山村美沙
京都の祭に人が死ぬ
目 次
華やかな殺意
祇園祭《ぎおんまつり》殺人事件
くらやみ祭に人が死ぬ
鞍馬《くらま》の火祭
なぜにあなたは京都で死ぬの?
鬼法楽殺人事件
時代祭に人が死ぬ
華やかな殺意
「ああ、寒い」
そう呟《つぶや》いて、作家の矢村麻沙子は、ぶるぶると肩をふるわせてから、再び、カメラのファインダーをのぞき込んだ。
四月初旬だが、今年は気候不順で、春の風は冷たかった。京都の城南宮では、春と秋の二回、春は桜の花が咲く中で、秋は、もみじの木の下で、曲水《きよくすい》の宴《えん》が催される。
麻沙子は、雑誌社からたのまれ、今日、これから行われるその曲水の宴を取材するために、編集者と一緒にやってきたのだ。
曲水の宴というのは、庭園に造られた曲りくねった小川の曲り角ごとに、歌人が待機し、川上から酒を満たした盃《さかずき》を流し、それが、自分のところまで流れてくる間に、歌を一首作り、盃をとって飲み干すという平安時代の遊びである。もともとは、中国ではじまった行事で、日本には、奈良《なら》時代に伝わってきている。
出席する歌人は、男五人、女二人の全部で七人で、男は、水干《すいかん》、烏帽子《えぼし》の公卿姿、女は優美な十二|単衣《ひとえ》姿である。
毎年この催しに選ばれる歌人は、大学教授、歌人、書道家、作家、画家など、京都在住の文化人であった。一人ぐらいは、ゲストとして、歌手やタレントを呼ぶこともあったが、今年のように、四人も、有名な俳優や女優が来るのははじめてなので、催しのある庭園のまわりは、昼間から、押し寄せた観光客やカメラをぶらさげた人たちで、身動きも出来ないほどの混みようだった。
四人も来るようになったわけは、テレビの大河ドラマが、平安時代のものをやっていて、その中に、この曲水の宴のシーンがあるので、俳優たちが、宣伝と実地見聞のため、出演することを申し込んできたからである。
その四人の中に、女優の沖麗子がいた。
麻沙子が、取材を引き受けた主な理由は、もちろん、平安時代から伝わる伝統的なこの行事に、作家として興味があったからだが、それ以外に、沖麗子が、ゲスト出演するときいたからだった。
麻沙子は、二ケ月程前に彼女と対談した。そして、その驕慢《きようまん》とも言える美貌と、話の間中、きらきらと瞳を光らせていた気の強さや、はげしい個性に、かえって興味を持ったのだ。そして、なるほど、スターというのは、こういう強烈な個性のあるものでなければいけないのかと感心する一方、さぞかし、敵も多いだろうなと思ったものである。
麻沙子が、カメラから眼をはずしたとき、あちこち走り廻っていた雑誌社の浦川が戻ってくるのがみえた。三《み》つ揃《ぞろ》いの背広姿の、入社二年という若い編集者である。彼は、麻沙子の前に立つと、
「今日の曲水の宴には、若林由美もゲスト出演するんですよ」
と、息をはずませながらいった。
「恋人にしたい女性ナンバーワンという清純女優でしょ?」
「ええ、沖麗子なんかよりずっといいですよ」
「彼女のファン?」
「ええ、まあ」
「ほかに誰が出るのかしら?」
「沖麗子と噂《うわさ》のある北川二郎、歌手で、今度のドラマに起用された西和彦などです。あとは地元の文化人ですよ」
麻沙子はうなずいてきいていたが、
「それにしても、きれいな庭ね、曲水の流れも、私の想像していたのとは違っていたわ」
と、あたりを見廻した。
彼女は、コンクリートで固められた水路を、モーターの力で水が流れ、盃が運ばれてくる光景を想像していたのである。そんな先入観を持ってしまったのは、多分、彼女が、鉄とコンクリートの街で、長く暮らし過ぎたからだろう。
実際にこの場所に来て、最初に感じたのは、緑の濃さだった。太い樹の枝が、緑の傘を作り、その下を、幅五十センチくらいの本物の小川が曲りくねって流れている。木立ちの間から洩《も》れてくる春の陽が、緑の芝生に、明るい縞模様《しまもよう》を作っていた。そして、桜。今年は気候が不順だったので、まだ、五分咲きというところだが、それでも、頭上には、緑にまじって、桜がところどころ美しい花をみせている。
二時を五、六分過ぎて、観客が、急にざわめき、麻沙子が目をこらすと、華やかな王朝|衣裳《いしよう》の行列が、宮司《ぐうじ》に先導されて、入場して来るのが見えた。
歌人の最初は、紫色の狩衣《かりぎぬ》を着た六十歳ぐらいの老人だった。
浦川が、一生懸命に、メモを見ながら、
「ええと、あれは、K大教授の大河内信行氏。次に入ってきた水色の水干に烏帽子の美男子は、タレントの北川二郎です」
と、小声で、麻沙子に説明してくれる。
「北川二郎は、さっきも言いましたように、沖麗子との仲を噂されています」
「三番目は、京都在住の歌人でしょう?」
「ええ、それから四番目は、歌手の西和彦ですね。地元の書道家をはさんで、最後に、女官姿で、現われたのが、沖麗子と若林由美の女優二人です。二人は犬猿の仲だそうですね」
「それは知らなかったわ」
「有名ですよ」
「そうなの」
「さっきも、控室で、どっちが目立つ衣裳を着るかで、火花が散っていましたよ。結局、沖麗子の方が勝ったようですがね」
なるほど、若林由美が、ベージュ系統の地味《じみ》な十二単衣を着ているのに対して、沖麗子の方は、目もさめるような真紅に銀の縫取り模様の衣裳を着ていた。
やがて、七人の歌人は、紙に書かれた歌の題を見てから、宮司に導かれて、流れに沿ったそれぞれの席に着いた。今年の歌題は、「花」と発表された。
沖麗子も、若林由美も、華麗な十二単衣の裾《すそ》を後にひき、悠然と腰を下していた。この二人が、和歌をたしなむという話は聞いたことがないから、恐らく、あらかじめ誰かの作った歌を教えられているのだろうと、麻沙子は思った。北川二郎と西和彦も同様だろう。
やがて、琴の音《ね》を合図に、七人の歌人は、短冊《たんざく》を手に取り、筆に墨をふくませた。
川上からは、酒を満たした朱盃が、水鳥の形をした羽觴《うしよう》と呼ばれる舟に乗せられて、次々と流されていく。
一番、川上に近い位置に腰を下している大河内教授は、さすがに、歌の会の主宰者らしく、さらさらとしたため、自分の前に流れてきた盃をとめて、一気に飲み干した。それを見て、観客の間から、賞讚《しようさん》の拍手が起きた。
昔、中国で開かれた曲水の宴では、盃が自分の前に流れてくるまでに、必ず一首|詠《よ》むという忙しいものだったと、麻沙子は聞いている。それに比べると、今、目の前で行われている曲水の宴は、歌が出来たときに、流れてきた盃をとればよいというのんびりしたものだった。盃は、上流から、ひっきりなしに流れてきて、下流へ行くまでに、大抵は、どの歌人かが、とりあげて飲み干すこととなるが、中には、そのまま、誰も手をつけずに、下流まで行き過ぎてしまう盃もある。
飲み干した盃は、めじるしに、あらかじめ、用意された桜の花を一つ入れておく。それは、空の盃だというしるしである。それも、優雅で、面白い趣向だと、麻沙子は思った。曲水の宴は、秋にも行われるということだから、その時には、紅葉を入れるのだろうか。
出来上った歌は、これも、平安朝の童《わらべ》の恰好《かつこう》をした子供によって集められ、読みあげられていく。
二人の女優の中では、若い若林由美の歌が先に読みあげられた。これは、少しばかり上手《うま》く出来すぎていた。名のある歌人があらかじめ作って、彼女に教えておいたものだろう。
続いて、沖麗子の歌が詠みあげられた。こちらは、ひどく、素人《しろうと》くさいものだった。負けん気の彼女は、一生懸命、自分で作ったらしい。従って、拍手も、まばらだったが、麗子自身は、一首作ったことで、ほっとしたらしく、歌を童《わらべ》姿の子供に渡すと、目前に流れてきた盃をとりあげ、ゆっくりと飲み干した。
次の瞬間、まるで、舞いでも舞うように、彼女の赤い十二単衣が大きくひるがえり、両手は、空《くう》をつかむように、前方に突き出された。
麻沙子の立っているあたりにも、はっきりと、彼女のうめき声が聞こえた。
観客の間から、悲鳴があがった。浦川は、反射的にカメラを向けた。そのファインダーの中で、沖麗子の身体が、頭から小川の中に、崩れ落ちていった。
彼女に注目していた麻沙子が、真っ先に駆け寄って、小川に頭を突っ込む恰好で倒れている麗子を引きずりあげた。
近くにいた西和彦や、浦川も駆け寄ってきた。
麗子の身体は、麻沙子の腕の中で、ぴくぴくと小刻みに痙攣《けいれん》していたが、すぐ、動かなくなってしまった。
「死んだ……んですね?」
と、狩衣姿の西和彦が、真っ青な顔で、麻沙子にきいた。
「死んだんですか?」
と、浦川も、馬鹿みたいに同じことをきく。近頃の若者は、自分の目で見ただけでは心もとなくて、人に聞かなければならないらしい。
「とにかく、救急車を呼んで!」
と、麻沙子は、叫んだ。
救急車がやって来た。が、すでに手遅れだった。代って、パトカーと鑑識の車が駆け付けた。
死因は、明らかに青酸中毒死だった。殺人の疑いが濃いということで、捜査一課の刑事たちもやってきた。
その中の森下という警部は、現場に到着すると、まず、「矢村さん」と、麻沙子を呼んだ。
「あなたが最初に駆け寄られたんですね」
長身の森下は、眼鏡《めがね》の奥から、麻沙子を見下すようにした。
「ええ」
「何故《なぜ》、そんな近い位置にいたんです」
「私は、雑誌社にたのまれて、この行事の取材に来ていたんです。それに、前に、この沖麗子さんと対談したこともあって興味を持っていたので、自然に、彼女に近い位置にいたんだと思います」
「彼女が倒れた時、毒を飲んだと思いましたか?」
「とっさにはわかりませんでしたわ。でも、彼女が倒れる時、盃が飛んだんです。それで盃に入っていた毒を飲んだのかも知れないと思いましたわ」
「あなたが抱き起こした時、まだ息があったんですか?」
「身体がぶるぶるとふるえていましたわ」
「何かいい残しましたか?」
「いいえ」
「間違いありませんね?」
「ええ」
その時、沖麗子は、もう、何かが言える状態ではなかったのだと、麻沙子は思った。
続いて、会に参加していた童《わらべ》姿の中学生が呼ばれてきて、
「わたしは、この女の人が、歌が出来たという合図をしはったので、歌をとりに行きました。そしたら、歌を渡してから、小さい声で、『みんなは、何枚くらいなの? ねえ、若林さんは、何枚出したの?』ときかはりました。わたしが、ほかの人は、大体三枚くらいですというと、『じゃ、これと同じ歌を、もう一枚書くからとりにきてね』といわはりました。そのあと、岸に流れてきた盃をとって、すぐ口に持って行かはりましたけど……」
と、いった。
「粉かなにか盃に入れるのを見なかった?」
警部が念をおすと、中学生は首をふった。
「手にとって、すぐ飲まはりました……」
麻沙子は、横できいていて、沖麗子の死は、他殺に違いないと思った。死んだ彼女は、少なくとも、もう一枚短冊を書くつもりでいたし、ライバルの若林のことを気にしていて、自殺する気配《けはい》はなかった。又、薬を盃に入れる暇もなく、飲み干しているからだ。
森下警部も、同じように思ったらしく、横をむいて、部下の刑事に、何かの指示を出そうとしたとき、鑑識課員が、森下の傍《そば》に来て、小声で何か言った。麻沙子がみていると、森下は、
「沖麗子が落した盃から青酸反応が出たそうです。本人が、青酸入りのカプセルか何かをあらかじめ飲んでいたら、盃に反応は出ませんから、やはり流れてきた盃に入っていた毒によって死んだと思われますね」
と、いった。
「つまり、殺されたということですね?」
麻沙子が言うと、警部は、黙ってうなずいた。
警察によって、現場付近にロープが張られ、沖麗子の遺体は、検死と解剖のために、車で運ばれて行った。
他の六人の歌人や、行事の主催者は、重要参考人ということで、ロープの内側から外へ出ないようにと、森下がいった。
麻沙子と浦川も同じだった。
二人は、腰を下し、周囲を調べ廻っている刑事たちや、若林由美たちを眺めていた。
「刑事たちは、何を探しているんでしょうね?」
若い浦川は、興奮した声を出した。
「わからないわ」
と、麻沙子が言うと、ひょいと立ち上って、森下警部の方へ歩いて行った。
麻沙子は、それよりも、事件の渦中《かちゆう》にある六人の歌人の様子に興味を持った。
一番|年嵩《としかさ》の大河内教授は、今まで自分のいた場所に腰を下し、落着いて、短冊に歌を書いたりしている。
二十歳になったばかりの若い西和彦が、一番落着きがなかった。煙草《たばこ》を、ひっきりなしに吸っていたが、それがなくなると、ロープの外にいる付き人から貰《もら》ったり、テレビ出演があるから帰してくれと、刑事に食ってかかったりしている。
若林由美は、小川の岸にしゃがみ込んで、何を考えているのか、じっと水面を見つめていた。
沖麗子と噂のあった北川二郎は、所在なげに、落ちている桜の花びらを拾いあつめ、花のレイを作っている。死んだ恋人の沖麗子に捧げるつもりなのかも知れない。
あとの二人、書道家の牧流水と、歌人の山野辺は、京都人同士で気が合うらしく、並んで、何か話し込んでいる。
〈この六人の中に、沖麗子を殺した犯人がいるのだろうか?〉
麻沙子が、考え込んだとき、浦川が戻ってきた。
「刑事たちは、薬包紙を探しているんだそうです」
「ヤクホーシ?」
「薬を包む紙です。自殺にしろ、他殺にしろ、青酸カリを包んできた紙がある筈《はず》だというんです」
「それで、見つかったのかしら?」
「いや、見つからなかったようですね。川に流れたんじゃないかと、川下《かわしも》の堰《せき》まで調べたようですが」
「薬包紙に包んで来なかったとすると、青酸カリをどうやって持ち込んだのかしら?」
麻沙子は、首をかしげた。
「さあ、注射器とか、他のいれものに入れたとしたら、もっと目立って、取扱いも大変だと思いますねえ……」
「ねえ、指輪の蓋《ふた》をあけると毒が入っているというのよくあるけど、指輪をしていたのは誰と誰かしら?」
「指輪をしていたのは、死んだ沖麗子と、若林由美だけですが、両方ともダイヤで、蓋はあきそうにありません。いつもは、西和彦や、北川二郎も、ファッションリングなどしているんですが、今日は、時代ものなので、手が写真にうつるとまずいと思ったのか、はずしていますね」
「じゃ、薬包紙か、カプセルかなにかわからないけど、それは、六人のうちの誰かが、まだ、身体につけているのかも知れないわね?」
「これが、マイクロフィルムとか、暗号を書いたメモというのだったら、ちぎって飲み込むということも出来ますが、青酸カリのついた薬包紙じゃ飲むわけにもいきませんからね」
浦川が言った。
麻沙子は、手帳を取り出して、ペンを走らせ始めた。
「何を書いているんですか?」
と、浦川が、のぞき込んだ。
「今日の宴の七人の歌人の位置を書き止めているの」と、麻沙子はいった。
「流れてきた盃の中に、青酸が入っていたとすると、彼女より、誰が川上にいたかが、問題になってくるでしょう?」
「そうですね、一番川上にいたのが、大河内教授、次が、彼女の恋人という北川二郎です。三番目が、本職の歌人の山野辺、歌手の西和彦、そして五番目に死んだ沖麗子。その下に、書道家の牧流水、最後が、若い女性タレントの若林由美となりますね」
浦川は、自分のメモにも、七人の名前を順番に書き込んでいった。
「犯人が、自分の前に流れて来た盃に、青酸カリを投げ入れて、それを飲んだ沖麗子が死んだとすると、彼女より川下にいた牧流水と、若林由美はシロということになりますね」
「果して、そう言えるかしら?」
「え?」
「最後の若林由美のところを流れ過ぎた盃は、また、元へ戻して、流しているように見えたけど」
「ちょっと、聞いてきます」
浦川は、酒の係りをしていた神官のところへ走って行ったが、すぐ戻って来て、
「一番下流まで流れてしまった盃は、きれいに洗ってから、もう一度、酒を入れ、川上から流しているそうです」
「そうすると、沖麗子より川下にいた二人には、彼女を殺せないことになるわね」
「そうです。だから、犯人は、彼女より川上にいた四人の中にいるということになりますね」
京都に来る新幹線の中では、あまり口をきかず窮屈そうにしていた浦川が、生き生きとした顔でいった。
「大河内教授、北川二郎、山野辺、西和彦……」
と、浦川は、確認するように、四人の名前を呟《つぶや》いていたが、急に「あれ」と声をあげた。
「わからなくなっちゃったなあ」
と、いった。
「何が?」
「犯人が、一番上流の大河内教授としましょうか。彼が、自分の前に流れてきた盃に、ひそかに青酸カリを入れる。でも、それを沖麗子が飲むという保証は、どこにもありませんよ。二番目の北川二郎が飲んでしまうかも知れないし、三番目の山野辺が飲むかも知れない。或いは、ずっとパスして、一番川下にいる若林由美が飲む可能性だってありますよ。何しろ、その時、歌が出来た人が飲むわけですからね」
「その通りよ」
「犯人は、誰でもいいから、自分より川下にいる者を殺そうとして、たまたま、沖麗子が、不運にも、その盃を飲み干してしまったということなんでしょうか?」
「それは違うわね。いやしくも、人を殺すのに、そんないい加減な計画を立てないと思うわ。間違いなく、犯人は、沖麗子を殺す目的で、曲水の宴を利用したのよ」
麻沙子は、きっぱりといった。それは、ひょっとすると、彼女自身の潔癖性なのかも知れない。
「しかし、今、僕のいった疑問は、消えませんよ」
「わかってるわ。だから、引き算をしてみましょうよ」
「引き算?」
「犯人も、多分、引き算をしたんだと思うわ。だから、私も、その真似をしてみるわけ」
「何のことだか、よくわからないな」
「犯人を、大河内教授と仮定してみるわ。彼は、一番川上にいたんだから、彼のあとには、六人いる。が、盃に青酸カリを入れて流したとして、それを沖麗子が飲む確率は、六分の一、ここまではいいわね?」
「ええ。いいです」
「つまり、彼は一番、難しい位置にいたわけだから、彼の場合が解決すれば、他の人の場合も解決したことになるわ」
「ええ。そうですね」
「六分の一の確率しかないというわけだけど、それは、この六人が、必ず、盃のお酒を飲むという前提に立った場合だわ。そうでしょう。浦川クンは、お酒飲む?」
「それが、お恥しいんですが、全然、飲めないんです。パーティの時なんか、とても困るんで、飲めるようになりたいんですが」
「別に難しいことはないわ。川下の六人の中に、もし、あなたと同じように、お酒の飲めない人がいたら、その人は、盃のお酒は、口をつける真似はしても飲まない筈だから、当然、除外されてくるわ。一人いれば、六分の一の確率が五分の一になるし、二人いれば、たちまち、四分の一に変化してしまうわ」
「確かに、そうですね。調べて来ましょう」
「え?」
「編集長から、取材では、積極的に先生に協力するようにいわれているんです」
浦川は、勢い込んでいい、麻沙子が、あらあらと思っているうちに、西和彦や、若林由美の方へ走って行った。
今度は、かなり時間がかかったが、それでも、意気揚々と引き揚げてくると、「調べましたよ」と、麻沙子にささやいた。
「歌人の山野辺さんが、お酒を飲まないそうです」
「本人がいっても、当てにはならないわよ」
「いえ、これは、友人の書道家の証言ですし、地元の新聞記者も認めていますから大丈夫です。それに、二十歳になったばかりの西和彦も、酒は嫌いなようです」
「これで、もう四分の一の確率になったじゃないの」
「でも、まだ、沖麗子を狙《ねら》って、他の人間が死んでしまう可能性は高いですよ」
「そうでもないわ」
「何故ですか?」
「盃のお酒は、歌が出来て、それを短冊に書いたあとで飲むというルールになっていたのを思い出してみてよ。事件が起きた時、大河内教授と、歌人の山野辺さん、書道家の牧流水の三人は、もう三つも四つも歌を作ってしまっていた。北川二郎と西和彦も、歌が出来ていた。そして、まだ出来ずにいる二人の女優を待っているような状況だったのよ。大河内教授なんか、明らかに、手を休めていたわ。こんな状態の時に、犯人は、盃に毒を入れたのよ。だから、その盃を飲むのは、やっと歌が出来た沖麗子と若林由美の二人のうちの一人に限られていたと考えていいのじゃないかしら」
「なるほど」
「しかも、沖麗子は、若林由美より川上にいたから、彼女の方が、毒入りの盃を飲む可能性が強いわ」
「確かにそうですが、この二人が、歌が出来たのは、ほとんど同時でした。犯人が、川上から盃に毒を入れた場合、それを沖麗子がパスして、若林由美が死んでしまう可能性はありますよ」
「それは認めるわ。だから、犯人は、二人のどちらかが死んでもいいと思っていたのか、それとも、若林由美には、どの盃に毒が入っているか合図を送っていたかのどちらかね」
「合図といっても、そんな様子は、全然なかったし、全く同じ形の盃が流れてくるんだから、知らせようもなかったと思いますがねえ」
「そうね。でも、犯人が、沖麗子だけを殺そうとしたのなら、合図を送っていたことは確かだわ」
現場での調べが一通り終って、六人の歌人は、社務所に引きあげることになった。麻沙子と浦川も、死んだ沖麗子の一番近いところにいたというので、同じ場所にいてくれといわれた。
控室は、十畳ほどの和室を二つ連ねたところで、一方の中央に大きなホームごたつがあり、絞りの華やかなふとんがかけてあった。
春とはいっても、ここ二、三日は肌寒かったので、今日のゲストたちのために、社務所の方で、用意したものだった。
タレント三人と大河内教授が、そこに足を入れてすわり、歌人の山野辺、書道家の牧流水と、麻沙子、浦川の四人は、もう一方の部屋のストーブのまわりになんとなく座った。
森下警部が、一人ずつ別室でお話をききたいから、あとの方は、ここで休憩して下さいといって去ったあと、あたたかいお茶が配られた。
一番先に呼ばれたのは、西和彦だった。彼は、十分ほどして戻ってくると、蒼《あお》ざめた顔で、
「馬鹿にしてるよう!」
と、わめき散らした。
他の五人が、黙っているので、麻沙子が、
「どうしたの?」
と、きいた。
西は、不満の捌《は》け口《ぐち》が見つかったみたいに、麻沙子のそばにきていった。
「警察は、僕をまるで犯人扱いなんだ」
「何故かしら? あなたが、被害者と一番近い川上にいたからかしら?」
「彼女がつかんでいた盃に、僕の指紋がついているというんですよ。僕と彼女の指紋しかついていないから、僕が、毒を入れたんだろうって」
日頃は、小生意気な歌手という評判の西だったが、犯人扱いされたのが、よほどショックらしく、涙声になっていた。
「問題の盃に手を触れたことは確かなんですか?」
「僕は酒が飲めないんです。だから、カメラマンへのサービスで、何度か飲む真似をしただけなんです。もちろん、毒なんか入れませんよ」
丁度その時、山野辺が呼ばれ、一人になった牧流水が、こたつの方に行ったので、こちらの部屋には、麻沙子、浦川、西の三人だけになった。麻沙子は、思いきってきいてみた。
「死んだ彼女と仲が悪かったの?」
「好きじゃありませんでしたね」
「何故? 彼女は、素晴らしい女優だと思うけど」
「そりゃ、女優としては、尊敬してますよ。でも、嫌《いや》なところがあるんです。ドラマで共演したとき、意地悪されましてね、あとで聞いたら、あの人は、新人には意地が悪いんだそうです。だから、刑事には、嫌いだったって正直にいってやりましたよ。でも、殺したりはしませんよ」
付き人が、入口に姿をあらわしたので、西和彦は、救われたようにそっちへ行ってしまった。隣の座敷をみると、山野辺が帰ってきていて、大河内教授が呼ばれていくところだった。麻沙子は、こたつの方へ歩いていった。
「まだ帰れないのかしら? 私困るわ」
若林由美が、そう言って時計をみた。
「あと一時間ぐらいはひきとめられるんじゃないかな」
そう言って、北川二郎が、自分の腕時計をぽんとたたいて時間をみた。タッチロンという時計で、普段は、文字盤が黒くきえているが、手でタッチすると、赤く文字盤がつくという今はやりの時計である。
その時、麻沙子の頭に、電光のようにひらめいたものがあった。それは、今日、行事がはじまる前に、今と同じように、ここで北川が時計をみていたときのことを思い出したからである。その時、今と同じようにおかれたこたつに、北川、沖、若林、西、の順に並んですわっていた。つまり、北川と若林、沖と西がむかいあわせという座り方だった。
そして、北川が時計をみるのをみた沖麗子が、
「あら、いつものと違う時計をしているのね。誰に貰ったの?」
と、嫉妬するように言うと、北川は、
「ああ、兄が持ってたのをはめてきたんですよ。ほら、こういう風に触ると時間が出るでしょう?」
と、やってみせた。すると、沖や、西、若林の順で、みんなが時計にタッチした。なにげなく麻沙子がみていると、西と沖がいくらタッチしても時間が出ず、若林がタッチすると、不思議に時間が出るのだ。北川は、
「あれっ、電池が弱いのかな」
と、時計をはずして、沖麗子に渡した。沖が自分の腕にはめてタッチすると、今度は時間がつき、西がやっても時間が出た。ただそれだけのことなのだが、それが、重要な問題を含んでいることに、麻沙子は気がついたのだ。麻沙子は、浦川を廊下へ呼び出すと、この話をした。
「私も、同じような時計を持っているけど、自分が身につけて、自分がタッチすると、必ず時間が出るけど、他人がタッチすると、時間が出る時と、出ない時があるのよ」
「へえ、どんな時ですか?」
「腕時計をはめている人物と、手を組んだり、足をからませたりして肌を接している場合は、出るけど、離れている場合は駄目なの。この時計の構造は、中に|IC《アイシー》が入っていて、時計の上半分と、下半分が別の電極になっていて、下の電極が接している肌と同じ電位の肌が、上の電極にタッチすると、一体化してスイッチが入るというものなの。だから、手をつないだりしていると、二人は、同じ電位になって時間がつくけど、他人が、いくらタッチしても、同じ電位にならないからつかないのよ」
「つまり、腕時計をはめている北川の両側にいた西と沖の二人は、北川に肌が接触してなくて、向い側にいた若林の肌が、北川に接触していたということになりますね」
「そうなの、早く言えば、こたつのなかで、北川二郎と若林由美は、手を握り合っていたか、足を接していたということになるわ。ところが、北川二郎は、両手を上に出していたから手は接触してないし、足は、王朝衣裳をきて、それぞれ足袋《たび》をはいていたから、足先がふれたぐらいでは、接触したことにならないでしょう?」
麻沙子は、少し顔をあからめながらささやいた。
「というと、足首から上の部分を、お互いに接触していたということになる。これは、普通の関係じゃありませんね。なんでもない関係だったら、たとえ一瞬ふれてもあわてて離すでしょうから」
「世間では、北川二郎と沖麗子が結婚すると思っているし、沖麗子自身もその気でいたと思うの。だけど、本当は、北川は、よりによって、沖のライバル若林と愛しあっていた――」
「動機が出てきましたね」
「そうなると、一番下流にいた若林は、上流の沖を殺せないから犯人は北川二郎ということになるけど……」
「北川の指紋は盃にないそうですから、盃に指紋をつけず、愛している若林に毒を飲まさないように合図しながらどうして殺したかむつかしい問題になってきましたね」
犯人が見つからないままに、その日は、京都在住の三人の歌人は、自宅に帰され、残りの三人は、京都市内のホテルに泊ることになった。
麻沙子も、浦川がリザーブしてくれていたMホテルに戻ると、頼まれていた随筆を書くことにした。
翌日は、前日までの寒さが嘘《うそ》のような暖かい日になり、市内の桜が、一時に咲《さ》き揃《そろ》うだろうと、テレビのアナウンサーがいったほどだった。
夕方になって、麻沙子は、捜査本部に呼び出された。
森下警部は、足止めして申しわけありませんと、謝ったあと、
「どうにも、捜査が行き詰ってしまいましてね。明日、城南宮で、事件を再現してみようと考えているのです。幸い、テレビ局が、あの行事を撮り直したいというので、それに便乗した形で、捜査の手がかりにしようというわけです」
「それが、私とどんな関係が?」
「実は、死んだ沖麗子さんの代りがいないのですよ。何しろ、あんな死に方をしたものですから、なり手がなくて、テレビ局も困っているし、われわれもです」
「まさか、それを、私にやれとおっしゃるんじゃないでしょうね」
「あなたにやって頂きたいのですよ。あなたは、推理作家だし、まさか怖《こわ》いとはいわないでしょう?」
と、森下は、微笑した。
「私は、沖麗子さんみたいに美しくありませんわ」
「そんなことはない。あなたは、充分に美しいですよ」
「この頃は、刑事さんも、お世辞が上手《うま》くなりましたね」
と、麻沙子は、笑ってから、
「テレビ局の方は、私でもいいんでしょうか?」
「もちろんです」
森下は、いやに力をこめていった。
「他の六人の方は、承知なさったんですか?」
「ええ、承知してくれました。快諾とは言えませんが、拒否すると、疑われますからね」
「全く同じ形で、曲水の宴が開かれるわけですか?」
「その通りです」
麻沙子は、じっと考え込んだ。森下は、心配そうな顔つきになった。
「駄目ですか? 酒を飲まなければ大丈夫だと思いますが」
「いいえ」
「じゃあ、何を考えていらっしゃるんです? 怖いんですか?」
「私には、犯人がわかっています。警察もわかっていらっしゃるでしょう?」
「ええ、まあね。ただ、証拠がつかめずに困っているのです」
「それなら、犯人に罠《わな》をかけてみませんこと?」
と、麻沙子は、大胆な提案をした。
一瞬、森下は、あっけにとられた顔で、麻沙子の顔をみつめていたが、
「どうやってです」
と、膝《ひざ》をのり出して来た。
「他の六人に、私が犯人を知っていて、宴のあとで、指摘して見せるといっていたと伝えて下さい。それから私がお酒をよく飲むことも」
「それだけで、犯人が信じるでしょうか?」
「こうつけくわえて下されば信じると思いますわ。沖麗子の川上にいて、どうやって、指紋もつけずに盃に毒を入れ、彼女に飲ませたかの方法もわかったようだと」
「本当にわかったんですか?」
「いいえ」
麻沙子は、微笑して、首を振った。
翌日、城南宮で、再び、曲水の宴が開かれた。テレビで放送されたとおり、先日の曲水の宴の時には、まだ、ちらほらだった桜が、今日は満開である。
観光客は、まばらだったが、テレビカメラは、備えつけられていた。
小川の周囲には、先日と同じ順序で、大河内教授たちが席に着き、五番目の沖麗子がいた位置には、代りに、十二単衣を着た麻沙子が着席した。
全てが、先日の儀式どおりに始められた。
麻沙子は、森下警部が、他の六人に、自分のことを、どう話したか知らされていなかった。だが、上手く話してくれていたら、犯人は、麻沙子の口を封じようとしてくるだろう。
雑誌社の浦川にも、北川二郎の動きに注意していて、何か、妙なことをしたら、合図してくれるように言ってあった。
浦川は、緊張した顔で、北川を見守っている。
琴の音が響き、宴が始まった。
麻沙子は、浦川を見ながら、「花」をテーマにした和歌作りに苦労した。和歌を作るのは、そう苦手ではないつもりだったのだが、緊張しているためか、なかなか、花のイメージが、三十一文字になってくれない。
さすがに、本職の歌人の山野辺が、まず、さらさらと、短冊に書き記し、それが、詠みあげられた。
なかなか、上手い歌である。大河内教授も、負けじと、二首、続けて作りあげて、少ない観客の拍手を受けた。
苦吟の末、麻沙子も、どうにか、満足できる程度に作り、自分の前に流れてきた盃を手に取った。が、やはり、飲むのは怖くて、飲むふりをしただけで、小川に戻してしまった。
北川二郎の歌が、披露《ひろう》された。
平凡な歌である。麻沙子は、浦川に目を向けたが、合図を送ってくる気配はなかった。
北川が、麻沙子の仕掛けた罠《わな》にかからなかったということだろうか? 用心深く、何もしないとすると、証拠がないのだから、彼をどうすることも出来ない。
頭上の桜の枝からは、花びらが小川に舞い落ちては、流れていった。
西和彦や、若林由美の歌も、次々に、詠みあげられた。
麻沙子は、誰かの歌が披露されるたびに、浦川に視線をやるのだが、相変らず、合図がない。
〈罠は、失敗だったらしい〉
と、麻沙子が、気落ちしかけた時、突然、一番川下にいた若林由美が、悲鳴をあげた。
喉《のど》をかきむしり、十二単衣の身体を、エビのように曲げている。
警戒していた森下警部が、まっさきに駆け寄った。続いて、他の歌人も、集って来た。
若林由美は、苦しげに、身体をふるわせながら、
「花びらが入っていたのに! 何故なの?」
と、叫んだ。
「花びらがどうしたって?」
抱き起こして、森下がきいたが、二度と、彼女の口は開かなかった。死んだのだ。
明らかに、沖麗子と同じ、青酸性毒物死だった。
北川が、突然、由美にとりすがって、狂ったように泣きだした。
人々は、呆然として、動かなくなった若林由美と北川の二人を見下している。
麻沙子は、何が何だかわからなくなった。北川は、犯人ではないのだろうか。浦川に肩をたたかれて、輪の外へ抜け出した麻沙子に、浦川は、蒼ざめた顔で言った。
「若林由美が死ぬなんて、思いもよりませんでした。北川二郎が、沖麗子を殺したとしたら、その動機は、若林と一緒になりたいためだと思われたんですが、若林までが殺されたとなると、犯人は、北川じゃなかったんでしょうか?」
「私もわからなくなったのよ。でも、やはり、犯人は北川二郎だと思うわ。彼女が最後の言葉をいった時、恨みがましく彼をみつめていたもの」
「しかし、あの驚き様は本物だと思うし、彼は、何もしませんでしたよ」
「本当にちゃんと見張っていたの? 眠っていたんじゃないでしょうね?」
再び死人が出てしまっただけに、麻沙子の声も強くなっていた。
「ちゃんと見張っていましたよ。彼は、盃を一杯飲み干しましたが、それに何か入れたりしませんでした。盃を手に取ったのは、その時だけです」
「他には、何もなかったの?」
「ええ」
「よく思い出してよ」
「何もなかったですよ。いや、盃をのせた羽觴《うしよう》に、左手を軽く触れて、とめたことがありましたね」
「それで?」
「その時、右手に、桜の小枝を持っていました。花びらが一つついた。でも、それだけで……」
「それだわ!」
「え?」
と、変な顔をしている浦川をその場に放り出して、麻沙子は、森下警部のところへ、駆け出した。
森下は、沈痛な顔で、「やられましたわ」と、麻沙子にいった。
「今、若林由美の飲んだ盃を調べたんですが、彼女の指紋しか出ませんでした。あなたが、犯人だといった北川二郎の指紋はありませんよ」
「それでいいんです」
「というと?」
「犯人は、桜の花びらのついた小枝を使ったんです。その花びらに、青酸液をつけておき、自分の前に流れて来た盃に、小枝を伸ばして、花びらを軽く、お酒に触れたんです。そうすれば、盃に手を触れずに、青酸を入れられますもの」
「北川二郎は、そんな小枝を持っていませんでしたよ」
「川に流したに決っています。きっと前のときも、持っていたんです」
二人は、川下の堰《せき》に向って走った。
小川の水が流れ込む小さな堰には、花びらをつけた小枝がひっかかっていた。
「ありました」
と、警部がいい、それを拾いあげた。枝についた花びらは、青酸のために変色していた。
平静に戻った北川二郎は、その小枝を突きつけられても、平然として、動じなかった。
「それを、僕が使ったという証拠がどこにあります? 小枝に、僕の指紋でもついていますか?」
「雑誌記者の浦川クンが、あなたが小枝についた花びらを、盃に触れさせたのを見ているわ」
と、麻沙子がいった。
「その小枝が、これだという証拠はないでしょう。第一、あなた方は、先日の宴でも、僕が同じ方法で、沖麗子さんを殺したというけど、あの時は、桜を用意することが出来なかった筈ですよ。僕は、あの前日、朝からテレビ局で、夜中まで仕事で、終ると、翌朝が早いので、都内のホテルに付き人と泊ったんです。服や荷物も、その時、付き人が持ってきてくれました。そして、朝の飛行機で、西くんや沖さんと一緒にこちらに来て、車で社務所の前までつけて入ったきり、一歩も外には出ていませんよ。それに、桜だって、まだあまり咲いていなかったから、花屋へでも行って買わない限り、桜の枝を用意することなんて出来ませんでしたよ」
「きっと、造花を使ったんだわ、あなたが京都へ来る前撮ったテレビに、元禄《げんろく》花見踊りの場面があったのを、私は昨夜のテレビで見ました。その時、舞台で使った造花を、あなたはちぎって持っていたのだわ」
「その造花の花びらがありましたか? 青酸の染《し》みついた造花の花びらが、どこかに落ちていましたか?」
北川二郎は、挑戦するような眼で、麻沙子を見、森下を見た。
森下は、苦しげな顔になり、黙って首を横に振った。
「どうやら、僕を殺人犯人に仕立てあげるのは、無理だったようですね」
北川二郎が、勝ち誇ったようにいった。
その時、観客の間から、七、八歳の少女が、首に桜の花のレイをかけて、こちらに歩いてくるのが見えた。
「おじさん」
と、その少女は、北川を突っついた。
「この間、おじさんに貰ったこれ、しおれちゃったの。また、作ってちょうだい」
瞬間、北川二郎の顔色の変るのが、はっきりわかった。
麻沙子の脳裏に、先日の曲水の宴のとき、北川が、桜の花びらで、レイを作っていた姿がよみがえった。
北川が、あわてて、少女の首からレイを奪い取ろうとするより先に、森下警部が、ひょいとそれを取り上げた。
「なるほどね」
と、警部は、微笑した。
「君の作ったレイか。花びらが、全部しおれてしまっているのに、一つだけ、花びらが、生き生きとしたのがあるねえ。これは造花だ。もし、この造花の花びらから、青酸反応が出て、テレビの造花と同じものだったら、君にとって、致命的となるねえ」
「――――」
何か言いかけた北川二郎は、がっくりとうなだれてしまった。
そのあと、のろのろと、顔をあげると、
「一つだけ、わかって欲しいことがあるんです。今日、僕は、若林由美を殺すつもりはなかった。彼女を愛していましたからね」
「私を殺そうとしたんでしょう?」
と、麻沙子がきいた。
「ええ」
「彼女には、どうやって、合図をしていたの? 毒を入れた盃と、入れない盃の区別を」
「毒の入ってない盃には、桜の花びらを浮かべておいたんです。安全のしるしにね、何も浮かんでない盃は、用心するようにいっておいたんです。それなのに、今日、毒を入れた盃に、桜の花びらが舞い落ちてしまったんです。それと知らずに彼女が……。だから、あれは、僕が殺したんじゃない」
「花が殺したというんだね」
森下がそういって立ち上った。
祇園祭《ぎおんまつり》殺人事件
毎年七月に入ると、京都は祇園祭ムードで、街中がわきたってくる。
何しろ、仙台の七夕《たなばた》祭、山形の花笠《はながさ》祭、博多の祇園|山笠《やまがさ》、秋田の竿灯《かんとう》、岐阜《ぎふ》の郡上《ぐじよう》踊りなどの、すべての夏祭の基本は、京都の祇園祭に始まるといわれるほどの大きな祭である。だから、その準備や、かける費用も大変なものである。
二日のくじ取り式、十日のお迎え提灯《ちょうちん》、みこし洗い、十日、十一日の鉾建《ほこた》て、十三、十四日の山建て、十三日の稚児《ちご》の社参、十六日の宵山《よいやま》と、行事はめじろおしにあるが、メインは、なんといっても、十七日の山鉾巡行である。
華やかなゴブラン織りのかざりをつけた三十基の山鉾がこんちきちんの祇園ばやしを伴奏に、京都の街をねり歩く風景は、豪華|絢爛《けんらん》、絵巻物をみるようである。
矢村麻沙子は、京都在住の作家だが、その日は、京都テレビの祇園祭中継のゲストとして呼ばれ、あと二人のゲストと共に四条通りに面した放送席から、山鉾巡行を見ることになっていた。
午前九時。
放送が開始され、麻沙子たちの前に長刀鉾《なぎなたぼこ》が、先頭を切ってやってきた。
「……三十基の山鉾のうち、この長刀鉾をのぞく他の山鉾は、毎年、くじによって、巡行の順番がきめられますが、この長刀鉾だけは例外で、いつも先頭にきまっています。また、他の山鉾に乗っているお稚児さんは、昔は、本当の少年だったのですが、今は、人形になっています。しかし、この長刀鉾だけは、昔通り、本物の男のお子さんがお稚児さんとして乗っています」
アナウンサーの説明に従って、カメラは、鉾の上に乗っている稚児姿の少年をうつし出した。しかし、折悪しく、少年は、たもとを目の前に広げているので顔はみえない。
「そのお稚児さんですが、今年は、ここにゲストに来て下さっている俳優の大杉橋太郎さんのご長男が、選ばれて乗っていらっしゃいます」
そういって、アナウンサーが、麻沙子の隣に座った二枚目俳優の大杉を紹介すると、まわりから、わっという拍手がおこった。カメラも大杉にピントをあわす。
大杉は、マイクに向ってにっこりして、
「今日は、息子《むすこ》が、このような伝統的な行事に参加させていただき、大変光栄に存じております」
と、挨拶《あいさつ》をした。
大杉というのは、捕物帳や、刑事もので、圧倒的な人気のある俳優で、麻沙子も、よく番組をみていてファンだった。
だから、今日、一緒にゲスト出演するときいて、心楽しくやってきたのだったが、その期待は裏切られた。
番組がはじまる前に、三十分ほど時間があったが、もう一人のゲストや、麻沙子が話しかけても、にこりともせず、ほとんど喋《しやべ》らないのである。
〈人気商売なのに、何と無愛想な……〉
と、麻沙子はがっかりした。
しかし、番組がはじまってからは、次々と、目の前に鉾や山がやってくるし、アナウンサーが話しかけてくるので、そういうことばかり考えているわけにはいかなかった。
「さて、矢村さんは、この山鉾のゴブラン織りに関心をお持ちだそうですが、今、目の前に来ている『あられ天神山』の|前かけ《ヽヽヽ》をどう思われますか?」
早速アナウンサーがきいた。
「えーとあれは、ベルギーのブラッセル製のゴブラン織りですね。ギリシャ神話の水の神様が描かれていますので、昔から、火災のまもり神さまといわれているようです。横のゴブラン織りは、インド製だそうですが、この純日本的な京都に、こういうハイカラなものが入ってきているのは不思議な気がしますねえ」
麻沙子は、少しあがりながら、一生懸命喋った。めったに着ない浴衣《ゆかた》を着て、帯をしめているので自然と言葉遣いも丁寧になる。
やがて、鉾の上から、五千本のちまきが投げられ、それを拾う人で、祭は一層盛り上ってきた。
一通りちまき騒ぎが終ると、カメラは移動して少しはなれたところで行われている「くじ改め」の場を写しに行った。麻沙子たちの前におかれたモニターテレビに、その場面が映し出される。
「くじ改め」というのは、かみしもを着て立っている市長の前へ、各山鉾の代表者が一人ずつ進んでいって、自分のところの鉾の巡行順位が間違っていないことをあらためてもらう儀式である。
もちろん代表者もかみしもを着て、侍《さむらい》姿である。
市長の前へ進むと、左手に持った細長い箱にかけられた紐《ひも》を、右手の扇で、さっと払い、箱のふたを開けて、高々と掲げる。そして、山鉾の名前と順位を見せるわけである。動作がきまると、見物から拍手が湧く。
いくつかの山鉾が通り過ぎ、やがて、「くじ改め」の使者は、少年にかわった。
森蘭丸《もりらんまる》のようなきりっとしたかみしも姿の少年が、箱をかかげて一礼すると、見物人から、一層高い拍手がおこった。
「毎年、くじ改めに、少年が出る鉾には、人気が湧くので、だんだん少年を出すところが多くなってきました」
アナウンサーの説明が入る。
少年武者は、きちんと儀式通り礼をし、市長の前に進み、扇で、文箱《ふばこ》の紐をはねあげて、勢いよく箱のふたを開けた。そして、市長の方にむけて、高々と箱をさし出した。
そのとき、どうしたわけか、市長が、「あっ」と声をあげ、一、二歩あとずさりした。
同時に、少年の持った箱の中から、どさりと地面に落ちたものがある。
「手ェや!」
「血がついてる!」
市長の近くにいた見物客から、悲鳴があがった。
麻沙子がモニターテレビをみると、地面に血まみれの白い手首が落ちているのがみえた。
少年は、驚いて棒立ちになっているし、市長も呆然と手首をにらんでいる。
やがて、わっと観客がとび出して行き、警備にあたっていた警官が、ハンドマイクで連絡をとりながら走って行った。
麻沙子が、ふと横をみると、俳優の大杉が、真っ青な顔をして、空《くう》をみつめていた。
騒ぎは十分程でおさまり、再び、鉾が巡行しはじめた。
アナウンサーが、麻沙子たちにささやいた。
「人間の手首じゃなくて、人形の手なんだそうですよ。人さわがせな」
しかし、麻沙子は、本当だろうかと半信半疑だった。
〈本当は、人間の手だったけど、さわぎが大きくなると大変なので、人形の手だといいつくろって祭を続行しているのではないだろうか?〉
しかし、中継放送がはじまったので、麻沙子は、マイクに向って座りなおした。
「さあ、それでは、先頭の長刀鉾が、そろそろ四条河原町の角で、辻廻《つじまわ》しをする頃だと思いますので、カメラをそちらに向けてみましょう」
さすがプロだけあって、アナウンサーは、何事もなかったように放送する。
カメラには、さっき通り過ぎた長刀鉾が映った。四条河原町の角で、方向転換をするわけである。
大きな車輪なので、下に割った竹を何本も敷きつめて水をまき、その上をテコで滑らせて、車輪の方向をかえる。これが辻廻しである。
カメラがアップになり、鉾の上に乗っている稚児の姿を捕えた。大杉の子だという丸顔の桃太郎のような顔をした子供が映った。金色の冠をかぶり、袖《そで》の長い着物を着ている。
九歳という紹介だったが、遠くからみるともっと小さくみえる。
さぞ親は得意満面でうれしいだろうと、大杉の方をみた麻沙子は驚いた。
大杉は、子供の顔から目をそらすようにして、そわそわしているのである。
〈変だわ〉
と、麻沙子は、その時思った。
しかし、次の瞬間、アナウンサーが、大杉に語りかけた。
「大杉さん、あの長刀鉾の上には、お宅の息子さんであるお稚児さんをはじめ、約五十人が乗っているわけですが、全体の重さは、一体どのくらいあると思いますか?」
その質問に対して、大杉は、びっくりしたような顔で、「え?」と、ききかえした。
これには、質問したアナウンサーの方が、戸惑ったような表情になって、
「あの長刀鉾の重さのことですが」
と、いった。
麻沙子は、また、変だなと思った。
役者の中には、昔の役者バカみたいに、日常の常識の欠けている人間がいることは、麻沙子も知っている。
だが、大杉は、どちらかといえば、学識派の方である。そして仕事も大切にするが、家庭も大事といった感じで、役者の中では、もっとも学識・人格のそなわった男だという話もあるくらいである。
前に、彼が、大学の歴史の先生と対談しているのをきいたことがあるが、その知識の豊富さに驚いたくらいである。
当然、今日だって、この祭についての知識を頭に入れて、放送に参加している筈《はず》だった。
それなのに、今日の大杉は、おかしい。
長刀鉾の重さが、全く見当つかなくて答えられないというより、別のことを考えていて、アナウンサーの質問をきいていなかったように思えた。
〈何を考えているのだろう?〉
テレビや、舞台の仕事のことだろうか?
しかし、長刀鉾には、彼の長男が乗っているのである。家庭を大事にする大杉は、昨夜のテレビで、「今は、息子が出る祇園祭のことで頭が一杯ですよ」と、いっていたばかりなのだ。
「あの長刀鉾の重さは、どのくらいあると思いますか?」
と、アナウンサーは、もう一度きいた。
大杉は、あわてて、
「さあ,一トン位ですか?」
その言葉にも、どことなく、熱が入っていないのを、麻沙子は感じた。
仕方がないという感じで、アナウンサーは、
「想像以上に重くて、十二トンもあるんですよ。さあ、これから、辻廻しが始まりますね。これが、一番の見ものです」
と、別の方に、話をもっていった。
長刀鉾は、今、四条河原町にさしかかっていた。
ここで、長刀鉾は、九十度の方向転換をする。
若い男たちが、何人も、長刀鉾を取りかこみ、青竹の上を滑らせて慎重に、少しずつ、鉾の向きをかえていく。
交叉点を取り巻いた見物人たちも、息をひそめて、見守っていた。
放送席のモニターテレビでは、この光景を刻々と映し出していく。
交叉点には、レポーターがいて、辻廻しの様子を伝えてくる。
ゴブラン織りの前かけの前に、三人の浴衣《ゆかた》を着た男が立って、扇を振り、景気をつけている。
「アルバイトの学生さんが、手伝っています。上手《うま》くいくといいんですがねえ、大杉さん」
と、アナウンサーがいった。
「そうですね」
「ほら、大杉さんのお子さんも、鉾の上から心配そうにのぞいていますよ」
アナウンサーがいい、麻沙子が、モニターテレビに目をやったとき、カメラを手に持った若い男が、放送席に入ってきた。
腕に、「報道」の腕章をまいているので、麻沙子は、てっきり、テレビ局か、新聞社の人間と思った。
男は、大杉のそばに寄ると、彼が、横においていた風呂敷包みを取りあげ、代りに、小さな紙袋をおいた。
大杉は、ちらっと、男に目を向けたが、そのまま、黙っている。
男は、風呂敷包みを持ったまま、出て行ってしまった。
麻沙子は、何だろうと思ったが、当の大杉が、心得ているようなので、黙っていた。
四条河原町の交叉点では、いよいよ、辻廻しが、クライマックスに達しようとしていた。
十二トンの長刀鉾の重みで、青竹が、ぎしぎし鳴った。
すべりをよくしようとして、水が撒《ま》かれる。
その水が、少し多すぎたのかも知れない。
ずるずると、長刀鉾が、横すべりを始めた。
九十度方向転換して、河原町通りを北へ向わなければならないのに、斜めの方向に、動き出してしまったのだ。
巨大な前輪を止めていた太い綱がよじれて悲鳴をあげる。
「止めろ! 止めろ!」
と、鉾の前部に立って、扇で、辻廻しを指揮していた男が、かなきり声をあげた。
五、六人の若い男が、鉾の後部に飛びつき、必死で、足をふんばった。
だが、十二トンの重さである。一度すべり出すと、その動きを止めるのは、容易ではなかった。
車輪を止めていた綱が、ぷつんと、音をたててちぎれると同時に、長刀鉾は、がらがらと、走り出した。
近くにいた見物人が、わあっと悲鳴をあげて飛びのいた。
腕に、「報道」の腕章を巻いた若い男が、走ってきたのは、その時だった。
彼は、まるで、暴走を始めた長刀鉾に向って、飛び込むような恰好《かつこう》になった。
悲鳴をあげたのが、その男だったのか、それとも、近くにいた人だったのかはわからなかった。
次の瞬間、直径二メートル近い車輪が、きしみながら、倒れた男の身体を押し潰して、通過した。
男が、右手に持っていた風呂敷包みは、水で濡れた路上に投げ出された。そのとたんに、結び目が解けて、中身が散乱した。
札束だった。
一万円の札束が、一つ、二つ、いや少なくとも、十はあった。一束百万円として、一千万円の札束だった。
それは、一瞬の白昼夢のように見えた。
交叉点で警備に当っていた京都府警の機動隊の原警部も、目の前にぶちまけられた札束を、すぐには、本物とは信じられなかった。まるで、祭の一部のようにみえたのだ。しかし、刑事生活二十年の原は、次の瞬間には、
「ぐずぐずするな! 拾えっ!」
と、部下の隊員たちに向って怒鳴った。
観客が札束に殺到してきたからだった。
原たちの任務は、第一に、祇園祭を、とどこおりなく進行させることだった。
幸い、暴走した長刀鉾は、倒れた男の身体が、一種のブレーキの役目をして、見物席の鼻先で止まっている。
若者たちが、蟻《あり》のように、取りついて、元へ戻そうとしていた。
そこへ救急車と所轄署のパトカーがやってきた。
警官たちは、倒れたまま動かない男を担いで、見物席の裏側まで運び、他の者は、原たちと一緒に散乱した札束と、風呂敷を拾ってきた。
署の三田警部は、片膝《かたひざ》をついて、男の脈をみた。
脈は止まり、口と鼻から、血が吹き出している。恐らく、あの重い長刀鉾の下敷きになって、内臓が破裂したのだろう。
「死んでいるんですか?」
と、警官の一人が、のぞき込んできた。
「ああ。死んでいる。どこの新聞社の人間か知らないか?」
「さあ」
集ってきた警官たちは、誰も、知らないようだった。
拾われた札束は、全部で、一千万円あった。
三田は、死体になった男の上衣のポケットを調べてみた。「報道」の腕章をつけているのに、記者証も、名刺もなかった。ポケットに入っていたのは、中身が、六千円ほど入った財布、それに、安物のカメラだけだった。
〈ニセ記者か?〉
と、思うと、そのニセ記者が、一千万円もの大金を持っていたことに、三田警部は、強い不審感を抱いた。犯罪の匂いを嗅《か》いだといってもいい。
「この男は、どこから来たんだ?」
と、三田は、現場にいた警官たちの顔を見廻した。
長刀鉾は、やっと、交叉点の真中まで戻され、役員たちが集ってさわいでいる。
「向こうから走ってきました」
「向こうからというと?」
「テレビの放送席の方から出て来たような気がします」
別の警官がいった。
「テレビの放送席?」
三田は、A証券の前に作られた京都テレビの放送席の方に目をやった。
彼は、一千万円の札束を風呂敷に包み直すと、放送席に向って歩いて行った。
そのとき、漸《ようや》く続行がきまったらしく、とまっていた長刀鉾が、ゆっくりと動き出した。
テレビは、綾笠鉾の棒ふり踊りを映し出していた。
かみしも姿の男たちの打ち鳴らす太鼓に合わせて、河童《かつぱ》の扮装《ふんそう》をした男たちが、黒と白のだんだらの棒を回して踊る。バトントワラーの時代版というかんじだった。
「さっきは、どうなることかと思いましたが、これで、やっと、正常にもどったようですね。亡くなった方には、心から哀悼の意を表しますが……」
アナウンサーが、ほっとしたようにいった。ついさっき、テレビには、長刀鉾の暴走と、若い男の死と、それに、札束の散乱まで映し出されてしまったからである。
麻沙子は、その時に見せた大杉の反応を、思い出していた。
あの時、大杉は、真っ青な顔になったのだ。それを、アナウンサーは、長刀鉾の上に乗っている息子のことを、大杉が心配したのだろうと考え、
「お子さんは、大丈夫ですよ」
と、いったが、麻沙子は、違うと思った。
大杉は、別のことで、顔色を変えたのだ。
それに、暴走した長刀鉾に轢《ひ》かれた男は、この放送席に入ってきて、大杉の横にあった風呂敷包みを持ち去った人間ではなかっただろうか?
麻沙子が、そう考えた時、その風呂敷包みをさげて、三田が入ってきた。
三田は、その場にいたプロデューサーの田辺に、警察手帳を見せてから、
「ここの音声スイッチを切ってくれませんか」
と、小声でいった。
田辺は、不機嫌に眉をよせた。
「何ですか?」
「とにかく、この場所の音声を切っていただけませんか?」
「でも、中継中なんですよ。後じゃいけないんですか?」
「今の事件に関係があるのでおねがいします。何なら、このまま喋りますが」
田辺は、仕方なく、「横ちゃん」と、四条河原町の交叉点にいる横山アナウンサーを呼び出して、
「しばらくそちらにバトンタッチする」
といった。
「これで、ここの音声は切れましたよ。それで?」
「さっき、長刀鉾が暴走して、男が一人死亡しました。その男の持っていた風呂敷から札束がばらまかれまして……」
「それは、モニターテレビで見ていました……」
「あの男は、ここから出て来たというんですが、覚えていませんか? テレビじゃよくみえなかったかも知れませんが、二十五、六歳で、腕に報道の腕章を巻いた男ですが」
三田は、田辺に向って話しながら、そこにいるゲストや、アナウンサーの様子をみている。
「私は、ちょっと、席をはずしていたんですが」
と、田辺はいったが、三田は、ゲストの大杉の背中が、ぴくっと動くのをみた。
もう一人のゲスト矢村麻沙子は、三田の方をみて、何か話したそうな顔をしている。
「大杉さん」
と、三田警部は、かたくなに、こちらを向こうとしない俳優の大杉の背中に声をかけた。また、大杉の背中が、ぴくんと動いた。
「大杉さん、何かご存知なんじゃありませんか?」
三田がいったが、大杉は黙っている。もう一度、三田が、
「大杉さん」
と、呼んだ時、矢村麻沙子が、とうとう我慢しきれなくなったように、
「大杉さん。あなたが、横においていた風呂敷包みを、さっきの男が、持っていったじゃありませんか。私は、てっきり、大杉さんの知りあいの記者さんだと思ったんですけど」
と、大杉に向っていった。
「そうですか? 大杉さん。この風呂敷包みをよく見て下さい」
三田は、手にした風呂敷包みを、大杉の横においた。
すると、今までかたくなに、背を向けていた大杉が、ふいに、くるりと三田を見た。
端正な顔が、真っ青になっている。
「刑事さん」
大杉は、切羽《せつぱ》つまったような声を出した。
「何です? 何かあるのなら、正直にいって下さい。ここに一千万円入っていましたが、あの男が、あなたから盗んだんですか?」
「この会話はマイクに入ってませんね?」
と、大杉は、田辺に確かめてから、
「刑事さん、どうか助けて下さい」
と、頭をさげた。三田は、驚いて、
「どうされたんですか? 大杉さん」
と、いった。
「息子が殺されるんです。助けて下さい」
「息子さんというと?」
「小学四年の春太郎のことです」
「春太郎君なら、今日は、お稚児さんとして、長刀鉾に乗っているじゃありませんか」
アナウンサーが、横からいった。
大杉は、はげしく首をふった。
「あれは、二つ下の弟の秋次郎です」
「でも、大杉さんは、ずっと、春太郎君だといっておられたじゃありませんか……」
「秋次郎に、兄の代りをさせていたんです」
「大杉さん」
と、三田は語調を改めた。
そのとき、
「春太郎は誘拐されたんです」
と、大杉ががっくりと肩をおとした。
「やっぱり」
と、いったのは、麻沙子だった。
黙っている大杉に向って、
「さっきの男は、風呂敷包みの一千万円と引きかえに、何か紙袋を、大杉さんに渡して行きましたね? あれは、お子さんの帽子か靴か何かだったんじゃありませんか?」
ときいた。
「靴です。靴の片方です」
大杉は、紙袋を、三田の前で開けてみせた。小さな茶色の革靴の片方が出てきた。
「春太郎の靴です」
「いつ誘拐されたんですか?」
三田は、内側にH・Oとイニシャルのかかれた靴をみながら、大杉にきいた。
「昨日、学校の帰りに誘拐されたんです。なかなか帰って来ないので心配しているところへ、電話がかかって来ました。男の声で、春太郎を預っているというんです。警察に知らせたら、殺すといわれました」
「それが、誘拐犯の常套《じようとう》手段です。身代金《みのしろきん》として、一千万円よこせといったんですね?」
「一千万円を風呂敷に包んで、放送中、横に置いておけといいました。使いの者が、放送関係者のふりをして取りに行く。その時、春太郎を誘拐した証拠として、靴の片方を置いて行くといったのです。それで、一千万円が、手に入れば、この山鉾巡行が終り次第、春太郎を返すといっていました。『あなたの三時』というテレビ番組に、親子で出演することになっているので、それに間に合わすといいました」
と、いってから、大杉は、急に、おびえた表情になっていった。
「刑事さん。あんな事故がおきて、この一千万円は、犯人の手に渡っていません。そうなると、犯人は、春太郎を殺すんじゃないでしょうか?」
「それは、大丈夫だと思います。犯人も、きっと、この実況テレビを見ているに違いないからです。そうすれば、長刀鉾の暴走も、使いの男が、その下敷きになって、一千万円を道路にまいてしまったことも、知っている筈《はず》です。だから、もう一度、チャンスを作ってくると思いますよ」
三田は、自信をもっていった。
「でも、本当に、あれは使いの男でしょうか? 本人だったら、子供はどうなるでしょうか」
「大丈夫です。たとえあれが本人でも、子供を預っている共犯者がいるはずです。そいつも、金が欲しいにきまっています。山鉾巡行が終るまでに、あと、どのくらいかかりますか?」
三田は、プロデューサーの田辺にきいた。
田辺は、腕時計をみてから、
「事故が起きましたからね。あと一時間はかかると思いますが」
「それなら、その一時間の間に、犯人は、必ず、一千万円を要求してくると思いますよ」
「あのう、刑事さん」
と、麻沙子が、遠慮がちに口をはさんだ。
「何ですか?」
「今、この音声は、テレビに入っていないんでしょう?」
「ええ。犯人にきかれたら困りますからね」
「でも、あまり長く、この放送席が画面に出ないと、犯人が、怪しむんじゃありませんか? 大杉さんが、警察に連絡したと思って」
「その恐れもありますね。では、あと、五分したら、ここを出して下さい」
三田警部は田辺にたのんでから、再び大杉にきいた。
「電話の男の声に、きき覚えはありませんでしたか?」
「全然ありません。私は、仕事柄、人の声というのは気になって、よく覚えているんですが、はじめてきく声みたいでした」
「二つ違いの弟さんを、春太郎君にみせかけたのは、犯人が、そうしろと指示して来たんですか?」
「いいえ。あれは、私と家内で、必死に考えたものなんです。もし、ごたごたして、春太郎が、いないことが、公《おおやけ》になってしまったら、犯人が、春太郎を殺してしまわないかと思ったからです。二歳しか違わないし、背丈も似ているので、メーキャップをしてどうにかここまで、ごまかせましたが……」
「奥さんは、家ですか?」
「はい」
「くじ改めで、文箱の中から、人形の手首が出て来ましたが、あれも、お子さんの誘拐と関係があると思いますか?」
「恐らく、私への警告だと思います。下手《へた》なことをすれば、春太郎を殺すという……」
「そうでしょうね」
「そろそろ、五分たちましたが」
と、田辺が、口をはさんだ。
三田は、肯《うなず》いた。
「じゃあ、ここをテレビに出して下さい。皆さんは、何気ない様子で、話をして下さい」
三田警部は、放送席を出ると、すぐ、京都府警本部の捜査一課に連絡をとった。
電話に出たのは、友人の若杉警部だった。
三田は、簡単に、誘拐事件を説明してから、
「タイムリミットが、あと一時間なんだ。それで、こちらは、俺《おれ》がやる。あとをやってくれないか」
「わかった」
若杉は、短くいった。
「じゃ、とりあえず、俺はどこへ行けばいい?」
「犯人は、大杉の奥さんへ、連絡してくるかも知れない」
「わかった。そちらへは、俺が行ってみよう」
「もう一つ。長刀鉾に轢《ひ》かれて死んだ男だが、ただの使いかも知れないが、身元を知りたいんだ」
「すぐ、鑑識を行かせて、指紋を調べるようにしよう。だが、タイムリミットが一時間じゃあ、身元が確認できるかどうかわからないな」
「かも知れないが、やってみてくれ」
三田は、そういって、電話を切った。
山鉾巡行は、何事もなかったように、さんさんと降り注ぐ夏の太陽の下で続けられている。
ゴブラン織りや、朱色を主とした傘が、陽に映えて美しい。
いぜんとして、四条通りの両側は、見物人で埋まっている。あの人混みの中に、犯人がいるのだろうか? それとも、犯人は、自宅で、ひっそりと、テレビをみているのか。
死んだ男が、犯人だとしても、共犯がいる筈である。誘拐した子供の番をしている人間が、必要だからだ。
三田は、三日前の新聞で、大杉の長男が、長刀鉾に乗る稚児さんに選ばれたという記事をみている。確か、写真入りだった。三田は、何となくみただけだったが、今度の誘拐犯人は、あの記事を読んで、大杉の長男の誘拐を考えたのかも知れない。
稚児といえば……と、三田は思った。
くじ改めの時、使者役の子供の差し出した文箱《ふばこ》の中から、人形の手首が出て来た。
大杉は、あれを、誘拐犯人の自分に対する警告だと思うといった。
もし、そうなら、文箱の中に、どうして入ったかがわかれば、犯人に近づけるかも知れない。
三田は、部下の一人を呼んで、あの少年を連れてきてくれと頼んだ。気のきく男なのだが、なかなか戻ってこない。いらいらしているところへ、やっと戻ってきたが、蒼ざめた顔をしている。
「子供はどうしたんだ?」
「それが、困ったことになりました。名前は吉岡章一、K小学校の四年生とわかりましたが、ちょっと前に、救急車で運ばれてしまったというんです」
「救急車で運ばれた?」
「又ぎきなのでよくわからないのですが、くじ改めに、くじを差し出す段になって、緊張したので、気分が悪くなったのじゃないかということですが……」
「どこの病院かわかっているのか?」
「はい。四条堀川の救急病院です」
「じゃあ、すぐ電話して、子供の様子をきいてみてくれ。すぐだ!」
三田に、怒鳴られて、部下の刑事は、あわてて、近くにあった赤電話に飛びついた。
「わかったか?」
三田がせっかちに声をかけると、刑事は、電話を切って飛んできた。
「吉岡章一という子供は、死んだそうです」
「死んだ?」
「それが、毒死なんだそうです」
「なにっ?」
「医者は、誰かに毒を飲まされたんじゃないかといっています。すでに、パトカーと捜査一課のものが出向いているそうです」
〈口を封じたのか?〉
と、三田は考え、急に腹が立ってきた。
相手は九歳の男の子である。りりしいかみしも姿がまだ目のおくに残っている。そんな子供の口まで封じるというのは、どんな神経の犯人なのか。そのとき、ふと、
〈九歳といえば、誘拐された大杉の長男も同じ年だな〉
と、気がついた。
同年だということに、何か意味があるのだろうか? ただ、こちらは、K小学校の生徒だというが、大杉の息子は、左京区の方の小学校である。
十五、六分して、若杉警部から、連絡が入った。彼の声は、緊張していた。
「やはり、奥さんの方に、犯人から、連絡が入った。君の推理通りだ。金額は、同じ一千万円で、すぐ用意しろといっている」
「こちらの一千万円を、すぐ届けさせる」
「そうしてくれ。それから、死んだ男の指紋の照合だが、あと二時間かかるといっているよ」
「それでは間に合わん」
三田は叫んだ。犯人がきめたタイムリミットは、あと四十分たらずなのだ。
部下二人に、一千万円の風呂敷包みを箱に入れ百貨店の包装紙につつんで、大杉のマンションに届けるように命じ終ったとき、放送席から、女流作家の矢村麻沙子がおりてきた。
「勝手に出て来ていいんですか?」
三田がいうと、麻沙子は、いたずらっぽく笑った。
「今、アナウンサーが、見物席に入って、観客に、この祭の感想をきいているところなんです。それに、犯人の目当ては、大杉さんでしょう。女の私が、画面からいなくなっても、別に怪しまないと思いますわ」
「大杉さんの様子はどうです?」
「お子さんのことが、心配でたまらないのだと思いますが、必死に耐えていらっしゃるみたいです。さすが、優れた俳優さんですわ」
麻沙子はいってから、改めてきいた。
「犯人は、何かいってきました?」
「今度は、大杉さんの奥さんの方へ、子供の身代金を要求して来ました」
「やっぱりね、金額は、いくらといって来たんですか?」
「同じ一千万円なので、あの金を持って行かせましたが」
「同じ一千万円……?」
「不審ですか?」
「いいえ。……ところで、くじ改めの時、人形の手首の入った文箱を差し出した子供さんがいましたでしょ。あの子のことを調べました?」
「名前は、吉岡章一。九歳です。でも、ついさっき死にましたよ、毒死らしいです」
「やっぱり」
「やっぱり?」
今度は三田が、驚いて麻沙子の顔をみた。
「どういうことですか?」
「私ね、今度の誘拐事件の犯人がわかったような気がするんですけど」
「え?」
三田は、苦笑した。
「矢村さん。推理小説と、実際の事件とは違いますよ」
「時には、同じことだってあるかも知れませんわ」
「じゃ、まあ、話して下さい。時間がないから手っとり早く」
「今度の誘拐事件で、おかしいと思うことがあるんです」
「どんなことですか?」
「第一は、一千万円という身代金の額なんですよ。この前、サラリーマンの娘を誘拐した犯人は、三千万円の身代金を要求しています。別に資産があるわけでもない。年収四百万くらいの中堅サラリーマンに対してです。大杉さんは、芸能人の所得番附けで、三位になっていますわ。五千万円要求したって、いいえ、一億円だって、払ったと思うんです。それなのに、今度の犯人は、どうして一千万円しか要求しないのか、それが第一に、おかしいんです」
「その次は何です?」
三田は、少しずつ、麻沙子の話に興味を感じてきた。
「第二は、誘拐の仕方です。時期といった方がいいかしら。犯人は、大杉さんの長男、春太郎君が、長刀鉾に乗り込む稚児さんに選ばれたことを知っていたはずです」
「それはその通りでしょう。犯人は、多分、その新聞記事を読んで、誘拐を計画したんでしょうから」
「それなら、少なくとも、二日前ぐらいに誘拐して、この祭の始まるまでに、身代金を払えと要求するのが本当じゃないかしら。その方が、大杉さんは、必死になって、払いますもの。親としては、どうしても、無事に助け出して、晴れの稚児さんとして、長刀鉾に乗せたいでしょうから。それなのに、犯人は前日に誘拐して、祭の間、子供を監禁してしまったんです。そして、身代金を払えば、祭が終ってから、子供を返すといっています。しかも、警察には知らすなといっているんですよ。むじゅんしていると思いませんか? 肝心の稚児さんが消えてしまったら、大騒ぎになるにきまってるじゃありませんか。今度は、二歳下の弟さんがいて、何とかごま化せましたけどね。犯人は、まるで、大杉さんを困らせるのが目的みたいに思えるんです。そこで、子供はどうせ返さないのじゃないかと……」
「何となく、あなたのいうこともわかります。ただ、ついでに、金もとろうと思っているのなら、一千万円というのは、なかなか適当な金額だし、放送中に、金をとりにくるというのは、うまい方法だと思うんです。五千万円とか一億という金なら、現金をつくるために、銀行に相談したり、映画会社にたのんだりしなければならないので、秘密には出来ない。その人達にすすめられて警察にも届けるでしょう。しかし、一千万円ぐらいの金ですむのなら、騒ぎたてないで、犯人のいう通りにしてみようと思うのが、親心だと思うのです。金のうけわたしに放送中を狙ったのも、放送中だから、金をとりに来ても、何もいえない……。まあ、私はこう考えたのですが、矢村さん、あとを続けて下さい」
「大杉さんのところへ返して来た子供の靴片方を包んだ紙袋をみました?」
「ええ。それが何か?」
「あのきれいな紙袋には、『小四八月号附録』と書いてありますよ。模様のすみをよくみないとわかりませんが。つまり、私は、犯人の家にも、小学校四年の子供がいると思うのです。大杉さんにきいてみたのですが、うちでは、『小学四年生クラブ』という雑誌はとってないといわれるのです」
「子供を遊ばすために、犯人がその雑誌を購入したんじゃありませんか?」
「あれは定期購読者にしか売らない雑誌で、本屋では売ってません。とにかく、小学四年というと九歳です。それで、私は、一つの結論を得たんです。くじ改めの男の子、何という名前でしたか……?」
「吉岡章一、K小学校の四年生です」
「その子が、殺されたときいて、ますます、私は、自分の結論に自信を持ったんです」
「念のためにいいますが、その子と誘拐された大杉の子供とは、同じ九歳でも、学校は違いますよ」
「ええ、いいんです、同じ九歳ということに意味があるんです」
「まさか、九歳の男の子にだけ、恨みを持つ異常者じゃないでしょうね?」
「それに近いところもあるんです」
「どういうことですか?」
「さっきもいったように、今度の犯人は、お金目あてに有名人の子を誘拐したというより、大杉さんを苦しめ、ついでにお金もとろうというのが目的のように思えるのです」
「それで?」
「大杉さんは、女性関係が華やかな人でしょう? つき合っていた女性に、子供を認知してくれと要求されたり、うわさになった女性が自殺したり……」
「でも、ここ一、二年ほど、新しい番組を持ってからは、テレビ局にいわれて、ぴたっとそういうことをやめていますよ」
「一人の女性を考えてみたんです。九年前に、大杉さんと別れた女性です。その女性には、今年九歳の男の子がいる。その子の成長を楽しみに生きてきたが、ふと、新聞にのっている春太郎君の記事を読んだんです。自分の子も、同じ大杉の子なのに、私生児として育ち、同じ九歳なのに、春太郎の方は、長刀鉾に乗る稚児さんに選ばれて、家中で、にこにこしている写真が出ている。そんな不公平が、彼女には許せなかった。九年前のいきさつも、改めて思い出されたんでしょう。だから、男の力をかりて、春太郎君を誘拐し、晴れの舞台の山鉾巡行の間、帰さないようにしたんです」
「吉岡章一という子供の方は、どう関係してくるんですか?」
「彼女の子が、せめて、あのくじ改めの使者役に選ばれていたら、彼女は、満足していたと思います。あの役も、晴れがましいものですからね。稚児さんと違って、あの役は、その山鉾を出している町内の中から選ばれる。同じ九歳で男の子だというと、候補者は、そう何人もいなかったと思うのです。期待していたのに、その役は、他の子供の方に行ってしまった。ひょっとすると、一旦選ばれたが、家庭環境から、はずされたのかもしれません。だから、吉岡章一君の文箱に、人形の手首を入れていやがらせをし、そのあと、彼が、犯人に気づいては困ると思って、毒を飲まして殺してしまったんだと思います」
三田は考え込んだ。麻沙子の推理を全部信じたわけではなかった。しかし、時間がなかった。
「とにかく、大杉家へ行って、奥さんが金を受け渡す時をおさえることと、吉岡章一の町内に、昔、大杉と関係があり、九歳の男の子を持っている女性がいないか探してみます。使いの男が死んだので、今度は、犯人自身が動くでしょうから、前よりは楽だと思います」
三田は、そういって、手配のため走っていった。
麻沙子は、放送席にもどり、晴れやかな顔で、ゲスト役をつづけた。
二時間後、麻沙子は、『あなたの三時』に出演している大杉親子をみていた。
犯人が逮捕され、無事、大杉春太郎は、救出されたのだった。
警察では、吉岡章一と同じ町内の奥沢という家に閉じこめられていた春太郎をまず、救出し、それとも知らず、公衆電話から、一千万円を持ってくる場所を指示して帰ってきた犯人奥沢ユキコを逮捕した。
犯人が逮捕されたので、誘拐事件のことが、テレビの番組ではメインの話題になって話されている。
「君が誘拐された春太郎君ですね?」
「はい」
「怖かったでしょう?」
「はい。でも、ごはんのときには道夫君が遊んでくれたから」
春太郎は、まだ顔色が青いが、はきはきとこたえている。道夫というのは犯人の子供である。
「それから、こちらが、お兄さんの代りをつとめた秋次郎君です。しんどかったでしょう?」
「はい」
役者の子だけにしつけがよく、二人ともきちんとひざに手をおいて座っている。
〈あまり似てないわ〉
麻沙子は思った。メーキャップをしていたし、遠景だから何とかもったのだろう。
大杉は、にこにこしているが、その笑顔はどこか冴えない。犯人が、彼の昔の女であることは、今のところ伏せられているので、今日は、被害者ということで同情されているが、そのうちに、週刊誌の記者などが、関係をさぐり出して書くにちがいない。それを心配しているのだろう。
そのとき、玄関のベルが鳴って、三田警部が、やってきた。
「このたびはどうも有難うございました」
と、まず礼をいってから、
「いやあ、あぶないところでした。犯人は一千万円の方はあきらめて、奥さんを殺すつもりだったんですから」
と、いった。
「まあ、どういう方法でですか?」
麻沙子は、三田を部屋に招じ入れながらきいた。
「犯人は、奥さんに、一千万円を持って、近くのコーヒーの自動販売機の前にこいと呼び出しているんです。そして、紙コップで自動販売のコーヒーを飲みながら、横にある赤電話がなるのを待てといったんです。あとできくと、その紙コップの内側に、青酸カリが塗ってあったんです。奥さん以外の人が飲む可能性もあり、危いところでした」
三田は、もう一度頭をさげた。
「青酸カリは、どこで手に入れたんですか?」
「彼女は、一年前まで看護婦をしてまして、病院で手に入れたらしいです。大杉と知りあったのも、彼が十年前入院したときのことだそうです。今は、身体を悪くして家でブラブラしていてお金もなかったようです」
三田は、そういってから、ポケットから、何枚かの写真を出した。
「これが、犯人、奥沢ユキコの写真です。子供も写っています」
「まあ、この子供、春太郎君とそっくりね。弟の秋次郎君よりも、よく似ていますわ」
「でしょう? 私もそう思いました。このことがマスコミに知れると大杉は困るでしょうから、必死になってかくそうとするでしょうね」
その時だった。
テレビに映っていた春太郎が、手に持っていた汽車の形の消しゴムを下におとした。アナウンサーが、何げなく、
「それは何ですか?」
ときいた。すると、春太郎が大きな声でいった。
「道夫君がくれたの。道夫君は、僕と兄弟だからくれるっていったの」
くらやみ祭に人が死ぬ
六月の五日は、お茶で有名な、宇治の県《あがた》神社のまつりだった。
真夜中の十二時に、市内すべてのあかりが消され、御神体の梵天《ぼんてん》が、大勢の裸の若者に担がれて、宇治川の反対岸の宇治神社から、県神社まで運ばれることから、三大奇祭の一つといわれ、くらやみ祭の異名もある。
このくらやみの時間は、何をしてもいいという暗黙の了解があって、昔から、このくらやみ祭の夜は、男女あいびきの夜となっている。
宇治橋を渡りきったところから、二筋に分れて長くのびている道路全部が、全国から集って来た数百軒の夜店で一杯になる。
あめ細工、金魚すくい、輪投げ、生きたヒヨコや、やどかりを売る店が並び、なんばきびやタコやきの匂いが、昼ごろからあたりにたちこめる。
これだけ多くの夜店が出るのは、日本全国でも、年に何回かしかないという。この夜店を見に、京都近郊はもとより、大阪、滋賀《しが》、奈良《なら》などからも、人がやってくる。
普段は、静かな宇治の町も、この夜ばかりは、何倍もの人口にふくれあがり、電車は、終夜運転で、町は活気づく。
この賑いを遠くにききながら、加奈子は、今夜こそ、恨みかさなる姑《しゆうとめ》の貞子を殺そうと、決心していた。
加奈子が、夫の康夫と知り合ったのは、四年前の春だった。京都は桜で美しかった。
東京でOLをしていた加奈子は、休暇に、宇治の平等院を見に来ていて、にわか雨に降られた。仕方なく、平等院の山門のところで、雨やどりをしていると、そこへ、康夫が通りかかり、傘をかしてくれたのだった。
康夫は、車だったので、最初は、車で駅まで送りましょうと言ったが、加奈子が、見知らぬ男の車に乗るのを躊躇《ちゆうちよ》していると、車の中にあった傘を貸してくれた。
「傘は返さなくてもいいですよ。京都観光の間持っていて不用になったら捨てて下さい」
といわれたが、そのままにするのも心苦しくて、二日後に、宇治を訪れ、平等院近くの河上という名前をたよりに探して、康夫に再会したのだった。
そのとき、康夫の母の貞子にも会ったが、東京生れの加奈子には、貞子の京都弁が、とても柔らかくきこえ、やさしい人にみえた。
康夫との交際は、それからはじまった。
康夫は、六月五日から六日の朝にかけて、あがた祭があるので来ませんかと誘い、加奈子は、喜んで、招きに応じた。
その頃、康夫は、京都のK大の大学院にいて、時間が自由だったので、東京へも遊びに来たし、加奈子を車にのせて京都の名所を案内もしてくれた。
半年後、二人は婚約し、一年後に式をあげた。嫁と姑の戦いは、その日からはじまった。
まず、挙式や新婚旅行が、すべて、貞子の指示で行われ、加奈子の希望は、何もいれられなかった。
加奈子は、背が高く、彫《ほり》の深い、どちらかと言えば、外人的な顔だったので、結婚式は、ウエディングドレスで、教会でやりたいと小さいときから思っていた。
しかし、貞子は、断乎として日本髪に打掛《うちかけ》姿ですることを命じた。
新婚旅行も、一生に一度のことだから、グアム島あたりへ五日程行きたいと、康夫とも相談し、OL時代に、貯金もしていたのだが、貞子は、一人|息子《むすこ》が、飛行機で、外国へ行って、事故やハイジャックに出会ったら大変だからと、博多《はかた》へ、それも、汽車で行くことをすすめた。康夫が、承知してしまったのでそうなってしまった。
東京と京都では、しきたりも違うのだからとあきらめたが、日常生活すべてに、姑である貞子が主導権を握るのは、我慢が出来なかった。
結婚を機に、京都市内の大会社に勤めた康夫が、はじめて、月給を貰《もら》って来たとき、加奈子は、当然、それを、自分に渡してくれると思っていた。しかし、帰ってくると、玄関で、康夫は、小声で、たのんだ。
「はじめての月給だから、はじめ、ちょっとだけ、母にもたしてやってくれないか」
加奈子は、言葉通りにとって、承知した。勿論《もちろん》、ちょっと持つだけで、すぐに、姑が、加奈子に渡してくれて、それで、新しい世帯をもつのだと思ったからだ。
しかし、姑は、その月給を取り上げたまま、いつまでたっても、渡してくれなかった。
日々のおかずは、買物のたびに、姑の手から預る金でまかない、買物から帰ると、計算しておつりを返さなければならなかった。
自然、おかずも、貞子の好みの魚ばかりになり、加奈子が、結婚したら作ろうと楽しみにしていた肉料理などは、一回も作る機会がなかった。夜眠る時間から、朝起きる時間まで、貞子のペースになってしまって、加奈子は、げっそりとやつれた。
康夫は、貞子には何も言えないばかりか、朝着ていくワイシャツからネクタイまで、母親に相談にいく始末だった。
加奈子が、別れることを真剣に考えるようになったとき、皮肉なことに、妊娠してしまった。
子供が出来れば、生活も変るだろうと思っていたが、ストレスは、前より大きくなった。
育児には、経験があるという理由で、育児のすべてを、貞子が、指図することになったので、加奈子は、我が子でありながら、一々、姑の顔色をうかがってから、抱いたり、食べるものを与えたりしなければならなかった。
自然、子供も、姑の方になつき、加奈子の言うことは、きかなくなった。
しかし、そんな日々でも、まだ、子供が生きているうちは、生きがいがあった。ところが、ある日、突然、子供は死んでしまったのだ。
その日、貞子が、花見をしたいと言うので、加奈子は、二歳になった子供を連れて宇治川の土手に行った。弁当を食べおわり、加奈子が、貞子に言いつけられて、折箱などを片づけているときに、悲劇はおこった。
姑と遊んでいた子供が、川に落ちてしまった。子供の、「ああっ!」という叫び声に、加奈子が、そちらをむいたとき、子供の体は、水の中に没しようとしていた。
次の瞬間、貞子と加奈子の二人は、同時に腰を浮かした。しかし、貞子が「みきちゃん!」と叫んで、手を出したので、加奈子は出しかけた手を思わずひっこめてしまった。姑がすることに手出しは出来ないという、普段の習慣から、姑が助けると思って、遠慮してしまったのだ。けれど、姑は、そうは言ったものの、驚いているだけで、立ち上らなかったので、子供は、水の中に見えなくなってしまった。加奈子が気狂いのように叫びながら走っていったときにはおそかった。子供は、やがて、死んで引きあげられた。一瞬の遠慮が、子供を死なせてしまったのだ。
「親だというのに、この人は子供が助けを呼んでいるのに手も出さなかったのよ」
姑は、康夫の前で、激しく加奈子をののしった。
長女の死は、加奈子の心に、深い傷をのこした。
子供が死んで何ケ月かたって、加奈子は、再び妊娠した。赤ん坊が出来たら、今度こそ自分で大切に育て、姑には、指一つさわらせないでおこうと決心した。しかし、その決心も空しく、赤ん坊は、四ケ月で、流産してしまった。
二階の掃除をしていた加奈子は、下から、姑に、けたたましく呼ばれ、あわてて降りようとして、階段を踏みはずしてしまったのだった。流産だけでなく、加奈子は、子供の産めない体になってしまった。
病院から帰ってきた日、留守の間、姑の気に入りの美知子という娘が、泊りがけで、手伝いにきていたことを知った。美知子というのは、姑が、昔から康夫の嫁にと考えていた親戚の娘である。それから、なにかというと、その娘が出入りするようになった。
加奈子の、たった一人の肉親である東京の父親が、病気だという報せがあったときも、留守をすると、また、あの娘が泊りにくるのじゃないかと思い、加奈子が、行きしぶっている間に、父親は死んでしまった。死に目に会えなかった加奈子は、葬式で大声をあげて泣いた。
ある日、貞子が、康夫に「加奈子と別れて、美っちゃんを貰いなさいよ、美っちゃんだったら、きっと可愛い孫を産んでくれるわ」と言っているのをきいた。
加奈子の姑に対する憎しみは、極限に達した。
夜の六時になると、加奈子は、家を出て京阪宇治駅まで、客を迎えに行った。
客は、親戚の二世帯で、大人《おとな》二人、子供三人の計五人である。
あがた祭の夜は、地元の家は、親戚をよんで、歓待するのが習わしだったから、さすがにケチな姑も、この招待だけは続けていた。
あがた祭の夜に、全然、客が来ないのは、隣近所の手前、恰好《かつこう》が悪くもあったのである。
加奈子は、六時十分頃駅についた。五人を案内して、三十分ほど、ぶらぶらと、夜店をのぞいて歩いた。
三人の子供たちには、モール細工や、綿菓子を買い与え、夜店のはずれから、裏通りに入った自宅に連れ帰ってきた。
玄関に入ると、姑の貞子は、入れちがいに出かけるところだった。
「お姑《かあ》さん、お出かけですか?」
「はい。ちょっと、おつきあいで、祭を見に行くことになっているので、失礼しますよ。みなさんに、充分、食べてもろて下さいね」
「じゃ、お先にいただいています。お気をつけて」
加奈子が、姑を送り出すと、客の一人の安子が、顔をしかめた。
「おばさんは、いつもあれね。私が来ると出て行くのよ。きっと、私と顔を合わせたくないのね」
加奈子は、困ったような顔をして、曖昧《あいまい》にうなずいた。
姑と、この安子は、仲がよくない。だから、安子も、本当は来たくないのだが、毎年の習慣になっていて、来ないとカドのたつこともあり、子供が、夜店を楽しみにしていることもあって、儀礼的にやってくるのである。
貞子も、口では、年に一回のつきあいなのだから、来るべきだと言いながら、そのくせ、やってくると、口実を作って、出かけてしまい、あとの応対は、加奈子の責任になるのだ。
しかし、そういって出かけはするものの、一時間もすると、姑は、必ず、裏から、こっそりと帰ってきて、二階にひそむ。
そしてみんなが、なにか、自分の悪口を言っていないか、きき耳をたてるのである。
しかし、今日は、それが幸いだった。
なぜなら、今日は、それが、加奈子のアリバイづくりにプラスになるからだ。
「あなたも大変ね。あの姑さんじゃ。私だったら一日ももたないわ。でも、あなたは、おとなしくてなにもさからわないから、うまくいっているのね」
なにが、うまくいっているものか、今日こそあの姑を殺してやろうと思っているのだと言ったら、この安子は、どんなに驚くだろうと思いながら、加奈子は、にこやかに笑っていた。
そして、朝から作ったおすしや、おもちなどを出してもてなすうちに、一時間近くたった。
安子が、ふと気がついたように手さげの中をさぐった。
「あら、忘れてたわ。もう一つおみやげがあったのよ。主人が、お友達にもらってきたパパイヤなの。むいて、レモンをかけるとおいしいらしいわ」
「じゃ、早速、みんなでいただきましょうね」
加奈子は、席をはずしたいと思っていたので、いい口実が出来たとよろこんで、台所に立った。
パパイヤをむいて皿にのせてから、台所のたたきをみた。やはり、姑は帰って来ていて、かかとの低い靴がぬいであった。
加奈子は、こっそりとガレージに行って、朝方とっておいた宇治川の水を入れたバケツを出してきた。
パパイヤを座敷へもって行ってみんなにすすめたあと、バケツをもって、そっと二階にあがると、案の定姑は、帰っていて、何やら、もぐもぐと口を動かしていた。夜店で買ってきた菓子を一人で食べているのだろう。
加奈子に内緒でものを食べるのは、いつものことだった。
「あら、お姑さん、帰ってらしたのですか?」
「ああ、みんなは、そろそろ帰らはるのやろう?」
「ええ。食事も大体すみましたから。子供さんたちがやかましいので、これからまた、夜店をみにいくようですわ。挨拶《あいさつ》されますか?」
「いや、やめときますわ。出ていったら子供に小遣いやらんなりまへんやろ」
ケチな姑は、そういって、笑った。
突然、加奈子は、廊下においたバケツを姑の前にどんとおいた。けげんな顔をする姑の髪をつかんで、あっという間もなく、その中につっこんだ。不意だったので、姑は、ひとたまりもなく、バケツに頭をつっこみ、必死にもがいた。
加奈子は、一層力をこめて、ぐいぐいと頭をおしつけた。水しぶきがあがって、座敷が濡れたが、やがて、姑は、一分もすると、ぐったりと動かなくなった。
それでも、加奈子は、しばらくの間、じっとおさえつけていた。やっと、手を離すと、ゴミ袋用のビニール袋を頭からかぶせて、廊下の突きあたりの押入れに入れた。
加奈子は、呼吸をととのえて、何事もなかったような顔をして、下へおりていった。
階段を上ってから、五分もたっていなかった。
座敷へ行くと、客達は、何ごとも気づかず、テレビをみながら、デザートをたべていた。
加奈子が入っていくと、安子は、腕時計をみた。
「もうすぐ八時ね。そろそろおいとましなくちゃ。もう一度、夜店を見ながら帰りますわ」
「よかったら、どうぞ、ゆっくりして下さい」
「お姑さんはまだ?」
安子は、玄関の方をうかがった。
「ええ。ああみえても、中々社交家だから、あっちこっちで知った人にあって話してるんでしょう。途中で、会われるかもしれませんわ」
「なるべく会わないように願いたいわ」
安子はそういって、笑った。
「じゃ、私も、もう一度ご一緒に出かけようかしら、お姑さんも留守だし、こんなときぐらいゆっくりしたっていいでしょうねえ」
加奈子は、そう言って、安子に同意を求めた。
「そうなさいよ」
みんなは、立ち上り、ぞろぞろと外へ出た。表通りの方では、にぎやかに歓声があがっている。
「お姑さんは、カギを持ってるから閉めていきますわ」
そう言って、加奈子は、カギをしめた。留守の間に死体がみつかっては大変だからである。
途中、ジュースをのんだり、県神社に、おまいりして、おみくじをひいたりしながら、みんなと一緒に夜店をみているうちに、二時間近くがたってしまった。
加奈子は、あたりを見廻した。丁度いい具合に、植木屋の店の前に、近所の娘二人が立っている。
「志保さん、由紀子さん!」
声をかけると、二人は、あらというように笑顔になり、駆けてきた。
「志保さんたち、まだ、夜店みるの?」
加奈子がきくと、二人は、首をふった。
「もう帰ろうと思っていたところです。一緒に帰りましょうか。あ、お客さんですか?」
加奈子の連れをみて、姉の方が、遠慮がちにきいた。
「いいえ、私も、ここで別れて帰ろうと思ってたの。一緒に帰りましょう。……じゃ私、ここで失礼しますので」
加奈子が、おじぎをすると、安子も、急いで、頭をさげた。
「どうも、今日は、色々と御世話になって有難う。おばさんにもよろしくね」
加奈子は、安子達の姿が、京阪電車の宇治駅の方に遠ざかっていくのを見送ったあと、家の方に、きびすを返した。
「橋姫《はしひめ》神社の方から帰る?」
加奈子がきくと、由紀子が、あわてて首をふった。
「ダメよ。ダメ。折角うまくいってるのに、橋姫さんに嫉妬されたら困るもの」
「あ、わかった。由紀ちゃんは、今、恋愛中でしょう?」
「ふふ」
由紀子は、楽しくてしようがないというように笑った。
四年前の加奈子も、こんな幸福そうな顔をしていたに違いない。
由紀子の相手は、誰だか知らないが、姑はいるのだろうかと、加奈子は考えた。
橋姫は、宇治橋の守護神なのだが、嫉妬の神、縁切りの神として知られている。それに対して、県神社は、縁結びの神である。
最初、宇治に移り住んだとき、加奈子は、狭い町に、両方があるのが、合理的でもあり、面白くもあると感心したものだった。
多分、加奈子は、うっかりしていて、橋姫神社の方へ、先にまいってしまったのだろう。家の前までくると、当然のことながら、戸は閉ったままだった。
「ちょっと寄って行かない? お姑《かあ》さんもまだだし一人じゃ淋しいから。それに、新しくつくった造花を少しあげたいの」
加奈子が誘うと、姉妹は、喜んで入ってきた。パパイヤの残りを出したり、変愛論をしゃべっているうちに、すぐに一時間あまりがたってしまった。
「もう十一時? おばさん、遅いのね」
「ほんとにどうしたのかしら、いつもは、あの人たちが帰ると、すぐに帰ってくるのに……」
「どこかで、いいおじいちゃんでもみつけたんじゃない?」
「まさか」
笑いあっているところへ、娘たちの親から娘が行ってませんかと心配して電話があり、二人は、慌てて帰っていった。
一人になると、さすがに、加奈子は、ほっとして、座敷にすわりこんだ。
これで、六時から十一時までは、いつも誰かと一緒だったから、五時間のアリバイは、完全なわけだ。いや六時四十分には、生きている姑が、出かけていくのを、安子たちが見ているから、正確には、六時四十分から十一時ということになる。
姑が死亡したのは、七時五十分ごろだが、何かの都合で、鑑識結果が、少しずれた場合も、これだけ幅をとっていれば安心だろう。
安心だと思うと同時に、怖さが増してきた。今、この家には、姑の死体と加奈子の二人っきりなのだ。
風が出たらしく、二階が、ぎいっときしんだ。加奈子は、怖ろしさに、体が、がくがくと震えた。大声をあげて、外へとび出したいのを、やっとの思いでこらえて、座布団の端を、力一杯握りしめていた。
やがて、真夜中のお渡りがあって、町中が、まっ暗になる。その時、死体を車にのせて、宇治川に捨てに行くのだ。みんなが表通りのお渡りに気をとられている間に、裏道づたいにいけば、車では大した距離でないから、みつかることもないだろう。
死体は、あらかじめ、汲《く》んでおいた宇治川の水につけて溺死《できし》させてあるから、解剖したって、家で死んだとは、わかりはしない。絶対、私が殺したとわかることはないのだ。
一生懸命、心にいいきかせているうちに、やっと、ふるえもとまった。すると、今度は、また、違う心配が、頭をもたげてきた。
〈本当に、死体は二階にあるだろうか、留守の間に消失してしまったのではないか。押入れをあけて、何もなかったら、どうしたらいいだろう〉
考え出すと、心配でたまらなくなってきた。
加奈子は、そっと立ち上り、足音をしのばせて、階段をのぼりはじめた。階段は、暗いままだった。スイッチをひねればいいのだが、そのスイッチの音がひびくのすら、はばかられた。
〈もし、姑が生き返って、今度は、嫁を殺そうと、待ちかまえていたらどうしよう〉
〈留守の間に、全く知らない人の死体とすり代っているのじゃないだろうか〉
いろいろな思いが、頭をかけめぐり、押入れまでの距離が、やたら長かった。
やっと押入れの前についた。思いきって、さっと戸をあける。
「あった!」
とにかく、そこに、記憶した通りの形で、ビニールに包まれた物体が、衣裳箱にもたれかかっていた。加奈子は、そろりそろりと、ビニールを開けていった。見覚えのある白髪まじりの髪の毛が見え、姑の自慢のしまのワンピースの襟《えり》があらわれた。
顔を確かめようとしたとき、突然、家中に、ベルが鳴りひびいた。
電話のベルだった。
加奈子は、転げるように階段を駆けおり、受話器をとった。相手は、夫の康夫だった。
「あ、あなた」
加奈子は、ほっとして大きく息を吸った。
「どうしたんだ? なにかあったのか?」
「どうして?」
「いつもの君と違って、何か怯《おび》えたような様子だったからだよ……ところで、おかあさんは?」
「あ、おかあさんですか?」
いつもなら、また、おかあさんかと、腹の立つところだが、今日は、それどころではない。何と言ったらいいかと、頭の中で、すばやく考え、やはり、不在であることを、はっきり言わなくてはまずいと判断した。
「それがねえ。まだなの」
「まだと言うと、お風呂かなにか?」
「いえ。夜店を見に行って、まだ帰って来られないの」
「そんな君、もう十一時を過ぎてるやないか。何かあったんとちがうか。かあさんが、こんな遅くまで帰らないなんて、おかしいやないか。一体、何時に出かけたんだ?」
「えーと、六時四十分頃かしら?」
「六時四十分? じゃ、もう四時間にもなるやないか。ばか! 何してるんや。警察に探してもろうたらどないや、こっちから電話しようか?」
大変なことになったと、加奈子は、唇まで蒼ざめた。今、警察がきて、家を調べ、死体がみつかったら万事休すだ。死体を処分するまでは、どうしても、時間を稼《かせ》がねばならない。
「まあ待って下さい。実は、私、安子さんたちを送って、八時頃から、さっきまで、夜店を見に行ってたの。その間に、ひょっとしたら、お姑《かあ》さんが帰って来られたのかも知れないのよ。カギを閉めて行ったので、今度は、私を探しに出かけられたかも知れないわ。だから、これから探してみます。きっと、今に、怒りながら帰ってこられると思うわ。警察だって、今日は、祭の警戒と、交通取締りに忙しくて、うちの姑《はは》が、祭を見にいって、四時間ほど帰ってこないのですが、といったって、相手にしてくれないと思うわ」
少し、喋《しやべ》り過ぎかと思ったが、たてつづけにまくしたてた。康夫も納得したらしい。
「そうだなあ。警察に知らせるのはやめよう。警察に知らせたりしたら、おふくろが、帰ってきたとき、人騒がせだと怒るかもしらんなあ。とにかく、早く探してきてくれや。みつかったら、電話しろよ」
といって、電話を切った。
受話器をおくと、加奈子は、体中の力が抜けて、その場に座りこみたくなった。しかし、そうしているわけにはいかない。
一刻も早く、死体を始末してしまわなければならなかった。
加奈子は、今度は電灯をつけた。死体のところまで駆け上り、さっと、ビニールをとり除いた。
死体がごろりと転がった。死体は、意外にやさしい顔をしていた。顔をなるべく見ないようにして、ビニール袋に包み、ガレージまで運んで、トランクに入れた。
そろそろ、真夜中のお渡りが近いらしく、あたりは、まっ暗だった。加奈子は、静かに、エンジンをかけ、運転席に座った。
車は、滑るように闇を走り、すぐに、目的の川岸についた。パトロールの警察の車にも会わず、加奈子は、ほっとした。彼等は、多分、祭の中心部に集っているのだろう。
月もなく、暗い夜だった。
加奈子は、車を、人家のとだえた宇治川の川岸に寄せて停めた。
トランクをあけ、死体を抱きかかえる。姑は痩《や》せていて、体重は四十キロにみたなかったが、死体は、意外に重かった。川までの土手が、比較的なだらかな坂なのが幸いだった。川の崖《がけ》っぷちに死体を置き、ビニールをとりのける。あとは、途中でひっかからないように気をつけて、川に放りこむだけだ。
少し余裕ができて、ポケットを探ると、神社のおみくじと、夜店で買ったらしいカルメラ焼きの袋が入っていた。二階へあがったとき、内緒で食べていたのはこれだろうと、加奈子は苦笑した。
〈死体がひき上げられたとき、ポケットの中に、これらの品物が入っているのは、有利だ。彼女が、神社や夜店をまわっていたことが、証明されるからだ。警察では、姑が、神社におまいりし、夜店をひやかして、買い物をしたあと、ここの川原にきて、嫁にかくれて、こっそりと、カルメラ焼きを食べようとして、川におちこんだと思うだろう〉
加奈子は、ついでに、カルメラ焼きの一つをポケットから出してくだき、そのあたりの地面にばらまいておいた。
雨が、ぽつり、ぽつりと落ちてきた。
〈急がなくては……〉
と、死体に手をかけたとき、加奈子は、車の中に忘れものをしてきたことに気がついた。姑は、出かけるとき、天気がわるいからと、雨傘をもって出かけたのである。雨傘が、家にあると、かえってきたことがバレてしまうと思い、死体と一緒に流すために、車に積んできたのだった。
加奈子は、あわてて死体を草原に寝かして、車の方へ駆け上っていった。
〈ない!〉
トランクの中を、ひっかき廻したが、どこにも傘はみあたらなかった。持っていこうと傘を手に持ったところまでは覚えているが、そういえば、トランクの中に積みこんだおぼえはない。
〈ガレージにおいてきたのだ――〉
そう思うと、加奈子は、唇をかたくかみしめた。早く行ってとって来なければ、破滅になる。
あわてて車に乗り、方向転換をし、アクセルをふんだ。
〈ガレージのところにありますように〉
助手席の窓から雨が降りこんでくるのに気づいて、左手で窓をしめようとしたとき、手にさわったものがある。みると、助手席のシートにあの傘があるではないか。
〈よかった! やっぱり積んできていたのだ〉
加奈子は、全速力で、もとの場所に戻ってきた。今度は、傘だけしか持ってないので、楽に、川岸におりることが出来た。
しかし、その場所まできたとき、加奈子は、棒立ちになった。
死体のそばに、男が一人いて、かがみこんでいるではないか。
背すじが、すーと寒くなった。祭の酔をさますために、川岸まで出て来た人が、死体を発見したのだろう。
加奈子がつっ立っていたのは、ほんのちょっとの間だけだった。次の瞬間、加奈子は、手に持った傘をふりかぶって男の背後に迫り、力一杯、ふりおろした。ガクッというような音がして、男が昏倒《こんとう》し、死体の上に、重なって倒れた。加奈子は、何度も何度も、傘をふりおろし、そのあと、男を川の中に突き落した。男は、まっさかさまに川に落ちていき、下の方で、ばしゃんと、川の水を打つ大きな音がした。
続いて、加奈子は、傘を姑の腕と脇《わき》の間にはさんで、同じように、川に投げこんだ。
水音がしたのをたしかめてから、一目散に車に走った。
キーをさしこむ手が、ぶるぶるとふるえた。
どこをどう走ったか覚えはなかった。家に帰って、部屋に転げこむと、加奈子は、しばらく、台所の椅子《いす》につかまったまま、座りこんでいた。静まり返った部屋に、胸の鼓動だけが、高くひびいた。
十分ほどそうしていただろうか、胸の動悸《どうき》がおさまると、気持も落着いてきた。
もう何もかもすんだのだ。往きも帰りも、誰にもみられなかったはずだ。あとは、冷静にふるまうだけだ。
流しに立って、コップに水をくんで、一息に飲んだ。冷たい水が、喉《のど》にしみ通っておいしかった。
飲み終ると、加奈子は、二階にあがり、姑の部屋を綿密に点検した。カルメラ焼きの破片でも落ちていたら大変だ。少しぬれていた畳もふいてそうじした。
死体を包んだビニール袋も生ゴミを入れて、ゴミ箱に捨てた。
車のトランクも、カークリーナーで掃除をして、死体を入れた痕跡をとどめないようにした。
〈さあ、これで大丈夫〉
そう思って、ふと、台所の床を眺めた加奈子は息がつまるほどびっくりした。
姑の頭をつっこんで殺したバケツが、そのままおいてあるのだ。宇治川の水もそのままだ。こんなものをおいておいては、折角の苦心も水の泡だ。
加奈子は、あわてて水を流し、バケツを何度も洗った。
すべての整理が完了したとき、康夫から、再び電話がかかってきた。
加奈子は、探してみたが、まだみつからないと報告し、警察にとどけてくれるように、夫にたのんだ。
翌日の朝九時に、まず男の死体が、宇治川の下流|隠元《いんげん》橋のところでみつかった。
心配して、出張先から帰ってきた康夫と一緒に、加奈子は、そのニュースを、つけっ放しにしておいたテレビでみた。
〈その人は、五十歳ぐらい、上質の背広をきた背の高い男の人で、宇治署では、昨夜から行方《ゆくえ》のわからなかった、宇治市|県《あがた》通りの茶問屋、石山良夫さんではないかとの見方を強めています。なお、背広のポケットには、二十万円入りの財布が、そのまま残されていました〉
あれは、石山という男だったのだ。加奈子は、何か言わなくてはいけないと思って康夫に話しかけて、
「石山というと、通りのあのお茶屋さんね、私も、何度か買ったことがあるわ、お姑《かあ》さんでなくてよかったわね」
「でも、同じ夜に、二人も行方不明の人が出るなんて不思議だなあ。この人は、なんで死んだんやろうなあ」
「自殺かしら?」
「さあ、自殺か、事故か、殺されたのか、もし、殺されたんやとしたら、うちのかあさんも、まきこまれたおそれがある……」
「え、どういう風に?」
びくっとしながらも、加奈子は無邪気な顔をよそおって康夫にきいた。
「この男の人が、殺されるところを、うちのおふくろがみていたので、消されるか、どこかへ監禁されているのやないかな」
「それよりもあなた、お姑《かあ》さんと、この男の人、恋人同士じゃなかったのかしら。相手は、奥さんも子供もあって、二人が会っているところをみつかって、かっとなった奥さんに、突き落されたのじゃない?」
「うちのかあさんも川に突き落されたと言うのか?」
「でなければ、お姑さんが恋のもつれから、この人を殺して、自分は逃げているとか……」
「母に対して、そんなひどいことを言うな」
康夫はそういうと不機嫌な顔をして考えこんでいたが、
「それより、君、昨夜、母と何かまた喧嘩《けんか》したんじゃないか?」
とたずねた。
「そんなことないわ。お姑さんは、機嫌よく外出されたわ、安子さんたちもみんなみていたんですもの」
「なにも、君が、母を殺したなんて言ってへんよ。君たちは、普段から仲が悪いし、昨日も何かあって、母が、家出したんやないかと思ったんや」
「じゃ、春子おばさんや、お姑さんのしりあいのところへきいてみますか? なるべく大げさにしたくないと思ってひかえていたけど」
「そうやな、もうこれだけまって帰ってこないんだから、きいてみないと仕方がないやろうな。警察にもとどけたんだから」
それから、一時間近く、康夫と加奈子は、手わけして、康夫の叔母の春子の嫁入り先や、知人宅に電話をかけたが、当然のことながら行方はつかめなかった。
疲れた顔をして、夫婦は向い合った。
「どこにも行っていなかったなあ」
康夫がため息をついた。
「ねえ、あなた、みんな本当のことを言ってるのかしら。本当は春子おばさんのところにでも行っていて、私たちを困らすために隠しているんじゃないかしら?」
そうでないことは、加奈子自身が、一番よく知っていながら、そう言ってみた。
「そうだといいが、多分そうやないだろう、春子おばさんのところには俺《おれ》がかけたが嘘《うそ》を言っているようすはなかったよ。それに、警察に届けたといってるのに、嘘をつくはずがないやろう。大体、普段から、君が母と仲がわるいから、こういうことになるんだ」
康夫は、加奈子をにらみつけていたが、
「俺は、もう一度警察に行ってくるよ。死んだ男の人のこともなにか関係ないか気になるから」
と、立ち上った。
その時、玄関の戸を激しく叩《たた》く音がした。
「すみません。宇治警察ですが。お宅のおかあさんらしい方の死体が、下流であがりました。見に来て下さい」
琵琶《びわ》湖に発した瀬田川は、大津市の南郷の洗堰《あらいぜき》から下流を宇治川という。
南郷から平等院のあたりまでは、峡谷となり景色の美しいことから、宇治川ラインとよばれて川面には、モーターボートが、岸には、自動車道路が通っていて、観光ルートにもなっている。
加奈子の姑の河上貞子の死体があがったのは、宇治川ラインより、更に下流の京都市伏見区の観月橋《かんげつきよう》のあたりだった。
このあたりは、宇治川ラインの峡谷とちがって、川幅も流れもゆっくりして、夏には、川遊びの遊覧船も出るし、釣人も多い場所である。
その釣人の一人が、そろそろ帰ろうとして、道具をしまいかけたときに、上流から漂ってきた死体をみつけたのだと、やって来た警官は、加奈子たちに、話してきかせた。
加奈子と夫の康夫は、パトカーに乗った。観月橋まで行き、川原にひきあげられた貞子の死体と対面した。
面《おも》がわりしているが、確かにそれは、貞子にまちがいなかった。死体が硬直したため、とれなくなったのか、加奈子が、死体を投げこむとき、貞子の脇にはさんだ雨傘が、そのまま、死体にぴったりとくっついていた。
人の目には、死体が、必死になって、傘をかかえこんでいるように見えた。
「かあさん! かあさんどうして、こんなことに……」
と言うなり、康夫は、人目もかまわず、死体にかけより、大声をあげて泣き出した。
仕方なく、加奈子も、康夫の背中に、顔を伏せて、しゃくりあげた。
死体が、運び去られたあと、二人は、再び、パトカーにのって、宇治警察署に戻った。
宇治署捜査一係の長友という警部補が、二人に椅子をすすめてから話をきいた。
「ところで、奥さん。昨夕のお姑さんの行動を、もう一度、お話ねがえませんか? 奥さん御自身の行動も含めて言って下さい」
加奈子は、うなずいて話し出した。
「私は、六時に家を出て、京阪宇治駅まで親類の者が祭にくるのを迎えにいきました。六時十分頃、みんなが来ましたので、ぶらぶらと連れだって、夜店を見ながら家に帰って来ました。六時四十分頃だったと思います。丁度、家に着きましたら、姑《はは》が待っていて出かけるところでした。姑は、親類の者がくると、いつも、出かけてしまうのです」
「その親戚の方というのは、柳田安子さんと子供さん二人、林信子さんと子供さん一人の五人ですね?」
長友警部補は、手帳を見ながら言ったあと、
「その方たちの住所と、電話番号をここにかいてくれませんか?」
と、紙を出した。
加奈子に代って、康夫が、住所と電話番号をかいた。
「そのあと、どうしました?」
「安子さんたちは、一時間あまりいて、八時になったので、帰るといいました。それで私も、一緒に外出して夜店をみて十時頃、宇治橋のところで別れました」
「それから、あなたは、一人で帰ったんですか?」
「いいえ。安子さんたちと、別れる前に、御近所の娘さん二人に会ったので、一緒に帰り、一時間ほど、うちで話しました」
「それでは、六時四十分頃から十一時まで、貞子さんとは、一度も会っていないんですね」
「そうです」
加奈子は、うなずいた。
「ところで、御主人の康夫さんの方は、昨夜は、どうしておられましたか?」
「僕は、大阪本社に出張で、夜、十一時まで、むこうの川口課長や、得意先の甲山社長などと飲んで、ホテルに帰りました。帰ってすぐ、加奈子に電話したら、母がいないというので、心配したのです」
「念のため、川口課長と甲山社長の住所と電話番号、あとできかせて下さい」
「僕のアリバイを調べるわけですか? なんで僕が母を殺すんですか、親一人子一人なのに……」
康夫が憤然とすると、長友は、困ったように、加奈子の顔をみた。
「いや、これは、警察の捜査の方針なので……」
「それより、母は、誰かに殺されたんですか? 死亡したのは何時頃なんですか?」
「それは、まだ、わからないのですが、同じ夜に、二人も宇治川で変死となると、他殺の疑いもあるということで、調べているわけです」
「その男の人なんですが、やはり、石山さんというお茶屋の御主人でしたの?」
加奈子がきいた。
「そうです。それは、さっき、石山さんの身内の人に確認してもらいました」
「その人が死んだのは、何時頃なんですか?」
「それはちょっと」
長友警部補は、口ごもった。
「なぜ教えてくれないんですか。それによって、こちらも母との関連を考えることが出来るでしょう?」
康夫は、興奮したようすで、長友にくってかかった。
「……それじゃお教えしますよ。いずれわかることですから。石山さんは、昨夜の十一時以後亡くなったことがわかっています」
「解剖がすんだのですか?」
「いや、解剖は、今日の午後になりますが、十一時頃までは、石山さんは、店でお茶をうっていたので、見ていた人が何人もいるからです。そのあと、石山さんは、宇治川の方へ歩いていったようです」
「なぜ、石山さんは、宇治川の方へいったのでしょうね。お宅とは反対の方でしょう?」
康夫が少し興奮がおさまったのか、不思議そうにきいた。
「さあ、なぜでしょうか。こちらもそれが知りたいんですがね。石山さんの奥さんは、主人は、養子で家には七十過ぎの両親がいるので、息ぬきに外に出たのだろうといってましたがね。祭で家で少し酒ものんでいたので、尿意を催して川の方へ行ったのかも知れないし、誰かと、川原で会う約束をしてたのかもしれません」
「誰かというのは、うちの母ですか?」
再び、康夫が気色《けしき》ばんできいた。
「いや、それはわかりませんね」
昨夜、突然、石山が出現したときには、万事休すだと思ったが、今となってみると、姑だけでなく、石山が死んだことで、事件は、複雑にみえてきた。加奈子は、内心、うまくいったと、ほくそえんだ。
「ところで、お宅のおかあさんなんですが、未亡人になられて何年ですか?」
「父が亡くなってから約二十年になります。それから、女手一つで、私を育ててくれました。母は、三十歳で未亡人になったのです」
「失礼な質問ですが、最近、そのおかあさんに誰か男のお友達が出来たというようなことはありませんか?」
「いいえ、知りません」
康夫は、不機嫌に答えた。
「奥さんもそういうことを感じませんでしたか?」
加奈子は、黙って首をふった。誰か居たようだと言った方がいいのだが、下手《へた》すると、かえって、自分があやしまれると思い、やめたのだ。
「警察では、うちの母も、石山さんと同じ頃、つまり、昨夜の十一時頃、死んだのだと思っているんですか?」
康夫がきいた。
「それはまだ、医学的に調べてみないとわかりません。しかし、死体の状態からみると、お宅のお母さんの方が、少なくとも二時間以上早く亡くなったのではないかと思いますが」
「よかったわ。十一時以後だったら、私が、疑われてしまうところだったわ。だって私、主人から電話で、母を探せといわれ、そのころあちこち探しまわっていたんですもの」
加奈子は、ほっとしたように長友にいった。しかし、長友は、何を考えているのか、無言のままだった。ややあって、
「それから、奥さんにもう一つおききしたいのですが、お母さんは、外出されるとき、傘を持って出られましたか?」
「はい。天気が悪いからと言って。それは、安子さんも知っています」
「雨がぱらついたのは、七時前後だけでしたから、もし九時頃にでも、一度帰ってこられたのなら、傘はおいて行かれたでしょうね?」
「ええ、そう思います。姑はカギも持っていましたから」
「部屋を調べてみて、お母さんが、一度帰ってこられたあとはありませんか。たとえば、夜店で買ったものがおいてあったとか……」
「ありませんでしたわ」
「そうですか。どうもいろいろありがとうございました。それから最後に一つ、お母さんが、昨日の朝から食べられたものを、順に、教えていただけませんでしょうか? このあと、解剖結果がわかった時、死亡時刻の推定に役立つと思いますので」
「いいですよ」
加奈子は、朝食から順に、本当のことを、話した。
「私の知っているのは、これだけですが、お姑《かあ》さんは、いつも、自分で、勝手にものを買って来て、内緒で食べてらしたから、そういうものについては、わかりません」
普段から、いまいましいと思っていたことを、ぶちまけて、加奈子は、すっとした。康夫の方をみると、彼も心あたりがあるので、苦い顔をしていた。
解剖が終り、貞子の遺体が、家に帰ってきたのは、夕方の四時だった。すでに、祭壇もつくられ、黒と白の幕も張りめぐらされて、河上家は、弔問客で、ごったがえしていた。
加奈子は、黒い服を着て、エプロンをかけ、甲斐がいしく働いていた。こんなにのびのびと自由に働いたのははじめてだった。みんなが、加奈子の指図通りに動き、夫の康夫までが、一々、加奈子に相談してくる。
遺体を祭壇にすえ、鄭重《ていちよう》に目礼したあと、つき添って来た長友警部補は、加奈子と、康夫に、少し話がしたいといって、別室によんだ。
誰も入ってこない奥の離れで、三人は、むきあった。
「母の死んだのは、何時頃でしたか?」
待ちかねたように、康夫がきいた。
「石山良夫さんが、夜中の十一時半前後、お宅のおかあさんは、それより、二、三時間か前に亡くなったことが、解剖の結果わかりました」
「というと、石山さんが、母を宇治川につき落して殺し、自分もあとで、自殺したということなんでしょうか?」
「いや、石山さんは、自殺ではありません。殆《ほと》んど水を飲んでいませんし、後頭部を、強く殴打《おうだ》された傷がありましたから」
長友は、むつかしい顔でいった。
「じゃ、姑《はは》をつき落すのを、石山さんが、目撃したので、あとで、犯人に殺されたのでしょうか?」
加奈子が口をはさんだ。なるべく、警察の目が、外部のものに向いてほしかった。
「いや、それはないと思います。石山さんは、十一時より前にはずっと店にいましたからね。……ところで、奥さん、貞子さんが持っていた雨傘なんですが、あれは、お母さんの傘に、間違いないと言われましたね?」
「ええ」
「確か、お母さんが六時四十分頃に出かけられるとき、持って出られたということでしたね?」
「はい。姑は、傘を持つのは嫌いなんですが、あの時は、雨がぱらついたので、仕方なく持って出たのです。安子さんたちも、知っています」
「ところが、石山さんは、あの傘でなぐられて、昏倒したところを、川に投げこまれたらしいんですよ」
「じゃ、母が殺したとでも……」
康夫が、馬鹿な質問をした。
「いや、今も言ったとおり、石山さんが、頭を打たれ、川に放りこまれた時は、お宅のお母さんは、すでに、亡くなって、何時間かたっていたのです。石山さんをなぐれるはずがありません」
「じゃ、こういう考えはどうかしら」
加奈子が、やっきとなって言った。
「店から抜け出した石山さんが、お姑さんと宇治川の川原であっていて、お姑さんと石山さんの間に、争いがあった。お姑さんは、傘の柄で、石山さんをなぐり、石山さんは、お姑さんを突きとばして、傘もろとも、宇治川に投げこんだ。そのあと、石山さんは、頭の傷はなんともないと思って、店へかえって働いていたが、だんだん、頭が痛くなり、ふらふらと、川原に戻って来た。そして、急に、気が遠くなって、川に落ち込んだ……と」
「奥さんは、なかなか、ミステリーがお好きらしいですね。でも、そのストーリーは駄目ですよ。石山さんは、本当に十一時頃までは、一歩も外に出ず、店で、お茶を売ってたんですから。大勢の人が見ています。お母さんが亡くなったと思われる八時頃に、川原へはいけません。それに、頭の傷も、内出血ではなくて、相当ひどいケガで、血も出たはずですから、そのあと、店にいて、誰にも気がつかれないということはありませんよ」
「それでは、誰かが、姑《はは》を宇治川に突きとばし、その時、残った傘で、数時間後に、石山さんをなぐり殺したのですか?」
「お母さんの死体と、傘が、別々にみつかったら、そういう考えもなりたちますが、お母さんは、傘をしっかりと抱えて死んでおられたから、傘は、お母さんと一緒に、宇治川におちたはずです。だから、それから、数時間たって、その傘が、川岸にいた石山氏を、うち殺し、また、お母さんの腕にかえっていくというのはありえないのです」
「じゃ、石山さんを打ったのは、もう一本の別の傘じゃありませんか?」
加奈子は、必死になっていった。
「いや、鑑識で調べた結果、凶器は、あの傘にまちがいないとのことでした。傘の傷み具合、曲りぐあいが、石山氏の頭の傷に、ぴったりなんだそうですよ」
三人は、しばらく沈黙した。やがて、長友が、かばんから、何枚かの写真を出した。
写真には、ガラスの破片を写したものや、ガラスのない眼鏡のつるなどが写っていた。
「これをみて下さい、小さなガラスの破片が写っているでしょう。これは、石山氏のかけていた眼鏡のガラスの破片なんです。石山さんの家族が、遺体をみて、石山さんのかけていた眼鏡がないといわれたので、今日の昼から、宇治署の捜査員みんなで、宇治川の川岸を、綿密に探して歩いたんです。もし、草が踏みあらされたりしていて、犯行現場がわかれば、その下あたりの水の中に、眼鏡が落ちているんじゃないかと思ったわけです。ところが、運のいいことに、その眼鏡が、川岸でみつかったのです。頭を打たれた時に、落ちて割れたんだと思いますが、とにかく、破片を集めてつなぎあわせて、遺族や、彼の眼鏡をつくっていたという眼鏡屋にみせたところ、間違いないということになりました。しかし、ガラスが、少し足りないのです。多分、石山さんの服にでもついて、そのまま水の中に落ちてしまったのだろうと思ったのですが、残りの破片が意外なところから出てきたのです」
「…………」
「お宅のお母さんの、洋服のポケットですよ」
「ええっ」
加奈子は、思わず声をたてた。
「数時間前に、宇治川に落ちて亡くなったはずの、お宅のお母さんのポケットに、残りの破片があるなんて不思議じゃありませんか? 念のため合わせてみると、ぴったり合うのです」
長友は、煙草《たばこ》を出して口にくわえ、話をつづけた。
「おかしいと言えば、他にもありますね……」
「…………」
「ご存知かも知れませんが、死亡推定時刻は、死体があった場所が、水中か土中か、空気中かによって、腐敗度がちがうので、変ってくるのです。腐敗度は空気中を1とすると、水中は、土中はという割合になっています。さて、お宅のお母さんの場合、水中にずっと死体があったと考えると、死亡時刻は、夕方の五時半頃に、なってしまうんですよ」
「そんなはずはありませんわ、五時には、私とお姑さん、一緒に夕食をたべてたんですから。そのあと、六時になって、私は駅に出かけ、六時四十分頃にみんなを連れて帰ってきたときには、お姑さんは、元気に、みんなに挨拶して外出されたんです」
「確かにそうらしいですね。そのことは、みなさんにも確かめました。すると、死体は、三、四時間、空気中にあってから、水中に投ぜられたということでないと、計算があわなくなります。宇治川に投ぜられたのは、十一時頃になりますね。
ところが、不思議なことに、死体は、宇治川の水を飲んでの溺死になっている。ということは、犯人は、くんでおいた宇治川の水で溺死させ、アリバイトリックをしたのち、何時間かあとに宇治川に捨てに行って、最初から宇治川で死んだようにみせかけたんですね。
被害者が、死亡した時点で、宇治川に突き落すことが出来たら、こんな手間なことをしなくてもよかったのだが、その時刻には、人といて、アリバイをたてなければならなかったので、宇治川にはいけなかった。だから、反対に、河上貞子さんが亡くなった時刻、午後八時頃に、アリバイのある方が、あやしいということになります」
黙ってきいていた加奈子が反撃に出た。
「それは、十一時頃までアリバイがあった、私か主人が犯人だという意味ですか?」
「いや、御主人は、ちがうでしょう。康夫さんは、大阪におられたのは確かですから、お母さんが、わざわざ、大阪に出むかれないかぎり、手を下すのは無理です。もし、出むかれたとしても、大阪の康夫さんのいる場所までいくのには、いくら早くても、二時間かかりますから、死亡時刻は、九時以後になる。それでは時間が合いませんから、御主人は除外されます」
「じゃあ、私だというのですか? ひどいわ。私は、ずっとみんなと一緒にいたのに。お姑さんを探しにいって殺すなんて暇はありませんわ」
「例えばの話ですが、お母さんが、誰にも知られず家に帰ってこられたと考えたらどうでしょう。それを知ったあなたは、台所にひっこんであらかじめくんでおいた宇治川の水でお母さんを殺す。その間、十分もかからないでしょう。そして、死体をかくしておいて、みんなとわかれた十一時以後に、宇治川に捨てに行く……」
「まるで、見ておられたみたいにいわれますが、それは、みんな憶測なんでしょう? みんな、死亡推定時刻の計算の結果から、推定したことでしょう。水中にあったのに、計算があわないとか、腐敗度がどうだとかいわれましたが、死体の腐敗度だって、人によって、いろいろ差があるでしょう?
テレビの事件もので、死亡時間には、二時間や三時間の誤差はあるものだといってましたわ。お姑さんは、私にあてつけで自殺されたのか、殺されたのかしらないけど、六時四十分頃に家を出られてから、一時間か二時間のうちに、宇治川で亡くなったのに間違いありませんわ。家になんか帰って来られなかったし、もし帰ってこられたのだとしても、すぐ、また、出て行かれたんですよ。私は、会わなかったわ」
加奈子は、そう叫んで、長友の顔をうかがった。
ひょっとして、貞子が、家に帰るところを見ていた人がいたかも知れないと思って、最後のところは、譲歩したのだが、幸い、そんな目撃者はなかったようだ。長友警部補は、その点については、何も言わなかった。
「僕は、死亡推定時刻というのは、死体の腐敗度だけでなく、胃の中のものの消化の状態でわかるときいたんですよ。その点は、どうだったんですか? もう少し詳しく話していただけませんか?」
はじめて、夫が、自分に味方してくれた。加奈子は、あやうく涙をこぼしそうになるほどうれしかった。
「食後三時間ということになっています。奥さんは、お母さんと一緒に五時に夕食をとられたとききましたが、そのことを、証明する人がいますか?」
「います。御近所の谷さんのおばあさんが、鯖寿司《さばずし》を持って来て下さったんです。うちでは、鯖寿司は作らなかったのですが、それで、すぐ、それをいただきました。谷さんは、うちの巻寿司を食べて帰られました。谷さんにきいて下さい」
加奈子は、話が核心からはずれてきたので、いきいきとしゃべった。
別の刑事が、外に出ていった。加奈子の話が正しいかどうか、裏をとるつもりだろう。
「それだと、死亡時刻は、八時ということになりますね」
「そうでしょう。そのとき、私は、家で、安子さんやみなさんと話したり、デザートの果物を食べたりしていたんですわ。姑は、その時、宇治川で死んだんですよ」
その時、長友警部補が、かすかに笑ったような気がした。
「その時、みなさんは、果物を食べておられたんですね。何の果物ですか?」
「安子さんが、下さったパパイヤよ、御主人がもらってきたとかで。だから、私、むいて、レモンを添えて出しました」
「おかあさんの胃の中から、そのパパイヤが出てきたんですよ」
「えっ」
「あなたは、パパイヤを台所で切ったでしょう? その時、席をはずしませんでしたか?」
「…………」
そうだ。その時、加奈子は、靴をみて、姑が帰ってきていることを知った。ガレージまで宇治川の水を入れたバケツをとりにいった。
そのすきに、二階から、姑がおりてきて、パパイヤを盗み食いしたのだ。そう言えば、加奈子が、バケツをもって二階へあがったとき、彼女は、口をもぐもぐさせていた。夜店で買ったカルメラ焼きかなにかを食べているのだとばかり思っていたが、あれは、パパイヤだったのだ。
「パパイヤなんて言う珍しいものは、このあたりでは売ってないし、夜店にもない」
長友の言葉づかいが変った。
「じゃ、姑《はは》は、一度、帰って来たのでしょう。でも、パパイヤをつまんで、すぐ、また、出て行って、宇治川で死んだんです」
「いや、パパイヤは、全然、消化されていなかったし、食道にひっかかっていたものすらあった。ということは、それを食べた直後に、殺されたということになる。もし、彼女が、パパイヤをつまんだあと、宇治川に行ったとしたら、十五分はかかるし、食道にあるはずはありませんね。それに、一度家にかえったのなら傘をおいていく筈ですよ、八時前にはもう雨は降ってませんでしたからね」
と、長友は、一旦、言葉を切ってからつづけた。
「あなたは、どうしても、お母さんが、宇治川で死んだことにしたいらしいが、死体には、腰や足などに、死斑が出ていましたよ。これは、少なくとも死後三時間以上、地上においてあったことになる。死斑は、死後三時間ほどしてから、下になった部分に出てきますからね。ところが、死後すぐ水中に入った死体や、水中で死んだ死体には、死斑が出ないのですよ。水の流動によって体位が変りますからね」
「…………」
「だから、あの死体は、洗面器かバケツに入った宇治川の水で殺され、そのあと、三時間以上、置かれてから、川に投げこまれたのだ。死後、おかれていた場所は、多分、押入れでしょう。狭い押入れの中に、不自然な恰好で入れられていたので、死斑の出方が腹や足に多く不揃《ふぞろ》いなのです。なんだったら、二階の押入れにもって行って、もう一度ねかせてみますか?」
鞍馬《くらま》の火祭
見わたす限り火の海だった。
その火の波が、揺れ、飛び上り、走る。
それは、人々の持つ松明《たいまつ》の光だった。
燃える松明を抱えた人たちが、鞍馬寺にある由岐《ゆき》神社の階段を、「サイリョウ、サイリョウ」の掛声をあげて、かけ上る。
火の粉が散り、人々がどよめき、歓声があがる。
牛若丸の修行したところとして子供たちでも知っているこの寺は、京都の北の深い緑におおわれた鞍馬山の斜面にある。街道から両側に朱塗りの献灯と雲珠《うず》桜をひかえた急な石段がつづき、途中までは、ケーブルカーが走っているほどの、険しい山の中の寺である。
毎年、十月二十二日の夜、この鞍馬寺の境内にある由岐神社では、鞍馬の火祭が行われる。
その夜は、町の路々には、大松明がならび、軒先には、篝火《かがりび》が燃え、深夜になると、若者たちが、長さ三、四十メートル、太さは、一抱えもある松明をかついで、町を走り、山を上下する。
「サイリョウ、サイリョウ」という掛声は、大松明を、男性のシンボルとみたて、「さあ、入れよう。さ、入れよう」と言っているのだという。
山門石段のしめなわが切られるのを合図に、人々は一せいに神前に殺到する。火は、一晩中燃え、勇壮な祭である。
この祭をみるために、毎年十万近くの老若男女が押しかけ、ごったがえす。
さわぎが静まるのは、夜もしらじらとあける朝方である。
すっかり朝になると、今度は、寺の関係者と祭の役員が、後始末のために集ってくる。
昭和五十×年、その年もいつもと同じように、朝の片付けがはじまり、人々は、祭の酒の少し残った顔で、掃除をしていたが、三十分ほどたった時、突然、裏庭の方で悲鳴があがった。
二、三人が声のした方へかけていくと、吉川幸夫という中年の役員が、地面を指して何か叫んでいる。
「どうしたんや」
と、のぞきこんだ人たちが、今度は棒立ちになる番だった。松の木と石の陰に、黒焦げになった死体が一つ転がっていて、そばには、ポリ容器に入ったガソリンがこぼれている。
死体は、炭化していて、男か女の区別さえわからない。
すぐに110番に電話がかけられ、パトカーがとんできた。
捜査一課の若杉警部は、現場に立つと、
「これはひどいな」
と、思わず呟《つぶや》いた。変死体をみつづけて二十年の彼が、一瞬目をそむけたほど、その死体は悲惨だった。
焼けただれた頭蓋骨《ずがいこつ》には、肉片と黒い毛髪がわずかに付着し、骨格見本のような形に残った体の骨には、布の破片がこびりついていた。焼けたときに、はじけとんだらしい内臓の一部が地面に、妙に生々しい色で焼け残っていた。
異臭が鼻をつく。
警部が、頭の骨にさわると、頭蓋骨は、安物の陶器のように、ぽろりと二つに割れた。
腰の骨をみていた検視官が立ち上って手をはたくと、
「これは多分、男性ですね。身長は、約一メートル七十、死亡時刻は、昨夜おそくだと思います」
と、言った。
警部はしゃがんで、死体の腕にはめた時計をはずした。焼けてはいるが、男物の大きさで、鎖も太かった。横でみていた部下の刑事が、
「あ、あれは、タイピンじゃありませんか?」
と言って、胸の骨の間から、細長い金属片をとりあげた。
「この二つは、身元を割り出すのに貴重な資料になりますね?」
刑事が言うのに、警部はあいまいにうなずいた。偽装の場合もあると考えたからだった。
「若杉警部、こんなものが石の下にありました」
別の刑事が、そう言って、封筒を持ってきた。中には、「サラ金のとりたてがひどくて、生きていけなくなりました。業者は、私が死ねば保険金が入るから死ねと、暗にいいます。死にたくはありませんが、このままいると、殺されかねません。殺されるよりはと、自殺することにしました。妻には苦労をかけましたが、金が清算できたら、再婚して幸せになって欲しいと思います。私は、子供のころからこの鞍馬の近くに住んでいるので、この祭の日に死ぬのがせめてもの幸せです」とかいてあった。
「遺書というわけか……名前は、杉江光夫だな。しかし、本当に自殺だろうか? 偽装自殺ということもある」
警部は慎重に調べることにした。
まず、身元がわかったので、家庭環境を調査した。
杉江光夫 三十八歳
妻、百合子 二十七歳
子供なし
そして、ここ数年、サラ金の返済に苦しめられているのも事実だとわかった。
死体が発見された翌日、警部は、左京区野中町にある杉江の家をたずねた。百合子は、死体がみつかったときによんだので会っている。
警部はあらためてくやみを述べたあと、彼が最後に家を出たときのことをきいた。
「あの日の夜、あの人は、金井さんとかいう人と一緒に家を出たのです。借金のことを話したいといって。それっきり帰ってきませんでした」
「金井さんというのは?」
「最近サラ金の人にたのまれてやってくるようになった暴力団の人です。刑事さんあの人は、きっと、殺されたんですわ。前から、返せないなら死ねといわれてたんです。遺書だって、無理にかかされたんだと思います。刑事さん、調べて下さい。おねがいです」
百合子は、サラ金の社長に生命保険に入らされていたことも言った。
「その金井さんは、そのあと来ましたか?」
「いいえ、来ません。逃げてるんですわ。葬式にも来ませんわ。サラ金の人は来ましたけど」
「あの死体が金井さんで、お宅の主人の方が逃げてるということはありませんか?」
「刑事さんは、金井さんを知らないからそんなことを言うんです。金井さんというのは、プロボクサーくずれで、柔道やカラ手も出来て、誰が見ても強い人です。光夫さんなんかひょろひょろして、ちょっと突き飛ばされただけでもふっとんでしまうような人です。光夫さんが、あの人を殺せるはずがありません」
警部は、杉江の家を出ると、杉江光夫が、自殺でなくて金井某に殺された場合と反対に、金井が殺されて、杉江が逃げている場合を考えて、捜査を開始した。
サラ金業者や杉江光夫の勤め先、近所の人たちに会って話をきき、死体の検死結果も調べてみた。
しかし、やはり、金井を杉江が殺すのは無理で、金井が、杉江を脅《おど》かして自殺させたのだろうということに、結論は落着いた。
死体が、杉江光夫でないという証拠もなかったし、杉江のふだんの人柄から、一家に対する同情が集っていたからである。
又、杉江が殺され、遺言を無理にかかされたのだとしたら、ああいう書き方をせず、もっと形式的な、よそよそしいものになっただろうという専門家の意見もあった。
若杉警部は、それでも、火祭の日に焼身というのに、ひっかかるものを感じて、二、三年の間、百合子から目をはなさなかったが、杉江が、百合子に連絡をとった様子もなかったし、百合子は、泣きの涙でくらしたあと、二年たって、見合で再婚したので、この捜査を打ち切った。
七年後の鞍馬の火祭の日、杉江光夫は、大阪にいた。今は、山田一夫と名乗っている。やはり、火祭の時発見された死体は、彼ではなく、彼を連れ出した組員のものだった。
杉江は、サラ金の借金がかさみ、矢のような催促を受けている間に、もし、返さなければ、殺されるのではないかという恐怖感を抱いた。
最初の金を借り出してから半年後に、妻の百合子を受け取り人として、一千万の保険に加入させられている。
受け取り人がサラ金の社長であれば、入らなかったと思うが、受け取り人が妻であるため、杉江も説得されて入ったのである。
「最初お貸ししたとき、万一の場合を考えて、健康かどうか念を押しましたが、健康だ、どこも悪くないというので、お貸ししたのです。しかし、その後、借金は焦げついているし、肝臓が悪くて病院通いをしておられることがわかりましたので、これ以上、お貸しすることは出来ません。一ケ月の間に、全額返していただくか、奥さんを受け取り人にして、生命保険に入っていただかないと不安です」
といわれ、仕方なく入ったものだった。
「まさか、生命保険に入れておいて殺すんじゃないでしょうね?」
と、イヤ味を言ったら、
「そんなことをしたら、たちまち、警察に調べられ、保険金もとれなくなってしまいますよ。それどころか、うちの金がとれるまでは、二年以内に自殺をされても困るし、ややこしい事故死もしないで下さいよ」
と、笑われた。
しかし、保険に入って二年を過ぎるころになると、借りている金の額も雪だるま式に多くなってくるし、自殺とみせかけて殺されるのではないかと怖くなって来た。
催促も過酷になってきた。しまいには、
「なんなら、琵琶《びわ》湖の岸に遺書をおいて、自殺したようにみせかけて失踪《しつそう》してくれませんか?」
と、冗談めかして言われるようになった。勿論《もちろん》、保険会社が、それだけで金を渡すはずはないから、遺書をかかせて、彼等は、本当に、琵琶湖に突き落すつもりだろうと思い、夜も眠れなくなった。勤め先にも、やってくる。
とうとう、八月末になって、利息も入れられなくなったとき、サラ金業者から依頼を受けた暴力団の組員のような金井という男が、返せないなら自殺しろといってくるようになった。
杉江は、二年半の借金の催促にすっかり疲れ果て、これから解放されるなら死んでもいいと思うようになり、十月二十二日の時代祭の日が来たら自殺すると言ってしまった。
しかし、いよいよ時代祭が近づいてくると、死ぬのが怖くなってしまった。それで彼は、一計をたて、昼の時代祭がすんだら、夜の鞍馬の火祭を見ながら死ぬから見とどけてくれと言って、催促に来た組員と一緒に、鞍馬山に登っていった。
杉江の家から鞍馬山は近く、昔よく登ったこの山で、首をくくって死にたいと言ったのである。
組員は、体力に自信を持っていたし、まさか非力な杉江に殺されるとは思わずついて来た。
彼は、あらかじめ、山を下見していて、石がとれたあとの大きな穴があるのをみつけておき、それで落し穴を作っておいたのである。そして組員が、そこに転落するや、石や土をめちゃくちゃに投げ込んで殺したのだった。
組員が死亡したのを確かめると、穴からあげて場所を移動させ、組員の服装を自分のと代えた。腕時計やタイピンなどは、死ぬのだからもういらないといって、あらかじめ組員に渡しておいた。そうしておいて、かくしておいたガソリンをかけて死体を焼いたのである。普通の場所でこれだけの火を燃やしたら、すぐに人がとんでくるが、火祭なので、火がいくら燃えてもやってこなかった。死体が、炭化するまで焼け落ちるのをみとどけると、その近くの石の下に、警察が捜査すればわかるように遺書を置いた。
こうしておけば、自殺と思われるか、自殺を装った他殺だと思われても、まさか、プロボクサーくずれの組員が反対に殺されたとは思われないだろうということで、彼の思惑はあたったのである。
サラ金の会社の方だって、少しおかしいと思っても、組員が死んだのでは保険金が入らないから黙っているというわけである。
彼は、これも、あらかじめ隠しておいたかつらと、口ひげ、サングラスで組員に似せ、山をおり、そのあとは、再び姿を変えて逃走した。
それから七年の間、彼は、北海道から沖縄まで転々として、今は大阪にいる。
ふっくらとした丸顔だった彼の顔は、生活の変化と共に変り、今は、頬《ほお》のそげた険しい顔になっている。
妻には、一度も連絡をとらなかった。
逃亡してすぐ女が出来、子供も生れて、子供は六歳になっていた。
山田一夫という名前は、電話帳をひろげて、なるべく目立たない名前をつけたのである。
「ねえ、あなた」
という声に、我にかえった杉江は、妻の方を見た。今度の妻の名は、由美である。テレビでは、鞍馬の火祭のニュースをやっている。杉江は、ぎょっとした。
「私も一度、鞍馬の火祭を見たいわ。ねえ、あなた、来年は、二十二日京都へ連れて行って」
東京生れのなにも知らない妻がそういうのをきき流して、杉江は、急いでトイレにかけ込んだ。しばらくして出てきた夫に、由美は、心配そうにきいた。
「どうしたの、急に?」
「うん、腹をこわしてしまって」
「まあ、大丈夫?」
娘のフキ子も、心配そうな顔で、彼をみあげている。
「大丈夫や。もう直った。花火でもしようか」
そういって、杉江は、フキ子の髪をなぜながら夜の原っぱへ出た。前の妻には子供がなかったので、杉江には、このフキ子が可愛くて仕方がなかった。
ある晩、杉江の機嫌のいいときを見はからって、由美が遠慮がちに切り出した。
「ねえ、あなた、フキ子のことだけど……。来年は小学校へ入るのよ。戸籍の方だめかしら?」
「うん。来年までにはなんとかするよ」
「お願いね」
戸籍の話をすると、夫が不機嫌になるのを知っている由美は、そう言ってビールをついだ。
死んだことになっている杉江には、戸籍はない。
〈なんとかして戸籍を作らなければならない〉
それが、ここ数年の彼の悩みだった。
由美には、戸籍の入らない理由を、妻をおいて蒸発したからだと思わせている。
「ねえ、失踪して七年経ったら、死亡したとみなされると今日テレビで言ってたわ。奥さんもあきらめて籍をぬいてるんじゃない? それとも、もっと早く別の人と結婚しているかも知れないわ。一度、戸籍をとってみたら? なんだったら、私がとってもいいけれど」
「…………」
「もし、そのままだとしても、奥さんだって七年も経っているんだから、正式に話にいけば、あきらめて離婚してくれるんじゃないかしら」
「わかった。一度ケリをつけに行くよ」
杉江は、そう言って横をむいた。
今となって考えると、どうせ蒸発するなら、何も、あの組員を殺したりせず逃げればよかったと思えてくる。
〈でも、俺《おれ》が死んだことになったからこそ、保険金がとれ、借金が返済できたので、誰も追って来ないが、ただ逃げたのだったら、残った妻への攻撃もすさまじくなるだろうし、俺自身も、みつけ出されて殺されているかも知れない〉
杉江は、隣の部屋で寝ているフキ子を眺めた。
現在フキ子は、由美の私生児ということになっている。
「駄目だったら、せめて認知して下さい。でないと子供が可哀そう……」
これだけ、しつこく由美が言うのも珍しかった。小学校入学がよほど気になっているらしい。
「わかった」
本当に妻を捨てて蒸発しているだけだったら、どんなにいいだろうにと、杉江は、秘《ひそ》かに涙を流した。
翌日から、杉江は、大阪市内の電話帳を開いて、山田一夫という名前の人物の住所を書き抜き、一人ずつ探していった。誰か戸籍を貸してくれるか、盗める人物はいないかと思ったのである。
二ケ月を費やしたが、適当な人物はみつからなかった。
独り者で、金で戸籍を貸してくれるような人物も見あたらなかったし、長年蒸発していて、戸籍を借りてもみつからないような人物も探せなかった。
釜ケ崎あたりにも出かけていって、それとなく物色したが、同じ名前の人物すらみつけることが出来なかった。
〈偽名を名乗るとき、何故もう少し考えなかったのか〉
と、悔やまれてならなかった。
〈名前に関係なく適当な人物を探し、妻には、山田一夫というのは偽名だったと言おうか〉
とも考えたが、妻にはともかく、子供にそういうことを言うわけにいかなかった。
やけになって競馬に通っていたある日、いつも馬券売場で会う一人の男の名前が、山田昭夫であることを知った。杉江は、これだ! と思った。
山田一夫ではないが、一字ぐらいはどうでもいい。由美には、本名を名乗って探し出されたくなかったので、少し変えていたということも出来る。
その男は、丁度同じ年で、顔はあまり似てなかったが、生れ月は同じ三月ということがわかった。杉江は三月十七日で、彼は、二十四日だという。
由美にきかれた場合は、戸籍上は、二十四日だが、本当に生れたのは十七日だといってごまかそうと考えた。
杉江は、彼と親しくなることにした。
幸い、共通の話題が競馬なので、最初少し儲《もう》かったとき、ビールをおごり、そのあと、儲からないときも、儲かったと言ってはビールを飲みに誘った。
何度目かに杉江は、大阪弁でさりげなくきいた。
「お前はどこの生れや?」
「四国の徳島県や。もう十年も帰ってへんけど」
「むこうにはおふくろさんか誰かいるのか?」
「もう誰もいてへん。家飛び出してきたときにはおふくろがいたけど、もう死んでしもうた。死んだのも知らんかったよって葬式にも行かへんかった」
「奥さんや子供は?」
「そんなものいてへん。女もちょいちょい出来たけど、今は誰もない」
「結婚したことは?」
「ないよ」
「これから結婚する気は?」
「こんな生活で結婚なんかできるかいな。あんたは?」
「かみさんも子もいるよ」
「ふーん。そらええな」
「国に帰ることはないのか?」
「まあ、一生帰らへんやろなァ」
杉江は、しめたと思い、無断で籍を使うことを決心した。現住所をこちらに移しておけば、なにがあっても通知はこちらにくる。
「えっ、本当? 本当に籍入れてくれたの?」
由美は、ある日突然、杉江から戸籍謄本をみせられて、信じられないように何度も「妻由美」と書かれたところを眺めた。
「うれしいわ……でも、これだとあなた一回も結婚してないじゃない? どういうこと」
「ああ、長いこと同棲していた女がいてね。籍を入れるというから、勝手にしろといっていたんだ。だから、当然、籍を入れていると思っていたんだが、今度とりよせてみたら入ってなかった。それで、ほっとして君の戸籍をとり寄せて入れたんだ」
「よかったわ」
名前が一字違うことについて、杉江は一夫は偽名だったというと、由美は素直に了承した。思ったとおり、正式に籍を入れてもらったうれしさで、細かいことは気にならないようすだった。
それからの数ケ月、杉江は幸せだった。
四月になって子供のフキ子が、小学校に入学し、ランドセルやノート、筆箱や鉛筆にまで、「やまだ」「やまだフキ子」と名前が書かれるようになると、杉江はすっかり、過去のことは忘れて山田昭夫になり切ってしまっていた。
しかし、一度だけ、自分がどうなっているのか気になって、妻の百合子の戸籍を調べてみたことがある。
前妻は、夫の死亡によって元の姓に戻り、二年たって、他の男と結婚していた。
〈俺は、完全にこの世から消失したんだ〉
少しは淋しかったが、やはり安心の方が大きかった。
そんなある日、本物の山田昭夫と街でばったりと会った。彼は、金まわりが悪いらしく、うらぶれた恰好《かつこう》で、顔色も冴えなかった。
「やあ」
と、むこうから声をかけられ、杉江は仕方なく立ち止まって作り笑いを浮かべた。
「久しぶりだな、元気か?」
「いや、ちょっと体を悪うしてしまってなあ。それに仕事先も倒産してしまったんで、どうしようもあらへんわ」
「そりゃ、大変やな。体てどこが悪いんや?」
「肺やねん。最近は咳《せき》が出て寝たりおきたりや。……すまんけど、少し金をかしてもらえへんやろか?」
そう言って彼は杉江の顔をじっとみた。
「俺も、子供が小学校に入ったりで、あまり余裕はないよ。でも少し位やったらな」
そういって、杉江は、財布から何枚かの札を出した。
籍を借りたのだから、礼の意味で少しぐらいなら金をやってもいいと考えたのだった。
「おおきに、助かるわ。近所の人がみかねて民生保護を受けたらというてくれはるんで、そのうち、手続きしようかと思てるんや。そいでも、住民票とったり、見てくれる肉親がないことを証明するために戸籍謄本とったりせんならんし面倒くさいよって一日のばしにしてるんやけど」
山田の何げない一言は、幸福の絶頂にいた杉江を不幸のどん底に突きおとした。
住民票や戸籍謄本をとられては大変なことになる。自分の籍が無断で借用され、妻や子供までいることになっているのを知ったら、山田がどんなに驚き怒るか知れなかった。
それだけならいいが、戸籍を返せとさわぎたて、訴えられたら、世間の注目をあつめ、山田昭夫を名乗っているのが、死んだはずの杉江であることはすぐにバレてしまう。そして、鞍馬山で人を殺してまで、自分の戸籍を抹消したことがわかってしまう。
「まあ、当分は、そんな手続きにとびまわるより、なにも考えずに静養したらどうだ」
杉江はあわてて言った。
「一、二ケ月寝ていればきっと直るよ。その間の生活費ぐらいだったら、なんとかするよ。直ったら又、競馬に行こうじゃないか、保護を受けたら、競馬なんか行けへんようになるで」
杉江は、熱心に喋った。
それでも心配で、そのあと何度か、山田の家をたずねた。
彼は、寝てはいなかったが、蒲団《ふとん》を敷きっぱなしにしてぶらぶらしていた。杉江は行くたびに、なにがしかの金を渡してやった。
金のある間は、民生の手続きもしたくないようだった。
「いつもすまんなあ。そやけど、なんで俺にこんなに親切にしてくれるんや。競馬場でおうただけやのに」
何度目かのときに、山田はそういって、不思議そうに杉江にきいた。
「お前に最初会ったとき、おやっと思ったんや。あんまり俺の弟に似ていたからや」
「弟というと?」
「一つ違いの弟がいて、十五年も前に、蒸発してしもたんや。それで、お前の名前をはじめきいたとき、俺は、弟やないかと思うたんや」
「そいで、いろいろなことを俺にきいたんかいな?」
「そうや。途中で違うことはわかったけど、やっぱり他人のような気ィがせえへんのや」
「それはありがたいなあ。たとえ、理由が何であれ、今は困ってるよって助けてェな、兄き」
二人の間は、杉江が、金を届けている間は、小康状態を保っていたが、杉江にもそうそう金がある筈はなかった。顔かたちをいくらか変えているとはいえ、日陰の身なので、そんなにいい勤め口があるはずはなく、いろいろな職業を転々としたあと、今は、ある小さな工場で働いている。給料もしれていて、その中から妻に内緒の金を捻出《ねんしゆつ》するのは、なみ大抵のことではなかった。とうとう一円の金も持って行けなくなって一週間過ぎたある日、むこうから電話がかかってきた。
杉江は、自分の家を教えなかったが、何かあったときのために、電話番号だけは知らせておいたのだ。
用件は、体を悪くして寝込んでいるから来てくれないかというものだった。訪ねて行くと、山田は寝床の中で寝ていて、青くむくんだ顔をあげた。
「すまんな兄き、一人で寝てると、不安で仕方がないんや。いろいろ相談にものってもらいたいと思て」
杉江は、イヤな予感がしたが逃げるわけにはいかなかった。
「近所に親切な人がいはって、入院するにしても、医療保護を受けたらええ、ただで入れるよってといわはるねん。それで、兄き、その手続きをやってもらえへんやろか」
「うん。それはいいよ。でも、その手続きをしても、すぐには入院でけへんやろ。少しは金もいるやろうし……」
「そうなんや。それで、俺、サラ金で、金を借りようと思うんや。兄きにばかり迷惑をかけられへんよって」
「サラ金? 定職ないのに借してくれるかなあ?」
「それで、兄きに保証人になって貰えへんかと思て。返すあてはあるねん。そのうち、民生保護もおりるやろし、直ったら、この近所の工場にやとってもらうように頼んである。大丈夫や。頼むわ」
「一体いくら借りるんや?」
「十万円や」
「十万円だけやったら保証人になったってもええわ」
仕方なく杉江は承知した。山田は、それをきくと、安心したのか、りんごが食べたいと言い出した。
「胃が痛いし、りんごしか入らへんのや。兄き、すまんけど、りんご買《こ》うてきてむいてくれへんか?」
「よし、わかった」
りんごぐらいだったら買う金はある。杉江は、りんごを買ってきてむいてやりながら、どうしたらいいか考えつづけた。
山田は、りんごをうまそうに食べおわると、少し元気が出たから、金を借りに一緒に行って欲しいと言った。
「とにかく千円の金もないのや。十万円あったら、入院せんと一ケ月ほど家で様子をみてみようと思うねん。家でいる方が気楽やさかいに」
杉江はうなずいて、一緒に金貸しの家に行った。
山田が、サラ金といったけど、それは、事務所をかまえたサラ金業者のようなものでなく、広い大きな家に住む年寄りが一人で小金を貸しているところだった。
出て来たのは、藤森俊平という七十歳くらいの老人だった。
藤森は、最初、担保にするものがないときいてしぶっていたが、杉江の勤め先に電話して、杉江が、三年間まじめに勤めていることをきき出すと、十万円の金を手文庫から出した。
「うちは、サラ金やなんかと違うて、利息は安い代りに、担保がいりますんや。でも、まあ、近所でもありますし、保証人さんが、堅いところに勤めてはるよって、今日だけ貸しますワ」
杉江は、相手が、過去に自分が渡りあった悪どいサラ金業者と違って、落語に出てくる大家《おおや》さん風の人物だったのに安心し、金額も十万円以上は貸しそうにないのを知ってほっとした。
これでしばらく彼もなんともいってこないだろうと思っていると、一週間たって、彼から電話がかかってきた。
それは、いつもの下手《したで》に出てくる調子ではなく、戸籍のことで話があるというものだった。杉江は、戸籍のことがバレたと直感した。
「これは一体どういうことやねん?」
本物の山田昭夫は、そういって、わしづかみにした戸籍謄本や住民票の写しを突き出して、杉江の顔を睨みつけた。顔は蒼白で、手がわなわなとふるえている。
「民生保護の手続きをするために、これをとり寄せたら、俺には、妻どころか子供まであるやないか。住所もいつの間にかこちらに移っている。一体誰がこんな悪質なことをしやがるんやろと思って、その家のところを調べたらあんたや」
「すまん。いや、すんまへん。申しわけない。これには深い事情があって……。実は、俺は、七年前に車に乗ったまま海へ落ちて死んだことになってんのや。車が落ちるのを見た人があって、死体が浮かへんことから、死んだことになっているのを新聞でよんで、丁度ええわと蒸発してしもたんやわ。責められてる借金もあったよってに。ところで、そのあと女ができて子供まで生れて、籍々とやかましい言われて、つい、知りおうたあんたの戸籍を借りてしもた。すまん。許してくれや」
杉江は、必死で山田にあやまった。
山田が黙ったのをみて、杉江はもう一息だと思った。
「なあ、許してくれ。俺ができることはなんでもする。金もないけど、一生かかって少しずつでも払うよってに」
しかし、山田が黙っていたのは、別の理由だった。
「あんたの名前は本当は何ちゅうねん?」
「……山……山田一夫や。それで、つい名前の同じあんたの籍を借りてしもたんや、悪かった」
「あんたは嘘つきや。……本当の名前は杉江光夫やろ」
「えっ」
今度は、杉江の顔から血がひいた。
「俺は、競馬場ではじめてあんたにおうたとき、どっかで見た顔やなあと思た。あとで気がついたのはこれや」
山田は、押入れをあけて、壁をみせた。
破れた壁に新聞紙がべたべた貼《は》ってある。その一枚の端の方に、鞍馬の火祭の日に焼身自殺した杉江の顔があった。
「気がついても俺は黙ってたんやで。人はみんな色んな事情があるんやと思てたんや。そやけど、こんなことをされたら、黙ってられへん、訴えてやる。あんたの代りに死んだ人は誰や。あんたが殺したんか?」
「ちがう。ちがう。俺は山田一夫や。杉江なんかと違う」
杉江は、必死で否定したが、山田は信じなかった。
「そんなら、警察に行こうか。警察で調べたら、あんたが誰かわかるやろ」
それから一時間、杉江は、山田をなだめた。最後に山田も、気が静まって、妥協案を出した。
「そんなら、一千万円|貰《もら》おうか。一週間の間に」
「一千万円?」
「嫌か? 俺は、これで好きな女が出来ても一生結婚でけへんのやで」
「いや、払う。払います。金があったら二千万でも払いたいところや。そやけど、せめて、五、六年間に分割して貰えへんやろか? 一週間に一千万は無理や」
「そんなら、俺は訴える。俺もこんなことしてたらあかんし、何かやりたいんや。丁度一千万あったらできる店があるんや」
結局、杉江は、一千万円を一週間目に払うことを約束させられた。
一週間の間、杉江は、金策に駆け廻った。二度と行くまいと思っていたサラ金業者も、十軒ほど廻ったが、一千万円という金は、とうとう出来なかった。手に入ったのは七十八万だけだった。それだって、毎月の返済を考えたら気が遠くなる話だった。
妻の由美にも問いただされ、杉江は、競馬でスッて、ヤクザに金を借りたので、返さないとどうなるかわからないんだと言った。
一千万という額は言わなかった。
一週間目、杉江は、七十八万の金を持って山田を訪ねた。なんとかこれだけ渡して、あとを待って貰おうと思ったのだった。
山田は、右手をけがしてホータイを巻き、ぼんやりと座っていた。机の上にはりんごが二個のっているだけだった。杉江が、七十八万を渡して、あとを待ってくれというと、山田は怒った。
「籍がないから民生もうけられへんし、昨日からめしも食べてへんのや。りんごをむこうと思ても、手、けがしてるよってむけへんし……」
杉江は、それをきくと、機嫌をとるためりんごをむいてやりながら、一千万が出来なければ、早晩自分は破滅すると感じた。
「とにかく、今晩、もう一軒借りられるところがあるので、待って貰えへんやろか」
杉江は、そういって、山田をなだめ、夜自分の家へ来るようにいった。
山田が、一千万円を主張してゆずらないので、殺すしかないと思ったのである。
妻と子は、妻の友達の家へ泊りにやった。
夜、九時に、山田がやって来た。彼は、金を貰ったら、東京へ行って仕事をするんやといって旅仕度をしていた。杉江は、しめたと思った。それなら、彼がいなくなっても、あやしむ人はないだろう。
杉江は、金を渡すふりをして、山田のうしろへ廻り、油断をみすまして首をしめて殺した。
痩せた山田は、「うっ」というような声をたてて簡単に死んだ。自分との関連がわかるものを彼が身につけてないか、念のため、衣服を調べたら、驚いたことに、山田は、お腹のサラシにぎっしりと一万円札を巻いていた。数えてみると七百万円ほどあった。
あんなに貧しい生活をしながら、彼は、金を貯《た》めていたらしい。
杉江は、その金を頂戴してから、山田の死体を、車に積んで捨てに行った。
車は、杉江の勤める会社のグラウンドに、夜おきっぱなしになっているライトバンの一台を借りることにした。
捨てる場所は、昼間考えておいた大阪湾である。人気《ひとけ》のない海岸まで運ぶと、ボートに乗せ、ブロックを四つつけて海に沈めた。
浮いてくる心配はないと思った。
翌日、杉江は、サラ金業者のところを廻り、金がいらなかったといって、利子をつけて返した。
それでも、手元に六百万の金がある。
妻と子が帰って来たとき、久しぶりに杉江は機嫌が良かった。
〈これで、世の中に山田昭夫は俺一人になった。彼には身寄りもなく、つき合っていた友人もなかったから、彼の行方《ゆくえ》を探すものはない〉
幸いなことに、死んだ彼は、本名を呼ばれず、仇名《あだな》で呼ばれていた。鼻が大きいので、ハナさんとか、ハナのおじちゃんという名だった。
翌日、杉江が会社で昼の弁当を食べているとき、来客があった。応接室に行ってみると、それは、二人の刑事だった。
「なんでしょうか?」
杉江は、標準語で心もち緊張してきいた。
死体があがったとは思われなかった。
「あなたが山田昭夫さんですか?」
「ええ」
「藤森という人を知ってますか?」
「藤森? あ、お金を貸す人ですね?」
それは、山田のために十万円を借りた金貸し老人の名だった。
〈あの老人が、夜、死体を運んでいるときの俺の姿をみたんだろうか?〉
「あの人が亡くなっているのが発見されましてね」
刑事は、杉江の顔をのぞき込むようにした。老衰だろうか。
「はあ? それは知りませんでした。いつですか?」
「死体がみつかったのは昨夜ですが、死亡は、その前の夜八時から九時の間と思われます。そのとき、あなたは何をしていましたか?」
その頃は、山田が来るのを待って、家で一人で落着かなかった頃だ。
「家にいました。……どうして私にきくんですか?」
「殺人事件だからです」
「えっ」
「金を貸していたらしいので、その方面のトラブルが動機だと思って、ノートを調べたのですが、あなた十万円を借りておられますね?」
ああ、そんなことかとほっとした。
刑事は、一通の借用証をみせた。
借主 山田昭夫
保証人 山田一夫
と、書いてある。
杉江は、僕は保証人で、金を借りたのは、あいつですよ、といいかけて、あわてて口をつぐんだ。
今は、自分が山田昭夫だ。書面で見る限り、自分が借りて、山田一夫という人物が保証人になっている。
杉江は、あわててうなずいた。
「ええ。十万円借りました。二、三日うちに返そうと思ってるんですが」
「あなたは、随分、お金に困っていたらしいですね?」
「えっ、どうして?」
「何軒ものサラ金業者にお金を貸してくれといってかけ廻っていたそうじゃありませんか?」
「ああ、あれは、もういいんです」
「どうしてですか? 何か急に大金が入ったんですか?」
「いいえ。あれは友達が困っていたからですよ。もう出来たといってきたので……」
「その友達というのは誰ですか?」
「それは言えません。友達の名誉がありますからね」
「でも、今日、奥さんにきいたら、あなた自身が競馬で負けてヤクザに金を借りたので、返せなかったら命があぶないといって蒼い顔をしていたそうじゃありませんか?」
「いや、それは……友達のことだといったら、女房がいい顔をしないので、自分のことのように言ったんですよ」
刑事たちは、じっと杉江の顔をみていたが、今日はこれで帰りますと言って、帰って行った。
杉江は、刑事が帰ると、あわてて、応接室の隅に行って、とじた新聞を持ってきた。
今朝、新聞は見たのだが、自分の殺した男の死体が海からあがらなかったか、そればかり注意していたのだった。
記事は、小さく出ていた。
金貸し老人殺される。
六日の夕方、住吉区粉浜東之町に住む谷道代さん(六〇)が、藤森俊平さん(七四)に、利子を払おうと家を訪ねたところ、表戸があいており、藤森さんが、奥の座敷で庖丁で刺されて死んでいるのがみつかった。
藤森さんは、普段から金を貸して生活しており、いつも手元においておいた六百万円あまりの金が紛失していることから、金を目あての犯行とみて調べている。尚、犯行時刻は、前夜の九時前後と思われる。
「あいつだ!」
杉江は、思わず呟《つぶや》いた。あの本物の山田昭夫が、金貸しのじいさんを殺したのだ。だから、彼は、こちらの渡した七十八万を入れた七百万もの金を持っていたのだ。
多分、こちらでは、金が出来ないと思って彼は、勝手を知ったじいさんのところに行き、殺して金を奪ったのだろう。
この前、十万円を借りに行ったのも、家の中を探る口実だったのかも知れない。
杉江は、急に背すじが寒くなってきた。
会社が終ると、今は山田昭夫と名のっている杉江は、急いで家に帰り、妻が台所にいるのをみすまして、金の隠してあるところへとんで行った。
金は、ビニール袋に入れ、洋服ダンスの上においた旅行かばんの中に隠してある。当分旅行の予定はない。ここにあれば、妻もみないし、次に旅行するまで大丈夫だと思ったのだ。金は、ちゃんとあった。これを、どこに移した方が、より安全だろうかと、あたりを見廻したとき、台所からこちらへくる妻の足音がした。
「あなた、ごはんですよ」
杉江は、あわてて金をもとの場所にしまいこむと、食事に行った。
「あなた、今日、刑事さんが来たのよ。なにか大がかりなトバクがあげられて、あなたがその被害者の一人らしいから、話をきかせてくれって。あなたがお金に困ってたこと話したわ。お金返してくれるのかしら」
「ばか、あれは、会社の友達が俺の名前使ったんや。もう終ったから関係ないわ」
杉江は、不機嫌に答えた。
その夜、寝床の中で、杉江は、六百万の金をどこにかくすか考えた。
土の中、天井、床下、タンス、新聞紙の中、会社のロッカー、どこにかくしても、ベテランの刑事にはみつかるような気がした。結局、二、三日は、今のままにしておくことにきめて、杉江はやっと眠りについた。
10
翌日の午後、再び刑事が会社にやってきた。
「こう、再々会社にやってこられると困るんですよ。何でしょうか?」
杉江は、応接室に入ると、不機嫌に言った。
「いや、多分、ここに寄せてもらうのは、今日が最後になると思います」
そう言って、刑事二人はニヤリと笑った。
そして、背の高い方の刑事が、突然、庖丁《ほうちよう》の写っている写真をみせた。
「藤森さんは、この庖丁で刺し殺されたんですが、この庖丁に見おぼえありませんか?」
「あるわけないでしょ」
そういって写真をとりあげたが、なんとなく見たような庖丁だった。
「ところが、これに、あなたの指紋がついているんですよ。いや、あなたの指紋だけついていたといったらいいのかな」
「それは……」
と、杉江は絶句した。それは、あの山田にりんごをむいてやった時の庖丁ではないか。彼は、杉江を犯人にしたてるため、りんごをむかせたのだろうか。彼の指紋がないということは、それを証明している。
「あなたは、この人が死ぬ前の日まで金の工面《くめん》に苦しんでいた。しかし、この人が殺された翌日には、十軒のサラ金業者に、利子までつけて七十八万円を返済している。それから、この人が殺された日は、あんたは、奥さんと子供を友人のところに泊りにやって、アリバイがない。あなたは、被害者に、十万円を借りに行って家の中の様子をよく知っていた。あんたが、金を返しに来たといえば、じいさんは戸をあけるに違いない。さあ、これでもあんたは犯人でないといいますか?」
「…………」
山田昭夫のことを言うことは出来なかった。
「六百万の金はどこへやったんです。家をみせて貰いましょうか?」
「僕は何もやってない。あの日は家にいた」
彼は叫んだ。
「それを証明できる人はありますか?」
証明できる山田は死んだ。彼を殺さなければ、彼の犯行をあばくことも出来たのに。
しかし、そのとき、彼は、鞍馬の火祭の殺人を刑事に言うだろう。やっぱり、彼は殺してよかったのだ。
杉江は、刑事の車に乗って家の方に向いながら、どうしたらよいかめまぐるしく考え続けた。
車が家の前に着いたとき、家の玄関に、隣の奥さんが子供と一緒に立っていた。妻が奥に入ったのを待っているらしかった。
杉江たちが車から降りて玄関に達したとき、由美が駆け出して来た。
「あら、あなた。今、お隣の奥さんが、旅行に行くから、かばんを貸してとおっしゃるの。これ貸してもいいかしら?」
由美は、あのかばんを手に持っている。
「あっ、駄目だ! それは!」
杉江がかけよるより早く、由美は、かばんのファスナーをあけて中のビニール袋をつまみ出した。
「あら、あなた、これ何かしら?」
なぜにあなたは京都で死ぬの?
「まだかァ?」
若杉警部は、店のタタキに置かれた陶製の椅子《いす》に腰を掛けて待ちながら、妹の静子に声をかけた。容疑者に対する時とは全く違う優しい口調だ。
清水焼《きよみずやき》の抹茶茶碗《まつちやぢやわん》を手にとって選んでいた静子は、
「まだやわ。もうちょっと待ってェ」
と、甘えた声を出して、選び続ける。
やっと、今年の勅題の、『海』にちなんだクリーム色の地に金と藍《あい》色で波形の模様が描かれた茶碗を見つけて、
「あ、これ、これにするわ」
といって、店員をよんだ。
外へ出ると、京都の五条坂は、観光客で一杯だった。初夏の陽がまぶしく照りつけてくる。
「次はどこだ?」
「着物が縫い上っているのを貰《もら》いに行くのと、帯を一本見て欲しいの」
「帯かァ、高いんやろなあ、給料袋がからっぽになるな」
言いながら、若杉は嬉しそうである。
妹が、五月末に結婚するので、事件明けで手のあいた午後を、丸半日、買物のつきあいをしているのである。
両親は早く死んで、ずっと兄妹二人っきりで生活してきたので、妹が嫁《い》ってしまうと思うと、一抹《いちまつ》の淋しさを感じる。
若杉には恋人もいないし、普段は事件を追いかけていて、女とは縁のない方なので、若い娘の買物など、ただ珍しいばかりだ。帯だとか、着物、アクセサリー類もそうだが、一番わからないのは、お茶の道具だ。
京都の家では、客に抹茶を出すことも多いので、静子の方は、一通り習っていて免状も持っているのだが、若杉は、これが苦手で、いつも、お茶の出そうな気配になると、逃げ出すことにしている。
しかし、結婚相手の母親が、お茶の先生なので、静子も、嫁入りに、ちょっとましなお茶の道具を持って行きたいというので、こうして今日は、つきあっているわけだ。
一通りの買物をすませて、二人が家に帰ってきたのは、夜の七時だった。
「疲れたな」
「そう? 私は、ちっとも疲れへんけど」
「あたりまえや、俺《おれ》だって自分の結婚式やったら、どんな忙しいても疲れへんわ。それにしても、腹へったなあ。何か食べてきたらよかった……」
「今すぐに作るよって、待って頂戴。兄さんの食事するのも、もうちょっとの間やもん」
静子が作ったすきやきを食べ、二人は、明日の予定を話しながら、寝床に入った。明日の日曜日は、二人揃って婚約者の家を訪ね、式の打合わせや、引出物の相談をすることになっているのだ。
しかし、翌朝、二人は、電話のベルで、叩《たた》き起こされた。電話してきたのは、京都府警捜査一課の森下一課長で、殺人事件が発生したので、すぐ来るようにという召集だった。
「ついてないなあ、こんなときに。悪いな」
といいながらも、若杉は、はりきって出かけて行った。
京都駅の東口の建物は、数年後に、ここから烏丸《からすま》線の地下鉄がつくために、今、取りこわして建てかえ中である。
その建設工事の現場監督である金本と二人の作業員は、朝の八時に出勤して来て、現場の隅にとまっている一台のカローラを見つけた。
なにげなく近寄って中をのぞくと、車の中には、三十すぎの女が、苦悶《くもん》の表情をうかべて倒れており、座席には、抹茶茶碗が一つ、ころがっていた。車は、ロックされていて開かない。
一目で、異常な状態だと気づいた金本が、建築現場に転がっていた鉄パイプを持って来てガラス窓を叩き割り、女を引っぱり出したが、すでに死亡していた。
死んでいることがわかって、あらためて、死体の顔を見た金本は、思わず大声を出した。
「おっ! これは、ようテレビに出てる檜美智子いう人やないか」
「そうや、テレビの討論会や身上相談なんかにいつも出てる評論家の檜美智子や」
死んでいるのが有名人だとわかったので、金本は、110番したときも、大げさな言い方をした。
「京都駅前にとめた車の中で、檜美智子が殺されてる!」
実際には、その時点では、自殺か他殺かわからなかったのだが、死んだのが有名人であり、第一報が殺人事件というので、すぐに、所轄署のパトカーが出動し、府警本部からは、捜査一課長以下の捜査官が、現場に急行した。
若杉警部が駆けつけた時、死体のまわりには、森下一課長と検視官、鑑識官などが集って検死が行われているところだった。
かがみこんで調べていた検視官が、手をはらいながら立ち上ると、森下一課長に言った。
「青酸性毒物による中毒死です。死斑が鮮紅色ですから、青酸性化合物でなくて、青酸カリか青酸ソーダでしょう。多分、この抹茶の中に入れて飲んだのだと思われます」
「それで、死亡推定時刻は?」
「今から、約十五、六時間程前ですね」
「ということは、大体、昨夜の五時か六時頃だな」
「そうです。車の中は、クーラーもヒーターもかかっていませんので、夜分の温度は、大体、十二、三度と考えて、死後硬直が、はじまったのが、顎《あご》関節で死後一、二時間、上肢で、五、六時間、下肢で、六、七時間後と考えますと、死後十二時間から十五時間位が、一番硬直の度合が強い筈《はず》ですが、今は、その一番強い硬直の状態ですので、死亡時刻は、昨日の午後五時から六時と考えます」
森下一課長は、死体の発見者である工事現場の監督をよんできいた。
「昨日は、何時頃仕事を終ったんですか?」
「夕方五時です」
「その時、この車は、この場所にありましたか?」
「あらへんかったなあ。後片付けをして帰ったんが、五時過ぎやけど、その時までは、なかったなあ」
現場は、大きな建設機械がカバーをかけておかれているところの横で、工事関係以外の人は立ちよらず、一般の人の気づかぬ死角になっていた。そのため、何時に、この車が、ここに停ったかということは、結局、はっきりしなかった。
次に、一課長は、車のフロアーに落ちていた茶碗をとり上げた。抹茶を入れて熱湯をそそぎ、茶筅《ちやせん》で泡立てて飲むおうすの茶碗である。
「清水焼ですね」
若杉警部が口をはさんだ。昨日、妹と一緒に、いやというほど見て歩いた清水焼である。
茶碗には、抹茶を溶かした緑色の液が残っており、シートには、抹茶のグリーンの粉の入った小さな缶と、竹製の茶筅がおちていた。
いかにも、ここで茶をたてて飲んだといわんばかりである。
車の中の彼女の所持品があらためられた。
「スーツケース一つとハンドバッグ、それに、茶の道具、シートにちらかっている包装紙、大体、これだけが、彼女の持ちもののようですね。車は、彼女のものでしょうか?」
若杉警部が、それらの品物を、地面の上に広げられた白布の上に並べながら、一課長に言った。
「東京ナンバーだな……」
と、一課長は、ナンバーを睨《にら》んでから、
「車検証がないかみてみろ」
といった。車検証は、ドアポケットから簡単にみつかった。
「あ、本人の車です。約一年前に取得しています……じゃ、東京から乗って来たんでしょうか?」
言いながら、若杉がハンドバッグをあけると、免許証もちゃんと入っていた。
ハンドバッグの中には、財布、コンパクト、口紅、鍵《かぎ》、万年筆の外に、大型の封筒に入った、九万円の金があった。
「御礼と書かれた下に、伏見の酒造会社の社名が刷ってありますね。講演か何かで京都にやってきたんでしょうか?」
警部は、部下の刑事に、その酒造会社に電話して、彼女のことをきくように命じた。
一方、旅行|鞄《かばん》の方を調べていた森下一課長は、身のまわり品と一緒に入っていた一冊の週刊誌をペラペラと繰っていたが、「おやっ」と言って、途中で手を止めた。
「ここに、おもしろいことが出てるぞ。……有名人二十人にアンケートした記事なんだが、『あなたは、あと五分で死ぬとわかったとき、何をすると思いますか』という問に対して、この檜美智子は、『お茶を一服|点《た》てて、静かに飲んで死にたい』といっているんだ。キザで、イヤな感じだが、その通りになったな」
「自殺だとしたら、その通りやったわけで、中々根性がありますが、他殺だとしたら、他人が、この記事を利用して、自殺と思わせようとしているということになりますね」
酒造会社へ電話しに行っていた刑事が報告に来た。
「檜美智子は、一昨日、自分で車を運転して京都に来て、午後の五時から六時まで市民会館で講演し、その夜は主催者側でとった、新・京都ホテルに泊って、昨日の朝十一時にチェックアウトしています。このあとは、プライベートなスケジュールなので、何をしていたのかわからないそうです。それから、講演料は、十万円だったそうですが、税金の一万円を引いた九万円渡したそうです」
その時、人ごみをわけて、現場の近くの京都駅前市駐車場の管理人が、警部たちのところへやって来て言った。
「この車は、昨日の昼すぎ、檜さんが運転してうちの駐車場へ入ってきましたよ。約四十分位で、また出て行きましたが」
警部が、車の中にあった包装紙に目をとめた。
藤色と紺のストライプの包装紙をとり上げてみると、『京都観光デパート』と書いてあった。京都観光デパートというのは、現場からみえる京都駅の二階にあるデパートである。
包装紙の大きさや、包んだ形に線のついている折れ具合を調べていた若杉が、
「この包装紙は、茶碗を入れた箱と、抹茶のカンを包んであったもののようです」
と一課長に言った。
「じゃ、この茶碗と抹茶と茶筅は、昼すぎに駅前駐車場に車を入れたとき観光デパートで買ったものだな」
一課長が、顎《あご》をしゃくったので、そばにいた刑事二人が、茶碗や茶筅などをもって、観光デパートに走っていった。
観光デパートに、茶を売っている店は、二、三軒あったが、茶碗とか茶筅などの、茶道具も売っているのは、そのうちの一軒だけだった。
どこかへ発送するらしい十個ほどの茶碗を一つずつ箱に入れて包装している女店員に、杉刑事が、車の中にあった茶碗をみせると、店員は、あっさりと、それは、うちで売ったものですと言った。みると、茶碗を入れている箱の模様も同じだったし、似たような柄の茶碗がいくつか並んでいる。ここで買ったことは間違いないようだ。
「この茶碗を売ったのを覚えてますか?」
刑事がきくと、女店員は、茶碗の柄をみてから、
「昨日の昼の一時頃、女の人に売った分だと思います。この柄が気に入ったので、友達にあげたいから、同じ柄のが、もう一つないかと言われましたが、柄は、一つ一つちがって同じのはないのだと言いましたら、じゃ、これだけ下さいと言われました」
「その女の人というのは、テレビによく出ている檜美智子じゃなかったですか?」
「ああ、やっぱり。あとで、この人が、そうじゃないかといっていました」
女店員二人は、顔を見合わせてうなずいた。
「抹茶の入った小さな缶と茶筅も買ったでしょう?」
「いいえ」
女店員たちは、不思議そうな顔をした。
刑事が、抹茶が入った缶をみせると、
「ああ、これは、むこうの店のやわ」
と、二人が同時にいった。むこうというのは、同じ観光デパートの中の、もう一軒の茶店だった。
「なぜ、ここで買わなかったのだろう。こちらに、適当なのがなかったのかな」
「いいえ、同じ大きさの同じ値段のがありますよ。でも、お客さんは、このお茶碗は、のしをつけて進物につつんでくれと言われましたから、お茶碗だけあげるつもりで、お茶はいらないと思わはったんじゃないでしょうか」
丸顔の方の女店員がこたえた。
〈あとから、やっぱり茶もいると思って、茶も買ったのだろうか?〉
「茶筅は?」
「茶筅は、うちの店しかおいてないんですけど、うちのと違うわ。どこかよそで買わはったんとちがいますか。市内にも専門店があるし、駅前の二つのデパートでも売ってるし」
刑事は、檜美智子が抹茶の缶を買った店へもまわってみたが、そこでは、自分のところで売った抹茶だというだけで、誰にいつ売ったかは覚えてなかった。
現場へ戻って、若杉警部に茶碗と抹茶の缶を返し、報告をすませたあと、茶筅だけ持って再び刑事は、近くのデパートへききこみに行った。
しかし、約二十分してかえってくると、
「二つのデパートとも、この茶筅は扱っておりません。どうやら、この茶筅は関東製のものらしいです」
と、報告した。
「関東製の茶筅も扱っている、京都市内のどこかの店で買ったか、檜美智子が、東京から持って来ていたか、どちらかですね」
若杉が言った。
「茶筅を車に入れて持って歩くぐらい茶が好きだったら、茶碗や抹茶や茶杓《ちやしやく》なども、普段使いなれているのを持って歩くと思いますがねえ」
と、おとなしい杉刑事が、珍しく意見を言った。
「とにかく、この段階では、自殺とも他殺とも言えん。自分の車の中で、自分が買った茶碗で死んでいるのだからな。自分の意志で飲んだか、他人に飲まされたかというのは、今後調べてみないとわからない」
森下一課長は、集って来た新聞記者の前でそう発表した。
「檜美智子、京都で自殺!」
「自殺か? 他殺か? 檜美智子京都に死す」
檜美智子の死は、生前、マスコミに派手な話題を提供していた人物だけに、華々しく報道された。従って、自殺か他殺かという一般の人の関心は強く、記者たちの京都府警本部への追及も激しかった。
府警本部では、東京の警視庁と連絡をとって、檜美智子の自殺又は他殺の動機となるような身辺の調査をすることになった。
一方、府警自身では、観光デパートで、茶碗と抹茶の買物をしたあと、死亡推定時刻の午後六時前後までの美智子の行動を捜査していた。
しかし、どういうわけか、午後一時以後の約五時間、美智子の行動は、ばたりと絶え、手がかりが掴《つか》めなかった。
捜査一課の刑事の中には、その間、男と会って、どこかのモーテルにでも入っていたのではないかというものもあったが、解剖の結果、檜美智子の体には、男の体液はなく、モーテルや駐車場をあたっても、その番号の車が入っていた場所はなかった。
別の刑事から京都近辺の奈良《なら》とか滋賀《しが》県、大阪、神戸などの観光に行っていたのではないかという説が出たので、近県の観光地に、照会したが、彼女又は彼女の車をみかけたものはなかった。
若杉警部は、彼女が、茶筅を買った店を見つければ、その前後の彼女の足どりがわかると思い、部下を何人か使って、市内や府下のデパートや茶道具を売っている店にあたらせたが、死体のそばにあった茶筅を売った店はなかった。
大体、京都では、東京製の茶筅を扱っている店は、殆《ほと》んどなく、たまに扱っている店でも、それと同じ種類の茶筅は扱ってないということだった。
結局、その茶筅は、どちらにしろ、東京方面で買われたのだろうということになった。
地元では、何の手がかりもつかめぬままに、若杉は、捜査一課長に命令されて、部下の杉刑事と一緒に、東京に出張していった。
檜美智子のマンションを調べるためである。
檜美智子の住居は、港区赤坂にあるシャレた城のようなマンションの十一階にあった。
4LDKのその部屋は、一人住まいの女性評論家の住居らしく、豪華で美しく飾られていた。
十五畳ほどの洋室には、天井までの高さの本箱に、海外の書籍の原書版や、本人の著書、著者から贈られたサイン入りの献本が並べられており、毛足の長い絨氈《じゆうたん》の上のソファにはシャム猫が一匹ねそべっていた。窓ぎわには、カナリヤや、文鳥の鳥籠がぶらさがり、この部屋の主人が死んでしまったとは思えない、平和な部屋のたたずまいである。
彼女の著書の中には、猫に関するエッセイ集もあった。若杉がひき出してページを繰ってみると、留守中のペットの処置についての項があった。
私は、今まで、海外旅外に行ったことがない。理由は、長い期間、留守にすると、ペットが可哀そうだからである。家畜病院に預けたらいいと、友人は言うのだけど、ためしに、二日間の講演旅行のときに、猫を抱えて病院に行ったが、一つの部屋の中に、幾つもの檻《おり》があって、猫や犬が入れられていて、キャン、キャン喧《やか》ましく鳴き騒いでいる。うちの猫は、怯《おび》えて私にしがみついた。
お宅のは、ここに入れて下さいと言われた檻の隣には、大きな秋田犬が入っていて、時々、檻から首を出して、大きな声で吠え、むかいの檻には、病気なのか、死んだようにぐったりした猫がおり、その隣には、皮膚病のようなきたならしい犬がいて、とても、おいて帰れるような状態ではなかった。
結局、預けずに帰って来て、その時は、餌と水をたっぷりおいて、部屋に放し飼いにした。
友人は、探せば、一つのペットに、一部屋をあてがっている大家畜病院もあるはずだと言うが、犬ならともかく、猫は、昔から、家に居つくと言われているように、普段の生活のままを好む動物なので、いくら、至れり、尽くせりに、一室をあてがって貰っても、知らない部屋、知らない人の世話では、捨てられたのかと思ってショックを覚えるだろう。
それ以後、私は、旅行の限度は、一泊二日でも、二泊三日でも、実質的には、丸二日とし、餌とミルクを与えて、放し飼いにするようにしている。
その点、小鳥の方は、随分、楽で、私は、カナリヤや、手のり文鳥を飼っているが、籠の中に、餌と水をたっぷりやっておけば……
警部は、本から目を放して、ペットたちを眺めた。猫は、ペチャ、ペチャと音をたてて、ミルクを飲んでいたし、カナリヤや、手のり文鳥は、菜っぱをついばんだり、水浴びをしていた。
この本にも書いてあるように、たった二日や三日の旅行でも、ペットの事を心配していたこの部屋の主は、死ぬとき、ペットたちのことを考えただろうかと、警部は考えた。
彼は、次に、奥の四畳半の和室のふすまを開けた。
その部屋は、茶室らしく、真中に、炉が切られ、鉄瓶《てつびん》がかかり、水屋がおかれていた。
水屋には、茶碗、棗《なつめ》、水指、茶杓、茶巾《ちやきん》、などが整然とおかれ、茶筅もあった。
また、懐紙、扇子《せんす》、楊子《ようじ》、袱紗《ふくさ》ばさみ、袱紗など、茶席にもっていく小物なども、別にしまいこまれていた。
限られたマンションの部屋に、こんな茶室までつくっているのを見て、やはり、彼女は、最後に愛用の茶筅で、茶を点《た》てて飲み、自殺したのかも知れないと、警部は思いかけた。
しかし、ふと、彼は、ある疑問に突きあたって、難しい顔になった。
〈それにしても、茶を点《た》てるための湯は、どうしたのだろう?〉
抹茶を点てるためには、鉄瓶で、ぐらぐら煮えたった熱湯がいると、妹にきいている。
少しでも、湯がぬるいと、茶筅で泡だてても、うまく泡が立たないらしい。そんな、熱い湯が、駅前のどこにあったのだろう。
〈それに、茶を点てるには、かかせない道具の茶杓も、現場にはなかったではないか〉
〈茶筅だって、愛用の茶筅を持ち歩いていたのかと思ったが、今、考えると、竹の色も白く、はじめて使ったらしい、新しいものだった〉
〈この茶室には、仁清《にんせい》とか、志野《しの》とか、萩などらしい、みるからに高価な茶碗がならんでいるのに、なぜ、京都駅で、行きずりに買った三、四千円の茶碗で、最後の茶を点てたのだろう。どうせ死ぬのなら、この茶室で、ゆっくりと、鉄瓶で湯を滾《たぎ》らせ、整った茶道具を使って、茶を点てるはずではないか〉
など、疑問は、あとから、あとから出てくる。
とにかく、彼女のように、派手な存在の、虚栄《みえ》の強い女が、最後に茶を点てて、カッコよく死ぬというのに、行きずりに買った茶碗に、茶杓もなしに、茶を入れ、水を注いで、茶を点てるというのは、いかにも安っぽく不自然な感じだ。
〈これは、他殺にちがいない〉
若杉警部は、長年の経験から、そう感じた。
それから三日間、若杉警部は、東京にとどまって、檜美智子の身辺のききこみに熱中した。彼女のマンションにも、毎日通った。ついでに、ペットの世話もした。
彼女の部屋の、カギのかかった引出しから持ち帰ったメモや、日記がわりのノートなどを読み、彼女と交際のあった人たちや、テレビ局などに、きき込みに廻った。
その結果、彼女は、来月から、テレビの「レディス二時」の女性司会者に決定しており、張りきっていた矢先で自殺するような様子は、全然みられなかったということだった。
そして、もし、他殺だとすれば、犯人として、二人の人間に、動機があることがわかった。
石田 洋子 三十三歳
藤沢 五郎 四十七歳
の二人である。
石田洋子は、弁護士であり、エッセイストであり、テレビにもよく出ていて、あらゆる意味で、檜美智子のライバルといえた。
今回の「レディス二時」の女性司会者には、発表まぎわまで、ある有名女優と、石田洋子の名前があがっていたのだが、どういうわけか、発表寸前になって、檜美智子に変更されたのである。
石田洋子が、おさまらない気持なのは、当然だが、彼女の動機は、それだけではない。
洋子の兄は、石田謙一といって、純文学の作家だったが、彼は、檜美智子の別れた夫だったのである。二人が夫婦の頃は、美智子と洋子は、同じ大学を出たこともあって、非常に仲が良かった。
だが、数年前に、夫婦が離婚し、そのあと、石田謙一が自殺してから、女性二人の間は、険悪になった。
石田の自殺は、文学上の行きづまりだということになっているが、妹の洋子は、美智子が売れない兄にあいそをつかして、強引に離婚を迫り、別れてしまったためと考え、敵意を丸出しにするようになった。
その頃から、二人が、同じように、マスコミの世界で売れてきたこともあって、ライバル意識は、大変なものだった。
最近では、テレビ局でも、二人が、局で、顔を合わさないように、気を使っていたほどである。
一方、藤沢五郎は、流行作家で、現在の美智子の恋人である。
しかし、藤沢五郎には、妻子がある上に、今回、参議院全国区に立候補することになり、美智子の存在が、邪魔になっているという事情がある。
これだけのことを知ると、若杉警部は、早速、二人に会ってみることにした。
先に会ったのは、藤沢五郎の方である。
赤坂の近代的なビルにある事務所で会った藤沢は、選挙前のためもあって、とても、愛想がよかった。
檜美智子の事件で調べに来ているとわかっても笑顔を崩さず、
「あ、檜君は、気の毒なことでしたね。僕の一番いいガールフレンドだったのに」
と、いった。
「ガールフレンドですか? そんなのじゃなくて、あなたとは、深い関係だといううわさですが……」
と、若杉が、切り込んでも、
「そんな仲じゃありませんよ。僕と彼女との関係は、もっと、フランクなもので、テレビのニュースショーで、『あなたの女友達』というコーナーがあるでしょう? 僕が、あれに呼ばれたら、一番先に、彼女に来て貰おうと思うような、交際《つきあい》だったんですよ」
と、一向にひるまない。
「私が、きいたところでは、檜さんのことで、あなたと、奥さんの間で、随分|揉《も》めていたということだし、今回、選挙に出られるときいて、中ピ連あたりが、まっ先に、槍玉《やりだま》にあげるだろうと書いた週刊誌もありましたね。彼女との関係は、相当、負担になってたんじゃありませんか?」
京都に住んでいる若杉としては、そう何回も、東京には来れないだろうし、来たとしても、選挙で忙しい藤沢をつかまえるのも大変だと思うので、この際、少しつっこんで、きいておこうという気があった。
「彼女とのことで、家内と揉めたなんてことは、一回もありませんよ。今回の選挙だって、彼女に、応援演説をしてもらおうと、家内と話してたくらいですからね。……どうして、日本では、男と女の友情というのを認めないんですかねえ」
藤沢は、ため息をついてから、
「彼女と私が、おかしいなんて言うのは、きっと、私を、当選させないでおこうという人たちの逆宣伝だと思いますよ」
と、つけ加えた。
「でも、檜美智子さんが遺《のこ》した手帳には、あなたのことが、相当詳しく書かれていましたよ」
「そんな……彼女は、そんな、はしたないことを書くような人じゃないと思いますね。警部さんが、カマをかけているんでしょう? 本当なんだったら、それを見せて下さい」
藤沢は、さすがに、少し心配そうな顔になって言った。
「じゃ、質問を変えましょう。あなたは、先週の土曜日の午後五時からあと、どこにおられましたか?」
「こんどは、アリバイですか? 先週の土曜日ですね。ちょっと待って下さいよ」
藤沢は、手帳を出して調べていたが、
「その日は、五時に、『ホテル・東京』のロビーで、K社の編集者中村君と会い、地下で、食事をして、そのあと、銀座のクラブ『S』で、八時半ぐらいまで飲んで別れました。『S』では、同じ作家の佐田悠や小村一彦と会いましたから、きいてみてもいいですよ」
「じゃ、その頃、東京におられたわけですか?」
若杉は、がっかりしながら言った。
「そうですよ。檜美智子は、その時間に、京都で死んでいたんでしょ? その時、東京にいて人と会っていた僕が、彼女を殺せる筈がありませんよ」
「銀座のクラブを出られたのは、八時半頃だったんですか?」
「佐田さんが、テレビで九時からの洋画をみるんだと言って、一緒に出ましたから、間違いありません」
東京から京都へいく最終の新幹線が、八時二十四分だから、それに乗れたとしても、京都に着くのは十一時十七分だ。たとえ少し死亡時刻がおくれたとしても、十一時十七分では間にあわない。まして、銀座のクラブを八時半に出たのでは、それにも乗れないから、アリバイは、完全ということになる。
「彼女が、最後に、抹茶を飲んで死んだことは、ご存知ですね?」
「ええ」
「失礼ですが、あなたは、お茶を、おやりになりますか?」
「お茶と言うと、茶道ですか? いいえ、やりません。私は、専《もつぱ》ら、コーヒーです」
若杉は、礼を言って、彼の事務所を辞した。そして、その足で、K社の編集者中村と、作家の佐田悠、小村一彦、そして、銀座のクラブ『S』のマダムをあたったが、藤沢五郎の言うことは、すべて本当だということが、裏づけされた。
石田洋子は、テレビ局にいた。
丁度、一つの番組の出演が終り、これから帰るところだと言うので、若杉は、テレビ局の近くの喫茶店に彼女を誘った。
「どうしたの? 京都の警部さんが来るなんて。彼女、自殺じゃないの?」
若杉が、切り出すより早く、洋子は、単刀直入に切りこんできた。
「はあ、自殺にしては、少しおかしいところが出て来たので、調べているんですが……」
「私には、動機がある、そうでしょ?」
「お兄さんのことやなんかで、仲が悪かったそうですね?」
「それもあるけど、今度の司会者のことが、もっと大きな動機だというんでしょう」
さすが司会者でもやろうというだけに、頭の回転は早い。
「あなたと、女優の朝岡さんのどちらかになりそうだったのに、急に、檜さんに変更になったそうですね?」
「そして、彼女が死んで、私と朝岡さんで、司会を受け持つようになったのだから、疑われても当然ね」
「あ、そういう風にきまったんですか?」
若杉は、本当に知らなかったので、驚いた。
「そうよ。さっき発表があったのよ。それで、とんでいらしたのかと思ったけど、知らなかったの?」
「二人で受け持つというと?」
「月水金が朝岡さんで、私が、火木担当なの。当分、そのスタイルでいって、どっちが好評か見るんじゃないかしら。でも、言っときますが、たかが、司会者になりたいぐらいのことで、人を殺しませんわよ。じゃ、もういい?」
洋子は、それだけ言うと、コーヒーを飲み終ったこともあって、席を立とうとした。
「ちょっと待って下さい。念のためにおききしたいんですが、あなたは、先週の土曜日の夕方、五時以後どこにおられました?」
今まで、男っぽくあっさりと話していた洋子が、急に、ヒステリックに叫んだ。
「京都に行っていたのよ。仕事でなく遊びで。その時間には、京都の街をぶらぶらと歩いて、円山《まるやま》公園の方に行ったと思うわ」
「何時《いつ》、こちらに帰ってこられたんですか?」
「翌日の午前十時四十一分のひかりに乗ったから、こちらについたのは、一時半頃かしら」
「京都をたたれるとき、京都駅で、檜美智子さんの死体が発見されたことを、きかれませんでしたか?」
「知りませんでした。京都駅といっても、彼女が死んでいたのは、タワーデパートなどのある表の方で、私が、ホテルからタクシーでおりたのは、新幹線の入口のある八条口だから、全然、知らなかったわ。きいたのは、東京駅について、テレビ局の人に電話した時よ」
洋子は、ちょっと落着いたらしく、座り直して、コップの水を飲んだ。
「ついでにおききしますが、あなたは、茶道にお詳しいですか?」
「詳しいかどうか知らないけど、お茶が好きなことは事実よ。うちのお茶会には、女優のYさんや、今、マスコミでよく話題になる、T社会長夫人のOさんなどもみえるわ」
石田女史の口から、次々と有名人の名前が、とび出した。最初、話しはじめた時には、あっさりした性格で、頭の回転も早い女性だと好感を持っていた警部も、次第に、イヤな感じになってきた。
「じゃ、勿論《もちろん》、茶室もあり、立派な道具なども揃《そろ》えておられるわけですね。実は、さきほど、檜さんのお宅に伺ったのですが、立派な茶室があってびっくりしました」
警部が、挑発すると、果して、女史はのってきた。
「よろしかったら、これから、うちにいらっしゃいよ。茶室をお見せするわ。檜さんが、お茶に趣味を持つようになったのも、もとは、うちの兄が、お茶が好きだったからなの」
兄のことを言うときだけは、気丈で明るい女史の声もしめった。よほど、兄を愛していたのだろう。
彼女の家は、杉並区浜田山の、閑静な住宅地にあった。檜美智子のように、マンションではなく、庭木に囲まれた広い屋敷だった。
茶室への庭である露地などの趣きも、こったもので、常磐木《ときわぎ》が植わり、苔《こけ》の生えた飛石が、自然な形で配置されている。
竹のしおり戸の中門をくぐると、石灯籠や蹲踞《つくばい》が、落着いた感じで据えられていた。
茶室自体も、檜美智子のマンションの一室にこしらえてあったものとは、雲泥の相違であることが、茶道に趣味のない若杉警部にも、はっきりとわかった。
結局、茶室で、警部は、茶を一服ご馳走になり茶筅のいくつかを借りて帰った。
檜美智子のマンションで、若杉警部は、檜自身の茶筅、石田洋子から借りて来た茶筅、そして、京都の現場にあった茶筅の写真を見比べていたが、もともと、こういうことに、詳しくない警部には、何もわからなかった。
仕方なく彼は、壁ぎわにおかれたサイドテーブルの上に、茶筅を並べて、一つ一つの写真をとった。専門家にきくのは勿論だが、京都に帰ったら、妹にも、この写真を見せてみようと思ったのである。
何回かストロボを光らせながら、写真をとったあと、警部は、椅子に腰かけてぼんやりしていた。京都に帰る時間は、切迫していたが、何もつかめていない。わかったのは、動機のある二人の人物のアリバイだけであった。
藤沢五郎には、その時間帯に、東京で、しっかりとしたアリバイがある。もし、彼が、犯人だとしたら、この謎《なぞ》を解かなければならない。
石田洋子の方は、その時間帯にアリバイがなく、京都へ行っていたという。しかし、これだけでは、彼女を犯人とするわけにはいかない。彼女が、死亡時刻近くに、京都で檜美智子と会ったことが証明されなければならない。
若杉は、窓の外の鳥籠で、カナリヤが餌をついばんでいるのをみながら、考え続けた。
とにかく、午後一時に、京都駅の観光デパートを出てから、午後六時前後までの時間を、彼女が、どうしていたかが解《と》ければ、自殺なのか、他殺なのか、他殺だとすれば、犯人が誰かということもわかるのだがと、若杉は、ため息をついた。
いよいよ時間になった。
彼は、京都に帰ることにして、部屋を見廻した。ペットに別れを告げるためだった。
猫がいない!
いつも、ソファに寝そべり、時々、床におかれた皿に入った餌を食べていた猫がいない。
若杉警部は、驚いて、あちこちの部屋を見て歩いた。猫は、どこにも居ず、若杉をあわてさせたが、最後に、風呂場をみると、猫は、洗面台に上って、水道の蛇口から、ポトポトとおちる水を、なめるようにしながら飲んでいた。
洋室には、餌と一緒に、水もミルクもおいてあったのに、猫は、古くなったそれらを飲まず、新鮮な水を飲みに来ていたのだった。
若杉は、毎日、餌だけは与えたが、水は、一回しか代えなかったことを思い出した。
猫を、もとの場所に、連れて帰りながら、若杉の心の中で閃《ひらめ》いたものがあった。
〈最初の日、ここへ来た時、猫は、ミルクを飲み、カナリヤは、新しい青菜をついばんでいた。
あれは、決して、檜美智子が出かけて、丸三日も経《た》った感じの、ミルクや青菜ではなかった。青菜は、丸一日以上たつと枯れてしまうし、このデリケートなシャム猫は、丸一日以上たったミルクは飲まない。それに、猫のトイレ用の砂も新しかった。
ひょっとして、彼女は、死んだと思われている日、東京へ、車を運転して帰っていたのではないだろうか。前日の朝出かけたとすれば、彼女が、随筆にも書いた通り、あの日の夜は、丸二日の限度ぎりぎりである。
彼女は、東京に帰ってとりあえず、ここで、ペットたちに餌をやり、それから、犯人に会いに行って殺されたのではないか。
犯人は、そのあと、その車を運転して、京都まで捨てに行き、帰りは、朝一番の新幹線で帰ってくる……〉
きっと、そうに違いない。とすると、犯人は、その時、東京にいた藤沢五郎の方になる。
でも、彼は、八時半までは、人と会っていたアリバイがある。死亡時刻の三時間前後のズレは、どう解釈するか?
しかし、ここまで、考えれば、三時間のズレの説明は、ベテランの警部である若杉には、すぐについた。多分、死体を運ぶ七時間の間、車のヒーターをつけて走ったのだろう。
午後六時前後という死亡推定時刻は、クーラーもヒーターもつけない計算なのだから。
藤沢五郎は、多分、午後一時頃に、彼女から、これから車をとばして東京に帰るという電話を受け、その時、茶碗と抹茶を買ったということをきいたのだろう。
『死ぬ時には、茶を飲んで静かに死にたい』という彼女の言葉がのった週刊誌をみていた彼は、その連絡を受けて、彼女を殺すチャンスだと思ったにちがいない。
早速、茶筅をどこかで買い、魔法|瓶《びん》にお湯を入れて、八時半以後に東京で会う。そして、言葉巧みに、茶を点てて、その中に青酸を入れて飲ませ殺した。死んだのをみて、秘かに、車を運転して、京都へ死体を運ぶ。
東京を夜の九時に出たとすると、七時間はかかるから、京都についたのは、翌朝の四時か五時で、駅前の、建物の死角に車を乗り捨て、朝の一番の新幹線で、東京に帰ったのではないか。
若杉は興奮してここまで考えたが、これはあくまで想像で、証拠がないことに気がついた。
どうしても、これという決め手を探さなければいけない。
若杉は、そのあと、東京の警察とも連絡をとって、精力的に動きまわった。
半日の奮闘の末、思わしい成果を得た若杉は、再び、藤沢五郎を訪ねた。
ペットの手入れが行き届いており、檜美智子は、当日夜、東京へ帰っていて、あなたと会ったと思われるという話をきき、藤沢は、冷笑した。
「たとえ、ペットの世話がされていても、それは、必ずしも、彼女がしたとは限らない。誰かに頼んだのかも知れないでしょう。まして、私と会ったなどという想像はやめて下さい」
「ペットの世話を、彼女がしたのは事実だと思います。私が、部屋に入った時、鳥籠に入れてあった青菜は、よく見てみると、はこべという草でした。そして、彼女の死体のあった車の中にも、はこべは、たくさん落ちていたのです。多分、東京に帰る途中の道端で、車をとめて彼女自身が摘んだのでしょう。ペットへのお土産《みやげ》に」
藤沢は、しばらく黙っていたが、
「たとえ、彼女が、その日、東京へ帰っていたとしても、僕とは関係ないでしょう? それに、彼女は、本当に殺されたのですか?」
と、言った。
「そうだと思います。その理由は、死体の傍《そば》に落ちていた茶筅なのですが、調べてみますと、京都で売っているものではなく、東京製で、しかも、彼女の流派の茶筅ではないのです。私も、今回、はじめて、茶の道具の勉強をしましたが、茶筅にも、随分たくさんの流派別の茶筅があるものだと思いました。自宅に茶室までつくり、あれだけ、茶のたしなみのある人が、死ぬ時に、他の流派の茶筅を使う筈がありませんから、あれは、自殺にみせかけた他殺だと思います。そして、その茶筅を持って来たのはあなただと……」
「そんな馬鹿な。茶のことなど、何も知らない僕が、茶筅など持ってる筈がないよ。もし、他殺なんだったら、彼女と仲の悪い石田洋子だよ、きっと。彼女も、茶が趣味だときいたから」
「あの人が、犯人なら、茶筅のこともよく知っているし、違う流派の茶筅を、死体のそばにおいておくようなヘマはしませんよ。それに、あの茶筅は、石田さんの流派とも違うものですしね」
「石田洋子が、檜さんの流派を思いちがいしたということもあるよ」
若杉は、しばらく、藤沢の顔を見ていたが、最後に言った。
「茶筅には、流派とは別に、大きくわけて、荒穂と、数穂に分けられるのです。数穂は、割った穂が、細く、数が多いもので、薄茶用《ヽヽヽ》だし、荒穂は、穂が荒く、数も少ないもので、濃茶用《ヽヽヽ》なんです、薄茶と一緒に死体のそばに落ちていたのは、荒穂でした。石田さんが、いくら、流派を間違えたとしても、薄茶を荒穂でたてるような、そんな初歩的な間違いをする筈がない。これは、全く、茶道を知らないものが、やり損ったミスで、犯人は、あなたしかないのです。……あなたが、あの日、茶筅を買い求めた店の主人を、表に待たせていますが、会いますか?
店の主人は、あなたが、何でもいいから、一番、高そうな茶筅を下さいと言って飛び込んで来られて、今、殆んど使われていない流派の特殊な茶筅を、買って行かれたので、印象に残ったと言っていますよ」
鬼法楽殺人事件
二月四日の節分に、京都では、多くの神社で節分の豆まき行事が行われる。中でも有名なのは、吉田神社の節分祭や、千本釈迦堂《せんぼんしやかどう》のおかめの節分|会《え》、それに、廬山《ろざん》寺の鬼法楽である。
おかめ節分というのは、三日の前夜祭に、紅白のおかめの装束を着た男女が、市内各所で巡行豆まきをするというもので、京都の市民には親しまれた行事である。
又、廬山寺の鬼法楽というのは、赤、青、黒の三匹の鬼が、ユーモラスに踊り狂い、紅白の豆と餠《もち》をなげられて退散するという行事である。
「どれをみたらいいかしら?」
「さあ」
東京から娘の夏子と一緒に京都にきた推理作家の佐田二郎は、女子大生の娘からきかれてホテルの部屋に配られた観光パンフレットを眺めた。
「おかめ節分というのなんか、お前には似合いだな」
佐田は笑いながら長い髪を無造作にたらした娘の顔をみた。大学一年になるのにろくに化粧もせず、ジーパンにセーターという地味な恰好《かつこう》だが、若いだけに華やかなムードがある。
「ひどいわ。……でも面白そうね、どのあたりへ行けば見られるのかしら?」
「しかし、これは今夜だろう。夜、不案内な場所を娘一人で歩くのはどうかな」
「あら、パパは一緒に行ってくれないの? 原稿?」
「いや、ちょっと疲れたよ。朝から大阪へ行って帰ってからすぐに、京都の町を見て歩いただろう?」
あとは、食事をして寝ころびたい。俺《おれ》も年だなあと、佐田が、ぴちぴちした娘の体をうらやましそうにみた。娘は、意外にあっさりと、
「じゃ、私も明日にするわ。明日、この鬼の出てくる廬山寺へ行きたい」
と、いった。
「そうか。えーと、それは午後三時からだな。それだったら午前中、こちらの仕事をすませて一緒に行けるよ」
「うれしい。じゃ、きめたわ。さあ、夕食に行きましょう」
娘は、佐田の肩によりかかり、腕をとった。若い娘らしい甘い匂いがする。佐田は、なんとなくどぎまぎしながら立ち上り、コートをとりあげた。
翌日の午後、二人は、廬山寺へむかった。
廬山寺というのは、大ざっぱにいうと、京都御所の東にあり、立命館大学の北側にある寺である。
一人二百円の拝観料を払って中に入った。境内は、すでに大勢の見物客で埋まり、賑わっていた。日本髪の女性も多い。
所々に貼り紙がしてあり、それには、今日の節分に、有名なタレントやスポーツ選手などが年男《としおとこ》として来ることが報じられていた。
「それで、よけい人が多いのね」
和服の女性が多いのをみながら、佐田はいつか、着物姿の娘を連れてあるくことを想像した。しかし、娘の夏子の方は、パンフレットを片手に、
「ねえ、まだ時間があるから、源氏物語の庭というのをみたいわ」
と、いった。
「源氏物語の中に、この寺が出てくるんだったかな? 気がつかなかったけど」
佐田は、そういって、のびあがってまわりをみまわした。
「あら、ここは、紫式部が住んでいた邸あとなんですって。私も、大津の石山寺で紫式部が源氏物語を書いたというのは知っていたけど、ここに住んでいたのは知らなかったわ」
本堂南に作られた源氏の庭というのは、白砂が敷かれた上に、絵巻物の雲をかたどった苔《こけ》が置かれ、紫にちなんだキキョウが植えられている。
庭の美しさに二人が黙ってみとれていると、縁側を曲ってむこうから来た人がいた。
白いセーターにスカートの若い女性で、手には赤いコートを持っている。
その女性は、二人の姿をみると、はっとしたように顔を伏せ、足早やに行きすぎた。
「なにかしらあの人?」
夏子が、女性の去った方をみて不審そうに言った。
「タレントさんのファンかなにかじゃないの」
「じゃ、むこうで、朝川一郎や、池亜紀子が着がえでもしてるのかしら?」
いうより早く、夏子は、縁側を曲ってみに行った。
「なにかあったかい? もう三時だよ。そろそろいかないと」
帰ってきた娘をみて佐田が苦笑すると、夏子は、がっかりしたように、首をふった。
「俳優さんたちの控室があったけど、もうみんな着がえて表の方に行ったみたい。おばさんが三人ほどで、お昼に出したらしいお膳をひいていたわ」
そのとき表の方がざわめいたので、二人は、急いで節分の儀式の行われる境内の方へ行った。
僧による節分の儀式がすむと、場内につめかけた人々の間から、盛んな拍手が湧きおこった。
いよいよ鬼法楽のはじまりである。
「あっ、赤鬼! 青鬼もいるわ」
夏子が、子供のように興奮して叫んだ。
「黒鬼もいるぞ」
縫いぐるみをきた赤、青、黒の三匹の鬼がとび出してきて踊り狂う。耳が大きく、目がつりあがったおそろしい形相《ぎようそう》だがどの鬼も、黄色に黒い縞模様《しまもよう》のフンドシをしているのが、ユーモラスだ。手には、それぞれ、宝剣や斧《おの》、槌《つち》を持っている。
あちこちで、「キャーッ」と歓声があがり、赤ん坊が泣く。
いつもは、このあと、寺側で護摩《ごま》をたき、餠や豆を投げて鬼を退散さすのだが、今年は、年男に有名人を呼んでいるので、人々はかたずをのんでそれを待つ。
やがて、かみしもを着て年男の扮装《ふんそう》をした四人の有名タレントや野球選手が、しずしずとあらわれ、鬼に紅白の餠や豆をなげつける。
あたると鬼は大げさにのけぞり、又、おそいかかってくる。
今年ドラフトでプロ野球へ入った木川《こかわ》選手は、鬼よりも大きい体格なので、人気の的である。野球選手はもう一人、去年末に結婚式をあげた花形選手江布が来ていてファンがまつわりついている。
一方、タレントの方も、大さわぎである。
テレビで、時代ものの推理ドラマの主役をしていて、女性に爆発的人気のある朝川一郎が来ているし、歌手の池亜紀子もいる。
そのまわりは、彼が投げる餠や豆を拾おうとする人で、身動きも出来ないくらいだった。
「朝川一郎というのは、もう結婚してるの?」
佐田が、その人気に驚きながら娘にきいた。
「まだよ。でも、今年あの池亜紀子と結婚するんじゃないかといううわさがあるわ。歌手の池亜紀子が、はじめてドラマ出演したときの相手が朝川だったらしいわ」
「朝川みたいなのが、女性にはもてるのかなあ」
いかにもプレイボーイらしい朝川をみて、佐田が心配そうに娘にいった。しかし、夏子は、あっさり首をふった。
「私はあまり好きじゃないわ。朝川より、桑名正博とかゴダイゴとかアリスがくればいいんだけど」
みている二人のところへも、紅白の餠や豆がとんでくる。夏子は、ちゃっかりとそれを集めてハンドバッグにしまい込んでいる。ボーイフレンドに、木川や江布の投げた豆だといってやるつもりらしい。
人出が予想外に多かったため、何度も餠や豆が追加され、やっと鬼が退散して儀式は終った。
人々は、豆を食べながら、三々五々引きあげていく。タレント達の帰るのをみるために残っている人達もたくさんいる。
カメラをのぞき込んでいた佐田が、
「あと、二、三枚残っているけど、寺をバックに撮《と》ってやろうか?」
というと、夏子は素直にうなずいた。
佐田は、カメラをかまえて、方向をかえ、何枚か夏子をとった。
「おまもりを買いたいし、おみくじもひきたいの。待っててくれる?」
「いいよ」
作家仲間では気むずかしいと思われている佐田も、娘には甘い。
おみくじのところは混んでいるらしく、娘はなかなか帰ってこない。
重要文化財の説明のかいてある立札などを眺めて待っていた佐田は、ちょっと気になって社務所の方をみつめた。
そのときだった。サイレンをならして、パトカーや救急車が何台も門から入ってきた。
車がとまると、バラバラと警官や白衣の人がおりて寺の中へ駆け込んでいく。
佐田は、心配になってカメラをひっかつぐと、走り出した。
節分の儀式がすんだあと、タレントや野球選手たちは、ぞろぞろと控室に戻った。
「年男というくらいだから、本当は男がなるんでしょう。女の私がこんな恰好しておかしくなかったかしら」
池亜紀子は、甘えるように、かみしも姿の袖《そで》をぴんと広げて朝川一郎に話しかけた。
「そんなことないよ。女が男装するって中々いいもんですよ」
人目があるので朝川の言葉づかいも丁寧になる。
二人のあと、少し遅れて、江布と木川が野球のことを話しながらついてくる。
控室は二つあって六畳の方が着がえをする部屋になっており、広い座敷の方には、暖房が入り、お茶やお菓子の用意が出来ていた。
「どうぞ、女の人先にやって下さい」
男達にいわれ、池亜紀子が先に六畳に入り、さっぱりとした白いセーター姿になって出てきた。次に、男達三人が六畳に入り、それぞれ正月らしいきちんとした背広に着がえて座敷にすわった。
さすがに、ゲスト四人の顔に、大役をすませたというほっとした表情がうかんでいる。
住職はじめ寺の関係者がひかえる中で、茶菓子が出され、儀式に用いられた紅白の餠や煎《い》り豆《まめ》が大盛りにされて出された。
檀家《だんか》の娘らしい着物姿の女性が三人入ってきた。甲斐がいしく、ゲスト達に折詰めや餠を配ったり、謝礼の包みを一人一人に手渡す。
配《わ》け終えるのを待って、住職が深々と頭をさげ礼を述べた。
「本日はどうも有難うございました。おかげさんで、このような盛大な節分が出来て、感謝しております。皆さん、お急ぎやということですので、お引きとめ出来まへんけど、せめて豆をお年の数だけ食べて、ここで年越しをして帰っとくれやす」
住職の挨拶《あいさつ》が終り、みんなはお茶をのみ、わたされた豆をつまんだ。
朝川一郎と池亜紀子のところには、それぞれ付き人が入ってきて、折詰めと餠と謝礼を包んで持ち、小声で、「車が来ました」といっている。
池は、同じ年頃の付き人に、手に持った豆を渡し、
「はい、あなたもいただいたら」
といい、そして、自分も口に運んだ。
そこへ、さっきと同じ恰好をした赤鬼、青鬼、黒鬼が入ってきて、座は一段と賑やかになった。鬼の一人が、ファンだからサインして下さいといい、色紙を亜紀子に渡した。亜紀子がうなずいて、サインペンを付き人にもってこさせようと腰をうかしたときだった。
突然、「うっ」というような声をあげて、彼女が胸をおさえてのけぞった。そして、次の瞬間、どたりと音をたてて、座敷の真中に倒れた。豆の皿がひっくりかえり、部屋中に豆がとび散る。
「どうしたんですかっ?」
「大丈夫?」
驚いてみんながかけ寄り、朝川が、かかえおこそうとするが、亜紀子の体がそりかえり、痙攣《けいれん》しているので、容易におこせない。それを見た木川選手が、ぐっと力を入れて横だきにして、畳の上にねかした。
「血が!」
誰かが叫ぶ。
苦しさに噛んだらしい唇から血が流れている。亜紀子は、胸をかきむしるようにして暴れたが、やがてがくっと首をたれてしまった。
「死んだ! まさか?」
「救急車だ!」
口々に叫んで、人が右往左往する。やがて電話がかけられたらしく、寺の門の方からサイレンの音がきこえてきた。
佐田は、社務所の横で、娘をみつけることが出来、ほっとした。
「心配したよ。どうかしたんじゃないかと思って」
「私は大丈夫よ。でも、変ね、救急車がかえっていくわ、病人じゃないのね」
夏子は、しばらく、あたりを見廻していたが、
「ちょっとみてくるわ」
というなり、駆け出して寺の中へ入っていった。どうせ、警官に押し戻されてかえってくるだろうと思いながらも、佐田は気が気ではなかった。やくざが刃物をもって喧嘩《けんか》でもしているのだったら、巻きぞえになる危険もある。
探しに行こうと思うが、目の前の玄関には、みているまにロープが張りわたされて、通行禁止になってしまった。
娘が戻ってきたのは、十分ほどたってからだった。彼女は息をはずませている。
「池亜紀子が死んだのよっ。それも、毒を飲んで」
「自殺か? それとも殺されたのか?」
思わず佐田も真剣な顔になる。
「わからない。これから検視があるらしいわ。……でもね、変なことがあるのよ」
夏子は、声をひそめた。
「死んでいる彼女をみたんだけど、彼女の白いセーターは、ポケットに、紺色でアルファベットが編みこまれているの。左ポケットがAで、右ポケットがI」
夏子は、手帳に絵をかいた。
「それじゃ、さっきはじまる前に、庭であった人が池亜紀子だったんだね? あのときも、同じようなセーターを着てたじゃないか」
佐田は、若い歌手の名前など苦手だった。
「ちがうわ。私、池亜紀子の顔は知ってるもの。あの人はセーターは同じだったけど別の人よ」
「それでは、今、そんなセーターがはやっているんじゃないか。若い人の間で」
しかし、夏子は首をふった。
「そんなことないわ。それにあれは手編みよ。わざわざ編むか編んでもらったものよ」
「A・Iというのはイニシャルかな。亜紀子・池という」
「そうだわ。きっとそうよ。だったら、同じのを他の人が着るっておかしいでしょう?」
「あ、わかったよ。じゃ、彼女のファンクラブの人が同じセーターを着ているんじゃないか」
「そうかもしれないわ。とにかく、どっちにしても、あの女の人は、池亜紀子と関係があると思うわ」
二人は歩いて、山門の入口のところまで来ていた。
「あの女性は何か思いつめたような顔をしていたな。それに我々をみてどきっとしたようだった……。まさかあの女性が殺したんじゃないだろうな」
推理作家だけあって、変死というと、どうしても殺人を考えてしまう。
「あの女性が殺すとしたらどんな方法があったかしら。今は勿論《もちろん》そばにはいなかったし、彼女の付き人もちがう女性だったわ」
「食事かなにかに毒を入れたんじゃないか? あのとき」
「でも、昼にお膳を出したので、今は、簡単なお茶とお菓子程度しか出さなかったらしいわ。みんな帰りを急ぐというので。それに食べるもののそばにはお寺の人がついていたというのよ。それでも警察ではおみかんだとか、お餠など、あの場に出てたものを鑑識が調べているけど」
あらたにパトカーが到着し、刑事たちが、境内にいる野次馬たちに何かをきいたり、外へ出るように指示したりしている。ぐずぐずしていると、こっちにも来そうだった。
「とにかく、ホテルに帰ろうか。警察だって、今は調べている段階で何もわからないだろう。食事をして、夜になってから、京都府警の若杉警部にきいてみるよ。今度の仕事にも彼に協力してもらって顔なじみだから」
二人が、ホテルに帰って、どこで食事をしようと考えているときに、電話がかかってきた。それは、京都新聞社の学芸部の部長で、よろしかったら、食事でもさしあげたいというものだった。
「京都新聞の朝刊に小説を連載しているので声をかけてくれたのだろう」
佐田は、ちょっとうれしそうに娘にいった。彼のように東京在住の作家は、通信社を通して、一つの小説を、岐阜《ぎふ》、徳島、京都、北海道というようにいくつかの都市の新聞社に売る。だから、その都市にいくと、自分の小説が載っていて、うれしいような、テレくさいような気がするときがある。
栗林という学芸部長は、四十歳位のおとなしそうな男だったが、てきぱきと都合をきき、佐田を京都の有名な料理屋へつれていった。
食事をしながら佐田は、今日廬山寺でおこった事件について話をした。
「あ、あのとき行っておられたんですか? 僕もびっくりしましたよ。池亜紀子が死ぬなんて。僕は社会部ではないので詳しいことはわかりませんが、彼女が手に握っていた節分の豆に青酸カリが塗られていて、毒死したらしいですね。豆の皿をまわした順番だとか、いろいろ調べてましたよ」
栗林は、そういって自分のきいたことを話してくれた。豆の大皿は、江布、木川、池、朝川の順にまわされたものであるという。
「池亜紀子というのは、朝川一郎と結婚するとか週刊誌に書いてありましたけど、本当なんでしょうか?」
横から、夏子がいうと、栗林はうなずいた。
「だから、一番疑われるのは、朝川一郎でしょうね。なんといっても彼はプレイボーイで女出入りも多かったし……」
食事が終って別れるとき、又、何かわかったら教えて下さいと夏子は熱心に栗林にたのんだ。彼女は、自分が遭遇したミステリーにすっかり夢中になっているようだった。
ホテルに帰ってしばらくして、佐田は、京都府警本部に電話してみた。若杉警部は、これから捜査で外出するので、途中十分位だったらホテルに寄って話が出来ますといって電話をきった。
若杉警部とは、三年前、佐田が小説に書いたのと同じ事件が京都市内でおこったとき、佐田に意見を求めてきたのが最初で、つきあいがはじまった。
佐田も、京都を舞台の推理小説を書くとき、所轄署を教えてもらったりして、随分助かっている。
七時すぎに、ホテルにやってきた若杉警部は、事件の発生で、さすがに重くるしい顔をしていた。
佐田は、今、終戦後京都でおこった夫婦惨殺事件について、週刊誌にドキュメント風に書いているので、府警本部から資料をかりているのである。
たのんでいた仕事の話がすむと、早速今日の事件のことになった。
若杉は、捜査中の事件だからといって多くは語ろうとしなかったが、やはり、捜査の中心は朝川一郎の女性関係で、それ以外に、誤殺の線があるという。
「誤殺というと、人ちがいということですか?」
佐田は身体をのり出した。
「野球選手のうちどちらかを殺そうとして間違ったのかもしれませんし、朝川を殺そうとして失敗したのかもしれません。とにかく大皿にもった豆の中に毒入りの豆を入れたのでは、目的の人物がそれをとるかどうかわかりませんからね」
「なるほど、野球選手の方にも殺されるような動機ってあるんですか?」
「まあ、強《し》いていえばの話ですが、木川選手は、三塁手ですが、あのチームでは江布選手が、名三塁手なので、彼がいるかぎり、三塁手になれないということがあります。それで、木川は、ドラフトの時も、返事をしぶっていたんですが、一年待つわけにもいかず、仕方なくあそこへ入ったのです。そんな木川ですが、人気があるので入団すると同時にCMの仕事がどっときて、江布なんか足もとにも及びません。今日だって木川の方が人気があって、江布の方は、面白くなかったと思います」
「とすると、一番最初に皿から豆をとった江布が、次の木川がとるだろうと、青酸カリつきの豆を入れたのを、木川がとらないで、その次の池亜紀子がとったということもありますね?」
佐田は、野球好きなので、江布や木川が犯人だとは考えたくなかった。
「じゃ反対に木川から自分の上座《かみざ》にいる江布を殺そうとしたら出来ますか?」
「江布は、お腹がすいたのか、一度とってまわしたあと、何度も豆をとって食べたそうですから、となりの木川が、用意した豆を入れておけば、とる可能性はあったと思いますね」
じっときいていた夏子が、
「事件と関係ないかもしれませんけど」
とことわって、鬼の法楽がはじまる前、死んだ池亜紀子と同じセーターを着た人物を、源氏の庭でみたと若杉に話した。
若杉は、それは耳よりな話です、こちらで調べてみます、と顔を輝かせて帰っていった。
「ねえ、パパ、私、源氏物語の庭をみた影響か、今度の事件、金銭とか利害関係でなく、男女の愛のもつれのように思えて仕方がないの」
夏子は、そういって、若杉が帰ったあとも、じっと考えこんでいた。
ところが、翌日、またまた殺人事件がおこった。場所は、太秦《うずまさ》の映画村である。
その日、佐田と夏子は、神戸に行って、夜東京に帰るつもりにしていた。
昨日の事件のことは気にはなっていたが、これ以上、自分たちがどうこうするわけにもいかず、それぞれに予定もあった。
しかし、佐田達が、朝食をたべ終って部屋に戻ったとき、京都新聞の栗林から電話が入った。
「昨日は、どうも失礼しました。実は、今日、太秦の映画村で、朝川一郎の撮影があるので、うちの社の社会部の記者たちが行くようなんですよ。朝川犯人説が強く、週刊誌の記者たちもつめかけるようです。よろしかったら、社会部の村上というのに連絡しときますから行ってみませんか? 事件のこともきけると思いますが」
といわれ、夏子は思わず、
「じゃ、私も行きたいわ」
といってしまった。神戸は、前にも何度か行ったことがあるので、買物さえあきらめれば、次のチャンスでもいいと思った。
結局、佐田も、娘と一緒に映画村に行くはめになってしまった。
太秦映画村は、東映撮影所のオープンステージを開放したもので、村内には、映画に出てくる江戸時代の奉行所《ぶぎようしよ》や芝居小屋、吉原通りなどのセットが作られている。
佐田と夏子は、京福電鉄嵐山線の太秦駅でおりて、歩くことにした。駅から映画村まではすぐ近くだった。
入場料八百円を払って中に入ると、まるでタイムマシンに入ったように、時代劇の扮装のままの男女が、忙しげに歩いていたり、食堂で、チョンマゲ姿の侍が、カレーライスを食べていたりする。
夏子は、もの珍しそうに、きょろきょろと、あたりを見まわした。
丁度、江戸時代の中村座を模して作られた芝居小屋のセットの前で、テレビ時代劇の撮影が行われていて、四、五十人の人達が、遠くから、息を殺して見物していた。
「朝川一郎の出るのはあれね?」
夏子は、佐田を振り返っていうと、自分も急いで見物人たちのいるところへ駆けつけた。
今、撮影が行われているのは、渋い脇役《わきやく》の俳優、木下稔の豪商「さがみ屋」が、娘を連れて芝居小屋から出てくるところで、そこへ、朝川一郎の扮《ふん》する身分の高い侍が、駕籠《かご》にのってやってきて、ばったり会うというところである。
先に、さがみ屋と娘が芝居小屋から出てくるシーンが撮影されるので、その間、朝川一郎は、駕籠のそばで腕を組んだイキな恰好で、駕籠かき役の男優と話をしている。さすがにかつらをつけ、着物をきると水ぎわだった男ぶりだ。女達がさわぐのも尤《もつと》もだと思われる。
日が照ったり曇ったりするので、撮影にてまどり、待機していた朝川は、横にある小屋にひっこんで、お茶を飲んだりしている。
やがて、朝川の番がきて、助監督が、「おねがいしまあす」と声をかけると、朝川が出てきて駕籠の中に入った。
男優二人が駕籠をかついで芝居小屋の前までいき、朝川が、駕籠の垂れをはねて降り立つところまでのリハーサルが何度か行われ、いよいよ本番になった。助監督が、
「本番いくよ!」
と、大声で怒鳴り、男優二人が駕籠をかついで中村座の前まで走る。ぱっと駕籠がとまるが、朝川はおりてこない。
しびれを切らした助監督が、「どうしたのォ、朝川ちゃん」と、とんできて、垂れをはね上げると、どさりと音がして朝川の体がころがり出てきた。かがみこんで、顔をのぞき込んだ助監督が、真っ青な顔になって叫んだ。
「死んでますよ! 監督」
夏子は、夢をみているようだった。又、目の前で殺人がおこったのだ。しかも死んだのは朝川一郎だ。最初は、これも撮影のうちかと思ったが、本当だとわかると、体がふるえてきた。
「ねえパパ。朝川一郎は誰に殺されたのかしら?」
「さあ、わからないな。こうなると、昨日の事件は、朝川を殺すのが目的だったかもしれんな」
佐田も、ため息をついた。
推理作家だが、本当の事件にぶつかったのは、昨日と今日がはじめてだった。
やがて昨日と同じように、サイレンをならして、パトカーや鑑識車が到着した。刑事たちがこちらに走ってくる。
「とにかく、サービスセンターのところまで引き揚げて待とう。京都新聞の社会部の村上さんという人がつかまれば、捜査の様子がわかるだろう」
二人は、連れだって、広い場内の中央にあるサービスセンターに向った。ここには、ドライブインのようなかんじで、大きな食堂と、土産もの売り場がある。食堂では、一般の観光客にまじって、俳優や監督たちも食事をしたり、お茶をのんでいるし、土産ものの方は、いかにもこういうところの土産ものらしい、スターのサイン入り手拭いやブロマイド、御用|提灯《ちようちん》のミニチュアが売られている。
二人が、サービスセンターにつくと、すでに事件が知れていて、中は騒然としていた。
公衆電話にだきついて、事件の発生をしらせている記者がいた。京都新聞と何度もいっているところから、それが、社会部の村上でないかと思った佐田が、電話が終るのを待って声をかけると、やはりそうだった。三十歳ぐらいの精悍《せいかん》なかんじの男である。
彼は、ここで待ってて下さい、様子をみてきますからといって二人のそばをかけぬけていった。
三十分ほどして、再び彼は戻ってきて、もう一度新聞社に電話を入れたあと、二人のところにやってきた。
「あー、のどがかわいた。ジュース頂戴」
といって、ジュースを注文し、二人に今までわかったことを教えてくれた。
「えーと、死因は毒物死。彼が最後にのんだ湯のみにもお茶にも毒物反応はなく、彼の持っていた仁丹《じんたん》と、リップクリームに毒物がしこんであったことから、本番で駕籠に入ってから、どちらかを口に入れたのではないかと思われています。自殺か他殺かはわかりませんが、昨日の事件と関連ありとみています。以上です。何かおききになりたいことありますか?」
彼は、そういって、運ばれてきたジュースをおいしそうにのんだ。
「自殺でなかったとしたら、そういうものに毒をしこめるのは、よほど親しい人ということになりますね。彼の身近に、こういう感じの女性はいませんか?」
夏子が、昨日中庭で会った女性の顔かたちを説明すると、村上はうなずいた。
「昨夜そのことを、若杉さんからきいたので、調べてみたんですよ。彼の身辺の女性のリストを作って」
「ありましたか?」
「ありましたよ。浅井伊都子です。撮影所《ここ》の近くの喫茶店の娘で、彼とは昔からの関係です。近くに家を借りて同棲していたらしいですけど、今は借りていた家はそのままで親の家に帰っています」
「お願い、私をその家につれていって。たしかめたいことがあるの」
夏子が、真剣な顔でいった。村上は、ちょっと考えていたが、今のところこれ以上進展はないからいいでしょうといい、応援にやってきた記者にあとを任せてその家に向った。
「カギがしまっていてあかないかもしれませんよ」
ということだったが、幸い、勝手口があいていて三人は中に入ることが出来た。
夏子は、まっすぐに洋服ダンスにむかい中をあけた。その中には、背広やシャツにまじって、一枚のセーターが入っていた。それは少し大きかったが、池亜紀子が着て死んだのと同じイニシャルのついたセーターだった。
「あれっ、これは……」
村上が驚いて、セーターをみつめた。次に夏子は、机のひき出しをあけてみた。中には、写真が何枚か入っていた。テレビや映画のスチール写真もあるし、朝川がファンの人や共演者、それに、この部屋で住んでいた伊都子と写した写真もあった。
夏子は、その中の一つをとりあげた。
それには、朝川一郎と、伊都子がペアの白いセーターを着て、仲むつまじく写っていた。
それまで黙っていた佐田が、その時大きな声を出した。
「すると、セーターは三枚あったのか……」
「そうよ。朝川一郎と池亜紀子、朝川一郎とこの伊都子さんのは、それぞれペアになっていたのよ。きっと、ここに謎があると思うわ」
夏子がいきいきといった。
佐田が、
「すると、少しずつわかってきたぞ」
といったときだった。
ドアをあけて、当の伊都子が入ってきた。
彼女は、三人の顔をみると、
「出ていって下さい。ここは私の家ですから」
といった。
三人は、ばつの悪い思いで、ぞろぞろと外へ出ていった。ドアのところまできたとき、夏子が、ふりかえり、
「あのセーターは、三枚あったのね」
といった。
伊都子は、はっとしたように夏子の顔をみたが、ものもいわず、ドアをしめてしまった。
翌日、警察が事情をきくため彼女をたずねると、彼女はその家で死んでいた。
手には、しっかりと、彼のセーターを抱き、自分も同じセーターを着ていた。
枕もとに遺書があった。
伊都子の遺書
朝川一郎と、池亜紀子を殺したのは私です。私が、朝川と知り合ったのは五年前で、まだ、朝川が売れてないころでした。私の家は、撮影所の近所で、コーヒーショップをしていたので、いろいろな俳優さんが遊びに来ました。朝川は、関東の生れで、東京に住んでいましたが、時代劇に出ることが多く、京都にはよくやってきました。その頃の彼は、今の様にプレイボーイでなく、むしろ女性には慣れてないという感じで、純粋な人でした。彼は、若いのに、京都の寺をまわるのが好きで、私に、京都にいながら、どこも知らないじゃないかといって、いろいろな寺に連れていってくれ、歴史的なことを教えてくれました。やがて、彼と私は、撮影所の近くに、小さな家を借り、同棲するようになりました。彼は貧しかったので、私は、今まで通り、親のやっているコーヒー店へつとめ、給料をもらって家計の足しにしました。
店へ来る客へのおもわくもあり、彼も俳優という仕事柄、二人のことは、絶対に秘密にしていました。
やがて、彼もぼつぼつみとめられるようになり、東京の仕事とのかけもちも多くなってきました。彼が今ほどの人気を獲得するようになったのは、二年前に、時代ものの推理劇の主役に抜てきされてからです。彼は忙しくなり、東京にもマンションを持つようになって、あまり会うことが出来ないようになってきました。女の人とのうわさが出るようになったのも、この頃からです。最初の浮気を知ったときは、ショックでした。それは、相手役の丘美子とでした。でも、彼が、あやまってくれ、そのうちに、相手役も替ったので、私は何もいいませんでした。二枚目役者ならそれくらいもてなくては仕方がないと思ったからです。しかし、彼の女遊びはその後もつづいておこりました。人気が出てきてもてるのだから仕方がないと思いながらも、私は不安な気持になり、店につとめるのもやめて、ひたすら家で待つようになりました。彼が、生活費も出してくれるようになったからです。でも結果はかえって悪くなりました。彼が、東京にいるときは、誰か女性と一緒にマンションにいるのではないかと気になるし、京都にいて、撮影が終っているのに、帰ってこない時は、彼が飲みあるいていたのだといっても信じないようになってしまったのです。でも、まだそのころはよかったのです。浮気をしながらでも、京都にいるときは、帰ってきていましたから。でもここ半年、彼は、帰ってこなくなったのです。急に東京の仕事が入ったのだといって、撮影が終るとかえってしまうことも多くなり、京都の仕事はなくなったのだときいてがっかりして、父の店へ久しぶりに手助けに行くと、朝川が撮影所にきていたことが、他の俳優さんの言葉でわかったりするようになったのです。東京の仕事のとき、上京してマンションで待っていても、かえってこない日が続き、私は、彼に好きな人が出来たことがわかりました。
でも、 彼も気弱なところがあって、 たまに会うと、 嫌な顔や冷たい顔をせず、 やさしくしてくれるのです。それをみると、別れようと決心していてもわかれられなくなるのです。彼も人気商売なので、私を怒らせてスキャンダルになると困るからでしょうが。一ケ月前、 私は、 やっと彼をつかまえ、 池亜紀子と結婚するのかとききました。 週刊誌などのうわさになっていたからです。彼はそんなことはないといい、しばらくして、私にペアのセーターを持って会いにきてくれたのです。そのセーターには、彼のには、左ポケットに朝川のA、右に一郎のIのイニシャルが編みこまれ、私のには、反対になっていました。浅井伊都子だから、同じでもいいんだけど、折角編んでもらうのだから、ペアだとわかるように反対にしたんだといいました。二人が並ぶと、どちら側にならんでも、AAとかIIとかが続くだろうと、あのこぼれるようなながし目で笑っていいました。もうそれで、私はすっかり機嫌をよくしてしまい、いそいそと食事の仕度をしたのです。
でも、彼はそれっきり来ません。東京のマンションに電話をしても話中ばかりで、いよいよ池亜紀子と結婚するのだといううわさは強くなるばかりです。私も、もう二十七歳になっていました。彼との五年間のため婚期も逸してしまっていました。
数日前、私は、廬山寺の豆まきに、彼が池亜紀子と一緒にやってくることを知りました。私は、電話でやっと彼をつかまえ、池さんとのことはどうなのかとききました。しばらく黙ってから、彼は、池亜紀子と結婚したい、君には悪いと思っているがあきらめてくれないかといいました。弁護士をやるから慰謝料を相談してくれともいいました。私は、うすうすわかっていたことなのに、彼からはっきりいわれて絶望しました。そして、彼がいなくては生きていけない自分に気がつき、眠られぬ幾晩かを過しました。
あの日、私の足は、廬山寺へ向っていました。京都へ来て、わざわざ、私の目の前で、二人の仲のいいとこをみせつけなくてもいいだろうにと彼を恨みました。私は、彼のくれたセーターを着て、彼の前で死んでやろうと思いました。ポケットには、青酸カリを塗った豆を持っていました。でも、会場へ行ってから、急に気持が変ったのです。私が、ここで死んでも、二人にとっては、邪魔ものが死んで助かるだけではないかと思ったのです。それは、貼り出された紙のゲストの名前のところに、二人の名前が、仲良くならんでいるのをみたときです。私は、その名前が、結婚式場に、貼り出された両家の名前のように見えたのです。やはり、彼と一緒に死のうと思いました。私は、彼の服のポケットに、この豆を入れておいたら、豆の大好きな彼はそれを食べると思ったのです。彼は、(煎り豆はおふくろの味がする。小さい時、父親におこられた時おふくろがポケットにそっと節分ののこりの豆を入れてくれたのが忘れられない)といっていましたから。それを食べると思ったのです。
みんなが、着がえをして出ていったあと、私は、控室に行き、彼の服を探しました。そして、私のとペアのセーターをみつけたとき、これは神の意志だと思いました。このペアのセーターを着て、彼と私が死んだら、二人の関係は明らかになり、二人は、永久に結ばれると思いました。ただ、何時彼がそれを食べるかわからないので、私が死ぬのは、そのあとにしようと思いました。しかし、死んだのは、池亜紀子の方でした。私は驚きました。これは一体どういうことだろうかと思いました。彼が、ポケットの豆を、何げなく彼女にあげたのでしょうか? それならそれも、神の意志だと思いました。神は、私と彼が残ることを指示されたのだと。しかし、そのあと心配になりました。彼が疑われるのではないかと思ったからです。その場合は、私が名乗り出てもいいと思いました。
ところが、その夜、彼からひどい電話がかかってきたのです。彼は、酔ってホテルの部屋から、彼女を殺したのはお前だろう? 俺は悲しくて、もう仕事も出来ないといい、私をめちゃくちゃにののしったのです。彼は、明日になったら、あの家に行って、俺のものをひきあげ、一生会わないといいました。私が泣きつづけている間に彼は電話を切りました。私は、それから、彼と住んでたあの家に行きました。彼の言葉からたしかめたいものがあったからです。彼は、「|彼女の《ヽヽヽ》セーターのポケットに、豆を入れたのはお前だろう……」といったのです。彼女のセーターという意味がわからず、部屋に行って、洋服ダンスをあけた私は、そこに、もう一つのセーターをみつけ、謎がとけました。彼は、私とペアのセーターを作らせたとき、彼女のも作っていたのです。いや、彼女とペアのセーターを作ったとき、思いついて私のも作ったのでしょう。たしかによくみれば、彼のサイズはLでした。私のはMサイズ、池亜紀子は多分、Sサイズだったと思います。彼女はあれをきて殺されたのだから、彼女のがここにあるはずはありません。私は、私のセーターと彼のセーターをならべておき、そこで、もう一つの発見をしました。私のと彼のとでは、アルファベットが、A・I I・Aとなっているので、どう並んでも、同じ字が続くかわり、AI(愛)とはならないのです。その点、彼と彼女のセーターを並べると、どうおいても、常に、AI・AIと並ぶのです。彼がそこまで考えたのかどうかわかりませんが、私は、彼が君とペアで作ったよといいながら、彼女ともペアのセーターを作っていたことが許せませんでした。それに、彼は、電話の最後で私のことを警察にいうといっていました。おそろしい女だともいいました。私は、できれば、彼がここへくるのを待ち受けてもう一度話したいと思ったのでしたが、彼を殺すより仕方がないことを悟りました。私は、彼が来たら、持っていきそうなものを考えました。それは、仁丹《じんたん》と、リップクリームです。彼は、役者のたしなみとして、いつも仁丹をふくんでいましたし、切れると不機嫌でした。又、本番前に、秘かにリップクリームをつけて、口もとのうつりをよくしていました。それでその両方に青酸カリを塗り、机の上にむぞうさにおいておいてから、戸をしめて帰りました。青酸カリは、うちの叔父の家がメッキ工場をしているので手に入れたものです。彼のセーターを持ち帰ろうかと考えましたが、私が来たことがわかると、彼が警戒すると思いやめました。彼がどちらで死んだかはわかりませんが、私が殺したことは確かです。私も、勿論生きのびる気はしません。だから、あの日、中庭で会ったお嬢さんから、セーターは、三枚あったんですねといわれたとき、すべてが終ってしまったと思ったのです。
では、さようなら。早く逝《い》かないと、あの世で又二人が仲良くしているのではないかと心配ですから。
伊都子
時代祭に人が死ぬ
十月二十二日。
京都では、秋晴れの、抜けるような青い空の下で、時代祭が行われようとしていた。
時代祭というのは、葵《あおい》祭、祇園《ぎおん》祭とともに、京都の三大祭の一つで、考証をふまえた時代風俗の華麗な行列が、都大路《みやこおおじ》をねり歩くものである。
作家の矢村麻沙子は、テレビ中継される、この時代祭のゲストとして、歴史学者の上田達也と共によばれ、御所の庭に、一段高くしつらえた席に座っていた。
午前十一時五十分。
あと十分で放送がはじまる。麻沙子は、もう一度、さきほど配られた台本とパンフレットを読み返した。
もともと、麻沙子は、推理作家で、時代祭について、詳しく知っているわけではなかった。京都の街をバックにした推理小説などを、書いているので、京都の行事にも詳しいと思われたのだろう。しかし、時代祭を見たのは、子供の頃一回だけで、ゆっくりみるのは、今日がはじめてだから、なんとなく心細く、落着かなかった。
パンフレットには、行列の順序が書いてある。
勤王|鼓笛《こてき》隊、幕末志士列からはじまって、徳川上使上洛、江戸婦人列、豊公参朝、織田《おだ》上洛、楠公《なんこう》上洛、中世婦人列という具合に、十六番目までのグループの行列があり、大体において、逆時代順である。
「どんなことを聞かれるのでしょうか?」
麻沙子は、隣の席の上田教授にきいてみた。
「そうですねえ。私は、数年前に、一度出ただけですから、最近のことはわかりませんが、服装の時代考証とか、歴史など説明すればいいんじゃありませんか」
専門のことだけに、上田教授は、落着いている。
「服装の時代考証だとか、歴史の話といわれても、全く自信がありませんわ、どうしましょう」
いつもは気の強い麻沙子だが、不安そうな顔をした。教授は、それをみると笑いながら、
「まあ、司会の鳥井アナウンサーが、しっかりしていますから、うまく、きいてくれるでしょう」
といった。
「そうかしら」
そう言って、鳥井アナウンサーの方をみると、その声がきこえたのか、ハンサムな鳥井は、
「歴史の話なんかは、ご専門の上田先生におききして、矢村さんには、女人行列を担当していただきますから大丈夫ですよ」
と言ってくれた。
十二時になり、放送がはじまった。
丁度、この時、行列の先頭が、御所を出発する。
麻沙子たちの前にやって来るのには、少し暇がかかるので、その間が、アナウンサーの腕のみせどころだ。
鳥井は、少し、声に|より《ヽヽ》をかけて喋《しやべ》り出した。
「今日は、いいお天気で、ほっとしました。随分たくさんの方が、見に来ておられますね。矢村さん、どの位の人出だと思いますか?」
突然きかれて、麻沙子は、あがってしまった。
「さあ、わかりませんわ。五万人くらいですか?」
「なんの、なんの、二十万人ですよ」
「わあ、すごいですね」
「ついでに申しますと、アルバイトの学生さんが、五百人、牛が二頭、馬が七十頭出ております」
鳥井は、そのあとも、滑《なめ》らかな調子で、時代祭の起源や、行列の変遷などについて喋っていたが、急に、調子を改めた。
「さて、いよいよ、行列が近づいて参りました。一番最初は、勤王鼓笛隊ですが、その先頭にやってこられますのは、名誉|奉行《ぶぎよう》の市長です。……まだ、見えませんが、もうすぐ、あの威勢のいい市長の姿が見えると思います」
そう言ったとき、道をへだてた放送席のむかい側の観衆が、一せいに背のびをして、御所の方をのぞきはじめた。
「あ、やってこられました。市長が、手をふっておられます。次の馬車は、市会議長です。二台の馬車のあとは勤王鼓笛隊です。皆さま、鼓笛隊の音楽が、きこえておりますでしょうか」
ピーピーピーヒョロロ、と鼓笛隊の音楽が、麻沙子の耳にもきこえてきた。
麻沙子が、のぞきこむと、維新の服装をした鼓笛隊が、隊列を組んで行進してくる前を馬車に乗った市長と、少しおくれて市会議長の姿がみえてきた。
鳥井アナウンサーが、上田教授に、維新のことや、鼓笛隊のいわれなどをきいているうちに、行列が、どんどん近づいてきた。
「あ、今、丁度、放送席の前を、市長が通過です。それから市会議長、そのあと鼓笛隊、それから続いて、維新の志士たちです。皆さんが、テレビや映画、本などで、よくご存知の、坂本竜馬、桂小五郎、高杉晋作などがいます。……矢村さん、女性の側からみて、この中では、どの人物が好きですか?」
「そうですねえ、竜馬よりは……」
と、麻沙子が、答えようとしたとき、突然ドカーンという、ものすごい爆発音がして、目の前の地面がゆれた。思わず、耳をおさえながら、麻沙子は、何が起こったのか、瞬間にはわからなかった。
濛々《もうもう》と煙が立ちのぼり、馬が高くいななき、ひざを折って倒れた。市長の乗った車の部分が、あとかたもなくなった。地上に投げ出されたボロ切れのようなもの。白昼夢をみているようだった。
「市長が……、市長が爆発でやられました!」
悲鳴のような鳥井アナウンサーの声で、麻沙子は、やっと我にかえった。
観衆が、総立ちになって、口々になにかわめいている。
「静かにしてください! 席を立たないでください!」
鳥井が必死に叫び、時代祭の人波を警備していた警官が、ダダッと駆け寄ってきた。
鳥井が、ワイヤレスマイクを持ったまま、とび出したので、麻沙子と上田教授もあとを追った。
人垣をかきわけ、のぞき込んだ麻沙子は、「あっ」と言って、思わず顔を覆《おお》ってしまった。血の海の中に、ボロ切れのようになった肉塊が見えた。肉の焦げるような匂いが、プーンと鼻をつく。それは、死体というより、物体だった。
職業意識をとりもどしたらしい鳥井が、「市長は、爆弾によって、死亡されたようすです。馬も一頭は即死、一頭は、うしろ脚がとんで、重傷です。馬車は、ふっとんでしまって、影も形もありません。……」
と、実況放送をはじめた。
そのときになって、門の方から、救急車とパトカーのサイレンがきこえ、何台かの車が、刑事を満載してかけつけてきた。
現場写真が、何枚か続けさまにとられ、鑑識の腕章をはめた係官が、地面に顔をくっつけるようにして調べ、死体が検死されるのを、麻沙子は、まるで、テレビの画面をみるような現実感のなさで、眺めていた。
普通なら、死体の検死だけで、一時間はかかるところを、衆人環視の場所で、長時間、このようにむごたらしい死体をさらすことの影響が考慮されて、死体は、約二十五分後、警察の車で運び去られた。
森下捜査一課長の記者会見では、馬車に仕かけられた時限爆弾による死亡ということだった。麻沙子は、もうこれで、今年の時代祭は中止で、従って、テレビの中継もないと思い、一般の人にまじって捜査をながめていた。しかし、馬の死体や、車の破片なども、片づけられ、四十分後には、時代祭が再開されることになった。中継放送も再び開始されるようだった。麻沙子はあわてて放送席に戻った。
時代祭を、続行するかどうかということについては、事件発生後、すぐに、主催者の方で、討議が行われ、続行するということに決定したのだ。
続行の理由は、すでに、二十万人もの観客が出て、ひしめきあっており、市内各所の順路でも、待ち受けている観客が多いのに、取りやめになると、大変な混乱になること、又、京都市の予算を多額に使い、準備万端ととのい、何千人という出演者が、衣裳をつけ終って、待機していること、テレビ中継のネット局の関係などが、考慮されたのだった。
それ以外に、心理的なものとして京都市をあげての、これだけ大きな祭が、凶事で中止ということになると、人心にも不安を与えるという、京都市側の要請もあったということだった。
再開された行列の第一番目は、徳川上使上洛、次は、江戸婦人列、豊公参朝、織田上洛、楠公上洛、中世婦人列、と続くが、麻沙子は、市長惨殺の光景が、目にちらついて、うわの空だった。幸い二番目についていた市会議長は危く難をのがれて無事だった。
上田教授と、鳥井アナウンサーもショックがおさまらないらしく、行列の背景となっている時代の説明など、もう一つ気の乗らない解説が続いている。
城南流|鏑馬《やぶさめ》列になったとき、アナウンサーが、急に、麻沙子に話しかけた。
「矢村さんは、この間の小説で、流鏑馬のことを書いておられましたが、あの馬上の武士の服装は、なんと言うんですか?」
「えーと、水干《すいかん》、綾藺笠《あやいがさ》、射籠手《いごて》、行縢《むかばき》、毛沓《けぐつ》という狩装束です」
麻沙子は、あわてたが、この間調べたばかりのことなので、なんとか答えることができた。
「やぶさめというのは、ああやって、馬に乗って走りながら、的を射るんですが、よほどの熟練がいるんでしょうねえ。私などだったら、手をはなして弓をもっただけでおちてしまいますが」
アナウンサーが言ったとき、馬上の狩装束の若者が、大きく弓を引きしぼって、矢を天空に放った。勿論《もちろん》、矢はあたらないが、見物は、わあっと湧いた。
やぶさめの次は、藤原参朝列で、その次が、いよいよ、今日の呼物の、平安朝婦人列である。
赤、青、緑のきらびやかな平安朝衣裳の貴族たちにかこまれて、黒い牛が引く牛車《ぎつしや》が、みすをたれ、しずしずと進む。静御前《しずかごぜん》、和気広虫《わけのひろむし》、小野小町、紀貫之《きのつらゆき》の女《むすめ》、清少納言、紫式部、常盤《ときわ》御前、横笛、巴《ともえ》御前、そのあとを、皇女和宮、蓮月尼《れんげつに》、玉瀾《ぎよくらん》、吉野大夫、出雲の阿国《おくに》、淀君、阿仏尼、というように、歴史上、あるいは文学上、美人で有名な女性たちが続く。
この頃になると、見物人たちも、市長の死のショックから回復し、女人列に、盛んな声援を送っている。麻沙子も、いよいよ出番なので、心をひきしめた。
アナウンサーの説明がはじまる。
「いよいよ、女人行列が、見えてまいりました。女人行列の中で、皇女和宮以外の人物には、祇園町、先斗《ぽんと》町、上七軒などの、芸妓さんが、一年交代で、扮《ふん》しています。ですからみんな、すばらしい美人です。えーと、今年の担当は、祇園町になっています」
そこで、鳥井アナウンサーは、麻沙子の方にむきなおった。
「ところで矢村さん、この列の中に、何々御前と言うように、御前のつく女性が、三人いますが、それぞれに有名な方ばかりです。この三人について、解説していただけませんでしょうか?」
「三人というのは静御前、常盤御前、巴御前の三人です。みなさんすでに、ご存知だと思いますが、簡単に、説明させていただきますと、行列の中で、馬に乗って、鉢巻きをしめ、一きわ目立つのが、巴御前です。髪は長く垂らしていますが、他の女人と違って、よろいを着て、太刀をたばさんでいます。源|義仲《よしなか》の寵愛を受けた美人ですが、武勇にすぐれ、常に、義仲に従って、部将として戦い、戦功があったということです。義仲が、義経《よしつね》、頼朝《よりとも》のために、敗走したとき、最後までつきそって戦ったのですが、義仲は、最期にのぞんで、女子と死を共にすることを、いさぎよしとせず、説得して、のがれさせたということです」
「能にも、巴という曲名があって、巴御前の霊が、甲冑《かつちゆう》姿であらわれますね」
横から、教授が、口を添えた。
「次に、常盤御前ですが、あそこに、笠をかぶり、緋色の着物を着て、しずしずと歩いているのがそうです」
「常盤御前は、牛若丸《うしわかまる》と弁慶で有名な牛若丸のお母さんですね?」
鳥井が言った。
「そうです。常盤御前は、源|義朝《よしとも》の妾《めかけ》となって、今若、乙若《おとわか》、牛若の三人を産んだんですが、平治の乱のあと、義朝が死に、三人の子を連れて逃げていく話は、有名です。しかし、平氏のきびしい追及にあって、自首し、その代り子供の命をたすけてくれるよう歎願します。清盛は、その美貌をみて、子供を助け、常盤を寵愛しますが、牛若は、後に、義経となり、平家を滅ぼします」
「素晴らしい美貌だったわけですねえ。さて次は、静御前ですが……今、放送席に、一番近いところを、歩いてくる、萌黄《もえぎ》色の衣裳が、静御前です。矢村さん、静御前は、はじめ、京の白拍子《しらびようし》だったんですねえ?」
鳥井が、慣れた調子で問いかけてくる。
「そうです。それが、義経にみいだされて、寵愛を受けるのですが、義経が、兄頼朝によって、京を追われたとき、吉野へおちていく途中で捕えられ、頼朝の前で、舞を舞うことになるわけです」
「しずやしず、しずのおだまきくりかえし、昔を今になすよしもがな……ですね」
鳥井は朗詠調で言ってから続けた。
「今、静御前が、放送席の前を通過しましたが、いにしえの静御前も、かくやとばかりに美しいですねえ。にっこり笑っています。……あ、どうしたのでしょうか。あ、あ、静御前が、倒れました」
麻沙子の目にも、のけぞるようにしてから、ぶっ倒れた静御前の姿がみえた。まわりのものが、静御前をとりかこんでいる。うしろの方では、事情がわからないので、行列は、どんどん進んできて、たちまち、立往生してしまった。
静御前をとりかこんだ人々の間から、「死んでる!」とか、「警察だ!」という叫びがきこえてきた。その途端、麻沙子は、勢いよく、放送席をとび出した。
静御前は、顔を紅潮させて死んでいた。それは、白く塗った顔に、紅をさしたようで美しかった。
再び駆けつけてきた、京都府警の捜査一課長が、それをみるなり、
「青酸死だな」
と、いった。
さすがに、重なる凶事に、主催者側と、警察側が話しあい、今年の時代祭は、これで、打切りということになった。
その旨が、放送されて、残りの行列が引きあげ、観衆が遠ざけられるのを待って、検死がはじまった。
麻沙子は、推理小説を書いているので、何度か、京都府警の捜査本部へも取材に行って、刑事たちとはなじみになっている。それに、今日は、放送局の人たちと一緒なので、主催者の一人のような顔をして、検死を見守っていた。
「体に、傷口もないし、皮膚に、青酸に触れた反応も出てないから、これは、青酸性毒物を嚥下《えんか》したものですね」
四十歳位の検視官が、捜査一課長に言った。それをきくと、一課長が、部下の刑事に、大声で命じた。
「死者の倒れたこの地点から、行列が通ってきたコースをさかのぼって、青酸を包んであった薬包紙かなにかが、落ちてないか見てくれ」
数人の刑事が駆け出すのをみたあと、一課長は、続けた。
「それから、この女性が、行進中に、薬を飲んだところをみたものがないか、見物人にあたってくれ。もう一つ、女人行列のグループの一人一人について、行列中に、この人が、口に手をやったり、薬を飲むのを見なかったか、又は、誰かが、薬を飲ませなかったかなどきいてみろ。収穫がありそうだったら、俺も同席するから呼んでくれ」
そのあと、一課長は、検視官と、刑事たちと、しばらくの間話していたが、真っ直ぐに、鳥井アナウンサーのところにやってきた。
「今日、時代祭の実況を放送しておられたのは、あなたですね?」
「はい。そうですが……」
鳥井は、緊張した顔でこたえた。
「一番よく見える席で、見ておられたと思いますが、何かお気づきになった点はありませんか?」
「さあ……」
「その実況は、ビデオテープかなにかに撮っておられるんですか?」
「そうです」
「何時からとってありますか?」
「十二時ジャストから、一時間半の放送の予定でしたが、途中、四十分、市長の事件で中断し、結局、二時まで放送することになりましたので、今のところまであります」
「それじゃ、そのビデオを、あとで、是非《ぜひ》見せて下さい。事件発生前後のことが、何かわかるかもしれませんから」
一課長は、頭をさげた。
「いいですよ。いつでもお見せします」
鳥井は、そう言って、制作部長の方へ、連絡に行った。
一時間後、死体は、自殺か他殺かわからぬままに、解剖のため運び去られ、刑事たちは、放送局が、時代祭中継のため、しつらえたテントの中で、捜査結果の話しあいをはじめた。
「時代祭を見学していた見物客にあたってみましたが、みんな、静御前は、直前まで変ったことはなく、口に手をやったり、何かを飲んだのをみた人はいません」
一人の刑事が、報告しおわると、他の刑事が立ち上った。
「私も、女人行列の十六人全部にきいてみましたが、得るところはありませんでした。静御前に、一番近いところを歩いていたのは、小野小町と、吉野大夫でしたから、この二人には、特に、念入りにききましたが、写真に写す関係から、行列中は一人一人離れて歩いていたので、何も知らないし、変ったこともないといっています。二人は、ここに呼んでありますから、一課長ご自身できいてみて下さい」
一課長は、うなずいて、もう一人の刑事を指した。刑事は立ち上って、報告をはじめた。
「私は、鑑識員と一緒に、静御前が歩いてきた道を、死亡地点から、逆順にたどっていきましたが、薬包紙は勿論《もちろん》、地上に、青酸がこぼれたあとも、水でぬれたあともありませんでした。念のため、今日一日に出た御所の庭の紙くずは、すべて保管しておいてもらうよう手配してあります」
「青酸性毒物は、即効性だから、行進中に飲めば、飲んだ時点から、異常がわかると思うので、これは、カプセルかも知れんな」
一課長が、そう言ったところへ、吉野大夫に扮《ふん》した女性が、刑事につれられて入ってきた。
吉野大夫というのは、島原の大夫で、詩歌、俳句、あらゆることに秀《ひい》で、しかも、大変な容色であったということで、京都人なら、誰でも美しさの象徴として知っている女性である。墓は、鷹ケ峰の常照寺にある。
その吉野大夫に扮する位だから、この女性も、美しい。鼻の高い、眼の涼やかな、ほっそりとした体形で、それが、きらびやかな大夫の服装をしているのだから、艶冶《えんや》きわまりない。
一課長も、しばらくは、じっとみていたが、まず名前をきいた。
「あなたは、祇園の芸妓さんだそうですが、お名前は?」
「市勇と申します」
「亡くなった、静御前になられた方は、なんという名前ですか?」
「静菊さんどす」
「親しかったですか?」
「え、まあ」
「なにか、自殺するような悩みをもってましたか?」
「いいえ。静菊さんは、今、一番の売れっ妓《こ》で、お客さんも多かったし、今日は、静御前になるので大喜びでしたわ」
市勇は、そう言って首をかしげた。
「今日、彼女に、なにか変ったことありませんでしたか?」
一課長が、重ねてきいた。
「気ィがつきまへんでした。これに出るのは、毎年交代なので、祇園町は、四年に一度しかまわって来まへん。それで、静菊さんは、はじめての経験やから、緊張して、胸がどきどきするとゆうてはりました。すんだら、みんなで打ちあげがあるし、そのあと、ボーイフレンドに会う約束をしてはりました」
「ほう、それは誰ですか?」
「京南大学の大学院生の上村陽一さんどす」
一課長は、部下の刑事に、目くばせをした。アリバイの裏づけをするためである。
「話がかわりますが、今日亡くなった市長を知りませんか?」
「ええ。お座敷では、何度か会《お》うたことがあります」
「静菊さんと市長は親しかったですか?」
「さあ、市長さんの座敷によく出ていたのは梅香さんの方やありまへんか。静菊さんは、梅香さんとは、あまり仲がええことなかったから、市長さんのお座敷へは出てはらしまへんでした」
「市長と静菊さんが、心中したということはありませんかねえ?」
「絶対にありまへん。静菊さんは、さっきも言ったように、ボーイフレンドもいたし、一流会社社長の旦那もいてはりましたから」
「もう一度ききますが、彼女が、毒を飲んだのをみませんでしたか?」
「みません。行列のはじまる前なら、心が落着くようにと言うて、カプセルに入った薬を飲んでましたが……」
「それだ!」
一課長が叫んだ。
「その薬は、どうした薬ですか、買ったのですか、誰かに貰《もら》ったんですか?」
市勇は、当惑したようにうつむいた。
「さあ、知りまへん。ハンドバッグの中から一つだけ出さはったような気ィがします。そのときは、外《ほか》の人もいましたから、誰かにきいとくれやす」
彼女が出ていったあと、小野小町が入ってきた。今の女性より、一層美しく、年齢も下のようだった。答えたことは、先の女性と同じようなことだったが、もう少し、詳しかった。
「……ところで、静菊さんが、控室で、カプセルの薬を飲んでいるのをみましたか?」
「ええ、みました。心が落着く薬やて言わはったので、わたしも欲しいわァとゆうたんどすけど、これは、今、人に貰《もろ》たんで、一つしかないよって、かんにんしてや、といわはりました」
「人に貰ったといったんですか」
「はい」
「誰に貰ったといってましたか?」
「知りまへん。朝九時頃、着物の着付をしているときには、風邪《かぜ》で頭がいたいけど、誰か薬もってはらへんやろか、私、何ももってこなかったとゆうてはりましたから、きっと、そのあと、誰かに貰わはったんやと思います」
「彼女が、誰かと喋っているのをみませんでしたか?」
「さあ、私は、控室ではそばにいませんでしたから。準備が出来てから出発するまで時間があったし、間で、市長さんのことがあって、又、四十分ほど待たされたので、その間、みんな自由に、庭へ出たり、廊下へ出たりしてましたので」
小町が外へ出たあと、さっきの吉野大夫が、もう一人の女性と一緒に入ってきて、思い出したことがあると言った。
「すると何ですか、死んだ静御前は、出番を待っている間に、サムライ姿の若い男と親しそうに話していたと言うんですか?」
一課長が、身をのり出してきいた。
「はい。さっきは、急なことで、忘れてましたが、今、この人に言われて思い出したんどす。行列がはじまるまで、あと三十分位あるので、私と、この人が、お手洗いに行ったとき、あの人たちは、木のかげで、話をしてはりました」
「あなたも、女人行列に出たんですか?」
一課長は、もう一人の女性の方にむいてきいた。
「はい。私も、祇園の芸者で、今日は、横笛になりました。あの男の人は、きっと、アルバイトで、時代祭に出た学生さんやと思います」
「じゃ、それは、静御前になった人の、ボーイフレンドだという、京南大学の人じゃありませんか?」
一課長がきいた。
「違います。顔を見ましたから」
「じゃ、今度、顔を見たらわかりますか?」
「さあ……」
と、二人は、顔を見合わせた。
「素顔だったらわからへんかも知れまへん。あのときのように、サムライの顔になってたらわかると思いますが……」
二人が帰るとき、一課長は、あとで、今日の時代祭のビデオの中に、そのサムライがいないかどうかみてほしいと頼んだ。
一通り、現場での取り調べはおわったので、一課長は、京都府警本部へ引きあげた。
直ちに、新館の二階にある捜査一課室で、会議が開かれた。
静御前の方は、まだ、自殺とも、他殺ともわからなかったが、市長の方は、明らかに他殺だった。市長は、翌日からヨーロッパの姉妹都市に行く予定で、元気いっぱいだったし、市長に再選されて、はり切っている時に、自殺する理由がなかった。それに、市長は、学者としては立派な人だったが、文科系で電気や薬品には弱く、ヒューズ一つ直せない人だったので、自殺するとしても、時限爆弾などで死ぬ筈《はず》がないというのが市長を知る人の意見だった。
会議は、まず、この市長殺人と、静御前の死亡とが、関係あるのか、別の事件かというところから討議が進められた。
若杉警部は、この二つの事件は、関連あるという意見だった。
「私は、市長の政敵が、市長のイメージダウンを計って、殺すだけではあきたらず、女性関係もあったかのような印象を、市民に与えるため、女性も一緒に殺したのだと思います」
木田警部の意見は、若杉とは又、ちがった。
「私は、二つの事件が関係があり、同一犯人だということでは、若杉警部と同意見です。しかし、若杉君の、犯人の目的が市長で、女性は、巻き添えだという意見には反対です。犯人の本当の目的は、女性の方じゃないかと思うのです」
「ほほう、それは?」
一課長が、真剣な顔をした。
「ただ、女性だけ殺すと、その身辺が洗われて、すぐに、犯人がわかるので、市長を殺し、なにか、政治的な大きな意図があるように、カムフラージュしたのではないかと思うのです」
刑事たちは、それぞれに、うなずいたり、首をかしげたりして考えていたが、その中の一人が立ち上った。野見山部長刑事だった。
「私は、市長は、赤軍派かなにかに殺されたと思うのです。そして、女の方は、全然関係なく、恋人かなにかそういう風な、個人的なことで殺されたと思います。つまり、二つの事件は、別のものだと思うのです」
それにつづいて、野見山の隣の十河部長刑事が立ち上った。
「私は、もう一つ考えられる場合があると思うのです。それは、捨てられた女が、市長を恨んで、市長を殺し、自分も自殺したという場合です。その場合、時限爆弾の仕かけについては、弟とか、身内のものに、協力者があるかも知れません」
みんなの意見が、出つくしたところで、一課長が立ち上った。
「では、どの意見にしろ、捜査方法は、同じでいいと思う。まず、市長の馬車に、何時《ヽヽ》、どうして、時限爆弾を仕かけたかということだ。事件後、調べたところでは、馬を切りはなした車輛《しやりよう》の方は、前日、点検と手入れをしたあと、今朝まで、倉庫に厳重に保管され、朝出してからは、人が、必ずついていたということなので、何時、どうして、爆薬を仕かけたかということが、大きな問題点なのだ。
それから、女の方だが、行列をする前に、女が喋っていた男が、果して誰なのか、事件と関係あるのかということを調べなければならない。幸い、放送局のご厚意で、ビデオテープを借りたので、これを、女人列に出た女性と一緒に、こちらもみせて貰い、参考にしたいと思う」
一旦、置屋《おきや》に帰って、祭の衣裳を着かえてきた吉野大夫と小野小町役の芸妓と共に、ビデオテープを見た結果、死んだ静御前と立ち話をしていた男は、維新の志士の一人、高杉晋作になっていた男とわかった。
府警では、直ちに、その写真を、何枚か複写して、当日の学生アルバイトを管理していた、時代祭事務局へ問いあわせたところ、前日になって、急に体の具合の悪くなった京南大生の代りにやってきた早田次郎という男であることがわかった。
すぐに、京南大学に写真を廻して照会するとこの学生は、早田ではなく早坂二郎で、京南大学医学部四回生であることがわかった。更に、大学当局の話では、早坂二郎の兄は、赤軍派の幹部で、ハイジャックに失敗して死亡した早坂一夫であることもわかった。
早速、早坂二郎が、府警本部によばれた。
府警本部にやってきた早坂をみて、刑事たちは、何となく、予想に反した顔をした。
ビデオで見た早坂は、維新の志士に扮していたこともあって、いかにも、政治運動でもやりそうな気鋭な若者にみえたが、こうして、素顔をみてみると、白皙《はくせき》端整な顔立ちで、聡明そうな好青年という感じだった。
中国では、昔、容貌が良ければ、それだけで出世も出来、立派な人物だと思われたそうだが、その時代なら、即座に、無実だと思われたような風貌だった。
しかし、捜査一課長は、そんなに甘くはなかったから、早速、取り調べをはじめた。
「あなたは、時代祭で、高杉晋作に扮しましたか?」
「はい」
「それでは、行列のはじまる前、静御前に扮した女性と喋っていたでしょう?」
「はい」
早坂は、悪びれなかった。
「何を喋っていたんです?」
「君、何という名前とか、きれいだねとかとりとめもないことです」
「彼女のボーイフレンドの京南大学大学院生上村陽一を知っていますか?」
「いいえ、知りません」
「彼女に、心が落着く薬だと言って、カプセルを渡したろう?」
「いいえ」
「彼女は、カプセルを貰ったといってたそうだぞ」
一課長は、はったりをかませた。しかし、早坂は、ひっかからず、平然としていた。
「じゃ、誰か、他の人に貰ったのでしょう。僕じゃありません」
「まわりの者が言ってるが、彼女は、君以外の人物とは喋ってないのだがね」
「私は知りません。彼女とは、あのときはじめて会って、むこうが、どこの大学? ときいたので、京南大だと言うと、急に親しみを感じたようすで、何学部? とか、何回生なの? とかきいてきました。こちらも、こんな美人と友達になれたらいいと思ったので、あとでお茶を飲まないかなどと誘っていたわけです」
「それでは、話を変えよう。君は、アルバイトの申し込みをするとき、何故、早田次郎などと、偽名を使ったんだ?」
「係りの人に、早坂と言ったんですが、相手が、早田とききちがえたんですよ」
「しかし、書類は、本人が書くことになっているんだろう。そこに、君の字で、早田次郎と書いてあったよ」
「係りの人が、早田さん、これに名前を書いて下さいとか、早田さん、出番は、これですよなどと、早田さん、早田さんと言ったあとなので、僕も、じゃ、偽名にしておこう、その方が、何かと都合がいいと思ったのです」
「都合がいいというと?」
「僕は、すでに、お調べでしょうが、赤軍派だった早坂一夫の弟です。これが、山田とか、中村というのならいいんですが、早坂一夫と早坂二郎では、すぐに、兄のことを連想するらしく、今までに、アルバイトが駄目になったこともあるのです。それに、時代祭のアルバイト位ならいいんですが、学生だから、随分つまらないアルバイトもやるので、将来、就職してから、ああ、あいつは、俺のところで使った男だなんて言われるのは困るからと、偽名にする学生は多いんですよ」
早坂は、にこにこ笑いながら答えた。
一課長が、しばらく黙っていると、早坂は、
「じゃ、帰っていいですか?」
と、出て行きそうにしたので、入口にいた刑事が、あわててひきとめた。
「それでは、今度は、市長が、時限爆弾で殺された件についてだが、今、君が言った通り、君の兄さんは、赤軍派で、爆弾作りの名人だったそうじゃないか。今度の調べで、爆薬の作り方や成分、時計との接触の方法など、赤軍派がやっているのと、同じだとの結果が出ているんだ。君も、爆弾が、作れるんじゃないかね? それに、このビデオを見てくれ」
そう言って、一課長は、ビデオテープの最初の部分を映した。
「このとき、君は、維新の志士として、鼓笛隊のすぐうしろ、つまり、市長の車からも、比較的近いところにいたが、行進が進むにつれて、前列から、後へ、後へと退がっている。そして、何度も、時計をみているじゃないか。しかも、爆発があった瞬間、誰よりも早く、身を伏せている。他の人たちは、まだ、何がおこったのかわからず、ぼんやりと突っ立っているのにだ。
君は、爆発があるのを、あらかじめ知っていたんじゃないかね?」
「知りませんよ。僕が、いつ、どうして、爆薬を仕かけたというんですか?」
早坂は、怒ったらしく、唇をかみしめた。
すると、端整なだけに、冷酷な顔になった。
「君は、昨日の午後から夜にかけて、何をしていたんだ? この馬車を見に行かなかったかね?」
「行きましたよ。午後三時頃」
早坂は、平然と言った。
刑事たちの方がおどろいてあわてた。
「えっ、行った? 行ってどうしたんだ?」
「友達が、都合がわるくなって時代祭に出られなくなったから代ってくれと言ったので、その旨、連絡しに行って、ついでに、時代祭用のものが、色々と展示してあったのを見に行ったのです。家庭教師をしている藤田家の奥さんと娘さんも見たいと言ったので、一緒でした。二人は、アルバイトの申し込みをするときは事務所の中には入らず、外で待っていたのです。だから、勿論《もちろん》、馬車も、車庫の戸をあけて展示してあるのを見ましたが、時限爆弾をしかけたりはしませんよ。手に何も持っていませんでしたからね。それに、馬車のところには、一分もとまっていませんでしたよ。一緒に行った藤田|母娘《おやこ》にきいて下さい」
たしかに、四時半に、車庫をしめたとき、馬車は、点検され、時限爆弾などなかったことは確認されている。
「そのあとはどうした? 夜は?」
一課長がきいた。
「そのあと、四条河原町で、食事をご馳走になり、つれだって藤田家へ家庭教師に行きました。おわったのは九時で、家に帰って寝ました」
これ以上は、仕方がないので、早坂を帰し、刑事が、裏づけに廻った。
早坂が、家庭教師をしているのは、伏見桃山の藤田伸一郎という会社重役の家だった。
刑事がたずねていくと、出てきた藤田夫人は、早坂の行動については、すべて正しいことを証明したが、警察に調べられるような、注意人物なのだったら、すぐに、やめさせたいと、顔をしかめた。
森下一課長は、若杉警部と一緒に、市長の馬車の入れてあった、御所の倉庫へ行った。
時代祭は、平安神宮の祭礼なので、道具類は、ほとんど平安神宮の方で保管しているのだが、行列が出発するのは、御所からなので、馬車などのように大きいものは、御所の方で、保管しているのである。
倉庫は、三方を厚い壁で囲んだ、ガレージのようなものだった。正面に、シャッターの代りに、頑丈な戸が閉められ、錠が下りていた。どこにも、窓はなく、出入口は、正面の戸だけだった。
入口の錠は、南京《ナンキン》錠のようなものがぶらさがっていて、よく見ると、四段の『数字合わせ錠』だった。
『数字錠』というのは、口紅のような小さな円柱形の鍵で、一段ごとに、0から9まで数字が書いてあり、7819という具合に、その錠のきまった番号を四段とも合わさないと、鍵があかないものである。
この番号は、暗号のようなもので、普通、鍵をもっている本人だけしか知らず、他人があけようと思っても、絶対といっていい程、あわないものである。
一課長と、若杉警部は、当夜、ここを管理していた神官を、倉庫の前へよんで、話をきいた。
「何度も、同じことをきいて恐縮なのですが、この場で、もう一度、時代祭前日の、馬車の管理について、おききしたいのですが……」
一課長は、三十歳あまりの、その神官に、丁寧にきいた。
「はい、市長と市会議長が、名誉奉行として、馬車に乗って、時代祭の先頭に立つのは、ここ十年ほど前からですが、馬車の管理については、ここ二、三年、特に、気をつけるようにとのことでしたので、充分気をつけていました。しかし、前日は、前夜祭のようなもので、各テレビ局や、新聞雑誌などの取材もありますので、時代祭に使う色々なものと一緒に、一日、展示することにしています。勿論、そのときに、手入れもし、点検もして、翌日にそなえるわけです。ここに入っていた車輛《しやりよう》も……」
と、神官は、倉庫を指さして言った。
「前日、十時に、私が、錠をあけ、戸を開いて展示し、夕方四時半に、警備の警官の方と一緒に、隅々まで点検し、ここにおさめたわけです」
「爆弾も、カチカチという音もしなかったんでしょうなあ?」
「勿論です。四時半に、ここにしまい、三人立ちあいで、私が、カギをかけました。まさか、時限爆弾が、仕かけられるとは思っていませんでしたが、市長が、祭の先頭をきることに、反対の人も、一部にはいるので、当日、市長が乗れないように車をこわされたり、焼打ちされたりしては、困ると思ったからです。
朝、出すときも、私が、一人で数字を合わせて出しましたし、車のそばには、ずっと、警察の方もおられましたから、朝出してから、爆弾を仕かけることは、出来なかったと思います」
「ということは、倉庫にしまわれていた、夜の内に仕かけたということですね」
「そうとしか思われません」
神官は、そう言って、疲労した顔をした。
「でも、夜も、二十分おきぐらいには、このあたりを、人がまわっていましたから、番号を知らない人が、番号をあわすことは、出来ないと思います。カギを買うとき、店の人が、番号を知らない人が、合わせようとしても、機械でもないかぎり、丸一日かかってもあかないといってましたから」
「そのカギの番号ですが、本当に、あなただけしか番号を知りませんか?」
一課長が、もう一度きいた。
「はい、この数字錠は、毎年、かえていますし、しかも、京都市内で買わず、東京で買ってくるのです。それも、五個一度に買って、その中の一個だけ、使うようにしているのです」
「なるほど、何故普通の鍵にしないのですか?」
「普通のカギでしたら、ちょっとした泥棒は、すぐ開けてしまいます。それに、カギ穴を作るようなカギでしたら、毎年カギを変えるわけにはいきません。色々考えた末、数字錠にしているのです」
「そのカギの番号は、立ち会った警官は知っていますか?」
「いいえ、私だけです」
「では、念のため、二人でやってみようか」
森下一課長と、若杉警部は、それから四十分ほど、一生懸命やってみたが、どうしても数字があわなかった。
「じゃ、捜査のため、私にだけ教えて下さい。カギの番号を」
最後に、一課長が言ったが、神官は、慎重な性格らしく、すぐには言わず、躊躇《ちゆうちよ》している。それをみて、一課長がうなずいた。
「じゃ、我々も、きかないことにしましょう。その方が、犯人の気持になって、実験することが出来るから。その代り、どうしてもというときは、教えて下さいよ」
神官も、今度はうなずいた。
翌日、一課長は、捜査員全員を集めた。
「鑑識その他からの報告で、時限爆弾は、十年位前に売られたA社の時計によって、仕かけられたものであることがわかった。従って、十二時間以内に、仕かけられたものであることになる。今の時計なら、十二時間以上あとの時間にセットすることは簡単だが、当時の時計では、十二時間以内にしかセットできないからだ。それで、爆発時間から逆算すると、夜中の一時以後に、仕かけられたものであることになる」
一課長は、そこで、言葉をきると、茶を一口飲んでから続けた。
「ということは、神官が、馬車を倉庫にしまった夕方の四時半には、神官の言葉どおり、時限爆弾は、仕かけられていなかったことになる。ところが、そうすると、どうして、数字錠をあけたかという謎《なぞ》がのこるのだ」
そう言いながら一課長は、机の引出しから、倉庫にかけてあったのと同じような数字錠を、たくさん出して、刑事達一人一人に渡した。
そして、この謎を解くよう命令した。
その日の午後、みんなが、数字錠を、ぐるぐるまわしながら、頭をかかえているときに、矢村麻沙子が、捜査本部へやってきた。
森下一課長や若杉警部とは、顔なじみなので、しばらく事件について話がはずんだあと、麻沙子は、数字錠に目をとめた。
「さっきから、皆さん、盛んに、錠をまわしていらっしゃるけど、何ですの?」
ときいた。
一課長が、事情を説明し、数字錠の一つを、麻沙子に渡して言った。
「矢村さんも、推理作家なら、この謎を解いて下さいよ。我々は、足とか、経験でやる捜査にかけては、誰にも負けない自信がありますが、こういうことは、苦手なんですよ」
矢村麻沙子は、しばらく錠をまわしていたが、さすがに、すぐには、知恵も浮かばないらしく、三十分ぐらいねばっていたが、駄目だった。
若杉警部が、矢村さんでも、やっぱり駄目ですかと冷やかすと、麻沙子は、むきになっていいわけした。
「この数字錠は、あわせる数字が、四段だから、数字の組み合わせは、十の四乗通り、つまり、一万通りあるわけですよ。だから、そんなに簡単には出来ませんよ」
「ほう、一万通りもあるんですかねえ」
若杉が、半信半疑のように言うと、麻沙子は重ねて、
「数学で言う重複順列で、十個のものから、重複を許して、四個とり出す順列ですから一万通りあるのは、間違いありませんわ」
といった。
若杉警部は、にやにやしながらきいていたが、お茶をついでわたし、
「では、それを一つ差しあげますから、家で、ゆっくり考えてきて下さい、期待してますよ」
と、皮肉をこめて言った。
二日後、捜査本部には、重苦しい空気が流れていた。時代祭の事件が、解決しないままに、又、一つの出来事がおこったのだ。
それは、市長の乗った馬車を管理していたあの神官の自決だった。
神官は、自分の管理している馬車に、時限爆弾が仕かけられて、市長を死なせてしまった自責の念から、壮烈な割腹自殺をとげたのだった。
捜査本部のものは、みんな黙っているが、内心では、この密室の謎がとけ、神官の手落ちではないことが証明され、犯人が挙《あが》っていたら、神官も死ななくてすんだのにという気持があった。
みんなが、一課長の机のまわりに、声もなく並んでいたとき、ドアのところから、華やかな声がきこえてきた。
矢村麻沙子だった。
麻沙子は、一課長と若杉警部にむかうと、ぺこんと頭をさげ、
「期待していただいたので、頑張って、カギの謎を解いてきましたわ」
と、言った。
十分後、一課長と、若杉警部と一緒に、矢村麻沙子は、御所の中にある倉庫の前に立っていた。
今日は、倉庫は、戸があいたままになっていた。自殺した神官が、開けておいてから死んだということだった。
麻沙子は、一課長に言った。
「じゃ、神官さんの代りに一課長さんが、自分の持っておられる数字錠を、戸につけてカギをかけてみて下さい」
一課長が、錠をかけると、しばらくみていた麻沙子は、
「今度は、私に数字がみえないようにして開けてみて下さい。そして、番号をまわしてわからなくして下さい」
といった。
一課長は、言われた通り、数字をあわせて錠をあけると、そのあと、ぐるぐると廻して、数字をかえた。
「あの日、この状態で、カギがあいたままだったのですね」
そう言いながら、麻沙子は、カギをしばらく触っていたが、
「じゃ、あの日の夕方の四時半になったと想定して、錠をかけてみて下さい」
といった。
錠は、麻沙子の前で、カチンとかかった。
「では、夜中になりました。開けますよ」
麻沙子が、カギに触って数字をあわすと、再び、カチッと音がして錠があいた。
一課長と若杉警部は、思わず、
「あっ」と言った。
「じゃ、今度は、若杉警部さんのお持ちになっている錠をかけてみて下さい」
半信半疑で錠をかけた若杉は、今度も、見事に開けられて、今度こそ本当に、うなった。
その日の午後、捜査本部に、早坂二郎が呼ばれた。
一課長は、早坂の顔をみるなり言った。
「市長と、静御前を殺したのは、お前だな。動機もわかっている。市長を殺したのは、兄の仇だ。お前の兄が、十年前ハイジャックし損《そこな》ったのは、当時、大学教授で、ハイジャック機に乗っていた市長が、うまく警察に連絡したためだった。又、静御前を殺したのは、市長に女性関係があるように見せかけるためもあったが、彼女の恋人の京南大学院生が、お前たちの組織から逃げようとしたため、制裁を加えたのだ」
黙ってきいていた早坂は、静かに言った。
「僕が、どういう風にして、倉庫の錠をあけたというんですか?」
「簡単なことだよ」
一課長は、そこで咳払《せきばら》いをした。
「君は、午後三時に、倉庫を見に行ったとき、開いたままで、引っかけてあった数字錠と、自分が買ってて、数字のわかっている錠をすりかえたのだ。何も知らない神官は、四時半になって、そのカギをしめた。君は、夜半に忍び込み、自分の知っている数字をあわせて、そのカギを開け、時限爆弾を仕かけたのだ。そして、帰るとき、今度は、最初かかっていた錠をかけたのだ。
翌朝、神官は、自分だけしか知らない数字をあわせ、カギを開けることが出来たので、ずっと、そのカギが、かかっていたと信じていたのだ。どうか、違うかね? 君が、5534という数字錠を、市内の金物店で買ったのはわかっているのだ」
しかし、早坂は、しぶとかった。
「ええ、僕は、その数字錠は持ってますよ。別にやましいことはないから、机の引出しに入れてありますがね。でも、今の方法で、僕がやったという証拠はないでしょう。神官が持っていた錠に、僕の指紋でもついてましたか?」
一課長は、しばらく、早坂二郎の顔をみていたが、叩きつけるように言った。
「君は、もう一度返す錠に、指紋がつかないようには、充分注意しただろう。だから、神官の持っていた錠には、君の言うように、君の指紋はなかった。しかし、君が買った方の錠に、神官の指紋がついていたよ」
角川文庫『京都の祭に人が死ぬ』平成4年2月25日初版刊行