目次
路傍の石
ペンを折る
路傍の石・付録
あとがき
解説(高橋健二)
年譜
路傍の石
くち絵のかわりに
そのとき、吾一は学校から帰ったばかりだった。はかまをぬいでいるところへ、おとっつあんが、ひょっこり帰ってきた。おとっつあんは、彼に銅貨を一つ渡して、焼きイモを買ってこいと言った。よっぽど腹がすいているらしく、いやにせかせかしていた。
吾一は、急いで路地を駆けだして行った。
ちょうど、おやつの時刻だったので、焼きイモ屋の店さきは、ふろしきを持った小僧だの、オカモチをさげた女中だのが、黒びかりのする、大きなカマの前に、いっぱい立っていた。なかなか順がまわってこないので、吾一はいらいらしたが、やっと、彼の番になった。
「おつぎは、おいくら。」
イモ屋のおやじは長い竹のハシを動かしながら、忙しそうに言った。
大きな店の小僧たちが、十銭も二十銭も買って行くなかで、少しばかり買うのは、吾一はなんとなく、きまりが悪かった。彼はちいさな声で、「一銭。」と言った。
「おいきた。」
主人は威勢よく答えて、カマの中から、なれた手つきで、ひょいひょいとイモをはさみあげた。
きょうはバカにまけてくれるんだなあ、と吾一は思った。やがて新聞にくるんでくれた焼きイモを受け取って、厚いカマのふちの上に、一銭銅貨を置くと、
「あっ、ちょっと待った!」
と、おやじはとんきょうな声を出して、吾一から急に包みを取りもどした。そして、三つ、六つと勘定しながら、包みの中のものを、カマへ返しはじめた。おやじは一銭を十銭と聞きちがえたものらしい。向こうがまちがえたのではあるけれども、いったん、包んでくれたもののなかから、数をへらされることは、こっちが悪いことでもしているように見えて、ひどくきまりが悪かった。吾一はカマの前に立っていることが苦しくなって、逃げだしたくなった。
その時、
「はいよ。」
と言って、おやじが、ちいさな袋を渡した。吾一はそれを持つと、どろぼうのように、こそこそと店さきから姿をけした。
うちに帰ると、どうしたのか、おとっつあんはいなかった。彼は「おとっつぁーん。」と大きな声を出して呼んでみたが、返事がなかった。さっき、いやにせかせかしていたから、急に用を思いだして、また出かけて行ったのかもしれない。しかし、こんな思いをして買ってきたのにと思うと、彼はくやしかった。
吾一はそとへ遊びに行きたかったが、あいにく、おっかさんもいないので、買ってきたものを、置きっぱなしにして行くわけにはいかなかった。こんなにしていると、焼きイモがつめたくなってしまう。彼はさめないようにと思って、袋のままふところに入れて、あっためていた。しかし、おとっつあんも、おっかさんも、なかなか帰ってこなかった。
と、えり《・・》とえり《・・》の合わせ目から、なんとも言えない香ばしいにおいが、ほど合いのあったかさを持って、ぽうっとのぼってくる。吾一は大いに誘惑を感じたが、思いきって、両方のえり《・・》をぴしんとかき合わせて、顔を横のほうに向けていた。それでも、あごの下のほうから、香ばしいにおいがあがってきたが、彼は目をつぶって、我慢をしていた。すると、今度は焼きイモのぬくもりで、おなかがだんだんあったかくなってきた。あったかになってくると、腹がときどきガマのように、グーと、うなりだした。
そのころ、吾一はおやつをたべていなかったから、わけても腹がすいていた。お小づかいをもらわないわけではないけれども、小づかいは、毎日、貯金バコにほうりこむことにしていた。買い食いをしないで、小づかいはなるたけ貯金するようにと、学校で先生から言われて以来、それを実行しているのである。しかし、三時ごろになると、毎日おなかがすいてたまらなかった。けれども、そこを我慢して、小づかいを使わないようにしなくてはいけないのだと思って、こらえてきたが、きょうは、ふところの中にすばらしいものを持っているのである。しかも、これをたべたところで、貯金は少しもへるわけではない。あごの下からは、あい変わらず香ばしいにおいが鼻を突いてきた。焼きイモのにおいというものは、特別、鼻を刺激する。
「おだちんに、一つぐらい、いいだろう。」
とうとう、こらえられなくなって、吾一は袋の中に手を突っこんだ。
きょうのは丸やきなので、わけてもうまかった。彼は夢中で一つたいらげてしまった。一つたべると、前よりもかえって食欲が増してくる。と、ひとりでに手がふところの中にはいって、また一つ取り出した。さっきの焼きイモ屋での不愉快なことなんか、もうすっかり忘れてしまっていた。
そして、一つ、二つとたべているうちに、一銭ぐらいの焼きイモは、いつのまにかなくなって、ふところの中は、新聞がみの袋だけになってしまった。
ぺしゃんこになっている袋が、指の先にさわった時、吾一は言いようのない寂しさにおそわれた。彼は泣きだしたいような気もちになった。そして、ふところの新聞がみの袋を引っぱり出して、はしのほうを、わけもなく、ちぎっていた。
やがて、おとっつぁんがどこからか、あたふたと帰ってきた。おとっつぁんはあがるが早いか、焼きイモはどうした、と言った。
吾一は答えられないので、下を向いたまま、焼きイモの袋を、じいっと見つめていた。
「なんだ。食ってしまったのか。しようのないやつだな。」
おとっつぁんはキセルで、火バチのふちを強くたたいた。
吾一は思わず、すすりあげた。
「バカ、泣くやつがあるか。」
おとっつぁんはそう言って、しかったが、きっとまた、銅貨を投げるのだろうと思った。そうしたら、さっきのような、いやなことはあったけれど、吾一は喜んで、もう一度、イモ屋に駆けて行くつもりだった。
しかし、おとっつぁんはサイフを出さなかった。疲れたような顔をして、ただキセルをくわえているだけだった。
吾一にはそれがまた、たまらなく悲しかった。
不意に、おとっつぁんの声がした。
「おい、なんだって、そんなところに焼きイモの袋なんか置いとくんだ。早くかたづけちまえ。」
それから、いくんちもたたない時のことである。
おやつをたべないものだから、吾一は腹がへってたまらなかった。貯金なんて腹がへってやりきれないから、やめてしまおうかと思ったが、先生に言われたことが守れないのはくやしいと思った。ところが、ほかの友だちに聞いてみると、友だちもみんなやめてしまったという。「それじゃおれも……」 と、ひょいと、よわ気になりかけたが、彼はこういう時、かえって、えこじになる子どもだった。
「よし、それなら、おれがやり通してみせる。」
が、どうがんばってみても、腹のへることは同じだった。
ある時、彼はうちの前で、ふと、コマを落とした。取ろうと思って縁の下をのぞくと、サツマイモがワラの中にころがっている。どうしてこんなところに、おサツをころがしておくんだろう、と不思議に思ったが、そんなことよりも何よりも、吾一のあたまにぴんときたことは、「しめた。」という、きらめきだった。
彼はさっそく縁の下にもぐりこんで、そいつを一つ取りあげた。なんだか普通のサツマイモにくらべると、少し皮の色がちがっているような気もしたが、たいして、気にとめなかった。皮には、ほとんどどろ《・・》はついていなかったけれど、彼は筒っぽのそでの先で、なんどもこすってから、大きくガクリとやった。
ガクリとやってから、彼は急に妙な顔をして、はき出してしまった。甘みがなくて、へんに水けがあるくせに、かすかすしていた。きっと、できそこないのサツマイモだろうと、彼は思った。
吾一はそいつをほうり出して、別のをかじってみた。それもやはりかすかすだった。このなかには一つぐらい、うまいのがあるだろう、と思って、四つ五つ、食いかいてみたが、どれもうまいのに当たらなかった。
「まあ、そんなところで何をしているの。」
急におっかさんの声が、上から響いてきた。
「あら、吾一ちゃん。まあ、ダリヤをみんな台なしにしてしまって……」
ダリヤという声を聞くと、おとっつぁんも縁がわへ飛んできた。
その時分は、ダリヤが非常に珍しいころで、ダリヤという名まえさえ、吾一はまだ知らなかった。その球根は父おやが東京からもらってきたもので、とりわけ大事にしていたのである。
おとっつぁんは、はだしで飛びおりて、いきなり吾一をなぐりつけた。
「きさまは、どうして、こう食いしんぼうなんだ。ネズミのように、なんでも、かじってしまやあがる。」
その場は、おっかさんの取りなしで、やっとおさまったが、おとっつぁんは、なおぷりぷりしていた。吾一がこんなことをするのは、つまりは、おやつをたべないからである。おやつをたべないで貯金をする、なぞということは、子どもには無理な注文である。そんなことは、やめさせてしまえ、と言った。
しかし、吾一はやはり貯金をやめなかった。食いしんぼうと言われたことが、ひどくこたえたのである。食いしんぼうにはちがいないのだが、そうあからさまに言われると、「食いしんぼうなもんかい。」と、はね返さずにはいられなかった。それに、彼は学校で級長をしていた。おれは級長なんだから、先生の言ったことは、どんなことをしても守らなくっちゃいけないんだという考えも、かなり彼を支配していた。
彼は、毎日、歯をくいしばって、おやつの時間を辛抱した。友だちと夢中になって遊んでいるような時には、忘れてしまうこともあるが、雨がふって、うちにいるようなおりには、かなり、つらかった。そんな場あいには、彼は本を読んだり、体操をしたりしてまぎらした。ある時なんか、たまらなくなって、貯金バコに手をかけたこともあったが、おっかさんからあけ方をおそわっていないものだから、どうしても、あかなかった。あけられないのは、くやしかったが、あとでは、それをしあわせだと思った。
そのうちに、彼は稲葉屋(いなばや)の店さきで本を読むことを覚えた。稲葉屋は路地の出ぐちの大きな本やで、吾一のうちのおおやさんだった。はじめは本をただ読みすることは、悪いような気がして、はしのほうで、こっそり立ち読みをしていたが、稲葉屋のおじさんは、たいへんいいおじさんで、「君にはこれがいいだろう。」とか、「今度、こういうのがきたよ。」なんて言って、「世界おとぎばなし」や「少年世界」なんかを、どんどん貸してくれた。
吾一は前から本が好きだったが、こういういい図書館ができたので、彼はますます本が好きになった。彼はどんな日でも、稲葉屋の店さきに姿を見せないことはなかった。ダリヤをかじった少年は、こんどは毎日、本をかじっていた。
それから、稲葉屋へ行くと、ときどき塩せんべいや、おいしいお菓子をもらった。もちろん、それが目あてではないけれども、吾一にとっては、それも、稲葉屋へ行く一つの楽しみだった。
一方、貯金はだんだんふえていった。一日一銭か二銭の貯金だから、たいした額にはならないが、お正月とか、お祭りの時のお小づかいや、あるいは、人からもらったおひねりなぞを、吾一はみんな貯金バコに入れてしまったから、思いのほかのものになった。貯金バコがいっぱいになると、おっかさんはそれを郵便貯金にかけてくれた。吾一はもう三円になったとか、五円になったとか言って喜んでいたが、この貯金が十円ほどになった時に、父おやはそれを引き出して、自分の訴訟事件のほうにつぎこんでしまった。子どもなんか貯金をしなくてもいい、と言っていた父おやだが、事件が切迫してくると、うちにある金は、だれのものでも見さかいなく、持ち出してしまった。が、吾一は貯金帳がから《・・》になっていることは、夢にも知らなかった。
中学志望
「おっかさん、行ってまいります。」
自分の息がまっ白く、かたまって流れた。吾一は思わず肩をすぼめた。
でも、松を抜いたあとにさしこんである、かど松のしん《・・》が目にはいると、やっぱり、春らしい気がしないでもなかった。が、その青いものも、あたまをちぢこめて、寒そうに土の中にかがんでいた。
吾一はかど口《・・・》で二、三べん、両手をこすり合わせると、急いで稲葉屋の路地を駆けだした。カバンのあいだにはさんであるソロバンが、腰のところで、カチャカチャ鳴っていた。吾一はカバンをおさえた。でも、ソロバンの玉はおどるのをやめなかった。
「まっすぐ行っちまおうか。」
駆けながら彼は考えた。「京ちゃんとこへ寄ると、おくれるかもしれない。」
おくれては、たいへんである。それが気になってたまらなかったが、しかし、彼はいつものように、やっぱり、京ちゃんのところに寄ることにした。この近所の者は、みんな京ちゃんのところに集まって、それからいっしょに学校へ行くことになっていた。いつ、だれがきめたというわけでもないんだが、いつのまにか、そういうことになってしまっていた。
京造はそんなに学校ができるほうではない。できる吾一が、できない京造のうちに、まい朝よることは、あんまりいい気もちではなかった。でも、ほかの者が、みんな京ちゃんのところに集まるのに、どうも自分だけ、なかまはずれになるわけにはいかなかった。
京造のうちは材木の中にうずまっていた。往来に面して、長い材木が、切り岸のようにそびえ立っている、リンバ(林場)の前のあき地には、もう六、七人、集まっていた。京造を中心にして、彼らは火をたいて、あたっていた。
「おい、行こう。きょうはおそいんだぜ。」
自分がおくれたことはなんにも言わないで、吾一はせき立てるように、大ごえで呼びかけた。
「うん、行こう。」
京造はすぐ腰をあげた。
彼はあごで、ぐるっと、あたりを見まわした。
「なんだ。秋ちゃんがいねえじゃねえか。」
京造は一度もちゃげた腰を、また、おろしてしまった。
「どうしたんだろう、秋ちゃん。」
「あいつ、いつもおそいねえ。」
そんなささやきが、あちこちから漏れた。
「おい、ぐずぐずしていると、おくれっちゃうぜ。」
吾一はみんなの注意をうながすように、いらいらした語調で言った。
「そんなこと言ったって、秋ちゃんがこなくっちゃ、だめじゃねえか。」
時間のことなんか、京造はなんとも思っていないらしい。てんから平気な顔をしていた。
「おらあ、おくれるの、いやだなあ。」
ひとりがこないからといって、自分まで遅刻するのはたまらない、と吾一は思った。それに、けさは一時間めが修身だ。修身の時間におくれたりするのは、なお、いけない。
「じゃ、おいてっちまうのか。」
京造はほお《・・》をふくらました。
「秋ちゃんがあとからきたら、かわいそうじゃねえか。」
そう言われてしまうと、自分のほうがまちがってるような気がして、吾一は、あとのことばが出なかった。
「もう少し待とうよ。秋ちゃん、もう、じき、くるよ。」
京造はおっかぶせるように言った。だれもこのことばに、反対する者はなかった。
たき火の上には、また、こっぱ《・・》がかさねられた。青いけむりがしばらく、くすぶっていたが、まもなく、ぱあっと燃えあがった。
「京ちゃん、もう学校じゃないの。八時ですよ。」
うちの中から、おっかさんの声がした。
「いいんだよ、まあだ。」
京造は、はね返すように答えた。彼は丸太に腰をかけて、いい気もちそうに、また《・・》をあぶっていた。
店の正面の大黒ばしらにかかっている、大きなはしら時計が、八つ鳴った。
たき火から離れたところに立っていた吾一は、
「ああ、寒い。」
と言いながら、足ぶみするように、両方の足を二、三べんバタバタと動かした。じっとしていることが、彼にはどうにもならなかった。
「まあ、あたれよ。」
京造は竹の先で、たき火の火をなおしながら言った。
しかし、吾一は火にあたるどころではなかった。もう小使いさんが一番がねを鳴らしている時分だ、と思うと、気が気ではなかった。
「だけど、秋ちゃん、おそいな。」
吾一と同じ組の作次が、たき火のそばで大きなあくびをした。
「迎えに行ってみようか。」
それを受けて下級の者が、恐る恐ることばをはさんだ。
「そうだなあ。――」
京造もさすがに腰をあげた。
「しようがねえやつだな、あいつ。」
そばに置いてあるバケツの水を、彼はぱっと、火の上にぶちまけた。
「じゃ、みんなして、秋ちゃんちへまわって行こう。」
彼らは、どやどやと往来に出た。
けれども、秋太郎のうちは、学校へ行く道すじから少し横にそれていた。これからすぐ駆けて行ったって、まに合うかどうかわからないくらいなのに、そんなほうにまわっては、当然、遅刻するにきまっている。吾一はみんなが動きだしたのをしおに、
「おら、まっすぐ行くよ。」
と、言い放って、急に彼らのあいだから抜けてしまった。そして、ひとりっきりで、いっさんに学校のほうへ走って行った。
背なかで、なんか声がしているようだった。
組の者、おいてっちまうのか。
点とり虫!
おべっかつかい!
しかし吾一は、そんなことばなんか、どんどんうしろ足でけとばしてしまった。なんと言われたって、学校におくれないほうがいいんだ。先生がくる前に、運動場にちゃあんとならんでいるほうがえらいんだ。――
しばらくすると、「わあっ!」という声が、うしろのほうでした。
彼らが追いかけてきたのかもしれない。吾一は追いつかれないように、前よりも足を早めた。
「おーい。」
大ぜいの声がだんだん迫ってきた。
「待っててえ。」
「おーい。」
「吾一ちゃあん!」
「いっしょに行こう。」
校門のところへきた時に、授業のはじまる鐘が鳴りだした。吾一は、いくらかほっとした気もちで、うしろをふり返った。
そこヘ、みんなもどやどや駆けこんできた。
吾一はてれかくしに、えがお《・・・》をつくって、彼らを迎えた。
校庭にはもう、どの組の生徒も、それぞれの位置に列をつくっていた。吾一はおくれてきた連中といっしょに、すばやく自分たちの組にもぐりこんだ。
「でも、早かったね。」
吾一はいっしょにもぐりこんだ作次に、小ごえで言った。
「うん。」
作次は駆け通しだったので、ことばが続かなかった。彼は一度、息をついてから言った。
「おれたちも、あれからすぐ、駆けてきたんだよ。」
「じゃ、寄らなかったの、秋ちゃんち?」
「うん、京ちゃんだけが行ったんだ。」
「みんなも京ちゃんのこと、おいてきちゃったの。」
「ううん、そうじゃねえ、京ちゃんがね、秋ちゃんちへ行くのはおれだけでいい、みんな先へ行けって言ったんだよ。」
それを聞くと、吾一はなんだかげんこつ《・・・・》でむなもとを、ドカンとやられたような気がした。
運動場にならんでいた生徒は、朝の礼がすむと、先生にみちびかれて、それぞれ教室にはいった。
京造と秋太郎がやってきたのは、それから七、八分もたったあとのことだった。
「いま、なんの時間か知っているか。」
次野(つぎの)先生は教壇の上から、ふたりをにらみつけた。
「福野、おまえはなんでおくれてきたんだ。」
「…………」
「寝ぼうをしたんだな。」
秋太郎は返事をするかわりに、あたまのてっぺんに手をやって、つるっとなでまわした。
「まっさきが修身の時間だというのに、あさ寝をするやつがあるか。――小村、おまえはどうしたんだ。」
京造はなんにも言わないで、黙って立っていた。
「おまえも、あさ寝をしたんか。」
京造は答えなかった。結んだ口を心もちゆがめただけだった。
「しようのないやつだ。ふたりとも、そこに立っていなさい。」
秋太郎はまた、あたまをなであげた。
京造はじろっと、教壇のほうをにらんだが、すぐ姿勢を正しくして、きりっと立った。
吾一は京造が気の毒でならなかった。なぜ京造はほんとうのことを言わないのかしらと思った。自分は朝ねぼうをしていたのではありません。これこれでおくれたんですと、はっきり言えばいいじゃないか。自分のことは、自分じゃ言いにくいのかしら。それなら、作次が、なんとかひとこと、言ってやればいいのにと思った。が、吾一にも、「先生。」と手をあげる勇気はなかった。
先生は前の話を続けた。しかし吾一には、その話はあまりあたまにはいらなかった。先生の話よりも、目の前にいる京造の姿のほうが、もっと大きく、彼の上にのしかかってきた。因果なことに、彼は背が低いものだから、一番まえの机にいた。そのすぐ前に京造は立っているのである。いやでもふたりは顔を合わせないわけにはいかなかった。
ふたりの目と目がかち合った。吾一はあい手の目を見ることができなかった。彼はあわてて目をふせてしまった。
向こうは学校におくれてきたのだ。そして立たされているのだ。こっちはきちんと学校にきたのだ。どっちが正しいか、そんなことはわかりきったことだ。それでいながら、吾一の心は草の葉のようにゆれていた。
どうも立たされている彼のほうが立派で、腰かけてる自分のほうが、かえって恥ずかしい気もちだった。彼はそれがなんだかくやしかった。京造のほうがまちがったことをしているくせに、なんだってこっちが、こんなにぐいぐいおさえつけられるのだろう。
あいつといっしょだと、おれはときどきこんな目にあわされる。あいつは学校はできないが、タクアン石のように、どっしりとしたところがある。学問のうえではけいべつ《・・・・》していながら、けいべつしきれない、何か不思議なものが、京造のからだの中には根を張っていた。
彼はそんなことを考えながら、うす目をあけて、そうっと前を見た。京造はあい変わらず、丸ばしらのようにどっしりと、突っ立っていた。
「愛川、おまえはどうだ。」
突然、先生の質問が飛んできた。吾一は不意をくらって、少しどぎまぎしたが、それでも、すぐ立ちあがって、要領よく答えた。
「そう、そのとおり。」
と、次野先生は満足そうに言った。
吾一はしずかに腰をおろした。その時また、京造の目とかち合った。京造の目は前よりも、もっと光っていた。光が吾一の目にささった。彼はある痛みを感じた。しかし、そんなふうに、上のほうから見おろされると、今度は、彼もつい負けたくなかった。「でも、今のような答え、きさまにできるかい。」吾一はそういう目で、向こうを見かえした。
「では、きょうの修身はそこまでにして、――ちょっと、みんなに聞いてみたいことがあるんだが……」
と、次野先生は急にことばの調子を変えた。そして、いま町に建設中の中学校のことを話しだした。工事がおくれて、ことしのまには合わないだろう、といううわさ《・・・》も立っていたが、それはやはりうわさ《・・・》で、四月には確かに開校する。また、その前には入学試験もおこなわれるはずである。ついては学校でも、それに対していろいろ準備をするつごうがあるから、中学校にはいりたい者は手をあげなさい、と先生は言った。
吾一らの組は高等小学の二年だった。そのころの高等二年というのは、今の尋常小学六年級に相当する。彼らはこれから中学にはいるか、はいらないかの、ちょうど、わかれ目に立っているのだ。中学にはいって、それからだんだん上へのしていくか、それとも、このちいさな町の土になってしまうか、ここが一生のわかれ道だった。吾一はかねてから、はいりたくってたまらなかった。先生も、おまえは、はいるほうがいい、と言ってくれた。だが、彼はすぐ手をあげて、「先生、はいりたいんです。」と、言えるような、めぐまれた境遇にいるのではなかった。
ほかの者もみんな、はっきりしたことは言えないのだろう。お互いに顔を見あうばかりで、手をあげる者は、ひとりもなかった。その時、
「先生。」
と、立っている秋太郎が手をあげた。
「わし、行きたいんです。」
「行くのはいいが、遅刻するようじゃ、入学試験は受からないぞ。」
みんながどっと笑った。
そのほかには、中学に行きたいと、はっきり答えた者はひとりもなかった。それでは、よくうちで相談してくるように、と先生は言って、その時間はおしまいになった。
みんな運動場に出た。京造や秋太郎もゆるされて運動場に出た。
吾一は、けさ、先に駆けてきてしまったことが、気がとがめてしかたがなかった。彼は「さっきはどうも……」と言うかわりに、「遊ぼう。」と言って、にこにこしながら、京造のそばに近づいて行った。彼らのあいだでは、しばしば「遊ぼう。」が「ごめんね。」「仲よくしようね。」に通用した。
京造は、そのことばが聞こえなかったのか、――聞こえないはずはないと思うのだが、
「秋ちゃん、おめえ、ほんとうに中学に行くのか。」
と、急に秋太郎のほうに、からだをねじってしまった。
わざと避けたわけではないのかもしれないが、吾一にはその態度が不愉快だった。
「うん。行くよ。」
秋太郎は軽く答えた。
「バカだな。中学になんか行ったって、どうするんだ。」
「だって、おとっつぁんが行けってんだもの。」
「おとっつぁんが言ったってさ……」
「そうだとも、中学なんかつまらねえや。よせ、よせ。」
作次もそばから口を出した。
そのころ、このちいさい町では、中学というものは、そんなに歓迎されなかった。中学なんかやると、なま意気になるというのが、一致した意見だった。それが自然にここに反映したわけだろうが、しかし吾一は、こんなふうに秋太郎がみんなからやられているのを見ると、なんだか気の毒になった。彼は、けさ、秋太郎を迎えに行ってやらなかったので、なんとなく気がひけていたところだったから、秋太郎をかばってやる気になった。
「そんなこと言わなくたっていいよ。行きたいものは、行ったっていいじゃないか。」
「だけど、うちのおとっつぁん、言ってたよ、中学へ行ったって、五寸角はかつげねえって。」
「中学校は材木やじゃねえよ。」
吾一はすばやく切り返した。
「そ、それはそうだけど、なに商売にも役に立たねえってさ。」
ことばでは京造はさっぱり、さえなかった。向こうがたじたじとなったところをおさえて、吾一は上のほうから言った。
「立つか、立たねえかは、やってみなくっちゃわかんねえよ。」
と、作次は急に横から吾一に迫った。
「そんなこと言って、おめえも中学に行くんけえ。」
「おらあ、どうだかわかんねえよ。――おら、どうだかわかんねえが、中学へ行っちゃいけねえってことはねえじゃねえか。行っていけねえもの、県庁で建てるわけがあるけえ。」
吾一にこう言われると、反対派はまともに突っかかっていくことは困難だった。作次はまた、側面からからんでいった。
「ふん、そんなこと言うんなら、おめえも中学へ行ったらいいじゃねえか。」
「おら、わかんねえよ。わかんねえって言っているのに、――わかんねえ人だな。」
ほんとうのことを言うと、「ああ、おれは行くよ。行ったら、それがどうだっていうんだい。」と吾一は強くはね返してやりたかった。が、そう、はっきりと、はね返してやることのできない自分を、彼はなさけなく思った。
あいつらは、おれが中学へ行きたいことを知っているんだ。そして、行けないことも知っているんだ。それでこんなことを言うんだなと思うと、吾一はくやしくってたまらなかった。
「畜生、今に見ていろ、おれはきっと、中学へ行ってみせるぞ。中学校の制服を着て、きさまたちの前を大またに歩いてみせるぞ。」腹の底にぐっと力を入れて、彼は何ものかに、堅く誓った。
その夜のことば
授業の終わったあとの学校は、しいんとしていた。
ペンキのはげた古い門の前に、ちいさなつむじ風が巻いている。それがこっちの柱から向こうの柱のほうへ、コマのように、くるくるとまわって行った。
当番でおそくなった吾一は、ゲタ箱の横に立ちどまったまま、ぼんやり、門のほうを見ていた。
「帰ろう。」
不意にうしろから肩をたたかれた。ふり返ると、道雄だった。
「うん。」
吾一は軽くそう言ったが、彼の目は、くるくるまわっている黄いろいうず巻きのほうを、また追いかけていた。
彼はあまり道雄が好きでなかった。道雄のほうでは遊びたがっているのだが、吾一はどういうものか、彼としたしむ気になれなかった。
道雄は二の組の級長で、学校がよくできた。もっとも、両方の組を合わせても、吾一が一番のことは、一番だが、ふたりの成績はいつもすれすれだった。
ほんとうから言ったら、彼は京造や秋太郎なんかと遊ぶよりも、道雄と遊んだほうが、ずっといいのだ。彼らのあいだで「少年世界」を取っているのは、道雄だけだった。そのうえ、彼のうちでは道雄のほしいという本は、なんでも買ってくれるらしいので、彼はたくさんの本を持っていた。だから、こういう点でも、道雄と一ばん話が合うわけなのだが、彼は妙に仲よしになれなかった。道雄が本を貸してやると言っても、彼は借りなかった。そして、彼が買った本は、たいてい、稲葉屋の店さきで読んでしまった。
道雄のうちはお医者さんなので、何かにつけて、西洋くさいところがあった。あるとき彼のうちに遊びに行ったら、どろをとかしたような、まっ黒い飲みものを出された。こんなものは飲んだことがないから、吾一はもじもじしていると、「甘くって、うまいんだぜ。」と、しきりにすすめられるので、彼は恐る恐るくちびるをつけてみた。なるほど、色は黒いけれども、甘くって、うまかった。それはコーヒーってもので、お湯をつがない前には、サイコロのように、白い、四角い形をしたものだそうだ。なかに、コーヒーって黒い粉がはいっている。それだけだと、にがくって飲めないから、そとを白ザトウでくるんであるのだそうだ。
吾一は道雄の説明を聞きながら、うまかったものだから、砂のような、ざらざらしたお《・》り《・》まで飲んでしまったが、舌の上にごそごそしたものが残った時、
「――だけど、なんだね、サトウ湯のほうがうまいね。」
と、その割りにうまくなかったような批評をした。吾一は道雄から、自分の知らないようなものを突きつけられると、いつも、つい、反発しないではいられなかった。このコーヒーに限らず、本でも、おもちゃでも、道雄はとかく吾一の知らないようなものを持ち出しては、彼をへこまそうとするように思えてならなかった。そのたび、吾一は「何を。」と思うのだった。
「吾一ちゃん、おめえの組でも、きょう、先生、中学校のことを言ったか。」
道雄はのぞきこむように言った。
「うん。」
「おめえも行くんだろう。」
「おらあ、どうだかわかんねえや。」
「そんなこと言わねえで、おめえも行けよ。」
「…………」
「おれのほうじゃ、行くやつがねえんだ。おれひとりかもしんねえんだ。」
「…………」
「おれひとりじゃ、つまんねえや。なあ、おめえもいっしょに行こうよ。」
吾一は返事をしなかった。ただ、くちびるをかみしめて、道雄の顔を見つめていた。
と、西のほうから往来をなめるように、低く吹いてきた風が、ふたりをほこりの中に包んだ。
おっかさんは状ぶくろを張っていた。
このごろおっかさんは、どうしたのか、お針をしたことがない。いつでも状ぶくろばかり張っている。吾一が目をさます時分には、おっかさんは、ノリと袋のあいだにいる。そして彼の寝る時にも、やっぱりノリと袋の中にうずまっているのである。
「ただ今。」
吾一がカバンをはずして、上にあがると、おっかさんはえがお《・・・》をして迎えたが、手はちっとも休めなかった。まるでバネじかけの機械のように、単調に指を動かしていた。
おっかさんは、めったに口をきいたことがない。口をきく時間さえ惜しそうに見える。いつもうつ向いて、指の先だけ動かしているのだ。すっかり手じゅんがついているので、白い指のあいだから、ほそ長い封筒が、一枚、一枚、小やみなく、たたまれていくさまは、なんのことはない、あさ瀬にさざ波が寄せているような感じだった。
でも、ひっ切りなしに打ち寄せている波をいつまでも見ていると、だれでも、ものうくなるように、おっかさんの指の先を見ていると、やっぱり同じような気もちに誘いこまれる。いつまでたっても、同じことのくり返しだ。いつまでたっても、なんの変化もなければ、なんのおもしろいこともないのだ。そういう単調な、そういうものうい仕事のなかで、ときたま、ひょいと、袋と袋がすれ合って、カサッて音を立てたりすることがあるが、この、カサッて音ぐらい、世にも寂しい音はないだろう。おなかの中に、ひからびた木の葉が散りこんだように、腹の底までさむざむとしてしまう。
きょうは吾一は、はかまもぬがないで、おっかさんのそばにねばっていた。無論、中学校のことを、ねだろうと思っているのである。先生から、うちでよく相談してくるようにと、言われたからではあるが、彼としては、是非とも作次の前を、中学校の服を着て大またに歩いてやりたい、道雄に負けたくない、という欲望が火のように燃えていた。しかし、ときどき、あの、落ち葉に似たカサッて音がすると、妙に目の前が、暗くなって、つい、言いそびれていたのだが、やがて彼は思いきって、
「ねえ、おっかさん……」
と、口を切った。
「なに。――」
「ねえ、……やっておくれよ。――いいだろう。」
中学のことは、今にはじまったことではない。こう言えば、おっかさんには、すぐにわかると思っていた。しかし、おっかさんは、
「どこへ行くんです。」
と、そっけなく聞き返した。
「中学校へさ。」
「まあ、おまえ、そんなところヘ……」
おれんは、うわ目で吾一をちらっと見ただけで、袋を張る手は少しも休めなかった。
「だって、秋ちゃんも、道ちゃんも行くんだぜ。」
「そりゃ、ああいうおうちのむすこさんなら、行くでしょうさ。――」
「だから、おれもやっとくれよ。」
「…………」
「よう。おっかさんてば……」
「そうはいきませんよ。お医者さんや、大きな呉服やのむすこさんとは、いっしょにはなりませんよ。」
「だって、秋ちゃん、学校、できないんだぜ。」
「…………」
「あんなできないのが行くんなら……」
「吾一ちゃん、中学へはね、できる人ばかりが行くんじゃないんですよ。」
「そ、そんなこと言ったって、できないやつなんか、受かりゃしないよ。きょう、先生が言ったよ。はいる前に入学試験があるんだって……」
おっかさんは返事をしなかった。そして、あい変わらず袋を張っていた。おっかさんの手の中には、機械でもすえつけてあるように、ほそ長い封筒が、指の下から休みなく飛び出した。吾一は波のように、あとから、あとから、ひっ切りなしにあらわれてくる袋を見ていると、おっかさんは自分よりも状ぶくろのほうを、もっと大事にしているんではないかしらって気がして、灰いろのさらさらした袋が、むやみに憎らしかった。彼はさっと手をのばして、そいつをみんな、かっ散らかしてしまいたいくらいだった。
「よう、おっかさんてば。……やっておくれよ。」
張りあがった状ぶくろを一枚とって、畳の上で横にしたり、縦にしたりしながら、吾一はどこまでも母にくいさがっていた。
「吾一ちゃん、それ、いじっちゃだめよ。まだ、かわかないんだから。」
母おやは返事のしようがないので、そんなことを言って、話をそらそうとした。
「なんだい。こんなもの。」
そう言われると、吾一は腹だたしそうに、いじっていた状ぶくろをたたきつけた。薄っぺらな袋は、封筒の山の上に手ごたえなく、ふわっと落ちた。
「そんなに、じれたってしかたがありませんよ。」
「だって……だって……」
吾一は泣きだしそうな声をくり返していたが、ふと、何かを思いつくと、急に母のほうへにじり寄った。
「ねえ、おっかさん、あれがあるじゃないか、あれが、……」
彼は勢いこんで、貯金のことを言いだした。もっと早くにこれを言えばよかったのに、と思いながら。
貯金ということばが出た時、おれんの手はぴたっと、とまってしまった。吾一には何も話していないだけに、今さら、あれはおとっつあんが……とは言えなかった。
「貯金だって、おまえ、あれっぱかりのお金じゃ……」
おれんの声は苦しそうだった。
「だって、服ぐらい買えるだろう。」
吾一もまさか自分の貯金で、中学へ行けるとは考えていなかった。しかし、服とクツぐらいは買えるだろう。中学の服を着て、クツをはいてと思うと、なんだか胸がどきどきしてきた。
「吾一ちゃん。――」
おれんは台の上に手を休めたまま、寂しそうに言った。
「服だけじゃ中学へは行けないのよ。」
「そんなことは知ってるよ。だから、あとは、うちで出してくれるんさ。」
「そ、そんなことを言ったって……」
「よう、おっかさん、おれの貯金みんな出しちゃってもいいから、やっとくれよ。よう、ようってば。」
吾一の声は一つ、一つ、小石のようにおれんの胸を打った。
「それじゃ、おとっつぁんに相談してみましょう。なんと言うか知らないけれど……」
「おとっつぁんなんか……」
吾一は、ほき出すように言った。
このごろ、おとっつぁんは、めったにうちにいたことがない。いつも東京へ行っている。なんでも、裁判のことで夢中になっているんだそうだ。おとっつぁんは裁判のことを話してくれないから、どうなっているんだかわからないけれども、たまに帰ってきても、にがい顔ばかりしている。第一、相談すると言ったって、いつ帰ってくるのか、わからないのだから、そんなのを待っていたのでは、とても、らちのあく気づかいはないと思った。
今こんなことを話したって、裁判のほうがかたづかないうちは、……
母おやはため息をついた。そして、たいぎそうに、また袋を張りはじめた。
吾一はうなだれたまま、おっかさんの細い指さきを、しばらく黙って見つめていたが、
「あ、おれ、いいこと考えついた。」
と、急にとんきょうな声を張りあげた。
「ねえ、おっかさん。いいこと考えたんだよ。おれもいっしょに袋を張らあ。ね、そうすりゃ、お金が取れるから、大丈夫だろう。」
まあ、この子は何を考えているのだろう。袋を張ったら、いったい、いくらになると思っているのだろう。おれんはこんなことを言われると、一層たまらなかった。
しかし、吾一はひとりで、りきんでいた。
「おれ、学校から帰ってきたら、すぐにやるよ。――おれだって、やりだせば、きっと早いよ。」
「いいえ、いけません。吾一ちゃん。男はね、――男は、こんなことをするもんじゃありませんよ。」
「どうして。――」
「どうしてでも。それより、おまえは自分の勉強をなさい。」
「勉強したって、……勉強したって、……行けるんでなくっちゃ……行けるんでなくっちゃ……」
吾一はしくしく泣きだした。
「そ、そんなことを言って、おっかさんを困らせるもんじゃありませんよ。」
おれんもとうとうこらえられなくなって、たもとを目に押しあてた。
ピチャッと、つめたいものがえりもと《・・・・》にくっついた。
カエルに飛びつかれたのかと思って、あわてて、そこに手をやると、じゅくじゅくにぬれた、ちいさな紙のかたまりが指の先にさわった。
畜生、撃ちやがったな。どいつがこんなことを……と、顔をあげたとたんに、またかみ鉄砲が飛んできた。
向こうを見ると、だれかが竹筒(たけづつ)を向けてねらっている。竹筒は一つだけではない。いくつもならんでいた。
しゃくにさわったから、そのかみ鉄砲を引ったくってやろうとしたら、竹筒がいちどきに、どっと笑った。そして、その笑いといっしょに、タン、タン、ターン、と無数の紙つぶてが飛んできた。
こっちが進めないのを見ると、竹筒はまた笑った。そのうちに、丸い竹筒の口が、いつか、人の顔に変わった。
と、どこかで、おっかさんの声がした。
おっかさんの声がしたら、人の顔が急に消えてしまって、笑い声も聞こえなくなった。
「やあい、負けたろう。」
吾一はそう言ってやりたかったが、不思議に声が出なかった。でも、おっかさんがきてくれたんで、よかったと思った。
…………
…………
だって、あなた、……
…………
…………
もう、そんなわけには……
…………
…………
おっかさんの声は、そよ風のように、ときどき、そうっと吾一の耳たぶをこすっていった。あんまり静かなので、意味はちっともわからないが、おっかさんの柔らかい声が、ほのかに耳をなでていてくれると、吾一はなんかいい気もちだった。
そよ風にまじって、ゴーッ! っていう荒い風が、さっきから耳についていたと思ったら、いつか、それが太い、だみ声に変わった。
「おまえ、それ、言ってしまったのか。」
「いいえ、言やあしませんけれども、わたし、貯金のことを言われた時には……」
「いいから、そんなことは、ほっておけ。――それよりも、なんとか、くめんがつかねえかなあ。」
「そんなことを言ったって、このうえ、あなた……」
「困っちまったなあ。……どうにかならねえかなあ。……ほんとに、こんな時には、あいつが女の子だと……」
「まあ、あなた、何を言うんです。――」
「娘っ子なら、すぐ役に立つって言うのさ。」
「冗談にも、そんな話はよしてください。そこに寝ているんじゃありませんか。」
吾一はえりもと《・・・・》をつかまえられて、川の中にほうりこまれたような気もちがした。彼はもうすっかり、目がさめてしまった。――どうして、自分が女の子のほうがいいんだろう。女の子なら、どうして、すぐ役に立つのだろう。彼は足をちぢこめて、まあるくなったまま、耳をすましていた。
しかし、「そこに寝ているんじゃありませんか。」とおっかさんが言ったら、急におとっつぁんの声もちいさくなってしまって、あとの話は、ほとんど聞こえなかった。
おとっつぁんは、いつ帰ってきたのだろう。自分が寝てから帰ったのに相違ないが、いま話をしていたのは、なんのことなんだろう。
彼は寝ぐるしくなったので、ごろりと向きを変えた。
「ごらんなさい。あんなに動いているじゃありませんか。」
おっかさんの声が、またぽつんと聞こえた。
吾一はやっぱり足をちぢめたまま、息を殺していた。
よく朝、ごはんをたべる時には、おとっつぁんはまだとこ《・・》の中にいた。おとっつぁんに何か言われるのは、こわいから、吾一は急いで学校へ飛び出してしまった。
帰ってくると、おとっつぁんはもういなかった。また東京へ行ってしまったのだそうだ。
「おとっつぁん、おこって帰っちゃったの。」
「……そういうわけでもないけれど……」
おっかさんはあい変わらず、状ぶくろを張っていた。おっかさんは口をきくのも、たいぎそうだった。
「おっかさん、中学校のこと話してくれた。」と聞こうかと思ったが、彼はわざと聞かなかった。ゆうべのことを思うと、聞かないほうが、かえっていいと思った。
きょう、吾一は学校で、おとっつあんの言ったことばを、なんども考えてみた。そんなに、考えてみようと思って、考えたわけではないのだけれど、授業中でもなんでも、あのことばが、雲のように、ふうっと浮かんできて、あたまの中が、それでいっぱいになってしまうのである。しかし、なんど考えても、女の子のほうが男よりもいいっていう意味が、どうしてもわからなかった。男よりも女のほうが役に立つなんて、そんなことがあるものかと、彼はそのたび、父のことばを強く打ち消した。
それと同時に、ばらばらになっていた、腹の中のもやもやしたものが、だんだんに固まっていって、底のほうに、何か一つの固まりができあがった。その固まりが、彼に、ある決意をうながした。
おっかさんは、袋はりなんていやしいことだと言うけれども、うちの手つだいをすることが、どうしてそんなに悪いのだ。おっかさんがどう言おうと、おれは断然おっかさんの手つだいをする。おれだって役に立たないはずはないのだ。どんなことをしたって、女の子になんか負けるものか。うちのために働いてやれば、おっかさんだって、きっとなんとかしてくれるにちがいない。
彼はそう決心がついていたから、帰ってくると、さっそく、ちいさい箱を台どころから見つけ出してきて、おっかさんのそばにすわった。
「おっかさん、ノリおくれよ。」
「なんに使うの。」
「おれも、それ、手つだうよ。」
「吾一ちゃん、きのうも言ったでしょう。おまえはこんなことをするもんじゃありませんよ。」
「だって、おっかさん、今、いねむりしてたぜ。」
子どもにそう言われると、おれんは思わず顔を赤らめた。彼女はそれをごまかすように、まばたきを二、三度したが、きょうは、わけてもまぶたが重かった。
「おっかさん、疲れているんだ。おれ少し、かわってやるよ。」
「そんなこと言っても、おまえにはできませんよ。」
「ううん、できるよ。そんなくらい、なんでもないじゃないか。こうして、こうして、こうやればいいんだろう。」
吾一は母の前で、袋を張る手つきをしてみせた。それがなかなかうまいので、母おやは思わず微笑した。
おれんは、どんなことがあっても、自分の子どもに、袋を張るようなことはさせたくなかった。そんなことを考えてみたことさえなかった。が、彼女は実際、ひどく疲れていた。いねむりなんかする気はみじんもないけれど、気がゆるむと、つい、うとうととなってしまうのである。そのうえ愛川が帰ってきて、ついさっきまでいたものだから、手じゅんがすっかり狂ってしまった。どうしても、きょうじゅうにしあげなければならない仕事が、まだ山のように残っている。それを思うと、彼女は気がせいてたまらなかった。
吾一が袋を張る台の箱まで持ち出して、手つだってくれると言うのなら、きょうだけ、きょう一日だけ、ちょっと手つだってもらおうか。なん枚でも張ってもらえれば、それだけ助かるというものだ。それに、子どもの気もちをくんでやらないのも、かえって、いけないかもしれない。
「それじゃ、少しやってごらん。」
彼女は、灰いろの紙をひとつかみ取って、吾一に渡した。
「ううん、少しぐらいでなく、いくらでもやるよ。おれ、遊びに行かないで、一生懸命にやるよ。」
吾一は紙を受け取ると、母のやるとおりに、はしにノリをつけて、元気に袋を張りはじめた。
おれんはちょっとひと休みしたかったけれども、そばに積んである用紙のたばは、とても彼女に休息をゆるさなかった。彼女はすわったまま、あい変わらず指を動かしていた。
指を動かしながら、彼女は吾一のほうに目をやった。吾一は不器用な手つきで、一枚、一枚、張っていた。シモヤケだらけのちいさな手が、灰いろの紙を丹念にたたんでいるさまを見ていると、彼女は目がしらがあつくなってきた。――ほんとうに、父おやが訴訟なんかに夢中になっていなければ、こんなことを子どもにさせなくってもすむのに……
「吾一ちゃん、急がないでもいいから、丁寧にやってちょうだい。」
「ああ。」
「紙の裏おもてをまちがえないようにしてね。」
「ああ、わかっているよ。」
吾一は顔もあげずに、熱心に仕事を続けていた。
「疲れないかい。」
「ううん、ちっとも。」
それからしばらくは、紙をたたむ音と、ノリをつける音のほかは、何も聞こえなかった。ふたりとも墓場の古い石塔のように、前にこごんだままだった。
「おっかさん、できたよ。」
吾一は渡されたぶんを張りあげると、自慢そうに、おれんの前に突き出した。
「あ、そう。それはありがとう。」
ともかくも状ぶくろのかたちをしているので、母は安心した。しかし受け取った封筒を裏がえすと、彼女は青くなってしまった。
「おっかさん、どうしたの。」
敏感な少年に、母おやの顔いろが読めないはずはなかった。
「いいの。いいの。」
そうは言ったものの、おれんの目には涙が浮かんでいた。時間がなかったものだから、つい子どもに頼む気になったのだが、それがまちがいのもとだった。
吾一の張ったものは、はじめの一枚だけではない。調べてみると、どれも、これも、みんな左まえに張ってあった。これでは一つも使いものにならない。手つだってもらうつもりが、あべこべに手数のかかることになってしまった。忙しいさなかだけに、おれんは泣くにも泣けなかった。張る前にいろいろ注意したつもりだったが、やっぱり、ことばがたりなかったのだ。
ノリがかわかないうちにと、彼女は自分の仕事を中止して、急いで一枚、一枚、はがしはじめた。
「まちがってんの、それじゃ――」
箱の上にのせていた吾一の指さきは、けいれんするように軽くふるえていた。
「まちがってんなら、おれ、なおすよ。――」
「いいえ、もういいの。」
「どうして。――」
「やっぱり、吾一ちゃんには無理だったのよ。」
「ううん、そんなことないよ。おれにできるよ。――大丈夫だよ。」
「もうたくさん。あなたにやってもらうと、かえって手まがかかるから、これだけにしておいてちょうだい。」
おれんは小ざかなの腹を裂くように、張った封筒を一つ、一つ開いてみた。なかには、うまくはがれないで、ピリッと音を立てるものもあった。
吾一はそれを見ていたら、涙がぽろぽろ出てきた。申しわけがないような、くやしいような、わけのわからない気もちでいっぱいだった。彼はたまらなくなって、めくらじま《・・・・・》の筒そでで、目の上をぎゅっとおさえた。
「吾一ちゃん、おまえが悪いんじゃないんだから、泣いたりするんじゃないの。――もう、いいの。もういいの。」
「…………」
「おまえは一生懸命にやってくれたの。おまえが悪いんじゃない。こんなことをさせた、おっかさんが悪いんだよ。」
そう言いながら、おれんは帯のあいだから、キンチャクを出して、一銭銅貨を一つ、吾一の箱の上に置いた。
「さあ、きょうのお小づかい。」
しかし、吾一はいつもなんでもなく、もらっている小づかいに、手をのばせなかった。手をのばすどころか、「お小づかい。」って言われたら、急に涙がこみあげてきて、彼はぷいと、立ちあがってしまった。
「どこへ行くの。――遊びに行くのかい。」
吾一は返事をしないで、そのままそとへ飛び出した。
が、そとへは出たものの、表へ駆けて行く元気はなかった。彼は路地の中に、ちいさくなって、しゃがんでいた。
「吾一ちゃん。――」
母はなお、うちの中で呼んでいたが、彼は黙っていた。そして首をたれたまま、ただ地べたを見つめていた。
路地の中には、いつかの雪が置きざりにされたように、まだ、ちょっぴり残っていた。それが昼のあったかさで解けて、吾一の足もとのところで、ちいさい水たまりをつくっていた。
つめたい風が路地の中に吹きこんできた。水たまりの上には、キンツバの皮のような、薄いしわ《・・》が寄った。
水たまりの上の薄い皮は、たえずふるえていた。吾一はいつまでも、それを見ていた。
涙がむやみに流れた。
実学
「一つ、いこう。」
稲葉屋の主人黒川安吉は、次野に杯をさした。銀ぶちの目がねをかけているせいか、前かけはしめているが、だいぶ書生ふうなところが残っている。
張りかえたばかりの縁がわの障子に、午後の光が明かるく、さしていた。年よりがひまひまにつるしておいたのだろう、糸に通したカキがソロバンの玉のように、障子に影を落としていた。次野立夫(つぎの・たつお)は、何か別の世界でものぞいているような気もちで、そいつをながめていたが、目の前に杯がきたので、急に現実に引きもどされた。
「どうしたんだ。ぼんやりしているじゃないか。」
「う、うん。――」
「また、ゆうべも徹夜かい。書くのもいいが、からだを大事にしないといけないね。」
「大丈夫だよ。」
「立ちゃんはもっと健康に注意しなくっちゃ……」
「はははは、健康! 健康! 『いつも変《かわ》らず健康《けんかう》ならんをねがはゞ、頚《くび》の運動《うんどう》を怠《おこた》るべからず。』か。」
次野は投げるように言ったと思うと、ひと息に杯をほした。親類にきた気やすさもあるのだろう、教壇に立っている時の次野とは、まるで別人のような口のききようである。
「そうだよ。あんたはもう少し運動をしなくちゃいけないよ。」
「安さんは、話せないな。」
「どうして。」
「正直正太夫(しょうじき・しょうだゆう)が言っているよ。『いつも変《かは》らず健康《けんかう》ならんをねがはゞ、頚《くび》の運動《うんどう》を怠《おこた》るべからず。頚《くび》の運動《うんどう》は即《すなは》ちおじぎ也《なり》。』って。」
「なんだ。君はまた校長と衝突をしたのかい。」
「いいや。衝突はしない。くびの運動をやらなかっただけだ。」
「どうして君はそうお辞儀がきらいかな。わたしなぞは、朝から晩までやっているがな。」
「どうだかね。――ぼくの聞くところじゃ、稲葉屋のだんなは、慶応になんか行ったんで、あんまり腰が低くないって評判だぜ。」
「まあ、わたしのことはどうだっていいが、なんだって校長とやったんだい。」
「つまらないことさ。」
「また教員室で小説を読んでいたのか。」
「いいや、そんなことじゃない。なあに、生徒たちにね、中学校の入学受験準備をしてやるのがおそいって、がみがみ言うから、――『へえ、申しわけありません。』って、その場であたまをさげてしまえば、なんのこともなかったのだろうが、ぼくにはぼくの考えもあるからね。少しばかり、こっちの意見を述べたんだよ。それがまあ、よくなかったんだろうね。」
「なるほど。」
「校長の意見では、この町にできる中学校だから、この町の小学校から受けに行く者は、みんな入学できるぐらいの成績でなくっちゃ、学校として不名誉だ、と言うのだ。ところが、ぼくはまだ、だれが中学へ行くのかさえ調査していなかったのだ。それで、すっかりごき《・・》げん《・・》をそこねたわけさ。しかし、ぼくとしちゃ『おまえは中学へ行くのか、それじゃこっちへきて勉強しろ。中学へ行かないやつは、向こうへ行け。』なんてことは、じつにいやだからね。」
「そりゃそうだ。――で、どうかた《・・》がついたのだい。」
「どうもこうもないさ。校長の命令じゃないか。――いま、入学志望の者を調査中だよ。」
「どれくらいある。」
「まだ、わからないが、あまりなさそうだよ。――ぼくは慨嘆にたえないんだが、こういう生徒こそ、はいるほうがいいと思うものは、家庭の事情ではいれないで、はいったってしようがないってようなやつが、はいりたいって手をあげるんだ。」
「世の中って、そんなもんじゃないかな。」
安吉はおしゃく《・・・》をしながら言った。
「ああら、めでたや……」
まんざい《・・・・》のしゃがれた声が、くたびれたようなツヅミの音といっしょに、表のほうから流れてきた。
次野は二、三杯たて続けに、杯をかさねたが、
「少し君に頼みたいことがあるんだがね。」
と、急にしんみりした調子で言った。
「裏の子どものことなんだけれど、君もあの子をかわいがっているようだが、どうだろう、あの子に学資を出してもらえないかね。」
「そうだね。――」
安吉はつぎっぱなしになっている自分の前の杯を、じいっと見つめていた。
「安さん、ぼくはああいう子どもを、中学に入れてやりたいのだ。あれは見どころのある子どもだよ。」
「そりゃ、わたしも考えないことじゃないが、しかし、そいつはどうかな。」
「どうかなって、言うと……」
「なかなか、そう簡単にはいかないと思うのだ。」
「どうして……」
「あの子のおとっつぁんは、士族だからね。」
「士族だって、ベつにかまわないじゃないか。」
「立ちゃんはだめだね。そんなこっちゃ、小説は書けやしないよ。」
「おどかしっこなしにしようぜ。せっかくの酒がさめちまうよ。」
「はははは。だが、いつかも、新聞に出ていたじゃないか。士族がソバ屋を切った話……」
「ぼくは忘れてしまったね。」
「なんでも、引っ越しソバの切手をもらったんで、そいつを子どもに持たせてやって、これだけ届けてくれって言わせたんだそうだ。そうしたら、――おおかた、額が少なかったのだろうね。切手じゃお届けできません。ドンブリを持ってきてくださいって、突っ返したんで、士族がソバ屋をぶったぎったという話さ。」
「なんだ。古い話じゃないか。」
「古くってもなんでも、士族ってものは、そういうものなんだよ。立ちゃんも、そこがわからなくつちゃ……」
「しかし、そいつはソバ屋が悪いじゃないか、ドンブリを持ってこいなんて。」
「そりゃ、ソバ屋も悪いには悪いけれど、何も刀を持ち出さなくったっていいだろう。わたしの言いたいのは、なぜ、士族がそんなまねをするかってことだ。――今の士族ってものは落ちぶれてる。見さげられている。しかし、あの人たちからすれば、町人なんぞに見さげられてって気もちが……」
「安さん、それはちがうよ。ドンブリを持ってこいなんて言われりゃ、ぼくだって黙っちゃいられないが、学資を出すっていうのに、腹を立てる人間もないじゃないか。」
「いや、そうとも限らないよ。町人ふぜいが、さしでたことをする、と取られないこともないからね。」
「いやに町人、町人って言うじゃないか。しかし、こっちは子どものためを思って……」
「さあ、それがわかるようならいいけれど、どうも、おさむらいってものは、体面なんて、古いお面を、何よりも大事にしているからね。」
「なるほどね。そりゃ大きに、そういうところもあるが、しかし、なんと言ったって、今日のような時勢になったら……」
「その今日の時勢が、あの人たちにはいけないのだよ。世の中が進むほど、武士ってものは、のけ者にされてきたんだからね。版籍奉還、廃藩置県、国氏皆兵、一つ、一つ、おもしろくないことばかりじゃないか。ろく《・・》は取れなくなるし、刀はさせないし、商売をすれば、すってしまうし、不平で不平でたまらないんだよ。今日の民権運動だって、底をたたくと、白由の名にかくれた不平士族の一種の反抗運動じゃないかね。」
「愛川のおやじってのは、そんなに当世に不平なんかね。」
「さあ、そこのところは、わたしにもはっきりわからないけれども、何しろ村長をあい手どって、訴訟を続けていたり、異人をつかまえて、なぐるような人だからね。」
「ちょっと待ってくれ。ぼくは訴訟のほうのことは、どっちが正しいか知らないが、外国人をぶんなぐったのは、無理がないと思うね。」
「そんなことを言ったって、……どうも、立ちゃんも、なぐりかねないほうだからな、はははは。」
「ああ、ぼくはなぐるね。断然なぐりつけるね。あんな場あい、黙って見ていられるもんかね。」
次野は杯を、ぐいと、ほした。
愛川が外人をなぐったという話は、こういうのである。
もう二、三年ほど前のことだが、鉄砲を持った西洋人が、大沼(おおぬま)に鳥うちにやってきた。しかし、一わも取れなかったので、だいぶ、むしゃくしゃしていたらしい。ある百姓やのところまでくると、その家の横にアヒルが五、六ぱ遊んでいた。彼はそのアヒルに鉄砲を向けたのだ。アヒルは驚いて、ゲエゲエ言いながら逃げだした。しかし、足の短い、太っちょの鳥は、いくら逃げてみたところで、たか《・・》がしれている。ズドンと引き金をひくと、たちまち、一わ、横になってしまった。飛ぶことのできない鳥を撃つのなら、だれが撃ったって、当たるにきまっている。
たまたま、その百姓やに居あわせた愛川は、鉄砲の音を聞いて、びっくりしてそとに飛び出してみると、大きな西洋人が突っ立っている。しかも、その西洋人は、いま撃ち殺したばかりのアヒルをさげて、出かけようとするところだったので、愛川は百姓といっしょになって、外人に抗議を申しこんだ。しかし、ひとこともことばが通じないから、何を言っても、さっぱり要領を得ない。外人も何かしきりにほざいていたそうだが、ちっとも、あやまるけしきがないので、ふたりはおこって、異人をぶんなぐってしまったのだそうだ。
いくら西洋人だからといって、家畜を鉄砲で撃つということがあるだろうか。飛べない鳥に筒さきを向けるなんて、無慈悲なことがあるものではない。ところが、その外人はそんなことにとんじゃくなく、日本人から暴行を受けたと言って、警察に訴え出た。そのために、愛川と百姓のふたりは、たちまち処罰された。そんなバカなことはない。不法なことをしたのは向こうなんだと言って、ふたりがいくら抗弁しても、なんのかいもなかった。西洋人に対する手まえ、ふたりはどうしても、罪に落ちなければならなかったのである。
そのころの日本では、外人がどんなに悪いことをしても、外人をつかまえて裁判する権利がなかった。領事館に突き出してみたところで、彼らはうちわ同士で裁判をやるのであるから、ほとんど罪になるということがない。そして、あべこべに、日本のほうに苦情を持ちかけてくるのが、いつも、きまったやり口だった。その時も一応は領事館にかけ合ったのだが、鉄砲で撃った鳥は家畜ではない。家畜ならオリの中に入れておくのが当然だ。道路の上にいたものなら、野鳥に相違ない、と、こんなそらぞらしいことを、恥ずかしくもなく、述べたてて、ふつごうなのはどこまでも日本人である。旅行免状を持っている者に暴行をはたらくとは、野蛮な国民だ。そういう不届きな者に対しては厳重に処罰をのぞむ、というのが、先方の要求だった。
条約改正以前の日本には、こんなことはざらにあった。その最もひどい例は、ノルマントン号事件である。イギリスの船ノルマントン号が横浜を出帆して、神戸(こうべ)に向かう途中、風雨のために、紀州沖で暗礁に乗りあげ、沈没した事件があった。その船には、日本の乗客が二十三人いたが、その日本人たちは、ことごとく溺死(できし)してしまった。お客がみんな死んでしまったくらいなら、船員もひとり残らず、海底に沈んだものと、だれでも思うだろうが、その時、船長以下、イギリスの水夫二十六名は、つつがなく助かっているのである。汽船が沈没するような場あいには、船長や船員は最後まで船にとどまり、まず、乗客を救助するのが本務ではないだろうか。よし、その乗客は、しがない三等船客であろうとも、彼らだって同じ人間なのである。船賃もちゃんと払っているのである。しかるに、日本の乗客はひとりも助かることなく、船長らだけ、ボートで逃げたということは、いったい、何をもの語るものであるか。彼らの目から見たら、日本人の船客などはコモ包みの荷物に過ぎなかったのだろうか。そうだ。コモ包みの荷物として、置き去りにされてしまったのである。
今日の日本人は、一等国民としてうぬぼれているけれども、今から五十年ほど前の日本人は、目の青い人びとから、こういう扱いを受けていたのである。これは記憶しておかなければならない事実である。
しかし、こういう非道な取り扱いを受けたのは、個々の日本人だけではない。日本の国家もまた、彼らの手によって同じ待遇を受けたのである。それは遼東(りょうとう)半島を返さなければならなかったことだ。遼東半島は、明治二十七、八年の戦役において、日本人が尊い血しおを流したところである。その正義の血しおに対して、清国(しんこく)政府は、同半島を日本にさし出したのである。それは国家と国家とが正式に取りきめた条約であった。しかるに、その戦争とはなんの関係もないはずの、ヨーロッパの強大なる三国は、日本に親切なる忠告を寄せた。「東洋永遠の平和」のために、支那(しな)に遼東半島を返すようにと言うのである。今も昔も、常に東洋の平和をねがってやまない日本帝国は、その忠告を受け入れないわけにはいかなかった。大きな犠牲を払って手に入れたものではあるが、日本は涙をのんで、それを返した。
ところが、その親切な忠告があってから、わずか二、三年しかたたないうちに、ロシヤは、日本人が血をもって占領した旅順(りょじゅん)口を、口の先だけで、うまうまとわがものにしてしまった。それから同じ忠告のなかまであったフランスは広州(こうしゅう)湾を、ドイツは青島(チンタオ)を、それぞれ巧みに借り入れた。これを見たイギリスが、どうして黙っているはずがあろう。彼もまた威海衛(いかいえい)にユニオン・ジャックをなびかせた。(アメリカがハワイを併合してしまったのも、また、同し時代のできごとである。)
これが彼らのいわゆる「東洋永遠の平和」の道だったのである。これが支那を分割してはならない、と唱えた、ヨーロッパの強国の、平和政策だったのである。
「どうも立ちゃんは、すぐ興奮するからいけないよ。」
安吉は、新しく運ばれたトックリを取りあげた。
「しかし、君、現在の日本を考えると、じつにたまらないじゃないか。」
「そりゃ、わたしだってくやしいよ。だが、くやしいからといって、ちいさなこぶし《・・・》を振りあげてみたところでどうするのだ。こいつは握りこぶしぐらいで、かたのつく問題じゃないからね。今のわたしたちは、まあ、げんこつを固める前に、もっと固めなくっちゃならないものがあると思うのだ。」
「はははは、とうとうおいでなすったな。おおかた、そうくるだろうと思っていたよ。安さんの言うのは、もっと実学を盛んにし、実業を発展させ、もっと国力を……ってんだろう。もうわかったよ、わかったよ。――ああ、酔ったなあ。――昼の酒はよくまわるねえ。」
「正月じゃないか、大いに酔っぱらうさ。」
「酔って天下国家を論ずるか。安さん、きょうは、ぼく、酔っぱらうぜ。」
「ああ、いいとも、うんと飲んでくれ。ついでに、このコブ巻きもやってくれないか。大沼のフナがはいっているのだ。」
「ありがとう。ありがとう。遠慮なくやっているよ。」
次野はまた、たて続けに三、四杯あおった。
「――畜生、きょうはバカにむしゃくしゃするな。――校長なんかなんでえ、やめてしまえば、校長もくそもあるもんか。なあ、安さん。」
「なんだい。まだ、それに引っかかっているのかい。その問題はもう『けり』がついたんだろう。」
「ああ、三月になれば、すっかり『けり』がつくよ。」
「それじゃ、あんたはこの学期だけでやめるのかい。」
「ああ、やめる。ほんとうのことを言やあ、おれは今すぐにもやめたいのだが、子どもがかわいそうだから、我慢しているんだ。生徒はかわいいからね。」
「そりゃそうだとも。だが、生徒がかわいいって言うんなら、もっと辛抱したらいいじゃないか。」
「いや、それはごめんだ。途中でほうり出すのは無責任だから、今学期中は我慢するが、それ以上は、もうどんなことがあってもいやだ。ぼくも今度という今度は、決心したんだからね。」
次野は自分でトックリをとって、自分の杯についだ。
「や、失敬、失敬。――決心って、何かい。そうすると君は、どうしても、あのほうをやるつもりなんかい。」
「あんな校長にぐずぐず言われながら、いつまでも、こんなちいさな町の代用教員をしていられるもんかね。もともとぼくは、教師になるつもりじゃないんだからね。」
「しかし、君。いくら文学が好きだからといって、今どき文学をやるなんて、あまり感心したことじゃないね。」
「あんたの言うのは、めしが食えないから、っていう意味かね。」
「まあ、そうだ。文学が好きなら好きでいいさ。それなら楽しみにやったらいいじゃないか。何も自分の職業を捨てて、君。……」
「安さん、考えちがいをしてもらいたくないね。ぼくの天職は小学校の代用教員じゃないよ。ぼくは、ぼくは、石にかじりついても、文筆で立ちたいんだ。」
「そりゃわかっているよ。しかし、あんたの好きな正直正太夫は、なんと言っていると思う。『按《あん》ずるに筆《ふで》は一本也《いっぽんなり》。箸《はし》は二《に》本也《ほんなり》。衆《しゅう》寡敵《くわてき》せずと知るべし。』って書いているじゃないか。――店でさ、あんたはあれを読んだ時、あたまをたたきながら、『ああこれだから、かなわん、かなわん。』って言ったじゃないか。」
「いや、こんなところへそんな話を持ち出されちゃ、それこそ、『かなわん、かなわん。』だよ。――だがね、安さん、あの時は実際ああ言ったけれど、ぼくは近ごろ、こう思っているのだ。『あんずるに筆は一本なり、口は一つなり。』いいかい。口は一つなりだよ。『一対一なり。なんぞ恐るることあらんや。』さ。」
「しかし、……」
「しかし、なんてことはないよ。いくら文明開化の今日だからって、人間の口は一つっきりだ。一対一なら、負けはしないよ。」
「ところが、人間には、いや、ひとりの男には、と言ったほうがいいだろう。口がいくつもくっついているのだ。」
「バ、バカなことを言っちゃいけない。そんなに口があってたまるものか。」
「それじゃ君は、妻子をどうするのだ。」
「ぼくはひとり者だよ。」
「今はひとりでも、いつまでも、ひとりじゃいられやしないよ。」
「なあに、食えなければ、ひとりでいる。おれは文学と討ち死にするつもりなんだ。」
「いや、その覚悟はじつに勇ましいが、しかし、なんだね、それだけの覚悟があるんなら、……」
安吉は言いかけたが、そのあとのことばをのんでしまった。
少し風が出たとみえて、つるしガキが障子の向こうでゆれていた。
「社会有用の学をやれって言うのかい。ちえっ、これだから慶応になんか行ったやつは、おれは、きらいだって言うのさ。」
赤くなったほお《・・》をふくらませながら、次野はぷうっと大きな息を吐いた。
「このごろは、なんでもかでも実利実益だ。そりゃ実利も結構、実益も結構さ。しかし無用の用ってこともあるんだからね。いくら実業社会が発達したって、そんなこって人間社会は発達しやしないよ。安さんの前だが、おらあ、福沢さんて人は、だいたい、虫が好かないね。」
「どうして。あんなえらい先生は、ふたりとありゃしないよ。」
「えらい人にはちがいないだろうが、文学を尊重しないから、おりゃきらいだ。」
「はははは、あんたは文学でなくっちゃ、夜も日もあけないんだからな。」
「しかし、君、和歌をとっつかまえて、『三《み》十《そ》一《ひと》文字《もじ》も三《しゃ》味《み》線《せん》に合《あは》してコリヤサイの調《てう》子《し》に唄《うた》へば都々《どゝ》一《いつ》と等《ひと》しく矢張《やは》り野鄙《やひ》なる可《べ》し。』なんて言われて、黙っていられるかい。失礼ながら、福沢先生には、文学はまるっきりわからないんだと思うね。
ひさかたのひかりのどけき春の日に
ええ、君、いい歌じゃないか。ひさかたのひかりのどけき春の日に、しづ心なく花の散るらん! おれがこうして歌ったって、そりゃ一銭にもなりゃしないよ。一銭にもなりゃしないが、じつにいい気もちじゃないか。この気もち、この境地ってものは、へん、当節の十円金貨を持ってきたって買えやしないぜ。おれは三月には、やめちまうんだ。三月からは宿なしスズメだ。しかし、しづ心なく花の散るらん! って歌っていると、宿なしがなんでえって気もちになるんだから、ありがたいじゃないか。」
「…………」
「はばかりながら、福沢先生には、『しづ心』って境地はおわかりにならないね。人間『しづ心』がわからなくっちゃ、役に立つ学問も、へったくれもあるもんか。実学がなんでえ、実業社会がなんでえ。――ああ、いい気もちになったなあ。しづ心なく花の散るらん! か。――一杯、どうだい。」
「あ、ありがとう。――どうも、たいした気えんだな」
「社会実用の学じゃ、こうした熱はあがらないだろう。この意気、この熱、この境地。これだよ。人生において、一ばん尊いものは。ああ、水が一ぱい飲みたくなったな。――それはそうと、安さん、――あれはだめかね、あのほうは……」
「あのほうって。――水はいま持ってくるよ。」
「うん。ありがとう。――あれって、あれさ。学資だよ。愛川の学資のことだよ。」
「それなら、さっき言ったじゃないか。」
「言ったかね。――ああ、そうか。だめだって言われたんか。うん、だめだって言われたんだね。……そうかねえ、だめかね。……どうしても、だめかねえ。」
次野は女中の持ってきた水を飲みながら、ろれつのまわらない舌で、なんべんも同じことをくり返していた。
「そりゃあ、わたしも気の毒には思っているんだが、今、出してみたところで、どうにもなりゃしないからね。」
「ど、どうにもならないって、……どうして、どうにもならないんだい。」
「学資が学資にならないってわけさ。」
「ふうん、おかしなことがあるもんだね。」
「全く、おかしな話だけれど、おやじさんがあれを続けてる限りは、そうなのだよ。」
「あれって、訴訟かい。――そ、訴訟なら、そっちには使わせないように、条件をつければいいじゃないか。」
「そんなことを言ったって、なんになるものかね。近ごろは、だいぶ旗いろが悪いらしいんだ。子どもの貯金さえ、引き出してしまったというのだからね。」
「そいつは驚いたなあ。しかし、子どもの貯金なんて、しれたものじゃないか。」
「ところが、そんなはした金まで、つぎこんでしまうんだから……」
「困ったおやじだな。愛川も、とんでもねえおやじを持ったものだなあ。」
「…………」
「それじゃ、やっぱり、だめかねえ、安さん。――だめとするよりほかないかね。……あいつも、かわいそうなやつだな。――しかし、しかたがないだろう。『さらば行け、行きて、なんじの……』……ああ、畜生、水っぱなが出やがった。一つ、熱いやつをもらいたいな。……安さん、おれは酔っぱらっているかい。まだ、おれは酔っぱらっちゃいやしないよ。『ああ行け、行きて、なんじの……』」
意地
往来の向こうから、道雄が手まねきをしながら呼んでいた。しかし吾一は知らんふりをして、横町へ曲がってしまった。そして、伊勢屋(いせや)の裏の松ごやのほうに行った。松ごやには、きっと京造や、作次もきているにちがいない。京造らのほうが、まだしも道雄よりも好きだった。
松ごやというのは、このあたりだけの風習かもしれないが、正月、かど松をもらってきて、子どもたちの建てる、ちいさな小屋である。
松おくれ。
しめおくれ。
さんがにちすんだら
松おくれ。
と、はやしながら、子どもたちは隊を組んで、往来をねり歩く。しかし、さんがにちがすんだばかりでは、あまりくれるうちはない。たいていは松の内が過ぎてからである。松の内が過ぎると、「なのかがすんだら松おくれ。」と、きのうよりも、もっと大ごえにどなって歩く。そして、もらった松を太いナワでゆわえ、往来を引きずって、松ごやに運んで行くのである。
小屋は暮れのうちに、丸太や竹で骨ぐみだけこしらえておく。それにもらってきた松を四方にかけ渡し、天じょうにもかぶせて、風のはいらないようにする。あけておくのは、正面の狭い入り口だけである。小屋はひと坪か、ふた坪のちいさなもので、まん中に炉が切ってある。これをかこんで、もちなどを焼きながら談笑するのである。
この小屋は十五日のどんど《・・・》にも焼かないで、時とすると、初うまごろまで残しておくことさえある。言わば、これは子どもたちのクラブ・ハウスで、学校のひけたあととか、日曜などには、みんなここへ集まってくるのである。
吾一がのぞいた時には、松ごやの中は、もうはいりきれないほど、いっぱいだった。彼は、はいろうか、はいるまいかと、ちょっとためらったが、その時、
「あ、吾一ちゃんがきた。入れておやりよ。」
と、秋太郎の妹のおきぬが、さしずするように言った。
しかし、女からそんなふうに声をかけられると、吾一はなんだかきまりが悪かったので、足ばやに帰りかけた。
「吾一ちゃん、吾一ちゃん。大丈夫よ。はいれるのよ。」
追いかけるように、彼女は入り口のところに顔を出した。ゆいたてのモモ割れから、花カンザシの赤いふさ《・・》がたれているのが、松ごやの緑に反映して、いかにもお正月らしかった。
松ごやは子どもの建てるものではあるが、じつは、おおかたの小屋ぐみは、裏のあき地を使わせている、伊勢屋のうちでこしらえてくれたものだから、ここの娘のことばは、なんと言っても、大きな力を持っていた。みんな少しずつひざを詰めて、吾一のために席をあけた。
「秋ちゃん、おどきよ。そんなにいつまでも、いいところにいちゃ、ずるいよ。」
「それじゃしかたがない。かわるかな。」
気のいい秋太郎は、妹に言われると、すなおに自分の席をゆずった。
「吾一ちゃん、そこがいいよ。」
おきぬは炉ばたにいた兄をどかせると、吾一をそのあとにすわらせた。
彼女は年に似あわず、伝法はだで、兄を兄とも思わないところがあった。秋太郎を、炉ばたからどかせるぐらいではない。自分の兄を「にいさん」とも言わないで、「秋ちゃん」と友だち扱いにするのである。もっとも、秋太郎はおきぬと年が一つしかちがわないうえに、学校を落第したりしているので、とかく、兄の重しがきかなかった。
おきぬはまゆ《・・》がこく、目がぱっちりしていた。そして、しもぶくれのほお《・・》も、大きな商家の娘らしく、なんとなく、ふくぶくしかった。ぽんぽんものを言うたち《・・》だけれど、学校のほうは、兄とちがって非常によくできた。そのせいか、できない兄はけいべつ《・・・・》するが、吾一のようにできる者には、好意を持っていた。秋太郎をどかせて、吾一を炉ばたに迎え入れたのも、その一つのあらわれである。
「おい、勝ちゃん、それからどうしたんだ。」
京造はあぐらを組みなおしながら、催促するように言った。
「あ、そう、そう。吾一ちゃんがきたんで、すっかり話がとぎれちゃったね。」
おきぬは京造のきげん《・・・》をとるように、わきから調子を合わせた。
「なんの話、してたの。」
「うん、みんなで自慢ばなしをやっていたんだよ、だれが一番すばらしいことをやったかって。――おい、あとを話せよ、勝ちゃん。」
京造は議長のような態度で、進行をはかった。
「なんだか、話しにくくなっちゃったなあ。」
「そんなことは言わねえで、早くやれったら。」
「もう、さっきで、たいてい話しちゃったようなものなんだよ。――それから、なんだ、そうっと草んなかからはい出して、逃げてきちゃったのさ。」
「それじゃ、ただスモモをもぎとってきただけじゃねえか。」
「そんなことを言ったって、おめえ、あのじいさんが、がんばってるところ盗んでくるなあ、容易じゃねえぞ。」
「なんだい。スモモの一つや二つ。おれなんか、こんなでっかい看板をかついできちゃった。」
「なんの看板?」
「薬種やの看板さ。人魚の絵のくっついてる、あのぴかぴか光ってるやつを、はずしてきたんだ。ちょっと、すごいだろう。」
「薬種やって、いわし屋かい。あんな人どおりの少ないところのなら、わきゃあねえや。おれは交番の前のうちの、表札をひっぺがしてきたぞ。巡査が向こうを向いてるまに、ぱっとやっちゃったんだ。」
話がはずんでくると、だれも彼も負けぬ気になって、いきり立っていた。
「ちょっと、もう少しおもしろいのない。今の話きいていると、みんな、それじゃ、どろぼうみたいじゃないの。」
おきぬが「どろぼうみたい。」と言ったら、「わあっ!」という笑いが、一時に爆発した。
「それじゃ、こういうのはどうだい。――山田橋のランカンの上をこういうふうにして……」
作次はやじろべえ《・・・・・》のような格好をして、両手を左右にひろげながら言った。
「手ばなしで渡るんだ。――どうだい。できるかい。」
「まあ、作ちゃんに、そんなことできるの。」
「できるさ。やったことがあるんだもの。」
「作ちゃん、おめえ、それ、なんべんぐらいできる。」
京造はわきのほうから、ゆったりした調子で尋ねた。
「なんべんって、おめえ、こっちのはしから、向こうのはしへ行くだけさ。」
「それっきりか。おれなら向こうのはしへ行って、まわれ右して、帰ってくるぜ。」
「やっぱり、手ばなしでかい。」
「そりゃそうさ。ランカンの上をはって歩いたんじゃ、自慢にならねえじゃねえか。」
「すごいなあ、そいつは。」
と、だれかが言った。
「とうとう京ちゃんに持ってかれたかな。」
作次はそんなませた口をきいたが、腹の中では、だいぶおもしろくないようだった。
ふと彼は吾一の顔を見た。彼は急に思いだしたように、
「吾一ちゃん、おめえ、まだやらねえじゃねえか。おめえにも、なんかあるかい。」
おめえにもなんかあるかい、と言われると、吾一は黙っているわけにはいかなかった。これでは、さも何もできないように聞こえる。もっと柔らかに言われたのなら、――いや、作次でなくって、だれかほかの者が言ったのなら、「ううん、おれには何もできないよ。」と、あっさり言えるのだが、作次とはこのあいだのことがあるものだから、どうもそんな、いくじのない返事はしたくなかった。彼は何か飛び離れたことを言って、向こうのどぎも《・・・》を抜いてやりたかった。
吾一がすぐ答えないのを見てとった作次は、例の調子で、またいやみ《・・・》をならべはじめた。
「何しろ、吾一ちゃんは、中学へ行くんだから、おれたちのようなバカなまねはしやしねえやなあ。」
「そ、そんなことはねえよ。」
吾一は引きずられるように言った。
「だって、おめえには、橋のランカンなんか渡れねえだろう。」
「そりゃ、おれにはランカンは渡れねえさ。そんなものは渡れねえけれど、おれにだって、少しぐれえ冒険はできるよ。」
「冒険って、どんな冒険。」
「吾一ちゃん、およしよ、そんな話。――」
おきぬは、吾一の筒そでを軽く引っぱった。しかし、ここまできてしまうと、もう吾一は、あとへは引けなかった。第一、おきぬの見ている前で、作次なんかに負けるのは、どうしたっていやだった。
「おめえはランカンを渡ったって言うが、おれはね、――おれは鉄橋にぶらさがったんだ。汽車がゴーってきた時、鉄橋のまくら木にぶらさがっていたんだ。」
「うへえ!――」
うしろのほうの者が、うなるように言った。
「ほんとかい。」
作次はドカーンと打ちのめされたかたちで、のどの奥のほうから、しゃがれた声を出した。
「ほんとさ。」
「ほんとかね。おれにはどうしても、ほんととは思えねえな。」
「作ちゃん、そんなに人を疑ぐるもんじゃなくってよ。吾一ちゃんがうそ《・・》を言うわけないじゃないか。――でも、吾一ちゃんも、ずいぶんえらいことをやるのね。あたし、ちっとも知らなかった。……」
おきぬはびっくりしたように、吾一のほうを見つめていた。
吾一は炉の火をまともに受けているせいか、ほおも、目も、まっかに燃えていた。
「だけど、ほんとかね。吾一ちゃんがやったなんて……」
「あら、まだ、そんなこと言っているの。」
「だってさ、汽車がゴーってくるところを、まくら木にぶらさがっているなんて、とてもできるこっちゃないぜ。」
「…………」
「ほかの人なら、どうか知んねえけれど、吾一ちゃんじゃ、おらあ、あぶねえと思うな。」
「まあ、作ちゃんたら、ずいぶんね。そんなこと言うんなら、吾一ちゃん、やってみせておやりよ。」
ひいきの役者を応援するように、おきぬは負けぬ気になって、吾一のひざを突っついた。
しかし、吾一はすぐ、
「うん、やってみせるとも。」
とは言わなかった。
おきぬがとかく吾一の肩を持つのを、日ごろからおもしろくなく思っていたところへ、彼女がまたしても今のようなことを言いだしたので、作次はなおむきになった。
「やってみせる? そいつはおもしろいや。是非やってもらおうじゃねえか。――なあ、みんな。吾一ちゃんがどんなふうに鉄橋につるさがるか、みんなして見物しようよ。おきぬちゃんの前だと、きっと、すてきだぜ。」
吾一は作次の言っていることなんか、ほとんど耳に、はいらなかった。しかし、声だけは、――ビンビン響く彼の声だけは、クギを打たれるように、ズシン、ズシン、吾一のからだの中にめりこんだ。
彼は火のそばにいながら、ちっとも火を感じなかった。そのくせ、すきまもなくやね《・・》にかぶせてある松の葉のあいだから、金粉のようにこまかく、小屋の中にこぼれてくる日の光だけは、ありありと、彼の目にうつっていた。こんな場あい、そんなものをながめているひまなぞないはずだが、吾一は不思議に、そのきらきらする金粉に見とれていた。
「おい、吾一ちゃん。どうしたんだ。なぜ黙っているんだ。」
「…………」
「できねえんか。――そうだろう。できねえんだろう。さっき言ったなあ、ありゃ、みんな、うそなんだろう。」
「うそなもんかい。」
吾一は急に作次のほうを向いて、はね返すように答えた。しかし、その声はかすれていた。
「そんならやってみろ。」
「やってみるとも。」
「いま、すぐにだぞ。」
「あした、やるよ。」
「あした、なんてだめだい。今、すぐにやれ。」
「…………」
「こんなにいい天気じゃねえか、今やれねえんなら、あしたになったって、やれるもんか。」
「…………」
「あしたやるなんて言うのは、できねえからだ。できなくって逃げようと思っているんだ。よわ虫!」
「ようし、そんなこと言うんなら、畜生、今、やってやるとも!」
「吾一ちゃん、大丈夫?」
おきぬは、自分で言いだしたことではあるが、なんだか、こわくなってきたので、吾一の顔を心配そうに見まもった。
「大丈夫だよ。」
女にそう言われて、今さらだめ《・・》だとは言えなかった。しかし実際は、大丈夫どころか、吾一は鉄橋にぶらさがったことなど、一度もないのである。その場の行きがかりで、つい、あんなことを言ってしまったのだが、ほんとうに、ぶらさがれるものか、ぶらさがれないものか、彼にはちっとも目算がないのである。こうなってくると、おきぬが自分に肩を入れてくれたことが、むしろ、うらめしかった。彼女がかばってくれればくれるほど、しり押しをしてくれればくれるほど、彼はかえって、窮地へ追いこまれたかたちだった。しかし、そんなことを言ったところで、もう、どうにもならなかった。
「それじゃ、どこの鉄橋にする。」
作次はもう場所の選定にかかった。
「吾一ちゃん、おめえ、どこの鉄橋でやったんだ。」
「…………」
「おめえが前にやったところでやろうじゃねえか。」
「おらあ、どこだっていい。」
吾一の返事は捨てばちだった。
場所は山田橋の川しもの鉄橋がいいだろうと言う者もあったが、そこはあまりに町に近く、人どおりが多いので、川はばはずっと狭いけれども、田川の鉄橋ということになった。そこは停車場から、八、九丁はなれたところで、田んぼのまん中だった。
みんなぞろぞろ松ごやを出た。吾一もそのあいだにまじって、板ゾウリを引きずっていたが、きょうは、わけてゾウリがぱくぱくして、歩きにくかった。
伊勢屋のうら門をくぐろうとした時、不意に、
「吾一ちゃん、ちょっと……」
と、京造が彼の肩を軽くたたいた。
吾一は黙って京造のはうをふり向いた。
「ちよっと……」
京造は彼のそでを引っぱるようにして、こわれた呉服バコがいくつも積んである、蔵の横のほうにつれて行った。
「なんだい。」
「まあ、いいから、こっちへこいよ。」
彼は蔵と蔵とのあいだの、狭いところへ、ずんずん吾一を引っぱって行った。
そこは、いちんち日が当たらないものだから、寒さが凍っている感じだった。吾一は背すじが急にぞくぞくしてきた。
それでなくってさえ、さっきから気が落ちつかないでいるのに、突然こんなところへ引っぱりこまれたので、彼はなおさら、いい気もちはしなかった。
「なんの話なんだい。話なら、早く言えよ。」
京造は返事をしないで、もっと奥のほうへ、彼をつれて行った。そして、どんづまりのところへ行った時に、ぐるっと、うしろをふり返った。蔵の向こうのほうには、明かるい日が照っていた。そこにはだれも立っている者はなかった。
人かげがないのを見さだめると、彼は吾一のほうを向いて、彼の顔をじいっと見つめた。
吾一は何を言いだされるのか、ちっとも見当がつかなかった。もし、けんか《・・・》を吹っかけてきたら、取っ組んだのではかなわないから、顔にでも、手にでもかみついてやれと思っていた。
「おめえ、ほんとにやるのけえ。」
しばらくして、京造が言った。
吾一はやるとも、やらないとも言わなかった。
「あんなことをやると、おめえ、死んじまうぞ。――」
畜生、何を言っているんだい、と吾一は腹の中で思った。死のうと、生きようと、かってじゃねえか。今になって何を言やあがるんだい。おらあ、――おらあ、――彼は、なんだか胸が迫ってきた。しかし、京造の前で涙なんか見せては、恥である。目のまわりが妙にうるんできたが、彼はまぶたをぱちぱちさせて、そんなものを追っ払ってしまった。
「だから、おめえがな、やめてえと言うんなら、おれ、作ちゃんに話してやってもいいぜ。――どうだい。あんなこと、やめにしちゃ……」
吾一は自分の耳を疑ぐった。これが、――ほんとうに京造のことばなのだろうか。彼は思わず京造の顔を見た。
「ああ、京ちゃん、そうしておくれよ。おらあ、そうなると、どんなに助かるかしれねえんだ。」
彼はすぐ、そう言いたかった。が、彼の舌はそう軽く動かなかった。彼はくちびるをかんだまま下を向いてしまった。涙がぽろっとこぼれた。
彼には京造のことばが、――あわれんで言っているのか、親切で言ってくれてるのか、よく、のみこめなかった。親切ならうれしいが、見さげられているのだと、あわれまれているのだと、我慢ができなかった。
おれはしょっちゅう見さげられているんだ、という考えが、彼のあたまには、こびりついていた。おとっつぁんはうちにいないし、おっかさんは内職をしている。そして、おれのうちは路地の中だ。そんなことを面と向かって言う者はないけれども、だれかがどこかで、そうっと言っているような気がして、しかたがないのだ。だから、彼のちいさいからだの中には、ことごとにはね返してやろう、はね返してやろうとする精神が、常に燃えていた。彼が学校で一番になっているのも、一つはそのはね返してやろうが、彼を一番にさせているのだった。
きょうだってそうである。何もこんなことなんか、言いださなくったってすんだのに、作次たちに負けるのがいやで、つい、よけいなことを言ってしまった。しかし、ここへきては、もうよけいなことだでは、すまされない。
いま彼はいのちがけのことにぶっつかっているのだ。けれども、なあに、やってやれないことがあるもんか、という気の張りもどこかにあった。手ばなしで橋のランカンを渡るよりは、まくら木につかまるほうが、――しっかり、つかまっていさえすれば、つかまっているだけに、まだしも、こっちのほうが安全だという気もちが、腹の底のほうで、かすかにしていた。が、なんと言ったって、やらずにすめば、それに越したことはないのだ。京造のはからいで、うまく、こいつがやめになってくれれば、こんなありがたいことはない。けれども、「あいつにはできそうもないから、おれがとめてやったんだ。」「あいつがかわいそうだから、作ちゃんに話してやったんだよ。」と、言われるのでは、なんとしても腹の虫がおさまらなかった。
あっちを考えたり、こっちを考えたりすると、彼にはどう返事をしていいか、決心がつかなかった。彼は首をたれたまま、いつまでも、もじもじしていた。
「おい、どうするんだい。」
京造は待ち切れないように、はや口で言った。
「う、うん。――」
吾一には、まだ、きっぱりとした返事ができなかった。
京造はじりじりしてきた。好意を好意として、すぱっと受けてくれないことが、彼にはおもしろくなかった。
しばらくして、吾一はひたい《・・・》をあげた。あい手の顔いろでどっちにか、きめようと決心したのだ。ところが、彼がひたい《・・・》をあげたとたんに、京造は口をとがらせた。
「ふ 、じゃ、どうしてもやるんかい。」
彼は吾一の血ばしった目の色を見て、そう直観したのだ。
「えこじだなあ、おめえは。」
投げつけるように言ったと思うと、京造はすたすたと向こうへ行ってしまった。
吾一はどきっとした。それこそ、ほんとうに鉄橋から、まっさかさまに、落っこちたような気もちだった。
「吾一ちゃん、大丈夫。」
途中、おきぬは心配して、のぞきこむように彼に言った。
吾一はなんにも言わなかった。ただ黙々として、田川のほうへ歩いていた。
やがて、彼らは軒の続いた町を離れて、田んぼ道に出た。
刈り取られたあとの田は、毛をむしり取られたあとの、けもののはだを見るようで、いかにもさむざむとした感じだった。
田川の鉄橋の近くまで行った時だった。向こうのクヌギ林の中から、黒いけむりを吐いて、汽車がやってきた。
「あっ、汽車だ。」
「ばんざあい!」
みんな手をあげて叫んだ。「ばんざい。」と言わなかったのは、吾一だけだった。
「おーい、みんな駆けろ。」
作次は、まっさきになって駆けだした。
しかし、彼らがやっと、土手の下にたどりついたと思ったら、山くずれのような、すさまじい音を立てて、列車が彼らのあたまの上を通り過ぎた。帽子をアミダにかぶっていた秋太郎は、二、三間も帽子を吹き飛ばされてしまった。
おきぬも花カンザシを、あやうく飛ばされるところだった。彼女はもう、それだけで、すっかりおびえてしまった。
「よそうよ、こんなこと。――あたし、もう……」
重い車輪が、ゴットン、ゴットン、目の前をまわって行ったことを思い返すと、人間が鉄橋にぶらさがるなんてことは、彼女は思っただけでも、ぞうっとした。
「よすなんてことあるかい。」
京造はおきぬの前に立ちはだかって、しかりつけるような調子でどなった。
「吾一ちゃんがやるって言ったんだから、やらねえってことがあるもんか。やらなきゃ、おれが承知しねえぞ。」
「惜しいことをしたなあ。」
作次はうらめしそうに、停車場のほうへ行った汽車のあとをにらめていた。
「もう少し早く、くるとよかったんだな。」
「ううん、そんなことはねえよ。今にきっとのぼり《・・・》がやってくるよ。すれちがいだもの。」
京造はそう言いながら、土手の上にあがって行った。そして背のびをして停車場のほうに、遠く目を放った。
線路がひとすじ、途中で少し曲がってはいるけれど、向こうにずっとのびているだけで、中間には、目をさえぎる物は何もなかった。葉をふるい落とした、ちいさい林の向こうに、プラットフォームのトタンやねが、水たまりのように白く光っていた。もうそのかげにはいってしまったのか、いま行った汽車の姿も見えなかった。
「おーい、だれか、馬になれよ。」
彼は土手の上から大きな声を出した。すると、四、五人ばらばらとのぼって行った。
彼らは騎馬戦の時のように、すぐ騎馬を組んだ。京造は馬の上で手をかざしながら、しきりに西のほうをていさつ《・・・・》していた。
「きた、きた。」
やや、しばらくして、敵軍を発見したように、彼は勇みたって報告した。
「けむりが見える。――なあ、みんなにも見えるだろう。」
「うん、見える。見える。」
と、馬もいっせいに叫んだ。
「おい、吾一ちゃん。早くぶらさがれよ。あいつが停車場にはいると、すぐ、こっちへやってくるんだから。」
京造は馬を飛びおりながら言った。
「おい、吾一ちゃん、どこに、いるんだ。」
吾一は返事をしなかった。彼は土手の下の芝っぱらに足を投げだして、田のくろをながめていた。
おきぬは、みんなが土手の上にあがった時に、逃げて行ってしまった。彼女は吾一にも、いっしょに逃げるようにすすめたけれども、彼は動かなかった。逃げれば逃げるすきはあったのだが、もう逃げることさえめんどくさかった。
畜生、死んだって、どうしたって、かまうもんか。――だれも彼も、みんな死んじまえ。大火事が起こって、この町そっくり焼けっちまえ。
まわりの人間も、まわりのものも、目にはいるものが、残らずおもしろくなかった。畜生! 畜生! という気もちだけが、あばら骨のうしろで息をしていた。
「なんだ。そんなとこにいたんか。早くあがってこいよ。」
京造が上のほうから言った。
吾一は黙っていた。
「おい、汽車がくるぞ。」
作次の鋭い声が飛んできたら、吾一は反射的に、すっと立ちあがった。立ちあがったひ《・》ょうし《・・・》に、「精神一到」という、ふるい格言がいなずまのように、彼のあたまの中を通り過ぎた。彼は大きく目を開いて、まぶたをぱちっとやった。彼は突っ立ったまま、遠くの山を見つめていた。あい色の連山の向こうに、雪をかぶった山が、背のびをして、こっちをのぞいていた。吾一はその白い山を見ていたら、ひとりでにお辞儀がしたくなって、お辞儀をした。
いつ、つかんだのか、彼は枯れ枝を一本、無意識ににぎっていた。そして無意識に、そいつを両手で、ポキーンとへし折った。それから、彼は土手にあがって行った。
今までは、田んぼなんて、なんとも思っていなかったのだが、土手の上に出たら、その見なれている田んぼが、急に、ちがった姿で彼の前にあらわれてきた。いや、田んぼだけではない。クヌギ林も、ダイコンばたけも、遠い山も、近い丘も、何かしみじみと胸に迫ってきて、目のうしろが熱くなった。
太いヘビが二匹ならんでいるような、無気味な線路のあいだを通って、吾一は鉄橋のほうに歩いて行った。そしてまくら木を三つ四つ、またいだら、下からふわっと、つめたい風が吹きあげてきた。
彼はいやあな気もちになった。彼はそのまま、まくら木の上にしゃがんでしまった。
まくら木って、もう少し細いものかと思っていたが、そばへ行ってみると、案外、太いので驚いた。これでは、両手でぶらさがると言ったけれど、とても十分に指がかけられない。指をかけてみたところで、からだの重みで、すぐ、ずり落ちてしまうにきまっている。こいつは困ったなあ、と彼は思った。
「おい、そんなとこじゃ、ずるいよ。もっとまん中に行かなくっちゃ……」
そばにくっついていた作次が、とがめるように言った。
「なに言ってるんだい。鉄橋でありさえすれば、どこにぶらさがったっていいじゃねえか。」
吾一はしやがんだところを動かなかった。しかし、どういうふうにぶらさがったら一番安全か、見当がつかなかった。彼は今、そればかり考えていた。
突然、サラサラと、しずかな響きが、どこからか聞こえてきた。川の音だった。
二間か、せいぜい二間半のちいさい川だが、鉄橋の両はしの、堅固なレンガの壁に反響して、流れの音がのぼってくるのだった。
彼は思わず下を見た。目がぐらぐらっとした。深いのか、浅いのか、そんなことなど、まるっきり、わからなかった。彼はあわてて目をつぶってしまった。
「おい、早くやれよ。」
土手の上に立っていた京造も、向こうのほうから、催促するように言った。
吾一はくやしくってたまらなかった。
「騒ぐない。今やらあ!」
彼はそうどなりつけてやりたかったが、てんで声が出なかった。
しかし、目をつぶったまま、できるだけ気を落ちつけてから、両手でしっかりとまくら木につかまりながら、彼は同じまくら木の上に、そうっと腹んばいになった。腹んばいになってから、かた一方ずつ、足をおろそうという考えなのだ。
彼はからだをいくらか斜めにして、まず、左の足のほうを動かしはじめた。太いまくら木にぴったりとまた《・・》をこすりつけながら、ずるっ、ずるっと、少しずつ下へおろしていった。そのとたんに、
パチャーン!
と、いう音がした。
「しまった!」
吾一は思った。ぬげそうになっていた板ゾウリが、足をおろすひょうし《・・・・》に、落っこちたのである。
彼の心臓は、一ぺんに凍ってしまった。
その瞬間、おっかさんの袋を張っている姿が、幻燈のように、ぼやっと目の前にあらわれた。
「あ、おっかさん!」
と、思った時には、もうその姿は見えなかった。
涙で、まつ毛がしっとりしていた。
――だが、今までに、どうしておれは、おっかさんのことを考えなかったんだろう。おっかさんのことを思ったら、とてもこんなことはできるはずではなかったんだ。……
「おい、どうしたんだゾウリを落っことしたんか。」
横から作次に声をかけられたら、たちまち、対抗意識が、ぐいとあたまをもちゃげた。
「ゾウリなんか、どうだっていいやい。」
彼はぶらさげた足を上にもどして鉄橋の上にあぐらをかくと、残っていた、もう一つの板ゾウリを、やにわに川の中に投げ捨ててしまった。
ゾウリは鉄橋のはしのレンガの壁に当たって、堅い音を立てたと思うと、ザブーンと水の中に落ちてしまった。
「おい、早くしねえと汽車がくるぞ。」
作次はまた注意するように言った。
「やかましい。汽車のこわいやつは、とっととおりろい。」
吾一はすぐどなり返したつもりだったが、その声はのど《・・》のそとへは出なかった。
しかし、ゾウリを投げつけたら、妙に、くそ度胸が出て、足もいくらか、ふらふらしなくなった。彼は目をつぶって、さっきの格言をもう一度、腹の中でくり返した。
それから今度は、前とは向きを変えて、――前には停車場のほうに顔を向けて、ぶらさがったのだが、今度は反対に、停車場のほうに背なかを向けて、まくら木の上に腹ばいになった。そして、かた足ずつ、そろそろおろしていった。
が、腕でぶらさがるほどに、ぐっと足をさげなかった。それではとても、つるさがりきれないし、第一、まくら木が太すぎて、彼のちいさい指では、しっかりと、つかめなかった。だから、できるだけ首をさげ、両うでで木材をつかみながら、胸から先をぴたっとまくら木に押しつけて、腰から下だけ、川のほうにたらしていた。なんのことはない。大工(だいく)のかね尺のような格好をして、ぶらさがったのである。
と、土手の下のほうから、鉄道唱歌が聞こえてきた。
汽笛一声新橋を
はやわが汽車は離れたり
下の連中は盛んに歌っていた。しかし、彼らの歌は、いつまでたっても、はじめの二節をくり返しているだけで、けっして品川にも、川崎にも進まなかった。けれども、「はやわが汽車は離れたり。」「はやわが汽車は離れたり。」と、彼らがなんど同じふしをくり返しても、汽車はさっぱりやってこなかった。
まくら木につかまっている吾一の手のほうが、だんだん苦しくなってきた。半分、腹ばいになってはいるが、両あしはだらりと、さがっているのだから、そうそうは続かなかった。まくら木のかどがあばら骨のあいだにめりこんで、だんだん息ができなくなってきた。が、息をしようと思って、うっかりからだを動かしたり、手をゆるめたりしたら、それこそたいへんだった。
あ、おっかさん!
おっかさん!
彼は夢中で母を呼んだ。
もう恥も外聞もなかった。彼はいっそ、ひと思いに、起きあがって、鉄橋から逃げだしてしまおうと思った。
その時、レールをつたわって、ゴーッという地ひびきがしてきた。それはまるで大地震の前兆のようだった。いや、地震ぐらいではない。それは地獄が押し寄せてきたのだ。
赤い糸
「……そうですかい。あんたもそれじゃ、容易なこっちゃありませんね。――いいえ、あたしも気になっていたんですが、何しろ、あれからってもの、ずうっと、忙しゅうござんしてね、――暮れはご承知のとおり、戦場のような騒ぎでげしょう。正月は、はつ売りだ、新年会だ、なんだ、かだで、からだが二つあってもたりませんや。――いいえ、大将がもう少しやってくれるといいんですが、近ごろはキセルをくわえたっきり、動かないんですからね。『忠どん、すまないが、ちょっとこれをやっといてくれ。これもかたづけておくれ。』ってんですから、正直、タバコをすうひまもないようなわけでげしてね……」
伊勢屋の白ネズミと言われる大番頭の忠助は、火バチの前で、ひとりでまくし立てていた。羽おりも着ものも、もめんぞっき《・・・》ではあるが、鉄無地の前かけの下から、タマムシ色の光ったものが、ちらとのぞいていた。
忠助のおしゃべりは、あい変わらず長いので、おれんはノリをつけたぶんだけ、かたづけてしまおうと思い、ネズミ色のざら紙を、音のしないようにたたんでいた。
「なあに、あの話が、あんなことになっていなけりゃ、わたしにしたって、らくにやってこられたんですが、何しろ、正面衝突でげしょう。ガチャンと、ぶっつかっちまったんですから、手がつけられませんや。なんだって大将の前に行って、あんなことを言ったんですかねえ。話があれば、あたしに言えばいいんですよ。もともと、わたしってものが、あいだにいるんですからね。わたしをさしおいて、あなた、……」
「ほんとに、わたくしも困っているんでございます。お店にご迷惑ばかりおかけして。」
「しかし、愛川さんには愛川さんで、なんかお考えがあるこってげしょうから、手まえどもがとやかく申すせきはござんせんが、ただねえ、わたしとしちゃ、あんたや吾一ちゃんが……いいえ、あなた、店のほうじゃ、けして、あんたのことをどうこう思っているわけじゃござんせんよ。けれど、何しろ愛川さんがあれでげしょう。売りことばに買いことばで、あんたの仕事まで、やむなく、とめちまったわけなんですが、かげでは、そりゃ心配しているんですよ。」
「どうも、ほんとうにいろいろ……」
「だが、さすがはおれんさんだ。いちんちだって、手をあけていなさるようなことはない、じつもって、見あげたもんですね。しかしね、おれんさん、そんな仕事をやっていたところで、……へへへへ、気にしないでくださいよ、気にしないで。どうもあたしは、ついぽんぽん言っちまう、性分(しょうぶん)だもんだから。……」
忠助は火バチにこごんで、キセルの先で火をさぐりながら、キツネのような口つきをして、タバコをつけた。ほくろの中から、ぴょこんと一本とび出している長い毛が、あごの下で、ばつが悪そうにゆらゆらゆれていた。
「ねえ、おれんさん、実際の話が、あんたのようないい腕を持っていながら、針バコをかたづけちまって、今のような仕事をやってるってえのは、もったいないこっちゃありませんか、ええ。あんたの赤い糸の一件、あいつは、今だって、まだ話に出るんですからね。」
大番頭はもっともらしい顔をして、鼻から、ぷうっと白いけむりを吐いた。
おれんは娘の時代から、お針がうまかった。そのころの習いで、商家の娘はみんな、したて屋にお針のけいこに行ったものである。女学校だの、講習会だのというもののなかったそのころでは、娘たちにとっては、したて屋が女学校であり、講習会場であった。彼女たちは、滝じまの糸おりか何かに、黒のえり《・・》をかけて、あずまゲタを鳴らしながら、毎日お針にかよったのである。
ある時、と言っても、もうかれこれ十四、五年も前の話だが、忠助が番頭になりたてのころ、急な婚礼のしたくを請け合って、模様の小そでを、おれんのかよっているしたて屋に出したことがあった。黒の浜ちりめんに、雪もちの松を大きく染めぬいた、立派な模様もので、した着は白はぶたえだった。うわ着はむろん師匠が縫うにきまっているが、した着のほうは、日がないから、どうしても弟子(でし)にやらせなければ、まに合わなかった。
婚礼のものというと、弟子たちはだれでも縫いたがるものだが、そのとき師匠の前に呼ばれたのは、おれんだった。彼女が白はぶたえの裁ったのをもらってくると、ほうばいの者は、みんな、うらやましがった。なかでも、おれんの一つ上の席にすわっている娘なぞは、
「あんた、それ大丈夫、急ぎだっていうのに。」
そんな、にくまれ口まできいた。
あね弟子の意地わるは、いつものことなので、おれんはじっとこらえながら、わき目もふらず、針を運んだ。
彼女は片そでを縫いおわって、もう一つのほうにかかろうとすると、どうしたのか、今まであった白の糸まきが見えなくなってしまった。
「すみません。そっちへ白い糸がいってないでしょうか。」
「白い糸?」
隣の娘は、そう言ったと思うと、
「はい、白い糸!」
と言って、すぐ糸まきをほうってくれた。しかし、それは白い糸どころか、燃えるような赤い、糸の巻いてある糸まきだった。
「いいえ、赤じゃないのよ。白い糸よ。」
と、言い返そうとしたとたんに、あい手のつめたい目が、かちんとおれんの目にぶっつかった。
それがおれんに通じないはずはなかった。白い糸まきが急に見えなくなったのも、これですっかり読めたような気がした。
あたしを困らせよう。あたしを泣かしてやろう。――そういうたくらみに相違ないのだ。
あとからきたくせに、なま意気な。腕があるなら、赤いとで、白のした着をしあげてごらん、おまえなんかにできはしないだろう。――そういう心に相違ないのだ。そうと知ると、おれんもぐっ《・・》とかん《・・》にさわったものだから、うわ目づかいで、ちらと、あい手の顔を見かえしたうえで、
「ありがとう。」
と、しずかに礼を言いながら、その赤い糸まきを取りあげた。そして四ノ二の細い縫い針に、ゆうゆうと、色のついた糸を通した。
「あら、おれんちゃん、どうしたの、そんな糸で。――」
向かいがわの娘が、びっくりして注意してくれたけれど、おれんはただ微笑を返しただけで、平気で針を進めていた。
やがて彼女は、残りの片そでを縫いおわると、「ごらんください。」と言わぬばかりに、それを隣の娘のひざのそばに置いた。そで口にしたって、振りにしたって、ケシつぶほどの赤いものも、はみ出してはいなかった。
このことがあって以来、おれんの腕は一層みとめられるようになった。今まででも、手すじがいいと思われていればこそ、はぶたえのした着を渡されたのに相違ないが、あの若さで、よくもやりおおせたと、舌を巻かない者はなかった。
しかし、それも遠い昔の思い出である。女のたしなみから、むすめ時代は裁縫に精を出したものの、彼女としては、まさかそれで身すぎ、世すぎをするつもりはなかった。ところが、さまざまなふしあわせのために、とうとうしたてものの内職をするようなことになってしまったが、その仕事さえも、去年、愛川がつまらぬことを言い立てたばかりに、突然、取りあげられてしまったのである。
「ええ、どうですえ、おれんさん。もう一度、店の仕事をしなすっちゃ……」
芝居のつけ《・・》を打つように、ポンとキセルをたたくと、忠助は心もち、そり身になって、おれんのほうに顔を向けた。
「それはもう、させていただければ、それに越したことはございませんが……」
「あんたがそう言うのなら、一つ骨を折ってみようじゃありませんか。――なんでげすって、レコのほうですか。何を言うんだな、おれんさん。わたしが口をきくんでげすよ。大将にまずいようには、しやあしませんよ。」
忠助は大きく自分の胸をたたいた。が、それで急にえり《・・》がくずれたとでも思ったのか、彼はあわててえりさきをつまむと、首をちょいとうしろにずらし、女のようにえもん《・・・》をつくった。なんのことはない、昔の通人(つうじん)の「おほん。」という、格好である。
「正直な話、これが愛川さんのこったら、わたしゃ、ごめんをこうむりますがね。どうも、あんたのことだってえと、そうもいかないんで……わたしゃ、あんたや吾一ちゃんがお気の毒でたまらないんでげすよ。なんとかして、ふたりを立つようにしてあげたいと思ってね。――ところでと、吾一ちゃんはいくつになりましたっけな。たしか十四でしたね。ちょうどいいとし格好だ。――ねえ、おれんさん、一つここに相談があるんだが、吾一ちゃんを店によこしてみる気はありませんかい。」
「…………」
「この春で高等二年が終わるんでげしょう。もうあんた、学校はたくさんですよ。たいていのうちの子は、尋常科だけで奉公にやられるんですからね。高等二年までやれば、やり過ぎるくらいでげさあ。――なあに、このあいだの一件さえなければ、なんでもなく、すうっと仕事も出せますが、なんたって、ああいうことがあってみると、そのままってわけにもいきませんや。そこで考えついたのが、これなんですよ。どうでげす。うまいでしょう。まず、一挙両得ってえのは、ここらを言うんでげしょうね。」
「…………」
「あんたが吾一ちゃんを、店に奉公によこす。うちの大将も、そういう気ごころならばってんで、自然に心がとける。そこで、あんたのところにも仕事が出る。吾一ちゃんもやがて一人まえの人間になる、まあ、こういった寸法なんですよ。この筋がきはちょいと、ほかの人には書けませんぜ。」
おれんは黙って聞いていた。黙っているよりほかに、どうすることもできなかったからである。吾一は中学に行きたいと言っているが、そんなことは、もとよりできるわけのものではない。しかし、そうかと言って、高等二年だけで、奉公に出す決心もつかなかった。
「おれんさん、まさか不承知なんじゃございますまい。――はははは。子どもを手ばなすのが、つらいんですかい。そりゃ、どこの親ごさんにしても同じでげすが、そこがそれ、修業ですよ。子どものうちに修業させなかったら、おまえさん。……なあに、つらいことなんか、ちっともありゃしませんよ。ただ、たん物のあいだにすわっていさえすりゃいいんですからね。わが田に水を引くようでげすが、まず手まえどもの商売くらい、結構な商売はござんせんよ。」
「…………」
「いいえ、断わっておきますが、これはけして無理にってんじゃござんせんからね。当節は人が多うござんして、あちらからも、こちらからも、『忠助さん、一つ。』って頼まれますが、どういたして、そうやたらに、人をふやすわけにはまいりませんよ。――それからね、もう一つ、あんたに言っておきたいことは、おれんさん、あんた、しっかりしなくっちゃいけませんぜ。うっかりしていると、吾一ちゃんだって、どんなことになるかしれませんよ。――つい、こないだのこってすが、ひょっこり、愛川さんにぶつかっちまいましてね。するてえと、またいつものようにレコの話でげさあ。そこで、わたしは言ってやったんですよ。『そんな話は、まあ、古いほうのかた《・・》がついてからですねえ。』って突っ放しますとね、愛川さんは、さも困ったような顔をして、なお、くどくどと何か言っていましたが、一番おしまいに、なんと言ったと思います。『うちのがき《・・》がアマだったらなあ。』ええ、こう言うんでげすよ。わたしや、ほんとにどきっ《・・・》としましたね。」
「…………」
「わたしが心配するのはここなんですよ。おれんさん、あの調子じゃ、吾一ちゃんは、ほんとうに、どうなるかわかりゃしませんぜ。むかし、わたしは西国立志編(さいこくりっしへん)ってものを、すこうしばかりかじったことがござんすが、あんなかに、なんとかいう焼きもの師がいますよ。気ちがいみたいな男で、セトを焼くために、うちにあるものを、いっさい、がっさい、カマの中にたたきこんでしまうんだが、愛川さんも、どこかその外国人に似たところがありやすね。訴訟のためには、なんでもかでも見さかいなく、みんな投げこんじまうんですからね。今に吾一ちゃんだって、あんただって、投げこまれないとは限りませんぜ。」
おれんは気を失ったように、袋はりの台の上によりかかっていた。あたまがぼうっとしてしまって、忠助のことばなぞ、ほとんど耳にはいらなかった。死んだ父の、いかめしい顔だけが、目の前で、なんども消えたり、あらわれたりした。
「あんな男といっしょになると、泣かなくっちゃならないぞ。」
結婚の前に、父がそう言ったにもかかわらず、彼女は振り切るようにして、愛川のところに嫁にきたのだった。それはいろ恋《・・・》なぞという浮わついたものではない。彼女としては、あの時、そうするのが、女の道と思ったからだった。
世話する人があって、愛川の家と縁談がととのったのだが、その話がきまって、半つきばかりすると、愛川は親類をあい手どって訴訟を起こした。後見をしていたおじの不正がわかったので、急にそういう手段を取ったのだった。しかし、むかしかたぎの父は、理非がいずれにあるにもせよ、裁判ざたを極端にきらった。訴訟なぞをする人間は、じみちな仕事をきらって、とかく、ふところ手ばかりしていたがるものだ。そういう男には、娘はやれないと言って、破談を申しこんだのだった。
しかし世間では、必ずしもそうは取らなかった。家がらがよいので、縁ぐみをしたが、親類につかいこまれたとわかったら、破談にするとは当世すぎると、かげ口をきく者もあった。そういう声が聞こえると、おれんの気性(きしょう)として、父の言うなりにはなれなかった。赤い糸まきをほうられた時と同じように、そういう、のしかかってくるものに対して、「わたしはそんな女ではございません。」というところを、きっぱりと見せたかった。それに道理から言っても、婚約を破るようなことはしたくないので、彼女は泣いて父を説きつけ、愛川と結婚したのだった。「今に後悔するぞ。」と父はなんども言ったが、その時分の彼女は、父のことを、世の中のほこり《・・・》に染まった、きたない人のように考えていた。しかし、はぶたえのした着を縫うのだったら、彼女の意地と、彼女の腕で、赤い糸を見せずに、しあげることもできようが、結婚はけっしてそんな単純なものではない。彼女ひとりが、どれだけ一生懸命になったところで、それで縫いあがるものではなかった。
父のことばは、父がこの世を去ってから、だんだんわかってくるようになった。ことに今度の訴訟が起こってからは、一そう身にしみて、こたえるのだった。が、今そんなことを言ったところでなんになろう。けれども、吾一だけは、自分のただ一つの頼みである吾一だけは……と、思わないわけにはいかなかった。
「ね、ようがすかい。それだから、わたしゃ、吾一ちゃんの奉公をすすめるんですよ。もっとも、今、急にってわけじゃございませんから、あんたも、とっくり、考えておきなさるさ。」
忠助はそう言いながら、キセルを筒にしまいかけた。
そこへ、コクラの詰めえりを着た人が、息をはずませながら、飛びこんできた。
「愛川さんていうのは、こちらですか。」
「はい、愛川はこちらですが。」
と、忠助はおれんにかわって、気がるに顔を出した。
「すぐに、きてもらいたいんですが。」
「すぐにって、どちらへです。」
「駅にですよ。すぐ駅長さんのところに、きてもらいたいんです。」
「ヘえ、駅長さん? 駅長さんがどうかしなすったんですか。いったい、そりゃなんの話なんで。」
「な、なんの話どころじゃないんですよ。」
駅員はひどく興奮していた。
場めんはふたたび、田川の鉄橋にもどる。
まくら木にぶらさがっていた吾一は、停車場のほうに背なかを向けていたから、汽車の突進してくるさまは見えなかった。いや、停車場のほうを向いていたところで、なんでそんな恐ろしいものを見ることができよう。
ヴォーム!
レールがまくら木の上でうなっていた。
うなりは、刻々はげしくなってきた。
と、それがまくら木につたわって、太い材木まで、かすかな声を立てはじめた。
声だけではない。太いまくら木がぶるぶるふるえだした。その震動が指の先に、腕に、胸に、……からだ全体に、びりびり感じてきた。
ああ、もう、おしまいだ!
彼はただ、ケムシのように、まくら木にしがみついていた。へばりついていた。いや、いや、しがみついているの、へばりついているのなんて、知覚さえも、感覚さえも、なくなっていた。
ポォーッ!
ポッ、ポォーッ!
非常警笛が絶えまなく鳴っていたが、もうそんなものは彼の鼓膜を驚かさなかった。鼓膜には響いていても、彼はなんにも感じなかった。
やがて、あたまがねむたくなるように、しびれてきた。
ジョリ、ジョリ、ジョリッ!
サトウ屋の大きなシャベルで、ザラメをしゃくうような音がしたと思った瞬間に、彼は全く意識を失ってしまった。
「ああ、たまらないなあ!」
突っ伏していながら、吾一は思った。
「くるもんなら、早くきちまえばいいのに。」
と、どこかで人の声がしきりにしていた。
「おや、もうすんじまったのかしら。」
彼はそっと、あたまをもちゃげてみたかった。しかし、こわくって、とてもそんなことなぞできなかった。が、彼は目をあけて、あたりのようすを見ようと思い、少し首をずらそうとした。そうしたら、彼はたちまち、くらくらっと、なってしまった。
それは目がまわるとか、あたまがぐらぐらするとか、いうふうなものではない。あたまの上のほうが――空だか、天じょうだか、汽車の車輪だか、なんだか、いっさいわからないが、あたまのまうえのところが、恐ろしい速度で、むやみにぐるぐる回転した。
畜生、きたな! と、彼は思った。
おれは死なないぞ! これくらいのことで、死んでたまるもんか。
精神一到……彼は心の中で、なおもその格言をくり返していた。そして、できるだけ顔を下にこすりつけながら、夢中になってしがみついていた。
しかし、いま彼がしがみついているのは、鉄橋のまくら木ではなくって、枯れ芝だった。吾一は土手の下の芝っぱらに、うつ伏しに寝かされているのだった。
「あ、気がついたようだな。」
おとなの声がした。
「もう大丈夫だ。――やっぱり脳貧血かね。」
「そうだろう。バカなことをやったもんだな。」
そんなことばが、きれぎれに、耳にはいった。つかんでいるのは、まくら木ではなくって、何かさらさらする草っ葉のようなものであることも、吾一には、はじめてわかった。
しかし、まだこわくって、とても目があけられなかった。目を開くなんてことよりも、もう、おれは鉄橋の上にいるんではないのだ――おれは助かったのだ、という気のゆるみが、ふたたび彼を、くたりとさせてしまった。
「宝丹か何かないかなあ。」
風のように、そんな声が空を飛んでいた。
やがて、ひたいや、こめかみや、くちびるなどに、何かべろべろするものを感じた。彼は犬になめられているようで、いやな気もちもしたが、また、あさ風に吹かれているような、さわやかな気がしないでもなかった。
彼は恐る恐るうす目をあけてみた。まっさきに見えたものは、火ぶくれのあとのような、てらてらした、白っぽい皮膚の色だった。しかし、それは暮れかかった西の空が、ちょっぴり、目にはいったのだった。
が、つぎの瞬間に飛びこんできたのは、紺がすりの着もののはしだった。いつも見なれている紺がすりの……
「畜生!」
と、吾一は思った。彼の対抗意識が、また、まざまざとよみがえった。
「どうだい。」
彼はそう言わぬばかりの意気ごみで、ぐいとあたまをもちゃげて、起きあがろうとした。
その時、第二の目まいがおそった。大ぞらがふたたび、コマのようにぐるぐるとまわりだした。
吾一はまた草のように、たわいもなく、芝の上に突っ伏してしまった。
「おい、動いちゃだめだよ、動いちゃ……」
おとなたちが、まわりで言っている声が、今度は、彼にはっきり聞こえた。
吾一は目をあくことはできないけれども、「なんだい。これっくらいのことで。……負けるもんかい。畜生、負けるもんかい。」と思っていた。芝っぱらに、ひっくり返っているくせに、彼はなお、せり合う気もちでいっぱいだった。
いつのまにか、西のほうの林がだんだん黒ずんでいって、こずえと空とのさかいが、くっきりしてきた。
明かるい空を大きな鳥が一わ、北のほうへ飛んで行った。
これよりさき、駅を発車したのぼり《・・・》の列車は、町はずれのカーブを曲がると、あとはずうっと一直線なので、いつもなら、そこからぐっと速力を増すのであるが、その一直線の鉄路の先の、田川の鉄橋の付近とおぼしいあたりから、突然、子どもがばらばらと土手したに駆けおりたので、機関手は、はっと思った。そればかりではない。鉄橋の上に、何か異様の物体を認めたのであった。
不審に思って、機関手はさっそく警笛を鳴らすとともに、そのまま徐行を続けながら、橋の上の物体を注視すると、それはどうやら人間らしく思われてきたので、彼は急にブレーキをかけて、停車させてしまったのである。
停車させたと言っても、むろん惰力で、なおかなり車輪は回転を続けていた。しかし、うまいぐあいに、鉄橋の五、六間てまえのところで、ジョリ、ジョリ、ジョリッと、ジャリの中にでももぐりこむような、いやな音をたてて、列車はやっと停止した。
火夫や車掌は、もうその前に飛びおりていた。そして鉄橋に走って行くが早いか、吾一のからだを、ぐいと引きあげた。
吾一はまくら木のように突っぱっていた。顔の色も、全くまくら木と同じだった。おそらくは、もう一秒でもおそかったら、彼の腕はとても、まくら木にはかかっていなかったろう。
死人のように、くたっとなってしまった吾一をかついで、車掌と火夫は、土手の下におりてきた。そして、芝っぱらの上に、あお向きに寝かそうとすると、吾一は火の上にでも置かれたように、ぴいんと、はねあがって、うつ向きに倒れてしまった。
その時、風のように、
「あっ、吾、吾一ちゃん!」
と、言って、京造が駆け寄ってきた。
「おまえはなんだ。友だちか。」
介抱していた車掌は、びっくりして、京造のほうを見た。
「お、おれが、……おれが悪いんだ。」
京造は車掌のことばには答えないで、いきなり、吾一の横っ腹のところに、ぶっ倒れたと思うと、おいおい泣きだした。
さっき吾一に、ちらっと、かすり《・・・》が見えたのは、この、そばにいた京造の着もののはしが、目にはいったのであった。
まもなく、駅員も駆けつけてきた。
列車は、いっさいのことを駅員にまかせて、しずかに発車した。
当の吾一はぶっ倒れたままなので、駅員は飛びこんできた京造をつかまえて、いろいろ尋問しはじめた。
ほかの子どもたちは、もうそこには、ひとりもいなかった。火夫や車掌が列車から飛びおりた時、彼らは自分たちがつかまるのだと思って、あわてて、どこかへ逃げてしまったのである。
「それじゃ、おまえがやれって言ったのかい。」
下を向いた京造は、駅員の前にお辞儀するように首をたれた。
「バカなことを言ったもんだな、鉄橋って人間のつるさがるところじゃないんだぜ。たとい、あい手がどう言ったにしろ、そんなことをさせるって法はないじゃないか。――それで、その時には、おまえのほかには、だれがいたのだ。」
「…………」
「だれがいたと言うのだ。」
「……だ、だれも……いません……」
京造の声はどもりのように、たどたどしかった。
「すると、おまえと、ここに倒れている子と、ふたりでかけ《・・》をやったわけなんだね。」
「ええ。――」
「ふたりだけなんだね。」
「――ええ。」
草っぱらに寝ていた吾一は、「おやっ。」と思った。
「それで、おまえがどうしてもやらなければ承知しないと言ったので、この子がつるさがったのかい、それにちがいないかい。」
駅員が念を押すように、京造に突っこんでいると、突然、
「ちがう。ちがう。」
と、よろめくように吾一が起きあがった。今度はもう、前のように目まいがしなかった。
その時、どしんと、からだにぶっつかってきたものがあった。京造だった。
つい、さっきまでは、あんなにせり合っていたのに、――畜生、畜生と思っていたのに、今度はどうしたのか、うれしくって、うれしくってたまらなかった。吾一は夢中で京造のからだに抱きついた。そうすると京造もまた、吾一のからだを、ぎゅっとおさえた。
「吾一ちゃ……」
「京ちゃ……」
どっちもことばが出ないで、ワアワア、泣きながら、抱きついていた。抱きついていながら、ワアワア泣くものだから、そのたびに両方のおでこが、おかしいように、コツンコツンぶっつかり合った。ぶっつかり合っても、そんなことなんか、ふたりとも平気だった。
「どうしたい。もう目まいはしないかい。」
駅員は安心したように、ふたりのそばへ寄ってきた。
「どうだ。話をしても大丈夫か。」
「うん。」
吾一は抱きついたまま答えた。
「今ちがうって言ったが、何がちがうんだい。」
「ちがうんだよ。ちがうんだよ。」
吾一はわけもなく、同じことばをくり返した。
「何も言うんじゃねえぞ。なんにも……」
抱きついていた京造が、吾一の耳もとへ口を押しつけた。小ごえではあるが、力づよい響きだった。
「ちがうって、何がちがうのだ。」
「京ちゃんが……京ちゃんがやれって言ったんじゃねえんだよ。」
「吾一ちゃん!」
京造はにらめつけるように言った。しかし、吾一はかまわず続けた。
「京ちゃんがやれって言ったんじゃねえんだよ。おれが……おれがやるって言ったんだよ。」
どちらもあい手をかばっているのだ、ということは、駅員にもすぐわかった。しかし、いつまでも、野はらの中で調べているわけにもいかないし、ことに、やじうま《・・・・》が大ぜい集まってきてうるさいので、かたがた彼らは、ふたりの子どもをつれて、一応、停車場にひきあげた。
停車場では駅長室につれて行かれて、ふたりは駅長からも調べられた。
しかし吾一は、倒れるほどではないけれども、まだときどきふらふらした。で、待ち合い室から運びこまれたベンチの上に寝かされていた。
おかしなもので、からだが弱っている子どもには、だれもきびしいことは言わないものだが、ぴんぴんしているほうには、どうしても風あたりが強かった。ここでも京造は、駅長からぴしびしやられていた。
吾一は気の毒になって、ベンチの上から何か言おうとすると、
「聞かれない者は、黙っていて……」
と、さえぎられてしまった。
駅長の前に立たされて、しかられている京造を見ると、吾一はこのあいだの教室のことを思いだした。あの時にも京造のずんぐりした姿は、丸ばしらのように、どっしりと見えたが、今も、ひとりで罪をひっかぶってしまおうとしている彼の姿は、ひげのはえている駅長さんよりも、ずっと立派に見えた。
そこへどやどやと大ぜいの人がはいってきた。京造のおとっつぁんだの、京造のうちの店の者だの、伊勢屋の番頭だの、――それから最後に、おっかさんが、死んだ人のように、青い顔をしておずおずはいってきた。おっかさんの青い顔を見たら、吾一はむしょう《・・・・》に涙がこぼれてしかたがなかった。
おっかさんに何か言われたら、どうしようと思って、彼はびくびくしていたが、はいってきた連中は、みんな駅長のテーブルのほうに行って、お辞儀をしたので、ほっとした。
駅長は事件のあらましを説明した。そして進行中の列車をとめることは、法にふれるが、今回は子どものことだから、おもて向きにはしない。しかし、今後は家庭で十分に注意してくれなくっては困る、というようなことを、ながながとしゃべった。
せき《・・》一つする者もなかった。
「しかし、まあ、けががなくってようございました。」
駅長がいくらかくだけた調子でそう言ったら、それでおしまいになった。そして京造はおとっつぁんに、吾一はおっかさんにつれられて、それぞれ帰宅をゆるされた。
忠助のはからいで、吾一はおれんといっしょに人力(じんりき)に乗せられた。ゾウリもなくなっていたし、途中でまた目まいでもしてはいけない、という心もあったのだろう。おかげで彼は母のひざの前にかけていたから、母おやと顔を合わせないですんだ。それが何よりもありがたかった。
おれんは吾一から何も聞かなかった。彼女は今の駅長の話で、ほとんど何もかもわかっていた。言いだしたら意地になって、吾一がとうとうまくら木にぶらさがったことを知った時には、火のような、燃えるものが、目の前をすうっと飛んだような気がした。
しかし、その火のようなものというのは、何か赤い糸まきのような気がしてならなかった。赤い糸まきは、たぐると吾一のおなかの中にまで、つながっていってるような気がする。彼女はそれを思うと、なんとも言えない恐ろしいものに打たれた。
吾一
…………
あっ! きた!
ヴォーム!
あらしの中で、電線がほえているような、うなり声が、背すじをつたわってきた。
ああっ!
からだが石のように、シャチコばって、あやうく手を離すところだった。
手、手を……手を離したら……
夢中でまくら木にしがみついた。前よりも、ぎゅっと、ぎゅっと、かじりついた。
ヴォーム!
うなりはますます高くなってきた。
両がわの線路も口をあいて、ヴォーム! と、うなりだした。
胸の下のまくら木まで、うなりだした。
まくら木がびりびり震動してきた。
ああ、手が……手がもう……
助けてえ!
……お、おっか……おっかさあん!
吾一は、はっとして目をさました。目をさましても、しばらくは、どこにいるのか、見当がつかなかった。やっと、からだの下のものが、堅い材木でないことがわかると、張りつめた心が、いくらかゆるんだ。
彼は腹んばいになったまま、両手でぎゅっと、ふとんの皮をつまんでいたのだった。しかし、彼はなお、まくら木の上にぶらさがっているような気がしてならなかった。下のふとんが、なんだかびりびり震動していて、暗いうしろのほうから、今にもゴーッ! って、汽車がやってきそうだった。
からだじゅうが水をあびたように、つめたいもので、ぐっしょり、ぬれていた。
彼はあわてて、腹んばいをやめ、ころがり落ちてるまくらを拾って、横むきになった。
きょうは早くおやすみ、って言われて、晩ごはんがすむと、すぐ横になったのだが、まどろんだと思ったら、鉄橋の夢だった。夢だとわかっていながら、まだ彼はこわくって、ふとんの中で、ふるえていた。
カサッ。カサッ。カサッ。
さみしい落ち葉の音が、ふるえている心臓の中に落ちこんできた。
吾一は眠れないままに、そうっと、うす目をあけてみた。おっかさんは、彼のあたまの前のところで、向こうむきになって仕事をしていた。そのために、じかには見えないけれども、台どころの障子には、袋を張っている姿が、かげ絵のように、くっきりと写っていた。
カサッ。カサッ。カサッ。
吾一はしばらく、その影ぼうしを見ていた。そうして、あの枯れ葉のすれ合うような、袋はりの音を聞いていると、なぜか、むしょうに、涙が出てきてしかたがなかった。
おっかさんが袋を張っているのは、何も今夜に限ったことではない。朝から晩まで、毎日やっていることだ。それが今夜に限って、どうしてこんなに、こたえるのだろう。骨の髄が痛むはど、奥の奥まで、しみ通ってくるのだ。糸しんのランプのそばで、うつむいたまま、じいっと仕事をしているおっかさんの姿……
ああ、おっかさん!
おっかさんのほかには、おれにはだれもないんだ。
おっかさん、もうけっして、おっかさんのことを忘れるようなことはしやしないよ。
かんべんして……おっかさん。
彼は起きあがって、両手をつきたいような、あるしみじみしたものの中に引き入れられていった。が、おっかさんの前に出て、そんなまねをすることは、他人行儀らしくって、おかしかった。
黒い影ぼうしは、あい変わらず下を向いたまま、黙って指を動かしている。吾一の目には、それが痛いくらいまぶしかった。
「今晩は。」
どこかで人の声がした。
風が水の音のように、サワサワと鳴っていた。
「今晩は。」
おや、うちかしら。吾一はそっと涙をふいた。
おっかさんは立って行った。
だれがきたのだろう。子どもの声のようだったが……
まもなく、おっかさんはもどってきた。
「おっかさん、だれがきたの。」
寝どこの中から、ちいさい声で尋ねた。
「おまえ、まだ起きていたのかい。それじゃ、お帰しするんじゃなかったね。道雄さんが、お見まいにきてくだすったんだよ。」
道雄と聞くと、吾一は「ふうん。」と、そっけない返事をした。
「それから、どこか悪いところがあれば、見てあげようって、道雄さんのおとうさんが、言っておいでなさるんだそうだよ。それで、わざわざお使いにきて……」
「いやだよ、いやだよ。道ちゃんのおとっつぁんになんか、おらあ、見てもらわないよ。――どこ、どこも悪くないんだから。」
吾一は目をこすりながら、すねるように言った。
「まあ、なんですね、そんな言い方ってありますか。見ていただかないんなら、見ていただかないでようござんすけれども、人さまが、せっかく、ご親切に言ってくださるのに、そんな口のききようってありませんよ。」
「…………」
「おまえは道雄さんて言うと、なんだって、そう毛ぎらいをするの。道雄さんぐらい、しとやかなむすこ《・・・》さんはありゃしませんよ。おまえも少し、あの方を見ならいなさい。」
そう言いながらも、おれんはもう仕事をはじめていた。
吾一は、さっきから泣いていたものの、泣いていながら、なんか甘い気分の中につかっていた。が、母おやにたしなめられたら、言いようのない、なさけない気もちになって、急にワアッと大きな声を出してしまった。
「まあ、どうしたの、泣きだしたりなんかして。道雄さんのことを言われたからって、泣くせきはないじゃありませんか。どうして、おまえはそう意地っぱりなんでしょうね。」
意地なんか張ってやしない。吾一はそう言いたかった。おっかさんはわかっていないんだ。ち、ちっとも、わかってくれないんだ。
彼は口ごたえをするかわりに、とこの中で、しきりに、しゃくりあげていた。
「ほんとうに、お騒がせをいたしまして、申しわけがございません。――皆さまにとんだご心配をおかけいたしまして……」
めったに顔を出したことのない、稲葉屋の主人が、わざわざ見まいにきてくれたので、おれんはおろおろしながら答えた。
「でも、けが《・・》もなさらなかったそうで、何よりでした。」
安吉は入り口の狭い土間に、立ったまま言った。
「はい、おかげさまで。……あの、そこではなんでございますから、まあ、おあがりくださいまして……」
「いや、もう、これで。――ちょっとお見まいに出ましただけですから。」
「どうもご丁寧に痛み入りました。でも、そこではひえますから……今晩はたいそうしみ《・・》が強いようで……」
「そうですね、この二、三日、だいぶ寒さがひどいようですね。」
そんなあいさつをかわしていた時、突然、吾一が「ううむ。」と大きな声でうなりだした。
「吾一ちゃん、どうかしたんじゃないんですか。」
「いいえ、なんでもないんでございます。今夜はどうしたのか、ときどきあんな声を出しますんで。」
「うなされているんですかね。」
「そうらしいのでございます。」
「昼まのことが、よっぽど強くきているんですね。」
「そうかもしれません。ほんとうに、バカなことをいたしましたもので……」
「いや、何しろ、男の子のことですからね……」
「でも、あんな向こう見ずなことをされますと、わたくし、心ぼそくなってしまいます……ほんとうに、なんてことをしてくれたのですか……」
「そんなに言ったって、しかたがありませんよ。」
「どうも、あの子は意地っぱりなんで困るんでございます。言いだすと、事のよしあしを考えないで、なんにでも、すぐむきになるのでございますから……」
「そうですね、吾一ちゃんには、なかなか強いところがありますね。――しかし、わたしの考えじゃ、今度のことは、ただ負けずぎらいだけでやったのだとは思えませんね。どうも、もっと深いところに原因があるような気がするんですが……」
「もっと深いところって、おっしゃいますと――あの、そこではなんでございますから、ちょっと、おあがりくださいまして。」
「いや、夜分ですから。――つまり、なんですね。中学のことなんかも、ずいぶん、関係しているんじゃないですか。」
安吉はマッチをすって、紙まきに火をうつした。
「吾一ちゃんは、だいぶ中学に行きたがっているように見えますが……」
「ええ、それはもう……」
「それなら、どうですか、思いきって、おやりになったら……」
「ですけれども、とてもあなた、手まえどもふぜいに……」
「そんなことはありませんよ。受け持ちの先生に、ご相談になってみたらどうです。また、何かいいちえがないとも限りませんよ。」
「…………」
「わたしが、こんなことを言うのは、たいへん出すぎたようにも思いますが、吾一ちゃんのような子どもを、このまま朽ちさせるのは惜しいと思いますんでね。」
「…………」
「これはわたしの想像ですが、きょうのことにしたって、――無論、子どものことだから、せり合う気もちも大いにあったとは思いますが、もう一つ底をたたくと、中学に行きたいのに、やってもらえないってことが、――そういうやけ《・・》な気もちが、――中学へ行けないんなら、死んだって、どうしたってかまうもんかという、捨てばちな気もちが、どこか心の奥のほうに、あったんじゃないでしょうか。わたしはそんな気がするんですが……」
そう言われると、おれんは今さらのように、ぎょっとした。彼女は、じつは、そこまでは考えていなかったのである。ただ、かた意地な子ども、向こう見ずの気質とばかり思っていたが、安吉に言われてみれば、確かに、そういうことも考えられないことはないのである。――吾一のことを、こんなにも深く、母おやである自分よりも、もっと深く、この人は心配していてくれるのかと思うと、彼女はなんとも言われないものに打たれた。
安吉とは、ただ、子どもの時分に同じ町内で育ったというだけのことで、――その時分から親切な人ではあったが、べつに親類でもなければ、これという恩義のあるあいだがらでもないのに、彼女が落ちぶれてからというものは、何かにつけて、めんどうをみてくれるのだった。このうちにしたって、安吉の好意で住まわしてもらっているので、愛川が事業に失敗した時に、裏の貸し屋があいているから、よかったら、はいりませんかと言って、ただ同様で貸してくれているのである。それでいて、ちっとも高ぶったところがなく、子どものないせいもあろうが、吾一のことを、自分の子のようにかわいがってくれているのだ。しかし、愛川は、何か勘ちがいをしているのだろうか、いつかこの人につまらないことを言ったらしいので、それ以来、ほとんど姿を見せないようになってしまったのである。きょうにしても、上にあがらないのは、一つはそのためにちがいないのだが、おれんにしてみれば、そんないやなことがあるだけに、今のような親切なことばを聞くと、胸がつまるほど苦しかった。
じつを言うと、吾一の行くすえについては、こういう人に相談に乗ってもらったら、と彼女はどんなに心のうちで思ったかしれない。しかし、愛川の気性を知りぬいている彼女としては、あまり立ち入ったことを頼むわけにもいかなかった。うっかり、そんなことをしたら、先方にどんな迷惑がかからないとも限らないと思った。
やがて、安吉はそこそこに帰ってしまった。
おれんは、しばらく、そで口を目にあてたまま、じいっと、そこにすわっていた。
夜まわりのひょうし木の音が、霜にさえて、遠くから響いてきた。
彼女は疲れたからだをもちゃげて、また袋はりの台の前に行った。
ノリをつけようとすると、ナベの中に煮ておいたものが、いつのまにか凍っていた。
と、吾一はまた「ううん。」とうなりながら、大きく寝がえりを打った。
「吾一ちゃん、どうしたの。夢を見たのかい。――吾一ちゃん、吾一ちゃん。」
彼女は吾一のまくらもとに寄って、軽く子どもの背なかをなでてやった。
翌日、学校へ行くと、授業のすんだあとで、京造と吾一とは、教室に残されて、ひとりびとり次野先生にしかられた。駅長から学校にも、厳重な通告がきていたのである。
京造のほうは割り合いに早くすんだが、吾一のほうはかなり長くかかった。
「いったい、おまえのようなできる生徒が、こんなことをしでかすって法はないじゃないか。それは、おまえだけですむことじゃないんだよ。先生も世間に顔むけができないし、学校だって、どんなに困っているかしれやしないのだぞ。」
「…………」
「しかし、なんだって、こんな無鉄砲なことをやる気になったのだ。何かよっぽど、しゃくにさわることでもあったのか。」
「…………」
「愛川。それを言いなさい。あんなことをするからには、よくよくのことがあったのだろう。――おまえは中学に行きたいと言っていたが、それが思うようにいかないので、やけ《・・》になっていたのじゃないのかい。」
吾一はうなだれていた顔を少しあげた。彼はあの時、どうもそんなことなぞ考えていたようにも思わないが、先生に言われてみると、いくらかそういう気もしないではなかった。
「ああ、そうなんだろう。――中学へ行けないんで、むしょうに世の中がつまらなくなってしまって、死んだってどうしたって、かまわないって気になったんだろう。」
先生のほうでそうきめてしまうと、「いいえ、それはそれほどじゃなかったのです。」とは、答えにくかった。吾一は涙ごえで、ちいさく「ええ。」と簡単に返事をしてしまった。
実際、なんでやったのだと言われても、あの時はただ、かっとなって「やってみせるとも。」と言って、やってしまったので、今はっきりした理由なんか、ちっとも思いだせなかった。何よりも印象に残っているのは、おきぬの髪にさしてあった、花カンザシの赤いふさ《・・》だが、無論、そんなことなんか、ここで言えることではない。が、考えてみると、先生が言うようなことも、まんざら、なかったわけでもないんだから、先生の言うとおりにしておくのが、一ばん世話がない、と彼は思ったのである。
「おまえの気もちを考えると、先生は大いに同情はするけれども、しかし、無謀なことをやったものだな。――」
「…………」
「中学へ行けないくらいのことで、そんな考えを起こすやつがあるものか。そんなちっぽけなことじゃ、けっして大きな人間にはなれやしないぞ。――愛川、おまえは自分の名まえを考えたことがあるか。」
「…………」
「ああ、自分の名まえはどういう意味を持っているのか、おまえは、わかっていないのじゃないのかい。」
「……………」
「おそらく、吾一って名まえは、おとっつぁんが庄吾だから、その庄吾の『吾』と、最初にできた子どもなんで、『一』という字をつけたのだろうが、しかし、先生の考えじゃ、ただ、それだけとは思えないんだがね。――愛川。『吾一』っていうのは、じつに、いい名まえなんだぞ。」
次野は熱心に語り続けた。
「おまえは作文にでも、習字にでも、自分の名まえだから書くんだって気もちで、たいして考えもせずに、ただ愛川吾一と書いているが、名は体をあらわすというくらい大事なもので、吾一というのは、容易ならない名まえなんだよ。」
「…………」
「おまえの名まえは、おまえのおとっつぁんがつけたのか、ほかの人がつけたのか知らないが、とにかく、さっき言ったようないわれ《・・・》のほかに、もっと深い意味が含まれているのだ。名まえをつけた人に、そこまでの考えがあったかどうか、それは今せんさくする必要はない。つけた人はどういう考えでつけたにしろ、そういう立派な名まえを持っているものは、その名まえを、立派に生かしていくようでなくっては、名まえに対して申しわけがないではないか。」
「…………」
「吾一というのはね、われはひとりなり、われはこの世にひとりしかないという意味だ。世界に、なん億の人間がいるかもしれないが、おまえというものは、いいかい、愛川。愛川吾一というものは、世界じゅうに、たったひとりしかいないんだ。どれだけ人間が集まっても、同じ顔の人は、ひとりもいないと同じように、愛川吾一というものは、この広い世界に、たったひとりしかいないのだ。そのたったひとりしかいないものが、汽車のやってくる鉄橋にぶらさがるなんて、そんなむちゃなことをするってないじゃないか。」
「…………」
「さいわいに、汽車のほうでとまってくれたから、よかったようなものの、もし、あのまま進行したら、おまえはどうなっていたと思う。愛川吾一ってものは、もうこの世にはいなくなっていたのだぜ。」
「…………」
「死んじまって中学校に行けるかい。おまえは中学へ行って、立派な人になりたいと思っているのだろう。それだのに、あんなバカなまねをやってどうするのだ。よく世間では、このつぎ生まれ変わってきた時には、なんて言うけれども、人間は一度死んでしまったら、それっきりだ。愛川吾一ってものがひとりしかないように、一生ってものも、一度しかないのだぜ。」
「…………」
「おまえはまだ子どもだから、しかたがないと言えばしかたがないが、鉄橋にぶらさがるなんてことは、べつに勇ましいことでも、大胆なことでもないんだよ。そんなのは匹夫の勇というものだ。――死ぬことはなあ、愛川。おじいさんか、おばあさんにまかせておけばいいのだ。人生は死ぬことじゃない。生きることだ。これからのものは、何よりも生きなくてはいけない。自分自身を生かさなくってはいけない。たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。」
「…………」
「わかったか、愛川。先生は、おまえに見どころがあると思えばこそ、こんなに言っているのだ。おまえは自分の名にかけて、是非とも自分を生かさなくってはならない。おまえってものは、世界じゅうにひとりしかないんだからな。――いいか、このことばを忘れるんじやないぞ。」
「おじさん!」
カバンを鳴らしながら、吾一が勢いよく、稲葉屋の店さきへ駆けこんできた。
「ねえ、おじさん、おれ中学へ行けるかもしれないんだぜ。」
だれがそういうふうに計らってくれたのか、もとより、そんなことは知るはずもないが、彼は中学へ行けるってことが、うれしくってたまらなかった。
「そうかい。それはいいね。」
店ばんをしながら、島田三郎(しまだ・さぶろう)の「条約改正論」を読んでいた安吉は、本を伏せて、吾一を迎えた。
「きょうおそくなったのはね、学校がすんでから、読本だの、算術なんかの、おさらいをしたからなんだよ。」
「入学試験の準備かい。」
「ああ。」
吾一は得意げに答えた。
そのことは、もうとっくに次野から聞いているのだが、安吉は、はじめて知ったように、にこにこしながら、
「それじゃ、吾一ちゃん、しっかり、やるんだね。」
と、少年を元気づけた。
安吉は、慶応義塾に行っていただけあって、言わば、この町での知識人だった。からだが悪かったのと、父の死去のために、やむなく、中途で国に帰ることになったのだが、学問に対する熱意は、今でも失っているわけではなかった。しかし、うちの商売をついで、前かけをしめてしまうと、もう落ちついた勉強もできないし、それに、ときどき微熱が出たりするものだから、ぶらぶらしているよりほかはなかった。さいわいに、食うに困らないだけのものがあるので、店のほうはそんなに身を入れないでもよかった。退屈な店ばんをしているような時、だれか自分のかわりに、勉強する子をしこんでみようかなんて、気まぐれなことを考えることがあるのも、あながち、子どもがないからばかりではなかった。
そういう彼の前にあらわれたのが、吾一だった。吾一は、彼の夢を実現するのに、打ってつけの少年だった。それに、この子の母おやとは、子どもの時分、鬼ごっこや、子をとろ子とろをしたこともあって、そのころから、あるあわい好意を持っていた。もし、自分が東京の学校へ行っていなかったら、ひょっとしたら、この人といっしょになっていたのではないだろうかと、ある時、ふと思ったことさえあった。吾一はそういう人の子どもなので、彼にはなんか特別のしたしみがあった。それで、それとなく、めんどうをみてやるつもりになったのだが、父おやと応対してみると、どうもこの落ちぶれ士族のおうへい《・・・・》な男は、何かにつけて非常識なので、彼にはとても、つき合う気もちになれなかった。結局、人の世話なんてできるこっちゃないと、持ちまえの引っこみ思案から、つい、それなりになっていたのだった。
しかし、鉄橋事件を耳にした時、安吉はゴツーンと胸をどやされたような気がした。子どもがかってにやったことにはちがいないが、自分が知らんふりをしていることは、どうも、一つのちいさなたましいを、狂わしているように思えてならなかった。彼はすぐ、おれんを見まい、それから次野をたずねた。そして、自分のそばにもえ立った若い芽を、伸びあがらしてやりたいと言った。しかし、自分が学資を出すと言うと、うるさいから、自分の名まえはどこまでも伏せて、万事を計らってくれと頼んだ。
次野はわがことのように喜んだ。このあいだ相談を持ちかけた時、少しも話に乗らなかったので、内心不満でたまらなかった彼も、今度は安吉のほうから話を持ってきたので、すっかり感激してしまった。
そこで次野は、吾一に訓戒を加えた日の午後、さっそく母親のおれんを学校に呼び出した。そして鉄橋事件に対する一応の注意を与えたのち、吾一の将来について、かなり立ち入った話をすすめた。次野は自分が感激家だから、この話をしたら、母おやもさぞかし感激するだろうと思っていたところ、その割りでもないので、少しひょうし抜けがしないでもなかった。無論、おれんにしたって、子どもが中学に行けることだから、喜ばないはずはないのだけれども、自分のひとり了見にはいかないということを、くり返し、言うのだった。もとより、父おやの了解を得なければならないことは、言うまでもない話だが、常識から考えて、反対するわけがあろうとは思えないのに、そのことばかり言っているのが、次野には少なからず、ものたりなかった。とにかく、愛川には、おれんから承諾を求めさせることにし、なお、こちらに帰ってきたら、次野からも、愛川によく話をしてやるということにして、日もないことだから、取りあえず吾一には、入学の準備をさせるように計らったのであった。
「あ、おれ、うんとやるよ。うんと勉強して、一番ではいるようにするよ。」
吾一は、はげまされると、子どもなだけに、張りきり方も、また格別だった。
そういう元気なことばを聞くと、「これでこそ。」と安吉も思うのだった。
「それじゃ、おじさん、まえ祝いに、一つ、いいものをあげよう。」
彼は立ちあがって、本だなから、茶いろの表紙の、薄い本を一冊もってきた。
「これはなん冊も続いているものだが、今のところは、はじめの一冊だけ読んでおけばいいだろう。この本を書いた先生はね、むかし、おじさんが習いに行った学校の校長さんで、それはそれはえらい先生なんだよ。今の日本で指おりのえらい人なんだ。はじめは少しむずかしいかもしれないが、吾一ちゃんのようなものは、是非一度、読んでおかなくっちゃいけないものなんだよ。」
吾一はその本をもらったが、あまりありがたいとは思わなかった。表紙をあけてみても、「少年世界」のように、くち絵もないし、さし絵もないので、おもしろそうに思えなかった。しかし、「学問ノスヽメ」という題名は、彼のその時の気もちに、ぴったりはまっていた。
天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ 人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ
という書きだしが、なんとなく口調がいいので、意味はそれほどよくわからなかったけれども、学問修業に燃え立っていた少年は、その書物に、知らず知らず引き入れられていった。
彼はうちに帰ると、その薄っぺらな本をたちまち読みおえてしまった。そればかりではなく、
人ハ生レナガラニシテ貴賎貧富ノ別ナシ唯学問ヲ勤テ物事ヲヨク知ル者ハ貴人トナリ 富人トナリ 無学ナル者ハ貧人トナリ 下人トナルナリ
ということばなぞには、すっかり、感激して、そこのところは、なんべんもくり返して読んだものだから、いつのまにか、そらで言えるほどになっていた。
先祖と家がら
やがて梅の咲くころとなったが、風はあい変わらず強かった。どこからはいってくるのか、ふたをしたノリのナベの中にまで、こまかいほこりが浮いていることも、珍しくなかった。
おれんは次野から話のあった日に、すぐ庄吾のところに手がみを出し、吾一のさきざきのことについて、相談したいことがあるから、帰ってくれるようにと言ってやった。しかし、庄吾は帰ってこないばかりか、返事さえもよこさなかった。彼女は追いかけて、手がみや、はがきを出したけれども、ついに、なんのたよりもなかった。
人のうわさでは、庄吾は憲政党とかいう政党の壮士になって、飛びまわっているとも聞いた。また、東京に所帯を持って、もう、こっちへは帰ってこない、と言っていたという話も耳にした。政党のほうのうわさは、昔から、そんなことの好きな人だから、根のないこととも思えないが、うちを持ったという話は、ほんとうとは思えなかった。幾つき帰ってこないにしても、そんなことは信じたくなかった。
彼女はノリをといては紙を折り、紙をたたんでは、ノリをつける仕事をくり返して、ただ一日、一日を過ごしていた。
おれんの沈みこんでいるのに引きかえて、吾一は毎日はればれした日を送っていた。彼は母おやの顔いろなぞ、てんで気がつかなかったほど、自分の喜びに夢中になっていた。
もう作次をはじめ、だれも、彼にいやみ《・・・》を言う者はなかった。いや、いやみどころか、彼の前に出ては、みんな、あたまがあがらなかった。鉄橋事件で、彼と京造とが罪をかぶってしまい、ほかの者の名まえを出さなかった点も、大いに買われたわけだが、しかし、なんと言っても、彼らを恐れ入らせてしまったのは、自分で言ったことを、みんなの前で、実地にやってみせたことだった。それ以来、「あいつは学問ばかりでなく、ほんとうに度胸もある人間だ。」ということになって、急に友だちから、小英雄のような扱いを受けるようになったのである。
今までは、教室の中でこそ尊敬されていたが、そとで遊ぶ時や、体操の時間なぞには、吾一はなかなかいい役を振りあてられなかった。騎馬戦をやる時には、馬上の騎士になることもないではないが、馬のうしろ足にまわされることも少なくなかった。それが今度は、たちまちにして、全軍の総大将になった。京造がまえ足になっている、馬のなかでも一番つよい馬が、彼の前にやってきて、どうかこの馬に乗ってくれと言うのである。この馬にまたがって、身かたの指揮をしてくれと言うのである。そこで、彼は京造の馬にまたがり、たくさんの騎馬武者を従えて、しずしずと陣頭に進んで行く。進みながら、だれそれの馬は、敵のどの馬にかかれ、だれそれの馬は、敵の後方をおびやかせ、なぞとさしず《・・・》をする。最後に、自分は敵の大将を目がけて突進し、猛烈な取っ組み合いをやる。そして、いつもあい手をねじふせて、地上に突き落としてしまうのである。
兵隊ごっこの時も、彼はきまって大将におされた。だれでも彼の知略と胆力に、あたまをさげているからである。事実、彼が指揮をすると、きっと勝ってしまうのだ。だが、彼の命令は兵隊ごっこの時だけではない。ほかの遊びをしている場あいでも、彼がその遊びにあきて、「おい、今度は駆けっくらをやろう。」と言えば、みんなは、その遊びを中止して、すぐ彼の言うとおりになった。「コマをまわそう。」と言えば、「うん、やろう。」「やろう。」といった調子で、だれでも彼のことばに従った。
子どもの世界は実力の世界である。腕っぷしの強い者が大将になる。学問のできる者が尊敬される。学問があって、腕っぷしの強い者は、そのなかでも、最も崇拝されることになる。家がいいとか、悪いとか、父おやがえらいとか、えらくないとか、そんなことは、この世界では、ほとんど問題にはならない。裁判長のむすこでも、金もちの子どもでも、よわ虫だったら、一兵卒にされてしまう。そのかわり、車夫のせがれでも、強かったら、大将になる。なんでも実力がものを言うのであって、実力以外のものは、ここでは、たいして通用しなかった。だから、伊勢屋の秋太郎なぞは、いつも玉はこびの兵隊か、馬のうしろ足ばかりだった。
彼らの世界には、選挙も、投票もないけれども、どんな選挙よりも、最も公平な選挙がおこなわれていた。
彼らの世界には、位も勲章もないけれども、もっときびしい、自然の格づけが存在していた。彼らはそれを無言のうちに認め、無言のままで尊重していた。それは彼らの世界の憲法であり、彼らの世界のおきてだった。
このおきてに対しては、道雄のような者でさえ、服従しないわけにはいかなかった。遠くのほうで、「なんだい、そんなもの。」という目つきをしているようにも、思われないではないけれども、少なくとも、彼の前では、もう知ったかぶりをしたり、新しがりを振りまわしたりするようなことは、全く、なくなってしまった。何かにつけて、彼よりも前に出よう、前に出ようとしていた道雄が、彼に対して、対抗しようなぞというそぶり《・・・》を、まるで見せなくなったことは、一面ものたらない気もしないではないが、なんと言っても愉快なことだった。
彼は今、もじどおりお山の大将だった。彼の言うことはなんでも通るし、みんなからは持ちあげられるし、中学の希望はかなえられるし、……何ひとつ、不足を言うせきはなかった。彼には取りわけ、ことしは、春が早くきたような気がしてならなかった。
きょうも放課後、入学準備の勉強をやってから、吾一はいつものように元気よく、路地の奥に帰って行った。と、うちの中から、父の太い声が、とぎれ、とぎれに聞こえてきた。彼は急に、うちの横に立ちどまってしまった。
「いや。おれは行かない。なんと言ったって、おれはそんなところには行かないぞ。」
「だって、あなた、ご親切に言ってくださるのに、一度も顔だしをなさらなくっちゃ……」
続いて、母おやの声が聞こえてきた。
「何が親切なことがある。そんなのは親切じゃなくって、おせっかいじゃないか。」
「まあ、あなたはどうしてそうなんでしょうね。そんなことをおっしゃっちゃ、先生に対して申しわけがないじゃありませんか。」
「うるさい。おれが今度かえってきたのは、そのために帰ってきたのではない。こっちを引きあげるために帰ってきたのだ。だから、おまえもいっしょにここを引きあげればいいのだ。」
「…………」
「ふんぎりの悪いやつだな。おい、どっちにするのだ。東京へ行くのか、行かないのか、それさえ返事をすればいいのだ。」
「…………」
「いつまで考えているのだ。おれが引きあげると言うのに、おまえは不承知なのか。」
「…………」
「ふん、おまえには、ここを離れられない事情があるんだろう。」
「まあ、あなた、何を言うんです。」
「バカにしてやがる。――おい、なんかないか。こんなもんじゃ、酒は飲めやせんよ。」
「…………」
「さかな屋へ行って、なんか取ってこい。それから、酒もこれっぱかりじゃ、たりやしない。もっと取ってこい。」
吾一は、うちの戸ぶくろのそばに、コウモリのように吸いついていた。父がどなり散らすことは、今にはじまったことではないが、こんな空気の中に、「ただ今。」と言って、はいって行くことは、とてもできなかった。
と、母おやがふろしきを持って、台どころぐちから出てきた。
「まあ、おまえ、いつ帰ってきたの。こんなところに立ってないで、早くおはいんなさい。」
母にそう言われても、父おやだけのところに、彼は、はいって行く気がしなかった。
「おっかさん、おれ、お使いに行ってやろう。」
「いいの、おっかさんでなくっちゃ、わからないから。」
「じゃ。おれもおっかさんといっしょに行かあ。」
「おまえ、おとっつぁんにごあいさつをなさいよ。お帰りになっているから。」
「いやだあ、おれ、ひとりじゃ……」
吾一はカバンをさげたまま、さかな屋とさか屋にまわり、それから、母おやのあとについて、恐る恐る家にはいった。
父はあらい棒じまのはかまをはいて、黒い紋つきの羽おりをきていた。吾一は遠くのほうから、あいさつをした。
母おやは父の前にさしみのサラと、トックリを置くと、いつものように、台の前にすわって、袋を張りはじめた。
庄吾はむずかしい顔をして、ひとりで杯をなめていた。と、酒の中のごみ《・・》が、舌にでもさわったのか、ほき出すように、軽く「ペッ。」と舌さきをふるわせたと思うと、おれんのほうを向いて、急にどなりつけるように言った。
「おい、なんだってそんなことをやっているのだ。そんな貧乏くさいことはやめにしろ。」
「…………」
「そんなことは平民のやることだ。おれのうちじゃ、いつの代でも、そんな内職をした女房(にょうぼう)はひとりもいないぞ。」
まあ、なんということを言う人だろうと、おれんは思った。彼女はうらめしそうに、目をあげたが、すぐまた、顔を伏せて、仕事を続けた。
どこのうちの妻にしたって、だれが好んで、こんな内職をやるものがあろう。月づきを過ごせるようにしてくれたら、自分だって、一日も早くやめたいのは山やまだけれども、今はかた時でも、手を遊ばせてはいられないのだ。
「そんなことよりも、さっきの話はどうするんだ。おまえは行くのか、行かないのか。」
おれんは返事をしなかった。
庄吾はこれから家をたたんで東京へ移ると言うのだが、どういう成算があって、向こうへ引っ越すのか、そういう点が、さっぱりすじ道が立っていなかった。言っていることだけは、あい変わらず大きいけれども、彼の話には、ちっとも取りとめがなかった。いつも仕事をはじめる時には、きまって景気のいいことを言うのだが、そういううまい話は、彼女はもう聞きあきていた。
「おい、なぜ黙っているんだ。――おまえは東京へ行くよりは、ここでいつまでも袋を張っていたいのか。」
「…………」
「そんなことをしているから、世間のやつらに、さげすまれるんだ。――酒を飲んでる鼻っつぁきで袋なんか張っていられちゃ、酒の味がすっぱくなっちまわあ! おい、やめろと言ったら、なぜ、やめないんだ。」
庄吾は持っていた杯を、いきなり、おれんに投げつけた。
いいあんばいに、ねらいがはずれて、杯はおれんの横の、封筒の山の上に落ちた。酒のこぼれたところが、ナメクジのはったあとのように、筋になってぬれていた。
吾一はうしろのほうにすわっていたが、いたたまれなくなったので、そっと立ちあがった。そして、そとへ出てしまおうと思って、台どころまで行くと、板のまの板が、ギイッと鳴った。
「吾一、どこへ行くんだ。」
ビインと響く父の声が、背なかまで追いかけてきた。
吾一は板のまにすくんでしまった。
「いま時分、そとへなんか行かなくってもいい、こっちへこい。」
「…………」
「こっちへきて、おとっつぁんの前にすわれ。――おい、すわれと言うんだ。」
吾一はしかたがなしに、父の前にすわった。しかし、父の顔は見られなかった。
「おまえ、中学へ行きたいんだそうだな。」
「ええ。」
「しかし、おとっつぁんが、いけないって言ったら、どうする。」
吾一はびっくりして父を見あげた。
「なんだ。そんな顔をしやがって。――中学へ行きゃ、どうだって言うのだ。いったいおまえは、だれがその費用を出すのか知っているのか。」
「知りません。」
「きさまは人の金でもなんでも、中学へ行けさえすれば、それでいいのか。」
「お、おれは、……中、中学へ……」
吾一は半分なきだしそうな声で、おろおろ言った。
「中学はわかっている。他人の金をもらってでもなんでも、中学へ行きたいかと聞いているのだ。」
「……ベ、勉強がしたいんです。」
「バカ野郎。きさまは、いつ、そんな土百姓のような根性に、なりさがったのだ。」
「…………」
「きさまは新井白石(あらい・はくせき)を知っているだろう。白石のことは学校の本にも出ているはずだ。」
「し、知っています。」
「知っていりゃ、なお、つごうがいい。だが、白石がどうして、あんなえらい学者になったのか、それも知っているか。――なに、知らない。そうだろう、知ってりゃ、今のような寝ぼけたことは言わないはずだ。白石はなあ、無論、子どもの時から学問がよくできた。そして、よく勉強した。しかし、それだけではない。白石には気概があったのだ。武士としての気概があったのだ。それが白石をああいう大学者にしたのだ。いいか、ようく聞いているんだぞ。白石も若い時は貧乏だった。そりゃあ、食うにも困るほどの貧乏だったのだ。すると河村瑞軒(かわむら・ずいけん)、これも有名な人だから、学校で習ったはずだが、今で言ったら、大倉(おおくら)、いや、大倉ぐらいじゃない。三井(みつい)にも負けないくらいのおお金もちだが、その瑞軒が白石を見こんで、自分のところのむこ《・・》にしようとしたのだ。ちょうど、兄の娘に年ごろの者があったので、それといっしょになってくれるなら、学問研究のために、三千両で買った家やしきを付けて、さしあげましょうと言ってきた。いいか、おい三千両だぞ、三干両と言や、今だってすばらしいもんだが、そのころの三干両と言ったら、一生ぜいたくをして暮らせるほどの財産だ。そいつを研究費に出すと言うのだ。ところが、白石は、その時どうしたと思う。『ご厚志はかたじけのうございますが。』と言って、ポーンと、はねつけてしまったのだ。」
「…………」
「どうだい。胸のすくような、いい話じゃないか。男って、こうありたいもんだな。――うちの米ビツは、からっぽだ。向こうは三千両の家やしきだ。それだけありゃ、一生、らくに学問がやってゆけるのだ。しかし、白石はその三千両をけとばしてしまった。もし、三千両にあたまをさげたら、三千両の学者にもなれなかったろう。だが、白石は三千両をけとばしたことによって、一代の大学者になったのだ。どうだ。このりいん《・・・》とした気概は。――おい、杯、杯。」
庄吾は自分で三千両のコバンの山をけとばしたような意気ごみで、いい気もちそうに、杯を取りあげようとしたが、ひょいと気がつくと、自分の前にはそれがなかった。
おれんは新しい杯を、庄吾のところに持って行った。それから、そこにあるトックリを取って、おしゃくをしようとしたが、さめているので、もう一度あっためようとすると、
「いや、冷えていてもいい。冷えていてもいい。」
と言って、つめたくなっている酒を、二、三杯、立てつづけに飲んだ。
「吾一、きさまは武士の子ではないか。少し気概を持て、気概を。」
「…………」
「きさまは先祖のことを忘れてしまったのか。いつかも話したとおり、うちのご先祖さまは、相川新吾定春と言って、甲州がたのさむらいだ。山崎尾張守(やまざき・おわりのかみ)という方の組み下で、そりゃあ音に聞こえた勇士だったのだぞ。ある時、尾張守は部下のさむらいの武具を調べたことがあった。なんのことはない、今日の軍隊の検閲のようなものさ。ところが、ご先祖はよろいを持っていなかった。『そのほうは具足をどういたしたのだ。』さっそく、主人からきめつけられた。すると、ご先祖は平気な顔をして、こう言った。『運は天にあり、よろいは質やにあり。』」
「…………」
「はははは、『運は天にあり、よろいは質やにあり。』ご先祖さまは、全く話せる人だよ。吾一、覚えておけ。今おれのところが質やと縁の深いのは、ご先祖といんねんがあるんだぞ。あはははは。――話が横に飛んじまったが、尾張守って人はなかなかわかった人だったんだな。『ものの具がなくって、さむらいはどうするんだ。』と、まだ若い新吾をどなりつけたが、見ている前で、竹流し金(きん)を、――竹流し金てえのは、言わば金ののべ棒だ。そいつを、ぶったぎって、『さあ、持って行け。』って、気まえよく、ほうり出した。無論、よろいを受け出せって言うわけさ。ところが、この新吾定春、ただのネズミじゃねえ。その金を持って、こそこそ質やのノレンをくぐるような、けちな男たあわけがちがわあ。そいつを、みんな、貧乏している親類縁者にくれてしまった。もっとも、そういうご先祖のこったから、自分でも友だちといっしょに、一杯ひっかけたにはちがいないが、大部分は、やってしまった。そうして主人の前では、よろいを受け出したような顔をして、すましこんでいた。」
「…………」
「しかし、戦国時代のことだから、そうすましちゃいられない。たしか、永禄(えいろく)十三年の正月と聞いているが、信玄公が花沢の城を攻めるというので、甲州ぜいがせいぞろいをした。尾張守の手の者も、その中にいることは知れた話だ。しかし、出陣と言ったって、新吾はよろいを持っていねえんだから、着て行くわけにはいかない。陣ダチを腰につけているだけだ。尾張守はそれを見て、あいた口がふさがらなかった。無理はないよ。質を受け出せと言って、大枚の金をくれているのだからな。『そのほうは、どうして具足をつけてこないのだ。』尾張守はにらみつけるように言った。そうすると、ご先祖はしゃあしゃあした顔をして、『どうも近ごろのように鉄砲だまが飛んでまいりましては、具足もあまり役に立ちませんから、着用いたしませんでした。そのかわり、今日はこれを用意いたしてまいりました。』と言って、クワを入れてぶらさげるような、アサ糸の、ちいさい網を突き出した。『そんなものをなんにするのだ。』『これは首を入れる網でございます。まっさきに駆け入って、この網の中に、敵の首を入れてくるつもりでございます。』そう答えるとな、『バカ者め、自分の身ごしらえもできていないで、敵の城に向かったところでなんになる。あべこべに、その網の中に、きさまの首を入れられてしまうぞ。』あたまから、やっつけられてしまった。しかし、新吾定春は落ちついたもんで、また『運は天にあり、よろいは質やにあり。』と、笑いながら答えたというのだ。」
「…………」
「無論、ご先祖は討ち死にするつもりなんだ。ところが、いのちを捨ててかかるってえものは強いもんで、捨て身になってぶっつかって行くと、たいていのことは成功するんだ。いよいよ花沢城に迫ると、このわか武者はことばどおり、まっさきに進んで行った。そして敵のさむらい大将の首を取り、例の網の袋にそいつを押しこんで、ゆうゆうと引きあげてきた。これを見た尾張守は、せいぞろいの時には、きげんが悪かったが、すっかり喜んじまって、さっそく百十人ぐみの組がしらにお取り立てになった。そればかりか、信玄公からも、じきじきに、ごほうびを賜わったというのだ。これがおれのうちのご先祖さまだ。きさまだって、この話は知っているはずじゃないか。」
吾一は父の語る祖先のもの語りを聞いているあいだに、彼の耳には、なんども汽笛の響きが聞こえてきた。むかしの合戦(かっせん)とは、およそ縁のない、近代的のものだが、陣太鼓かなんかのように、それが勇ましく、あいだにはさまってきた。そして、そのたびに、彼はぎゅっと手をにぎりしめた。
「だがな、吾一、ご先祖さまのえらいのは、それだけじゃないんだぞ。」
庄吾は杯を手にしたまま、ぐいと、大きくからだをそらせた。
「信玄公が世を去ると、武田(たけだ)の家も、がたぴししてきた。あと取りの勝頼(かつより)は向こうっ気ばかり強くって、大将としての器量がなかったんだな。そこで、尾張守って人も、あいそをつかして、とうとう武田がたを離れて、織田(おだ)のほうへ行ってしまった。むかしは主人が離れれば、家来(けらい)もいっしょについて行くのが習わしだが、うちのご先祖はついて行かなかった。なぜかってえと、その新吾定春って人が生まれたのが甲州だからだ。しかも信玄公の居城、ツツジが崎山の近くを流れている、相川っていう谷がわの川しもで生まれたんだ。だから、信玄公のじきじきの家来じゃなかったけれど、生まれ故郷には、どうしたって弓を引く気にはなれないじゃないか。そうかと言って、武田のほうにつけば、織田のほうへ行っちまった自分の主人と、戦わなければならない。そいつもつらい。どっちにつくと言ったって、どっちについても、自分の気に染まないから、とうとうどっちにもつかないで、甲州の山をおりてしまった。そうして、こっちへやってきて、今の大沼のほとりに身を隠したのだ。相川の姓を、愛川に改めたのも、それからのことだ。あの時勢の人にしちゃ、じつに珍しい人物さ。何しろ『きのうの身かたは、きょうの敵。』『切り取り強盗は武士の習い。』って時代だ。武士は自分の利得しか考えなかった時代に、こんな立派な振る舞いをやったってえのは、花沢城で一番くびをあげたよりも、もっと、すばらしいことだからな。」
「…………」
「それくらいだから隠退しても、相川新吾の名は相当に響いていたらしい。ごんげん様がはじめて江戸(えど)に移った時、徳川家に召しかかえたいと言って、使者がやってきたそうだ。しかし、もう仕官の望みはない、と言って断わると、それでは愛川の家に対しては、永久に格別の待遇をするから、心おきなく、余生を送られるがいい、と言って帰って行ったそうだ。そう言って行ったのは、つまり、これだけの人物を、よその家に取られないようにという用心からさ。だが、そのことばがあったために、徳川時代には、愛川の家ってものは、そりゃあ豪勢なもんだった。やしき地だけでも十三町。そこはねんぐ《・・・》の取り立てもなかった。当主がよそへ出かけるおりは、ヤリを立てて歩いたものだそうだ。そのくらいだから、ところの代官だって、一もくも、二もくもおいていたもので、代官所が、村かたの支配に手を焼いたような時には、おれのところに頼みにきたって話だ。おれのうちで口をきくと、村かたの不平もおさまったって言うんだから、たいしたものさ。それもこれも、みんな、ご先祖がえらかったおかげだ。」
「…………」
「ところが、ご一新になったら、がらりと変わってしまった。薩長(さっちょう)のやつらが、かってなまねをしやがって、今までのいいところを、めちゃめちゃにしてしまやあがった。世の中が、こんなふうにけわしくなったのは、みんな、あいつらの仕事だ。それにつれて、人間もすっかり、こすくなってしまった。よろい、かぶとこそつけないが、また戦国時代に逆もどりだ。きのうの身かたは、きょうは敵だ。武田がただと思って、心をゆるしていると、裏じゃ、敵と内通していやがる。全く、いやな世の中になったもんさ。油断もすきもあったもんじゃねえ。親切らしいことを言ってくるやつは、きまって腹の中にたくらみを持っているのだ。おとっつぁんはな、そのたくらみに引っかかって、どれだけ、ひどい目にあったかしれやしねえ。おれのうちがこんなになったのも、おとっつぁんが人がよかったから、いけなかったんだが、第一は世の中が悪くなったからだ。――吾一、世の中で何が一番おそろしいか、知っているか。恐ろしいものは、トラでもない。オオカミでもない。人間だぞ。うまいことを言ってくる人間だぞ。」
「…………」
「吾一、人を信じちゃだめだ。うまい話に乗っかっちゃだめだぞ。おまえの年じゃ、こいつは、ちいっとわかりにくいかもしれねえが、おとっつぁんが、きょう言ったことは、ようく腹に入れておくんだぞ、いいか。なんでもないのに、親切にしてくれる人間なんて、世の中にはありゃしねえ。親切の底には、きっと、なんかがあるんだ。世話をしてくれるなんて人があったって……」
「……あなた……」
台どころで野菜をきざんでいたおれんは、たまらなくなって、そっと涙をふいた。
「なんでえ。よけいな口だしをするない。また杯をぶっつけられてえのか。」
庄吾はガチャリと杯を置いて、おれんのほうをにらみつけた。
それから、手じゃくで、なんばいもかさねたが、やがて、またことばを続けた。
「吾一、おまえに金を出してくれるって人は、どこのだれだか知らないが、おとっつぁんには、たいてい見当がついているんだ。学校の先生が出してくれると言ったそうだが、先生が自分で出す気づかいはありゃしない。おれはきっぱり言っておくが、きさま、そんな金で中学へ行くと、承知しねえぞ。」
「…………」
「何よりも新井白石のことを考えろ、三千両をけとばした白石の気概を持て。人の世話になろうなんて、けちくさい了見じゃ、とても出世はしやしねえぞ。おれのうちは、むかしから、人の世話をしたことはあるが、人の世話になったためしはねえんだからな。」
「…………」
「きさまは、そこらの土百姓とは、生まれがちがうんだぞ。がつがつするな。もっと、おおように構えているんだ。そして、もっと、ぴいんとしたところがなくっちゃいけねえ。もう少したちゃ訴訟のほうも、かたがつくから、そうすりゃ、おとっつぁんが中学へでもなんでも入れてやる。」
「…………」
「中、中学なんざあ、どこにだってある。こんなけち《・・》くさい村の中学にはいるよりも、もっといい学校にはいれ。どうだ。きさま、東京へ行く気はないか。東京へ行って、東京の学校へあがれ。」
「…………」
「おっかさんはな、東、東京へ行きたくないって言うんだ。なんか行きたくないわけがあるんだろう。おっかさんが行きたくなけりゃ、おまえと、ふたりだけで行こう。そりゃあ東京はいいところだぞ。」
「…………」
「なぜ、おまえは返事をしないんだ。――はははは。腹がへっているのか。――おい、早く吾一にめしを食わせてやれ。」
「は、はい、いま、したくをしているところなんです。」
おれんは涙をふきながら、台どころから答えた。
「何をしてやがるんだなあ、早くこしらえてやればいいのに。――いや、もう、したくなんかしなくってもいい。おい、吾一、お、おとっつぁんといっしょに行こう。きょうは、おとっつぁんがごちそうしてやる。」
「あなた、吾一をどこへつれて行くんです。」
「牛、牛肉を食わしてやるんだ。――おっかさんは、しみったれだから、おまえに牛肉なんか食わしてくれないだろう。きょう、きょうは、おとっつぁんが久しぶりで、ごちそうしてやる。牛肉やへ行こう。」
「そんなもの、ここにはありゃしませんよ。」
「牛肉やがなけりゃ、ほかのうちへ行く。きょうは、おとっつぁん、金を持っているんだぞ。なんでもごちそうしてやる。おまえ、腹がすいているんだろう。さあ、こい。いっしょにこい。」
庄吾はよろけながら立ちあがった。
「子どもを、あなた、そんなところへ……」
「うるさい。お、おまえは引っこんでいろ。――こんなところで飲んでいたって、おもしろくない。おい、吾一、行こう。何をぐずぐずしているんだ。相川新吾定春の子孫は、も、もっと、ぴいんとしなくっちやだめだぞ。」
「…………」
「『運は天にあり、うまいものは……』うまいものは、ここらの料理やにあるかどうかわからねえが、とにかく行こう。さあ、立て。なあんだ。きさま、行かないんか。バカなやつだなあ。おっかさんのそばになんかくっついてると、出世しねえぞ。」
うつりかわり
愛川の家は庄吾の代までで十三代つづいた。このあたりでは指おりの旧家である。祖先の新吾は、経済の道にも明かるかったらしく、新田を開き、山林をふやしたりして、愛川の家の土台を築きあげた。そして二代め、三代めがまた手がたい人物で、根気よく父祖の遺業をもり立てていったから、やがてこの地方では、押しも押されもせぬ豪家となった。無論、その後の当主のなかには、やくざな人間もあったろうが、庄吾が自慢をするように、代官がねんぐの取り立てに手こずったような場あい、ちえを貸してやったり、ある時は百姓のがわに立って、代官をおさえたりするような、才物もあった。しかし、たいていは、代々愚直と言ってもいいくらい、むかしからのしきたり《・・・・》を守ってきた者が多かった。この家がこんなに長く続いたのも、そこに大きな原因があるのかもしれない。しきたりさえ守っていれば、寝ころんでいても、米はひとりでに蔵の中に運びこまれるのだし、威ばって世の中が渡れるのだから、これに越した生活法はないわけである。
が、庄吾の父の代になったころから、世間がだいぶ騒がしくなってきた。勤王(きんのう)とか、佐幕(さばく)とかいうことばが、しきりに人びとの口にのぼった。愛川の家にも、ぶっさき羽おりを着た浪士ふうの男が、足しげく出いりするようになった。庄吾の父はそれらの人びとと、どこかへ出かけて行っては、ふた月も、み月も、帰ってこないようなことがしばしばあった。そして慶応四年、――その年の九月に、明治と改まったのだが、父は彰義隊に加わって、上野(うえの)の山に立てこもった。しかし、立てこもったという知らせがあっただけで、その後の消息は全く絶えてしまった。人の話では、上野が落ちた時、三河島(みかわしま)方面に逃げ口があいたので、彰義隊の多くは、そこから脱走した。そのなかに父の姿もまじっていた。父はなんでも、染めもの屋に飛びこんで、髪をやっこまげ《・・・・・》にゆいなおし、あいガメに両手を突っこんで、染めもの屋の職人のようなふうをして、逃げたと言うのだが、それとても、どこまでがほんとうかわからなかった。
家では人を出して、心あたりをくまなく尋ねさせたけれども、なんの手がかりも得られなかった。落ちのびたものなら、今にきっと、もどってくるにちがいないと、頼みにならないことを頼みにしていたが、父はついに帰ってこなかった。父の行くえがわからなくなってから、三年たった。ちょうど庄吾が十歳になった時である。その年の正月に、彼は前がみを落として、元服した。そして、おさな名を改めて、庄吾安春と名のることになった。元服の式は古式にのっとって、おごそかなものだった。祖父がなお達者だったので、すべては祖父のはからいによって、おこなわれたのである。
祖父は彰義隊に走った父よりも、さらに徳川びいきであったことは言うまでもない話だ。あるいは、徳川びいきと言うよりは、改革とか、改良というものを極端にきらった、と言うほうが当たっているかもしれない。何ごとによらず、今までの慣例、風習を無上のものと心えていた、いっこくな老人だった。彼は一生、刀を離さなかった。廃刀かってしだいという時代はもちろんのこと、廃刀令が出たのちでさえも、すなおに命令を奉じなかった。刀をさしていけないなら、拙者は刀をさげて歩く。刀をさげてはあいならぬとは、おふれの中にも書いてないではないか、なぞと言って、左の手に腰のものをさげて外出したりした。庄吾はこういう祖父によって、教育されたのである。舞台がまわっても、彼は前の場の着つけで、前の場のせりふ《・・・》を教えこまれた。だから、たとえば、宮まいりとか、年賀とかいうような場あいには、子どもではあっても、かみしもをつけ、両刀をたばさんで出かけたものである。あたまをざん切りにしたのは、彼はこのかいわいで最もおそいほうだった。ざん切りは非人、こつじき《・・・・》のするものであると、祖父から聞かされていたからである。
祖父は彼の十五の時に死んだ。所帯が大きいので、十五の彼には、まだ家を切りもりしていくわけにはいかなかった。それで親類の者が後見人になった。維新のどさくさまぎれに、この後見人が財産をごまかしたことは、あとになってわかったが、その当時は衣食になんの不自由もなかったから、庄吾は「若だんな様」と立てられて、いい気になって暮らしていた。
しかし、この若だんな様が十八の夏に、村もみにあった。「村もみ」というのは、村びとから受ける一種の制裁である。その夏、日でりが続いて、地われがするほど、田に水がなくなってしまった。百姓たちは、うじ神に祈ったり、お寺に雨ごいを頼んだりしたが、なかなか雨がふらなかった。そこで村かたの者は、一同そろって、大山(おおやま)さまに雨ごいに行くことになった。愛川のところにも、その回状がまわってきたので、庄吾も出て行かないわけにはいかなかった。ご一新前であったら、この村の郷士(ごうし)として、百姓ふぜいと同席するいわれもなく、百姓の取り締まりである名ぬしさえも、はるかに眼下に見くだしていたのだから、もとより、そんなものに加わるわけはないのだが、時勢がすっかり変わってしまったので、もう、昔のようなことは言っていられなかった。けれども、おれのうちは、百姓なぞとは身ぶんがちがうんだという考えが、どうしても抜けないから、ワラジをはいて、彼らといっしょに、三里もある大山さまに歩いて行くことは、バカくさかった。彼は鎮守(ちんじゅ)さまの森で勢ぞろいをした時には顔を出したが、途中からそっと姿を隠してしまい、うちへ帰ってひる寝をしていた。神さまに頼もうが、頼むまいが、ふる時にはふるし、ふらない時にはふらないのだと、彼はあお向けに寝そべっていた。ところが、これが問題になって、大騒動が持ちあがった。もし、このとき雨がふったら、それほどのこともなかったのだろうが、百姓たちが最も信仰している大山さまに祈願をしても、あいにく、ひとつぶの雨も落ちてこなかった。そうすると、村びとたちは雨のふらない責めを、みんな庄吾になすりつけてしまった。村かた一統のお願いというのに、庄吾がずるけて行かなかったから、大山さまがおこって、雨をふらさなかったのだ、そういう言いがかりをつけて、村民はどやどやと愛川の家に押し寄せてきた。「小せがれを出せ。」「なまけ者を出せ。」とわめきながら、彼らは門や家をぶちこわしにかかった。後見人はみんなの前に出て、ひらあやまりにあやまったが、たけり狂っている村びとは、なかなか承知しなかった。仲裁する人があって、庄吾はやっと、袋だたきにされることだけはまぬかれたけれども、そのかわりに愛川の家では、米三十俵と、二十両の金を村民の前に出さなければならなかった。
庄吾が雨ごいに行かなかったことは、今日のことばで言えば、統制を乱したわけで、確かに悪いにはちがいないが、しかし、ただ行かなかったというだけで、こんな目にあわせるのは、少し度を越しているように思われる。けれども、これがいわゆる「村もみ」なるものであって、へいぜい気にくわない家に対しては、事があると、村民はこういう手あらい手段をとったのである。自分の家ばかり、別格のような顔をしているので、つねづねしゃくにさわっていたばかりでなく、前の主人が官軍に手むかったことも、ご時勢がら、村民の受けが悪かった。それに愛川の家は物もちであるから、もめば出るということもわかっているので、この時とばかり、押し寄せたのである。
こういう風習は今はなくなったと思うが、明治の末年までは、なお所どころに残っていた。このことがあって以来、庄吾は村の口ききたちと、いよいよそりが合わなくなった。村もみと言っても、それは村びと全体の意見と言うよりは、上に立っている連中のさしがねなことは、知れきった話だからである。おもて向きは、手うちになったようなものの、庄吾にしてみれば、このうらみは忘れられなかった。だから、いま進行中の、村長をあい手の訴訟事件にしても、ただ山林の所有あらそいだけではない。もとを洗うと、じつは、ここから尾をひいているのであって、村の代表者たちを、たたきつけてやろうという考えも、多分に含まれているのであった。
はたちになった時、彼は家督を相続した。それからまもなく、嫁を迎えることになったのだが、そのやさきに、はからずも、彼は後見人の不正を発見した。いくら交渉しても、らちがあかないので、彼はついに後見人を訴えた。しかし、訴訟には勝ったけれども、あい手はうまく立ちまわって、財産を隠してしまったから、ほとんど何も取ることができなかった。自分の代になって、多額の財産を失ったことを、彼は先祖に対して申しわけなく思った。彼はなんとかして、その損失をうめたいと思った。それでいろいろなものに手を出した。ニワトリの千ば飼いがもうかると言われて、彼はあいている地面に、高い値でつかまされたニワトリを、たくさん飼った。しかし、ひな《・・》をかえすよりも前に、親どりが病気になって、ばたばた倒れてしまった。それから、大山さまの隣の山から、鉄が出るという、うまい話に乗せられて、発掘をはじめたが、掘れば掘るほど、それは自分の家に穴をあけるだけだった。そればかりではない。自然もまた彼に身かたをしないで、日本特有の風水害は、徳川時代からの、ゆいしょのある家をめちゃめちゃにしてしまった。雨でゆるんだうら山の一部がどっとくずれてきたために、ひとたまりもなく、押しつぶされてしまったのである。
田はたは水に流されなかったが、それはもう、とうにひと手に渡っていた。おじいさんに育てられた、世間みずのおぼっちゃんは、こうして家やしきを奪われ、田地を失って、水のみ百姓よりももっとあわれな姿になって、町の路地うらに引っこまなければならなかった。こういう境遇に落ちこんでも、悪いことには、彼は自分のおい立ちを忘れなかった。ふつごうなのは、どこまでも時勢であり、世間であって、けっして、それ以外の何ものでもなかった。彼は世をのろい、人を信じなかった。「人を見たら、どろぼうと思え。」ということは、彼にとっては、もうことわざでなくって堅い信仰になっていた。
彼はまた、じみちに働くことをさげすん《・・・・》でいた。人が口を世話しても、彼はほとんど、あい手にならなかった。こつこつ働くことは、いやしい人間のやることであって、自分のようなものは、手あしを動かすべきものではないというのが、彼の生活の立てまえだった。代々ねんぐまいの上にひる寝をしてきた家がらなので、労働をしないで食ってゆける生活が、彼の理想の生活であった。彼は毎日ぶらぶらしながら、何かうまいもうけ口はないかと考えていた。ある日かれは、風水害のおりに取り出した、ツヅラの中をかきまわしていた。すると、もとゆいでしばった、ふるい書きものが出てきた。退屈まぎれに、日なたぼっこをしながら、彼は何げなく、書類を開いて、あちらこちら、飛び読みをしていると、その虫のくった古い紙の中に、意外な事実を発見した。いま村の共有地となっている広大な山林は、じつは、彼の家の所有であることが、はっきりと、しるされているではないか。ひとすじの光が、突然、彼のからだの中に飛びこんできた。庄吾は急にいずまいをなおして、そこのところをもう一度丹念に読み返した。
文面から判断すると、徳川時代には、その山林は代官所の領地であったらしい。しかし、村の者がその山へ落ち葉や、した草を取りに行くので、軽い税金を取るだけで、山の管理はしばらく、むら役人にまかせていたものであった。ところが、村民のなかに落ち葉や、した草を取るだけでなく、立ち木を切り倒して、売買するような、ふこころえ者があらわれたので、代官所では立腹して、むら役人から山林を取りあげるということになった。山を取りあげられては、貧しい村民の生活にも困るので、例の才物であった愛川家の当主が中にはいり、未納になっていた税金を払ったほかに、献金をしたりして、ひたすら代官の怒りを解くことにつとめた。その結果、従前どおり、村の者が山へ立ち入ることを許してもらったのであるが、この献金が大いに代官の心を動かしたものと見えて、その事件のあと、「……御時勢ガラ相ワキマヘ、御地頭所へ格別献金モ致シ候条、御満足ニ思ボシ召サレ、御山林一円ソノ方ヘ下サレ候」という書きつけをよこした。この文面の前のくだりに、いま言ったようなことのあらましが、しるされているのである。
「御山林一円ソノ方ヘ下サレ候」とあるからには、確かに愛川家でもらったものであって、その山林はもはや官の領地でもなければ、もちろん、むら役人の所有でもない。こんな大きな事がらが、どうして今日まで知れずにいたのか、不思議でたまらないが、この書きつけは文化九年のものであって、古ツヅラに突っこんだままになっていたから、調べてみる人もなかったものらしい。それに愛川家では地所をたくさん持っていたので、この山林のことなぞ、そんなにやかましく言う必要がなかったのであろう。ところが、村の者は、むかしどおり、この山へ年々、落ち葉をかきに行っており、それがもう文化九年からかぞえても、八十なんねんにもなるのだから、だれでも村の入り会い場(共有地)と思っていたのだ。庄吾自身さえ、そう信じていたくらいだった。しかし、こういう書きつけが出てきた以上は、なんと言っても自分の家の山林に相違ない。庄吾はうれしさのあまり、その書きつけを押しいただき、なんどもなんどもお辞儀をした。
「さあ、おれにも運が向いてきたぞ。これだから、けちっくさい仕事なんかするのは、バカだって言うんだ。――おい、そんな針のしりなんか突っつくことはやめにしろ。」
彼はもう、おお地ぬしになったような気もちで、お針をしていた妻をどなりつけた。そして、せわしなく、
「車、車、早く車を言ってくるんだ。」
と、おれんをせき立てた。そう言うあいだにも、彼のあたまの中では、「あの山の面積はいくらあるかな。」「あそこの木を切り倒したら……」なぞと、ソロバンをはじくことで忙しかった。
いつかは村のやつらに、ひとあわ吹かせたいと念じていた彼は、時こそいたれと、やがて人力車で堂々と村やく場に乗りつけた。そして村長に会って、山林を返せと談じこんだ。彼は村長が青くなる姿を心にえがいていたのだが、証拠の書きつけを示しても、村長はちっともへこまなかった。あの山はむかしから村のものだ。こんな書きつけなんか、ほごがみ同然だと言って、彼の要求をいっさい受けつけなかった。
しゃくにさわった彼は、その帰りに弁護士のところに寄って、書類の鑑定をしてもらった。弁護士はこれがあれば碓かに勝つと言った。しかし、訴えたいにも金がなかった。庄吾は、ふる証文をかかえたまま、毎日、歯がみをしていた。そこへ、したてもののことで、ひょっこり伊勢屋の忠助がやってきた。庄吾は人をつかまえては、書きつけを見せて不平をならべていたが、忠助にも同じことをくり返したのである。
「なあるほど、こいつはすてきなものでげすな。わたしに金があれば、ひと口のるところですがねえ。」
と、おだてるように、あいづちを打った。
それから半つきほどたつと、「一つ大将に会ってみませんか。」と言って、忠助は庄吾を伊勢屋の主人に引き合わせた。主人も書類を見ると、心が動いたらしく「それじゃ印紙代だけお立てかえしてあげましょう。」と言った。「そのかわり、成功したあかつきには……」と忠助はそばから抜け目なく、割り前の請求をした。庄吾は喜んで承知をし、伊勢屋から借りた金で、さっそく訴訟を起こした。
裁判はずいぶん長いことかかった。入り会い地の問題はこみ入っているうえに、解釈が困難なので、いつの場あいでも長びくのが常であるが、実際、証拠しらべだけでも、少なからぬ年月をついやしたのであった。ところが、その裁判の結果は、庄吾の予想を裏ぎって、敗訴になってしまった。村かたの言いぶんでは、表面は仲裁者である愛川家から、代官所に献金したようになっているが、あの金は村民一同が出し合ったものであって、愛川家だけで献納したものではない。現に愛川家からよこした、その金の預かり証が村のほうに残っている。もともとあの山は入り会い地であって、文化以後の村の土地台帳にも、愛川家の所有という記載はない。それに、明治五年、官有地はらいさげのおり、正式に官から払いさげを受けたものであるから、村の所有に相違ないと言うのだった。そして、この主張のほうが裁判所で通ったのである。
しかし、庄吾にしてみれば、村かたの言いぶんは信用できなかった。よし、献金の一部を村のほうで持ったとしても、「御山林一円ソノ方ヘ下サレ候」とあるからは、なんと言っても、もらったのは愛川家であるという主張を、捨てるわけにはいかなかった。あい手かたでは正式に払いさげを受けたと言うが、明治初年のごたごたの際に、書き変えをすませたようなものは、無効だと、いきまいていた。彼は控訴して争うつもりで、伊勢屋に相談に行った。しかし、商人である伊勢屋は、いつまでも、そんな訴訟にかかわっている気はなかった。彼はあべこべに、前の印紙代を早く返してくれなどと、とぼけた返事をするだけだった。
庄吾は当惑したが、それくらいで、くじけはしなかった。彼はまた無理算段をして、東京の控訴院に再審を訴え出た。むろん意地もあったろうし、欲も根づよく働いていた。しかし、当時の大きな思想であった自由民権の主張が、彼をそそのかしたことも大きかった。この地方はかつて乱暴な県令がいたために、民権思想はかなり広くはびこっていた。もとより土地の人たちは、何が自由であり、何が民権であるかをわきまえていた者は、ほとんどなかった。ただ官憲に反抗し、役人にぶっつかることが自由であり、民権であると思っていた。だから、村長をあい手どって、村やく場と争うことは、もっとも自由を尊び、民権を主張することでなければならなかった。
これが今、係争中の事件であった。これに勝ちさえすれば、庄吾は当分らくに暮らせる身ぶんであった。吾一を中学にやることだって、さして困難なことではないのである。この二審もずいぶん長くかかった。そして、やっと最近になって、その判決があった。ところが第二審においても、彼はまた、敗れてしまったのである。
「きさまは武士の子ではないか。気概を持て。」
と、父にどなりつけられたことは、吾一には痛かった。そのことばは、まるで焼きごてを当てられたように、心臓にちりちりと響いた。
しかし、彼は他人から金をもらって中学に行こうとしたのではない。金がどこから出るか、そんなことはもとより知るはずがなかったのである。ほんとうのことを言うと、だれが出してくれるのでもかまわないから、中学へ行けさえすれば、それでいいのだ。彼の希望はそのほかにはないのだが、父にああ言われてしまっては、どうすることもできなかった。
さいわいなことには、訴訟さえすめば、父が学資を出してくれると言うので、彼は裁判が早く終わることを望んでいた。そして前のとおり、一生懸命受験勉強をやっていた。
ところが、入学試験、入学試験と、志願者たちが騒いでいたほどのこともなく、土地がらのせいもあるのだろう、いよいよとなったら、応募者の数が意外に少なくて、中学へ願書を出した者は、無試験でみんな入学を許されることになった。それを聞くと、秋太郎などは飛びあがって喜んだが、吾一は張り合いが抜けてしまった。それだけならなんでもないが、願書の受けつけが締め切りになるというのに、入学金がないので、彼は願書を出すことができなかった。
「ねえ、おっかさん、おれの貯金おろしてくれよ。入学金だけ、おろしてくれればいいんだ。早く出さないと、はいれなくなっちゃうんだもの。」
吾一は真剣になって頼みこんだ。
すると、母は、
「あれはね、……あれはね、……」
と、どもっていたが、そでの中に顔をうずめて、泣き伏してしまった。
自分の貯金がとうになくなってしまったことを、吾一はこの日はじめて知った。そのうえ、母が涙をふきながら話すところによると、父はまた裁判に負けたと言うのである。だから中学へ行くことは、もうあきらめなければいけないと言われた。
彼女はさとすように、なおことばを続けた。
「きのう、おとっつぁんからきた手がみでは、どこまでも裁判をやる。今度は大審院に訴えると言ってきたけれど、わたしは訴訟ごとはきらいだし、それに、おとっつぁんのように、なんの仕事も持たないで、ああいうふうな暮らし方をしていたのでは、とても世の中は渡ってゆけないと思うのだよ。それだから、おまえは何か堅い商売を覚えて、じみちな暮らしをするようにしておくれ。おとっつぁんは、あきんどを悪く言うけれど、商売ぐらい、確かなものはないんだからね。」
「…………」
「なあに、おまえ、中学にあがらなくったって、えらくなる人はいくらもあるんだから、おまえさえ一生懸命になりさえすれば、きっと立派な人になれるよ。おっかさんはね、おっかさんは、……おまえが立派なあきんどになってくれたらと、どんなに思ってるかしれないんだよ。」
商人の家に育ったおれんは、商売が一ばん確かな道と思っていた。うちのあとをついだ弟は、長わずらいをしたあげく、早く世を去ったために、今ではすっかり代が変わってしまったけれど、店だけはまだ残っている。そして、その店が繁盛しているのを見るにつけ、彼女は吾一を商人にしたてあげたいと念じていた。
それはおれんにしたって、かわいい子どもをいま奉公に出したくはなかった。せめて高等科だけでも卒業させて、と思う心は山やまだけれども、袋はりをしているような現在のありさまでは、それすらできない相談だった。さいわいに伊勢屋の忠助さんが親切に言ってくれるし、それに子どもをよこせば、主人もきげんをなおして、また前のようにしたてものを出してくれる、と言うのだから、したてものさえ出してもらえれば、袋はりなんかしているよりは、うちのほうも、どれだけ助かるかしれない、と彼女は思うのだった。
しかし、吾一は母のことばなぞ、ほとんど聞いていなかった。彼は胸がむかむかしてたまらなかった。せっかく貯金をしておいたのに、それをみんな使われてしまったことも、しゃくにさわるし、中学へ行けないことも、くやしかった。それから裁判に負けた父おやにも、何かむしょうに腹が立った。「ええ、畜生、また鉄橋にぶらさがってやれ。」そんな気が起こったほど、彼はやけくそになっていた。
けれども、それから、いくんちかたって、学校の免状式がすんだあと、気の早い人は、もうおはな見にくりだすというような、お天気のいい春の日に、吾一は遠州じまのあわせに、紺の前かけをしめ、番頭の忠助につれられて、伊勢屋のノレンをしおしおとくぐった。
吾一のような意地っぱりな子どもが、――あれほど中学に行きたい、行きたいとせがんでいた子どもが、どうして急に奉公に行くことを承知したのか、ちょっとのみこみにくいような気もするが、世の中には子どもの意地っぱりぐらいで、いや、いや、おとながたば《・・》になってかかっても、どうにもならないものがあるんだ、と言えば、それでもうたくさんだろう。とにかく、そいつは大きな石ウスのようなもので、その石の下にはまりこんでいるものは、どんなものでも、こなごなにされてしまうのだ。そして、その石ウスの重さを一番よく知っているのは、貧乏人の子どもである。彼らは最後には、いつも「しかたがない。」ということばを投げつけて、歯をくいしばってしまうのである。
「なんと言いましたっけの、この子の名は。」
主人の喜平は帳場から、目がね越しに吾一を見おろした。
「吾一でございます。――そうだったね。」
忠助は吾一のほうを向いて、念を押すように言った。
吾一は「ヘえ。」と言うかわりに、丁寧におじぎをした。
「呼びにくい名まえですね。」
「さようでございますな。吾一ってのは、どうもぎすぎすしていていけませんな、一つ、名まえを変えましょうか。」
「無論、変えなくっちゃいけませんとも。そんなのは商人の名まえには向きませんよ。」
「なんといたしましたら、ようございましょうかな。吾吉ってわけにもまいりませんし……」
「いっそのこと、五助としたら、どうですい。」
「なるほど、吾助は結構でげすな。」
「それも、その子のは、たしか、むずかしい吾の字を書いていたようだが、そんなのはめんどくさくっていけません。一、二、三、四の五でたくさんですよ。」
「さよう、さよう。あきんどは名まえでもなんでも、万事、ちょく《・・・》でござんせんとな。――それでは、いいかい。おまえさんはこれから、五助って言うんだよ。」
伊勢屋と大きく染めぬいた紺のノレンを、ちょいとくぐっただけで、吾一はたちまち五助になってしまった。
次野先生は、吾一という名まえは、じつにいい名まえだ。その名まえを生かすようにしなくてはいけない、って言ったのに、――そして自分も先生にそう言われて以来、ほんとうにいい名まえだと、ひそかに誇っていたのだが、そんないい名まえを、親にさえひとことの相談もなく、急に雲すけと親類のような名まえにされてしまったので、吾一はひどく、なさけない気がした。どうしても変えなくてはいけないのなら、せめて、もう少しなんとかした名まえにしてもらいたいと思ったけれど、老眼鏡を落っこちそうにかけている、肉のこけた、しわ《・・》だらけの主人や、自分をつれてきてくれた大番頭の前では、彼はなんにも言えなかった。
「いいかい、わかったね、『五助。』って呼ばれたら、すぐに『へえ。』って、返事をしなくっちゃいけませんよ。」
大番頭は、もう一度念を押すように言った。おれんのむすこだから、いたわって、さとすように言ってやったつもりなのに、さっぱり通じないで、吾一は首をさげただけなので、
「それ、それ。そんなこっちゃだめですよ。すぐに『へえ。』と言えなくっちゃ。――どうも、まだ、ろくろく返事もできませんであいすみませんが、……おいおいにしこんでまいりますから、何ぶん一つ……へえ。」
忠助はもみ手をしながら、とりなすように言った。
それから彼は、忠助につれられて奥にあいさつに行った。
「ああ、吾一ちゃんがきた。」
秋太郎が座しきから飛んできて、珍しそうに吾一をながめた。
「おぼっちゃん、そんなふうにおっしゃるんじゃありませんよ。」
大番頭は柔らかいことばの中に、重みを持たせて、主人のむすこに注意した。
「どうして。」
「これはもう吾一じゃございません。お店にきては、五助ってことになったのですから、『五助』って、お呼び捨てにならなくっちゃいけません。」
「五助? へんな名まえだね。」
「ちっとも、ヘんなことはございません。そのほうが呼びいいのでございます。」
「おれには、『吾一ちゃん』って言うほうが、よっぽど呼びいいや。」
「いけませんよ、おぼっちゃん、そんなことをおっしゃっちゃ。もうお友だちではないんですから、『五助』って、お呼びにならないと、店のしめしがつきません。」
「でも、なんだかへんだな。」
学校の友だちを、そんなふうに呼ぶことは、秋太郎には実際少々にが手だった。
それよりも、吾一のほうはもっとつらかった。学校では一番びりのほうにいたやつに、――いくじがないので、いつもさげすんでいたやつに、五助、なんて呼び捨てにされるのかと思うと、目のふちが熱くなってきた。彼は板のまにすわって、下を向いたまま、しめつけない前かけのはしを指の先でこすっていた。
前かけ
「五助どん、だめだよ、そんなところへふと《・・》ん《・》を敷いちゃ。そこはおれの寝るところだよ。」
二階のふとんべやから、吾一は大きなふとんの包みをかつぎおろして、帳場格子(ちょうばごうし)の横のところでふろ敷きを解こうとすると、若い番頭が、いきなり、その包みをけとばした。
「黙ってそんなところへ敷くやつがあるかい。きたては、そっちときまっているんだよ。」
吾一はなんべんもお辞儀をしながら、番頭に言われた場所へふとんをしょって行った。そこは入りこみになっている土間のそばで、大きなケヤキのかまち《・・・》の下には、店の者のゲタが、乱雑に引っくり返っていた。
広い店だけれども、奉公人が多いので、めいめいがふとんを敷くと、吾一の寝る場所は、ほとんど、あまっていなかった。彼は薄いふとんを半分たたみの上に、半分かまちの上に広げて、やっと横になることができた。
あたまをまくらにつけたら、しめっぽい空気が、すうっと土間のほうからあがってきた。吾一はなんとも言われない、もの悲しい気分におそわれた。ふいても、ふいても、涙がとまらなかった。彼は寝がえりを打った。寝がえりを打つと、ふとんの下のかまちがゴツンと背ぼねに響いた。
よく朝は、隣に寝ていた小僧に突っつかれて目をさました。彼はあわてて起きあがり、ふとんをふろ敷きに包んで、二階へかついで行こうとすると、その前に、大きな包みが、彼の背なかに落ちてきた。
「これをさきに持って行くんだよ。」
「へえ。」
吾一は番頭のふとんを、まず二階に運ばなければならなかった。それを三度もやらされたあとで、やっと自分の包みをかついで、はしご段をあがって行った。すると半分ばかりのぼったところで、いきなり大きな包みが、どさりと上から落ちてきた。自分の包みだけだって、いいかげん重たいのに、またもう一つ、のっかったのだから、あぶなく、はしご段からころげ落ちそうになった。けれども、吾一は一段、足をすべらしただけで、どうにかささえることができた。
「やあ、すまない。すまない。」
はしご段の上で、だれかがそう言っているが、あたまの上にふとん包みが二つものっていては、上の人の顔なんか、とても見られなかった。
「すまない。」と言うくらいなら、上の包みだけでも引っぱってくれればいいのに、上の人はただ笑っているだけで、ちっとも引っぱりあげてくれるようすがなかった。
吾一はしゃくにさわったから、あたまと肩とで、うんしょうんしょ、そいつをとうとう二階に押しあげてしまった。
「ちっちゃいが、なかなか力があるな。――たいていのやつは、これで一ぺんにまいっちゃうんだがな。」
二階で笑っていた男が言った。小僧のなかでは一ばん年うえのやつだった。
それから朝めしがすんで、店がひとかたづきかたづくと、吾一は湯どのへ引っぱって行かれた。
「ふろ場のそうじは、これから五助どんの受け持ちだよ。いいかい。」
そう言って、今までそうじをやっていた小僧が、そうじのしかたを簡単に教えて、とっとと向こうへ行ってしまった。
吾一は、はだしになって、教えられたとおりに、ふろ場のそうじをやった。それから夕がた近くには、たき口にまわって、ふろをたきつけた。
「どうだ。もう、はいれるかい。」
主人が座しきのほうから大きな声で言った。
吾一は湯ぶねのふた《・・》を取って、中に手を入れてみた。湯かげんは、ちょうど、よかった。
「ヘえ、ちょうど、ようございます。」
そう言って、彼はまた、たき口のほうに帰った。
やがて、主人が湯どのにやってきて、中にはいったと思うと、
「バカ!」
と、われるような声がふろ場の窓から飛んできた。
「こんな湯にはいれるか。バカ者め。湯がわいたか、わかないかぐらい、きさまにはわからないのか。」
吾一はあたまからどなられたので、ぼうっとしてしまった。しかし、どうして、あんないいお湯がはいれないって言うのか、彼にはよくわからなかった。
「くる早々おうちゃくな野郎だ。手を突っこんだだけで、かきまわしてもみなかったのだろう。かきまわさないで、湯かげんがわかるか。――こんな湯にはいったら、かぜをひいてしまう。おい、もっとどんどん燃さないか。」
主人は湯どのの中でかんかんになっていた。
吾一はふるえながら、さらにマキをくベ、一生懸命に、たき口をウチワであおいだ。
ふろをたいたことがある者なら、なんどもお湯をかきまわしてみて、上したの湯がよくまざり合ったところでなくっては、はいれないものだぐらいのことは、だれでも知っていることだが、彼のうちには湯どのなんてものはないから、そんなことはまるで知らなかった。知っていさえすれば、お湯をかきまわすぐらいの手まは、なんでもない話で、彼はそんなことに骨おしみをする気はちっともなかった。しかし、何しろ、ふろと言ったら、三っかおきか、四っかおきに銭湯に行くだけで、銭湯に行けば、いつもお湯はわいているのだから、手を入れてみて、湯かげんさえよければ、それでもう、はいれるものと、彼は思いこんでいたのだった。
このとき以来、吾一はすっかり主人の気うけを損じてしまった。そのために、彼はなんぞというと、すぐしかられた。
ごはんの前後には、主人のへや《・・》の前の板のまに手をついて、「いただきます。」「ごちそうさま。」と言うのが、この家のしきたりだが、(今でもこういう習慣の残っている家は、まだかなりあると思う。)ある時、朝めしのあとで、彼は「ごちそうさま。」とお辞儀をしたところ、
「なんだ、今のは。」
と、さっそく、きめつけられた。
「へえ。」
吾一はちぢみあがって、板のまに、ひたいをこすりつけた。
「ヘえ、じゃありません。今のようなお辞儀ってありますか。」
「へえ。」
「もう一度やってみなさい。」
「へえ。」
ひたいを板のまにこすりつけているのだから、それ以上お辞儀のしようはないわけだが、吾一は首を少しあげて、また丁寧に下におろした。
「それ、それ。それだから言うのですよ。あきんどに、そんなお辞儀のしかたってありますか。おまえのは、まるでヤマガラがえさ《・・》を突っつくような格好だ。首さえさげれば、それでいいってもんじゃありませんよ。――いけません、もう一度やってみなさい。」
「へえ。」
吾一は涙でもう声も出ないほどだった。しかし、やっと顔をあげて、またお辞儀をしかえした。
「バカめ、もう泣いていやがる。お辞儀をさせられて、涙をこぼすやつがどこにある。あきんどになろうっていうのに、お辞儀ができなくってどうするのです。」
「…………」
「五助、こんにち、なんの心配もなく、ごはんがたべてゆかれるのは、だれのおかげだと思う。ようく、それを考えてみなさい。そうしたら、少しはおまえのお辞儀も変わってくるだろう。」
ゾウキンあか《・・》のついた板のまに顔をこすりつけて、彼は主人のお説教を聞いていた。それは鉄橋のまくら木に腹んばいになって、あたまを押しつけていた時よりも、ずっと、ずっと、つらかった。
と、突然、主人の語調が変わった。
「――ほれ、ほれ。じゃまになるじゃないか、そんなところに、へいつくばっていちゃ。おきぬが出られやしませんよ。」
「おきぬが。」と言うことばを聞いたら、吾一はまっかな顔が、なお、まっかになってしまった。彼は板のまからすべり落ちるほど、ずるずるっと、うしろへすさった。
「ほんとうに気がきかない人だね。お嬢さんがお出かけなんじゃないか。いつまでもそんなところにつくばっていないで、早くゲタでもそろえなさい。」
今度はおかみさんの声がした。吾一はそのことばにはね飛ばされたように、内玄関に飛んで行った。そして、急いでゲタ箱をあけたが、おきぬのゲタがあんまりたくさんあるので、どれを出していいのか、彼には見当がつかなかった。
「五助、何してんのよ。――早くお出しったら。」
玄関の縁がわの上から、おきぬはせき立てるように言った。吾一はそう言われると、なおわくわくしてしまったが、きれいなのを出せば、きっと気に入るのだと思い、畳つきのこまゲタを取ってクツぬぎの上にきちんとそろえた。
すると、おきぬは何も言わずに、黙ってそれをひだり足のつま先で軽くけった。しかし、吾一は、おきぬがよろけたのかと思って、もう一度丁寧にそろえなおすと、また同じようにけとばした。
「じれったい人ね。こんなの学校へ、はいてけやしないじゃないの。そっちよ。――あら、そっちだって言ったら、そっちよ。」
おきぬの言うのは、ひより《・・・》の塗りゲタだった。やっと、それを出してそろえたら、彼女は口をきゅっと「ヘ」の字に曲げて、にらむような目つきをしたと思うと、ひよりのあと歯で、いやというほど、土間のたたきをけって、出て行ってしまった。
つい、このあいだまで、「吾一ちゃん、吾一ちゃん。」と言っていた娘が、これはまた、なんということであろう。まるで別の人間のようなしうちではないか、ああ、こんなことなら、ここのうちにくるのではなかった、と吾一はしみじみ思った。伊勢屋さんなら、お店も大きいし、第一、秋ちゃんや、おきぬちゃんがいるから、よそのうちへ行くよりも、ずっとらくだよ、とおっかさんにすすめられ、自分もその気になってきたのだが、それはとんでもないまちがいだった。
じつを言うと、彼はおきぬのいることに、あるあわい喜びを感じていたのだ。おきぬの顔を、朝ばん見られることもうれしいし、それにまた今までのように、何かにつけて、きっと自分の身かたになってくれるにちがいない。いや、それ以上のことさえ、吾一はほのかに期待していたのだ。ところが、きてみると、そんな予想はことごとく裏ぎられてしまった。前にはあんなにちやほやされた自分も、もう彼女の目には、ただの小僧としか写らないらしい。それも慣れない新まえの小僧なので、ほかの者よりも、もっとひどい扱いだった。秋太郎のほうは、「五助。」と呼ぶ時でも、どこか気がねをしているようすが見えるが、おきぬには、そんなしんしゃく《・・・・・》は、つめのあかほどもなかった。「女のくせに。」と、彼は歯がみをしたけれども、小僧のぶんざいでは、口ごたえもできなかった。
「ねえ、クツを出してったら……」
いつのまにやってきたのか、秋太郎が縁がわから足をにょきっと投げ出していた。新調の制服のボタンが、うす暗い玄関の中でぴかぴか光っていた。
吾一は中学の服を着た友だちの姿を、まともに見あげることはできなかった。彼は下を向いたまま、無言で秋太郎の足もとにクツをそろえた。思わずまぶた《・・・》に涙がにじんだ。
学校もできなければ、力もなくって、いつも馬のうしろ足や、兵隊ごっこの玉ひろいばかりやっていた劣等生の足もとに、どうしておれはクツをそろえなければならないのだ。ここのうちにくる前までは、彼が「進め。」と号令をかけると、みんな彼のことばどおりに動いたのだ。とんまな秋太郎などは、命令をまちがえて、なんど、彼にけんつく《・・・・》をくわされたか、わかりゃしない。ところが、彼が紺の前かけをしめるようになったら、何もかもあべこべになってしまった。前かけ一枚に、なんという不思議な力がこもっているのだろう。それはまるで手じなのマントのようなものだった。それをつけると、力のあるものが急に力がなくなってしまい、力のないものに、突然、力がわきあがってくるのだ。
小学校にいた時分は、何よりも実力がものを言った。実力のある者は尊敬され、実力のない者は見さげられる。それはあたりまえ過ぎるほどあたりまえのことだ。しかし、いったん前かけをしめると、もうそんなものは通用しない。こっちがどれだけ腕っぷしが強くっても、――なあに、今だって秋太郎と取っ組み合いをすれば、すぐにも、ねじふせることができるけれども、取っ組み合いはさておいて、「秋ちゃん、腕ずもうをしよう。」と言うことさえも、言えない立ち場に置かれているのだ。前かけって、じつにおかしなものだ。腰にしめていながら、こいつをかけたが最後、もうどうしたって、あたまがあがらないようにできているのだ。まるで前かけのひ《・》も《・》が、首っ玉をしめつけているように、あたまは年中、ひざのほうに引っぱられているのだ。小学校にいたころはお山の大将で、ふんぞり返っていた彼も、全く、ぺしゃんこにされたかたちで、ここでは人間の実力なんか、てんで問題にならない。はばがきくのはそんなものよりも、もっとほかのものであることを、彼は毎日、前かけから説教されていた。
「五助どん、お店で呼んでいますよう。」
台どころでナベを洗っていた女中が、大きな声で彼を呼んだ。
「へえい。」
玄関にしゃがんでいた吾一は、あわてて目をこすった。彼は急いで立ちあがり、表のほうへ駆けて行った。
店の用は、停車場へ小荷物を出しに行くことだった。彼はそとの使いを、あまり、ありがたいものと思っていなかった。家の中でこき使われるのもつらいけれども、荷物をしょって、表に出ることは、もっとつらかった。道でひょっこり、友だちに出っくわしゃしないかと思うと、彼はじつにたまらなかったのである。中学に行くと言っていたのに、前かけをしめて、荷物をしょっている姿を見られることは、身を切られるような思いだった。作次は彼と同じように学校をやめて、よその町に奉公に行ってしまったけれど、大部分の友だちは、まだ学校に残っていた。ことに中学にはいった連中と顔を合わせることは、何よりもつらかった。
このあいだは、道雄に、
「吾一ちゃん。」
と、遠くから声をかけられたが、彼は返事もしないで逃げだしてしまった。
「きょうは、どうか友だちに会いませんように。」彼はそんなことを念じながら、停車場へ歩いて行った。
切符うり場の横の小荷物あつかいのところに、あぶら紙にくるんだ荷物を出して、目かたを計ってもらっていると、
「おい、愛川。」
と言って、不意に背なかをたたかれた。振り向くと、次野先生だった。
「前かけが似あうようになったな。どうだ、辛抱できるか。」
吾一は黙ってあたまをさげた。目がしらが熱くなっていた。
それを見て取った次野は、すぐことばを続けた。
「つらくっても、辛抱しなくっちゃいかんよ。おっかさんは君をたよりにしているんだからな。」
「は、はい。――先生は東京へ行くんですか。」
「うん、東京へ行く。東京へ行って、もう少し勉強するつもりだ。――おまえにも勉強させてやりたいと思ったのだけれど、うまくいかなくって、残念だった。しかしな、愛川、学問をやることだけが大事なことじゃない。人間、何をやってもいいんだ。一番大事なことは、まっすぐに生きることだ。いいか、よく働くんだぞ。それから、からだを大切にしてな。」
「へえ。」
吾一は心からあたまをさげた。よく働けというのは、主人の言うことと少しもちがいはないのだが、それが先生の口から出ると、しみじみと胸に響いた。もう先生には会えないと思っていたのに、ここで会えたのは、ありがたかった。お天とう様が引き合わせてくだすったにちがいない。発車までには、あと七、八分しかないから、彼は、是非、先生をお見おくりしたいと思った。
「いやいや、そんなにしてくれなくってもいい。奉公に行ったら、店が第一だ。おそくなってしかられるといけないから、早くお帰り。」
と、先生はせき立てるように言った。
しかし、しかられたって、どうしたってかまわないから、先生の姿の見えなくなるまで、彼は改札ぐちの手すりにつかまっていたいと思った。けれども先生ばかりか、送りにきていた、稲葉屋のおじさんまでそう言うので、吾一はそれに従わないわけにはいかなかった。
彼はなんども、うしろをふり返りながら帰って行った。途中で、ゴーッ! という汽車の響きを聞いた。無論、汽車は見えないが、彼は停車場のほうを向いて、丁寧にお辞儀をした。
「おそいじゃないか、どこをほつきまわっていたんだ。」
ちっとも道くさなんかしないのに、店のノレンをくぐるか、くぐらないうちに、もうそういうことばをあびせられた。前かけをしめては、口ごたえは禁物だから、「へえ、すみません。」とお辞儀をして、店のうしろのほうに、ちいさくなってすわっていた。
はいりたての小僧は、たいていは裏の用か、下職(したじょく)への使いときまっているが、用のない限りは、店にすわっていて、だんだんに商売のほうを見ならってゆかなければならない。しかし、品ものの名まえを覚えるだけでも容易ではなかった。品ものの種類は無数にあり、しかも、似よったものがたくさんあるから、はじめのあいだは、どれがなんだか、さっぱりわからなかった。学校のように説明してくれると、すぐわかるのだが、品ものを取って、一々おしえてくれるような人はひとりもなかった。だから、店にいる時、番頭から糸おりを持ってこいとか、「ふうつう」を持ってこいとか言われると、そのたびにびくびくした。ちょうど予習をしていかない生徒が、先生に当てられやしないか、当てられやしないかと、教室でおどおどしているようなものだった。
「おめし《・・・》のノジアーン。」
店さきにすわって、お客と応対している番頭たちは、お客の注文に応じて、品ものの名まえを言うと、うしろに控えている小僧は、
「へえ、おめしのノジアーン!」
と、ふし《・・》をつけてくり返しながら、その品ものを蔵に取りに行くことになっているのだが、その時はほかにだれもいなかったので、吾一がそれをやらなければならなかった。吾一も「おめし」ぐらいはやっと覚えたが、「ノジアン」というのは、なんのことだかちっともわからなかった。それで立ちあがってはみたものの、まごまごしていると、
「おめしのノジアンですよ。」
番頭のことばはいやに丁寧だが、彼の目の中には、こわいものが光っていた。
吾一はしかたがないから、店に続いた蔵に行って、おめしのたな《・・》から、いいかげんなところを十反ばかり、急いで持って行った。
「これじゃありませんよ。ノジアンですって言うのに。」
番頭は舌うちして、自分で蔵へ取りに行った。番頭を立たせては申しわけがないから、吾一もおずおずついて行くと、
「ノジアンぐらいわからなくちゃ、しようがないじゃないか。」
おめしの安ものを取り出した番頭は、そう言うと同時に、やにわに吾一の腰をポーンとけとばした。
長じゅばんを着て商売をしているような呉服やの番頭が、そんな乱暴なことを……と思うかもしれないが、その時分の呉服やの番頭ときたら、裏と表は、たいへんなちがいだった。お客の前ではネコなで声をして、「……へえ、さようでいらっしゃいますか。ごもっとも様で。……いいえ、どういたしまして、これがあなた、おはでだなんて、このへんのおがら《・・》をお召しになりませんでは、ごしんぞ様のお召しになるものはございません。」なんて、すすめておきながら、お客が帰ってしまうと、「どうも今の女は少し色キチだよ。」なぞと、赤い舌を出しているのである。毎日たいてい、女のお客をあい手にして、おべんちゃらばかり言っていると、自然こんな根性になってしまうらしい。
吾一はけとばされて、ふらふらとなったが、それでも、彼はすぐに言った。
「ヘえ、てまえが持ってまいります。」
そう言って彼は、番頭がたな《・・》から引き出したたん物を、店へかついで行った。
「おい、おっかさんに会わせてやろうか。」
番頭のなかにも、意地の悪い者ばかりはいなかった。母おやのところへ、したてものを出すのに、吾一に用を言いつけてくれる、思いやりのある人もあった。
近ごろ、おれんは袋はりをやめて、また以前のように針しごとをやっていた。大番頭、忠助のはからいで、伊勢屋の仕事がふたたび出るようになったのである。
蔵の中で足げにされた日の夕がた、彼はほかの番頭から、母おやのところに使いにやらされた。奉公にきてから、うちへ行くのは、これがはじめてである。ほかの小僧とのつり合い上、わざとだれも使いに出さなかったものらしい。もっとも、うちに寄る気さえあれば、別の用事でそとに出たついでに、いくらでも寄ることができたが、母から堅く言われていたので、吾一は、まだ、一ぺんも帰らなかったのである。
彼は久しぶりで、稲葉屋の路地へはいって行った。
おっかさんは火バチのそばで仕事をしていた。持ってきたしたてものを出すと、
「それはご苦労さま。」
と、他人に言うような丁寧なあいさつをした。それから品ものにひととおり目を通したあとで、
「どうです。もう、すっかりお店に慣れたかい。」
と、吾一のほうを向いて、柔らかに言った。
「おらあ、もう、帰るのいやだ。」
母おやのやさしい声を聞いたら、急に悲しくなって、吾一は裁ち板の前に、くずれるように突っ伏してしまった。
「な、なんですって、おまえ……」
「お、おらあ、もう、伊勢屋はいやだ。伊勢屋には帰らない。」
「まあ、どうしてそんなことを言うの。まだひと月にもならないのに、帰ってきたりしたら、人さまに笑われますよ。」
「…………」
「そんな弱いことでどうするの。そりゃね。よそのお宅へ行けば、うちにいるようなわけにはいきませんよ。いろいろつらいこともあるでしょうけれど、それが奉公です。つらいことを辛抱して、だんだん一人まえになってゆくんですよ。今ぐらいのことに辛抱ができないようでは、ほかのことをやったって、けっして成功するはずはありません。さ、吾一ちゃん、涙をふいて、――早くお店へお帰んなさい。」
おれんはいたわるように、むすこを抱き起こした。しかし、吾一はずるずると、母おやのひざにあたまを押しつけたなり、顔をあげなかった。
「まあ、どうしたんです。吾一ちゃん、そんな……」
「おらあ、もう、吾一じゃないんだよ。――お店じゃ、五、五助ってんだよ。おらあ、そ、そんな……」
吾一は胸が迫って、ことばが出なかった。彼としては、主人にしかられたことや、番頭に足げにされたことがつらいのではない。それもつらいにはつらいけれども、一生「五助」って名まえで暮らしてゆかなければならないような生活が、なんとしても、たまらなくなったのである。それは今まででも、いくどそう思ったかしれないが、さっき次野先生にあってからというものは、「吾一って名まえを忘れるんじゃないぞ。」と言われたことばが、一層つよく、彼の心にわきあがってきたのだ。なあに、今よりも、もっと苦しくたってかまわない。どんな苦しいことだって辛抱するから、生まれた時につけてもらったとおりの名まえで、――吾一は吾一として、生きてゆきたいと、彼はつくづく思ったのである。
「おまえ、名まえなんて、なんだっていいじゃないかね。そんなものは、あすこのお店にいるあいだだけのことじゃないか。おまえが独立するようになれば、どうにだってなるんだからね。――それにね、吾一ちゃん。おまえがお店に帰ってくれないと、おっかさんのお仕事も、また取りあげられてしまうかもしれないんだよ。おとっつぁんが、あすこのだ《・》んな《・・》に議論を吹っかけたために、長いこと仕事を取られていたことは、おまえも知っているだろう。さいわい、おまえが奉公に行ってくれたので、やっと、出してもらえるようになったのに、おまえが言うことを聞いてくれないと、おっかさんは、また袋はりをしなくっちゃならないんですよ。」
「…………」
「そりゃね、吾一ちゃんのためなら、おっかさんはどんなことでもするけれども……おっかさんはどんなお仕事でも、つらいとは思わないけれど、袋を張っていた時分に無理をしたためか、このごろ少し、からだのぐあいがよくないんだよ。どうしたのか、前のように精が続かなくなってしまってねえ。……お針なら慣れているから、さのみ苦しいことはないけれど、ほかの仕事では、そうはいかないと思うの。だから、このお仕事がなくなってしまったら、おっかさんはたいへんなんだよ。こんな話、おまえには聞かせないつもりでいたんだけれど……吾一ちゃん、おまえもつらいだろうが、どうか辛抱しておくれ。おっかさんが頼むから、どうかお店に帰っておくれ。」
母おやはあやまるように吾一に頼んだ。そう言われては、それでもとは言い張れなかった。吾一は涙をふいて、しぶしぶ立ちあがるよりほかはなかった。
「ほんとうに、無理を言ってすまないね。――でも、つらいのは当座だけだよ。もう少し慣れさえすれば、きっとらくになるから、しばらく我慢をしておくれ。――おっかさん、そこまで送って行ってあげよう。」
「いいよ、いいよ、そんなにしてくれなくっても。」
吾一はふろ敷きをたたんで、路地を出て行った。
おれんは、そのうしろ影を見おくっていたが、もしや途中で気が変わりでもしたら、と心配になって、そっと、うしろからついて行った。
夕がたの大通りは、人のゆききがはげしかった。そのあいだを縫って、白い腹を見せながら、ツバメがせわしそうに、すい、すいと飛んでいた。
東がわの商家では、申し合わせたように、軒さきから道路の上に、大きな日よけのノレンを張り出していた。燃えるような晩春のゆう日は、家いえのノレンのもじを、わけてもくっきりと照らしだしていた。おれんは、丸に「伊」の字を染めぬいた、大きなノレンの中に、吾一の姿が吸いこまれるまで、じいっと往来のかげから見おくっていた。
やぶ入り
吾一はあい変わらず、商売に身がはいらなかった。「そのくらいのことが辛抱できないようでは、ほかのことをやったって成功するはずはありませんよ。」と、言われたことばは耳に残っているけれど、どうも店の仕事に熱中することはできなかった。勝ち気な彼は、「精神一到」の格言を思いだしてみたりするが、呉服やという商売は、彼のしょう《・・・》に合わなかった。それだから、用を言いつけられると、とかく、とんまなことをやって、しかられることが多かった。そんな時には、彼はいよいよ商売がいやになって、蔵のすみか、ふとんべやの中に引っこんでしまい、自分の持ってきた本を出して、そっと読んでいたりした。
ある晩、ふとんべやに隠れていると、突然、秋太郎がやってきた。こんなところを主人に言いつけられては、たまらないから、吾一は青くなって、読みさしの本を夜具の中に突っこんだ。
「何してたんだい。」
「いいえ、なんにもしてやしません。」
吾一の声はふるえていた。
「ふうん。――何もしてないんなら、おまえ、これやってごらん。こういうの五助にできるかい。」
秋太郎は算術の問題を吾一に突きつけた。おれは今、こんなむずかしいのをやっているんだぞ。おまえは小学校にいた時は優等だったが、中学でやっている、こういうのはできないだろう、と言わぬばかりの顔つきだった。
そんなことをされると、吾一は例の気性で、そのまま引っこんではいられなかった。「なんだい、算術の問題なんか。――算術ぐらい、中学へ行かなくったってできるとも。」という気になって、彼は突きつけられた問題をじいっとにらんだ。
それは、受験の準備をやった時、手がけたことのあるもので、いくらか、形は変わっているけれども、たいして、むずかしい問題ではなかった。彼はさっそく運算をして、答えを出すと、
「これでいいんでしょう。」
と、あい手に突き返した。
秋太郎は吾一をへこますつもりで見せたのに、かえって、へこまされた形で、少々ひっこみがつかなかった。彼は返事もしないで、すうっと奥へ行ってしまった。
すると、その翌晩、秋太郎はまた算術の問題を三題もってきた。
「どうだい、これ、できるかい。」
今度のは、前のよりも少しむずかしかった。きのう、すらすらとできたので、どこまでもおれをへこまそうとして、こんなことをするのだな、と思うと、吾一はしゃくにさわってたまらなかった。
「畜生、このくらいできなくって……」と、彼はすぐむきになって、計算をやりだした。はじめの二題はそう苦しまずにできたが、最後の問題はなかなか答えが出なかった。
「どうだい。むずかしいだろう。」
「いいえ、できないことはありませんよ。」
「できるかい、五助に。」
「できますとも。」
吾一は、やりかけては消し、やりかけては消し、なんども運算をやりなおした。
「どうしたい。」
「ちょっと待ってください。問題が少しひねってあるんで、……」
「それじゃ、あしたの晩まで待ってやらあ。」
「あしたでよければ、きっとやってみせますよ。」
その晩は寝どこの中にはいってからも、一生懸命に考えたが、どうしてもできなかった。彼は商売のほうには身がはいらないけれども、こういうこととなると、寝ずにでも考えるたちだった。
翌日、染めもの屋に使いに行った帰り道で、彼は不意に問題のカギをつかんだ。光がさしこんできたように、あたまの中が急に明かるくなった。帰ってから運算をしてみると、ちゃんと答えがでてきた。彼は秋太郎が学校からもどるのを待って、さっそく、それを見せた。
「ふ 、これでいいんかね。」
秋太郎の返事は、案外はり合いのないものだった。
「なあんだ、おぼっちゃんはまだやっていなかったんですか。――いいえ、大丈夫ですよ、それでまちがってやしませんよ。先生に聞いてみりゃ、すぐわかりますよ。」
吾一は自信をもって、そう言い放った。その時、「五助どん。」と呼ぶ声がしたので、彼はそのまま、店へ飛んで行った。
二、三日後、秋太郎がまた吾一のそばへやってきた。
「どうでした、このあいだのは。あれでいいんでしょう。」
と尋ねると、
「うん。」
と、秋太郎は簡単に答えた。そして、甘えるような目つきをしながら、
「おい、五助、おまえ、もう少し数学をやっておくれよ。」
主人のむすこは、コンニャク版ずりの紙をそっと突き出した。
「これは学校の宿題じゃないんですか。」
秋太郎はただにやにやしていた。
吾一ははっ《・・》と気がついた。「バカにしてやがる。」と腹の中で思ったけれども、ことばの上では丁寧に言った。
「それじゃ、このあいだのも、やっぱり宿題じゃなかったんですか。」
「そんなこと、どうだっていいじゃないか。それよりも五助、こいつも是非、やっておくれったら、――今すぐじゃなくってもいいから、あさってまででいいや。」
「でも、おぼっちゃん。――」
ああ、「おぼっちゃん。」ということばの、なんと言いにくいことか。吾一は、このことばを使う時には、一度、息をしてからでないと、すぐには、くちびるの上に出てこなかった。
「でも、おぼっちゃん、宿題は自分でやらなくっちゃ……」
「そんなこと言ったって、こんなのなかなかできやしないよ。」
「だって、学校に行ってるんですもの、できないってことはないでしょう。」
吾一としては、けっして皮肉を言ったつもりではないのだが、これより大きい皮肉はなかった。
「なんだい。そんなこと言わなくたっていいじゃないか。」
「ですけれども……」
「おらあ、もう、学校、いやになっちゃったんだ。」
「おぼっちゃん、そんなもったいないことを言って……」
「困ったなあ、おらあ、こんど先生にさされるんだ。――」
「…………」
「おい、五助、頼むからやっておくれよ。」
「…………」
「今度やっていかなかったら、先生はもう、おれのこと、教室に入れないって言っているんだ。」
「それじゃあ、やっといてあげましょう。」
「やってくれる。ほんとうかい。ああ、助かった。――だが、五助、おまえ、学校をやめちゃったのに、よくできるね。」
吾一は返事のかわりに、微笑をもって秋太郎の顔を見かえした。秋太郎は気まりが悪そうに目を伏せた。
吾一はなんだか胸がすうっとした。ここのうちへきて、こんな気もちがしたことは、これがはじめてだった。今まで、あたまばかりさげさせられていた返報が、これでやっとできたような気がした。
今度の宿題は、また前のよりもむずかしかった。学校に出ていればなんでもないと思うが、毎日、湯どののそうじ《・・・》をさせられたり、使い走りばかりさせられていては、算術のこみ入った問題なんか、とてもそう解けるものではなかった。
「どうしたい。もう、できた。」
「まだ半分ぐらいしかやっていません。」
「だめだなあ、そんなこっちゃ。あしたのまに合やしないじゃないか。」
翌日になると、秋太郎はもう、自分のほうが債権者のような顔をして督促した。
「ですけれど、ご用があって、なかなかそうやれないんですよ。」
「用なんかどうだっていいじゃないか。」
「そうはまいりません。しかられてしまいます。」
「大丈夫だったら。――あ、そうだ。そうだ。おめえ、教科書がないんで、やりにくいんだろう。教科書もってくるから、すぐ、やってくれよ。」
秋太郎は教科書を持ってきた。そうして、「早く、早く。」とせき立てた。そうされては、やらないわけにはいかなかった。吾一は教科書をかかえて、こっそり、ふとんべやへあがって行った。彼は、はしご段をのぼりながら、「これじゃ、どっちが中学へ行っているんだか、わかりゃしない。」と、ふきだしたくなった。
机も何もないから、吾一は、ふとんの包みによりかかって、両足を投げ出した。彼はのびのびした気分になって、改めて書物を見かえした。表紙には「中等算術教科書」としてあった。
ああ、彼はどんなにこれを持ちたいと思ったことだろう。制服を着て教室にはいることはできなくっても、たとい、ふとんべやの中ででも、中学校の教科書を手にした喜びというものは、すらすらと中学へはいった人たちには、とてもわからない気もちである。
蔵づくりではあるし、窓には、むかしふうの格子がはまっているので、へやの中は夕がたのように、うす暗かった。そのとぼしい光の中で、彼は熱心に宿題のところの説明や、例題を研究していた。そして、いよいよ運算に取りかかろうとした時、人のけはいがしたので、ひょいと振り向くと、横に主人が突っ立っていた。
「何をしているんだ。」
「へえ。――」
「姿が見えないと思うと、こんなところへ引っこんで、本なんか読んでいやがる。そんなこって、あきんどになれますか。」
「へえ。――」
「きさまみたいな、ろくでなしは、追い出してしまうぞ。」
「…………」
吾一は追い出されたってかまわないと思った。自分が帰ると言ったのでは、おっかさんはとても承知してくれないが、追い返されたのなら、あきらめてくれるだろうと思って、彼はなんの弁解もしなかった。しかし、……そのために、おっかさんの仕事が取りあげられてしまったら、……彼は思わず、ぶるぶるっと、ふるえた。
「何をぐずぐずしているんだ。すぐにおりろ。おりて店の仕事をするんだ。」
「へえ。」
吾一はあたまをさげながら、「なあんだ。」と思った。追い出すと言ったから、ほんとうに追い出されるのかと思ったら、それはおどかしだったのだ。
彼は店のうしろのほうに、また、ちいさくなってすわっていた。そしてまごまごしながら、品ものの出し入れを手つだっていた。
遊びに行って帰ってきた秋太郎は、
「もう、できた。」
と、夕がた、のんきそうな顔をして、やってきた。吾一は、見つかって、しかられた話をした。それだから、あとのぶんは、まだ一題も手をつけていません、と言った。
秋太郎は青くなってしまった。彼はあわてて奥へ飛びこんで行ったが、まもなくもどってきた。
「おい、五助、こっちへおいで。」
「なんのご用です。」
「算術をやるんだよ。」
「そんなことをしたら、たいへんです。また、どんなお目だまを食うかわかりません。」
「大丈夫だよ。おれ、おっかさんに話をしたんだから……」
「お話してもいやですよ。店のご用をしないと、……」
「今度は大丈夫だったら。おれのへや《・・》でやるんだから。」
彼は引っぱるようにして、吾一を自分のへやにつれて行った。
吾一は机に向かって、問題を解きはじめた。さっき解説と例題を見ておいたから、二題はすらすらとできたが、なんと言っても、彼は学校へ行っていないから、あとの二題は容易にできなかった。
晩ごはんのあとも、また秋太郎のへやに引っこんで、一生懸命にやった。そのうちに、やっと一題だけは、どうにかやりあげたが、残りのぶんは、なんとしても手がつかなかった。吾一はあたまをかかえたまま、くやしそうに問題を見つめていた。
「どうしたい。まだかい。」
机にもたれて、いねむりばかりしている秋太郎は、ときどき目をあけては催促した。
「こいつはむずかしいんですよ。どこから手をつけていいか、わからないんです。」
「そんなこと言わないで、早くやってくれったら。あした、あてられるんじゃないか。」
「ええ、そりゃもう大丈夫ですよ。寝ずにだって、きっとやってしまいますよ。」
しかし、十時になり、十一時になっても、なかなか問題は解けなかった。秋太郎は待ちきれないで、いつのまにかとこ《・・》の中に、もぐりこんでしまった。
主人のむすこがいびき《・・・》をかいている横で、吾一は鉛筆の先をなめながら、しきりに、あたまをひねっていた。そして運算をやりかけてはやめ、やりかけてはやめ、なんども同じことをくり返していた。
問題はいつになっても解けないし、昼まのつかれは出てくるし、彼はへとへとになって、眠るともなく、机によりかかったまま、こくりこくりやりだした。と、急に、二の腕のあたりに、タバコの火を押しつけられたような、ちりっとした刺激を感じた。吾一はびっくりして目を開き、あわててそでをまくりあげた。皮膚が少し赤くなって、はれあがっていた。
「畜生。」
と、彼は思わず叫んだ。
からだじゅうが、なんだか、むずがゆくなってきた。彼は立ちあがって、着ものをぬぎ、帯をきちんとしめかえた。
そうしたら、急にねむけがさめてしまって、あたまが、はっきりしてきた。彼は改めて机に向かい、問題をにらみ返した。今度は前と万針を変えて、別のやり方で、ぶつかっていった。それからいろいろ計算をやっているうちに、やっと、最後の問題も、どうやら解答を捜しだすことができた。
その時には、もう二時を過ぎていた。けれども、あした秋太郎が学校でまごついてはいけないと思い、彼はそれをすっかり清書した。それから、そうっと店へもどって、みんなの横に、とこをのべた。
秋太郎はおお威ばりで学校から帰ってきた。ボールドの前に出て宿題をやらされたところ、一つもまちがっていなかったので、先生からほめられたからである。
その話を聞くと、吾一も自分のことのようにうれしかった。おそくまで起きていて、やってやったのに、「五助、あれはまちがっていたぜ。」なんて言われたのでは、彼も実際やりきれないと思った。
それからというものは、秋太郎が学校から帰ってくると、吾一はすぐ奥へ呼ばれた。そして、むすこのおあい手をさせられた。秋太郎ができないのは、算術だけではない。国語も漢文も、歴史も地理も、みんな、いけないのである。しかし、吾一はそのおかげで、奉公をしていながら、中学の学科を全部、学ぶことができた。そのうえ、もっとつごうのいいことには、それ以来、ふろのそうじ《・・・》もしなくってよくなったし、使い走りの数も、ずっと少なくなった。
秋太郎の机によりかかって、彼が本を読んでいても、もう、主人はなんにも言わなかった。店への出はいりに、主人はなんどとなく、彼のそばを通るのだが、せんじ薬を、飲んだあとのような顔をしているだけで、「よくやってくれるなあ!」とも言わないかわりに、こごとも言わなかった。小僧のぶんざいでは、「どうだい。」と、そり身になるわけにはいかないが、このあいだ、おこられたあとだけに、くすぐったい感じがしてたまらなかった。
秋太郎と勉強していると、女中がときどきお菓子を持ってきてくれた。もちろん、それは、彼に持ってくるのではない。秋太郎に持ってくるのだが、いつも秋太郎が分けてくれるので、吾一はじつにそれがたのしみだった。いやしい話だけれど、奉公をしていると、たべることのほかには、何ひとつたのしみがないのだ。だから三度の食事が何よりも待ち遠しいのだが、しかし、食事の時には、吾一は一番あとでなくっては、台どころのおぜん《・・・》の前にすわれないのだから、おみおつけのみ《・》なんか、ほとんど残っていないし、それに彼らのあいだでは、早めしとなんとかは芸のうち、なんてことを言って、ハシを早くハシ箱にしまう者が、気のきいた人間とされているために、彼はいつだって、おちおち食事をしたためしがなかった。
ところが、秋太郎といっしょだと、ゆっくりたべられるばかりでなく、うちにいた時にたべたことのないような、上等のお菓子が出るので、吾一は一日のうちで、この時だけが天国にいる思いだった。
ある日、彼はカステラでこしらえた、おま《・・》んじゅう《・・・・》のようなものを秋太郎からもらった。生まれてはじめて見るお菓子なので、吾一はきも《・・》をつぶしてしまった。
「これ、なんて言うんです。」
「ワップルって言うんだよ。」
「へえ、ワップル! ワップルってんですか。むずかしい名まえですね。ぼっちゃん、これ、おいしゅうござんすね。今までいただいたのも、おいしかったけれど、こんなうまいのは、はじめてですね。――なんですか、東京のお菓子なんですか。」
「ああ、そうだよ。風月(ふうげつ)ってうちのだよ。」
「この中にはいっているあんこ《・・・》みたいなものは、なんです。」
「それかい。それ、ジャムだよ。」
「へえ、ジャムってんですか。うまくって、舌がとけちゃいそうですね。」
はじめてジャムをなめた吾一は、その甘ずっぱい、とろけるような味の中に、ほのかに「東京」を感じた。東京って、こんな感じのするところなんじゃないかしらと、まだ見たことのない大都会を、彼はひとりで空想した。
「五助、そんなに好きなら、残ってるの持ってっていいよ。」
「でも、おぼっちゃんのが、なくなっちゃうじゃありませんか。」
「いいよ、おれはまた、あとでもらうから。」
秋太郎はそう言って、菓子ザラの中のワップルを紙に包んでくれた。
吾一はこの時ぐらい秋太郎をありがたいと思ったことはなかった。できないどらむすこ《・・・・・》の背なかから、この時ばかりは、さっと後光がさしたように、尊く見えた。
彼はもらったワップルを、ふとんべやに置いてある自分のふろしき包みの中にしまっておいた。そして、ときどき二階にあがって行っては、ふとんのかげに隠れて、半分ぐらいずつ、そっとたのしんでいた。
暗いへやの中で、ジャムをなめていたら、ある時、不意に目がしらが熱くなってきた。
「なんだい。あんなやつにもらって、ありがたがるなんて……」
そんな気もちが腹の底のほうから、ひょいと、もりあがってきた。が、タマゴ色をしたワップルの柔らかい皮が、ぽろっとこぼれたら、彼はあわててそれを拾って、口の中へ持って行った。
あづき煮て やぶ入り待つや 母ひとり
いくらか、ちがっているかもしれないが、だれかの句に、こういうのがあったように思う。おれんはその朝、特別はやく起きて、ゆうべのうちに買ってきておいた、アズキを火にかけた。
うちであん《・・》を取ったりすることは、彼女のような仕事をしている者には、手がかかってたまらないし、それに、からだのほうも、その後、ずうっと思わしくなくて、動くのがたいぎだったが、むすこの帰ってくる日だと思うと、吾一の好きなものをこしらえておいてやりたかった。彼女はなんども針を置いて台どころに行って、たのしそうにナベの中をのぞいた。それから煮えたアズキをスリバチに移して、丁寧にすり、うらごし《・・・・》にかけてしぼり取った。
「もう、きそうなものだが……」
彼女はあん《・・》をこしらえているあいだも、針を持っているあいだも、路地にゲタの音が聞こえたような気がして、そのつど、および腰になっては、入り口のほうをのぞいた。いつもは、お店のご用でない限り、けっしてうちへ帰ってはならないと、むすこをいましめている気丈な母おやではあるが、きょうは吾一の帰りばかり待ちこがれていた。
彼女はとうとう待ち切れなくなって、路地のそとへ出かけて行った。板のように突っ張った、したておろしのおしきせ《・・・・》を着た人たちが、新しいムギワラ帽子のつばで、強い日光をはね返しながら、いそいそと歩いているのも、きょうのほほえましい風景だった。彼女は路地の入り口に立って、長いこと往来をながめていたが、宿さがりの小僧さんは多いけれど、いつまで待っていても、吾一の姿は見えなかった。
「まだ、行ったばかりなので、ことしはおひまが出ないのかもしれない。」
そうあきらめて、おれんはすごすごうちへもどった。しかし、裁ち板の前にすわっても、仕事がさっぱり手につかなかった。「……ひょっとしたら、病気をしているのではないだろうか。」彼女はそんなことを案じてみたりした。
昼ちかくなった時、
「ごめんなさい。」
と言う声がして、吾一がはいってきた。しばらく見ないあいだに、すっかり、おとなびてしまったので、おれんの目もとには、思わず涙が浮かんだ。
「まあ、お帰んなさい。――おっかさんはね、あんまりおそいもんだから、きょうはおひまが出ないのかと思っていたんですよ。」
「きょうは日曜でしょう。日曜は朝からおぼっちゃんの、した読みのおあい手をすることになっているものですから、なかなか出られなかったんです。ほんとうはね、おっかさん。わたしのような行きたての者にはやぶ入りはないんだって言うんです。でも、おぼっちゃんのおあい手をよくするからって、きょうは特別に出していただいたんです。」
「そう、それはよかったね、おっかさんはどんなに待っていたか……」
そう言いながらも、吾一のことばがにくらしいほど、ませてきたので、こういうしつけは学校では、とても覚えられないことと思うにつけ、急にいたいたしい気もちがわいてきた。
「それから、これをいただいたんです。」
吾一は紙のおひねりを母おやの前に出した。
「まあ、お小づかいが出たの。」
「ええ、でも、わたし、小づかいなんていりませんから、これはおっかさんに……」
「だって、おまえ、それはおまえさんがいただいたんだから、おまえさんの好きなものを買ったら……」
「いいえ、わたしは今、お金はいりません。どうか、うちのたし《・・》にしてください。」
「まあ、おまえがそんなことを言うなんて……やっぱり、他人さまのところには、行ってみるものね。――そう言ってくれるのはうれしいけれど、でもね、吾一ちゃん、それはおまえさんが働いていただいたお金なんだから……」
「ええ、そうです。わたしが奉公に行って、はじめていただいたお金です。わたしがはじめて取ったお金なんですから、これは是非、おっかさんにあげたいんです。」
「そう、それじゃ、せっかくだから、おっかさんがいただきましょう。でも、わたしがつかってはもったいないから……」
母おやは、おひねりを取りあげて、神だなの前に持って行った。そして、それをうやうやしく供えると、口の中で何かつぶやきながら、長いこと拝んでいた。
そのころの習慣では、奉公に行きたては、もちろん、給金はないし、はじめの半としは、しきせ《・・・》も出ないのが普通だった。よし、小づかいという名義にしろ、ともかく、吾一の力で、――このちいさい子どもの腕から、早くも、こういうものがうみ出されたことは、母おやの胸には、ことばに言いあらわせない感激があった。
おひねりの中は、五十銭銀貨一枚らしかった。しかし、たとい五十銭のお金でも、むすこが働いて、はじめて取ってきたお金であると思うと、おれんの目には、それはもう金銭というようなものではなかった。人の手から人の手へ、無節操に渡って歩く、いやしいものではなくって、吾一の血の結晶のように、尊いものに思われた。
「吾一ちゃん、さぞ、おなかがすいたでしょう。おっかさんがぼたもち《・・・・》をこしらえておいたから、すぐ、おあがんなさい。」
「ぼたもち! そいつは、ありがたいなあ。」
ぼたもちと聞いたら、吾一は、はじめて子どもらしい声を出した。
母おやはサラの上にぼたもちを山のようにもって、むすこの前に置いた。
「おっかさんが一生懸命にこしらえたんだよ。――さ、たくさん、おあがり。」
「おっかさんも、いっしょにたべようよ。」
「そうねえ、わたしもおしょうばんしましょう。」
母おやもたすき《・・・》をはずして、サラの前にすわった。ふたりは向き合って、ハシを取った。
吾一は何よりの好物なので、おかわりをするほどたべた。ふたサラめのにハシをつけた時に、彼はどうしたのか、急にハシを休めて、下を向いてしまった。
「吾一ちゃん、どうしたの。」
「…………」
「のどにつかえたの。」
「ううん、なんでもないんだよ。ちょ、ちょっと、涙が出たもんだから……」
「涙?」
「なあに、なんでもないんですよ。きっと、こういうのが、う、うれし涙って言うんだろうな。……おっかさん、ずいぶん久しぶりだね、こうして、いっしょにたべるのは。おっかさんと向き合ってたべていたら、なんだか知らないが、むやみに涙が出てきて、涙が出てきて……」
「ほ、ほんとうに、いっしょにたべるのは、いく月ぶりかねえ!」
「うちにいた時分は、なんとも思っていなかったけれど、……やっぱり、おっかさんとたべるのが一番おいしいね。」
「そりゃ、おっかさんにしたってそうだよ。ひとりでたべていたんじゃ、ねえ、おまえ……」
つりこまれて、母おやもあいづちを打ちながら、彼女は、はっとした。こんなことを言って、吾一に里ごころを起こさせてはたいへんだと思った。しかし吾一の気もちは、そういうところにはなかった。
「このあいだね、おっかさん。――なんと言ったっけなあ、あれは。そう、そう、ワ、ワップルをたべたんですが……」
「それ、何?」
「西洋のお菓子なんだよ。カステラのカシワもちみたいな格好をしたものなんだけれど、……そのあんこ《・・・》がね、ジャムって言って、そりゃあ舌がとろけちまうほどうまいものなんだよ。――でも、おっかさんのこしらえてくれた、このぼたもちは、それより、なん層倍うまいかわかりゃしない。」
「ほほほほ、まあ、おまえにもお世辞が言えるようになったのね。――そのぶんなら、きっといいあきんどになれますよ。」
「ううん、ちがうよ、ちがうよ。――いやだなあ、おっかさんは、お世辞だなんて。」
吾一は本気になって、母おやに抗議をした。
親と子が、こんなことばをかわし合うのも、半としにただ一日だけ許された、この日の情景と言えよう。
「お迎い。」「お迎い。」と、せわしなく走り過ぎる声にまじって、キンギョ売りの明かるい呼び声が、路地の中まで響いてきた。
物価騰貴
吾一がやぶ入りで、うちへ帰った翌日は、日本国にとって、記念すべき重大な日であった。吾一はおっかさんのこしらえてくれた、きのうのぼたもちの味が忘れられないで、あわい里ごころをそそられていたが、この日、わが国は欧米の列強と対等の条約を結んだのであった。
条約改正の運動は明治四年から手をつけられていたのであるが、外国が容易に承知しないばかりでなく、日本内地でも反対があったから、なかなか思うように、はかどらなかった。内閣はこの問題のために、なんどつぶれたかわからないし、ある大臣などは爆弾を投げつけられて、かた足をもぎ取られるというような事件さえあった。しかし、さまざまこみ入ったいきさつ《・・・・》があったあと、やっと、この日になって、居留地という存在が、日本から姿を消し、不平等な関税率も改められることになったのである。これは重大な事がらであるが、兵火をまじえるというような、はなばなしい事件でないために、世間の人には、あまり記憶されていないようである。だから、いなかなどでは、条約改正というようなものに、深い関心を持っている者は、そうたくさんなかった。小僧をしている吾一のような者は、なおさらである。しかし、彼がきのうのぼたもちのことしか考えていなかった時に、日本はむっくりと、大きく、あたまをもちゃげたのであった。
外務省の応接室には電燈がともっていたが、国民の大部分は、まだランプで暮らしていた時代のことである。国家はおもむろに、その体制をととのえて、国威を輝かすことに心をこめていたとしても、吾一の周囲は、あい変わらずつまらない、いざこざをくり返していた。
吾一は前のとおり、秋太郎の勉強のおあい手をつとめていたが、主人のむすこの成績は、ちっともよくならなかった。もっとも、中学にもなんにも行ったことのない吾一が相談あい手では、学課が進むにつれて、さっぱり、たよりにならなかったことも確かである。漢文などは吾一にも、てんで手がつかなかった。そこで二学期からは、正式に家庭教師がやとわれることになり、彼はまた湯どのそうじ《・・・》や、使い走りに逆もどりをしてしまった。
しかし、彼が急にそんなほうへ追いやられたのは、必ずしも、むすこの勉強あい手として、不適任であったからではない。それよりは、父おやの庄吾が、伊勢屋に手ごわい手がみを突きつけたことが、もっと直接の原因であった。
手がみの内容は、吾一を返せという、ただそれだけのことなのだが、おだやかに言ってもわかることを、何しろ庄吾のことだから、自由だの、人権だのという、かた苦しいもじ《・・》をならべ立てて、これに応じなければ訴訟ざたにもしかねないことを、言ってよこしたのであった。彼の言いぶんに従えば、吾一を奉公に出すことについて、自分は承諾を与えていない。父おやの承諾のない子どもを、かってに使っていることは、かどわかしたも同然であると、言うのである。しかし、こんなおどし文句を突きつけられて、すなおに聞き入れる主人は、めったにないだろう。伊勢屋のあるじは、わけても、いんごう《・・・・》なほうであるから、すっかり腹を立ててしまった。母おやから、ぜひ使ってくれと頼まれたから、役に立たない子どもではあるが、毎日むだめしを食わしておくのである。それを、言うことにことを欠いて、かどわかしとは、なんという言いぐさだ。あんな使えない小僧は、すぐにも追い出してしまいたいが、向こうがそういう出かたをするなら、年期があくまでは、なんと言っても返すものか。返さないで、思いきり、こき使ってやる、という態度になったのである。
父おやの手がみは、吾一のところにもきた。おまえは自分で知らないでいるのだが、おまえは伊勢屋に人じち《・・・》にされているのだ。そんなところに働いている必要はない。早く東京へやってこいと、ひそかに逃亡をすすめてきたのであった。
主人のこごとは、日ましにはげしくなるし、店の仕事はつらいし、吾一はくさりきっていた。それだけに、父の手がみの中にある「東京」というもじ《・・》は、彼をおどりあがらせた。そのもじ《・・》の持っている、甘い美しさに、彼の心はたちまち引きずられていった。
しかし、吾一は吾一なりに、父のことをよく知っていた。父の気性、父の素行を思い浮かべると、彼はこわくって、すぐに飛び出す気にはなれなかった。それから「人じち」ということばも、彼にはよくのみこめなかった。父は、なんでこんなことを言うのだろうと思った。彼はどうしていいかわからないので、使いに出たついでに、稲葉屋に寄ってみた。稲葉屋のおじさんの意見を、聞いてみようと思ったのである。ところが、おじさんはからだが悪くって、葉山のほうに転地しているというので、なんにも聞くことができなかった。
彼はこのことをおっかさんに話すのがこわかった。うっかり話したら、またきっと、しかられるにちがいないと思っていた。それで、しばらく黙っていたが、ある日、したてもののことで、うちへ行った時に、彼は恐る恐る母おやの気を引いてみた。
「それで、おまえはどうするつもりなんだい。」
おれんは吾一の話を半分も聞かないうちに、そう言った。おこられることとばかり思っていたのに、母の態度が前とはまるでちがっているので、吾一はあっけに取られた。しかし、むすこにこそ話さなかったけれど、じつを言うと、彼女はこの問題については、とうから悩んでいたのであった。
庄吾が伊勢屋に手がみをぶっつける前に、おれんのところには、すでに同じ意味の手がみが、なん本もきていたのである。吾一を伊勢屋にやる時には、なんとも言ってよこさなかったくせに、今ごろになって、取りもどせなんていうことは、ずいぶん、かってな話だが、しかし、ある時は東京へ引っ越すんだと言って、がみがみせき立てながら、そのあとでは、まるで知らん顔をしている庄吾のことだから、彼の気まぐれは、今にはじまったことではないのだ。が、そういうわがままはとにかくとして、なんで今、急に、吾一を呼び寄せようとするのであろう。それがおれんには、よくわからなかった。吾一のために、何かよいことがあるのであろうか。それとも、いつもの気まぐれなのか、あるいは吾一を種にして、なんかよくないことでも、たくらんでいるのではないだろうか。――例によって、庄吾からは何もこまかいことを言ってこないので、そこをどう判断してよいか、ちっとも見当がつかないのである。庄吾からは早く取りもどせと言ってくるし、伊勢屋にはそんなことは言えないし、おれんは、あいだで困りぬいていた。途方にくれていた彼女は、いっそ本人の心まかせにしてやるほうがよくはないかと、そう思ったのである。
が、吾一は母の問いに答える前に、
「ね、おっかさんおとっつぁんの手がみには、わたしは人じちだって書いてあるんですが、わたしが人じちって、いったい、なんのことなんです。」
「まあ、おとっつぁんは、そんなことを……」
「ええ。」
「そ、そんなことは聞かないでおくれ。わたしが悪かったんだよ。何もかも、わたしが悪かったんだよ。」
「お店で、なんかひどいことをしているんですか。」
「いいえ、お店が悪いって言うよりは、……おっかさんが、……おっかさんが世間みずだったものだから……」
おれんはそう言いながら、泣き伏してしまった。
おれんは、できるだけ、その話を避けようとしているように見えた。そういう話は、子どもには聞かせたくないと思っているらしい。そしてただ「おまえはどうするつもりなのだい。」と、そのことばかり聞いていた。
吾一は無論、東京へ行きたかった。まだ見たことのない日本一の大都会と、伊勢屋とでは、くらべてみるまでもないことだった。しかし、彼は、「それじゃ東京に行きます。」とは、すぐに言いだせなかった。そんなことをすれば、おっかさんが困ることは知れきっている。今でさえこんなに困っているのに、自分が店を飛び出したりしたら、あとに残ったおっかさんは、どうなるだろうと思った。店の仕事を取りあげられるばかりでなく、どんな難題を持ちかけられないとも限らないのだ。おっかさんは、自分はどうなってもいいと言っているけれども、吾一からすれば、自分よりは、おっかさんのほうがもっと大事だ。それに東京へ行けばこう、という、さきの見とおしもつかないだけに、とても思いきったことはできなかった。「東京へ。」という気もちは捨てられないけれども、結局、天びんにかけてみると、「日本一の都」よりも、「おっかさん」のほうが、彼にはずっと重たかった。そんなわけで、彼は落ちつかない腰を、ただずるずると落ちつけているよりしかたがない状態だった。
そのころ、店はちょうど冬ものの季節で、忙しい最中だった。婚礼のしたく物だけでも、毎日いく組となくあった。従って小僧の用事も多く、彼は起きるから寝るまで、追いまわされ通しで、自分のことなぞ考えているひまもなかった。そこへもっていって、今まで八百円台を下まわっていた生糸(きいと)が、しも半期には千円から、千百円、千三百円と天じょう知らずにのぼっていった。品ぶそくのところへ、アメリカからの注文が急にふえたためであった。生糸ばかりではない、綿糸もまた非常な好況で、この年は紡績業の一つの新しい紀元を作ったと言われるほど、活気を呈した時であった。糸の高いのにつれて、品ものもまたどんどん高くなっていった。東京、京都、足利(あしかが)などのとんや筋からは、毎日、電報や手がみなどが引っきりなしにはいった。
「きょうは早く表をしめなさいよ。」
珍しく、主人がにこにこした顔をしながら、店の者にそう言った。
「やれやれ、今夜は、はや寝ができるぞ。」と思って、吾一はひそかに喜んだが、その晩は、はや寝どころか、二時すぎまでも、符帳のつけ変えをやらされたのであった。
店の大戸をおろすと、サルを堅く締め、その上に大はばのカナキンを幕のように張って、そとから、全く見えないようにしてしまい、店にあるたん物からはじめて、そで蔵、なか蔵、おく蔵と、順々にやってゆき、全部の品ものの符帳をすっかり変えてしまったのである。
商人は相場のさがった時には、なかなか値をさげないが、あがる時には、容赦なく符帳のつけ変えをやる。符帳を書くのは主人と大番頭の忠助がさきだちで、それに習って、ほかの番頭も休まず筆を動かしていた。小僧たちは、古い符帳を切り取って、新しいのをつけたり、品ものを運んだり、かたづけたりした。その仕事が、三ばんも続いたのである。
これには番頭たちも相当うだったらしい。主人の姿がちょっとでも見えなくなると、あくびをしたり、腕をのばしたりして、骨やすめをしていた。
「どうです。これでいく箱ぐらい、はいりましょうな。」
「そうですな、どんなにしたって、大きく、このくらいは……」
なんて、ソロバンをパチリとはじいた。
吾一には、番頭たちのそういう話は、よくわからなかった。いく箱などと言っているが、「箱」というのは、なんのことなんだろうと思った。それよりも、物価が騰貴するということからして、彼にはのみこめなかった。どういうわけで、物があがったり、さがったりするのであろう。そんなめんどうなことは、しなくってもよさそうなものではないか。そのほうが手まがかからなくって、どんなにいいかしれやしない。――なんにしても、物価騰貴というものは、小僧にはやり切れないと、彼はつくづくそう思った。いったい、主人はどれだけもうかるのか知らないが、小僧のちょうだいするものは、ねむけと、くたびれだけである。こんなことがたびたびあっては、とてもからだが続くものではない。彼はよろよろした足どりで、山のように積んだたん物をおく蔵に運びながら、「どうかもう、このうえ物価があがりませんように。」と、見えない神さまに、心の中で手を合わせた。
符帳つけが終わった晩のことである。その晩は割り合いに早くすんだので、番頭たちは奥で酒をごちそうになっていた。小憎たちには、ソバが出ただけなので、彼らはたべ終わると、みんなすぐとこ《・・》の中にもぐりこんでしまった。吾一も死んだようになって眠っていたが、彼は突然、ゆり起こされた。
「おい、五助どん、五助どん。起きるんだよ。」
「…………」
「おい、五助どんたら。――」
「へえ。」
「へえじゃない。早く起きなくちゃだめだよ。」
「…………」
「しようがないなあ、親が病気だって言うのに、――おい、おっかさんが大病なんだよ。」
「おっかさん」ということばを聞いたら、吾一は反射的にはね起きた。そして、ふとんの上に、ちょこんとすわってしまった。
「おい、どうしたんだ。おっかさんが病気だって言うのに、すわってなんかいるやつがあるか。さあ、早くしたく《・・・》をして、――たった今、知らせがあったのだ。急いでお帰り。」
きたてに、おっかさんのところへ、まっさきに使いにやってくれた番頭が、せき立てるように言った。
彼は、急いで着ものを着かえたが、帯がなかなかしめられなかった。それから、みんなの寝ているふとんのすそのほうを通って、表のくぐりから、そっと、そとへ出た。月がこうこうと照っていた。あまり明かる過ぎることが、吾一の目にはかえって、ものすごく見えた。
使いがきた、ということから考えて、母はもう死んでいるのではないかと思った。母はこの春いらい、ずうっと元気がなくなって弱っていたから、――彼が思いきって、東京に飛び出せなかったのも、一つはそのためである。――使いがくるようじゃ、あぶないと思った。
彼はころがるように、うちへ飛んで行った。しきい《・・・》をまたぐと、
「あ、吾一ちゃんが帰ってきた。」
居あわせた近所の人が、迎えるように入り口に出てきた。そして彼を、母の寝ているまくらもとにつれて行った。
「あっ、おっかさん!」
吾一は思わず大きな声を出して、母おやのからだに抱きつこうとした。
「吾一ちゃん!」
いくつもの手が、彼のからだをささえた。
「し、しずかにしなくちゃだめだよ。吾一ちゃん。――おっかさんはね、心臓が悪いんだから……」
と、隣のおかみさんが言った。たった今、医者が帰ったところで、今夜が持てば、ひょっとすると助かるかもしれない、とのことであった。母は死んだ人のように、まるで意識がなかった。母の胸の上には、大きな氷ぶくろがのっていた。
なんでも、よいの口に、おれんが奇妙な声を張りあげたので、近所の人がかけつけてみると、したてものの上に倒れたままもがいていたのだそうだ。それで、大さわぎになって、医者を呼んできたのだが、医者の診断では、心臓のどことかが破れたのだ、ということである。
「おっかさんがこんなふうになったのは、あんまり心配したからなんだよ。ほんとうに庄吾さんがうちにいさえすれば……」
隣のおかみさんは、涙をふきながら言った。
「それもそうだけれど、伊勢屋もひどいからねえ。」
だれかがつけたすように言った。
「えらい、――そこだよ。そこなんだよ。」
ひらぐけの帯を腰の前できゅっと結んだ男は、飯台をトーンとたたいた。
「うれしいね。あんたがそう言ってくれるのは、だんな、一つ、いきやしょう。」
飯台のすみで、ちびりちびりやっていた庄吾のほうに、その男は杯を突きつけた。しかし、庄吾は手をのばさなかった。にが虫をかみつぶしたような顔をして、自分の杯をなめていた。
客はふたりのほかには、だれもなかった。
ふきおろしの、狭いとこみせ《・・・・》なので、秋の夜かぜが、ナワノレンの下から、ひざのあたりに、しめっぽく吹きつけていた。
「だんな、受けておくんなさいよ。あっしゃ、うれしくってたまらねえんだ。あんたのような人がいると思うと、引っぱられて行った平さんも、浮かばれるってもんでさ。ここのおやじなんかあ、そいつがわからねえんだから、じれってえったらありゃしません。――やい、おやじ、どうだい、これでも平さんは人でなしかい。」
「えへへへへ。」
亭主(ていしゅ)は「そんなことを言ったって。」と、言わぬばかりの笑い方をしながら、カタクチから、トックリに酒を移していた。
「あきれたおやじだな。まあだわからねえんだな。」
「そんなことを言ったっておまえさん、女房が死んだって言うのに、向こうはち巻きをして、ばくちを打ってるような男は……」
「だからよ、だから、あっしは言うんだよ。そこになんとも言えねえ愛情があるって言うんだ。女房が死んだって言われて、あわてて帰って行くようなら、そこらにころがっている、ただの男と同じこっちゃねえか。」
「わたしはそのただの男になりてえねえ。女房が死んでも、ぼんござ《・・・・》から離れられねえような人間は、人間じゃござんせんよ。ねえ、お客さん。」
おやじは庄吾のほうに顔を向けた。庄吾は返事をしなかった。
「バカだな、おめえは。『そいつぁ女房にほれていたんだなあ。』って、だんなは、たった今、言ったじゃねえか。ねえ、だんな、そう言いましたね。」
庄吾は横を向いたまま、サラの中のものを突っついていた。
「いや、こう言っちゃなんだが、だんなはなかなか苦労人ですね。苦労人でなくっちゃ、どうして、どうして、今のことばは出ませんよ。何しろ、紋つきの羽おりを着て、こういうところにはいろうてんだから、さばけていらあね、――だんな、おこっちゃいけませんぜ。あっしゃあ、あっしゃあ、だんなのような人が、でえすきなんだ。一つ、お近づきになろうじゃありませんか。酒のみは話しあい手がなくっちゃあ……」
庄吾は食いさしのにしめ《・・・》を、足の下にうずくまっている黒い犬に、ポーンとほうった。
「だんな、いっしょに飲みましょう。そ、そんな野ら犬なんか、けとばしちまいなさいよ。」
「へえ、おかんができました。」
おやじは新しいトックリを庄吾の前に置いた。庄吾はそれを取りあげると、また、ちびりちびり、ひとりでやっていた。
彼は隣の客がうるさくてたまらなかった。きょうは、だれとも話なんかしたくない。黙って飲んで、黙って出て行きたかったのだ。しかし、聞くともなしに、亭主とその男との話を聞いていたら、ひょいと口をすべらしてしまった。つまらないことを言ったもんだと思ったが、あとの祭りだ。けれど、その時の気もちでは、なんかひとこと、言わずにはいられなかったのである。
ふたりの話は、平さんとかいう男のことなんだが、ばくちをやっている最中に手がはいって、その男は引っぱられて行ったのだそうだ。引っぱられるちょっと前に、女房が死んだという知らせがあった。しかし、その知らせにも耳を貸さないで、「畜生。」「畜生。」と叫びながら、その男は丁半を争っていた。もし、そのとき帰っていたら、つかまらないでもすんだのに、ぼんござ《・・・・》に夢中になっていたから、そんなことになってしまったのだ。近所の人たちや、ここのおやじなぞは、みんなその男を、ばちあたり、人でなしと言っているらしい。が、庄吾はその話を聞いていて、ある気もちがむらむらとわきあがった。なるほど、女房の死んだ知らせがあった時、帰っていたら、その男はつかまらずにすんだろう。しかし、かんじん《・・・・》なことは、つかまるか、つかまらないかじゃない。つかまったって、つかまらなくたって、ばくちをやっている以上、悪いことをしているのはおんなじだ。問題はそこじゃない。女房が死んだという知らせがあった時、その男はどんな気もちでいたかということだ。ほんとうにばくちに夢中になっていて帰らなかったのか、女房がいとおしくって帰れなかったのか、こいつはうっかりきめられるもんじゃない。話のようすじゃ、その男は手ぬぐいで向こうはち巻きをして、「畜生。」「畜生。」と、どなりながら、血まなこになって、金を張っていたというのだが、そいつは、ただばくちに夢中になっている姿だろうか。――おそらく、その金にしたって、女房の着ものをひんむいて、持ち出したものにちがいないだろう。その男は、きっと、そういう男に相違ないのだ。女房をはだかにして、丁半を争っている男、その男のむきになっている姿を考えると、なんかぴたぴたと、こっちへ迫ってくるものがある。
「そいつは女房にほれているんだね。」
庄吾は言うともなしに、ひょいと、言ってしまったんだが、言ってしまってから、彼は妙な気がした。彼はサイコロをいじったこともないし、そんなことをやるような人間に、同情なんか露ほども持っていないのだ。それだのに、なんだってそんな男のことに口を出すのだ。
彼はなんども後悔していた。しかし後悔するそばから、その男の帰れないでいるようすが、ありありと目の前に浮かんでくるのだ。――「おい、勝ってきたぜ。」腹がけからぜ《・》に《・》を出して、畳の上にならべ、女房の喜ぶ顔を見て、自分もいっしょに喜びたいんだ。その男としちゃ、それが最上の喜びなんだ。しかし、女房に死なれちゃっちゃ……女房に死なれちゃっちゃ……
それくらいなら、女房をはだかにしなけりゃいいじゃないか。――バカな。バカなことを言え。そんなことを言うやつには、一生がいかかったって、こ、こいつはわかりっこあるものか。
庄吾のふところには、国もとからきた電報がはいっていた。それがゴソゴソ腹にさわって、やたらに彼の気もちを、むしゃくしゃさせていた。彼はそのむしゃくしゃの持ってき場が見つからないで、サラの中のものをつまんでは、やたらに足もとの野ら犬にたたきつけていた。
「だんな、もってえねえことはおよしなさいよ。ごらんなせい。おやじがにがい顔をしていますぜ。なあ、おめえ、犬のごちそうをこしらえてるんじゃねえんだろう。」
隣の男は杯のやり取りをしないもんだから、ほおをふくらまして、そんな憎まれ口をきいた。
「やあ、雨だ。――畜生。とうとう落ちてきやあがったなあ。」
タルに腰をかけたまま、ノレンのそとに手を出した客は、急にとんきょうな声を張りあげた。彼はそこそこに勘定をすませ、あたふたと帰ってしまった。
「酒をもう一本、それからもう少し、なんか、たべるものを。」
「また、犬にやるんですかい。」
亭主の声はかすれていた。
「おやじ、そうおこるなよ。」
「いいえ、そういうわけじゃありませんが、もうおよしになったらどうです。だんなは、さっき汽車に乗るんだとか言っていたが、そんなにしていて、いいんですか。」
「あんまりよくもないが、汽車はとうに出ちまったよ。」
「もう、あとのはないんですか。」
「こんな時間じゃ、どうだかねえ。――おとっつぁん、おとっつぁんは女房はないのかい。」
「いいえ、ございますとも。いつもここで働いているんですが、今夜はちょっと用がありましてねえ……」
「そうか。――それじゃ話にならねえなあ。」
「えへへへ。――だんなもよっぽど変わっていますね。『そいつはいいな。』とでも言うんならわかりますが、女房がいるのに、『話にならねえなあ』ってのは、えへへへ、全く話になりませんね。」
「…………」
「だんな、早くお帰りになったらどうです。雨はふってきたし、……ごしんぞさんが心配してますぜ。」
「雨なんかどうでもいい。おい、酒だ、酒だ。」
庄吾は急に声を張りあげて、おやじをどなりつけた。しかし、その語尾はふるえていた。
「それじゃ、だんな、これ一本きりですぜ。」
「商売気のねえおやじだな。いいから、早くつけろい。」
庄吾はぶりぶりしながら、ひょいと下を見ると、さっきの犬が、ちょこんと、彼の足もとにうずくまっていた。
「こん畜生、まあだいやがったのか。食いしんぼうなやつだな。もうなんにもない。帰れ。――きさまに食わせてやりたくってもな、ここのおやじは、もう食わせねえとさ。」
野ら犬はきょとんとした顔をして、庄吾を見つめていたが、急に大きなあくびをした。
「こいつ、おれをなめてやがるな、人まえであくびなんかしやがって、おい、口をあくんなら、『ワン』と言ってみろ。『ワン』だよ。『ワン』と言ってみろ。――なんだ。きさまは『ワン』もできねえのか。この野ら犬め!」
庄吾はいきなり黒い犬をけとばした。犬は驚いて、キャーン! と叫んだ。
「キャーン! か。キャーン! か。キャーン! か。」
彼は同じことを、あほうのようにくり返していた。犬のなき声をくり返しているうちに、彼のほおには、熱い涙がぼろぼろこぼれてきた。
彼は最後の一本をたいらげると、ナワノレンをかきわけて、表へ出た。
つめたい雨がぽつりぽつりふっていた。彼はなんだか、むしょうに、泣きたくってたまらなかった。彼はげんこつで涙をふきながら、よろよろした足どりで歩いていた。
と、不意に彼の足にぶっつかったものがあった。彼はびっくりして立ちどまった。さっきの黒い犬だった。
「畜生、気をつけて歩け。犬のくせに、人間に突き当たるやつがあるか。」
しかし、黒い犬は彼が何か言うと、じゃれるように彼のほうにからみついてきた。
「こら。あっちへ行け。寄ってくるんじゃない。もう、なんにもやるものはないんだ。ついてくると承知しないぞ。」
彼はこぶしを振りあげて、追っ払うまねをした。そうすると、犬はあたまをさげ、腰をかがめて、降参したような格好をするが、彼が歩きだすと、犬もまた、あとからついてきた。
「バカ、ついてくるんじゃないと言うのに、――しっ。あっちへ行け。――お、おれはな、いい人間じゃないんだ。おれは、おれは……」
彼が立ちどまると、犬はうれしそうに、しゃべっている庄吾の足もとにからみついて、盛んにしっぽを振っていた。
「し、しっぽなんか振るやつがあるか。バカ野郎。」
彼がどなりつけても、犬は平気な顔をしていた。
「やい、向こうへ行け。は、早くあっちへ行け。逃げないと、石をぶっつけるぞ。――に、逃げるのがいやだったら、ほえついてこい。かみついてこい。お、おれは……ほえられるのが……かみつかれるのが……」
しかし、犬はやっぱり、しっぽを振っていた。
庄吾はかあっ《・・・》となって、石をつかんだ。そうして野ら犬を目がけて、力いっぱいたたきつけた。
東京
おれんは気を失ったまま、なお、ふつか、ふた晩もち越した。彼女は白い目をして、ただ宙を見つめているだけだった。吾一が、「おっかさん。」と呼んでも返事をしないし、むすこの顔もわからないらしかった。そうして、それなり、ひとことも、ものを言わずに、息を引き取ってしまった。
庄吾のところには、なん本も電報を打ったが、彼は帰ってこなかった。彼のとまっている本郷(ほんごう)のうちからは、とうに東京を立った、という返電がありながら、彼はついに姿を見せなかった。
葬儀万端は、近所の人たちがやってくれた。吾一は何もわからないから、その人たちのさしずの通りに動いていた。しかし、父がいないので、彼は母の病中も、臨終の時も、葬式の際も、なんか重たいものが、自分の肩に押しかぶさっているのを感じた。その押しかぶさっているものが、彼の涙をせきとめていた。
が、葬式もすみ、近所の人たちの姿が見えなくなったら、急に悲しみがこみあげてきた。彼は母が息を引き取った時にも、そんなに取り乱して泣きはしなかった。なきがらが土の中におさめられる時でも、彼はじっと涙をのんで、墓あなのそばに立っていた。しかし、けさはもう辛抱ができなかった。ひとりっきりになったら、今までこらえていた涙が、とめどなく流れだした。座しきのまん中に、ぽつうんとすわっていると、ふいても、ふいても、熱いものがほおをぬらした。
きのうまでは足の踏み場もないほど、大ぜいの人が出はいりしていたのに、きょうはあらしのあとのように、ひっそりとしている。いつもそこにすわっていたおっかさんさえ、もういなくなってしまったのだ。おっかさんの針バコも見えなくなってしまったし、裁ち板もどこかへかたづけられてしまった。
自分はもう、ひとりぼっちなんだ。どっちを向いたって、もうだれもいないんだ。
がらあんとした周囲の空気は、いやおうなしに、彼の心をそういうほうへ駆り立てていった。
台どころの破れた障子がみが、パタリパタリ風にあおられていた。吾一はその動いている紙を、放心したようにながめていた。と、涙ごしに、ちいさい四角なものが目にはいった。それは以前、おっかさんが袋を張っていた台だった。彼はなんということもなしに、台どころのほうに、にじり寄って行った。そしてその台の上を、わけもなく、手のひらでこすってみた。
ありし日のことが、まぼろしのように目の前に浮かんできた。
「こんちは。」
突然、とんきょうな声がして、彼の夢は破られてしまった。
「五助どん、さっきから呼んでいるのに、どうして黙っているんだい。」
表で、ちいさな顔が口をとがらせていた。同じ小僧なかまの、店の者だった。
「忠助さんがね、葬式がすんだら、早くお帰りってさ。」
彼は「愁傷さま。」とも言わないで、番頭から言いつけられたとおりの口上を投げつけた。
吾一はそれを聞くと、むっとしたので、ただ顔をあげただけだった。
「五助どん、早く帰らないと、しかられるぜ。店はいま忙しいんだからね。――」
店の者はそんな捨てぜりふを残して、帰って行った。
しばらくすると、今度は近所の者が二、三人つれ立ってやってきた。あとのことをいろいろ心配してきてくれたのである。おっかさんがなくなり、吾一にはまだひとり立ちができないのだから、そうすると、早くこのうちをたたんでしまったほうがよくはないか、と言うのである。それはもっともなことである。しかし、母おやを取られたうえに、また、うちまでなくなってしまうのかと思うと、吾一はじつにたまらない気がした。
「ほんとうに、おっかさんとおとっつぁんが取りかわってくれると、よかったんだがね。」
吾一の沈んだ顔を見て、隣のおじさんは慰めるようにそう言った。
「ところで、吾一ちゃんはどうするつもりなんだい。おとっつぁんは帰ってこないし、吾一ちゃんも、これから容易じゃないね。」
吾一は実際どうしていいか、全くわからなかった。
近所の人たちもかわいそうとは思うが、さて、どうするという名案もなかった。彼らは伊勢屋のあこぎ《・・・》なことをよく知っていた。おためごかしに、おれんに仕事を与えて、その手まの中から、庄吾の借金をさし引いていく。それだけでは十分でないものだから、子どもを奉公に出させて、ゆくゆくは、その給金で穴うめをさせようとかかっているしうちには、みんな反感を持っていた。それは主人の腹から出たことか、忠助が店に対する忠義だてからやったことかわからないが、しかし、とにかく、こういうあくどい手を使って、おんな子どもをいためつけているのを、不愉快に思っていた。けれども、それだからと言って、彼らは吾一を引き取って、世話をするだけの力もなかった。それに、うっかり手をつけて、あとから庄吾に苦情を言われたりしては、かなわないという考えもあった。そんなわけで、結局、彼らの立ち場からしても、一番無難な道は、吾一が店へ帰ることだと思っていた。
近所の人の意見がそうであってみると、吾一もそうするよりほかはなかった。彼は人びとに手つだってもらって、家をたたみ、また、すごすご伊勢屋にもどって行った。
「……いいかい。おまえのおやじさんは、お店にたくさん借りがあるんだよ。おやじさんはその借りを一銭も返してはいないんだ。おっかさんはああいう人だから、手まの中から少しばかり入れたけれど、それは利息にも追いつかないわずかなものだ。それだから、この借金はおまえさんが返さなくっちゃならないものなんだよ。いいかい。そのつもりで、長く働いてもらわなくっちゃなりませんよ。」
忠助はソロバンをひざにのせて、その上にひじを突きながら、のしかかるような調子で、念を押していた。
吾一は帰る早々こういうことばを聞かされたので、一そう悲しくなってしまった。しかし、大番頭の前では、両手をついて、あたまをさげているよりしかたがなかった。
「ふ 、人じちって言うのはこれなんだな。」彼は両手をついていながら、心の中で、そう思った。しかし、人間、借金のかた《・・》なんかにされてたまるもんか、という気もちも、腹の底で動いていた。
そんな気もちでいたところへ、ある日、急に雨がふりだした時に、琴のけいこに行っていたおきぬのところへ、カサを持って行くと、持ってきかたがおそいと言って、剣つくをくわされた。それがひどく身にこたえた。こんな小むすめから、こんなことを言われるのも、こんなうちに奉公しているからだ。ここさえ出てしまえば、――広い東京に行きさえすれば……という考えが、ぐいと、あたまをもたげてきた。母を失って以来、彼はこの気もちが強くなっていた。
おやじの借金なんか、耳をそろえて返してやる。東京へ行って、立派な人間になり、きっと、たたき返してやる。
彼はそういう考えのもとに、ひそかに逃げだす機会をねらっていた。たいした荷物もないけれど、逃げだす時には、それを持って行かなければならない。が、ひと目につかないように、それを持ち出すのは、なんと言っても、ひと苦労だった。
しかし、機会はついにきた。ある朝、手ぬぐい地のさらしを百反、染めもの屋に持って行くことを、番頭から言いつけられた。彼は「しめた。」と思った。それといっしょに、自分の荷物をしょい出してしまえばわからない。荷物はとうからまとめてあるから、彼は器用に、それを大きなふろしきの中に包みこんで、そしらぬ振りをして、そとへ出た。
さらしを百反と言えば、吾一にはそれだけでも、しょい切れないほどだった。そのうえ、自分の荷物がはいっているのだから、しょい出してはみたものの、なかなか足が進まなかった。しかし、これくらいのことに、へこたれてはならないと思った。彼は腰に力を入れて、よたりよたり歩いて行った。いや、歩いていると言うよりは、ふろしき包みの下を、はっていると言いたいくらいだった。今まででも、ずいぶん重たい荷物はしょわされたが、なんと言っても、こんなのは、はじめてだった。もえ黄の包みにおしつぶされて、彼の目は地面ばかり見て歩いていた。
と、往来に黒い、長い影が写った。向こうから材木がやってきたのだ。こいつは困ったなと彼は思った。ところが、その材木が「吾一ちゃん。」と言った。
京造の声だった。京造とはわかっているが、首があげられないので、向こうの顔はよく見えなかった。しかし、京造も重たいものをかついでいるのが、吾一には何か助かったような気もちだった。
「どこへ行くんだ。お使いかい。」
「うん。――」
「こないだは、おっかさん、とんだことだったねえ。」
「ありがとう。――京ちゃんも精が出るね。」
「なあに、たいしたことはないよ。――それじゃ、また会おう。さいなら。」
材木は歩きだした。
「京ちゃん、京ちゃん。」
「なんだい。」
「おれ、東京へ行くかもしんねえんだ。」
吾一はこの友だちにだけは、ほんとうのことを、言っておきたいと思った。
「東京?」
「うん。――」
「そいつはいいなあ。――それじゃ吾一ちゃん、しばらく会えねえなあ。」
「京ちゃん、たっしゃでねえ……」
「うん、おめえもなあ……」
ふろしき包みと材木とは、南北にわかれた。
吾一は染めもの屋にさらしを置くと、その足ですぐ停車場に駆けつけた。のぼりの列車がくるまでには、少し時間があったが、うまいぐあいに、追っ手の者もこなかったし、知ってる人にも出あわなかった。
それでも汽車が出るまでは、なんとなく不安だった。自分の腰をおろしている車が動きだした時、彼は、はじめて、自分が自由になったことを感じた。
吾一は汽車に乗ったことが一、二度しかないので、汽車が非常に珍しかった。彼はすぐ窓をあけて首を出した。
停車場が、常念寺の大きなやねが、火の見やぐらが、ちいさくなって、うしろへ、うしろへと、すさって行くのを見ていると、自分の乗っている汽車が、それらのものをけとばしているようで、なんとも言えず愉快だった。
今に見ていろ。
東京へ行ったら……
彼はそういう心で燃えていた。
今ごろ、店じゃ騒いでいるだろうな。大番頭の忠助はどんな顔をしているかしら。主人のまゆ毛は一層つりあがったにちがいない。おきぬは……秋太郎は……
彼はいい気もちで汽車にゆられていた。
が、故郷の姿がだんだん見えなくなりかけたら、急に腹の底のほうが、うそ寒くなってきた。彼は伊勢屋のことしか考えていなかったが、自分の育った町にも、これでいよいよおわかれなんだと思うと、なんとも言えないものが、胸に迫ってきた。彼は背のびをして、もう一度、町のほうを見かえった。もう、なんにも見えなかった。彼はふと、前にぶらさがった鉄橋のことを思いだした。しかし、これもいつのまにか、通り過ぎてしまった。
彼は寂しそうに首を引っこめて、薄べりのついた腰かけに腰をおろした。東京に行くんなら、おじさんはいなくても、稲葉屋に寄ってくればよかった。近所のおじさんや、おばさんにも、あいさつしてくるんだっけ、そんなことがつぎからつぎへと浮かんできた。彼は伊勢屋を飛び出したのが、早まったことのようにも思われて、ちょっと暗い気もちになったが、「なあに。」と、すぐはね返した。あすこにいたのでは、いつまでいたって人じちだ。おれは、質ぐさじゃない。あの土蔵づくりの家の中に閉じこめられていたら、背なかにかび《・・》がはえてしまう。おれは日なたに出たいんだ。彼は首をあげ、足を踏んばって、自分にそう言い聞かした。それから彼は包みをあけて、本を一冊ひっぱり出した。「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ 人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」あの本を出して、彼は一生懸命に読みだした。
腰かけの下から、ゴツン、ゴツン、堅いものがはねあがってきた。カナヅチの先で、ももの裏がわをこづかれているような感じだが、彼は平気で本を読み続けていた。こうしていれば、ひとりでに日本一の大都会に行けるんだと思うと、そのゴツン、ゴツンが、かえって愉快な感覚だった。
「あんたは、どこまで行きなさるんだい。」
隣に腰をかけていた年よりが、吾一に話しかけた。
「東京へ。」
「ひとりでかい。」
「ええ。」
「東京がうちかね。」
「そうじゃないんですが、おとっつぁんがいるもんだから、……」
「そうかい。おとっつぁんのところへ。そりゃいいね。」
年よりは大きな口をあいて、あくびをした。
「ちょっと伺いたいんですが、本郷って広いんでしょうか。」
今度は吾一が尋ねた。
「そりゃ広いやね。何しろ本郷区って、区になっているくらいだからね。」
「根津(ねづ)って言うと、どのへんなんでしょう。」
「そうだね。――わしは東京のことは根っから知らねえんでね。――たしか、ごんげん様のあるところだと思うけれど。」
「停車場から遠いんでしょうか。」
「上野からかね。わたしには、さっぱりわからねえね。」
老人は気の毒そうに答えた。
吾一はまた本を開いた。上野についたら、どうにかなるだろうと思っていた。
老人は、それから二つばかり先の駅でおりた。
しかし、汽車がだんだん東京へ近づくに従って、吾一の胸は妙にふるえてきた。知らない土地に足を踏み入れる不安とでも言うのであろうか、うれしいような、こわいような気もちがして、じっと腰かけに腰をおろしていても、ひざ小僧がおかしいように、ぴくん、ぴくん、動いていた。
列車はやがて、上野についた。
停車場の前に立った時、彼がまっさきに、「東京」を感じたのは、鉄道馬車の鈴の音だった。リン、リンと、御者(ぎょしゃ)の鳴らす鈴の音は、今まで聞いたことのない新しい響きだった。
これが「東京」か、と彼は思った。
東京ははねて《・・・》いる。東京は踊っている。
彼はちょっと目がくらみそうになった。
「あっ、どいた。どいた。」
荷物をしょって、ぼんやり立っている吾一の前を、勢いよく車が通り過ぎた。彼はあわてて、うしろによけようとすると、大きなカバンをかついで駆けてきた赤い帽子の人に、あぶなく、ぶつかりそうになった。
東京へ!
東京へ!
と、吾一はただそればかりあこがれてきたが、さて、そのあこがれの都へのぼった彼は、それからどうしたであろうか。
十四の少年は、東京に行きさえすれば、何かよいことがあるように夢想していたけれども、東京はそんな親切なところではない。ごみが一つ、飛んできたほどにも、彼をあしらってはくれなかった。
吾一は荷物をしょったまま歩きだそうとしたが、どっちのほうに歩いて行っていいのか、まるで見当がつかなかった。人に聞こうと思っても、みんなせかせかと、忙しそうにしているし、聞いても、はや口なので、いなか者の彼には、よくのみこめなかった。それでも長いことかかって、どうにかこうにか、根津町にたどりつき、目ざす番地を捜しあてた。
二階だての、吾一の目にはかなり立派な住まいだった。前にはヒバがき《・・》があって、それに「女中入用」という木のふだが、つるしてあった。
彼は念のために、父おやからきた手がみを、ふところから出してみた。そして、黒く焼いた門柱にかかっている表札のもじ《・・》と照らし合わせた。番地もちがっていないし、「志田すみえ」という名まえも同じだった。
「ごめんなさい。」
彼は格子のそとから声をかけた。
奥さんとも、おかみさんともつかないような、ふとった女が、奥から出てきたが、吾一の姿を見ると、
「きょうは、ようござんすよ。」
と、突っけんどんなもの言いをして、また奥へ引っこんでしまおうとした。
「こちらは志田さんじゃないんですか。」
「ええ、そうですけれど……」
「あの、こちらに愛川って……」
「あら、おまえさんも愛川さんをたずねてきたの。いやになっちまうね、ほんとに。愛川さんは今いませんよ。国へ帰ったんですよ。」
「あの、わたし国から出てきましたんで、じつは、わたくし……」
「えっ! それじゃ、おまえさんは愛川さんのあれなの。……おほほほ、荷物なんかしょっているもんだから、あたしは、もの売りかと思ったんだよ。――おまえさん、おとっつぁんはどうしたのさ。いっしょじゃないの。」
「ええ。お葬式にも帰ってこないんです。」
「まあ、あきれたねえ、帰らないんだって。いったい、あの人、どこへ行っちまったんだろうね、困った人だねえ。――今もおまえさんのおとっつぁんのことで、きている方があるんだよ。――とにかく、まあ、おあがり。」
「へえ。」
吾一は荷物をおろして、上にあがった。
茶のまには、父に用のあるとかいう人が、むずかしい顔をしてすわっていた。
「あなた、この子が愛川さんのむすこなんですってさ。いま国から出てきたのよ。――この子でさえ知らないって言うんですもの、あたしが知っているわけないじゃありませんか。」
「困りましたなあ。」
客は腕ぐみをしたまま、じろっと吾一のほうを見た。吾一にはこの人がどういう人かわからないので、気味がわるかった。
「あなたは、まるであたしが、隠してでもおくようなことを言うんですもの、腹が立ってしまいますわ。これであなたも、たいてい、おわかりになったでしょう。」
「いいえ、そういう、そういうわけで申したんじゃありませんけれども、わたしのほうとしては、どうしてもこの際、あの方に出ていただかなくっちゃなりませんので、……そうでないと、何しろ刑事問題に……」
「待ってくださいよ。あなたはすぐ、そういうことばをおつかいになりますが、いくらあたしにそんなことを言ったって、しようがないじゃありませんか。あの人に文句が言いたいのは、あなたよりは、あたしですよ。あたしはどんなにひどい目にあっているかしれやしません。それともあなたは、あたくしまで疑ぐっているんですか。」
「そういうふうにおっしゃられると、……どうも、じつに、困りましたなあ。」
客は「困りましたなあ。」を連発していた。
「おかあさん。」
甘ったるい声がして、うしろの障子が半分ばかりあいた。ここの娘らしい若い女が、炭とりを持って立っていた。
「なんです。――おかあさん、いま忙しいのよ。」
「あの、お炭ですって。――」
「お二階?」
「ええ。」
「お炭ぐらい、自分でお出しなさいな。」
「だって、……」
「だって、どうしたのよ。――しようがない人ねえ。手が荒れる、手が荒れるって、そう物ぐさばかりしていちゃ……」
すみえは、くわえていた長いキセルを、じれったそうに、ポーンと、なが火バチのふちに強くたたきつけた、と思うと、急に、吾一のほうに、あごを向けた。
「ちょいと、そんなところに、ちょこなんとすわっていないで、おまえさん、ご用をしてちょうだい。人のうちへきたら、少しは手つだうものよ。」
吾一は話の内容はわからないが、なんか父に関係のありそうなことらしいので、さっきから、ひとりで気をもんでいたところ、突然、自分のほうに大きな声が飛んできたので、びっくりした。
「あのね、お台どころへ行って、ちょっと炭を出してちょうだい。」
吾一は面くらった。ここのうちの奉公人ではあるまいし、いくらなんでも、これは少しひどいと思った。彼はあっけに取られて、すみえの顔をまじまじと見ていると、
「お台どころはそっちよ。お炭のあるところ、お嬢さんに聞くといいわ。」
彼女は、長ギセルを、吾一の前に突きつけんばかりにして、金いろに光っているがん首の先を、ぐっと台どころのほうに向けた。
吾一は立ちあがらないわけにはゆかなかった。そして、キセルの先の向いている台どころのほうに、しぶしぶ歩いて行った。
そこには、娘のかよ子が立っていた。母によく似た小ぶとりの女だった。お祭りでもなんでもないのに、おしろいをべたべたと塗っていた。
「ここよ、お炭。」
かよ子はつまさきで、あげ縁の板を軽く踏んだ。こいつも母おやに劣らない、したたか者だと思った。吾一はしゃく《・・・》にさわったが、しかたがないから、黙ってあげ板を取って、縁の下から炭を出し、炭とりの中に入れてやった。
「ついでに、それ、二階へ持って行ってくれない。」
どこまでずうずうしい女だろうと、あきれ返ったが、とにかく、言われるままに二階へ持って行った。
「まちがえちゃだめよ。いいこと、一番ひだりのおへや《・・》よ。」
かよ子は階段の下で言った。吾一は障子をあけて、そのへやに炭とりを置いてきた。書生さんが机に向かって、本を読んでいた。なんだか、うらやましい気もちがした。
彼が二階からおりてくると、客はちょうど帰るところだった。
せっかく、たずねてきたのに、父がいなくっては、吾一も帰るよりしかたがなかった。客の去ったあと、彼は「さようなら。」をして、玄関に立ちかけた。
「おまえさん、行くところがあるのかい。」
なが火バチの向こうから、すみえが言った。
「へえ?」
「『へえ。』じゃないよ。これから行く先があるのかい、って聞いているんですよ。」
吾一は困って、首をたれていた。
「少し聞きたいことがあるから、こっちへきて、おすわり。――おまえさんは、さっき、おとっつぁんは葬式にも帰らなかったと言ったが、あれはほんとうかい。」
「ほんとうです。」
「そうすると、どこへ行っちまったんだろうね。――おまえさん、こころ当たりはないかい。」
「知りません。」
「それじゃ、ここにいると思って、やってきたのかい。」
「へえ。」
「おまえさんも、おまえさんだね。こっちにはいないって、とうに電報を出しておいたじゃないか。そこへ荷物をしょって、いなかからひょこひょこやってくるなんて、どうかしているよ。ほほほほ、おまえさんも、どっか、おとっつぁんに似たところがあるね。」
「…………」
「ほんとうに、おまえのおとっつぁんは困りものだね。うちじゃ、どんなに迷惑をしているかしれやしないよ。ちょっとへやを貸したばっかりに、今のような人にやってこられて、つまらないことを言われてさ。……そればかりじゃない。あれでおとっつぁんは、なかなか口がじょうずだから、なんのかの、うまいことを言って、あたしのものまで、まきあげているんだからね。……」
「…………」
「それはそうと、おまえさんはどうするつもり? おとっつぁんを捜すと言ったって、捜しようもないじゃないか。」
「…………」
「どこか行くところがあるんならいいけれど、……もう日ぐれだし、困ったね。――なんなら、あんまり気の毒だから、少しのあいだ、うちに置いてあげてもいいよ。」
「…………」
「そのうちには、おとっつぁんも帰ってくるかもしれないしねえ。――愛川さんの子どもがきたのに、ただ返してしまったってわけにもいかないから、どう、そういうことにしたら。」
吾一は東京へ飛び出してきたことを、今さらのように後悔した。が、ほかに行くところもないし、向こうでそう言ってくれるものだから、あまり感じのいいうちではないけれど、母と娘で貸しまをやっている、この家に置いてもらうことにした。
彼はもちろん、置いてもらうと言っても、お客のようなつもりでいる考えはなかったが、それでも、こんなひどい待遇を受けようとは思っていなかった。それはむしろ、伊勢屋の小僧以下だった。何しろ、しきいをまたいで、すわったかすわらないうちに、もう台どころの炭を出させるような女だから、彼を少しもじっとさせておいてはくれなかった。ランプそうじをはじめとして、ゾウキンがけやら、おぜん《・・・》のあげさげやら、さかな屋の使いまで、いっさい彼の受け持ちにさせられてしまった。そうして、ごはんの時には、「いただきます。」「ごちそうさま。」と手をつかなければならなかった。彼は「東京。」「東京。」と思ってやってきたのであるが、ゾウキンあか《・・》のついた伊勢屋の板のまは、ずうっと、こっちのほうまで続いているのであった。
表のヒバがき《・・》につるしてあった「女中入用」の木のふだは、吾一の知らないあいだに、いつのまにか、はずされていた。かきねのすきまを、晩秋の風がつめたく吹きぬけて行った。
吾一はヒバがき《・・》の横に立って、高い空を見あげながら、なんども目をこすった。
ダルマさん、ダルマさん
吾一はここのうちでは、名まえを呼ばれたことがなかった。
「おい、小僧、タバコを買ってきてくれ。」
「おい、小僧、この手がみを、急いで出してくれ。」
と、二階の書生さんたちは、「小僧。」「小僧。」と、彼のことを呼び捨てにしていた。
伊勢屋の帳場格子の前で、突然「五助」と名まえを変えられた時でさえ、彼はじつにたまらなかったのに、今度は「五助」どころか、ただの普通名詞に置き変えられてしまったのだから、彼の存在というものは、ほとんど、なくなってしまったも同様である。
「わたしにはナマイがあるんですから、ナマイを呼んでください。」
吾一はいきり立って、ある時、一番もの言いのひどい医科大学の学生に、抗議を申しこんだ。
「はははは。ナマイか、ナマイはいいな。おまえがそんなとんまなことを言うから、いつまでたっても、『小僧』って言われるんだ。――おい、小僧。おまえがな、『いろは』を満足に言えるようになったら、いくらでもナマエを呼んでやるよ。一つ、『いろは』をやってごらん。」
「『えろは』ぐらい、だれにだってできますよ。」
「おほほほ。――あははは。そんな口ごたえなんかするから、なお、からかわれるんじゃないの。バカねえ、ほんとうに。」
かよ子は大学生にからだをすり寄せながら、いっしょになって、きゃっきゃっと笑っていた。
「今度は『衆議イン、議イン』ってのをやってごらん。――おい、小僧、やってごらんたら。」
「わ、わたしは、いま小僧じゃありません。」
「それじゃ、なんだい、おとこ女中か。おぜんを持って、二階へあがってくる格好は、すてきだぞ。うはははは。」
「ほほほほ、この人、いなか者のくせに、そりゃ負けずぎらいなの。なんかって言うと、すぐ突っかかってきて、なま意気ったらありゃしないわ。――およしよ、小僧。大学のお方になんか、たて突くもんじゃなくってよ。笑われるばかりじゃないの。」
このごろでは、かよ子までが彼を小僧と呼んでいた。この娘の意地の悪いことは、今にはじまったことではない。このうちへきたばかりの時、炭ダワラの置き場を教えるのに、「ここよ。」と足のつまさきで示すような女だから、一事が万事である。手のすいた時、吾一が新聞をひろげようとすると、ひょいと、うしろからやってきて、いきなり、ひったくってしまったりする。
「そんな意地わるしないで、貸してくださいよ。」
「何が意地わるよ。小僧のくせに新聞よむなんて、ぜいたくだわ。」
「新聞ぐらい、読んだっていいじゃありませんか。ちょっと貸してくださいよ。読みたいものがあるんですから……」
「あたしも読むものがあるのよ。あたしだって、まあだ続きものを読んでやしないんじゃないの。」
そう言って、新聞を貸してくれないのである。おきぬといい、この女といい、おしゃれな娘というものは、どうしてこう、つらく当たるのであろう。
吾一はしゃく《・・・》にさわってたまらなかった。畜生、おとっつぁんが帰ってきたら、言いつけてやるぞ。そして、みっちり取っちめてもらうから、覚えていろ。彼は腹の中で、なんども、そう思った。
しかし、父おやは待てど暮らせど、なかなか帰ってこなかった。
ここのおかみの口ぶりによると、例の山林事件の裁判が、近いうちに開かれることになっているらしい。これは、おとっつぁんが一番ちからこぶを入れている問題だから、何をおいても帰ってこないはずはない。おっかさんの葬式には立ち合わなくても、これに立ち合わないということはないと思う。が、裁判の期日を忘れるような父おやではないのに、どういうわけか、手がみもよこさなければ、姿も見せないので、ここのおかみもやきもきしていた。いったい、あの裁判と、ここのおかみとは、なんの関係もなさそうに思われるのだが、やっぱり、なんかのつながりがあるのであろうか。おかみは毎日のように、そのことばかり言っていた。
吾一はますます心ぼそくなってきた。こんなうちに辛抱しているのも、女中のような、ひどい扱いを我慢しているのも、父おやが帰ってきてくれれば、と、ただそれだけを頼みにしているのである。しかし、いくら待っていても、おとっつぁんが帰ってこないようなら、彼も考えなければならないと思った。どこへも行くところがないものだから、つい、ぐずぐずになっていたが、こんなうちにいつまでもいたら、自分もくさってしまうばかりだ。
「ああ、おっかさんがいたらなあ!」
彼は今さらのように、母おやのことを思った。母おやのことを思っては、なんども、台どころのすみで泣いていた。
しかし、帰ってこない母おやのことを、いくらなげいたところで、しかたがなかった。そういう時、まっさきに、彼のあたまに浮かんでくるのは、稲葉屋のおじさんのことだった。次野先生の姿だった。
彼はある晩、稲葉屋のおじさんに長い手がみを書いた。おっかさんの葬式にもこられなかったくらいだから、病気はきっと重いにちがいないが、今の吾一としては、ほかにたよる人はなかった。彼は現在の身の上をこまごまと書いて、これからの身のふり方について、おじさんの意見を求めた。それから、一番しまいに、次野先生にお目にかかりたいから、先生の東京の住所を、至急おしえてください、と書きそえた。
かよ子は泣きながら、母のいる茶のまに駆けこんできた。
「どうしたんです、そんな顔をして。」
「だって、……だって、……あんまりなんですもの。」
「何があんまりなのよ。みっともないじゃありませんか、朝のうちから。」
「おかあさん、黒田さん、断わってちょうだい。あたし、……あたし……」
「また、つまらない言い合いをしたんじゃないの。しょうがない人ね。」
「そ、そんなことじゃないわよ。おかあさんたら、どうしてそうなんでしょう。自分がさらしものにされているのに、のん気な顔をしているんですもの。……」
「何が、さらしものよ。」
「おかあさんも、あたしも二銭五厘なんですって、……」
かよ子は「わあっ。」と声をあげて、泣き伏してしまった。
「おまえさんの言っていることは、なんのことか、ちっともわかりゃしないじゃないの。何も泣くほどのことはないじゃありませんか。」
「だって、……だって、……あたし、くやしいわ。――おかあさんだって、見たら黙っていられるもんですか。あんまりだわ。あんまりだわ。」
吾一は二階のゾウキンがけをすませて、はしご段をふいていたが、段の途中で、
「はははは、黒田さん、また、なんかやったな。」
と、ひとりでおもしろがっていた。
「あんなアマっ子は、うんとやっつけられるほうがいいんだ。今度は黒田さん、どんなポンチをかいたのかな。」
彼は早く、その絵を見たいと思い、はしご段はいいかげんにして切りあげてしまった。そして、下の縁がわに、四つんばいになって、ゾウキンをすうっと押して行った。茶のまの前を通る時、かよ子の顔を、またのあいだから、よこ目でのぞいて、そのまま向こうまで走って行った。娘の泣いている姿を、四つんばいになって、さかさまに見あげたところは、ポンチにならないかなあ、と彼はそんなことを思ってみたりした。
縁がわの突き当たりは黒田のへやだった。へやと言うよりは、なんど《・・・》のような、暗い、きたないところだった。下宿代がとどこおったので、二階からここにおろされてしまったのである。「特旨をもって、くらい一級をさげられ――」なんて、だじゃれを飛ばしながら、彼は平然として、そこにおさまっていた。
問題のポンチは、縁がわのそばの机の上にあった。吾一は腰をのばして、方向転換をすると、いやでもそれが目にはいった。彼は思わず、くすりと笑った。かいた黒田もくすりと笑った。
よくこんなに似せてかけるもんだなあ、と思われるほど、おや子のくせを巧みにつかんだ、ふたりの似がおがそこにあった。そして、その横に、
「どれでも、これでも二銭と五厘だ。
ちょいちょい買いな。」
という、ひょうきんな文句が書きそえてあった。
じつのところ、このことばの中に隠されているとげ《・・》は、吾一にはよくわからなかった。しかし、「買いなよ、買いなよ、ちょいちょい買いな。上の通りは二百と八もん、前の通りは、どれでも百もん、すみからすみまで、なんでも買いな。」縁日でやっている、あの哀調をおびた、おもしろおかしい呼び声を思いだすと、彼は笑いがとまらなかった。
「そんなところで何をしているの。早くゾウキンがけをしておしまい。」
おかみの、とがった、かん高い声が飛んできた。
「へえ。」
吾一はまた、四つんばいになって、ゾウキンを押して行った。
茶のまでは、「ほんとうに、下宿代もろくに払わないくせに……」というようなことを、聞こえよがしに言っていた。しかし、黒田はそんなことには慣れきっていた。彼は下あごをなでながら、スケッチ・ブックに、らくがきをやっていた。
小春日や
娘つき、まかないつきの
貸しまあり
「どうだ、一つ、おまえのことをかいてやろうか。」
その日の午後、黒田は吾一をつかまえて言った。
「やっぱり、ポンチですか。」
吾一はあたまの上に手をやって、あまりありがたくない顔をした。
「ポンチですか、ってやつがあるか。どれどれ、少しじっとしていてごらん。」
黒田はしばらく吾一の顔を見つめていたが、やがて紙の上に、ちょこちょこと鉛筆を走らせた。
何をかくのかしらと見ているうちに、やがて起きあがり小ぼうしの、ちいさなダルマが一つ、地べたに引っくり返っているところができあがった。ダルマは無論、吾一の顔になっていた。
「どうだ。」
黒田はにこにこしながら、それを吾一に突きつけた。マンガをかく人はおもしろいかもしれないが、かかれた当人は、そんなにおもしろいものではない。
「おまえにやるから、それ、持って行ってもいいよ。」
向こうでは、さも大事なものでもくれるようなことを言っているが、吾一は自分のポンチ絵なんか、もらったって、しかたがないと思っていた。
「はははは。わからないんだな、おまえには。――それじゃ、しようがない。声を入れておいてやるかな。」
黒田は筆をとって、絵の上のあいたところに、もじを書いた。
ダルマさん、
ダルマさん、
お足をお出し。
自分のお足で
歩いてごらん。
「どうだ。今度はいくらかわかったろう。」
そう言われても、吾一にはさっぱりわからなかった。「ダルマさん、ダルマさん」は、そこらでだれでも言っていることだし、「自分のお足で」も、べつにむずかしいことばではない。だが、こんな歌みたいなものを書かれても、なんのことか通じなかった。
「なんだ。まあだわからないのか。あいにく、もう書くところがなくなっちゃったから、これでやめておくが、まあ、二、三日、おまえはこのダルマさんと、にらめっこをするんだな。」
ダルマさんに、こうもったい《・・・・》をつけられては、吾一はどうももらわないわけにはいかなかった。ちゃかされたうえに、お礼を言ったりするのは、少々ましゃく《・・・・》に合わないと思ったが、しかたがなしに、彼は「ありがとうございます。」と、あたまをさげた。
「ですが、黒田さんは、どうしてこういう絵ばかりかいて、ほんとうの絵をかかないんです。」
吾一は自分のマンガをひざの上にのせたまま、もっともらしい顔をして言った。
「ほんとうの絵か。――はははは、ほんとうの絵はまいったな。」
「だって、たいていの絵かきさんは、富士山や、加藤清正をかくじゃありませんか。ああいうのをかいたほうが……」
「はははは。金になるって言うのかい。――どうも下宿代を払わないと、おまえにまでバカにされるな。」
「そうじゃないんですけれど……」
「あのな、小僧、世の中には、声を出す絵と、出さない絵とあるんだ。普通には、『無声の詩』なんて言って、絵は声を出さないものとされているが、今の絵を見ろ。ただ絵の具をなすりつけているだけで、詩なんかどこにもありゃしない。『無声の詩』じゃなくって、『無声の無』だ。おれはそれがしゃく《・・・》にさわるから、絵の中から声を出させようと思っているのだ。The very stones cry out! 今の世の中は、『石なお叫ばん。』という時代じゃないか。絵だって、声を出さずにいられるもんかい。」
「…………」
「今の日本画家は、みんなかぜ《・・》をひいていやがって、声の出るやつは、ひとりもないのだ。声を出さないことが、立派な絵かきだと思っているんだから、あきれ返るよ。」
「…………」
「『無声の詩』はいいが、無声にばかり力を入れやがって、詩なんてものは、そっくり、どこかへ置き忘れてきちゃっているんだ。詩とはなんだ。一つの声じゃないか。――しかしな、おれには詩なんて、やさしい、味のある声は出せねえから、おれはしゃがれ声を張りあげてどなるんだ。すき通った、きれいな声は出せねえから、あてっこすりを言うんだ。皮肉を言うんだ。そのどら声が、あてっこすりが、それがすなわち、ポンチってものさ。」
「…………」
「はははは。小僧、目を白くろさせているな、かわいそうに。――だが、まあ、ポンチってものは、時代の声だ。だれがなんと言ったって、ほえずにはいられねえものなんだ。かぜをひいた犬みたいに、黙っているのとはちがうんだ。金もちや書画やの前で、しっぽを振っている手あいとはちがうんだぜ。下宿やの払いはとどこおらせているが、おかみにだって、だれにだって、かみつくんだ。いや、おかみなんて、ちっぽけなものが目あてじゃない。時代の声をほえるんだ。おれたちは番犬じゃねえ。飼い犬じゃねえ。時代の主人として、ほえようって言うんだ。」
「時代の主人」ってことばが、吾一の胸にぴいんときた。はっきりした意味はわからないが、年中、こき使われてばかりいる彼は、なんとかして、一度「主人」というものになってみたいと、猛烈に思った。
「ポンチって、おもしろいんですね。」
「はははは。おもしろいんですねか。まあ、おもしろいんですねでもいいだろう。――」
「わたしはポンチって、ただ、いたずらがきをするものだとばかり思っていました。」
吾一はさっきかいてもらった起きあがり小ぼうしの絵を、もう一度、取りあげて見かえした。さかなの骨のようなものが、ごそりと彼の腹にささった。
「どこへ行っちまったんだろう。しようがないやつね。――ちょいと、どこへ行っているの。」
おかみが、台どころのほうで、大きな声を出していた。
吾一は返事もしないで、一生懸命に自分の似がお絵を見つめていた。
「おい、捜しているようだから、早く行かないと、また、うるさいぞ。」
「へえ。」
今までの習慣で、吾一はつい「へえ。」と言ってしまった。が、これからは、もう「へえ。」なんて卑屈な返事は、断然やめようと思った。
夕がたのこまごました用をすませると、彼はいつものように、おぜんを持って、二階にあがらなければならなかった。不器用な手つきで、足のついたおぜんをささげながら、彼はぎしぎし鳴るはしご段をのぼって行った。
はしご段の途中で、彼はふと、立ちどまった。
いま歩いているのは、こりゃ一体、だれの足なのだ。
階段をのぼり切ると、吾一は自分の足で、トーンと板のまを踏みしめた。おぜんがゆれて、しるが少しこぼれた。
彼はそれをそのまま、へやの中へ持って行った。
「おい、小僧。つゆをこぼしちゃだめじゃないか。」
吾一はなんにも言わずに、スタスタと、はしご段をおりてしまった。
「なんだって、おまえが勉強したいんだって。まあ、あきれて、ものが言えないね。――だめですよ、夜学だってなんだって。おまえなんかが勉強したって、どうなるもんじゃない。」
「…………」
「おまえ、二階の書生さんがたが、本を読んでいるのを見て、急にそんな気になったんだろう。二階のお方は、みんな立派な親ごさんがあって、学資を送ってもらっているから、学校へ行っていられるんですよ。おまえのような宿なしとは、わけがちがうんだよ。」
「…………」
「ほんとうに、すこうし目をかけてやると、すぐつけあがるんだから、あきれ返ってしまうね。おまえのように『いろは』も満足に言えないものが、学校へ行って、何を勉強するのさ。勉強なんかどうでもいいから、もっとランプそうじをちゃんとおやり。おまえのシンの切り方は、いつだってでこぼこ《・・・・》だよ。」
「こ、これからは、ランプそうじも、もっとしっかりやります。そのほかのことも、ど、どんなにでも働きますから、……どうか、是非やっていただきたいんですが……」
じつを言うと、吾一は稲葉屋のおじさんの返事を、こころ待ちに待っていたのである。その返事さえくれば、どうにかなると思っていたのだが、ゆうべ彼はとっくり考えて、それはもうあきらめることにしてしまった。「人をあてにしちゃだめだぞ。」いつか、おとっつぁんに言われたことが、急に思いだされたのである。彼は起きあがり小ぼうしのポンチをながめながら、是非とも、自分の力で立ちあがろうと思った。ここのうちは、いやなうちにはちがいないが、そうかと言って、ほかに知ったうちもないので、彼は思いきって、おかみにぶっつかってみたのである。毎日毎日、おぜん運びや、さかな屋の使いをしていたのでは、いつになっても、ウダツのあがる時はない。今しっかりしなかったら、一生を台なしにしてしまう。昼まはどんなにでも働くとして、晩だけ学校へやってもらいたいと、彼は痛切に考えたのである。
「なんだって、いくらでも働くって、おまえにいったいどんな働きができるんだい。おぜんを運ばせれば、おつゆをこぼすし、茶ワンを洗わせれば、ふちを欠いてしまうし、……もう、そんな話、やめてちょうだいよ。おまえのことは、置いてやるだけだってせいぜいなんだよ。学校になんか、あげられるもんかね。」
「…………」
「さあ、おまえは言いつけられた仕事を、とっととかたづけておしまい。あたしは、きょうは、忙しいんだから、おまえさんなんかのおあい手はしていられないんだよ。――かよちゃん、どうしたい。もういいのかい。早くしないと、まに合いませんよ。」
「あら、困っちまったわ。おかあさん、ちょっと手つだってよ。」
隣のへやの鏡台の前で、はだぬぎになって、しきりに、お化粧をしていたかよ子が、泣くような声を立てた。
「どうしたのさ。しようのない人ね。おっかさんだって、これから着ものを着かえなくっちゃならないんですよ。」
「だって、ちょっとよ。ちょっとえりあし《・・・・》のところ、おしろい、塗ってよ。よくつかないんですもの。」
「ほんとうに、うるさいお嬢さんね。」
うるさいと言うところに、ことさらに調子をつけて、ポンと畳をけるようにしながら、母おやは立ちあがった。
「あらあら、えりに、こんなに、おしろいをくっつけちゃって、……もう少しおまえ、おつくりがじょうずにならなくっちゃ、しようがないね。――ちょっと、手ぬぐいをお出しよ。」
親ネコが子ネコをなめるような、それはそれは愛情に満ちた格好で、母おやは娘のえり《・・》あし《・・》のうぶ毛《・・・》の先についている、おしろいを、そっと、ふき取っていた。それから新しくおしろいを塗ろうとして、水ばけを取りあげようとすると、まだ吾一がそこにすわっているものだから、彼女はタカのような目をして、彼をにらみつけた。
「いつまで、そんなところにシャチコ張っているの。ご用をおしと言ったら、早く用をかたづけておしまいよ。」
吾一は目のうしろが熱くなった。彼はしぶしぶ立ちあがって、台どころのほうに行った。
まもなく二階から、あたまをきれいに分けた医科の学生がおりてきた。そして、巻きタバコをふかしながら、なが火バチによりかかって、娘のお化粧に見とれていた。
やがて、おや子のしたくができあがると、彼らは車をつらねて、市村座に出かけて行った。
それから、二、三日すぎのことだった。
おかみは珍しく午前中から飛び出して、よるになっても帰ってこなかった。きょうは裁判の日かな、と思ったが、吾一には何も話してくれないから、はっきりしたことはわからなかった。
十時すぎに、おかみはやっと帰ってきた。「お帰んなさい。」と言っても、彼女は返事もしなかった。しかし、そんなことはしょっちゅうなので、吾一は気にもとめなかった。
きょうは銭湯に行く日ではなし、こんな時に、まごまごしていると、うるさいと思ったので、ころをはかって、「おやすみなさい。」を言い、引きさがろうとすると、
「今から寝なくってもいいよ。――聞きたいことがあるから、ちょっと、こっちへおいで。」
あたまからどなりつけられてしまった。彼はしかたがなしに、いざるようにしながら、茶のまにはいった。
「おまえ、おとっつぁんの居どころ、知っているんだろう。」
おかみは長ギセルを、じゃけんに火バチのふち《・・》にたたきつけた。
今ごろになって、なんだって、またこんなことを、改まって聞くんだろうと吾一は思った。が、知らないことは、知らないと言うよりほかはなかった。
「おまえもなかなかずうずうしくできているね。知らないなんて言ったって、知らないはずはありゃしないよ。」
「いいえ、ほんとうに知らないんです。――」
「ふん、おまえはどこまでもしら《・・》を切る気だね。――いいともさ。それならそれで、こっちも考えがあるんだから。」
「ほ、ほんとうに知らないんです。知ってさえすれば、わ、わたしは、すぐおとっつぁんのところへ……」
「うまいことをお言いでないよ。おまえたちはぐる《・・》になって、おや子でうちを食いつぶそうと思っているんだろう」
「そ、そんなことは……」
「いいよ、いいよ。言わなきゃ、言わないでもかまわないよ。そのかわり、おまえのような者は、もう置いとけないから、あしたは早々、出て行っておくれ。」
吾一は思わずぎくっ《・・・》として顔をあげた。こんなうちにはいたくないと思っていたが、出て行けと言われると、さすがに、ちょっと困らないでもなかった。
「なんだい、そんな目つきをして。追い出すって言ったのが、どうしたって言うんだい。当たりまえじゃないか。あたしはおまえのような者を、いつまでも、世話する義理はないんだよ。」
おかみはまた長ギセルをポーンとたたいた。
なんだって、こんなにぷんぷんしているのか、吾一にはよくわからなかったが、聞いたって、どうせろく《・・》な返事はしてくれないと思ったから、彼は何も言わないで黙っていた。黙ってじいっとしていると、のどの奥のほうから、にがいものがしきりにあがってきたが、彼はそれをぐいとのみこみながら、さきのことを考えていた。
かんなん、なんじを玉にす
吾一はぼんやり、池のおもてをながめていた。
上野の森を越して、ポーと汽車の汽笛が響いてきた。しかし彼は、放心したように、ただ水の上を見つめていた。
うら枯れたハスが、そこここに少しばかり残っているが、葉はもう一枚もついていない。なんのことはない、こわれた番ガサをさかさまに突きさしたように、え《・》がちょこんと立っているだけである。水の中には、カラカサの紙の切れっぱしのようなものが、きたなく、とけて沈んでいた。
季節が季節のせいか、池のまわりには、いつものように、散歩する人の姿は見えなかった。どっちを向いても、さびれはてた感じだった。
日ざしのぐあいでは、もう昼ちかいのだろう。お天気はバカにいいが、風は強かった。池の中の弁天さまの岸には、白い波が立っていた。
根津のうちを追い出された吾一は、どこにも行くところがなかった。彼はちいさい荷物をかかえて、あてどもなく歩いているうちに、いつか忍ばずの池のはたに出てしまったのである。しかし、ここへきたと言ったところで、彼にはべつに、どうするという、あてがあるわけではなかった。
知らず知らず、足がこっちへ向いたのは、上野へ行って、あすこから汽車に乗ろうという考えが、心のどっかにあったのかもしれない。が、彼は進んで切符を買おうという気もちにはなれないのである。国へ帰る汽車賃ぐらい、ふところにないわけではないけれども、伊勢屋を飛び出した手まえ、今さら、のこのこ帰っては行けなかった。それに稲葉屋のおじさんでさえ、返事をくれないくらいじゃ、と思うと、どうしても郷里のほうに足が向かなかった。
それなら、どうすればいいのだ。――どうすればと言ったところで、どうしようもなかった。
彼はそこにあったロハ台に、荷物をまくらにして、ごろりと横になった。目をつぶってはみたが、もとより眠れるわけもなかった。
ゆうべ、おかみが出て行けと言った時、どうしておれは、あやまらなかったのだろう。あやまって、もう少し置いてもらうようにしなかったのだろう。――バカな。たとい飢え死にしたって、あんなところへ帰るもんか。黒田さんがいなくって、あいさつができなかったことは残念だったけれど、そのほかには、あんなうちに、なんの未練もありゃしない。ええ、こんなこと、思っただけでも、胸っくそが悪くなる。
だが、いくら根津のうちがひどくっても、伊勢屋がひどくっても、とにかく、寝るところもあれば、三度の食事もあてがってくれたのだ。しかし、これからは……もう夜つゆをしのぐところさえないのだ。
彼は横になったまま、また池のおもてをながめていた。広い水面に、しょんぼり立っている枯れハスが、いたましく目にしみた。ぽつんと水の上に突き出してるその形は、マストの先だけ波まに残して、沈んでしまった船のように思えてしかたがなかった。何もかも、いっさい失いつくしたもの、そういう感じだった。そして、あの細い棒の先だって、やがては水の中に引きこまれてしまうのだ。
突然、あたまから波をかぶったように、彼はひやっとしたものにおそわれた。からだがすくんで手あしのふるえが、とまらなかった。
彼は力なく起きあがった。しかし、目がすわって、顔の色が土け色に変わっていた。
「ごめんなさいよ。」
五十ぐらいの、身なりのいやしくないおばあさんが、ひょいと彼の横に腰をかけた。おばあさんはちいさい包みをあけて、おまんじ《・・・・》ゅう《・・》を取り出した。そして、なれなれしく、
「一つ、いかがです。」
と、吾一の鼻の先に、丸い、ふわふわしたものを突き出した。
吾一は面くらった。見ず知らずの人から、お菓子をすすめられるなんて、あまりに思いがけないことだった。だが、その丸い、ふわふわしたものは、吾一の緊張した気もちを、急にほどいてくれた。こわばった神経の糸がゆるんで、さっきのように思い詰めた考えが、いつのまにか、すうっと飛んで行ってしまった。
朝から何もたべていない彼は、そのふわふわしたものに、少なからず引きつけられた。しかし、なんでもなく、他人から物をもらうのも変だし、彼はごちそうになりたいような、なりたくないような、おかしな顔をしながら、丸い、柔らかいものを見つめていた。
「おいしいおまんじゅう《・・・・・・》ですよ。わたしもいただきますから、あなたもおあがんなさいよ。」
気さくなおばあさんは、彼の前でおまんじ《・・・・》ゅう《・・》を割って、うまそうに口へ持っていった。吾一のからっぽな胃ぶくろは、帯の下で、はげしく波を打っていた。――何も遠慮することはない。くれると言うものは、もらったっていいではないか。
彼は我慢ができなくなって、大きなおまん《・・・》じゅう《・・・》に手を出した。そして、さっそく、ガクリと食いかけた。あんこが舌の上でとろけて、のどの奥にすべりこんでいく味というものは、なんとも言えなかった。
「あんたは、甘いものが好きのようですね。」
「ええ。」
「それじゃ、あたしといっしょにきませんか。こういうものなら、いくらでもありますよ。」
吾一は不思議に思った。この人はお菓子やのご隠居さんかしら、と思った。
「どうです。きませんか。こんな寒いところにいたって、しかたがないじゃありませんか。」
おばあさんはそう言って、しきりに誘った。
このあたりにはポン引きとかいうものがいて、よく、ぽっと出のいなか者が、かどわかされるという話を、吾一はうすうす聞いていた。そう思うと、まるで知らない人だけに、なんだか恐ろしいような気もしたが、しかし、あい手は年よりの女だし、それに身なりもきちんとしているので、どうもそんな人とは思えなかった。よし、そうであったとしても、さっきは死のうとさえ思ったくらいなんだから、もうそれ以上、なんにも恐ろしいものはなかった。こっちはさし当たって、あてもないからだ《・・・》だしするから、彼は言われるままに、そのおばあさんのあとについて行った。
荷物はじゃまになるからと言って、おばあさんは近所の知り合いらしいうちに頂けてくれた。それから、ふたりは広小路(ひろこうじ)に行った。そして、そこの、四つかどに、しばらく立っていた。鉄道馬車に乗るのかしらと吾一は思ったが、なん台、馬車がとまっても、おばあさんは乗らなかった。
と、向こうから立派なおともらいがきた。おばあさんはその行列について歩きだした。吾一もそのあとに続いた。
行列は切りどおしの坂をのぼって、大きなお寺にはいった。
本堂でお経をあげているあいだ、おばあさんは口の中で何か言いながら、ジュズをつまぐっていた。吾一は眠たくってしようがなかった。死んだ人は、おばあさんと、どういうつながりの人か知らないが、彼はつまらないところに、引っぱってこられたものだと思っていた。
「丁寧にお焼香するんですよ。」
会葬者のお焼香になった時、おばあさんにそう言われたので、吾一は慣れない手つきで香をあげ、うやうやしく、あたまをさげた。
葬式がすんで、会葬者がぞろぞろ帰りかけると、彼らは門のところで、お菓子の包みを渡された。おばあさんも、吾一も、もらった。
「あたしはね、もう一つ、お寺に行かなくっちゃならないんだけれど、おまえさんもいっしょに行っておくれな。」
おばあさんは帰り道で、そう言った。
しかし吾一は、おともらいなんか一ぺんでこりごりである。彼は「もういやだ。」と、はっきり、断わった。
「まあ、そんなことをお言いでないよ。さっき、おまえさんの身の上を聞いたら、あたしは思わず、もらい泣きをしましたよ。そですり合うも、なんとやら。できるだけ、おまえさんの相談に乗ってあげたいと思うから、あたしについておいでよ。年よりのあとにさえついていれば、まちがいの起こる気づかいはありませんよ。」
道みちおまえさんはいくつだとか、今まで何をしていたのだとか、いろいろ聞かれたので、吾一は今までのことを、何もかも包まずに話したのである。すると、おばあさんは「まあ、かわいそうに。」「それはつらかったろうね。」などと、話の切れ目、切れ目で、親切なことばをはさんでくれた。それは通り一ぺんの、あいさつとは思えなかった。
またお寺へ行くことは、つまらなかったけれど、そうかと言って、べつにどうするというあてもない彼は、結局ずるずるに、おばあさんのあとについて行くよりしかたがなかった。
二度めのお寺は、車坂(くるまざか)の先のほうだった。おばあさんとは言いながら、一日に二度もお寺に行くなんて、よくよくお寺まいりの好きな人だなあ、と吾一は思った。
そこでも、お焼香をすませると、門を出る時に、切手のはいった、ちいさな箱を、一つずつもらった。そのあとで、おばあさんは言った。
「おまえさんの身のふり方について、あたしはいろいろ考えたんだがね。どうだい、おまえさんもお金がなくちゃ、しようがないと思うけれど、一つ、あたしのところで働いてみる気はないかい。」
吾一は思わず顔をあげた。
「働くって、どんなことをするんです。」
「なあに、たいして、骨の折れることじゃないんだよ。ただお客さんさえ見つけてくれればいいんだがね。」
「お客さん」ということばが、吾一の耳には、きわ立って異様に響いた。
「ほほほほ、お客さんなんて言っても、おまえさんにはわからないねえ。いいえ、おまえさんばかりじゃない。まあ、たいていの人は知らないだろうよ。あたしのやっていることは、どんな新しい『商売往来』にもない仕事だからね。」
おばあさんは白い歯を少し見せて、寂しく笑った。この女は、なかまうちでは「おともらいのおきよ」でとおっている、おともらいかせぎの老婆だった。
おともらいかせぎというのは、会葬者のふうをして、葬式のあとについて行き、帰りに、引きものの菓子オリをもらってくる商売である。うまくいくと、一日に三つも四つも葬式に出っくわすので、(彼らのあいだでは、そういう日を「お正月」とか「満員」などと呼んでいる。)女の商売としては、なかなか割りのいい仕事なのである。もちろん、引きもののおまんじゅう《・・・・・・》や切手は、ちゃんと約束の店があって、割りびきで引き取ってもらえるしくみになっていることは言うまでもない話である。
こんな商売なら、どんな女にでもできそうなものだが、そう、だれにでもできる商売ではない。これをやるには、まず、恥を忘れた女でなければ勤まらない。もっとも、人間、食えないということになれば、恥の、外聞のなぞとは、言ってはいられないが、この仕事は、あまりひどい身なりの者には、やるわけにはいかないのである。冬は冬で、ひと通りの服装がそろっていないと、会葬者といっしょに、本堂にあがりこむことができない。こういう商売にも、やはり資本は、いるのである。
ところが、このばあさんは、みず商売をした女なので、とにかく、ちょっとした着ものだけは持っていた。それがこの女のつよみである。――年が年だから、もうだれもあい手にしてくれる者はなし、かたぎの仕事もできないところから、彼女はこんな商売に落ちこんだのである。
しかし、年よりの女がやるには、実際、割りのいい仕事にはちがいないが、ただ一つ、めんどうなことがあった。それはお客さんを捜すことである。
彼らのあいだでお客さんと言うのは、葬式のことである。いつ、どこのうちに葬式があるか、お寺はどこであるか、帰りには菓子オリをくれるか、これをまず、さぐっておかなければ、この商売は成り立たない。ことに引きものをくれる点が、何よりも大事である。遠くの寺までついて行ったあげく、「みなさん、きょうはありがとうございました。」なんてお辞儀だけされたのでは、彼らは、ひあがってしまう。そこで、よいお客さんを捜すためには、子どもを使う必要があるのだ。子どもだと、いろんなことも聞きやすいから、調査が確実におこなわれるのである。
そのうえ、会葬の時に子どもをつれて行くと、ふたりぶんの引きものがもらえる。これが大きい。とにかく、お線香をあげて出てきさえすれば、菓子オリはくれるのだから、おともらいかせぎには、子どもは是非とも入用なのである。
「どうだい、いま言ったようにね、毎日いいお葬式を捜してもらいたいんだけれど、おまえさん、やってみる気はないかい。やってくれるんなら、いいお金を払うよ。――そうだねえ。まあお客さんしだいだけれど、どんなにしたって、月に一円は欠かさないよ。うまくいけば、二円だって、三円だってあげるよ。」
吾一は返事をしなかった。東京は生き馬の目を抜くところだと、いなかにいた時から聞いてはいたが、こんなあきれた商売があろうとは、思っていなかった。
「ほほ、おまえさん、びっくりしているのかい。びっくりするのは無理もないが、このせちがらい世の中に、おんな子どもにできる、いい商売なんて、そこらにころがっているものかあね。」
「…………」
「あたしや、無理にすすめるわけじゃないけれど、おまえさんだって、このままじゃ、今夜にも困るじゃないの。それに、どこへ奉公に行くったって、身もと引き受けもないような子は、やとってくれるはずがないからね。」
「…………」
「よしんば、あってみたところで、とてもあんた、おまえさんみたいな子どもに、お給金を払ってくれるうちなんかありゃしないよ。」
それはおばあさんの言うとおりだった。根津のうちは無論のこと、伊勢屋にしたって、一もんの給金もくれなかった。ぼん暮れに五十銭か一円、もらっただけである。それを思うと、月に一円も二円もくれるというのは、実際すばらしいことだった。
吾一はしばらく考えていたが、恐る恐る、
「あの、本を読んでもかまいませんか。」
「本、本なんか、いくら読んだってかまわないよ。おまえさん、本が好きなのかい。」
「ええ。」
「ひまな時は、あたしもときどき引っぱり出して読むのさ。うちへ行くと、『文芸倶楽部』(ぶんげいくらぶ)の古いのがあるよ。」
そんなものはしようがないが、本を読んでもよくって、金がたくさんもらえるのなら、ちょっと手つだってみようかな、そんな気もちが、吾一の腹の中で動きかけた。
あい手はそれを見のがすような女ではなかった。とうとう吾一は、おきよばあさんに引きこまれてしまった。
さっき頂けた荷物を受け取って、吾一はおばあさんといっしょに、彼女のうちへ行った。おばあさんは人のうちの二階を借りているのだが、そこはお寺の多いうら町だった。商売がらとは言え、ぬけ目のないところに住んでいるものだなあ、と思った。
よく朝から、吾一はさっそく、お客さんを見つけて歩いた。おれにお客さんが見つかるかしらと、出るまでは心配だったが、お寺をのぞくと、そこのけはいで、あらかた見当はつくし、店さきやかど口《・・・》で忌中のすだれ《・・・》のさがってる家を見つけることも、そう困難ではなかった。
この商売はあぶれるということがない。日曜でも、祭日でも、雨の日でも風の日でも、いいぐあいに、だれかが順ぐりに死んでくれるので、お客さんは相当にあった。ただ友びきの日はいけないが、まず一日平均ふたつぐらいはあるので、彼らとしては上景気だった。
おばあさんは非常に喜んで、吾一に約束以上の金もくれたし、寒いからと言って、ネルのえり巻きを買ってくれたりした。商売はインチキだが、大きな商店の主人や、えらそうな口をきくおかみさんなんかよりも、彼女はずっと親切なところがあった。
葬式のあとにくっついて歩いているうちに、吾一はいつのまにか、新しい年を迎えた。新年の光を仰ぐと、さすがに彼も、毎日お客さんを捜して歩く生活が、たまらなくなってきた。
ある晩、彼は動物の死体にたかっている、ウジムシの夢を見た。昼ま、お墓のわきに捨ててあったネコの死体が、夢の中にまぎれこんできたものらしい。ウジムシの顔は、みんなおばあさんか吾一の顔をしていた。彼は息がつまりそうになった。
おれはおともらいのあとをくっついて歩くために、東京に出てきたのではない。――彼はなんとかして、じみちな職業につきたいと思った。そこでお客さんを捜して歩いているあいだにも、彼はたえず、自分のためのお客さんを捜すことも忘れなかった。しかし「小僧入用」という木のふだなら、至るところにぶらさがっているが、彼はもう小僧の生活はこりごりだった。小僧なんて卑屈なものでなくって、もう少し活気のある仕事はないものかなあ、と目をサラのようにして、たずねまわっていた。
午後のことだった。会葬をすませて、菓子オリをおばあさんに渡すと、彼はいつものように、お客さんを捜しに出かけた。その日はいいぐあいに、すぐ、お客さんが、――しかも、飛びきり上等のお客さんが見つかった。お寺は浅草の本願寺だった。
きょうは早く帰って、本でも読もうと思い、急ぎ足でもどって行くと、その道で彼は突然、黒い板べいに吸い寄せられた。板べいには、
文選見習入用(十四、五歳の者)
文明堂印刷所
と書いた半紙が、張りつけてあった。
文選というもじ《・・》が吾一をとらえたのである。文選って何をすることか、彼はまるで知らなかった。文章を選むことかしら? それなら、おもしろいなあ、と思った。
彼はすぐ、その印刷所にはいっていった。そして見ならいに使ってもらいたいと頼んだ。
ガッタンガッタン機械の動いている隣のへ《・》や《・》に、彼はつれて行かれた。そこで年齢だの、出生地だの、親のことなど聞かれた。
「それなら、だいたい使ってやってもいいが、市内に保証人はあるだろうね。」
「困ったなあ、東京に親類がないんですけれど……」
吾一は保証人と言われて、ため息をついた。
「じゃ、今いるところの人になってもらったらいいじゃないか。」
「でも、そこのうちの人は女なんで……」
「女だって、確かな人ならいいさ。」
向こうの人は気がるにそう言ってくれたが、しかし、確かな人って言われると、吾一は返事に困った。おきよばあさんのような人でも大丈夫かしら、こんな者ではだめだと言われたら、どうしよう。だが、話のようすでは、だれか人さえつれてくれば、いいようにも取れるので、一つおばあさんに頼んでみようと、胸の中で考えた。あのおばあさんなら、なんとかうまく、やってくれるにちがいない。
どうしても、この工場(こうば)に、はいらなくちゃ……回転している機械のすさまじい音響の中で、彼は堅く心に誓った。
ガラガラ、ガッチャーン!
ガラガラ、ガッチャーン!
話をしていても、話が容易に聞き取れないくらい、すごい音だが、その音の中には、何かすばらしいものがひそんでいた。彼はむしろ、その音響にしたしみを感じた。それは、彼に力を与えてくれる勇ましい響きだった。もじにあこがれている者への、清新な音楽だった。
それは生きていた。猛烈に動いていた。うなりをおびて回転していた。ウジムシのような、ふやけた生活ではない。死体にたかることではない。まっ黒になって働くことだ。これこそ、あせを流すのに、ほんとうに流しばえのある仕事だと、十五の少年は感奮しながら、その印刷所の門を出た。
さいわい、あしたは本願寺に、すばらしいお客さんを見つけておいたから、おばあさんはきっと喜ぶにちがいない。その、上きげんなところをつかまえて、きょうの話をしようと、吾一は勇んで帰って行った。
が、予期に反して、その晩、印刷所の話をはじめたところ、おばあさんはろくに話を聞かないうちから、むやみに反対しだした。
「だって、おまえ、そんなところに行ってどうするのさ。そこじゃいったい、いくらくれるって言うんだい。」
いくらくれるか、そういうほうは、吾一はまだ聞いていなかった。
「まあ、あきれるね。そんなこっちゃ、おまえ、東京のまん中にいて、おまんまをたべちゃいけやしないよ。向こうじゃ、おおかた、ただでこき使うつもりなんだよ。ああ、それにちがいないともさ。」
にがい顔をして、おばあさんはミカンの種をぷいと、ほき出した。
「いやだね、温州(うんしゅう)だなんて言って、このミカンは種ばかりだよ。――そんな話はやめにして、まあ、これでもおあがりよ。」
吾一はミカンどころではなかった。給金のことを聞かずにきたのは、抜けていたと言えば抜けていたが、おばあさんの言うように、金だけが大事なものとも思っていなかった。どこへ行ったって、最初から、そう給金がもらえるものではないのだから、自分の一生の仕事が覚えられるところなら、はじめは我慢してもいいと、彼は思ってるとおりのことを言った。
吾一の態度が、あまりに、ほん腰なので、おばあさんはむきかけていたミカンをほうり出して、急にすわりなおした。それではおまえは、あたしを置いて出て行くのかい、こんなに世話をしてやったのに、突然、出て行くなんて恩しらずだと、まっかになって、くってかかってきた。
今の人なら、それは世話にはなったが、ただ世話になったわけではない。こっちも働いてやっているのだ。そちらにも十分もうけさせてやっているのだ、ぐらいの考えを起こすところだが、その時分の人間は、犬のようなものだった。食事をあてがわれると、もう、あたまがあがらなかった。どんなにまずいたべものでも、三度の食事が、人間を主従に区別した。
吾一はぺしゃんこになってしまった。彼はおきよばあさんに、こんなにおこられるとは思っていなかった。いくらか、なんか言われるかもしれないが、ものわかりのいいおばあさんのことだから、『それじゃ、あたしが、そこへはめこんでやろう。』気さくに、そう言ってくれるものと、彼は簡単に考えていたのだ。
しかし、伊勢屋の主人だって、根津のおかみさんだって、いやいや、おとっつぁんだって、おれのことをけとばすんだから、縁もゆかりもないおばあさんが、そんなに親切にしてくれるはずがないが、これでは、せっかく見つけた印刷所の口も、めちゃめちゃだ。あの印刷所へ、はいれないだけではない。もう、どこへだって行くわけにはいかないのだ。
ああ、おれのために保証に立ってくれる人は、広い東京にひとりもないのだ。――おれはこれから、どうすればいいのだ。一生、死人のまわりを、はいまわっているよりしかたがないのか。おれのような者は、ここから、はい出る道はないのだろうか。その晩はまんじりともしないで、彼は夜どおし、泣きあかした。
おともらいかせぎは、もういやでいやでたまらないけれども、吾一は翌日もまた、出かけないわけにはいかなかった。きのう見つけておいた本願寺のお葬式に、彼はいつものように、おばあさんといっしょに、まぎれこんだ。
いけ花、造花、放鳥などが帯のように続いて、行列は格別、立派だった。死んだって、こんなに立派なおともらいをしてもらう人があるのに……と思うと、吾一は涙が出てしかたがなかった。
葬儀のあと、会葬者への引きものも、豪勢なものだった。だれにも一様に、一円の切手だった。こんないいお客さんは、毎日かせいでいても、めったにあるものではなかった。おばあさんは門の出ぐちで切手の箱をもらうと、それをふろしきに包んでしまい、また、ぐるっと引っ返してお寺の中へはいって行った。言うまでもなく、もう一つ、せしめる腹である。いいお客さんの時に限って、おばあさんはこの手を、ときどき用いるのである。
吾一にもやれと言うので、しかたがなく、彼もまた門の中へ逆もどりをした。
おばあさんはすました顔をして、テーブルのところに立っている葬儀がかりに、丁寧にお辞儀をした。と、出いりの半てんを着た男が、つかつかと前へやってきた。
「おい、なんど、もらうんだい。」
「いいえ、あの、わたくしは……」
「ふざけたまねをするな。そこに持っているのは、そりゃなんだ。」
男はおばあさんの腕をぎゅっとおさえた。
「こん畜生、ずうずうしいアマだ。さっきは黙って見のがしておいてやったんだが、二重どりをするからにゃ、もう勘弁ができねえ。――やい。こっちへこい。」
「まあ、あなた、な、何をなさるのです。」
「何をするも、かにをするもあるものか。人さまの不幸につけこんで、かせぎをするたあ、ぬすっとよりもひでえアマだ。――みなさん、こいつは、おともらいかせぎなんでございますよ。」
吾一は目の前でおばあさんがやられたので、どぎまぎしてしまった。なんとかして、助けたいとは思ったが、こう見やぶられてしまっては、もうどうすることもできなかった。まごまごしていて、自分もつかまってはたまらないと思ったので、人ごみの中から、あわてて逃げだそうとした。その時、彼もまた、
「おい。」
と、うしろから、筒っぽのそでをつかまれた。
吾一はびっくりして、ふり返った。うしろの人の顔を見たら、彼は一層びっくりしてしまった。「こいつはたまらない。」と思ったので、彼はいきなり、つかまえられてるそでを振りもぎって、逃げだそうとした。
「おい、おい。どこへ行くんだ。――おれじゃないか。なんだって逃げるんだ。バカなやつだな。」
吾一は顔があげられなかった。東京には知り合いなんてまるでないし、国の人にも会う気づかいはないと思って、こんなことをやっていたのだが、いくらなんでも、おともらいの引きものをもらうところで、黒田さんに出っくわそうとは、夢にも思っていなかった。
「いいところで会った。おまえがいなくなったんで、おれは心配していたんだぞ。」
「…………」
「きょうの葬式は、おれはどうしようかと思っていたのだが、やっぱり、顔を出していいことをしたよ。だが、おまえは、どうしてここへやってきたのだ。」
「…………」
「おまえも、いくらか知り合いなのかい。ええ、おい。――おい、なんだって、そう黙ってばかりいるんだ。」
「…………」
「全体、おまえは、あれから、どうしていたのだ。――なに、もっと大きい声で言え。――恥ずかしい? バカな。おれの前で、恥ずかしいも何もあるものか。」
「…………」
「とにかく、こんなところで、いつまで立ちばなしもできないから、出かけるとしよう。」
黒田が歩きだしたので、吾一もそうしないわけにはいかなかった。
しかし、彼は、おばあさんのことが、気になってしかたがなかった。向こうへ引っぱって行かれたが、あれから、どうなったろう。ひどい目にあったのだろうか。巡査に引き渡されやしなかったろうか。もし、そんなことになったら……自分もつかまりゃしないだろうか。吾一は歩きながらも、それが心配で、胸がどきどきしていた。
まもなく、ふたりは広いおもて通りへ出た。黒田はミルク・ホールを見つけると、つかつかと中へはいって行った。時分どきでないせいか、ほかに客はいなかった。
「まあ、牛乳を飲めよ。――さめちまうじゃないか。」
黒田は、おやじがぶあいそ《・・・・》に置いて行った牛乳をすすめたが、吾一はテーブルに突っ伏したまま、顔をあげなかった。ちいさいイガグリあたまのわきで、牛乳のコップから白いものが、ほのかに立ちのぼっていた。
「そんなに泣くことはない。おまえが悪いんじゃない。おまえが悪いんじゃない。」
道でひと通り、吾一の話を聞いた黒田は、突っ伏している子どもの背なかをさすりながら、やさしく言った。
「あのばあさんにしたって、考えりゃ気の毒だよ。世の中で何が一番きびしいと言って、食うよりきびしいことはありゃしない。食うという、のっぴきならない問題にぶっつかったら、そりゃ、どんなことでもしなくっちゃならんさ。何も恥ずかしがることはない。おまえはいい修業をしたのだ。」
「…………」
「確かに、いい修業をしたのだ。人間はな、人生というトイシで、ごしごしこすられなくちゃ、光るようにはならないんだ。」
「…………」
「『かんなん、なんじを玉にす。』ヘこたれちゃだめだ。くよくよするんじゃないぞ。――だが、トイシがだいぶざらざらだったな。はじめは、アラトでこすられるのが、おきまりだが、あんまり、アラトにばかりかかっていると、大事なところまで、すりへらされちまう。もう、あんなアラトはたくさんだな。」
「…………」
「いや、きょうはうまく会えてよかった。――じつはおまえが出た朝、ぶらりと帰って行くと、おまえはいないじゃないか。どうしたんだと聞くとな。おかみのやつ、追い出したんだとぬかしやがる。ひどいことをすると思ったが、もう、あとの祭りだ。だがな、おかみがおまえを置いといたのは、ありゃ、おまえをおとり《・・・》にしておいたんだぜ。」
「…………」
「おまえを置いとけば、必ずおやじがもどってくる。そういう考えで、おまえをおとり《・・・》にしておいたのさ。ところが、いくらたっても、帰ってこないものだから、しびれを切らしたんだな。あのおかみが、なんでおまえのおやじを待っているのか知らないが、どうせ、欲にからんだことにちがいない。生きてるやつは、みんな、それだ。――しかし、おまえも、ほんとに、おやじの居どころを知らないのかい。」
「ええ。――」
「ふん。しようのないおやじだな。むすこをほうりっ放しにして、どこへ行っちまったのかな。――そうすると、おまえはいつまでたっても、ざらざらしたトイシの、ご厄介にばかりなっていなくっちゃならないぞ。いったい、おまえはこれから、どうするつもりなんだ。」
吾一は首をあげて、牛乳をひと口のんだ。それから、しばらくコップの中を、サジでかきまわしていたが、印刷所のことを、とぎれとぎれに話しだした。そして、保証人がないために、はいれないのだと言った。
「そうか。そりゃいい。自分がやりたいと思うことをやるのが一番だ。保証人なんか心配するな。おれがなってやる。」
黒田は、一つ一つのことばに力を入れて、吾一をはげました。
言いわけでは、ランプはつかない
「ところで、と……」
黒田はなおことばを続けた。
「おまえのかど出《・・・》にあたって、なんか祝ってやりたいんだが、弱ったな。……」
「いいえ、なんにもいりません。保証人になってくだされば、それでもう……」
「世が世なら、なんかしてやるところだが、今のおれには、どうすることもできない。――牛乳一杯のせんべつ《・・・・》じゃ、いくらなんでも不景気すぎるな。」
「いいえ、そんなことは……」
「いや、待て、待て。それじゃ、一つ、おれのしくじり話でもしようか。ほかになんにも、やるものがないから。――つまらん話だが、あるいは、おまえの、なんかのたし《・・》になるかもしれない。それを話して、まあ、きょうのはなむけ《・・・・》のしるしとすることにしよう。」
黒田は紙まきを一本ひっこ抜いて火をつけると、ゆっくり話しだした。
「おれはさっき、苦労をするのはいいこったと言ったな。おまえぐらいの時分に苦労するのは、ほんとうにいいことなんだぜ。赤ん坊だって、マクリを飲まされるんだ。まあ、それと同じだと思うんだな。若い時に、にがい水を飲まなかったやつは、ひだちが悪いよ。おれは『苦労』を、おれの『先生』だと思っているんだ。人間『苦労』にしこまれないと、すぐいい気になっちまうんでな。」
「…………」
「おれはいつも、おれのほうのはたけ《・・・》に話を持ってっちまうが、ポンチにしたってそうだ。だれかにけとばされないと、何かにおさえつけられないと、腹の中から、ほんとうの声が出ないんだ。ねじふせられて、背なかに重たいものをのっけられた時に、『ううん、こん畜生。』と、はね返す力が、おれたちのポンチなんだ。『時代の主人』は、必ずそういう苦労の中から、生まれるんだ。――ところが、おれなんか、人間が甘くできているもんだから、すぐいい気になっちまったんで、すてえんと、ひっくり返されてしまったのさ。それでしかたがなしに、また今ごろになって、マクリの飲みなおしをやっている始未だ。」
「…………」
「いったい、おれは子どもの時分から絵が好きでな、おれの口から言うのもおかしいけれど、村では神童だとか、なんとか言われたものだ。それで、まあ、えらい絵かきになるつもりで、東京へ出てきたのだ。むろん苦学さ。新聞配達もやったし、ナットウ売りもやった。そうして、やっと、そこの美術学校にはいったのだ。はいって一、二年は、おれもこつこつ勉強したが、しかし、そのうちに、おれはだんだん学校がつまらなくなってしまったのだ。学課は眠たくなるばかりだし、カンヴァスの中から、響きが聞こえてくるような絵をかく先生はいないし、おれは教室に出るのがバカくさくなってしまった。だから、うちに寝ころんで、毎日、本ばかり読んでいたよ。そんなわけで、試験の時には、まともな答案を出すわけにはいかない。しかたがないから、どいつも先生のポンチをかいてやったのだ。――ふむ、いま思いだしてもおかしくなるが、ちょっと、こういった答案なんだ。――生徒は今、何をたくらんでいるか、なんてことばかり気にしている主任の教師には、ウサギの絵をかいて、とくべつ大きな耳をくっつけてやる。無論、ウサギはその教師の似がおさ。それから、かけ持ちばかりしている英語の教師には、ズボンの上に、黒いキャハンをはかせるってぐあいにな。」
「はははは。でも、そんなことをして大丈夫なんですか。」
「大丈夫なことはないさ。『ウサギ』をはじめとして、教師たちが、おこったの、おこらないのじゃない。すさまじいことになってしまってな。――たちまち、おれは退校さ。」
「…………」
「ところが――ところがだよ、おれがキャハンを巻きつけてやった英語の教師から、しばらくすると、手がみがきた。話があるから、ちょっとこい、と言うのだ。退校させられた以上、もう話なんか聞きに行ったってしかたがないと思ったから、おれは二、三日、ほおっておいたよ。しかし、どうせごろごろしていた時だったし、一つポンチの種でも見つけてやれぐらいの気もちで、ぶらりと出て行くとな、――いや、めんくらったな。――いるのなんのって、大きいのや、ちいさいのが、うようよいるじゃないか。……なに、ああ、それがみんな子どもなんだよ。こんなに子どもがたくさんあっては、なるほど、三つも四つも、学校をかけ持ちしなくっちゃ、食えないはずだと思ったね。おれはなんだか薬がきき過ぎたような気がして、少しはいりにくかったが、思いきって、『ごめん。』と言うと、すぐ、先生が出てきた。『うん。よくきた。待っておったのだ。あがれ。』って言うからあがったが、あまりきれいなへや《・・》じゃない。ところで、こっちはポンチの種でも捜してやれぐらいの、浮いた気もちで出て行ったのだが、さて、先生と向き合ってみると、おれもつい、堅くなってしまってな。先生から何を言われるのかしらと、内心びくびくしていると、『君、いい口があるんだが、勤めないか。』って、こう言うのだ。キャハンのことなんか、まるで知らないような口ぶりさ。おれはまた、めんくらってしまった。ポンチにかいた先生から、口を見つけてもらおうとは、夢にも思っていなかったからな。」
「…………」
「『でも、先生、ぼくは退校されたのですから、どこだって使ってくれるようなところは……』おれは皮肉でもなんでもなく、まじめに、そう言うとな、『いいや、そんなことは、君が言わなくっても、こっちで十分承知している。君の今度のやり方は、絶対に賛成できないけれども、君にはどこか見どころがある。それで教授会の席上でも、いろいろ意見を述べたのだが、学校ではどうしても通らなかった。しかし、君をこのままにしてしまうのは、いかにも惜しいと思ったから、ある雑誌社に話をしたのだ。すると、そういう学生なら、おもしろいから一度あってみたいと、そこの社長が言っているのだ。どうだ。君に異存がなければ、ぼくといっしょに行ってみないか。』――ええ、おい、『君に異存がなければ。』ってんだ。『ぼくといっしょに行ってみないか。』ってんだ。おれは涙が出ちゃったな。おれは先生の前だったけれど、しくしく泣きだしちゃったよ。――かけ持ちばかりしている、いやな教師だと思っていたのに、……子どもがうようよいて、自分の子どもだけだって容易じゃないのに、……ポンチなんかかいて退校させられた、始末におえない生徒のために、立派な口を見つけてくれたんだからな。おれはからかい半分に、先生のズボンにキャハンをはかせたんだが、先生はそのキャハンを巻きつけたまま、一生懸命に、おれのために走りまわってくれたのだ。おれはまるで『ぼくの口を捜してください。』って先生の足にキャハンをはかせたようなものさ。――いや、苦労をした人にかかっちゃ、かなわないよ。おれのキャハンなんか、ずたずただ。――そこで、おれは先生のあとについて、雑誌社へ行った。そうして、その日から、社員に採用されたのだ。おらあ、すっかりいい気もちになっちまった。学校をこつこつやっているやつは、まあだ、まごまごしているのに、退校されたおれは、ひと足おさきへ、世の中に出ることになったのだからな。おれは月給をもらった日には、二人びきの車に乗って、学校の正門の前をすうっと通ってやった。じつに、愉快だったなあ。――その時分には、あの根津のうちだって、下にも置かないように、ちやほやしたものさ。おれも『婦人科』のように、相当、してやったからな。ぐずぐず言いながらも、いま、おれを置いとくのは、その時のことがあるからさ。――まあ、そんなことはどうだっていいが、月給をもらうようになったら、どうしたのか、おれはだんだん何もかけなくなってしまったのだ。学校にいたころは、先生の絵もけいべつしていたし、大家(たいか)の絵も尊敬しなかった。なあに、おれが世の中に出たら、おれの絵が世間に出たらと、ただそればかり思っていたのだ。ところが、世の中に迎えられてみると、まるっきし、だめなのだ。口の先では大きなことを言っていても、おれの絵の中からは、なんにも声が出ていないじゃないか。『こいつはいけねえ。』と、ある朝、おれは考えたんだ。こんなことでは、雑誌社にもすまないし、おれも台なしになってしまう。そう思って、おれは急に社を引いてしまったのだ。――社長も先生も、やめるには当たらないと言ってくれたが、声の出ないポンチをかいたんじゃ、金はもらえないよ。」
「…………」
「昔、ギリシャの兵隊の中に、糸のように細い、病身の男がいたそうだ。そんなよわよわしいやつだが、戦場に出ると、不思議に強くってな、じつによく働くのだ。そこで、大将が考えた。あんなに、からだが弱いのに、あれだけ勇ましく戦うのなら、からだが丈夫だったら、もっと手がらを立てるに相違ない。そう思って、大将はできるだけその男を大事にしてやった。で、養生をさせたり、保養をさせたりしたかいがあって、からだがめきめきよくなってきた。目かたもついたし、腕も太くなってきた。こんなにいい体格になったからには、今度の戦いには、さぞかし、はなばなしい手がらを立てるだろうと、大将をはじめとして、みんな目を見はっていたのだ。ところが、そのつぎの戦争の時には、そいつ、逃げてばかりいて、ちっとも進まないのだそうだ。たしか、こんな話がプルタークの英雄伝の中にあったかと思うが、おれもその兵隊とおんなじさ。苦学をしていた時分には、少しはワサビのきいたポンチもかけたが、いい月給を取るようになったら、どっかへワサビがふっ飛んでしまったのだ。」
「…………」
「はははは。だいぶ、しゃべったな。――これがおれのせんべつ《・・・・》だよ。」
ミルク・ホールを出ると、ふたりは、おきよばあさんのうちに行った。おばあさんは、さっき一度、ちょっと帰ってきたが、また、すぐ出かけたそうで、るすだった。
あれから、おばあさんはどうなったかしらと、吾一は心配していたのだが、うちに帰ってこられたくらいなら、おそらく、たいしたことにはならなかったのだろう。そして、また、あと口のお葬式に出かけて行ったのに相違ないと思った。
黒田は下のおかみさんに、自分は吾一の親類の者だが、吾一をおばあさんのもとに置いておくわけにはいかない。是非とも、すぐつれ帰らなければならないことを、こんこんと話し、おばあさんが帰ってきたら、そう伝えてくれと言って、おかみさんに立ち合ってもらったうえで、吾一のちいさな荷物を受け取った。
それから、さっそく文明堂に行った。そして、黒田の保証で、彼の希望どおり、その印刷所の文選みならいにはいった。
そのころは、小僧に行く者はいくらでもあったが、印刷の見ならいになろうという少年は、至って少ない時代であったから、黒田のような書生っぽの保証でも、いっこう、さしつかえがなかった。
見ならいのあいだは、かよいならば、日給八銭、住みこみならば、しきせと小づかいだけということであった。吾一は、無論、かようわけにはゆかないから、先方に置いてもらうことにした。工場の横の、掘っ立て小屋のようなところが、寝とまりをする場所だった。そこには、彼と同年ぐらい、あるいは、二つ三つ年うえの者が、十人ほどいた。「百家文選」とか、「明治文選」などという本を読んでいた吾一は、「文選」というものは、文章を選むこととばかり思っていた。ところが、印刷所で「文選」というのは、文章を選むことではなくって、もじを――活字を選び出す仕事なことを、はいってから、はじめて知った。活字のたな《・・》から、原稿の活字を拾い出すのでは、本を読むようなわけにはいかないから、彼は少しがっかりしたが、それでも荷物をしょって歩いたり、おともらいのあとについて歩いたりするよりは、もじに親しめるだけ、ありがたいと思った。
しかし、見ならいのあいだは、活字を拾うことだって、容易にやらしてもらうわけにはいかなかった。ゆかに落ちている活字を拾って、もとのケースに立てておくとか、「かみ、じょう一本。」と、文選工が言うと、「上」という活字を職工のところに持って行くぐらいがせいぜいで、あとは普通の小僧と同じように、お茶を入れたり、タバコを買いに行ったり、ランプそうじをしたりするのがおもな仕事だった。だから、工場では、吾一のような少年を、見ならいなどと言わないで、たいてい「使い屋」と呼んでいた。
そのなかでも、ランプそうじが一番にが手《・・・》だった。ランプそうじは今までもずいぶんやらされたが、こんなにたくさん、そうじを言いつけられたことはなかった。ここのは文選場や植字場で使うのを、いちどきに十五も、二十もやらされるのだから、たいてい半日は、ランプそうじでつぶれてしまう。まるでランプそうじを習うために、工場にはいったようなものだった。
もちろん、数が多いからといって、ぞんざいなことはできなかった。暗いところで、ちいさい活字を拾うのだから、ちょっとでも、ほや《・・》がくもっているとか、シンが曲がってでもいようものなら、すぐ職工に呼びつけられて、ピシャリとやられた。その乱暴なことは、とても伊勢屋の番頭なぞとは、くらべものにならなかった。
活字ってものは、普通のもじ《・・》のひっくり返しにできているせいか、そのころの印刷工というものは、もじという最も文化的なものを扱っていながら、やることは、じつにあべこべのことが多かった。
吾一は、なんど泣いたか、わからなかった。そのたびに、彼はおっかさんのことを思いだした。おっかさんがいたら、……と思わないことはなかった。
おっかさんのことを思うと、自然おとっつぁんのことも、あたまに浮かんでくる。おとっつぁんはどこへ行ってしまったのかなあ!おっかさんの葬式にも帰ってこず、自分をこんなに、ほったらかして、……と考えると、父おやが憎くってたまらなかった。
あんまり、つらいので、吾一は工場を逃げだそうと思った。しかし、また逃げだしたところで、どこへ行くあてがあろう。――どこへ逃げて行ったって、どこも伊勢屋の板のまではないか。
かんなん、なんじを玉にす
黒田の言ったことばを、彼はなんども舌の上にころがしてみた。ここの板のまが、どんなにざらざらしていても、自分で選んだうちなのだから、ここで辛抱するよりほかはないと、しまいには、そうあきらめていた。
印刷所のうら手の、出ばったところに、きたない炊事場があった。職工たちが弁当を開いたり、手を洗ったりするところである。
そこには大きなカマがすえてあって、いつも湯がたぎっていた。腰の少し曲がったじいやが、ネコのように、へっついの前にうずくまっていた。
ドビンをさげて、吾一がお湯をもらいに行ったりすると、しょぼしょぼした目をしばたたきながら、
「辛抱するんだよ。つらくっても、我慢をしなくっちゃいけないよ。」
と、よく慰めてくれた。
この老人は、いつも何か仕事をしていた。年をとっているのに、じつにまめ《・・》な人で、ほとんど手をやすめているということがなかった。そんなふうだから、だいぶ金がたまったのだそうだが、二、三年まえの不景気の時、銀行がつぶれて、預けておいたものを、すっかりなくしてしまったのだという。遊びずきの職工たちは、あんなに働いたって、なんになる。バカなおやじだと言って、けいべつしているが、当人は、なんと言われても、むかしどおりこつこつ働いていた。
「働くってのは、はた《・・》をらく《・・》にしてやることさ。」
ほかの人が言ったら、だじゃれに聞こえそうなことばが、このじいやの入れ歯のあいだから出てくると、なんか、しみじみとした響きがあった。
「ああ、そうなんだよ。働くと、――はたの人をらく《・・》にしてやると、自分もきっと、らく《・・》になるんだよ。ひとりでに、金がたまってくるからね。おまえさんも、早くから心がけて、金をためるようにしなくっちゃいけないよ。今の世の中じゃ、金がなくっちゃ、どうすることもできないからね。」
じいやに言われなくっても、それは、ほね身にこたえるほど、吾一はよく知っていた。中学校へ行けなかったのも、そのためではないか。奉公に出されたのも、そのためではないか。それから、おっかさんが死んだのだって、押しつめれば、やっぱり、それがもとなのだ。おともらいのあとにくっついて歩いたのだって、ここでこんなに苦労をしているのだって、みんな、金がないからだ。
「おまえさんは若いんだから、うんと働かなくっちゃいけないよ。働いてお金をどっさり、ためるんだよ。若い時、骨おしみをしちゃだめだ。――そうだね、おまえさんが、出世をしたいと思ったら、みんなが仕事をはじめる前に、仕事をはじめるんだよ。そうして、おしまいの時は、みんながすっかり手を洗っちまうまで、仕事をやっているんだよ。これが出世の秘伝だよ。金もちになる奥の手だよ。どうだい、わかるかい。――こいつがわからない人には、どの道、出世する見こみはないのさ。」
吾一は出世を夢みていた。金もちになりたいと思っていた。えらい人物になりたいと祈っていた。えらい人物になって、自分をぶんなぐった者、自分をけとばした者、自分を冷笑した者を、見かえしてやろうと、常に念じていた。
しかし彼は、こんなきたない炊事場の、へっついの前にかがんでいるおじいさんから、成功の秘伝を教えてもらおうとは思っていなかった。銀行に金を預けて、すってしまうような人の秘伝なんかに、たいしたねうち《・・・》があろうとも思っていなかった。が、このじいやのことばは、じいやのわかしているお湯のように、人を酔わせる力はなかったけれども、いつか、吾一のからだの中に流れこんでいた。
半としほど過ぎると、吾一もだいぶ仕事に慣れてきた。しかし、文選の仕事は、なかなかやらしてもらえなかった。文選工として一人まえになるには三、四年はかかるのである。仕事も相当めんどうだが、一つには、早く一人まえにしてしまうと、給料を出さなければならないから、工場では容易に職工にしてくれないのである。
けれども、いつまでもランプそうじや、お茶くみばかりしていたのでは、仕事が覚えられないから、吾一は、かってに文選の練習をやっていた。職工がお昼をたべているあいだだとか、タバコをふかしているすきを見つけては、彼はそっと文選台の前に立った。そして、たとい十分でも、二十分でも、原稿の活字を拾っていた。しかし、そんなにしていても、「感心な子だ。」「よく働く。」と、ほめてくれる者は、ひとりもなかった。「こん畜生、また、よけいなことをしやがって……」
職工が骨やすめをしているあいだに、かわりに拾ってやるお礼のことばは、いつもこれだった。万一、まちがった活字を拾っていたりすると、なぐられることさえ、しばしばあった。
しかし、彼は、そういうげんこつ《・・・・》を、ありがたいと思っていた。彼はなぐられても、なぐられても、ひまさえあれば、活字のケースにしがみついていた。
ある日のことだった。午後から雨がしとしとふりだして、たださえ暗い文選場は、わけても陰気くさかった。吾一は自分の仕事をすませると、あいている文選台で、活字を拾わしてもらっていた。
と、横あいから、いきなりげんこつ《・・・・》でなぐられた。なぐられるのは珍しいことではないから、冗談にやられたのかと思って、彼はなぐった職工のほうを向いて、半分おあいそ《・・・》のようなつもりで、にやりと笑った。
「こん畜生、笑ってるやつがあるか。」
職工はおこって、また彼のあたまをなぐりつけた。
吾一は目がくらみそうになった。しかし、なんで職工が、こんなにいきり立っているのか、吾一にはちっとも見当がつかなかった。
「あの、な、何が、いけなかったんで……」
職工はものも言わずに、吾一を自分の台の前に引っぱって行った。そうして、ケースの上にさがっているランプの近くへ、彼の首っ玉をつかまえて、ぐいと突きつけた。
どうしたのか、そこのランプは、ぜんそく病みのように、ハッ、ハッと、息をついていた。
「どうだ。まあだわからねえか。――これでもわからねえか。」
吾一はいやというほど、なんどもなんども、ランプのそばへ顔を押しつけられた。
「やい、こんな明かりで仕事ができるか。ふてえ野郎だ。おうちゃく《・・・・・》しやがって、――だいたい、きさまは、なま意気だぞ。あとからきたくせに、ケースにばかり引っついていやがって、そうじをちゃんとやらねえから、こんなだらしのねえことになるんだ。ランプそうじもできねえうちから、きいたまねをするない。」
吾一は、また、ぶんなぐられた。
「しようがねえなあ。――ああ、ああ! おれんとこのは、とうとう消えちゃったよ。」
隣の職工はわざと泣き声をしながら、おどけた口調で言った。すると、それをまぜ返すように、
よいやみにィ――
と、だれかが大きな声で、歌いだした。
「へへ、おいでなすったな。――月かげならで、ぬしさんに、――と、くるからね。」
暗くなったものだから、職工はおもしろがってはやし立てた。もっとも、消えたのは全部の明かりではない。その近所の三つ、四つだけだった。しかし、どうして、こんなふうに消えたのか、吾一には、てんで見当がつかなかった。彼としては、きょうは取りわけ、念いりに、そうじをしたのである。
「おい、これじゃ消えるはずだよ。見ねえ、下のほうは色が変わっているじゃねえか。」
隣の職工は、ランプの底をじいっと、のぞきこみながら、大発見をしたように、大きな声で叫んだ。
「なあるほど、こいつあ水だ。バカにしてやがる。こん畜生、めんどくさがりやがって、石油のかわりに、水をぶちこんだんだな。」
「そ、そんなことは……」
吾一は泣きながら弁解した。ランプそうじをするのに、だれが石油のかわりに、水を入れる者があろう。自分は石油をつぐ時には、どんなに注意してやっているかわかりやしない。もし、水がはいっていたら、その時にだってわかるはずだ。その時には、なんでもなくって、今、水がはいっているとすると、だれかがあとで、いたずらをしたのに相違ないのだ。そのことを口ごもりながら言いかけると、
「な、なんだと、だれかがいたずらをした?バカも休み休み言え。この忙しい最中に、ランプそうじのじゃまをするような、ひまな人間がどこにいる。こん畜生、どこまでずうずうしいんだ。自分の悪いこたあ、みんな、人にかずけようとかかってやがる。」
職工は一層おこって、また吾一をピタピタとなぐった。
なかには、とめる者もあったが、たいていはおもしろがって、見物していた。
炊事場のじいやも、二階の文選場の騒ぎを聞きつけて、駆けあがってきた。吾一が打たれているのを見ると、彼はよろよろと倒れるように、ふたりのあいだに割りこんだ。そして手をあげている職工に向かって、吾一のかわりに、あやまってやった。
それから、ゆかに突っ伏している吾一に向かって、
「もう泣くんじゃないよ。泣いてなんかいないで、早くそうじをやりかえなくっちゃだめだよ。――さ、涙をふいて。涙をふいて。わしもいっしょに手つだってやるから。」
じいやは水のはいったランプをおろし、吾一をつれて、ランプそうじ場へおりて行った。
吾一はくやしくって、くやしくってたまらなかった。自分がしたのでもないのに、自分のせいにされてしまい、そのうえ、いやというほど、なぐられたのだから、彼はもう、そうじのやりかえなんかする気がなかった。じいやに言われて、彼はしかたがなしに、石油カンから石油をあけてはいたが、石油の色さえ、涙で見えないくらいだった。
「辛抱するんだよ。我慢しなくっちゃいけないよ。」
じいやはほや《・・》をそうじしながら、いつもの口調で言った。
「おまえさんが水を入れたんじゃないことはわかっている。そりゃ、だれかがいたずらをしたのに相違ないのさ。だが、それは、だれがしたの、かれがしたのなんて、考えるのはつまらないことだよ。そんなことは、こちとらのやる仕事じゃない。こちとらは、ただ働きさえすりゃいいんだ。あい手がまちがっていても、口ごたえをするんじゃないよ。くやしくっても、言いわけをするんじゃないよ。いくら言いわけを言ったって、言いわけで、ランプはともりっこありゃしない。こちとらの仕事は、ランプそうじだ。ランプがくもらないようにすれば、それでいいんだ。泣くんじゃない。泣くんじゃないよ。――いいかい。何ごとも辛抱するんだよ。黙って働くんだよ。――」
トタンやねを打つ雨の音は、いよいよはげしくなって、ともすると、おじいさんの声が聞こえないくらいだった。
次野先生
「花かとおもうもも山や、かのもこのもを見わたせば……――と、さあ、今度はどうだ。」
口の中で原稿を読みながら、活字を拾っていた文選工が、おや指と人さし指とのあいだに活字を一本かくして、背なかあわせに仕事をやっている、うしろの職工のほうに、ひょいと、その裏がわを突きつけた。
「よし、こんだあ、半といこう。」
「それじゃ丁だ。」
仕事よりも、かけ事の好きな、そのころの職工は、ケース台の前に立って、活字を拾っている最中にも、よく、丁半をやっていた。
工場の中にサイコロを持ちこむことは、無論、その当時でも許されていなかったが、彼らはべつにそんなものを必要としなかった。彼らはサイのかわりに、お手のものの活字の画の奇数、偶数によって、それをそのまま、丁半に応用したのである。
「すまねえな。『日』だよ。」
活字を隠していたほうが、手を開いて、あい手に見せた。『日』という活字が四画なことは、いちいち勘定してみなくっても、商売がら、彼らはちゃんと知っていた。
「畜生、やられた。」
「いな穂の露にゆう日さす、玉をつくりしそのふぜい、あら、おもしろき雲まより、……と、――どうだ。もう一丁。」
前のように、活字の裏をうしろに突き出した。
「半だ。」
「また半か。いいのかい、そんなに半ばかりかけて。」
「いいったら。半だと言ったら、半だよ。」
「どうも曲がりだすとしようのねえものだね。――毎度ありがとうさまと。――そうれ、見ねえ、『寺』とおいでなすった。」
「かってにしやがれ。おらあ、もうやめた。――」
拾っていた雑誌の原稿をケースの上にのせたまま、負けたほうの男は、ぷいと立って、窓のそばの、火バチのところへ行ってしまった。そして天じょうを見あげながら、くやしそうにタバコをふかしていた。
それを見ると、吾一は小ばしりに、その職工のそばへ駆けて行った。
「すみません。タバコをすってるあいだ、ちょっと、やらせてください。」
このあいだ、なま意気だと言ってなぐられて以来、吾一はしばらく活字を拾うことをひかえていたが、自分の仕事がすんでしまったあと、手ぶらでいるのは、なんとしても、たまらなかった。彼は仕事を覚えたい一心から、また、ちょくちょく、ケースにしがみつきはじめた。
「だめだよ。」
職工の声は荒かった。丁半に負けたうっぷ《・・・》ん《・》も、手つだっているらしい。
「まちがわないように拾いますから……やらせてくださいよ。」
「うるせえ野郎だな。――まちがうと承知しねえぞ。」
「大丈夫です。」
吾一は喜んで、ウマのほうへ駆けて行った。ケース台のことを、印刷所では普通「ウマ」と言っていた。たぶんその格好から、そういうことばが起こったのだろう。
背のびをして、彼はケースの上にのせてあった原稿をおろした。それから、いつものように活字を拾おうとした時、彼は思わず、原稿紙の上のもじに引きつけられた。
なんだか見たことのあるような字だなあと、まっさきに思った。彼は急いで名まえのところを見た。名まえは次野孤松としてあった。
次野先生じゃないかしら?
直観的にそう思った。先生がいなか《・・・》にいた時分、「孤松」なんて号を持っていたかどうか知らなかったが、原稿の字を見ていると、どうも作文をなおしてもらった時の筆と、そっくり同じだ。
次野という名字(みょうじ)は、そうざらにある名字ではない。それに先生は文学をやっているのだから、こういう雑誌に書くのも不思議ではないような気がする。――ああ、これが先生の原稿だったら!
先生には国の停車場でわかれたっきりだ。もう、まる一年以上も会わない。
稲葉屋のおじさんに手がみを出して、先生の住所を聞いたのに、おじさんはとうとう返事もくれなかった。一度、先生に会いたいなあ。先生はどうしているかしら。
「おい、どうした。――どこまで取ったのだ。」
まだタバコを吸っていると思っていたのに、さっきの職工がもう帰ってきてしまった。
「あの、まだ一字も拾ってないんです。……」
「バカ野郎、拾わしてくれなんて言ってながら、何をやってやがったんだ。さあ、どいた。どいた。」
「これ、取らしてくれませんか。この原稿を書いた人は、どうも、わたしの先生のような気がするんで……」
次野先生の原稿なら、自分が一字もまちがえずに拾ってみたいし、先生がどんなものを書いているのか、それも読んでみたかった。
「だめだよ。きょうは忙しいんだから……」
職工は原稿を取りあげて、どんどん拾いはじめた。
「この、次野って先生、名まえなんてんでしょうね。」
「孤松じゃねえか。」
「いいえ、ほんとうの名まえ。」
「そんなの、知るもんかよ。」
「もう、えらくなってる人なんでしょうか。」
自分なぞが突然たずねて行っても、会ってもらうことはできないだろうか。そんなことを心配しながら、吾一は聞いてみた。
「えらいことなんかあるもんか。どうせ、三もん文士さ。」
自分のおそわった先生を、こんなふうに言われるのは、吾一にはたまらなかった。しかし、あい手はかまわず続けた。
「追いこみの二段じゃねえか。追いこみの原稿なんか書くやつに、ろくな者はいやしないよ。」
吾一は少し寂しくなった。彼は先生のために、ひとこと言いたいと思って、口を出そうとすると、
「うるせえな。少し黙っていろよ。出張校正で、いま急がれてるんだから。」
と、しかられてしまった。しかし、出張校正ということばを聞いて、気もちが急に明かるくなった。それじゃ、ことによると、雑誌社の人ばかりでなく、先生もくるかもしれない、彼はそんな気もちがしてならなかった。
そこで、吾一は下に用のあるたびに、ちょいちょい事務室の近くに行ってみた。
その時分は、めったに出張校正なぞということはなかったから、特別にそういうへや《・・》の設備はなかった。雑誌社の人がやってきて、校正する場あいには、たいてい事務室の横のところを、ツイタテでしきって、そのかげでやっていた。
しかし、なんどか、ツイタテのところをのぞきに行ったが、先生は見えなかった。こりゃあ先生はこないのかな、と思った。しかし往来のガス燈に明かりがはいったころ、もう一度、下の事務室におりて行ってみた。
なんというありがたいことだろう。いた。いた。先生は、もうひとりの人と、机によりかかって、しきりに校正ずりに朱筆を加えていた。
「先生。」
彼はツイタテの横から、大きな声で呼んだ。
校正をやっていたふたりは、いっせいに顔をあげて、吾一を見た。
が、次野先生はじろりと、こちらを見たと思ったら、急に首をたれて、校正ずりに顔をうずめてしまった。
「なんですか。」
もうひとりの人が、つめたい目を彼のほうに向けた。
「あの、次野先生にちょっと……」
「次野さん、あんたにですって。」
次野先生はもう一ど顔をあげた。しかし、なんにも言わなかった。
「先生、愛川です。――」
「うん。――」
先生は軽くうなずいただけだった。思いなしか、先生の顔は赤かった。自分のような者に声をかけられたので、先生は困っているのかしら、と吾一は思った。
「おまえは、どうしてここへやってきたのだ。」
「わたしは、ここで働いているんです。」
「ここで、――」
「ええ、ここへきてから、もう半としぐらいになるんです。――先生にお目にかかりたいと思っていたんですけれど、おところがわからなかったもんですから……」
「そうか。――」
先生の返事はあい変わらず、そっけなかった。久しぶりで会ったのだし、あんなに、かわいがってくだすった先生のことだから、なんとか言ってくださると思っていたのに、先生は口をきくのもめんどくさそうなようすをしていた。吾一はすっかり期待が裏ぎられてしまって、彼の舌も自然にこわばってしまった。
「それでは、また……」
彼はそう言うよりしかたがなかった。彼は寂しくお辞儀をして、二階の文選場へ帰って行った。
「先生のような人だって、あれなんだ。」
暗い裏ばしごを、とぼとぼとのぼっていると、ひとりでに涙がにじんできた。
「寒いから、一杯やれ。――なに、出世まえだから。――そうだな。こんなものは覚えないほうがいいな。それじゃ、おまえは食うほうにまわれ。おれはかってに飲むから、――ところでと、さかなは、なんにするかな、さしみに、タマゴ焼きに、煮ざかなに……」
「先生、そんなに、たべられません。」
「まあいい。久しぶりで会ったのだ。今夜は大いにやれ。――おれは、おひたしに、酢のものでもあれば、たくさんだ。」
女中は、うなずいて下におりて行った。
吾一は小料理やの二階にきょとんとしてすわっていた。さっきのことを考えると、まるで夢のようだった。仕事が終わって、あとかたづけをしていると、職長に呼ばれて、すぐ事務室に行けと言われたので、彼は前だれをはずして、急いで下におりて行った。そうしたら次野先生が待っていて、それから先生に引っぱられて、ここへやってきたのである。先生はさっきは妙にむっつりしていたのに、今度は非常にごきげんがいいので、吾一は、なんだかキツネにつままれたような気もちだった。
「先生、さっきは、わたしがよくわからなかったのですか。」
「いいや、すぐわかった。」
「でも、先生はろくに返事もなさらなかったから……」
「はははは、まあ、そう言うな、――おれはこれでも、根津のうちに、おまえを尋ねて行ったのだぞ。」
「えっ、根津に行ったんですか。そうですか。ちっとも知りませんでした。わたしはまた、稲葉屋のおじさんに手がみを出して……」
「うん、それよ。そのことは安さんから、くわしく聞いた。で、おれは、さっそく、あすこへ尋ねて行ったのだが、おまえが出たあとなので、どうすることもできなかったのだ。」
「でも、おじさんは、どうして手がみをくれなかったのでしょう。」
「安さんは、あのころ、からだが悪くってな。病院にはいったり、葉山に転地したりしていたものだから、おまえの手がみを見たのは、だいぶ、あとらしかった。ところで、今度は安さんから長い返事を出したのだが、おまえから、なんにも言ってこないので、ひどく心配してしまってね。おれが見まいに行ったら、おまえのところへ行ってくれってものだから、それで、おれが根津へ行ったのだ。」
「あ、そうですか。そんなことがあったのですか。で、おじさんの病気は、その後、どうなんです。」
「それじゃ、おまえは、なんにも知らないのかい。」
「ええ、まるっきり、国の人に会わないものですから。」
「安さんは……この正月、なくなったよ。」
「えっ! おじさんがですか。」
吾一はそう聞いても、安吉の死を信ずることができなかった。安吉はいつものように、店の火バチによりかかって、本を読んでいるとしか、どうしても思えなかった。
「ほんとうに、惜しい人をなくしたよ。しかし、ふだんから弱かったからな。手は十分につくしたんだが、どうにもならなかったのだ。――おれは安さんのことを思うと、たまらなくなってくる。――おい、一杯、いこう。――ああ、そうか、おまえはやらないんだっけなあ。」
からになった杯の中を、次野はじいっと見つめていた。
ぼやっとした風が、はしご段のほうから吹きあげてきて、座しきの中を、すうっと通りぬけた。
「人間なんて、あてにならんもんだぞ。」
次野は不意に大きな声を出した。そして、しばらく目のふちをこすっていたが、また酒をついで、寂しそうに、なめていた。
「そうですね。稲葉屋のおじさんが、そんなことになるとは、夢にも思っていませんでした。」
「なんだ。おまえは、そのことを言っているのか。」
「先生は、なんの話をなすってたんです。」
「いや、おれは別のことを考えていたのだ。どんな信用のおけるやつだって、あてにならんと言うのさ。」
「そりゃそうですね。」
「そりゃそうですね、か。はり合いのない返事だな。――『人生憂苦多し。』おい、愛川、しっかりしなくっちゃいかんぞ。」
「ええ、わたしは、みっちりやります。」
「うん、しっかりやれ。――さっぱり手をつけないじゃないか。うんと食えよ。あと、何がいい。」
「先生、もうそんなにたべられません。」
「遠慮するな。男子はすべからく、きもっ玉と胃ぶくろは大きくなくっちゃいかん。」
「わたしは、こんなにたくさん、ごちそうをたべたのは、生まれて、はじめてです。」
「しみったれたことを言うな。おれはおまえには、どれだけ、おごってもいいんだ。――おい、ねえさん、ねえさん。」
新しいおチョウシを持ってきた女中をつかまえて、次野は言った。
「ええと、おまえは甘いものがいいんだろうな。――きんとんを一人まえ。」
「あの、手まえどもには、きんとんは……」
「しようがねえな。きんとんぐらい、こしらえておけよ。それじゃ、なんかほかのものを……」
「先生、そんなに、もったいのうござんすよ。」
「はははは。おまえも、もったいないってことを、言うようになったかなあ。大きくなったもんだなあ。――ところで、学校はどうした。」
「学校へなんか、とても行けません。」
「夜学にも行っていないのか。」
「ええ。行きたいとは思ってるんですけれど、まだ小づかいだけで、とても給料をもらえるようになれないもんですから。」
「そうか。――」
「給金になったって、学校へかよえるだけ、もらえるかどうですか。ことによると、学校へ行きたい、行きたいと思っているうちに、年を取ってしまうのかもしれません。」
このごろ、つくづくそんな気もちがしていた。吾一は力なく首をたれた。
次野も急に黙ってしまった。そして、ひとりでついでは、ひとりで飲んでいた。目が異様に光っていた。
「おい、おまえは商業学校でも行くか。」
持っていたトックリを、彼は、バタリとチャブ台の上に置いた。
「へえ。」
吾一はびっくりして、次野の顔を見あげた。
「おれの行ってるところでよけりゃ、おれがなんとかしてやるがな。」
「先生は、こちらでも学校に出ておいでになるんですか。」
「うん、食えないから、夜学の商業にかせぎに行っているのだ。」
「先生の教えている学校へあがれれば、こんな、ありがたいことはありません。」
「きたない学校だぞ。」
「ええ、結構です、勉強さえできりゃ。」
吾一は煮ざかなのサラにハシをつけた。ハシがふるえて骨がうまく取れなかった。
吾一はわれながらおかしくなって、くすくす笑いだした。
「どうしたんだ。」
「さかなが、はさめないんです。」
「はははは。」
「はははは。」
「おまえ、そんなにうれしいのか。」
「ええ、そりゃあ、もう……学校へ行けるとなりゃ……」
「そうか。学校へ行くのが、そんなにうれしいか。――まあ、食え。うんと食えよ、今夜は。」
「ですけれど、今の話を聞いたら、なんだか、こう胸がいっぱいになっちゃって……」
「ついでに、腹もいっぱいにしろ。」
「ええ、腹のほうは、もうとっくに、……おや、先生も泣いているんですか。」
「バカを言え。おれは泣くもんか。酒を飲んで泣くやつなんか……」
しかし、先生の赤くなった目のふちには、白いものが光っていた。
「今夜は、わたしは、むやみに涙が出て、しかたがありません。」
「泣きたかったら泣け。おれも、ほんとうは悲しいんだ。『索居なおせきばく。あい会うて、ますます愁辛』か。――」
杯を持ったまま、次野はぼろぼろ涙をこぼしていた。
「おれはきょう、おまえに会うとは思わなかった。訂正したいところがあって、印刷所に駆けつけたんだが……全く奇遇だったな。」
「わたしも、先生の原稿の字を拾おうとは思いませんでした。そ、そればかりか、学校にまで行けるようになって……」
「愛川、それっぱかりのことを、……そ、そんなに言うな。」
「でも、ほんとうにうれしいんですもの。」
「おまえにそんなふうに言われると、なお、おれはつらいんだ。おい、なんか食ってくれ。おまえがハシもつけずにいると……」
「いいえ、先生、わたしはもう、さっきから、たくさんごちそうになっているんです。」
「そうか。それならいい。だが、その『先生』は、やめてくれ。おれは先生じゃないんだ。」
「だって、先生。……」
「おれは先生ではないと言ったら。おれはどろぼうだ。おまえは、どろぼうにごちそうになっているんだぞ。」
次野はまた、たて続けに二、三杯あおった。
「はははは。先生、酔っぱらいましたね。」
「いや、きょうは酔わん。酔おうと思っても、おまえの顔を見ていると、酔えないのだ。――さっき、おまえがはいってきた時、どうしておれが口をきかなかったか、おまえには不思議だっただろう。しかし、おれは口をきかなかったのではない。口がきけなかったのだ。おまえの顔を見たら、息がとまりそうになったのだ。」
「…………」
「『索居なおせきばく。あい会うて、ますます愁辛。』――」
次野はきちいんとすわったまま、目を閉じて、しばらく泣いていた。
「おれは教室で、正直にしなくっちゃいかんと、どれだけおまえたちに説いたかわからない。ところが、そのおれが不正を働いたのだ。おれはな、おまえの金を使いこんでしまったのだ。」
「でも、先生。わたしには、使いこまれるような金なんか……」
「そうだ。それはおまえが知らん金だ。おれにしても、今こんなことは話したくない。けれども、たかが夜学にはいることを、おまえが、おまえがそんなに喜んでいるのを見ると、おれにはどうしても黙っていられないのだ。じつは、おれはおまえの学資を預かっていたのだ。死ぬ少し前のことだが、安さんから、おれは百円あずかっているのだ。おまえに会って、おまえに渡してくれるように、と言ってな。――安さんは、そりゃおまえのことを心配していたのだ。安さんに会って、おまえの話の出なかったことはありゃしない。それだからこそ、百円という大金を残しておいてくれたのだ。ところが、……ところが、おれはその信頼を裏ぎってしまったのだ。……」
「…………」
「おまえも、この話を聞いたら、あきれたろうな。――先生がまさかこんなことをしようとは、
思わなかったろうな。――」
「…………」
「おれはおまえに対しても、安さんに対しても、全く申しわけがない。しかしな、おれだって、何も使いこむつもりで、使ってしまったわけじゃない。預かった金だから、――大事な金だから、無論、封のままにしておいたのだ。おまえに会ったら、いつだって渡せるように、ちゃんと、タンスの底にしまっておいたのだ。そうして一生懸命に、おまえのありかを捜していたのだ。が、根津のうちに行ってもいないし、……どこを捜すと言っても、手がかりさえもないから、しまいには、おれは神仏に祈ったくらいだ。しかし、どうしてもわからない。そのうちに、運の悪い時には、悪いもので、女房が病気になってしまったのだ。」
「…………」
「前にゃおれは、ひとかどの者になるまでは、女房はもらわないと言っていたのだが、人間、そう理屈どおりにはいきゃしない。いろいろのいきさつから、去年の暮れ、女房を持ったのだが、そいつがいま言うように、くる早々病気になってな。……女房が病気になったって、たくわえのある者なら、なんでもないけれど、おれたちのような者には、そんな余裕はありゃしない。しかたがないので、悪いとは知りながら、つい、おまえの金を融通してしまったのだ。」
「…………」
「もちろん、みんな病気に使ってしまったわけではない。病院の費用に払ったのは、半分かそこらだ。しかしな、愛川、おこらないで聞いてくれ。一度、封を切ると、金ってものは、いつのまにかなくなってしまうのだ。おれたちのような、たらず勝ちの所帯では、べつにぜいたく《・・・・》をしなくても、そういうことになっちまうのだ。」
「…………」
「学校で生徒の顔を見ている時、夜なかに、ふと、目をさました時、そういった時に、おれはよく、おまえのことを思いだす。――おまえは今どうしているか。もう、どこかの学校にはいったかな。あの金があったら、おまえも、ずいぶん、らくだろう。おまえがどこにいようとも、封の中のものは、是非とも、もとのようにしておかなくっちゃいけない。おれはそのたびに、そう考えるのだ。しかし、そう考えても、……」
「先生。――」
「待て。世の中はこれだ。おまえを教えた先生でさえ、こういうことをするのだ。おれは、じつに、おまえに合わせる顔がない。けれど、愛川。しばらく辛抱してくれ。おれはけっして、おまえの金を、使いっぱなしにはしやしないぞ。」
「そ、そんなことは、先生、もう、ようござんすよ。」
吾一はじいっと次野の話を聞いていたが、少年らしい単純さで、率直に答えた。
話を聞いている途中、イノシシの絵のついているさつ《・・》が、なん枚も目の前にちらついた。
「ああ、それがあったら……」と、彼はどんなに思ったかしれない。しかし、一度も自分の手にふれたことのないものだけに、そんなに、惜しいとは思わなかった。いや、惜しいなんて気もちよりも、先生の前で、きっぱり言い切ったら、なんかしら、自分もせいせいした気分になった。
「いや、よいことはない。おれは……おれは……」
「先生、もうなんにも言わないでください。わたしはおじさんから、お金をもらえるなんてこと、一度だって考えたことありませんし、あてにしていたこともありません。だからほんとうに、なんとも思っていないんです。わたしは先生に、夜学の月謝を出してもらえれば、それでもう……」
「そ、そんなわけにはいかん。おれはどんなことをしても……」
次野はその金のことを、なお、いつまでも言っていた。吾一はそれを聞いていながら、先生はなんという正直な人だろうと思った。ほかの人だったら、きっと、こんなことは言わないだろうと思った。
次野はしゃべりながら、酒のはいっていない杯を、くちびるのところへ持っていこうとした。吾一はそれを見ると、トックリを取りあげて言った。
「先生、おしゃくをしましよう。」
「なに、おしゃく――おしゃくをする! おまえ、ほんとうにおれのこと、うらんでいないのか。」
「先生をうらむなんて、そ、そんなことが……」
「そうか。それじゃあ、おれがこんなことをしても、おれのことを信じているのか。」
「信じていますとも。先生のことは、いつだって、……どんなことがあったって……」
「愛川、ついでくれ。――き、きさまは、若いが、えらいやつだ。金を使いこまれているのに、おしゃくをするとは、見あげた精神だ。――さすがは、おれが教えただけのことはある。きさまは、今、今に、大きくなるぞ。」
次野は自分で自分のことばに酔って、ぽろぽろ涙をこぼしていた。
「先生、お酒がこぼれます。」
「大丈夫だ。こ、こぼしはしない。」
こぼしはしないと言いながら、杯がふるえて、半分以上、ひざの上にこぼしてしまった。
「おい、もう一杯、ついでくれ。き、きさまは、若いがえらいやつだ。今、今に、大きくなるぞ。――ああ、おれは久しぶりで、いい気もちになった。おまえには会えたし、胸につかえていたことは、みんな、言ってしまったし、……愛川、笑わないでくれ。おれはな、このごろ酒を飲むと、妙に涙っぽくなっちまうんだ。――」
手の甲でしきりに目をこすっていたが、彼はひょいと、杯を取りあげて、吾一に突きつけた。
「き、きさまは、今に大きくなるぞ。きさまの前途を祝って、一杯やろう。」
「ありがとうございます。」
吾一が杯を受けようとすると、次野は急に引っこめてしまった。
「いや、いかん。いかん。きさまに飲ましちゃいかん。そんなことをしたら、安さんに対しても申しわけない。きさまは、おれのように飲んじゃだめだぞ。この杯はおれが預かっておく。きさまは前途のある人間だ。しっかりやらなくっちゃいかん。」
「ええ、しっかりやります。」
「うん、しっかりやれ。いつか、おれが言ったように、吾一って名まえに対して、恥ずかしくないように、生きなくっちゃいかんぞ。」
「ええ、やります。やります。」
日本はどこにある?
地理の教師は、黒板の前にかけてある世界地図の上を、ムチでさしながら、「ここは、どこですか。」と、ことさら意味ありげに、ぐっと教室を見わたした。
「日本です。」
「日本です。」
生徒は、いっせいに、答えた。
「そうだ。日本だ。これが日本であることは、日本人は、だれでも知っている。これを知らない日本人は、ひとりもない。しかし、日本人が知っているからと言って、世界じゅうの者が、知っているとは限らないのである。世界には知らないやつが、たくさんある。日本を知らないやつが、世界にはたくさんあるんだということを、諸君は、まず、知らなければいけない。」
教師は声をはげまして叫んだ。
「日本人はおめでたくできているから、自分が知っていれば、世界じゅうの者も、みんな、知っているように、うぬぼれている。けれども、それは、とんでもないことだ。――わたしは、このあいだ、アメリカから帰ってきた、ある外交官に聞いたのだが、その外交官は、向こうで、こういうことを言われたそうである。『おい、日本って、どこにあるんだ。地図を見ても、みつからないぜ。いったい、日本は、地球の中にあるのか、地球のそとにあるのか。』こういう質問を受けたというのである。そこで、外交官は、しゃくにさわったものだから、『ちゃんと、ここにのっているじゃないか。君も、よっぽど、あきめくらだなあ。』と、そこにあった世界地図を指さして、やり返してやると、いたずら者のヤンキーは、『どれ、どれ。』と言って、わざわざ虫めがねを持ち出して、地図の上にあてがいながら、『ああ、なるほど。あった。あった。日本も、やっぱり、地球の上にあるんだねえ。』と、ほざいたというのだ。――いいか、諸君。われらの祖国日本に対して、こういうことを言うやつが、世界の中にはいるのである。――もちろん、これは、日本の領土の狭いことを、からかったものに相違ないが、しかしながら、白色人種がこういう無礼なことばを吐くというのは、そもそも、何を意味するのであろうか。みんなは、世界地図の上の、日本の位置を知っている。東経なん度、北緯なん度ということも、教科書に書いてあるから、よくわかっているはずだ。けれども、それだけでは、なお十分に日本の位置を学んだというわけにはゆかない。国際上において日本の占めている位置、それをも、合わせて知らなければ、日本地理を学んだとは言えないのである。――きょうは、すこし脱線するかもしれないが……」
教師がそう言いかけると、生徒たちは、声をあげて喜んだ。
いなかの小学校だけしかやっていない吾一には、これが学校かと思った。
「騒いではいけない。……とにかく、今も言ったように、『日本は地球のそとにあるのか。』なぞと言うやつが、世界にはいるのである。わたしは、これを聞いた時、しゃくにさわって、ひと晩、眠れなかった。ところが、今度の北清(ほくしん)事変である。この北清事変において、日本軍のめざましい働きを、改めて振りかえってみる時、わたしは涙が出てしかたがないのである。これは、『うれしい。』ぐらいな気もちではない。『ありがたい。』と言ったのでも、まだ、たりない。わたしは、なんと言って感謝していいか、感謝のことばを知らないのである。おい、アメリカ人。おい、イギリス人。おい、ロシヤ人。おまえは日本の軍隊の、あの勇ましい突撃を見たか。おまえは、あの規律の正しい、日本の軍隊を見たか。見ないとは、言わせないぞ。あれでも、日本は小国か。あれでも日本は三等国か。もし、日本が三等国なら、そのうしろにくっついて行った兵隊の国は、いったい、なん等国なのだ。わたしは、ひとり、ひとりの外人をつかまえて、そう言ってやりたいくらいだ。――みんなも知っているとおり、今度の北清事変というものは、支那の排外思想が高まって、ついに暴動化し、教会を焼き、公使館をかこみ、多数の外人を殺傷したことから、はじまったのである。そこで、支那に利権を有する国ぐには、それぞれ出兵して、公使館の急を救うことになった。しかし、暴徒と言っても、じつは清国の政府が、あと押ししているのであるから、ペキン(北京)の公使館との連絡は容易なことではなかった。各国の連合軍は、まず第一の関門たるタークーの砲台から、落としてかからなければならない始末である。そして、その陸上攻撃の第一線に立ったのは、ロシヤの軍隊である。それから第二線は、イギリスとドイツの兵隊。日本軍は、一番うしろの第三線に置かれた。こういう配置は、国際的の地位から割りだされたものか、あるいは、軍隊の実力を見くびられたために、こういうことになったのか、わたしにはわからないが、とにかく、日本軍は最後方の、予備軍にまわされたのだ。いわゆる、一等国をもって任じている国家の軍隊は、いずれも、有利な地点に陣をしいているのに、わが軍はうしろのほうに隠居させられていたのである。だから日本の兵士は、みんな、くやしがった。列国の軍隊が手がらを立てるのを、指をくわえて、見ていなければならないというのは、なんということかと、歯をくいしばっていた。しかし、わが陸戦隊の指揮官は、あせっている兵士をなだめて、『まあ、いいさ。まあ、いいさ。各国のお手なみを、ゆっくり拝見しようじゃないか。』と言って、落ちつきはらっていた。そして、前線の模様を、じいっと見つめていた。けれども、前線はちっとも動かない。鉄砲はさかんに撃ち合っているのだが、第一線のロシヤ軍は、敵兵になやまされて、一歩も前進することができないのだ。第二線のイギリスの兵も、ドイツの兵も、また同様に、前進しない。機会をねらっていた、わが指揮官は、時分を見はからって、突然『すすめ。』の号令をかけた。全軍と言っても、わずかに三百二十名、これが第一線に、さっと、割りこんで行ったのだ。そして、日本独特の突貫でもって、またたくまに、第一砲台をのっとってしまったのである。一番うしろにいた軍隊が、一番さきに、敵の砲台に突入したのだ。そうして、ほのぼのと明けゆく空に、敵の城頭たかく、まっさきに、わが日章旗を揚げたのだ。じつに愉快ではないか。わたしは、これを話しているだけでも、からだじゅうの血がわき返るほど、うれしくてたまらないのである。『どうだ。日本がわかったか。これが日本だ。ここに日本があるんだぞ。』わたしは、そう叫ばずには、いられないのである。――さらに愉快なことは、つぎのテンシン(天津)攻撃の際には、日本は最も多数の陸兵を派遣したことである。これはイギリスからの依頼もあったので、ロシヤの反対を押しきって、出兵したのである。日本の軍隊が、連合軍の中心になったということは、日本の地位を、世界に示すうえから言って、このうえもない機会と言わなければならない。しかも、わが陸軍はその期待にそむかなかったのである。最も難関と言われたテンシンも、わが兵が敵の城門をうち破って、第一に突入したので、難なく、占領してしまった。それから最後に、目ざすペキンに攻め入ったのも、また、わが軍が第一だった。もっとも、インドの兵隊が少しばかり、どぶ《・・》の中をくぐって、もぐりこんだやつはあったけれども、これは、もじどおり、もぐりであって、堂々と、まっ正面から、先陣をかけたものではない。一番のりは、やはり、日本の軍隊だったと言わなければならないのである。」
教師はここで、ちょっと、息を入れた。
「それにつけても、ペキンに入城した時の、わが将士の気もちは、どうであったろう。暴徒を追いはらって、公使をはじめ、居留民を救いだした喜びは、言うまでもないことであるが、この、敵の都に乗りこんだ気もちというものは、わが将士にとっては、また格別なものがあったろうと思う。当時、ペキンは清の都であった。しかし、その前には、明(みん)の都であった。そして、その前には、じつに、元(げん)の都であったのである。われわれは、元と言うと、すぐ元寇(げんこう)を思いださずにはいられない。元の朝廷がさかえていたころ、クブライは、この城内にあって、日本攻撃の命令を発したのではないか。日本の年号にすると、文永と、弘安の両度にわたって、彼は日本に大軍をさし向けた。しかし、その軍も、ことごとく、玄界なだのもくずとなってしまったのである。ところが、どうだ。今度は列国の軍隊が、おのおの先陣をきそっている中にあって、日本の将兵は、彼らをしりめ《・・・》にかけて、まっさきに、攻め入ったのではないか。かつて日本攻略をもくろんだその王城に、なだれをうって、進入したのではないか。それは六百年の昔、これは現代のことであるが、これによって、しみじみと考えさせられることは、地図の上の大小だけで、国民の力は、はかれないということである。――それからまた、思いだされることは、その元の朝廷につかえていた、ひとりのイタリヤ人のことである。そのイタリヤ人は、帰国して、人びとに東洋の事情をもの語った。その話の中に、ジパングという名まえがあった。これが日本というものの、西洋に伝えられたはじめである。これがもとで、日本もおいおいに、西洋の地図の上に、その姿をえがかれるようになったのである。けれども、その日本は、彼らの見た日本ではなくして、話に聞いた日本であるから、西洋地図の上にあらわれた日本というものは、久しいあいだ、形が定まらなかった。ある時には、半島になっていたり、ある時には、四角な島になっていたり、ある時には、アメリカに近く、ある時には、支那にひっついたものであった。日本は太古から、れっきとして存在しているにもかかわらず、彼らのえがく日本は、あちらへ行ったり、こちらへ行ったり、浮き草のように浮動していた。日本の姿が、正しい形で、彼らの地図の上にしるされるようになったのは、ずっとずっと、のちのことである。しかし、正しい形でしるされるようになっても、日本のことを知っている者は、きわめて少ないのである。現に今日の時代においてすら、『地球のそとにあるのか。』なぞと、言われるような状態である。これが今日までの、世界地図の上における日本の位置である。白色人種の目に映じたる日本の姿である。しかしながら、今度の事変によって、世界の人間も、いくらか日本を知ったと思う。少なくとも、虫めがねを持ち出さなくては、見つからないような、そんなけち《・・》な国家ではないということを、彼らも認めたことと思うのである。」
教師は見えを切るように、少し肩をいからして、教室をずうっと見まわした。それからまた、ことばを続けた。
「それは確かに認めたにちがいない。ある意味から言ったら、認めすぎたくらい、認めたと思うのである。なんとなれば、近ごろ彼らは、事ごとに日本をおさえつけよう、おさえつけようとしているからである。おさえつけようとかかっていることは、すなわち、日本の実力を認めたことでなくて、なんであろう。そして、そのおさえつけようとする国のうちでも、ある一国は、わけてもあくどい方法をとっている。これは容易ならないことと言わなければならない。――みんなはまだ若いけれども、やがて、これからの日本をしょって立たなければならない人たちだ。しっかりしなくっちゃいけないぞ。いいか、みんな。北清事変は、ひとまず、終わりを告げたけれども、これでかた《・・》がついたのだと思ってはならない。東洋の空には、暗雲がただよっているのだ。今度の事変で、日本は世界に認められたとは言え、認められたと思って、いい気になってはいられないのだ。日本は、その黒雲のまっただ中にあるのだ。――日本は、いったい、どこにあるのだ? 地球のそとにあるのではない。しかし、東経なん度、北緯なん度、そういう位置にあるんだ、では、ほんとうに日本地理を学んだとは言えないのである。このことを、みんなは、よくわきまえていなくってはいけない。」
教師の話が終わると、多くの生徒は拍手をした。
吾一はあっけにとられていた。教室で拍手をするなんて、彼には思いもよらないことだったからである。
しかし、先生の話は、じつにおもしろかった。おもしろかったと言っては、先生に対して、失礼にあたるかもしれないが、学校ってものは、もっと型にはまったものと思っていたところ、この先生の話は、生き生きとしていて、ひたひたと胸に響くものがあった。教科書の中のことは、ひとことも話してくれないが、それは教科書以上に、ためになるように思われた。先生のことばは、鉄砲のたまのように、うなりを帯びて、ピュウ、ピュウと飛んでくるので、こっちも、うっかりしてはいられないというような身がまえにさせられる。こういうのが、私立学校のいいところなのだろう。学校っていいなあ! と吾一はしみじみ思った。
次野のはからいで、彼は秋の学期から夜学の商業学校に、かようようになったのだが、その第一時間めが、この地理の時間だったので、彼はすっかり、喜んでしまった。はいりたい、はいりたいと思っていた学校に、やっと、はいれたばかりか、はいりたてに、こういう講義にぶっつかったので、彼はなんとなく気が大きくなった。もうそれだけで、自分は高い階段に足を踏みかけたような気もちがしてきた。
二時間めの算術と、三時間めの英語は、地理の時間のようなことはなく、型どおりの授業だった。彼はだんだん学校にかよっているうちに、あの地理の先生のような人は、私立でも、やはり、型やぶりのほうなのだということがわかった。しかし、知識欲に燃えている吾一は、型どおりの授業にも、大いに興味を持っていた。彼は仕事をしまうと、毎晩、喜び勇んで、学校に行った。
地理の教師のいわゆる「黒雲」は、東洋の空をおおうていた。そして、それは年とともに、いよいよ濃くなってゆくばかりだった。そのためか、世間はひどい不景気だった。もっとも、日英同盟が発表された時には、ちょっと明かるい光がさした。けれども、すぐまた雲がかぶさってしまって、ここ四、五年というもの、国民は暗い、重たいものに、ずうっと、おさえつけられていた。
吾一は次野の経済状態を知っているので、先生から引き続き学資を出してもらうことは、なんとなく心苦しかった。「おれは金を使いこんでいるんだから。」と、先生はあけすけに言うけれども、彼としては、できることなら、もう先生から補助を仰がないで、やってゆきたいと思っていた。
彼はもう十九になっていた。立派に一人まえの仕事ができるのだから、自分としては文選工に昇格させてもらいたいと望んでいた。しかし、印刷所では、彼の腕を認めていながら、ほかの者とのつり合いがあるとか、工場はずうっと欠損つづきだとか言って、なかなか一人まえにはしてくれなかった。給料がもらえさえすれば、学資ぐらい、どうにかなるのだが、当てがいぶちの小づかいだけでは、どうすることもできなかった。
そこで彼は、せめて教科書の代だけでもかせぎたいと思って、懸賞の出ている雑誌に、さかんに投書をした。しかし、容易に当選しなかった。けれども、彼は根気よく投書を続けた。金がほしかったばかりでなく、文章の練習にもなると思ったからである。
ところが、「少年文壇」に出した論文が、三等に当選した。三等ではあるが、彼は非常にうれしかった。やがて、小為替(こがわせ)で、懸賞金二円が郵送されてきた。彼は、書留を受け取ったのも、小為替を手にしたのも、これがはじめてだった。
その論文は、「処世の道」というので、雑誌社で出した課題に応募したものであった。
世上、処世の道として三つの『ん』を尊重するもの多し。三つの『ん』とは、即ち、運、鈍、根の三者也《なり》。聞く、古河市兵衛翁は之《これ》を神の如く信奉する事によりて、今日の成功を致せしもの也と。運に就《つ》いては、人力の如何《いかん》とも為《な》す能《あた》わざるものなれば、暫《しばら》く言わず。されど鈍と根とに関しては、聊《いささ》か疑いなきを得ず。乞《こ》う、吾人をして語らしめよ。頭に丁髷《ちょんまげ》を載《の》せし時世ならばいざ知らず、最近まで丁髷を戴《いただ》き居りし古河翁の処世法はさもあらばあれ。方今《ほうこん》文明の世に於《おい》て、単に鈍と根のみを以《もっ》て、よく人に先んじ得べきや。
まず、こういった調子の文章である。ところで内容であるが、彼の意見に従えば、三つの「ん」は、過去の処世観である。これでは不十分であるから、よろしく、五つの「ん」を尊重しなければいけないと説いたものである。五つの「ん」というのは、「はっぷん《○》」、「がくもん《○》」、「きんべん《○》」、「けつだん《○》」、それから「てんうん《○》」の五つをさしたものである。「発憤」を第一にあげたのは、心に燃ゆるものがなかったなら、走りだせるものではない。汽車が長い道をまっしぐらに走るのは、蒸気のカマが煮え立っているからだ。世を渡るには、何よりも、まず、うちに燃え立つものがなければならない、というのである。第二の「学問」は三つの「ん」の中には、はいっていないものだが、彼にとっては、これは、なくてならないものだった。これからの世の中では、学問がなくってはだめである。これは石炭のようなものだ。これがなかったら、途中で汽車はとまってしまうというのである。しかし、その学問は、実用の役に立つものでなくってはいけないとしたところは、そっくり、「学問ノスヽメ」そのままである。第三の「勤勉」は改めて説明するまでもないことだが、彼はこの中に、前の「鈍」と「根」とを織りまぜていた。そして、仕事の途中で、ぐち《・・》を言ったり、言いわけをしたりしてはいけない。一心不乱に自分の業務をはげむべきである。機関士のように、まっ黒になって働くべきである、と説いている。いつかのランプの事件が、彼にはいい経験であったらしい。けれども、発憤し、学問を修め、勤勉努力をしたところで、事に当たって、決断の勇を欠く時には、けっして成功するものでないというたてまえから、第四に「決断」を置いた。この四つのものは、人間の力でできることであるから、われわれはこれを十分に活用しなくてはいけない。そうして、しずかに第五の「天運」を待つべし、というのが、そのだいたいの主張である。
この文章のうしろに、短い批評がついていた。
所論平凡にして、新味なけれど、世に立つ上に、参考となるふし無きにしもあらず。三等に推す所以《ゆえん》なり。
吾一はこの評を、あまり、ありがたく思わなかった。当選させてくれるのなら、もう少しほめてくれてもいいと思った。しかし、なんにしても、二円という賞金は彼にとっては、じつにありがたいものだった。
ところが、この懸賞のことで、つまらない事件が持ちあがった。
吾一は、いつものように仕事が終わると、急いで炊事場に駆けて行った。住み込みの連中は、そこで夕めしをたべることになっていた。
「おそいじゃないか。どうしたんだい。」
彼らの中で、一ばん年うえの男が、あいそよく吾一を迎えた。彼は赤いメリンスのたす《・・》き《・》をしたまま、弁当をほおばっていた。
「ちょっと、仕事の切りが悪かったもんだから……」
吾一は一つだけ残っていた弁当バコのふたを取った。近所の仕だし屋から運んでくる弁当だから、おかずはあい変わらずのものだった。
「おめえ、今夜、夜業があるんか。」
弁当のふたを置きながら、吾一は尋ねた。
「どうして?」
「たすきを掛けたままだからさ。」
「はははは。これか。なあに、めんどくさかったから、取らなかったのさ。――おめえも赤いたすきが目につくようになりゃ、話せるな。」
そんなつもりで言ったのではないのに、妙なふうに取られたので、吾一は赤くなってしまった。
そのころの印刷所では、ナッパ服を着ているものは、まだ、ひとりもいなかった。職工はみんなたもと《・・・》の着物で、組み版につかう白い糸を、たいてい、たすきにしていたものだった。しかし、遊びに行く連中は、もらってくるのか、盗んでくるのか知らないが、よく女のたすきをかけていた。おれはこんなにもててるというところを見せたいらしい。彼らはメリンスのたすきを、勲章のように、自慢にしていた。
「おい、このたすき、やろうか。」
「いらねえよ。そんなもの。」
「なんとか言ってやがら。ほしいんだろう、ほんとうは。」
「おらあ、筒っぽだもの、たすきなんか、いらねえよ。」
「はははは。おれのじゃ気に入らねえんだな。やっぱり、あの子から、もらいてえのか。」
吾一は、しゃくにさわったから、返事をしなかった。彼は下を向いたまま、むしゃむしゃ弁当をたべていた。
「おい、今夜、行かねえか、おれといっしょに。」
「いやだよ。そんなとこ。」
「まあ、一ど行ってみろよ。おめえ、行くと、もてるぞ。」
「…………」
「なあ、おい。たまにゃつき合えよ。」
吾一は、からになった弁当バコを向こうへ押しやって、ぷいと立ちあがった。
「おい、どこへ行くんだ。」
「学校へ行くんだよ。」
「夜学なんかよせ、そんなつまんねえとこ。」
あい手の語調が急に変わった。
「おれがつき合えって言ったら、つき合ったらいいじゃねえか。きさまだけだぞ、つき合わねえのは。」
「そ、そんなことを言ったって……」
「きさま、どうしても行かねえって言うのか。」
あい手はむっくり腰をもちゃげて、吾一の前に立ちはだかった。
「だいたい、きさまはなま意気だぞ、雑誌に投書なんかしやがって。そんなことをするひまがあったら、おれたちにつき合え。」
「おれには、そんな、あまった金はねえよ。」
「ねえことがあるかい。しらばっくれやがって、おい、どっちにするんだ。行くのか。行かねえのか。――」
吾一はこんなやつのあい手になっていては、学校がおくれてしまうから、黙って、すうっと、そとへ出て行こうとした。
「こん畜生、つき合いを知らねえ野郎だな。」
その声といっしょに、突然、黒いものが吾一のほうへ飛んできた。
吾一はぎょっとして、あとへすさった。すさりながら、ほとんど無意識に、左の腕をかざして、飛んできたものを、さえぎった。おかげで黒いものは顔に当たらなかったけれども、手くびのところを少しやられた。あい手が投げつけたものは、植字につかうはさみだった。
炊事場のじいやは、さっきから、はらはらしていたが、それを見ると、あわてて向こうを抱きとめた。吾一のほうは、そばにいた者がかばって、へやのそとへ連れ出した。
「どうした。けがをしやしなかったかい。」
「なあに、たいしたことはないよ。」
黒く血のにじんでいる手くびをおさえながら、吾一は言った。
「ほんとうにしようのねえ野郎だな、あいつは。」
「あいつに見こまれたら、かなわねえよ。――ああいう時には、おめえ、あっさり、つき合っちまうほうがいいんだぜ。」
「だって、おれは遊びになんか……」
「そこだよ。行くのがいやだったら、いっしょに、行かなくったっていいんさ。少し出しゃすむんだよ。」
「どうして、おれが出すんだい。」
「どうしてってこともねえが、おめえ、こんど金がはいったろう、懸賞で。そういう余得のあった時は、まあ、しかたがねえ、つき合うんだな。」
「余得ったって、たった二円だよ。」
「二円と言や、豪勢じゃねえか。なあ、きょうだい。」
「そうだとも。そうだとも。」
「でも、べつに、あいつのおかげで懸賞に当たったわけじゃなし、おれが出すわけはねえと思うんだが……」
「理屈を言や、そうだけれど、そこが、それ、つき合いじゃねえか。」
「おらあ、そんなつき合いは、まっぴらだ。」
吾一はポーンと、けとばしてしまった。
彼らのあいだでは、何か不時の収入があると、すぐ、たかる習慣があった。そういう金をたくわえておくような者は、最もけち《・・》な人間とされていた。
いや、そういう金のはいった時だけではない。彼らはどうかすると、他人の着ものでも、帽子でも、無断で質やにたたきこんで、遊びに行ってしまうことさえあった。彼らには、人のものも、自分のものも、ほとんど見さかいがなかった。お互いにそういう気もちでつき合うことを、彼らは一種の美徳と心得ているらしかった。
「おめえはだめだなあ、いつになっても。」
「おれはけが《・・》をさせられたり、金を出したりするのは、なんと言われても、いやだよ。」
彼らもまた、仲裁にことよせて、懸賞金をねらっているのだった。やっとの思いで取った金を、こんな連中に、ただ使われてしまってたまるもんか。吾一はぷりぷりしながら、夜学へ行ってしまった。
「ああ、号外! 号外!」
往来へ出ると、勇ましい鈴の音が響いてきた。
家いえでは、軒さきに国旗を出しはじめた。チョウチンをかかげる店も、だいぶあった。
「とうとうやったな。」
電柱に張り出してある号外を見たら、吾一はももの肉がびりびりとふるえた。
日露開戦の号外だった。黒雲がとうとう、あらしを呼んだのだ。
「ロシヤの今日あるは、外交官の力ではない。銃剣の力である。極東問題は外交官のペンに任せておいてはだめである。銃剣で解決するのが、はや道だ。」
当時、満州における撤兵問題がやかましかった時、ロシヤの内務大臣は、御前会議でそう主張した。
「いま世界を見渡して、大ロシヤ皇帝に対し、宣戦の布告をなしうるような勇敢な国があるとは思われません。こちらの態度さえ強ければ、陛下のお求めになるものは、戦いをまじえずして、かならず達せられます。日本や支那が、とかく、わが要求に従わないのは、当方の態度に妥協の色が見えるからです。彼らをしてロシヤの命令をきかせるためには、威圧以外に手段はございません。」
側近者はそう言って、皇帝をおだてあげた。
国威がうわ向きになると、どこでも、こういう議論が幅をきかせる。ロシヤは北清事変に名を借りて、満州に出兵したが、事変がかたづいても撤兵しない。満州から兵をひかないばかりでなく、彼はそのどん欲の手を朝鮮にのばし、無断で鴨緑江(おうりょくこう)のほとりに、砲台を建設した。
日本から遼東半島を還付させておきながら、厚かましくも、それを横どりし、今度は朝鮮にまで食い入ってきたのだ。ロシヤにとっては、それは単に、東洋に領土を広げるか否かの問題であるが、日本にとっては、生命線をおびやかされることである。ロシヤのこの横暴な振るまいには、日本国民はこぞって、いきどおっていた。吾一のような者でも、敵がい心に燃えていた。
「ああ、とうとうやったな。」
常に圧迫され、常にしいたげられている彼は、日本が大ロシヤを向こうにまわして、奮然として立ちあがったことに、なんとも言えない喜びを感じた。小さな者、圧迫されている者が、大きな者、のしかかってくるやつに、たち向かっていくことに、限りない痛快を感じた。
「おれも、もう少し年がいっているとなあ!」
丁年にさえ達していれば、彼も戦地に行きたいと思った。何かしら、ドカン、ドカンと、彼はぶっぱなしてみたい気もちでいっぱいだった。印刷所で、けんかなんかしているよりは、戦場に行って、ロスケをやっつけるほうが、ずっと気がきいていると思った。
たまたま印刷所で、献金の企てがあった。職工たちは、めいめい十銭、二十銭と出し合った。その時、吾一は一円札を、みんなの前に投げ出した。
「一円札か。待て待て。今おつりをやるぞ。」
金を扱っていた職長が、さつを受け取りながら言った。
「いいえ、おつりはいりません。」
「これ、みんな、出すのか。」
「ええ。」
「バカに、はずむじゃねえか。」
「お国のためですもの。」
吾一は威勢のいい声で答えた。もちろん、お国のためにはちがいないが、一つには、赤だすき一派に対するつら当ても、こもっていた。
学校
「こないだ、寄席(よせ)に行ったら、はな《・・》しか《・・》のやつ、ひどいことを言やあがった。先生っていうのは、まず生きてるってことだと、ぬかしやがった。」
ひとしきり戦争の話がはずんだあとで、次野はあくびをしながら、こんなことを言った。すわっているひざがしらに、早春の光が柔らかく当たっていた。
「そうすると、先生。生徒ってものは、いたずらに生きてるってことになりゃしませんか。」
「はははは。そんなものかもしれんな、今の生徒は。」
「わたしは学校に行って驚いてるんですが、みんな、よく、いねむりをしていますね。」
「いや、いねむりをしているのは、たのもしいほうだよ。」
「そうでしょうか?――」
「あの連中は、とにかく教室に顔を出しているから、まだいいほうだ。学生でいながら、学校にも出てこないやつにいたっては、手がつけられんじゃないか。」
「はははは。それこそ、ほんとうにいたずらに生きている連中ってわけですね。」
「春日うららかにして、生徒いよいよ生徒となり、戦争おこって、先生いよいよ先生となるか。戦争もいいが、こう物価が高くなると、おれたちは『まず生きてる』だけが、容易じゃないよ。」
「ですが、先生。こういうところにいると、長いきしますよ。――郊外って、ほんとうにようございますね。」
庭のほうに目をやりながら、吾一はしみじみと言った。
きょうは工場が休みだったので、彼は久しぶりで、先生をたずねたのだ。活字のケースが、黒い土手のように並んでいる中から出てくると、ここは、まるで別の世界の感じだった。すべてのものが明かるくって、さわやかで、生き生きとしていた。庭と言ったところで、先生のうちのは、おむつ《・・・》が干してあるような庭だけれども、そのおむつのサオの上に、ひょろひょろした梅の枝が突き出していて、白い花が二つ三つ、赤ん坊の目のように無心にこちらをのぞいているのが、なんとも言えず美しかった。
それから、うちの中にいて、青ぞらが見えることも、今の彼には珍しいことだった。彼はしばらく、空を走っている白い雲をながめていた。
どこかでホオジロが鳴いた。
「先生、先生は『少年文壇』をお読みになりませんか。」
先月号の自分の論文を、先生は読んでくれてるかしらと思いながら、彼は恐る恐る尋ねた。
「あんな雑誌は読まないよ。」
先生はそっけなく言った。
「おまえ、あんな雑誌を読んでいるのか。」
「え、読んでるってほどでもないんですけれど……」
雲ゆきが悪くなったので、吾一は急にことばをにごした。
「あれは懸賞で、いなかの子どもたちをつっている、つまらん雑誌だ。あんなものを読んだり、あんなものに投書したりすると、人間が小ずるくなっていかん。」
吾一は雑誌に、はじめて当選したので、少しえらくなったつもりでいたところ、次野から、あたまごなしにやられたので、すっかり、しょげ返ってしまった。
さっきのホオジロの声がだんだん近くに聞こえてきた。隣の庭のしげみの中に、やってきたらしい。
「ごめんください。」
玄関で女の声がした。
「先生、お客さんのようですね。」
次野は返事をしなかった。そして、黙っていろと、吾一に目であいずをした。
「ごめんくださいまし。」
玄関の人は、また格子のそとで呼んでいた。
「おい、うちのやつがいないから、おまえ、ちょっと出てくれ。」
次野は小ごえで言った。
「そして、おれは、るすだと言ってくれ。向こうで何か言っても、わたしにはわかりませんからって、追い返してしまうんだぞ。」
吾一はうなずいて立ちあがった。なんだか先生のうちの台どころの中を、のぞいてしまったような気がして、彼はうそさむい気もちがした。
玄関に出たら、格子の向こうのヤツデのかげから、はかまの色の紫が、ちらと目にはいった。
紫の色といっしょに、きらっと、心にひらめいたものがあった。そしてそれは、やっぱり、まちがいではなかった。たずねてきたのは、おきぬであった。
「あの、先生、いらっしゃいますでしょうか。」
ヤツデの大きな葉の向こうで、おきぬは丁寧にお辞儀をした。はかまの色だけで、どうしておきぬということがわかったのか、それは彼にもわからないが、とにかく直観的にそう感じたのである。しかし、おきぬのほうでは、吾一のことはわからないようだった。
るすだと言って返してしまえ、と先生には言われていたが、せっかく、おきぬちゃんがたずねてきたのに、そのまま返してしまうのは、どうも惜しいような気がした。――あれから、もうなん年になるだろう。――彼女はまた一段、美しくなっていた。
「ちょっと、待ってください。」
彼は座しきへ取って返した。
「先生、おきぬちゃんがきたんですが、やっぱり、るすだって言うんですか。」
「伊勢屋のかい?」
「ええ。」
「そうか。――おれはまた……それなら、かまわない。こっちへあげなさい。」
吾一は駆けるようにして、玄関へ飛んで行った。そして、中から格子をあけた。
「あら。――」
おきぬは、はじめて気がついたらしく、吾一の顔をまじまじと見ていた。
「ずいぶん、しばらくですね。」
「まあ、こちらにきているんですか。」
「いいえ、ぼくも遊びにきたんですよ。」
吾一は思わず「ぼく」と言ってしまった。夜学にかようようになってから、彼はときどき「ぼく」ということばを使うようになっていた。
彼はこのことばを、どのくらい使いたいと思っていたかしれない。ある意味から言ったら、彼が今日まで歩いてきたのは、「ぼく」という代名詞を使いたい、使いたいと思いながら、使えなかった歴史ではないか。「てまえ」ということばをしいられてきた少年にとっては、――たかだか「わし」か、「わたし」しか言えなかった少年にとっては、「ぼく」という代名詞は、たとえようもなく、尊いものだった。そのことばの本来の意味はどうであろうとも、そのことばの響き、そのことばのかもしだす高いかおりというものは、何にも増して、あこがれのまと《・・》だった。
彼はもう五助ではない。活版所の一労働者にすぎないとしても、もう、伊勢屋の小僧ではないのだ。おきぬの前で「ぼく」と言ったのは、われながら上できだと、彼は思った。
おきぬがやってきたのは、卒業式に読む答辞のした書きを、先生に見てもらうためだった。彼女が東京の女学校にきていることは、いつか先生から、ちらと聞いていたが、答辞を読むというなら、あい変わらず首席を続けているのだろう。
吾一は座しきのすみのほうに引っこんでいた。先生にした書きを見せているおきぬを見ると、どうも自分がいくじのない人間に見えてしかたがなかった。先生のおかげで、夜学にかよわせてもらってはいるが、とても自分には答辞を読むような成績をあげるわけにはいかない。おきぬのように勉強だけしていればいい者と、仕事がおそくなれば遅刻しなければならないし、夜勤があれば、欠席しなくてはならない者とでは、事情がちがう。そうは思いながらも、何かなさけない気もちがした。
「いや、立派なものだ。よくできた。」
ひとこと、ふたこと、字句の注意をしただけで、次野はおきぬの文章をほめながら、した書きを返した。
おきぬはそれを受けとると、礼を述べて、すぐ帰りじたくをはじめた。
「少し話していったらいいじゃないか。珍しく、きょうは愛川もきているから。」
「あの、あたくし、門限がございますから……」
「そうだな。寄宿舎じゃおそくならんほうがいいな。」
「先生、わたしも失礼します。」
吾一も次野にお辞儀をした。
「おまえは、いいじゃないか。」
「わたしは、さっきから、おじゃましているんですから。」
「それじゃ愛川、おまえ、きぬ子さんを途中まで送ってあげろ。」
「ええ。――」
「むかしのご主人のお嬢さんだ。大事に送らなくちゃいかんぜ。」
「あら、先生。そんな……」
「いや、冗談でなく、この辺はどうも物騒だからね。」
吾一はおきぬについて、先生の家を出た。
先生の家から通りまでは、広い原っぱだった。芝が一面にはびこっているが、まだ十分に春の光を吸いこまないと見えて、しらっ茶けた色をしていた。それでも、もう、あちこちに、青い草が威勢よく水をはね返していた。
吾一はおきぬに話しかけたいと思いながら、どこから話を切り出していいか、うまいことばが見つからなかった。
「おや、スミレかしら。もう咲いたんだな。」
枯れ芝のあいだに、うす紫のちいさい花を見つけて、彼はだれに言うともなく、ひとりごとのように言った。
しかし、おきぬはそのことばに乗ってこなかった。彼女はくちびるを結んだまま、紫のはかまをけって、足ばやに歩いていた。
「ぼく、このごろ、夜学に行っているんです。」
しばらくたって、吾一はまた、ぽつんと言った。彼としては、自分も学校にかよってるってことを、なんとなく彼女に言いたかったのである。
が、彼女は「そうですか。」と、ぶあいそうに言っただけだった。
吾一は芝の上に腰をおろして、少し話でもしたかったのだが、おきぬはそんなすきを与えなかった。
「道雄君なんか、どうしているでしょう。」
「一高にはいるとかいうおうわさですわ。――あの、あたくし、きょう、急ぎますから……」
通りに出ると、彼女はつじ待ちの車を見つけて、ぷいと乗ってしまった。
車夫はかじ棒をとって、駆けだした。
吾一はあっけにとられて、車夫のあとを見おくった。走っている車夫のたび《・・》の底が、いやに、なま白く目にうつった。
彼は往来のはしに立ったまま、なんということもなしに、コマゲタのあと歯を、ぎりっと土に押しつけて、コンパスのように、からだをひとまわりさせた。
ひとまわりして首をあげると、おきぬの乗っている車は、まだ向こうを走っていた。彼はもう一度、くるっと、まわった。
米やの前に寝ていた小イヌが、それを見て、急にほえ立てた。
吾一は口ぶえで、ロシャこいぶしを歌いながら、のろのろ歩きだした。
「ロシヤの今日あるは、外交官の力ではない。銃剣の力である。極東問題は外交官のペンに任せておかないで、銃剣の力で解決すべきである。」
ロシヤのある大臣は、かつて閣議でそう主張した。そして銃剣と大砲で、ついに日本をかたづけようとした。その結果がどうであったかは、今さら書く必要はないであろう。
専制政治と、敗戦につぐ敗戦とは、ロシヤの内地に、数えきれないほどのストライキをひき起こした。そして「独裁政治を倒せ。」「戦争を中止せよ。」という叫びは、ペテルブルクやモスコーをはじめとして、いたるところの街路にあふれた。電気はとまり、ガスは消え、多くの都市は暗黒となった。店はとざされ、学校の門は開かず、やとい人は主人の命令に従わなかった。
これについて、おもしろい話がある。戦争の終わった翌年、イギリスのコンノート殿下が来朝された時に、ある日、横須賀の鎮守府(ちんじゅふ)においでになったことがある。その歓迎会の席上で、おつきの武官が興奮して、食卓をトーンとたたいた。それをごらんになった殿下は、なぜ、そのようなことをするのかとたしなめられたが、武官の説明を聞くと、殿下もまた、トーンと食卓をたたいたということである。
高貴の方の振るまいとしては、意外のことなので、鎮守府長官がお尋ねすると、最初にテーブルをたたいた武官が、引きとって語った。
「いや、いま接待の方に、『ロシヤと戦っているあいだに、日本にはどうしてストライキが起こらなかったのか。』と聞いたところ、日本の海軍将校は、ストライキということばを、知らないので、私はびっくりしたのです。その将校の言われるには、日本にはそういうものはない。国難に際しては、日本人はいつも一致団結して、そとに当たるのが習わしだというのです。われわれはこの答弁で、はじめて日本がわかりました。日本の勝った原因が、はっきり、わかりました。」
近代ヨーロッパの歴史をかえりみると、戦争にストライキはつきものである。国難に直面して、ストライキの起こらない国は、ほとんどないと、その武官は言ったそうである。
ところが、コンノート殿下がお帰りになったあとあたりから、日本にもぽつぽつストライキが起こってきた。
日本の将校が答えたように、従来、わが国には、ストライキがなかったとは言えない。しかし、なかったと答えても、あやまりではないほど、全く目だたないものだった。けれども、明治も三十九年から四十年になると、だいぶストライキが表面にあらわれてきた。なかにも足尾(あしお)銅山、別子(ベっし)銅山に起こったものは、非常に大きなもので、どちらも軍隊が出動して、とりしずめたほどの暴動だった。
戦争に勝つと、土地や償金がはいってくるが、それといっしょに、さまざまな戦利品も流れこんでくるものである。
国民は勝利に酔っていた。講和条約に不満をとなえて、暴動を起こした連中もあったが、なんと言っても、国民は勝利に酔っていた。酒、ビールの消費量が格段に激増した。着もののがら《・・》が目だって大きくなり、色あいが急にはでになった。三越呉服店で豪華な元禄(げんろく)模様をはやらせたのは、じつにこの時のことであった。
戦前、外資の輸入高は、官民あわせて、わずかに二億にたらなかったものが、明治四十年には十四億にのぼっていた。企業熱はすばらしく高まり、株は天じょう知らずに暴騰した。買えばあがり、買えばあがるという景気であったから、しろうとでも株に手を出す者が、むやみに多くなった。深川へんのある手代(てだい)は、二十円の貯蓄債券をもとにして鐘紡(かねぼう)で二万円もうけたとか、待合のおかみが東株(とうかぶ)で十万円せしめたなぞといううわさは、ますます人びとの投機心をあおった。
が、水銀はいつまでものぼり続けてはいない。四十年のはじめに襲った寒波は、たちまち水銀を冷却させた。八百円ちかくまであがった東株は、ついに百円を割るほどの、さんたんたる光景を呈し、株式市場開始以来の大暴落を演じたのである。
成り金の代表者のように言われる鈴久(すずきゅう)が、一挙に没落したのは、この時のことである。いや、こういった株屋の手合いだけが没落したのではない。この突風に巻きこまれて、身代をつぶした者、店をしめた者は、どれだけあるかわからない。堅実なるべき銀行でさえ、全国では四十ちかくも破産したのである。そして、足尾にストライキが起こったのは、このガラの突発した半つき後のことだった。
しかし、ストライキということばも知らなければ、銀行に預金も持たない吾一のような男は、こういう社会的な事件には、ほとんど無関心だった。株があがろうと、さがろうと、どこでどんな暴動がもちあがろうと、彼の生活には、なんの関係もないことだった。学校で簿記のつけ方は習っても、商事要項はおそわっても、毎日、毎日、小さな活字をはめたり、はずしたりしている彼には、そんなことは、川むこうの火事と同じだった。
彼は夜学の商業学校を、去年卒業したが、いい口がなかったので、そのまま印刷所で働いていた。今では一人まえの文選工になって、日給四十銭ずつもらっていた。
日給が取れるようになると、彼は前の学校の近くにある、私立大学の商科の夜学専門部にはいった。口の悪い連中からは、
「バカだなあ。職工が学問したって、なんになる。そんな学校を出たって、口なんか、ありゃしねえぞ。」
と、ひやかされたけれども、彼はあい手にならなかった。
その日も、仕事をしまうと、急いで学校に出かけて行った。ところが、前の学校の近くまで行くと、門の前は学生で黒くなっていた。ビール箱の上に乗って、演説している学生もあった。吾一は思わず足をとどめた。
「……諸君、諸君はこれでも黙っているのか。これでも学校の言うなりになっているのが、生徒の本分だと思っているのか。」
「ノー、ノー。」
「学校当局は、今度もまた学校改善のためだと言う。しかしながら諸君、改善の名や美しと言えども、改善、改善と叫びながら、学校は今までに、いったい何を改善したのだ。」
「バカ言え。改善しとるぞ。」
群集の中から、だれかがどなった。
「なんだと、露探(ろたん)!」
「そんなやつは、つまみだしてしまえ。」
「便所の建て増しをやっているじゃないか。」
群集はどっと笑った。
「そうだ。それは事実だ。そして、それのみが、唯一の改善だ。しかし諸君。便所が建て増しされたということは、どういうことであるか。それはすなわち、生徒がふえたということを、最も有力にもの語るところのものではないか。生徒がふえたということは、なんであるか。月謝がしこたま、はいるということだ。月謝がしこたまはいるにもかかわらず、今回突如として、月謝の値あげをするとは、じつに不可解なる事実と言わなければならない。」
「ヒヤ、ヒヤ。」
「現在、世間は不景気の絶頂だ。世をあげて、ガラの突風に見まわれている。ぼくの家なぞは、もうつぶれてしまった。ぼくはこれから苦学をして学校をやっていかなければならないのだ。しかるに、いま月謝をあげられては、ぼくは事実上、退校を宣告されたと同じことだ。ぼくは学校当局のかかる横暴なるやり方に断じて反対する。」
「泣くな、泣くな。学校もガラを食ったんだ。」
「いや、ぼくは泣いているのではない。事実を言っているのだ。――道路の風説によれば、校長は株に手を出して、失敗したのだという。ぼくは事実の真偽を明きらかにしないが、もし、坊間(ぼうかん)、伝うるがごとくんば、校長の振るまいは、じつに奇怪至極である。いくら商業学校の校長であっても、公私の別をみだって、学校の金を株につぎこむという法はない。聞くところによると、このあいだまでは、校長は大いにもうけていたということであるが、校長がもうけた時、校長は一銭でもわれわれに配当したことがあるか。もうける時はかってにもうけて、損をした時だけ、学校改善の美名のもとに、月謝の値あげをするとは何ごとだ。われわれは校長の追敷(おいじき)のしりぬぐいをするために、この学校に入学したのではない。」
「そこだ。そこだ。」
「やれ、やれ。もっとやれ。」
群集は、はやしたてた。
吾一は母校のことなので、つい立ちどまって聞いていたが、校長が株をやっているなぞということは、じつに意外だった。この連中は学生のくせに、よくこんなことをほじくり出してくるものだなあ、と、あっけにとられていた。
もし、これが事実なら、自分も校友のひとりとして、黙っているわけにはいかない。彼は今夜の授業を休んで、事実の真相を突きとめようと思った。彼はまず教員室のほうへ駆けて行った。次野先生に会おうと思ったのである。しかし学校の中は火事場のような騒ぎで、どうすることもできなかった。
彼はその足で、すぐ次野先生のところに行ってみた。次野は授業のない日なので、うちで小説を書いていた。吾一の話を聞くと、
「そうか。とうとうそんなことになったか。――どうも悪い世の中になったな。世間が騒がしいと、学校にまで、いろんなことが移ってくるて。」
次野は長いキセルをくわえながら、困った顔をしていた。
「先生、校長さんが株をやってるってほんとうですか。」
「さあ、そんなことはどうかね。――やり手なことは、やり手なんだが……」
「学校も苦しいんでしょう。」
「そりゃあ、あのとおりのぼろ学校だから、火の車だ。何しろ、おれなんかの給料は、ひと月おくれだからな。」
「それじゃ校長が株でもうけたなんて、うそですね。」
「株のことなんか、おれは知らんよ。」
「先生でさえ知らないようなことを、どうして生徒が知っているんでしょう。」
「はははは。おまえにこんな話をするのはどうかと思うが、そういう演説には、ちゃんと材料の出どころがあるんだよ。」
「へえ、どっから出るんです。」
「あれはな、生徒が演説をやっているんじゃない。教師がやっているんだ。ビール箱の上に乗っかっているのは生徒だが、あれはただの人形だよ。学校騒動っていうと、世間では生徒が騒いでいるように思っているけれども、ほんとうは生徒が騒いでいるのではない。生徒を騒がせているのだ。」
「先生のうちに、そんな人がいるんですか。」
「こわい世の中だよ。同じ学校で働いていながら、内実は敵みかただ。どこの学校でもとは言えないが、たいていの学校には、中に党派があってな、お互いに、あい手のおちど《・・・》を見つけ出しては、たたき落とそうとしているのだ。」
「まるで、内閣の取りっくらですね。」
「そうだ。今度のような場あいは、内閣の取りっくらだ。しかし内閣だけとは限らない。学科主任の争奪戦や、科目の争奪戦が、年中おこなわれているのだ。けちなのになると、英語の時間一時間、国語の時間一時間、たった一時間ばかりの授業時間の奪い合いをやるんだから、あさましいよ。」
「あなた。――」
向こうのへやで子供を寝かしつけていた奥さんが、にらむような目つきをした。
「なあに、大丈夫だよ、愛川なら。」
次野はキセルをポンとたたいた。
「教師も人間さ。みんな食わなくっちゃならんからな。先生は『まず生きてる。』じゃやりきれないから、『まず生きよう。』ってことになってきたんだ。学校も、もめるわけだよ。」
「あなた、そんな講釈はどうでも、さっききた電報のこと、ほんとうにいいんですか。」
奥さんは心配そうに、こちらの座しきに出てきた。
「ああ、あんなものはいいよ。」
「でも、こんなに大きくなったっていうのに、ほうっておいて……」
「いや、それだから、ほうっておいたほうがいいんだ。じつはおれも、さっきまではどうしようかと思っていたんだが、うちわの騒動がこう表ざたになっちゃ、かえって会合に顔を出さんほうがいい。」
「…………」
「うっかり顔を出してみろ。あいつは非幹部派だなんてことになって、にらまれるのが落ちだ。まあ、こういう時には、おれはうちに閉じこもって、自分の勉強をしているよ。」
「だって、あなた、そんなことをなすっていて……」
「よくっても悪くっても、しかたがないさ。おれには騒動をしずめるだけの力はないし、……出て行きゃ、どっちかの派に引っぱられるにきまっている。しかし、おれはどっちの党派にも、はいるのはいやだからな。」
「困っちまうわ。そんなことを言って、あなたは小説ばかり書いているんですもの。それがわかると、あなた、首よ。」
「バカ言え。学校が騒いでいる時に、いっしょになって騒ぎまわるのが立派な教師か。教師は身をもって生徒に対すればいいのだ。おれくらい教室で一生懸命にやっている者はありゃしないぞ。なあ、愛川。おれはまじめにやっているな。」
「ええ、先生はそりゃ熱心です。先生の時間ていうと、生徒はみんな元気になります。」
「そうれ、見ろ。」
「当てにならないわ、愛川さんの話じゃ。」
「いいえ、奥さん。ほんとうですよ。」
「それじゃ、教科書をそっちのけにして、文学の話かなんかやるんじゃないの。」
「ええ、そういうこともあります。」
「あら、やっぱり、そうなの。――そんなの、なお、いけないじゃありませんか。」
「ですけれど、奥さん。先生のはほんとうに身をもって教えるっていうんですね。先生は話をなさる時、熱を持っているもんですから、ぼくらのほうにも、それがビンビン響いてくるんです。そういう話をなさる方は、こちらの先生と地理の先生だけです。」
「だめよ、愛川さん、そんなことを言っちや。なお図に乗るから。」
「はははは。まさか愛川にほめられて、いい気にもなりゃしないさ。――大丈夫だよ。おれだって、バカじゃないから、首になるようなことはしやしないよ。とにかく、こういう時は、『君子あやうきに近よらず。』だ。」
次野はそう言って、白いけむりをぷうと吐き出した。
「愛川、おまえは校友だから、おまえのところにも、手がみかなんかくるかもしれんが、うず巻きの中にまきこまれちゃいかんぜ。学校騒動なんて、たいてい不純なものだからな。」
あらしのあと
案のじょう、吾一のところにも刷りものが送られてきた。革新派からも、校長派からも、両方から送られてきたが、次野からいましめられていたから、彼はいまわしい騒動の中に巻きこまれるようなことはしなかった。
血の気の多い彼は、夜学の行き帰りに母校の前を通るたびに、壮士ふうの男が横行しているのを見ると、不愉快でたまらなかった。しかし、そのうちに、だいぶ騒動もしずまったらしいので、その後のようすを見ようと思い、久しぶりで、門の中へはいって行った。
授業はまだ再開されていなかった。が、掲示場をのぞいてみると、彼は急に、まっさおになってしまった。
今回教務ノ改善ヲ計ルタメ左ノ教諭職員ヲ解職ス
高い壁の上に張ってある張り紙の、ひだり下のノリがはがれて、バサリ、バサリ、いやな音を立てていた。
解職者は二十名ちかくあった。おもなる者は教頭とか、幹部とか、会計主任、教務主任という連中だが、教諭の中には、地理の先生とならんで、次野立夫の名まえもはいっていた。先生の名の書いてあるところは、張り紙のはしが風にまくられて、見えたり、見えなくなったりしていた。
ほかの人たちについては、事情を知らないから、なんにも言えないが、いったい、次野先生は何をしたというのだ。先生に関する限り、先生には、なんのおちど《・・・》もないではないか。今度の騒動であばれたとか、ふだんの教え方が悪いとかいうのならしかたがないが、先生は熱心な教育者ではないか。今度のことでは、どちらの派にも加わらないで、しずかに、うちに閉じこもっていたのではないか。それがどうして免職なのだ。なんの理由でやめさせられるのだ。
吾一はかっ《・・》となって、飛びあがった。解職の掲示をひっぺがそうと思ったのである。しかし、ノリのはがれた張り紙は、彼の腕よりもずっと高いところで、白い裏を見せながらつめたく笑っていた。
「高楼かたむけつくす三杯の酒。」
どこからか、どら声が響いてきた。
吾一は、ふと思い返して、事務所のほうへ駆けて行った。詩吟はそこでやっているのだった。
「天下の英雄、眼中にあり。」
校内にはまだあらしの余波が残っていた。事務所の中は人でうずまっているらしい。彼はそこの小窓の前に立った。
「ちょっと、お尋ねしたいんですが……」
「なんですか。」
のぞき窓の、ちいさい戸があいて、その向こうに赤い顔が泳いでいた。
「授業なら、来週の月曜からですよ。くわしいことは、きょう学校から通知を出したから。」
「いいえ、授業のことじゃないんです。――校長さんはいないでしょうか。」
「もう校長は帰りましたよ。」
「困ったなあ。それじゃ今度の教頭はおりませんか。」
「いない。君は校長や教頭に、なんの用事があるんだ。」
「次野先生のことについて、聞きたいことがあるんですが。」
「次野先生のことは、掲示が出ているだろう。」
「ええ。それで聞くんです。」
「べつに聞く必要はないじゃないか。あの掲示のとおりだ。」
「教務を改善するっていうのに、どうして、ああいう先生をやめさせるんです。」
「そんなことはぼくにはわからんよ。」
「なんだ。なんだ。何を言ってきやがったのだ。」
テーブルの上に腰をかけてビールを飲んでいた男が、いきなり窓ぐちにやってきた。
「なにい、次野先生。次野先生は教室でだべってばかりいるから、首になったんだよ。」
「先生はだべっているんじゃありません。先生は……」
「うるさいことを言うやつだな。おまえはなんだ。」
「校友です。」
「校友なら、学校のとった処置を是認すればいいのだ。」
「しかし、われわれにはわれわれの意見が……」
「だから、生徒や校友の意見に従って、そうしたのだ。ぐずぐず言うせきはないじゃないか。」
酒くさい息をしながら、小窓の戸をピシャリと締めてしまった。彼はまた高らかに詩を吟じだした。
「一尺の丹心、三尺のつるぎ。
こぶしをふるって、まず試みん、佞人(ねいじん)のこうべ。」
「チェスト!」
だれかがそれに和して、ステッキで力いっぱいテーブルをたたいたらしい。窓のガラスがビリビリッとふるえた。
吾一はぷりぷりして、生徒控え所のほうへもどって行った。だれか知った顔はないか、知った者がいたら、それといっしょになって、ひともみ、もんでやろうと思ったが、あいにく、だれもいなかった。そこにいるのは、多くはストライキで騒いだ壮士ふうの連中ばかりだった。
「道路の風説によれば……」と、ビール箱の上に乗って、校長の株売買をすっぱぬいた男は、大きく壁に張り出してある「生徒諸君ニ告グ」という諭告を、そり身になって見あげながら、にたりにたり下あごをなでていた。
「君、校長排斥は、いったい、どうしたんだい。」
吾一はそう言ってやろうと思ったが、こんな男に皮肉を言ってみたところでしようがないと思い、やめてしまった。
教師や職員が二十人ちかくもやめさせられるのなら、株をやったという校長なぞは、まっさきにやめなければならないはずである。ところが、校長はもとのまま居すわりである。そのうえ、あれほど反対した月謝ねあげの件は、ちゃんと通っている。こんなことなら、なんのために、あんな大騒ぎをやったのか、全く、わけがわからない。
と、玉岡先生がオーバーのえりを立てて、教員室から出てきた。次野先生と同じように、彼も国語の受け持ちだった。
「先生。」
吾一は玉岡のそばへ走って行った。玉岡はずんずん出ぐちのほうへ歩いていた。吾一もいっしょに歩きながら、
「先生、あの、次野先生のことについて、少しおうかがいしたいんですけれど……」
と言いかけると、玉岡は感にたえないように、すぐことばをはさんだ。
「ああ、お気の毒なことになりましたね、次野先生は。」
「なんとかならんでしょうか。」
「さあ、今となってはねえ。」
「でも、あんないい先生……」
「そうです。ほんとうにいい先生でした。」
「どうして、ああいういい先生がやめさせられるんでしょう。」
「生徒のあいだから甲種昇格運動が起こってきましたからね。そういうことになると、まず校内を改革しなくっちゃいかんということになってくるんです。お気の毒ですけれど、次野先生は教諭の免状を持っていないものですからね。」
「この学校には、そういう先生がずいぶんいるんじゃないんですか。」
「ええ、それですから、そういう人たちが今度やられたわけなんでしょう。」
「ですけれど、教員資格なんて、そんなに大事なことなんでしょうか。資格のある先生だって、いい先生とはきまりませんし、資格のない先生は、必ずしも悪いとは限りません。ぼくたちにとっては、資格なんて、あったって、なくったって、問題ではありません。教え方のうまい先生が、熱のある先生が、一番いい先生だと思っているんですけれど……」
「君たちにとっては、そうかもしれないが、何しろ文部省がね……」
「でも、先生。今度の騒動で……」
「君、君。ぼくは急いでいるんだ。文句があったら、文部省へ行ってきたまえ。文部省じゃ教え方がうまくっても、熱があっても、資格がなくっちゃ教員として認めてくれないんだ。教員を決定するものは、第一に資格ですよ。教員免状ですよ。人間や、教え方や、熱の問題じゃありません。」
玉岡はそう言いすてて、さっさと、そとへ出て行ってしまった。
よるの風が、つぎはぎだらけの控え所のゆかの上を、はくようになめていった。
「先生。」
吾一はそう言っただけで、もうことばが出なくなってしまった。
「おまえ、学校へ行ったのか。」
手じゃくで飲んでいた次野は、杯の向こうから、白い目をして、吾一を見おろしていた。
「はい。」
「もう、おれのような人間は、学校じゃいらんとよ。」
「…………」
「学校ってところは、教科書を教えるところなんだそうだ。教科書以外のことをしゃべるやつは、教師にはしておけんとよ。」
「…………」
「教科書を詰めこむところ、それが学校だと思っているんだ。そんなもの、いくら詰めこんだって、試験がすめば、学校を出てしまえば、みんな忘れてしまうんだ。学校ってところは、おおかた、忘れることを教えるところなんだろう。忘れることを詰めこむのが商売なんだろう。」
「…………」
「今の世の中じゃ、忘れる学問も一応は学ぶ必要があろう。しかし、忘れないものを説くことが、なぜ、いけないのだ。教科書なんてものは、読めばわかる。字句の解釈だけなら、参考書だって、まに合うんだ。そんなことだけ教えるのなら、何もわざわざ、学校へからだを持って行くことはありゃしない。講義録で、通信教授で十分だ。学校の学校たるゆえんは、そんなところにあるんじゃない。学校ってものは、からだとからだのぶっつかり合うところだ。先生の魂と生徒の魂の触れあう道場だ。それではじめて、生徒は何ものかを体得するのだ。一生わすれないものを身につけるのだ。そうでない学校なんか、学校じゃない。人間のはきだめだ。」
「そうです。先生のおっしゃるとおりです。そ、それについて、ぼく、少し考えがあるんですが……」
「どんなこと? はははは、きさま、つまらないことを考えているのじゃないか。よせ。よせ。おれはもう、だれがなんと言ったって、あんなところに帰りはしないぞ。だいたい、今の学生は、忘れる学問ばかりありがたがって、――みんな忘れてしまうくせに、そんなものを、やたらに詰めこもうと思ってやがる。そうして、おれのことを、なまけ者の教師だなぞとぬかすのだ。だれが、だれがそんなところへ帰るもんか。おれのほうでごめんをこうむるよ。」
「そんなことを言ってきた生徒でもあるんですか。」
「生徒だとか、校友だとかぬかすやつが、五、六人、たば《・・》になってやってきたよ。」
「そ、それじゃ先生は、そういう理由でおやめになったのですか。」
「学校からは、生徒がうるさいから、辞表を出してくれと言ってきた。しかし、おれはそんなものを出すような失態はしていないと言って、はねつけてやったのだ。そうしたら、突然、ばっさり、やりゃがったのさ。」
「そうですか。――そういうことなんですか。わたしは、また……」
「おまえ、何か聞いたことでもあるのか。」
「いいえ、聞いたってほどのことでもありませんが、玉岡先生に会ったら……」
「玉岡――」
玉岡という名まえといっしょに、次野はペッと舌をはじいた。
「玉岡は、なんと言っていた。」
杯を下に置いて、どなるように彼は言った。
「おい、なんと言っていたのだ。いいから言え。玉岡は、なんと言っていたのだ。」
「玉岡先生は、たいへん、先生に同情しておりました。」
「なにい! 同情していた。ふうん。――そんなことより、ほかにまだ、なんか言っていたろう。」
「…………」
「言え。隠すことはない。おれも知っていたほうがいいんだ。」
「……先生は、資格のことを言っていました。」
「資格? あいつが教員資格のことを言っていたのかい。うははは、笑わせやがる。あ、あいつが、そんなことを言うとは。うはははは。」
次野はトックリをもちゃげて酒をついでいたが、酒のこぼれるのもかまわず、からだをゆすぶって大笑した。
「なるほど、さすがは玉岡先生だ。玉両先生でなくっちゃできない芸当だ。おれは、無資格者、玉岡先生の健康を祝して、杯をあげるよ。――玉岡先生、ばんざい。うはははは。」
「…………」
「ついでに、無資格者、次野先生……――おや、おや、酒がなくなっちゃった。おれのほうは『ばんざい。』と言うわけにはいかんわい。――おーい、おかわりだ。」
次野はトックリの底で、テーブルをたたいた。
「おい、なんだって、引っこんでいるんだ。新しいのをつけて、こっちへやってこい。そうして陽気におしゃべりでもしろ。」
「もう、あなた、いいかげんになさいましよ。」
台どころのほうで奥さんが答えた。思いなしか、奥さんの声はくもっていた。
「今夜は、おれの教員生活におわかれの宴だ。けちなことを言わないで、もう一本つけろ。――畜生、バカにランプが暗いな。おい、し《・》ん《・》を少し出してくれ。」
吾一はにじり寄って、台ランプのしん《・・》をひねった。
「驚きましたね。玉岡先生が無資格だとは……」
「驚くことはないさ。あいつは、そういうやつなのだ。」
「でも、わたしには文部省のわる口を言っていたんですからね。」
「そりゃ、あいつは文部省のわる口を言うだろうよ。なんど検定を受けたって、通ったことがないんだからな。」
「そ、それでいながら、先生たちを追い出して、自分ひとり、すずしい顔をして……」
「何も玉岡ひとりで、やったことでもないだろうさ。」
「しかし先生。ぼくにはどうしてもわからないんですが、……校長排斥っていうのに、校長はもとのままだし、月謝ねあげ反対っていうのに、月謝は値あげになっているじゃありませんか。あれで、どこに騒動を起こした意義があるんでしょう。」
「いや、あれで、あの連中には、ちゃあんと算用が合っているんだよ。それぞれねらっているところに、もぐりこんだじゃないか。――月謝なんか、自分たちが出すものじゃない、生徒から取りあげるものだからな。」
「でも、あんなぼろ学校の役員におさまったって……」
「はははは。トンビの舞う下にはかならずえ《・》もの《・・》あり、金の動くところには利権ありさ。――おい、酒はどうしたんだ、酒は。」
次野はまた大きな声で催促した。
花が散って、花のあとから、柔らかい葉が若わかしく伸びあがる季節になった。
吾一は仕事が忙しかったため、久しく先生をたずねなかったが、きょうは工場が休みなので、評判の上野の博覧会にも行かずに、次野のところへ出かけて行った。
玄関に立つと、先生の大きな声が、そこまで聞こえてきた。こいつは悪いところへぶっつかったな、と吾一は思った。
「どうしてきさまはそうわからないのだ。」
「わからないのは、あなたじゃありませんか。これじゃどんなことをしたって、やってゆけようが……」
「だから、さっきから、おれは言っているじゃないか。おれを信用しろと言うのだ。」
「そんなことをおっしゃったって、あたしが言うのは……」
「ええっ、わからないやつだな。これだけ言ってもわからなければ、かってにするがいい。」
ガラッと、から紙があいたと思うと、次野が玄関に飛び出してきた。
吾一はあわてて戸ぶくろのかげに隠れようとしたが、目ざとく次野に見つかってしまった。
「愛川じゃないか。なんだって、そんなところに立っているんだ。」
吾一は返事ができないで、下を向いたまま、あたまをかいていた。
「愛川、少し散歩しよう。きょうは天気がいいから。」
「はあ。――」
「うちの中にくすぶっているよりも、そのほうがずっと気もちがいい。」
次野はそう言いながら、帽子もかぶらずに、すたすた歩きだした。
先生がうちにいたくない気もちは、吾一にも、だいたい察しがついていた。おそらくは、このあいだ学校をやめさせられたことが、大きな原因になっているのだろう。
「世をあげてみな濁り、われひとりすみたり。
衆人みな酔うて、われひとりさめたり。」
次野は歩きながら、屈原(くつげん)の「漁父(ぎょふ)」の中の一節を、口ずさんでいた。
「先生。」
「う 。」
「いま、フジはどうでしょう。」
「ちょうど、まっ盛りだろうな。」
「それじゃ亀戸(かめいど)へ行ってみましょうか。天神さま。」
「フジ見にか。――それも悪くはないが、少し遠いな。」
「遠いたって、先生、たいしたことはありませんよ。この辺をぶらぶらするんなら、思いきって行ってみようじゃありませんか。」
吾一はなんとかして先生を慰めてあげたいと思った。あれ以来、先生は心身ともに疲れているに相違ないのだ。さいわい、給料をもらったばかりなので、ふところにいくらか持っていたから、彼は熱心に勧誘した。
次野はあまりすすまなかったが、しかし、このままうちへ帰って、女房と顔をつき合わせるのは、もっとたまらなかった。彼はずるずるに、吾一のことばに同意した。
「じゃ先生、お宅へ帰って、帽子を取ってきましょうか。」
「いいや、これでいい。これでいい。」
次野はあたまをくるりと、一つなであげた。
ふたりは、電車のあるところは電車を利用し、あとは歩いて、亀戸の天神さまへ行った。
おもて門をはいると、たいこ橋が、行く手をさえぎるように、人の背よりも高く、そり返っていた。
「こりゃずいぶん、急だな。渡れますかね。」
「渡れん橋はかけとかんだろう。」
ふたりは手すりにつかまって、たいこ橋を渡った。
たいこ橋を二つ渡ると、楼門があって、そのさきが拝殿である。拝殿の正面にすえてある、おさい銭バコに梅バチの紋が大きく光っていた。
天神さまに参拝して、それから有名な白牛石や、塩原多助の奉納したという燈ろうなど見て、池のはたの茶みせにはいって行った。茶みせの出ているところは、どこもフジの花が見ごとに咲いていた。
フジだなは大部分、池の中に突き出ているが、岸のほうに伸びているところも少なくない。その下に縁台が置いてある。ふたりはそのフジだなの下に腰をおろした。
立つと、顔にさわるほど、花ぶさがたれさがっている。長いのは四、五尺もあるだろう。それが一面に咲きそろっているのであるから、普通の形容から言ったら、紫の雲が天上からおりてきたようだ、とでも言うところだが、吾一はそんなふうには感じなかった。彼はきれいな花ぶさがほおにさわった時、ふと伊勢屋を思いだした。伊勢屋の店さきに、ところ狭いまでにつるしてある、客よせの友禅のメリンスが、ちらと、あたまをかすめた。どちらも美しくたれさがっている点に、そういう連想が浮かんだのかもしれない。しかし、彼は小僧の時分、店の出はいりに、あたまやほおをこすられた、あのひやっとするメリンス友禅のはだざわりが、どこかこれに似ているように思えてならなかった。
先生には、まず何よりもお酒をすすめた。彼は酒は飲めないから、所の名物の、クズもちをほおばった。
先生はちびりちびりやっていたが、いつものような元気がなかった。
「先生、おしゃくをしましょう。」
「う、う 。」
「なんか、あがるものがなくっちゃいけませんね。おでんでも取りましょうか。」
「いや、食うものはいらん、これさえあれば。」
次野はしずかに杯をなめていた。
「きょうは、先生、沈んでおいでですね。」
「そんなことはない。しかし、さっき少し女房とやり合ったのでな。」
「それは先生、奥さんがお悪いんじゃありません。学校が悪いんです。学校があんな卑劣なことをするから……」
「もう学校のことなんか言うな。」
「けれども、ぼくはくやしくってたまらないんです。先生、いったい、学校ってものが、あんなでいいんでしょうか。」
「よくっても、悪くってもしかたがないじゃないか。これが世の中だ。――愛川、今度のことをようく覚えておけ。けっして人ごとだと思うなよ。これが世の中だ。世の中って、こういうものなのだ。ぼんやりしていちゃだめだぞ。人をたよりにするなよ。たよりになるのは自分だけだぞ。いいか。人間はひとりだ。どんづまりは、ひとりっきりだ。」
「しかし、先生には奥さんやお子さんがおありになるじゃありませんか。」
「そんなふうに考えるのは、甘い人間のことだ。――もちろん、女房はおれのことを考えている。子どもも大きくなれば、そうだろう。しかし、いくらおれのことを考えてくれたって、それは結局、おれじゃないんだ。わからなかったらな、愛川、人間の生まれる時のことを考えてみるがいい。生まれる時も、死ぬ時も、人間はいつもひとりだ。どんづまりは、いつもそこだぞ。」
「先生のおっしゃることは、わたしには、まだよくわかりません。」
「そうだな。こんなことは、あんまりわからんほうがいいかもしれないな。――しかし、そこに徹した時、人間は、はじめて強くなれるんだと思う。人間が人間として、ほんとうに生きなくっちゃならないんだという気になってくるんだ。」
「…………」
「おまえは学校のやつらを卑劣だと言う。そりゃ卑劣にちがいないだろう。けれども、そんなことは末の末だ。あいつらを悪党だとか、悪党でないとか言う前に、おれは根本をまちがえていたのだ。おれはおれのやることをゆるがせにしていたのが、そもそものまちがいだったのだ。おれはやるぞ。おれはこれから、おれの道をまっすぐに歩いて行く。」
「…………」
「自分の信ずる道をひた走りに走らないやつは、生きることを知らないやつだ。ところがな、おれがそう言うと、女房は反対するのだ。女房には、まるっきり、おれがわからないのだ。――おれも今までは、女房や子どもにひかされて、やりたくもない教師生活をやっていたのだが、そういう二重生活が、すっかりおれを殺していたのだ。第一義をなおざりにして、女房や子どものために働いたって、どれだけ家庭に幸福をもたらしたというのだ。ただ『教務改善ノタメ解職ス』という薄っぺらな紙きれをもらっただけじゃないか。それだからと言って、おれはけっして学校をうらまない。これでいいのだ。この紙っぺらのおかげで、おれもはじめて目がさめたのだ。ただ一つ困るのは、女房がおれを理解しないことだけだ。おれが文学に専心する時、おれも生き、女房や子どもも生きられるのだということが、どうしても、あいつにはわからないのだ。けれど、女房がなんと言ったって、おれはやるぞ。この道がどんなに苦しくったって、おれはおれの道を行くのだ。」
語っているうちに、次野はいつか持ちまえの熱が出てきて、気勢はだんだんあがるばかりだった。やがて話は文学論にうつり、続いて当代の文士評に飛び、有名な人びとを片っぱしから、こきおろしはじめた。
「だんな、だいぶ上きげんですね。」
茶みせの婆さんが、新しいおチョウシを持ってやってきた。
「フ、フジの花が池にうつっているのを見ながら、一杯やるのは悪くないからな。」
「そう言っていただくと、わたしのような年よりはうれしくなります。」
「それになあ、おばあさん。きょうはこいつが、おれにごちそうをするって言ってきかないのだ。こいつは、こないだまでは、ちっぽけな、こ、こんな、ちっぽけな小僧だったんだよ。昔、おれが小学校で教えたやつさ。それがおまえ、かわいいじゃないか、お、おれにごちそうするって言やあがるんだ。フジの花で、一杯おあがんなさいって言うんだ。うれしいじゃないか。よ、酔っぱらうのは当たりまえだよ。――ときに、おばあさん、景気はどうだい。」
「ごらんのとおりでございます。」
「こ、こんなにフジが咲いているのに、どうしたってわけなんだ。」
「たぶん、みんな博覧会に行くんでしょう。当節はああいうものでなくちゃ、はやりません。フジの花を見て楽しむなんて人は、だんだん少なくなるばかりです。以前には、ここでよく連歌(れんが)の会なんかやったものですが、……」
「ほう、連歌をね。」
「それから、ちょっとお休みになっても、俳句や俳画をさらさらと書いてくだすった、風流なお方がずいぶんあったもんですが、今じゃ、あなた、画帖(がじょう)なんか出しておけませんよ。いたずら書きばかりされてしまって……」
「そうかね。そんなに変わったかね。それじゃおばあさん、いい画帖を持っているだろう。」
「へえ、有名なお方に書いていただいたものを持っております。」
「それを一つ見せてもらおうか。――なんなら、一筆かいてもいいぜ。」
「へえ?――」
「まあ、持っておいでよ。」
「えへへへへ。――ありがとうございます。」
おばあさんはひざの前で、手じな使いのように、持っていたおぼんを裏にひっくり返したり、表にひっくり返したりして、次野の服装をまじまじと見ていたが、もう一度「えへへへ。」とうす笑いを残して、料理場のノレンのうしろに消えてしまった。
たぶん、フジだなから落ちたのだろう、当代の文士をばとう《・・・》していた次野先生のひざの前を、ケムシが一匹、のそりのそりはっていた。
吾一はその場を、なんと取りつくろっていいか、しばらくことばが出なかった。
五十銭銀貨
「おい、小僧、こんなのじゃねえ、美人の絵はがきを出せよ。」
「あの、そういうのは……」
「なあんだ。万竜(まんりゅう)も照葉(てるは)もねえのか。」
「東京名所の十二枚つづき、買っておくれよ。」
「バカにしやがれ。いなか者じゃあるめえし、東京名所なんか買えるけえ。」
「しようがねえな、こんなのばかりじゃ……」
子どもの売りにきた絵はがきをひやかしていた連中は、炊事場からぞろぞろ出て行ってしまった。
吾一は、あい変わらず、おそくおりてきたので、炊事場のすみで、ひとりで弁当をたべていた。
「絵はがき買ってください。」
子どもは吾一の前にやってきて、絵はがきを突きつけた。
「いらないよ。」
「そんなこと言わないで買ってください。きょうは、まだ一つも売れないんですから。」
吾一は返事をしないで、ハシを動かしていた。
「おい、押し売りはだめだよ。しつっこいことをすると、ここへは入れてやらないよ。きょうは、もうお帰り。」
炊事場のじいやが、さとすように言った。しかし、少年はもじもじしたまま立っていた。れんじ窓からさしこんでくる光が、少年のやせたほおに黒いしま《・・》をなすりつけているのが、彼の顔を一層もの悲しく見せた。
吾一は、この少年のしょんぼりした姿の中に、過ぎし日の自分を、ふと、思い浮かべた。
「君は学校へ行ってないのかい。」
「ええ、今、やめているんです。」
「そうか。そりゃ気の毒だな。――君が持っているのは、絵はがきだけかい。」
「あとは、手帳と鉛筆ぐらいです。」
「それじゃ手帳でも買ってあげよう。ちょっと見せてごらん。」
少年は肩からさげている、古ぼけたズックのカバンを、ぐるっと前へまわして、四冊、手帳を出した。
吾一は手に取って見たが、どれも気に入らなかった。しかし、その中の一冊をさして、聞いた。
「これ、いくらだい。」
「十五銭です。」
「十五銭! だいぶ高いね。」
実際、それは普通の手帳の倍くらいの値だんだった。吾一は買うのをよそうかと思ったが、子どもがかわいそうだったから、しぶしぶ、ふところからガマ口を出した。しかし、ガマ口をあけてみると、あいにく、小ぜにがなかった。
「おやおや。こりゃだめだ。きょうは、こまかいのがないから。――あした、おいで。あした、買ってあげよう。」
「そんなこと言わないで買ってくださいよ。きょうは、なんにも売れないで、困ってるんですから……」
「君、おつり持ってるかい、五十銭で。」「おつりはないんですけれど……」
「それじゃ、しようがないじやないか。」
少年はちょっと困った顔をしたが、ひょいと、ちいさい手を前に出した。
「大きいのをください。そとへ行って、取りかえてきます。」
「はははは。なかなか商売熱心だな。じゃ、五十銭わたすよ。いいかい。」
「ええ、大丈夫です。」
少年はツバメのように、飛び出して行った。
「このごろの子どもは利口なもんですね。」
「全く、商売じょうずになった。」
吾一はおつりを待ちながら、じいやと話をしていた。しかし、少年はなかなか帰ってこなかった。
じいやは、はしら時計を見あげた。まもなく午後の仕事のはじまる時間だった。
「もう帰ってきそうなもんですがね。」
「ほんとうに、どこまで行っちまったのかな。向こうがわの、かどのタバコ屋にでも行きゃ、わけはないんだのに……」
「五十銭ですから、どこへ行ったって、すぐ、くずせるんですがね。――おやおや、とうとう『半』になっちまった。」
もう一度、時計を見あげたじいやは、手のついた大きな鐘を持ち出して、ジャランジャラン振りはじめた。
「それじゃ、おじいさん、おつりを持ってきたら、預かっといてください。」
「ようがす。――だが、今まで持ってこねえようじゃ、すこし、あぶねえね。」
「いや、子どものこったから、まさか、そんなこともないだろう。」
吾一はそう言って、二階の仕事場へ帰って行った。
人を疑うのは悪いと思いながらも、彼は、じつは、じいやと同じ不安を感じていた。
彼は仕事をやっていても、それが気になって、なんとなく不愉快だった。金のほうはともかくとして、あんな子どもにしてやられたと思うと、しゃくにさわってたまらなかった。
――いや、こんなふうに思っちゃ、あの子がかわいそうかな。おれがこっちへきたあとで、ひょっとすると、じいやのところに持ってきていないとも限らない。
彼はできるだけ、そう思うようにつとめていた。
終業の鐘が鳴ったので、吾一は炊事場におりて行った。
「おじいさん、持ってこなかったかね。」
「え、とうとうやってきませんや。」
「そうか。――ひどいやつだな。」
「全く、油断もすきもなりませんね。」
「あれは、どこの子ども?」
「とんだことをしちまったね。こんなことなら、聞いときゃよかったんだが、つい、うっかりしちゃって……」
「おじいさん。」
吾一は少しせきこむように言った。
「あいつ、両替(りょうがえ)に行く時、自分の持ちものを置いて行かなかったかしら。」
「それですよ。わたしも、あるかと思ってね、そこらじゅう捜したんだが、――考えてみると、カバンをこう肩からさげていましたよ。だから、さげたまんま、逃げちまやがったんですね。」
「なるほど、そう言えば、肩からおろさなかった。」
「ほんとに、申しわけがありません。わたしが悪いんですよ。あんな子を入れたもんですから。」
「あれは、はじめて売りにきたやつかしら。」
「ええ、そうなんですよ。親が病気で困ってるって言うもんだから、かわいそうに思って、入れてやったんですが、……」
「そんなことを言っちゃ、はいってくるんだ。よくある手さ。」
それでも、さっき買った手帳だけは、そこに残っていた。吾一はそれを取りあげて、わけもなく、ばらばらとめくった。ざらざらした、悪い紙のにおいが、ぷうんと鼻を突いた。
「しかたがない。まあ、こいつを五十銭の手帳と思うんだね。」
彼は寂しく笑った。笑いといっしょに、のどの奥のほうから、にがいものがこみあげてきた。
学校へ行く時間がせまっていたが、彼は立ちあがる気がしなかった。必ずしも手帳のことで気をくさらせたわけではない。このごろ、彼はともすると、学校を休みがちだった。例の騒動があって以来、だんだん学校に興味を失ってきたのだ。前には学校、学校と、学校をこの上もない、ありがたいところのように思っていたものだが、そういう熱がだんだんさめてきたのである。
彼は学校がつまらなくなると同時に、学問に対しても熱が持てなくなってきた。学問そのものを否定するわけではないけれども、学校で教えるようなことをこつこつ習ったところが、なんになるんだ。そういう考えが、最近、強くあたまをもちゃげてきたのである。親から月謝を出してもらっている人たちなら、あれでいいのかもしれないが、自分のような者には、今の学校ではものたりない。少なくとも、いちんち、まっ黒になって働いて、しがない日給を取る者が、その血の出るような金をおさめて、わざわざ聞きに行くようなし《・》ろもの《・・・》ではない。ほんとうは、こういう者にこそ、いい講義を聞かせてくれなくっちゃば《・》ち《・》が当たると思うのだが、不思議なことに、こういう血の出るような月謝をおさめる者のためには、一つもいい学校が開かれていないのだ。学問をすると言ったところで、これでは何ができるものか。
「ああ、こんな時、黒田さんがいてくれるとなあ!」
吾一は自分の考えが行きつまると、よく黒田のことを思いだした。しかし、黒田には印刷所にはいったあと、二、三度あったきりで、その後どうしたのか、全く消息がなくなってしまった。彼は思いきって、ある日、根津の家にたずねて行ったが、あのおかみも、もうどこかへ引っ越してしまっていた。あれだけの人だから、きっと名の出ないはずはないと思って、新聞や雑誌も気をつけて見ているのだが、いまだに黒田の名は見あたらなかった。
こんな時、黒田がいたら、
「何をぼやぼやしているんだ。」
なんて、どやしつけられるだろうが、同時にまた、なんかいい知恵を貸してくれるに相違ない。おれのような、おそまきな者が、まどろっこしい学問をやったって、どうせ人のしりにしかついていけないのだ。もっと手っ取り早い道はないものかなあ!
ほんとうにあの人がいないのは残念だ! ――どうしておれのそばから、こういい人がいなくなってしまうのだろう。黒田さんもそうだし、稲葉屋のおじさんもそうだ。あたまをなでてくれると思っているうちに、いつのまにか見えなくなってしまうのだ。それから、おとっつぁんも、と思いかけたが、彼はそのさきを、しいて考えないことにした。
次野先生はいるけれども、どうも先生はこういう問題には不向きだった。
「おれもしっかりやるから、きさまもしっかりやれ。」
そう言って元気はつけてくれるが、実際問題となると、先生はあまり、世わたりがじょうずのほうじゃない。大事な妻子さえ養いかねている始末だ。先生としては、しっかりやっているのに相違ないだろうが、あれじゃ相談したところで……
「かえってきましたよ。かえってきましたよ。」
突然、じいやがとんきょうな声をあげた。
顔をあげると、じいやは背のびしながら、れんじ窓に顔を押しつけていた。
「なに、かえってきた?」
吾一も立ちあがって、そとを見た。
なるほど、筒そでの少年がひとり、裏ぐちのところをうろうろしていた。しかし、それはさっきの少年ではなかった。
「おじいさん、ちがうよ、あれは。」
「ちがいますかね。――よく似てますがね。」
じいやは、しょぼしょぼした目を指の先でこすっていたが、なお窓から離れなかった。彼は少年に声をかけた。
「おーい、なんか用かい。」
「…………」
「なんだって、そんなところ、うろうろしているんだい。用があるんなら、こっちへおいで。」
少年は走ってきた。そして、建てつけの悪い炊事場の戸を半分あけると、戸の向こうから恐る恐る言った。
「あのう、――さっき、手帳かってくれた人、いませんか。」
「手帳を買った人。そんなら、このにいさんだ。」
じいやは吾一のほうを指さした。
少年はつかつかと、吾一のそばにやってきた。
「はい。さっきのおつり。」
彼はちいさな手を、吾一の前に突き出した。手のひらの上には十銭銀貨が三つと白銅が一つ、宝石のように輝いていた。
吾一はいきなり胸ぐらを取られたように、息ができなくなってしまった。ちいさな子どものやせ細った腕が、彼の目には、いかに、たくましく映ったことか。彼はしばらく、ことばが出なかった。
「おまえはなんだい。さっき売りにきたのは、おまえじゃないじゃないか。」
じいやがわきからことばをはさんだ。
「うん、にいちゃんがこられないから、おれが持ってきたんだよ。」
「ああ、そうか。じゃ、さっきのは、おまえのにいさんか。どうして、にいさんがこられないんだい。」
「にいちゃん、けがをしたんだよ。」
「なに、けがをした。ど、どうして、けがをしたんだ。」
吾一はびっくりして、少年を見つめた。
「自転車に突っかけられたんだってさ。往来を突っ切ろうとしたら……」
「それじゃ、両替に行った時に、やられたんですかね。」
じいやが言った。
「そうにちがいない。とんだ目にあったもんだな。――で、にいさんのけがは、どのくらいひどいんだい。」
「血が出ないから、そんなじゃないんだろう。足をやられたんだよ。」
「うちに寝ているのかい。」
「うん、突き飛ばした人が、おぶってうちへつれてきてくれたんだ。」
「そりゃ気の毒なことをしたな。それじゃ、それは、いらないよ。うちへ持ってお帰り。」
吾一は突き出している少年の手を、向こうへ押しやった。
騒動を起こしてでも、なかまを失職させてでも、うまいしる《・・》を吸おう、利権をむさぼろうという世の中に、けがをした少年が、おつりを届けてよこすとは、なんという心がけだろう。彼は目の中が熱くなってきた。
「ううん、だめだよ。返してこいって言われたんだから。」
少年は押し返された手を、また吾一のほうに突きもどした。
「君たちはなかなか堅いな。――それじゃ、おつりはもらっておこう。」
吾一は少年の手から銀貨を受け取った。
「ところでと、君のうちは遠いいのかい。」
「ううん、そんなでもないよ。」
「じゃ、ぼくを案内してくれないか。君のにいさんを見まってやりたいのだ。」
「いいよ、そんなこと。」
「はははは。君はいいかもしれないが、ぼくはそれじゃ気がすまないのだ。まあ、そんなことなんて言わないで、いっしょに行ってくれよ。」
吾一は少年をすかして、いっしょに工場を出た。
「君は、おとっつぁん、ないのかい。」
「うん。」
「そして、おっかさんは病気なの。」
「うん。もう、ずいぶん前から寝ているんだ。」
「そうか。――」
吾一は思わず、ため息をついた。母の病気まで疑ったことを、彼は心から恥ずかしく思った。
「それで、君のにいさんが働いてるのかい。」
「うん。」
「もっと大きいにいさんはいないのかい。」
「いるけれど、遠いところへ行っているんだ。」
「遠いところって、どこだい。」
「どこだか知らないや。ねえさんに聞いても、言わないんだもの。」
「ねえさんがあるのか。」
「うん。」
吾一はせんべい屋の前で立ちどまった。彼はそこで塩せんべいをひとふくろ買った。
「すまないが、君、これ持ってってくれ。そうして、にいさんにやってもらいたいんだ。」
遠慮する少年に、彼はせんべいの包みを渡した。
少年の家は七、八町ばかり行ったところの、寂しい裏どおりの、そのまた路地の奥だった。
「行ってきたよ。」
少年は大きな声を出して、うちの中へ駆けこんで行った。吾一はとり残されたように、入り口に立っていた。と、乱雑にぬぎ捨てられている子どものゲタのあいだから、ボタン色のはなおが、ぱっと目に飛びこんだ。もうだいぶ、はき古されたものらしいが、でも、それが暗い土間にあたたかい色を浮き出させていた。
だれか出てくるかと思っていたけれども、だれも出てこなかった。出てこなくってもいい。……彼はそう思って、そのまま帰ろうとした。その時、不意に、彼の前に手をついた者があった。
あいさつもせずに手をつかれたので、吾一はどぎまぎして、彼もまた、ぴょこりと、あたまをさげた。そうしたら、先方はさらに丁寧にお辞儀を返した。
たぶん、この人がさっき少年の言った、ねえさんなのだろう。お辞儀をしているので、顔は見えないが、あたまのトキ色の根がけが、シャクナゲの花のように、におっていた。
吾一は、弟のけがの見まいを言おうと思ったが、どういうものか、ちっともことばが出てこなかった。下を向いたまま、ただ突っ立っていた。娘のほうもあたまをさげたままだった。が、それでいながら、こっちの心もちも向こうに通じたような気がするし、向こうの気もちも、彼にはよくわかっていた。
「さようなら。」の意味のお辞儀をもう一度して、彼はしずかに、そこを去った。
彼は夢の中を歩いているような気もちだった。なんだか知らないが、妙にわくわくして、足がちっとも、土につかなかった。ふらふらと路地の出ぐちまで行ったが、彼は急に何かを思いだしたように、ひらりと、また、もとへ取って返した。
娘は土間におりて、子どものゲタをなおしていた。
「あの……ちょっと、お尋ねしますが……」
吾一は、つかえながら言った。
「お宅で二階をお貸しになるんですか。」
戸ぶくろに「カシマ アリ」という張りふだがあったことを思いだして、彼は引き返したのだった。
彼は一人まえの日給が取れるようになった時から、じつは、どこかに間借りをしたいと思っていたのだ。しかし、その時分は、上の学校にかようつもりだったから、月謝の金もいるし、いくらか、たくわえもしておかなければならないと思い返して、工場のきたないへやで辛抱していたのだ。けれど、このごろのように、学校にたいして熱がなくなってくると、何もあんなところに、いつまでも我慢していることはない、という気になっていた。で、どこかに間借りをするなら、手帳を買ってやったいんねん《・・・・》もあるし、……と、彼は、ふと考えたのである。
「ええ、きたないんですけれど、……」
娘は顔を赤らめながら、かすかに答えた。
「ちょっと、見せてくれませんか。」
「どうぞ。――」
彼女は座しきにあがって、二階のへやを指さした。
はしご段というものは、どこのうちのでも、斜めにかかっているものだが、ここのは、火の見のはしごのように、まっすぐに立っていた。吾一はそれを見て、ちょっと、胸をつかれたが、一段、一段、はしごのさん《・・》につかまりながら、やっと上へあがった。
二階と言っても、それはほんとうのやね裏で、畳が四枚半しいてあるというだけのものだった。南と北とに、明かり取りの窓がなかったら、とても人間の住めるところではない。
なるほど、娘さんの言うとおり、これはひどいところだと思った。しかし、とにかく、彼女もあがってきて、へやの説明ぐらいしてくれるだろうと思って、彼はしばらく暗いへやの中に立っていた。が、彼女はあがってこなかった。
窓から見ると、黒いやねがいくつも波のようにずうっと続いていた。そのやねの向こうに、金星が光っていた。
彼はまたさん《・・》につかまりながら、はしごをおりた。はしごの下のところに、娘は恥ずかしそうに立っていた。
「ひどいところですから、とてもお気には入らないでしょう。」
向こうから、こうはっきり、言われてしまうと、「ええ、そうですね。」とは、どうも言えなかった。それに、この家の暮らしのことを考えたり、弟がけがをしたのに、そのなかで、おつりを返してよこしたことを思ったりすると、ヘやは気に入らなくっても、自分が借りてやらないと、どうも娘に気の毒のような気もちがしてきた。
間代(まだい)を聞くと、間代もあまり安くなかった。しかし、彼は金星の見えたへやが、なんとなく捨てがたかった。彼はその場で手金(てきん)を渡して、借りる約束をしてしまった。
荷物というほどのものを持たない彼は、その翌日の夕がた、さっそく、そのやね裏に引っ越した。
夜具は奮発して、できあいの新しいのを買った。ふとん屋が夜具をかつぎこんで帰ったあと、もよおしていた空が、とうとう小さめになった。
天じょうの低いやね裏のへやでも、これが自分の住まいときまると、彼はなんとも言われないものに打たれた。彼は生まれてはじめて、自分のへやを持ったのだ。
今まで歩いてきた道のりを思うと、おれもずいぶん、歩いたもんだなあ、と思わないではいられなかった。そしてこれからも、また、遠い遠い道を歩かなければならないのだ。これはほんのこかげ《・・・》のひと休みだ。でも、だれにも気がねをせずに、足を伸ばせるところができたことが、彼にはひどくうれしかった。あたまの、すぐまうえで、雨の音がしていた。
「ああ、いい雨だな。」
まだ積みっぱなしになっている新しいふとんに、彼はぼんやり、よりかかっていた。どこからともなく、いいにおいがただよってきた。
それは香(こう)のにおいだとか、香水のかおりとかいうような、そんなぜいたくなものではない。せんたく《・・・・》したてのゆかたのような、なんか家庭的なにおいだった。すっぱいような、眠たいような、……少しどぎついけれども、それだけに、ひどく新鮮な感じだった。彼はなんども、くんくん鼻を動かしてみた。しかし、彼の貧しい感覚では、それをかぎわける力がなかった。むせるような、そのにおいの中にひたりながら、彼はいい気もちで、ふわふわするふとんによりかかっていた。
目の前に、ぽうっと、下の娘の姿が浮かんできた。下を向いて、黙って手をついている。黒かみの中に、トキ色の根がけが、うっすり浮かんでいる。おれはあの色を見た時、すぐシャクナゲの花を思いだしたが、それは根がけの色からきた連想だけではないようだ。下の娘さんは、もの腰といい、顔かたちといい、どうもシャクナゲの花そっくりだ。ひと知れず山おくに咲いているという感じで、どこにもけばけばしいところがない。おきぬのような思いあがった女とは、およそ色あいがちがっている。それでいて、おきぬに劣らないほど美しいのだ。下を向いている姿の、なんという、しとやかなことか。――と、下を向いて、黙っている人は、いつのまにか、針しごとをしているおっかさんの顔になった。おっかさんの顔が、また、いつのまにか、下の娘になった。
「愛川さん。」
不意に少年の声が聞こえた。
イガグリあたまが二つ、お供えのようにかさなって、はしご段のところから首を出していた。
「おいで。」
吾一が呼ぶと、ふたりの少年はころがるように、へやの中にはいってきた。
「君、足はどうした。」
彼は兄のほうに向いて言った。
「まだ、動くと痛いや。」
「それじゃ、二階にあがってきちゃだめじゃないか。」
「でも、愛川さんの顔がちょっと見たかったから。」
「はははは。それなら、ぼくが下へ行ってやったのに。」
「ううん、あがってくるほうがおもしろいんだよ。――愛川さんがきて、ぼく、ほんとうにうれしいや。」
「無理をしちゃいけないぜ。――しかし、ひどい目にあったなあ。」
「大丈夫だよ。ちょっと、くじいただけなんだから。」
「だが、君はえらいね、けがをしたのに、おつりを返してよこすなんて。とても、ほかの人にはできないことだよ。」
「ううん。あれはぼくがしたんじやない。ねえさんが返さなくっちゃいけないって言ったんだよ。」
「ああ、そうだよ。ねえさんがそう言ったから、おれ、返しに行ったんだ。」
弟もいっしょになって答えた。
「そうか。ねえさんがそう言ったのか。――」
人の前では、ろくに口もきけないような娘なのに……と、吾一は思った。娘の顔が、また、ぼうっと、目の前に浮かんだ。
「ああ、なんだか、このへや、においがするね。」
と、弟が言った。
「う 、さっきから、におっているのだ。下でなんか焼いているんじゃない。」
「ううん。そんなことないよ。」
兄が答えた。
「おれ、一。――大将っと。」
弟は急にふとんの上に飛びあがった。そして、まっすぐに突っ立って、がいせん将軍のように右手で敬礼のまねをした。
「英ちゃん、新しいふとんの上にのるんじゃないよ。」
「ドカーン!」
弟は大砲の音をさせると、いきなり、ふとんの上に、どたあんと倒れた。
「あっ! ふわふわしてるなあ。つきたてのもちみたいだ。」
「はははは。つきたてのもちはいいな。」
弟はふとんの上に腹ばいになりながら、両あしをばたばたさせて、泳ぐまねをしていたが、突然、大ごえで叫んだ。
「これだ。これだ。このにおいだよ。」
お月さまは、なぜ落ちないのか
恋愛は眠りなり。恋愛は夢なり。さあれ、君もし恋したりせば、君は生活したるなり。
ミュッセ
吾一は寝る前に、格言とか、有名な詩句を、――ときには、その一節を、毎晩かならず一つずつ書くのが、もう、なんねんとなく、彼の習慣になっていた。
それは酒ずきの人が、寝ざけをやるようなものだった。とこにはいる前に、名句や金言を書きつけると、その日の疲れが、それによって、すっかり洗いきよめられ、あすの労働に対する新しい元気が約束されるような気がするのである。よいことばはアルコールなぞよりも、はるかに人を酔わせる力がある。しかも、ふつか酔いの心配は絶対にない。
今夜は、吾一は、金言集の中からミュッセのことばを見つけて書いた。ミュッセと言ったところで、それはどういう人だか、いつ時代の人だか知らないのであるが、とにかく気に入ったことばがあると、さっそく書きつけるのである。
書きつける名言佳句は、その日、その日の気もちで選ばれるものであるから、千差万別である。「勤勉」「努力」といったふうのものや、「天下」「国家」に関するものがあるかと思うと、「花」の詩があったり、短い俳句一句だけのこともあったりする。まことに、てんでんばらばらではあるが、しかし、丹念に手帳をめくってみると、その中には、おのずから時代の色が出ており、生活の影が浮きあがっている。戦争の最中には、愛国的な文句が多く、成り金が続出した時には、立身出世に関するものが幅をきかせている。金言とか、格言とかいうものにも、世の中の動きにつれて、やはり、はやりすたりがあるようである。
なかには、今ならこんな文句は選びゃしないと思うようなものもあったが、その時には、それにもなんかの実感があったのだろう。総じて、心のゆるんだ時に書いたものは、たるんだ格言が多く、張りきった時のものは、いま見ても血をたぎらせるものがあった。金言の抜き書き帳が、そのまま自分の生活の記録になっていることを、彼は恐ろしく思った。吾一はぱらりぱらり手帳をめくっていたが、きょう書いたミュッセのことばを思いだすと、ひとりでに微笑が浮かんだ。
「ごめんなせえ。もう、おやすみですか。」
知らない男がのそりのそりあがってきた。
「おやすみでなかったら、ちょっと、ごあいさつをしてえと思って……どうも、るすちゅうは、いろいろお世話さまになりまして……わたしは、およねの兄でございます。――」
その男は丁寧に畳に手をついた。頭をさげる時、黒ずんだまぶたの奥で、目がぎょろっと光った。
「どこか遠いところにおいでになっていたのだそうですね。」
吾一もお辞儀を返しながら言った。
「よんどころねえことがあって、長らくうちをあけましたが、これからは、なにぶん心やすくお願いいたします。」
その晩は初対面だったので、あまり話もしなかったが、この兄の得次も、彼と同じように文選工であることが、あとになってわかった。そして、彼は今、そのほうの口を一生懸命に捜しているらしかった。しかし、去年のガラ以来、どこも不景気なので、なかなか就職ができなかった。
ほんとうのことを言うと、彼はどうもこの得次が好きになれなかった。初対面の時の、あのぎょろっとした目の光が、彼にはいつまでも、うす気味わるく残っていた。あるいは、やせて、ほお骨がとがっていることが、彼の顔をけわしく見せているのかもしれない。しかし、話をしてみると、人物がしっかりしていて、悪い人間とは思えなかった。年は彼よりも、四つ、五つ、上なせいもあるが、職工にしては、じつにもの知りで、ときどき、頭をさげさせられるようなことがあった。だが、どういうものか、彼と親しむ気にはなれなかった。
けれども、この得次がぶらぶらしていたら、この一家は立ちゆくわけがない。ことにおよねの苦労はひと通りではなかった。吾一はそれが気の毒でならなかった。吾一は得次のためと言うよりは、およねのために、なんとかして、彼を自分の勤めている文明堂に世話してやろうと考えていた。
ある日、吾一は、自分のところの職長に頼みこんでみた。職長は「うん。」と言わなかったが、「だめだ。」とも言わなかった。
吾一は子がい《・・・》から、ずうっと動かずに勤めているので、近ごろでは、職長の受けもよかった。その場で、断わられないところをみると、脈があるものと思い、これができたら、およねもどんなに喜ぶだろうと、彼女のえが《・・》お《・》を、ひそかに心にえがいていた。
「箱、持ってこい。」
文選バコにいっぱい活字を拾いきると、吾一は使い屋を呼んで、新しい箱を取り寄せた。
「おい、こっちも箱だ。」
すぐ隣で働いている得次も、新しい文選バコを持ってこさせた。得次は吾一の口ききで、うまく文明堂にはいれたのである。
よそからやってきた者は、そうとう腕のある者でも、はじめはかってがちがうから、そう早く拾えるものではないのに、彼はもう、なんねんも前から、そこに立っているような態度で、仕事をしていた。ケースに並んでいる活字の順序は、どこの工場でも、たいしたちがいはないとは言え、得次のようにすらすら拾う者は、めったにあるものではない。
「おーい、使い屋。」
三十分ぐらいのあいだに、彼はたいてい、ひと箱ひろってしまった。ひと箱は五号活字で八百本である。八百本の活字を拾うのには、どんなにしたって、四、五十分はかかるのに、得次はその時間をどんどん切りつめてしまうのである。吾一は新規にはいってきた者に負けるのはしゃくにさわると思って、むきになって馬力をかけた。彼が馬力をかけると、得次もまた馬力をかけた。ふたりは競争で、使い屋を呼んでいた。
その日は、ふたりとも、二十箱も拾った。一日に十四、五箱とれば、一人まえ以上と言われているのに、ふたりはそれをはるかに突破してしまったのである。
「おめえは早いな。」
工場の帰り道で得次が言った。
「おめえこそ、早いじゃねえか。はじめてのところで、よくあんなに取れるな。」
「はははは。おめえに入れてもらったんだから、だらしのねえこともできねえと思って、馬力をかけたのさ。だが、おめえがあんなにやるたあ思わなかったよ。」
「だって、おれはあすこで育ったんじゃねえか。」
「そう言や、そんなもんかもしれねえが、今どき、おめえの若さで、あれだけやるとは、たいしたこった。」
「なあに、おめえがどんどんやるもんだから、つい、つりこまれちゃったまでさ。」
「おめえは負けずぎらいだなあ。」
「はははは。そこんとこは、おめえと、おっ《・・》つかっつ《・・・・》かもしれねえぜ。」
「おおきに、そりゃおことばのとおりかもしれねえね。だが、おめえはだれとでもあんなにやるのかい。」
「うん。」
「つまらねえこった。もう、あんなことは、いいかげんにしようじゃねえか。」
「どうして。あのほうがお互いに張りがあっていいじゃねえか。」
「おらあ、そうは思わねえね。張り合いなんて、くだらねえこったよ。おれは競争じゃこりごりしているんでね。」
「どうして。」
「おやじに、こっぴどく、どやされたことがあるんだ。」
「けんかにでもなったのか。」
「いいや、そんなことじゃねえ。――そうだなあ、十四、五のころかな。まだ国にいた時分のこったが、おれはよく山へ草かりに行ったものだ。そうすると、いっしょに行ったやつと、きっと競争になるんだ。『どうだ。おれはこれだけ刈ったぞ。』『うんにゃ、おれはこんなに刈った。』なんて、お互いに自慢し合うんだ。しかし、負けずぎらいなおれは、いつだって、一番にならないと承知ができねえのだ。ある時、おとなとせり合ったが、その時も、とうとうおとなを負かしてしまった。おれは気ちがいのようになってやったものだから、刈ったのなんのって、一匹の馬にしょわせきれないほど刈ったのだ。こっちのクラに草をつけると、馬のやつ、こんなふうによろよろっとなりやがったよ。もう一つのほうにつけると、馬が見えなくなっちまってね。はははは、たづなを引っぱると、馬が歩いているのか、草が歩いているのかわからないくらいさ。おらあ、すっかり得意になっちまって、大将の首をとったさむらいのように、意気揚々と帰って行った。」
「ふ 。――」
「そうしたら、いきなり、おやじにどなりつけられたのだ。きさまは草かりに行くと、草のことしかわからねえのか。バカ野郎。ちったあ、馬のことも考えろ。――」
「なるほどねえ。――」
草をしょわされた馬のように、吾一はたじたじとなった。
「まあ、そんなことがあったのさ。」
得次は歩きながら器用にマッチをすって、紫のけむりを軽く吐いた。
「だがね、得さん。」
吾一は負けぬ気になって言った。
「おれたちはいくら活字を拾ったって、馬にしょわせるわけじゃなし、馬をいたわってやることはいらないじゃないか。」
「はははは。おれは馬のことだけ言っているつもりじゃねえんだがな。」
「自分をいたわれって言うのかい。なあに、おれはあのくらい働いたって、へたばりやしないよ。」
「おめえは、どこまで勝ち気なんかなあ。」
「勝ち気ってこともねえが、おれは働くのがおもしろいんだ。きょうは人に負けねえだけ働いたと思うと、いちんち、いい気もちなんだ。」
「…………」
「それがってよ、おれはこれという能のねえ人間だ。おれのように取りえのねえ男が、世の中にのしていこうってのには、どうしたって、人よりよけいに働いて、そこを買ってもらうよりほかはねえじゃねえか。まあ、『かせぐに追いつく貧乏なし。』そう思っているんだよ。」
「そんなもなあ、おめえ、子もり歌だよ。」
「子もり歌とは……」
「みんないい気もちに寝かしつけられるからさ。」
「おらあ貧乏はしているが、眠らされちゃいねえつもりだ。」
「おめえのような人が、そんなことを言っているから、寝かしつけられてるって言うんだよ。見ねえ、いくら働いたって、みんな……」
「そりゃ働き方がたりねえからだ。死に身になって働いた者は……」
「なるほど、貧乏から成功したやつも、世間にはいくらかある。だが、そんなもなあ……」
「そ、そう言うが……」
「まあ、聞きねえ。おれのおやじは、おれが言うのもおかしいが、ひと一倍はたらいた。朝はやくから、よるおそくまで、それこそ人間として、これ以上はたらけねえってほど働いた。道楽はなし、酒は飲まず、もし、よけいなことをしたと言ったら、仕事のあいまに、こなタバコをすっただけだ。そんなに働き、そんなにつましくしていたおやじが、それからどうなったと思う。――はははは。そのさきのことは言わなくったって、吾一っつぁんにはわかるはずだ。」
「なるほど、そういう話は世間にざらにあることだ。だが、それだから働かなくってもいいってことはないだろう。」
「そこだよ、おれが言うのは。」
得次はのぞきこむように、吾一を見おろした。
「ふ 。すると、どうすればいいんだ。」
吾一はひたいの汗をふきながら、せきこんで尋ねた。
「まあ、待ってくれ。」
得次も汗をふいた。
「暑くなってきたなあ。」
彼はひと息いれると、急に調子を変えて、今の話とは縁のないことを、ぽつんと言いだした。
「おめえ、お月さまを見て、どう思う。」
「どう思うとは……」
「はははは、突然こんなことを言ったってわからねえな。――なあにね、ある晩、おれは末の弟をつれて銭湯に行ったんだ。その帰りに、ひょいと空を仰ぐと、ふろ屋の煙突の横に、まんまるいお月さんが出ているじゃねえか。やっぱり、夏のことだった。お月さんはすっぱだかで、大ぞらにしゃがんでいるんさ。『すずしそうだなあ。』と思って見とれていると、『あんちゃん。』って、弟が呼ぶんだ。『なんだい。』ってふり返ると、『あんちゃん、お月さまはどうして落っこちないの。』って、不思議そうに聞くんだ。おれはちょっと返答に困ったね。お月さまはずいぶん見ているが、どうして、落っこちねえのかなんて、そんなこたあ考えたこともなかったからね。――ところで、吾一っつあん。おめえだったら、どう返事をする?」
「そうだな。そいつはちょっと、厄介だな。」
「おめえだって困るだろう。――」
「だが、なんじゃないか。つまり、引力の話をしてやれば……」
「冗談いうない。あいつがまだ、こんなちっぽけな時分だ。引力なんて言ったってわかるもんか。子どもに言うにゃ、もっとやさしいことばで、ひとことでのみこめるように言ってやらなくっちゃ、なんにもなりゃしねえよ。」
「そりゃそうだね。おれには弟がないから、なかなかそんなことばは出てこないが、――それで、おめえはどうしたのだ。」
「おらあ、しようがねえから、しばらくお月さまをじいっとながめていた。お月さまはあい変わらず気もちよさそうに、大ぞらですずんでいる。だが、おれには空のまん中で、どうしてあんなにすました顔をしていられるのか、そいつを、ちょっくらちょいと言うことができねえ。『おーい、お月さん、おめえはどうして落っこちねえんだい。』おれもそう、どなってやりたくなった。そうどなろうとした瞬間に、おれのまぶたが急に熱くなってきた。その時、おらあ、弟にこう言ってやった。『おい、英公、お月さんが落っこちねえのはな、お天とうさまやお星さんと、仲よくお手てをつないでいるからさ。』」
「ふ 、そうしたら……」
「そうしたらって、ただそれだけの話さ。子どもにはそれでわかるんだ。――そうして、おれもその話をした時から、だんだん目があいてきたんだ。おれたちもお月さんや、お星さまのように、手をつなぎ合わなくっちゃだめだ。おれたちは手をつなぎ合って、みんな落っこちないようにしなくっちゃだめだと思うようになったんだ。」
「…………」
「おれたちは働かなくっちゃいけねえ。しかし働くと言っても、主人をもうけさせるために働くのや、自分の金をためるために働くんなんか、つまらねえこった。働くんなら、だれもが浮かびあがるよう、だれもが落っこちねえように働くんでなくちゃ、なんにもならねえ。――」
「ちょっと待ってくれ。おめえの話は、そりゃ……」
えり首にケムシが落ちてきたように、吾一はいやな気もちがした。
「なんだい、おめえ、急にそんな顔をして。何もこわいことなんかありゃしねえじゃねえか。おらあ、ただ、世の中がよくなれば、と思っているだけなんだよ。」
「…………」
「なあ、吾一っつぁん。いいかい。ここに亨主に死なれた女がある。子どもが五人も七人もある。その女房は寝る目も寝ずに、すすぎせんたくや針しごとをしても、一日、三十銭か四十銭しか取れない。一家が栄養不良になる。子どもがつぎつぎに死んでゆく。――だが、そういう人たちは、この世で、いったい、どんな悪いことをしたって言うんだ。しかし、こういう連中は幾だいも、幾だいも、こういう運命のもとに立たされているのだ。おめえは、こういうのを見ても、なんとも思わねえのかい。」
「…………」
「お月さんや、お天とうさまや、お星さんは、お互いに見えない手をさしのべて、しっかりつなぎ合っている。そうして、毎日、きちん、きちんと、めぐっている。人間はえらそうな顔をしているが、みんな、てんでんばらばらじゃねえか。これじゃおめえ、お天とうさまや、お月さまに対して、恥ずかしいってもんじゃねえかね。」
得次の言っていることの中には、心をひかれるものがないではないが、しかし吾一は、「うん、それじゃ手をつなごう。」っていう気にはなれなかった。理屈は一応、通っているように思えても、何か、欠けているものがあるように思えてならなかった。
炭やの小僧が、から車をひいて、流行のハイカラぶしを歌いながら、横町から出てきた。
チリチリリンと出てくるは
自転車乗りの時間借り。
曲乗りじょうずとなま意気に
両手離したしゃれ男。
あっちへ行っちゃ、あぶないよ。
こっちへ行っちゃ、あぶないよ。
あああぶないと言ってるまに
それ、落っこった。
お月さまは、どうして落っこちないのだ。
お星さまや、お天とうさまと仲よくお手てをつないでいるからだ。
だから人間も、みんな、仲よく手をつながなければいけない。
それはわかる。
だがどうして貧乏人だけ手をつなごうと言うのだ。
どうして、金もちだけ、のけ者にするのだ。
金もちだって、人間ではないか。
金もちには不正な者が多い。
しかし、貧乏人だって、みんな善人とは限らない。
こんなふうに考えるのは、おれが金もちになりたいと思っているからかな。
吾一は寝る前に、こんなことを考えた。
それから例の手帳には、
月は何ゆえ落ちざるや
星は何ゆえ落ちざるや
太陽は、地球は何ゆえ落ちざるや
これ大いなる問題なり
きょうは、うまい金言が見つからなかったので、こんな感想を書きこんだが、それは彼の近ごろの気もちと、必ずしもぴったり合うものではなかった。
彼はここのうちに越してきて以来、金言や感想だけでは、なんかものたりない気もちがしていた。金言も悪くはないが、どうもごつごつしている。こんな堅いものでなくて、柔らかいもの、はだざわりのいいもの、――そういったものに、なんとなく心をひかれていた。一つは、買ったふとんが、ひと月もたたないうちに、綿がつぶれて、ひらったくなってしまったために、こんなことを考えるのかもしれない。けれども、毎日の労働は、そんなものを、まばたくうちに追い払ってしまって、彼をふかい眠りにさそうのが常だった。
「愛川さん。――愛川さん。」
どこからともなく、下の娘の声が響いてきた。
「あんなはにかみやが、よくやってきたなあ。」
吾一は、およねの美しい声に聞きほれていた。からだがぞくぞくしてきた。
彼は声のするほうへ走って行った。しかし、霧がひどくって、およねの姿はちっとも見えなかった。彼は両手で、霧をかきわけた。いくらかきわけても、やっぱり見えなかった。
「愛川さん。――」
霧の中で、また娘の声がした。
しかし、もう彼は彼女を捜そうとはしなかった。
「なんだ。おれは夢を見てるんだな。」
夢の中で、彼はそう考えた。女のことを夢に見るなんて、と思うと、彼は金言名句に対して、少し恥ずかしかった。
「愛川さん、愛川さん。」
今度は、はっきり耳もとで聞こえた。どうも夢ではないらしい。吾一はぱっと目をさました。
はしご段のところが、下の明かりで、ぽうっと明かるくなっていて、およねの白い顔がのぞいていた。
「愛川さん、火事よ。」
「えっ! どこが……」
「あんなに半鐘が鳴っているじゃありませんか。」
なるほど、無気味な半鐘の音が、はげしく響いていた。
彼は、はね起きて、窓のところに飛んで行った。戸をあけると、炎は見えないけれども、やねの向こうの空が、赤く染まっていた。
「見えます。――」
およねも窓のところにやってきた。
「よく見えないんだ。あれは、どの辺かな。」
「そうねえ。――」
およねも背のびをして、向こうを見ていた。からだがそよ風のようにふるえていた。
吾一も半鐘の音を聞くと、妙に上下の歯が、がたがたふるえた。
ふるえる手と、ふるえる手が、かすかに触れ合った。しかし、四つの目は、赤い空をながめていた。
「にいさんは?」
「まだ、帰ってこないんです。」
「ずいぶんおそいんですね。――もう、なん時です。」
「二時ちかくでしょう。」
「それなのに、まだ起きていたんですか。」
「……急ぎの仕事があったもんですから……」
「しかし、そんなに詰めてやっちゃ毒だなあ。」
「だって、愛川さんだって、ずいぶんおそくまで……」
「いやあ、ぼくはそんなに……あ、また、燃え移った。」
向こうの空が昼まのように、急に明かるくなった。
吾一は、およねのとめるのも聞かずに、窓からはい出して、やねにあがった。
風の強い晩だった。彼はカワラにしがみついたまま、そっと首をもちゃげた。
だれかが大きなタイマツを振りまわしているように、火炎がぱっ、ぱっと、のびあがった。
夜なかなので、はっきりしたことはわからないが、とにかく方向は、印刷所のほうだった。いくらか離れているようにも思うが、こいつは、ほうっておけないと思った。彼はへやにもどるなり、寝まきのまま飛び出して行った。
ペンを折る
こういう見だしの文章を、わたくしは、本誌に書こうとは思っておりませんでした。しかし、わたくしは、今、自分のペンを折るよりほかに、適当な道がないことを痛感したのです。長いあいだ「路傍の石」をご愛読くださった方がたに、厚くお礼を申しあげるとともに、中絶の余儀なき事情に立ち至ったことを、心からおわびいたします。
皆さんはこの突然の中止を、さだめし意外にお感じになるに相違ありません。じつは、わたくし自身にしても、先月号の原稿を書き終わった直後、これからさきの部分に必要な、参考書を集めていたくらいで、中途でうち切ろうなどという考えは、みじんも持っておりませんでした。わたくしが現在、筆をとっているものは、「新篇路傍の石」だけであって、このほかには、なに一つありません。それだけに、今のわたくしには、捨てがたい愛着があるのです。自分のことはしばらくおき、主婦之友社の好意と激励とを思う時、わたくしは、目がしらがあつくなります。
「『路傍の石』は、ぜひ本誌で完成させてください。なんねんかかっても、かまいませんから、思う存分かいてください。」こう言って、たえず、わたくしをはげましてくれたのです。そして、わたくしが振りがなをつけたくないと言えば、この作品に限って振りがなを振りません。わたくしが略字体の漢字を使いたいと言えば、さっそくそのとおりに、はからってくれます。なんでもすらすらと、気もちよく運んでくれたにもかかわらず、その好意にそむき、その激励を裏ぎって、かような結末を招いたことは、主婦之友社に対し、おわびの申しようもないしだいで、わたくしは深く、自分の責任を感じております。
ふり返ってみると、わたくしが「路傍の石」の想を構えたのは、昭和十一年のことであって、こんどの欧州大戦はさておき、日華事変さえ予想されなかった時代のことであります。本誌の好意によって「新篇路傍の石」を書きだした時でも、なお今日のような、けわしい時勢ではありませんでした。しかし、ただ今では、ご承知のとおり、容易ならない時局に当面しております。従って、事変以前に構想した主題をもって、そのまま書き続けることは、さまざまな点において、めんどうをひき起こしがちです。もちろん、あの作そのものが、国策に反するものでないことは、わたくしは確信をもって断言いたします。資本主義、自由主義、出世主義、社会主義、なぞがあらわれてきますが、それを、どう扱おうとしているものであるかは、あの作を読めば、だれにでも、すぐわかるはずです。今日の日本は、あの作の中に書かれたような時代を通り、あの作の中に出てくるような人たちによって、よかれ、あしかれ、きずきあげられたのであって、日本の成長を考える時、それはけっして、無意味なものではないと思うのです。しかし、日一日と統制の強化されつつある今日の時代では、それをそのまま書こうとすると、特に、――これからの部分においては、不幸な事態をひき起こしやすいのです。その不幸を避けようとして、いわゆる時代の線にそうように書こうとすれば、いきおい、わたくしは途中から筆を曲げなければなりません。けれども、筆を曲げて書く勇気は、わたくしにはありません。自分の作品に忠ならんとすれば、時代の認識に、遠ざかるかのごときうらみを残し、時代の認識に調子を合わせようとすれば、ゆがんだかたちのものを書かなければなりません。そうとすれば、わたくしは断然、自分のペンを折る以外に、道はないのであります。そもそも本誌で「新篇路傍の石」を書きついだことは、いくらかでも、前の作品より、よいものにしあげたいと思ったからです。しかし、よいものにしあげられないという、見とおしがついた時にも、なお書き続けることは、わたくしの良心がゆるしません。よりよいものを志して、みずから知りつつ、より悪いものを書きつぐことは、「新篇」の名をかむせた意義を失うことになります。
わたくしが先月号の原稿を書いたあと、数日にして、突然、こういう決心をするに至った実情を、もっと具体的に書けば、もっとよく理解していただけると思いますが、さしさわりがありますから、わたくしは、これ以上、何ごとも申しあげません。また、執筆を中止したのはわたくし自身の意志であって、ほかからの強要によるものではありません。このことも、ここに、はっきり書きそえておきます。従って、中絶の責任は、どこまでもわたくしにあるのであって、これに対する社会の批判は、いっさい、わたくしが負うべきものであります。
もし、世の中がおちついて、前の構想のままでも、自由に書ける時代がきたら、わたくしは、ふたたび、あのあとを続けましょう。けれども、そういう時代がこなければ、あの作は路傍に投げ捨てるよりほかはありません。そういう運命は、すでに、この作の題名のなかに、含まれていたのかも知れません。しかし、作中の主人公が世の中からけとばされようとも、わたくしが社会からけとばされようとも、それは忍びますが、け飛ばされた石が、主婦之友社の窓ガラスをきずつけ、読者の方がたに不快の感を与えたことは、なんとも申しわけのないことで、くれぐれもおわびを申しあげます。
本来からいえば、突然、かように中止した以上、そのかわりに当たるものをさしださなければ、義理が立たないような気がします。しかし、現在のわたくしには、それをはたすだけの力がありません。公約を破って連載を中絶したということは、わたくしにとっては、切腹にひとしい気もちであります。かわりの作品が書けるくらいならば、なんで「路傍の石」の筆を折りましょう。筆を折るからには、当分、創作から遠ざかり、しずかに謹慎したいと思うのであります。本誌ならびに本誌の読者に対しては、重々責任を感じておりますが、どうか、わたくしのこの気もちを、おくみ取りくださって、おゆるしを願いたいと存じます。
昭和十五年六月二十日
路傍の石・付録
『路傍の石』は昭和十二年一月から六月まで、東京大阪朝日新聞に連載されてその第一部を終わったが、続いて掲載予定の第二部は新聞社側の事情で中止された。その後、雑誌「主婦之友」の依頼により、同誌に第二部の連載がきまったが、それに先だち既発表の部分にも全面的に手を加えてあらためて掲載することとなり、『新篇 路傍の石』の題で十三年十一月号から連載が始められた。しかし日中戦争にはいって時局はいよいよ険しく、作品の内容に対する軍部の圧力が加わったため、新聞連載時の第一部末尾までも至らぬまま十五年七月号をもって掲載は中止された。
『路傍の石』の今日までの刊行本は、初版本以来この「主婦之友」の改稿か、その短縮版(「次野先生」まで)によっている。本文庫は今回の改版に際し、前者によった新潮社版山本有三全集を採用し、全集同様、著者の改訂の手のおよばずに終わった朝日新聞連載時の末尾の部分(昭和十二年五月八日付け百二十六回から昭和十二年六月十八日付け百六十七回まで)をここに付録として併せ収め、読者の参考に供することとした。完成された部分と符合しない点があるのはやむを得ない。
(編集部)
働け、働け、そして働け。
「兄さんは?」
「まだ、帰ってこないんです。」
「ずいぶん遅いんですね。――もう何時です。」
「二時近くでしょう。」
「それなのに、まだ起きていたんですか。」
「……急ぎの仕事があったものですから……」
「しかし、そんなに詰めてやっちゃ毒だなあ。」
「だって、愛川さんだって、ずいぶん遅くまで……」
「そりゃ僕は男だもの。――あ、また、燃え移ったんかな。」
向うの空が昼間のように急に明るくなった。
吾一はおよねのとめるのもきかず、窓から這(は)いだして、屋根にあがった。
風の強い晩だった。彼は瓦にしがみついたまま、そっと首だけもちゃげた。
誰かが大きなタイマツを振り廻しているように、火焔(かえん)がぱっ、ぱっと伸びあがった。
夜なのではっきりしたことは分らないが、とにかく方向は印刷所の方だった。いくらか離れているようにも思うが、こいつは放っておけないと思った。彼は部屋に戻るなり、寝巻のままで飛び出して行った。
往来はヤジウマでいっぱいだった。その中を切り抜けて、彼はやっと工場に行った。工場はさいわいに無事だった。焼けているのは、それから半町ばかり横の方の綿問屋だった。
まだ主人も、支配人も、職長もきていなかった。すぐ近所に住っている職工が二三人と、住込みの連中がいただけだった。
彼らは風下でないから、心配はないといっていた。火の粉が飛んできたら、もみ消してしまうんだといって、彼らはバケツや棒を持って、屋根へあがって行った。半分は火事見物のつもりらしい。
吾一もついて行こうかと思ったが、屋根は苦手なので、彼は下に残っていた。しかし、何をしていいか、ただわくわくするばかりで、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、まごまごしていた。
そうだ。
突然彼は両方の掌をばちゃあんとたたき合せた。こんな烈風の時には、いつ風向が変らないとも限らない。何よりもあいつを安全なところにかたづけておこう。
彼は事務室にはいって行った。原稿のはいっている、古びた本箱はいつものところに、無雑作においてあった。彼はそれを動かして見た。少し重いが、ひとりでかつげないこともないと思い、力を出して肩の上に押しあげた。
事務所には三四人働いている人がいたが、吾一が原稿の箱を持ちだすのを、誰も何ともいうものはなかった。彼はそれを主人か支配人のうちへ持って行こうと思った。しかし、どちらも遠過ぎるので、工場とレンラクのある製本屋へかつぎ込んだ。そして大事なものだからと、よく念を押して預かってもらった。預ける時になって、箱には大きな錠前がかかっており、「非常持出」という赤い貼紙がしてあるのを、彼ははじめて気がついた。
その足で、彼はまた現場へ取って返した。その間、いくらの時間もたっていないと思うのに、工場はもうどんどん火をかぶっていた。
「おい、何をしてるんだ。ケースだ。活字だ。」
職長は吾一の顔を見るなり、気狂(きちが)いのように叫んだ。人々は活字の詰まっているケースをどんどん工場の下のドブ川へ投込んでいた。
空が白みかけた頃に、ようやく鎮火した。
消防手の必死の働きで、印刷所の建物は半分ほど助かった。しかし、みにくい残骸が薄明の中に突っ立ってる形は、きれいに焼き払われたあとよりも、かえって凄惨(せいさん)な感じがした。
焼けたのは、二階の文選場、植字場、下の事務室、炊事場、印刷機械のすえてある工場の一部だった。けれども、焼けなかったところも、すっかり水をかぶって、損害はほとんど全焼と変りがなかった。
ドブ川に焼け落ちた材木は、川の中でなお燃えていた。
吾一たちはくたくたになって、川っぷちの土の上に腰をおろしていた。あたりが明るくなるにつれて、ほのおの色がだんだん白っ茶けて行くのが、何ともいえず彼らの哀愁を誘った。
にぎり飯と酒が運ばれた。酒を口飲みにし、にぎり飯をかじりながら、彼らはゆうべの火事の話を繰返していた。
一方、主人と支配人は事務の連中を連れて、焼あとを見廻っていた。そして、あちらこちらを掘りくり返したりしていた。
職長が青ざめた顔をして、みんなのところへやってきた。よくよく参ったと見えて、倒れるように、どたりと腰をおろした。
「一つ、いかがです。」
職工のひとりが一升徳利を突きつけた。職長は一口ふくむと自分の腕や胸にぷうと酒をふきかけた。
「弱った、どうも。あわてていたからな。」
「どうしたんです。」
「親父がかんかんになって怒っているんだ。――どうして、気がつかなかったんかな。原稿をみんな焼いちゃったんだ。」
「原稿ですか。」
吾一はへとへとになって横になっていたが、急に起きあがった。
「そいつは、わたしが出しときました。」
「出した。ど、どこへ。」
吾一は火の来ないうちに取り出して、製本屋へ預けておいたテンマツを手短に話した。
「何だ。そうか。――それなら早くいやいいのに。バカな奴だな。」
「すみません。わたしも、つい、ぽうっとしちまってて……」
「おい、ちょっと、おれといっしょに来てくれ」
職長は吾一を引っぱって、主人のところに連れて行った。
「旦那、原稿はこいつが出しておいたそうです。」
主人は吾一の顔を注視しながらどもるようにいった。
「ほ、ほんとうに出したのかい。」
「ええ、本当ですとも。じゃ、すぐ行って持ってきましょう。」
「いや、焼けなかったということさえ分れば、それで安心だ。すぐでなくってもいい。」
「なあに、一っ走りですから。」
「しかし、おまえ、疲れているんだから……」
「いいえ、大丈夫です。大事なもんですから、すぐ持ち返っときましょう。」
職長も事務員も彼といっしょに製本屋に行った。
原稿の箱を持ち返ろうとすると、今度はとても一人ではかつげなかった。箱をヒモでからげて、それに棒を通し、事務の人と二人で担ってきた。
錠のかかった、古びた箱が焼あとにおろされた。黒い大きな金物が朝の光をきらっとはね返した。
「君。」
支配人が錠をあけてる横で、主人がいった。
吾一が顔をあげると、主人はいきなりチョッキのクサリから時計をはずして、吾一の方にそれを突き出した。
「君にあげる。取っとき給え。」
主人の手の平の上に光っている金時計と、自分のみすぼらしい寝巻姿を、吾一は一瞬間見くらべた。
「いいえ、そんな、そんな立派なものを……」
「遠慮することはない。取るがいい。――おまえは若いのに、よくやってくれた。」
「…………」
「駆けつけ方が遅かったり、あわてたりして、誰も原稿を取りだすものがなかったのに、おまえはよくやってくれた。これでわたしはお得意に対しても、執筆者に対しても申訳けが立つよ。」
「…………」
「工場は焼けても、原稿を一枚も焼かなかったということは、大明堂の信用をどれだけ大きくしたか分らない。今度はわたしも、物質的には相当の打撃を受けたけれども、そんなものは、いくらでも回復することが出来る。しかし、失った信用はなかなか回復出来ないからね。」
「旦那にそんなにいわれると、わたしは困っちゃうんで……わたしは別に火の中に飛びこんで行って出してきたわけじゃないんで……わたしのやったことは、誰にだってやれることなんですから……」
吾一は今まで主人と直接話をしたことがないので、彼の言葉はたどたどしかった。
「いや、その誰にでもやれることが、なかなか誰にでもやれないのだ。火の中へ飛び込んで行くなぞというのは、むしろ下の下だ。火の廻らないうちに、取り出しておくようでなくちゃ上々とはいえない。――いや、本当によくやってくれた。さあ、取っておくがいい。」
「せっかくのお志だから頂戴(ちょうだい)しなさい。」
支配人もそばから言ってくれた。
吾一はもう一度、金時計と自分の姿とを見返した。彼はうつ向きながら、しずかに答えた。
「それでは、せっかくですから、いただきます。」
「どうも大変な御褒美(ほうび)だな。」
職長はなかば、うらやましそうにいった。
主人は微笑をたたえながら、金時計を、改めて吾一の方に差出した。
しかし吾一は手を振って、それをさえぎった。
「いただきますけれども、今はいただきません。」
「それは、どういうわけだ。」
「わたしは職工です。いま金時計をいただいても、さげるところがございません。わたしが金時計をさげられるようになるまで、どうかお預りなすっておいて……」
「ふ噤A感心なことをいうな。――しかし、わたしも一旦出したものを、引っこめるというわけにはいかないね。」
「でも、似合わないものを持っていますことは……」
「それじゃ、わたしがお預りしておきましょう。」
支配人が口をはさんだ。
「お出しになったものを引っこめるわけにも参らないでしょうし、若い者が不似合いなものを持つことも、なるほど考えものです。わたしがお預りしておけば、どちらにも何ですから、わたしが大事に保管することにいたしましょう。――いいかい。それでは、おまえもこれからみっちりやって、この時計をさげても恥かしくないような人に早くなるんだよ。その時には、いつでもこれは渡すから。」
焼け残ったタル木か何かが落ちたのだろう、うしろの方でばたんと大きな音がした。吾一は思わずキン張した。
火元のところだけは、まだそのままだが、類焼した家では、どこも焼あとの取りかたづけをやっていた。大明堂は職工が相当にいたから、かたづけだけは、またたくまに出来た。
あら掃除がすむと、刷りの連中は焼け残った機械の手入れや取りはずしにかかった。しかし文選工や植字工は、やることがないのでそこらに固って、無駄話をやっていた。
吾一もその中に交っていたが、ぶらぶらしているのもつまらないので、ひょいと尻をはしょると横のドブ川にはいって、捨てた活字を拾いはじめた。
火をかぶって、工場が危いって時には、活字を熔かしてしまうのは勿体(もったい)ないといって、あわてて川へ投げ込んだくせに、――投げ込む折は、誰でもどんどん投げ込むが、さて、火が消えたあとで、それを引きあげるものは一人もなかった。もっとも、川というのは名ばかりで、それはゴミとドブ泥のあいだを、汚水がかれがれに流れている大きなドブのようなものだったから、誰にしても、その中に足を踏み入れる気にはなれなかった。
吾一も、はじめは無論チュウチョしたが、しめったドブ泥の中から、活字が何十本も何百本もうらめしそうに頭をもちゃげているのを見ていると、毎日自分の手で出し入れしていたものだけに、どうも放っておけなくなって、思い切って飛び込んだのだった。
「おい、ゴマすりはよせよ。」
「へん、金時計もらったんだからな。」
「よせやい。そんなきたねえこと。預けてある金時計が泣くぞ。」
彼が働いていると、口の悪い職工たちは、岡からいろんなことをいった。金時計に対するソネミなことはいうまでもなかった。
しかし吾一は汚水の中に足をひたしながら、黙々と活字を拾っていた。こうして働いているものの胸にこそ、あの金時計は今に似合うようになってくるんだ。
「おい、吾一つぁん、もう上らねえか。」
けさ顔を見せなかった得次が、いつやって来たのか、上から呼んでいた。
「うん、今あがる。」
吾一はそういいながら、近くにころがっている活字をなお拾っていた。
「そんなこといい加減にしてすぐ上れよ。ちょっと話があるんだ。」
「よし、もうすぐだよ。」
彼は手元の分を拾い切ると、上へあがって手を洗った。
「何だい、話って。」
「なあに、たいしたことじゃねえんだが、少しおめえに忠告しておいた方がいいと思って……」
得次は吾一を人のいない方へ誘いながらいった。
「外のことでもねえんだけれど、おめえ、何だぜ、働くのはいい加減にしたらどうだい。そうでねえと怨まれるぜ。」
「有難う。――おれは今何にも働くようなことはしていねえつもりだが、おめえのいうのは、川から活字を拾ってることかい。」
「そうだよ。おめえがそれをやっていると、文選の連中も自然ひっぱり出されることになるからな。」
「それなら、ちっとはやったっていいじゃないか。自分たちで放り投げたものなんだからな。」
「だけど、おめえ、あんな中へはいるのはたまらねえじゃねえか。それによ。あんな活字拾ったって、どうするんだ。みんなキズだらけだろう。」
「なかには使えるのもあるよ。――使えねえ分だって、あのままじゃ勿体ないじゃないか。」
「しかしね、吾一つぁん、文選工ってものはケースから活字を拾うのは商売だが、ドブ川から拾うのは商売じゃねえからな。」
火事で枝も葉も坊主にされてしまった、川っぷちの柳の立木に西日が強く当っていた。黒く焦げて炭のようにかさかさになっている太い幹に、夕日が染みて、火花のような赤いものをはね返している様は、今でも木が燃えているようだった。
吾一はいった。
「おれはみんなに、川へはいれっていってやしねえ。みんながはいるのが厭(い)やだったら、はいらなけりゃいいじゃないか。」
「そんなことをいうが、おめえ。」
得次は川の方へアゴを突きだした。ドブの中には見習の子供が三人、尻っぱしょりで、せっせと活字を拾っていた。
「おめえがはじめたものだから、見ねえ。使い屋があの通り、やらされているじゃねえか。おれたちだって、やらされねえとは限らねえよ。」
「…………」
「なあ、吾一つぁん、おめえ、まさか、時計をもらったんで、あんなことをやるんじゃないだろう。」
「なんだい。得さんまでそんなことをいわなくったっていいじゃないか。おらあ自分の手がけた活字がドブん中におっこってるなあ、いい気持じゃねえからやっているんだよ。」
「だけど、おめえ、……」
「まあ、待てよ。おれたちには、どんなに引っくり返ったって、鉛を作りだすことは出来やしねえ。金にしたら、そうたいしたことはないかもしれないが、あれだけの鉛をドブに埋めちゃうのは惜しいじゃないか。発明だの発見なんてことは、おれにはとてもやれっこねえから、まあ、せめて、ものを粗末にだけは、したくねえと思っているんだ。」
「物を粗末にしないのはいいが、体も粗末にしねえ方がいいぜ。あんな鉛を拾うために、……」
「なあに、病気になんかなりゃしないよ。」
「強情だなあ、おめえは、――」
得次は顔をそむけて、広い焼けあとの方に眼をやった。立枯れの黒い柳は、なお火花を吹いていた。
「だが、ドブの中にはいってまで主人のために働いてやることはねえと思うがな。」
「おめえはよくそういうけれど、主人のためにしてやることが、どうしていけないんだい。主人だってさ、工場を焼かれて青息吐息じゃねえか。」
「青息ってことはねえよ。保険金がはいるんだからな。困ってるなあ、こっちとらだ。そんなものは一文だってはいりゃしめえし。」
「それだから、おれはいうんだよ。こちとらの手間が早く取れるようになるには、一日も早く、工場がたち直らなくっちゃ仕方がねえじゃねえか。主人のために働くっていうが、つまりは、おれたちのために働くことだよ。」
「へん、鉛を拾ったって、工場はすぐ建ちゃしねえよ。」
「そりゃそうだけどさ。おめえはお互、手をつなぎ合わなくっちゃいけねえっていってるんだろう。それなら主人と手をつなぎ合ったっていいじゃないか。」
自己は主人と同じく、また組合の一員たりとの念を有せざるべからず。雇人根性に始終する者は大事をなす能わざるべし。たとい身は小使に過ぎずとも、われはこの店の主人なり、と常に心がくべし。
これは昨夜寝る前に、カーネギイの言葉の中から抜き書きしたものだ。吾一の頭はカーネギイになっていた。
けれども得次が手をつなごうというのは、主人や金持と手をつなごうというのではない。万国の労働者団結せよ、である。主人や金持は敵であった。
得次はまたその方の思想を説きかけたが、吾一は受けつけなかった。貧乏人同士、労働者同士手をつなごうといったところで、今までに誰が一体あったかい手を差しのべてくれたものがあるのだ。彼はぶんなぐられた。彼は蹴飛(けと)ばされた。そういう堅いゲンコツなら、冷い足の先なら、彼の額に、彼の胸に、はっきり印刷されているけれども、彼と同じ階級の者から親切にされた覚えなんか、どこにも残っていなかった。
「結局、人間は一人だ。人を頼りにするなよ、頼りになるのは自分だけだぞ。」
こういう場合、まっさきに思い出されるのは、次野先生の言葉だ。あの言葉の中には先生の血がにじんでいる。自分の二十一年だって、あの言葉を裏書きするために、生きてきたようなものではないか。
「おれは今までだって、ずうっとひとりでやってきたのだ。他人なんか当にはしねえ。おれが当にしてるなあ、この二本の腕だけだ。」
「だからよ、その二本の腕を、二百本にも、二千本にもしたら、もっと力が強くなるじゃないか。」
「得さん、腕ってやつはね、我ままなもんだぜ、悪いことには、右にも左にも、前にもうしろにも、自由自在に動くんだ。マキざっぽのように、そう束にはなりゃしねえよ。」
「そんなことをいっているから、おれたちはいつになっても浮ばれないんだ。」
「なあに、浮ばれねえんじゃねえ。浮ぼうとしないんだ。手をつないでいたりした日にゃ泳げやしねえよ。泳ぐのには、何といったって一人でなくっちゃなあ。――おれは兄弟はなし、親父にはおっぽり出される。おふくろには死なれちゃう。他人にはこづき廻される。……昔からとうとう一人ぼっちだ。一人でやってきたんだから、おれはどこまでも一人でやって行くつもりだよ。」
見習の連中が川から上ってきた。頬から頭の方まで泥をはねかして、まるでおビンヅル様のような顔をしていた。
「何だって、そんなに泥をくっつけちゃったのだ。――おうい、みんな。こっちへ来い。」
蛇口が焼け落ちちゃったので、一時のしのぎに竹ヅツをはめてある水道の口のところに、吾一は彼らをつれて行った。そうして彼らの顔や頭を丁寧に洗ってやった。
日がようやく、かげってきた。
いつのまにかもうバタヤが何人もやってきて、川にはいっていた。彼らは大きなザルに活字をどんどん拾い込んでいた。
「おい、誰にことわって取っているんだ。」
吾一が怒鳴ると、バタヤはザルを持って逃げだした。
よくあさ吾一が行った時には、川にはもう一本も活字は残っていなかった。ゆうべの内に、バタヤがみんな掘り出して行ってしまったものらしい。しかし、そのために、きのう問題になったドブから活字を拾うことは、自然消滅になった。
大明堂では、一日も早く仕事をはじめなければならないので、焼けあとに仮建築を急いでいたが、思うようにはかどらなかった。焼け残った部分が利用出来ると思っていたところ、カンジンな点がやられているので、使いものにならなかった。そいつを取りこわして建てるのだから、どんなバラック建にしても、二重の手間がかかった。刷りの機械も使えるものはほとんどなかった。
仮ブシンが出来るまでは、職工はたいてい顔を出さなかった。中には、待ち切れないで、他へ転じたものもあった。得次もその一人だった。しかし吾一は、毎日のように焼けあとへ出かけて行って、何か自分に出来る仕事を見つけては働いていた。「われもこの工場の主人なり。」彼はどこまでも、そういう考えだった。
一日、彼は支配人から呼ばれた。
「おまえは夜学の商業に行っていたとかいうが本当か。」
「はい。」
「それならどうだ。店の方をやって見る気はないか。」
「それはもう、やらしていただければ……」
「はははは、活字を拾うよりは、ソロバンをはじく方が、おまえにしたっていいだろうな。では、建物が出来あがって、仕事をはじめるようになったら、おまえは事務の方にまわすようにするから、そのつもりで今後とも十分働いてくれ。」
火災以来、吾一に目をつけていた支配人は、その後の働き振りに感心して、彼を社員にバッテキした。むろん、主人も承知の上のことである。
日給取りから、今度は月給取りになれるのだと思うと、彼は何ともいえない喜びを感じた。
彼は自分の心に、改めて言いきかせた。
「働け、働け。そして働け。」
工場が休んでいる間は、通いの連中は出て来ないのが普通だから誰が幾日こなかろうと、気にとめるものもなかった。ドブにはいって活字を拾ったもののうち、通勤の子供が、原因不明の熱に犯されて、うちに倒れていることを知っているものは、ほとんどなかった。それはあの日から三四日後のことだった。母親は乏しい財布の中から氷を買って、息子の頭にあててやったが、あてても、あてても氷はすぐ水になってしまった。
病気というものをほとんど知らない吾一は、自分が丈夫で働いていると、人も丈夫で働いているものと思っていた。いや、健康なんてことについては、自分のことも、他人のことも全く念頭になかった。いいお天気が続いて、彼は毎日相変らず、熱心に働いていた。
一寸法師
「おい、めしにしよう、めしに。」
得次はせき立てるように、およねにいった。
「でも、もう少し待ちましょうよ。もう帰ってくると思うわ、愛川さん。――」
「そんなに待つことはねえよ。見ろ、捨公なんか、あんな眼をしてらあ。ねむくならねえうちに、早く食わしてやれよ。」
兄がそういうので、およねはおゼンごしらえをした。
みんなランプの下に集って、食事をはじめた。
母親も床の上に起き返って、ハシを取った。食事が済むころになって、吾一があたふたと帰ってきた。手に小さな折を持っていた。
「あ、丁度よかった。ご飯のところなら、一つ、これをやって下さい。――もっと早く持ってきたかったんだが、なかなか帰れなくってね。」
彼は折をあけて、みんなの前に出した。
「まあ、たいへんな御馳走。きょうは何なんです。」
料理の折を持って返るなんてことは、吾一にもはじめてだが、ここのうちでも例のないことだった。
「あしたっから、いよいよ工場がはじまるんで、きょう新築の内祝いがあったんですよ。主だった人や事務の者が呼ばれたんです。――縁喜のいいものだから、どうか、ハシをつけてくれませんか。」
「あっ、タイがのっかってら。」
末の捨夫が奇声を発した。
「ああ、タイもあるし、カマボコもあるし、キントンもあるよ。捨ちゃん、何でも好きなものをおあがり。」
「おらあ、もう一ぱい食いたくなっちゃったな。」
「捨公、おまえはもう御馳走様をいったんじゃないか。」
得次は白い眼をして、小さい弟をにらみつけた。
「いいじゃないか、おまえ、そんなことをいわなくったって。」
母親が床の中からいった。
「愛川さんがせっかく持ってきて下すったんだから、みんなしてお相伴に預りましょうよ。捨坊、姉さんに分けておもらい。おっかさんも、キントンをいただきたいね。」
「おっかさん、よしといたらどうだい。体が悪いんだのに。」
「なあに、少しなら大丈夫だよ。こんな御馳走、おまえさん、めったに食べられるもんじゃない。――およね、少し取っておくれ。」
母親は小皿を突きだした。
およねが折のものを分けていると、「おれにも。」「おれにも。」と、弟たちも皿を出した。
「兄さん、あなたは何がいいの。」
「おらあ、いらねえよ。」
「でも、何かあがったら。」
「兄さん、このキントンうまいぜ。」
中の弟は隠元のキントンを頬ばりながらいった。
得次は返事をしなかった。彼は自分の茶ワンに番茶をついで、ハシを洗っていたが、目をつぶって、それをがぶりと飲んでしまった。
「愛川さん、あなたも、いかがです。」
「いいえ、わたしはもう結構、向うで十分やってきたから。――それよりは、勝手だが、水を一ぱい、もらいたいな。」
まだ小僧っ子のくせに、吾一の頬が赤くほてっているのも不愉快だったが、水を飲むたびに、ノドから突き出ている丸い骨が上に行ったり、下にいったりするのを見ていると、得次はいいようのない憎悪を感じた。
「おい、およね、酒を買ってこい。」
彼は突然怒鳴るようにいった。
「だって、兄さん。ご飯がすんだのに、お酒だなんて……」
「めしのあとだっていいじゃないか。買ってこいといったら、買ってこい。」
「それじゃ持ってくるんだったな。」
吾一がひとり言のようにいった。
「きょうは正宗のビンが何本もころがっていたんだ。惜しいことをしたな。」
「なあに、吾一つぁん。酒ぐれえおれにだって買えねえことはないよ。」
「おれはそんなつもりでいったんじゃないんだがな。――」
残っていた水をぐいと飲みほすと、吾一は大儀そうに腰をあげた。どうしたのか、きょうは得次がいやにおカンムリを曲げているので、こんな時には早く切りあげた方がいいと思ったから、彼はどんどん二階へあがってしまった。
得次は無理やりに、およねに酒を買ってこさせた。
兄のキゲンが悪いので、母や子供たちは床の中にもぐってしまった。
およねはおカンをつけ、それから、さっきのままになってる兄のおゼンの上にカマボコを切って出した。
「何だ。こんなもの。」
妹の持ってきた皿を、兄はいきなり突きおとしてしまった。
「まあ、もったいない。」
およねはタタミの上に落ちたカマボコを一つ一つ拾っていた。
「そんなもの、拾わなくったっていい。」
「…………」
「それからな、おまえはタイを残しておいたようだが、あんなものは明日まで取っとくことはねえぞ。隣りの猫にでもくれっちまえ。」
「兄さんはどうしてそんなことをいうの。」
「さっきは吾一つぁんがそこにいたから、おれは虫を殺していたんだが、おまえらは何だって、あんなものを有難がって食うんだ。タイだ、キントンだなんていうと、目の色を変えやがって。――浅ましいったらありゃしねえ。」
得次は叱りながら酒をついでいたので、つい盃からこぼしてしまった。こぼれた酒を見ると、彼はなお、むかむかしてきた。妹が皿を持って立ちかけるのを、彼は頭から怒鳴りつけた。
「おい、どこへ行くんだ。台所のことなんか、あとにしろ。――まあ、そこへ坐れ。」
彼は妹を前に坐らせて、ちびりちびりやっていた。およねは逃げようにも逃げられなかった。
「およね、吾一つぁんが何で折を持って帰ったのか知っているか。」
「…………」
「ありゃな、おれたちに見せびらかすために持ってきたんだぞ。」
およねはさからっては悪いと思って、何にもいわなかった。しかし、顔色までは隠せなかった。
「何だ。その眼つきは。」
得次はそれを見るとタタミかけていった。
「バカだな。貴様は。おれたちがケイベツされているのが分らないのか。――あいつはさっき何といった。主だった者と事務の者にだけ、御馳走が出たんだっていいやがったじゃないか。事務員になったことを、あいつは巾にしてるんだ。事務員になって料理が出たことを鼻にかけていやがるんだ。」
「…………」
「へん、事務員がなんだい、職工から事務員になったからって何だい。――あいつはドブにつかってでも何でも、後生大事に主人のために働くような奴だ。あんな奴は資本家のおこぼれを折詰にして、有難がって持って帰るのが、丁度似合っているんだ。だが、おまえたちまで、そんなおこぼれにたかるってことがあるか、そんな料理をいい気になって食う奴がどこにある。」
「子供や年寄は仕方がねえとしても、おまえまでが、そんなマネをしてるのを見ると、おれは腹が立ってたまらねえんだ。おれは年中いい聞かせているじゃないか。一番大事なことのために働かねえような奴は、人間じゃねえんだぞ。」
酒がまわるにつれて、得次の言葉はだんだん荒くなって行った。
およねはもう泣き出しそうになっていた。
「得や、もういい加減にしたらどうだい。」
母親は見かねて、寝返りをしながらいった。
「何だい、まだ起きていたんかい。」
「おまえ、そんなにおよねをいじめちゃ可哀そうだよ。」
「何もいじめてなんかいやしねえじゃないか。」
「あれはおよねが悪いんじゃない。わたしが悪いんだよ。食べたのが悪けりゃ、わたしがあやまりますよ……」
「…………」
「子供があんなに食べたがっていたから、わたしは子供に食べさせてやりたいと思ってああいったんだが、そんなに食べちゃ悪いもんだったのかね。――」
「お母さん、親父はどうして死んだのだ。おまえさんは何でそんな長い病気にとっつかれたんだ。ちったあ、それを考えても見るがいいよ。」
「そんなこと、おまえ、きょうの折詰と……」
「ダメだなあ、おっかあは。それだけいためつけられていながら、ちっとも分らねえのだ。」
「ああ、わたしには分らないよ。」
「それだから、おっかあは黙っていなっていうんだ。おれはおよねにいいきかしているんだよ。もう、おっかあの出る幕じゃねえったら。」
「ああ、黙っているよ、だけど、愛川さんはおまえがいうような人じゃないよ。律義で、働きもので、巾をきかすの、あてつけるのなんて、そんなことをする人じゃないよ。」
「うるせいな。黙ってろっていったら、年寄は黙っていたらいいじゃないか。」
「兄さん、そんな大きい声をして……」
「聞えたら、聞えたってかまやしねえよ。おれはああいう男、大きらいなんだ。――およね、おらあはっきりいっとくが、てめえ、あんな男にほれたりすると承知しねえぞ。」
今までこらえていたおよねは、とうとうこらえられなくなって、タタミへ突っ伏してしまった。
「何だね、そんなつまらないことをいって、泣かせることはないじゃないか。およねがどうしたわけでもありやしないのに――」
中の弟は姉の泣き声で浅い眠りをさまされた。彼は何が起ったのかと、布団の下から心配そうにのぞいていた。
吾一の持ち帰った、小さな折詰のことから、下の家庭の平安は乱れた。しかし、吾一はそんなことはちっとも知らなかった。
ときどき得次の甲高い声が上までのぼってくるが、それはただ酔っぱらってクダを巻いているのだとしか思っていなかった。
彼はその晩有名なフランクリンの自叙伝を読んでいた。フランクリンも印刷屋で働いていたことが彼にはひどくうれしかった。
いつものように床につく前に、彼はその本の中に引いてあったソロモンの箴言(しんげん)をつけた。
「その右の手には長寿あり、その左の手には富とほまれとあり、その道は楽しき道なり。その道筋はことごとく安らかなり。」
壁の中でコオロギが鳴いていた。
事務員になると、職工の時のような身なりもしていられないので吾一は詰エリの洋服を着て通った。それも柳原で買った古物だが、この露地内では服を着るような人間は一人もないものだから、彼の出世?に、みんなが目をそばだてた。
得次にはそれがまた不愉快だった。どっちも同じ文選工なのに、ケイベツしていながらも、やはりそして自分の方がずっと年上なのに、自分は相変らず、油のしみ込んだ着物をきている。ところが、向うはそんなものはどんどんぬぎ捨てて、新しいのに着更えてしまう。あんな根性の奴は、と心ではいい気持はしなかった。彼はほかの工場に変ったことを、ひそかによろこんでいた。毎朝あんな詰エリといっしょに歩くんだったら、どんなにたまらないだろうと思った。
吾一はもとより事務員を鼻にかけるというようなことは微塵(みじん)もなかった。得次にしたって、そんなことをつべこべいうほどの男ではないのだが、根本の思想が違っていると、どうも相手のする事、なす事が、目ざわりになって、しょっちゅう、何かいっていた。
しかし、母や娘は出来るだけ、兄のそういう言葉を吾一に聞かせないようにつとめていた。それは吾一に悪いと思うからばかりではなく、この一家にとっては、彼はこの上もない財源であったから、この人に出られてしまっては一家の浮沈にも関するからである。兄が帰ってきてからは、子供を絵ハガキ売りに出すことはやめたけれども、兄の日給と娘の針仕事ぐらいでは、とても、これだけの家族を養ってゆくことは容易でなかった。
だから得次が何かいえばいうほど、得次には目だたないように、母と娘は吾一のために尽すのだった。このあいだなどは、夜なべの仕事を終ってから、二晩も徹夜をして、およねは毛糸のクツシタを編んだ。
吾一は店で働くようになってからは、どんなに忙しくっても、活字を拾うのにくらべれば、ずっと骨が折れなかった。体が楽な上に収入も多くなったので、彼はこのままでは勿体ないと思った。で、店がひけてから速記を習いにゆくことにした。
彼は高等の学問を修めたいとも考えたが、自分のようなものは習ってすぐ役に立つものの方がいいと思った。速記は前の学校で、ちょっとばかりやったけれどもこういうものは専門にやらなくっては、とても自分のものにはならないから、彼は改めてその方の学校にはいったのだ。
しかし、これは学校で教わるよりも、練習の方がずっと大事だった。そこで彼は暇さえあると、子供におとぎ話の本を読んでもらっては、それを速記した。
その日は第三日曜で工場は休みだった。ごみごみした長屋の屋根の向うに秋の空がたかく澄んでいた。どこかに散歩にでも出かけたい日和(ひより)だが、彼は中の弟の収吉を二階に呼んで、速記の練習をやっていた。ところが収吉は、三分の一ほど読むと、つまらなそうに、ぱたりと本を閉じてしまった。
「おい、あとを読んでくれよ。」
「ダメだ、これ。」
「どうして。」
「むずかしくって僕には読めないんだもの。」
「そんなことないよ、収ちゃんなら読めるよ。一寸法師の話だから面白いんだぜ。」
「ううん、こんなの面白くないや。姉さんに読んでもらったらいいじゃないか。」
「姉さんは忙しいからダメだよ。」
「ううん、きょうは仕事がなくって遊んでいるんだ。――おれ、姉さん、引っぱってくるよ。」
吾一のとめるのも聞かず、収吉はどんどん下におりて行って、およねに何かいっていた。しばらく下で押問答がつづいていたようだが、いつのまにか、およねが二階に押しあげられてしまった。
「あたし、本なんて読めませんわ。」
彼女はケシの花のように赤くなっていた。
「どうも困ったな。――およねさんでなくったっていいんだのに。」
吾一もてれて、先のとがった鉛筆を指の間でくるくる廻していた。
「いいえ、きょうは暇ですから、お役に立つことなら何でもしますけれど、あたしに出来るかしら。」
「そりゃおとぎ話だから誰にだって読めますよ。むずかしいものだったら、第一こっちがまだ書けやしない。」
「この御本ですか。」
きれいなお姫様が表紙についている色刷の本を、およねは取りあげてページをめくった。
「やさしいでしょう。」
「ええ、これなら読めないこともありませんわ。」
「すみませんね。――どうも僕の練習はひとりでやれないんで、ヤッカイですよ。」
弁解しながらも、心の中では、ひとりでやれない練習に彼はある喜びを感じていた。
「はじめから読むんですか。」
「いや、勝手だけれど、途中からにして下さい。はじめの方はもう書いちゃったから。」
「それじゃどこのとこから……」
「ちょっと待って下さい。およねさんも読むのに筋が分らなくっちゃつまらないだろうから、前の方のとこカンタンに話しましょう。」
「ええ、そうしていただければ。」
「旅を廻る若い床屋があってね、ある宿屋に泊っていると、そこへ四頭立の立派な馬車がついたんです。中にはお姫様が一人乗っているだけで、お附きのものは誰もいない。そこで床屋がいろいろお世話をしてあげた。お世話をしているうちに、床屋はお姫様をおもうようになったんだね。で、自分の胸の中を打ちあけると、お姫様はわたしのいう通りにしてくれれば、あなたのいうようになりましょうというんだ。それはどんな条件かっていうと、お姫様の指定したところに、お姫様の小さい箱を持って行ってくれという、ただそれだけのことなんだ。」
「まあ!」
「そんなことは何でもないことだから、床屋は喜んで承諾した。ところで、その持って行く小箱だが、それをお姫様はたいへん大事にしていて、ちょっとでも、ゆすぶったりしてはならないというのだ。ごく軽い箱だから、中にはいっているものは、金貨ではない、きっと宝石だろうと思っていた。――それから、どうしたんだっけな。そうそう。ある晩のこと、うとうとしていると、美しい光が目にはいった。それは例の小さい箱の中から、さしているのだ。どんな宝石がはいっているのかと思って、光のさしてくる小さい穴から、そっと箱をのぞくと、床屋は仰天してしまった。何もかも小さいずくめだが、その中は王侯の構えのような美々しい大広間で、無数の明りがかがやき、立派な調度が列んでいる。そしてストーヴに赤々と火が燃えており、そのそばには一人の美しい少女が本を読んでいる。しかも、その少女というのは、自分が堅い約束をしたお姫様その人なのだ。」
「それじゃ、そのお姫様っていうのは一寸法師なんですか。」
「そうらしいんだ。自分が一寸法師だから、巨人をムコにもらって――巨人だって、普通の人間だが、一寸法師から見れば、巨人に違いないやね、巨人をもらって、強い種族をつくろうというつもりらしい。それで床屋を誘って、自分の国に連れて行こうとしているのだ。――今までのところはそういう筋なんだが、じゃ、そのあと読んでくれませんか。」
吾一はページをめくって、これから速記しようというところを、およねに示した。
「それから読む前に、ちょっと頼んでおきますが、僕の方が書けても書けなくってもいいから、あなたはこっちにかまわず、どんどん読んで下さい。あんまり早口じゃ困るけれども、普通の早さならかまいません。――それじゃ、どうか……」
彼は鉛筆を持って紙に向った。およねの声を一声も逃がすまいとして、彼は張り切っていた。が、およねの声はちっとも響いてこなかった。
「どうしたの。」
「あたし、恥しくって、……」
およねは本で顔を隠していた。
「そんなことをいわないでさ、僕、本当に早く練習しなくっちゃいけないんだから。」
「じゃ、読みますわ。――彼は――彼って、床屋さんのこと。」
「ああ、そう。だけど、途中で話をしちゃダメだよ。どんどん読んでくれなくっちゃ……」
およねはまた本に顔を埋めたが、やがて静かに読みつづけた。
「彼は馬車を急がせて約束の町へ行きました。お姫様は彼を迎えましたが、大層沈んだ姿をしておりました。
『あなたは、わたくしのいない時の姿を御覧になりましたのね。』
お姫様は泣きながら申しました。
『これであなたの幸福も、わたくしの幸福ももうおしまいですわ。』
彼はびっくりしました。どうしてお姫様はそのことを知っているのだろうと思いました。彼は故意に箱をのぞいたわけではないことを繰り返し弁解しました。
『でも、わたくしの素姓がお分りになっては、――わたくしの体が小さくなることがお分りになっては、あなたの愛も小さくなるに相違ございませんもの。』
お姫様はそういっておなげきになりましたが、彼は心の中で考えました。箱に入れて連れて歩けるくらい、時々小さくなる女を、自分の恋人とすることが、一体大きな不幸だろうか。もし男を箱の中に押し込めるような大女を女房にしたら、それこそずっと不幸ではないだろうか。」
屋根裏の窓から、黄色いイチョウが一ひら舞い込んできた。およねはかまわず読み続けた。
「『さようなら。』とお姫様が申しました。
しかし、彼はどうしてもお姫様と別れる気にはなれません。お姫様に『さようなら』といわれると、一層恋しさがつのって、彼はお姫様を抱き寄せて口づけしようとしました。
けれどもお姫様は彼を押しのけました。そうされればされるほど、彼はなおやっきとなって、声をしぼって哀願しました。
『そんなに仰しゃっても、あなたがわたしの素姓を知っておしまいになったからには、いっしょになる道はございません。――ただ一つの道が残っていないではありませんけれども、それはきっと、あなたが御承知にはならないでしょう。』
『いいえ、あなたのためならば、どんなことでもいたします。ただ一つの道というのは、どうすればいいのです。』」
吾一は夢中になって筆記していた。鉛筆がさらさらと紙の上を走る音は、そばに小川が流れているようだった。
およねはちょっと息をついて、すぐあとを続けた。
「それは箱の中の小さい少女のように、彼もまたお姫様といっしょに小さくなることでした。そうすれば、彼はいつまでもお姫様といっしょにいることが出来、お姫様の立派な御殿で王侯のような暮しが出来るのです。これは必ずしも彼にとって気に入ったわけではありませんが、もうどうしてもお姫様と別れられない気持になっていましたから、彼はそのままお姫様の言葉に従いました。
さて、お姫様のような小人になるには、どうしたらいいのかというと、お姫様の指にある指環をはめてもらいさえすれば、ひとりでにそうなれるのだというのです。で、彼は右手の小指を出すと、お姫様も右手の小指でそれを支えて、左の手で黄金の指環をそっと抜きました。そしてそれを彼の薬指にはめてくれました。
ところが、指環をはめてもらうと、指がはげしく痛みだし、指環がぎゅっ、ぎゅっと次第に引き締まって行きます。それと同時に、彼の体は丁度シメギにかけられたように、ぐいぐい締めつけられて……、あら、いやだわ、愛川さんそんな。……」
吾一は鉛筆を放り出して、ぽかんと彼女の顔を見ているので、およねは急に読むのをやめてしまった。
「ひどいわ。――書かないんなら、あたし、もう読まないわ。」
「いや、書かないわけじゃないけれど、書けないんだよ。」
「どうして。早やすぎるの、読み方が……」
「そうじゃない。手首んとこが、どうかしちゃったんだよ。――ほら、ね、こんなに、……」
吾一の出した右の手はゼンマイ仕掛の亀の子の首のように、休みなくふるえていた。
「まあ!」
「何だか指がしびれたようになって、鉛筆が持てないんだよ。」
突然、吾一はあったかいものを感じた。柔かい手が彼の腕にふれたと思うと、彼の手首は彼女のアゴの下のところに引き入れられていた。
吾一は面くらった。まったく夢想もしなかったことだけに、彼は手首ばかりか、心臓まで烈しくふるえた。
じれったい女、はがゆい女、どんとたたいても音のしないような女とばかり思っていたのに、――あの内気な娘のどこに、こんな情熱がひそんでいるのであろう。彼女はアゴをぐいと引いて、アゴとノドとで、彼の手をしなやかに締めつけた。彼は目をつぶったまま、ゆたかな肉体の中に、しびれた手首をひたしていた。
「ずいぶん、冷えているのね。」
「そうかしら。」
感覚が鈍くなっている手の先にも、彼女の情熱が伝ってくるのか、眠っている血がだんだん目をさましてきたような気持がした。
「少し、もんで見ましょうか。」
「ううん、もう少し、こうしていて。」
吾一はおとぎの国にいるような気がした。彼の手を締めつけているのは金の指環ではない。しかし彼はこのまま一寸法師にされてしまっても、およねといっしょなら、およねのためなら、自分はどんなになってもいいと思った。
彼は左の手でしずかにおよねの肩を抱いた。もしこのとき、下から兄の声が聞えなかったら、彼は、彼女は……
「おい、およね。」
「あら、また呼んでるわ。兄さん、いつ帰ってきたんかしら。――」
吾一はしずかに手を引いた。
「行ってやりたまえ。」
「でも、大丈夫、手の方――」
「ああ大丈夫だよ、痛むんじゃないから。」
およねは心を残しておりて行った。ハシゴ段のところで彼女の眼は「またあとでね」といった。
吾一はなお夢の中にいるような気がした。彼は今の夢を失うまいと思った。今の甘い夢をいつまでも見つづけたいと思った。彼はしびれた指の先で、おとぎの本をめくった。あれからどうなるのか、さっきのあとが知りたくってたまらなかった。
本の中の主人公は、不思議な指環の力で、豆のような小人になってしまったが、小さい二人は、大きかった時と同様に、いやそれよりも、もっともっと幸福だった。
人間であった時分は、食べること、住むこと、着ることだけでも容易でなかったのに、ここへきてからは、そういう心配は一切ない。住居も小さい。皿も小さい。盃も小さい。ズボンも小さい。しかし自分も小さいのだから、すべてのものがよく釣合いがとれていた。
大理石を敷きつめた部屋で、革のイスにもたれながら、紫リンドウを思わせるような美しいカップでビールを飲むうまさ、小米桜の花びらのような、真白な皿が次ぎ次ぎに運ばれて、床屋であった時分には一度も食べたことのないような料理を口にすると、それこそ一寸法師の国ではなくって、天国ではないかと思った。殊にお姫様が小さな口をいとど小さくして、朝夕してくれるキスはチャーミングとも何ともたとえようのないものだった。
彼はこうして日々を幸福に暮していた。ただ一つ困ったことは、お姫様をはじめとして、この国の人々が音楽を愛することだった。音楽は人々の心を静め、人々の心を調和させるものであるというのだが、カミソリのほか持ったことのない床屋は、そういう高尚なものには少しも興味を感じなかった。楽しい暮し、平和な生活に、彼はだんだん倦(あ)きてきた。彼はそんなことよりも自分というものをもっともっと大きくしたいという考えが頭をもちあげてきた。それと同時に、昔の自分が恋しくなってきた。そのままでいれば一生幸福で暮せるのに、彼はある野心を持つようになった。とうとう彼はヤスリを盗み出して自分の指にはまっている黄金の指環を断ち切った。そして以前の人間に返った。そのために彼はまた貧しい床屋になってしまった。
読み終ると、吾一は何だかぼうとしてしまった。
瓦の波の向うに、黄色いコズエが、風の中でゆれていた。
と、彼の右の手も、あやしくゆれていた。左の手でおさえても、指先のふるえは、とまらなかった。
意外な来客
どういうわけで急に右手がしびれたのか、医者に見てもらっても分らなかった。はじめは書ケイかと思ったが、内部的な疾患はなかった。どうも鉛筆の持方が悪かったのと、速記を詰めてやったことがいけなかったらしい。十日ほどしたら、忘れたように直ってしまった。
もちろん彼は、手が少しきかないぐらいのことで、休みを取るようなことはしなかった。毎日彼は出勤して働いていたが、ある日彼は支配人から呼ばれた。支配人は、
「君、ちょっと、こっちへ来てくれ。」
といって、自分から応接間のドアをあけた。
彼はしょっちゅう支配人の机のそばに呼びつけられているが、お客か何かのように、応接間に招かれたことは、まったく例のないことだった。彼は何事かしら、と少し固くなった。
「こりゃ少ししおれたな。水を取りかえてやらなくっちゃ……」
支配人は花瓶にさしてあるシオンを見ながら腰をおろした。
「そうでございますね。ちょっと水を取りかえてやりましょう。」
何となく重苦しい空気を柔かくしたいと思って、吾一は気軽にテーブルの上の花瓶に手をかけた。
「いや、君がやらんでもいい、君が。――実はちょっと話したいことがあるんだ。まあ、かけ給え。」
吾一はいよいよ固くなってしまった。
「外でもないんだがね、このあいだ君のことが、よそで話に出たんだ。さいわい君も検査はすんだのだし、どうです。養子に行って見る気はないかね。」
吾一は心もち額をあげたが、すぐ下を向いてしまった。うちでしずかに針仕事をしているおよねの姿が、一瞬間、眼の前にはっきり浮んだ。
「養子じゃいやかな。――しかし、向うはひとり娘で、どうしても外へ出すというわけにはいかないのだ。」
「……」
「いい口なんだがねえ。――」
支配人の言葉は慈父のように愛情に満ちていたが、彼の中にはそれよりももっと強力な愛が働いていた。彼はあの日のふくよかな肌のぬくもりを、忘れることが出来なかった。
「せっかくでございますけれど……」
吾一はやっとそう答えた。直ったはずの右の手が、また、かすかにふるえた。
「養子じゃいやかい。」
「そういうわけでもございませんけれど……」
「小ヌカ三合持ったらというたとえがあるくらいだから、どうも君はむつかしかろうと、実はわたしも思っていたのさ。」
「どうか、悪くお思いにならないで……」
「いや、そんなことは何とも思っていないが、ただ、わたしとしちゃ何だよ、あの金時計をいつまでも預っているのは気苦労なんでね……一日も早く君に渡したいと思っているもんだから……」
「いいえ、あれはどうかお預りなすっておいていただきます。自分の力で世の中に出るんでなくちゃ、あれはいただくわけにはまいりません。」
応接間を出たら、吾一は胸がすうっとして、何ともいえず、いい気持だった。金時計をくれるといわれた時、金時計を受けなかった以上に、いい気持だった。
支配人は養子の口なんで断ったものと、ひとりぎめをしているが、自分はつぐべき家もないのだから、実際は養子に行ったって、どうしたってかまわない体である。それにあの女とも、まだ別に約束をしているわけではなし、そんなにおよねに義理を立てるせきはないはずだが、先方のことを一言も聞かずに断ったことは、彼としては大きな誘惑に打勝ったような気がしてうれしかった。
しかし、本当のことをいうと、はじめて彼女を見た時から、彼はおよねが好きだったのだ。それだからこそ、あの屋根裏に越して行ったのだ。けれども、この間のことがなかったら、彼女の中にも、あんな熱い血が流れていることを見なかったら、彼の愛もこんなに高くは燃えあがらなかったろう。
彼女は山の上の湖水のような女だ。いつもは静かに、おっとりしているが、その水が一度切って落されると、電熱に変り得るような、はげしい力を底にたくわえているのだ。ああいう女こそ、女の中の女ではないだろうか。
おぬいのような女は、お高くとまっているところは、山の上の代物かもしれないが、同じ山の上の代物でも、あれは熔岩(ようがん)のような女だ。流れ出す時だけ熱くって、すぐ冷えてしまうんだ。自分の中に、燃えるものを持っていないのだ。このあいだ次野先生から聞くと、彼女は国の銀行家のところへ嫁に行ったとかいうことだが、あんな女はどこに行ったって、おれには何の関係もない。
およねといっしょになることは、それは一寸法師といっしょになることかもしれない。彼女のうちは小さい。彼女は何にも持っていない。何もかも小さいずくめ、少いずくめではあるが、彼女はどんな貧乏にもたえ得る女だ。貧乏に負けて、がつがつしたり、こせこせしたりするところがない、彼女は木綿の着物を着たお姫様だ。彼女は年をとると、きっと死んだおっかさんに似てくるに違いない。おれには木綿の着物のお姫様が……
「ご免よ。」ともいわずに、水まき車がすぐ横を通った。
ぼんやり歩いていた吾一はズボンのスソに水をかけられた。それと同時に、木綿の着物のお姫様も、ぐしょぐしょにされてしまった。
水まきの人夫は、そんなことには頓着なく、うんしょうんしょ重たい車をひっぱっていた。
往来は夕立のあとのように、水が流れていた。吾一は道をよって、ツマ先で歩いて行った。
「だが、おれは何だって、何も聞かなかったんだろう。大変いい口だっていったが、うちの名前だけでも聞いておけばよかったな。」
いつのまにか彼の頭は、まったく違った方に動いていた。
「支配人がああいうのなら、おれのところにだって、絹物ずくめのお姫様がこないとは限らないんだな。――」
ホコリ臭いいきれが、ツマサキからむっとのぼってきた。往来は黒くしめっているのに、ホコリのにおいは、水をまかれなかった前よりも、かえって鼻を打った。
支配人から話をされた時には、即座に断ってしまったのに、およねにはどうしてこんなに心をひかれるのだろう。
以前おぬいに相手にされなかった時、冷たい眼で見おろされた時、「畜生、女なんて」と、クチビルをくいしばったことを、おれはもう忘れている。
おれは今、恋愛なんかやっていていいのかなあ。立派なうちの息子かお嬢さんなら知らぬこと、おれにはそんな暇はないのだ。そんな道草をしていると、大事なものに乗りおくれてしまうぞ。
一寸法師の指環をはめられてしまったら、……ヤスリで切るといったって……
おかしいな。何だってこう、あの話が頭にこびりついているのだろう。あたりまえのおとぎ話のつもりで引っぱり出した本なんだが、あれはどうも、ただのおとぎ話とは違っているようだ。それともあのことがあったために、おれには忘れられないのかな。
だが、ぼんやりして歩いていると、おれはまた水をひっかけられるぞ。
「お帰んなさい。」
不意におよねが横から出てきた。
このごろは、彼の帰る時分というと、何かの用事にかこつけては、彼女はよく路地の出口あたりに出ていて、彼を迎えることが多かった。
あの日以来、およねの中に住んでいる小鳥が急に羽をひろげたのだ。彼にはその羽ばたきの音まで聞えるような気がした。そして、彼女が羽ばたきをすると、彼の中の小鳥もまた、彼の意思に頓着なく、いっしょになって羽ばたきをするのだった。
「きょう、こんな事があったよ。」
支配人の話をして、彼は彼女をからかってやりたくなった。そしておよねが、どんな顔をするか、見てやろうと思った。ところが、彼が切りだす前に、
「愛川さん、お客さんが待っててよ。」
と、彼女はいった。
「誰、お客さんて。」
「知らない方。名前もいわないの。会えばすぐ分るって」
「どんな人。」
「年寄よ。あんまりいい身なりの方じゃないわ。」
吾一は全く見当がつかなかった。不断でも彼のところには滅多にお客なんて来たことがないのに、あがり込んで待っているなんて誰かしらと思った。
部屋の中はもう真暗だった。タバコの赤い火が見えなかったら、そこに人がいるのさえも、分らないくらいだった。
客は吾一のあがって来たのを見ると、キセルをぽんとたたいて、
「おお、お帰んなさい。」
と、なれなれしくいった。
その声を聞いたら、吾一は急にむかむかとして、そのまま下へおりてしまおうかと思ったほどだった。
「押しつけがましかったが、勝手にあがり込んでおりましたよ。」
吾一は返事をしなかった。昔と違って、父がいやに丁寧な言葉を使うのも、オオカミがふくみ声をしているようで、不愉快だった。
二人はしばらく闇の中に向き合っていたが、やがて吾一は机のそばににじり寄って、ランプに火をつけた。
父親は眼をしばだたきながら、成長した吾一の姿に見とれていた。が、吾一が父の方を見返すと、彼は目を伏せて、そっとハナをすすった。
「実は印刷所の方に行こうかと思ったが、こんな姿をして訪ねて行っては、おまえの肩身が狭かろうと思って、わざとこっちへやって来たのだよ。」
もう秋も終りに近いのに、父は羽織さえ重ねていなかった。
「――しかし、よくここが分りましたね。」
「いや、なかなか分らなくってねえ。――どれだけ探したか知れやしないよ。もっと早く分っていさえすれば……」
「いったい、あなたは何しにきたんです。――」
「何しにきたって、……そ、そりゃ、おまえ……」
父親は立て続けにセキをした。タバコにむせたというよりは、ノドのところで、どうもセキをこしらえているとしか見えなかった。
「そ、そりゃおまえ、……おまえにだって分らないはずはないじゃないか。」
「分りませんね。――」
吾一はにべもなく突っぱねた。
「そういわれてしまっては返す言葉もないが、……おとっつぁんのこの姿を見たら、たいてい察しがつきそうなものじゃないか。」
「……」
「年をとったせいもあろう。今年の秋はひときわ風が身にしみてなあ。――」
「あなたは小遣をもらいにきたんですか。」
「ああ、小遣もそうだが、……これからとも何分一つ頼みますよ。」
「谷中(やなか)の方はどうしたんです。」
「あんなところ、おまえ……」
「あんなところって、あなたはあすこがよくって……」
「もうその事は何にもいわないでおくれ。わしが悪かったんだよ。わしが……あれはジャケンな女でな。……」
「……」
「何といっても、いざという時には、血をわけたものでなくっちゃ話にならんわ。おとっつぁんは、おまえがこんなに立派になったので、どんなにうれしいか分らない。吾一、何分ともお願いしますよ。」
「そりゃ虫がよすぎますよ、おとっつぁん。いや、僕はあなたのことをおとっつぁんなんていいたかありません。こんな時だけ、おとっつぁん顔をしてやって来られたって、僕はおとっつぁんなんて気がしません。僕はあなたに蹴飛(けと)ばされたことは、はっきり覚えているが、その外には何一つ世話になったことがないんだ。僕はあなたを養う義務なんかありません。」
「何といわれたって仕方がない。おまえのいうことは間違っちゃいないよ。」
父親はおろおろ泣きだした。
「ああ、間違っちゃいませんとも。親が面倒みないでも、どんどん成人して行くおまえだ。おまえのいうことに間違いはないよ。……それだけに、わしはなおさら、おまえのそばにおいといてもらいたいのだ。」
「ここは狭くってダメですよ。それに布団だってありゃしません。あなたが小遣がないというなら、小遣だけはあげますから、すぐに帰って下さい。」
「そ、そんなことをいったって、もう暗くなっているんだから……」
「愛川さん、御飯ですよ。」
下で子供の声がした。
「愛川さん、御飯になさいませんか。」
およねのイチョウ返しが、ハシゴ段のところからわずかに見えた。子供が呼んでも、おりて行かないものだから、自分でやってきたものらしい。彼女は前と違って、何ぞというと二階に顔を見せた。
「こっちにかまわずやって下さい。何だったら、わたしたちの方はソバでも取ってもらいますから。」
「おソバなんか勿体ないじゃありませんか。お差支えなければ、何にもありませんが、お客さんのもこしらえておきましたから。」
「そうですか。それはどうも済みませんな。」
父親は吾一が返事をしないうちに、およねの方を向いて丁寧にお辞儀をした。吾一は断るわけにいかなくなってしまった。
「いい娘さんだね。――」
およねが下におりると、父親は首をふりながら感心していた。
「ちょっと、死んだおっかさんに似たところがあるな。」
父親からそんなことをいわれると、吾一はかえって腹が立った。彼はわざと話を横へ持って行った。
「おっかさんといえば、おっかさんのお墓はもう建てたのですか。」
「死んだものの墓どころかいな。今日では、このわしが生きたお墓になりそうだよ。――しかし、さすがはおまえだね。いいところへ気がついてくれた。実はそのことも頼みたいと思って、わたしはやって来たのだよ。――だが、どうだい。あまり下で待っているといけないから、おりて行って御馳走になろうじゃないか。」
父はひどく、がつがつしていた。こんな人間を自分の親だといって紹介するのは気がひけたけれども、およねがせっかく用意したことだから、吾一もいっしょにおりて行った。
得次ももう帰っていて、長火鉢のところで待っていた。父の顔を見ると、驚いたように、
「やあ!」
と、急に膝(ひざ)を組み直した。父の方も、同時に、「やあ!」と叫んだ。
「おや、知っているんですか。」
「いや、知ってるってほどでもありませんがね……まあ、どうか。」
得次はまごついたような返事をしながら座布団をすすめた。
「そうですか。世間って広いようで狭いもんですね。どこで知り合いになったんです。」
「なあに、ちょっとしたところなんだが。――あなたはお達者で結構ですね。」
父の庄吾はまぶしそうな顔をしながら彼の前に坐った。
「ここへ訪ねてくる時に、どうも聞いたような名だとは思ったが、まさか、あんたのところとは思いませんでしたよ。――どうもセガレがいろいろお世話になりまして……」
「そうですか。吾一つぁんがあんたの息子さんですか。ちっとも知らなかった。」
そんなわけで父親と得次は、案外話が合った。二人は吾一の知らない昔話めいたものをはじめたりしたので、夕食が遅くまでかかった。吾一は小遣をやって早く父を返したいと思っているのだが、父は食事のあとでも、すっかり根をおろしてしまって、なかなか動かなかった。
そしてその晩はとうとう吾一のところへ泊ってしまった。翌朝吾一は出勤する前に、父に小遣を渡して、帰ってくれるように、くれぐれも頼んだ。
父親は不承々々承諾したが、夕万吾一が帰って見ると、彼はやっぱり二階に坐っていた。
「どうして帰らないんです。あなたは。あれ程頼んでおいたのに。」
「いや、大事なことを忘れていたんで、それをおまえにいっときたいと思ったもんだからね……」
「おっかさんのお墓ですか。それなら大丈夫ですよ。今の身分じゃまだ建てられませんけれど、それはきっと、わたしがこしらえますから。」
「なあに、その方は心配してやしないが、おまえ、何じゃないか。」
庄吾は急に声を落して「このうちにいるのは考えものじゃないかね。」
「どうしてです。」
「どうしてってさ。ずいぶん高い間代じゃないか。おまえの留守にここの娘さんと話をしていたところ、聞くともなしに値を聞いたんだが、わしはびっくりしたよ。もうちょっと出しさえすりゃ一軒うちが借りられるぜ。」
「そんなことにまで、あなたが口を出すことはありませんよ。」
「でも、あんまり勿体ないからさ。一軒うちが借りられるのに……」
「うちを借りたって、留守居もありませんからね。」
「それはわたしがしてあげるよ。わたしは台所も出来るしな。――その方が徳用じゃないかい。」
吾一は返事をしなかった。父親はしばらく息子の顔を見ていたが、
「まあ、損得はどうでもいいが、おまえがここにいることは、どうもわしには心配でたまらないのだ。」
吾一はおよねのことをいわれるのかと思って、ぎょっとした。
「ここのうちのあれは、おまえ凶状持なんだよ。」
「えっ、何ですって。――」
「わたしはね、それをおまえにいいたいと思って、実は帰らずに待っていたのだよ。本当はゆうべ話そうかと思ったんだが、そういうことをいうのはどうかと思って黙っていたのだ。しかし、おまえにだけは話しておかないといけないと思ってね。」
「凶状持って、一体どんなことをやったんです。」
「それがさ、普通の悪事と違ってタチが悪いんだよ。あの男は、おまえ、社会党の方なんだぜ。」
「それはわたしも知ってますよ。」
平生の言動から推して、吾一にもそれは分っていたが、得次がカンゴクに行っていたということは初耳だった。彼がここへ越してきた時、兄は遠いところへ行っている、といったことが今更のように思い出された。
「おまえ、それ知っているんなら、こんなところにいるのは物騒じゃないか。」
「しかし、わたしは別に社会党でも何でもないんですからね。」
「そんなことをいうが、そら、この夏、神田の錦輝館でえらい騒ぎがあったじゃないか。」
「ああ、赤旗事件ですか。新聞では見ていましたが……」
「わたしはあの時、偶然通り合わせたんだが、大勢ひっぱられるのを見て胆を冷したよ。あの方の連中と知っていたりすると、どんなことで側杖(そばづえ)をくわないものとも限らない。頼むから、おまえ、このうちは出てもらいたいな。」
赤旗事件は丁度大明堂の焼けた晩なので、翌朝火事場でもその話が出たくらいだった。しかも、その晩、得次はうちにいなかったのだ。もちろん、それはどこへ行っていたのか分らないが、考え合せると吾一は背中が寒くなってきた。
「わしはおまえ一人を頼りにしているんだから、危いところにはいないようにしてもらいたいな。」
「しかし、おとっつぁん、あなたはどうして、ここのあれがカンゴクに行っていたことを知っているんです。」
「そ、それは何だよ。……ちょっとしたことで知っているんだがね。――こりゃいけねえ、つまっちまいやがった。」
キセルの首に詰ったタバコを、父親はじれったそうに火バシの先でほじくった。
入社の蔭
「いつ見ても青ダタミは悪くないな。」
父親は家主に談判して、はいる時にタタミ替えをさせたことがジマンだった。
「どうだい、それに、おれの手料理だって、なかなかうまいだろう。」
「おとっつぁんに、こんなに出来るとは思わなかった。」
吾一は父親と新しいチャブ台に向っていた。
「いくら金を払っていても、よそにいたんじゃ、もう一杯って、いえない時があるからな。何といったって、おまえ、自分のうちでなくっちゃ……」
庄吾はとうとう吾一をくどき落して、一軒うちを持たせることにしてしまった。二間ほどの小さい家で、世帯道具もろくにそろっていないのだが、わが家となると、さすがに吾一も悪い気持はしなかった。
父に小遣を渡して帰ってもらうつもりでいたのだが、父は何のかのいっては、吾一のところを動こうとしなかった。そのうちに、彼はこの家を見つけてきたのだ。電燈があって、しかも、今までの間代とそんなに違わないのである。
いくらよくない父親でも、父親には相違ないのだから、行きどころのない老人を、放りっぱなしにしておくというわけにはいかなかった。北上一家には気の毒であったが、父を養うという名目で、彼は一戸を構えることにしたのだ。
引越の話をすると、得次は勝手にしろという顔をしていたが、およねと母親は非常にがっかりしたようだった。殊におよねのしおれ方は目に見えてひどかった。しかし越す前の晩は、特別に御馳走をして、酒を出したりした。
そういうもてなしを受けると、吾一は実に苦しかった。およねの親切が体の節々に響いてくるが、彼は「孝行」という護符を頼みに、その痛みを忘れようとした。
彼の収入からすると、父親がころげ込んできたとしても、あの屋根裏の部屋にいる方がいいのだ。いや、人の口がふえたのだから、出来るだけ、かかりをかけないようにしなければいけないのだ。それは十分承知していたけれども、彼はある危険をおもんばかって、逃げだしてしまったのだ。
彼が危険と思ったのは得次ではない。およねである。愛しているおよねである。愛しているがゆえにこれはいけないと思ったのだ。
吾一はおよねと向きあっていると、もうどうしても唇を求めずにはいられない状態にいた。しかし彼の「意思」は盲目になろうとする彼をいつも引きとめた。
おまえは国を立つ時のことを忘れたのか。あれほど蹴飛ばされ、ブベツされたことを忘れたのか。
おまえは一寸法師になってしまおうというのか。おまえはまだ若いのではないか。これからの人聞ではないか。これからという時に今そんなことをやっていていいのか。
彼は「孝行」の二字を「恋」という字の上に大きく書いた。それからもう一つの字をまたその上に書いた。そしてとうとう恋という字をぬりつぶしてしまったのだ。
父親は新居に落ちついて、すっかり満足しているようだった。息子のためにご飯をたいたり、おみおつけを煮たりすることに、深い喜びを持っているさまを見ると、吾一はむしろ、いじらしい気持にさえなった。もう、昔の父親の面影はどこにも見えなかった。
が、ご飯をよそっている父親の額の横に、筋張っている一つの線が目にはいった時、吾一の胸は何かふるえた。――おれの体にはこの老人の血が流れているのだ。
父親がまめに働いてくれるので女なしの世帯でも、そんなに不自由はなかったが、月々のかかりは予想よりもずっとかかった。
何しろ新世帯のことだから、出来るだけ間に合わせるようにしていても、買わなければならないものが大分あった。それにだんだん寒くなってきたので、父の羽織や綿入をこしらえてやったりしたため、吾一はいくらかためといたものも、ほとんど残り少なになってしまった。
これでは大変だと思いながら、彼は年を越した。そこで彼は新しい年に対して、新しい収入の道を講じなければならなかった。
それには勤めの合間にやれる内職でなくってはいけないが、そんなうまいものはなかなかなかった。とど、彼はいま習っている速記を役立てて見ようと思った。
手が直ってからは、ひき続き練習をやっているので、近頃ではもうかなり上達していた。で、彼は日曜とか、夜分とか、どこかにいい演説会なり、講演会があると、そこへ出かけて行って、名士の話を速記した。はじめは思うように取れなかったが、やってるうちにだんだん慣れてきた。その中から出来のいいものをホンヤクして、政治の演説なら、政治の雑誌に、文芸の講演なら、文芸の雑誌に、親爺の名前で、それぞれ原稿を送って見た。
しかし、どこからも何の通知もこなかった。結局、講演会の入場科を払って、彼は速記の練習をやっているだけのことだった。
これではどうにも仕様がなかった。店には方々の雑誌社の人がくるから、彼はその人たちに直接頼んで見ようかとも考えたが、店で自分の内職の売込みをするのは、主人に対して申訳がないと思った。彼はどうしても何か外のことで収入を計らなければいけなかった。
「やっぱり間借りをしていればよかったなあ。」
およねを捨てたことがテキメンに報いてきたような気がして、彼はすっかり、ふさぎ込んでしまった。
頭の上には「独立自尊」と書いた額がかかっていた。誰の書か分らないがこの家を持った時、古道具屋から買ってきたものである。
独立困難になった彼は、しきりに外の内職を捜していたが、ある日、東洋新論社から手紙がきた。そこで出してる「東洋新論」は政治、経済、文芸各方面の記事を網羅(もうら)した雑誌なので、彼が一番多く原稿を送ったところだった。手紙には〇〇伯講演の原稿の件につきお話したいことがあるから、来社せられたしと書いてあった。
しかし、勤めを持っている吾一は、先方の指定する時間に出て行くわけに行かなかった。原稿の名義も父親になっていることだから、彼は父を代理にやった。稿料をもらうだけなら、自分が行かなくったっていいだろうと思ったのである。ところが、
「わたしじゃダメだとよ。本人でなくちゃ。」
社に行った父は帰ってきて、不平そうにいった。
稿料ぐらい本人でなくってもよさそうなものだがと吾一は思ったが、仕方がないので、翌日彼は用をこしらえて外出し、電話でうち合せて、新論社に訪ねて行った。
しばらく応接間に待たされていたが、やがて、はいってきた編輯長(へんしゅうちょう)は吾一を見るなり、
「ああ君か。」
と、驚いたようにいった。編輯長も締切間際にはよく印刷所にやって来るので、お互に顔見知りだった。
「君とは思わなかったよ。――実はあの速記が大変よく出来ているから、一度書いた人に会って見たいと思ってお呼びしたんだが……」
彼はイスに腰をおろしながらいった。
無名の人々から無数に送られる原稿は、結局雑誌社の紙屑(かみくず)カゴをふくらませるだけのもので、取りあげられるものは、ほとんどないのが通則だ。
吾一のものも、はじめは同じ運命をまぬかれなかったが、字がきれいなのと、名士の演説の速記という特異な点が、いつか社内の人の目をひいて、例外的にえり抜かれたのである。殊に〇〇伯の速記は講演者の名前も名前だが、その題目もよかったので、編輯部では掘出しものをしたように喜んだ。それと同時に、これを速記したのは、どういう人かということが問題になっていた。
編輯長は一通り、吾一の経歴を聞いたあとで、しずかにいった。
「君、あの速記は、伯爵の許可を受けているのですか。」
「いいえ、そこまでは。――何しろ売れるか売れないか分らないものですから……」
「そうだろうと思った。実はあの原稿はいま伯爵のところにあげて目を通していただいている。よく取れているから、むろん許してもらえると思っています。そうすると、早速来月号に載せますよ。」
「それはどうも……」
「ところで君に相談があるのだがどうだろう、君、社にくる気はないかね。社にも筆記をするものはいるが、どうも速記というわけにはいかんから、うまく行かないんでね。君のような人がきてくれると好都合なんだけれど……」
吾一は意外の話に胸をとどろかせた。彼はしばらく熟慮していたが、
「たいへん有難いお話で、すぐにもお受けしたいんですが、どうも今のところをやめて、こちらにあがるというわけには……」
「いや、大明堂の方なら、こっちから直接に話してもいいがね。」
「――如何(いかが)でしょう、日曜とか夜分とか、私の体のすいている時、働かしていただけないでしょうか。」
「こっちの仕事は、君、そんな片手間仕事じゃ間に合わないよ。君に来てもらう以上、やってもらう事が大分あるんだからね。」
こんなにいわれているのに、断るのは勿体ないようにも思ったが、ある階段にのぼれるからといって、子飼いから世話になっていた家の敷居を足蹴(あしげ)にすることは情において忍びないような気がした。「それでは、よく考えまして。」といって帰ったが、彼の腹はやはり大明堂に辛抱するつもりだった。
黙っているのはいけないから、翌日吾一は支配人に新論社の話をした。支配人は「さすがはおまえだ。」といってくれた。
新論社からはその後も話があったが、彼は体よく断った。
半月ほど経った時、吾一は主人に呼ばれた。そこには支配人も列席していた。
主人は新論社から直接に交渉のあった話をして、吾一の意見を求めた。吾一は支配人に答えた通りを答えた。しかし主人は吾一の本当の意思がどこにあるか、それが読めない人ではなかった。
「いや、おまえがそういってくれると、わたしは実にうれしいよ。しかし、どうだ。向うであんなに望んでいるんだから、思い切って行って見ちゃ……」
吾一はあっけに取られて主人を見あげた。主人はつづけた。
「おまえがそれだけ義理を立ててくれれば、わたしとしてはもう十分だよ。向うは今売出しの雑誌社だから、ああいうところに行けば、おまえはもっと伸びる望みがある。おまえを手離すのは惜しいけれども、わたしのうちの者をよそ様から所望されたことは、この店の名誉でもある。どうだ、一つ新論社に行って、大明堂で働いていたものは、このくらいの腕があるというところを見せてやっては。――もっとも、向うがいやになったら帰ってくるがいい。おまえなら、いつでも店で働いてもらうよ。」
主人がこういうのは、吾一の先々のことを考えてくれてるからではあるが、上得意である新論社の懇望で、大明堂として断り難い点もあったのである。
「東洋新論」で、こんなに彼をほしがったのは、今度編輯長が速記を利用して、新しい読物を計画したので、それには彼の腕を必要としたからであった。編輯長は彼の日ごろの働き振りも見ており、火事の時に原稿を持ちだしたことまで知っていて、人物の上からも、是非是非と主人に懇望したのである。
「何といっても人間は平生が大事ですな。」
支配人もそばからいった。そして、吾一がいよいよ新論社に行くことにきまると、彼は今度こそ受取ってくれといって、また金時計のことをいい出した。しかし吾一は、いただくのはまだ早いといって、どうしても受取らなかった。
「そうだな、向うに行くのに、一番必要なのは、金時計よりも洋服だろう。編輯員になって詰エリじゃ工合が悪いだろうから、わたしの洋服をやろう。」
と主人がいった。
「少し直せば着られるだろう。晩にでも取りにきたまえ。」
吾一は主人の重ね重ねの好意に深く頭をさげた。
こちらにもかたづけなければならない仕事があるので、先方と交渉の結果、新論社に勤めるのは、来月からということにきまった。吾一は前よりも一層精を出して働いた。
ある晩店の帰りに、彼は主人のところに寄って、洋服をもらった。夕食を御馳走になった上に、大きなボール箱を抱えて主人のうちを出た時には、酒もまわっていたせいか、足が地につかなかった。
「いよいよおれも世の中に出られるぞ。」
彼は明るい通りの方へ歩いて行った。
彼はふらふらと洋品店にはいった。そしてネクタイを一本買った。
そこの通りは縁日で夜店がいっぱい出ていた。洋品店を出ると、彼は植木屋の前に立って、ボケの鉢や、早咲の藤をひやかした。何かいい気持でたまらなかった。
植木屋の隣りは詰将棋だった。将棋の駒のような顔をした男が、粗末な、板っぺらの盤の前に坐っていた。
職工だった時分、仲間がよくやっていたので、覚えるともなしに覚え、彼もきらいな道ではなかった。
彼は立ったまま盤の上の駒ばかりのぞいていたが、と、見ると、駒を動かしている洋服のお客は、彼が今度はいる新論社の人だった。校正の時にはいつもやって来る気さくな老人で、彼はよく知っていた。
「藤本さん。」
入社してからのためもあるからアイサツをしておいた方がいいと思い、彼はそばへ寄って行った。
藤本はふり返って、彼の方を見たが、返事もしないで、また盤の上をじいっとにらんだ。
コメカミの筋肉がぴくぴく動いていた。バカに夢中になっているもんだなあ、と少し浅ましい気がしながら、吾一はわきから見物していると、老人は、
「王手。」
と、王様の横っ腹に、たたきつけるように飛車を打った。
藤本老人の「王手」には怒気がこもっていた。
老人が「王手」と叫んで、びしゃりと打ちおろすと、あまりクソ力を入れるものだから盤の上の外の駒は、みんな恐れをなしたように、ふるえあがった。
そのたびに将ギ屋は微笑しながら自分の王様を軽くつまんで、巧に逃げて歩いていた。
「畜生。」
老人は血眼になって、王手、王手と攻め立てたが、彼がむきになって追い立てるほど、王様はかえって広いところへ出て行ってしまった。
「それまでか。――」
ため息をついて敵王をにらめていた老人は、つかんでいた駒を怨めしそうに盤の上に投げ出した。
「藤本さん。」
吾一はもう一度声をかけた。
しかし老人は振り向きもしないで、将ギ屋の鼻面に手を突き出し、「もう一番」という仕草をした。
彼は額にけわしいシワを寄せながら、興奮して、さっきと同じ形の詰物に、王手を繰返していたが、今度もまた、あっさり逃げられてしまった。
老人は詰めそこなった代償に、薄っぺらなハメ手の本を買わされて、くやしそうに立ちあがった。
「藤本さん。――おかげさまで、わたくし、……」
吾一がアイサツをしかけると、老人はぷいと人ごみの中を横に切れて、どこかへ行ってしまった。
吾一はフンガイするよりは笑い出したくなった。いくら詰将ギで金を取られたからといって、あんなにぷんぷんしないでもよさそうなものだと思った。
月がかわると、吾一も詰エリから背広に変った。彼は主人からもらった洋服を着て、――直してもユキのところが少しおかしいが、それでも当人は晴々とした気持で東洋新論社に出勤した。
編輯長から改めて社員に紹介され、そして彼も編輯室の一端に机を一つ与えられた。
「きょうは藤本さんの顔が見えないようですが、おやすみですか。」
彼はそっと隣りの人に尋ねた。
「いや、あの人はやめたんですよ。」
「そうですか。ちっとも知らなかった。いつ、やめたんです。」
「先月の末に。――いま君が掛けているところに、あの人はいたんですよ。」
「どうしてやめたんです。」
「さあ、どうしてですかね。」
隣りの人も老人のやめた理由を知らないらしいので、吾一はもとより知るはずもなかった。しかし、老人の掛けていたという机の上で仕事をしていると、何かこそばゆい気持がした。
そのうち社員ともだんだん親しくなり、隔てのない話をするようになった時、彼ははからずも、藤本老人がやめたのは、彼に原因があるのだということを知った。
老人は社内で筆記の方を担当していたのだそうだが、それがうまくないので問題になっていたところ、たまたま吾一の速記が取りあげられるようになった為に、彼は首になったのだというのである。
老人が大道で、王手、王手と夢中になって駒をたたきつけている様が、まざまざと眼の前に浮んできた。あの縁日の晩のことを思うと、吾一はいいようのない、わびしい気持におそわれた。
彼は老人のところへ行って、何か一言、申訳をいいたいようにも考えたが、それはかえって面当(つらあて)になるようにも思えた。
彼としては、老人を押しのけてはいろうとしたのではない。それどころか、出来るだけ入社を断ったくらいなのだ。――そう彼は思ってもみた。でも、心の中のうねりはとまらなかった。
しかし時と多忙とは、いつか、それを忘れさせてしまった。一人の若者がのして行くためには、こんなことは何でもないことだった。
これは世間にざらにある出来事だった。
独立自尊
吾一は浅草本願寺の築地の蔭(かげ)に立って、ヒツギのくるのを待っていた。
彼は往年のことを思うと、何ともいえないものに打たれた。築地も、黒い冠木門(かぶきもん)も、筋塀(すじべい)の内そとに立っている立木も昔のままだった。何もかも昔のままであるにつけ思い出されるのは、おきよ婆さんのことだった。お婆さんは今どうしているだろう。ひょっとしたら、きょうも行列の中に交って、のこのこやって来やしないだろうか。
あの時はおともらいカセギがばれて、自分ももう少しでつかまるところだったが、一体今日の自分は、あの時とどこが違っているのだろう。
なるほど、きょうの自分は背広を着ている。ねらっているのはマンジュウの折ではない。しかし、やはり一種のおともらいカセギをしているのではないか。
が、このおともらいカセギの手は、その後、年と共にヒンパンになって行った。後年自動車が発達するようになってからは、彼は自動車でおともらいカセギをやった。きょうの葬式には誰それが来るはずだ。それなら葬儀場に行くと都合がいいから、ついでにあの商談をまとめてしまおうといった工合に。――おマンジュウをかせぐものは卑められ、商談をまとめる者は「遠路御会葬下され」ということになるのだ。けれども、これは必ずしも彼ひとりが用いる手ではない。実業家という実業家はほとんど誰でもやっていることだ。
これも無論後年の話だが、あの時築地の錦水に会合があった折、朝、新聞をあけて、真先にどこを見るかという話が出たことがあった。ある人は外国電報に目を通すといい、ある人は社会ランを見るといい、ある人は続きものの小説を読むといった。ところが、錦水のおかみは、あたしは真先に黒ワクに目をつけますと答えたので、一座のものが舌を巻いたことがあった。
おかみのいうには、日頃御ひいきに預っているお客様のお宅にお喜びのあった時、万一伺わないようなことがあっても、それはたいして手落ちとは思いませんけれど、御不幸があった場合、知らずにいるくらい、不義理なことはありません。ですから毎朝わたくしは、何をおいても真先に、黒ワクを見るのですといったが、料理屋でも何でも、大きくなる家というものは、新聞を読むにも心構えが違うものだ。人間、黒ワクに目がつくようでなくっちゃ出世するものじゃない、といって、話し合ったことがある。
それとこれとは大分話が違うけれども、吾一はおきよ婆さんのところにいた時分から、黒ワクに目をつけるように慣らされていた。それから大明堂にはいってからも、どれくらい黒ワクの――死亡通知や会葬御礼の活字を拾ったことか分らない。恐らく彼くらい、小さい時から黒ワクで育てあげられたものは少ないだろう。
きょうも実は、その黒ワクを見て、ここにやって来たのだった。
新論に連載中の小説の筆者A氏は、年中花柳のちまたに入りびたっていて、雲隠れの名人だった。うちへ原稿の催促に行くと、「主人はどこにいるでしょう。」とあべこべに尋ねられるような始末だった。締切日は過ぎたのに、まだ一枚も原稿を受取っていないのである。根城と思われる二三の待合を探しても皆目行方が分らず、社内のものは青くなって騒いでいた。
たまたま吾一は黒ワクを見ているうちに、死亡者の名前とA氏との関係をかぎつけ、いかなずぼらのA氏でも、今日の葬式には顔を出すに相違ないと思って、こうして網を張っているのだった。
門跡様の中にいると、思い出されるのは、おきよ婆さんよりも、むしろ熊方のことだった。
大明堂にはいったあと、二三回手紙の往復をしたっきりで、――何しろ、あの当時、谷中のうちへ訪ねて行くというわけにいかなかったものだから、とうとうそれなりになってしまった。父が来たから、その後の様子を尋ねて見たが、何でも外国へ行ったとかいう話だというだけで父も詳しいことは知らなかった。熊方にポンチを頼めば恩返しも出来るし雑誌のためにもどんなにいいか知れないと思っているのだが、現在ではどうすることも出来なかった。
待っているうちに、ヒツギがやってきた。しかし、行列の中にA氏はいなかった。
吾一は予想がはずれたので、がっかりしてしまった。もうどこを探すといって、探すあてもないものだから、彼はぽかんとして突っ立っていると、葬儀がいま終ろうという間ぎわに、二人びきでA氏が駆けつけた。
この人は年中雑誌の記者を泣かせているが、面と向うと猫のようにおとなしい人だった。正体をつかまえてしまえば、もうこっちのものなので、そのあとは附きっきりで催促し、まんまと原稿を取ることが出来た。
吾一が新論社に迎えられたのは、速記の腕を買われたからで、編輯長の新案になる速記を土台の読物は、談話をした人の言葉癖をよく取ったので、その人の声まで聞えるようだと、たいへん評判になったくらいである。しかし、彼はそうした本職以外、むずかしい作家の原稿を取る腕も、遥(はるか)に人よりすぐれていた。
この雑誌は発刊以来、まだいくらも立っていないが、社長も編輯長も実に鋭い人なので、社の発展は目ざましいものがあった。それだけに吾一もまた働きばえがあった。彼は大明堂にいた時と同じように、主人の心を心として、骨身を惜しまず奮闘した。
彼が印刷所出身なところから、さまざまの組代の見積りなぞをさせられることがあるが、明日でいいからといわれて、社のひけ際に言いつけられたようなことでも、彼は必ずその日のうちに計算して、書類を出すようにつとめていた。「その日の仕事はその日に。」という方針を実行しているものだから、近頃の社員には珍しいといって社長にまで目をかけられるようになっていた。
ある日、社長と編輯長のお供をして、築地の精養軒で洋食を御馳走になったことがあった。その席上で、
「君、人の顔が見えなくっても、速記は出来るかね。」
とやぶから棒に社長から聞かれた。
「人の顔が見えないって、どういうんですか。声だけは聞えるんでございますか。」
「そりゃ無論、声は聞えるさ。つまり蔭で速記が出来るかというわけなのだ。」
「そうでございますね。出来ないこともないと思いますが、なるたけその場にいました方が、……」
「そりゃそうだが、向うの人は速記を取られるのはいやだというのだ。しかし、こっちとしちゃ是非その話を取っておく必要があるので、一つ骨が折れるだろうけれども、蔭でやってくれないか。」
編輯長もビールをすすめながら、吾一にいった。
吾一は障子に耳を押しつけるようにして書いていた。
隣の座敷との間にハギをあしらった小窓がある。小窓の障子が一寸ほど開いている。それが唯一の頼りだった。その隙間からこぼれてくる言葉を、しゃくうようにして、拾いあげていた。
しかし窓の向うには、銀ビョウブが立て廻してあり、その上、客の言葉はカンジンなところへ来ると声を落してしまうので、なかなか聞き取れなかった。話の内容は大部分利権に関することだったが、金額の点になると、言葉が消えてしまって、まったく書けなかった。
一体、こんな話を速記したって何になるのだろう。雑誌に載せたところで、ちっとも面白くないし、誰に読ませるつもりなのかしら、と吾一は思った。
しかし、社長の命令だから仕方がなしに、筆を走らせているが、やっていても仕事らしい仕事という気が、さっぱりしなかった。
やがて話が杜絶(とだ)えたと思うと、社長が忍び足でやってきて、彼を別な部屋へ連れ出した。そして、
「うまくいったか。」といった。
「申訳ありませんが、どうも今日はよく取れませんでした。」
「それなら、取れただけでいいから、ホンヤクしてくれ。しかし、ホンヤクは社でやらずに、社を休んでもいいから、うちでやってくれ。――この仕事は君を信用してやらせているのだから、絶対に他言しちゃ困るよ。いいかい。」
社長に念を押されて、彼はその待合を出た。そとは小雨が降っていた。
話が案外短かかったのと、聞えないところは書きようもないので、ホンヤクは一日で出来た。
その夕方、原稿を持って社に行った。
「これだけ取れてれば上等だ。」
社長はばらばらと速記に目を通すと、そういった。
「どうも数字のところが、さっぱり取れませんで、……」
「いや、それはかまわない。そこのところは、こっちで書き入れるから……」
彼としては実に不出来な速記なのに、社長は大変よく出来たといって、持別手当を彼にくれた。
社長室を出てくると、給仕が飛んできた。
「愛川さん、電話です。」
「どこから。」
「何ですか、女の人ですよ。」
女の声といわれて、内心ぎくっとしたが、それは次野からの電話だった。
次野先生の代理だが、すぐにこちらに来るようにというのである。先生の行きつけの、神楽坂(かぐらざか)の料理屋からかかってきたのである。
しかし、このところ、先生はどうも苦手だった。新論社にはいったアイサツに行った時、「それじゃ一つ、おれの原稿も頼むぞ。」といわれたなり、それっぱなしになっているからである。もちろん、吾一としては極力売込むようにつとめているのだが、編輯長があの人の原稿はといって、何としても受けつけないのである。
吾一は顔が合せにくいので、きょうは都合が悪いといって断っていると、突然、女中の声から、男のドラ声に変った。
「おい、おれが呼んでいるのに来ないって奴があるか。何でもいいから来い。社の仕事なんかどうだっていい。すぐに来い。」
先生が電話口に出てこられてはもうどうにも仕様がなかった。
次野はもう酔っていた。床の間をしょって、おかみを相手に盛んに盃を重ねていた。
「先生、相変らずですね。」
「なに、これか。盃はわが猟犬の如しさ。可愛いやつだよ。こいつは。ちっちゃいけれども、おれが行くところには、必ずくっついて来る。貴様のように逃げたりしやしないぞ。――まあ、一つゆけ。」
「先生、正面からそう吠え立てられた日には、こわくって先生のペットに手が出せやしません。」
「大丈夫だ。おれの猟犬は噛みつきゃしないぞ。」
「しかし、はらわたを引っかき廻わされるんでかないませんよ。」
「はははは。貴様もいくらか修業が積んだな、そんなことをいえるようになっちゃ。」
「だって、ねえ、あなた。お師匠番がお師匠番なんですもの。――」
吾一の方に流し目をつかいながら、おかみは次野におシャクをした。
「おまえ、そんなことを知っているのか。」
「ええ、知っていますとも。何だって知ってますわ。――『こいつがこんなに、ちっちゃかった時に、』でしょう、『筒っぽの袖口をぴかぴか光らせて』……」
「そんなことまで知ってるのか。」
「どうもたまらないなあ、ここへくると、すぐハナったらしにされてしまうんだから。」
「でも、先生は愛川さんがくると、すぐそれをいい出すんですもの。」
「そうかなあ。おれはそんなにいうかなあ。――だが、愛川『遥けくも来つるものかな、』だなあ。」
「鉄橋にぶらさがって、先生に叱られた時のことなんか思うと夢のようです。」
「しかし、貴様も大きくなったものだなあ。」
「そういわれると、僕はだんだん小さくなってしまいますよ。」
「あら、先生、また泣いていらっしゃるんですか。先生は本当に泣き上戸ね。――ダメですよ、先生。泣いたりなすっちゃ。お乾(ほ)しなさいよ、あたし、一つ、いただきますわ。」
「う、よしよし。やろう。――だがな、おかみ。こいつが、まだこんなだった時……」
「先生、もうそれは何度も伺いましたわ、『筒っぽの袖口をぴかぴか光らせて、』でしょう……」
「違う、違う。その話とは違うんだ。こいつがまだ、こんなだった時、そうだなあ、十六か七の時分だった。おれはこいつをだまくらかしちゃったんだ。」
「へえ、そのお話は初耳ですわね。」
「おかみ、おれはこう見えても、泥棒なんだよ。委託金費消……」
「先生、そ、そんな話は……」
吾一はあわてて、さえぎった。
「おまえは黙ってろ。おれは、……おれはこいつの金をつかい込んじゃったのだ。その時こいつは何といったと思う。――こいつがまだこんなだった時分なんだよ。こいつは、……こいつはこういいやがった。『先生、そんなものは、もうようござんす。先生、お、おシャクをしましょう。』っていいやがった。――おかみ、聞いてるか。こいつが、まだこんなだった時分なんだよ。」
「先生。もうそんな話は……」
「いいから、おまえは黙っていろといったら。こいつに訴えられた日にゃ、おれは両手をこうやられなくっちゃならないところだったのだ。ところが、こいつはその時分から偉らかった。『先生、おシャクをしましょう。』っていいやがったんだからな。こいつは、こいつは柄は小さいが今に大きくなるぞ。」
「ええ、あたしもとうからそう思っているんですよ。」
「おかみのやつ、急におべっかをつかいやがるな。――と、ところで愛川、きょうはおまえに渡すものがあるのだ。」
「さっきおまえに来いといったのは、おれはこれを渡したかったからだ。」
次野は内懐(うちふところ)に手を入れて、白い封筒を出すと、封のまま吾一の前においた。
「愛川、これを受取ってくれ。」
「先生、わたしはもう、そんな……」
「いや、遠慮することはない。取れ。これはおまえのものだ。――受取ってくれといったところで、みんなありゃしないぞ。半分しかないんだ。半分しかないけれども、これはおれが今日もらった原稿料の全部だ。――今度は返そう、今度こそ返そうと思っていながら、いつもしみったれた稿科しか取れないもんだから、それなりになっていたが、愛川、喜んでくれ。おれもようやく長いものが売れるようになった。こ、これはな、その稿料なんだ。持ってるとまた遣っちまうから、取ってくれ。」
「しかし、わたしは本当にいただくわけが……」
「わけがあるもないもあるものかい。取れ、取っておくんだというのに。――全く貴様は感心なやつだ。おれがあの話をした時は、おまえはまだこれっぱかりだった。あれからとうとう一ぺんもおれに催促しなかったな。おまえだってずいぶん金のほしい時があったろう。あの金があったらと思った時があったろう。だが貴様はオクビにもそんな様子は見せなかった。貴様は実に見あげたやつだ。――何だい。いつまでも、こんなところに見せびらかしておく奴があるか、早くしまえといったら。」
次野は封筒を取って、吾一のポケットにねじ込んでしまった。
吾一は胸が詰って声が出なかった。先生の原稿がうちの雑誌に売れないので、叱られるのだとばかり思っていたのに、あべこべに先生から金をもらったのだから、彼は全く頭があげられなかった。
「何だ。貴様、涙なんかこぼして。金を持って泣く奴があるか。陽気になれ。――ああ、きょうは実にいい気持だなあ。おれは頭の上におっかぶさっていたものが、ふっ飛んでしまった。これでやっと泰さんにも申訳けが立つ。おい、愛川。泰さんは死ぬまで、おまえのことを案じていたんだぞ。貴様は、り、りっぱな人間にならなくっちゃいかんぞ。」
「そ、それはもう……」
「ようし、分った。――今夜は貴様の前途を祝して大いに飲もう。――おかみ、いい気持だな。」
「まあ、先生、今夜はバカにお陽気なんですね。」
年増の芸妓がはいってきて、手をついた。
「うん、おれはうれしくってたまらないのだ。きょうは日本晴れだ。」
「先生、もう、ここらで『奴さん』が出てもいい頃じゃございませんか。」
おかみがそばからけしかけた。
「ようし。きょうは『奴さん』でも何でもやるぞ。」
ハーコリャコリャ。ええ、奴さんどちらへ行く。ハーコリャコリャ。旦那お迎いに――か。
「『奴さん』なんか愛川には面白くないな。おまえは長いこと『奴さん』ばかり踊ってきたんだからな。――ええと、それじゃ『桑名の殿様』をやろう。
桑名の殿様、やんれ、やっとこせ、よういやなあ。桑名の殿様。………それから何だったっけな。」
「時雨(しぐれ)で茶々づけじゃありませんか。」
「うん、そうそう。――桑名の殿様、時雨で茶々づけ。よういとなあ。ああれは、ありゃりゃんりゃん。よいとこ、よいとこなあ。ああ、バカにいい気持だなあ。」――
「愛川、貴様も踊れ。」
次野は立ちあがって、吾一の腕を引っぱった。
桑名の殿様。やんれ。
やっとこせえ、よういやな。
吾一は先生に引きずり廻されていながら、彼もうれしくってたまらなかった。彼は涙をこぼし、こぼしタタミの上をはねていた。
その日も吾一は、社長の根城である例の待合の小さい窓の下で、速記をやっていた。
窓の障子が一寸ばかり明いており、その向うにビョウブが立て廻してあることはいつもと同じだ。しかし、きょうの話は社長とお客との話でなくって、ある会社の重役と重役との密談だった。社長はその中に交っていなかった。
社長との密談だと社長は話のあいだで、ときどき声の調子を高めるものだから、相手もそれに釣られて、大きい声を出すので、よほど取りよかったが、きょうは文字通りの密談なので、わけて速記がやりにくかった。しかも社長は、今夜の話は重大なのだから、出来るだけ一語も漏らさないように取ってくれというのである。彼は全身を耳にして、鉛筆を走らせているが、一語、一語はおろかなこと、その半分も取れなかった。
吾一ははがゆいような、じれったいような、わけの分らない興奮の中にいた。その時、彼の部屋の唐紙がいきなり、すうっと明いた。
「ああら、いやだ。人がいるわ。」
フスマのかげから、赤い友禅のタモトが焔(ほのお)のように、ひらめいたと思うと、またあわてて唐紙がしめられた。
半玉(はんぎょく)が知らずに明けたのだろうが、いくら知らずに明けたにしても、「すみません。」とか、「ご免なさい。」ぐらい言うのが当りまえではないか。「ああら、いやだ。人がいるわ。」とは何という言いぐさだ。
半玉の畜生奴!
吾一は入口の方をじっとにらんだ。しかしにらんでいるうちに、鉛筆が指のあいだから、力なく机の上に落ちた。
こういうところでは、そりくり返って盃を持っている男か、女の膝(ひざ)にしなだれかかる男でなくっては尊敬されないのだ。鉛筆をもって働いているようなものは、彼女等の眼から見れば、「ああら、いやだ。」に相違ないのだ。
待合は男の働くところではない。男の遊ぶところだ。待合にきて働くような男なんてものは……
それは、あの半玉にしたって彼に向って「ああら、いやだ。」といったわけではない。人がいないと思ったのに、意外のところに人がいたものだから、びっくりしてああいってしまったのだろう。しかし、おれのやっていることは何だ。半玉が黙ってフスマを明けたのが無礼なら、黙って人の話を盗み書きしている、このおれはどうなのだ。
もちろん、おれは好んでこんな事をやっているわけではない。
「わたくしには取れませんから。」と速記の出来ないことにかこつけて、何度か逃げているのだが、月給をもらっている悲しさ、どうしたって社長の命令にそむくわけにはいきゃしない。
もうこれで、こんなことをするのは三度目だ。壁に耳どころか、壁が速記を取っているとも知らないで、隣りの重役連中は、ほくそ笑みながら、しきりに画策をやっているが、一体社長はこの速記をどうするつもりなのだろう。
前の速記にしても、どこでどういうふう《・・》に利用されているのか吾一にはもとより分らないが、社がめきめき伸びて行くことと、これとのあいだには、どうも何かの因果関係がありそうな気がする。
突然、もう半年も前に新聞に出ていた、ある経済雑誌のキョウカツ事件の記事がひょいと頭をかすめた。
彼はがっかりしたように、うしろの柱に背中をもたせかけた。そして、しばらく眼をつぶっていた。
引越の時古道具屋から買ってきた額の文字が、ぼんやり眼の前にあらわれた。
フスマが音もなく、また、すうっと明いた。
主人の心になって働く。それが奉公人の第一のモットーだ。しかし、こんなことまで主人の心になって働けるか。――
肩に何かさわったものがある。
眼を開くと、社長が横に立っていた。吾一はあわてて、機械的に頭をさげた。頭をさげながら、おれは一体こんなことをする必要があるのかしらと思った。
社長は眼で「こっちに来い。」という合図をした。そして、いつものように例の部屋に導かれた。
「君は何をしていたんだ。」
「すみません。つい書けなかったものですから……」
「君のは書けないのじゃない。書かなかったのじゃないか。今夜の話はあれほど大事なことだといっておいたのに、なぜいねむりなんかしているのだ。困るじゃないか。」
「あれは居眠りじゃありません。」
「それなら速記は取らずとも、話の内容は聞いているだろうね。」
「それも分りません。声が小さくって聞えないのです。」
いくらか聞いていることもあるが、他人の秘密なんかしゃべるのは不愉快だった。
「事実、声は小さいが、耳をすましていれば、まったく聞えないこともないじゃないか。」
「それなら一つ、社長がおやりになったら……」
「なにい! そんなこと、おれに出来るか。」
「社長に出来ないことなら、わたしにだって出来ません。――」
「き、きみは今になって、何でそんなことをいうのだ。前には速記が取れていたのに、なぜ今度は取れないというのだ。」
「わたしは、こういうことには不向きな人間です。どうか外の人にやらせて下さい。」
「おい、おい、愛川。何をいうのだ。――わたしは君を見込んだからこそ、やらせているのではないか。こんなこと誰にでも頼めやしないじゃないか。」
「御信任を受けたことは有難いことですが、わたくしはその人でございません。――」
「いや、そうか。――それは悪かったな。しかし、愛川君。わたしは君にムダ働きさせようとは思っていやしないよ。前から何かいうのもどうかと思って、実は何もいわなかったのだが……」
「社長、どうか考え違いをなさらないで下さい。わたしは決して。」
「――それじゃ君は、どうあってもやらないというのかい。」
「申訳ありませんが、この仕事は……」
「すると、君は社をやめなけりゃならんことになるが、……」
「――仕方がございません。」
「念のために聞くが、君はどこかよそから呼ばれているのかね。」
「いいえ、どこからも……」
「はははは。君は若いな。――それでどうするのだ。」
「……」
「君、世の中を渡るには、機敏に立ち廻らなくっちゃあかんぜ。君のようなやり方じゃ……」
社長は社長の処世法を述べ出したが、吾一はいい加減なところでお辞儀をして立ちあがりかけた。
「なんだ。どうしても、社をやめるのかい。君、そんな短気を起さんで、思い返しちゃどうだい。」
「せっかくのお言葉ですが、僕はこれから一本立でやってみようと思います。」
「そ、それじゃ君は、わたしの仕事を……」
「とんでもない。僕は人の秘密で飯を食おうとは思っていません。」
社長はにがい顔をした。
やがて彼はふところへ手をやって、紙入を出し、札を数え始めた。
「社長、わたしは口どめ料がいるような人間じゃありませんよ。」
「はははは。――いや、そういうつもりでもないが……そ、それじゃ愛川君、君の送別会を盛大にやろうじゃないか。」
社長は初夏の空のように、むずかしい顔をするかと思うと、すぐまた、からからと笑った。
「成功の友」
「さあ、おとっつぁん、つきましたから、一杯おやんなさい。こりゃいけねえ、つき過ぎちゃった。」
吾一はむしゃくしゃまぎれに、帰り道で買ってきた正宗の二合瓶を、ヤカンから取り出した。
「はははは、おカンなら、わたしが見てやるんだったな。――しかし、おまえが酒を買ってくるなんて珍しいな。」
「とうとうおとっつぁんに、うまい酒も飲ませなかったから、今夜はいっしょにやろうと思って。」
吾一は父に盃をさした。
「いや、わたしはよしとくよ。」
「そんなこといわないで、おあがんなさいよ。いい酒ですぜ。」
「……」
「どうして、おとっつぁん、そんなに遠慮するんです。」
「なあに、遠慮するわけじゃないが、わたしはもうやらない方がいいんだ。」
「そりゃ昔のようにやっちゃ困るけれど、たまにゃ飲んだ万がいいと思うな。台所ばかりさせているせいか、おとっつぁん、このごろ少し痩(や)せたようだぜ。」
「そ、そんなことはありゃしないさ。一つ、おシャクをしよう。」
「おとっつぁんにおシャクをしてもらったんじゃ……」
「この方が天下泰平だよ。」
父親は瓶を取って、息子についでやった。
「飲んだ人が飲まないと寂しいな。おとっつぁん、一杯おやりよ。こっちだけ飲んでたんじゃ……」
「それもそうだな。――いや、やっぱり、わしは飲まない方がいい。」
父は出しかけた手を引っこめてしまった。
「おとっつぁんも変ったな!」
吾一は昔のことを思うと、感にたえないものがあった。
「おとっつぁん、もう少ししたら婆やか何かおくようにしますよ。もうしばらく我慢して下さい。」
「な、なにをいうんだ。おれは台所なんかちっともつらいと思ってやしない。おまえのたべ物ごしらえをするのが楽しみなんだよ。」
「おとっつぁん。」
吾一は盃をおいて、改った調子でいった。
「僕はきょう社をやめましたよ。」
「ええっ。どうして。」
「へなへなの月給袋で、首っ骨をたたかれるのは、もうあきあきしたからさ。」
「何か上の人といい合いでもしたのかい。」
「自分でいうのもおかしいが、おとっつぁん、おれは今日まで随分よく働いたぜ。しかし、人のために働くのは、もうつくづくいやになったよ。おれはこれから、自分のために働くんだ。そこにかかっている額がおれの心だ。おれはその精神でやって行くよ。」
「自分でやるって、何をやるんだい。」
「おれは今、道々すっかり考えをまとめてきたんだ。そら、この間先生からいただいた金があるだろう。あれでおれは……おとっつぁんどこへ行くんだい。」
父親はいざるように台所の方へ動き出した。
「なあに、ちょっと、お香こでも切ってこようと思って。」
「漬物なんかどうでもいいよ。――まあ、おれの考えを聞いておくれよ。おれはあれを元手にして出版をやろうと思うんだ。普通の人では、あれくらいの金じゃ出来ないが、おれなら印刷だって、紙だって無理はきくし、原稿はおれの速記したものを使うつもりだから、元はほとんどかかりゃしない。おとっつぁん、おれはきっと当てて見せるよ。」
「おとっつぁんといっしょにやるつもりだったのに、とうとう、おれひとりで飲んじまったなあ。」
吾一はすっかり酔っぱらってしまった。
出版をやるということは、金を出してくれた稲葉屋のおじさんに対しても、おじさんの店と最も縁の深い商売をやるのだから、これにまさる供養はないと思った。その晩は実にいい気持で床にはいった。
いつもは父親に起されなくっちゃ眼がさめないのに、翌朝はまだ暗いうちに、ぱっと眼があいてしまった。自分の仕事となると、こうも違うものかと、自分で自分がおかしくなった。
彼は台所で顔を洗うと、きょうの活動に真先に必要な預金帳を出そうと思って行李(こうり)のフタをあけた。前には郵便局に預けていたのだが次野先生にまとまったものをもらってからは、銀行に変えたのだ。
彼は行李をひっかき廻わした。ひっかき廻わさなくても、一番底に入れておいたのだから、すぐ出なければならないのに、入れておいたはずの底にもなければ、着物の間にもはいっていなかった。
「おとっつあん!」
父親は返事をしなかった。
「おとっつぁん、ちよっと、起きておくれよ。――」
「……」
「ここに入れといたもの知らなかったかね。」
父親はむっくり起きあがったと思うと、いきなり、台所へ飛んで行って雨戸をあけようとした。
「雨戸なんかいいよ、おとっつぁん、ここに……」
吾一はいいかけたが、戸をあけて外に飛び出そうとする父を、やにわに、うしろから抱きとめた。
「どこへ行くんだ、おとっつぁん朝っぱらから。――」
「と、とめねえでくれ。申訳けがねえ。申訳けがねえ。」
「申訳けがないじゃ分らないよ。」
引っぱるようにして、父親を座敷のまんなかに連れて来た。
父親はイモ虫のようにごろりとなってしまった。しかし、吾一も背骨(せぼね)が抜けてしまったように、くたっとなっていた。
「一体、どうしたってわけなんです。」
「……」
「黙ってちゃ分らないじゃありませんか。わけをいって下さい。わけを……」
「お、おれは、この二三日、どうしようかと思っていたんだ。――ゆ、ゆうベ、おまえの話を聞いた時、お、おれは……――ああ、おれは、ゆうべのうちに死んじまえばよかったんだ。」
「な、何をいうんです。そんなことより、あれを一体どうしてしまったんです。」
「……」
「そ、それをいって下さい。みんな、つかってしまったんですか。」
「つ、つかってしまったわけじゃないが……」
「それなら、どうしたんです。」
「――預けて、預けてあるようなものなんだけれど……」
「預けてって、どこに預けてあるんです。――おとっつぁん、どこに預けてあるんですよ。」
父親は突っ伏したまま、それから先はなかなか答えなかった。
あの預金帳があると思えばこそ独立の決心もつけ、社長にも強い言葉が吐けたのではないか。それをみんな遣いこまれてしまっては、これから一体どうすればいいのだ。
外はもう夜が明けたのだろう。電燈がひとりでに消えた。暗い中にまるまってる父の体から、何かムジナのような、悪臭がわきあがって来るような気がした。
だんだん問いただすと、父はあの金で株に手を出したのだ。
新東が下っている。ここが底値だ。この底を買っておけば、必ずもうかる。無断で出すのは悪いけれども、相談をしたのでは賛成されるはずがない。――しかし利益が目の前にぶらさがっているのに、こんないい機会を逃がすということはない。ようし、貯金を倍にしてやろう。「おや、いつのまに預金がこんなにふえたのだろう。」吾一がびっくりするように、吾一の知らないあいだに、一山あてて、もうけたやつを、そっくり銀行に放り込んでおこう。――父はそういうつもりで引き出したのだというのである。
彼は眼前失敗しておりながら、なお自信を失わなかった。買いつないでおけば、近いうちにはきっと上る。出来ることなら後金を入れて、前のものを生かすようにしたい。今日中に追敷をしさえすれば……というのだが、吾一は返事もしなかった。
先生からあの金をもらってきた時、ああ、どうして父親にその話をしたのだろう。父のような人間に金のことを打明けるなんて、おれの方がよっぽど、どうかしていたのだ。
が、稲葉屋のおじさんや、次野先生の好意を黙っているのもいやだったし、それに、この頃の父は生れ変ったように、まめまめしく働いていてくれたものだから、つい、うれしまぎれに話してしまったのだが……
うちの親父は親父ではない。家族を苦しめる機械だ。おっかさんはその機械にかかって、あんなことになってしまった。そうして、おれだって、何度この機械に手をはさまれたことだろう。
得次と知っていたことも、おかしいなと思っていたが、ひそかに調べて見ると、二人は意外にもカンゴクでの知り合いだった。昔からかぶと町に出入りしていた父は、例の大ガラの時、御多分に漏れず、すってんてんになってしまったが、その前後、株の資金や追敷の金に窮して、被保険者とぐるになり、保険詐欺を働いていたことが発覚し、二年もやられたのだという。刑を終えて出てくると、もう誰も相手にするものもないものだから、彼のところにころがり込んで来たのだった。
それを知った当座、吾一は父親と口をきくのも、ものうかった。しかし、父親にそういうことがあったからといって、急に出て行ってもらうわけにもいかなかった。どんな人間であっても、父親であって見れば、どうにも仕様がないことだった。
が、こういうことが分ってる以上もっと警戒するのが当然であったかもしれない。自分は余り油断をしすぎた。しかし、自分の父親を警戒しなければならないなんて、そんな、そんなことがあるだろうか。
吾一は泣くにも泣けない気持だった。ナメクジのようにタタミにへばりついている父親を、彼はしばらくじいっと見つめていたが、ぷいと立ちあがって雨戸をあけた。
一枚はわけなく明いたが、あとの一枚は、敷居が腐っている上に、彼がむかっ腹を立てて無理に押したものだから、ばさりとはずれてしまった。
吾一ははずれた雨戸をあげようともせず、そのまま尻もちをつくように、ぬれ縁に腰をおろした。
彼のところは谷のようなクボ地なので、隣りの地所の石垣が目の前に迫っていた。その石垣のあいだから、名もない草が二三本、朝露をあびて葉を広げていた。その青い葉っぱを見たら、彼のくしゃくしゃした頭のなかを、何か針のような光ったものが、すうっと通りぬけた。
石垣のあいだには土なんか一かけもない。石と石とはセメントで固めてあるのだ。それにもかかわらず、名もない草はわずかの透間を見つけて、根をおろし、葉をひろげている。そんな中ででも生きて行こう、伸びあがろうとしているものがあることは、彼にある勇気を与えた。
いつもは朝起きると急いで食事を済まし、社に飛んで行ってしまう。そして、うちへ帰るのはたいてい日が暮れてからだ。裏の石垣の草っぱなんか、ほとんど見たことがない。よし、目にはいったとしても、そんなものには何の感興も起らなかったのだが、けさはその草っぱが他人ではなかった。彼も朝露を吸って、体が急にぴいんとなった。
吾一ははずれた雨戸を持ちあげて、丁寧に戸袋に入れた。それから自分で台所をやり出した。
それを見ると父も手つだおうとしたが、「いいよ、いいよ。きょうはおれがやるから。」 といって、吾一はいっさい自分でやった。
食事の時、彼はいった。
「おとっつぁん、もう心配しなくってもいいよ。おれはあの金をもともと当てにしていたわけじゃない。もらったものだから、つい頼みにしていたが、なあに、はじめからないものと思えば何でもありゃしないよ。」
彼の頭には、いま、一つの思想が強く根をはっていた。「実力こそ私の財産である。」ある晩就寝の前に書きつけておいたスチルネルの言葉と、青い草っぱとが彼の中で不思議に握手をしたのだ。
彼はさっきのようにへこたれてはいなかった。元手なんかなくっても、――石垣のあいだにでも何でもしがみついて、芽を出し、葉をひろげよう、そういう心に燃えていた。畜生、きっとやって見せるぞ、「精神一到……」彼は枕木にぶらさがった時のような、悲痛な気持で戦おうと思った。
しかし、父親がつまらない考えを起して、軽率なことをされたりすると、彼の努力も台なしにされてしまう。
「いいかい、おとっつぁん。出来たことは仕方がないんだから、おれはもう何にもいいやしないよ。だから、おとっつぁんも今までとおんなじようにやっておくれ。おっかさんのような真似をされたら、おれはどんなに困るか分らないんだからね。――おれはおっかさんが怨めしいよ。あんなことをされたために、おれはどんなにつらい思いをしたかしれやしない。あの時おっかさんは病気だったから、ふらふらとあんな気になったんだろうが、いいかい、おとっつぁん、おれのことを思ってくれるんだったら、決して軽はずみなことをしちゃいけないよ。」
繰返しそういって、彼は家を出た。
後金を入れると、前のものが生きるんだといった父の言葉は、相当彼の頭にひっかかっていた。彼は途中でひょいとそのことが浮んだが、しかし父の言葉はどこまで信用がおけるか分らないし、あの金はおれのものじゃないんだと、もう一度強く自分で自分にいい聞かせた。
彼はまず大明堂に行って、支配人に会った。そして例の金時計をいただけないだろうかといった。
「ああ、それはいつでも渡しますとも。わたしも気になっていたのだ。――だが、おまえが金時計をさげるというからには、何かいい話でももちあがったのかい。」
「いいえ、そういうわけじゃないんです。」
彼は金時計そのものがほしいのではない。あれを保証にして出版の後援をしてもらえないだろうかと切りだした。
どこの印刷屋でも、多少、用紙を持っていないところはない。大明堂にも相当買いおきがあることを知っているから、吾一は印刷ばかりでなく、紙の方も融通してもらいたい考えだった。
ところが支配人は彼の独立に不賛成だった。年もまだ若いのだから、何も急ぐ必要はない。新論社がいやならば、こちらでもう一度働いたらどうか、主人もはじめからそういっていたのだから、といってくれたが、吾一はまた店に返ってきて、二度の勤めをすることは、如何(いか)にもつらかった。いったん、独立しようと決心した以上、何とかして自分の計画を実行して見たかった。彼は数字をもって彼のプランを説明し、これならどんなに間違っても、ひどい迷惑をかけることはないと思う。まげて自分の我ままを聞いていただきたいと懇請した。
そこへ主人もやってきた。主人も支配人と同意見だったが、吾一が余りに熱心なので、それでは一度だけ面倒を見てやろうといってくれた。
吾一は小踊りせんばかりに喜んだ。セメントでがっしり固められている人生の大きな石垣の透間に、これでやっと小さな種がもぐりこめた。
彼は自分で速記をしたもののうち、最も世間から迎えられそうなもの三つを選んで、それぞれの講演者に諒解(りょうかい)を求めに行った。その中には〇〇伯のものもはいっていた。他の二人もなかなか面倒だったが、〇〇伯は承諾にも不承諾にも、てんで面会することさえ出来なかった。しかし、彼は根気よく伯の玄関に通って、とうとうこれも許してもらった。
今度はいよいよ印刷だ。しかし普通の出版者のように、いっさい印刷所に任せたのでは、費用も高くつくし、失敗した時、大明堂にも損害を多くかけることになるから、彼ははじめに支配人に話したように、仕事の済んだあとの工場に入れてもらい、文選も植字も、すっかり自分でやった。
吾一は昼間はそとを駆けまわり夜は印刷所に通った。職工がみんな帰ってしまったあとの、がらんとした工場で、活字を拾っていると、彼は何ともいえないものに打たれた。
ぶんなぐられ、ぶんなぐられ、活字を拾った昔の工場は跡形もなくなってしまったが、新築のものも、部屋の配置はほとんど前と同じだった。目につくのは、ランプが電燈に変ったくらいなものだった。
文選というのは、文章を選ぶことだと思って、飛び込んだ時からもう足かけ八年になる。だが、自分で速記した原稿の活字を、自分で拾おうと、あのとき誰が思ったろう。
事務員になり、編輯員になったものが、また職工に逆戻りだ。しかし、自分の書いた文字を自分で拾い、自分で組む喜びは、自分の家を自分で建てるよりも、もっとうれしかった。こういう書物が日本に何冊あるだろう。
自分の修得したものを、本当に生かして行く。そのことだけでも今度出す書物には生命がある。これが売れないなんてことがあるものか。
はじめは三つの講演を一冊にまとめて、五十銭ぐらいに売るつもりだった。しかし、そんな出版のやり方は、あまりに定石的で、新人らしくなかった。彼は三つの原稿を三冊にわけ、一冊の定価を思い切って十銭にした。
十銭という定価はその頃でも破格な物だった。当時「中央公論」「新小説」のような雑誌でも二十五銭だった。紙表紙のパンフレットふう《・・》なものとはいえ、とにかく一冊の本が十銭ということは、雑誌と同様、一般の人にも、きっと手が出しいいに違いないと思ったからだ。
彼はすべてを、自分を標準にして考えた。自分が読んで面白いもの、自分のようなものにも買いやすいもの、それなら世間にも必ず歓迎される。世間には自分と同じような人が、最も多いのだ。そういう信念のもとに、彼は出版に乗り出したのだ。
将棋でいえば、ここは勝負どころだった。この一手で、彼は立ちあがれるか、没落するかだ。うまく行けば主人になれる。しくじったら、また人に使われなくっちゃならない。彼はあらゆるものをこの一番にかけた。彼の持っているあらゆる智恵と経験と努力とを残らずこの中にたたき込んだ。
やっと製本が出来あがった。安い紙を使ったのだが、組み方や、コメ物などに工夫をこらしたので十銭ではもったいないくらいの出来ばえだった。
彼は早速荷車を借りて、自身でそれを大売捌(おおうりさばき)へ持って行った。彼はいまは自分が主人であり小僧であった。
配本が済んだ頃を見はからって彼は小売店の店先をまわって歩いた。下積みにされてるようなところがあると、前の方に出しといてくれませんかと店員に頼んだり、普通のお客のような顔をして、「この本は売れますか。」と様子を聞いて見たりした。
一巡した模様では、相当売行がいいらしかった。果して二三日すると追加の注文があった。
しかし、勘定は三月先だから、本が売れても彼の手元には現金がなかった。そこでまた彼は旧主人のところに駆けつけて、注文のハガキを見せ、増刷りのことを頼んだ。
主人は二つ返事で承諾した。そして、こういうものは連れがあった方がいいから、もう何冊か矢つぎ早やに出した方がいいだろうといってくれた。そこで古い速記の中から、目ぼしいものを更に選び、前のような方法で出版した。これもなかなかよく売れた。
しかし、古い講演ばかりでは面白くない。と彼は考えて、ある専門学校に訪ねて行った。そして学校の講義を速記させてくれないかと校長に話して見た。彼のように学校に行けなかったものが世間には沢山ある。そういう人のために、安い金で学校の講義が聞けることは、学問開放の意味で、最も有益な仕事だと思ったからである。が、校長は学校の講義を安い文庫などに入れることには賛成しなかった。そんなことをされたら、学校商売がなり立たないと思ったのだろう。彼はまた外の学校に行って見た。そこでも同様拒絶された。
彼はシャクにさわったから、講義録をやってみようかと思った。しかし、講義録には自信がないので中止してしまった。
そのうちに、はじめに出版したものの代金が順ぐりにはいってくるようになった。元が安い本だから利益は薄いけれども、売行がとまらないので、もうけは確実だった。彼はふと、この式で雑誌を出したらと思った。学校の眠ったい講義なんか出すよりも、十銭雑誌の方が活気があって、ずっと面白いと思った。
名前が先に考えついた。雑誌の名は「成功の友」
編輯方針としては、その名前とぴったりするように、二つの点に中心をおくこと。すなわち成功と健康とである。どんな人でも生命の惜しくないものはない。成功を望まないものはない。ここに重点をおいて、それを出来るだけ面白くやさしく伝えるようにする、そして定価が十銭ならば、きっと食いついてくるに相違ないと思った。
この考え方は非常に個人的で、まったく社会を忘れているように見えるが、これは必ずしも彼ひとりの罪ではない。時代が社会というものを意識してはならないように仕向けていたのだ。
ウソのような話であるが、この時代には「昆虫社会」という科学の書物が発売禁止になったのだ。昆虫のことを書いたのがいけないのではない。「社会」という字が標題になっていたことが、いけなかったというのである。
今日では内務省の中にさえ社会局というものがあるけれども、その頃の政府は、社会という字をダニのようにきらった。そして見つけ次第、一つ一つ、つぶして歩いた。
当時、日本主義が濶歩していた。思想界では個人主義、実用主義が巾をきかせ、文芸方面は自然主義でなくっては、夜も日もあけぬ状態だった。
一方、農村はうち続く豊作に豊年キキンになやみ、市場は沈滞して、物資が動かなかった。そして勤倹節約をおすすめになった戊申(ぼしん)の詔書が御発布になったのも、実にこの時代だった。
こういう情勢の中に、成功と健康を目標にした十銭雑誌を出すことは、最も時宜に適した企てであると吾一は思った。そこで今から十分準備をして、来年の正月には第一号を出そうという腹をきめた。
雑誌だと全部速記というわけにはいかないから、次野先生にも相談して、先生の助けをも借りようと思った。先生からもらった金は、結局一文も身につかなかったが、しかし先生にあの金をもらっていたからこそ、独立の決心もついたのである。彼は決してそのことを忘れてはいなかった。
「出版をやるのはいいが、つまらん本を出すのはよせよ。」
どうも先生には紙表紙の安い本は受けがよくないようだった。先生は書物を一種の美術品と見て、体裁も意匠をこらしたものでなくっては気に入らないらしかった。
これは風向が悪いと思って、彼は話題を雑誌の方に移した。
「ふ噤A雑誌なら、ちょっと面白いな。――どんな雑誌なんだ。」
「『成功の友』ってのを出そうと思うんですが……」
「『成功の友』――いやな名前の雑誌だな。」
「そうでしょうか。わたしは非常にいいと思ってるんですけれど……」
「成功なんて、さもしい字は、おれは大きらいだ。名前はもう少し考えたらどうだい。」
「どうも困ったな。先生にそういわれてしまっては……」
「そんな雑誌じゃ、おれの手つだうところはないじゃないか。」
「いいえ、どうしまして。是非先生に出ていただかなくっちゃ……」
「おれに何をやれというのだ。」
「どうでしょう、先生。血をわかすような立志小説を書いていただけないでしょうか。」
「なに、立志小説だと。」
先生はひとえ物の袖をまくしあげて、吾一をにらみ返した。
「おまえはおれの小説を読んでいるのか。――」
「ええ、一通りは……」
「帰れ!」
先生は眼の玉をぐりぐり動かして、彼をどなりつけた。
「おれの作品を読んでいながら、おれのところにそんなものを頼みにくるって法があるか。」
「……」
「どんなに貧乏したって、おれはそんなべらぼうな小説は書かないぞ。」
「ですけれど先生、ドイツにはそういう小説が大分あるということじゃありませんか。」
「おれはドイツのことは知らん。」
「わたしもまた聞きですから、よく知りませんが、あっちには『教養小説』とか『進展小説』とかいうのがあって、一人の人間の成長して行く姿を、有名な文学者がいくらも書いてるという話ですが……」
「ドイツに何があろうと、おれにはそんなものは書けんよ。だいたいドイツの小説ってものが、おれは大きらいなんだ。重っ苦しいばかりで、詩のないようなものは文学じゃない。」
吾一には先生と文学論をたたかわすだけの素養がない。彼は口をつぐむより仕方がなかった。
「愛川、貴様はこのごろがつがつしているぞ。くだらん本を出版したり、そんな雑誌を出してどうするのだ。」
「……」
「貴様は『東洋新論』にあいそをつかしてやめたというが、おまえのやることは、もう一つの『東洋新論』を出すことじゃないか、そんな無意味なことをやったって……」
「先生『成功の友』は、あんなイカサマ雑誌とは違います。」
「どこが違うものか。成功なんて安っぽい言葉で、読者を釣ろうとするのは『新論』よりも浅ましいくらいだ。なるほど、誰はこうして出世したとか、誰はこうして一万円もうけたとかいう記事は、がつがつしている世間の奴らには受けるだろう。雑誌は多分売れるだろう。だが、売れたところが何だ。そんなことはごろった石を往来に放り出すことじゃないか。人をつまずかせるようなことはよせ。」
「しかし、先生。それは人をつまずかせることでしょうか。むしろ、勇気と発憤とを……」
「いかん、いかん。そんなことをおれが聞いたって何になる。おまえはおれのいった言葉を忘れてしまったのだな。――How to live ? 如何に生きるか、これが人間には一番大事な点だぞ。ところが貴様は、いかに成功するか、いかに出世するか、そんなことにばかり、あくせくしていやがる。そ、そんなこってどうするんだ。そんなくだらん雑誌はやめにしろ。」
「……」
「何だ。その眼つきは、おまえはおれのいうことが分らないのか。」
「分らないことはありません。――しかし、……しかし、先生でもやっぱり、わたしのことは分っていただけないんかと思うと……」
「何がおれに分らんというのだ。」
「先生、わたしは何も成功しようとか、出世しようとか思っているわけじゃありません。わたしはただ見返してやりたいのです。ぶんなぐられたまま、蹴っとばされたままで、死んでしまうわけにはいきません。――石の下におっこちた種は、石をもちゃげてでも伸びて行かなくちゃいられません。わたしのようなものは……わたしのようなものは……」
吾一も興奮して、顔が赤くなっていた。
その晩も彼は原稿を手にして、文選場で活字を拾っていた。
雑誌がはじまれば、もうこんなことはしていられない。しかしそれまでは、自分でやれることは自分でやろう。十銭文庫はその後ますます売行がよくって、組代なぞ自分でかせがなくっても十分採算が取れるようになっていたけれども、彼は決して手綱をゆるめなかった。
外はひどい雨だった。ヒサシのトタンは泣くような声を立てていた。
「……諸君、ニュートンはかように自分の実験を続けていました。彼はあわれむべき人々や、悲しむべき人々を訪ねて、一々これを救おうとはしませんでした。このことはわれわれに何を教えるでしょうか。最早多言する必要はありますまい。各人はそれぞれ各人の持っておるところのもの、為そうとするところのものを、誠実に、そして力いっぱい発揚することです。それは自分を生かすためであるばかりでなく、また実に……」
突然、活動の白いフィルムがちぎれたように飛び込んできた。原稿もケースもそのフィルムの中に真白く溶けてしまった。そして額の前の電燈がチョウチンのように薄暗くなったと思ったら、ケース台を一時にひっくり返したような、ものすごい音響が頭の上で破裂した。
ガラスが割れやしなかったかと思ったほど、窓の戸がびりびりっと震えた。吾一はどきっとしたが、しかし仕事はやめなかった。彼は原稿を見ながら、次の活字を拾おうとすると、ため息をついていた電球が、急にぱっと消えてしまった。
彼は動かずにケースの前に立っていた。がらんとした工場のまんなかに、ただひとり立っていると、稲妻は闇の中から彼の姿をくっきりとえぐり抜いて、「いいか、これがおまえだぞ。」と、おびやかすように、何べんも彼に黙考を迫った。
いくら待っても、電燈はなかなかつかなかった。彼は窓のところへ行った。外はもういくらか白みかけていた。
しかし、雷鳴の中で、細引のような太い雨が落下している様は、たとえようもなく豪快だった。彼は胸を拡げて、その力強いものにみっちり打たれて見たいような誘惑を感じた。
How to live ?
「いかに生きるか。」が第一だと先生はいった。しかし「いかにして生きるか。」が、おれたちのようなものにはもっと問題ではないのだろうか。
先生はついに先生だ、おれはおれだ。どんづまりのところへ行けば、人間はやっぱり一人一人だ。先生のような人とだって別々だ。
雷鳴はいつのまにか、どこかへ行ってしまった。そして細引もやがて絹糸のような雨になり、あたりがだんだん明るくなってきた。
ふたたび電燈がついたので、仕事をはじめようとしたら、すぐまた消えてしまった。
炊事場のお爺さんがことりことりハシゴ段をあがってきた。
「ひどい雷でしたねえ。」
「もうおとっつぁん、起きたの。」
「ええ。――ゆうべも夜明しですか。」
「いま電燈がくるか、いま電燈がくるかと思ってるうちに、とうとう夜があけちゃった。」
「よく根がつづきますねえ。」
「なあに、これっぱかり……」
吾一は眼をこすった。向うの空が兎の耳のように、薄く色づいてきた。軒先にはまだ絹糸のようなものが何本かゆるく垂れていた。
「パン、パーン。あまいパン。あったかいパン。」
行商のロシヤ・パン売の声が、もう往来の方から響いてきた。
(第一部終り)
【作者付記】
きょうで第一部を終ります。第二部を書かないと、この作の意図が全く分らず、甚だ残念な次第ですが、昨年内出血をした眼の方もまだ本復せず、健康もすぐれませんので、読者諸君にも、新聞社にも申訳ありませんけれども、しばらく休養させていただきます。第二部は現代を取りあつかうつもりです。
あとがき
――昭和二十二年三月二十日発行、鱒書房版「小説路傍の石 新編」のあとがき
「路傍の石」は、ついに路傍の石に終わる運命をになっているものと見える。この作品は、作中の主人公と同じように、絶えず何ものかにけとばされる。
本来「路傍の石」は、朝日新聞に連載したものであるから、私としては、どこまでも同じ紙上に執筆するのが当然のことである。それにもかかわらず、「新篇路傍の石」が、ほかの雑誌に掲載されたことは、いかにも心ぐるしいしだいであるが、いわばこれも、けとばされて、よその往来にころがりだしたものにほかならない。
「朝日」紙上で、この作の第一部を終わったのは、昭和十二年六月のことであった。ところが、その翌月に突然日華事変が起こったので、軍国主義の思想が、いやが上にももりあがり、寺内内閣以来、絶えず軍部からにらまれていた朝日新聞社は、かなり苦しい立ち場に立ったらしい。そのために、私のような作家の作品を連載することは、危険と思ったものか、自然あとまわしということになり「路傍の石」の続編は、一年以上たっても掲載される運びにいたらなかった。たまたま主婦之友社では、けとばされた、この作品に興味を持ち、朝日新聞社の了解を得て拾いあげたので、舞台は主婦之友誌上に移ることになったのである。しかし、一年以上やすんでいる間に、わたくしの心境は、かなり変わってきた。毎日追われながら新聞に書いていた第一部のなかに、私はいろいろ不満な点を発見したばかりでなく、第二部との関係からも、ある部分は改訂しておきたい気分に駆られていた。そこで続編を書くことは、まず第一部を書きなおし、単行本として発行したのちのことにしたいと、主婦之友社に話したところ、同社では、それが待ちきれなくて、書きかえをするくらいなら、単行本にする前に、主婦之友にそれを発表してもらいたい。そのほうが雑誌の読者にとっても、続編とのつながりがいいということなので、改訂のぶんを「新篇路傍の石」と名づけ、昭和十三年の晩秋から、同誌にかかげはじめたのであった。それから二年近く、順調に進んだのであるが「お月さまは、なぜ落ちないのか」という章にはいった時、ひとりの社会主義者があらわれると、この人物のことばに対して、ここを切れ、あすこをけずれと、内務省の検閲官は事前検閲にあたって、むずかしいことを言いだしたのである。もちろん、これは私に向かっていってきたのではない。雑誌社に向かっていったのである。しかし雑誌社としては、著者に無断でけずるわけにはいかないから、私のところに相談にやってきた。私はこの話を聞いて、非常に不愉快になった。全体を見ずにただ作中の一人物の会話のはしばしだけを捕えて、難くせをつけるということは、なんという事だろうと思った。すぐさま私は、雑誌社を通じて、こちらの意向を述べてもらったけれども、もとより通るはずもなかった。じつをいうと、そのとき私は投げだしてしまいたかったのであるが、それでは、しめきりを目の前にひかえている雑誌社が困るだろうと思って、涙をのんで、命ぜられた点をけずり、そのために意味の通じなくなった点は、一応通じるようにして、校正ずりを雑誌社に返したのであった。そのあとで、私は一週間ほど考えた。考えたあげく、ついに「ペンを折る」を書いて「路傍の石」を中絶してしまったのである。
それから七年の歳月が流れている。もういまわしい戦争も終わった。軍国主義の政府もなくなった。今度こそ自由に書けるはずであるが、しかし私は、どうもあとを書きつぐ気になれないのである。それは私がなまけているからだという人があるならば、そうとられてもしかたがない。義務の観念がたりないからだとなじる人があるならば、なじられてもしかたがない。が、とにかく前の構想のままでは、私には、今日もなお書けないのである。残念ではあるが、やむをえない。しょせん「路傍の石」は、ほうりだされる運命にあるものと見える。
ところが一方では、この作品をふたたび出版したいという声が、あちこちから起こってきた。当分完結の望みのない作品を迎えてくれるということは、今日の場あい、うれしいことである。未完成のものではあるが、これはこれなりで、今の世にだしても、多少の存在理由があるものと信ずる。そこで私は、ここに版を改めて出版することにしたのである。
この版は、前の単行本「路傍の石」にくらべると、分量が少しへっている。それは主として、最後の五章をのぞいたためである。どのみち未完成のものである以上、それを加えてみたところが、整ったものになるわけではなし、はぶいておいたほうが、さまざまな意味で無難と考えたからである。「次野先生」の章でとめたのは、ここが一応、切りのいいところと思ったのと、一つは桜井(和市)教授の訳されたドイツ訳もそうなっているので、かたがたそれに従ったわけである。「路傍の石」の単行本は、当分この形にしておきたいと思っている。(ついでながら、この独訳「路傍の石」は、前にドイツで出版した「波」と同じように、シュツットガルトのコッタ社から出るはずになっていたのであるが、敗戦の結果、自然消滅のかたちとなった。「路傍の石」は、翻訳の上でまで、つまずいている。まことに不運な作品である。それにつけても、多くの年月をついやして、ドイツ語にしあげられた桜井教授のご努力を思う時、運命とはいいながら、いいしれぬ感に打たれるのである。)
私はある事情から急に自分の家を出なければならないこととなったので、いま知り合いのところに、かろうじて身を寄せている。これを見たある人は「路傍の石」の著者には打ってつけの生活じゃないかと、ひやかして行った。近ごろの世上のありさまを見ていると、私には敗戦の実感が、終戦当時よりもずっと身にしみて感じられる。それは自分の家をなくしたからなぞという、けちな考えからではない。世のなか全体を見まわして、そう思えるのである。それにもかかわらず、私は存外めいった気もちになっていない。二十年このかた不眠症になやまされている私は、よその家にとまった場あいなぞ、ついぞ眠れたためしがないのであるが、今度は不思議によく眠れる。これは全くわけのわからない現象である。あるいは不自由な生活がかえって人間に勇気を与えてくれるのかもしれない。私はいま机を持っていないので、おきゴタツの上に板を敷いて、この「あとがき」を書いているのであるが、その昔、屋ちん十五円の貸しやに住まって「生命の冠」や「嬰児(えいじ)殺し」を書いていた当時のことを思いだし、ほほえましい気分にひたっている。日本の実情が今日のままであることは忍べないが、自分ひとりの不自由なぞは、それほど苦痛とは思わない。私の望みは、一日も早く日本が立ちなおることである。立ちなおって、世界人類のために役だつようになってもらいたい、と願うだけである。
昭和二十一年十二月十日
山本有三
刊本の構成一覧表
朝日新聞連載
〈路傍の石(第一部)〉
中学志望
実学
精神一到何事か成らざらん
赤い糸
吾一
前垂
よこしまの道
東京
発憤
文選見習
次野先生
懸賞文
学校騒動
五十銭銀貨
お月様はなぜ落ちないのか
働け働けそして働け
一寸法師
意外な来客
入社の蔭に
独立自尊
「成功の友」
(第一部を終えたあいさつ)
主婦之友、岩波版全集
〈新篇 路傍の石〉
口絵のかはりに
(第一部)
中学志望
その夜の言葉
実学
意地
赤い糸
吾一
先祖と家がら
うつりかはり
前掛け
やぶ入り
物価とうき
東京
ダルマさん、ダルマさん
かんなん汝を玉にす
いひわけでは、ランプはつかない
次野先生
日本はどこにある?
学校
嵐のあと
五十銭銀貨
お月様は、なぜ落ちないのか
(ペンを折る)
(注 主婦之友では、「物価とうき」は「人質」という小見出しになっている)
鱒書房版、山本有三文庫(新潮社)
〈路傍の石〉
くち絵のかわりに
中学志望
その夜のことば
実学(一部削除、加筆あり)
意地
赤い糸
吾一
先祖と家がら
うつりかわり
前かけ
やぶ入り
物価とうき
東京
ダルマさん、ダルマさん
かんなん、なんじを玉にす
言いわけでは、ランプはつかない
次野先生
(ペンを折る)(あとがき)
解説
高橋健二
1 有三と吾一
『路傍の石』は、有三の自伝的作品のように見られているが、それは、初めの方で、吾一が中学に行かせてもらえず、呉服屋の小僧に出されるという状況にあてはまることであって、全体としてはあくまで創作である。作者が深い心をこめて吾一を描いているので、吾一即有三というふうに受けとめる向きがあるようであるが、そう短絡に作者の生活と主人公の運命とを混同すべきではない。
有三の父は、吾一の父ほど生活に窮し、妻子を泣かせたわけではない。先ず、二、三の例をあげて、そのちがいを明らかにしておきたい。明治二十五年に栃木町に初めて設けられた私立の幼稚園に、五、六歳の有三は、まつという女中に送り迎えされて通ったのである。父親はそれだけ教育に熱心であり、余裕も持っていたのであって、吾一の父親が子どもに一銭銅貨を持たせて焼きいも買いに行かせたり、女房に紙袋張りのしがない内職を余儀なくさせたりするのとは、全く事情を異にしている。
また、本書付録の部の「意外な来客」(六)で、二十《はたち》をこえてまもない吾一は、母の墓などまだ建てられない、と言っている。事実では、有三の父が早く死に、母は長生きした。その父の墓を、山本勇造は明治四十一年に二十一歳で建てた。そこに今有三も一しょに葬られているくらい歴《れっき》とした墓である。若い有三はそれだけのものを父から遺《のこ》されていたのであって、吾一の貯金を二度も使いこんでしまう父親とは大ちがいであった。
吾一の母親は内職に疲れ果て、夫の没義《もぎ》道《どう》きわまるひどい仕打ちのため早死にしてしまうが、有三の母は芝居が好きで、少年勇造をよく一しょに見物に連れて行った。それが有三を劇作家にする契機の一つになった。
もちろん有三も苦労をしたが、吾一のそれとは性質がちがう。苦労を意地とまっとうな正義心で乗り越えた点は、共通している。それをあの鉄橋の場面が示している。
吾一が鉄橋にぶらさがる場面(「意地」の章)は、この小説で最もよく知られており、映画では見せ場になっている。もっとも栃木市のそばには、それに適したような鉄橋はないので、あれは完全なフィクションである。そしてその話はずっと早く戯曲『生命の冠』(大正八年脱稿)の第一幕にすでに出ているのであって、『路傍の石』だけの売り物ではないのである。この小説では吾一の意地っぱりの面を示す話になっているが、戯曲では主人公有村恒太郎のまっとうすぎる正直さを示す話になっている。意地とまっとうさは、有三の性格を反映している。鉄橋にぶらさがるのは、有三好みの挿《そう》話《わ》である。それは『生命の冠』も分ち持っているのであって、吾一にだけ結びついているのではないから、吾一即有三とするわけにいかない例証になる。
2 父と有三
では、そんなに貧乏ではなかった勇造少年が、なぜ切望する中学に行けず、丁稚《でっち》奉公をしなければならなかったのか。この点は、有三の生涯を知る上にも、この小説の背景を知る上にも、重要な意味を持っている。
有三の父、山本元吉は嘉永四年生れの宇都宮藩士であったが、二十歳にならないうちに、幕府の崩壊に会い、武士の身分から転落した。武士といっても足軽程度で、気位こそ高かったが、経済的能力はなく、路頭に迷った。大田原裁判所の書記などしたが、有三が生れた明治二十年ころは、栃木町で小さい呉服商をしていた。母ナカは近くの壬生(みぶ)町の出で、よく芝居見物に行ったところを見ると、ある程度ゆとりのある実家だったと察せられる。
小身ながら武士の気骨は有三にまぎれもなく伝わった。有三には終始、折り目の正しい、筋を通す潔癖さがあった。三十代からすでに古武士の風格を示した。それが有三の肩苦しい窮屈な性格、遊びの要素の乏しい、かちっとした作風に現われている。士族らしく、元吉は筋の通った品のいい京呉服を扱っていた。いいかげんなものをごそっと売って、荒かせぎをするというようなことはできなかった。いいものを少し、というその態度は、有三にそのまま受けつがれた。良心的な寡作家というのが、有三の通り名で、「一年一作」が売り物だった観がある。
父は士族なだけ、何ほどか教養があり、碁が趣味で、謡曲もうたった。勇造もいくらか謡曲をうたわされ、碁もおぼえた。将棋に凝ったのは四十歳ころからで、その前は豊島与志雄らと碁を打った。小学校上級のころは漢学塾に通わされ、四書、文章軌範、日本外史などの素読を学んだ。だから、有三は、中学は満足にやらなかったのに、漢字は実によく知っていた。後に振り仮名廃止、当用漢字などの主唱者になったのは、むしろ漢字を知っていたからである。
それに、父は福沢諭吉を尊敬し、『福翁自伝』や『学間ノスゝメ』を勇造に読ませた。生れからは保守的であったが、文明開化の時勢に理解を持ってもいた。だから、当時としては高い見識をそなえていたわけで、かねがね有三に「思想の深淵なること哲学者のごとく、意志の堅実なること武士のごとく、土百姓の身体をもって、社会の大人たるべし」と教えていたそうである。
だが、父は転落した無能力な士族のみじめさを痛感していた。士族の商法ではだめである。早くから、商法を身につけ、腰の低い賢明な商人になることこそ、これからの肝要事である、と悟った。それを勇造に実践させようとしたのである。安定した生活を得るには商業に限ると、一方的に考え、一人息子に早くその道を歩ませようとした。なまじ学問すると、生意気になり、気位が高くなって、商人になりきれないから、と有三は父から繰返し言われたそうである。
しかし、有三は高等小学を八年間通じて、常に抜群の成績で、級長をつとめた。今も第一小学校に、栃木高等小学校の学籍簿が残っている。明治三十五年の卒業生名簿を見ると、筆頭に「山本勇造(元吉長男、士族、呉服商)」と記されている。ヤ行の山本から始まっているのは、成績順であることを示している。したがって勇造は中学に進みたかったであろう。そして中学はすでにずっと前にできていた。(小説では新しく中学ができることになっているが、事実はそうではない。)だが、右記のような考えで、父は『学問ノスゝメ』を勧めたくせに、かたくなに勇造の進学を認めなかった。勇造はやむなく、一応は父の意向に従って、浅草の呉服屋伊勢福に奉公に出た。しかし、その気がないので、役に立たない小僧であった。ついに我慢しきれず、翌年三月栃木に逃げて帰った。
学問をしたいという願いは容れられず、勇造は反物をしょって家業の手伝いをした。わずかに「中学世界」や「万朝報」や「文章世界」に詩文を投稿し、入選したのが慰めであった。いくたびか父と衝突をくりかえしているうち、母が勇造の心を察して、近所の質屋の主人で慶応大学出身の古橋隆太郎氏に相談した。古橋氏は勇造に文章を書かせてみると、たいへん立派なので、これは学問させるべきだと判断し、勇造の父を説得した。この質屋の主人は、小説の中の稲葉屋書店の主人と似たところがあるが、かなりちがっている。
それで勇造は十八歳でやっと東京に出て、英語をはじめ中学の諸科目を初歩から学んで、翌年、東京中学校の五年級に編入された。ずいぶんむちゃな編入であるが、それだけ有三はできたにちがいない。それから、翌年入試にパスし、第六高等学校にはいることになったが、父が死んだため、入学を断念し、家業を始末し、二十二歳で一高に入学した。だから、有三も苦難の道を歩んだわけであるが、吾一が夜逃げして東京に出て、みじめな下積みの生活をするのとは、大ちがいである。つまり、吾一は有三ではないのである。
一高では後の首相近衛文麿公爵や芥川龍之介や菊池寛らと同級生になったので、日本のエリートとの交わりが早く始まったわけで、吾一が活字拾いから始めたのとは、全くちがった世界である。その後、曲折はあったが、有三は自分の力を発揮する状況に置かれた。
そういういきさつで、有三は母のとりなしで学問することができるようになったことを心から終始感謝し、母を大切にした。それに反し、父に対してはルサンチマン(うらみ)の気持を持ち続けていた。現に五十四歳の有三は「自分は、よい母、よい妻、よい友にめぐまれ、多くの人びとの好意によって、自分の力以上にむくいられた。自分の幸運を社会に感謝している」(岩波版山本有三全集『路傍の石』月報参照)と書いている。はっきり父を除外しているのは、公然と父に対するルサンチマンを示すものである。五十半ばともなれば、仮に憎い父であっても、あらわに父を疎外しないのが世間一般であろう。だが、有三は長いあいだ私に向っても、父にうらみを構えているようなことを言った。中学にはいれなかった時の口《くち》惜《お》しさが、吾一を通して吐き出されたのである。有三の父は決して悪い人ではなく、見識もあり、有三のためを考えてもいたのである。それが、小説の父ではひどく悪く書かれているのは、ルサンチマンの現われであろう。
しかし、八十歳前後から、「おやじもおれのことを考えていたんだね。おれを東京の学校に入れるのをしぶったのは、若い身空で一人で東京に出て、身を持ちくずすようなことがあっては、という心配もしたからだ。おやじもいくらか遊里の味を知り、放蕩《ほうとう》を警戒していたらしい。だが、内心ではおれに勉強させてもいいと思うようになっていたので、とりなす人の説得に応じたんだ。一がいにわからずやだったわけでもないんだ」と私に繰返し述懐し、和解の心境を示した。
それで私が、「有三はそのうち、〈自分はよい父、よい母、よい妻、よい友にめぐまれ……〉と書くようになるかもしれない」とある解説に書いたのを、有三は見て、明るく笑った。父があの時あっさり中学に入れてくれたら、『路傍の石』は書かれずにしまっただろう。父の反対のおかげでこの作品はできたとも言えよう。小説の一章の題「かんなん、なんじを玉にす」は有三にもあてはまるのである。
3 作品の成立
『路傍の石』はドイツ話のいわゆる教養小説、成長小説である。それは、主人公が幼いころから生きるべき道を模索し、一応の生き方を発見するまでの過程を描くのである。有三は新聞に長編小説を書くことになった時、自分は成長小説で新聞小説に新境地を開こうと、はっきり考えた。そしてほとんどすべての長編はそのたぐいのものとなった。ドイツ文学を学んだ有三として自然なことである。本書の付録の「成功の友」の章で、ドイツ式の教養小説をけなしているのは、自分の意図をてれくさく思ったからであろう。なお、同じく付録の「一寸法師」の章に出てくる小びとのおひめさまの話は、ゲーテの教養小説『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』にのっている「新メルジーネ」という話である。有三は教養小説を勉強しているうちに、このおもしろいメルヒェンにぶつかったのである。
『路傍の石』の成立については、作者自身、鱒《ます》書房版の「あとがき」(本書巻末参照)に詳しく正確に書いているから、それをよく読み「ペンを折る」を読みかえすならば、この小説が、軍国主義の暴走の激流の中でどんなに苦難の道を歩んだかが、明らかになって、深い感動をおぼえるであろう。この小説自体が路傍の石のようにけとばされ続ける多難の運命をしのばなければならなかったのである。
それで、「朝日新聞」に連載された形(昭和十二年一月一日から六月十八日まで)と、「主婦之友」に改作連載された形、即ち「新篇 路傍の石」(昭和十三年十一月号から昭和十五年七月号まで。岩波版山本有三全集所収)と、戦後の最初の再刊、鱒書房版「路傍の石 新編」(昭和二十二年三月二十日)と、三つの形があることになった。
「朝日新聞」連載の形は、体力の乏しい有三なので、終りに近づくと、十分練ることができず、荒けずりになっているのは、やむを得ない。だから、「主婦之友」には、その続編第二部を書くはずだったのに、第一部から書きなおしたのである。だが、それも、「あとがき」にあるとおり、当局の抑圧で、「ペンを折る」はめに至った。
戦争が終って、当局の検閲が廃止され、言論は自由になった。ところが、こんどは『路傍の石』は、原作(主婦之友と岩波全集版)のままでは発表され得ない、という妙なことになった。こんどは占領軍の検閲にけとばされたのである。つまり、「実学」の章で、条約改正(明冶三十二年)以前の外国人が日本人に対してどんなに理不尽な横暴、非道を働いたかを、具体的事例で示している個所が、占領軍から拒否されるので、鱒書房版では七十七行分けずられたのである。
また同じ版が「次野先生」の章で終り、いちじるしく短縮されたのは、そのあとに「日本はどこにある?」の章に、北清事変(一八九九―一九○一年)で侵略的な諸外国の軍隊がだらしがなかったのに対し、日本軍がすばらしかったことが対照的に叙述されている個所を、はぶかなければならなかったからである。そこを占領軍は容認しなかったであろう。作者は「あとがき」で、当分この短縮した形にしておく、「それがさまざまの意味で無難だと考えた」と言っている。無条件降伏をした日本にはやはり言論の自由は、前とはちがった意味でなかったのである。けずられた個所が復元されたのは、講和条約が結ばれ、日本の独立が回復してからである。
吾一の話は、文明開化、自由民権の時勢に始まるが、吾一たち下積みのものは路傍の石の運命をまぬがれなかった。有三が名を成して、筆をふるい得る時代が来た時、軍国主義はペンの自由を奪った。敗戦の代償として人権と言論の自由が保証されることになったが、当座は外国軍の制約を受けなければならなかった。
『路傍の石』はおもしろい小説であり、有三の作品として珍しくユーモアもある。だから、四回も映画化され、上演や放送もされた。それだけでなく、この作品の成立の経緯そのものが、明治中期から第二次大戦後にかけての日本文化史の一縮図になっている。そういう経緯と時代相をよりよく示すために、朝日新聞連載の最後の部分を付録として加えることにした。その部分は、作者としては十分練れていないことを遺憾とするであろうが、それによってこの小説の歴史的意義は一そう明らかになると思うのである。
(昭和五十五年五月)
年譜
明治二十年(一八八七年) 七月二十七日、栃木県栃木町(現、栃木市)に、父元吉、母ナカの長男として生れる。勇造と命名。(有三という筆名は大正三年ごろから)終生ひとり子。父は裁判所書記を経て、勇造出生当時は呉服商を営んでいた。
明治二十七年(一八九四年) 七歳 四月、栃木尋常小学校に入学、つねに優等。子どものころ芝居好きの母に連れられ、よく芝居を見る。
明治三十一年(一八九八年) 十一歳 三月、尋常小学校卒業。四月、高等小学校に進む。
明治三十五年(一九○二年) 十五歳 三月、高等小学校卒業。四月末、東京浅草駒形町の伊勢福という呉服屋へ奉公に出される。
明治三十六年(一九○三年) 十六歳 三月、丁稚《でっち》の生活にたえられず、逃げ出して家に帰る。
明治三十八年(一九○五年) 十八歳 一月、いくたびか父と衝突したが、母のとりなしでようやく上京、神田の正則英語学校、同予備校にかよう。
明治四十年(一九○七年) 二十歳 七月、第六高等学校に合格。九月、父が死去したため入学を断念。
明治四十一年(一九○八年) 二十一歳 七月、第一高等学校受験、学科には及第したが、体格で不合格。
明治四十二年(一九○九年) 二十二歳 七月、一高文科に入学。同クラスに、近衛文磨、土屋文明、豊島与志雄らがいた。
明治四十三年(一九一○年) 二十三歳 八月、足尾銅山に遊び、処女作『穴』を執筆。一高で落第し、芥川龍之介や菊池寛と同級となる。
明治四十四年(一九一一年) 二十四歳 『穴』上演。戯曲『穴』を「歌舞伎」に発表。
明治四十五年・大正元年(一九一二年) 二十五歳六月、一高二年修了。九月、東京帝国大学独文科選科入学。
大正二年(一九一三年) 二十六歳 本郷駒込神明町に上京した母とともに一家をかまえる。
大正三年(一九一四年) 二十七歳 二月、菊池寛、芥川龍之介らと、第三次「新思潮」をおこす。九月、東大の本科生となる。
四月、『女親』(新思想)
大正四年(一九一五年) 二十八歳 七月、東大独文科卒業。
大正五年(一九一六年) 二十九歳 ストリンドベリィの戯曲『死の舞踏』を翻訳し、洛陽堂から出版。
大正六年(一九一七年) 三十歳 早稲田大学のドイツ語講師となる。
大正八年(一九一九年) 三十二歳 本田はなと結婚。
二月、『津村教授』(帝国文学)
大正九年(一九二○年) 三十三歳 二月、『生命の冠』明治座で初演。
六月、『嬰児殺し』(第一義)
『生命の冠』戯曲集(処女作品集、三月、新潮社刊)
大正十年(一九二一年) 三十四歳 三月、『嬰児殺し』有楽座で初演。
五月、『文芸雑感』(のち「芸術は『あらわれ』なり」と改題)(人間)九月、『坂崎出羽守』(新小説)
大正十一年(一九二二年)三十五歳 二月、『女親』帝劇で初演。
九月、『指鬘縁起』(改造) 十月、『兄弟』(新小説)『山本有三戯曲集』(七月、改造社刊) 『塵労』評論随筆集(十二月、金星堂刊)
大正十二年(一九二三年) 三十六歳 九月、大震災。
四月、『同志の人々』(改造)八月、『海彦山彦』
(のちに「ウミヒコヤマヒコ」と改題。女性)
大正十三年(一九二四年) 三十七歳 一月、「演劇新潮」創刊、編集主任となる。四月、『海彦山彦』大国座で初演。
一月、『本尊』(サンデー毎日)六月、『熊谷蓮生坊』(改造) 九月、十月、『スサノヲの命』(婦女界) 十月、『大磯がよひ』(新潮)『女中の病気』(演劇新潮)
大正十四年(一九二五年) 三十八歳 三月、『同志の人々』邦楽座で菊五郎、吉右衛門が初演。
三月、『雪』シナリオ(女性) 九月、『父親』(改造)
大正十五年・昭和元年(一九二六年) 三十九歳 三月、吉祥寺に新築した家に移る。
六月、『嘉門と七郎右衛門』(文藝春秋) 九月、最初の長編小説『生きとし生けるもの』(朝日新聞に連載、十二月中絶、未完)
『途上』随筆集(三月、新潮社刊)
昭和二年(一九二七年) 四十歳
五月、『西郷と大久保』(文藝春秋) 十一月、『霧の中』ラジオドラマ(キング)
『生きとし生けるもの』(四月、文藝春秋社刊)
昭和三年(一九二八年) 四十一歳 六月、『西郷と大久保』大阪中座で初演。
七月、『波』(朝日新聞に連載、十一月完結)
昭和四年(一九二九年) 四十二歳 十二月、疑似赤痢のため入院。病中、詩や俳句を作る。
十月、『盲目の弟』(講談倶楽部)
『波』(二月、朝日新聞社刊)
昭和五年(一九三○年) 四十三歳
一月〜三月、『女人哀詞』(婦女界) 十月、『風』(朝日新聞に連載、翌年三月完結)
昭和六年(一九三一年) 四十四歳
十二月、『子役』『チョコレート』(改造)
『山本有三全集』全一冊(三月、改造社刊)
昭和七年(一九三二年) 四十五歳 三月、明治大学に文芸科が創設され、同科の初代科長となる。
十月、『女の一生』(朝日新聞に翌年六月まで連載)
昭和八年(一九三三年) 四十六歳 『女人哀詞』一月、前半、五月、後半、初演。六月、共産党シンパとして検挙される。
『女の一生』(加筆し、十一月、中央公論社刊)
昭和九年(一九三四年) 四十七歳
一月、三月、『不惜身命』(のちに「ふしゃくしんみょう」と改題。キング) 十二月、『瘤』(のちに「こぶ」と改題。改造)
昭和十年(一九三五年) 四十八歳 『日本少国民文庫』全十六巻を新潮社より刊行することになり編集にあたる。十一月、その第一巻『心に太陽を持て』を刊行。
一月、『真実一路』(主婦之友に翌年九月まで連載)『瘤』短編集(七月、改造社刊)
昭和十一年(一九三六年) 四十九歳
『真実一路』(十一月、新潮社刊)
昭和十二年(一九三七年) 五十歳
一月〜三月、『はにかみやのクララ』(主婦之友)
一月、『路傍の石』(朝日新聞に連載、六月半ば第一部完結)
昭和十三年(一九三八年) 五十一歳 八月、『路傍の石』の映画(文部省と日活との協同企画)封切られる。
一月〜三月、『ストウ夫人』(主婦之友)十一月、『新篇 路傍の石』(主婦之友に連載、十五年七月、中絶、未完)
『戦争と二人の婦人』(四月、岩波書店刊)
昭和十六年(一九四一年) 五十四歳 二月、岩波書店版『山本有三全集』全十巻が『路傍の石』をもって完結。七月、帝国芸術院会員に推される。七月、母ナカの死。
昭和十八年(一九四三年) 五十六歳 六月『米百俵』東京劇場で上演。
一月、二月、『米・百俵』(主婦之友)
『米・百俵』六月、新潮社刊)
昭和二十二年(一九四七年) 六十歳 三月、鱒書房版『路傍の石』刊行。四月、参議院議員選挙に、全国区立候補、当選。
昭和二十四年(一九四九年) 六十二歳
四月、『無事の人』(新潮)
昭和二十八年(一九五三年) 六十六歳 十二月、湯河原の新居に移る。
二月、『山本有三作品集』全五巻(創元社刊、八月完結)
十二月、『山本有三文庫』全七巻(中央公論社刊、三十年一月完結)
昭和三十年(一九五五年) 六十八歳 三月、『路傍の石』を松竹が再び映画化。
昭和三十三年(一九五八年) 七十一歳 十一月、三鷹市の名誉市民に推される。
昭和三十五年(一九六○年) 七十三歳 五月、栃木市の名誉市民に推される。
昭和三十八年(一九六三年) 七十六歳 三月、栃木市県立公園太平山謙信《おおひらさんけんしん》平《だいら》に「山本有三文学碑」が完成する。
昭和四十年(一九六五年) 七十八歳 十一月、文化勲章を受ける。
昭和四十一年(一九六六年) 七十九歳
一月、『母の思い出』(毎日新聞)
昭和四十二年(一九六七年) 八十歳
『山本有三自選集』(二月、集英社刊)
昭和四十三年(一九六八年) 八十一歳
一月、『おそれを忘れた日本人』(栃木新聞)
昭和四十四年(一九六九年) 八十二歳 八月、『新潮日本文学・山本有三集』(新潮社刊)の月報に『からっぽ』という回想的随筆を執筆する。
昭和四十五年(一九七○年) 八十三歳 老人性気管支拡張症のため、二回入院。
昭和四十六年(一九七一年) 八十四歳 四月、銀杯一組下賜(国会に尽した功績に対し)。
昭和四十七年(一九七二年) 八十五歳 十一月、ホテル・オークラでの日本文化研究国際会議開会式に日本側来賓代表者としてあいさつをする。十二月、『名作自選日本現代文学館・無事』(ほるぷ出版刊)のあとがきとして『死にべた』という心境的随筆をのせる。
昭和四十八年(一九七三年) 八十六歳
四月、『濁流(雑談 近衛文麿)』(毎日新聞、五月末まで、四十一回で中断)
昭和四十九年(一九七四年) 八十七歳 一月四日発作をおこし、国立熱海病院に入院。十一日、心不全で死去。
三月、『濁流』(続編。毎日新聞)
『濁流』(五月、毎日新聞社刊)
昭和五十一年(一九七六年)
六月、『定本版 山本有三全集』全十二巻(新潮社刊、翌年五月完結)
昭和五十四年(一九七九年) 三月、前年設定された山本有三記念「路傍の石文学賞」第一回受賞に灰谷健次郎の作品『兎の眼』が選ばれる。
高橋健二 編