[#表紙(表紙.jpg)]
山本文緒
日々是作文《ひびこれさくぶん》
[#改ページ]
まえがき
いま私は困っています。何に困っているかというと、この「まえがき」を書くにあたり、文体に困っています。文体どころか、真面目《まじめ》に書いたものやら、しんみり書いたものやら、ぶっきらぼうに書いたものやら、ふざけて書いたものやら、非常に戸惑っています。長いほうがいいのか、すっぱり短いほうがいいのかも、わかりません。
本書『日々是作文』は、私にとってはじめての「コンセプトがない本」です。通常私は文章を書くとき、それが本になったときの体裁のことを考えて書きます。なので文体や長さのことで悩むことはありません。
そうだ、思いつきました。コンセプトがない、と言い訳をするというのはどうでしょう。大変に後ろ向きですが、そうと決めたら、存分に言い訳させて頂きます。
本書は私が四十一歳になるまでの約十年、あちらこちらの雑誌から依頼を頂き、あちらこちらに書き殴ったエッセイを、空《から》のペットボトルをちまちま集めてまとめて再利用に至ったがごとくの、リサイクル本といえるでしょう。
ここには三十一歳の私がいました。感慨ですよ。感慨。いやはや三十一歳の、離婚したばかりで仕事もお金もほとんどなくて、実家に寄生するしかなかった私に、こっそり教えにいってあげたいですよ。そのうち吉川英治文学新人賞と直木賞をとれるよ。引っ越しの度に部屋が広くなるよ。三十九歳には再婚までしちゃうよ。でも気をつけないと体重が十キロ近く増えちゃうよ。三十四歳のときにイタい失恋をするよ。直木賞とったからって浮かれていると、うつ病で入院することになるよ。言われたところで信じないに違いないが、三十一歳の私。
なるべく雑誌発表順に並べたつもりですが、頭に二〇〇二年連載の「花には水を。私に恋を。」を持ってきたのは、やはり、読み手の方にいきなり三十一歳の私が書いた「今宵の枕友だち」を読ませるのは気が引けたと同時に、大変恥ずかしかったからです。なにせこれは、作家人生初の連載でした。よーく聞け、三十一歳の私。「今宵の枕友だち」のラスト二話の原稿料は、出版社がつぶれて踏み倒されるぞ。でも恨まなかったお前は偉かったぞ。というか、そんなことを覚えていて、今更こんなところで書くこと自体、根に持っている証拠でしょうか。
改めて冒頭から振り返ってみます。
「花には水を。私に恋を。」は、「ドマーニ」という、有名ファッション誌の巻頭エッセイという光栄な連載でした。光栄に思っているわりには、カルティエやフェラガモの広告の隣ページに「フリチン」とか書いて、当時の編集長にいやな汗をかかせてしまいました。章立ては私の作ではなく編集部作です。私が「恋愛スイッチは常にオンにして」なんてタイトルは、つけたくてもつけられません。そういえば、この依頼を頂いたときのコンセプトが「基礎的な恋愛指南と、日々のときめきエッセイ」だったように記憶しています。光栄と言いつつ「ときめきかー、ときめきねー」と膝《ひざ》の力が抜けたことも覚えています。ですが、光栄にも、楽しく書かせて頂きました。
「今宵の枕友だち」は一応読書エッセイです。その月読んだ本にからめて、なんでもいいから書く、という自由度の高い連載でした。実はこの原稿は、収録を最後まで迷っていました。何故ならば、初々しすぎる。つまり下手《へた》すぎる。そして単行本収録など爪の甘皮ほども考えていなかったので、他のエッセイと重複する部分が多々ある。しかし、これを読んだ数人の関係者に「面白いから是非とも収録すべし」と持ち上げられて、いい気になって載せることにしました。先ほども書きましたが、まだ離婚直後で一人暮らしができるような金銭にも仕事にも恵まれていなかった頃の連載で、貧乏大王だった私には貴重な定期収入でありました。まだ先代の猫も生きていて、パソコンなんか家庭にはなく、携帯電話も普及していない時代でありました。
「こまかいお仕事(ワープロ時代)」は読んで字の如く。まだ小説だけでは食べていけない時代の私は、依頼があれば「はい! 喜んで!」と居酒屋の店員のような威勢よいお返事で、こまかい仕事を引き受けていました。
冒頭の三話だけが何故か短い小説です。「月刊カドカワ」全盛時代に、class という、もうほとんどの人の記憶に残っていない男性デュオの広告のために書き下ろしたものです。月刊カドカワに自分の文章が載る! とそりゃもう興奮しました。しかも class のライブに行って握手してもらえたのが、離婚直後の私には、事件と呼べるほど嬉《うれ》しかったのを覚えています。何年かぶりに握った男性の手。ああ、感慨がまた。
そんな感慨は置いておいてですね、ワープロです、話は。少女小説の賞を頂いたときの賞金三十万円で一台目のオアシスを買ってから、何台買い換えたかわかりません、ワープロ。買い換える度に機能向上、価格低下し、最終的には表計算やインターネットまでできるようになっていたワープロ。いったいぜんたい、どうして製造中止という羽目になってしまったのか。今でも思うのですが、ワープロの便利さはプリンタと一体になっているところ。そして滅多なことではフリーズしたり故障したりしないところ。時代の流れとはいえ残念です。小説の方では『恋愛中毒』がワープロ最後の作品です。
このワープロ時代、私は念願の一人暮らしを東京・目黒区ではじめ、中野区に引っ越しもしました。小説の依頼が徐々に増えていたとはいえ、英語学校に通ったり、深夜までテレビを観たり、ゲームにはまったり、「はい! 喜んで!」と、こまかいエッセイを引き受けたりと、まだ精神的にも体力的にも余裕があった、とてもよい時代でありました。蛇足ですが、今ではタクシーに酔わなくなりました(本文参照)。酔わないどころか最近は乗りすぎです。
「こまかいお仕事(パソコン導入後)」は、一九九八年に一台目のパソコンを買ったところからはじまります。当時うちにあったテレビは14型のテレビデオで、初代パソコン・アプティバのディスプレイはそれより大きい16型。まだノートパソコンは気軽に買える値段ではありませんでした。
読んで頂くと気がつく方もいらっしゃるかもしれませんが、この頃から私のエッセイは徐々に硬くなってきています。あるいはヤケクソ気味になってきています。というのは、『恋愛中毒』という作品で吉川英治文学新人賞というものを受賞したあたりから、今思うと、私は精神的にキャパオーバーになっていました。もう威勢のいい居酒屋の店員ではいられなくなってきて、でもそれを認めたくなくて、四苦八苦・暗中模索・試行錯誤・焼け石に水、みたいな状態でした。それは直木賞受賞エッセイ「愛憎のイナズマ」あたりでピークを迎えているようです。
今ではパソコンも一台ではなく、複数のノートパソコンを使い、自分の公式サイトを友人に作ってもらい、なんと秘書まで雇ってしまったのですから、僭越《せんえつ》にも程があるってものです。
部屋も広いところへ引っ越し、再び猫を飼いはじめました。賃貸でこっそり飼っていたので、その後また引っ越し、再婚し、今に至っています。インターネットは生活にはなくてはならないものになり、ここではじめて打ち明けますが、我が秘書との出会いも、ネットの掲示板がはじまりでした。
というわけで、激動の十年の中、さまざまな媒体、さまざまな心境で書かれたエッセイ集なので、文体がふざけていたり、すかしていたり、いろいろで、大変読みにくいかもしれません。どうかご容赦の程を。
日々、本当に作文をしているのかは、追及しないで頂けましたら幸いです。
二〇〇四年 冬
[#地付き]山本文緒
[#改ページ]
目 次
まえがき
花には水を。私に恋を。
恋愛スイッチ≠ヘ常にオンにして
「一緒のご飯」の気楽さは恋の堕落?
ニッポニアニッポン生息の理由
恋はとことん「くさい」もの
モテる女とモテない女の決定的な違い
どうして!?「モテのルールズ」実行の難儀
「スキンシップ」は足りていますか?
恋愛上手は奢られ上手
「本気の不倫」vs「気楽な浮気」
「喧嘩には逃げ道を」のココロ
夫婦はやっぱり赤の他人?
頭でっかち、恋愛でっかち……それぞれの人生論
今宵の枕友だち
もう、暇はつぶせない 『ひまのつぶしかた』
ガッチリ買いましょう 『これいただくわ』
いとしのタマよ 『雨の日のネコはとことん眠い』
薄情者 『限りなく透明に近いブルー』
わりとよくあるタイプの君よ 『ナウなヤング』
エスコート・ミー 『お一人きりですか?』
ヒトの巣箱 『TOKYO STYLE』
手編みセーターの末期 『ほのぼのの国のセーター』
お返事下さい 『錦繍』
二本目の煙草 『マンウォッチング』
こまかいお仕事(ワープロ時代)1993〜1997
夏の日が終わって
もう君を離さない
White Winter
日記をつける奴
日常のわたし 1
最後の晩餐
私の願い
自画自賛──『ブラック・ティー』
これは私の人生ではない
創作沖縄民謡の青春
わが青春の一冊
どうしてあなたはそこにいるのか
あぶない独り遊び
男は本気、女は浮気説
『ブルーもしくはブルー』
勇気について
悪党のフグちり
年末年始帰省日記
一人で暮らす本当の理由
コンプレックス
読むのもほどほどに
無意味な旅
本音を恋の切り札に使う方法
こまかいお仕事(パソコン導入後)1998〜2003
日常のわたし 2
いやなものはいや
本屋は遊ぶところ
アンカレッジの寒い寿司屋〜アラスカ〜
添い遂げる口紅
微妙な年齢
省エネな日々
こいつ、私にジャケ買いさそうとしている
私のトイレを返して
日常のわたし 3
ビールがいけない──酒中日記
日常のわたし 4
忘れたい
人に言えない職業
日々是送受信
ここに一人でいる理由
自由の練習
愛と性の不確実性
居心地のよい外国のような街
長寿五分間番組
文庫の運命
妹たちへ 1
妹たちへ 2
妹たちへ 3
愛憎のイナズマ
「山本文緒」との和解
捨てたものと引き換えに
直木賞受賞後の近況
ぷかぷかと暮らす
束の間の解放
贅沢な助手席
[#改ページ]
花には水を。私に恋を。
恋愛スイッチ≠ヘ常にオンにして
たとえば、お料理上手や収納上手、という言葉はなんとなくいい感じに聞こえるが、では「恋愛上手」はどうだろう。
恋愛上手な女、という単語から多くの人は「もてもての恋多き女→その恋愛|全《すべ》てがうまくいっている→ふったことはあってもふられたことはない→やな女あ」というようなイメージを抱くのじゃないだろうか。ああ、私だって抱きますよ。恋愛上手? そりゃ結構なこって。爪の垢《あか》でも頂ければコーヒーに入れて毎朝飲みますよ。
恋愛上手でこれならば「床上手」ときたらどうなることやら。男性上司が発しただけでセクハラと取られること必至である。しかし何が悪い床上手。言われたかないが言われてもみたいこのジレンマ。いや、いきなりお床の話をしたいわけじゃなく、問題は恋愛である。
この私にそれをレクチャーしろと? 確かにこの十年余り、主に女性誌のインタビューで「賢い恋人との付き合い方」「間違えない夫選び」「運命の恋人の探し方」というようなことを、訳知り顔で語ってきた。それらを根底から覆すようで申し訳ないが、依頼を頂くたび私は一人の部屋で「こっちが教えてほしいんだよ」と文句を言ってきた。
一人の男性との付き合いは最長で三年(しかもうすーい付き合い)、大抵の場合一年越えるか越えないかで破局、結婚は六年もったが結局離婚。賢い恋人との付き合い方も、間違えない夫の選び方も本当はまったく知らないのである。しかし、それでご飯を食べているので、あることないこと聞かれるままに喋《しやべ》ってきたら、ある日ひとつの真実のようなものに辿《たど》り着いた。
うまくいかないのが恋愛。一概には言えないのが恋愛。マニュアルが作れないのが恋愛。心理学者・小倉千加子さんの著作から≪近代化された社会の最後の不条理が恋愛≫という一節を見つけ、やっと腑《ふ》に落ちた。
不条理である。レ・ミゼラブルである。基本的に恋愛は悲劇で、悲劇というのは裏返すと喜劇である。だからつらくても、本音は面白くて面白くてやめられないのかもしれない。
私は大変不器用です。比喩《ひゆ》ではなくて、手先も体も不器用なので車の運転もできないし、運動神経は偏差値35である(高校生の時、スポーツテストでそう判定された)。粉薬がうまく飲めなくてむせる私を見て、秘書が「そんなの山本文緒じゃない」と呟《つぶや》いたくらいだ。
なので、何かしようと思ったらまず基礎の基礎から入るようにしている。幼稚園児が分かるように教えてくださいと、そのときどきの先生にお願いする。そのおかげで、五十メートル続けて泳げるようになり、お科理上手と言えないまでも、日常食べる自分のご飯くらいは作れるようになった。
しかし恋愛に学校はない。こればかりは我流である。我流ではあるが、十五歳で初めてボーイフレンドというものを持ってから幾歳月《いくとしつき》。好きこそものの上手なれ。数え切れない程の恋愛失敗事例をもってして、少しでもみなさまのお役に立てたらと思います。
基礎の基礎なので、まず「好きな男性の作り方」からですよ。
というのは、最近まわりの三十代女性数人から「好きな人ができない」と相談をもちかけられたのだ。「え?」と耳を疑った。私なんか好きな男の人なんかすぐにぼろぼろできるけどな。それともゲートボールのゲートくらい私の男性に対するハードルが低いのか。
好きな男性。それはいないよりはいた方が楽しいじゃないか。うまくいくとかいかないとか、結婚してるとかしてないとかは置いておいて、まったく誰にもときめかないというのは日々の張りとしてどうだろう。楽といえば楽なので、その方がいい人は無理して作る必要はまったくないと思うが、彼女達は「好きな男性がほしい」と訴えているのだ。
そのうちの一人が「山本さんはいつもスイッチ入っていますもんね」と気になる発言をした。恋愛スイッチが常にオンの状態だというのだ。失敬な、と最初思ったが、よくよく考えてみると、もしかしてこういうことかもと思い当たった。
私は彼女に質問してみた。
「SMAPで好きなのは誰?」
「うーん。全員」
これだ、これ。男性の群を眺めるとき、私は無意識に「好きな順番」あるいは「マシな順番」をつけて見ている。大勢の飲み会ではもちろんのこと、年配のおじさましかいない会食の席でも、男性が六人いたらAからFまでマイ順位をつける。その基準は、歳も肩書きも関係なく単なる「見た感じ話した感じ」であり、その後どうこうしようとはりきるわけではない。たった一度しか会わない人達でも、言葉さえ交わさない人達でも、ターミネーターに装備されているスコープのようなもので男性陣にランク付けをする。もし男性陣が聞いたら「お前にEだのFだの言われたかねえよ」と言われることは重々承知の上である。だからSMAPだってキムタクだったり慎吾ちゃんだったり日によって変わるが、必ず一番からビリまでいるんである。
この勝手な恋愛スコープで世の中を見ている女性は希有《けう》なのかと、まわりの人達に聞いたところ案外いた。例外なく恋愛に積極的で、痛い目にあってもへこたれない強者《つわもの》どもだった(夢の跡だったりもしているが)。
そんな目でいちいち男を見るなんて媚《こ》びてるみたいだし発情しっぱなしみたいで気持ち悪い、と思った方は一生そうしていて下さい。何もしない「ありのままの自分」という努力しない状態のままで、王子様が現れる奇跡を煎餅《せんべい》でもかじりながら待っていて下さい。
順位付けの練習をしておくと、いざとなったときに瞬発力が違うように思う。無意識のうちにAの人にあなたは話しかける癖がつくはず。それがまず第一歩。
さあ、たった今から恋愛スコープをつけてまわりを見渡してみよう。つまらない会社もつらい通勤電車も、スイッチを入れるだけで違う色に見えるかもしれませんよ。
[#改ページ]
「一緒のご飯」の気楽さは恋の堕落?
この連載開始にあたって、私は早朝のベランダから朝日に向かって、読者のみなさんに大きな声で問いかけることにしています。
「どうですかー、ときめいてますかー」
嘘《うそ》です。寒いのでベランダになんかめったに出ないし、ときめいてるかどうかなんて特に誰にも聞きはしません。しかし早朝起きる、というのはあながち嘘ではなく、原稿が詰まっていない時、あるいは前夜にお酒の約束がなかった時の私は比較的早起きだ。第一の理由は夜遅くまで起きているとおなかが減ってものを食べてしまうからで、第二の理由は基礎体力がないため日が暮れると疲れて眠くなり、どうかすると夜九時という今時小学生でも起きている時間に寝てしまうからだ。そして第三の理由として、夜からだんだん朝になる時間が本当にとても好きなのだ。安易な表現ではあるが、清々《すがすが》しいじゃないですか、夜明け。それが前夜から飲み歩いて帰って来て砂糖たっぷりの甘いコーヒーを飲んでいる(深酒すると血糖値下がるような気がしませんか。私だけですか?)時でも、ああ、正しく暮らしても無頼に暮らしても同じように朝はくるのだな、などと、どうでもいいような感慨に浸ったりできる。
朝の幸せのもうひとつは、炊きたての白いご飯だ。タイマーでセットしてあるので、大抵朝にはご飯が炊けてます。たとえば恋人がいない冬、私はほかほか炊きたてご飯君とふかふかお布団君がいてくれれば幸せさと感じます。あったかいです。満たされます。私だけですか?
もう少し痩《や》せた方がいいのはまわりの方々に指摘されるまでもなく分かってはいるのだが、実は私は自分の食欲に感謝している。というのは、野太く見えるでしょうがこの私にも「食べられない恋愛」というのが、かつていくつかあったからです。
わたくしの公式HPの掲示板に、以前読者の方がはっとする書き込みをなさった。私が「恋愛はお祭り。結婚は生活」と発言したのを受けたものである。
≪一緒にいるとご飯も喉《のど》を通らなくなる、あるいは食べなくても平気になるのが恋愛。一緒のご飯がおいしくなるのが結婚で、恋愛でも、ご飯がおいしいと思ったら結婚してもいいんじゃないスかね≫
というようなものだった。素晴らしい。どうかあのお方にカクテルを、マスター。
あなたは今、自分の好きな人とご飯を食べるとき緊張しますか。それとも気楽で楽しいですか。
かつて私にも大好きなんだが会うと緊張する恋愛があった。些細《ささい》なことで卓袱台《ちやぶだい》ひっくり返すような相手ではなかったが、それでも嫌われやしないかとびくびくしてしまい、それを隠そうと必死だった。その人と会うときは、突然の呼び出しでも万障繰り合わせ、服も化粧もマニキュアも脱毛も極力怠りなくして出かけた。今思うとよくそんな面倒で疲れることができたなと自画自賛だが、常に緊張感があるため放っておいても体重が落ち、最近なんか肌がきれいになったねと友人にも言われた。その人に出す手料理は、絶対一度自分で作って食べてみてヨシと思ったもののみで、それでも「味がちょっと濃すぎる」などと言われると激しく落ち込んだものだ。
なんつー恋愛の醍醐味《だいごみ》。その後ストレスで体を壊すことになるが、その頃の緊張感は今となっては宝物だったと心底思っている。相手の望んでいる服装や立ち居振る舞いや店選びを、こめかみの血管が切れそうになるまで想像して考え抜き、自分の体も(お粗末な代物ではあるが)清潔に手入れを怠りなきよう日々努力。そんなんでご飯なんかろくに喉を通るわけがありませんがな。
今はもう、誰と食事をしてもそんなモードには入らない。外食デートはとにかくシャレこいてない気軽な店がいいし、外食よりも家で炊くただの白いご飯に、海苔《のり》とあったかい温泉卵でものせて醤油をちょいと垂らしたら十分幸せだ。それに物足りなさを感じる男性とは、もう今の私では精神力と体力がついていかないので、ビジュアルがよくてもお断りである。もちろんそういう男性は、ジャージ上下で眉毛ぼさぼさの女なんかお断りでしょうが。
これはひとつの堕落だ。堕落が悪いなんて露ほども感じていないが、それでも「恋するときめき」と「一緒のご飯が気楽」というものは反比例するように思うのは私だけですか?
前回、好きな男性の作り方を説明したので、ちょっとベランダに出てみます。冬の星座に向かって大きな声で問います。
「みなさーん、好きな男の人はできましたかー。その人の前で骨付きカルビをかじれますかー」
念を押すまでもなくベランダは嘘だが、骨付きカルビはどうでしょう。高校生だった私は好きな男の子の前ではフライドチキンもハンバーガーも恥ずかしくて食べられなかった。で、その相談をした気楽な同級生の男の子と結局つきあうこととなった。書いてみて気が付いたのだが、十代から私は堕落の味を知っていたようだ。それでも気楽な関係はどうにも安穏すぎて、やがてまた緊張感のある恋愛に走り、また疲れて「気楽なご飯」へ逃げる。
その永久運動を、多かれ少なかれ人は繰り返すものなのではないかと私は思う。実際に行動に移す移さないは別にして、大恋愛の末に結婚をしても、やがては「あー、たまにはなんかこう、どきどきしてみたいもんだー」と幸福な人妻が思ったりするように。
ジレンマである。人を好きになることは、心弾み胸躍ることだけれど、だからこそとてもつらい。しかしそのつらさと緊張感が非日常感覚を連れてきて、安穏で退屈な日常を刺激するものだから余計にタチが悪い、と遠い目になるのは私だけですか?
[#改ページ]
ニッポニアニッポン生息の理由
都内でニッポニアニッポン発見!
と、いきなり叫ばれてもお困りでしょう。でも居たのです。都会ではとっくに絶滅したと思っていたニッポニアニッポンのオスが生息していた! いやあびっくりしました。興奮しました。
ある日、私はとある知人男性と昼食をとりました。念を押しますがお互い恋愛感情はゼロです。でもお互い仕事をする分には比較的いい相手だと思っていて、だからこそランチなど食べてみたのです。話はちょっとズレますが、若い頃、私は小さい仕事でも何とかほしかったので、仕事がらみの食事を断れませんでした。でも本当は仕事がらみのご飯が苦痛で、味はわからないし、八十パーセントの確率でお腹を壊してしまいます。ので、この歳になってようやく、お茶だけにしてもらえるようになりました。それだけ考えても歳をとるのは悪くありません。
話を元に戻しますと、その知人男性と会うのはまだ三回目です。ややシャイで無口でおとなしい人ですが、話と仕事に一貫性があるので信用に足る人だと私は感じていました。で、ちょっといいランチだったので昼からワインなど飲んでみました。仕事の話から、この連載の話になり、会う男性にいろいろ意見を聞いているのだと言ったところ、急に彼がこんなことを言い出しました。
「女は馬鹿だからな」
耳を疑いました。冗談めかしてではなく彼の目はマジです。
「ええと、それはどういう意味で?」
「男の方が女より頭いいのは明白じゃない」
私は俄然《がぜん》おもしろくなってきて、二人分のワインを追加注文し「それで? それで?」と続きを促しました。彼の言うところによると、女は結局論理的にものが考えられないし、男にもそういう奴《やつ》が最近は多い。俺《おれ》は日本中の男の中でも中の上の範疇《はんちゆう》には入る、と胸を張って言いました。ちなみに彼は四十代独身、彼女いない歴たぶん十年以上、都心の出版社勤務ですが、バリバリな活躍感は正直ありません。そしてランチの支払いは私が誘ったことだったので私がしたのですが、彼はお財布を出そうともしませんでした。
きゃーーー! 日本の古い男です。天然記念物です。ニッポニアニッポンです。こんな純血種は大切にしなければいけません。ので、
「んなことだからモテねーし、結婚できねーんだよ」
なんてナイーブな純血種を傷つけるようなことは言わず、笑って別れて家に帰り、あちこちに「ニッポニアニッポン発見!」の電話をかけまくりました。ところが、驚いてくれるかと思ったら、みんなの反応が思った以上に薄いのです。「そんな人、会社にいっぱい居るよー」というのが一番多い反応でした。
なんてこと。私は自由業で、それこそ嫌いな人には会わないでいられるところまで来られたので、気がつかなかっただけのようです。
あなたの好きな人、あなたのつきあっている人、あなたの配偶者はニッポニアニッポンではありませんか?
ああ、振り返るとかつて私が好きだった人の中にもニッポニアがいました。一見普通で一見礼儀正しかったです。でもそういえば、絶対自分でお茶を淹《い》れたりしなかったし、たまに料理をしても後かたづけはしませんでした。常に自分の方が物事を知っているという態度でしたし、間違いや矛盾点を指摘すると不機嫌顔で黙り込んでしまいました。
私はニッポニアのどこが好きだったのでしょう。仕事ができる(ように見える)ところ? 博学な(ように見える)ところ? 頼りになる(ように見える)ところ? 無口で浮ついていない(ように見える)ところ? 自信が(根拠もなく)あるところ?
早速、友人知人の男性に電話アンケートを行ったところ、貴重な一言を頂きました。
「今は違うけど、若い頃は彼女にお茶を淹れてあげるとなんか損した気になった」
おお、なるほど。損ときたか。
何もニッポニア君を糾弾しようと思って書いているわけではありません。私がフェミニストだったらボコボコにしてやるところですが、なんつーか、怒るというより笑う。そして可哀相《かわいそう》〜なんて思います。昔から「男の人ってなんで根拠もなく自信があるんだろう」と首を傾《かし》げることが多かったのですが、そういうふうに生まれ育ってしまう環境にあったのでしょう。そして注意してくれる人もいなかったのでしょう。
絶滅種のようなことを書きましたが、はたと気がつきました。二十一世紀にもなって、しかも都心にニッポニアニッポンのオスが堂々と生きているということは、つまりニッポニアニッポンのメスがそれを優しく支持しているからなのでは。
ニッポニアのメスとはどんな特性を持つのでしょう。そりゃもう、オスのニッポニアを尊敬し、利用するタイプの女性です。料理するのも茶碗を洗うのも家事全般は当然自分。自信満々のニッポニア・オスの根拠のなさも見て見ぬふり。何故ならば、自分で考えて自分で判断するのが面倒なので、それを他人に押しつけて何の責任も取りたくないからです。ニッポニアのオスのご機嫌をとりつけ、最終的には親代わりの保護者として、結婚を狙《ねら》っていると私は推測いたします。
損した気になる、と言った人の理由がそれで明らかになりました。ニッポニア君は、実はニッポニアの女の子の保護者として利用される運命にあるのです。
それが悪いと言っているわけでは本当にありません。ただ私はびっくりしているだけです。はっきり言わせて頂きますと、やはりニッポニアニッポンはオスメスとも絶滅への道をゆるやかながら行くことになるでしょう。そしてせめて圧倒的に数が多いニッポニア君が、今やほとんど見かけなくなったニッポニアの女の子と巡り会えるといいなと思います。
とにかく気をつけましょう。あなたのそばにもキレーな朱鷺《とき》色のニッポニアニッポンがいますよ。何を言っても無駄なので貴重生物として大切に放っておきましょうね。
[#改ページ]
恋はとことん「くさい」もの
恋は面倒くさいものです。くさやの干物より、くみ取り式便所より、くさいかもしれません。恋は面倒くさく、うさんくさく、片思いの相手の言うことが本当かよと嘘くさく聞こえ、うじうじする自分は貧乏くさく、それでも思いあまってその苦悩と恋心を友人に告白しようものなら「くっさ〜」などと反応がかえってき、恋の前では社会でどんなに立派な仕事をしていようと素人くさくなり、つらくなると「くさいものには蓋《ふた》」をして忘れようとして、でもどうしても忘れられなくて頭が変になってストーカー化したりすると、くさい飯を食うはめになったりします。
な。くさいだろ、恋。
本誌(「ドマーニ」)編集部から「最近、恋愛を面倒だと感じる女性が増えてきたようだ」という情報を耳にしたのだが、特に最近の出来事ではないと思うな。ずっと昔から恋は面倒くさかったし、未来|永劫《えいごう》、恋は面倒くさいままだと思います。最近変わったのは、面倒くさいからしない、と口に出して言え、実行に移せる女性が増えたことではないでしょうか。いい歳こいちゃう前に女性は恋愛および結婚をしなければ幸せになれないという価値観が、ついこの間まで幅をきかせていたので(実際そう思っている人が今でも沢山いる模様)、面倒くさがってないでなんとかしないと、と多くの女性が追いつめられて適当な相手と恋愛したり結婚したりしていたのでしょう。みんな王様が裸だと本当のことを言えなかった。でも少しずつ王様は明らかにフリチンだと声に出して言える人が現れ、勇気のない人もそれに賛同できるようになった結果だと思います。さらに言えば、王様という「世間一般の価値観」が斜陽になり没落の一歩手前にあるのでしょう。これから歳若い王子がその座を継承するのか、王制そのものが崩壊するのか興味のあるところです。
ちょっと脱線しました。恋は面倒くさいという話でした。
私の身近にも幾人かそういう男女がいます。これを書いている時点で私は三十九歳なので、その友人達も同世代です。
一人、とってもわかりやすい女子がいます。彼女はもう何年もテレビの国の王子様に熱烈に恋をしています。平たく言えば、ある芸能人に常軌を逸する勢いで熱を上げているのです。つい最近まで私は彼女に「いい歳こいてバーチャル恋愛じゃなく、生身の人間を好きになれ」とからかい半分マジ半分で言ってきましたが、つきあいが長くなっていくにつれ、自分がずいぶん余計なお節介を言っているような気になってきました。
彼女は仕事柄、テレビに出ている人に、舞台下の観客ではなく、努力次第では現実に会える立場にあります。でも、いくら王子様に会えるチャンスがあっても「それだけは無理」と逃げ腰で私は歯がゆい思いをしてきました。一般ファンとして観客席からラブコールを送るだけでいいなら、それはそれ、これはこれとして現実の男性にも目を向けていいはずで、彼女自身もちろんそんなことはわかっていて、それなりに恋愛スコープをしぶしぶ装着したりしているのですが、いざ本当に恋愛のとっかかりにさしかかると「やっぱ面倒くさい」とやめてしまうのを何度か目撃しました。
彼女にちゃんとした現実の恋愛経験がないわけではありません。そして過去の恋愛で、誰でもが経験する程度の傷は受けても、特にひどいめにあったようでもありません。では何がそんなに面倒くさいのでしょうか。まったくもってわからなかった私は、彼女を珍しい動物のように観察いたしました。
普段の彼女は冷静沈着、仕事は敏腕、愛想も過不足なく、とにかく会話が巧みで人を笑わせ安心させる才能を持っています。そんな彼女が実力を発揮できない場面がふたつあることを私は発見しました。ひとつは言うまでもなく、テレビの国の王子様を見たとき、あるいはその王子様と面識のある人に会ったとき、彼女はいつもの平静さを失います。もうひとつは「自分の気持ち」に関することです。ものすごく当たり前ですが、人のことは冷静に見えても、自己認識となると人は案外間違っていたりするものです。彼女の場合、それが過剰で、たとえば人のマニキュアの塗り方やサンダルのサイズには敏感なのに、自分は紅筆《べにふで》一本持っていないという有様です。人の恋路やトラブルにはひょいひょい良きアドバイスができるのに、自分のこととなると「どうしたもんやらわけわからん」状態になってしまうようなのです。
そこがアホでかわいいのですが、そのアホさとかわいさに気がついてくれる男性が現れるかどうかは神のみぞ知る。
そして彼女は若い(絶対二十五歳以下)男子が大好きです。観賞用ではなく、本気でつきあいたいと思っているようです。私はもうおばさんなので、礼儀も経験も金も持っていない若い男子など、目の正月用には結構でございますが、おつきあいは勘弁して頂きたいです。その前に若い男子の方がお断りしてくるでしょうし。
バーチャルな恋、あるいはこちらが主導権を握れる若い人間との恋。そのふたつを望むことを「自分が傷つかない手段としての現実逃避」と言い切ってしまうことは簡単です。でも私は彼女をしばらく見ていてその考えを改めました。恋はしたくなくてもやってきてしまうものです。面倒くさいことはいやだと思っていても、人は交通事故にあうように人を好きになってしまうのです。何故なら、いくら彼女の王子様がテレビの国の人でも、彼女は作為的に好きになったのではなく、見た瞬間にどかんと恋の穴に突き落とされ、彼女だってその穴からはい上がりたくもあるのに、どうしてもどうしても王子様が誰よりも好きなのですから。これが恋でなくてなんだというのでしょう。
「恋がしたい」だなんて言っているうちは幸せなのだと思います。恋はつらいのです。焦がれるというくらいなので、恋の熱風は心に大やけどを負わせるのです。勝手に押しかけてきて出ていかない悪いドラえもんみたいなものですよ、恋なんて。しかも臭いんですよ。
彼女は逃げているのではなく、逃げられないで囚《とら》われているのです。そういう本質をうすうす知っている人が「恋は面倒くさい」とこぼすわけです。せめて彼女の誕生日には、消臭剤を買ってあげようと思います。
[#改ページ]
モテる女とモテない女の決定的な違い
モテの秘訣《ひけつ》を伝授、という話。
からきしモテない方、それを別にどうこうしようと思ってもいない方、あるいは今現在モテモテの方、読みたいですか。読みたかないですか。私個人の現在の状況は置いておくとしても(頼むから置いておかして下さい)、そんなものがあるなら私は読んでみたいなモテの秘訣。でも仕事なのでしょうがなく自分で書くよ。
では質問です。あなたはモテますか? 友人知人の女子にアンケートをとったところ、九割強の人が「モテない」とのお答え。その中には謙遜《けんそん》あり、そうだろうねとうっかり頷《うなず》いてしまうことありといろいろですが、「モテる」あるいは「若い時(といっても四十代前半まで)モテた」とはっきりと躊躇《ちゆうちよ》なく清々しいまでに言い切った女性二名がおりました。
ではもうひとつ質問です。あなたはモテたいですか? この回答もだいたい同じ結果となりました。ほとんどの人は「好きな男性二、三人に好かれれば十分で何も不特定多数の人にモテたくはない」とのこと。「ああモテたいさ」と大声で言い切った女子二名。
さて、そもそもモテるとはどういうことをさすのでしょう。学生時代ラブレターをいっぱいもらった。若い頃よくナンパされた。今現在でも恋人以外の男性に食事に誘われる。気のおけない男友達(複数)から用事がなくてもたまに電話がかかってくる。時々、正面切って交際を申し込まれる。ああ、こりゃモテるぜ。完全無欠にモテてるぜ。
しかし女性と一口に言っても性格は千差万別なので、好きでもない男子からラブレターをもらったり、軽薄な男に声をかけられたり、仕事の関係者なのにデートっぽい食事に誘われたり、男友達の愚痴を「お母さんでも恋人でもないのになんで聞かなきゃならんのだ」と思ってみたり、親しくもない男性からいきなり交際を申し込まれたり、私って散々なんです、不愉快なんです、モテないんです、と受け取る人も居るのでございますよ。
つまり自分が「モテているかどうか」は自己認識の問題であり、見かけだけではその人がモテているのかそうでないのか私には分かりません。よって結論は、自分はモテる! と自己暗示をかけ、人に宣言したら、もうあなたはモテる女。というわけで終わります。あ、枚数がまだまだありました。しょうがないので気合いを入れて考察してみましょう。
たとえば、恋人いない歴もう三年以上、休日はただ部屋でぼんやりするか、女友達と集まってメシかカラオケ。新しい服を買ったのはいつだか思い出せず、体重計の存在を忘れ、どうせ脱がないのでパンツは色気よりも実用優先。肌の手入れも脱毛も怠って久しいあなたは、確かにモテてません。怒って雑誌を床に叩《たた》きつけないでください。喧嘩《けんか》を売ってるわけではございません。そんな状態にかつて私もなったことがあって、その時、心がものすごく楽でした。その頃の私には好きな男性がおらず、たまたま半年間だけ年下の女友達が居候していたので、毎日修学旅行みたいで淋《さび》しいどころか平和で楽しかったのです。彼女と住みはじめる数ヶ月前に恋人と別れ、ああもう男なんか男なんかみんな馬鹿野郎だ、原稿さえできてりゃ文句ねーだろコラ、という心持でありました。好きな男性などつくろうとも思っていなかったのですが、そこが恋愛体質の哀《かな》しい性《さが》。ある日うっかり好きな男子ができてしまいました。平穏な日々よ、さようならです。
久しぶりに体重計に乗ってみて、私はあまりのことに涙が出ました。人生体重マックスをマークしているではないですか。顔は連日の酒でむくみ、肌は荒れ、手脚《てあし》は剛毛がちらほら。これではいかんざき! 好きな男子どころか誰からもモテんざき! と涙をぬぐいました。しかしその後スキンケアに精を出してお洒落《しやれ》したところでモテないものはモテなかったです。正直言って人気はありました。一応日本で一番有名な文学賞をとったりしたし、今まで長い時間をかけて信頼関係を築いてきた仕事関係の方やプライベートな友人からは好かれていたと思います。でもデパートに行けば奥様扱いされるし(平たく言うとおばさん扱い)、一番衝撃だったのは、運転免許証の更新に行ったら何故だか警察の人々が妙に優しくて、講習室が満員で立っている人もいたのに、私にだけ折り畳み椅子《いす》を出してくれたのです。とどめの一言は「何ヶ月でいらっしゃいますか?」というナイスミドルな警察官の一言でした。妊婦に間違えられるようでは決定的にモテんざき。痩せたらモテるのだろうか、と思わず煙草《たばこ》に火を点《つ》けちゃいましたよ。きっと違うぜ。痩せたってモテないもんはモテないぜ。人気があるのとモテるのは、北極と南極みたいに似てはいるが全然違うぜ。
どうしたらモテるのか。たとえば男性の行動のほとんどは「女にモテるため」に行われているように私は思います。勉強していい大学やいい企業に入ったり、バイクに乗ったり、高い車を買ったり、バンドを組んだり、スノボをやってみたり。百パーセントでないにしろ、それらの行動は「女にモテたい」という要素を多分に含んでいるように思います。
じゃあ女子はどうしたらよかんざき? 痩せたってお洒落したって肌がきれいだって仕事ができたってモテない人はモテません。
ので、「私はモテる」と言い切った二人にアドバイスを頂いたところ、一人の方は「中学生の頃から自然とモテるようになった」と回答。もう一人の方は「自分のことが分かってきたらモテるようになった」とのお答え。お願いします、もっと具体的な助言をくださいと懇願したところ前者の方からは「彼氏がいる時の方がモテる」、後者の方からは「彼氏がいなくなると自然とモテる」とアンビバレントなお答え。つまりあれかい、「本当にモテる」というのは持って生まれた才能の問題であってごくごく少数の人しか持っていないってことかい? とうちひしがれていたら、ある頃からだんだん自分のモテ度がやや上がってきたことに気がつきました。体重に変化なし。変わったことといえば、一緒に暮らしていた女の子が実家へ帰っていったことくらいです。つーことは、女の二人暮らしがいけなかったか? そうだ、「モテ」には絶対女同士でつるんではいかんざき。なぜなら男子が不必要なくらい楽しいから。以下次号に続くかも。
[#改ページ]
どうして!?「モテのルールズ」実行の難儀
先月は「モテの秘訣」のお話でしたね。ちょっとそれは置いておいて、わたくし事のご報告であります。実はこの三月においら結婚しちゃいましたよ。しかも二回目ですよ。だからほら、雑誌を叩きつけて足で踏みつけないでください。ほんとに喧嘩売ってるわけじゃないんです。ああ、怒っちゃったですか。そうですか。真《まこと》にもって申し訳ございません。結婚がモテた結果なのかどうかは自分でもわかりません。何かの罠《わな》か、宇宙人のしわざかもしれません。なんつっても出会って十ヶ月の勢い婚なので、まだ相手の人のことをよくは知らないのです。浅はかですね。はい、浅はかです。相手の人には失礼ですが、失敗してもいいんです。だって面白いじゃないですか。人生いろいろあった方が。
ええと、話は「モテ」でしたね。その後、各方面に「モテ」についての見解を聞いてまわりました。するとある日、人気はあるがモテない女全日本代表Y(三十七歳・結婚歴なし)がこんなことを言い出しました。
「男子との最初のデートは長くても五時間以内に終わらせないといけないんですって」
なんやとコラ、といきなりどつく私。ごく最近まで紅筆はおろかビューラーも持っておらず「こんしーらー」という単語すら知らなかった女が何を知ったかぶってんの。しかしよく聞いてみるとそれは数年前ベストセラーになった『ザ・ルールズ』という本に書いてあったとのこと。おお、アレね。電話は女子から絶対かけてはいけないとか、土曜のデートの申し込みは水曜で打ち切らなくてはいけないとかいうアレね。ぱらぱらめくったことしかなかったので、食わず嫌いはいけないと、じっくり読み返してみましたよ。ザ・ルールズ。
読み終わりました。ビバ、ザ・ルールズ! 今までイメージだけで敬遠していてごめんなさい。すばらしいっす、ルールズ。枚数的にここで詳しくはお伝えできないのでモテたい女子は読むべきです。実践するかしないかは自由ですが、とりあえず読んでください。買うのは何だなあ、と思う方も友人知人のどなたかが必ずや持っているはずです。恥ずかしい気持ちを堪らえて借りてください。
確かにその本には極論が書いてありました。当日デートの誘いは受けてはいけないとか、金曜の夜一人で家に居ても居留守を使えとか、デートは絶対女子からおひらきにするとか。でもこれは生涯自分を大切にしてくれるたった一人の夫を獲得するためのマニュアルなので、極論でよろしいのだと思います。しかしよく読んでみると、要するにこの本の言いたいことは「自分も他人も尊重し、人との適正な距離感と思いやりを持ち、経済的にも精神的にも自立し、誇りをもって一人でも楽しく生きていける女性になりましょう」というようなことでありました。
私が知っているモテる女子全員に当てはまることです。しかも彼女達は作為的にルールズを実行しているわけではなく、仕事やプライベートが忙しいので、長時間デートも長電話も頻繁にはしている時間がなく、週末は大抵仕事か遊びの予定が入っていて、男子は前々から予約を入れないと彼女達とデートをすることはできません。ので、特に我慢しなくても必然的にルールズ実行人間となり、自然と「高い女」として崇《あが》められるというからくり。
じゃあ仕事しまくって休みの日も遊びだの稽古事だのしていればモテるのかというと、そうではないのが現実というものの厳しさです。
先日私はたまに行くネイルサロンの若くてスリムで可愛《かわい》い女の子に「モテ」についてのアンケート調査を行ったところ、「モテないというか、まず出会いがありません。仕事がキツイから終わったらへろへろで帰るだけだし、休みは週イチだから次の週のために寝倒しておかないと体がもちません。スタッフもお客様も全部女性だし。どうしたらいいんでしょうねえ」とマスカラでびしりと上げた長いまつげを伏せておっしゃいました。いやはや、なんのための完璧《かんぺき》な化粧とアートなつけ爪? 自己満足ならもっと元気なはずです。
ザ・ルールズでは「どんなに面倒でも一人で出かけるようにしなさい。家に居ては男性に巡り会えません」との旨が書いてありますが、面倒なものは面倒っす。無理して出かけて体を壊したら本末転倒です。
女同士つるまなくて平気な自立女性でも、「狩りと釣り」は疲れるものです。面倒くさい、と疲れてる、に敵《かな》うものはラブな恋人とのデートくらいしかないでしょう。でもそれがないんだからそりゃ家で寝てたいさ。というわけで、容姿にも性格にも問題ない女子がどんどんモテないスパイラルに陥っていくわけです。
しかし、疲れているのは本当に仕事のせいか。面倒くさいのは本当に疲れているからか。そういう観点からモテモテ女子達をもう一度観察したところ、本流モテ派達も仕事はキツイ様子です。でも彼女達はうまく息抜きができる仕事を選んでいます。フリーであったり、会社員であってもある程度自由がきく職業で、そりゃ休めない時もありますが、自分のぺースで動くことができ、時間の融通のきく仕事をしていて休む時はバーンと休んでいます。自分の体が発するサインに敏感で無茶をしません。だから基本的に健康で元気です。健康で元気だから出かけてゆく余裕も「狩りと釣り」をするエネルギーもあります。
「モテる」とはかくも難しいものなのですよ、みなさん。ただ美人だとか仕事ができりゃいいってもんでもなくて、自分のことをよく知っていて、やりたいことのベクトルが決まっていて、腹がすわっていないといけないんですよ。
うわ、面倒、と思った方は、もうおとなしく目の前にある自分が今すべきことを丁寧にやりましょう。モテたいとか思う前に自分を何とかいたしましょう。いろいろ偉そうなことを言いましたが、ザ・ルールズの著者が離婚したことが『新ルールズ』に書いてあって大笑いしました。だめじゃん、ルールズ。でも、それくらい失敗や破綻《はたん》がある人の方が面白そうで私は好きです。ではあなたのモテを跪《ひざまず》いて祈りますので、私の二回目の離婚がないようどうか祈って(呪《のろ》って?)やってくださいませ。
[#改ページ]
「スキンシップ」は足りていますか?
この連載も後半戦に入りましたし、そろそろ夏も近づいていることですし、夏は心の鍵《かぎ》をあまくするわご用心、と若い人は知らないでしょうが昔アイドル歌手も歌っていたことですし、初級から中級へとお話を進めさせて頂きたく思います。
さてみなさん、最近セックスしてますか。
あ、いきなりでしたね。本誌編集長(当時四十歳独身男性)が慌てて湯飲みをひっくり返す姿が水晶玉に映りました。不適切な表現でしたでしょうか。申し訳ございませんでした。では改めまして質問させて頂きます。
婦女子のみなさん、最近男性と同衾《どうきん》してますか。
え? 質問自体がいけませんか。確かにこの手の話題をエッセイで、しかもファッション誌に書くのは難儀なことです。だがしかし編集長。三十代以上の婦女子の恋愛エッセイで、お床の話を外したらあまりにもきれい事すぎませんか。いえ、何もその実体をあばこうとしているわけでも、微に入り細に入り記述しようというわけでもないのですよ。要するに投げかけたい質問はこういうことです。
恋人あるいは夫をお持ちのみなさん、彼と仲良くスキンシップをしてますか。喧嘩ばっかりしていませんか。そして今、特定の恋人がいらっしゃらないあなた、男子と手をつなぎたくないですか。好きな男子といちゃいちゃしたくないですか。
と、ここまで書いたら猛烈に腹が減りました。いえ、内容とは関係なく午後六時現在、朝から何も食べていないからです。冷蔵庫はからっぽで、出前を取る時間がもどかしいほど強烈な空腹に襲われたので、近所のファミレスヘ行って来ます。
只今《ただいま》帰りました。和風ハンバーグ定食ご飯大盛りを完食してきた上、いいものを見てきちゃいました。結婚して約一ヶ月の新婚さんの私ですが、雑用やら原稿《これ》やらで毎日だいたい一人です。のでファミレスにも一人でとぼとぼ行き、一心不乱に食事に集中していたところ、隣に大学生風のカップルが来ました。男の子はなんの躊躇もなく奥のベンチシートの方へどさりと腰を下ろし、ぽわんとした感じの女の子が彼の前に座りました。
まったく若いもんはエスコートっつーものをわかってなくて困っちゃうね、女子には奥の席を勧めるのが基本だろーよ、と内心私が説教モードに入っているのも知らず、男の子は早速メニューを広げました。
「俺、最近肉食ってねえから肉。肉だ肉」
「あたし、ご飯食べられるほどお腹すいてないなあ」とやっと彼女が発言。
「じゃあ、パフェでも食べれば。奢《おご》ってやるって。これなんかどうよ。小さいし苺《いちご》のってるじゃん。お前、苺好きだろ」
私はその肉男と苺好きの女の子を思わず見ました。彼女は嬉《うれ》しそうにこっくり頷き、そしてやおらテーブルの上で二人は手をつなぎ、くすくす笑いあって小声で話しています。ファミレスのテーブルは普通の喫茶店より大きいので、お互いの腕を伸ばしあわなければ手をつなげません。
ごめんね。おばちゃんが悪かった。座る位置だけで兄ちゃんを傍若無人で男尊女卑のバカ男と決めつけてごめんね。頭でっかちで一人で大盛りご飯食ってごめんね。
手をつないでいるカップルは微笑《ほほえ》ましいものです。年齢容姿性別にかかわらず(そりゃTPOってものもありますが)好きあってる二人には隙《すき》さえあれば手をつないでいてほしいと常々私は思います。
人はスキンシップなしでも生きてはいけます。でも親に抱きしめてもらえなくなる年齢から、人は他人(大抵の場合異性)にそれを求めるようにできているようです。若いうちはそれをストレートにできてもやがて人は年齢を重ね、経験を重ね、いっぱしな仕事をしちゃって、プライドなんかも生まれちゃって、痛い目にもあったりして、女性誌の恋愛エッセイ(まさにこれ)なんか読み込んじゃって、失敗しないように、恥をかかないように、傷つかないようにと、頭でっかちな大人になってしまうのだなあと、コーヒー三杯お代わりしながらしみじみしてしまいましたよ。
私は時々(主に酔っぱらっている時)、男女の別なく、つらそうにしている人の頭を「いい子いい子」と撫《な》でてあげます。するとシングルの女子はもちろん、取締役なんて肩書きがついてるおっさんでも子供みたいに、嬉しそうな泣きそうな顔をします。それでもつらそうな時はチュウしてあげることもあります。どうしてそんなことをするかというと、何も慈愛の心からではなく、自分がつらい時、そうしてほしいからです。でも残念ながら同衾は誰とでもというわけにはいきません。
社会人になったら、異性の前で服を脱ぐ、という行為は、社会の記号を脱ぐということです。すっぽんぽんの生まれたまんまの姿で「ええと、胸は貧弱ですがこれでもわたくし会社では主任でして」とか「僕、腹は出てますが一応去年**賞をとってます」とか言っても意味がありませんし、だいたい脱いでるわけですから、お喋りは体でしなくちゃいけません。
セックスの一番の効用は、そうして社会から切り離され、社会での役割を忘れ、本来人間はただの動物だということを思い出し、人肌の気持ちよさを無心に味わい、お互いがお互いを好きならば、労《いたわ》りあい思いやりあい、鳥の巣みたいに小さくても、そこに二人だけの絶対安心な場所を作り上げることができるからじゃないでしょうか。
いつかは飽きるとか、今は優しいけど男ってものはそのうち浮気するとか、そういう邪心で一瞬の幸福に水を差して楽しいでしょうか。それがつまり頭でっかちっつーことです。
繰り返しになりますが、人はスキンシップなしでも、もちろん生きていけます。でも、できれば恐《こわ》がらずに社会という服を脱いでみてほしいです。すっぽんぽんの自分を受け入れてくれる人の存在をあきらめずに探してほしいです。
ですが、手と顔はもともと裸なので、つらそうな人がいたら撫で撫でしたり、チュウしてみたらいいんじゃないスかね。そこから何かが始まる可能性も大ありですし。セクハラ扱いされたら「この頭でっかち!」と言い返してやりましょう。
[#改ページ]
恋愛上手は奢られ上手
のっけからすみませんが、最近私は眠くてたまりません。今も眠くて眠くて職務放棄したいのですが、目前に締切りが迫っているため仕方なくパソコンに向かっておりますよ。たとえばお子さんがいらっしゃる上、フルタイムで働きに働いている方に殺意を持たれることを承知でカミングアウトすると、ここのところ私の平均睡眠時間は約十四時間です。寝すぎですって? そうなんですよ。在宅自由業の恐いところはこれなんですよ。誰も見ていないので働きすぎたり働かなすぎちゃったりするんですよ。私には「病的に眠たい月間」がたまに襲ってきます。昨夜は夜の十二時過ぎに寝て今朝七時に一度起きたのですが、どうにもこうにも眠たくて、そりゃもう何もかもどうでもよく、誰に嫌われようと、中国の日本総領事館で憤懣《ふんまん》やるかたない事件が起ころうと、眠たくて眠たくて、約束をひとつキャンセルし、人から貰《もら》ったおはぎを一個食べて、朝八時から午後五時まで寝倒しました。だるだるな気分で起き出して濃いコーヒーを飲み、おはぎをもう一個食べても眠気は去らず、さらにソファで約二時間ほど寝てしまいました。病気でしょうか。でも自分の五年日記を読むと、何か大きな事があったあとはいつもこんな症状になっているようです。悲しいことであれ嬉《うれ》しいことであれ、感情の波が大揺れすると私の三半規管は耐えられないようです。しかし仕事をしなければお金が貰えないわけで、お金が貰えないと日々の生活費や接待交際費に困るわけで、こうして公《おおやけ》の場で愚痴をこぼす始末です。
ただ寝ているだけでも腹は減る。ましてや起きて働いていたらもっと減る。というわけで世の中の恋愛中のカップルなら「今晩、ご飯でも」ということになりますね。強引な展開でしたが、眠いので許してください。
いい歳こいた男女がちゃんとしたおつきあいをするとなると、必ずそこに「食事」がついてきます。そして外食すれば必ず勘定というものが発生します。さあ、どっちがどう払うのか! 緊張の瞬間です! いえ、大袈裟《おおげさ》に言ってるだけです。でも、デートの勘定には二人それぞれの様々な感情が凝縮されているように思いませんか。
というわけで自分の公式HPで「男性と二人で食事をした後、支払いはどうしていますか」というアンケートを募《つの》ってみました。その結果、想像以上に沢山のご意見を頂きました。内容がどうというより書き込みの多さの方に私は着目しましたよ。みんな、その件に関しては言いたい事いろいろあったのね。
アンケートをとっておいて失礼なのですが、案外みなさん真面目《まじめ》でございました。基本的には割り勘派が多数。たまに有り難くご馳走になるが、後日何か他の形で返す。絶対自分の分は自分で出す派の方もいらっしゃいました。ですが、いろいろな意見があるように見えて、よく読むと実はどんな意見もひとつの理由に集約されているように私には感じられました。下心を持たれたり、借りができるのがいやだったり、気があると勘違いされたら困るし、経済的に依存していると思われるのが癪《しやく》だったり、女だからという理由だけで奢られるのは変だと感じたり。つまるところ、平等で対等な関係を持ちたいというところですね。
たいへん結構なことだと思います。たいへん正しいと思います。嫌味じゃないです。ええ、男女は平等です。歳の差も国籍も超えて人類はみな平等です。
でもね、なんか男の人が可哀相になってきましたよ。もちろん可哀相がられる今時の男性にも問題があるのでしょうが、それでも「あー、おいら女でよかった」なんて思っちゃいましたよ。
「何故男性は女性に奢らないとならないんですかね」という素朴な疑問がアンケート回答の中にあり、私はその答えを探り出すのに時間がかかって、思わず焼そばUFOを食べちゃいましたよ。お腹いっぱいでまたもや眠くなってしまいましたよ。焼そばUFOのお湯切りをしながら、ふと浮かんだ答えがありました。
奢らないとならないのではなく、奢りたいのです。それが男性側の「狩りと釣り」だからです。多くの男性は狩りと釣りが好きなのです。
男女でもただの友達だったら割り勘でもちろんいいでしょう。そして二年以上安定しておつきあいしているカップルには、もう暗黙の了解のうちにお金の出し方が編み出されているのでしょうから、私などが口を出すことではありません。ですがね、付き合いはじめたばかりのカップルの女性は、可哀相だから男性に外での食事代くらい払わせてあげましょうよ。
恋した男性というのは、彼女より強くありたいものです。男の沽券《こけん》とかプライドとかとはまた別の種類の願望です。自分の恋人のことを心から好きであれば、彼女を「俺が守る。大切にする」という感覚を持ってもらいたいじゃありませんか。あなたが男性だったらどうです? 大好きな彼女が仕事ができて、どうかすると自分以上に収入がある気配で、いつも割り勘にされたら、俺なんか俺なんか全然彼女に必要とされてないのかも? なんて思いませんか。男性の方が体力的には勝《まさ》っていても、今の社会の中で男性が男性たる力強さを発揮できる場面は本当に少ないのですよ。殴り合いの喧嘩など殆《ほとん》どしたことのない今時の男性は、いい具合に街角でチンピラさん達にからまれても、昔の漫画みたいにチンピラさん達を殴り倒したりして彼女を守ったりもできないんですよ。
仕事じゃないんです、恋愛は。常にイーヴンにもっていきたい気持ちは分かりますが、恋愛なんですから、好きな男性を喜ばせてあげましょうよ。花を持たせてあげましょうよ。もし彼のことが好きならば、彼に会う時あなたはいつもより念入りに化粧やお洒落をしてあげましょうよ。自分のために綺麗《きれい》にしてきてくれたんだと思うだけで、男性は嬉しいものですよ。食事代くらい出させてあげたらいいじゃないですかね。
それでなくても眠くて眠くてたまらんのに、化粧して着替えて出かけて行くわけですから、わたくし男性には奢ってもらいます。あ、眠いのは私だけでしたか。というかまともなものが食べたいです。作って食べろ? はい。仰《おつしや》る通りで。
[#改ページ]
「本気の不倫」vs「気楽な浮気」
さあ、みんなで歌いましょう。メロディーはフィンガー5の「恋のダイヤル6700」ですよ。
♪不倫リンリリン、リンリンリリンリン、リンリンリリン、リーリリリリーン。今日は妻子が留守だから、外泊できるチャンスだよ。胸のふるえをこらえつつ、オレはホテルを予約した。君の携帯ナンバー偽名で登録、ワオーッ!
失礼いたしました。不倫のことを書こうといろいろ考えはじめたら、真っ先に馬鹿な替え歌ができてしまいました。さあ今回のお題は不倫と浮気でございます。だんだん上級になってきましたね。
ところでいきなり話をそらすようですが、ドマーニ世代とは何歳くらいから何歳くらいまでを指すのでしょう。そんなことすら知らずに連載も九回目。とりあえず私の中では三十代から四十代前半ってことで勝手に解釈し話を進めます。(そのとおり! 編集長注)
この世代の独身女性(特に恋愛体質の方)で、軽かろうが重かろうが不倫をしたことはない、という人は実はとても少ないのではないでしょうか。わたくし? わたくしのことは聞いてくれるな。頼みます。お願いします。行間から察してください。
だって独身男性いないじゃん! そのくらいの歳になってくるとめぼしい男の人はだいたい結婚してるか、してなくても奥さん同様の長いつきあいの彼女がいるべ! またもや失礼いたしました。興奮すると語尾が生まれ育った神奈川湘南弁になってしまう私です。
独身男性も三十代前半ならまだしも、後半を超えてくるとそれなりの理由があったりします。もちろん自分好みの独身男性は地球上のどこかに居るのかもしれませんが、接近遭遇できる確率はUFOを見るくらい低いような気がしませんか。そしてこちらもいい歳こいた独身なわけですから少々難ありでもいいやというモードになり、同じ「難あり」なら、付き合いたくもない変な独身男よりは、身近にいる気の合う既婚男性の方が手っ取り早い。というわけで、まあ結婚したいわけじゃないんだし恋愛なんだからいいか、と自らを納得させたりしてませんか。
世の中にはもちろん不倫反対派の方々が沢山いらっしゃいます。正しい意見です。いくら不倫が携帯電話くらい普及しようとも、それは「善きこと」ではありません。一日一善どころか一日一悪です。けれど今回は「善いか悪いか」というお話ではありません。
不倫というと、何故か既婚男性と独身女性というステレオタイプな図が浮かびますが、考えてみれば既婚女性と独身男性、既婚者同士というバリエーションもあるのに少なく感じるのはどうしてでしょう。その疑問を胸に、今回も友人知人男性にアンケートを行ったところ、ひとつ面白い発言を聞くことができました。
「不倫? してみたいねえ。たとえばやな、嫁はんが喧嘩かなんかしてスネて実家に長く帰ることになったりするやろ。ほしたらいっつもピシッとしてるワシが(そうか?)ワイシャツの襟なんか汚れてきてしもてスーツもヨレヨレ。それ部下の若い女の子が気ィつくわけや。その子は前からワシにちょっと気ィあるねん。けど愛妻家やとみんなに聞いてるんで、課長さんには近づけないわ、とか思てたんや。でもワシの元気のない様子見て、母性本能が辛抱たまらんようなって、課長さん最近奥様がお留守って本当ですか。ちゃんとしたもの食べてますか。わたし心配なんです。図々しいとは思うんですけど、お掃除と食事を作りに伺っていいですか、なんて顔まっかに染めて言うんや。そやけどワシは、あかんあかん、妙齢の娘さんが結婚してる男の家になんか来たらあかんのやゆうて優しく諭《さと》してから、ほな今度夕飯でもつきおうてください、とか言うねがな。ああ、ごっつ楽しいわあ」
念を押しますがこれは全部彼の妄想発言です。なんと申しましょうか清々しいくらい呑気《のんき》ですね。別にこの方ナニワ金融道系のおっさんではなく、私より年下の東京在住エリートサラリーマンですよ。あまりの楽しい妄想に普段使わないネイティブ関西弁になっているだけです。
それに比べて女性の場合はどうでしょう。妄想は妄想、現実は現実と割り切っているような気がします。前述のような「営業二課新人の佐藤浩市を若くしたみたいな桜井君はもしかして私に気があって……」と楽しい妄想をした後、「ないない、ない。そんなことねえよ」と自分で突っ込み入れませんか。そして桜井君の上司の課長と実は不倫三年目に突入していて何だかなあとか思っていませんか。
多くの女性は「結婚したいわけじゃないんだから、これは本気の恋愛じゃなくてちゃんとした恋人ができるまでのつなぎ」と不倫関係をとらえても、長くなると情もわいて、好きだから長引いているわけで、実は結構本気で既婚の恋人を好きになっているような気がします。結婚したい、だけが本気ではありません。かけがえのない唯一の存在になりたい、というのが本気ということです。多くの女性は、未婚であろうと既婚であろうと、恋人が一人ではなく複数いようと、それは「浮気」ではなく「全部本気」なように私は思います。
それに引き換え、既婚男性(全員とは言いません)の陽気さ加減。この驚くべき温度差。彼らの求めているものはただ楽しい「浮気」です。対して、女性がしてしまう「不倫」は穏やかに長引いて独身のあなたを追いつめますが、男性はそんなことには気がつきゃしません。彼のしていることは「家庭を守る」という前提の下での楽しい浮気なので、女性がてんぱってくるとジリジリと逃げに入りますが、既婚男性にも浮気相手に情くらいはわくのでなかなかスパッと逃げられないだけだと思います。というわけで、既婚女性と独身男性、既婚者同士の不倫というのは、女性が本気になりがちなので少ないのかもしれませんな。
男の人は単にモテたいだけ。女の人はちゃんと愛されたいだけ。不倫と浮気の違いなんて考えたこともない男性はうじゃうじゃいるんでしょうねえ。携帯にあなたの携帯番号を取引先かなんかの名前で登録している恋人には、とりあえずお気をつけくださいませ。
[#改ページ]
「喧嘩には逃げ道を」のココロ
先月は不倫と浮気のお話でございましたね。で、不倫と浮気には必ずや争いごとがついてまわり、うまくいっていそうに見える夫婦にも長くなれば意見の衝突があり、いわんや歳若い独身同士のカップルは頻度の差はあれど喧嘩くらいはするでしょう。
というわけで今回のお題「男女の喧嘩」について、いつものように人の意見を聞こうと、ひとまわり年下の独身美人編集者に、彼氏との喧嘩について語ってもらっていたところ、同席していた私の秘書Yが、話の合間にふとこんな発言をしました。
「えーと、あの、喧嘩ってそもそも何?」
彼女はきょとんとキティちゃんのような顔で答えを待っています。もうすぐ四十歳になる中堅女流作家と、若き美人編集者はフリーズし、デニーズの空調が五度ほど下がったような気がしました。
喧嘩ねえ、喧嘩。多くのエッセイの場合、ここで広辞苑など引く場面なのでしょうが、なんか意地でも引きたくないです。ええ、表も裏もない単なる意地です。肌寒くなったデニーズでなんとかひねり出した答えは、一方的にどちらかが怒る、怒鳴り散らす、あるいは黙り込むのは喧嘩ではなく、両者が共に怒るか怒鳴り散らすか黙り込むのが喧嘩、というものでした。キティちゃんは多少納得した様子で「若い頃、確か何度かしたことあるけど今はない」と遠い目をして言いました。
男女間の喧嘩、という話からはちょっと外れるのですが、考えてみれば、ほとんど喧嘩らしい喧嘩をしたことがない人も、世の中には沢山いるのでしょう。私自身が「喧嘩人生」だったので、つい誰しもが簡単に喧嘩するものだと思っていました。
で、話はまたもや大きく外れてゆくのですが、私の中にはキングギドラが棲《す》んでいるのです。比喩ではなく本当に。そいつがカチンとくると私の意志を無視して、東京中を破壊する勢いで暴れ出します。ちなみに私の女友達の肩にはいつも悪魔が乗っていて、彼女にいいことがあると「ちょっと運がよかっただけだよ。絶対しっペがえしがあるぜ。ケケケケ」と笑うそうです。あ、雑誌を閉じないでください。ファッション誌にふさわしくない発言ではありましたが、電波系妄想の話ではありません。ただ、いくら他人からすれば妄想でも、本人が信じていればそれは実在するということが言いたかっただけです。だって太ってもいないのに「痩せなきゃ」と連発する人いるでしょ。あれと同じです。
ええと話はなんでしたっけ。そう、キングギドラです。こいつがですね、とにかく乱暴者でちょっとカチンとくると三本の首を振り回して暴れるわけです。自分の中にそんなものが居る、という自覚を持ったのは高校生の時(古い日記に書いてあった)でした。こいつが喧嘩売るんですね、誰彼構わず。だから私は同窓会や古い友人との集まりが苦手です。必ずや「アケミちゃん(本名)がキレたエピソード」で盛り上がるんで。中学生の時、職員室に押し掛けて行って担任に取り上げられた漫画本(学校に持って来る私が悪い)を怒鳴り散らして取り返したとか、高校生の時、ボーイフレンドを叱《しか》って泣かしてばっかりだったとか、クラスのヤンキーを平手打ちしたとか。弁解しますが、私は普段おとなしい子でした。今も普段は(たぶん)おとなしい人間だと思います。
嫌いな人ならともかく、いったい何故、好きな人との間にまで喧嘩は発生するのでしょう。喧嘩は疲れます。積極的にしたい人はいないと思います。
喧嘩人生だった半生を振り返りたくはないですが振り返ってみると、喧嘩の原因は沢山あるようで実はたったひとつでした。自分にとって大きなこと(大切なこと)が、相手にとっては小さくてちっぽけなことだった、あるいはその逆もありました。先月号に書いた男女の不倫の温度差と通ずるものです。ひとりひとりの人間のものごとに対する温度差。これが男女間の痴話喧嘩から、テロや戦争まで生むのだと私は思います。
かと言って世界中の人々の価値観、温度差を同じにするという発想はそれこそがファシズムだし、もし自然と似たような考えの人ばかりになってしまったら、世の中まったくつまんないったらありゃしません。
ああ、なんか話が逸《そ》れた上に大きくしすぎてしまって、自分でも収拾がつかなくなってきました。ええとええと、要するにですね、何が言いたいのかとゆうとですね、わたくし只今仕事関係の大トラブルに巻き込まれてしまって、最近歳とった猫のように寝てばかりいたキングギドラが目を覚まし、お台場あたりの観覧車をなぎ倒そうとしているのを「あーあ」とため息をつき、仕方なく煙草吸ってビール飲んで眺めているのです。ゴジラでもガメラでもいいからあいつを止めてくんないかなあ。
そんな状況の中、ふと考えてみれば、個人的に男性と喧嘩をすることは自分でもびっくりする程減っていました。というかほとんどしないです。
キレなくなったわけではありません。怒りは瞬発力だと、年齢がゆきさらに強く思うようになったので、カチンときたらすぐ口に出すようにしています。そうすると喧嘩というこじれた状態になる前に、話し合いという穏やかな解決策にすばやく持ち込めるからです。若い頃はただ相手を責め立て、逃げ道をふさぎまくる怒り方をしていました。たとえ相手が明らかに悪くても、逃げ道や言い訳発言の余地すら与えられなかったら、そりゃ男性は黙り込むってもんです。黙らなければ手を上げるしかなく、殴ったら殴ったで男性なのですから必ず勝ってしまうわけで、(一応好きな)女性に暴力で勝って嬉しい男性などいないでしょう。どんなに親しくても、愛し合っていても、人はひとりひとり大事なものが違うのだという当たり前なことを、私はずいぶん長い喧嘩人生の中でやっと受け入れることができたような気がします。
花には水を、私に恋を、喧嘩には逃げ道を。そしてどうか私のギドラ君が早く疲れて帰って来て眠ってくれることを切に願う今日この頃なのでした。
[#改ページ]
夫婦はやっぱり赤の他人?
この連載も今回を含めあと二回となりました。最終回を前に、一度だけ独身女子をおいてきぼりにし「既婚者」のお話にさせて頂きたく思います。
どうよ、夫。
既婚女性のみなさん。あなたの夫、どう?
そう聞かれて「どうもこうも別に」と感想のない妻の方が少ないと私は想像します。毎日喧嘩(冷戦も含む)で離婚寸前だとか、真面目に働かないとか、無用に口うるさいとか、姑《しゆうとめ》の味方ばかりするとか、家事もやらない子供の面倒も見ないとか、おばさん扱いですっかり相手にされていないとか、相当ご立腹の方もいらっしゃるでしょう。そして概《おおむ》ねうまくいっている家庭でも、毎日酔っぱらって帰ってくるとか、何度言っても靴下を裏返しに脱ぐとか、ところ構わずおならをして謝らないとか、べたべた子供みたいに甘えてくるとか、日々の些細なことで何かしら直してほしいところがあるのではないでしょうか。
そして、夫。本誌を既婚男性が読んでいる確率は低いと思いますが、読んでいたらお尋ねします。
どうよ、妻。
ちょっとのことで目くじら立てたり、わめき散らしたり、怒ると何週間も口をきいてくれなかったりするくせに、たまには旅行に連れて行けとか言いませんか。実家にばかり行ってなかなか帰って来ないとか、結婚する前はちゃんとしていた家事がおざなりすぎるとか、仕事に出るときは綺麗にしてるのに、家ではジャージにTシャツ、顔はもちろんすっぴんで昔の色気はどこへいったのだ、あの勝負パンツはもう穿《は》かないのか、それどころか半年以上もやらせないのは何故なんだ、とか脱力していませんか。
しかし妻よ。そして夫よ。「離婚」という文字が時折頭をかすめても、実際にはそう簡単に踏み切れませんね。今や世間的に離婚のハードルが相当低くなっているので、すぱっと離婚する人もいますが、やはりそれは少数派でございましょう。
まったく自慢にはなりませんが、わたくし、一度離婚へとダイブしたことがあります。ですが、離婚したとたんに結婚していたことが物の見事に過去のこととなり「あれ? わし、ほんとに結婚してたんだっけ」と実感がカゲロウ化し、独身の自分があったりまえな気持ちになりました。そして今年再婚してみたら、独身だった数年間のことが、記憶にはあっても実感がオブラート化し「あれ? わし、独身だったんだっけ」と、物忘れにも程があるような状態になっております。
ものすごい切り替えの早さというか、我ながら恐ろしいまでの浅はかさ。そんな私に言われたくないでしょうが、これも仕事なので記憶の糸をムリムリにたぐりよせてみます。で、思い出した限りで控えめに発言しますと、文句や不満が満載でも、よほどのことがなければ離婚はしない方がよろしいかと存じます。何故ならばそれは想像を遥《はる》かに超え、成層圏まで届きそうなくらい面倒くさいからです。
マジ面倒くさいぞ、離婚。子供がおらず、物わかりのいい相手(双方の親も)で、どちらが特に悪いというわけでもなく、財産もないので慰謝料もなかった離婚だったのに、すげー面倒くさかったぜ、離婚。もう駄目なのはわかっているのに話し合わなくてはならない苦行。で、決まったら決まったでお互い引っ越し先を考えねばならず、親・友人知人・仕事関係への説明及び離婚届を出しに行くエネルギー。籍を抜いたら抜いたで、運転免許証、パスポートからクレジットカードからレンタルビデオ屋の会員証まで作り直す手間。比較的問題の少ない離婚でこれだったのですから、いわんや家やらマンションやらローンで買っちゃって、お子ちゃまもいたりなんかして、妻サイドがフルタイムの仕事をしていなかったら自立への道も考えねばならず、親も乗り出し子供の取り合いなんて最悪な事態になっちまうかもしれません。離婚しない方がマシなくらい面倒。今の生活とどっちが面倒か秤《はかり》にかけてみて下さいませ。
あ、すみません。つい力が入ってしまいましたが、別に世の中の夫婦が皆、離婚の危機に晒《さら》されているわけじゃあないですわな。
実感的には忘れていましたが、最初の結婚で学んだことは無意識に記憶の糸にからみついておりました。たとえばこんなことなど。
家庭の雰囲気が気まずーくなってきた時、話し合い等による解決法で臨んでもまず無駄でありました。有効なのは決定事項の事後報告です。今日からわたくし妻はアルバイトに出ます。今日からわたくし妻は、クリーニング屋へ行きません。今日からわたくし妻は古新聞をしばりません。その他の家事は全部します。そう宣言してしまう方が話し合うよりよっぽど簡単でありました。夫といえども独立した他人です。強制的に何かさせようとするよりも「こういう人なんだ」と諦《あきら》める方がストレスは減るし、新たな展開を生むことが多かった気がします。
諦める、というとネガティブな発想のようですが、言い換えるとそれは、変えられない現実と現状を受け入れて腹を据えるということではないでしょうか。
話し合いが夫婦の円満を生む、というのはおとぎ話のように、どっかの誰かが商売用に作った幻想だとわたくし個人は思います。核心に触れず馬鹿話で盛り上がる方がよっぽどいいような気がします。
結婚したら、独身時代のようにお互い外面《そとづら》だけではいられなくなりますね。おならをするのは夫だけではなく、妻も人間ですからおならします。相手の致命的な欠点も、自分のそれも、結婚生活が長くなればなるほど隠し通せなくなります。すると、大人になるまでに形成された性格のアンタッチャブルな部分が見え、そこにタッチャブルしちゃうと二人の関係が険悪になっちまいますね。
一人の赤の他人と、赤の他人でない人間になるまでの長い道のり。私は一度目の結婚のとき、その腹が据わっていなかったと思われます。だから相手と自分の欠点を諦めることができなかったのかもしれません。他人を変えるのは不可能に近く、それならば自分が変わらないと状態というものは変わらないのです。
おいてきぼりにされた独身女子のみなさーん。それでも結婚したいかーい?
[#改ページ]
頭でっかち、恋愛でっかち……それぞれの人生論
都内で下半身でっかち発見!
いきなり人聞きが悪いというか、不適切発言でごめんなさい。この連載も最終回となりましたので、はんなりと書き逃げしたく思います。
以前に「頭でっかち」の話をしましたね。しかし、世の中にはいろんな「でっかち」の人がいることを先日私は身をもって知りました。彼女はそう親しくない人ですが、その親しくなさが気楽だったのか、私に酔っぱらった勢いでぶっちゃけました。
「私、実は頭でっかちじゃなくて、下半身でっかちなんです」
そりゃ随分とぶっちゃけましたね、と私は彼女に日本酒を勧め話の続きを促しました。彼女は酒をあおり、勢い込んで話します。あのですね、私、つきあってる人と毎日やりたくてやりたくてしょうがないんですけど、向こうが淡泊な人でハグくらいしかしてくれないんです。それがすっごくつらいんです。
「こっそり他の人といたしたらいかがでしょう」と私。
彼女は首を激しく振り「彼とだけしたいの!」と人目構わず魂の叫び。じゃあどうしたら彼がその気になるか、ああだこうだと語し合ったのですが、私が何か提案しても「そんなこと言えないしできない」と女子中学生のような恥じらいと酒の酔いで、顔を真っ赤にしていました。どうしたもんやらわからなくなった私は酒をまた頼んで一人静かに感慨に浸りました。私にはある持論があります。それは〈人はその人に必要な能力・技術しか開発されない〉というものです。だから私は小説が書け、事務所まで持つことができ、結婚も二度し、ですが、車の運転もできず、分数の計算もできず、組み立て式家具も組み立てられないのだと思ってきました。でも目の前でぐでんぐでんになっている下半身でっかちさんは自分の恋人(ちなみに下半身問題以外は大変うまくいっている)をその気にさせる技術がまるで進歩向上していないのです。頭でっかちさんと同様、思考と行動のベクトルが逆向きで、にっちもさっちもどうにもブルドッグなわけです。私はその持論を考え直すべきなのかもしれません。
話はいきなり変わりますが『ぼくを探しに』(シェル・シルヴァスタイン著)という絵本をご存じでしょうか。有名なものなので知っている方も多いと思いますが簡単に説明しますと、「ぼく」というのは球体のようでいて、一部が欠けており、うまく転がることができません。なので自分が欠けている部分にぴったりはまる欠片《かけら》を探して旅をしているわけです。で、五里霧中試行錯誤百戦錬磨の末ぴったりな欠片と出会い完璧な球体となって、今までのぎくしゃくした進み方とは違い、ぽんぽんと調子よく進んで行くことができるようになります(その後のオチと続編がありますが、ここではお話ししません)。十代の頃、私はその絵本を読んで、なるほど人生とはそういうものか、などと頷き、ちょっくら大人になったような気がしました。多くの人がそう感じたと思います。しかし実際に社会に出、人生という旅を進めてゆくうちに、何やらあの話はどっか違わないか、どこだかわからないが何か痒《かゆ》いぞ、責任者を出せ、というか、シルヴァスタインを出せ、とまで乱暴に思うようになりました。しかしまあ、それはただの絵本です。少々痒かろうがそんなことに構っていられないのが生活というものです。
しかし、この痒さに下半身でっかちさんがおぼろげながら答えをくれたような気がしました。そもそも人が球体だというのが変だ。いや絵本なんだからいいんだが。その球体のどっか欠けてて欠片を探して拾うってのも欠片に失礼じゃないのか。いや絵本なんだからいいんだが。日本酒三杯目くらいの、いい案配に酔っぱらった視界には、下半身でっかちさんが酔いつぶれています。そのしどけなくも阿呆らしい姿を見、ああ、人はそもそもどっか欠けてる球体なんかじゃなくて、みんなどこかが「でっかち」なのだと思いました。たとえて言えばひょうたんのような形でしょうか。
思いつくだけでも沢山います。目でっかちで見た目ばかり気にする人。耳でっかちでいいオーディオにボーナス毎回つぎこむ人。口でっかちの嘘つきお喋りさん。腹でっかちのビール飲みすぎの人。筋肉でっかちで脳まで筋肉みたいな人。仕事でっかち。恋愛でっかち。趣味でっかち。犬猫でっかち。ニッポニアニッポンの男でっかち。モテでっかち。モテないでっかち。みんなでっかちのままボコンボコンと進んでいるのです。
というようなことをつらつら考えていたら、カウンターの逆隣に座っていた女性が、独り言のようにふとこんなことをもらしました。
「私、その男の人の気持ちわかるな。私も粘膜系じゃないもん」
粘膜系! またもや聞き捨てならない台詞《せりふ》。だから飲み屋は面白いです。彼女の言う主旨はこんなことでした。
山本さんはよく人を恋愛体質と非恋愛体質に分けるけど、私はよく人を粘膜接触系と皮膚接触系に分ける。粘膜系の人というのはそこで酔いつぶれている人が代表的。その見分け方は、いちゃいちゃしてキスするのはよくても、ディープキスまでいくとイヤな人は非粘膜系だとのこと。それがいいとか悪いとかではないとのこと。
いやはや世の中には様々な人物二分法がありますが、これは斬新《ざんしん》かつ普遍的ではないか。非粘膜系(皮膚接触系)の人だって、恋人ができたら最初の数ヶ月くらいは粘膜接触したりするわけだから、つきあってみなくちゃ相手がどうだかわからない。
さて、あなたは何でっかち? そして粘膜接触系? 皮膚接触系?
欠片なんか探さずに、無理して丸くなったりせず、デコボコしたままの人の方が私は好きです。たとえそれが本人にとってつらくて苦しいことであっても。その人にとって苦しいことが、実は個性というものなのかもしれません。
いやあ、人間って映画より小説より面白いですね。それではまたお会いしましょう。さよなら、さよなら。さよなら。──人間だもの。ふみを。
[#改ページ]
今宵の枕友だち
もう、暇はつぶせない
『ひまのつぶしかた─ぜいたくしない123のしあわせ』たま(文春ネスコ)
たま、というのは、あの「さよなら人類」のたまである。イカ天出身の、あの妙なバンドのたまである。それでも分からない人は別に分からなくてもいいです。
最近この手の本が流行《はや》りのようだ。しあわせになれる五十の方法、とか、気分転換のための百の方法とか、そういうことがイラストとともに箇条書きになっている本。
私はわりとこういうのが好きである。あっという間に立ち読みできるから買う必要はないわネ、なんて思っていたのに、気がつくと何冊か買っていた。その中で一番好きなのが、このたまの『ひまのつぶしかた』である。
123条あるひまのつぶしかたで、私が気に入ったのをいくつかあげよう。
○眼鏡《めがね》を丹念に掃除する。
○自分のしたセックス、ベスト5を考える。
○カエル倒立。
○センベイをかじって犬の形にしてみる。
○思い出し笑いしそうなことを思い出して笑いをこらえる。
○肛門閉じ運動でリズムをとる。
どれもばかばかしいと言えば、ばかばかしいんだけど、何となく全部実行してしまいました。そしたらちょっと自分が明るくなったような感じがして、とてもよかった。
私はあまり暇ではない。
そう言うと、すごくたくさん仕事をしているように聞こえて何だか恰好《かつこう》いいけれど、実はそういう意味ではない。
「あーあ、今日はなんか暇っスねえ」と思うことが私は殆《ほとん》どないのだ。原稿も書かずに、昼間っからベッドの上でごろごろして、猫の髭《ひげ》が何本あるか数え、ラジオなんかを点《つ》けてぼんやりする一日。これでも私は暇ではない。
『ひまのつぶしかた』の中で、たまの知久《ちく》さん(だぼだぼのズボンを穿《は》いて、おでこの上で髪を切りそろえてるボーカルの人です)がぼくの中には、ひまをつぶそうなんて乱暴な発想はないみたいです≠ニコメントしているのだが、まさにそれである。
せっかく暇なのに、どうしてそれをつぶさなければならないか。暇な時はありがたく暇にしてりゃあいいんである。
子供の頃は、暇が苦痛だった時もあった。
家に一人でいる時のことではない。学校にいなければならない時のことだ。
授業中はまだいい。机に縛りつけられているにしても、ノートも鉛筆もあるので、悪戯《いたずら》書きをしたり、友達にくだらない手紙を書いたり、教科書を立てて眠ったりもできる。
そういえば高校生の時、私は数学の時間に眼鏡を磨いていて、ものすごく怒られたことがあった。買ったばかりなので嬉《うれ》しかったのと、授業についていけなくなっていたことで、私は数学の時間になるとせっせと眼鏡を磨いて時間をつぶしていた。ふと教師が私の前にやって来た。顔を上げると先生の頬《ほお》がぶるぶる震えている。あ、やばいかなと思った瞬間、彼は怒鳴った。
「いつもいつも眼鏡ばっかり磨きやがって、お前にはやる気ってもんがないのか! お前の目はな、サバの目だ!」
それからしばらく、サバちゃんと皆に呼ばれたことは言うまでもない。今でも彼の怒りに燃えた顔を私は覚えている。すみませんでした、と今は心から思う。
数学より暇だったのは体育だ。体育の時間は体育をしなければならない。バレーボールも平均台も水泳も私はしたくない。けれど、しなければ卒業できない。ただ座っていればいい授業ならいくらでも内職できるが、体育は駄目だ。集中しないと平均台から落ちてしまう。
暇の極致というか、もうこれは拷問でしかないと思ったのは、体育祭でやらされたマスゲームだった。マスゲームならまだしも、忘れもしない中学二年の時の運動会で、学年の女子全員で「浜千鳥」という詩吟を踊らされたのだ。白い運動着の下は制服のスカートという出《い》で立《た》ちで、手には自分達で作らされた変な扇を持って。何が悲しくて十月の青空の下、そんな馬鹿な恰好で詩吟を踊らなければならないか。それを踊り終わるまでの時間が長かったこと。あれが人生で一番「暇」な時間でしたね。
大人になるにつれて、暇だと思うことが減ってきた。会社にいる時は仕事をしているのだから暇ではない。男の人はくだらない会議とかに出ないとならなくて、そういう時間はきっと「暇」でたまらないのだろうけど、私は単なる腰掛けOLだったから、色々と雑用があって暇ではなかった。
アフター5も遊びに出るので暇ではない。家にまっすぐ帰った日や、何も予定のない休日は嬉しくて嬉しくて、思いっきりだらだらするので暇ではない。
その後、私は幸運なことに小説で食べていけるようになった。小説を書く仕事というのは、誰と契約するわけでもないしタイムカードがあるわけではないので、二十四時間を全部自分で割り振って使っていいのだ。
嬉しかった。すごく嬉しかった。
昔から、一人遊びが好きな子供だった。大人になっても、大勢の人間の中に長い時間いると、ストレスが宿便みたいに溜《た》まっていって、家へ帰って一人になれる瞬間というのがものすごく嬉しかった。
だから、私にはこの仕事は向いているに違いないと思っていた。
ところが、それが甘かった。
己というものを知っていて、自己管理能力がちゃんとある人間ならば、きっとうまくいっただろう。けれど、私はそんなピシッとした人間ではなかった。
人様の目がない、というのは恐ろしいことだ。私が毎日昼まで寝ていて、午後はだらだらワイドショーを見て、そのまま夜になっても何となくやる気が起きなくて、人に誘われるままお酒を飲みに行っちゃったりして、そういう日が何日も続いても、誰も私を叱《しか》ってくれないのだ。
そんな生活を続けていたらどうなるかというと、お金がなくなるんです。お金がないのは困るので、今は反省してわりとちゃんと仕事してます。
最近の私は、朝は八時から十時の間には起きて、夜は一時から三時の間には寝ている。その間にすることは、原稿について悩んでいるか、原稿を書いているか、本を読んでいるかである。そりゃたまには人と長電話をしたり、遊びに出たり、家事をしたりもするけれど、だいたいの時間は原稿のことで頭がいっぱいである。
この『ひまのつぶしかた』という本を見つけたのは、そんな地味な毎日が続いていた時だった。
まず、表紙がよかった。装丁は南伸坊さんで、たぶん奥様の制作と思われる(調べて頂いたらお母様のようです)端切《はぎ》れで作ったセミとトンボの写真が可愛《かわい》らしかった。
私も十代の頃は、よくフェルトや端切れで動物だの何だのを作った。編み物もした。クッションやバッグも作った。手芸だけではない。友達といっしょに、消しゴムを削ったスタンプ作りに凝《こ》ったこともあった。あのまま続けていけば、ナンシー関に弟子入りできたかもしれない。
今はもう、本能のおもむくまま手芸をしたり、絵を描いたりすることはなくなってしまった。何かをする時は、無意識のうちに「目的」を考えていて、時間を無駄にしないようにしていた。それに気がついて、私は少し悲しくなってしまった。
学生の頃や、会社勤めをしていた時は、オンとオフが明白だった。日曜日は消しゴムスタンプを作ろうが、カエル倒立をしようが自由である。だらだらしていることに罪悪感を感じなかった。
しかし今は違う。何をしていても、頭の奥の方で原稿のことを考えている。終わらない宿題がいつまでもあるような感じだ。
考えようによっては、とても充実していると言える。
読書も映画もテレビも飲酒も、そうとは思いたくないけれど、恋愛でさえも、フィールドワークである。芸の肥やしにならないことは何もない。
しかし、息がつまる一瞬がある。
吉野朔実さんという漫画家さんが『いたいけな瞳』の「少女漫画家の瞳には三等星の星が光る」という一章の中で書いていらしたのだが、──悲しいことも、嬉しいことも、慎ましい気持ちも、他人に見せびらかして自分のおなかを満たすのかと思うと、そういう気持ちが全部|嘘《うそ》だったような気がして寒くなる──
と漫画家であるヒロインが独白するシーンがある。そうなのだ。それなのだ。
創作をする人間は「私よ、私、私を見て」という強い自己表現の欲求のために、ある種純粋さを失っている。何を見ても、どんな時間を過ごしても、無意識のうちにそれを作品の肥やしにしようとしてしまう。
暇を、ちゃんと暇として、扱えなくなっているのだ。
しかし、気がついたところで既に手遅れである。もう私は創作の仕事に頭までとっぷり漬かっているし、そこから出られるとも、出ていこうとも思えない。
もうオフはないのである。
これから何か創作の仕事をしたいと思っている人は、そういう覚悟をして下さい。どんなに暇で、煎餅《せんべい》を齧《かじ》ったり肛門閉じ運動をしていたとしても、作家にとってそれはオフではないのである。
[#改ページ]
ガッチリ買いましょう
『これいただくわ〜I'll Take It』ポール・ラドニック(白水社)
世界初の買い物小説、という帯コピーを見ただけで、思わず買ってしまった本である。
確かにこれは「お買い物小説」だった。ショッピング嫌いの人には、頭からお尻まで、まったく理解できない本だと思う。
でも私は頭からお尻まで理解した。もちろん、書かれていること全部に共感したわけではないけれど、今まで誰にも言わずにこそっと思っていたことを、声を大にして言ってくれる人が現れたのねと胸が熱くなった。
主要登場人物は、二十六歳イェール大学出の青年とその母親、母親のふたりの姉の四人である。彼らが紅葉を見にドライブヘ出かけるのだが、レジャーのついでに買い物、というより、買い物のついでにレジャーに出かけるという、まあ、話はただそれだけである。
しかし、そのショッピングにかける情熱がすごい。彼らはすごく裕福だというわけではないので、限りあるお金の中から、いかに必要な物、欲しい物を購入していくか知恵を絞りまくる。
その真剣さ、その歓《よろこ》び、その美学、欲しい物が適正価格でなかった時の悔しさ。勝手知ったるブルーミングデールズ≠ナ、主人公の彼は恋してしまったミッソーニのセーターの前で頭を抱える。
──指先で値札を見ると、千二百五十ドル。添い遂げるには、なんという障害を越えねばならぬのか。そんな金は、あったとしても、出すわけにいかない。厭《いと》うべき額だ。それだけあれば間違いなく、アフリカの村に一年間食糧を与え、なお村人に残らずチフス予防のワクチンをして、シンダーブロック製の校舎を建ててやれる。それでセーター一枚。──
悩んだ彼がその後どうしたかというと、あったとしてもそんな金は出すわけにはいかないので、何の悪意もなく万引きしちゃうのである。
買い物が好きだ。どうして私はこんなにも買い物が好きなんだろうと思うぐらい、好きである。
洋服も電気製品も、可愛いだけで何の役にもたたない小物も、ただの日用品でも、お買い物なら何でも好きだ。だから子供の頃は、進んでお使いに行った。父の煙草《たばこ》でも何でも、買うのが楽しいので喜んで行った。
自分の買い物好き≠自覚したのは、中学生ぐらいだったと思う。私は一九六二年生まれで、勝手にそのあたりの女性をファンシー世代と呼んでいる。
気がついた時には、目の前にサンリオ・ギフトゲートがあった。ああ、サンリオ・ギフトゲート。男には絶対絶対分からない。あそこがどんなに、少女を惑わす悪の花園であったか。
中学生の私の肩には、すでにブツヨクザウルスの子供が乗っていた。私はサンリオへ一歩足を踏み入れると、途方に暮れて立ちすくむ。肩の上で怪獣がパオーッと炎を噴くのだ。
筆箱ひとつでも、キティちゃんからハンギョドンまで、数えきれないほど色々なデザインがあった。全部欲しい。どれも欲しい。でも、お小遣いは少ないから、厳選しなくてはならない。嫌でも真剣になる。
高校生になると、ファンシーショップだけでなく、本屋やレコード屋でも怪獣が火を噴くようになる。街もおちおち歩けやしない。
そして十六の私に、どこよりもカルチャーショックを与えたのは、文化屋雑貨店だった。ああ、文化屋雑貨店。店ごとくれ、と切に思った(今でもそうだが、チープでくだらなくて可愛い物が好きである。もう大中《だいちゆう》では何も買わないけれど、でも見るのは好きだ)。
けれど、ブツヨク君の言うことを全部聞けるようなお金は持っていない。私は怪獣の頭を撫《な》でて、いつか買ってあげるからと宥《なだ》めなくてはならなかった。
いつか自分で稼いだお金で、心置きなくブツヨク君においしいもの≠買ってあげようと、涙ながらに拳《こぶし》を握りしめた。
というわけで、大学生になると私はバイトばかりしていた。バイトはちっとも苦ではなかった。楽しいしお金になるし、働くってすばらしいなんて思っていたから、馬鹿である。そら楽しいわ。バイトで責任はないし、稼いだお金は無駄遣いに使うのだから。
そして、ブツヨクザウルスの最絶頂期は、卒業後に就職した会社での三年間だった。あの時はすごかった。無敵になった怪獣君は、ルミネや西武を荒らしまくった。
ブツヨク君が猛威をふるった理由は沢山ある。今思えば見事に好条件が重なったのだ。
私が就職したのは、バブル全盛期の証券業界だった。正直に告白するが、月々の給料は世間並みでも、ボーナスが桁違《けたちが》いだった。そして、同期で入社した女の子が、同じぐらい買い物好きだった。その上、私も彼女も自宅から通勤していたので、生活費の心配がなかった。
あの三年間で、いったい私はいくらの無駄遣いをしたのだろう。今考えると、本当に悔しい。どうしてせめて半分ぐらい貯金しておかなかったのか。あの頃の私には先のこと≠ェまったく頭に描けなかったのだ。
一番買ったものは、やはり洋服である。同僚の彼女と私は、会社が退《ひ》けると毎日のように街へ出た。私も彼女も、人の買い物に付き合うのも好きだったのだ。
しかし、いくら自由になるお金が沢山あるといっても、所詮社会人になったばかりの私達である。使えるお金には限りがある。スカート一枚買うにも真剣そのものだった。リーズナブル、それが私達の合言葉だった。お手頃価格で、でも安っぽくなくて、自分の好きなデザインで、できれば三年から五年は着られるようなもの。
私と彼女は、毎日いっしょに仕事をし、いっしょに買い物をし、夕飯を食べ、どうかすると休日にも会って遊んだ。考えてみれば、恋人よりも家族よりも、彼女といっしょにいる時間は長かった。それでも私達の話題は尽きることがなかった。上司の悪口、新しいボーイフレンド、今月のお給料で買いたいものについて。
そんな私達であるから、お互いのワードローブが全部頭に入っているのだ(千趣会から下着もいっしょに買っていたので、パンツまで私達は同じものを穿いていたのだ。考えてみるとやや気持ち悪い)。だから、店員なんかより何倍も現実的で有意義なアドバイスができるのだ。そのセーターはいい色で値段も手頃だけど、あなたが持っている服にはあわせにくいんじゃないかとか、あなたは地味な色ばかり買うからたまにはパステルカラーのシャツも買いなさいとかね。
さて、ゴジラのように東京中を荒らしまくった私達のブツヨクザウルスは、三年でその勢いをなくすことになった。私は小説の新人賞を頂いて会社を辞め、彼女はそのすぐ後結婚退職をして子供を産んだ。
もうお財布の一万円札を、後先考えずに使うわけにはいかなくなった。ボーナスもないので、丸井でボーナス払いもできなくなった。
今では、あの頃のことをほんのり甘い気持ちで思い出す。嫁入り前の娘の、傲慢《ごうまん》で砂糖菓子のような毎日だった。楽しかったけれど、もう二度とあんなお金の使い方はしないだろうし、できないだろう。気が済んだ、というのが一番正直な感想かもしれない。
彼女とは、今では生活の形態が違ってしまって、随分長いこと会っていない。私は彼女が一番気に入っていた服を今でも覚えている。4℃で買ったモヘアのニットスーツで、ピンクの地にいっぱい白いリボンが付いているのだ。その馬鹿みたいに可愛らしい服が、彼女にはとても似合っていた。今でも彼女がそれを着ることがあるといいなと私は思う。その服を着た彼女は、とても幸福そうだったから。
本の中で著者が断言していたことがある。それは私も昔から思っていたことなのだが、声を大にして言うのは恥ずかしかったから、誰にも言わなかったことだ。
ショッピングとは、愛である。
愛だろ、愛。
勝手知ったる横浜そごうの中を徘徊《はいかい》しながら、私は愛について考える。
レノマの携帯用灰皿を見つけて父親にプレゼントしようと思う。猫の写真集は、猫好きだがマンションの規則で飼えない友達に贈ってあげよう。ナイスなデザインの世界時計は、お世話になった編集者さんに買ってあげよう。このチョコレートはいつも御馳走《ごちそう》してくれる先輩に買っていこう。地下の食料品売り場では、帆立貝柱入りかき揚げを家族の人数分買い、最後に自分のためにバーゲンになっていたジャケット(しかし自分のものが一番高い)を買う。両手いっぱいのお買い物袋には、両手いっぱいの愛である。
もしかしたら、私のやっていることは押しつけがましいことなのかもしれない。親愛の情は、何も品物でなくても表現できるはずだ。でも、私は買ってしまう。自分のものはもちろん、人のものまで買ってしまう。
ああ、だから私はお金がないのだ。大して多くない収入を、愛のために使ってしまうからいけないのだ。
しかし先日、驚くべき出来事があった。
五年ぶりにハワイヘ遊びに行ったのだが、あのホノルルの巨大な免税店で、私のブツヨク君が目を覚まさなかったのだ。欲しくないのである。つまんないのである。五年前に来た時は、理性をなくしてラルフローレンの大きな旅行|鞄《かばん》を買ってしまったというのに。
少しは分別がついたとはいえ、まだまだブツヨクザウルスは東京タワーぐらいは倒せると思っていたのだが、これが歳をとるということなのだろうか。
いや、しかし、レックラー夫人の言葉を借りれば──私に買わすほど、ラルフローレンは金に困ってない──のだ、きっと。
[#改ページ]
いとしのタマよ
『雨の日のネコはとことん眠い』加藤由子(PHP研究所)
飼い猫の話をされるのが嫌いな人は、以下読んではいけません。いいですね。頭にくるだけですよ。読んじゃ駄目ですよ。
うちの猫は可愛い。
この一行で、おめえはアホかと思った人も以下読んではいけません。「なになに、猫の話?」と思った人か、あるいは「でもうちの猫の方がきっと可愛い」と思った人のみ読んでもよろしいです。
うちの猫は十三歳なので、もうかなり年寄りである。三毛の雌で、小型でぽっちゃり太っているのでトランジスターグラマー(死語)という奴《やつ》である。
名前が、タマ。なんという適当なネーミング。誰も真剣に猫の名前など考えなかったのがありありですね。
私が十八歳の時(ああ私にも十八の時があったのだ)道端で拾って来たのだ。それからずっと我が家でのうのうと暮らしている。
母親はもともと動物好きなので、すっかり「ネコダイスキババア」と化し、猫好きの人が殆どそうであるように、猫本やら写真集やらをせっせと買ってくるようになった。
最近母が買って来た猫本の中で、とても面白かったのがこの本である。
著者の加藤由子さんという人は、猫本ファンなら皆持っている(と思う)『うちの猫に限って』という本の著者である。こちらの本もすごく面白い。
『雨の日のネコはとことん眠い』の中で著者が──それにしても、猫とは、なんと哲学をさせてくれるペットであることか──と書いているのが印象に残った。
猫は馬鹿である。猫がミステリアスだと言われるのは、きっと信じられない馬鹿なこと≠大真面目《おおまじめ》にやるからなんじゃないかと私は思う。それなのに、何か考えさせられてしまう(当の猫は何も考えちゃいないのに)。あまりにも人間に飼われること≠ノ順応し、それでも時々本能≠ニやらが顔を出して戸惑っているうちのタマを見て。
タマを拾ったのは大学一年生の時で、学校へ行く途中、道端でひーひー鳴いている仔猫につい手を出してしまったのがいけなかった。そいつはチビで全身泥まみれで、顔もどこが目だか鼻だか分からないほどぐちゃぐちゃだった。持ち上げたとたんに、そいつは私の胸にしがみつき、死んでも放すもんかとばかりに爪をたてた。いっしょに歩いていた友達は「気持ちわるーい」と言って、先に学校へ行ってしまった。
素人ながらも、これは駄目だなと私は思った。瀕死《ひんし》の仔猫を拾って帰る気はさらさらなかったので、何とかしてくれるだろうと思って近くの獣医に連れて行った。そうしたら獣医さんも「こりゃ放っておいたらすぐ死ぬね」と言った。そして、私が何も言っていないのに、勝手に段ボール箱を出して来て、ご丁寧に空気穴までぶすぶすと開けてくれて、私に瀕死のそいつを渡してくれた。
成り行き上仕方なく、私は電車に乗ってそいつを家に連れて帰った。当然母に「大学生にもなって猫を拾って来た」とものすごく怒られた。
しかし瀕死のはずのそいつは、エサとねぐらにありついたとたん、あっという間に元気になった。生き物なんてそんなものかもしれない。ひどかった目の炎症もすぐ治って、最初、結構謙虚だったのに、あっという間に「ごはん作れ」だの「外に行くからドア開けろ」だの、人間に命令するようになった。
だが、いっしょに暮らしてみると猫というのは本当に可愛かった。寝ている姿なんか「うふん」という感じでどことなく色っぽいし、顔を洗うしぐさも、額をすり寄せてくるしぐさも、この世のものとは思えないほど可愛い。
我が家では昔犬を飼っていて、その犬を病気で亡くしてからは、大きいものはしばらく厭《いや》だと金魚だの十姉妹《じゆうしまつ》だの亀だのハムスターだのを飼っていた。けれど、金魚は触れないし、亀は触ると冷たいし、十姉妹とハムスターはちょっと油断するとうじゃうじゃ増殖するし、どうもいまひとつ乗れなかった。
猫はいい。手触りがいいし、犬のように毛が匂《にお》わないから同じ布団で眠れるし、散歩に連れて行かなくても勝手に行くし、うちは放し飼い状態だから、うんちも勝手に外でやってくる。大きさも丁度いい。ハムスターだと間違えて踏んづけてしまいそうだが、猫は少々乱暴に扱っても潰《つぶ》れない。
まあ、少しは難点もある。
まず家中が毛だらけになる。私の布団もパジャマも、よく見ると毛だらけである。神経質な人には飼えない。それと、お腹にたまった毛玉を定期的に「げろ」するし、勝手に食べすぎて「げろ」したりもする。先日、夜中に私のベッドの上で吐かれてしまった時は呆然《ぼうぜん》とした。怒ろうにも本人はとっくにどこかへ逃げてしまって(猫ながらも吐いた後はバツが悪いようだ)いない。布団の上の大量の「げろ」の前で、一歳児の母親になった気分を味わった。
それから「お土産《みやげ》」を持って帰って来るのが困る。タマが若い頃持って帰って来たお土産は、とかげ、ゴキブリ、スズメ、ハト、さつまあげ、金魚、インコなどである。ハトまではいいが、さつまあげ以下はご近所との関係悪化を恐れて、家族で他言無用ということにした。
本能、とやらで狩りをしたはいいが、どうも獲物を取ったとたんに、お腹が空《す》いてないことに猫は気がつく。それで、どうしたらいいか分からず、とりあえずお母さん(飼い主)に持って来るらしいのだが、ものすごい有難迷惑である。何度も迷惑だということを叱って教えているのに、何度も何度も取ってくる猫は、馬鹿というより既に「可哀相《かわいそう》」である。ほんの少し残っている本能に翻弄《ほんろう》されているわけだ。
そして猫は猫を呼ぶ。猫を飼っていると、ノラ猫がやたら家のまわりをうろうろしだす。タマはすぐに避妊手術をしてしまったので、雄猫がメイクラブを求めてやって来るのではなく、タマのご飯目当てでやって来るのだ。タマがぼさっと昼寝をしている間に、ノラ猫が勝手に家の中に上がって来て、タマのご飯を食べてしまうのである。
何匹かいたノラの中で、一匹まだ子猫の奴がいて、どうも栄養状態が悪そうなので、そいつだけ餌《えさ》をやったりしていたら、何となくいつの間にかうちの中に住まわれてしまった。避妊手術をしても、情けをかけているうちに猫はこうして増殖していく。
私が五年間実家を離れている間に、後から来たノラ上がりの猫(名前がチビ。まったく愛情のない名前の付け方である)は死んでしまって、今はタマ一匹である。
久しぶりに見たタマは、歳を取って毛の艶《つや》がなくなり、お土産を持って帰って来ることもなく、以前に増して寝てばかりいる。日がな一日レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返している。
ああ、近い将来、お前は死ぬのね。そう思って私は涙ながらにタマを抱きしめた。タマはいやがって私の顔を引っかいたけど、許してやろうと思った。
歳を取って、タマは以前よりもっと人間に甘えるようになった。一日中、ほぼ人間の目の届くところにいる。若い頃は、半日ぐらい帰って来ないこともあったのに、今は人間がそばにいないと不安らしく、人の後をついて歩いている。トイレに入ると、トイレのドアの前で待っていたりするので、思わずぎゅっと抱きしめてやるのだが、そうするといやがって怒るのだ。まったく訳が分からない。
猫もあまり長く生きていると、思いもよらない事態が起こったりするのだ。つい最近、急にタマの食欲が落ちた。どうも口の中を気にしている様子で、口内炎でもできたのかと獣医さんに連れていくと「あー、歯石が溜まってますね」と言われた。溜まりに溜まった歯石が大きな塊になって口の中を切り、歯茎《はぐき》も腫《は》れていたそうだ。普通はそんなになる前に、猫も死んじゃうそうなのである。
最近タマはよく転落するようになった。若い時のように、ひらりとテレビの上に乗ったつもりがつるっと滑って転落し、ひとの膝の上に乗ろうとして、足と足の間に前足をずりっと突っ込んで転落し、ついでにおでこをテーブルにガツンとぶつける。それでも、何事もなかったように顔を洗うタマ。
その横で母親が「あたしの眼鏡はどこだったかしら」とおでこの上に載っている眼鏡を捜し(サザエさんの漫画ネタのようであるが本当の話)、父親は父親で「聞こえない」と言いながらテレビのボリュームをがんがん上げている。ああ、高齢化が進んでいる。私はいやがるタマを再び抱きしめ涙ぐむ。
仕事柄家にいることの多い私と、家で寝ているしか能のないタマは、恋人同士のようにいつもいっしょにいて、お互い愛し合っているのだと思っていたのだが、この本を読んでそれは人間の勝手な思い込みだということに気づかされた。
猫は家につく、と言うけれど、それはエサをくれる飼い主込みの家≠ノなついているだけで、何も飼い主の人格が好きだというわけではないのだと。
そう言われるとそうかもしれない。
以前海外旅行へ行った時、泣く泣くタマを獣医さんに預けたのだが、旅行から帰って迎えに行ってみると、人見知りの激しいはずのタマが獣医さんにベタベタになついていて、私の顔を「あんた誰?」という目で見たのだ。
タマや。あなたは私に恩があるでしょう? 死にそうなお前を拾ってあげたのは私でしょう? 毎晩抱き合って眠っていたのは私が好きだからでしょう? と、まるでツバメに捨てられそうな有閑マダムのように私はタマを問い詰める。
タマはちろりと私を見ると、たった今お尻を舐《な》めていた舌で、私の顔をぺろんと舐めてくれるのだ。
[#改ページ]
薄情者
『限りなく透明に近いブルー』村上龍(講談社文庫)
人生変えた一冊と言えば、これである。
けれど、私はあらすじを覚えていなかった。あらすじどころか、本棚を捜したら本も持っていなかった。
それで本屋さんに買いに行ったところ、ハードカバーと文庫と両方売っていて、どうしようかと迷った末、文庫の方を買いました。まったく、読者というのは薄情である。
人生変えたと言っても、この本を読んだことで不良になったとか、作家を目指したとか、将来なんかどうでもよくなったとか、変にナチュラルハイになったとか、そういうことではなかった。
この一冊で、読書傾向というものが、がらりと変わったのだ。
いや、そういうことを言うと、それまでも沢山本を読んでいて、その後まったく違う傾向の本を沢山読み始めたみたいに聞こえるが、全然そうではない。
私がこの本に出会ったのは、確か高校三年生の時だったと思う。
一応「作家」という肩書きを持つ人間がこんなことを自慢気に言ってはいけないのだろうけれど、私は文学少女でも何でもなかった。
国語の授業になどまったく興味がなくて、原稿用紙たった三枚の読書感想文でさえ、埋めるのに苦労していたのだ。
本よりも私は漫画が好きだった。漫画の方がよっぽど現実味があって面白かった。私ぐらいの世代の人は、もしかしたらそういう人が多いかもしれない。
かと言って本を毛嫌いしていたわけではなく、二歳年上の兄がよく本を読む人だったので、兄が面白いと言った本を私も読んでいた。当時はSFの全盛期で、小松左京、半村良、筒井康隆なんかを漫画を読む感覚で読んでいた。
しかし読んでいたと言っても、月に二冊読めばいい方で、十七歳の私があとは毎日何をしていたかと言うと、漫画を読むか、友達と遊ぶか、家でごろごろ寝ているかのどれかだった。
あまり本好きではない私だったが、何故か学校の図書室というのがすごく好きで、しょっちゅう図書室には出入りしていた。本を借りるためではなく、宿題を片づけたり、友達とこそこそ内緒話をしたり、ボーイフレンドがクラブを終えるのを待ったりしていたのだ。
そんな私も、たまには暇にあかして書架を眺めることがあった。ぶらぶらと本の背表紙を見ている時、この本が目に入った。きれいなタイトルだったので珍しく借りてみようかと思った。
私は本当に無知だった。それが史上最年少で群像新人賞と芥川賞のダブル受賞をした作品だなんて知らなかったのだ。人のまばらな夕暮れの図書室で私はその本を読んだ。
あれから十五年、あらすじはまったく覚えていなかったが、あの時のショックは覚えている。
こういうのも、小説って言うの?
そう思った。今は作家である私が言うには、あまりにも恥ずかしい発言ではあるけれど、その時はそう思ったのだ。
小説というのは、もっと理路整然としたものだと思っていたのだ。その本は混沌《こんとん》としていて、読んでいるといろんな匂いがしてくるような気がした。汗やパイナップルや、嗅《か》いだことのない大麻の匂いや、覚えたての煙草の匂いや、これまた覚えたてだった男の人の体臭なんかだ。今まで読んできたものが、一気に色褪《いろあ》せていくように感じたのをよく覚えている。
約十五年ぶりに再読してみて、私は当時の精神状態をかなりクリアに思い出した。ちょうど映画の「ブレードランナー」をテレビで見た直後だったので、そのラストシーンとこの本のラストシーンが重なって感じられた。
お気楽な高校生を演じていた℃рヘ、内心かなりまいっていたのだ。きゃっきゃと騒ぐクラスメート達がみんな猿に見えて仕方なかった。今なら、そういう年齢にありがちな悩みだったと懐かしく思うけれど、当時は深刻だった。教室という狭い箱に入れられた四十数匹の凶暴な猿から身を守るためには、自分も猿になるのが一番の安全策だった。
そして、家に帰れば帰ったで親猿と兄猿が待っている。私は読む本さえも、兄猿の真似《まね》をしていたのだ。
この本のラストシーンは、きっとがちがちに萎縮《いしゆく》していた私を、解放してくれたのだと思う。
それから私は、兄の本棚に手をつけなくなった。兄離れである。そして、自分の足と目で本を探すようになった。私は猿を恐れなくなった。人の真似をやめる勇気を得たのだ。
本屋に行くと、何でこんなにと思うほど沢山の本がある。元気がない時本屋に行くと、頭がくらくらして気持ちが悪くなってしまう時もある。
もちろん、好きな作家の新刊がばんばん出ているとワクワクしたりもするのだけれど、どうも私は大きな書店に長い時間いると、ぐったり疲れてしまうのだ。
それ買えやれ買えとばかりに立っているポップや、ぎちぎちになって立ち読みをしている人達を見ると、あーうち帰って寝たい、と思ってしまう。たぶん本屋が悪いのではなく、人口密度の高さが私にはつらいのだと思うけれど。
その点、私は図書館が好きだ。
図書館も土日は子供や学生がうじゃうじゃいてうるさかったりもするけれど、幸い私は平日の午前中なんかに図書館に行ける身なので、ものすごく幸福である。
ちょっと前まで私は川崎に住んでいて、よく利用していた川崎市立T図書館は、すごく好きな図書館だった。難点と言えばアパートから自転車で二十分かかることぐらいで、駅から遠いので人も少ないし、図書館の前に小さな公園もあったし、ガラス張りの窓が大きく居心地のいい図書館だった。私は図書館に行く日は、おにぎりを作って魔法瓶にコーヒーを入れ(マメなわけではなく単に貧乏だっただけ)一日中図書館で過ごした。本を選んだり雑誌を読んだり、公園でおにぎりを食べたり、隣のベンチのじいさんと世間話をしたりして過ごす静かな一日。
今は横浜市に引っ越して来たので、近所の横浜市立M図書館に通っている。
M図書館もいい図書館だ。まだできたばかりできれいだし、最近横浜市は図書館に検索用のコンピュータが入って検索も楽だし、駅の真裏にあって、お出掛け前にもお出掛け後にも寄れるところがポイントが高い。
ただ、利用者が結構多いわりには、お弁当を食べたり煙草を吸ったりできるベンチがひとつしかなくて、大抵は誰かに占拠されている。たまに空いていると嬉しくなって座るのだが、目の前が墓地で、お墓を見ながら煙草を吸っていると、墓石っていくらぐらいするのかなあ、親が死んだらやっぱり私が買わないとならないんだろうなあと地味なことを考えてしまう。
書店に新刊がばんばん並んでいるのと対照的に、図書館には古い本がしんと並んでいる。図書館に新刊がないわけではない。人気のある新刊なんかは常に貸出中で、順番待ちなのである。宮部みゆきなんか棚で見かけたこと一度もありませんもの。
誰からも指名されずに店の隅でしゅんとしているちょっと太めのホステスを指名するように、私は図書館の棚でしんと静かにしている本を好んで借りて読む。
指名されない理由が分かる時もあるし、何故この子のよさが皆には分からないのだと憤慨する時もある。しかし考えてみれば、買って読むわけではないのだから、それも何だか薄情者の言いぐさっぽいなとは思う。
さて、本なんか読みゃあしないティーンエイジャーだった私が、大人になって作家になって、さすがに少しは読書をするようになりました。
しかし、去年(一九九三年)一年間私が読んだ本は九十二冊だった。資料本と雑誌はカウントしていないから、実際にはもう少し読んでいると思う。割増して計算すると月に約八冊。これは職業が職業なだけにもしかしたら少ないのかもしれない。今年はもう少しペースが上がっていて、四月末までに四十七冊読んでいた。この調子でいくと年間百四十冊は読める計算になるけれど、たぶんそんなには読まないだろう。
冊数がそれほど大事だとは、私はどうも思えないのだ。「ビッグ・ウェンズデー」のように押し寄せてくる新刊を、波に乗り遅れまいとして読み漁《あさ》るのもなんか違う。
かと言って、短い人生の貴重な時間をつまらない本を読んでつぶしたくないと、時間の洗礼を受けて生き残った古い本だけ読むというのも、また何か違う気がする。
こんなことを言うと怒る人もいると思うが、たかが読書なのだ。
読み手というのは、常に勝手気ままでいいのだと思う。マーフィーだろうがマークスだろうがマディソン郡だろうが、読みたきゃ読めばいいし、つまらなければ途中で止めて古本屋に売ってしまえばいい。
そうそう、学校の図書室から借りた『限りなく透明に近いブルー』を結局図書室に返さなかったのを私は思い出した。卒業の記念にそのままネコババしたのである。けれど、結局はどこかになくしてしまった。
そして、その後、村上氏の読者になったかと言うと、実は同じ村上でも春樹氏の方に私は大きく傾倒していくことになった。人生変えて頂いたわりにはこの有様だ。
まったく読者というのは、薄情である。
[#改ページ]
わりとよくあるタイプの君よ
『ナウなヤング』水玉螢之丞・杉元伶一(岩波ジュニア新書)
先日、友人が泣きながら電話をしてきた。
もうこれだけで、私の地味な日常の中ではものすごく特異な出来事だったので、何事かとびっくりしてしまった。
何しろ、私の部屋の電話が午前中に鳴ることは殆どないし、その電話をしてきた子は友人と言っても一回り年下の大学生で、その上、福岡に住んでいるのである。
電話口で、その子はわーっと泣きだした。起き抜けでぼろぼろのパジャマ姿の私は、なんだなんだ親でも死んだかと咄嗟《とつさ》に不謹慎なことを考えた。
しかし、原因は失恋だった。
おもむろに私は煙草と灰皿を取って来て、話を聞く態勢に入った。
しゃくり上げながらも彼女は恋人にふられてしまった顛末《てんまつ》を語った。うんうんと聞く私。まだ午前十時ぐらいだったと思う。彼女はこれからバイトに行くそうだ。本当に本当に悲しくて苦しくて、本当に本当にもう死んじゃいたいのに、でも私ってどうしてバイトに行くんでしょうかと彼女は泣いた。うんうんと聞く私。福岡−横浜間なので、あっという間にテレホンカードの度数がなくなる。あ、待って下さい、ちょっとテレカ買って来ますからと彼女が言う。おいおい、どっか喫茶店とか自分の家とか友達の家とか行きなさいよ、こっちから電話してあげるからと言う私。いいんです買って来ます、待ってて下さい。
彼女が電話を切った隙《すき》に、私は急いでお茶を淹《い》れて電話の前でまたスタンバイした。
再び電話が鳴る。あー山本さん、本当にごめんなさい。私どうしたらいいんでしょう。涙って涙って、涸《か》れないんですね。どうしても涙が止まらないんです。でも私バイトに行くんです。死にたいのに、でも絶対死なないんです。つらいです。えーん。
うんうんと聞いているうちに、驚くべきことが起きた。何だか私まで悲しくなってきて、思わずもらい泣きをしてしまったのでした。
こんな時、大人がどんな優しい言葉や体験談を駆使したところで、二十歳の女の子を慰めることはできないのだ。それでも私は、何とか「ただの喧嘩《けんか》かもしれないじゃん」「冷却期間をおいたらヨリを戻せるかもしれないじゃん」「まだ若いんだから、これからいくらでも楽しいことがあるじゃん」と言葉を尽くしたのでありますが、電話を切った後、何とも言えない虚《むな》しさが残ったのでありました。
『ナウなヤング』は、その数日後に図書館で見つけた本である。言っておくが、このタイトルはウケ狙《ねら》い≠フタイトルである。でも岩波ジュニア新書だというあたりで、私は大真面目に付けたタイトルなのかと最初思っていた。外したつもりなら、お尻に(笑)とか(死語)とか付けるとよかったのにネと思ったけれど、ま、そうもいかないんでしょう。
イラストが以前から好きだった水玉氏だったのと、そういう電話を受けた後だったので思わず借りて読んでみたら、これがすごく面白かった。
主にいまどきの大学生(社会人の項もあるが)のウォッチング本である。
一人暮らし、夜更かし、消費、恋愛の四要素で、若い子ちゃん達を揶揄《やゆ》しているわけだが、「揶揄」だと水玉氏が言っているわりには、私は逆に「愛」を感じたけどなあ。水玉氏のイラストや文章は、単に可愛いだけでなくて、人間が可愛くて仕方ないって「愛」が滲《にじ》み出ていて私は好きです。あんなに可愛い絵で、結構シビアなことを言ってたりするところもいいです。
それにしても、この本はいったいどういう年齢層が読むのだろうか。中学生や高校生が読んで「うん、私はバカな大学生にはならないようにしよう」と誓うのだろうか。それとも大学生が読んで「いるいる、こういう奴って」と我が身を忘れて笑うのだろうか。それとも私のような半端な大人が読んで「学生の時は楽しかったなあ」などとノスタルジーに浸るのだろうか。
私が常々「尊敬するなあ」と思っている人は、大学時代にちゃんと勉強した人である。
時々いるのだ、そういう人が。
留学した(すりゃあいいってもんでもないけど)とか、総代だったとか、簿記の級を取った(その程度でも私は偉いと思う)とかそういう人が。
私だって一生懸命に受験勉強して、ほぼ希望通りの大学に受かった時は、それなりに「大学行ったらケイザイを勉強するんだー」って希望に燃えていた。
だから、入学して、とりあえず友達を作ろうと適当なサークル(と言っても落語研究会が適当なサークルかどうかは定かでない)に入って、先輩方に履修票を見せると「これとこれは出席しないでも試験だけでAくれるから」なんて言われて、内心反発を感じていたそこそこ純粋な若者だった。
でも、それが半年もたたないうちに、出席しないでも試験でAが取れる授業なんか絶対出なくなって、出席するのは必修の英語と出席だけが命の体育と、かろうじて授業が面白かった文化人類学だけになってしまった。
何故そういうことになってしまったのかと今思うと、あまりにも授業がつまらなかったのも原因ではあると思う。けれど、もちろん一番の問題は私の方にあったのだ。一応、とりあえず、適当な、そこそこ、なんて単語が得意技のステレオタイプな私の性格が。
授業料と生活費は親が出してくれる。けれど授業に出なくてもそこそこの成績が取れる。そしたら、目の前に四年分の自由な時間が広がった。
その自由な四年間で私が何をしたかと言うと、バイトと恋愛と無駄遣い。まさにそれだけ。ああ毎月「オーパス」買って、いつかは作家になろうと決意している青少年よ。そういう人間でも作家になれるのだ。何したっていいのだ。何もしなくてもいいのだ。作家なんて偉くもなんともないのだ。大丈夫。あなたはきっと、私の百倍は立派な作家になるよ。
話が逸れたが、まあ要するに、恋愛と洋服と飲酒にしか興味がなかったのだ。考えてみれば落研なんて特殊なサークルに入っていて、テニスやスキーのサークルの人達よりは少しは変わった体験もしたかもしれない。バイトもまわりの人達より量と種類を多めにこなしていたかもしれない。恋愛も結構密度の濃いやつをしたような気がする。
でも、私はただのステレオタイプな大学生だった。それについて、悩んだりしたこともなかった。迷いはなかった。毎日が楽しくて楽しくて仕方なかった。
しかしですね。私も大学の四年生の時、恋人だった男の人にあっさりふられた経験がありまして、いやはや、その時はもう本当に大変だった。
何しろバイトは、その彼とのデートとデートに着ていく服を買うためにしていたようなものだったし、私の将来の夢は彼のお嫁さんになること≠セけだった。
だから、泣きながら電話をしてきた彼女の気持ちが、私にはとてもよく分かる。「彼」を失ってしまったら、もう手元には何も残らないのだ。楽しくて安定していたはずの毎日が、たった一本のつっかえ棒によって支えられていたことに、初めて気がつくのだ。安定なんて気のせいなのだ。それは相手の気持ちひとつでガラガラと崩れる、まったく不安定な楽しさだったのだ。
これが大人ならば「仕事」という逃げ道がある。あるいは「趣味」という逃げ道がある。大人というのは働いている人だけを指すのではなくて、きっと二十歳そこそこでもすっかり精神的に大人の人もいるだろう。大人になるということは、逃げ道、あるいは何本もつっかえ棒を作ることなのだろう。
大学生の失恋は、社会人の失恋よりも打撃が大きいかもしれない。他にしなければならないこと≠ノよって傷が治る時間を稼ぐことができないのだ。可哀相に。痛いだろうね。びっくりしただろうね。どうやって明日から生きていったらいいか分からないだろうね。
しかし時間が解決するから大丈夫≠ニいう真理を三十一歳の私が説いたところで、二十歳の彼女のココロには決して触れないのだということを私は知っている。知ってはいても、他に慰めの言葉もないので口にはするんだけど、彼女は「はあ、そうですか」と生返事をするだけだ。当たり前である。私だって、自分より一回り年上の人に「何もかも時間が解決するわよ。元気をお出しなさい」なんて言われたら、うるせえよと思うかもしれない。
本書のエピローグに杉元氏が、
──二十六歳に十六歳は理解できないと書いたけれど、十六歳は二十六歳を理解できる。一種の直観力で、理解してしまえる。十代の僕が大人の押しつける共感や共鳴に反発したのも、直観で胡散臭《うさんくさ》さを嗅ぎとってしまったからだろう。大人は信用できない、というのは若い世代の普遍的な共通認識ではあるけれど、それは概《おおむ》ね正しい──
と書いていたように、私は完全に見透かされているのだ。
私が二十歳の彼女に対して「分かる」と思うのは、もしかしたら大きな思い上がりなのかもしれない。
バカな大学生だった私は、バカな大人になった。それが心底恥ずかしいと思う時もあるし、それをとても誇りに思う時もある。
杉元氏が本の中で言っていたように、自分より若い世代の人に自信を持って伝えられるメッセージはたったひとつ。
妊娠だけには気をつけろ
[#改ページ]
エスコート・ミー
『お一人きりですか?』クリスティーヌ・フェルニオ編(筑摩書房)
日本に生まれてよかったと、ふと思う時がある。
私は外国で暮らした経験はないし、海外へはパックツアーで何度か行っただけだ。だから、本当のところはどうだかは分からない。
けれど、本を読んだり映画を見たりすると、どうやら西洋に暮らす人々はカップルであること≠求められる機会が多そうだ。ホテルなんかも、ほとんどがダブルかツインみたいだし。
例えば映画の「キャリー」。卒業パーティーにエスコートしてくれる男の子がいないという事実は、その女の子の全人格を否定されるような大変な出来事のようだ。
エスコートだって、エスコート。思わず辞書を引いてしまいました。エスコートとは、護送すること、付き添うこと。なるほど、付添いか。
ではアメリカやヨーロッパの女の子は、ハイスクールを卒業するにあたって、その卒業パーティーに付き添って≠ュれる男の子をちゃんとキープしておかなければならないのか。誕生日にプレゼントをしたり、まめにデートをしたりして、根回しをしておかなければならないのか。晴れの日に、あぶれたりしないために。
でもね、卒業生の数が男女同数だとは限らないじゃないかよ(と思わず感情的になる)。それにもしピッタリ同数だったとしても、人には好みってものがあるから、需要と供給のバランスがうまくとれるとはとても思えない。ま、実際には、何とかうまくやってるんだろうけどね。
それだけ考えても、日本に生まれてよかった。たかがパーティーで、私はそんな思いはしたくない。
フランスでは、短編小説というのは軽んじられる風潮にあるらしい。ところが最近、フランスでも短編小説に取り組む作家が増え、本書のような短編小説集が刊行されるようになったそうだ。
私は特にフランスという国に興味があるわけではないし、フランス文学もよく知らない。けれど表題作のタイトルに何となく心を惹《ひ》かれて読んでみた。
主人公の女性は、独身の公務員。毎日食事に行くレストランでウェイトレスに「お一人きりですか?」といちいち聞かれることに腹をたてている。そのレストランは、カップル用と一人客用の席を分けていて、カップル席の方は暖房機のそばなのに対し、独り者の席はドアのそばで隙間風が入るのだ。彼女はそれで、独身であることを罰せられているように感じている。ところがある日、一人で店に来た女性客が、カップル席に案内されているのを見て衝撃を受ける。
というような話なのだが、何ともまあ、悲しい話じゃありませんか(でも実は、この小説には面白いオチがついている)。
彼女は、レストランで一人で食事をするのと、自宅で一人で食事をするのと、どちらがうら悲しいかと考える。
あんたねー、そんなことウジウジ考えてっから余計男ができないんだよと、思わず説教したくなってしまった。別にどっちも悲しかないじゃないか。
それともフランスでは、女性が一人でレストラン(ファーストフードではなくちゃんとワインが出てくるような店)に入ることは、あまり一般的なことではないのだろうか。
日本でも、外食の店は一人の客をあまり歓迎していないかもしれない。けれど、よく見ていると、一人で食事をしている人というのは結構多い。この前、夕方のおそば屋さんで、ビールを飲みながら天ざるを食べていた中年女性を見かけたけれど、別に違和感は感じなかった。
以前私も外で一人で食事をしなくちゃならない時、マクドナルドとかを利用していたけれど、今は主に和食系の店に入ってちらし寿司かなんかをきちんと食べる。おばさんになった証拠なのかもしれないが。
そりゃ外食をするのは、一人よりも誰かといっしょの方が楽しいだろう。混んでいるレストランで、楽しそうなカップル客を眺めながら一人で食事をするのは淋《さび》しいだろう。仕事で遅くなって、コンビニのお弁当を買って帰って一人の部屋で食べるのは惨めかもしれない。
でも、本当にそうだろうか。
私だったら、大して好きじゃない人と話題が途切れないように気を使って食事をするぐらいなら、一人でゆっくり食べた方が全然楽しいけどね。コンビニのお弁当だって、毎日続いたらうんざりだろうけど、たまにはそれもおいしいと思う。セブン−イレブンの焼き肉弁当と缶ビールで大相撲ダイジェストを見ながら夜食というのは、人様には見せられない姿なだけに、そのオヤジ的時間もたまにはいいものだと思う。
私は、基本的に食事はいつも一人だ。
両親といっしょに住んではいるけれど、母は父のご飯しか作らない。それは母が専業主婦であって父の食事を用意するのが母の仕事だからだ。私のご飯の用意は、母の仕事ではない。それに作られても困る。私はできれば、食べたい時に食べたいものを食べたい量だけ食べたいので、それを人と共にするのは無理だし、しようとは思わない。
まだ私が学生だった頃、一応母は私と兄のために食事の用意をしてくれた。子供の食事を作るのは母の仕事のひとつだったからだ。けれど歳がいけばいくほど、夕飯の時間に家に戻っている確率が低くなる。作った料理が無駄になることが増えて、母は自分の子供にもうフィードする必要がないことを知った。
そして私がかつて結婚していた頃(かつて、してたんです)私は夫のために毎日夕飯を作った。それは私の仕事ではなかったけれど、愛情表現のひとつだと思っていたのだ。
しかし夫と私は、あまりにも食べ物の好みが違い過ぎた。自分の好きなものを作ると夫が喜ばないので、私は結局夫が好きなものばかりを作ることになった。
なのに、酒飲みの夫は深夜まで帰って来ないことが多かった。せっかく作った料理が無駄になる。しかし捨てるのも勿体《もつたい》ないので、翌日私は自分が大して好きでもない料理(それも残り物)を食べなければならなかった。
後で冷静に考えると、悪いのは帰って来ない夫ではなく「ご飯を作って待っている私」だったのだ。
誰かが家で食事を作って待っている。それは幸福なことなのかもしれない。けれど、「作って待っている人」には「作られて待たれている人」の重圧が分からない。
私はどちらにもなりたくない。自分で作って自分で食べたい。食べたい時に食べたいものを食べたい量だけ。
そうはいっても、やはり一人は淋しいかもしれない。
私は映画もお芝居も買い物も、一人で行くことが多い。急にぽかっと時間が空いたり、何となく原稿書きに詰まったりした時ふらふらと出掛けるからだ。
けれどそれとは別に、ちゃんと誰かと約束して映画やお芝居を見に行きたいとも思う。一人でふらっと出掛けた先で、無性に誰かといっしょにご飯が食べたくなる時もある。遊園地やちょっとした旅行やお高いレストランなんかは、やはり一人ではなく、誰か男の人といっしょに行きたいと思う。
その方が楽しいから、という理由の底に、そういう場所には「一人で来ている人」がいない、という現実がへばりついている。
一人で来ている人がいない場所、には誰かエスコートしてくれる人を探して行く。何となく釈然としない思いを抱えながらも、やはり私もその得体の知れない圧力に負けていると思う。
いや、でも。
考えようによっては、たかがパーティーのエスコートなら、その日一日だけ付き添ってくれる人≠何とか探せるだろう。
けれど今の日本では(よその国のことはよく知りません)男も女も三十に歳が近くなると、もっと大きなプレッシャーがかかるのだ。結婚しないの? という空気が、背中にのしっと子泣き爺《じじい》のように乗ってくる。長い人生付き添ってくれる人≠探さなければならないと、まわりも自分も思い込んでしまっている。必要だと思い込んでしまっている。
必要なのだろうか。本当に。
カップルというのは「家族」の最小単位であると私は思う。例外はあるけれど、ほとんどの人は家族から生まれる。そしていつか、両親は歳をとって死ぬ。そして家族が消滅する。消滅してしまう前に、家族の再編成をはからなければならないような気がして、人は付き添ってくれる人≠探すのだろうか。
二十四までは飛ぶように売れて、二十五過ぎると余って腐る。女というのはクリスマスケーキだと表現していた時代は終わったけれど、それはその数字が上がっただけで、本質的にはあまり変わっていないような気がする。人生をエスコートしてくれる人がいない人はやはり余り物≠セという意識は。
人間という動物には、本当に「家族」が必要なのだろうか。
カップルであること。つがいであること。
そうであることに対して努力すること。一人で食事を取ることに罪悪感を感じること。そうしなければ、卒業パーティーに豚の血をかぶることになるのだ。ああ、こわい。
どこの国に生まれても、少数派であることの悩みは同じなのかもしれない。
[#改ページ]
ヒトの巣箱
『TOKYO STYLE』都築響一(京都書院)
私は一人暮らしをしたことがない。
知り合って間もない人にそう言うと、すごく驚かれる。一人暮らしの経験がないようには見えないそうなのだ。それは褒めているのか、そんな「お嬢さん」には見えないという意味なのかは謎だが、とにかく私はこの歳まで、一人暮らしをする機会に恵まれなかった。
そりゃまあ、しようと思えばできた。事実、両親が結構口うるさい人達だったので、働き始めたら一刻も早く独立しようと十代の頃から思っていた。ところが学校を出て就職をして、よしこれで独立だと思ったら、あれやこれや家庭の事情が持ち上がってしまい、様子を見ようなんて思っているうちに結婚してしまったのである。そしてその結婚に失敗し、すごすごと実家に帰って来たというわけだ。改めてこう書くと何か情けない。
私は一人暮らしに憧《あこが》れる。
だから、一人暮らしをしている友人の部屋に遊びに行くのがすごく好きだ。無礼なことだとは思いながらも、人の家に行くと私はその人の部屋をしみじみ観察してしまう。
人の部屋は面白い。覗《のぞ》き趣味だと言われてしまうと返す言葉はないのだが、カセットレーベルの作り方、雑誌の片づけ方、靴の手入れ方法、ベッドカバーの趣味。自分のものと違っていても似ていてもすごく感心してしまう。
軽く二年は掃除をしていなさそうな汚い部屋であっても、きちんと片づいている部屋であっても、その人がその部屋での生活を楽しんでいると、とても居心地がよさそうに見えて、すごくうらやましくなる。
というような話をある知人にしたところ、いい写真集があるから見てみなよ、と勧められたのがこの『TOKYO STYLE』である。
いわゆるお綺麗《きれい》なインテリア写真集ではなく、東京で暮らしているごく一般的な人々の部屋の写真集だと聞いて、面白そうだから買おうとしたところ、値段を一万二千円だと聞いて考え込んでしまった。買い物好きであるが故、買い物をする時は「ものすごく真剣」な私は、結果的にケチである。とりあえず図書館で借りてみることにした。
そして一万二千円の写真集が手元に届いてから、私は殆どまる二日、その写真集に没頭してしまった。
百人近くの、普通の人々の部屋の写真が並んでいた。注釈はまず英語で書かれ、日本語はその訳という感じで付いているので、たぶん外国に向けて今現在の本当の東京人の暮らし≠紹介したものなのだろう。
とにかく、どんな部屋も棚からテレビの上からお風呂場まで詳細に写っているので、私は寝食忘れてみっちり見てしまった。これなら一万二千円は安い。
整然とした部屋もいくつかあったけれど、「死ぬほど掃除が嫌いで汚くてもまったく構わない」と部屋の主の声が聞こえてきそうな雑然とした部屋の写真が多かった。それはやはり、汚い部屋の方が写真として面白いからだろう。
分厚い写真集の、混沌とした部屋の写真群の中に、私は自分の持っている物と同じ物を沢山見つけた。同じ機種のFAX、同じ目覚まし時計、同じテレビ、無印良品のリュック、エアロバイク、セイコーの世界時計、そして本棚に並ぶ同じ本、同じ漫画。他人の部屋に、自分の持ち物とそっくり同じ物を見つけるのは何ともくすぐったい。けれど、同じ無印良品のリュックを愛用している人がきっと日本中に沢山いるのだろう。
みっちり眺めていくつか気がついたことがあった。ひとつは、私が思っているより多くの人がパソコンを持っていることだった。マックが沢山写っている。洋服や牛乳パックの山に埋もれ、ちゃんとおとなしく座っているマック。あと十年もしたら、東京は「今時マック持ってないの?」という状況になるのかもしれない。
そしてもうひとつ、ある感銘を受けたのは、女の子の部屋が必ずしも綺麗だとは限らないということだった。
ここまで原稿を打って、私はふと自分の部屋を振り返る。
横浜市南区にある実家の二階の、何の変哲もない板張り(フローリングではない、念のため)の六畳間だ。昔、兄が使っていたままの古い絨毯《じゆうたん》が敷いてあり、これまた兄が独立するにあたって置いていったボロボロのベッドが置いてある。壁にはでかい世界地図と、でかいカレンダー。どう見てもオシャレな部屋ではない。
だが、まあまあ片づいている方だと思う。床には雑誌や本が積んではあるが、週に一度は埃《ほこり》を払って掃除機をかけ、雑巾掛《ぞうきんが》けだってしている。
しかしこれでは、ノンノ・インテリア大賞に出しても、書類選考で落とされるだろう。掃除はしてあるけれど、せっかく買ったカントリー調のカップボードには「いいちこ」の瓶が置いてあるし、私はすぐ靴下を脱ぐ癖があるので、そこかしこに脱ぎ捨てられて忘れられた靴下が横たわっている。
よくインテリア雑誌に載っているような、お洒落《しやれ》な部屋に住んでいる人を私は知らない。どんな女友達の部屋に行っても、掃除の程度には差はあっても、キメにキメてアンアンのグラビアみたいに生活している人はいない。もしかしたら、頑張って探せば一人ぐらいはいるかもしれない。けれど、頑張らなければ探せないのだ。
この写真集の中で、これが本当に女の子の部屋? という部屋がいくつかあった。軽蔑《けいべつ》しているわけでは決してない。ただ私は驚いているのだ。殆どの女性は、ある程度掃除というものをするのだと私は思い込んできたからだ。
女性は掃除好き、という意味ではない。私だって掃除なんか嫌いだ。あれは生産性がない。せっかく払った埃も、三日もすれば再び溜まるのだ。磨いた窓も一週間もすれば曇ってくるのだ。
けれど、放っておくのはもっと気持ちが悪い。お風呂掃除は面倒だけれど、湯垢《ゆあか》で汚れたお風呂に入るのはぞっとする。スリッパが嫌いで、家の中では素足でいたいから、廊下や階段に埃が溜まっていると気持ちが悪い。だから、仕方なく掃除をするのである。
それが何故か、男の人というのは「汚くたって全然平気」という人が多いようだ。
大昔、私は恋人だった男の人のアパートに行き、よく掃除をした。その人はトイレまで磨いてくれたのかと感激していたけれど、それは別に彼のためではなかった。汚いトイレで用を足すのが|私は《ヽヽ》死ぬ程嫌だったから掃除したのだ。
何故男の人というのは、汚れていたり散らかっていたりしても平気なのだろう。私は常々疑問に思っていた。
ところが、それは男だから女だから、というわけではなかったのだ。女の人でも「散らかっててもぜーんぜん平気。ゴミの袋なんか溜まっても新聞紙が積み上げられても平気なの」という人がいるのだ。ということは、そういう事態が我慢できない男の人というのもきっと存在するのだろう。
男女差ではなく、人間のタイプの問題だったのだ。なるほどねえ。
汚れていると落ちつかないタイプと、汚れていても全然平気なタイプの人間は、たぶん一緒には暮らせない。
世の中の未婚女性よ。あなたがどんなに尽くすタイプで、好きな男の人のためなら掃除なんかいくらでもしちゃうわと思っていても、それは恋愛のごく初期のことだけだと肝に銘じてほしい。汚くても平気な人間は、汚くても平気なわけだから、あなたが一生懸命掃除したところで「へぇ、掃除したのか」ぐらいにしか思わないのだ。そしてあなたは、汚くても平気なタイプの人のお尻にくっついて、永遠にゴミを拾い続けるのだ。必ずや、愛想をつかす日が来ると私は推測する。
さて、その大昔の恋人がこの前結婚をして、私はその新居に遊びに行ったのだが(いや別にやましいことは何もない)、彼らの新居を見て私は内心「あーあ」と思った。
その人はもう散らかし放題散らかす人で、その上物を捨てる≠ニいうことを知らない人だった。本もCDも服も雑誌もあらゆるパンフレットも何もかも捨てずに取ってあり、かと言って整理するわけではないから、そりゃもう本人以外は手の付けようがないような状態の部屋だった。
それなのに、彼の新居は整然と片づいていた。3LDKのマンションのぴかぴかの部屋には、本もカセットテープもきちんと整理されて並び、服はクローゼットに掛けられ、彼のコレクションのミリタリーグッズは、プラスチックの衣装箱に押し込められていた。
これは彼の部屋ではない。私はそう思って悲しくなった。かつて彼が一人で住んでいた部屋は、まさに彼の「巣」だった。こんな住宅展示場のモデルルームみたいな部屋で本当に彼はくつろいでいるのだろうか。
そして奥さんになった小柄で可愛い女の子は、これから先、彼がぽいぽい散らかして生きていく後を、雑巾を持って一生ついていくのだろうか。
性格の悪い私は、三年後あたりを楽しみにしている。彼が奥さんに感化されて綺麗好きになるとは思えないので、奥さんが彼に感化され、いっしょに散らかし放題散らかすようになったらいいのになと私は思う。その方が「愛の巣」の名にふさわしいような気がするのだ。
[#改ページ]
手編みセーターの末期
『ほのぼのの国のセーター』津田直美(日本ヴォーグ社)
男の人に質問です。
あなたは手編みのセーターをもらったことがありますか。
その時、嬉しかったですか。恐かったですか。それを着ましたか。タンスの奥に封印しましたか。今でも持ってますか。家宝にしましたか。引っ越しのついでにポリ袋に入れて捨てましたか。新しい彼女に見つかって、ほどかれてしまいましたか。
手編みのセーターの、末期はいかに。
今や「贈ってはいけないプレゼント」光り輝くナンバー1は、手編みのセーターであるそうだ。
手編みのセーターなど贈られても困る。怨念が込められているようで恐くて着られない。どうせ素人が編んだセーターなんて下手くそだから着たくない。という一般ピープルの意見を男性誌で見かけたことがある。そうだろうな、と私も思う。世の中の女の子達もそうでしょうねとは思っている。けれど何故か、クリスマスやバレンタインが近くなると、蒲田のユザワヤに行って毛糸を買ってしまう少女があとを絶たないのだな、これが。
かく言う私も、過去二回、若気の至りで手編みものを男性にプレゼントしたことがある。
一回目は十九歳の時で、セーターではなくベストだった。その人は本当に喜んでくれた(ように見えた)。しかし、彼が私の編んだベストを着てくれたのを、とうとう一度も見ることはなかった。
二回目は二十二歳の時で、手編みの王道、極太毛糸で編んだセーターである。これは自分で言うのも何だが、人にあげるのが勿体ないほどうまくできた。その人もとても喜んでくれた(ように見えた)。彼は何度かデートにそのセーターを着てきてくれた。
しかし、そのふたりの男性とはもう会うこともないと思うので、そのベストとセーターが今どうなっているのか知る術《すべ》はない。家で産まれた仔猫を分けてあげたのに、行方知れずになってしまったような淋しさを何となく感じる。
私は特に女らしい方ではないと思う。子供の頃から、ボーイッシュだと言われたことはあっても、女の子らしいと言われたことはなかった。
けれど、発作的に手芸にかける情熱が爆発することがあった。
例えば秋口になって、毛糸が手芸屋の店先に並んだりすると、むらむらっときて思わず買ってしまう。例えばたまたま買った「ノンノ」に、テディベアの作り方なんかが出ていると、むらむらっと作りたくなってしまう。
そのせいか、私の本棚には手芸系の本、特に編み物の本は多い。
しかし、二十冊近く編み物の本を持っているのに、完成に至った作品というのは数少ない。編み物の本というのは、真剣に編もうと思って買うのではなく、編んだら楽しいだろうなという妄想を楽しむために買うのだ。
炬燵《こたつ》に入って阿部君のセーターブック≠広げ、セーターよりモデルの阿部寛をうっとり眺め、製図を見て「これは簡単そうだ」とか「増やし目が大変そうだ」などと幸せな気分で紅茶を飲む。
男の人が車の雑誌やパソコン雑誌を買うのに、少し似ているかもしれない。眺めて、うーんいいなあ、なんてニヤニヤするのが楽しいのだ。
その大量の編み物本の中で、一番好きなのがこの『ほのぼのの国のセーター』である。
それぞれのセーターには、短い童話とそのセーターを着た犬や猫やおじいさんの絵がついている。つまりセーターの製図付絵本なのだが、これを本屋で見つけた時は、編む気もないのに思わずこそっと買ってしまいました。
このこそっと≠ニいうのがポイントである。自分でも、これはあまりにも少女趣味かもしれないという自覚があるのだ。
しかし、可愛いものは可愛い。もし私に子供がいたら、絶対その子に編んでしまうと思う。でもそれは、子供のためという名の下での、自己満足なのだということを私は知っている。
突然ですが、告白します。
私は女性ですが、手編みのマフラーをもらったことがあります。それも男の人に。
あの時の当惑を、あの時のくすぐったさを、私はきっと忘れないだろう。しかし、そのマフラーがどこに行ってしまったのかはまったく思い出せない。捨てた覚えはないので、実家の押入れのどこかで眠っているか、引っ越しのドサクサでどこかにいってしまったのかもしれない。
「はい、これ」
とホワイトデーに、恋人だった男の人は私にプレゼントの包みをくれた。わーい、なんて言って開けてみると、出てきたものは手編みのマフラーだった。
私は絶句した。どういうリアクションを取ったらいいか分からなかった。
手編みということは、手で編んだのだ(当たり前)。妹や母親に編ませたわけはないだろうから、目の前でコーヒーをすすっている彼本人が編んだのだ。ウケを狙ったにしては手がこみすぎている。
「……びっくりしたあ」
私はとりあえず、一番適切と思われる表現をした。
編み物って難しいね、と彼は明るく笑った。私はどうしたらいいか分からず「びっくりした」と「ありがとう」を何度も繰り返し言ったような気がする。
そのマフラーは初心者にありがちな、ガチガチに固い編み目のマフラーだった。
私は「手編みのプレゼントは困る」という一般的な男性の意見を、初めて実感をもって理解した。
なるほど、これは困る。嬉しいけど、困る。
その人はあげるのが勿体ないほどうまくできたセーター≠プレゼントした人だ。だからそのお返しのつもりだったのかもしれない。けれど、それにしても、やはり困った。
創作、というのは、人間に与えられた大きな喜びのひとつである。
何かを作り上げるというのは、とても楽しいことだ。特にそれが仕事ではなく、一銭にもならないものこそ、その喜びは大きい。
若い頃、私は色々なものを作った。
フェルトのマスコットを作り、クッションを作り、編み物に凝り、刺繍にも凝った。消しゴムスタンプを作り、漫画を描き、水彩画を描いて額にも飾った。アップルパイもマドレーヌもおはぎも作った。くだらない作詞をして、友達に曲をつけてもらい、ギターを弾いてそれを歌った。
特に誰も褒めてはくれなかったけれど、寝食忘れ、その完成目指して熱中した。しかし不思議と、恍惚《こうこつ》とするほど楽しいのはその過程で、完成してしまうとそれほど嬉しくはないのだ。出来上がってしまったものは、わりとどうでもよくなってしまう。それで適当な友達にあげることになる。「私が作ったの」と言うと、大抵の人は「わー、すごいね」と社交辞令を言って貰《もら》ってくれた。陰でこっそり捨てていたとしても、それはそれで構わなかった。
今は仕事になってしまったものを書く≠ニいう行為も、私はそれの延長線上にあるような気がしてならない。
子供の頃から、私はよく紙にものを書いた。それは日記だったり、友達へのくだらない手紙だったり、人の悪口だったりもした。
けれどそれは一銭にもならない、という前提があったからこそ、睡眠時間なんて平気で削れたのだ。
好きなことが仕事になる。それは、素晴らしいことだ。苦労のない仕事などないのだから、どうせなら好きなことをして苦労をしたい。
けれど、手芸やお絵描きと同列にあった書きもの≠ェ、お金になるようになってから、私は一銭にもならない楽しい趣味の時間≠もてなくなってしまった。
とにかく、時間がないのである。
いや、正確に言えば、時間は沢山あるのだ。けれど、たまにはくだらないものでも作ろうかなと手芸の本を広げると、頭の中で「そんなことをしている暇に一行でも書きなはれ」と誰かが命令するのだ。私はパタリと本を閉じ、ワープロに向かって頭を掻《か》きむしる。そして、編み物するよりはいいだろうと、結局人の本なんかを読んでしまう。だから、仕事が進まなければ進まないほど、読書量だけがぐんぐん増える。
そんな日常が、今少し虚しくなっている。
普通に考えれば、私は自宅で仕事をしているので、通勤時間がない分だけ世間の人より時間の余裕はあるはずだ。それなのに気持ちばかり焦り、寝るのが惜しいほど感じていた創作の喜びを感じていない。
今でもそうだけれど、何かの作り方≠ェ書いてあると、むらむらっとそれを作ってみたくなる。昔はそれを時間の無駄とか、お金にならないとかカケラも思わなかったのに、今はつい制作時間や作った後のことを考えてしまう。
そんなことに気をとられないで、本能のままに一銭にもならないものを作りたい。そして自己満足で作ったものを、迷惑がられても人にプレゼントしたいと思う。
手編みのマフラーを贈ってくれた彼の、心から嬉しそうな顔を私はよく覚えている。あれはきっと、私のための笑顔ではなく「創作の喜び」の笑顔だったのだろう。
[#改ページ]
お返事下さい
『錦繍』宮本輝(新潮文庫)
手紙をもらうのは嬉しい。
郵便屋さんが来るのは、だいたい朝の十一時頃である。私は二階の部屋のカーテンに隠れて(よく考えると隠れる必要はないのだが)、郵便屋さんがポストに手紙を入れるのを確認し、階段を駆け下りる。たまに郵便物がひとつもない日があって、郵便屋さんがババババッとバイクの音をたてて家の前を素通りして行くと、その日は何となく落ちこんでしまう。
FAXが来るのも嬉しい。
外出から帰って来て、パナソニックの|おたっくす《ヽヽヽヽヽ》からベローンと二メートルぐらいFAX用紙が出ていると、すごく嬉しくなってしまう。しかしそれが雑誌原稿のゲラ刷りで「至急」のハンコが押されていたりすると、嬉しいのか悲しいのか複雑なところである。
私が手紙を出したりFAXでメッセージを送ったりするのが好きなのは、その返事がほしいからだ。
返事をくれない人は嫌いだ。世の中には手紙やFAXにまったく返事をくれない人というのがいて、それはそれでその人のタイプの問題なのだろうけれど、私はそういう人には心のシャッターを下ろしてしまう。
いやしかし、手紙もFAXもこちらから一方的に送りつけているわけだから、その返事が来ないからといって腹をたてるのは、私の方が間違っているのだ。
でも、返事がほしい。無視されるのは悲しい。
手紙の返事ほしさで、私は十代から二十代にかけてのかなり長い間、文通というものをやっていた。
今はもうしていない。例外はあるだろうけれど、あれはやはり若いうちにやることなのだ。定期的に手紙をやりとりする友人は何人かいるが、昔のような長い手紙はもう書かない。物理的に無理だし相手もいない。
でも時々、私は誰かに長い長い手紙を書きたくなる。親しみを込めて、真摯《しんし》な気持ちで、懺悔《ざんげ》でもするように、誰かに手紙を書きたくなる。遠くに住む、架空の友人に向けて。
さて、本書は有名なので知っている方も多いとは思うが、往復書簡の形をとった小説である。
離婚した夫と妻が蔵王ゴンドラ・リフトの中で偶然再会し、それをきっかけにしてふたりの間に何通かの長い手紙がやりとりされるという話だ。
随分昔に読んで、その時は何とも思わなかったのだが、この間再読してみたらとても感動してしまった。やはり昔は子供だったから分からなかったのネ、などとひとりで頷《うなず》いた。
小説自体には感動した。けれど、これは小説だからいいのであって、もし現実にこんな長くて重い手紙をもらったら、ちょっとうんざりするかもしれない。
手紙というのは、あまり長かったり内容が重かったりするのはいけない。だったら電話で用件だけ伝える方がましだと思う。
ラブレターも然《しか》り。ラブレターの極意は相手に逃げ道を与えてあげることだと思う。片思いの相手に「好きです、お返事下さい」などと書いては絶対いけないのだ。相手があなたに気がなかった場合、その手紙は引き出しの奥にしまわれてなかったこと≠ノされてしまうだろう。
それから別れた恋人に向けて、自分がどんなに幸せだったかどんなに傷ついたか語ったりするのもいけない。それは相手にうんざりした気分しか与えないだろう。それよりは電話で一言、あるいはハガキで一言「なめんなよ、タコ」と伝えた方が有効であると私は断言する。
しかし、そのことに気がついたのは最近のことだ。私も若気の至りで、随分長くて重い手紙を書いた経験がある。読んだ人も嫌な気持ちになっただろうし、何より、あの手紙が今もどこかに残っているかもしれないと思うと死ぬほど恥ずかしい。
密度の濃い文通をした経験が二度ある。
一度目は高校生から大学生の時にかけて、中学時代の友人とほば一ヶ月に一度の割合で、毎回便箋十枚以上の長い手紙をやりとりした。今考えてみれば、あれは本当に恥ずかしい。違う学校で、ほぼ会うことがない相手だったのを幸いに、私は実名入りで日常のことを書きなぐった。相手に対する思いやりなどなかった。ただただ日々の出来事と心情を吐露していただけだった気がする。
相手がまだその大量の手紙を持っていたらどうしようかと冷や汗ものなのだが、考えてみれば私もその子の手紙を全部取ってあるのでお互い様である。
二度目は社会人になってからで、幼なじみの女の子が旦那さんの転勤に伴って二年間アメリカに行っていた時、これ幸いと私は長い手紙を書き送ったのだ。
彼女はその時専業主婦で、外国での慣れない暮らしに不安があり、私はちょうど仕事や恋愛に疑問を持ちはじめて悩んでいたところだったので、そりゃもう分厚い手紙をお互いに書き送ったものだった。
私の文通相手は、二人とも文才があった。中学の時の同級生もその女の子も、私よりも遥《はる》かに文章がうまかった。だから彼女達の手紙は、まるで定期的に送られてくる小冊子のようで、心から楽しみにしていたのだ。
だから私も出来るかぎり工夫して、面白い手紙を書こうとした。本当に面白いものが書けたかどうかは定かではないが、私はそれで人が読むための、ものを書く≠アとに開眼したのだと思う。何が幸いするか、人生は本当に分からない。
自分が書いたものに、何かしらの反応があるというのは、嬉しいものである。
私はかつてジュニア小説(少女小説のことです。けれど私は少女小説という言葉が好きではなかった)を書いていた時代が三年間ほどあって、その時は読者の子供達から沢山手紙をもらった。
私は特に売れている作家ではなかった。なのに一番多い時で、月に百通近い手紙が編集部から転送されてきたのだ。だから売れてる作家さんの所には、きっと千通を超える手紙が届けられるのだろう。
手紙好きの私はものすごくそれが嬉しくて、全部の手紙に目を通し、手書きのペーパーをコピーして返事を出した。本当はそこまですることはなかったのだろうけれど、平均したら月に五十通ぐらいだったので大して負担には思わなかった。
子供達の手紙の内容は、本の感想はほんの枕詞で、殆どが自分の生活のことだった。文通して下さいとか、好きな男の子の写真が同封してあって、「必ず返して下さいね」と書いてあったのとか「何だお前は」と思うようなものもあったけれど、まあそういう手紙も微笑《ほほえ》ましいと言えば微笑ましい。
彼女達は、友達や親には言えない不満や愚痴や将来の夢を書いて送ってくる。要するに心情の吐露である。誰にも言えないことを文字にすることで、彼女達は自分自身を確認しているのだ。
子供だけではなく、大人の人から送られてくる手紙も文体が丁寧なだけで要するに内容は同じだ。
大人だろうが子供だろうが、人は皆、体面を繕って暮らしている。それが人口密度の高い国で気持ちよく暮らすための知恵だからだろう。
けれど、嫌いなものを嫌いと言えず、好きなものを好きと言えず暮らしていくうちに、本当のことが分からなくなってくる。どこかでひっそりと「本当の自分の気持ちはこうじゃない」と強く認識しておく必要があるのだ。口には出せずにいる本当の自分≠守るための自衛手段なのかもしれない。
知人に出すには重すぎる内容の手紙も、知らない人間には出せるものだ。
しかし、自分の気持ちを確認するためだけに書くのであれば、それは日記でもいいはずだ。それなのに何故か人は、誰か別の人に向けて心情を語ってみたいようだ。
人には口で言えないことがある。そしてまた、人は真に秘密を持つことができない。
だから私はわりと人間の正直さ≠ンたいなものを信じている。人間は基本的に嘘をついたり、本当に思っていることを胸の内にしまっておくのが苦手な生き物なのだと思う。
会社の中でどんなにうまく立ち回っている人も、飲みに行けば嫌いな上司の悪口を言ったりするだろう。いつでも穏やかに笑っている人も、恋人の前ではわがままになったりもするだろう。何かの事情で嫌いな配偶者と別れられない人は、必ず後になってどんなに自分がつらい思いをしてきたか、どこかで口にするだろう。そして秘密の恋をすれば、誰でもが一番口の堅そうな人にそれを打ち明けるのだ。
人は人に何かを伝えたい。
本当のことを伝えたい。
私が小説を書いているのは、実はそういうことなのかもしれないとふと思う。私の小説は私小説ではないけれど、やはり何かしらの形で心情を吐露したいのだ。そして人に、何かしらの反応を求めているのだ。
私はそんなにすらすらと原稿が書ける方ではない。書いては直し、直しては書き、その過程は正直言って楽しいどころか、ただもうつらい。
なのに、一日分のノルマを終えて、お風呂からあがってビールなんか飲んで、ほろ酔い気分でやることと言えば、友人に手紙を書いたり、意味のないFAX原稿を書いて送ったりしているのだ。返事ほしさに。
[#改ページ]
二本目の煙草
『マンウォッチング』(上・下)デズモンド・モリス(小学館ライブラリー)
禁煙とダイエットと英会話習得というのは非常によく似ている、というのをどこかで読んだことがある。
その方法は多様で、ハウツー本がいくらでもあり、実行しようとしている本人も実はその方法がよく分かっているくせに、成功に至る道のりは厳しく大勢の人間が挫折《ざせつ》するという点で。
今、私の机の上には新しく開けた煙草と、ミルクと砂糖を沢山入れたコーヒーと、殆ど使っていない英会話入門のテキストが載っている。
なるほどねえと、煙草に火を点ける私。
嗜好品《しこうひん》には色々あるけれど、誰が乾燥した葉っぱに火を点けて吸う、なんてことを考えついたのだろうか。
私の煙草歴は、十代の終わりに単なるポーズでふかし始めたのがきっかけで、三十二歳の今まで続いている。その間に約五年の禁煙期間があった。結婚していた時である。夫であった人が煙草を吸わない人だったので、私が煙草を吸うのをとてもいやがったのだ。そんなことでやめてしまえるようなヤワな(?)煙草吸いなのだ。
今はもう私に煙草をやめろと言う人はいないが、でも漠然と「やめた方がいいんだろうな」とは思っている。
その理由は、健康上のことや経済的なことではない。私には煙草が似合わない、ということに尽きる。
ものすごく偏見だけれど、やはり女性には煙草はあまり似合わないと思う。女優のような素晴らしく綺麗な人か、個性的で独特の味が出ている人なら、まあいけるかもしれない。けれど、平凡な女の人にはやはり煙草は似合わない。似合う似合わないという基準など考えたこともないという方には、素直にスイマセンと言うしかないが、私は小心者なのでわりと人目を気にしてしまう。
何しろ私はどこから見ても「煙草が似合う」という容姿ではない。丸顔でお世辞にも痩せてはいない。瞼《まぶた》は腫れぼったいしお腹も出ている。狸《たぬき》がサムタイムスーパーライトをふかしているという感じである。
でも、食事の後や疲れた時や、公園の芝生《しばふ》の上や図書館のベンチや、お酒を飲んでいる時に吸う煙草は本当においしい。そういう時、私は年寄りのように背中を丸めて目を細め煙草を吸う。とてもおいしいので、思わず二本目に火を点ける。けれどそれは一本目ほどはおいしくない。それは二杯目のコーヒーやビールに似ている。
でも、どうしてだか二本目どころか三本目の煙草にも火を点けるのだ。似合わないのも分かっていて、それを恥ずかしく思っているのに。何故だろう。
その疑問の答えが『マンウォッチング』に書いてあった。そういうのを〈転位活動〉と言うんだそうである。
──喫煙は単に煙を吸い込むだけのものではない。タバコとライターを見つける、箱からタバコを取り出す、タバコに火をつける、ライターの火を消し、ライターとタバコの箱をしまう、灰皿を使いやすい場所に移動させる、服を払ってありもしない灰を落とす、そして考え深げに煙を吐き出す、といった動作がなされる。このような一見意味のない動作こそが、絶え間のない緊張と圧力の連続である社会における喫煙の価値といえよう。(中略)多くの人にはそれぞれの癖ともいうべき転位的習慣があり、内的葛藤が生じた時はいつも決まった〈転位活動〉の型を示す。大事な試合の前に、盛んにガムをかむスポーツ選手、髪の毛を束ねてもてあそぶ女優、爪《つめ》をかむ少年、(中略)われわれは、日常生活を続ける中で、遅かれ早かれ、そわそわしたいという欲求に負けてしまうようにできている。(中略)そのことが、自分が互いに矛盾する行動の間で窮地に陥ってしまうことを、防いでいるのだ──
なるほどねえ、と再び唸《うな》る私。
何もせずじっとしていることに耐えられなくて、私は煙草を吸っていたのだ。そう言われればそうかもしれない。人とお酒を飲んでいる時には、いつもより喫煙量が増える。ただ飲んで喋《しやべ》っているだけだと手持ち無沙汰《ぶさた》なので「煙草を吸う」という一連の動作を行っているわけだ。
本書はウォッチング≠ニいう流行語を生み出した(と帯に書いてあった)人間観察学の本である。心理学に詳しい知人が勧めてくれたのだ。
例えば、こういうことが書いてある。
ニューギニアの先住民がドイツの銀行家やチベットの農民と同じような腕の組み方をすること。親指と人指し指で円を作るサインが、日本ではお金を示し、フランスでは無価値を意味し、マルタ島ではオカマを表すこと。嘘をついている人間は顔に手を触れる回数が増えること。何故女性は化粧をするか。何故女性は足を開いて座らないか。何故人はスポーツに熱中するか。
本書に書いてあることが全て「大正解」だとは思わない。けれど、いちいち感心してしまうことが書かれている。
とあるベテランの舞台演出家さんが解説を書かれていて、若い役者に「手元に置いて繰り返し読むように」と勧めている。動作は信号であり多くの情報を伝達し、時には言葉以上に物事の本当の意味を相手に伝える。人間の動作のひとつひとつを実証的にとらえ明確に示している本だからという理由で。
ああ、そうだった。人には口で言えないことがある。
だから人は怒った時に物を蹴飛《けと》ばしたり、好きな人とは肩を寄せあってキスをしたり、落ち込んでいる時に限って普段よりはしゃいだりするのだ。
私は喫茶店では窓際に座るのが好きで(以前私は人は誰しも窓際の席が好きなのだと思っていたのだが、世の中には壁際の方が好きだという人がいると聞いてびっくりした)特にひとりの時はなるべく窓際を陣取るようにしている。
そしてコーヒーを二杯《ヽヽ》飲んだり、煙草を|何本も《ヽヽヽ》吸ったりしながら、道行く人達を飽きずに眺める。
人を眺めるのは本当に面白い。
十分も見てれば、その街の感じが掴《つか》めてくる。地元の横浜と都内は、距離的に大して離れていなくてもまったく違う。同じ都内でも渋谷と新宿はまた違う。もちろん品川も新橋も池袋もまたそれぞれ歩いている人の種類が違う。渋谷にいると、世の中には若い人がとても多いように感じるけれど、銀座に行くと世の中にはサラリーマンが多いなあと感じる。横浜には主婦と高校生が多いように感じる。
私は服が好きなので、人が着ている服を見て、今年の流行を勉強する。
チェックのミニスカートに黒いニーソックスを穿いた、「ノンノ」から出てきたような女の子を見て「おー、可愛い」と思う。けれど、その後ろから明らかに三十近い歳の女の人が似たような恰好で歩いて来たのを見てどきっとする。私が着たら、きっとあんな感じになるだろう。何歳だから何を着てはいけない、とかそういう堅苦しいことを言うつもりはないが、やはり年齢にしっくりくる恰好をしようと私は自分を戒める。
服は人を語る。
若いのに流行とずれた、でも高そうなワンピースを着ている女の子はお嬢様。年配だけどジーンズにスタジアムジャンパーそれもLビーンのだったりするおばさんは娘と仲がいい。すごく広い幅のネクタイをしているおじさんはスーツの仕立てが良くても胡散臭いし、お洒落に目覚める前の中学生の男の子はジーンズの裾《すそ》が半端に短く、きっとまだ母親の買ったグンゼパンツを穿いていると思われる。こういうのを〈着衣信号〉というのだそうだ。
衣類には、保護、慎み深さ、ディスプレイというみっつの機能がある。
保護というのは言うまでもなく、暑さ寒さ乾燥や湿気、あらゆる外的な要因から身を守るという意味である。
そして、映画や漫画で原始人が描かれる時、必ず局所は葉っぱや布のようなもので隠されているのを見るだろう。あれが慎み深さ≠ナある。ニースの海岸ではトップレスの女の人が寝そべっているかもしれないが、それでも下まで脱いでしまう女の人は殆ど見かけないはずだ。もし衣類がからだを保護するためだけのものならば、セントラルヒーティングの効いた室内では、裸で食事し酒を飲みテレビを見てもいいはずだ。けれどそうならないのは、人間の心に備わった慎み深さ≠フせいなのだそうだ。
高級レストランでは、いくら有力者や金持ちでもネクタイをしていないと追い出されてしまう。これがディスプレイだ。流行のディスコやバーにも服装チェックがあるが、そういう場所に行く時、人は馬鹿馬鹿しいと思いつつも、黒服に頭を下げてもらえるような服を選んで出掛けていく。
人間というのは、なんと不思議な生き物なのだろう。
常に人は人の目を意識し、意識的にも無意識にも自分を演出する。しかしその一方で、考えていることと行動がちぐはぐになったりもする。
おばさま方は習い事の帰りに大勢で喫茶店に入る。十代の不良は盛り場でしゃがみこみ道に唾《つば》を吐く。OLはボーナスをつぎ込んで何時間も飛行機に乗って南の島の海岸に昼寝をしに行き、ローンを抱えたサラリーマンは朝がつらいことが分かっていても遅くまで酒を飲む。
そして私は、やめたほうがいいと思いながら夜中の三時に煎餅を齧り、似合わないと分かっている煙草に火を点けるのだ。
[#改ページ]
こまかいお仕事
(ワープロ時代)1993〜1997
夏の日が終わって
[#ここから1字下げ]
君のきらいなところを全部挙げよう。
君のわがまま。君の利かん気。待ち合わせの時間に来ないところ。トイレが長いところ(たぶん髪を梳《と》かしたり口紅を塗ったりしてるんだろう)。いっしょに住んでもいないのに、僕が外泊すると怒るところ。映画を観る君の横顔。真っ赤になった鼻の頭。細い目。そばかす。猫っ毛の長い髪。ぽっちゃりしたお尻。笑った時の八重歯。白い手首。伏せた睫毛《まつげ》。僕の名前を呼ぶ君。君のちょっとかすれた声。笑い声。
さよならを言ったのは僕だった。君はテーブルの向こうで細い両目を大きく開いた。理由? それは君が知っているはずだ。僕がそう言ったとたん、君のそばかすの上にぽろぽろと涙が零《こぼ》れた。
君が夏のはじめに、何年もつきあっていた恋人に振られたことを僕は知っていた。その男を忘れるために他の男が必要だったことも。知っていて僕は君の手を取った。弱みにつけ込んだのは僕だ。だから、君がベッドの中でそいつの名前を呼んだからといって、僕には怒る権利はないのかもしれない。
けれど、僕は君がきらいだ。君の泣き顔がきらいだ。あんな男を忘れられない君がきらいだ。きらいだから、毎晩いやがらせの電話をかけてやる。毎晩十時に僕は君に電話をする。あの男を忘れたかと聞いてやる。僕は君がきらいだ。ずっとずっと前から、そしてこれからもずっと。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
もう君を離さない
[#ここから1字下げ]
十五歳の夏から十年間、君は僕の恋人だった。ファーストフードでの待ちあわせは、やがてカフェに変わり、カフェはやがてバーに変わった。見た映画は二桁《ふたけた》ではきかないだろうし、セックスの回数はそれ以上だ。
倦怠期《けんたいき》だったと言ってしまえば、それまでなのかもしれない。君が僕以外の男を知らなかったように、僕も君以外の女を知らなかった。一生ひとりの相手としか寝ない。それもまたひとつのロマンではあるけれど、僕は君ほどロマンチストではなかった。
悪いのは僕だ。君に知られないように、細心の注意を払うべきだった。けれど心のどこかで、ばれてもいいと僕は思っていた。
噂《うわさ》を聞きつけ、僕を問い詰めた君。一週間泣き続けた君は僕を許そうとした。けれどそんな君が、逆に僕は許せなかった。
僕と別れてすぐ、君は別の男と腕を組んで歩いていた。見たことがある男だった。学生時代に大勢で遊んだ覚えがある。
何故こんなことになってしまったのだろうと僕は思う。愛しているのは君だけだった。なのに何故、僕は君を苦しめるようなことをするのだろう。胸は痛む。けれど、君も一度は別の男と寝てみるべきだったのだ。
夜中のベルはきっと君だろう。僕は電話を振り返る。僕は許しを乞うてしまうに違いない。身勝手な僕を、身勝手なまま受け入れてくれと。受話器を取る手が震える。君も神様も、僕を許してくれはしないだろうに。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
White Winter
[#ここから1字下げ]
男という生き物の中には、プライドというもうひとつの生き物が住んでいる。
十年間恋人だった彼の中にも、夏に恋をした新しい彼の中にも、同じ生き物が住んでいた。
私の恋を邪魔した、プライドという名の怪獣。けれど私にはそれを倒す術《すべ》がない。
彼らは二人とも、私に手を差しのべることができない。プライドを取るか、私を取るか、決断できないのだ。
死んだような気持ちになっていても、いつの間にか季節はめぐる。今年最初の雪が降った時、私は目が覚めたような気がした。
プライドに勝てない男という生き物の代わりに、私が決断を下す。私は女だから。女はからだの中に変な生き物を飼ったりしない。女は自分のためだけに決断を下すことができるのだ。
私は新しい恋を選んだ。夏にはじまった恋のために、十年|育《はぐく》んできた恋を捨てた。紙くずを丸めて捨てるように。ぽい。
新しい恋。まだ触り慣れていない彼の掌。見慣れない腕時計。ぎこちないキス。
降りしきる雪の中で、私は彼を抱きしめる。ゆっくりと、彼の中の怪獣プライドザウルスの頭を撫《な》でる。殺すことができなければ、手なずけて可愛《かわい》がればいいのだ。
まっしろな雪。まっさらな恋。その白いカンバスに、去年は描けなかった絵を今年は描くことができるだろう。一面の白い世界に、私は深く息を吸った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
日記をつける奴
いったい日本人の何パーセントぐらいの人が、日記をつけているのだろう。
まめに日記をつけているという人を、私は自分以外に知らない。
年末になると、デパートや文房具店で沢山の日記帳を売っているのを見る。三百年先まで残せそうなものから、手帳型の薄っぺらいものまで、色々な種類のものがある。人々は本当にそれを購入し、利用しているのだろうか。
とりあえず、友人知人に電話をしてリサーチしてみた。
・学生の頃、好きな男の子がいた時だけ、みっちりとつけていた。(33歳、女、作家)
・高校生の時、女の子と交換日記をしたのが青春の思い出。(27歳、男、教師)
・日記つけてる人って暗くない? 子供の頃、宿題の絵日記つけただけ。(19歳、女、大学生)
なるべく日記をつけていそうな人を選んだのだが、こんな具合である。
自分は書いているくせに日記をつけるようなタイプ≠フ人とは親しくならないのかもしれない。こういうのを近親憎悪と言うんだっけ?
私が意識して日記をつけはじめたのは、十六歳ぐらいだったように思う。だから、日記歴は約十五年だ。
その十五年間、欠かさず書いていたわけではもちろんない。毎日ぎっちり書いていた時期もあるし、半年ぐらい何も書かなかったこともある。誰かに強制されているわけではないのだから、書きたい時にしか書かない。
ひとつ残念なのは、若気の至りで書いたものを、二十代の真ん中あたりで、これまた若気の至りで捨ててしまったことだ。
それでも高校三年生の時の日記を私はまだ持っている。好きな男の子のこと、受験のこと、人の悪口、将来の夢と、自分で言うのも何だが、センチメンタルで傲慢《ごうまん》でのびのびと書かれていて、今読むと腹を抱えるほど可笑《おか》しい。
十五年の間には、立派な鍵《かぎ》付きの日記帳に書いたこともあるし、レポート用紙やノートに書いていたこともある。
一時大流行した、システム手帳というのも使ったことがあるけれど、どうも私には合っていなかった。年が変わったら買い換えて心機一転したいのに、システム手帳では中身しか買い換えられないので新鮮味がない。
五年ほど前から日記帳やノートはやめて、手帳に三行から五行ぐらいのボリュームのものをつけるようになった。それが一番自分に合っているようだ。
手元に三年前までの手帳があるので、ちょっと振り返ってみる。
1990年 12月17日(月)
米米クラブのライブをマイカル本牧まで見に行く。楽しかったけど疲れた。仕事休みたい。
1991年 12月17日(火)
風邪が治らない。有馬記念はどうしようか。熱があるのに原稿を十枚書く。偉い。
1992年 12月17日(木)
原稿を書かずに、一日ファイナルファンタジーVをやる。やけくそで夕飯にカツ丼を食べる。(修正なし)
人の名前が出てこない当たり障りのない日を選んで書き出したとは言え、こんなんだったら日記をつける意味はないと自分でも呆《あき》れてしまう。けれど、やっぱり日々の出来事を、昨日も今日も明日も書き留めてしまうのだ。
何故だろうか。もし今、何かの事故で死んでしまって、人に手帳を読まれたらと思うとぞっとする。実名もばんばん出てくるし、世間様の怒りを買うようなことも書いてある。第一これが作家の日記かと疑うようなお粗末ぶりである。
言わぬが花、という言葉がある。嘘《うそ》も方便、という言葉がある。
その言葉を私は嫌っていない。むやみに人を傷つけたくないし、自分も傷つけられたくない。でも思ってしまったこと≠ニいうのは、どこかで消化しなければ、忘れたつもりでもどんどん溜《た》まって積もってゆく。
しかし、こっそり誰かに言った内緒話は、えてして伝わってほしくない相手に伝わるものだ。だから小心者の私は、その日に起こったことや思ったことを、文字にして吐き出しているのかもしれない。
曖昧《あいまい》に生きている自分の輪郭をなぞり、王様の耳はロバの耳だと自分に言い聞かせるために、私は新年に備えてまた手帳を買った。
[#改ページ]
日常のわたし 1
朝は八時には起きる。作家にしては、早い方かもしれない。そりゃもっとだらだら寝ていてもいいのだけれど、私は「午前中」というものが好きなのだ。たまには「夜中の三時に起きている私」というのも好きだなとは思うけれど、日常の中では「のんびり朝ご飯を食べる私」の方が好きだ。歳をとった証拠なのかもしれない。
朝食を食べている間に全自動洗濯機が家族三人分の洗濯を終えるので、それを干してから私は机に向かう。午前中から仕事をする私。偉い。偉すぎる。
お昼ご飯は母と食べる。母は料理も後片付けも嫌いなので、私が作ってお茶碗も洗う。でも母は専業主婦なので、父のために夕飯は作る。それが母の仕事だからだ。私は基本的に夕飯は食べないので(最初はダイエットのつもりで抜いていたのだが、慣れてしまったら夕飯を食べない方が体調がいいことに気がついた)、お昼ご飯が終わると、もう寝るまで仕事をしようが遊びに行こうが自由である。
仕事に余裕がある時は、午後スポーツクラブに行く。少しからだを動かしておかないと、気持ちが悪いのだ。家で原稿を書いていると、精神的には疲れてもからだは全然疲れない。これはすごく気持ちが悪い。
スポーツクラブで私の担当のインストラクターは、鈴木大地体型の若い男の子だ。入会した時、その子にからだ中の脂肪を測られて「軽度肥満ですね」と言われた時は、サウナの中でこっそり泣いた。でも一年後には脂肪もやや落ちた。痩《や》せたい女の人は、年下の男の子に「でぶ」と言ってもらいましょう。
その子と世間話をするのは楽しい。けれど、最近彼と私は干支《えと》が同じだということが分かってショックを受けた。私が小学校六年生の時、彼は赤ちゃんだったのである。
夕方、私は英会話の教室に行ったりもする。海外旅行に行った時に、自分の英語力のなさに愕然《がくぜん》として、ほぼ発作的に通い出したのだ。同じクラスのOLの女の子も同じ理由だった。小市民的発想が悲しいどころか、逆に私は嬉しい。そして「私は横浜出身で、趣味は本を読むことです」なんて英文を幼稚園児のように喋《しやべ》る。先生のベン(中国系の彼はネイティブスピーカーだが、外見は普通の日本のおっさんである。私達は密《ひそ》かに彼をワダベンと呼んでいる)がグッド、パーフェクト、と褒めてくれる。
宿題の分からなかったところを、私はクラスで密かにいいなと思っている男の子に聞きにいく。話しているうちに、彼と私は一回りどころか十三歳違うことが判明する。十三歳。それはあまりにも離れている。自分を卑下するつもりはないが、それでも何だか膝《ひざ》の力が抜けた。
そういえば、行きつけの美容院の男の子も干支が同じだった。自分より一回り年下の人間が、もう社会に出て働いているのだ。ああ、時間は流れている。
家に帰って来ると、私はワープロの前に座って原稿を打つ。夕飯は作らないし食べないので時間は結構ある。けれど、いつまでも起きているとおなかが空《す》くので、十二時頃にはベッドに入る。そして本を読む。眠くなったら眠る。
この一見地味で平和で心静かな日常は、まるで太古の昔から始まっていて、人類が火星に到着するまで続きそうな感じだが、それはまったく違う。
ほんの一年前、私はまだ結婚していて、朝はもっと早く起き、あるいは昼過ぎまで眠り、夕飯も作ったり作らなかったり、スポーツクラブにも英会話にも行っていなかった。
その数年前は、朝は五時半に起き日本橋の会社まで通い、仕事を終え家に戻ると今度は副業の執筆業にかかって、体力の限界が来ると気絶するように眠っていた。
人は、好むと好まざるとにかかわらず「今」に留《とど》まることはできない。
来年の今頃、私はどこでどうしているのか分からない。
午前中が好きだ、なんて言った舌の根も乾かないうちに、夜中のバイトを始めて昼夜逆転の生活をしているかもしれない。あるいは父が持病の狭心症で倒れて入院し、私は日々看病に励んでいる可能性もある。
今この原稿を書いている時点で私は三十一歳だが、三十二になり三十三になり、やがて四十になり五十になった時、私はまた全然違う考え方をして、全然違う日常を送っているだろう。一回りどころか、二回り歳が違う人間が社会に出てきたかと、愕然《がくぜん》としているのだろう。
どちらかというと、私は何でも成り行きに任せておきたい方だ。
あの時ああしていればこうしていれば、と後悔がないわけではない。時々夜中にがばっと起き上がり、もしかしたら何か重大な過ちをおかしてしまったような不安にかられる。いてもたってもいられず、すかすか寝ている猫を起こして抱きしめ、猫にまで迷惑がられたりもしている。
けれど朝起きると「ま、いいか」と思う。何故起きるのかというと、目が覚めたから起きるのだ。何故食べるかというと、おなかが空いているから(何せ夕飯を食べてないし)食べるのだ。猫がいるから猫にもご飯をやるし、母親がおなかが空いたというから昼食も作る。何故仕事をするのかというと、そこに仕事があるからだ。では、何故男の人を好きになるかというと、そこに男の人がいるからだろうか。うーん。
日常は、喜びである。それがどんな日常であっても。
どんな変化も、それは突然に起こったことではなく、気がつかないうちに徐々に自分が選んできたことなのだ。
そんなわけで、『あなたには帰る家がある』は離婚後第一弾の本ですので、皆さん読んで下さいね。
[#改ページ]
最後の晩餐
何を食べても「これはマズイ」と思うことがほぼない幸福な舌を持つので、逆にこれといって思い入れのある食べ物はない。
だが、ひとつの食べ物に凝ってしまう傾向があって、凝りはじめると朝昼晩三食一ヶ月同じものを続けて食べても平気だ。
かつて凝ったのは、キムチ、卵料理、おでん、長崎ちゃんぽんなどである。
現在凝っているのはさつま揚げで、特に好きなのは枝豆入りとれんこん入りのさつま揚げ。さっと焼いて大根おろしと醤油で食べる。それと苦みが強いキリンの新しいビール。今だったら、最後の夜はそれで決まりですね。
ああ、それとダイエットのために極力我慢しているケンタッキーフライドチキンも食べたいと思う。ケンタは、ビスケットの販売をやめてしまったのが許せない。好きだったのに。死ぬ前にもう一回食べたい。
[#改ページ]
私の願い
たとえば今、天上から天使様か何かが降りて来て、お前はこの仕事をはじめてから一度も締切りを破ったことがないから(雑誌に限る。書き下ろしは大破りしている)ご褒美に三つのお願い事を聞いてあげるよ、と言ったとする。
そうしたら、二つはスケールの大きいお願いをするとして、三つめはこうお願いするだろう。
どうか私に、乗り物酔いをしないからだを下さいと。
何をしてもいいけれど人様に迷惑だけはかけてはいけないよ、と躾《しつ》けられて私は育った。親の躾けというのはすごいものである。子供の頃に、頭を叩《たた》かれ尻を叩かれきつく言われたことは、深層心理に深く刷り込まれている。
だから私は、なるべく人様に迷惑をかけないように生きていきたいと常々思っている。何故ならば迷惑をかけてしまった瞬間に、頭に嵌《は》まった罪悪感という名の輪っかが、きりきりと締まって私を苦しめるからだ。
しかし最近、私は諦《あきら》めの境地に呆然《ぼうぜん》と佇《たたず》んでいる。どうやら、人様に迷惑をかけずに生きていくのは不可能であるようなのだ。この、すぐに気持ちが悪くなってしまう¢フ質である限り。
どうして人々は、タクシーの運ちゃんのあの乱暴な運転で(丁寧な方もいるが)ウッとこないのだろう。どうして人々は、車や電車の中で悠然と本が読めるのだろう。どうして人々は、船の中で楽しくマージャンしたりできるのだろう。
私は駄目だ。私にはできない。どうしてもどうしても克服できないのだ。
物書きという職業は、意外とタクシーに乗らなければならない機会というのが多いのだ。たとえば都内某所で打合せをしたりする。それでは場所を変えて食事でもということになる。当然私は地下鉄の駅に向かおうとするのだが、編集者さんはさっと手を上げてタクシーを拾う。そして私は青ざめる。どうか十五分以内で着くようにと神様にお願いする。十五分ぐらいなら何とか我慢できるからだ。
皆さんは純粋に親切心でタクシーに乗せて下さるのだと思う。しかし私にはこれが拷問なのである。こみ上げてくる生唾《なまつば》、揺れる視界、噛《か》みしめる奥歯。そして「迷惑」をかけてはいけないと躾けられているので、死ぬ思いで愛想笑いを浮かべる私。
タクシーだけではない。私は自家用車にも酔う。時々電車にも酔う。新幹線でもわりと酔う。船も飛行機も、もちろん酔う。いったいこの乗り物酔い≠フせいで、何人の方に迷惑をかけただろう。
そしてまた、私には乗り物酔いの薬が全然効かないのだ。薬が効かない体質なわけではない。普段あまり薬を飲まないので、頭痛薬や便秘薬なんて笑っちゃうぐらい効く。
なのに何故。
三半規管に何か重大な欠陥があるのだろうか。
とにかく乗り物酔い≠ヘ恰好《かつこう》が悪い。
いくらお洒落《しやれ》して気取ったバーで飲んだところで、次の店に行こうとタクシーに乗ったとたんゲロっていたら、男性は皆逃げていく。
乗り物酔いなんてものは、大人のかかるものではない。そんなものは小学生が遠足でバスの一番前の席に座らされて、それでも目的地に着く前に先生から渡された青いビニール袋にケロケロしてしまう、というものだ。いい歳した大人が、いつもハンドバッグにビニール袋を忍ばせているなんて、馬鹿もいいとこである。
いったい私は、どうしたらいいのだろう。
家庭の医学なんかを読んでみても、車に乗る前には睡眠を十分に取れだの、消化のいいものを食べろだの、薬を飲めだの、心理的なものが大きいので気を楽に持てだのとしか書いていない。
そんなこたあ、分かってる。それで解決するのなら、こんなにも悩みはしないのだ。
しかしこんな私でも、時折酔わない時がある。たとえばそれは、車に酔うより先にお酒でべろべろに酔っぱらっている時。あるいはとってもはしゃいでいる時。
しかしそういう時でも絶対に酔わないというわけではない。この間も、かなりお酒が入っていて、ものすごく楽しい気分で、隣にちょっと気がある男の人が座っていたのに、ケロケロケロと蛙女《かえるおんな》になってしまって全《すべ》てを台無しにした。
私は、澄ましてタクシーに乗れるような大人の女になりたい。
「あ、すいませんけど、私だけ地下鉄で行きますから」
なんて言うのは、本当に本当に恥ずかしいのだ。
誰か車に酔わない体質になる方法を教えて下さい。
[#改ページ]
自画自賛──『ブラック・ティー』
「真面目《まじめ》な人」というのは、どういう人を指すのだろう。
高校時代に同級生だった大貫君は、真面目な人だった。
彼の鞄《かばん》は熱湯をかけてぺっしゃんこに潰《つぶ》してあったし、彼の頭はコーラとビールをかけて脱色してあった。制服はビーバップハイスクール状態に改造されていたし、靴は先がとんがっているエナメルシューズだった。
けれど彼は真面目な人だった。一年生の時、彼は学校のトイレで煙草《たばこ》を吸って自宅謹慎となった。二年生の時、ものすごい二日酔いのまま登校して教室でゲロッと戻してしまい停学になった。それでも彼は修学旅行や文化祭での写真に「イエーイ」とVサインを出して明るく笑っていた。なんて素朴な人なのだろうと私はそっと思っていた。
それに比べて隣の席に座っていたユカちゃんは「不良」だった。ユカちゃんは普通の黒い髪に、どこにも手をくわえていない制服を着ていた。靴下だって真っ白である。
けれど彼女はよく学校をさぼっていた。彼女は私服に着替えると高校生には見えなかった。だから彼女はよく学校を休んで一人で街をぶらついていた。
そして彼女はライブハウスで知り合った人達とバンドを組んでいた。当時大全盛だったテクノバンドである。メンバーは皆二十歳を超えていたので、ユカちゃんは自然とお酒や煙草を覚えた。メンバーの中の一人と恋愛関係におちいって、ユカちゃんは避妊の方法も覚えた。
彼女は大人だった。学校ではそんなそぶりはカケラも見せなかった。ビーバップ大貫が大声で「センコーの言うことなんか聞いてられっかよ」と可愛《かわい》いことを言っている教室の隅で、ユカちゃんはただじっと音楽雑誌に目を落としていた。
私は彼女とそれほど仲がいいわけではなかったが、音楽の趣味は似ていたので時々話をした。そしてある日、家にレコードを聴きにおいでよと彼女に誘われた。その時私は彼女からさまざまな悪事を告白されたのだ。ひょえーと驚きながら私は彼女の話を聞いた。禁止されているアルバイトをしていること、歳をごまかして丸井のカードを作ったこと、彼氏の車を無免許運転していること。
聞きようによっては自慢話にも取れた。けれど淡々と話すユカちゃんの横顔は、とても淋《さび》しげだった。そして彼女はぽつんと漏らした。本当は私、大貫君みたいな人が好きだなと。
ビーバップ大貫はいつも友達に囲まれていた。けれどユカちゃんはいつも一人だった。
罪は時に人を魅力的に見せるが、同時に罪は人を孤独の淵《ふち》に追いやる。
人間は純真でもなく、賢くもなく、善良でもない。なのに悪にもなれないのだ。
『ブラック・ティー』は、そんな人達の話である。
[#改ページ]
これは私の人生ではない
誤解を恐れずに言えば、私は作家になりたいと熱望して作家になったわけではない。
二十四歳だった私は、まったく特徴のない平々凡々なOLだった。勤めていたのは財団法人だったので、営利企業のような刺々《とげとげ》しさはなく、いい意味でのんびりと、悪い意味でだらだらしている会社だった。そこで私は電話に出たりコピーを取ったりしていた。完全週休二日制だったし、有給休暇もちゃんと取れる。会社が退《ひ》けると友人と食事や買い物をし、休日にはスキーやドライブにも出掛けた。それはそれなりにとても楽しい毎日だった。
けれど、のめり込める趣味もなく、のめり込める恋人もいず、私はただぼんやりと日々を過ごしていた。そのうち適当な人と結婚して子供を産んでそうして年老いていくのだろうなと漠然と思っていた。そういう人生を嫌悪してはいなかったし、どちらかというとそれを望んでいたように思う。
そんな毎日の中で突然小説を書く気になったのは、言うのも憚《はばか》られるが暇だった≠ゥらだ。
文章を書くのは昔から好きだった。学生の頃から書いている日記は、膨大な量になっている。子供の頃の夢は漫画家になることだったほどだから、あれこれと馬鹿な空想をするのも好きだった。
けれど子供の頃見た夢≠諦めることが、大人になることだと私は思っていた。二十歳を超えたあたりから、私は特殊な職業に就こうなどとは考えなくなっていた。「夢」という単語は私の中から消え、それはただの「予想」になった。
けれど遊びならばいいじゃないか、と私の中のもう一人の私が囁《ささや》いた。アフター5や週末を持て余していた私は、デートや習い事でスケジュール帳を埋めていた。暇という名の巨大な空虚を埋められるものなら何でもいいと思っていた。
そんなつもりで私は小説を書いた。しかしいざ書いてみると、それはデートよりテニスよりも私を熱中させた。
完成した作品を、私は「公募ガイド」という雑誌を見て『コバルト・ノベル大賞』に応募した。そして佳作を頂くことになった。どう考えても、あそこから人生は百八十度変わってしまった。人生は私の考えもしなかった方向に、音をたてて転がりはじめた。
まさか自分が、こんなにも小説を書くということにとり憑《つ》かれるとは、爪の先ほども思っていなかった。示唆するものもなかったし、私には自分が作家になるなんてまるで予想することができなかった。でももうデビューして七年がたった。あと数年はこのまま続けていけそうだ。
今ではもう少女小説は書いていないけれど、コバルトでの三年間の修業時代があったからこそ、何とかこの世界で生き残っているのだと思う。この場を借りて当時の担当編集K氏にお礼を言いたい。深く感謝しています。
[#改ページ]
創作沖縄民謡の青春
誰にでも青春の過ちというものがあるが、私にとってのそれはクラブ活動である。なるべく言わないようにしているのだが、正面切って聞かれると、私は仕方なく口を開く。軽音楽部みたいなのに入ってバンドを組んでたのと。
ほうっと大抵の人は感心してくれる。そしてどんな音楽やっていたのと聞く。
うん、あの、オリジナルをやってたの。私が詞を書いて、友達がそれに曲をつけて、女の子三人でそれを歌うわけ。それを聞いた人々はまた「ほほお」と感嘆の声を上げてくれるが、私は後ろ暗さから、さりげなく話題を変えてしまう。
嘘はひとつも言っていないが、その話は真実を伝えてはいない。
実は、私が入っていたクラブの名前は、フォークソング部である。もう一度言いましょう、フォークソング。アルペジオでフォークギターを爪弾《つまび》いて「なごり雪」あるいは「君と歩いた青春」などを歌っていたフォークソング部の友人達。
当時私は、それがちょっと恥ずかしかったのだ。まだちゃんとした恋愛もしたことのない高校生のガキが大勢で、同棲の哀《かな》しみなんか歌っても滑稽《こつけい》だなと思っていた。そこで私と親友のユミちゃんは、自分達で自分達の歌を作ろうと立ち上がった。
志は立派である。けれど、できた歌は「ソ連風邪の唄」だの「ドンドン商店街音頭」だの、そういうタイトルだった。そんな歌詞を書く私も私だが富山の薬も効きやせぬ、ソ、ソ、ソ連のインフルエンザ≠ネんて詞に、徹夜で曲をつけるユミちゃんもユミちゃんである。
そして私達のバンドの名前が「えてらはいはい」だった。ピーチパイ、シーガルズ、なんてバンド名の中に私達だけ、えてらはいはい。付けたのは、当時沖縄民謡に凝っていたユミちゃんである。めちゃくちゃな創作沖縄民謡を作詞作曲したユミちゃんは、私ともう一人の女の子に、えてらはいはい、はいそけちゃへちゃ、ほっほ、ほっほ、ほっほ、という変な歌を、これまた奇異な振付と共に歌わせたのである。
当時はあまり恥ずかしくなかったのだが、大人になって元同級生から大真面目な顔で「あれはいったいどういうつもりだったの?」と聞かれた時は、死ぬほどこっぱずかしかった。流行《はや》っていたフォークソングを素直に歌っていた方がまだ恥ずかしくなかったかもしれない。
そして大人になったユミちゃんは、結婚式の披露宴の時「高校時代はロックバンドを結成し活躍していた」と仲人さんに経歴を読ませていた。よっぽど創作沖縄民謡を歌ってやろうかと思ったが、恥をかくのは私なので許してやりました。
[#改ページ]
わが青春の一冊
たぶん片岡義男の作品は、ほとんど全部読んでいる。刊行数が膨大なため、二、三見逃しているものもあるかもしれないが、普通に店頭に並んだものならクリアしていると思う。
片岡作品との出会いは、十八歳の時だった。
大学で落語研究会に入った私は、人がいない時間を見計らい、よく部室で昼寝をしていた。というのは、落研の部室は畳敷きで、寒くなると炬燵《こたつ》まであって、先輩さえいなければパラダイス・スポットだったのだ。
その日も私は授業をさぼり、ひとり炬燵でごろごろしていた。畳の上にはエロ雑誌やら漫画やらが散らばっている。その中から一冊の文庫本を掘り出し暇にあかして読んでみた。読みだしたら夢中になり、私は一気にそれを読んだ。そしてはっと我に返り、あたりを見回した。
部室は半地下にあって湿ぼったく、壁には先輩が描いた裸の女の落書きがあり、その下でダニの巣窟《そうくつ》のような炬燵に入っている私。しかも寒いので誰かが脱いでいった半纏《はんてん》を頭から被《かぶ》っている。
こんなことではいけない。半纏を撥《は》ねのけ私は立ち上がった。まだ私は十八なのだ。女に生まれたからには、もっともっとお洒落をして、バイクの免許でも取って、知性と美貌を磨いて大人の恋をしなければいけない。
それから私は、片岡作品を読み漁《あさ》った。かっちょいいぞコラ、と身悶《みもだ》えながら。
彼の作品の良さを、一言で表すのは難しい。ただお洒落≠ナは片づけられない。風の匂い、清潔なシーツの肌触り、決して現実にはいないであろう完璧《かんぺき》な美人。私は透明な青空を見上げるような清涼感をもって、いつも彼の本を読む。
もう十五年も彼の作品を読み続けているが、それで知性と美貌が磨かれたかと言うとそんなこともなく、あいかわらず私はだらだらと寝ころがって過ごしている。最初からないものは磨けないということだろうか。
[#改ページ]
どうしてあなたはそこにいるのか
以前、私は「昼休み」が嫌いだった。
小学生の頃のことは覚えていないが、中学生から二十代の前半まで、私は昼休みをどうしても好きになることができなかった。
勉強している方が好きだとか、仕事をしている方がいい、という意味では決してない。休み時間であるはずなのに、ちっとも休んでいる気がしなかったからだ。
中学と高校の頃は、クラスで仲のいい友達と机をくっつけてお弁当を食べた。食べてしまうと、午後の授業が始まるまでお喋りをしたり、いっしょにトイレへ行ったりした。それはそれで楽しかったが、毎日毎日そうなのだ。たまには一人でゆっくり読みかけの本でも読みたかったが、一度昼休みの教室で文庫本を開いたとたん「クソ真面目」とクラスメートに言われ、私はその後昼休みに自由行動≠取るのをやめたのだ。
社会人になっても、あまり状況は変わらなかった。大抵は会社の女の子達と会議室でお弁当を食べた。外でランチをすることもあったが、その時も誰かといっしょだった。
けれど、そこはさすがに大人であるから、私はたまに「外で人に会う約束がある」と嘘をついて出掛けた。だが、近くの店で一人で食事をしているところを会社の人に見つかったら変に思われるので、わざわざ地下鉄に一駅乗って、一人のランチを楽しんだ。当時とにかく私は、集団から浮いてしまうこと、変な奴《やつ》だと思われること、がとても恐《こわ》かったのだ。
そんなふうに、人が大勢いる場所では細心の注意を払って「平凡」していた私だが、いつからだろう、あまり人の目というものを気にしなくなってしまった。
三十代に入り、多少|図々《ずうずう》しくなったというのも一因ではある。今は会社勤めと違い、一人きりでする仕事だからという理由もあるかもしれない。
けれど、一番大きな理由は、向かって行く方向が決まり、そっちに向かって走っているからだと思う。
というのは、例えばどうしても乗らなくてはならない電車がもうすぐ発車しそうだとしよう。あるいは、大切な人との待ち合わせの時間が目前に迫っているとしよう。
そうしたら、普通、人は走る。これを逃したらヤバイと思えば、大抵の人は一生懸命走るはずだ。そして全力疾走している時には、人目なんかあまり気にしないんじゃないだろうか。ちょっとぐらいスカートがまくれても、ま、仕方ないと思うだろう。
変な人だと思われるより、私は時間を無駄遣いする方が今は恐い。
学生の頃も社会人になったばかりの頃も、私には「どうして私はここにいるのか」が全然分からなかった。
学校にはどうして色のついた靴下を穿《は》いてきてはいけないのか、どうして文庫本を広げたぐらいで「クソ真面目」扱いされなければならないのか、どうして大学の入試問題はただ意地悪なだけなのか、どうして会社に入って最初の仕事が、男性社員の湯飲み茶碗の柄を覚えることだったのか。
そして三十代への階段を少しずつ上がって行くうちに、私はものすごく簡単なことに気がついた。
嫌なら別に、やらなければよかったのだということに。
大学に行くのは親に頼まれたわけではない。入試が嫌なら就職すればよかったのだ。職場のルールもくだらないと思うなら、やらなければいいだけのことだ。それでぎくしゃくするようなら、転職すればよかったのだ。
けれど私は、それをやった。
大学に行きたかったから歴史の年号も覚えたし、面倒だった社員旅行も、その仕事と職場を大切にしたかったから行ったのだ。
今、自分がしていることは、人に押しつけられたことだろうか。自分で選んで、していることではないだろうか。くだらない細かいルールも、人間関係が円滑にいくように気を使っているのも、今自分が「ここ」にいるためにやっていることだ。
そう思えるようになって私は楽になった。
ひとりひとりが暮らしている世界は狭いし、その狭い世界には信じられないようなくだらないルールと、それを頑《かたくな》に守り、守らない人間を攻撃する人が必ずいる。
でも私たちが、その人の逆鱗《げきりん》に触れないように気をつけているのは、何もその人が正しいと思っているからではない。「ここ」からさらに「もっと先」に行くために、くだらない揉《も》め事《ごと》に時間を取られたくないからだ。
時間は無限ではない。くだらないと思うことに、その限りある時間を取られるのは悔しい。馬鹿馬鹿しいことに「馬鹿みたい」と言えるために私は走っている。まくれたスカートからパンツが見えて笑われても。
[#改ページ]
あぶない独り遊び
私には、ギャンブルの血は入っていないように思う。とりあえず麻雀も競馬も花札もサイコロも教わってやってみたことはあるが、どれもお金と情熱を傾けようという気にはならなかった。
なのに、パチンコだけは何故か嵌《は》まってしまったことがある。寝食忘れ、家事も仕事も放り出し、パチンコ屋に通いつめた時期があった。
朝っぱらから、怪しげなおじさま方や元気いっぱいのおばさま方といっしょに店の前に並び、開店と同時に前日から目星をつけておいた台に突進するのだ。
一日の予算はだいたい二万円というところだった。はじめたばかりの頃は可愛く「一日三千円」なんて決めて、地味に羽根台なんかをやっていたのに、たかが三千円でもただ取られるのが悔しくなってきて、私は「勝ちたい」と思うようになった。
そうなるともう、やるからにはやる、という性格が災いして、私は「パチンコで勝つこと」に夢中になった。同じ店の同じ種類の台に焦点を定め、パチンコ雑誌を読み漁ってドラムの回転数やフィーバーの頻度を研究し、睡眠時間も削って(昼間はパチンコをしているので原稿執筆は当然夜になる)、私は玉を弾《はじ》き続けた。
結婚もしていたし、印税もそこそこ入って生活にはわりと余裕があった。だからこそ事態は余計悪化した。徐々にお金がお金に見えなくなって、百円玉(当時まだCR機は普及していなかった)がただのゲーム用コインにしか見えなくなっていた。
しかし相手はコンピュータ制御の機械なのだ。素人がそうそう勝てるわけもない。パチプロになるほどの元手も根性もない、私のような半端な人間が一番パチンコ屋を儲《もう》けさせていたに違いない。
一日二万円と決めていたはずなのに、ある日、何故だか引くタイミングを逸してしまったことがあった。財布の中に下ろしたばかりの印税があったのもいけなかった。あと一万円入れれば出るかもしれない。それがなくなると、もう一万円、そしてまた一万円。
正確には覚えていないが、たぶん八万か九万円私はその台に入れ、結局閉店の時間になり泣く泣く引き上げたのだ。
それに懲《こ》りてぷっつりパチンコを止めた、というわけではなく、それからも二年ぐらいは勝ったり負けたりして続けていたのだが、いつの間にかパチンコ屋に足が向かなくなっていた。
何故か。それは今度「ファミコン」に嵌まったからだった。またもや私は寝食忘れ、家事を忘れ、ファミコンのコントローラーを操り続けた。
ギャンブルの血は入っていないが、どうやら「独り遊び」の血が私には入っているようだ。認めるのは悔しいが、小説もその延長線上にあるように思えてならない。
[#改ページ]
男は本気、女は浮気説
男の浮気と女の浮気の大きな違いは、それが自覚的であるかないかということだと思う。
男の人は浮気をする時「よーし浮気するぞ。でも彼女にはばれないようにするぞ」と意気込むだろうが、女の人はなかなかそんなサッパリとはいかない。
あら、私ったら恋人がいるのに何だかあの人が気になるわ。好きになっちゃったのかしら。二人きりでデートしてみたいわ。私を奪って南の島に連れてってー、なんて具合である。
こういう女性はいつでも本気だ。それって単なる浮気じゃないと指摘しようものなら、さめざめと泣かれてしまう。こんなにつらい思いをしてるのに、どうしてひどいことを言うの。私はあの人が本気で好きなのよと。
でも大抵の場合、今の相手と今日や明日に別れるというわけではない。何故なら彼女は様子を見ているのだ。この恋が本当に本気の恋かどうか。
恋愛における本気というものを「ある特定の相手とのみ、継続的に関係を続けていく意志」みたいなものを指すとしよう。こう考えてみると、私は少し男の人に同情してしまう。
何故なら、男の人が本気になるのには、精神的にも物理的にもかなりの覚悟を必要とするからだ。
もし目の前の女性に対する好意が浮気でなく本気であると宣言したならば、彼は翌日から定期的に電話を入れなければ文句を言われるだろうし、デートをするならするで彼女が喜びそうな店を探さなければならないし、勘定だっていつも割り勘というわけにはいかないだろう。帰りは送って行かねばならず、彼女の誕生日を忘れようものなら流血|沙汰《ざた》になりかねない。
そして彼女は、少しでも彼が「怠けてる」と感じると、今の関係を続かせながらもこっそりと次の男性を探す。今度こそ本気で愛してくれる男性、南の島へのチケットを買ってくれる男性を探しては乗り換えていく。これでは男はたまったものではない。
賢明な男性は、本気でない女性とは一度遊んだら彼女と連絡を取るのをやめるだろう。彼女から本気を求められたらたまらないからだ。ところが案外彼女が優しくて可愛かったりするとつい関係を継続させてしまい、彼女の「本気の罠《わな》」にはまってしまうのだ。
さて、ここまで読んで不愉快になった方は、ちゃんと恋愛をしたことがある人だと私は思う。何故なら「恋」というのは全然そんなものではないからだ。恋愛と恋愛ゲームは似ているようで全く違う。
恋に男女差はない。本当の恋に落ちたら、誰に頼まれなくても相手に誠意を尽くすだろうし、浮気というものがどれほどリスクを伴う、割りのあわない行為であるか分かるはずだ。
浮気は恋ではない。単なる摘まみ食いである。こっそりとお菓子ばかり大量に口にしていたらどうなるか、子供でなければ誰でも分かるはずだ。
[#改ページ]
『ブルーもしくはブルー』
『ブルーもしくはブルー』は、私の本の中では非常に特殊な本である。特に思い出深いとかテンションが高かったとかそういう理由ではなく、私の小説の中で唯一現実離れした話≠セからだ。
ドッペルゲンガーというのをご存じだろうか。完成したとたんに創作メモを捨ててしまったので曖昧なのだが、確か心理学用語だったか、グリム童話のグリムさんが作ったか、どちらかだったと思う。
ドッペルゲンガーというのは要するに自分の分身で、いつの間にか分裂して違う人格を持った「私」である。心理学の分野ではそれを自らの影として扱い、深層心理に潜む隠れた人格を指しているようだ。グリムさんの方は、童話とは別に大人向けのホラーのようなものも書いていて、ドッペルゲンガーに自分の家も財産も名誉も奪われるという話をたまたま私は読んだのだ。とても面白かったので、これを下敷きにして何か書けないかと思ったのがこの本の始まりだった。
当時私は結婚をしたばかりで、激変した生活のリズムにかなり戸惑っていたように思う。住む所と家族が変わったことによって、マイペースには自信があった私が生活のパターンを変えざるをえなかった。違う人と結婚していたらまた違う生活を体験したのだろうなと思ったところでこのストーリーが生まれた。もし私にドッペルゲンガーがいて、どこかで別の人生を送っていたらと考えた。それは楽しいような恐いような感じがした。
私には苦手な現実離れした設定だった。いかにリアリティーを与えるかが課題で、舞台になる福岡のことも詳しく調べた。何度書き直したか分からないぐらい手を入れ、これで大丈夫と編集者に太鼓判を押されても私は不安で仕方なかった。くだらない夢物語と鼻で笑われそうな気がしていた。
それが出版されてみると、ドッペルゲンガーの話であるというよりは、結婚生活の葛藤《かつとう》のようなものに迫力があったと言われて胸を撫で下ろした。けれどそれからは再びこのような冒険をする勇気が湧《わ》かず、身近に起こりうる現実的な話しか書いていない。
リアリティーというのは本当に難しいとしみじみ思う。例えばついこの間高視聴率を取った「ロングバケーション」という連続ドラマを見ていて思った。私は話の筋を追うというよりは都会生活のプロモーションビデオのように「今週の南ちゃんは何を着てるかな」と楽しみにしていた。だがピアニストの二人がコンクールを前にしてバスケットをするのはどう考えても変だったし、お金のないはずの女主人公はどう見ても裕福そうな暮らしぶりである。でもそれを現実通りに作ったらどうだったろう。ロマンティックな画面は消え、夢はなくなってしまったと思う。
現実をそのままそっくり描写することだけがリアリティーではないことを勉強した本だった。近い将来また夢物語≠ノ挑戦してみようと思う。
[#改ページ]
勇気について
あなたは勇気ある人ですか、と質問されたら、大抵の人は頭など掻《か》きつつ「いやあ、まったくないわけじゃないけど、あるともいえないなあ」などと曖昧に笑うに違いない。
それにはもちろん、謙遜《けんそん》の意味も含まれているだろう。けれど確かに「勇気」という単語の前では多くの人が少し居心地《いごこち》の悪い思いをするのではないか。
それは、どんな人にでも必ず「恐いもの」があるからだろうと私は思う。
空手の有段者なのに異常にジェットコースターを恐がる男性を知っているし、普段は明るいのに異性の前では急におとなしくなってしまう女の子を知っている。通勤に車を使ってはいるが知らない道は恐いので寄り道など絶対しないという人もいるし、どうしても恐くて飛行機に乗れないという人もいる。
皆、失敗が恐いのである。失敗して嫌な思いをしたり、痛い思いをしたり、人に白い目で見られたり、事故に巻き込まれて命を落としたりするのが恐いのだ。
しかし、恐いことを避けるのはいけないことだろうか。誰しもが好奇心を持って未知の世界にどんどんチャレンジして生きていかなくてはいけないと誰が決めたのだ。
恐い思いをせずに、心穏やかに過ごしていたいと思うことを「勇気がない」と私は言いたくはない。
子供の頃の私は極端な恐がり屋で、心霊写真や苛《いじ》めっ子や母親の叱責《しつせき》など色々恐いものがあったけれど、何よりも恐かったのが跳び箱だった。
運動神経の鈍い私はもちろん普通の開脚跳びも恐かったが、一番恐かったのは両脚をぴったり揃《そろ》えて跳ぶ閉脚跳びだった。
脚を揃えてあの大きな跳び箱を跳び越えるなんて、どう考えてもできそうもない。失敗したら頭から床に叩きつけられるかもしれない。そう思うと一歩も足が動かなかった。
先生は私のために段を低くしてくれて、失敗しても大丈夫だから思い切って跳んでみなさいと私を励ました。
失敗しても大丈夫なんて、大人のくせに無責任なことを言うなと私は思った。怪我《けが》をするのは私なのだ。先生は体育が得意だから私のような運動神経の鈍い子供の気持ちが分からないのだとすら思った。
クラスメートは次々と勇気を出してチャレンジしていった。案の定跳び箱に足がつっかかり、派手に転んで怪我をしている子もいた。そして結局、頑に跳ぼうとしなかったのはクラスで私一人だった。先生は呆れた顔をし、もう私を励まそうとはしなかった。
私のその傾向は大人になっても変わらず、スキーに行けば急斜面で思わずスキー板を外し徒歩でとぼとぼ下りてしまうし、海に行っても決して背のたたない深い所には行かなかった。しかし斜面を気持ちよさそうに下りていくスキーの得意な友人や、シュノーケリングを楽しんでいる泳ぎの得意な友人を見る度、胸がちくちくと痛んだ。
どうしても跳び箱を跳ぶ勇気が持てなかった子供の頃の、あの後味の悪さが胸を刺した。
しかし、こんな私でも今まで二度ほど「すごく勇気がある」と人々から言われたことがあった。
それはこの職業に就くために勤めていた会社を辞めた時と、六年間の結婚生活を解消して離婚をした時だ。
人に指摘されてみて「そうなのかも」と思ったけれど、自分ではそれが勇気ある行動だとは思わなかった。ということはつまり、恐くはなかったのだ。不安は山ほどあった。けれど、どうしてもそうしたかったので迷いがなかった。
会社勤めをしながら頑張って文筆活動をしている方は何人もいるし、うまくいかない結婚生活を今は試練の時なのだと頑張って続けている人もいる。そのことだって非常に勇気のあることだと思う。
やめる勇気とやめない勇気の、そのどちらにも共通していることといえば、それは自分の意志で決定して、それを貫いたということかもしれない。
人の意見に耳を傾けるというのも、ある種勇気であると思う。けれど逆に、人の言うことに左右されないという勇気もあるのではないか。
自分、というものがない人は、自らの意志で物事を決めるのが恐いわけで、だから人の意見を聞きたい。そしてその結果を人のせいにしたい。
勇気がある人というのは、そう考えると「自分がある人」をさすのかもしれない。
若い頃に恐くてできなかったことで、今はわりと平気になったことが沢山ある。
例えば、以前は電車の中でお年寄りに席を譲ることでさえ、余計なお世話だと言われたらどうしようと思うとできなかった。でも今はたとえその人から「まだ私は年寄りじゃない」と叱《しか》られても、自分を不必要に責めたりはしないし、恥ずかしいとは思わない。
図々しくなったとも言えるが、少しずつ経験を積んで、自分の失敗に対して過敏に反応しなくなったわけだ。
失敗して傷ついたり怒られたり笑われたりするのが若い頃は嫌だった。それは結局自尊心が傷つくからだ。恰好が悪いのは嫌だった。恥をかくのが嫌だった。
今では恰好よりも大切なことが少しずつ分かってきた。スキーと水泳はきっとできたら楽しいだろうと思うので、機会があるごとに少しずつ練習している。けれど跳び箱だけは絶対嫌で、大人になってそれをしなくてよくなったことに、私は大きな安堵《あんど》を覚えている。
[#改ページ]
悪党のフグちり
生まれて初めてフグを食べた。山本文緒、三十三歳、秋の出来事である。
この歳になるまでフグを食べたことがなかったのは、特に理由があってのことではない。若い頃はお金がなかったし、フグなんて噂《うわさ》によると淡白な魚で、高いわりにお腹にたまらないと聞いた。それよりはお肉でも食べた方がいいと思っていた。
しかし私も若い若いと思っていたら、いつの間にか三十路《みそじ》を越えた。脂っこいものが胃にもたれるようになり、フランス料理のフルコースなんてとても全部食べられないし、食べたら食べただけ自らのお肉となってお腹や背中にくっつくようになった。
これからは量より質の大人の食生活を送らねばと思っていたところで、「小説すばる」編集Y氏が打合せをかねて何か御馳走《ごちそう》してくれるというではないか。それならフグ食べさせて下さいと臆面《おくめん》もなくお願いしたのであった。
ちょうど家のそばに目をつけていたフグ屋があったので、そこへ行った。メニューを見てびっくりした。高いだろうと思っていたがやっぱり高いのである。けれど接待経験豊富のY氏はその時少しも慌てず、ピンの方の店に行けばここの倍以上だねとニヒルに笑った。私は「はあ〜」と感心するばかり。
そして初めて食べたフグは……予想を遥《はる》かに上回るおいしさで感動しました。けれど確かに二十代の時だったら、この値段でこの量はなかろうと怒ったかもしれない。
フグそのものを食べたのは正真正銘初めてなのだが、実は私は最後のおじやだけは食べたことがあったのだ。会社員をしていた頃忘年会でフグちりがあり、私はその日残業で、宴会の会場に駆けつけた時にはすっかりフグはなくなり、おじやが始まっているところだった。まあ仕方ないとおじやを食べたら、これが仰天するほどおいしかった。
というような話を、コース料理の最後のおじやを食べながら話すと、突然Y氏が「何をお?」と怒りだすではないか。
山本さんね、それはね、大人として、いや人間として一番してはいけないことだよ。一番汚い奴だよ。許せないね僕は、とヒレ酒ですっかり酔っぱらっているY氏はからみだすではないか。
山本さんね、みんなはね、この最後のおじやを食べたいがために、我慢して最初からずっとコースを食べるんだよ。遅れて来て、空きっ腹にこのおじやだけ食べるなんて悪党のすることだよそれは、と彼は力説した。
「はい、すみませんでした」と殊勝に頷《うなず》きながらも、私は最後に残ったおしんこをポリポリかじり、今度どこかでフグの宴会があった時は、一時間ほど遅れてから行こうと決心していたのであった。
[#改ページ]
年末年始帰省日記
1996年 12月30日
午前十時起床。今日から実家に帰るので、「TVガイド」を見ながらお正月番組をいくつか録画予約した。ビデオは一台しかないので、百八十分テープの三倍速でも九時間しか録画できない。散々悩んで何とか九時間分の予約をした。「ボキャブラ天国」なんか撮ってるからいけないんだよな。でも見たいし。
久しぶりに帰ると、実家は留守だった。誰もいない。猫までいない。台所には作りかけのお節があり、猫の茶碗は空だった。玄関の鍵は開けっぱなしで書き置きもない。みんな蒸発してしまったのだろうかと思ったら、まず猫が帰って来てハラ減ったと鳴いた。一時間後、生協の大荷物と門松を抱えて母帰宅。父はこの年の瀬に誰かのお通夜に出掛けたそうだ。
夜は倉庫と化している自室で原稿書き。年末年始でも仕事モードなのは、世間に対する厭味《いやみ》なわけではなく、人が働いている時にふらふら旅行に行ったりするからだ。
仕事を終えて風呂に入り、缶ビールを飲みながら広瀬正『マイナス・ゼロ』を読み就寝。
12月31日
九時半起床。天気がよかったのでベランダに布団を干す。
原稿を書いていたら、猫がやって来て膝に乗せろと大騒ぎをした。老猫で先も長くないだろうからとかまってやると、今度は母親が買い物に行くから荷物持ちについて来いと言う。孝行したい時に親はナシ、と呟《つぶや》いて仕方なく出掛ける。ついでに、元旦は混んでるので近所のお寺に一日早い初詣《はつもうで》≠ノ行く。そういうところは我が家はフレキシブルなのだ。
途中で喫茶店に寄り、お茶を飲む。私が高校生の時からある喫茶店で、内装もメニューも全然変わってなくてタイムスリップしたみたいだ。母は、そのうち猫とお父さんがいなくなったらお正月はハワイとか行こうねと言っていた。ああ、高齢化が進んでいる。当然のようにレシートを押しつけられ、値段だけは上がっているコーヒー代を払う。
大人三人じゃ大晦日《おおみそか》といっても特に盛り上がらず、だらだら紅白を見る。早寝早起きの父は九時には既に眠そうにしていた。「もうお風呂に入って寝たら?」と言ったら「安室奈美恵を見てから」と言うので驚いた。どうやらファンらしい。にこりともせず安室奈美恵を見た父はお風呂に入りに行き、上がって来ると今度は「小林幸子を見たら寝る」と言っていた。
ビールを飲みながら、母と二人で「ゆく年くる年」を見ているうちに年が明けた。
1997年 1月1日
実家では今ゲームボーイが流行っている。正月だというのに父と母はそれぞれ黙々とやっている(二台ある)ので、対戦用ケーブルを買ってあげようかと思ったが、それもまた喧嘩《けんか》の元かと思い直す。
元旦だといっても初詣は大晦日に行ってしまったし、実家にはテレビが二台あるけど、父と母がそれぞれ好きなものを見ていて私にはチャンネル権はないし、あまりの暇さについ仕事をしてしまった。
ビールを飲みつつ『マイナス・ゼロ』の続きを読み就寝。夜中に猫が布団に入れろと顔を叩いた。
1月2日
両親は兄夫婦といっしょに親戚の家に行ったので、猫と留守番。
私が親戚付き合いをしなくても全然文句を言われないのは、たぶん離婚経験のせいだと思う。皆に何か言われたら可哀相《かわいそう》だと思っているのか、それとも私がいたら皆が気を使うから連れて行かないのかどちらだか知らないが、思いがけず面倒な義務から解放されて密かに喜んでいる私。
一人でのんびりテレビを見たり、残り物のお節を食べたりした。暇なので思わず原稿を書き、猫の写真を撮って遊んだ。私の夢はタマの写真が猫めくり≠ノ採用されることである。
1月3日
昼前に起きだしたら、テレビとエアコンが点《つ》いているのに父と母がいなかった。また蒸発か、と思ってテレビの前に座ったら箱根駅伝をやっていた。駅伝はうちのそばの国道を通るので、どうやら二人で見に行ったらしい。一時間後に両親が沿道で配られる読売新聞の旗を持って帰宅。することもないし、私は東京のアパートに帰ることにした。母にお餅と煎餅《せんべい》とクッキーとお茶を持たされる。
四日ぶりの自分の部屋は、一人きりだけどやはりほっとする。年賀状と郵便を見てから近所のスーパーへ食料品を買いに行く。トーフとキムチでチゲ鍋を作って食べ、春に発売になる日記エッセイ(『そして私は一人になった』)の十二月分を仕上げた。この月カド用の日記を書き、本物の自分の日記も書いた。変わったことはなんにも起こってないのに、何故だか日記ばっかり書いてる。
留守録してあった年末の「SMAP×SMAP」を見、ふと人恋しくなって誰かいないかと暇そうな人三人に電話をしてみたが、田舎に帰っていたり海外旅行に出ていたり風邪で寝ていたりしたので、仕方なく「一人ごっつスペシャル」を見た。
『マイナス・ゼロ』は読み終わってしまったので、若竹七海『ぼくのミステリな日常』を読んで寝る。
[#改ページ]
一人で暮らす本当の理由
一人暮らしは淋しい。二十代の真ん中まで親元で過ごし、そのまま結婚して離婚して実家に戻り、二年前にやっと独立したのだが、思った通り一人暮らしは淋しかった。
何しろ仕事が小説を書くことなので、真面目に仕事をすればするほど一人きりなのである。一日中ただひたすらにワープロを打っていることも多い。夜になると食事を作って一人で食べ、テレビを見ては一人で笑い、適当に切り上げて風呂に入り、ベッドで本を読んで眠くなったら眠る。たまには打合せもあるし、遊びに行くことだってあるけれど、週の半分以上を私はこうして一人きりで過ごしている。淋しくないと言ったら嘘になるだろう。
だったら実家で両親と暮らしていればよかったのだ。人は大人になったら親元から独立すべきと言う人もいるが、私は必ずしもそうとは思わない。人に著しく迷惑をかけているのでないなら、家族とずっと暮らし続けることはちっとも悪いことじゃない。離れて暮らすことが自立の必要最低条件だとは思わない。
けれど私は家を出た。出戻ってからの両親との暮らしは、大人三人猫一匹の静かで和やかなものだった。若い頃のように遅い帰宅や外泊を叱られることもない。でも私は一人で暮らすことを選んだのだ。
対象喪失、という言葉を心理学の本を読んでいて見つけた。
人は生きていく過程で様々なものを失っていく。安心してしゃぶりついていた母親の乳房を突然取り上げられ、抱いて眠っていたぬいぐるみはいつしか必要でなくなる。学校を卒業するということは通い慣れた環境を失うことだし、宇宙飛行士になりたい、アイドル歌手になりたいという幼い頃の夢も、現実に押し流されて失っていく。
しかし、子供の頃には唐突で理不尽に感じ絶望さえした対象喪失も、年齢を重ねていくに従って「そういうものだ」とある程度割り切れるようになる。学生時代の友人とは次第に会わなくなり、結婚すれば今まで自由に使っていた時間を家庭のために割くようになる。けれどそれは新しい友人や、自分で望んで作った家庭が大切だからだ。何かを失うと代わりに必ず何かを得るということを、いつしか人は納得していく。
恋を失うとそれに割いていた時間とお金があまり、大抵はまた次の恋を得る。職を失ったらしばらく朝寝坊できるし、可愛がっていた犬や猫の死は悲しいが、必ず後に充実感とある種の解放感を得るだろう。
私は同居人を失ったことで、見たいテレビがいつでも見られるようになり、いくらでも本が読めるようになった。出掛ける時にいちいち行き先を言わなくていいし、三日続けておでんを食べても、昼過ぎまで眠っていても、何十時間も続けて仕事をしても誰にも迷惑はかからない。
だから私は一人暮らしを選んだ。人がそばにいる安心感を失っても欲しい自由があったのだ。しかし理由はそれだけではない。自由だけなら、気の持ちようでいくらでも得ることができる。
それは母が数年前から口にするようになった言葉が原因だった。猫とお父さんがいなくなったらお正月はハワイに行こうね、猫とお父さんがいなくなったら家を建て替えようかしら。嘆くでもなく、母はごく自然にそう私に言うのだ。母はきっと、成人病を多く持っている父より、自分は長生きすると確信しているのだろう。
以前ある俳優が配偶者と寝室を別にしているとインタビューで答えているのを読んだことがある。その理由を問われると彼はこう言っていた。ずっといっしょに寝ている人がある日死んだらどうします? 昨日までいっしょに寝ていた人が明日からはいなくなってしまうなんて、私には耐えられそうもないと。
人はそうして準備をしている。そう遠くない未来に必ず失ってしまうものを覚悟しておくことによって、対象喪失の痛みを少しでも軽くしようとしているのだ。
私もいずれ家族を失う。その時に取り乱さないために、離れて暮らすことによってあらかじめ失っておきたい、それが本音かもしれない。気儘《きまま》に暮らす私、という傘に隠されたそういう自分の臆病《おくびよう》さに最近やっと気がついて、少々呆れたりもしている。
[#改ページ]
コンプレックス
そもそも劣等感というものは、自分より優れている人がそこに存在するが故に生まれるものです。ということは、それは「私よりまさっている人がいるなんて許せない」という傲慢な感情とも言えるのではないでしょうか。
それが言い過ぎならば、十人中八人ができることを自分ができなかった時、少数派であることが恥ずかしくて耐えられない、そういう「人並み願望」の表れであるとも言えるかもしれません。
けれど、人は弱い生き物です。異質なものに拒否反応を起こし、似ているものをよしとする風潮は確かにあって、その中で少数派として孤立するということは、想像以上に厳しいことだと思います。
十代から二十代にかけての私の三大コンプレックスは「極端な上がり性」「毛深い」「運動音痴」という結構シビアなものでした。
たかが教科書を朗読するだけでどうして足が震えてしまうのか、私の手足は他の女の子達に比べてどうしてこんなに毛深いのか、私だけが最後まで跳び箱が跳べないのはどうしてなのか。
当時それは深刻な悩みでした。人にはそれぞれ得手不得手があるし、持って生まれた体の特徴は仕方がない。そう達観することなどとてもできず、このコンプレックスから逃れるためなら何でもしようと思いつめていました。
上がり性なのは、要するに自意識過剰なのだと自分に言い聞かせ、わざと人前で何かしなければならないようなクラブに入って場数を踏むことにしました。毛深いのは生まれつきなので仕方ない、貯金をしていつかエステで脱毛しようと心に決めました。しかし体育の授業だけはどうしようもなく、同じような運動音痴の女の子と肩を抱きあい、暗く慰めあっていました。
そして大人になり、上がり性は努力の甲斐《かい》あって少しはマシになり、毛深い悩みはお金はかかるけれどエステにて解消されつつあり、運動音痴に関しては、体育の授業がなくなった時点で特に努力をしなくても自然と解消されました。
では、それでコンプレックスの全てが解消されたかというと、そうではありません。
極端な上がり性は直っても、人が大勢いる場所では不必要に緊張してしまうという基本的な性格は変わりませんし、長年の運動不足がたたって体力がなくすぐバテてしまいます。
でも私は昔のように、それを何としても克服しようとは思わなくなりました。私はもう自分で自分のことを許してあげることにしたのです。
人が大勢集まるパーティーには極力出掛けず、エステにかけるお金は他の楽しみに使い、疲れた時は人に迷惑をかける前に家に帰ることにしました。それでも十分楽しく毎日を過ごせることに気がついたのです。
人は皆、自分に自信がないのです。
自分のことは自分が一番分かっているし、自分が一番大切だと思いがちですが、実のところ自分というものをちゃんと理解し、心から慈しんでいる人は少ないように思います。
自分が今不幸なのは欠点があるからで、それさえ克服すればきっと人々から愛されるに違いないと躍起になってしまうのは、大勢の人から評価されることによって、やっと自分で自分を好きになれるからなのかもしれません。それほど人は、自分に自信がないのだと思います。
でも心の安定を、他人の評価にだけ頼っていると、人の何気ない一言に舞い上がったり、激しく落ち込んだりしなければならなくなります。
劣等感というのは自分を高めるジャンピングボードになることもありますが、扱い方を間違えると、他人の目を気にしてびくびくし、満ち足りた気分を味わえないまま一生を終えるということになりかねません。
上ばかりを見すぎていると、必然的に足元が危なくなるのです。
いつも爪先立ちでいるのではなく、ちゃんと踵《かかと》をつけて歩きながら、少しずつコンプレックスを克服していったらいいのではと私は思います。
[#改ページ]
読むのもほどほどに
世の中にはものを読む人と読まない人の二種類がいる。ものすごく読む人≠ヘ本の年間購読数が百冊を超えるかもしれないし、ほとんど読まない人≠ヘ年に二、三冊、しかも仕事か何らかの義務で仕方なく、という感じかもしれない。
さて、どちらが偉いだろうか。どちらが頭がいいだろうか。どちらが豊かな生活を送っているだろうか。
私は以前当たり前のように、そりゃ読書家の方がそうでない人より優れている、と思っていた。けれど最近とみに思うのだ。全然ものを読まない人というのも問題はあるがものすごく読む人≠ニいうのも、どこか少し欠陥があるのではないかと。
私自身は結構読む人≠ナあると思う。
小説を書くことを生業《なりわい》としているので、もちろん好きで、自らすすんで多くの本を読む。だが特に読みたいわけではないけれど資料として必要に迫られて読む本もあるし、仕事として読まなければならない本もある。本も好きだが雑誌も好きで、これも自分で買って読んだり、時には送って頂いたものを(せっかく送ってくれたのだからと)読む。こんなことを言ったら作家として失格かもしれないが、明らかに文字を書いている時間より、読んでいる時間の方が長い。
本や雑誌以外でも、私は旅行のガイドブックと電化製品等の取扱説明書も熟読する。このふたつは、とにかく隅から隅まで目を通さないと気が済まない。ずいぶん最近まで、私はそれを普通のことだと思っていた。けれど、どうやら私のような人間はかなり少数派であるらしいと気がついたのだ。
私は旅行が大好きで、国内でも海外でも年に何度かは時間とお金をやり繰りしてどこかへ出掛ける。その時、私は必ずガイドブックを手にしている。行きの飛行機や特急の中で私はそれを熱心に読み、現地に着いたらよく地図を見て、自分が泊まっているホテルの位置とその周辺に何があるか、良さそうなレストランはあるか、観光はどこへ行ったらいいか検討する。一日が終わるとホテルのベッドの上でまたガイドブックを読み返し、明日のプランを立て、その手の本には大抵その国なり土地なりの歴史も書いてあるのでそれを読んで「なるほどー」などと感心する。
けれど、と言うか、だから、と言うか、私の旅行の同行者は大抵の場合まったくガイドブックを見ようとしない。私がまるで添乗員さながらの活躍を見せるので、すっかり安心して何もしなくなってしまうのである。その結果私は苛々《いらいら》することとなる。どうして私ばかり今夜のレストランの心配をしているのか、私ばかりが明日のプランに悩んでいるのかと。リラックスしに来たはずの旅行なのに、私はちっともリラックスしていないのだ。
つい先日も、私は母親を連れてハワイのカウアイ島という島へ行った(最初に言っておくけれどカウアイ島に行ってみたい≠ニ言ったのは母の方だ)。私もこの仕事に就いて十年、超格安ツアーなら母親をハワイへ連れて行けるぐらいの余裕もできたので、それでは行きましょうということになったのだ。
そして私は、いつものようにガイドブックを読み漁り、母はいつものようにただ人の後について来ては景色《けしき》を眺め「あら、まあ、ふーん」という感じだ。だいたい来たいと言いだしたのは母の方なんだし、せこいようだが今回は私がお金を出しているのだから「少しは次に何したいか、ガイドブックでも見て考えなさいよ」と厭味を言ってしまった。けれど母は「そうねえ」と言って笑うだけでまるで反省の色がない。
そして旅行の最後に、成田空港駅で別れる時母は言った。今回は何の予備知識もなくて、どんな所だか分からないまま行ったからすごく面白かった、どうもありがとう、と。
感謝された私は、もちろん嬉《うれ》しい気持ちもあったのだが、それより愕然としてしまったのだ。
つまり私のしてきたことは予告編をたっぷり見て、あらすじをバッチリ読んでから映画を見るようなもので、母はどんな内容かまったく知らずに(面白いらしいという評判だけ小耳にはさんで)映画を見たようなものだ。どちらがより面白いかそれはもう明らかだろう。
私にはそういう傾向がある。
例えば通信販売で買った組み立て家具。私は説明書をちゃんと読んでからその通りに組み立てる。でも友人知人(もちろん母親も)は口を揃えて「そんなものは読まない」と言う。そんなの適当に組み立ててみて、分からなかったら読めばいいだけじゃない、と皆は軽く言う。
いつから私は、こんなに頭でっかちになってしまったのだろうか。
何故人はものを読むか。暇潰しであったり読むといい気分になったり、いろいろと理由はあるだろうけれど、つまるところそれは知識を増やすためだと思う。電車の中で本や雑誌や漫画を読む人は、ただぼんやりしているよりは、何か読んでいる方が少しは時間の有効利用になると思って読んでいるわけだ。でも、よく見てみるとぼんやりしている人もいる。その人が「時間の無駄をしている」ように見える人は要注意だと思う。
もちろん、ものを読むことは楽しいことだし、いいことだと思う。けれどこんなにも情報過多になった世の中を見回してみると、私にはあんまり読まない人≠フ方が動物的勘であるとか、情緒という点で優れているのではないかと実感する時がある。
次々にむさぼり読むことよりも、大切なことがあるような気がして、私はこの頃わざと鞄の中に文庫本を入れないで出掛けるようにしている。
[#改ページ]
無意味な旅
初めて子供だけで旅をしたのは、高校の卒業記念旅行だった。幼なじみの女の子三人で山中湖に二泊三日で出掛けたのだ。
それまでキャンプや修学旅行の経験はあっても、自分達だけで宿から特急の切符まで全部手配したのは初めてだったし、それに対して親から許しが下りたのも初めてだった。
私達は完全にはしゃいでいた。高校を卒業するまでは駄目、と言われていたこと全部が許される日がきたのだ。私達は全員卒業式が済んだとたんにパーマをかけ、顔にファンデーションと口紅を塗りたくって意気揚々と旅に出た。
しかし一日目、山中湖は雨だった。
初日の予定は湖一周サイクリングである。でも誰も計画を変更しようとは言わなかった。三月の冷たい雨が降る湖のほとりを、一番お気に入りの服を着て、似合いもしない厚化粧をした私達三人は自転車を借りて走りだした。
最初のうちは追い抜いたり追い抜かれたり、はしゃいでいた私達も、道が湖を離れ山道にさしかかった頃「何やってんだ」という気になってきた。雨はどんどん激しくなるし、雨宿りをする場所も見当たらない。やめるにしろ続けるにしろ、とにかく自転車を漕《こ》いで宿まで戻らなければならない。
無言になって急な坂道を自転車を押して歩いている時、誰かが「写真撮ろうか」と言いだした。「そうだね」と誰かが答えた。そしてちょうど通りかかった車を道路に立ちふさがって無理矢理止めて、シャッターを押してもらった。地元の人らしいそのおじさんが「送って行ってあげようか」と言ってくれるのではないかと密かに期待したのだが、おじさんは笑顔ひとつ見せず無情にも走り去ってしまった。
仕方なく私達は、ずぶ濡《ぬ》れのまま延々と冷たい雨の中、自転車を押して宿まで帰った。
そして二日目、山中湖はまた雨だった。
若さ爆発な私達も、もうさすがに誰も出掛けようとは言わなかった。パジャマのまま民宿の炬燵でみかんやお菓子を食べてごろごろしていた。その日一日中つけっぱなしになっていたテレビでは、ピンク・レディーの解散コンサートをやっていた。
三日目も山中湖は朝から雨だった。馬鹿らしくなった私達は予定より早く地元の横浜に戻り、そしていつもの喫茶店で「帰りたくないねー」と言って、門限までだらだらと時間を潰した。
そして十六年後、私の手元には、同じようなちりちりのパーマと変な化粧をした十八の私達が大雨の中で力なくピースサインを出している写真と、パジャマのままピンク・レディーの物真似をしている写真が残っている。
若者というのは本当に馬鹿である。でも無意味なことが無意味に楽しく、無意味に可笑しかった頃には二度と戻れないんだなとその写真を見る度思う。
今ではもう、彼女達と会うこともほとんどない。
[#改ページ]
本音を恋の切り札に使う方法
恋をすれば必ず人は猫をかぶる。私はそんな女じゃないわと自負している人も、やはり無意識のうちにそうしているはずだ。何故なら、多かれ少なかれ、相手に自分をよく見せようとすること(同時に相手を美化して見ること)を恋と呼ぶからだ。
そして恋は永久には続かない。恋の終わりは予想以上に早くやってくる。自分をよく見せようとすることに疲れ、そして相手の正体を知って(勝手に美化していたことなどすっかり忘れて)ガッカリする。どうして恋は続かないのか。どうして人は猫をかぶり通せないのだろうか。
さて「本音」と「たてまえ」という言葉を並べて聞くと、「たてまえ」の方が悪者のように聞こえる。それは、人の思考と行動の基準が「本音」と「たてまえ」の二種類しかないように感じるからだろう。しかし実際は、その両極端の思考のみを使って人は生きているわけではない。その間にある、大きくて曖昧なその人の性格と習慣≠ナ、ほとんどの思考決定をしていると言える。
たとえば、本音をあなたの部屋の押入れだとしたら、たてまえは部屋の窓に掛けられたカーテンだ。そしてあなたの性格と習慣≠ヘ、あなたの部屋全体をさす。
あなたはあなたの部屋で生活している。友人から電話がかかってくれば元気な声で応《こた》え、実家の母親からだったら「仕事でクタクタ」などと愚痴をこぼして甘えることもあるだろう。そして相手が片思いの男性だったら急に猫なで声になったりもする。宅配便が届けばドアを開けて受け取るが、訪問者が新聞の勧誘員だったらあなたはドアを開けないかもしれない。友人や恋人は部屋に招いても、あまり気の合わない同僚や上司なんかには「遊びに来てね」なんて言わないだろう。そこには本音もたてまえもない。ただ性格と習慣があるだけだ。
そしてあなたは、朝は仕事に出掛けるため、夜はお風呂に入るために部屋の中で服を脱ぐ。あなたはその時、窓のカーテンを閉めるだろうか。普通は閉める。
ところが先日、こういうことがあった。私が今住んでいる所はわりと密集した住宅地で、しかも部屋が三階にあるので、まわりによその家の窓がたくさん見える。ある夜、しまい忘れた洗濯物をとりこもうとベランダに出た時、向かいのアパートの窓から女の子が着替えているところが見えて驚いた。電気を点けた部屋というのは、意外と外からよく見えるのだ。お風呂上がりらしいその子は呑気《のんき》に扇風機なんかにあたっていたが、申し訳ないけどパンツ丸見えである。私が男ならラッキーと喜んだだろうが、残念ながら私は同性なので「カーテンを閉めろ!」と思った。
「たてまえ」というのは、そういうものであると思う。人口密度の高いこの社会で、人々がいやな気分や摩擦を味わわずに暮らしていくための知恵である。
けれど、一年中カーテンが閉めっぱなしの窓というのも気味が悪い。人のいる気配はある。だが決してそのカーテンは開けられることがなく、住民の顔が分からない。それはそれでかなり恐い。たてまえだけしか言わない人は、そういう理由で疎《うと》まれる。
さて本音であるところの押入れだが、あなたの押入れは開けっぱなしだろうか。一人きりの時はまあ閉め忘れることもあるだろう。けれど友人や恋人が遊びに来る時は、あなたは押入れを閉めるだろう。もし私が誰かの部屋に遊びに行って、押入れが開けっぱなしになっていたらぎょっとする。いくら中が整理|整頓《せいとん》されていたとしても、そこはやはり見ないでおきたい場所なのだ。
恋というのは、相手を自分の部屋に上げることだと思う。実際に部屋に入れるかどうかではなく、新聞勧誘員には決して開けない心のドアを開け、相手を招き入れるのが恋である。
まあ最初のうちは、押入れを開けて見せたりはしないだろう。けれど長い付き合いになってきた時が問題だ。
押入れの中に入っているものというのは、古いアルバムであったり、とっておきの勝負下着であったり、子供の頃から捨てられないぬいぐるみであったり、こっそり通っている英会話のテキストであったり、雑誌のウェディング特集号だったりするだろう。
あなたは恋人に、それを見せたくなる。ひとつひとつのエピソードを語って、普段は隠してある部分を知ってもらいたくなる。理想の自分を演技するよりも、抜けきらない幼さや他人には言わないでいる性欲や向上心や、将来への漠然とした不安を、あなたは彼に分かってもらいたくなる。そして何気なさを装ってその扉を開けた時、彼は押入れを覗《のぞ》き込《こ》もうとするだろうか。あるいはさっと目をそらすだろうか。
猫をかぶることが恋であるならば、そうして本音を知ってもらいたい、と思ってしまった瞬間、実はもう恋は終わりを迎えているのかもしれない。けれど、彼があなたの押入れに興味を持つ可能性はある。タイミングさえ気をつければ、恋といういつかは壊れる脆《もろ》い関係ではなく、しっかりお互いに根づく、信頼という名の人間関係が始まるのだ。
[#改ページ]
こまかいお仕事
日常のわたし 2
朝は六時から八時の間に起きる。午前中に仕事をして、午後と夜は好きなことをする。好きなことといっても大抵は仕事の続きか、プールに泳ぎに行くか、英語学校に行くかのどれかである。
ここまで書いて愕然《がくぜん》とした。いや読み手の方には失礼なのだが、私が個人的に驚いただけの話である。
本誌(「青春と読書」)に「日常のわたし」とタイトルをつけたエッセイを書かせて頂いたのは、もう三年半も前である。その時も私は朝八時には起きて午前中は仕事で午後はスポーツクラブか英語≠ニ書いているのだ。私の日常は何も変わっていない。びっくりである。
この間には、本当に色々なことがあった。激動の三年半だったと言っても過言ではない。
二度の引っ越し、十七年生きた飼い猫の死、かなり深刻な体調不良。新しい友人が増えた代わりに、何人もの古い友人と疎遠になり、大きな声では言えないが手痛い失恋もあり、遅ればせながらパソコンを導入し、FAXと掃除機を新しく買い換え、携帯電話だって持った。
なのに毎日の暮らしに変化はなかった。朝起きてパン食べてコーヒー飲んで洗濯して、原稿書いてお昼を食べてまた原稿書いて、飽きたらプールに行って英語の宿題をやって長風呂して眠る。私は特に休日を設定していないので、土日祝祭日だろうが同じである。こうなると、命尽きるまで延々と続いていくような気がしてちょっと恐《こわ》い。
そういうわけでたまに旅行に行く。放っておくとその調子で点のない文章みたいなベタな毎日を続けてしまうので、適当なところで点を打つため私は旅に出る。
日常からちょっと外れられればいいだけのことなので、実は場所はどこでもいい。けれどまあ国内よりは海外の方がいい。国内だとつい自宅の留守番電話を聞いてしまうし、次の締切りが気になって早めに旅行を切り上げて帰ってしまったりするので、帰りの飛行機が決まっている海外の方が潔く日常から逃れられる。
といいつつも、実は旅に出ても私の毎日はそう変わらない。旅先でのパターンは朝起きてちょっと出かけて買い物して、お茶かビール飲んで煙草《たばこ》吸ってシャワー浴びて何か書いて寝る≠ニいう感じだ。バリ島でもアラスカでも香港でもロンドンでもニュージーランドでも同じだった。だったら金かけてわざわざ旅行に行かなくてもいいだろうと人に言われたことがあるが、まったくその通りである。
だから私がいっしょに旅をしたくない人は、やたら夜に遊びたがったり、長距離を歩きたがったり、購買意欲がまったくなかったり、安ければなんでもOKというタイプの人である。私は疲れたら多少ボラれてもいいからタクシーに乗りたいし、夜は部屋でのんびりしたいから、高級とまでいかなくても清潔な部屋に泊まりたい。別にブランド好きなわけではないが、一応免税店もチェックして化粧品なんかを買い込みたい。
誤解のないように言っておくが、何も地球の歩き方系の人が嫌いなわけではない。ただ私があまりにも体力がなくて根性なしなだけである。
私のお気に入りの旅の友の一人に、同業者のYさんがいる。彼女とは今まで三度旅行したが、とにかく呼吸があうのでびっくりした。
まず二人とも早起きなので、必然的に夜は眠くなる。とりあえず観光はするけれど、どちらかというとのんびりしたい。食事の量もほぼ同じ、トイレに行きたくなるタイミングもだいたい同じ。喉《のど》が渇いたら缶ビールを半分ずつ飲み、お互いスモーカーなので遠慮なく煙草が吸える。そして何よりYさんは基本的になんでも一人でできる人≠ネので放っておいても大丈夫なのだ。待ち合わせの時間を決めて、お互いバラバラに行動できるのは気楽だし楽しい。
まあでも、Yさんは気配りの人であるので、ずいぶん私のペースに合わせてくれているのだと思う。ありがたいことである。
けれどひとつ、これが私達が気のあう理由だと確信したエピソードがあった。バリ島での出来事である。
私達は夕方、ホテル前のビーチからボートに乗って沖に出た。ボートは四人ほどしか乗れない小さなものだが一応サンセットクルーズ≠ナある。ガイドは地元の男の子だったが、自称プロサーファーで大会に出るため日本に行き、そのまま何ヶ月か滞在していたと言っていた。そのせいか彼は日本語がうまかった。結構楽しく話をして、ボートが海岸に近づいた頃彼は言った。
「これからマッシュルーム食べに行かない?」
私とYさんは顔を見合わせた。バリ島に来る前にそのトリップするキノコのことを散々人から聞かされていて、機会があったら食べてみようかと話していたのである。
けれど三十秒ほど私達は目で会話し、ノーサンキューと言った。良識ある行動といえばそうだし、意気地なしといえば意気地なしである。しかし後で二人になってから話してみたら、私達は同じようなシミュレーションをしていたので大笑いした。
いかにも遊んでそうなインドネシアのビーチボーイに、ラリってやられちゃうのは百歩譲ってよしとしよう、でも有り金と身ぐるみ剥《は》がれるのは厭《いや》だと。
私達は強い刺激に介入されるより、お茶飲んで煙草吸ってふんわりしていたいだけなのだ。ドラッグなんか必要ない。
口約束だけで進んでゆく仕事、一生独身かもしれないこの身、気をつけていないと入金されないことのあるギャラ。そういう刺激に終わりなき日常を邪魔されないよう、私はまったりと暮らしてゆくのである。
[#改ページ]
いやなものはいや
手の内をばらすようだが、私が「忙しい」と言ったら、それはたいていの場合うそである。
時折のんびりしすぎて原稿の締切りが目前に迫り、本当に忙しい場合もあるのだけれど、そういうことは稀《まれ》である。何故かというと、忙しいのが嫌いだからだ。
もともとそういう傾向はあったのだが、ここのところ人付き合いの薄さは顕著になり、原稿仕事も自分一人が食べていける分だけの無理ない範囲でしか引き受けなくなった。たいていの宴会は断るし、友人知人の結婚式にも行かないし、もちろん中元も歳暮も贈らない。いいご身分で本当にすみません。
申し訳ないとは思っているのだが、では罪悪感に苛《さいな》まれているかと言えばそんなことは全然ない。いつも不義理をしているので、とりあえず年賀状だけは書いているが、これもいつ放棄するか分かったものではない。
まだ(もう?)三十代の半ばだというのに、何だか若さが足りない感じである。でも厭なものは厭で、やりたくないことはどうしてもやりたくないのだ。
たかがお茶でも単なるお酒でも、人から誘われれば必要とされているのだと嬉《うれ》しく感じる。人を誘うのは勇気がいることだ。自分が誰かを誘った場合、断られたら多少は傷つくしガッカリしたりもするので、人から誘われたらなるべく断らないでいようと、二十代の後半まで私は無邪気にそう思っていた。
私があまり人の誘いにのらなくなったのは、あるきっかけがある。古い友人と気まずく別れてしまったからだ。
彼女は実家が近所で、学生の頃は顔見知り程度だったが、大人になってから親しくなった。共通の友人を交えてお酒を飲んだら、思っていた以上に気の合う感じがして、二人で会うようになった。癖のない、明るい感じのする子だった。
電話をかけてくるのは、いつもその子の方からだった。というのは、彼女は結婚して子供がいて仕事も持っていたので、もうこの仕事を始め会社勤めをしていなかった私の方が時間に余裕があったからだ。私の方から電話をしても彼女はいつも忙しく「私から連絡するね」と言って電話を切ってしまった。
彼女からの連絡は決して頻繁ではなく、忘れた頃になるとひょっこり電話をかけてきて、ご飯でも食べないかと誘ってきた。
時間があればOKしたし、忙しい時は日延べしてもらった。適当な所で待ち合わせをして、二、三時間何か食べて軽く飲む。お互いの近況と他愛《たわい》ない話をして笑う。そういう関係が数年続いた。
問題ないと言えばまったく問題はなかった。そういう関係の友人は他にもいたし、彼女のことが特別大好きでも特別|鬱陶《うつとう》しくもなかった。何しろ恋人なわけでも親友というわけでもないのだ。
なのに、ある日私が一方的に腹を立て、私達の関係は終わることになった。今でも時々考え込むことがある。いったいあれは何だったのだろうと。
それは突然起こったことではない。徐々にだが私はその子に違和感を抱きはじめ、会うのが億劫《おつくう》になってきていた。というのは、彼女の話のほとんどが愚痴だということに気がついたからだ。
愚痴なら私も言う。しょっちゅう言っているような気がする。なのに何故、他人の愚痴が聞けないのか。自分の心の狭さ、冷たさに愕然とした。
彼女の愚痴は、普通程度のものだった。家庭があって仕事があって、テレビも見る間がないような毎日ならば、そりゃ愚痴ぐらい言いたくなるのは当たり前だ。その忙しい時間を割いて、彼女は時々私に会いたがってくれるのだ。
簡単な食事をし、軽くお酒を飲みながら彼女は私に仕事先での不満、家庭での不満、将来への漠然とした不安なんかを口にした。日常のささいなことから、一生をどう生きるかという根本的なものまで、彼女は悲惨さを滲《にじ》ませるでもなく、笑い飛ばすようにして話した。
私はこういう職業柄、やはり人から相談事を持ちかけられることが多いように思う。私の方も普通の人の日常の悩み≠ノかなり興味を持っているので、わりと喜んでそれを聞いたりもする。
他の人の愚痴は平気なのに、何故だか彼女の話だけが鼻についた。彼女は「最近はどう?」と私にも尋ねてくれた。だから会話が一方通行だったというわけでもなく、第三者がそこにいたら、私が腹を立てる要素は何もないと判断するだろうと思う。
けれどまあ、彼女に会うのも多くて半年に一度ぐらいのことである。そのうち自然消滅するだろうと私は踏んでいた。
そんなある日、彼女からいつものようにひょっこりと電話がかかってきて、時間ができたから夕飯でも食べようと言ってきた。私は気が進まなかったので「今日は忙しい」と断った。だが彼女は珍しく引かなかった。
「実は聞いてほしいことがあるんだけど、会って話せないかな」
何やら深刻な感じでそう言うので「じゃあ明日は?」と提案すると「今日じゃないと時間がないの」と彼女は答えた。近所まで行くからちょっとだけでも会えないか、と言われてしまって私は考え込んだ。そして会うことを承諾した。きっと何かどうしても聞いてほしいことがあるのだろうと思った。悩みというのは口に出せばある程度落ちつくものである。私もそういう経験があるので、苦しい時はお互い様だと思って出掛けて行った。
ところが、彼女に会っていつものように軽く食事をしたら聞いてほしいこと≠ニいうのが、いつもと同じ話だったのだ。仕事の愚痴、配偶者の愚痴、将来の不安。私は仕方なく話を合わせて適当に笑い、適当にビールを飲み干した。胸の中がもやもやしていたが、何も言ったりはしなかった。店を出て駅まで一緒に歩いて、彼女は切符を買った。そして改札口で彼女はこちらを振り向いて「またご飯でも食べようね」と言った。その時私の中で何かがぷつんと切れた。考える間もなく私は言っていた。
「悪いけど、もう電話しないでくれる?」
彼女はきょとんとしていた。まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかったに違いない。あっけにとられている彼女を置いて、私は逃げるように家へ帰った。それからもう彼女から電話はない。それでも電話してくるほど鈍感な子ではなかったことに、心冷たい私は感謝している。
私がいけなかった部分は多いと思う。
関係というのは両者の合意の下に成り立つものだから、どちらか一方が合意しなかっただけで関係は壊れる。壊したのは私だ。
彼女の話がつまらなかったから、彼女が自分のことばかり話したから、彼女に魅力がなかったから、私は厭になったのだ。何と傲慢《ごうまん》なのだろうと思うが、こればかりは仕方ない。
どこにでもある、誰にでもある、ささいなエピソードである。けれどこれは、私の人生を大きく変えた出来事だった。
もう随分前から彼女が愚痴しか言わないことは分かっていた。しかも呼び出すのはいつも彼女の方で、胸の中のもやもやを話すことですっきりさせて、そのもやもやを渡された方の私はただぽつんと残された。
それなのに会っていたのは、私はきっと見返りを求めていたのだろうと思う。
これだけ聞いて|あげた《ヽヽヽ》のだから、私も何かあった時に存分に愚痴が言えるに違いない。確かに私はそう思っていた。しかしそれは叶《かな》わなかった。彼女は忙しすぎた。私が連絡をしても会うどころか電話で五分、話を聞いても|くれなかった《ヽヽヽヽヽヽ》。
強烈にエキセントリックで厭な性格の人となら、最初からはっきりと拒否できただろうからこんなことにはならなかった。彼女は私に激痛ではなく鈍痛を与え続け、私はそれを厭だ厭だと思いながらも、見返りを求めて受け入れてきたのだ。
半端な社交性を持った二人が起こした厭な出来事だった。半端な気持ちで人に優しくすると、無意識のうちに見返りを求めてしまうのが人間だと思う。そうでない立派な人も世の中にはいるだろうが、私は自分の欲深さと弱さを自覚した。
だから私はなるべく気が進まないことはやらないようにしている。厭なことは厭だというのが、他人や自分に対する礼儀のような気がしているのだ。
彼女とは年賀状のやりとりだけは続いている。いつかまた気持ちよく会える日が来ると私は信じたい。
[#改ページ]
本屋は遊ぶところ
かなり大きくなるまで、私は有隣堂が日本で一番大きな書店だと思い込んでいた。
有隣堂というのは、神奈川県在住の方なら必ず知っている書店である。県内にチェーン展開をしていることは確かだが、他の都道府県に店舗を持っているかどうか私には分からない。残念ながら私は有隣堂に縁やゆかりがあるわけではないので。
この有隣堂の本店が、横浜市の伊勢佐木町にある。地下一階、地上四階か五階(記憶が全然定かでなくてすみません)建てのビル全部が有隣堂書店である。
子供の頃「これはでかい」と目眩《めまい》を起こすほど感心した。本屋といえば近所のおばちゃんがやっている小さな書店か、駅ビルのフロアの一角にある店しか知らなかった私には衝撃だった。誕生日やクリスマスに親に連れられて行く度「でかい」と感心し、好きな本を買ってもらった。そして地下一階のレストランに連れて行かれて「うわ、大人の店」と、不二家にしか連れて行かれたことがなかった私はまたもやカルチャーショックを受けた。
そのうち親に連れられなくても、自分で電車に乗って行けるようになった。けれど高校生になっても、有隣堂本店に足を踏み入れる度に「でかい」と私は感心していた。もうその頃には行動範囲が渋谷ぐらいまでは拡大していたけれど、伊勢佐木町の有隣堂より大きな書店を見つけることはできなかった。
だから私は恥ずかしながら(いや、ちっとも恥ずかしくないぞ)二十歳ぐらいまで有隣堂というのは全国で一番大きな書店と信じて疑わなかった。
しかしある日、東京都出身の人と本屋の話をしていたら、その人が有隣堂を知らないと言った。何故? と思った。街の小さな書店で見つからない本は有隣堂でなくては探せないではないか、と私が言ったところ、いや別に紀伊國屋も三省堂も丸善もあるから、とあっさり言い返されてしまった。そして私は真実を知った。神奈川県規模でしか生きていなかった私はショックを受けた。
そして新宿の紀伊國屋書店に足を踏み入れるやいなや、私は長年連れ添った有隣堂に後ろめたさを感じつつも別れを告げ、紀伊國屋に夢中になった。何しろ本があるのである。
探している本というのはとかく見つからないものである。有隣堂で見つからないものは注文するしか手がないと思っていた私が、そういうわけで、紀伊國屋で見つからないものは仕方ない、というようになっていった。
だがしかし、ここ数年の間に本は通信販売で買えるようになった。私は某運送会社の書籍宅配システムを使っているのだが、これが予想以上に早く届けてくれてありがたい。今では欲しい本は迷わずに通信販売で買っている。
では書店に行かなくなったかというと、そういうことは全然ない。かえって本屋に行くのが楽しみになった。本を探さなければならないという切迫感がなくなったので、逆に書店はゆったり遊べる場所になったのだ。
新刊は小さな書店でも平積みしてあるので、大きな書店に求めるものは、やはり既刊の充実度である。ぶらぶらと歩いて、普段は縁のない分野の棚から変わったタイトルやきれいな装丁の本を取り出してみるのは、とても楽しいことである。
書店をぶらぶらする場所というふうに考えるようになって、私は別れたはずの有隣堂に頭を下げて縒《よ》りを戻させて頂いた。やはり私のナンバーワン書店は有隣堂本店である。今は横浜に住んでいないので、そうちょくちょく行くわけではないが、今でも関内方面に行ったら必ず有隣堂に立ち寄る。
何度かリニューアルし本の配置も変わったようだが、建物は昔のまま横浜らしくレトロな雰囲気だ。そして改めて「でかい」と思う。有隣堂本店のでかさは一階のフロアをぐるりと囲む中二階のせいだなと大人になった私は気がついた。それがあるせいで見上げる天井は非常に高い。一階の本棚が中二階のそれと繋《つな》がって見えて、それは壮大な感じである。
地下のレストランがなくなってしまったのが残念だ。大きな書店にコーヒーショップは必要不可欠だと思う。思いがけず出会った真新しい本を手に、嬉しさににやにやしながらコーヒーと煙草で一息つける場所があったなら、こんな幸せなことはないだろう。
[#改ページ]
アンカレッジの寒い寿司屋〜アラスカ〜
アンカレッジは地味だった。世界的に名の知れた街が、行ってみると意外に小さかったりするのはよくあることだが、私が知っている中でも一番地味な街はアンカレッジだった。
そこは木枯らしの吹く寒々しい街だった。寒いのは当たり前である。何しろ行ったのは真冬だ。冬のアラスカ州が寒くないわけがない。しかし理由はそれだけではない。ほんの少し前までアンカレッジといえば航空便の重要な中継基地だったが、冷戦終了後シベリア上空を飛べるようになったので、ヨーロッパ行きの飛行機はもっぱら直行便になった。だから今は成田からアンカレッジへ行くには、わざわざシアトルで乗り継ぎをしなければならない。
アンカレッジに一泊したのは、アラスカの内陸にある温泉地にオーロラを見にいった帰りだった。オーロラツアーの最終日にアンカレッジ観光も含まれていたのだ。
しかしアンカレッジは寂《さび》れていた。動物園に連れて行かれたら、雪の平原のはるか遠くにへら鹿とトナカイがぽつんといただけだった。それでいやな予感はした。そうしたら案の定、ダウンタウンの店の三分の二ほどは閉まり、日本語で買い物できます、と書かれた店には日本語どころか英語も怪しいメキシコ人らしき男が一人で店番をしていた。
ガイドは「どうせ一泊だしホテルの近所の日本料理屋で夕食を食べるように」と勧めたが、そんなことを素直に聞くような人はわざわざ極寒の中オーロラなんか見に行かない。私達は小耳に挟んだアンカレッジ一おいしい寿司屋≠目指して凍った道を歩きだした。雪に足をとられつつ、人っ子一人歩いていない道を震えながら三十分強(徒歩十五分と言われたのでタクシーに乗らなかった)歩き、寿司屋の入っているホテルにたどり着いた。しかしベルボーイはおろかフロントにも人影がない。やっと見つけた従業員に寿司屋はどこかと聞いたら「数日前に板前がどこかへ行ってしまって帰って来ない」と言われた。仕方なく我々はでかくて立派で、でもほとんど人の姿のないショッピングセンターのファーストフードコーナーでピザを食べた。
だが不思議と腹は立たなかった。何だか私は寂れたリゾート地みたいなアンカレッジが気に入った。オーロラ温泉のやや過剰なサービスにちょっと疲れていたので、そっけない街並みを眺めぼーっとしていたら、意外にもストレスが抜けた。誰にも邪魔されずにぼんやりしたかったら、南の島より私はアンカレッジをお勧めする。
[#改ページ]
添い遂げる口紅
いまだかつて口紅を一本、最後まで使いきったことがない。これは女としてとても恥ずかしいことかもしれない。若いうちはあれこれ試してみても、もう(まだ?)私は三十代も半ばである。そろそろ、これぞ私に似合った色、というものを探し出して落ちつかなくてはいけないと思う。しかし季節毎に売り出される新色の広告を見て、私は懲《こ》りずにうっとりしてしまう。引き出しの中には、数えきれないほど何本もの口紅が眠っているというのに。
恥ずかしながら私は流行《はや》りものが大好きで、ワンシーズンだけのものと分かっているデザインの服もつい買ってしまうし、いち早く携帯電話のストラップにキティちゃんをつけて、まわりの人に笑われた。しかしいくら馬鹿にされようとも、新しい流行りものを身につけるとウキウキする。
一生もの、という言葉に若い頃は私も騙《だま》された。一生ものだという高いバッグ、高いコート、高いスーツ。みんな今取り出してみると垢抜《あかぬ》けない感じであるが、あまりにも高価だったので捨てるに捨てられない。だから今私は服や鞄《かばん》はリーズナブルなもの、口紅やマニキュアはミニサイズ、買い換えることを前提にして身の回りのものを揃《そろ》えるようにしている。飽きたら潔く捨ててしまうか、魔が差して買ってしまった高価なものは、母親や年下の友人に貰《もら》って頂いている。
けれどこんな私でも、いつの間にか定番になっているものが増えてきた。仕事の密度が若い頃に比べて増えて物理的に時間がなくなり、そう何でも流行りものを追いかけてばかりもいられなくなったからだ。例えば、次々と新しいものを試してみるのが好きだったオーデコロンも、好きな匂《にお》いが見つかって今はそればかり使っているし、この歳になって初めて仕立てのいい無難なスーツ≠ェどれほど役立つか実感したのも事実だ。ちゃんとした場に出ていくのには、いかに目立たないお洒落《しやれ》をすることが重要であるかを私は知った。
そして、先日こんなことがあった。身内を褒めるのは何だけど、久しぶりに母親と待ち合わせをして外で食事をした時、母のスカーフと口紅の色がいやに素敵だったのだ。それ買ったの? と思わず聞くと、「何言ってんの。いらないからってあなたがくれたんじゃない」と笑われた。よく見るとそれは、昔背伸びして買ったエルメスのスカーフと、少し使っただけで飽きたベージュの口紅だった。返してとは言えず、私は内心地団駄を踏んだ。
変化のスピードは人それぞれだけれど、人は基本的に停滞に耐えられないものだと私は思う。けれど、飽きることを前提にものを選ぶというのはやはりどこか間違っているのかもしれない。それは恋と似ている。いつか終わることは分かっていても、惚《ほ》れた瞬間は一生添い遂げたいと思い込む方が真摯《しんし》な姿勢だ。結果はどうであれ、最後まで使いきりたいと思う色の口紅を、これからは買っていこうと思う。
[#改ページ]
微妙な年齢
自分の歳を人に打ち明けるのがわりと好きだ。というのは、その時のリアクションが人それぞれで面白いからだ。
「若いですね」というのが一番多い返答である。何も私が実年齢より若く見えると自慢しているわけではなく、社交辞令としてはそう言うのが一般的だからだ。私だって人から歳を聞いた時は「(その歳にしては)お若いですね」ととりあえず言っておく。老けてますね、というような意味のことを言っていいのは、明らかに十代か二十代前半に見える人にだけだろう。その時だってちゃんと「落ちついてるね」と言葉を選んで遠回しに言わなければならない。
年齢を打ち明けた時、次に多いのは律儀に自分の歳も打ち明けてくれる人だ。そして何故か年上の人にそれは多く、「三歳上です」などと具体的に数字を挙げてくれる。それに対し年下の人は、何やら気まずそうな顔をする。悪趣味だが、その居心地《いごこち》が悪そうにお尻をもぞもぞさせている姿を見るのは面白い。
たまたま同い歳だったりする時も、結構|可笑《おか》しい。私は十一月生まれなので、同じ年に生まれた人も早生まれの人は「学年がひとつ上」になる。すると突然そこに先輩後輩関係が生まれる。学年というのは不思議である。たった数日しか誕生日が違わなくても、何となく年上と年下の関係になってしまう。
私は昔から人に歳を聞くのが好きだった。初対面の人やあまり親しくない人、特に女性に年齢を聞いてはいけないというのは常識であることぐらいの知識はあったのだが、どうも実感としてピンときていなかった。
私は人の歳に興味があるのだ。他人を観察したい≠ニいう作家の性《さが》なのかもしれないが、今よりもっと若い頃は、面白いなと思う人がいると、私は我慢しきれず干支《えと》なんかを遠回しに尋ねていた。けれどある日、親しい友人に「人に歳聞くのは悪い癖だよ。それって余計なお世話だよ」と諭《さと》されてしまった。
確かに、いく人かは明らかに気分を害しているようだった。特に年長と思われる女性がそうだったので、もしかしたら若さを自慢しているように取られていたのかもしれない。
しかし、やはり不思議な感じがする。年少であることに優越感やその逆の罪悪感を持ったり、どこで生まれて育ったのか、今どこでどんな仕事をしているのか、と同じような興味のレベルで歳を聞いたのに「余計なお世話」だとされてしまうのはどういうことなのだろう。
人は誰でも順番に歳をとる。それはどんな人にでも同じスピードでやってくる。努力してきた人も怠けていた人も、その歳に見えるか見えないかは別として、同じスピードで歳をとる。そういう分かりやすさが私は好きだ。
年齢を重ねている人が人徳があるとか、皺《しわ》が美しいというのは欺瞞《ぎまん》であると私は思う。歳をとっても馬鹿な人は馬鹿なままだし、若い女性の肌はやはり美しいと思う。けれど歳をとったら賢くあらねばならないと誰が決めたのだろうか。肌が老化して醜くなってゆくことは悪いことだろうか。
私が知りたいのは、たとえばレゲエのおじさんの歳である。たとえば銀座のママの歳である。それがいくつと言われても、私はきっと感慨を覚えるに違いない。ありのままというのは普通で自然なことで、それはとても素晴らしいことだと思う。
初対面の人に年齢を打ち明けるのも面白いが、知っているはずの身内に打ち明けるのもわりと可笑しいことを最近発見した。
正月に実家へ帰る度に、私は両親に年齢を申告する。すると彼らは毎年聞いているのに本気で驚く。母は「あらまあ」とため息をつき、父は「間違いじゃないか」と眉間《みけん》に皺を寄せる。
今年(一九九八年)私は三回目の年女である。ますます人々の反応が微妙になってきて面白い今日この頃だ。
[#改ページ]
省エネな日々
子供というのは、どうして意味もなく走るのだろう。
そう疑問に思ったのは大学生の時だった。夏休みに市営プールでアルバイトをはじめて、そこに遊びに来る子供達を見て思ったのだ。監視員である私達が毎日声をからして「プールサイドを走らない!」と注意しているにもかかわらず、子供という奴《やつ》はプールサイドを無闇《むやみ》に走り、必ずや転んで膝小僧《ひざこぞう》を血だらけにして泣きながら絆創膏《ばんそうこう》をもらいに来るのだ。そして昨日そんな痛い思いをしたはずの子が、翌日にはまた朝っぱらから走って<vールにやって来る。
考えてみれば、その頃私は二十歳そこそこだった。ついこの間まで廊下を走っては先生に叱《しか》られていたはずなのに、もう小学生の気持ちが分からなくなっていた。
その市営プールは二十五メートルのただの四角いプールで、ウォータースライダーがあるわけでなし、人工的に波が起こるわけでなし、ただの四角い水たまりである。そこで子供達は朝の九時から五時までみっちり遊ぶのだ(皆近所に住んでいるので昼食を食べに一旦帰ってまたやって来る)。潜っては友達の足をひっぱったりしてじゃれあっているだけで、クロールや平泳ぎでちゃんと泳いでいる子などいなかった。プールサイドにはデッキチェアーもパラソルもないので日陰はほとんどなく、炎天下で飛んだり跳ねたりして水しぶきをあげ、彼らは一日中全力投球で遊ぶのだ。子供おそるべし、である。
でも、確かに自分が小学生の時はそうだった。朝からプールへ行くと、全然休まないで日暮れまで水の中で遊んでいた。今思うと本当に不思議だ。疲れたとか休みたいとか思わなかったのだろうか。
今の私は、スポーツクラブのプールで二十五メートルを一往復しただけで息が切れてジャグジーに入ってしまうし、せっかく海外のビーチに行ってもちょっと海に浸《つ》かっただけで満足し、あとはデッキチェアーで空と海を眺めつつ、昼間からビールなんかを飲んで時間を潰《つぶ》している。
最近の子供達はコンピュータゲームばかりやって外で遊ばないと聞くけれど、どうなのだろうか。身近に小学生がいないので分からないが、身近の二十代の人達は結構夢中になっているようだ。
私も何年か前まではファミコンのヘビーユーザーで、ちょっとでも暇があるとゲームの画面に向かっていた。新しいソフトをセットしてスタート画面が現れた時のあの大きな期待感は、夏休みの初日のわくわく感に近かったように思う。
なのに、いつの間にかやめてしまった。寝食忘れ、仕事を忘れるほど熱中していたのに、ある日ゲームに費やしている膨大な時間がもったいなく思えたのだ。
大人になったのだろうと思う。仕事に対する責任感と向上心が芽生え、ゲームをしている時間があるなら、するべきことがあるじゃないかと自分に言い聞かせたのだ。
体調に気をつけていないと仕事に支障が出るので、ゲームだけではなく、深夜までの飲酒や明け方までの読書もやめた。そしてちょっと時間に余裕ができると「そうだ、少しは運動しなくちゃ」と慌ててスポーツクラブに行くようになった。
なるべく規則正しく、なるべく能率よく、なるべくスムーズに事が進むように、そんなことばかりで頭がいっぱいになっていった。
ところが先日知人に「最近ずいぶん省エネしてますねえ」と言われてしまった。忙しいのは嫌いだと余裕のポーズだけは取っていた私は、内情を見抜かれてしまったのが恥ずかしくて笑ってごまかしたが、結構ショックな一言だった。
楽しいことが好きで、楽しく生きていきたいために、リスクは大きくても自由度の高いこの仕事を選んだはずだったのに、いつしか私は楽しいこと≠謔閾楽なこと≠優先するようになっていたのだ。何だか本末転倒である。
プールの監視員をしていた二十歳の頃、きっと私は大人のふりをはじめたのだろう。最初はただ恰好《かつこう》だけだったのが、歳を重ねるごとに身についていつしか私は本当に大人になった。理由もなく走りだしたり、後先考えずゲームに夢中になったりしなくなった。感情がストレートに行動に出る前に、一旦頭で考えて無駄と思われるエネルギーを使わなくなった。
けれど、この冬初めて大雪が降った日、混乱する交通網のニュースを尻目に小さな雪だるまを作った。雪が降ってもいいことはひとつもない。だが、アパートのベランダに出てこんもり積もった雪を手に取った時、子供の頃のあのわくわくする感じを思い出した。
もう童心には戻れない。けれど残っている記憶のかけらは大切に取っておこうと思った。
[#改ページ]
こいつ、私にジャケ買いさそうとしている
CDのほとんどはジャケ買いである。といっても恰好をつけているわけではなくて、一日のだいたいの時間を字を書くか読むかして一人でしーんと過ごしている私には、どんな人がどんな音楽をつくっているのかよく知らないだけだ。だからたまに「ラジオで聞いたアレを買ってみよう」などと思い立ってCDショップに足を踏み入れると「ついで心」が働いて、その辺に飾ってあるやつを五、六枚購入することになる。まあそれはCDに限ったことではなくて、本でも洋服でも、私はついでに目についたものをまとめて買う。合理的なのか無駄遣いなのか微妙なところである。
さて、スピッツの「名前をつけてやる」は、何かのついでに買われたものではない。実はついさっき駅前の新星堂まで行ってわざわざ買ってきて、まだ包装も解いていない。実は以前ジャケ買いをしそうになって、悩んだ末にやめたきりになっていたアルバムなのだ。そう、あれは例の「ロビンソン」が大ヒットした時それが入っているアルバムを探しにでかけ、CD屋の棚の隅っこで見つけたのだ。こいつ、私にジャケ買いさせようとしている。その時そう思った。何も悪意を感じたわけではないのだが、猫の写真もタイトルも、何もかもが私の購買意欲をくすぐった。天《あま》の邪鬼《じやく》の私はわけもなくその猫ジャケを警戒し結局何も買わなかった。その時一番新しかったアルバムに「ロビンソン」が入っていなかったこともあって(シングルCDを買う趣味はないし)私は自分勝手にヘソを曲げたのだ。
それから何度もこの猫ジャケを見かけた。新しいアルバムが出る度にCD屋ではファーストからずらっと平積みしてフェアをしていたし、遊びに行った友人の部屋にもあって、飲み食いしている間中エンドレスでかけてくれたので「ウーサギのーバイクー」とそらで歌えるようにもなった。そうしてとうとう購入したわけだが、なかなかデッキに入れるに至らない。
|ついでに《ヽヽヽヽ》買ってきた新譜の「フェイクファー」は早速聴いてみた。サウンドがどうとかメロディーがどうとかは畑違いの私には分からないけれど、非常に凝ったつくりのものであることは分かる。実は二度、私はスピッツのライブを見たことがあるのだが、テレビで見ると甘いマスクのボーカルの人と極楽鳥みたいにカラフルなギターの人に目を奪われがちだが、生で見るとベースの人が意外に骨太で男らしい音を出す人なんだなという印象を持った。こういう言い方は失礼なのだろうが、リズム隊がスピッツみたいじゃないのである。
だから、一連のファニーなジャケットと一見ぴったりはまっているようなスピッツの楽曲は、よくよく聴いてみると裏側からそっと男の野心や下心や身勝手さのようなものを補強してあるように感じた。そう思うと、猫ジャケのビニールを破って聴いてみるのが少し恐い気がする。彼らの成功前≠フ音はどんな野心に満ちているのだろうか。
[#改ページ]
私のトイレを返して
つい先日のことである。私は外での仕事を終え、へとへとになって帰って来た。なのに、これから書かなければならない原稿と、読まなければならないゲラや資料があり、ファックスやEメールの返事も溜《た》まっている。お腹がすいていたが先月あたりからずっと胃の調子が悪く、でも時間がないから今日もコンビニ弁当でいいか、最近部屋の掃除もしてないし洗濯物も溜まってたっけ、とあれこれ考えながらアパートの階段を上って行った。
そうしたら、閉めて出かけたはずの玄関のドアが開いていた。鍵《かぎ》を掛け忘れたなんてもんじゃなく、玄関は全開、入った所にすぐあるトイレのドアも全開、その中で持参したらしいライトをこうこうと点《つ》けて、水道屋さんがうちのトイレを壊していたのである。
あんまりびっくりして「どっきりカメラ?」と一瞬思ったけれど、私がどっきりカメラに撮られてどうする。絶句している私の所に大家さんが慌ててやってきて言うことには、下の部屋で天井から相当量の水漏れがあって、やむなく無断で部屋に踏み込んだということだった。そしてその原因が私の部屋のトイレの床を通っている水道管で、少なくとも工事に一週間ほどかかるだろうと、水道屋さんは簡単に言った。
みっちり頭の中に詰まっていた一週間分の段取りがその瞬間に破壊され、考えるより先に私は叫んでいた。
「困ります! 私は家で仕事してるのに!」
それを聞いた大家さん夫妻(老人)はおろおろと水道屋さんに「そうよ、困るのよ。もっと早くできないの」と詰め寄り、言われた水道屋さんは「でもトイレの床を剥がしてみないと、どのくらいかかるか分かんないんだよねえ」と言い、それを見ていた内装業者の人は「水道工事が終わったら、それからトイレのタイルを貼《は》り直すわけですからもっとかかりますね」と至極冷静に言った。
要するに誰が悪いわけでもない。強いていえばアパートの老朽化が原因だ。しかし、だからと言って私はどうすればいいのだ。
トイレも壊れたが私も壊れてしまって「困ります、困るんです」と三十分ほど同じ事をくどくどと繰り返した。言っているうちに何だか力が抜けてきて、終《しま》いには私の口が勝手にこんなことを言い出した。
「一週間くらい実家に帰ってましょうか……」
それを聞いて、大家さん夫妻と水道屋さんと内装屋さんの顔がぱっと明るくなるのが見えた。お前らなあ! と思ったがもう怒る気力が湧《わ》いてこなかった。
不安と憤りの持っていき場所がなくて、つい年上の友人に電話をしてぐちったところ、あっさりこう言われた。
「そんなことはよくあることよ」
そうだった。確かに世の中は不条理で満ちている。私は一週間分の人に会う約束をキャンセルし、すごすごとスーツケースにゲラや資料やノートパソコンを詰めた。
[#改ページ]
日常のわたし 3
三十六歳になった。微妙なお年頃である。年上の友人Yさんが言うには「三十代は身も心もつらいわよ。大変よ」ということだ。彼女の予言はノストラダムスより当たる。今私はいろいろと大変だ。
生え際にちらほら現れた白髪《しらが》はもう若白髪とは言えず、目の下の隈《くま》にはアイクリームとコンシーラーが欠かせず、でもそんなことよりも気になるのは、ここのところずっと疼《うず》きっぱなしの歯茎のことだ。もちろん歯医者に行って相談した。すると歯医者はこう言った。
「どこも悪そうじゃない。疲れとストレスが歯茎に出てるんだろう。あなた、体が弱すぎなんだと思いますよ」
やっぱり。とにかく今の私の体力のなさといったら小学生以下だ。数ヶ月まえ、魔が差して高尾山に登った時それを痛感した。子供でもひょいひょい登るその山で、私はあっけなく貧血を起こして倒れ、帰ってからはまる三日まともに歩けなかった。
朝は数年前と変わらず八時前には起きるのだが、問題は夜だ。起きてから十二時間たったあたりから、ただ部屋の中で原稿を書いてただけなのに疲れ果ててくる。今時、夜の九時に寝る奴がどこにいるって、それは私だ。幸いそれが許される職業なので、そりゃもう寝放題。仕事は昼間のまだ体力のあるうちにやり、あとはもうひたすら休むだけ。こんな状態なので、人にいやがられるほど飲んでいたお酒も今はほとんど飲まず(飲むと具合が悪くなるので)、夜はおとなしくお茶飲んでテレビなんか見ちゃっている。人間変われば変わるものだ。
基礎代謝というものがきっと悪くなっているんだろうと、ストレッチもやったし、ウォーキングもやってみたがどうにも続かない。かつてはスポーツクラブだの水泳教室だの行っていたのが信じられない。三十六にしてもう更年期障害なのか。ちょっと早くないか。でもよく考えてみると、私は生まれた時から食品添加物だの農薬だのにまみれて育った最初の世代であるから、そんなものなのかもしれないとぼんやり納得している。
ノストラダムスといえば、今年(一九九九年)はとうとう恐怖の大王が舞い下りて人類が滅亡する年である。この大予言が流行った頃、確かそれが映画になって(内容は覚えていない)、まだほんの子供だった私は、映画館から出て呆然《ぼうぜん》と地球最後の日を指折り数え「私はその時三十六歳なのね。てことは結婚して子供も二人くらいはいて、地震とか津波とかあったら、自分の身よりも子供を守らないとならないのね」と途方に暮れたのだ。本当の話である。横浜馬車道の映画館を出た時の、憂うつな気分は今もはっきり覚えている。子供だった私にとって三十六歳なんて百年くらい先のことに思えて、それまできっと楽しいことやつらいことがいろいろあって、それをいちいち乗り越えて生きていかなきゃならないのかと思うと本気でブルーだった。今時の言葉で言うところの「うざい」というやつである。
しかし子供の頃に思い描いた未来に今立ってみて、あまりのギャップに自分のことながら面食らう。独身もいいところだし、もちろん子供もいないし、つくる予定もない。今年の夏、恐怖の大王がやってきても守るべき人は特にいない。地震や津波で壊れちゃ困る持ち家もない。実家で可愛《かわい》がっていた猫も二年前に天寿をまっとうしたので、今はほとんど親の家にも帰っていない。
なんか淋《さび》しい。淋しいが気楽である。気楽ではあるが、今年の夏に一人ぼっちで死ぬのかと思うと、自分で選んできたことなのにやや釈然としない思いが残る。小説を書いていなかったら、今頃二人の子持ちの三十六歳主婦だったろうに(とは限らないが)。
生まれて初めての自分の本が出版された時「これで人生が変わるんだ」と、七割の喜びと三割の憂うつをもって思った。芸能人は三日やったらやめられないというが(本当か?)、一回本を出してしまったら、もう行く道は一本だ。三割の憂うつの正体はこれだった。十一年前のあの時から、私の頭の中は常に「次の本」のことでいっぱいになった。デートも買い物も旅行も読書も映画も飲酒も、つきつめればみんな「次の本のため」となってしまった。
これでは結婚できまい。それどころか、自分に食べさせるご飯もだんだんどうでもよくなってきて、ものすごくいい加減なものしか食べなくなって、体のことなんか考えるのが面倒でずっと放っておいたから、さすがに錆《さび》ついてきたのかもしれない。
毎日毎日キーボードより重いものを叩《たた》くことなく、電話は留守番電話にしっぱなしで、友達の家に忘れてきてしまった傘は、もう一年も取りに行けていない。
なんか間違ってる気がする。いろんなことが自分のキャパシティを超えてる気がする。このまま恐怖の大王が、宇宙からプルトニウムをふりまきながら舞い下りてきたらどうしよう。
ま、そういうわけで最近の私は健康を取り戻すべく、またストレッチと一日おきのウォーキング、歯間ブラシを使った歯磨きに打ち込んで、お腹がすいたらコンビニではなく八百屋に行けと大きく書いて壁に貼ったところだ。
そして年上の友人Yさんが、四十歳を超えてから急に元気で幸福そうになったのを一縷《いちる》の望みとして、来るべき新世紀を勇気をもって迎えようと考えている。
[#改ページ]
ビールがいけない──酒中日記
一九九九年三月二十九日
吉川英治文学新人賞を頂き、その授賞式の前に、講談社の書籍編集部の方がお祝いして下さるというので、新宿のパークハイアットの和食屋へ行く。お飲み物は? と聞かれ思わず「熱燗《あつかん》ください」と言ったら「何だと?」という顔をされた。しまった、こういう時は「とりあえずビール」だった。「喉渇いてる時に熱燗をきゅっと飲むと、すごくおいしいんですよ」と言い訳する。半分は本当のことだけれど、食事の前にビール飲むと、おなかがいっぱいになってご飯が食べられなくなるというのがもう半分の理由。ものすごく高級な和食と熱燗を二本頂いた。高いんでしょうね。ご馳走様でした。家に帰ると喉が渇いてしまいビールを飲んだ。夜中に胃が痛くて目が覚めた。
四月九日
いよいよ吉川賞授賞式当日。意外なほど緊張感なし。迎えに来てくださった「小説現代」Kさんの方がよっぽど緊張しているようで、喫茶店で私が紅茶を頼んだら、Kさんはビールを頼んでカーッと飲んでいた。いろいろな偉い方にぺこぺこと挨拶《あいさつ》して授賞式へ。現実感がまったくない。きっと極度の緊張のあまり、脳が勝手に現実感に蓋《ふた》をしちゃったのだと思われる。授賞式の最中にきょろきょろと知った顔を捜す。両親と兄夫妻と角川担当H君が心配そうな顔でこちらを見ていた。
何とか無難に授賞式と一次会をこなし、二次会ですきっぱらにワインを入れた頃から、自分のテンションがおかしくなってきていることに気付く。四十人くらいの方が集まって下さり、その方々全員が知っている人というのは不思議な体験だった。三次会の銀座のバーにも歴代の吉川新人賞作家の方々や、沢山の編集者の方々が来てくださった。深夜二時頃に自分のテンションの目盛が限界を振り切って壊れてしまい、店のおねえさんとエロ話でバカ笑いしていたスキンヘッドの芥川賞作家を「うるさい! 静かにしなさい!」と怒鳴りつけてしまった。店中の空気が一瞬凍り付き、この日一番緊張した瞬間だった。午前四時に帰宅し気絶。
四月十日
午前十時にぱっちり目が覚めたが、二日酔いと胃痛と精神的な落ち込みで起き上がれない。深酒するとその時は楽しくても、翌日は必ず自己嫌悪で死にたくなる。布団の中で一日中めそめそと泣いていたが、夕方になってお酒が抜けてきて、風呂に入ってさっぱりしたら鬱《うつ》もさっぱり抜けていた。そしたらそこで大学時代からの友人が、仕事でうちの近所に来たから一緒にメシ食おうと電話してきた。ナイスタイミング。近所の居酒屋で、抜けたアルコールをまた入れる。その友人はテレビ局でバラエティー番組のディレクターをしている。聞こえはいいが私の何倍も激務である。今日も「俺《おれ》って頑張ってるなあ」と自分で自分を励ましていた。私は読書家の彼の読書ノートを読ませてもらいながら「そうだねそうだね」と適当に相槌《あいづち》を打ってあげた。あいかわらず変な本ばっかり読んでるが『恋愛中毒』が入っていたので許す。飲み代はフジテレビにごちになりました。
四月十四日
女性誌の「アンアン」で、林真理子さんと対談。生まれて初めてプロの人にメークとスタイリングされて私でない私になってしまった。緊張している私に、マリコ先生はすごく親切にしてくださった。慣れない事でへろへろになってしまった私は早く一人になりたくて、出版社の方のお誘いも断り、家の近所のそば屋に直行。思わず熱燗を頼んで一人で打ち上げ。「アンアン」の人がくれたテスト用のポラロイド写真を眺め、一人でにやにや笑ってきゅっと熱燗を飲んだ。案の定家に帰ったら喉が渇いてしまってビールを飲んだ。
四月十六日
午前中から「ドマーニ」という女性誌の取材を受ける。なんとパークハイアットに部屋をとってくれてびっくり。半年前には考えられなかったことだよなあと感慨を覚える。取材のあと、角川の人がパークハイアットの「ニューヨークグリル」でお昼を食べさせてくれた。昨日短編を一本書き上げたとこでもあったし、昼からワインを飲む。高いんでしょうね。ご馳走様。そのあと高田馬場にある、行き付けのお医者さんに行って「最近胃が痛いんです」と訴えたらガスター10を処方された。
四月十七日
日頃のストレスを発散しようと、蓼科《たてしな》高原のリゾートホテルへ行く。仕事がらみでない友人と六人。プールとスパで三時間強ゆっくり遊んだ後、夜は「ジェンガ」というブロックゲームで深夜まで盛り上がった。ジェンガに熱中しているうちに、三人(あとの三人は下戸)でワイン一本と日本酒一本あけてしまう。もちろんビールも飲んだ。
四月十九日
沢野ひとしさんの個展初日のパーティーへ行く。お嬢さんのYちゃんと久しぶりに会ってワインを注《つ》がれるまま飲んで酔っ払い、そのまま角川H君と待ち合わせて、銀座のワインの店でピアニストの谷川賢作さんとお会いする。谷川さんのディレクターの方がワインに詳しいらしく、いいものを厳選してくれたようだが、何だか分からずガブガブ飲んだ。ワインって覚えようとする気がないせいか、おいしいかそうでもないかぐらいしか分からないので、私にあんまり高いワインを飲ませないように。ご機嫌になった賢作さんと私がもう一軒行こう行こうと言って、銀座の渋いバーに連れて行ってもらう。そこでインド産のダークラムを飲む。そのあたりで実は喉が渇いてきていて、家に帰ってまたもやビールを飲む。案の定夜中に胃が痛くて目が覚めた。
[#改ページ]
日常のわたし 4
また引っ越した。これで大人になってから五回目の引っ越しだ。今度の部屋は、持ち主転勤のため三年限定物件なので、また三年後には引っ越しだ。もう住所も電話番号もどれだか分からなくなったと幼なじみの女の子に怒られたが、まだまだ引っ越すだろう。楽しいな、引っ越し。
でも、私は生きてる間にあと何回引っ越せるんだろう。無理をすれば何回でもできるだろうが、私は今回初めて気力が衰えるのを感じた。本屋や図書館や定食屋や飲み屋や美容院や歯医者を、一から開拓するのが少し億劫だと感じたのだ。それが引っ越しの醍醐味《だいごみ》のひとつなのに。どこかひとつのところに根を下ろして、そのまま死ぬまで同じ壁、同じ天井を見つめ、同じ本屋、図書館、定食屋、飲み屋、美容院、歯医者に行くことをまだ受け入れる気にはなれないけれど、次の引っ越し先には十年くらいはいたいかも、猫でも飼ってみたいかも、などとやや弱気が入っている。というか、今の部屋の持ち主さんが十年帰ってこなければいいのに。
この(一九九九年)十一月で私は三十七歳になる。もしかしたら、知らない間に人生を折り返してしまったのかもしれない。この億劫加減が歳をとるということなのだろうか。引っ越しを純粋に楽しいと思えるのは、あと何回だろうか。人生は長いようで短いんだなと初めて実感した。
恐怖の大王が降ってくるはずの夏も終わり、ノストラダムラー達も静かになった今日この頃、とりあえず三年は落ち着いて暮らせそうだと決まったら、体調も安定を保ちはじめた。一年前は医者へ行く気も起きないほど体調が低迷していたのだが、この夏はだいぶ元気を取り戻して病院に行く気になり(逆だよな)、生まれて初めて人間ドックにかかったら、どっこも悪くなかった。胃がいつもしくしくしていたのに、医者に開口一番「あーキレーな胃ですねー」と言われてしまった。ということは、調子が悪いのはみんな気のせいだったのか。
どこも悪くなさそうだと聞いて、打ち上げ気分で一人、久しぶりにロードショーを見た。「スター・ウォーズ」のエピソード1だ。一人で見てよかった。何しろ泣いてしまったのだ。泣くほど物語に感動したわけではない。本気でセンチメンタルに入ってしまった自分がショックだったのだ。
というのはこういうわけだ。パンフレットによると、ジョージ・ルーカスがスター・ウォーズ第一作(エピソード4)を作ったのが二十二年前。私が十四歳の時である。で、全六作の完結には(順調にいっても)あと十年かかるそうなので、その時私は四十六歳。ルーカスの年齢は手元のパンフレットに書いてないが、きっと彼はこれでライフワークを終える気でいるのだろう。
でも、ちょっと待て。私の記憶違いかもしれないが、スター・ウォーズの第一作が公開になった時、ルーカスは「これは三部構成、全九作で、今作ろうとしている三本の映画は、そのうちの真ん中の三本」と言っていなかったか? ね? 言ってたような気がしない?
こんなのは勝手な思いこみだが、子供の時から私の中ではスター・ウォーズは九本なのだ。きっとそう思っている人が世界中に沢山いるに違いない。で、ルーカスの遺志(殺すな)と世界中のスター・ウォーズファンの願いをくんで、天才新鋭監督がスター・ウォーズ完結のエピソード7から9まで作ってくれないかな。それがもし実現したとしても、モメにモメるだろうから、私が生きている間に完結するかどうかは怪しい。もしかしたら私は寿命が尽きて、スター・ウォーズを最後まで見られないかもしれないのだ。うわ、ショック。いや別にスター・ウォーズおたくなわけでは全然ないのだが『あしたのジョー』が最終巻だけ読めなかったら無念だろう。そんな感じだ。
最初九本だと言ってたのに(決めつけてる)やはり自分が納得して作れるのは六本までだろうと諦《あきら》めたルーカスは、それはそれで誠意ある英断を下したのだと思うけれど、九本は作れない作り手側の現実と、九本あっても全部見られるかどうか分からない同年代の観客側のことを思って、なんだか涙が出た。
莫大《ばくだい》な製作費と超一流のスタッフと自らの才能に恵まれている非凡な映画監督だって、諦めなければならないことがあるのに、そうでないほとんどの人間が生きている間にできることは微々たるものだ。人生は短い。本当に一瞬だ。不条理だ。あんな可愛いアナキンがダース・ベイダーになっちゃうし。
いくらでも時間はあるように感じていたけれど、自分はあと何本小説を書けるのだろうか。ルーカスを引き合いに出すこと自体がまず大きな間違いで不遜《ふそん》もいいところなのだが、彼のように「量ではなくて、自分がある程度納得のいくもの」を作れるのはいくつなのだろう。可能性だけは無限だと感じることができるのは若さの特権で、それは本当は有限なのだ。仕事のことだけではなくて、好きなことができる時間はあとどのくらいなのだろうかと、ふと考え込んでしまった。
引っ越しできる回数も、書ける小説の本数も、のんびり過ごせる静かな午後も、やりようによっては回数を増やすことはできるだろう。でもそれは無限じゃないことを知ったので、ますます「やりたくないことはやらない」わがままな自分に拍車がかかっている。
新刊『落花流水』はそんな本です。
[#改ページ]
忘れたい
大ベストセラーになった『老人力』、お読みになりましたか? 噂《うわさ》で聞いたり、テレビで見たりして「だいたいこんなものだろう」と読んだ気になっていませんか、あなた。
私もその一人だったのですが、今年(一九九九年)の頭に資料の一環として実際読んでみて、びっくりしちゃいました。もともと赤瀬川原平さんの「正体不明」シリーズの大ファンではあったのですが『老人力』には本当に笑わせて頂きました。
そして、ある大きな感慨を持ちました。それは作中のこのような一節を読んだ時です。
──忘れようと努力すると、ますます忘れられない。努力して覚えることはできても、努力して忘れることはできないのだ。眠ることも忘れることも、努力をもってしては到達できない。でも人間は日々眠り、日々忘れている──
ああ、そうなんです。赤瀬川さん。
私は細かいこと、特にいやだったことをネチネチいつまでも覚えている性格で、そんな自分に呆《あき》れ果て、しょうがないからその悪癖を逆手にとって小説を書いて、元をとってやろうと思っているのですが、それでも時々、怒りや悲しみや憤りや逆恨みで眠れない夜なんかに「もういいじゃん。スカッと忘れちゃえば」と思うことがあります。しかし本当にスカッと忘れてしまうと、仕事ができなくなってしまうので、それはまだ叶わぬ夢です。
数年前に亡くなった父方の祖母が、晩年そうとうボケがはいって、家族はそれはそれは体力気力を消耗しました。けれど、もはや誰が誰やら分からなくなってしまった祖母のベッド脇で、私達は「ボケた方は幸せだよなー。なんも考えちゃいないんだから」と不謹慎なことを言っていましたが、それはもしかしたら本当のことかもしれないと最近は思います。
いつか私も過去にあったことなどすべて忘れ、ただ猫のようにぼんやりと食事と居眠りと排泄《はいせつ》を繰り返し、何も考えずに死んでゆきたいです。そのために今は一生懸命働いて、老人ホーム資金を貯《た》めたいと思っています。
[#改ページ]
人に言えない職業
好きな作家はムラカミハルキとヨシモトバナナ、趣味は買い物と旅行、週末はデート、できれば早く結婚したい、実家は出たいがお金が足りない、仕事はただの雑用係のOL。そんな二十四歳であった私が「小説を書きたい」なんて言ったら、鼻で笑われるか説教されるかだと分かっていたので、私は誰にも打ち明けなかった。
今考えても、よくデビューできたな、そしてよくここまで生き残ってこられたなと自分でも感心してしまう。客観的に見ても、文学のブの字も知らず、もちろん小説とは何かなど考えたこともなく、ただ何となく、OLから主婦になってそれだけで一生を終えるのは退屈だなと思っているだけの甘っちょろい人間が、小説家としてやっていけるわけがなかった。
やっていけるわけがない人間が、かれこれ十二年もやっていて、努力次第ではもう何年かはこの仕事でご飯を食べられそうな気配である。人生には何が起こるか分からないし、自分のことは自分が一番知っているというのは間違いだったと改めて実感している。
あちこちで書いたことだが、私がデビューしたのは少女小説で、その後いわゆる一般文芸に転向したのだが、小説だけで食べられるようになるまでには長い時間がかかった。小説を書きながら私は次々といろんなアルバイトをした。一ヶ所に落ち着かずバイト先を転々としたのは、表向きは沢山の職種を見たいからという理由だったが(今小説を書く上でそれが役立っているのは事実だが)、本当のことを言えばひとつの職場に長くいるのがつらかったのだ。アルバイトといえどもある程度長くその職場にいれば、一人や二人は気が合う人がいて仲良くなったりするものだ。私は自分が小説を書いていることを言いふらしたりはしなかったが、個人的に親しくなった人達と、仕事を離れて遊びに行ったり飲みに行ったりするようになると、私は彼女達を騙しているような変な罪悪感にかられた。何しろ私の頭の中の半分以上を占めているのは小説を書くことだったから、それを言わないでおくとなると、何だか別人格を演技しているというか、歯切れの悪い人になってしまうのだ。親しくなればなるほどそれは大きくなり、ただ黙っていることは嘘《うそ》をついていることとあまり変わりなく、そして言わないでいる限りは、毎日のように一緒に仕事をし、もう何度も深酒をくりかえして楽しい時間を過ごした女の子達と、本当には親しくなれないのだと感じた。
私がアルバイトを一切やめたのは、一九九三年だったように記憶している。それには様々な理由があったが、そのひとつにこんなことがあった。当時、まだ少女小説をやめたばかりの私には大手出版社の依頼など皆無だったが、ある日、某|老舗《しにせ》出版社の人が私に会いたいと連絡してくれたのだ。仕事に直結するとは考えていなかったが、それでも私は嬉しかった。アルバイトを終えた足で待ち合わせの喫茶店へ行った。すると、その人は私を「先生」と呼び、一人前の作家として話をしてくれた。その時の恥ずかしさと情けなさをうまく言葉にできないが、とにかく消えいりたいような気持ちがした。つい三十分前まで時給八百円でこき使われていた私が、先生と呼ばれて素直に喜べるわけがなかった。私はその落差に打ちのめされた。
アルバイトをやめ、私は実家に住まわせてもらって『あなたには帰る家がある』という本の執筆に集中した。これが駄目だったら、もうアルバイトではなくちゃんと就職しようと覚悟を決めた。結果として本はそれほど売れなかったが、私にしてみれば天にも上るような評価を受け、出版社からの依頼もぼちぼち増えて、私は就職しないで済んだ。アルバイトで知り合った女の子達に本当のことを打ち明けると「騙されてた」と笑っていた。蛇足だが、今でも好きな作家は村上春樹さんと吉本ばななさんであることは変わらない。
[#改ページ]
日々是送受信
私のメール歴は、まる三年ほどである。当時ノートパソコンが気軽に買える値段ではなかったので、巨大なデスクトップパソコンで私はメールデビューした。あれから三年、メールとインターネットはリビングに据え置きの液晶デスクトップ、原稿は仕事部屋のノートパソコンでするようになった。自分のホームページも先日開設したので、今後私のネット使用頻度はますます高まるだろう。
今や周囲の人々も、メールアドレスを持っていない人の方が少なくなった。やりたくなくても、会社から半強制的にアドレスを支給されてしまう人も増えたようだ。
便利になったものだ。執筆中は電話に出られないため、ファックス機の普及は大変ありがたかったが、メールの普及はありがたすぎて恐いくらいだ。三年前に始めた私でも、メールデビューはどちらかというと早い方だったように思う。パソコン通信時代からやっている方に比べたらキャリアは浅いが、こんなにも誰も彼もが連絡とコミュニケーションの手段としてメールを活用しだしたのは、ごく最近のことだろう。
始めたばかりの頃、メールをもらうと嬉しくて、返信するのが楽しくて仕方なかった。なので、つい長文メールを書いてしまっていたのだが、今思えば失敗だった。気にしない人もいるかもしれないが、何か特殊な場合を除いては、あまり長いメールは相手の負担になるし、野暮なんだなと分かってきた。というのは、月日がたてばそれだけメール数も増えるし、全部に返事を書いていると、それだけで一日が終わってしまうからだ。
まだ私がメールを始めたばかりの頃、先に始めていた友人が恋人と毎日のようにメール交換をしていた。でも彼女は筆まめな彼のメール攻撃にだんだん疲れてきて、三通に一通ほどに返信を減らしたら「きたメールに返信しないのはマナー違反だ」と怒られたそうだ。
もらったメールには必ずや返信すべきかどうか。難しい問題である。私個人は、仕事のメールはそっけなくてもすばやく返すようにしているが、友人の近況報告への返信なんかは時間がある時だけでいいように思うのだがどうだろうか。負担を減らすための便利なツールとして使いこなすか、逆にのめり込んで一日中向き合わずにいられなくなるか、メールの使い方も人次第なのかもしれないが。
メールは一対一の親密なものだからか、普段その人が隠している面が顕著に表れるように私は感じる。最初のうちは、会うとおとなしい人がメールでは饒舌《じようぜつ》だったり、よく喋《しやべ》る人がメールだとそっけなかったりして戸惑ったものだが、面と向かって言えないこと、電話でリアルタイムで繋がっていたら言えないことも書けてしまうのがメールだし、普段社会人としての仮面を被《かぶ》っている人はそれを脱いだり、また別の仮面を被ってみたりする作用があるようで、私は面白いと思う。ニュアンスが正確に伝わるように気配りする人は、顔文字を多用するようだし。
今は小学生も学校でインターネットをやる時代だ。学校の先生は「全てのメールに必ず返信しなさい」と子供に教えるのだろうか。
メールの歴史はまだ浅い。これから日本人的メール作法というのが試行錯誤されてゆくのだろう。一対一のメールとはまた違い、ホームページというのは喫茶店に似ていて、やってくるお客様を選べない。だが、なるべくどなたにも居心地よく過ごして頂くため、その試行錯誤を私も積み重ねていこうと思う。
[#改ページ]
ここに一人でいる理由
私は一人でいるのが好きだ。
強がりでも投げやりでも人間嫌いでもないつもりだが、少しの切なさと申し訳なさを感じつつも、私は一人でいるのが何より好きだと思う。
自分の職業はそう特殊ではないと自分に言い聞かせていた時期もあったが、やはり今の日本で「一週間のうち二時間くらいしか人と会わなかった」ことが可能なこの仕事は、特殊な部類に入るのだろう。しかも私は完全に一人暮らしで、日常的に寝泊まりしにくるような人も持っていない。電話の音は消しっぱなしなので、本当に急用がある人が鳴らす携帯電話の音以外は、それはそれは「しーん」として暮らしている。こうして文字にしてみると、自分はずいぶん異常で偏屈なのかと思えてくるが、実際そうなのだろう。
淋しくないの? と人に聞かれることがある。尋ねるほうは軽い気持ちなのだろうから「淋しいこともあるよ」と適当に流してしまうことがほとんどだ。でも本当は「淋しい」と感じるのは一人でいる時ではなく大勢でいる時だ。特に表面的な会話が空回りしているような時「何やってんだろ、私」という気分になる。早く家へ帰って、化粧を落としてパジャマに着替えて一人になりたいと思う。温かくて柔らかな自分のベッドに潜り込みたいと上の空で思ってしまう。
年々好きになるのは睡眠と入浴だ。考えてみれば、どちらも基本的に一人きりでするものだ。誰が監視しているわけでもないのに早起きを心がけているのは、一日の終わりのお風呂と睡眠をより心地よくするためだ。喉がからからに渇くまでビールを我慢するのと同じで、ちゃんと起きて働いた日のそれは、大袈裟《おおげさ》かもしれないが黄金の時間だ。そのために早い時間に起きて仕事をし、至福の夜に備えてバスタブの掃除をしベッドを整える。原稿を書き、たまには仕事で外出し、日が暮れて「今日は終わり」とノートパソコンの電源を落とすと、幸福な夜がやってくる。ゆっくり熱い湯に体を沈める瞬間、よく乾いたバスタオルで体を拭《ぬぐ》う瞬間、グラス一杯の冷えた水を飲む瞬間、そして何か本を持って整えたベッドに潜り込む瞬間、何とも言い難い幸福に包まれる。人と一緒に暮らしていても同じことをすることは可能だろうが、ここまで他愛なく幸福をかみしめることはできないだろう。
早寝早起きをするようになって気が付いたことだが、夜働くのをやめると蛍光灯というものが不必要になる。今まであまり深く考えていなかったのだが、東京の夜がいつまでも明るいのは、あのてらてら光る蛍光灯のせいだろう。白く照らされ空中に浮かぶオフィスや、夜の住宅街を切り取るように四角く光るコンビニはUFOのようですらある。
そんなふうに人を寄せ付けず偏屈になってしまった私が、この冬の三週間、友人の女の子と共同生活をした。これは私の中では事件だった。博多在住の女友達が仕事を辞めたというので、この機会に東京に遊びにおいでよと誘ったのだ。友達といっても彼女は私より十一歳年下だ。私が博多に遊びに行って何泊か一緒に旅行したことはあるが、うまくやっていけるか正直不安だった。だが、結果的にそれは近年になく楽しく貴重な三週間となった。
二十六歳の彼女は東京にやってきたのは三度目だが、一度目は修学旅行で、二度目はディズニーランドだけだったそうなので、東京ステイはほぼ初めてという状態だった。期限を切らずにいくらでも好きなだけ滞在してもらおうと思ったので、私はなるべくマイペースを崩さずに暮らした。彼女は和室に「巣作り」をし寝泊まりした。私の仕事を手伝ってくれたり、窓をぴかぴかに拭《ふ》いてくれたり、美容院に行って髪型を変えてみたり、うち中にある漫画を明け方まで読んだりしていた。そして渋谷、新宿、池袋、浅草、上野と彼女は一人で遊びに出掛けては、キャッチセールスにむかついたり、マツモトキヨシ(博多にはないらしい)で大量の化粧品を買ってきたりしていた。
出不精の私も、彼女と一緒に色々な所へ出掛けた。新宿アルタ、高層ビルの展望室、池袋の古い映画館、雑誌に載っていたカップルばかりの和食屋、お台場の観覧車、ヴィーナスフォート、フジテレビ。そして、東京駅から踊り子号でたった一時間の所にある真鶴の温泉。行こうと思えばすぐ行けるが、行くきっかけがなかった場所ばかりだ。
その日々の中で、私は「他人は自分とは違う」という当たり前すぎることを実感した。見るテレビが違う。本を読むスピードが違う(彼女は早い)。スーパーで買ってくる食材が違う。朝、食べるものが違う。足の温度が違う(彼女は電気あんかがなくても眠れる)。彼女は夜になると蛍光灯を点《つ》ける。ちゃんとご飯を炊いて、バランスのいい家庭料理を苦もなく作る。温泉に行ったら最低三度は湯に浸かってくる。
そんなふうに何もかも違う私達だったが、あとから何が一番楽しかったかと思うと、ただぼんやりテレビを見て、どうでもいいことを話したり、同じ小説誌を読んで、誰がよかっただの何がつまらなかっただの話し合ったことだった。去年(一九九九年)私がある文学賞をもらった時に、あちこちから頂いたシャンパンがうちには山のように残っていて、それを冷やして寝る前に二人で飲み、くだらない話をして笑った。
まだ若くてはしゃぎたい盛りの彼女にしたら、カラオケにも行かず、お酒も食べ物も少ししか摂《と》らず、夜の外出が嫌いで、日付が変わる前にはベッドに入ってしまう私は、遊び相手としては物足りなかったに違いない。私も彼女の年齢だった時は夜遊びが大好きで、よく飲んでよく食べた。遊びに出なくても、一晩中蛍光灯を点けて、明け方まで仕事をしたり本を読んだりして過ごした。
彼女の東京という街への感想は「真っ平らで山が見えなくて落ち着かない」というものだった。なるほど、微妙なアップダウンはあるものの、関東平野は日本一の真っ平らな場所である。ゆりかもめから眺める都心は、海からまったく段差のないところに高層ビルが建ち並んで、ちょっとした津波でもきたらあっけなく壊滅しそうだ。真鶴の温泉に向かう途中、彼女を喜ばせたのは海よりも山だった。こんもりとした深緑の丘に蜜柑《みかん》がかわいらしくなっている様子や、温泉の近くにあった満開の梅林に彼女は心から和んでいるようだった。
東京を発《た》つ日、彼女は淋しいと言って泣いた。博多と東京は似たような都会だが、でもやはり東京では暮らせなさそうだとも言った。
淋しいのは私も同じだったが、私は出身地である横浜に戻ることはないだろうなと、この時なんとなく思った。横浜には山や緑や海もある。けれど私はやはり、これからもこの真っ平らな東京で一人、暮らしてゆくのだろうと予感した。
喉が渇くまで水を我慢するように、夜に気持ちよく休むために早起きして働くように、たまに人と会った時に気持ちよく接するために、普段私は一人でいるのかもしれない。温泉は素敵だけれど、ずっといたら飽きてしまう。たまに休みに行くために温泉はあるのだ。
明日も私は明け方の寒いベランダでタバコを吸うだろう。暖かい部屋で飲むコーヒーをよりおいしく体と心にしみこませるために。美しいとは言い難い東京で、ずっと。
[#改ページ]
自由の練習
経済学部経済学科を卒業して十四年、現在私は小説書きとしてご飯を食べていますが、まさか自分が文芸の世界に足を踏み入れることになるとは、学生時代これっぽっちも思ってはいませんでした。何しろ子供の頃から国語は苦手で、日記や友達への手紙を遊びで書くのは好きでも、教科書に載っている文学作品に興味をひかれたことはありませんでした。強いていえば私は「人の心」に興味があり、どこの大学でもいいから心理学部に進みたいなと漠然と考えていました。ところが誰かに(誰だったか覚えていないのです)そんな学部に進んでも就職の時つぶしがきかないし、浪人できないのなら募集人数の多い学部を選んだ方がいいんじゃないかと言われて、あっさり気が変わってしまったのです。けれど何も「つぶし」や「募集人数」のことだけで経済学部を選んだのではありませんでした。市場を動かしているのは、要するに大勢の人の心の動きだと思ったので、それを勉強するのも面白いかもしれないと感じたのです。
それで大学では市場経済を学んだかというと(叱られそうですが)ほとんど勉強らしいことはせず、ただ毎日、その日その時やりたいことばかりをやっていました。決して自慢にはなりませんが、私は良い学生ではありませんでした。授業も真面目《まじめ》に受けたとは言えず、成績はひどいもので、卒業できたのが奇跡のようですらありました。
けれど、大学構内にいた時間は、かなりの長さだったと思います。朝学校に来ると、大抵日が落ちるまでずるずると学校にいました。大学というのは学食、中庭、図書館、部室、ロビーやホールと居場所が沢山あって、何となく過ごせるものです。しかも何度も誰に断ることなく(授業中はもちろんいけません)出入りできることが自由で快適でした。
中学高校の六年間、制服や頻繁に行われるテストに縛られ、狭い敷地の中の、狭い校舎の中の、狭い教室に同い年の子供がぎっちりと入れられ、一人になりたくても放課後になるまでは校門を出ることを許されず、それが窮屈でたまらなかった私には、人口密度が低く、自由度の高い大学という場所が天国のように感じられました。人恋しくなれば友達が集まっている場所へ行けばよく、一人になりたい時はさっさと図書館に行けばいいだけでした。
何を勉強したいのか、将来はどんな仕事に就きたいのか、そのためには今何をすべきなのか、本来、大学ではそういうことをちゃんと考えなければいけないのでしょう。けれど私は大学時代のほとんどを、何も考えずに過ごしました。
落語研究会という、やや特殊といえるサークル活動をしていたことも関係していると思います。次から次へと行事が目白押しでしたし、雑用や飲み会(これが本当は一番多かった)も多く、結構あれこれお金もかかったのでアルバイトは必須で、長い休みはバイトと合宿で終わりました。その間に友達とも遊び、恋愛もして、そして本業である学業も、単位くらいは取ろうと一応最低限のことはして、という日々だったので、退屈だと感じたことは一度としてありませんでした。今だから「それでよかったのだ」と言えますが、当時はよく親に叱られたものです。高校生の時は素行で怒られることなどなかったのに。学費を出してもらっておいて遊んでばかりで、本当に申し訳なかったなと思っています。
しかし、やはり社会に出る前に、大学という解放された場所に四年間通った意義は本当に大きかったと思います。克服したいと思っていた引っ込み思案と上がり性は、サークル活動のおかげでほとんどなくなり、どんな人ともニュートラルな気持ちで接することができるようになりました。
卒業前に、将来のことなど何も考えていなかった私なのですが、かつての誰かの言葉通り「つぶし」がきいたのかは分かりませんが、就職を決めることができました。職種など実は何でもよかったのです。とにかく働いて自立をしたかった、ただそれだけでした。
いわゆる普通の事務員になった私は、働きながらゆっくり「本当にやりたいこと」を考えました。四年間の大学生活で私が身につけた習慣はただひとつ、「やりたくないことはやらない。やりたいことをやる」ことでした。しかしこれは両刃の剣です。自由であるということは、際限なく駄目になる自由というものも含んでいるからです。しかし、まわりの人がみんなそうしているから自分もそうしておけば安心だ、と考えている限りは、一生制服は脱げないのです。
社会は本来自由な場です。けれど自由の使い方が分からないと、言われたことしかできないロボットになってしまいます。社会に出る前段階の大学という場で、自由の使い方を存分に練習してみたらいいのではないでしょうか。
[#改ページ]
愛と性の不確実性
過去、愛と性に確実性があった時代が存在したのだろうか。そしてこれから、愛と性に確実性が見出せる時代がくることがあるのだろうか。なかったでしょう、それは。こないでしょう、それは。
身も蓋もないようだが、考えてみれば当たり前のことである。こと、人間の心に関わることに「確実」や「絶対」はないだろう。数学や物理の世界ではそれは存在するのだろうが、人間という生き物に関する「絶対」は、いずれは誰もが死に至る、ということくらいではないか。
では何故、人は愛や性の確実性に、こだわったりするのだろうか。まあこれもよく考えれば簡単か。人は絶対死ぬから死を恐れ、絶対確実な愛を獲得することが不可能なので、大きな不安と苦悩に襲われるのかもしれない。
不安を解消する一番手っ取り早い方法は、そのことについて考えないことである。人の心は本当にうまく危険を回避するようにできているようで、相当高齢になるか、体か心が病気になるかしない限り、毎日のように死について悩み苦しんだりはしない。それに比べ、愛と性については若くて健康なうちから「確実でも絶対でもないのかもしれない」と疑問を持たされる場合が多いが、それでも悩みはじめるとキリがないので、無意識に仕事や日常生活の中にその悩みを埋没させてゆくのだろう。それが悪いと言っているわけではもちろんない。一晩中愛と性の不確実性について悩んでいて寝坊しました、では遅刻の理由にすらならない。
ただ、愛や性に絶対はないのだ、という自覚に至る前に考えることをやめてしまうと、目の前で他人が幸せそうにしているのを見たとたん、いてもたってもいられなくなるのではないだろうか。
この世には稀に、絶世の美女や美男子、常人では理解できぬ天才が生まれ落ちてくるように、時折「愛と性の確実性を持ったかに見える」カップルが存在する。人々は自分が持ち得ないその美貌《びぼう》や知性や、永遠に見える愛を称《たた》えあげ賛美し、そして芸術が生まれる。だが、自分で考えることを放棄した人には、冷静に鑑賞できずに心が激しく揺さぶられ、優れた美貌と頭脳は無理でも「確実な愛と性」くらいは努力次第で獲得できるのではないかと刷り込まれてしまう。自分の渇望が「ないものねだり」であることに気がつかず、そして遠く厳しい心の旅に出ることになる。
さて「愛と性には確実性はない」と言ったがちょっと待て。愛と性は同じものではなく、別物ではないか。そのふたつは密接に関わり合いを持つが、性が介在しない恋愛関係というものは確かに存在するし、愛のない性行為など、繁華街で強引に渡されるティッシュの数ほど世の中に溢《あふ》れかえっている。
だいたい愛って何だろう。我ながら難しすぎる命題だ。性の方が少しは分かりやすい。性行為そのものだけでなく「ああ、この人と手をつないでみたいな」という淡く微笑《ほほえ》ましい感情も性欲の第一歩だろう。それとも、それこそが「愛情」の第一歩か。性欲と愛情の出発点は同じだとしたら、それは遅かれ早かれ、どこかで枝分かれするのだろう。
最初の淡い性欲(愛情)を人が感じ、それが本当に手をつないで、デートをして、性行為に及ぶ過程で、大抵の人は「愛と性の不確実性」を無自覚に知っているので、この幸せと陶酔にはやがて終わりがくるのだろうと、大なり小なり不安に襲われる。獲得できない永遠の愛が生ませた、世界中の芸術と、身近な恋愛小説やテレビドラマに自分の恋愛の過程を照らし合わせ、「よかった、私はちゃんと雛形《ひながた》通り愛されているわ」とか、「なんてことだ、やることはやっているのに全然愛されていないようだ」と人は一喜一憂する。
人が死を避けられないように、恋愛も終わりを避けられない。けれど人には「結婚」という手段がある。結婚したからといって愛が永遠で確実になるわけではないが、それでもお互いがお互いの人生を共有し、癒着し、生きていこうと誓うことは、いずれは訪れるであろう「愛と性の死」への不安を薄れさせることができるし、うまくいけば二人の遺伝子を受け継ぐ子供が生まれ、その子が平凡ながらもいい子に育ち、やがて二人は双子のような仲のいい老夫婦になって、幸せに生を終えるシナリオも世の中には用意されている。
時代はどんどん変わってゆく。ほんの二十年前には三十歳過ぎて独身だと、それだけで「あの人独身なのよ」と言われたものなのに、今は三十代の独身男女に対する風当たりは相当減った。それは「愛と性の終わり」に対する不安を解消するために用意されていた結婚というシナリオが「どうも胡散臭《うさんくさ》いぞ」と多くの人が気づきはじめたからではないだろうか。
何も人類は百年くらい前に急に発生したわけではない。いくら時代が変わって、女性が弱いふりをやめて、経済力や性のイニシアティブまで握るようになっても、男性が抵抗なく家事をするようになっても、だからといって愛の確実性が生まれるわけではない。社会の変化は愛と性に変化をもたらすが、それは表面的なことだけで、根本的には人間はずっと、宿命とも呼べる同じ悩みを抱え続けているのだと私は感じる。
愛の確実性は存在しないが、愛そのものは存在する。ただそれが努力によって永続的なものになるという、人間の渇望から作り出された数々のシナリオが巷《ちまた》に溢れすぎただけなのだろう。存在はするがそれは瞬間的なものだ。たった一瞬だけれど絶対に在る。だから人は何度でも他者を好きになる。
確実と永遠はまったく違うのに、錯覚させたのは誰だろう。何も私は巷に溢れるフィクションであるところの「愛と性の物語」を否定しているわけではない。それどころか、私自身がそれを創作することでご飯を食べているのだ。犯人の一人は私か。
[#改ページ]
居心地のよい外国のような街
札幌に仕事場をもった、と言うと、必ず「なんでまた札幌?」と聞かれる。私は神奈川県で生まれ育ち、今は東京に家があるので人々が不思議に思うのも当然だろう。普段は「知人も多いし縁もあって」と適当に答えていて、ますます相手の方の首を傾《かし》げさせている。
札幌の中心地まで(雪がなければ)徒歩圏内の場所に部屋を持ったのは、想像以上の収穫で、かなり頻繁に訪れている。札幌は繁華街がきゅっと小さくまとまっていて、買い物も映画も食事も美容院もあちこち行かずに手っ取り早く済む。本も洋服も映画も東京と変わらないものが供給されていて、でも一歩離れればすぐ雄大な自然がある。たまに訪れる者の呑気《のんき》で傲慢な意見ではあるが、雪のない札幌は私にはなんだか物足りない。札幌のマンションは防寒設備が完璧《かんぺき》に整っていて、東京のマンションよりずっと暖かい。冷え性な私は、冬こそ札幌の部屋で過ごしたいと常々思うくらいだ。
最初に札幌を訪れたのは、小学生の時だった。祖父の実家が牛乳販売店を経営していて、夏休みに家族でそこを訪れた。出してもらったアイスクリームが夢のようにおいしく、子供心に街を歩きながら風の心地よさを感じたのを覚えている。それから大学生の時に三回、社会人になってから二回訪れ、その度、店の人やタクシー運転手さんのさっぱりした性格に好感を持ち、自分に合っている街だと確信をもった。私は東京が好きで、一生東京に住み続けようとずいぶん前から決めていたのだが、時折東京という街の広大さ、過剰な情報、仕事のしがらみに辟易《へきえき》することがあり、そこから避難し、冷静さと客観性を取り戻せる場所が欲しいといつしか思うようになっていた。そう簡単に仕事関係の人がやって来られない距離にと思ったので、関東の別荘地は最初から頭になかった。沖縄も何度か訪れて食べ物が口に合い、開放的な地元の人々の人柄も気に入っていたので考えたが、私は車の運転ができないし、したとしてもお酒を飲む機会が多いのであまり使わなそうだった。そして総合的に考えた結果、地下鉄が発達していて、書店と映画館が充実していて、大好きな洋服が買える札幌に部屋をもとうと決めたのだ。
札幌には親しい人が幾人かいるが、元々仲がよかったわけではなく、インターネットで知り合った少し年上の女性と交流ができ、大勢の宴会に混ぜてもらったりして、人間関係ができた。どんな土地でも悪い人はいるだろうが、私が札幌で知り合った人は皆一様にさっぱりしていて、ねちっこくない。合理的で親切で押しつけがましくない。
大きい北海道という土地の、札幌という都会しか今はまだ知らないけれど、これから少しずつ札幌を拠点に道内をまわってみようと思うとわくわくする。第二のふるさと、というにはまだ私は新参者だが、札幌という街が私にとって特別な土地になってきたことは確かだ。
札幌には一人で歩いていたり、一人で食事をとり、一人でお酒を飲んでいる女性が案外多いことも嬉しい発見だった。外国に行くのはエネルギーが要るが、ちょっと休みに、あるいはちょっとこもって仕事をしたいとき、一人で訪れ、地元の方や観光客にまぎれて、私は街を堪能《たんのう》している。札幌は私にとって、日本語の通じる居心地のよい外国のようなものかもしれない。
[#改ページ]
長寿五分間番組
ここのところ忙しいので、ますますテレビを観なくなった。近所のデニーズで朝定食を食べながらビールを飲んで帰って来て朝寝をしたり、天気のいい午後ベランダで缶チューハイを飲んで猫と添い寝をしたり、夜は通販雑誌や漫画を読みながらウィスキーやら日本酒やら飲んでいて、その合間に、引っ越して二ヶ月たっても減らない段ボール箱を開けたり、こうしてのろのろ原稿を書いたりしているので、テレビに割く時間などそうそうない。
なのに私の体内時計の中に、ある短い番組だけが組み込まれていて、その時間になるとふと気が付いてテレビを点ける。本人が自然だと思っている習慣でも、他人から見れば奇異なものに映るようだ。というのは、自宅や事務所にスタッフの人と居てもその時間が来ると「あ、天気予報だからちょっと待って」と話を中断し食い入るように観て、すごく呆れられたからだ。
午後六時五十二分、NHKの気象情報(特に平井信行さん)。これはまず見逃さない。子供の頃から家族の誰かがこの時間になると必ずテレビを点けた。他の時間にも気象情報はやっているし、他局でも好きなお天気コーナーはあるのだが、直球王道、七時のニュース前の気象情報が一番私が求めている情報が詰まっている。それはつまり明日の天気。朝や昼では刻々と変わる明日の天候が曖昧《あいまい》で外れる確率が高い。海に漁に出るわけでも、山にしばを刈りに行くわけでもないのに、何故か気になる明日と今週の天気。厳密に言うと気温と湿度と風力。それを観て明日は折りたたみ傘が要るな、夕方は冷えそうだから上着を持って行こうかな、洗濯は明後日の方がいいね、土日は雨だから自転車で出かけるのはやめとこう、などと計画を毎日立てるわけである。
なんだろうこれは。どんな種類の心配性なのだろうか。ほとんど毎日家に居てビールやら猫やら通販雑誌のことばかり考えているというのに。でも天気図というのはいつ見てもいいものだ。南から大きく張り出す高気圧は幸せな気持ちにさせてくれるし、シベリアからおりてくる寒波はぴりっと清潔な緊張感を与えてくれる。
気象情報ほどでもないが、かなりの確率で自然と観てしまうのが「ペット百科」である。いつからやっているのか知らないが、ずいぶん前から観ている気がする。一社提供の、この枠でしかなかなか観られない猫出演のCFのレベルは高い。猫好きにはたまらんものがあって、新作が出ると同じペット百科ファンに電話する程だ。真剣に飼い猫の健康に気を付けようと思って観ているわけでは全然なくて、うちの子もかわいいが、よその子もかわいいんだよなあと、女好きなおじさんが女性のいるクラブにふらふら飲みに行くような風情である。犬も好きだがたぶん一生飼うことはなさそうなので、いろんな犬をじっくり観られるのも幸せだ。
「世界の車窓から」は見逃すことも多いが、ニュースステーションが十時前にフライングスタートすることになった時、私だけではなくて(何かの雑誌でも読んだので)多くの人が「じゃあ世界の車窓はどうなるんだ」と騒然としたものだ。心配は杞憂《きゆう》に終わり、今(二〇〇二年)はニュースステーションの前や後ろを行ったり来たりしているようだ。たまにしか旅行に行かないどころか、ほぼ毎日徒歩圏内で暮らしている私だが、この短い番組は一瞬だけ旅心を刺激する。何年か前は隙《ひま》さえあればアラスカだのインドだの行っていたのが夢のようだ。
いつの間にか引きこもり作家になりつつある私を、このみっつの長寿五分間番組が「ちょっと外へ出ましょうよ」と誘ってくれる。できることなら私の生きているうちは続けてほしいものだ。
[#改ページ]
文庫の運命
単行本が文庫化されるのは、とても嬉しいけれど少しだけ淋しい。他の作家さんがどう思っているかは知らないが私はそうである。
この業界にかかわる仕事をしている人か、本がよほど好きな人以外は、案外この単行本と文庫本の関係をよくは知らないのじゃないかと思う。かく言う私もこの世界に入るまで、そのシステムをよく分かっていなかった。
単行本というのは、いわゆるハードカバーで最初に世の中に出て行く本である。文庫本は、約三年後にその本が縮小サイズとなって、再度本屋さんの棚に並ぶものだ。けれど例外も多い。最初から文庫書き下ろしの本もあるし、単行本発売から一年ほどで文庫化される例も最近は多い。
文庫の利点はまず値段が手ごろなこと。そして小さいので持ち歩きやすいこと。バッグどころかジーンズのお尻にだって入っちゃうこともある。つまり重くて固くて高い単行本の普及版が文庫本というわけだ。私もそうだが、いくら本好きの人でも「一刻も早く新刊を読みたい大好きな作家」のもの以外は、文庫で買うのじゃないだろうか。その方が省スペースになるし、失敗しても被害が少なくて済む。そういうこととは別に、私は好きな本は何度も読みたいタイプなので、単行本で気に入ると文庫本も買って、旅先なんかにもって行く(そしてわざと宿なんかに置いてくる)。
文庫化された本は幸せだ。何しろ単行本の段階である程度売れていないと文庫化もされないわけだし、文庫化されればまたより多くの人に手にとってもらえる。
けれど、本の寿命は長いようで短い。たとえば私が二十代のはじめに貪《むさぼ》り読んだ、とある作家さんの何十冊もの文庫本は、今やほとんど絶版なのだそうだ。実家の本棚にきちんと並べて飾ってある、日にやけてしまった赤い背表紙のその本たちを、今でもときどき取り出して読んでみることがある。私はこの本たちの存在を一生忘れることはないけれど、この本たちが新しい読者を得ることはもうないのかと思うと、やはり淋しい。
単行本が文庫化されたら、もうその本の運命は読み手の方々に委《ゆだ》ねるしかない。読み続けられるか、月日とともに徐々に忘れられていくか。三十年も五十年も人々に読み続けられる名作は、今書店に溢れかえっている新刊のほんの一滴《ひとしずく》だろう。せめて自分が生きている間だけでも、自分の本が生き続けていてくれたらと願ってやまない。
[#改ページ]
妹たちへ 1
パートナーや夫を選ぶ時、それが生涯のものであることを望まない女性は少ないように思う。恋人、ボーイフレンドであれば話は別だが、女性にとってパートナーというのは、一生ものであってほしいものだろう。
一生もののコート、一生もののバッグ、一生ものの腕時計。それらは人並み以上に働いて、ある程度のキャリアと経済的余裕をもった女性が欲しがる傾向にあるものだ。大抵のそれはブランドものの相当値段のはるものを指すのだろうが、それだけではない気がする。本当に長く大切にしたいものは、値段ではなくデザインが気に入ったり、何かしらの記念に以前から憧《あこが》れていた物を買うのではないか。そして振り返ってみてほしい。あなたがすごく昔から何故だか捨てられずに、しかも箪笥《たんす》の肥やしにせず今も着ている洋服のことを。それは値段ではないはずだ。着心地がよく、あなたにとても似合っているからではないか。
一生もののパートナー探し、というのはそれに似ているように思う。それは街中を探してやっと見つけて買うものだ。しかも、気に入って買ったはずのそれも、長く付き合ってみなければ、本当に体と心になじむかどうかは分からない。
このようにパートナー選びと一口に言っても、失敗しないという方法は何もないように私は思う。身も蓋もない言い方をすれば、一生もののパートナーとめぐり合えるかどうかは運である。それは恋人や懐妊にも似ていて、天からの授かり物であると私は考える。
では努力しても無駄なのか、と私自身も投げやりな気持ちになったことがあった。これを書いている時点(二〇〇一年)で私は三十八歳で、未だに生涯のパートナーを得ることができないでいる。若い頃一度結婚し、夫というものをもったことがあったが、その時は互いに気に入っていて、平穏であたたかな生活が一生続くものだと確信をもっていた。なのに、いつしか二人の歯車はかみあわなくなった。離婚後、数人の恋人に恵まれたが、結局全部失敗に終わっている。
「淋しいか」と問われれば正直淋しい。では「つらいか」と問われると強がりでもなく、つらくはない。「一生もののパートナーがいなくてもつらくはない」という境地に達するまでに、私はものすごい数の失敗をした。明らかに気の合わない人と付き合ってしまったり、自分の仕事が忙しくなって、恋人への思いやりを忘れてしまったこともある。
そしてだんだんと、私は「結婚したい」とまで思っていた恋人と別れても、以前ほどつらい思いをしていない自分に気がついた。いや、つらくなかったと言ったら嘘だが、若い頃に比べたら感情の立ち直りが格段に早くなり、そして別れた恋人に対して、恨みどころか楽しい時間を沢山もらったことに感謝を覚えるまでになった。歳をとった、というのも理由のひとつかもしれないが、冷静になって振り返ると、この打たれ強さは過去の数々の失敗が、自覚的にも無自覚にも多くのことを学ばせてくれたからだと思う。
男性との別れを失敗と表現したが、最近私は恋人と別れることを失敗だとは思わなくなった。生涯パートナーとなることはできなかったが、それは失敗ではなく、単なる「経験」であったと思うのだ。
ここで話を少し変えるが、何故人にはパートナーというものが必要なのだろうか。例えば、やり甲斐のある仕事があり、経済力もあり、同性や異性の友人にも恵まれ、性的関係のある優しいボーイフレンドでもいれば、人は十分に満たされるのではないか。人間の性格は本当に多種多様なのでそういう人も確かに存在はする。けれど、できるものならば、やはり人には夫やそれに近い存在のパートナーがいた方が精神安定上いいように思う。
いくら親しい友人でも、ベッドを共にするボーイフレンドでも、あなたはどこか一線を引いてはいないだろうか。良く言えば礼儀正しく、悪く言えばガードを解かずに接していないだろうか。パートナーというものは、そのガードを解ける関係を指すのだと思う。だから、くだらないことで喧嘩《けんか》もするだろう。けれど日々の些細《ささい》な出来事を報告しあったり、お互いの来週の予定を確認しあったり、礼儀正しく付き合っている友人には言えないことで泣いたり、二人にしか通じない冗談で笑い転げたりする親しい人の存在によって、人はとても満たされる気がしてならない。何故なら大抵の人は、そういう場であるところの「家庭」で育ったからだ。いくら感情をぶつけても、必ず仲直りして日常生活を送ることができる他者を求めるのは、当然のことだと思う。甘えることも甘えられることも、依存の状態にならない限り、たまに食べるチョコレートのように必要なのではないだろうか。
大人になって自立する、ということは、一人きりで甘えずに生きていくことでは決してない。自立とは自分に心地よい人間関係を、他人とも、歳をとって昔とは違ってしまった親兄弟とも、築くことなのかもしれないと最近思うようになった。
きついことばかりを書いた気がするので、ちょっと反省して最後にこう結びたい。そんなに頑張らなくても、日本人は元々狩猟民族ではなく農耕民族なのだ。ゆっくり種を蒔《ま》いてじっくり育てればいいことなのだと思う。人生には成功と失敗の二種類しかないわけではない。パートナー選びなどあやふやでいい。何故なら物事を決め付けたい時は、心が弱っている時だからだ。こうしなくっちゃ、と思い詰めた時こそ、無理にでも休みをとって南の島にでも旅行することをお勧めしたい。だから私も今のんびりした旅の途中である。
[#改ページ]
妹たちへ 2
パラサイトシングルという言葉を初めて耳にした時、言い得て妙と感心したものだが、いつの間にかそれは本来の意味を脱却して拡大解釈され、実家に住んで働く独身者の全てをさすような風潮ができあがってしまったように思う。実家を出ないで働く人はみんなパラサイトシングルと、短絡的に、世間だけでなく自らもが枠に押し込もうとしているように私の目には見える。
「一人暮らし」は絶対しなくちゃならないものではないことくらい、冷静に考えれば誰でも分かるはずだ。人にはそれぞれ性格と事情というものがあり、その中で自立していけばいいことである。
けれど、このパラサイトシングルという言葉の登場と、それが与えた独身者への影響は確かに大きなものだったようだ。なんとなく実家に居続けていた人の心をかき乱し、多くの人を「このままではいけないのではないか」と考えさせた。
万人が一人暮らしをする必要はないことは確かだが、もし私が誰かに「一人暮らしをしようかと思っている」と相談を持ちかけられたら、きっと大賛成するだろう。それは私個人が一人暮らしで得たことの想像以上の大きさに驚いているからだ。
十代の頃から、私は早く一人暮らしがしたいと思っていた。社会人になったらすぐ、と考えていたのだが、実際そうなっても踏み切れなかった理由はただひとつ、お金のことである。社会人になったばかりの私は大人っぽい洋服をいくらでも買いそろえたい盛りだったし、お酒が好きで友達や同僚と飲みにいくのが楽しく、しかも週末は同年代のボーイフレンドとデートをしていた。少ない給料は洋服と交際費でパーである。とても一人暮らしどころではない。
やっと実家を出たのは結婚した二十五歳の時で、仕事の忙しい彼にかわって私が新居のアパートを探し、契約をして敷金礼金を払い、電気やガスや水道をひき、家具を買いそろえた。全《すべ》て初めての経験である。最初は不安だったが、やればできるじゃないかという自信と達成感を持った。しかし最初は幸せだった結婚生活が、金銭的に余裕があるとは言えなかったので(もちろん楽しいことの方が多かったが)お金のことで喧嘩になったことが何度かあり、それが破綻《はたん》の一因になった。
その後六年で私は離婚し、一度実家に出戻り二年間住まわせてもらった。これこそがパラサイト状態だったので、とにかく私は一日も早く実家を出たいがために働きに働いた。両親はずっといてもいいと言ってくれたが、何故か居心地が悪くて仕方がなかったのだ。
やっと本当の一人暮らしを始めたのは、三十三歳の時である。東横線の駅から徒歩二十五分、1Kのボロアパートだ。外見は古かったが内装はきれいにしてあった。私は大抵の女の子が引くであろう、その古いアパートがちっとも恥ずかしいとは思わず、胸を張って友人を招いた。他人の力を借りていい部屋に住んでいるより誇り高く思えた。
そういうと聞こえがいいが、当時の私はまだ作家として軌道に乗る前で、毎月の家賃が払えるかどうか内心ビクビクだった。通帳を毎日のように見て、一日に使っていい金額を弾《はじ》き出《だ》し、臨時収入があった時は、自分へのご褒美として洋服を一枚買ったりした。
お金の話ばかりするようだが、とにかく精神的にどうのこうのというより、私がその最初の一人暮らしで得たものは「自分は月にいくらあれば生きていけるか」という明確なラインだった。人によってそれは違うと思うが、私は東京で「月に八万円+家賃」あればそう悲惨でない暮らしができることをつかんだ。そして肩の力が抜けてほっとした。そのくらいの金額なら、いざとなったら何をしてでも稼ぐことができると思ったのだ。実家に居続けたら分からなかったことだ。自分一人が生きていく上での必要最低ラインが明確になると、漠然とした不安が明確に輪郭を持ち、必要以上に思い悩むこともなくなった。
そしてもうひとつ、予想もしていなかったメリットを私は得た。それは親側の子離れ現象である。うちの親は私が結婚をした時点で相当子離れをし、嘘のように小言を言わなくなった。だが、離婚後に実家に出戻った時、両親は当たり前だが以前よりは歳をとり、娘である私に相談と愚痴をもちかけるようになったのだ。傲慢なことを言うようだが、私は親のカウンセラーではないのだ、と反発を覚えた。育ててもらった恩はあるが、まだ老人と呼ばれる年齢でもないのに、自分達で決められそうな簡単なことまで相談されるようになって、私はより早く家を出なければと思った。
あなたがまだ若く、親の庇護下から出ようとしているところだとしたら想像もつかないかもしれないが、どんな親でもいつかは年老いてゆき、庇護の逆転現象が起こるのだ。私は老人となった親を庇護しないというわけではなく、まだ自分で何でもできるうちから甘やかして、歩けるはずの老人を寝たきりにするみたいなことをしたくなかった。そして私が冷たくも両親と距離を置いたことで、彼らは自然と自分たちで解決できる問題は、いちいち娘に相談をもちかけてこなくなった。
一人暮らしが金銭的にも精神的にも大変なのは事実であると思う。けれど、それだけの価値はある。たとえば隙《すき》ができて危ないとも言えるが、隙ができるからこそ恋人ができるという作用もあるのじゃないだろうか。恋人がほしい人は、とりあえず一人暮らし。デートがいつもラブホテルだなんて、その方がよっぽどチープで心が荒れるような気がしてならない。
[#改ページ]
妹たちへ 3
自分の二十代を一言に集約するならば、「どうしたらいいのか分からなかった」に尽きる。平凡である。ほとんどの二十代女性は、大きなことから小さなことまで、いちいちどうしたらいいか分からないで過ごしているはずだ。稀に迷いのない二十代女性も見かけるが、ただ迷っていることを言動に表していないか、まったく何も考えていない人であるように思う。まったく何も考えていない人、というと、悪口のように解釈されそうなので念を押すが、言い換えればそれは天真爛漫《てんしんらんまん》な性格で、ぐしゃぐしゃいらないことを悩んで暮らすよりも、間違いなくハッピーである。
子供の頃から些細なことでくよくよ悩む性格の私だったが、そのピークはやはり二十代だったように思う。十代の頃は「何が分からないかすらも分からなかった」し、親に養ってもらっていたから、大袈裟にいえば、命にかかわることではなかったので切実さには欠けていた。
そんな私は社会に出る直前、まず就職活動で大きくつまずいた。自分がどんな仕事をしたいのか、まったく分からなかったからだ。何をして働きたいのか分からないので、どんな会社を受けたらいいのか分からない。一緒に遊んでいた同級生達がアパレルだとか、マスコミだとか、一般事務だとか、どんな会社でもいいから営業をやりたいとか、漠然とでも自分が行きたい方向が分かっていることに心底びっくりした。結果的に私は「分かんないんだから、どこでもいい」といろんな会社を受けまくり、当たり前だが落とされまくり、かろうじて引っかかった財団法人に就職することになった。
大学四年間バイトばかりしていた私は、自分で言うのは何だけれど、表面上の順応性はあったので職場にはすぐ慣れた。けれど慣れてみて初めて、自分がその職場の正社員であることに愕然とした。生活がかかっているので「向いてないので辞めます」というわけにはいかなかったのだ。朝五時半に毎日起きて、満員の通勤電車に一時間以上揺られて、仕事をして、同僚や友人と遊んでまた満員電車に延々と乗って帰って、翌朝五時半に起きる。この繰り返しを実践している人が世の中にはいっぱいいるのだからイヤだと思うのは間違っていると思う反面、疲れた日は休んだり、平日の昼間に街に出たり、行きたくない宴会を断ったりできる生活に強く憧れた。けれど転職しようとしたところで何の技術も資格もない私が、そんな我《わ》が儘《まま》を通せる職場を探せるはずがなかった。その時の私は八方塞《はつぽうふさ》がりで、まったく打開策を見つけられず、ただ毎日会社に行くしかないので行っていた。
結果的に私は結婚へ逃げた。せめて通勤時間を減らすため会社のそばにアパートを借りようと計画し、それには給料だけでは無理なので副業として少女小説を書き始めた。このあたりの経緯はあちこちで書いたので省略するが、やっとの思いで会社のそばに引っ越せそうな稼ぎを手にしたら、つきあっていた恋人が結婚してくれると言い出したのだ。
それだけ聞くと順風満帆のようだが、会社と結婚と小説と、三つをこなすのは自分の体力では無理だったので、結果的に私は会社を辞めた。この選択が正しかったのかどうか、今でもまだ分からない。結婚しないで一人暮らしをしていたら別の人と結婚していたかもしれないし、小説をやめて勤めながら結婚生活をしていたら離婚しないで済んだかもしれない。どれを選択していたら一番良かっただなんて本当に今でも分からないままだ。
三十代に入ってすぐ離婚をし、その後小説の仕事が多少安定してきた時「なんとなく分かった」ような気になった時期があった。経済的に自立して、気のあう友人を持ち、前だけ見て一生懸命仕事をすれば必ずいいことが待っているように思えた。裕福ではないにしても、それはそれで希望にあふれた毎日だった。
でも、私はそれからもまた何度もつまずくことになった。いくら倒しても次々と現れるゲームの敵キャラのように、問題は解決しても解決しても次から次へとやってきたのだ。
ただ二十代の時と大きく違うことは「何が分からないかは分かる」ようになったことと、問題を解決する手段というものを知ったことだと思う。どうしたらいいか分からなかった二十代に、がむしゃらにエネルギーを使っていたら、気がつくと心の体力がついていた。経験値が上がり、パニックを起こすことが減り、たとえパニック状態になったとしても、頭のどこかで冷静に「これも時間が解決するんだろうな」と考えている自分を発見した。
物事の解決法が分からない、ということは、つまりまだ解決する力がないということだ。判断力というのは体力と同じで、時間をかけて地道に作りあげていくしかないのだと思う。
その証拠に、たとえばあなたの五年前の悩みを思い出してみてほしい。思い出せない場合はその問題を解決する力が自然とついて、いつの間にか解決できていたということだ。五年前の悩みを今も持ち続けているとしたら、それはとても大きな問題で、まだその力がそなわっていないということだろう。
脅かすわけではないけれど、私は四十代を目前に控え、生活レベルの問題は解決できるようにはなったが、若い頃には考えなかった根本的な問題で「分かった気」をうち砕かれている。人は誰でも幸せにならなければいけないのか、成功者以外はみんな落伍者《らくごしや》なのか、お金を稼ぐことだけが偉いのか、向上心を持たなければいけないと誰が決めたのか。世界のことは大きなことから小さなことまで「一概には言えない」という岸辺にたどり着いた今、小説で不特定多数の人に私は尋ねている。どうすればいいんでしょうねと。
[#改ページ]
愛憎のイナズマ
直木賞を頂けることに決まったのは二〇〇一年一月十六日の出来事だが、私にとって直木賞にまつわる記念日は、忘れもしないその前年の十二月八日である。
その日、私はいつものように朝の八時頃起きだし、トーストを食べながら連続テレビ小説の「オードリー」を見た。その後洗濯物を干し、ファックスの返事など書いているうちに昼になり、今、短期契約でうちに住み込んで事務仕事や家事を手伝ってくれている女の子(便宜上、書生と呼んでいる)が作ってくれたマーボー豆腐を食べた。午後は高田馬場に用事があったので、家からそこまでの徒歩三十分の道のりを、日頃の運動不足解消のため歩いて行くことにした。仕事は慢性的に詰まっていたが「今日は息抜き」と決めた。すかっと空は晴れていて、CDウォークマンを聴きながらご機嫌で私は早稲田通りを歩いた。原稿を書かないでいい日というのは、何とも心休まる日である。ちょうどコーヒー豆が切れていたのでドトールによってマイルドブレンド(七百円)を買い、財布の中身が淋しい状態になっていたので一ヶ月分の生活費を銀行で下ろし、もう三年惰性で月イチ通っている心療内科で先生と五分ほど猫の話などして、軽い安定剤と睡眠剤を処方してもらった(診察費と薬代で約三千五百円)。最近札幌に仕事場を持ったので、そこへ行くための航空券を駅前のビッグボックスで買い(早割・特割を使って片道一万五千四百円)ついでにCDショップを覗《のぞ》いてポルノグラフィティというバンドのシングル(確か千二百円くらい)を買った。一休みしようと、私はセルフサービスのパン屋でカフェオレ(二百十円)を飲んで煙草を吸い、今日はお金使ったなあ、と一人でしみじみしていた。もう帰ろうかと思ったが、まだ元気もあったし、何より今日は休みと決めたのだから、久しぶりに池袋西武にでも行ってみようかと山手線に乗ることにした。ちょうど歯磨きに使っていたコップを割ってしまったところだったので、手頃なやつでも買おうかなと思っていた。
適当に若い人向けの洋服屋などひやかしてから最上階にあるロフトへ行き、頑丈そうで汚れが目立たなそうなコップをひとつ買った(二百八十円)。その後ロフト内にある安い化粧品など眺めていたら、携帯電話が鳴った。出ると文春の人である。親しい人なのにいやにかしこまった口調なので何だろうと思ったら「直木賞候補に決まりました。まだ公式発表前なので、どうかご両親様にもご内密に」と言われた。
携帯を切ってメイベリンの前で私は立ちすくんだ。青天の霹靂《へきれき》、じゃない、嬉しいことなんだからそうではない。でもいつも通り、当たり前の一日を過ごすはずだった私には青い稲妻である。ゲッチューと一人|呟《つぶや》いてみたが、そんなものじゃ動揺は収まらなかった。
直木賞候補はこの仕事を始めた時の私の夢であり、ここ数年の目標だった。私は何が何でもそれが欲しかった。誰を傷つけようと誰に嫌われようと、直木賞の候補になってみたかった。誤解を恐れずに言うと、欲しかったのは「候補」で「受賞」ではない。いや、もちろん受賞したいから候補になりたいわけだが、受賞は時の運である。でも候補までは努力でいけるかもしれないと希望をもっていた(というか希望をもつしかなかった)。
作家生活十四年目にして、それがいきなり何の予告もなく、平穏なはずの一日に降ってきたのだ。芽が出たばかりの双葉に、いきなり大輪の牡丹《ぼたん》がボンと咲いたような気がした。後で考えるとヒマワリではなく牡丹というところが複雑な心境を表していた気がする。
単純に嬉しい、というものではない、ものすごい感情の波をざぶんと被り、髪からパンツまでびっしょりになった気がした。重い体を引きずって、とりあえず人の少ない従業員用の通路の方へふらふらと歩いて行き、椅子をひとつ見つけたので腰を下ろした。ほとんど無意識に携帯電話を取り出し、約百件登録してある番号をひとつひとつ見ていった。
とても一人では抱えきれない、マグニチュード七くらいの衝撃を誰かに話したかった。口に出して「直木賞候補になった」と言いたかった。けれど口止めされているので、うっかりした人には伝えられない。文壇に関係のない、信用のおける人が幾人か見つかったが、何故か連絡する気になれなかった。それでも動揺しまくっていた私は、最も無難な人を一人選び出し電話をかけた。すぐに出たその人は「あ、ほんと。おめでとう」とものすごい薄い反応だったのでこちらからすぐに切った。
それで、どうしてこんなめでたいことなのに、親しい人に連絡することに躊躇《ちゆうちよ》しているのか気がついた。私はすごく怒っていた。理由は今でも明確には分からない。嬉しい気持ちよりも激しい憤りがあふれ出て、嫌いな人や、私の仕事のやり方に賛成しなかった人ばかりが頭に浮かんだ。その人達に電話をして「ほらみろ、近道はこっちだったろ」と言ってやりたかった。「この十四年間、どんな気持ちで積み上げてきたか分かるか、コラ」と怒鳴ってやりたかった。でも、もちろんしなかった。そんなことをしても虚《むな》しいだけだし、何より私は厳重に口止めされていたのだった。
そして私は立ち上がった。幸か不幸か、そこは巨大デパートだった。しかもバッグには一ヶ月分の生活費が現金で入っていた。手に握り締めていたのはロフトの黄色い袋に入った二百八十円のコップである。買う前に聞いていたら、これはきっと買わなかっただろうと思った。昔から私の鬱憤《うつぷん》晴らしは買い物である。誰にもぶつけようのないこの複雑な感情を、池袋西武にぶつけるしかなかった。
今、欲しいものを買えるだけ買おうと、私は迷わずバカラに向かった。以前おハイソな雑誌で見た、小さな万国旗のようなものがデザインされたバカラのグラスを歯磨きに使っているおハイソファミリーの記事を思い出したからである。あれを歯磨きに使ってやるぞと戦闘気分で私はバカラに踏み込み、そのグラスがあるかどうか尋ねたら、限定品で取り寄せになってしかも六個セットだと言われた。取り寄せだと? しかもバカラで六個セットのグラスなんか買えるかい、と理不尽に私は腹を立て、でも内心とは裏腹にじゃあなんかひとつだけ、と言って生まれて初めてバカラに置いてあるグラスを全部丹念に眺めた。気に入ったのがみっつあったが、ひとつは私の常識をはるかに超える値段だったので諦め、結局やや小ぶりのもの(ワイン、ウィスキー用)と大ぶりのもの(ビール用)をふたつ(両方とも一万五千円)買うことにした。一緒に選んでくださった年配のおじさまが「贈り物ですか?」と尋ねてきたので「いえ、自分にです」と言ったのだが、ものすごく綺麗《きれい》にラッピングしてくれた。
バカラを出た私は、またもや立ちすくんだ。今欲しいものは何だろう。腕時計じゃない。貴金属でもない。ブランドバッグでもない。欲しいものは札幌で着るあったかい洋服だ。ということで、ラルフローレン・コレクションに行って、店員さんと選びに選んでカシミアのセーターを一枚買った(一万三千円)。その勢いでワイズにゆき、ここでも選びに選んで絹のキルティングジャケット(六万八千円)、そのインに着る薄手のセーター(一万八千円)を買った。荷物が両手いっぱいになって財布の中身が淋しくなると、さすがに疲れと空腹で家に帰りたくなってきた。じゃあ地下で食べたいもの買って、今夜このバカラのグラスで飲むお酒を何か買おうとエレベーターに乗り、何が一番食べたいか考えた。今食べたいもの。それはどう考えても崎陽軒のシュウマイだったので一箱買った(確か五百十円)。飲みたいものは何だろう。ワインだ、ワイン。白ワイン。でもリカーコーナーにたどり着く頃には具合が悪くなってきてしまい、もう銘柄なんてどうでもよくなって(というより最初からよく知らない)、店員さんに「人の家に手土産《てみやげ》でもっていくのでちょっといい手頃なワインを一本ください」と方便を使って選んでもらった(千八百五十円)。
あまりの荷物の多さと空腹と感情のアップダウンにやられて血糖値が落ちたのか、珍しく甘いものがどうしても食べたくなり、目についた喫茶店に入って苺《いちご》タルトとミルクティー(千二百六十円)を頼んだ。甘いものをおいしいと思ったのは久しぶりだった。もう家に戻りたいはずなのに、なかなか腰が上げられず、煙草を六本吸った。それでやっと立ち上がって家に帰り(タクシーに乗った。九百八十円)、とりあえず落ち着こうと風呂に入ってパジャマに着替え、シュウマイを食べながらバカラのグラスでワインを飲んだ。
書生は普段あまり夜に出かけたりしないのに、その日はたまたま友人と食事に出ていてなかなか帰ってこなかった。待っているうちに眠くなってしまい「もういいや」とベッドに入った。すると彼女が帰ってくる気配がしたので飛び起きて、直木賞候補になったことを伝えた。彼女は私のコバルト文庫のデビュー作を読んで手紙をくれたことがきっかけで親しくなったので、私の十三年間を知っているのはまさに彼女である。なのに「あーそうですか。おめでとうございます」とこれまた薄い反応である。どーゆーことよ、と酔っ払った私がからむと「ねーさんの苦労は、本当のところねーさんにしか分からないもん」とあっさり言われた。納得して私は寝室に引き上げた。
そして翌朝目が覚めた時、やっと純粋な喜びがやってきた。二百八十円のコップを使って歯磨きをしながら、私は少しだけ泣いた。
露悪的ともいえるこんな顛末《てんまつ》を書き綴《つづ》った言い訳をさせてもらうと、自伝エッセイという依頼を頂いた時に、過去の自分を語るにあたって読んできた本を語るのは全然違うし、幼少の頃の思い出も違う、家庭は人格工場だと思うので家族のことを語るのが妥当かとも思ったが、それもまた違うような気がした。
そして私の歴史は、その時々で何が欲しかったかだと思いついた。お金で買えるものもあったし、お金ではどうしようもないものもあった。努力で何とかなるものも、ならないものもあった。
小学生だった私は、漫画雑誌とかわいい文房具とアイドルのブロマイド写真が欲しかった。小遣いはそれで全部パーだった。中学生だった私は、あいかわらず漫画のコミックスと文房具に小遣いを費やし、放課後に友達と買い食い(ファーストフードやコンビニなどその頃はなかったので肉屋でコロッケなんか買って食べた)ばかりしていた。高校生になると私は発情し「彼氏」というものが欲しくなり、デートに着ていける洋服が欲しくなった。LPレコードも欲しかった。でもアルバイトを禁止されていたので、欲しい物のほとんどは手に入らなかった。
大学生になってアルバイト禁止令が解かれると、私は堰《せき》を切ったようにバイトに精を出し、親から与えられる小遣いの四倍くらいのお金を稼いだ。その頃欲しくて欲しくてたまらなかったのはラルフローレンのダンガリー地のワンピース(当時で約三万円)で、それを自力で手に入れると、キメのデートにはもっぱらそれを着た。家から駅まで少し遠かったので原付のバイクもお金を貯めて買った。あとのバイト代は、友人達との飲酒や遊びに消えていった。二十歳を超えると私は結婚がしたくなった。けれど付き合っていた恋人は、もちろんこんなバカ女な私と結婚なんかしてくれなかった。その彼には何だかんだと随分貢いだが、お金では愛情は買えなかった。
社会人になっても、私は根本的に変わらなかった。欲しいものは結婚を前提に付き合ってくれる恋人と新しいお洋服。そして飲酒代と終電を逃した後のタクシー代。
そんな人間がよく十数年後に直木賞作家になったものだ。でもその頃の私があったから今があるとも言える。
自分でもびっくりするが、そんな人間がよくもまあ小説を書こうなんて思いついたものだ。威張れることではないが、私は本というものをほとんどと言っていいくらい読んではこなかった。子供の頃兄が読んでいたSFや、大学生の時友人達の間で流行っていた軽い恋愛小説を少し読んだ程度だ。
読んでこなかったので、小説を書こうとする人の気持ちというものも、まったく分からなかった。印象に残っていることがある。高校生の時、兄の同級生が文芸部に入っていて、ガリ版で印刷された文芸誌もどきのものに彼が書いた小説が載っていた。たまたまそれを読んでみたのだ。筋は覚えていないが、修行僧が川で溺《おぼ》れゆく断末魔のシーンが冒頭にあった。それを書いたのは兄の友人なので一応顔見知りの人である。一風変わった人だった。私にはそれを読んでも、なんの感想も湧いてこなかった。上手《うま》い下手《へた》ではなく、どんな動機で何のためにその小説を書いたのかがまったく分からなかった。プロの作家が文章を書くのはそれが仕事だからだと解釈していた当時の私には、高校生の彼が一銭にもならないことに、何故そんな情熱を燃やせるのか理解が及ばなかった。ただ「変な人」とだけ思った。私は日記や友人への手紙をおもしろ可笑しく書くのは好きだったが、まったくの作り話を真剣に書く人の動機が分からなかった。
なのに、大人になってから自分がその「変な人」の仲間入りをすることになった本当のきっかけは何だったのだろうと、今改めて考えてみる。インタビューなどでは「一人暮らしをするために副業が欲しかった。得意で、人知れず始められる仕事がものを書くことだと思いついたから」と答えることが多い。それは本当のことなのだが、恋愛と洋服と遊ぶことくらいにしか興味のなかった人間が、いきなり小説を書こうと思い立つのはやはり不自然だ。
大きな賞を頂けたから言える傲慢なことかもしれないが、やはり私はずっと得体の知れない虚しさを抱えていた。子供の頃は小さな点だった穴が、歳を重ねていくに従って大きくなってゆくことを自覚していた。だから、それを埋めるために必要以上に「楽しいこと」を求め続けた。けれどその穴は、何を放り込んでも埋まらなかった。
会社で働くことは嫌いではなかった。他人に養われるのだけは嫌だったので会社を辞める気は毛頭なかった。けれどある日、会社に出入りしていた保険勧誘の女性が、勝手に私の生涯プランを立ててもって来た時、その穴がより深く暗いブラックホールのようになるのを感じた。
ちゃんとは覚えていないが、そのカラフルなシートには二十六歳で結婚し、二十八歳で第一子、三十歳で第二子を出産し、三十五歳で持ち家を買って二十四年のローンを組み、二人の子供が結婚するまでにかかる金額、年金生活に入るまでの夫や私の病気というアクシデントまでシミュレートされていた。
じわじわと憤りとも悲しみともつかない複雑な感情が沁《し》みだしてきた。保険のおばさんが悪気でやっていることではないのは分かっていたが、その他人が作った自分の人生を眺めているうちに、本当にこの通りのことが起こりそうな気がして、ここから私は出られないのかもしれないという強い閉塞感《へいそくかん》に襲われた。平凡に結婚してささやかでも幸せに暮らしてゆきたいと常々口に出していたにもかかわらず、本心は全然そこにないことを私は知った。
「毎日何やってんだ、私は」と唐突に思って、その人生設計プランをシュレッダーにかけた。でも保険のおばさんが勧めた貯蓄型の保険には入った(月額約一万二千円)。会社は辞めない。今私はここでしか生きられないのだから、ここで生きてゆく。けれどあのシミュレートされた人生から少しでもはみ出す何かをしようと自然に決心が湧いて出た。
刹那的《せつなてき》に生きてきた私が、その時初めて自分の過去を振り返り、現在の自分を客観的に見るという行為をしたように思う。得意なものと不得意なものは何だろう。出来ることと出来ないことは何だろう。好きなことなら努力できる。では好きなこととは何だろうと、使ってこなかった頭で必死に考えた。
何も考えていなかったバカ女なことは明確だったが、卑下からは何も生まれないと思った。私が他人より多くやってきたこととは何だろう。それは洋服にかかわること、お酒、少女漫画、綿密につけ続けていた日記くらいしか思いつかなかった。洋服は好きだけれど、洋裁自体は苦手だし、洋服の流行のサイクルの早さに虚しさを感じはじめていたところだったので却下となった。お酒にかかわるバイトは容姿と愛想に自信がなかったし、何よりその頃情緒が安定しておらず、飲むと悪酔いして人に迷惑をかけることが多かったのでやめておくことにした。で、残ったものが少女漫画と日記だった。副業を始める参考のために買った「公募ガイド」という雑誌を眺めていたら、少女小説の新人賞公募を見つけた。これだと思った。小説は書いたことがないけれど、漫画のあらすじだと思えば、いくらでもストーリーを思いついた。それで私は原稿用紙約百枚の漫画もどき小説をこっそり書いて投稿し、大賞ではないが佳作にひっかかったのだ。
でもそれで、いきなり作家になれるとは思ってはいなかった。何しろ私は小説のショの字も知らないその辺のねーちゃんだった。けれどちょうど少女小説のブームで作家が足りなかったこともあり、プロの域には程遠い私にも、こんなに沢山と驚く程の作品の発表の場が与えられた。
ゴルフクラブも握ったことのない人間が、いきなりグリーンに出たようなものだった。そこは一般文芸というグリーンとは違ったが、それでもどんどん後の人がやってくるので、下手でも何でもがむしゃらに玉を打って進むしかなかった。元々感情を文字にするのは好きだったので、毎回つらい思いをしたが、やればやるほどコツがつかめてくるのが分かった。小説を書くのが楽しくて仕方なかったし、読者から反応があるのも嬉しくて仕方なかった。小説を書いている間は胸の穴のことを忘れていられた。結婚もすることができたので、もう毎月のお給料というものにしがみつく必要はないと思って会社を辞めた。
けれど物事は当たり前だが、そんなにうまく運ぶわけはない。私はいつのまにか少女小説というグリーンでうまく成績を上げられなくなってきた。そしてこのフィールドにいる限りは、いくらでも思いつくストーリーを発表できないことを知った。一般文芸に移行したらもっと収入が落ちることは分かっていたが、その頃にはもう小説を書かない自分というものが想像できなくなっていた。お金にならなくても書きたいことを書く、というエゴを抑えきれなかった。そのエゴで結婚も破綻したし、いろんなものを捨てた。
もちろん私は、読んでくれる人の心を何かしらの形で震わすようにと思って小説を書いているけれど、でも本当は自分のために書いている日記と変わらなくて、ただ書きたいというエゴなのだと思う。物語を編み、それで人の心を揺さぶるという魔力に私はとり憑《つ》かれた。ものがたる、という麻薬に完全に中毒になった私は、邪魔だと思えば物であれ人であれ排除してきた。小説の前では思いやりもどこかに吹っ飛んでしまうことが多かった。だからこそ傷つけた人の多さと捨てたものの多さに報いるため、もう戻れないと思った。ならば、いけるところまではいこう。いつかは直木賞候補になろうと目標を定めた。この賞がどんな賞なのかは、大変失礼な話だがどうでもよかった。埋まらない胸の穴、という抽象的な悩みを解消したいがために、その反動なのか私は分かりやすく具体的なハードルをひとつひとつクリアすることにしてきた。その分かりやすさの極地が私には「直木賞」だったのだ。まず候補になること。そしてその後の、長いはずであろう道のりを一歩一歩進んでいこうと思っていた。
なのに、いきなり受賞である。嬉しいことは本当だけれど、まぐれでホールインワンしてしまったような気持ちの方が大きい。
どうして私は小説を書く「変な人」になってしまったのだろうと、今でもまだ不思議に思う。ひとつだけ確信を持てる理由は私は人の心を愛しているということだ。「愛している」という言葉は口語じゃないと思うので、なるべく使わないように気をつけているのだが、今回だけは照れずに言ってみようと思う。私は人間の心の動きを愛している。それを文字で表現し続けたい。それが今私が一番欲していることだ。最後にまた素直じゃないことを書くが、愛しているということは、憎んでもいるということだ。
[#改ページ]
「山本文緒」との和解
先日の一月十六日、第百二十四回直木賞を「山本文緒」が受賞した。というとすごく偉そうな響きなので言い訳させて頂くと、山本文緒というのはペンネームで私の本名ではない。約十四年前、突然小説を書いて投稿してみようと思い立った私は、原稿よりも先にまずペンネームを考えた。本名で小説を書く気になれなかったのは、こっぱずかしい気持ちがあったからだった。とてもじゃないが、別人格でも作り上げなくては「私の独り言」であるところの小説なんか書けないと思った。
山本文緒は架空の人物だったはずなのに、うっかり新人賞を頂いたら(当たり前だが)私が山本文緒だということになった。「山本さん」と呼ばれてもなかなか自分のことだとは思えず、長い間違和感があったのだが、それもいつしか消えていった。
この仕事を続けていけばいくほど、私はペンネームをもったことを正解だったと感じた。本名の私が山本文緒という職業をやっている、という意識をもつことでずいぶん客観的に自分の仕事を見ることができたし、公私を分けるのにも便利だった。
本名の私が「山本文緒」に課したことは、目の前の仕事を丁寧・確実にこなすことと、そうして少しずつ積み上げて、いつしか直木賞候補になることだった。そのやり方は自分にあっていたようでストレスも溜まらず、数年前まで本名の私と山本文緒は、その時々で風見鶏《かざみどり》のようにくるくる回ってうまく共存してきた。
それがいつしか、山本文緒という架空の人物が本名の私の意に反するようになってきた。山本文緒の暴走である。気が付いたら、山本文緒は活動的で怒りんぼで野心的になっていた。けれど山本文緒をやっている本名の私は基礎体力がなく、内省的で小心者である。けれどその時にはもう本名の私は山本文緒に養われているような状態だったので、暴力夫のような山本文緒に逆らえなくなっていた。
山本文緒は一刻も早く直木賞が欲しいと言う。本名の私は焦って突っ走っても体を壊すし、それではいい作品もできないと諫《いさ》めた。
山本文緒の怒鳴り声は大きかったが、本名の私は弱々しいながらも抵抗した。最近ずっと胃がしくしく痛みっぱなしなのは山本文緒があんまり酒を飲みすぎ、本名の私が胃の中に閉じこもってしくしく泣いているからだと思えて仕方なかった。たとえば今では本名宛で年賀状をくれる人も数える程になってしまった。目指していたところが本当にここだったのか、正直わからなくなっていた。
そんなせめぎ合いの最中に、思いもよらなかった早い受賞が降ってきた。そうしたらどうしたことか、山本文緒の気が済んだようなのだ。別人格を作り出していたのは、たった一人の私である。私は山本文緒であることから無意識に逃げたかったのかもしれない。山本文緒は架空の人格ではなく確かに存在するのだと認められた瞬間、私達は和解し融合した。胃の調子はどんどん快方に向かっている。
[#改ページ]
捨てたものと引き換えに
二十一世紀を迎える正月を、私は久しぶりに実家で過ごしていた。その元日の朝、私のもとに一通だけ年賀状が届けられた。それは一九八五年九月三日付けのもので、世間の話題となっている、つくば科学万博で行われたあのポストカプセル郵便である。
忘れていたわけではないが、大晦日に飲みすぎて頭痛と胃痛に苦しんでいた私は、朝日の中で、十六年前に出されたそのハガキを手に困惑した。ニュースなどの特集で見たところ、未来の自分か家族へ年賀状を出した人が多いようだったが、私は当時付き合っていた男の子と互いへの年賀状を書き、見せ合わずに投函したのだ。二人共若くてバカで、ラブラブだったからなあ、恥ずかしいことが書いてあるんだろうなあと面映《おもはゆ》い気持ちで読みはじめた私は、予想外のショックを受けた。
その人の承諾をとることは今できないので文面を紹介するわけにはいかないが、ものすごく普通のことが書いてあった。きっとあなたが幸せになっていることだろうと思いたい、せめてつらい気持ちで読むことがないよう心から祈ります、というような内容だった。そんな当たり前な文面を読んだ後、考えるより先にぶわっと涙が出た。実家の、今や倉庫と化した自室で「幸せじゃない。つらい」と声に出して私は泣いた。
十六年前の私は、まだ小説を書こうなどとは発想したこともなかったイチOLで、十六年後の私は作家デビュー十四年目で直木賞候補になっていた。なのにどう考えても幸せではなく、いくつかのつらい悩みを抱えていた。
でも涙はほんの二分程であっけなくおさまった。幸せか、幸せでないかという基準で物事を判断することを、私は数年前からやめていたからだ。ちょっとくらい不幸で何が悪いと、いつしか考えるようになっていたのだ。
小説を書き始め、直木賞候補になることを目標に定めてから私は沢山のものを捨て、いろんなことを諦めた。というとネガティブに聞こえるが、この仕事は日々選択の連続で、必然的に選択しなかった方を捨て、選択した方を得ることになっただけのことだ。でも思い返せば捨てなくてもいいものも捨てた。弱気になったり、体力が続かなくて下ろして置き去りにしてしまったものもあった。
要は感慨深かっただけである。私はその男の子とひどい別れ方をしてしまったので、長い間、何か悪いことがあると「ああ、あの時の罰が当たったんだな」と思ってきたが、最近はそのことを忘れたことすら忘れていた。
先日の一月十六日に、私は第百二十四回直木賞を頂いた。もしとれなかったとしても、もう「あの時の罰が」とは思わなかったに違いない。ひとつ後悔があるとすれば、自分がいったい彼にどんなメッセージを書いたのか、すっかり忘れてしまっていたことだ。私は多くの記憶さえも捨ててきた。捨てた分だけ何か貰《もら》えるという発想は間違っているのかもしれないが、今はそう思えて仕方ない。
[#改ページ]
直木賞受賞後の近況
直木賞もらうとその後しばらく大変だよ、と聞いてはいたが、具体的にどう大変かは聞いていなかった。
受賞直後、押し寄せる各方面からのお祝いや取材に「どうして歴代受賞者の方々はもっと具体的に語り継いでくれなかったのだろう」と逆恨みまでしたが、受賞が決まってからこの一ヶ月を振り返ると、確かに「どう大変なのか」を具体的に語ることは難しいことが分かった。作家と一口に言っても人それぞれである。インタビューやエッセイが重荷になる人もいれば、大昔の知り合いからの電話に困惑する人もいるだろう。そして、そんなことは全然平気な作家だっているだろう。
私の場合は「日々判断の連続」であることが単純につらかった。ひとつひとつは大したことでなくても、マイペースで暮らしていた私にとってはひどく消耗した。
例えば授賞式に私は何を着ればいいのだろう、という問題。何だっていいやと開き直る度胸は私にはなかった。一応いい歳をした大人の女(?)なのだから、それなりにちゃんとしなければならないのだろう。
服を買うのは大好きなのだが、さすがに今回は途方にくれた。パーティー嫌いの私は(人の結婚式でさえ余程のことがないと行かない)カジュアルは得意でも「ちゃんとした恰好・しかも主役」となるとお手上げである。着物は大学時代の落研以来着ていないので論外である。体重が人生のマックスをマークしている今の私には、腕や背中が出るようなドレスも着られない。そうなると残された道は、仕立てのいいスーツかワンピースというところか。
洋服なんて一人で買いにいくもの、人と一緒じゃかえって邪魔とすら思っていた私だが、この時ばかりは自分の判断力に自信が持てず、友人の中から一番冷静な人を選んで、一緒に池袋西武に行ってもらった。時間があればあちこち見たいところだが、とにかく洋服にさける時間はその日の午後しかなかった。何着試着しただろう。午後二時から閉店間際まで、私はあらゆる店のフォーマル系の服を着ては脱ぎ、脱いでは着てヘトヘトになった。最終的に二着にしぼりこみ、でもどちらにするかを決められず、喫茶店に入り友人(彼女も相当疲れたことだろう)に誘導尋問してもらってやっと決めた。服を買うのがつらかったのは、人生初めての出来事だった。無職への憧れから書いた作品が、私をいつもの倍働かせることになっているのだから皮肉なものだ。
[#改ページ]
ぷかぷかと暮らす
私は横浜で生まれてそこで育ち、結婚して実家を出るまでの二十五年間、横浜で生活してきた。なのに私はあまり横浜という土地が好きではないし、できればもう戻るつもりはないと言うと、大抵の人に驚かれる。「横浜」という土地のイメージは相当いいらしく、しかもそこが故郷なのにもう住みたくない、という理由が分からないのだそうだ。
実のところ最近まで、私自身もその訳が明確でなかった。私は横浜市のいわゆる新興住宅地で育った。新興といっても、今でいういわゆるニュータウンではない。昭和三十年代に山を切り崩して作ったその土地には、私が子供の頃は緑や空き地も多く、春にはつくしも摘んだし、遊ぶには絶好の丘や崖《がけ》や小さな洞窟《どうくつ》まであった。つまり私は横浜で、かなり幸せな少女時代を過ごしたのだ。けれど私が高校生になる頃には、もう空き地もこんもり緑の茂った丘もなくなってしまった。その代わりに何か便利なものができたかというとそんなことはなく、昔からあった本屋は潰れ、飲食店もできたかと思うとすぐ違う店になり、ただ家だけが増殖した。港の方だけはどんどん開発が進んだが、そこは住民には(少なくとも私には)よそよそしい観光地になってしまった。
十代の終わりくらいから、いつか私は東京へ移り住もうと決めていた。関東近県以外の方から見れば、横浜も千葉も埼玉も「東京」としてひとくくりに感じるかもしれないが、横浜というのはやはり一地方都市である。隙さえあれば私はせっせと東京に通った。渋谷も新宿も原宿も、池袋も銀座も浅草も、それぞれ魅力的で歩いているだけで楽しかった。住宅地と繁華街を比べること自体が間違ってはいるのだが、それでも私は横浜にある独特の文化よりも、東京のそれに惹《ひ》かれた。
結婚して住んだ場所は、家賃の関係もあって川崎市だった。実家付近よりは少しマシだったが、それでも川崎のその住宅地に私はなじめなかった。引っ越したいと夫に訴えたこともあったが、通勤にも便利だし、駅前には大きなスーパーマーケットも商店街もあるのに何故引っ越す必要があるのかと却下された。
その後約六年で離婚することになった私は、やっとこれで東京に一人で住めると心躍らせた。最初に住んだアパートは目黒区にあって駅まで徒歩二十分はかかるボロアパートだったが、それでも私は望みを叶えた喜びでいっぱいだった。徒歩二分圏内に古い商店街、図書館、公園、スポーツクラブ、内科、そして花屋とバーがあった。パラダイスだと思った。
けれど結局そのアパートはあまりにも手狭で、一年強で中野区のコーポに引っ越した。中野の部屋は駅まで五分で、まわりにはとにかく何でもあった。十代の頃に夢見ていた生活を私はやっと手に入れたのだと実感した。目黒も中野の部屋も、閑静な住宅地、というものからはかけ離れていたが、だからこそ私は静けさを求めていたわけではないことを知った。夜眠っていると、上からは洗濯機の排水音がし、下からは酔っ払って大声で歩く外国人の声が毎日のように聞こえたが、かえって孤独を感じないで済んだ。
そして今度は文京区に引っ越した。山手線というドーナッツの中は意外に居心地がいいと、どこかで読んだからだ。そこへ引っ越して驚いたことは、目黒や中野とは明らかに違う不便さだった。商店街はないに等しいし、スーパーもレンタルビデオ屋も本屋も小さくて品薄である。地下鉄駅まで徒歩十五分かかるし、手軽な外食の店も少ない。青山や麻布というような場所はまた違うのかもしれないが、今私が住んでいる所は生活しやすいとは言えない。けれど目黒や中野とは違った不思議な隠れ家的雰囲気があり、私はこの不便さを意外に気に入った。どこで飲んでも大した料金がかからず車で家に戻れるので、終電を気にするという感覚がなくなった。
そんな私がこの前の夏、札幌に小さいマンションを買った。まわりの人々は再び「どうしてまた札幌?」と驚いていた。
いきなり聞かされた方は唐突に感じるかもしれないが、実は前々から考えていたことだった。母親が歳をとってきて夏になると体調を崩しがちであったことや、私自身も気分転換と落ち着いて原稿が書ける場所がほしかった。私と母は車の運転ができない上に、近くに映画館や本屋がないとつまらないタイプで、スキーはしないが雪が好きだという理由もあり、その条件を満たす札幌に決めたというわけだ。
贅沢《ぜいたく》といえば贅沢な話である。けれど、札幌は今マンションの建設ラッシュで、東京の半分くらいの値段で、一人暮らしをするには最適なサイズの物件を手に入れることができた。
私はあいかわらず東京が好きで、できれば一生住み続けるつもりではいるが、やはり東京という街は魅力のある分、どこか歪《ゆが》んでいる。それを外側から眺めてもみたかった。どこでもそうなのかもしれないが、東京の賃貸物件の大家さんは穏やかそうに見えてもどこかピリピリしているし(それは住民のマナーが悪いこともあるだろう)、例えば同じマンションの人とすれ違っても、東京では挨拶どころか目をそらして逃げるように去られてしまうのだ。
横浜に住みたくない理由はきっと、きちんと挨拶しないと居づらい共同体意識が、一生独身かもしれない私にはつらいからではないだろうか。札幌には今のところ一ヶ月に一度、一週間単位くらいで訪れているが、そこでの私は地元住民でもないし観光客でもないというコウモリ状態である。東京は、今の私には住んで仕事をする場所だ。
こんな私でも、いつかどこかに定住することがあるのだろうかとぼんやり考えるが、結論はまだ出そうもない。家庭を持って住宅地に住み、そこで発生するしがらみさえも受け入れていく未来をまったく望んでいないのかというと嘘になる。ただ今はまだどこに根を下ろすかはっきりしないまま、ぷかぷか浮かんでいたいのだ。
[#改ページ]
束の間の解放
地球上の四分の三を占めるという海。ほとんどの人間は、その広大な水のほんの端っこにしか関わっていない。だからこそなのか、その雄大な海洋を砂浜から眺めるときや、自力で泳げるところまでいってみるとき、船に乗ってもう少し沖合まで出てみるとき、それぞれに何か心動かされるのかもしれない。はしゃいだり、甘やかな気持ちになったり、時には畏怖《いふ》を超えて恐怖を感じたり。
私は神奈川県の、比較的海沿いに生まれ育ったので、子供の頃から海は身近にあるものだった。大人になるまでは、三浦半島や逗子や鎌倉の海岸に、夏でも冬でも出かけていった。
神奈川県の海は残念ながら砂がチャコールグレーだし、海だって青くなんか見えない。それでも海は海だ。海岸線を見渡すことができ、海風にあおられると髪がべたついた。子供の頃、海水浴帰りの電車の中では、日に焼けた脛《すね》に塩が粉を吹いていた。
そうはいっても、私はもっぱら波打ち際でしか遊ばなかった。泳ぎがうまくないので、足の立たないところまではどうしても入っていけなかったのだ。正直なことをいうと、泳ぐなら海よりプールの方が好きだ。プールに潜ったときに見える、四角く無機質な水の風景がとても好きだ。海は生き物で、果てしがないからとても恐いと思っていた。
けれど大人になって、私は足の立たない海で泳げるようになった。あの喜びをどう表現したらいいだろう。とにかくシュノーケル三点セットを作ってくれた人、ありがとう。
大勢でハワイへ遊びにいったとき、ダイビングのライセンスを持っている女友達が、シュノーケリングの仕方を伝授してくれた。後ろ歩き(足ひれを付けていると前には歩けない)で砂浜からそろそろ海へ入ってみると、あらま不思議、立ち泳ぎもできるし、水面に顔をつけても息ができる。潜るのはまだ恐かったけれど、観光用のクルーザーでいったシュノーケリング・ポイントで、私は沢山の魚を見、随分と下にある海底を眺めると、自分が高いところをすいすい飛んでいるような気持ちがした。
これでもう海は恐くない。プールより浮力があるし、何より人工物でない生き物の海は、驚きと喜びと何か浄化作用があるように感じて気をよくした。しかしその後、自然とは何とも人間を戒めるようにできているようで、非常に恐い体験をした。
それはシュノーケリングを教えてくれた友人に誘われ、奄美大島に出かけたときのことだ。朝一番の飛行機で奄美に到着し、午前十時にはもうマングローブの林の中でカヌーを漕《こ》いでいた。午後は浜にテントを張り、そのツアーに参加した見知らぬ人達十数名と沖へシュノーケリングに出た。ハワイのときとは違い、公園の池に浮かんでいるような小さなボートひとつで、連れて行ってくれたのはインストラクターというよりは漁師さんに見えるおじさん一人だった。
しばらくは皆歓声を上げ、海水とたわむれていたが、一時間もたたないうちに体が冷えてくるのを感じた。それは私だけではなかったようで、その漁師さんも「そろそろ戻った方がいい」と言い出した。呑気だったのはそれまでで、全員で浜を目指して泳ぎだす頃には、体は芯《しん》まで冷え、手足が重く思うようには動かなかった。ボートには三人しか乗ることができなかったので、すでに動けなくなってしまった女の子二人をボートに上げ、漁師さんは懸命にオールを漕いでいた。私はボートのそばを離れないよう必死で足ひれを動かした。いやな沈黙が流れ続ける。皆、自分のことで精一杯だったのだろう。岸は目の前に見えているのに、いつまでたっても辿《たど》り着けない。ああ、人はこうして海難事故にあったりするのだなと、そのとき本気で思った。それと同時に、今ここでは死にたくないという思いに突き動かされ、力を振り絞って陸を目指した。永遠にも感じられた長い時間の末、やっと浜に上がった人々は、その場でしばらく動けなかった。タオルをもらって震えながら、やっぱり海は恐いのだと、上手に泳げて体力のありそうな男の子までへばっているのを見て思った。
どんな動物も、元を辿れば海から発生している。だからなのか陸上に棲《す》むほとんどの哺乳類《ほにゆうるい》は、いざとなったら泳げるものだ。なのに人間だけが極端にその能力に欠けている。特に都市で暮らす普通の人々は。
地に足をつける、という言葉がある。けれど、私は今でも時折、足をつくことができない海に出てみる。すると普段まったく忘れていた、自分もこの海にうじゃうじゃ棲む有機物と同じ、ただの生き物だということを思い出すのだ。人間という生物は、自然の中で生き延びる力に欠けるからこそ頭を使うことを覚えたのだと実感する。
微弱な自分が、海という圧倒的に大きな存在に包まれるとき、束の間私は社会というゆがんだ装置から解放される。
[#改ページ]
贅沢な助手席
愛されている車、というのがあると思う。万人にではなく持ち主に愛されているという意味で。値段が高いとか、いつもぴかぴかに磨かれているとか、そういうことではもちろんない。
私は二十代のはじめに免許をとってからずっとペーパードライバーなので、助手席歴が非常に長い。だから案外客観的に、その人が自分の車にどんな感情をもっているのか、助手席に乗せてもらうとわかるのだ。
私はちょっと前に再婚をした。私の方にはもれなく猫がついてきて、夫の方にはもれなく車がついてきた。その車は私の猫のように愛されていた。でも実は、私には猫を愛している自覚が指摘されるまでなく、夫の方も自分の車を愛しているとわかっていなかった。
夫の車は新しいとはいえないディアマンテで、走行距離は約十六万キロ。年長の方から安くゆずってもらったもので、そのとき既に十三万キロ走っていたそうだ。きっと前の持ち主は、その車でさまざまな場所に出かけたのであろう。ボディやバンパーについた小さな傷たちは、一歩間違えれば車を古ぼけさせて見せるだろうが、今現在も何のトラブルもなく快調に走り続けているその車体は、使いこんだ良い鞄を連想させる。
夫は車を磨きたてたりはしないが、とても丁寧に、でもどんな長距離でも、行ったことのない場所でも、気軽に運転をしてゆく。「車は下駄代わり」と冗談まじりに夫は言うが、私はそのくらいのスタンスの方が好きだ。ある物を物以上や以下に扱うのは、その物に対して愛がない。猫を擬人化して可愛がるのは猫に対して失礼だし、車は車以上でも以下でもない。そして、愛は決して人間だけに向けられるものではない。
年下の女友達も教習所の教官だけあって、やはり自分の車に愛をもっている。小型の国産車だが日々車のご機嫌を伺い、それに乗って仕事や遊びに出かけてゆく。
車を愛せることは贅沢なことだなあと、車を所有することのない私はとても羨《うらや》ましく感じる。贅沢というのは悪口ではなくて、豊かな心だという意味だ。豊かな心で車を運転している人の隣は、とても心地よい。
たとえば、愛されていない車に若い頃乗ったことがある。買い換えたばかりだというその車は誰でもが知っている外国の高級車で、その男性の腕にも車と同じように磨かれたブランド物の腕時計が巻きついていた。若い私は「うわあ、お金持ちなんだ」と内心|怖《お》じ気《け》づいた。けれど、街の中を走り出すと、彼は信号の多い都心で不要にアクセルをふかしては唐突にブレーキを踏んだ。車の中は塵《ちり》ひとつなくきれいだったが、その人は煙草に火を点けると窓を開けて灰を道路に落とした。それを見て、なんだ大した人じゃないんだとガッカリした記憶がある。
高価なものを所有することと、贅沢なものをもつことはこんなにも違う。
そして、助手席専門の私は大変に幸福である。誰かに頼まないと車移動はできないけれど、そのほかのほとんどのことを自分でこなして生活している私にとって、車に乗せてと夫や友人に頼むとき、子供にかえったような甘やかな気持ちを味わうことができる。
助手席の幸福は、道順や車検や税金の心配をしないでいいだけでなく、車窓からの風を目をつむって瞼《まぶた》に感じたり、街路樹の緑を信号を気にすることなく楽しむことができること。
それでも運転してもらっているからと、私はずっと長い間、助手席では背筋を伸ばしていることを忘れなかった。それが結婚をしてもれなくついてきた車の持ち主が言うではないか。助手席をリクライニングにして眠っていいと。そんなことを言われたのは初めてで驚いてしまった。愛されている車の助手席で、今私は座席を大きく倒してフロントグラスいっぱいの空を見上げることができる。でもまだ眠ったことは一度もない。月日を重ね何万キロも二人で走ってゆくうちに、いつの日か私は贅沢にもそこで眠れることがあるのかもしれない。
初出一覧
花には水を。私に恋を。 「Domani」2002年1月〜12月号
今宵の枕友だち 「月刊オーパス」1994年4月〜1995年1・2月号
夏の日が終わって/もう君を離さない/White Winter 「月刊カドカワ」1993年11月・12月・94年1月号
日記をつける奴 「宝石」1994年1月号
日常のわたし 1 「青春と読書」1994年8月号
最後の晩餐 「小説すばる」1994年8月号
私の願い 「新刊ニュース」1995年4月号
自画自賛 「月刊カドカワ」1995年5月号
これは私の人生ではない 「小説すばる」1995年8月号
創作沖縄民謡の青春 「小説新潮」1995年8月号
わが青春の一冊 「小説宝石」1995年8月号
どうしてあなたはそこにいるのか 「PHP」1995年12月号
あぶない独り遊び 「小説すばる」1996年1月号
男は本気、女は浮気説 「an・an」1996年6月28日号
『ブルーもしくはブルー』 掲載誌不明
勇気について 「向上」1996年10月号
悪党のフグちり 「小説すばる」1997年2月号
年末年始帰省日記 「月刊カドカワ」1997年3月号
一人で暮らす本当の理由 「本の旅人」1997年2月号
コンプレックス 「an・an」1997年3月14日号
読むのもほどほどに 「向上」1997年9月号
無意味な旅 「オール讀物」1997年9月号
本音を恋の切り札に使う方法 「an・an」1997年10月31日号
日常のわたし 2 「青春と読書」1998年2月号
いやなものはいや 「大望」1998年2月
本屋は遊ぶところ 「本の旅人」1998年2月号
アンカレッジの寒い寿司屋 「小説すばる」1998年3月号
添い遂げる口紅 「Make up Magazine」1998年3月
微妙な年齢 「小説CLUB」1998年4月号
省エネな日々 「向上」1998年5月号
こいつ、私にジャケ買いさそうとしている 「ダ・ヴィンチ」1998年7月号
私のトイレを返して 「小説現代」1999年3月号
日常のわたし 3 「青春と読書」1999年4月号
ビールがいけない 「小説現代」1999年6月号
日常のわたし 4 「青春と読書」1999年11月号
忘れたい 「小説すばる」1999年8月号
人に言えない職業 「小説トリッパー」1999年秋季号
日々是送受信 「ダ・ヴィンチ」2000年8月号
ここに一人でいる理由 「VOGUE」2000年6月号
自由の練習 神奈川大学「学問への誘い」2000年度版
愛と性の不確実性 「毎日新聞」2000年6月5日(夕刊)
居心地のよい外国のような街 JAS機内誌「アルカス」2002年3月号
長寿五分間番組 「週刊文春」2002年6月6日号
文庫の運命 「角川文庫名作150」
妹たちへ 1・2・3 「日経ウーマン」2001年8月・9月・10月号
愛憎のイナズマ 「オール讀物」2001年3月号
「山本文緒」との和解「共同通信」2001年1月配信
捨てたものと引き換えに 「読売新聞」2001年1月23日(夕刊)
直木賞受賞後の近況 「新刊ニュース」2001年4月号
ぷかぷかと暮らす 「日本経済新聞」2001年3月18日
束の間の解放 「CREA」2003年4月号別冊特別付録
贅沢な助手席 「CREA」2004年1月号
単行本 2004年4月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十九年四月十日刊