりますよ」
といった。
笠原は、「とんでもない」と、手を横にふった。
「三千万の札束といえば、一万円札でも相当な嵩《かさ》ですよ。僕たち二人で死体を見つけてから、ずっと動いていません。お疑いなら身体検査でも何でもして下さい」
「小切手だったら?」
「換金のときにわかりますよ」
4
その時、捜査員が、「面白いものが見つかりました」と数枚の年賀状をもってきた。下が二センチほど切りとられている。新しい切手シートもあった。
「被害者のオーバーのポケットにあったものです」
「年賀ハガキのあたりの分だな」
調べてみると、五通あって、中に笠原のものもある。高木は、ちらりと彼の方を見てから、
「今日は何日だ?」と、部下の捜査員にきいた。
「一月二十日です」
「じゃ、今日とってきたのだな。年賀ハガキは、十五日が抽選で、二十日から賞品をわたすから」
「と、いうことは、少なくとも、今日の朝九時までは生きていたということになりますね。死亡推定時刻は?」
「まだ、正確なことはわからんが、今日の午前中であることは確かだ。午後四時に死体を発見した。その少なくとも五時間以上は前であることはわかる」
「アリバイはどうでしょうね。関係者たちの」
捜査員は声を低くした。
関係者といっても、今のところ、発見者の証券会社員二人である。高木警部は、早速二人を、一人ずつ、別室に呼んできいてみることにした。笠原は、高木に断ってから煙草をくわえて火をつけた。そんなところにも、大証券会社のエリート社員らしさが窺《うかが》えた。
「今日、出社したのは、八時四十分です。それから、ここへ来るまで、ずっと会社の中にいましたよ」
と、笠原は、はっきりした口調でいった。
「九時前に出社したのは確かですか?」
そこが大事だから、高木は念を押した。
「確かですよ。お疑いならタイムカードを見て下さい」
「席を外《はず》したことは?」
「トイレに行ったことはありますが、三十分以上は席を外しませんでした。商売の電話が引っきりなしにかかってくるし、株価は刻々と変わりますから、眼が離せないんです。三十分も席をあけていたら、それこそ、同僚に何かいわれます。昼に前場が終ってからは、林とずっと一緒でした」
もう一人の林の方も、今日は、午前八時三十分には出社したといった。
「それから、午前中、一時間半ほど外出しました。昼からは、笠原と一緒です」
「午前中の外出というのは、仕事ですか?」
「ええ、東山区山科にお住まいのお客様をお訪ねしたんです。名前は、長沼正一。建築会社を経営しておられる方です」
「時間は?」
「ええと、向こうに着いたのが十時半頃で、おいとましたのが、十一時頃です」
「山科の長沼正一さんですね」
高木は、その名前を手帳に書き留め、念のために、電話番号も聞いておいた。二人の証券会社員をひとまず帰したあと、部下の刑事たちが、裏付けをとるために出て行った。
高木が、その報告を聞いたのは、捜査本部の設けられた宇治署である。
「二人の証言に間違いはありませんでした」
と、森刑事が、手帳を見ながら報告した。
「会社へ行って、タイムカードを調べたところ、笠原は八時四十分。林は八時三十分に出社しています。笠原の方は、その後、十二時まで、会社を出ていません」
「林の方はどうだ?」
と、高木がきくと、今度は、鈴木刑事が、
「山科の長沼正一に会ってきいたところ、林が、大洋化学のことで、この家を訪ねたことは事実です。主人の長沼正一の他、お手伝いも、林が来たことを認めてました」
「時間は、林のいう通りだったかね?」
「まず間違いありません。長沼正一は、十時半に来てくれと電話でいい、林が来たとき、相変わらず時間に正確だねといったのを覚えていましたから。また、三十分ほどして帰ったともいっていますから、林の言葉に間違いはないようです」
「その途中で、被害者の家に立ち寄ったことは考えられないかね?」
「私も、その可能性を考えてみたんですが、無理ですな。日東証券は、京都四条にあります。林は、十時に会社を出て、十一時半には帰っていますから、時間的に見て、山科の帰りに宇治の被害者の家へ寄るのは無理です」
「二人の動機の方はどうだ?」
と、高木がきくと、森刑事が、
「林については、これといった動機は見当たりませんでしたが、笠原の方に、ちょっと面白いことがわかりました」
といった。面白いは、森刑事の口ぐせである。
「証券マンと客の関係以上のものがあったということかね?」
「肉体関係があったようです。しかし、お互いに割り切ったつき合いだったようで、その線からの殺しはちょっと考えられません。問題は、二人が、去年の暮に株の売買のことで大喧嘩をやっていることです」
「ほう。面白いな」
「十二月二十五日に、会社に被害者がのり込んで来て、他の社員のいるところで、笠原を面罵《めんば》したそうです。被害者は、三千万円をあずけて、笠原に売買を委託していたんですが笠原が被害者の注文通りに売買せず七百万の損を与えてしまった、というので怒鳴り込んできたのだということです。笠原は、どうやら被害者に内緒の売買をやっていたようです」
「それで、どうなったのかね?」
「笠原は謝ったそうですが、被害者は残りの二千三百万円を引き上げてしまったといいます。日東証券は、大事なお得意を一人失ったわけです」
「しかし、今日、彼が、金を受け取りに来たところをみると、和解が出来たんじゃないのか?」
「ええ。一月十五日に、被害者から電話があって、笠原の出した年賀ハガキが当選したので、エンギがいい、取引を再開したいといって来たそうです。その時、石油株を、十万株頼まれています。この電話があったことは笠原のまわりの席の者が、証言しています」
「その電話の時間は?」
「一月十五日の午後二時だったといいます。調べてみましたら、年賀ハガキの抽選発表がテレビ中継された直後です」
「年賀ハガキが当ったくらいで、喧嘩の仲直りをするものかね? しかも、賞品は、切手シートだ」
「私もそこが不思議だったんですが、株を動かしている人間の感覚は特別なようですな。とにかく、エンギをかつぐそうで、十分にあり得ることだそうです」
「こんな薄っぺらなハガキ一枚が、アリバイになるとはね」
と、高木は、机の上に並べた五枚の年賀ハガキの中から、笠原のものをつまみあげた。
郵便局は、午前九時からしか窓口は開かない。被害者の白川夫人が、年賀ハガキの切手シートを受け取って帰ってからの犯行とすれば、どうしても、犯行時刻は九時三十分頃になる。一番早い方法で帰っても、宇治木幡から京都の会社まで、最低三十分かかるのである。笠原にも、林にも、完璧《かんぺき》といっていいアリバイがある。
5
高木は、この二人以外の線も、もちろん調べてみた。被害者の親戚、知人関係である。亡夫が、不動産業を手広くやっていたわりに、知り合いは、意外に少なかった。
二日間かかって、その一人一人を調べあげていったが、被害者を殺すだけの動機の持主は見つからなかったし、アリバイが成立した。流しの犯行の線も洗ってみた。
笠原の証言によれば、被害者は、二、三千万の現金を絶えず手元に置いておいたという。彼女の留守中に忍び込んだ犯人が、三千万円を見つけたとき、ちょうど、被害者が郵便局から帰ってきた。発見された犯人は、居直って、彼女を絞殺した。考えられないことではなかった。しかし、この方も、いっこうに、容疑者が浮かびあがって来なかった。
「やはり、一番引っかかるのは、笠原だな」
と、高木は、部下の刑事たちを前にしていった。
「去年の暮に、被害者と喧嘩したというのが、どうも気になるんだ。もし、和解していなければ、重大な動機になるからね」
「しかし、一月十五日に、被害者から和解の電話がかかって、取引が再開されています」
と、森刑事がいう。
「その電話だがね。もう一度、検討してみようじゃないか。休日出勤したところへ午後二時に被害者から電話があったんだったな?」
「その通りです」
「電話は、いきなり笠原が取った?」
「はい」
「誰も、取りついだわけじゃないんだろう」
「そうです。笠原の机の上の電話でしたから。証券マンは、それぞれ自分の机の上に電話を持っています。林や、近くにいた同僚が、そばで聞いていて、女からの電話らしかったと証言しているだけです」
「すると、被害者からの電話だとしても、和解の電話だったかどうかわからないわけだ。しかし、これは、被害者が死んでしまっているから、想像するより仕方がないな」
「和解が嘘としても、笠原には、アリバイがありますが」
と、鈴木刑事がいった。
「そのアリバイが問題だな」
高木は、いまいましげに、問題の年賀ハガキを睨《にら》んだ。
営業用に日東証券が発送しているもので、宛名と会社名の横に自分の名だけ笠原が書いている。出したのが二十二日だというから、二十五日の喧嘩の前で、出したこと自体に不自然さはなかった。また、二十二日までに出さないと、確実に、一月一日につかないので、日東証券では、二十二日までに出すように社員に指示していたということだからこの年賀ハガキが二十二日以前に出されたことは、間違いないようである。
「とにかく、この年賀ハガキが、どこで、賞品に替えられたか調べてくれ」
と、高木は、下を切り取られた年賀ハガキを、若い田中刑事に渡した。
「一月十五日に電話を受けたとき、笠原が、すでに、年賀ハガキの当たり番号を知っていたということは考えられないかね?」
高木は、森刑事と鈴木刑事の顔を見た。
笠原は、十二月二十二日までに、被害者宛に年賀ハガキを出していた。そのハガキの番号を手帳にでも控えておいたとする。そして、一月十五日の午後二時の時点で、彼の出した年賀ハガキが当選したことを知っていたとすれば、電話のとき細工が出来るはずではあるまいか。和解の電話ではないのに、同僚に向って自分の出した年賀ハガキが当選したので向こうから、取引の再開を申し込んで来たというもっともらしい嘘もつけるはずである。
「それは、考えられませんな」
と、森刑事が、あっさりと否定した。
「午後二時は、この間申しあげたように、抽選発表をテレビでやっていた時間ですし、笠原のいた部屋にテレビはありません」
「駄目か」
と、高木は、小さく溜息をついた。
6
一月二十四日になって、やっと、問題の年賀ハガキが、賞品と引き替えられた郵便局がわかった。
「それが、妙なことに、京都中央郵便局の窓口なのです」
と、若い田中刑事が、緊張した顔で報告した。借りて来た番号の部分をつないでみると、ぴったりと一致する。
「確かに妙だな」
と、高木も首をひねった。当然、被害者宅に一番近い木幡郵便局で引き替えたものと考えていたからである。あの日、他に京都駅近くに用事があったので、ついでに、中央郵便局に寄ったということなのだろうか。
「窓口の職員は、被害者のことを覚えていてくれたかね?」
「それが、残念ながら、顔写真を見せても、記憶にないそうです」
「大きな郵便局だから、仕方がないかも知れんな」
と、うなずいてから、高木は、急に立ち上ると、京都府の地図を持って来て、机の上に広げた。
宇治の被害者宅から京都駅に行くには、車を利用するのと、京阪電車を利用する方法と、国鉄奈良線を利用する方法と三つある。被害者宅には車はなかったし、タクシーかハイヤーを利用したとしても、車では、少なくとも四十分はかかる。京阪電車だと乗りかえなければならないから、五十分はかかるだろう。その点、奈良線なら、宇治木幡から京都まで二十分たらずである。
高木は、被害者が、国鉄奈良線で、京都中央郵便局へ行ったと考えてみた。
高木は、時刻表を調べてみた。木幡発は、午前八時六分と八時三十五分の二本があった。
あとので行くとすると、京都着が午前八時五十二分。もし、これで行けば、九時に郵便局があくのを待って年賀ハガキの賞品を貰うことが可能である。そして、午前九時十七分発の奈良線に乗る。木幡着は、九時三十四分である。駅から被害者宅まで歩いて五、六分だから、九時四十分には帰宅できる。
高木は、もちろん、事件当日、被害者がこれと同じ行動をとったとは考えていなかった。第一、わずか五枚の年賀ハガキの賞品を引き替えるのに、朝早く出かけ、わざわざ、郵便局があくのを待つというのは、あまりにも不自然である。そんなに早く引き替えたければ、歩いていける木幡郵便局にすればいいのだ。多分、もっとおそく出かけたのだろう。
そうわかっていながら、高木が、午前八時五十二分の奈良線に注目したのは、犯行時刻を限定できるからである。
被害者が、京都中央郵便局へ行って、年賀ハガキを引き替えて帰宅したあと殺されたとすれば、犯行時刻は、午前九時四十分以前では、絶対にあり得ないからである。死体は、移動された形跡がないから、もっと早く殺しておいて、車で、運ばれてきたということも考えられない。
遺体解剖による死亡推定時刻は、午前九時を中心にして、前後一時間ということだった。午前八時から午前十時の間ということである。この上限を、午前九時四十分と限定できれば、犯行時刻はちょうど、九時四十分から午前十時までの二十分間に限定できるのである。
しかし、ここまで考えてきて、高木は舌打ちをした。彼は、笠原を本命と考えていた。というより、内心で、笠原以外に犯人はいないと考えていた。犯行時刻を短く限定すればするほど、笠原のアリバイは強固になってしまうのである。
この鉄壁のアリバイを崩す方法はないだろうか?
(共犯者がいたとしたら?)
と、考えてみた。林という同僚社員が共犯ではあり得ない。彼にもアリバイがあるからである。高木は、自分の方から立ち上って、森刑事の机のところへ歩いて行った。彼に煙草をすすめてから、
「笠原には、恋人がいたな?」
「ええ。女子大生で、名前は田上美子です。年齢二十一歳。彼女がどうかしましたか?」
「笠原とその女が共犯だったらと考えてみたのだ。共犯なら、彼のアリバイが障害でなくなる」
「田上美子が、笠原に命令されて、被害者を殺したということですか?」
「いや。殺したのは笠原だろう。年賀ハガキによって、九時前の犯行は考えられなくなっているが、共犯がいれば別だ。年賀ハガキの引き替えの方を、共犯者にやらせればいいからね」
「すると、京都中央郵便局に行ったのは、被害者ではないとお考えですか?」
森刑事が身体をのり出してきた。
「もちろん推定だがね。こう考えてみたんだ。まず、笠原が、出勤前に被害者宅に訪れて絞殺し、そのあと会社へ出た。その時、部屋にあった年賀ハガキの中から、当選した五枚だけを取り出しておいて、恋人の田上美子にひそかに渡した。そして、彼女が中央郵便局で引き替え、被害者宅に行って、すでに死んでいる被害者の横にあったオーバーのポケットに、賞品と、年賀ハガキの残りを入れておいた。こう考えれば、年賀ハガキによって作られたアリバイの壁は、くぐり抜けられる」
「すると、被害者が外出の支度をしていたのも、ひょっとすると、犯人の細工かも知れませんね」
「殺しておいてから、外出していたように見せかけたわけか。よし、その点も、近所の人に当たるなりして確かめてきてくれ」
「わかりました」
森刑事は、若い田中刑事をうながして、飛び出して行った。
二人の刑事は、数時間後に帰って来たが、森刑事は、高木の顔を見るなり、「駄目でした」と、溜息をついた。いつものくせの、「面白いこと」の言葉も出ない。
「彼女にアリバイありか?」
「その通りです」
と、森刑事は手帳を広げて「事件の日、田上美子は、朝七時半に家を出て、八時半から十二時までの講義を聞いています。昼休みに、大学食堂で友人五、六人とカレーライスを食べ、昼からは休講なので一時に大学を出て友達といっしょに二時半に帰宅しています。この間、常に友人の井川真奈美と一緒でしたから、笠原と会った形跡はありません。二時半に帰ったところへ、笠原と林が立ち寄りました。これは、彼女の家の者が証言しています。そのあと、笠原と林は、被害者宅へ行って死体を発見しているので、田上美子の共犯説は消えてしまったと思います」
「外出の支度の方はどうだ? 犯人が作ったという線は出て来たのかね?」
「いえ。犯人の細工の線は出ませんでした。近所の人の話では、被害者は、外出とか来客がないときは、素顔でいて、化粧しないそうです。それが化粧していた。その化粧も、マユの引き方、頬紅のはたき方など特徴があったようです。来客のあったときは、そこまでですが、外出のときは、つけまつ毛もつけるそうです。そのつけ方も特徴があって、目頭を離して、目尻をはねあげてつけるというものだったようです。あの時、近所の主婦たちが、いつもの外出の支度だったと証言してくれました。女というのは、ああいうことは、よく覚えていますなあ」
森刑事は、感心したようにいった。が、高木の推理が崩壊したことは否定できない。男の笠原には、そんなむずかしい死化粧はできない。共犯説は消えたのだ。
7
アリバイは崩れそうもない。高木は、今度は、動機にぶつかってみることにした。
笠原は、被害者からあずかっていた三千万円を勝手に操作して、七百万円の損をかけ、去年の十二月二十五日に、被害者と喧嘩になった。これは事実だし、笠原も否定していない。ただ、彼は、一月十五日に、被害者から和解の電話があったという。これが事実なら、感情的な動機は消えるのだが、彼が犯人だとすれば、この和解は嘘なのだ。エリート証券マンであり、毎日、何千万、何百万の金を扱っている笠原が、ただ金をとるだけで殺人はおかさないだろう。きっと感情的なものもからんでいるはずだ。
(この電話も、和解も嘘に決っている。多分、恋人の田上美子にでも掛けさせ、さも被害者からの和解の電話らしく、同僚に見せかけたのだろう)
そこまでは自信を持って考えたが、そこで、高木は、眉をしかめてしまった。
一月十五日に、和解がなく、二人が喧嘩状態だったとすると、おかしなことに、笠原が被害者を計画してまで殺す理由がなくなってしまうからである。金だってうまく手に入るかどうかわからない。株にこりてしまったのなら、もう現金は手元におかないで貯金してしまうだろう。
去年の十二月二十五日に、被害者は、笠原を非難し、二千三百万円の金を引き上げて、笠原とも日東証券とも関係を絶ってしまった。一月十五日に何もなく、そのままの状態だったら、笠原は、なぜ、被害者を殺す必要があったのだろうか。七百万もの損を与えたのは、笠原の方なのだから、被害者の方にこそ、笠原を殺す動機があったことになる。
高木は、この不合理に解決を与えるために、投資家として著名な山崎美代という女性を訪ねてみることにした。この事件に、株の売買がからんでいたし、女性が株をやるときの心理を知りたかったからである。
山崎美代は、被害者と同じように未亡人で、噂では、常時、億単位の金を動かしているということだった。恰幅《かつぷく》のいい女を想像して行ったのだが、会ってみると、小柄でほっそりした女性であった。しかし、やはり、度胸のよさが、あけっぴろげな話し方に表われていた。
「株には素人ですから、子供っぽい質問かも知れませんが」
と、高木は断ってから、
「三千万円を証券マンにあずけてあったとします。ところが、証券マンが、それを勝手に担保に入れて、売買をし、その結果、こちらが売りたいとき、買いたいときに時機をはずしてしまって七百万の損失を出してしまった。その場合、山崎さんなら、どうしますか?」
「決っていますよ。その証券会社の幹部に会って、損害を弁償させます。証券マンが個人で弁償すれば、許してあげるかも知れませんけど、とにかく、向こうのミスなんだから、払わせますよ」
山崎美代は、きっぱりといった。
「七百万の損害は、あきらめて、あとの二千三百万円を引き上げて、株から手を引くということは考えられませんか?」
と高木がきくと、山崎美代は、笑い出して、
「そんなことをしたら笑われますよ。相手が悪いのに、どうして七百万もの損をがまんしなきゃならないんです。会社に請求すれば、いろいろごたごたはあっても最終的には取れますもの」
「その代り、その証券マンは馘《くび》になりますね?」
「ええ。でも、自業自得じゃありませんか」
「女性客と証券マンに、肉体関係があったらどうでしょうか?」
「それ、私のこと?」
「いや、例えばの話です」
「その女性は、男の人を愛しているのかしら?」
「いや、セックスはセックス、金は金と割り切っていたようです」
「それなら、絶対に、七百万円は、弁償させますよ」
だが、笠原は弁償していないのだ。笠原自身は、自分が流用したことは、会社や同僚にかくしている。客の言う通り売買したら七百万損になった。損になると誰でも人のせいにしたがるもので、この客も笠原のせいにして怒ったが、残金をもっていった。うまく助言できなかったことを、誠心誠意あやまったので、不承不承納得したといっている。しかし、本当は、そんなことではなくて勝手に流用した笠原が悪いのだ。それでも弁償していない。
「証券マンが、七百万円を弁償せずにすむ方法はありませんか?」
「そんなこと、客が許しませんよ」
「じゃあ、質問の仕方を変えましょう。どんなにあやまっても許してくれない時、証券マンは、普通、どんな態度に出るものですか」
「自腹を切って弁償するのが一番まともな態度ですけど、普通は、それだけのお金をもってないので、残ったお金で、儲けて埋めさせてくださいといって来ますよ。あなたの話の場合だったら、七百万の損を、残りの二千三百万をあずけてくれれば、上手《うま》く株を売買して、儲けて埋めてみせるというわけ。完全に任されてしまえば、一々、電話でこの銘柄をこの値段で買っていいか、売っていいかきかなくていいから、時機をのがさずに売買できます。十分ちがいでも一株につき二十円三十円の差が出来ますから、十万株ももっていれば、その瞬間で三百万も儲けがありますからね。下がりかけたなと思った瞬間に売っていれば、損はなくてすむ場合でも、客に電話して相談し、客の決断を待っている間に、三十円五十円と下っていく場合もありますから。特に女の客は、買う時でも売るときでも決断がわるく、どうして上がると思うのかとか、どうして下がるのかなど、くどくどきいている間に、時機を失してしまうことが多いですね。それは、少し株をやっていると、客自身もわかってくるので、なれてくると電話が短くなりますね。いいとか、悪いとか、いくらだったらいいということで。また、わずかな損の場合は、任すことによって埋めてもらった経験もあるでしょうから、自信をもって埋めるといわれたら任すでしょうねえ。たとえわずかでもとりもどせたらと思って。もちろん、期限をきりますがね、何月何日に、三千万にしてもってくるようにって」
「それだ」
と、高木は小さく呟《つぶや》いた。被害者と笠原の間にはこれと同じ約束が出来ていたのだ。
「ところで、今年に入ってからの株の動きはいかがですか?」
「荒れに荒れてますねえ。ダウは、ものすごく上ってるんですが、去年とは、全くちがった傾向の銘柄が買われていてむずかしいですね。私も、ここ二十日あまりで約二千万ばかり損をしましたよ」
山崎美代は、けろりとした顔でいった。
動機はわかったと、高木は確信した。
十二月二十五日に、被害者に面罵されたあと、笠原は、残った二千三百万を持って、彼女の邸に謝りに行き、これで、七百万円の損失を取り戻させてくれと頼んだのだ。被害者は承知したが、期限を切った。その期限が一月二十日だったに違いない。
笠原は、二千三百万円で、株を売買したが、損失が増加してしまった。だから、被害者を殺す気になった。というより、うまくいかない場合は、二千三百万全部を、奪い取る積りで、殺害計画を立てていたのかもしれないと、高木は思った。
だから、殺人現場である被害者宅に、三千万円の現金がなかったのだ。被害者は、三千万円を渡すためではなく、笠原から、三千万円を貰うために、待っていたのだから。外出の支度をしていたのは、笠原の方から、三千万円を渡したいから、会社へ来てくれといって時間を指定したからだろう。それで、被害者は、外出の支度をしていた。そこへ突然、訪ねて行って、笠原は彼女を絞殺したのだ。
8
動機は、確定した。
だが、まだ、問題が二つある。
第一は、例の年賀ハガキによるアリバイだ。そして、第二は、これに関連した一月十五日の電話である。
あの電話が、被害者からの和解とか新しい注文といった内容のものでないことは、今や、はっきりしたと高木は思う。引っかかるのは、あの電話のあと、笠原が、同僚の林に、被害者宛に出した年賀ハガキが、当選したといったことである。当選番号を知るはずのない笠原が、なぜ、あの時点で、被害者宛に出した年賀ハガキが、当選したと確信できたのだろうか? しかも、切手シートが当ったと、最下等の当選まで口にしている。そして、事実、笠原が被害者宛に出した年賀ハガキは、切手シートが当っていたのである。
高木は、何度眺めたかわからない例の年賀ハガキを取り出して見つめた。
笠原の筆跡であることは間違いない。それに、去年の十二月二十二日までに投函されているから、消印がない。
(消印がない!)高木は、弾《はじ》かれたように、椅子から立ち上っていた。
なぜ、こんなことを見過ごしていたのだろうか。高木の顔が自然に赤くなった。アリバイトリックを打ち破る鍵を見つけた嬉しさと簡単なトリックに気がつかなかったことを恥じる気持の両方が、高木を興奮させている。
今まで、消印がないのは、年賀ハガキだから当然だと、つい、見逃してしまっていたのだ。いや、それどころか、消印がないのは、去年の十二月二十二日までに出した証拠と考えて、笠原のアリバイ強化に力を貸してさえいたのだ。
「森君!」と、高木は、大声で森刑事を呼びつけた。高木の紅潮した顔を見て、ベテランの森刑事が、すっ飛んできた。
「すぐ、日東証券へ行ってくれ、調べて貰いたいことがある」
「何かつかみましたね」
「つかみかけているところだ。日東証券では営業用の年賀ハガキを、会社で印刷して、証券マンの一人一人に渡して、得意先に出すように指示してあるといったね。各自に渡す枚数と、実際に、証券マンの一人一人が、どんな具合に出しているものか、もう一つ、渡されたハガキは通し番号になっていると思うが、それも確かめてきてくれ。これは大事なことだから笠原に知られずに調べて貰いたいんだ」
高木の気迫を肌で感じたのか、森刑事は、堅い表情で、「わかりました」といい、部屋を出て行った。
高木は、森刑事が戻ってくるのをじっと待った。自分の推理が正しいという確信を持っていても、不安はつきまとっている。二時間で、森刑事は戻ってきた。息をはずませているのは、階段を駈《か》けあがって来たのだろう。
「年賀ハガキのことがわかりました。日東証券では、証券マンの一人一人に、五百枚ずつの印刷した年賀ハガキを渡しています。もちろん、続き番号です」
「それで、実際には全部出しているのか?」
「表向きは、全部出したといっていますが、古参の証券マンになると、大事な客だけ出して、あとは、二十二日以後に出したり、出さずじまいになるようです。なにしろ、年末、二十八日の大納会までは、株から目がはなせず、年賀状どころじゃありませんからね。いろいろと探りを入れてみましたが、笠原ぐらいの中堅クラスで、五百枚の中、百五十枚から二百枚ぐらいを出して、残りは、出さずにおくといっていました。今年も、同じだったようです」
「それだけわかれば十分だ」
と、高木は、森刑事の肩を叩《たた》いてから「みんな集ってくれ」と部下たちに声をかけた。
五人の捜査官が、高木を囲んだ。
「これから、私の推理を話すから聞いてくれ。推理であるが、間違ってないと、私は確信している」
と、高木は、部下たちの顔を見回した。
「今度の事件は、周到に計画された殺人事件なのだ。動機は金だ。ただ、その金が、普通の場合の金とは少し違っている」
「犯人はやはり、笠原ですか?」
「もちろんだ。去年の十二月二十五日、被害者は、自分の金三千万円が、自分の注文通りに売買されておらず、七百万円の損失が出ていることを知って、日東証券に怒鳴り込んだ。笠原は、被害者が、怒って、あとの二千三百万円を引き上げて、株から手を引いたというが、これは嘘だ。七百万もの損失を出して、被害者が、笠原や日東証券に何もしなかったのは、不自然だ。当然、弁償を要求しているはずなのに、それをしなかったのは、笠原が詫《わ》びを入れ、残りの二千三百万で、もうけてそれで七百万を埋めさせてくれと頼んだということだ。株の世界ではよくあることらしい。だが、笠原は、二千三百万で勝負したが、また株で損をした。一方、三千万円を返すと約束した期日が、これは一月二十日だったと思うが、近づいて来た。笠原は、白川夫人の殺害を計画した。いや、もっと前から、三千万円をあずけられ、損失を出したとわかった頃から、被害者を殺して、あずかった金を自分のものにしようと考えたのかも知れない。
笠原は、二千三百万をあずかったのに、同僚たちには、被害者が、それを引き上げてしまったといいふらした。これも、計画の一部だったろうな。そして、一月十五日に、恋人にデート前にかけろといって電話をかけさせ、恋人にはすぐ切らせて、そのあと、まるで、被害者からの和解の電話があったように見せたんだろう。恋人が事情を知っていたようには見えない」
「しかし、その時、笠原は、ずばりと、被害者宛に出した年賀ハガキが当選したといっていますが、あれは、どうやって、知ったんでしょうか?」
鈴木刑事がきくと、高木は笑って、
「テレパシーでもあるまいし、あの時点で笠原にわかるものか。でたらめをいったんだ」
と、いった。
「しかし――」と鈴木刑事は首をかしげて、
「現実に、笠原が被害者宛に出した年賀ハガキは、彼がいったように、当選していました。それも、笠原が一月十五日に会社で同僚にいったように、切手シートが当っています」
「それが、笠原の仕掛けたトリックだよ。三千万円を、被害者に返すと約束した日は一月二十日だった。その日が、年賀ハガキの賞品引き替えの始まる日と知って、笠原は、年賀ハガキによるアリバイトリックを考えていたのだ。君たちも知っているように、去年の十二月二十二日までに出した年賀ハガキは、一月一日に着き、しかも、消印がつかないのだ。これと同じようにだよ」
高木は例の年賀ハガキをみんなに見せた。
「今まで、われわれは、このハガキに消印がないのは、去年の十二月二十二日までに出された証拠だと考えてきた。笠原は、そこに目をつけたんだよ。よく考えてみたまえ。われわれは、この年賀ハガキを被害者宅で発見したとき、全く疑うことなく、去年の十二月二十二日以前に、笠原が、被害者宛に出したものだと信じてしまった。その理由は一体何だったのか?」
「被害者宅にあったこと。筆跡が笠原のものだったこと。消印がなかったこと。その三つですが」
と、森刑事がいったが、いったあとで「あっ」と小さく声を出したのは、高木のいわんとすることが、わかったからだろう。
「つまりだ」と、高木は、もう一度、部下たちの顔を見廻した。
「これといった証拠はないんだよ。被害者宅には、手で持って行くことも出来るし、犯人が笠原なら、筆跡は問題にならん。去年の十二月に出したものではなく、事件当日の一月二十日に、笠原が、宛名を書き込んで、被害者宅へ持ちこんだのかも知れないのだ。何しろ、消印がないんだからね。問題は、笠原が、当選した年賀ハガキを持っていなければならないことだが、これは、簡単に解決がつくんだ。最下等の切手シートの当選番号は、百枚につき下二ケタの番号の三本と決っている。ということは、ここに、通し番号で百枚の年賀ハガキがあれば、その中に、必ず三枚の当選ハガキがあるということなんだ」
「私にも、笠原のトリックがわかりました」
と、森刑事がいった。
「日東証券の証券マンは、会社で印刷してくれた年賀ハガキ五百枚を渡されます。通し番号のハガキです。そして、たいてい、二、三百枚しか出さない。笠原も、多分、同じでしょう。たとえ百枚だけでも、通し番号の年賀ハガキをしまってあれば、その中には、必ず三本の切手シートの当たるハガキが含まれているはずです。だからこそ笠原は、一月十五日に、予言者のように、被害者に出した年賀ハガキが切手シートに当選したといえたわけです。もちろん、被害者宛に、去年、年賀ハガキを出してあったに違いありませんが、それが、当選しているかどうか、笠原にも一月十五日にはわからなかったでしょう。一月二十日、笠原は、手元にあった年賀ハガキの中から、切手シートの当っているものを抜き出し、それを、被害者宅に行っている一枚とすり替えればいい。消印がないのだから、すり替えてもわからない、と思いますが」
「その通りだよ」と、高木は、うなずいた。
「一月二十日の朝か、或いは、前日、君がいったように、年賀ハガキを用意してから、笠原は、被害者に電話したんだ。約束どおり、三千万円を返したいから、出て来てくれとね。外出の支度をさせるためには、出てくるようにという電話が必要だ。私の考えでは、一月二十日の朝、九時までに、会社へ来てくれるようにと電話したんだと思う。そうしておいて、笠原は、七時五十分頃に、被害者宅に忍び込み、外出の支度をすませたばかりの被害者を絞殺した。それから、アリバイ作りだ。持って来た年賀ハガキを、前に出しておいたのとすり替えなければならない。もちろん前に出したのが当っていれば、取りかえる必要はないがね。他の当たりハガキも一緒に持って笠原は逃げ出し、八時六分発の国鉄に乗って、何くわぬ顔で、そのまま出社したのだ。会社へ行くと八時四十分だった。ところで、日東証券から京都中央郵便局は近い。そっと抜け出して、賞品を貰ってくることはわけない。もちろん、顔を見られないように、サングラスくらいはかけただろう。三十分はかからないはずだから、同僚に怪しまれることもなかったと思うね。午後になると、同僚の林を連れて、被害者宅を訪ねた。応答がないので、一旦、林と一緒に恋人の家に行ったなどというのは、笠原の芸の細かいところだよ。時間をかせぐほど、死亡推定時刻が幅をもつからな。また戻って、死体を発見。林が一一〇番している間に、持って来た五枚の年賀ハガキと賞品の切手シートを、被害者のオーバーのポケットにねじ込む。これで、アリバイが完成したんだ」
「行きますか?」と、森刑事がきく。
「ともかく、被害者宅に行ってみよう」
と、高木はうなずいた。
9
書簡類は、二階の書斎にあった。
今年の年賀状は、まとめて、ゴムバンドでとめてあった。官製、私製、とりまぜて、六十二枚の年賀状である。オーバーのポケットにあった五枚は、警察で保管してあった。
高木と森刑事は、その六十二枚を、一枚ずつ、丁寧に調べていった。もし、この中に、もう一枚の笠原のものがあれば、高木の推理の正しさが証明されるのだ。何回調べても同じだった。笠原のものはなかった。
「僥倖《ぎようこう》を願って来てみたんだが、やっぱり駄目だったな」
と、高木は森刑事を見た。
「もう一枚の方は、笠原が、引き替えに持って帰ってしまったんだ」
「これから、どうしますか?」
森刑事が、きいた。
高木は、黙って天井を睨《にら》んだ。今度の推理こそ、絶対に間違いない。笠原は、彼の考えた通りに行動したはずだ。だが、もう一枚の笠原の年賀ハガキが見つからなければ、この推理の正しさは証明できないのである。そして、もう一枚のハガキは、笠原が持って行ってしまったなら、すでに焼き捨てられていることは間違いない。(ここまで追いつめて、笠原を逮捕することが出来ないのか?)それも、たった一枚の年賀ハガキのためになのだ。
念のために、書斎だけでなく、他の部屋も探してみたが、笠原のもう一枚の年賀ハガキは見つからなかった。やはり、一月二十日に、笠原がすり替えて、持ち去ったのだ。
高木と森刑事は、重い足で、捜査本部に戻った。笠原の仕掛けたトリックが解明できたときは、勝ちどきをあげたのだが、今は、高木も、森刑事も、意気消沈していた。
その夜のことである。捜査本部に残って仮眠をとっていた高木は、被害者宅の近くにある木幡派出所からの電話で叩き起こされた。
「今、あの家に忍び込もうとした男を捕まえました」
と、若い警官の声が、受話器を通して耳に聞こえた。
「空巣か?」
と、眼をこすりながら、高木がきいた。
「それが、身分証明書から、日東証券の笠原という男とわかりました。たしか、あの殺人事件の容疑者の一人だったはずですが」
「笠原?」
高木は、思わず、受話器をにぎり直した。
「そうです。笠原洋一です」
「それで、笠原は、どうしている?」
「忍び込む気はなかったといっています。飲んだ帰りに、あの家が、お得意の一人だったので、どうなっているかと思って見に廻ったんだというのです」
高木は、時計を見た。午前二時に近い。
「それで、実際に、家の中に忍び込んでいたのか?」
「庭には入っていましたが、建物の中には入っていません。しかし、私は、彼が忍び込む気だったのは間違いないと思います。第一、ポケットに小さな懐中電灯を持っていました。そちらに連行しますか?」
「ちょっと待て」
と、高木は、考え込んだ。問題は、なぜ、笠原が、そんなことをしたかである。
「よし。釈放してやれ」
「しかし、あの男は」
「いいから、釈放しろ。その代り、誰も、あの家に近づけるな」
と、高木はいった。
10
翌日、高木は、森刑事を連れて、もう一度被害者宅に出かけた。
冬日の射す道を歩きながら、高木は、
「ひょっとするとわれわれに、チャンスがやってきたかも知れんぞ」
と、森刑事にいった。
「昨夜、笠原が、あの家に忍び込もうとした。わざと釈放させたが、懐中電灯を持っていたというから、何か探すつもりだったことは確かだ。君は、何だと思うね?」
「もちろん、例の年賀ハガキでしょう?」
森刑事が、眼を光らせて、きき返した。
「そうだよ。もう一枚の彼の書いた年賀ハガキだ。間違いない。現金はないしね」
「しかし、昨日探したときにはありませんでしたし、笠原は、なぜ、一月二十日に、取りかえていかなかったんでしょうか? 当選した年賀ハガキは持って来たが、前に出したやつを持ち去るのを忘れたんでしょうか?」
「違うね。頭がよく、用意周到な笠原が、そんなミスをするはずがないし、忘れたのなら、昨日、われわれが見つけているはずだ。とすると、一つの場合しか考えられん。笠原は、一月二十日、取りかえて持ち去ろうとしたが、前に出した年賀ハガキが見つからなかったということだよ」
「なぜでしょう?」
「それは、私にもわからん。だが、われわれにとって、チャンスがまた生まれたことだけは確かだ。笠原は、われわれが、年賀ハガキのトリックに気がつき始めたと感じて、昨夜、もう一度、探しに来たのだろう。それを命取りにしてやりたいものだな」
二人は、被害者の家につくと、もう一度、念入りに、隅から隅まで探してみたが、やはり、もう一枚の年賀ハガキは見つからなかった。
森刑事は、埃《ほこり》でよごれた手を叩きながら、
「被害者が殺される前に笠原の年賀状だけ焼き捨ててしまったんじゃないでしょうか?」
と、きいた。
「違うね。殺されるまで、被害者は、笠原が三千万円を返しに来ると思っていたんだ。焼き捨てるはずがないよ。だが、なぜ見つからんのか、私にもわからん」
「未使用の年賀ハガキに笠原の筆跡をまねて書き、彼を罠《わな》にかけたらどうでしょうか」
「私も、その手を考えたが、無駄だよ。笠原は、被害者に出した年賀ハガキの番号を控えているかも知れないし、控えないまでも、つづき番号だから大体の見当はつくと思う。全く番号の違うハガキを見せても、すぐ、罠と見破られるし、こちらには、彼が出した年賀ハガキの番号はわからないからな」
二人は、もう一度、探し廻ってみた。が、結果は同じであった。明日、捜査員全員で、探すことにして、高木と森刑事は、家を出た。薄暗い家の中を這《は》い廻っていたせいか、冬の弱い陽射しが、ひどく眩《まぶ》しい。
高木が、大きく深呼吸したとき、五歳ぐらいの女の子を連れた若い母親が歩いてきて、二人にお辞儀をした。
「白川さんの親戚の方ですか?」
と、彼女はきいた。二人が私服だからだろう。
「どんなご用ですか?」
と高木が、気のない声できき返した。
「この子が、白川さんから、いいものを頂いたんで、お礼を申しあげようと思っているうちに、あんな亡くなられ方をしてしまって」
「………」
「一月の十七日か十八日ですわ。この子が、遊びに行ったとき、白川さんにうさぎを描いてくれといったらしいんです。白川さんは、年賀状を見ながら描いて下さって、帰りにその中で、封筒セットが当っているのを下さったんです。賞品を、今日、頂いてきたんですけど、切り取った残りの方は、要るだろうと思いまして」
若い母親は、買物カゴから、一枚の年賀ハガキを取り出して、高木に渡した。消印のない年賀ハガキが、高木の掌にのった。
日東証券営業部と印刷された活字。その横には、ペンで、笠原洋一と特徴のある字が書いてあった――。
五〇パーセントの幸福《しあわせ》
1
「どっちだと思う?」
黒木一郎は、巧みな手さばきで繰ったトランプのカードを、両方の手に分けて伏せると女にきいた。
「さあ、どっちかしら。わからないわ。……こっち?」
黒木が掌を返すと、問題のカードは反対の手の方へ移っていた。
黒木の手品は、趣味というより、プロの腕に近かった。
「すてき!」
女は、うっとりと黒木をみつめた。
黒木は、トランプをしまうと傍の煙草を口にくわえた。女があわててライターで火をつける。
一見、満ちたりた時間のように見える光景だが、男と女では、それぞれ思っていることは別だった。
黒木は、深く吸いこむと、煙をふうっと吐き出した。
(そろそろこの女とも別れなければ……)
そう思って女の顔を眺めた。
女は、みつめられて恥ずかしそうに微笑《ほほえ》んだ。
目鼻だちのくっきりした可愛い顔だった。色白の肌が、しっとりと息づいていて、まぶたのあたりが、うっすらとピンク色に上気している。
(女としては申し分ないんだが、結婚の相手ではない)
黒木は、もう一度確認すると、関係をふっきるように煙を吐いた。
黒木一郎は、二十九歳、二枚目役のタレントである。タレントとしては、一応、中堅の位置にいたが、もう一つ爆発的な人気は湧かなかった。現在、黒木は、少しあせっていた。
彼の人気は、一口でいえば、清潔感を感じさせる男の魅力であった。
だから、彼の役柄は、正義の味方である少年ものの主役とか、弁護士、刑事といったものが多かった。
クールな男の魅力でうっている男性化粧品、「アポロ」のコマーシャルに出ていることで、それは象徴されていた。
しかし、三十歳になろうとしている今、年齢的に、むずかしい壁につきあたっていた。
ここで、大幅にイメージチェンジして新しい役どころを掴《つか》むか、今までの路線でいくならば、銭形平次のようなシリーズものの主役にはまるか、なにかがなければ、消えてしまう運命にあるといえた。
少年ものの主役から入ったので、芸歴は長く、演技も安定している代り、今更他の職業に転職できる自信もなかった。
単発のドラマでは、ここ半年ほどめだって仕事が少なくなってきた。
ここ数年やってきたアポロ化粧品のCMも、あと三カ月の期限が過ぎればおろされるだろうという予感があった。
(何かのコネで、いい役をつかまなければ)
という焦りが彼にはあった。
女性関係も極力気をつかっていて、清純スターの名を傷つけることは今までにはなかった。
「結婚」という生涯に一度の切り札を使うときは、その婚約発表が、大きな話題となり、宣伝効果をあげるものでなければならない、というのが彼の信条だった。
その用心深い彼が、この女、つまり、麻川ユキと関係を持ったのも、打算があったからだ。
ユキは、レコード会社や、プロダクション、出版社に、映画会社も持っている財閥の大井会長の妾腹《しようふく》の娘だった。
本宅には、大井会長と妻と一人息子がいて、一人息子の大井登がレコード会社の社長をやっている一族である。
ユキは、病身の母親と二人で住んでいた。銀座を歩いているところをスカウトされ、新人としてデビューしたといわれているが、その裏には、大井会長の意思が働いているものと誰も疑わなかった。
前に、やはり同じように妾《めかけ》の子で、親の七光で芸能界に入って成功した女優がいたことを知っていた黒木は、この女をモノにすれば、コネになるかも知れないと思った。
本妻と息子の手前、大井会長は表だって援助はしないかも知れないが、それだけに不憫《ふびん》だと思い、蔭でいろいろ便宜をはかるだろうと考えたのである。
以前に、自分の妾の娘を、自社の主演スターと結婚させた映画会社の社長もいた。
誰の狙《ねら》いも同じとみえて、彼女への誘惑は多かったが、結局、彼女を射とめたのは黒木だったわけである。
しかし、彼の思惑は、どうやら外《はず》れたらしい。
彼女は、病身の母親が亡くなっても本宅へは引きとられなかったし、彼女がレコードを吹きこむという話も、レコード会社の社長をしている異母兄からの反対でつぶれたのだ。
よく調べてみると、彼女は認知もされてなくて、本宅からは、むしろ、やっかい者に思われている存在であることがわかってきた。
そうなってみると性格もいいし、肉体的にもまだ未練はあったが、このあたりで別れ話をした方がいい。
実は、黒木は、最近、スターの中条知沙子と深い仲になり、密かに結婚の約束をしているのだ。麻川ユキよりは中条知沙子の方が結婚相手としてはずっとイメージアップにつながる。
その時、先程からもじもじしていたユキは、黒木のそばににじり寄ってきて言った。
「私、妊娠したらしいの」
2
ユキのお腹は、そろそろ人目にたつようになってきた。七カ月である。
ユキから知らされたときが四カ月だったから、ここ三カ月の間、黒木は処置することを説得し続けた。
なんのかのといっても、結局は堕《おろ》してくれるだろうと、最初、黒木は思っていた。
彼女は、タレントとしても、売り出したばかりだし、年だって若く、未婚の母となって世間の注目をあびながら育てるほどの母性愛があるとは思われなかったからである。
だが、普段は従順にみえる彼女のどこに、これだけの強さがあったのかと思われるほどの強さで、ユキは処分を拒否し、もう七カ月、堕せなくなっていた。
そろそろ噂《うわさ》になりはじめている。
黒木はマネージャーの藤に相談した。
「困りましたね。どうしても産むというんですか?」
「そうだ。それにもう堕せなくなっているし」
「産んだらやはり認知してくれといってくるでしょうね」
「今は、あなたに迷惑はかけないといってるが……」
「そりゃ、甘いですよ。もし、週刊誌に載ると大変です。そうなると、ウーマンリブの団体などからも、突き上げがあって、折角いい役がきまっても、下りなくてはならなくなりますよ」
「認知しなけりゃ、どうなるかなあ?」
黒木は、不安そうにきいた。
「訴えられたら、親子鑑定とかいって、科学的に調べることになるでしょうな。例えば、血液型とか、指紋とか、顔の相似点とかなど」
「なんとかそれを、うまくごまかす方法はないのか研究してくれよ。たのむよ」
「結婚したらどうです?」
「でも、中条知沙子と事実上の関係が出来てるから、こっちの方がまずくなったらよけい悪いよ」
「そうですね。何といっても中条知沙子はスターですからね。結婚した時のニュースバリューが違いますよ。……それにしても、何故妊娠さすようなことになったんですか。普段は用心深いあなたが」
マネージャーの藤は、苦り切って言った。
「ピルを飲んでいるというのを信じていたんだよ。目の前でも飲んでみせたことがあったし」
「まあ、今更言ってみたって仕方がない。善後策を考えましょう」
3
それから三カ月。
ユキが、女の赤ん坊を出産したということを、黒木は、テレビ局で本番前にきいた。
ユキの入院した病院の看護婦が、黒木のマネージャーに知らせてきたのだった。
黒木は、テレビ局にいる間、平静をよそおっていた。しかし、本番を大したトチリもなしにすませ、車に乗りこむと、さすがにほっとして、運転しているマネージャーにきいた。
「で、なんて言ってるんだ?」
「子供を見に来てほしいと言ってるそうです」
「そんなこといったって無理だよ。病院なんかに行ったら、たちまち噂になってしまうじゃないか。絶対行かないよ」
「でも、出産直後で気がたってるし、全然行かなかったら、週刊誌の記者などに何を言うかわかりませんよ。とにかく、私が密かに行って、見舞金を渡してなだめてきましょう。時期をまってくれ、悪いようにはしないからといって。そうすれば、むこうはまだ惚れてますから、当分はさわぎたてないでしょう」
次の日、黒木は、やはり車の中で藤マネージャーから話をきいていた。
「行ってきましたよ。子供を見せたい、黒木さんを連れてきてほしいと泣きつかれて困りました。今、黒木さんは仕事が忙しくて大変な時だから、もう少しして、あなたが退院してマンションの方へ落着かれたら見舞いにいくと言っておきました」
「金は持って行ったんだろう?」
「金は、どうしても受けとりません。結婚してくれなくてもいい。お金もいらないから、黒木さんに、産着とかおもちゃを持って見舞いに来てほしいと言われました」
黒木は、不機嫌な顔で窓の外を見ながら、
「子供は俺に似てるかい?」
ときいた。
「あまり似てません。鼻は低いし、眼は一重だし……。でも、色が白くてぽっちゃりしていて可愛いですよ」
「血液型は何型だ?」
「勿論、抜け目なく母子手帳を見てきました。子供がA型で、麻川ユキもA型です。たしかあなたはO型でしたね」
「そうだ。だから、子供はA型かO型になるのは当然だ」
「あ、それから、もう週刊誌の記者が取材に来たそうですよ。彼女は、黒木一郎の子だとは言っていないそうですが、今日あたり、うちへも取材にくるんじゃないですかねえ。勿論、全然覚えがないで通して下さいよ」
「わかったよ」
黒木は、ふてくされたように答えた。
色白で、可愛いという赤ん坊の顔を想像してみたが、実感は湧かなかった。
翌週の週刊誌には、
新人麻川ユキ 女児出産!
父親は、K・Iか?
という見出しで、この問題が大きくクローズアップされていた。
マネージャーは、花束だとか子供の着物などを持って、密かにもう一度病院をたずね、なるべく、週刊誌の記者に刺激的な言葉を吐かないようにとたのみこんだ。
4
黒木が、麻川ユキのマンションを訪ねたのは、出産後十日程経った深夜だった。
チャイムの音で、黒木だとわかったらしく、ユキは上気した顔でドアを開けた。
黒木を部屋に入れて座布団をすすめると、あわてて服を着替え、いつもの水割りを作って黒木をもてなした。
2DKの部屋の中は、質素だがきちんと片づけられ、いつもの通り、窓にうすいピンクのカーテンがかけられていた。
いつもと違うのは、部屋のすみにベビーベッドが置かれ、赤ん坊が眠っていることだった。
黒木は、儀礼的にベッドのそばに行き、立ったまま、赤ん坊を見下ろした。
「可愛いでしょう?」
ユキが、下から黒木の顔をすくいあげるように見つめてきいた。
「うん。君にそっくりだ。色が白い」
黒木は、用心深く答えた。
ユキは、しばらく黙っていたが、
「ねえ、名前をつけて下さらない?」
といった。
「名前か、急に言われても思いつかないなあ」
「じゃ、良子とつけていいかしら」
「良子か……」
黒木の本名は良夫だった。一瞬、黒木は考えたが、承諾した。良子という名前は別に変ってもいないし、いくらでもある名前だからかまわないと思った。
黒木が承諾すると、ユキは、はじめて笑顔を見せた。可憐な笑顔だった。黒木は、赤ん坊より可愛いなと内心思った。
黒木の持って行った金を、やはり女は受け取らなかった。
「あなたの子供だということは、週刊誌の人に絶対言わないわ。だから、時々、子供を見に来て下さい。それから、せめて、子供が、二、三歳になるまで、他の人と結婚しないで欲しいの。お金はいりません」
女は、男に結婚の意思がないのを知って、最大限の譲歩をした。
しかし、黒木は、中条知沙子と密かに婚約している。二、三年結婚しないというのは出来ない相談だった。弱味をみせてはいけないと思って、彼は、冗談めかして言った。
「本当に俺の子かな。似てないような気もするけど……」
ユキは、憤りのためさっと顔を蒼ざめさせた。そして、引き出しから、封筒に入った紙を出して黒木に見せた。医師の印があった。
それには、赤ん坊と母親、つまりユキの血液型が、ABO式及びMN式で書かれ、推定受胎年月日、出産までの経過、生まれた赤ん坊の特徴などがしるしてあった。
ユキは涙をぬぐいながらいった。
「あなたの血液型が何型か、遺伝的にどんな体質か私は知りません。でも、これを見て下さい。あなたの子として、どこもおかしいところはないでしょう? 受胎日だって、あなたには心あたりがあるはずです。この日の前後はずっと私と一緒にいたでしょう?」
「まあまあ、そう興奮しないでくれ。君が騒がないでくれたら、時機をみて子供のことは考えるよ。でも、君と結婚は、多分出来ないと思う。それだけはあきらめてほしい。始めから結婚するという事は、一度も言わなかっただろう」
女は、黙ったままだった。
丁度その時、赤ん坊が泣き出した。
ユキは、赤ん坊を抱き上げてあやしながら、子供の耳が少しただれていること、明日、医者に見せたいというようなことを言った。しばらくして赤ん坊はすやすやと寝入った。
黒木は、女の顔に軽くキスし、頭をさげて部屋を出た。
とうとう赤ん坊を、一回も抱きあげないままだった。
その足で、黒木は中条知沙子のマンションへ廻った。
高層マンションの七階にある知沙子の部屋は、3DKの部屋二つを改装した豪華なものだった。
毛足の長いブルーの絨毯《じゆうたん》が敷かれ、白い家具が並び、シャンデリアが輝いていた。ピアノの上には、バラが飾られ、麻川ユキの部屋とは、明るさまでちがうような感じだった。
知沙子は、ソファにすわり、ブランデーのグラスをあたためながら、黒木の顔をのぞきこんだ。
「週刊誌に出ていたことK・Iってあなたのことでしょう?」
「ウソだよ。共演したことがあったから友達づきあいはしてるけど、特別な交際はないよ」
「でも、麻川ユキさんておとなしい感じなのに、父親のいない子を産むなんてびっくりしたわ。あなたでないとすると父親は誰なんでしょうね」
「さあ、本人が言わないんだから、大した男じゃないんだろう。彼女のつきあいの中では、僕が一番名前が通ってるんで週刊誌が書いただけのことだよ」
「じゃ、予定通り結婚していいのね。仲人は、国会議員の長谷川さんでどうかしら? 会場は……」
黒木は、うなずきながら、派手なメーキャップの知沙子の顔を眺めた。黒木より五つ年上で、近くで見るとシワがめだつ。麻川ユキは、家ではほとんど化粧はせず、ピンク色の素肌が美しかった。
(ユキに、金とかコネがありさえすれば、勿論、女としてはユキの方がいいに決っているが……)
黒木は、ユキにまだ未練をもっている自分を、あわててたしなめた。
黒木が中堅スターというのなら、知沙子は人気スターであった。
娘役でスターになったので、三十四歳の今、人気は衰えたが、それでも、婚約、結婚といえば、すべての週刊誌がとりあげるだけのネームバリューがある。勿論、金もあるだろうし、コネもあるだろう。
黒木にとって、決して損にならない結婚だった。
それに比べ、あまりぱっとしない新人で、妾の子であるユキと結婚することは、イメージダウンにつながるといえた。
それに、この中条知沙子とは肉体関係もあり、結婚を約束している。これを断って、ユキと結婚したら、芸能界で生活していきにくくなるだろう。知沙子の仕返しも怖い。
黒木は、ユキとのことは、知らないで通そうと決心した。
5
ユキが、赤ん坊の父親認知の訴えをおこしたのは、出産後三カ月たった時だった。
勿論、その前に、何度か、子供を見に来てほしいとか、認知をしてほしいという申し入れがあったが、黒木はとりあわなかった。
出産後一回行っただけで、三カ月の間、一度も黒木はユキをたずねなかったし、中条知沙子との結婚がうわさになっている今、ユキが訴訟に踏み切ったのは当然といえた。
すぐに、黒木のところへ芸能記者が来たが、黒木は動じなかった。
大丈夫だという成算があったからだ。
「絶対に僕の子でないという自信があります。親子鑑定なり、なんなりやって下さい」
「今、正義感にもえた検事シリーズの主役がきまりかけていますが、もし、万一、敗訴になったら、番組を下りられますか?」
「勿論です。そんなことがあったら、番組をおり、謹慎をした上で、彼女と結婚しますよ」
「そのときは、今、婚約しておられるという中条知沙子さんの方はどうなりますか?」
「それはやめますよ」
「じゃ、どちらかの女性を悲しますという結果にならないでしょうか」
「だから、そんなことはない。絶対に私の子でないといいきれます」
「では、パイプカットをしておられるとかそんなことですか?」
「いいえ。全然関係がなかったということです。彼女にはボーイフレンドもたくさんいたというし、そのうちの誰かじゃないのかな」
黒木は、冷静な声で応答した。
また、違う週刊誌からのインタビューもあった。
「麻川ユキさんは、赤ん坊が生まれたとき、あなたが見舞いに来て産着やおもちゃをくれたし、覚えがあるはずだといっていますが」
「彼女とは共演をして、それ以来友達だったから、お祝いするのは当然でしょう。勿論、病院へは行っていませんよ」
「じや、なんで、麻川ユキさんが、あなたを子供の父親だなんていったんでしょうね」
「僕もびっくりしています。そういえば、彼女は、しきりと僕と結婚したいようなことを仄《ほの》めかしていましたが、こうなると本当に迷惑ですよ」
「親子鑑定には応じられますか」
「ええ。こうなった以上、応じてはっきりさせたいと思っています」
黒木は、はっきりと言い切った。
次の週に出た週刊誌には、両方の言い分が出ていた。
でも、こういう事件がおこった場合、印象としては、女の方が有利である。なんのかのといっても、訴訟まで起こすのだから、二人の間には、男女の関係があり、男が堕してくれといったにもかかわらず、女が強引に産んで、男に認知をせまり、男の方が逃げているという印象を、第三者には与えるのである。
統計的に見ると、日本では、嫡出でない子が年間約二万六千人生まれるが、その大部分は、両親の結婚により、または、任意認知によって落着し、家庭裁判所の調停にかかる六百余件も、その半数は調停が成立し、民事訴訟第一審まで持ち込まれる認知請求も大部分が原告つまり女の方の勝訴となって終っているという。
また日本で、裁判所の命令でおこなわれる親子鑑定の数は、大体年間一〇〇件ぐらいだが、その八〇〜九〇パーセントを占める認知請求事件の九〇パーセント以上が実父であるという。
しかし、黒木は、親子鑑定で勝てるという自信があった。週刊誌の記者にもいったとおり、こうなった以上、どうしても親子鑑定で勝って、早くはっきりとケリをつけたいと思っていた。
名検事シリーズの主役も、最初は、数人の男優が候補にのぼっていたが、黒木が週刊誌の話題を提供するようになって、かえって黒木一人にしぼられて来ていた。鑑定の結果を待って、もしクロならおろし、シロなら話題の盛り上ったところで主演させようという計算である。シロであって、今、噂されている大物女優との結婚があるとすれば、新しい番組を発足させる絶好の宣伝になるとテレビ局は考えたのであろう。
黒木と、藤マネージャーは、ひたすら、親子鑑定の結果が有利に出るよう合議をかさねていた。
6
いよいよ親子鑑定の日が来た。
親子鑑定では、血液型の外、骨格、顔形の特徴、指紋、掌紋、足紋、歯冠の形態から毛渦、毛流、特殊部位の発毛の状態、耳垢の乾湿、PTCという薬に苦みを感じるか等について調べる。
それぞれ、裁判所から指定された法医専門家が、検査を担当した。
先ず、黒木の腕から相当量の血液がとられた。血液型その他を判定するためである。
彼の血液型は、ABO式ではO型、MN式ではMN型であった。
麻川ユキはA型でMN型。
子供も、A型 MN型である。
自分を含めて三人の血液型を、黒木は熟知していた。女と子供については、マネージャーに母子手帳を見させ、自分自身も、マンションに行ったとき、書類を見せられている。しかも、念を入れて、マネージャーに、彼女の担当医に間違いないかどうかを、ひそかに聞きにいかせた。黒木の安心の一つには、そのこと、つまり、血液型の問題があった。
親子鑑定で、一番重要な部分をしめる検査は、血液型である。体型だとか、その他の検査では、似ているとか似ていないとかいっても、科学的にそうはっきりとは出ないものもあるが、血液型では、父親ではないとはっきり言いきれる血液型がある。
一番簡単な例では、父がBで母がOであるのに子供がAである場合である。この時には、他の検査をするまでもなく、父親ではあり得ない。反対に、父親がBで、母親がA、子供がBの場合は、この父親の子である可能性が大変高いとおもわれる。
しかし、黒木の場合、その中間で、父親であるかもしれないが、また、父親でないともいえるという結果になるのだ。
麻川ユキも子供と同じA型である。母子ともに、同じ血液型である場合は、父親たり得ない血液型はないのである。だから、黒木が、A型、B型、O型、AB型のどの型であっても、父親である可能性はあるのである。
逆にいえば、だから、血液型からは、この人が父親であるとはいいきれないわけである。
ご丁寧に、MN式でも母子ともにMNであるので、これも、黒木が何型であっても、だから父親だとはいえないのだ。
勿論、こうなった場合、他の方式の血液型の検査もするかもしれないが、その場合でも、父親であることを否定する鑑定は出ないだろうが、ABO式とMN式に積極的な結果が出なかったのだから、大変消極的な肯定ということになるだろう。
つまり、早くいえば、この場合に血液型は判定の規準にならないのである。
次に、黒木に安心感を与えているのは、顔の特徴や骨格その他からみた体型の項である。
黒木も麻川ユキも、二重まぶたの大きな目をしており、鼻が高いのに比して、赤ん坊は、低い鼻、一重まぶたの細い目をしている。
だから、黒木とは似ていない。
黒木は、麻川ユキと会ったはじめの頃、顔について話したことがある。
「君は、美人だし鼻が高いね。僕は、昔から鼻の高い女が好きなんだよ」
「うれしいわ。私も、あなたに最初出会ったとき、とても男らしいすばらしい鼻をしていらっしゃると思ったの」
言いながらユキは、ちょっと鼻をささえるしぐさをした。それを見て黒木は、ああ、やっぱりと思った。
彼の義兄は整形外科医で、彼もアルバイトで医院を手伝っていた時期がある。はじめて会った人の目と鼻を見れば、大抵、整形かどうか見当がつくようになっている。
ユキは、目も二重に整形していると、黒木はにらんでいた。それで彼は意地悪くいった。
「それに、目もいい。僕は、早く亡くなった母が二重の大きな目だったので、大きな目の人には弱いんだ」
ユキは、媚《こ》びるように目を見開いた。
また、二人で、テレビを見ているとき、美容整形のことが出たが、黒木は、
「美容整形なんかする女は嫌いだな。なにが信じられない気がするよ」
と、苦々しげにいった。
ユキは、ちょっと悲しそうな顔をしたが、そのあと急いでテレビを切った。
彼女は、黒木に、自分の昔の写真を見せたがらなかったが、一度だけ父親と写した写真をユキの知らない間に見たことがある。机の引き出しの奥にしまってあったのだ。
人は好さそうだが、鼻の低い目の細い女の子だった。
赤ん坊とよく似ている。似ているといえば、実は、黒木の小さいときの面影が赤ん坊にはある。
赤ん坊をはじめて見た時、黒木は、内心、にやっとしたものだ。
というのは、実は、彼も目と鼻を整形しているのである。義兄に密かにやってもらったし、随分昔のことで、今はその顔に似合った表情が出来ているので、誰も気づかない。整形の成功例といえるだろう。
中学三年で死んだ長兄が、丁度、整形後の今の彼の顔と同じ、目鼻だちのはっきりした顔だったので、彼は、週刊誌などで、幼児の写真を出すというと、いつも、この兄のを出していたから、タレント仲間でも誰も気づかない。
だから、親子鑑定の時、目や鼻の寸法を計り特徴の項を医師が書きこんでいくとき、彼はおかしかった。
ユキも多分、整形しているとは言わないだろうから、二重の大きな目の両親から出来た子が、小さな一重の目ということは、黒木にとって有利である。たとえ、女が、自分は、整形していると告白しても、子供は、母親似ということで、黒木に似ているとは言えないのだ。
同じことは、鼻についてもいえる。
子供は、低くかわいい鼻をしているが、ユキも黒木も、整形した高い鼻をもっているのだ。
骨格や体型についても、黒木はついていたといえる。
黒木は、ボディビルをやったことがあってひ弱そうだった若い頃とは、がらりと変った体型になっている。
この体型から、赤ん坊の、それも女の子との類似点を探すのは無理だった。
黒木とマネージャーが、あらかじめ本で調べたところによると、形態学的な類似性は、顔面、あるいは身体の諸計測の比によって算出出来るが、個々の比となれば、全く無関係な他人でも似ていることがあり、結局、類似しているかいないかは、総括的に判断しなければならず、これとても、肯定的断定の資料とはいえないということだった。
ドイツの親子鑑定専門家であるドクター・ケイターによると、身体諸計測の平均相関係数rは、
父と男児で r=+〇・二八
父と女児で r=+〇・二六
母と男児で r=+〇・二七
母と女児で r=+〇・二六
である。
結論的にいえば、夫或いは特定の男が、その子供の父親であることを、自然科学的に肯定することは、少なくとも現段階では不可能であるということだ。
黒木は、だからこの外見上の類似点では一番安心をしていた。
次に、彼は、頭髪と耳垢についての検査では、彼の得意の手品をつかってインチキをした。
毛髪の検査で、髪の毛を一本とって下さいといわれることを前もって知っていた彼は、あらかじめ、マネージャーの髪の毛を何本かとって、自分の髪の毛の中にしのばせていたのである。マネージャーは、彼と同じ血液型である。万一、頭髪から、血液型を調べられても一応通るはずだった。
でも、毛髪から血液型を調べるのは、殺人などの犯罪捜査の場合であって、親子鑑定の場合は、血液がふんだんに採ってあるわけだから、調べることは殆《ほとん》どないといっていい。
親子鑑定の毛髪の検査といえば、毛がごわごわしているか柔らかいか、太いか細いか、カールしているか、色はどんな色か、生え方などを調べるわけである。
黒木は、毛髪のすりかえがバレなかったらしいので検査官の方をうかがいながら、ほっと息をついた。
次に、耳垢の検査である。
人間の耳垢は、簡単に言えば、乾いたころっとした耳垢か、湿って、じくじくした耳垢かのどちらかに分けられる。
湿った耳垢をもつ人は、全体の約一割、残りの九割が、乾いた耳垢をもつということで、黒木のは湿った方である。
黒木は、愛撫で、ユキの耳に息を吹きこんだりしたことがあるので知っているが、彼女のは、乾いたころっとした耳垢であった。
生まれた赤ん坊は、湿った耳垢であるらしい。
出産後十日たって、彼が見舞いにいったとき、ユキは、赤ん坊を抱きながら、「この子は、健康で他はなにも言うことはないのだけれど、耳の中がいつもじくじくしているので、病院でお湯が入ったのか、中耳炎ではないかと心配なの」といっていた。
一般に風邪をひいたりすると、普段は乾いている人も湿ってくるときいているが、この場合は、やはり、黒木の遺伝によるものだといえそうだ。
検査のため、医師が耳を見る寸前、彼は、マネージャーから貰っておいた、乾いてころっとした耳垢を耳につめておいた。
次に、PTCという薬を苦く感じるか、感じないかのテストがあったが、彼は、実際に感じたのと、反対のことを言おうと決心していたので実際に嘗《な》めてみると、大変苦かったが、彼は、苦くないと答えた。
そのあと、色々なテストや検査がくり返されたが、黒木は、手品の腕と、親子鑑定に対する予備知識をフルに使って、少しでも自分に有利なようにふるまった。
担当医も、黒木が有名人でもあり、殺人犯人というわけでもないので、非常に丁重に扱ってくれたし、そんな破廉恥なことをするとは思ってもいない様子なので、細工がやりやすかった。
親子鑑定の検査はすべて終った。
あとは、結果の発表を待つばかりである。
7
マネージャーの運転する車に乗って、テレビ局にむかいながら、黒木は、やや興奮ぎみに、今日の検査について喋った。
「さあ、どういう結果が出るか怖いですね」
藤マネージャーは徐々にスピードをあげながら冷静に答えた。そう言われると、黒木も急に心配になってきた。
「いろいろやってみたけど、どの程度うまくいったか自信がないよ。でも、父親である可能性が九十何パーセントということにはならないと思う。だって、整形しましたか? なんてきかなかったから。……とにかく、少しでも低いパーセンテイジが出るのを祈るだけだよ」
「大体、七〇パーセント位から上だと、父親である可能性があるということですね。本当に父親であっても、九八パーセントと出る人もいるし、七〇パーセントと出る人もいるんですから、せめて、七〇パーセント位になって欲しいですね」
「七〇パーセントだったら、主役の方はどうなるだろう? おろされるだろうか。それとも……」
マネージャーは、車を道路の端に寄せて急停車させると、今度は強い口調で言った。
「そんな弱気な事言っちゃ困りますよ。たとえ九〇パーセントでも、覚えがないと言って頑張って貰わなくては。本人が認めてないのにそれを理由におろしたりは出来ませんよ。もう一度やりなおしてはっきりしてくれと抗議すれば、時間が稼げるし、そのうちに番組がスタートして、視聴率がよければ、テレビ局の方だって味方になってくれますよ」
「彼女の父親の大井会長はどう動くかなあ。何といっても、大物だから、あの人が、一言いっただけで、俺なんかとんじゃうよ」
黒木の一番心配しているのはそれだった。
「大丈夫ですよ、動くなら、今までに動いてますよ。彼女に本当に愛情があるなら、こうなる前に、『ユキを貰ってやってくれ、その代り、今後、君をバックアップしていくから』と申し入れてくる筈ですよ」
「本妻が、ユキを嫌ってるらしいから、この問題は無視するつもりかも知れんな」
「……そういえば、大井会長一家は、この冬をハワイで過ごすという記事が出ていましたよ。判定が出るころ日本にいないといいですねえ」
マネージャーは、車を発進させた。
二十分後、車はテレビ局に到着した。
黒木が、スタジオに入っていくと、先に来ていたタレントたちのおしゃべりが、ぴたっと止った。黒木のことを話していたのだろう。黒木は、気にかけないことにして、つとめて明るく皆に挨拶をした。
テレビ局から帰ると深夜だった。
黒木は、水割りを自分で作って飲みながら、今日の親子鑑定の検査のことを考え続けた。
本番中に、ガラス越しにマネージャーの顔をみたとき、ふとよぎった疑念が頭をもち上げてくる。
まさか、彼が裏切っているのでは? という疑惑である。
彼に、親子鑑定の時に弄したインチキをバラされたら、たちまち自分は失脚するだろう。それは、親子鑑定が九〇パーセントと出る以上のマイナスである。
また、たとえ、バラさないにしても、麻川ユキに同情して、ユキや赤ん坊の血液型とか耳垢についてウソの情報を黒木に信じさせたのだったら、結果はどうなるか。
いや、ひょっとしたら、あの赤ん坊は、藤マネージャーの子なのではないだろうか。
黒木の考えは飛躍していった。
それなら、マネージャーの毛髪だとか、耳垢を検査の時に渡したのは、彼の思う壺ということになる。赤ん坊のそれと、こちらの検査結果は、ばっちり一致して、赤ん坊は、黒木の子と認定されるのではないか。
黒木は、いても立ってもいられなくなった。眠れなくなると、無性に女が欲しくなってくる。今日は疲れたからといって、中条知沙子のところへ行かなかったのがくやまれてきた。
黒木は、急いで枕もとの電話を引き寄せると、中条知沙子のマンションのダイヤルをまわした。
ベルは鳴っているが知沙子は出ない。
知沙子のスケジュールは熟知しているつもりだが、今夜はなんの予定もないはずだ。こんな夜分にどこへ行ったのか。
まさか知沙子までが?
黒木は狂ったようにダイヤルをまわし続けた。やっと何回目かに不機嫌な知沙子の声がした。
「あ、君、いたの? 僕だ、黒木だよ」
「どうしたの? こんな時間に。明日は朝のニュースショウに出るのでゆっくり寝ようと思って睡眠薬を飲んで寝てたのよ」
それは、恋人からの思いがけない電話を喜ぶ声ではなく、仕事のペースを乱された不満の声だった。
黒木は、受話器を置きながら、これが、ユキにかけたのだったら、どんなにか喜んでくれただろうに、と、ふと思った。すっかり眼のさめてしまった黒木は、ベッドの傍に積み上げてある親子鑑定関係の本の中から一冊をとりあげた。ページを繰っているうちに、親子鑑定の判例として、「チャップリン事件」というのが目に入った。
芸能人である彼は、チャップリンという名にひかれてその例を読んでみた。
有名なチャールズ・チャップリンは、ロンドンのイーストエンドに生まれ、若くして渡米し、苦労に苦労を重ねて世界一の喜劇俳優になったが、米国人からは嫌われ、彼自身も米国人を好まず、結局、米国を去ったが、その重要な動機の一つとなったのが、この「チャップリン事件」である。
原告である或る若い女優は、一九四一年三月に初めてチャップリンと会い、彼は彼女を映画女優に育てようと努力しているうちに、二人の間に情交関係が生じた。しかし、ものになりそうもないことが判ったので、チャップリンはこの女から遠ざかった。
そして、チャップリンによると、二人の関係は、一九四二年二月までであったという。
その女もそれを認めたが、一方、一九四二年十二月に、四回だけ性交渉があったと主張した。とにかく、この女は一九四三年十月二日に出産したのである。(従って、懐胎は、一九四二年十二月頃)そして、チャップリンを相手に認知訴訟を起こした。
一九四二年十二月二十三日の深夜に、彼女がやけくそになってピストルを持って彼の家に現われたこと、および、彼の家で、一夜を過ごすことを許したことをチャップリンは認めたが、性交関係は強く否定している。
ところで、三人の適格な鑑定人による血液型検査の結果は次のごとくであった。
チャップリン O型MN型
女 優 A型 N型
子 供 B型 N型
従って、ABO式血液型からみて、チャップリンと子供の間の父子関係は絶対に否定されたのである。その上、この女は他の男達とも深い関係にあったことが明らかにされ、一九四二年十一月および、一九四三年一月、四月には或る男から二千ドル以上の手切金を受け取っていたことも確認された。
にも拘《かか》わらず、陪審法廷は、被告チャップリンはその子の父親であると宣告し、子供の養育費として毎週七十五ドル、および、弁護料として五千ドル支払うように命じたのである。
読み終って黒木は、ため息をついた。
彼はチャップリンに同情した。そして、今日ほどチャップリンを身近に感じたことはなかった。
8
親子鑑定の結果を知らせる封書を黒木が受けとったのは、アポロ化粧品のCMの契約解除の電話があったあとだった。
「黒木さんですか? あなたには、弊社の宣伝コマーシャルを長らくやっていただき、おかげで業績も着実にのび感謝いたしております……さて」
という、まるで文書の冒頭のようなアポロ化粧品の担当者の言い方をきいたとき、黒木には、もう、電話の内容がわかっていた。
契約途中でくびになったわけではなく、契約期間が切れたのだから仕方がないし、あらかじめ予期していたことだから覚悟は出来ていたが、やはりショックだった。
「いえ。私の方も長年やらせていただいて大変宣伝になり有難かったと思っています。芝居の方も、そろそろ身を入れなくてはならない時期にきているので、丁度よかったと思っているのです。で、次は誰がやるんです?」
黒木はつとめて明るくきいた。先方も、いずれわかることだと思ったのか、次に起用されたタレントの名前を教えてくれた。
「歌手の三谷あきらです。黒木さんほどの貫禄はないけど、まあ若いのがとりえで……」
と、相手は、盛んに若いからだということを強調した。
三谷あきらときいただけで、黒木は胸がつまる思いがした。
三谷あきらは、黒木の一番嫌いな歌手である。一度、同じ番組に出たとき、ベテランの黒木たちが時間どおりに来ているのに、いつまでたっても姿を見せず、結局、翌日とりなおしになった事がある。また、そのあと、別のドラマで、一旦、黒木にきまった刑事の役が、三谷に変えられたことがあった。ドラマの中の刑事に主題歌をうたわすという理由だったが、黒木は釈然としなかった。
よりにもよって三谷を……と電話を切ったあとも黒木は不愉快だった。
CM契約料だけ年収が減るということもあった。
親子鑑定の結果を知らせる封書が来たのはその時だった。
マネージャーが封筒をあけて中を見るなり「やったァ!」といってばちんと指をならしてそれを黒木の前においた。恐る恐る紙面をみた黒木は、そこに信じられない数字をみた。
親子である類似性 五〇パーセント
とある。
「ばんざいですね。もう大丈夫です」
マネージャーが、黒木の肩を強くたたいて立ち上った。早速、マスコミに連絡するためだ。
ふるえる手で、黒木は紙を持ちあげ、目に近づけた。間違いない! 勝ったのだ。
この場合の五〇パーセントということは、親であるかないか半々の確率というのでなしに、父親である可能性はほとんどないという判定である。
何もかもうまくいったのだ。予想外に。そして、マネージャーはじめ誰も裏切らなかったのだ。
黒木の顔に、満面の笑みが広がってきた。そのとき、マネージャーが駈け戻ってきた。
「名検事シリーズの主役がきまりましたよ。第一番にあちらに連絡したら、すぐ打ち合わせに来るようにということでした。現金なものですなあ」
現金なのは、マネージャーも黒木も同様で、たちまちふざけあい、鼻歌を歌いながら支度にかかった。
それからあとの黒木は、いいことずくめだった。
週刊誌のインタビューが相つぎ、仕事の電話がかかり、知沙子が派手な笑い声をたてながらやってきた。そして、CMを断った化粧品会社まで契約をつづけるといってきた。
名検事シリーズの主役決定の記者会見の席上、黒木は中条知沙子との結婚をはじめて公に発表した。
9
麻川ユキは、赤ん坊を抱いて部屋に坐っていた。
テレビは、芸能ニュースで黒木一郎の結婚式の模様を報じていた。
豪華な衣裳の中条知沙子と礼服に身を包んだ黒木が、幸福そうな顔をして、ウェディングケーキにナイフを入れている。
ユキは、涙ぐんだ瞳でじっとそれを眺めていた。判定のため赤ん坊の細い腕に注射針をさして血液を採るとき、ユキは何度、やめて! と叫びそうになったかしれない。それほどの辛いおもいをした結果がこれだった。何故五〇パーセントという判定が出たのか、ユキにはわからなかった。赤ん坊は、確かに黒木の子だったし、ユキは生まれてから、彼以外の男と関係をもったことはなかった。
肉親に縁が薄く、たった一人ぼっちで住んでいる彼女にとって、黒木は、はじめて気を許した人間だった。だから、彼に対する気持には、異性に対するものと同時に、肉親に対するような愛があったのだ。
判定が五〇パーセントと出るまでは、未知の人からの励ましの手紙や電話があり、週刊誌の記者や婦人団体なども同情的であったが、判定が出た途端に、手のひらを返したようになった。
一人ならともかく、赤ん坊を抱えて、今後どうして食べて行ったらいいかわからなかった。
今まで一度も援助を受けたことのなかった父だが、今度だけはすがりたい気持だった。
赤ん坊のために、明日にでも父である大井会長をたずねてみよう……そう思ったとき、テレビの画面に、ニュース速報の文字が入って横に流れはじめた。
午後九時二十分頃、東名高速浜名湖附近で、タンクローリー車が分離帯に激突暴走。後続の大型乗用車と再衝突。乗用車に乗っていた大井グループ会長家族全員が即死。タンクローリーは積み荷のトルエンに引火し……
10
三泊四日の香港への新婚旅行から帰った黒木と知沙子は、市役所へ結婚届を出しに来ていた。
知沙子に思ったより貯金がなくて、新しいマンションの購入や派手に挙げた結婚披露宴の費用を、黒木の責任で、今後ローンにでもして支払わねばならないのが、思惑はずれではあったが、週刊誌にさわがれて宣伝にもなったし、まあまあの結婚だったと黒木は思っていた。
手続きを終って市役所を出るとき、黒木は、はじめて、ユキが可哀そうだったなと思った。
黒木の乗ったセドリックが走り去ったあと、メタリック・ブラウンの豪華なビュイックで市役所に乗りつけて来た男女の二人があった。故大井会長の顧問弁護士森山と、麻川ユキだった。
大井会長一家が交通事故で死亡し、遺言状を開いた結果、莫大な遺産をユキが継承することになったのである。大井会長は、生前、ユキを子供として認める死後認知の書類を作っていたので、今日は、その手続きをしにきたわけである。
大井会長の遺産は、数百億にのぼるといわれている。
手続きを終って、再び車に乗りこんだとき、ユキは、はじめて、黒木一郎を可哀そうな男だと思った。
黒枠の写真
1
テレビのスイッチを入れると、先ずコマーシャルの音楽がきこえ、しばらくして画面が鮮明になった。
まだ、一、二分は時間がある。
大沢五郎は、ファインダーの中の露出計の針に、絞りを合わせた。テレビの画面は明るくて、目盛りはF4になっている。シャッタースピードは1/15秒である。
今日は、大沢の恋人の野川|彩子《さいこ》がテレビに出る日である。関西の有名な落語家が司会するクイズ番組で、彩子は、その「ヤング・クイズ・オー」の出場者に選ばれたといって、数日前に電話をかけてきた。
大沢は、女友達は彩子だけだが、彩子の方は、大沢の他にもボーイフレンドが五、六人いる上に、勝気でうぬぼれが強く、おとなしい大沢とは正反対の性格である。
デートの時でも、いつも彩子にやりこめられているのに、三年もつきあっているのは、やはり、彩子がとびきりの美人だからである。彩子と別れたら、今後これだけの美人とは、到底めぐり合えないと思って、大抵のことは大沢がおれている。
今日も、惚《ほ》れた弱味で、彩子を喜ばすために、彩子の写ったテレビの画面を写真にとろうと思っているのだ。
大沢は、テレビに近よって、もう一度、一眼レフのファインダーから画面をのぞいた。13インチのポータブル型のテレビなので、画面いっぱいに写そうとすると、七十センチ位の距離まで近づかなければならない。
大沢は、少しずつ動いて、一番写りのいい場所を決めた。
コマーシャルが終わると、いよいよ番組がはじまる。
司会者が、時事的な話題をとり入れた洒落《しやれ》で場内の客を笑わせながら挨拶したあと、今日出場する五人のゲストを紹介することになった。
左手から、第一番目に少し俯《うつむ》き加減に、ピンクのワンピースを着て出てきたのは、彩子である。ほっそりした体型なので、黙っていると楚々《そそ》とした美人に見える。会場から拍手がおこった。司会者も如才なく賞《ほ》めあげる。
「美人ですねえ。この番組はじまって以来のホームラン。ああ、こういうこというたら今まで出てもろた人に悪いなあ。もうちょっと顔をこっちの方にむけて下さい」
彩子の顔が大うつしになる。大沢は、すかさずシャッターを押す。
「まず、お名前を?」
「野川彩子です」
彩子が恥ずかしそうに答える。いつもの態度とは全くちがう。大沢は、今度は、司会者と二人を画面に入れてシャッターを押した。
「で、御職業は? ファッションモデルか何かで?」
「いえ。勤めています」
「隣の席の人が羨《うらや》ましいなあ。恋人は? 勿論いるでしょう?」
「いません」
「ほんとかいな」
「ボーイフレンドはたくさんいますけど」
大沢は、馬鹿らしくなってカメラを置いた。
人に、見ろ見ろと言っておきながら、恋人はいませんとはどういうことだ。
どうせ、あとでその点をなじっても、彩子のことだから、けろっとして、
「美人だとほめられて、恋人がいますって答えたらシラケちゃうじゃないの。少しはサービスしなくちゃ」
と、言うにちがいない。
画面では、司会者とのやりとりが続いている。大沢は、思いなおして、また、シャッターを押した。
彩子は、大沢の会社の向かいのビルに働くOLである。
雨の日に車で家まで送ったのが縁でつきあいがはじまり結婚を約束するようになった。
彩子と早く結婚したいと思う。実は、大沢が係長になって社宅をもらったら結婚することを二人の間できめているのだ。
大沢は、入社の時の成績は一番だったし、入ってからも一生懸命つとめている。本来なら、一年前に、係長になれている筈だった。同期に入社したものの半数が係長になれたのに、大沢はなれなかった。
大沢には、その理由がわかっている。わかっているけど、どうにもならないのだ。
あと一カ月ほどで、今年の異動が発表される。大沢は、今度こそ係長になりたい、そして彩子と結婚したいと祈るような気持で、画面の彩子をみつめた。
画面は、五人のゲストで争われるクイズになっていた。彩子の頭の回転はすばらしく、とうとう十問正解して優勝した。頭だけではなく顔もスタイルも、他の四人のゲストより格段にいい。大沢は絶対に彩子を離すまいと心にきめて最後のシャッターを押した。
番組が終わり、まだカメラも片付けないうちに、電話のベルが鳴った。出てみると、友人の園田だった。
「今、テレビ見たかい? 彩子さんが出てたぞ」
園田も、彩子のボーイフレンドの一人である。大沢は、わざととぼけた。
「へえ。見なかったな」
園田は、得意になって、彩子が優勝したことを告げた。
「彼女、おしとやかにして、なかなかイカしたぞ」
と言って電話を切った。
大沢は、笑いながら、カメラをケースに入れ、片付けた。写真を渡してやったら、きっと彩子がよろこんで、園田たちにみせびらかすだろうと考えたらおかしかった。
その時、また電話のベルが鳴った。取りあげると、彩子だった。彩子は、大沢が何も言わない先に、
「テレビに出たの見てくれなかったでしょう? 今、私の家へ園田くんから電話があったのよ。園田くんでもちゃんと見てくれているのに、あなたって冷たい人ね。折角優勝したのに」
と言って、電話を切ってしまった。
馬鹿! 早とちり! 見るだけでなく写真もとってやったんだぞ、とつぶやきながら大沢は、受話器を置いた。
まだフィルムは残っているが、明日にでも現像に出して、早く渡してやろう。写真をみたら、きっと上機嫌になると、大沢は思い、テレビを消して寝床に入った。
2
翌朝、出勤の途上、大沢は、鈴村人事課長を会社まで自分の車に乗せた。家が同方向なので、こうして、時々車に乗せるためか、鈴村課長にはうけが良かった。
会社の少し手前まで来たとき、鈴村は、なにげなさそうに、
「君は、伴課長とどうして悪いの?」
ときいた。どうやら、大沢の直属上司である営業の伴課長が、大沢のことをよく言ってないらしい。いくら人事課長が係長にしてやりたいと思っても、それには、直属の上司の推薦がないとできない。そのへんのことを言っているのだろう。
「伴課長には、最初とても可愛がっていただいたんですが、伴課長にお嬢さんを嫁に貰ってくれないかと言われて断ってから、うまくいかないのです」
会社が近くなったので、大沢は早口でしゃべった。今までそのことは言ったことがなかったが、この際、人事課長には是非知っていてほしかった。仕事上のことで、伴課長が大沢を嫌っていると思われては困るからである。鈴村は、うなずきながらきいていたが、
「まあ、いろいろあるだろうが、伴さんにだけは気にいられる方がいいなあ。S製工の松山みたいになるとまずいからね」
と言って車を降りていった。
S製工というのは、今まで、何十年も、大沢の会社の出入りの小会社だったのだが、伴課長とS製工の担当者の松山とが一度口論してから、出入りをさしとめられ、倒産寸前なのである。
この分では、一カ月先の係長昇進も駄目ではないかと大沢は心が暗くなった。係長になれなければ、社宅も貰えないから、彩子と結婚できない。たとえ、アパートかマンションを借りたとしても、出世コースをはずれた大沢のところへ彩子がくるかどうか自信がなかった。一年前、係長になれなかったときも、大沢は彩子に、マンションを借りるから結婚しようと言ったのだが彩子に、にべもなく断られてしまった。社宅だと家賃が二千円だが、マンションだと三万円以上もするから、月給じゃ生活していけないというのである。
会社へ行くと、伴課長の前へ、同じ課のものが数人集まって話をしている。
「課長、奥さんとお嬢さんは、もう海外旅行から帰ってこられましたか?」
喋《しやべ》っているのは、課長お気に入りの三宅である。大沢には、課長の家族が海外旅行していることも初耳だった。
「いやあ、もう十日になるが、あと三日ほどしないと帰って来ない。昨日この葉書がついたとこだ」
課長が、葉書を見せると、みんなは、廻し読みして、きれいな字だとか、俺も行ってみたいな、などとお世辞を言っている。
大沢のところには、廻って来ない。
最初の頃には、伴課長の家にも呼ばれたが、課長の娘というのは、不器量で権高《けんだか》で、大沢の最も嫌いなタイプだった。
「課長も、一人暮らしで、随分はねを伸ばしたんじゃありませんか?」
三宅が、ひやかしている。いやに慣れなれしい。ふと大沢は、三宅が係長に昇進するような予感がした。三宅は、同僚に嫌われているが、伴課長にだけは気に入られている。
きっと、しょっちゅう家に出入りして、夫人や娘の機嫌をとっているのだろう。
「いや、毎晩一人で飲んでるよ。よかったら今晩でも飲みにこいよ」
課長も三宅に対しては、大沢などには見せないような笑顔で接している。
「ありがとうございます。今晩は、例のK社の接待がありますから、済んでから早かったら報告がてら寄らせて頂きます」
「ああ、そうだったな。御苦労だな」
伴は、鷹揚《おうよう》に言って葉書をしまった。
その時、始業のベルが鳴った。
すると、伴は、大沢のところへ、つかつかとやってきた。
「大沢くん。君、今日これから、京都へ出張してくれないか。京都のD社と打合わせして、明日の朝、大阪支社へその書類を持って行って午後帰ってきて欲しいんだ」
否も応もなかった。大沢は、承知してすぐ立ち上ったが、内心、今日出張させるなら、何故、昨日にでも言っておいてくれなかったのかと恨めしかった。そうすれば、下着なども替え、小遣いの用意も出来るからである。
会計で、出張旅費の概算払いをしてもらって帰ってくると、伴課長が、意地悪そうな顔で言った。
「大阪支店で、せいぜい顔を売ってくるといいよ。ひょっとすると、大阪勤務になるかもしれないからな」
「美人の女事務員がいないか下見してくるといいぞ」
三宅がしりうまにのって言うと、みんながどっと笑った。
3
午後一時に京都に着き、D社へ顔を出して仕事をすませると大沢は、京都駅前のホテルヘ入った。
シングルベッドとテレビと応接三点セットだけの狭い部屋だ。時計を見るとまだ三時半だった。
財布には、帰りの新幹線の切符以外には、一万六千円ほどしかない。女を呼ぶにも、飲みにいくのにもこれでは心細い。
(六時になったら、夕食をして、おとなしくテレビでも見て寝るか)
そう思ってベッドに寝ころがったが、気になるのは一カ月後にせまった人事異動である。
今朝の鈴村課長のことばといい、今日の出張といい、大阪支社にとばされるのは事実かもしれないと思えてくる。
二年に一人位、大阪支社へまわされる社員が出てくるが、一度、大阪支社勤務になって、東京本社に帰ってきた社員はない。
大沢の会社で、東京本社から大阪へまわされることは、完全にエリートコースからはずれるということである。
それに、大阪へ行ってしまうと、彩子と結婚できなくなるだろうことは、火をみるよりも明らかなことだ。彩子は一人子で、結婚するときは、養子でなくてもいいから、なるべく両親の家に近いところに家庭をもちたいと言っている。その点、大沢が係長に昇進し、社宅をもらえば、問題はないわけである。社宅は、彩子の家から歩いて十分の近さにあるからだ。
すべて伴課長のせいなのだ。伴課長を殺せばどんなにせいせいするだろう。そう考えたとき、入口でガサガサッと音がしたので、大沢は驚いて腰をうかせた。
ドアのところへ行ってみると、ドアの下の隙間から夕刊が差し込まれていた。
ベッドの上にすわって、夕刊を開くと、別れた妻に復縁を迫り、話がこじれて、妻の実家の家族を皆殺しにした男が、その場で捕ったというニュースが大きく報じられていた。
いつもだったら、馬鹿な男がいるものだなあと笑って見すごす記事だが、今日ばかりは身につまされて暗たんとした気分になった。
なるべく気をひきたてようと、テレビ欄を見ていた大沢は、ふと目をこらした。
彩子の出演した番組が、関西では一日遅れで、今日の夜七時から放映されるのだ。
ゲスト出演した歌手の名前からも、番組の解説からも、それが彩子の出演した回の分に間違いないことがわかった。
大沢は、勢いよく立ち上ると電話のところへすすんだ。
彩子に京都に来ていることを連絡しよう。
そして、京都へきたおかげで、今晩もう一度、彼女の出演した番組を見ることが出来ると言おうと思った。
しかし、大沢は、電話機にのばしかけた手をひっこめた。今、四時まえである。彩子がまだつとめから帰宅していないことに気がついたからだ。
(番組のはじまる七時前に電話しよう。そして出来ればもう一度、写真をとろう)
大沢は、ベッドの上に放り出されたカメラと、部屋の隅にあるテレビとをなにげなく眺めた。テレビは、大沢の家にあるのと同じメーカーの同じ大きさのテレビだった。
その途端に、大沢の頭で閃《ひら》くものがあった。
(昨日、彩子がテレビに出演したとき、写真をとっている。それを、今日ここで七時から見てとったことにする。そして、アリバイを作って、そのあいだに、伴課長を殺すのだ。
テレビは、同じメーカーの同型のテレビだし、まわりのものが写らないようテレビの枠一杯にとっているから、昨日とったか、今日とったかわからない。幸い、昨日、彩子にも、園田にも、テレビを見ていないと言っている。その時から計画的にウソをついたとは言えない。なぜなら、今日、京都へ出張になったのは、昨日からわかっていたことでなく、今日、突然きまったことだから。
どちらにしろ、今日写したのだと言いきれないにしても、昨日写したのだとも言いきれないはずだ)
思いつくと、大沢は、すぐ実行にうつした。
4
夕方のロビーは、チェックインする客で混雑していた。大沢は、目立たないように部屋の鍵もフロントへあずけずホテルの外へ出て、新幹線の乗り場へ急いだ。
途中で、鞄《かばん》の底から探し出したサングラスをかけた。去年の夏に買ってデートの時にかけたら、彩子に似合わないと言われ、一度でやめてしまったサングラスである。
自由席券を買ってホームに出ると、丁度入ってきた十六時五分のひかり136号にとび乗った。
車内では、すみの座席に坐り、新聞をかぶって寝たふりをして、なるべく人の目につかないように気をつけた。
東京駅について時計を見ると、丁度七時だった。下りのひかりの最終は、二十時二十四分だ。とにかく、その時間までに帰ってこなくてはならない。
四谷にある伴課長のマンションのドアの前に立って、大沢は耳をすませた。三宅はまだ来ていないようだった。三宅の地声は大きいので、来ていると一ペんにわかるのだ。
勿論、大沢も、接待をすませてからだと三宅が九時までにはこれないだろうという計算をして来たわけである。伴は、人がくるとわかっている時は、ドアの鍵をしめないのを知っていたので、大沢は、注意深くハンカチをかぶせてドアのノブをまわした。案の定、ドアは簡単にあいた。小さくテレビの音がきこえる。
伴は、奥の部屋でテレビを見ているらしい。大沢は、キッチンにかけてあった日本|手拭《てぬぐ》いを手にもって、伴の背後へしのびよった。
伴は、テレビを見ながらウイスキーをのんでいて、大沢が、真後ろに行くまで気がつかなかった。
伴は、人の気配にふりむき、大沢の姿を見ると、恐怖の表情をうかべてなにか叫ぼうとした。
大沢は、夢中でとびかかってしめつけた。
五分間ぐらいもしめつづけ、やっと、くびから手をはなした。三宅が入ってこないかという恐怖心とたたかいながら、遺留品と指紋を残さぬよう気をつけた。
伴のマンションから逃げ出し、最終のひかり179号の座席に腰を落ちつけると、大沢は、ほっと大きなため息をついた。
安心と不安の入りまじったため息であった。
京都までの三時間、大沢は必死になって、何か手ぬかりがなかったかと考えつづけた。
名古屋近くなって、急に気になり出したのは、昨日彩子をとった写真が果たしてうまく写っているだろうかということだった。カメラがこわれていたり、フィルムが動いていなかったりして、写っていなければ、折角のアリバイも駄目になってしまう。
次に、たとえ、写っていたとしても、テレビ以外のものが写ってしまっていないかということが心配になってきた。
ホテルと、自分の部屋と、テレビは同じメーカーの同じ大きさのだが、まわりのものはすべてちがう。ホテルのテレビの後ろは壁になっているが、自宅の方は障子である。
いくら、テレビの画面以外は、黒っぽく写るからといっても、障子か壁かの見分けはつく。
何枚も写したので、一枚ぐらいうしろの障子が写っているかも知れない。大沢は、京都駅に着くまで考え続けた。
しかし、新幹線を降りる時に、もう、そのことは考えないことに決めた。
今更考えても仕方のないことだし、とにかく、早く現像に出して、出来上がりをみた上で、アリバイに使うかどうか決めようと思ったのである。
それに、彼は、テレビの画面をこれまでに何度か写したことがあって、画面一杯に写すことには慣れている。大丈夫だという自信があった。
広島出身の鈴村人事課長に、カープ優勝の瞬間のテレビ画面を写して渡したこともあるし、外国から、有名なゴルファーが来たときには、そのフォームを写してパネルにしたこともある。
はじめの頃は、暗い部屋の中で、夜写すのだからと思って、フラッシュを焚《た》いてしまったり、画面が小さくてまわりの黒いところが多くなったり失敗も多かったが、最近では、画面一杯に写し、まわりにテレビの画面だということがわかる程度に、細く枠を残して写せるようになった。
シャッター速度も、カメラ屋では、テレビの画面を写すなら走査線が画面のはしからはしまで通るのが1/30秒だから1/30がいいときいたが、やってみた結果では、1/15の方がいいということまでわかってきた。
先日も、彩子が好きだといっていた洋画の再放映がテレビであったので、テーマ音楽をテープでとり、テープの箱の上に、映画の場面の写真を写したのを貼って渡したら、彩子がとてもよろこんだ。
こんな実績があるから、今度、写真をとったことをアリバイにしても、それほど不自然な感じはしないのではないかと大沢は思った。
5
ホテルの部屋に帰って時計をみると、十一時二十五分である。
東京では、今頃、伴課長の死体が発見されて、大さわぎになっているだろうと思うと、さすがに平静ではいられない。
大沢は、風呂に入ることにした。湯からあがり、浴衣に着がえると、なにもかも洗い流されたような気持になって、やっと心が落着いた。
伴課長を殺した瞬間から続いている喉のかわきが、一層ひどくなった。
ビールを飲もうと廊下のはしの自動販売機のところへいったが、コインをほうりこんでも、どうしたわけか出てこない。たたいていると、ボーイが通りかかって、鍵を開けて出してくれた。この機械は、時々故障するのだそうだ。
部屋にかえってビールの栓《せん》を引きあけながら、今、ボーイに会ったことは、アリバイ上よかったなと、大沢は冷静に判断した。少なくとも、この時間に、ホテルにいたことは証明される。
目ぐすりを探そうとして、なにげなく鞄をあけると、夕方、京都駅で買った駅弁が、そのまま入っていた。
ビュッフェとか食堂車に入るのはまずいと思い、京都駅で買っておいたのだが、車内では、顔に新聞をのせて寝たふりをしていたので、とうとう食べずにもって帰ってしまったのだ。
(この折箱を捨てるには、慎重に考えなくてはならないな)
大沢は、駅弁の包みを手にしたまま考えこんだ。
最初は、この折箱があることはまずい。ずっと部屋にいたはずなのに、駅まで出かけて行ったことがバレる。駅のトイレかどこかへ捨ててこなくてはと思ったが、しばらく考えているうちに、この駅弁をなんとかプラスにしようと思った。
明日、東京に帰って、刑事にまず訊かれるだろうと思うのは、今日三時半にホテルに入ってからあとの行動だ。
大沢は、刑事との会話を自問自答してみた。
「三時半にホテルヘ入って、そのあと何をしましたか?」
と刑事。
「ずっとテレビを見ていました。七時からは友人の野川彩子さんの出るテレビ番組『ヤング・クイズ・オー』があったので、それをカメラにとりました」
「では、三時半から七時までホテルの外へ行かなかったんですね」
「ええ」
「じゃ、食事はどうしました。夕食は? ホテルから出ないというと、ホテルの中のどこかの店で食べたのですか」
「ええ、そうです」
「どの店ですか?」
「名前は忘れましたが、たしか洋食を……」
「ホテルの中の店だったらサインして会計についているはすですね。それとも現金で払ったのですか?」
(これはまずい。やっぱり外で食事をしたことにしよう)
大沢はもう一度会話をやりなおした。
「ええと、三時半にチェックインして、七時までに、……そう五時半ごろ外で食事をしました」
「店はなんという店ですか、食べたものは?」
(駅前に、なんとかいう店があったな。そうだ。レストラン「京都」だ)
「『京都』というレストランに入りました」
「なにを食べましたか?」
「ステーキを」
「いくらでした?」
「千五百円」
「あすこのステーキは二千円以上ですよ」
(まずい、やっぱり駅弁を買ったことにしよう)
「三時半にチェックインして、四時ごろ、駅弁を買いに行きました。金もあまりないし、旅に出たら駅弁が食べたいと思っていたから。そして、六時ごろ部屋で食べました」
(これだと自然でいい。もし、ホテルを出るところや、駅で姿を見られていても駅弁を買いに行っていたといえる。あと、この部屋を掃除した人が、ごみ入れに、駅弁の空《から》があったことを証明してくれるだろう)
大沢は、折箱を開いてみた。五百円の幕の内弁当である。三分の二におにぎり状のごはんが入り、あとに、玉子やき、かまぼこ、フライ、つくだに、たきあわせなどが入っている。どんなものが入っていたか見ておいた方がいいと思い、一生懸命おかずを覚えた。
夕方に買ったのだが、まだ傷《いた》んでいない。考えてみると、昼に軽い食事をしたきりで、殺人をしたあととはいえ、やはり、空腹である。大沢は、弁当を食べることにした。
からを捨てるにしても、中身が入ったままでは怪しまれるということにも気がついた。
食べながら、テレビをつけた。テレビの左に、料金を入れるところがついている。百円を入れると、画面が明るくなって、ゴルフをやっているのがうつった。
この時間になると、どのチャンネルもゴルフになる。
「そうだ。カメラで、このゴルフもとっておこう。そうすると、彩子をとったコマとつながって、いかにも今日とったように見えるだろう」
弁当を途中でほうり出して、大沢は、写真を写すのに熱中した。
そのうちの一枚には、テレビの左横についている料金箱が入るように写した。
写し終って、残りの弁当を食べ終えると、空箱をごみ入れに捨てた。
その時、電話のベルが鳴った。大沢は、ぎょっとした。このホテルにいるのを知っているのは会社のものだけだ。
電話は、やはり会社の三宅からだった。そして、伴課長が死んだことを告げ、九時半に自分がたずねていって発見したとつけ加えた。
今まで警察にいて帰ってきたのだという三宅の声は、いつもより小さく、いつもより大沢に対して丁寧だった。大沢を疑っていて丁寧なのか、伴課長が死んだことで、次に係長になるであろう大沢に変わり身の早いところを見せているのかどちらかわからなかった。
大沢は、明日、朝大阪支社へいき、なるべく早く帰京すると告げた。
受話器を置きながら、とにかく、これで、今晩この時間にはホテルにいたことが三宅にもわかって良かったと思ったが、寝ころがってから、また、心配なことに気がついた。
三宅は、九時半に死体を見つけてから、十一時半までの間にこの部屋に電話をしてこなかっただろうかということである。
もし、その間に電話されたら、いなかったことがわかる。
とにかく、夕方の四時から十一時二十五分までこの部屋にはだれもいなかったのだ。その間、会社の誰かから電話はなかっただろうか。また会社へ電話して、大沢の出張を知った彩子が、何度も電話をかけてきたのではないか。大沢は、次から次へと悪い場合を考え出して眠れなくなった。
翌日、大沢は、昼過ぎに東京へ帰ってきた。会社へ出る前に現像所へよって、フィルムを出してきた。普通の写真店だと、三日位かかるが、メーカー系列のカラーフィルム現像所へ直接たのめば、翌日に仕上げてもらえるのを知っていたからである。大沢は、現像所を出ながら写真を見るまでは、写真を写したことはいわないでおこうと決心した。
しかし、会社へ出ると、そういうわけにはいかなかった。刑事が応接室につめていて、順に呼び出しを受けていろいろきかれるのだ。特に大沢については誰かが告げ口をしたらしく、動機があるとして、つっこんだ調べがなされた。仕方なく写真を写し現像に出したことをしゃべってしまった。
一度目の調べのあと、大沢は、彩子の会社に電話をしてみた。彩子は、昨日大沢が、京都に行ったのは知らないようだった。ほっとして大沢は、彩子の出ていたテレビの画面を写したと話した。
思ったとおり、彩子の声がはずんだ。
「ほんと? 本当に写してくれたの」
「一昨日《おととい》見てなくて怒られたから、昨日京都で見たので写して来たんだよ。京都で一日遅れて放映してたからね。きれいだったよ」
「うれしい。いつ出来るの?」
「明日。だから、明日の夕方、勤務が終ったらどこかで会って見せるよ」
そのあと、大沢は、伴課長が昨夜殺されたので、会社は今大さわぎだと知らせた。これだけの事件を黙っていては、かえっておかしいからだ。
翌朝、大沢は、祈るような気持で写真をとりに行った。写真は思ったより、しっかりと写っていた。
大沢は、その日の調べのとき、その写真を刑事に提供した。
6
長身の久保田警部は、先程から、部下の刑事たちと、大沢が提出した数枚の写真を見ながら話しあっていた。中には、写真にくわしい杉刑事もいる。
「テレビの画面なんて写真にとっても、どうせ不鮮明なものだろうと思っていたが、案外きれいに写るものだな。彼は、よほどカメラ技術に長じているのかな」
「いえ、大したことありませんよ。しぼりさえあわせれば誰にでもとれます。ただ、彼は、慣れてはいますね。画面一杯にとってあって、枠がびしっときまっていて、まわりのものはなにも写っていませんしね」
「で、問題は、この写真が、犯行前日にとられたものか、犯行当日にとられたものかということだが、どちらかはっきりさせる方法はないかな」
「調べによると、大沢の部屋にあるテレビとホテルのこの部屋にあるテレビは全く同じメーカーの同じ13インチのものなので、こうして画面だけ写されると区別のつけようがありませんね」
「それが狙いなんだな。犯行当日にとったと言いきれない代りに、前日にとったとも言い切れないというのが巧妙なところだよ」
「でも、もし、この写真のアリバイがトリックだとしても、計画的であったとはいえませんよ。京都に出張を命じられたのも当日突然に言われたのだし、ホテルのテレビが同じだったのも偶然だし……」
「条件が自然にととのったから、犯行にふみきったというのが、本人にとっては有利だが、こちらにとっては一番やりにくいんだよ。これがすべて計画的で、上司にねだって京都に出張させるようにしむけたとか、自宅のと同じテレビのあるホテルを選んで歩いたとか、不自然なことがあるとそこから割れてくるんだが」
丸顔で背の低い藤本刑事が写真を手にとっていった。
「この最後に写したゴルフの数枚は、確かに当日写したものだといえますね。この一枚は、左はしに料金入れのボックスがついているのが写っているし、この一枚には、テレビの上に壁の部分が見えますからね」
「京都府警に協力してもらって問いあわせたが、そのゴルフの写真を写した時間前後には、自動販売機のところでボーイとも会っているし、東京の三宅から電話も入っている。本人が、その部屋に入っていたのは、間違いない。しかし、東京発のひかりの最終は二十時二十四分で、京都に帰ってくると二十三時十七分、ホテルに入ると、十一時二十五分だから、もし、東京に行っていたとしても、十一時半以後は京都に帰っている。いくらその時間のアリバイがあっても無意味だな」
「本人の証言を信じるとしたら、こうなります。三時半に、京洛ホテルに一旦チェックインしたが、四時前に、駅に駅弁を買いに行った。そのあとは、ホテルにとじこもって、六時頃食事をし、七時から三十分、恋人の出るテレビを見て写真をとり、そのあと疲れが出てベッドで眠ってしまった。気がついたら十一時半になっていた。一時間ほど眠ってパチンコにでも行こうと思っていたのに残念だったと思い、風呂に入り、ビールを買って飲んでテレビを見た。好きなゴルフのテレビがあったので、写真にとったりしていたら、東京の三宅から電話が入った――というわけで、一応話は合うんです」
藤本刑事がメモをみながら言うと、今度は若い池刑事が、
「反対に、彼が犯人とするなら、三時半にチェックインしたあと、駅弁を買いに行ったと称して京都駅に行き、その足で、十六時五分のひかりに乗る。次の十六時二十九分のひかりだと、東京着が七時二十分になってしまい、八時二十四分の最終で引き返すことができませんから。十六時五分に乗ると、東京着が十八時五十六分で、犯行を終えて二十時二十四分に乗って、京都へ二十三時十七分に着きます」
「犯人だとすれば、四時から十一時半まで部屋をあけているわけだな。彼の部屋にその間に電話したものはないのか?」
久保田警部がきいた。
「会社のものも、恋人もしてないようです。会社のものは、伴課長に受けのわるかった大沢にかけるものはなかったし、長距離でかけるほどの用事もなかったということです。恋人の方は、京都に大沢が行っていることを知らなかったし、この間、折角自分が出たテレビを見てくれなかったということで怒っていましたから別にかけなかったようです」
「会社のものが電話をかけたが、いなかったじゃないかと言ってひっかけてみますか?」
「眠っていたとか風呂の湯を入れていて気づかなかったというかもしれないし、自動販売機のところへ行っていた間かもしれないといって逃げられるよ。それにうそはいけない」
久保田警部がたしなめた。
「彼が犯人だとしても、前日に写真をとったときは、まだ京都へ出張することも、京都で一日遅れで放映することも知らなかったはずですが、何故、テレビを見ていないと言ったんでしょう。この時彼がテレビを見ていないと言ったのは、恋人の野川彩子だけでなく、園田という彼と仲の良くない男も証言しています。やっぱり彼はシロじゃないでしょうか」
藤本刑事が発言した。
「でも、今のところ、大沢が一番動機が強いし、アリバイもあいまいなんですよ。動機の強いという点では、伴と口論して出入りさしとめとなり、会社が倒産しかかっているS製工の松下もいますが、彼は、当夜、金策に行って他人に会っていてアリバイがあるし、発見者の三宅も、被害者の家に行くまで接待宴会に出ていてアリバイがはっきりしています」
久保田警部は部屋のすみにいた杉刑事を手まねきして呼んだ。
「君は写真にくわしいそうだが、彼が東京にいっている間、タイムスイッチを京都のホテルにしかけておいて、テレビの画面をとったということは出来ないだろうか?」
「一枚とるのだったら、カメラのレリーズ穴に電磁シャッターをつけて、コードをタイムスイッチにつないでおいたらできます。テレビの方は、つけっ放しにしておくか、別のタイムスイッチで少し前に電気を入れておくかしてですよ」
「でも八枚もとっているのだからその方法じゃだめだな」
「いや、出来ないことはありません。フィルムの巻きあげは、モータードライブという部品をカメラの下につければシャッターをおすたびに、一コマずつ自動的にすすみます。だから電磁シャッターに何分おきかに電流を送る装置さえつければ、何枚でも自動的にとれます。そういう装置を使って、バラの花が開く時の状態を調べる連続写真を写したのを見たことがあります」
「じゃ、それだ!」
池刑事が目を輝かせた。しかし杉は首をふった。
「でも、それだと、この写真みたいに、写される人が大写しになった時とか、正面をむいたときを狙って写すということができないと思いますよ。司会者だけの時が写ったり、他のゲストの時が写っているのが、一枚もなく、きれいに入っていることから、これは自動シャッターじゃありませんね。フィルムの方も見ましたが」
「それじゃ、やはり、前日写したことになるな」
久保田警部はむつかしい顔をした。
「前日東京で放映されたときと、当日京都で再映されたときとは、スポンサーがちがうとか、画面でカットされたところがあるとか、なにかないかと思って、テレビ局に問いあわせたんですが同じでした」
「それに、たとえ、そんなことがあっても、恋人の顔を写すのに一生懸命で、スポンサーも、なにもはっきり見てなかったと言われたらどうにもならないよ」
「同じメーカーの同じ型のテレビでもどこか違うところはないのかなあ。製造年がちがうとデザインがちがっているとか、メーカーのマークがついている場所がちがうとか……」
「くろくてよくわからないでしょうが、右の方に、スイッチとかチャンネルとかの機械部分が少し写っているでしょう。ここに、メーカーのマークもついていますが、同じですね。念のため、大沢の家のテレビを写してきたのがここにありますし、たしかに、京都でとったと思われるゴルフの写真ともくらべてみましたが、同じです」
「画面にきずなどもありませんねえ」
横からのぞきこんで藤本刑事もつぶやいた。
「それにしても、よりにもよって同じテレビだったんですね」
「それは仕方がないと思う。普通の家庭にあるような18インチとか20インチのだと、種類もデザインも色々出ているが13インチの携帯用は、三社しか出していないし、その中で、一番値びきの多いメーカーのを買うとなると同じになる可能性が多いからね。ホテルにあるのはこの型が多いよ。大沢も独身で狭い部屋にいたから、ホテルのシングルの部屋用とは条件も似てくるわけだ」
「大沢の部屋とホテルの部屋とでは、明るさなどがちがうと思うんですが、その点のちがいなどがあらわれてないかなあ、画面に」
「部屋をとったのでなくて、テレビ画面をとっているので、その点は出てませんねえ。とにかく画面以外のまわりはほとんど暗く写っているのでねえ。これはカラーですが、念のために白黒でやきつけてみます。露出寛容度《ラチチユード》がちがうから、少しはまわりがはっきりするでしょうから」
杉はそう言ってフィルムを持ち去った。
そのあと、刑事たちは、色々と討議を交したが、やはり、大沢のアリバイが、誰かに会ったというのでなく、写した写真であるということがひっかかるとして、藤本刑事が調べのため京都まで出張することになった。
7
藤本刑事は、京都ははじめてだった。
大沢も、大阪支店には、二、三度行ったが、京都にははじめて行ったと言っていたのを思い出した。
駅前には、パチンコ屋もあれば、たべもの屋もある。京都タワーもそびえているし、みやげもの店も多い。
刑事でさえも、仕事が終ったら、この機会にその辺をのぞいたり、子供に京都のみやげの一つも買いに出ようと思うくらいだ。
独身の大沢が、三時半には仕事を終えてホテルに入ったというのに、どこへも出ず、食事も駅弁を買ってきてすませ、好きなパチンコにも出かけず、恋人に電話もかけなかったというのは、少しおかしいような気がした。
出がけに伴課長に言われたことや、人事異動のことが気になってふさぎ込んでいたとしたら、かえって気ばらしに外へ出るだろうし、外へ出る気もおこらない程、なやんでいたとしたら、七時半から十一時半までも、ぐっすり眠ってしまうというのも考えられない。
藤本刑事は、大沢が泊ったのと同じ部屋に泊まり、同じように駅弁を買ってきて食べ、同じように、テレビの画面を写してみようと思った。
部屋に入ってコインを放りこみ、テレビをつけると、刑事は、京都駅で買って来た新聞を出して、テレビ欄を見た。
今日は土曜日、時間は午後一時である。10チャンネルでは、十二時四十五分からの吉本新喜劇で、藤山寛美が出ている。東京ではこの時間にこの番組はやっていない。
「関西と東京では番組がちがうんだなあ」
と、刑事はつぶやいて、鞄の中から、東京の今日の朝刊をとり出して見くらべた。
「仁鶴たか子の夫婦往来」という番組は、京都では、二時半から4チャンネルであるが、東京では、十二時から6チャンネルである。
二時から京都では、「新喜楽座公演」があるが、東京では、「末広演芸会」である。
六時から、京都である「秘密戦隊ゴレンジャー」は、東京では、七時半からで、その時間、京都では、「部長刑事」という大阪番組の刑事ものが入っている。
その他、随分、東京と京都では番組がちがっている。
刑事は、フロントヘ行って、伴課長が死んだ日の新聞をみせてもらった。大沢の言った通り、その日は、野川彩子の出た「ヤング・クイズ・オー」という番組が七時から放映されている。歌のゲストの名前から、その回の分が、前日東京で放映された回の分であることに間違いなかった。
藤本は新聞を見たあと、従業員たちに、いろいろと当日のことをきいて廻った。
部屋へ戻ってから煙草を一本吸い終わると刑事は、東京の捜査本部へ電話を入れた。京都に来てよかったと報告するためであった。
8
大沢五郎は、事件後、平穏な生活を送っていた。警察はともかく、社内では、その日京都に行っていた大沢は、嫌疑外だという受けとられ方をしていた。その上、会社としては、なるべく会社とは関係ないところに犯人がいるのが望ましいというムードだった。
たまたま、伴課長のマンションで、事件の一週間前に、泥棒に入られた部屋があったりしたので、ものとりが居直ったという説が有力だった。
伴課長は、殺され損という感じで、社内は次第に平静をとり戻していった。
伴課長が死んだあとの暫定人事として、課長補佐だった若山というおとなしい人物が課長代理となり、大沢が係長代理になった。一カ月後の人事異動で、それぞれ代理がとれる含みである。
大沢も、伴課長を殺すという大きなふんぎりをつけたあとなので、彩子に対しても、今までのような遠慮がちの態度をやめ、積極的に出ることにした。幸いなことにそれが彩子にとって男らしくうつったようだった。
そんなある日、会社から帰った大沢のところへ、二人の刑事が訪ねてきた。
背の高い久保田という警部は、大沢の前に写真を並べた。そして、軽く確かめるような調子で言った。
「伴課長が亡くなった夜、あなたが、京都で写したといって提出して下さった写真はこれでしたね。確かめて下さい」
「そうです。間違いありません」
「前日にとったようなことはありませんか。束京では前日に放映になったのですが……」
「前日には絶対見ていません。野川さんや園田も知っています。だから当日、京都にいたというアリバイになると思い、提出したのです」
久保田警部は、黙ってポケットから、二部の新聞を取り出し、テレビ欄のところを指していった。
「こちらは、前日の東京の新聞のテレビ欄です。ここに赤えんぴつで囲んでありますが、野川さんの出演された番組は、|10チャンネル《ヽヽヽヽヽヽ》の七時からになっていますね。次にこちらは、あなたが、翌日、京都に行ったときの京都の新聞のテレビ欄です。『ヤング・クイズ・オー』は、|6チャンネル《ヽヽヽヽヽヽ》の七時からになっています。ところが、この写真を見て下さい。これは、あなたにお借りしたフィルムを白黒にやいて、よりはっきりさせたのですが、この一枚はチャンネルつまみが、ほぼ水平になって10をさしているでしょう。カラーの方でも、かすかに見えますよ。だから、これは、京都で写したものでなく、東京で前日に写したことになります。東京で10チャンネルの番組は、京都では6か4チャンネルになります。NHKだって、東京では1チャンネルですが、京都では2、山口県では6チャンネルに変わることを知っているでしょう」
そのあとを、背の低い方の刑事が続けた。
「あなたの泊った部屋に、わたしも泊って来ましたが、あの部屋のテレビは写りが悪いと苦情が出ていたのをボーイが思い出して、夜の八時に取りかえに行ったそうですよ。その時、あなたは不在だったし、料金ボックスには、八時現在、一枚もコインが入ってなかったということです。ということは、七時からのテレビを、あなたは見なかったということになりますね」
大沢は、目の前にかざされた写真を見た。
うつろな目に、テレビの画面を縁どっている枠が、弔意の黒枠のように見えた。
死 者 の 掌《てのひら》
1
現場の状況からして奇妙だった。
死んだのは、建設会社の副社長の大八木三郎、五十二歳である。
死体の口のアーモンド臭から死因は、青酸死とすぐわかった。ウイスキー瓶と飲みかけのグラスが一個、机の上に出されていた。なぜか、俯《うつぶ》せに倒れている死体の背中に、三通の預金通帳がのっていた。
「おーい、中《なか》さん」
と、半田警部補は、部下の中山刑事を手まねきした。
「ちょっとそこに俯せになってみてくれ」
「ここにですか?」
中山刑事は、ちらりと死体をみて、眉をしかめたが、半田警部補が黙っているので、仕方なしに、死体の横に、俯せになった。
「その恰好《かつこう》で、貯金通帳三通背中にのせられるかい?」
「さあ……」
「ちょっとやってみてくれ」
半田は、自分の警察手帳を中山に渡した。
中山は、身をひねるようにして、それを背中にのせた。
「あと二通」
といって半田は、他の刑事からとりあげた手帳をわたした。
二通は辛《かろ》うじてのったが、三通目はどうしてものらなかった。
「主任! どうしても無理ですよ」
中山は、苦しげにいった。
「もういいよ」と、半田がいうと、中山刑事は、手のほこりをたたきながら立ち上った。
「これは、絶対に他殺ですよ」
「それはわかるがね……」
と、いいながら、半田は死体の方をみやった。
「なぜ、死体の上に、三通の通帳をのせておいたんだろう? まるで並べたように」
「通帳を盗《と》って行こうと思ったが、金額を見るとあまりに少ないので、捨てて行ったんじゃないでしょうか。……それとも、この人が殺されなければならなかった理由は、この通帳にあるのだと犯人が、我々に知らせているのかも知れませんね」
半田と中山が、そんなやりとりをしている間に、鑑識の現場検証が終った。半田は、手袋をはめた手で、通帳の一つをつまみあげた。
S銀行の普通預金通帳である。名義は、被害者、大八木三郎になっていた。
金額は、一千五百万円。
「こっちは、二千万円です」
と、中山が、もう一通の通帳を開いて、大きな声をあげた。
三通目の通帳の金額は、三千万円。合計の金額は六千五百万円にのぼる。
「大変な金額ですね。なぜ、犯人は、これを捨てていったんですかね?」
中山刑事が、不思議そうにいった。
「捨てていったんじゃないさ」
と、半田は、難しい顔で、通帳の数字を見つめた。
「犯人は、わざと、置いて行ったんだ」
「なぜです?」
「それがわかれば、犯行の動機がわかるさ」
と、半田はいった。
犯人は、建設会社の副社長を殺した。だが、六千五百万円の預金通帳には、眼もくれなかった。
いや、このいい方は正確ではないかも知れない。
犯人は、三通の預金通帳を、何のために、丁寧に、死体の背中に並べて置いていったのだろう。
その時、中山刑事が、「主任ッ」と、甲高《かんだか》い声をあげた。
「通帳の最後に、こんなものが――」
中山刑事が開いたページには、驚いたことに、真っ赤な人間の手形が、押されていた。
半田は、あわてて、自分の手にした通帳の最後のページを開いてみた。
そこにも、真っ赤な手形。
よく見ると、それは、赤い朱肉に、掌を押しつけて、判でも押すように、通帳におしたものだった。
三通目にも、同じ手形があった。
朱肉だとわかったあとも、なぜか、半田には、それが、まるで、血の手形のように見えた。
2
普通の大きさの、成人の手形であった。指紋も、掌紋も、はっきりと見える。
「仏さんの手形でしょうか?」
と、中山が、死体を見下ろした。
「さあな。被害者の手形としたら、なぜ、こんな真似をしたのかわからん。もちろん、犯人がやったとしても、意味がわからんね。とにかく、鑑識に、調べて貰おうじゃないか」
半田は、鑑識に、手形の指紋の照合を頼んだ。
そのあと、預金通帳を更に調べてみると、いずれも、昨日、新しく作られていることがわかった。つまり、入金も、昨日一回だけなのである。
半田は、中山刑事にいって、もう一度、現場を見廻した。
かなり大きな寝室に、ダブルベッドが置かれている。それに、衣裳ダンスと、カラーテレビ、どこにも、荒らされた気配はなかった。
(とすれば、顔見知りの犯行ということになるのか)
そんなことを考えながら、半田は、衣裳ダンスを調べてみた。
英国製の高価な背広やコートが、ずらりとかかっている。どれにも、「大八木」のネームが入っていた。
一番上の引出しには、ダンヒルのパイプや、ライター。どれも、高いものなのだろうが、半田には興味がなかった。だが、二段目の引出しをあけたとき、彼の切れ長の目が、きらりと光った。
古い預金通帳が、一杯入っていたからである。数えてみると全部で十通。いずれも、田中五郎という名前になっていた。
銀行は、S銀行T支店。例の三通の通帳と同じだった。
半田は、十通の通帳にある数字を、暗算でプラスしていった。
合計、六千五百万円。
(想像どおりだな)
と、思った。被害者名義の三通の合計と、ぴったり一致するのだ。
そして、こちらの十通は、いずれも、昨日解約されている。
(面白いな)
半田は、ひとりで肯《うなず》いてから、中山刑事に、関係者を連れて来てくれといった。
最初に入って来たのは、被害者の甥《おい》に当たる大八木|昭《あきら》という三十歳の男である。
背が高く、口ひげを生やした大八木昭は、ちらりと、死体に眼をやってから、
「叔父は、自殺ですか?」
と、半田にきいた。半田は、それには答えず、
「死んでいるのを発見したのは、あなたでしたね?」
「ええ」
「その時のことを、くわしく話して下さい」
「叔父は、仕事が忙しい時には、このマンションに、一人で寝泊まりしているんです。僕は、今夜の十時に、ここへ来ました。前から約束してあった仕事の打合わせのためです。ベルを押したんですが、返事がありませんでした。約束しておいたのにと、ちょっと腹が立ちましたが、念のために、ノブに手をかけたら、ドアが開いたんです」
「その時、おかしいとは思いませんでしたか?」
「その時は、僕が訪ねることになっていたんで、ドアを開けておいてくれたんじゃないかと、軽く考えましたよ。ところが、中に入ってみたら、叔父が死んでいたんで、あわてて警察に電話したんです」
「叔父さんは、大森建設の副社長でしたね?」
「そうです。僕が、叔父の秘書をやっていました」
「社長は、どういう人です?」
「森次郎さんといいます。社長、副社長となっていますが、正確にいえば、叔父と森さんとは、共同経営者というべき関係です。僕も、昔のことは、よく知りませんが、二人で苦労して、大森建設を作りあげたということですよ」
「その森社長には、どこへ行けば、会えますか?」
「家は、このマンションの隣ですが、会うことは、不可能ですね」
「なぜです? 外国へでも旅行に出かけられているんですか?」
「いや、三日前、亡くなられたんです」
「ほう」
半田は、膝を組み、強い眼で、自分の前に腰を下ろしている昭を見た。
「すると、大森建設では、四日の間に、社長、副社長と二人が続けて亡くなったことになりますね」
「そうですね。この不景気の上に、悪いことが重なります」
「森社長は、病死ですか?」
「いえ。三日前の夕方、東名高速で、交通事故を起こして亡くなられたんです。中央分離帯に激突して。一昨日は、叔父も、その葬儀に参加したばかりなんですよ。人間なんて、わからないもんですねえ」
「ところで、田中五郎という人物を知っていますか?」
と、半田がきくと、昭は、首をかしげて、
「知りませんねえ。うちの社員にも、そんな名前の者はいなかったはずですよ」
と、いった。
次に、半田は、被害者の妻、大八木加代子に会った。
加代子は、昔風の平凡な初老の女で、夫の死にぶつかって、ただ、おろおろするばかりで、会社のことは、ほとんど知らず、参考になりそうなことは、何も聞けなかった。
二人の間に子供はなく、残された家族は、甥の昭だけだということだった。
田中五郎について、半田はきいてみたが、加代子は、記憶がないといった。
翌日、半田は、中山刑事を連れて、S銀行T支店を訪ねて、問題の預金通帳のことを、支店長にきいてみた。
「田中五郎さんのことは、よく存じていますよ」
と、支店長は、ニコニコ笑いながら、半田にいった。
「六千五百万円も、お引き出しになるんですから、もちろん、お引き止めしたんですが、都合があるからとおっしゃるんで。ええ、いつも、同じ方がいらっしゃいましたよ」
「この人ですか?」
と、中山刑事が、大八木の写真を見せると、支店長は、あっさりと肯いて、
「ああ、その人です。この方が、どうかなさったんですか?」
「昨夜、亡くなりました。殺されたんですよ」
「もう一人の方は、どうなさったんですか?」
「もう一人?」
「最初、預金にこられたときは、男の方、お二人で見えました。この方が、お金をわたして手続き一切をなさいましたが、もう一人の方は、うしろでじっと見守っておられました。だから団体のお金かなにかでないかと思いましたが……」
支店長の言葉から、半田は、もう一人の男というのは、共同経営者の森社長にちがいないと直感した。田中五郎は、明らかに、二人が財産かくしにつかった偽名なのだ。次郎と三郎を合わせると、五郎になる。
二人の共同の財産を、森社長が死んだのをいいことにして、大八木が、おろして、自分の預金にしてしまったのではないだろうか。
銀行の方は、収穫があったが、肝心の手形の方は、思わしくなかった。鑑識の宮本技官が、浮かない顔で入って来て、「手形の主が、見つからないんだよ」と、半田に言ったからである。
「指紋や掌紋を、被害者の周囲の人間のそれと照合してみたんだがねえ。一致する者がいないんだ。甥の昭、被害者夫人の加代子、それに、大森建設の社員全部の指紋、掌紋をとってみたんだがねえ。全部、違ってたよ」
「被害者の指紋とも照合してみたかい?」
「もちろん、真っ先にやってみたよ。だが、違っていたね」
「じゃあ、誰の手形なんだ?」
「それを調べるのは、君たちの仕事じゃないのかい?」
3
捜査は、壁にぶつかった。
三通の預金通帳にあった不気味な手形。犯人のものでなくても、事件に関係ありと半田は睨《にら》んだのだが、被害者の周囲に該当者がいないというのだろうか。
半田は、被害者の共同経営者で、交通事故で死んだ森社長のことを調べてみることにした。二人の人間が、四日の間に続けて死んだのが、奇妙に思えたし、生前、二人の仲が悪かったという噂を聞いたからである。半田は、中山刑事と、殺人現場の隣にある森社長の家を訪ねた。
玄関には、「忌中」の札が、まだ貼られていて、この家の主人《あるじ》が、数日前に亡くなったことを示していた。
派手な洋服がよく似合う三十代の女性が、半田たちを、応接室に案内した。森社長の遺族は、十四歳になる一人娘の千秋と、後妻の悠子の二人だけということだから、この女が、悠子であろう。
「お隣のマンションで、大八木さんが殺されたと聞きましたけど、犯人は、もう捕まりまして?」
と、悠子の方からきいた。
「残念ながら、まだです。それで、いろいろと、伺いたいのですが、亡くなったご主人と、大八木さんとは、最近、上手《うま》くいっていなかったように聞きましたが」
半田が切り出すと、悠子は、構えるような表情になって、
「大八木さんの甥御さんからお聞きになったんじゃあありませんの?」
「なぜです?」
「私の主人が、株で使い込みをしたと、いいふらしているからですわ」
「違うんですか?」
「とんでもない。死んだ人のことを悪くいいたくはありませんけど、大八木さんが、会社の財産の横領を企んでいたんです。主人は、それを知って、ごたごたが絶えなかったんですわ。主人は、もう、大八木さんは、信用おけないから、財産をきちんと分配して別れるつもりだといっていたんです。その矢先に亡くなったんですわ。あれは、きっと、大八木さんが、主人の車に細工して殺したに決っていますわ」
「しかし、その事故を調査した交通係は、エンジンにも、ブレーキ系統にも異常がなく、完全な事故だといっていますが」
「でも、あまりに時期が合い過ぎますわ。主人が亡くなったんで、大八木さんは、社長になるはずだったんですもの」
悠子は、遠慮のない口調でいった。確かに彼女のいう通りなら、森社長の自動車事故は臭い。しかし、彼女が犯人だという大八木三郎も、三日後に何者かに殺されてしまったのだ。
「お嬢さんにお会いできますか?」
「すぐ、呼んで参りますわ」
と、いい残して、悠子は、部屋を出て行った。
「随分、はっきりと物をいう女性ですね」
と、中山刑事が、苦笑した。
「………」
「どうなさったんですか? 主任」
「これを見ろ」
と、半田は、壁のところまで行き、そこに掛っている額を指さした。
血判状のように細長い巻紙に、墨で押した五人の手形がついていた。
〈昭和十九年三月二十五日、学徒出陣を前にして〉
と、書いてあるところをみると、戦時中、出征に際して、友人たちと一緒に記念のために手形をとったのだろう。
手形の下には、それぞれの名前と生年月日が書いてあり、一番左端には、「森次郎」とあった。
「この森次郎の手形が、通帳の手形と似ていると思わないかね?」
半田は、ポケットから、例の預金通帳を取り、朱肉を押した手形を、横に並べた。
「よく似ていますな」
「よく似ているどころか、これは、全く同じものだよ」
「しかし、主任」
と、中山刑事は、蒼ざめた顔で、半田を見た。
「森次郎は、この通帳が作られる二日前に、交通事故で死んでいるんですよ」
4
森次郎の一人娘、千秋が、黙って入って来た。色白で、美人なのだが、どこか暗い感じのする娘だった。半田は、彼女に精神病の兄がいて、三年前に病死したと聞いたのを思い出した。
この娘の持っている暗さは、そのためなのだろうか。それとも、父の突然の死のためなのか。
「お父さんが亡くなられたのは、一月二十七日でしたね?」
と、半田は、確かめるように、千秋にきいた。
「はい」視線を落としたまま、千秋が肯いた。
「遺体を焼いたのは?」
「この近くの焼場です」
「それは、二十八日でしたね?」
「ええ。二十八日の午後です」
問題の通帳が作られたのは、二十九日である。どうしても、一日のずれがある。
「お父さんの遺体を焼く時は、あなたも、立ち会われたんでしょうね?」
「はい」
「妙なことを聞きますが、遺体を焼く時、お父さんの左手首は、ちゃんとありましたか?」
「え?」
「事件に関係があるので、正確に答えて貰いたいのです。お父さんの遺体は、どこも損傷されていませんでしたか? 左手首は、ちゃんとついていましたか?」
「ええ。ちゃんとありました」
「確かですね?」
「ええ。あたし、父に最後の別れをする時、ちゃんと見ました」
と、千秋は、いった。が、半田は、簡単には、信じられなかった。とにかく、森次郎の葬儀があった翌日、彼の左の手形が押された預金通帳が、作られているのである。
半田は、念のために、もう一度、後妻の悠子に会い、同じことを聞いてみた。悠子は、あっさりと、
「それは、あの子のいう通りですわ。右手も左手も、ちゃんとついていましたわ」
「くどいようですが、それを証明するようなものがありますか?」
「あのことを、千秋さんは、いわなかったんですの?」
「あのことといいますと?」
「実は、二十八日に、お棺を火葬炉に入れるとき、一もめあったんですの。棺をあけて、主人と最後の別れをしたとき、千秋さんが、いきなり、主人の左手の薬指から、私との結婚指輪を抜いて、前の奥さんとの間に交した指輪にはめかえたんですよ。みんなが、私の顔を見て、息をつまらせていましたけど、私は、何もいいませんでした。千秋さんが、私を嫌っていたことは、前からわかっていましたもの。そんなわけで、主人の左手首はちゃんとありましたわ。火葬に立ち会った人たちに聞いてごらんになるといいと思いますけど」
「その必要はないでしょう」
と、半田はいった。念のために、森次郎の墨の手形と、家の調度品についていた彼の指紋を持ち帰り、鑑識で調べて貰った。
「完全に同一人のものだよ」と、宮本技官は、ちょっと皮肉な眼つきをした。
「こんな時には、おめでとうというべきなのかな? それとも、残念ながらと、おくやみをいったらいいのかな」
そのどちらにしろ、事実は事実として、受け取らねばならなかった。
二日前に死亡し、すでに遺体が焼かれた男の左手の手形が、新しく作られた預金通帳に押されていた事実は、動かしようがないのだ。この謎を解かない限り、この事件は解決しないだろう。
もう一つ、半田は、森次郎の家が、今度の殺人事件に関係していると考えざるを得なくなった。朱肉の手形によって、森次郎の死が、今度の事件に色濃く影を落としていたからである。
だが、警察によってさえ、単なる交通事故と断定された森次郎の死から、何かが出てくるだろうか。
半田は、この事故に関する交通係の報告書を取り寄せて、眼を通した。
本事故は、一月二十七日午後四時二十六分頃、東名高速道路の浜名湖附近下り車線において、発生したものである。
運転者は森次郎(五十二歳)、車輛は、トヨタカローラDX七五年型(ナンバー××××)で、目撃者の証言及び、事故後の調査により、時速約九十キロで直進中、タイヤがスリップし、中央分離帯に激突したものである。ブレーキをかけたあとが、ほとんど認められないことからみて、運転者は、事故の際、居眠運転していた可能性が強い。
死因は、ハンドルによって胸を強く打ったための窒息死であり、解剖の結果、左鎖骨及び、左|肋骨《ろつこつ》三本が毀損《きそん》しているのが判明した。解剖した医師の報告によれば、ほぼ即死であった。事故後、車体についての綿密な検査が行われたが、エンジン各部、及びブレーキ部分には、何等の故障が認められず、正常に作動することが確認された。
東名高速特別交通係
どこにも、他殺の匂いはない。(だが)と、半田は、自分にいい聞かせた。これは恐らく殺人事件なのだ。だからこそ、三日後に、新しい殺人事件が生まれたのだ。
(しかし、エンジン部分も、ブレーキ部分も正常な車で、運転している人間を事故に見せかけて殺すことが可能だろうか?)
半田は、車の運転にくわしい宮本技官に会った。顔をみたとたんに、例によって、宮本は、からかうような眼つきになった。
「こんどは、車のことかい?」
「うん。高速をスピードを出して走っている車が、中央分離帯に激突して大破し、運転者は即死する。調べてみると、車は、エンジン部分もブレーキも正常で、ブレーキをふんだあとがない。結局、運転ミスということで処理されるが、本当は、事故とみせかけた殺しだったというのはあると思うか?」
「そうだな。まず考えられるのは、運転者に睡眠薬を飲ましておくことだな。運転中にきいてきてどうにもしようがなくなる」
「それが、この場合、睡眠薬も酒ものんでいないのだ。車の運転も慎重で、ここ十年一度も事故はおこしてない……」
「それに普通の運転者だったら、眠くなったら一旦止めるだろうしね……じゃ、車に細工したんだろうな」
「車に細工したら、検証のときわかるよ、なにかわからない方法でもあるのか」
「そうだね、たとえば、ホースで勢いよく水を出し、洗車しているとみせかけて、ブレーキシューの中へ水を入れると、ブレーキのききは、十分の一から二十分の一になり、ほとんどきかない。高速道路などをスピードを出して走っているときに、ブレーキを踏んでもきかず、分離帯に突っこんでしまえば、事故がおこるだろうな」
「でも、ブレーキシューに水が入っているのは調べればわかるだろう?」
「いや、事故の処理がすみ、車を調べるころには、加熱したブレーキによって、ブレーキシューの水は蒸発してなくなってるよ、後で調べてもわからないね」
「どうも有難う、これで、どうやら一つの問題がとけたよ」
「おいおい、今のは、例えばの話だよ。もっとちがう方法かもしれないし、本当に本人のミスかもしれないよ、証拠はないんだ」
宮本技官の言葉を背中にききながら、半田は、自分の部屋に戻り、中山刑事に向って言った。
「どうやら、今度の事件の動機がわかったよ」
5
中山刑事が変な顔をした。
「動機は会社乗取りじゃないんですか?」
「一見そう見えるがね、違うんだ。実は、森社長の交通事故に他殺の可能性が出て来たんだ。これがどういうことかわかるかね?」
「大八木昭が二人を殺したということになるんですか?」
「それじゃ、会社乗取りになっちゃうじゃないか」
と、半田は笑って、
「まず、第一の事件から考えてみよう。社長の森次郎を殺して得をするものは誰だろうか? 第一に副社長の大八木三郎。現に、葬式の次の日、二人で預金した金を下ろして、自分名義にしてしまっている。この場合には、君の言うように、副社長による会社の乗取りが動機だと考えていい。ところが、つづいて、その副社長が毒殺された」
「だから、犯人は甥の大八木昭で、会社を自分のものにしたんじゃないですか?」
「もしそうだとしたら、彼は実に馬鹿げた方法をとったものじゃないかね。通帳三通を死体の背中にのせたり、その通帳に、死んだ社長の手形をつけたりしたのはどう解釈したらいいんだ。もし、昭が、叔父を殺して会社の実権を握るつもりなら、もっとスマートにやるはずだ。第一の事件のように、事故死にみせかけることだってむずかしくはない。考えてみれば、あの通帳も手形も、わざわざ、警察の注意をひくためのもののようにとれるじゃないか」
半田のことばに、中山刑事は当惑した表情になった。それにおしかぶせるように半田は、
「第一の事件が殺人とすれば、二つの事件が違いすぎると思わないかね。第一の事件は、殺人の証拠も残さず、スマートにやりとげている。それに反して、第二の事件は、あまりにも不細工で、子供じみている。あのこけおどしみたいな手形が、そのいい例じゃないか」
「すると、どういうことになるんですか?」
「これは、想像だがね。第一の殺人事件が、第二の殺人事件の動機になっているということさ」
と、半田は考えながらいった。
「森次郎の死は、事故として処理された。そして、副社長の大八木三郎は、財産を横領した。この事態に我慢がならなかった人間がいたとしよう。その人間は、森次郎が、大八木三郎に殺されたにちがいないと考えた。だが、証拠がない、警察も動いてくれない。それで、自分で、仇を討つことを考えた。三十日の夜、その人物は、大八木三郎を毒殺した。だが、それだけでは我慢が出来なかった。事故死とみられている森次郎が、殺されたのだということを証明したかった。警察に、もう一度調べてもらいたかったとしたらどうだろう。僕が、警察を批判するのもおかしいが、よほどのことがない限り、一旦、事故死ときまった事件を、再調査することはない。面子《メンツ》もあるし、組織というものはそういうもんだからね。だから、その人物は、とっぴなことをやって、我々を、動かそうと考えた。それが、あの手形さ、死者の手形だ。その人物の思惑通り、我々は、森次郎の死因に疑いをいだき、再調査した。つまり、その人物は、目的を達したんだ」
「あの手形のことですが、死んだ人間の手形を、預金通帳に、どうやって押せるんですか?」
「簡単な方法があるんだ」
と、半田は微笑した。
「どうするんです?」
「セロハンだよ」と、半田は言った。
「いってみれば、魚拓をつくる要領だよ。掌に朱肉を塗って、その型をセロハンにとっておく。左右反対にならないためそれを更に別のセロハンにおしつけて写す。墨と違って、朱肉は、なかなか乾かないし、セロハンの方も、朱肉がしみこまないから、その型紙をもう一度預金通帳に押しつければ、例の手形が出来上がるというわけさ。三枚必要なら、セロハンの型紙を三枚作っておけばいいわけだよ」
「そういうことが出来るのは、森次郎の家族だけということになりますね」
「その通りだよ。犯人は、後妻の悠子か、娘の千秋のどちらかということになる。まず、悠子の方から考えてみようじゃないか、君も僕と一緒に彼女と会ったからわかっただろうが、気が強くてずけずけものを言う性格だ。そんな人間が、預金通帳に、死者の手形をつけて警察に再調査させるような七面倒くさい方法をとるだろうか? 断じて違うね。彼女だったら、大声で警察にくってかかるはずだ。ひょっとすると、警察に、大八木三郎を告発するぐらいのことはしていたろう。だが彼女は何もしなかった。次に、娘の千秋の方だ。彼女は、指輪の件が示すように、義母をにくんでいる。その分だけ父親を愛していたということだ。当然、父親の死に疑問を持ったはずだ。だが、あの子の性格を考えてみると、大声でわめきたてるようなところがない。何かによって警察の目を父の死にむけさせようとするのは、あの子にふさわしい考えだよ。よく考えてみれば、手形を残して警察の注意をひくなどというのは、大人よりも若者の考えそうなことじゃないかね」
中山刑事は、半田の考えに必ずしも全面的に賛成ではなかったが、トリックや、犯人が娘の千秋らしいという点については賛成だった。
「しかし、これからどうします?」
と中山刑事が半田を見た。
半田は、しばらく考えていたが、
「反応を見てみよう。後妻の悠子に僕の考えたトリックを話してみるんだ。犯人の名前はわざと伏せておく」
「娘の千秋には、話さないんですか?」
「話さない。もし、悠子が犯人だったら、あわてて証拠|湮滅《いんめつ》をはかるだろう。娘に、その話をする余裕はないはずだ。もし、悠子が犯人でないならば、僕の話は、すぐ娘に伝わるだろう。その様子を見てみようじゃないか」
半田は、必ずしも確信があったわけではない。なんらかの反応があればと思ったのである。だが、事件は、彼が予期した以上の強い衝撃を犯人に与えてしまった。
翌日の夜、十四歳の森千秋は、二階の自室で自殺体となって発見された。死体のそばには、セロハンにおされた父、森次郎の手形が数枚のこっていた。
この事件を報じたある新聞は、森千秋の担任教師の次のような談話をのせた。
彼女について、強く印象に残っていることが一つだけあります。
私は試験の答案を、家に持って帰り、父兄にみせて所定の判を貰ってくるようにさせています。これは、私の学校が進学率がよく、父兄の期待が強いのでそれにこたえる一つの方法として実施しているわけです。彼女は、最初のうち、なかなか、父兄の判を貰ってこないので、注意したところ、それ以後、必ず、判をおしてくるようになりました。継母と聞いていたので、心配していたのですが、この調子なら、仲良くやっているのだと安心したのです。ところが、保護者会の時、お母さんに聞いたら、一度も判をおしたことがないというのでびっくりいたしました。彼女は、義母に答案用紙をみせるのがいやで、密かに、セロハンで印鑑の型をとっておき、それを、答案用紙におしていたのです。今になって考えると、彼女は、今度の事件を起こすとき、その事を考えていたのかも知れません。
半田も、この記事を読んだ。が、読み終った時、暗い顔になって、新聞を破り捨てた。
孤独な証言
1
笠井美奈子の視野の中で、それは最初、濃緑色のぶよぶよとしたかたまりに見え、次第にはっきりした形をとり、やがて、濃緑色のヘルメットをかぶり、同じ色のユニフォームを着た逞《たくま》しい若い男の姿になっていった。それも一人ではなく、三人も四人もの姿が、重なるように美奈子に近づき、彼女の耳元で何か怒鳴った。が、そこで、また、美奈子の意識は混濁していった。
美奈子が、再び意識を取り戻したとき、彼女の身体は担架にのせられ、山を下りているところだった。酸素吸入器が顔にかぶせられ、うすくあけた眼の上で、樹の梢《こずえ》が、ぐらぐらとゆれて見えた。
美奈子は、ゆっくりと眼を動かし、担架を担いでいるのが、濃緑色のユニフォームを着た自衛隊員であることに気がついた。さっき見たのは、彼等だったのだ。しかし、彼女の思考はそこまでしか進まず、自分が何故、ここにいるのか、何故、担架にのせられているのか、思い出せないままに、深い疲労が美奈子の眼を閉じさせてしまった。
山を降りて、そこに待っていた救急車に移されるとき、何十人という新聞記者やカメラマンが、どっと彼女を取り囲んだ。美奈子の閉じた眼の上からも、容赦なくフラッシュがたかれ、彼女の眼底で火花が散った。それと同時に、怒鳴りつけるような記者たちの声が彼女を襲った。
「名前は?」
「あんた、笠井さんだろ? 笠井美奈子さんだね?」
「一人だけ助かったのを知ってるかい?」
「奇蹟的に一人だけ助かった気持は?」
「何か喋ってくれ!」
まるで、言葉の弾丸だった。彼女の顔の上で、突き出されたマイクがぶつかって、乾いた金属音をたてた。
「退《さが》って! 退って!」
と、誰かが叫び、美奈子をのせた担架は、救急車に運び入れられた。ドアの閉まる音が聞こえ、フラッシュの突き刺すような光が消えた。
美奈子は、眼を閉じたまま、今、自分に浴びせかけられた言葉の矢を切れ切れに思い出していた。
(一人だけ、一人だけ――)
その言葉だけが、疲れ切った彼女の脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えた。一人だけというのは、一体何だろう?
ふいに、美奈子は、何の脈絡もなく、カッと照りつける明るい陽射しと、乾いたコンクリートの地面と、真っ赤な花を思い出した。だが、その光景が、一つの思い出にまで発展していかないうちに、美奈子の腕に鎮静剤の注射が打たれ、彼女は、深い眠りに入ってしまった。
そのまま、どのくらい眠ったのか、美奈子には定かではない。まとまりのない、切れ切れの夢を見た。それは、担架に乗せられている時、悪夢のように彼女の顔に浮かんだ脈絡のない景色と同じものだった。しかし、今度は、それに重なって、一人の若い男の顔が浮かんだ。濃い眉、引きしまった口もと。その顔が微笑して、むこうのほうを指さしている。誰なのだろう。夫か恋人か?
「笠井美奈子さん」
耳元で自分の名を呼ばれ、彼女は眼を開いた。
誰かの顔が、自分をのぞき込んでいる。全身を貫く痛みに、美奈子は、顔をしかめ、呻《うめ》き声をもらした。はじめて感じた痛みだった。
「私は医者です」
美奈子をのぞき込んでいる顔がいった。医者か、医者なら、この痛みを柔らげて欲しい。
「口がきけますか?」
「大丈夫です」
と、答えたつもりだったが、美奈子の口はもつれ、はっきりした言葉にならなかった。
「言葉が不明瞭なのは、鎮静剤の注射のせいだね」
もう一つの顔が、ひどく冷静な口調で言った。
「身体が痛みますか?」
「………」
美奈子は、黙ってうなずいた。二つの顔は医者らしい。天井が白いのは、病室だからだろうか。
「痛いのは、回復しつつある証拠だ。君は運がいい」
「?」
「覚えていないのですか?」
「………」
「そうか。ショックが激しすぎたので、一時的に記憶を失っているんだろうが、すぐ回復するよ。君は、沖縄から飛行機に乗ったんだ。その飛行機が、途中で墜落した。全員が死亡したと思われていたのに、君だけが奇蹟的に助かったんだよ」
そうだったのか。するとあのカッと照りつける太陽と、コンクリートの広場は、沖縄那覇空港の景色なのだ。だが、その後の記憶は、まだはっきりとしない。
「君は左足骨折と、全身打撲だが、命に別条はない」
「ここは?」
辛うじて声が出た。相変わらず全身が痛い。
「伊豆大島の病院だよ」
「オオシマ?」
「そうだ。私もくわしくは知らんが、沖縄から羽田へ行く飛行機は、大島上空で進路を変えるらしい。この島の上空に来たところで、突然、墜落したんだ」
「他の人は……?」
きいてから、全員死亡といった医者の言葉を思い出し、美奈子は、急に恐怖に襲われた。
「あまり考えずに休みなさい。テレビを見て、君の家族もかけつけてくるだろう。では、温かいミルクを用意させよう」
医者は、子供でもあやすようにいった。
2
沖縄発十八時〇分東京行きのニュージャンボ機ボーイング・キャリア―750(九〇便)が、大島上空で墜落したのは、三月二十六日の夜であった。
沖縄から羽田へ向かうジェット機は、北東へ飛び、伊豆大島上空で進路を変え北上して羽田へ入る。悲劇のこのジェット機は、春の沖縄を楽しんだ二八九名の人々を乗せて、定刻の十八時丁度に、那覇空港を飛び立った。まだ那覇空港は明るく、強い西日が照りつけていて、一時間四十六分後の悲劇を予告するものは、何もなかった。
キャリア―750は、胴体の太い短距離用のジャンボ機で、エアバスの一号機として、六カ月前に、日本の航空会社が輸入したばかりの新鋭機である。
このジェット機については、さまざまなことがいわれてきた。アメリカ航空局(FAA)の騒音基準にもとづいて開発された最初のジェット輸送機であり、音の静かなことから「ささやくジェット機」のニックネームがある。また、エンジンが三つにも拘わらず、ワイドなボディのため、二五五名から三〇〇名の乗客を乗せられること、複雑なフラップやスポイラーの働きによって、わずか一八〇〇メートルの短い滑走路で離着陸が可能といったメリットが宣伝された。一方、この新鋭機に対して、不安を述べる航空専門家もいたし、今年に入って、フランスとアメリカで、キャリア―750は、続けて二機事故を起こしていた。しかし原因は、どちらも人為的なものである。パリの場合は、係員の不注意からドアが開いたのが原因だったし、サンフランシスコの事故も、工事中で滑走路が短くなっていることが、管制官とパイロットの間で確認されていなかったためにおこったのである。
三月二十六日、二八九名の乗客をのせたキヤリア―750は、順調に飛行を続け、十九時四十六分、大島上空に達した。
羽田の管制官は、九〇便の機長から、十九時四十六分、大島上空の報告を受けた。丁度、その時、大島上空には雷雲が発生していたが、ジェット機なら、簡単に突破できるはずだった。機長もそう考えたから、迂回《うかい》せず、予定通りのコースをとったのであろう。
しかし、羽田の管制官は、突然、交信が途絶え、レーダースクリーンから九〇便の機影が消えるのを見た。
そして翌朝、三原山の噴火口東側、約一キロにわたって、ジェット機の残骸や、遺体が散乱しているのが発見された。墜落地点は、偶然か、もく星号の遭難地点の近くであった。
もぎれた尾翼のマークから、新日空の九〇便に間違いないと確認された。
「エアバス最初の事故」のニュースは、忽《たちま》ち、テレビによって日本中に報道され、新聞記者が、伊豆大島に殺到した。
新日空では、直ちに対策本部を作り、乗客の家族を大島へ送る用意を始めたが、会社の幹部は、全員死亡を覚悟した。飛行機事故では、全員死亡が常識だからである。
一方、自衛隊員三〇〇名も大島へ到着し、二十七日の午後から、地元の消防団員と協力して、遺体の収容作業に取りかかった。
中央新聞の宮城記者も、カメラマンと一緒に大島へ到着した。が、彼の場合は、他の記者たちとは違った気持が働いていた。
宮城の婚約者が、不運な乗客の中に入っていたからである。
宮城は、大島の空港からカメラマンと一緒に、遭難現場に向った。
現場は、三原山噴火口の東側斜面で、樹木は、まるで、ブルドーザーにぶつかったようになぎ倒され、焼けただれていた。ジュラルミンの機体は、爆発にあったように散乱し、遺体は、あちらこちらに、散らばっていた。腕や足のちぎれた遺体もあり、事件なれした記者たちの間からも、「ひでえなあ!」という驚きの声があがった。
宮城には、死臭がたまらなかった。この嫌な匂いは、当分の間、悪夢のように、自分にからみついて離れないだろうと思った。
地面が濡れているのは、事故当夜、激しい雷雨があったからであろう。一夜あけた今日は、明るい太陽が、頭上でぎらぎらと輝いている。
ヘリコプターが不快な音をひびかせ、自衛隊員や消防団員が、宮城たちや、家族の見守る中で、シャベルやトビ口などで遺体を残骸や倒れた樹の間から取り出し、毛布をかぶせて、仮安置所へ運んでいった。
一方、散乱しているボーイング・キャリア―750の残骸を一カ所に集める作業も行われ、次々に運ばれてくる機体の破片は、運輸省担当官、航空専門家、などで構成されている事故技術調査団によって写真にとられ、調べられた。
調査団の団長は、T大教授で航空工学の専門家である永井教授である。六十二歳のこの教授に対して、記者団は、一つの興味を感じていた。それは、永井教授が、ボーイング・キャリア―750の輸入について、積極的な推進者の一人だったからである。永井教授は、当時、ある新聞に、「ジャンボ機は、一九七〇年七月一日、ロンドン――パリ間に就航して以来、今年九月末までに、二百四十二機が、総計二百四十五万時間、総距離二十三億キロ、これは、三千回以上、月を往復した距離になりますが、それだけ飛んで、その間死亡事故ゼロであります。そのジャンボの中でも特に優秀なボーイング・キャリア―750に、安全性について不安はありません」と語っていた。
当然、記者たちの質問は、団長の永井教授に向けられた。その中には、意地の悪い質問も含まれていた。
「この事故で、キャリア―750の安全性について、疑問を持たれたと思いますが?」
といった質問なども、その一つだった。
永井は、眼鏡の奥から質問した記者を見たが、その端整な表情に、狼狽《ろうばい》の色は浮かばなかった。むしろ、嫌な顔をしたのは、運輸省の航空局の担当官だった。それも当然だったかも知れない。もし、今度の事故で、キャリア―750の安全性について疑問がもたれる結果が出たら、認可を与えた運輸省が批判の対象になるのは眼に見えているからである。
永井は、ちらりと、運輸省の担当官に眼をやってから、落着いた声で、
「現在のジェット機は、九九・九パーセント安全が確認されてから、就航するものです。この機種は、シックス・ナイン、つまり、九九・九九九九パーセントの安全といわれています。安全について私の確信は変わりませんね」
といった。その冷静さが宮城を刺激した。新聞記者として、永井の権威主義が前々から癇《かん》に触っていたこともある。それにもう一つは、婚約者の林怜子のことだった。愛していた怜子が墜落した九〇便に乗っていた。その悲しみが、永井の冷静さに反撥させるのだ。
「しかし、永井教授、現実に、キャリア―750は、ここで墜落したんです。本来なら、大島上空では八千メートルの高度を維持している筈ですよ」
「事実はその通りです。しかし、原因はまだ不明だし、それを調べるのが、われわれの任務です」
「機体に問題があったとは考えられませんか?」
「まず考えられませんね。キャリア―750は、アメリカ航空局の数々の苛酷なテストに合格しているのです。昨夜は、この島の上空に雷雲が発生していたようですが、そのくらいのことで墜落するような機体じゃありません」
「では、操縦ミスという判断ですか?」
「そうは断定できません。今の段階ではね」
永井は、柔らかい口調でいったが、彼が、操縦ミスがあって欲しいと願っているのは明らかだった。機体に原因があったとなれば、永井の経歴に傷がつくからだ。
フライト・レコーダーと、ヴォイス・レコーダーの捜索が重点的に行われていたが、まだ見つかっていなかった。飛行機事故というと、必ずこの二つが、墜落原因を解く鍵だといわれるのだが、不思議なことに、それが見つかっても、結局、原因は不明なままに終ってしまうことが多い。それは、機械的《メカニツク》な記録《レコード》でさえ、その立場、立場によって、都合よく解釈できるからだろうか。
遭難現場には、この大島に、春休みを楽しむためにやってきた都会の若者たちまで押しかけてきた。その中の無責任な少年が一人、キャリア―750の破片を持ち去ろうとして警官に逮捕されるというハプニングもあった。
夕方になって、宮城は、怜子の両親から、娘の遺体が見つかったと知らされた。宮城は、その時、新聞記者としてではなく、一人の青年として、変わり果てた彼女の遺体と対面した。身体の大部分は覆われていて見えるのは、顔の一部分だけだった。
怜子の父親は中学の教師で、気丈な人だったが、さすがに、眼をしばたたかせていた。母親は涙でべタベタになった顔をしている。
「私たちなんか運がいいほうだよ。とにかく、識別ができる遺体が見つかったんだから」
と、父親は、低い声でいった。
「みんなと一緒にかえっていたら――」
と、宮城がつぶやいた。
怜子は、女の友達数人と独身最後の旅行に行き、宮城とのデートのため彼女だけ早くかえってきたのだ。
「あの子のハンドバッグも見つかったよ。ポラロイドカメラで撮った写真が入っていた」
父親が、カラー写真を二枚、宮城に渡した。カッと照りつける南の太陽の下で、笑っている彼女が写っていた。髪に真っ赤な花が挿《さ》してあった。ハイビスカスだった。
「僕のところに来た手紙には、ハイビスカスの花を土産に持って帰ると書いてありました」
その花束はどうなってしまったのだろうかと、宮城は、遭難現場のほうに眼をやった。遺体の仮安置所は、現場から一キロも離れた山の麓にあるのだが、ここまで死臭が風にのって漂ってくるようだ。
「こうなったら、死んだ娘のためにも、事故の原因を、はっきりさせて貰いたい」
父親が、唇を噛《か》みしめるように言った。宮城は、もう一度、彼女の写真に眼をやった。
この明るい笑顔に再び会うことはできないのだ。
「今度は、僕が、彼女が何故死ななければならなかったのか、その本当の原因を突き止めて見せますよ」
そのためには、生存者が一人でもいてくれたらと、宮城は思った。今まで、日本で起きた航空機事故は、生存者がいないため、全て原因不明とか、操縦ミスという推測で、うやむやの中に忘れ去られてしまってきた。今度はそうであって欲しくない。
午後六時三十分。フライト・レコーダーが発見された。が、事故調査団の団長永井教授は、慎重に検討したいのでといい、記者団の前から、焼けこげたレコーダーはかくされてしまった。果たして、正確に発表されるかどうかわからず、記者団の間に、いらだちが生まれてきた。
事故のあった時、航空専門家は口を揃えて、フライト・レコーダーさえ見つかればという。しかし、それが見つかっても、何故か、事故原因がはっきりしたことがない。例えば、異常な降下速度が記録されていても、その原因について判断を下すのは人間なのだし、大抵の場合、機体の欠陥によるものではなく、操縦ミスによるものだと断定されてしまうのだ。時には、フライト・レコーダーの記録は発表されず、原因不明という結論だけが、発表される。今度も、そうした危惧《きぐ》があったための記者団のいらだちだった。
夜に入って、三原山の麓に作られたテントで、事故調査団の記者会見が行われた。
遺体は、まだ二十五体しか収容されていなかったし、その中六体は、五体が満足ではなく、身元確認がおくれている。そのことについての新日空関係者の、弁明とも謝罪ともつかぬ話が終ったあと、事故原因についての質問が、調査団に集中した。が、永井教授の答えは、相変わらずあいまいなものだった。
「フライト・レコーダーは、羽田へ運び慎重に検討中です。その他の調査もまだはじまったばかりで何も、申しあげられません」
勿論、そんな言葉が、気負いたっている記者団を満足させるわけがなかった。
「せっかちかも知れませんが、事故原因についての見解を聞かせて貰えませんか。どんな状態で墜落したかわかりませんか? 機体の散乱状態からみて、何かわかるんじゃありませんか?」
宮城もそうだが、こうした事故の場合、かなりの専門的な知識を持った記者が派遣されてくる。それだけに、質問も鋭いものがあった。
「現場を簡単に見たんですが、破片が比較的集まっているのに、尾翼の一部だけが、数百メートル離れた地点に飛んでいます。これは、機体の構造上の事故を意味していませんか?
つまり、昨夜は、強い雷雨が発生していた。異常気象だったわけです。そのため、尾翼の一部が吹き飛び、そのために墜落したとは考えられませんか?」
そんな質問も出たが、永井団長は、相変わらず、人を喰った微笑を崩さなかった。
「尾翼の一部が数百メートル離れた地点で発見されたのは事実ですが、結論は、今後の調査に待たなければなりませんね」
「しかし、九〇便が、激しい雷雨にぶつかったのは事実だし、尾翼の一部が吹き飛んでいたのも事実でしょう? 飛行機は胴体にくらべ、翼や機首・尾部などとがった部分が落雷をうけやすいというのは常識です。それなら、機体の強度が足らず、落雷のために尾翼の一部が吹き飛んだということは、十分に考えられるんじゃありませんか?」
「そうは断定できませんね。ボーイング・キャリア―750という飛行機は、非常に頑丈に造られているのです。これは、私が、アメリカへ行き、種々の耐久テストを見て来たので間違いはありません。昨日の雷雨について、この島の測候所で聞きましたが、あの飛行機が墜落するようなものではありません。また、キャリア―750は、すでに世界各国で百五十機が使用されていますが、雷雨のために事故を起こしたことは、一回もありません」
「それなら、他にどんな推理があるんですか?」
「予断は差し控えますが、仕掛けられた爆破ということもありますし、またどんなに頑丈な飛行機でも、非常識な操縦をすれば、こわれることがあります。これは、例として適当かどうかわかりませんが、今、各地でプロパンガスの爆発がおこっていますね。プロパンガスだって、家庭燃料や、自動車の燃料として、随分有益に使われていますが、一歩使い方をあやまると、爆発して人命を奪うようなことにもなります。それをもって、プロパンガスは危険だ、使わないようにしようとは言わないでしょう」
永井団長の説明に、記者団の中から苦笑がもれた。
「ということは、永井さんの考えでは仕掛けられた爆破か、操縦ミスの可能性が強いということですか?」
「いや。そうは断定していませんよ」
永井団長は、用心深く、口を閉ざしてしまった。運輸省の担当官も、新日空の係員も、記者団に言質《げんち》をとられてはかなわないという表情で、質問に対して、慎重に調査した上でと、同じ言葉をくり返した。
宮城は、この事故も、原因不明で終ってしまうだろうという予感がした。それが、誰も傷つかずにすむからだ。だが、犠牲者の遺族は、すっきりしないだろう。
(生存者さえいれば――)
宮城は、そう思った。が、翌朝になって、彼の願いが聞き入れられたかのように、奇蹟的に、乗客の一人が無事で発見されたという知らせが入った。その知らせは、当然ながら、事故調査団や、新日空関係者や、記者団や、遺族たちに、さまざまな衝撃を与えずにはおかなかった。
3
笠井美奈子は、温かいミルクを飲み、パンを二切れ食べた。医者には、丸一日、食事をとってはいけないといわれたが、美奈子は、空腹感は少なかった。
全身の痛みは、相変わらず激しい。が、それは、回復に向っている証拠だと、医者は教えてくれた。
病院の外の廊下に、時々、さわがしい人声が聞こえ、時には、それが、激しい怒声に変ったりする。
「なんでしょう?」
美奈子は、怯《おび》えた眼で医者を見た。
「新聞記者たちが、君に会いたがって、押しかけているんだよ。唯一の生存者だからね。それに、事故調査団や、航空会社の人たちも会いたがっている。私は、まだ無理だと言っておいたがね」
「本当に、他の人は全部死んだんですか?」
「残念だが、今までのところ、あなた以外に生存者は見つかっていない」
「そうですか――」
呟《つぶや》くようにうなずき、眼を閉じると、理由もなく、美奈子は涙があふれてくるのを感じた。
また、廊下が騒がしくなった。今度は、はっきりと、「会わせてくれてもいいじゃないか!」という怒鳴り声が聞こえた。
医者は、ドアのほうに、眼をやって苦笑してから、眼を閉じている美奈子に視線を戻した。
「まだ、事故のことを思い出さないですか」
「少しずつ、頭に浮かんでくるんですけど、それが切れ切れで、上手《うま》くつながらないんです」
「どんなことを思い出したんですか?」
「陽の当たる空港、青い海、それに、真っ赤な花――」
「青い海というのは、あなたが旅行した沖縄の海のことでしょう」
「いいえ。飛行機の空から見えた海です」
「成程ね。真っ赤な花というのは?」
「わからないんです。ただ眼をつぶると、赤い花が浮かんでくるんです。沖縄を旅行したというのなら、ハイビスカスの花かもしれませんけど、暗い中で、その真っ赤な花だけが、くっきり浮かんでいる感じで――」
「墜落寸前のことでは、何か思い出さないかな? 飛行機の中で、ハイジャックがあったとか、火事になったとか」
「それを思い出そうとしているんですけど、頭の中がぼうっとしてしまって――」
美奈子は、苦しげにいった。嘘ではなかった。彼女自身も思い出したいのだ。何故、自分だけが助かったのか。何故、自分の乗った飛行機が墜落したのか。いやそれだけではない、自分は何歳で、結婚しているのかいないのか、どこに住んでいるのかさえわからないのだ。時々、若い男の顔が思い浮かぶことは、言わなかった。
「父や母は、まだ来ないのでしょうか?」
美奈子は、医者の顔色を見ながら、おずおずときいてみた。医者は、しばらく美奈子の顔を見つめていたが、低い声で言った。
「お気の毒ですが、あなたの両親は、数年前に亡くなっています。こちらの調べでは、あなたはアパートに一人で住んでおられて、銀行につとめておられるということで、身よりの方はおられません」
「私、いくつなんでしょう? 結婚していないんですか? なんにも思い出せませんの」
恥も外聞もなく美奈子はきいた。
「二十八歳ということです。ほんとうに何も思い出せないんですか。じゃ……」
記憶喪失――と言おうとしたのだ、ということは美奈子にもわかった。
医者は、痛ましそうな顔をして、カルテになにか書きこんだ。
その時、ノックの音が聞こえ、医者は、うるさそうに立ち上ってドアの所へ行き、二言三言話していたが、打ってかわったようなあいそのよい顔で、一人の背の高い、整った顔の青年をつれて入って来た。
青年は、矢吹登といい、新日空の職員だと名乗った。
「あなたのお世話をするようにいわれてきました。このたびは申しわけのないことでした。どうかなんでも言って下さい」
年は三十すぎだろうか、美奈子は、矢吹のきびきびした動作と美しい顔にみとれていた。それから矢吹はずっとつきそい、記者たちが入ってこようとするのを防いだり、冷たい飲み物を運ぶなど、その男性的な風貌に似合わずやさしい心づかいを示してくれた。しかし、記憶の中にはっきりと、思い浮かんでくる例の男性的な顔の男ではなかった。
4
永井教授にとっても、他の調査団員にとっても、生存者が一人いたという知らせは、ショックだった。
永井教授にとっても、他の調査団員にしても、今度の事故は、原因不明か、操縦ミスで片付けたかった。新日空が、エアバス時代の新しい輸送機として、ボーイング・キャリア―750に眼をつけた時、候補機として、他に、ダグラス社のマクダネルDC250とイギリスのホーカー・シドレ―196があがっていた。この中、ホーカー・シドレ―196は、乗客数が少ないことでまず落ち、性能のほとんど同じボーイング・キャリア―750とマクダネルDC250が残った。結局、運輸省航空局の係員と、永井教授たちが、キャリア―750のほうを優秀機と断定したために、新日空は、キャリア―750の使用にふみ切ったのである。他の航空会社でも、新日空にならって、ボーイング・キャリア―750の輸入を申請している。
もし、この段階で、キャリア―750機に構造上の欠陥があるとなれば、当然、運輸省航空局の係員や、永井教授は、批判の眼にさらされるだろう。構造上の欠陥から三〇〇名近い乗客が死んだということになれば、遺族の非難が集中し、マスコミに叩かれることも覚悟しなければならない。もともと、マスコミは、ボーイング・キャリア―750の輸入について、リベート問題やその他何か裏があるのではないかと、勘ぐっているのだ。
「フライト・レコーダーの記録は、本当に機体の破損とは結びつかんのでしょうね?」
不安そうに、運輸省航空局の松崎審議官が、永井教授の顔を見た。
「大丈夫です。あなたもご存知のように、フライト・レコーダーは、速力、高度、角度、方向などを記録していますが、九〇便に関していえば、八千メートルの高度から急速に降下して、三原山の東側斜面に激突したということだけです。これは、恐らく操縦ミスでしょう」
永井は、あっさりといった。
「フライト・レコーダーのあとでみつかったヴォイス・レコーダーはどうです? こちらのほうには、乗員の最後の会話が録音されているはずですが」
「墜落の時に、衝撃でひどく破損していますが、ききとれないことはないそうです。たださっき解析結果をききました。落ちるまぎわまで、メーデー(SOS)だとか、異常を訴えてないのです。だから、ハイジャックなどではないようです」
「そのことを発表されるのですか?」
「いや、ひどく破損していたことは、現場のものもみていますので、役にたたなかったと発表するつもりです」
永井教授の言葉に、松崎審議官も、他の調査団員も、ほっとした顔になったが、
「しかし、尾翼の一部が吹き飛んでいたことを、記者たちが問題にしていました。爆破ではないかという意見も出ていますが」
松崎が言うと、もう一人の係官も、
「それに、私は、主翼のフラップ部分がひどく破損しているのに気がつきました。キャリア―750は、複雑なフラップやスポイラーによって、滑走距離を少なくするようになっているし、それが、その飛行機のセールスポイントでもあったのは、ご承知のとおりです。ボーイング727の事故のときのように着陸接地後エア・ブレーキの役目をはたす、グランド・スポイラーが飛行中に立ってしまったとか、BEAの旅客機がロンドンで墜ちたときのように、フラップが故障して失速したというようなことはありませんか?」
「確かに、私も、尾翼の一部や、主翼のフラップ部分に破損を認めました。しかし、さっきものべたようにハイジャックらしいようすもないし、飛行中に破損したのか、地上に激突した時に吹き飛んだのかは不明です。グランド・スポイラーが立つためには、主車輪の車軸に受け軸がくいこんでいるか、バネがきれている必要があるが、これだけばらばらにふきとんでいては調査できるかどうかわかりません。とにかく現在まで、キャリア―750が、飛行中に、フラップ、スポイラー、或いは尾翼が故障したことはない。これが事実で、他に事実はありませんね。それから、爆破でないかということは第一に調べたのですが、爆破だと断定できる証拠はまだないのです」
永井は、説得する調子でいってから、
「問題は、奇蹟的に生き残った笠井美奈子という若い女性客です。機体の破片やフライト・レコーダーからは、今のところ、機体の破損説は出て来ませんから、恐らく、今度の事故も原因不明ということになってしまうでしょう。私としても残念ですが、そうなると、マスコミの眼は、笠井美奈子という生存者に集中します。怖いのは、彼女の言葉が、決定的な意味を持ってしまうことです。私が知る限りでは、彼女は、短大を出た平凡なOLで、科学的知識はさほどありません。しかし、彼女がもし、墜落の原因は、機体の破損だと証言すれば、マスコミはその言葉を書きたてるでしょう」
「彼女は、墜落の時の模様をどう話しているのかな」
二人の審議官は、不安気な顔を見合わせた。新日空の役員も、表情が堅かった。機体の破損、操縦ミス、不可抗力、原因不明、のいずれかによって、遺族に対する補償額も違ってくるからである。新日空にとって、一番いいのは、不可抗力ということだが、定期航路を飛んでいたとなると、この線は消えてしまう。残るのは、原因不明の結論が出ることだった。原因不明ならば、ボーイング・キャリア―750の使用について批判されることもないし、操縦ミスで、パイロットの責任を追及されることもない。
永井教授は、部厚い眼鏡の奥から、怜悧《れいり》な細い眼で、不安気な人々の表情を見廻した。
「私も、真実を知りたい。だから一刻も早く、笠井美奈子さんに会って話を聞きたいと思っています。しかし、医者の話では、まだ、興奮状態にあるので、質問は、もう少し待って欲しいということです」
「早く、彼女から話を聞きたいですな」
松崎審議官は早く聞かないと不安だというような顔を作った。
永井教授は、苦笑して、
「急ぐこともないでしょう。それに、医者には、私が、彼女が何かいったら教えてくれるように頼んであります」
「それで、何か話した様子ですか?」
「今のところ、墜落の瞬間のことは、何も思い出さんようです。彼女が、医者に向って喋ったのは、切れ切れの記憶で、那覇空港、飛行機から見えた青い海、それに真っ赤な花の三つだそうです」
「真っ赤な花というのは、何のことです?」
松崎審議官が、眉をよせた。
「わかりませんな。しかし、今度の事故には関係ないでしょう」
5
笠井美奈子は、食事のあと、骨折した右足に、副木《そえぎ》して貰い、包帯を巻いて貰った。全身の痛みは、徐々にではあるが、うすらいできていた。おかしなことに、それと反比例するように、恐怖がじわじわと彼女の心を占め出して来ていた。
危険はもう去っているのだ。それなのに、恐怖感が、それを追うように、今になってわきあがってくる。
「今日も朝からいい天気だよ」
医者は、美奈子のたかぶりがちな気持を静めるように、窓の外を見ていった。
「今度の事故で、調査団が来ている。その人たちが、君に会って話を聞きたいといっているんだが、会えるかね。医学的に見て、君の身体はもう大丈夫だが、精神的に疲労してもいると思うんでね」
「大丈夫です」
と、美奈子は、医者に向って微笑した。
昼食のあとで、事故の調査団長と、松崎審議官が、医者に案内されて病室に入ってきた。二人とも、まず見舞いをいい、それぞれの名刺を、彼女の枕元に置いた。自然に、彼女のほうは、緊張した表情になった。
永井は、見事な白髪を片手でなであげながら、優しい眼で美奈子を見下ろした。
「私は、航空専門家として今度の事故の原因を調べたいと思っています。また、そのために政府から、事故調査団の団長に選ばれたのです。今までに何回かの航空機事故を調査して来ましたが、生存者がいないために、その原因が正確に把握できないことが多かったのですが、今度は、あなたという生存者がいて下さったので、墜落原因がつかめるのではないかと期待しているのです」
永井の話し方は、丁重であり、ゆっくりしていた。が、若い美奈子には、なじめない話し方であった。
「最初に断っておきますが、正確に話して頂きたい。推測は、われわれの調査にとってマイナスに働くだけだから止めて欲しい」
松崎審議官が、横から釘をさすようにいった。いかにも、役人らしい言葉遣いだった。
永井教授は、そんな松崎審議官の顔を、苦笑しながら見やった。
「ところで、笠井さん、順を追って話して貰いたいのだが、あなたは、九〇便に沖縄から乗った。そうですね?」
「はい」
「席は覚えていますか? 前部のほう? それとも後部?」
「よく覚えてないのですけど、ポケットに搭乗券が入ってましたので、昨日、新日空の人に見せると、一番後ろだといわれました」
美奈子は搭乗券を見せた。永井教授はそれを見てうなずいた。
「尾翼に近い最後尾で助かったということは、尾翼は爆破されたのではないということになる。……これで見ると窓際ではありませんね」
そういえば、窓のところに誰かが坐っていたような気もする。自分は、その隣にいたのかもしれない。
「すると、あなたの坐っていた席から、後部のエンジンや、主翼は見えませんでしたね?」
「覚えていません」
「覚えていないということは、見なかったのかも知れませんね」
「はい」
永井教授は、美奈子が記憶喪失していることをよく知らないようだった。医者も、これは墜落によるショックによるもので、一時的だと思うと言っていた。
永井教授は、おだやかな顔で質問を続けた。
「問題の墜落時の状況ですが、さっき松崎審議官もいわれたように、はっきり覚えていることだけを答えて下さい。というのは、あなたの一言が、大変な影響力を持つからです。脅かすわけではないが、あなたの証言で、航空会社が何十億、何百億の損害を受けることもあり得る。それを考えて返事をして下さい。九〇便が、大島上空に到着したのは、午後七時四十六分です。これは、ちゃんと記録に残っている。その直後に墜落したわけだが、まず、何が起きたか話してくれませんか? 機内でどんなことが起きたのか?」
「それが――」
と、美奈子の顔がゆがんだ。「うまく思い出せないんです。思い出そうと努めているんですけど」
「私が思い出すのに力を貸しましょう。飛行機が墜落するとき、どんな状態になるかよくわかっているからね。あの夜、この島の上空には、雷雲が発生していた。地上千メートルから一万メートルに及ぶ積乱雲です。つまり、乱気流が起きていたのです。パイロットは、大丈夫と思って、正面から突破しようとしたが、考えていた以上に強い雷雲だったので、あわてて上昇しようとしたが、すでに乱気流に巻き込まれてしまった。だから、一瞬のことで乗客は何も知らなかった。そうじゃありませんか?」
「そういう難しいことは、よくわかりませんけれど――」
「よろしい。では、一つ一つ検討していきましょう。大島上空に来たとき、スチュワーデスは、乗客に対して何か言いませんでしたか?」
「さあ」
「よく思い出して下さい。雷雲の中を飛ぶときは、揺れますから、普通、スチュワーデスは、乗客に対して、ベルトを締めるように言うものです。しかし、遺体の中には、ベルトを締めていたと思われる人がいません。しかし、ベルトを締めていなければ、飛行機が八千メートルの高度から墜落して奇蹟的に助かる筈がない。あなただけ、ベルトを締めたままでいたんじゃありませんか?」
「ええ」
美奈子は、あいまいに肯いた。助かったのは、自分だけベルトを締めたままにしていたからかも知れない。永井教授は、ニッコリして、
「これで、一歩前進したわけです。九〇便は、大島上空で雷雲を突破しようとした。乗客には、別にベルトをしめるようアナウンスはしなかった。この時まで、機体にも、操縦にも何の異常もなかったのだ。ここまでは、わかったことになる」
「………」
美奈子は、黙っていた。
永井教授のほうは、これで、第一段階は、明確になったという顔で、
「次に行きましょう。九〇便のパイロットは、雷雲をかんたんに突っ切れるものと判断して、特に、乗客にベルトを締めるようには言わなかったかも知れない。機首を雷雲に向けた。窓の外に、稲妻が見えた筈だが?」
「いなずま?」
「見ませんでしたか?」
「覚えているのは、暗くて、本当に暗かったんです――」
――あの若い男は誰だろう。私は結婚していないということだから夫ではない。恋人がいたのだろうか。それとも、スチュワードか、パーサーかもしれない。指さして言ったのは、何だったのだろう、美奈子は、ぼんやりとそのことを考えていた。
「暗い――ねえ」
永井教授は、松崎審議官と顔を見合わせた。松崎審議官のほうは、美奈子の言葉が、何か自分たちに不利に働くのではないかと、不安そうな眼になっていたが、永井教授のほうは、ちょっと考えてから、すぐ納得した顔になって、
「それは、急激な飛行機の降下のために、あなたが気を失ったことを示している。また、気を失ったからこそ、奇蹟的に助かったともいえるのですよ。多分、九〇便は、雷雲に突っ込んだとたんに失速し、墜落したのだ。つまり、あなたは、気を失ったのです。だから、墜落した経過を覚えていないのです。違いますか?」
美奈子は、どう返事してよいかわからず、黙って男の顔と赤い花のことを考えていた。暗闇の中の真っ赤な花、あれは一体何なのだろう?
「爆発音を聞いたとか、火を吹くのを見たとかいうことはないかね?」
松崎審議官が、難しい顔できいた。美奈子は、「いいえ」と、首を横にふった。
「間違いないですね?」
「ええ」
「じゃあ、整理をしましょう」
永井教授が、強引に、結論に持っていった。
「九〇便は、雷雲を突っ切ろうとしたが、それに失敗して墜落した。あなたは、気を失ったが、爆発音も聞かなかったし、火を吹くのも見なかった。つまり、機体の破損はなかった。こういうことですね?」
「………」
「われわれが、新聞記者にそう話して構いませんね。もし、何か違っている点があったらいって下さい。ありませんか?」
永井教授に、顔をのぞき込むように見られて、美奈子は当惑し、黙って肯くより仕方がなかった。
「よかった。あなたの正しい証言で、誰も傷つかずにすみますよ」
「本当に誰も傷つかないんですね。先生が、誰も傷つかないとおっしゃったから、真実をいったのですから」
「真実のために、誰も傷つく筈はないじゃないですか」
6
その日の夕刻、元町の町民会館で開かれた事故調査団の記者会見は、熱っぽい空気に包まれた。唯一人の生存者である笠井美奈子が、車椅子にのって、調査団と一緒に現われたからである。
まず、永井教授がマイクに向かい、自信に満ちた顔で、
「奇蹟的に助かった笠井美奈子さんの話を聞いた結果、われわれの推測が正しかったことが証明されました」
といった。その言葉で、記者団の間にざわめきが生まれた。それは、何か違った結果を期待する記者根性のせいもあったし、調査団が、生存者の証言を、自分たちの都合のいいように解釈したのではあるまいかという疑いのためでもあった。
宮城も、疑惑を持った一人だった。
「それは、具体的にどういうことですか?」
と、彼は、車椅子の笠井美奈子に眼をやりながら、永井教授にきいた。
永井教授は、小さくせき払いをしてから、
「九〇便は、大島上空に到着したあと、雷雲を正面から突っきろうとしたのです。だが、機体が雷雲の中に入ったとたん、乱気流に巻き込まれて墜落したのです。墜落に到るまでの間、笠井美奈子さんは、爆発音も聞いてないし、火が吹くのも見ていません。ということは、今までの調査では墜落の原因が、機体の破損ではなかったということです」
「すると、今度の事故の原因は、パイロットの操縦ミスという結論になるわけですか?」
記者の質問に、臨席していた新日空の役員の顔が蒼くなった。不安気に永井教授を見たが、永井のほうは、平然とした顔で、
「いや、そうは断定できませんね」
「何故ですか? 調査団の結論は、パイロットが雷雲を突っ切ろうと考えて飛行機を進入させ、失速して墜落したということでしょう。それに機体の破損はなかったとなれば、墜落の原因は、パイロットの操縦ミスになるんじゃありませんか?」
「いや。違いますね。それを説明しましょう。雷雲というのはいい替えれば乱気流ということですから、この言葉を使って説明します。飛行機にとって、乱気流は怖いものですが、後退翼のジェット機にとっては、危険な敵です。過去に、乱気流のために墜落したジェット機が何機かありました。そのため、航空機の製造会社は、機体の強度について留意するようになり、一方パイロットは、乱気流の中での操縦について勉強しました。その結果、ここ数年、乱気流事故は一件も起きていないのです。九〇便の高橋機長も、田中副機長も、ベテランです。特に高橋機長は、ジェット機だけでも三千時間、プロペラ機を入れると二万二千時間の滞空時間を持つベテランパイロットです。勿論、乱気流についての操縦テクニックも習得されていた筈です。そのベテランのパイロットが、突っ切れると判断したということは、自信があったからだと思いますし、その判断は間違っていなかったと思います。というのは、普通の雷雲なら、現在の航空機は、何なく突破できるからです。落雷についても主翼や尾翼の先に細い棒のようなものをつけて静電気を逃す工夫がしてありますし、アンテナや発電系統を守るために避雷針もつけています。しかし、不幸にも、事故当夜、この島の上空に発生していた雷雲は、一般の常識を超えた異常に強い乱気流を伴っていたのです。そのために、墜落してしまったのだと、私は判断します」
「すると、不可抗力の事故ということですか?」
「ある意味では、それが一番適当な表現だと思いますね。自然というものは、われわれの予測を超えた恐ろしさを示すことがあります。そういう事態にぶつかった場合は、不可抗力と表現するより仕方がありません」
永井教授の言葉に、新日空の役員の顔にほっとした表情が浮かんだが、逆に、記者団の間には、何か割り切れないといった戸惑いと、いらだちが生まれた。折角、生存者がいたのに、また、今までの飛行機事故と同じように原因不明で終わりそうなことへのいらだちだった。永井調査団長は不可抗力という言葉を使ったが、記者たちにすれば、それは原因不明と同義語でしかない。
「しかし、もし、乱気流に巻き込まれて墜落したのであれば、何故、機長は、メーデー(SOS)の発信をしなかったんですか? 羽田の管制官は、メーデーを聞いていないわけでしょう?」
記者団から当然の疑問が出た。が、永井教授は、予期していた質問だったというように、「確かにその通りです」と、まず、肯いて見せてから、
「私は、こう考えるのです。機長は、異常ともいえる乱気流に巻き込まれてしまった。しかし、ベテランの機長は、それまでの経験や、キャリア―750の優秀なことから、何とか抜けられると考え、そのための操作に神経を集中していたのだと思います。だが、今もいったように、不可抗力ともいえる異常に強い乱気流のため、あっという間に失速状態におち込んでしまったのです。多分、その瞬間には、メーデーを発信する余裕もなかったと思いますね」
といい、記者たちが、何か質問しようとするのへ、機先を制するように、
「こういったからといって、われわれは、今の段階で、今度の事故を不可抗力と決めつけているわけではありません。調査は慎重でなければなりません。本当の結論が出るには、二、三カ月はかかるでしょう。ただ、今までの調査ではという但し書きつきで、不可抗力としか考えられないと申しあげているわけです」
と、付け加えた。永井教授のいい方は、巧妙であった。現在の段階ではと、但し書きがつけられては、反論がノレンに腕押しの感じになってしまうからである。納得できない点があっても、それは、現在の段階では仕方がないということになってしまうだろう。また、断定はしないといっても、航空機事故についての第一人者である永井教授の不可抗力説は、新日空や、運輸省にとって、強力な援護になることは否定できない。
「では、笠井美奈子さんに伺いますが――」
と、宮城は、ホコ先を、車椅子の笠井美奈子に向けた。
「今、永井団長のいわれた通りのことがあったわけですか?」
「私は、覚えていることは全部お話ししたし、思い出せないことはわからないと正直に申しあげました。嘘は一つもついていません」
美奈子は、疲れているようだったが、はっきりした口調で答えた。
それでも記者団には、釈然としないものがあるらしく、口々に、
「本当に何もきかなかったんですか?」
「爆発音はしませんでしたか」
「何かかくしてるんじゃないの?」
「スチュワーデスは、何か大事なことを言ったんじゃないの?」
「機長から放送はなかったんですか?」
「尾翼の一部がふっとぶ音を聞いたんじゃないのかな?」
と、いったような質問を浴びせかけた。
しかし、美奈子の答えは、変わらなかった。知らないものは知らないし、嘘はついていないというのである。なおも記者団が執拗に質問を続けようとすると、彼女はヒステリックになり、つきそっていた医師が、あわてて質問を中止させた。美奈子の姿が消えてしまうと、記者団の間に、ざわめきが残った。彼女は、何かかくしているのじゃないか。調査団に買収されたんじゃないかという呟きが宮城の周囲で起った。彼自身も、心の底に、大きな不満が残るのを感じた。
7
その夜遅く、宮城は、苦労して庭から美奈子の病室にしのびこんだ。そうしなければいられなかったからである。彼が病室に近づいた時、黒い人影が、病室から出て反対側に消えていくのを見た。自分と同じように記者の一人が忍びこんだのかと思った。病室は常夜灯だけがついて薄暗かった。
ベッドに寝ていた美奈子は、「だれ?」ととがめるような声を投げつけて来た。
「中央新聞の宮城ですが、ここに来たのは、新聞記者として来たのではなくて、遺族の一人として来たのだから本当のことを喋ってくれませんか?」
美奈子は起き上って、枕もとのあかりをつけた。宮城は、死んだ婚約者、林怜子の写真を美奈子の顔の前に持っていった。美奈子は、一瞬、顔をそむけるようにしてから、
「亡くなった方にはお気の毒と思いますけど、私は、嘘をついていないのです。……今、機長さんの奥さんもみえたのですけど、同じことしか申しあげませんでした」
「高橋機長の奥さんは、一体、何を聞きに来たんですか?」
「機長は用心深い人だから、雷雲の中に突っこむような操縦はしない筈だとおっしゃられたのです」
「それで、何て答えられたんです? 僕も、その点を疑問に思っていたんです」
「私は、そういう難しいことはわからないとお答えしました。それが本当ですから」
「しかし、永井教授は、九〇便が、雷雲の中に突っこんだために墜落したと発表した筈ですよ。それも、あなたの話から推理したと発表してるじゃありませんか?」
宮城がくい下がると、美奈子の顔に当惑の色が浮かんだ。
「それは、私が申しあげたんじゃありません。調査団の方が、勝手にそう解釈なさったんです」
「しかし、あなたの話が根拠になっているのは事実なんだ。その点についてどう考えるのですか?」
「私は、落ちる前、特別のことがあったかどうか思い出せないと言っただけです。それでも、責任をとらなきゃいけないんでしょうか」
「しかし、永井教授の話に、あなたは異議を唱えなかった。ということは、永井教授の推理に賛成なさったと受けとられても仕方がないでしょう?」
「私に何が言えたというんです。何度も言うように、私は、本当のことしか言ってないんです。それに、永井先生は、これで、誰も傷つかないですむとおっしゃったんです」
「本当に、誰も傷つかないと思うんですか?」
宮城の質問に返事はなかった。彼女の顔はこわばっていた。この問題をこれ以上聞いてもはね返ってくるのは、沈黙だけだと思って、宮城は質問を変えた。
「あなたは、後ろのほうの席に坐ってたとききましたが、死んだ僕の婚約者も、見つかった搭乗券から、後ろの席とわかったんですが、彼女を見ませんでしたか?」
宮城は、そういって、もう一度写真を見せた。美奈子は、手にとってじっと写真を見つめた。苦しげに顔がゆがむ。必死になって記憶をよびもどそうとしている表情だった。
宮城は、その顔をのぞきこむようにしながら、
「思い出せませんか? 二十三歳で、丸顔で目の大きい子です。服はオレンジ色のワンピースを着て、多分手に、ハイビスカスの花束を持っていたと思いますが――」
「ハイビスカスの花束?」
「ハイビスカスの花束を持って帰るといっていたのです。赤いハイビスカスの……」
「赤い……」
美奈子がつぶやいた。赤い花、そのことばが彼女の頭の中でくるくる廻った。
その言葉につられたように、一つの光景が、鮮明な絵のように浮かび上って来た。そうだ、若い女が、赤いハイビスカスの花束を持っていたのだ。
「思い出してくれたんですね?」
と、宮城が勢い込んできいた。
「ちょっと待って……」
美奈子は、大きく息を吸いこんでから、
「たしかに、女の人が、そばにいました。あなたの婚約者かどうかわかりませんけど。赤いハイビスカスの花束を持っていましたわ」
「それで?」
「その花を私に見せたんです」
「見せただけですか?」
「何か言ったんです。でも、なんていったのか思い出せません。その人は、私の右のほうに、つまり、窓ぎわではなくて、通路をへだてた隣にいたような気がするだけです」
「何て言ったか思い出せないのですか?」
「丁度そのとき、別の誰かが何か言ったので、話がとぎれたような気もします」
「大事なところだから、落着いて思い出して下さい。スチュワーデスが、危険な状態になったことを説明したんじゃないですか。それとも、ハイジャックがおこったとか」
「覚えていません」
「それでなければ、機体が大きく揺れて不安を感じたから、会話がとぎれたんじゃないんですか?」
「わかりません。スチュワーデスが、何か言ったかどうか覚えてないし、機体が揺れたのも覚えていません。ただ……」
「ただ、何です?」
あの男がなにかいったような気がしたが、それはいわなかった。気を失う瞬間に、東京にいる恋人の顔を思い浮かべたのかもしれないし、ひょっとしたら、恋人と一緒の飛行機に乗っていたのかも知れない。あれは、単なる乗員で、通りがかりに何かいったのかもしれない。
「ただ、何です?」
再び宮城にうながされて、美奈子ははっとした。
「真っ暗な中に、赤い花がぽっかり浮かんでたのだけ覚えています」
「すると、機内のあかりが消えたんですか?」
「そうかも知れませんけど、私には何とも言えません。とにかく、私の記憶に残っているのは、暗やみの中に浮かんだ赤い花の姿だけです」
その言葉を、どう解釈したらいいのか、宮城は迷った。調査団ならば、雷雲の中へ突っ込んだために、あかりが消え、次の瞬間に、失速状態になって墜落したと考えるだろう。だが、別の推理も成り立つのだ。高橋機長は、慎重な性格だといわれている。毎日、新聞の天気図を手帳に張りつけて飛行のメモを記しておくという几帳面な性格だったし、現に、出発前に空港気象台のカウンターでも、熱心にブリーフィング(予定航路や目的空港の気象状態について最新の情報を説明する規定業務)を受けていたのをみた人もいる。そんな機長が、雷雲を甘く見て強行突破するだろうか。たとえ、いくらかの遅れが出たとしても、乗客の安全第一を考えて雷雲を回避するのが普通ではあるまいか。
宮城は、九〇便が、雷雲を回避したと考えてみた。勿論、その場合でも、乱気流の影響を受けるから機体は揺れる。スチュワーデスが、ベルトをしめるように言わなかったのは、雷雲を回避するため、危険はないと判断したからだろう。
しかし、その時、事故が発生した。雷雲を回避したのだから、操縦ミスはあり得ない。
笠井美奈子の証言によって、爆発物の可能性も消え、残るのは、機体の破損だけではないか。ボーイング・キャリア―750は、乱気流の影響を受けやすいため、回避のコースをとったにも拘わらず、機体の脆弱《ぜいじやく》な部分が破損した。まず、電気系統が故障して機内が暗くなり、続いて、尾翼の一部、あるいは、主翼のグランド・スポイラー部分が故障して作動し、一瞬のうちに失速状態に落ちこんで墜落した。この推理は間違っているだろうか。
「私の証言で、誰かが迷惑するんじゃないでしょうか?」
と、美奈子は不安げに宮城を見た。
宮城は、それには直接答えず、
「あなたは、本当のことを言ってくれたんでしょう? それとも、今の話は、嘘ですか?」
と、逆にきき返した。
「いいえ。嘘なんかついてはいません。全部本当のことです」
全部本当、全部事実、その言葉を、美奈子は、何度口にしたろう。彼女が、事実だけをしゃべっているのに、どうして受けとる側の反応は少しずつ違うのだろう。そんな彼女の当惑など知らぬげに、宮城は、自分の推理に満足した顔で、
「安心なさい。本当のことを喋ったのなら、ちっとも心配することはありませんよ」
と、彼女の肩を軽くたたいて病室を出て行った。
8
それから二日間、美奈子は、病室の外で何が起きているのかわからなかった。
永井教授をはじめとする調査団もやって来なかったし、記者団も質問に押しかけてこなかった。
医者は、彼女の回復の状態だけを説明してくれる。新日空の社員の矢吹は、毎日、花束をもって病室を訪れ、冗談を言っては彼女の気持を慰めてくれた。
三日目の朝、いつものように花束を持ってきた矢吹が冗談も言わず、沈痛な表情で黙っているので、美奈子は心配になって、
「何かあったんですか?」
と、きいてみた。矢吹は、最初迷っている風だったが、美奈子が重ねてきくと、重い口を開いて、
「あなたには内緒にしておくつもりだったんですが、昨夜おそく、高橋機長の奥さんが、遭難現場で、自殺してしまったんですよ」
と、打ち明け、急いで、
「あなたのせいじゃないから気にすることはありませんよ」
と、つけ加えた。
美奈子は、がく然とした。蒼ざめた顔でこの病室に忍んで来て、美奈子に本当のことを話してくれと迫った機長夫人の顔は、今でもはっきりと覚えている。彼女が自殺した……。
「なぜ自殺なんか? 理由を教えて下さい」
「あなたには関係がないことです」
矢吹は、同じ言葉をくり返し、それ以上教えてくれなかった。関係がないと言われると、美奈子には、かえって自分の責任のように思え、矢吹がかえったあと、看護婦にたのんで、中央新聞の宮城記者を病室に呼んでもらった。十二、三分して宮城記者が興奮した顔で病室に入って来た。
椅子に坐るなり、
「僕を呼んだのは、機長夫人の自殺のことじゃありませんか?」
「ええ」
と、美奈子がうなずくと、宮城は、大きな声で、
「彼女は、追いつめられて死んだんです。殺されたも同じことです」
「どういうことでしょうか、それは」
「僕は、あなたの証言をそのまま記事にした。あなたが、事実を話してくれたからです。事実を報道するのは、新聞の使命ですからね。その結果、今度の事故が、ボーイング・キャリア―750の構造上の欠陥によるものじゃないかという声が湧き上ってきたのです。丁度、時を同じくして、フランスで落ちた同型機について、むこうの調査団が、750の構造の欠陥を指摘したのです。当然、遺族の間から、永井調査団や新日空に対してきびしい抗議の声が生まれました。当たり前の話ですよ。欠陥のある機体を飛ばしておいて、三百人近い尊い人命を失ったんですからね」
宮城は、まるで演説でもするような口調でしゃべりまくった。美奈子が、口をはさもうとすると、それをおさえるように、「それなのに!」と、叫んだ。
「窮地に立った永井調査団は、卑劣にも、今度は、墜落の原因を、高橋機長の操縦ミスにもって行ったんですよ」
「でも、永井先生は、私の証言で、誰も傷つかないと約束してくれた筈です」
「たしかに、永井調査団は、最初、不可抗力説をとっていましたよ。それなら遺族が泣くだけで、永井教授も、運輸省も、新日空も傷つかずにすみますからね。しかし、あなたの証言で、足もとに火がつくと、一番弱い機長個人に責任をかぶせたんですよ。このまま永井調査団の報告が操縦ミスで固まれば、死んだ高橋機長は業務上過失傷害致死で書類送検されるのは間違いありませんよ。機長の奥さんは、それを苦にして自殺したんです。新日空は、後追い自殺といっていますが、そんなことはない」
「………」
美奈子は、言葉を失った。宮城記者は、永井調査団が、機長夫人を自殺に追いやったといきどおりをぶちまけている。しかし、美奈子は、自分が責められているような気がした。何故なら、機長夫人の死は、自分がこの記者に「事実」を証言したためだと宮城は言っているからだ。
宮城は、なおも、腹立たしそうに、椅子から立ち上って病室の中を歩き廻りながら、
「笠井さん、あなたは、永井調査団の説得になんか負けちゃいけませんよ。事実を話しつづけるのです」
「事実……」
「そう、事実です。あなたが、僕に話してくれた事実です。あなたは、唯一の生存者として、事実を話しつづける義務があるんだ。死んでしまった三百名近い人たちのためにもね」
義務……、その言葉が、美奈子を重く押しつつんだ。
「事実ってなんでしょうか?」
「事実は事実ですよ」
「でも、私は、永井先生にも、あなたにも、違ったことは言っていないつもりです。それなのに、なぜ、機長の奥さんが死ななきゃならないんでしょう?」
「それは調査団の陰謀ですよ」
宮城は、ズボンのポケットから折りたたんだ新聞をとり出して彼女に見せた。
「この記事に驚いて、調査団は、亡くなった機長を犠牲にしたんです」
美奈子は、その新聞を広げてみた。
パイロットは雷雲を避けて飛んだ!
事故原因は、機体の構造上の欠陥か!
大きな見出しの文字が、いきなり美奈子の目に飛びこんで来た。彼女の顔が蒼ざめた。あまりにも断定的な見出しだったからだ。
「私は、こんなことを言ったおぼえはありません」
「いや、あなたは言った。赤いハイビスカスのことを。あかりの消えた機内のことを。ハイジャックも、アナウンスもなく、ベルトもしめない状態で突然墜落したことを。全部、あなたが話してくれたことだ。違いますか?」
「確かに言いました。でも、言ったのはそれだけじゃありませんか。この見出しにあるようなことは、言った覚えはありません」
美奈子は抗議したが、宮城は、そんな言葉は耳に入らないような顔で、
「あなたの証言をつきつめて行けば、この見出しの結論になるんですよ。第一、あの時、僕が、九〇便は、雷雲をさけたといったのに、あなたは同意したじゃありませんか?」
「それは、あなたが、ただそうおっしゃっただけです。私は同意した覚えはありません」
「しかし、反対もしなかった」
「ええ。わからないから黙っていただけです。黙っていることが、同意したことになるんでしょうか?」
「いいですか。今度の事故で、三百人近い人間が死んでいる。あなたの言葉は、その死を無駄にするか、しないかを決めるだけの力を持っているんです。あなたは、当然、それだけの覚悟をもって、事実を僕に話してくれたと思った。そうなれば、僕の考えに反対しなかった以上、同意したと見るのが当然じゃありませんか。それに、第一、あなたの証言は、永井調査団にとってショックでこそあれ、機長夫人の自殺とは何の関係もない。だから、あなたが、そのことでなやむこともないし、僕を非難する必要もない筈だ。あなたが、非難すべき相手は、あなたの証言を、自分たちに都合のいいようにねじ曲げた永井調査団の筈だ」
宮城は一気にまくし立てた。
この日、新日空のパイロットの組合は、今度の事故が操縦ミスによるものであるという事故調査団の見解に抗議してストに突入した。
9
翌日、新日空の営業担当部長、長谷川久作が、病室を訪れた。
最初は、見舞いの言葉を口にしていたが、美奈子には、すぐ、相手の来た目的が、別のところにあるのがわかった。
「弱ったことになりました」
と、吐き出すように言ったからである。
「昨日から、うちのパイロット連中が、一斉にストライキに入りましてね。我が社の一日の損害は大変なものですよ。事故の打撃のすぐ後ですからね」
長谷川部長は、まるで、その損害の原因が、美奈子にあるように言った。
美奈子が黙っていると、長谷川は、大きな手でハンカチをとり出し、額に浮かんだ汗を拭きながら、
「あなたにこんなことを言ってもはじまらないが、弱ったことを言ってくれましたね。中央新聞があんな記事を載せなければ、事故調査団の見解は不可抗力説に落着いて誰も傷つかずにすんだんですからね」
美奈子の顔に怒りの色が浮かんだ。
「ストライキの責任まで、私にあると言うんですか?」
美奈子は声をふるわせた。が、長谷川は、手を横にふって、
「別にそんなことを言っているわけじゃない。ただ、何故、新聞記者に、本当のことを言って下さらなかったのかと、それが残念でならない、それだけのことですよ」
「私は本当のことしか言っていません。何度言ったらわかるんですか?」
「それなら、事故調査団と、中央新聞とで、何故、正反対の結論が出たんですかねえ」
「あれは、勝手に、むこうが、解釈したんです。私がなにも言わないのに」
「そいつはおかしい。そうでしょう。事故調査団だって、秀れた人々の集まりだし、中央新聞だって日本三大新聞の一つだ。あなたが、何もいわないのに、勝手な判断を下す筈がないじゃありませんか」
美奈子は怒りが消え、代りに、深い絶望感に襲われた。彼女は、ただ、知っていることを知っていると話し、知らないことを知らないと言ったに過ぎない。だが、ことばが、彼女の口から出た瞬間、勝手に一人歩きして、一人の女性を自殺させ、新日空のパイロット達を怒らせてしまった。彼女には、それをどうしようもない。
長谷川は、ハンカチでもう一度額の汗をぬぐってから、血色のいい顔を美奈子に近づけた。
「笠井さん、私には、本当のことを喋ってくれるでしょうね?」
10
灯の消えた病室の中で、美奈子は、自分の体が、次第に暗闇の中に溶け込んで行くような気がした。いや、それは、彼女の願望だったかも知れない。
新日空の長谷川営業部長は、沈黙を守りつづける美奈子の状態に、業をにやしてブツブツ文句を言いながら帰ってしまった。彼女に一体、何が喋れたろうか。何か話せば、それが勝手に解釈され、沈黙さえも、肯定と受けとられる時、話す言葉を失うのは当然ではあるまいか。
美奈子は、病室の天井をみつめて考える。
彼女には、わかってきたのだ。今や、彼女の存在自体が、一つの意味をもって受け取られていることである。長谷川営業部長が、帰りぎわに、残して行った捨ぜりふが、彼女の頭にこびりついている。長谷川はこう言ったのだ。「黙っていらっしゃるのは、我が社に対してご不満があるからですね。もし、何かご不満があるのなら、具体的におっしゃってくれなければ困りますなあ」と。
長谷川営業部長だけではない。事故調査団は、彼女の沈黙を、また勝手に解釈するだろうし、新聞記者は、奇蹟の生存者、沈黙の抗議とでも書きたてるにきまっている。
美奈子がそこまで考えたとき、ドアがノックされて、矢吹がはいってきた。
「あかりをつけていいですか?」
と、丁寧にきいてから、スイッチを入れた。
「今日は疲れたんじゃありませんか。色々とわずらわしいことがあって大変ですねえ」
矢吹のやさしい言葉に、美奈子は、あやうく涙がこぼれそうになった。ひどく気弱になっていたのだ。それに、この青年だけは、彼女に何もきこうとしない。そのことが、うれしいのだ。
矢吹は、医者にきいてきた彼女の回復状況を教え、二、三日中に、飛行機で東京にお送りしますと言ってから、ちょっと弱った顔で、
「実は、明日、運輸大臣があなたに会いにこられます。わずらわしいかも知れませんが、わざわざ来られるんですから、気持よくむかえて下さい」
運輸大臣と聞いて、美奈子の気持は、また、重苦しくなった。
矢吹は手帳を取り出し、
「えーと、運輸大臣の空港到着が、明朝九時二十五分、十時から遺族へのお見舞い、これが約三十分ですから、病院到着は、午前十一時、新聞記者も同席します。うちの社長も一緒に来る筈です。こういうスケジュールですから、少なくとも、十一時までには、外の用件をすませておいて下さい。おねがいします」
と、すらすらと言った。こんな時の矢吹の喋り方は、いかにも慣れていて、美奈子の気持を、一層暗いものにした。恐らく、次の総選挙でこの事件がマイナスにはたらかないようにするためくるのにちがいない運輸大臣は、笑顔で彼女を見舞ったあと、調査団や記者たちと同じことをきくだろう。「助かった時の気持はどうでしたか?」「新聞にいろいろ書いてありましたが、本当はどうなんですか?」などと。
矢吹は手帳をしまうと、
「気分がよかったら、遺族の方に会ってくれませんか。私のところへ、あなたに会わしてくれという希望が殺到しているのです。遺族にしてみれば、あなたから墜落の時の事情をきいて、少しでも自分の気持を慰めたいんでしょう」
矢吹が、自分を苦しめようとしてそんなことを言っているのではないことは、美奈子にもよくわかっていた。しかし、結果的には、矢吹のことばは、彼女に重荷になった。遺族だって、結局は、同じことを聞くに違いなかったからだ。
「嫌だったらかまいませんよ。今は、あなたの健康が一番大事ですから」
と、矢吹は、やさしく言ってくれたが、美奈子の気分は、軽くはならなかった。むしろ、死んだ人々の遺族の怒りや悲しみやいらだちが、身近なものとなって迫ってくるのを感じた。何十人、何百人の遺族が、この島に来ているのか、美奈子は知らない。しかし、彼女にはわかるのだ。遺族は、きっと、ただ一人生き残った自分に対して、心の奥で腹立たしさを感じていることを。
遺族に会えば、自分がもっと暗い気持におちいるのはわかっていたし、といって、会わなければ、遺族は、激昂するだろう。
「なにか、私に出来ることはありませんか。遠慮なくおっしゃって下さい」
矢吹は、笑顔で言った。だが、美奈子に何が言えるだろう。運輸大臣にも、遺族にも、誰にも会いたくないと叫んだところで、この人のいい青年は、ただ、当惑するだけにちがいないからだ。
だから、美奈子は「ありがとう」とだけ矢吹に言った。
矢吹が翳《かげ》りのない笑顔を残して姿を消した後、美奈子は、手を伸ばして窓をあけた。
星あかりの夜の中に、三原山の姿が黒い影となってうかんで見えた。その影は、美奈子の心の中にまで同じように黒い影となって入り込んでくるように感じられた。
翌朝、看護婦が、血まみれになってベッドにうつ伏せに倒れている美奈子を発見して、大騒ぎになった。見舞いの果物についていたナイフで自殺を図ったのだ。しかし、発見が早かったのと、急所をわずかにはずれていたために、必死の応急処置であやうく一命をとりとめた。当然、運輸大臣の見舞いは中止になった。
勿論、運輸大臣には、自殺未遂の件は報告されていない。新聞記者たちにもである。
看護にあたった医者は、当惑した顔で、美奈子を見下ろしていた。九死に一生を得た、幸運な女が、何故自殺しようとしたのか、全く見当がつかなかったからである。
医者も矢吹も、美奈子の自殺未遂のことは、内緒にしていたが、小さな病院であり、狭い島のことでもあり、夕方には、いつのまにか人々に洩《も》れてしまっていた。
事故調査団は、すばやく反応した。美奈子の証言を最初自分達に有利に解釈しながら、同じ美奈子の証言によって、不利な立場に立たされた事故調査団は、自殺未遂の報告をきくと、美奈子が精神的に不安定であり、証言に信憑性《しんぴようせい》がおけないと発表した。それは、今度の事故の原因を、不可抗力説にもっていこうとする第一歩の感じがした。
記者たちの間にも、当惑がうかがえた。
中央新聞の宮城は、最初、美奈子の自殺未遂を永井調査団や新日空の態度に対する無言の抗議と受けとろうとした。そうした立場からの原稿も書いた。その見方が永井調査団を批判し、機体構造上の欠陥と考える宮城の立場に一致するからである。しかし、無言の抗議という考えが、否定されてしまうと、宮城は、あっさりと今までの美奈子の証言を原稿から削除してしまった。宮城にとって、彼の意見に賛成し、調査団や新日空に対してたたかう美奈子なら興味があるが、彼の書いた記事にヒステリックに反撥し、わけのわからない自殺未遂をやる女には、何の価値も認められなかったのである。その点で、宮城の考えは、彼が批判する永井調査団のそれと、奇妙に一致していた。
こうした冷酷な周囲の動きの中で、矢吹だけが、親身になって心配し、看病してくれた。
矢吹は、憔悴《しようすい》した美奈子の顔をのぞきこんで、「あなたの苦しい気持はわかりますよ」と言ってくれた。彼に果たして本当に美奈子の気持がわかるかどうかは疑問だが、彼女は、そう言ってくれるだけで嬉しかった。その嬉しさの中に、ふと、矢吹に対するほのかな愛情に似たものを感じて、美奈子は狼狽《ろうばい》した。
「東京に帰っても、会って下さいますか?」
と、美奈子がきいた。
「勿論、お会いします。今後のあなたの面倒を見るのが、私の仕事ですから」
矢吹は、やさしく微笑した。美奈子は、矢吹に、事故のあったあと数日の新聞を持って来てくれるようにたのんだ。矢吹は、一瞬心配そうな顔をしたが、素直に、部屋から出ていき、新聞の束を持って来てくれた。美奈子は、遭難者の写真を見ていった。
あった! 美奈子の捜していた男の写真がそこにのっていた。乗客である。
木原洋一、二十六歳、K大学助手となっている。彼の年老いた父親の談話ものっている。それによると、木原は、学校の成績がいつも一番で、申し分のない好青年だったらしい。独身で、恋人もなく、人生の半分も知らずに逝《い》ってしまった息子が哀れだと書いてある。
そして、一人助かった人がいるときいた時、息子であるように神に祈ったとあった。暗に、つまらぬハイミスのOLなどでなく、有望な息子が助かったらよかったのにと思っているのが、読みとれた。
じっと新聞を見ている美奈子を見て、矢吹が遠慮がちに声をかけた。
「どうなさったんですか? 気になさらないほうがいいですよ」
美奈子は、しばらく矢吹の顔を眺めてからゆっくりと言った。
「私、思い出したんです。落ちたときのことを」
「えっ」
矢吹は、予想以上に驚いた様子でかけよって来た。
「で、どうだったんですか? 落ちる前の様子は? 何が原因だったんですか」
「警察と新聞記者の方を呼んで下さい。その時に言います」
しかし、矢吹は行かずに美奈子の肩に手をかけて、
「おねがいですから、私に、こっそり教えて下さい。そのためにこうして……私は、独身なので、出来れば、あなたと今後おつきあいしていきたいと思っていました。その場合、私の伯父が、新日空の重役をしているんで、会社に有利なことだと、私も助かるのですが、その点、考えてくれませんか。おねがいです。私に教えていただきたいのです。どうなんでしょうか」
美奈子は、矢吹の顔をみているうちに、気持が冷えていくのが自分でもわかった。この男も、やはり、自分の利害関係で親切にしてくれたのだ。
美奈子は、矢吹を突きのけるようにして、冷たい態度で言った。
「早く呼んで下さい。言うとおりにして下さらなければ、今、あなたのおっしゃったことを新聞記者にいいますよ」
矢吹が、しおしおと出ていったあと、美奈子は、ベッドに寝ころんで天井を眺めた。
美奈子は、自殺未遂のショックで記憶をとりもどしたのだった。
美奈子が、思い出したことは、本当は、矢吹にとっても、新日空にとっても、永井教授にとっても、非常に有利なことだったのだ。今、眼をつむると、美奈子の前に、その時の光景がはっきりとうつる。
美奈子の隣の窓際の席にその木原という男はいた。彼は、感じのいい若者で、坐ってから、美奈子と少しことばを交した。その男を空港ロビーで見かけたときに、殆ど荷物らしい荷物もみやげものも持っていなかったので、不思議に思って美奈子が質問すると、
「いや、金をあまり持ってなかったので。それに、どうせ、渡せないから」
といって笑った。
渡せない――というのはどういう意味かよくわからなかったが、とにかく、お金がなくて買えなかったのだろうと思って、美奈子は、沖縄で買ってきた貝がらのキーホルダーを彼にあげた。彼女自身も、恋人もみよりもなく、折角の土産をあげる人もなかったからである。
男は、びっくりしたような、当惑したような顔でそれを受け取ったが、やはりうれしかったらしく、短いことばで礼をいったあと、じっとそれをにぎりしめていた。
そのあとしばらくたって、美奈子が、通路をへだてた右隣の女性としゃべっているとき、彼は、後部のトイレにいった。美奈子は、その女性が持っていたハイビスカスの花をきれいだと賞め、彼女が恋人に持ってかえるという意味のことを言っていたので、その時のことを覚えている。
やがて、彼が二人の前をよこぎって戻ってきたので話がとぎれた。
今度は美奈子が、トイレへ行こうとしたとき、眠っていたようにみえた木原が、わざわざ注意した。
「後部のトイレは汚れていますよ。前のほうがいい。前ほどいいと思います」
美奈子が礼をいって行きかけたとき、彼は、つぶやくようにいった。
「さようなら――」
そして、美奈子が、前のトイレに歩きつく前に、後部で爆発音がひびき、美奈子は気を失ったのだった。
木原が、何故、ジャンボ機を爆破をしたのか美奈子にはわからない。美奈子にわかっているのは、彼が、最後に、前にいくように言ってくれたため、助かったということだけである。
搭乗券通りの最後尾の席にいたら、尾翼と同じように、めちゃめちゃになって吹き飛んでいただろう。木原も、前方に行ったからといって、美奈子が助かるとは思っていなかっただろうが、せめて、死体がきれいなようにと、最後の情をかけてくれたのだろうか。
今の美奈子には、そのわずかな真実がうれしかった。
丁度その時、興奮した面持の一団が、部屋に入ってきた。警察と新聞記者たちだった。それらの人々にむかって、美奈子は、記憶を喪失していた時よりも、もっと無表情な顔で言った。
「私は、記憶をとりもどしました。でも、その時、なにがあったかは、やはり覚えていません。何故なら、その時、私は、ぐっすりと眠っていたからです」
殺意のまつり
1
昭和二十×年八月十九日に、九州で一つの殺人事件が起きた。
この年の夏は特に暑かったが、夜も十一時をすぎると、いくらか涼風が吹いてしのぎやすくなった。
O製鋼の若手重役、遠山栄造は今夜も宴会で遅い帰宅となってしまった。
旧式な冠木門《かぶきもん》はすでに閉められ、しんとした夜の静寂があたりをつつんでいる。遅くなった時の習慣で、裏口ヘまわることにした。
つきまとう蚊の大群を手で払いながら、木戸をあけて庭へ入った栄造は、おやと不審を感じた。縁側の雨戸が五、六センチあいて、淡い光が庭に洩れている。
栄造は、小声で、「オーイ、年子」と妻の名を呼んだ。
しかし、妻の返事はなかった。急に胸さわぎを覚えた栄造は、乱暴に靴をぬぎ捨てると雨戸を押しあけて、寝室にあてている中の間へかけ上った。
蚊帳の中に横たわっている妻の顔が、常夜灯の光にいやに青白く見えた。
「おい帰ったぞ」
蚊帳の外からゆり起こそうとして、伸ばした手に何か固いものが当って、はっとした。
刺身包丁が左胸につきささり、寝間着の浴衣《ゆかた》に鮮血がにじんでいる。
ふすまを開け放った隣室の蚊帳の中では、老母の|ぬい《ヽヽ》と五歳になる長女の麻子が、こんな事件のあったのにも気がつかず、すこやかな寝息をたてていた。
救急車は程なく到着したが、すでにコト切れている被害者をみて、救急隊員は病院への収容を拒み、かわりに変死事件として警察の出動を要請した。栄造は、第一発見者として、前記のような発見の事情を説明した。
警察は、調査の結果、栄造の申し立てが事実であると認定した。
厳重な捜査が開始された。盗《と》られたものがないことから怨恨《えんこん》説と痴情説が有力となり容疑者としてリストにのった十数人のうち、最後まで名前の消えない人物がいた。
それは、当日の午後、扇風機用のコンセントを取りつけに来ていた近所の電気工、飯島貢(当時25歳)で、当人は、終始無実を主張しつづけたが、当夜は自宅で一人でラジオの修理をしていた、というだけでアリバイが成立しなかった。
また、深夜の入浴時に洗ったズボンを、翌朝、室内で乾かしていたという点にも疑いがもたれた。その上遠山家の間取りや、家族構成も熟知しており、被害者を好きでつけまわしていたこともわかったので、犯行は可能だということになった。
飯島貢の家宅捜索の結果、胸のところに、小豆《あずき》つぶ程の血痕のついたシャツがみつかった。飯島は自分の血だと主張したが法医学の権威、大野|学《まなぶ》教授の鑑定の結果、被害者の血液型と一致する、ということが判り、これだけを唯一の証拠品として公判が開かれた。
一審では証拠不充分として無罪になったが、検事側控訴によって高裁で二審が持たれ、その結果、懲役十五年の判決が下った。
飯島貢は、最高裁に上告したが、棄却され、一審どおりの刑が確定し、止むを得ず服役した。
2
若手の笛木弁護士は、二十年前の殺人事件の古い公判記録のコピーから眼をあげると、いくらか疲れた顔でタバコに火をつけた。
窓外の見なれた大小のビルを、すでに夕闇がつつみはじめていた。
彼が二十年前のこの事件に興味を持ったのは、二日前のことである。
その日、あの男がとびこんで来たのは、笛木が事務所へ出勤して、事務員の入れてくれた茶を一口飲んだばかりの時であった。
「御用件を伺ってから、先生にとりつぐことになっていますので……」
若い事務員が、そういって押しとどめている様子なのに、
「いや、事件をたのみに来たんと違うんですわ。ちょっと先生に会わしてもらいまっさ」
といいながら、かまわずどんどん入って来たのだった。体格のいい、赭《あか》ら顔の人物であった。
受付を、強引に突破して来たくせに、笛木の前へ来ると、大きな身体のやりばがないように恐縮して、
「どうもすんまへん。お忙しいのに。また、あの節は、えらいお世話になりまして……」
汗をにじませながら、しきりに頭をさげるのを見ているうちに、笛木は男のことを思い出した。以前、詐欺《さぎ》であげられた時に、国選弁護人としてついてやった男だ。
たしか、岩本修という名前だった。その時も、とぼけた感じの大阪弁と、童顔のために、何となく、にくめない男だという感じがしたし、詐欺の内容も、子供じみたものだった。
「また何かやったのか、それとも……」
「へえ、それが妙な話で……」
言い淀《よど》んだまま、かしこまって立っている岩本に、笛木は腰かけるように言い、事務員に眼で合図して室外へ退かせると、岩本は、あたりをはばかるような小声で、やっと話し出した。
「……先生、二十年前の大分《おおいた》の重役夫人殺し、知ってはりますか」
笛木はちょっと考えてから、
「ああ、犯人は、たしか近くの電気工で、十五年の刑だった。もう、とっくに出て来てる筈だな。それが何か?」
「へえ、それが、その……、別に真犯人が居たら、どうなりますやろ」
「何だって?」
「先生、殺人の時効はたしか十五年だしたな。でも、それは殺した日から十五年ですか、それとも、なんやかんや調べがすんで、裁判が終ってから十五年でっか」
「時効といっても刑の時効と、公訴の時効とがあって複雑なものだから、よく話をきかなきゃわからないが、どっちにしても、二十年もたってちゃ時効だろう。それより、真犯人が別にいるってのは、聞きのがせないじゃないか」
笛木弁護士は、言いながら自然と力のはいるのを覚えた。
「君、真犯人を知っているのかね。真犯人は誰なんだ? まさか君じゃァ……」
「冗談やない。わしがなんで人ごろししたりしまんねん? 先生」
岩本は大げさな身振りで否定してから、話をつづけた。
「この間、ムショに入ってた時、一人の男と達《ダチ》に、いや友達になりましてん。ある日、いっしょに入ってたもんと時効について話してましたら、あとでその男がこっそりわしに言いよりますねん。『殺人の時効いうのはたしか十五年やったなァ』と。そうや、いうたら『実はオレがやったヤマで……』と、打ち明けよりましたんや」
「その男が、重役夫人殺しの真犯人だというんだね?」
「わしも、はじめは作り話やおもて聞いてましたんやが……。ムショではハクをつけるためにホラを吹きよる奴も多いんでねえ」
「そうだ。そんな話ぐらいじゃ、その男が真犯人だなんて断定できないじゃないか」
「それが、わしがムショを出て一年たったこの間、そいつがたずねてきて、真剣な顔で言いよるんですわ、『無実で入れられている奴が気の毒で、何度自首しようと思ったか知れんが、前科も余罪もある自分のことだから、死刑になるかも知れん、と怖くて、とうとう今まで自首せんかったけど、時効になってるんやったら是非自首したい、最近は年がいったのか考えると夜もねむれん。つきそって欲しい』いうて、見るとゲッソリやつれてるんですわ」
「うーん、それだけでは客観的な裏付けが乏しいな」
「それで、いろいろきいてみたんやけど、実にその事件をくわしく知っているんですわ。犯人でないと、とてもそこまで知っている筈がない、と思うようなこともたくさんありまんねん」
「たとえば?」
「その日、被害者の寝ていた蚊帳の外の机の上に、月見草の花が生けてあったとか、部屋にはいる時は、雨戸の下の方を持ってあけた。仕事用の軍手をはめていたから指紋はつかなかったと思う、とか」
でたらめではないかと思いながらきいていた笛木も次第に話にのってきた。
「で、本人は時効で罪にならないのだったら自首するとでも言っているのか?」
「へえ、自首したいて言うてますけど、もし時効になってえへんかったりしたら、大変やよって、わしの世話になった弁護士の先生に調べてもろたげるよって、それからにせえいうて」
「うん、もし、その男が真犯人なんだったら絶対に自首すべきだ。時効が中断されたりしていないかどうかは僕が責任もって調べてみよう」
最後に真犯人というのはなんという男なのかをたずねたが、岩本はその名前だけはかたくなに首をふって、
「調べてくれはって時効になってることがはっきりしたら本人つれて来ま。それまでカンニンしたっとくれやす」
といい、何度もあたまをさげて帰っていった。
岩本が帰った後、笛木は、興味を感じてこの事件についての資料をなるたけ多く集めるよう手配した。岩本の言うことを全部信じたわけではなく、むしろ半信半疑だったが、話に、二、三、妙に具体的なところがあったからである。
調べてみて、うそだということがはっきりすれば、その点を岩本に指摘すればいいし、自分もすっきりするだろうと思ったのである。
笛木は正義感が強いだけに、前々から、誤審問題に人一倍興味を持っていた。
一週間、色々な資料に眼を通していく中に笛木の頭に事件の全貌がだんだん明確な形をとっていった。というものの、何しろ二十年前のことで、当時の担当弁護士、検事、裁判長など、みんな死亡していたので、直接そういう人達からの話はきけず、専《もつぱ》ら、当時の新聞記事、裁判記録などよんで調べただけだった。
しかし、当時、事件を最初に扱った大分署の巡査が存命しているということだったので、真犯人と称する男に会ってある程度確かだと思ったら、大分に行ってもいいな、と思った。
3
時効の点は大丈夫だといってやると、岩本はよろこんで、その男をつれてくることになった。
気が変ったのではないかと思っていた笛木はほっとした。
岩本に伴われ、心もち緊張した面持で、事務所にあらわれたその男は、林《はやし》進一といって小柄でおとなしそうな男であった。年齢は四十二、三歳だろうか。妙にかげりが感じられる男だった。こういうのが、いざとなれば、平気で殺しをやるタイプであることを笛木は経験で知っていた。無口なだけ、岩本とはちがって真実味があった。
「……それで、時効の方は大丈夫でしょうか」
と、最初にきいたのは、やはり、それが林にとって最大の関心事であるらしかった。
笛木が、その点について充分納得できるよう説明し、
「大丈夫だ。わたしが責任もつ。安心して本当のことを言ってごらん」
やさしく眼をみつめながら問いかけると、林はぽつりぽつりと話し始めた。
物盗りに入って、目を覚まされたので殺したという動機、月見草の話、雨戸をあけた様子、更に殺害の手法など、専門家の笛木が聞いても細部まで緻密で破綻《はたん》がなかった。
当時の新聞なども、図書館で調べてあるが、月見草のことや、指紋のこと、死体のくわしい様子など全くのっていない。唯一の証拠とされたシャツの血液型にしても、被害者も飯島も共にB型であり、更にMN式でも共にM型だったとある。その後Qq式とかEe式とかの血液型鑑定の結果、シャツの血が飯島本人のものでなく、被害者の血だと断定されたのだが、ひょっとすると、これは、被害者と飯島の血液型がにかよっていたところからきた不幸なまちがいだったのではないか。
その点、林はA型だという。
殺す前、被害者が、左を下にして寝ていたと林が言うのをきいた時、笛木は大分行きを決意した。誤審の可能性が強いと感じたからである。
調書によると、真犯人と目された飯島が、一審前に自白したことは大体事実と相違なかったが、ただ一つだけ話があわない点があった。それは、遠方に住んでいた被害者の母親が、事件後証言したところによると、娘、つまり被害者は、幼児から心臓が弱く、いつも左を下にして心臓をかばうような形で寝るくせがあった、というのに、自白では、被害者は右を下にして寝ていたとなっているのである。
その点については当時の弁護士も、胸の刺傷が左だったので、警察は単純に右を下にしていたと思い、犯人をでっちあげ、自白を誘導するときも、最初そう教えたのではないか。だからこれは本人が法廷で自供をとり消して無実を主張したとおり、無罪であると苦しい弁護をしている。
林は、被害者は左を下にして寝ていたが、刺す時、目をさまして身をよじって上むきになったので左を刺した、といったがその方が自然である。
二人が帰った後、笛木は卓上のスケジュール表を引き寄せて検討してみた。公判や法律相談などで、ぎっしりつまった日程の中に、明日の午後からあさってにかけて不思議にぽっかりと空欄がある。
(よし、行ってみよう)
笛木は決心すると、女子事務員に、すぐ飛行機の予約をさせた。
一円にもならない仕事で九州まで飛ぶのも、無実で十五年もの刑に服した者の名誉をまもり、真犯人には心の負担をかるくしてやるという大義名分もあるけど、もうひとつ個人的な密やかな理由があった。
司法研修生時代に同クラスに一人だけ女性の研修生がいた。黒く大きい聡明そうな眼をした美人で、スタイルもよく、知的な魅力にあふれていて、いわば、クラスのアイドルであった。
いつのまにか、この貝塚美樹子には、クラスの誰も手を出してはいけないという不文律ができて、固くるしい研修生活の、華やかで明るい彩りにはなったが、任用までは恋愛はおあずけという形で過ごした。
そして、いざ任用となると、研修生たちは、北海道から九州まで各地に赴任させられて、離ればなれになってしまった。
男性同士は行動力もあり、出張なり研究会なりで会うことも多いが、この女性とは会う機会もないまま、今でも一種、あこがれに似た気持が消えないでいる。
彼女は今、大分の家庭裁判所の判事をつとめている筈だった。岩本から大分という地名をきいた時から、この女性のおもかげが心に浮かんでいたのである。
笛木は司法会名簿をとり出して念のためひらいてみた。貝塚美樹子という名も昔のままだった。
あれから十年、大学在学中に司法試験にパスし、当時二十一、二だった彼女ももう三十一、二歳になっている筈である。姓がかわっていないのは、まだ独身なのだろうか。
4
東京から一時間四十分の飛行だったが、はるばる九州まで、自分の気持だけでやって来たということに、笛木は、普段、理性や義務だけで生きている自分が、人間性を回復できたように思えてうれしかった。
足早やにタラップを降りると彼は、空港ロビーヘと急いだ。
事前に電話を入れておいたので、美樹子が迎えに来てくれるかと期待したのだ。
ロビーは予想外に混雑していて、それらしい人影はなかなか発見できなかった。あきらめて歩き出した時、不意に斜め後ろから声をかけられた。
「笛木さん?」
少し甘えたような美しい声はまぎれもなく美樹子の声であった。
ふりむいた笛木は、相手が予想以上に若々しく美しいのに驚きもし、満足もした。
一別以来の挨拶の後、二人は車に乗りこんだ。彼女の運転するレモン色のスポーツカーの座席で、窓からの風を心地よく感じながら、笛木は一瞬、恋人とドライブしているような甘い錯覚に陥った。
案内された県警では、美樹子の紹介で彼女の叔父にあたる県警察本部長に会うことが出来た。
本部長は、現に解決しなければならない事件をいくつもかかえて多忙であったが、美樹子の口ぞえもあり、遠方から弁護士が正義感から自費で調査にやって来たと聞かされて、特別に会ってくれたのである。
美樹子が紹介すると、いくらか当惑した顔で、
「ところで笛木先生、折角おこし下さったのですが、当時の関係者は、ほとんど故人になっていてあまり収穫はないと思いますよ。なにしろ二十年も前の事件ですからな」
自分がタッチした事件でなかったとはいえ、地元の自分達が犯人を挙げ、裁判も済み、本人の服役も済んでいる今、遠方から来た一弁護士に事件をほじくり返されるのは、あまりいい気持でなさそうだった。そんな気持が戸惑いの表情にあらわれていた。
「何といっても、決め手となったのは、大野教授の鑑定された飯島のシャツについた血痕の、血液型の判定でした。真犯人が別にいるとすると、大野教授の鑑定が間違っていたということになりますな。その点について大野教授に会われましたか?」
「大野教授にはまだ会っていません。もう少し調べて私に確信が出来たら会おうと思っています」
言葉すくなに答えると、笛木は当時の記録を見せてくれるように頼んだ。
記録によると、雨戸に飯島の指紋はなく、それは飯島が庭にしのびこんだ時、雨戸がすでに人ひとり通れる位あいており、手をかけてあける必要がなかったため、としてある。
この点も、雨戸に飯島の指紋がなく困った警察が窮余の一策として考え出した弁明ととれないこともない。動機は痴情説となっている。
真犯人だと名乗る林はその点について、主人の帰宅がまだだったためか、雨戸に鍵がかかっておらずほんの少しすきまがあいていたので、雨戸の下方、ごく裾に近いところを持って人ひとり通れるだけひきあけた。手には軍手をはめていた……といっている。この方が自然だ。
記録の方には大して目新しいところはなかったが、当時、現場に一番最初に出動した巡査の住所を教えてもらうことができたのが収穫だった。
その畔津《あぜつ》巡査は、停年退職して今は農業をしているということだった。
笛木は、本部長が部下に命じて調べてくれた住所を貝塚美樹子の車に乗せてもらって訪ねることにした。
太陽は西の山に近くなっているが、まだ赫《あか》く、ぎらぎらと照りつけている。
「さすが九州だなァ、太陽の色までちがう」
笛木が感心すると、美樹子は楽しそうに声を出して笑った。こんな屈託のない女性が、家庭裁判所で人生の機微をうがった複雑な問題を裁いているのかと思うと不思議な気もする。
町並がとぎれ、田園地帯になり、また車の両側の窓に半商半農の家々が迫って後部へ流れていく。
「もう、この近くの筈ですけど」
美樹子の声に、笛木も眼をこらした。
「あ、そこに酒屋がありますね。停めて下さい。僕が降りて聞いてきます」
次の三叉路で曲った突き当たりに目指す畔津元巡査の家はあった。
畑仕事から帰ったところらしく足を洗っていた元巡査は、判事と弁護士の来訪ときいて大いに敬意を表して、座敷へ通るようにすすめた。
笛木は来訪の目的をのべ、早速質問に移った。
「あの事件を覚えておられますか」
「良ォっく覚えとります。自分が交番勤務中には、直接管轄の区域で起こった殺人事件というのは数えるほどしかなかったですから」
元巡査は自信ありげに答えた。警官だからこそ五十歳台の半ばで停年退職しているが、まだ十年ぐらいは勤められそうに元気でしっかりしていた。
「あの家の主人の遠山栄造さんの慌て声の電話をもらったのは夜の十一時すぎだったと思います。直ぐ自転車のペダルをフルスピードに踏んで飛んでいきました。家のまわりに怪しい人影がないか一巡してから中へはいったのを覚えております」
畔津巡査は笛木にきかれて当時の様子を思い出してゆっくりと話してくれた。
「どこからはいりました?」
笛木は随時質問をさしはさみ、要点をメモしていった。
「ハイ、裏側からまわって、縁側の雨戸が一枚、半開きになっていましたので、そこからはいりました」
「犯人もそこから出入りしたとお考えですか」
「ハイ、ほかはきっちり戸締りできとりましたし、多分まちがいありません」
律義に一つ一つ思い出して答える元巡査に笛木はアプローチを終えて核心に迫った。
「部屋にはいったとき、どんなものが眼につきましたか」
「まず蚊帳。その中に被害者、自分は凶器以外に加害者の遺留品がないかを見まわしました。結局何もみあたりませんでしたが……」
「流しの犯行とは考えなかったんですか?」
「一応は考えましたが、金も物も盗られてませんでしたから」
「しかし、流しで入った犯人が、ムラムラと夫人に妙な気を起こしたが、騒がれそうになったので、あわてて刺し、何も取らずに逃げたこともありうるでしょう」
「まあそうですが、飯島という有力な容疑者がすぐ浮かびましたからなあ」
「部屋の中には、どんな道具類がおいてありましたか」
「寝室に使っていたためか、あまり道具類はありませんでしたね。たんすが一|棹《さお》と……あ、そうそう、机がありました」
笛木は思わずひざをのり出した。
「机、机がありましたか、どんな……」
「そうですね。小型の文机で、上に花びんがのっていましたね。花が入って」
「なんの花だったか覚えておられますか?」
「ええと……月見草だったと思います。そうです、月見草でした。この花は一日でしぼんでしまうのに、まだいきいきとしていましたから。宵《よい》に近所の河原にいって、子供さんとでも折ってきたのだろうと思って不愍《ふびん》に思いましたので覚えています。まあこれは、事件に関係ありませんが――」
笛木は、真犯人と名のる男が、本物である可能性が出て来たぞ、と思ったが、更に慎重を期した。
「野次馬というか、見物人が来て、現場をのぞいていく、というようなことはありませんでしたか」
「ありません。家族以外は現場へ入れておりません。自分が自転車でかけつけて現場の保存につとめている間に、警察のジープで、本署の警官が五名ばかり到着して、捜査ならびに、付近の警戒にあたってくれましたから、木戸からのぞくことも出来なかった筈です」
「じゃ、その月見草のことを知っているのは被害者の家族とあなた方警官だけですか」
「そうですなァ……。朝になってからは嘱託医だとか、新聞記者だとかが来ましたし、遺体を解剖に運び出してからは、近所の人や親戚の人も来ていたようですが、それまでは……。ところで何か月見草に重大な意味でもあるのですか」
「これが一つのポイントになっているんですよ。月見草が枕もとにあったことは、当時の新聞記事にも載らなかったし、警察の調書にもない。また日中はしぼんでしまう花だから、その日の昼から活けてあったとは考えられない。また遺体を運び出してしまってからでは、足元だか枕元だかわからない筈ですね。だのに、真犯人と名のる男があらわれ、犯行時、枕もとに月見草の花が挿《さ》してあったというんです」
「そりゃ重大です。もっとよく思い出してみます」
畔津元巡査は真剣な眼つきになり一生懸命思い出そうとしている様子だった。
笛木は、その沈黙の間にも考えを廻らしていた。
(真犯人と名乗る男は、被害者が近くの草むらで月見草を摘んでいるのを見て知っていて、それが生けてあったとあて推量で言ったのではないだろうか。でもそれは危険なかけだ。途中ですててしまうかもしれないし、その場所に生けるとは限らない。それとも、警察の人や、新聞記者が、なにげなく現場の話をしたのを耳にはさんだのだろうか)
と考えていると、元巡査は口をひらいた。
「朝になって遺体を運び出す前、部屋を広くするために、遺族……といっても、御主人とおばあちゃんですが、この人達で、その部屋を片付けられた際、もうしぼんでいた月見草も捨てられた筈です。ですから警察関係のものしか見ておりません。こうなると、その人が、真犯人ということになりそうですなァ。そうなると、あれだけ慎重に調べた筈の署も責任が出て来ます。まだ信じられませんが」
元巡査は、唇をかんだ。
「あ、それから被害者の遠山さんの家をごらんになりますか。ここからすぐのところですよ。もっとも、今は、遠山さんじゃなく、別の人が住んでいますが……」
「遠山さんはどうなさったのですか」
「遠山さんは、大阪へ出られましたよ。O製鋼では、将来、社長になる人だなんて噂されてたのに、その職をすてて、大阪で町工場のようなことをすると言って移って行かれました。今じゃ成功してかなり大きい会社になっているそうです。……あ、それから、おばあさんは大阪へ移られ五、六年で亡くなられたそうです。うちへも忌明けの志を送って来てました。ていねいなもんですよ」
畔津に案内されて行ってみると、昔の建物はとりこわされ、近代的だがチャチな家にかわっていた。
「この近所で月見草をつんでいたとするとどこらあたりでしょう?」
いっしょについてきた美樹子が畔津元巡査にきいた。
「そうですな。昔は大分川の河原も一面月見草でしたし、線路脇の土手にも随分咲いていましたがね。最近はコンクリートで固めたりしてしまったのであるかどうか」
言いながら、建物の裏手をまわって少しいくと川の流れがきこえてきた。
巡査のいう通り、立派な堤防が出来ているかわりに、雑草の茂る余地は減っていた。
それでも、あちらに一群、こちらに一群と月見草の集落は黄緑のつぼみをつけて、夕やみの迫るのを待っているのがみられた。
笛木弁護士は、都会の騒音からはあまりにかけはなれたこの月見草の咲く河原で、美樹子といつまでもじっとしていたいようなロマンチックな気分にふとさそわれた。
5
翌日、笛木は、飛行機で大阪へ飛び、被害者の夫、遠山栄造を訪ねてみた。
その住所は、大阪市大正区の工場街の一画に、会社と隣合わせに建っていた。仕事熱心な中小企業の社長の家などによくあるタイプである。
住居の方で来意をつげると、若い女が出て来て、
「父は会社の方へ行っておりますから、そちらでお会い下さい」
と言った。
美しいが、冷たく陰気な感じのする女である。父は、と言ったことを考えれば、恐らく事件当時五歳だったという長女だろう。
或いは、後妻が産んだ娘なのだろうか。
とにかく、これだけの会社の社長の家で、使用人も置いてないらしい質実さはちょっと意外だった。
会社では、社長室横の応接室で数分間待たされて、やっと遠山が現われた。笛木が来意を告げると顔を赤くして、
「なに? 真犯人が別にいるって? そんな馬鹿な! せっかく忘れていたのに、そんなこと言われると、かえって混乱しますよ。あれはもうケリのついた事件です。私達の家庭でも、あのことはきれいさっぱり忘れて再出発したのです。会社だって、上場会社の重役の職まで振って、大阪へとび出して来ました。大分に居たんじゃ、暗い思い出の中で過ごさにゃならんと思えばこその思い切りです。真犯人が出たなどというと、死んだ妻も、余計迷うことでしょう。娘にも動揺をあたえたくないし、どうかそっとしておいて下さい」
遠山は相当ショックを受けたらしく、アームチェアに置いた手をびりびりとふるわせていた。
真犯人が出たということで、喜んでもらえるかと思っていただけに、笛木には意外だった。しかし、考えてみれば、被害者の家族としてもっともな心境だと思い、この歳になって、結婚もしていない自分の人生経験の浅さを、改めて反省させられるおもいだった。
どうやら遠山は後妻ももらわず、娘と二人ひっそりと住み、仕事にだけ闘志をもやしている日常のようだった。
社長室から一応、大阪のホテルに落着いた。そのあと東京の事務所に連絡してから、ホテル備付けの夕刊をひろげた笛木は、あっと眼をむいてしまった。
「真犯人は私、二十年前の重役夫人殺し」
という見出しが、デカデカと出ていたからである。
関係者の意志を尊重して、笛木も、外部に洩《も》れることのないよう随分注意してきたつもりである。
大分県警あたりから洩れたのだろうか。それならそれで、こちらにもインタビューの申しこみぐらいあってよさそうなものなのに、それもなかった。
不審に思いながら読み進んでみると、
「この事件の容疑者、飯島貢(当時25歳)氏は、罪状否認のまま、十五年の実刑判決をうけ、服役中も無実を叫びつづけたため、反省の色なしとして、特赦や仮釈放の恩典にも浴せず……」
と、飯島への同情すべき事実を報じたあと、
「このほど、同事件の真犯人は私だと、大阪の林進一氏(40歳)が名乗り出た。
同氏によると、はじめは無実の飯島氏が投獄されたことで、犯人の自分が大手をふって歩けるようになったのを狂喜してよろこんだ。しかし、日時の経つにつれ、無実で服役している者や、その家族のつらさを思い、良心の痛みにたえられなくなり、友人につきそわれ、東京の新宿署に自首して来たものである。
林進一氏は、本署に連行され、取調べをうけたが、たとえ真犯人であることが判明しても、時効が成立しているため、起訴されることはないものと見られている」
――他社の新聞も大同小異のことを報じている。
完全に出し抜かれてしまって、笛木は不愉快だった。
あの男たちに時効の成立をたしかめるだけの道具に使われたのである。それなのに、わざわざ九州までもやってきた。
無実で苦しんでいる者を放っておけないという正義感から出発したのだし、手を染めているうちに、無実の構造を研究することは、弁護士として業績にもなると考えて熱意をもやしたのであった,
雇いの弁護士や女事務員に、多忙な中の時間を割かせて、公判の記録や、当時の報道の蒐集《しゆうしゆう》にあたらせもしたし、自身でも調べて、すでに相当量の記録も作ってある。
だのに、自分を通さずに公表してしまい、ジャーナリズムに食い荒されてしまっては弁護士としては立つ瀬がないではないか。
憤然として、(この事件はもう打ち切りだ。旅行中にたまった書類でも片付けた方がましだ)そう思ったとき、東京の岩本から電話がかかって来た。
「先生! 新聞、読まはりましたか」
笛木は、岩本の明るいケロッとしたイントネーションに余計腹が立った。
「読んだか、じゃないよ。どうして僕に相談もなく、あんなことをしたんだね! 僕を利用するだけ利用して、勝手なときに好きなことをするっての、余りじゃないか!」
電話機に向って怒りをぶちまけると、
「いや、そんなわけやおまへんねん。先生に相談して、できたら先生につきそうてもろうて自首しようと思うて二、三度電話したんですけど、御出張や、とかいうことで。林も、自首するんならすぐやないと気がかわるかもしらん。早よしたい言いよるんで。今日もやっと事務所の人からそちらのホテルにいはるのをきいたんです。正式に自首するのは、先生が帰らはってからということにして、一応、警察へでも言いに行っとこか、というようなことで……」
岩本は、のんびりと答えた。
「馬鹿! 自首に一応も正式もあるものか。事実上、すでに天下に知れてしまってるじゃないか」
「へえ、済んまへん。いや、こっちも弱ってますねん。新聞社は来よるし、TV局もきよるし、とうとう今夜の十一時の深夜スタジオの『話題の焦点』に出んなりまへんねン。わて、テレビに出るのんはじめてですよって、ドキドキしてますねん」
恐縮してあやまってるかと思えば、またケロリとしているこの呼吸にのせられて、笛木も、こんな男に怒っている自分が馬鹿馬鹿しくなってしまった。
テレビの深夜スタジオなんて見る気もなかったが、やはり気になり、部屋のベッドに腰を下ろしてセミヌードの踊りを見ていると、場面がかわって、「話題の焦点」になった。
男女ペアの司会者が軽妙に話をすすめていくにしたがって、フィルムの大写しが出たり、事件の関係者がスタジオへ出て来てしゃべったりする番組である。
刑事訴訟法のことを刑法と言いちがえたり、時効の中断を、時効の中絶と言ったり、法律の専門家が見ているとおかしい点もちょいちょい出てくるが、ともかく、誰にでもよくわかるように事件の紹介がすすんでいく。
「では、いよいよ真犯人を名乗る林進一さんに出ていただきましょう」
アナウンサーの声に、ファンファーレもどきのトランペットが鳴って、出て来た男の後に岩本修がついている。
アナウンサー二人がかわるがわるたずねると、林はうつむき加減で、ぽつりぽつりとしゃべる。
「あ、紹介がおくれましたが、この方が林さんの自首の時付きそわれた方です。お名前と御関係をどうぞ」
アナウンサーがマイクをつき出すと、岩本はうれしそうに丸顔にいちめんのシワをよせ、
「岩本修です。この男とはムショ友達でんねん。ほんまは弁護士の笛木先生につきそってもらって自首するつもりでしてんけど……」
さっき、電話で雷を落としといたのに、まだ尻尾を振って、先生先生と言っている。
この駄犬のようなところが、この男の憎めないところである。
ついつりこまれて、カバーガールがブラジャーをはずすと、そこでフェイドアウトして、ジ・エンドの文字が出る番組の終わりまで見てしまったが、自分の知らないような新しい資料は得られなかった。
そろそろ寝ようかと思ったころ、電話がかかって来た。今のテレビを見た新聞社の記者であった。このホテルは、あの岩本が教えたのだろう。
弁護士の名前が出たので、さっそく電話してきたのであった。
どういういきさつで、あの連中をバックアップしてやっているのか、というような興味本位のことから、殺人犯の時効は何年か、というような六法全書を調べればわかるような初歩的な質問まで延々とインタビューされ、内心抵抗を感じないでもなかったが、相手が新聞社のことなので、ていねいに答えておいた。
受話器をおくと、また別の新聞社からかかり、普段、タフをほこっている笛木も、電話の応接だけで、くたくたになってしまった。
翌日東京の事務所へ帰ると、週刊誌の記者や、放送局の取材班などが押しかけ、一週間にわたって、本来の法律事務所の仕事が手につかず、真犯人さわぎに追いまくられる結果となってしまった。
真犯人自白事件で、静かに思索したり、本来の法律活動をする時間をだいぶ奪われ、笛木は苦々しい気持になった。
しかし、インタビューなどに応えて自分の話したことが、ほぼ忠実にどの紙面にものっており、その点では気持がよかった。
記者たちから感想を求められると、笛木は、
〈時効のことは大丈夫だから、ほんとうに真犯人なら自首すべきだ。しかし、重大な問題なので、私自身は慎重に調査した上で、ことを運びたいと思っていた。それまで待つようにと言っておいたのに、大分までこの事件の調査に行っている間に、こういうことになり当惑している。
私が調べたところでは、真犯人でなければ知らないようなことを二、三林氏がしゃべっていることから、今は林氏が真犯人なのかもしれないと思っている。もし本当なら、林氏は勇気のある行動をしたわけで、立派であるし、無実の罪に服した飯島氏にとっても、よろこばしいことだと思う〉
というようなことを話した。
テレビヘの出演もたびたび依頼があったが、これはすべて断った。
断ったことが新聞や当のテレビで報ぜられると、今までの発言等と併せて、笛木弁護士の謙虚な人柄に好意を寄せる人が多かった。
驚いたことに、その後弁護や、法律相談などの依頼がどっと舞い込み、平常の十倍以上という件数に達したのである。
知っていたつもりのマスコミの威力に、笛木はあらためて驚かされた。
マスコミの威力といえば、岩本もそうで、一躍有名人になってしまった。
あまりに喜々とした軽薄な態度が、人々の顰蹙《ひんしゆく》を買いながらも、持ちまえの明るさ、相手方を気楽にさせるような性格が、人気のもとであった。彼の現在の本業である食料品店は、じかに岩本をみよう、出来れば二言三言、話もしたいという客でごった返すにぎわいを見せている。
恐らく平常の数倍の売りあげをこなしているだろう。
6
笛木は、その朝、むつかしい顔をして新聞をにらんでいた。
朝刊にこの事件の特集が組まれ、末尾の方に大野教授の談話がのったからである。
「自分の鑑定については自信がある。したがって、飯島氏以外に犯人はいないと思う」
という趣旨のもので、僅《わず》かに三行ばかりのものだが、権威ある大野教授の談話だけに、短さが却って疑問をさしはさむ余地を与えぬきびしさとなって眼を射た。
もし、林が真犯人ならば、唯一の証拠とされた血液型の判定が誤っていたことになると笛木は思っていた。
二十年たった今も教授にはそう言いきれるだけの根拠があるのだろうか。
笛木は、早速、教授に電話をかけて教えを乞うた。
大野教授は、今、大学へ出かけるところなので、と前置きして手短かに説明してくれた。それによると、容疑者飯島の自宅から押収したシャツについていた血痕と、被害者の寝具についていた血痕とをABO型で鑑定するとB型で、被害者のものと一致する。また、MN式で調べてもM、Qq式で調べてもQ、更にEe式による血液判定も、ともにEと一致した。
この血液型B、M、Q、Eをもっているものは千人中、十五人の割合しかなく、このことをもとに計算してみると、シャツの血が、被害者のものであるとする確率は、九八・五パーセントの高率になる、との説明であった。
笛木が、
「二十年も前の鑑定だのに、よく数値まで覚えておられましたね」
と感心すると、
「いや、昨日、新聞記者が取材に来たんで、その時、おさらいをしていますからねえ」
大野博士はそう言って笑った。
笛木は気分がほぐれて親しみやすくなったところで、さらに突っこんだ質問をした。
「鑑定結果に自信があるとのお話でしたが、資料が、シャツについた小さな血痕だということから、素人の私としては、鑑定が困難だったのではないかと思うのですが、この点いかがですか?」
「検出に当っては、資料の量が少量なので、充分に予備検査をして、正確な結果が出るようにしました。資料もなく、年もたっていますから、今、再鑑定することは出来ませんが、私はこの鑑定に自信をもっています。では、私は出勤しますから、御用がおありならば、大学の方へおこし下さい」
そう言って電話を切った。
笛木は、この上は、犯人として十五年の刑をつとめあげた飯島貢に会って一度話をきくべきだと思った。
そこへ、「週刊事件」の記者がたずねてきた。
真犯人と名乗る林進一と、無実で服役してきた飯島貢を、本誌の仲介で顔合わせさせたい。ついては先生に是非立会っていただきたい、というのである。
「僕が出席して、法律の解説でもするんですか」
「いやァ、それはどちらでもいいんですが、実は真犯人だと名のり出た林さんが、無実で服役された飯島さんにお詫びしたい、一度会わしてほしい、とこう言われるのです。そこで飯島さんにおねがいしたところ、理性では名乗り出てくれたことで汚名がそそがれてうれしいと思うが、何しろこの人のために、殺人のぬれぎぬを着せられて、十五年も死ぬ苦しさを味わわされたと思うと、どうしても会うのは気がすすまない、といわれるのです。そこを押しておねがいしたところ、この事件にくわしい笛木弁護士さんが同席されるなら出る、という話になりました。どうか先生おねがいします」
なんのことはない、こちらは飯島ひっぱり出しの添え物みたいなものだと笛木は苦笑した。しかし、飯島という男とは一度会いたいと思っていた矢先でもあり、関係者全員と一堂に会することによって、どちらにせよこの事件の結論がえられるだろうと思い、承諾した。
会場は飯島貢の家ということになり、定刻前に週刊誌の記者、写真班や速記者、編集者達がつめかけている中へ、「真犯人」の林進一と仲介者の岩本をつれて、笛木弁護士が、訪ねてくるという段取りになった。
飯島は、東京の江東区で、刑務所帰りの更生者としては見事といえる成功ぶりで、間口の広い店舗をもった自動車電装品の店を経営するまでになっていた。
彼は出所当時、勤め口がなかなか見付からないままに、中古の充電器一台で、自動車バッテリーの充電業をはじめたのだ。それが、自動車ブームの最盛期がおとずれ、カーステレオやカークーラーなど、車に電装品を取りつける仕事が次々と舞い込み、そのため運よく僅か五年でここまでになった。
また、飯島の無口で、愛想のないところが技術本位の店としての信用をつけ、固定客をつかんだのが成功のもとだと見る人もある。
仕事熱心な飯島も、今日は店を休業にして会場に当てる座敷に机を出したり、娘に茶菓の準備をさせたりして気を配っている。
もともと、人づきあいの良い方ではないのか、余り機嫌はよくないようだった。
定刻、林たちがやって来た。
フラッシュが光る。録音用のテープが回り出す。
司会者の記者が、さあ、こちらへと案内しようとした途端、座敷の入り口の敷居のところで林は坐りこんでしまった。そして畳に頭をすりつけた。
「飯島さんッ! すまんこってす。ほんとに済まんこってす。わしが殺《や》っときながら、サツの眼ェくらまして逃げてしもうたもんじゃから、あんたにえらい迷惑をかけてしもうた……。なんとわびたらいいかわかりません……」
林は泣き伏してしまった。
笛木も、まさか部屋にはいる前にわびを入れるとは思っていなかったので、手もちぶさたに林の後につっ立ったままである。
カメラマンがとび出して来て、つづけざまに五、六枚シャッターを切り、つぎは飯島の方へ、カメラをかまえている。
録音係も、テーブルの上にセットしておいたマイクを、大いそぎで握って敷居ぎわまで走り出て来た。そしてすぐさまUターンして飯島の近くへ行ってマイクを差し出した。
五秒、十秒と時間は経っていくが、飯島は唇を噛《か》みしめたまま何も言わない。
その沈黙が、飯島の不運と苦しさを何にもまして雄弁に物語っているように見えた。
記者達はこの情景を、太罫《ふとけい》の原稿紙にサインペンで書きとばした。
ここで、飯島が、「済んだことはいいのです。あなたが名乗り出てくれたので、汚名がすすげます」とか何とか言ってくれれば、雑誌社としては記事にしやすいのだが、飯島は、頑《かたく》なに口をひらかない。
娘が、茶菓をのせた盆を持って出て来たが、この情景をみて、部屋の入口で立ち止ってしまった。
司会役の記者が、中腰になって進み出て、
「とにかく、ま、こちらに入って坐りなおして下さい」
と、林の手をとって飯島の真向かいの席に坐らせた。
娘が一同に茶を配りはじめた。またフラッシュが光る。
プロポーションもいいし、目のぱっちりした近代的な感じのする女性である。
これだけの美人なのに、まだ結婚もしていないという。
飯島が、犯人として挙げられた時、内縁の妻である母親のお腹にいたというこの娘は、父親の服役中、世間の冷たい視線にさらされ、経済的にも恵まれない少女時代を過ごしたであろうと思われる。そして、父親が出所し、やっと経済的におちついてはきたものの、犯罪者の娘というハンディのために、結婚話さえないらしい。
いや、話がまとまりかけて、では婚約という間際になると、身許調査で破談になるというような残酷なことがくりかえされたときいた。
笛木は、この娘こそ、最大の被害者かもしれないな、などと思ってみたりした。
そして、連鎖的に、先日出会った遠山麻子のことも思い出した。刺殺された重役夫人の娘である。
あの娘の暗い表情は、裕福な家庭で育っているだけに、純粋に精神的なものといえるだろう。
気まずい沈黙のつづいているのを破ろうと気を使って、岩本が、わざと陽気に言った。
「林はん、あんた、飯島はんにあやまりとうて来たんでっしゃろ。そやったら、もう一ペんあやまってみなはれ」
飯島は聞こえないふりで茶をすすった。
林は、座ぶとんをはずし、畳の上で手をついた。
「飯島さん、ほんとに済みませんでした。許してやって下さい。いや、許さんと言われれば、それでも結構です。許せんのが本当でしょう」
声が涙でつまっている。ことばづかいも緊張のせいか、標準語に近くなっている。
心から詫《わ》びているというムードにあふれ、聞いている者も身につまされて涙がにじんでくる感じだった。
それでも飯島はだまっている。
司会者が、笛木弁護士にとりなしをたのんだ。
「飯島さん、真犯人だと名乗り出ることは、時効が済んでいても、なかなか勇気の要ることです。林さんを許してやって下さい。私も及ばずながら、あなたが青天白日の身になれるよう再審請求や、国家に対する賠償金の要求など、よろしければ、責任をもってやらせていただきます。どうか、林さんに一言、返事をして下さい」
笛木は、この場の立場上、そう言ってしまった。
それでも飯島は、林には何も答えなかった。そして、その代りのように、笛木弁護士の方へ向って低い声で、
「お骨折り、ありがたく思っとります」
とだけ言った。
そして、また、もとの沈黙に戻った。
司会者と、岩本がこもごも飯島に話しかけ重い彼の口を開かせようとした。
飯島はやっと小声で、ぼそりとつぶやいた。
「あなたの……おかげで……」
絶句したのを助けるように岩本が、
「えっ、なんです? 『あなたのおかげで救われた』と言うてくれはったんでっか」
そう言うと、飯島はこくりとうなずいた。
「……救われました」
と、さきの言葉につけ加えた。
記者達は、その一言を記事にするために一斉に、飛び出して行った。
本当は、(あなたのおかげで、どんなひどい目にあったか……)と、うらみを言いたかったのかもしれない。それを押えて、(救われた)といっている。何と自制心のある奥ゆかしい人柄だろう、とその場に居合わした者はみな思った。
笛木も、まず役目は果たせたことだし、と当事者三名を残して辞去し、運転手付の自家用車のシートに深々と坐った。
これで、あの飯島も家族も救われるだろう。お茶を持って出て来た美しい娘さんも涙を流していた。
裁判所で無実がはっきりするのも、遠いことではないだろうし、マスコミが取りあげるときには、きまってあの美しい娘さんのことを出しているので、きっと良い縁談も持ちこまれてくるだろう。
岩本は仲介でテレビに出て名誉欲も満足させ、店の宣伝にもなって、もちまえのエビス顔が、いよいよゆるみっぱなしだ。
林にしても、真犯人を名乗り出たことが、決してマイナスにはなっていない。
むしろ、男らしい行いだと受けとられ、美談のように取り沙汰されている。時効の成立も確実で、何の拘束《こうそく》も受けない。
本人は良心の呵責《かしやく》という重荷をおろして気楽になれただろうし、いまだに一人身なので、家族に対する配慮などもいらないわけだ。
八方おさまりでうまくいった――。
笛木は、ふと、貝塚美樹子の甘い笑顔を思い出した。
7
弁護士や報道陣が去った後、飯島家には当事者の三人だけが残った。娘も夕食の準備を言いつけられて買物に出て行った。
飯島は、ふすまを閉め切ってクーラーのスイッチを入れた。
三人はあぐらをかき、急に打ちとけた様子になった。
「あーあ、大変だった。筋書き以上に、雑誌社の連中、多勢来ているし、玄関まで来たらもう写真屋がピカリ、ピカリやりよるんで、すっかりアガってしもうた」
林は、そう言いながら、思い出しても汗が流れるのかポケットからハンカチを出して額をぬぐった。
それを笑顔でおさえながら、岩本が言った。
「いや、いや、うまいもんや。あんた中々演技派や。二度目に謝った時なんか、ほんまに涙こぼれたがな。わしももらい泣きしかけた。それに飯島はんも名優や。口数少のうして背中で演技してるがな。こりゃ、三人で劇団でも作って、打って出たら当たるかも知れへんで」
自分の言った言葉に笑い興じていた岩本が、急に真顔にもどって言った。
「それはそうと、分け前のことやが、わしも商売ほったらかしで、この話、成功さすのにかけ廻ってるんや、ちゃんとくれんとあかんでェ」
林もそれに言いたいことをオーバーラップさせた。
「飯島さんは、本当にやった殺人を、やらんかったことにして日本中を信用させて、娘の洋ちゃんも結婚できるし、商売の宣伝にはなるし、そりゃ、五百万は安いわ」
「しかし、俺、本当に無実だってこと、再審ではっきりするかな? そうなりゃ、国も賠償金出したり何やかやで大変だから、必死になって俺の黒を立証すると思うんだ。どうも心配になって来たよ」
飯島はぼそぼそした口調で、そう言った。
「大丈夫、だいじょーぶ。真犯人のあんたが教えこんだんやからこれほどたしかなことはないわ。月見草の話入れたりして泣かしよるヮ。警察に調べられたり、裁判に出たりした上、二十年間も事件のことばかり考えてきたんやから、あんたほど事件のことくわしい人ないはずや。きっと無罪になる。そしたら賠償金、そっくりわしら二人にも分けとくなはれや」
と岩本。
「それにしても、普段は左を下にして寝ていたというのに、なぜ、あの時、右を下にしていたんだろうな。サツで取調べをうけた時、左のまちがいだろうとしつこく訊かれたけど、デカの態度が気にくわなかったので、いや、たしかに右ですと言い張って通したのが、今度役立ったわけだ。こんど林さんに左を下にしていた、と言ってもらったら、それで話が合う、なんて、みんなころりと信用したじゃないか」
8
数日後の新聞には「再審請求、重役夫人殺人事件国家賠償も」という見出しで、この事件が社会面のトップに扱われていた。
同じ新聞の下段の書籍広告欄には「週刊事件」が広告を出し、「本誌独占、真犯人と無実の犯人が世紀の対談」とうたっている。
偶然そうなったのか、それとも再審請求の出される日を発売日にえらんだのか、とにかくグッドタイミングである。
その時大阪では、新聞に眼を通しながら被害者の夫、遠山栄造が、二十年前のことを回想していた。
あの夜――
遅く帰宅して部屋へはいると、妻は蚊帳の中で、刃物で胸をさされて苦しんでいた。
「あ、あなた……く、くるしい。抜いて下さい……。おいしゃさん呼んで……く、くるしい……」
抜くと見せかけてとっさに、力いっぱい刺し貫いた。
妻の体は、大きくひきつけをおこしたが、そのままぐったりとなってしまった。
刺しかえたため大きくなった傷口から、ゴボ、ゴボと血があふれ出て寝具を染めていたが、やがてそれも止まり、顔や爪が急速に紫色になっていった。
隣室では母と五歳になる長女が、安らかな寝息をたてていた。
自分のやったことはもちろん、第一の事件にも全く気がついていなかった母は、警察の調べに対しても、ただ、おろおろしながら、「寝込んでいたので、何も知りません。すみません」ばかり、繰返していたものだ。
私としては、専務から見合いで押しつけられたあの女が気にいらなかったところへ、一時の浮気が本気になった女と、熱烈な恋愛中だった。遅くかかったハシカは重いというが、学生時代から、入社、昇進と、エリートの道を歩むのに忙しかった私は、それまで女性に対する免疫が不足していたのだろう。
何とか妻と別れる方法はないものかと思いつめていたところへ、あの事件だ。
もっとも事件後、その女には夫も子供もあることがわかり、急に女に対する熱情がさめてしまったのだが……。
娘の麻子は僅か五歳だったし、夜も更《ふ》けていたから知らないのは当然だけれど、お母さんは年寄りのくせに目覚《めざと》くないんだなァ、目と鼻の近くで、二度も凶行が演じられたのに何も御存知なかったんだから……。知らないまま、あの世に行ってしまわれた……。ちらっと仏壇の方へ眼をやった遠山は、また新聞の方へ視線を戻すと、自称真犯人氏の記事を、被害者の夫のポーズで読み続けた。
もしその時、仏壇の位牌《いはい》がものを言ったとしたら、遠山はびっくりしただろう。
――私は嫁の年子が、はじめっから嫌いだったんだよ。ウマが合わないというのか、虫が好かないっていうのか、あの女と一日中顔つきあわしてると、うっとうしいってありゃしないんだよ。
ところが近所の飯島っていう電気工が嫁をつけまわして家のまわりをいつもうろうろしており、あの日も昼、うちへ工事にきた時嫁に言いよって、晩にいくからって言ってるのをちゃんと耳にはさんだんだよ。
だから、雨戸をあけておいたのは、わたしなのさ。
嫁の寝ている蚊帳へでも這いこんだところをつかまえて不義だとわめきたて離縁にしてやろうと思ったのさ。
とんだことになったが、まあ仕方がないよ。お前が帰るまで嫁が助けをよんでたけど、きこえぬふりをしてたよ。
お前もあの嫁を好いてないことはよく判ってた。あの日の朝もお前と喧嘩して、たちまわりをやった際、腕の筋がちがったとか言ってたね。わたしゃいい気味だと思った。そうそう、それでいつも左側を下にして寝るのに、あの日だけは痛い腕を上にするために、右側を下にして寝ていたんだねえ。
お前がやったことも知っている。
なにもかも知っているのはわたしだけだよ――。
9
被害者の娘麻子は、おそい朝食をとりながらテレビのチャンネルを、ニュースショウにまわした。
今日もまた、真犯人がどうの、無実がどうのというのをやっている。その上、無実の服役者の娘が本当の意味での被害者、などという見方を大きくとりあげて、当人をテレビに出したりしている。
――あの時、私は五歳だったけど、大きくなって考えて、いろいろわかってきたわ。
あの晩、おばあちゃんが雨戸をあけていったときから眼は醒めていたし、いつだったか、おばあちゃんが病気でうわごと言ったときに、「そうだ、栄造|殺《や》っておしまい!」というのも聞いたけど、あれが、あの晩のおばあちゃんの内心の声だったんだわ。
みんなから嫌われたり、うとまれたりした可哀そうなおかあさん。でも、わたしには良いおかあさんだったわ。
だから、私、おばあちゃんが心臓発作をおこしたとき、薬もとってあげず、医者にも知らせなかったのよ。それでおばあちゃんは死んだのよ。
だれも知らないことだけど……。
初出誌一覧
「残酷な旅路」
小説宝石昭和四十九年十一月号
「恐怖の賀状」
小説宝石昭和五十年三月号
「五〇パーセントの幸福」
小説推理昭和五十一年三月号
「黒枠の写真」
別冊問題小説昭和五十一年夏季特別号
「死者の掌」
別冊小説宝石昭和五十一年新春特別号
「孤独な証言」
別冊小説CLUB昭和五十一年六月特別号
「殺意のまつり」
小説推理昭和四十九年二月号
単行本 昭和五十一年十月文藝春秋刊
底 本 文春文庫 昭和五十七年六月二十五日刊