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チェリーブラッサム
山本文緒
目 次
チェリーブラッサム
あとがき
[#改ページ]
のどかで退屈な春休みの出来事だった。
金曜日の夕方、お父さんが六時前に帰宅した時、私はすでに嫌な予感を感じていた。銀行に勤《つと》めている父は、どんなに早くても九時より前に帰ってきたことはない。お父さんの台詞《せりふ》を借りれば「中間管理職は苦労がたえない」らしい。
「お父さん、どしたの?」
ポテトチップをかじりながらテレビを見ていた私は、父の唐突《とうとつ》な帰宅にうろたえた。
「どうしたもこうしたもあるか。俺の家だ、帰ってきて悪いか」
背広を脱いでネクタイをゆるめながら、お父さんは不機嫌そうに言う。
「悪かないけどさ……いつも残業で遅いのに、今日に限って」
全部言い終わる前に、お父さんは私の手からポテトチップを取りあげた。
「あ、何よ。返してよ」
「うるさい。こんな時間に菓子なんかボリボリ食って。夕飯はどうした」
「作ってあるわけないじゃない。お父さん、いつも外で食べてくるでしょ」
「俺の飯《めし》の話じゃない。実乃《みの》と花乃《かの》の夕飯だ」
私は取りあげられたポテトチップを恨《うら》めしげに見あげた。辛《から》みそ風味のポテトチップ、それが私の夕飯なのに。
「まさか、こんな菓子食って終わりか?」
「そうだよ。でもそれ新発売でおいしいんだよ。カルシウムも入ってるって書いてあるし」
お父さんは大きな溜《た》め息をついたかと思うと、ポテトチップの袋をゴミ箱に投げこんだ。
「あー! 捨てた!」
「こんなもの食ってるから、お前の胸はいつまでたってもペッチャンコなんだ」
突然早く帰ってきたかと思ったら、ポテトチップ取りあげて、胸のことまでけなされちゃいくら私でも頭にきてしまう。
「ひどーい。何よ、胸なんかないほうが身軽でいいんだよ。花乃姉ちゃんなんかボヨンボヨンしてるから、走るのだって遅いじゃない」
「うるさい。それより花乃はどうした。またどっか遊びに行ってんのか」
「部屋にいるよ。この前のことで花乃ちゃんだって反省して、早く帰ってきてるんだよ。いつも酔っぱらって夜中に帰ってくる人が何言ってんの」
お父さんの耳は自分に都合の悪いことは聞こえない構造になっているらしい。私の言うことを無視すると、父は二階へダンダン上がっていった。
私はゴミ箱からポテトチップの袋を拾いあげる。テレビの前に座りなおすと二階から花乃姉ちゃんの大声が聞こえてきた。
「やだ、お父さん! 返してよね!」
振り返ると戻ってきた父の手にはかっぱえびせんの大袋が握られていた。
「ちょっと、お父さん。それ食べかけなんだから」
お父さんは追いかけてきたお姉ちゃんを睨《にら》むと、畳《たたみ》の上に足を折って正座した。
「花乃、実乃。ちょっとここへ座りなさい」
私と花乃姉ちゃんは顔を見合わせた。
やれやれ、またお説教だよ。うちのお父さんは、野球とプロレスの次にお説教が好きなのだ。
逆《さか》らうと話が長くなるので、私とお姉ちゃんはおとなしくお父さんの前に座った。ハイハイと聞いていれば十分ぐらいで解放されるのだ。説教を聞いてあげるのも娘の務《つと》めのひとつだろう。
ひとつ咳払《せきばら》いをすると、父は腕を組んで両目をとじた。
「重大発表だ」
こういう切りだし方ははじめてだな。どうせ今日から菓子は御法度《ごはつと》とか言うんじゃないの。
「今日、三月三十一日をもって、お父さんは会社を辞《や》めた」
「……え?」
うつむいていた私達は思わずお父さんの顔を見た。丸顔に後退した髪、てかてか光った広い額《ひたい》の父の顔が何故だか笑っている。
「辞めたってどういうこと?」
花乃ちゃんが口を開くとお父さんは偉《えら》そうに頷《うなず》く。
「辞めたということは、明日から会社に行かないということだな」
三人の間に沈黙が流れた。お父さんは悦《えつ》にいった顔で目をつぶっているし、お姉ちゃんは口をパクパクさせている。
「じゃ、じゃ、聞くけど、次の就職先とか決まってるの?」
お姉ちゃんの口調に焦《あせ》りの色がみえはじめた。
「もう俺は会社には行かん」
「行かんって、じゃあ、どうする気なのよ。お父さん、どうしちゃったの? 登社拒否? いじめにでもあったの?」
お父さんはゆっくり首を振ると、目を開けて不気味に微笑《ほほえ》んだ。
「三人で働くんだ」
「三人?」
「俺と花乃と実乃だ」
それを聞いて、花乃姉ちゃんは呆《あき》れたように立ち上がった。
「何言ってんのよお父さん、頭変なんじゃないの、私も実乃も中学生なのよ、何して働けって言うのよ」
「お父さんの仕事を手伝ってくれればいいんだ」
「仕事って……何する気なのよ」
「便利屋だ。どうだ、グーッドアイデアだろう?」
お父さんのひどい発音は、お姉ちゃんにとうとうヒステリーを起こさせた。
「ちょっと実乃、どうして黙ってんのよ! あんたもちょっとこの馬鹿親父になんか言ってやんなさいよ!」
肩を揺すられても、私は口を開けたままポカンとしているだけだった。
お父さんの言葉の意味が私には全然理解できなかったが、父の満足げな微笑を見て、ものすごーく嫌な予感にめまいがしてきてしまった。
私は桜井《さくらい》実乃。この四月から中学二年になる。
お母さんは四年前に仏様《ほとけさま》になってしまった。だから今私の家は、お父さんとお姉ちゃんと私の三人家族だ。
私達三人の住む小さな家に、今日どっと親戚《しんせき》達が押しよせてきた。昨日の夜、たまたま電話をしてきたおばさんに、お父さんは会社を辞めたことを自慢げに報告していたので、それがあっという間に広まったらしい。
「うるさいわね、下は」
鏡の前で髪をとかしながら、花乃姉ちゃんが顔をしかめた。下の居間では桜井家親族会議が行われていて、二階にいてもやかましい声が聞こえてくる。
私は畳に座ったまま、お姉ちゃんがリボンを結ぶのを口を尖《とが》らせて見あげた。
「花乃ちゃん、どっか出かける気?」
「そうよ。うるさくってたまんないわ。あんたも、どっか行ってたほうがいいんじゃない」
「誰のせいで親戚中が集まっちゃったと思ってんのよ」
私の刺《とげ》のある言い方に、お姉ちゃんは振り向いた。
「花乃ちゃんのせいだよ」
「私の? どうしてよ。お父さんが会社辞めて変な商売はじめようとしたから、親戚中が止めにきたんじゃない」
「なんで分かんないのよ。お父さんが会社を辞めたのはさ」
私の台詞を遮《さえぎ》るように、お姉ちゃんは立ちあがった。
「もしかして、私が補導《ほどう》されたからだって言いたいわけ?」
「そうだよ」
「じゃあ聞くけど、娘がゲームセンターで補導されたぐらいで、どうして父親が会社を辞めないとならないわけ? 私にはサッパリ分かんないわ。変なの」
「変なのは花乃ちゃんじゃんか」
「ああもう。ややっこしいこと言わないでよね。とにかく私は出かけてくるから」
机の上のバッグをつかむと、彼女はスカートをひるがえして部屋の外へ出ていく。私はあわててお姉ちゃんの背中に声をかけた。
「何時頃帰ってくんの?」
返事はなく、花乃ちゃんの階段を駆け下りる足音が聞こえてきただけだった。
私は溜め息をついて、お姉ちゃんが今まで座っていた鏡台の前に腰を下ろす。立ててあったリップクリームを私は指で弾《はじ》いて倒した。
お父さんが突然会社を辞めて三人で働こうなんて言いだしたのは、やっぱり花乃ちゃんが補導されたことがきっかけだったに違いない。
ひとつ年上の花乃姉ちゃんは、先月、隣町のゲームセンターで補導された。クラスメート達と十人ほどでいて、男の子は煙草《たばこ》を吸ったりしてたそうだ。花乃ちゃんや他の女の子達はただゲームをしてただけだったけど、時間が夜の十時近かったことから、全員一緒にお縄《なわ》となったのだ。
警察に呼ばれ、花乃ちゃんを連れて帰ってきた時のお父さんは、こっちが心配になるぐらいしょげていた。怒ってどなり散らしていたならいつものことだから私も気にしなかったと思う。ところが、あのお父さんがガックリ肩を落としていた。
今思えば、それからお父さんの態度が少しずつ変わってきていた。あいかわらず帰ってくるのは遅かったけれど、宿題やったかとか、洗濯やご飯の支度《したく》は交代でやってるのかとか、今まで聞きもしなかったことを聞いてくるようになったし。
私は昨日の夜、布団《ふとん》の中でそのことをよく考えた。
お母さんがいなくなって、家族が四人から三人に減ってしまったことに少し慣れたかなという感じになったのは、一年ぐらい前からだったと思う。
お父さんは朝早く会社に行ってしまって、帰ってくるのは夜遅くだ。その間、私とお姉ちゃんは最低限の家事をやるだけで、あとは好きに過ごしていた。
淋《さび》しくないと言ったら嘘《うそ》になるが、自由|気儘《きまま》に暮らしていた。好きな時に好きなものを食べられるし(主にお菓子だけど)、ちょっとぐらい帰ってくるのが遅くても誰にも怒られない。
私は夕方には帰ってきていたけど、お姉ちゃんはだんだん遊んでから帰ってくることが増えてきて、最近は一度家に戻り着替えてから遊びに行くことが多くなっていた。
ほとんど家にいないお父さんは、そのことにまったく気がついてなかった。
ところが、花乃ちゃんの補導で、お父さんは自分が娘ふたりをほったらかしにしていたことを自覚したらしい。あの人は物事を大袈裟《おおげさ》に考えてしまうところがある。その上、変なところで責任感が強いのだ。たぶんお父さんは、娘の不良化の原因を、自分がそばにいてやっていないせいだと思ったのだろう。まあ、その通りではあるが。
「実乃ちゃん、花乃ちゃん。いるの? 入っていい?」
鏡に映る自分の顔をぼんやり眺《なが》めてそんなことを考えていると、部屋の外からおばあちゃんの声が聞こえてきた。
「あ、うん。どうぞ」
立ちあがると、おばあちゃんがドアを開けて入ってきた。
「花乃ちゃんは、今出かけちゃったんだ」
「あら、そうなのかい」
心配そうなおばあちゃんの顔を見て、私は肩をすくめる。
「心配しないでも平気だよ。みんなが思ってるほど、花乃ちゃんは不良じゃないんだから」
「実乃がそう言うなら、きっとそうなんだろうね。でも何だか心配だねえ」
おばあちゃんは、お父さんのお母さんだ。ふたりは威勢《いせい》が良くて明るいところがよく似ている。そして、悪いとは思うけど、お正月に来るお獅子《しし》のような顔と、よく考えずにものを言うところもそっくりなのだ。
「あんたはなんにも心配しないでいいんだよ。今、みんなでお父さんのこと説得してるから」
おばあちゃんは私の肩に両手を置くと、この子が不憫《ふびん》でならないという目で顔を覗《のぞ》きこんできた。
「説得って?」
「会社辞めて便利屋をやるなんて。そんなこと言いだすなんて、あんたのお父さん、疲れて魔《ま》がさしちゃったんだよ。由子《ゆうこ》さんが亡くなってから、ずっと働きづめだったからね」
「んー」
「そりゃ、男手ひとつじゃ娘ふたり育てていくのは大変よ。花乃ちゃんだってお母さんがそばにいればあんな風にはならなかったかもしれない。でもだからって、父親が会社辞めて毎日家にいてどうすんのよ。庭でも掘ったら小判《こばん》でも出てくると思ってんのかしら、あの馬鹿息子は!」
だんだんエキサイトしてくるおばあちゃんの顔を見あげて、私は「やっぱり」と心の中で呟《つぶや》いた。お父さんは銀行の仕事を捨て、私達の教育に人生を賭《か》ける気になってしまったようだ。
「でも、お父さんは便利屋って仕事をやる気なんでしょ?」
私の台詞《せりふ》に、おばあちゃんは大袈裟に首を振った。
「あんたは子供だから、分かんないかもしれないけどね。そんな商売、お金になるかどうか分かんないのよ。娘がふたりもいて、これからもっとお金がかかるって時に、あの馬鹿は何を考えてんだか。とにかく今、銀行の人も来て、みんなで考え直すように説得してるから」
その時、階下からびっくりするような怒鳴り声が響いた。
「てめえら、人んちのことによけいな口だしするんじゃねえぞ。俺はやるったらやるんだ。けえりやがれ、クソったれ!」
父のヤケクソな大声に、私とおばあちゃんは顔を見合わせる。
私が口を開くより一瞬早く、おばあちゃんが私の腕をぐいと引いた。
「ほら、あたし達だけじゃあの馬鹿は説得できないよ。実乃もお父さんに何か言ってやってよ」
冗談じゃない。こんな馬鹿騒ぎに巻きこまれるのはまっぴらだ。
花乃ちゃんの早々の避難は正しかった。
私はおばあちゃんの呼ぶ声も聞かず、階段を駆け下りて玄関を飛びだした。
花乃ちゃんがどこへ逃げこんだか知らないが、私にも一応避難場所はある。
家を飛び出た私は、その勢いのまま近所にある小さなお寺に駆けこんだ。息を切らして石の階段を登ると、境内《けいだい》をほうきで掃《は》いていたお坊さんがゆっくりこっちを振り返った。
「おう、実乃」
「ちわっス」
「血相変えて、どうした? またお父さんに叱《しか》られたか?」
「ううん。叱られてんのは私じゃなくてお父さんだよ」
「なんだか分かんないけど、とにかく上がんなよ。ちょうどお茶にしようと思ってたんだ」
草履《ぞうり》を脱いで階段を上がる彼に続いて、私もお堂へ上がった。床に置いてある座布団《ざぶとん》にいつものように腰を下ろすと、彼は袈裟《けさ》をひるがえして奥の部屋へ消えていく。
私はお香の匂《にお》いのするお堂をぼんやりと見回した。磨《みが》きこんで黒く光った床に金箔《きんぱく》の蓮《はす》の花、大きな木魚《もくぎよ》、そして錦《にしき》の幕の向こうに優《やさ》しい目をした観音《かんのん》様。
ここへ来ると私はホッとする。子供のくせにババくさいけど、昼間でもほの暗いこのお堂にいると妙に安心できる。
ぼうっと観音様を見あげていると、彼がお盆にお茶をのせて帰ってきた。長い衣《ころも》を優雅にさばいて彼は腰を下ろす。
「実乃。豆大福といちご大福、どっちが好き?」
聞かれて私はお盆を覗きこんだ。小皿の上にピンクと白の大福が一個ずつのっている。
「永春《えいしゆん》さんは?」
「僕はいちごが好き」
「私もいちごって言ったらどうする?」
彼はそっとまぶたを伏せた。そのクールな表情の向こうに、彼の失望を見つけてしまって吹きだしそうになる。お坊さんのくせに煩悩《ぼんのう》が強いんだから。
「うそ。私、豆の大福のほうが好き。こっちのもらうね」
彼はかすかに嬉《うれ》しそうな顔をした。それで私はまた吹きだしそうになる。
「ずいぶん楽しそうじゃないか、実乃。さっきは情けない顔してたくせに」
彼はいちご大福を食べながら涼しげにそう言った。
「私、そんな情けない顔してた?」
「お風呂《ふろ》カラ焚《だ》きして、風呂|桶《おけ》真っ黒にこがした時みたいな顔だった」
「……それは先月だよ……」
皮肉っぽく微笑《ほほえ》む永春さんを、私は唇を尖《とが》らせて睨《にら》む。
彼の名は永春という。ここのお寺のひとり息子だ。歳は確か二十四歳だったと思う。つるつるに剃《そ》った頭が、かえって彼の綺麗《きれい》な顔を際立《きわだ》たせていた。
優雅な物腰とダサい袈裟さえピシッと着こなしてしまう肩幅、そして何より観音様のような慈愛《じあい》に満ちた優しい目。そんな彼が女子供の人気を集めないわけがない。
永春さんもそれを意識してか、いつもクールに渋《しぶ》がってるんだけど、さっきみたいにどっか抜けてるとこがある。
人気者の永春さんと私はちょっと特別な関係にある。特別ったって別に怪《あや》しい関係なわけじゃないが。
四年前、お母さんが突然の病気でこの世からいなくなってしまった時、私は口をきくこともできないほどショックを受けた。わけの分かんない間にお葬式が終わり、あっという間にお母さんは灰になってしまった。何も納得できない間に。
私はどうしてもお母さんがいなくなったことを受け入れられなくて長い間部屋にこもってじっとしてた。お父さんやお姉ちゃんがどうなだめすかしても、私は泣くことも話すことも食べることもできなくなってしまった。
その時、私を救ってくれたのが永春さんだった。どこか遠いところにある修行寺から帰ってきたばかりの彼は、静かに私に話してくれた。
人は死んだらどうなるか。残された人間はどうしたらいいか。人の生きる意味は何か。
それは難しい仏教の話だった。実はその時話してもらった事は、あんまり難しくてほとんど覚えてない。でも、数珠《じゆず》を持ってまぶたを伏せた永春さんが、私にはお母さんに伝言を頼まれてきた天国の使いの人に見えた。
永春さんの長い長い話を聞いて、私は三つのことを理解した。お母さんは菩薩《ぼさつ》様になったこと。私はそれを納得してのみこまなければいけないこと。そして、お母さんはいつもどこかで私を見ていること。
理解したとたんに涙が出た。お母さんが死んで一週間たち私はやっと泣くことができた。
それから、つらいつらい時間が悪夢のように続いたけれど、いつも永春さんがそばにいてくれた。お母さんのいない家にいるのがつらくて、三か月ほど私はお寺に泊まっていた。お寺から小学校に通い、帰ってきたら永春さんと一緒にお堂の掃除をした。和尚《おしよう》さんの読むお経に耳を澄まし、永春さんの腕の中で静かに微笑む観音様を見あげた。
私はやがて少しずつ元気を取り戻し、お母さんのいない家に戻ることにした。お父さんもお姉ちゃんも自分のことを心配してるだろうって気がついたから。
それからずっと、私は永春さんを頼りにしている。自分ひとりではどうしても解決できないことがあると、私は永春さんのところへ駆けこんだ。
彼は私にとって救世主で、相談役で、優しい兄で、そして一番好きな男の人だ。
好きだと言っても、永春さんのお嫁さんになりたいとかいうのとは違う。私と彼は歳が十一歳も違うのだから、妹としか見られてないことは海よりも深く分かってる。
それでもいい。今はそれでもいいんだ。
本堂の外では満開に咲いた桜が、ひらひらと花びらを落としはじめている。こうやって永春さんのそばで静かに桜なんか眺めてるだけで、今は充分しあわせだった。
「で? お父さんがどうしたって?」
急に切りだされて、私は我に返った。
「あのね。便利屋さんって、どういう仕事すんの?」
「便利屋?」
突然、意外な台詞を返されて、永春さんは目を丸くした。
「実乃は物事をあっちこっちから話す癖《くせ》があっていけないよ。ちゃんと順番に起承転結《きしようてんけつ》と話しなさい」
そう言われて私はあわてて頭の中を整理する。
「まずね、お父さんが昨日会社を辞めたの」
「辞めた? 銀行を?」
「そう。どうしてかっていうとね、便利屋をはじめるんだって」
「なんで突然そんなことになったの?」
「あのね、花乃ちゃんがこの前補導されたのは言ったでしょ」
花乃ちゃんの不良化の責任をお父さんが強く感じちゃったことや、親戚や銀行の人達がいっぱい来て、お父さんを考え直させようとしていることを話した。
「本当か、その話」
「嘘《うそ》ついてどうすんの。本当だよ。家にいてもうるさくて落ち着かないから来たんだもん」
いつも冷静な永春さんも、珍しくびっくりしたようだ。
「でも、実乃のお父さんが人に説得されて、じゃあやめたなんて言うかな」
私はゆっくり首を振る。
「反対されればされるほど、意地になっちゃうタイプだから」
私の台詞に永春さんはクスリと笑う。
「それで、実乃はどうなんだ?」
「どうって?」
「反対なの? 賛成なの?」
私はちょっと爪《つめ》を噛《か》んで考える。
「ねえ、便利屋ってどういうことすんの?」
「うん。要するになんでも屋だよ。換気扇《かんきせん》の掃除をしてほしいって言われたらやるし、犬の散歩もベビーシッターもラブレターの代筆もお客さんの希望があったら引き受けるんだ」
「自分ですんの嫌なことを、その人の代わりにやってあげるわけね」
「まあ、そうだな」
「それ儲《もう》かる?」
「どうだろ。腕次第じゃない」
私は永春さんの顔をじっと見あげた。
「どうした、実乃。やっぱり反対か?」
「分かんない」
私は手に持っていた湯呑《ゆの》みを置いて、座布団《ざぶとん》の上で膝《ひざ》を抱えた。
「だってさ。お父さんには何言ったって無駄《むだ》だもん。あの人、やるって決めたことは絶対やる人だから。それに」
「それに?」
「お父さんっていっつも残業や休日出勤であんまり家にいてくれなかったからさ。そういう商売してずっと家にいてくれるんなら、私ちょっと嬉《うれ》しいかもしれない……」
口の中でモゴモゴ言う私の頭を、永春さんが軽く叩《たた》いた。
「じゃあ、実乃は賛成なんじゃないか」
お父さんには銀行は似合わない。
小柄で小太りでまだけっこう若いのにすっかりハゲちゃった頭の父には、スーツだって似合わない。
私は常々《つねづね》そう思っていたから、お父さんのラフなポロシャツ姿に違和感は感じなかった。だけど、いつも家にいない人が毎日いるっていうのはなんだか慣れなくて変だ。
「実乃。暇なら手伝わないか?」
二階から下りていくと、テレビの前のテーブルでお父さんがプリントごっこ≠ナ何やら印刷していた。
「何してんの?」
「開店の通知作りだ。ほら見てみ、ポスターもできたんだ」
お父さんは自慢げに巻いてあったポスターを広げた。手書きのものをコピーしただけのポスターだったけど、けっこうよくできている。
「これお父さんが書いたの?」
「おう。知らなかったろ。お父さんは昔っから手先が器用なんだぜ」
ポスターには大きく『猫の手よりも役に立つ・ヒョウスケお便利商会』と書いてある。
「もしかしてこれ、店の名前?」
「そうだよ。グッドなネーミングだろう?」
「……まあね」
お父さんの名前は桜井|豹助《ひようすけ》という。ヒョウというよりは太って飛べないハゲ鷹《たか》という感じなんだけど。
「お前、学校いつからだ?」
「八日からだよ」
「じゃあ、明日ポスター貼《は》るの手伝ってくれよ。五十枚もあるんだ。隣町まで貼りに行こうぜ」
鼻唄《はなうた》まじりに言うお父さんを、私は軽く睨《にら》んだ。
あれから話はトントン拍子に進んだようだ。お父さんの頑固さは、パワーシャベルでも砕《くだ》けないと悟《さと》った親戚《しんせき》達は、勝手にしろとばかりに怒って帰ってしまったそうだ。
だけど、おばあちゃんは違った。さすがにこのお父さんの母親だけはある。粘《ねば》りに粘って、ひとつ約束を取りつけたそうだ。
一年やって仕事が軌道《きどう》に乗らなかったら、子供のために堅気《かたぎ》の仕事に戻ること。
条件つきではあるけど、最強の敵であるおばあちゃんの承諾《しようだく》を受けたのだ。お父さんにはもう恐《こわ》いものは何もない。
お店も商店街の一角に小さな貸し店舗を見つけてきたそうだ。私達がまだ小さくて、お父さんの仕事がそんなに忙しくなかった頃、父は商店街の草野球チームに入っていたそうだ。だから簡単に借りられたらしい。
順調な滑《すべ》りだしを喜んであげるべきなんだろう。永春さんが言ったとおり、私はお父さんの仕事を手伝えることはわりと嬉しい。なのに素直になれない。「うん手伝う、頑張《がんば》ろうね」って笑えない。
「どうした? 眉間《みけん》に皺《しわ》寄せちゃって」
「…………」
「クシャミの前兆《ぜんちよう》みたいな顔だぜ。我慢しないで一発かましな」
「…………」
おふざけに乗ってこない私を見て、お父さんは長い溜《た》め息をついた。
「分かったよ。やっぱり、実乃も反対なのか」
「え?」
「花乃もよそよそしくなっちまったし、ふたりとも、俺が変な商売はじめることに反対なんだな。いいよ、いいよ。せっかくお前達のためを思って、群《むら》がる親戚達を追っ払ったのによ。どうせお前達は俺が嫌いなんだ。それとも商売が儲《もう》からなかったら、小遣《こづか》いがもらえなくなるって心配してんのか。そうかそうか、分かったよ。お前達はお父さんよりお金のほうが大事なんだ」
お父さんはシャツの裾《すそ》をいじって、ブツブツと呟《つぶや》いている。いい歳のおっさんがいじけたって、かわいくもなんともないのに。
「違うよ。お父さん」
バカ親父の間抜けな勘違いに腹が立って私は低く唸《うな》った。睨まれてお父さんはちょっと尻《しり》ごみする。
「……何怒ってんだよ」
「花乃ちゃんがどう思ってるのかは知らないけど、私は賛成だよ。残業ばっかでヘロヘロになって帰ってくるお父さん、かわいそうだと思ってたもん」
「なんだ、じゃあいいじゃんか」
「よくないよ。私が怒ってんのは、お父さんがなんでも勝手にひとりで決めちゃうからだよ。もう私も花乃ちゃんも中学生なんだからね。子供じゃないんだから、ちゃんと相談してほしかったんだよ。何よ、ひとりで勝手にいじけちゃって」
お父さんは私の顔を穴が開くほどじっと見つめたかと思うと、口をポカッと開いてこう言った。
「中学生は子供だ」
見当|外《はず》れなその答えに、私はテーブルにあった鋏《はさみ》をつかんで思わず父にふりかざす。
「ま、待て。家庭内暴力反対!」
「中学生は子供じゃないよ!」
「お前がそれでお父さんを殺しても、中学生は子供だ!」
鋏をふりかざした私と、畳に尻もちをついたお父さんはじっと睨みあう。
その時、襖《ふすま》が開いてお姉ちゃんが顔を覗《のぞ》かせた。
「何騒いでんの……キャ――ッ!」
花乃姉ちゃんの悲鳴が六畳間に響きわたる。タイミングの悪さに私は舌打《したう》ちした。
「実乃、お父さんになんてことすんのよ! 頭変なんじゃないの!」
間に割りこむと、彼女は両手を広げてお父さんをかばった。芝居がかったその様子に私はしらけてしまう。
「ふざけてただけだよ」
「ふざけてお父さんのこと殺そうとすんの、あんたは」
花乃ちゃんの後ろで、お父さんが「そうだそうだ」と小さく茶々《ちやちや》を入れている。私は音を立てて鋏をテーブルの上へ置いた。
「花乃ちゃん、中学生って大人だと思う? 子供だと思う?」
突然そんなことを聞かれて、花乃姉ちゃんは眉《まゆ》を上げた。
「何それ?」
「ねえ、どっちだと思う?」
お父さんと私に注目されていることに気がつくと、花乃ちゃんは「ふ〜ん」という顔をした。
「子供に決まってんじゃない。十六になったら結婚できるから大人かもしれないけどさ」
得意げに言う花乃ちゃんを見て、私は悔しさに奥歯を噛《か》みしめた。姑息《こそく》な花乃ちゃんは、とっさにどちらの味方についたら得か判断してそう言ったのだ。
「そうそう。花乃の言うとおり。花乃はいい子だなあ」
嬉しそうにそう言うと、お父さんはパチパチと手を叩《たた》いた。さすがの私もそれには頭にきて、思わずダンと足を鳴らす。
「百歩|譲《ゆず》って中学生は子供だとするよ!」
私の剣幕《けんまく》に、お父さんお姉ちゃんチームが怯《ひる》む。
「でも、家族なんだから相談してほしかったんだよ。勝手にひとりで決めちゃうから、怒ってるんじゃない。お父さんのバカッ! ハゲ親父!」
捨て台詞《ぜりふ》を置いて、私は自分の部屋へ駆けあがった。
絶対許してやらない。大人のくせに子供をおちょくるなんて、絶対許してなんかやらないから……と思ってたんだけど。
一時間もしないうちにお父さんがスゴスゴと謝りにきたので、まあ許してやるかという気になった。実際、お父さんが商売はじめることには賛成なんだしさ。まあちょっとスネてみただけだった。平謝りのお父さんがかわいそうになっちゃって、私は次の日、ポスター貼りもちゃんと手伝ってあげた。お父さんが作った宣伝用のハガキを、クラスのみんなに配ることも承諾した。
そして花乃姉ちゃんはというと。
ポスター貼りに行こうと誘ったら「家でちょっと勉強したいから」なんて平然と言ってのけた。それをうのみにするお父さんもお父さんだ。花乃ちゃんが試験の時以外に勉強なんかするわけないのに。
「ねえ、実乃。お願いがあるんだけどさ」
始業式の朝、家を出たとたん、花乃姉ちゃんは私に腕をからませてきた。
珍しく一緒に学校へ行こうなんて言いだしたから、変だとは思ってた。
「何よ。変なことだったら嫌だからね」
「変なことじゃないってば。ね、このハガキ、実乃のクラスで全部配っちゃってくんない?」
お父さんが持たせた『ヒョウスケお便利商会』の宣伝ハガキを、花乃ちゃんは私に差しだした。
「私だって四十枚も持たされたんだからやだよ」
「お願いよ。こんなの配るのカッコ悪いったらないもん」
じゃあ、私はカッコ悪くたっていいって言うのかよ。私は横目でお姉ちゃんを睨《にら》んだ。
「花乃ちゃん。お父さんが便利屋なんかやるの反対なわけ?」
「べつに反対じゃないわよ」
「じゃ、配んなよ」
「それとこれとは別なのよ。お願い、分かってちょーだいよ。私はイメージってもんを大切にしたいわけ」
お姉ちゃんは八方美人だ。
どこへ行っても人に「ステキなお嬢さんね」と思われたいらしく、お父さんにも親戚《しんせき》にも、学校の先生にもクラスメートにも、いい子ぶりっ子してしまう。
外面《そとづら》の良さは天下一品。愛想笑いは世界一。
この前補導された時だって「お母さんは死んじゃったし、お父さんは毎晩遅いし、淋しかったんです」とお巡りさんの前でひと粒涙をこぼしてみせたもの。
その演技力、その要領の良さに、私は拍手をあげたいと思ったね。本当はテトリスに病みつきになっちゃって、最高得点出してやるってゲーセン通いつめてたくせに。
その花乃ちゃんが内面をさらけだす人間は、私ひとりだけ。
花乃ちゃんは私にめちゃくちゃわがままを言う。とんでもない意地悪も言う。どう考えても理不尽《りふじん》なことも平気で私に押しつける。
本気で頭くることもよくあるけど、私は花乃ちゃんのこと、嫌いになれないんだ。だってお姉ちゃんは綺麗《きれい》だ。明るくて華やかで、時々びっくりするぐらい優しい時もある。
歳は花乃ちゃんのほうがひとつ上だけど、きっと私のほうが精神年齢が上なんだろうって思ってる。
「ねねね、お願い、夕飯当番一回代わってあげるから」
「え〜? う〜ん、でも」
「いいでしょ。じゃ、頼んだわよ」
渋っている私にハガキの束を押しつけると彼女は逃げるようにして道を駆けだした。
「ちょ、ちょっと、お姉ちゃん」
妹みたいな姉の背中を見送り、姉のような私は、また溜《た》め息ひとつで諦《あきら》めるしかなかった。
青々とした銀杏《いちよう》の並木を抜け校門を入ると、この前まで毎日来ていた校舎が、学年ひとつ上がっただけでなんだか少し新鮮に見えた。
今日から私は中学二年になる。
クラス替えは、一年の終業式にもう発表になっていたので、私は新しいクラス二年二組の下駄箱《げたばこ》へ向かった。
「実乃、おはよう。久しぶり」
「あ、チョミ、おはよう」
声をかけられて振り向くと、友達のチョミが笑顔で立っていた。
「ねえ、実乃。もしかして、背が伸びた?」
「そうかな。変わんない気がするけど……チョミが縮んだんじゃない」
「ひどーい。これでも一センチ伸びたんだからね」
「牛乳、毎日一リットル飲んだとか?」
「お風呂あがりに、パパとママに引っぱってもらったの」
私とチョミはくだらない話に笑いながら上履《うわば》きにはきかえた。
彼女、松本知代美《まつもとちよみ》は私より十センチばかり背が低い。小さくてちょっとふっくらしてて、ちんまりかわいい女の子だ。みんなからチョミ≠チて呼ばれている。
私達は小さい時から仲良しで、ショートカットで色黒の私と、ぽちゃっと白いチョミは、なぜだかすごく気が合った。いつも一緒にいる私達を小学校の時の先生は「ポッキーとあんまん」って呼んでいた。
去年はクラスが離れてしまったんだけど、今年は同じクラスになれてすごく嬉《うれ》しい。
「ねえ、実乃。つかぬことを聞いていい?」
「つかぬこと?」
爪先《つまさき》立ちでチョミが顔を寄せてくる。
「実乃のお父さん、何か変なことはじめた?」
「え?」
「昨日、うちの近くに変なヒョウの絵が描いたポスターが貼ってあってさあ……」
私はチョミが全部言いおわる前に、鞄《かばん》から宣伝用ハガキを出して彼女に差しだした。
ポスターと同じ、変なヒョウ≠フ絵が描いてあるハガキを見て、彼女はポカンと口を開ける。
「そうそう、これよ。ね、どういうこと?」
「うちね、商売はじめたの。便利屋って知ってる?」
「便利屋?」
まんまるの両目を見開いてびっくりしているチョミに、私はお父さんが会社を辞めたことから説明した。この前、永春さんに話したばっかだから、ちゃんとチョミが分かるように順番に説明することができた。
「大変じゃない〜」
全部聞いてしまうと、彼女は私の両肩をつかんで大声を出す。
「別に大変じゃないよ」
「だって、お父さん会社|辞《や》めちゃったんでしょ? もし儲《もう》からなかったら、修学旅行も行けないし、給食費だって払えないかもしんないよ」
自分のことのように深刻になっているチョミを見て、私は思わず苦笑《にがわら》いしてしまう。
「そうなったらなったでしようがないよ。反対しても、お父さんはやるって決めたもんはやるしさ」
彼女は私の台詞に、しばらく唇を尖《とが》らせて何やら考えていた。
「ほら、チャイム鳴るよ。教室行こう」
黙ってしまったチョミを促《うなが》して、私は階段を上りはじめた。踊り場まで上がると、彼女が私を見あげて口を開く。
「……ま、しようがないよね。あのお父さんだもんな」
「そうそう。長い目で見てやってよ」
「私にできることあったら、協力するからさ」
「ありがとう。チョミの家でも、なんか手伝ってほしいことあったら言ってよ」
「うん。考えてみれば、便利屋なんておもしろそうだよね」
私は笑いながら、教室の扉に手をかける。何気なく横に開くと、突然目の前に『ヒョウスケお便利商会』のポスターが飛びこんできた。
ギョッとして立ちすくむと、ポスターの後ろから男の子が顔をだす。
「は、ハズム」
「この店、お前んち?」
彼は鼻の頭を指でこすると、フフンという顔で聞いてきた。
「……そうよ。悪い?」
「悪かないよ。もしそうだったら、頼みたいことがあってさ」
「頼みたいこと?」
ハズムはポスターをくるくると手で巻くと、それで私の頭をポコンと叩《たた》いてきた。
「そうだよ。便利屋ってなんでも頼まれてくれるんだろ?」
にやけ顔の彼を見て、私は絶対からかわれてるんだと思った。だから、話も聞かず、「どいてよ」と彼の肩をつき飛ばした。
油断していたハズムはあっさりよろけ、足もとにあった椅子《いす》を引っかけて派手に転がった。
いてえっとわめくハズムを、幼稚な奴《やつ》って思っていたら。
そしたらハズムは、本当のお客さんだった。
反省してもあとの祭り。
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放課後、私は仕方なくハズムの運転手になった。
朝、私に突き飛ばされて転んだ彼は、足首をひねってしまった。文句を言うハズムに私は謝った。しようがない、私が悪いのだ。そしてお客さん≠フ彼を、私は自転車の後ろに乗せて、店まで走っているところだ。
「遅い。モタモタ走ってんなよ」
背中からハズムが言ってくる。
「うるさいなあ。あんた、意外と重いんだもん」
「大事なお客さんに怪我《けが》させといて、そういう大きい口|叩《たた》いていいんでしょうかねえ」
厭味《いやみ》ったらしく言われて、私はグッと罵声《ばせい》を飲みこんだ。
彼は、大空弾《おおぞらはずむ》という。
家が近所なのでいちおう幼なじみなんだけど、私は昔っからどうもこいつと気が合わなかった。女の子みたいな顔してるくせに、中身はかなり意地悪で、小さい時は悪戯《いたずら》ばっかりしてた。
ところが、彼は女の子から人気がある。私よりチビだったくせに中学に入ってからメリメリと背が伸びて、そのとたんハズムのまわりに女の子が増えた。まあ確かにハズムはカッコよくなったと思う。日に焼けた手足に、サラサラの髪。笑うとちょっとかわいいかもしれない。
でも、私のタイプじゃない。私が好きなのは、永春《えいしゆん》さんみたいにおくゆかしくて品がある人だ。
でも今日は仕方ない。彼はうちのお客さんで、その上私がうっかり怪我をさせてしまったのだから。
商店街の中を懸命にペダルを漕《こ》ぎ、私は蕎麦《そば》屋さんの隣『ヒョウスケお便利商会・事務所』の前に自転車を停《と》めた。
「へえ、ここかあ。なかなか立派な店じゃんか」
「……そりゃどうも」
褒《ほ》められても厭味にしか聞こえないのは私のひがみだろうか。私はガラスの引き戸を開けて店の中を覗《のぞ》いた。
お父さんはいなかった。私に続いてハズムは中へ入ってくる。古いソファに偉そうに腰を下ろすとあたりをもの珍しそうに見回した。
「ここって、前は何屋があったんだっけ?」
「不動産屋だよ。去年、倒産して夜逃げしちゃったんだって」
その不動産屋が置いていった机や椅子、ソファやロッカーをそのまま大家さんからもらい受けたのだ。まあ、ただでもらったんだから、ボロでも文句は言えない。
壁に掛けてあるホワイトボードに、お父さんの汚い字が書かれていた。
『午前:二丁目|吉野《よしの》さん宅。
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午後:スーパーマツザカ→中村《なかむら》荘・鈴木《すずき》さん宅。
四時半頃戻ります。御用のお客さまは携帯《けいたい》電話に連絡をお願いします』
[#ここで字下げ終わり]
事務所はボロでも連絡網だけはしっかり張ろうと、留守番電話、ポケットベル、携帯電話にファックスをお父さんは買いそろえた。こんなに設備投資して本当に元が取れるんだろうか。
「すげえじゃん。俺んちなんか留守番電話もないのにさ」
感心しているハズムを尻目《しりめ》に、私は受話器を取ってお父さんの携帯電話の番号を押した。
「はいはい。ヒョウスケお便利商会でございます」
すぐお父さんの明るい声が出て、私はホッと息をつく。
「私だよ。実乃《みの》」
「なんだお前か。用事?」
「うん。お客さん来てるんだけど」
「おっ、そうか。もうすぐこっちは終わるから、お茶出して引き止めておけよ。二十分で帰るから」
こっちの返事も聞かず、お父さんは電話を切ってしまった。二十分もハズムとふたりきりなんて気が重い。お茶なんかいれてやりたくなかったけれど、何もしないのも間がもたないので私はヤカンを火にかけた。
「いつから開店したのさ」
包帯を巻いた足首をもみながら、ハズムが話しかけてくる。
「おととい」
「へえ。さっそく仕事がいっぱいあって、よかったじゃんよ」
「……まあね」
ハズムに背中を向けたまま、私はお茶っ葉を急須《きゆうす》に入れた。なかなかお湯が沸《わ》かないので、私は諦《あきら》めてハズムの前に腰かける。
気まずい沈黙が、事務所の中を漂っている。こいつなんで黙ってるんだろう。女の子が目の前にいるんだから、気をきかせて世間話でもすればいいじゃないか。ああ、早くお湯沸かないかな。
「変な奴」
突然ハズムが小さく笑った。
「何それ?」
「なにモジモジしてんだよ。お前でも照れることあんだな。かわいいとこあんじゃん」
「私のどこが照れてるって? 勝手にうぬぼれないでよね」
「はいはい。ほらお湯が沸いてるぜ」
私は立ちあがるとハズムを睨《にら》んでから火を止めに行った。
かわいいとこあんじゃんだって。人のこと馬鹿にして。女の子ならみんな自分に気があるとでも思ってんの?
いれたお茶を私は乱暴にテーブルに置いた。チャプンとお茶が手に跳《は》ねる。
「あちち」
「ばっか。静かに置かないからだろ。少しは女らしくせえよ」
「…………」
「姉ちゃんは女らしいのになあ。少しは見習ったら?」
その時、お父さんが「お待たせしました!」と帰ってこなかったら、私はそのお茶をハズムにぶっかけていたかもしれない。一番言われたくないことだった。
「あれれ? きみは大空さんちの息子さんだろ」
「ちわっス。お久しぶりです」
「大きくなったなあ。お母さんとは、ときどき道で会うんだけど」
怒りで爆発しそうな私にふたりはまったく気がつかず、楽しそうに世間話をはじめた。
「お客さんってハズム君かい?」
「そうなんですよ。お願いしたいことがあって」
「ああ、お安い御用だい。まあ汚いソファだけど座ってよ。あれ? 足どうした? 怪我してんの?」
ハズムはちらりとこちらを見てから、平然とこう言った。
「自転車乗ってて転んじゃったんですよ」
「へえ、そうかい。気をつけなよ。若い奴《やつ》は無理してスピード出すからな」
私は愕然《がくぜん》として、笑顔で話すハズムを見た。この男は、なんと私の弱みを握ろうとしてるのだ。そうでなきゃ「実乃さんに突き飛ばされました」って正直に言うはずだ。
「おい、実乃。つっ立ってないで、菓子でも買ってこい」
千円札をひらりと出すと、お父さんは私にそれを押しつけた。やなこったとお札を返そうとして私は思い止まる。このまま千円ネコババして家に帰っちゃおうかな。
ハズムに文句を言ってやりたい気持ちを抑《おさ》えて、私は扉に向かう。引き戸に手をかけようとした時、後ろでお父さんが言った。
「で? どういうご依頼でしょう?」
興味がないと言えば嘘《うそ》になるので、私は戸を開けずに立ち止まる。
「ラブリーを捜してほしいんです。三日前に突然いなくなって、行方不明なんです。お願いします。捜してもらえませんか?」
「ラブリーが行方不明?」
思わず振り返った私は、お父さんと声を合わせてそう叫んだ。
ラブリーとは、ハズムの家にいる犬の名前だ。犬と言ってもただのペットじゃない。ラブリーは盲導犬《もうどうけん》なのだ。
盲導犬ラブリーのご主人は、ハズムのおばあさんだ。盲目の彼女は、よくラブリーと一緒に町内を散歩したり買い物をしたりしている。賢《かしこ》いラブリーとかわいいおばあちゃんは、町内の人気者なのだ。
ハズムの話によると、三日前の朝、おばあさんが目を覚ますと同じ部屋で眠っているはずのラブリーがいなくなっていたそうだ。
あのラブリーがいなくなったなんて。どうして? どこ行っちゃったの?
「祖母も母も、まったく見当がつかないそうなんです」
母≠ニ聞いて、お父さんの表情がかすかに変わったのを私は見逃《みのが》さなかった。
「今日は母は会社に行っているので、とりあえず僕がお願いに来たんです。明日、母があらためてお願いに来ますので」
そう言ってハズムは礼儀正しく頭を下げた。
「そんなぼっちゃん。お願いするのはこっちだよ。ようし、分かった。この豹助《ひようすけ》にドーンとまかせておきなさい」
自分の胸を拳《こぶし》で叩《たた》いて、お父さんはカカカカと豪怏に笑った。
その嬉《うれ》しそうな顔に腹がたって、私は握っていた千円札をもう少しで破きそうになってしまった。
ハズムのおばあちゃんも犬のラブリーも私は大好きだ。だからもちろんラブリー捜しには喜んで協力しようと思ってる。
だけど、あのお父さんのデレデレした顔は何? 天国のお母さん、あの馬鹿親父にバケて出てやってよ。
次の日、ハズムのお母さんが店にやってくると、お父さんはこっちが恥《は》ずかしくなるぐらい鼻の下をのばした。
「本当にご迷惑をおかけいたします」
ハズムのお母さんが頭を下げると、お父さんは首と手をブンブン振って言った。
「いやいや。商売でやってるんですから、なんでもまかせてください」
「もちろん料金は先に払わせていただきますので」
「とんでもない。お金なんてラブリーが見つかってから、いや、大空さんからお金なんかいただけません」
「そんなわけにはいきません。ラブリーを捜していただけるなら、いくらでもお払いします」
「いえいえ、いけません。お財布なんかしまってください」
大人ふたりの馬鹿なやりとりを私はあきれて聞いていた。まったく、お父さんのあの嬉しそうな顔ったら。
お父さんはハズムのお母さんに気がある。お母さんがいた頃から、上品だ美人だマリア様だと褒《ほ》めちぎっていた。
「あんなこと言わせといていいの?」と私はお母さんに尋《たず》ねたことがある。するとお母さんは「お父さんが大空さんに相手にされるわけないじゃない」と笑って言った。あんまりそのとおりで私は吹きだしたのを覚えてる。
あの頃は、なんだかんだ言ってもお父さんはお母さんにぞっこんで、頭が上がらないみたいだったからよかったけど今は状況が違う。お父さんは今、一応独身なのだ。
そしてハズムのお母さんは、実は未亡人なのだ。
ハズムのお父さんは、彼が生まれてすぐに事故かなんかで亡くなったそうだ。それからずっとハズムの家は、おばあさんとお母さん、ハズムの三人家族だ。そしてラブリーも大切な家族の一員だった。
「私は昼間は仕事に行かないとならないし、母はあのとおり目が不自由ですし……ハズムが学校が終わるとあちこち捜してくれたんですけどね。どこを捜しても見つからなくて、こうしてお願いにあがったんですよ」
「この豹助におまかせください。必ずやラブリーを見つけてみせます。大船に乗ったつもりで安心してください」
「ありがとうございます。私達もできるだけ捜しますので」
小さく笑った彼女は、私が見ても色っぽくて綺麗《きれい》だった。
ハズムのお母さんに恨《うら》みはない。それどころか、私はこの人がけっこう好きなのだ。上品すぎてツンツンしてるように見えるのに、中身はかなりサバけている。町内モチつき大会なんかはりきって出てきて杵《きね》振りあげちゃうような人なのだ。
「ほれ、実乃。ボーッとしてないで、お茶のおかわり」
「……はあい」
「あ、いいのよ。実乃ちゃん。座っててちょうだいな」
フォローしてくれたおばさんに一応愛想笑いをして私は立ちあがった。
私が気に入らないのはお父さんの態度だ。お母さんがいなくなってからまだ四年しかたってないのに、あの態度はなんなわけ。
「まったく気がきかない娘で、すみませんね」
「とんでもないわ。実乃ちゃんはいつも母やラブリーに良くしてくれてるんですよ。優《やさ》しくてかわいい女の子ですよ」
「いえいえ、こいつなんかまだガキで、色気も愛想もなくてねえ。キーキー言うとこなんか猿と一緒ですよ、猿と」
この野郎、自分の娘を猿と言ったな。私が猿ならお父さんはハゲた狸《たぬき》じゃんか。
ムスッとしてお茶をいれていると、入り口の扉が開く音がした。
「あ、おばさん、こんにちは」
明るいご挨拶《あいさつ》で入ってきたのは、花乃《かの》姉ちゃんだった。
「おう、花乃。チラシできたか?」
「できたできた。おばさん、見て。似てるでしょう?」
「あら、そっくりだわ。花乃ちゃん、絵がうまいのねえ」
私も花乃ちゃんが描いたチラシを覗《のぞ》きこむ。大きめの画用紙に描かれた犬の絵は、確かにラブリーそっくりだった。
ラブリーはお世辞にもカッコいい犬ではない。耳は垂《た》れてるし、鼻の上には皺《しわ》が寄っている。ドングリ目玉はかわいいどころかちょっと恐い感じもする。血統書どころか、両親の生死もわからない由緒《ゆいしよ》正しい雑種だ。
「どう、実乃。よくできてるでしょ?」
得意げな顔して意見を求めてくるあたりが花乃ちゃんらしくて、私は苦笑《にがわら》いをする。
「上手だね」
花乃ちゃんは手先が器用だ。そういうところはきっとお父さんに似たんだろう。絵心はあるし、書道だって級を持っている。犬を描けば怪獣になっちゃうし、習字をすれば墨《すみ》をひっくり返しちゃう私とは大違いだ。
「じゃあ、これをコピーしてあっちこっちに貼《は》ろうよ」
花乃ちゃんがそう言うと、お父さんはウンウンと満足げに頷《うなず》いた。
「そうしよう、そうしよう。おい、実乃。お前はなんにもしてないんだから、コピーぐらい取りなさい」
私は黙ってチラシを受け取ると、部屋の隅《すみ》に置いたコピー機のところへ行った。
「お仕事、お忙しいようですね」
「いえいえ。そんなことないですよ。まだ開店して間がないですし」
「でも、黒板にぎっしり予定が書いてあって」
私は背中でふたりの会話を聞いている。
「いやあ、今はご近所の人がかわいそうに思っていろいろ頼んでくれるんですよ。でもまあ、そのうち豹助がいないと困るって言われるようになりたいんですけどね」
アハハハハとお父さんは照れ笑い。
「娘さんふたりがお手伝いしてくれて、助かりますねえ」
「そうなんですよ。昨日もそこの和菓子屋に熨斗《のし》書きを頼まれましてね。私は悪筆なんで困ってたら、花乃がチョイチョイって書いてくれたんですよ」
「まあ、すごい。お習字得意なの?」
「得意ってわけじゃないんですけど、子供の時からやってたから」
「こう見えても一級持ってるんですよ。習わせた甲斐《かい》がありました」
花乃ちゃんのブリッ子した声と、お父さんの親馬鹿まるだしの笑い声を聞いているうちに、だんだん我慢に限度がやってきた。
「……コピーできた」
「よし。じゃあ貼りに行くか」
私はコピーしたチラシを何枚か取ると、お父さんに残りを渡した。
「手分けして貼ったほうが早いよ。私、お寺にお願いしてくる」
「そうか? お寺は実乃が行ったほうがいいかもな。じゃあ、俺たちは商店街にこれを配ろう」
楽しそうなお父さんたちの声から逃げるように、私は店の扉をピシャンと閉めた。
何よ、お父さんも花乃ちゃんも、他人様の前ではずいぶん態度が違うじゃないのよ。
私はチラシを握りしめてお寺への道を走った。悔しさがからだ中にいっぱい詰まってる気がしてなんだか足が重かった。
ふたりとも、なんて外面《そとづら》がいいの。
花乃ちゃんなんか、昨日お父さんに熨斗《のし》書きとラブリーのチラシ書きを頼まれて「バイト代くんなきゃやらない」なんてふてくされてさ。お父さんがあんまりわめくから、しぶしぶ書いたくせに。
私がもし習字や絵がうまかったら、お小遣《こづか》いなんかもらわなくても喜んで書いてあげたのに。
お前はなんにもしてないんだから、だって。
私は私なりにお父さんの手伝いしようとしてるじゃないか。どうして、そんなこと言われないとならないのよ。イヤイヤやってる花乃ちゃんのほうが、なんでチヤホヤされちゃうわけ?
石段を駆けあがった勢いで、靴を脱ぎ捨てお堂の階段も一気に上がった。ポクポクと木魚を叩いていた和尚《おしよう》さんが振り返る。
「いつもにぎやかだな。実乃ちゃんは」
「こ、こんにちは。すみませんでした」
「永春なら奥だよ。靴をそろえてから行きなさい」
私は階段を逆戻りしてそっぽを向いた靴をそろえ、またバタバタ階段を上って母屋《おもや》へ続く廊下を走った。長い廊下の先に、永春さんの背中を見つけて私は立ち止まる。作務衣《さむえ》姿の永春さんが、ゆっくりこっちに顔を向けた。
「実乃が来ると、寺が揺れるな」
「……ごめん。走って」
「元気があってよろしい」
永春さんのニッコリ笑った顔を見たら、なんだか鼻の奥のほうがツンとしてしまった。
片手に藍《あい》色の雑巾《ぞうきん》を持ったまま、永春さんは私の顔を覗《のぞ》きこむ。
「どうした?」
「私、自分が嫌い」
「なんで?」
「……ひがみっぽいんだもん」
「そうか、そうか」
雑巾を左手に持ち替えると、彼はあいた右手で私の頭を撫《な》でてくれた。
「お茶でも飲もうな」
「お掃除、途中なんじゃないの?」
「お茶飲んだら、一緒にやってもらうからいいよ」
私は永春さんがさりげなく渡してくれたティッシュで、ぐすぐすしてしまった鼻をかんだ。
「実乃の涙はいつも悔し涙だな」
歩きながら永春さんはそう言った。肩を抱かれた私は小さく頷《うなず》く。
永春さんは私の気性の激しさを知っている。はたから見ると、すぐ怒ったり泣いたりするお姉ちゃんより私のほうがおとなしく見えるだろう。でも本当は私のほうが感情的なんだ。すぐ頭にきちゃうし、根に持つし、このとおりひがみっぽい。
ひがむぐらいなら、ちゃんと言葉にして言えばいいのに、思ってることちゃんと口にできない。
ひがむのは「好きになってほしい」の裏返し。花乃ちゃんだけ褒《ほ》めてずるい。私だっていい子にしてるのに、どうして分かってくれないの?
そう言葉にできないのは見栄っぱりだから。いいもん、分かってくれなくてもいいもんってつっぱってるから。どうして私、こんなに素直じゃないんだろ。
「落ち着いた?」
聞かれて私は顔をあげた。どうやら長いことじっと黙りこくっていたみたいだ。
「ごめんなさい」
「謝らないでいいよ。うちは君の駆けこみ寺なんだから」
私はエヘヘと照れ笑い。
「やっと笑ったな。また喧嘩《けんか》?」
「うん。そんなとこ」
「なに? ラブリーが行方不明? これが原因とか?」
永春さんは、私が持ってきたチラシを手にとってそう言った。
「ううん。まあきっかけはそうだけど……ラブリーがいなくなっちゃって、ハズムのお母さんがうちに捜索依頼に来たんだ」
「分かった。実乃のお父さんが、大空さんの奥さんにデレデレしてたんだろ」
「どうして分かったの?」
「町内の誰に聞いても分かるだろうな」
そう言われて私はガックリ肩を落とす。お父さんの恋心は、町内中に知れわたっているようだ。
「そんなに有名なの?」
「実乃のお父さんだけじゃないよ。八百政《やおまさ》さんも、ラーメン屋のおじさんもみんな大空さんに気があるらしい」
「おじさんたちのマドンナってわけか」
私は溜《た》め息まじりにお茶をすすった。
ハズムのお父さんが亡くなったのは、ずいぶん昔のことだって聞いた。だったら、ハズムのお母さん、そんなにモテるのに誰かと再婚しようとか思わなかったのかな。
「変だな」
「変だね」
同じことを口にして私と永春さんは顔を見合わせる。
「実乃も変だと思う?」
「うん。誰か好きな人がいるのかなあ」
「ラブリーが?」
「違うよ。ハズムのお母さんだよ」
話がかみあってなくて、私達はまた顔を見合わせる。
「実乃は何が変だって言ってんだ?」
「ハズムのお母さんが、再婚しないことだよ」
「ああ、なんだ」
永春さんは肩をすくめて少し笑った。
「永春さんは?」
「ラブリーがいなくなるなんて、ちょっと変だと思ったんだ」
私はハズムから聞いた話をそのまま彼に説明する。
「朝、起きたらいなくなってた?」
「うん。そう言ってたけど」
「玄関とか窓とか、開いてたとこあったのかな?」
「うん。ハズムの家には猫もいるから、猫の出入り口用に縁側のガラス戸がいつもちょっと開けてあるんだって」
永春さんはそれでもしきりに首をかしげている。
「そこから出てっちゃったのかな、ラブリー」
曖昧《あいまい》に呟《つぶや》く私に、永春さんは首を横に振った。
「そうは考えにくいな。盲導犬《もうどうけん》が主人の前から勝手に消えたりするわけない。ラブリーは優秀な盲導犬だからなおさらだ」
「そっか」
「もし何か理由があって、ラブリーが自分で外へ出たとしても、利口な犬だ、自分で帰ってこられるだろ」
私は彼の顔をじっと見あげた。
「じゃあラブリーは、帰りたくても帰れない理由があるってこと?」
「悪いほうへは考えたくないけどね」
そう言われれば確かにそのとおりだった。
もしかして、その開けてあった戸から誰かが入ってきて、ラブリーを連れていったとしたら?
恐《こわ》いことを想像してしまって、私は首を振る。
「実乃、おばあさんにも話を聞いたほうがいいんじゃないか?」
永春さんに言われて私はゆっくり頷いた。
もしかしたら、ハズムもハズムのお母さんも、私達に黙っていることがあるのかもしれない。だって、よく考えてみたら、朝起きたらいなくなってたっていうのはちょっと変だ。
私はラブリーのことで頭がいっぱいになって、ハズムのお母さんの好きな人のことなど、どうでもよくなってしまった。
とにかく、おばあちゃんに話を聞いてみようと決めたんだけど、私は彼女がハズムのおばあちゃんであることに気がついて困ってしまった。
おばあちゃんの家はハズムの家でもあるんだから、訪ねていったら当然ハズムが家にいる。
できれば私、ハズムなんかと顔を合わせたくない。
この前のことで、よく分かった。私とハズムはそりが合わないって。きっとあいつは悪気があって喋《しやべ》ってるんじゃないんだと思う。だけど、私にはハズムの言葉がいちいちカチンとくる。だからなるべく接触しないようにしようと思うんだ。だって、話せば絶対不愉快にさせられる。
月曜日、朝のホームルームの時間から私はそのことを考えていた。できれば、ハズムのお母さんにも今はあんまり会いたくない。つい勢いで「お父さんのことどう思ってるんですか?」なんて聞いちゃいそうだし。
ハズムとお母さんがいなくて、おばあちゃんが家にひとりだけって時間あるかな。でも、そんなこと言ってたらキリないかもしれない。ラブリーがいなくなって、もう何日もたってるし、あんまりのんびりしてられない。
自然と視線がハズムのほうへ行ってしまう。窓側の一番前の席に座ったハズムは、意外と真面目《まじめ》に先生の話を聞いているように見えた。
「日直、これみんなに配ってくれ」
担任の越田《こしだ》先生が、ワラ半紙のプリントを掲げるとハズムがさっと立ちあがった。そっか、日直だから真面目にホームルーム聞いてたのか。
前からまわってきたプリントを受けとって目を通すと、それは先生が趣味でやってるオーケストラの演奏会の宣伝だった。
担任の越田先生は音楽の先生だ。音楽で男の先生っていうのも珍しいのに、そのうえ彼はまだ二十六歳の若さだ。これでルックスが良かったら完璧《かんぺき》なんだけど、残念ながら彼はバカボン≠ノ顔が似ている。
「先生。なんだよ、これ」
教室のどこかから非難めいた声が飛ぶ。
「見ればわかるだろ。僕達の演奏会が来月あるから、うちのクラスは見にくるように」
「先生、チケットは?」
「八百円だ、安いだろ。当日払いでいいぞ」
「来てほしいなら、ただで配れ」
盛りあがってしまった教室の中で、私はひとりでたそがれていた。みんな悩みがなくていいよなあ。こっちは演奏会どころじゃないよ、まったく。
ちらりとハズムのほうに視線を投げると、急に彼がこっちを振り返った。
視線が合ってしまい私はあわてて目をそらす。そっぽを向く前に、にたりと笑うハズムの顔が見えて私はまた無性《むしよう》に腹がたってしまった。
一時間めの終わるチャイムが鳴ったとたん、ハズムがこっちに向かってやってきた。私は反射的に席を立つ。
「実乃、待てよ」
「何?」
「さっき、ガンつけてたろ」
からかうように笑って、ハズムは私の行く手を阻《はば》んだ。
「どいてよ」
邪険《じやけん》に言うと、彼はポケットに手を入れたまま肩をすくめてみせる。
「何、怒ってんの?」
「怒ってなんかないよ」
「目ぇ吊《つ》りあげて、どこが怒ってない≠セよ。なあ、俺実乃に聞きたいことがあんだけどさ」
「聞きたいこと?」
「おう。お前さ、何がそんなに気に入らないわけ? そこまでツンツンするからには理由があんじゃない?」
聞かれて私はハズムを見あげた。ハズムっていつの間にこんな背が伸びたんだろう。見当外れなことを思っていると、ハズムが一歩寄ってきた。
「よーよー、ネエちゃん。言ってくんなきゃ分かんねえよ。俺が来たとたん、どうして露骨《ろこつ》に嫌な顔すんの?」
「……別に」
ふざけてヤンキーっぽいからみ方をするハズムから私は目をそらす。
「だったらラブリーは見つかった? とか足の具合はどう? とか優《やさ》しいこと言ってみたらどうよ、なぁ便利屋の看板ネエちゃん」
その台詞《せりふ》にカチンときて、私は顎《あご》を上げた。
「そんなに聞きたきゃ教えてあげる。私はハズムのその性格が嫌いだよ」
「おっ、ハッキリ言うじゃん。こんな優しい俺のどこが嫌いだって言うのさ」
ふざけ続けるハズムに、私はカーッと頭に血が上ってしまった。
「頭悪いみたいだから、ちゃんと教えてあげる。この前店に来た時、どうしてお父さんに実乃に突き飛ばされて怪我《けが》しましたってちゃんと言わなかったのよ。どうせ、私の弱みでも握って、またからかう気だったんでしょ」
ハズムは目を丸くした。
「おーい、誤解だよ。俺は単純にお父さんにそれ言ったら、お前がかわいそうだと思っただけだよ」
「それだけじゃないわよ。そのあとあんたなんて言った? お姉ちゃんを見習って女らしくしろっですって? あの人は外面《そとづら》は白鳥だけど家にいると座敷ブタなんだからね。知らないくせに偉そうに言わないでよ!」
そこまで怒鳴ると、私は誰かにツンツン袖《そで》を引かれていることに気がついた。振り向くとチョミが眉《まゆ》を寄せて私を見あげている。私は我に返ってまわりを見回す。クラスメート達の視線がみんな私に集まっていた。
しまった。ここは教室だった。気がついたとたん、顔にボッと火がつく。
「実乃。よしなってば」
チョミは小声で言うと私の腕を引っぱった。私は素直にチョミに従い急いで廊下へ出ようとする。
あちこちからクスクスと笑い声が聞こえ、私は窓から飛び下りちゃいたいほど恥ずかしかった。足早に机の間を縫《ぬ》って扉に向かうと、すれ違った女の子達の台詞が私の耳に飛びこんだ。
「……野蛮《やばん》、男みたい……」
「……便利屋の娘だって。父親にそっくりじゃない……」
思わず足を止めると、チョミが首を振って私の腕を引いた。
「……放っときなよ、実乃。あの子達、ハズムのファンだからひがんでるんだって」
長い髪のふたりづれは、厭味《いやみ》を置いてさっさと歩いていく。まだ名前も覚えてないけど、よくハズムとしゃべっている子達だ。
むちゃくちゃ腹がたったけど、これ以上騒いだら助けてくれたチョミに悪いので私は奥歯をグッと噛《か》んでこらえる。
「お前ら、今なんて言った?」
その時、ひときわ大きな声が背中に響いた。私もチョミも、その辺にいた子全員がハズムのほうを振り返る。
「便利屋がどうとか言ってなかったかよ!」
ロングヘアーズの前に立ちはだかると、ハズムは頭の上からそう怒鳴る。
「……私たちは別に……」
「言いたいことがあるなら本人に向かって言えよ。実乃は確かに男みたいだよ。確かにあの親父にそっくりだよ。でもな、お前らと違って俺はほめてんだぜ」
唾《つば》を飛ばさんばかりにがなりたてるハズムに、彼女達はすっかりおびえて小さくなっている。
「コソコソすんな。言いたいことがあんなら堂々と言え!」
大好きなハズム君≠フ突然の攻撃に、彼女達はとうとう泣きだしてしまった。
教室中の注目は私からハズムに奪われて、彼が教室の扉を乱暴に開けて出ていくのをあっけにとられて見ていた。
放課後、私は校門を出たり入ったりしてウロウロしていた。ハズムを待ち伏せてお礼を言おうかどうしようか迷っているのだ。
さっきのは、なんだったんだろう。
チョミは「実乃のことかばってくれたんだから、ちゃんとお礼を言わなきゃダメだよ」と言っていた。でも、あれって本当に私のことかばってた?
五時間目と六時間目、授業をうわの空で私は考えごとをしてた。よく考えてみると、ハズムは別に私に意地悪なんかしていないのかもしれない。私が勝手につっかかってるだけなのかもしれないなんて思いはじめた。
ちょっとかばってもらったからって、突然善意に解釈するなんて私も現金かもな。やっぱり、今日はまっすぐ帰ろうか。
「さっきから何ウロチョロしてんだよ」
突然声をかけられて、私は飛びあがった。
「ハ、ハズム」
「分かった。俺のこと待ってたんだろう。いいって、いいって、気にすんな」
鞄《かばん》を肩に担《かつ》ぎ、いつものふざけた笑顔でハズムはそう言った。反論が喉《のど》まで出かかったけれど、我慢して飲みこむ。いちいちうぬぼれたこと言うこいつも悪いけど、それにつっかかる私も悪いんだ。
「……さっきはどうも」
「そりゃどうも。で、何が?」
「…………」
私は上目づかいに奴を見る。やっぱり、別に私のことかばったわけじゃないのか。
「なんだか分かんないけど、さっきはありがとう」
「ああ、あれね。ラブリーを捜してくれる大事な親父さんだからな。ああいう言い方されてカチンときたんだ、俺も」
なんだ、私じゃなくてお父さんをかばったわけか。
「ラブリーはどう? 見つからないの?」
「それが、どこ捜してもいないんだよ」
私とハズムは校門から続く並木道をゆっくり歩きだした。
「チラシ貼《は》ってくれたおかげで、励ましと慰《なぐさ》めの電話はジャンジャンかかってくるんだけどな」
「うん、うちにもかかってくるよ。みんな捜してくれるって言ってる」
「そっか、嬉《うれ》しいな」
珍しくはにかんだ顔をしたハズムを見て、私もなんだかくすぐったい気持ちになった。
「でもさ、そんなに町中の人が捜してくれてるのに、ラブリーったらどこ行っちゃったんだろうね」
そう言うと、ハズムは私をじっと見下ろした。何か言いたげなその顔に私は首をかしげる。
「何?」
「あ、いや。なんでもない」
口ごもるハズムに私は自分の言ったことを後悔した。誰もが思っていても口に出していないこと。もしかしてラブリーに何か悪いことが起こってるんじゃないかって。そういうニュアンスが伝わってしまったかもしれない。
「元気だしてよ、ハズム。保健所にはラブリーいなかったんだしさ。迷子になってどっかの家でお世話になってるんだよ、きっと」
あわてて私はハズムを慰める。
「うん。そうだな」
「みんなで捜せば、絶対見つかるって」
ねっ? と彼の顔を覗《のぞ》きこむと、ハズムが急に吹きだした。
「何笑ってんの?」
「なんでもない」
「笑ってんじゃない」
「いや、だってさ。言うとお前怒るから」
「何よっ、気になるじゃない。怒らないから言ってよ」
ハズムは拳《こぶし》を口もとに当てて笑いをこらえながら言った。
「実乃。いつもそうやって普通にしてろよ。ツンツンしてるよりかわいいから」
急にそんなことを言われて、私は口をポカンと開ける。
「どういう意味よ」
「ほら、悪い癖だぜ。ほめられたら素直にありがとうって言いなよ」
「…………」
柔らかくいなされて私は口をつぐんだ。
「さっきも聞いたけど、どうしてお前俺にいちいちつっかかるわけ?」
並んで歩きながらハズムはそう聞いてきた。
「私にもよく分かんない」
「分かった、実は俺が好きなんだ」
「悪いけど違うよ」
あっさり言われて、ハズムは首を垂《た》れる。
「じゃあ、よっぽど俺のこと嫌いなわけ?」
私はちょっと考えて首を横に振った。
「ハズムのこと、別に嫌いなんじゃないよ。ただ、あんたが人の気持ちを逆なでするようなこと言うから」
「そうかな」
「うん。ハズムが私のこと、急にほめたりするじゃない。そうすると、私照れるわけよ。照れると照れてる自分に腹が立って、それで怒っちゃうみたい。分かる?」
ハズムは空を見あげて何やら考えていたかと思うと、面倒くさそうに呟《つぶや》いた。
「よく分かんねえや。女って難しいこと考えてんのな」
「そんなことないよ」
私とハズムはそのまま黙って暮れはじめた並木道を歩いた。なだらかな坂を曲がるとその先にJRの駅がある。右へ行けば私の家、まっすぐ踏み切りを進めばハズムの家がある。
「ね、ハズムのうちにちょっと行っていい?」
「俺んち? いいけど急にどうしたのさ。やっぱり、俺のこと好きなんだ」
「どうしてすぐ話がそっちへ行くのよ」
私は片足で地面を踏みつける。
「悪りい、悪りい。どうも、実乃を見てると茶化《ちやか》してみたくなるんだよな」
「私はおばあちゃんに用があんの」
「はいはい。そうですか」
にやけるハズムを私は睨《にら》んだ。文句はいっぱいあるけど、今日のところは我慢しておこう。
「実乃ちゃんかい? 久しぶりだね」
庭先にいたおばあちゃんは、私が声をかける前にこっちをくるりと振り返った。
「おばあちゃん。どうして私だって分かったの?」
「あんたの大きい声は、地球の裏っかわからでも聞こえるよ」
横でケケケとハズムが笑う。
「なんだい。ハズムと実乃ちゃんは、つきあってんのかい?」
若い女の子みたいな質問をするおばあちゃんに、私は膝《ひざ》の力が抜けた。
「おばあちゃ〜ん。違うよ、おばあちゃんに会いにきたんだよ」
「冗談よ。ふたりともそんなとこにいないで、中に入りなさい」
相手がおばあちゃんじゃ怒るわけにもいかず、私は唇を尖《とが》らせて玄関に入った。先に家へ上がったおばあちゃんはスタスタと台所へ歩いていく。とても目が見えないとは思えない身のこなしだ。
「ちょうどケーキがあるんだよ。実乃ちゃんは紅茶でいいかい」
「あ、おばあちゃん、私がやるよ」
私はあわてておばあちゃんに声をかける。
「いいんだよ。お客さんなんだから座ってな」
「でも」
手伝おうとする私をハズムが袖《そで》を引いて止めた。
「平気だよ。かえってウロチョロされるほうが危ないんだ」
そう言われて私は仕方なく座布団《ざぶとん》の上に座った。ハラハラして台所を覗く私に、「ばあちゃんは着物の着つけだって、料理だってひとりでできるんだぜ。心配すんなよ」とハズムはちょっと自慢げに言った。
「お料理もすんの?」
「実乃なんか見えてるくせにできないだろ」
ムッとしたけれど私は言い返さなかった。それは本当のことだし。
「実乃ちゃんは、お料理しないのかい?」
お盆にケーキと紅茶を載せて、おばあちゃんが笑顔でやってくる。
「ん〜、最近ちょっとするようになったんだけど」
「じゃあ、お母さんが亡くなってから、何食べて生きてきたんだい?」
「ホカホカ弁当とかマックとかお菓子とか……」
「なんだ気がつかなかったね。言ってくれれば、おかずぐらい作ってあげたのに」
私はさっそく食べはじめたケーキを飲みこんだ。
「ありがとう、おばあちゃん。でも、お父さんが会社|辞《や》めて便利屋はじめてからは、夕飯当番決めてちゃんと食べるようにしたの」
「そうかい。そりゃよかった。若い時に偏《かたよ》った食事してると、あたしみたいになっちゃうかもしれないからね」
おばあちゃんは、子供の時から視力が弱かったそうだ。戦後の食料不足で栄養が取れなかったのも、弱視《じやくし》の進んだ原因のひとつだったのかもしれないと前に言っていた。
「おばあちゃんが毎日お料理してるの?」
「かあちゃんが会社行ってるからな。家のことは洗濯も買い物もみんなばあちゃんがやってくれてるんだ」
ハズムが楽しそうに口を挟《はさ》む。
「すごーい。知らなかった」
「ラブリーが家に来てから、できなかったこともできるようになったんだよ」
おばあちゃんの言葉に、私とハズムは顔を見合わせた。
おばあちゃんの目がまったく光を感じなくなったのは、もう二十年も前だという。最初の十年は杖《つえ》を頼りに生活していたが、十年前ラブリーが家にやってきて、暗闇《くらやみ》の生活にまさに光がさすようだったとおばあちゃんは言っていた。
盲導犬がいればどこへでもひとりで行けるし、ひとりで帰ってこられる。誰か人に助けてもらわなくても自由に歩き回れるということは、おばあちゃんにとってものすごいことだったという。
おばあちゃんはラブリーを心から信頼し、ラブリーはかわいがってくれるおばあちゃんのために、危険や安全を忠実におばあちゃんに伝えた。
そのラブリーがいなくなってしまったのだ。おばあちゃんはいつもと変わらず明るくしているけど、きっと自分の足をもがれたように悲しいに違いない。
「ね、おばあちゃん。私今日はラブリーのこと聞きにきたんだ。今みんなでラブリーのこと捜してるんだけど、ラブリーがいなくなった時のこともう一度聞かせてくれる?」
私に聞かれて、おばあちゃんはちょっと困ったような顔をした。
「実乃、何度聞いても一緒だよ。朝、起きたらラブリーがいなかったんだ」
横から言うハズムに私は顔を向ける。
「今までラブリーが勝手に外へ行ったことってある?」
「……いや。ないけど」
「だったら、ラブリーが出ていったっていうより、誰かに連れていかれたかもしれないでしょ。ねえ、前の日とか変な人が近所にいなかった?」
私の質問にふたりは絶句しているようだった。
「別にそんなことなかったと思うけどな……」
「……そうだね。よその人がラブリーを連れていこうとしたら、あの子|吠《ほ》えるはずだし」
か細いおばあちゃんの声を聞いて、私はハッとした。いけない、これじゃよけいおばあちゃんを不安にさせてしまう。
「ごめんなさい、おばあちゃん。なんか心配かけるようなこと言っちゃって」
「いいんだよ。実乃ちゃんが一所懸命になってくれて、あたしは嬉しいよ」
「お父さんや町中の人が捜してるんだもん。絶対見つかるよ。おばあちゃん、元気出して」
おばあちゃんは私の手を柔らかく握るとコックリ頭を下げた。
「実乃ちゃんにも、お父さんにも迷惑かけるね」
「迷惑なんかじゃないって。私だってラブリーに早く帰ってきてほしいもん」
「本当にすまないね。ごめんよ、実乃ちゃん」
おばあちゃんは、こちらが恐縮《きようしゆく》してしまうぐらい何度も何度も頭を下げた。
おばあちゃんのあったかい手を握って、私は絶対ラブリーのこと捜しだそうと決心した。
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世の父親というものは、子供の「勉強する」って言葉にこうも弱いものなのか。
玄関で見送る花乃《かの》姉ちゃんに笑顔で手を振るお父さんを、私はかなり呆《あき》れて横目で見ていた。
「花乃は真面目《まじめ》になったなあ。やっと、お父さんの誠意が伝わったらしい」
駅への道を歩きながら、お父さんはウンウンと満足げに頷《うなず》いた。返事をするのも馬鹿馬鹿しくて、私はそっぽを向く。
日曜日の今日、私達は隣町の保健所とペット専門の火葬場を回ってみることにしたのだ。
ラブリーの捜索をはじめて一週間。近所の山や河川敷《かせんじき》まで、思い当たるところはおよそみんな調べてみた。大勢の人が捜してくれたのに、手がかりさえも見つからなかった。
悪いほうへは考えたくなかったけど、もしかしたらということもある。だから、市内のそういう施設を全部あたってみようということになったのだ。
調べてみたら、市内には保健所が三か所、ペット専門の火葬場が二か所あった。お父さんひとりじゃ大変なので、手分けしようということになったのだ。
それを聞いたとたん花乃ちゃんは「レポートと明日の予習があるの」と言いだした。
殴《なぐ》ってやろうかと思って拳《こぶし》を握りしめたとたん、花乃ちゃんが耳もとで囁《ささや》いた。
「夕飯当番代わってあげるからさ。ね、お願い。宿題はホントなの」
得意の猫なで声に眉《まゆ》を寄せていると、お父さんがこう言いわたした。
「どうせ実乃《みの》は暇《ひま》なんだ。花乃は勉強、実乃はお手伝い。これで一件落着」
カラカラ笑うお父さんを見て、私は怒る気力が失《う》せるほど呆れてしまった。まあ、最初っから私が行こうと思ってたからいいけどさ。それにしてもお父さんって、幸せな性格だ。十四年も親子やってるんだから、そろそろ花乃ちゃんの性格分かってもいいんじゃないのかな。
どっちがどの施設に行くかは決めてあったので、私は改札口でお父さんに手を振った。
「じゃ、私は下りに乗るから」
ぷいと背中を向けると、お父さんがためらいがちに声をかけてきた。
「おい、実乃」
「何?」
「いや、あのな。ラブリーがもしいたら……」
「携帯《けいたい》電話に連絡すればいいんでしょ。分かってるってば」
「そうじゃなくてな、えっと、あの……」
何やらモソモソ言っているお父さんに私は首をかしげた。
「どうしたの?」
「あー、なんだ、その……やっぱり、一緒に行こう」
突然そう言うと、お父さんは私の手を引いて上りホームに連れていく。
「ちょっと、お父さん? 一緒に行くのはいいけどさ、全部一日で回れるかどうか分かんないよ」
「急いで回れば大丈夫だ。もし行けなくても、明日俺が行くからいい」
ホームに立つと、お父さんはポケットから煙草《たばこ》を出してくわえた。そのとまどった横顔を見て私はますます首をかしげる。
「変なの。さっきは手分けしたほうが早いって言ってたのに」
「……ちょっと、俺も考えなしだったと思ったんだよ」
私のほうを見ないで、お父さんは煙草に火を点《つ》ける。
「ラブリーがいなかったらいいよ……でももし灰にでもなってそこにいたら、実乃、ひとりじゃ困るだろ……」
小声でそう言うお父さんを私は目を丸くして見た。
なんだ、心配してくれたのか。私は尖《とが》らせた唇に煙草をくわえたお父さんの背中に、コツンと額《ひたい》を当てた。お父さんは大雑把《おおざつぱ》で少しデリカシーに欠けてるけど、こういうところがあるから嫌いになれない。
照れると不機嫌になるとこがそっくりで、私はクスクス笑ってしまう。
「……なんだ、おかしいか?」
「違うよ。お父さんって、私に似てるなって思って」
「逆だ、馬鹿。お前が俺に似てるんだ」
お父さんとふたりで保健所と火葬場を回ってみたけど、ラブリーはいなかった。職員の人達に写真を見せて聞いてみたが、交通事故などにあった身元不明の犬の中にもラブリーはいないようだった。
「どこ行っちゃったんだろうな、あのワン公は」
帰りの電車の中、お父さんは大きな溜《た》め息をつく。
私達は病気や事故で死んでしまった動物達を見たあとだったので、かなり暗い気持ちになっていた。
「こう手がかりも何もないと、神隠しにあったとしか思えねえな」
「神隠しか……じゃあやっぱりどっかに隠してあるのかなあ」
「犬っころなんか隠してどうすんだよ」
私とお父さんは黙ってうつむく。親子で暗くなっていてもしようがないので、私は顔を上げた。
「ね、保健所で見つからなかったってことはさ、ラブリーが生きている可能性は大きくなったってことでしょ。元気出して捜そうよ」
明るく肩を叩《たた》かれて、お父さんは私の顔を見た。固い表情にいつもの大雑把な笑顔が戻ってくる。
「そうだな、どっかで生きてるってことだよな」
「そうそう。早く見つけて、ハズムのお母さん喜ばせてあげなきゃね」
それを聞いてお父さんの顔がニターッと崩《くず》れていく。
「な、実乃」
ご機嫌をうかがうようなあどけない顔をして、お父さんが肩寄せてきた。
「何?」
嫌な予感を感じながら聞くと、お父さんは秘密を打ち明けるようにこっそり言う。
「帰る前にハズム君ち寄って、今日のこと報告していかない?」
私はジロリとお父さんを睨《にら》んだ。
「なんだよ〜。依頼人に中間報告して悪いか?」
「お父さんさ」
「え?」
「ハズムのお母さんのこと、そんなに好きなの?」
急に核心をつかれて、お父さんはつり革《かわ》から手を滑《すべ》らせた。
「動揺してやんの」
「お前は親に向かってなんてことを」
「答えになってないよ。お母さんのこともう忘れちゃったの? お母さんのこと忘れちゃうぐらいハズムのお母さんのことが好きなの?」
真っ向から聞かれて、お父さんは絶句した。
「い、いや、そのなんだ、お母さんのことは忘れたりはしないけど、つまり、えっとな」
しどろもどろになっている父親を私は半分意地悪でじっと見つめる。どうだ、好きなら好きだって言ってみろ。
「つまり、あれだよ。実乃」
「あれって何よ」
「その話は保留だ」
それっきりお父さんは、口をへの字に結んでブルドッグのように黙ってしまった。
肝心《かんじん》なところでごまかすんだから、大人ってずるいよな。
ハズムの家へ報告しにいくというお父さんを、私は引きずるようにして連れて帰った。
ところが店まで帰ってくると、なんとご本人がお父さんの帰りを待ち受けていたんだ。
「大空《おおぞら》さん」
店の前に心細げに立っているハズムのお母さんを見つけると、お父さんは抱きつかんばかりにダッシュしていった。
「まあ、豹助《ひようすけ》さん。お待ちしてました」
「どうしたんですか。中で待ってらしたらよかったのに。あ、いけねえ、鍵《かぎ》なんかかけちまってすんません」
お父さんはポケットを探《さぐ》って鍵を出し、見てて恥ずかしくなるぐらいオタオタと鍵を開けた。
「電話していただければ飛んで帰りましたのに」
「すみません。どうしてもすぐ聞いていただきたいことがあって、ご迷惑かと思ったんですけど」
「迷惑なんてとんでもない。ささ、どうぞ、どうぞ」
尻尾《しつぽ》があったらブンブン振っていそうな勢いのお父さんを尻目《しりめ》に、私はお湯を沸かした。
お父さんは舞いあがってるから気がつかないみたいだけど、おばさんの顔色が悪い。なんだか緊張してるみたいだ。すぐ聞いてほしいことがあるって言ってたから、ラブリーのことかもしれない。
「それで、どうしました? 悩みごとでも頼みごとでもなんでも私に話してください」
鈍感《どんかん》な親父はおばさんの様子に気づかず、ヤブの精神科医みたいなことを言っている。おばさんは少しの間唇を噛んでうつむいていたかと思うと、決心したように顔をあげた。
「これを見てください」
おばさんがポーチから出したのは、一通の茶封筒だった。
「はあ、なんでしょう」
「脅迫状みたいなんです」
「……え?」
「ラブリーを誘拐したって書いてあるんです」
「ゆ、誘拐?」
私とお父さんは同時に封筒に手を伸ばす。一瞬早かった私の手を、彼はピシャンと叩いた。
「大人が先だ」
「そんなのずるい」
「ずるくない」
封筒を取りあう私達に、ハズムのお母さんが割って入った。
「喧嘩《けんか》なさらないで。やぶけちゃったら大変よ。一緒に見てちょうだいな」
叱《しか》られてしまって、私とお父さんはそろそろと封筒から手を離した。おばさんは封筒を手にとると中から便箋《びんせん》を出して広げ、それをテーブルの上に置いた。
私達は手紙を覗きこむ。
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『犬・は・無・事・だ・返・し・て・ほ・し・け・れ・ば・一・か・月・以・内・に・あ・の・家・か・ら・引・っ・越・せ』
[#ここで字下げ終わり]
大きさのバラバラな切り抜きの活字でそう書かれていた。テレビのサスペンスドラマみたいで、私はびっくりしてしまった。
「お、大空さん。これは」
「今日、ポストに入ってました。消印がないから、きっと直接持ってきたんだわ」
おばさんは不安そうに呟《つぶや》いた。私はその脅迫《きようはく》めいた手紙を、手に取ってもう一度読んだ。
「心当たりがあるんじゃないですか?」
私に聞かれて、おばさんは曖昧《あいまい》に目を伏せる。
「気にさわったらごめんなさい。でもこれって、お金でも要求してるならわかるけど、一か月以内に引っ越せなんて具体的すぎるんだもん。ね、おばさん。どうして引っ越さないとならないの? おばさんたちがあそこに住んでると困る人がいるわけ?」
「実乃。お前、失礼だぞ」
おばさんに詰め寄る私を、お父さんがあわてて叩いた。
「いたっ。お父さんは黙ってなよ」
「親に向かってなんだ。だいたいな、お前は大人のやることに口出ししすぎるんだ」
「お父さんがトロいからじゃんか」
「なんだと、このヤロ」
私達が喧嘩腰に髪をつかみあうと、
「喧嘩はやめて。全部お話ししますから」
ハズムのお母さんが大きな声で私達を止めた。私にヘッドロックをかけようとしていたお父さんの手がするりと解ける。
「大空さん?」
「ごめんなさい。そうね、ちゃんとお話ししなきゃいけないわよね」
肩を落とし、おばさんはそう呟く。
「心当たりがあるんですか?」
「でも、証拠があるわけじゃないんです」
おばさんはそうしてポツポツと話しだした。
「私の家の場所はご存じですよね」
私とお父さんはコックリ頷《うなず》く。ハズムの家は国道からちょっと横道にそれたところにある。
「あのあたりの土地は、全部|大阪谷《おおさかたに》さんの所有だということもご存じでしたか?」
「ええ。駅から向こうは山までほとんど大阪谷さんの土地だって聞いてます」
「うちの敷地も大阪谷さんからお借りしているんです」
大阪谷というのは、このあたりの地主だ。私も何度か偉《えら》そうに歩いているのを見たことあるけど、絵に描いたような腹黒そうな親父だ。
はるか昔は庄屋《しようや》さんだったらしくて、土地だけは先祖から受け継《つ》いでごっそり持ってるんだって。でも、ごっそりある土地をまるごと受け取れないように税制っていうのができてるらしくて、相続税を払うために、だいぶ土地を切り売りしてるらしいって商店街のおじさん達が噂《うわさ》してるのを聞いたことがある。
「先日、大阪谷さんがいらっしゃいまして、それで……」
「それで?」
「うちのあたりに、ゴルフの練習場を建設したいそうなんです。それで立ち退《の》いてほしいっておっしゃって……」
「た、立ち退けだってえ?」
お父さんはテーブルを飛び越えかねない勢いで、おばさんに迫《せま》った。
「はい。かなり高額の立ち退き料をくださるということで……うちとお隣の二軒以外のお宅は承諾《しようだく》なさったそうなんです。でも、どうしても住み慣れたあの家から離れたくなくてお断りしたんです」
お父さんの肉のついたほっペたがブルブルと震えだすのを見て、私は反射的に耳をふさいだ。
「大阪谷が犯人だ――!」
耳をつんざく大声に、おばさんも思わずソファの背にのけぞった。
「それっきゃないでしょ! 大空さんたちがどんなにラブリーを大事にしてるか知ってるからあのクソオヤジはラブリーを人質に取ったんだ。人間だとお巡《まわ》りに捕まるから、犬にしやがったんだ、あの狸《たぬき》オヤジは!」
わめき散らすお父さんの口を、私はあわてて手でふさぐ。
「よしなよ、お父さん。証拠も何もないんだよ」
「証拠なんかいるか、馬鹿。大阪谷に決まってんじゃねえか」
「豹助さん。やめてください」
おばさんに止められると、親父はハッとして暴《あば》れるのをやめた。
「今まで黙っていてごめんなさい。でも、確証もないのに、大阪谷さんを疑うようなことは言えなかったんです。お願い、犯人だって決めつけないでください。もし違ったらどうするんですか」
静かに言われて、お父さんはかすかに赤くなった。
「……すみません、つい」
「いいえ、私こそ……」
うつむいてしまった大人ふたりをよそに、私は一所懸命考えていた。今、お父さんは犬ならお巡りに捕まらないって言ったけど、本当にそうかな。犬だってなんだって、盗んで隠してそのうえ脅迫《きようはく》したら立派な犯罪じゃないのか。
「おばさん。やっぱり警察に話したほうがいいんじゃないですか」
「そ、そうっスよ、大空さん。絶対大阪谷の野郎が犯人ですよ」
私とお父さんにじっと見つめられて、おばさんはすごく困った顔をした。
「私も疑っていないと言ったら嘘《うそ》になるんですけど」
「そうでしょ? 訴えましょう。町内の悪を摘発《てきはつ》しましょう」
「……実は、大阪谷さんには恩《おん》がありまして」
「恩? あの大阪谷に恩?」
おばさんは小さく頷く。
「もうずいぶん前になりますけど、夫が他界した時に、『女手ひとつで子供を食べさせていくのは大変だろう』って大阪谷さんはずっと地代を免除《めんじよ》してくださっていたんです」
「では、ただで借りていたと……」
「ええ。でもそれじゃあいけないと思いまして、去年まとめてお返ししたんです」
「じゃあ、もう義理はないじゃないですか」
お父さんの言葉に、おばさんはいいえと首を振った。
「お返ししたとは言っても、当時は大阪谷さんのご好意でだいぶ助かったのです。そういうご恩もありますので、事がハッキリするまでは警察|沙汰《ざた》にはしたくなくて」
なるほど。そういう事情があるなら、確かに迂闊《うかつ》なことはできない。お父さんもそう思ったらしく、唸《うな》って椅子《いす》の背にもたれた。
いったいどうしたらいいんだろう。
本当にラブリーを拉致《らち》したのは、大阪谷なのかな。それで、この脅迫状の言うとおり、ハズム達が引っ越せばラブリーは無事に帰ってくるんだろうか。
「おばさんは、どうするつもりなんですか?」
彼女は私を見て、力なく微笑《ほほえ》んだ。
「ラブリーが無事に帰ってくることだけが望みだから、引っ越すことも考えてるの」
「でもそれじゃ……」
「いいのよ、実乃ちゃん。迷惑ばっかりかけちゃってごめんなさいね」
諦《あきら》めてしまったようなおばさんの台詞《せりふ》を聞いて、お父さんがガタンと立ちあがった。
「大空さん。そんな簡単に諦めないでください」
「豹助さん?」
「いいですか、大空さん。まだ一か月あります。気がつかれないようになんとかうまく大阪谷が尻尾《しつぽ》を出すようにつついてみます。ですからこんな卑怯《ひきよう》な野郎の言うことを、簡単にきかないでください」
テーブルに額をこすりつけるようにして、お父さんは頭を下げた。
お父さんに大袈裟《おおげさ》に頭を下げられて、おばさんも大袈裟なぐらい恐縮《きようしゆく》していた。ふたりは頭の低さを争うように何度も何度もおじぎを繰り返していた。
そんな姿を娘の私に見られたのが恥ずかしかったのか、お父さんは「先に帰ってろ」とぶっきらぼうに言った。
お父さんの赤くなった頬《ほお》を横目で見て私は店を出る。夕暮れの商店街を私は家へ向かって歩きだした。
お父さんって、本当にハズムのお母さんが好きなんだな。
そう実感してしまって私はなんだか複雑な気分になった。
ただでさえ変なところで正義感の強い人なのに、そのうえ好きな女の人の窮地《きゆうち》とあっては、じっとしてるわけない。
あの人はどんなことをしてでも、ラブリーを無事におばさんの手に返すつもりなんだろう。
そんなお父さんを見て、おばさんはどう思うだろうか。チビでハゲで丸顔だけど、豹助さんって頼りになるのねって思うかもしれない。
やがてふたりは相思相愛になり、二度めの結婚を決意する、なんてことになったりしたら……。
私は頭を振って妄想《もうそう》を追い払った。そんなことになるわけない。あんな美人がうちのハゲオヤジなんか相手にするわけない。
夕暮れの道をタッタカ走って帰り、玄関を勢いよく開けて私はギョッとした。
狭い玄関にギッチリ何足も靴が脱ぎ散らかしてあったのだ。ポカンとしていると、階段の上から大きな笑い声が聞こえてきた。
花乃ちゃんの友達が来てるらしい。
汚いバッシュを爪先《つまさき》でどけて私は自分の靴を脱ぐ。階段の下から私は二階へ向けて花乃ちゃんを呼んだ。
「おねえちゃーん」
けたたましい笑い声に、私の声は消されてしまう。舌打《したう》ちして階段を上がり、花乃ちゃんの部屋のドアをあけた。
靴から想像したとおりの大勢の人が笑顔のままこっちを振り返った。人生ゲーム≠やっていたらしく、みんな床に這《は》いつくばっている。
「あら、実乃。帰ったの?」
呑気《のんき》にそう言ってお姉ちゃんが頭を上げた。私は黙ったまま指で彼女を呼ぶ。
「何よ、次私の番なんだから、ちょっと待って」
「いいから、ちょっと来なよ」
「話ならそこで言ってよ」
面倒くさそうに言うと、お姉ちゃんはゲーム盤に視線を戻した。
「実乃ちゃんも入りなよ」
「そうだよ、一緒にやろうぜ」
花乃ちゃんの友人たちはみんな気さくだ。誘ってくれるのは嬉しいんだけど、私はこの派手《はで》な人達がちょっと苦手なんだ。
「ねえ、花乃ちゃん。ちょっと来てよ」
「だから、なんだって聞いてんでしょ」
「お姉ちゃんが夕飯当番でしょ。ご飯作ったの?」
こっちを見もしないで言うお姉ちゃんにムッとして、つい喧嘩腰に言ってしまった。みんなの笑い顔がすっと引いていく。お姉ちゃんはあわてて立ちあがると、私の腕をとって廊下へ連れだした。
「友達の前でやめてよ」
声をおさえて、花乃ちゃんは私の耳を引っぱった。
「何よ。それより、ご飯作ってないんでしょ」
「しようがないじゃない。みんなが来ちゃったんだから」
「夕飯当番代わるって言ったのはお姉ちゃんだよ。いっつもそうじゃん。代わるって言って、ちゃんと作ったためしがないんだから!」
「悪気があって作らなかったんじゃないんだから、ギャンギャンわめかないでよ!」
エキサイトしてしまった私達は、みんなの視線を感じてハッと振り返る。彼らがじっとこちらの様子をうかがっていたのだ。
「ご、ごめんね。いいから続きやろうよ」
私の頭を一発叩くと、花乃ちゃんは笑顔を作って部屋に戻ろうとした。だけど、みんなはもう上着を着て立ちあがっている。
「……今日はもう帰るわ」
「……明日学校でな」
視線をそらして、みんなはぞろぞろと階段を下りていく。花乃ちゃんは彼らが靴を履《は》いて玄関を出ていくまで「ごめんね」を繰り返していた。
玄関のドアが閉まると、お姉ちゃんがこっちを振り返った。目がつりあがり、口から火を吹きそうな恐《こわ》い顔だった。
「実乃、あんたのせいよ。みんなしらけて帰っちゃったじゃない」
「どうして私のせいなんだよ。花乃ちゃんが約束破るからいけないんじゃない。どうせ宿題もやってないんでしょ!」
「お客さんが来ちゃったんだからしようがないでしょ。あんたは子供だから分かんないかもしれないけどね、お客さんに夕飯作らないといけないから帰れなんて言えないでしょ」
「どこがお客さんだよ。花乃ちゃんの友達なんか、別にお客さんじゃないじゃんか」
そのとたん、頬《ほお》にビタッと花乃ちゃんの手が飛んできた。
「ぶ、ぶったなあ」
左頬を押さえて私は唸《うな》った。
「あんたが悪いんでしょ!」
「悪いのは花乃ちゃんじゃんか!」
ついに私はお姉ちゃんに飛びかかった。私とお姉ちゃんは体格が同じぐらいだから、口喧嘩よりもプロレスになったほうが私には分《ぶ》がいい。口じゃ花乃ちゃんにかなわないし。キーキー言ってつかみあっていると、頭から突然|雷《かみなり》が落ちた。
「やめんか、こら!」
首をグイとつかまれて、私達は左右に離された。
「お父さん、放してよ。花乃ちゃんが悪いんだからね!」
「何よ、実乃。あんたが友達のこと悪く言うからいけないんじゃない!」
再びつかみあおうとすると、お父さんが声の限りに怒鳴った。
「うるさい、うるさい、うるさい――!」
私も花乃ちゃんも、その声に思わず尻《しり》もちをつく。うるさいのはお父さんの声じゃないか。
「少しは女らしくできないのか!」
「でも、お父さん」
反論しようとすると、お父さんは唾《つば》を飛ばして一喝《いつかつ》した。
「でもじゃない!」
「だって」
「だってでも、でもでもない! どうして実乃は、そう口応《くちごた》えするんだ!」
「でも」も「だって」も言えなくなってしまって私はほっペたを膨《ふく》らませた。
「疲れて帰ってきてみりゃ、姉妹でとっくみあいの喧嘩か。どうして仲良くできないんだ。女の子同士だろ」
事情も聞かないで頭から怒鳴るお父さんを私は睨みつけた。私の反抗的な目を見て、お父さんの口もとがまた歪《ゆが》む。
その時、花乃姉ちゃんがお父さんの肩にそっと手を置いた。
「お父さん、ごめんなさい。私が悪いの」
その絶妙なタイミングに、私は口を開けて花乃ちゃんを見た。
「実乃が悪いんじゃないのよ。私にお客さんが来て、それでご飯作る時間がなかったから……」
そう呟《つぶや》いて、彼女は目尻を指で拭《ぬぐ》った。涙なんか出てやしないのに。
お父さんはしばらくモグモグと口を動かしていた。私もここで「ううん、私も悪いの。花乃ちゃん、お父さんごめんなさい」ってしおらしく謝れば、この場がおさまることぐらい分かってた。でも、私はそんなクサいお芝居はしたくない。
唇を噛《か》んでそっぽを向くと、お父さんが私の背中にこう言った。
「実乃も花乃みたいに素直になってみろ。そうすりゃ、俺だってこんなに怒らないんだ」
それを聞いて私は立ちあがった。
「……今日はお寺に泊まってくる」
「実乃お前な。自分に都合が悪いとすぐ寺へ逃げるけどな……」
お父さんの言葉を最後まで聞かず、私は靴を履いて玄関を出た。門のところで振り返ったけれど、お父さんもお姉ちゃんも追いかけてこなかった。
お寺の石段の下まで来て私は立ち止まった。あたりはもうすっかり暮れてしまっていて、石段の真ん中へんから上は真っ暗で何も見えない。うっそうと繁《しげ》った杉の木の上に欠けはじめた月が浮かんでいた。
月を見あげて私は涙を拭《ぬぐ》った。
お姉ちゃんの嘘泣きの陰《かげ》で私は本当に泣いているのに。どうしてお父さんは分かってくれないんだろう。お父さんの目には、反抗的な私より素直なふりした花乃ちゃんのほうがいい子に映っているに違いない。
私は悪くない。悪いのはお姉ちゃんだ。悪いのは、花乃ちゃんに簡単にだまされるお父さんだ。
なのに、私はお寺への階段が登れなかった。永春《えいしゆん》さんの懐《ふところ》に泣きついて、みんなが私に意地悪をすると訴えられないのはなぜだろう。
私は街灯の下にしゃがんで膝《ひざ》を抱えた。
でも、もしかしたら。
お父さんの言うとおりなのかもしれないって、私は心の隅《すみ》っこで思ってる。
素直じゃなくて、何かと言うと「でも」とか「だって」とか私は言い訳してる。それで都合が悪くなると、こうやって永春さんのところへ逃げこもうとする。悪いのはみんな他の人で、私はちっとも悪くないなんて思ってることが、私の一番悪いところなのかもしれない。
永春さんは優しいから、いつも私の愚痴《ぐち》を聞いてくれるけど、本当はわがままばっかり言ってる私を、うっとうしく思ってるのかもしれない。
そう思ったら、とてもお寺へ登っていけなくなってしまった。
こんな時は、お母さんのことを思い出す。普段は忘れてるふりしてるけど、誰にも泣きつけない時だけは、どうしてもお母さんのこと思い出してしまう。
お母さんがいた頃は、家の中の人間関係のバランスがとれていた。饒舌《じようぜつ》なお父さんとお姉ちゃんの後ろで黙っているしかない私に、お母さんはちゃんと「どうしたの?」とフォローにきてくれた。
かといって私のことひいきしてたわけじゃない。お母さんはヒステリーな花乃ちゃんにも、頑固《がんこ》なお父さんにも、柔らかく接してた。だからふたりとも、お母さんと話をする時だけは爪《つめ》を引っこめた虎《とら》みたいにゴロゴロ喉《のど》を鳴らしてた。
みんなのクッションになっててくれたお母さん。柔らかいアルトの声と白い指は、きっと相手を素直にさせてしまう魔法を持っていたに違いない。
お母さんがいてくれたら。
もうとっくにいないお母さんを私はまだ諦《あきら》められない。涙をこらえようと奥歯を噛みしめたとたん、コロリと雫《しずく》が転がった。涙の粒《つぶ》を見たとたん、喉の奥で嵐《あらし》が堰《せき》を切る。私はうつむいたまま、ボロボロ泣きだしてしまった。
その時、暗い道の向こうから、バイクのエンジン音が聞こえてきた。
あっと思っているうちに、暗闇《くらやみ》からヘッドライトが現れる。私はその光をもろに顔に受けてしまった。
「実乃」
私の前に原付ごと滑りこんできたのは、袈裟《けさ》を着た永春さんだった。
「また派手に泣いてんなあ」
返事をしようと思っても、嗚咽《おえつ》で言葉が出ない。
「ほら立ちなよ」
両手で顔を覆《おお》って私は首をブンブン横に振る。また永春さんに迷惑をかけてしまうのが恥ずかしかった。けれど、彼の手が私の肩にのせられるとそんな意地はあっけなくどこかへ行ってしまった。
しがみついて泣く私の髪を、永春さんの大きな手がクシャクシャとつかんだ。
「あら、実乃ちゃん。いらっしゃい」
お寺の脇《わき》に建っている永春さんの家へ入ると、和尚《おしよう》さんの奥さん、つまり永春さんのお母さんが台所から顔を出した。
「腹減った。おふくろ、夕飯できてる?」
「はいはい。実乃ちゃんもお夕飯食べていってね」
「あの、私、すぐ帰るから」
玄関でグズグズ言ってる私を、永春さんが振り返る。
「珍しい。実乃が遠慮してる」
「大人になってきたってことよね。でも、実乃ちゃん、うちで遠慮することないのよ。お父さんに怒られそうなら、おばさんが電話してあげようか?」
私は笑顔を作って首を横に振った。草履《ぞうり》を脱ぐ永春さんに続いて、私も靴を脱いで玄関に上がる。
永春さんが着替えに行ってしまったので、私はそろそろと台所を覗《のぞ》いた。お味噌汁《みそしる》の味をみているおばさんに声をかける。
「おばさん。お手伝いしようか?」
「あら、ありがと。じゃあお父さん呼んでくるから、お魚見ててくれる?」
菜箸《さいばし》を私に渡すとおばさんはパタパタと廊下へ出ていった。焼き網の上に乗った干物を私は箸でひっくり返した。こんがり焼けた魚の匂《にお》いをかいだら急に空腹を感じた。
今頃うちじゃ何食べてんだろ。腹いせにふたりでウナギでも取って食べてるかもな。
魚が焼けるまでまだちょっと間があるみたいだったので、私は食器棚からお茶碗《ちやわん》やお皿を出した。お箸を並べてしょうゆ注《さ》しをテーブルの上に置くと、和尚さんが台所に顔を出す。
「お、実乃ちゃん。いらっしゃい」
「和尚さん。こんばんは」
「さあさ、ご飯にしましょう」
台所のテーブルに和尚さんと永春さんがそろったので、私はそれぞれのお茶碗にご飯をよそった。
ここには、私専用のお茶碗がある。それほど頻繁《ひんぱん》に私はこの家でご飯をいただいているのだ。うちと違ってお寺の一家は食事中にテレビを見ないので、ポツポツと会話をしながらお箸を動かしている。炊きたてのご飯や自家製の漬物《つけもの》、そしてこの心地良い静けさが私はとっても気に入っていた。
こうしていると、私はここの家族の一員のような錯覚《さつかく》を覚えた。お父さんがいて、お母さんがいて、そして優しいお兄さんがいる平和で静かな家庭。
実際、お母さんが死んで、私が長いことお寺に泊まっていた時、和尚さんは私を養女にしてもいいと言った。
お寺もお寺の人達も大好きだったけど、それを聞いたとたん、私はお父さんとお姉ちゃんが心配になった。私がいなくなっちゃったら、あの人達はどうなるんだろうって思った。今思うと不思議だ。一番子供の私が、私がいなくちゃ、お父さんもお姉ちゃんもちゃんと暮らしていけないだろうって思ったのだから。
でもその時は、我ながら雄々《おお》しく決心した。私がお母さんの代わりになる。お母さんの代わりになって、お父さんとお姉ちゃんを励まして生きていくんだと。
「実乃?」
箸が止まってしまった私を、永春さんが覗きこんだ。和尚さんもおばさんも、心配そうに私を見ている。
そこで私は気がついた。あんなに泣いたんだから、絶対目のまわりが腫《は》れてる。
和尚さんもおばさんも、いつ私が泣きだすんじゃないかと、内心ハラハラしてるに違いない。私はニッコリ笑ってお茶碗を差しだした。
「お代わりしていい?」
みんなの安堵《あんど》の溜《た》め息を聞いて、なんだか悲しくなってしまった。
ご飯が済むと、私はいつものように後片づけを申し出た。和尚さんとおばさんは隣の部屋でテレビを見ている。いつもなら私ひとりで片づけるんだけど、今日は布巾《ふきん》を持った永春さんが隣に立っていた。
私が黙って食器を洗うのを、永春さんも黙って見ている。洗い桶《おけ》にお皿を伏せると、永春さんがそれを布巾で拭《ふ》いた。
「また喧嘩《けんか》しちゃった」
私が話しだすのを永春さんは待っていたらしい。ホッと息をついて彼は笑った。
「いつものことでしょ」
「うん」
泡だてたスポンジでゴシゴシとお茶碗を洗う。洗剤の泡をお湯で流して永春さんに渡した。
「私、要領《ようりよう》悪いみたい」
「そんなことない。けっこう手際《てぎわ》いいよ」
「食器洗いのことじゃないよ」
永春さんは肩をすくめる。
「今日は何が原因?」
「何かなあ……えっと、脅迫状が来たんだっけ」
思い出しながら言うと、永春さんのほうがびっくりしたみたいだ。拭いていたお碗をつるっと放し、あわてて捕まえている。
「脅迫状?」
「うん。そっか、順序だてて言わないといけないんだっけ」
「なるべくそう頼むよ」
私は永春さんに今日一日のことを話した。市内の保健所を回って帰ってきてみると、ハズムのお母さんが店に来ていたこと。おばさんが持ってきたのが、ラブリーを誘拐したという脅迫状だったこと。それから、ハズムのお母さんが話してくれた、心あたりのこと。
「大阪谷さんがねえ……ふうん」
ゴルフ練習場を建てるため、ハズムの家に立ち退《の》きの話を持ってきたことを話すと、永春さんは「さもありなん」という顔をした。
「まあ確かにあの人は悪い噂が多いな」
私は頷《うなず》く。子供の私の耳に入るほど、大阪谷は評判が悪い。本業の不動産会社のほかにパチンコ屋や怪《あや》しげなゲイバーみたいなのも経営していて、脱税や賭博《とばく》なんか相当やってるらしいって大人達は言っている。あの夜逃げした不動産屋っていうのも、大阪谷に賭博で負けて、この町にいられなくなったっていう噂だ。
「でも、だからって大阪谷がラブリーを隠してるって決めつけるのも短絡的かもな」
「そうそう。そうなのよ」
永春さんの言葉に、私はまた頷いた。
「それなのに、お父さんったら『絶対大阪谷の尻尾《しつぽ》をつかんでやる』って息まいちゃってさ。ハズムのお母さんにいいとこ見せたいみたいなの」
ハハハと永春さんは軽く笑う。
「そんなことで実乃はすねてんのか?」
「違うよ。喧嘩したのはそのあと」
家へ帰ってからお姉ちゃんと喧嘩したのをお父さんに叱《しか》られて、それで頭にきて家を飛び出したことを私は話した。
「お父さんって、一事が万事なの。こうって思っちゃうと、もうほかのこと考えられなくなっちゃうみたい。私が悪いって思ったら、私しか叱らないんだもん」
「なるほどね」
「でもね、私……」
「ん?」
「謝ればよかったって思ってるの。私も悪かったんだし」
止まっていた手を私は動かす。最後の一枚になったお皿を洗った。
「お父さんもお姉ちゃんも悪いけど……一番悪いのは私が素直じゃないからかもしれないって思ったんだ。悪いのは私なのに、いつも永春さんに愚痴《ぐち》ってばっかりいるなって思ったら、なんだか恥ずかしくなってきちゃって」
「それであんなとこで泣いてたのか」
洗ったお皿をゆすぎながら私は頷いた。ゆすぎ終わったお皿を洗い桶に伏せた時「実乃」永春さんは静かに私を呼んだ。
「どうしてお父さん達の前で、そう言って泣かないの」
「…………」
「僕のところで泣いても、お父さん達には伝わらないよ」
私は黙って蛇口《じやぐち》をひねった。なんて答えたらいいか分からなくて、永春さんを見ないようにして濡《ぬ》れた両手をタオルで拭く。黙ってしまった私の頭を、永春さんが軽く小突《こづ》いた。
「今日は泊まってく?」
「……帰ろうかな」
「そうしなさい。お父さんも花乃ちゃんも、きっと心配してるよ」
和尚《おしよう》さんとおばさんに挨拶《あいさつ》して、私は永春さんと一緒にお寺を出た。暗い石段を彼の袖《そで》につかまって下りる。
普通のシャツにジーンズを穿《は》いた永春さんは、愛車のヤマハメイトにまたがった。私も黙って荷台にまたがる。エンジンをかけたとたん、永春さんが「あ」と何か思い出したように声を出した。
「なに?」
「大阪谷さんちって、中学生ぐらいの息子がいなかったか?」
私は思わず顔をしかめる。
「いるよ。私と同じクラス」
「なんだ」
永春さんは背中の私を振り返って笑った。
「その辺から探りが入れられるじゃない」
言われなくてもそれは分かっているのだが。
「親に負けず劣らず嫌な奴なんだ、これが」
「へええ」
なるべく関わりたくないって敬遠してた奴だから、私、お父さんにも言いだせなかった。だって言ったら絶対「お近づきになってこい」って言うにきまってる。
「僕も暇みて、大阪谷さんの家や店のまわり回ってみるよ」
「え?」
「犬の声が聞こえるかもしれないだろ」
アクセルをふかし、夜の道を走りだした永春さんの背中に私はギュッとつかまった。
永春さんは優しい。
お母さんの代わりに、今は永春さんが私のクッションになってくれている。かすかにお線香の匂《にお》いがする永春さんの背中に、私は頬をつけて目をつぶった。
でも。私はふと思いついて目をあけた。
じゃあ、お父さんやお姉ちゃんには、お母さんの代わりをしてくれる人が、いるだろうか。
代わりのクッションを持っているのは私だけ? 誰かの胸に逃げこんで泣いているのは私だけ? もしかしたら、私はとんでもない甘ったれなのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が痛んだ。
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翌日、私が学校から帰ってくると、待ちかねていたようにお父さんが飛びだしてきた。
「あれ? お父さん、仕事は?」
お父さんはガッチリ私の肩をつかむと、勢いこんで言った。
「実乃《みの》。お前、大阪谷《おおさかたに》の息子と同じクラスなんだって?」
げ。もうバレたか。
「確か息子がいたなって思い出して調べてみりゃ、お前と同じクラスじゃねえか。どうして黙ってた」
鼻息荒く迫《せま》ってくるので、私は思わず首を縮《ちぢ》める。
「今日言おうと思ってたんだよ」
「なぜ昨日言わん。おまえは親を馬鹿にしてんのか」
「違うってば。あんまり怒るとよけいハゲるよ」
「うるさい! 話をそらすな!」
「唾《つば》飛ばさないでよね。そんなに怒鳴ると協力してやらないから」
そう言って睨《にら》みつけると、さすがのオヤジも言葉を詰《つ》まらせた。
「お父さんに言われなくても、音比古《おとひこ》から探《さぐ》り入れようと思ってるよ」
不機嫌に言うと、お父さんは耳たぶをかく。怒鳴ったこと、少し反省してる様子だ。
「で、何か聞いてきたか?」
私は唇を尖《とが》らせてお父さんの顔を見あげた。
実は、今日一日中、話しかけよう話しかけようと思っていたのに、とうとう一度も奴《やつ》と口をきくことはできなかった。
「……ひと言も話せなかった」
「どうして? クラスメートだろ? 世間話でもして何気なく犬の話でもしてみろよ」
「何気なく世間話っていうのが、できないんだよ」
「そんくらい簡単だろ?」
強く言われてしまって、私もつい大声で言い返す。
「だって音比古の奴、ほんとーに嫌な奴なんだもん!」
奴は大阪谷音比古という、成金のおぼっちゃんらしい名前をもっている。
一年生の時は違うクラスだったけど、奴のことは他のクラスでも噂《うわさ》になっていた。今年同じクラスになって、私はその噂が本当だったことを実感し、そして呆《あき》れた。
音比古には子分が何人かいる。彼らは音比古に命令されるまま、掃除当番も宿題も代わりにやっている。あんな奴の言うことなんかどうして聞くんだろって不思議に思ってたら、音比古の奴、ちゃんと親が大阪谷の会社で働いている子を選んで子分にしていた。
でも、父親が大阪谷の会社の社員でも、音比古の言うことなんか聞かない子も何人もいるから、そいつらがだらしないだけなんだろうけど。
どうやって話しかけようかと悩みながら、私は今日一日、音比古を観察してしまった。
奴の一日は自慢で明け暮れる。親から相当|小遣《こづか》いをもらってるらしく、音比古はいつも何かしら新しい物を持って学校へ来ていた。
この前は外国の腕時計を自慢してたし、その前はこの町では売っていないブランドの靴下を自慢してた。
今日は、彼の定番になっているオーディオ自慢だった。休み時間にわざとらしくCDプレーヤーを取りだすと、これ見よがしに買ったばかりのCDのケースを開ける。
そうすると子分のひとりが「あ、それ何? 何?」とか教室中に聞こえるように言う。そこでみんな無視してりゃいいのに、馬鹿な女がいるもんで「聞かせて〜」って大騒ぎする。
音比古は満足げに頷《うなず》いて「うちでダビングしてあげるから遊びにおいでよ。うちのアンプはその辺の電機屋で売ってるのとわけが違うんだ」って言って、オーディオ自慢がはじまるわけだ。
その音比古に群《むら》がる女の子がけっこう何人もいるもんだから、私には理解できない。そりゃ音比古は顔もルックスもそんなに悪くない。気障《きざ》ったらしい縁《ふち》なしの眼鏡も、かける人がかけたらカッコいいかもしれない。
でも、自分がいかにお金を持っているか、自分がいかにセンスがあるか、そんな自慢ばっかりしてる男のどこがいいって言うんだろ。本当に音比古にお金やセンスがあるっていうなら話はまた別だけど、お金は親のもんだし、あの靴下のどこがセンスがいいのか私には分からない。
当然だけど、大多数のクラスメートからは嫌われてる。というより、ほとんど相手にされていない。音比古のほうもそういうこと、けっこう自覚してるらしく、自分をヨイショしてくれる人にしか話しかけないんだ。だから、まあ教室の中はあっちはあっち、こっちはこっちで無視しあって喧嘩《けんか》にもならずにいた。
「な、実乃。お父さんだって必死で大阪谷のまわり探ってんだ。お前もちょっと我慢してそいつと仲良くなってこい」
音比古のことを話すと、お父さんは多少同情の色を見せつつも、そう言って私の肩を叩《たた》いた。
「う〜ん」
「俺が大阪谷の家へ突然行ったって入れてもらえるわけないだろ? 子供なら遊びに来ましたって簡単に入れるじゃねえか。頼むよ、実乃。お前だってラブリーが心配だろ?」
いつになく優《やさ》しい声色のお父さんを、私は上目づかいで見あげた。
結局嫌な役は私のところへ回ってくるってわけか。
とにかく音比古の家へ押しかけようとは決心したものの、やはり強力に気が進まなかった。
その夜、自分の部屋で例の脅迫状《きようはくじよう》をながめながら、私は溜《た》め息をついた。
脅迫状はおばさんがお父さんに預《あず》けていったのだ。私はもう一度じっくり見てみたかったので、見せてくれなきゃ協力しないって脅《おど》かして、さっきお父さんから借りてきたのだ。
卓上の電気スタンドの下で、私はその手紙を隅《すみ》から隅までじっくり見てみた。
音比古に近づくのがあんまり嫌なもんで、脅迫状から何か手がかりが見つからないかと思った。
普通の白い便箋《びんせん》に、新聞紙の切り抜きが糊《のり》で貼《は》ってある。ただそれだけなんで、じっくり見たところで、何もピンとはこない。
私は便箋を放りだして、頭の上で手を組んだ。椅子《いす》の背をギシギシいわせながら天井を仰《あお》ぐ。
音比古の家へ行くためには、何か理由をつけて奴に話しかけなきゃなんない。理由は何がいいかな。CDでも聞かせてくれって言うのがてっとり早いか。
でも、ひとりじゃ嫌だな。僕に気があるんだな、なんて音比古に誤解されたら鳥肌《とりはだ》立ってしまう。チョミにでも頼んで一緒に行ってもらおうか。でもチョミって私に負けず劣らず音比古のこと嫌ってるからな。やっぱり適役はハズムかもしれない。ハズムだってけっこう嫌な奴だけど、音比古ほどじゃない。それになんと言ってもラブリー捜しの当事者なんだから、音比古のこと嫌いでも協力してくれるだろう。
そう決めたら少し憂鬱《ゆううつ》が軽くなった気がした。ウジウジ悩んでてもしようがない。明日学校でハズムに相談しよう。そう思って、私は脅迫状をたたもうと手に取った。
たたむ前にちょっと思い止まって、もう一度|眺《なが》めてみる。
私ははじめて違和感を感じた。よく見てみると、切り貼った文字の「引っ越し」の「越」だけが、紙の質が少し違うのだ。新聞紙というより、ワラ半紙に近い感じだ。それに、紙の裏に何か模様が入っているようで、私はそこを電気にかざして見た。
模様というより、何かの絵の一部のように見える。バイオリンの首のところみたいなその絵を見て、私は何かを思い出しそうになった。
バイオリンの絵を、最近見た気がする。
頭を抱えてじっと考えてみたけど、思い出せそうで思い出せなかった。
喉《のど》に引っかかった魚の小骨みたいに、そのことがひと晩中気になって、私はぐっすり眠れなかった。
「音比古の家なんか行きたくねえよ」
「私だって行きたくないよ」
昼休み、学校の屋上で私とハズムは睨《にら》みあった。
屋上に呼び出してハズムに話を切りだしたとたん、彼は露骨《ろこつ》に嫌な顔でそう言ったのだ。
だから私もムッとしてしまい、つい大きな声を出してしまった。
「嫌だけどしようがないじゃない。何も手がかりないんだからさ。私だってお父さんだって必死に捜してるんだから、あんただって協力しなさいよね」
ハズムはぐっと言葉を詰まらす。
「分かったよ……。でもなあ、俺あいつ嫌いなんだよな」
「音比古のこと好きな奴なんか、いやしないよ」
「かわいそうな音比古」
「ハズムだって嫌いなんでしょ」
「まあな」
私達は屋上の手すりに顎《あご》をのせて、校庭を見下ろしている。憂鬱な気分と裏腹《うらはら》に、春の日差しが背中にあったかい。
「音比古の家へ行くったってさ、俺も実乃も奴と仲良くないじゃん」
「だから今から仲良くなんのよ」
「え〜? 嫌だよ、俺」
「だからさあ!」
話がいっこうに進まなくて、私はイライラと爪《つめ》を噛《か》んだ。
「嫌だなんて言ってる場合じゃないでしょ。それとも脅迫状の言うこときいて、引っ越すつもりなの?」
「…………」
「もしかして素直に引っ越しさえすれば、ラブリーが無事に帰ってくるって信じるわけ?」
ちょっと残酷かと思ったけど、私はそう言って真っ向からハズムの顔を見た。おばあちゃんの大切な盲導犬《もうどうけん》を盗み、それを脅しに使うなんて卑怯《ひきよう》なことする犯人が、約束を必ず守るなんて考えにくい。
「そうだな」
ハズムは唇を噛んで頷《うなず》いた。
「引っ越せばラブリーが無事に帰ってくるって保証はないんだもんな。ごめんな」
突然素直に謝ってきたから、私はドギマギしてしまい顔を背《そむ》けた。
「そういえば音比古の奴、花乃《かの》さんのファンだって聞いたことあるぜ」
思い出したようにハズムがそう言う。
「お姉ちゃんの?」
「おう。始業式の日にさ『桜井《さくらい》実乃ってあの花乃さんの妹なの?』って子分達と噂《うわさ》してんの聞いたんだ」
それを聞いていやーな感じが胸ヤケみたいにこみあげてきた。
「他になんか言ってた?」
「お前、怒るもん」
「怒らないから教えて」
ハズムは唇をなめると、小声で言った。
「姉がツルなら妹はヤンバルクイナだな、だって」
思わずハズムを睨むと、あわてて彼は身を引いた。
「俺が言ったんじゃないからな。殴《なぐ》るなら音比古を殴れよ」
拳《こぶし》をギュッと握って私は怒りを噛み殺した。うまい表現なだけにすごく頭にきた。
「それにしても、花乃さんは人気あるな」
怒りに拍車《はくしや》をかけるようなことを、ハズムは何気なく口にした。
お姉ちゃんが下級生にも人気があるのは、去年の文化祭にやったロックバンドのせいだった。
若い先生たちが遊びで組んだロックバンドがあって、文化祭の時にだけ余興《よきよう》で舞台に出るのだが、毎年めぼしい女生徒を選んでボーカルに立ててるんだ。
生徒も教師もその演奏を文化祭の一番の楽しみにしてるから、ボーカルに選ばれた女の子は必然的に全校生徒から注目される。
教育上よくないと批判するPTAもいるらしいけど、なんせ校長先生が乗り気なもんだからしようがない。
そして去年の文化祭、花乃姉ちゃんに白羽《しらは》の矢が立ったのだ。今年この中学で一番かわいい子は君だよって花マルもらった花乃ちゃんは、舞台の上でアイドルみたいに歌って踊った。妹の私が斜《しや》に構え意地悪な気持ちで見ても、花乃ちゃんは誰よりもかわいかった。人気が出ないはずがない。
「みんな本性を知らないからだよ」
溜め息まじりに言うと、ハズムが後ろから覗《のぞ》きこむ。
「お、ひがんでやんの」
「まあね」
私が素直に認めたもんだから、ハズムは目を丸くした。
「珍しく素直じゃん」
「だって本当のことだもん」
「ふうん」
左|頬《ほお》にハズムの視線を感じる。遠慮もなにもなくジロジロ眺められて、ちょっと腹がたってきた。
「何よ?」
「そう言えばこの前『お姉ちゃんの本当の姿知らないくせに』って怒鳴ってたもんな」
言われて思い出した。教室の中で、私わめきちらしちゃったんだっけ。
「その話はやめよう」
不機嫌に言うと、ハズムはにやにや笑って肩をすくめた。全部|見透《みす》かしてるような不敵な笑顔だ。
「そうだ。昨日脅迫状見てて気がついたことあったんだ」
ポケットから封筒を出し、私はハズムに渡した。昨日の晩、返さないとうるさいだろうからいったんお父さんに脅迫状を返した。テレビのプロレスに夢中になってたお父さんは、壁にかけた上着にそれを無造作《むぞうさ》につっこんだ。テレビから目を離さないお父さんを横目に、それをそのまま抜き取ってきたのだ。今頃気がついてあわててるかもしれないけど、ま、今晩こっそり返しておけばいい。
ハズムは封筒から脅迫状を出すとそれを眺めた。春の風に煽《あお》られて、便箋《びんせん》の端《はし》っこがハタハタ音をたてる。
「どっか変?」
強い風のせいか、ハズムの声がちょっとかすれて聞こえた。
「変ってわけじゃないんだけど、その『越』っていう字だけ紙が違わない?」
「そうかな」
「よく見て。あとは全部新聞紙みたいだけど、これワラ半紙みたいじゃない?」
ハズムの手もとを覗きこんで、私はその文字を指差した。
「この字だけ新聞から見つからなかったんじゃないの?」
「そんなこと分かってるよ。私が気がついたのは、この紙の裏っ側に何か絵が描いてあるでしょ。それだよ」
「絵なんか描いてあるか?」
「どこ見てるのよ。透けて見えるじゃない」
反応が鈍《にぶ》いハズムから私は脅迫状を取りあげた。青空に向かって便箋をかざし、ハズムを呼ぶ。
「ほら。ちょっとしか見えないけど、バイオリンの首んとこみたいじゃない?」
「……バイオリン? そうかな」
「うん。それでさ、私最近どっかでバイオリンの絵見たような気がしてならないんだ。思い出せそうな気がするんだけど駄目なの。ハズム何か思い当たらない?」
「さあね。分かんねえな」
ハズムはあんまり興味なさそうに言うと、脅迫状から視線をそらした。
そこで予鈴《よれい》が足もとから響いてくる。私は便箋をたたんで封筒に入れ、ポケットに押しこんだ。私とハズムは無言のまま校舎へ下りるドアへ向かった。
「で、音比古のことはどうすんの?」
並んで階段を降りながら、ハズムがそう聞いてくる。
「う〜ん。音比古が花乃ちゃんのファンだって言うなら、やっぱり協力してもらうしかないかな」
呟《つぶや》いてみたものの、花乃ちゃんが嫌がるのは火を見るより明らかだった。どうやって説得したものだろう。
六時間目が終わると、私とハズムは速攻で三年の花乃ちゃんの教室まで走った。
お姉ちゃんは学校が終わると、その足で遊びにいってしまうことが多いから、家で帰ってくるのをじっと待ってるのも時間の無駄《むだ》だ。花乃ちゃんが遊びにいっちゃう前に捕まえようと思ったのだ。
「あら、実乃。ハズム君も」
その辺にいた人にお姉ちゃんを呼んでもらうと、花乃ちゃんは鞄《かばん》を持って教室から出てきた。
「教室来るなんて珍しいじゃない。ふたりでどうしたの? 用事?」
家にいる時よりお姉ちゃんの口調は優しい。いいお姉さん≠演じているからだって分かってても、機嫌のいい花乃ちゃんを見るとやっぱり少し嬉《うれ》しい。
「用事があるから来たんだよ。ちょっと話していい?」
「帰ってからじゃ駄目なの? ちょっとこれから友達の家に行くのよ」
「明日、夕飯当番代わってあげるから」
おはこの口説《くど》き文句を私に取られて、お姉ちゃんは変な顔をする。私は廊下の隅《すみ》に彼女を引っぱっていった。
「花乃ちゃんに頼みがあるんだ」
「やっぱり」
お姉ちゃんは鼻で笑う。
「実乃が下手《したて》に出る時は、頼み事がある時よねえ」
自分だってそうだろうと怒鳴りたくなったけど、今|喧嘩《けんか》しちゃ元も子もないので我慢した。
「ラブリー捜し、協力して」
私に言われてお姉ちゃんはハズムのほうをちらりと見た。飼い主を目の前にしちゃ嫌だとは言えないだろう。だからハズムを連れてきたのだ。
「もちろんよ。今までだって協力してたじゃない」
わざとらしくニッコリ笑って彼女は首をかしげる。
「それがさ。ちょっと手がかりがあって、一緒に花乃ちゃんに行ってほしいところがあんの」
「どこに?」
「大阪谷の家。息子が音比古って言って、うちのクラスなんだけど」
「音比古?」
全部言い終わる前に、花乃ちゃんがすっ頓狂《とんきよう》な声を出した。びっくりした私とハズムはポカンと口を開ける。
「音比古のこと知ってんの?」
「知ってるも何も、あのなよなよしたうぬぼれ小僧でしょ。あーやだ。私、あいつ大っ嫌いなのよね」
優しいお姉さんのふりも忘れてお姉ちゃんは首を振った。
「去年の文化祭に私出たでしょ。その時こーんなでっかいバラの花束持ってきて『君こそ僕にふさわしい人だ』なんて言うのよ。笑っちゃうわよ、自分をなんだと思ってんのよね、ばっかみたい」
確かそのでっかいバラの花束は、その夜家のテレビの上にドーンと飾《かざ》られていた。馬鹿にしたくせに、もらうものだけはしっかりもらってくるあたりが花乃ちゃんらしい。
「それからも廊下なんかですれ違うたびに、ウインクよこすのよ。ウインクよ、ウインク。信じられないでしょ。あー気持ち悪い」
吐《は》き捨てるように言うお姉ちゃんを、ハズムは茫然《ぼうぜん》と見ている。花乃ちゃんがこんな言葉づかいするとは思ってなかったんだろう。
「信じられないぐらい気持ち悪いのは同感だけどさ。花乃ちゃんに協力してもらうしかないんだよ」
脅迫状が来たことぐらいは知ってても、お姉ちゃんは大阪谷が怪しいことまでは知らない。私はゴルフ練習場建設のために立ち退《の》きを迫られていることを花乃ちゃんに話した。
「それ、本当なの? ハズム君」
全部聞いてしまうと、さすがのお姉ちゃんも心配げにハズムに顔を向ける。彼は口をつぐんだまま小さく頷《うなず》いた。
「だから音比古んとこ遊びにいくふりして、大阪谷んちの中へ入ってみたいんだよ。でも私もハズムも全然親しくないからさ。花乃ちゃんが頼めばきっと音比古大喜びで家に入れてくれるよ」
「えー? でもさあ」
「お姉ちゃん、お願い。三回夕飯当番代わってあげるから」
噛《か》んでいた爪《つめ》を離すと彼女は嫌そうに呟く。
「でもさ、大阪谷がラブリー隠してるって証拠ないわけでしょ」
「証拠がないから、見つけにいくんじゃないかあ」
「そりゃそうだけど」
明らかにお姉ちゃんは嫌がってた。でもハズムの手前「冗談じゃないわよ、やなこった」とは言えないらしく、モゴモゴ呟いてごまかしている。
「ね、お願い。お父さんだって永春《えいしゆん》さんだって、一所懸命捜してくれてるんだからさ。花乃ちゃんも協力してよ」
宙《ちゆう》をふらふらしてたお姉ちゃんの視線が、そこで私の顔に戻ってきた。まっすぐ私を見つめると皮肉っぽく呟く。
「永春さんねえ」
花乃ちゃんの鋭い視線に私はどきりとした。私、何かいけないこと言っただろうか。
「実乃、あんたね」
お姉ちゃんがそう口を開いた時、突然後ろから大きな声がした。
「よお、桜井姉妹」
私達三人がいっせいに振り向くと、うちのクラスの担任・越田《こしだ》先生が笑顔で立っていた。あっという間に花乃ちゃんの顔が、いつもの愛想笑いに変わる。
「越田先生。どうしたんですか」
「どうしたってことないだろ。花乃に用事があって来たんだよ」
先生とお姉ちゃんは、すっかり私達の存在を忘れて話しはじめた。越田先生は、文化祭の教師ロックバンドのリーダーをしてる。だから、私のクラスの担任ではあるけど、私より花乃ちゃんと親しいのだ。
「来月、クラッシックのほうのコンサートやるって言っただろ。ほら、チケット」
「わあ、いただけるんですか?」
「もちろん、ぜひ来てください」
そう言ってバカボン越田はデヘヘと笑った。
そのチケットは、この前クラスにチラシを配ってた音楽会のだ。学校の先生たちで組んでるロックバンドはただのお遊びだけど、このクラッシックのコンサートは、先生が町のオーケストラでけっこう本気でやってるもので、だからせっせと宣伝してるらしい。
でも、私達にはチケット買えって言ってたくせに、堂々とひいきしてくれるじゃないか。
ふてくされている私に気づかず、先生と花乃ちゃんは楽しそうに話している。
「先生ってパートなんなの?」
「なんだよ、言っただろ。バイオリンだよ」
「あ、そうだっけ? お猿さんみたいにシンバル叩いてるのかと思った」
「第一バイオリンに向かって、言ってくれるよなあ」
ふたりの会話を聞いて、私の耳がピクッと動いた。
バイオリンだって?
「あ、このパンフレット、実乃がこの前もらってきたやつね」
「うん。本当はもっといい紙なんだけど、ちょうどなくなっちゃってね。コピーして配ったんだ」
私はふたりの間に割りこんで、花乃ちゃんの手からそのチラシを取りあげた。
「あー、実乃。何すんのよ」
お姉ちゃんを無視して私はあわててチラシを裏返した。チラシは両面コピーになっていて、表は日時や主な出演者、裏には曲やオーケストラの紹介が書いてある。
表の先生の名前「越田」の「越」の部分に指をあて、ひっくり返してみる。
やっぱり。
そこにはあんまりうまくないバイオリンの絵が描いてあった。
「実乃、どうかしたか? その絵じろじろ見ないでくれよ。下手だろ。俺が描いたんだ」
「先生、これどこに配った?」
意味もなくダハダハ笑っている先生に、私は食らいつくように聞く。
「どこって……あっちこっちに配ったけど」
「いい紙のじゃなくて、このコピーの奴は?」
「突然なんだよ。そのチラシがどうかした?」
先生の背広の襟《えり》をつかんで私は急《せ》かした。
「早く答えてよ」
「変な奴だなあ。えっとコピーしたのは……うちのクラスにしか配ってないな」
「本当? よそのクラスには?」
「趣味でやってることだから、あんまり学校中にバラまくのもひんしゅく買うからな。実乃達のクラスにしか配ってないよ」
私は思わずハズムのほうを振り返る。ハズムも驚いたのか目を丸くしていた。
て、ことは。このコピーを持っているのはうちのクラスの子だけってことだ。
つまり、やっぱり大阪谷が怪しい。これはかなり怪しい。
そのことを懇々《こんこん》と花乃ちゃんに説明すると、さすがのお姉ちゃんも分かってくれたようだった。
夕飯当番三回とお風呂《ふろ》掃除を代わってあげるという条件つきで、お姉ちゃんは音比古の家へ行くことを承諾《しようだく》してくれた。
でも、よく考えてみると、どうして私が花乃ちゃんの分の家事を代わってあげないとならないんだろう。悔しいけど仕方ない。おばあちゃんとラブリーのためだ。
土曜日の休み時間、協力するって言ったくせに、花乃ちゃんはまだ文句を言っていた。
「やだなあ。実乃、やっぱりあんた達だけで行きなさいよ」
「まだ言ってる。私達だけじゃ、音比古がウンって言うわけないじゃない」
「ね、ハズム」と隣のハズムに同意を求めると、彼は腕を組んでうーんと唸《うな》った。何か言いたげなその顔に私は首をかしげる。
「どうかした、ハズム」
「うん。いや、あのさ」
「何よ」
「悪いけど、実乃と花乃さんふたりで行ってこない?」
な、なんだと? この期《ご》に及んでまだそんなこと言うわけ?
「あんたね、誰のために私がこんなに苦労してると思ってんの」
私は思わずハズムの襟もとをつかむ。
「いや、それは本当に申し訳ないと思ってるんだけどさ」
「じゃあ何?」
「俺、音比古の親父に面が割れてるかもしれないだろ。家なんか行ってバッタリ親父に会っちゃったらさ、警戒されちゃうんじゃないかな」
しばらく考えて、私はハズムから手を離した。そう言われればそうだけど……でもさ、今さら私達だけで行けって言うわけ? そんなのズルいじゃないか。
「ハズム君、大阪谷と知り合いなの?」
私が絶句していると、花乃ちゃんが横からそう聞いてきた。
「いや……小さい頃、母親と歩いてた時にすれ違ったぐらいだけど」
「小さい時っていくつぐらい?」
「小学校の二年ぐらいかな」
「じゃあ、あっちは覚えてないわよ。ハズム君、中学生になって背も伸びたし、顔も大人っぽくなったもん。心配なら眼鏡でもかけたら? 絶対分かんないってば」
お姉ちゃんがいつになく熱心なので、私は少し驚いた。きっと、花乃ちゃんも私とふたりだけじゃ心配なんだろう。そこまで言われちゃ仕方がないって顔で、ハズムは首を縦《たて》に振った。
「じゃ、行こう。早くしないと休み時間終わっちゃうよ」
私とハズムは意を決して廊下から教室の中へ入った。窓際でいつものように子分達に囲まれている音比古を目指して歩く。音比古のそばまで来て、私はハズムを肘《ひじ》でつついた。
「ほら、ハズム。早く言いなさいよ」
「……ええ? 実乃が言うんじゃないのかよ」
「あんた男でしょ。男同士のほうが角《かど》が立たないわよ」
「……音比古だったら女のほうが喜ぶって」
そばでこしょこしょ言いあっている私達を、音比古は変な顔で見あげた。
「何か用事?」
今までお互い無視しあってたから、音比古が私に何か言うのはこれがはじめてだった。私はハズムに背中を押されて音比古の前に出る。
「あ、あの、音比古君」
「あんた、花乃さんの妹なんだって」
用事も聞かず、のっけから音比古はお姉ちゃんの名前を口にした。音比古にとって、私はクラスメートの桜井実乃じゃなくて、花乃さんの妹≠ニしか映っていないのがよく分かった。
「ええっと、実はちょっとお願いがあって」
「ふうん。何さ、急に」
窓枠に肘をのせ、音比古は顎《あご》を上げて私を眺《なが》めている。
「音比古君、CDたくさん持ってるでしょ」
「そんなたくさんじゃないよ。二百枚ぐらいだよ」
フフンと音比古は鼻を鳴らす。すかさず子分が「すげえなあ」とか「僕なんか十枚しか持ってない」とか合の手を入れる。私は十キロのお米を持ちあげる時ぐらい力を入れて愛想笑いを作った。
「まさかダビングさせてくれって言うんじゃないだろうな」
「えっと、そうなんだ」
それを聞いて、音比古は露骨に顔をしかめた。
「最近、そういう奴が多くて困っちゃうんだよな。僕だってお金払って買ってるんだぜ。それをただでダビングしてもらおうなんて、ムシがよすぎないか?」
よその女の子にはホイホイ録音してやってるだろ。それに私を誰の妹だと思ってるんだ。私は笑って彼を見下ろした。突然私が笑ったので音比古は不気味そうに眉《まゆ》をひそめる。
「な、なんだよ」
「ダビングさせてほしいって言ってるのは、花乃ちゃんなんだけどな」
「え?」
「おねえちゃーん」
私に呼ばれて教室に入ってきた花乃ちゃんを見て、音比古の顔が一気に赤くなる。愛想笑いをピカリンと浮かべた花乃ちゃんとニヤけ笑いの私を音比古はオロオロと見比べた。
こっちが「遊びにいっていい?」と聞くまでもなく、音比古は今日これから家へ来てくださいよと花乃ちゃんを誘った。
首尾《しゆび》よしとばかりに、放課後、私達はぞろぞろと音比古のあとに続いて学校を出た。
花乃ちゃんだけでなく私とハズムも一緒に行くと聞いた時、音比古はこれ以上はできないというぐらい嫌な顔をしたが、花乃ちゃんに目で合図すると、彼女は猫なで声で「実乃とハズムも一緒に行っていいわよね」と音比古に囁《ささや》いたのだ。
音比古の家は山のふもとのだだっ広い敷地に建っている。何代も続いている家らしく、広い敷地を年季の入った漆喰《しつくい》の壁と松の木が囲んでいた。
長く続く外壁に沿《そ》って私達は歩く。どこまで行っても門が現れない。
「……ねえ、音比古も親父と共犯かな?」
「……え?」
私が小声でハズムに話しかけると、彼はぼんやり返事をする。変装用にクラスメートから借りた度の強い眼鏡が、ハズムの顔を間抜けにしている。
「……親父がラブリー隠してること、音比古も知ってるのかな」
「……さあね。もしそうなら、俺なんか家に入れてくれるわけないんじゃない」
ハズムの言葉に私は頷《うなず》いた。それはそうだ。もし本当に大阪谷がラブリーを隠してて、それを音比古が知ってるなら、こんな簡単にハズムを自宅に連れてってくれるわけがない。
「……じゃあ、音比古はなんにも知らないのかな」
「……どうかな」
小さく呟《つぶや》くハズムの横顔を見て私は首をかしげた。私がせっかくいろいろ考えてるのに、どうもハズムの奴、歯切れが悪いような気がする。そんなに音比古の家来るの、嫌だったのかな。
前を歩く音比古は、花乃ちゃんに何やら熱心に話しかけていた。どうせベラベラ自慢話でもしてるに違いなかったが、花乃ちゃんは顔を引きつらせながらも笑顔で相槌《あいづち》を打っている。
えらい、花乃ちゃん。私はワガママな花乃ちゃんの健闘ぶりに心の中で拍手した。
やっと門にたどり着き、私達は音比古に続いて大阪谷家の玄関に入った。玄関の両脇には、土地成金らしく虎《とら》の毛皮や変な形の壺《つぼ》なんかが飾ってある。
「音比古さん、お帰りなさい」
出てきたのはお手伝いさんらしく若い女の人だった。
「友達。なんか食いもん出して」
「はい、分かりました」
音比古の横柄《おうへい》な態度には慣れてるとばかりに彼女は頷いた。それからこちらに顔を向けたので私はニッコリ会釈《えしやく》する。そうすると彼女も笑顔で応《こた》えてくれた。感じのいい人だ。
私達は長い廊下を歩きだす。右手には障子《しようじ》が続き、左手のガラス窓からは緑深い庭が見えた。庭というより庭園で、家というよりお屋敷という感じだ。
「親は留守?」
突然ハズムが口を開いた。前を歩いていた音比古がジロリと振り返る。
「留守」
そっけなく音比古が言うと、ハズムはホッと息をついた。やっぱり大阪谷に会っちゃうのが不安だったようだ。
私は花乃ちゃんを肘《ひじ》でつついて、何か話すように促した。お姉ちゃんは顔をしかめながらも音比古に話しかける。
「えっと、音比古君ってどういうCD持ってるの?」
振り向いた音比古の顔が別人のように輝いていた。
「音楽だったらなんでも好きだからね。ロックも映画音楽もクラッシックもあるよ。花乃さんがダビングしてほしいのって何?」
私はお姉ちゃんが答える前にすかさず口を挟《はさ》んだ。
「音比古君、クラッシックも聞くんなら越田先生のコンサートも行くの?」
「コンサートって、この前チラシ配ってたやつ?」
「うん、そう。あれ何日だっけ? あとで先生がくれたチラシ見せてよ」
「そんなもの、すぐクズ籠《かご》行きだよ」
音比古は冷たくそう言い放った。
「え? でも」
「素人《しろうと》のオーケストラなんかわざわざ聞きに行く気になんないね」
ちょうどそこで音比古の部屋に着いた。ドアを開けると彼の部屋はものすごく広い洋室で、ご自慢のオーディオセットが壁に沿ってずらりと置いてあった。アンプ、スピーカー、大画面スクリーンにレーザーディスク。あとは私には分からないいろんなもの。
お手伝いさんが持ってきてくれたサンドイッチを食べながら、音比古はずっと喋《しやべ》っていた。
ひとつひとつの機材を端から説明し、それがどのくらい高いか、どのくらい貴重品か、そして自分がいかに耳が肥《こ》えていて、いいオーディオじゃないと我慢ならないかを延々《えんえん》と自慢していた。
その間、花乃ちゃんは適当に相槌を打ってサンドイッチを食べ、ハズムはしらけて天井を見あげ、私はどうせならと自分がダビングしてほしいCDのリストをメモに書いた。
メモを書いてしまうと、私はシャーペンのお尻をカチカチいわせながらこのあとどうしようかと考えた。
さっき、音楽会のチラシのこと持ちだしても音比古は顔色ひとつ変えなかった。ハズムのこともまるっきり眼中に入ってないようだから、やっぱりラブリーのことを音比古はなんにも知らないのかもしれない。
ちょっと試してみるか。
でっかいスピーカーから流れてくるロックが切れたところで、私は「あれ?」と声を出した。
「ねえ、音比古君。犬の鳴き声聞こえない?」
私の発言にハズムとお姉ちゃんは息をひそめる。音比古は「何言ってんのこいつ」とばかりに顔をしかめた。
「音比古君ち、犬飼ってんの?」
無邪気《むじやき》に聞くと彼は面倒くさそうに答える。
「飼ってないよ」
「ふうん。確かに聞こえたような気がしたんだけどな」
「ノラ犬だろ」
そっけない答えに私達はそっと顔を見あわせる。そこでお姉ちゃんが珍しく機転をきかせてこう言った。
「音比古君ち、犬とか飼ったりしないの? あんな大きな庭があるんだから飼ったらいいんじゃない」
花乃ちゃんに聞かれれば、音比古はちゃんと答えた。
「僕とパパは動物好きなんだけどね。ママが世話するの大変だからって嫌がるんだ」
音比古はラブリーのこと、本当に知らないらしい。それならこの部屋にいつまで座っててもしようがないので、私は残った紅茶を飲みほして立ちあがる。
「おトイレ借りていい?」
「廊下を右」
こっちを見もしないで言う音比古に私はイーッと歯を見せてドアに手をかけた。ハズムがこっちを見たので私は身ぶりで「偵察してくる」と告げた。
ひとりで廊下に出た私は言われたのと逆の左へ進む。迷ったふりして屋敷中歩いてみようと思ったのだ。
ゆっくりと私は廊下を歩く。広い家はどこもかしこも静まりかえっていた。それこそ犬でも鳴いたらすぐ聞こえるだろう。
玄関まで来て私は逆方向に延びている廊下へ進んだ。さっきこっちからお手伝いさんが出てきたから、台所があるのだろう。
誰もいない他人の屋敷を私はキョロキョロして歩く。大阪谷の家に来たからってすぐ手がかりが見つかるとは思ってなかったけれど、あんまり何もないので私は溜め息をついた。
本当に、大阪谷が犯人なんだろうか。
可能性はいろいろある。音比古がゴミ箱へ捨てたというチラシを、親父の大阪谷が拾って脅迫状を作ったのかもしれない。
ラブリーはどこかここじゃないところに、監禁《かんきん》しているのかもしれない。
でも、みんなただの可能性で、これっていう決め手に欠けている。
こうなったら、なんとか大阪谷に直接会ってカマでもかけてみようか。
あんまりいつまでもウロウロしてると、音比古に変に思われちゃうしそろそろ戻るかな。
そう思った時、私は廊下の端に和風住宅には不似合いの鉄のドアを見つけた。立ち止まって私はクリーム色のドアをしみじみと眺める。私のおへそぐらいまでしか高さのない小さな鉄のドアだ。
なんだろ、これ。倉庫とか納戸《なんど》に入るドアかな。それとも非常口か。
銀色のノブに手を伸ばしかけた時、「あら、何してるの?」と突然声をかけられて私は飛びあがった。振り向くとさっきのお手伝いさんが笑顔で立っている。
「えっと、トイレかと思って……」
「あら、おトイレは音比古さんの部屋の隣にあるわよ」
「え、そうなんですか。音比古君教えてくれなかったから迷っちゃった」
無邪気に言うと、さもありなんという顔で彼女は頷《うなず》いた。
「あなた、音比古さんのお友達?」
「えっとまあ、友達っつうか、ただのクラスメートっつうか」
曖昧《あいまい》に答える私に、彼女は分かってるとばかりに肩を叩《たた》いてきた。
「無理に連れてこられたんじゃない? 来る子はみんなそうなのよね」
「はあ」
「ちょっと音比古さんって性格に問題あるわよね。まあ根はそんなに悪い子じゃないんだけどさ。旦那《だんな》様があれだから」
女学生のノリで彼女はペラペラと話しはじめる。私はこれ幸いと調子を合わせた。
「あれって言うと?」
「うーん。旦那様も悪い人じゃないのよ。ホント。ただ仕事仕事で忙しいでしょ。たまの休みもゴルフだ旅行だつきあいだってあんまり家にいないし。ちょっとお金がありすぎて、暇がなさすぎるってところかしら」
「でも、お母さんがいるんじゃないんですか?」
私の質問に彼女はゆっくり瞬《まばた》きした。
「あら、知らなかった?」
「え?」
「今、別居中なのよ」
「え? どうして?」
「さあ、よく知らないわ」
自分からペラペラ喋《しやべ》ったくせに、これ以上は秘密なのという顔で彼女は口をつぐんだ。
「そうだ、あなたおトイレ行きたいんじゃなかったの?」
話題を変えようとしているのがみえみえだった。
「こっちにもあるから入っていきなさいよ」
笑顔で彼女は私を促《うなが》した。鼻歌を歌っている彼女について私も歩きだす。
この話し好きなお手伝いさんなら、もう少しつつけばいろんなこと喋ってくれそうだ。けれど、音比古の複雑な家庭の事情まで聞きだしちゃっていいのかな。そういうのってちょっとデリカシーに欠ける気がする。誰だってきっと隠しておきたいことはあるだろう。でも、それがラブリーのことと関係あるのかもしれないしな。
考えているうちに、私はさっきのドアのことを思い出した。
「ねえ、さっきの鉄のドアはなんのドアなんです?」
「あれは地下の倉庫のドアよ」
あっさり彼女は答えてくれた。ふうん、地下室だって。怪しいじゃありませんか。
「実は金塊《きんかい》が隠してあったりして」
ふざけた口調で探りを入れると、彼女がくるりと振り返る。
「そうかもしれない」
真面目《まじめ》な顔で彼女はそう言った。
「え?」
「私、一度もあの中入ったことないもの。お掃除なんかも旦那様が自分でやってらっしゃるし」
意外な答えが返ってきた。
「大事なものが隠してあるとか」
「旦那様は高いワインがたくさん置いてあるっておっしゃってたけどね」
「じゃあ、鍵は?」
「旦那様がご自分で持ってるわ」
私達が顔を見合わせた時、「おいっ」と後ろから男の声がした。私と彼女は飛びあがって手を取りあう。
「他人に何ペラペラ喋ってんだよ」
冷たい目でこっちを見ていたのは音比古だった。彼はお手伝いさんを一瞥《いちべつ》する。
「じいさん達が呼んでる。早く行けよ」
「は、はい。すみませんでした」
音比古に頭を下げると、彼女はあわてて廊下を走っていってしまった。残された私はどういう態度をとっていいか分からなくうつむいた。
今、じいさん達って言ったな。てことは、おじいさんとおばあさんが同居してるのかな。
「いつまでそこにつっ立ってるんだよ」
音比古に言われて私は顔を上げた。
「人の家を、勝手に歩き回るなよな」
「……ごめん」
うなだれて立っている私の前で、彼はいらついて髪をかきむしった。
「早く部屋へ帰れって言ってんだよ」
「あ、うん……音比古君は?」
「うるさいな。先に行けよ!」
怒鳴られてしまって私はしぶしぶと歩きだした。
やな奴。そりゃ、他人の家をふらふら歩きまわった私が悪いんだけどさ。あんな言い方しなくたっていいじゃないか。
音を立てて廊下を歩き、私はさっきの鉄のドアの前で立ち止まった。あたりを見回してからノブをひねってみる。当たり前だけど鍵がかかっていた。
もっと調べたいけれど、これ以上いると音比古が本気で怒っちゃうかもしれない。しようがない、今日はもう帰るか。
廊下を曲がると、音比古の部屋のドアが見えた。半分開いたドアから、ハズムとお姉ちゃんが顔を覗《のぞ》かせている。
「実乃。あんたどこ行ってたの」
ドアの前まで行くと、花乃ちゃんが私の頭を小突《こづ》いた。
「偵察だよ」
「音比古の奴、実乃が帰ってこないから『あいつ何してやがんだ』って捜しにいっちゃったんだからね」
「知ってる。そこで会って怒鳴られた」
平然と言う私の肩をお姉ちゃんはガッチリつかんだ。
「もう帰ろうよ。あのバカの自慢話聞くのはもう疲れたわ。ね、ハズム君も。帰りましょうよ」
横に立っていたハズムが同情の笑顔をお姉ちゃんに向けた。
「で、何か分かった? 実乃」
「ん。これっていうのはなかったけど、ちょっと怪しいドアがあったんだ。あとお手伝いさんから少し話聞いた」
「話は帰ってからにして、とにかく帰りましょ」
「はいはい、分かったよ。音比古が戻ってきたら帰ろう」
私が部屋へ入ろうとしたその時、ハズムが「あっ」と声を出した。
「ハズム、何?」
彼は廊下の隅《すみ》にかがんで、何か小さい物を拾いあげた。私とお姉ちゃんはハズムのそばに寄って彼の手の中を見る。
「何それ、ウサギのフン?」
「え〜、ゴキブリの卵じゃない?」
「汚いなあ、花乃ちゃんは」
「ウサギのフンだって汚いじゃない」
くだらないことを言いあっている私達の横で、ハズムがそのクッキーのかけらみたいなものをじっと見てこう言った。
「これ、ドッグフードだぜ」
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「ドッグフード? それ本当?」
「うん、たぶん。ほら」
ハズムににじり寄ると、彼は私に拾ったそれを渡してきた。掌《てのひら》にのった茶色のかけらを私はじっと見下ろす。
音比古《おとひこ》は犬なんか飼ってないって言ってた。じゃあ、どうして家の中にドッグフードが落ちてるんだろう。
「何してんのさ」
声をかけられ私は反射的にそれをポケットに押しこんだ。音比古が廊下をこっちにやってくる。
「音比古君。そろそろ私達帰ろうかと思って」
花乃《かの》ちゃんがそう言うと、音比古はすごく悲しそうな顔をした。
「もう少しゆっくりしてってくださいよ。花乃さん」
「花乃さん」の部分だけやけに強調して音比古は言った。私とハズムは帰れってことか。
「でも夕飯の支度《したく》しないといけないから」
「花乃さんがご飯作るんですか?」
「うん。お母さんいなくなってから、私があの家の主婦なのよ」
嘘《うそ》八百を並べて、花乃ちゃんは微笑《ほほえ》む。
「今日はどうもありがとう。音比古君」
「じゃあ、花乃さん、また遊びに来てくれますね?」
「も、もちろんよ」
お姉ちゃんのその台詞《せりふ》に、やっと音比古は納得したようだ。「じゃあ行きましょう」と廊下を歩きだす。
私は歩きながらポケットの中のドッグフードをいじった。どうしようか、あれこれ考えてないで、音比古に「これ何?」と聞いてみようか。
悩んでるうちに玄関に着いてしまった。しようがない。これからのことは帰って考えよう。
溜《た》め息まじりに靴を履《は》こうとしたその時、玄関の引き戸が勢いよく開いた。ギョッとして顔を上げると、そこには容疑者・大阪谷《おおさかたに》が立っていた。
プロレスラーのような大きなからだを包む縞《しま》のスーツ。その上に髭《ひげ》の濃いゴツい顔がのっていた。その顔が私達を見てにやりと笑った。
「音比古の友達かい?」
大阪谷の声は太く低く、人を威圧《いあつ》するのにもってこいの声だった。近くで見ると思ったより恐《こわ》かった。
音比古は父親の質問には答えず、小さく呟《つぶや》く。
「……今日は早いじゃん」
「夕方からまた出かけるんだ」
「あっそ」
大阪谷親子の淡白な会話を聞きながら、私達は靴を履く。その短い時間に私は必死で頭をしぼった。
せっかく大阪谷に会ったんだ。何かちょっとでも聞きだせないだろうか。でも、何をどう聞いたらいいんだろう。
「音比古のところに友達が来るなんて珍しい。君達、また遊びに来てやってくれな」
大阪谷が私達を見て笑っている。私と花乃ちゃんは引きつりながらも「はい」なんてお返事した。けれどハズムはプイと向こうを向き、ひとりで先に玄関の扉に手をかけた。
あ、いけない。ハズムは顔を知られてるかもしれないんだっけ。気がついて私もあたふたと扉に向かう。
「じゃ、どうもお邪魔《じやま》しました」
玄関を出ようとすると、音比古が私達の背中にこう言った。
「花乃さん。今度来るときは妹と大空《おおぞら》君は置いてきてくださいね」
その台詞に、私達三人はピクッと足を止めてしまった。やばい。私達が駆けだそうとするより一瞬早く、大阪谷の声が玄関の中に大きく響いた。
「ちょっと待ちなさい」
意志に反して足が止まってしまう。大阪谷の声には妙な迫力があった。
「そこの君。大空君というのかね」
玄関の上に上がった大阪谷は顎《あご》でハズムを指した。少しの間、ハズムは横目で大阪谷を睨《にら》んでいたが諦《あきら》めたのか息を吐《は》いた。
「そうです」
無愛想にハズムは返事をする。私達はどうする術《すべ》もなくて、大阪谷とハズムの顔を交互に見た。
「では、大空|清子《きよこ》さんの息子さんかね」
ハズムは無言で小さく頷《うなず》く。大阪谷は突然大きく笑いだした。
「大きくなったもんだな。彼女がうちに手伝いにきていた頃は、君はまだ赤ん坊だったのに」
豪快に笑う大阪谷を私は目が飛びだしそうなほど見つめた。
「お手伝いって?」
疑問が無意識のうちに口から出てしまった。私はあわてて口をふさぐ。
ところが大阪谷は、平然と私の疑問に答えてくれた。
「うん。大空さんは昔、うちのお手伝いさんをしててくれたんだよ。短い間だったがな」
そんなこと聞いてない。私はそんなこと、ひと言も聞いてないぞ。
大阪谷家を出た私は、さっそくハズムに質問を浴びせた。
「ハズムのお母さん、大阪谷んとこでお手伝いしてたって本当なの?」
「……うん、まあ」
「まあって……どうして言ってくれなかったのよ」
つかみかからんばかりの私を、ハズムは「まあまあ」となだめた。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてないわよ」
「母ちゃんが言ってて、知ってると思ってたんだよ」
呑気《のんき》に笑ってハズムはそう言った。
そんなんで納得できるわけがない。
私がそう叫ぼうとすると、ハズムは私からサッと離れた。
「悪いけど、俺、先帰るよ。用事思い出しちゃってさ」
「ちょっとハズム。まだ話終わってないんだよ」
「今日はどうも。じゃ、またな」
爽《さわ》やかに笑ってハズムはさっさと道を行ってしまった。私は茫然《ぼうぜん》と彼の背中を見送る。
「ハズム君、なんか怪《あや》しいわね」
横に立っていた花乃ちゃんが珍しくそんなことを言ったので、私はちょっと驚いてしまった。
「花乃ちゃんもそう思う?」
「だって変じゃない。実乃《みの》の偵察の話も聞かずに帰っちゃうなんて。かなり動揺してるわよ、あれは」
花乃ちゃんにしては鋭いこと言う。感心しながら私はお姉ちゃんの横を歩きだした。
西の山にかかる雲は、もう赤くなりはじめている。私達は広い畑に沿《そ》ってトロトロと歩いた。
花乃ちゃんの言うとおり、ハズムは動揺してた。もしかしてハズムが大阪谷家に行くのを嫌がったのは、自分のことよりおばさんがお手伝いをしてたことを私達に隠しておきたかったのだろうか。
でも、どうしてハズムもおばさんも、私達にお手伝いしてたこと隠してたんだろう。ただ単にラブリーのこととは関係ないって判断して、私達に言わなかったのかな。
でも、それはやっぱり変だ。前に大阪谷に恩《おん》があるっておばさんが打ちあけてくれた時、そんなことひと言も言わなかった。意識して隠そうとしなければ、普通言うと思う。
ああでもないこうでもないと悩んでいると、
「あ〜あ、疲れたあ」と花乃ちゃんが自分の肩を叩きながら言った。
「それで、実乃、偵察して何か分かったの?」
「それがさあ。いちいち引っかかることはあるんだけど、どういうことだか全然分かんないんだよね」
私は地下室へ下りるドアのことと、音比古の母親が家出中らしいことを花乃ちゃんに話した。
「それって、全然関係なさそうね」
「え? そう?」
「地下室があったぐらいで、そこにラブリーが隠してあるって思うのも単純すぎるし、音比古の母親のことなんか、どうラブリーに関係してんのよ」
冷たく花乃ちゃんに言われて私は絶句する。そりゃそうなんだけどさ。
私が黙っていると、お姉ちゃんはダルそうに頭を小突《こづ》いてきた。
「私があんなに苦労して、音比古のバカに愛想振りまいてやったのに、それしか分かんなかったの?」
「それしかって何よ。ドッグフードだって見つかったじゃない。これってけっこう決め手になったじゃん。きっとあの家にラブリーを隠してあるんだよ」
そうだよ。犬飼ってない家に、ドッグフードが落ちてたんだよ。こんなハッキリした証拠ないじゃないか。
そう言ってお姉ちゃんに反撃しようとしたら、花乃ちゃんが私より早く口を開いた。
「一個だけドッグフードが落ちてるなんて都合良すぎない? なんか変だよ」
花乃ちゃんの台詞《せりふ》に私は思わず立ち止まる。考えてたこと、底からひっくり返されたみたいな感じがして私はあっけにとられた。
「どういう意味、それ」
「意味なんか別にないけどさ。なんか、できすぎじゃない」
「じゃあこれ、どうして音比古の家に落ちてたわけ?」
ポケットからさっきのドッグフードを出して、私はお姉ちゃんに突きつけた。顔の前に突きだされた私の手を彼女は面倒くさそうに払いのける。
「私に聞いたって分かんないわよ」
「変だって言うなら、どうして変なのかちゃんと考えてよね」
「やめてよ。私、もの考えるの嫌いなんだから」
私はいらいらと足踏みをする。私も花乃ちゃんの言うとおり、何もかも少しずつ変だって気がしている。けれど筋道が立てられない
すっかり混乱してしまって、私は手の中のドッグフードを見つめた。
花乃ちゃんはすっかり考える気なくしているようだから、帰ってお父さんと一緒に悩んでみようか。
あ、そうだ。やっぱりこういう時は永春《えいしゆん》さんだよ。永春さんなら、何かピンとくること言ってくれるに違いない。
そうと決めたら少し気持ちが軽くなった。お寺へ行くなら駅へ出るよりすぐそこに見えてる四つ角を曲がったほうが早い。角まで来て私は立ち止まった。
「お姉ちゃん。私寄り道してから帰る」
「寄り道って?」
「お寺にちょっと寄ってくる」
軽く言って歩きだすと、お姉ちゃんが私の手首をいきなりつかんだ。
「お姉ちゃん?」
「ちょっと、実乃」
花乃ちゃんの非難のまなざしを受けて、私は気がついた。
「夕飯だったら、さっき花乃ちゃんが作るって言ってたじゃない。一家の主婦なんでしょ」
意地悪っぽく言うと、彼女は少し手をゆるめた。
「あれは言葉のあやよ」
「ずるいよ。音比古に言いつけてやろ」
ふざけて笑ったとたん、
「ずるいのはあんたじゃない!」
花乃ちゃんの大きな声がビンと響いた。私は仰天《ぎようてん》してお姉ちゃんの顔を見る。
彼女の顔は大|真面目《まじめ》に強張《こわば》っていて、口もとは悔しそうに歪《ゆが》んでいた。そして何より驚いたのは、花乃ちゃんの目だった。赤くなった大きな瞳《ひとみ》に、涙が膨《ふく》らんでいる。
私は手首の痛さも忘れて愕然《がくぜん》とした。
花乃ちゃんが泣くなんて。
彼女は演技派だから、嘘《うそ》泣きしてもちゃんと涙が出る。でも、花乃ちゃんが嘘泣きする時の涙はこうじゃない。嘘の涙は綺麗《きれい》にホロリと流れるだけでこんなふうに痛々しくはない。
「夕飯のこと言ってんじゃないわよ」
しぼりだすように、花乃ちゃんはそう言った。
「……じゃあ、なに?」
おそるおそる聞くと、こういう答えが返ってきた。
「あんた、お寺の子になりたいの?」
目の前にある花乃ちゃんの泣いた顔を、私は穴が開くほどじっと見つめた。
「ちょっと嫌なことあると、すぐお寺に逃げるじゃない。あんたはいいわよ、逃げられるところがあってさ」
溢《あふ》れる涙を拳《こぶし》で拭《ぬぐ》って、お姉ちゃんは私を睨《にら》みつけた。
「あんたがお寺に逃げたあと、お父さんがどういう気持ちでいるか分かってんの? あんたずるいわよ。あっちこっちでいい顔してご飯もらってさ。ノラ猫と一緒よ」
「……お姉ちゃん、私そんなつもりじゃ」
弁解する私を阻《はば》むように、お姉ちゃんは握った手首を乱暴に振り放した。
「そんなにお寺がいいんなら、お寺の子になっちゃいなさいよ。そのほうがよっぽどスッキリするわ」
駆けだしていくお姉ちゃんの背中を、私は一歩も動けず見送った。
自分の目の縁《ふち》も熱くなっていることに私は気がついた。さっきお姉ちゃんがしていたように、あわてて拳でゴシゴシこすった。
泣きたいけど、今は泣いてはいけないような気がした。悲しいのは花乃ちゃんで私じゃないんだから。
泣いたらもっとずるくなってしまう。
夕焼けに赤くなった道を、私はトボトボ歩きだした。お寺のほうへはもちろん行けない。じゃあ私、どこへ行けばいいのかな。
一時間ほど町の中をうろうろしてから、結局私は家へ帰った。
おばあちゃんの家とかチョミの家とか、いくつか受け入れてくれそうなところは思いついたが、あっちこっちでご飯もらってるノラ猫だって言われたばかりだから、さすがによそ様の家には行けなかった。
当たり前だけど、夕飯はできてなかった。
花乃ちゃんの部屋からは、ラジオの大きな音がした。ノックをしても返事はない。
仕方ないので夕飯を作ろうとしたが、冷蔵庫は空《から》に近いし、これから買い物に行く気にもなれなかった。藁麦《そば》屋さんに電話をして、私は台所の椅子《いす》に膝《ひざ》を抱えて座った。
いくら考えまいとしても、花乃ちゃんの泣き顔が頭から離れなかった。
あの涙はいったいどういう意味なんだろう。
あんたがお寺に逃げたあと、お父さんがどういう気持ちでいるか分かってるの?
あの台詞のお父さん≠お姉ちゃん≠ノ置きかえることもできるだろう。私がお寺へ逃げこんでいる間、花乃ちゃんがどういう気持ちでいるかなんて考えたこともなかった。
いつも私はお姉ちゃんのことをずるいって思ってたけど、本当にずるいのは私だったのかもしれない。私だけしか持ってないクッションを、花乃ちゃんとお父さんに見せびらかしてたのかもしれない。
「なんだ、実乃。電気も点《つ》けないで」
パッと頭の上が明るくなった。顔を上げるとお父さんが電気の紐《ひも》を放したところだった。
「お帰りなさい」
「おう。腹減った。メシはこれから作るのか? まだなら何か食べに行くか」
今日のお父さんはなんだか機嫌がいいみたいだ。鼻歌まじりで手を洗うお父さんの背中を私はぼんやり眺める。
「カツ丼取ったから、もうすぐ来るよ」
「げ。俺、昼もカツ丼だったんだぜ」
「ホント? ごめんね」
小さく謝ると、お父さんは手を拭《ふ》きながらこっちを振り返った。
「元気ないな、実乃」
「そんなことないよ」
「お前が素直な時は、元気がない時だ」
答えようがなくて私はまた膝を抱えた。
「花乃はどうした? 帰ってないのか」
「部屋にいるよ」
ポツンと言うと、お父さんは「なるほど」とばかりに私の頭を叩いた。
「なんだ、また喧嘩《けんか》か」
「……まあね」
「どうせまたくだらないことだろ。早く仲直りしろよ」
私がコックリ頷《うなず》くと、お父さんは安心したように向かいの椅子に腰かけた。
「実乃、お茶いれてくんない」
「はあい」
お茶っ葉の缶《かん》を開けながら、私はチラチラとお父さんのほうを見た。花乃ちゃんに言われたこと、お父さんに話してみようか。
本当はお父さんも、私がお寺に行くこと、良く思ってないのかもしれないし。
「……ね。お父さん」
「そうだ。お前、今日大阪谷の家行ってきたんだろ? どうだった? 何か分かったか?」
広げていた新聞を置いて、お父さんはこっちを見ている。出端《ではな》をくじかれて私は眉《まゆ》をひそめた。
「……分かったっていうか、分かんないっていうか……」
「ハッキリしろ。ハッキリ」
「お父さんこそ、何か分かったの? ずっと調べてるんでしょ?」
「いや、その……分かったっつうか、分かんないっつうか……」
「ハッキリしてよね」
いれたお茶をテーブルに置き、私も椅子に座る。お父さんはお茶をすすってから首をポキポキと鳴らした。
「分かったことっていえば、大阪谷の女房のことぐらいだな」
女房ってことは音比古のお母さんのことだ。
「一年ほど前に喧嘩して別居中だそうだ。だから、あの屋敷には大阪谷の両親と息子の四人で住んでるらしい」
へええ。喧嘩して別居ねえ。
「でもよ。尾行してると、あいつよく女もののブティック入って洋服買ってんだよな」
「奥さんにプレゼントなんじゃないの?」
「それがさ、また派手《はで》なドレス買ってんだよ。ありゃ愛人のだね」
確信した顔をして、お父さんはウンウンと頷いた。まあ、確かにそうだよな。悪徳不動産の社長といえば、愛人はつきものかもしれない。
「で? 実乃のほうは何か分かったか?」
変に隠してまたあとで叱《しか》られるのは面倒だったから、私は音比古の家であったことを全部お父さんに話してきかせた。
私の話を聞いているうちに、お父さんの鼻の穴がドンドン膨《ふく》らんでくる。興奮してきた父の顔を見てハッとした時にはもう遅かった。
「それじゃあ大阪谷が犯人じゃねえか! バカヤロー!」
立ちあがって吠《ほ》えるお父さんを、私はあわててなだめる。
「お父さんたら、何度言ったら分かんのよ。早まらないでよね」
「早まるも何もあるか。ドッグフードが落ちてりゃ決定的じゃねえか。よし、決めたぞ。明日、大阪谷の家に討《う》ち入りだ」
わめくお父さんの耳を、私はギューッと引っぱって下りてこさせる。その耳に、私はありったけの声で叫んだ。
「そんなことしてラブリーが殺されたらどうすんの!」
耳もとで言われて、お父さんはブルブルッと頭を振った。
「ばかやろ。お前、鼓膜《こまく》が破れるだろ」
「そんぐらい言わなきゃ、お父さん分かんないじゃん。変に乗りこんでいって警戒されちゃったらもっと厄介《やつかい》だよ」
私に冷静に言われて、お父さんは口の中でモグモグと文句を言う。
「だってよ、実乃。ラブリーがいなくなってもう三週間だぜ。そろそろ見当つけて奇襲攻撃でもかけないと」
「そんなこと分かってるよ。でも、お父さんみたく『お前が犯人だろー!』って突進してって、相手が『はい、ごめんなさい』って謝ると思う?」
今度はお父さんは何も言い返さなかった。唇を尖《とが》らせ、おもしろくない顔をしている。
馬鹿親父がやっと納得してくれたようなので、私は息を吐《は》いて腰を下ろした。
「そこまで言うなら、何かいい手でもあんのか?」
すかさず、お父さんが聞いてきた。
「いい手なんかないよ。あったらやってる」
「それはねえだろ、実乃。じゃあ、なんにもしないでじっとしてろって言うのかよ」
そんなこと言われたって、私は知らないよ。
ブスッと座っていると、お父さんが派手にテーブルを叩《たた》いた。
「とにかくだな、実乃」
「ん〜?」
「大阪谷の家へもう一度行って、その地下室を探《さぐ》ってこい」
「え、え〜? 私が?」
「お前じゃなきゃ誰が行くんだ。そりゃ、俺が行ったっていいぜ。でも、お前は俺が行くのは反対なんだろ」
子供の意地悪みたいな口をきくお父さんを、私は呆《あき》れて見あげた。
「そんなことできないよ」
「できなくない。息子の音比古って奴をもう一度だまくらかして、なんとか探ってこい。ただし一週間以内だぞ」
「やだよ。それにその一週間以内ってなんなのよ」
お父さんはピンと人差し指を立て、私にその先を向けた。
「俺は今すぐにでも大阪谷の首ねっこつかまえて白状させたいんだ。それをお前が証拠が見つかるまで待てって言ってんだろ。でも我慢の限界も一週間だ。来週の日曜過ぎたら、俺は大暴れするからな」
私は返す言葉がなくて、ただパクパクと口を動かしていた。
横暴だ。父親のくせに娘を脅迫するなんて信じられない。
三日ほど悩んだけれど、いい考えなんかまるで浮かばなかった。なんといっても誰も相談に乗ってくれる人がいないのだ。
授業中、先生の話なんかそっちのけで私は頭を抱えた。
お姉ちゃんとはあれからずっと気まずいままだし、永春さんに相談したいんだけど、あんなこと言われちゃ、いくら私だってお寺へ足を運べない。
そして、一番協力してくれなきゃいけないはずのハズムが、なぜだかさりげなく私を避けていた。話しかけようとすると、ハズムはそばにいる人とふいと話をはじめる。
そのくせ、机から顔を上げ何気なく彼のほうを見ると、ハズムはさっと視線をそらす。
私のこと避けてるくせに私がよそを向いてると、なんだか申し訳なさそうな顔してこっちを見てる。
なんか、やましいことでもあるんじゃないの?
もう知らない、私は一抜けた、と放りだしちゃおうかって思わないでもなかった。
もし本当にゴルフ練習場の建設のために、大阪谷がやっていることだとしたら、それは大人同士のもめ事じゃないか。中学生の私には関係のないこと。
そうは思っても私はやっぱり手が引けなかった。盲目のおばあちゃんにとって、ラブリーは自分のからだの一部だ。私、おばあちゃんのためにどうしてもラブリーを取り返したい。
お父さんのためでも、ハズム達のためでもない。どうしても、どうしても、ラブリーを見つけて、おばあちゃんに届けてあげたい。
そう思ったら、少し元気が湧《わ》いてきた。
一週間たったら私が止めてもお父さんは大阪谷のところへ殴《なぐ》りこみに行くだろう。しようがない、それまでできる限りのことは調べてみよう。駄目《だめ》でもともとだ。
駄目でもともとのつもりで音比古を呼びだしたら、放課後、彼は裏庭へやってきた。
来るわけないと思ってたから、呼びだした私のほうがびっくりしてしまった。
「話ってなんだよ」
私が下駄箱《げたばこ》に入れたメモをひらひら振って、音比古はぶっきらぼうに聞いてくる。
「う、うん。ちょっと聞きたいことがあって」
「花乃さんのこと?」
あっさり言われてしまって私はガックリと肩を落とした。なんだ、そうか。お姉ちゃんの話だと思って来たのか。
「ううん。違う」
「じゃ、なんだよ。さっさと言ってくれ」
校舎の裏手にある小さな庭には、あまり人が来ることはない。時々、体育館に向かう人が通るぐらいだ。
そんなとこで、私達は地面を睨《にら》みつつボソボソ話している。はたから見たら微笑《ほほえ》ましいふたりに見えるかもしれない。
「えっとあの、また音比古んち行ってもいい?」
やっとの思いでこう言うと、音比古の馬鹿はケロリとこんなことを言った。
「お前、僕に気があんの?」
カッと頭に血が上った。ハズムにそういうこと言われた時の三十倍は腹が煮《に》えたぎる。
「冗談じゃないわよ」
そう低く唸《うな》ると、音比古はヘンと笑った。
「そんなことは分かってるよ。お前は俺のこと軽蔑《けいべつ》してるもんな」
「……え?」
「聞きたいことって何さ。いいから言ってみな」
なんだか軽くかわされた気がして私はちょっと傷ついた。だけど音比古の気が変わらないうちにと私は話を切りだす。
「突然、変なこと聞くけどさ。音比古君ちに地下室あるでしょ」
「やっぱり」
全部言い終わる前に、音比古はそう呟《つぶや》いた。
「僕もお前に聞きたいと思ってたんだ」
「え? 何を? やっぱりって、どういうこと?」
意外な方向に切り返されて、私はオロオロする。音比古は眼鏡を気障《きざ》ったらしく指で上げると、こっちを軽く睨みつけた。
「僕の家に来た時、お前廊下でお手伝いと立ち話してたろ。地下の倉庫のことを詮索《せんさく》してたけど、お前なんか知ってんのか?」
「なんかって?」
「僕が聞いてんだよ!」
気まずい沈黙が流れた。音比古はプイと向こうを向いて、落ちている石なんか蹴《け》っている。その横顔はスネた子供みたいだった。
「ねえ、もしかして、音比古君もあの地下のこと全然知らないの?」
彼はしばらくどう返事をしたらいいか考えているようだった。
「そうだよ。僕は何も知らないんだ」
「…………」
「パパはあの地下の倉庫には、家族もお手伝いも絶対入れないんだ。そのくせ、月末の日曜日になると、仕事仲間の親父達が集まってきて、あそこ入ってなんかしてんだよ」
音比古の言葉に私は目を丸くする。
「な、お前、あそこで何やってっか知ってんの?」
勢いこんで聞かれて、私はブンブン首を振った。
「こっちが聞きたいぐらいだよ」
「じゃあどうして、僕んちの地下室のことなんか聞いてくんだよ。何か知ってるんだろう、教えろよ」
「ちょっと音比古、落ち着いてよ」
彼は私の肩をつかむと乱暴に揺すぶった。
「いいか、聞け。ママは地下室のことで、パパと喧嘩《けんか》して出ていったらしいんだ。じいさん達は理由を知ってるらしいのに、いくら聞いても教えてくれないんだよ。それなのに、どうして他人のお前が知ってんだよ! 早く言えよ」
「知らないって言ってんでしょ」
思いっきり腕をふり払うと、偶然|掌《てのひら》が音比古の頬《ほお》に強く当たってしまった。眼鏡が外れて地面に飛ぶ。
「あっ……ごめん」
「この野郎」
音比古は頬を押さえて唸ったかと思うと私の頬を掌で叩いた。ジンと痛みが頬に走る。
「何すんのよ。謝ったでしょ!」
すかさず私も張り手を返す。パチンと音がしたとたん、自分の頬にもパンチが返ってきた。
「こ、このヤサ男〜っ」
「ガサツ女が黙れ!」
エキサイトしてしまった私たちは、とうとう髪をつかみあってとっくみあった。通りかかった上級生が止めに入るまで、私達は裏庭にすっころがって殴りあっていた。
膝に大きなすり傷。ドロドロに汚れてしまった制服。真っ赤に腫《は》れた左頬。
手当てをしてくれた保健の先生は、同情するどころかかなり本気で私を叱《しか》った。
本来なら女の子に暴力ふるった音比古が怒られるはずなのに、あの馬鹿は上級生が止めに入ったとたん逃げてしまった。
女の子が、それも中学生にもなって、男の子ととっくみあいの喧嘩をするなんて信じられない。もう少し女の子らしくしていい歳なんじゃないの、と保健の先生はブツブツと文句を言った。
学校を出ると、空はみごとに茜《あかね》色だった。オレンジ色に染まった空を私はキッと見あげて歩いた。
泣きながらとぼとぼ帰るのは悔しいから、私は無理してシャキシャキ歩く。
悔しい、悔しい、悔しいったら悔しい。
どうして私が殴られなきゃならないの。どうして私が叱られなきゃならないの。
夢中で歩いているうちに、いつの間にか私は走りだしていた。並木道を走り抜けると、目の前の風景が大きく広がる。川の縁《ふち》まで走ってきてしまったようだ。
さすがに息が切れて私は歩調をゆるめた。サラサラ流れる川を眺めているうちに、やっと少し落ち着いてきた。
鞄《かばん》をその辺に放って芝の生《は》えた土手《どて》に腰を下ろす。流れる水は、川辺の砂利《じやり》の上に小さな波をたてていた。背の高い葦《あし》の上に、うすっぺらい夕方の月が出ている。
「……疲れた」
ひとり言を呟いてみると、少し気分が楽になった。まったく最近疲れることばっかだ。お父さんが便利屋なんかはじめる前は、毎日のらくら過ごしてたのに。
でもその頃って暇だったから、私死んだお母さんのことばっかり考えていた。夜中にこっそり泣いたりしてたけど、今は疲れてグッスリだ。
それっていいこと? ねえ、永春さん。それっていいことなのかな?
考えているうちに、永春さんのことを思い出してしまった。お寺へ行けないと思うと、よけい永春さんに会いたくなってしまう。
会いたいな。永春さんに会って、ゴロゴロ甘えてわがまま言って、それで叱ってもらいたい。ああ、なんて私は子供なんだろう。
恥ずかしくなって膝《ひざ》を抱えたその時、どこからか聞き覚えのあるバイクのエンジン音が聞こえてきた。一瞬、私は固まってしまう。勢いよく立ちあがると、川べりの道をやってくるヤマハメイトが見えた。乗っているのは作務衣《さむえ》姿の永春さんだった。
「永春さん!」
両手を広げて走っていくと、彼は私の前でバイクを止めた。
「なんだ、奇跡のご対面みたいな喜び方だな」
「永春さん、どこ行ってたの? お使い?」
「いや。実乃がいないかと思って、ぐるっと流してたんだ……あれえ、制服汚いぞ。それにそのほっぺたはどうしたの」
「え? 私のこと捜してたの?」
「ほっぺたと制服はどうしたの。誰かと喧嘩でもしたのか?」
私達はお互いに質問を浴びせた。しばらく顔を見合わせたあと、同時にプッと吹きだす。永春さんはバイクを下りると、私の手を取って土手へ歩いた。
「さっき、花乃ちゃんがお寺に来たよ」
腰を下ろして、永春さんが笑顔で言った。
「え? どうして?」
私はあせって永春さんの袖《そで》をつかむ。
「うん。実乃に謝っておいてほしいって」
「えええ?」
「キツイこと言っちゃったって、だいぶしょげてたぞ」
私はニコニコっと笑っている永春さんの顔を、食いいるように見た。
「……永春さん、花乃ちゃんが私になんて言ったか聞いた?」
「うん。『実乃は都合が悪くなるとお寺へ逃げてずるい』だろ?」
彼の口から出ると胸にズッシリ重い台詞《せりふ》だ。おそるおそる永春さんの顔を見ると、彼は笑顔のままだった。
「それ聞いて、どう思った?」
「どうって?」
「そのとおりだと思った? 私が永春さんのところに逃げこむの、ずるいことだと思った?」
「うーん」
永春さんはつるつるの頭を掌で撫《な》でながら、考える顔をする。
「僕はそんなふうには思ってなかったけど、確かに花乃ちゃんには悪いことしたかもな」
私はガックリ首を垂《た》れる。やっぱり永春さんも、私が頻繁《ひんぱん》にお寺へ来ること反対なんだ。
「花乃ちゃんは、僕に実乃のこと取られちゃうのが嫌だったんだろ」
「え?」
キョトンとすると、永春さんは呆《あき》れた顔して私の額《ひたい》をつつく。
「なんだ、気がついてなかったの?」
「そんな……だって、花乃ちゃんはいつも意地悪ばっか言って」
まだ信じられない思いでいる私に、永春さんはこう話しだした。
「じゃあ、ひとつ教えてやるよ。絶対内緒だって花乃ちゃんに口止めされてるんだから、実乃も知らんぷりしてろよ」
私は神妙《しんみよう》に頷く。
「実乃のお母さんが亡くなった時、何か月かお寺に泊まってたろ。あの時、実乃がいつまでも家に帰ってこないから、花乃ちゃんが直訴《じきそ》に来たんだぞ」
「直訴?」
「妹を返してくださいってね。私だって妹のこと、ちゃんと世話したり慰《なぐさ》めたりできるんだから返してくださいって言いにきたんだ。必死に涙こらえちゃって、なかなか勇敢《ゆうかん》だったよ」
私はポカーンと口を開けた。花乃ちゃんがそんなこと言ったなんて信じられない。
「……でも、私が家帰っても世話してくれたり慰めてくれたりした覚えないよ」
「そこが花乃ちゃんらしいじゃない。照れくさくてできないんだよ、きっと」
なるほど。
私は深く納得した。お父さんと花乃ちゃんと私には、ちゃんと同じ血が流れてる。照れると不機嫌になってしまう、素直じゃない血が遺伝《いでん》しているわけだ。
花乃ちゃんが私のこと、けっこう好いてくれてたことはよく分かった。だけど、私はこれからどうしたらいいのだろう。お寺は好きだし、永春さんに会いに行きたい。それを花乃ちゃんが嫉妬《しつと》するんじゃ八方ふさがりだ。
「これからは、あんまりお寺へ行かないほうがいいかな」
「そんなことないんじゃない。花乃ちゃんだって言いすぎたって謝ってたんだから」
「ん〜でも……」
唸《うな》っていると、永春さんがポンと膝を打った。
「そうだ、こうすればいいよ。喧嘩して逃げこむから花乃ちゃんが怒るわけだろ。だったら、喧嘩してない時に来ればいいんだよ」
「ちょっと屁理屈《へりくつ》っぽくない?」
「いいんだ。僕だって実乃にちょくちょく来てほしいんだから」
そう言って永春さんは立ちあがり、服についた草を払う。
「帰ろう。花乃ちゃんがきっと待ってるよ」
差しだされた手に、私はそろそろと自分の右手をのせる。もう何度も手をつないでるのに妙に緊張してしまった。それは、永春さんが今言った言葉のせいに違いない。
永春さんの手がいつもよりあったかく感じる。なんだか胸がドキドキして変だな、と思っていたら、永春さんがくるりと私の顔を見た。
いきなり見つめられて私は頭から爪先《つまさき》まで硬直してしまった。視線を外そうにも目の玉まで動かない。そして、ゆっくり永春さんの顔が近づいてくる。
「左のほっぺた、みみず腫《ば》れができてるぞ」
そう言うと、永春さんはあっさり顔を離した。私はその場で硬直したまま、目をパチクリさせる。
「誰と喧嘩したの? 今日は花乃ちゃんじゃないんだろ」
その無邪気《むじやき》な笑顔に、からだ中の力が抜けた。な、なんだ。変なこと想像しちゃったじゃないか。
「大阪谷に息子がいるって言ったでしょ。そいつと殴りあっちゃったの」
「殴りあった? またどうして?」
停《と》めてあるバイクへ向かいながら、私は最近あったことをかいつまんで話した。脅迫状に貼《は》ってあった紙のこと、大阪谷の家で見つけた地下室のこととドッグフードのこと、そして今日、音比古が言っていたこと。
「ふうん、なるほどね」
作務衣の懐《ふところ》からキーを出し、永春さんはバイクに差しこんだ。
「実乃は探偵になれるな」
「えへへへ。そお?」
永春さんに褒《ほ》められて、私は現金に喜んでしまう。
「ねえ、やっぱりラブリーを隠してるのは、大阪谷かなあ」
「さあ、どうだろ」
永春さんは指で顎《あご》をかく。
「実はちょっと調べてみたんだけどさ」
「うん」
「先住権っていうのがあって、土地は借り物でもそこに自分で家建てて長く住んでると、地主が立ち退《の》けって言っても拒否《きよひ》できるんだ」
へええ。私は感心して聞いていた。そっか、そういうことも調べなきゃいけなかったのか。
「大空さんは遅れたと言っても地代払ってるわけだろ。極端な話、裁判すればたぶん勝つと思うよ。だから、大空さん達はあわてないでいいんじゃないかな」
私はしばらく永春さんの言ったことをじっと考えた。
「でもさ。だからこそ大阪谷はラブリーを誘拐したのかもよ。裁判で勝てないんなら、汚い手を使うしかないでしょ」
永春さんはちょっと目を見開いた。
「案外言うな。実乃は」
「……そうかな」
「大人になったら、私立探偵になったらいいよ」
「やだよ。こんなこと、疲れるだけだもん」
「そりゃそうだな」
永春さんのバイクで送ってもらい私は家へ帰った。
花乃ちゃんと顔をあわすのが気恥ずかしくて、私はそろそろと玄関を開ける。すると、廊下の奥からいい匂《にお》いがしていた。
音をたてないようにそっと台所を覗くと、いると思っていた花乃ちゃんはいなかった。
レンジの上のお鍋《なべ》がいい匂いの元らしい。蓋《ふた》を開けてみると、私の好きなトマトシチューができていた。
照れて不機嫌になった花乃ちゃんは二階にいるだろうか。私は静かに階段をのぼる。
「おねえちゃん。いるの?」
いつも私、花乃ちゃんの本性を知ってるのは私だけだと腹をたてていたけど。
お姉ちゃんの本当の姿を知らなかったのは、実は私だけだったのかもしれない。
「いるなら、一緒に食べようよ」
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永春《えいしゆん》さんのおかげですっかり元気が出た。元気が出ると頭も回る。そしてツキとか運も回ってくるらしい。
次の日学校へ行くと、校門の少し手前で音比古《おとひこ》が私を待っていた。
「おい。桜井《さくらい》実乃《みの》」
おはようもなしに、いきなり音比古は私の前に立ちはだかる。私は反射的に身構えた。
「何よ、昨日の続きをやろうっていうの?」
「馬鹿、違うよ。話があるからちょっと来いよ」
音比古は私の鞄《かばん》をつかむとぐいぐい引っぱった。私も鞄を取られまいと力を入れてそれを引っぱる。
「やめてよ。その辺に子分が待ってて、昨日の仕返しでもするつもり?」
「違うって言ってんだろ。謝ろうと思ったんだよ」
謝る? 思わず足が止まった。
「人が和解に来たんだから、素直についてこい」
照れたような音比古の横顔を、私は穴が開くほど眺《なが》めてしまった。音比古から折れてくるなんて、いったいどういうことだろう。
興味が先立って、私は素直に音比古についていくことにした。学校の裏手にある小さな公園に音比古は入っていく。ジャングルジムのところまで歩いていくと、彼はこちらを振り返った。
「昨日は怪我《けが》させて、悪かったよ」
向こうを向いたまま、音比古は小声でそう言った。そう素直に謝られちゃ、こっちだって怒るに怒れない。
「……ううん」
「な。謝るから、地下室のこと教えてくれないか。頼むよ」
ぎごちなく頭を下げる音比古を見て、私は心底驚いてしまった。高飛車《たかびしや》男の音比古が下手《したて》に出てくるなんて。よっぽど地下室のこと知りたいんだな。
「どうして、そんなに地下室のこと知りたいの?」
「言ったろ。ママが家出したのは、どうもパパと地下室のことで喧嘩《けんか》したらしいんだ。どうしても原因を知りたいんだよ」
唇を尖《とが》らす音比古を見てピンときた。どうしても原因を知って、どうしてもママに帰ってきてほしいってわけか。
「頼む、教えてくれよ。賭博《とばく》でもやってんのか?」
「私も知らないんだ」
「嘘《うそ》つけ。そうじゃなきゃ、どうして人の家の地下室なんかに興味があんだよ。何か知ってるんだろ?」
勢いこんでくる音比古を、私は「分かった、分かった」となだめた。
「私に協力してくれるって約束するなら教えてあげる」
音比古は露骨《ろこつ》に嫌な顔をした。
「なんだよ、協力って」
「協力してくれないなら、一生教えてあげない」
音比古はしばらくしかめっ面《つら》をしていたが、諦《あきら》めたように片手を上げた。
「分かったよ、協力する」
「そうしてくれると私も助かるんだ」
私と音比古は、ジャングルジムの下にしゃがんでぼそぼそと話をはじめた。
「ハズムの家の犬が行方不明なのは知ってるでしょ」
「ああ……あっちこっちにポスターが貼《は》ってあるな」
「あんたのお父さんが誘拐したんじゃないかって、疑いかけられてんだよ」
「なんだって?」
私は大阪谷《おおさかたに》がゴルフ練習場建設のためにハズムの家に立ち退《の》きを要求してることと、ラブリーを返してほしければ引っ越せという脅迫状《きようはくじよう》がきたことを話した。音比古は「知らなかった」と力なく呟《つぶや》く。
「その脅迫状に貼ってあった紙がね、うちのクラスにしか配ってないチラシを切ったやつだったのよ」
「だから、僕にコンサートのチラシのことを聞いたんだな」
私は頷《うなず》いてポケットから例のドッグフードを出し、音比古の前に出した。
「何これ?」
「ドッグフード。この前あんたの家に行った時、拾ったんだよ」
音比古がそれを指でつまもうとしたので、私はあわてて掌《てのひら》を握った。
「証拠品ってわけか」
音比古は苦笑《にがわら》いを浮かべる。
「ほとんど親父が犯人だって、確信してんだな」
「それがそうでもないんだ」
「どうして?」
「うまく言えないけど、何か変なのよね。ハズム達の態度もちょっと変だし、脅迫状だって一回来たきりで、あとは何も言ってこないし」
私が手の中のドッグフードをいじりながらモゴモゴ言ってると、音比古が立ちあがった。
「よし、地下室開けてみよう」
「え?」
「とにかく地下室の中に何があるか見てみよう。犬がいるのか賭博場になってるのか分かんないけど、とにかく見てみなきゃしようがないよ」
「でも、鍵《かぎ》は?」
「親父がいつも持ってるんだけど、なんとか盗んでみる」
や、やった。ラッキー。これで少しは何か分かるかもしれない。
私は立ちあがってスカートの裾《すそ》についた埃《ほこり》をはたいた。ちょうどそこで学校からチャイムの鳴る音が聞こえてくる。置いた鞄を拾い、楽しい気分で歩きだすと音比古が聞いてきた。
「お前も、パパが犯人だと思ってる?」
「え?」
「あの人は外では悪いことしてるらしいけど、僕にはけっこういい父親なんだ。盲導犬《もうどうけん》を誘拐するなんて、信じられないよ」
音比古の弱々しい言葉を聞いて、私は笑った顔をあわてて引きしめた。
自分のデリカシーのなさが、恥ずかしかった。
でも、そう悠長《ゆうちよう》にしてもいられない。
月曜日に、お父さんは討《う》ち入りに行くって言ってたから、その前にどうしても地下室を見ておきたかった。なるべく早く鍵を盗んでよと音比古に頼んだんだけれど、なかなかそううまくはいかないようだ。
鍵が盗めたらすぐに音比古の家に行くって約束だったから、土曜日は一日中、私は電話の前でイライラ待っていた。けれど、夜の九時になっても音比古から電話はかかってこない。
やっぱり無理か。自分の奥さんも絶対入れないようにしてたぐらいだから、鍵は肌身離さず持っているだろう。簡単に盗めるわけがない。
半分諦めてテレビの前に座った時、電話が鳴りだした。私は飛びつくように受話器を取る。
「もしもし、音比古?」
「うん。聞けよ、鍵取ったぜ」
いつもの音比古じゃないみたいな弾《はず》んだ声が受話器から聞こえる。
「ホント?」
「パパが風呂入った隙《すき》に鍵盗んだんだ。自転車で駅前まで走って合鍵作ってさ、今パパのポケットに鍵戻したとこ」
「えらい!」
音比古なんかじゃ無理だと思ってたのに、けっこうやるじゃないか。鍵があるんなら一刻も早く開けてみたくて、勢いこんで聞いた。
「どうする? 夜中にでも開けてみる?」
音比古は「うーん」と曖昧《あいまい》な返事をした。
「考えてみると、明日、例の集会なんだよな」
そういえば、月末の日曜になると、人が集まって何かしてるって言っていたっけ。
「パパ、前日の夜中は地下室入って、準備したりしてるみたいなんだ」
「そっか」
「明日の夕方にしないか? 集会終わったあとだと親父達外へ飲みに出かけるから、その時にしよう」
私はちょっと考えて、音比古の提案を飲んだ。無理して今晩行って、大阪谷と鉢合《はちあ》わせになっても困る。それにこんな遅くに出かけるなんて言ったら、お父さんが怪しむだろう。
お父さんには、地下室を開けること話してない。大騒ぎされると面倒だから内緒で見て、私の手におえないようならお父さんを呼ぼうと思ったのだ。
私は昼過ぎに音比古の家へ行く約束をして電話を切った。
地下室を見たところで、事件が一気に解決するなんてもちろん思っていない。それどころか、ただ賭けマージャンかなんかをやってただけで、ラブリーのこととはまったく関係ないって可能性のほうが大きいと思う。
でも、ほかに手がかりがあるわけじゃないし。引っかかったところから、糸をほぐしていくしかない。
そうだ、ハズムはどうしよう。私と音比古ふたりじゃ不安だから、もちろんついてきてほしいんだけど。
どうしてハズムを誘うことをためらっているのか、私は自分でもよく分からなかった。
日曜の朝、私は眠い目をこすってなんとか起きた。昨日の夜、遠足の前の日みたいに興奮してしまってよく眠れなかったのだ。
夜中、布団《ふとん》の中であれこれ悩んで、やっぱり私はハズムのこと誘うことに決めた。
考えてみれば、ラブリー捜しの依頼人はハズム達なんだよね。何を不安がっているのだろう。誰よりもラブリーの帰りを待っているのはハズム達なんだから、ちゃんと協力してくれるはずだ。
壁に掛けてある時計を見あげると、十一時になるところだった。日曜の朝といえども、もうそろそろ起きているだろう。
私は電話の受話器を取って、ハズムの家の番号を押した。呼びだし音が鳴る。一回、二回、三回、四回……十五回鳴っても誰も出なかった。
首をかしげて私は一度電話を切った。もう一度かけても、やっぱり呼びだし音が続くだけだ。
おかしいなあ。みんなでどっか出かけたのだろうか。考えてても仕方ないので、私はハズムの家へ寄って、それから音比古の家へ行くことにしようと決めた。いなかったら、音比古の家からまた電話してみればいい。どうせ、地下室開けるのは夕方なんだし。
「じゃ、花乃《かの》ちゃん。出かけてくる」
まだパジャマでぼうっとしてるお姉ちゃんは「ふあい」と気のない返事をした。
今日お父さんは、仕事で早朝から出かけていった。豆腐《とうふ》屋さんのおじさんがギックリ腰《ごし》になってしまい、きのうの夜突然、仕込みの手伝いをしてほしいって電話がかかってきたのだ。
お父さんって、頑張《がんば》ってるなあ。
こうやってほかの依頼もジャンジャンこなして、それでラブリー捜しもやってるんだから。でも、私だって学校行って勉強するって本業こなしながら、ラブリー捜ししてるんだよな。バイト代請求したら、お父さんくれるかな。
そんなことを考えながら歩いているうちに、ハズムの家が見えるところまで来てしまった。
私はそこで「あれ?」と足を止めた。ハズムの家の前に、小さなバンが止まっていたのだ。ちょうど今止まったところらしく、車のドアが開く。そして人が下りてきた。ハズム、おばさん、そしておばあちゃんの三人が順番に車の外へ出た。
ハズムの家には車はないから、あれはよその人の車だ。やっぱりみんなで外出してたから、誰も電話に出なかったんだな。でも、誰とどこへ行ってたんだろう。
私は歩調を早めてハズム達のほうへ向かった。けっこう距離があったので、私が家へ着く前にハズム達は玄関の中へ入ってしまう。
チャイムを鳴らそうとした時、車のエンジン音が聞こえた。あたりを見回すと、さっきのバンが隣の家の駐車場にバックで入っていくのが見えた。
あ、お隣の車だったんだ。
疑問がとけてスッキリしたので、私はあらためてチャイムを押した。すぐ誰か出てくると思ったのになかなか反応がない。首をかしげてもう一度チャイムに手をのばした時、カチャンと玄関の扉が開いた。細くあけた玄関のドアから顔を覗《のぞ》かせたのはハズムだった。
「み、実乃」
驚かれてしまって、私はキョトンとする。どうしてそんなびっくりするのだろう。
「電話したんだけど、誰も出なかったから来ちゃったんだ。忙しいんならまたあとにするけど」
「いや、そんなことない。上がってよ」
ハズムは玄関を開けると私を招き入れた。そして大きな声で家の中に向かって言った。
「かあちゃん、ばあちゃん、実乃が来たぞ!」
そのとたん、ガチャガチャと何か落とす音が聞こえた。みんな私が来たことに驚いているようで何だか変だった。
「まあ、実乃ちゃん、いらっしゃい。どうぞ、上がって」
奥からおばさんが出てきて、遠慮する私を部屋に上げた。勧《すす》められた座布団に座ると、そばにハズムも腰を下ろす。
「本当にお邪魔《じやま》じゃなかった?」
「何言ってんだよ、いいよ」
「ちょっと話があってさ」
小声でハズムと話していると、おばさんがお盆にグラスをのせて部屋に入ってきた。
「実乃ちゃん、カルピスでいいかしら」
「あ、はい」
カルピスの入ったグラスは四つあった。おばさんは、そのグラスをひとつひとつテーブルにのせていく。
「突然お邪魔しちゃってごめんなさい、おばさん」
「あら、いいのよ。みんな日曜で暇なんだから」
「でもどっか出かけてたんでしょ? 帰ってきたばっかりなのに、すみません」
そのとたん、おばさんの手からツルッとグラスが落ちた。中身のカルピスがおばさんの膝《ひざ》の上に派手《はで》に流れる。
「あ、大変」
私はすばやくハンカチを出して、おばさんの濡《ぬ》れたスカートを拭《ふ》いた。でもグラスの中身全部をぶちまけてしまったので、ハンカチはすぐぐっしょりになってしまった。
「ご、ごめんなさい。実乃ちゃんは濡れなかった?」
「落ち着けよな、かあちゃん」
あわてたおばさんに、ハズムが文句を言う。
「待って。布巾《ふきん》持ってくる」
私は立ちあがって、台所へバタバタ走った。
なんかハズム達の雰囲気がいつもと違う気がする。親切なことは親切なんだけど、ふたりとも何か浮き足だってるっていうか落ち着かないっていうか。
やっぱり、なんかマズい時に来ちゃったのかな?
「え〜と。布巾、布巾」
呟《つぶや》きながら、人のうちの台所を私は見回した。流し台の横に、たたんだ白い布巾を見つけて私は手に取る。
その時、私は冷蔵庫の横に置いてあるドッグフードの箱を見つけた。ハズムの家にドッグフードがあったって別に不思議でもなんでもないので、気にもとめず私は歩きだす。
台所を出ようとして、私は足を止めた。
ちょっと考えて、私は踵《きびす》を返す。開封してあるドッグフードの箱を手に取り、一個つまんで出してみる。
ウサギのフンに似た形のドッグフード。大阪谷の家で拾ったのと同じやつ。
私は掌のそれをじっと見た。こんなのどこの店でも売ってるんだから、別に驚くほどのことでもない……でも、でも、でも、何かひっかかるじゃないか。
今までまるで考えなかったことが、頭の中に浮かんできた。そうだ、あの時ドッグフードを見つけたのはハズムだった。
あのドッグフードは大阪谷の家に落ちてたんじゃなくて、ハズムがわざと落として見つけたふりをしてたんだとしたら?
私は自分の想像に首を振った。
でもじゃあ、どうしてハズムはそんなことする必要があるのだろう。そんなことして何になるの。
悶々《もんもん》と考えていると、後ろで小さく物音がした。ぎくりとして振り返ると、おばあちゃんがそっとこちらの様子をうかがっている。私は息を吐いた。
「おばあちゃん、私よ。実乃」
「ああ、実乃ちゃんか。いらっしゃい」
「おばさんがジュースこぼしちゃってね。布巾取りにきたの」
「布巾だったら、流しの隣にあるだろ?」
ニッコリ笑ったおばあちゃんを見て、私はまたもや固まってしまった。おばあちゃんの着物の袖《そで》が、何かで汚れている。
「どうかしたかい?」
返事をしない私に、おばあちゃんはそう聞いた。
「う、ううん。なんでもない」
「ハズムのとこに遊びにきたのかい?」
「……ん、えっと、ラブリーのことで、ちょっと」
ためらいがちに言うと、おばあちゃんの顔がみるみるうちに曇《くも》っていく。
「実乃ちゃんには面倒なこと頼んですまないねえ。本当に悪いと思ってるよ。許してやってね……」
「そんな、おばあちゃん」
話しながらも、私の頭の中はぐるぐると渦《うず》が巻いている。とんでもないことを思いついてしまって、私はものすごく混乱してしまった。
駄目だ。とにかくここを出て、ひとりで冷静に考えなおしてみよう。
「おばあちゃん。あの、悪いんだけど、私用事思いだしちゃって」
「え? 来たばっかりじゃないかい。ゆっくりしていきなさいよ」
「ん、でも、また来ます。ごめんなさい」
私は握っていた布巾を、おばあちゃんの右手に押しつけ玄関へダッシュした。
おばあちゃんの袖についていた汚れは、私の見まちがいじゃなければ、犬の毛だった。
ハズムの家を飛び出して、私はやみくもに走った。思いついてしまった、とんでもない自分の想像から逃げるように走った。
息が切れて立ち止まり、私は後ろを振り返る。もうハズムの家は見えなかった。私は電柱に手をついて、乱れた息をハアハア吐《は》いた。
おばあちゃんの着物の袖にたくさんついてた茶色の毛。ハズムの家の猫は黒猫だから、猫の毛じゃない。
目が見えなくたって、おばあちゃんは汚れた着物なんか着てたことは一度もなかった。見えないからこそ、だらしなくならないように気をつけてるんだって前におばあちゃんは言っていた。
ということは、つい今さっき何か動物を触ったってことだ。あの毛がラブリーの毛だって考えるのは飛躍しすぎだろうか。
ハズムたちは車に乗って、どこで何してきたのか。
私は自分の想像に、自分でもびっくりしてしまって道端に茫然《ぼうぜん》とつっ立っていた。
ラブリーを隠していたのは大阪谷じゃなくて、ハズム達だとしたら?
もしも、私の考えたとおりだとしても、あの脅迫状は何だろう。
脅迫状のことを考えているうちに、私はハッと気がついた。
切り貼ってあったコンサートのチラシは、うちのクラスだけに配ったもの。それで音比古が怪しいって決めつけていたけれど、よく考えるとハズムだってうちのクラスだ。
自問自答を繰り返してるうちに、頭がガンガンしてきてしまった。
私ひとりじゃ駄目だ。分かんない。誰かに相談してみよう。
どうせ音比古の家へ行くんだから、音比古に相談してみようか……ううん、音比古じゃ駄目だ。頼りになんかならない。
永春さんに相談したいけど、今日は法事があって忙しいと言っていた。仕方ない、こうなるとお父さんに相談するしかないかな。
そうと決めて歩きだし、五歩ほど歩いて足を止めた。くるりと後ろを振り返る。
あわててハズムの家を飛び出てきたけど、やっぱりもっと探《さぐ》りをいれてくるんだったかな。せめて、どこに行ってたかぐらい聞けばよかった。
やっぱり、ハズムの家に戻ってみようか。
思い直して、私は今来た道を歩きだす。
いや、でも。突然出てって突然戻ってきたら、ハズム達変に思うだろう。
そしてまたくるりと方向を変えて足を出す。
「行ったり来たりしてどうしたの、実乃ちゃん」
女の人の声がして、私は「わっ」とのけぞった。ニコニコして立っていたのは、豆腐屋のおばちゃんだった。
「あ、こんにちは」
「こんにちは。今日は実乃ちゃんのお父さんのおかげで助かったよ。ありがとね」
「いいえ、こちらこそ……あれ? その格好でどっか行くんですか?」
おばちゃんは割烹着《かつぽうぎ》に三角巾をかぶったままで、お店からそのまま出てきたような格好だ。
「あれ? 知らないのかい?」
「何を?」
「ラブリーが見つかったんだってさ」
おばちゃんの言葉に私はポカーンと口を開けた。
「あんたのお父さん、携帯電話持ってるだろ。さっきね、あれに電話がかかってきたのよ。何気なく聞いてたら『ラブリーがいた?』ってお父さん叫ぶじゃない。あたしだって驚いたわよ」
きらきら光るおばちゃんの金歯を、私はびっくりして見つめる。
「そしたら、あんたのお父さん『ラブリーが見つかったぞおー!』って大声出しながら、店を飛びだしていくのよ。この辺の人、みんなラブリーが行方不明だったの知ってたからさ。みんな、つられてお父さんについていっちゃったのよ。それであたしも、野次馬《やじうま》根性で」
なかなか終わらないおばちゃんの話を私は遮《さえぎ》った。
「で、ラブリーはどこ?」
「もみじ山の崖《がけ》んとこだって」
もみじ山って言ったらお寺の裏山のことだ。ここからだったら走って十分ってところだろう。
「お、おばちゃん。私、先行くね」
おばちゃんを置いて、私は全速力で走りだした。
ラブリーが見つかった。ラブリーが見つかった。ラブリーが見つかったなんて。
ごちゃごちゃ考えるのはとにかくあとにしよう。ラブリーの無事な姿を見るのがまず先だ。
でも、どうしてもみじ山にいるの? あんなとこ一番最初に捜したのに。
走りに走って、私はハズムの家のところまで来た。ハズムの家の前を抜けて、あと五分も走ればもみじ山のふもとに着く。
あ、と思って私は急ブレーキをかけた。
ハズム達はラブリーが見つかったこと知ってるんだろうか。お父さんのことだから、あわてちゃって、まだ連絡してないかもしれない。
私は少しためらってから、ハズムの家の門を開けた。せわしなくチャイムを鳴らしても、家の中から何も反応が返ってこない。
いないってことは、ラブリーが見つかったことの連絡があって、もみじ山に向かったのだろうか。
私はそう判断し、玄関に背を向け走りだそうとした。
その時、どこからかキナくさい匂《にお》いがした気がして私は立ち止まる。くんくんと鼻を鳴らすと確かに変な匂いがしてる。そして、つっ立った私の顔をうすい煙幕《えんまく》のようなものが撫《な》でていった。何かの煙だった。
キュッと胸を嫌な予感が走り、私はハズムの家の庭を振り返った。垣根の向こうのどうだんツツジから煙が出ている。チラチラと赤いものも見えた。
「か、か、か」
驚きのあまり、声が出なかった。
火事だ。
夢中で庭に飛びこむと、縁側のところにしゃがんだおばあちゃんが顔を向けた。
「だ、誰だい?」
恐怖のためか、おばあちゃんのからだが震えている。
おばあちゃんを助けなきゃ。
火を消さなきゃ。
そう思ったとたん、おなかの底から声が出た。
「火事だ――! 誰か来て――!」
叫びながら、私は庭の隅《すみ》っこにある水道を夢中でひねった。ころがっていたバケツに水をくみ、持ちあげたところでお隣の人がこっちへ走ってくるのが見えた。
バケツの水を、パチパチと音をたてて燃えている植木に思いきりぶちまけた。
たいして燃えていなかったので、隣の家の人達と私で火はすぐに消すことができた。
半分|焦《こ》げたツツジの前に、私はヘナヘナと座りこむ。
よかった。もし、ここに寄らなかったら、おばあちゃんがどうなっていたことか。
深く溜《た》め息をつくと、私の髪に誰かが触れた。見あげるとおばあちゃんが、私の頭を撫《な》でてくれている。
「おばあちゃん、もう大丈夫だよ。ちょっとツツジが焦げちゃったけど、あとは平気だから安心して」
おばあちゃんはうんうんと頷《うなず》くと、「すまないね、すまないね」と何度も繰り返し頭を下げた。私はおばあちゃんの手を取って縁側に座らせる。
私も隣に腰かけて、隣の人達が警察に通報しようと相談してるのを聞いていた。
興奮が冷めてくると、頭も正常に戻ってくる。私は爪《つめ》を噛《か》んで考えた。
どう考えてもこれは放火だ。犬の誘拐だって悪質だけど、放火するなんて悪質すぎる。
誰がなんのために火をつけたのか。
まさか、大阪谷が?
でも、私はさっき大阪谷が犯人じゃないって、かなり本気で思ってたのだ。じゃあ、誰がこんなひどいことするのだろう。
それとも、この放火は通り魔かなんかがやったことでラブリーのこととは関係ないのかな。
その時、どこからか人の声がザワザワと聞こえてきて私は立ちあがった。
門のところへ行くと、向こうからびっくりするぐらい大勢の人がぞろぞろと歩いてくる。その集団の先頭にいるのは、お父さんとラブリーだった。
「ラ、ラブリー!」
私は思わず駆け寄った。犬のラブリーは、まるい両目をくりんとさせて、私の顔を見あげる。どこも怪我《けが》していないようだし、痩《や》せてもいない。前のまんまのラブリーだ。そっと頭を撫でると、くうんと鳴いて垂《た》れた耳を押しつけてきた。
じわっときてしまって、私は泣くまいと顔に力を入れる。
「実乃。お前が感激のご対面してる場合じゃない。おばあさんに早く会わせなきゃ」
お父さんに頭を小突《こづ》かれて、私はあわてて聞いた。
「ね、誰が最初に見つけたの?」
「俺、って言いたいところなんだが違うんだ。家に『もみじ山にラブリーらしき犬がいる』って匿名《とくめい》の電話があったんだよ。それを花乃が知らせてくれたんだ」
匿名の電話?
私はそこで引っかかったのに、お父さんはまるで気にしてないようだ。ポンと肩を叩《たた》かれて振り向くと、ハズムとおばさんが笑っている。
「ラブリーが見つかってよかった。実乃達のおかげだよ」
「……う、ううん」
「これでもう安心ね。本当にありがとう、実乃ちゃん」
ハズムとおばさんにお礼を言われて、私は困ってしまった。私は正直言ってこのふたりを疑っている。
「なんだ、これは――!」
その時、お父さんの馬鹿でかい声が聞こえてきた。あ、そうか、火事の跡《あと》を見たんだ。
あわてて庭に戻ると、お父さんが待ってましたとばかりに私を捕まえた。
「なんだ、これは。説明しろ!」
焼け焦げた植木と水びたしになった庭を指して、お父さんは私に怒鳴る。
「ボヤだよ。今消したばっか」
「お前がやったのか?」
「怒るよ、お父さん。誰かが放火したんだよ」
それを聞いて、お父さんはつかんだ私の襟《えり》をパッと放した。炎がメラメラと燃えあがるように、お父さんの目の色が変わってくる。
しまった。言うんじゃなかった。
後悔した時には、もう手遅れだった。お父さんは盆栽《ぼんさい》の棚《たな》の上に飛び乗ったかと思うと、「お集まりのみなさん! わたくし桜井|豹助《ひようすけ》の話を聞いてください!」とお父さんの声がそこら中に響き渡った。
おばあちゃんとラブリーを囲んで「よかったよかった」と談笑していた野次馬《やじうま》達が、ギョッとして振り返る。
「ラブリーが帰ってきたからと言って、事件が解決したわけではありません」
「お父さん、やめなよ」
すがった私を、お父さんは容赦《ようしや》なく足でふりはらう。
「盲導犬《もうどうけん》のラブリーを誘拐し、卑怯《ひきよう》な脅迫状を送りつけ、なんと今日は放火までした犯人を、わたくしは知っています」
そのはた迷惑な大声に、近所の人達も玄関を開けてぞろぞろと顔を出した。
「そいつは、地主の大阪谷|耕三郎《こうざぶろう》であります」
お父さんの元に集まった野次馬達は、それを聞いてざわついた。お父さんは両手を広げてざわめきを抑える。
「大阪谷はゴルフ練習場建設のため大空《おおぞら》家に立ち退《の》きを要求していたのです。それを断ったがために、奴はラブリーを監禁し、それを盾《たて》に立ち退きを強要したのです」
お父さんの演説が切れたところで、野次馬のひとりが声を出した。
「豹助さん、証拠はあるのか?」
「ここまで断言するからには、もちろんあります。奴の家へわたくしの娘が行ったところ、犬を飼っていない大阪谷家でドッグフードを見つけたのです」
私はオタオタと壇上《だんじよう》のお父さんを見あげた。どうしよう、このままじゃマズい。
「そしてこの庭を見てください。放火ですぞ、放火。きっと奴はラブリーをもみじ山に連れていき、家人があわてて山へ向かったのを見計らって、火をつけたのです。こんなことが許されていいのでしょうか」
まったく根拠のないことでも大声で力説されると、本当みたいな気がしてしまうものらしい。野次馬の中のひとりが「警察に突きだそう!」と叫んだとたん「そうだ、そうだ」とみんなが盛りあがってしまった。
「よし。ではこれから町内の悪の根源、大阪谷を捕まえに行きましょう!」
お父さんが叫ぶのを背中で聞きながら、私は急いで駆けだした。
誰かが乗ってきたらしい自転車に飛び乗り、夢中でペダルを漕《こ》ぐ。前傾姿勢で私はシャカシャカ風を切って走った。
盛りあがってしまったお父さんや野次馬達は、私の言うことを冷静に聞いてくれそうもなかった。
犯人はきっと大阪谷じゃない。
冷静さを失った人達がどっと押しかけていったら、きっと暴力|沙汰《ざた》になってしまう。みんなより早く行ってどっかに逃げてもらおう。
心臓が爆発しそうなほど、私は一所懸命ペダルを踏んだ。
苦しい。なんで私がこんなにつらい思いしなきゃなんないの? 事が全部終わったら、真犯人に蹴《け》り入れてやる。
体力の限界ギリギリで私は大阪谷の屋敷に着いた。そのまま門の中へ突っこみ、ブレーキもかけずに飛び下りる。自転車はすっ飛んでいき、停《と》まっていた黒塗りの外車に激突した。その音に振り向くと、高そうな車が玄関脇に何台も停まっているのが目に入った。そうか、地下室で集会してるんだっけ。
私はチャイムも押さずに大阪谷家の玄関を乱暴に開けた。
「音比古、大変だよ!」
声の限りに叫ぶと、奥から何ごと? という顔で先日のお手伝いさんが顔を出す。
「あら、あなた、この前の」
「音比古は? 音比古呼んでください!」
「なんだよ、うるさいな。もっと静かに入ってこいよ」
お手伝いさんにかみついていると、音比古が廊下の奥から現れた。私は靴も脱がず、音比古のところへ駆けあがった。
「あ、てめえ、靴脱げよな」
「それどころじゃないの。もうすぐ、町の人達が押しかけてくんのよ。地下室の鍵《かぎ》出して」
「……出してったって」
「あんた、自分の父親が無実の罪《つみ》をなすりつけられてもいいの? 早く逃げてもらわなきゃっ」
襟もとをつかんで必死にゆすっても、音比古はまだモゴモゴ言っている。
「でも、集会やってる時には、外から呼んだだけでも、ものすごく叱《しか》られるんだ」
「馬鹿! そんなこと言ってる間にあんたのお父さん殺されちゃうわよ!」
ちょっと大袈裟《おおげさ》だったけど、このひと言は効《き》いたようだ。不信な顔をしながらも、音比古はポケットからそろそろと鍵を出す。私はそれをひったくり廊下をダッシュした。
例の鉄のドアの前に立ち鍵を差しこもうとしたが、あせっているのでうまく入らない。
やっとの思いで鍵を差し入れ右へひねった。カチャンと音がして鍵が開く。ノブを回して、とうとう私はそのドアを開けた。
「すみません! 出てきてください!」
階段の下にまたドアが見えた。そこへ向かって私は叫ぶ。一拍待ってみたけど、ドアが開く気配はない。
「もうすぐ警察の人が来ますよ! 早く逃げて!」
こんなところでコソコソやってる集会だ。警察に知られちゃマズいことに決まってる。こう言えば、誰か出てくるだろうと思ったのに、やっぱりドアは開かなかった。でも、中でバタバタ歩きまわる音が聞こえてくる。賭博《とばく》の道具でも片づけてるんだろうか。
その時後ろから大勢の足音と話し声が聞こえてきた。
お父さん達が来たんだ。
もう待てず、私は泣きたい気持ちで階段を駆け下りた。中のドアに手をかけると、ノブがくるっと回る。鍵はかかってなかった。
「音比古のお父さん、早く逃げて!」
叫びながら、私はそのドアをバンと開けた。
地下室に集まった人達が、いっせいにこっちを振り向く。
そこにいたのは、全部、ドレス姿の女の人……いや、男だ……。
壁紙はあざやかなピンク。椅子《いす》もテーブルもアンティークで、そこかしこにドライフラワーが飾ってある。そして、かつらをかぶり、頬紅《ほおべに》をぬった女装した中年親父達。
困惑《こんわく》の目で、彼らは私を見ている。私も彼らを瞳孔《どうこう》を全開にして愕然《がくぜん》と見た。
「……何……してるの……?」
無意識に出た言葉に、誰かが一歩私の前へ出た。
長い髪のかつらに赤いリボン、ふりふりのドレスを着て濃い化粧をした、大阪谷が、私を見下ろす。
「……何もしてないよ」
ポツンと言われて、私は眩暈《めまい》を感じた。さすがの私の思考回路も、火花を散らしてショートしてしまったようだ。
背中から聞き慣れたお父さんの大声と、大勢の人間が走る足音が聞こえてくる。
みんな、来たみたいね。
さあみんな、見てちょうだい。
私が汗《あせ》だくになって、体力の限り走りまわった末に見つけたものがこれなのよ。
親父達の女装集会なのよ。
「大阪谷――っ、出てこい――!」
お父さんの声をきっかけに、私はもう気を失うことにした。
フラフラっと倒れた私を、受け止めてくれたのは大阪谷だったのかな。
薄れていく意識の中で、お父さん達の「なんじゃこりゃあ!」という悲鳴を聞いた。
それがものすごくおかしくて、私は気絶直前にへへへと笑ってしまった。
さて、それからどうなったかというと。
お父さん達は、予想から大きく逸《いつ》した気持ち悪いものを見てしまったせいで、戦意を失ったそうだ。ポカンとしているうちに、誰が通報したのか警察がやってきて、お父さん達は大阪谷家を追いだされた。
ラブリーの誘拐事件は、結局警察の手に委《ゆだ》ねることになった。お父さんは警察に大阪谷が犯人だと主張したけど「こっちでちゃんと調べるから、あんたはおとなしくしてなさい」と軽くいなされてしまったらしい。
私は顔見知りのお巡《まわ》りさんをつかまえて、大阪谷のやってた気持ち悪い集会のことを聞いた。
彼が言うことには、大阪谷には若い頃から女装趣味があって、同じ趣味を持つ男達と月に一度、こっそり買ったドレスなんかのお披露目《ひろめ》会をやっていたそうだ。
ホモなの? と聞くと、お巡りさんは首をふる。女性の格好をしたいってだけで、別にゲイではないそうだ。その証拠に、結婚して音比古が生まれている。
その趣味が万人には受け入れられないことを大阪谷は自覚しているらしく、奥さんには必死に隠していたそうだ。けれど、何かの拍子《ひようし》にバレてしまって、やめないかぎり家には戻らないと実家に帰ってしまったらしい。
音比古の奴、きっとショックを受けて泣いてんじゃないかと思ってたら、意外と元気に学校へ来ていた。こっそり理由を聞いたら、「もうあんな趣味はやめて、かあさんに土下座してくる」と大阪谷が泣いて謝ったそうなんだ。
ちょっとかわいそうな気がしてしまった。そりゃ気持ち悪いけど、誰に迷惑かかるわけじゃないんだから、こっそりやらせてあげればいいのに。
そして一連のドタバタ騒ぎは、一見なんの意味もなく見えたのに、意外な効果を生んだのだ。
それは、住民の大阪谷への不信だ。
ラブリーの誘拐事件については、大阪谷がやったという証拠は、何ひとつ見つからなかったそうだ。
放火の容疑もすぐ晴れた。だって、彼には「女装集会をして遊んでいた」という動かぬアリバイがあったわけだから。
結局、警察からは何もお咎《とが》めはナシという結果だったけど、町のほとんどの人達は「大阪谷がやったんじゃないの」と疑いを持った。もともと評判のいい人じゃなかったから、今度のことで大阪谷はさらに評判を落とした。
そして、ゴルフ練習場建設に賛成していた人全員が、一度|承諾《しようだく》した立ち退《の》きをやめて、反対の立場にまわったのだ。だから、ハズム達はあの家に安心して住んでいられることになった。
町の人の大阪谷への不信はいつまでも晴れなかったけど、大阪谷に食ってかかるような人はいなかった。
なぜなら、一番被害を受けたラブリーの飼い主、ハズムのおばあちゃんが、「ラブリーが無事に帰ってきてくれたから、もうそれでいい。喧嘩《けんか》はしないでおくれ」と言ったからだった。
ラブリーが見つかってから一週間後の日曜日。お父さんと私と花乃ちゃんは、ハズムの家から食事の招待を受けた。
たくさん迷惑をかけてしまったので、お礼をしたいと言うことだった。
お父さんは、一番いい背広を着こみ花束まで買った。呆《あき》れた私と花乃ちゃんは、楽しそうに歩くお父さんの後ろをしぶしぶとついていく。
ハズムの家には、すごいご馳走《ちそう》が待っていた。おばさんとおばあちゃんが作ったものなので全部家庭料理だけど、そういうものに飢《う》えている私達は、遠慮なくその料理をたいらげた。
すっかり食べてしまうと、おばあちゃんは久しぶりに飲んだビールで眠くなってしまったと自分の部屋に昼寝に行き、花乃ちゃんは「友達の家で宿題する」とまた嘘《うそ》くさいことを言って帰っていった。
お父さんとおばさんは、さしつさされつお酒なんか飲んでいる。しようがないので、私はラブリーの頭を撫《な》でながら残った沢庵《たくあん》なんかつまんでいた。
「あら、お醤油《しようゆ》がないわ」
小皿に醤油を注ごうとして、おばさんがそう言った。
「困ったわ、買い置きも切らしてるんだった。ハズム、そこの酒屋さんまで行って買ってきてくれない」
私はそれを聞いて立ちあがる。
「おばさん、私が行くよ」
「あら、いいのよ。ハズムに行かせれば」
「おなかいっぱいだから、腹ごなしにちょっと歩きたいの」
「じゃあ、一緒に行こうぜ」
ハズムの提案で、私達はおばさんから千円札をもらって家を出た。
雲ひとつない五月の空は、一気に夏がきてしまったような青さだ。ハズムとふたり、空を見あげてぶらぶら歩いた。
「でも、実乃達のおかげで本当に助かったよ」
ハズムがのんびりとそう言った。
「そお?」
「うん、ラブリーも帰ってきたし、ゴルフ場の建設もなくなったし」
「なるほど、計画どおりってことね」
そう言うと、ハズムがギョッとした顔でこっちを見る。
「ラブリーはどこに隠してあったの? 物置? それとも縁《えん》の下?」
笑顔で聞くと、ハズムは諦めたような深い溜め息をついた。
「……ばあちゃんの部屋だよ」
「一か月もずっと散歩できなかったから、あの子、コロコロ太っちゃったのね」
皮肉っぽく言う私に、ハズムは頷く。
「やっぱり気づいてたか」
「まあね。確信はなかったんだけど」
「白状するよ」
ハズムは頭をかくと、まずこっちを向いてペコンと頭を下げた。
「ずっとだましてて、ごめん」
私は曖昧に肩をすくめる。謝られても返答に困るじゃないか。
「脅迫状もドッグフードも、ハズム達のしわざね」
「うん」
「そんなことしたのは、私達に大阪谷を疑わせるためだったの?」
「うん」
「先週の日曜に、ラブリーをもみじ山に連れてって、うちに匿名《とくめい》電話したでしょ」
「うん」
しおらしく返事をするハズムに、私は呆《あき》れて溜め息をついた。
「じゃあ、放火も?」
「うん。ばあちゃんが家に残って、火をつけたんだ」
「そんなことしたら、いくらなんでも危ないじゃないのよ」
「隣の家の人が、すぐ来て消してくれることになってたんだ」
あ、そうか。隣の家もぐるだったんだ。
「月末の日曜にラブリーを外へ出して、うちにボヤ騒ぎを起こそうっていうのも、最初っから決めてたんだ。そうすれば、大阪谷にはアリバイがあるだろ。大阪谷は疑いはかけられても、警察には捕まらない」
「なるほどね。その疑いがかけられるっていうのがミソだったわけね。でも、大阪谷が女装集会やってるのはどうして……」
どうして知ったのと聞こうとして、私は気がついた。そうだ、おばさんは昔大阪谷の家でお手伝いしていたんだ。その時、知ったのだろう。
「だから、ハズム達、いちいち大袈裟《おおげさ》に恐縮《きようしゆく》してたのね」
おばあちゃんがあんなに謝ってたわけが。やっと私は分かった。
「ん。ばあちゃんに嘘を言わせるのは、心苦しかったな。そんなことはやめようって最後までばあちゃん、反対してたし」
「誰が計画したの? こんなこと」
「かあちゃん」
聞いて私は内心びっくりした。優しそうな顔してすごいこと考えつくもんだ。
私が驚いているのを察してか、ハズムは道端の石を蹴って小さく言う。
「大阪谷から立ち退きの話が来た時に、脅《おど》されたのは本当なんだ」
「え?」
「おとなしく出ていかないと痛い目にあわせるって言われたらしい。俺は直接聞いたわけじゃないんだけど、かあちゃんがそう言ってた。だから、ムキになっちゃったんだろうな」
それを聞いて、私は口をつぐんだ。
そうか。お父さんのいないハズムの家では、おばさんがからだ張って家族を守ってるんだ。彼女の柔らかい笑顔の下に、そんな勇ましい気持ちが隠されてたなんて、ちょっと感動だった。
「でも、こんなに計画どおりになるなんて、正直言ってかあちゃんもびっくりしてたよ」
先週の日曜のおばさんのあわてようを思い出して、私はクスクス笑った。
「計画した人が、びっくりしてちゃしようがないじゃない」
「うん。実乃のお父さんなんか、思ったとおりのこと言ってくれるんで、かえって申し訳なかったな」
「じゃあ、私は邪魔したほうなんだ」
「ああ。実乃が鋭くてまいった」
ハズムはそこで足を止めると、急にあらたまってこっちへ顔を向けた。
「怒ってるだろ」
「そんなことないよ」
「いや、怒ってるはずだよ。ラブリーとばあさんのために、あんなに一所懸命になってくれたのに、全部嘘だったなんて腹が立たないはずないよ」
そう言われて、私もハズムの顔を見た。
怒ってないって言ったら、確かに嘘になるかもしれない。でも、仕方がないじゃん。これで何もかもうまくいったんだから。
「親父さんに、本当のこと言っていいぞ」
真剣に言うハズムに、私はヒラヒラと掌を振る。
「あの人にそんなこと言ったら大変なことになっちゃうよ」
「……でも」
まだ何か言いたげなハズムを残して、私は目の前に来た酒屋に入った。醤油を買って、あとから店に入ってきたハズムに渡す。
帰り道は、ほとんど無言だった。
吹いてくる初夏の風に目をほそめ、私達は黙って道を歩く。
ハズムの家の前まで来て、私達はどちらからともなく足を止めた。
垣根の向こうに、ハズムの家の窓が見える。大きく開かれた窓の中に、お父さんがおばさんと笑いあっている姿が見えた。
「な〜んか、イチャついてんなあ」
呆れたようにハズムが言う。
「夫婦みたいね」
「もし、そうなったら俺達兄妹だな」
私はちょっと考えて息を吐《は》く。
「まあ、それもいいかもしんない」
「そうだな、花乃さんと一緒に住めたら俺、嬉しい」
「一緒になんか住んだら、夕飯当番押しつけられるから」
鼻の下をのばしたお父さんの笑顔を見ても、今日はそんな腹がたたないことに、私は気がついた。
天国のお母さん、ごめんなさい。
「永春さん」
お寺の階段を駆けあがると、永春さんがお堂の回廊《かいろう》を歩いているのが見えた。
「おや、実乃」
「今、お仕事中?」
「いや、いいよ。今日は元気だな」
「だって、これからは喧嘩《けんか》してない時においでって言ったじゃない」
靴を脱いで私は永春さんのところまで上がった。彼は笑って私の頭を撫でる。
「いいことあった顔だな、それは」
「ん〜。どうかな」
「お茶にしよう」
永春さんはそう言って、奥からお盆にお茶セットをのせて持ってきた。いつもの座布団に座って、私は永春さんのいれてくれた番茶をすする。
「お父さんは、今日も仕事?」
「ううん。ハズムんちで酔っぱらって寝てる」
「またそういうふうにあっちこっちから話す。順番に話しなさい」
永春さんに叱《しか》られて私はハズムの家から食事の招待を受けたことを話した。それでお父さんははしゃいで飲みすぎ、今はハズムの家で高イビキをかいている。
「おばさんが寝かせておいてあげましょうって言うから、私は勝手に帰ってきちゃった」
「ふうん。でも実乃、怒ってないじゃない」
「まあね」
「ハズムのお母さんに、お父さん取られちゃうぞ」
意地悪っぽく言う永春さんに、私はお茶をすすりながら答えた。
「いいんだ。私、最近|寛大《かんだい》になったの」
「へえ。そりゃいいことだ」
「だから、ラブリーを隠してた真犯人のことも、誰にも言わないことにしたんだ」
「また話を飛ばす」
脈絡《みやくらく》のない私の話に飽きたのか、永春さんはお茶のおかわりをいれはじめた。永春さんはふっと手を止めて私のほうを見た。
「ラブリー隠しの真犯人って?」
「反応がにぶいなあ、永春さんは」
笑った私に、永春さんは「教えろよ」と迫《せま》ってきた。
「今、誰にも言わないって言ったじゃん」
「気になるだろ。教えてくれよ」
「やだよ」
お堂の外の葉が、私の笑い声と一緒にサワサワと揺れ、地面にこもれびのダンスを作った。このままお堂の床に転がり眠りこんでしまいたい、気持ちのいい五月の日曜だった。
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あとがき
本書はコバルト文庫より『ラブリーをつかまえろ』というタイトルで刊行されたものを改題し、加筆訂正したものです。
集英社文庫より発売となっておりますコバルト文庫復刻版・デビューセレクションの方は極力手を入れないで、刊行された時の文体を意識的に保ちましたが、本書では登場人物名や語尾、表現などを訂正いたしました。
といっても下敷きは少女小説で、ストーリーもそのままですので、ジュニア小説をお読みになったことのない方には多少なりとも違和感を覚えることと思います。
この作品は私が少女小説を書いていた末期のもの故、あえてこのような形で復刻させて頂くことにしました。読み手の方がどのようなご感想を持つかは、楽しみなような恐《こわ》いような感じです。けれど作品は自分の子供と同様なので、どんな形であれ、また書店の棚に並ぶことになるのは望外の喜びです。
もう一本続編もありますので、どうかよろしくお願いいたします。
二〇〇〇年 春
[#地付き]山 本 文 緒
角川文庫『チェリーブラッサム』平成12年4月25日初版発行
平成15年5月25日6版発行