山本道子
ベティさんの庭
目 次
魔法
雨の椅子
老人の鴨《かも》
ベティさんの庭
わがままな幽霊
[#改ページ]
魔法
白い天井の中央についているプロペラみたいな大きな羽が静止していた。
三枚の羽はそれぞれが、わずかに捩《ねじ》られたかたちをしていて、先端から中心に向って、油埃《あぶらぼこり》がしだいに薄くなっているのがわかった。
頭上でいつも休みなく廻っているはずのものが、埃まみれで見窄《みすぼ》らしく、気の抜けたようにじっとしているのが、いかにも余計ものに見えた。
やっと涼しい季節がやってきた。朝子は、動かない天井の扇風機を見てそう思った。あと二カ月ぐらいは冷房もいらない。
六月になって乾いた季節がはじまると、木枯もさかんに吹いた。熱帯の強烈な太陽の機嫌を損ねることもなく、その気まぐれな闖入者《ちんにゆうしや》は午前中いっぱい、ときには一日中、軽快に吹き荒れて、海の向うへ走り去っていく。
芝生には水が欠かせなくなったし、急に落葉も多くなった。ハイビスカスの生垣にも、いくらか花がすくなくなった。ブーゲンヴィリアも、フレンジ・ベニーもすくなくなった。そのかわり背の高いポインセチアは、空に向っていくつもの真赤な花が燃えるように咲いている。
冷たい風が吹きさえしなければ、植物が枯れさえしなければ、陽射しがいくらか和らぐだけで、この地方の風俗にも生活にも一年中、これといった変化はない。
一昨年も去年もそうだったが、この頃になると、朝子は季節感というものを、どうにかとりもどすことが出来た。
ブラインド式のガラス窓を閉めきって風を遮《さえぎ》ると、室内はひんやりして、いやに静かだった。裏庭に面したベランダへ通ずるドアを開けると、大きな風が気忙《きぜわ》しく走り抜けるのがわかった。すぐ眼の前のマンゴーの、思いっきり繁茂した巨木が、ちいさな花の群をつけて、ところどころに紅葉を見せながら光っていた。陽が眩《まぶ》しすぎた。
朝子は、熱い番茶をモーニングティー用の大きな茶碗に淹《い》れて、ベランダのテーブルに置いた。それから居間に戻ると、ソファの上に脱ぎすててあったカーディガンをとって、ベランダの椅子に放り投げた。そして、材料を日本からわざわざとり寄せて作ったスリッパで、ばたばた音をたてて室内を歩きまわり、クールをどこへ置きわすれたか捜した。
スリッパの底はフェルトで、爪先《つまさき》の部分はストロヤーンの複雑な模様編で、その縁を手のこんだ刺繍《ししゆう》で飾ってあった。
朝子は、ここへ来てすぐの頃、さまざまな配色で七足のスリッパを作りあげた。七足を作るのにさほど日数はかからなかった。彼女は、何事も一気|呵成《かせい》に仕上げずにいられない自分の性分を、つくづく悪癖だとこのときも思った。冷房のとりつけてある寝室で、息もつかずにこの作業にはげんだ。そして七足目の最後の片方にかかったときには、もう精根つき果てて、首筋と背中がみしみし痛み、眼が疲れきって、窓外の太陽に殺されそうな気配さえ覚えた。そこで一ダースの予定を七足で打ち切りにした。だから朝子の勝手な理由によれば、客は五人までであった。二足は自分たち夫婦のものだから、客をする場合は五人以下でなければならなかった。いずれ残りの分を、気のむいたときに仕上げようという気はまるでなかった。するだけしてしまうと、憑《つき》ものがおちたように興味をなくした。だから、熱中するということは、朝子の場合はやはり悪癖かもしれなかった。
来客があると、ドアの前にスリッパを並べて、強引に靴を脱がせ、大きな足を華奢《きやしや》なスリッパに入れさせた。男の客たちは、爪先でそれをなんとか突っかけて、戸惑った莫迦《ばか》笑いを顔に浮べて、自分たちを突飛な目に遭わせている日本の女を、あらためて見返した。女客のほとんどは、大袈裟《おおげさ》に感嘆の声をあげて、しばらくは足もとに話題が集中した。昼間やって来るごく親しい女友だちとか、化粧品やプラスティック食器のセールスの職業婦人たちは、埃と汗で汚れた足で、こんな美しいものを履くわけにはいかない、と遠慮して素足で上って来ることもあった。もっとも、この国の人間が都会でも田舎でも、屋外や室内を素足で歩くことを好むのは、見馴れてくるとよい習慣に思えた。とくに若い娘たちが、歩道を海岸ととり違えているような跣《はだし》で、足早に通り過ぎるのは、朝子の好みにぴったりだった。
ベランダに置いてあるテーブルは、六個一組の小テーブルのひとつで、本来は全部を寄せると、やや大きい円テーブルになる仕掛けだった。小テーブルは三脚だから、円テーブルひとつに寄せ集めると、十八の脚になって、テーブルとしては莫迦げていた。これは朝子の好みに合わないものであった。ちょうど円いケーキを六人分に切り分けたときのように、ひとりひとりの膝《ひざ》もとへ、茶菓や灰皿をのせて移動させることが出来た。しかし中央にあるべきものを、ばらばらに分割してサイドテーブルに移した場合、そのあとがいやに間が抜けて見えるし、とにかく形といい三脚の不安定さといい、朝子はつかうたびにいつも落着かない気分にさせられた。こんなテーブルを造ったり、買ったりする人間の気が知れなかった。朝子はこの家つきの十八脚のテーブルをばらばらにして、どれも目立たない隅へ追いやった。
ベランダには他に、チョコレート色のペンキが剥《は》げかかった古惚《ふるぼ》けた籐《とう》椅子が置いてあった。それはいかにも熱帯風で、南方物語りを舞台にかける場合には、欠かせないであろう芝居の大道具のようであった。
朝子はその椅子に腰かけて、カーディガンを羽織り、両|膝《ひざ》を抱えこんで、クールに火を点《つ》けた。そして思わずマッチの燃えのこりを投げ捨てたところは、灰皿ではなく熱い茶碗の中であった。マッチはじゅと音をたてた。朝子は茶碗の中をのぞきこんだ。それから、とにかく茶を淹れかえようと中身を捨てた。しかし階下の熱帯植物のあるちいさな植込みに落下したのは、中身だけではなかった。街のウールワースで七十五セントで買った茶碗は、植込みに投げこんである大小の石にぶつかって、破片になって散らばっていた。どうして茶碗ごと捨ててしまったのか、朝子は、しばらくぼんやりして手摺《てすり》から身をのり出していた。
この土地の家屋は、たいてい橋桁《はしげた》風の二階家だった。一階は吹き抜けで、ガレージや物置や洗濯場になっていて、住まいは二階なので、庭の樹木は下から見上げるより、眼の高さに繁茂した葉末を見ることの方が多く、庭全体のみどりの濃淡もよくわかった。
ベランダから身をのり出したまま、朝子は隣家へ眼をやった。丈の高いユーカリの樹が、白いペンキを斑《まだら》に吹きつけられたような幹を見せて立っていた。隣家は昨日とまるで違った表情で静まりかえっていた。窓も入口の扉もすっかり閉ざされていた。朽ち葉の垂れ下がった数本のバナナの向うに、隣家のプールは、明るいブルータイルが陽をうけていた。プールに水もないし、ビーチパラソルも片付けられて見えなかった。二頭のグレーハウンドもいなかった。ケンプ夫人のピアノもきこえなかった。
ケンプ夫妻と犬たちは、キャンベラへ着いたはずであった。最北のD市がこの陽気では、キャンベラは寒いことだろう。朝子は椅子に戻って、背をまるくして膝を抱えこんだ。
朝子が夫や子供と南を一周したのは、去年の三月だった。キャンベラの人工的で公園じみた政治都市は、一日観て廻っただけで、たちまち退屈した。活気に満ちた人間の生活はどこにもなかった。ショッピング・センターも人の姿がまばらで、街の中心部の小公園は、新しいばかりのよそよそしさで、暑い陽盛《ひざか》りの甃石《いしだたみ》に、ハトが遊んでいた。また、街のいたるところにアカシアが黄金に咲き乱れていた。それはしかし、あまりにも整然とした人工都市の美しさというよりも、花までもとり澄ました不自然なたたずまいであった。
ケンプ夫人は、自分たちはパースへ帰りたかった、と朝子に云った。しかし、引越す先はどこであれ、この熱帯の田舎を去ることだけで浮きうきしていた。
「アサコ、あなたがたも、すぐ東京へ帰れるでしょう。東京へ、日本へ」
彼女は、勝手に朝子の表情に羨望《せんぼう》を読みとって元気づけるように云った。
ケンプ夫人が巨体を揺すって階段を下りて行くのを見守りながら、朝子は躊躇《ためら》ったのち呼びとめた。
「ショーンは、もう一度ここへ帰って来ますか」
ケンプ夫人の足は、大きなロボットのようにぎこちなく階段の中途にとまり、ひと息入れて振り返った。それから手摺に重い躰《からだ》をもたせ掛けるようにして、すこしの間言葉を捜すような素振りで、斜め下の庭の一角に眼をやった。それから急にとってつけたように陽気に云った。
「そうそう、ショーンのことを忘れてたわ。あの子はどうしても一度ここへ帰って来たいらしいの、その必要はないってわたしは電話で云ったんですけど。大学が休暇になったら、ブリスベーンからキャンベラへ帰ればいいのに。とにかく彼の車は置いて行きます。ショーンが自分でキャンベラまで運ぶらしいから」
そして夫人の眼は、まともに朝子を見据えて云った。
「アサコ、あなたのところへショーンから手紙が来ますか」
朝子は首を横に振った。
「さようなら、アサコ」
夫人はだしぬけに、五本の指をひらひら動かして云うと、くるりと背中をむけて階段を下りはじめた。
その後朝子は彼女に会わなかった。隣家は毎日慌しく引越しの準備をしていたが、朝子は、今朝になってその不在を知ったのだった。それは突然といえないこともなかった。あれから十日ぐらいあったのだから、一度や二度はケンプ夫人と垣越しに話をすることも出来たはずであった。ショーンがいれば、深夜でも空港へ見送りに行ったかも知れなかった。
「ショーンはあなたがたを知って、人生を決めたようなものだわ。あの子が大学で専門に日本語を勉強するって決めたのは、あなたたちのおかげですよ。それまでのショーンはわたしの日本|贔屓《ひいき》に関心をもたなかったのに、はじめて知りあいになれた日本女性に動かされたのよ」
「ショーンが、はじめて親しくなった日本女性は百合《ゆり》だわ」
朝子は笑った。ケンプ夫人も笑いながら、プールの中でショーンにしがみついて騒いでいるちいさな百合を見やった。
その日も、夫人の午後のお茶に招かれて、朝子はプールサイドの陽陰で夫人の相手をしていた。夫人が肩をすくめて笑うと、よく動く灰色の瞳《ひとみ》はたるんだ瞼《まぶた》のおくで片隅に寄って、陽気な魔法使いのようであった。
ショーンがプールから這《は》いあがると、彼の裸体で水滴が光って散った。彼はバナナケーキを一切れ口に放りこんだ。あとからビキニ水着の百合が走って来て、朝子の膝にからみつくと、母親にだけわかる日本語で云った。
「百合ねえ、潜ったのよ」
「本当かしら、潜れればすぐ浮くようになるわ」
ショーンが母子の会話を知りたそうに首を傾《かし》げて、朝子と百合を交互に見た。
「あなたはいい先生ね、ショーン。ユリは潜れるって自慢してるのよ」
ショーンは若者らしく、口をいっぱいに開けて笑った。
「さっきの騒ぎ見てなかったの、頭をこうもって、ちょっと顔を水につけただけで、ユリは泣き叫ぶんだ。こっちの方が怕《こわ》くなってやめたんだよ、気の弱い先生だね、ぼくは」
「四歳じゃまだ水が怖《おそ》ろしいのよ、そのぐらいの方がいいのよ、この辺の子供たちは、もうカエルみたいだけど」
夫人は肉のたるんだ太い腕を宙に泳がせて肩をすくめた。
金髪の青年と、ちいさな百合は並んで草の上に腰をおろして、冷えたレモネードを飲んだ。
ケンプ夫人はパルプをあつかっているケンプ氏の仕事の関係で、二度日本の観光旅行を経験していた。そのことが彼女の最大の自慢であり、ドラマでもあった。
「日本のようにすばらしい国はないですよ。いい? ショーン、レストランやティールームに入ると、可愛い娘さんがすぐ水の入ったコップを持って来るの。タクシーは自動扉だし、アサクサはちいさな商店が蜂の巣みたいにぎっしり並んでるのよ」
朝子は苦笑した。大袈裟な夫人の表現は、いつも同じことの繰り返しで、冗談だか本気だかわからなかった。アサクサが蜂の巣なら、サクラは空に流したストロベリーミルクで、寺は沈黙のストーリーであった。そして彼女が日本を誉めそやすお返しを、朝子はいつも省略するわけにいかなかった。夫人は喋《しやべ》るだけ喋ると、オレンジ色の口紅で塗りつぶした唇をひき結んで、首を心もち傾けて、朝子の言葉を促すようにじっと見据えるのだった。そんなとき、朝子はいつも夫人の口のまわりの皺《しわ》を見ながら、途方もない暑さを覚えた。夫人のよく動く唇がぴったり閉ざされると、皺は待ちかまえていたように現われた。
その毎回同じ会話の繰り返しと、同じ表情との対面で、朝子はとくに暑さの酷《ひど》い午後など、いってみれば夫人の口元でめざましく生きている皺に脅迫されているような気分になった。そして慌てて、夫人の国への賛辞を並べたてた。例えば、広びろとした大自然、夜空の美しさ、健康でのびのびした人柄の良さなど、思いつくことをなんでも並べた。
あるとき、朝子は自然の花ばなの美しさをあげた。すると、それまで大きく頷《うなず》きながら満足そうに朝子の言葉に耳をすましていた夫人は、灰色の瞳を忙しく動かして、考えこむ素振りを見せた。そしておもむろに、そうでしょうか、と反問した。朝子は慌てて、色彩の濃い自然の花は美しいと強調した。いいえ、それはすこし違います、と夫人は首を振った。自分は日本の花の美しさを見てから、この土地に咲く強烈な色彩の花には、はかない美しさという美の主題が欠けていることに気がついた、とのべて、朝子を驚かせたことがあった。朝子はそして自分のおざなりの会話を恥じた。
朝子は、ビーチパラソルの下でよく目眩《めまい》を覚えた。その視界は、空も水もみどりも、紺碧《こんぺき》とレモン色の渾然《こんぜん》としたむらむらの中に溶けこんで、絶えず顔や首筋の汗を拭っている夫人の白いハンカチーフが、遠い海に浮んだヨットの帆のように一点に、|つん《ヽヽ》とひっかかっていた。そんなとき朝子の思考は、この暑さはなにごとだろう……という一言に狭められて、どうにか自身を喪失しないで、これにしがみついて立ち直ることが出来た。それは不思議な感覚であった。朝子にはこの目眩の現象が、自分の脳裏に起るよりも、むしろ外界が肌を透《とお》して精神に働きかけている急変のように思えた。
ショーンが屈託なく朝子を海や、夜のプールに誘ったのはいつ頃までのことだったか、朝子はちょっと想い出せなかった。朝子の気がつかない間に、何か変化が起ったようであった。ショーンはいつの間にか、以前のように健康で人なつこいだけの隣家の息子ではなかった。
彼の白い歯ならびや、短い金髪や、赤く陽焼けした首筋など、まだ一人前の男になりきらない青年の率直さと一緒に、しばしば朝子に居心地のよい雰囲気《ふんいき》をあたえはしたが、それ以上の好奇心は朝子に覚えのないことであった。ショートパンツだけの汗みずくの彼が、夫の良介と暑い陽射しのバナナの樹の下で、話しこんでいるようすを、朝子はいつかベランダから垣間《かいま》見て、一瞬こちら向きの彼から、眼が離せなくなったことがあった。朝子のところから、ショーンの躰の汗がはっきり見えたわけではないのに、彼の若い裸身に、絶えず汗が吹き出ているということを、朝子は眼のあたりに見たような気がしたのだった。それどころか、ショーンのひとつひとつの毛穴から、きらきら汗が吹き出て、それがすうっと流れるのを、指先でなぞったような気がしたのだった。それは錯覚とは思えなかった。錯覚でなければ夢の中の記憶だったろうか。それでもなかった。その感覚はやはり現実のものであった。ショーンがいつも汗に濡れているということが現実であるかぎり、朝子は自分の指先の感触を信用しなければならなかった。ショーンはさかんに銃をかまえて、遠方を狙うかっこうをしていた。二人の男は鴨《かも》撃ちの相談に熱中していた。良介は腕を組み頻《しき》りに頷いていた。二人の背丈がほとんど同じなのに朝子は気づいた。しかしショーンの身長が高いと漠然と思いこんでいたことが、プロポーションの相違だけではなく、全身から溢《あふ》れている若さという測り知れない肉体の証明だということに気づいた。
良介は駐在員という多忙な身でありながら、この土地でのあらゆる気晴しを漁《あさ》っていた。朝子から見れば、呆《あき》れるばかりの貪欲《どんよく》さであった。
太陽が、人の生活に隠微な陰をあたえないような開放的な土地柄で、気晴しといえば、どれも大自然に与《くみ》するもので、暑さから逃れることばかり考えている朝子には、思いもよらないものばかりであった。
それは深いブッシュで鴨や鵞鳥《がちよう》を撃つことだったり、広いだけの荒れたコースのゴルフだったり、何時間車を走らせても変りばえのしない、海とブッシュと赤土の中のピクニックだったり、近辺の浜辺をさけて、わざわざ一日がかりで肌を焼きに遠い海浜まで出かけたり、海にボートを出して終日炎天で釣をしたり、どれも朝子にとっては、一度経験すればたくさんだった。
また、知り合った人びとと、互いに招きあってだらだら時間を過す屋外パーティも、朝子にとっては忍耐が必要だった。
思考する言語と口からとび出す言葉が違うということは奇妙なことだった。この土地に住みついて、すぐやって来た朝子の倦怠《けんたい》は、つきつめれば日常会話の退屈さにあった。自分が外国人であるということは、この倦怠から逃れられないことであった。それは孤独とはすこし違っていた。そして暮していくために言葉というものが、さして必要ではないという思いがけないことに気づいた。朝子には自分程度の会話力でも生活に支障がないということが驚きであった。
人びとは、茶を飲みながら、酒を飲みながら、変りばえのしない会話を交わしていた。これは言葉ではない、と朝子は思った。ちょっとした挨拶の連続にすぎない。言葉がこれほど軽いものだということが奇妙であった。東京での生活を朝子は思い返した。日常会話はやはりこれ以上のものではなかった。それにもかかわらず、朝子は馴れない言葉に接して、やっと言葉の軽さと退屈さを知ったのだった。
ショーンとどんなことを話しあったか、朝子は想い出せなかった。
彼は大抵、激しい陽光を半裸で受けて、朝子のサングラスの向うで、ことさらに眩しい眼差しをしていた。そのショーンのようすは、もう長いこと壁にかけてある絵のように、部屋の空気や住人の眼にすっかり馴染《なじ》んで、その場所からとり除くことなど、もはや考えられないもののように、朝子の内側にいつもぶらさがっていた。
二頭の犬を連れて毎夕海へ行くことが、その頃のショーンの日課だった。彼が運転する黒いジープに、立ったままの犬たちがそれぞれの頭を両側に突き出して、さも空や路上の風景を眺めているように、きょろきょろしながら乗っていた。鎖もなしに扉のない車におとなしく乗っている犬たちが、朝子には面白かった。
ショーンはある日、朝子と百合を海に誘った。犬たちはいつものジープではなく、車のついた檻《おり》に入れられ、ショーンの運転する白いヴァリエントにひかれて運ばれた。水泳パンツだけのショーンのとなりに朝子が乗り、百合は後部で、檻の中の犬たちがおとなしく揺られているのを飽かず眺めていた。
五分も走ればめざす海辺だった。砂の上に立つと湿った夕暮れの空気が、全身をつつんだ。眼の前で真赤に熟した太陽が落ちようとしていた。
海辺に下りるまでの小高い砂地のあちこちに、榕樹《ようじゆ》が恐ろしい怪物のような姿で立ちはだかっていた。生い茂った枝から、根が何本も垂れ下がり地面にとどいていた。巨木になるとこのようすはとりわけ異様だった。どれが本来の幹かわからないほど、何本もの根がくねくね絡みあったり、ぴったり密着しあって、地下に潜りこもうと|※[#「足へん+宛」]《もが》いていた。
ひとつの榕樹の下で、二十人ほどのギリシャ人の家族連れが、食べちらかした中で遊んでいた。彼らは車座になって、ちょろちょろ燃える火で肉を炙《や》いていた。女たちの酔った悲鳴のような笑い声が、すでに海にかかった太陽を震わせていた。この集団以外に人影はなかった。
檻から出された犬たちは、太いロープで繋《つな》がれて、早くも荒い息を吐きながらショーンの命令を待った。
「走れ!」
二頭のグレーハウンドは、砂を蹴立《けた》てて走った。ショーンの長い脚も走った。海に向って、彼らは風のように駆けて行った。百合は、朝子の手にしっかり掴《つか》まって彼らを見送った。
「どこへ行くの、ショーンと犬は」
「海よ」
「もう帰らない?」
朝子にはわからなかった。ショーンは帰って来ないかもしれない。朝子が眩惑《げんわく》されたのは、現実が嘘のように鮮明すぎたからだった。
潮は満ちていた。
ふたつの犬の頭と、ショーンの頭が海面に浮遊していた。朝子は息をのんで、それを見守った。それらが見え隠れする灰色の海面に、太陽は半ば沈んだ。
「ショーンはどこへ行っちゃったの」
朝子は百合の問いに、黙って太陽を指差した。
ギリシャの子供たちが、波打ぎわで声をあげて走り廻っていた。百合の関心はその方に動いた。彼女は朝子から離れると、子供たちの方へ駆けて行こうとした。朝子は思わず百合をひきとめて、しっかり手を握った。
「ここで見てるのよ、ショーンが帰って来るのを」
母子で手を繋いで、異国の海辺で日没と向きあったまま、じっと何を待っているのだろう、朝子は|ふと《ヽヽ》、不思議な気分に酔っていく自分に気づいた。
波打ぎわに近いところに、突然ショーンの上体が見えた。朝子の遠い視線は裏切られたように戸惑った。彼の躰がすっかり現われた。犬たちはショーンにひかれてたどり着くと、波打ぎわで大きな身顫《みぶる》いをした。
もう空に太陽はなかった。ギリシャの女たちの燃やす火が、薄暮の中で大きくなった。
ケンプ夫人は客を招くのが好きだった。大勢の客が集まるパーティもよく開いたが、毎日のように、夫人のお茶の時間には誰かしら人が招かれていた。週に一度か二度は、朝子にも声がかかった。
午前十一時のお茶の時間は、百合を幼稚園に迎えに行かなければならないという理由でいつもことわった。昼のさなか、冷房のない部屋で紅茶を飲みながら、夫人の焼いたクッキーを賞味するのはあまり気のすすむことではなかった。
ケンプ邸は、この界隈《かいわい》きっての美邸であるが冷房装置はなかった。ブラインドのガラス窓に、さらにプラスティック製のブラインドをおろして、その上にレースのカーテンを引いた部屋は、ひんやりして薄暗かった。大きな木製のキャビネットには、ガラス食器がびっしり入っていて、その冷たい大きな装飾は、この部屋にぴったりだった。また一方の壁ぎわには、これもひんやりと黒光りしているアップライトのピアノが置いてあり、その上に茶色と黄色のドライフラワーが、カットグラスの花瓶から天井に向って、放射状に突き出ていた。花のミイラは、すでに何の花か見わけがつかないどころか、およそ花とは見えないほど変り果てた姿をしていた。
十一時に客を招《よ》ぶと、彼女はきまってピアノを弾いて、メゾソプラノで歌を聞かせた。この時間はどうやら、ケンプ夫人の声帯の調子がいいようだった。胸を張った大きな夫人が、ピアノを弾きながら、弛《ゆる》んだ喉《のど》を顫わせて歌っている姿を朝子は想い浮べた。一曲終るたびに、客たちの拍手がまばらに聞えた。歌はいつも、朝子の知らない曲ばかりで、感じとしては、ひと昔前の女学生唱歌のようであった。
午後四時のお茶の時間は、二月の雨季以外はプールサイドの木陰で過した。朝子が招きをうけるのはこの時間で、かならず水着の百合が一緒だった。
ケンプ夫人は午睡から覚めたばかりの面持ちで、ミニスカートからはみ出た太股《ふともも》をぶるぶるさせながら、階段を上がったり下りたりして、お茶の支度をした。
あるとき、朝子よりすこし遅れて、一台の灰色のフォルクスワーゲンが、ケンプ家の庭に入って来た。木の間隠れに淡いブルーのパンタロンの女が見えた。つづいて真赤な水泳パンツの男の子が車からとび出して、走り出て来た。母親らしいパンタロンの女は妊婦だった。彼女の大きく突き出た腹は、薄いブラウスに被《おお》われていた。
ジョアンナというその小柄な女は、大層ひかえめで、もの静かだった。しかし彼女のアイシャドーの濃いブルーの大きな眼は、朝子をまじまじと無遠慮に見ていた。そして低い落ち着いた声で、
「この土地を好きですか」と初対面の誰もがする質問をした。好きだけれど、ウェットシーズンは暑すぎる、と朝子は答えた。ジョアンナは、皮膚の薄い鼻に皺を寄せて笑いながら云った。
「そうね。わたしもパースから来たばかりなのよ。まるで外国へ来たような気がするわ。夫の仕事で五年ぐらいの予定なの。ここを好きかってこの土地の人に訊《き》かれると、わたしもあなたと同じ答えかたをすることにきめてあるの、すばらしいとは云えないでしょう、こう暑くては」
朝子は、ジョアンナの大きな染《し》みが点てんと浮き出ている腕とか、ブラウスの胸もとからはみ出ている脹《ふく》れあがった乳房のはじまりを見ていた。朝子は、出産の予定日を訊いた。ジョアンナは、あと三週間だと答えた。薄茶の髪は思いっきりカットされていて、彼女が大儀そうに躰を捩《よじ》って、席を外しているケンプ夫人に話しかけるとき、耳の後ろのくぼみにある大きな染みまで、はっきりと見えた。
ジョアンナはやがて立ち上がると、いきなりパンタロンを足もとに落した。朝子は不意の出来事に出くわしたようにびっくりした。いかにももの静かに話をしていた彼女が、突然|穿《は》いていたものを脱ぐというのは、辻褄《つじつま》があわなかった。ジョアンナの臨月の腹は、妊婦用の黒い水着の下で無惨に息づいていた。彼女が両腕を上げて、ブラウスを脱ぐと、むき出しになった赤茶けた腋毛《わきげ》や、フットボールのような大きな乳房から、朝子は眼が離せなかった。
彼女の躰は妊娠の兆候が現われていない部分は痩《や》せていた。細い肩や腕や足と、不均衡な胸や腹や腰の部分が、一個の女の躰を完全にデフォルメしていた。
真蒼《まつさお》の空を吸いこんで澄みきった水の中で、黒い水着につつまれたジョアンナの白い躰が脹れあがって、ぽっかり浮ぶのが見えた。
「こっちの子供たちが泳ぎが上手なわけだわ、お腹にいるときから泳いでるんですもの」
朝子はケンプ夫人に感嘆して云った。
「日本の妊婦は泳ぎませんか」
夫人が真顔で訊いた。朝子は、日本の妊婦が、長い布やコルセットで神経質に保護することを説明した。
「でもこの暑さではコルセットは無理でしょう」とつけくわえた。
ケンプ夫人は生真面目《きまじめ》な面持ちで、
「アサコ、あなたがユリを産んだとき、ステッチをしましたか」と訊いた。
「ステッチ?」
朝子は聞|咎《とが》めた。
「ええ、ステッチです」
ケンプ夫人は重おもしく繰り返して、朝子の顔を凝視した。縫ったか、ということは出産のときの裂傷が出来たかどうかということだった。朝子は戸惑いながら、なかったと答えた。
「それはよかったわ」
ケンプ夫人はさりげなく云って、遠くを見つめるような眼差しで、ジョアンナの姿を追った。ケンプ夫人がショーンを産んだのは、二十年も前のことだった。朝子は彼女を見ながら、ぼんやりそんなことを思った。夫人が二十年も前の記憶をたどっているようでもあり、やがて子供を産み落そうとしている若い女の半裸体を、生なましい記憶の方向に眺めているようでもあった。
「ジョアンナも大きくないから大変でしょう」
ケンプ夫人は沈黙から、ようやく笑顔をとりもどして云った。彼女が眼の前のちいさくて細い日本の女の肉体に好奇心を抱いているのが朝子にはよくわかった。
「ちいさくても心配ないのですよ」
「もちろんです、アサコ、世界中の女たちが立派に子供を産んでいます、これだけは真理ですよ」
ケンプ夫人の熱心な口調に朝子は思わず笑いながら、彼女の巨体が妊娠したようすを、こっそり想像した。
プールの浅くなっている一隅で、二人の子供が喚声をあげて、飛び込みを競いあっていた。飛び込みといっても、百合もジョアンナの子供も、水の中へ飛び下りるだけのことで、その水|飛沫《しぶき》の中で大変な騒ぎだった。
大《おお》晦日《みそか》の夜、ケンプ家に大勢が集まった。
門を中心に駐車の行列が出来た。七時になると、広い庭の樹木に巡らした赤青黄緑の裸電球に灯がともった。レンガ造りの炉の傍《そば》のテーブルに数種類の肉が盛りあげてあった。別の大テーブルには、野菜を主にしたオードブルがあふれていた。
手入れのゆきとどいた芝生に、サランの庭椅子が並び、正装した男女の談笑が満ちていた。ショーンを交じえた四、五人の青年たちが、白い大きなエプロンをかけて、肉を焼きはじめていた。炉の焚口《たきぐち》からオレンジの炎がめらめら踊り上がった。彼らは同じ紙帽子を被《かぶ》って、バーベキュー用の長いフォークを手ぎわよく動かしていた。真黒の鉄板の上から煙と一緒に、肉やソーセージの焼けるにおいが、辺りいっぱいに漂っていた。
音量を上げたポピュラーソングと男女の賑《にぎ》わう星空の下の集りは、この土地ではごくありふれたものだった。
朝子たちがケンプ家の年越しの集りに参加したのは、今年がはじめてだった。去年は良介の会社関係の家へ招かれて、新年を迎えた。
レモン色のマキシ姿のケンプ夫人は、いつもより数倍もの貫禄だった。彼女は来客の間を縫いながら一人一人に公平な笑顔と言葉を振り撒《ま》いていた。日頃、プールサイドの椅子で、暑さに喘《あえ》ぎながら退屈しのぎに煙草をたて続けに喫っている、倦怠にどっぷり漬りこんでしまった中年過ぎの女にはとても見えなかった。
夫人に指名された数人の少女が、緊張した面持ちで、ナッツやチップスの皿を持って、大人たちにサーヴィスしていた。百合も、クリームチーズのちいさい器を持って、クラッカービスケットの皿を持った少女の後ろに忠実にしたがっていた。大人たちの中には、談笑に夢中で、自分の眼の下で皿を持って、辛抱強く立ちつくしている少女に、なかなか気づかない女もいれば、自分の前にやって来ると、大袈裟な身振りで、少女たちの髪や身なりを誉めちぎる女もいた。
朝子たちは、こういった集りでは、話題に困ることはなかった。かならず集りの中には熱心な親日家がいたし、日本旅行の経験者もしばしばいた。彼らの間では、日本への旅がちょっとした流行のようであった。それは多くの人びとが日本に憧《あこが》れているというより、むしろ誰にでも実現可能という点で、好奇心の的といった程度のものだった。
ジョアンナが彼女の夫を、朝子たちにひき合せた。背が高過ぎて、年中背中をまるくして首を前に突き出しているような男で、ちいさなジョアンナが子供のように見えた。ジョアンナは三週間前に子供を生んだばかりで、表情がはなやいでいた。生後三週間の赤ん坊はゴムの乳首を咥《くわ》えて、バスケットの中で眠っていた。赤ん坊の両親は、その白ペンキで塗ってある楕円《だえん》形のバスケットを、どこへ置くか協議中であった。庭もガレージも人でごった返していた。結局ジョアンナの夫は、バスケットを提げて階段を上がって行った。どの窓も煌々《こうこう》と灯がついていたが、人影はなかった。
ジョアンナは、いつの間にか朝子の前から消えていた。朝子は、ジョアンナの夫が、白いバスケットを提げて表階段を上がり、ドアを開けて室内へ入るのを見ていた。シルエットになった赤ん坊の父親は、一層ひょろ長く見えた。手ぶらの彼が再び現われたとき、朝子は我知らずため息をついた。赤ん坊を安全な場所へ置いて来た男に注意をはらっているのは、この大勢の人びとの中でおそらく、自分だけだろうと思った。
プールサイドの近くの、円型のコンクリートの上で踊っている一群があった。そのコンクリートの部分はさして広くないので、犇《ひし》めきながら踊っている一群は、芝生にまではみ出ていた。見るといつの間にかジョアンナがその中にいた。人混みの中にいるのを、離れて見ると、彼女の躰はまるで少年のように軽《かろ》やかでしなやかだった。
「ジョアンナを見て、産んだばかりよ、彼女」
朝子は感嘆して良介にささやいた。
良介は保険会社に勤務しているという眼鏡をかけた男と難解な話をしていた。男たちの仕事の話となると、朝子は聞く前から難解なものとして聞く耳を持たなかった。まるで興味がもてないのだから、しかたがなかった。良介は相手の男が持参しているギリシャのリキュールだと称する強い酒をグラスにつがれていた。男の顔は酔いがぎらぎら光っていた。男が朝子と良介の間に割り込むようにして、何か訳のわからないことをさかんに繰り返していた。良介はまだ酩酊《めいてい》に遠かった。
「娘が眠る時間だから寝かせて来る」
良介はそう云って男から離れた。朝子は、かなり酔っている自分に気づいた。百合の姿がいつの間にか、視界から消えていた。
「捜して来る」
朝子は椅子から立ち上がってよろめいた。百合は、他の子供たちと大人たちの間を駆け巡っていた。朝子は声をあげて百合を呼んだ。男の子が泣きわめきながら、朝子にしがみついてきた。ジョアンナの子供かと思って、顔を覗《のぞ》きこむと違う子だった。
「どうしたの」
朝子は訊いた。男の子は泣きわめきながら、何か頻りに訴えていた。朝子は何度も訊き返した。しかしまるで通じなかった。
「マイクが、この子の蛇を壊しちゃったのよ」
百合が日本語で云った。それから、
「かわいそうなマチウ、いたずらマイク」
と英語にきりかえて、自分より年嵩《としかさ》の男の子を慰めた。見ると木製のみどりいろの蛇の玩具《おもちや》で、それは躰が半分だけで、尻尾《しつぽ》がなかった。朝子は手にとってそれを見た。幼い頃、高尾山《たかおさん》かどこかの土産にもらったのと同じだった。みどりいろの木切れを繋げた細工で、裂けた口の中が真赤だった。尻尾を持って動かすと、左右にゆらゆら動く仕掛けだった。
「へえ、これはいいわねえ、いいもの持ってるのねえ、いい蛇ねえ、尻尾はまた生えて来るわよ」
男の子は泣きやむと、ぽかんと口を開けて朝子を見た。
朝子は百合を引摺るようにして、今度は良介を捜した。良介は遠い炉の脇で、串《くし》ざしの肉を食べながら、ショーンとケンプ氏と話していた。ケンプ氏のショーンによく似た後姿の向うに、こっち向きのショーンが、朝子を見つけると、両手を合わせて、傾げた片頬の下にあてて眠るジェスチャーをした。その子供じみた仕種《しぐさ》を、朝子はうっとりして眺めた。
良介が朝子のおぼつかない足の先達になって、親子は群衆から抜け出した。まだ伸びきっていない背の低い椰子《やし》の木が十数本立ち並んでいる植込みから、門に通ずる場所で、朝子は明るい賑わいの方を振り返った。すると眩《まばゆ》い輝きの中に、ショーンの顔が人びとの頭越しに伸び上がるようにして、こっちを見ていた。その眼と自分の眼がぴったり合ったように朝子は思った。
まだ新年まで一時間以上もあった。
ぐっすり眠った百合を一人残して、夫婦は水着に着がえて、暗い庭に出た。隣家の賑わいは一向に衰えていなかった。それにひきかえ裏のイタリア人の家は真暗だった。プレオ家も家族ぐるみで同国人のパーティに出かけたのだろう。朝子は酔の醒《さ》めた頭で思った。
ハイビスカスの垣を越えて、二人は隣家のプールサイドへ出た。その辺までは照明がとどいていないで、水面は暗かった。良介は、いきなり水|飛沫《しぶき》をあげて飛びこんだ。
夜更けでも、空気はさして冷えなかった。賑わしさと人いきれで、ことさら暑い夜であった。朝子は暗い側に腰かけて、足だけつけてばしゃばしゃ水を蹴りながら、オレンジ色に燃えあがっているような人の群を眺めた。プールサイドには、いつの間にか水着に着がえた人影が数人あった。しかし威勢よく泳いでいるのは良介だけだった。円形のプールを、彼は閉じこめられた魚のように、ぐるぐる泳ぎ廻った。
踊っている集団の側で、水飛沫があがった。水面の光の影が渦になって揺れて、やがてショーンが水面に顔を出した。彼は仰向けになって浮びながら空を見ていた。朝子もつられて躰を沈めた。ショーンを真似て空を見ると、無数の星が顔の上に降って来るような錯覚にとらわれた。それは正真正銘の夜空だった。
突然歓声があがった。どよめきはやがて別れの曲の歌声に変って、全員が手を繋いでぐるぐる廻りはじめた。
「お正月だわ」
朝子は良介に叫ぶように云った。良介も濡れた顔をあげた。
「もう、そんな時間か」
彼はまた泳ぎはじめた。朝子は独言《ひとりご》ちた。
「お正月だわ、帰りたいわ、東京へ」
水着の連中も踊りの輪に駆けこんだ。水につかったままの朝子は、深夜の騒ぎを眺めていた。それから急に全身の疲労を覚えた。水から出て芝生に脚を投げ出した。さすがに肌が冷たかった。ビーチタオルを首に掛けたショーンが、肉の串焼きと飲みものを運んで来た。
「ここのお正月は奇妙だわ、どうしてもほんとうには思えない」
ショーンは朝子と並んで両膝を抱えて、顎《あご》を突き出すような恰好でビールを飲んだ。朝子は日本の正月の話をした。
夢を見ているようだ、と朝子は思った。すべてが平和だった。しかし何か不安だった。きっとこれは現実ではないのだ。外国人である自分たちの現実はここにはない。朝子は、東京で自分たちの周辺のあらゆるものを想い起そうとした。しかし思考が糊《のり》のように粘って、先へすすまなかった。ただ漠然とした気忙《きぜわ》しさが頭に浮んだ。それから灰色にくすんだもの凄《すご》い雑沓《ざつとう》がよぎった。それはブッシュで蟻塚《ありづか》の前に立ったとき発見した蟻の群棲《ぐんせい》に似ていた。赤茶色のごつごつした土の塔を築きあげて、夥《おびただ》しい蟻の群は、なおもその上を右往左往しながら、自分たちの塔から転落すまいと、細心に気をつかいながら動いているようであった。まじまじとそのようすを眺めたときから、朝子は蟻塚の林立するブッシュの間を、車で走り抜けるとき、実に重い気分になってちいさな昆虫の生息を思いやった。数メートルもの蟻塚には長い歴史があるだろう。しかし人間から見れば、ひと塊の硬い土にすぎない。
「帰ろう、眠たくなった」
良介が泳ぐだけ泳ぐと、罐《かん》ビールをごくごく飲んだ。飲みながら躰を顫わせていた。
「どんどん温度が下がってくる」
良介はハイビスカスの垣をわけて庭に入った。朝子は暗がりで、サンダルを捜したが見つからなかった。跣のまま、ショーンに送られて門から出た。もしケンプ夫妻がいたら声を掛けようと思った。しかし陽気なざわめきの前に立ったとき、朝子は突然気おくれを感じた。明るい人びとの輪の中へ、冷たい躰で飛びこんで行く気になれなかった。
道路は半分が芝で、半分が砂利になっていた。朝子は芝の上を歩いた。ショーンの砂利を踏む音が、いやに大きく聞えた。
門の脇の巨大な椰子の木の下で、朝子は云った。
「ありがとう、ショーン」
ショーンの唇が不意に朝子の頬に触れた。
「おやすみ」
彼の眠たそうな声を、朝子は耳もとできいた。そのとき、自分たちの寝室の窓に電燈がともって、鳥が羽を広げでもしたように、両腕をのばして欠伸《あくび》をする良介の影が見えた。
プレオ家は、朝子の家と背中合せで、両家の芝生の密生した広い庭の境には、針金の柵《さく》が巡らしてあった。その針金の柵は、子供たちが跨《また》いで行き来するうちに、押しつぶされて、とくに一カ所など針金がすっかり垂れ下がって、百合とボーイフレンドのちいさなミノが、両足を揃《そろ》えて、ぴょんと飛び越えられるほどだった。柵の片隅にはプレオ家の鶏舎と、別の隅にはバナナの一群だけで、互いに遠く離れてはいたが、窓の内側から見透しがよくきいた。
朝子の家から窓越しに、プレオ家を見ると、その視線は、ブラインドの窓から入って、プレオ家の居間を横切って表側の幅の広いベランダに面した両開きのガラス越しに海にとどいた。
海はいつも、空の色と同色でありながら、何倍にも濃く、プレオ家の扉や、柱や、樹木や、プレオ家と隣接している屋根の間に、切り紙のように細切れになって張り付いていた。
朝子は、百合のいない昼前のいっときを、ベランダで、老人のように茶を啜《すす》りながら、そんな風景をぼんやりと眺めてすごした。すでに空家になっているケンプ家の庭は、日に日に芝が枯れて赤茶けた色に変貌していくのが見えた。それにひきかえ、プレオ家の庭は二個のスプリングウォーターが、毎日威勢よく水を吐き出して、みどりが際立っていた。
ヴィクトリアは庭の手入れが好きな主婦で、一日の大半を庭ですごしていた。彼女は子供たちがちいさいわりに年配者で、白髪まじりの灰色の髪で、肌には中年過ぎの女がもつ脂の浮き出た老いが現われていた。骨の太いがっちりした大柄な躰をしており、家庭着はもっぱらショートパンツで、毎朝洗濯物を乾《ほ》しながら、嗄《しやが》れ声で母国の民謡を唄っていた。
プレオ氏はこの土地の移民の必須条件である特種技能所持者で、中でも一番目につく、土建業だった。一度、朝子の家から見える裏庭に、砂と砂利を選別する大きな機械が持ちこまれて、終日モーターの音を轟《とどろ》かしていた。その機械のそばで、赤銅色《しやくどういろ》に陽焼けした上体裸の男が、ショートパンツにゴム草履で働いていた。彼がヴィクトリアの夫のレンツォーだった。彼は一見、ヴィクトリアより若く見えた。この夫婦は背丈が同じぐらいで、とりわけ肉体労働者の夫に伍《ご》して、見劣りのしないヴィクトリアの体格はみごとだった。
休日ともなると、この夫婦は一日中庭の手入れにかかりっきりだった。鶏舎を修理したり、植木を移植したり、草花の種を蒔《ま》いたり、レンガ積みをしたり、広い庭は彼らの限りない愛着の場所のようであった。ちいさなマリーナとミノはそんな両親にまといついたり、跣《はだし》で庭中を駆け廻ったりしていた。夕方になると、彼らは陽の陰った裏庭で切り株を利用して造ったテーブルを囲んで、声高《こわだか》にイタリア語で喋《しやべ》りながら、飲んだり食べたりして暗くなるまでの時間をすごした。
事件はある昼下がりに起った。
原住民のアボリジネールのケインが運転するタンクローリーの下で、ミノは死んだ。
ケインは街路樹の苗木に撒水《さんすい》する仕事だった。一年前に植えられたフレンジ・ベニーはおよそ十メートルの間隔で、どれも揃って、もう子供の背丈ぐらいに伸びており、木によっては、白い花をつけているのもあった。
ドライシーズンに入ると、前の年と同じように、ケインは赤い大きなタンクローリーを運転して、毎日同じ時刻に廻って来た。車は、木から木の間をゆっくり走って、街路樹の前へ来て停るたびに、運転台の操作で細い鉄のパイプが樹の根本に倒れるように突き出ると、先からどぼどぼ水が流れ出して、フレンジ・ベニーの廻りにちいさな池を作った。
幼い子供たちにとって、この車は好奇心の的だった。走っているときは直立している長いパイプが、車の停止と一緒に静かに倒れて、樹の周囲がたちまち水浸しになるなど、黒い肌のケインが魔術師のように見えるのだった。
百合とミノも幼稚園から戻ると、昼食のあとこの車を待つのが日課であった。赤い車が彼らの前に近づくと、二人はぴょんぴょん飛びあがりながら、
「ハロー、ミスタ・ケイン」
「ハロー、ミスタ・ケイン」と叫びつづけた。
漆黒《しつこく》といっていいほどの黒い肌のケインは、枯木のような手足を折りたたむようにして、運転台に坐っていた。彼は子供たちの歓声に迎えられると、表情のはっきりしないちいさな顔を向けて、指を開いた片手を素早く上げてこれに応えた。
そしてある日、ミノは彼のタンクローリーの下で死んだのだった。母親のヴィクトリアは、洗いかけた自分の車の脇で、隣家のイタリア人の主婦と立ち話をしながら、事故を目撃したのだった。
白い道路と、蒼《あお》い空と、ひんやりした乾いた風は、事故の背景としてはあまりにも穏やかだった。その辺りはいやに森閑としており、朝子が見たとき、ヴィクトリアは、洗いかけのブルーの車の後部座席に、ぐったりしたミノを胸に抱いてじっとしていた。そして隣の主婦が、運転席から振り返って、ヴィクトリアに囁《ささや》くように何か云っていた。ヴィクトリアの放心したような眼は、緊張した表情のなかでそれだけが別もののようだった。彼女は隣家の主婦の問いかけに、黙って首を振っていた。隣家の主婦は、車を出すことを躊躇《ためら》っているようすだった。しかし、ただ首を振るばかりのヴィクトリアに応えて、静かに車を動かした。赤いタンクローリーの後部を右に廻って、ゆっくり走り出したとき、サイレンの音がして、警察の白い車と救急車が見えた。ヴィクトリアの車は停ってそれを待った。
隣家の主婦が外側からドアを開けて、ヴィクトリアに手を貸した。ヴィクトリアの太い腕を枕にしたミノのちいさな金髪が見えた。そして反対側には、それこそちいさな素足がぶらんと母親の腕から垂れていた。ヴィクトリアは、しっかりした足取りで救急車の中へ消えた。
救急車が走り去ったあと、タンクローリーの陰に踞《うずくま》っている真黒の男が見えた。ケインの全身は胎児のように悴《かじか》んで一塊の物体に見えた。黒い縮みあがった髪に被《おお》われた頭は、地面に向ってのめりこむように垂れ下がっていた。彼は警官に縋《すが》りつくようにして立ち上がると、酔いどれのような足取りで警察の車に乗った。
躰の大きな、少年じみた顔をした警官が、五、六人の近所の主婦たちに、目撃したかと訊《き》いて廻った。朝子も他の女たちと同様、首を横に振った。
ミノの死を目撃したのは、庭で立ち話をしながら、息子の動きを眼で追っていた母親と、百合だけだった。百合は道路には出ず、ヴィクトリアが丹精して咲かせている花壇の傍で、仔猫《こねこ》を抱いて立っていたのだった。
「ミノがわるい子だったの」と百合は警官に話した。
「ミノが、ミスタ・ケインの車の下に入って行ったのよ。うん、はじめにミスタ・ケインがミノを叱ったの、でもミノはお水の棒をひっぱったの、そして車の下に入って寝てしまったの、うん、そしたら車がミノの上に乗ろうとしたから、ミノが痛くて出て来たの、でもミノはじっとしてたの……うん、ミノはいい子よ、泣かなかったから」
警官は、百合の前に片膝《かたひざ》をついて頷《うなず》きながら、手帳に書き取った。
タンクローリーの倒されたままのパイプから、水が流れ出て辺りは一面に水浸しだった。警官の一人は運転台に上って、それを止めた。しかしパイプはそのままの位置に放置された。
「ミスタ・ケインはどこへ行ったの」
百合の胸には、仔猫がしっかり抱かれていた。百合の眼には、魔術師のいなくなった赤い車は、ちいさな池を大洪水にしたまま、お祭りが終ったときのように、がらんとしてつまらなそうに停っていた。
その日から、プレオ家の庭に蔓《はびこ》りはじめた沈滞に朝子は気づいた。日に日にそれは重く広がって、今までになかった排他的な表情を見せていた。逞《たくま》しい躰つきをした陽気なイタリア人の夫婦を見かけることは、ほとんどなかった。気持のよい朝も、風の涼しい夕刻も、暑すぎる日中も、ヴィクトリアの姿は、あの日以来|掻《か》き消えたようになくなった。
ショートパンツのヴィクトリアが、咥《くわ》え煙草で、ホースを引摺《ひきず》りながら、庭の隅すみに水を撒《ま》いて夕刻のいっときをすごしていた乾いた季節が、彼女の姿がなくなったため、突然終りを告げたかに見えた。
事実、この熱帯は、本来の暑さをとり戻そうとしていた。湿度は日ましに薄い膜を重ねて、みどりが目立って濃くなっていった。しかしこれまでのようにヴィクトリアが、モーターの唸《うな》る芝刈機を軽がると扱う姿も見られなかった。
不意に悪戯者《いたずらもの》の弟を亡くしたマリーナに朝子は神経をつかった。学校から戻ると、近所の子供たちは一隊になって、暗くなるまで遊び呆《ほう》け、母親の声に呼び戻されて、それぞれ家に帰るのだった。汚れきって、よれよれになって帰るマリーナを、ヴィクトリアがどのように迎えるか、朝子は恐ろしいような不安な気持で思いめぐらした。泥んこのシャツの前を、両手でくしゃくしゃにまるめこんで、マリーナの後から、おずおず母親の前に出て、大きな手で裸にひきむかれ、シャワーの下へ引摺られて行く生前のミノを思って、朝子は息苦しい気分になった。百合の躰を洗いながら、一人でシャワーに打たれているマリーナが、朝子には見えた。もうミノと浴室で騒いで叱られることもない。
マリーナの不幸は、毎日日没と一緒にやって来た。マリーナは大人たちから母親のことを問われると、いつも同じ答えかたをした。
「マミーは病気なの」
ある夕方、朝子はヴィクトリアを庭に見かけた。伸び放題の芝生に、黒っぽいワンピースの彼女がじっと踞っていた。窓ごしにヴィクトリアを見つけて、朝子はあまりにも思いがけないことだったので、それがヴィクトリアだとすぐには気づかなかった。噎《む》せかえるみどりと、沈滞した空気と、ヴィクトリアの打ちひしがれた風情《ふぜい》が、朝子をその場に立ち竦《すく》ませた。彼女の家の階段の脇には、真赤なブーゲンヴィリアが咲き誇り、その大きな花の房は重たく撓垂《しなだ》れて、風のない湿った熱い空気の中で、じっとしていた。
その日から毎日、ヴィクトリアを庭に見かけるようになった。夕刻になると彼女は鈍重な動作で階段を下りて来て、庭中を夢遊病者のように歩きまわり、やがて一カ所に踞ってじっとしているのだった。偶《たま》には、白ペンキで塗ってあるちいさな椅子に腰かけて、テーブルに向っていることもあった。
そのうちにヴィクトリアは、十数羽の鶏と二羽の家鴨《あひる》を小屋から出してやるようになった。それは彼女がもとの日課をとり戻したことであった。白い鶏たちは、濃いみどりに点てんと散って、忙しそうにつんつん歩きまわった。ヴィクトリアはしかし、以前のように小屋の掃除をするでもなく、水や餌《えさ》を運ぶでもなく、じっと踞ったまま、鶏たちが勝手に小屋に入るのを待ってでもいるようすだった。
以前のように咥え煙草のヴィクトリアが、餌のバケツを提げて大股《おおまた》で庭を横切って鶏舎へ入ると、磁石に引かれでもするように、鶏と二羽の家鴨が、一斉に彼女の後からよちよち歩き出す光景は見られなかった。収拾のつかないそれらを、どうするのだろうと朝子は思った。太陽が水平線にかかりはじめて、空が真赤に焼け爛《ただ》れる頃、ふと朝子が見ると、マリーナが餌のバケツを持って小屋の入口に立って鶏を呼んでいた。彼女は母親がしていたように、騒ぞうしいイタリア語で呼び声をあげながら、鶏たちに囲まれるようにして中へ消えた。やがて鶏舎の戸を閉めると、マリーナは階上へあがって行こうとはせず、ブランコを揺すりはじめた。ブランコのきしむ金属音がして、マリーナの長い金髪が前後に大きく揺れていた。彼女はいつまでも、電燈のつかない母のいる窓を見あげながら、父の帰宅を待っていた。
日曜日の夕方、朝子は動物園にいた。
両側に赤土とブッシュの風景を切りさいて、およそ十五マイルほど走り、まだ舗装されていない悪路を、赤土|埃《ぼこり》を舞いあげて街道から入りこんだ自然そのままの中に、わずかな生きものが飼われていた。野牛とかカンガルーなど、この辺りではいくらでも見かけることが出来る動物たちも、一応捕われており、ごくありふれたオウムやインコなども、飼い慣らされていた。
入口に鳥の巣箱のようなものが掛っていて、大人ひとりにつき三十セント入れることになっていた。日曜日だというのに、車は数台しか停っていず、入口から見渡せる園内には人影がいかにも疎《まば》らで、西陽の中に草いきれがむんとして、樹木の間から鳥の声が降っていた。入口近くの、野牛、カンガルー、ディンゴー、大《おお》蜥蜴《とかげ》、鰐《わに》、ワラビー、鳥類などと、ひと巡りして、一番奥まった売店のカウンターの上に、鎖に繋がれている真白のオウムを揶揄《からか》っていると、売店の奥から口紅を濃く塗った女が出て来て、顔に薄笑いを浮べながら、朝子たちにもの馴れた調子で呼びかけた。
「鰐の食事だよ、時間だよ」
見ると彼女は、片手に糸のついた血の滴る肉片をぶら下げていた。その生なましい赤い肉は掌ふたつぐらいの大きさで、黄色のショートパンツとオレンジ色のシャツを着た中年近いその女は、それをぶらぶら振りながら、ゴム草履の足ですたすた歩いて行った。その肉片が野牛だということは、朝子の飼い猫の常食として買い求めるペット・フードの肉と同じだったのですぐわかった。
鰐の檻《おり》の前に園内の見物客がすっかり集まっていた。ギリシャ人の家族連れと、若い二人連れと、四人のもう一家族と、あとは上体裸の二人の青年だった。この二人連れの青年は鰐の檻の前を通りすぎて、入口に向っていたところを、肉片を持った女に呼び止められた。彼らは鰐の食事には興味を示さずに、さらに帰ろうとするのを、女は口喧《くちやかま》しくひき止めると、やっと満足した面持ちで、おもむろに準備にかかった。まず鰐の檻と並んでいる大蜥蜴の檻の屋根にのせてある五メートルほどの鉄の棒をひきずり下ろして、その先に肉片の糸をぐるぐる念入りに縛りつけた。鉄棒の半分よりすこし先に寄ったところに、直角に一メートルぐらいの鉄棒が突き出ていて、それが檻の上から棒を差し入れて肉片を垂らすときの、ひっかかりになるように出来ていた。
狭い檻の中には、みどりに淀んだ池があり、そのまわりの草の摩切《すりき》れた地面に、二匹の鰐が剥製《はくせい》のように並んでじっとしていた。不思議なことに、先刻見たときは、閉じていた口を二匹揃ってあんぐり開けていて、すっかり抜歯された白いふやけた口内が、まる見えになっていた。しかし女が鉄の棒に肉片を縛りつけているとき、二匹が同時にパタンと文字通りの音をさせて閉じてしまった。歯がないので、上顎《うわあご》と下顎が張り子のように頼りない音をたてて閉じたのは、いかにも時間より早めに口を開けてしまって、顎がくたびれきって閉じたようであった。檻に打ちつけてある木切れの説明によると、一匹は五十歳で、体長はおよそ六メートル、もう一匹の方は四十歳で、これはずっと小柄だった。檻が狭いので、二重の金網を境にしただけで、すぐ間近にその爪の先までまじまじ見ることが出来た。鰐は埃を被《かぶ》っているような灰色をしており、胴の両脇から出てべったり地面にしがみついているような、もの凄《すご》く太い四つの足がいかにも原始を思わせて無気味だった。二匹とも閉じた眼がボールのように脹《ふく》れてとび出ており、口を閉じてしまうと、もう死んだように動かなかった。
女はブリキの踏み台にのると、両手で鉄の棒を掲げて背のびした。そして肉片で大きな方の鰐の顔面を撫《な》でた。鰐はなにも感じないのか、びくとも動かなかった。女は、今度は肉片でぺたぺた顔中を打った。すると突然、鰐は眼を見開き、同時に頭部をのけぞらせて、黄ばんだ胸を見せて躍りあがった。見物人の間から驚きの声があがった。百合が朝子にしがみつき、良介に抱きとられた。鰐の眼は黄色味を帯びて、上下に大きく開いた口の上側でとろんとしていた。
女の執拗《しつよう》な揶揄《やゆ》が、それからはじまった。怪獣は一片の肉を得るために、ざわざわ動きはじめた。動きは緩慢だったが、肉片を目がけて瞬間的に胸から上が躍りあがるときは、いやに敏捷《びんしよう》だった。他の一匹は、連れの騒ぎを眼を閉じたままじっと耳をすまして、うかがっているようだった。その胴の上に、肉片を求める鰐がのしかかり踏みつけ、口を開けたり閉じたり、のけぞったりしながら、宙で遊ぶ肉片を追い廻した。ときおりぶ厚い尾が地面を激しく叩いた。
朝子は女の顔を見た。
「ほら、ここだよ」
「いい子だね、こっちだよ、おいでおいで」
女は囁きかけながら、巧みに鉄棒を操っていた。西陽の中で女の顔は汗ばみ、紅潮して眼が輝いていた。ブリキの踏み台から下りて、女は、いっぱいに背伸びしたまま、檻に沿ってすこしずつ移動していた。見物客も女と一緒に動いた。
鰐の苦戦は終らなかった。しだいに見物客の間から、驚きの声も笑い声も起らなくなった。誰もが好奇心を失いかけていた。二人連れの青年がまず檻を離れた。帰って行く男たちの背後に女はちらっと視線を投げた。同時に肉片はすんなり鰐の白っぽいぶよぶよした口の中へ吸い込まれた。しかし、ほっとした次の瞬間、肉片の糸がびゅんびゅん引かれた。女が力をこめて棒を操っていた。鉄の棒は撓って、閉じた口のすき間から肉片がのぞき、抜歯されて噛み合せのきかない両顎が力なく開き、肉片が再び宙につり上げられた。女は最後の執念が満たされたように軽く笑った。そして肉片はまた鰐の口に吸いこまれた。今度はあっという間に嚥下《えんか》された。糸が切れて、黄ばんだ顎から喉《のど》が、二、三回大きく動き、鰐はその場で動かなくなった。
女は鉄棒を大蜥蜴の檻の上に片づけると、ショートパンツのポケットから煙草を出して火を点けた。それからゆっくりした足どりで歩き出した。
これが彼女の日課なのだろうか。朝子は女の姿を見送りながらそんなことを思った。あの女にも夫や子供がいるのだろうか。
「そうとうに意地悪だよ、彼女は」
良介が云った。
「鰐のお口がぱたんって閉ったのね」
百合も感想をのべた。
朝子の頭からしばらくの間、檻の中の怪獣を愚弄《ぐろう》していたあの女が離れなかった。そしてこの貧しい動物園のせめてもの見世物を見逃すまいと、肉片をぶら下げて歩く女の後から、自分たち家族が踵《きびす》をかえしてついて行ったことが、他人《ひと》ごとのようにひとつの情景になって甦《よみがえ》った。
すっかり抜歯されて、まるで締りのなかった鰐の口中が、奇怪というより滑稽な不様な恰好で空に向って大きく開き、肉片を追い廻していたようすを繰り返し想い起すたびに、それがしだいに悽惨《せいさん》なものになってきて、朝子は重い気分になった。そして鰐との対決に熱中していた女の、西陽の中のことさら赤味を帯びた上気した表情が見えた。
動物園から戻ると、空が焼けてインコの大群が騒ぞうしく啼《な》きながら、庭の中央にあるマンゴーの巨木に群がっていた。
ミノがいなくなってから三カ月経っていた。朝子は事件以来はじめて、ヴィクトリアと言葉を交わした。洗濯物をとりこみながら、ふと見ると、ヴィクトリアがいつものように暮れかけた庭にしゃがみこんでいた。朝子は内心恐る恐る近づいて声をかけた。間近で見るヴィクトリアは、以前とは別人のようであった。その変りように、朝子はまず恐れを抱いた。髪はすっかり白くなり、顔中に深い皺が刻まれ、以前厚化粧だっただけに、浮腫《むく》んだような見慣れない顔だった。彼女は黒っぽい妊婦服のような量感のあるワンピースを、腰の廻りにだぶつかせて踞っていた。
朝子の声に顔をあげると、意外にも眼に笑みを浮べて頷いた。それから両手で抱えこんでいるものを、ぎこちなく前に差し出すようにした。その白いものは一羽の鶏だった。鶏はじっとしていた。赤いちいさな鶏冠《とさか》のある頭が、ぐったり前に垂れて、白い羽に被われた首の部分を、ヴィクトリアの大きな骨ばった片手が掴《つか》んでいた。
「今、死んだのよ……」
ヴィクトリアが老婆の声で云った。
「あんたがわたしに声をかけたとき死んだのよ」
朝子は何のことか解らずに再び訊き返した。
「今死んだのよ、この鶏は。アサコ、あんたが私にこんにちはって云ったとき、死んでしまったのよ」
この女は狂っているのだろうか。朝子はヴィクトリアの眼の中を見た。そして弱よわしいが残忍な薄笑いを見とどけた。朝子は躰の中が冷えるような気分におそわれた。やにわに、ガレージの方を振り向いて良介を呼んだ。
「ヴィクトリアが変なこと云ってるのよ、あなた、ちょっと来て下さらない」
良介の姿がガレージをとり囲んだ茂みから現われた。
「早く来て、なにか云ってるの」
良介がぶらぶらやって来るのを見守りながら朝子は待った。一人でヴィクトリアの顔とまともに向きあうのが恐ろしかった。そのとき、朝子の声に気づいたのか、ヴィクトリアの夫が、いつもの半裸体でぬっと階段の上に出て来た。彼は庭の情景を見下ろすと、足早に下りて来た。
柵をはさんで二組の夫婦が向きあった。ヴィクトリアはレンツォーが来ると、踞ったまま胸に抱いている鶏を隠すようにした。
「ヴィクトリア、わたしの夫にもう一度さっきのことを云ってください」
朝子はていねいに頼んだ。ヴィクトリアはしかし、唇に薄い笑いを見せただけで黙りこんだ。
「変なこというのよこのひと、あたしがハローって云ったとき、鶏が死んだっていうの」
朝子は良介に早口で告げた。レンツォーは、ヴィクトリアの胸に抱きしめられているものに気づいていた。彼は、それを差しながら、彼らの言葉で早口に何か云った。
「何っていってるの」
朝子は良介を突ついた。多少イタリア語を解せるはずの良介は笑った。
「冗談じゃないよ、何いってるかさっぱりだよ、もの凄いブロークンだ」
レンツォーはまるで子供を叱責《しつせき》するときのように、人差指を立てて、不貞腐れているすっかり老いこんだ妻の胸もとに、切りつけるように激しくまくしたてていた。突然、ヴィクトリアが大声をあげて、彼の言葉をさえぎった。彼女は口を大きく開けて何かわめきはじめた。眼が坐っていた。やっぱり狂ったのだこの女は。朝子は身顫《みぶる》いした。レンツォーは妻の前にかがみこんで、その肩を静かに叩いた。ヴィクトリアのまるで発作のような状態は、夫に宥《なだ》められておさまった。レンツォーは、すっかり銷沈して良介と朝子を等分に見ながら云った。
「女房はある観念に捕われている」
ヴィクトリアは、ミノが死に至るまでの動きを、まざまざと目撃していた。子供の姿を終始眼で追っていた母親の視線の中で、何故《なぜ》あのようなことが起ったのか。起ってはならないことが起ったのが事実である以上、ヴィクトリアが自分を責め苛《さいな》むのは当然のことであった。ミノがケインのタンクローリーの近くでめまぐるしく悪戯をしかけているのを、一言の叱責もなしに、ヴィクトリアが何故見過していたのか。隣家の主婦との立ち話を中断して、どうしてミノを連れ戻しにとび出て行かなかったのか。
交通機関としては、車と飛行機と、あとは偶《たま》にブッシュの中をのろのろ通過する貨物列車しか知らないこの土地の子供たちは、動いている車に対する自己防衛は充分すぎるほど身についていた。しかしひとたび車が停止すると、子供たちはごく身近な遊び道具のように考える傾向があった。親が買物をする間、子供たちは長い時間車の中に放置される。ガレージの中では、車のボンネットに犬や猫と一緒に、白い足跡を残す。ヴィクトリアはケインの車が、わが家の前で停止しているのは、ほんの二、三分のことで、すぐ動いて次の場所へ行かなければならないのだということをまるで考えなかった。動いていない車と子供たちの間には何事も起らない、という無意識の安心感が、彼女に一瞬さきの危険を知らせなかった。ヴィクトリアは、悪巫山戯《わるふざけ》して運転席の黒いケインを揶揄《からか》っているちいさな息子を、ぼんやり眺めながらお喋りに熱中していた。そしてある瞬間、ヴィクトリアは、はっとしてその場に立ち竦《すく》んだ。それは百合の声が耳をつんざいたからだった。
「ミノ、ミノ」
百合の甲高《かんだか》い声がミノを呼んだ。その声にヴィクトリアが息をのんだとき、ミノは車の下に吸いこまれるように倒れた。
百合の声がミノを呼んだのが先だったのか、ミノが倒れたのが先だったのか、話の上ではわからない、とレンツォーは云った。朝子にはしかし解らなかった。そんなことにどうして拘泥《こだわ》るのか。なにか起ったから百合がミノの名を呼んだのだろう。そうではないらしい、とレンツォーは云った。彼は喋るときの癖で、唇をちょっと舐《な》めてから何か云いかけて、妻の方を見下ろした。そして彼女に手をかして立たせると、女房を部屋へ置いて来るから、庭へ入って待ってて欲しい、と云った。
ヴィクトリアは大儀そうにその大きな躰を動かした。死んだ鶏は、彼女の片手に無造作にぶら下げられていた。
「明日のスープだ」
レンツォーがそれを差して笑って見せた。
もう空は暗紫色にかわり庭は仄暗《ほのぐら》かった。鶏舎の脇の枝の張った樹に、マリーナと百合が登って揺すっていた。百合は樹の股《また》にしがみついて、マリーナは太い枝にぶら下がってはしゃいでいた。
レンツォーは罐《かん》ビールとコップを入れた籠を持って下りて来ると、白ペンキで塗ってある円テーブルに置いた。そして、女房をベッドに入れて来た、眠るのが一番いいと、ほっとした面持ちで云った。
「ヴィクトリアはよく眠れますか」
朝子は訊いた。レンツォーは首を振った。
「女房はいつも酒びたりですよ、あれ以来」
レンツォーがビールをついだ。手の甲まで黒い縮れた毛が生えていた。太い短い指の節がもりあがっていた。最初の一杯を三人は黙って喉に流しこんだ。レンツォーのいかにも肉体労働に従事している者の、逞しい小山のように筋肉のもりあがっている肩や腕や首を朝子は見た。妻よりずっと若く見えるこのイタリアの男は、妻が不幸から容易に立ち直らないでいることに困惑しているようすだった。
この夫婦が移民としてこの土地へやって来たのは、十一年前のことだった。四年目に家を持つまで、この土地でキャラバンと呼ばれている車での生活をしながら、マリーナが産れるまで、ヴィクトリアも働いていた。マリーナを帝王切開で産んでから、二年して再び帝王切開でミノを産んだ。マリーナが産れるまで、ヴィクトリアはイタリア人の経営する食料品店で働いていた。朝子もよく利用するマルチーノという食料品店では、三、四人の女店員がみんなイタリア人で、彼女たちは同じように化粧が濃く明朗で威勢がよかった。朝子は、十年前のヴィクトリアがマルチーノのレジを叩いている張り切った姿を想いやった。そして暑苦しいキャラバンの中で四年も暮したのだ。
数十台のキャラバンが停っているキャラバンパークは街を外れたところに、何カ所かあった。同じようなキャラバンの一台から、ヴィクトリアが身を屈《かが》めて出て来て、回りの樹木に張り渡してあるロープに洗濯物を干す姿が見えるようだった。多くのキャラバン生活者がしているように、自分たちの足に必要な車をキャラバンの脇に吸いつけるように停めてあり、休日にはその大小の二台の車にホースを向けてせっせと洗ったことだろう。一日も早く庭とガレージのある家を持って、鶏や家鴨を飼い、芝や樹や花を、どこの家よりも美しく大きく育てたいと思ったことだろう。ヴィクトリアの大好物のマンゴーが一列に十本近くも並んでいる彼らの庭を見て、朝子は思った。
レンツォーは云った。来年は半年ほどの予定で休暇をイタリアで過す計画だった。ヴィクトリアの母が七十四歳で生きているし、もう自分たちも十年経ったのだから、そろそろ里心を満たしても誰も文句は云わないだろう。イタリアへ里帰りする日のために、自分たちは今までやって来た。それが毎日の支えだった。仲間同士が集まるといつも故国《くに》の話ばかりする。しかしヴィクトリアは、ミノが死んでからそのことを口にしなくなった。彼女の口から以前は休暇という言葉をきかない日はなかったのに。子供たちを叱るとき「ほらほら、休暇に連れて行かないよ」がきまり文句だった。しかしヴィクトリアはふっつりそれを云わなくなった。本当にミノを連れて行けなくなったからだ。年老いた母に会いたい、しかしミノをここへ一人遺しておけない……。
ヴィクトリアは、ミノが庭で遊んでいるという妄想《もうそう》から脱けることができないでいた。もしかしたら彼女の眼にはミノが見えるのかも知れなかった。
「子供たちの遊んでいる声がきこえると、ヴィクトリアは錯乱する」
レンツォーはそこまでいうと、仄暗い中で透すように朝子を見据えた。
「さっき、ヴィクトリアはわたしに何を云いたかったのかしら」
レンツォーは朝子の問いに頷くと、すぐには応えずに、決して達者とはいえない自分の英語でどのように説明したらいいかと、しばらく考えあぐねるように肩を落して黙っていた。
「奥さん、あんたは日本の女性だ」
レンツォーのあらたまった生真面目なようすに、つりこまれて朝子も真摯《しんし》に答えた。
「ええ、そうですよ」
「ヴィクトリアは、東洋の神秘ということをよく口にする」
レンツォーは云った。東洋の神秘というものが何であるのか、自分は何もわからない。ヴィクトリアのいうこともよくわからない。しかしヴィクトリアの気持だけはよく解っている。彼女は東洋の神秘というものを、漠然と朝子や百合のうえに見出したつもりでいる。それによってどうにもならない呵責《かしやく》からすこしでも逃れたいと思っている。自分の不注意から眼の前で子供を死なせてしまった呵責に、とり殺されそうなぐらい苦しんだすえ、自分から逃れる出口を見つけたのだ。
それは、百合が「ミノ、ミノ」と叫んだ声が、ヴィクトリアを事故という現実に突然立ち向わせたという、そのときの強い衝撃が、彼女の記憶として生なましく残っている。もしあのとき、百合がミノの名を呼ばなかったら、事故は起らなかったかもしれない。……ヴィクトリア自身の願いが彼女を狂わせている。
「ユリの声は、わたしはむしろ神の声だと思っている。子供は神だ」
朝子はレンツォーの言葉がすぐには理解できなかった。そしてそれが何を意味するのかやっと解ったとき、呆然とした。
「それじゃ、さっき彼女はあたしにそのことを云っていじめたかったのね。死んだ鶏とあたしとどんな関係があるの」
朝子は良介に早口で云った。良介が朝子の言葉を引き取って、
「鶏についてはどうですか」とレンツォーに訊いた。
すっかり濃くなった暮色の中で、レンツォーはじっと項垂《うなだ》れていた。それからやっと眼をあげると、自嘲《じちよう》するように薄く笑った。
「女房は云った。やっぱりアサコも魔法を使った」
ヴィクトリアは、朝子が自分の方に歩み寄って来るのを知ったとき、たまたま傍にいた鶏を掴まえて、その首に手をやり、じわじわと力をこめてそれを絞めつけた。彼女の狂った賭《かけ》だった。百合と同じ魔力が朝子にあるとすれば、朝子がヴィクトリアに声をかけた瞬間、鶏はこと切れるはずであった。そしてやはり、朝子の声と一緒に自分の手の中で鶏が死んだという奇妙な安堵《あんど》を得て、ヴィクトリアは勝ち誇って夫にそのことを告げたのだった。
「いやだわ、彼女が自分で絞めといて。薄気味わるいわ」
朝子はレンツォーに通じない言葉で、思わず彼に向って云い放った。その言葉を、レンツォーはまるで理解したとでもいうように、大きく頷いて、唇をしきりに舐めた。
「もちろん女房は間違っている。彼女は病気だ」
「ちょっと待ってくださいよ」
良介が身をのり出して云った。
「事故のようすを詳しくきかせてください。新聞にはちいさく出ていただけで、その後ケインがどうなったのか、事件の成り行きを、われわれは何も知らない」
「ケインに罪はなかった」
レンツォーは、手を伸ばして小枝を一本折ると、その先で、ペンキの剥げかかったテーブルに、見えない情景を設定した。
「ここにケインのタンクローリーが停っていた。水の出る三十六フィートのパイプを引張っている紐《ひも》が、運転台から助手台を通って、パイプはここの木の根もとに突き出ていた。ミノはケインの注意をきかずに、このパイプを持ち上げようとしたり、パイプの先を掌で塞《ふさ》いだり、水を出し終ってタンクローリーの脇に垂直に立とうとするパイプを、力任せに押えたりしていた。このパイプの上げ下げは軽くエンジンが働いていないと、重くてやりにくいもので、ケインは早く車を動かしてパイプを片付けたかった。ケインが幾度目かにミノに注意したとき、ミノはやっとパイプから離れて、歩道と車の間に立った。ユリがミノを呼んだのはこの時だった。この瞬間、タンクローリーは動き、パイプは上がろうとした。そしてミノの足は縺《もつ》れるようになって車の下に倒れた。ちいさな躰だ。大きなタンクローリーの下へはしゃがまなくたって入りこめる」
「ケインに罪は認められなかった。何度も叱責しながら、無駄な時間を辛抱強く費やして、やっとミノが悪戯をやめたとき、ケインはアクセルを軽く踏んだ。そのときどう倒れたのか転んだのか、ミノはケインの死角だった。しかしショックで車はすぐ停った。ミノは頭を強く打っていた」
「……やはり、一番非難されたのはヴィクトリアだった。あるひとは云った。あのイタリア女は、おとなしい動物のようなアボリジネールに自分の子供が何をしかけても黙って見ていた。大人の仕事を妨害している息子をいつまでも放っておいた。自分の子供と、アボリジネールの関係を、あの女は無意識のうちに対比しながら見ていた。低能のアボリジネールに何が出来るか……と」
百合の現実の眼と、ヴィクトリアの観念的な眼が、同時にあの昼下がりの気怠《けだる》い時刻、ひとつの情景を見守っていたのだ。
「自分から職をすてたケインは、ミッションに暖かく保護されている。ヴィクトリアもなにかに保護されたいと願っている。妄想でも魔法でもいい、彼女を救えるものがあるのならなんでもいい」
もう夜がはじまっていた。
レンツォーは小枝をぽきぽき折ると、切れ端をつぎつぎと投げすてた。
「女房はもともとしっかりした女だ。すぐよくなると思う」
彼は柵のところまで一緒に歩きながら云った。そして百合を軽がると抱き上げて柵の向うへおろした。このようにして、自分のちいさな息子を抱き上げて、何度か柵を越えさせた記憶が、彼にあるにちがいなかった。
朝子は思った。もしあのとき死んだのが百合だったら、自分もこの土地を呪《のろ》いながら、日本へ帰るに帰れない気持になるだろう。ミノがいない庭だから、ミノがいるにちがいないとヴィクトリアは信じたいのだ。くる日もくる日も猛暑と強い草いきれと、蒼い空と野鳥の騒ぎと、日没に焼ける空と。そして、芝生や樹木の向うからなにかがじわじわ攻め寄せて来る。そんな魔法にかけられているのだと、自分もきっと思うだろう。
翌日、真昼の庭にショーンが立っていた。百合を幼稚園から連れて戻り、朝子が車をガレージに入れて階段を上りかけたとき、ショーンがプールサイドに立ってこっちを見ていた。水に濡れた彼に太陽が集中した。ショーンの白い歯と金髪がことさら光った。彼はハイビスカスの垣を掻《か》き分けて、ゆっくり朝子の方へ歩み寄りながら手を上げた。
「ショーンの休暇《ホリデイ》だわ」
朝子は百合にそう云ってから、階段を下りて、彼を待った。
[#地付き](「新潮」昭和四十七年三月号)
[#改ページ]
雨の椅子
今まで闇だった風景が、しだいに輪郭を見せてくるのがわかった。奈可子《なかこ》の視界は、しらじら明けのなかで、やがて剥《む》き出しになるはずの見知らぬ外界がいっぱいに広がっている。彼女はベッドに横たわったまま、フラットの窓外と凝《じ》っと向きあっている。
奈可子がこの国へ着いたのは、二時間ほど前のことであった。さらに南へ飛ぶトランシットの人混みから、ただ一人弾き出されるような感じで、がらんとした空港ビルを靴音を響かせながら歩いた。
暑い重たい闇のなかから、見慣れない半ズボン姿の竜二が突然現われて、眠たそうな顔で奈可子に近づいて来たとき、彼女はふと思った。――日本へ何もかも置き去りにして来た。それは降って湧《わ》いたような意識であった。どこへ行っても自分は変ることはないだろうという、つい一週間前までの職場の椅子で、何度か頭をよぎった言葉が、不意に摩《す》り替ったようなものであった。奈可子はもう一度頭の中で呟《つぶや》いた。――全部を日本へ捨てて来た。こんなに簡単に。
闇が微《かす》かに匂っていた。多分自然そのものの匂いだ。奈可子をはじめて捉えたこの感覚は、実に爽快《そうかい》なものであり、感傷的なものでもあった。
「夜でも暑いのね」
購入したばかりの、ピシピシ音をたてて走る車の中で、奈可子は夫の肩に軽く寄りかかって云った。
「もう朝だよ、日中の暑さは凄《すご》いぞ」
舗装された道路が長く続いていた。前方にぼんやり眼をやったまま、奈加子は両側の背の高いオレンジ色の街燈の列を、マッチ棒のお化けが並んでいると思った。
「ここにいる間に子供をつくることにきめたの。お産するの。一匹産むの」
奈可子は無感動に云った。竜二は妻の唐突さには驚かなかった。
「猫の仔《こ》一匹か……」
彼も無感動な口調で云った。
「ぞろぞろってわけにはいかないでしょう、三、四年の滞在じゃ」
竜二は、ちらっと奈可子を見ただけでそれには応えなかった。
「冬から夏へ飛びこんで来て、頭にきたと思ってるんでしょう」
ハンドルを握っている彼の右手の親指が小刻みに動いているのを、奈可子は見ていた。
――あなたの癖をひとつだけ知ってるわ。運転するとき、右手の親指をやたらと動かすの。
それは二人が知りあった当時、奈可子が竜二に云った言葉だった。今も竜二の親指は、瀕死《ひんし》の虫のように激しく喘《あえ》いでいた。
シャワーを浴びてから、奈可子は夫の横に躰《からだ》を伸ばした。夫婦はベッドに並んで、天井を見ていた。電燈を消すと、窓の外が白く浮びあがった。虫|除《よ》けの細かい金網が窓の外側に張り巡らしてある。
奈可子は竜二に背を向けて外界に瞳《ひとみ》を凝らした。
「何か見えるか」
竜二が腹這《はらば》いになって煙草に火を点けながら訊《き》いた。
「樹が見えるわ、一本の巨《おお》きな樹。ちょっとした山みたいに見える」
「ハンギングトゥリーだよ」
「首縊《くびくく》り? どうして」
「この辺の子供たちがそう呼んでる」
「変な鳴き声がしてる」
しばらくしてから奈可子は云った。「蛙《かえる》かしら」
「守宮《やもり》の一種だよ、この辺ではゲコって云うんだ」
「守宮が鳴くの?」
ケッケというような、妙に響のある乾いた鳴き声は、人間の歯軋《はぎし》りに似ている。
「どこで鳴いているの」
「暗いところだよ」
これからさまざまなものに出遇うのだ。馴染《なじ》みのない、自分とは無関係であっていいはずのものが襲いかかってくる。奈可子にはそれらのすべてが、ひどくおぞましいものに思えてくる。
夜明けは、灰色に隈《くま》取られて光はなかった。草の生い茂ったブッシュを抱いたフラット全体は静まりかえっている。その静寂のなかで、蒸し暑い夜明けの空気を、奈可子は全身で感じた。竜二の軽い鼾《いびき》がはじまった。
奈可子は夫の体臭に気づいていた。一カ月前この土地に赴任するまでの体臭とは別のものであった。奈可子にとっては夫の新鮮な体臭は強烈だった。彼女は見知らぬ土地の見知らぬ環境を感じた。東京での、地下鉄を乗りついで大手町のビルディングまで、空の下を歩くことのなかった夫の毎日の通勤路は、彼の生活を大都会の奈落に引き摺《ず》りこむコンクリートの道程であった。それは奈可子自身にとっても同じだった。置き去りにして来た自分のかつての場所を、奈可子は思った。六年間も同じ机に向って、奈可子はさまざまな商品の宣伝文を書いていたのだった。活気に満ちた、形のよく整ったさして大きくない広告社の片隅で、彼女は清潔なちいさな机に向って、自分の巣を造りあげ、さらにそれを安全な場所にするための作業を繰り返して来た。スチール製のいくつもの机で組み立てられた仕事場は、躰を斜めにしなければ歩けないような狭い場所であった。奈可子が竜二と一緒に、家というものを持ってからの四年間も、彼女にとっては、職場の方が家よりも遥《はる》かに馴れ親しんだ自分の場所になっていた。そして今、夫の勤務先であるオーストラリアの北岸の小都市で、奈可子ははじめて家族というものについて考えている。
彼女は、自分自身の置かれていたちいさな社会から、何ひとつ引き摺って来たものはない、と自信を持って思った。かつての安全な場所を得るために続けていた努力や作業が、奈可子には突如無意味なものに思えた。あれは一体何だったのか。あの仕事は……。毎日職場に出むいて、さまざまな商品の広告文を書いて、気の利いたキャチフレーズをひとつでも多く生み出すことに頭をつかい、自分の名前の上にコピーライターという確固としたものをつけることに生き甲斐《がい》を持っていた。それにあのめまぐるしい人間関係は何だったのか。自分自身を支えてくれるものは仕事を通して知り得た数知れない人びとだと思いこんでいたのだ。わたしが大切にしてきたさまざまな人たち、賑《にぎ》やかな対話、騒ぞうしい人の群。世間というもの、社会というもの。それに囚《とら》われていた自分は一体どこの誰だったのか。奈可子は夫を思った。彼との生活は、単に偶然の上にのった一組の男女の共同生活に過ぎないものであった。この夫婦という一組の男と女は、共謀してひとつの通りのいい便宜的な資格を得ていたに過ぎない。それは独身者ではないというただそれだけの資格だった。
自分たちに、家庭というものがあっただろうか。この自問は、奈可子を激しくゆさぶった。
かつて夫婦の性のために細心に気を遣うのは、いつも奈可子自身であり、そして不安に見舞われるたびに、怯《おび》えを剥き出しにして苛立《いらだ》つのも、いつも奈可子ひとりであった。
――困るわ、妊娠したくないわ。
竜二はどんな場合でも、無表情で妻の苛立ちを眺めていた。
――まだだめなの、子供をつくるなんて、まだその気になれないのよ、怕《こわ》いのよ。
竜二はいつも無言だった。彼はまるで、それに関する意見を持ちあわせない聴衆のひとりのように、黙って対岸からこっちを見ていた。
鉱山会社の合弁のため派遣された竜二は、あくまでも日本人社員であり、奈可子とは逆にあらゆるものを故国からひっ提げて来ていた。仕事も、生活も、彼はこの異国にあってすべてが揃《そろ》っていた。彼は何ひとつ失ってはいなかった。奈可子はしかし一切を脱ぎ捨てて来たのだ。そして今では一人の男と共謀して充実した家庭を造ろうとしている。
すっかり夜の明けたブッシュに向って、奈可子は全身が軽く浮きあがるような疲労を覚えた。眠れそうだ、と彼女は思った。
突然|凄《すさ》まじい音がして空が割れた。窓外は俄《にわ》かに暗くなった。豪雨だった。奈可子は驚いてとび起きた。たて続けの雷鳴のなかで、竜二が何か云った。その声も掻《か》き消された。
「どうしたの、何が起ったの」
奈可子は声をあげた。
「集中豪雨だよ、雨期が近づいてるんだ」
「だって、さっきまでなんでもなかったのに」
「雨だよ、ただの豪雨だよ」
茫然として奈可子は呟いた。
「わかってるわ。わかってるわよ、雨でしょう、でもこんな不意打ちってあるかしら」
それは束の間の変化だった。豪雨はなにかに断ち切られでもしたように終った。鳥が鳴きながら空を飛んだ。
「あたし、ほんとうに子供産むわ」
しばらくして、奈可子は竜二の傍《そば》に寝返って云った。眼を閉じたままの夫の横で、奈可子は、やにわに笑いがこみあげてきた。躰の底からそれは幾重にも洪水のように脹《ふく》れあがった。奈可子は白い天井に向って笑った。すべてを捨ててここへ来たのだ。夫のもとへ。夫しかいない場所へ。これは実に爽快な気分だった。気がつくと竜二が片肘《かたひじ》をついて、頭をもたげて奈可子の顔を凝っと見ていた。
奈可子にはすることが何もなかった。真夏のひどい暑さのなかで、寝椅子に躰を伸ばしたまま終日裏手のブッシュを眺めて過した。竜二が出かけてしまうと、今までに経験したことのない自由に鎖《とざ》されて、ぼんやり時をやり過した。午後二時頃になると、界隈《かいわい》の子供たちがブッシュに集まって遊ぶのが見えた。一本の小山のように繁茂した巨木には、その太い枝にロープを縛りつけた長い長いブランコが見えた。子供たちは競ってそれにぶら下がると、鳥のように宙を飛翔《ひしよう》した。また爆竹の鳴る音がそこここでした。彼らの間で流行《はや》っているようすだった。太陽がすぐ間近で燃えていた。子供たちは半裸の姿で跣《はだし》だった。
隣家には、若い女が二人で住んでいた。彼女たちは勤めからもどると、ビキニ水着に着替えて、毎日のように裏手にあるホテルのプールへ出かけた。長いビーチタオルを肩に掛けて跣の女たちは、肉付きのいい腰を並べて、ゆっくりブッシュを突っ切って、奈可子の視界を遠去かる。プールからもどると彼女たちは、魚や肉のフライ料理の冷凍食品で食事の支度をした。その強い油の臭いは毎夕変ることがなかった。食事のあとは、数人の友達がやって来て、夜半まで若い男女の声で賑わった。
隣家の女たちは、生気のない東洋の女をもの珍しく眺めていた。彼女たちはしばしば奈可子の部屋へやって来て、買物や洗濯の手伝いを申し出たりした。二人の女は金色の産毛が密生した躰を露出した姿で、奈可子の眼の前を快活に動き廻った。奈可子の馴れない言葉をよく理解し、この土地には英語のわからない人間が集まって来る、と女は云った。ギリシャ人、イタリア人、ベルギー人、ドイツ人、フランス人、オランダ人、中国人、どういうわけかしら、世界中の人間がいるみたいよ、と陽気に喋《しやべ》った。オーストラリア人もたいてい南から来ている、土地の人は珍しいぐらいだ、とも云った。彼らは働くために来ているのだ。そういえば熱帯とは思えないほど人びとはよく働く。
土曜日は買物と遊びに費やして、日曜日になると彼女たちは洗濯をした。攪拌《かくはん》形の大きな洗濯機から、山のような洗濯ものをとり出すと、フラットの前庭に立っている風変りな物干しに掛けた。傘の骨のような形をした大きな鉄製の物干しが彼女たちによってすっかり占領された。一番外側の四方の針金にはシーツが四枚広げられた。その内側の針金には、ちいさな色とりどりのパンティとブラジャーがびっしり並んだ。さらに内側の短い針金には、通勤用のドレスが十枚ペッグで留められた。二人の五日間の衣裳だった。一番内側には、短いネグリジェとか、ショーツがぶら下がった。かんかん照りの庭で、二人の女は忙しく喋りながら、のんびり時間をかけて自分たちの生活をひとつひとつ繰り広げた。
日曜日の午後は、女たちの男友達が迎えに来て、連れだってピクニックへ出かけた。発泡《はつぽう》ポリエステロールのアイスボックスに氷詰めの食料や飲み物を用意すると、この半裸の男女の群は陽盛りに一頻《ひとしき》りのざわめきを残して消えた。
彼らの生活を美しいと奈可子は思った。単純そのものの明快な暮しであった。激しい自然に自然そのままの姿で参加していた。
毎日のように雨は間歇《かんけつ》的に降った。豪雨のあい間に、太陽がじりじり大地を乾《ほ》した。その湿度の高いじっとりした暑さは、この土地に来て三カ月ばかりの奈加子を完全に打ちのめした。
雨になると、奈可子は急に下がる気温のなかでほっとして、雨|飛沫《しぶき》の吹きこむ窓辺に立って外を眺めた。それは何度見舞われても、眼を瞠《みは》る光景だった。大地は隈なく叩きのめされて、人家の庭では芝が水の中に浮いていた。ブッシュで遊ぶ子供たちは、赤や青のレインコートを着て、雨のなかで喚声をあげた。
ひと雨降って太陽が大地を焼くごとに、草は伸びて樹木は眼に見えて繁った。こうした自然の変化は、いかにも圧倒的であった。奈可子は、なすこともなく終日、雷鳴と雨と太陽が忙しく入れ替わる光景と向きあって過した。そしてあるとき、自分の思考がこのまま衰退していくのではないかとぼんやり思った。複雑な対人関係もなく、時間に追われることもなく、人間の群に紛れることも、揉《も》まれることもない。二人分の食事の支度と、部屋の掃除と、毎日洗濯機を廻す。主婦としてのそれらの仕事は、短時間に造作なく終ってしまう。残された個人的な、あまりにも個人的な時間を、奈可子は痴呆《ちほう》のように、窓から見える限られた世界を眺めることで埋めた。
雨の降りしきる夜、夫婦は家を見に出かけた。周旋屋の世話で一軒の家が見つかったのは、雨期がはじまるその頃であった。
オレンジ色に灯った外燈の列を、奈可子はやはりマッチ棒のお化けだ、と思った。闇の中に等間隔の人家が、蛍光燈や、黄色い光の中にはっきり浮びあがっていた。そのひとつひとつの家の中の様子が、奈可子にはどれも手にとるように見えた。黒い女がたまたまカーテンの隙間《すきま》に手をかけて、奈可子に顔をむけたまま欠伸《あくび》をした。その女のワンピースのプリント模様までも彼女にははっきり見えた。ひとつの部屋ではアンダーシャツの男が、テーブルに向って夕食をしていた。その前で裸の少年が立って宙に何かを放り投げている。この家には母親がいない。奈可子は素早くちいさなドラマを設定した。また別の窓のひとつは、女の影がぴったり引かれたカーテンの奥で揺らめいていた。あれはシャワーから出て髪を拭いている。赤ん坊を抱いた女と、大きな男が部屋中をうろうろしている窓もあった。どの窓も夕食後の時間を、思い思いに闇に向って露呈していた。
ふと気がつくと、眼の前のヘッドライトのなかに雨脚が斜めにびっしり脹れていた。光のなかに無数の虫が粉を散らしたように飛んでいた。虫はヘッドライトに群がって、次つぎと吹き飛ばされて闇の中に消えた。
竜二は一軒の家の前で車を停めた。黒い木立の奥に、蛍光燈でそこだけが突き出て見える窓があった。その隣に黄色くくすんだ窓があった。竜二は車を庭に入れて、入口のドアにつづく階段の下で停めた。奥に一台の大きな乗用車が、ライトの中に浮びあがった。竜二は階段を雨に打たれて駆け上がった。奈可子は窓を見た。薄汚れて見える黄色いスクリーンに判じ絵のような影が揺れていた。大きな海星《ひとで》がガラスの裏を這っているようだ。それは伸びたり縮んだりしながら、大様に動いていた。人間と大きな翼を持った鳥が戯れているのかも知れない。雨の夜、蒸し暑い部屋の中で。
竜二はドアの前に立って、ノックを繰り返していた。ノックの音は雨の音に掻き消され、竜二は諦《あきら》めてドアの前を離れようとした。そのとき動く影が突如消えて、入口に近い窓に蒼白《あおじろ》い電燈がともされ、ドアが開いた。真黒の大きな顔が竜二の前に立ちはだかった。闇に向って男の表情ははっきりしなかった。それはほんの数秒のことで、ドァが閉り竜二が車にとびこんで来た。すぐ真上の電燈が消えて、黄色くくすんだ窓に、また影が現われた。あの男が影の正体だ、と奈可子は思った。
「断わられた、今夜は多忙だそうだ」
竜二が云った。「女房に家の中を見せたいって云ったら、おまえが見て知ってるんだからもういいだろうって、明日の朝シドニーへ発つらしい、八時以後ならいつ引越してもいいそうだ」
「もう決ったことなのね、この家を借りること」
「明日の朝とにかくもう一度見に来よう、もし気に入らなければ仕方ないだろう」
「あなたはいいんでしょう? だったらあたしもかまわない。家なんてどこも同じようだわ」
「あの男の人、どこの国の人」
しばらくして奈可子は訊いた。
「ポルトガル人だよ、ポルトガル領事だよ、彼は」
「するとあの家は領事館なの」
「今夜までポルトガル領事館だ」
奈可子は竜二の横で、全身の力を抜いて、シートに崩れるように坐っていた。この土地へ来て日が経つうちに、奈可子の体内には、いつの間にか気怠《けだる》いものが巣くっていた。奈可子は、自分には適応性が欠如しているのかもしれないと考えていた。竜二に比較して奈可子はしばしば絶望的な気分になった。かつて想像していたほど、この見知らぬ外界に対して好奇心が働かなかった。
「明日は九時に移ろう」
竜二が物事を処理するような口調で云った。
「早いのね」
「早い方がいいだろう、フラットじゃ暑さからの逃げ場がないんだろう?」
逃げ場がない、という日頃の奈可子の言葉で竜二が云った。
雨の降りしきる闇に、やはり舞台のような明るい家々の窓があった。しかし先刻と違って、どの窓も芝居を終えたあとの、無意味で殺風景な空間として奈可子の眼に映った。
全身が闇のなかにのめりこんでいくような疲労で、何もかもが疎《うと》ましかった。
夫婦の広い寝室には、一台の大きなクーラーがついていた。あとの二つの寝室には、境の壁を切り抜いて、両室の中央に中型のが一台とりつけてあった。それはいかにも不自然な細工であった。奈可子はポルトガル人の家族構成を想像した。多分夫妻には大きな二人の子供がいたのだ。
居間の茶褐色の磨きのかかった床には、ところどころに、ちいさなカーペットが何枚も敷いてあり、壁には東洋風の壁掛けが、ところ狭しと掛けてあった。シンガポールとか香港《ホンコン》の土産ものらしい布製の壁掛けは、金糸銀糸の虎の刺繍《ししゆう》だったり、けばけばしい孔雀《くじやく》の図柄などで、それらは前の住人に見捨てられて、いかにもうらぶれて見えた。部屋の隅には、根のついた植物のいくつかが水を張ったガラス鉢に生けて置いてあった。どの鉢にも澄んだ水がなみなみと入っていた。手編の白いレースの花瓶敷きや、テーブルセンターもあった。どれも昨夜までの住人をとり囲んでいた背景だった。奈可子はそれらを早急に毟《むし》りとることによって、あの得体の知れない影の揺らめいていた一点の謎《なぞ》から脱出できるかも知れないと思った。
家をとり囲むみどりは怖ろしいほどであった。門の脇に立っている背の高い椰子《やし》の樹は、大きな翼の怪鳥が雨に打たれているような風情で、重たそうに撓垂《しなだ》れている何枚もの葉のつけ根に、椰子の実が十個以上もしがみついていた。
「あれが頭の上に落ちて来ることもあるんだわ」
奈可子は、ふと竜二に云うともなく云った。丈高い、いくらか斜めに傾《かし》いで伸びているその樹を、じっと見ているうちに、奈可子の感覚は危うく倒錯して、わっと落ちて来る怪鳥の濡れた翼に抱えこまれるような迫力を感じた。
「椰子の実が頭に命中したら、よほど運がわるいのさ、そんなこと滅多にないよ」
竜二が云った。奈可子にはその滅多にないことが、自分の上には起りそうな気がした。
居間に一番近い寝室には、ベッドの他に大きなアイロン台が置いてあった。それには薄汚れた白い覆いが被《かぶ》せてあり、その上に二台のアイロンが並んでいた。アイロン台の横に、提げて持ち運びの出来る日本製のミシンがあった。奈可子はそれを呆《あき》れる思いで眺めた。今どき日本の古道具屋にも見かけそうもない代物《しろもの》で、手動になっていて、右側の輪を把手《とつて》で廻す仕掛けだった。奈可子は死んだ祖母の遺品の中に、これと同じものがあったことを想い出した。ポルトガルの女がつい先頃まで所有して、捨てられて今ここにある。女は、これをテーブルに載せて使用したのだろう。白い糸がついたままのミシンを、奈可子は動かしてみた。まぎれもないその軽快な動きは、奈可子の手で突然呼吸をとりもどした生きもののように動いた。日本の明治時代の女は、これを卓袱台《ちやぶだい》の上に載せて、畳にぺったり坐って廻したはずであった。
「こんなものがあったのよ、日本製よ」
奈可子は竜二を呼んだ。
「へえ、随分もの持ちがいいんだなあ、外国の女は」
竜二は呆れて云った。
「買わされたんだよ。この家に遺っているめぼしいものは全部買わされたのさ。こっちは、リストを見ただけで簡単に引き受けたけど、随分ひどいものがあるよ、壊れた目覚まし時計とか、旧式のミキサーとか、がらくたばかりだよ」
昨晩、自分たちが追い返された理由が解った、と彼は云った。
「そうかしら」
奈可子は陰気に喋った。「わたしたちにとってはがらくたでも、あのひとたちには大切なものだったかもしれないわ、このミシンもよく動くし、アイロンも古いものじゃないわ。スティームだわ」
「がらくただから売り払ったのさ、まあ、いいよ、電気製品は全部こっちで買うつもりでいたんだから」
日本とこの国の電気はボルトが違っていた。もし電気製品を日本から持ちこむとなったら、トランスが必要だった。
奈可子は思った。わたしというプラグもこの土地のコンセントには合わないのだ。竜二を見ているとその思いが一層強くなった。彼は、奈可子の些細《ささい》な拘《こだわ》りに全く同調を示さない。
この部屋で、あの男は何をしていたのだろう。あの真黒だった大きな顔の男は。海星の化物のようだった影は、この部屋のこの窓を這っていたのだ。
竜二が冷房装置のスイッチを入れて、ガラスと網の二重窓を閉めた。雨の音が遮断《しやだん》されて、クーラーの唸《うな》りに変った。
「すごい音だな」
竜二はこれにも呆れて隣室との境のちいさな扉を開いて首を突っこんで機械を調べた。音の調節はきかなかった。
「この家のものは、何もかも旧式だ」
そうだ、あの男はアイロンをかけていたのだ。奈可子はやっと謎を解いたような気分になって、同時に気抜けした思いであった。窓を閉めてみると、アイロン台の位置が突然はっきりしたのだった。あのポルトガルの男は、自分の旅装にアイロンをかけていたのだ。ここで。この大きなアイロン台に向って。重いアイロンを相手に、彼は独りで動いていたのだ。アイロンをかける孤独な男――。すると彼の家族はいなかったのだろうか。奈可子は隣室へ出かけて行って、竜二と並んでベッドに腰かけた。
「あのひと、ゆうべ独りだったのかしら、家族はいなかったのかしら」
「誰? ああダ・ルースのことか、家族はひと足先にシドニーへ行ったらしい」
「ダ・ルース、あのひとのこと? やっぱりそうだわ、ミスタ・ダ・ルースはアイロンをかけてたの」
「何のことだ」
「幻が見えたの」
あの男がガラス窓に這わせたのだ。大きな海星を。
居間の片隅の台に、灰色の電話機が載っていた。竜二が出勤したあと、突如それが鳴り響いた。奈可子は驚いてとびあがった。フラットの電話も、この家の電話も奈可子のためには鳴らない電話であった。以前の生活と違ってここの電話は奈可子のためには何の意味も持っていなかった。竜二かもしれない、と奈可子は思ったが、いきなり男の早口の英語が耳にとびこんできた。彼女にとってこれははじめての経験だった。奈可子は聴き返した。男の声は、ポルトガル領事館か、と訊ねていた。二日前までそうであった、と奈可子は答えた。男は、ミスタ・ダ・ルースはいないか、と重ねて訊いた。ミスタ・ダ・ルースはシドニーへ行ってしまった、もうここへは帰らない、ここはポルトガル領事館ではない、と奈可子は説明した。電話は切れた。
その日のうちに五回、同じ種類の電話がかかった。一人の若い男の声は、チモアへ行きたいのだ、と繰り返した。チモアへ行くためにミスタ・ダ・ルースに会う必要がある。奈可子はしばらく何のことかわからなかった。電話の主はチモアへ旅行するための手続きとして、ビザを求めているようすだった。奈可子は後になって、チモアの一部がポルトガル領だということを知って、はじめて理解できた。
毎日ダ・ルースへの電話が、四、五回はあった。奈可子はそのたびに同じ言葉を繰り返さなければならなかった。
ミスタ・ダ・ルースはいません。
彼はシドニーへ引越しました。
もう帰って来ません。
何故ならばここはポルトガル領事館ではないからです。
いいえ知りません。
わたくしは彼を知りません。
なにも分りません。
わたくしは知らないのです。
なにもかも。
竜二が行ってしまうと、奈可子の神経は、強迫観念にとりつかれて、自分でも怖ろしいような変化を起すのだった。部屋の片隅にあるあの灰色の電話機。あれは何だろう。同じ内容しか喋らない癖に、実にさまざまな声を出すではないか。しかもどう聴いても英語とは思えない言葉もとび出て来る。多分ポルトガルの言葉だ。
この電話にとり殺されそうだ、と奈可子は夫に打ち明けた。それは面白い、と彼は笑った。奈可子は自分の神経の苛立ちは説明のできることではないと思った。ひと月も経てばその種の電話はなくなるだろう、と竜二はこともなげに云った。
ダ・ルースを呼ぶ電話は、その都度奈可子の脳裏に雨の夜の不可解で無気味だった影と、竜二と向きあっていた大きな真黒の顔が反射的に浮びあがり、その反復劇のような連想となって奈可子を苦しめた。
ダ・ルースという男がこの家の中で生きていたのだ。彼の手が握った受話器を持って、彼の唇の前で彼の声を吸収していたこの受話器の沢山の穴に向って、自分も喋っている。ドアにも椅子にもバス・ルームにも階段にも壁にも窓にも、ダ・ルースがいた。もし、ダ・ルースの影が自分たちのベッドにもあるとしたら、本当にわたしは頭が可怪《おか》しくなるだろう。彼の使用していたベッドが、使いものにならないぐらい古くなっていたことは幸運だった。
猫を飼おう。新聞のちいさな広告欄に、血統書つきのシャムの仔猫を三十五ドルで売るという箇所を見つけて、奈可子はだしぬけにそう思った。
この土地を知るためにも、横文字に馴れるためにも、奈可子は時間をかけて新聞に眼をとおす習慣を持った。新聞はいかにも土地柄を現わしていて、写真入りの記事といえば、何なに夫人の誕生日とか、誰それの結婚式だとか、大きな魚を釣った話とか、病院で双生児が産れたとか、毎日同じようなことが紙面を大きく占領していた。事件となると、交通事故、火事、落雷、ブッシュでの行方不明といったきまりきったものばかりで、それらの記事は奈可子にとって、まったく無関係なよそ事であった。この土地で生きる人びとにとってはごく身近な隣人の話題が活字になって、毎朝の食卓にのるという事実が、奈可子をいよいよよそ者で新参者という心もとない気持に駆りたてた。写真の中でにっこり笑っている花嫁にも、ブッシュから数日ぶりに救《たす》け出されて、泣き笑いを見せながら生還したことのよろこびに酔っているいくつもの顔にも、奈可子はどうしても同調することのできない違和感を覚えるだけであった。
シャム猫の広告に奈可子はひどく触発された。外国へ来て初めて現実に向って動きだした自分自身の指針であった。その日のうちに広告主に電話で予約してから、週末に夫婦揃って、そのキャンベル夫人の家へ出かけた。
サンディー・キャンベルは、フラットの二階に住んでいた。ブラインドを下ろして薄暗い落着いた狭い部屋は、天井で激しく廻っているファンの唸りと風がいっぱいだった。眼鏡をかけた知的な面立ちのサンディーは、奈可子と同年ぐらいに見受けられた。彼女は夫がクリケットの試合に出かけて不在なことを何度も詫《わ》びた。キャンベル氏は医者で、サンディーは、キャンベル氏と同じ国立病院の研究室で血液検査の仕事をしていた。彼女の雀斑《そばかす》の浮きでた血の気のない透き通るようなちいさな顔と、細い項《うな》じが、痩《や》せた肩の上にのっていた。
コーヒーを淹《い》れながら、サンディーは大層やさしい声で猫を呼んだ。サキと呼ばれて、物陰から出て来たのはぞっとするほど大きなシャム猫だった。
「サキ? イギリスの作家と同じ名前ですね」
奈可子がいうと、サンディーは眼を輝かせた。
「そうですよ、サキはわたしの大好きな作家で、大好きな猫です、サキの短篇もサキの毛並みも大好きです」
彼女は表情豊かに、愉しそうに喋りながら、膝《ひざ》の上の大きな猫を抱《だ》き抱えて、その灰色の背中に自分の頬を押しつけた。
「この猫ではないでしょう、ぼくたちの娘になるのは」
竜二が云った。
「ええ、もちろん、これは母親ですもの」
サンディーは再び「サキ」と呼んだ。もう一匹のサキが台所から走り出て来た。ずっと小柄で、奈可子はいくらかほっとする思いだった。しかし仔猫というから、生れたての眼の開かない虫のような生きものを想像していたのとは見当違いだった。他の仔猫は、生れてすぐ手離した、とサンディーが云った。
「これだけはどうしても手離せなかったのです」
サンディーが仔猫を摘みあげて膝にのせると親猫のサキはひらりと床にとび下りて、すぐ姿を消した。キャンベル夫妻は、三週間後の東南アジア旅行のために、仔猫を手離す決心をして、親猫のサキは友人に預けることになっていた。彼女が猫の話をするときの表情に、奈可子は惹《ひ》かれた。彼女の眼は大きく輝いて皮膚の薄い頬に血の気がさし、また寂しそうに揺らめいては瞼《まぶた》をゆっくりふせた。話題は最後まで猫に関することばかりで、それは静かだが非常に熱っぽい調子だった。
サンディーは一枚の紙をさし出した。そのタイプ打ちの血統書には、厳《いか》めしく長たらしい名前がびっしり連ねてあり、ひとつひとつのそれに、飼い主の名前も並んでいた。奈可子はそれを半ば呆れる思いで見た。一枚の紙の上に君臨している猫の一族に、大勢の人間が随従している。仔猫のサキの父猫はデンシーという名で、飼い主は教会の神父だった。
「サキにシーズンが来ても、うっかりデンシーのところへ連れて行ってはいけませんよ」
サンディーは近親相姦を心配して真面目くさって注意した。
奈可子はサキをハナコと改名した。サンディーはしばしば、ハナコの様子を見に立ち寄った。
サンディーが家の前に車を停めて庭に入って来ると、彼女の眼鏡に太陽がぶつかって光った。ドアに向って庭を歩きながら、彼女はハナコの名を、おかしなアクセントで呼んだ。どこからともなく猫がとび出して来るのを期待して、じっと佇《たたず》んで周囲を見まわす。奈可子はドアの内側から彼女を盗み見ている自分が、ひどく薄情な女に思えてしかたがなかった。それは、サンディーと猫の関係が奈可子には理解できなかったからだ。サンディーの光る眼鏡を見ながら、奈可子は、ふと、ハナコがとび出して来なければいい、と投げやりな気分にもなった。そして、今日はハナコが彼女のために現われるか、現われないかと、こっそり賭《か》けることもあった。しかしハナコは彼女のよく透《とお》る声に呼ばれると、かならずといっていいほど走り出て来た。
サンディーはハナコを抱きしめて、頬擦りをしたり、何か話しかけたりしながら、はじめてドアをノックした。奈可子にとって、サンディーは、いつも猫を胸に抱いてにこやかに現われるどことなく風変りな女であった。彼女はハナコの食欲、睡眠、脱毛の状態など、実に親身になって説明したり質問したりした。そしてハナコの瞳がいくらか内側に寄り加減なのを、父猫のデンシー似だとさも、残念そうに云った。
「寄り眼のハナコ、寄り眼のハナコ」
サンディーはいとおしそうに、猫の全身を撫《な》でまわしたり、ひっくり返して腹を見たり、顎《あご》をおさえて無理やりに開かせて口中を点検したりした。そうしたことに夢中になる彼女を、奈可子は理解できなかった。猫の暗いちいさな口の中の尖《とが》った歯や、灰色の毛に埋もれた乳首のひとつひとつを指先で確かめたりして、いったい何が充たされるのだろう。この炎天を猫のためにやって来て、獣の躰を念入りに診断したりする必要がどこにあるのだろう。
「とにかく、ハナコは元気ですよ、健康です、とても」
この言葉以外に、奈可子はサンディーとの繋がりを今では見出せなくなっていた。サンディーは気がすむまで猫を弄《いじ》りまわすと、いつも、ありがとう、と云って椅子を立った。彼女はそして眦《まなじり》に皺《しわ》を寄せる独特の非常に魅力のある笑顔を、はじめて奈可子に見せた。この何ともいえない美しい笑顔に出合うと奈可子はほっとして、同時に彼女の眦に消え残っている幽《かす》かな寂しさを見逃さなかった。しかしハナコを抱きしめて離そうとしない彼女と、車まで一緒に歩きながら、奈可子はやはり異様な気持でサンディーを見ずにはいられなかった。サンディーは、ハナコの躰中に接吻してから、そっと奈可子に返した。まるで生れたばかりの赤ん坊を扱う母親の手つきで。受け取った猫を、奈可子はすぐにでも地面に放り出したい衝動に駆られるのをじっと耐えた。そしてサンディーが、ハンドルの前で額の汗を拭って、ゆっくり安全ベルトを肩から胸へ斜めにかけるのを見まもっていた。
廊下で、奈可子は悲鳴をあげて立ち竦《すく》んだ。物陰に隠れていた猫が、突然奈可子に襲いかかった。猫は奈可子の脹《ふく》ら脛《はぎ》に軽く爪をたてて逃げた。
「またやられたの」
奈可子は声を荒げて竜二に告げた。
「ハナコったら、何の怨《うら》みがあってあたしに飛びかかるのかしら、引っ掻いて怕《こわ》がらせてよろこんでるの」
「そうじゃないよ」
竜二の声がのんびり喋った。「仔猫だからやたらと戯《じや》れたいんだよ。きみは猫を知らないのか」
「知らないわ、あたしは猫じゃないもの、猫なんて好きになれないわ」
「じゃあ、どうしてサンディーから買ったのさ、欲しいっていったのは誰だ?」
「何でもいいから、生きものと一緒に暮したかったのよ」
竜二が、ソファの上で起き上がって、奈可子の方に顔を向けた。それから無言のまま台所へ行くと、冷蔵庫を開けた。彼の背丈と同じぐらいの大きな冷蔵庫の前で、竜二は凝っと内部の臓物と向きあっていた。
何もかも腐ってしまう。あっという間に、まるで死に急ぐように眼の前で鮮度がおちて腐敗する。あの夥《おびただ》しい食物。詰めこまれたわたしたちの臓物……。あれは今、外気に晒《さら》されている。あのひとは扉を閉めない。いつまでもあのように立ち塞《ふさ》がって何をしようというのか。彼自身の割り込む隙を捜しているのだ、多分。
奈可子は、わずかによろめきながら、台所の椅子に腰をおろした。そして体内から水分がすっかり蒸発してしまうような気分になった。竜二がやっと、ジンジャーエールの罐《かん》を取り出して白い扉を閉めた。分厚い扉は、流れこんだ熱い空気を封じこめるために、吸いつくように音もなく閉った。
「飲む?」
竜二が訊いた。奈可子は首を振った。彼女は椅子にかけたまま、足もとに視線を落した。灰色のプラスタイルの上に、茶褐色のシミが点在していた。
「ハナコをどこかへ持って行って」
彼女は呻《うめ》くように云った。「ハナコがいつも汚すの、見て、バッファローの血だわ。バッファローの肉よ、バッファローの肉をがしがし噛《か》んで、そこらじゅうに散らばすの」
竜二が爪先で雑巾を引き摺りながら、ひとつひとつの汚れを拭っているのを、奈可子は見た。彼のすっかり陽焼けした躰が彼女のぼやけた眼の中でゆらゆら動いた。
「餌《えさ》をかえてごらん」
彼が落着きはらって提案した。
「罐詰だけにするとか、ご飯をやってみるとか」
「だめよだめよ、いろんなことをしてみたのよ、ハナコはバッファローの生肉しか食べないのよ、バッファローをやらないとあたしにとびかかって来るのよ。シャーミンは野獣だわ」
「泣くことないだろう、相手は猫だよ、猫一匹だよ」
呆れ返った竜二の声が、自分の感情を抑えきれない奈可子を打ちのめした。視界が汗と泪《なみだ》で滲《にじ》んだ。
「だから、どこかへやってしまって、猫の仔一匹だから」
奈可子は力なく云った。竜二はしかし答えなかった。
そうして猫のための鬱とうしい空気が、夫婦の間に停滞するのだった。この繰り返しは、ほとんど週末ごとに起った。竜二がハナコを絶対に手離さないことを奈可子は知っていた。彼はハナコに仔猫を産ますことを計画していた。ハナコにシーズンがやって来るのはあと一、二カ月の目算であった。
「シャーミンをぞろぞろ飼おうよ」
竜二はあるとき奈可子に云った。彼のいつもの無表情が、そのときばかりは秘密を持った少年のように無邪気な愉しさに溢れていた。竜二は内証ばなしをするように、奈可子の耳もとでそう云ったのだった。
「ハナコの相手を捜したんだよ。毛並みのいいのが見つかったんだ。ディックって知ってるだろう経理の、彼が飼ってるんだ」
「そう、ぞろぞろ産れるの」
「うまくいけば、一回で四匹はかたいよ」
「どうしてそんな変ないい方するの」
奈可子は我知らず苛立った。「ハナコにこどもを産まして売る気でしょう、一匹四十ドルで、百六十ドルにもなるわ」
「買いたいって人がいれば売ってもいいよ」
竜二は何くわぬ顔でつづけた。
「ハナコはまだ若いもの、何度でも出来るさ、猫っていうのはそんなものさ」
猫というのはそんなものか。ぞろぞろ出来る。何度でも身籠る。あのちいさい薄気味わるい獣が。サンディーが猫を舐《な》めるように愛撫《あいぶ》したのを見たときから、奈可子は自分の飼猫との間に、ただごとではない関係が出来てしまったと信じていた。
ハナコの食事のための手続きを、奈可子は四日に一度の割りでしなければならなかった。それは、かちかちに凍結しているレンガのようなひと塊りのバッファローの生肉を、流しに放り出しておいて、それが半ば融けかかったところをナイフで細切れにして、プラスティクの大きな容器に詰めこんで冷蔵庫へ入れて置くことだった。その細切れの冷たい、血の滴る肉をひと掴みハナコの皿へ入れてやると、彼女はちいさな頭を上下に動かしながら、熱心にそれを噛んだ。頭が斜めに傾いで全身の力を集中した口の片側で、がしがし咀嚼《そしやく》しながら、始終自分の食物を奪われはしないかと、ちょっとした空気の動きにも警戒を見せる猫を、奈可子は息づまる思いで見た。そして肉を三分の二ほど平らげると、ハナコはやっと解放された伸びやかさを見せて、ちいさな舌で口の囲《まわ》りを舐めたり、前足で忙しく顔をこすったりして、あげくに全身を伸ばすのだった。猫の円筒の躰がゴムのように長く伸びて、四肢がぴんと突張って痙攣《けいれん》するようすを奈可子は身顫《みぶる》いしながらもそれから眼を離すことが出来なかった。そして、さも満ちたりた足どりで、ハナコがゆっくり歩きはじめるとき、いかにもライオンや虎と同族であるというその威風堂々とした恰好が、奈可子には疎ましいものに見えた。あの勿体ぶった歩き方はハナコを醜くさせている。食事中に、生肉を皿から持ち出して散らかすのは、わたしへの挑戦だわ。
あるとき奈可子はひとつの情景にぶつかった。隣家の三歳になる幼女が、ハナコを抱いたまま、ドアの前にしゃがんで奈可子が与えたアイスクリームを舐めているときのことだった。円錐《えんすい》のコーンカップに詰めたアイスクリームを、子供は、しっかり抱きかかえたハナコに舐めさせては、自分の口へ持っていくのだった。奈可子は台所のドア越しにそれを見つけて、思わず幼女の名を呼びかけて、それが声にならないほど呆気《あつけ》にとられた。ハナコの舌がアイスクリームをぺろぺろ舐めるのを見とどけると、彼女は安心したように自分の舌でそのあとを舐めた。幼い子供と猫のこの異様な親密さは、奈可子には解らないことであった。猫のざらついた舌の感触が、そのままにアイスクリームにあとを残して、それを幼女の舌が、掬《すく》いとって飲みこんで消しているという、その何の意味づけもできない子供と猫の情景が、奈可子をその場に封じこめた。
本格的な雨期になって、台風《サイクロン》が頻々《ひんぴん》とやって来た。雨は窓ガラスの隙間から吹きこんで、室内が濡れた。何日も太陽のない日がつづき、蒸し暑い濡れた空気は、人びとの生活をすっぽり包んだ。
風雨のなかで椰子《やし》の葉がよく落ちた。椰子の葉は疲れきって落ちた。その茶色に変色しかかった夥《おびただ》しい葉尖《はさき》は、櫛《くし》の目のように揃《そろ》っていて、大きな鋏《はさみ》でカットしたように葉末までの斜めの線がくっきりしていた。奈可子は雨のあい間をみて、およそ四、五メートルもある枯れ葉をずるずる引き摺《ず》って裏庭へ運んだ。雑草の入り交じった芝は深ぶかと伸びていて、奈可子の足は柔らかい地肌に沈みがちであった。椰子の葉は彼女の背後で、ざわめきながら引き摺られた。裏庭の外れのバベェキュー用のレンガを積み重ねた四角い炉の脇に、引越しの時のダンボールを燃やした黒い灰の山が、雨に打たれてわずかに堆《うずたか》くなっていた。奈可子が運んだ椰子の葉が、もう四、五本もその上に横たわっていた。
炉の傍《かたわ》らにバナナチェアと呼ばれる幅の広い寝椅子が置いてあった。奈可子は椰子の葉を運ぶたびに、いつもこの椅子を片づけようと思った。しかし思うばかりで、呼び名どおり、大きなバナナを一本一本横に並べたような、プラスティク製の長く伸びた椅子を三段式に折り畳むのが、ふと億劫《おつくう》になるのだった。雨に濡れても叩かれてもこの椅子は変ることがない。風にも雨にも壊されない。奈可子は思いなおして、その場に椅子を放置した。鮮かな黄色の椅子は濡れて光っていた。
奈可子は放心したように、庭を歩き再び椰子の樹の下へ来て、それを見上げた。葉も果実も必死になって、わずかに撓《たわ》んで伸びている一本の幹に、しがみついているように見えた。――わたしはどうしたらいいのだろう。
奈可子は、自分自身の虚《うつ》ろな眼を知っていた。これほどに自身を持て余すとは思ってもいなかった経験だった。この鬱積した重い時間をどうしたら払いのけることが出来るだろう。奈可子は夫が出勤したあと、ほとんど同じことを考えて過した。
「車をのり廻してごらん、それだけだっていい気晴しになるよ。見てごらん、この辺のオカミサン連中を、子供を五人も六人も後へ放りこんで、赤ん坊をカーチェアに縛りつけて突走ってるじゃないか」
竜二は雨期が終りしだい、奈可子のために中古車でも購入する気でいた。しかし奈可子は何年も前に得た運転免許で、実際に車を乗り廻せるものか不安だった。そして思った。わたしには子供がいない。カーチェアに赤ん坊を坐らせて、ベルトでぐるぐる縛りつけて、ミルクや野菜を買いに行く、そういう生活は自分には縁がないのかも知れない。この土地へ降り立ったときの、母親になるのだという思いがけない爽快《そうかい》な気分が、夢のように思い返された。かつて絶えず妊娠を恐れていた頃、その気になればすぐにでも受胎出来るのだと信じて疑わなかったことが、今になって異様にさえ思えた。考えてみれば妊娠を怯《おび》えながら、失敗に終ったことは一度もなかったのだ。不安と安堵《あんど》の繰り返しに過ぎなかった。
奈可子は風雨に荒れ狂う樹木を見ながら、竜二のつねに無感動な表情を思いやった。今こそ二人を結びつけるものは自分たちの子供であっていいはずだった。しかし竜二は以前とまったく変らなかった。奈可子にとって、それは気づかわしい不可解なことであった。彼は子供のことを考えていない。思案のすえ、奈可子はいつもそう断定した。「あなたは子供を欲しくないの」妻の問いかけに、彼は「いや」と軽く応えるだけだった。
猫の仔を増やしたいという、竜二の計画を異常だ、と奈可子は思った。彼女はそして、ヒステリックな自分の叫び声を想って、我知らず耳を塞《ふさ》いだ。何と滑稽なんだろう。どうしてこんな莫迦《ばか》げた諍《いさか》いをするようになったのだろう。竜二が、まともに投げつけられた妻の叫びから、すっと遁《のが》れて無言のまま離れて行くことを奈可子は恐れた。それはちょうど、子を産めない妻を、そっと労《いたわ》るようなわざとらしい無関心さであった。奈可子は混乱して解らなくなった。ひょっとしてわたしは不妊だろうか。今まで受胎することは容易であると考えていた自信はどこから来ていたのか。その証明はどこにもなかった。それとも竜二自身に問題があるのだろうか。多分彼はそれを知っているのだ。奈可子はそして、自分の狂おしさに絶望した。彼は何も云わない。何故《なぜ》だろう。奈可子は、樹木や草や道路や家々と同じように、自分が激しい雨の中に放り出されたような気分でじっとしていた。同時に、その場所から動けないまま、早くどこかへ逃げこもうという思いに駆りたてられた。
雨の音は彼女を幾重にも包みこんで、灰色に煙る窓外に、ただひとつ捨て置かれた黄色い椅子が、くっきりといつも見えていた。
電話のベルが鳴った。奈可子は男の声を聞いた。
「ルイーズ?」
くぐもった声だった。
「ルイーズ」
再び声は問いかけた。この電話ははじめてではなかった。昨日もその前の日も、同じ時刻に奈可子はこの声を聞いていた。
「いいえ、ちがいます」
電話はだしぬけに切れた。間をおいてまたベルが鳴った。落着きをとり戻したような改まった口調が、ダ・ルース夫人はいるかと訊《き》いていた。ここはポルトガル領事館ではない、ダ・ルース氏とその家族はシドニーへ移ってもう五カ月になる、と奈可子は答えた。理解出来たのかどうか、男の声は不意を突かれたように黙った。そしてゆっくり問い質《ただ》すように云った。
「ルイーズはもうそこにはいないのですね、本当にルイーズは行ってしまったのですね」
「ここにいるのは日本人だけです」
電話は切れた。
奈可子は咄嗟《とつさ》に、ショッピング・センターの角にある電話ボックスを想った。
陽をまともに受けて、暑さにうだりながら、男は電話をかけている。汚れた靴を履いた片足が、ボックスの重いドアを半開きに押えている。男は、二度目の電話をかけ終ってから、ボックスを出て来ると、珍しく雨が遠のいた太陽の空を見上げた。それから車が並んでいる駐車場の方へゆっくり歩きはじめて、ふと振り向いてから引き返した。ルイーズが、もしかしたらショッピング・センターの外れにあるちいさな木陰に、いつものようにぼんやり立っているのではないかと思ったからだった。木陰には乳母車が無造作に置いてあった。乳母車には赤ん坊が睡っていた。赤ん坊の頭は薄い髪がふわふわしており、顔はピンク色で、袖のある長い衣服を着て、おまけにソックスを履かされていた。
男は木陰の叢《くさむら》に腰をおろして赤ん坊を眺めた。まるで赤ん坊の番をしている父親のようだ、と彼は思った。男は半ズボンのポケットから煙草をとり出して火を点けた。買物をする女たちがのんびりした足取りで、彼の横を通り過ぎる。ルイーズではないか、と男はときどき、女たちの顔を振り仰いだ。躰《からだ》つきのがっしりした黒い髪の女が来ると、男ははっとして眼を凝らした。
あの男はゴーブから来たのだ。奈可子はソファに寝ころがったまま考えた。躰の真上でファンが狂ったように廻っている。その唸りは奈可子の皮膚から潜りこんで、躰の底の方で絶えず顫《ふる》えていた。あの鉱山地帯のゴーブから、飛行機で一時間かかって男は来た。泥まみれの靴をはいて、汗に濡れて。男が鉱山で働いたのは精ぜい一年足らずというところだろう。彼は自分の出稼《でかせ》ぎ根性を何とかしなければいけないと考えた。そうしないとルイーズが行ってしまう。今度こそルイーズは待っていない。男は自分の予感に急《せ》き立てられてこの土地へ舞い戻って来た。
木陰に腰をおろしたまま、男は眼の前に見える大きな新しい建物を見ていた。広い道路を隔てて平家造りのその建物は、開店したばかりのデパートだった。裏側は広びろした駐車場をひかえているようだった。主婦たちの運転する車が次つぎに建物の脇に走り出て来て、道路にかかると右かたに曲がって、どれもスピードをあげて走り去って行った。男は、海の方へ向う車にひとつひとつ眼をやった。ルイーズの車は、暗いみどりのフォールデンだった。走り去る車を、男は虚《むな》しく見送った。
毎日のように、男は約束の時刻になると、ルイーズに電話をかけた。そして晩《おそ》い午後、二人は海辺で時間を過した。起伏のある白い砂地をゆっくり下がって、波打ち際を二人はどこまでも歩いた。ルイーズは大きなサングラスをかけて、布製のひらひらしたブルーのスイミングハットを目深《まぶか》に被《かぶ》り、褐色の陽焼けした躰を僅かな布で覆っていた。女のずんぐりした躰は弾力があって、胸や腰のちいさな布が肉にくいこんでいた。ルイーズは黒い大きな瞳《ひとみ》で男をいつも睨《にら》むように見ていた。彼女はあまり笑わなかった。下瞼《したまぶた》が脹《ふく》れてその下に深い皺《しわ》が目立ち、頸《くび》には二重の皺が犬の頸輪のように巻きついていた。男と女は陽が落ちかかると、どこまでも人影のない砂の上に横たわって、日没の光を浴びて転げまわった。焼けた砂よりも女の肌は熱く、叫び声は無辺の空と海に吸いとられた。女は砂に埋まり、男は全身で女を救いあげようと|※[#「足へん+宛」]《もが》いた。
薄暮のなかを二人は車のところまで急ぎ足でひき返すと、並べて停めてあるそれぞれの車に身を隠した。
木陰の男は、煙草を喫い終えて腰をあげた。買物袋を抱えた、まるいサングラスの若い女が急ぎ足で真直ぐ近づいて来る。ルイーズではない。男は立ち竦《すく》んで思った。女は乳母車の籠に買物袋をのせると、赤ん坊をちょっと覗《のぞ》きこんでから、ゆっくりそれを押しはじめた。木陰から出ると、赤ん坊の上に幌《ほろ》をおろして、女は駐車場の車に近づいた。赤ん坊をそっと車の中のバスケットに移して、荷物をトランクに入れ、乳母車を手際よく畳んでこれもトランクに入れた。その車が首尾よくバックして道路に出て走り出すのを、男は突立ってぼんやり見ていた。
男は食料品店に入って、一パイントのカートン入りミルクと、ミートパイを買うと、また木陰に腰をおろして、晩い昼食にとりかかった。ミルクのカートンの口を無器用に開いて、唇を反らすようにして男はそれを飲んだ。
あの男はどこへ行くのだろう。多分今夜は安ホテルだ――。
ルイーズは、台所のドアを開けて入って来ると、冷蔵庫から下拵《したごしら》えのしてある肉料理をとり出して、オーブンに入れた。そして奈可子の横たわっているソファの後を通ると、バス・ルームに消えた。シャワーに打たれながら、ルイーズはちいさな布を剥《は》ぎとって、足もとに落ちた砂を足で排水口へ寄せて流した。
――彼女は大きなタオルにくるまって出て来ると、髪から雫《しずく》を落しながら、悠然と廊下を歩いて寝室へ行く。壁にとりつけてある長方形の鏡の前に立って、下着をつけはじめる。鏡の中に薄暗い空間が満ちて、疲れ切った褐色の肉体がふてぶてしく動く。落着きはらって髪をカールしてドライヤーで乾かす。化粧をして、彼女は鏡の中からふわっと出て来る。居間にもどり電燈をつける。壁の時計に眼をやって、台所にかけてある明るい鏡に顔を近づけ、まじまじと自分の表情を調べる。オーブンを開けてのぞく。肉の焼ける匂いに満足して、冷えた野菜をとり出し、家族のために食事の支度をする。この居間のテーブルに、いつもと変りばえのしない料理が出され、皿が並び、家族は食事をはじめる。
レストランの前の広い空地のような駐車場に、車が五、六台停っていた。豪雨があがって、真黒な空に沈みかけた太陽が、血よりも赤く滲《にじ》んで現われた。それは見るも怖ろしい大自然の急変だった。
「凄《すご》い空」
奈可子はレストランの前で空を見た。ドアを開けたまま、背の高い顔見知りのボーイが、奈可子を待ちながら慇懃《いんぎん》に云った。
「あれは不吉な空です」
冷房のきいた薄暗い照明のなかに、客はまばらで、奈可子たちのテーブルから店内をすっかり見ることができた。壁ぎわの隅に銀髪の老女が坐っていた。ボーイが生肉をいっぱいに広げて載せてある大きな盆を持って、老女の前で腰を屈《かが》めた。彼女はハンドバッグから眼鏡をとり出してかけると、盆の肉に顔を近づけて、ひとつひとつ肉片を指さしながらボーイに何か云った。ボーイは手にした長いフォークで、肉片を突ついたり、裏返したりして客の問に短く応じた。やがてボーイは料理場に立ち去り、老女は眼鏡をはずして注文した肉が焼けてくるのを行儀よく待った。
「彼だよ、ブッシュで迷子になったのは、いつか新聞に出てただろう」
顔|馴染《なじ》みのボーイが注文を聞いて立ち去ると、竜二が云った。
「彼はアデレードから来たばかりで、この土地をよく知らなかった。家族と一緒にブッシュへピクニックに行ったら道が分らなくなった。車が故障して、おまけに飲み水をつみ忘れていた。ちいさな子供二人と奥さんが一緒だった。四日間撃ち殺した豚を食べて、どぶの水を飲んで救援隊を待った。どぶの水はバッファローの臭いがしたそうだ。子供たちが夜になると泣き止《や》まないし、蚊は凄いし、おまけに二度も豪雨に会った。もうこりごりだそうだ。そのときも、さっきのような空を見たといってた」
「よくある話だわ。あなたは彼と親しいのね」
「彼の昼間の仕事何だと思う? クーラー屋だよ」
「電機屋さん? ボーイの方がぴったりだわ」
奈可子は夫の顔を正面からまじまじと見るのは、久し振りのような気がした。家の大きすぎるテーブルで食事をするとき、日本から空輸されてくる週遅れの二種類の新聞や数種類の雑誌を、竜二はテーブルいっぱいに広げて、躰を捩《よじ》らせて読みながら食事をした。奈可子の方は、竜二の頭越しに、壁を這《は》っている守宮《やもり》を見まもりながら食事をした。額の裏側に親子の守宮が潜んでいて、夜になると壁に現われて、ひゅるひゅる這った。
自分たちの居間が広すぎるのは落着かなかった。食事がすむとすぐに、竜二は新聞や雑誌を持って寝室へ行ってしまった。彼がベッドにひっくり返ってそれらを読むあいだ、奈可子は台所を片づけて、いつまでもテーブルの椅子で、守宮の動きを眺めていた。守宮は見馴れてくると、そう無気味な生きものではなかった。灰色の躰で実に素速く物陰から現われたり隠れたりしながら、ケッケと鳴いた。
守宮にも発情期があるようだった。台所の窓に張り巡らしてある金網の裏側で、いく分白っぽい腹を見せて、べったりはりついている。一匹がよく鳴くとき、注意すると他の一匹がかならずその近くにいる。二匹の守宮が互いに鳴きあいながら、ひゅるひゅると近づくのに、奈可子は長い時間気をとられていることがあった。しかし実際にぴったり接近するのを一度も見たことがなかった。
「守宮《ゲコ》はどうやって交尾するのかしら」
奈可子は竜二にきいた。
彼はワインの大きな壜《びん》をほとんど空けて表情が和んでいた。
「ゲコ? 交尾? 知らないよ、家の中でしょっちゅうやってるだろう、現場をつかめばいいじゃないか」
「見たことないわ、卵は知ってるけど」
竜二は妻と一緒に料理店で食事をすることに満足していた。それはおそらく奈可子と同じ考えにちがいなかった。二人きりで食事をすると、部屋が広すぎて落着かないと、彼が酔って打ち明けたことがあった。奈可子も同様だった。「ふるい映画でそんな場面見たわ、中年過ぎの倦怠《けんたい》期の夫婦の身の上なの」
「それとは違うよ、われわれは中年過ぎでもないし、倦怠期でもない」そんなことを云った竜二の表情を奈可子は憶《おぼ》えていた。それもどこかのレストランでの夕食のときであった。
「ゲコの卵をねえ、あたし飼ってるの、卵を函《はこ》の中に入れて綿で包んであるの。知ってる? 大きさはグリンピースぐらい、色は真白。ゲコの赤ちゃんはわるくないわね。ちいさくて尖《とが》った草みたい、それが一人前に逃げてばかりいるんだから、あたしが追い詰めると、逃げ道を捜してきょときょとするの、面白いわよ」
竜二は奈可子を見て揶揄《からか》うように云った。
「へえ、ハナコはいやで、ゲコはいいの、猫より爬虫《はちゆう》類の方が好きな女もいるんだね」
奈可子は鼻先で笑った。
「ちがうわ、ゲコの赤ちゃんは爬虫類らしくないから、わるくないって云ってるのよ、あたしはねえ、あなたみたいに足で踏みつけたり出来ない」
老女のテーブルに、料理が運ばれた。彼女は眼の前に置かれた大きな皿を凝っと挑むように見ていた。そしてボーイに何か云った。ボーイは身を屈めて熱心に何か説明した。老女はナイフとフォークをとろうとしないで首を振った。ボーイが立ち去って肥ったコック頭と一緒に急ぎ足で現われた。コック頭は客の質問にひとつひとつ答えては、腰を屈めていた。やっと老女はフォークとナイフを手にした。男たちはほっとしたように引き下がり、老女は胸を反らして、大きな肉にナイフを入れた。夫婦は無言でそれを見ていた。老女が最初のひと切れを口に入れたとき、二人は同時に相手の眼を見た。竜二が子供のような顔で奈可子に笑いかけた。
二人のテーブルに料理が運ばれて来たとき、入口のドアが開いて、三人の客が入って来た。二人の男と女一人の客は、予約しておいた自分たちのテーブルにつくと、注文もしないうちから、声を潜めて喋《しやべ》りはじめた。その話しぶりは、ここへ来るまでの車の中からの続きらしい意気込みであった。彼らは燃焼しきらない熱気を引き摺ってこの店へやって来たのだ、と奈可子は直感した。ボーイがひとりひとりにメニューを配ると、急に三人は黙りこくってそれを見はじめた。年配の蝶ネクタイの男の眼がぎらぎら光っているのを奈可子は見た。黒い髪を大袈裟《おおげさ》にセットした小肥りの中年の女は、黒とオレンジの大柄なワンピースを着て、その剥《む》きだしの胸にガラス玉を連ねた頸飾りを重たそうにかけていた。奈可子は、鼻の尖った彼女の横顔をしばらく見ていた。女の耳には頸飾りと同じガラス玉のイアリングがたれ下がって揺れていた。もう一人の若い男は、ネクタイをつけていなかった。身支度をする間もなく食事に来てしまったという感じで、長ズボンを穿《は》いてはいたが、何となくこのレストランにそぐわなかった。めいめいが注文し終ると、年配の男が激しく唇を動かして、若い男と女の顔を交互に見ながら喋りはじめた。若い男は眼を見開いて、彼の顔を見ていた。女が何か口をはさみ、顔の前で掌を忙《せわ》しく返しながら喋るたびに、赤いネイルエナメルが、薄明りの中で光った。
「トラブルだわ、あの三人」
「ポルトガル人だ」
竜二は一瞥《いちべつ》してすぐ食事にもどった。
「わかったわ、あの女のひとルイーズだわ、若い男はルイーズの恋人で、蝶ネクタイがダ・ルース」
竜二が、皿から顔をあげて奈可子を見た。
「そうだわ、だってぴったりだもの、すごく似てる。ルイーズとあの男のことがダ・ルースにばれたんだわ、でもどうして三人揃って食事になんか来たのかしら、ほら憤《おこ》ってる、おまえなんか殺してやる、っていってるの。ルイーズもまた随分威張ってるじゃないの、こんなときはあやまっちゃえばいいのよ、ひたすらあやまるのよ、いい訳ばっかりするから話が複雑になるのよ、ダ・ルースが云ってるわ、ルイーズ、おまえさんはどっちをとるかね、ルイーズが考えてる、そうじゃない、ちがうわ、考えてなんかいない、彼女は考えたりしないの、両方欲しいから黙っちゃったの、ほらね、またいい訳がはじまった。若い方の顔見てごらんなさい、困ってる、ああいやになっちゃった、って顔してる。相手には地位もあるしお金もあるし、おまけにずっといい洋服着てるし、ルイーズがちゃらちゃら着飾ってることだって、蝶ネクタイの領分だわ、どうするもこうするもないわけよ」
竜二が料理を食べ終えて奈可子の皿を見た。
「食べなさい、食べないと死んじゃうよ、三角関係のオハナシはもう結構。……さあ、コーヒーにするよ」
「しぶといわねえ、あの女、とにもかくにもあやまればいいのよ」
奈可子はぞんざいに喋ることの快感を味わっていた。
「あやまったって、ぼくは許さないよ」
竜二が声色を変えて云った。
「また彼の方もおたおたしちゃって、随分弱気ねえ、あれじゃあルイーズも考えちゃうわね、可哀想に……いいわ、アイスクリームにして」
竜二がボーイを呼んで皿が片づけられ、入れかわりにコーヒーとアイスクリームが来た。
「やっぱりむずかしい問題ね。ダ・ルースには世間体というものがあるでしょうし、若い方は若いだけに愚かだし、ルイーズはルイーズで欲が深いし、皺も増えるし、問題ですね、これは。くるしいとこね」
奈可子は、アイスクリームをすっかり食べて、ナプキンを使いながら喋りつづけた。
「当事者にとってみれば生きるか死ぬかってわけよ、見てる方はおもしろいけど、ねえ、あなた」
「奈可子」
竜二がうんざりして云った。「きみはねえ、そうやってあらぬことをべらべら喋って、ぼくの話をちっともきこうとしない、一体どういうつもりだ」
「あなたに話すことがあるの」
奈可子は、ひと息ついてから陰気に云った。「それは初耳だわ、あなたにもあたしにも、もう話すことは何もないと思ってたわ、話題といえば、猫のお産かゲコの赤ん坊のことぐらい」
夫の顔から急に酔いが消えるのを奈可子は見た。
「ボーイがブッシュで迷子になったって、あたしにはそんな話無関係だわ、どこかの誰かが豚を撃って食べたって、どぶの水を飲んだって、よその子供が夜通し泣いたって、あたしはちっとも感動できないの、そんなことあたしとは別のところで起っている問題なの、こっち側じゃない向う側のことなのよ、あのひとたちの日常はあたしのものではないの、あたしの日常がどんなものだか、あなたにわかる? あなたの生活のなかで、あたしの毎日は、どうにかこうにか息をしてるの、あなたと一緒にレストランに来て、あなたと同じ料理を食べて、あなたの車に乗ってあなたの運転で家へ連れて行かれるの、明日からまたあなたの食事をつくるために、あなたとのセックスのために、あたしははるばるこんなところへ来てしまったの」
「もういいよ」
テーブルの上の妻の手を掴《つか》んだ竜二の顔が蒼《あお》ざめていた。
夫婦は蒸し暑い夜の中へ出た。
「すこし酔ったわ、あれっぽっちのワインで」
奈可子は呟いた。二人が車に乗りこんだとき、レストランのドアが開いて、人影が凄い勢いで走り出て来た。
「あの男だわ、蝶ネクタイだわ」
蒼白い街燈のなかで、奈可子は男の顔を見た。男は車のドアを激しく閉めた。車はあっという間に走り去った。
「さあ、大変だ、けりがついたってわけ、ルイーズと恋人はホテルまで歩いて行くんだわ」
夜半、突然ハナコの啼《な》き声が変った。夫婦はベッドの中でそれに気づいた。奈可子はベッドをとび出てドアを閉めた。発狂した猫が、自分たちの寝室に入って来て、何かしでかすような恐怖に駆られた。ちいさな躰とおよそ不似合いな叫ぶような啼き声は、声帯に異常がきたとしか思えなかった。
「大変だぞ、いよいよだ」
竜二が嬉しそうに云った。「昼間、絶対に外へ出しちゃだめだよ、この週末にディックの家へ連れて行くから」
「そんなことできるかしら、閉じ込めるなんて。困るわ、ハナコの番は困るわ」
奈可子は不安だった。
「三日の辛抱だよ」
ハナコに仔猫が産れたら、一匹誰とかへあげる約束だ、と竜二が云った。奈可子は不機嫌にそれをきいた。彼の外の生活に無関心であった結婚以来の習慣が、今では彼女を不安にした。このひとはわたしの知らない処で自分だけの生活を持っている。たとえば彼は、外国人の同僚に飼い猫の噂《うわさ》などしているのだ。それにこどもを産ませる話をして、すくなくとも彼はそのひと時、幸福な気分を味わっている。
その夜奈可子は完全に不眠だった。庭に牡猫《おすねこ》が集まってわめきはじめた。その無気味な叫びは夜が明けるまで止むことがなかった。奈可子は何度も、猫の決闘の血の吹き出るような叫びに耳を塞いだ。ハナコ一匹のために家の周囲は猫たちの戦場であった。家の中を走りまわってそれに応えるハナコの声にも我慢出来なかった。
朝になって猫たちは休戦を約したのか、やっと庭は静かになった。ハナコは部屋の隅で睡った。昼間はこの状態で過ぎるのかと奈可子は思った。この分なら週末までの辛抱もできそうだった。しかし彼らの休戦はほんのいっ時であった。奈可子が庭へ出て行くと、数匹の猫が一度に木立ちの中から走り去った。奈可子はぞっとした。どれもよく肥った大きな猫で、すんなりしたハナコとはまったく別種であった。奈可子は家の中へ駆けこむと、ハナコを捜した。使用していない寝室のベッドの下から猫は音もなく現われて、奈可子の脚にすり寄って来た。彼女はそれを気味のわるいもののように眺めた。猫の外見はどこも変っていなかった。ハナコは昨晩の叫びはどこかへ置き忘れでもしたように、細い忍びやかな声で啼いた。
「外へ出ちゃだめよ、いやなヤツがいっぱい来てるのよ、みんなわれこそはハナコのオムコサンだって顔してたよ」
奈可子はそれだけ言い聞かすと、入口のドアに入念に鍵《かぎ》をかけて、ハナコの出そうな隙はないかと家中を見て廻った。
それからまもなく、猫の狂乱がはじまった。ハナコは入口のドアに伸びあがって、爪を立てて叫び声をあげた。台所のドアにも、ベランダのドアにも体あたりしては、家中を走り抜けた。奈可子は椅子の上に正座して息を殺してそれを見まもった。猫の恐ろしい声と、出口を捜して駆け廻る様子は、奈可子の神経をずたずたに引き裂くようであった。今にハナコは、わたしにとびかかってくる、開けて、開けてと叫びながらわたしの躰中に爪を立てる――。
庭でも数匹以上の牡猫が騒いでいた。ハナコは入口のドアの前に来ると、後脚だけで立って背伸びをした。その灰色の躰はほとんど信じられないぐらい長く長く伸びて、片方の前脚が、ノブにやっととどいた。奈可子が恐怖に蒼ざめて瞠目《どうもく》している前で、ノブにやっと触れた前脚を、ひょいひょいと動かしたのだった。人間みたいだ。まるで人間と同じだ。わたしがするようにこの猫はあれを、くるっと廻して、ドアをすっと開けて、出て行くつもりでいる。奈可子は叫び声をあげたい強い衝動を覚えた。しかしハナコの操作は失敗に終った。彼女はそこからすごすご離れると、今度はベランダのドアを引っ掻《か》きはじめた。
猫は一日中|餌《えさ》を食べなかった。水もミルクも飲まなかった。それは自分の飼い主にならっているようでもあった。奈可子も食事らしいものは喉《のど》を通らなかった。
雨は降りつづき、室内の空気にも水滴が混ざっているようにさえ思えた。珍しく奈可子の躰は冷えて、彼女は自分が水中の魚のように思えるのだった。そして終日、竜二が帰るのを待ち侘《わ》びた。猫たちの狂乱には短い休止符があることを奈可子は知ったが、それだけに騒ぎはまるで発作的であった。
夫の顔を見たとき、奈可子は、今夜中に猫を連れて行くように頼んだ。竜二はハナコの前脚を持って宙へつり上げると、その顔に云った。
「おい、浮気するなよ、おまえの相手は上等のヤツがきまってるんだから」
彼は愉快そうに、ハナコを放り投げた。猫のしなやかな躰は、くるりと一回転してすっくと床に立った。それはまさに息の合った男と猫のちょっとした見せ場だった。奈可子は息苦しさを覚えた。ハナコは寝室へ行く竜二の後を、小走りに追いながら媚《こび》るような細い声で啼いた。
その夜も奈可子は睡れなかった。前夜と同じことが繰りひろげられた。
「ハナコを外へ出すわ、閉じこめるなんて不自然よ、うるさいよりも可哀想だわ」
奈可子は毛布をはねのけて起き上がった。ベッドから出ようとする彼女の足首を夫の手が掴んだ。
「だめだよ、一度雑種が出来たら値打ちがなくなるんだよ」
「睡れないの。どうして気違い猫の見張りをしてなきゃいけないの、相手が決っているんだから早く連れて行けばいいでしょう、明日の朝かならず連れて行ってください。ディックとの約束が土曜日だって、そんなこと人間がとやかく云えることじゃないでしょう、猫の問題だわ。そうだ、ディックの家を教えて、あたしが朝早く連れて行くわ、むこうだってシーズンでしょう、タイミングを外すことだってあるでしょう」
「彼が出張から帰るのが金曜の夜なんだ」
「奥さんがいるでしょう」
「いない」
「独身なの」
「フラットに一人住まいだ」
「猫はどうしてるの」
「どこかへ預けてるらしい」
奈可子は睡眠薬を捜した。タブレットのそれを飲むための水が欲しかった。
「水を持って来てください」
奈可子は切口上で云った。「怕《こわ》くてここを出られないのよ、真暗の中でハナコがわめいてるんですもの」
竜二は無言のまま出て行った。生気の抜けた悄然《しようぜん》とした夫の背後を、奈可子はベッドに腰かけたまま見送った。そして頭の中が急速に醒《さ》めていくような奇妙な感覚を知った。
いったいどうしたというのか。猫の発情期が、何故こんなにも大事なのか。奈可子はかつて生きていた場所と自分を思い起した。それは現在とはまるで別人だった。彼女は愕然《がくぜん》としてそのことを思った。一人の俳優が二つの異なった芝居の上で、それぞれに違った人物を演じているよりもその違いはもっとひどいように思えた。かつて存在しなかった自分がここにいる。ここにいるのはわたしではない。感覚のありかたや思考のかたちがまるで別のものであった。これほど不幸だったことはかつてなかった、と奈可子は思った。そうだ、不幸なのだ。ちいさな獣の動きに神経をつかい果し、夫の言葉や表情に苛立ち、自分とは関《かか》わりのない電話の声に気をとられる。奈可子は思った。わたしには生活がない。社会がない。それらを振り切って夫の側にとびこんで来たとき、どうしてあれほどの爽快さに出会ったりしたのだろう。あのときは多少とも自信があったからか。しかし今のこの負目はいったい何が原因なのか。奈可子はひとつの誤算がわかっていた。夫婦は家族ではないのだ。家族は夫婦によって造られるものだ。わたしは創るものを見失った――。
次の日ハナコは居間に一番近い寝室に閉じ込められた。そこは今ではハナコの部屋≠ニ呼ばれている寝室で、ダ・ルース氏がアイロンをかけていた部屋だった。竜二は猫の一日分の食事とトイレットと一緒に、ハナコを部屋に入れてドアを閉めた。
庭の猫たちの騒ぎも日ましにひどくなっていた。ハナコは一日中声を嗄《か》らして啼き叫んだ。奈可子はハナコの部屋≠フ前を通るのも恐ろしかった。足音がわかると、猫はドアにとびついて爪を立てた。
夜、台風《サイクロン》が襲った。停電のなかで夫婦は早くから、蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りをたよりに、ベッドに横になった。たて続けの稲光に室内は蒼くゆらめいた。窓の内側に雨が吹きこんで、ぴたぴた落ちるのがわかった。さすがに猫の狂声は自然の咆哮《ほうこう》に掻き消されてきこえなかった。奈可子は蝋燭を吹き消した。瞬間の稲光に竜二の顔が浮きあがって見えた。
「もの凄い嵐ね、でも何んとなく気分が落着くわ、独りだと怕いでしょうけど」
「きみには怕いものがたくさんありすぎる」
竜二がひどく冷淡に云った。
「あたしがなにを怕がってるの?」
「何もかもだよ、この家も、猫も、樹も、草も……」
「そうかしら、……よく解るのね、あたしのことが」
奈可子はぼんやり応えた。わたしの不安がこのひとには見えるのだろうか、自分の日常に怯えていることが……。
雷鳴と風雨の荒れ狂う音のなかで、夫にすべてを怖れている自分を指摘されて、奈可子はそれこそ得体の知れない恐怖を覚えた。彼女はやにわに夫にしがみついて、そうかしら、そうかしらと呟《つぶや》いた。その妻を、竜二はいつものように抱こうとしなかった。彼は仰むいたまま、両腕を頭の下にやって、じっと眼を閉じていた。
「もうひとつ、きみが怕がることを云ってやろう」
「わかってるわ」
奈可子は夫から離れて落着きをとりもどして云った。
「あなたは、あたしを母親にすることができないのよ」
竜二の力まかせの腕が奈可子の躰を捕えた。暴力だわ、暴力だわ、息ができない。奈可子は彼の腕のなかで狂ったように暴れた。そして思った。わたしは演技をしている。彼が何か病名を口にした。結核性フクコウガンエンと云ったようであった。奈可子はしかし耳を欹《そばだ》てまいとした。聴き返してはいけないのだ。夫婦は稲光の洪水に濡れそぼれるベッドの上で、子供のように掴まえごっこをつづけた。手足をばたつかせながら奈可子は笑いがこみあげてくるのを知った。竜二が息を切らして全身を抑えこもうとするのを奈可子はたくみに遁《のが》れた。そして床に滑り落ちて、その場で笑い崩れた。
「……暑くなっちゃった」
奈可子は床にぺったり坐ったまま乱れた髪をピンで留めあげた。一瞬室内に稲光が満ちた。竜二の死者のような顔があった。彼はベッドで胡座《あぐら》をかいて身じろがなかった。
「さて、どうする」
しばらくして彼は云った。奈可子は彼の問いかけを無言で受けとった。わたしはこのひとに騙《だま》されていたのではない。このひとは妻であるわたしに隠していたのではない。それを明白にする時がきたにすぎない。
「どうすればいい?」
竜二が繰り返した。自分たち夫婦には子供は出来ない。だから、どうにでも好きなようにしていいんだよ、という半ば投げやりの感情がこめられていた。奈可子は思案したのち云った。
「いっぷくしましょう」
夫のライターで彼女は蝋燭に灯を点けた。室内の闇は淡い燭光に押しのけられて、一層暗くなった。夫婦は並んで煙草を喫った。奈可子はいかにも唐突に云った。
「明日ハナコ結婚するんだわ」
朝になっても空は荒れていた。夫婦は晩い朝食を終えてから、水浸しのベランダに出た。昨夜のうちに倒れた大きな樹の枝を片づけるために、二人は吹きこむ雨に濡れながら、そのびっしり葉のついている重たいへし折れた枝を庭に放り出した。
「もう雨は飽きあきだわ、暑くてもお天気の方がいいわ」
奈可子は快活に喋りながら、竜二の後をついて歩いた。
ドアを開けるとハナコの部屋≠ヘ獣の臭いが籠っていた。猫は甘えた声で啼きながら、小走りに出て来て、飼い主の前を高慢な顔つきで素通りして、入口のドアへ真直ぐ向った。
「またはじまる、ハナコがまた気違いになる、あなた!」
「大丈夫だよ、もうこれまでだ」
竜二は猫を抱きあげた。
「さあ、かっこいいダンナのところへ連れて行ってやるぞ」
「ハナコ、おとなしくするのよ。すんだらお迎えに行くからね」
猫は二人に励まされて、竜二の腕のなかで哀れに啼いた。
雨に煙る灰色の風景のなかを夫の車が吸いこまれるように遠ざかるのを見とどけると、奈可子は俄《にわ》かに気落ちして、台所の壁に寄りかかってぼんやり外を見た。
「さて、どうしよう」
奈可子は、昨夜の竜二と同じ言葉を我知らず呟いた。そして過敏なひと筋の神経に触れることを恐れながら、事態の中枢へ近づこうとした。頭の中に彼の既往症の病名が文字になって整然と並んだ。奈可子は慌ててその文字を粉ごなに打ち砕いた。同時に文字の欠けらを素速く掻きあつめてもとの形にもどそうとしていた。あのひとは二重の恐怖に繋《つな》がれていた。彼の暗い部分はおそらく他人《ひと》には計り知れないほどに深い淵《ふち》であろう。彼は独りでいつも淵を見ている。自己が消え去った後も何も遺らないという事実に、彼は長いこと馴れ親しんで来た。そして妻というもう一人の人間をそれに付き合わせることの恐ろしさも知っている。彼の孤独に対して奈可子は強い恐怖を覚えた。胸から突きあげてくる熱いかたまりを飲みくだすために奈可子は自分の頸を両手で絞めつけた。そしてはじめて冷静さを失った。心地よいほど泪《なみだ》が溢《あふ》れた。それは自分自身の恐ろしいほどの孤独への感傷であった。どうしてこの見知らぬ土地へ来たとき、母親になりたいと切望したのだろう。もっと逡巡《しゆんじゆん》する時間を何故持たなかったのか。まるで自分の躰をくるりと裏返しにしたように、今まで知りもしなかった自分の臓物を手にとって、もの珍しく眺めまわし、それがすっかり気に入ってしまったのだ。そして今、早く放り出してしまえ、そんなもの早く、一刻も早く捨てなければいけないのだ、と誰かが頻《しき》りに呼びかけている。その声は竜二ではない。
雨のなかの、車を走らせている夫を思った。彼のハンドルを握っている右手の親指が小刻みに動いている。
はっとして、奈可子は窓外を見た。眼の前の椰子の葉がひとつ、ゆっくり風にのって落下した。それは瀕死《ひんし》の姿で垂れ下がっていた化物のように大きな醜い椰子の葉だった。やっと落ちた。これであの椰子の葉も楽になれたのだ。奈可子は急に緊張感から解き放された気分になって、傘をさして庭へ出た。葉は車の通路に、ばっさりと横たわっていた。彼のためにそれをとり除く必要があった。車が落葉に遮《さえぎ》られて門の入口で停車し、竜二が濡れながら邪魔ものを脇へ避けるのを奈可子は恐れた。自分の行く手を何かに阻まれているような、そんな気持になるにちがいない。
庭に下り立つと、風雨は予想以上にひどく、ビニールの透明の傘は強風に煽《あお》られて、奈可子の手から舞い上がった。濡れながら厄介ものを引き摺って、彼女はいつものように裏庭へ廻った。そのためにはおよそ二十メートルも草のなかを歩かなければならなかった。奈可子は全身を濡れるにまかせながら、やっと炉の傍らにそれを放り出した。
鮮かな黄色の寝椅子を奈可子は見た。それは白い雨|飛沫《しぶき》のなかで美しく光っていた。雨は滑らかなプラスティクの椅子を、滝のように流れて草地に落ちた。洗われて洗われて椅子は心地よさそうに、空に向っていっぱいに開いていた。
奈可子は椅子に腰をおろした。それから上体を倒して流れる水の上に躰を伸ばした。仰臥《ぎようが》した全身を、雨が激しく打った。頬を打ち眼に流れこみ喉を伝った。奈可子は雨を飲みこんだ。夢を見ているのだろうか。自分をとりまくあらゆるものが急速に遠ざかって行く。
遠く滲んだ風景のなかに、白い車が不意に浮びあがった。あのひとが帰って来た……。奈可子の不確かな視界のなかを、竜二が庭先に車を乗り捨てると、横殴りの雨と風に翻弄《ほんろう》されながら草の上を頼りなく転げ廻っている傘を拾って、ゆっくり近づいて来た。彼の頭上で、雨が傘に弾けて騒がしく鳴るのを、奈可子は聞き分けた。彼は奈可子の足もとに立って、水に溺《おぼ》れている妻の顔を、探るような眼で見おろした。奈可子は薄く眼を開けたまま、夫に笑いかけて云った。
「いい気持よ。気が遠くなりそう……あなたも寝てごらんなさい、二人とも流されるの、どこかへ……」
[#地付き](「新潮」昭和四十七年七月号)
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老人の鴨《かも》
浴槽に木の蓋をのせると、老人はその上に這《は》いあがって、ガス釜のすぐ脇の天井にとりつけてある上がり湯用の箱の中を、頸《くび》をのばして覗《のぞ》きこむ。肥満した老人は、枯れ草いろの作業服を着て、膝《ひざ》の出た同色の木綿ズボンを穿《は》いている。
「これじゃあだめだよ、おくさん。修理したって水漏れは完全にはなおらないよ、すっかりとり換えなきゃあだめだ。どだいこのマンションは古いんだよ、どこもかしこもがたがたなのよ、おくさん」
修理屋の老人は浴槽の上から、タイル張りの狭い洗い場におり立つ。風呂場に老人が立ちはだかると、朋子《ともこ》は慌てて入口のバスマットまでひきさがる。老人と呼ぶには、いやに精力的な赤ら顔と、脹《ふく》れあがった鈍重な短躯《たんく》が朋子のすぐ前にある。
「すこし漏ってるだけなのよ、長いこと放りっぱなしにしてたけど、べつに上がり湯がすっかりなくなっちゃうわけじゃないし……」
七カ月の身重の朋子はバスマットの上に蹲《うずくま》っていう。「今のうちなら簡単な修理ですむと思ってたわ、子供ができたら忙しくなりそうだし。急に思いたってなおす気になったのよ」
老人は朋子に壁のように幅の広い背中を向けてしゃがむと、ふたつの蛇口のうち上がり湯が出る方のコックを開いて、また浴槽の上へ這いあがり、箱を覗きこむ。開いたままの蛇口から水が流れて洗い場を濡らし、その流れはしだいに細くなって、やがて雫《しずく》だけになる。
「このまま放って置いちゃだめだよ、おくさん。こりゃ危ないよ、ガスのすぐ脇だろう、ひょっとして火が消えてごらん、ガス中毒だ。それにこの箱ですがね……」
老人は朋子を見おろしていう。朋子には老人の顔が熟した大きなトマトのように見える。
「そのうち空焚《からだ》きになって、爆発する」
「バクハツ?」
得意満面の舐《な》めるようにこっちを見ている老人の顔が、いよいよ潰《つぶ》れかけたトマトに見える。
「爆発だよ、おくさん、放ってはおけないよ、新品ととり換えるしかないねえ」
「……大変なことでしょう」
「なあに、五分もかからないよ、こっちは商売だもの」
道具箱からドライバーをとり出して、老人は馴れた手つきで仕事にかかる。彼の粘りつくような饒舌《じようぜつ》に朋子は引きとめられて、バスマットに尻もちをついた恰好で、タイル張りの壁に寄りかかっている。
「同業者の悪口はいいたかないけどね、おくさん、このマンションの水道配管工事はひどいもんですよ、どの家でも困ってるんだ」
「そうかしら、管理人のおじさんに聴いたんだけど、建った当時はモデル建築みたいなもんで、随分手がかかったそうよ、そりゃ近頃のようにスマートな感じはないけど、建築としてはしっかりしてるって」
「おくさん、いいですかい、管理人はこのマンション会社の社員だよ、社員の管理人が本当のこというわけがないじゃないの、現にこうして、どこのお宅もがたがきてるんだから」
「だって、配管とこの上がり湯の箱とは関係ないんでしょう、箱がたまたま漏るだけのことで」
老人は朋子をちらっと見下ろしてから、とり外したビスを口に銜《くわ》えて黙りこんで仕事をつづける。むっつりして急に気分を損ねでもしたような彼に、朋子は追い打ちをかけるような調子でいう。
「あら、随分用意周到ね、同じサイズの箱を持って来たなんて」
道具箱と一緒に浴槽の上に置いてある箱は、見るからに新品で、内張りの銅《あか》が、老人がひょいと持ちあげると、電燈の輝きをひと飲みにしたかのように光る。
「そりゃね、どの家でも同じ故障だもの、そのぐらいの見当はつくものだ」
頸に巻いていた薄汚れた手拭いをほどいて、老人は禿《は》げあがった額をごしごし擦《こす》って、ついでに洟《はな》を|※[#「手へん+鼻」]《か》む。
「ほら、こんなに古くなっちまって、おくさん見てごらんなさいよ、こんな箱じゃ命にかかわるってもんだ」
とり外した古い箱の内側を、彼は手品師のようにひらりと返して見せる。銅が全体にくすんではいるが、剥《は》がれたりめくれたりしている部分はない。半信半疑で、朋子は廃物になってしまった箱を見る。
「おくさん」
不意に調子を変えて老人がいう。「明日の朝六時半にNHKのテレビ観てくださいよ。わたしが出てるから」
「テレビ?」
「鴨だよ。不忍池《しのばずのいけ》に朝早く鴨が何千羽って飛んで来るんだ。それをテレビが撮ったとき、わしがヤツラを集めてやったのさ」
「ヤツラって?」
「鴨だよ。鴨のおじさんって聞いたことあるだろうおくさん、わしのことだよ、もう三回か五回テレビに駆り出されてるんだよ」
鴨のおじさんは、朋子の反応のしかたがもの足りないらしく、落胆のいろを見せると、たちまち自己顕示への熱意をあらわにして、浴槽の上で仕事の手を休めて喋《しやべ》る。
「十日ばかり前に撮影したんだよ、わしがいないとヤツラ集まって来ないもんで、テレビの人も仕事にならないのさ、そりゃあんな連中のいうことなんざあきくはずないよ。こっちは十年以上もかかって馴らしたんだから」
おじさんは上着のポケットから、よれよれの黒い紙入れをとり出して、中から一枚の名刺を抜きとり、朋子の前へ突き出す。
「これだよ、この担当者が昨日電話でね、おじさんうまく撮れてるから忘れないで観てくださいってさ。カラーが抜群だって。そりゃね、よく撮れるにきまってるよ、明け方の不忍池だもの、鴨が何千羽もわっと集まったり、飛びたったり、それが池全体|凄《すご》いもんだ」
「鴨……。そうなの、おじさんは鴨のおじさんなの……」
朋子は感心するでもなく、聞き流すでもなく、ぼんやり老人の顔を見ながらいう。
「鴨を料理するのってむずかしいわ。あたしは何回もしてみたけど、だめだわ。鴨の肉は結局どうしようもない肉だってことがわかったわ、中華料理なんかにあるでしょう、あれはたいしたものじゃないわね。誤魔化しの料理ね、肉そのものは猫も食べない」
「おくさん、なにかい? 食べちまったのかい? 鴨を」
彼は道具箱から麻紐《あさひも》をとりだすと、その繊維をしごいてばらばらに解《ほぐ》してから、ふわふわの綿のようにまとめて、とりつけたばかりの新品の箱と鉄管のつなぎ目に、針金の尖《さき》をつかって詰めこむようなことをする。
「終ったよ。これで完全だ。今夜湯を沸かしてみてくださいよ」
朋子が淹《い》れた茶を飲むために、鴨のおじさんは居間へ入って来るとソファに落着いて、洗面所で洗った手を、いつまでも手拭いでふく。
「こりゃあいい、真正面に東照宮の五重の塔が見える。いい眺めだねおくさん」
どんよりした空に、冬の森から突き出ている塔の屋根と九輪が見える。天辺の水煙は、濃い灰色の宙に吸いこまれるようにぼやけている。
「いい眺めとはいえないわね。塔を見るたびに、他のものがごちゃごちゃ眼につくでしょう」
この建物の別棟の四階から七階までの欄干がいやでも見える。天気のよい日には蒲団が乾《ほ》してある。物干しにはためく洗濯物、鉢植えの植物、小鳥の籠。低い屋根が幾重にもかさなったむこうに、上野の森があって、五重の塔のみどりいろの屋根が行儀よく突き出ている。
鴨のおじさんは茶を啜《すす》って菓子鉢に手をのばす。
「あそこのえびせんだね。おくさん」
「そう、板角のよ。あそこのはおいしいわね」
「うちの隣組でさあ」
鴨のおじさんは、さもつまらんというように、薄いせんべいを口に放りこんで音をたてて噛《か》む。
「鴨を食べちまったって? おくさん」
「料理したのよ何度も。鴨猟によく行ったの、撃ちとったからには食べなくちゃってわけで、いろんなことして食べてみたわ。毛を毟《むし》って皮を剥いで、内臓やら骨やら、めんどくさいところは捨てちゃって、|抱き肉《ヽヽヽ》っていうの? ここのとこ……」
朋子は自分の胸を両手で押えていう。
「ここのとこだけ家へ持って帰って料理するの、はじめは、なにからなにまで食べようとしたけど、おしまいの頃は味に見切りをつけて、ガラもモツも捨てることにしたのよ、もちろん|ばらす《ヽヽヽ》のはあたしじゃないわ。男たちがするの、あたしがねえ、こうして眼を瞑《つぶ》っている間に、すべてが終るってわけ。そう、あっという間ね。あっという間の出来ごとね。……鳥だって獣だって、生きものはなんだって人間の餌食《えじき》になっちゃうの、遊びの餌食ね」
鴨のおじさんは弛《ゆる》んだ瞼《まぶた》のおくの、充血した眼を、朋子から逸《そ》らしてもじもじする。
「おじさんの鴨は人間を好きなのね」
「鴨が? まあそういうとこかねえ、だがね、わしの場合は特別だよおくさん、十年間だよ、鴨の季節には毎朝池へ通ったんだ。三時起きだよ。おくさん。パンの耳をうんとこさ持ってさあ、今じゃわしの手からパンを食ったり、頭や肩にとまったりだよ」
「十年……」
「うん、十年以上になるかな、隣組のヤツらは、わしを気違いあつかいしたものだ。なあに今に見ていろ、何千羽の鴨をひき連れて仇《かたき》うってやるてんで、えらい打ちこんだものだ。……可愛いもんだよ、わしを見かけると、わっと飛んで来て、その辺の池がまっ黒になるよ、遊ぼう遊ぼうってさ。陽が高くなって帰れ帰れっていっても、ヤツラなかなか行きやがらねえ、こっちは朝めし食って仕事だよ、そこを|ほれ《ヽヽ》、鴨のヤツラ全然わからねえんだ。しまいに、帰れ! ってわしが怒鳴る、するとね、すごすご帰って行くよ、振り返り振り返り。とっとと帰れ! ってまた怒鳴ると、哀しそうに諦《あきら》めてしぶしぶ飛び立ってね」
「人間に馴れやすいのかしら」
「とんでもないよおくさん、他の人間には懐かねえよ、ためしにやってごらんよ、パン持ってってさあ、寄ってこやしないよ、ほんとうだよおくさん。テレビの連中もいうんだよ、なんでおじさんだけに来るのかねえってさ、あたりまえよう、おまえらに捕まったらヤキ鳥にされて食われちまうよ、誰がそんな人間の手に来るかっていうのよ。愛情だよ、愛だよ、なにごとも愛情ひとつだよ、そうだろうおくさん、あたしゃ十年以上も愛情をかけてるんだ。テレビが池を撮るときに引っぱり出されて、鴨のおじさん鴨のおじさんっていわれるけどね。わしはいつもいってやるのさ、なんたって愛情だね、食っちゃいけないよ、鴨食っちゃ」
「おじさんはヤキ鳥って食べないの」
「そりゃ酒飲みだからね、けどねえ、鴨のヤキ鳥は食わないよ」
「でも、もしかして鴨の肉が、おじさんの食べたヤキ鳥にまじってることもあるかもしれないわね」
老人は、茶を飲みながら上眼で朋子を見る。それからまた紙入れをとり出して名刺を見せる。先刻と同じ名刺である。彼が朋子に風呂場で見せたことをすっかり忘れてしまったのか、それとも領収書かなにかをとり出すつもりが、つい名刺の方へ指が触れたのかもしれない。
「このひとがね。よく撮れてるから忘れずに観ろっていうんだよ」
「おじさんが出てるんでしょう」
「いやあ、主人公は鴨だよ」
鴨のおじさんはてれくさそうに笑う。
明け方の池の水面や空や樹木や鴨の群を、朋子は想う。老人がまるまると着ぶくれて、禿頭《はげあたま》に毛糸の帽子をすっぽり被《かぶ》って、白い息を吐きながら相好くずして、風景の一部のように立っている。老人の呼び声をたよりに、一羽二羽と鴨が黒い翼でゆっくり羽撃《はばた》きながら集まって来る。老人がパンくずを散らす。しだいに鴨の数が増えて、老人は鴨の群にうずもれてしまう。撮影隊の連中がカメラを据えて、三、四人で協議のすえカメラの位置が動く。彼らの鼻の頭が赤くなって吐く息がはっきり見える。一人が、おじさんになにか注文をつける。鴨を一度に集めて欲しいとか、ちょっと追い返してくれとか。鴨のおじさんは上機嫌で、気軽に応じるのだが、鴨たちは気儘《きまま》に振舞う。冷たい風が水の面を這って、おじさんの顔にまともに吹きつける。淡い陽射しのなかで、おじさんは眩《まぶ》しそうな細い眼になって、陽だまりのお地蔵さまのように立っている。
「どうして鴨となかよくなりたかったの」
朋子は訊《き》く。「どうしてそんな気になったの」
「どうしてって、愛情だよ」
「どうして愛情を持ったの」
「どうしてって……おくさんはおかしいよ」
老人が眼をまるくして朋子を見る。水の中の魚のような眼だ。
「なにか変? あたし」
「うん、おくさんはなにかい? 子供いないのかい」
「子供? 二カ月したら産れるわ」
朋子は自分のまるい腹に手をやる。
「だんなは?」
「いるわよ、今仕事で日本にいないけど」
おじさんは節榑《ふしくれ》立った芋のような指に細い煙草をはさんで、一瞬ぼんやりする。
「あの塔の屋根はきれいになったねえ。最近|上塗《うわぬ》りしたんだね」
「そうね、長いことかかったわ」
正面を向いていれば、五重の塔の屋根が、いやでもガラス越しに見える。
「一羽ぐらい連れて帰って、毛を毟って皮剥いで、おばさんが焼いて、おじさんが食べたことあるでしょう」
老人は思いつめた表情で朋子の全身を長いこと見る。
「……鴨のことかい?」
「そう、何千羽もいるんでしょう、その中から一羽連れて帰って」
「わしが鴨を食うのかい? 毛を毟って」
「そう」
「ばあさんが焼くのかい?」
「そう」
「……どうして」
朋子はソファの上で腹を突き出した横ずわりの姿勢で、肩から黒い毛糸編の三角ショールがずり落ちないように、胸でとめているピンをいじる。
「一度食べてごらんなさいよ、きっとおいしいわよ、おじさんの鴨なら」
鴨のおじさんはにやりと笑って、すぐ戸惑ったような顔になる。それから窺《うかが》うように朋子を見て、また視線を遠くして五重の塔を見る。
「おくさん、なにかい? 欲しいのかい、一羽」
朋子は不意を突かれて口を開ける。立ちあがって老人のために茶をいれかえる。
「いい湯呑みつかってるねえ、おくさん」
平凡な九谷の茶碗に彼はお世辞をいう。
「あたしが欲しいわけじゃないのよ。あたしそんなふうないいかたした?」
「え?」
「鴨よ、鴨のことよ」
「いや、よくわかんないですがね、もしやと思ってね」
鴨のおじさんは茶をこっくり飲んで手拭いで鼻をこする。
「おじさんに、食べてみる気はないのかしらって聞いたのよ」
「そこがわからないんだよ。なんでわしが手塩にかけたヤツラを絞めて食わなきゃなんねえんだよ」
「きらいじゃないんでしょう」
「何度もいってるよ、あたしゃ、愛情だよ、愛情一筋でここまで手懐《てなず》けたんだよ……いいかいおくさん、好きじゃなきゃ出来ないことだよ、そうだろう」
「好きなんでしょう? 鴨を」
「うん、ヤツラは可愛いからねえ」
鴨のおじさんは眼を細めて、思い入れ深くいう。なんとなく下手な役者の芝居のように見える。
「だったら一回ぐらいやってみたことあるんでしょう、過去十数年の間に、一羽ぐらい」
老人は身じろぐ。そして朋子を素早く盗み見る。その顔は急に陰気にどす黒くなって、病みあがりのような眼つきで、窓ガラスいっぱいに広がっている冬空を見ている。
「ことわっとくけどねえ。おくさん、わしは鴨なんか食ったことないよ。食いたいとも思わないよ。……おくさんは変なひとだなあ、わしはどこのおくさんにもこの話をするけどね、わしにこんな濡れ衣を着せたのはおくさんがはじめてだよ」
「わかるわ、おじさんは鴨たちを自由に操ることのできる果報者なのよ。果報者は加害者にならないのよ、いつだってそうなの、だからおじさんは鴨を絞め殺すことを危害をくわえることだと考えてるのよ、そうでしょう、おじさんにとってはあり得ないことよね。鴨を殺すなんて、ましてヤキ鳥にして食べてしまうなんて」
「でもどうしてそんなことはじめたの? 十年以上も気違い呼ばわりされながら、毎朝三時に起きて、前の日に買い集めておいたパンの耳をうんとこさ自転車にのせて、暗い寒い池へ通ったんでしょう、耳なんかちぎれそうに痛くて、手はかじかんで、おまけに鴨の季節には深酒できないってわけよ。二日酔にでもなろうものなら鴨たちががっかりするから」
朋子の辛気臭いものいいに老人はせっつかれでもしているように、そわそわする。
「どうして、そんなことはじめたの」
「どうしてって、おくさんもわからねえひとだねえ、不忍池へヤツラが来るから餌をやったんだよ」
「来年また来てほしいから?」
「いや、はじめはそうは思わなかったねえ、ヤツラが憶えてるかどうか、わしのことなんざあ……ところが毎年やって来ることはやって来る。そのうちにこっちの気持が通じたと思うようになったね。それからはもう切っても切れない関係ってやつだよ」
朋子は黙りこんで、鴨のおじさんの顔をまじまじと見る。おじさんは急に高い調子になっていう。
「パンの耳代だっておくさん、ばかにならないんだよ、時期が来ると五、六軒のパン屋に頼んどくんだよ」
「今では、餌がなくても集まって来る?」
「うん、わしを見ると寄って来るよ。わしの言葉がわかるんだよ、耳がついてるんだよ鴨にも。驚くねえ、おいでおいでっていうと来るしさ、もう帰んなっていうとすごすご離れていくよ」
「そりゃあね、来るか帰るかどっちかでしょうねえ、鴨だって」
朋子は考えこむ。老人が不安そうに朋子を見る。
「あたしが考えているのはねえ、おじさんが一羽も食べていないってことが不思議だなあってこと。きらいなの?」
「鴨を?」
老人は間の抜けた調子でいう。
「鴨の肉よ」
「鴨の肉?」
「鴨にだって鶏みたいに肉があるのよ、おいしいかまずいかはとにかく」
「そりゃそうだよ。味はともかくだ……」
「鴨はおじさんのこと好きなのね、おじさんが愛情をかけて手懐けたから。鴨はおじさんが帰れ帰れっていってももじもじしてなかなか離れたがらないの、おじさんが大きな声で、おいおまえたちさっさと帰れっていうと、振り返り振り返り池っぷちへ歩いて行って、もぞもぞしてから、やっと飛びあがるの、どうしてかなって、あたし思うのよ、きっとねえ、鴨はおじさんに食べられたいのよ、だから未練がましく去って行くの……ちがう?」
鴨のおじさんは、咳《せき》払いをしてからしゃがれ声でいう。
「おくさん、おくさんは鴨みたいだねえ。黒い肩掛けして、そうやって頸をのばしてると……いやだねえ」
「どうして、いやなの」
朋子は両腕にかかっているショールを翼のように動かしながらいう。
「おじさんの最愛の鴨のために、鴨の気持を考えてるだけよ。……一度でいいから食べてごらんなさいよ、一羽だけでいいのよ。相手はよろこぶわよ」
「おくさんは、おかしいよ、……子供いないのかい?」
「さっきいったでしょう、あと二カ月したらあたしの膣《ちつ》が十センチぐらいにひろがって、赤ん坊の頭が出て来るの、そうしたらあたしはいやでも母親になるってわけよ……おかしい?」
老人の顔が潰れたトマトになって、その中で眼玉がうろたえる。
「いや、おかしかないけどね。……おくさんはいいねえ。気楽なもんだねえ。毎日五重の塔眺めてて、わしみたいな男をとっつかまえて、鴨の気持になったりしてさあ」
彼は自分の言葉が気に入ったとみえて、急に勢いづいて笑い声をたてる。
「そうね、何日も人間を見ないですむわね、ここにいれば」
鴨のおじさんは、朋子から修理代を受けとると、領収書にボールペンで上様≠ニ書く。道具箱を抱えて、おじさんは寒風の鳴る夕暮のなかへ出て行く。
まもなく入口のブザーが鳴る。鎖をかけたまま朋子はドアを開ける。流れこんだ外気に顔を撫《な》でられて、朋子はちょっとひるむ。チロリアンハットを被った赤ら顔の恰幅《かつぷく》のいい男が立っている。帽子と同じ茶いろのツイードの背広を着て、幅広い臙脂《えんじ》のネクタイをつけている。
「どなた?」
「おくさん、これ間違って道具箱に入れて帰っちまったんだ。これがないと今夜湯が沸かせないと思ってね。気がついて走って来たんだよ」
ドアの隙間から手をのばして、朋子は皮手袋の男の手からそのちいさな金属を受けとる。見憶えのある浴槽の栓である。円い平ったい栓に、鎖の切れはしがついている。
「あなた、鴨のおじさん?」
朋子は呆《あき》れて、相手の顔を見る。服装がまるで違ってしまって、人相も別人みたいだ。
「さっきの話だがね、おくさん」
鴨のおじさんはドアの隙間に顔を近づけて低い声でいう。
「わしもよく考えてみたんですがね、なんとなくわかるような気がしてきてね。おくさん、もしほしいのなら一羽持って来てもいいんだよ、よくいうだろう、妊娠してる時っていうのは妙なものが食べたくなるって。おくさん、以前鴨を撃って食べたときの味を想い出して食べたくなったんだろう? そうだろう、一羽持って来てもいいんだよ」
「ごめんなさい……」
朋子はおじさんの胸のあたりを見つめて、やっと喋る。「あの話、嘘なの、でたらめなの、鴨猟なんて……鴨を食べたなんて……ほんとのことじゃないのよ」
朋子はドアを静かに閉める。そして老人の気配に耳を欹《そばだ》てる。彼が立っている。しだいに動悸《どうき》が激しくなる。朋子は胸を押えて、口を開けて息をする。やっと老人の靴音がエレベーターの方へ去って行く。
躰をどうにか前かがみにして、朋子は浴槽に栓をしてコックを開ける。放水の激しさに見入りながら、朋子は軽く舌打ちする。なにもめかしこんで出直して来ることないのだ、鴨のおじさんは。朋子はぼんやりする。鴨を捕りに明日の朝不忍池へ行ってみようかしら、散歩しながらの運動にもなるし、何日ぶりかしら外へ出るのは……。
重い腹をかかえて洗面所へ出る。朋子はぎくっとして鏡の中の人影を見る。陰気な顔をした妊婦が、呆《ほう》けたような無表情でこっちを見ている。
[#地付き](「風景」昭和四十七年八月号)
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ベティさんの庭
黒塗りの駒下駄をはいたベティさんは、スーパーマーケットの山積みの商品の間を、ワゴンを押して歩いた。店内は客がまばらで、白いブラウスに黒いミニスカートの女店員たちが、開店まもなしのことで、まだたっぷり匂いたつ香水の薫りを振り撒《ま》きながら仕事にかかっている。彼女たちは、出勤前に安物の香料を全身に振りかけて出て来る。ベティさんは、週一度の買い物のたびに、朝っぱらからこの異国の女たちの匂いぜめにあって、自分の目的を一刻も速くすませて、この場所から遁《のが》れたい思いになった。そのためにもワゴンが他の買い物客に邪魔されずに真直ぐ動かせることに満足していた。
金曜と土曜のショッピングデーになると、街中の人間がどっと繰り出して、ショッピングセンターはお祭り騒ぎになる。一家総出で、この土地の人びとは週に一度の買い物という仕事に励む。駐車場は車の行列でいっぱいだし、行列からはみ出た車が、賑《にぎ》やかな道路をぞろぞろ旋回する。男も女も子供も赤ん坊も、まるで人間の渦にまかれるために出向いて来て、そのことに満足して半ば興奮状態に陥って、大声で言葉を交わしながら品物を漁《あさ》る。どの家族も、女房たちが先に立って品物を選びとって、亭主の押すワゴンに放りこむ。ワゴンにはたいてい、赤ん坊と食料品などが一緒になってのっている。
そんな光景を見ると、ベティさんは夫のマイクが、他の男たちのようにスーパーマーケットのワゴンを押してくれたことがあっただろうかと、ふと考えることがあった。結婚以来二十年間、一度か二度はあったかもしれない。もしあったとしても、自分が英語がまったく喋《しやべ》れないで、はじめてこの国へやって来た当時のことだと思う。あの頃、マイクは実にやさしくて、いい男だった。彼は小柄な東洋の妻とちいさなジェリーを連れて人中へ出ることを好んだ。マイクはわたしを自慢にしていた。ベティさんはシェリー酒をちょっぴり飲んだような気分になる。マイクは他の豪州兵のように刺青《いれずみ》もしていなかったし、赤ら顔でもなかった。背が高くて、物腰がいかにもやさしくて紳士的だった。わたしはマイクの顔や表情が気に入ったのだ。マイクのあのやさしい表情と、大きな暖かい手に惚《ほ》れたのだ。わたしはマイクの日本的な女房になりたかった。マイクの身の廻りの世話をこまめにしてみたかった。ベティさんは本当に自分はそれを実行してマイクに愛されたのに、現在なぜかとても寂しくなった、と思う。マイクは冷淡で尊大で無精者で、とにかく日本の亭主たちのように自分勝手で我儘《わがまま》で、三人の息子たちより手のかかる大きな赤ん坊になってしまった。マイクと結婚するために洗礼を受けて、エリザベスというクリスチャンネームをもらって、わたしは柚子《ゆうこ》という日本の名前を捨ててしまった。今では日本人同士でもベティさんとしか呼んでくれない。エリザベスになったときからだ。わたしがひとしお日本人妻を意識しはじめたのは。
ベティさんは、四国の片田舎の生家を想う。蜜柑《みかん》の樹が何十本もあった庭が、戦時中は一面の芋畑になってしまって、こんもりした金柑の樹が一本と、見上げるような柚子《ゆず》の樹と、季節がきても二個ぐらいしか実をつけない朱欒《ざぼん》の樹が、畑の中に残っていた。金柑はちいさな実が鈴生《すずな》りになると、樹全体が眩《まぶ》しいばかりの黄金に輝いて、いくら|※[#「手へん+宛」]《も》ぎとって食べても、木の実はちっとも減らなかった。その眩しいちいさな果実を、口に放りこむと、ぶつぶつが陽にすけて見える薄い張りのある皮のほろ苦さと、種のまわりの酸味の強い果肉が、いかにも子供むきの味とちがって、そういくつも食べられるものではなかった。それからあの背の高い柚子の樹。棘《とげ》とげのある白茶けた恐ろしいような幹の肌と、厚い皮の柚子の実。あれが実ると、年寄りも若い者も総出でひとつ残さずとりこんで酢を搾《しぼ》った。
彼女が産れたのはこの柚子のために家中の者が立ち働いている最中であった。三番目の娘の誕生に父は思わず柚子《ゆうこ》と名付けた。ベティさんは幼い頃には柚子《ゆう》と呼ばれて、その棘だらけの柚子の樹と一緒に自分の名前が好きになれなかった。
立川基地|界隈《かいわい》で母の従姉《いとこ》が店を開いていた仕立屋で働くうち、豪州兵のマイクと出遇って彼の国へ渡って以来、ベティさんは日本へ一度も帰っていない。
スーパーマーケットの、生野菜と並んで一年中オレンジが山と積まれているのが、はじめの頃は実に奇妙なことに思えた。この国には蜜柑が一種類しかないのだろうか。たまにマンダリンが入荷すると、ベティさんは、日本の蜜柑を想い出して、その場で反射的に故里《ふるさと》の庭の情景が眼に浮んだ。あのひょろりとした朱欒の樹は大きくなっただろうか。あいかわらず二個ぐらいしか実がつかなくて、誰にも※[#「手へん+宛」]ぎとられもせず、自然に落ちるまでただ眺める果実として、今でも生《な》っているだろうか。朱欒の近くに茱萸《ぐみ》の樹があって、赤く色づいた実がびっしり生ると枝も撓《しな》って、いつもどういうわけかそれは雨に濡れていた。雫のたれる枝を手折って花瓶に生けて仏間の床の間に飾ったものだ。茱萸は熟しても渋くて、あまり食べると舌の感覚がすっかり麻痺《まひ》していつも後悔したものだった。ざらざらした茱萸の実とちがって、鶏小屋の脇に一本のゆすらうめの樹があったが、あの実はとても甘くて、つややかで、なんともいえず可憐《かれん》でルビーのように紅くて美しかった。ゆすらうめの実もたいてい雨に濡れて光っていた。
ベティさんは、暑い陽射しのなかに立つと、ふとあの庭の真夏にひと飛びに舞いもどったような気分になって、実のところ自分がどこにいるのか分らなくなることがある。彼女にとって、それは苦しい錯覚ともいえることで、息苦しさのなかで、彼女は、熱い空気や焼ける太陽に全身を晒《さら》していることが、途方もない地の果ての火葬場かどこかの恐ろしく熱い窯《かま》の前に、たった独りで立ちつくしているような気持になる。それは遠い生家の情景ややわらかな陽射しや風が、彼女の脳裏にどっと蘇《よみがえ》ることによって、両親や姉たちや親類縁者の沢山の顔を、頑《かたく》なに寄せつけまいとするからかもしれなかった。ベティさんはマイクとの結びつきをどうしても認めようとしなかった彼らのことを想い出したくない。あの時代のことを思えば、彼らが理解出来なかったことは、やはり無理からぬことかもしれない。戦争花嫁はすべて、職業的な女がなるものだと周囲の者たちは思いこんでいた。両親との繋《つな》がりも、彼らの徹底した無理解のおかげで、逆に冷静に処理することが出来た。ベティさんは血の繋がりというものを、こうまで嫌悪《けんお》して来た自分を痛ましく思うことがあったが、それはごく最近のことだ。二十年近くも経ってなぜこのように、両親の安否を気遣うのか、考えてみれば親に背を向けて、振り返りもせず出奔したとき、両親の年齢は、現在の自分とたいして違いがなかったのではないかと思う。実際にはかなり開きがあるのだが、やはりベティさん自身が想像し得る両親の姿が、今の自分とぴったり重なってしまうことはたしかだった。
スーパーマーケットの中を、下駄を鳴らしてベティさんは食料品や日用品ですっかり重くなったワゴンを押しながら、不意に母の姿を自分のなかに見出してあっと思うことがあった。猫車を押しながら、手拭いを頭に被《かぶ》ったモンペ姿の母が屋敷内の畑の中をゆっくりこっちへやって来る。蜜柑のあとがすっかり芋畑になって、濃いみどりの葉がふさふさと波のように繁茂している。ベティさんは、前触れもなく突如自分に襲いかかるそうした記憶のために、しばしば棒だちになってぼんやりした。そうした自分から遊離しようとする何かが内部で激しく揺れ動いて、彼女はふと叫び声をあげたくなる。
週に一度、ベティさんは買い物のために外出するほかは、ほとんど家を出ることはなかった。役所勤務の夫が出かけてしまい、ジェリーが郵便局へ、下の二人がそれぞれ高校と中学へ行ってしまって、ベティさんは家の中に一人きりになると、そんなときこそ自分の位置というものがはっきり見えるようで、彼女はそこにしっかり坐りこんで、日常の雑事を取り仕切るのだった。だから家の中にいるかぎり、ベティさんは自分を独りだと思ったことはなかった。しかし家を一歩出て街を歩きまわるとき、ベティさんはしばしば自分自身の現実を突然飛び越えようとする強い意識に揺すぶられることがあった。ここは外国なのだ、日本ではない、どうしてわたしはこんなところにいるのだろう……。それは彼女の脳裏に瞬間、光線のように鋭く突き刺さる娘時代の感覚的な記憶のせいであった。
チェッカーの台の上にベティさんは品物をごろごろ放り出す。冷凍野菜は、芽キャベツ、グリンピース、カリフラワー、隠元・人参・ジャガ芋・コーンのミックス野菜などで、どれもパッケージの中でかちかちに凍結している。わずかな生野菜と、オレンジとちいさな林檎《りんご》とパパイアとバナナと。それにバター、チーズ、オリーブ油、その他冷肉類や洗剤、殺虫剤など日用品。ビール二ダースに家庭向きの徳用ワイン。
ピンク色をした耳朶《みみたぶ》のイヤーホールに金のリングをはめているギリシャ移民の娘が、脇目もふらずボタンを叩く。ベティさんはギリシャ娘の指先を見ながら、ひとつひとつの金額を確かめるのをすっかり忘れていたことに気づく。長男のジェリーがいつか云った。「マミー、計算をちゃんと見てないとだめだよ。マーケットのヤツらはいいかげんなんだから」高校を出て郵便局に勤めている彼は、自分の肩までもないちいさな母に、茶色のやさしい眼を向けてそのような注意をしばしばあたえる。あのこはマイクの若い時にそっくりだ。ベティさんはギリシャ娘の横顔を見ながら、ジェリーのことを考えている。……面長のところも額にかかる癖のある髪も、手が大きくていやに器用なことも、躰《からだ》つきもまるでそっくりだ。末息子のボビーぐらいの少年が、会計の終った品物を中古のダンボールに手際よく入れている。四十ドル払っていくらもお釣りがない。
ベティさんは外へ出て陽傘をさした。ダンボールを二つ重ねて抱えた少年がその脇から顔をやっと覗《のぞ》かせて後にしたがうと、タクシー駐車場まで運んでくれた。ベティさんが乗って来たタクシーが依然としてそこに停っている。まるで彼女を待っているみたいだ。真赤な顎髭《あごひげ》をたくわえた運転手が煙草を喫いながらゆっくり近づいて来た。ベティさんは荷物だけをタクシーに乗せて、肉屋へ行って来るから待っててほしいと運転手にことわる。運転手はのんきそうな足どりで店内から流れて来る冷房に浴するためにひき返した。
肉屋のドアを押すと、ベティさんは思わず身顫《みぶる》いした。店全体が冷蔵庫みたいで、女店員は毛糸のカーディガンを着ている。店員たちは全員神経痛に罹《かか》っているにちがいないとベティさんは思う。店の奥で肉を切る電気|鋸《のこぎり》の音がしている。カウンターの向うに冷凍されたぶ厚い肉片がびっしり並んでいる。
「こんにちは、ベティ」
「こんにちは、ミセス・カーファン」
肉屋の主人と女店員が同時に声をかけた。肩からすこし下がったところに、錨《いかり》と鰐《わに》の刺青をしている主人は、マイクの狩猟仲間だが、近頃はあまり連れだって出かけることはない。ベティさんは、白いぐにゃぐにゃした生ソーセージと、ラムチョップを注文して、一本脚の丈の高い円椅子に腰かける。ちょうど酒場のカウンターに向っているような恰好になる。カウンターと平行している奥の壁面は、全面が鏡ばりで、白やピンクの肉片がいっぱいに並んでいて、肉の背景に店外の通りがどこまでも映っている。向う側のウールワースの建物も見える。太陽の照りつける午前中の街路を、女が眩しそうに眉を顰《ひそ》めて急ぎ足で通りすぎる。よちよち歩きの子供を連れた母親がゆっくりやって来て、肉屋のショーウインドに顔をおしつけ、まる焼きにされて飾りものになっている豚を見ている。
ベティさんは、不意に鏡の中の風変りな女に気づいた。彼女は原住民よりすこしましだが、とにかく陽焼けして真黒だ。そのちいさな顔は眼ばかり大きく見開いて、それはほとんど哀し気に見える。……わたしは歳をとった、ほんとに老けたわ。オレンジ色の口紅をくっきり塗ってある唇はまるで怒っているようだ。彼女はカウンターに肘《ひじ》をついている鏡の中の手を眺めた。なんてみっともない手だろう、それに一年中|剥《む》き出しのこの腕。腕も指も黒く焦げた棒杙《ぼうくい》のように折れ曲っている。彼女は、鏡から眼を逸《そ》らすと、指を揃《そろ》えて反らしたり、掌を返したりして、つくづく眺めた。甲より掌の方が裏側だけにまだしも自分のもののような気がする。
ベティさんは、今朝お握りをたくさん作った。梅干の果肉を入れて焼き海苔《のり》を巻いて、その型よく出来あがったお握りの山を、ベティさんは自分でも感心して見入った。ホイルで包んで、港に停泊している日本の漁船まで、ボビーに届けさせた。
まだ陽の昇らない早朝ではあったが、ボビーの自転車の籠《かご》に、その温《ぬく》みのあるずっしりと重たい包みを入れてから、彼を起した。港まで自転車で三十分はかかる。十三歳のボビーはまるで冒険にでも出かけるように勇みたって飛び出て行った。
野牛の角を拾いに行った船の男たちは、今頃深い草林の中でビールを飲みながら、あれを食べているだろう、とベティさんは想う。
草林の奥に野牛の墓地がある。そこはハンターたちに撃ち殺された野牛の捨て場所で、骨とか腐爛した屍骸《しがい》が山積みになっている。日本の漁船員は、そこへせっせと足を運んで、野牛の角を拾って来る。|宝の山《ヽヽヽ》などといって、野牛の墓地に近づくのは彼らぐらいなもので、この土地の人間は誰も見向きもしない。蛆虫《うじむし》や蠅《はえ》の湧《わ》く悪臭のなかで、腐爛した野牛の頭から角を抜きとることを想うと、ベティさんは、それだけでもう胸が悪くなる。船の男たちは、野牛角《バツフアローホーン》を磨きあげて、置きものや花器を造る。灰色の荒れた肌をした堅い角は、彼らの手にかかると漆黒の艶《つや》をみせて、滑らかな肌に変る。
船の男たちの短い休日のために、ベティさんは出来るかぎりの手助けをするようになって、どのくらい経っただろうかと思った。日本の漁船がここの港へ乗りこんで来て、五、六年というところかもしれない。
ベティさんは、肉の包みを受けとると、肉屋の主人にちょっと笑顔を見せてから店を出た。彼らが後で自分のことをふた言み言話題にすることは判っている。「彼女も最近すっかり落着いたようだ」肉屋の主人が云う。「ジャパニーズワイフの家出癖には、マイクも随分困らされたものだ」
焼けたアスファルトに立つと、冷えきった躰が熱い外気に一度に触れて、生温《なまぬる》い湯を浴びせかけられたような反応を起した。
ベティさんにとって、肉屋はあまり好もしい店ではなかった。あの鏡。あれがいけない。生肉を求めに来る人間の顔が、溢《あふ》れるような生肉のなかに映る。肉を大量に買う人間の顔が、肉と一緒に鏡のなかに無様に映る。ベティさんは思う。ほんとに悪趣味な店だ。
岩石のように重たくて固い肉の包みを提げて、ベティさんは陽傘をさして歩いた。長い脚を剥き出しにしたオフィスガールや、半ズボンにハイソックスの男たちが足早に通り過ぎて行く。その目的を持った歩行者の足どりに、ベティさんは気をとられる。この外国人たちはなんとしっかりした足どりで道路を突切って行くのだろう。交差点でつんのめるように立ち止るバネのようなリズムが、太陽に向って真直ぐに突き進んで行く。あの人たちの確かな歩調と自分の歩き方はまるで違う。ベティさんはそうした確かな歩調の流れに入ってしまうと、いつも落着きを失い困惑し、おどおどした。人の流れというものが、ひとつのリズムを持って移動しているのだということを、街に出るたびに思い知らされる。そういった一定のリズムは時間によって多少違ってはいても、ベティさんはそのどのリズムにも自分はうまく乗ることが出来ないと思う。とくに平日の午前中の歩行者の流れはとてもよそよそしい。
家の中に居さえすれば、わたしは絶対に安全なのだ。皮膚の下の自分の果肉のような部分を、夫や子供たちの存在がすっぽりつつみこんでくれる。道を歩くときのように、こんなに怯《おび》えなくてすむ。家の中にいれば、ここは外国なのだという、そんな思いに今更駆りたてられることもない。
ベティさんは、自分を守ってくれる唯一の場所へ帰るために、赤髭の運転手が待っているタクシー乗り場へむかう。
長男のジェリーは、中央部のアリススプリングスで産れた。アリススプリングスから見ればこのD市は大都会のようだ。
日本を離れてはじめて、あの太陽に焼ける焦土の、まるでバス停留所のような簡素な空港に降り立ったとき、これがマイクの国であり、自分もこの国の人間になるのだという、張りつめた覚悟を抱いたことをベティさんは忘れることができない。無法地帯のような、この土地の役所がマイクの勤務先で、ベティさんはここでジェリーを産んだ。
ひと筋の殺風景な街路には、原住民が右往左往しており、公園には昼間から酒に酔った黒い男たちが、ごろごろ転がっていた。ひどく粗末な衣服ではあるが、一応白人と同じような身なりをした彼らは、仕事をする気配もなく、終日酒屋の周辺に屯《たむろ》していた。
人間と蠅が同居しているようなこの土地は、家の外へ一歩出ると何百匹もの蠅が群がってくるありさまで、うっかり口を大きく開こうものなら一度に何匹もの蠅が飛びこんできた。とくに道端のいたるところに坐りこんでいるアボリジンの女や子供たちに群がる蠅はさらに凄かった。ペッカニィニと呼ばれる黒い子供たちが蠅にたかられながら、大きな生気のない眼を見開いて、母親の長いスカートの上に坐りこんでじっとしているのを、ベティさんは立ち止ってよく眺めたものだった。
あのペッカニィニのように、自分もただ息をつくだけの毎日を過していたのだ。アリススプリングスでは、わたしは正気ではなかった。あの僻地《へきち》で妊娠して、わたしはマイクに愛されることばかり考えていた。周囲の異様さに絶えず怯えながら、わたしは人間らしい生活を見失っていた。ペッカニィニが道端で母親の衣服の裾にまとわりついていたように、ベティさんはマイクの傍《かたわ》らから離れることができなかった。あの原住民の幼い子供たちのように眼を虚《うつ》ろに見開いて。あれはまるで動物の生態ではないか。マイクという外国の男に自分の愛の発着点を見出したつもりでいた彼女は、ある場合には愛というものが、どれだけ非人間的なものであるかを、後になって知った。彼女は自分の内部から出て来たちいさな混血児を抱くことによって、はじめて正気に立ち直れたのだと思う。
産れたばかりのジェリーを抱いて、ベティさんは夫の次の勤務先である亜熱帯の開放的な土地、D市にやって来たのだった。アリススプリングスでもそうであったが、ここにも日本人は一人もいなかった。
この土地にそれから三、四年、日本人は一人も来なかった。ベティさんが自分の生活に埋没しながら、その日常とはまるで異質なものに激しく心をゆさぶられる、望郷の感情は、いつも悪夢のような素速さで前触れもなしに、彼女の砦《とりで》を食い荒らしに飛びこんで来た。
ベティさんの前にはじめて現われた日本人は、若い人妻であった。彼女は大使館勤務の夫についてこの国へやって来て、任地のキャンベラへ着く前にD空港で強制的に飛行機から降ろされるというトラブルに見舞われたのだった。それは彼女が本国を離れるとき、たまたま妊娠六カ月であったため予防接種のうち種痘を受けなかったための強制隔離であった。
その夫人の通訳のためにベティさんは、所長の運転する車に同乗させられて、一時間近くかかって小高い丘の検疫所へ連れて行かれた。隔離舎だけあって、その五マイルほど手前の草林の中を突切っている道路に岩乗なつくりの鉄の門があり、鍵《かぎ》を持った関係者しか通れない仕組みになっていた。ベティさんを駆り出しに来た所長は、鍵の束を持って車から降りると、その重い門を左右に押し開けて、車を入れると、また門を閉めて鍵をかけた。ベティさんは、門が閉ざされるのを見ながら、実に心細い気分になった。自然の中に門だけではない、眼に見えない柵がどこまでも張り巡らしてあって、その内側に自分が他人の手に依って引きこまれてしまったのだということが、彼女をことのほか不安にした。それは大自然の中で自由に放されてはいても、人間に飼育されている羊か牛を自ら連想させた。また忌わしい病にとりつかれた人間ばかりを閉じ込めておく場所で、恐ろしい病原菌が宙を泳いでいて、その中に自分が放り込まれたような、覚束《おぼつか》ない恐怖でもあった。ベティさんは、運転する所長の横で、躰を硬くして前方を見ていた。周囲は草林ばかりで、赤土の道路がどこまでもつづき、所長の|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》に汗が流れて、三月の太陽が車を焦し、湿った熱風が窓から吹き込んだ。ベティさんは、こんな見知らぬ場所へ突如連行された日本の女性に深く同情していた。赤ん坊が一緒だと聞いているが、その若い母親はどんなにか心細いことだろう。そしてベティさん自身は、夫と離れてちいさな子供たちを家に置き去りにしたまま、一人で他人の車に乗って知らない場所へ運ばれて行くという、まったくはじめての経験にかなり緊張していた。
車が停ったとき、ベティさんは周囲を見廻した。それは今までに見たことのない風景だった。みどりのなだらかな起伏は、全体にこんもりした丘陵で、ところどころに真赤な花をつけたハイビスカスが枝を絡ませあって咲いており、他の色彩の強い野生の花ばなが、濃いみどりにきわだって見えた。どれも人の手で命を与えられたかのように、他の草林風景とはかけはなれた風情であった。よく手入れのゆきとどいた庭が、荒あらしい自然の眺望を突然変えてしまったかに見えた。丘の上に平屋造りの建物があって、ちいさなドアが数個等間隔についていた。ベティさんは所長について、そのひとつのドアから入った。冷房機の音がして室内の温度は申し分なかった。狭い台所つきの部屋に、赤ん坊を背負った日本の女がうろうろしていた。彼女は二人をみとめると、慌てて椅子をすすめてから、背中の赤ん坊をおろして膝《ひざ》にのせると自分も椅子にかけた。女はベティさんに軽く頭を下げて、かすかな笑みを浮べた。ベティさんは久し振りに向きあった日本人の前で、自分がひどく動揺していることに気づいた。何年振りかに日本語で話すことが出来るのだという期待に、すっかり魅了され、そのことに胸の高鳴りさえも感じていたことを、しかし次の瞬間ベティさんは他人ごとのように思い知った。この女《ひと》に会うために、わたしは随分緊張していた。見苦しくないように髪を結って化粧をして、身なりを整えてこうしてやって来たのだ。――女は白い顔をしていた。ベティさんは自分の陽焼けしたパンの皮のような顔を恥じた。日本からやって来たばかりの女はベティさんの顔をじっと見つめて、かすかに微笑《ほほえ》みかけていた。
「すみません、ご足労おかけしまして」
女は高い調子の東京弁で云った。ベティさんは思わず切迫した気分になって無言のままちょっと頭を下げた。そして彼女はなにか喋ろうとした。――わたしはあなたにお会いするのを楽しみにここへ来たのです。とてもお会いしたかった。日本人を長いこと見ていないし、日本語で話が出来るのも久し振りのことです。しかしベティさんは、口ごもって手を口許《くちもと》にやったまま、溜息《ためいき》をついた。女が彼女の夫の名刺をテーブルの上に出して、|すい《ヽヽ》と指で押して寄こした。ベティさんはその白い指を見てから、名刺をおずおず拾いあげた。
「柴崎と申します」
書記官夫人はそう云ってから、膝でむずかる赤ん坊を床に下ろして、さも困りきったようにつづけた。「この子が土足の床でハイハイしますでしょう、汚なくて眼が放せないんですの、汚れた手をすぐに口へ入れるものですから……あなた様は……」
「はい、ベティといいます」
そう云ってから、ベティさんは恥ずかしさで顔面に血がのぼった。
「御主人様は、こちらの方でいらっしゃいますか」
「はい、カーファンといいます」
「もうこちらには長くていらっしゃるのですか」
「はい、もう……」
「それでは英語はお上手でらっしゃるわねえ、わたくしは、まるでちんぷんかんぷんで、主人が仕事大事で行ってしまいましたので。こんなことなら英会話をもっと勉強しておけばよかったと思いますよ、なにしろはじめての外国ですので、……ごめんなさい、ほんとにご足労おかけして、……要点だけでもこのかたに伺っていただけますか、一週間ぐらいここへ止められるようなんですけど、その間のことと、その後の手続きのようなこと……」
ベティさんは女の白い扁平《へんぺい》な顔と向きあっているうちに、しだいに切迫した気持が消えて、まるで外国人を見るように何の感情も抱かずに彼女に対することが出来た。なんと無表情な顔だろう、それからこの素っ気ない言葉の調子。ベティさんは、自分が日本の女と会った瞬間、もしかしたら強い感情に煽《あお》られて泣き出すかもしれない、と恐れていたことが非常に滑稽なことに思えた。テーブルの角のところで煙草を吹かしながら二人の日本人女性を眺めている所長に、なにを彼女に話したらよいかベティさんは訊《たず》ねた。彼はやっと自分の出る幕が来たとでもいうように、咳《せき》払いをしてからベティさんと書記官夫人を交互に見ながら説明しはじめた。三食ともパン食でよいか。もし米がよければ特別につくらせる。肉よりも魚が好ましければ、魚料理をメニューに増やす。一週間拘置するが、その間に不都合なことが起きればキャンベラへ行くことは出来ない。不都合なことというのは予防接種を受けなかったために起る躰の変調である。一週間無事にすめば、直ちにキャンベラへ赴くことが出来る。そのときは空港まで送りとどけるので何の心配もいらない。検疫所では特別の拘束はない。ただこの場所から外部へは一歩でも出ることは許されない。例えば買物のために街へ行くとか、見物に出歩くとか……。現在この検疫所には、オランダ人、フランス人、アメリカ人がそれぞれ夫婦で拘置されている。どれもミセス・シバザキと同じような理由によるものである。
所長の説明が終って、今度は書記官夫人の質問にかわった。
「妊婦でもこの国では種痘を受けさせるのでしょうか」
所長は答えた。やはり妊娠中の躰に種痘接種は行わないと思う。ということは妊婦が入国する場合はかならず今回のような処置が用意されている。
「そうですか、妊娠中の外国旅行にはこういった弊害を覚悟していなければいけないんですね」
書記官夫人は、ベティさんに同情を求めるようなもの言いをした。
所長は女たちの雑談がはじまったと見て、立ちあがると、事務所で待っているからいつでも声をかけるように、と云い置いて出て行った。二人だけになると、書記官夫人は、すぐに吐きすてるように云った。
「とっても食べられた代物《しろもの》じゃないんですよ、ここのお食事。お昼にもピラフみたいなものが出たんですけど、どうにも喉《のど》を通らなくて……」
ベティさんは手提袋から煙草をとり出して火を点《つ》けた。
「お子さんのは、どないしてはります?」
「子供にはピラフみたいなのに牛乳を入れてもう一度煮てから食べさせています。一週間、こんなところでどうしたらいいのかしら、英会話の勉強でもするしかないわ」
彼女は投げやりに云った。
ベティさんは椅子を立って、煙草の煙を大きく吐きながら、赤ん坊を眺めた。ボビーと同じぐらいで、まるい大きな顔をした男の子だった。よく肥って、衣服の上に大きなエプロンを掛けていた。ベティさんは、おむつ一枚の裸で、庭の木蔭に置いた円型のネットの中で遊んでいるボビーを想った。
「おむつはどないしてはります?」
「ここで借りています。なにもかも用意されてるんですね、こういう所は。……なにしろ空港に着くなりハンドバッグひとつで放り出されて、真暗な道を車で運ばれましたでしょう、どうなることかさっぱり判らなくて困ってしまいました。主人はとにかくひとまずキャンベラへ行って、場合によってはここへ来てくれますけど、どうなりますか、電話がかかることになっています」
「なにかお困りのことがありましたら、いつでもまいりますから、遠慮せずいうてください」
ベティさんはそう云ってから、外へ出た。書記官夫人は子供を抱いてベティさんと並んで歩いた。
「明日にでもまた来てみましょうか?」
ベティさんは、この日本女性との間に、友好的な気持がまったく生じなかったことに気づきながら、そんなことを云う自分の口調が、口先だけのおざなりに聞えやしないかと恐れた。
「いいえ、とんでもございません。もう大丈夫でございます、暑いなかを本当にありがとうございました」
書記官夫人はひどく儀礼的にそう応えた。彼女がこの猛暑を非常に怕《こわ》がっていることがベティさんに判った。彼女は俯《うつむ》きがちで、足早に歩こうとしていた。
「一年中この暑さですか」
ピンク色の春のスーツを着た書記官夫人が訊いた。
「いいえ、ドライシーズンはずっと楽です、陽射しは強いのですけど、空気がからっとしますから……」
夫人は、眩しそうに眉を顰めてベティさんを見た。彼女はなぜか、この異国に住む日本女性をはじめて見るような眼差しで、ベティさんの顔を横からつくづく眺めていた。ベティさんはそれを知って、ふっと笑みを浮べて云った。
「こんなところでよう住めると思いますでしょう?」
「あなた、本当に日本のかた?」
女の問いかけは、この訛《なま》り言葉を話す日本人女性への好奇心にたった今促された、とでもいうようにいやに唐突であった。ベティさんはちょっと立ち止って、額に手を翳《かざ》して見返った。
「どこの人に見えます? 東南アジア? それとも原住民?」
ベティさんは声をあげて笑った。夫人が戸惑いながら薄く笑って、赤ん坊を抱き直すと黙りこんで歩きはじめた。
「キャンベラは、こことちがって四季があってとてもええところやと聞いてますよ」
ベティさんは執りなすようにそう云ってから、事務所のドアを押した。
所長の自動車が動き出したとき、書記官夫人は、助手席のベティさんに硬い表情でお辞儀をした。ベティさんは手を軽く振って思いっきり愛想のよい笑顔を向けた。
丘が背後に遠ざかると、ベティさんは突然しゃくり上げた。泪《なみだ》が汗と一緒に流れた。ベティさんは手提袋に手を突っこんで、タオルのハンカチーフを掴《つか》み出して顔におしあてた。所長は自分の横で肩を顫わして泣いている、ちいさなジャパニーズワイフを見て云った。
「ホームシック? おくさん」
ベティさんは洟《はな》を|※[#「手へん+鼻」]《か》みながら頷いた。
「そう、たぶんね」
それはベティさん自身にもよく解らない泪であった。この発作によって彼女の内部に感傷の潮がじわじわ満ちて来るようだった。ベティさんは泪を拭って煙草をとり出して、所長にすすめた。彼の銜《くわ》えた煙草に火を点けてやりながら、このゆきずりに過ぎない男がなぜ自分の泪の意味を知ろうとしたのだろうとベティさんはふと思った。
鼻唄を歌いながら運転する所長の車は、草林の間を赤い土埃《つちぼこり》を舞いあげて走った。彼はときどき、犬のような眼でベティさんを見た。
真岡船長の船が来週港に入って来る。ベティさんは台所にかけてあるカレンダーを見て、漁船入港の日取りを確かめた。真岡さんが上がったら、久し振りにバベェキューパーティをしよう。冷凍庫にアイスクリームの大きな容器を入れるために、中の魚を流しに放り出す。船の男たちがせっせと運んで来るイカ、ヒメジ、キスなどがひと塊りになって凍結している。家族が魚を好まないので、それはいつまでも冷凍庫の場所を占めていた。
この土地へ日本の漁船が出入りするようになった頃、ベティさんと同じような境遇のジャパニーズワイフは、五、六人に増えていた。海の男たちは、月に一度の割で二、三日の陸《おか》での休暇を過してまた沖へ出て行く。その出現によって、彼女たちの生活は以前より随分賑やかになった。
ベティさんは日本の船乗りたちとの交流がなかったら、自分はどうなっていたかわからないと思う。あの外交官夫人に会ったことによって、ベティさんが一層不安定な精神状態に陥ることになったとはいえないが、ともかくあのちいさな出来ごとを境にして彼女は理由もなく家を出て、あてもなくなにか探しものでもするように歩きつづける発作を何度か経験している。
その頃、ハルコという神戸の女が、ベティさんのところへよく話しこみに来ていた。ハルコは移民局に勤務するこの国の男と結婚して、七歳の女の子を連れていた。かさかさに脱色した長い髪で、チョコレート色に陽焼けして体格がよく、ベティさんよりもずっと若く、毎日のように海辺やスイミングプールで娘と一緒に遊んでいるような女であった。ベティさんの家へ彼女が立ち寄るのは、たいてい遊びの帰り道で、ビキニ水着にゴム草履で、庭先に車を停めると、一見中国人のような少女にかならず大声でなにかわめいてから、家の中へ入って来た。ニッキーという裸足の少女は、庭でベティさんの愛犬と戯れたり、ベティさんの子供たちと駆け廻ったり、時には、原住民の住む隣家の庭へ入りこんだりして、母親が出て来るのを待っていた。
ハルコは濡れた髪を振りほどいて、ブラッシングをしながら勝手に喋りたてた。
「こないだ、早う遺言状書いときなさいいうてうちのひとに云うたったんよ。歳とって、なんやもうよぼよぼしてはるよって。うちはもうこんなところで暮すのはいやや、ベティさんは長いことよう辛抱してはるねえ、うちは二年になるけど、なんでこないな退屈な外国へ来たんやろ思う、どこへ行っても、誰に会うても、ベリ・ホット、ベリ・ホットや」
ハルコはちいさなブラジャーからこんがり焼けた乳房をのぞかせながら、躰をゆすって笑った。
「来月から二カ月ぐらい神戸へいんで来るの」
「去年も帰ったやないの、ハルちゃん」
ベティさんはむっつりして云った。
「うちは年に一度は帰らしてもらうことにしてるんや、それだけが楽しみで辛抱してるんよ、ニッキー連れてたら、訣《わか》れてしまうわけにもいかんし、訣れたかて日本の男と再婚出来るかどうかわからへん、ほんまになんで外人と一緒になったんやろ、自分でもようわからんようになる」
ベティさんは不機嫌にハルコの裸身を一瞥《いちべつ》した。
「ハルちゃん、あんたが毎日そうやってのらのらしておれるのは誰のおかげや? 遺言状やいうて、ほんまに、ようひどいこと云えるわ」
「そやかて、ほんまのことや、うちのひとは二十も歳が上やもん」
「ハルちゃん、前から一度きいてみよ思うとったけど、ニッキーはちっともおとうちゃんに似てへんなあ、あいの子らしゅうないやないの」
「今日はおかしいんとちがう?……ベティさん」
ハルコは、ベティさんを流し眼で見ると、口紅の剥《は》げた唇をとがらせた。ベティさんはハルコの細い眼を睨《にら》みかえした。
「ニッキーは、彼の子ゥか? なんで似とらんの? どう見てもあの子はジャパニーズかチャイニーズや……」
ハルコはベティさんの言葉を聞き流すように椅子を立った。
「ベティさんのヒステリーや、うちは帰るわ! ニッキーはあのひとの子よ。うちの血ィの方が圧倒的に濃いかったんや、そやけどだんだんあいの子らしゅうなって来たわ、厭《いや》や厭や、うちはあいの子すかん」
足音をたてながらハルコが部屋を出て行くと、ベティさんはじっと蹲ったまま見送った。汗がどっと吹き出た。ハルコが大声で娘を呼ぶのが聞えて、車が荒あらしい音をのこして走り去った。
ベティさんは台所へ立つと渇いた喉にビールを流しこんだ。わたしはハルコとは違う、彼女は結局この土地には落着くつもりはない。わたしはハルコのようにはなれない……。
ボビーが台所のドアの外で泣き声をあげて呼んでいた。ベティさんはそれにやっと気づくと、幼い息子のためにドアを開けて、泥だらけのボビーを抱き上げた。彼のカールした柔らかい金髪がベティさんの顔に触れた。茶色の大きな眼が母を見上げて、まわらない舌でミルクを欲しがった。ベティさんはボビーを椅子にかけさせて、コップのミルクを飲ませながら、そのちいさな、裸のわが子をじっと見詰めた。ボビーのまるまるした顎にミルクが滴って、彼の全身が睡たそうに脹《ふく》らんだ。ボビーを抱き上げるとベティさんは浴室に入った。高い窓がひとつだけで、浴室は薄暗く、正面のちいさな鏡の前に、家族の歯ブラシがコップに立ててあった。その放射状に突き出ている大小の歯ブラシの向うに、黒いちいさな顔を、ベティさんは見出した。真黒の髪を頭の天辺でもしゃもしゃに捏《こ》ねたその顔は、まるで不幸な老婆のようであった。
ボビーの躰を洗ってバスタオルで包むと、寝室まで抱いて行き、子供のベッドにそっと転がすと、ボビーは直ぐ睡ったようであった。
ベティさんは家を出て急ぎ足で歩いた。中国人の経営するちいさな食料品店の前でギリシャ人のプリティ夫人に出遇った。プリティ家はベティさんの家の筋向いで、子供たちが遊び仲間だった。プリティ夫人は食料品店のガラスのドアに貼《は》りつけてあるサーカスや映画のポスターを立ち止って眺めていた。彼女の肥満体は五人目を身籠っていたが、その臨月の、脹れあがった腹を抱えるようにして彼女はこっちへ向って歩き出した。まるでボールのような、乳母車を押しているような、反りかえった恰好で彼女はゆっくり近づいて来た。ベティさんは彼女との距離が近くなるにしたがって、足の竦《すく》むような恐怖に襲われた。プリティ夫人はベティさんと擦れ違いざま、唇をぽかんと開けて、舌だけをゆっくり動かして「ハロー」と云いながら、チーズのような体臭と一緒にゆさゆさ通り過ぎた。ベティさんはほっとして、また急ぎ足になって人通りの殆どない歩道をせっせと歩いた。
プリティ家は土建業の裕福なギリシャ移民である。白いペンキ塗りの真新しい大きな家に、夫妻は四人の娘と、夫の母親と一緒に住んでいる。プリティ夫人は毎日一度は半狂乱になって娘たちを罵倒《ばとう》する。中学生を頭にすばしっこい娘たちは、母親の逆鱗《げきりん》にふれてたちまち惨めな小動物のようになると、首をすくめてこそこそ逃げ廻る。ベティさんはこの母親がギリシャ語でわめき散らすのを毎日耳にしながら、なんともいえない恐怖を覚えた。プリティ夫人は娘たちが泣いて逃げるのを追い廻し、ときには、階上から庭の娘たち目がけて、あらゆる物を投げつけたりする。彼女が妊娠してからは、追い廻すよりも、物を投げるのが盛んになり、わめき声にも凄《すご》みがあって、ベティさんは息を呑んで台所の窓からプリティ家を見た。
また、娘と同じようによく肥った老母にも、外出の時、きまって全身を黒装束で包み、髪も黒い布で被って暑い中を歩いていく姿を見かけると、異様なものを感じた。
三月になって復活祭の頃になると、プリティ家は毎年野羊を飼って、哀し気に啼《な》くのを庭に繋いでおき、祭礼の生《い》け贄《にえ》のためか、それはギリシャ復活祭《カーニバル》が過ぎると、いつも姿を消していた。彼らが殺すのは生け贄の野羊ばかりではなかった。たまに真黒の仔豚《こぶた》がどこからか連れて来られ、かなりの期間、子供たちの遊び相手をつとめ、その果てに彼らの庭から忽然《こつぜん》と消えるのだった。ベティさんはある時、長女のアレキシアに黒い豚はどこへ行ったのかと訊いたことがあった。するとその妹たちよりきわだって整った顔立ちをした色の浅黒い娘は、父親が殺して料理したのだ、とこともなげに答えた。アレキシアが黒い仔豚を、ベティさんの庭に連れて来て、大勢の子供たちを集めてひと騒ぎすることがあるだけに、ベティさんは黒豚の安否を始終気にしないではいられなかった。その子供たちのペットはかならず殺されるはずの生きものであった。
歩きながらベティさんは時間を考えなかった。やがて夕飯の支度にかかる時刻になっていた。しかし海沿いの道に出たとき、傾きはじめた太陽をちらっと見ただけで、ベティさんは海に沿ってどこまでも歩くことしか考えなかった。自動車がつぎつぎに風のように走り去った。自動車は後からあとから絶え間なしに、ベティさんの視界に現われては去って行った。その飛ぶように走り去るものが、ベティさんには永遠につづく鎖に見えた。道路がマングローブ地帯を巡ってまた見通しのきく海岸につづいていた。彼女は、はじめて立ち止ると、一叢《ひとむら》のマングローブを見た。それは熱い大気の中で枯れかかっているように見えた。どの樹もわずかな葉をつけて傾《かし》いだり折れ曲ったりしていた。ベティさんは急に疲れを覚えた。随分遠方まで来てしまった、町をひとつ通り過ぎたのだ。疲労がベティさんを無感動にしていた。湿った熱い風が全身をつつんだ。気がついてみると手になにも持っていなかった。汗を拭うハンカチーフも財布もなかった。
視界には海しかなかった。海は思うさま広がって、ヨットが二|艘《そう》岸に向っていた。その果てしのない眺望がベティさんの周囲にわっと迫り全身を奇妙に締めつけた。息苦しくなって彼女は深く息を吸った。
道路から草地に踏みこんでベティさんは砂地に下りた。乾いた砂にゴム草履の足をとられながら、波に濡れて光って見える岩場の方へ向った。砂山を下りると濡れて固く締った砂地が漣《さざなみ》のあとをとどめて、波打ち際までなだらかにつづいていた。ベティさんはゴム草履を脱ぐと、足跡をつけてゆっくり歩いた。この砂地は深い海底にまでつづいている、海の底をどこまでも辿《たど》ると、やがて地上に出ることが出来る。ベティさんは自身の蹠《あしうら》を通して無辺の大地を感じていた。
岩場は白と赤褐色の縞目のついた平らな滑らかな岩が、遠目にはちいさな廃墟《はいきよ》のように見えることをベティさんは知っていた。この土地へ来てすぐ、マイクに連れられて赤ん坊のジェリーを抱いて、遊んだ場所であった。ベティさんは黒い砂地を踏みしめながら、そのときのことを想い出した。一人の少年が腰のあたりで巻き上る波の中に立って釣り糸を垂れていた。少年の魚籠《びく》の中には、皮を剥いたバナナのような白い魚が二匹横たわっていた。ベティさんが少年に、何という魚か、と声をかけると、ホワイトフィシュだと答えた。ベティさんは思わず笑ってマイクを見上げた。
「白い魚か、本当に白い魚だ」
マイクも口許を歪《ゆが》めて、少年を冷やかすように笑った。あの時も日没がはじまりかけていた。
岩場は波を被って、うっかりすると足が滑りそうになった。ベティさんは岩の上で、自分がひどく注意深くなっていることに気づいて妙な気がした。自分の足許に神経をつかっていることが、ベティさんに再び疲労を想い出させた。彼女は岩場を離れて、ゴム草履を脱ぎ捨てた場所へ戻ると乾いた砂地へ腰を下ろした。それから膝を抱きかかえて、汚れた爪先《つまさき》をじっと見た。どうしてこんなところまで来てしまったのだろう、先刻まで胸を圧迫していた鉄板のような重いものはなんだったろう。彼女はあらゆる感情を払いのけようとつとめた。今、独りで向きあっている日没の空や暮れなずむ果てしのない海に感情の起伏を委《ゆだ》ねることは、彼女自身の神経が一層病み疲れるようであった。わたしはどうしてここにいるのだろう。あの西陽の射しかかった台所のドアに背を向けて、自分が歩きはじめた時と、遠い国から肉親との諍《いさか》いを断ち切るように出奔したその時と、二重の出発点に立っている自分の姿が、同時にベティさんの思惑のなかに浮びあがっていた。脚が棒のように疲れて、躰中が汗まみれになっただけではないか。どこかへ遁れたいと思ったのか。そんなこと出来るはずがないのに。外国人の夫と三人の混血児たち……ハルコのように年に一度里帰りすることが出来れば、わたしは空や海に独りきりで身をまかせるために、こんなに歩きつづけたりしないかもしれない。ベティさんは放心したように、太陽がすっかり海に沈むのを凝視《みつ》めていた。マイクがそのうち捜しに来る。この前も、その前もマイクは頃合いを見計らってかならず連れもどしにやって来た。彼は、空に闇が落ちる寸前かならずわたしを見つけ出す。もし闇が充ちたら、わたしたちは相手の顔を見ずにすむだろう。そしてすべてがお終《しま》いになる。闇に遠すぎても多分同じように終焉《しゆうえん》が来るのだ。マイクはわたしの痴呆《ちほう》のような表情から顔を逸《そ》らして、きっと先に立って歩く。彼の冷淡な暗い背中を、わたしはやはり見たくない。もうすぐ陽が落ちる。海が空よりも黒くなって、マイクの車がゆっくり通りかかる。彼はわたしのちいさく蹲った醜い姿をみとめて車を砂地に入れる。タイヤが砂にとられない場所を彼は知っている。だからかなり遠方から歩いて来る。あのひとは子供たちを、わたしがしたのと同じように家の中へ置き去りにして来る。上の二人はテーブルに向って行儀よく何か食べているだろう。ボビーは、ソーセージかチーズをわし掴みにしてテーブルの下で遊んでいる……。
自分の家庭を哀しい、とベティさんは思った。わたしのために家族は多分不幸なのだ。マイクは過ちを犯した人間かもしれない。彼は妻を捜すために自動車を走らせながらそのことを痛切に思い知るのだ。
ベティさんは立ち上って砂地をのぼりはじめた。マイクの車が見える場所まで歩こうと思った。車が見えたら手を振ろう。彼女はその時、不意に恐ろしいことを考えた。もしマイクが来なかったら。来たとしても気がつかずに通り過ぎたら。気がついても無視して走り去るかもしれない。止ったとしても、彼は他人のような眼差しで何も云わずにわたしの顔を一瞥するだけで、ドアを開けようともせず、わたしが勝手に乗りこむのを待つだけかもしれない。ベティさんは激しい後悔の念にとりつかれた。あのひとはいつものようにわたしの手を取ったりしない。「さあ帰ろう、子供たちが待っているよ」とも云わない。――何故《なぜ》わたしはこんなことを繰り返すのだろう。マイクはもう愛も同情も叱責《しつせき》も忘れて冷淡に自分の異国妻を見るだろう。
ベティさんは不安に急《せ》き立てられて来た道をもどりはじめた。一刻も早く子供たちのところへ帰らなければいけない。
鬱蒼《うつそう》とした巨木の立ち並ぶ植物園脇の急カーブにマイクの車が突然現われたとき、ベティさんは立ち竦んだ。彼は行ってしまう、あのスピードでマイクはわたしを拾わないで行ってしまう。ベティさんが茫然と見送るなかを、車はかなり先まで行ってやっと止った。やがてマイクは大きくUターンをするとベティさんの前へ車を寄せた。彼はすぐ車から下りると、反対側のドアを開けて妻が乗るのを待った。マイクのひどくやさしげな顔をベティさんは道路脇に立ったまましげしげと見た。彼の表情はあのギリシャ人の庭に毎年祭礼の生け贄として繋がれる野羊のようにやさしかった。このやさしさの裏にわたしを見据えて放さないものが潜んでいるのかもしれない。わたしはこのひとから遁れられない。どうしてマイクはわたしを捜すのだろう……。ベティさんは動き出した車のなかで、ひどく不安定な感情にぶつかって両手で顔を覆った。
「ベティさん、泣くのはよしなさい」
マイクが静かに云った。
彼は英語で話しながら、妻の名をいつも|ベティサン《ヽヽヽヽヽ》と日本語でサンづけに呼んだ。マイクはいつも静かでやさしく落着いた話しかたをした。しかしベティさんは自分自身の感じかたにしばしば疑いを抱いた。彼が常に大きな声をあげたことのないもの静かな男だということは、彼のやさしさの証明にはならないのだ。
日本の漁船が入港すると、ベティさんはマイクに頼んで港へ連れて行ってもらう。埠頭《ふとう》を絶えず人や車が往来している。外れの大きな倉庫の前は何台ものトラックが場所を占めている。岸壁で荷物を満載したトラックとマイクの運転する車がすれ違うとき、ベティさんはいつも自分たちが車諸共海中へ転落するかもしれないという胸騒ぎを覚えた。夫の運転を信頼していないはずはなかった。彼の運転が乱暴なわけではなかった。しかし陽の照りつける岸壁を注意深く進むとき、ベティさんはきまってマイクの横顔を盗み見て落着きをなくした。
日本の船員たちは、遠目でもすぐそれと判る恰好をしていた。|すててこ《ヽヽヽヽ》に腹巻きのアンダーシャツ姿でゴム草履を履いて、ねじり鉢巻きなどしていた。港で右往左往する外国人たちに混って、彼らの姿はなんとも異様であった。若い連中はジーパンで、伸び放題の長髪を寄せあって港の近辺をうろついたり、陽陰でキャッチボールなどしていた。
週末には魚釣りをたのしむ家族連れで岸壁が賑わった。女たちはビキニ姿でビーチハットを被り、白い腹をコンクリートに押しつけて背中を焼きながら釣り糸を垂れていた。毛むくじゃらの腕や脚を剥き出しにした男たちが、燃えるような陽射しの下で、何時間も海面を凝視《みつ》めて立っていたり、ジュースやコーラをラッパ飲みする裸の子供たちがめまぐるしく動き廻るなかで、日本の船員たちは所在なさそうにぶらぶらしていた。引き潮になると百トン前後の小型漁船は、岸壁から六、七メートルも下に沈んで、船乗りたちは、梯子《はしご》づたいに陸へあがって来た。いかにもそれは深い海の底から這いあがって来るように見えた。
ベティさんはマイクの車からおりて、同胞の男たちの視線を浴びながら、漁船に近づくまでの間、いつも安定感のある中年女の悠然とした足どりになるのだった。一身に彼らの視線を意識すると、ベティさんは本国を離れて以来すっかり忘れていた人混みで得る安心感を、とりもどすことができた。それは外出先から急いで自分の家へ帰りついた時の気持にも似ていた。彼女はいつも船に近づく中途で、男たちから声をかけられた。
十五人程度の乗組員の小型漁船は、二十杯前後出入しており、ベティさんが特に親しくしているのはそのうちのごく限られた少数の男たちであった。下船するたびに、ジャパニーズワイフの家庭にまで入りこめるのは、船長、機関長、水夫長《ボースン》級で、甲板員たちはその招きに与《あず》かることはあまりなかった。
真岡船長は、肩幅の広い、がっちりした脚の短い北九州の男だった。彼は四年前から転属なく毎年の来豪で、ベティさんとはすっかり昵懇《じつこん》の仲であった。彼は帰国するたびに、ベティさんへの土産物を忘れなかった。彼女の愛用している黒塗りの駒下駄も、浴衣も、帯も、腕時計も、陽傘も、臈纈染《ろうけつぞめ》のハンドバッグも、木目込み人形や博多人形も、ことごとく彼からの土産であった。彼以外の船員たちからもベティさんは数かずの土産物をもらっていた。彼らによってベティさんは日本の味覚に再び巡りあうことができたのだった。特に調味料は、日本の味を子供たちに教えるためには必要であった。彼らの出現によってはじめて、自分が日本人であることの証人を得たようなもので、ベティさんの長かった孤独の季節は、いつの間にか終っていたのだった。彼らが運んで来る新聞や雑誌によって、戦後二十年の日本を知った。日本の文字を読み、日本語を喋り、彼女は急に生気をとりもどして若わかしくなった。わたしはやっと本当の自分になれたのだ。――ベティさんはそうした自覚を得て一層、船員たちとの交流に熱中した。
近所の主婦たちと同じように、自分の庭に友人を集めて夜通しレコードをかけて、賑やかに喋りながら酒に酔うことが、信じがたいほどの悦びであった。そんなときのベティさんは一見大層陽気な女にさえ見えた。
マイクについても、彼がある意味では変人であるということを、ベティさんはしだいに理解するようになった。彼は自分の家へ客を招《よ》ぶことをあまり好まなかった。ベティさんは夫の閉鎖的な一面を、彼女自身のためだと考えていたのだった。他家での集りも、ベティさんはめったに同行したことがなかった。それについては、彼女の方がまるで納得ずくのように見えるのか、マイクはそうした招待にも一人で出かけて、それも早々に引きあげて来た。彼はある場合には気難かしい陰気な男であった。ベティさんは夫のそうした性質がすべて彼女自身に依るものだと思いこんでいた。マイクは過ちを犯したのだ。彼は間違った結婚をして不本意な家庭を持ってしまった。自分がいかに神経を病み自虐的になっていたか、ベティさんは近頃になってすこしずつ解るような気がした。同時にマイクは孤独感に親しむことの出来る人間だということも解った。彼は独りで夜中に起き出してレコードを聴くことがよくあった。クラシック音楽を愛し、彼のレコードコレクションは実に立派なもので、カーファン家としては不似合なほどであった。近所の亭主たちのように、庭の手入れもしなければ、車を自分で洗うこともなく、家族と一緒に遠出することもなかった。彼の休日は、ブラインドを下ろした薄暗い室内で、汗もかかず白い顔をしてぼんやりしていた。書物を読み煙草を喫み、これだけは自分で沸かすコーヒーを飲み、レコードを聴いていた。
ベティさんは、夫がそうしている間、ギリシャやイタリアの移民女たちのように、重い芝刈り機を動かして、その轟音《ごうおん》に追い立てられながら芝を刈り、炎天で肌をじりじり焼きながら草|毟《むし》りをした。長いホースを引き摺《ず》って家の外壁を洗い鎧戸《よろいど》の埃を流した。やがてそれらの仕事を息子たちが手伝うようになり、そして今ではすっかり彼らの仕事になっていた。
ベティさんは海の男たちとの交際をとおして世間を知ることが多かった。そして自分の子供たちが他家の子供とどこか違っていることも知った。ジェリーもジョンもボビーも桁《けた》外れに母を愛していた。他家の母親と自分たちの母がまるで違っていることに、彼らは幼い頃から気づいていたのかもしれなかった。母は、友だちの母親のように大声をあげて子供たちを追い廻したりしなかった。母は自分たちの悪戯《いたずら》に気づくと、途方に暮れた表情で静かに注意をあたえるだけであった。母には解らない言葉がいくつもあって、しばしば子供たちの助けを必要とした。よその母親のように、父や自分たち子供を動員せずに一人で男のする仕事まで片付けようとしていた。友達はまるでいなかった。母は台所の椅子に腰かけて何時間もぼんやり空を眺めていた。
高校を出て郵便局に就職したばかりのジェリーがあるとき云った。
「マミー、日本へ帰るお金をぼくがあげるよ」
ベティさんは驚いて息子の顔を見上げた。彼はマイクによく似たやさしい眼差しで母親を見て云った。
「毎月貯金しても、二、三年先のことになりそうだけど、ジョンも高校出たらすぐ働くって云ってるから、二人でかならず実現させてみせるよ」
ベティさんは、床磨きの仕事をつづけながら、揶揄《からか》うように云った。
「こっちへ帰って来る旅費もかい? ジェリー」
「そりゃそうさ、往復だよ」
夫のマイクから一度も聴かされたことのない言葉であった。マイクは妻の故国から、ことさら眼を背けているかのように見えた。帰国など、ベティさんにはほとんど望みのない事態であった。
「マミーは、日本へ帰りたいんだ、ミセス・グローブみたいに」
ジェリーは、ハルコのことを云った。ベティさんは、不意に黙りこんだ。母が泪ぐむと、息子たちは、マミーの薬だと云って、ビールやワインをベティさんにいつも飲ませた。
三人の息子を連れて里帰りしたい。日頃の夢のような希《ねが》いが、急にはっきりした現実のものとなって、ベティさんをいてもたってもいられない気持にさせた。
彼女は、ミシンを踏んで内職をしていた。近所からの注文でその収入は些少《さしよう》なものではあったが、ベティさんは、この洋裁に一層打ちこもうと思った。
またベティさんは、漁船員たちを自分の思いどおりに送迎するために、車を欲しいとも思った。運転免許を得ることは、この土地では十六歳の子供にでも許されていることで造作ないことであった。しかしマイクはベティさんの希望をみとめようとはしなかった。彼は、運転はベティさんの適性ではない、と云った。彼女は落胆しながらも、多分マイクのいうとおりにちがいないと思った。彼女は今までどうして、自分で自由に出歩くための車を必要としなかったのだろうと思い返したが、マイクの協力が充分であったとは考えられなかった。わたしには行く所がなかったのだ。週に一度の買物の他に行く所はどこにもなかった。日本の昔の女たちのように、家の中を這い廻って、そこだけが自分の場所だと思いこんでいた。
マイクが自分を港へ運んでくれたり、船員たちの送迎に協力的であることが、ベティさんをかえって気詰りにした。
猛暑、どことなく気怠《けだる》いたたずまいを見せている港に、自分たちの車がゆっくり近づいて行くとき、彼女はきまって、夫の脇に乗っていることの居心地の悪い胸騒ぎを覚えた。それは、かつて何度か繰り返した家出のとき、いつも頃合いを見計らって自分を連れもどしに来ると、車の中からマイクの手が鎖のように長く伸びて、それにやんわり巻きつかれてしまうような、あの感覚とどこか似ていた。
ベティさんは、国立病院の白い六階建てビルディングの、砂利を敷いてある玄関口でタクシーをおりた。病院の二重扉を押して入ると受付で、今日入院した日本人を見舞いたいと申し込んだ。黒い長いカウンターの向うで、白衣の上にカーディガンを羽織った事務員たちが忙しそうに動いていた。外来患者の群れを抜けて、ベティさんは教えられた外科病棟へ向った。ボビーが三歳のとき骨折で入院させたことがあるのだが、その迷路のような長い通路をベティさんはよく憶《おぼ》えていなかった。彼女は下二人の出産もこの病院でしたのだった。その頃にくらべて建物は立派になり、完全冷房になっていた。かつては、病室の天井にいくつもの大きなファンが音をたてて廻っていたものだった。別棟への渡り廊下に出て、ベティさんはすぐ外科病棟へは入らずに庭に出た。
八月に入ったばかりで空気は乾ききって、樹や草に水を欠かせなかった。乾いた熱い風が吹いて、どこの庭でもスプリングウォーターが、終日|撒水《さんすい》していた。ベティさんはこの季節をあまり好きではなかった。ひどい乾燥期には、大地が水分をすっかりなくして、砂漠地帯に追いやられるような気がした。肌も髪もかさかさになり、夜半には急に気温が下がって、日中との激しい気温差のために躰《からだ》が不調になることがあった。太陽はあいかわらずじりじり照りつけ、このシーズンにはガラス窓を射る陽光で自然発火するといわれるほどであった。
ベティさんは病院の中庭を横切った。芝生のスプリングウォーターが腕や顔に心地よくかかって、水滴はたちまち蒸発した。日陰に並んでいるデッキチェアに、足や腕にギプスをはめた患者たちが、昼下がりのひと時を過していた。彼らは通りかかるベティさんを無遠慮に見た。
紺碧《こんぺき》の海が眼下に広がっていた。この狭い中庭から、かつて脚にギプスをつけたボビーと一緒に毎日眺めた海がやはり同じようにそこに見えた。空と海しか見えない場所を、ベティさんは、足早に横切りながら、あの頃の自分がどれだけ悲痛な思いで、この庭に立っていたかを想い出した。真白の長い顎鬚《あごひげ》のアボリジンの老人が椅子の上に枯れたような手足を伸ばして海をじっと見ていた。ベティさんは、あの時もこの老人がこうして同じ場所に横たわっていたような気がした。
外科病棟の五人部屋は、白いカーテンですっかり窓がおおわれていた。その薄暗いなかに充ちている薬品の臭いにベティさんは親しみを覚えた。少女のような若い看護婦の一本に編んだ長い金髪が光る蛇のように背中を這《は》っているのが、ベティさんの網膜に焼きついていつまでも消えなかった。その看護婦はベティさんの顔を見ると愛想よく笑いかけた。
「通訳していただけますか? 彼は英語が解らないし、わたくしは日本語が話せないし、大変困っています」
彼女は靴音をたててベティさんを案内した。周囲をカーテンで囲まれたベッドの前で、看護婦は身を引いてベティさんを先にカーテンの中へ入れた。真岡船長の船に乗っている少年甲板員の田所信夫が、ベッドの上からベティさんを見た。
「重傷ですか?」
ベティさんは看護婦に訊《き》いた。
「一週間で歩けるようになります。その後三週間の静養期間が必要です、このことを彼につたえてください」
彼女の説明する言葉をベティさんは少年にとりついだ。
「信夫ちゃん、喧嘩《けんか》やて? どないしたん、ええ?」
看護婦が立ち去るとベティさんはベッドの横に椅子を引き寄せて、少年の顔を覗《のぞ》きこむようにして話しかけた。
「ベティさん……」
少年は掠《かす》れた声で呼んだ。
「ナイフで刺されたって? 相手はだれ?」
少年の生気を失った青黒い顔が歪《ゆが》んで、白く渇いた唇が顫《ふる》えた。ベティさんは傷口にでも触れたように慌てて云った。
「かまへん、黙ってなさい、なにも考えんと睡りなさい、……痛いやろねえ、えらい重傷やったと聴いとるけど……」
「痺《しび》れてしもて、痛《いと》うない」
少年はそれだけいうと、ベティさんの顔から、真白の天井へ視線を逸《そ》らした。
船上で同僚と喧嘩して、深い傷を負い、出血多量で急遽《きゆうきよ》海上からヘリコプターで運ばれて来たこの少年に、ベティさんは一度だけ会っていた。
ある午後、ベティさんの家へ彼は真岡船長に連れられて来た。彼は甲板員の中でも最年少者の一人で、夜の酒宴に同行することは殆どなかった。
この日少年は、船長の命令にしたがって、海の男たちに人気のある椰子《やし》の実を切り落すために駆り出されたのであった。見上げるような椰子の、わずかに傾《かし》いだ、手がかりも足がかりもない幹を、少年は電柱に登る電気工夫のように、太い革ベルトで自分の腰を縛りつけ、手足を踏んばるようにして登りはじめた。炎天の下で椰子の樹は大きく撓垂《しなだ》れた葉を天辺にのせて、先細りに伸びきった姿で、庭の一角に三本立っている。少年の手と足が幹に吸いつくように、その柔軟に伸縮する半裸体を、ベティさんは階上の手摺から見ていた。
「信! その辺から手を伸ばしてひとつ切り落してみィ」
真岡が声をあげると、少年はジーパンのベルトに挟《はさ》んでいたナイフを抜きとって、片腕だけで幹に抱きついた。固い椰子の実は十個ほど、葉のつけ根にしっかり生《な》っている。背をまるめた少年の躰を、大きな葉陰が、太陽から守るようにゆらめいた。その縞目の洩れ陽のなかで、彼はひどくちいさく沈むように見えた。
彼の手にした尖《とが》った短いナイフが光って、ベティさんの視線を射した。少年は真岡の指図どおり、片方の肩を聳《そび》やかすようにしてナイフをつかっていた。やがてはじめの一個がすとんと草地に落下した。つづいて二つ三つと固い椰子の実は切り落されて、とんとん弾みをつけて転がった。一個落ちるごとに、真岡が慌てて拾い集める滑稽な様子に、ベティさんは声をあげて笑った。彼女が笑うと、真岡もベティさんを振り仰いで笑った。
もしマイクがこの場に居合せたらどうだろう、とベティさんはふと思った。彼がこの光景を見たらきっと厭《いや》な顔をするだろう。日本人の船員たちが、自分の庭で無遠慮に振舞っている――。子供たちが見たら、なぜ日本の男たちが、あの登りにくい椰子の樹に攀《よ》じ登ってまでも、ココナッツなど欲しがるのか不思議に思うだろう――。ベティさんは真岡と少年を眺めながら、自分の家族を思った。そしてふと頭を掠めた想念に彼女は愕然《がくぜん》とした。日本人親子のある昼下がりの和やかな光景がここにあるのだ。ここに居合せた三人の日本人がどうして家族ではないのだろう。
少年は、真岡の声でやっとナイフを腰におさめようとした。しかし片手が自由にならないため、ナイフはいきなり彼の手を放れて、一直線にきらめきながら垂直に宙を突切って椰子の根本の柔らかい土に刺さった。ベティさんは息を呑んだ。ナイフの恐ろしいほどのきらめきが光線のように走ったとき、彼女は底知れない不安に自身がきりきり捩《ね》じ込まれていくような息苦しさを知った。あんな高い所から、予告もなしに鋭利な刃物を落すなんて。あれは大地に突き刺さった、いかにも当然のことのように。何という怕《こわ》いことを平気な顔でやってのける子だろう。――少年はするする幹を辷《すべ》り下りるとナイフを拾った。
真岡にねぎらわれて、少年はすっかり手柄をたてた気分でもう一本の椰子に挑戦する気でいた。彼は肩を怒らせてナイフを腰のベルトに挟んだ。
「もう、やめときなさいよ」
ベティさんは声を張った。「上がって来てビールでも飲んでください」
真岡と少年は、椰子の実を一箇所に集めてしゃがみこんで、ひとつひとつの実を撫《な》でたり叩いたりしていた。
「またにしなさいよ、そのうちなんぼでも自分から落ちて来るんよ」
真岡が少年をしたがえて階段をあがって来た。ベティさんはその手足のよく伸びた、二男のジョンと同年ぐらいの少年甲板員にもビールを注いだ。彼がいかにも旨《うま》そうに喉《のど》を鳴らして飲み干すのを、ベティさんはじっと見守った。
真岡船長の船で事件が発生して、甲板員の一人が重傷を負ったというニュースを聴いたとき、ベティさんは咄嗟《とつさ》に田所信夫というあの少年を思った。椰子の樹の下で、彼が肩を怒らせてベルトにおさめた刃物のきらめきが、ベティさんの予感を煽《あお》りたてた。
この話をベティさんは、偶然マーケットで出合ったスミコという女から聴いた。彼女は二年前に観光旅行で日本国内を廻っていたオーストラリア人と結婚して、横浜からやって来た二十五、六の女だった。スミコは、日本人妻たちの間をまめに歩き廻り、誰にでもあけすけに自分のことを、ハマでズベっていたのだ、と吹聴していた。「外国人と結婚すれば外国で住めると思ったのよ、それがこんな田舎でしょう、来なきゃよかったわ。彼の職業だって大きな家具店の主人と聴かされてたのに、ただの家具職人なのよ、椅子やテーブルを造るんならまだ話もわかるけどさ、毎日なんの仕事してると思う? ベッドの運搬ばっかり。力が強いだけの男ね。あたしは完全に騙《だま》された女ってわけ、だってさあ、毎晩あたしが働いていたお店へ飲みに来て云ったのよ、スミコサン、キョレイ(綺麗)キョレイ、そりゃしつっこいのよ、あたしもだんだんその気になっちゃったのね……」
スミコは頬骨の高い肉づきのいい顔をした女で、騙された騙されたとふれ歩いては、けらけら笑うのだった。髪を脱色して、もともと色白なのかあまり陽焼けもしていなかった。
「ベティさん、知ってる?」
スミコは、マーケットでベティさんの腕を引っぱって、さも一大事というように声を潜めて云った。「真岡さんの船で大事件がおこったのよ、若い子が喧嘩したらしくて、一人が出血多量で死にかかってて、ヘリコプターが飛んだそうよ」
「どこへ?」
ベティさんは、スミコのつけ睫《まつげ》と濃いアイシャドウにくまどられた細い眼が、好奇心で輝いているのを見た。
「沖の方の島へ船をとりあえずつけて、ヘリでドクターを運んだのよ。その島には人間が一人も住んでいないって話よ」
「誰? その怪我人は」
「それがはっきりしないのよ、どうせ若い子でしょう、狭い船の男所帯でいらいらしてさ、喧嘩のひとつやふたつは毎日のことじゃないの?」
「スミコさん、誰に聴きました?」
「さっき、ガソリンスタンドのミサオさんのところへ寄ったのよ、旦那が留守で、彼女が店番してたわ、オイル入れたりフロントグラス拭いたり、あそこも大変ね、結構忙しいのよ、つぎつぎ車が入って来るの、それを一人で捌《さば》いてるのよ。使用人ぐらい置けばいいのに、あたしがそう云ってやったら、息子が大きくなったら役に立つだろうってさ。気の長い話ね、ベティさんとこのボビーぐらいじゃない? あそこの子。あたしはさっさと日本へ帰っちゃうの、子供が出来たらすぐ帰っちゃうの、養育費とってさ。だって日本へ連れて行けば混血児は人気あるんだもの。あら! あたしもいい加減気が長いわね、こんなところに住んでると、バカみたいに気が長くなるわ」
ベティさんはスミコの派手な笑い声と饒舌《じようぜつ》に耐えながら、彼女の車で家まで送ってもらった。
あの子だ、多分あの少年だ。ベティさんはそう呟《つぶや》きながら、真岡の船が所属する会社へ電話をかけた。女事務員の声がして、日本人の駐在員にかわった。その駐在員は一カ月前に着任したばかりの、独身の男であった。
「あ、ベティさんですか」
相手の声が日本人と知ると、彼は新任らしくほっとした声で云った。ベティさんは事件の内容を教えてもらいたい、と頼んだ。
「怪我人はヘリで戻って来ます。今みんなそのことで出はらっていて、ぼくはよく判らないのですが、船は明朝入港します。ヘリの方は今日中に着くはずです。怪我人の名前ですか? さあ、ぼくは聴いてないなあ……とにかく一命をとりとめたようですよ。ベティさん、このことは絶対に誰にも云わんでください。こっちの刑事事件になると厄介ですから。極秘です」
ベティさんは電話を切った後、しばらく考えこんだ。極秘もなにもあったものではない、もう噂《うわさ》は広まっているのだ。それにしても、あの若い駐在員はどうしたというのだろう。どうしてわたしが事件を知ったのか訊かなかった。それに、極秘だなどと声を潜ませたりした……。ベティさんは可笑《おか》しくなって一人でくすくす笑った。声を潜めなくても、日本語の解る社員などいないのに。ベティさんは一度だけ会ったことのある背の高いスポーツ刈りのその青年を想い浮べた。
ベティさんはそれから会社へ再度問い合せて許しを得てから、あの少年を見舞ったのであった。
あの子を家へ連れて来よう。ベティさんは病院の前でタクシーを待ちながらそう思った。あの子はどうしても家で面倒を見よう。一週間で退院したら、あとの三週間、あの少年はホテル住まいをすることになるのだ。会社もあの程度の負傷では本国へ帰したりはしないだろう。たった一人のホテル住まいで療養などできるわけがない。どうしてもわたしが預からなければいけない――。
退院の日、少年は松葉杖《まつばづえ》と一緒にあの新任の駐在員に連れられて、ベティさんの家へやって来た。
松葉杖を突いて車から降り立った少年を見て、ベティさんがおろおろすると、彼はわざと杖をぞんざいに扱って入口に無造作に立てかけた。そして傷を負った右の大腿部《だいたいぶ》を庇《かば》うようにして、大きく躰を傾けるとゆっくり室内に入った。少年が不自然な歩きかたをすると、妙に大きく男っぽくなって、あの椰子の樹にしがみついていた時とは別人のように見えた。
「三週間したら船が入って来るので、その時までお願いします。ドクターも三週間の休養で充分だと云ってますから」
若い駐在員の野田は、背が高いのでこの土地独特の半ズボンにハイソックススタイルがよく似合っていた。態度や口調に若々しい締りと張りがあって、いかにも熱心に仕事に打ちこんでいるように見うけられた。
汚れたナップザックをひとつ持った少年は、ジーパンにゴム草履で、髪が首筋まで伸びて、顔色の冴《さ》えない病みあがりの眼差しで黙りこんでいた。
「病院におる間に、色が白うなったねえ」
ベティさんが、彼の気分をほぐすように云うと、少年はちょっとはにかんで見せた。
「ベティさんが、随分きみのために会社とかけあったんだよ、前例のないことだし、前例を作るようなことになりはしないかと、本社の意見も訊いたりした。今回の場合はきみが未成年だということで特に民宿を認めたわけだ。こちらにご厄介になる方が、本人のためにいいだろう、というわけだよ。ベティさんお願いします。いずれ経費は会社の方から出すことになってます」
「経費? お金ですか? そんなものいりません、わたしが会社の規則を無視して勝手に云いだしたことですから、経費などいりませんよ。一セントだって困ります、そんなもの」
野田が帰ったあと、ベティさんは風通しのよいベランダのデッキチェアで躰を楽にするように少年にすすめた。彼は松葉杖を一本だけ使用して、ことこと音を立てながら、カーテンのひるがえる窓の外へ出た。
「ほんまによかったねえ、片脚切断にならずに。……痛む?」
「立ったり坐ったりするとき、ちょっと痛いだけや」
「そうか……」
ベティさんは少年の傍らに腰かけて、彼の顔をつくづく眺めた。
「なんで喧嘩になったん?」
少年は、重い口で手短かに語った。それは問われるたびに何度も繰り返した一部始終の話であった。
信夫より三つ年長で、日頃から彼の仕事にうるさく口出しする甲板員がいて、この日もちょっとしたことから、この男が信夫を口汚なく非難した。少年はいつも自分にばかり執拗《しつよう》に突っかかってくる男に、この時は思わずかっとして、相手に掴《つか》みかかろうとしたのを、たまたま通りかかった真岡船長に制された。その場はそれで収まったが、自分の就寝時間になって、船底の寝床にもぐりこんだとき、彼はその男に襲われたのだった。
ベティさんはこの加害者の男が本国へ、強制送還されるほどの大事件を起した動機が、あまりにも些細《ささい》なことなので、あらためて漁船員たちの閉じこめられた労働の場を思いやった。加害者の男は、日頃から協調性がなく、同僚の誰もが正面きって相手になることを避けていた、ということが、ベティさんの心をとらえた。
「真岡さんが、もし通りかからんで、信ちゃんを止めるひとが誰もおらなんだら、あんたがそのひとを刺してたかもしれん……ちがう?」
ベティさんは、少年に静かに話しかけた。
「そのひとは、信ちゃんが真岡さんに救《たす》けられたと思ったんや、そのことが、どう考えても口惜《くや》しゅうて、気持がなかなか静まらんかったんとちがうやろか。悪いのはそのひとかもしれんけど、はじめにかかって行ったのはあんたの方でしょう、……きっとそうや、はじめの動機だけやないと思うわ、ちょっとした口喧嘩が、いつの間にかそのひとの胸のうちで大問題に脹《ふく》らんでいったんよ」
ベティさんは、その男が刃物を握りしめて、船底への梯子《はしご》をおりて行ったときの、張りつめた怒りを考えた。彼は多分、いつまでも睡れずに、眼を光らせて自分の激情と戦っていたのだ。ベティさんは眼の前の無口な少年が、一人の人間を一時的にせよ狂気に追いやったのだという、ごく日常的な、人間同士の繋《つな》がりを恐ろしいと思った。
ベティさんは、少年のために、ボビーのベッドを与えて、ボビーを折りたたみ式のベッドに寝かせた。ジョンとボビーが同じ寝室にベッドを並べているので、ボビーをジェリーの寝室に移動させて、少年とジョンを同じ部屋で寝かすことにした。
兄弟のなかでは一番母親似で、黒い髪を流行《はや》りの長髪にした陽気なジョンは、ギターを弾きながら、ジョニー・キャッシュばりのだみ声で歌うのが得意であった。
食事は、朝と晩は家族と同じものにして、ベティさんと二人だけでとる昼食を日本食の献立にした。
ベティさんは、庭の一隅に家庭菜園を作っていた。船の男たちは、持ちこみ禁止の種を本国から隠し持って来ては、ベティさんにくれた。それは大根とか胡瓜《きゆうり》、茄子《なす》といった野菜類で、大根のようにまったく芽の出ないものもあったが、手をかけさえすれば、胡瓜や茄子は家族だけで食べるには充分過ぎるほどの実をつけた。
この土地では、胡瓜や茄子は、日本のとは別種なのかどれも五、六倍の大きさであった。
猛暑のつづく、ウェットシーズンのある日中、ベティさんは畑へ茄子をとりに行って、恐ろしい怪獣に出くわした。体長二メートルもある大《おお》蜥蜴《とかげ》が、畑に潜りこもうとしていたのだ。大蜥蜴のねらいは、堆肥《たいひ》に埋めこんである残飯だった。躰のわりにちいさく尖った頭部が、黒く盛りあがった畑の土を嗅《か》ぎまわっていた。みどりがかった茶褐色のそれは、ベティさんの叫び声で、叢《くさむら》へがさがさ逃げこもうとした。駆けつけたボビーが、昼食のジャムサンドを母にあずけると、手近な石をたてつづけにぶつけた。大蜥蜴が、すっかり姿を消すと、ボビーは、蒼《あお》ざめて立ち竦《すく》んでいる母に訊いた。
「マミー、あいつがなにかした?」
「どうもしないよ、ボビー」
ベティさんは、末息子に救われた思いですっかり感動して云った。
「あいつ魚の頭や骨を食べに来たんだよ。きっとまた来るよ、もう魚を埋めない方がいいよ、マミー」
ボビーは、母の手からジャムサンドをとると齧《かじ》りついた。この子を抱きしめたい――。彼のいかにも利かん気なもの言い、陽光のなかで輝いている茶色の見張った眼差しや長い睫。|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》から汗が流れて、白いスポーツシャツの背中が、びっしょり濡れている。
もし以前のわたしなら、このような体験からは我慢のならない恐怖しか残らないであろう。庭に出るたびに、あの怪獣がどこからともなく現われて、襲いかかってくるかもしれないという妄想《もうそう》にとりつかれたにちがいない。
ベティさんは成長した息子たちに、いつも庇護《ひご》されているのだという強い感動と一緒に、自分自身が、彼らの成長と逆行して、歳をとるにしたがい幼くちいさく気儘《きまま》に衰退していくような気がした。
少年は、日に日に傷痕《きずあと》の痛みもとれて、歩きかたも安定してきた。ベティさんは彼と息子たちが友達になることを望んでいた。しかし言葉の弊害のためか、彼らは食事中顔を合わせるぐらいで、ベティさんの思いどおりにはゆかなかった。彼女は夫や息子たちの不在の日中、少年と実に長い時間話しこんだ。少年の家庭や友達の話を、口数のすくない彼から聴きだした。
家族が揃う週末になると、ベティさんは、少年と家族のために気をつかった。マイクは、いつものように階上から息子たちが庭の手入れをするのを見ていた。
息子たちは枯れた枝を剪《き》ったり、夥《おびただ》しい落葉を集めて、石で囲んだ焼却炉で燃やした。燃やしても燃やしても、落葉は掻《か》き集めると毎週小山のようにたまった。ウェットシーズンがやってくるまで、庭の樹木はそうして根気よく葉を捨てつづけるのだった。
マイクは日本人の少年甲板員に特別の感情を抱いていないように振舞っていた。彼は朝、少年と食卓で顔を合わすと、「おはよう、ノブ」と云い、夜には「おやすみ、ノブ」と自分の方から英語で声をかけた。また時には、少年の躰の調子を訊くこともあった。ベティさんの家族で日本語を話せる者はいなかった。だから、少年が同居することによって、おのずと口数の多くなったベティさんは、夫や息子たちにとって、やはりどこか人間が変ったように見えた。ベティさんは、家の中をごそごそ動きながら、デッキチェアで長くなっている少年に、絶えず話しかけた。家族から見れば、そのぼそぼそ喋りつづける外国語は、ある時はひどく陰湿なものに聞え、ある場合には途方もなく愉しげに聞えた。
ボビーは食事中とか食後のアイスクリームやオレンジを食べているときなど、母が少年と喋りながら、その内容をなぜ自分たちに説明しないのだろうと思った。しかしベティさんにとってはごく日常的なたあいのない会話を、わざわざ家族のために云い変えるほどのことはないのだった。ところがベティさんの問いかけに、まったく無愛想な返答しかしない少年は、家族からは、無礼な態度しかとれない者として、彼らに反感の念を抱かせるようになった。彼らは、母と少年の会話に好奇心をまるで持たないかのように、勝手に雑談を交わして、食べ終るとすぐ席を立った。その後も、ベティさんはゆっくり煙草を吹かしながら少年と話しこんだ。
「信ちゃんは、もうすこうしはきはきせんといかんよ、そんなにむっつりしとったら、うちのおとうちゃんやジェリーたちも、取りつくしまがないやないの、足がようなったら、庭に出てキャッチボールしたり、近くのテニスコートへうちの子らと行って来なさい」
あの椰子の樹に登って、ナイフをきらめかせていたときの生きいきした少年とは、まるで別人のようであった。
ある昼食のとき、ボビーが不意に学校から帰って来た。彼は昼食のサンドイッチの包みを持ち帰ると、母と信夫と二人だけのテーブルにつきながら、なにを躊躇《ためら》ったのか、席を外して食卓から離れた。ベティさんはボビーのために、食事の支度をした。夕食用のソース漬にしてある鶏《とり》の股肉《ももにく》をフライパンで焼きながら、ボビーに手を洗ってテーブルにつくように云った。しかしボビーは母に纏《まつ》わりつくようにして台所から出て行こうとしなかった。ソースの焦る臭いと油の焼ける臭いが流れ、ボビーは長いフォークを使う母の手許《てもと》をじっと見ていた。肉が焼けると、皿を両手で持って母の前に突き出した。母はじりじり音を立てている熱い肉を皿にのせて、手際よくコーンのバター妙めを肉と一緒に盛った。
母の後から、皿を持ってやっと食卓についた息子の幼い嫉妬《しつと》にベティさんは気づいていた。自分の母と信夫がまぎれもない日本人である、ということを彼は、食卓の上に見たのだった。真白に炊きあがった米、味噌汁、インスタント豆腐の冷奴、魚の塩焼き、胡瓜もみ、野菜の漬け物。
母は、黙りこくったボビーにしきりに話しかけていた。モヤシという日本の野菜の作り方を、信夫に教えてもらったのだ、と云ってその説明をした。ボビーは母の顔を見ようとしなかった。皿のものを平らげると、弁当のサンドイッチをそのままにして、水を一杯飲んでとび出て行った。ベティさんは入口のドアが彼の出て行ったあといつまでもゆっくり開閉するのを振り返った。ボビーの残した、運動靴の白い靴跡がドアマットについているのを、ぼんやり見つめた。大人のように大きな靴跡であった。ドアのノブに手のとどかないよちよち歩きのボビーが、西陽のあたる台所の入口で泣き声をあげて自分を呼んだ姿をベティさんはそこに見ていた。
彼女は溜息をついて、冷えた麦茶を少年に注いだ。なんの前触れもなく、ベティさんにはこうした過去の断片が一瞬の映像になって、現実との空隙《くうげき》に飛びこんでくることが近頃になってしばしばあった。眩しい庭で蝗虫《いなご》を追い廻しているちいさなジェリー、樹の上で叫び声をあげている三人の子供たち、雨に濡れながら、二階のベランダを振り仰いで、何か大声で自分に話しかけているマイクの姿。どれも現在との繋がりを断ってしまって、その部分だけが連から外れたガラス玉のように多彩に光るのだった。
ベティさんは、自分の身近に出現した日本人の男たちや、自分とよく似た境遇の四、五人の女たちによって、それより以前の記憶が実に貴重な価値をもってこうして舞い戻ってくるのだと思った。彼女はその空隙の幻に瞬間酔うことができた。
少年は真岡の船が入港した日に、ベティさんの家を去った。
マイクも子供たちもいない昼下がり、若い駐在員の野田が迎えに来ると、少年はナップザックを提げて、のろのろ階段を下りた。
「どうだ、すっかりいいのかい?」
サングラスをかけた野田が少年に声をかけた。
ベティさんが駆け下りて来て、冷たいものでもいかがですかと彼に云った。今日は多忙でそうもしていられない、と野田は白い歯を見せてベティさんに笑いかけた。彼はますます陽焼けして頼もしく見えた。すっかりこの土地にも仕事にも馴染《なじ》み、いかにも自信に満ちて大きく見えた。それは、ベティさんが知っていた祖国の男たちとも、また漁船の男たちともどこか違ったタイプの男であった。彼はちいさなベティさんの前に立ちはだかるようにして封筒を差し出した。
「彼の食費プラス宿泊料です。会社の規定どおりでホテル並みの扱いです。ちょうど二十五日間になります、長いことお世話になりました」
ベティさんは驚いて彼を振り仰いだ。
「お金いうたって……困ります。とんでもないことです、いただけません」
「ぼくにそう云われても困りますよ。会社からです。彼のためにもベティさんにご厄介になってよかったと思っていますよ」
彼は少年を促して助手席に乗せると、立ちつくしているベティさんにもう一度礼を云って、車のドアを閉めた。ベティさんは窓から覗きこむようにして野田に礼を云った。それから少年を見て、
「ええな信ちゃん、もう二度と喧嘩したらいかんよ、わかってるな、それから何するときも、さっさとしいや、あんたみたいにぐずぐずしてたら事故おこして大怪我するよって……」
「ほら、ベティさんに礼ぐらい云えよ、しょがないなあ」
ベティさんは、自分の息子が注意されでもしたように、思わず顔を赤らめて苦笑した。
「また遊びに来てや」
彼女は車がバックして道路に出たとき、野田に向ってもう一度お辞儀をした。あの子は一人前の船乗りになれるだろうか。ベティさんは最後まで自分の家族と馴染めなかった少年甲板員のことを思った。
封筒の中身は、二百ドルだった。十枚の二十ドル紙幣を手にして、ベティさんは複雑な思いに駆られた。これでわたしの楽しみも終ってしまった。日本船員の看病をするという、せっかく見つけた楽しみを、わたしは二度と経験することはできないだろう。どうしてお金を受け取ってしまったのか。その金額はマイクの二週間分の収入にちかかった。勿論《もちろん》彼女にとって自分で得たはじめての大金だった。
その夜マイクは機嫌がよかった。息子たちも、ベティさんの思惑を吹き飛ばすように、「マミーもたいしたものだね」と母親をいっぱしの手腕家のように評価した。家族にとっても思いがけない収入であった。彼らは、母親の同胞相手の道楽が、立派な仕事にもなるのだということに、今となっては見直すありさまだった。人手不足の土地柄で、育児から解放された主婦は、外へ出て働くのが常識にさえなっているのに、ベティさんにはそのような経験がまったくなかった。
あんなことはわたしの仕事ではない。わたしがあの子を無理やりここへ連れて来たのだ。ホテルの方がずっと気楽だったかもしれないではないか。家族とは打ちとけず、日本的な食事といっても、わたしが考えているほど若い彼には大した意味を持っていなかった。今度のことはわたしの身勝手から行なったことだ。ベティさんは自身を決めつけた。もう二度と病人の世話を申し出ることはできない。
夫や息子たちに自分の気持をどう説明しても解ってもらえないであろう、とベティさんは思った。彼女はそして、彼ら日本人との繋がりを必死になって求めている自分自身をまざまざと見たのだった。すると何故か、ひやりとした虚《むな》しさに突きあたった。家族の中にいて、家族に囲まれていてどうしてこんな気持になるのか。夫や三人の息子がいて、それ以上にわたしは何を求めようとしているのか……。
ジョンが薪を運んで、ジェリーが火をおこした。庭はすでに暗くなって、階上の窓から洩れる電燈の明りと、庭にコードを引いてぶら下げた豆電気で、ひとの顔がやっと見えるぐらいであった。
レンガを四角に積み重ねた上に鉄板をのせて、その上で肉を焼く仕組みだが、ジェリーの燃やす火が、やっと鉄板よりも高く舞いあがった。ベティさんは、冷蔵庫から出したばかりの、ラードのように白く凍結しているオリーブ油を、まるめたペーパータオルにこすりつけて、鉄板を拭いた。地面から鉄板がいくらも離れていないので、ベティさんは上体をその上に倒すようにして威勢よく手を動かした。全身が熱でほてり、足許に火がつきそうになった。
豆電気のコードが交差している下に大テーブルが持ち出され、飲みものの用意がしてあって日本製の割り箸《ばし》が添えてあった。熱い鉄板を丁寧に油で拭ってから、ベティさんは、すこし火加減を落すようにジェリーに云い置いて、大皿に盛ってある下拵《したごしら》えの肉を運ぶために台所と庭の間を行ったり来たりした。ベティさんが長年にわたって習得したマトンやラムの味をひきたてるためのソース漬けが前日から用意されてあった。
マイクの車が帰って来たのに気づいてベティさんは急ぎ足で庭先に出て行った。無表情というより、むっつりしたマイクの白い顔が見えた。車からおりたのはマイクの他に真岡ともう一人別の船の船長だった。
「どないしたん? 他のひとは……」
その場の雰囲気《ふんいき》にどことなく気《き》不味《まず》いものを感じて、ベティさんは夫の顔色を盗み見ながら真岡に訊いた。
「もうちょっとで、マイクさんに放り出されるところやった」
真岡が云った。
ベティさんは、車をガレージに入れてさっさと階上へ行こうとしているマイクを見ながら、声を潜めて云った。
「みんなどないしたん?」
「マイクさんの機嫌をそこねたんや」
港へ迎えに来たマイクの車に、予定通りの五人の男たちが乗りこんだのだが、車が道路へさしかかったとき、水夫長《ボースン》が、あるジャパニーズワイフの家へ寄って欲しいとマイクに片言で頼んだ。水夫長はその女に魚を持って行くつもりであった。するとマイクは、いきなり声を荒げて云い返した。自分はタクシーではない。彼は車を停めるとすぐにおりてくれ、と命令するように云った。大きなビニール袋の魚を提げた男とあとの二人を、小暗い道路端に置き去りにして車は走り出した。
「そう……うちのおとうちゃん、なんで憤《おこ》りはったんやろ、そんなことで……」
ベティさんはすっかり暗い気分になって、庭先で男たちと向き合っていた。
「とにかく、えらいむっつりしてたよ、ずううっと」
「いつもより、むっつり?」
「この前のときは機嫌よかったけんど、今日はやっぱり腹立てたんや」
「ふうん……後のひとら来るやろか」
ベティさんは、真岡たちと一緒に亭主に気をつかっている自分の気持をどう整理すればいいのか解らなくって、先刻まで燃えていた火に水をかけられたような思いであった。
テーブルには、二人の男が並んだだけで、自分の支度がすべて虚しいものに変り果てたようで、ベティさんは溜息をついてマイクの部屋を見上げた。
ジェリーが肉を焼きはじめていた。ときおり炎が鉄板の上にのしあがって来て、彼の顔までもとどいた。
真岡がしきりにマイクのことを気にかけて、ベティさんに階上《うえ》へ上がって行った方がいいのではないかと促すように云った。ベティさんはそれには応えず、彼らにビールを注いで、自分も大きなジョッキーからぐいぐい飲んだ。
「すこし酔うてからにするわ。気がちいさいんよ、あのひと。悪気はないんやけど、なんとのう虫のいどころが悪かったんや、わかってる、わかってる」
両船長は、それでも気不味《きまず》さをベティさんに気取らせまいと、日頃の調子で蛮声をあげて喋りだした。ベティさんは、ジェリーに呼ばれて肉の焼け具合を見に時たま立つだけで、あとは椅子の上にべったり坐りこんで、ビールを飲みつづけた。
一時間ほど経っても後の連中が来る気配はなく、大きなテーブルいっぱいに並んだ、野菜サラダや冷肉の盛りあわせや、鶏の唐揚げや、ベティさん手づくりのデザートの沢山のカップケーキが、夜空の下で飾り物のように置かれてあった。ベティさんは、声をあげてボビーを呼ぶと、レコードをかけるように言いつけた。
「ぼくはボビーではないんですが、いいでしょうか、ミセス・カーファン」
兄弟の中で一番|剽軽者《ひようきんもの》のジョンが階上のベランダから調子づいた声で云った。息子たちは母のパーティ用のレコードをすべて心得ていて、はじめにかけるのは最新版の日本軍歌であった。ベティさんの注文で船の男たちが本国から持ち寄ったレコードがかなりあった。
庭の適当なサイドに二台のスピーカーをセットしてあるので、軍歌はすぐ足許から鳴り響いた。ベティさんは、曲に耳を傾けて満足らしく小声で歌った。軍歌は何度聴いても、ベティさんの記憶の底の感傷的な感覚を呼び醒《さ》ました。体内に軍歌独特のリズムが潜りこんで、その快感の懐かしさを、ベティさんはいつもあらたに知ることができた。
「……うちはねえ、だんだん酒乱になるんや」
テーブルに頬杖をついて、ベティさんは二人の男の間から暗い庭の一角を凝視《みつ》めた。
隣家の窓にオレンジ色の灯がついて、カーテンが風にふくらんでいた。天井で廻るファンがその隙間からちらちら見えた。隣家は、アボリジンの混血一家で、アボリジンの老人は「芸術家」ということで、木の皮に泥絵の具で昔ながらの魚や亀の非常に稚拙《ちせつ》な絵を描いては売り物にしていた。皮が一メートル四方にもなると、二十ドルぐらいの値がついた。真白のもじゃもじゃの髪をした老人は痩《や》せこけて黒光りのする裸体にパンツ一枚で階下の小屋に終日坐りこんで仕事をしていた。仕事というよりもそれは、老人の生きている証明のようであった。極度に窪《くぼ》んだ彼の眼に、偶《たま》に出合うことがあると、ベティさんは、その意味を伺い知ることのできない視線が恐ろしくて慌てて眼を逸らした。この家の主人で、アボリジンの混血である老人の息子は公園で売店《キオスク》を開いていた。彼の女房も黒人だがアボリジンとはまったく別の顔立ちをしていた。彼らには五人の幼い子供がいて、彼らはパンツ一枚で終日庭を駆け廻っていた。ベティさんには黒い子供たち一人一人の見分けがまるでつかなかった。
この世の中にはいろんな家族が生きているのだ。ベティさんはこのように庭のテーブルで酔い心地になっては、いつも他家の灯を見ながら同じことを思うのだった。ギリシャ人のプリティ家は、今では六人目の女の子が大きくなって、おかみさんはまた大きなおなかをしている。あの夫婦は男の子が産れるまで一ダースでも二ダースでも増やすつもりでいるのだ。……わたしがこんな騒ぎをはじめるようになってもう三年か四年になる。船のひとたちと酔って騒ぐことがわたしの唯一の楽しみになった。それをマイクが今日のように道路に半分以上のひとを捨てて来るなんて……。わたしの楽しみを解っていながら、彼はそれを奪いとった。ベティさんは酔眼で二人の男を挑むように見た。男たちは、今夜はどうにも調子が出ないというように、たがいの仕事についてぼそぼそ話しあっていた。
「今夜は、おくさんに電話せえへんの?」
「そうやなあ……」
真岡が決めかねて云った。
月に一度入港するたびに、彼は北九州の家族のもとへ電話をかけることにしていた。いつもベティさんの家から彼女に手伝ってもらって呼び出すのだった。
「おくさんが心配しはるわ、毎月かけることに決めてあるのに、さあさ、うちがかけてあげる」
ベティさんは真岡の腕をとって立ち上がると、彼に助けられて庭を歩き、階段を上がった。台所と居間の境に暖簾《のれん》がかけてあって、西陽のあたる台所の入口には竹製の簾《すだれ》がかけてあった。いずれも真岡からのもらい物であった。
電話機の載せてあるサイドテーブルの前で、ベティさんは床にぺったり坐りこんでハンカチーフを胸許から抜きとって額の汗を拭った。そしておもむろに受話器をとって国際電話を申しこんだ。海を越えた遥《はる》かな場所に、真岡の家があって、そこに彼の妻や子供たちが住んでいるのだ。ベティさんはふとその家庭の茶の間の片隅にある黒い電話機を想った。遠くで聴き憶えのある反応が起りかけた瞬間、ベティさんは慌てて受話器を真岡におしつけた。
台所の椅子にかけて、ベティさんは冷たい水を飲みながらマイクのところへ行ってみるべきかどうか思案した。
「あ! ヨシエか?」
だしぬけに真岡の大声が彼の妻の名を呼んだ。ベティさんは咄嗟《とつさ》にその場を外すため腰を浮かせた。しかしその神経に反して躰が重い砂袋のように居坐ってしまった。いつもなら呼び出しをすますと、賑《にぎ》わしい庭へ駆けおりて行くのに、今夜の彼女はまるで骨を抜かれたもののようで、耳ばかりが生きものになって、真岡の性急な話しぶりを聴こうとしていた。遠方に話しかける彼の大声は、相手に縋《すが》りつく叫びのようであった。家族の安否を尋ね、老いた母の病状を訊き、相手の言葉に熱心に応え、笑い声を上げた。子供たちにもっと手紙を書かせて欲しいとか、あと三カ月したら帰れそうだとか。
電話が切れるまでに、ベティさんはふと自分をとりもどし、急に酔いが醒めていくような気がした。
「おくさんお元気でした?」
真岡はテーブルの上に電話料金の十ドル紙幣を一枚置いた。
「ばあさんが、ずうっとねたきりで、女房もよわっとる」
「真岡さんのおかあさん?」
「いいや、女房の方や」
「ほんならちっとも困ることないやないの、自分のおかあさんやったらしゃないやないの、一緒に住んではるの?」
真岡に冷たい水を注いで、二人は台所のテーブルに向き合って低い声で話した。
「もうお子さんは大きいんやろ」
「下のが高校で、上二人が大学生や」
「ふうん、おくさんいくつぐらいのおひと? わたしぐらい?」
「それが、ベティさんの歳ほどわからんもんはない、わしらの間の謎《なぞ》になっとる」
真岡の親しみをこめたやさしい眼がベティさんを見て笑った。
「ほんなこというて、わからんはずないでしょう、終戦後じきにマイクと結婚したんやもん……そやけど、うちはこの国へ来たときから、歳をとらんようになってしもた。なんやしらんけど、子供と同じになってしもうて……気持が成長せんの……」
「子供が大きいわりに若う見えるし、……ほうやなあ、だいたい見当はつくわな」
「真岡さんのおくさんと同じぐらいでしょう、きっとそうや」
「わしもそない思うとる、家内にも、ベティさんはおまえぐらいのひとと、いうてある」
「へえ、うちのことおくさんにいうてあるの?」
「いうて悪いか?」
真岡が愉しそうに笑ってベティさんを凝視めた。
「今までいろんなもの日本から持って来てくれはったけど、おくさんはそのこと知ってはるの?」
「そうや、女性のもんはわしにはわからん」
「そう……」
ベティさんは瞼《まぶた》を伏せてテーブルの一点を見据えた。すると彼女は急に暗い表情になった。
「おくさんに、わたしのことどないにいうてあるの? 可哀想な戦争花嫁やいうて……」
「ベティさん」
真岡は、酔って項垂《うなだ》れているようなベティさんの肩に思わずやりかけた手をすっと引いた。
「ベティさん、思いすごしや、なんで可哀想なんや。ベティさんが自分で……」
と、彼女はいきなり顔をあげて叫ぶように云った。
「ベティさんベティさん云わんといてください。うちはユウコいう名前があるんや、柚子《ゆず》と書いてユウコという名や。わたしはユウコです、ベティさんやない!」
彼女の剣幕に真岡は顔色をかえて腰を浮かした。しかしベティさんが両手に顔を埋めて肩を顫わせて泣きだすと、なんと声をかけていいのかうろたえながらも、彼女の少女っぽい泣きぶりに気をとられた。
「真岡さんがおくさんと二人で、わたしのことをベティさん、ベティさんいうて話しよるかと思うと、情けない気ィがする。今度からはユウコさんいうてください」
ベティさんはふっと顔を上げて、真岡を見た。
「ほれ、よういわんでしょう……ベティさんならおくさんに云えるでしょう、ユウコいうて日本の名前だしたら、おくさん心配しはるわ」
ベティさんは泪の頬を光らせて声をあげて笑いはじめた。
「ベティさん、やめとき」
真岡が声を押し殺して云った。「ボビーが見よるで」
そのとき真岡の場所から、レコードの番をしている少年の姿が見えた。彼は、ソファの上に起きあがって、じっと台所の二人の様子を見ていた。
「かまへん、あの子は日本語解らんのやもん」
ベティさんは鼻をつまらせて云った。
「解らんから、なお困るやないか」
真岡の強い口調が腹の底にびんと響いてベティさんは驚いて彼を見た。それからふらりと立ちあがると、ボビーを振り返って、レコードはもういいからベッドに行きなさい、と命じるように云った。ボビーは母から視線を逸らすと、ふてくされたような横顔を見せた。
「あの子は、ほんまに天使みたいや、あの子の顔見てると、なんや自分の子やないような気ィがしてくるの。この前ボビーがこないいうんよ、マミーに似てぼくは背が低いんやいうて……一番底の厚いスポーツシューズ履いて学校へ行くの。クラスで一番のちびやと」
ベティさんは、幼い息子の気持を思いやる母親としての気力がすでに麻痺《まひ》したかのように、ぶつぶつ喋りながら、台所のドアを開けて外へ出た。
そのとき一台の車が庭に入って来て、ライトのなかに、吹き抜けのガレージや物置きが浮びあがった。
「どうも、どうも、遅うなって」
すでに酒の入っている男の声がして、四、五人が車から這い出るようにして小暗い庭に降り立った。マイクに道端で降ろされた連中が、駐在員の野田の車でやって来たのだった。
「野田さん!」
ベティさんははじめて親しみをこめて、彼の名を呼んだ。その声がいやに調子づいていたので、男たちはほっとしたように彼女をとり囲んだ。
「ほんまによう連れて来てくれました。もうお開きにしようと思うてましたんよ」
ベティさんは野田に向って云った。
「それはひどいやないか、まだまだ飲み足らんぞ」
真岡が調子を合わせるように云った。
「そやかて、両船長だけやと、なんや気勢があがらんで、ちっともはずまんのやもん」
「マイクさんを憤らせてしもうて」
小男の水夫長が言い訳がましく云った。
「さあさ、テーブルについてください」
テーブルがひとの顔で囲まれると、ベティさんは満足したように、急に若やいだ表情になって、野田に向ってあらためて頭を下げてこの前の礼をのべた。野田は、いやいや自分はただの使い走りですよ、と云った。今夜も、酒場《パブ》で飲んでいた連中から電話で呼び出されて彼らを運んで来たのだが、自分も同席してかまわないだろうか、と快活に云った。ベティさんは、嬉しそうに笑った。
「なにをいうてはります、大歓迎ですよ」
彼女は、一人で飲みあきて居睡りをしていた先客の船長を見てさも可笑しそうに声をあげて、彼の肩を揺すった。
「起きなさいや、船長さん。パーティはこれからやのに」
野田はこの家の主人がいないのを気にしてか、腰が落着かない様子でベティさんに云った。
「マイクさんに叱られたとかなんとか云ってたけどいいのかなあ、勝手に騒いじゃって……」
「かまいません、かまいません、じきに出て来ますよって」
ベティさんの家での集りに会社の人間が参加したことはこれまでに一度もなかった、いってみればベティさんの家は海の男たちの縄張りであった。ベティさんは、思いがけず野田という好青年が自分の酒宴に現われたことで異常なほど気持が弾んだ。
船員たちのように半ズボンから出た曲った足にゴム草履などひっかけた寛《くつろ》いだ恰好とちがって、野田はきちんとした通勤時の服装のせいか、彼らが持参した一升|壜《びん》から冷や酒を注いで、早いピッチで飲んでいるのに、彼だけはすこしも態度が崩れないのを、ベティさんは珍しいものを見るように眺めた。
レコードの軍歌が、いつか日本童謡にかわっていた。いつの間に出て来たのか、マイクが、席を立った野田と握手をしているのにベティさんは気づいた。白い顔の背の高いマイクが、この上なく立派な体格の日本青年と言葉を交わしていた。マイクは、彼がちょっと砕けた集りに好んで着用する茶や赤や緑のチェック柄のシャツに着替えて、野田と同じようにハイソックスに靴を履いているのを見た。マイクは野田に敬意を表わしに出て来たのだ、あのお金のせいだ。ベティさんは、いつも自分の庭を裸足《はだし》で歩きまわる彼が、開襟《かいきん》シャツにゴム草履の海の男たちの集りには、かならず固苦しい役所スタイルで現われることが好きではなかった。しかし身なりを整えて出て来た今夜のマイクは、野田がいるためにいつもほど不自然ではなかった。マイクは野田の手から日本酒を注がれて、旨そうに飲みながら、いかにも彼らしいもの静かな笑みを浮べて、野田と喋っていた。
「あの恰好ええ男のひとは誰やろ」
ベティさんは眼を細めて連中に云った。
「誰やわからんの、ベティさん。ベティさんの旦那さんやないか」
もつれた舌で誰かが云った。
「ちがう、マイクさんと別のひとよ」
「あ、あの男は唯一人の独り者や」
わめくように声がして笑い声が起った。マイクと話しこんでいた野田が、どよめきに気づいて振り向いて、その訳を知ると、すかさずベティさんに云った。
「ぼくのようなサラリーマンは安月給でなかなか結婚できないんですよ。ところが船の人たちは、若いひとでもえらく高給とりでしょう、ぼくらを尻目に早くから嫁さんとってたいしたものですよ、ここにいるひとたちはもう大抵、孫ぐらいいますよ」
それはひどい、オーバーだぞと男たちから声があがってまたどよめいた。
野田は自分が喋ったことを素早くマイクに繰り返した。ベティさんは、夫がやっと話の通じる日本人に巡り合えたとでもいうような、満足げな様子で野田を掴まえて放さないでいるのを、遠くぼやけた意識のなかからじっと見ていた。
そのうちベティさんは、自分の躰が底なし沼にどこまでも滑り落ちて行くような感覚を知った。自分の周囲でひどい騒ぎが突発した。と思うと顔や腕が冷たい水滴に打たれた。雨だ、ひどい雨だ、やれやれ……と思ったとき、ベティさんの躰は、すいと宙へすくいあげられた。マイクがわたしを抱いてどこかへ連れて行くのだ。わたしを彼らからひき離して、どこか遠くへ運ぼうとしている。
ベッドに放り出されたとき、ベティさんは睡気を払いのけるようにしてやっと眼を開けた。マイクの長い顔が赤味を帯びた繭のように伸びてこっちを見ている。やはりマイクに連れもどされてしまった。睡気が疲労のように、彼女の全身を苛酷《かこく》につつんだ。
客のいなくなった庭に、食べ散らかったテーブル、ビールのジョッキー、ガラスの大皿、サラダボール、大小のグラス、それらに降りしきる雨が、どこか遠方の見知らぬ場所のちいさな出来事のように、ベティさんの脳裏を掠めた。
真白の鸚鵡《おうむ》の大群が、すぐ眼の前を舞いあがって、宙を大きく旋回すると、沼のように鈍く光っている草林の彼方《かなた》に消えた。
「マミーごらん! ワラビーが逃げて行く」
ボビーが叫ぶように云った。茶色のカンガルーとまったく見分けのつかない獣がジャンプしながら木立の奥に逃げて行く。
わたしがこの国へ来たときには庭にもカンガルーがやって来たものだ。カンガルーはいつも小振りだったから、あれはワラビーだったのかもしれない。ベティさんはジェリーの運転する横でひどい虚脱感に思うさま身をまかせていた。見渡すかぎり人影のない草林は、新年になったばかりのウェットシーズンのことでみどりが黒ずむほどに重なって生い茂り、車の速度がおちて風が走らなくなると車内はオーブンのように熱くなった。
「マミー、どうする? もっと奥へ行ってみる?」
ジェリーが、草におおわれたタイヤの跡をのろのろ進ませながら、母の顔を見た。
「行ってみようよ、もっと奥にバッファローがいるよ、行こうよ、行こうよ」
後ろから、ジェリーと母の間に顔を出してボビーがせがんだ。
「もっと、もっと走って、ジェリー」
ベティさんは低い抑揚のない口調で、ぼんやり前方を見ながら云った。なにかに耐えるような母の苦しげな顔色をジェリーは見遁していなかった。
「どこまで走っても同じブッシュだよ、道も草で狭くなってるし、そろそろハイウェイに出た方がいい」
ジェリーはボビーをちらっと振り返って、
「マミーも疲れてるし」
と年長らしく弟を納得させようとした。ベティさんは、わたしのことなら大丈夫だと呟くように息子たちに云った。
車窓から丈高く茂った草や枝が遠慮なく侵入してくる。
「ジョンが心配してるよ、この暑さに空港の帰りにこんなドライブしてるなんて……」
ベティさんは同乗していないもう一人の息子のことを思った。そうだ、あの子は芝刈りのアルバイトに出かけたが、もうとっくに帰っている頃だ。
車は両側の草木のざわめきを引き摺りながら走った。野鳥が飛び交い、蝶が無数に舞っている。
「クッカバラだ!」
ボビーが叫ぶ。
巨木の枝に笑い鳥と呼ばれる頭の潰《つぶ》れたような嘴《くちばし》の大きく尖ったカラスよりすこし小振りの茶色の鳥が、びっしり止っている。その数の多いのに呆《あき》れて、ジェリーも車を止めると窓から身をのり出して振り仰いだ。
「そうかなあ、クッカバラかなあ、ちょっとちがうようだよ」
「そうだよ、クッカバラだよ」
ボビーが自信を持っていう。
「ちょっと笑ってくれると分るんだけどなあ」
ジェリーの冗談めかしたもの云いが、母の気持をひき立てようとしていることにベティさんは気づいていた。
樹も草も鳥も風も空も、みんなみんな、わたしのものではない。どこを見廻してもわたしの肌にぴったり寄りそってくるものはない。ここはわたしの国ではない。この土地のすべてをわたしは許容したくない。できない……。なんという冷淡な自然の姿かしら。人間と自然がたがいに背きあっているようだ。ベティさんは遠い国を想った。陽光の柔らかさ、風のことば、樹木のやさしさ……浜辺に絵模様のように打ちあげられる海藻の匂い、山《やま》躑躅《つつじ》を摘みとるとき指先に粘りつくあの感触、庭の白椿、山茶花《さざんか》、梔子《くちなし》、あの白い花ばな、光る果実、遠い畔道《あぜみち》……。自然はいつも人間の生活をすっぽりつつんでいるようだった。だから時とすると両方が侵しあうこともある。自然が突如人間の命をのみこみ、ひとは自然を踏みにじる。……でもこの土地はなんというよそよそしさだろう。宏大な原始が人間の生活を寄せつけようとしない。
太陽に燃える草林風景が、ベティさんの眼には陰翳《いんえい》に沈む索莫とした原野に見えた。
自動車がハイウェイに出たとき、ベティさんはある衝撃に身顫いした。舗装された白い長い道路を、自動車がつぎつぎに走り去った。マイクはあの女と飛行機に乗っている――。あの女の背に腕をまわして、マイクはタラップをのぼって行った。
めずらしくマイクは役所の仕事でメルボルンへ発った。週末をはさんで一週間の予定であった。ベティさんは思った。あれは出張ではないかもしれない。彼は自分だけの休暇をとったのだ。車を家まで運ぶようにマイクはジェリーに命じた。
夫と息子が一緒に乗りこんだとき、ベティさんは階段を駆け下りて動きかけた車にとび乗り、ボビーも母につづいた。ベティさんはたとえ一週間でも家を明ける夫を見送ることは、やはり妻としての役どころに思えた。ボビーは、空港へ飛行機を見物に行くことにはしゃいでいた。ベティさんはマイクの背後に坐った。あのときマイクははっきりわたしを拒絶していたのだ。真白のワイシャツを着て、真直ぐに伸びたマイクの幅の広い大きな背中は、彼女の鼻先で壁のように押し黙っていた。
空港ロビーに入ると、腕にかけていた背広をきちんと着た夫は、すっかり旅装をととのえた着こなしのいい紳士然としてロビーをゆっくり歩いて行った。ベティさんは、ジェリーが車を駐車場へ入れるのを見とどけてから、ひと足遅れてロビーに入った。
搭乗手続きをすませたマイクが、他の乗客たちに混って落着きはらった鷹揚《おうよう》な足どりで、一人の女に近づくのをベティさんは見たのだった。
背の高い女は振り返ると親しみをこめた笑顔で彼を迎えた。女はレモン・イエローのパンタロンスーツを着て、赤い髪を肩先で軽くカールし、つりあがった派手なフレームの眼鏡をかけていた。ベティさんは、夫が顔見知りの女に偶然出合ったのだろうと思いながら、彼らの方へ歩み寄った。二人はしかし、たがいに一瞬見つめあっただけで、別に言葉を交わすでもなく、女はマイクに促されて空いた席に腰をおろすと、もの云いたげな視線で彼を見あげた。それはいかにもあらかじめ約束のあった連れと落ち合うことができてほっとした面持ちであった。マイクは自分のビジネスバッグを彼女の横へ置いて、急に気づきでもしたように、振り向いて妻の視線を捉えた。ベティさんは、仮面のような自分の笑顔をさぞ醜いにちがいないと思いながら、夫の脇へ黙って立った。
「こちらあたらしい秘書の、ミス・リース」
マイクがそう云って女をひき合せた。ミス・リースはうろたえたように立ち上がって、ベティさんを見下ろした。透きとおるような白い顔に、スプレーで吹きつけたような雀斑《そばかす》が散っていた。彼女は早口で何か云ったが、ベティさんには聴きとれなかった。女の片方の手首には不自然なぐらい沢山の腕輪《バングル》がはめてあった。その金属の輪は、女が手を動かすたびに、実に重たげにしかもものものしくきらめいた。ベティさんは、女にどうぞおかけください、と小声で云った。彼女はマイクの妻のために空席がないかと周囲を見まわしてから、腰を下ろした。マイクは、何度も腕時計を見ては、天井から下がっている大時計を見上げていた。ベティさんはそのいつもと変らない寡黙な夫のために、その場に蹲《うずくま》りたいほどの忍耐と戦っていた。自分の陽焼けした真黒の顔が、躰が、羞恥《しゆうち》と屈辱のために、今にもばらばらに砕けそうであった。女は長い両脚をきちんと揃えて、その白い靴の先にじっと視線をおとしていた。彼女の痩せて尖った顔は美しくなかった。眼鏡の下のみどりのアイシャドウを塗った瞼と、ひき結んだちいさすぎる唇と長い顎が、ベティさんの眼の下にあった。赤毛は無惨なほど艶がなかった。女の膝の上の白いハンドバッグにのせている大きな骨ばった手に若さはなかった。爪には白いパールのエナメルが塗ってあり、リングは左の薬指のフレンドシップだけであった。ベティさんの視線がゆっくりそれらを捉えて落着きをとりもどすと一緒に、マイクの平然とした思いやりの欠ける態度への憤りで胸がいっぱいになった。ベティさんは息子たちの姿を捜すような素振りで周囲を見まわした。蒼《あお》い空間の広がるガラス張りに、顔を押しつけるようにして飛行機を眺めている二人の息子を見つけると、マイクのとり澄ました顔をちらっと振り仰いでから、黙ってその場を離れた。アナウンスと同時にざわめき動くひとの群を、逆方向に突き抜けながら、ベティさんの頭のなかには、果てしない草林がなだれこんだ。草林が海に変り、海は空に変って、また草林が広がった。ベティさんはそうして襲ってくる眩暈《めまい》に支えられているかのように歩いた。
炎天の下に放置された自動車は焼けた鉄であった。ベティさんはその地獄のような熱い場所へ身を投げるように倒れこんだ。何台もの車越しに、さまざまに彩色をほどこしたセスナ機が玩具《おもちや》のように並んでいるのが見えた。その向うにTAAのマークをつけた国内機の尾翼が見えた。
マイクが彼女とタラップをのぼって行く。――二人はやっと気まずさから解放されて、親密に言葉を交わしているのだ。
飛行機の爆音がすっかり消えるのを、ベティさんは辛抱強く待った。爆音が尾を引いて空に消え去ったあと、ベティさんはふと暑い草林にたった一人で放り出されたような錯覚に捉われた。マイクは行ってしまった――。
「マミー、見送らなかったの? ガールフレンドが一緒だったよ」
ボビーが車に乗りこんで云った。
ジェリーは、焼けたシートに触れて、熱い! ととび上がった。ベティさんはビーチタオルを敷いてやりながら、こともなげに云った。
「ミス・リースはマイクのあたらしい秘書らしいよ」
「もっと若いブロンドの美人にすればいいのに、あれじゃ連れて歩いたって恰好つかないよ」
息子たちは男の子らしく父親の連れを愚弄《ぐろう》した。
「ミスター・カーファンにはぴったりだよ」
ベティさんは低い声でそう云ってから、ジェリーの驚いた視線にぶつかった。彼女は、なんでもないよ、というように笑顔を見せてから、煙草をとり出した。
黙りこくってハンドルを握っている息子に、ベティさんはおもねるように、彼の運転の腕を褒め、ジェリーもそろそろ自動車を買うといいね、と云った。息子は、マミーの旅費の方が先だよ、と不機嫌に応えた。
ボビーの希望で車は家に向わずに、草林地帯のハイウェイを六十マイルから八十マイルのスピードで走った。母はそれを一向に咎《とが》めなかった。母親とこの大きな息子はそのスピードのために、たがいの無言が成立しているような思いであった。
「バッファローが燃えてる!」
ボビーが叫んだ。
前方のハイウェイの脇で、大きな黒いかたまりから煙が立ちのぼっているのが見えた。車がスピードをおとしてそこを通り過ぎるとき、ベティさんははっきりそれを直視した。黒いかたまりは、蹲った姿勢の野牛であった。野牛は道端で荼毘《だび》に付されているのだった。多分交通事故で死んだのであろう。それはすでに燃え殻になって煙が薄く流れ外形が危うく崩れ落ちる寸前のようであった。あの野牛はなんて静かに燃えてしまったのだろう……。
ベティさんは自分の内部が、通過する窓外の風景に恐ろしいまでに反映している事実を知った。
突然、野馬が一頭、前方に躍り出た。馬は眼を剥いて身を翻すと草林に遁れた。ジェリーが蒼ざめ、ボビーが興奮して叫び、ベティさんは声を呑んで逃げて行く馬に視線を投げた。
「またカンガルーが轢《ひ》かれてる!」
道路脇で潰れている茶色の獣を、先へ先へと発見して、そのたびにボビーが声をあげた。
ハイウェイを外れて草林へ入ってから、ジェリーはスピードをおとした。――子供たちがわたしをどこかへ連れて行ってくれる。ベティさんは激しい疲労感のなかで、ときおり意識が遠くなるのを覚えた。
ボビーの甲高い声に目覚めて、白い鸚鵡の大群を見た。フロントグラスに羽を広げて衝突する雉子《きじ》を見た。高い樹木の枝に鳥の巣を見た。めまぐるしく舞う蝶、雪のように一面に咲き乱れる野の花を見た。
わたしはマイクの愛を失ったのだ。ベティさんは、そうした風景のすべてに投影する自身を凝視した。あのひとたちがやって来てから、船の男たちが現われてから、わたしはマイクの愛を見失った。今、泪が溢《あふ》れればどんなにか気持がいいだろう。しかし彼女の心臓は激しく確かに運動をつづけるばかりで、彼女を内側からやさしく抱きこもうとはしなかった。すでに憤りも、嫉妬もなかった。けれど、この苦しさはなんだろう――。
「港へ廻って……」
ベティさんは云った。
車はハイウェイを逸れて、掘り起した赤土の山が連なる工事中の幅の広い坂道を、土埃を舞い上げながら海岸に向った。
海は悪夢のように碧《あお》く、空に入道雲が立ち、港に漁船はなかった。
漁船が新年を迎えるために帰国してからすでに二カ月も経っていた。岸壁の倉庫の陰に車を停めて、ジェリーが母に云った。
「おりてみる? マミー」
ベティさんは、吹きつける海からの熱風に髪を靡《なび》かせながら応えなかった。
おりないでもわかっている。こんなに潮が満ちているのだ……、海の底をどんなに覗きこんだってあのひとたちはいやしない。みんな日本へ帰ってしまった――。
[#地付き](「新潮」昭和四十七年十一月号)
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わがままな幽霊
祖母の亡骸《なきがら》が柩《ひつぎ》におさまると、わたしはほっとして線香の紫煙が床の丸柱に絡みつくように、ゆるやかに立ちのぼるのを見た。煙の淡い流れは天井にとどく前に、狭い空間を確実に広がって、部屋はしだいに湿った香りの層に埋もれていくようだった。わたしには、柩の中にちいさく仰臥《ぎようが》している祖母の冷たく硬化した表情が、いかにも満足そうに、その虚《むな》しい広がりをじっと窺《うかが》っているように思えた。
祖母のいる茶室から、短い渡り廊下に出たとき、わたしは姉の瓔子《ようこ》に気づいた。瓔子は、髪を和服向きにひきつめに結いあげて、思いつめたような顔を真直ぐ向けて、白い足袋の爪先で喪服の裾を蹴《け》るように、足早に黒光りのする母屋の廊下をこっちへ近づいて来た。瓔子はすぐ前で立ち止ると、じっとわたしの顔を見つめた。その顔は、蒼《あお》ざめて頬が痩《や》せ、見開いた眼が翳《かげ》りに隈《くま》どられて底のない穴のように、異様に暗く森としていた。
――蒼い顔して、……疲れたのね、黎子《れいこ》さん。
瓔子は囁《ささや》くようにそういうと、わたしの無言をそっと置き去りにして、濡れ縁に膝《ひざ》をついて茶室の障子に手をかけた。
祖母の亡骸を避暑地から連れて帰った日に、姉の瓔子とこうして十年振りで顔を合わせたのだった。
わたしたちは同じように疲れきった蒼白い顔をつき合わせて、その数秒の間にたがいの不在だった年月を素速く読みとろうとした。わたしはしかし瓔子の表情のなかにわたし自身の疲労と憔悴《しようすい》を見出しただけであった。それは鏡を見るより明らかだった。蒼い顔して……。十年振りにはじめて聴いた瓔子の言葉によってわたしはちょうど長い年月の支柱が一挙に取り払われるような衝撃をおぼえた。同時にそれまで忘れていた疲労に気づいて、躰《からだ》をひきずるようにして階段をあがると、寝室のドアを開けた。
六月半ばから閉めきりにしてあった室内は、埃《ほこり》っぽく、窓を開くと、十月のひんやりした空気が流れこんだ。午前の柔らかい陽射しが、眼の下の植込みにまるく脹《ふく》れあがって、そこだけが明るい水中のように揺らめいているのを、わたしはまだ陽の巡って来ない肌寒い窓から見下ろした。
陽光が日陰の冷たさをひとに思い起させる季節に、わたしは死の記憶を三度重ねたのだ。十一年前に母を、その翌年に父を、そしてまた祖母が去った。荒れた植込みを二分している玄関から古びた冠木門《かぶきもん》までの飛び石の間に、苔《こけ》がびっしり蔓延《はびこ》っている。それはわたしたちの生れ育ったこの家をことさら翳りのある湿っぽいものに見せている。またしても死がやって来た――。びっしりと土を覆っている暗緑色の広がりを、見下ろしながらあらためてわたしはそう思う。あれはやはりおぞましいこの家の翳りだ。この十年、祖母がこの家から逃げ出しでもするように年の半分を避暑地で過していた習慣に、わたし自身もすっかり馴らされてしまって、かつて家族が賑《にぎ》やかに過していた家が年とともによそよそしい表情に変貌《へんぼう》していった。
訃報《ふほう》によって集まって来る多くの人びとを、この家は今待ち受けている。今ばかりではない、この十年、じっと待ちつづけていたような気さえしてくる。
厚地のカーテンを引いて部屋を暗くしてから、着がえもせずに洋服のまま、ベッドカバーを剥《は》ぎとってわたしは躰を投げだした。家の前の急な坂を車がのぼって来るのが聞える。家の前で停まるその音はここまではとどかないのだが、人びとが慌しい足取りで門を入って来るのがわかる。わたしは遠い風景を見ているような思いで、車のドアが閉る鈍い音を絶えず数えながら、あるひとつの現場から遠のいて、安穏とした気分に浸ろうとしている自分を許していた。
瓔子ほどわたしは拘束されていないはずだ。わたしは彼女よりも気儘《きまま》な世界を享受《きようじゆ》している。わたしの疲れきったくすんだ顔を、彼女は多少の同情と労《いた》わりを持って見たにちがいない。それと一緒に謝罪するうしろめたさがなかったとは思えない。わたしは先刻の瓔子の表情を努力して想い返そうとしていた。十年前とちがってすでに彼女は妻であり母親である中年女になりきってこの家に戻って来た。いや、多分立ち寄っただけであろう。わたしはしかしそのことにこだわっていた。姉とひとつ違いのわたしが、すでに放棄したつもりでいる場所《ヽヽ》を、彼女は父の死と同時に手に入れて、しかも密《みそ》か事でも行うようにその生活圏にわたしを寄せつけようとはしなかった。当時わたしは瓔子の不可解な急変に戸惑いを憶えた。彼女はしかしそんなわたしを理解出来ないほど遥《はる》かな場所へ遠ざかって行った。今になって思うのだが、あの頃瓔子はわたしよりも一層平衡を欠いた不安定さに自身を支えきれないで、あの男のもとへ傾《かし》ぐようにのめりこんで行ったのだろう。
避暑地の十月の朝は寒かった。早朝の冷えびえとした小部屋でわたしは祖母の死を知った。もう二、三日うちにわたしたちは東京へ引きあげる予定だった。
死は不意にやって来たのだ。祖母の病は、老いた体内でここ数年来、なんの進展もなく、わたしがこうした急変を予期することは絶えてなかった。その朝の祖母は目覚めるはずの時間に目覚めなかっただけだ。それは祖母の持ちまえの、ちょっとした気まぐれに思えた。わたしは祖母の死によってはじめて、なにかに突然裏切られでもしたような、怱卒《そうそつ》とした死別を経験した。
祖母は、長年この別荘へ来るたびに愛用していた古呆《ふるぼ》けたベッドの、柔らかい寝具に包まれて、すぐ脇で薄いカーペットの床に布団を敷いて睡っていたわたしに、一言の声もかけずに死んでしまったのだ。それに気づいたとき、わたしは淡い混乱に陥りながら、前日の夕食を想い起した。チキンスープで煮こんだお粥《かゆ》と、蜂蜜《はちみつ》を混ぜた林檎《りんご》一個分の搾《しぼ》り汁と、十時の就寝前に温かいミルクを祖母は飲んだ。夜中の二時頃、彼女はわたしを起して、お水をちょうだいと云った。わたしはミネラルウォーターをふた口ほどあたえた。夜中に祖母が水を欲しがることはなにもその夜にかぎったことではなく、殆ど毎晩のことであった。しかしあの水がいけなかったのだろうか。わたしは土地の医者がやって来るまでの間、祖母の横に顔を埋めて、寒さに顫《ふる》えながら同じことを思い巡らした。
老女の死はひっそりと、つつしみ深く、死の周辺には平和とさえいえる静謐《せいひつ》が漲《みなぎ》っていた。睡っているのだ、とわたしは考えた。だから今朝は言葉を交わす相手がいない。いつものように着がえをして、雨戸を開けて、石油ストーブをつけて、昨夜の残飯にミルクを混ぜて犬の餌《えさ》を作ってから、紅茶をいれよう。わたしはベッドに顔を埋めたまま、何度も同じことを思った。それからとりとめもなく頭のなかを横切っていくさまざまな想念が、ふと昨夜の夢にぶつかったとき、わたしはすぐ、この場違いな思考にとびついてしばらくこれを玩《もてあそ》んだ。
多分目覚める直前に見た夢だったろう。その記憶は気味のわるいほど鮮明だった。ひょっとしたらわたしが自分の夢のなかにいる間に、祖母の呼吸はと切れたのかもしれない。……広びろとした見知らぬ洋間にわたしが入ったとき、室内には思いがけないことに楕円《だえん》形のスイミングプールがあった。わたしはそれを非常に奇異なことに思いながら近づいた。プールの縁には、内側から敷きこまれてある透明なビニールがレースのように細かく揺れ動く光の襞《ひだ》を見せて垂れさがっていて、なみなみとたゆたう水がその襞を伝って寄せ木細工の床に溢《あふ》れていた。気がつくと、水の上を頸《くび》の長い小振りの白鳥のような水鳥が、十羽ほど胸を反らせてすいすい泳ぎはじめ、もっと近寄って見ると、晴れた空のような青さの水中に一人の全裸の女が鳥たちの間を泳いでいた。女の髪はカールした毛先が絡みあった金髪で、全身はピンク色に輝き、腕はゆっくり水を掻《か》きながら、ゆらゆら泳いでいた。その周囲には何十人もの男たちが寒そうに外套《がいとう》を鎧《よろい》のようにものものしく着こんで立っていた。男たちの顔はどれも影のように表情がなかった。
祖母には今朝の冷えこみがこたえたのかもしれない、とわたしはぼんやり思った。床に溢れる水、白い水鳥、女の裸体、男たちの無表情。その他にまだ夢を構成するなにかがなかったかと、わたしは考えこんだ。泳ぐ女の、水に流れなかったあの鬘《かつら》のような金髪は不自然だ。あれこそ夢だ。女の裸体は水中にいながら濡れていなかった。わたしが水だと思いこんだあれは宇宙かもしれない。女が宙を泳ぐのを、わたしはきっと上から眺めたのだ。
庭に医者の自動車の音がして、わたしと祖母の二人だけの場所はにわかに掻き乱された。医者が心臓|麻痺《まひ》による死を確認してから、わたしは淑子《よしこ》叔母に電話で知らせた。淑子のとり乱した声を断ち切ると、わたしはすぐ祖母の身の廻りの整理にかかった。東京からの迎えが来るまでにとにかく祖母とわたしの身支度をする必要があった。二人だけで過した夏のはじまりを、盛夏を、夏の終りを、秋のはじまりを、わたしは数えきれないほどに重なった芝居の幕を数えでもするように軽い疲労と一緒に想い起した。すっかり終了したのだ。わたしたちは今日、ほんとうに引きあげるのだ。来年からこの避暑地の家はまったく様相を一変してしまうだろう。広い平らな庭には、雑草がわずかに生えていた。中央の楕円形の花壇には薄《すすき》のひと叢《むら》が祖母の髪よりも白く咲いていた。わたしはふと夢の中のプールはこの花壇ではなかったかと思った。楕円形がそっくりだったからだ。数日前わたしと祖母は花壇の薄について言葉を交わしていた。今年は庭の手入れをひとに頼まなかったので、すっかりすがれてしまったわ、とわたしは祖母に云った。
――これでいいのよ、庭を造ることなんかどうでもいいことだわ……。
祖母はそう云うと、居間の寝椅子に身を横たえたままちいさな欠伸《あくび》をした。
――おばあちゃま、あの薄ごらんなさい、いつからあそこにあるのかしら。
――夏からありましたよ、自然に種が飛んで来てあそこに生えたのよ。
――知らなかったわ、随分背が高いわね、今まで気がつかなかったわ、あたし。
――あなたは、そういえばあまり外を見ないようね、庭とか空とか土とか、……わたしも若い頃は自然なんて気にならなかったけど……ここの庭がどんなぐあいに冬を迎えるのか見たいものね……。
――ひと冬暮してみましょうか。
わたしは急に思いついてそう云った。出来ないことはないでしょう、水を凍らないようにするのは簡単なことですもの、戦争中してたみたいに。
祖母は記憶をたどるような眼差しを遠い空に向けて呟《つぶや》くように応えた。
――戦争中……、もう忘れてしまった……。
戦時中の二、三年を祖母と母と姉との四人で過したその想い出は、当時幼かったわたしにはごく断片的なものであったが、ひとたびそれをたぐり寄せると、糸の結び目がほぐれるようにつぎからつぎへと出て来るのだった。それらはしかしわたし自身の純粋な記憶だけではなく、その後聴かされた話もあるにちがいない。
祖母と母は上等のモンペを何枚も持っていた。それは彼女たちの着物が惜しげもなく仕立て直されたものだった。祖母や母は外出用のモンペに着がえると、自分たちの着物を何枚か包んで、近在の農家に出かけて行っては、野菜や食用油を手に入れて来た。夏になると庭の隅を掘り起して野菜の種を蒔《ま》き、冬が近くなると、皆でせっせと薪を集めた。そうしたとき、たいていこの土地の老人などが一人二人と手伝いに来ていて、祖母は彼らとよく話しこんでいた。
わたしのこの時代は、祖母を中心とした女ばかりの御伽噺《おとぎばなし》のような世界であった。まだ学齢にも達していなかった幼女のわたしにとって、毎晩のように停電になる真の闇とか、硝子《ガラス》のコップに食用油を入れてともす不思議な灯りとか、窓硝子に貼《は》りつける紙片《かみき》れとか、赤頭巾ちゃんと同じような防空頭巾とか、そういった些細《ささい》な記憶は、後になっていよいよ非現実じみた道具立てに思われた。ことに戦争末期にはいたるところに壕《ごう》が掘られたものだが、祖母が土地の男たちに掘らせた敷地内の雑木林の中の防空壕は、どれだけすばらしい場所であったか。
小ぢんまりした壕の中は床も壁も板張りにしてあって、人目につかない、ちいさな入口から三段ほどの板張りの階段をおりると、薄暗くて土臭い狭い広がりのなかに、その場にはまるで似つかわしくない調度や衣裳《いしよう》箱や寝具の包みなどが、きちんと整頓して置かれてあった。湿り気のある黒ずんだ周囲の板張りの壁には、ところどころにキノコが生えて、それらは人間の眼を掠《かす》めていつの間にかひっそり現われる眼玉だけの化物のように見えた。瓔子とわたしは、昼間の遊び時間を殆ど壕の中で過した。瓔子は祖母の、濃紫の天鵞絨《ビロード》と兎の毛で出来ている部屋履をはいて、わたしにはその辺に放り出されてある皮製の古びたスリッパをはかせるのだった。大きな冷たいスリッパに足を入れて、わたしは壁のキノコのひとつひとつに触ってみる期待に夢中になりながらギシギシ軋《きし》む荒削りの床板を歩いた。褐色のひとつ目のようなキノコもあれば、真白のちいさな帽子が寄り集まったのもあった。指先で触れただけでぽろりと落ちるキノコの傘は、幼い二人に魔術めいた神秘的な感覚をあたえた。わたしたちはたがいに顔を見合せてから、それをそっと拾いあげて眺め入ったものだった。キノコのなかには、表面が濡れたようにぬめぬめして毒どくしい臭いのするのもあった。わたしたちはそれに触ることをとくに恐れた。怕《こわ》がりながら瓔子の指先が傘の縁に触れると、ちいさな怪物はぶるるんと顫えるのだった。壁に生えているのよりも、低い天井にひっそり首を出しているキノコは、一層わたしたちの好奇心を駆りたてた。踏み台に乗って背伸びしても、天井までわたしたちの手は届かなかった。
あの防空壕も今では無論あとかたもない。雑木林もいつの間にか空疎になって、幼児期の記憶とぴったりしない。祖母が、冬枯れの庭を見届けたいものだと云ったのは何故《なぜ》だったろう。先に逝《い》ってしまった娘と力を合わせて暮したあの頃の冬に、祖母はきっと再び舞い戻りたいと思ったのだ。祖母が、逝った者たちの噂《うわさ》を一度も口にしたことがなかったことはわたしとのもっとも大きな共通点であった。遺された老女と孫は、同じ追懐を口に出して言葉で確かめあう必要はなかった。
この十年、とくに看護婦と女中のあやが相次いでやめてからの三年間、祖母と二人だけの生活には、私自身を深い海の底へ沈めてしまうような安息に充ちた日常が繰り返されていた。
やはり祖母の晩年にわたしはつき合ったのだろうか。とにかくわたしは世間でいう婚期というものを通過しながら、歳老いた祖母と一緒に生きて来たのだ。わたしは瓔子のようになれなかったのか、意識的にならなかったのか、そこのところもわたし自身定かではない。ただひとつはっきり云えることは、祖母がいなくなった現在、わたしのもとに押し寄せる世間の猥雑《わいざつ》な気配を、わたしの皮膚が早くも意識しはじめているということだ。わたしはすぐにもそれらによって躰中穴だらけにされるだろう。わたしの疲労はすでにはじまっている。
わたしはふと由利江のことを想った。由利江が祖母の死を知ったらどんな顔をするだろうか。祖母の知人の孫娘である由利江をわたしたちは、彼女が生れたときから知っている。祖母とわたしの避暑地での友だちだったこの高校一年の少女は、いつものように馬事クラブから借りだした馬に乗って、庭中を駆け巡ってから外の雑木林へ疾駆するだろうか。
栗色の馬に跨《また》がって、由利江は暑い昼下がり、茅《かや》やヒメジョオンの生い繁る夏草の中に忽然《こつぜん》と現われた。由利江のそうした出現は、祖母やわたしにとって、ごく自然の日常的なことでもあり、そのくせいかにも現実ばなれした唐突さがあった。このどことなく放埒《ほうらつ》な印象をひとにあたえる少女が訪れるのを、わたしたちはいつも心待ちにするようになっていたものだ。彼女の出現が例年より遅いと、祖母は、あの娘《こ》はどうしたのかしらねえ、と云ってみずにはいられなかった。わたしもまた由利江の家へ電話をかけてみたり、彼女の山荘へ自転車を走らせたりした。
この夏の由利江の出現を、わたしはことさら眩《まぶ》しいもののように想い出す。彼女は馬の背から、祖母の寝室を窓ごしに見下ろして、ぼんやりしていた。山へ来る前に多分海で遊んだのだろう。剥《む》きだした肩の皮膚が白く泡《あわ》だつようにむけかけて、幼児のようなまるい顔が陽焼けしてさらに小づくりに見えた。わたしは祖母の上体を起しながら、由利江のいつもとちがうようすにゆっくり気づいた。
――まあ、まあ、今年もお会いできましたね。
祖母は嬉しさを隠せず年寄り臭いうわずった声で云った。
――こんにちは。
由利江は、気をとりなおしたように、やっと笑顔になって云うと、馬に跨がったまま、片方の腕で額の汗を拭った。馬を繋いでお入りなさい、とわたしが促すと、由利江はそれには応えずに突如馬の腹を蹴って走りだした。わたしたちが呆《あき》れて見まもるなかを、馬は花壇の周囲を大きく何回も駆け巡り、やがてさも満足したとでもいうように、ゆっくり窓辺に戻って来た。
――自由自在ね、すてきよ。
わたしが云うと、由利江はまた腕を翳《かざ》すようにして汗を拭った。
――黎子さん、おばあちゃまはお元気ですか。
――ええ、ええ、わたくしはこのとおりですよ。
わたしに代って祖母が応えると、由利江は困惑したように祖母の顔から眼を逸《そ》らして、馬の背で躰を揺すって鎧《あぶみ》を鳴らした。馬が勘違いして躍りあがろうとするのを制してから、
――不思議だわ、おばあちゃまはもういらっしゃらないかもしれないと思って……あたし、うちのおばあちゃまが死んだとき、はっきり予感したのよ。……どうしてそんなに長生きでいらっしゃるの? どうして? 毎年毎年ずうっとかならずそこにいらっしゃるの、黎子さんと一緒に。さっきねえ、あたし幽霊かと思ったのよ、お部屋がとても暗かったし、黎子さんもなんだかふわふわしてて、幽霊が二人で何をしてるのかしらって思ったの。……こんなことあたしが云ったってママに云いつけちゃだめよ、あたしのこと莫迦《ばか》だ莫迦だって泣きだすから。自分の産んだ娘が莫迦なのがたまらなく不幸なのね。海で一週間泳いで来たの。あたしねえ、ゴムボートに乗ってずっと沖まで流れて行ったの、友だちが騒いで一時間後に海の警備員に連れ戻されたわ。そのことがあとでママに知れて大変だったわ。どうして流されたのか説明しなさいって云うのよ、そんなことあたしに答えられると思う? 理由なんかないのよ、潮の流れに乗っただけだもの……由利江は分裂症だって云うのよ、うちのママ。あたしが勉強したがらないのが理解できないのね。冬の間、あたしはママに云わせれば自閉症のモグラみたいで、夏になると分裂症の猿になるんですって、自分の子供をこんなに異常者扱いして許されると思う? ママのようにはなりたくないわね、まだ二年もあるのに受験のことを騒ぎたてたり、友だちのことを刑事みたいに詳しく知りたがったり、あたしの口の中をときどき調べるのよ、隠れて煙草を喫ってると思いこんでて、そのわりに歯の裏が黒くならないのが変だっていうの。今度口の中を見せなさいって云ったら、歯の裏をマジックペンで黒く塗るんだわ、そうでもしなきゃおさまらないのよ。ママを平和にさせるのは諦《あきら》めなの、諦めるまでが大変なのよ、毎日毎日ママは諦めにたどりつくためにくたくたになって生きてるの。母親ってみんなそうかしら。……黎子さんはどうして結婚なさらないの?
わたしは笑いながら祖母の半眼を盗み見た。
――結婚ねえ……、由利江ちゃんはどう思う?
わたしはうまく逃げたつもりで云った。
――あたし思うの、黎子さんにはどうしても結婚というものが似合わない気がする。
饒舌《じようぜつ》で全身が鳴り響いているような由利江を、わたしは羨望《せんぼう》をもってしばらく見つめた。
――今日のおばあちゃまは静かでいらっしゃるのね。
由利江が早口で祖母に声をかけた。
――あなたがあんまりおしゃべりだから……。
わたしがそう云い返すと、由利江は突拍子もない声で笑いながら、さようなら、またね、と云い残して庭を一周すると雑草の道へ走り去った。
あの日から二、三回、由利江が家の前を馬で駆け抜けるのをわたしは見た。しかし庭へ入って来ることは一度もなかった。彼女は多分、また薄暗い部屋の中の夏の幽霊に出合うことを恐れたのだ。
あの風のように放埒な少女は、祖母の死を予感したのだろうか。夏と一緒に遠く去って行った由利江は、祖母のいないこの家へはもう二度と現われないような気がする。
高志《たかし》の運転する迎えの車が来たとき、わたしは祖母の着がえを終えたところであった。
看護婦がアルコールで清めた躰に、わたしは下着から丹念に着せかえた。
祖母の躰は意外なほど伸びやかで、その弛《ゆる》んだ皮膚は白くなめらかだった。わたしはしかし平静ではなかった。怕かったのだ。ことに祖母の手の指は恐ろしかった。それはすでに肉体の尖端《せんたん》で骨の形が醜く曲っていた。わたしは顫えながら祖母の手に安らぎが甦《よみがえ》るように、自分の両手で包みこんで宥《なだ》めるように撫《な》でた。手は美しくなかったから、やさしくもなかったから、わたしに発作のような嗚咽《おえつ》が襲った。棒のような祖母の脚と爪先から、半ば眼を逸らしながら新しい足袋を履かせた。手の指と足の爪先との、肉体の両端の死によって、わたしは、ほんとうに祖母を失ったのだとはっきり思った。
部屋へ入って来た高志は、ベッドの脇に突っ立ったまま祖母を見おろした。彼は従姉を慰めるためになにか喋《しやべ》ろうとしていた。しかしわたしにとりついたような鳴咽が終るのを待つ方が先決問題だとでもいうように、床に腰をおろして煙草を喫いはじめた。
彼は早朝母親に叩き起されて、おそらく顔も洗わずに、避暑地までの通常四時間の道のりを三時間ほどで車を走らせて来たのだろう。ジーパンに、灰色のセーターを着ただけで寒そうに肩を竦《すく》めて片膝を小刻みに動かしていた。
泣くだけ泣くと、わたしはすっかり腫《は》れぼったくなった顔を両手で包んで、とにかく顔を洗ってから出かけましょうと高志に云った。
――こんなに冷えこむとは知らなかったなあ。なんでまた、いつまでもこんなところでうろうろしてたのさ。
高志は半ば咎《とが》めるように云って、わたしの手から襟巻《えりま》きを受けとると首に巻きつけた。派手な襟巻きをした高志が、わたしの命令にはとても逆らえないとでもいうように、観念した面持ちで、毛布にくるんだ祖母を抱きあげて車にのせた。
――気持よさそうだ、睡ってるみたいだ。
彼は緊張に息を切らし、後部座席に横たえた祖母の躰が、車の震動に耐えるように注意をはらいながら云った。おばあちゃんにはぼくたちのような孫がいてよかったよ、黎ちゃんとぼくがいなかってごらん、毎年毎年誰がこうして運んだり面倒見たりしたか、うちのおふくろなんざあ口喧《くちやかま》しく辻褄《つじつま》の合わないことを云うばかりだ! 考えてごらん、すっかり黎ちゃんに頼ってたんだから。
わたしは今更、高志の相手になるつもりはなかった。彼には応えず、車につみこめるだけの身の廻りの品を運んだ。ふだん蒼白い頬に赤みがさして、高志はどうでもよいことをよく喋った。思いがけず死体運搬人の役を振りあてられて、彼は興奮しているのだ。わたしたちは戸締りに時間をとられないように適当に片づけてから出発した。
途中、犬を預けるため、管理人でもある農家に立ち寄った。年老いた夫婦は、祖母に向って車の外から合掌し口の中で経文をぶつぶつ唱えた。曇天のうそ寒い朝、老夫婦がわたしたちの白い飼い犬の鎖をしっかり握って黙然と佇《たたず》むのをわたしは走り出した車の中から振り返った。畑や雑木林の、かつて祖母が自分の庭と一緒に親しんだ風景のなかを、祖母の霊が今通り抜けるのだと、わたしは思った。
昼近くなって、わたしたちはドライブインに車を停めた。高志もわたしも朝食抜きで、ことに高志はかなり消耗していた。わたしは高志をねぎらうためにも、軽い食事をとることを提案した。まだ建って間もない、いかにも奇をてらったロッジ風のその建物に車を寄せたとき、わたしたちの間にちょっとした感情のゆき違いが生じた。わたしは当然二人で店内に入って食事をするつもりだった。しかし高志は、わたしの考えを知ると、呆れたように云った。
――おばあちゃんを一人でここへ置いとくの?
――しようがないじゃないの、それともあたしたちと一緒に、コーヒーとサンドイッチを食べたがってるっていうの?
――このさい、冗談はよそう!
高志は頬を硬《こわ》ばらせて、わたしを冷淡に見た。ぼくは残るよ、交替にしよう……。
――そんなこと時間がかかるだけじゃないの、誰も盗みやしないわよ、ここへ置いといたって誰が覗くもんですか。
わたしには高志が突然未知の男のように見えた。彼はわたしを非難しようとしているのだ。
――あたしは食事なんかいらないわ、あなただけどうぞ。……今更おかしな感情をちらつかせないで欲しいわ、わずらわしいだけだわ。どうぞ早くすませていらっしゃい、待ってますから。
わたしは、しだいに募ってくる熱い憤りを噛み殺した。
高志はわたしの剣幕に気おされたように、黙って背を向けると、敷いてある砂利を荒あらしく踏みしめながら店内に消えた。わたしと高志の間でこんなことははじめてだった。ぼくたちのような孫がいて、おばあちゃん倖《しあわ》せだった。と朝方彼が何気なく口にした言葉が、わたしの内部で不意に蛇のように鎌首をもたげた。わたしはそれをつよく振り払った。|ぼくたち《ヽヽヽヽ》とは、一体なんだろう、彼はなにをわたしと共有しているつもりなのか。彼の安易な連帯感をわたしは嫌悪《けんお》した。祖母とわたしにとって、高志は極端に云えば運搬人に過ぎないのだ。
この画家志望だった従弟が、最近どういう生活をしているのかわたしはまるで知らなかった。そんな彼をとおして、その背後にある、肉親を排斥したいという自分でも抗しきれない剥き出しの感情に、わたしはたまらない胸苦しさを憶えた。
死んだ祖母を、わたしは今彼らのもとへ返しに行くのだ。長い間わたしの場所に住みついていた祖母はついに彼らの場所へ戻って行く。それはさまざまな欲望に浮き沈むごみだらけの暗渠《あんきよ》のような場所だった。背後で、顔に白布をかけられて横たわっている祖母の存在を、このときまでわたしは忘れていたことに気づいた。忘れたというよりまったく気にとめていなかったのだ。わたしはやにわに振り返った。まぎれもなく、祖母は死者であった。その静かさは、朝、室内に漲っていたものとすこし違っていることをわたしは知った。それはなんだろう……、この狭い場所に同乗しているわたしたちの関係は、今、現実の時間の中で生きようとしていた。死者の静かさに今朝がたの平和はなかった。あるのはどうにもならない虚しさであった。そのために今、わたしは憤りを憶えたのだ。それがわたしに苛立《いらだ》ちをあたえたのだ。
戻って来た高志は、サンドイッチの包みと、湯気のたつコーヒーの入ったプラスティックのコップをわたしにさし出した。わたしは、コップを両手で包みこんで熱いコーヒーを飲んだ。高志は横からそんなわたしを、何故か執拗《しつよう》に凝視《みつ》めていた。
車を道路に出してから、高志は正面を向いたまま云った。
――どうして黎ちゃんが憤ったか、ぼくが解ったって云ったら、また憤るだろうね。
――さっきのつづきならやめて!
わたしは自分でも厭気《いやけ》がさすほど乱暴に応えた。
――あやまるよ。……まずくないだろう、そのサンドイッチ。
――まあね、あたしの味覚はお粗末にできてるのよ。
高志は声をあげて短く笑った。わたしはきっと、刺《とげ》だらけの枯れかかった植物だ。高志は多分その醜さを嗤《わら》ったのだ。
父が死んだ年、瓔子は二十四歳だった。母が死んだのと同じ大学病院の放射線科で、半年の治療――というよりたんに死を待つだけの闘病のすえ、父は死んだ。両親を奪ったものが同じ癌《がん》であったことが、わたしたちをふたたび恐怖に駆りたてた。瓔子は、とにかく癌は伝染病なのだと力説した。母の闘病が二年ちかくつづいたため、わたしも姉も癌治療にはすっかりつうじたつもりになっていた。コバルトが酷《ひど》すぎるのだ、と瓔子は何度もわたしに云った。ラジュウムとかコバルトとか通常聴き馴れない科学用語を、わたしたちはこともなげに口にしながら、生半可な知識でそれらを呪詛《じゆそ》した。
――ママだっていつもそうだったでしょう、コバルト治療がはじまるとかならず全身が衰弱したわ、あれは酷いわ、病人の躰にあんなもの! ラジュウムだってそう、放射能ですもの、あれでじりじり焼きつくすのよ、あたしはいやだわ。手術は反対だわ、手術なんかしたって一年ぐらい生きのびるだけ……そうでしょう、そうでしょう、……ママだって手術なんかしなきゃよかったの、あれは間違いだったのよ!
瓔子とわたしは父の手術について、毎日顔をつき合わせて異様な討論を繰り返した。あれは木の芽どきだった。わたしたちが蹲《うずくま》っていた応接間の磨《す》り硝子が庭の樹木で薄みどりに染まって、外界のすべてはまさに出発点に立って、不思議な合図と一緒にいっせいに空に向って弾けそうな気配に充ちていた。高く晴れた空から落ちて来る合図は、わたしたちのところへはどうしてもとどかない。硝子窓を閉めきった薄暗い室内で、わたしたちは食事も忘れて、用意された父の死に身構えていた。わたしは瓔子の意見に逆らうつもりはまったくなかった。しかし彼女はわたしを説得しなければいけないと思いこんでいたのだ。それは彼女自身が、眼の前のわたしとすっかり重なってしまって、自分と妹の区別がまるでつかなくなっていたのだ。わたしたちはこの問題を考え処理するために奇妙にも完全に一体化していた。
そのときまで、母に纏《まつ》わるかつての残酷な時間に触れることはわたしたちの間で暗黙のうちに禁忌になっていた。瓔子とわたしが共有したこの危機感は、一年後の父の罹病《りびよう》によってむざむざとあばきたてられて、わたしたちを容赦なく見据えていたのだった。
――ママの場合とすこしちがうわ……。
わたしは何度も口ごもった。ママとちがってパパのは胃でしょう、術後の処置はちがうんじゃないかしら。
わたしは母の上顎癌《じようがくがん》という病名を明確に口にするのも厭《いと》わしかった。
――おんなじよ、おんなじよ、おんなじだわ!
わたしの言葉を押えつけるように早口でわめきながら、瓔子の膝がしらはがくがく痙攣《けいれん》した。どこにあれが出来たっておんなじなのよ、人間の躰なんてちっぽけなものだわ、顔だって胃だっておんなじだわ! あたしはいや、放射線科のお医者はペテン師だわ、手術が好きなのよ、変態だわ! 癒《なお》すつもりなんか全然ないのに、病気の躰を酷い目にあわせて……癒せもしないで見放すくせに実験だけはしたいだけやるって考えなのよ……手術はことわるわ、あたし漢方薬の先生に訊いてみる、ママのときもそうすればよかったのよ、癒る見こみなんかないのに期待ばかり持たされて……長いこと苦しみっぱなしで……。
瓔子が彼女自身の吐く言葉によってますます興奮状態に陥るのを見ていると、わたしには父よりも、リュウマチに罹《かか》って床についている祖母よりも、瓔子の方がはるかに重症患者のように思えるのだった。
――あなた! よくも冷静でいられるわね。
あげくに彼女はわたしの臓物をひっ掻き廻すような云いかたをした。共同責任だわ、あたしだけが心配する問題じゃないんだわ……。
わたしは呆れて瓔子の狂気じみた顔を見つめた。
――手術をしなければ半年、手術をすればうまくいって四、五年、それで再発しなければ……。
わたしはまた振り出しに戻ってそう云った。
――嘘よ! 手術したって一年か二年だわ……ママのときがそうだったじゃないの、四、五年で再発しなければ、整形してあの顔だってもとどおりになるなんて、真赤な嘘だったわ。
わたしは仕方なく頷《うなず》いた。瓔子は急に声を殺して泣きはじめた。わたしたちの混乱しか残らない会話はこうしていつもひと区切りつくのだった。
結局その後、父には手術不可能という診断が最終的にくだされて、わたしと瓔子は黙りこんだ。もう論議することはなにもなかった。叔父や叔母を集めると、瓔子は白い顔をして落着きはらって云った。もう手遅れで、あと半年で父は死にます。突然母の妹の淑子が幼児のような声をあげて泣きだした。彼女はピンク色のシャネルスーツを着た、中年肥りの目立つ豊満な躰を捩《よじ》るようにして、隣に腰かけていた夫の肩に顔をおしつけた。
――二人ともまだお嫁にも行かないのに……可哀想に、可哀想……。
淑子の哀しみは死んでいく者よりも、生き遺るわたしたちへの同情の方が強かった。それは実の姉が死んだとき、彼女自身が、生者の哀しみと死者の無言の重さの違いを知り得た後の哀しみの姿であった。肉親を亡くすという経験によって、死んでいく者が、死者が、いかに安泰であるかをわたしたちはまざまざと見たのだった。すくなくともわたしは、叔母の哀しみをわたし自身と同じ角度で理解したのだ。
淑子の、年齢とともに磨きのかかってくる色艶のいい顔が、手放しで泣きつづけるのをわたしと瓔子は呆然《ぼうぜん》と眺めた。生前の母とよく似たその顔は、かつてわたしが一度も見たことのなかった母の泣き顔を連想させた。わたしと瓔子が双生児ではないのが意外だと他人《ひと》に思わせるほど似た姉妹であるように、母と淑子もそっくりの面立ちであった。ただ母の方は生涯、中年肥りという肉体の奢《おご》りを知らずに終ったのだった。今、ピンクの派手なスーツに充実した肉体を包みこんで、銀行支店長である夫の肩に顔をおしつけて声をあげて泣いている淑子を、わたしははっきり侮蔑《ぶべつ》した。それは、大手術の結果顔の右半分を抉《えぐ》りとられて、二年間顔の片側だけで生きていた、その美しすぎる半身の顔を持った母の記憶が、わたしの内部で静かに面をおこしたからだった。喪失した方の片側をガーゼで隠して、残された片側だけに薄く化粧をして死を待っていた母の横顔が、再度訪れた不幸の前で泣き崩れている叔母の顔に重なって、わたしをいたたまれない気持にさせた。
――ママが招《よ》んでるのよ、一人で退屈してるのよ。あの世で……。
わたしは口の中でそう呟いた。わたしのいかにも覚つかないもの云いを、淑子は聴き咎めるように顔をあげた。濡れた眼が人形の瞳《ひとみ》のように見開いて、やがて救われでもしたように、ゆっくり幽《かす》かに微笑《ほほえ》んだ。
――そうだわ、あのひとは我儘で寂しがりやだったから。
わたしは淑子をはっきり無視すると、他のおし黙っている大人たちに向って早口で云った。
――おばあちゃまには内証です。これは守ってください。
瓔子がすぐわたしの言葉をひきとって同じ口調でつづけた。
――父にも絶対さとられないようにしてください。病人の死を早めるだけですし、それでなくても胃潰瘍《いかいよう》を半信半疑でいますから、とくに淑子叔母さまは気をつけてください。
わたしと瓔子はこうした場合たちまち結託してしまう成りゆきを、たがいに認めあいながら満足することができた。淑子の、泣くときでさえも一人で泣けずに、ひと前で夫に縋《すが》りつく姿をわたしたちは暗黙のうちに断罪したのだ。
父の死と同時に、瓔子はかつて彼女自身がペテン師呼ばわりさえしていた放射線科医師の一人と結婚したのだった。鵜沢《うざわ》という、大学病院の医局に勤務する男は、瓔子のかつての言葉で云えば、患者を救う気など毛頭ない手術好きの医師の一人であった。わたしたち姉妹は、母の入院生活を通じて、医局とは心ならずも親しくなりすぎていた。さらに母の死に際して、父は多額の香奠《こうでん》をそっくり当の放射線科に寄付したのだった。それは父にしてみれば亡き妻への供養でもあったし、とにかく死ぬその日まで母が誰にもまして信頼しつづけた医師団に父は謝意を表明したつもりであった。そして父自身も最期を母と同じ放射線科で迎えることになったのである。
わたしと瓔子は、母の看病に没頭していた姉妹として当時の医局に再び迎えられ、顔なじみの医師や看護婦に、帰って来た仲間のように特別の親しみを持って扱われた。しかし母のときとちがって、わたしたちは父もやがて彼らの手の中で死を迎えるのだというまぎれもない確信に打ちのめされて、追いつめられた小動物のように、薄穢《うすぎた》ない大学病院を嫌悪した。そのうち、わたしと瓔子の連帯感に、ある種の怪しい外敵が割りこんで来たのだった。それはちいさなわだかまりがしだいに脹《ふく》れあがったところにつけこんで来たような状態で、云ってみればごく自然の成りゆきだったかもしれない。つけこんで来たものは、精神が恐怖と異常さに歪《ゆが》められて、たすけて、たすけて! と叫びつづけた時間の重たさであった。
父がついに死んだとき、瓔子は鵜沢という男に縋りついて泣いた。
以前、医長の回診のときなど、大勢のインターンにまぎれて一向に目立たなかった鵜沢は、一年後には医局員として活溌に働いていた。
鵜沢と瓔子は、父に関する当座の仏事がすべて終了したとき結婚した。そのときの瓔子の魂の失せたような顔を、わたしは憶えている。彼女はわたしや祖母から遠ざかることしか考えていないよそよそしい他人の顔をしていた。あのひとは無縁仏のように現在孤独なのだ、とわたしは思った。喪中のことであり、彼らは儀式らしいことはいっさい行わなかった。
鵜沢は結婚と同時に、大学病院を退いて、開業医である彼の父親の医院へ落着いた。わたしの前から姿を消してしまった瓔子をわたしは理解しようと努力したが、彼女の方ではそれを望んではいなかった。瓔子をここまで駆りたてた本当の原因は一体なにか。父と母の死につき合った鵜沢という男に、瓔子がのめりこんで行ったことは、わたしから見れば彼女自身が触れたくない記憶に埋没することであり、救けを求めながら、底なしの淵《ふち》に自ら近づいて行く痛ましい姿であった。そしてわたしもまたそのことのために、長い間窮地から這《は》いあがることができなかった。
今思えば、実に異常なことだが、わたしはそれから瓔子に一度も会うことがなかった。両親の仏事を病身の祖母の采配《さいはい》で何度か行なったが、当然参加するはずの瓔子はいつも現われなかった。淑子はことあるごとに、鵜沢を罵《ののし》った。事実同じ都内に住んでいながら、わたしたちは彼にも会うことがなかった。どことなく気の弱そうな風貌だが、患者に対していやに歯切れのいい喋り方をする彼をわたしはかなりはっきりと想い出すことが出来た。それは姉の夫としてではなく、あの陰鬱な騒《ざわ》めきの充ちた大学病院の建物の中で、一日のうちにいくつもの死を確認しては、薄汚れた白衣の裾をはためかせて、尊大な足どりで行き交う医師たちの類型としてであった。
瓔子に関する情報を、わたしは淑子からたまに聴かされることがあった。叔母は、彼女自身の好奇心のための役どころを実に正当なことと考えていた。が、ほんとうのところわたしや祖母にとって、淑子をとおして知る瓔子の暮し振りなど、すでにどうでもよいことであった。淑子は、鵜沢病院へ出向くたびに、どうやら瓔子夫妻に居留守をもって追い払われているのだということに、やっと気づいたとき、瓔子は鵜沢に監禁されているのにちがいないと推理した。彼女には想像もできないことであったろう、瓔子が叔母にさえも会いたがらないという異常さが。わたしにはしかし、淑子の垣間《かいま》見て来た切れ切れの断片からある程度の想像はできた。
――瓔子さんはすっかり鵜沢医院の若奥様らしくなって落着いた様子でしたよ、女の子の双児が生れてそりゃもう賑やか。医院の方もあちらのおとうさまが、もうおとしなので、あのかたが院長代理をなさって、外科内科の他に放射線科もおつくりになったのよ、随分大きな建物ですよ、近所の評判もなかなかだし……。
わたしと祖母は淑子の無邪気な探偵振りを見るたびに、自分たちとは直接関係のない世間話を聴かされているような気持になった。
祖母とわたしと、祖母のための通いの看護婦と、もう二十年近くも住みついている老いた女中のあやとの女四人の生活にしばしば駆けこんで来る淑子は、俗世間からの使者であった。淑子は、わたしという年頃の姪《めい》に実母のお守り役を押しつけてあるのだという、淑子なりの負目がやはりあるとみえて、わたしに対してかなり気を遣っているふしがあった。わたしと祖母の生活は父の遺産や祖母自身のわずかな貯えの他に、淑子の夫からも、祖母の医療費として毎月決った額の援助を受けていたので、経済上の不安はまったくなかった。
また淑子には解らなかったのだ。わたしと祖母の非現実な暮しが、精神的にいかに充ち足りたものであったか。
とにかく瓔子は、祖母の訃報にやって来たのだ。彼女の低い囁きが、わたしの耳の底で繰り返し聴える。その声に神経が絞られ、わたしの顔から血の気が引き、疲労から解放されようとして、柩の中にじっと横たわっている死者のように、わたしは息を潜めてベッドの中でしだいに硬直していくのだ。いったいわたしの疲労はなんだろう。
三時間は睡っただろうか。ドアの外で声がしている。声は遠慮がちにわたしを呼んでいた。ドアが細く開いている。わたしは上体を起して、室内を窺《うかが》っている人影を透かし見た。黒い着物の裾が見える。手を伸ばして、わたしはカーテンの紐《ひも》を引いた。厚地のカーテンが金属を引き絞るような音をたててすこし開いた。薄汚れたレースのカーテンを透して、室内に暮色が広がった。
瓔子は、後手に閉めたドアに寄りかかって、わたしを見ながら、発声音のような大きな溜息《ためいき》をついた。
――あなたを起したかしら?
かまわない、とわたしは云ってから、両手で顔中をこすった。
――よく睡ったようだわ、階下《した》はどんなふう?
――淑子叔母さまが、なにもかもしてらっしゃるわ、あたしの出る幕なんかないわ、お通夜は明日の夜で、明後日はお寺。それまで、おばあちゃまはお茶室……。
――同じ段どりね。
わたしは両親のときを想い出して云った。
――そう、馴れたものね……あやさんが来てくれたわ。
姉は埃《ほこり》っぽい絨毯《じゆうたん》の上に正座して、肩を落した。
――あいかわらず、割烹着《かつぽうぎ》の上に前掛してる? あやさん。
わたしが訊《き》くと、瓔子ははじめて頬をゆるめてゆっくり笑った。
――そのとおりよ、今日はまたその割烹着が新品で真白で……あやさんは変ったわ……。
瓔子は指先でハンカチを弄《いじ》りながら、ベッドで起きあがったままのわたしを、上眼遣いでちらっと見た。おばあちゃまは、苦しむこともなく、静かに……、よかったわね。……あたしあれから一度も御見舞いもしないで……そのことをみんなよく思っていないわ。あなたもそうでしょう?
わたしは瓔子の気怠《けだる》そうな口調を遮《さえぎ》るように、ベッドから出て三面鏡の前に腰かけた。
――お風呂に入ろうかなあ、立ててないわね、まさかこんな日に……。
――あたし見てくるわ。
瓔子ははじかれたように腰を浮かせた。
――いいのよ、今じゃなくても。……おばあちゃまもあたしも、あまりものごとを深く考えることがなかったわ。
瓔子はわたしの後のことばに引き止められるように、その場に坐り直すと、床の一点に視線をとどめておし黙った。鏡の中からわたしは、灰色の宙に塗りこめられている瓔子の顔をまじまじと見た。やはり十年の歳月がその表情を重くしていた。
――鵜沢さんお元気? 女の子の双児ですって? いくつ? どっちに似てるの?
――八歳だわ、あなたに似てる。
――へえ、じゃあママ似ってわけね。
――あたしが、どうして鵜沢と結婚したのか知りたくないの?
瓔子がわたしの背中に向って探るように低く云った。別に……とわたしは応えてから彼女の視線を払いのけるために立ちあがって、また仕方なくベッドに腰かけた。
――叔母さまが云ってたわ、あとは黎子さんの結婚問題だって、鵜沢の知り合いに誰かいないかって。
――後妻でもいいって、云ったでしょう。
わたしの言葉に瓔子はちいさく頷《うなず》いて、なにか異様なものでも見るような視線を寄こした。
――しばらくの災難は覚悟してるわ、醒《さ》めやすいひとだからそのうちあたしのことなんか忘れちゃうわよ、叔母さまもそろそろ孫ができるし。
高志の姉でわたしと同年の長女のことをわたしは噂《うわさ》の的に引っぱり出そうとした。
――呆《あき》れたわ! 叔母さまには。
瓔子は急になにかに躓《つまず》きでもしたように、激しい口調になって云った。ひどいもんだわ! 今日は黒シルクのマキシでらっしゃる。
――いいじゃないの、喪服でしょう?
瓔子の急変をわたしはなにくわぬ顔で軽く往《い》なすように云った。
――あのひとは、あなたにおばあちゃまの看病をさせといて、その間に、今日のためのドレスのデザインを考えたりしてたんだわ。
彼女の毒を含んだ口振りと一緒にその顔の輪郭がひきつるように濃くなった。
――別に、わるいことじゃないわ……。
――そう、普通ならね、でもあのひとは莫迦《ばか》だわ。最近仕立てたことは間違いなしよ、マキシですもの、今の流行ですもの。
――叔母さまの気違いじみたお洒落《しやれ》は今にはじまったことじゃないわ、老けて薄汚なくなっていくよりいいじゃないの。
わたしは瓔子に対して簡単に同調するわけにはゆかなかった。それはある種の屈服を意味するからだ。
――あのひとのお洒落は怕《こわ》いわ、策略じみてるわ、彼女はどうしようもない|おひきずり《ヽヽヽヽヽ》だし、あの徹底した虚飾のかたまりは他人迷惑だわ。
瓔子の感情の昂《たか》ぶりのため、室内が鈍い暮色のなかで陰画のように反転するのをわたしは見た。黒ずくめの瓔子は、全身が白っぽく透明に光り、周囲が眩暈《めまい》のなかのみどりがかった空間になって、空気が弾けるような音をたてて輝いた。
――あのひとは、あたしを怕がってるわ。
彼女は息切れと同時に吐き出すように云った。
――どうしたの?……十年振りにお葬式だからって、あなたこそどうして来る気になったの?
わたしは真向から瓔子に切り込むつもりで云った。一生現われないんじゃないかと思ってた……。
すると瓔子は鬼ごっこをやめて物陰から出て来た子供のように、急につまらなそうなゆとりを見せて軽く笑った。
――あたしの気まぐれだわ……。
――それじゃ気まぐれで寄りつかなかったの?
わたしはできるだけ冷やかに云い返した。
――すこし違うわ、寄りつかなかったんじゃない、寄りついてはいけなかったのよ。
――なんのために?
――あのひとのためだわ、叔母さまよ……。鵜沢のためにもあたしのためにも……。
なにかあったのだ。わたしが知らない間に、わたしと祖母を遠ざけたところで、なにかが起ったのだ。わたしは無言のまま瓔子を見据えた。
――あのひとは化物か莫迦だわ。顔をあんなふうに手術でめちゃめちゃにされて死んだのが、どうしてママの方で、あのひとがますます毒どくしく生きながらえているのか……眼ざわりだわ、あたしには我慢できないのよ……あのひとの罪は深いわ!
瓔子はそう云い放ってから、立ちあがりざまちょっとよろめいてレースのカーテンに縋《すが》りつくと、わたしに背を向けたまま庭を見下ろした。彼女は自分自身の亢《たか》ぶりをそうやって鎮めようとしているのだ。やにわに瓔子は声を出して大きな欠伸《あくび》をした。同時にその全身が緊張を失いでもしたように眼に見えてだらけた感じになった。
――おばあちゃまには知られたくなかったから、あたし来れなかったの。あなた知ってるでしょう?
瓔子は庭を見おろしたまま、平静をとりもどした口調で云った。おばあちゃまの勘が人並はずれて鋭かったこと。年寄りらしくもあり、らしくもなかったわ、あたしは顔色を読まれるのが怕かったわ。それにあたしがこんな気性だから、あなたのように忍耐強くないから、おばあちゃまの顔を見るのが不安だったのよ、気取られなくても、あたしの方からなにもかもぶちまけそうな気がして……。おばあちゃまは、もう死んでしまったし、あたしもこれ以上息を潜めていられなくなったの。
瓔子はまるで遠方の闇を探るかのようにぼんやり喋った。
――あたしは、随分鈍いみたいね……。
瓔子の言葉が今にもたち消えそうなのを、わたしはさらに掻《か》きたてるためにそう云った。
――あなたとおばあちゃまは、きっと貴族みたいに暮してたんだわ、あたしはいつもそう思ってた、だからあたしなんかが御見舞いする必要もなかったのよ、あなたはこの十年間、滅菌状態で生きていたのよ、滅菌地帯の中でって云ってもいいわ……あたしとても羨《うらやま》しかったわ、妬《ねた》ましいとも思った。……でもこれからは、あなたもそうはいかないわよ、きっと。……鵜沢は、あのひとの恋人だったのよ、|つばめ《ヽヽヽ》だったの、ママの入院中にはじまって、あたしたちの結婚で終ったの。
瓔子は、わたしをやんわり包みこむような、わざとらしい無頓着さで喋った。あたしが気がついたのはお父さまの入院中だったわ……。
瓔子は不意に振り返って、暗い眼を瞠《みは》ると、わたしの眼のなかいっぱいに飛びこんで来た。多分わたしがなにか声を発したのだ。その声に瓔子は驚いて振り返ると、わたしの躰を抱きかかえでもするように、両手を広げて飛びかかって来たのだ。彼女はしかし、わたしに払いのけられて、ベッドに倒れこんだ。
――……だからあたし鵜沢と結婚したのよ……だから、あたし……。
彼女はベッドに顔を埋めたまま囁《ささや》くように繰り返した。
――信用できないわ。
わたしは怯《おび》えたような自分の声を聴いた。
――信用できないわ。
とわたしは云った。わたしの懐疑は瓔子の告白めいた言葉のなかに、どことなく下世話なにおいを嗅《か》いだからだ。たしかにありそうなことだと思う。淑子が鵜沢と関係を持っていたことはありそうなことだ。しかし瓔子が何故今頃になってそれを持ち出さなければならなかったか。長い年月彼女が持ち堪《たた》えてきた沈黙の顔が、今突然笑い声をあげたのだ。わたしには瓔子がその仮面の裏でどんどん遠くへ逃げ去るのが見える。早く行ってしまって! わたしはわめき声をあげて、両手両足をちいさな子供のようにじたばたさせながら、ところかまわず転げ廻りたい気分だ。
現在瓔子はどんな問題に躓いているのだろうか。彼女は恐らくみっともないほど不幸で、その醜態を気取られまいとしている。
幻想のなかで、わたしは瓔子の片眼片頬を抉《えぐ》り取った。残された方の半分の顔のなかで眼が濡れたように光って、鼻梁《びりよう》がきわ立った。唇の輪郭は、正確に半分だけにぴんと張りがあった。黒く陥没した失われた側面を、わたしは真白のガーゼで被《おお》った。それからわたしは咽《むせ》び泣いた。その顔がもはや泣かなかったからだ。母の顔と同じように、何故|泪《なみだ》を流さないのだろう。苦痛はそれすらも許さないのか。しかし瓔子は、やはり母ではなかった。瓔子はわたしの映像のなかで母とは違って恐ろしい顔をしていた。それは悽惨《せいさん》といえるほどの形相だった。
もしかしたら……とわたしは思った。十年振りに姿を見せた瓔子は幻想かもしれない。母と瓔子が、今わたしの幻想のなかでひとつの肉体に入りこもうと鬩《せめ》ぎあっているのかもしれない。
わたしは瓔子の話の筋があまりにも単純なのを知ったとき、彼女の顔を抉り取る空想に走ったのだ。淑子は実の姉が八時間もの大手術で半分の顔を失った直後に、何故手術に参加した若い医師の一人とそんな関係になったのだろう。そして病人の死後もその男と密会をつづけていた。……だから、それを知ったときわたしはあの男と結婚したのだ。と瓔子はいう。それを復讐《ふくしゆう》とでもいうのだろうか。なにに対する仕返しなのか。叔母から若い男を奪うことがどうして彼女に必要だったのか。わたしに理解できるのは、瓔子の叔母に対する憎悪《ぞうお》だけだ。彼女自身を投げださなければならないような結婚は、わたしには解らない。
わたしは瓔子の詭弁《きべん》を嘲笑《ちようしよう》した。わたしの前で瓔子はなにをとり繕うつもりなのか。
――あなたの結婚は叔母さまとは関係ないでしょう。
わたしは云った。
瓔子は黙って部屋を出て行った。室内はすでに暗かったから、喪服の瓔子がまるで保護色に身を隠した傷ついた醜い生きものに見えた。彼女の白い足袋が音もなく、浮きあがるようにドアの外へ消えるのをわたしは見とどけてから、室内の空気に気づいた。埃臭いなかに瓔子が遺していったのか線香のにおいが幽《かす》かにあった。……そうだ、この家のなかには帰って来た死者が睡っているのだ。
生きのこった者たちは、彼ら自身のために死者のための儀式を厳粛に手ぎわよく終了した。それらがすべて片付いた家のなかで、わたしはかつて避暑地で、由利江が窓の内側の祖母とわたしを幽霊と見紛《みまが》って呆然としていたのと同じように、其処此処《そこここ》で亡霊となって動き廻っている人間たちに出会った。
淑子は、今後のわたしの身の振りかたについて、わたし自身よりはるかに真剣にとり組もうとしている、賑やかな亡霊であった。
――早速ですけど黎子さん、この古い家は売りに出しましょうよ、場所がいいからすぐいい値で売れますよ、あなたはマンションを買って、これからはもっと快適に暮すのよ、今までどおり生活費には困らないでしょう、お父さまの遺していらした財産は、全部あなたのものだし、この家を売ればしばらくは充分過ぎるぐらいだわ、もし就職する気があれば、結婚のお相手が見つかるまで、叔父さまの秘書でもどうかしら、この前そんなことをあちらがおっしゃってたから、どうする? 黎子さん……。
淑子は、戦後父が設立した弱電機会社の後継者になった叔父のことを云ったが、そのいかにも性急なもの云いを、わたしは無言で受け流した。そして彼女の、事後処理に対する、てきぱきした態度を、面白いと思った。何故ならまったくそれは適役ではなかったからだ。
――家を売ってしまうのもいい考えだと思いますけど……。
とわたしは云った。わたくしがこの家を一人占めするわけにはいかないでしょう、姉にも権利がありますので。
淑子のすっかり肥満した肉体から、今では母の像を連想することはまったくなく、そのためにわたしは近頃になって彼女を見てもたじろぐことがなくなった。母の姿は淑子よりずっと若かった。亡びない母の肖像を、わたしはしばしば恨みがましく思うことはあっても、すでにわたしの内部でその生なましさは燃焼しつくしていたのだ。
淑子は、わたしの言葉を即座に返した。瓔子さんにはなにもかも揃っています。権利よりも現実を見きわめることの方が大切でしょう? それでこそ身内というものです。
わたしは思わず彼女に笑いかけた。
――高志さんにはお世話になりました。
わたしのとってつけた言葉に一瞬虚を突かれたような隙が淑子の、顎《あご》が二重にくびれて以前よりひとまわり大きくなった顔に浮んだ。
――そう、あの子は運転手ぐらいしかできない男ですよ。
彼女は自分の息子が思いがけない場所に登場したものだとでもいうように、いかにも軽く云ってのけた。
葬儀のあとも、しばらく泊りこんでいたかつての女中あやに、わたしは、もしよかったらこの家へ来てのんびり老後を暮してみる気はないかと云った。あやは、息子の家で毎日孫の守《も》りをしているので、今更出て来るわけにはゆかないと答えた。嫁が毎日マーケットのパートタイマーに出かけるので、留守番のために彼女はなくてはならない存在のようであった。あやは祖母より十五歳は若いはずであるのに、腰の曲りぐあいや、弱よわしく衰えた肩のあたりが、すっかり|老い《ヽヽ》にいたぶられた老婆になりきっていた。自分は倖せだと云いながら絶えず眼を濡らし、ちいさく屈《かが》みこんでいるあやは、すでに割烹着など似合わないほどに老いこんでいたのだ。
葬儀から何日か経って、来客の足が間遠になった頃、瓔子がたずねて来た。通夜にも葬式の日にも、わたしたちはゆっくり言葉を交わす暇もなかったので、あの瓔子の思いがけない告白に終った対面以来会うのははじめてであった。
髪を短くカットし、黒のワンピースを着た瓔子は、この前より、物ごしが軽快でそのどことなく軽薄とさえいえるもの云いが彼女の娘時代を想い起させた。
――おばあちゃまのことに関して、あたしにはなにもいう資格はないけど、ほんとうのところ、前のような哀しみはないわ、老人の死っていうのはいいものね。ごく当然のことのようで不幸とは思えないし……。
――随分さばさばした云いようね。
わたしは瓔子が身勝手な一人芝居をはじめようとしているのだと、内心思いながら苦笑した。
――叔母さまに聴いたけど、あなた、この家を売り払うつもり?
そんな気はない、とわたしが答えると、
――よかったわ、それでひと安心。いくら戦前からの建物でぼろぼろだって、土台がしっかりしてるから売ったり、とり壊したりするほどじゃないでしょう、すくなくとも、あなたが結婚するまではこの家に住んでいないといけないわ。
結婚という言葉を消せば、わたしは瓔子の意見に賛成だった。古びた場所をすっかり片付けて、別の場所へ移る必要はどこにもない。そんなことをしたってひとの宇宙は変る筈はないのだから。瓔子はつづけた。
――いくらなんでもこの広い家にあなた一人が住むのは寂しいでしょう。もしあなたが厭でなかったら、あたしこの家へ帰って来たいのよ、どうかしら。
瓔子のなにくわぬ表情をわたしは驚いて見た。
――鵜沢と、ひとまず別居したいの、子供が二人いるし、この広さはちょうどいいわ。
――ひとまずの別居とは……。
――ええ、あたしは離婚したいと思ってるの。
わたしの周囲ではすでになにかが変ろうとしているのだ。知らぬ間にわたしはそれらに巻きこまれている。それは瓔子の独断であり、彼女の計画を阻むための淑子の先走りだった。わたしは返答に窮して、むっつり口を閉ざしたまま、瓔子を若わかしく見せている短くカットされた髪をぼんやり眺めた。わたしは、瓔子や淑子にくらべてなんという鈍重さであろう。
――もちろん黎子さんにこの家はあげるつもりよ、わたしは勝手に家を出といて、また勝手に帰って来るわけだけど、そういった打算のためじゃないの、将来かならず出て行くわ、そのあとこの家はあなたの自由にしていいのよ、しばらく同居させてもらいたいの、あなたの生活を乱したりはしないわ。……とにかくこの家はすっかり変ってしまったわ、あたしたちが子供だった頃はもっと明るくて賑やかだったわ、……今は、なんていうのかしら、どことなくひとを寄せつけないものが何かしら潜んでる……。
瓔子は鵜沢との結婚生活の実状も、その破綻《はたん》の理由も告げずに、わたし一人を残して忙しそうに帰って行った。
わたしは瓔子の云うように世間からとりのこされたこの家のなかに、じっと潜んでいる陰気な女にちがいない。しかし捕えどころのない瓔子の姿こそ、この家に舞いもどって来て、ふわふわ動き廻る亡霊のように見える。
数日後淑子が、驚くほど大きな仏壇を持ちこんだときの、その不意打ちにもわたしは呆気《あつけ》にとられた。トラックからおろして運搬する男たちを、口喧《くちやかま》しく先導する淑子を、玄関の小暗い隅に立ちつくして見ながら、わたしは理由の解らない肌寒い恐ろしさをおぼえたほどであった。それは今まで閉ざされていた扉が外側から強引にこじ開けられて、やがてそれが見知らぬ場所に向っていっぱいに開かれようとしている不安ににていた。
淑子は薄いみどりがかったニットスーツの肥った腰を活溌に動かしながら、大きなハンドバッグをぶら提げて母屋の廊下を忙《せわ》しなく通って、茶室へ仏壇を運ばせた。
淑子は、両親と祖母の三位牌をこれに移しかえて、古い方の仏壇を自分の家へ持ち帰る算段だとわたしに告げた。呆れるほど大きな新品のそれは、茶室の黒ずんだ鶸色《ひわいろ》の壁の一面をすっかり覆った。淑子はわたしの見ている前で位牌を新しい場所におさめながら、まるで飾り棚の置きものの配置に気をくばっている様子で、仏壇へ近寄ったり離れたりして、鉦《かね》や撞木《しゆもく》や燭台《しよくだい》などの位置を点検した。そしてすっかり出来あがると淑子はほっとした様子で仏壇の前に坐りこんだ。わたしは、新品の仏壇がすっかり茶室の様子を変えてしまったことに気づいた。
――瓔子さんが鵜沢さんと別れるらしいわね。
淑子は、自分の行為とはまったく別のことをかなり強い口調でいきなりわたしに話しかけてきた。
――別居だそうですよ。
――ええ、子供のことであちらがはっきりしないからですよ。
彼女はそう云ってから、部屋の外で待っていた男たちを呼ぶと古い仏壇をトラックに載せるように頼んだ。
――これは家へ持って行きます。他の御先祖さまが入ってらっしゃるし、まさか捨てるわけにはいかないでしょう。
淑子は自分の手で仏を分割して、さも満足そうに新しい方に線香をあげながら、わたしにいうともなく云った。
――黎子さんにこちらのお守りをしっかりしてもらわなくちゃ。
わたしには、淑子の考え方や行動が実に不可解なことに思えた。彼女の頭のなかでは、きっと休むことなくあらゆることがめまぐるしく働いているのであろう。彼女は大真面目で、仏具店へ出かけたり、美容院へ出かけたり呉服屋を呼んだり、洋服を注文したりしているのだ。
――黎子さん、瓔子さんは怕いひとよ、あなたのお姉さんだけど、わたしの姪《めい》でもあるから、わたしは身《み》贔屓《びいき》なしに忠告しておきます、……あなた、叔父さまの秘書かなんかのお話どう?
――そのことでしたら結構です。……いずれ自分で仕事をみつけますから。
わたしは淑子が仏壇の前に坐ったまま、ハンドバッグからコンパクトを出して、顔面をぴたぴたパフで叩くのをぼんやり見ながら応えた。
――そう、結婚する気は?
――……考えてみます。
――あらまあ、まだ考えることがあるの、ほんとうにおっとりしてるのねえ、そういうところはあなたのママにそっくりだわ。
淑子は息を吸いこむような笑い声をたてた。その笑い声はけたたましい野鳥の啼《な》き声に似ていた。……あれはなんという鳥だろう。わたしはいつもその正体を見届けたいと思ったものだ。山荘の屋根の上を鳥が鋭い叫びをあげて飛翔《ひしよう》するとき、わたしは祖母を振り返っていつも云った。おばあちゃま、またあの鳥……あの啼き声……。祖母が、何事かとゆっくり眼をあげたときには、いつもそれは消えてしまって、辺りには山の騒《ざわ》めきが紗幕《しやまく》のように落ちたものだ。
結婚……、わたしは声に出して云ってみた。誰もが無言のうちにこの言葉をわたしに浴せてくる。その癖、恋とか愛とかそういった言葉では問いかけてこない。誰かいるの? と瓔子が何気なくいう。いないわ、とわたしは答える。そう、結婚しないつもりね、と瓔子はすぐに解釈する。
わたしははたちのはじめに同じ大学で知りあった相手と何度か恋愛を繰り返した経験がある。その頃のわたしは、青春を弾むような感情の糸で操られながら踊っていた人形だった。結婚はその感情の産物として、眼の前に何度も迫って来た。わたしにとってそれが未知であったから、世間の誰もがするように、愛で数珠《じゆず》繋ぎにされて、結婚というひとつのかたちにたどりつくのだと信じこんでいた。しかしあの時代がいつの間にか終ったとき、わたしはすっかり風景のちがったところへ逃げこんでいる自分に気づいた。それはわたしの懐疑ではない。臆病のようだが、わたしは恐れてはいない。わたしを変えてしまったものは、やはり重なった両親の死によって、いやが上にもそれに直面しながら、麻薬のようにわたし自身を手なずけてしまった傲慢《ごうまん》な死そのものと、同時に死への旅路にいつもあった祖母の生だ。わたしはそれらの傲慢な砦《とりで》をくぐり抜けながら、ついに出口を見つける努力をおこたったわがままな幽霊かもしれない。
いつの間にか、わたしは少女たちの教育がかりのような役を背負いこんでいた。
瓔子は八歳になる双生児の女の子たちと、若い手伝いの娘を連れて戻って来た。トラックに満載した家財道具は、|ひとまずの別居《ヽヽ》にしては大袈裟《おおげさ》すぎた。瓔子とその家族は階下の部屋をすべて占領した。占領したといっても応接間とか居間は以前のままだから、わたしの側からいえば、家族が急に増えたことであった。瓔子は年末の慌しさを、外部から何倍もに脹《ふく》らませて押し入って来たのだった。
一見陽気に振舞う瓔子を、わたしは内心奇異に思った。彼女は自分の場所に必要な雰囲気をつくりあげることに、その当座は夢中になっていた。生気の溢れたそんな瓔子をわたしははじめて見る思いであった。それは雛鳥《ひなどり》のために巣をつくる大きな翼を持った親鳥のようにも見えたが、しかしどうやらそれだけではなさそうだとわたしはやがて気づいた。瓔子はあたらしい境遇に有頂天になっていたのだ。わたしはますます不可解であった。夫婦の別居ということはどういうことだろうか。瓔子はすくなくとも彼女自身の失点をもっと謙虚に意識してもいいはずであった。
家のなかでは、少女たちと母親の声が響き、足音が駆け抜け、くすんだ天井までもすっかり張りかえられたかのように家中が明るくなった。子供たちは、あたらしい自分たちの環境に驚くほどらくらくと辷《すべ》りこんで来た。
――あら、ここんちのピアノは黒いのね、うちのはチョコレート色なのよ、おばちゃま。
――ママ、ここのおうちには屋上がないのね、屋上がないからお庭で遊ぶんでしょう?
二人はまったく同じ声で同時に同じ意味の言葉を口ばしった。二人に目じるしをつけてくれないと見分けがつかない、とわたしは瓔子に注文をだした。瓔子は、そんな必要ないわよ、だって二人はちっとも似てないんですもの、すぐそのことに気がつくわ、と云ってわたしを呆れさせた。
――双児はねえ、おばちゃま、いつも同じお洋服を着て、同じものを持ってないと一人が先に死んでしまうのよ。
二人は口を揃《そろ》えてわたしを教育しにかかった。この幼い双生児の姪たちを見ていると、母と淑子、瓔子とわたしという、血の繋《つな》がりがあたかもしだいに濃くなっていくかに見える、偶然の重なりをわたしは考えずにいられなかった。姪たちは家を移ったために、通っている附属小学校まで地下鉄に乗る時間がいくらか短くなったことを、引越しの理由だと思いこんでいた。多分瓔子の入知恵であろう。だから子供たちがなにかにつけて父親のことを素直に口にだすのは当然のようにも見えた。しかしわたしは夫婦の間の破綻がこれほどまでに、子供たちになんの翳《かげ》りもあたえずにいられることが意外であった。わたしには子供たちの父親としての鵜沢という男のことを、子供たちを通して、かなり好意的に想像することができた。
祖母の葬儀のとき、わたしは彼の姿を思いがけず遺族席の後方に見かけた。瓔子より十年ぐらい歳が開いているのだが、その半白の頭髪に、わたしはすくなからず驚かされた。彼のどことなく憔悴《しようすい》した顔は、場所がらとはいえひどく沈んで見えた。わたしがつぎに振り返ったとき、もうその場に彼の姿は見あたらなかった。掻き消えたようにいなくなっていたあの男は、ほんとうに鵜沢だったのか、わたしがそんな疑いを抱いたほど、十年前の彼とは別人のようであった。瓔子はわたしがそのことを告げると、実に素っ気なく、とんでもないわ、あのひとは十年一日変ることのないひとだわ、となんのこだわりもなく云ってのけた。あの人目につくほど疲労のいろに隈《くま》どられていた夫の様子が、瓔子には見えなかったのだろうか。わたしには彼女が一層理解できなかった。
瓔子たちの生活が落着いた頃、わたしはまず瓔子の外出好きに驚かされた。彼女は毎日のように、もっともらしい理由をつけて慌しく出かけた。子供たちは学校から帰っても母親の不在を一向気にかけなかった。結局家に残ったわたしが、彼女たちの宿題を見てやったり、ピアノのレッスンをさせたりした。もうひとつ目立って変ったことといえば、高志が週に二回はこの家にやって来て、一緒に食事をしたりたまに泊ることであった。それと反対に、以前足しげく出入りしていた淑子はまったく姿を見せなくなった。
かつてのあの停滞しながら淀《よど》みなく流れ去った時間の累積をわたしは懐かしんだ。しかし周囲のあたらしい喧噪《けんそう》は、わたしの方から馴染んでゆきさえすれば、わけなく消化できる質のものであった。
高志は最近になって、友人と広告会社のようなものを結成したらしく、営業面が思ったよりうまく進行しているのだと、わたしたちに話した。女ばかりの家で、彼はいつの間にか頼りになる唯一人の男として厚遇されるようになっていた。ことに離婚問題など抱えている瓔子のような女にとって、高志は恐らく相談相手として安心できる恰好の存在にちがいなかった。それは祖母との生活のとき、なにかといえばすぐ高志を駆り出して協力を求めたわたし自身の経験からいっても、彼は結局わたしたち姉妹に重宝がられる気心の知れた従弟という役柄以外に、どこといって目障りなところのないごく常識的な男だったからだ。
ところが、どうやらこれはわたし自身の誤算らしいということに気づくまでに、わたしはそう長い時間を必要としなかった。
その夜瓔子は夕食のあと、子供たちをわたしにまかせて廊下の隅に置いてある電話機の前に長い間坐りこんでいた。電話の相手が今夜の夕食の約束を守らずにとうとう現われなかった高志だということをわたしは知っていた。瓔子は食事中殆ど口をきかなかったし、子供たちの相手をわたしが引き受けていることにまるで無頓着で、今夜ママは一緒にお風呂に入れないからお食事がすんだらすぐ寝なさい。と二人に言い残してさっさと食卓を離れてしまった。
――高志のヤツすっぽかしたな。
食事中に瓔子は、苛立ちを隠しもせずに、同じことを、繰り返し呟いた。
――あいつ、逃げてるのよ!
立ち上がりざまの瓔子の吐き捨てた言葉に二人の少女は、発条《バネ》仕掛けの人形のように同時に反応を起した。
――あいつだって、あいつだって、おかしいィ。
二人は母の威勢のいい口調に刺戟《しげき》されてその口真似をしながら巫山戯《ふざけ》だした。瓔子がそんな子供たちに眼もくれようとはせず出て行くのを見ながら、わたしはこの一週間ほどの彼女の落着きを失った不機嫌な態度に思いあたった。わたしはそれを鵜沢との交渉がうまく捗《はかど》らないためだと思いこんでいたのだ。瓔子は毎日のように外出し、暗い表情で戻って来ると、留守中の電話を気にし、彼女自身もさかんに電話を掛けて相手を捜し求めている様子だった。その相手が高志だったということに気づきながら、わたしはまだ半信半疑で、瓔子の不可解な面をあらためて見る思いであった。
それは、直視したくない事態であった。高志と瓔子の間になにがあるのか。瓔子が鵜沢のもとからこの家へ帰って来た頃、晩《おそ》くまで三人で酒を飲んで話しこんだりしたが、そんなとき、わたしが先に寝室に引きあげた後、彼らの間になにがあったのだろう。高志はそのような次の朝はこの家から出勤することが多かった。それらの朝の二人の表情を、わたしは想い出そうとした。瓔子の陽気で屈託ないおしゃべり、高志の軽薄な三枚目ぶり。わたしは凍てつくような感覚に急に締めつけられた。
瓔子は暗い廊下にうずくまって低い声で受話器に話しかけている。彼女の白いスラックスの腰の下には、ふわふわしたスリッパがクッションがわりに敷きこまれていて、濃いオレンジ色のポンチョスタイルの大きな衿《えり》に彼女は顎を埋めるようにして話に熱中していた。その姿を見たとき、わたしは暗がりで火刑を科せられ燃えている妖怪《ようかい》が、今|呻《うめ》いているのだと咄嗟《とつさ》に思った。
瓔子は長電話をやっと切ると、これから高志が来るわ、とわたしに告げて、応接間のガスストーブを点《つ》けたり、食事や飲みものの支度を手伝いの娘に指図したり、忙《せわ》しなく動き廻った。
――そんなに気を遣うことないでしょう、お茶の間でいいじゃないの、食事だって勝手にさせればいいでしょう。
わたしの言葉はかなり挑戦的だったとみえて、瓔子は、はっとして振り返った。そして一瞬なにか云いかけてわたしを見たが、すぐに戸惑いの薄笑いを浮べると、
――そうね、サービスすることなんかないんだわ、高志なんかに……。
と力なく云った。その瓔子の表情にわたしはすくなからずうろたえた。振り返った瞬間、愚しく見開いた眼と棒立ちになったその姿態は、悪事を露見された罪人のように惨めに萎縮《いしゆく》していった。剥《む》き出しにされた瓔子の脆弱《ぜいじやく》さは、たちまちわたしを自己嫌悪につきおとした。
高志は沈痛な表情で応接間のソファに坐っていた。彼は暖かい室内の空気にもかかわらず冷えきった顔をしていた。瓔子はガスストーブの脇の床に膝をかかえて坐りこみ追いつめられた獣のような顔を衿に埋めていた。
わたしはベッドに入ったところを、彼らに呼ばれたのだった。硝子《ガラス》の円テーブルには洋酒の用意がされてあるのに、高志はそれに手をつけていなかった。
――高志が、あたしと別れるっていうの。
瓔子はすでに酔っていて、その低い囁き声は、わたしに云いつけでもする拗《す》ねた子供のような口振りだった。……あたしたち、あなたの知らない間にずうっと……。
瓔子は、わたしの怪訝《けげん》な視線にぶつかると、さすがに口籠って口許に笑いを浮べながら、手にしたグラスを傾けた。
わたしはすべてを理解したのだ。高志の深刻な顔と、瓔子の投げやりな酔態はあきらかに、ひとつの輪となって両端からぴったり結びついていた。
――そう、それで、どうしてあたしに?
わたしが云うと、瓔子は訝《いぶか》しそうにわたしの問いを訊き返した。どうしてあたしに打ち明けようと思ったの? なにかあたしに頼みたいことでもあるの?
――あなた、驚かないの?……あたしを嗤《わら》わないの?
わたしは言葉を返さなかった。そして石のように冷淡であろうと努力した。
――高志がねえ、あなたに訊いてみろっていうのよ、あたしと鵜沢の離婚について……。
とんでもないことだ、とわたしは云った。わたしは瓔子の問題はなにも知らない。知りたいとも思わない。彼女が勝手にこの家へ戻って来ただけで、その過程をわたしはなにも知らされていないのだ。
――そうだったわ、黎子はあたしなんかとは違った場所で、いつも涼しい顔をして孤独なお姫さまみたいに生きてるの……あたしのように汚れた女の身の上話には関心がないのよ。
高志の疲れきった顔に少年じみた弱よわしい翳が走った。彼はわたしをしばらく見据えてから、
――そうだ、黎ちゃんに襟巻きを返さなきゃ……。
と唐突に云った。その様子は、あの祖母の遺体を運んだ日のことを想い出して、彼とわたしだけの共通の時間の中にそそくさと逃げこむ気配であった。高志は完全に眼の前の瓔子を無視したのだ。彼の表情がゆるやかに和んで、ソファの上で上体が大きく身じろいだとき、瓔子が不意に叫んだ。
――高志とは別れないわ! 絶対に別れない、いい? どうせ檻《おり》の中ですもの、一生逃げ出せないのよ。……高志はあたしにうってつけの道連れだわ、結婚するか死ぬかだわ、どっちにしてもあなたのママが気違いみたいに騒ぐのは間違いなしだわ!
瓔子の狂ったようなわめきは、彼女がやみくもに放り出そうとした自身の臓物に引きずられて出立を企てたあのかつての暗い時間へ真直ぐ向けられていた。
――酔ってるんだよ、いつもこうなのさ、もう飲ませない方がいいよ。
高志は瓔子から視線を外したまま、わたしだけに聴えるように低く云った。
――ほんとに死ぬかもしれない……。
わたしは呟いた。瓔子は死んでしまうかもしれない。
――でも、さっきの騒ぎだよ、いつもあれだ、ぼくを憎んでるんだよ、おふくろとぼくをどうしても切りはなせないんだ、このひとは……。……知ってるだろう? 鵜沢さんのこと……、こっちが失踪《しつそう》でもしないかぎり追い廻されるよ。……もっと早く解決しなきゃいけなかったんだ。
――別れるわよ!
わたしは高志に投げつけるように云った。別れますよ、愛してないもの、好きでもないのに……ほんとに気が狂うわ、このままじゃ……。
瓔子と自分自身のためにわたしは思うさま泣きたかった。そのために高志が邪魔だった。
――帰りなさいよ。早く! 行方不明にでもなったらどう?
高志の蒼白《そうはく》の顔が不意に見知らぬ男のそれのように硬《こわ》ばった。祖母の遺体をのせた車の中で、一瞬わたしに向けられた見知らぬ男のあの顔だ――。その輪郭がゆっくりとくずれて薄く笑みを浮べると、彼は狡猾《こうかつ》な幼さを剥きだしにして甘える口調で云った。
――いやだなあ、黎ちゃんにまでどうしてぼくがいじめられなきゃならないのさ。
――とにかく、あなたたちの問題は終ったのよ。
ひと昔前に馴染みだった駅前の喫茶店で、わたしは鵜沢を待った。その頃、クラシック音楽喫茶だったのが、今では画廊喫茶というのになっていて、奥行きのある長い壁面に、同じ画家の油絵がかかっている。わたしは入口のドアを見通せるテーブルについて、熱いココアを飲みながら、灰色と浅黄色の目立つ絵をぼんやり見ていた。どの構図も同じ主題で、画面から視線を逸らすとすぐ印象がたち消えてしまう。脳裏にしっかり焼きつけるように気を入れて観た後、わたしは素早く、客の出入りするドアに視線を流す遊びを繰り返した。すると映像はたちまち、めまぐるしく動くドア硝子の外界に呑まれてしまう。わたしの視覚になだれこんでくる冬の街は、今ぱっくり口を開いた現実感をいっぱいに膨張させながら、全身に凶暴な圧力をかけてくる。
朝、瓔子は縁側にしゃがみこんで、飲んだばかりの水を庭に吐いた。その透明の吐瀉液《としやえき》が、乾いた苔《こけ》にゆっくり滲《し》みこんでいくのを見ながら瓔子は云った。
――飲みすぎた次の日はいつもこうなの、喉がひりひりして、水を飲むとすぐせり上がってくるの……ただの二日酔いだけど。……きのうの夜のこと全部憶えてるわ……。
寝乱れた髪を、瓔子は両手で締めつけるようにしながら、頭痛に顔を顰《しか》めて寝床に戻った。そして布団にもぐりこむと、いかにも重病人のように吐息をもらした。
――これからどうしたらいいのか、あのひとに教えてもらいたいわ。……黎子さん、あなた鵜沢に会ってみて。
――どういうこと?
――どうって、ただそれだけよ、どこにいてもあたしは同じなのよ、子供たちのことを考えなきゃ……。
瓔子のくぐもった声が奇妙に間延びして云った。すると、ある位置から呆気なく脱落していく、捕えどころのない虚脱感が、彼女の周囲に漂った。
街の流れから飄揺《ひようよう》とわたしの目前に現われたその顔は、過敏な鳥に似た眼差しでわたしを見た。
――むかしの瓔子は、ちょうど今のきみのようだった。
彼は唇を忙しく動かして低い声で素早く喋った。さっき店に入ってきみを見たとき、はっとした。
わたしは、彼が煙草に火を点《つ》けるのを見まもりながら、このひとは老人のようだ、と思った。その貧相にさえ見えるうそ寒そうな男は、まぎれもなく葬儀の日のあの男で、今わたしの眼の前で、どこか落着かないしぐさで煙草を喫ったりコーヒーを飲んだり、軽く咳《せ》き込んだりしている。
――ぼくの考えを結論からいいましょう。
脚を組んで前屈みの姿勢の鵜沢は云った。ぼくは瓔子と離婚したい。彼女が今になって気が変ったとしても、ぼくは受け入れたくない、出来ないことです。はじめからぼくたちは世間並の結婚などしていなかった。ぼくにはずっと妻というものがいなかった。瓔子ははじめからぼくの患者でしかなかった。あのひとはぼくと一緒にいるかぎり、健康をとりもどせないと思う。瓔子のなかで根づよく生きている恐怖感や憎しみが、ぼくが彼女の主治医になればなるほど、はっきりしてくる。ぼくは正直いって瓔子の主治医でいることに疲れた。この十年ぼくがどれだけそのことにかかりっきりだったか、彼女が出て行ってからはじめて気がついたほどだ。……高志くんとのことも知っている。そのことを問題にする気はない。……きみたちの叔母さんとの事実もぼくは否定はしない。しかし瓔子が思っているほど深入りはしなかった。……そこで子供たちのことだが、ぼくはどうしても引きとりたい。瓔子には母親としての健全さが欠けている。誰よりもぼくが一番よく知っていることです。
跡切《とぎ》れがちに、しかも早口で話す鵜沢にわたしは頷《うなず》いた。
――……でも姉は、子供たちのためにあなたとの復縁を考えています。
――そうじゃない、瓔子はまたぼくの患者になりたいと思っているだけです。すでに七、八年もぼくたちは夫婦ではない、ぼくが患者を手放さなかっただけです。しかし、もうそれを繰り返す自信はない。ぼくの方が自滅しそうだ。瓔子は自分から去って行った。彼女のために一番いい療法だと思う。
――……冷酷でいらっしゃる。
――そうですか?
鵜沢は眼をあげてわたしを見た。ぼくも人間ですよ、きみたちには解らないだろうけど、ぼくがどれだけ……。
――とにかく、もう厭だとおっしゃりたいのでしょ。
――そう……。
鵜沢はしばらく無言のまま、店の奥を見透すようにした。
――その辺に瓔子が隠れていて、ぼくに飛びかかってくるような気がする……。
彼の突飛な妄想《もうそう》をわたしは笑えなかった。鵜沢はまるで病み疲れたように嘆息して、薄く色のかかった眼鏡を外すと、両眼を揉《も》み潰《つぶ》しでもするように指先で押えた。お疲れのようですからこれで、と云ってわたしは立ちあがった。
――あの子たちは、しばらくわたくしに預からせてください。
――黎子さん!
鵜沢は立ちあがりざまよろめくと大きく傾いでわたしの腕をとった。二人は狭い通路でもつれあう恰好になったが、わたしは彼の手から遁《のが》れて先に立って歩きだした。
冬空の下で街は狂奔していた。わたしは一瞬それにひるんで店頭に立ちつくした。無数の男と女が似た表情をもった大群になって、荒あらしく交錯している。
――姉につたえます、鵜沢さんのお考えを間違いなく。
ゆっくり歩きながらわたしは、まるで従いでもするように歩調を合わせている鵜沢に云った。
――ぼくの考えは間違っているだろうか……。
彼は不安をあらわにして早口で云った。瓔子はこれからどうするだろう……。
人混みにおし流されそうになるのを、鵜沢の躰がショーウインドに押しつけた。ガラス張りの中のどの人形も現実ばなれのした姿で布に包まれて、白っぽいちいさな唇を突きだしていた。
――きみは、あれからどうやって生きて来たのだ。瓔子がぼくの患者だったとき。
そうだ、わたしはどうやって生きて来たのだろう。祖母につきあったわけでも、つきあわされたわけでもない。わたしを包んでいたのは、死に近いあの場所であった。わたしが自由にできたあの長い時間、あれは死から出発し死へ到達したいと希《ねが》う長い予測の線上だった。
ショーウインドの人形が纏《まと》っている黒い布の襞のなかに、わたしは鵜沢の恐ろしい顔を発見した。そのすっかり皮膚の捩《ねじ》れた表情は濃い陰になって陥没している。
――ぼくは瓔子を救えなかった。……そのあいだきみはなにをしていたのだ。
わたしはどう答えればいいのだろう。彼の問いかけは、今わたしを静かに揺り起そうとしている。わたしの仮眠は終ったのだ。長い仮眠から醒《さ》めた今、わたしはどう答えたらいいのか。
――……ぼんやり睡っていたのかもしれないわ、……幽霊みたいに……、そして夢を見ました……。
わたしはためらいながら陥没した顔に囁いた。マネキン人形の金髪が、祖母の死んだ夜明けに見た夢のなかの裸体の女とそっくりなのに、わたしは気づいた。
[#地付き](「新潮」昭和四十八年三月号)
この作品は昭和四十八年二月新潮社より刊行され、
昭和五十二年三月新潮文庫版が刊行された。