妖魔夜行 しかばね綺譚
山本弘/安田均/高井信
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)賭け《ベット》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|はったり《ブラフ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
目 次
第一話 悪意の連鎖 山本 弘
第二話 背中合わせの幸運 安田 均
第三話 しかばね綺譚 高井 信
妖怪ファイル
あとがき 安田 均
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
Take-1――――――――
「ねえねえ、あたし、変な手紙もらっちゃってさあ」
「なに? お前を呪《のろ》ってやる。呪いを返すには……なによぉ、これ? 変なのォ。ほっとけばァ」
「えぇーっ。だってェ、チカ子がさァ、カレシと別れた時ってさァ。知んない、この話ィ?」
喫茶店でハーブティを飲んでいると、そんな会話が聞こえてきました。
今日も誰かが、噂《うわさ》を囁《ささや》いています。そこかしこで、みなが、友達の友達から聞いた話を誇張して、もっともらしい推測をまじえて、TVや雑誌から聞違《まちが》えて覚えた知識で飾りたてて、『いかにもありそうな本当の話』を作りあげます。
こうであって欲しいと、こんなことがあればいいなと、期待と願いをこめて人は囁きます。人々が、心の奥の暗闇《くらやみ》で望む形にぴったりとした噂は、「都市伝説」となって定着し、そして……。
私が、お茶のお代わりをポットから注いでいる間に、少女たちの会話は、友人の失恋にすっかり移っていました。
ときおりまじる笑い。彼女たちは、不幸を喜んでいるかのようにも思えます。ま、しょうがありません。他人が不愉快《ふゆかい》な目にあっているのを目にして喜ぶ、そんな心は人間の誰にも少しずつはあるものです。それが自分に起きたことでないことで安心するのです。そんな人は、もしも自分に不幸がふりかかってきたなら、なんとか誰かに押しつけようとするでしょう。
そんな、自分の心に気がつくと、たいていの人間は良心に責められます。それもまた不愉快で、不幸で、できることなら誰かが背負ってくれないか、そう願うのです。
「だからさぁ、チカ子、呪いをかわす方法を実行しなかったせいなんじゃないかって」
「ふうん。そうなんだ、もしかしてこれって、遅ればせながらって、あの子がやったのかもよ?」
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第一話 悪意の連鎖 山本 弘
1.不快な男
2.見えざる襲撃者《しゅうげきしゃ》
3.脈絡《みゃくらく》のないリスト
4.思いがけない接点
5.編集部訪問
6.恐怖《きょうふ》の系図
7.明かされた真実
8.包囲網《ほういもう》
9.恨《うら》みは還《かえ》ってゆく
10.終着点
[#改ページ]
1 不快な男
大阪市北区・午後八時――
「へへへ……ほんま、しょーもない映画やな。CGとかに金かける前に、もっとシナリオを練れっちゅうねん。内容がなーんもないやないか。これがハリウッドの大作かあ? ハリウッドも堕落《だらく》する一方やな。へへっ、ガキ向けやな、ガキ向け。こんなんで喜ぶんは小学生のガキだけやで。ほんま、しょーもない映画や、へへへ……」
犀河《さいかわ》本丸《ほんまる》はポップコーンをばりばりと頬張りながら、スクリーンに向かってぶつぶつと喋《しゃべ》り続けていた。中肉中背で、顔はさほど悪い部類ではなく、ほんの少しおしゃれに気を遣《つか》いさえすれば女の子にもてることも可能なはずだ。だが、本人にはまったくその気がない。ぼさぼさの髪《かみ》と、満面に浮《う》かべた下品な笑《え》みのせいで、ひどく嫌らしい印象を受ける。
ここはJR大阪駅から歩いて数分の繁華街《はんかがい》にある映画館。派手なアクションとSFXが売り物のアメリカ映画を上映中で、客の入りは八割という程度だ。本丸の声はさほど大きくはなかったものの、周囲の観客には明瞭《めいりょう》に聞こえていた。へらへらと笑いながら、カメラワークがどうの、俳優の演技がどうのと、いちいち文句をつけている。静かなシーンでものべつまくなしに喋《しゃべ》り続けているので、ひどく迷惑《めいわく》だ。
「おい、兄ちゃん」通路を隔《へだ》てた席に座っていた男がたまりかねて立ち上がり、本丸に注意した。「みんなの映画館や。もうちょっと静かに見てくれへんかな」
本丸は恐縮《きょうしゅく》するどころか、待ってましたとばかり、にたりと笑い、男を見上げた。
「僕《ぼく》も観客の一人ですよ。ちゃんと入口で料金払ってるんです。どんな風に見ようと、僕の自由だと思いますがね」
思いがけない反論を受け、男はかちんときた。
「見るのは勝手やわいな。ぶつぶつ喋らんといてくれ、言うてるねん」
「おや、変ですね? そりゃ確かに、上映前に『上映中のおタバコはおやめください』とか、『携帯電話《けいたいでんわ》のスイッチはお切りください』ってアナウンスはありましたけど、『独《ひと》り言《ごと》は言わないでください』とは言われませんでしたねえ。それともあれですか、大阪市の条例で、『映画館では喋ってはいけない』って決められてるんですか?」
男はますます苛立《いらだ》った。東京出身者ならともかく、同じ関西の人間に標準語で喋られるのは、関西人にとってひどく気に障《さわ》ることである。本丸はそこまで計算して、わざとらしく標準語を使っているのだ。
「条例なんか関係ない! 公共のマナーの問題やろが!」
「ほう、公共のマナーですか?」本丸は露骨《ろこつ》に嘲笑《ちょうしょう》を浮《う》かべた。「これはまたご立派なことをおっしゃいますねえ。失礼ですが、あなたはそんなに立派な方なんでしょうか? 電車ではお年寄りに席を譲《ゆず》ってあげてますか? 空缶《あきかん》はちゃんとゴミ箱に捨ててますか? 自分では何もしないくせに、他人のマナーをとやかく……いたっ!」
本丸は悲鳴《ひめい》をあげた。かっとなった男が、いきなり脇腹《わきばら》を蹴《け》りつけたのだ。
「……蹴りましたね」
痛みにもかかわらず、本丸は沈黙《ちんもく》しなかった。恐《おそ》れもしなかったし、反省もしなかった。それどころか、さっきよりいっそうの高慢《こうまん》な笑《え》みを浮かべ、男に強烈《きょうれつ》な侮蔑《ぶべつ》の視線を投げかけた。男はさすがに不気味なものを感じ、たじろいだ。
「ねえ、みなさん、見ましたよね? この人、僕を蹴りましたよね?」
彼は振《ふ》り返り、周囲の観客に大声で呼びかけた。みんな迷惑そうな様子で、見て見ぬふりをしている。それにもかまわず、本丸は声を張り上げた。
「僕が何もしてないのに、蹴りましたよね? 手も出してないし、悪口のひとつも言ってない僕を、いきなり蹴りましたよね? みなさんが証人ですよ。これは立派な暴行傷害《ぼうこうしょうがい》ですよね。裁判になったら、確実に有罪ですね」
「お前……!」
男は逆上して殴りかかろうとしたが、横にいた恋人に腕《うで》を押《お》さえられた。
「やめとき。あんなん、かまわん方がええで」
女はささやいた。男は顔をしかめ、「ちっ!」とつぶやいた。悔《くや》しいが、女の言う通りである。暴力を振《ふ》るっても、拳《こぶし》が痛くなるだけで、何の得にもならない。
カップルは離《はな》れた席に移動していった。一部始終《いちぶしじゅう》を耳にしていた他の観客は、何事もなかったかのようにスクリーンを見つめ続けているが、不快感は隠《かく》せなかった。
「へへへ……」
本丸は笑った。彼は他人を不快にするのが得意だった。決して暴力は振るわない。法律も破らない。言葉や行動で他人を不快にし、怒《いか》らせ、時として暴力に駆《か》りたてるのだ。
彼はそれを欠点と思うどころか、一種の特技だと誇《ほこ》りにしていた。他人を不愉快《ふゆかい》にすること、他人から憎《にく》まれることで、倒錯《とうさく》した優越感《ゆうえつかん》を味わっていた。みんなから嫌われるのは、自分が賢《かしこ》く優れた人間である証明だと錯覚していた。だから自分の性格を直そうなどとは夢《ゆめ》にも思わなかった。
暴力を振るわれることを、彼は恐《おそ》れなかった。むしろ大歓迎《だいかんげい》だ。暴行を受けても、彼はいっさい無抵抗《むていこう》だった。相手の人相や特徴《とくちょう》を克明《こくめい》に記憶《きおく》しておき、後で警察に訴《うった》え、逮捕《たいほ》してもらうのだ。
それは彼が中学生の時に編《あ》み出したテクニックだった。自分を見下《みくだ》していた上級生をわざと怒らせ、過激《かげき》な暴行に走らせたのだ。その上級生は教師たちから「暴力少年」と見なされて孤立《こりつ》し、さらにすさんだ生活を送るようになって、ついには少年院に送られた。一人の少年の人生が彼によって狂《くる》わされたのだ。
いや、一人だけではない。すでに数えきれないほどの人間が、彼によって多大な迷惑《めいわく》を蒙《こうむ》っているのだ。
「へへ……ほんまにしょーもない映画やで」
大勢《おおぜい》の観客を不快にできたことで、本丸はおおいに満足していた。
2 見えざる襲撃者《しゅうげきしゃ》
東京都|東村山市《ひがしむらやまし》・午前〇時――
かつん……かつん……かつんかつん……かつん。
人通りの絶えた深夜の住宅街に、何か硬《かた》いものがアスファルトの舗道《ほそう》を叩《たた》く音が、小さく、断続的《だんぞくてき》に響《ひび》いていた。それはさっきからずっと背後からついてくるのだ。ハイヒールの足音とは明らかに違う、もっと空虚《くうきょ》で不気味な音だ。
かつかつ……かつーん……かつんかつん。
音は大きくなったかと思えば小さくなり、間隔《かんかく》も不規則で、はっきりしたリズムはない。聞いていると妙《みょう》に苛立《いらだ》ってきて、不安をかきたてられる。
「はあ……はあ……」
汐月《しおづき》鳴海《なるみ》はコートの前をかき合わせ、早足で歩いていた。三月に入ったとはいえ、まだ冬の寒さだ。ひと呼吸ごとに白い息が夜の闇《やみ》に洩《も》れる。
本当は全力で駆《か》け出したいのだが、長いコートとハイヒールではこれが限界だ。心臓が激《はげ》しく動悸《どうき》し、息が荒《あら》くなっているのは、疲労《ひろう》のせいというより、胸を締《し》めつける不安と恐怖《きょうふ》のせいだった。今、彼女は自分の警戒心《けいかいしん》の欠如《けつじょ》を呪《のろ》っていた。
大学の友人たちと新宿で飲み会を開き、酒とカラオケで盛《も》り上がった帰りだった。友人たちは次々に途中の駅で降り、彼女が西武新宿線の東村山駅のホームに降りた時には、もう三月一日という日は終わろうとしていた。駅からマンションまで徒歩で十数分かかるが、通い慣れた道なのですっかり油断《ゆだん》していた。昨年末から世間を騒《さわ》がせている連続女性|襲撃事件《しゅうげきじけん》のことは、テレビや雑誌で知っていたが、自分には関係のないことだと思っていたのだ。
かつーん……かつかつん……かつん……かつんかつん……かつん。
彼女が歩調《ほちょう》を上げても、角を何度か曲がっても、音はぴったりとついてくる。それどころか接近してくるようだ。錯覚だろうか?――いや、違《ちが》う。確かに近づいてきている。
一度だけちらっと振《ふ》り返ってみたが、人の姿らしいものは見えなかった。それなのに音だけが追いかけてくる。
かつん……かつん……かつかつ……かつん。
声を出すべきだろうか? 彼女は迷った。だが、もし何かの勘違《かんちが》いだったら、ひどい恥《はじ》をかくことになる.
それに、助けを求める悲鳴《ひめい》をあげたとしても、近くの家から即座《そくざ》に人が飛び出してくるとはかぎらない。「都会人の犯罪に対する無関心さ」を実験したテレビ番組の内容が頭をよぎった。その番組では、二人の無名の役者を使って、人通りの多い街角で架空《かくう》の恐喝《きょうかつ》事件を演じさせていた。その一部始終《いちぶしじゅう》を隠《かく》しカメラが撮影《さつえい》していたのだが、ほとんどの通行人は事件を目撃しても見て見ぬふりをして、通り過ぎるだけだった。
当然だろう、と鳴海は思った。誰《だれ》だって犯罪や暴力と関わり合いたくはない。私だってそうだ。自分さえ無事ならいい。他の人がいくら不幸になろうと、殴《なぐ》られようと、殺されようと、私には関係ない……。
鳴海は絶望に襲《おそ》われた――誰もが私と同じように考えているとしたら、私を助けてくれる人は誰もいない……。
かつんかつん……かつんかつん……かつんかつんかつん。
音がさらに近づいてきた。心なしか、音の間隔《かんかく》が短くなり、速度が上がってきているようだ。ステッキか松葉杖《まつばづえ》のようなもので舗道《ほどう》を叩《たた》いているようだが、ステッキをついた老人や松葉杖の怪我人《けがにん》が、そんなに速く歩けるわけがない。
鳴海は振り返らなかった。振り返るのが恐《おそ》ろしかった。必死になって歩調を上げる。家はすぐそこだ。あの十字路を曲がれば、ほんの一〇〇メートルほどだ……。
かつんかつん、かつかつ、かつかつ、かつかつかつかつ……。
舗道《ほどう》を叩《たた》く音のテンポが急に速くなった。どんどん音が大きくなってくる。何かがすぐ背後に迫《せま》ってきている。
かつかつかつかつかつかつかつ……。
追いつかれる!
その瞬間《しゅんかん》、ほとんど実体あるもののように強烈な敵意を背中に感じ、鳴海の恐怖《きょうふ》は頂点に達した。
「誰《だれ》か……!」
耐《た》えきれずに声を洩《も》らした瞬間、何かが彼女の背中を激《はげ》しく殴打《おうだ》した。
「聞こえた?」
「聞こえた!」
そう言うなり、二人は駆《か》け出していた。一人は中学生ぐらいに見えるボーイッシュな少女で、ジャンパーの下から白い健康的な素足が伸《の》びている。もう一人は長髪《ちょうはつ》で眼鏡《めがね》をかけたコート姿の青年だ。青年の方がランニングに慣れているらしく、はるかに足が速い。
「蔦失《つたや》くん、待ってよ!」
少女はそう叫《さけ》んだが、蔦矢と呼ばれた青年はぐんぐん引き離《はな》し、角を曲がった。
「もう!」
少女は近道をすることにした。人間離れした跳躍力《ちょうやくりょく》で、さっと近くの民家の塀《へい》の上へ、さらに屋根の上へと飛び上がる。屋根の上を忍者《にんじゃ》のように走り、屋根から屋根へと跳躍して、最短距離で声のした場所を目指す。
二人がその場所に到着《とうちゃく》したのは、ほとんど同時だった。
「こいつは……!」
深夜の街路で展開されている異様な光景を目にして、一瞬《いっしゅん》、二人は立ちすくんだ。
電柱の根元にうずくまっている若い女性に向かって、長さ一メートルほどの木の棒が何度も何度も振《ふ》り下ろされていた。だが、その棒を握《にぎ》っているはずの者の姿は見えない――まるで透明人間《とうめいにんげん》が振り回しているように、棒だけが空中に躍《おど》っているのだ。
蔦矢は瞬時に理解した。これはトリックでもなければ錯覚でもない。自分たちと同類――妖怪《ようかい》のしわざに間違《まちが》いない。
彼は即座《そくざ》に妖術《ようじゅつ》を放った。藤《ふじ》の木の精である彼は、植物を操る能力がある。近くの民家の庭に植えられていた椿《つばき》の木の枝《えだ》を急成長させたのだ。細く伸びた枝はまるで鞭《むち》のように宙を走り、棒を握っているはずの見えない存在をからめ取ろうとした。
だが、枝は空を切った。敵の出現に気がついたのか、棒はさっと女性から離れた。近くの民家の塀をひょいと飛び越《こ》える。
「待て、こら!」
少女が追いかけようと、堀に向かってジャンプする。
次の瞬間、いったん塀の向こうに隠れていた棒が姿を現わし、ぶんと半回転して少女を殴《なぐ》りつけた。
「あたーっ!」
少女は悲鳴《ひめい》をあげ、跳《は》ね飛ばされた。フィギュア・スケーターのように空中でくるくると回転し、路上に叩《たた》きつけられる。
「かなたちゃん、だいじょうぶ!?」
蔦矢が慌《あわ》てて駆《か》け寄り、抱《だ》き起こした。
「つつーっ……効《き》いたあ……」
かなたは肩《かた》を押《お》さえ、顔をしかめた。人間ならば「効いたあ」どころでは済まない重傷のはずなのだが。
蔦矢はかなたに代わって敵を追いかけようとしたが、思いとどまった。目に見えない相手を追跡《ついせき》するのは困難だし、相手の力量も分からない。それに、今は被害者《ひがいしゃ》の女性を保護するのが先だ。
蔦矢は倒《たお》れている女性のそばにしゃがみこんだ。気を失ってはいるが、脈はしっかりしている。これなら助かりそうだ。すぐに携帯電話《けいたいでんわ》で救急車を呼んだ。
「それにしても――」彼は舌打ちした。「また防げなかったか」
被害者はこれで二六人目だった。
3 脈絡《みゃくらく》のないリスト
バー <うさぎの穴> 。
JR渋谷《しぶや》駅からさほど遠くない道玄坂《どうげんざか》一丁目の、とある雑居ビルの五階に、その店はある。柱も床も木でできていて、装飾《そうしょく》は少なく、落ち着いたアンティークな雰囲気《ふんいき》だ。照明はやや薄暗《うすぐら》く、ピアノからはいつも静かな曲が流れている。カウンターの中では人の良さそうな初老のマスターが、のんびりとグラスを磨《みが》いている。
ちょっと見たところ、どこといって変わったところのない、ごく普通《ふつう》のバーである。だが、この店には驚《おどろ》くべき秘密があるのだ。
ここは人間の姿で東京に隠れ棲《す》む妖怪《ようかい》たちのたまり場なのである。多くの人間はそんな店の名は知らないし、耳にしたことがある者も、たいていはただの怪談《かいだん》、都市伝説だと信じている。その店が実在していることを知る人間はごくわずかだ。無理もない。店は普通の人間の目には見えない仕組みになっているのだ。
「面目《めんぼく》ない」蔦矢は頭をかき、集まってきた一同に謝った。「せっかく霧香《きりか》さんが妖気《ようき》を感知してくれたってのに、事件を防げなかったうえに、取り逃《に》がすなんて……」
「まあ、しかたがないわね。相手が目に見えないんじゃね」
狩野《かのう》霧香は優しくなぐさめた。彼女は原宿で若者相手の占《うらな》い師《し》をしている。三〇代ぐらいの美しい女性だが、その正体は雲外鏡《うんがいきょう》――長い年を経《へ》た鏡の妖怪である。事件の真相を見破ったり、目に見えないものの気配を感知する能力に長《た》けているのだ。
今回の蔦矢たちの行動も、霧香が東京に出現した奇妙《きみょう》な妖気を偶然《ぐうぜん》に感知したのがきっかけだった。親しい仲間の放っている妖気とは明らかに異なり、長く生きている彼女でさえまだ出会ったことのない妖怪の気配だった。例の連続|襲撃事件《しゅうげきじけん》の犯人だとピンときた彼女は、妖気を追跡《ついせき》し、そいつが東村山市方面に潜伏《せんぷく》したのを確認した。そこで <うさぎの穴> の常連メンバーに連絡《れんらく》したのだ。
彼らはすぐに二人一組のチームを組み、東村山市のあちこちに散って、新たな事件の発生を阻止《そし》しようとした。だが、東村山といっても広いし、相手は見えない妖怪である。かなたと蔦矢が現場に居合わせたことすら、幸運と言える。
「かなた、怪我《けが》はいいのか?」
そう訊《たず》ねたのは、二〇代のハンサムな青年である。彼は水波《みなみ》流《りゅう》――日本人の女性と中国の龍《りゅう》の間に生まれたハーフだ。
「うん、まあね」
かなたはぐりぐりと肩《かた》を回した。まだ少しずきずきするが、行動に支障《ししょう》があるほどではない。妖怪は人間よりずっとタフなのだ。
「かなり素早い奴《やつ》だったね。あれじゃあ、捕《つか》まえるのは難しいね」
「何か匂《にお》いとかは?」
「うん? 獣《けもの》の匂いはしなかったな。人の匂いも」
かなたは狸《たぬき》なので、人よりずっと鼻が利《き》く。相手が狐《きつね》や狢《むじな》などの獣タイプの妖怪なら、それらしい匂いを発散していただろうから、すぐに気がついたはずだ。
「じゃあ、狢とかの仲間は容疑者から除外してよさそうだな」
「しかし、手がかりとしては少なすぎるな。姿を消せる妖怪ってのは、それこそたくさんいるからな」
そう発言したのは、いつもタバコをくわえている中年男、八環《やたまき》秀志《ひでし》である。彼は鴉天狗《からすてんぐ》で、このメンバーの中では年長の部類だ。
「どうだ、大樹《だいき》? 何か分析《ぶんせき》して、分かったことがあったか?」
「いや、それなんですけどね……」
太り気味で眼鏡《めがね》をかけた若者が、済まなさそうな表情で進み出た。高徳《たかとく》大樹――計算を得意とする算盤坊主《そろばんぽうず》≠ナ、コンピュータをはじめ各種雑学に詳《くわ》しく、いわば <うさぎの穴> の情報収集担当である。
「いちおう、これまでの二六件の事件をリストにまとめてみたんですが」
彼はそう言いながら、プリンターで打ち出した紙を全員に配った。そこに並《なら》んでいる名前は、すでに彼らには馴染《なじ》みのものだった。このところマスコミでも「姿なき連続女性|襲撃事件《しゅうげきじけん》」として、頻繁《ひんぱん》に報じられていたからだ。
氏名 住所 年齢 性別 職業 襲撃日
1 霧島薫 神奈川県平塚市 15 女 高校生 12/14
2 勝部かおり 千葉県木更津市 13 女 中学生 12/15
3 神代有紀 兵庫県西脇市 21 女 フリーター 12/17
4 佐々江明日美 北海道帯広市 11 女 小学生 12/21
5 間宮美衣子 三重県安濃町 15 女 高校生 12/24
6×斉藤礼美 岡山県加茂川町 15 女 高校生 12/28
7 貝沼ななえ 栃木県宇都宮市 24 女 銀行員 1/1
8 坂乃下黎 青森県五所川原市 15 女 中学生 1/5
9×富士田美佐子 新潟県三条市 17 女 高校生 1/8
10 星山貴子 群馬県前橋市 16 女 高校生 1/10
11 福島広海 神奈川県横浜市 13 女 中学生 1/12
12 貝沼ななえ 栃木県宇都宮市 24 女 銀行員 1/14
13 原千鶴 山形県天童市 14 女 中学生 1/17
14 金村遊馬 香川県白鳥町 12 男 中学生 1/22
15 山下香矢 福井県敦賀市 15 女 高校生 1/25
16 郷田綾乃 三重県津市 12 女 小学生 1/28
17 本田真琴 北海道函館市 15 女 高校生 2/4
18 藤井恵理 愛知県豊橋市 14 女 中学生 2/8
19×十津川あずみ 島根県安来市 24 女 OL 2/10
20 鷹野範子 島根県安来市 24 女 店員 2/10
21 山科由布子 島根県安来市 17 女 高校生 2/10
22 磯崎このみ 岩手県盛岡市 20 女 大学生 2/15
23 阿南幹雄 静岡県修善寺町 16 男 高校生 2/19
24×柴野鈴華 広島県広島市 18 女 大学生 2/23
25 松坂かりん 福岡県飯塚市 21 女 家事手伝い 2/26
26 汐月鳴海 東京都東村山市 19 女 大学生 3/1
襲《おそ》われたのは、下は小学五年生から上はOLまで。どちらかというとローティーンが多いが、二〇歳以上の女性も六人襲われている。女性だけではなく、一四番目の金村《かねむら》遊馬《あすま》と二三番目の阿南《あなん》幹男《みきお》は男である。被害《ひがい》は日本全国に散らばっているが、事件の間に一〜七日の間隔《かんかく》があるのは、同一犯人が交通機関を利用して移動していることを示しているようだ。だが、その出現地点には何の脈絡《みゃくらく》も見当たらない。島根県|安来市《やすぎし》では三人の女性が同じ日に襲《おそ》われているし、かと思えば貝沼《かいぬま》ななえという女性は二度襲われている。
自宅で眠《ねむ》っているところを、犯人が窓を破って乱入してきて殴《なぐ》られたという例が多い。そのため、被害《ひがい》者の多くは犯人の姿を目にしていない。今回の汐月鳴海のように、深夜に路上で襲われたという例も九件あるが、いずれも背後から襲われたので、やはり被害者は犯人を見ていない。
共通しているのは、棒状の鈍器《どんき》で全身をめった打ちにするという手口だ。運が良い者は軽傷で済んでいるが、全身|打撲《だぼく》の重傷で入院している者も何人もいる。
名前の前に×印がついているのは、不幸にも死亡した犠牲者《ぎせいしゃ》である。
警察は異常者の犯行と考えて捜査《そうさ》しているし、マスコミもそう報じている。しかし、妖怪《ようかい》たちの裏のネットワークには、何週間も前から別の情報が流れていた――数少ない目撃者《もくげきしゃ》の証言によれば、犯人は「透明《とうめい》人間」だったというのだ。
今回のかなたと蔦矢の遭遇《そうぐう》によって、その疑惑《ぎわく》が裏付けられたわけである。ただの異常者の犯行なら、警察に任せておけばいい。だが、妖怪のしわざとなると、放っておくわけにはいかない。
妖怪たちが山奥《やまおく》や森の中にひっそり暮《く》らしていたのは昔の話。時代の変化とともに、彼らの生き方も変わった。人間たちとともに街で暮らす者が増えたのだ。彼らはひそかにネットワークを形成し、情報を交換《こうかん》し合い、助け合って平穏《へいおん》に暮らしている。
その一方、ネットワークに所属しない孤立《こりつ》した妖怪も多い。古い因習《いんじゅう》から抜《ぬ》けられない頑固《がんこ》な妖怪や、逆に生まれたばかりの新しい妖怪だ。彼らの中には人間に害を成す邪悪《じゃあく》な者も少なくない。
妖怪は物理法則を超越《ちょうえつ》した様々な妖力を有している。彼らの犯罪を取り締《し》まるのは人間には不可能だ。妖怪による犯罪は、妖怪たち自身が捜査《そうさ》し、処分しなくてはならない。今回の事件もそうだ。妖怪同士が戦うのは気が滅入《めい》ることだが、この世が無法地帯と化すのを防ぐためには、どうしてもやらなくてはならないのだ。
しかし――
「何度見ても、共通点はなさそうだがなあ」
流が正直な感想を述べた。実際、いくらリストを見ても、脈絡らしいものは見えて来ない。
「でも、ただの衝動的《しょうどうてき》な犯行とも思えないわね」と霧香。「襲《おそ》われた人の年齢層《ねんれいそう》や性別に妙《みょう》な偏《かたよ》りがあるわ。でたらめに襲ってるんじゃなさそうね。今回の奴《やつ》の動きも、最初から汐月鳴海さんに狙《ねら》いを定めていたような感じだったわ」
「そうですかねえ……」
「ところで大樹、栃木の貝沼ななえさんについては、何か分かったのか?」
八環が訊《たず》ねた。貝沼ななえは元旦《がんたん》の初詣《はつもうで》の帰りに襲われ、この時は軽傷で済んだのだが、二週間後、今度は自宅で静養中に襲われ、全治三か月の重傷を負った。二回も襲われるとは何か理由があるのではないかと、警察でも詳《くわ》しく調べているが、彼女は平凡《へいぼん》な銀行員で、不審《ふしん》な点は何もないらしい。
「 <並木屋> の森分《もりわき》さんたちが調べてくれてますけど、勤務先の評判は悪くないし、怪《あや》しい要素は見当たりませんね」
<並木屋> は栃木県|今市市《いまいちし》にある手打ち蕎麦《そば》の店で、その主人の森分|巌《いわお》は追分地蔵の分身である。この <うさぎの穴> と同様、栃木のネットワークの中心なのだ。
「男が二人襲われてるのも分からないな」蔦矢もリストを見て首をひねる。「それとも、単に女に間違《まちが》われただけなのか?」
「それも調べたよ」と大樹。「たとえば香川の金村遊馬くん。彼の顔写真を見たけど、髪も短いし、ぜんぜん女の子には見えないんだ」
「確か家で寝《ね》てるところを襲われたんだろ? 暗かったから、別の部屋《へや》で寝《ね》ていた姉《ねえ》さんか妹と間違えられたとか……」
「彼は一人っ子だ。間違えようがないよ」
「うーん……」
「本人の性格はどうなんだ?」と八環。「誰《だれ》かに恨《うら》まれるような点はなかったのか?」
「その点についちゃ、稲田《いなだ》くんがしっかり調べてくれたよ」
そう言って、かなたがファックス用紙をひらひらさせた。稲田|健一《けんいち》は徳島に住む化け狸《だぬき》で、表向きは高校二年の少年である。
「金村遊馬くんは内気な性格で、学校ではあまり友達はいなかったみたい」かなたは四国から送られてきたファックスを読み上げた。「でも、いじめられてたとか、誰かに恨まれてたってこともなかったみたいだね。成績は中の上。趣味《しゅみ》はアニメとマンガ……あはは、あたしと同じだ。それと文通」
「文通?」流がぴくりと反応した。「それってもしかして……?」
「他の被害者《ひがいしゃ》の誰かと文通してたんじゃないか、って言いたいんでしょ? 残念でした。稲田くんはそれもちゃんと調べてくれてるよ。わざわざ金村くんの部屋に忍《しの》びこんで、文通相手のリストを見つけたけど、他の被害者の誰とも接点はなかったってさ」
「うーん、だめか」流は肩《かた》を落とした。
「いや、そうともかぎらないんだ」大樹は腕《うで》を組んだ。「僕《ぼく》はどうもその点が気になってるんだよな」
「というと?」
「犠牲者《ぎせいしゃ》の趣味や生活|環境《かんきょう》に関しては、各地のネットワークの協力のおかげで、かなり情報が集まってきている。たとえば霧島《きりしま》薫《かおる》、勝部《かつべ》かおり、佐々江《ささえ》明日美《あすみ》、間宮《まみや》美衣子《みいこ》、星山《ほしやま》貴子《たかこ》、福島《ふくしま》広海《ひろみ》、郷田《ごうだ》綾乃《あやの》、本田《ほんだ》真琴《まこと》……彼女たちはみんなアニメやマンガが好きだったことが判別してる」
「珍《めずら》しくないだろ、その年頃《としごろ》の子供なら」と流。
「ああ――でも、彼女たち全員、文通が趣味だったんだよ」
「ええっ!?」流が身を乗り出しかけた。「それじゃあ――」
「ところが」大樹はさえぎった。「鷹野《たかの》範子《のりこ》、磯崎《いそざき》このみ、阿南幹雄、柴野《しばの》鈴華《すずか》……このあたりの後期の犠牲者に関しては、アニメなんかぜんぜん興味ないし、文通もやってないことが分かってるんだよな」
「うーん」流は浮《う》かしかけた腰《こし》をどっかと落とした。「じゃ、単なる偶然《ぐうぜん》か?」
「そうとも思えない。アニメ・ファンで文通が趣味の人間って、そんなに多くないはずだ。同じ趣味の人間がこんなに集まるのは、明らかに変だ」
「でも、彼ら同士が文通していたわけじゃない……」
「うん。それに、他にも気になるところがあるんだ」大樹はリストの後半を指差した。「たとえば二月一〇日に島根県内で起きた三件の事件。十津川《とつがわ》あずみと鷹野範子は同じ高校の卒業生だし、鷹野範子と山科《やましな》由布子《ゆうこ》の住所は五〇〇メートルと離れていない」
「三人の間に何か関係は?」
「いや」大樹はかぶりを振《ふ》った。「 <松屋> の八重《やえ》さんたちに調べてもらったけどね。十津川あずみと鷹野範子は同じ学年だったけど、クラスもクラブも違《ちが》うし、交友関係はまったくなかったそうだ。鷹野範子と山科由布子も、住所が近いというだけで、関係らしいものはまったく見当たらない」
「本当に? 何か大事なことを見落としてんじゃないのか?」
「八重さんの調査なら、信用していいわよ」
霧香が太鼓判《たいこばん》を捺《お》した。 <松屋旅館> は出雲大社《いヂもたいしゃ》の裏手の松林《まつばやし》にある古い旅館で、中国地方で最大の妖怪《ようかい》ネットワークの拠点《きょてん》である。女将《おかみ》の渡橋《わたはし》八重は出雲大社の注連縄《しめなわ》の化身だ。彼らのネットワークには出雲地方の土地神やその配下の妖怪が多数所属していて、当然のことながら、情報収集能力にも長《た》けている。
「でも、偶然にしちゃあ変だよねえ」かなたは納得《なっとく》できない様子だった。「島根でだけ連続三件なんてさ」
「それに、この事件の後、急に被害者の年齢層《ねんれいそう》が上がってるだろ?」
「あ、ほんとだ」
リストを見て、かなたが声をあげた。一九番目の事件以降、一五歳以下の被害者は一人もいない。
「つまり、島根で起きたこの三件の事件を境に、被害者《ひがいしゃ》の層が変化したんじゃないかと思うんだ。アニメや文通が趣味の層から、別の趣味の層にさ」
「なぜ?」とかなた。
「どんな層に?」と蔦矢。
「それに、どうして島根で続けて三件起きたんだ?」と流。
大樹は大きくため息をついた。お手上げのポーズをして、三人の質問に率直に答える。
「分からん。分からん。分からん」
「うーん……」
大樹のため息が会員に伝染した。犯人の意図《いと》が分からず、次の被害者が予測でき払いのでは、まったく手の打ちようがない。
しかし、こうして手をこまねいている間にも、日本のどこかで次の事件が起きるかもしれないのだ。
4 思いがけない接点
渋谷区・センター街にある喫茶店《きっさてん》――
「そう、大変なのねえ」
かなたから話を聞かされ、守崎《もりさき》摩耶《まや》にもため息が伝染した。
このおとなしそうな少女も <うさぎの穴> の常連だが、彼女自身は妖怪《ようかい》ではない。ただ、夢魔《むま》を呼び出して操る特殊《とくしゅ》な能力を持っている。一時は夢魔がコントロールできずに怯《おび》えていた頃《ころ》もあったが、最近はかなり自信がついてきた。それもこれも、かなたたちと知り合ったおかげだと感謝している。
「ごめんなさいね。最近、お仕事が忙《いそが》しくて協力できなくて……」
「いい、いい、気にしなくたってさ」かなたは手を振《ふ》った。「摩耶ちゃん、がんばってんだから」
摩耶は母親と対立して家を飛び出し、今は恵比寿《えびす》にある安アパートで一人暮《ひとりぐ》らしをしている。高校もやめ、コンビニでバイトをして生計を立てていた。家賃や光熱費を払《はら》うとわずかな金額しか残らず、決して楽な暮らしとは言えなかったが、少なくとも充実《じゅうじつ》した毎日ではあった。親の庇護《ひご》の下《もと》ではなく、自分の力で生きているという実感があるからだ。
「でも、昨日もまた京都で起きたんでしょ?」
「うーん、そうなんだよね……」
かなたの表情が暗くなった。昨日、三月五日の深夜、今度は京都で小松原《こまつばら》理穂《りほ》という二〇歳の大学生が襲《おそ》われたのだ。二七人目の犠牲者《ぎせいしゃ》である。
幸い、ごく軽傷だったらしいが、東村山での事件の時に犯人を取り押《お》さえていればと、侮《くや》まれてならない。
「いったいこいつ、何の恨《うら》みがあるのかなあ。この人たち、べつに悪いことなんかしてなさそうなのに……」
テーブルの上のリストを見下ろし、かなたはいつになくけわしい表情を見せていた。
「あ……」
何気なくリストを眺《なが》めていた摩耶が、小さく驚《おどろ》きの声をあげた。
「貝沼ななえさんも襲《おそ》われてたんだ……」
彼女も事件のことは耳にしていたが、これまで犠牲者《ぎせいしゃ》リストを注意して見る機会がなかったのだ。新聞は取っていないし、テレビのニュースもあまり見ない。
「摩耶ちゃん、知ってんの?」
「え……ええ」摩耶は顔を赤らめた。「あの……この人の同人誌、持ってるから」
「へ? 同人やってんの、この人?」
「ええ。東海林《じょうじ》ちはるってペンネームなの。でも、本名の方がペンネームっぽくて変だなって思って、それで覚えてたの」
「へえ……ジャンルは?」
「『ミラージュ』系。でも、去年の冬のイベントでブースに行ったら、『ビーストウォーズ』に転んだとか言って、やおい本出してた」
かなたの表情がさすがにひきつった。「そ……それはすごい転び方ね」
「そうでもないわ。よくあるもの。『|W《ウイング》』から『ブラックジャック』に転んだサークルとか知ってるし」
「でも、どーゆーカップリングなの、いったい?」
「タイガトロン×エアラザー。ラザー受け」
「はあ……」
かなたは深いため息をついた。自分もけっこうアニメ・ファンだと思っていたが、この世界はまだまだ奥《おく》が深い。
「栃木のネットが探り出せなかったのも無理ないか。ペンネーム使ってるし、同人活動、それもやおいなんて、普通は勤め先や近所の人には秘密だもんね……」
そう言って、かなたはふと疑問を抱《いだ》いた。
「でも、摩耶ちゃん、よく貝沼さんの本名、知ってたね?」
「ええ。通販《つうはん》で買ったことがあるから。去年の七月頃かな。『ファンタジュウム』の同人誌コーナーで紹介《しょうかい》されてたの」
「『ファンタジュウム』……」
かなたはつぶやいた。それはアニメとマンガの専門誌で、読者|投稿《とうこう》のコーナーが多いのが大きな特徴《とくちょう》だ。『ニュータイプ』などの大手に比べると部数はかなり少なく、マニア好みの雑誌と言える。
かなたの首筋に、むずむずするものがあった。何かひっかかる。野性の直感とでも言うべきものが、しきりに警報を鳴らしているのだ――正解がすぐ近くにあると。
彼女は考えこんだ。同人誌の通販《つうはん》をやっている女性と、文通が趣味《しゅみ》の若者たち。彼らの共通点は……。
「ちょっと待ってね」かなたはジャンパーの内ポケットからごそごそとPHSを取り出した。
「何なの?」
「いや、ちょっと気になることがあってさ」
かなたがプッシュしたのは、徳島の稲田健一の自宅の番号だった。
「帰ってるかなー……あっ、稲田くん? あたし、かなた」
<あっ、あっ、かなたさんですか>
電話の向こうの少年の声は緊張《きんちょう》していた。賢一は以前に東京に来た時、かなたと出会って一目惚《ひとめぼ》れしているのだ――かなたの方ではただの知り合いとしか思っていないのだが。「ちょっと確認したいことがあって電話したんだけどさ」
<はい、何でしょう?>
「金村遊馬くんの部屋《へや》に入ったって言ってたよね? その時、本棚《ほんだな》にどんな本があったか覚えてる?」
<本ですか? マンガばっかりで、特に変わったもんはありませんでしたよ。『るろ剣《けん》』とか『コナン』とか、あとゲーム関係の攻略本《こうりゃくぼん》がいろいろ……>
「雑誌は?」
<ええと、中学生向けの学習誌と……あと、『ファンタジュウム』が並んでましたっけね>
かなたはにやりと笑った。これはヒットかもしれない。
「分かった。ありがと」
かなたはいったん電話を切ると、さらに続けて、各地のネットワークに次々と確認の電話を入れていった。千葉県|我孫子市《あびこし》の <メロウ> 、青森県|弘前市《ひろさきし》の <さくらや> 、札幌の <摩周《ましゅう》> 、神戸《こうベ》の <かすみ> ……。
予想通りだった。
勝部かおり、神代《かみしろ》有紀《ゆうき》、佐々江明日美、坂乃下《さかのした》黎《れい》……彼女たちの部屋の本棚には、いずれも『ファンタジュウム』があったのである。
5 編集部訪問
アニメ雑誌『ファンタジュウム』の編集部は、JR水道橋駅から徒歩で五分ほどのところにある。古い小さな雑居ビルの四階にあり、狭苦《せまくる》しくてやけに遅《おそ》い旧式のエレベーターに乗らねばならない。
小さな待合室に案内されたかなたは、もの珍《めずら》しそうにあたりを見回していた。待合室といっても、編集部との間は薄《うす》いカーテンで仕切られているだけで、本や紙の山が乱雑に積み上げられた机や、原稿《げんこう》に赤ペンで何やらチェックを入れている編集部員の姿がかいま見える。ソファーは使われすぎて変色し、部分的にすり切れていた。壁《かべ》にはべたべたと作家の色紙やポスターが貼《は》られ、本棚にはアニメやマンガ関係だけではなく、なぜか旅行や芸能、料理などの本も並んでいた。棚の上には正体不明のトカゲ怪人《かいじん》の着ぐるみの頭部が載《の》っていて、うつろな目でかなたを見下ろしている。
(こんなとこで作ってるのかあ)
雑誌の編集部というと、何となくパソコンがずらりと並んだきれいなオフィスのようなところを思い描《えが》いていたので、意外に雑然とした雰囲気《ふんいき》にかなたは驚《おどろ》いていた。
「ああ、お待たせ」
カーテンの向こうから、痩《や》せぎみで眼鏡《めがね》をかけた四〇代の男が現われた。『ファンタジュウム』の編集長、甘夏《あまなつ》正樹《まさき》である。
「ルポライターの方……ですか?」
手渡《てわた》された名刺《めいし》と、目の前に座っている三〇代の美女を見比べ、甘夏は軽いとまどいの表情を浮《う》かべた。若い作家が打ち合わせのためにやって来たり、読者が見学に訪れるのはしょっちゅうだが、取材を受けることはめったにない。
もちろん、その名刺が偽物《にせもの》であることも、目の前にいる美女が狸《たぬき》の化けたものであることも、甘夏は知らない。
「ええ、現代の若者の風俗を取材しておりまして」かなたは今の姿に見合ったとびきり上品な声を出した。「アニメ・ファンの若者の考え方や生活について調べているところなんです。聞くところによりますと、こちらのファンタジュウム』は多くの若者の支持を得ているということですが?」
「支持、というんですかね」甘夏は恥《は》ずかしそうに笑った。「まあ、大手出版社の雑誌に比べると部数は少ないですが、固定した熱心な読者は多いですね」
かなたはメモを取り出した。「読者の平均|年齢《ねんれい》は?」
「一五歳前後ってとこですかね。年取ってやめていく読者がいる一方、若い読者もコンスタントに入ってきますから」
さらにいくつか、当たり障《さわ》りのない質問をしたところで、かなたは本題を切り出した。
「何万人という読者がいるわけですよね。何かトラブルみたいなものはありますか?」
「ま、小さいトラブルはしょっちゅうですよ」甘夏は苦笑した。「読者が大勢《おおぜい》いれば、中には変なのもいますからね。この前も、あるアニメのパロディ作品を掲載《けいさい》したら、『あれは盗作《とうさく》だ』ってマジで抗議してきた奴《やつ》がいましたね。パロディってもんが根本的に理解できてないんですね」
「はあ」
「でも、ここんとこ、やっぱり大きなトラブルっていうと、棒の手紙≠ナすかね」
かなたは驚《おどろ》いた。「え? 棒?」
「本当は不幸の手紙≠ネんですよ。昔からよくある、『この手紙を書き写して何日以内に何人の人に送らないと不幸が訪れます』ってやつ――ご存じでしょ?」
「ええ、まあ……」
「二年ほど前から、うちの雑誌の文通希望コーナーに名前が載《の》った読者の中に、不幸の手紙を受け取る被害《ひがい》が続出しましてね――ほら」
甘夏は手近にあった『ファンタジュウム』を一冊取り上げ、文通希望コーナーのページを開いてみせた。「○○が好きな方、文通してください」とか「お友達になってください」「イラ交しましょう」といったハガキが何十通も掲載《けいさい》されている。
「この通り、住所氏名がたくさん載ってるでしょ? それで不幸の手紙の標的にされやすいんですよ。見知らぬ人間の住所が簡単に手に入るわけですからね――ああ、それと同人誌の通販《つうはん》コーナーで紹介《しょうかい》された人も、よく被害に遭《あ》うようですね。そんなもの、受け取っても捨てちまえばいいんですがね。迷信深い読者もけっこういましてね。『気味が悪くて捨てられない』とか『どうしたらいいんでしょう』って問い合わせが、一時期、殺到《さっとう》したんですよ」
「何か対策は?」
「去年の三月号で読者に呼びかけたんですよ。『不幸の手紙を受け取った人は、編集部に送ってください。こちらでまとめて処分いたします』ってね。そしたら、毎月、何十通も送られてくるようになりましてね。いや実際、あんなにたくさん出回ってるとは、ちょっと意外でしたね。
ところが去年の六月|頃《ごろ》からですか、棒の手紙≠ェ急増しはじめたんですよ。まあ、これが傑作《けっさく》でしてね――そうだ、実物をお目にかけましょう」
そう言うと、甘夏はいったん奥にひっこむと、膨《ふく》らんだ大きな事務用|封筒《ふうとう》を抱《かか》えて戻《もど》ってきた。中身をざっとテーブルの上にぶちまける。みんな封筒だった。その数の多さに、かなたは圧倒《あっとう》された。
「これがみんな……不幸の手紙?」
「そうです――ほら、このあたりは去年の三月頃に届いたやつで、まだ初期のバージョンですね」
そう言って甘夏は、一枚の便箋《びんせん》を封筒から取り出し、開いてみせた。中には横書きの汚《きたな》い字でこう書いてあった。
[#ここから3字下げ]
28人の方に不幸をお渡しLます。
これは不幸の手紙です。必ず書き写して次の人に回さなくてはいけません。
大阪府花柿郡の四野佐和子さんが手紙を止めたために恋人に殺されました。
これは本当のことです。いたずらではありません。
私は718番目です。
※次に書くことに注意して下さい
1.この手紙を14日以内に文章を変えずに28人に出して下さい。
2.必ず手で書き直して下さい。
(ワープロ、コピーは不可)
3.14日以内に見せてはいけません。
(男女関係なく)
以上を必ず守って下さい。
一つでも守らなかった場合、あなたに不幸が訪れます。
[#ここで字下げ終わり]
「多少、変なところはありますけど、このあたりはまだちゃんと不幸≠ノなってますよね?」甘夏は嬉《うれ》しそうに別の手紙を開いてみせた。「ところが、六月頃になると、こういうのが来るようになったんです」
[#ここから3字下げ]
28人の分の棒をお返しします。
これは棒の手紙です。必ず書写して次の人に回さなくてはいけません。
大阪府花柿郡の西野左和子さんが手紙を止めたせいで変人に殺されました。
これはほんとのことです。いたずらではありません。
私は729番目です。
必ず次に書くことに注意して下さい
1.この手紙を14日以内に文章を変えずに28人に出して下さい
2.必ず手で書き直して下さい
(ワープロ、コピーは不可)
3。14日以内に見せてはいけません
(男女関係なし)
以上を必ず守って下さい。
1つでも守らなかった場合、あなた棒が訪れます。あなたには何の関係もありません。手紙を出してしまった私を恨むならば、こんな手紙を書きはじめた人を恨んで下さい。
さようなら。
[#ここで字下げ終わり]
「分かります? 不幸の『不』と『幸』がくっついちゃって、『棒』になっちゃったんですよ」甘夏は笑った。「途中でかなり字の汚《きたな》い奴《やつ》がいたんでしょうな。次の奴がそれを読み間違《まちが》えて、律義《りちぎ》に『棒』と書き写したんですよ。それ以来、ずーっと『棒』が続いてるわけです」
かなたは手紙を見比べてあきれ返った。よく見れば、他にもたくさんの相違点《そういてん》がある。「28人の方に」が「28人の分の」に、「お渡し」が「お返し」に、「四野佐和子さん」が「西野左和子さん」に、「恋人」が「変人」になっている。
彼女は顔を上げた。「じゃあ、今でも棒の手紙≠ヘ届いてるんですか?」
「と言うか、九月頃には不幸≠フバージョンは絶滅しちゃって、今では全部棒の手紙≠ノなってますよ。まあ、今年に入ってからは少なくなったかな……」
かなたは確信した。これは重要な手がかりだ。
「よろしければこの手紙、何通かお借りできませんか? 記事に使いたいので」
「ああ、だったら、全部持ってってくださってもいいですよ」甘夏はあっさりと言った。「どうせ、まとめて処分しようと思ってたもんですから」
6 恐怖《きょうふ》の系図
「うわっ、何だよこれ!?」
<うさぎの穴> に足を踏《ふ》み入れたとたん、流はすっとんきょうな声をあげた。店の床《ゆか》一面に、数百枚の手紙が並べられているのだ。
「踏まないでくれよ!」床に這《は》いつくばっていた大樹が警告した。「せっかく番号順にきちんと並べたんだから」
流はカウンターに削ってそろそろと歩き、手紙の列を迂回《うかい》した。
「……これが例の棒の手紙≠チてやつ?」
「そう」封筒《ふうとう》の消印を一通ずつチェックしてメモしながら、大樹が答えた。「厳密に言うと、最初の方は不幸の手紙だ。棒≠ノなるのは去年の六月、七二三番台あたりからだな。欠けてるナンバーもあるから、正確に何番からかは断言できないが。少なくとも、七二九番以降は全部棒≠セな」
大樹はやけに楽しそうだった。彼は情報を検索《けんさく》したり数字を調べたりするのが大好きなので、こういう作業になると生き生きとする。
流は一枚の手紙を取り上げた。「大阪に『花柿郡』なんて地名あるのか?」
「ないよ。関西のネットに問い合わせたら、『茨木市郡《いばらきしこおり》』の間違《まちが》いだろうと言ってきた。『茨』が『花』になって、『木』と『市』がくっついて『柿』になったんだな」
「じゃあ、この西野さんが恋人に殺されたって事件は……?」
「それも神戸の <かすみ> で検索してくれたけど、ここ数年内に、該当《がいとう》する事件はないそうだ」
「じゃあ、嘘《うそ》っぱちか?」
「ああ。たぶん地名や名前には深い意味はないだろう。四野だか西野だかいう人も、実在しないと思うね――だいたい、文面を変えちゃいけないなら、手紙を止めた西野さんが殺されたことを、誰《だれ》がどうやって手紙に書けたっていうんだ?」大樹は首を振った。「まったく非論理的だよなあ」
数字に強い彼は、非論理的なことにはがまんならない性格なのだ――妖怪《ようかい》のくせに。
「ねえねえ、後の方に行くほどハチャメチャだよ」
列の端《はし》の方――番号の新しい手紙を読んでいたかなたが愉快《ゆかい》そうに言った。
「この七三七番なんて、すごいよ。『ワー石、北一は何』だって」
「何だよ、それ?」
「『ワープロ、コピーは不可』」
その字を手の平に横書きにしてみて、流は納得《なっとく》した。「なるほど、『コピー』が『北一』か……」
「他にも、『変に殺されました』とか『Dでも守らなかった場合』とか『関係ありまん』とか『恨《うら》むらば』とか、もう無茶苦茶《むちゃくちゃ》」
「そんなの、誤字だって気がつきそうなもんだがなあ……」
「誤字だと分かってても、直せないんでしょうね」大樹の作業を最初から眺《なが》めていた霧香が、しみじみと言った。「『文章を変えずに』って指示があるから、恐《おそ》ろしくて直せないのよ。だから誤字が定着してしまうのね」
「そのくせ、こんなにたくさん書き間違《まちがい》いするんだもんなあ」かなたが手紙の海を見渡《みわた》して言った。「笑っちゃうよね」
「この最後の『手紙を出してしまった私を恨むならば』っていう言い訳の文章もそうだよ」と大樹。「初期のバージョンにはないんだけど、七二一番から出現して、その後、ずーっと続いてる。誰かが心が痛んで、思わず書き加えたんだろうけど、それ以降の奴《やつ》は、それも手紙の一部と思いこんで、書き写し続けてるんだな」
「なんつーか……生物の進化を見るみたいだな」
蔦矢がなかばあきれながら感想を述べた。
「それは的確なアナロジーだな」大樹はうなずいた。「生物の進化も、突然《とつぜん》変異――つまり遺伝子のコピーミスが原因だからな。些細《ささい》なコピーミスが積み重なった結果、新しい種《しゅ》が生まれてくる。最初は繁栄《はんえい》していた不幸の手紙も、恐竜《きょうりゅう》のように絶滅《ぜつめつ》して、新たに台頭した棒の手紙≠ェ広がる……まさに生物そのものだよ。いや、自力では増殖《ぞうしょく》できないんだからウィルスと呼ぶべきかな?」
「じゃあ、まだまだ進化し続けるのか?」
「どうかな。あまり誤字が多くなりすぎると、文面が不明瞭《ふめいりょう》になって、指示に従って書き写す人間も少なくなるだろう」
「確かに、『北一は何』じゃ、何のことだか分からんもんなあ」
「編集長の話じゃ、最近は棒の手紙≠フ被害《ひがい》は少なくなってるそうだ。それが原因じゃないかな」大樹は列のいちばん端《はし》の手紙を取り上げ、消印をチェックした。「これが今のところいちばん新しいやつだ。七四〇番……二月二〇日に投函《とうかん》されてる」
「消印から何か分かるの?」とかなた。
「ああ、いろいろとね」大樹は列の反対側を指差した。「この中でいちばん古いのは七一七番、去年の二月一八日に島根で投函された、まだ不幸≠フバージョンだ。それから一年で七四〇番まで進んだ。ということは、番号が一つ増えるのに平均して約一六日かかってる計算になる。手紙が投函されてから届くまでに約二日かかることから考えると、みんな『14日以内』っていう期限ぎりぎりに投函してることが分かる」
「出すべきかどうか、直前まで迷ってんのかな?」
「たぶんね。良心の呵責《かしゃく》ってやつと戦ってるんだと思うよ」
「なるほどねえ」かなたは感心した。単純な数字からだけでも、人間の心理をうかがい知ることができるものである。
「ちょっと待てよ。七四〇番ってことは……」流の頭の中で数字が渦《うず》を巻いた。「いったいこれ、何年読いてるんだ?」
「いや、そんなに長くは続いてないさ。よく考えてみなよ。遡《さかのぼ》っていったら、最初に『私は1番目です』って奴がいたわけか?」
それは明らかに論理的|矛盾《むじゅん》である。
「まあ、確かに……」
「それに、初期の手紙ほど誤字が少ない。誤字の増殖《ぞうしょく》するスピードから考えると、最初の手紙が書かれたのはそんなに前じゃないはずだ。たぶん、七〇〇番台からスタートしたんじゃないかな。『ファンタジュウム』の読者が標的になったのは七一七番以降だから、それ以前のことはよく分からないが」
「犠牲者《ぎせいしゃ》と『ファンタジュウム』との関連は立証されたのか?」
「もう、どんぴしゃ」とかなた。「『ファンタジュウム』のバックナンバーを調べたら、最初の霧島薫さんから一八人目の藤井《ふじい》恵理《えり》さんまで、みんな文通希望コーナーか同人誌|通販《つうはん》コーナーに住所が載《の》ってんだよね」
「じゃあ、被害者はみんな棒の手紙≠受け取ってたわけか……」
「たぶんね。一九人目以降の人は、別系統で受け取ってたんだと思うよ」
「俺《おれ》はアニメのことはさっぱりだが」それまで黙《だま》っていた八環が口をはさんだ。「何でその雑誌の読者ばかりが棒の手紙≠フ標的になるんだ? 何か特別な理由でもあるのか?」
「うーんとね、編集長さんが言ってた。こういうのは同じ雑誌の読者の中でぐるぐる回る傾向《けいこう》があるんだって」
「ぐるぐる回る?」
「そう。手紙を受け取った人は、それを二八通書き写してから、さて誰《だれ》に送ろうかと考える。知り合いに送るのは心苦しいから、やっぱり同じ雑誌の文通コーナーに載《の》ってる住所を安直に利用するんだろうって。だから、文通コーナーに載った人同士の間で不幸の手紙が行き来するわけ。何度も不幸の手紙を受け取っちゃう人もいるらしいよ」
「やれやれだな」
「ほんと――でも、これで犯人の正体がはっきりしたね」
「そうね」霧香がうなずいた。「私たち、大きな勘違《かんちが》いをしていたんだわ。透明《とうめい》な妖怪《ようかい》が棒を振《ふ》り回してるんだと思ってた――でも、実際はあの棒そのものが妖怪だったのよ」
妖怪は人の想《おも》い≠ゥら生まれる。自然に対する畏敬《いけい》の念、闇《やみ》に対する恐怖《きょうふ》、未知のものに対する不安や偏見《へんけん》、道具に注《そそ》がれる愛情……それらが強くなった時、想いは実体を帯び、生命が誕生《たんじょう》する。それが妖怪なのだ。霧香や八環たちも、元はと言えばそうして生まれてきたのである。
現代でも新しい妖怪は絶え間なく生まれ続けている。口裂《くちさ》け女、トイレの花子さん、てけてけ、高速道路を時速一〇〇キロで走る女……そうした都市伝説を信じる人々の心が、実際にそれらの妖怪を生み出すのだ。
今回の襲撃事件《しゅうげきじけん》もそれに違いない。棒の手紙≠受け取り、棒≠ェ訪れることを恐《おそ》れた若者たちの心が、実際に妖怪棒≠生み出してしまったのだろう。
「『1つでも守らなかった場合、あなたに棒が訪れます』か……」流は一通の手紙に目を通し、顔をしかめた。「こういうのを受け取って、指示通りに出す人間って、何人ぐらいいるんだろう?」
「二八人中、一人か二人だね」大樹が自信たっぷりに言う。
「何で断言できるんだ?」
「簡単な計算だよ。仮に手紙を受け取った二八人全員が次の二八人に出したとすると、七八四人が手紙を受け取ることになる。その次は二万一九五二人、その次は六一万四六五六人、次は一七二一万三六八人……その次には四億八〇〇〇万人にもなって、日本の人口を軽く突破《とっぱ》してしまう」
「ふうん?」
「二八人中、三人だけが出したとしても、たいして変わらない。たった二〇世代目で、手紙の数は三の一九乗かける二八……つまり」
さすがに自分の頭では計算できず、大樹は愛用の関数電卓を取り出して計算した。
「三二五億通に膨《ふく》れ上がる計算になる。しかし、実際には手紙は二〇世代以上続いているのに、そんなに爆発的《ばくはつてき》に増えていない。つまり、受け取っても書き写す人間は一人か、せいぜい二人だろうと推測できる」
「大半の者は、不幸の手紙なんか受け取ってもゴミ箱《ばこ》に捨ててるってわけだ」八環は感心した。「意外に健全なんだな」
「でも、一人か二人は必ず、書き写してしまう人がいる……」
そうつぶやく霧香の口調は、どこか悲しげだった。
どんなに時代が変わろうと、人間は迷信深い生き物である。特に若い女性は迷信や占《うらな》いに弱い。「あなたに不幸が訪れます」と言われると、まったく何の根拠《こんきょ》もないにもかかわらず、不安にかられてしまう者が大勢《おおぜい》いる。本当に不幸が(あるいは棒≠ェ来たらどうしようと思い悩む。それでもほとんどの者は、勇気を出して手紙を捨てる。
だが、二八人中、一人か二人、必ず意志の弱い者がいる――自分が不安から逃《のが》れるためなら、見知らぬ二八人に不幸を押《お》しつけてもかまわないと考える、卑劣《ひれつ》な人間が。
彼らがいるかぎり、棒の手紙≠ヘいつまでも続くのだ。
「だとしたら、次の被害者《ひがいしゃ》をどうやって予測すりゃいいんだよ?」流は苛立《いらだ》った。「手紙を受け取った人間の大半が捨ててるんなら、棒≠フターゲットになる人間は日本全国に何百人、何千人もいるわけじゃないか!」
「いや、そうともかぎらないぞ」消印をひと通りチェックし終えた大樹が立ち上がり、メモを見ながら言った。「手がかりはある。この手紙の消印には、ある傾向《けいこう》があるんだ」
「ある傾向?」
「そう――たとえば七三四番の手紙、これは埼玉から去年の一二月に投函《とうかん》されている。七三一番は岡山、七二四番は、栃木、七二一番は福井……そして、この中で最も古いのは、さっきも言ったように、島根から投函された七一七番だ」
「それがどうかしたのか?」
「まだ決定的|証拠《しょうこ》とは言えないが……」
大樹はしばらく考えてから、振《ふ》り返ってかなたを見た。
「なあ、摩耶ちゃんが貝沼ななえの同人誌、持ってるって言ったよな? それ、借りてきてくれないかな」
「えっ、大樹くん、やおいなんか読むの?」
「違う違う」大樹は慌《あわ》てて否定した。「その手のマンガは興味ないよ。同人誌にはたいていフリートークのページってのがあるだろ? それを確認したいんだ。大至急」
「分かった」
「それと、京都の <陽閑寺《ようかんじ》> に連絡だ。この前襲われた小松原理穂について、調べて欲しいことがある」
7 明かされた真実
二時間後――
「やっぱりそうか!」
摩耶の持ってきた同人誌と、一通の棒の手紙≠見比べた大樹は、歓声をあげた。
「このフリートークのページの書き文字、この七二四番の手紙の筆跡《ひっせき》と同じだ」
摩耶は驚《おどろ》いた。
「えっ、じゃあ」この手紙を書いたの、貝沼さんなんですか?」
「それだけじゃない。七二九番も彼女が出したはずだ。自分が出した棒の手紙≠ェぐるっと回ってきて、また受け取ったんだ。だから彼女は二回|襲《おそ》われたんだよ。そして僕《ぼく》の考えが正しいなら――」
大樹は床《ゆか》にずらっと並んだ手紙を端《はし》から順に指差していった。
「七三五番は霧島薫、七三四番は勝部かおり、七三三番は神代有紀……そして、この中で最も古い七一七番は、島根の十津川あずみが書いたはずだ」
流は目を丸くした。
「手紙を出した人間が襲われてるっていうのか!?」
「そうだ。島根の件も説明がつく。山科由布子はたぶん切手代がもったいないんで、近所の家の郵便受けに適当に投げこんでいったんだろう。そのうちの一人が鷹野範子だった。鷹野範子はおそらく高校の同窓会|名簿《めいぼ》か何かの中から、面識のない人間を二八人選んだんだ。その一人が十津川あずみだった。そして十津川あずみは、『ファンタジュウム』の文通希望コーナーから二八人を選んだ……」
「山科由布子の前は?」
「まだ分からない。しかし、棒≠ェ手紙を出した人間を追跡《ついせき》していってるのは確かだ。七三五番から逆にね。襲われた順番からすると、汐月鳴海は七一〇番で、彼女は小松原理穂から手紙を受け取ったはずだ」
「どうして棒≠ノは差出人が分かるんだ?」
「あいつは一種の手紙の化身なんだ。何度書き写されても、誤字が重なっても、手紙そのものにこめられた想《おも》いは連続している。奴《やつ》は自分を出した人間が誰《だれ》か、どこに住んでるか、覚えてるんだろう」
「じゃあ、次の犠牲者《ぎせいしゃ》は……?」
「小松原理穂に手紙を出した奴だ」
その時、タイミングよく電話が鳴った。かなたが受話器を取る。
「はい、 <うさぎの穴> ……ああ、守綱《もりつな》!」
かなたは露骨《ろこつ》に嫌そうな声を出した。守綱は京都のネットワークに所属する妖狐《ようこ》だ。かなたは彼を嫌っている。狐《きつね》と狸《たぬき》は仲が悪いというのもあるのだが、守綱は女好きで高慢《こうまん》でサディストという、妖狐《ようこ》一族の中でも鼻つまみの性悪《しょうわる》狐なのだ。今は <陽閑寺> の莫庵《ばくあん》和尚《おしょう》(彼は京都に一千年以上も棲みついている霊亀《れいき》である)の下《もと》でおとなしくしているが、以前はひどい悪党|妖怪《ようかい》として有名だったのだ。
<そう嫌な声出すんじゃねえって> 守綱は不良みたいな喋《しゃべ》り方をする。 <そっちの依頼通り、今しがた小松原理穂をちょっぴり締《し》め上げて、吐《は》かせてやったぜ>
「締め上げたって……あんた!」
<はっはっはっ、心配すんなって。俺《おれ》は女は痛めつけねえ主義さ。お肌《はだ》にゃ傷ひとつつけてねえよ。ただちょっとばかし、心理的に揺《ゆ》さぶりをかけてやっただけさ>
かなたはくらくらした。小松原理穂がどんな「揺さぶり」をかけられたのか、あまり想像したくない。
「で?」
<そっちの推測通りだ。彼女は一昨年の一〇月頃、確かに不幸の手紙を受け取った覚えがあるそうだ。消印は東京の三軒茶屋《さんげんちゃや》だったって言ってる>
「三軒茶屋の消印!?」
かなたの声に、全員がさっと緊張した。世田谷《せたがや》区三軒茶屋はこの渋谷《しぶや》から三キロと離れていない。ということは、次の事件は彼らの目と鼻の先で起きることになる。今まさに、棒≠ヘ二八人目の標的めざして接近してきているはずだ。
八環が受話器をひったくった。「八環だ――三軒茶屋に間違《まちが》いないのか?」
<ああ、関西人にとっちゃ変わった地名だからな。記憶《きおく》に残ってるそうだ>
「彼女に不幸の手紙を受け取るような心当たりは? どこかの雑誌に住所を載《の》せたとか」
(『オデオン』って映画雑誌の譲《ゆず》りますコーナーに投稿《とうこう》したことがあるそうだ。たぶんそれだろう)
「映画雑誌か……!」
八環は唇《くちびる》を噛《か》んだ。同じ雑誌の読者の間で被害者《ひがいしゃ》が連続するという法則が正しいなら、小松原理穂に不幸の手紙を送った人物も、以前に『オデオン』に名前が載った可能性がある――頼《たよ》りない手がかりだが、無いよりはましだ。
「孝太郎《こうたろう》のところなら、映画雑誌のバックナンバーがあるはずだ!」
電話を切るなり、八環は振り返って一同に指示した。
「それと文《ふみ》ちゃんのところにも。一昨年の一〇月以前の『オデオン』の読者|欄《らん》で、三軒茶屋かその近辺の住所の奴を探し出せ! 未亜子《みあこ》たちにも連絡しろ! 大至急だ!」
8 包囲網《ほういもう》
世田谷区三軒茶屋――
かつん……かつーん……かつかつん……かつーん。
人通りの絶えた深夜の路地に、硬《かた》く空虚《くうきょ》な音を響《ひび》かせながら、それは移動していた。街灯の光を避《さ》け、人目を避け、闇から闇へ、ひそやかに。
かつん……かつん……かつーん。
一見したところ、それは長さ一メートルほどの木の棒だった。やや斜めに傾いた姿勢で、空中を揺《ゆ》れながら移動している。まるで糸で吊《つ》るされたような動きだ。あまり長くは浮《う》いていられないらしく、数秒ごとにふらふらと路上に舞《ま》い降りては、その下端《かたん》でアスファルトを蹴《け》って、また浮き上がる。
かつん…かつんかつん……かつーん。
人が通りかかると、そいつは素早く近くの門柱などの背後に隠《かく》れるか、さもなければ道の端《はし》に横たわって、ただの棒きれのふりをする。そいつはそうやって、誰にも怪《あや》しまれることなく、日本全国を移動してきたのだ。列車の屋根に乗ったり、長距離トラックの荷台にもぐりこんだりして、北海道から九州まで、長く辛抱強《しんぼうづよ》い旅を続けてきた。
恨《うら》みを晴らすために。
そいつは今、二八番目の目標に向かっていた。まだ意志を持たないただの不幸の手紙≠セった頃《ころ》の記憶《きおく》が、そいつを突《つ》き動かし、導いていた。そいつは自分がどのポストから投函《とうかん》されたかを知っていた。どの通りのどの家のどの部屋で、どんな筆記用具で、誰によって書かれたのかを、鮮明に記憶していた。
あの家だ――そいつには眼が無かったが、超常的《ちょうじょうてき》な視覚によって前方の目標を捕《と》らえた。あの家の二階の部屋で、自分はボールペンによって書き写されたのだ。そして、他の二七通の兄弟たちとともに封筒《ふうとう》に入れられ、ポストに投げこまれたのだ。今、そいつははっきりと差出人の名と顔を思い浮《う》かべた。
七〇八番、新庄《しんじょう》葵《あおい》。
かつ……かつ……かつ……。
棒はゆっくりと慎重《しんちょう》に、新庄葵の家に接近していった。
と、そいつは動きを止めた。
通りの角から、不意に少女が現われ、進路に立ちふさがったのだ。ジャンパーのポケットに手を入れ、怒りに燃える表情で、きっと棒をにらみつける。
「やらせないよ」
かなたは低い声ですごんだ。その背後から蔦矢も現われる。
棒はとっさに後戻《あともど》りしようとしたが、背後から別の複数の人影《ひとかげ》が接近していることに気づき、たじろいだ。知らないうちに尾行《びこう》されていたのだ。
両側の民家のどちらかに逃《に》げこむか?――だが、それも駄目《だめ》だった。両方の家の塀《へい》の上に、それぞれ人影が出現したのだ。空にも何か黒いものが舞っている。待ち伏《ぶ》せされていたのである。
かなた、蔦矢、流、八環、大樹、摩耶、それに濡《ぬ》れ女《おんな》の九鬼《くき》未亜子も加わり、棒を完全に包囲していた。棒は見事に罠《わな》にかかったのだ。
目標を探り当てるのは意外に簡単だった。幸い、『オデオン』は二年前の春に創刊されたばかりの新しい雑誌で、一〇月までの間に文通希望コーナーや譲《ゆず》りますコーナーに掲載《けいさい》された読者の住所は、そんなに多くなかったのだ。その中で、世田谷区三軒茶屋に住んでいたのはただ一人――一〇月号の文通希望コーナーに載った新庄葵だけだった。
「観念しなよ」かなたは呼びかけた。「これだけの戦力差があったら、勝てやしないよ」
だが、棒はそんな説得など聞き入れなかった。生まれたばかりの若い妖怪である棒には、自分の感情というものがなかった。人間たちによってこめられた強烈な想《おも》いに突《つ》き動かされ、恨《うら》みを晴らすために行動することしか考えられないのだ。
ここで行動をやめるわけにはいかない。死ぬわけにもいかない――最後の目的を果たすまでは。
かつーん!
そいつはいきなり地面を強く叩《たた》くと、かなたと蔦矢に向かって一直線に飛んだ。
蔦矢は躊躇《ちゅうちょ》しなかった。左右の民家から生えていた樹の枝《えだ》を伸《の》ばし、自分の前で交差させる。瞬時《しゅんじ》に網《あみ》を形成し、棒の突進《とっしん》を受け止めた。枝は素早く棒にからみついた。
これで棒を捕獲《ほかく》することができた――誰《だれ》もがそう思った瞬間《しゅんかん》……。
「何!?」
蔦矢は驚愕《きょうがく》した。棒はすさまじい勢いでもがき、全身にからみついた枝を一瞬でひきちぎったのだ!
「うわっ!」
棒はたじろいでいる蔦矢に襲《おそ》いかかった。半回転してその肩《かた》を一撃《いちげき》し、叩《たた》き伏《ふ》せる。棒はその勢いで空中高くくるくると舞《ま》い上がった。そのまま新庄葵の眠《ねむ》る部屋《へや》の窓に飛びこむ気だ。
だが、家の屋根の上で待機していた八環が、背中の翼《つばさ》を力強くはばたかせ、正面から強烈な風をぶつけた。棒の突進力が削《そ》がれた。突風《とっぷう》の勢いに押《お》し戻《もど》され、路上に叩きつけられる。
「流、やれ!」
蔦矢が倒《たお》されたのを見て、八環が怒鳴《どな》った。できれば無傷で捕《と》らえたかったのだが、棒がこれほど強いとは予想外だった。手加減していたら、こちらの犠牲《ぎせい》も大きくなる。
流が変身した。服をするりと脱《ぬ》ぎ捨て、長さ五メートルほどの金色の龍《りゅう》の姿になり、空中に舞い上がる。その瞬間、棒も空中に跳《は》ね上がる。
流の口からまばゆい電撃《でんげき》がほとばしり、夜の闇《やみ》を切り裂《さ》いて、棒を直撃《ちょくげき》した。棒は苦悶《くもん》し、屋根から屋根へと跳ね回った。口があったら激痛《げきつう》に悲鳴《ひめい》をあげていただろう。
電撃がやむと、棒はふらふらと路上に落下した。木でできたその体は、高圧電流によって真っ黒に焼け焦《こ》げぶすぶすと煙《けむり》を発していた。それでもなお生命を保っており、上下に激《はげ》しく振動《しんどう》して、かつかつとアスファルトを叩いている。
「なんて奴《やつ》!」
かなたは驚《おどろ》きの声をあげた。綿々《めんめん》と続く棒の手紙≠ノこめられた人々の想《おも》いが、これほど強烈だったとは……。
がっがっがっがっがっ……。
黒い消《け》し炭《ずみ》となった棒は、なおも激しく道路を叩き続けている。まるで削岩機《さくがんき》のようだ。アスファルトに穴があき、放射状にひびが入ってゆく。
「こいつ……」
流は攻撃をためらった。瀕死《ひんし》の重傷を負った棒が、断末魔《だんまつま》の苦しみにあえいでいるように思えたのだ。だが――
「まずい!」八環が空から叫《さけ》んだ。「そいつを止めろ!」
彼の警告は間に合わなかった。未亜子がとっさに長い髪《かみ》を伸《の》ばして棒をからめ取ろうとしたが、それより一瞬《いっしゅん》早く、アスファルトの層を貫通《かんつう》した棒は、ずぼっと地中に没《ぼっ》し、姿を消した。未亜子が駆《か》け寄り、穴を覗《のぞ》きこんだが、手後れだった。
かつかつかつかつかつかつかつ……棒が下水管の中を移動してゆく音が、急速に遠ざかっていった。
9 恨《うら》みは還《かえ》ってゆく
「あの……ひとつだけ、分からないことがあるんですけど」
二時間後、棒の捜索《そうさく》を断念し、疲れきって <うさぎの穴> に戻《もど》った一同に、摩耶がおずおずと訊《たず》ねた。
「あの手紙によれば、指示に従わずに手紙を書かなかった人のところに棒≠ェ来るんじゃないんですか? どうして手紙を出した人が襲《おそ》われたんでしょう?」
「理由は三つあるわね」霧香はていねいに説明した。「第一に、『文章を変えずに』という指示があるにもかかわらず、彼らは律義《りちぎ》に番号を一番ずつ増やしていった。文面もあちこち間違《まちが》えていた。この時点ですでに、三つの指示のひとつに反していたわけだから、棒≠ェ来る条件は満たしていたわけね。第二に、妖怪《ようかい》は強い想いから生まれる。棒の手紙≠受け取っても送らずに捨ててしまう人――迷信を信じない人や、強い不安を抱《いだ》かない人の心からは、妖怪は生まれない。本当に不幸や棒≠ェ来たらどうしようと、本気で不安を覚えて、手紙を書き写してしまうような人の心が、あいつに生命を与えたのよ。だから棒の手紙≠恐《おそ》れなかった人は逆に襲われないわけね。
そして第三に――これ」
霧香は一枚の棒の手紙≠取り上げ、その末尾《まつび》の文章を指差した。摩耶はその箇所《かしょ》を読み上げた。
「『手紙を出してしまった私を恨《うら》むならば、こんな手紙を書きはじめた人を恨んで下さい』……?」
「そう、まさにそれなのよ、あいつを動かしていたのは」霧香の表情がけわしくなった。「不幸の手紙や棒の手紙≠受け取った人たちは、どう感じる? こんな手紙を受け取ったことを不快に想《おも》い、手紙を出した人を恨み、憎《にく》むんじゃないかしら――とりわけ、手紙を最初に出した人をね」
摩耶は「あっ」と声をあげた。
「じゃあ、その恨みが蓄積《ちくせき》して、棒を生み出したんですね?」
「そういうことだな」八環が説明を引き継《つ》いだ。「奴《やつ》の本当の目的は、最初に手紙を出した奴を探し出し、恨みを晴らすことだった。もちろん、手紙を書き写した連中にも罪はある。だが、彼らも言ってみれば被害者だからな。だから棒≠ヘ彼らには手加減していた……」
「手加減?」
「そうさ――蔦矢が一撃《いちげき》でやられたのを見ただろう?」
摩耶はうなずいた。蔦矢は肩《かた》に重傷を負い、治療《ちりょう》を受けている。
「あれがあいつの本当のパワーだ。人間なら一発|殴《なぐ》られただけで確実に死んでるはずだ。それなのに、ほとんどの被害者《ひがいしゃ》はめった打ちにされたにもかかわらず生きている。奴は手加減してたんだよ――殺された四人は、まあ運が悪かったんだろうな」
「でも、あいつを逃がしたのはまずかったなあ」流はとどめを刺《さ》さなかった自分の失策を後悔《こうかい》していた。「これから先、まだ何十人、被害者が出るか……」
「いや、おそらく、あと一人ぐらいしか出ないんじゃないか」
大樹の言葉を、流は不思議に思った。
「どうして分かるんだよ?」
「守綱が小松原理穂から聞き出したところによれば、彼女が受け取った不幸の手紙――つまり新庄葵が出した手紙だが、まったく誤字がなかったそうだ。つまり、オリジナルにきわめて近いものだと考えられる。たぶん、新庄葵が受け取ったのがオリジナルなんじゃないかな」
「ということは」とかなた。「棒≠ェ次に襲《おそ》うのは、手紙を最初に出した奴ってわけ?」
「おそらくね」大樹はうなずいた。「しかし、残念ながら、我々にはそいつが誰《だれ》なのか、知る方法はない――そいつを知っているのは棒≠セけだ」
「そして」八環はうなった。「棒≠ヘたぶん、そいつには手加減しないだろうな」
10 終着点
大阪府|豊中市《とよなかし》・四日後――
「あーあ、今日もおもろかったなあ」
深夜〇時、コンビニで朝食のパンを買い、ぶらぶらとマンションに帰る途中、犀河本丸は例によってぶつぶつとつぶやいていた。
今日は電車の中で身障者の女性をいたぶった。もちろん、暴力をふるったり、露骨《ろこつ》な罵声《ばせい》を浴びせたわけではない。すぐ横に立ち、彼女の障害のことを聞こえよがしにつぶやいたのだ。女の横顔が苦悩《くのう》に歪《ゆが》むのを眺《なが》めるのは面白《おもしろ》かった。
「しかし、いまいちマンネリやな」
本丸は不満を洩《も》らした。彼にとって、悪意は生きがいのようなものだ。一人でも多くの人間に悪意をばらまきたい。一人でも多くの人間を不快にしたい。常にそう願っているのだ。幸福そうな人間を見るのは我慢《がまん》ならなかった。
「また不幸の手紙でも出したろかしらん」
二年前の秋、まだ大学にいた頃《ころ》、同じ学部の匹野《ひきの》佐知子《さちこ》という女が婚約した。べつに彼女に惚《ほ》れていたというわけではないのだが、あまりに幸せそうな様子を見て、不愉快《ふゆかい》な気分になった。それで気晴らしに不幸の手紙を出すことを思いついたのだ。手紙の中で、匹野佐知子は恋人に殺されたことにした。送りつける相手は、映画雑誌の文通|欄《らん》から若い女性をランダムに選んだ。
その手紙がどれだけ広まったのか、どれだけの影響力《えいきょうりょく》を及《およ》ぼしたのか、彼は知らない。しかし、多くの人間を不快にできたことは確実だと信じている。
彼は鼻歌を歌いながら、マンションの玄関《げんかん》の扉《とびら》を開けた。築二〇年も経《た》っ建物で、オートロックなどというしゃれたものはない。
「ん?」
エレベーター・ホールで、本丸は立ち止まり、足許《あしもと》を見下ろした。床《ゆか》に点々と黒い汚《よご》れがついている――まるで炭《すみ》を床にこすりつけたような感じだ。
エレベーターの呼び出しボタンにも炭がついていた。本丸はちょっと不快に思いながらも、ボタンを押《お》した。
扉が開き、本丸は中に入った。九階の自分の部屋《へや》に行くためにボタンを押そうとして、ふと指が止まる―― <9> というボタンにも、かすかに炭がついていたのだ。
「ガキのいたずらかいな……」
本丸はふんと鼻を鳴らすと、汚れたボタンを強く押《お》した。エレベーターは上昇《じょうしょう》を開始した。
彼はまだ知らない。それが死刑台《しけいだい》に続くエレベーターであることを。自分が押したのが死刑|執行《しっこう》のボタンであることを。
九階の通路に何が先回りして待ち受けているのか、彼には予測できなかった。おそらく最後の瞬間《しゅんかん》まで、自分に降りかかる災厄《さいやく》の意味を理解することはできないだろう。今はただ、エレベーターが上昇を続ける間、陽気に鼻歌を歌い、明日もまた楽しい日になることを期待していた。
そして、エレベーターは九階に到着し、ドアが開いた――
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
Take-2――――――――
喫茶店を出て街を歩いていると、なんだかいつもより人通りが多いようです。考えてみれば、この先には場外馬券売場があって、今日はわりと大きなレースの開催日なのでした。
大半の人々は、ちょっとした娯楽として、そしていくらかの人々は、生活をかけて。
「おい、あんた、動くな!!」
突然に声をかけられて、私は片足をあげたままの姿勢で固まってしまいました。
「ああ、よかった。ここにあったぜ」
私の足がおりていれば、ちょうど踏みつけたであろうところに、小さなお守り袋が落ちています。
「これさえあれば……へへへ、残りのレースはいただきだ」
彼はまるで、そのお守り袋に頬《ほお》ずりせんばかりのようすです。そのまま、私に詫《わ》びるどころか、こちらを見さえもせずに行ってしまいました。
ウインズの先にあったのは、大きなパチンコ店です。ちらっと覗《のぞ》いてみると、喧嘩《けんか》が起きているようでした。どうも、席のとりあいのようです。
たぶん、ここに座れば出ると信じているのでしょう。実際に、台の操作によって出る出ないの差はあります。けれど、それを外からどうやって見分けるかは……。
自分なりのセオリーを持つ人は多いようです。あるいは、噂《うわさ》もたくさん。近頃じゃ雑誌や攻略本も多いですね。
こうすればうまくいく、きっと儲《もう》かるという必勝法。そんな噂はあらゆるギャンブルにつきまとっています。常に幸運にめぐまれ、ツキに愛され、必ず勝利する、そんな賭博師《とばくし》の伝説も、絶えたことはありません。
もっとも、人間の運の総量は決まっていて、幸運の後には必ず不運がやってくるという説を唱《とな》える人もいます。
もちろん、運などというものはなく、偶然と確率は、人の操作しうるものではないという人もいます。
どこまでが本当なのでしょう。
そして、人でなければ、あるいは……。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第二話 背中あわせの幸運 安田 均
1.ラスベガスの夜
2.バー〈うさぎの穴〉
3.ネックレスをした女
4.悪夢の中で
5.絶望を司《つかさど》る者
[#改ページ]
1 ラスベガスの夜
やった、ブラックジャックだ
良治《りょうじ》は心の中で、思わず快哉《かいさい》を叫んでいた。
喜びをこらえながら、目でディーラーに合図する。ディーラーは無言でチップの山をこちらに押しやった。まわりの客から、かすかにほうっという声が聞こえる。
今日もツイているようだ。だけど、ギャンブルには引き際が肝心。
精算し、席を立って周りを見回すと、前日と変わらぬ人込みが見えた。賭博《ギャンブル》というには、あまりにもにぎやかで華やかな世界。そう、ここラスベガスに、いまはもうギャンブルという言葉は似あわない。むしろ、それはエンターテインメントといったものに近いだろう。
通りがかりのウェイトレスのトレイから、カクテルを取り、銀貨を渡してウィンクする。バニースタイルがぴったりきまってるその娘は、にっこりしてからグッドラックと応《こた》えてくれた。
いや、たしかにこのところのツキはおそろしいほどだ。まあ、おれにも人生が開けてきたってことかな。
人いきれのするテーブルをつぎつぎ通り過ぎ、扉を開けてストリップに出る。夜気は涼しかったと言いたいところだが、ここネバダは夏には猛暑で有名なところだ。三月なのに、外はまだむっと暖かだった。
九時を過ぎているのに、夜とはとても思えない。街の中央を広々と走る道路ストリップ沿いに、煌々《こうこう》とネオンが輝いているからだ。そこを、若者から年寄り夫婦まで、そして、アメリカだけでなく、さまざまな国からの人種が三々五々そぞろ歩いている。
良治は、脇《わき》にあるフラミンゴを形どった巨大なネオンを見て、この国は不思議なところだと改めて思った。バグジーなんてやくざな男が夢見た街にしては、あまりにもおだやかできらびやかすぎる。いや、このきらびやかさは、やっぱりやくざ者特有の趣味からだろうか。
ここにはエンターテインメントといっても、多くのものがある。世界的に名の通ったマジックやミュージカルなどのショーもあれば、ホテルのなかにプール、テニスコートはもちろん、劇場や巨大なテーマパーク、ゴルフ場すらあるという一大歓楽地なのだ。
「Pardon?」
物思いにふけりつつ、ぶらぶら歩いていた良治は、交差点で急に横から現われた男に話しかけられ、どきっとした。ぶってはいるが、そんなに英語が話せるわけではない。
あわてて目をやると、うす汚れたトレンチコートに髪の毛をくしゃくしゃにした小柄な男が、タバコを片手にたたずんでいる。火を貸してほしいと言ってるのだろう。
しかたなく、懐から高級品のライターを取り出して、相手のタバコの先へ持っていった。
男は一服うまそうに吸うと、じろっとこちらを見つめた。サンキューと去っていくものとばかり思った良治は、男が胸元をごそごそしたのでどきっとした。
うおっ、こんな大通りでホールドアップか?
そうではなかった。アルコールがしみこんだような濁った目をした男は、伏し目がちに何かシールのようなものを取り出したのだ。毛むくじゃらの大きな手でそれを差し出しつつ、もごもごと告げる。
ははあ、要するにもの乞《ご》いだな。ただでせびるとまずいから、このシールみたいなものを売ってますというわけか。
小銭でも渡せば済むことだろうが、わけもなくあわてふためいたことで、良治は自分に腹を立てていた。
ふん、汚らしいやつめ、火を貸したんだから、それだけで満足しろ。
良治は馬鹿にしたように、くるっと背を向けると、すたすたと歩き出した。相手はその場に取り残されたまま、どうしようもないというように両手を広げていた。
良治がその女に目を留めたのは、三時間ほどが過ぎ、翌日になるちょっと前だった。
ラスベガスの夜は遅い。と言うより、そもそもこの街に夜はない。街が活気づくのは、たいてい真夜中を過ぎてからだ。
マジックのショーを見終わった彼が、ごったがえすホテルのロビーに座っていると、その女が前を通りかかったのだ。
遠目にもはっきりとわかる黒いドレス。白人の中では目立たないが、他の東洋系の女性と比べれば明らかにわかる、均整のとれたプロポーション。そして、ちょっとアクセントの効《き》いた三角のプレートのついたネックレス。
ラスベガスで日本人の女を見かけるのは不思議ではなかったが、良治には以前、日本で会った女性ではないかという勘が閃《ひらめ》いたのだった。
あの女じゃないか!?
普段、彼は女性に対して、それほど積極的なわけではない。どちらかというと臆病《おくびょう》な方だ。それに、いまは日本にステディな恋人もいた。
顔を見たことがあるくらいの相手なら、いつもであれば気にかけたりしなかっただろう。
もっとも、その夜は異国の地にあって、しかもツイているということから、気分が高揚していた。
それに考えてみれば、あの女と出会ってから、彼の人生は好転しはじめたのじゃないか?
良治はここしばらくの自分の人生を、つい振り返っていた。
二〇歳を過ぎてから、彼は特に自分に能力があるとは思っていなかった。それほど有名でない大学を卒業し、中規模の商事会社に入ったときには、とりたてて波乱のない一生が決まったようでもあり、そんなに浮かれた気分になれなかったのを覚えている。
それが、ここ半年ばかりで、思いもかけない運に恵まれだしたのだ。たまたま、コンパで出会った女子大生と意気投合したら、これが会社の重役の娘だった。彼女、百合恵《ゆりえ》との仲は、その後もうまく進んでいる。
仕事にしても、最初に配属されたのは、会社のお荷物と思われているような覇気《はき》のない繊維関係の課だった。ところが、新たな光ファイバーの開発会社と組んだことにより、彼の課はいまでは高収益が予想され、近い将来花形部門になることまちがいなしと噂《うわさ》されるまでになったのだ。
良治はそうした仕事でも着々と実績を上げつつあった。新入社員とはいえ、大企業といえないところでは即戦力でないとやっていけない。その点、大学の頃から人づきあいのよかった彼は、取引先の評判も上々。運のよさもあったが、運も実力のうちとうそぶくそのセリフが周囲を納得させるような雰囲気を、近頃は漂わせてすらいたのだった。
入社して三年、いまアメリカに出張した折り、最後の二日をここラスベガスで遊んで帰ろうとしていた矢先だった。
そう、それもこれも、半年前にあの女と妙な出会い方をしてからだ。
あの後、偶然、百合恵が重役の娘だとわかったのだし……。
これは、もう一度会って話をしなければ。
良治は足早に女を追った。
ホテルの外のポーチで追いついた。
「あの……」
声をかけた彼に、栗色《くりいろ》がかった髪が振り向く。ふっくらとした顔つき。眉《まゆ》は薄く、色は夜でもはっきりとわかるほど白い。一瞬、良治は人ちがいをしたのかと思った。以前、喫茶店で会った女とは、何かちがうような気もする。
しかし、彼女であることは、胸にかかった三角のプレートのあるネックレスを見れば、まちがいないはずだった。そう、あの女だ。
「たしか以前、お会いしましたよね?」
われながら陳腐なセリフだと思う。わざわざ外国に来てまで日本人の女に声をかけるなんて、情けないじゃないか。しかし、普段ならそうした思いに駆られたかもしれないが、いまの良治にそうしたためらいは微塵《みじん》もなかった。
相手の女はきょとんとしている。そりゃ、そうだろう。彼にしてもあのとき出会ってから後のことは、ほとんど忘れているのだから。
「ほら、半年ほど前に、渋谷《しぶや》の喫茶店で。あなたが人まちがいをしたので、しばらくぼくが話相手になった……」
一瞬、返事が返ってこないので、良治はまずいなと思いかけた。無様《ぶざま》にならないよう、切り上げるセリフすら頭の端に浮かぶ。だが、相手はにこっとすると、
「そうだったかしら」
と、素直に答えてくれた。
「そうですよ、あのときぼくが人を待っていると、今井さんですか≠ニ、訊《き》いてきたんじゃなかったですか。で、時間待ちする間、たしか犬の話をしたっけ。ぼくがヨークシャーテリアがいいですよとか言うと、あなたはもっと大きな犬が好きだと言ったのを覚えてる」
必死に記憶をかきあつめると、ぼんやりとそんな会話が浮かんできた。
相手もそれがきっかけで思い出したようだ。
「そういえば、そんなことありましたわね。そうだ、あなた、すぐその後に、かわいらしい恋人が来た人じゃないですか」
「いやあ、あの後こってり油を絞られましたよ。それもこれもあなたがあんまりきれいだから」
「あら、お上手なこと。それで、あのかわいらしい人とは?」
「……いや、まあ、その、といった感じですね」
良治は酔っていた。相手に思い出させたことと、自分の勘がまちがっていなかったことで有頂天になっていた。もう婚約者といっていい百合恵のことは頭にあったが、そんなものをいまここで話題にしてどうする。男女間のマナーというのは、もっと臨機応変でなくては。
いちどお互いのことがわかると、以前も会ったことがあるだけに、打ち解けるのもはやかった。女の名は、古藤《ことう》美雪《みゆき》。こちらに留学して、英語の勉強をしているという。
「へー、今日はギャンブルの勉強かあ、いいなあ」
「というわけじゃないんですけど、ホセがラスベガスはいいところだよ、食べ物は安いし、女の子でも楽しめるところがいっぱいあるから、っていうんで、何人かで来てるんです」
「ホセね、やっぱり、彼氏も外人さんかあ。まあ、あなたかっこいいからその方がお似あいだけど……」
「いえ、彼氏なんかじゃないです。英語習ってる友達ですよ」
その友人たちは、今日は見に行きたいショーがあったらしい。美雪は別の知りあいのところにも行こうかどうか迷っているうちに、単独行動になってしまったという。
良治がそれならしばらくつきあってくれと言うと、即座にOKだった。
そのとき、真夜中になったのか、ポーチの前の噴水が一斉に煙とともに水柱を高く噴き上げた。火山を模してあるのだが、このホテルの目玉だけに見物客も大勢いて、大きな叫びが上がる。
「さあ、夜はこれからだ。どこに行きましょう?」
良治はまるで目の前の噴水が自分たちを祝福してくれているようにも思い、気分がますます高揚していくのを感じていた。
二時間後。
思いもかけない場所に、良治はいた。彼としてはどこかのショーでも楽しんで、その後はなるようになるだろうくらいに思っていたのだが、意外にも、美雪がダウンタウンのカジノに行きたいと言い出した。なんでも、知りあいがそこに勤めているらしい。自分はよくギャンブルはわからないので、行ってもおもしろくないと思っていたが、あなたならわかるだろうから連れて行ってほしいと告げられたのだ。
良治は、べつにギャンブルにはそれほど詳しくなかった。ブラックジャックやルーレットくらいなら、そこそこ自信はあるが、バカラやクラップスにまでなると、知識として知っているくらいだ。
もっともポーカー程度なら、何とかなるだろう。それに会話なら、美雪がいるのでなんの心配もない。ダウンタウンはストリップほどネオンがきらびやかではなかったが、それでも通りの多くには暗い輝きが見られた。やはり、この街は眠ることがないのだ。二人はその中の一軒、 <ジョーカーズハウス> に入っていった。
そしていま、良治はポーカーのおもしろさに没頭していた。
ポーカーは子供でも知っているが、日本で遊ばれているルールは、もはやそれほど普遍的なものではない。
五枚配られたトランプの札を、各自が好きな枚数交換して、手役を作って比べあうというのが、よく知られたルールだが、それはドロウポーカーだ。
しかし、ここギャンブルの都では、手札を一切交換せず、二枚目から札が表返されて配られていくだけ――その都度、賭け《ベット》が行なわれ、降りる《フォールド》、勝負《コール》、さらに|賭け金を上げる《レイズ》、が宣言される――つまり、スタッドポーカーという形が普通だった。
よりギャンブル性が高くなり、とても慣れない人には近づけない世界じゃないか……良治も最初知ったときにはそう思ったものだが、実はちがっていた。
ポーカーの本当のおもしろさというのは、ドロウ、スタッドを問わず、くばられた時点から賭け《ベット》が始まる点だ。そして、|はったり《ブラフ》というのは、ある程度まで確率計算の上に成り立つ納得のいくものだった。
これは、カードを表返していくスタッドポーカーで、よりその傾向が強くなる。一部のカードが表返っていてわかるので、相手がどんな手を狙《ねら》いそうなのか、自分はどこまで勝負できるのか、そこそこわかるのだ。だから、そうした勝負は、たとえブラフで敗れたにしても、計算の上に成り立っているからこそ納得もいく。妙な日本風の脅しめいたはったり≠ニいうのは、通用しにくくなっている――そうした点を、ゲームをやりながら再認識していたのだ。
ただ、そうは言っても、ポーカーはやなりギャンブルだ。
勝ち負けの世界は、体力、観察力、勘、そういったものも必要だ。それなくしては、所詮、確率は数字の世界の出来事に過ぎない。
だが、この日の良治はそういった面で申し分なかった。気力が充実している。
卓を囲むのは六人。八角形の専用テーブルにはグリーンのフェルトが張ってあり、いかにもポーカーを遊ぶ雰囲気がかもしだされている。
後ろには、くっつくように美雪がいた。かすかな香水の匂《にお》いは心地よい清涼剤だったが、それよりも、彼女といることで妙に自信めいたものが生まれてくるようにも思えた。
男たちは気さくな連中だったが、最初、後ろに女性がつくのに少しばかり難色を示した。ただ、言葉が不自由で通訳みたいなものだと説明すると、日本人だから金払いもよいのだろうと思ったのか、あまりうるさくいわずに認めてくれた。
まあ、ギャンブルといっても、それ専門で食っているメンバーではないらしい。その点で、五人のうち四人までは、良治も気にせずプレイを楽しめる相手だった。まるで牧師を思わせる姿勢のいいおとなしい男、つまらないギャグをとばしてはひとりで喜んでいる男、他の二人も美雪をもの珍しげな、あるいは、ものほしげな表情で探るように見るタイプで、こうした連中相手なら勝負も気楽なものだ。
ただ、残る一人はなかなかの強者《つわもの》だった。
雄牛のように太い首をして、一見粗雑そうに見えるが、そのくせかなり計算高い。かといって、確率だけで手を見極めるのではなく、勝てると踏むや、強い押しで勝負を挑んでくる。
いま、二時間が過ぎたところで、やはりこのジェフと呼ばれる雄牛男が断とつの首位を走っていた。良治は意外にも、二位につけている。
もともとギャンブルにこだわらない良治は、勝負をそこそこにして、適度なところで切り上げる術《すべ》を身につけていた。
だが、そんなことは許さないぞという雰囲気を、この雄牛のような男は漂わせていた。お上《のぼ》りさんはおとなしく負けていな。おれを追いかけて儲《もう》けるなんて、十年早いんだよ。待ってろ、そのうち叩《たた》きのめしてやるからな。そうした気持ちが、ありありとわかるのだ。
よし、それなら相手をしてやろうじゃないか。
こうして対抗心を燃やしてムキになるのは危険なのだが、今日はいけるという思いが良治にはあった。
振り返ると、美雪は思う通りにやってみたらというように、にっこりと微笑《ほほえ》んでくれた。
自信というものはおそろしい。それからの良治の勢いは凄《すさま》じかった。
来る手来る手がいい。それも後から開かれていく札はどよくなるのだから、始末が悪い。
中途半端に賭けに乗ってきた者や、意地になって賭けを上げた者は、どんどんチップを吸い取られていった。
やがて、牧師のような男がお手上げだと言うような態度を示しはじめた。おそらく、あとひと勝負ほどでやめたいのだろう。
「どうしたんだ、エイク。いつもの <神の手> もお手上げかい。初心者相手に」
仲間に抜けられたくない雄牛男が、ちくちくと刺激する。この相手は、どうも本当に牧師だったらしい。
「ああ、ジェフ、この人のビギナーズ・ラックにはちょっとついていけんな」
「情ねえ、それならおれがつぎにこいつのを全部かっさらってやろう」
良治をじろっと睨《にら》む。いまや、彼のチップは良治の半分以下になっていた。
「そうすりゃ、この姐《ねえ》さんも、おれの運の方に惚《ほ》れるかもしれないからな」
そう言って、美雪に下卑《げび》たウィンクをする。挑発だとわかっていたので、良治は鷹揚《おうよう》にかまえていた。
しかし、つぎの手がめくられていくにつれ、テーブルの間には緊張が高まり出した。
雄牛男の前には、5が三枚並んでいる。これだけでも、最低の役がスリーカード。最初の伏せられた一枚や、残る一枚が5なら、もっと高いフォーカードや、最高の役(5が四枚にジョーカーである2)ができるかもしれない。
これまでのラフな態度と変わり、さすがの雄牛男も額に汗を浮かべていた。おそらく、これは最後の勝負となるだろう。
ポーカーでは、ひとりいくらよい手ができても勝てない。相手と賭けを競《せ》り合って、いかに役でそれに勝つか、あるいは、さらに競り上げて相手を下《お》ろしてしまうかが勝つコツなのだ。
そして、まさしく男の思惑通りに場は展開していた。良治の開かれたカードもなかなかのものだ。スペードの3、4に、ジョーカーである2が来ている。5枚の続き数字になるストレートの確率は高く、ジョーカーがある分いろんな役が可能だ。
そして、良治の最初に伏せられた札はスペードの5だった。ここまで闇最高だ。なぜなら、相手の最高の役を阻止できる上、自分の方は、相手に可能な役フォーカードよりも強いストレートフラッシュを狙《ねら》えるからだ。ただ、すでにスペードの7と2は出てしまっていた。狙うカードはスペードの6かA、もしくは、あと一枚あるジョーカーの2のみ。
だれもがもはやこの段階では下り、緊張に息を飲んでいた。
カードが配られる。最後の一枚は、最初と同じく伏せられる決まりだった。男はそれを見て、無表情のままひと呼吸おき、すべてのチップを前に押し出した。丸い塊りがずずっと動く。
判断の材料はない。
だが、その態度を見ると、フォーカードが来たと言わんばかりだ。いや、おそらくできているのだろう。
良治は下りてもよかった。それでも、ほぼひとり勝ちだろう。ただ、そうしたやり方はなんだか相手を、いや、このゲームそのものを馬鹿にしているようにも思えた。
同じ下りるにしても、判断の根拠がなければ。いや、これは勝負なのだ、頭脳と度胸の。そんな弱気でどうする。しかし、それこそが相手の罠《わな》かもしれなかった。
どうすればいいんだ?
まず自分の手を見てからだな……そうしようとしたとき、何かが彼の中で閃《ひらめ》いた。
いや、たぶん大丈夫だ、それなら!
つぎの瞬間、彼は意外なことをした。
配られたカードを見ず、無表情にひとこと「レイズ」とつげ、おそらく先の倍はあるであろうチップの山をずいと押し出したのだ。
雄牛男の顔は真っ赤になった。それも無理はない。男は良治がカードをめくるときの態度表情にすべてを賭けていたのだ。癖を見抜く、これがこの男のポーカー必勝法だった。それがいま予想をしていなかったやり方をされたために、判断ができなくなった。
手は勝負をしろと勧めている。男の最初の伏せ札はスペードの6、そして、いま来た札は思惑通りのジョーカーの2だった。おそらく望みうる最良の手だ。相手の手をほとんど止めて、こちらはフォーカードができている。まさか、そんなはずはない。まさか、行ったのが……。
しかし、男はポーカーの怖さを知っていた。役はできるときにはできる。そして、ここでレイズをすれば、いまの態度から、おそらく相手はさらにレイズしてくるだろう。そうした泥沼の果てに身上《しんしょう》をつぶしたやつは何人も知っている。かといって、ここで下りるというのは、確率を無視した弱気でしかない。
悩んだ末、謎《なぞ》めいた日本人の後ろで、微笑む女の顔を見た途端、決断がついた。
まあいい、ここは勝負《コール》してやろう。それで負けてもいいじゃないか。このわけのわからん日本人のしているのはポーカーじゃない、ただのバクチだ。ビギナーズ・ラックかどうかを見てやるのがいちばんだ。
「コール!!」
男の札がめくられる。ジョーカーを見た他の連中からはひゅーという口笛が聞こえた。だが、つぎの瞬間、返された良治のカードは――
スペードのA。
やっぱり!!
良治は勝ったということよりも、自分のとぎすまされた直感が当ったという事実に、畏怖《いふ》にも似た思いで身動きができなかった。
だれもひと言も発しない。
やがて――
「ああ、大したもんだぜ。あんた、そのツキを大事にしろよな」
雄牛男は席を立つと、すたすたとその場を去った。
後には、良治と美雪が顔を見合わせて、お互いを祝福していた。
うす汚れたトレンチコートを着た男は、明け方になる頃、二人連れがよろよろとフラミンゴ・ホテルの入り口へ向かってくるのを見ていた。
男はかなり酔っているようだ。それでもしっかりと女の手を握っている。女は嫌がる様子もなく、かといって、喜んでしなだれかかるという風でもない。この街では、よく見かける風景だ。
しかし、コートの男の目には、その二人から妙なオーラが立ち籠《こ》めているのが、はっきりとわかった。
そばに寄って、今度はシールを差し出す。相手の男はポケットに手を突っ込むと、くしゃくしゃになった札を出し、それをひったくった。
後になっても、おそらくこいつは、自分に会ったことなど覚えていないだろう。そう、しばらく先のおまえの姿が楽しみだよ。
コートの男はにやりとしてから、明けかかったラスベガスの夜を足早に歩き去った。
2 バー <うさぎの穴>
六月初旬。
外は雨だった。雨だと、盛り場の客足は鈍る。まして、週あけの月曜日ともなるとなおさらだ。これは屈指の繁華街である渋谷でも例外ではなかった。
だが、その雑居ビルの五階にあるバー <うさぎの穴> だけは、いつもと変わらなかった。もともと混むことはそんなにないし、かといって、人がほとんどいないということもない。
いや、人[#「人」に傍点]はいない、と言い直そう。
ここは、東京に住む人以外の存在、妖怪《ようかい》たちの溜《た》まり場になっていたからである。
普通の人には、この場所の存在はわからない。張ってある結界にそらされて、そんなところがあるとは夢にも思えないからだ。
ここには、妖怪たちと、そしてたまに普通の人が来る。妖怪の存在に脅かされ、そして、それから逃れようと必死になっている人たちが。
ただ、ここにあつまる常連は妖怪とはいっても、長い歳月、人間と共存してきたものたちだ。そして、人間に仇《あだ》なす妖怪たちの脅威を阻《はば》むのは、自分たちの義務と心得ていた。
けれど、その日現れた客には、彼らもいささか応対に困ったようだった。
「……なんとかその女性を見つけ出さないとだめなんだ。お願いだ、あなたたちなら何とかしてくれると、教えてもらったんだから」
先ほどから繰り返し訴えているのは、ポロシャツ姿の若い男だった。見た目はハンサムで服装もすっきりとしている。ただ、憔悴《しようすい》のためか日は血走っており、顎《あご》にもうっすらと無精髭《ぶしょうひげ》の伸びているのが、せっかくの好感度をだいなしにしていた。
「何とかしてくれと言われても……」
男の向かいにいた、たくましいスポーツマン・タイプの青年が答える。彼の名は水波《みなみ》流《りゅう》、一見したところわからないが、龍と人との間に生まれた身だ。好きなときに、その姿に変身できる。
「……まあ、同情はするけどなあ」
そのとき、青年から離れたストゥールに腰掛け、無言で酒を飲んでいた男が口をはさんだ。
「同情? おれはそうは思わん。厳しい言い方かもしれんが、あんたが最近ついてないことはわかった。だからといって、それを運だのみで取り返したいたあ、ちょっと調子がよすぎやしないか」
皮肉っぽい口調だが、別に嫌味があるわけではない。これが彼の癖で、見た目もいかにも中年の無頼派ジャーナリストといった感じだ。名は八環《やたまき》といい、外見通りのフリーカメラマンだが、その本性は鴉天狗《からすてんぐ》だ。
「だから、運とかはあんたたちに関係ない。その女を見つけてくれ、とだけ頼んでいるんだ」
八環の言葉に興奮したのか、ポロシャツの青年はどんとテーブルを叩《たた》く。グラスの酒が揺れた。
「お兄ちゃん、そんなに怒らない、怒らない。あの人は、いちど何でも反対するんだから」
なだめているのは、小柄な少女だ。まだ、中学生くらいにしか見えない。彼女はかなたと言う。狸《たぬき》が化けているのだが、このバーのマスターの娘でもあった。
「また、霧香《きりか》が何か感じて、こちらによこしたのね。あの娘、この頃ちょっと神経過敏なんじゃないかな」
ピアノの近くにいた長身の美女が、かたわらの太った青年にそれとなくつぶやいた。未亜子《みあこ》だ。
「まあね、だけど、彼女にはそうした何かを感じる力があるんだから、これも妖怪が関係してるのかもしれませんよ」
その青年は、なにやら計算機をいじくっていた。こちらは大樹《だいき》。未亜子は濡《ぬ》れ女で、大樹は算盤《そろばん》が年を経て、こうした姿をとったものだ。二人は様子が剣呑《けんのん》なので、声をひそめていた。予想通り、かなたの言葉に八環が反論する。
「いや、おれはマジでこの人の依頼は受けられんと思う。人生うまく行かなくなったって連中は多いんだ。まして、金銭のトラブルがからんでるんだろ」
あけすけに言い放つ。
「わかったよ、それなら頼むか!」
青年は我慢の限界に達したようだ。立ち上がると、勘定を払おうとする。
「まあまあ、すみませんね。ちょっと意見をまとめておきますんで、せめてお名刺《めいし》でもいただけませんか。折り返し、連絡いたしますから。お代はいいですよ」
それまでグラスをみがいていた初老のマスターが割って入った。そう言われて、ちょっとは青年も落ち着いたようだ。傘を取って、出口に向かう。
「かなたは味方だよ。また会おうね」
一瞬、こんなチビに何ができるかという顔になった青年だが、かなたの愛嬌《あいきょう》のある顔に、つい気持ちがなごんだのも事実だった。
青年が去ると、一瞬の間《ま》があった。マスターはまた黙々とグラスを磨きだす。
「みんな、どうしてあの人を助けたがらないのかなあ」
かなたが誰につげるともなく、口を開いた。ストゥールに載せた足をぶらぶらさせている。
それが、いかにも内心の不満を露《あら》わにしていた。
「いや、おれだって、助けたくないわけじゃない。ただ……」
「人間同士の出来事には、妖怪は介入しない、という決まりがある」
流をさえぎるように、八環がきっぱりと告げた。
「特に、金銭面のトラブルには、でしょう?」
未亜子が可笑《おか》しそうに、八環を見やる。鴉天狗の妖怪は何か言いたげだったが、口をつぐんだ。
「たしかに、運が悪くて、財産をなくす人たちにかまっていたら、こっちの身が持たないもんなあ」
流が言い直す。
「だけど、あの人のツキのなさは極端だよ。霧香が言ってんだから、あたしはなにか怪しいやつが絡んでいると思うんだけどなあ」
かなたの言うとおり、さっきの青年、瀧《たき》良治の話には、哀れを誘うものがあった。
一年ほど前から、会社の事業がうまくいかなくなりだした。それまで脚光を浴びていた新素材に、人体に有害な物質が含まれているというニュースが流れたのが原因だ。
会社自体は他の部門で収益を上げているから何とかなったが、良治は配置転換の憂き目を見た。
それから婚約するはずだった百合恵との仲が急に冷えだした。彼自身の会社での立場が揺らいだこともあったのだろうが、百合恵は別の男と親しくなったらしく、連絡すらしてこないという。
さらに、つまらない自動車事故や、詐欺《さぎ》にもあった。事故は示談ですんだのだが、それやこれやがもとで彼はサラ金から金を借りてしまい、あとはよくある借金地獄の火ダルマということだ。
たしかに、これだけなら、世間によくあるツキに見離された男の転落の軌跡というだけですまされるかもしれない。
良治の言い分で奇妙なのは、それもこれも、彼が幸運の女に見離されてからだ、という点だ。
何でも、その女と会ったときからツキはじめ、離れた途端に悪運に見舞われだしたらしい。
良治がそれまでもらっていた手紙を、百合恵が怒りにまかせて破ってから、彼は便りを出さなくなったのだが、それからこんな悪運続きだという。
古藤美雪というその女は、アメリカに滞在していて、その後日本に戻ってきているはずだから、彼女を探し出してほしい、というのがその依頼だうた。
手がかりは、三角のプレートのついたネックレスをしていることくらい。
良治も自分で探したのだが、電話帳には載っておらず、それらしい女も見つからなかったという。
「計算すると、あと二週間で、負債は三〇〇〇万円を越えますね」
のんびりとした声は、大樹からのものだった。どうやら、借金の利息を計算していたらしい。
「とにかく、おれは抜けさせてもらうぜ、この件は。ろくな事にならないと思うから。あいつに忠告してやるなら、とにかく親族にでも相談して、早く借金をなんとかすることだな」
未亜子も賛成というようにうなずく。水商売に関わっている彼女にとっても、これまでの経験から、それがいちばんと思えるのだろう。
「そうだよなあ」
流も考え込んでいた。年恰好《としかっこう》が近いだけに、ちょっとは気になるらしい。大樹はいつもおとなしいので、特に答えない。
「そんな……可哀《かわい》そうだよ。あの人、首を吊《っ》るか、なにか事件起こしちゃうかもしれないのに
「かなたちゃんは、純粋な想《おも》いが強いからね。でも、世の中には、恩が仇《あだ》になることも多いんだよ」
未亜子が不服そうな顔をしているかなたを見やりながら告げた。
「その通りだ……」
そのとき、マスターが口を開いた。普段はもの静かなこの井神《いかみ》松五郎《まつごろう》が、なにかを言い出すとは意外だったので、全員がそちらを向く。
マスターは視線を集めると、おもむろに口を開いた。
「恩を仇で返す妖怪もいる。かなた、この事件、わたしが引き受けてやろう」
「ええっ!?」
かなたも驚いたが、他のメンバーはもっと驚いた。いつもは、穏やかであまりしゃべらず、グラスを磨いているだけのマスター松五郎が、それも妖怪がかかわっているかどうかわからない事件に乗り出すというのだから、意外性は充分だ。
「おやじさん、そういうからには理由があるんだろうが、わけは聞かせてもらえないんだろうな」
さすがに八環は、松五郎の性格を読んでいる。マスターはうなずいた。
「あんたらが、なにを言いたいのかはよくわかる。だが、これはわたしだから理解できることでもあるんだよ。もっとも」
そう言って、かなたと流の方を振り返った。
「手伝いもいるからな。かなたと流はあの青年に同情的だったから、少しは動いてもらおう。他のメンバーには迷惑はかけん」
妖怪には妖怪の掟《おきて》がある。人間同士の事件にかかわらないというのもその一つだが、他の妖怪がこうしたいといったとき、相手に迷惑がかからないのなら、その行動は自由にまかせるというのも掟の一つである。
八環も未亜子もそれは充分に理解していたので、それ以上は何も言わなかった。
マスターはいつものように、グラスを眺めながらつぶやいた。
「|幸運の女《レディ・ラック》か……」
3 ネックレスをした女
翌日、流は世田谷《せたがや》区のマンションの一室に向かっていた。もう夏なので、肌がじっとりと汗ばんでくる。
マスターからの依頼もあって、瀧良治の名刺に書いてあった住所を調べに向かったのだ。
良治は現在、そこにはほとんど住んでいない。住まいがわかるとまずいこともあるので、友人宅や安い宿泊所を転々としているのだ。いまはマスターと相談の上、かなたとワーゲンに乗って、女を探しているところだろう。
流は良治から部屋のキーを預かっていた。二〇三号室、二階だ。
「ただでさえ暑いのに、ますます暑苦しいことになりそうだぜ」
エレベーターが上がり、その透明な扉ごし、ちょっと離れたところにその男が見えた途端、誰にともなく流はつげた。
危険な男たちというのは、それとなく匂《にお》う。そいつはおそらく良治の部屋と思われる扉の斜め前に立ち、所在なげにしていた。流はためらうことなく扉の前に行き、ベルを押そうとした。
と、男はタバコをぽいと投げ捨てた。
「あんた、瀧さんの知り合いかい?」
予想通り話しかけてくる。
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
知らない顔をしてもよかったが、流の役目は良治に関することならなんでも調べてくることだ。こいつのことを知っておいてもいいだろう。
「ほう、じゃあ、お仲間さんか。どこの人だ?」
わかっているさ、といわんばかりに語りかけてくる。こういった借金の取り立て屋は、それなりに仲間内で情報を持っておくことが必要だ。誰が、どのサラ金から、いくら借りて、その債権が誰に回っているか、知っておけばそれだけ回収が容易になることもある。
「べつに仲間じゃない。それに相手の名を聞くのなら、自分から名乗るのが礼儀だぜ」
流にしても、昼日中のマンションで荒っぽいやりあいをしたくはなかったのだが、面倒臭いので、つい口調がぞんざいになってしまった。
このセリフに、やはり相手は激昂《げっこう》した。Tシャツ姿の若造になめられたと思ったのだろうバ
「てめえ、おとなしく下手に出たら、つけあがりやがって! これが <音羽《おとわ》> からのあいさへだと思いな」
いきなり、右腕からのパンチが飛んでくる。流は避けそこねて、それを左の頬《ほお》に受けてしまった。人間としては、そこそこいいパンチだ。だが、龍の化身であるこの青年にとっては、蚊が刺したほどにしか感じなかった。
「わかったか。わかったのなら、瀧のことで知ってることをしゃべりな。おまえ、どこのもんだ?」
襟首を捕まえて、ぐいぐい絞めつけながら詰問してくる。
「ああ、あんたは <音羽なんとか> さんなんだな。こっちは <いい加減にしろよな> 組さ」
相手の名を聞いたので、うざったくなった流は、下に植込みがあるのを確認してから、思いきりその体を跳ね上げた。
「うおっ!」
男はバルコニー型の通路から、もんどりうって下の植込みに投げ出される。まあ、二階からだから、たいして怪我《けが》もしないだろう。流は気にしなかった。本来なら、妖怪が人間に手だしをするのは御法度《ごはっと》なのだが、あいつならこれまでいやというほど弱い人間をいたぶってきたはずだ。これくらいお灸《きゅう》をすえてやらねば。
見れば、男は何が起こったのか一瞬わからず、あわてて立ち上がると、驚いたように流の方を見上げた。
まだやるかいというように、流は手招きをしてやる。男は、あわててその場を逃げ出した。
「なんだ、覚えてやがれ、の一言もないのかい」
拍子抜けしたように流は振り返ると、良治から預かった鍵《かぎ》で部屋に入った。
その一室は、いかにも独身者が住んでいたという有様だった。2DKに、さまざまな雑誌やCDが散っている。普段はもう少し片づいているのかもしれないが、部屋を出て逃げ隠れしている男にとっては、整理する余裕などほとんどなかったにちがいない。
マスターには、良治の部屋で変わったものが見つからないか、調べておいてくれと言われていた。ただ、こうしたことは個人のプライバシーを暴いているようで、流にしてみればあまり気持ちのいいものではない。そそくさと、とりあえず目につくものを探してみる。
べつに、おかしなものなんてなさそうだぜ。
そう思いながら、何か妖気《ようき》を発しているようなものでもないかと見回す。
そのとき、部屋の電話が鳴った。
本人が不在のさいの電話音は、妙に居心地の悪いものだ。
こんな夜逃げも同然の状態なら、プラグを引き抜くか、親機の電源を切っておくものだがと、思いながら、電話の前に行く。
電話は留守録になっていたが、相手の声は聞こえてくるタイプだ。
「……あんた、いい加減に支払えよ。そのつもりがないなら、会社の方に言うけどいいのか……」
押し殺したような声は、感情がこもっていない分、余計に不気味だった。こんな電話を毎日毎日かけられたりしたら、たまったものではない。どうせかかってくるのは、こうした伝言ばかりだろう。律儀に留守録などするもんかなあ、と半ば呆《あき》れながら、ふと、流は受話器のそばに置いてあるアクセサリー時計に目をやった。
一瞬、妙な感じがした。
時計の文字盤に、六芒星《ろくぼうせい》のシンボルが描かれている。
それだけなら何ということもないのだが、なにかその線が二つに分かれて見えるのだ。
よく見ると納得がいった。プラスティックのカバーに、ちょうど六芒星の一つの三角をなぞるように透明なシールが張ってある。だから、その線だけが浮き出して強調され、二重焦点のように見えたのだ。
趣味の悪いことを、と思いつつ、流はこれもマスターに知らせておくべきかなと迷っていた。
その頃、松五郎は警察の調査室にいた。年配の山辺《やまのべ》警部が相談に乗っている。
「たしかに、ここ数年、金策に行き詰っての自殺は増えてるがね。まあ、この不景気だから」
警部は簡単な切り抜き資料をめくりながらつげた。
「これが、半年前にあった例の、経営者が三人、いっしょに首を吊ったというやつ。社会的にも話題になったので、知ってるとは思うが。他にも……」
そう言って、記事を示す。松五郎も覗《のぞ》き込んだ。
「数としては増えてるんですね」
「そうだな、こうした自殺は去年、前年対比で三割は増えている。今年も同じくらい、あるいは、それ以上になりそうだ。いやな時代だよ」
警部は同意を求めるように、松五郎を見た。
「まあ、どれも自殺というのはまちがいないが。それとも、松つぁんのことだから、なにか殺人でもからんでいると言うのかな?」
冗談めかしながらも、探りを入れているのはわかっていた。この警部は松五郎ともう数十年来のつきあいであり、妖怪《ようかい》がネットワークを形作っていることを知っている数少ない人間でもある。
「いや、直接、だれかが手を下したとは思ってませんがね。ただ、わたしには不景気をいいことに、なにか自殺が多いのに引っ掛かるんですよ」
「つまり、間接的に関与しているものがいると?」
「そうですね」
「で、そいつは人間ではない。でないと、あんたが乗り出してきた理由がわからん」
穏やかな口ぶりだが、眼光は鋭い。
「まあ、それは調べてから判断しないと。ですから、間接的な借金の回収などで、このところ異常に伸びてきた組織とか、会社とかがあれば、こちらでわかるんじゃないかと思って」
「まあ、取り立て屋に暴力団がかかわってきたのは昔からだがな。バブル華やかなりし頃は、地上げ屋というやつだったが、いまは以前に戻ったようなもんだよ。ただ、債務者を殺しちまっては、じつは回収はしにくいんでね。いくら保険金|狙《ねら》いとかあっても。やつらが自殺そのものにかかわってるかどうかは疑問だな。
とりあえずは、おい、丸山君、金融関係で要注意印のやつを急いでリストアップしてもらえるかな」
名前を呼ばれた部下がそばに来る。警部はあれこれと指示を出した。
「どうも、助かります。あっ、そのさいに……」
松五郎が、仕事にかかろうとするその部下を呼び止めた。
「はあ、なんでしょう?」
「そうした会社のマークとかも、一緒に知れたらありがたいんですが」
「は、はあ、会社の記章ですね。わかりました」
その男は腑《ふ》に落ちないという顔をしながらも、資料を作りに出ていった。
「相変わらず、普通の人間にはちょっとわからないことをいう。まあ、理由をきいても教えてはくれないだろうが」
山辺はさも可笑《おか》しそうに笑った。
井神松五郎は、それと対照に神妙な顔つきになった。
「そうなんだが、山辺さん、わたしはあんたに感謝しとるよ。わたしらだけでは、どうしようもないことは多いからね」
「その辺《あた》りは、お互い様だろうな。ところで、かなたちゃんはちょっとは大きくなっとるのかね」
妖怪に、いかにも世間風に子供のことを訊《き》くというのも馬鹿げた話だが、妖怪を人間らしくみなすというのが山辺のよいところでもあった。
「まあ、少しずつ成長しとるとは思うな。親のひいき目かもしれんが。まあ、あいつのことを考えると、わたしも年をとったものだと思うよ」
かなたには、いま母はいない。その理由は、松五郎の胸の内にだけ秘められていることだった。
話がしんみりしそうになったとき、松五郎の携帯が調子はずれのメロディを鳴らし出した。
「はい、井神ですが。ああ、流か。なるほど、わかった、音羽金融というところが関係していたんだな。後は……ああ、そうか……その辺の名前はこれから調べる……ちょっと待ってくれ」
メモをとりだして、名前を書き留める。おそらく、留守録などから流が調べた、他の債権先を訊き出しているのだろう。
「えっ、なに? 三角のシールを張った六芒星!? 何だ、それは」
急に、松五郎の体から緊張感が伝わってきた。そばにいる山辺にも、声はいやでも耳にはいる。
やがて、電話を切った松五郎の視線が宙にさまよっているのに、警部は気づいた。
「何かわかったのかね」
「あっ……いや、わたしの勘がだんだんと当ってきているんだよ」
すぐに現実に立ち返った松五郎は、今度はそわそわとしはじめた。資料が待ち遠しいのだろう。半時間ほどが経《た》ち、部下がそれなりに厚いファイルを抱えてきた。松五郎は待ちかねたように立ち上がる。
「悪いが、ちょっと部屋を貸してもらうよ」
そういうと、初老のバーのマスターにしか見えないその男は、調査室の机に向かった。
「ところで、不思議に思っていたんだけど、君は学校に行かなくていいのかい?」
ファーストフードを食べ終わり、助手席で気楽そうにしているかなたをちらりと見やりながら、良治が言った。二人は、松五郎のフォルクスワーゲンに乗っている。このワーゲン自体も妖怪なのだが、見た目には普通の車と区別がつかない。
「うん、いいんだ。あたし、学校に行ったらまずいこともあるらしいんで、父さんが自由にしてくれてるから」
まさか妖怪には、学校も〜試験もなんにもない〜♪、なんて言えないじゃない、と内心おかしく思いながらかなたは答える。
「ふーん、理解がある親父《おやじ》さんなんだなあ」
どうやら、良治はかなたを登校拒否児童かなにかと思い込んだらしい。
二人は、もし美雪と思われる女性の居所がつかめたら、すぐそちらに行って確認できるように、車に乗り込んでいたのだ。良治にとっては、借金取りから逃げ隠れするよりは、この方がありがたかった。運転は良治がしていることになっている。
「おれなんて、高校までは優等生だったもんなあ。だけど……」
言葉が濁る。かなたは黙っていた。
「いまとなっては、もっと気楽に学校へ行ってたら、その方がよかったんじゃないかって気がしてきたよ」
相変わらず憔悴《しょうすい》した顔は、横から見ていても悲しくなるほどだ。
「へ〜、優等生だったんだ。どこで?」
「長野出身さ。大学からこっちだけどね」
「故郷には帰らないの?」
「いや、残念なことに、親父とそりがあわなくってね。おれは自分じゃ、ひとりでうまくやっていけると、ずっと思い込んでいた。だから、親父とよく衝突した。かなた君とは反対さ。で、東京でも絶対成功できると思い込んでたんだが、大学でそいつは無理だと思った。会社でちょっとがんばれるかと思ったら、いまはこんなザマだしな」
よほど悔しいのか、歯をくいしばる。
「でも、人間、どうしてもだめなときだってあるよ。あたしは、人間は家族がいちばんだって思うけどなあ」
「ああ、おれだって、そう思うときもある。だけど、なんていうのかな、いったん思い込んだら、そうできない場合だってよくあるんだ」
やっぱり強情なんだ、人間って困ったもんだよねえ、とかなたは思った。
「でも、その女の人を見つけたら、どうすんの? 見つけるだけで、うまく行くってホントに思ってる?」
痛いところをついてしまったようだ。良治の目つきが、これまでの夢を見ているような感じから、かっと見開かれたものに変わった。
「いや、絶対うまくいく。あいつがいてくれると、自分には何でもできるような気がするんだ。それだけはまちがいない」
「ははあ、惚《ほ》れちゃったんだね」
はた目には、奇妙な光景だった。十代の半ばくらいと思える少女が、二十代も半ばのひとかどの社会人と悩みの相談をしている。だが、悩みを打ち明けているのは、年上の男の方なのだ。
そのとき、かなたの携帯が鳴った。相手は松五郎だ。
「かなた、どうやら女の居場所をつかめたかもしれん。そっちに向かって、まずは様子を探ってくれ」
「えっ、ホント。さすが、父さんだ。早いねえ」
「いや、まだ確実なわけじゃない。だから、慎重にするんだぞ。良治君は思い詰めてるかもしれんからな。場所は、広尾《ひろお》の……」
かなたは運転している良治を見つめた。たしかに、いきなり相手を問い詰めだしたりしたら困るよなあ、彼。
「おい、聞いているのか」
あわてて、ドライブマップを取り出して、確認するかなただった。
「うん、わかったよ、じゃあ」
「いや、その調子じゃ、あやしいな。わたしが渡したものをちゃんとあげたか?」
「あっ、忘れてた!」
松五郎からは、やっぱりというため息のようなものが聞こえてきた。しかし、べつにそれをなじるということもなく、電話は切れる。この辺《あた》りがかなたの父親らしい。
「なにかわかったのか?」
声の様子から判断した良治が聞いてくる。かなたの説明を聞くと、青年はすぐにそちらに向かおうとした。
「ちょ、ちょっと待って。これを持っといてって」
かなたはバッグから、なにやら平べったいものを取りだした。
「なんだこれ?」、
「お守りのお札みたい。とにかく父さんが持っておいてほしいって」
たしかに、それは交通安全祈願の札のようなものだった。良治は気にすることもなく、胸ポケットにそれをしまう。
ワーゲンは一路、広尾めざして疾走しはじめた。
めざす先は、なかなかわからなかった。そんなに土地勘がないところに、商店街があって、その奥に住宅街がある。あちこちうろついたあげく、わかってみれば何のことはない、わりと広い道路に面したそれなりに豪華なマンションだった。
「よし、あそこだな、まちがいないね」
長治はすぐにでも車を止めて、そこに向かいたがっている。
かなたは、車を止めてまず様子をうかがうように指示されていたので、なんとかそれを伝えようとした。
「どうしてだ? 部屋に行けばいいじゃないか!」
「だって、父さんが言うには、まだ確実かどうかわからないし……」
「そんなもの、行って開けてもらって、人ちがいだったら謝ればすむことだろう」
「じゃあ、本人だったらどうするの?」
「どうするって、そりゃ……」
考えてみれば、良治も女をただ見つけるのに必死だったので、言葉が出てこない。
「とにかく子供の出る幕じゃない!」
「子供子供ってねえ、良治さんの方が言ってること、ずっと子供っぽいよ!」
図星だった。くやしまぎれに良治は言い返そうとして、ふと窓の外を見た。と、向かいから歩いてきた女がマンションに入ろうとしている。その首にかかっているのは、まぎれもなく三角のプレートのついたネックレスだった。
「見つけた。やっぱり美雪だ!」
「待って!」
良治は、急いでハンドブレーキをかけ、扉を開けようとする。かなたはそれを止めようとした。しかし、男の動作の方がすばやい。だが――
「どうしたんだ、開かないぞ!」
ドアレバーをがちゃがちゃやっているが、扉はうんともすんとも応《こた》えなかった。
「くそっ、こんなときに壊れやがって」
それならと、男は窓をあけて叫ぼうとした。女はもうマンションの中に消えようとしている。
だが、窓のハンドルもぴくりとも動かなかった。
もちろん、これはワーゲンがかなたの意志を感じてそうしているのだが、良治にとってそんなことはわからない。
「くそっ、このボ口車!!」
扉をがんがん叩《たた》くが、もちろん、そんなことで車は応えない。
と、そのとき、
ピーピーと甲高《かんだか》いクラクションが一斉に鳴りだした。良治はつい焦って、赤信号のときに車を止めて出ようとしていたのだ。いま信号が変わり、しばらくしたので、後続の車が一斉に警笛を鳴らし出したのである。
「あっ、わっ」
開かない扉に気をとられていた良治はあわてた。急いで、ハンドブレーキを外そうと、手を伸ばす。
そのときだった。ブレーキには触りもしないのに、車がすっと動いたではないか。しかも、ワーゲンはそのまま斜めに進むと、車道の端に、いかにも駐車中という形に収まったのである
「お、おいっ……」
ハンドルも握らないまま、良治は愕然《がくぜん》としていた。それは、そうだろう。運転もしていないのに車が動いたとなると、だれでも肝をつぶす。
「お、おれ、何もしてないのに、う、動いた」
「ああ、この車、ハンドブレーキが効《き》かないことがたまにあるんだ。いま、どたばたしてて、ブレーキペダルから足離したんじゃないの。ハンドルも甘いって、父さん、よく文句いってたけどなあ」
かなたはそしらぬ顔でうそぶく。
長治はそれでもきょとんとしていた。きつねにでもつままれたような気持ちなのだろう。
ワーゲンは自慢げに、ブルンといってエンジンを切った。
4 悪夢の中で
つぎの日、良治はかなたからの連絡をすっぽかし、朝から例のマンションのそばで見張っていた。
前日、かなたに説得されて、しぶしぶ <うさぎの穴> に戻ってみると、マスターから調査の結果を知らされた。良治の追っていた女はまちがいなくそのマンションにいる、と。
それは良桁も確認済みのことだった。
ただ、マスターには何か思惑があるらしく、連絡があるまで、個人的な行動はしないでほしいと告げられた。良治は調査は済んだのだがら、後は自由だと抵抗したが、マスターもがんとして譲らない。しかたがないので、彼は折れたふりをした。
というわけで、良治は自分で車を借り、マンションの角で待っていたのだ。
十一時をまわった頃だろうか。入り口から女が出てきた。まちがいない、美雪だ。良治はすぐに飛びだそうとしたのだが、車の扉を開けたときには、タクシーを呼んであったのか、女はそれに乗り込もうとしていた。
一瞬、ためらったものの、人通りが多いということもあり、彼はそこで話しかけるよりも、車を追っていこうと判断した。女がどんな行動をとるのかにも興味があったからだ。
車をスタートさせる。やがて、タクシーは首都高速に乗り、南に向かいはじめた。
どこまでいくのだろう。まさか、空港?
そうではなかった。しばらく南に向かった後、タクシーは大井町あたりで下に降りた。良治も何とか遅れないようについていく。運転には、そこそこ自信があった。
しばらく後を追っていくと、どこへ向かっていくのかがわかりだした。
ひょっとしたら大井競馬場か?
予想は当っていた。競馬場が近くなったところで、彼女はタクシーを降りたからだ。もう、辺《あた》りは競馬に向かう人たちがかなり増えている。
良治は見失わないように、慌てて駐車した。車は放っておいて、とにかく後を追いかける。
いまさら駐車違反になったとしても、そんなものは気にしていられない。
幸いなことに人の波にさえぎられつつも、女の姿を見失うことはなかった。
やがて、大井競馬場の入り口が見えてきた。女は入場券を買ってから、そこをくぐる。
長治もそれを注意ぶかく視線で追いながら、ついていった。途中、人波の中でつかまえて話しかけても、ややこしいことになりかねないのはわかっていた。入り口の中はそれまでより広いので、その辺りで声をかければいいはずだ。
女はだれかと待ち合わせているのか、すたすたとスタジアムへと歩いていく。良治はがまんできずに、そのそばへと駆けていった。
「美雪さんじゃないですか?」
女は驚いたふうもなく、自然にこちらを向いた。見慣れた顔がそこにはあった。そして、首にかかっているのは、最初のときからずっと印象に残っている、あのネックレスだ。
「やっぱり、そうだった。探してたんですよ」
美雪の反応は以前と同じように、穏やかなものだった。特に不審がることもなく、良治の言葉を待っているような節《ふし》すらある。彼としては、もう少し喜ぶなり、いやがるなり、感情が表に出ることを期待していたのだが、ちがった。そう言えば以前に会ったときも、こんな感じだったなと思いだす。
「瀧良治です。覚えてるでしょう? ラスベガスで会った……」
女はにっこりした。だが、つぎの言葉は、一瞬ほっとしかけた良治の気持ちに冷水を浴びせかけるようなものだった。
「わかってるわ。それで何の用なの?」
もちろん、相手をしたくもないのに、突然話しかけられたなら、そうした返事をしたくなることもあるだろう。用があるときなどなおさらだ。しかし、その声音にある冷たさ、よそよそしさは良治にとってこたえるものだった。
まるで、別れると心に決めた女のようなセリフ。
良治は出鼻をくじかれて、つぎの言葉がなかなか出てこなかった。浅はかだった。何を期待していたんだ、おれは。
意識のどこかに残っていた、それまでの想《おも》い、自分の窮状、いろいろなことが頭をかけめぐる。
「用がないのなら、これで失礼するわ」
女は踵《きびす》を返そうとした。
しかたない、そう思いかけた良治だが、しかし、一言なにか言わずにはおれなかった。
「ひさしぶりに会ったのに、ご挨拶《あいさつ》だな。それで、何人の男をだましてきたんだ」
意味のない言葉だった。ちがう、おれはそんなことを言いたかったんじゃない。なにも未練がましく、しがみつきたいわけじゃない。ただ、なにか直感めいたものが――この女によって、おれの人生が激しく変えられたにちがいないという直感が――湧《わ》いてきただけなんだ。どう言えばいいんだ。だが、こんな言い方では売り言葉に買い言葉だ。まずい、勘ちがいされてしまう。
「あら、わけがわからないことを言いだすわね。誘ったのはあなたでしょ」
予想通りの答え。
もう、良治は腹をくくっていた。
「ちがう、だますというのは、そんなことを言ってるんじゃない。おまえによって、運をなくした男はどのくらいいるんだ?」
やけくそだった。自分でもわけのわからない論理だと思ったが、この女の冷たさを目にした以上、そう言うしかなかった。
女は、一瞬、意外そうな顔をした。
そして、しばらく考え込んでいるようだったが、やがて口を開いた。
「思っていたよりも、馬鹿な男じゃなかったようね。でも、いまさら気がついても遅いのよ、まあ」
一息ついて、にっこりする。
「それは、あなたのせいでもあるんだけどね。なるほど、わたしがすべて悪いと思って追ってきたわけ? それはどうもご苦労様。でも、いまさらわたしをなじってどうなるの? そんなことはわかってるでしょうに」
良治は答えられなかった。本心では頼む、もう一度チャンスをくれ≠ニ言いたかったのだが、それを言うとおしまいなのは直感でわかっていた。
ただ、一つだけ、言葉が妙に引っ掛かった。
「おれのせい、というのはどういうことだ。幸運の女神に声をかけるというのは、そんなに罪なことなのか?」
どうやら相手を <幸運の女神> ときめつける良治の捨て身のやり方は、功を奏したようだった。
女はおもしろそうな顔つきになった。
「そう、まだわかっていないのね。それともわかりたくないのかしら。じゃあ、これが最後ということで、あなたにもう一度チャンスをあげましょう。これで、わたしのせいなんかじゃなくて、すべて自分のせいだったってことに、あなたも気がつくでしょうから」
まさか、本当にチャンスをくれるのか? 良治は半信半疑だった。ただ、女の顔にはかつてラスベガスで見たような、こちらの心にすべりこむような表情が浮かんでいた。
「つぎは第七レースね。じゃあ、これを持っておきなさい。どうするかは自由」
女はそういうと、バッグからメモを取りだし、さらさらと何かを書くと、良治に手渡した。
「言っておくけれど、そこに書いたつぎからの四レース、どれもが当るわけじゃない。どこかで外れるかもしれない。利用するのは、あなた次第。さあ、これでわたしにつきまとうのは、もうやめなさい。勘のいい人は、わたしは好きよ。だから、あなたの直感を少しは認めてあげて、これがわたしからの最後の贈り物。うらみっこはこれでなしにしましょう」
そう言うと、あっけにとられる良治を残して、女はスタジアムの奥へと消えていった。
良治は手が震えていた。
半ば信じてはいたものの、あいつが本当に <幸運の女神> だったなんて。
そんなものが、本当にいたのか?
いま、手元には五〇〇万ちょっとばかりの金が集まっていた。元はといえば、一万円ほどしか突っ込んでいないのに……。
それが、三レース続いたらこの有様だ。最初の第七レースは、自分の一万円が十倍になるのを、まあ、こんなこともあるわなと、冗談のように見ていた。
不気味だったのは、元からない金だと思って、つぎの第八レースにその一〇万を全部つぎこんだら、それも見事に当ったことだ。配当は一〇〇万を軽く越えた。
良治はさすがに怖くなった。つぎの第九レースでは半分の五〇万で、やはりメモに書かれたとおりの馬券を買った。
それもまた完璧《かんぺき》に当ったとき、彼はあの女が実際に <幸運の女神> だと確信したのである。しまった、全額|賭《か》けていたなら、この倍以上になっていたのに。そう思っても後の祭りだった。だが、まだメモにはあと一レースの予想が書いてある。
しかし、さらに一レースあることで、恐怖は増してきた。いま手元にある五〇〇万をすべて賭けたなら、おそらくその配当は、借金を消して余りあるほどのものになるはずだ。
だが、あいつはすべてが当るとは限らないと言っていた。あと一レース、ということは、それが外れる可能性も大きいじゃないか。
いま、この五〇〇万があれば、当面差し迫っている返済を免れることもできる。まともに考ぇたらそうすべきだろう。
だが、それが最善の策とも言えなかった。たとえ、一部を返しても、そのあとの目途《めど》が立たない。やがては、また同じことになるような気がする。
しかし、これを全額つぎこんで外れれば、おれはもう二度と立ち直れないだろう。 <幸運の女神> を二度も取り逃した男など、だれも相手にしてくれるものか。
どうするんだ、時間は迫ってきているぞ。
脂汗が流れ出した。
良治はふらふらと歩き出した。
第一〇レース、彼はそれに賭けた。
ごうごうたる喚声の中、レースは終わった。
すべては、無に帰した。
それからしばらくして、良治は自室にいた。もう、部屋はちらかってはいない。
彼には、いまや何も残っていなかった。女が去っていくとともに、夢も希望も何もかもがついえ去ったのだ。
絞りかすみたいなもんだな、おれは。
そして、眼前にはひもがぶら下がっていた。丸く閉じた輪。それこそが、このつまらない世界からつぎの世界へと飛び込める、唯一の希望のように思えた。
台の上に立ち、輪に首を通す。
さあ、あとはこの足台を蹴《け》ればいいだけだ。
楽なもんだ。どうして、いままでこんな苦しみに耐えていたのだろう。
何も考えず、彼は台を蹴った。
すると、頭の中に三角錐《さんかくすい》が逆になったようなイメージが浮かんだ。
その中ではあらゆるものが渦を巻き、下へ下へすべて吸い寄せられていくみたいだった。
良治もその中へと巻き込まれていく。
そして、その逆三角錐の底には、らんらんと輝く赤い目が見えた。
そう、そいつは待ち構えていた。不気味な口を大きく開けて……。
絶好を上げながら、良治は目覚めた。うたた寝をしていたらしい。ただ、気がつくと無意識のうちに、かなたからもらった札を握りしめていた。
そしていま、かなたからの携帯電話が鳴っているのにも気がついた。
5 絶望を司《つかさど》る者
東京丸の内。夕刻から少し雨が降った。
昼間は喧騒《けんそう》を極めるビジネスマンの街も、夜中になると、途端にそこはもの淋《さび》しいゴーストタウンへと変貌《へんぼう》する。
まして、もともと人をそう見かけないビルの地下駐車場ともなれば、人気《ひとけ》は途絶えたも同然だ。
いま、そのエレベーターが開き、人影が二つ現われた。小柄なかっぷくのいい男と、均整のとれた体つきの女だ。背は女の方が少し高い。見た感じ、企業の重役と、その有能そうな秘書のようにも見える。しかし、男には何ともいえない卑しい感じがつきまとっていた。
二人は何か話しながら、足早に残り少なくなった車の一台へ進んで行こうとした。
「待っていたよ、|幸運の女神《レディ・ラック》さんと、|絶望を司る者《ザ・デスパリット》よ」
黒塗りの外車の横に止まっていた古ぼけたワーゲンから、四つの人影が現われ、二人の行く手を阻む。
夜中の駐車場で、突然呼び止められれば誰でもぎくっとするだろう。が、二人の驚いたのは、それだけではなかった。
なぜ、知っている、自分たちのことを――その驚愕《きょうがく》の方が大きかった。
男は女の陰になるように、さっと跳びすさった。無理もない。男はそうして、これまで生き抜いてきたのだから。
「久しぶりだが、その姿を見ると、ますます肥え太っているようだな、ザ・デスパリット」
しゃべっているのは、初老のおとなしそうな男だが、その声は凛《りん》としていた。松五郎だ。
横には、彼を守るように流と、少し離れてかなたがいた。かなたはもう一人の男、瀧良治の腕をしっかり握っている。
女は良治の姿を見ても、なにも言わなかった。いつものように、待ち受けるような表情を浮かべただけだ。
ザ・デスパリットと呼ばれた男が、それを補うようにしゃべりだした。
「こちらの名前を知っているとは、きさま、さしずめわたしに食われそこなったんだろうな。耐えられるやつはなかなかおらぬのだが、珍しい」
そう言って、しげしげと松五郎たちを見る。やがて、男は合点がいったようだ。
「ははあ、きさまらも、われわれの仲間か。待てよ、思い出してきた。きさま、あの狸の化け物だな。くくく、思い出したぞ、きさまのあの大事な女を食ったときの気持ちよさを……くくくくく」
その笑いはいかにも下卑ていて、聞くに耐えないものだった。松五郎の握りしめた拳《こぶし》に血管が浮き出している。穏やかなマスターの感情がこうも表に出ることは珍しかった。
「父さん」
かなたはそれに気づいて、驚いた。
「女の人って、まさか、そもそも、こいつら、何者なの?」
「おまえには、関係ない……」
そう言いつつも、語尾の消えていくところが、松五郎の心の動揺をもの語っているようだった。
「……こいつは、人の心に巣くう悪魔のようなものだ。もともとそこにいる女には、幸運をきまぐれに人に与える力しかなかった。古代から、人々がその恩恵を受けることを喜び、感謝してきた幸運の化神だ。彼女については、どうこう言うことはできない。しかし、こいつは」
と、相手の男を指差す。
「許せんと言いたいのか」
せせら笑うような男の声。
「そうだ。おまえは、女神を支配して人の弱い心につけこむ。もっと幸運になりたい、あるいは、もう一度幸運になりたいという人、いや、それよりも、一度幸運を逃して困っている人の心にとりつき、必死の想いに駆りたて、その揚げ句に奈落《ならく》に転落させていく、そんなやつだ」
松五郎の声が、怒りのためか少し震えを帯びている。まだ、動揺しているようだ。
「ちがうな」
男は冷静な声で反論した。
「きさま、自分が関わったので、感情的になっていないか、古狸? われわれ妖怪というのは、あくまで人間たちの心が生み出すものだぞ。わたしみたいなものが存在するのも、この女神の運をありがたいと思わない、あくなき貪欲なやつとか、人の幸運が嫌でたまらない愚かなやつらが生んでくれた結果なのだ。そんなこともわからんのか」
男の声には、妙に自信めいたものがあった。そこから発するオーラのようなものが、相手を少なからず威圧するようだ。
松五郎も流も、そうしたオーラに呪縛されたかのように、言葉を返せないでいる。
ここぞとばかりに、男は続けた。
「人間というのは、自分さえよかったらいいというような連中だ。身の程しらずにも、その欲望は限りない。しかも、他人が幸運なら嫉妬《しっと》する。運のよかった相手が転落しないかと、鵜《う》の目鷹《たか》の目だ。そういうやつらが、わたしの餌《えさ》になるのも自業自得だろう。狸、自分やそこにいるやつに聞いてみろ」
良治も同様に、何も言えないでいる。その苦悶の表情は、女神の運だけを探し回っていた自分の愚かさに向けられているのだろうか。
だが、かなたは、そうしたオーラには影響されていないようだった。.
「ちがうね、父さんの相手は知らないけれど、良治さんはそんな人じゃないよ」
彼女も妙な雰囲気は感じたものの、持ち前の天真爛漫《てんしんらんまん》な明るさで、相手の言っていることが一面的でうさんくさいと見抜いたのだ。
「そんな人はいるかもしれないけれど、あんたの言ってることはおかどちがいだよ。だれだって、どうしようもない状況になったら、なんとかしたくてあがくじゃないの。そうしただけだよ。あんたにとやかく言われることは、なにもない」
そして、相手を睨《にら》みつける。
「ははん、あんたって、そうやってもがく人を踏みつけにするだけのサイテーなやつなんだね」
図星だったのだろう。ザ・デスパリットと呼ばれた男が今度は沈黙した。
かなたの反論に、それまでの呪縛を振り払うかのように、松五郎が口を切った。
「かなた、ありがとう。その通りだ、そいつは幸運の女神のそばにくっついていて、そうしたことを考えてなかった人や、前向きに一生懸命になっている人に悪影響を与えるのだ。しかも、そのやり口というのが、馬にニンジンを見せつけてから、それを取り上げるようなあざとさだ。引っ掛かった人を悪くは言えない」
どうやら、松五郎は落ち着いたらしく、普段の穏やかさに戻っていた。しかし、その口調には、有無を言わせぬ厳しさがあった。
「そいつは、幸運の女神がきまぐれなのをいいことに、その後に悲惨な状況を仕掛ける。そして、以前のようになりたいと思う者を、どんどん、底なしの穴へと引きずり込んで行く。上に向いてあがけばあがくほど、下に向かって、引きずり込まれる。ちょうど、その胸の記章の逆三角のようにな」
松五郎が言うように、男のスーツの胸には会社の記章なのだろう、金色の逆三角のマークが輝いていた。女神のネックレスとは見事な対照を見せている。
このとき、はっとした気配があった。瀧良治が気がついたようだ。
「あれだ、百合恵がおれの買った時計にシールを逆向きに張った。おれが幸運のシールだから大事にしろと言ったのを、ふざけて逆向きに張ろうとした……」
「やれやれ、それがとんだ災難のきっかけだったってわけか」
こちらも呪縛から解放されたのか、流が納得したようにうなずく。
解けてみれば、簡単なことだった。
松五郎は、流が持ち帰った時計を見た途端、デスパリットだと目星がついた。そこから、逆三角のマークを持つ取り立て屋を割り出すのは、楽なことだった。
「そう、そのときから、こいつの悪運が効果を表わしはじめたのだよ。幸運のシールだと言いながら、それが逆を向いたときを狙《ねら》っている。彼女に幸運の三角といった装いをさせて操るのは、こいつの常套手段だ。しかも、いったん幸運にめぐりあった人間に仕掛けるのだから、たちが悪い。転がり落ちる坂はとてつもなく急だ。あっというまに、絶望の淵《ふち》に立たされる。こいつの名前通りに」
「まあな、そうもわたしの過去を知っているやつに問い詰められたら、何を言っても無駄だろうな。ただ、残念なことに、これまでそうしたことを知ったやつは、生き残れなかったのだよ。下がれ、エル!」
デスパリットは、女を愛称で呼ぶと、後ろに跳びすさった。女も急いで後ずさりする。
その瞬間、地下駐車場の床に巨大な穴が開いた。
いや、穴ではない。
むきだしのコンクリートが、かなたや流の立っていたところから直径一〇メートルくらいにわたって、急にすりばち状にぼこっとへこんでしまったのだ。
松五郎たち四人は、思いもよらない攻撃に足場をとられて、その中に転落した。
駐車場に止まっていた自動車も一気に、そのすりばち状の円錐形の中へと滑り落ちていく。
「ふはははは。私にかなうなどと思うのは、まだまだ早いわ。たかが古狸など、こうなればどうしようもあるまい。ふはははは」
高笑いが響く。
かなたたちの周囲は、コンクリートからいつのまにか、じゃりじゃりする砂に変わっていた。彼女は必死に体を支えようとした。
流だけは、すばやかった。Tシャツがびりびりと裂けると、そこには金色をした皮膚と、そして、かぎ爪《づめ》のある巨大な爬虫類《はちゅうるい》の全身が現われる。彼こそは、龍と人の間から生まれたもの。
変身した流はただちに宙を滑るように飛ぶと、絶望の穴の淵に立ち、それを覗《のぞ》き込むことで悦楽にふけろうとするデスパリットに向かってとびかかった。
こんな男など、電撃を浴びせるまでもない。この爪でひと裂きしてやれば終わりだろう、と流は感じた。
ただ、天井が低く、いつものように充分には舞い上がれなかったので、少しばかり時間を食う。
しかし、デスパリットは思わぬ流の反撃に泡を食ったように見えた。
「くらえ! 悪魔!!」
必殺の爪による攻撃。たとえ、妖怪《ようかい》といえども、これを喰《く》らってはたまらないはずだった。見たところ小柄な男で、たいした反撃手段を持っているとは思えない。
その爪は、男の体に――
が、意外な結果に、流は驚いた。
外したのだ。
参ったなあ、おれの腕も鈍ったものだぜ。
そう思いつつ、見れば敵はまだ近くにいる。それならと、もう一度攻撃。
おかしい、当っているはずなのに、攻撃がわずかなところで外れてしまう。
「馬鹿もの。わたしには、幸運の女神がついているのを忘れたか。きさまの攻撃など当らんわ!」
そして、男は胸からなにかペンライトのようなものを取り出した。
流は焦った。急に士気が萎《な》えはじめてくる。おそらく男の言うとおりなのだろう。ここにいるのは、幸運と悪運を司《つかさど》っている二人だ。相手に悪運を与え、自らは幸運に加護されている。そんな相手には、いかに強力な攻撃手段があろうとも、とても勝ち目がないように思えてきたのだ。
ちらっと女を見やる。女は胸の三角のネックレスをじっと握りしめているようだった。
この男の攻撃などたいしたことはない。そうだとすると、無理を承知でも、あの女の幸運の加護をまずなくせれば……。
決断が早いのが流の取《と》り柄《え》だ。彼は男から向き直ると、離れた位置にいる女めがけて、雷撃を放った。
「かんべんしてくれよ、お姐《ねえ》さん。きれいなあんたを傷つけたくはないんだが。という前に、当ってくれよな」
流の考えは正しかった。相手の放つ絶望のオーラに若干悲観的にはなっていたが、その狙いは正確に女へと届いた。そう、他の対象に幸運を念じている間は、女神といえども自らにまでは手が回らないのだ。
彼女は、若干弱くしてある電撃に撃たれて、気絶した。その姿がくずおれる。
しかし、それと同時に、流はデスパリットを甘くも見ていた。男の取り出したペンライトからは熱線が放射され、それが流の背を撃った。
強烈な衝撃。普段の流ならば、かたい皮膚によってそれを跳ね返していたかもしれない。しかし、倒れる寸前の女神の幸運は、それが流の逆鱗《げきりん》に命中することを選んだのである。
「ぐおっっ!!」
呻《うめ》きともなんともつかない声を上げて、巨大な龍は倒れた。
「手を焼かせやがって。さあ、始末してやるか」
悠々と立ちはだかるデスパリット。もはや、そこから発する絶望のオーラには、誰も対抗できないように思えた。
かなたは砂にまみれていた。そばでは父親と、ちょっと離れたところに良治が見える。二人とも必死で落ちようとするのに耐えているようだ。そういえば、かなたの乗ってきたワーゲンも、この蟻《あり》地獄にひきずりこまれたのだろうか。
蟻地獄?
たしかにそうだ。砂はもろく、いまにも崩れていきそうに見える。それが怖さに、上に行こうとあがけばあがくほど、足場が崩れて下に向かう。
そして、下には……。
穴があった。ただの穴か? そんなはずはない。じっと目をこらすと、そこに何かが潜んでいるような気がする。
見えた。たしかに何かがいた。赤い目が二つ、穴の奥にらんらんと輝いている。そいつが何ものかはわからなかったが、滑り落ちてくるものを待ち受け、喰いつくそうとしているのだけはまちがいない。
とても、父親は当てにできそうもなかった。良治ともども頭を抱えている。強烈な絶望のオーラがこのすりばちでは効《き》いているのだ。さすがのかなたも最初は、もうどうしようもないという思いにとらわれかけた。だが、必死にそれを振り払う。
あたしには力があったはずだ、自分にできることが――
横を見ると、ワーゲンがいた。その車輪は夕刻の雨に濡《ぬ》れ、そして、いま、じゃりまみれだった。
絶望というものに、人はがんじがらめになる。冷静に見れば、なぜそんなことをしたのかと思われがちだが、それは外からの冷たい見方でしかない。当事者にとって、そうした状況はどうしようもないのだ。良治や松五郎はいちどそうした思いにとらわれたことがあり、いまそこから抜け出すのは至難の業だった。
しかし、かなたはちがった。
彼女の天性の明るさは、いま絶望が捕らえようとする魔手をするりと逃れた。
ワーゲンの車輪にくっついた葉っぱを見たとたん、彼女の顔が輝いた。
そう、変身すればいいんだ。かなたは手を伸ばして、その葉をとった。
たちまちその姿が一羽のひばりに変わったのを、目に留めるものはいなかった。
ひばりは、こっそりと激しい戦いが行なわれているのを天井付近で見ていた。流が幸運の女神を撃ち、それとほとんど同時に、デスパリットの一撃が流を倒すのも。
まさしく幸いなことに、幸運の女神は薄暗い片隅に横たわっていた。非情な男は、いまではそちらの方を見もしていない。眼前に横たわる流をどう処分しようかと、勝利の快感に酔いしれているのだ。
かなたは倒れている女神のかたわらに降り立つと、車の陰にまぎれて変身を解いた。そして、急いで、女神のネックレスを外した。外してしまうと、その効果がなくなるのではないかと気がかりだったが、まだ強力な運のオーラを発している。
ちらっと見ると、デスパリットは流のそばに立っていたが、どうやら決断したようだった。
「ふん、きさまなど、この手で殺すにはもったいないわ。穴の奥で、空腹なやつがあぎとを開いておる。きさまが最初のいけにえになってしまえ!」
高らかに死の宣告をしたかと思うと、思い切り流の体を蹴ろうとした。
かなたがネックレスを握りしめたのは、その瞬間だった。
お願い、流、逃げて!
その瞬間、流は呻《うめ》きながら身を転がした。男の思い切り振ったつま先が空を蹴る。
「うわっ!」
見事にバランスを失したデスパリットは、足を踏み外した。
そのまま、蟻地獄に転がり落ちる。
「た、助けてくれえ〜!」
勢いのついた体はごろごろと、まっしぐらに穴の底へと滑り落ちていく。
その速度は、良治や松五郎、そして、ワーゲンよりも早かった。絶叫の響きがこだまする。
そして、穴の底からは、何ともいえない器官がかすかにその口を伸ばしてきた。口か? いや、なんだかはわからない。
そいつは、転がり落ちてきた体を服ごと咥《くわ》えると、ずりずりと穴の奥へと引きずり込もうとした。デスパリットはただ闇雲《やみくも》に手を掻《か》くだけだ。
やがて、その腕先だけが宙に伸び、そして……穴の中に消えた。
「早く、マスターたちを助けないと」
かなりの傷を負いながらも、その場面を目に焼きつけた流が、かなたの方を見てささやく。だが、その必要はなかった。
デスパリットの姿が消えるとともに、蟻地獄も消え、元のコンクリートの床が現われたからだ。松五郎も良治も、その上に横たわっている。ただ、デスパリットの姿はなかった。
「あれは何だったんだ?」
ふらふらしながらも、流が立ち上がる。松五郎も近寄ってきた。
「おそらく、デスパリットと一心同体の魔物だったんだろうな。本人が滅んだので、あいつも消えたということだろう」
最後に立ち上がった良治は、いま起こったことがまだ信じられない様子だ。それと同時に、もう一つの疑問も湧き上がってきたのだろう。
「あなたたちは、まさかあいつが言ってたような……」
一同は顔を見合わせた。人間の前で、妖怪はその素性を明すことは基本としてない。松五郎が意を決するように口を開いた。
「その通りです」
マスターは手短に、自分たちのことを語った。
そのはっきりした説明に、かえって良治は気が楽になったようだった。
「それにしても、あんな化け物はいつからいたんでしょうね」
良治はまだ信じられないというように、首を振る。松五郎がそれには答えた。
「……幸運の化神は随分昔からいるのだが、あのデスパリットというやつが現われたのは比較的最近のようだね。どうも調べると、一七世紀のオランダでチューリップが異様な高騰をした後くらいかららしい」
これは、バブルの典型として有名な事件だ。
「それからも、あいつはそうした好景気の後の不景気なときには、よく顔を出している。わたしの知っているところでは、日本で昭和の初期に」
そう言ってから、松五郎は顔を曇らせた。彼がかかわったのは、そのときのことなのだろう。
「そうかあ、父さんが問題を起こしたのは、あたしの母さんじゃなかったんだ」
かなたが素頓狂《すっとんきょう》な声を出す。一同は、その言葉に少し救われた思いだった。
「ということなの、良治さん。で、わかってもらえると思うけど、あたしたちのことは……」
「ああ、こんなことは誰に言っても信じてもらえない。誰にもいわないさ」
良治の口調に、これもすべて悪夢ではないかという響きがあった。
「で、どうするの? これから」
「そうだなあ、やっぱり、一度郷里に帰ってみるよ。おやじに頭を下げることも必要かもしれない。そうしてから、地道にがんばる」
かなたは、それを聞いてほっとした。首から下がるネックレスを握る。
「そうだね。そうした方がいいよ。一度だけ、これを使ってみるって方法もあるけど、そんなのに頼るとだめだしね。あっ!」
一同はそのときになって、はじめて幸運の女神が倒れたままだったのに気づいた。
そちらを見ると、彼女もどうやら気絶から回復したらしい。そろそろと起き上がろうとしている。
一瞬、緊張した一行だが、力なくうなだれるその姿を見ると、むしろ哀れさが込み上げてきた。
「どうする? このままだと、また惑わされる人が出るかもしれないぞ」
「でも、流、あんた、彼女にひどいことできる? 幸運の女神なんだよ。でも、そうだなあ、このネックレスくらいは処分しちゃった方が」
「お願いです、それを返してください。わたしが、それをもっとまともなものにします」
そのとき、近寄ってきた女を、一行は見つめた。その願いには、だれも返事をしようとはしない。
やがて、松五郎が言った。
「かなた、返してあげなさい」
「えっ、だって……」
しかし、松五郎は決心したように、かなたからネックレスを取り上げると、それを持って女のそばに行き、手渡した。
女は感謝するように首を振ると、何も言わずに車に向かう。
松五郎はそれをただ見送っていた。
「父さん、いいの? ひょっとしたら、またデスパリットみたいな妖怪が現われるかもしれないんだよ」
その言葉を聞いた松五郎は、かなたに振り返った。穏やかな、いつものマスターの顔になっている。やがて、彼はさとすように口を開いた。
「かなた、幸運と悪運とはいつも対になっている。だから、それと同じで、絶望がなくなると、それに背中あわせのものもなくなってしまうんだ」
父を見つめていた娘には、その言わんとすることがわかったような気がした。
たしかに、そうだろう。
幸運の女神は、これからも、ときとして絶望という名の悪運を伴ってくるかもしれない。
しかし、その背中には、つねに希望もくっついているのだ。
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
Take-3――――――――
「お、これこれ。やっと入荷したかぁ」
「ええ? そんなのがいいわけェ? 誰が出てんの?」
「いや、これを見るとさぁ、この監督の映画、全部|征覇《せいは》できるんだよ。たぶん、つまらないとは思うんだけどさ」
「つまんないのに、なんで見るのよう」
帰る前に寄ったレンタルビデオショップで、ずらりと並んだホラー映画の棚《たな》を見ていると、隣のカップルがそんな会話をかわしていました。
男のほうは、なぜその監督にこだわるのかを熱心に説明していましたが、彼女のほうは興味がなさそうでした。私は、聞くともなしに聞いていたのですが、彼が、その監督の作品を、すべてあげて説明しているうち、マイナーなテレフィーチャーを一つ落としているのに気づいて、ついつい口をはさんでしまったのです。
いや、まったくマニアというのは、どのジャンルでも度しがたいもので。
気がつくと、彼と私ばかりがもりあがってしまい、彼女のほうは怒り出す寸前でした。
あわててなだめて、結局、無難な娯楽作品をレンタルしていかれましたが。
趣味の違いというのは、なかなか埋めるのが難しいものです。大目に見てあげられればいいのですが、やはり、恋人が自分より夢中になっていると、たとえ相手が人間でなくても、許し難い嫉妬《しっと》にとらわれるのかもしれません。
でも、怒ってくれればまだいいほうでしょう。マニアの執念の恐ろしさをまのあたりにすると、むしろ、怯《おび》えて逃げられるほうが当然という気もします。
そんなマニアたちは、ほんのちょっとした噂《うわさ》で動きます。ほんの一分、長さが違う版があると聞けば見たがり、あるいは雑誌連載と単行本化で改稿があると聞けば両方そろえたがり、ペイント違いを探して店を見つければ飛びこみ。
そんな連中が、未知の名作の噂でも耳にしたなら……。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第三話 しかばね綺譚 高井 信
プロローグ
1.芦野《あしの》健太郎《けんたろう》の死
2.『屍綺譚《しかばねきたん》』発見?
3.呪《のろ》われた本
4.〈うさぎの穴〉
5.『月刊ミステリ』編集部
6.古書〈稀文堂《きぶんどう》〉
7.作戦会議
8.懲りない男たち
9.『屍綺譚《しかばねきたん》』の正体
10.生きている死体
エピローグ
[#改ページ]
プロローグ
黒石《くろいし》香玉《こうぎょく》という名の人物をご存じだろうか。
ご存じの方は、よほどの年配者か探偵小説のマニアだろう。
黒石香玉というのは、明治時代に活躍した翻案《ほんあん》家である。あ、いや、翻案家などと言っても、若い人には聞き慣れない言葉かもしれない。まずは翻案という言葉について説明しておいた方がよかろう。
翻案というのは、まあ簡単に言ってしまえば翻訳なのだが、むろん両者は全く同じものではない。翻案と翻訳が決定的に違うのは、翻訳は原著を忠実に訳すのに対し、翻案は翻案家の判断によってかなり大胆《だいたん》に原著の内容を書き換えてしまうという点だ。
外国人の名前や地名を日本風(つまり漢字)に変えるのは当たり前。つまらないと思う部分はばっさりと削り、あるいは、翻案家の好みで勝手にストーリーを変更し……。極端な例としては、別の作品のエピソードを挿入《そうにゅう》してしまったりもする。現代であれば問題になるだろうが、明治時代はそういった点で大らかだったし、何より人々はそういった翻案を歓迎していたのだ。
当然のことながら、翻案家の技量によっては翻案作品が原著より面白くなってしまう場合もある。その代表的な翻案家が香玉だった。香玉が翻案した作品のほとんどは原著より遥《はる》かに面白くなっており、広く大衆の支持を得ていた。
香玉は主に海外探偵小説の翻案を手掛けていたが、そのほかにも(今で言う)SFやホラー小説も翻案している。また、翻案作品の数と比べれば少ないが、いくつかのオリジナル小説も執筆しており、そのほとんどが好評をもって受け入れられていた。香玉こそ、まさに明治時代における大衆小説の巨匠《きょしょう》であり、同時に、日本探偵小説の祖とも言える存在だった。
その香玉に幻《まぼろし》のオリジナル作品があるらしいと発見したのは、芦野《あしの》健太郎《けんたろう》という若き香玉研究家だった。芦野は売れっ子のミステリ作家だが、同時に探偵小説の熱狂的なマニアでもあった。戦前の探偵小説雑誌に発表されたまま埋もれてしまっている傑作《けっさく》探偵小説を発掘し、それらをまとめてアンソロジーとして出版したこともあるくらいだ。
戦前にデビューした探偵小説作家の多くは、「少年時代に香玉作品を読み耽《ふけ》った」と述べている。そういった探偵小説が三度の飯よりも好きな芦野が香玉に興味を持ったのも当然のことと言えよう。
芦野は、香玉がしばしば寄稿していた大衆新聞『大朝報』を調べていて、「黒石香玉先生が途轍《とてつ》もなく恐ろしい怪談本を書き上げたという。作品名は『屍綺譚《しかばねきたん》』と聞いた」という一文を見つけた。無著名記事だが、どうやら執筆したのは編集者らしい。
(え? 『屍綺譚』だって? そんなタイトルは聞いたことがないぞ)
芦野は自分の目を疑った。何度も読み返すが、やはり間違《まちが》いない。
香玉の作品については、香玉研究の第一人者・佐藤《さとう》秀次《しゅうじ》の手によって、ほぼ、完璧《かんぺき》な著作目録が作成されている。さっそく芦野は佐藤の著作目録を始め、自分の所有しているすべての文献に当たってみたが、どこにも『屍綺譚』に関する記述はなかった。
(ということは……。まさか、埋もれた香玉作品?)
芦野は狂喜した。と同時に、
(そんな作品が実在するのであれば、ぜひ読みたい!)
と切実に願う。
芦野は、香玉ファンの友人とともに <香玉同好会> というグループを作っていた。完全に仲間内のグループで、特に会員を募集しているわけでもないので、会員数こそ六人と少ないが、メンバー六人のうち(芦野も含めて)五人がミステリ作家、残ったひとりもミステリ評論家ということもあり、会員たちの香玉作品に関する造詣《ぞうけい》の深さは並みではなかった。
(ひょっとしたら、誰かタイトルくらい知っているかも……)
一縷《いちる》の望みを抱き、メンバーに片端から電話して『屍綺譚』のことを問うてみる。だが、誰も『屍綺譚』のことは知らなかった。まるで示し合わせているかのように、「タイトルすら聞いたことがない。そんな作品、本当にあるのか?」と口を揃《そろ》えて言う。
(さて、どうするか)
当時の香玉の人気を考えれば、出版されていないとは考えにくかった。しかし、香玉研究の大先輩である佐藤秀次の作った著作目録にすら掲載されていない本を、そう簡単に発見できるとも思えない。
悩んだ末、芦野は広く世間の愛書家や探偵小説の研究家たちに呼びかけてみることにした。幸いなことに、芦野は新進|気鋭《きえい》のミステリ評論家としての顔も持っており、二年ほど前からミステリ専門誌『月刊ミステリ』で書評を連載している。
芦野は『月刊ミステリ』の原稿に、以下のような文章を付け加えた。――「明治時代に活躍した探偵小説翻案家・黒石香玉が『屍綺譚』というオリジナルのホラー小説を書いたらしい。明治時代に日本人によって書かれたホラー小説というだけでも貴重であるし、しかも香玉の作品となれば面白くないわけがない。現物を所有されている方、あるいは『屍綺譚』に関する情報をお持ちの方は、ぜひとも編集部|宛《あて》にご連絡いただきたい」
『月刊ミステリ』はミステリ専門誌と銘打《めいう》たれているが、その間口《まぐち》は広く、ミステリだけではなくホラーや伝奇アクション、SFといったジャンルの作品も数多く掲載している。なかでも、最近は空前のホラー小説ブームということもあって、ホラー小説には特に多くのページを割いていた。送られてくる読者カードも、ホラー小説ファンからのものが急増しているらしい。
芦野の書評が掲載された『月刊ミステリ』が発売されるや、ホラー小説ファンは騒然となった。――明治時代にそのような作品が書かれていたのか。あの芦野健太郎が言うのだから、面白いに違いない。だいたい『屍綺譚』なんて、タイトルからして恐ろしげではないか。
その反響の大きさは、芦野の予想を遥かに超えていた。
先ほども述べたように、ここのところ異常なほどのホラー小説のブームが続いている。さらには、パソコン通信の普及によって、情報伝達の早さはひと昔前の比ではない。そういった状況の後押しもあっただろう。
またたく間に、幻のホラー小説『屍綺譚』の名は、あまねく全国のホラー小説ファンの間に広まったのである。誰も、その内容を知る者はいないままに……。
1 芦野《あしの》健太郎《けんたろう》の死
『月刊ミステリ』が発売されて、一週間が過ぎ去った。
芦野は書き下ろし長編の打ち合わせのため、仕事場として借りているマンション近くの喫茶店 <山と水> へと赴《おもむ》いた。打ち合わせの相手は水谷《みずたに》徹《とおる》――『月刊ミステリ』の編集者で、芦野の担当である。
芦野が席につくなり、
「先生。『屍綺譚』の評判、すごいですねえ。毎日毎日、どんどんハガキが届いてますよ」
水谷は嬉《うれ》しそうに言った。
「それで、何か有益な情報はありましたか?」
と芦野、期待を込めて問うが、
「いや、それは……」
水谷は申しわけなさそうに頭を掻《か》いた。
「ぜひ読みたいから『月刊ミステリ』に一挙《いっきょ》掲載してくれとか、うちのミステリ文庫に収録してくれとか、そんなのばかりです」
「そうですか……」
芦野は肩を落とした。
『屍綺譚』が予想以上に読者の興味を惹《ひ》いたことは、芦野も承知していた。あの書評が掲載されて以来、ファンレターの数が急増し、それは嬉《うれ》しいのだが、そのほとんどが『屍綺譚』に関する問い合わせだったのである。
そのなかには、香玉研究の大先輩・佐藤秀次からの手紙もあった。――「そのような作品があるとは、私も知りませんでした。香玉の著作は全冊収集し終えたと思っていたのですが……。もし有益な情報を入手されましたら、ぜひお知らせください」
佐藤からの手紙には、正直なところ芦野はがっかりした。佐藤による香玉著作目録が作られたのは十年以上も前のことだ。ひょっとすると、その後に新たな発見があったかもしれないと思っていたのだがその期待は見事《みごと》に打ち砕《くだ》かれてしまったのだ。
やがて話題は、本来の目的である書き下ろし長編の打ち合わせに切り換わった。
頭のなかは、『屍綺譚』に占領されている状態とはいえ、新作のプロットは立ててある。幸いにして、水谷は芦野のプロットを面白がってくれ、GOサインが出た。
「では、先生。そういった感じで、よろしくお願いします」
水谷は言い、席を立った。続いて芦野も腰を上げる。だが……。
まさかこの打ち合わせが、芦野と直接顔を合わせる最後の機会となろうとは、水谷には想像すらできなかった。
打ち合わせの三日後――
芦野から『月刊ミステリ』の書評が脱稿したという連絡を受け、水谷は喫茶 <山と水> へ赴《おもむ》いた。
いつもの窓際《まどぎわ》の席に坐《すわ》り、芦野が現われるのを待つ。だが、いくら待っても芦野は姿を見せなかった。仕事場のマンションへ電話をかけても呼び出し音が鳴るだけ。自宅に電話をすると、芦野の妻――涼子《りょうこ》が出て、「仕事場にいるはずですけど……」と言う。こういう点、芦野はきちんとした男で、これまで約束をすっぽかすようなことはなかった。
一時間待ち続けたが、それでも芦野は姿を見せない。
(おっかしいなあ……)
仕方なく水谷は喫茶店を出、芦野の仕事場へ向かうことにした。玄関のチャイムを何度も押すが、やはり返答はない。
「はて?」
水谷は嫌《いや》な予感を覚えた。とりあえず芦野の自宅に連絡をし、涼子にマンションの鍵《かぎ》を持ってきてもらう。芦野の自宅はマンションから徒歩五分ほどの距離にあるのだ。
しばらく待っていると、涼子が姿を現わした。
「主人、どうしちゃったんでしょうね」
と首を傾《かし》げつつも、さほど心配している様子はない。
「鍵、持ってきてくれました?」
「ええ」
涼子は頷《うなず》き、ポケットからキーホルダーを取り出した。迷わず一本の鍵を選び、玄関扉の鍵穴に差しこむ。
カチャリ。
小さな音がして、扉が開いた。
玄関に置かれている靴を見て、
「これ、今朝《けさ》主人が履《は》いていった靴ですわ」
涼子が言う。
「では、先生はここに?」
水谷の言葉に、涼子は答えなかった。
「あなた……?」
と声をかけ、室内に足を踏み入れる。
「先生?」
と水谷もあとに続いた。
室内はしんと静まり返っている。
ふたりは無言で顔を見合わせた。どちらが先導するわけでもなく、書斎《しょさい》へ向かう。
書斎のドアは閉められていた。
「あなた?」
と声をかけ、涼子がドアを開ける。その瞬間だった。
「きゃあ!」
涼子は大声を発し、勢いよく走り出した。
「奥さん、どうしたんです?」
水谷も慌《あわ》てて書斎に足を踏み入れる。
「せ、先生っ」
水谷は絶句した。
ふたりが目にしたものは、愛用の仕事机の前に坐《すわ》ったまま俯《うつぶ》せの体勢で倒れている芦野の姿だった。ただならぬ雰囲気は、眠っているのではないことを予感させる。
「あなたっ」
絶叫《ぜっきょう》しつつ、涼子は夫のからだを抱き起こした。だが、案《あん》の定《じょう》と言うべきか、芦野はぐったりとしており、ぴくりとも動かない。
さらに、夫の顔を覗《のぞ》きこんだ涼子は、
「ひええええ」
と悲鳴《ひめい》を上げた。
「どうしました?」
芦野の顔を見た水谷も、
「ひいっ」
と悲鳴。芦野の顔面は、まるで何か恐ろしいものでも見たかのように、恐怖の形相《ぎょうそう》を浮かべたまま固まっていたのだ。
ただごとでないことは明らかだった。
「あなたっ」
涼子は夫のからだに縋《すが》りついた。激しい嗚咽《おえつ》を繰り返す。
「奥さん、しっかり」
水谷は涼子に声をかけ、電話で救急車を呼んだ。しかし……。
手後《ておく》れだった。すでに芦野はこと切れていたのである。
「あなた、あなた、あなたあああああ」
ただ泣き濡《ぬ》れるだけの涼子の横で、水谷は何もできずに立ち尽くしていた。悲しみの姿を見ていることに耐えられず、思わず涼子から顔を背ける。
そのとき――
ふと水谷は、芦野の仕事机の片隅《かたすみ》にプリントアウトされた原稿が置かれているのに気がついた。
「……あれは?」
ゆっくりと仕事机に近づく。こんなときに不謹慎《ふきんしん》とは承知していても、内容を確かめずにはいられなかった。編集者の性《さが》と言うものだろう。
原稿の冒頭に記されたタイトルは「ミステリ・レビュー」だった。言うまでもなく、『月刊ミステリ』用の原稿だ。
「先生……。原稿、確かにお預かりします」
涙《なみだ》に濡れた顔で、水谷は原橘に向かって深々と頭を下げた……。
2 『屍綺譚』の発見?
「ふう……」
水谷は深々と溜《た》め息《いき》をついた。
ここは『月刊ミステリ』編集部である。
とにかく、大変な一日であった。
芦野の両親が到着するのを待って、水谷は芦野の仕事場をあとにした。編集長に詳細な報告をし終え、とりあえずの責務を果たす。
ミステリ専門誌の編集者とはいえ、当たり前のことだが、実際の死体を目《ま》のあたりにする機会など滅多《めった》にない。死体を見るだけでも嫌な気分に陥《おちい》るものなのに、それが自分の担当している作家の死体となれば……。
つい先ほど編集長も退社し、編集部に残っているのは水谷ひとりになっている。
(とにかく、原稿に目を通しておくか)
水谷は思い、芦野の原稿を手に取った。いつもと変わらず、新作ミステリに対する芦野の愛に満ちた辛口《からくち》批評が書き連ねられている。この素晴らしい書評がもう読めないかと思うと、たまらない気持ちだった。
目頭《めがしら》を抑えつつ原稿を読み進める。だが、最後の数行に差しかかったとき、
「な、なんだって!?」
水谷が思わず大声を発した。そこには、「ついに私は『屍綺譚』を入手した。今回は間《ま》に合わないが、次号で紹介すること、ここに約束する」と書かれていたのである。
(『屍綺譚』を入手した?)
芦野はゴクッと生唾《なまつば》を飲みこんだ。
(てことは、あの仕事場に『屍綺譚』があったのか?)
書斎の情景を頭に思い浮かべる。
当然のことながら、水谷は『屍綺譚』の現物を見たことはなかった。だが、明治時代に刊行された出版物ということだから、最近の出版物とは容易に区別がつくだろう。もし仕事机の近くに置かれていたのであれば、水谷の記憶に残っているはずなのだが……。
駄目だった。いくら思い出そうとしても、机の周辺に古い書物が置かれていた記憶はない。
(すでに読み終わり、書棚に並べられていたのかもな)
水谷は思った。戦前の探偵小説が大好きな芦野ゆえ、書斎の壁一面に並べられた書棚のうち、まるまる一本は明治、大正、あるいは昭和初期に発行された古い書物や雑誌で埋められている。特に香玉の著作――いわゆる香玉本は、そのなかでもかなりのスペースを占めていた。あの書棚に並べられていたとしたら、よほど注意深く見ない限り、『屍綺譚』の存在には気がつかないだろう。
(奥さんに頼んで、仕事場に入れてもらおうか)
水谷は考えたが、さすがに、
(いやいや、それはまずい)
と思い直した。いくら何でも不謹慎《ふきんしん》すぎると思ったからだ。
と同時に、この書評の内容は『月刊ミステリ』の次号が発売されるまで、自分ひとりの胸のうちに秘めておこうとも思った。
何しろ『屍綺譚』は、いま大きな話題を呼んでいる小説だ。誰かに話してしまったら、またたく間に業界内に知れ渡るに決まっているし、『屍綺譚』が読みたいばかりに芦野の仕事場に押しかける輩《やから》が出てくるに違いない。通夜や葬式の最中でも、平気で芦野の書棚を物色《ぶつしょく》するやつもいるだろう。遺族の気持ちを考えれば、そんな事態に陥《おちい》ることだけは、何が何でも避けなければならなかった。
いっそのこと『屍綺譚』に関する部分を削除してしまえばいいのだが、編集者として、それはやってはいけない行為である。
いろいろと思い悩んだ水谷だったが、
(とにかく、しばらく時間を稼ごう)
と結論した。幸いなことに、書評ページは完全に水谷の手に任されている。ちょっと注意をしていれば、ほかの編集者の目に触れないまま、次号の発行に漕《こ》ぎ着けることは可能だ。
次号の発売日は、約三週間後。そのころには遺族の気持ちもいくぶんは落ち着いているだろうし、だいたい、『屍綺譚』発見のニュースをいつまでも秘密にしておくわけにはいかなかった。『屍綺譚』は日本のホラー小説史を語る上で、非常に重要な存在なのである。
水谷は芦野の原稿の末尾に、「この原稿を書かれた直後、芦野健太郎先生は急逝《きゅうせい》されました。慎《つつし》んで哀悼《あいとう》の意を表します。――編集部」と付け加え、そっと抽《ひ》き出《だ》しの奥にしまった。
そして……。
「ミステリ・レビュー」が芦野の絶筆として『月刊ミステリ』に掲載されるや、ホラー小説ファンたちはふたたび騒然となった。
発売日当日、編集部への直通電話は午前中から鳴りっ放し。むろん、ほとんどが『屍綺譚』に関する問い合わせの電話だった。
電話の応対には、芦野の担当編集者である水谷が当たった。
「まだ現物は確認されていないんですよ。ご存じのように、芦野先生は亡くなられてしまいましたし。はっきりしましたら『月刊ミステリ』に発表しますので、今しばらくお待ちください」
この繰《く》り返しである。
一般の読者には、これで納得《なっとく》させることができたが、業界人たちにはこんな言いわけは通用しなかった。
特に、香玉に興味を持っていて、日ごろから芦野と親しいミステリ作家や評論家たち――すなわち <香玉同好会> のメンバーたちは、編集部に問い合わせても無駄だと知ると、直接的な行動に出た。
彼らの考えることは同じだった。
「芦野の書斎に『屍綺譚』があるに違いない」
示し合わせたわけでもなかろうに、『月刊ミステリ』発売日の午後には、 <香玉同好会> のメンバー全員(といっても五人だが)が芦野の仕事場に集合していたのだ。
水谷が危惧《きぐ》した通りの結果になったわけだが、水谷としても、まあそれは仕方がないと考えていた。彼らのことだから、もし芦野の急逝《きゅうせい》直後に『屍綺譚』発見の情報を得ていたとしても、全く同じ行動に出ただろう。通夜や葬式の最中に書棚を漁《あさ》る輩《やから》の姿なんて、想像するだけで気が滅入《めい》ってしまう。そんな最悪の事態を回避できたことだけでも満足だった。
ともあれ、芦野の絶筆が掲載され、各人がそれぞれの思惑《おもわく》で行動を始めてしまった以上、もはや水谷の出る幕ではなかった。 <香玉同好会> のメンバーがどんな非常識な行動に出ようと、結果として『屍綺譚』が発見され、全国のホラー小説ファン(そして、数は少ないが香玉ファン)の欲求を満足させることができれば、それでいいのだ。
遅かれ早かれ、『屍綺譚』は見つかるだろう。
水谷は『屍綺譚』発見の朗報《ろうほう》が届くのを楽しみに待っていた。ところが…。
そのころ、芦野の仕事場では――
五人の男たちが浮かぬ顔をしていた。――北条《ほうじょう》博史《ひろし》、大森《おおもり》拓治《たくじ》、藤田《ふじた》一郎《いちろう》、南沢《みなみさわ》伸二《しんじ》、栗栖《くるす》清春《きよはる》。この五人に芦野健太郎を加えた計六人が <香玉同好会> の全メンバーだった。全員がミステリ作家や評論家として世に知られた存在である。
彼らの顔色が冴《さ》えないのは、皆で手分けして徹底的に探し回ったのにかかかわらず、どうしても『屍綺譚』が発見できなかったからだった。念のため、芦野の自宅の庭に建てられている書庫も調べさせてもらったが、やはり『屍綺譚』は見つからなかった。
「芦野さんのことだから、香玉本は書庫なんかに入れず、読み終えたら書斎の香玉本コーナーに並べるはずだよな」
香玉本コーナーを見やりつつ言う大森に、
「ねえ、大森さん。本当に芦野さんから何も聞いてなかったんですか。新しい発見をしたら、覿ず最初に報告する相手は大森さんでしょ」
と、北条が訝《いぶか》しげに言った。大森は <香玉同好会> のなかでも特に芦野と仲がよかったのだ。そのことは皆が知っている。
「ぼくに?」
大森は、とんでもないという表情をした。
「じょ、冗談じゃないですよ」
首をぶんぶんと横に振って否定する。
「みんなも知ってると思うけど、芦野さんの担当の水谷さん、ぼくの担当でもあるんですよ。で、詳《くわ》しく話を聞いたんですが、電話で書評が脱稿したという連絡を受けたときも、芦野さん、ひと言も『屍綺譚』のことを言わなかったそうですよ。芦野さんの性格からして、もし電話をする前に『屍綺譚』を入手していたとしたら、水谷さんに話してたと思いますよ」
「つまり、電話をして、水谷さんと待ち合わせの約束をしたあとで『屍綺譚』を入手したと?」
と栗栖。
「うん、まず間違《まちが》いないんじゃないかなあ」
大森は頷《うなず》いた。
「『屍綺譚』を手に入れたら、読まずに我慢できるわけがありません。で、読んだとしたら、きっとその内容を書評に書いたと思うんですよ。芦野さん、サービス精神|旺盛《おうせい》な人でしたからね。それができなかったのは、その時間がなかったせいですよ、きっと」
「なるほど、筋《すじ》が通ってますね」
藤田が同意を示すと、一拍おいて、ほかの三人も頷いた。
ややあって、ふたたび大森が口を開く。
「でも、ひとつ気になることがあるんです……」
「なんです?」
と北条が大森の顔を見た。
「うん」
頷いた大森、皆の顔を見回して言う。
「芦野さん、司法解剖されて、死因は心臓|麻痺《まひ》と診断されたそうだけど、芦野さんの心臓が悪いなんて聞いたこともなかったし、どう見たって健康そのものだった。そうじゃないですか」
「そうですね。芦野さん、酒はがばがば飲んでましたし、タバコもぱかぱか喫《す》ってましたよね。あれ、心臓の悪い人間のすることじゃありませんよ」
藤田が確信したような口調で言った。
確かに大森や藤田の言う通りだった。芦野は日ごろから「健康には自信がある」と豪語していた。
「その芦野さんがなぜ……?」
栗栖が首を傾《かし》げたとき、それまで何も発言せずに傍観《ぼうかん》していた南沢が口を開いた。
「もしかしたら、巧妙《こうみょう》に仕組まれた殺人かもしれませんよ」
「え? 殺人?」
皆の間に緊張が走るが、南沢は平然と続ける。
「だって、もし殺人だとしたら、『屍綺譚』が消えている理由も説明できます」
「なるほど」
大森は頷《うなず》き、
「つまり、犯人は何らかの手段で、芦野さんが『屍綺譚』を入手したことを知り、この仕事場に侵入した。で、芦野さんを殺して『屍綺譚』を持ち去ったと……?」
と南沢を見た。
「ええ、そういうことです。さすが大森さんですね」
大きく頷く南沢。だが、
「ま、考えられないことはないですけどね」
栗栖が口を挟《はさ》んだ。
「でも水谷さんが仕事場に来たとき、玄関の鍵《かぎ》は掛かっていたんでしょ。それに、この部屋は八階だから窓からの侵入は不可能です。完全な密室じゃないですか。犯人はどこから侵入してどこから逃亡したんです?」
と反論する。
「そ、それは……」
南沢は口ごもった。
「ただそういう可能性もあると言いたかっただけで……」
小さな声でぼそぼそと答える。
「南沢さん、ミステリの読みすぎですよ。それとも、テレビのサスペンス劇場の見すぎかな」
藤田の言葉に、思わず皆の口許《くちもと》が緩《ゆる》んだ。ほかの四人はミステリ作家だが、南沢だけはミステリ評論家なのである。誰からともなく笑いが漏《も》れ、またたく間に全員に伝染する。
その後も、
「もしかしたら、『屍綺譚』発見というのは嘘《うそ》なのではないか」
「警察が証拠《しょうこ》物件として持ち去ったのではないか」
などなど、さまざまな意見が出されたが、どれも推測の域を出ず、決定的な結論とはなり得なかった。
結局――
彼らは『屍綺譚』を発見することなく、とぼとぼとマンションをあとにしたのであった。
3 呪《のろ》われた本
一週間後――
大森拓治は自宅近くの商店街を足早に歩いていた。大森もまた芦野と同じく売れっ子のミステリ作家である。まだ三十歳を過ぎたばかりだが、新本格の旗手としてミステリ・ファンから熱い視線を浴びせられている。
大森が向かっているのは商店街を抜けた先――駅前にある喫茶店 <玉手箱《たまてばこ》> だった。肩にかけたショルダーバッグのなかには、つい先ほどプリントアウトしたばかりの原稿がはいっている。現在『月刊ミステリ』に連載中の長編ミステリ、第四回分の原稿だった。
来月号の締《し》め切りにはまだ余裕があるが、今回、早く書き上げたのには理由があった。実は、大森の担当編集者も芦野と同じ、水谷徹なのである。――と書けば、その理由がおわかりだろう。
原稿を書き上げれば、水谷と会うことになる。芦野の話も出るだろうし、『屍綺譚』に関する情報も得られるかもしれない。もちろん、電話ではいろいろと話は聞いたが、実際に会うとなれば話は別だ。もっと詳《くわ》しく話してくれるに違いないと思ったからだ。
知らず知らずのうちに歩くスピードが上がる。
と。そのとき――
「ん?」
大森はまるで誰かに見つめられているような気がして、立ち止まった。
そこは、商店街の中ほどに位置する古書店 <いさりび書房> の前だった。いや、古書店というより、古本屋という方がイメージしやすいだろう。いわゆる古書や有名作家の初版本、限定本の類《たぐい》は全《まった》くと言っていいほど扱っておらず、ありふれた文庫本やコミックス、ひと昔前のベストセラー本、それにスケベな雑誌や中古のアダルトビデオなどが主商品の小さな店だった。
大森も暇《ひま》なときには、たまに店内を覗《のぞ》くことはあるが、これまで興味深い本を見つけたことはない。
(はて?)
大森は何かに誘《さそ》われるように、ふらふらと <いさりび書房> に歩み寄った。何気なく、店頭の薄汚《うすよご》れた台に乱雑に並べられた本に目をやる。文庫本あり単行本ありコミックスあり雑誌ありという節操のなさ。共通しているのは、すべての本が陽に焼け、埃《ほこり》にまみれているという点だけだ。本の上には、「一冊百円、三冊二百円、五冊三百円」と黒マジックで書かれた段ボールの切れ端が置かれている。
以前は大森も、こういうところにこそ掘り出し物があるかもしれないと考え、埃で手が真っ黒になるのも構わず、隅《すみ》から隅までチェックしてみたこともある。だが、いつも徒労に終わっていた。もうほんと、どうしようもない本しかないのである。
それは充分にわかっていた。だが、なぜか今日に限っては、この薄汚れた本の山が妙《みょう》に気になって仕方がないのだ。
「う〜〜〜む」
大森は本の山を眺《なが》めた。腰を屈《かが》め、本の山に手を伸ばす。
(なんでこんなこと、してるんだか……)
首を傾《かし》げながらも、大森は本の山を引っ掻《か》き回し続けた。みるみる手が黒くなっていく。
(やっぱり何もないよな)
諦《あきら》めかけたときだった。
「あれ?」
大森は思わず小さな声を漏《も》らした。紐《ひも》でひとくくりにされた文庫本の陰に、いかにも古めかしい本が埋もれているのに気がついたのだ。明らかに戦前か、それ以前に発行された本であるとわかる。
いささかの期待を胸に抱《いだ》きつつ文庫本の束《たば》をどけた瞬間、
「おわっ」
大森は大きな声を発した。なんと! その本の表紙には『屍綺譚』と印刷されていたのである。
大森は自分の目を疑った。慌《あわ》てて掘り出し、じっくりと表紙を眺める。
間違《まちが》いなかった。確かに『屍綺譚』である。新書を少し大きくしたサイズの箱入り本だった。タイトルの横には黒石香玉と書かれている。
(まさか……)
大森は心臓が大きく波打つのを感じた。探し求めていた『屍綺譚』が、こんな形で見つかるなんて、とても信じられない。
汚れた本の山に埋もれていた割には、この本だけは埃《はこり》にまみれていなかった。最近この台に並べられたのだろうか。
奥付《おくづけ》を見ると、明治四十年四月の発行とある。発行元は幽鬼《ゆうき》書店――聞いたことのない出版社だが、そんなことはどうでもよかった。
(もしや、間違って置かれていたのでは……? レジに持っていったら、とんでもない金を要求されたりして……)
不安が胸中をよぎるが、迷っている場合ではなかった。本を持ち、店内に足を踏み入れる。
主人は店の奥で新聞を読んでいた。狭い通路に積み上げられた本の山を崩さぬよう注意を払いながら奥に歩《ほ》を進める。
「これ、ください」
大森が『屍綺譚』を百円玉とともに無雑作《むぞうさ》に差し出すと、主人は新聞から顔を上げた。『屍綺譚』を手に取り、
「ありゃ、こんな本があったかな?」
と怪訝《けげん》な表情を浮かべたものの、さして気にしていないようだった。話題の『屍綺譚』を知らないなんて古書店の主人失格と言えるが、大森にとっては好都合だった。
主人は薄茶《うすちや》色のハトロン紙で本を包み、大森に手渡した。
「どうも」
受け取った大森、床の本の山を崩さぬよう気をつけて、通路をあと戻りする。自然体を装っているが、いつ呼び止められるかと、心臓は破裂しそうだった。
ちらとうしろを振り返ると、主人はふたたび新聞に視線を落としていた。大森のことなど、まるで気にしていない様子。
店を出た大森はショルダーバッグに『屍綺譚』を入れ、深々と息を吐いた。
ついに念願の『屍綺譚』を手に入れたのだ! 胸の奥底から、じわじわと感動が沸《わ》き起こってくる。
芦野が入手したという『屍綺譚』と同一本でないのは明らかだった。もし誰かが芦野の仕事場から持ち去ったとしても、当然その価値は知っていようから、こんな場末《ばすえ》の古本屋に売却するわけがないのだ。
(早く読みたい!)
大森は痛切に思った。水谷徹との待ち合わせがなければ、すぐにでも家に帰りたい心境だった。
よく考えてみると、水谷と会う表向きの目的は原稿の受け渡しだが、真の目的は『屍綺譚』に関する情報を得ることだ。こうして『屍綺譚』を入手した現在《いま》、水谷と会うのは先に延ばしても構わない。締《し》め切りは来週なのだ。
水谷の携帯電話に電話して、待ち合わせをキャンセルすることはできる。一瞬そうしようかと考えた大森だったが、やはりそれはできなかった。
(素早く要件を片づけ、家へ帰ろう)
そう考えた大森は、ふたたび喫茶 <玉手箱> へ向かって歩き始めた。
喫茶 <玉手箱> ――
水谷はすでに来ており、大森の姿を見つけると小さく手を振った。
「あ、どうも」
軽く頭を下げ、水谷の坐《すわ》っているデープル席に歩を進める。
「大森先生、どうしたんですか? 妙に嬉《うれ》しそうですが……」
水谷に問われ、
「あ、やっぱりわかります?」
大森は相好《そうごう》を崩した。水谷の正面に坐り、
「実はですね……」
とショルダーバッグに手をかける。
まず大森が取り出したのは、『月刊ミステリ』の連載原稿だった。
「とりあえず、これ、お渡しします」
と水谷に手渡す。
「ありがとうございます」
水谷は内容を読もうともせず、原稿をテーブルの片隅《かたすみ》に置いた。
「まさか、原稿が早く上がったから嬉しいってんじゃないですよね」
上目遣《うわめづか》いに大森を見る。
大森は無言のまま、ふたたびショルダーバッグに手を伸ばした。今度取り出したのは、ハトロン紙に包まれた長方形の物体である。
「これ、何だと思います?」
大森は言い、意味ありげな笑《え》みを浮かべた。
「何って? 本みたいですが……」
首を傾《かし》げた水谷だったが、
「ふっふっふ。『屍綺譚』ですよ」
と大森が言った途端《とたん》、
「げっ」
頓狂《とんきょう》な声を出し、目をまん丸にした。
「お、本当ですか?」
声を上《うわ》ずらせて問う。
「ええ、本当です」
大森は答え、ゆっくりと包装を解いた。なかから『屍綺譚』が、その古色蒼然《こしょくそうぜん》たる姿を現わす。
「た、確かに……」
水谷は呆然《ぼうぜん》と言った。
「い、いったいどこで……」
と大森の顔を見る。
「すぐそこの商店街にある古本屋ですよ」
大森は答えた。発見したときの様子を手短《てみじか》に話す。
「はあ……。そんなことって、あるんですねえ」
水谷は感心したように言った。
「ちょっと、見せてもらえますか」
「構いませんけど、箱から出さないでくださいね」
「え?」
「だって、さっき手に入れたばかりで、私もまだ読んでないんですよ。一行だって、ほかの人に先に読まれたくありません」
大森、きっぱりと言う。偏屈《へんくつ》したコレクターゆえの言葉だった。
「わかりました」
呆《あき》れながらも水谷は頷《うなず》き、『屍綺譚』を手に取った。さまざまな方向から眺《なが》めたのち、
「どうも」
と本を返す。中身が見られないとなれば、箱だけ見ていても面白くも何もなかった。
ふと思いつき、水谷が言う。
「先生。その本、読まれましたら、ストーリーを『月刊ミステリ』で紹介していただけませんか。読者も、きっとそれを望んでいると思いますし」
「ええ、いいですよ」
大森は即答した。『屍綺譚』が契機となって香玉が再評価されれば、香玉の作品がどんどん復刊されるかもしれない。香玉の作品は、今ではほとんど入手できなくなっているのだ。古書店で目にすることは滅多《めった》にないし、もし売っていたとしても途方もない値段がつけられている。
そのとき、ウエイターが近づいてきた。
「ご注文は?」
と、大森に言う。
「いえ、もう出ますから」
大森は首を横に振り、ハトロン紙で『屍綺譚』を包み直した。
「では、また連絡します」
と席を立つ。
一刻でも早く『屍綺譚』を読みたくて、たまらないのであった。しかし……。
その翌日――
大森拓治は死体となって発見された。
死体を発見したのは、大森の母親だった。
彼はひとり暮らしをしているのだが、近くに両親が住んでいて、夕食は実家で食べることにしている。
前日の夜、大森は夕食を食べに来なかった。むろん外食することも多く、一日くらい姿を見せなくても心配することはないのだが、そういう場合、ちゃんと連絡することになっている。
電話をかけても虚《むな》しく呼び出し音が響くだけ。出掛けているのであれば、留守番電話になっているはず。
気になった母親が息子の住むマンションを訪ねたところ、大森は書斎《しょさい》の仕事机に坐ったまま俯《うつぶ》せに倒れていたのである。顔には恐怖の表情を浮かべ、死因は心臓|麻痺《まひ》《まひ》。芦野健太郎が死んだときと全く同じだった。
死の直前に大森が『屍綺譚』を入手していたという噂《うわさ》は広まり、それを耳にした <香玉同好会> の残ったメンバ――北条博史、藤田一郎、南沢伸二、栗栖清春の四人は、当然のごとく大森のマンションに集結した。ところが不思議なことに、どこへ消えてしまったものやら、いくらマンションを探しても、『屍綺譚』は発見できなかった。これまた、芦野のケースと全く同じである。
がっくりと肩を落として、四人は大森のマンションをあとにした。
最寄《もよ》りの駅へと向かう途中――
「なんだか気味が悪いですね」
南沢がボソッと呟《つぶや》くように言う。
「水谷さんが言ってたんですけど、大森さんが死んだの、『屍綺譚』を手に入れた日だったらしいですよ。芦野さんも、おそらく『屍綺譚』を手に入れた直後に死んでしまったと思われるし……。これ、偶然なんでしょうか」
南沢の問いかけに、栗栖が応じた。
「もし殺人事件だとすると、一番|怪《あや》しいのは水谷さんですね。芦野さんは水谷さんと会う予定でしたし、大森さんも死ぬ直前に水谷さんに会ってます。それに、ふたりが『屍綺譚』を入手していたことを最初に知ったのも水谷さんですから」
栗栖の言葉を聞き、
「やっぱり、栗栖さんもそう思います?」
と南沢、嬉《うれ》しそうに言う。だが即座に、
「いや。もし殺人事件だとすると、と断ったはずですよ」
栗栖は柔《やわ》らかに否定した。
「ふたりの死因が心臓|麻痺《まひ》であることは、司法解剖もされて確かめられているんですよ。薬や毒物が検出されたという話も聞かないし……。殺人事件と考えるのは、ちょっと難しいんじゃないですかねえ」
さらに、
「まあ、水谷さんが超能力者で、超能力で心臓を止めたとでも言うんでしたら、話は別ですけどね」
と付け加える。
「確かに………」
南沢が頷《うなず》くのを見て、
「南沢さん、やっぱりあなた、ミステリの読みすぎですよ。それとも、超能力もののSFでも読んでるんですか。小説では不思議な殺人事件が起こって当然ですが、そんな不思議な殺人事件なんて、現実社会ではそうそう起こるもんじゃありません。現実とフィクションの区別、ちゃんとつけなきゃ、ミステリ評論家は務《つと》まりませんよ」
藤田が揶揄《やゆ》するような口調で言った。むろん本気で言っているわけではないが、南沢の胸には厳しくこたえる。実は南沢、もともとはミステリ作家志望なのだが、その夢が果たせず、評論する立場に回った人間だった。作家に対して、いささかの劣等感を持っているのだ。
「はあ……」
南沢が力なく頷《うなず》くと、北条が言った。
「ぼく、南沢さんの気持ちもわかりますよ。問題は、『屍綺譚』が見つからないという点ですよね。『屍綺譚』消失ということがなければ、そう疑問を持つことはないと思うんですけど……」
三人が頷くのを見て、
「この件に関しては、ちょっとぼくなりに推理してみたんですよ」
北条が言うと、
「え?」
三人は北条の顔を見つめた。興味|津々《しんしん》、北条の次の言葉を待つ。
すると、北条は意外な言葉を口にした。
「ひょっとしたら、もともと『屍綺譚』は発見されていないんじゃないか、とね」
「ど、どういうことですか?」
南沢の質問に、北条が答える。
「いいですか。よく考えてみて下さい。芦野さんが入手したという『屍綺譚』に関しては、誰も現物を見ていませんよね。何か意図《いと》があって、わざと入手していない本を入手したと書いたとも考えられます」
「まあ、芦野さんならやりかねないけど……。でも、大森さんの件は?」
と栗栖。
「ええ。実は、水谷さんに聞いたんですけど、彼は大森さんが買ったという『屍綺譚』、中身は確認していないそうなんです。本を手に取る前に、箱から出すな、と釘《くぎ》を刺《さ》されたそうで……。つまり、大森さんが何か古い本に細工して、『屍綺譚』のように見せかけたとも考えられるんですよ。ぽくらだったら簡単に見破ってしまうでしょうけど、水谷さんはあんまり古い本には興味がありません。あっさり騙《だま》されたとしても不思議じゃないですよ。違いますか?」
北条は言い、皆の顔を見回した。
「でも、なぜそんなことを?」
首を傾《かし》げる南沢に、
「彼ら一流のギャグに決まってるじゃないですか。おふたりとも、茶目《ちゃめ》っ気《け》という点では人後に落ちませんからね」
北条はあっさりと答えた。
一見ムチャクチャな意見のようだが、北条の言うことには一理あった。
大森が水谷に見せた『屍綺譚』に関しては、北条の言う通り、大森が水谷をからかうための悪戯《いたずら》だったと充分に考えられるし、芦野が「ミステリ・レビュー」に「『屍綺譚』を入手した」と書いたことに関しても、何かの仕掛けだったのかもしれない。とりあえず「『屍綺譚』を入手した」と書いておき、編集者に原稿を渡す際に、「これこれこういう仕掛けです。よろしく」と話すつもりだったとも考えられないことはないのである。
もちろん、北条の推理には全く根拠《こんきょ》はない。荒唐《こうとう》無稽《むけい》ですらあるが、だからと言って、一笑《いっしょう》に付することはできなかった。芦野の仕事場と自宅、大森のマンション……あれだけ徹底的に探したのにも拘《かかわ》らず、『屍綺譚』はどこにもなかったという事実がある。その謎《なぞ》に対する解答のひとつであることは間違《まちが》いなかった。
だが……。真相を確かめようにも、当人たちはすでにこの世にはいない。
釈然としない思いは残しながらも、誰も北条の意見に異論を唱《とな》えることはできなかったのであった。
そして……。
『屍綺譚』を入手した人間ふたりが、その直後に不慮《ふりょ》の死を遂《と》げたという噂《うわさ》は、じわじわと全国のホラー小説ファンの間に広まっていった。
いつの間にか『屍綺譚』は、手にした者は必ず死ぬ――呪われた本と呼ばれるようになっていたのである。
4 <うさぎの穴>
渋谷《しぶや》・道玄坂《どうげんざか》――
バー <うさぎの穴> は、入り組んだ路地裏に建つ雑居ビルの五階で、ひっそりと営業している。一見ごく普通のバーのようだが、実態は全く違っていた。実はこのバー、東京に住む妖怪《ようかい》たちの秘密の溜《た》まり場《ば》なのだ。
人間たちと比べ、素晴らしい能力に恵まれた妖怪たちとはいえど、この複雑な現代社会においては、単独で生きていくのは難しい。そんな妖怪たちが互いに助け合うため、自ら作り上げたのが、ネットワークと呼ばれる組織|網《もう》だった。ここ <うさぎの穴> も、そうしたネットワークの拠点《きょてん》のひとつである。
今宵《こよい》もまた、妖怪たちがバーに集まり、世間話に興じていた。妖怪とはいっても、むろん今は人間の姿をしている。
「ねえ、皆さん。呪われた本の噂、知ってますか?」
話の発端を作ったのは高徳《たかとく》大樹《だいき》だった。眼鏡をかけた小太りの男。ちょっと冴《さ》えない大学生に見えるが、むろん大樹も妖怪――算盤《そろばん》坊主である。パソコン通信が趣味で、情報収集の正確さ、素早さにおいては、誰もが一目《いちもく》おいている。
「呪われた本?」
さっそく話に乗ってきたのは、だらしない恰好《かっこう》をした無精髭《ぶしょうひげ》の中年男――八環《やたまき》秀志《ひでし》だった。彼はプロのカメラマンとして活動しているが、その正体は鴉天狗《からすてんぐ》。 <うさぎの穴> のメンバーでは、最も行動的な妖怪のひとりである。
八環はそれまで坐《すわ》っていたカウンター席を離れた。飲みかけの日本酒のはいったグラスを手にしたまま、大樹が坐っているテーブル席に移動する。
「何とかいう昔の作家が書いたホラー小説のことか。手に入れると死んでしまうとか……。ちょっと前に新聞で読んだけど、ただの噂《うわさ》だろ」
八環の返事を聞き、大樹は肩をすくめた。
「八環さん、本気でそう思ってるんですか。正確に言うと、黒石香玉という明治時代に活躍した探偵小説|翻案《ほんあん》家が書いた『屍綺譚《しかばねきたん》』という小説なんですけどね……」
と、ことのあらましを簡単に説明し始める。――香玉に知られざるホラー小説『屍綺譚』があるらしいと発見したのはミステリ作家の芦野健太郎だが、芦野は「ついに『屍綺譚』を入手した」という原稿を残して急逝《きゅうせい》した。続いて、芦野の友人であるミステリ作家の大森拓治も『屍綺譚』を入手したが、その日のうちに死亡した。ふたりとも死因は心臓|麻痺《まひ》《まひ》……。
「ま、というようなことです。ミステリ作家がふたりも続けて不可解な死に方をしたんですよ。怪《あや》しいと思いませんか?」
「司法解剖でも心臓麻痺と診断されたんだろう? どこが怪しいんだ?」
「まず、死んだふたり――芦野と大森はどちらも健康で、心臓病の兆候《ちょうこう》すらなかったということ。それに、どうやらこの『屍綺譚』という本、実在しているのかいないのか、定《さだ》かではないらしいんですよ」
「は? どういうことだ? その本を手にした人間が死んだんだろ? だったら、実在しているということじゃないか。おれ、新聞記事で担当編集者の談話を読んだけど、その本を見たとか書いてあったぞ」
「ええ、その通りです。でも、それが、そうとも言い切れないらしいんです。死んだふたりは <香玉同好会> というグループのメンバーでして、その <香玉同好会> はホームページを開設しているんです。そこに書かれていたんですが、 <香玉同好会> のメンバーは芦野や大森の死後、彼らの書斎や書庫を虱潰《しらみつぶ》しに探したのに、『屍綺譚』は見つからなかったということなんです」
「誰かが持ち去ったと?」
「いえ、その可能性は極《きわ》めて薄いと思います。 <香玉同好会> の人たちは、もともと『屍綺譚』は発見されていないのではないか、芦野や大森に何か意図《いと》があって、あたかも『屍綺譚』を入手したように演出しただけではないか、という可能性もあると考えているようですが」
「そうなのか?」
「いえ、ぼくは違うと思います」
「違う?」
「ええ……。ぼくが考えるに、『屍綺譚』は確かに存在していたが、持ち主の死とともに消えてしまったのではないか、と」
「消える本か。ふむ……」
八環は腕を組んだ。誰に向かってというわけでもなく、
「みんなはどう思う?」
と声をかける。
今宵《こよい》、バーで飲んでいたのは、このふたりだけではなかった。
カウンターのなかにいる初老の男は井神《いかみ》松五郎《まつごろう》。ここ <うさぎの穴> のマスターであり、その正体は化け狸だ。
八環や大樹の隣のテーブル席には、ふたりの若い男が坐っていた。いかにも遊び人風の兄ちゃんの名は水波《みなみ》流《りゅう》、もうひとりの長髪で眼鏡をかけた男は加藤《かとう》蔦矢《つたや》。流は龍王である父と人間の母の間に生まれた半龍半人、蔦矢は藤の木の精である。
カウンターの端には髪の長い美女が坐り、静かにグラスを傾《かたむ》けていた。九鬼《くき》未亜子《みあこ》――その美しい外見からは想像もできないが、彼女の本来の姿を目にしたら、たいていの人間は卒倒してしまうだろう。彼女の正体は濡《ぬ》れ女《おんな》――上半身は女性で下半身は大蛇《だいじゃ》という恐ろしい姿をした妖怪なのだ。
皆、大樹と八環の会話に口こそ挟まなかったものの、その内容にはしっかりと耳を傾けている。
しばしの沈黙ののち、流が口を開いた。この半龍半人の若者は、行動力という点では八環に勝るとも劣らない。
「確かに怪しいよな。偶然と考えられないこともないけれど、なんか釈然としない。問題は、その『屍綺譚』という本だ。なぜ消えたんだろう」
流は自問自答するように言い、首を傾げた。しばし沈思黙考《ちんしもっこう》、はたと手を打ち、
「おれ、明日にでも文《ふみ》ちゃんのところへ行ってみるよ。文ちゃんに聞けば、きっと何かわかるさ」
と八環の顔を見る。
「それはいい考えだな。本のことなら文ちゃんに限る」
八環は言った。
文ちゃん――墨沢《すみさわ》文子《ふみこ》は <稀文堂《きぶんどう》> という古書店の店主で、その正体は文車妖妃《ふぐるまようき》――本を愛する人々の想《おも》い≠ェ生んだ妖怪である。本に関することで、彼女にわからないことはないと言っても過言ではないのだ。
「じゃあ、おれは大森に『屍綺譚』を見せてもらったとかいう編集者、え〜と、なんて名前だったっけ?」
大樹の顔を見る八環に、
「水谷徹。『月刊ミステリ』の編集者です。出版社は神田《かんだ》書房。神田駅の近くにあります」
と大樹、すらすらと答える。
「そうだった、そうだった」
八環は照れ臭そうに頭を掻《か》いた。
「おれはその水谷って男を当たってみるよ。ふたりの担当編集者だってことだし、何か知ってることがあるかもしれない」
とグラスに半分ほど残っていた日本酒をぐいと空《あ》ける。
「あ、そうそう。資料、持ってきました。関連記事のコピーと <香玉同好会> のホームページから関連部分をプリントアウトしたものです。読んでおいてください」
大樹が言い、バッグから紙の束《たば》を取り出した。複数用意してあったらしく、皆に一部ずつ配って回る。
資料を受け取ると、大樹の話に積極的に参加した八環と流はもちろん、まるで発言していなかった松正郎、馬矢、未亜子も熱心に読み始めた。口には出さなくても、かなりの関心を持っている証拠《しょうこ》である。店内がしんと静まり返る。聞こえるのは、資料をめくる紙の音だけ。
しばらくして、未亜子が資料から顔を上げた。
「なかなか興味深い話ね。わたしも協力するわ」
と大樹と八環の坐るテーブルの方に視線を向ける。続いて、
「ぼくも」
と蔦矢。
「そう言ってくれると思っていました」
大樹が嬉《うれ》しそうに言ったとき――
店の隅《すみ》に置かれている古ぼけたピアノが、いきなり重厚なメロディを奏《かな》で始めた。クラシックの名曲――ベートーベンの「運命」だった。
5 『月刊ミステリ』編集部
翌日――
八環は神田へと向かった。
むろん事前に『月刊ミステリ』編集部に電話を入れ、水谷徹とのアポイントは取ってある。八環は自らをフリーのルポライターと名乗った上で、「『屍綺譚』についての記事が書きたいので、お話を伺いたい」と話した。八環の本業はフリーの山岳カメラマンだが、たまには写真にまつわる記事も自らの手で書くこともあるから、あながち嘘《うそ》とは言えない。
約束の午後二時少し前に、八環は神田駅に到着した。神田書房までは徒歩数分の距離だ。
神田書房の名前は知っていたが、本社ビルを目にするのは初めてだった。――六階建ての瀟洒《しょうしゃ》なビル。自社ビルかどうかは知らないが、全フロアを使用している。
(ほお……。立派なビルだなあ)
八環は心のなかで感嘆の声を漏《も》らした。日ごろ八環と仕事のつきあいのある出版社とは雲泥《うんでい》の差だった。
(ま、ここんところのミステリ・ブームは凄《すご》いらしいからな。ミステリ専門誌にミステリ文庫も出してりゃ儲《もう》かるだろうな)
妙《みょう》なところで納得《なっとく》しつつ、ビルのなかに足を踏み入れる。正面には受付があった。美しい女性がにこにこと笑《え》みを浮かべている。ビルだけではなく受付|嬢《じょう》のレベルも、八環の知っている出版社とは雲泥の差だった。(もっとも、受付そのものがない出版社の方が圧倒的に多いのだが)
受付に近づいた八環が、
「『月刊ミステリ』の水谷さんと会う約束をしているのですが」
と言うと、
「少々お待ちください」
受付嬢は言い、電話の受話器を手に取った。
「水谷さんに八環さんという方が面会ですが……。はい、わかりました」
短い会話ののち受話器を降ろし、
「水谷はすぐに降りてくるそうです。そちらのソファでお待ちください」
事務的な口調で言う。
「どうも」
八環は軽く手を挙げて言い、受付の前に並べられているソファに腰を降ろした。タバコに火を点《つ》けて待つ。神田書房との仕事のつきあいはないとはいえ、仕事柄、出版社を訪問するのは慣れているのだ。
ちょうどタバコを一本|喫《す》い終わったとき、受付横のエレベーターの扉が開き、ひとりの男が姿を現わした。受付嬢に何ごとか話しかける。
「あちらです」
受付嬢が手で差し示したのは八環だった。小さく頷《うなず》いた男が近づいてくるのを見て
「水谷さんですか」
と言いつつ、八環は立ち上がった。
「ええ、八環さんですね」
と男。
「そうです。すみません、お忙《いそが》しいところを……」
八環が頭を下げると、
「いえいえ、構いませんよ」
水谷は人なつこい笑みを浮かべ、
「ここじゃゆっくり話もできませんから、近くの喫茶店でも」
と先に立って歩き始めた。
「はあ」
と八環、あとに続いてビルを出る。
水谷は、すぐ隣のビルの一階にある喫茶店に足を踏み入れた。すべての壁がガラス貼《ば》りのシャレた感じの店だ。
いつも使っている喫茶店らしく、水谷はレジの店員と挨拶《あいさつ》をしてから、空いているテーブル席に向かった。
「まあ、どうぞ」
と八環に坐《すわ》るように勧める。
名刺《めいし》交換ののち、
「売れっ子作家をふたりも続けて失ってしまっては、出版社も大変でしょうね」
八環が同情したように言うと、
「ええ、そうなんですよ」
水谷は頷《うなず》いた。
「両先生とも、うちの雑誌にはなくてはならない人たちでしたからね。大森先生には長編の連載をしていただいていますし、芦野先生にも書き下ろし長編のお願いをしていたんですよ」
と深く溜《た》め息《いき》をつく。心の底から困り果てている表情だった。
こんなに落ちこんでいる人間に、ふたりの作家が死ぬ直前の様子を尋《たず》ねるのは気がひけるが、この件は避けて通るわけにはいかない。
「芦野さんが死んでいるのを発見されたのは水谷さんでしたね。で、大森さんが亡くなった日、最後に会ったのも水谷さんということですが……」
八環は言った。嫌《いや》な顔をされるのを覚悟していたが、意外なことに、
「ええ、そうですよ」
水谷は平然と頷いた。
「警察の人にもいろいろと尋ねられたんですけど、私、何も知らないんですよ」
「警察に?」
「だって、そうでしょう。誰がどう見ても、両先生の死には謎《なぞ》が多すぎますよ。私、おふたりの担当でしたし、芦野先生は私と会う直前に、大森先生は私と会った直後に、あのようなことになってしまったのです。事情を訊《き》かれるのも当然ですよ」
「それは、あなたが疑われていたということですか?」
八環が問うと、即座に、
「まさか」
水谷は大きく首を横に振った。
「確かに、最初はそういう疑いもあったかもしれませんね。でも、両先生の死は毒物によるものではなく、突発的な心臓|麻痺《まひ》《まひ》だったってことは、司法解剖で明らかになってるんですよ。マンションの部屋は、どちらも完全な密室状態だったらしいですし……。だいたい、私が両先生を殺したって何も得はありません。それどころか、社としても大きな損害ですよ、ほんと」
と、またも溜《た》め息《いき》をつく。
「なるほど……。そりゃそうですよね。じゃあ、警察には何を訊《き》かれたんですか?」
「まあ、芦野先生から電話があった時刻とか死体を発見したときの状況とか……。大森先生の場合は喫茶店で話していたときの様子ですね、主に。もちろん、何も隠さずにお話ししましたよ」
「『屍綺譚』のことも?」
「あ、そうでしたね。あなた、『屍綺譚』のことを記事にしたいとか……?」
「はあ……。『屍綺譚』が呪《のろ》われた本だという噂《うわさ》はご存じですよね」
「ええ、もちろん。『屍綺譚』が世に知られたのは、芦野先生がうちの雑誌で連載している書評に書いたからなんですよ。話題になったのは嬉《うれ》しいんですけど、おふたりが相次いで亡くなってしまってからは、もう毎日、そんな問い合わせの電話がかかってきて、いいかげん困ってるんですよ。最近の若い人たちは、呪いや祟《たた》りなんてものが存在すると本気で考えてるんですかね」
水谷は呆《あき》れたように言い、肩をすくめた。同意を求めるように八環を見る。
八環はあえて否定も肯定もせず、質問を続けた。
「一部では、実は『屍綺譚』なんて本はまだ発見されてないんだという噂も流れているようですが……」
「ええ、そのことも知ってます。ミステリ評論家の南沢先生たちでしょ、そんなことを言い出したのは……。でも私、そんなことは信じませんね。古い本のことはよく知りませんけど、大森先生が見せてくれた本、どう見ても本物でしたから」
「でも、おふたりが入手したという『屍綺譚』、いくら探しても発見されなかったんでしょ? おかしいですよね。なぜなんでしょう?」
「それは私にはわかりませんよ。ただ、本当に貴重な本ですからね。先生がた、大切に保管されていたと思います。ひょっとしたら、たとえば銀行の貸し金庫かどこかに預けていたかもしれませんよ」
「銀行の貸し金庫?」
驚いて反復する八環に、
「そんなに驚くことはありませんよ。香玉コレクターにとって『屍綺譚《しかばねきたん》』は、貴金属以上の価値があるものなんですからね。それに今、『屍綺譚』は香玉ファンだけじゃなくて、ホラー小説ファンの熱い視線も浴びています。古本のオークションに出したら、どこまで値が上がるかわかりません。貸し金庫に預けても、少しも不思議じゃありませんよ」
水谷は答えた。
「なるほど……」
盲点《もうてん》を衝《つ》かれた思いだった。本というものに全《まつた》く思い入れのない八環には、いくら貴重なものとはいえ、本を貸し金庫に預けるという発想は、頭の片隅《かたすみ》にもなかったのだ。
もし水谷の言う通り、芦野や大森が貸し金庫を利用していたとすれば、彼らの家から『屍綺譚』が発見されなかったのも当然と納得《なっとく》できる。警察も、心臓|麻痺《まひ》《まひ》による死ということがはっきりしている以上、そこまでは調べないだろう。
だが、それは同時に、彼らの死は『屍綺譚』とは関係がなく、偶然が連続しただけということになる。
(大樹の早とちりだろうか)
八環は大樹の顔を思い浮かべた。大樹は決していいかげんなことを口にする男ではないが、勘違《かんちが》いということもないとは言えない。
その後も八環は質問を続けたが、大樹が渡してくれた資料の正確性が確認できただけで、それ以上の収穫は得られなかった。
水谷と話し始めて十五分も経《た》たないうちに、
(とりあえず、文ちゃんの意見を聞いてからだな。流の報告待ちだ)
八環は思った。話が途切れたところで、
「どうもありがとうございました」
と礼を言い、頭を下げる。
「面白い記事が書けそうですか?」
水谷の問いかけに、
「もう少し調べてからですね」
八環は答え、レシートを取って立ち上がったのだった。
6 古書 <稀文堂《きぶんどう》>
八環が水谷徹と会っているころ――
流は吉祥寺《きちじょうじ》の駅に降り立っていた。
目的地は古書店 <稀文堂> である。
店主の墨沢文子――文ちゃんと顔を合わせるのは久しぶりだった。
文子も流と同じネットワークの一員なのだが、彼女が皆の溜《た》まり場《ぎ》であるバー <うさぎの穴> に姿を見せることは滅多《めった》にないのだ。
(文ちゃん、元気にしてるかな)
吉祥寺の駅から少し歩き、小さな路地を折れる。
<稀文堂> は以前に訪れたときと同じように、ひっそりと営業していた。いつも思うことだが、 <稀文堂> は本当に目立たない店だった。何か考えごとでもしながら歩いていたら、つい通り過ぎてしまうだろう。
「文ちゃん、いる?」
流は声をかけ、店に足を踏み入れた。
左右の壁と中央には、天井《てんじょう》にまで達する本棚《ほんだな》がしつらえてある。本棚と本棚の間隔は狭《せま》く、人間ひとりがようやく通れるくらいの幅しかなかった。だが、古本屋にありがちな、床に未整理の古本がどんと積まれているようなことはないので、普通に歩く分には全く支障がない。
店の奥には、ひとりの女性が坐っていた。色白の小柄《こがら》な女性。眼鏡をかけ、長い髪をうしろでまとめている。清楚《せいそ》な白いブラウスに黒のスカート。
彼女が、 <稀文堂> の店主、墨沢文子だった。文子はコンピュータのディスプレイをじっと見つめていた。流の声が聞こえただろうに、ディスプレイから視線を逸《そら》そうともしない。
コンピュータのすぐそばまで歩み寄った流が、
「文ちゃん、お久しぶり」
明るい声で言うと、ようやく彼女は顔を上げた。流の顔を見て、
「あら」
小さな声で言うが、ふたたび視線をディスプレイに向ける。
別に流を嫌っているわけではなかった。人見知りの激しい彼女は、誰に対してもこんな具合なのだ。相手の顔を直視して話すことなど滅多にないと言ってもよかろう。
普通の友だち同士であれば、まずは軽く世間話から……となるところだが、そういった世俗的な常識は文子相手には不要だった。
「文ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
と流、きっそく本題にはいろうとする。
「なーに……?」
文子は俯《うつむ》いたまま問い返した。
「うん」
小さく頷《うなず》いた流が、
「文ちゃん、『屍綺譚』という本のこと、知ってるかい?」
と問うと、文子はハッとしたように顔を上げた。彼女には珍《めずら》しく、流の目を見つめる。
「知ってるんだね」
流の言葉に、
「ええ……」
文子はこくりと頷いた。ふたたび目を伏せ、
「あれだけ話題になってる本だもの。わたしが知らないわけがないわ」
ぼそぼそと消え入りそうな声で言う。
「知ってること、何でもいいから話してくれ」
流の要請《ようせい》に応《こた》えるように、
「わかったわ」
と文子は言った。
「あなたが知りたいのは、『屍綺譚』が本当に存在するのかってことでしょ」
「こ、ここにあるのか?」
と流、期待を込めて問う。
<稀文堂> は小さな店だが、その在庫本の数は数百万に及ぶと聞いている。ほかの場所に倉庫を持っているわけではない。在庫のすべてが、この店の左右の壁の本棚と中央をしきる本棚に収納されているのだ。
ざっと見渡したところ、この程度の本棚では、多く見積もっても二万冊くらいしか収納できないだろう。だが確かに、この本棚に数百万冊の本が並べられているのである。
その秘密は本棚にあった。この店の本棚は、本の収納に必要な分だけ無限に伸びていく――言わば無限本棚なのだ。
流が <稀文堂> の在庫に期待するのも当然と言えよう。「見せてくれ」という言葉が喉《のど》から出かかっている。
ところが、流の期待に反して、文子は首を横に振った。
「わたし、店にどんな本があるのか、一冊残らず知ってるわ。でも『屍綺譚』なんて本はない――と言うより、そんな本があるって話、聞いたこともないの」
「え? 文ちゃんが聞いたこともない本? じゃあ、『屍綺譚』が発見されたというのは、やっぱりガセネタだったのか」
がっくりと肩を落とす流に、
「いいえ、そうとも限らないわ」
文子が慰《なぐさ》めるように言う。
「そうとも限らない?」
「そうよ。わたし、たいていの本のことは知ってるけど、すべてというわけではないわ。わたしが知らないからって、その本が存在していないとは言えないの」
「じゃあ、どっちなんだ? 『屍綺譚』は実在するのか、それとも実在しないのか?」
しかし文子は流の問いかけに答えず、いきなり、
「あなたも知ってると思うけど、わたしには書かれていない書物を呼び出す能力《ちから》があるの」
と言い出した。
「……?」
呆気《あっけ》にとられ、文子の顔を見つめる流。
「『屍綺譚』の噂《うわさ》を聞いたとき、わたし、そんな本は書かれていないんじゃないかと思ったの。それで、『屍綺譚』を呼び出そうと思ったんだけど……」
文子は言い淀《よど》んだ。
「で、結果は? 結果はどうだった?」
流に促《うなが》され、ようやく、
「……呼び出すことはできなかったわ」
と残念そうに言い、しばし口を噤《つぐ》んだのち先を続ける。
「呼び出すことができないということは、すなわち『屍綺譚』は現在も存在しているか――少なくとも、過去に存在していたってことなのよ。どれだけの部数が印刷されたかわからない。発行された本すべてが失われてしまっているかもしれない。あるいは、書かれただけで、まだ活字化されていないかもしれない。でも、『屍綺譚』という小説が書かれたってことだけは確かだわ」
文子としてはわかりやすく説明したつもりだったが、流にはピンとこなかった。
「はあ?」
頓狂《とんきょう》な声を出した流、
「文ちゃん。それ、どういう意味?」
と尋《たず》ね返す。
「はっきりしているのは、『屍綺譚』という作品が書かれているということだけ。それ以外のことは、推測はできても断定はできないということよ」
文子はきっぱりと言った。さらに、ふと気がついたように、
「ただ……百年近くも、その存在すら知られていなかった本が立て続けに二冊も発見されるなんて、どう考えても奇妙《きみょう》な話だわ。これ、きっと何か裏があるわね」
と言い添《そ》える。
「裏か……」
流は腕を組んだ。
文子の話は今ひとつ要領《ようりょう》を得ない。だが、『屍綺譚』に何やら秘密が隠されていることは確からしい。
「文ちゃん、何か心当たりはないのかい? L
流の質問に、文子は小さく首を横に振った。
「裏の事情を探るのは、あなたたちの役目よ。何かわかったら、連絡してくれるかしら。わたしも興味があるし」
「わかったよ」
流は頷《うなず》き、 <稀文堂> をあとにした。
結局、 <稀文堂> で判明したことは、少なくとも『屍綺譚《しかばねきたん》』は書かれていない書物ではないという、ほとんど意味があるのかないのかわからないような事実だけだった。だが、こと書物に関しては他の追随《ついずい》を許さない文子にして、あのような曖昧《あいまい》なことしかわからないということは、それだけでも『屍綺譚』は充分に怪《あや》しいと言える。
( <うさぎの穴> に戻って、みんなと相談だな……)
流は思った。
7 作戦会議
その日の夕方――
<うさぎの穴> には、昨晩と同じメンバーが顔を揃《そろ》えていた。
高徳大樹、八環秀志、水波流、加藤蔦矢、九鬼未亜子、そしてマスターの井神松五郎である。
ちょうど今、八環と流が調査報告を終えたところだった。
「おふたりの話を総合すると、死んだミステリ作家たちは、ひょっとすると『屍綺譚』を、たとえば貸し金庫に預けているだけかもしれない。だとすると、ミステリ作家ふたりの連続突然死はただの偶然という可能性が強く、事件性はあまり感じられない。しかしながら、文ちゃんによれば、『屍綺譚』は確かに書かれているけれど、その存在は謎《なぞ》めいていて、何か裏がありそう……ということですね」
大樹が言った。それに応じるように、
「わたしは文ちゃんの意見が気になるわ。あの娘、本に関しては間違ったこと一度もないもの」
未亜子が言う。続いて、
「ぼくもそうですね。ミステリ作家たちの突然死をただの偶然と考えるのは、無理がありますよ。やはり『屍綺譚』は怪しすぎます」
と蔦矢も同意を示した。
「ぼくも同意見ですけど、八環さん、貸し金庫の件、どう考えているんですか?」
大樹に問われ、しばし考えたのち、
「あの編集者の意見、面白いとは思うけれど、ふたりが揃いも揃って『屍綺譚』をどこかに預けるなんてなあ。ちょっと考えられないと思うよ。まあ、調べてみないことには、真実はわからないけどね」
八環は答えた。
「でも、それはあとで調べるとして、ひとつ気になることがあるんだ」
と付け加える。
「気になること?」
大樹が問うと、
「おれ、今まで重大な可能性を考えてなかったことに気がついたんだ。大森は水谷に、『屍綺譚』を近所の古本屋で見つけたとか言ってたらしいけど、それ、本当のことだろうか」
八環は言った。
「え?」
皆の視線が八環に集中する。
「ほら、文ちゃんも言ってたんだろ。百年近くも存在すら知られていなかった本が二冊も続けて見つかるなんて変だって。でも、こう考えることもできると思うんだ。もし、芦野と大森が手に入れたのが同じ本――つまり、もともと『屍綺譚』は一冊しか見つかっていなかったとしたら……?」
八環は言い、皆の顔を見回した。
「それって……芦野が発見した『屍綺譚』を、何らかの手段で大森が手に入れたということ?」
首を傾《かし》げる大樹に続いて、
「あるいは、『屍綺譚』が自分の意志で、大森のところへ行ったのかもしれないわよ」
未亜子が意味ありげな発言をした。
「え?」
今度は未亜子に皆の視線が集中する。
しかし、彼女はそれ以上言葉を続けようとはしなかった。何も言わず、うっすらと笑《え》みを浮かべている。
全員が黙りこんだ。誰も、未亜子にその真意を問いただそうとはしない。未亜子が何を言いたいのか、皆にはわかっていたからだ。
ややあって、
「本の妖怪《ようかい》か……」
松五郎が考え深げに言う。
「どうやら、そのセンで調べてみる必要がありそうだな」
八環は大きく頷《うなず》いた。しかし……。
八環が調べるまでもなかった。
その夜のニュースで、売れっ子ミステリ作家・北条博史の死が大々的に報道されたのである。
家族の証言によれば――
今日の夕方、北条は上機嫌《じょうきげん》で帰宅した。
「『屍綺譚』を手に入れたぞ。これから読むから邪魔《じゃま》するな」
と言い残して書斎《しょさい》へ。食事の仕度ができ、妻が呼びに行ったところ、北条は書斎の机の前で恐怖の形相《ぎょうそう》を浮かべて倒れていたという。まだ正式な判断は下されていないが、死因はおそらく心臓|麻痺《まひ》《まひ》……。不思議なことに、読んでいたはずの『屍綺譚』はどこにも見当たらないらしい。
何から何まで、芦野や大森のケースと同じであった。
「……こうなると、もはや偶然では片づけられません。未亜子さんの意見が正しかったようですね。本の妖怪ですよ、これは」
大樹が言い、溜《た》め息《いき》をついた。
「ええ、そのようね。密室から消えてしまったことを考えると、瞬間移動の能力を持っていそうよ」
未亜子が表情も変えずに言う。
「瞬間移動か。厄介《やっかい》な相手だな」
八環は眉《まゆ》をひそめた。
「でも、そんな妖怪なんて聞いたこともありませんよ。いったい何者なんでしょう」
蔦矢が首を傾《かし》げる。
「たぶん、新しく生まれた妖怪だろうな」
松五郎は静かな口調で言った。
「皆も知っての通り、人々の想《おも》い≠ェ募《つの》ったとき、その想い≠ェ生命を生み出すことがある。それが妖怪だ。定《さだ》かではないが、『屍綺譚』はおそらく、黒石香玉が書き上げたものの、何らかの理由があって、結局は出版されなかったのだろう。あるいは、その内容に問題があって、出版直前にどこからか圧力がかかり、闇《やみ》に葬《ほうむ》られてしまったのかもしれない……。そのまま百年近くもの長い間、誰にも知られなかった。だが、芦野健太郎がその存在を知り、発表してしまった。聞くところによると、芦野が『屍綺譚』を世に知らしめて以来、『屍綺譚』を求める声はすさまじかったというではないか。全国の香玉ファン、ホラー小説ファンの『屍綺譚』を読みたい! という強烈な想い≠ェ集まり、とうとう妖怪『屍綺譚』を生み出してしまったというわけだな」
一気に話し、深く嘆息する。
松五郎の意見に誰も反論はなかった。
本の妖怪『屍綺譚』!
それはいったい、いかなる妖怪なのか? どのような能力を持っているのか? 未亜子が指摘したように、瞬間移動の能力を有していると推測できるが、それ以外には? そして、今はどこにいるのか?
しばらくの沈黙ののち、
「いずれにせよ、芦野、大森、北条とくれば、『屍綺譚』のターゲットははっきりしている。次の犠牲者も <香玉同好会> のメンバーだ」
八環が確信に満ちた口調で言うと、
「残っているのは、藤田一郎、南沢伸二、栗栖清春の三人ですね」
と大樹がすらすらとメンバーの名前を上げた。
「その三人、厳重に見張る必要がありますね」
と流。
「それともうひとつ。相手が本の妖怪だとすると、文ちゃんの応援も必要になるかもしれんな」
松五郎の助言を聞き、
「そうですね。おれ、今からもう一度 <稀文堂> へ行ってきますよ」
流は言い、立ち上がった。深夜の訪問を文子が快《こころよ》く思わないことは承知していたが、この際、仕方がなかろう。
だが、店を飛び出そうとする流を、
「ちょっと待て」
と八環が呼び止めた。
「なんですか?」
「さっき、おまえも三人を見張る必要があると言ってたじゃないか。大樹には引き続き情報収集をしてもらわなけりゃならないし、松五郎さんは店を離れられない。未亜子は目立ちすぎる。となると、残るのは蔦矢、おれ、そしておまえだ」
「あ、なるほど」
流は頷《うなず》いた。
「じゃ、誰でもいいですから、おれが見張る相手を指名してください。おれ、文ちゃんに事情を話して応援を頼んだら、すぐにその人の家へ向かいますから」
「じゃあ、藤田一郎を頼むよ」
大樹が言い、藤田の住所を書いた紙片を手渡す。準備周到な男である。
「わかった」
紙片を受け取るや、流は軽やかに身を翻《ひるがえ》し、扉の向こうに消えていった。
「あ、もう行っちゃいましたよ」
蔦矢、肩をすくめる。
「ま、いいさ。そういう男だ」
と八環。
流が去ったあとも <うさぎの穴> では作戦会議が続けられた。
南沢伸二は八環、栗栖清春は蔦矢が見張ることに決定。さらに、いざというときのために、仲間のフォルクスワーゲン――通称・お化けワーゲンを <稀文堂> の近くに待機させておくことも決める。本の妖怪が相手となれば、文子の協力が必要となることは、まず確実だ。出無精《でぶしょう》の文子を迅速《じんそく》に連れ出すためには、それくらいの準備は必要だろう。
「では、おれは南沢の家へ」
立ち上がる八環に続いて、
「ぼくは栗栖……」
と蔦矢も立ち上がる。
店を出たふたりは、渋谷駅へと向かって歩き始めた。
途中、駅前のコンビニに立ち寄り、食料を調達する。もっとも、藤の木の精である蔦矢は、水と日光さえあれば食事をする必要はないので、ミネラルウォーターのペットボトルを買い求めただけだったが。
「おまえ、まさに見張りに最適だな」
にやりと笑《え》みを浮かべる八環に、
「八環さんこそ、双眼鏡いらずじゃないですか」
と蔦矢は返した。
「確かにな」
八環は、照れ臭そうに頭を掻《か》く。蔦矢の言う通り、鴉天狗の八環は望遠鏡並みの視力を有しているのであった。
8 懲《こ》りない男たち
二日後――
北条博史の葬儀・告別式は、JR中野駅近くの閑静《かんせい》な住宅街にある彼の自宅でひっそりと取り行なわれた。
売れっ子作家のことゆえ、近いうちに大きな葬儀場を借りて、愛読者に別れを告げる機会を与えるということだったが、それはまた、遺族の気持ちが落ち着いてから決めればいいことだった。
親戚《しんせき》、友人、作家、編集者……多くの弔問客《ちょうもんきゃく》が北条の家に集まっていた。むろんそのなかには、 <香玉同好会> の三人――藤田一郎、栗栖清春、南沢伸二の姿も見える。
焼香の列に並び、いちおう神妙《しんみょう》な顔はしているが、小声で囁《ささや》き合っている彼らの会話の内容は――
「北条さんの書斎《しょさい》、見ましたか?」
「いや、まだです。葬式が終わったら奥さんに頼んで、書斎に入れてもらおうと思ってるんですけど」
「でも、『屍綺譚』はなかったという話ですよ」
「奥さん、うまく探せなかっただけですよ。しょせんは素人《しろうと》ですからね。ぼくらで探せば、今度こそ絶対に見つかりますって」
「そうですね」
「そうしましょう、そうしましょう」
いやはや、呆《あき》れた男たちである。
『屍綺譚』が呪《のろ》われているという世間の噂《うわさ》も、三人の友人が相次いで『屍綺譚』を手に入れた直後に謎《なぞ》の死を遂《と》げたという事実も、彼らは気にもしていないようだった。まあ、呪いなどという超常的《ちょうじょうてき》な現象を本気で信じているような人間にミステリは書けまいから、当たり前と言えば言えるが……。
当然のことながら、八環、流、蔦矢も弔問客のなかに紛《まぎ》れこんでいた。さすがに沈痛な表情を作りながらも、 <香玉同好会> の三人から片時も目を離さないでいる。
北条が急逝《きゅうせい》した夜から、八環たちは三人に張りついていた。これまでのところ、三人に特に目立った動きはないし、誰も『屍綺譚』を手にした様子はない。
だが、油断をするわけにはいかなかった。今もどこかで、屋綺譚』は哀れな犠牲者の品定《しなさだ》めをしているに違いないのだ。――次なるターゲットは誰か? 藤田か、栗栖か、南沢か。
焼香が終わり、三人は揃《そろ》って家の外に出てきた。
「駄目でしたねえ」
南沢が眉《まゆ》を曇らせて言う。
「また日を改めるとしましょうか」
栗栖が残念そうに言い、藤田も、
「やっぱり葬式の当日というのは不謹慎《ふきんしん》ですよ」
と諦《あきら》めの口調で言った。
彼らの会話が意味するものは明らかだった。焼香のとき遺族に挨拶《あいさつ》するが、そのついでに先刻の件を話したのだ。断わられるのは当然である。
「あんなやつら、放っておけばいいんですよ」
蔦矢が怒りを込めて呟《つぶや》く。
「まあまあ、落ち着け。おれも同感だけど、新しく生まれた妖怪が人間を殺してるんだぜ。このままにしておくわけにもいかんだろ」
八環が蔦矢の肩を軽く叩《たた》いた。こう見えても、八環はなかなか正義感の強い男なのだ。
そうこうしているうちに滞《とどこお》りなく告別式は終了した。喪主《もしゅ》の挨拶に続いて出棺《しゅっかん》。弔問客たちの数が減っていく。
くだんの三人組も最寄《もよ》りの駅に向かって歩き始めた。八環たちはそのあとを追う……。
一週間が過ぎ去った。
さすがの八環たちも疲れていた。というより、退屈《たいくつ》でたまらなくなっていた。ずっと <稀文堂> の近くで待機しているお化けワーゲンはもちろんのことだが、 <香玉同好会> の連中を見張っている三人も似たようなものである。
特に、ミステリ作家のふたり――藤田一郎と栗栖清春を担当することになった流と蔦矢は悲惨だった。
藤田や栗栖を見張りながら、流も蔦矢もその苛立《いらだ》ちは頂点に達しつつあった。
とにかく、藤田も栗栖もとことん家の外に出ない。ファックスやパソコン通信の普及で、原稿の受け渡しをするのに編集者と会う必要がなくなり、著述業者たちの外出が減ったらしいということは聞いていた。原稿を編集者に直接手渡していた芦野や大森のような作家は、今では少数派と言える。
ある程度の覚悟はしていたが、ここまでひどいとは思っていなかった。この一週間でまともに外出したのは、藤田はわずか二回、栗栖も四回だけ。ともに、そのうちの一回は北条の告別式である。その割には、真夜中にコンビニに出掛けて週刊誌を立ち読みしたりする。就寝、起床の時刻もバラバラ。いつ寝て、いつ起きているのかすらわからない。――ふたりとも、もうムチャクチャな生活をしているわけで、通常の張りこみよりも肉体的には楽だが、精神的な疲れは大きかった。
いくら妖怪本でも、自分から犠牲者のところに押しかけるような愚《おろ》かな真似《まね》はしないだろう。家に閉じこもっていては、『屍綺譚』を発見するチャンスは訪れないと考えられるのである。
一方、八環は――
流や蔦矢と比べれば、少しはマシだった。
作家ではなく評論家である南沢伸二は、独身でひとり暮らしをしているということもあろうが、毎日一回は必ず外出する。書店散策、外食、スーパーでの買い物というのが決まったコースだったが、それでも家――マンション四階の一室に閉じこもっているよりは『屍綺譚』と遭遇する機会が多いだろう。
今日も午後になって、南沢はマンションから出てきた。まっすぐに最寄りの駅――JR三鷹《みたか》駅へと歩いていく。
(どうせまた駅前の本屋だろうな)
八環は喫《す》いかけのタバコを靴底で揉《も》み消し、こっそりとあとを尾《つ》け始めた。駅前には大きな書店があり、そこは南沢のお気に入りなのだ。
ところが予想に反して、南沢は書店の前を通り過ぎ、駅の構内に足を踏み入れた。自動券売機で切符を買い、新宿方面行きの電車に乗る。もちろん八環も同じ車両に乗りこんだ。
南沢が下車したのは、中野駅だった。
(はて?)
八環は首を傾《かし》げた。というのも、中野と言えば北条博史の家があるからだ。
(ひょっとしたら、北条の家へ……?)
と思いつつ、気づかれぬよう南沢に続いて下車する。
改札口には、藤田と栗栖の姿が見えた。三人で待ち合わせていたのだ。
(ということは、流と蔦矢も……)
そう思って周囲を見回すと、少し離れた柱の陰に流と蔦矢が身を隠しているのが目にはいった。流たちはまだ八環に気づいていないようだが、それは仕方あるまい。八環は驚異的な視力の持ち主なのだ。
流たちの方に歩み寄った八環が小さく手を振ると、ようやく彼らも八環の姿に気がついた。
流が右手を挙げ、八環を手招きする。
南沢は藤田たちと合流し、駅を出た。そのあとを追う八環、流、蔦矢。
八環が予想した通り、南沢たちの目的地は北条の家だった。
「あいつら、何するつもりなんでしょうね」
囁《ささや》く蔦矢に、
「決まってるじゃないか。『屍綺譚』を探しに来たのさ」
八環は答えた。
「探しても無駄なのにね」
流が肩をすくめる。
八環たちがそんなことを話しているうちにも、南沢たちは北条の家に到着した。ドアのチャイムを押し、出てきた女性――北条の妻と何ごとか話したのち、にこにこと笑いながら家のなかに足を踏み入れる。
路上で待つこと約一時間、ようやく彼らは家を出てきた。がっくりと肩を落とし、足取りも心なしか重そうに見える。
「やっぱり見つからなかったんだな」
八環が言い、
「予想通りですね」
蔦矢が応じる。
南沢たちはふたたび中野駅へ向かって歩き始めた。
八環たちも尾行を再開する……。
9 『屍綺譚』の正体
さらに、一週間が過ぎ去った。
真夜中の二時ごろ――
「おや?」
八環は小さく声を出し、マンションの入り口に目をやった。南沢がマンションから姿を現わしたのだ。両手に薄い水色のビニール袋を提《さ》げている。
(あっ、今日はゴミの日か……)
八環は思った。
マンションのゴミ捨て場には、午前六時から八時の間にゴミを投棄するよう記されている。
厳密に言えば不法投棄ということになろうが、南沢としては、この時刻にゴミを捨てるのが精一杯だった。
藤田や栗栖と比べれば、南沢の生活は割と規則正しいと言えるだろう。午前三時ごろには寝て、遅くとも正午前には起床している。だが、それでも一般の人と比べれば、明らかに生活時間帯がズレているわけで、午前六時から八時という時間は、南沢にとっては真夜中に等しい。
部屋にゴミを溜《た》めこまないためには、就寝前にゴミを捨てるしかないのだ。
その気持ちは八環にも理解できた。八環自身、通常は南沢と似たような生活をしている。この午前六時から八時という時間帯には、つねづね不満を抱《いだ》いていたのである。
ゴミ捨て場には、すでに多くのゴミが捨てられていた。ゴミ袋はもちろんのこと、ビニール紐《ひも》でくくられた新聞や雑誌の束《たば》、あるいは不用品の詰《つ》められたダンボール箱……。
ゴミ袋の山の上に自分の持ってきたゴミ袋を放り投げ、踵《きびす》を返した南沢だったが、何を思ったのか、
「ん?」
と首を傾《かし》げて立ち止まった。振り返り、ゴミの山をじっと見つめる。
南沢の視線が向けられているのは、新聞や雑誌の束が積まれた一画だった。五十センチほどの新聞の束が三つ、三十センチほどの雑誌の束がふたつ。
と。
いきなり南沢はしゃがみこんだ。と思う間もなく、新聞の束と束の間に右手を突っ込む。
(はて? あいつ、何してんだ?)
眉《まゆ》をひそめる八環の前で、南沢はゆっくりと手を引き抜いた。
南沢の手に握られていたのは、薄っぺらい直方体の物体だった。どうやら箱入りの本のように見えるが……。
(まさか!)
八環は目を凝《こ》らした。普通の人間であれば、とうていその正体を見極《みきわ》めることはできなかっただろう。だが、人並み外れた視力を持つ八環の網膜《もうまく》には、その直方体の表に印刷された文字が一字ずつ、くっきりと焼きつけられていた。――「屍」「綺」「譚」……。
(し、『屍綺譚』だっ)
八環はゴクッと生唾《なまつば》を飲みこんだ。
まさかゴミ捨て場に『屍綺譚』が捨てられていようとは……。まさに、予想もできない出来事だった。
南沢の表情が変わるのが、暗闇《くらやみ》のなかでもはっきりとわかる。
南沢は本をしっかりと抱き締《し》めた。きょろきょろと落ち着かない視線で周囲を見回す。
(大変なことになってきたぞ)
八環は慌《あわ》てて携帯電話を取り出し、 <うさぎの穴> に電話をした。大樹に事情を話し、 <稀文堂> の文子、そして流と蔦矢にも連絡するよう頼む。
昼間ならいざ知らず、今は真夜中で道路も空《す》いているはずだ。 <稀文堂> のある吉祥寺から三鷹まで、最短コースを飛ばせば十分足らず。コースに関しては、お化けワーゲンに任せておけば大丈夫だ。文子が仕度をする時間を考慮しても、到着まで二十分もかからないだろう。
流と蔦矢に関しては、あまり期待することはできなかった。藤田は亀戸《かめいど》、栗栖は大岡山に住んでいる。亀戸からにしても大岡山からにしても、ここ三鷹に来るにはかなりの時間がかかると覚悟しなければならない。流や蔦矢が駆けつけるまでに、すべてが終わっている公算が極めて高いのだ。
八環が電話をしている間に、南沢は嬉々《きき》としてマンションのなかに消えていった。
南沢がすぐに『屍綺譚』を読み始めるであろうことは想像に難《かた》くない。お化けワーゲンが文子を連れてくるまで、手をこまねいて待っているわけにはいかなかった。
八環は自分本来の姿――鴉天狗に変身した。ふわりと浮上し、マンションの四階まで上昇する。
八環は音もなく南沢の部屋のベランダに着地し、窓からこっそりと室内を覗《のぞ》きこんだ。
そこは、南沢が書斎《しよさい》として使用している部屋だった。壁には天井《てんじょう》まで届く巨大な本棚《ほんだな》が何本も並んでいる。
電燈《でんとう》は点《つ》けられたままだが、まだ南沢は部屋に戻ってきていなかった。『屍綺譚』を読むとしたら、この部屋だろう。
人間の姿に戻り、南沢が部屋に姿を現わすのを待つ。
やがて、南沢が書斎にはいってきた。むろん手には『屍綺譚』を持ち、これ以上はないというほどの嬉《うれ》しげな表情をしている。
まさか窓の外に人がいるなどとは想像すらできるわけもなく、南沢は一直線に机に向かった。『屍綺譚』を箱から取り出し、嬉々として読み始める。
(いったい何が起こるのか……)
八環は南沢を注視していた。今すぐ部屋に押し入り、読書をやめさせることも可能だが、いくら何でも、それは強引すぎる。相次ぐミステリ作家の死が『屍綺譚』の仕業であろうことはほぼ確実と信じているが、百パーセントの確信があるわけではないのだ。
南沢の表情には愉悦《ゆえつ》の表情が浮かんでいた。よほど面白いのだろう。片時たりとも本から目を離そうともせず、一心不乱になって読み進めている。
と――
突然、南沢の様子に異変が起こった。た手から『屍綺譚』が離れ、がくっと首が垂れる。南沢は前のめりになり、開いたままの本の上に顔から突っ伏した。そのままピクリとも動かない。
(まずいっ)
八環は素早く行動を起こした。
だいたいにおいて、マンションの二階より上の階に住んでいる人は、いちいち窓に鍵《かぎ》を掛けたりしない。南沢もやはりそうだった。
八環は造作《ぞうさ》もなく窓を開け、室内に降り立った。仕事机に駆け寄り、
「南沢さん、しっかりしてください」
声をかけるが、南沢は何の反応も示さなかった。肩を揺《ゆ》さぶっても、だらりとしたまま。ただ意識を失っているだけで、死んではいないようだが……。
(救急車を……)
慌《あわ》てて携帯電話を取り出した八環だったが、寸前で思いとどまった。南沢が意識を失った原因が『屍綺譚』にあることは明らかで、人間の医者に診《み》せても無駄だと思ったのだ。
元凶《げんきょう》たる『屍綺譚』を燃やしてしまおうかとも考えたが、やはり断念する。そんなことをしても、南沢を救えるという保証はない。下手に手を出すと、南沢の死を早める結果にもなりかねない。
本の姿を借りていた妖怪が本性を現わし、襲ってくるということでもあれば、まだ対処のしようがあるが、どう見ても『屍綺譚』はただの古い本にしか見えなかった。八環に妖力や妖術を感知する術が使えれば、ある程度『屍綺譚』の正体を知ることができたかもしれないが、残念ながら八環にはそのような術は使えない。しかも、南沢という人質を取られているのだ。いったいどう闘《たたか》えばいいのか。
今や、頼りは文子だけだった。
(文ちゃん、早く来てくれ)
何もできないまま、心のなかで祈り続ける。
そのとき、
「ん?」
八環は首を傾《かし》げた。 視界の隅に「南沢」という活字が飛びこんできたのだ。――『屍綺譚』の、ちょうど今、開かれているページ……。
(え? 南沢だって?)
八環は『屍綺譚』を手に取った。間違《まちが》いない。確かに「南沢」と書かれている。なかには「南沢伸二」とフルネームで書かれている箇所《かしょ》もあった。
文面を目で追ってみたところ、この「南沢伸二」というのは、どうやら『屍綺譚』の主人公の名前らしい。明治時代に書かれたはずの小説の主人公の名が「南沢伸二」で、その本を読んで意識を失った男の名も「南沢伸二」――これは偶然か、それとも……。
言うまでもなく、偶然にしては「できすぎた話」だ。
ちらちらと斜め読みしてみると、突如《とつじょ》として出現した妖怪・屍人《しかばねびと》が東京を徘徊《はいかい》し、無差別に人間を殺して喰《く》いまくるというストーリーのようだった。屍人というのは|生きている死体《リビングデッド》=\―つまりはゾンビのことである。
なんだ、ゾンビか……と馬鹿にしてはいけない。この小説が書かれたのは明治時代――むろんジョージ・A・ロメロの傑作《けっさく》ゾンビ映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』もまだ製作されておらず、ゾンビという概念自体が日本人には知られていなかった時代なのだ。博学で知られた香玉のことだから、中国の古い怪異譚《かいいたん》あたりから着想を得た可能性もあるが、いずれにしても画期的な小説と言える。
今やお決まりとも言える「ゾンビに喰われた人間はゾンビとして甦《よみがえ》る」という設定は取り入れられておらず、その点が残念と言えば残念だが、屍人が人間の肉を喰らうシーンでは香玉独特の癖《くせ》のある文体が冴《さ》え渡り、思わず目を覆《おお》いたくなるほどの描写がされている。流れるようなストーリー展開も読む者を引きつけて離さない。――日本のホラー小説史を語る上で、決して無視できない小説と言えるだろう。
途中を飛ばして最後のページを読むと、主人公の「団藤《だんとう》友吉《ともきち》」が屍人に追いつめられ、心臓を貪《むさぼ》り喰われる場面で終わっていた。
(え? 団藤友吉?)
八環は首を傾げた。主人公の名は「南沢伸二」だったはずだ。いったいいつの間に「団藤友吉」に変わってしまったのだろう。
確認のために本をペラペラとめくってみると、確かに前半部分の主人公は「南沢伸二」だった。しかし途中から急に――同じページのなかで「団藤友吉」に変わっている。
(はて? これはいったい……?)
驚くべき現象が起こったのは、その瞬間だった。八環の目の前で、「団藤」という文字が溶《と》けるように消え、「南沢」という文字が浮き出てきたのである。
「げぇっ」
思わず八環は驚きの声を発した。信じられず、食い入るように文章を見つめる。
それは、一度きりの現象ではなかった。時間が過ぎ去るにつれ、次々と「団藤」が消え、「南沢」に変わっていく……。
恐ろしいまでのスピードだった。今や「南沢」の侵食は本全体の八割以上――二百ページ足らずの本文のうち百六十ページに差しかかっている。
(最後の「団藤」が「南沢」に変わったとき、南沢は……)
八環は悟った。――主人公の「南沢」が屍人《しかばねひと》に心臓を貪《むさぼ》り喰《く》われたとき、現実の南沢も(おそらくは心臓発作に見舞《みま》われ)死んでしまうのだ。恐怖に顔を歪《ゆが》めて……。
「う、うううう……」
八環は背筋に悪寒《おかん》が走るのを感じ、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。
10 生きている死体
クルマのエンジン音で、八環はハッと現実に返った。
(文ちゃんだ)
窓からベランダに出、地上を見降ろす。
思った通り、マンション前の路上には、お化けワーゲンが駐《と》まっていた。ワーゲンのドアが開き、なかから墨沢文子が姿を現わす。
文子は上空を見上げた。八環の姿を認め、小さく頷《うなず》く。
文子が上がってくるまで待っていられなかった。すでに本の百八十ページまで、主人公の名は「南沢」になっているのだ。
八環は鴉天狗に変身し、地上に舞い降りた。文子を抱《だ》きかかえ、ふたたび南沢の部屋へと戻る。
「あれが『屍綺譚』だ」
八環は机の上の本を指差した。
「主人公の名前、最初は団藤だったのに、徐々に南沢に変わっていってるんだ。本の最後では、主人公は化け物に心臓を喰われて死んでしまう。そのショックで、きっと現実の南沢も死んでしまう。それまでに何とかしないと……。文ちゃん、どうすればいい?」
情《なさ》けない声で言う。
「わたしに任せて」
文子は言い、『屍綺譚』を手に取った。しばし凝視《ぎょうし》したのち、本のページをぺらぺらとめくる。
「わかったわ」
文子は本を閉じ、
「この人の意識、本の主人公と同調させられているのよ」
と、いまだに机の上に突っ伏したままの南沢を顎《あご》で差した。
「同調させられている?」
問い返す八環に、
「そうよ。魂《たましい》が本に取りこまれていると言い換えてもいいわね。でも、今は詳《くわ》しく説明している暇《ひま》はないわ」
と文子。日ごろの文子とは別人のような厳しい口調、そして顔つきである。
「八環さん、今からあなたを『屍綺譚《しかばねきたん》』のなかに送りこむわ」
文子は意を決したように言った。
「え?」
「あなたが本のなかにはいっていって、屍人を倒すのよ。それしか南沢さんを助ける方法はないわ」
「屍人を倒す? おれが?」
きょとんとした表情を浮かべる八環。だが、文子はその質問に答えようとはしなかった。
「いいから、黙ってて」
化粧っ気のない唇《くちびる》に人差し指を当て、八環の目を見つめる。文子が他人の目を見つめるなんて、滅多《めった》にないことだ。
その瞬間――
「あ……」
八環は小さく呻《うめ》き声を発した。文子に見つめられた途端《とたん》、不思議な感覚を覚えたのだ。急に肉体が軽くなったような……。空を飛ぶこともできる八環だが、そのときの感覚とは明らかに違う。
ふわっと浮き上がるような感覚、さらには、どこかに吸いこまれていくような感覚……。
ふと気がつくと、八環は見たこともない部屋に立っていた。
「こ、ここは……」
呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》く八環の頭に声が響く。
――『屍綺譚』のなか、百九十一ページよ。
文子の声だった。
「え? 『屍綺譚』のなか?」
八環は反復した。と同時に、文子が人を本のなかの世界に送りこむ能力を持っていることを思い出す。
「文ちゃん、ひどいじゃないか。おれの承諾《しょうだく》も得ず……」
八環は責めるような口調で言ったが、その声が聞こえないのか、文子は無視して続けた。
――百九十三ページの八行目で「南沢」は喰い殺されるわ。急いで。
「急いで? いったいどう急げばいいんだ?」
――気をつけて、屍人は近くにいるわ。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
悲鳴《ひめい》に近いような声を上げる八環。だが、無駄だった。それきり文子の声は聞こえなくなってしまったのである。
「ちっ」
八環は舌打ちした。こうなってしまっては腹をくくるしかない。気を取り直し、周囲を見回す。
けっこう広い部屋だった。しかし、壁には大きなヒビがはいり、いたるところに蜘蛛《くも》の巣《す》が張っている。テーブルや椅子《いす》、タンスなどの家具類は例外なく壊《こわ》れていた。外界に接していない部屋らしく、窓はない。
そのとき!
「た、助けてくれええええ」
という男の悲鳴が八環の耳に飛びこんできた。傾《かし》いだ扉の向こうからだ。
(南沢か!?)
八環は素早く反応した。脱兎《だっと》のごとく駆け出し、扉を蹴破《けやぶ》る。
そこで八環が目にしたのは――
グロテスクな化け物がじりじりと「南沢」を追いつめている場面だった。顔面|蒼白《そうはく》の「南沢」が壁際《かべぎわ》で震えている。――間一髪《かんいっぱつ》、間に合ったのである。
その化け物――黒石香玉の想像力によって作られ、描写された屍人《しかばねびと》は、おぞましい姿をしていた。言い換えれば腐肉《ふにく》の塊《かたまり》! 初めて小説に登場したころは、まだ人間らしい姿をとどめていたのだが、次第に腐敗が進み、ついにはこのような姿になってしまったのだ。
周囲には耐えられないほどの悪臭が漂《ただよ》っていた。もちろん、屍人の発する腐臭だ。
「待ちな」
八環は屍人の背後から声をかけた。
「グルル……」
不気味な声を漏《も》らし、屍人が振り返る。
屍人は八環を見て、戸惑《とまど》うような動きを見せた。
八環は小説には登場しないはずの、予定外の登場人物なのだ。しかも人間ではなく鴉天狗ときている。
だが、屍人の躊躇《ちゅうちょ》は一瞬に過ぎなかった。邪魔者《じやまもの》を先に片づけようと考えたのか、あるいは、本能的に八環が強敵だと悟ったのかもしれない。屍人はゆっくりと八環の方に足を向けた。両腕《りょううで》を前方に上げ、片方の足を引きずるようにして歩き始める。映画で見たゾンビそっくりの緩慢《かんまん》な動きだった。
(どう闘《たたか》えばいいんだ?)
八環は必死に屍人の弱点を考えていた。――映画のゾンビはほとんど例外なく火に弱かった。試してみる価値はありそうだが、あいにく八環には炎を操《あやつ》る能力はない。
(ああっ、玄堂《げんどう》さんがいてくれたらなあ)
八環は痛切に思った。玄堂――田原《たはら》玄堂というのは、やはり <うさぎの穴> の仲間のひとりで、その正体は野火――炎を使う妖術に精通した妖怪である。屍人がゾンビと同じで火に弱いのであれば、簡単に焼き尽くしてくれるに違いない。
八環がそんなことを考えているうちにも、屍人はどんどん迫ってきていた。いくら動きが遅くとも、いつかは互いの手が届く距離に来てしまう。あの腐《くさ》った肉体との肉弾戦《にくだんせん》だけは勘弁《かんべん》してほしかった。突風を起こして屍人を跳《は》ね飛ばすことはできるが、そんなことをしても一時しのぎだ。何度も繰《く》り返すわけにはいかない。
と。
「あれは……」
八環は屍人がぽたぽたと腐肉《ふにく》の小さな塊《かたまり》をしたたり落としながら歩いていることに気がついた。それを見た途端《とたん》、
(そうだっ)
八環の脳裡《のうり》に閃《ひらめ》くものがあった。――屍人の腐敗は極限にまで進行している。腐肉をすべて削ぎ落としてしまったら、あるいは……。
炎は苦手だが、八環は風を操る術には長《た》けている。
さっそく八環はその考えを実行に移した。
まずは屍人の周囲にカマイタチを起こし、屍人に付着している腐肉をずたずたに切り裂く。
それだけでも大量の腐肉が床に飛び散り、胴体や手足の骨の一部が露《あら》わになった。
「よーし、いいぞ。とどめはこれだ」
八環が声を発すると同時に、屍人の近くに強烈な風の渦《うず》が巻き起こった。すでに剥《は》がれかけている腐肉を完全に削ぎ取り、上方に巻き上げていく。
「どうだ、参ったか」
勝利の声を上げる八環。
だが、計算外のことが起こったのは、次の瞬間だった。竜巻《たつまき》によって天井《てんじょう》まで巻き上げられた腐肉がぺちゃぺちゃと降ってきたのである。
そのうちのいくつかが八環の顔面を直撃!
「うわっ、臭えっ」
八環は思わず鼻をつまんだ。慌《あわ》てて顔を拭《ぬぐ》うが、いったん付着してしまった臭いはそう簡単に払拭《ふっしょく》されない。
「うわあ、ひええ、ひえええ」
と八環、情《なさ》けない悲鳴を発し、部屋のなかを逃げ惑《まど》う。
だが、ひどい目に遭った――いや、臭い思いをしたとはいえ、八環の作戦が図に当たったことは確かだった。
竜巻が止んだとき、そこに立っていたのは、もはや屍人ではなかった。腐肉を切り刻まれ、さらには吹き飛ばされた屍人は今や骨だけの姿――骸骨《がいこつ》になっていたのである。
意外なことに、それでも屍人は倒れなかった。骨だけの姿になりながらも人の形を保ったまま立っている。
(こ、こいつ、骸骨になっても平気なのか)
さすがの八環も驚きを禁じ得なかった。鼻が曲がりそうな臭いのことも忘れ、じっと骸骨を見つめる。
と。いきなり骸骨はがっくりと膝《ひざ》をついた。と思う間もなく――ガシャガシャガシャ……。
大きな音とともに床に崩れ落ちる。
ばらばらになった骨が床に散らばるのを見て、
「終わったな。ふう……」
八環は安堵《あんど》の息をついた。ふと気づいて壁際《かべぎわ》に目をやる。
そこには、「南沢」が無様《ぶざま》な体勢で倒れていた。どうやら気絶しているようだ。
「やれやれ……」
八環は肩をすくめた。「南沢」に歩み寄ろうとする。 しかし、そのとき――
またも八環は急激に肉体が軽くなるのを感じた……。
エピローグ
八環は現実の世界に戻った。
「お疲れさまでした」
と文子が笑《え》みを浮かべて迎える。
開口一番、
「文ちゃん、ひどいことするなあ。お蔭《かげ》で、とんでもない目に遭っちまったぜ。せめて、ちゃんと説明してからにしてくれよな」
八環が不満も露《あら》わに言うと、
「仕方なかったの。時間がなかったから」
文子は申しわけなさそうに頭を下げた。
「まあ、それはわかるけど……。この臭いときたら、二、三日は取れないかもしれないぞ」
と口を尖《とが》らせた八環だったが、次の瞬間、
「あれ?」
訝《いぶか》しげに首を傾《かし》げた。くんくんと周囲の臭いを嗅《か》ぐが、全然臭くない。不思議なことに、あれだけ臭かった腐臭がきれいさっぱりと消えていたのである。
「これ、どういうこと?」
八環が問うが、文子は曖昧《あいまい》な笑《え》みを浮かべただけで、何も答えようとしない。
そのとき八環は、文子が『屍綺譚』を持っていないことに気がついた。周囲を探すが、どこにも見えない。
「あれ? 『屍綺譚』は?」
「消えてしまったわ」
「消えた? まさか次の犠牲者のところへ……?」
「違うわよ。消えたというのは、言い方が悪かったわね。言い直すわ。――消滅してしまったのよ」
「消滅? なぜ?」
「あなたが屍人《しかばねびと》を退治したせいに決まってるじゃない」
「え?」
「属人は『屍綺譚』になくてはならない存在なの。その屍人が退治されてしまっては、『屍綺譚』のホラー小説としての価値――つまり存在意義が失《な》くなってしまうのよ。存在意義の失《う》せた妖怪《ようかい》は、消え去るしかないわ」
文子は確信に満ちた口調で答えた。続けて、
「そんなことより、さ、早く帰りましょ」
と窓の方を指差す。
「え? でもまだ南沢が……」
八環は南沢の方に目をやった。南沢はいまだに机に突っ伏したままで、意識を取り戻していないのだ。
だが文子は、全然気にしていないようだった。
「大丈夫よ。放っておけば、そのうち気がつくわ。それに、いま意識が戻ったら大変。わたしたち、泥棒扱いされてしまうわよ」
と悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべる。
「泥棒扱いか……。そりゃたまんないな。じゃ、帰るとするか」
八環は言い、文子とともにベランダに出た。文子を抱きかかえ、地上に降り立つ。
ふたりはお化けワーゲンに乗りこんだ。吉祥寺の <稀文堂> へと向かう。
八環は人間の姿に戻り、携帯電話を取り出した。 <うさぎの穴> に電話をし、
「終わったよ。詳《くわ》しいことは、そっちへ戻ってから話す」
と短く伝える。
携帯電話をしまった八環は文子の方に向き直った。
「それにしても……。あんなとんでもない妖怪を生み出すなんて、本好きの気持ちってわからんなあ」
「そーお? でも、もともと本には人の想《おも》い≠ェ込められているのよ。それは、書き手も読み手も同じ。『屍綺譚《しかばねきたん》』を読みたいと思った人たちの気持ち、わたしにはわかるような気がするわ」
文子は答えた。さらに、
「それに、特に面白い本は、読者をその世界に引きこんでしまうパワーを持っているものなのよ。『屍綺譚』があんな力を持ってしまった理由《わけ》も、わたしには理解できる」
と自分を納得《なっとく》させるように言う。今夜の文子は、ふだんの控《ひか》え目《め》な彼女からは考えられないほど饒舌《じょうぜつ》だった。
「そんなものかな」
首を傾《かし》げた八環、ふと思いついたように、
「ちょっと気になるんだけど、南沢は『屍綺譚』の主人公になったんだよな。だったら、本の内容、覚えてるのかな?」
と問う。
「ええ、たぶん」
文子は頷《うなず》いた。
「じゃあ、その内容、どこかに紹介するかな」
「するでしょうね。南沢さん、評論家なんだし、黙っていられるわけがないわ」
文子の返事を聞き、八環はにやりと口許《くちもと》を歪《ゆが》ませた。
「でも、それはちょっと問題だよな。誰にも信じてもらえないかもしれないぜ。現物は消えちまってるし……」
「え?」
「だって、南沢が読んだ『屍綺譚』では、最後のクライマックス・シーンにいきなり鴉天狗が出てきて、屍人と対決するんだぜ。あまりにも唐突《とうとつ》すぎると思わないか」
と八環、悪戯《いたずら》っ子《こ》のような表情で文子を見つめる。
「ほんとね。うふっ」
文子は頷き、にこやかな笑《え》みを浮かべたのだった。
[#改ページ]
妖怪ファイル
[#ここから5字下げ]
[棒]
人間の姿:なし。
本来の姿:長さ一メートルほどの木の棒。
特殊能力:怪力。数秒間なら空中に浮遊できる。自分を投函した者を感知する。
職業:なし。
経歴:誤字によって生じた「棒の手紙」を恐れる人々の心理が生み出した。
好きなもの:特になし。
弱点:炎
[幸運の女神(化身)]
人間の姿:さまざまな国の美女(男)の姿になれる。
本来の姿:同じ。
特殊能力:幸運のお守りを必ず身につけている。それを握って念じると、必ず幸運が訪れる。
職業:なし。
経歴:古代エジプトやメソポタミアなどの文明期から、人に思いもかけない幸運を与えてきた。そのきまぐれさによって、破滅した者は数知れず。
好きなもの:感情的に偏るタイプの人間。
弱点:きまぐれ(弱点と呼ぶべきかどうか)。堅いタイプの人間。
[ザ・デスパリット]
人間の姿:地位の高いもの、低いもの、いずれにもなれる。ただ、必ず、どこか卑しさがつきまとう。
本来の姿:貨幣、チップなど、物に換算された価値。
特殊能力:絶望のオーラ。そばにいると虚無感に囚われる。蟻地獄を異空間に隠し持っている。
職業:なし。
経歴:古代、貸借が発生した頃から存在する。17世紀オランダのチューリップ景気の頃に足跡を残している。以後、バブルの後には、必ず出現。
好きなもの:幸運に溺れている人間。
弱点:子供。
[屍綺譚《しかばねきたん》]
人間の姿:なし。
本来の姿:古ぼけた箱入りの本。
特殊能力:瞬間移動できる。読者の意識を本のなかに取りこむ。
職業:なし。
経歴:もともとは明治時代に黒石香玉が書いたと言われる幻のホラー小説。この小説を読みたいというホラー小説ファンの想い≠ェ結集して生まれた。
好きなもの:恐がりな人。
弱点:紙でできているので、燃やされると灰になってしまう。
[屍人《しかばねびと》]
人間の姿:なし。
本来の姿:人間の形をした腐肉の塊。生きている死体。
特殊能力:絶え間なく腐臭を発する。腐った肉でも平気で食べられる。
職業:なし。
経歴:黒石香玉の空想のなかで生まれた、想像上の化け物。ホラー小説『屍綺譚』に登場し、殺戮の限りを尽くす。
好きなもの:人間の肉。
弱点:激しい風。全身をまとう腐肉を吹き飛ばされると、ただの骸骨になり、ばらばらになってしまう。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
あとがき
[#地付き]安田 均
コソコソ、カサカサ、ガサガサ……。
グァギッ、バグッ! ――バタッ!!
クフフフフフフフフフフフ……。
こんばんは。秋の夜長にこうした妖魔夜行風の擬音は、いかにもそれらしく聞こえますね。日本では、妖怪話は夏の暑いときと限っているようですが、逆に西洋などでは寒くなってきた頃や、歯の根も凍りつくような時季こそよい、という説もあります。考えてみれば、クリスマス・ストーリーとして名高い『クリスマス・キャロル』だって、恐怖小説と読めないこともありません。これから虫の音の高まっていく時季、ここに収められた3篇で心の底から恐怖を楽しんでください。
ということで、妖魔夜行には初登場の安田均です。
おや、いつもの、友野詳はどうしたのかって? 彼は今回珍しく、この短編集に参加できなかったので(初めてかな)、すねているのです――というのは、ウソ。彼のことですから、ちゃんとここでも、各短編の間をつなぐストーリーを書いてくれています。まったくもって、どこにでも顔を出してくるそのパワーたるやおそるべし、いやいや。
それはともかく、妖魔夜行シリーズもこれで11冊目になります。7年前のある暑い日、グループSNEのメンバーで集まって、新しい現代妖怪|譚《たん》を作ってみようと始めたシリーズですが、みなさんの熱心な支持によって、ここまで続けることができました。
当初は、短編を中心にするのか、それとも長編を柱にするのかとか、GURPSという新しいRPGの背景世界としてもおもしろいものを、ということで、ゲーム面をどうするのかとか、いろいろ激論もあったのですが(といっても、SNEのことですから、喧嘩腰《けんかごし》ではなく、誰かがああ言ったら、こう言うという感じで、なかなかまとまらない)、いざはじめてみると、思ったより気分よくみんなが書いていけるので、これはうまくいくにちがいないと確信したことを思い出します。
かくして、妖魔夜行の作品世界は、それから小説だけではなく、ゲーム面でもいろいろと広がっていきました。妖怪たちも数多く登場し、また、主人公側のメンバーもうさぎの穴≠セけではなく、海賊の名誉亭≠はじめとして、全国ネットワークなどさまざまになっています。
そこで、ちょうど10冊を数えたことだし、この辺りでもう一度うさぎの穴≠フメンバーを中心にしての話を書いていこうじゃないか、ということになりました。
いわば、この作品集は新生@d魔夜行の第一弾ということでもあります。
ところで意外なことに、妖魔夜行シリーズにはぼくは設定のはじめから加わっていたにもかかわらず、まだ作品を書いていなかったのですね。ある日、そのあたりを、山本弘や友野詳につかれてしまったのです。
「安田さん、まだ妖魔の小説書いてませんね」
「そういや、最初からいるのに、それはへンだ」
ははは、妖怪らしく、気配を消していたのに、ばれてしまったか(笑)。
そこで、今回は、うさぎの穴≠フ中心メンバーで、最初からいるにもかかわらず、まだだれも書いていないマスターこと、井神松五郎に焦点をあててみました。かなたの両親については、まだ詳しくは書かれていないので、その辺りいかがでしたでしょうか? もちろん、あっと驚く設定の山本弘の心理スリラーや、実は古書については一家言持っている高井信の表題作など、いつものようにこのシリーズのおもしろさはまちがいなしです。
新生≠ニなり、ますますパワーアップした妖怪たちのさまざまな物語を、これからも期待してください。
[#改ページ]
<初出>
第一話 悪意の連鎖 山本 弘
「ザ・スニーカー」98年6月号
第二話 背中あわせの幸運 安田 均
「ザ・スニーカー」98年8月号
第三話 しかばね綺譚 高井 信
書き下ろし
ブリッジ 友野 詳