妖魔夜行 深紅の闇
友野詳/高井信/山本弘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)陥穽《わな》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)鴉|天狗《てんぐ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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目 次
第一話  深紅の闇       友野 詳
第二話  大都会の陥穽《かんせい》     高井 信
第三話  さようなら、地獄博士 山本 弘
妖怪ファイル
あとがき           友野 詳
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Take-1――――――――
いつからでしょうね、僕たちが夜をこわがらなくなったのは。
こうして原稿を書いている今、深夜の三時です。妻は寝室で寝ており、僕はただ一人、仕事場でパソコンに向かっています。この時刻、外を通る車もほとんどありません。聞こえる物音と言えば、エアコンのうなりと、僕自身がキーボードを叩く音ぐらい……。
たまに文章に行き詰まったり、ひと息入れたくなった時、ちょっとした散歩がてら、家から少し離れたところにある自販機まで缶コーヒーを買いに行きます。もちろん人とすれ違うことなんてめったにありません。でも、僕は何のためらいもなく、暗い夜道を自販機まで歩いて行き、また戻ってくるのです。
これは僕だけではないと思います。ここ十数年のうちに、都会では二四時間やっているコンビニエンスストアがずいぶん増えました。昼間も夜と同じように生活する人が、それだけ増えたということでしょう。
これって違うんじゃないだろうか。
ふと、そんな疑問にかられることがあります。違和感とでも言うのでしょうか。夜に慣れてしまった自分の感覚が、ひどく不自然なもののように思えるのです。昔はもっと夜道ってこわかったはずなのに、いつから平気になってしまったのでしょう。
これが自然な感覚であるはずがありません。だってそうじゃありませんか。夜はこわいのが当たり前。それは人間がまだ原始的な猿であった頃から、遺伝子の中に深く刻みこまれた本能であったはずです。
闇を警戒せよ。闇を恐れよ。闇の中には危険がひそんでいる――そうした本能の呼び声こそが、原始的な猿たちをアフリカのジャングルで生き延びさせてきた秘密であったはずです。僕たちは文明の中で長く暮らすうち、本能を忘れてしまったのでしょうか?
いや。
そんなはずはありません。恐怖などという根源的な感情を、そう簡単に忘れてしまえるはずがありません。僕たちはただ、それが存在しないふりをしているだけではないでしょうか?
げんに。
夜道を歩いていると、時おり、人のようなものが道端にうずくまっているのを目撃し、ぎょっとすることがあります。よくよく見れば、それは捨てられたゴミ袋であったり、植木であったり、ただの電柱の影であったりして、なあんだとなるのですが……。
でも、正体が分かるまでのほんの数秒、僕はいっさいの知恵も合理性も忘れ、立ちすくんでしまいます。暗いジャングルで見えない敵におびえていた頃の、原始的な猿に戻っているのです。
どんなに文明が進歩し、どんなに明かりが増えても、すべての路地、すべての物蔭から闇を追放することなどできはしません。人の心から闇を追放できないのと同じように、都会のどこかに闇は残っているのです。
ジャングルとは違って、都会の闇の中には、豹や毒蛇がひそんでいることはありません。でも、そこにはもっと危険なものがひそんでいるかもしれません。その存在を忘れようとすればするほど、闇は人間の心の奥に眠る不条理な妄想を吸い上げ、ふくれ上がります。
そしてついには、実体を持ち、牙をむいて襲いかかってくるのです。この物語に登場する妖怪のように……。
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第一話  真紅の闇  友野 詳
1.そして、また、はじまる
2.奇妙な男
3.事件
4.美緒《みお》
5.闇からの……
6.古書 稀文堂《きぶんどう》
7.遠い、愛
8.ふたたび酒場にて
9.逃走
10.癒《いや》しの叫び
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1 そして、また、はじまる
雷鳴を聞いて、彼は舌打ちをした。
あたりが暗いのは、日が傾きかけているからばかりではない。太陽の位置が確かめられないほど、雲がぶ厚くたれこめている。
急にあたりが照らされたので、彼は一瞬ぎょっとした。落ち着いてみれば、よりかかっていた街灯に灯《あか》りがともっただけのことだ。
よっこらしょと体を起こして、彼は考えた。
昨日までのねぐらは、改装工事の連中に追い出されてしまったし、地下街は若いやつらがうろついていて危ない。数日前にも、袋叩《ふくろだた》きにされたやつがいる。
ビルの軒先でも借りるか。
垢《あか》じみた手で、無精髭《ぶしょうひげ》がのび放題の顎《あご》を掻《か》く。オーバーの袖《すで》に、ボタンが一つも残っていないのが目にはいった。
いっそ、このまま雨にうたれて死んじまうってのも手だわな。
と、彼はぼんやり考えた。
そういえば、俺《おれ》が若い頃、そんな歌謡曲があったっけ。そうだ、確か、あいつとはじめてデートした時に、喫茶店で流れてた。
彼女のことを思い出すと、胸の奥に苦いものがこみあげてくる。そんな感情から逃げるために家を出てから、もう十四年以上になるというのに。
彼は、薄れかけた記憶の中から妻と娘の顔を再構成しようとした。
うまく思い出せない。
娘はもう十……いくつになったろう。妻もすっかり中年のはずだ。
今の彼女たちの顔を想像することすらできない。思い浮かべられるのは、はじめてあった十八のころの彼女だけだ。
頭の中身とは関係なく、足は動いていた。
その家が目についたのは、雨足がかなりはげしくなってきたころだ。
少し以前に抱いた虚無感は、肉体が直接訴えてくる不快感に、あっさり駆逐されていた。
それは、いまどき珍しい古い洋館だった。人の気配はまるでない。
彼は、表札を見て、住所を確かめた。
この家は確か……。
昨日拾って、体に巻いていた新聞をとりだしてみる。
その記事は社会面のトップだった。大見出しが躍っている。
彼は思った。他人の不幸ほど、今の人々を楽しませるニュースはない。それが血生臭いものであれはあるほど、人々は眉《まゆ》をひそめつつ、隠した口もとに笑みを浮かべる。
ちりがみ交換に出されていた新聞だから、事件はしばらく前のことになるのだろう。
門はしっかり閉じられていたが、塀をのりこえるのは、今の彼でも難しくなさそうだ。
扉には何やら注意書きが張りつけられている。しかし、庭に面した窓の一つが開け放しになっているのが目に止まった。
いい加減なものだ。もっとも、そのお役所仕事のおかげで俺は助かるんだが、と彼は誰にともなく感謝した。
雨は、そろそろ下着までしみこもうとしている。
彼は、その家にはいりこんだ。
さすがに少々薄気味は悪かったが、乾いた寝床の魅力には替えられない。
「なぁに、殺されたのは美人の若妻だってんだろ。幽霊でもいいや。女と話すのなんざ、ひさしぶりだ」
まとわりついてくる悪寒をふりきるように、彼はそう口に出した。
声は、どこへともなく吸いこまれていった。
言うのではなかった、と彼は思う。
その家は、いっそ屋敷と呼んだほうがふさわしい広さだが、中はしんと静まりかえっていた。
雨が屋根を叩く音も、ほとんど中には伝わってこない。
真っ暗だ。
彼は、そろそろと足を進めた。かつん。つま先が軽いものを蹴る。
「こりゃ、ありがたい」
男は、誰かが落としていったキャビンの百円ライターを拾った。
ぽっ。
小さな、小さな炎が、ゆらめきながら、あたりを照らしだす。正面。緑の壁紙の真ん中が、どす黒く汚れていた。
彼は、ほこりまみれの絨毯《じゅうたん》に唾《つば》をはきすてると、別の部屋に移った。
隣は応接間らしい。豪華なソファの上に、手作りだろうクッションが置いてある。衛星チューナーつきテレビのリモコンを操作してみたが、画面は真っ暗なままだった。
彼は、寝室を探してその部屋を出た。
次に出くわしたのは台所だった。
かすかな期待をこめて、冷蔵庫をのぞいてみる。もちろんからっぽだ。当たり前のことだと、肩をすくめる。
男が、重い足をひきずりながら台所を出ようとした時、足が取っ手にひっかかった。落とし戸だ。
無視して行こうとした男の足が、ふと止まった。
開けてみる。思った通りだ。収納庫などではない。地下の貯蔵室に通じている。階段が、闇《やみ》に向かっておりていた。
男は、足をふみだした。こういう屋敷なら、地下にワインセラーか何かあっても不思議はないと考えたのだ。
まともな酒など、もう何カ月も飲んでいない。まともでないやつなら、三日前に酒場の飲み残しを飲《や》ったが。ビールとウイスキーと日本酒のちゃんぽんだった。
だが、彼はここでも失望をあじわうことになった。確かにここはワインセラーだったが、棚はことごとく、からだったのだ。
一本くらい、片隅に忘れられていないだろうか。彼は、あきらめきれず探してみた。
がさり。足元を何かがかけぬける。黒くて小さな影だ。
彼はびくんと飛びあがった。
「ね、ねずみかよ」
声に出して、そう言った。自分に言い聞かせるためだ。
ねずみに違いない。ねずみに。なんだか妙な形だったが……、いやいや。
おや? あの音はなんだろう。
彼は耳をそばだてた。頭上で、誰かの足音が聞こえたような気がしたのだ。
静かだ。
ごくり。唾を飲む音がやたらと大きく響く。
気を取り直して、彼は階上にもどろうとした。
その時である。それが彼の目に飛びこんできたのは。
なぜ、今まで気がつかなかったのだろう。
大きな瓶が一つ、そこに残っているではないか。ひとかかえほどもある。高さに比べて、幅が広い。西洋によくあるやつだ。編み篭《かご》におさまっている。
彼は、舌なめずりをしながら、瓶に近づいた。黒い硝子《ガラス》でできている。
黒い……。
いいや、違う。
瓶は透明だ。その酒瓶は、ふつうと違って透明なガラスでできている。容器ではなくて、中身が黒いのだ。ワインではないのだろうか。
違った。中身はワインだ。そうに違いない。真っ赤な液体だ。
黒いのは。
あれは髪の毛だ。
髪の毛が、ワインに浸かっている。瓶の中に充満しているのだ。
彼は、それをじっと見つめた。
ゆらり。手も触れないのに、それは動いた。ぐるりと中身が渦を巻く。
瓶の中にあったのは、髪の毛だけではなかった。しかし、そんなことはありえない。瓶胴は確かに太い。入っていてもおかしくはない。だが、いったいどこから入れるのだ。瓶の口は、直径が二センチにも満たないのに……。
だが、それは、確かにあった。
美しい女の顔が。
瓶の中に生首があった。
そして、ふりむいたそれは。
笑ったのだ。
赤い酒に浸かって、そのくちびるを優雅に歪《ゆが》め、酒を通して、その瞳が彼を映している――。
とてつもなく恐ろしいのに、彼は逃げようとはしなかった。ちらりとも考えなかった。
彼は、女の首に魅せられていたのだ。それが、どうしても欲しかった。
飲みたかったのだ。
彼の期待に答えるかのように、ぽんと音を立てて、コルク栓がふきとんだ。何かが彼の中に押しいってくる。脳のひだの隙間《すきま》にまで、染みこんでくる……。
彼の絶叫は、すべて固く閉じられた屋敷の扉からも窓からも[#「すべて固く閉じられた屋敷の扉からも窓からも」に傍点]、もれることはなかった。
2 奇妙な男
「あんた、首酒というものを知ってるかね?」
その男は、未亜子《みあこ》の隣のスツールに腰をおろすと、おもむろにこう切りだした。
酒場でいきなり声をかけられるのは、未亜子にとっては珍しいことではない。
彼女は美しいからだ。
長い黒髪はつねに濡《ぬ》れているように輝く。白い肌には、ぬめぬめとした光沢。瞳《ひとみ》は極端な切れ長。そして、紅もひかないのに血の色を保つくちびる。
くわえて、美声。
未亜子は歌手である。いくつかのクラブで歌っていた。この酒場は、仕事場ではないが、ときおり気が向くと、ピアノを弾き語りすることがある。
どこの店でも、ショウの時間が終わり、グラスを前にしていると、週に一、二度は酔って大胆になった男が近よってくるものだ。
しかし、ほとんどの男は、五分と話し続けることはない。
しつこい男で、せいぜい十分。
男たちはいろんなことを話す。自分の職業、趣味、年収にファッション。
未亜子は、それに何の反応もしめさない。嬉《うれ》しいわけではないが、こうるさいとも思わない。
彼女は、そういう生まれつきなのだ。じたばたと悩む時期は、三百年ばかり昔に通り過ぎた。
だから彼女は、ただ黙っている。酒は、ほとんど飲まない。たまに口に運ぶのは、目の前の皿につまれた生肉だ。
男たちは、すぐに口ごもりはじめ、席をたっていく。
今日も、それと異なるだろう理由はなにもない。
いや、たった一つある。
こんな話題をもちだした男は、いままでいなかった。
「くびざけ、だよ。聞いたことはないかね」
奇妙な声だった。一言発するたびに、ひゅうひゅうと喉《のど》がなる。アクセントも、どことなくおかしい。
未亜子は、ゆっくりと首をめぐらせて、男を見た。
その服は、おせじにも清潔でも、新しくもない。ふるぼけたコートの下は、型崩れした黒いスーツ。自かったはずのワイシャツは、黄色とも灰色ともつかない。
ふくれあがったリュックを背負っている。何を入れているのか、よくはわからないが、硬い大きなものらしい。
帽子を目深にかぶっていて、表情はよく見えない。だが、どこか体でも悪くしているのか、かいまみえる顔の色はひどく青白かった。
まるで死人の顔色だ。
「首洒というのはねぇ、うまいんだよぅ」
聞き取りにくい声でそう言うと、男は目の前におかれたグラスを口に運んだ。グラスをもった手は、指が異様なほど長い。そして手首は極端に細い。ほとんど未亜子と変わらないほどだ。
男の喉が、こくこくと動いた。
グラスの中身は、この店においてある中では、最高級のブランデーだ。
男は、それを一息で飲み干した。
「ううっ、まずい」
泥水でも、飲んだような口調で言った。
男は、グラスを置いた。軽い音が響く。それをまっていたかのように、若いバーテンの富田がやってきた。
「おかわりをお作りしましょうか?」
富田は、無愛想な調子で言った。できれば作りたくないと、言外に示している。無口なのはいつもだが、ふだんなら気持ちのいい笑みを浮かべている若者だ。
男は、帽子が作る影の奥から、富田を見た。
見たように、未亜子は思った。
「あ……」
富田は、言葉を続けられなかった。
どん。音を立てて、男は札をカウンターに叩《たた》きつけた。
富田は、黙ってブランデーを注いだ。下がりながら、未亜子にそっと目くばせをよこした。
富田の胸板は、かなりの厚みだ。彼は、以前、ある事件で未亜子の世話になっている。生肉、などという注文に答えてくれるのも、そのおかげだ。
未亜子は、かすかに首をふった。手助けは必要ない。
男は、そのあいだも話し続けている。
「首酒について聞いたことはないかね?」
男は息をついだが、それは未亜子の返答を待つためではなさそうだった。
「もうずいぶんと昔の話だ」
あるいは、男は未亜子に話しかけているのではなく、独り言を言っているだけなのかもしれない。
「あるところにある男がいた」
未亜子の右、二つスツールをへだてて座っていたアベックが席を立った。彼らは、通りすぎる時、男にちらりと視線を走らせていった。あらわれた感情は、嫌悪ではない。
怯《おび》えた目だ。
「そいつの名前だとか、地名だとかはどうでもいい」
店には、小さな音量で古いシャンソンが流れている。曲名は『暗い日曜日』。
ひゅうひゅうぜいぜいと鳴る男の声は、その曲を吸いこんでしまうように思えた。
「ともかく、そいつは妻を深く愛していた」
男は、顔の前で指をくみあわせた。まるで、二匹の蜘蛛《くも》がからみあっているかのようだ。
未亜子は、いつの間にか男の話に耳を傾けはじめていた。珍しいこともあったものだ、そう思いながら観察している、もう一人の彼女が内側にいる。
「だが、妻のほうはそいつの愛を信じきれなかった。そいつには、もう一つ愛するものがあったからだ。酒」
バーテンの富田が、ぴくりと体を震わせる。だが、男は自分のグラスのことを言ったのではない。まだ、口もつけていないのだ。
「その男は、酒が好きだった。いやいや、飲み過ぎたりはしない。いってみれば収集家で、求道家だった」
この人物は何者だろう、と未亜子は思った。無教養な人物には思えない。しかし、おせじにも上品なものごしではない。
「収入の多くを、世界各地の酒をとりよせるのに使っていた。収入ばかりじゃない、時間もだ。しかし、そいつの求めている究極の酒は見つからなかった」
またブランデーを一息で飲み干す。唇《くちびる》が歪《ゆが》んだが、感想を述べようとはしなかった。
「気がつくと、妻はそいつのもとにいなかった。そいつの若い部下と深い仲になっていたのさ。問い詰められて、妻はかえって喜んだのかもしれん。亭主の関心が、自分のところに帰ってきたってね」
未亜子は、男の真意をはかりかねていた。薄切りの生肉を一枚つまみあげる。皿には、肉からしたたった血が、浅く溜《た》まっていた。
「次の日だ。そいつは友人一同を招待した。もちろん、例の部下もだ。そいつは究極の酒が手に入ったと言って、客にそれをふるまった。しかし、客たちの多くにとっては生臭いだけの異様な味だった。しかし、そいつとその若い部下にとってだけは違った。とろけるような天上の蜜《みつ》の味に思えたそうだ」
男は、みぶりで酒を催促した。つがれる。飲み干す。男の肌は青白いままだ。
「そいつは、客たちの居心地の悪さをよそに、嬉々《きき》とした表情で、宴が終わった後、奥から酒瓶をもってきた。その中には、切り取られた奥方の首が浮かんでいたんだ」
未亜子は、ごくりと肉をのみこんだ。
「これが、首酒さ。うまいんだそうだよ。この世の中に比べるものがないくらい、うまい酒になるんだそうだ、首を漬けるとね」
男は未亜子の顔をのぞきこむように、顔をぐっと近づけた。男の息は血の匂《にお》いがした。未亜子にとっては、なれ親しんだ香りだ。
「もちろん、素材は選ばなけりゃならんそうだが」
きゅうっと男の唇の両端がつりあがった。
それがふっともとに戻る。
ぴちゃり。液体が揺れる音がした。ほんのかすか。聞こえるか、聞こえないか程度に。
「あんたは、違うようだな」
男は、するりとスツールをおりた。肩を揺すって、リュックを抱え直す。中に入っているのは円筒に近い形のものらしい。
男は、ゆっくりと店を出ようとしていた。
「おう、まいったな、こりゃ」
男が出口にたどりつくより早く、小さなベルの音がした。ドアが開いたのだ。
「雨だぜ、雨」
入ってきたのは、ややくたびれた感じの中年男だった。それなりの服を身につけているのだが、わざと着崩しているのだ。尖《とが》った鼻と鋭い目つきが、その雰囲気とアンバランスだった。
口にくわえられているよれた煙草は、ショートホープ。
「あれ、ほんとですか、八環《やたまき》さん」
バーテンの富田が、どことなくほっとした表情を浮かべた。
「ああ、かなり強くふりだしてきやがった」
八環と呼ばれた中年の横を、リュックを背負った男が通り過ぎていく。
ちゃぷん。また、液体の音。
それは、はっきりと背中のリュックの中から聞こえた。
そして男は、夜に帰っていった。
八環は、その背中を鷹《たか》のような瞳で見送った。ドアがふたたび閉じられ、彼は視線を店の中にもどした。
「なんだい、あれは?」
八環は言った。あいつ、ではない。
「今のところは、まだなんでもないわ」
未亜子は、答えた。
「遅かったわね、八環くん」
そして彼女は、スツールをおりた。
「いや、その、なんだ」
八環は、しどろもどろになりながら、遅刻の弁解をはじめた。
3 事 件
「その話なら、聞いたことありますよ」
翌日。
渋谷、道玄坂《どうげんざか》のあたり。
BAR <うさぎの穴> である。いるのは常連だけだった。常連以外のものは、めったにいることはない。そもそもたどりつけない。たどりつけても帰れない。本当に助けを必要としているものか、あるいは常連たちと同じかたちで生まれた命――妖怪《ようかい》たち以外は。
「大樹《だいき》くんは、なんでも知っているのね」
未亜子は言った。頭でもなでそうな調子だ。
「ちぇっ、どうせぼくは、おたくですよ」
大樹は、すねたような口調で言った。もともと丸い顔を膨らませても、ちっとも可愛くない。
「首酒の話って、そう有名じゃないけど、けっこう昔からある都市伝説のたぐいですよ。都市伝説って言っちゃうと、少し違うかな?」
大樹は軽く首をかしげた。
「都市伝説だのなんだの、名前が変わってもやっていることは同じさ。出処不明のうわさ話。そして、みんなが信じれば、そいつはほんとになっちまう」
口をはさんだのは、八環である。言葉と一緒に、紫煙が吐きだされた。鳥に似た鋭い目つきが、ここにいる時は、若干ながら柔らかい。
「そういや、口裂け女はどうしてるのかね。産み出されたのはいいけど、このごろは、妖怪の寿命も短くなったもんだ」
一度、生まれた妖怪は、そう簡単には死なない。しかし、忘れられ、みずからそっと身を潜めてしまうことは珍しくない。
「ときどきは、嚇《おど》かしているんじゃないですか? あいつはネットワークに入ってないから、よくはわからないですけど」
大樹は、仕草でマスターにおかわりを頼みながら、そう言った。
「全部が全部、うわさから生まれるわけじゃないわ」
未亜子は、静かに言った。
背景に流れている音楽が、それに同意するように少しのあいだ拍子を変えた。
店の片隅には古いピアノが置いてある。弾き手は、今は、いない。しかし、曲は自分自身で流れ続けた。
「そりゃあ、そうです。事実から、うわさが生まれることもあります。たとえば」
「脱線してるぞ」
八環は、火傷《やけど》しそうなくらい無くなった煙草を揉《も》み消しながら、指摘した。
「あれ、なんの話でしたっけ?」
「首酒よ。大樹くん」
未亜子がすっとほおづえをついた。黒髪の先端が、テーブルの上でとぐろを巻く。
「そうそう。その話ですけど……」
「ふつうは、酒、飲んじょったら、おかしな男が近づいて来うところからはじまるんだけん」
そう口をはさんだのは、うす汚れた格好の中年男だった。目がぎょろりとした、小男だ。全身からアルコールの匂《にお》いを発散させている。
「そうか。酒のことなら、有さんに聞くのがいちばんだったな」
八環は、また拗《す》ねている大樹を面白そうに見ながら言った。
中年の名は、有月《ありつき》成巳《なるみ》。正体はうわばみである。 <うさぎの穴> に集まる妖怪たちの中でも、いちばんの酒好きだ。東京に来て長いが、故郷の言葉が抜けない。
「呼ばれても行かんわ、お前さんがこれしちょうあいだは」
有月は、煙草をくわえる真似《まね》をした。蛇の妖怪だけあって、彼は煙草のやにが苦手なのである。出て行くつもりだったのが、揉み消したので会話にくわおるつもりになったのだろう。
「で、首酒の話だ。その男は言うんだわ。この酒を飲めってよ。おいしいけんって勧めてくれる。しつこく言われて、仕方ないけん飲んでみると、そりゃ血なんだわ。そこから後は、まあいろいろだ」
今度は、大樹が言葉を奪った。彼は、故郷である丹波《たんば》の言葉はまるで出ない。
「このごろは反対のが主流です。赤い飲み物を持ってると、飲ませてくれないかって言われるんですよ」
有月は、むっとしたようすで酒を飲みほした。大樹は、得意気に言葉を続ける。
「未亜子さんが聞かされたのはいちばんポピュラーな由来話ですよ。けど、由来だけ話すってのも珍しいな」
「ふうん」
未亜子は、グラスの中身をべろりとなめた。舌は鎖骨まで届きそうなくらいに長い。先端は尖《とが》っている。
「それで?」
続きをうながしたのは、八環だった。
「そいつは、もう、なっちまってるのか?」
「さあ」
大樹は首をふった。
「わかりませんよ、そんなこと。妖怪が生まれるのに決まった条件なんかないんだから。日本中の人間が信じたって生まれない時は生まれないし、たった一人のちょっとした思いこみからでも、産道≠ェ近ければ生まれちゃうんだし」
「そんなことは、いまさら、お前に説教されるまでもないんだよ」
産道≠るいは扉=A門=Aパワーライン=c…。数限りない呼び方がある。けれど、その実体は同じものだ。命の源、不可視の力、彼ら妖怪たちを産みだした根源が存在する場所へ通じる道のことである。
その道が、どこにどのようにして開くのかを知っているものはいない。少なくとも、そうされている。もちろん、どこにでもあって、どこにでも気=\―あるいは魂≠ニでも精霊≠竍アストラル体≠ニでも好きなように呼べばいい――は、いつもただよっているのだが、産道≠ェ近ければ妖怪が生まれやすいのは事実だ。妖怪だけではなく、ふつうの命も生まれやすくなるが。
「首酒の伝説から妖怪が生まれてたとしても、ネットワークに拾われてないのは確かですね」
「俺たちが知っちょうネットワーク、にはな」
有月が言った。大樹が不服そうに反論する。おじさん系の有月と、若いおたく系の大樹とはうまが合わないらしい。
「そりゃ、裏側の連中になら、わかりませんけどね」
妖怪たちも、いまや、単独で生きていくのは難しい時代だ。彼らは、互いに助けあうための連絡網をつくりあげた。それは、ネットワーク≠セの組織≠セの助け組≠セのと呼ばれている。もっとも、すべての妖怪が、それにかかわっているわけではない。それぞれの組織はばらばらだし、内部だって一枚岩とはいえない。人間を友人と考える妖怪と、獲物としかみないものたちでは、なかなか協力しあうのも難しい。人間を見下す連中のネットワークを差して、裏側と呼んだのだ。
「それにしても」
未亜子は、口の回りをぺろりとなめた。
「こだわるのね、八環くん?」
「ああ」
八環は、手をグラスにのばした。彼が注文するのは、いつも冷やの日本酒か焼酎である。
「あの男は人間だったわよ」
ちろりと、未亜子は赤い舌の先端をのぞかせた。
「かすかに妖気の匂いがしたのは、確かだけれど」
「そいつについては、お前さんの感覚を信用するがね」
八環は、コップの中身を半分飲んでから続けた。
「なんとなくな、あいつの目が気になるんだ」
「目?」
未亜子はグラスをカウンターに置いた。赤い液体がねっとりと揺れる。酒ではない。
「でも、八環くん。あの男の目なんて見ていなかったんじゃない?」
「ああ」
八環はうなずいた。
「だから気にかかるんだ」
「それは正解かもしれないな」
「マスター」
カウンターの内側にいた初老の男が、手にした新聞を八環にさしだした。
「マスター、今日はかなたちゃんは?」
初老の男に、大樹が訊ねた。
「大樹が聞きたいのは摩耶《まや》ちゃんがどうしてるかのほうじゃないのかね?」
「まぁすたぁ」
「今日は摩耶ちゃんのところに泊るとか言って出ていったよ」
二人の会話を聞き流しながら、八環は新聞に目を走らせた。
人間が作った新聞だ。しばしば、妖怪たちが記事や広告をまぎれこませることがある。妖怪が出している新聞もあるが、趣味の範疇《はんちゅう》を出るものではない。
「何か出てるんですか?」
「変わったものではないよ。ふつうの記事だがね」
大樹の問いに、マスターが答える。
社会面のトップは最近|巷《ちまた》をにぎわせている大規模な贈収賄《ぞうしゅうわい》事件の話題だった。
その下に、三段ほどの記事がある。
「それだよ」
八環の視線をとらえて、マスターが言った。
「首なし死体?」
若い女性の首のない死体が見つかっていた。
犯人は不明、当然、他殺と思われるが手口はよくわからない。正確には、凶器が不明だとある。あまりにも、斬《き》り口があざやかすぎるのだ。
これで三件目だと書いてあった。それから未遂が二件。例の贈収賄がなければ、トップ記事なのは間違いない。
JR大崎の駅近くの裏路地である。あの酒場の近くといえば近くになる。
死亡推定時刻は、午後十一時。
あれから、一時間ほど後のことだ。
八環は、眉《まゆ》をしかめて考えこんだ。
「考えることはないと思うけれど」
未亜子が言った。
「行くのでしょ?」
決めつけられていた。
「仕事、しばらく暇なんですって?」
未亜子は、じっと八環を見ている。
「……そうだよ。考えてたのは、あのあたり、誰かの縄張りだったかなってことだ」
強がりである。
4 美《み》 緒《お》
東京。
大都会だ。
文明の塊り。そう思われている。夜も明るい。すべてが清潔、すべてが規格通りだと。
そんなことはない。
人が多い。詰めこまれている。隙間《すきま》はない。だから、妖怪《ようかい》は少ないのだろうか?
そんなことはない。
都会にも、暗い隙間はたくさんある。
正体不明のものはたくさんある。
人が多ければ、それだけ多様な想い≠ェある。想い≠ヘ、新たな命を産むのだ。
おそらく世界一多くの妖怪が住んでいる。
この街には。
古くに生まれたものたちも、まぎれこむには都会のほうがいい。
ほんの小さな狭間にも。
妖怪はいる。
家路にもひそんでいる。夜道にもひそんでいる。
こつん。
後ろで足音が聞こえた。
ような気がする。
津田|美緒《みお》は、あわてて振り返った。今まで歩いてきた道が、まっすぐにのびているだけだ。
左右はコンクリートブロックの塀、それから建売りらしいこぎれいな住宅。
人の影はない。野良犬すらいなかった。街灯の光が、妙に白々しく感じられる。
それは、道路のごく一部を照らしているだけだ。
街灯の真後ろに影がある。ポリバケツが、光が届くのを邪魔している空間がある。低いブロック塀の後ろは真っ暗だ。住人はまだ帰っていないのか、家に灯《あか》りはともっていない。
はじめて気がついた。
暗闇《くらやみ》はたくさんあるのだ。
美緒は、ショルダーバッグを、ぎゅっとかかえるように持ち直した。幼い頃からのくせだ。小学校もランドセルではなくて手提げかばんだった。
もっとも、かばんのサイズが、先々月までのそれから、かなり小さくなっていて、どうも頼りない。
彼女は、この三月に高校を卒業して、中堅どころの建築会社に事務として入ったばかりだヶた。母一人子一人。一刻もはやく、母親に楽をさせたかったのだ。担任は、彼女の成績を惜しみ、母も説得した。それほど余裕がないわけでもなかったが、彼女の意志は変わらなかった。
パパ。
声には出さない。口だけ動かしてみる。
どんな人だったのか、覚えていることはほんのわずかだ。
子守歌の声。いつも少し調子がはずれていた。そして、去っていく背中。あの時、美緒は障子のかげから、黙って見送っていたのだった。あれは、美緒が四つの時。
喉《のど》に詰ってしまった言葉は、あの時からずっとそのままだ。
頭をぶるんとひとふりして、美緒は想念を追いだした。あの人は、もう帰ってこないのだ。考えたってしかたがない。
美緒は歩き出した。残業は何度かあったけれど、こんなに遅くなったのははじめてだ。母も心配しているだろう。
しばらく歩くと大きな通りに出る。大きいと言っても、道幅が広いだけで、賑《にぎ》やかではない。しかも、車道の反対側にはうっそうとした森のような庭が広がっている。
会社に通うようになってから通りはじめた道だが、美緒はいまだにこの建物がなんなのか知らない。まるで公園のように広い。個人の屋敷でも、公共施設でもなさそうだが。
なんだか、お化けでも住んでいそうだ。
美緒は思った。
高校までは、よく笑うほうだったと自分でも思う。家でも学校でも、よく笑った。無理をしてでも笑っていた。お化けやオカルトには、あまり興味はなかった。
このごろ、よく、こんなことを考える。笑う回数もへった。決していやな職場ではないが、やはり不慣れなせいもあってストレスがたまっているのだろうか。TVでも、幽霊や超能力の話題を目にすることが多いような気がするから、単に流行の影響かもしれない。
がさがさっ。
突然、頭上の枝が揺れた。思わず飛びあがりそうになる。
なんでもない、自分に言い聞かせる。ほら、車道の向こう側を歩いている人がいるではないか。何かあったら大きな声を出せばいい。
美緒は、枝を見あげた。大きな樹だ。三メートルくらいはありそうな塀の向こうから、こちらにはりだしている。なんの樹だろう。美緒は松やイチョウくらいしか樹の見分けがつかない。
美緒は歩きだした。
角を曲る。
車がすれちがうのがぎりぎり、それくらいの幅の道だ。このあたりはマンションやアパートが多い。
街灯は少ない。
人通りは、もっと少ない。
早く通勤用の自転車を買おう。美緒はそう思った。JR品川の駅から、歩いて十五分は、やはり遠い。高校時代は、歩いて二分のところから都バス通学だったので、たまに駅まで歩くのは新鮮だったけれど、毎日になると……。
こつり。
足音がした。
敏感になることはない。
美緒は自分に言い聞かせた。夜道を歩くのが自分だけなわけはない。
平然とした調子で歩こうとした。
うまくいかない。少しはや足になってしまう。
こつり、こつり。
後ろの足音は、歩調を変えない。
美緒は角を曲った。
お願い、まっすぐ行って。祈るように、そう思った。高校時代は、都バスで三回痴漢を捕まえたこともある。ここは町中だ。どこにだって、駆けこめる。
なのに。
――無性《むしょう》に怖かった。
こつり、こつり。
自意識過剰だ。こんな町中で、なにがおきるというのだろう。
先月なら、そう言えた。
けれど、このあいだから続いている事件。
まさか。自分だけは大丈夫だ。自分が犠牲者になるはずはない。
そうは思いたいが。
いつのまにか、美緒は走り出していた。今日の靴はヒールが低い。スカートがまとわりつくのがわずらわしかった。冬なら、静電気がすごいだろうな、あせっているのに、頭の片隅にはそんな考えが浮かぶ。
こつり、こつり。
後ろの足音は、ペースを変えない。
どうして? 美緒は思った。
わたしは走っている。後ろの足音はさっきと同じ歩調で歩いている。だのに、どうして?
どうして、まるで距離がひきはなせないのだろう[#「まるで距離がひきはなせないのだろう」に傍点]。
こつり、こつり。
きっかり同じ距離をたもって、足音はついてくる。
美緒は、走りながら視線を背後にはしらせた。何かの影が見えるような気もする。人影だろうか。はっきりわからない。
もしかすると、なにもいないのかもしれない。この足音だって、自分自身のそれが反響したものかもしれない。
そうだ、そうに違いない。
確かめよう。ちょっとだ、ちょっとだけ立ち止まればいい。そしてふりむけは、はっきりする。
誰もいないことが。
あるいは、血まみれの大ばさみを握った大男が追いかけてきていることが。
その大男のイメージは、はじめて彼の家を訪ねた時に見たスプラッター映画からの借り物だった。その映画に、飛びだしたはさみに指がちょん斬《き》られるシーンがあったことを思いだす。
もちろん、そんなことがおきるはずはない。たとえ、誰かがいるとしても、たまたま通りかかった近所の住人かなにかのはずなのだ。
立ち止まって、ふりむけば。
影の正体がわかる。
ふりむきさえすれば……。
やっぱりだめだ。
立ち止まれない。
美緒は走った。
遠くに街灯が見える。それを目当てに美緒は駆けた。こんなに走ったのは久しぶりだ。高校生最後の体育祭以来。
街灯の下に、一人の男が立っている。
美緒は、いやな話を思いだした。小学校だか中学校の教科書に乗っていた話だ。怪物から逃げて、ようやく明かりにたどりつくと、そこにいた爺さんが言うのだ。『怪物ってのは、こんな顔だったかい』
しかし、いまさら止まるわけにはいかなかった。
美緒は走ることしかできない。
街灯の下にいた男が動いた。
中年だ。無精髭《ぶしょうひげ》がちらほらのびかけているが、それをのぞけばまっとうに見えた。鼻は尖《とが》ったわし鼻だ。よれよれの、火のついていない煙草をくわえている。
大きな眼球がぐりりと動いて美緒を見た。
鳥だ。美緒は連想した。それも小鳥や家禽《かきん》ではない。猛禽類だ。
ゆらりとした動きで、男が近づいてくる。
すれちがう。
「逃げたまえ」
男が、耳もとで囁《ささや》くように言った。
その意味を聞きただす余裕は、今の美緒にはなかった。
男は、そのまま彼女とすれちがい、彼女と足音のあいだにわりこんだ。
美緒は走った。
そして。
気がつくと、背後の足音は消えていた。
美緒は、かたわらの塀に身をもたせかけると、大きく息をついた。
急に走ったので気分が悪くなってくる。二、三度空えずきして、ようやくおさまった。
額ににじんだ汗を、手の甲でぬぐう。髪の毛もばさばさだ。とりあえず、手ぐしでなでつけた。はやく帰って、きちんとしよう。化粧も、たぶんめちゃくちゃだろう。といっても、ファウンデーションに、軽く口紅程度だが。
髪の毛が、このあいだまでの長さだったら、もっと大変だったろう。先週、短くしたところだ。若い頃の母の写真をみつけて、その時の母の髪型が気にいったのである。古臭いといって、母は笑ったが、周囲の評判は悪くなかった。
美緒は、いったいどこまで走ってきたのかと、あたりを見回した。
見覚えのないマンションが目に飛びこんでくる。見知らぬ光景に、一瞬不安を感じたが、なんのことはない、家の裏手あたりだ。見覚えがないのも道理、確か、ついこのあいだまで工事中だったビルだ。
もう完成したのね。
正月までは、幼い頃から馴れ親しんだ駄菓子屋さんだったのだが。
バブルがはじけようが不景気だろうが、儲《もう》けるところは儲けているってこと。自分の会社のことも考えて、美緒は苦笑した。苦笑いでも、笑うと少し元気が戻った。歩きはじめる。
膝《ひざ》が笑った。運動不足が、少し情けない。ウエストも気になることだし、ジョギングでもはじめようかしら。もちろん、走るのは朝ね。そんなことを考えながら、美緒は歩いた。
ほら、次の角を曲れば、もう家までは遠くない。住み慣れたアパートの二階。
その角の手前に、街灯があった。街灯の横にはポストが立っている。そして、ポストの蔭《かげ》に隠れるように、男が一人立っていた。
さっきの鳥のイメージの男とは、まるで違う男だった。年齢は、若くはないだろうが、はっきりとはわからない。
帽子を目深にかぶり、すりきれたリュックを背負っている。
この男を例えるならば――百足《むかで》か、蠍《さそり》だ。
逃げたほうがいい。そう美緒は思った。さっきの足音よりも、こいつのほうがよほど危険だ。
根拠はないが、確信できる。
しかし、足が動かない。
男の手があがった。細い指がくねくねと動く。手招きするようにそれを動かしながら、男は言った。
「あんた、首酒というものを知ってるかね?」
聞いたことが、あるような気がした。
5 闇からの……
「ひさしぶりだな、こつりこつりの爺さん」
短い髪の娘の足音が遠ざかるのを待って、八環は呼びかけた。
ブロック塀が作りあげた物蔭《ものかげ》に向かって。犬が一匹隠れられるかどうかの大きさしかない。
もちろん、そこには誰もいない。
ように、人間には見える。
「なんじゃ、鴉《からす》の小僧か」
ぐにゅりと影が身を起こした。影そのものが、空中に染み出るように大きくなる。
「なにが久しぶりなもんか、このあいだ会ったじゃねえか」
「ありゃ、爺さん、戦争の前だぜ」
影は人型に凝り固まった。頭の大きな老人のシルエットだが、顔はのっぺりしていて、なんの造作もない。ただ、舌も歯もない口が大きく横に裂けている。
「やっぱり、このあいだじゃあ。まったく、人間の格好なんぞしとるとせっかちになっていかんわい」
「まあ、そう言うなよ、爺さん」
八環は苦笑いしながら、手にしたものをかざしてみせた。
芋焼酎《いもじょうちゅう》である。
「最近は、好みが変わっての」
歯茎だけの口が、ふがふがと開け閉めされる。
「じゃあ、ひっこめようか」
「やめんか、もったいない」
こつりこつりは、地面を滑るように近づいてきた。
まったく、どうして妖怪《ようかい》ってのは、こう酒好きが多いのかね。さもなきゃ、食い意地がはっているか、だ。
自分のヘビースモーカーぶりを棚に上げて、八環は思った。
こつりこつりは、彼がさげていた一升瓶《いっしょうびん》をひったくると、口の真上で逆さまにしてどぼどぼとそそぎこんだ。
「おい、からだぞ」
一瞬だった。
「あいかわらず、早いなあ」
「ふん、昔は人間の一人や二人、この半分くらいの時間でのみこめたもんだがの」
こつりこつりがそう言ったとたん、八環がすさまじい目つきで睨《にら》みつけた。
「そんな目をするな。ここ百年ばかりやっとらんわい」
こつりこつりの一族は数が多い。べとべとさんや送り下駄などという同族がいる。
暗い街角からなら、どこにだって生まれる可能性がある。人間の、暗い夜道への恐怖、みえない背後への恐怖が生みだした妖怪一族なのだ。
ほとんどのものは、背後から足音をたててついてゆき、嚇《おど》かすくらいのもの。まれには、夜道の一人歩きをするものを守ってくれるものもいる。しかし、中には嚇かしたあげく人間を食べてしまうものもいる。かつてのこつりこつりがそうだった。
「百年たって、そろそろまた味を思いだした、なんて言うんじゃなかろうな、爺さん?」
八環の両足が、軽く開かれた。
「ふん、青くさい奴だ。そうぎんぎんと殺気をまきちらすもんじゃないわい。心配するな、百年前の約束じゃ、破りはせんわい」
「まさか、さっきの娘」
まだ八環は警戒心をゆるめない。
「あほう。たまに人間を嚇かさにゃあ、わしゃなにが楽しみでこの世にいるのかわからんわい。……酒、もうないのか?」
そう言うと、こつりこつりは、ごっくんと一升瓶をまるごと呑《の》みこんだ。じゃりじゃりとガラスを砕く音が腹のあたりから聞こえてきた。
「酒の後にはこいつに限るのう。後口がさっぱりするわい」
「また今度持ってくるよ」
八環は言った。
「ありがとよ。ところで、わしになんの用じゃい。まさか、世間話に来たわけでもなかろ?」
「それなんだがな」
八環は、どう切りだそうかと迷った。しかし、迷ったところで、たいした手段があるわけではない。
「このあいだから、この近くで人間の女が何人か死んでるだろう?」
「ああ、そのようじゃな」
「何か知らないか? このあたりは爺さんの縄張りだろ。他の妖怪が最近このへんに来てるとかいうことは?」
「らしいのはいるがの、昔みたいにがちがちと縄張りを争うって時代でもなかろ。わしの邪魔をせなんだらほうっておくわさ」
八環は眉をひそめた。
「爺さん、あんたの縄張りで人間が殺されてるんだぞ」
「こう増えられちゃあ、わし一人では嚇かす手も回らねえ。いいじゃねえか、他のがこのあたりで動いてもよ」
妖怪の中には、人間を単なる餌《えさ》、おもちゃとしか見ていないものも多い。こつりこつりも、みずからは襲わなくなったとは言え、人間の味方になったわけではなかった。
はじめからその存在を規定されて生まれ、長い時間をそのままにすごす妖怪にとって、変わっていくことは容易ではないのかもしれない。
「あんたがよくても、困る妖怪もいるんだ。爺さん、そいつについて教えてもらうぞ」
八環はぎろりとこつりこつりを睨みつけた。そのほとばしる気迫に押されたかのように、影がゆらいだ。
「ええい、そんな目つきで年寄りを見るもんじゃないわい。わかった、わかった。わしが相手をするほどのもんじゃねえ。残ってた妖気からすると、まだ百年と生きとらん若僧じゃろな」
そう、こつりこつりが言った時だった。
悲鳴が聞こえた。
八環は、大きく体をひねって、悲鳴が聞こえてきた方を見た。
『しまった……!』
さっきの娘の顔が、脳裏にひらめく。目の大きな娘だった。
「爺さん、あんた確か、人払いの結界が張れたな?!」
「もうやっとる。嚇かす時に、邪魔されたくはないんでの」
妖怪にはさまざまな妖力、妖術の使い手がいる。たとえば、周囲の人間に対して、なんとなくそちらを見たくない、そちらには行きたくないという気持ちを起こさせることもできる。都会に住む妖怪には役立つ術だ。それを人払いの結界と称している。
しばらくは、よほど強い意志をもった者だけしか近づくことはない。
悲鳴が途切れた。
「くそっ」
八環は一言|呟《つぶや》くと、上着を脱ぎ捨てた。
それを捨てるのも待たずに、背が盛りあがる。シャツが破れた。そして、八環の背から、黒い羽毛におおわれた翼がとびだす。
鴉《からす》の羽だ。それが空気を打った。
飛翔する。
八環の顔がぐにゃりと歪《ゆが》み、かき消えた。かわりにあらわれたのは、鴉の頭部だ。
アスファルトの上に倒れた娘にのしかかる影。八環は、はるか上空からそれを見つけた。
男が妖怪なのかどうか、八環には確認できない。しかし、たとえ人間であれ、妖怪であれ、ほうっておけない状況だった。妖気はともかく、殺意と狂気ははっきりとわかる。
八環は、もっとも速い移動手段をとった。
翼を閉じて落下したのだ。
みるみるうちに、地面が近づいてきた。男の姿が大きくなる。細部の見分けがつきはじめた。
古ぼけたコートは、袖《そで》のボタンが全部とれている。
やはり、あの男だ。背中のリュックをおろそうとしている。細い指が止め紐《ひも》にかかっていた。
「おいっ!」
八環は、頭上から男を怒鳴りつけた。
男はふりかえろうともしない。
娘は完全に気を失っている。このままでは、男のなすがままだろう。
八環は、思念を集中した。空気が流れる。
『くわ〜っ』
鴉|天狗《てんぐ》は、一声鳴いた。
ごうと風が唸《うな》る。風を使うのは、彼が得意とする技だ。ありていに言えば、それだけしか能がない。
風は渦を巻いて、男の体の下にもぐりこんだ。見えない巨人の手のように、男の体を、ふわりと持ちあげる。男だけだ。すぐそばの娘は、髪の毛一筋も動かない。
男は道路の上を転がった。リュックを、かばうようにしっかりと抱きしめている。
その隙《すき》に、八環は地面におりたった。
「けけっ」
男は笑いともなんともつかない叫びをあげて、くるりと起きあがった。まるで逆回しにした映画を見ているかのような奇妙な動きだ。奇怪な軽業《かるわざ》を見せつけるかのように、男は後方へと飛びはねた。そうしながら、リュックを背負いなおす。
「くけけっ」
躍り飛ぶその姿は、まさしく道化師を連想させる。
攻撃するべきか否か、八環は迷った。
その隙を逃さず、男は身を素速くひるがえすと、たたたっと走りだした。
「待てっ」
追おうとした時に、後ろでかすかにうめく声が聞こえた。
娘が気がつきかけているらしい。
まだ、この姿を見られるわけにはいかない。この娘の素性も性格もわからないのだ。
反射的に、八環は人間の姿をとっていた。
こうなると、彼の場合、妖力や妖術は著しく制限される。人間の姿をとったままでも、自在に力をふるえる妖怪も珍しくはないのだが……。
あるいは、やつはそうなのか。
あっというまに、男は視界から消え去っていた。あまりにも早すぎる動きだ。
「パパ……?」
八環の後ろで、起きあがった娘がぽつりと呟いた。
「大丈夫かい?」
ふりむいて、八環は言った。娘は、まだうつろな表情のままで、こくりとうなずいた。
「名前と住所は、きちんと言えるか?」
娘は、またうなずいた。
「名前は津田美緒、住所は東京都品川区……」
目に光が戻ってきて、美緒は怯《おび》えた顔つきで、八環を睨んだ。
八環は、にやりと笑った。
「警戒心が戻ってきたなら、もう大丈夫だな。せっかくのチャンスが、残念だが」
おおげさに肩をすくめてみせる。
一度はかたく結ばれた美緒の口もとが、ふとゆるんだ。
「少しばかり話を聞きたいんだが、いいかな?」
美緒は答えない。
彼女の視線を追った八環は、上半身裸の自分に気がついて、年がいもなく赤面した。
6 古書 稀文堂《きぶんどう》
『古書 稀文堂』
少しかしいだ看板がかかっている。
『ふるいほん 売り買いいたします』
その真下、木枠のガラス戸には、白い文字がそう書かれていた。
吉祥寺《きちじょうじ》の、とある通り。小さな路地を入ったところに、その店はあった。
「いるかい?」
問いかけながら、八環は入っていった。
小さな店だ。しかし、そのぶん、中身は充実していそうである。
左右の壁の本棚と、真ん中をしきる大きな本棚。どちらも隙間《すきま》なく本が詰めこまれている。
本棚にはさまれた通路は、両手を少しのばせは触われる程度の幅しかない。
古書店には珍しく、床に未整理の本が平積みにされているようなこともなかった。
棚に並んでいる本は、すべて、きちんと整理されている。
店主の、本に対する愛着が感じられる店だった。
「いるかい、文《ふみ》ちゃん?」
八環は、もう一度声をかけながら、奥へと進んだ。六歩も行けば、奥の壁に突きあたる。
そこに、いた。
レジの向こうで、コンピューターのディスプレイを睨《にら》みつけている。
「文ちゃん」
「はい?」
三度目の呼びかけで、ようやく彼女は顔をあげた。
化粧っ気のない顔だが、色はぬけるように白い。まるで最高級の和紙のように。そして髪は、最高級の墨で染めたように黒い。着ているものは、白いブラウスに黒のスカート。
ふっくらとした口もとが、どことなく子供めいた印象を与える。眼鏡の奥の瞳《ひとみ》が、しかし、それをおぎなう神秘的な光をたたえていた。
彼女は文車妖妃《ふぐるまようき》。古い本への人々の思いから生まれた妖怪だった。
「あ、八環さん」
文子は――それは、文車妖妃が人間の姿をとっている時に使われる呼び名だった――、ディスプレイに、また視線を落としながら挨拶《あいさつ》した。
「こんにちわ」
消えいりそうな声で挨拶をする。
「はい、こんにちわ」
八環はつとめて軽い調子で言った。
「すまないが、急いでるもんでな。文ちゃんが嫌っているのは承知の上で、あえて直接来させてもらった」
「はい」
文子は、返事をした。
「こういうことについて書いた本を探してるんだ」
八環は、今の状況をかいつまんで文子に説明した。無用な遠慮はしない。
「……手首に三つ並んだ黒子《ほくろ》があったそうだ。顔は忘れてしまったが、それだけははっきり覚えていると」
美緒は言っていた。自分の父は、十四年以上前に家を出た。どうしてそうなったのか、母は何も教えてくれない。自分も、今ではあきらめていたのだ、と。
「そして、あいつの手首にも同じ黒子があった。それだけじゃあ、決め手にはならないが、俺は直感を信じるほうでね」
彼にとっては面白い冗談だったらしく、八環はにやりと笑った。
「はあ」
文子の返事は頼りない。
「まあ、何がどういう関係なのかわからんけどね。やつはただの人間の殺人鬼なのか、それとも……。まあ、妖怪《ようかい》がからんでいるのは間違いないから、とにかく調べようってことなんだが」
八環が言葉を切ってからも、文子はしばらくうつむいたまま考えこんでいた。
「そうですね……」
意味もなくキーボードのスペースバーを叩《たた》きながら、文子は考えこんだ。
「未亜子がなんとか言ってたな。あいつと来たら、人を動かすばっかりで、自分はでんとおさまってるんだからな。まったく、妖怪でも年をとると無精《ぶしょう》になるもんかな」
八環は、早口で言葉を続けた。かすかに照れが感じられた。
「そうそう。最初に遡《さかのぼ》って調べろって言ってたんだけどね」
八環の言葉に、文子は軽くうなずいた。
「そう、それがいいでしょうね。……では、こちらに」
立ちあがって、本棚の前へいく。八環が、数分前に通り過ぎてきた本棚である。文子が歩くと、本棚には端がなくなった。
ずらりと並んだ本棚の前を、三十分も歩いたろうか。
「これ……」
です、は、か細くかき消えている。
文子は一冊の本を抜きだして、八環に手渡した。
質素な装丁の、専門書らしい厚めの本だった。表紙には、こう題名が書かれてある。
『犯罪における異常食|嗜好《しこう》の事例と考察』
八環は、黙って受け取った。文子の選んだ本に間違いがあるはずはないことは、よく知っている。彼女は、ここにおさめられた数百万の書物のすべてを熟知しているのだ。
八環が触れると、本の前半三分の一くらいのページが、勝手に開いた。
無意識のうちに、八環は煙草を取りだしていた。それから百円ライター。かちり、かちり。
何度やっても火がつかない。
顔をあげて見た。ガスがなくなってもいない。
その時になって、文子の視線に気がついた。
ここは、乾いた紙のど真ん中だ。
八環は、あわててライターをしまった。とりあえず、煙草はくわえたままだ。
その章に記された事例を読むのに二十分くらいかかったろうか。
「そういうことか」
そう言った八環に、文子がもの問いたげな視線を向ける。
「特に何かわかったってことじゃない。あの男が話していた首酒の由来が実際にあった事件だったってこと、それがヨーロッパの出来事だったこと、そして首酒を作った男はもう死んでいること、それくらいかな」
八環はもう一度本のページをぱらぱらとめくった。裏表紙には著者の略歴が記されている。そして、著者自筆の序文に記された日付は、略歴に記された没年月日の三年後だった。
八環はばたんと音を立てて、本を閉じた。その瞬間、それは彼の手の中から消え去った。
「読んでもらえて、よかったね」
空中に向かって文子が、小さく呟《つぶや》いた。
「いろいろと参考になったよ。やっぱり、書かれなかった本の品揃《しなぞろ》えなら、文ちゃんの店がいちばんだな」
文子は、顔を赤らめてうつむくと、そそくさと歩みさってしまった。
八環は、ガラス戸をがらりと開けると、外に出た。空は曇っている。本に直射日光はよくないし、湿気も禁物。だから、この路地はいつもうす曇りなのだ。
7 遠い、愛
ノックの音がした。
「はぁい」
反射的に返事をしてしまい、なかば立ちあがりかけてから、津田|綾子《あやこ》は動きを止めた。
アパートの奥を見る。襖《ふすま》の向こうでは、娘の美緒が寝ているはずだ。昨日、見知らぬ男性に送ってきてもらってから、熱を出して寝込んでしまっている。
襲われたことを娘から聞き、警察に届けようとは思ったのだが、美緒が止めた。送ってきてくれた男性も、無駄だろうと言った。気の強い性格だと自他ともに認められている彼女が、不思議と反発する気になれなかった。本能的に、それが正しいと悟っていたのかもしれない。
届けなかった理由はもう一つある。
襲った相手。
いや、相手がほんとうに彼だったのなら、襲ったわけではないのかもしれない。
美緒は、うわごとでも言っていた。そして、目が醒《さ》めて綾子が作った粥《かゆ》をすすっている時にも、はっきりと言った。
パパが……。
だから、今、動きが止まったのだ。
ひょっとして、外にいるのは?
もう一度、ノックの音がした。
まさか、と綾子は思った。いまさら、あの人がたずねてくるはずもない。もう、会社も終わる時刻だ。病欠した美緒を心配して、同僚か友人が訪ねてきてくれたのかもしれない。
綾子は、ドアチェーンをかけたまま、扉を開けた。
そこにいたのは、長い黒髪の美しい女性だった。綾子は、一瞬、外は雨なのかしら、と思った。その女性の髪が、濡《ぬ》れているように見えたからだ。
「九鬼《くき》未亜子と申します」
綾子がたずねる前に、女性は名乗った。
「昨日、美緒さんを助けた八環の友人です。入れていただけますか?」
その問いに、綾子はうなずいていた。初対面の人間を家にあげるのは、昨日に続いて二度目になる。
気がつくと、未亜子は部屋の真ん中にいた。今どき恥ずかしいと、美緒がいつも言っている古いちゃぶ台の前に座っている。きちんと座布団《ざぶとん》も敷いていた。
「あの、ちょっとごめんなさい」
綾子は、台所に立つと、お茶を入れた。
少しでも、彼女と向き合うのを遅らせたい。どういうわけか、そう思ったのだ。
「どうぞ。ちょっと、お茶菓子をきらせていて、すいません」
少し、舌がもつれている。
「おかまいなく」
未亜子と名乗った女性は、静かに湯飲みを手に取った。
何も言わずに、何度かにわけて、それを飲み干した。
「あの……」
沈黙に耐えきれず、綾子は口を開いた。
「話してください」
未亜子が、言った。
「何を、何を話せばいいんでしょうか」
未亜子の静かな瞳《ひとみ》から目をそらそうとしながら、綾子は言った。
しかし、彼女は視線をはずすことができなかった。まるで見入られたように、自然と目が戻ってしまう。
まるで、蛇に睨《にら》まれた蛙《かえる》だ。
「あなたが知っていることを」
未亜子は言った。
「娘さん――美緒さんを助けたいのなら」
「わたしは、その」
未亜子はゆっくりとうなずいた。
「守りたいことはわかるわ」
口調が少し変わっていた。
「私は、あなたのような人をたくさん見てきたの」
どこか、子供をなだめるような口調がまじっている。
「さあ」
未亜子にうながされて、綾子は口を開いた。
……あの人は、とてもいい人でした。夫としても、美緒の父としても、申し分のない人でした。
……恋愛結婚です。最初は、あの人からデートを申しこんできました。はじめはそっけなくOKしてみせたのですが、本当はわたし、有頂点でした。だって、ずっとそう言ってくれるのを待っていたのですから。
……結婚してからちょうど一年で美緒が生まれました。出産前後に半年休んだだけで、わたしは美緒を実家の母に預けて働いていました。いわゆるキャリア・ウーマンのはしりのようなものだったのです。その頃が、いちばん幸せでした。
……かげりがさしたのがいつのことなのか、よくはわかりません。でも、わたしは、いつのまにかあの人に物足りなさを感じるようになっていたのです。あんなに好きだったのに、いえ、今でもほんとは……。
……取引先の部長でした。わたしのほうから誘惑したのです。それを知った時、あの人は出ていきました。さようなら。怒るでもなく、悲しむでもなく淡々とそう言って。わたしたちのことは、すぐに誰もが知るようになりました。相手の男は、口をぬぐって知らぬふりです。わたしは会社をやめ、あらためて保険の外交をはじめました。美緒は四つで、それからずっとよりそって暮らしてきました。
……あの人を探そうと思ったことはあります。でも、できませんでした。一度は探偵社のドアの前に立ったのですけれど。
……うぬぼれるつもりはありませんが、あの人は今でもわたしのことを愛してくれているはずです。あ、いえ、わかりませんね。憎んでいるのが、当たり前ですね。でも、美緒のことは愛しているはずです。
……だからこそ、決して帰ってきてはくれないでしょう。私たちのところには。
綾子は、いつのまに涙で頬《ほお》を濡《ぬ》らしている自分に気がついた。泣いたのは久しぶりだ。そう、十四年前のあの日以来かも知れない。美緒の前で、くじけたようすを見せることはできなかったのだから。
涙は、こりかたまった年月をときほぐしてくれた。
未亜子は黙って聞いていた。
「これを」
彼女は、自分の首にかかっていたペンダントをはずしてさしだした。
「美緒さんにもたせていてください」
綾子は、そっと受け取った。未亜子の手は冷たかった。かすかに湿っていた。けれど、なぜか不快感はなかった。むしろ安心できた。
「これがあれは、守ってあげられます。肌身から離さないように伝えてください」
未亜子は立ちあがった。
「あの」
すがるような目で、綾子は彼女を見た。
「どうして、こんな」
「言ったでしょう。あなたのような人を、いくども見てきたと」
未亜子の血よりも赤い唇《くちびる》に、かすかな笑みが刻まれた。
「娘を守ろうとする母親を、二度と見捨てない。遠い昔に誓ったことなの」
それが、どれほどに遠い昔のことであるのかは、綾子の想像力をはるかに越えていた。
8 ふたたび酒場にて
「文ちゃんからファックスがきとるよ」
稀文堂を出てからしばらく後、あちらこちらで調べものをして、夜もかなり遅くなってから、八環は <うさぎの穴> に戻ってきた。大半の妖怪《ようかい》にとっては、一日がはじまる時刻だ。
「ああ、ありがとう、マスター」
八環は、少し疲れたようすでそれを受け取った。B4判の用紙に十枚ばかりある。
煙草に火をつけて、目を落とした。
最初の一枚に、派手なイラストと丸々した文字が踊っていた。
『やほ〜、八環さん、さっきはどーもどーもでしゅ。ありから新しいしりょーが見つかったんで、送ったげるネ。感謝するよーに。しかし、あ〜たも素直にならんといかんよ。そうしたほうが、きっと幸せだぴょん。うふふ、どーせ、未亜子さんの言うことにはさからえないくせに、つっぱちゃってさ。お主もなかなかういやつじゃのう。やはり、倍も年齢差があるからかい。でも、わたひは、こりから七十分の一の年下とデートなのさっ』
直接、顔をあわせた時の印象とは、あまりにもギャップがある文章。馴れているとはいえ、八環は、わずかに眩暈《めまい》がおきそうな気がした。
気を取り直して、紙をめくる。マスターが気をきかせて、右上をクリップでとめてくれていた。古い裁判の記録や、いくつかの税関の記録のまとめだ。中には、コンピューターから直接プリントアウトしたのだろうものもある。
読み方を心得た者なら、そんな無味乾燥な書類の記述からでも、わかることはいくつかある。
残念ながら、八環には、そんな心得はなかった。だから、文子が添えてくれたものを読んだ。
『ようするにぃ、首酒を作ったおじさんはきっぱり死んでるわけなのね。んでもって、怨念もおんねん、じゃあなくってぇ、怨念は残ってなさそうなのだナ』
くらくらする。
『でも、問題なのは、首とそれを漬けられていたお酒の行方《ゆくえ》がわからないことなのですわヨ。それから、若い部下とかいうのも行方不明になってんの。これはこれは、ということで、不肖わたくしめ、追跡をばいたしたのであります』
その結果が、七枚めと八枚めのファックスだった。
「アメリカ、か」
一九三〇年代、禁酒法停止直後の頃の入国記録である。よく手に入ったものだ。パソコン通信かなにかで、アメリカの妖怪に手を回してもらったのだろう。シリコンバレー生まれの妖怪も、指では数え切れない昨今である。
『その後は、いまだ不明なんだけどね。ど〜にかして日本に渡ってきたとしても、おかしくはないと思うのネン。人間のマニアやら収集家の考えることは理解できないもん』
書物と書物マニアの人間をこよなく愛する妖怪のせりふではない。
しかし、今は、そんな感想をいだいている場合ではなかった。
八環は、考えようとした。
酒、か。
酒というのは飲まれるものだ。体内に。
しかし……。
「ただいま〜っす」
ドアが開いた。入ってきたのほ、たくましい筋肉をもりあがらせた、長身の若者だった。
「おう、流《りゅう》か」
八環は、ファックスの束をかたわらに置いた。
「ずいぶんと時間がかかったじゃないか、おい」
不機嫌さをよそおった、からかい口調だ。
「いやあ、心外だなあ、そんな言われようは。俺は、言われたとおり、一生|懸命《けんめい》話を聞いてきたんですから」
額に巻いたバンダナをぽりぽり掻《か》きながら、流と呼ばれた青年は抗議の真似事をした。ちらりと見えた歯は、真っ白だ。太陽に照らされれば、さぞかし輝くことだろう。
「あの年頃の女の子に対する、お前の手腕は知ってるよ」
だから頼んだのである。
「襲ってきたのは、確かに八環さんが言ったようなやつだったそうですよ」
腰をおろしながら、流は言った。長い脚は、高いスツールに腰掛けてもほとんど地面から離れない。
「で、どうやって逃げてきたのかは、確かめたんだろうな?」
「はいはい、忘れてませんよ、真面目に聞いてきたんだから。新聞だと、人が助けに来たからって具合になってたんですけどね。ほんとは、人がくる前に、お前は違うとか言われたらしいんですよ」
「違う?」
八環の反問に、流はがっしりとした首を上下させた。
「そうです。もう一人のほうは、お前じゃ不足だとか、言われたそうで。まったく、贅沢《ぜいたく》なことを言う奴だ」
流は、少しピントのずれた怒り方をした。
「で、その娘たちの外見だが」
「八環さんの言ったとおり、どっちのコも目がくりっとしてて、顎《あご》のあたりが華奢《きゃしゃ》な感じでしたね」
「なるほど、な」
新聞を遡《さかのぼ》っている時に気がついた。被害者の顔だちが、みな、どこか似ているのだ。
「ただ、違うって言われたコは、眉毛《まゆげ》がたれてて、もの足りないって言われたほうはあごのここに大きな黒子《ほくろ》があったなあ」
「それはどうでもいいんだよ」
八環は煙草を揉《も》み消すと、新しいのをくわえた。
「けど、どっちもそれっきりだって言ってましたよ。その、なんて言いましたっけ?」
「津田美緒」
「その美緒ちゃんだって、大丈夫じゃないんですか?」
「そうだな、しかし」
八環は、百円ライターで、火をつけた。
「あの娘を襲ったときは、俺がおいはらうまで逃げなかったからな」
「はあ」
流が、よくわからないと言いたげな声をあげる。八環は、苦笑いして言葉を続けた。
「ところでな、流よ」
「なんです? 他に何か聞きだしてこいって言われてましたっけ?」
「いや。ただな、お前さんが明日のデートを約束したのは、眉毛の垂れてる娘のほうなんだっけか?」
「いえ、黒子のほう……」
言いかけて、流は口をつぐんだ。
「……ちぇっ、八環さんもうまいなあ」
「キャリアの差さ」
平然と言って、八環は煙を吐いた。
「もっとも、種族のキャリアで言えば、神代の昔から人間の美人を嫁さんにしてきた、お前さんたちにはかなわんがね」
流は、龍族の血を引いている。父が妖怪で、母は人間という、珍しい存在だ。
「それで、八環さんに俺をいじめさせてる張本人はどこに行ったんですか」
流は煙草の煙を追い払いながら、恨みがましい口調で言った。
「お前、それ、未亜子に伝えていいのか」
「あ、すいません」
いきなり流の腰が低くなる。
「あいつは、美緒って娘さんのところに回った後で仕事にいくと言ってた。今夜は有月の旦那《だんな》が見張り役をさせられてるよ」
「そうですか。しかし、八環さんも苦労しますよねえ、年上のひとってのは」
ごん。
八環は、一つ殴って、流を黙らせた。
9 逃 走
かはぁ。
彼は、身をひそめていた。
かはぁ。
どこともしれない、暗闇《くらやみ》に。
かはぁ。
もうすぐ、また彼の時間だ。
かはぁ。
自分の呼吸が、やたらと大きく聞こえる。
かぁはぁ。
視界は真っ赤だ。赤い闇に閉じこめられてしまった。深紅の闇。それが、体内からあふれだして、彼を閉じこめている。
かぁはぁ。
頭の中身にも、真紅の闇が満ちている。少し動けば、赤がこぼれ落ちそうだ。
その赤の中に、一つの顔が浮かんでいる。
大きな瞳《ひとみ》、短めの髪。
かぁぁはぁぁ。
乾いている。
喉《のど》が乾いているのだ。
背中の瓶をとりだす。ごくり。飲み干した。中に浸けられた首から抜け落ちた髪の毛が、喉をくすぐる。
まずい。
一口飲んで、あとは吐きだしてしまった。
やはり、駄目なのだ。
彼女でなければ。彼女の首でなければ、おいしくないのだ。
とぷん。
酒が揺れた。瓶に詰められた真紅の闇。
催促している。自分をもっともっとおいしくしてくれと、言っているのだ。
それが、酒にこめられた情念。それが、酒自身の意志。
彼女だ。
真紅の心の中に、明滅する顔。
彼女なのだ。
妻。
私を裏切った、妻。
彼女でなくては、うまくはならないのだ。
止める母をどうにかなだめて、美緒は出勤した。熱もすっかりひいていたし、寝ていても、かえって色々と考えこんでしまうだけだ。美緒たちの部署は、とびこんできた変則的な仕事で忙しい時期だった。新人とはいえ、彼女は貴重な戦力だ。二日も三日も続けて休むわけにはいかない。
美緒は、母がどうしてもと言ったペンダントだけは持っていた。つけるのはためらわれたので、バッグにいれてある。
ちなみに、今日はパンツスーツだ。
出かける時に、道端でごろ寝している浮浪者をみかけた。あの男ではない。目のぎょろりとした小男で、酒の匂《にお》いをぷんぷんさせていた。その目が、じっと自分を追いかけているようで、気味が悪かった。
夢中で仕事をしているあいだは、何も考えずにすんだ。
しかし、二十四時間仕事をし続けるわけにはいかない。
何ごとにも区切りはやってくる。
係長は早退してもいいと言ってくれたが、忙しそうな先輩たちをさしおいて、先に帰るわけにもいかない。
結局、おとといと同じくらいの時刻になってしまった。
多少遠回りになっても、人通りの多い道を通って帰ろう。そう思ったが、この時間帯になれば、どこも人通りは変わらない。
少ないのだ。
母に迎えに来てもらおうかと思ったが、やめた。美緒が駅から家へと帰るのが危ないのなら、母が家から駅へとやってくるのも危険なはずだ。ともかく、美緒は歩きはじめた。黙って立っていても、家にたどりつけはしないのだから。近くの住人でも歩いていないかと、道々注意してみたのだが、誰も見つからなかった。あの浮浪者がいなくなっているといいけど。
駅から離れると、人通りはますます少なくなってくる。
がさり。
何かが後ろで動いたような気がして、美緒は振り返った。たった今、通り過ぎたコンビニエンスストアの明かりが、煌々と白い。
あそこから出てきた、あの男の人は……?
もう初夏なのに、あのコートはどうして……。
その人物は、美緒が来た方角に、彼女とは正反対の方向に歩み去った。彼が、二十メートルほど向こうのアパートの内に消えてからも、しばらく美緒は立ちつくしたままだった。
ふわり。
美緒は、飛びあがった。
何かが、ふくらはぎに触れたのだ。
「にゃあ」
野良猫だった。かがみこんで撫《な》でてやっているうちに、また歩きはじめる気力がわいてくる。
「ごめんね、うち、飼ってあげられないのよ」
猫は、一声鳴くとアパートのほうに駆けていった。
美緒は、バッグを胸にかかえて歩きだした。
相変わらず、通行人は少ないが、大きな通りを行っているうちはまだよかった。歩道に他人がいなくとも、車道には自動車が絶えることなく往き来していたからだ。
だが、もうしばらく行けば、路地に入らなくてはならない。百メートルほど行けば、また大きな道に出るのだけれど。
道路の向こうに、赤いランプのともった建物があった。交番だ。
駆けこんで助けてもらおうか。
一瞬、そんな考えが浮かんだ。
しかし、すぐに美緒はそれを忘れることにした。
夜遅いのが不安だ、というだけで、家まで送ってもらえるとは思えなかったからだ。だからと言って、すべてを話すこともできそうになかった。襲われたことを話せば、送るどころか、所轄署にでも連れて行かれて、根ほり葉ほり訊《たず》ねられるだろう。
あれが、あの男が本当に……だったら。
空白にあてはまる単語を、美緒は思い浮かべることができない。無我夢中だった昨日やあの時はともかく、今は、今だからこそ色々な感情がふきあがってきて整理できないのだ。
とにかく、その正体を確かめなければ、警察に告げることはできそうになかった。
あれが、……なら、例の連続殺人とは関係ないはずだ。
と、思う。
考えているうちに、無意識に角を曲っていた。
気がつくと、すでになかばまで来ている。横の家からは、子供らしい楽しそうな笑い声がもれていた。
『案ずるより産むがやすしって、こういうのを言うのよね』
美緒は、ほっと息をついた。
途中にマンションが一軒ある。
半地下のスナックからは、カラオケの音が聞こえていた。中途半端に古くて、聞くのが恥《は》ずかしいような曲が流れてきた。
「どんなときも、か」
その一節を、美緒は呟《つぶや》いた。
すぐに大きな通りに出る。車が往き来しているのが、もう見えていた。あの角を左に曲った後は、家まで五分とかからない。
もう少しだ。
駅から電話をいれたけれど、母は心配しながら待っているだろう。話したいことがあると言っていたのは、父と別れた理由のことだろうか。中学生の頃、それで大喧嘩《おおげんか》したっけ。
その時のことを思いだして、美緒の口もとに、ほのかな笑みが浮かんだ。
若かったなあ、なんてね。今でも、若いけど。
「あんた」
声が聞こえた。
「首酒って知っているかね?」
昨日、悪夢の中で、何度も聞いた声だった。
たぶん、一生忘れない。
「ひ……」
「知っているんだねぇ」
「…………」
「飲ませてくれないかぁ」
はいと言ってはいけない、そうすれば、首をとられて浸けられてしまう。小学生の頃に、近所のお姉さんに嚇《おど》かされたんだ……! 古い記憶をはっきりと思いだした。
「あ……あ……」
悲鳴をあげようとしたのに、かすれた声しか出なかった。
たたたっ。
いざとなったら、そこらのうちに飛びこめばいい。そう考えていたのに、まっすぐ走りだしてしまった。男の声を聞いたとたんに、喉《のど》がひきつってしまったからだ。左右に逃げたら、そのあいだにまわりこまれるような気がしたからだ。
美緒は、振り返ろうともせずに、まっすぐに逃げた。
大きな通りにとびだした。
車がこないだろうか。助けを求めたい。
車ならいる。五十メートル向こう。信号が赤く変わった。止まってしまった。
かっかっかっか。
地面を蹴る音が近づいてくる。
とぷん。
なんの音だろう。
ちらりと考えながら、美緒は車道に飛びだした。走る。
低い柵《さく》を乗り越えて、公園に入った。青々とした芝生を踏みつけて、走る。
後ろで急ブレーキの音がした。美緒のせいではない。あいつが追ってきているからだ。
「馬鹿やろう! 死にたいのか」
ステロタイプな怒鳴り声。
お願い、そのままおりてきて。あいつを引き止めて。
だが、美緒の願いはドライバーに届かなかった。
車は、エンジン音を残して走り去ってしまう。
美緒はとにかく逃げようとした。芝生を出る。ベンチを避けて、また走る。
足音はしなくなった。でも、それは、地面が、柔らかい土に変わったからだ。
まだ、あの音は聞こえる。
とぷん。
美緒はまっすぐに走った。どこへ逃げればいいのか、まるで思いつかない。
あの公衆トイレに隠れようか。
無駄だろう。
あっちのベンチには、いつもカップルがいるという噂《うわさ》だった。
でも、今日に限って誰もいない。
美緒は、また芝生に踏みこんだ。土がえぐられ、青い芝がまきちらされる。
とぷん。
背後で、また音がした。そうだ。あれは水が揺れる音だ。
いいや、違う。
酒が揺れる音なのだ。たぶん、その酒の中には。
つまずいた!
何かにひっかかったのだ。美緒は、転びながら足元を見た。
『芝生に入らないでください』
立て札だった。
倒れた。かかえこんでいたバッグが、腕の中からとびだした。中に入っていたものが、公園の土の上に散乱する。
ちゃりん。軽い音をたてて、ペンダントが転がった。
「あんた」
うつぶせに倒れている美緒の頭上から、声がふってきた。
「首酒って知っているかい?」
ああ。
この声だ。まるきり変わってしまっているけれど、でも確かにこの声だ。幼い頃に、毎日、子守歌を歌ってくれた、あの声に間違いはない。
どぼん。
大きく、酒が揺れる音がした。
「お待ちなさい」
凛《りん》とした声が、公園に響き渡った。
10 癒《いや》しの叫び
未亜子は、足もとのペンダントを拾いあげた。
「追跡用にこれを渡していたからといっても、少し離れすぎたわね」
ぽつりと呟《つぶや》いた。
「その娘さんは、あなたの求めている女性ではないわ」
少し離れた場所で、倒れた美緒をまたぐように立っている男に、未亜子は呼びかけた。
「うるさい。わたしは喉《のど》が乾いているんだ」
男は答えた。
ぎりりと首をひねって、未亜子を見る。今まで、影に沈んでいた男の顔に、遠い水銀灯の光が、わずかに届くようになった。
その顔は、歪《ゆが》んでいる。激しい感情に。
「飲みたいんだ」
乾いていた、そして飢えていた。見ればわかった。
「その子で首酒を作って、満足できるのかしら?」
未亜子は、決して声をあららげることがない。
「娘さんでいいの? 奥さんではなくて?」
美緒は、顔を伏せたまま動かない。
風が、男のコートの裾《すそ》をはためかせる。
「こいつだ」
一拍おいて、男は絶叫した。
「こいつに間違いない。綾子だ、綾子で酒を作れば世界一うまくなるんだ」
「そりゃあ、どうかな」
男の、リュックを背負った背中から、その声はした。
轟《ごう》っ。
風が吹いて、男は吹き飛ばされた。
八環が、来ていたのだ。
「けけっ」
しかし、男も前回のようには吹き飛ばされなかった。
片手を地面について、まるで逆立ちのような姿勢をとって、そして立ち直ったのだ。
八環は、すでに鴉天狗《からすてんぐ》の姿に戻っていた。
瞬間、飛翔して、美緒と男のあいだに割りこむ。
「くわーっ」
「けけっ」
双方の叫びが、交錯した。
そのあいだに、未亜子は、美緒を助け起こしていた。肩に手をかけて、上半身を起こし、未亜子は彼女の顔をのぞきこんだ。
美緒の瞳《ひとみ》は焦点を結んでいなかった。
ぱん。平手打ち。
「しっかりしなさい」
静かな声は、叱《しか》りつけるというよりは、たしなめるように聞こえた。切れ長の瞳が、力をそそぎこもうとでもするかのように、美緒をのぞきこんだ。未亜子は、そんな妖術《ようじゅつ》は知らないが。
「あ」
美緒は正気をとりもどし、そして怯《おび》えた。
わたしはどうしたのだろう、この女の人は誰だろう、そして、あの怪物はいったい何!?
彼女たちのすぐ近くで、八環と男が戦っていた。
男は、まるで獣のように八環にむしゃぶりついている。戦いのすべなど、何も知らぬものの動きだった。
「そこをどけっ!」
喚《わめ》きちらしている。
「邪魔をするな。綾子は、俺のものだっ。俺の女房だっ」
吠《ほ》えている。
美緒は目をそむけようとした。逃げようとした。
あの男は、母の名を呼んだ。自分に向かって、若い頃の母親にそっくりだと言われる自分をさして、妻と。
つまり、あの男は。
そんなはずはない。あの人は、優しかった。あんな怪物であるはずはない。
違う、違う。
「駄目よ」
未亜子は、それをさせなかった。美緒に、目の前の現実を否定させなかった。
「ここで逃げれば、あなたもお母さんと同じ。ずっと逃げ続けてしまう。お父さんと同じ。自分から、自分を覆い隠してしまう」
未亜子の言葉から、血しぶきをあげる二人の戦いから、美緒は、かたくなに顔をそらそうとしている。
いやだ、聞きたくない。あなたは誰? なんの資格があって、そんなことを言うの。
「あなたはお母さんを助けたくて、大学をあきらめて就職したのだと、隣の小母さんから聞いたわ」
未亜子は、言った。
「あなたにはなんの責任もないわ。あなたがつらい思いをしなければいけない理由は、なにもないわ」
未亜子の声は静かだ。だが、美緒の心には戦いの絶叫よりも大きく響いた。強く、響いた。
「でも、たった一つあるとすれば、あなたがお父さんとお母さんを大事に想っていること」
美緒は地面についた手を、ぎゅっと握りしめた。土が、爪《つめ》のあいだにくいこむ。
「あなたの両親は、戦おうとしなかった。努力を放棄した。でも、まだ遅くない。やり直せる」
未亜子は、美緒にかけていた手を離し、そっと立ちあがった。彼女自身に決断させるために。
「二人の心を救いたいのなら、まず、ここであなたがはじめさせなければいけないわ」
十四年前。
あの時、美緒は言いたかった。
出ていかないでと、言いたかった。
今まで、ずっと言いたかった。お父さん、帰ってきて、お母さんはほんとうはお父さんのことが好きなのよ。お母さん、意地をはらないで。お父さんは、お母さんのことが好きなのよ。
わたしは知っている。
だって、二人の娘なのだから。
「お父さんっ!」
美緒は呼びかけた。
男の動きが、わずかな時間、止まった。
「美緒……?」
一瞬、その表情が、ただの人間のそれに、戻った。
しかし、それは美緒の心臓が一回鼓動するだけの時間でしかなかった。
男は、ふたたび狂乱に呑《の》みこまれ、八環に体当りをくらわせた。男がわずかながら正気をとりもどした瞬。鴉天狗は油断した。そのために、転倒させられたのだ。
男は、父は、美緒にとびかかろうとした。
刹那。
数十、数百の黒い奔流が、その肉体にからみついた。
未亜子の髪の毛だ。それは、瞬時に数メートルも伸びて、男の動きを封じたのだ。
「津田さん。津田孝三さん。ここにいるのは綾子さんではないわ。あなたの娘、美緒さんなのよ。思い出しなさい。あれから、時は流れてしまったの」
「お父さん、帰ってきて。お母さんが、ずっと待ってるの。あたし、知ってるよ。お母さん、失踪《しっそう》宣告もしてない。ずっと、ずっと、お父さんの背広をとってあるんだから。年に一度は虫干しだってちゃんとしてるの」
「あ……」
もがく男の動きが止まった。その瞳が、くわっと見開かれる。全身の筋肉が、キンっと張り詰めた。二つの意志が拮抗《きっこう》しているのだ。
「お父さんっ!」
美緒の叫びが、男をふたたび凍りつかせるその刹那、飛翔した八環の拳が、男のみぞおちにめりこむ。
男の体が崩れ落ちるのを支えて、八環は、津田孝三の名を取り戻した男が背負っていたリュックをはぎとり、ほうりだした。
そして、地面に寝かせる。男の口もとから、ごぼごぼという音を立てながら、赤い液体が流れ出した。芝生の上に、真紅の闇《やみ》が広がっていく。
駆けよろうとする美緒を、未亜子が押さえた。
「安心しなさい、血ではないわ」
未亜子は、美緒の耳もとで囁《ささや》いた。
美緒は信じた。
流れ出た液体は、するすると地面を這《は》っている。血が、そんな風に動くはずはないからだ。
「出てきたな。本体は、これからだ。油断するな」
八環が、未亜子に呼びかける。
「わかっているわ」
未亜子は、美緒を孝三のほうにと押しやった。そして、二人とリュックのあいだに割りこむ位置に体を移動させる。
ごろん。
いつのまにか、リュックの留《と》め紐《ひも》の結び目が解けていた。誰も触れないのに、中身が勝手に転がり出てくる。
中から転がりでてきたものは、大きな酒瓶だった。ヨーロッパによくある、おおぶりのワインボトルだ。透明なガラスでできている。
そして、中に入っているのは。
深紅の酒と。
女の生首。
しかし、生首はみるみるうちにかすれて、そして消えた。本体は、酒のほうだったらしい。
「かぁーっ」
八環が叫ぶ。
それに呼応するかのように、孝三の口から流れだした液体が、瓶におどりかかった。瓶が一瞬にして細片に砕ける。
真紅の液体が奔騰した。はじけて膨れあがる。それは、あたりを小さな池に変えた。赤い波頭が、二人の妖怪に襲いかかってくる。
あわてて避ける。
そいつが通り過ぎた場所にあった鉄柱が、ベンチの端が、きれいに切り取られている。
この酒が、女たちの首を喰らったのだ。
巨大なアメーバのように、小規模の竜巻のように変化して、未亜子と八環に襲いかかる。意志を植えこんだ相手の知恵を借りるらしく、彼を失うとたいした知能はないようだ。
知能はなくとも、戦いのすべは知っている。怖い相手だった。
だが、八環も、首酒の数倍の年月を生きてきた妖怪だ。さまざまな戦いをくぐりぬけてきた。
無音の気合いとともに、八環が手刀で宙を斬《き》った。空気が斬り裂かれる。
妖術で創《つく》りだされた真空の刃《やいば》が、首酒を断ち切った。
しかし、酒は一瞬、二つに分離し、すぐに融合してしまう。液体を折っても突いても、無駄なこと。八環の得意は風の妖術。炎や稲妻《いなずま》を呼ぶことはできない。あやつれる妖怪は、すぐ呼べるほど近くにはいない。
だから、八環は、赤い怒涛《どとう》を宙に飛びあがって避けた。とりあえず、他の手段は思いつかなかった。しかし、彼には秘めた作戦があった。
『爺さん、まだか?』
首酒は、噴水のようにみずから噴きあがった。花のように先端が開く。噴水と異なっているのは、それがふたたび下に落ちずに、くわっと開いて包みこむように上に伸びたこと。
八環は、あわててさらに高くのぼった。かろうじて、赤い液体の顎《あご》から逃れる。
八環を追いやっておいて、首酒は、狙《ねら》いを変えた。もう一度、あやつり人形を手に入れる。
美緒は、父の体をひきずって逃れようとした。その美緒をかばって、未亜子が赤い液体の前に立ちはだかった。
ふたたび、未亜子の髪の毛がのびる。象をも縛る女の髪だ。彼女はそれを自在に使う。先刻のように縛ることもできれば、斬りきざむこともできるのだ。
しかし。
「やっぱり、無理ね」
彼女のわざも、液体を縛ることはできないのだ。
首酒の表面が波打った。未亜子をみずからのうちに浸けこむことができれば、いかほどおのれは美味《うま》くなるのか。それを想って、震えたのだろうか。
「きたか爺さんっ!」
空中で、八環が叫んだ。
「あら、こんなところに」
未亜子は、探していたコンタクトレンズが足もとに落ちていた時のような声をあげた。
未亜子の足もとから、影が水銀灯の方に向かって[#「水銀灯の方に向かって」に傍点]伸びている。
八環は、影に向かって呼びかけた。
「約束の酒だ! 好きなだけ飲みなっ!」
「おおう。ほんとにうまいんだろなぁ」
ぐいと、未亜子の眼前で、大地に落ちた影がもりあがった。
老人のシルエット。その大きな頭部にあたる場所に、ぱっくりと、赤い口が開く。歯もない舌もない口だ。無限の空洞。
時を同じくして、真紅の滝が、未亜子めがけてなだれ落ちる。
だが、未亜子に襲いかかったはずの首酒は、すべて、その赤い空洞の中に吸いこまれていった。ごうと渦巻いた不思議な風が、もがく首酒を捕らえて逃がさない。それは、こつりこつりの吸気であった。
ごくり、ごくり、ごくり。
黒い喉が、何度も大きく膨れあがる。
「ぐえぇぇっぷ」
あっという間に飲み干して、こつりこつりは大きなげっぷをした。
「百年も生きとらん妖怪にしては、まあまあの味じゃったな」
「助かったよ、爺さん」
八環は、ふわりと地面に舞いおりた。
「ま、こういう頼みならいつでも歓迎じゃて」
一言そう言うと、こつりこつりは、また影にもぐった。行ってしまったらしい。
八環と未亜子は、ふりむいた。
放心した表情で、美緒が座りこんでいる。父親の頭が、膝《ひざ》の上に乗っていた。
「あの……」
視線に気づいて、美緒が顔をあげた。ためらいがちに口を開こうとする。未亜子に聞きたいことが、たくさんあるのだろう。
その時。
孝三が身じろぎをした。はっとして、美緒は視線を落とす。
「綾子……」
呟いた彼は、すぐに目に焦点を取り戻して言った。
「いや、美緒か? 大きくなったなあ」
その表情は、まだ夢の中のそれだ。しかし、完璧《かんぺき》に目覚める時も遠くはない。
「父さん……」
父と子は、見つめあった。
「母さんが待ってるわ」
父の顔は、一瞬、苦汁に満ちたものに変わった。しかし、逃げだそうとはしなかった。
「行きましょう」
未亜子が、八環に囁《ささや》いた。
「あとはあの親子の問題よ、どんな結論をだそうが、ね」
それには時間がかかるはずだ。おさまるべきところにおさまって、未亜子と八環のことを追及しようとするのほ、まだ先のことだろう。
妖怪たちは、そっとその場を離れた。
「ねえ」
握りしめたままだったペンダントを、そっとポケットにすべりこませながら、未亜子は八環に向かって言った。
「八環くん。今回は、ずいぶん熱心だったわね」
八環は、そっぽを向いていたが、やがてぽつりとこう言った。
「……あいつははじめ、お前をひっかけようとしたんだぜ」
いたずらを見つけられた子供のような表情。
未亜子は、微笑《ほほえ》むと、ぺろりと八環の頬《ほお》をなめてやった。
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[#ここから5字下げ]
Take-2――――――――
動物にはいろいろな超感覚があると言われています。それに比べて、僕たち人間は何と鈍感なことでしょう。
そもそも、鈍感だからこそ「文明」などというものを発明できたのかもしれません。テレパシーで自由に意志を伝え合うことができたなら、言葉なんて発明する必要はなかったのですから。
そればかりではありません。人間の心には闇の部分があります。決して他人に知られてはならない醜い欲望や身勝手な考え、憎悪や嫌悪感、凶暴な衝動が渦巻いています。
それをなくすことはできません。それらは人間が人間であるための本質的な部分なのですから。
もちろん、僕の中にもそういう部分があります。それをお話しするわけにはいきません。それを知ったら、あなたは僕を嫌いになるでしょう。同じように、あなたの心の奥が誰かに覗かれたら、あなたはその人に嫌われてしまうでしょう。
もし、すべての人間にテレパシーがあったら、人間はお互いに嫌悪感をぶつけ合い、避け合ったでしょう。こんな風に街を作って集団で生活をするなんて、思いつくこともできなかったに違いありません。もちろん、政府や企業なんてものも存在できなかったでしょう。
逆説のようですが、人間はお互いの心が分からないからこそ、お互いを信頼できるのではないでしょうか。
もちろん中には、その信頼を逆手に取り、他人を騙して甘い汁を吸う人間もいます。インチキ商法、インチキ宗教、インチキ政治家……。
でも、ご用心。そうやって他人の心をもてあそぶ人には、こんな落とし穴が待ち受けているかもしれないのです。
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第二話  大都会の陥穽《かんせい》  高井 信
プロローグ
1.悪夢の始まり
2.謎の青年
3. <うさぎの穴>
4.もうひとつの事件
5.サトリVSうらはら[#「うらはら」に傍点]
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プロローグ
大東京の副都心・新宿。
さまざまな出身地、年齢、職業の人々が渾然一体となった街。
<彼> もまた、そんな新宿の住民であった。
いや、単純に「住民」と言ってよいのか、それははなはだ疑問である。
<彼> には戸籍というものがないし、家族もいない。さらに言えば、 <彼> がいつ生まれたのか。いつから新宿に住みついているのか。また、何ゆえに新宿を好むのか。――それすら定かではないのだ。
たとえ本人に問いを発したところで、満足のいく解答が返ってくることは期待できないだろう。 <彼> 自身、みずからの心理状態が把握できていないのだ。
ただひとつわかっていることは、自分には、常に新鮮な <遊び相手> が必要だということ。もちろん、単なる退屈しのぎのための <遊び相手> ではない。
<遊び相手> を見つけること。そして、その <遊び相手> とともに心ゆくまで楽しむこと。――それは、 <彼> 自身の存在意義を確かなものとし、これから先も生き抜いていくための必要条件なのであった。
そして……。
今日もまた <彼> は、新宿をふらふらと徘徊《はいかい》していた。
雑踏のなかに身を置き、新しい <遊び相手> を捜す。
ここのところ、 <彼> は退屈しきっていた。
運悪く、いい <遊び相手> に恵まれない毎日が続いているのである。
セールスマンと遊ぶのは、もう飽きた。詐欺師《さぎし》の連中だって、大して楽しませてはくれない。――もっと面白い <遊び相手> はいないものか。
夕方になり、 <彼> は最も人の行き来が激しいJRの改札口に移動した。
目の前を巨大な人の波が通り過ぎていく。
と、突然!
(おおっ)
<彼> は心のなかで声を上げた。雑踏のなかに、強烈な波長を感じ取ったのだ。
(ど、どこにいる?)
と目を凝らす。その波長の主は、すぐに見つかった。
人の波のなかから頭ひとつ抜き出た長身。いかにも今風の、爽《さわ》やかな感じの若者であった。まるで <彼> を楽しませるために生まれてきたようなムードを、全身から発散している。
(この男だ!)
<彼> の直感が告げた。
試しに頭のなかを覗《のぞ》いてみたところ、やはり直感に狂いはなかった。この若者と遊んでいれば、しばらくは退屈せずに済みそうである。
(ついに見つけたぜ)
内心ほくそ笑んだ <彼> は、躊躇《ちゅうちょ》なくその若者を新しい <遊び相手> に決めた。
若者が向かっている場所を調べ[#「調べ」に傍点]、先回りすることにする。
紀伊国屋書店裏のショットバー <グリフォン> 。 <彼> も何度か足を運んだことのある店だ。
早速 <グリフォン> に出向いた <彼> は、 <遊び相手> の若者が姿を現わすのを、わくわくして待った……。
1 悪夢の始まり
新宿。午後七時。
JR新宿駅の改札口は、膨大な数の人々が足早に歩を進めていた。家路を急ぐサラリーマンに加えて、これから繁華街に繰り出そうかという若者たち。どこを見ても、人、人、人……人の波である。
その人波のなかに、一際目立つ若者の姿があった。百八十センチを遥かに越える長身。今風の甘いマスクをしている。ポロシャツにジーンズのラフなスタイルがよく似合っていた。
近くにいたOL風の女性グループが彼の姿に目をとめ、
「あら?」
というように、立ち止まった。こそこそと耳打ちし合う。別に、知り合いというわけではない。それほど彼の存在は、特に若い女性の目を惹《ひ》くのだった。
彼の名は牧原正彦。二十二歳。青山学院大学――通称・青学に籍を置く学生である。
正彦は駅ビル・マイシティの地下を抜け、地上に出た。新宿通りを東に進み、紀伊国屋書店の手前で左手の路地に折れる。
彼が今向かっているのは、 <グリフォン> という名のショットバーだった。
紀伊国屋書店の裏通りにある雑居ビルに足を踏み入れた彼は、エレベーターに乗り、六階で降りた。
細い通路の奥には、鷲《わし》の頭と翼を持つライオン――魔獣グリフォンの姿が描かれた看板が掛かっていた。その上に小さく「GRIFFON」と英語のロゴが書かれている。そう、ここが目的のショットバー <グリフォン> なのである。
正彦は、ぶ厚い樫《かし》の木の扉を開け、店内に歩を進めた。
<グリフォン> は鰻《うなぎ》の寝床のように細長い店だ。カウンターだけの小さな店で、十人も客がはいれば、もう満席になってしまう。
カウンターの中央に若い女性が坐っていて、店の一番奥には中年の男性の姿が見える。――今日の客はふたりだけのようだった。
「よ。来てたか」
正彦が手を挙げると、
「あら、正彦くん」
女性客は長い髪を掻《か》き上げながら正彦の方へ振り返った。にこっと笑みを浮かべる。
彼女の名は榊原《さかきばら》由美《ゆみ》。二十三歳。正彦のガールフレンドのひとりだった。
ワンレン、ボディコン。近ごろでは珍しくなったイケイケギャルを絵に描いたような女性である。
「待ったかい?」
にっこりと笑みを浮かべて問う正彦に、
「ううん。今来たとこ」
由美は小さく頭を振った。
正彦が隣のストゥールに腰を降ろすと、由美はすぐに彼の腕に手を回し、肩にしなだれかかってきた。
「何にします?」
バーテンが無愛想な声で言う。
「バーボン。ストレートで」
正彦は言葉少なに答えた。最近の若者の例に漏《も》れず、彼もバーボン党なのだ。
無言で頷《うなず》いたバーテンは、慣れた手つきで背後の棚からグラスを取り、バーボンのボトルを傾けた。正彦の前にグラスを押しやる。さらにミネラルのグラスも用意し始めたが、
「いや、いらない」
という正彦の言葉で手を止めた。そのまま無表情に一メートルほど奥に移動し、そこで待機する。
「久しぶりね。元気だった?」
問いかける由美に、
「まあね」
正彦は右手でグラスをもてあそびながら答えた。左手でサラサラした前髪を掻き上げる。憎らしいほど絵になる仕草だった。
「どうして誘ってくれなかったの?」
不満げに口を尖《とが》らせる由美。
「ま、試験だったし、忙しかったからね」
正彦は答えた。まるで「試験だった」から「忙しかった」というように聞こえるが、内実はそうではない。
「試験だった」ことは確かだし、「忙しかった」ことも事実である。しかし、来春に卒業を控えた正彦はほとんどの単位を取得済みで、ここのところ大学に顔すら出していなかった。彼にとって、試験期間イコール休講と言ってもいい。すなわち、「試験だった」から「忙しかった」のではないのだ。
それでは、なぜ彼女を誘わなかったのか? 答えは簡単――ほかのガールフレンドとのデートで「忙しかった」からである。
はっきり言って、正彦はモテる。嫌になるくらいモテる。人間としては決して魅力的とは言えないが、とにかく、その人並外れた見てくれ[#「見てくれ」に傍点]だけでモテるのだ。
ガールフレンドの数は両手両足の指の数を足しても間に合わないし、そのうちのほとんどの女性とは肉体関係にある。どんなにうまくローテーションを組んでも(仮に毎日二件のデートをこなしたとしても)次に順番が回ってくるのは二週間後なのだ。
由美も、正彦が複数の女性と深い関係にあることは薄々感づいていた(まさかそんなに多いとは思っていないだろうが)。彼の言う「試験で忙しい、云々《うんぬん》」にしたって、鵜呑《うの》みにしているわけではない。しかし彼女は、それはそれで仕方がないと思っていた。正彦はカッコいいし、少なくともデートをしている間は、彼女を充分に満足(精神的にも、肉体的にも)させてくれるのだから……。
「どうして誘ってくれなかったの?」
「ま、試験だったし、忙しかったからね」
この遣《や》り取りはふたりにとって、言わば挨拶《あいさつ》みたいなもの。正彦がどう答えようが、深い意味は持たないのだ。
ここで別の話題に移るのが、いつものパターンだった。何も起こらなければ、今日もそうなっただろう。
ところが、予想もしない場所から、とんでもない言葉が発せられたのは、正彦がいいかげんな言いわけをした、その次の瞬間だった。
「お兄さん。こんな可愛いお嬢さんに、嘘《うそ》をついちゃいけないな」
冷静で、それでいて皮肉に満ち溢《あふ》れた声。
「な、なんだと!?」
思わず正彦はグラスを置いた。鋭い視線を声の聞こえてきた方向――店の一番奥の席で飲んでいる男の方に向ける。
男はにたにたと笑みを浮かべ、正彦の顔をしっかりと見据えていた。よれよれのスーツを着た、どこにでもいそうな冴えない中年男。初めて目にする顔だが、今の言葉を発したのがこの男であることは、明らかだった。
「あんた。変なことを言わないで欲しいな」
正彦が怒りを露《あら》わにして言うと、
「変なこと?」
男はさも意外そうな声を出し、
「そいつは違ってるんじゃないか」
と嘲《あざ》けるような口調で言った。
「違ってる?」
正彦が問い返すと、
「そうとも。お兄さん、ほかの女とのデートで忙しかったんだろ。だったら正直にそう言いなよ」
シラッと言う。
これにはさすがの正彦も呆気《あっけ》に取られた。
実際、確かに、
「どうして誘ってくれなかったの?」
と由美に問われたとき、正彦は、
(ほかの女とデートするのに忙しかったからな)
と思っていたのだ。
友人に指摘されたというのであれば、わからないではない。だが、この男とは初対面で、正彦の私生活など知るわけがないのだ。にもかかわらず、どうして……?
そんなことを考えていると、また男が口を開かた。
「ほほお。どうして自分の私生活を私が知っていなのか、不思議に思っているな」
「うぐっ」
正彦は絶句した。それでも必死に心を落ち着け、
(落ち着くんだ。どうせ当てずっぽうに決まっている)
と心に念じる。
ところが、またもや男は言った。
「いや、当てずっぽうなんかじゃないよ」
これまた図星だ。まるで自分の心が読まれているよう。しかし、まさか……。
「ねえ。あの人の言ってることは……。ほかの人とのデートで忙しかったって、本当なの?」
眉《まゆ》をひそめ、正彦の顔を覗きこむ由美。
「デタラメに決まってるじゃないか。だいたいあんなやつ、おれは知らないんだ。酔っ払って、絡んでるのさ」
即座に否定した正彦だが、心は平静ではいられなかった。脳裡《のうり》に、現在つき合っている女性たちの顔が浮かぶ。祐子、晴美、恵子、良美、美穂……。次々に胸中を横切っていくガールフレンドたち。
すると、
「ははお。祐子ちゃんに晴美ちゃん、恵子ちゃん、良美ちゃん、美穂ちゃん……。二十五人もガールフレンドがいるのか。いけないねえ」
男はにやにや笑いながら言った。名前はもちろん、人数までピッタリである。
「うぐっ」
正彦はふたたび絶句した。背筋に戦慄《せんりつ》が走る。得体の知れない恐怖を覚えたのだ。
(……こ、こいつ。何者なんだ)
薄気味悪く思った正彦は、男から視線を逸《そら》し、由美に向かって言った。
「出よう」
彼女の手を取り、立ち上がる。
「え? だって、今来たばかり……」
由美は不満そうな声を漏らし、立ち上がるのを渋った。ま、当然のことだろう。だが、正彦には、これ以上ここにいることは――あの気味の悪い男との会話を続けることは、耐えられないことだった。
「いいから、行こう」
強引《ごういん》に彼女の手を引き、立ち上がらせる。
「お帰りですか」
バーテンが近づいてきた。
「ああ」
正彦が頷《うなず》くと、バーテンは小さな紙切れにサラサラと数字を書いて寄越した。
『¥2000』
と書かれている。
正彦はちらと由美の方に目をやったが、彼女が財布を取り出す気配はなかった。
学生でありながら、まるでジゴロのような生活をしている彼は、デートの費用は女性任せにすると決めている[#「決めている」に傍点]。今回も、と言いたいところだったが、この状況においてそれを口にするのは、さすがに気が引けた。それに、今はそんなことにこだわっている場合ではない。
内心舌打ちをしつつも、正彦は素早く支払いを済ませた。彼女を引きずるようにして、扉へと足早に歩を進める。
そんなふたりの背後に向かって男が声をかけた。
「お嬢さん。安心しなさい。あなたはナンバー3ですよ」
「え?」
振り返る由美の手を、
「気にするな」
正彦はぐいと引いた。
これまた、ズバリ当たっていたのであった……。
<グリフォン> をあとにした正彦は、新宿駅の方角に向かって歩き始めた。
「ねえ。どういうことなのよ」
口を尖らせて由美が言うが、正彦はそれに答えなかった。人ゴミを縫うようにして、ぐんぐん先へ進んでいく。
「待ってよお」
由美は必死に正彦のあとを追った。コンパスの長い彼についていくのに精一杯で、とても質問を発する余裕などない。
正彦が歩行速度を落としたのは、スタジオアルタの前だった。お昼の人気帯番組「笑っていいとも!」の収録会場として、一躍有名になった場所である。
「ねえ。どうしたって言うのよ?」
由美に腕を引っ張られ、ようやく正彦は立ち止まった。
「正彦くん。さっきの人、いったい誰なの?」
問う由美に、
「言っただろ、知らない人だって」
正彦は答えたが、そんな言葉では彼女を納得させることはできなかった。
「二十五人もガールフレンドがいるって言ってたけど、あれはどういう意味?」
さらに問う由美。
「知らねえよっ」
正彦は吐き棄てるように言った。
「そんな……」
由美はなおも釈然としない様子だったが、
「しつこいな。知らないと言ったら、知らないんだ。それとも、おれの言うことが信用できないってのか」
と開き直られては、口を噤《つぐ》むしかなかった。彼に嫌われたくはないのだ。
「わ、わかったわよ」
由美は言い、視線を路上に移した。ややあって、
「これからどうするの?」
と正彦の顔を覗きこむようにして言う。
「そうだな……」
頷いた正彦は、ふと背後に目をやった。ひょっとしたら尾行されているのでは……という危惧《きぐ》が心をよぎったからだ。
心持ち背伸びをするようにして、遠くの方にまで視線を伸ばす。
幸い、あの変な男の姿は見えなかった。もっとも、人ゴミでごった返すアルタ前のこと、いくら背の高い正彦の視点をもってしても、視界はほとんど効かないに等しいのだが……。
尾行されていないという保証はないが、とりあえず男の姿が見当たらなかったということで、正彦はホッと胸を撫《な》で降ろした。
いささか冷静さを取り戻した正彦、薄笑いを浮かべ、由美の顔を見降ろす。彼女は無言で正彦の顔を見上げた。不信感と困惑が入り混じった複雑な表情をしている。
(まずいな)
正彦は思った。
ちゃんと後始末をしておかないと、彼女とはこれきりになってしまうかもしれない。二十五分の一と言ってしまえばそれまでだが、由美は(あの男が指摘した通り)ナンバー3の存在なのだ。それに、あんなわけのわからない男のせいで別れるのは、プレイボーイとしてのプライドが許さなかった。
(何とかしなくちゃな)
素早く考えを巡らした正彦が、
「由美、中央公園へ行こうか」
と言うと、
「え?」
彼女は小首を傾《かし》げた。唐突な提案に呆気《あっけ》に取られたのだろう。正彦の真意を測るかのように、黙って彼の顔を見つめている。
やがて、
「いいわ」
由美は言い、コクリと頷いた。
新宿中央公園。――昼間はサラリーマンやOLの憩いの場だが、今ごろの時刻ともなれば、訪れる人々はほとんどツーショットとなる。
彼女の気持ちを解きほぐすには、絶好の場所と言えるだろう。公園は新宿駅の西口にあり、ここ東口のアルタ前からは少し離れているが、そう遠くはない。
ふたりはゆっくりとした足取りで、新宿中央公園へと歩き始めた。
新宿の象徴とも言える高層ビル群、そして東京都庁を横手に見ながら、目的地へ向かって行く。他人の目には仲のよいカップルと映るかもしれないが、ふたりとも、今ひとつしっくりしない感覚を覚えていた。それまでと、何かが違うのだ。
結局、中央公園に到着するまで、ふたりはほとんど口をきかなかった。
正彦は正彦で、先ほどの男のことが脳裡に焼きついて、気になって仕方がないし、由美もそれを敏感に感じ取っていたのだった。
適当なベンチに隣り合って坐ってからも、ふたりのぎこちない関係は続いた。
正彦が肩に手を回すと、由美はハッと身を固くした。肩の震えが手に伝わってくる。これまで、一度もなかったことだ。
「由美……」
正彦は彼女の顔を真正面から見つめた。
「ごめんよ。不愉快な気持ちにさせちゃって」
静かな声で言い、頭を下げる。
「そんな。別に謝らなくても……」
若干だが、由美の硬い表情が崩れた。ここぞとばかりに、
「気にするなよ、あんな男の言うことなんて……」
精一杯の優しさを込めて言う正彦。
「ええ。わかってるわ」
一応は頷いたものの、まだ由美が納得していないことは明らかだった。
正彦は続けて言った。
「おれって誤解されやすいんだ。もちろん、つき合ってるのは、由美、おまえだけだよ」
とウインクする。女殺しのウインクだ。効果|覿面《てきめん》、
「そ、そうよね」
由美は息を吐き、肩の力を脱《ぬ》いた。
「あたし、ちょっとおかしかったわ。わけのわからない男の言葉を真に受けるなんて……」
にこっと笑みを浮かべる。もうこうなったら正彦のペースだ。
「そうだよ。あんな男の世迷《よま》い言《ごと》で、愛する由美と喧嘩《けんか》なんかしたくない。やつのことなんて忘れて、楽しくやろうぜ」
正彦が言うと、由美の顔に満面の笑みが広がった。ここまで来れば、ふたりの関係が元に戻るのは時間の問題と言えるだろう。ところが――
そのときだった。いきなり、
「お兄ちゃん。言葉はもっと正確に話さなきゃ。愛する由美≠カゃなくて、大切な金蔓《かねづる》≠セろ?」
という声が耳に飛びこんできた。まるで子どものようなあどけない声。
「だ、誰だ?」
慌てて周囲をキョロキョロと見回すが、人影は見えない。すると、
「ここだよ、ここ」
と、また同じ声が聞こえてきた。どうやら声の主はベンチの下にいるらしい。
(ベンチの下だって?)
信じられない思いに捕らわれつつ、ベンチの下を覗《のぞ》きこむ。
「お、おまえは……?」
正彦は大きく目を見ひらいた。
小学三年生くらいの男の子がひとり、ベンチの下に潜りこんでいたのだ。
少年は正彦の方を見て、にたにたと笑みを浮かべている。とても小学生とは思えない下卑《べび》た笑みだ。
正彦はまじまじとその子の顔を見つめた。見たことのない顔だった。
(また変なやつが現われたぜ。ひょっとして、あの男の子どもか)
正彦が思った途端、少年が言う。
「違うよ。ぼくはあの男の子どもなんかじゃないよ」
「……!?」
正彦はのけぞった。
(まるでおれの心が読まれているみたいじゃないか)
すると、またもや少年、
「そうだよ。心を読んでいるんだよ」
シラッと言う。
「くくっ……」
正彦は背筋に悪寒《おかん》が走るのを感じた。
ふと由美に目をやると、彼女の表情も凍りついている。この異常な展開についていけないのだろう。
そんなふたりを尻目《しりめ》に、少年はごろごろっとベンチの下から転がり出た。ビョーンと立ち上がり、
「こいつは何者だ? どうしておれのことを知っているんだ? と思ってるね」
正彦の方を見て言う。
「くそっ」
罵《ののし》り声を上げつつ、正彦は少年を睨《にら》みつけた。わけがわからないながらも、猛烈な怒りが込み上げてきたのだ。
(このガキ、殴ったろか)
と背後に回した拳を握り締める。少年の視点からは、正彦の拳は見えないはず。ところが、
「おっと。暴力はいけないよ。何の解決にもならない」
少年はエへラエへラと言った。
「う……」
思わず、握り締めていた拳の力が脱《ぬ》ける。
(ほ、本当におれの心が読めるのか)
呆然《ぼうぜん》と思う正彦に、少年は答えた。
「そうだよ。さっきからそう言ってるじゃないか。けけけ」
心の底から楽しそうだった。
と。突然――
「茶番劇は、もうたくさんっ」
由美が厳しい口調で言い、立ち上がった。
「お、おいおい」
正彦、あとを追って立ち上がる。
「正彦くん」
由美は彼をキッと睨《にら》み据《す》え、毅然《きぜん》とした口調で言った。
「あたしと別れたいのなら、こんな回りくどいことをしなくても、はっきりそう言えばいいじゃないの」
予想もしていない言葉だった。
「ゆ、由美。違うよ。おれがきみと別れたがってるなんて、とんでもない。これは、何かの陰謀だ」
慌ててフォローする正彦。だが、彼女の反応はシビアだった。
「陰謀ですって? どこの誰がこんな馬鹿げたことをするのよ」
と、そっぽを向く。ま、当然かもしれない。常識的に考えれば、人の心を読むだの読まないだの、有り得べからざることなのだから……。
続いて、
「あたし、帰るわ。さよなら」
由美はピシャリと言い、身を翻した。そのまま公園の出口へと向かって歩き始める。
「放っといていいの。彼女、お兄ちゃんとはこれっきりと思ってるよ」
少年が言った。そんなことは、言われるまでもなくわかっている。
「うるさいっ」
少年を怒鳴りつけた正彦は、彼女の手を握って引き止めようとした。が、彼女は、
「離してよっ」
と彼の手を振りほどき、ずんずん歩いていく。彼女の決心は、正彦が想像していた以上に固いのだった。
そのまま、こちらを振り返ることもなく、彼女の姿は夕闇《ゆうやみ》のなかに消えていった。
「ゆ、由美……」
がっくりと膝《ひざ》から崩れ落ちる正彦。
「けけっ。行っちゃったね」
少年が嬉《うれ》しそうに言うが、正彦は全く反応を示さなかった。
もう、何が何だかわからない。心のなかは真っ白になっていたのだ。
そんな正彦の姿を見て、
「彼女がいなくなったんじゃあ、これ以上ここにいても面白くないな。そろそろぼくも帰ろうかな」
ひとり言のように呟《つぶや》いた少年は、
「じゃ、またねえ」
明るい声で言い、ケラケラ笑いながら駆け出した。またたく間に、その姿が小さくなる。
正彦には、少年のあとを追う気力は残されていなかった。
「ど、どうしておれがこんな目に……」
呟いた正彦の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
絶望と無念さの入り混じった涙であった……。
しばらくのち――
正彦はのろのろと立ち上がった。
ベンチに腰を降ろし、
「ははあ」
と大きく息を吐く。
一時は絶望の淵《ふち》に追いこまれた正彦だが、立ち直るのは早かった。
いきなり自分の身に降りかかってきた災難に、漠然《ばくぜん》と想いを馳《は》せる。
あの中年男と少年は、いったい何者なのか? ふたりの関係は?
なぜ、何のために、あんなことをするのか?
本当に正彦の心を読んでいるのか?
だが、いくら考えても、結論は出そうもない。
と――
唐突に、正彦は思った。
(結局、ガールフレンドがひとり減っただけじゃないか)
納得して頷く。
ある意味では正しい結論と言える。彼にはまだ二十四人ものガールフレンドがおり、明日からもデートの予定が詰まっている。その点に関しては、悲観する必要など全くないのだ。
もちろん、もともとガールフレンドを失ったことなど大した問題ではなく、問題はあの謎《なぞ》の中年男と少年であることは、正彦も充分に承知している。しかし、考えたところで解決できるような次元の問題とも思えない。
となれば、考えないようにする、あるいは忘れてしまうのが最も賢い解決策と言えるのである。
(ま、いいさ。過ぎたことは仕方がない。悪い夢を見たと思えばいい)
小さく頭を振った正彦は、ゆっくりと立ち上がった。
「ふあーあ」
と大きく伸びをする。
そして。
正彦は歩き出した。そこかしこで、仲睦《なかむつ》まじいカップルたちがいちゃついている。
ひとりぽっちは、正彦だけであった……。
2 謎の青年
悪夢は過ぎ去った。
と正彦は思っていた。
しかし、それが甘い考えであることは、すぐに明らかになった。
毎日最低ひとりのガールフレンドとのデートという過密スケジュールのなか、正彦の生活はボロボロになっていた。
ふだん、大学へ行っているときや男友達と会っているときは、以前と変わらず平穏無事に過ごせるが、なぜか正彦がガールフレンドと会っていると、どこからともなく、謎の男(あるいは女)が現れ、デートの邪魔をするようになったのだ。
彼らは、場所を選ばなかった。スナック、ディスコ、公園、遊園地、映画館、彼女の家……。ベッド・インの最中に現れることもあった。
明らかに同一人物ではなかった。男であったり女であったり、大人であったり子どもであったり……と、性別も年齢も様々だ。しかし、彼らの行動パターンは決まっていた。
そう――
あの中年男や少年と同じく、正彦の思考を読み取り、ルックスとともに彼の最大の武器である舌先三寸を封じこめてしまうのだ。結果、お相手のガールフレンドは怒って、あるいは呆《あき》れて、帰ってしまう。
一日のうちの大半をガールフレンドとともに過ごしている正彦だけに、深刻な問題だった。
もちろん、できる限りの対策は考えた。
最初からカラオケルームなどの個室で待ち合わせてみたり、第三者を立ち合わせてみたり……。
だが、すべては無駄なことだった。どんな状況であろうと、必ず邪魔者は現われて、ガールフレンドが帰るまで執拗《しつよう》な口撃[#「口撃」に傍点]の手を緩めない。そして当然のごとく、目的を達すると、満足して去っていく。
取っ捕まえてギタギタにしてやろうと思ったこともあったが、考えを見透かされていては、どうしようもなかった。
恥を忍んでゼミの友人たちにも相談したが、
「そんな馬鹿な」
と一笑に付されてしまった。あるいは、
「そりゃあ、おまえが悪い。女の子をもてあそんだ報《むく》いだ」
と逆に説教される始末。
もはや、お手上げだった。私生活を暴露され、口先を封じられたプレイボーイの、なんと惨めなことか……。
多数のガールフレンドと同時につき合うのをやめ、まっとうな生活に戻れば、悩みは解消するだろう。しかし、それだけはできなかった。生来のプレイボーイとしての、悲しい性《さが》だった。
ヤケ酒をあおる毎日が続く。
正彦は、心身ともに疲れ果てていた……。
そんなこんなで三週間が過ぎ去った。
ここは、渋谷・道玄坂にあるスナック <ユニコーン> 。
その夜も、正彦はヤケ酒をあおっていた。
つい先ほどまでは、ガールフレンドの立花祐子と一緒だった。
ところが例によって、突然ふたりのそばに寄ってきた変な女が、正彦のあることあること[#「あることあること」に傍点]を指摘。当然のことながら、祐子は怒って帰ってしまったのである。
あとを追う気にもなれなかった。追ったところで徒労に終わることは目に見えている。この三週間で、正彦はすっかりフラれることに慣れてしまったのだ。
変な女も祐子が去るとともに姿を消し、今日も正彦はひとりぽっちになってしまった。
(くそお。おれにいったい何の恨みがあるってんだ)
正彦は溜《た》まり溜まった鬱憤《うっぷん》を晴らすかのように、早いピッチでロックのグラスを口に運んだ。
(あと、ふたりか……)
と思う。
そう。二十五人もいたガールフレンドも、毎日着実に減っていき、残りはふたりになってしまったのである。
明日、そして明後日とデートの約束をしているが、その先はない。死刑台の階段を上る死刑囚の心境だった。あと二段上ると、ギロチンが待っている……。
ここのところ、毎晩正彦は、酔い潰《つぶ》れるまで酒を飲んでいた。おそらく今日もそうなるだろう。
わかっていても、飲まずにはいられないのだった。
店を変え、なおも飲み続ける正彦。
もう一軒、さらにもう一軒……。
そして……。
「もしもし、しっかりしてください」
耳元で呼びかけられ、正彦は意識を取り戻した。
「……ん?」
目を開けると、若い男の顔が見えた。心配げに正彦の顔を覗《のぞ》きこんでいる。
背中には、ごつごつした石の固い感触があった。どうやら、石塀にもたれこんで眠っていたらしい。
「う、ううっ」
呻《うめ》き声を上げて立ち上がろうとする正彦の脇を、男が支える。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
頷《うなず》きつつ、正彦はその男の方に目をやった。
筋肉質の、スポーツマン・タイプの青年たった。スラリとした長身は、正彦と並んでも遜色《そんしょく》がない。年齢は正彦と同じくらいか。よく日焼けした浅黒い顔に、人なつこい笑みを浮かべている。
「こ、ここは?」
正彦は周囲を見回した。どこかの路地裏であることはわかる。だが、風景に身憶えはなかった。
(またか……)
正彦は思い、苦笑した。
今日もまた、正彦の記憶は途中で途切れていた。四軒めの店までは、かろうじて憶えているが、そのあとは霧のなかだ。考えようとすると、後頭部がズキズキ痛む。
と――
「こんなになるまで飲むなんて……。失礼ですが、何かお悩みでも……?」
突然青年は言った。じっと正彦の目を見つめている。
正彦は青年の顔を見返した。
悩んでいることは確かだ。だが、見も知らぬ相手に話すようなことだろうか。それで解決できるような問題なのだろうか。
正彦が黙っていると、
「図星のようですね。よろしけれは、ぼくに話してみませんか」
青年は言った。
「……?」
正彦は彼の顔を見つめた。
邪気のない顔。しかしそれでいて、人を安心させるような頼もしさを秘めている。
すると、何を勘違いしたのか、
「おっと、失礼」
頭を掻《か》いた青年は、
「水波《みなみ》流《りゅう》と言います。流と呼んでください」
と名乗った。
「リュウ?」
正彦が反復すると、
「ええ、そうです。流れる[#「流れる」に傍点]という漢字一字で、リュウと読みます」
青年は言い、またも人なつこい笑みを浮かべた。不思議な魅力が正彦を直撃する。
(信用してみようかな)
ほとんど直感的に、正彦は思った。
駄目で元々。別に、困った事態になるわけではない。助けてもらえるのであれば、儲《もう》けものではないか。
体内にまだ大量に残っているアルコールが、正彦を大胆にさせた。
決心した正彦が、
「おれ、牧原正彦と言います。青学の学生です」
自己紹介をすると、
「ほお、青学……。大したものですねえ」
彼は感心したような声を上げた。
「いえ、それほどでも……」
誉められて悪い気はしない。気をよくした正彦は、
「信じてはもらえないかもしれませんが……」
と前置きしたのち、
「実はですね……」
と、三週間前から自分の身に起こり始めた奇怪な出来事――デートをするときに限って現われる奇妙な連中について、詳しく話し始めた。
(さすがに、二十五人もの女性とつき合っていたことに関しては、適当にボカしたが……)
「……というわけなんです」
正彦が話し終えると、
「なるほどね」
流は深く頷いた。それまでひと言も口をきかず、黙って正彦の話を聞いていたのだ。
「信じてくれますか?」
彼の顔を覗きこむようにして聞く正彦に、
「もちろんです」
流は真剣な声で答えた。腕を組んで、じっと考えこむ。ピリピリした緊張感が伝わって来た。口を挟むのが憚《はばか》られるような、そんなムードだった。
沈思黙考十数秒、ようやく流は口を開いた。
「それは妖怪《ようかい》の仕業《しわざ》に違いありませんね」
「よ、妖怪だって!?」
正彦が素頓狂《すっとんきょう》な声を発すると、
「おかしいですか?」
流は冷静な声で返した。
「だって、妖怪なんて、そんなものが……」
つい吹き出しそうになった正彦に、
「妖怪は存在します」
きっぱりと言い切った流。
「妖怪以外の、いったい何者に、そんな真似ができると言うのですか?」
「うっ……」
正彦は口ごもった。
確かに、流の言うことには一理あった。常識的に考えれば、妖怪なんて有り得べからざる存在だが、自分が常識では考えられない目に遭っているのも事実だ。常識外の出来事が起こっている以上、妖怪を否定することもできないのである。
「でも、どんな妖怪が?」
正彦が問うと、
「ええ。おそらく、サ」
答えかけた流だったが、なぜか途中で言葉を呑《の》みこんだ。
「サ?」
聞きとがめる正彦。
「いや、何でもありません」
流はいささか慌てたように首を横に振った。
「とにかく、放っておくと、大変なことになるかもしれません。早いうちに手を打たなくては……」
と続ける。
「手を打つったって、いったいどうしたら……?」
正彦が困り果てた声を出すと、
「残念ですが、おれひとりの力ではどうにもなりません。もし、その気があるのなら」
流は言いつつ、ポケットから一個のマッチ箱を取り出した。
「この店にいらしてください。あなたの力になってくれる人たちに会うことができます」
と正彦にマッチ箱を手渡す。
マッチ箱には、『BAR <うさぎの穴> 』と書かれていた。裏には、簡単な地図が印刷されている。
「 <うさぎの穴> ?」
正彦が問うと、
「そうです」
流は頷いた。さらに、
「ところで、今度のデートの予定は?」
と訊《き》く。唐突な問いに、いささか面食らった正彦だが、
「明日、いや、もう今日ですか、約束してますけど……」
正直に答えると、
「そうですか……」
流は大きく息を吐いた。ひと呼吸おいたのち、
「ひとつ忠告しておきます。 <うさぎの穴> に来るまで、決して女性と会ったりしないでください。デートをしたあとでは、取り返しのつかないことになるかもしれません」
と言う。深い意味を秘めているような言い方だった。
「え? どういうことですか?」
正彦が問うが、流は答えなかった。
「とにかく、そういうことです」
などと、曖昧《あいまい》な言葉で口を濁す。
と――
いきなり流は、
「じゃ、おれはこれで」
と踵《きびす》を返した。
「あ、あの……」
慌ててあとを追おうとする正彦に、
「必ず、デートする前に来てくださいよ」
流は言い、ウインクをした。そのままダッシュし、闇《やみ》のなかに消えていく。
つい先ほどまで酔い潰《つぶ》れて寝ていた正彦には、そのスピードについていく体力は残されていなかった。
(いったい彼は、何者……?)
しばし呆然《ぼうぜん》と、流の姿が消えた方向を眺める正彦。まさに、キツネにつままれたような心境だった。
やがて。
正彦はとぼとぼと歩き始めた。
表通りに出、深夜を流しているタクシーを捕まえる。
何とか、ひとり暮らしのマンションに帰り着いたとこちで、正彦の体力は尽きた。
ベッドに倒れこんだ正彦を、強烈な睡魔が包みこむ。たちまち正彦の意識は遠のいていった。
眠る、眠る、眠る。正彦は泥のように眠った……。
正彦が目覚めたのは、午後一時過ぎだった。
それから三時間あまり、正彦は今後の行動について頭を悩ませた。
どう考えても、妖怪なんて馬鹿げているとしか思えない。
(夢か……)
とも思ったが、ポケットにはいっていたマッチ箱が、現実であることを証明していた。
あの流と名乗る青年は、いったい何者なのだろうか。また、 <うさぎの穴> には、何があるのか。
彼を信用すべきか。それとも、無視すべきか。
なかなか心は決まらなかった。デートの約束時間が刻々と近づいてくる。
正彦は、青年が別れ際に行った言葉を思い出した。
「必ず、デートする前に来てくださいよ」
デートをしたあとでは取り返しのつかないことになるかもしれない……とも言っていた。
彼を信じ、 <うさぎの穴> とやらへ行くとしたら、今しかない。
ぎりぎりまで悩み続け、ようやく正彦は心を決めた。
イチかバチか、 <うさぎの穴> というバーに行ってみることにしたのである。
マッチ箱の裏に印刷された地図によると、 <うさぎの穴> の所在地は渋谷・道玄坂だった。昨日(正確には今朝だが)、正彦が倒れていたあたりだ。
正彦はマンションを飛び出し、最寄りの駅――下北沢駅へと向かったのであった……。
3  <うさぎの穴>
夕方五時。
正彦は渋谷に降り立った。
マッチ箱の地図を頼りに、道玄坂を歩いていく。かなりいいかげんな地図だったが、下北沢に住み、表参道の大学に通っている正彦にとって、渋谷は自分の庭みたいなものだ。お目当ての <うさぎの穴> を見つけるのは、そう難しいことではなかった。
ほどなくして、正彦は <うさぎの穴> と書かれた看板を発見した。
思った通り、昨日正彦が倒れていた場所の近くである。路地裏の薄汚れた雑居ビルの五階。
真っ赤な地に、黒い字が印象的な看板だった。
(もしかすると、あの流という青年は、この店で飲んだ帰りだったのかもしれないな)
正彦は思った。何だか安心し、ホッと息を吐く。
ビルに足を踏み入れると、目の前にエレベーターがあった。
上昇マークのボタンを押す。一階で待機していたらしく、エレベータトの扉はすぐに開いた。
エレベーターに乗りこんだ正彦は、躊躇《ちゅうちょ》なく5Fのボタンを押した。扉が閉じ、がたがた揺れながら上昇していく。かなり老朽化したエレベーターのようで、お世辞にも快適な乗り心地とは言えなかった。
五階に到着し、扉が開く。エレベーターを降りると、真っ赤な扉が視界に飛びこんできた。 <うさぎの穴> というプレートが掛かっている。
(ここが <うさぎの穴> か……)
正彦は、背筋にブルッと震えが走るのを感じた。
(本当に、こんなところへ来てよかったんだろうか)
後悔が胸中をよぎる。だが、ここまで来て、引き返す気にもなれなかった。
ごくっと生唾《なまつば》を呑みこんだのち、扉のノブに手を伸ばす。
ちりん……。ベルが鳴り、扉は奥に向かって開いた。
もうあとには引けない。
正彦はゆっくりと <うさぎの穴> へと足を踏み入れたのであった。
正彦の目に最初に飛びこんできたのは、昨日会った流という青年の顔だった。
正彦の顔を見るや、
「よお。来たな。待ってたぜ」
と手を挙げる。言葉|遣《づか》いは昨日ほど丁寧ではないが、人なつこい笑みは変わっていなかった。
「あ、ああ」
額いた正彦は、店内を見回した。
<うさぎの穴> は、意外に広い店だった。アンティーク調の装飾が、落ち着いた雰囲気を演出している。また、店の片隅には、古いピアノが置かれていた。
(いや、古くは見えるけど、最近のものだな)
正彦は思った。なぜなら、弾き手の姿は見えないのに、ピアノは静かなポピュラーを奏でているからだ。自動演奏機能付のピアノなんてのは、新しいに決まっているのである。
カウンターの向こうに、マスターらしき中年男がひとり。そしてカウンターには、客と思われる三人の男女が坐っていた。男がふたり、女がひとり。もちろん男のひとりは流で、もうひとりの男は、ちょっと小太りで眼鏡をかけた若者だ。
男たちは皆、店にはいってきた正彦の方に顔を向けていたが、女だけは違っていた。正彦に背を向けたまま、ストゥールに坐《すわ》っている。新しい客に、全く関心がないようだった。
店内を見回して突っ立っている正彦に、
「どうしたんだい? こっちへ来いよ」
流が言う。
「あ、ああ」
生返事を返した正彦は、ゆっくりと歩を進め、ちょうど空いていた流の隣のストゥールに腰を降ろした。
先ほどまでうしろ姿しか見えなかった女性の横顔が見える。長い黒髪に、切れ長の目。こと女性に関しては百戦錬磨の正彦が、思わず心を奪われるほどの美しさだった。
そんな正彦を尻目に、流はカウンターの内側にいる中年男に向かって言った。
「マスター。この人が、さっき話した牧原正彦くんです」
「なるほど。きみか」
マスターは頷《うなず》き、正彦の顔を見つめた。優しいが、鋭い目つきだ。
慌てた正彦は、視線を美女から引っ剥《ぱ》がした。
「あの……流さんに、ここへ来れば助けてもらえると聞いて……」
しどろもどろの口調で言う。
「はい。話は聞いています。どうやらあなたは、性格《たち》の悪い妖怪《ようかい》に取り憑《つ》かれたようですね」
マスターは静かな声で言った。
「よ、妖怪……ですか」
最も聞きたくない言葉だった。
(やはりここに来るべきじゃなかったのか)
正彦の胸に、またも後悔の念が沸き起こる。
「本当に、妖怪なんてものがこの世に存在するんですか?」
つい疑問を口にすると、
「はい。もちろん、存在しますよ」
マスターはこともなげに答えた。実は、マスターを始めとして、三人の客たちも皆妖怪なのだが、当然そんなことは口にしない。必要のないことだからだ。
「し、しかし……」
なおも納得しない正彦を、マスターは優しく制した。
「いいでしょう。じっくり説明して差し上げますから、よく聞いてください」
柔らかな笑みを浮かべて言う。
「は、はい」
正彦が頷くと、マスターは話し始めた。
「生命は、さまざまな想い≠もとにして生まれます。子孫を残したいという強い想い≠ノ感応して生まれるのが、人間や他の生き物のような普通の生命です。しかし、想い≠ヘそれだけではありません。特に人間という生き物は、強い想い≠持っています。なかでも、恐怖≠竍愛情≠ヘ最も強い想い≠ニ言えるでしょう。ときには、そういった強い想い≠サのものから、本来存在しないはずの生命が生まれることがあります。それが妖怪です。古くは座敷童子《ざしきわらし》や河童《かっぱ》、のっぺらぼう、ろくろ首……。最近では、ほら、あなたも口裂け女とか人面犬の噂《うわさ》を耳にしたことがあるでしょう。彼らは皆、人間たちの強い想い=\―恐怖≠ゥら生まれた妖怪たちなのです……」
マスターはここまで一気にまくし立てた。まさに、立て板に水。あまりに見事な弁舌に、正彦は口を挟むことすらできなかった。
「わかっていただけましたか」
正彦の顔を見つめるマスター。
「は、はあ、なんとか……」
正彦は呆然《ぼうぜん》と頷《うなず》いた。口裂け女や人面犬まで妖怪というのは納得しかねるような気もするが、おそらくマスターの話はデタラメではあるまい。少なくとも、マスターがそう信じていることは確かだ。
それに、たとえ真実でなかったとしても、それは大した問題ではなかった。要は、あの変な邪魔者たちが現れなくなれば、それで正彦は満足なのである。
「では、あなたの話を聞かせてください。流からだいたいの話は聞いていますが、やはり本人から直接聞いた方が……」
マスターは言った。
「は、はい」
正彦は頷き、あの日[#「あの日」に傍点]から昨日まで、自分の身に降りかかってきた悪夢のような出来事を話した。
正彦が話し終えると、
「なるほど……」
とマスターは頷いた。眼鏡の若者と美女も小さく頷いている。どうやら彼らも、すでに流から話を聞いているようだった。
「わかりました。とりあえずあなたに必要なことは、問題が解決するまでデートをしないことですね」
マスターは言った。
言われるまでもなく、わかりきっていることだった。今までの例からして、デートさえしなければ、あの連中は現われないのだ。だが……。
「本当に彼らから解放されるのでしたら、少しくらいは我慢しますが、あまり長い期間は……」
正彦が渋ると、マスターも渋い顔をした。
「あなた。ことの重大さがわかってないようですね。今はまだデートのときだけですが、二十四時間つきまとわれるようになったら、もうおしまいなんですよ」
「は、はい。わかりました」
仕方なく、正彦は頷いた。確かに、マスターの言う通りなのだ。
「でも、いったいどうやって、あの連中を追い払うつもりなんですか?」
疑問を口にする正彦。しかしマスターは、きっぱりと首を横に振った。
「対策はわれわれで考えますが、それをあなたに教える気はありません」
「え? なぜ?」
正彦が問うと、マスターは肩をすくめた。
「だって、あなたに取り憑《つ》いている妖怪は、あなたの考えを読み取ってしまうのでしょう? われわれと接触したことも、われわれがあなたを救う手段を講じていることも……。ですから、あなたは何も知らない方がいい、いや、知っていてはいけないのです」
わかるような、わからないような理屈だが、何だが正しいような気がする。
「はあ。わかりました」
正彦は頷いた。
「ほかに何かすることは?」
「とにかく、デートをしないこと。それさえ守ってもらえれば、あとは何もしなくて結構です。ま、できる限り毎日、この店に顔を出すようにしてください。年中無休ですから」
マスターは言った。さらに、
「念のため、住所と電話番号を教えておいてください」
と、小さな紙片とボールペンを正彦の方に押しやる。
正彦が住所と電話番号を書きとめると、
「ほお、下北沢ですか」
マスターは言い、紙片をカウンターの下にある抽《ひ》き出しにしまいこんだ。
「今日のところは、お帰りになってください。あなたがいては、相談もできません」
と言う。有無《うむ》を言わせぬ、厳しい口調だった。
その迫力に気圧《けお》されるように、
「あ、はい。では」
正彦は慌てて立ち上がった。
「ま、おれたちに任せておけよ」
流が明るい声で言う。
「よろしく」
正彦は頭を下げ、扉へと向かった。途中、ちらと美女の方に視線を送る。
正彦がこの店に来てから、まだ彼女は一度も口をきいていない。いや、正彦の方を見ることすらなかった。
(せめて声を聞きたい。いや、正面から美しい顔を拝むだけでも……)
と思う。だが、彼女は相変わらずうしろを向いたままで、こちらを振り返る気配はない。
声をかけることもできようが、さすがにそれは躊躇《ためら》われた。
うしろ髪を引かれる想いたっぷりに、 <うさぎの穴> をあとにする正彦。
正彦が扉の向こうに姿を消した途端、それまで店内に流れていた静かな調べが、いきなり激しい旋律に変わった。狂おしいまでに情熱的なメロディーを奏で続ける。
いよいよ、 <うさぎの穴> のメンバーが活躍するときが来たのである。
その序曲であった……。
正彦の姿が見えなくなると、すぐにマスターが口を開いた。
「やはり、サトリのようだな」
「だろ?」
と流が呼応する。
「サトリか……。厄介《やっかい》な相手だな」
小太りの若者――大樹が言い、大きく息を吐いた。ほかのメンバーも同じ思いだった。
サトリは、サトルの化け物とも言われ、日本古来からその存在を認められている妖怪である。
人の心を読む能力に長《た》け、変身能力も有しているサトリは、その能力を利用し、人間をからかうことを最大の楽しみとしている。厄介なひねくれものだった。
「どうしたらいいと思う?」
マスターは黒髪の美女――未亜子に向かって訊いた。彼女は、先ほどから全く発言していないのだ。
すると、
「放っておけばいいんじゃないの」
未亜子は長い髪を掻《か》き上げ、けだるそうに言った。
「放っておくう?」
さも意外そうな声を出した流、
「あの若者は、妖怪に取り憑かれた。それで困って、おれたちに泣きついて来たんだぜ。助けてやるのが、おれたちの務めじゃないか」
と熱っぽい口調で言う。一見、正義感に満ちた言葉のように聞こえるが、正確に言うと少し違う。同じ遊び人タイプである流には、正彦の追いこまれた窮状がよくわかるのだ。
しかし未亜子は、
「だって、自業自得じゃないの」
と、あっさりと返した。
「女を食い物にしてるから、そういう目に遭うのよ。正直に生きていれば、サトリはつまらなくなって、どこかへ行ってしまうわ。わざわざあたしたちが手を貸すまでないのよ」
「…………」
流は押し黙った。確かに、彼女の意見は正しい。完全に一本取られた恰好だった。
そのとき、
「まあまあ、ふたりとも」
ちょうどいいタイミングで、マスターが口を挟んだ。
「わたしも、彼のような生き方は好きじゃない。だけど、別に法に触れるようなことをしているわけでもないし、流が彼と遇ったのも、何かの緑だと思う。ここはひとつ、助けてやってもいいのではないかな」
と未亜子の方を見やる。
「まあ、あなたたちがやりたいなら、ご随意に。あたしは手を貸す気はないわ」
未亜子は言い、静かに席を立った。
「仕事の予定がはいってるの。今日は失礼するわ」
と扉へ向かう。嘘《うそ》ではなかった。彼女はふだん、クラブ回りの歌手をしており、これからが稼ぎどきなのだ。
「じゃあね」
と言うと、彼女は風のように店を出ていった。
「やれやれ。行っちまったか。お嬢様にも困ったものだ」
肩をすくめるマスターに続いて、
「ちっ。勝手にしろよ」
流は吐き棄てるように言った。
大樹だけは何も言わず、にやにやと笑みを浮かべている。こういうことには、あまり頓着《とんちゃく》しない性格なのだ。
ややあって。
残った男三人は、頭を突き合わせて今後の対策を検討し始めたのであった……。
時刻は、少し前に遡《さかのぼ》る。
正彦が <うさぎの穴> に顔を出したころ――
ここは、池袋西口・東武百貨店の最上階にある喫茶パーラー <オーバー・ザ・トーブ> である。
中年のサラリーマンを装って喫茶店にやってきたサトリは、首を傾《かし》げた。
(おかしいなあ。確か、今日はここでデートの約束をしているはずなんだが……)
新聞に目を落とす振りをしながら、店内の様子を窺《うかが》う。
正彦を待っている女性は、すぐに見つかった。胸に正彦への想いを秘めている超ミニスカート女。何度も腕時計に目をやっている。
だが、肝心の正彦が近くにいる気配はなかった。隠れていても、サトリの心の目≠ゥらは逃れることはできないはずだ。
(正彦はどこにいるのか? なぜデートの場所に現われないのか?)
と思う。あの女好きがデートの約束を忘れるなんて、あるいは遅刻するなんて、どう考えても不思議だった。この三週間、毎日ひどい目に遭いながらも、きっちり待ち合わせ場所にやって来た男なのだ。
今、正彦の所在を知ることは、さすがのサトリにもできなかった。サトリは、こういう予想外の出来事に、てんで弱いのである。
サトリは辛抱強く待った。が、いつまで経っても、正彦は店に姿を見せなかった。
やがて、お相手の彼女が席を立ち、店を出ていく。彼女の胸中には、デートをすっぽかした正彦に対する怒りが溢《あふ》れていた。
(行っちまったか……)
サトリはポリポリと頭を掻《か》いた。彼女がいなくては、たとえ正彦が現れても、面白さは半減してしまう。
(今日は何か事情があって、来られなかったんだろう。ま、いいさ。明日のデートの予定はわかっている。明日も来なければ、やつのマンションに押しかければいい)
サトリはひとり納得し、彼女に続いて <オーバー・ザ・トーブ> をあとにした。
正彦が自宅である下北沢のマンションに帰り着いたのは、ちょうどそのころだった。
時刻は、午後七時を少し回ったあたり。まだ宵の口である。
奇妙な邪魔者につきまとわれる前ならば、毎日今ごろは、ガールフレンドと夕食をともにしていた。あるいは、なりゆき次第では、ラブホテルにチェック・インしていることもあった。
しかし、今の正彦には……。
今日もまた、淋《さび》しいひとり寝の夜が始まろうとしている。
「ふううう……」
正彦は大きく嘆息したのであった……。
4 もうひとつの事件
ところ変わって、ふたたび <うさぎの穴> である。
マスター、流、大樹――三人の男たちの話し合いはまだ続いていた。
「読心能力さえなけりゃなあ……」
流が忌まいましげに呟《つぶや》く。
「ああ」
マスターは頷《うなず》き、溜《た》め息をついた。
サトリの読心能力の対象となるのほ、人間だけではない。妖怪《ようかい》だって、サトリにかかれば心を読まれてしまうのである。
むろん、ただ単に、正彦をサトリの魔手から救うだけなら、話は簡単だった。正彦に内緒でアパートを探しておき、そこに彼をいきなり連れていけばいい。さすがのサトリにも、正彦の知らないところで立てられた計画を知ることは不可能だ。正彦はサトリから逃れられるだろう。
しかし、それでは問題の根本的な解決にはならない。サトリは次の獲物を捜して歩くに決まっているからだ。
サトリの持つ読心能力をいかに回避するか。――すべての論点はそこにあった。
正面きっての力で撃退しようとすれば、逃走してしまうだろうし、下手《へた》な小細工を弄したところで、徒労に終わるのは目に見えている。
では、どうすればよいのか?
午後九時を過ぎても、彼らは結論を出せずにいた。
と、そのとき――
扉が開き、ひとりの男が姿を現わした。スリムな肉体。鳥のように鋭い眼光。
<うさぎの穴> の常連客のひとり、八環秀志であった。著名な山岳カメラマンとしての顔を持つ八環だが、彼もまた妖怪である。
自在に風を操り大空を駆ける鴉天狗《からすてんぐ》――それが彼の本当の姿だった。
素早く店内を見回し、常連以外の客がいないのを確認した彼は、
「よおっ」
と右手を挙げ、カウンターに歩み寄って来た。
「みんなで難しい顔しちゃって、なに話し合ってんの」
と軽口を叩《たた》く。
「ちょうどいいところに来てくれた。実はね……」
マスターが手短に事情を説明すると、
「ほほお。サトリがねえ……」
八環は顎《あご》を撫《な》でた。
「そいつはまた厄介なやつに魅いられたものだな」
と口元を歪《ゆが》める。
「やっぱりそう思うか。ずっと相談してるんだけど、なかなかいい案が出なくて困ってるんだ」
と言うマスターに続き、
「八環さんなら、何かいい考えがあるでしょ?」
流が期待を込めて言うと、
「そんなこと、突然言われてもなあ……」
八環は困惑を露《あらわ》わにしつつ、空いているストゥールに腰を掛けた。腕を組んだ八環、ふと気づいたように、
「酒を頼む」
マスターに言う。
「はいよ」
マスターは素早く日本酒をコップになみなみと注ぎ、八環の前に置いた。
「サンキュー。喉《のど》がカラカラだったんだ」
まるで水でも飲むように、酒を半分ほど一気に喉に流しこんだのち、八環は言った。
「実は、おれも奇妙な事件を追っているところなんだ」
「事件?」
マスター、流、大樹、三人が声を揃《そろ》えて、同じ単語を発した。皆、興味|津々《しんしん》に八環の方を見ている。
「おいおい。そんなに見つめるなよ。恥ずかしいじゃないか」
頭を掻く八環に、
「照れる柄《がら》かよ。それより、話してくれよ。いったいどんな事件なんだ?」
マスターが言うと、
「ああ」
八環は頷き、話し出した。
東京の東の玄関口・上野。
広大な敷地面積を誇る上野公園のなかでも、特に不忍池《しのばずのいけ》は、若者たちのデート・スポットのひとつとして有名である。
最近、その不忍池に、奇妙な噂《うわさ》が流れていた。
ボートに乗った若いカップルの身に、不可思議な現象が起こるというのだ。
たとえば――
ボートに乗りこむまでは仲のよかったふたりが、何かの行き違いで急に口論を始める。
その逆に、それまでプラトニックな関係を保っていたふたりが、突然エッチな関係に発展してしまうこともある。
また、漕《こ》ぎ手が信じられないようなミスをしてボートを岸に激突させたり、ひどいときには転覆させてしまったこともあった。
当然、
「きみのこと、信じられないよ」
「あなたのこと、信じられないわ」
となる。
以前から若者たちの間では、
「別れたくなったら、井《い》の頭《かしら》公園のボートに乗れ」
などと言われていたが、最近ではもっぱら、
「別れたくなったら、不忍池のボートに乗れ」
だった。もっと露骨に、縁切り池≠ニいう言葉が使われることもある。
実際、このひと月間だけでも、不忍池で何十組ものカップルが破局を迎えており、単なる迷信とは思えないフシがあった。
ひょんなことから、そういう噂話を耳にした八環は、ここしばらく上野|界隈《かいわい》を探っていたのだ。
「それもサトリの仕業《しわざ》?」
流が問うが、即座に八環は首を横に振った。
「いや、違うな。何人か、喧嘩《けんか》別れした若者を捜し出して訊《き》いてみたんだが、彼らの前に誰かが現われたというようなケースは一件もなかった」
「では、どうして喧嘩別れを?」
「うん、それなんだよ」
八環は考え深げに頷いた。
「彼らは皆、口を揃《そろ》えて言うんだ。ボートに乗っていると、つい思ってもいないことが口に出たり、考えてもいない行動をしてしまう、とね」
「なるほど。それはサトリの仕業ではありませんね。やつにそんな能力はないはずですから」
大樹が口を挟む。
「そうだろ。試しにおれもボートに乗ってみたんだが、何も起こらなかった。おれの正体を知って、手を出さなかったのか、あるいは……。もっとも、ボートに乗ったすべての人たちに異変が起こるわけではないらしいけどな」
八環は言い、どう思う? とでも言いたげに一同の顔を見回した。
マスターが応《こた》えて言う。
「あそこには三吉がいるだろう。やつに訊いてみたのか?」
「おっと、おれとしたことが……。やつのことをすっかり忘れてたぜ」
八環はペロッと舌を出した。
三吉というのは、古くから不忍池を縄張りとしている河童《かっぱ》の名である。
「やつに訊けば、何かわかるかもしれんな」
呟くように言った八環、
「じゃ、早速おれ、行ってみるよ」
と立ち上がった。早くも扉に向かいかけている。
「待って。おれも行くよ」
あとを追って立ち上がる流に続いて、
「ぼ、ぼくも」
大樹も慌てて立ち上がった。
マスターだけは落ち着いたもので、
「わたしは残るよ。あの色男の兄ちゃんがやって来るかもしれないからな」
と呑気《のんき》な口調で言ったが、
「おっと」
自分の額をペチッと叩いた。冷蔵庫から一本のきゅうりを取り出し、
「忘れ物だよ」
と放り投げる。
「さっすがマスター、気が利《き》くう」
片手でキャッチした流は、もう既に姿の見えなくなっている八環のあとを追った。どたどたと大樹が続く。
<うさぎの穴> を飛び出した三人は、ビルの前に駐まっていた[#「駐まっていた」に傍点]フォルクスワーゲンに乗りこんだ。
一路、上野へと向かう……。
三人が不忍池に到着したのは、夜も十一時を回ったころだった。当然、人影は見えない。
三人は水際に近づいた。
「八環さん、これを」
と流、きゅうりを八環に手渡す。
「サンキュー」
きゅうりを受け取った八環は、真ん中あたりでパキッとへし折った。新鮮なきゅうりの匂《にお》いが鼻孔をくすぐる。
「おーい、三吉。おいしいきゅうりをやるぞ。早く来ないと食べちゃうぞお」
八環は池に向かって呼びかけた。静かだが、よく通る声だ。
そのまま、じっと待つ。
ややあって――
遠くの方で、水面が小さく波立った。
それを目敏《めざと》く見つけた八環、
「来たな」
にんまりと笑みを浮かべる。
さざ波はゆっくりと近づいて来て、水際の手前二メートルあたりで止まった。
次の瞬間――
ザバッ。
水面が割れ、異形の人影が姿を現わした。
一メートルに満たない身長。青黄色の肌。頭のてっぺんには皿。もちろん背には、甲羅をしょっている。――言わずと知れた河童である。
「よお、三吉。久しぶりだな。元気だったか?」
八環が右手を挙げて挨拶《あいさつ》すると、
「あんたたちか」
三吉は三人の顔を見回して、不機嫌な声で言った。三人とも三吉と面識はあるが、さして親しいわけではないのだ。しかし、
「そう迷惑そうな顔をするなよ。ほら、きゅうりだ」
八環がきゅうりを投げ与えると、途端に三吉は相好《そうごう》を崩した。
「いやあ、悪いねえ」
亀のような歯を剥《む》き出しにして、にたっと笑う。
「じゃ、遠慮なくいただくよ」
言うやいなや、三吉はきゅうりにむしゃぶりついた。またたく間に食べ尽くしてしまう。
満足の笑みを浮かべた三吉は、ふと気がついたように、
「で、おいらに何か用なのか?」
と言った。
「ああ」
頷いた八環が事情を話すと、
「なーるほど。そいつのことなら、おいら、知ってるぜ」
三吉はウンウンと大きく頭を上下に振った。
「何者だ?」
問う八環に、三吉は答える。
「うらはら[#「うらはら」に傍点]さ」
「うらはら[#「うらはら」に傍点]?」
三人は同時に声を上げた。うらはら[#「うらはら」に傍点]なんて妖怪《ようかい》は、初耳だったからだ。
「どんな妖怪なんだ? 会ったことはあるのか?」
八環が問うと、三吉は答えた。
「会ったことはあるけど、詳しいことは知らない。ただ、最近生まれた妖怪であることは確かだね。だいたい、うらはら[#「うらはら」に傍点]っていう名前だって、おいらがつけたんだ」
「どんな姿をしてる?」
「実体はないよ。まだ、意識だけの存在だ。やつが肉体を持つまでには、もうしばらく時間がかかるだろうね」
「さっきの話がやつの仕業であるという根拠は?」
「それは間違いない。やつが近づくと、なぜか思ってることと逆の行動しかできなくなるんだ」
「なるほど。それでうらはら[#「うらはら」に傍点]か。うまく名づけたもんだな」
八環は感心した。実にうまいネーミングである。
「そうだろ」
誇らしげに胸を張った三吉、続けて、
「とにかく、すごいパワーでね、おいらも一度、ひどい目に遭った」
と言う。だが、腹を立てている様子はない。不思議に思った八環が、
「ひどい目に遭った? この池はおまえの縄張りなんだろ? 新参者に荒らされて、平気なのか」
と訊《き》くと、
「平気も何も、感謝してるくらいだよ。やつのお蔭《かげ》で、このあたり、ずいぶん静かになったんだからな」
三吉は嬉《うれ》しそうに答えた。
「そうか。そうだよな……」
八環は頷いた。流と大樹も頷いている。
三人とも、三吉の気持ちはよくわかった。最近では、どこもかしこも観光地化が進み、妖怪たちには住みにくい時代になっている。この不忍池も例外ではないのだ。
黙りこんでしまった三人に、
「ほかに訊きたいことは?」
三吉が反対に訊いてきた。
「うらはら[#「うらはら」に傍点]と接触するには、どうしたらいい?」
八環が訊くと、三吉はニヤッと下卑《げび》た笑みを浮かべて答えた。
「簡単さ。女と一緒にボートに乗ればいい。やつは、スケベな若者が大好きだからな」
「なーるほど」
八環は納得した。彼がボートに乗ったとき、うらはら[#「うらはら」に傍点]が現われなかったのは、彼がひとりだったからだろう。女性と乗っていたら、彼もうらはら[#「うらはら」に傍点]の餌食《えじき》になっていたかもしれないのだ。
「ほかに訊くことがないんなら、おいら、帰るぜ」
三吉が言う。
三人とも、今の段階では、特に質問は思い当たらなかった。
「ああ。もういいよ。ご苦労さん」
八環が言うと、
「そっか。じゃ、またな」
三吉は水掻《みずか》きのある手を挙げて言い、水中に身を沈めた。
現われたときと同様に、さざ波が去っていき、やがて見えなくなる。
「うらはら[#「うらはら」に傍点]か……」
八環は感慨深げに呟《つぶや》いた。
先にも述べたように、妖怪はさまざまな想い≠ゥら生まれる存在である。
初めからラブホテルの前で待ち合わせるような、すでに行き着くところまで行ってしまったカップルはともかく、不忍池でボートに乗るなどという可愛いデートをしている若いカップルの多くは、自分を偽って行動している。
男は、女を自分のものにしたいと思っているくせに、表面上は紳士を装っている。女も、男のすべてが知りたいと思っているくせに、なかなか踏み切れずにいる。――どちらも、鬱屈《うっくつ》した想い≠胸に秘めているのだ。
不忍池に集う若者たちの、そういった想い≠ゥら新しい妖怪が生まれることは、充分に考えられた。
本心とは裏腹な言動を取らせることによって、鬱屈した想い≠解放させるべく生まれた妖怪。――それがうらはら[#「うらはら」に傍点]である。
だが、うらはらの被害(?)に遭った若者たちの話を総合すると、うらはら[#「うらはら」に傍点]の力が及ぶのは、鬱屈した想い≠セけではないらしかった。うらはら[#「うらはら」に傍点]に取り憑《つ》かれた者は、すべてにおいて、自分の本心とは裏腹な行動をするようになってしまうと言う。
おそらく、まだ生まれたばかりのうらはら[#「うらはら」に傍点]は、鬱屈した想い≠ニ純粋想い≠フ区別がつかないのだろう。それは、仕方のないことだった。
と――
突然、大樹が口を開いた。
「ねえ。しばらくは、うらはら[#「うらはら」に傍点]の好きにさせてあげましょうよ」
同意を求めるように、八環と流の方を見る。
「そうだな」
八環は頷いた。
不忍池の主とも言える河童の三吉も、うらはら[#「うらはら」に傍点]の誕生を喜んでいるのだ。よほどひどい被害でも出ない限り、うらはら[#「うらはら」に傍点]は自由にさせてやるべきだろう。だいたい、これくらいの領分すら許されないなんて、妖怪が哀れではないか。
「じゃあ、これで一件落着ですね」
大樹、嬉しそうに言う。
「ああ、そうらしいな」
八環は答えた。続いて、
「流も異論はないだろう?」
と流の方に目をやる。当然、すぐに返事が返ってくるものと思っていた。ところが……。
(はて?)
八環は首を傾《かし》げた。流の様子が、少しばかりおかしかったからだ。
流は口を真一文字に結び、何かを思索するように池を見つめていた。想い返してみれば、先ほどから流はひと言も口をきいていない。
「流、どうしたんだ?」
八環が声をかけると、
「八環さん、考えてみたんですが……」
ようやく流は口を開いた。
「なんだ?」
「ええ。もし、あの色男をここに連れて来たら、どうなるでしょうか?」
「色男って、サトリに取り憑かれているとかいう大学生のことか」
「そうです。彼がここでデートをするとなれば、サトリも尾《つ》いてくるはず。もしサトリとうらはら[#「うらはら」に傍点]が出会ったら……?」
流はここで言葉を切り、八環と大樹の顔を交互に見つめた。
しばしの沈黙ののち、
「ひねくれもののサトリと、うらはら[#「うらはら」に傍点]か……」
八環、ぼそっと呟く。
「どうなるかわかりませんけど、確かに面白い試みではありますね」
大樹が言った。
「そう。どうなるか、わからない。でも、やってみる価値はあると思うんだ」
流が言う。
「そうだな。ひょっとすると、うまくいくかもしれない」
八環も同意を示したが、
「しかし、どうやってサトリをここへ連れて来るんだ? やつは心が読めるんだぞ。危険とわかっている場所に、のこのこやってくるとは思えない」
と流の顔を見た。
「あの色男に言わなければいいんです。ただ、不忍池でデートするように伝えて、それ以外は何も教えない。彼が知らなければ、サトリにも知りようがありません」
「もうひとつ。われわれが加担していると知っても、それでもサトリは誘い出されるだろうか」
「それも大丈夫です。やつは自分の読心能力を過信していますから、用心ということを知りません。多少の危険は感じても、いや、危険を感じればなおさら、そこへ足を向けようとするでしょう。つまり、やつの読心能力を逆に利用するというわけです」
「なるほどな。で、彼の住所は?」
「マスターがメモを持っています」
流が答えると、
「わかったよ」
八環は深く頷いた。大樹も感心したように頷いている。
サトリの性格を読み切った作戦である。確かに、サトリを誘い出すまでは、うまくいくだろう。問題は、そのあとだ。サトリとうらはら[#「うらはら」に傍点]が出会ったとき、果たして何が起こるのか?
ここでいくら議論したところで、決して結論が出ることはない。可能性を検討することはできる。しかし、実際にそういう状況になってみなければ、わからないのである。――イチかバチかの賭けと言えるだろう。
ふたりが同意したのを見て、
「では、とりあえず帰るとしましょうか」
流は言い、さっさと歩き出した。八環と大樹もあとに続く。
そして。
三人はふたたびフォルクスワーゲンに乗りこみ、 <うさぎの穴> へと引き返したのであった。
5 サトリVSうらはら[#「うらはら」に傍点]
<うさぎの穴> に戻った一行は、マスターに、まずうらはら[#「うらはら」に傍点]のことを話した。
「ほほお。うらはら[#「うらはら」に傍点]ねえ……」
ふむふむと頷《うなず》いたマスターだったが、続いて、流が自分の発案した作戦を告げた途端、
「な、なんと……」
と眉《まゆ》をひそめた。しばし腕を組んで考えたのち、
「わたしが反対しても、やる気なんだろ?」
と流の顔を見る。
「はい」
流は力強く答えた。
流だって、この作戦が危険な賭《か》けであることは承知していた。だが、ほかに名案がない以上、多少は危険でも、やってみるしかないのである。
「ほらよ」
マスターは流に、正彦の家の住所と電話番号が書かれたメモを渡した。
「どうも」
メモを受け取った流、早速カウンターの端に置かれている電話機に歩み寄る。
真夜中だが、こういうことは早いに越したことはないのだ。
メモに書かれた番号をプッシュすると、呼び出し音が三回鳴って、受話器の外れる音がした。
「はい。牧原です」
聞き憶えのある声が耳に飛びこんでくる。
「流だけど……」
流が言うと、
「なんだ、あんたか……」
不機嫌な声が返ってきた。
「悪かったな、女でなくて」
流は言った。遊び人、遊び人を知る。流には、プレイボーイの心情が、痛いほど理解できるのだった。
「こんな夜中に、何の用だ?」
これまた不機嫌な声。しかし、
「あんたを救う手立てが見つかったんだ」
流が言った途端、
「ほ、ほんとかよ」
正彦の態度が一変した。それまでとは別人のように、声が弾んでいる。
「ほんとだよ。ただし、あんたにも手伝ってもらわないといけない」
「どうすればいい?」
「不忍池へ行き、女性とボートに乗って欲しいんだ」
「え? 不忍池でボートに?」
正彦は驚いたように反復した。
「あそこは、縁切り池≠ニ呼ばれているんだぜ。ただでさえもフラれまくってるのに、その上、そんな縁起のわるいところでデートなんかできるものか。理由を説明してくれ」
と言う。だが、
「理由は話せない」
あっさりと受け流した流は、
「ところで、明日、デートの約束をしてたよね」
と唐突に話題を変えた。
「そ、そうだけど……」
戸惑いつつも返事を返す正彦に、さらに問う。
「場所と時間は?」
「四時に池袋だ」
「なるほどな」
流は頷いた。
正彦のデート・スケジュールを完璧《かんぺき》に知っているサトリが、明日のデート現場に現われることは、まず間違いなかろう。
問題は、そのあとだ。その彼女が不忍池に行ってくれればいいが、サトリが現われたら、デートは三十分と保たないだろう。それでは、正彦が不忍池に向かう動機が希薄になってしまう。正彦に動機を与えるためには……?
「ほかに誰か、明日つき合ってくれそうな女性は?」
問う流に、
「明日の女が最後だ。そう言っただろ?」
正彦は答えた。
「それは聞いた。でも、あんたなら、ひとりくらい何とかなるだろ?」
プレイボーイのプライドをくすぐる言葉。一種の挑戦とも言える。こう言われては、正彦も受けて立つしかなかった。
「ま、まあな……」
曖昧《あいまい》に答えた正彦は、必死に記憶をまさぐった。
と。正彦の脳裡《のうり》に、ひとりの女性の顔が浮かんだ。
山川美穂。――大学のクラスメートだ。気立ては優しいし、成績もトップクラス。正彦に気があるらしく、日ごろから何かと世話を焼いてくれる。だが、いつも彼は冷たく応じていた。
理由は簡単。彼女は美人ではなかったからである。決してブスというわけではないが、正彦の目から見れば、美女以外は皆ブスなのだ。
「ま、心当たりはないこともないけど……」
正彦が言うと、
「よし。話は決まった」
流は言った。
もちろん、サトリの性格からして、正彦がサトリを不忍池に連れて行きたがっていると知れば、そこでデートがあろうとなかろうと、不忍池に向かう公算は強い。
しかし、もうひとりの女性とデートの約束をしておけば、それはさらに確実なものとなるのだ。
「明日、デートをする前に、そのもうひとりの女を誘うんだ。待ち合わせ場所は、なるべく不忍池の近くがいい。そうだな。ボート乗り場がベストだ。それと、時間も早い方がいいな。五時でどうだ?」
畳みかけるように言う。案の定、正彦は反発した。
「おいおい。勝手に決めるなよ。おれはオーケーしたなんて言ってないぜ。それに、五時なんてムチャだ。最初の相手とは、四時に待ち合わせているんだぜ。せめて八時にしてくれ」
不満を露わにして言う正彦に、流は冷静な声で答えた。
「わかってるって。でも、よく考えてみろよ。どうせ例の邪魔者が現われたら、彼女は怒って帰っちまうんだぜ。そのあと八時までボーッと過ごすより、次のデートに行った方がいいだろうが。池袋から上野まで、三十分もあれは充分だ。どうだ、バッチリじゃないか」
「し、しかし……」
なおも正彦が何か言いかけるが、流はそれを遮った。
「何も訊《き》かないで、とにかく、おれの言う通りにしてくれ。おれが言いたいのは、それだけだ」
堅い決意を秘めた口調で、ビシッと言う。
「わ、わかったよ。言う通りにする。何も訊かない」
流の迫力に圧倒されるような感じで、正彦は頷《うなず》いた。これ以上、何を訊いても無駄だと悟ったのだ。
「では」
と言って受話器を置こうとした流に、
「ま、待ってくれ。あんたたちも明日、不忍池に来るのか」
正彦が言う。
「何も訊くなと言ったはずだ」
流は答えた。
「そ、そうだったな。じゃ、明日に備えて、寝ることにするよ」
「ああ。おやすみ。今夜はゆっくりやすんでくれ」
流は言い、受話器を置いた。
「ふうう……」
と大きく息を吐く。
サイは投げられたのだ。
すべては明日の結果を待つだけであった。
一方、受話器を置いた正彦は、しばしそのままの体勢で立ち尽くしていた。
「そうだよなあ……」
ぼそりと呟く。
冷静になって考えてみれば、何もかも流の言う通りだった。
連中は、正彦の考えをことごとく読み通している。
すなわち――
正彦は何も知らない方がいい。いや、知ってはいけないのである。やつらと戦い、そして勝利するためには……。
わけがわからないながらも、正彦は納得したのであった。
翌朝。
正午前に目覚めた正彦は、山川美穂に電話をかけることにした。
ふだんは大学に行っている時間だが、今日は日曜日なので、おそらく家にいるだろう。
ゼミ名簿で電話番号を調べ、そのナンバーをプッシュすると、すぐに彼女本人が受話器に出た。
「牧原だけど」
「あら、牧原くん。どうしたの?」
彼女、嬉《うれ》しそうな声で応《こた》える。
「うん。よかったら、今日、ちょっとつき合ってもらえないかな、と思って……」
正彦が言うと、彼女の声のトーンが上がった。
「ええっ? それって、もしかしたら、デートのお誘い?」
「ま、そういうことだ……」
ぼそぼそと答える正彦。
「もっちろん、いいわよ」
彼女は浮きうきした声で言った。
「五時に上野ではどうかな?」
「いいわよ」
何の疑いも持たずに了承する彼女。ところが、
「じゃ、五時に、不忍池のボート乗り場で」
正彦が口にした途端、
「ええーっ? 不忍池?」
彼女は驚きの声を漏《も》らした。彼女も、不忍池の噂《うわさ》を耳にしたことがあるのだ。
「あっ、あの噂のことか」
「そう」
彼女は言い、押し黙った。
「馬鹿だなあ、別れるつもりなら、誘ったりするかよ。だいたい、おれたちはまだ交際してないんだぜ。別れるも何もあるものか」
正彦が言うと、
「あ、そうだったわね」
彼女は言い、けらけらと笑った。やたら明るい性格なのだ。
「いいわ。五時に、不忍池のボート乗り場で会いましょ」
と言う。
「ありがとう。じゃ、またあとで」
正彦は言い、電話を切った。
ほっと安堵《あんど》の息をつく。
正彦の額から、汗がドドッと流れ落ちた……。
午後四時。
正彦は池袋東口・西武百貨店十一階にある喫茶店 <カフェ・ギャリコ> に来ていた。
テーブルを挟んだ向こう側には、ガールフレンドの坂口恵子がいる。今のところ、邪魔者の姿は見えないが、決して油断はできない。連中(正彦は相手を複数と思っていた)は、いつも唐突に現われるのである。
(いつ来るか、いつ来るか)
恵子の話に言葉を合わせながらも、正彦は内心、戦々兢々《せんせんきょうきょう》としていた。
と――
「よおっ」
突然、頭の上から声が聞こえてきた。
「ん?」
会話を中断し、声の聞こえてきた方向に目をやるふたり。
ひとりの中年男が、正彦たちの坐《すわ》っているテーブルの前に立っていた。軽く手を挙げ、にこにこと笑みを浮かべている。初めて見る顔だが、その正体はだいたい見当がついた。
(来たな)
正彦が思った途端、
「来たよ」
男は言い、
「ここ、坐らせてもらうよ」
恵子の隣に腰を降ろした。相変わらず、ずうずうしいやつだ。
「昨日はどうしたの? 待ってたんだぜ」
正彦を見て言う。
「そ、それは……」
正彦は口ごもった。脳裡に、 <うさぎの穴> で会った人々の顔が浮かぶ。
すると男は、
「 <うさぎの穴> だと? ほほお。おれを誘い出そうってか。面白い。おれ様を出し抜けるってんなら、やってみやがれ」
と言い、にたりと不敵な笑みを浮かべた。さらに、
「こんな女のことなんか放っておいて、早いとこ不忍池に行こうぜ。 <うさぎの穴> とやらのやつらに、思い知らせてやるっ」
と言う。
「こ、こんな女ですって!?」
正彦より先に、恵子が素早く反応した。それまで、ふたりの遣《や》り取りを呆然《ぼうぜん》と眺めていたのだが、「こんな女」と言われて、いきなりプッツンしたのだった。
「正彦さん。こいつ、何者なのよ。あんなこと言わせて、黙ってるの?」
正彦に向かい、鬼気迫る形相で言う。
「あ、いや、そ、それは……」
しどろもどろになった正彦の代わりに、男が言った。
「姉ちゃん。こんな男のこと、忘れた方がいいぜ。何しろあんた、十三番めだ」
「十三番め?」
「そうだとも。この男には山のようにガールフレンドがいて、あんたは十三番めの女に過ぎないんだ。それに、こいつ、五時から別の女と会う約束をしているぜ」
べらべらとまくし立てる。
「正彦さん、本当なの?」
恵子は男から視線を正彦に移し、鋭い詰問口調で言った。
「あ、ああ」
正彦、仕方なく頷《うなず》く。山のようなガールフレンドがいたのは過去の話だが、今さらそれを言ったところで、無駄なことだとわかっているのだ。
すると、
「そうなの。そういうつもりだったの」
恵子は憤然と言い、荒々しく席を立った。
「あたしたち、これっきりね。さよなら」
スカートを翻し、出口へと小走りに駆けていく。十三番めという言葉が致命傷だった。彼女のプライドはグサグサに切り刻まれてしまったのだ。もはや彼女を引き止めることは、誰にもできないだろう。
呆然と彼女のうしろ姿を見送っている正彦に、
「さ、上野へ行こうぜ」
男は言った。楽しくてたまらない様子だ。
(どうしてこんな無理な設定を押しつけたんだ? 結局、やつの思うツボなんじゃないのか)
正彦が心のなかで流を恨めしく思うと、即座に、
「そうだよな。全く、何を考えてるんだか」
と男は相槌《あいづち》を打った。
心の底から愉快そうであった……。
上野・不忍池。
流と八環は、午後四時半ごろからボート乗り場の近くの茂みに待機していた。
四時五十分。
「おい、来たぞ」
鋭い視力を持つ八環が、流の脇腹を突っついた。
「どこです?」
「あっちだ」
八環、遠くの方を指差す。
指された方に目を凝らすと、ふたりの男がボート乗り場に向かって歩いて来るのが見えた。――正彦と中年男である。
「あの中年男がサトリか」
「そうでしょうね」
などと話し合っているうちに、ふたりはどんどんボート乗り場に近づいて来た。
中年男が、
「さあ、来てやったぞ。ここに何が待ってるっていうんだ」
などと声高に喋《しゃべ》っているのが耳に飛びこんでくる。
それを聞いた八環は、そっと流に耳打ちした。
「どうやらすべては計画通りに進んでいるようだな」
「ええ、そうですね」
流、頷く。
やはりサトリは、自分の読心能力に過剰な自信を持っていた。でなければ、のこのこと不忍池にやってくるわけがない。流の読みは、ズバリ的中したのである。
あとは、うらはら[#「うらはら」に傍点]がサトリの存在に気づくのを待つだけ。しかし……。
こればかりは、運命に祈るしかなかった。
そのころ――
うらはら[#「うらはら」に傍点]は池の上を漂っていた。もちろん、ただ漂っているわけではない。ボートに乗っている人たちの心を、こっそりと覗《のぞ》きこんでいるのだ。
うらはら[#「うらはら」に傍点]が求めているのは、鬱屈《うっくつ》した想い≠セった。鬱屈した想い≠正常な状態に戻してやることこそ、うらはら[#「うらはら」に傍点]の生きている証《あか》しなのだ。少なくともうらはら[#「うらはら」に傍点]は、そう信じていた。
と。突然、うらはら[#「うらはら」に傍点]は興味深い意識を察知した。
ひと言で言えば、ひねくれた想い≠セった。若者たちの鬱屈した想い≠ニは、ひと味もふた味も違う。こんな想い≠ノは、今まで出会ったことはなかった。なぜだかわからないが、妙にそそられるものがある。
その想い≠フ持ち主は、どんどん池に向かって近づいてくる。
狂おしいまでの欲求を覚えたうらはら[#「うらはら」に傍点]は、ほとんど本能の命ずるまま、そちらの方に向かった。
ついに! うらはら[#「うらはら」に傍点]とサトリが遭遇する瞬間がやってきたのであった……。
ボート乗り場の桟橋の上。
「うっ」
サトリは呻《うめ》き声を発した。がっくりと膝《ひざ》をつき、両の拳を握り締める。
いきなり自分の意識のなかに、何か別の意識が潜りこんで来るのを感じたのだ。
(な、なんだ、こいつは……?)
サトリは必死に心を閉ざそうとした。
(出ていけ。出ていけ。出ていけえええ!)
歯を食いしばって、自分の心に流れこんでくる意識を追い出そうとする。
驚いたのは、正彦だった。
それまで陽気に軽口(いや、憎まれ口か)を叩《たた》いていた男が、急に膝をつき、苦しげに呻き始めたのだ。誰だって驚くだろう。
「だ、大丈夫か?」
正彦は心配げに男の顔を覗きこんだ。一瞬、自分を苦しめ続けている憎っくき相手であることも忘れていた。
男は、ものすごい形相で天を睨《にら》んでおり、正彦には目もくれなかった。他人に構っている余裕はないのだ。
次の瞬間。
「うわっ!」
正彦は思わず悲鳴を発し、大きくあとずさった。勢い余って、ペタンと尻餅《しりもち》をつく。
正彦の眼前で起こったのは、まさに信じられない現象だった。悶《もだ》え苦しんでいた中年男が、突如《とつじょ》として異形の物体へと変貌《へんぼう》を遂げたのだ。
痩《や》せぎすのからだ。緑色の皮膚。ざんはら髪。吊《つ》り上がった大きな目。耳まで裂けた口。
あまりの苦しさに変身が破れ、サトリ本来の姿に戻っただけなのだが、そんなことは正彦は知らない。
「いったいこれは……?」
正彦はガクガク震えながら、その奇怪な化け物を見やった。ほとんど思考が停止した状態で、それしかできなかったのである。
片やうらはら[#「うらはら」に傍点]は、思いがけない抵抗に戸惑っていた。
彼の介入に気づき、なおかつそれを拒もうとするやつがいるなんて、信じられなかった。
しかし、強い想い≠ェ剥き出しになればなるほど、うらはら[#「うらはら」に傍点]の力も増幅される。
うらはら[#「うらはら」に傍点]は燃えた。
ぎりぎりとパワーを上げる……。
サトリは死に物狂いで戦っていた。
敵は、圧倒的なパワーを持つ意識の塊だった。
ともすれば、そのパワーの前に屈服しそうになるサトリ。
この得体の知れない意識を受け容れてしまいたい。
いや、受け容れてしまったら、もはや自分はサトリではいられなくなる。
サトリは、凄《すさま》じいまでの葛藤《かっとう》に苛ま《さいな》れていた。
攻めるうらはら[#「うらはら」に傍点]。
守るサトリ。
ややうらはら[#「うらはら」に傍点]優勢のまま、一進一退の攻防が続く。なかなか決着は着きそうになかった。
ところが、そのとき! 突如としてサトリの心に沸き起こる邪念。
(こいつ、なに考えてんだ? 心を覗《のぞ》いてやる)
自分の能力を過信する、サトリらしい過《あやま》ちだった。
その一瞬の隙《すき》をうらはら[#「うらはら」に傍点]は見逃さなかった。
今だ!
とばかりにうらはら[#「うらはら」に傍点]、サトリの心に全パワーを注ぎこむ。
うらはら[#「うらはら」に傍点]の猛烈なパワーが、サトリの意識を包みこんだ。それは、そばにいる正彦をも巻きこむほど強烈なものだった。
「おわああっ!」
サトリ、絶叫。絶叫。また絶叫。
次の瞬間――
「ん?」
サトリは小さく声を漏らした。一瞬、呆《ほう》けた表情になり、宙空を見つめる。
決着が、着いたのであった……。
しばらくのち。
サトリは、すくっと立ち上がった。
これまでさんざん苦しめた正彦に向かい、
「どうもご迷惑をおかけしました」
と丁寧に頭を下げて謝る。むろん心のなかでは、
(違う。違うぞ。おれはこいつをいたぶって遊びたいんだ)
と思っていたが、そんな感情はおくびにも出さない。出したくても、出せなくなってしまったのだ。
「い、いえ……」
正彦が首を小さく横に振ると、
「そうですか。それで安心しました。では、私はこれで失礼します」
サトリは言い、毅然《きぜん》とした足取りで去っていった。途轍《とてつ》もない葛藤に悩まされながら……。
「はあ?」
その姿を呆然と見送る正彦。その胸中にはクエスチョン・マークが渦巻いている。
「よっ。終わったな」
突然肩を叩《たた》かれ、振り向くと、そこには流の顔があった。すぐうしろに、見知らぬ男の顔も見える。
「この人は?」
問う正彦に、
「八環さんと言って、おれの友だちなんだ。今回の件でも、いろいろと相談に乗ってもらった」
流は答えた。
「どうも」
正彦が一礼すると、
「八環です。よろしく」
男は笑みを浮かべた。
「はあ。こちらこそ」
いちおう小さく笑みを返したものの、今は月並みな挨拶《あいさつ》を続ける気にはなれなかった。
正彦の胸中には、流に訊《き》いておきたいことが山積しているのである。――あの化け物の正体、そして、突然化け物の態度が一変した理由……。ついでに言えば、 <うさぎの穴> の実体も知りたかった。
男から流に視線を戻した正彦、早速疑問を口にする。
「それにしても、あの化け物は、いったい……?」
しかし流は、正彦の疑問に答えようとしなかった。
「そんなことより、ほら」
と言い、正彦の背後を指差す。
「え?」
振り返った正彦の視界に映ったのは、ひとりの若い女性の姿だった。こちらの方に近づいてくる。
「山川さん……」
正彦が呟《つぶや》くように言うと、
「もう悪夢は終わったんだ。変なやつに悩まされることはない。思いっ切り楽しんで来いよ」
流は言い、バチッとウインクをした。
「はあ……」
頷《うなず》いた正彦だったが、まだ釈然としない表情をしている。
(ちょっと嚇《おど》かしておくか)
思った八環は、
「でもな」
と口を挟んだ。
「あの妖怪は、あんたに騙《だま》された女たちの怨念《おんねん》が生んだんだ。これに懲《こ》りたら、今までのような生活は改めるんだな。でないと、また妖怪に取り憑《つ》かれるぜ」
と、厳しい目で正彦を見据《みす》える。もちろんでっちあげだが、正彦の胸には凄じく説得力のある言葉として響いた。
「は、はいっ」
正彦、背筋をピンと伸ばして答える。
その姿を見て、
「では、行きましょうか」
流が八環に言った。
「ああ」
頷いた八環、
「じゃあな。色男」
と、正彦に言う。
八環の言葉を合図に、ふたりは踵《きびす》を返して歩き出した。
「あ。待って」
あとを追おうとした正彦だが、右足を出したところで立ち止まった。すでに彼女が目の前に来ていたのだ。
「まっきはっらくんっ。おっ待ったせっ」
うしろに手を組み、弾むような声で言う。
彼らのあとを追うべきか。過ぎたことは忘れて、彼女との時間を優先させるべきか。
心は、すぐに決まった。
「山川さん」
名を呼び、彼女の手を取る。
三週間に及ぶ禁欲生活を続けていたから? いや、そうではなかった。
正彦は、自分の心に芽生えた不思議な感情に戸惑っていた。
自分でも恥ずかしくなるくらい、心がときめいているのだ。デートを前にして、こんな気持ちになるのは、絶えて久しいことだった。
(この娘《こ》と、新しいスタートを切ろうかな)
と思う。
正彦は、今まで忘れていた大切なものを思い出したような気がした。
それは、男と女――ひいては、人と人との信頼関係である。女性は、単なる欲求の捌《は》け口ではない。ましてや、騙して金を出させる相手でもないのだ。
(これからは、実直に生きていこう)
唐突に、正彦は思った。八環に釘を刺されたからではない。心の底から、そう思ったのだった。
むろん、いくらひどい目に遭ったとはいえ、正彦ほどの筋金入りのプレイボーイが、そんなに簡単に心を改められるわけがない。
実は……。
本人も気づいていないが、うらはら[#「うらはら」に傍点]がパワーを全開させたとき、正彦の心にも微妙な影響を与えていたのであった……。
八環と流は、若いふたりが手を取り合ってボートに乗りこむ姿を、茂みの陰から眺めていた。
「やりましたね」
流が言うと、
「おお。まさかサトリがいいやつ[#「いいやつ」に傍点]になるとは思わなかったかけどな」
八環は言い、苦笑いをした。
「ほんとですね」
流も苦笑いを浮かべる。
彼らの言う通りだった。
うらはら[#「うらはら」に傍点]を受け容れてしまい、本心と裏腹の行動しか取れなくなったサトリは、もはやサトリではない。単なるお人好しの妖怪となってしまったのである。
ひねくれまくった想い≠持つ心に居坐ったことで、うらはら[#「うらはら」に傍点]は満足しているだろうし、サトリも満足しているはずだ。(もちろん、本心とは裏腹に)
サトリとうらはら[#「うらはら」に傍点]。――二人三脚の妖怪。これからは、その読心能力を最大限に利用して、人間社会に貢献していくことだろう。
妙に気が利《き》く人に出会ったら……。それはもしかしたら、うらはら[#「うらはら」に傍点]に支配されたサトリかもしれない……。
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Take-3――――――――
あなたは小さかった頃、こんな経験はないでしょうか。日常的に存在するごく何気ないものが、ひどく恐ろしく感じられる。こわくてそれ[#「それ」に傍点]から目をそらせてしまう。そんなものはちっともこわくないんだと、自分に言い聞かせてもだめ。それ[#「それ」に傍点]のことを考えまいとすればするほど、それ[#「それ」に傍点]は頭にこびりついて離れない……。
僕の場合は水≠ナした。
特撮TVドラマ『ウルトラQ』の中に、「2020年の挑戦」という話がありました。ケムール人という悪い宇宙人が、地球人の若い肉体を手に入れるため、物質を電送する液体を使って地球人を誘拐するのです。アメーバのように動き回るその液体は、物蔭からこっそり忍び寄り、それに触った人間は、ぱっと姿が消えてしまうのです。主人公の万城目淳まで消されてしまうのは、子供心にひどくショックでした。
それ以後、しばらくの間、僕は道を歩いていても、水たまりを踏むことができませんでした。風呂に入っている時も、排水口の中からそれ[#「それ」に傍点]が這い上がってくるのではないかと、びくびくしていたのを覚えています。もちろん、それが単なるドラマにすぎないことは、はっきり理解していたのですが……。
その他にも、テレビで怪奇映画を見ていて、こわいメーキャップの幽霊や吸血鬼が出てくると、思わず目を伏せたことが何度もあります。
もちろん、今ではそんなことはありません。水たまりを平気で踏めますし、当時のB級映画より格段に進歩した現代のホラー映画のおぞましい特殊メイクを見ても、平然としていられます。
でも。
時おり、不思議に思うのです。子供の頃に感じたあの強烈な恐怖、あれはいったいどこへ行ってしまったのでしょう?
そもそも、なぜ「あるわけがないもの」があんなにもこわかったのでしょう……?
いや――
待ってください。本当にそれは「あるわけがない」のでしょうか? どうして子供の感覚の方が間違っていたと断言できるのでしょう? 単に僕たちが「ない」と勝手に思いこんでいるだけで、もしかしたら本当は――
そう、はっきりと覚えています。子供時代の僕の心は、「あるわけがない」と「もしかしたら」の合間で、微妙に揺れ動いていたのです。
そして今も。
僕の部屋には一体の人形があります。もう何年も前、道端に落ちていたのを拾ってきたものです。もちろん前の持ち主は分かりません。フラダンスをしているチョコレート色の肌の女の子で、高さは約二〇センチ、材質はソフトビニールです。たぶんオルゴールか何かに付いていたのでしょうが、台座は壊れてしまっていて、ちゃんと立ちません。
顔はまあまあかわいいのですが、頭髪の植え方など、いかにも安物という感じです。
「そんな汚い人形、捨ててよ」
と妻は言います。でも、僕はどうしても捨てることができません。特に愛着があるわけでもないし、ただで手に入れたものだから捨てても惜しくないはずなのに、ゴミ箱に放りこむのはためらわれるのです。
というのも――なぜかは分かりませんが――その人形には魂がこもっているような気がするからです。
そんなわけないのに。
そんなこと、絶対にあるわけがないのに。
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第三話  さようなら、地獄博士  山本 弘
プロローグ
1.隣に座った男
2.悪役スター
3.若き日の夢の跡
4.よみがえった悪夢
5.恐怖のプレゼント
6.勇気ある対決
エピローグ
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プロローグ
特撮ドラマ『銀河鳥人マグナマン』シナリオ
最終話「地獄博士の最期! さようならマグナマン」
昭和四七年九月三〇日放映
[シーン21・地獄ケ原]
マグナバギーに乗って悪路を走ってくるマグナマン。
ナレーター「マグナマンは次郎くんの服につけた発信機の電波を追跡していた」
電波探知機の点滅する矢印が前方を指している。
マグナマン「むっ? あれか!」
前方の崖《がけ》にトンネルが開いている。
マグナマン「暗黒軍団ガラガの本拠地! ついに見つけたぞ! ようし!」
トンネルに突っこんでゆくマグナバギー。
[シーン22・トンネル内]
立ちふさがる戦闘員をはじき飛ばして走るマグナバギー。
マグナマン「待っていろ、次郎くん、美奈子ちゃん、きっと助け出すぞ!」
[シーン23・ガラガ本部]
壁をぶち抜いて飛びこんでくるマグナマン。
むらがる戦闘員をマグナシューターの連射で倒す。
マグナマン「次郎くん! 美奈子ちゃん! どこだ!」
地獄博士「ふっふっふ……待っていたぞ、マグナマン」
はっとするマグナマン。
一段高くなった壇上に、黒いシルエットが立っている。
マントをさっと広げ、ドラキュラのような姿を現わす地獄博士。
マグナマン「地獄博士! 今日こそ決着をつけてやる!」
マグナシューターを地獄博士に突きつけるマグナマン。
地獄博士「おっと待て。これを見たまえ!」
懐から人形を取り出し、突きつける地獄博士。
驚くマグナマン。その人形は美奈子にそっくりである。
マグナマン「その人形は!? まさか美奈子ちゃん!」
地獄博士「その通り、私の魔力で人形にしてやったのだ」
マグナマン「何!」
地獄博士「おっと、動くなよ。もし動いたら……」
人形の首に手をかけ、もぎ取るそぶりをする地獄博士。
マグナマン「ま、待て!」
地獄博士「それならおとなしくするんだな。この娘がどうなってもいいのか?」
マグナマン「ううぬ、何と卑劣な……」
地獄博士「どうした。マグナシューターを捨てるのだ!」
マグナマン「しかたがない……」
マグナシューターを地獄博士の足元に投げるマグナマン。
地獄博士「ふふふ、それでよいのだ。これまで私の数々の計画を妨害された恨み、たっぷりと晴らしてくれるわ!」
地獄博士がステッキをひと振りすると、部屋が暗くなる。
怪しい光が明滅し、マグナマンを幻惑する。
部屋の四方から、これまでに倒された怪人たちが現われる。ムカデガラガ、ドクバチガラガ、キノコガラガ、ジャガーガラガ、ナマズガラガ……等など。
マグナマン「こ、これは!?」
地獄博士「きさまに倒された怪人たちの亡霊だ。私が地獄から呼び寄せたのだ」
近づいてくるムカデガラガに殴りかかるマグナマン。
しかし、そのパンチは相手の体をすり抜けてしまう。
反対に殴り返されるマグナマン。
地獄博士「ふはははは、無駄なことよ! 亡霊にパンチなど通用するものか。ここがきさまの墓場となるのだ、マグナマン!」
いっせいに襲いかかってくる亡霊怪人たち。
なすすべもなく、一方的に殴られるマグナマン。
地獄博士「ふはははは! 愉快愉快! 恨み重なるマグナマン、じわじわと苦しみながら死んでゆくがよい!」
その様子を柱の蔭《かげ》から見ている次郎少年。
次郎「あっ、マグナマンがやられている」
亡霊怪人たちにいたぶられ、マグナマンはピンチである。
次郎「このままじゃマグナマンが死んじゃう。どうしたらいいんだ」
その時、マグナマンの言葉が次郎の脳裏によみがえる。
*   *   *
マグナマン「(回想)私だって戦いはこわい。しかし、その恐怖を乗り越えるのが真の勇気だ! 君も勇気を持たなくてはだめだ!」
*   *   *
次郎「そうだ。これまでマグナマンは僕たちを何度も助けてくれた。今度は僕がマグナマンを助ける番だ」
柱の蔭から様子をうかがう次郎。
地獄博士はマグナマンに気を取られている。
柱から飛び出し、地獄博士に飛びかかる次郎。
美奈子の人形を奪い取ろうとしてもみ合いになる。
地獄博士「小僧、何をするか!?」
次郎「美奈子ちゃんを返せ!」
マグナマン「あっ、次郎くん!」
地獄博士「ええい、こいつめ!」
地獄博士、次郎を突き飛ばす。
床に倒れる次郎。目の前にマグナシューターが転がっている。
地獄博士「生意気な! きさまも人形にしてくれるわ!」
マントを広げ、次郎に覆いかぶさろうとする地獄博士。
次郎、とっさにマグナシューターを手に取り、引き金を引く。
ビームが地獄博士の顔面に命中!
地獄博士「ぐわあ!」
顔を押さえて苦しむ地獄博士。人形を取り落とす。
魔力が途切れ、亡霊怪人たちは消滅する。
人形を拾い上げ、マグナマンに駆け寄る次郎。
次郎「マグナマン!」
マグナマン「次郎くん!」
次郎「美奈子ちゃんは取り返したよ!」
マグナマン「よくやった! 後は私にまかせろ!」
次郎をかばって立つマグナマン。
どうにか立ち直る地獄博士。顔の右半分が焼けただれている。
マグナマン「地獄博士! もう容赦はしないぞ!」
地獄博士「おのれ! 私は負けぬ! まだ負けぬぞ! 見よ!」
マントをひるがえす地獄博士。
その姿が一瞬にして怪人デビルガラガに変化する。
マグナマン「おおっ!? そうか、地獄博士の正体はデビルガラガだったのか!」
デビルガラガ「その通りだ。しかし、私の正体を知った者は生きては帰れぬ! 行くぞ、マグナマン!」
マグナマン「望むところだ!」
マグナマンとデビルガラガのアクション。
デビルガラガにパンチを浴びせるマグナマン。
しかしデビルガラガの皮膚は固く、パンチは通じない。
苦戦するマグナマン。
デビルガラガ「わーはっは! そんなへなちょこパンチなどきくものか!」
逆に殴り飛ばされるマグナマン。
デビルガラガ「きさまの最期だ、マグナマン!」
巨大な鎌《かま》を振り上げて迫るデビルガラガ。
マグナマン、壁際に追い詰められる。
次郎「マグナマン、がんばれ! 負けるな!」
マグナマン「いかん、このままでは勝てない! 奴《やつ》に弱点はないのか!?……ん?」
デビルガラガの顔面に注目するマグナマン。
顔の右半分が焼けただれている。
マグナマン「あれはさっき次郎くんが……そうか!」
デビルガラガ「死ねえ、マグナマン!」
鎌を振り下ろすデビルガラガ。
それをかわし、高々とジャンプするマグナマン。
驚いて見上げるデビルガラガ。
マグナマン「マグナキック!」
デビルガラガの顔面にキックが炸裂《さくれつ》!
デビルガラガ「ぐわあああああ!」
顔を押さえて苦しむデビルガラガ。
その姿が地獄博士に戻る。
全身から煙を吐いて苦しむ地獄博士。
地獄博士「馬鹿な!? この私がきさまごときに負けるとは……!」
マグナマン「それは違うぞ、地獄博士! きさまは次郎くんの勇気に負けたのだ! 人間の、子供の、正義を愛する純粋な心に負けたのだ!」
地獄博士「ううぬ……だが、私は滅びぬぞ! いつの日か必ずよみがえり、地球を恐怖と暗黒で包みこんでやる!……暗黒軍団ガラガに栄光あれ!」
マントをひるがえして倒れる地獄博士。
爆発が起きて、その体は消滅する。
呪《のろ》いが解け、人間に戻る美奈子。
次郎「美奈子ちゃん、だいじょうぶ?」
美奈子「次郎くん、私、こわかった!」
二人を見下ろし、満足そうにうなずくマグナマン。
と、地響きが轟《とどろ》き、基地が崩壊をはじめる。
マグナマン「いかん、基地が崩れるぞ! 脱出だ!」
急いで部屋から逃げ出す三人。
[シーン24・地獄ケ原]
トンネルから飛び出してくるマグナバギー。
大爆発を起こして吹き飛ぶ基地。
次郎「やったあ! ガラガもこれでおしまいだね!」
うなずくマグナマン。
[シーン25・海岸(夕方)]
夕陽の海岸にたたずむマグナマン、次郎、美奈子。
マグナマン「次郎くん、美奈子ちゃん。これでお別れだ」
次郎「行ってしまうの、マグナマン?」
マグナマン「そうだ。暗黒軍団ガラガは滅び、私の使命は終わった。私はマグナ星に帰らなくてはならない」
美奈子「でも、また悪い人が現れたらどうしたらいいの?」
次郎「そうだよ。地獄博士はまたよみがえってくるって言ったよ」
美奈子「その時はまた帰ってきてくれるんでしょう、マグナマン?」
マグナマン「いいや、帰らない」
次郎「じゃあ、誰が地球を守るの?」
マグナマン「君たちだ! これからは地球は君たちの力で守るんだ」
次郎「でも、僕たちはマグナマンみたいに強くないよ」
マグナマン「そんなことはない。君たちの勇気と、正しい心は、何よりも強い武器だ。地獄博士を倒したのも、次郎くん、君の勇気なんだ。悪と戦う勇気さえあれは、どんな敵も恐れることはない」
次郎「勇気……」
マグナマン「そうだ。大人になってもその勇気を忘れないでいてくれると、約束してくれるかい?」
次郎「うん、約束するよ!」
マグナマン「良かった。では、私は安心して帰ることができる」
マグナバギーに乗りこむマグナマン。
マグナマン「さようなら! 君たちのことは星の彼方から見守っているぞ!」
次郎「さようなら、マグナマン!」
美奈子「さようなら!」
走り出すマグナバギー。手を振る子供たち。
マグナバギー、空に舞い上がる。
一番星に向かって飛びさってゆくマグナバギー。
ナレーター「悪と戦う勇気を子供たちに教え、マグナマンは故郷のマグナ星に帰っていった。この地球がいつまでも平和であることがマグナマンの願いだ。そのためには君たちも、悪と戦う強い大人になってほしい。
ありがとうマグナマン! さようならマグナマン!」
[#地付き](終)
1 隣に座った男
午後八時。ビデオ屋めぐりの帰りにふらりと立ち寄った新宿三丁目の焼鳥屋は、ひどく混んでいた。一瞬、克巳は入るのをためらったが、カウンターに空いた席があるのを見つけ、やはりこの店で夕食を済ませることにした。この時間帯、このあたりの店は、どこも同じようなものだ。あまり腹も減っていないし、焼き鳥は手頃だろう。
割れ物の入ったビニールの四角い袋を大事そうに抱えた克巳は、小声で「すいません」と言いながら、人をかき分けるようにして席に座った。右隣には勤め帰りのサラリーマンのグループが座っており、酔った勢いで人生論らしきものを戦わせていた。左隣に座っているのは、灰色の背広を着た、痩《や》せた初老の男で、カウンターの奥にあるテレビを眺めながら、一人で黙々と焼鳥を食べていた。店内は賑《にぎ》やかな話し声であふれ、テレビの野球中継の解説者の声をかき消していた。
「へい、お飲み物からお聞きします!」
ねじり鉢巻きをした店員が、威勢のいい口調で注文を取りに来た。
「えっと……酎《ちゅう》ハイ」
「へい、酎ハイいっちょう!」
「それと盛り合わせ……とりあえずはそれだけ」
「へい、盛り合わせね!」
「あ、お兄さん。お冷やお代わり」
隣に座っていた初老の男が、空のコップを振り上げて言った。ちょっとキザなしぐさだ。
「へい、ちょっとお待ちを!」
店員が去ってゆくと、克巳は足の間に置いた平たいビニール袋の口をそっと広げ、中を覗《のぞ》きこんでにやついた。そこには今日ようやく手に入れた、彼の宝物が入っていた。
東宝映画『青島《チンタオ》要塞《ようさい》爆撃命令』のLDだ。
一九六三年、彼が生まれた年に作られたこの映画は、日本の戦争ものには珍しく、第一次世界大戦でのおおらかな空中戦を扱っている。特技監督は円谷《つぶらや》英二で、複葉機の飛行シーンのリアリティ、ラストの大爆発シーンの見事さは、ハリウッドのSFXに慣れた現代の目で見ても新鮮である。円谷というと『ゴジラ』をはじめとする怪獣映画がすぐに思い浮かぶが、むしろこうした空戦物に本領が発揮されていることは、マニアの常識だ。
克巳はにんまりと微笑《ほほえ》んだ。子供の頃にテレビ放映で見て以来、もう一度見たくてたまらなかった作品だ。ボーナスでLDのデッキが買えたので、ようやく見ることができる――と言うより、この作品がLD化されるのを知って、デッキを買う決心をしたのである。
加奈子のやつ、怒るだろうな、と克巳は苦笑した。妻が「またこんなつまらないものにお金使って!」とぼやく顔が目に浮かぶようだ。彼がしまいこんでいる特撮関係アイテムや資料は、妻にはガラクタの山でしかないが、彼にとってはどれもかけがえのない宝物なのだった。中には子供の頃から大事に持っている怪獣のソフトビニール人形などもあり、これはマニアの間では数万円の値がついている代物である。八歳になる娘が触って壊したりしないよう、押し入れの奥に隠してある。
うちには子供が二人いるのね、というのが加奈子の口癖だった。
「へい、酎ハイお待ち!」
店員がやって来て、カウンターの上にコップを置いた。克巳は慌ててビニール袋の口を閉じた。LD自体は見られて恥ずかしいものではないが、それを見てにやついている自分は、やはり見られると恥ずかしい。
「そっちのお客さん、お冷やね!」
「ん、ありがと」
初老の男は礼儀正しく頭を下げたが、またすぐにテレビの野球中継に見入った。巨人が逆転できるかどうかの瀬戸際のようだ。
焼鳥が来るのを待つ間、克巳は何気なく店内を見回しながら、コップを持ち上げ、口をつけた。
「……ん?」
克巳は違和感を覚えた。念のためにもうひと口、すすってみる――間違いない。これは酎ハイじゃなく、ただの氷水だ。
じゃあ、僕の酎ハイはどこに……と思ったその時――
「うわああああ!」
隣ですごい悲鳴がした。コップが床に落ちて砕ける音。びっくりして振り返ると、あの初老の男が咽喉《のど》を押さえて苦しんでいた。激しく咳《せき》こみ、咳の合間には犬のように舌をはあはあと出している。周囲の客は身を引き、気味悪そうに見つめていた。
克巳はおそるおそる訊ねた。「どうしました?」
「み……水……」男はかすれた声で言った。
「水?」
「水じゃなかった……」
「あ……」
克巳は瞬時に事態を理解した。頭の中が真っ白になる。店員が彼の酎ハイのすぐ近くに男のお冷やを置いたのだ。二人ともぼんやりしていて、コップを取り違えてしまった。克巳は水を、男は酎ハイを、知らずに飲んだのだ。
しかし、酎ハイをひと口飲んだぐらいで、こんなに苦しがるものだろうか……?
「水、飲めますか?」
他に方法を思いつかなかったので、克巳は自分の持っていた氷水を差し出した。男はコップを奪い取って、ぐいぐいと飲んだが、それでもまだ苦しそうだ。トイレに行こうと、よろよろと席から立ち上がった。
「あっ!」
克巳は悲鳴をあげたが、間に合わなかった。男はよろめいた拍子に、彼の大事なLDを蹴飛《けと》ばし、踏みつけてしまった。
男はトイレに駆けこむ。克巳も慌ててそれを追った。LDも心配だが、今はやはり人間の身を案じなくてはならない。
克巳が入ってゆくと、男は洗面台にかがみこみ、蛇口に口をつけて、必死に口の中をゆすいでいた。その慌てぶりときたら、滑稽《こっけい》さを通り越して異様なほどだ。
「……いやあ、ひどい目に遭った」
男はようやく平静を取り戻し、洗面台から顔を上げて、ハンカチで口をぬぐった。
「あ、あの、すみません。僕がコップを間違えたせいで……」
「あん? ああ、いいですよ。あたしだってそそっかしかったんだ。へへ」
男は顔をぬぐいながら照れ笑いを浮かべた。鏡に映ったその顔を見て、克巳ははっとした。
この顔には見覚えがある……。
「あ、あの、失礼ですけど……」克巳は心臓の鼓動を押さえながら言った。
「はい?」
「朝津三郎さんじゃありませんか? 俳優の……」
「ああ、そうだけど?」
克巳は頭の中にぱっと太陽が射したような気がした。憧《あこが》れのスターと偶然に顔を合わせるなんて、こんなすごい幸運があっていいのだろうか!?
「僕、あなたの大ファンなんです!」
2 悪役スター
「どうだい?」
カウンターに戻り、LDのジャケットを覗《のぞ》きこむ克巳に、朝津は心配そうに声をかけた。克巳は絶望的にかぶりを振った。
「……やっぱりひびが入ってます」
「そうかあ。すまんことしたねえ。弁償するよ」
「いえ、そんな……」
「だって、大事なものだったんだろ?」
克巳は返答できなかった。大事でなかったと言えば嘘《うそ》になる。だが、金額の問題ではないのだ。大作映画や人気映画と違い、この手のマニア好みの映画のLDは発売枚数が少なく、手に入りにくい。このLDも、新宿近辺のレコード屋やビデオ屋を何軒も回り、ようやく見つけた一枚だった。注文するという手もあるが、それでは手に入るのに何日もかかる。
それに、憧れの朝津三郎にLDを弁償させるというのも、何となく気が引けた。彼が誤って酎《ちゅう》ハイを口にしてしまった責任は、半分は自分にあるのだから。
「ほんとにすまないねえ」朝津は重ねて謝った。「あの時は苦しくて動転してたもんだから」
「……お酒はだめなんですか?」
「ああ、一滴もだめ。体質なんだな。酎ハイでまだ良かったよ。ストレートだったらブッ倒れてたな。へへ」
朝津は苦笑した。屈託のない笑顔で、克巳のミスを非難している調子はまったくなかった。
「俳優さんって、お酒飲みばかりだと思ってました」
「仲間はみんなそうだけどね。あたしだけはだめ。だから映画の打ち上げの宴会の時なんか、隅っこでおつまみ囓《かじ》って、淋《さび》しい思いしてるんだよ――でも、焼鳥は好きだからね、よくこういう店に来るの」
「そうですか……」
克巳はもう一度、名残惜しそうにLDのジャケットに目を落とした。
「東宝の戦争もんだね?」
「ええ、円谷です」
「特撮、好きなの?」
「ええまあ……」克巳は恥ずかしさに肩をすくめた。「いわゆるオタクですね。女房にはしょっちゅう怒られてますよ。『三〇過ぎてこんなもんに夢中になって』って」
「それじゃあ、六〇過ぎてこんなもんやってるあたしは、いったい何なんだ!」
朝津は爆笑した。克巳もつられて苦笑する。
「あなたの出られた番組、ずいぶん見ましたよ。特に『マグナマン』の地獄博士――」
「ああ」朝津は懐かしそうにうなずいた。「あれは自分でも気に入ってるよ。最高の当たり役だったと思ってる」
「でしょうね。強烈に印象に残ってますよ」
それはおおげさな表現ではない。二〇年以上を経た今でも、彼の中では『マグナマン』は最高の番組だった。
七〇年代前半、日本はいわゆる第二次怪獣ブーム≠セった。一週間に一〇本以上の変身ヒーローものが放映されており、子供たちを夢中にさせていた。その中でも『銀河鳥人マグナマン』は、ややマイナーではあるものの、小学生だった克巳を強く魅了していた。
今から見れば、ひどい低予算番組であった。マグナマンのデザインはダサいし、怪人の着ぐるみはお粗末、特撮はピアノ線がもろに見えていたし、脚本もマンネリだ――だが、そんなことは些細《ささい》な問題にすぎない。克巳を惹《ひ》きつけたのは、主役のマグナマンでも、特撮でもなく、悪役の地獄博士だったのだから。
子供心に地獄博士は恐ろしい存在だった。奇術師のようなシルクハットをかぶり、コウモリのようなマントに身を包んだ怪人だ。彼はほとんど毎回のように子供を誘拐した。夜道を歩いている子供を尾行し、背後から襲いかかる。子供が一人で留守番をしているところを狙《ねら》って、窓から侵入して飛びかかる。学校の保険医に化け、保健室で待ち伏せる……マントをさっとかぶせると、子供は小さな人形にかわってしまうのだ。
そうやって誘拐された子供たちは、基地に連れて来られ、様々な恐ろしい目に遭わされる。キノコガラガに胞子を浴びせられてキノコ人間にされたり、ドクバチガラガに悪のエキスを注入されて悪人に変えられたり、美食家のナマズガラガに生きたまま食べられそうになったり、地獄の医師ガマガラガに解剖されそうになったり……。
たまに塾などで帰りが遅くなり、夜道を歩いている時など、後ろから地獄博士がつけてくるのではないかという妄想にとらわれ、思わず駆け出してしまったことが何度もあった。おもちゃ屋のショーウインドウに飾られている着せ替え人形が、地獄博士に人形に変えられた子供のように思えて、前を通る時は目をそらせた。寝る時は地獄博士が入って来られないよう、窓の鍵はしっかり掛けた。学校でお腹が痛くなった時も、保健室に行かずにがまんした……。
もちろん地獄博士など実在しないことは知っていたし、自分の恐れがナンセンスなものであることも自覚していた。だが、ブラウン管の中の地獄博士には、九歳の子供にそうした強迫行動を取らせるほどの強烈な迫力があったのだ。
そんなにこわいのなら見なければいいのに、と母があきれたことがある。だが、見ないわけにはいかないのだ。マグナマンの活躍で地獄博士の陰謀が阻止され、誘拐された子供たちが救出されるのを、毎週ちゃんと確認しないことには安心できないのだった。最終回で地獄博士が爆発した時には、もうこれで夜道を恐れないで済むと、ほっと胸をなで下ろしたものだ。今となっては何もかも懐かしい思い出だ。
その地獄博士を演じたのが、目の前にいる初老の俳優、朝津三郎なのだった。終戦直後の混乱した時代に映画界に飛びこみ、克巳の生まれるずっと前から、スクリーンやブラウン管で、悪役ひとすじに活躍してきた男だ。
「でも、すぐには気がつきませんでしたよ。テレビで拝見するのとでは、ずいぶん印象が違ってましたし……」
「本物は貧相だろ?」
「そんなことは――」
「いやいや、正直に言ってくれていいよ。役者はメイクで化けるもんだからね。メイク落とした顔は情けないもんさ」
「でも、変な気分ですね」克巳はしみじみと言った。
「ん? 何がだい?」
「あの当時、あんなにこわかった地獄博士と会えたのが、こんなに嬉《うれ》しいだなんて」
朝津は愉快そうに目を細めた。「そんなにこわかったかい?」
「ええ、夜も眠れないほどでした――ほら、秘密書類の隠し場所を知ってる子供を拷問にかける話があったでしょ? ベッドに縛りつけられた子供の上に、天井から大きな斧《おの》が振り子みたいに揺れながら降りてきて――」
「ああ、ありゃあポーの『陥穽《わな》と振り子』のパクリだよ。よくあるやつさ」
「でも、当時はそんなこと知りませんでしたからね。あの話を見た日は、夜中に布団の中で寝ていたら、天井から斧が降りてくるような気がしましてね。ろくに眠れませんでしたよ」
「へえ、そうかい」朝津はにやにや笑っている。
「ああ、それからナメクジガラガの回もこわかったですね」
「えーと、どんな話だったっけ?」
出演していた朝津よりも、克巳の方がストーリーに詳しそうである。
「ほら、地獄博士が建設中のマンションに罠《わな》を仕掛けて、マグナマンをおびき寄せるんですよ。誘拐された子供がロウ人形に変えられて、頭のてっぺんに火をつけられるんです。マグナマンが時間内にたどり着けないと溶けてしまうんです。タイトルが『怪人ナメクジガラガがお化けマンションで待つ』……」
「ああ、あったあった。覚えてるよ」
「それと、こんな話もありましたよね――」
それからたっぷり一〇分間、克巳は『マグナマン』がいかにこわい番組であったか、とうとうと説明した。
「いやあ、そこまでこわがってくれたとは嬉しいねえ」朝津はすっかり感激していた。「それでこそ悪役やってた甲斐《かい》があったってもんだ」
「楽しかったですか?」
「ああ、楽しかったねえ!」朝津は力をこめて言った。「そりゃあ俳優の中には、子供向け番組の悪役なんて……つて恥ずかしく思う奴《やつ》もいるけどね。あたしは違うね。悪役だって立派な役だ。悪役がいてこそ正義の味方が引き立つ。悪役がこわければこわいほど、ヒーローがかっこよく見えるってもんだ。違うかい?」
克巳は強くうなずいた。「その通りです」
「それにさ、あたしは根っから悪役が好きなんだな。いっぺんだけ、正義の味方をやってみたことはあるけど――」
「『電光ハンター7』ですね。ハンター・チームの隊長役」
「そうそう。でもね、やっぱり落ち着かないんだな。悪役の方がしっくりくる。正義の味方ってのは、子供の模範にならなきゃいけないだろ? だから堅苦しくてさ、羽目をはずせないんだよ。その点、悪役ってのはいくらでも遊べるからねえ」
「遊べる?」
「たとえば断末魔のシーンだな。さんざん悪事を重ねてきた悪役が、ラストでヒーローにやられる。こりゃあ、悪役としての最大の見せ場だ。こう、苦しそうなポーズで、かっと目を見開いて、ヒーローを恨めしそうににらむ――」
そう言いながら、朝津は手で強く胸を押さえ、右手で空をつかむような演技をしてみせた。指が苦しそうにぶるぶると震える。憎々しげに表情を歪《ゆが》め、虚空《こくう》をにらみつける。まるで鬼瓦《おにがわら》のようなすさまじい形相だ。そして歌舞伎《かぶき》のような大げさな台詞《せりふ》を絞り出す。
「おのれ何とかかんとか、必ず地獄からよみがえり、この恨み晴らしてくれるぞ!」
克巳ははっとした。それはまさしく地獄博士が死ぬ時に見せた表情だ。メイクをしていなくても、彼は地獄博士そのものだった。
「……とか言って、ばたっと倒れるわけだ」
朝津の表情は、一瞬にして、地獄博士からにこやかな初老の紳士に戻った。
「いいんだよなあ、これが。滅びの美学だ。主役にはできねえ楽しみだな」
そう言って朝津は無邪気に笑う。目の前でベテランの演技を見せつけられ、克巳はその迫力に圧倒された。
「……さすがですねえ」
「へへ」朝津は照れ笑いをした。「何しろ大部屋時代に時代劇にたくさん出たからねえ。主役の侍《さむらい》に斬《き》られるその他大勢の役でさ。何百回死んだか分かりゃしない。だから死ぬ演技だけはうまくなったね」
「そう言えば、地獄博士が倒れるシーンも、力がこもってましたね」
「そりゃそうさ。子供番組だからって、あたしゃ絶対に手は抜かない――いや、むしろ子供相手だからこそ、やる気が出るってもんだ。大人はしらけるだけだけど、子供は真剣に見て、真剣にこわがってくれるからねえ」
「なるほど」
「地獄博士についちゃあ、あたしもずいぶんアイデア出したもんさ。コスチュームとか、見得《みえ》を切るポーズとか……」
「子供を襲う時、ばさっとマント広げるでしょ? そのマントの裏側が真っ赤でね、それがすごく印象的だったんですよ」
「そうそう。あれもあたしのアイデアだ。プロデューサーさんに頼んでね、『赤マントのイメージで行きましょう』って言ったんだ」
「赤マント? 『野球探偵団』の?」
「違う違う。そういう妖怪《ようかい》がいたのさ。昭和初期にね」
「妖怪……ですか?」
そう言えば、妖怪図鑑でそんなのを見た記憶がある。確か『うる星やつら』にも出てきたことがあるはずだ。
「そう」朝津はいたずらっぽく笑った。「夕暮れの街を走り回る妖怪さ。赤いマントをひるがえしてね、夜遊びをする悪い子をさらってゆくんだよ」
「東北地方のナマハゲみたいですね」
「似てないこともないな。ナマハゲの都会版ってとこだろう。いつの時代にもそういうのはいるものさ――ほら、あの番組の何年か後に、口裂け女が流行《はや》ったじゃないか」
「ああ。なるほど……」
「いつの時代でも、子供はそういうものをこわがる。こわいけれども、好きなんだよな。だから友達の間にひそひそと噂《うわさ》を広める――そういう不気味なものに惹《ひ》かれる本能みたいなものがあるんだろうな。あたしらはそのニーズに応えてるわけだ。あたしだけじゃないよ。あの当時はスタッフもみんな、子供をいかにこわがらせるか、それにばっかり知恵を絞ってたからねえ。はたから見てたら、まるで変質者の集団だよな。子供を誘拐していたぶる方法ばっかり話してたんだから」
「PTAから抗議とかなかったんですか?」
「そりゃあ、あったさ! 特に『マグナマン』は評判悪かったよ。プロデューサーさんが嬉《うれ》しそうに話してくれたけど、毎週、良識ある視聴者からのお叱りの投書が、わんさか届いてたそうだ。ナンセンスだ、残酷だ、俗悪だ、子供に悪い影響を与える……ってね」
「でしょうねえ」母のしかめ面を思い出し、克巳はうなずいた。
「でもさ、それって筋違いってもんだよな。昔話を見てみな。『かちかち山』にしたって『舌切り雀』にしたって『こぶとりじいさん』にしたって、みんなものすごく残酷で、ナンセンスな話じゃないか。何でそんな話が何百年も語り継がれてきたかって言えば、子供がそういう話を好きだからだよ。なのに最近は、残酷な話を子供に見せるな、みたいな妙な風潮ができあがっちまった……」
「そうですね。『かちかち山』とかも、最近の絵本では、狸《たぬき》がお婆さんを殺してお爺《じい》さんに食べさせるシーンがカットされてるそうですし……」
「だろ? そういうのはなくしちゃいけない。どんなに科学が進歩しようと、子供にこわい話は必要なんだよ。その証拠にさ、大人からの抗議のハガキの何十倍も、子供から声援のハガキが届いてたんだよ」
克巳は苦笑した。「僕も一枚、出しましたよ。『マグナマン、早く地獄博士をやっつけてください』って」
二人は笑い合った。
「だからさ、かっこよく言えは、あたしらは、失われた昔話の代わりをやってみせてるわけなんだ。だから地獄博士は赤マントのイメージなんだよ。もちろんクリストファー・リーのドラキュラとか、怪人二十面相のイメージも混じってるけどな――それとさ、イタリア製のC級映画で『惑星からの侵略』ってのがあったんだ。知ってる?」
「ええっと、タイトルだけしか……」
克巳は恐縮した。見たことのないSF映画があるというのは、特撮ファンとしてはやはり恥である。
「ちょうどその頃、テレビで放映してたんだよ。まあ、すげえつまんない映画なんだけどさ、その中に、禿頭《はげあたま》の宇宙人がマント広げて、人間を小さくして誘拐するシーンがあったんだ。それでピンと来て、プロデューサーに進言したんだよ『あれをやりましょう。絶対に子供はこわがりますぜ』って」
克巳は驚いた。「じゃあ、あれも朝津さんのアイデア?」
「まあな。もっとも、それは口実だ。本音を言えば、人形にしちゃえは楽だったのさ」
「楽?」
「ああ――だってさ、第一回のシナリオ見たら、『地獄博士、子供を抱きかかえて走る』っで書いてあるんだぜ。そんなしんどいの、あたしゃ、やだよ!」
そう言って朝津は爆笑した。
楽しい裏話がいくらでも出てきた。克巳は時の経つのを忘れた。いつの間にか、時計の針は九時を回っていた。
克巳がちらちらと時計を気にしはじめたのを、朝津も気がついた。
「門限かい?」
「え、ええ……」克巳は恥ずかしそうにうなずいた。「女房に一〇時までには帰ると言っといたもんで」
「ははあ、恐妻家だな」朝津はにやついた。「家はどっち?」
「稲城《いなぎ》です。京王線の沿線の」
「へえ? そりゃ奇遇だね。あたしゃ多摩だよ」
「えっ、ほんとですか?」
克巳は驚いた。多摩市は稲城市のすぐ隣にあり、電車なら数分しかかからない。どちらも東京のベッドタウンとして、急速に発展した街だ。
「うん。そうだな、あたしもそろそろ帰るとするか……」
「明日もお仕事ですか?」
「いやいや、ここんとこ、ずうっと暇だよ。おかげで金欠だけどね。へへ」
克巳は考えた。悪役専門とはいえ、相手はベテラン俳優なのだし、こんな思いがけない偶然でもなければ、自分のような平凡なサラリーマンと親しく話してはくれないだろう。この機会を逃したら、二度と会うことはないかもしれない。
少しためらってから、克巳は思い切って身を乗り出した。
「多摩なら京王で帰られるんですよね? それとも小田急?」
「ああ、京王だけど……?」
「だったら、途中で僕の家に寄って行かれませんか? いえ、お手間は取らせません。ほんの三〇分ほどでいいんです」
「何かあるの?」
克巳は目を輝かせた。「ええ。ぜひ見ていただきたいものがあるんです!」
3 若き日の夢の跡
新宿から西の方向へは、JR中央線の他に、二本の私鉄が伸びている。京王帝都京王線と小田急小田原線である。二つの路線は並行して走っているが、京王線は調布駅で南向きの相模原《さがみはら》線に分岐し、小田急線は新百合ケ丘駅で北向きの多摩線に分岐して、ちょうど多摩市で合流するのである。
その合流地点の少し手前に、なだらかな丘陵地帯を抱えた稲城市がある。一九七四年に京王相模原線が開通して以来、急速に開発の進んでいるベッドタウンだ。
二人が稲城駅の改札から出た時には、時計の針は一〇時を回っていた。
「へえ、ちょっと見ない間にずいぶん変わっちまったなあ!」
駅前のバス・ターミナルを見て、朝津は感嘆の声をあげた。
「前に来られたことがあるんですか?」
「来られたも何も……『マグナマン』のロケしてたの、ここだよ」
「ええ!?」
「二〇年前は家なんて一軒もなかったよ。あの丘のとこまで、一面の造成地さ。マスクかぶった変な連中が格闘してても、誰も気にとめやしなかった――ほら、オープニングでマグナバギーが走ってくるところなんかも、ここで撮影してたんだぜ」
「信じられない……」
克巳は茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。脳裏に『マグナマン』のオープニングがありありとよみがえる。西部の荒野を思わせる赤茶けた不毛の野原。次々と爆発が起きる中、その白煙を突き抜けて疾走してくるマグナバギー。それがストップモーションとなり、『銀河鳥人マグナマン』のタイトルロゴがかぶる――だがその非現実的な光景は、目の前に広がるありきたりの新興住宅街とは、どうしても重ならない。
「他の番組もよくここを使ってたよ。撮影所から近くて便利だったしね――そのうち、駅ができて、家が建ちはじめてさ。爆発なんかできなくなっちまった。それで埼玉県の寄居《よりい》の砕石場にロケ先が移っていったんだ」
驚くべき偶然に、克巳は頭がぼうっとなった。『マグナマン』ファンの自分が住んでいる街が、かつて『マグナマン』のロケ地だったとは……。
「知りませんでした……この街にそんな歴史があったなんて」
「ああ――考えてみりゃ、二〇年ってのは長い時間だわな。生まれたばかりの赤ん坊が大人になって、何もない造成地が街に生まれ変わるんだから」
「他のロケ地もきっと、ずいぶん変わってるんでしょうね」
「だろうね――ああ、もっともナメクジガラガの時に使ったお化けマンション≠ヘ、今でもそのまんまらしいがね」
「へえ……」
自宅へと続く道、朝津を案内しながら、克巳は感慨をこめて舗道を踏みしめた。アスファルトで舗装される前、この道をマグナバギーが走ったのだろうか? あそこのコンビニが建っている場所では、マグナマンと戦闘員の格闘が繰り広げられていたのだろうか? あの坂の上で地獄博士が高笑いをしていたのだろうか……?
だが、そんな過去を示唆する痕跡《こんせき》は、どこにも見当たらなかった。
話をしながら歩くうち、克巳のマンションに到着した。克巳の部屋は五階にある。東に面した4LDKだ。
見知らぬ客を突然つれ帰ったので、加奈子は不機嫌そうだった。口では「どうもいらっしゃいませ」とか言っているが、目には露骨に警戒の色を浮かべている。悪役専門の俳優で、とても有名な人なのだと説明しても、そういう番組に興味のない加奈子には、何の感心もないことだった。
「ほらほら、この人だよ、この人!」
克巳は本棚から特撮雑誌『飛行船』のバックナンバーを引っ張り出してきて、地獄博士のスチールを妻に見せた。加奈子は「へえ、そうなの」と言って、しげしげと本物の朝津と見比べるが、やはり感慨は湧《わ》かない様子だ。彼女は克巳より四つ年下なので、『マグナマン』など見たことはなかった。
むしろ娘の舞衣の方が、スチールに興味をそそられたようだった。
「あー、タキシード仮面のまねしてるぅ!」
舞衣は雑誌の写真を指差して、嬉《うれ》しそうに叫んだ。シルクハットをかぶってマントをはおり、キザなポーズをつけた姿は、確かにそう見えないこともない。
「でも、かっこ悪〜い」
「いや、そうじゃないよ」克巳は慌てて説明した。「この人は正義の味方じゃないんだ。地獄博士って言ってね、すっごくこわい人なんだから」
「嘘《うそ》だあ。ぜんぜんこわく見えないよ」
「いやいや、そんなことはないぞ」朝津はにんまりと笑う。「おじさんはね、夜遊びをする子供を人形に変えて、どこかにつれてっちゃうんだ」
「そんなことあるわけないじゃん! ばっかみたい!」
小学三年の娘に遠慮≠ネどという概念はない。思ったことをずけずけと口にする。
「こ、こら……舞衣!」
「まあ、しょうがないだろうね。あの番組を見てないんじゃねえ」
朝津は笑っていたが、その笑みはどことなくひきつっているように見える。克巳は冷や汗の出る思いだった。
「いや、そんなことよりも、ぜひ朝津さんに見ていただきたいものがあるんです――ちょっと待っててください」
克巳は押し入れの奥から古い段ボール箱を引っ張り出した。捨てるに捨てられないたくさんのガラクタが乱雑に詰まっている。
「確か捨ててなかったはずだけど……」
妻のしぶい顔を尻目《しりめ》に、箱の中をひっかき回した。新聞紙に包まれた小さな人形を発見するのに、五分ほどもかかった。
「ほう、これは……」
テーブルの上に置かれた高さ五センチほどのフィギュアを見て、朝津は楽しそうに目を細めた。仕上げは荒いし、顔もあまり似てはいないが、まぎれもなく地獄博士だ。
「大学一年の時に造ったんです。タミヤの兵隊人形の改造です」
「よくできてるねえ」
「他にもオリジナルの怪人のマスクとかも造ったんですが、結婚する時に、大半は捨ててしまいました――でも、これだけはどうしても捨てることができなくて……」
克巳は大学時代を思い出していた。今のように東急ハンズに行けばフィギュア作りの材料が何でも揃《そろ》うような時代ではなかった。怪人のマスクにしても、完成までには大変な苦労があった。手芸店を何軒も回って探し出したウレタンのブロックを、ハサミとカッターナイフで削って形を造る。その上から、バスコークという浴室用の充填《じゅうてん》剤にリキテックスという絵の具を混ぜたものを、指でなすりつけてゆく……だが、手を真っ黒にして苦労した割には、できあがったマスクはひどく不細工だった。
そうした失敗作の数々の中でも、この地獄博士のフィギュアは、比較的よくできた作品だった。やはり思い入れの違いだろうか。
「これ、朝津さんに差し上げます」
「え? いいのかい?」
「ええ。思い入れがあるから、捨てるのは惜しいし、かと言って押し入れの中にしまいっぱなしじゃ、人形もかわいそうだし……本物の地獄博士に貰《もら》っていただけるなら、こんなに嬉《うれ》しいことはありません」
「そうか――しかし、大事なレーザーディスクを壊しちまったうえに、こんな思い出の品まで貰っちまっちゃ、悪いねえ」
「かまいませんよ。思い出の品なら、まだ他にもありますし……ほら」
克巳は段ボール箱の底から、やはり新聞紙にくるまれたものを取り出した。長さは二〇センチほど、SF的なデザインの透明プラスチック製の水鉄砲で、グリップの部分には「MAGNAMAN」という文字が印刷されたシールが貼《は》られている。
「これは……マグナシューターだ!」朝津は驚きの声をあげた。
克巳はにこにこと笑った。「ええ、小学生の頃、親にせがんで買ってもらったんです。確か当時は五〇〇円ぐらいだったと思います」
今ならオールドアイテムの店に持って行けば、一万円ぐらいで売れるだろう――もちろん手放す気は毛頭なかったが。
「すごいねえ。よくこんなもん、残しておいたね」
「ええ。好きでしたからね――あっ、こっちのを見てください。タカラの変身サイボーグが残してあるんですよ」
あきれて見ている加奈子を尻目に、男二人の無邪気な会話は、さらに一時間以上も続いたのだった。
名残惜しいものの、終電の時刻が近づいたので、克巳は朝津を駅まで送ってゆくことにした。加奈子はいちおう玄関まで見送りに出たが、終始、迷惑そうな表情は崩さない。舞衣は「バイバイ、タキシード仮面のおじさん」と手を振った。
二人は駅までの道をぶらぶらと歩いた。例の小さなフィギュアは新聞紙でていねいにくるまれ、朝津の背広のポケットに押しこまれている。
「それにしても、立派なお城だねえ」朝津は振り返って六階建てのマンションを見上げ、しきりに感心していた。「きっと収入もたいしたもんなんだろうね」
「いえ、とんでもない」克巳は慌てて手を振った。「三〇年ローンですよ。毎月の返済が大変なんです」
「へえ、そうなの?」
「ええ。おまけに都心の職場まで、往復二時間もかかりますしね。四年前、娘が保育園に上がる年になったのを機会に、思い切って購入したんですが、今じゃ後悔してます。この先、まだ四半世紀も働かなくちゃならないんだから」
克巳は舗道を見下ろし、大きくため息をついた。
「……まるで三〇年の懲役刑をくらった気分だ」
朝津は苦笑した。「まあ、結婚ってのは懲役刑だって言われてるからねえ」
「そう言えば、朝津さんは奥さんは……?」
「あたしかい? あたしは優雅な独身貴族を貫いてるよ。家庭を持たないってのは、身軽でいいもんさ」
「うらやましいですねえ」克巳はもう一度、しみじみとため息をついた。「僕も若い頃は、結婚なんかするまいって、心に決めてたはずなのに……」
「じゃあ、どうして……?」
「子供ができたんです」
「ああ……」
「罠《わな》にかかったようなもんですよ。女房と娘が降って湧《わ》いたもんで、人生設計ががたがたになった。夢もあきらめなくちゃならなかったし――」
「夢?」
「ええ。特撮の世界に入るのが夢だったんです」
大学時代、克巳は同じ夢を抱く仲間たちとともに、特撮研で熱心に活動していた。大学のホールで東宝の怪獣映画の上映会を開く一方、8ミリでアマチュア特撮映画を作ろうとミニチュアを試作したり、特撮技術の本を買って勉強していた。将来はプロの特撮マンになろうと思っていた(SFXなどという気取った略語は断じて使わなかった!)。
彼らの合言葉は「金を貯めてZC一〇〇〇を買おう」だった。ZC一〇〇〇というのは、コマ撮りや高速度撮影の可能な8ミリ・カメラの高級機で、これがなければ合成やミニチュア特撮は困難なのだ。
だが――
結局、ZC一〇〇〇は買えなかったし、映画も短い予告編を作っただけで、ついに完成しなかった。卒業の時期が近づくにつれ、仲間たちは一人また一人と夢をあきらめ、現実の道を歩みはじめた。ある者は印刷会社に、ある者は広告代理店に、ある者は商事会社に就職していった……。
その流れに最後まで抵抗したのが克巳だった。卒業後もアルバイトで食いつなぎながら、特撮マンへの道を歩もうと決意していた。夢をあきらめなくてはならなかった仲間たちみんなに代わって、自分が夢を実現させようと思っていた。
だが、加奈子と知り合い、子供ができたために、その夢もあっさり挫折《ざせつ》してしまった。妻と赤ん坊という重荷を背負いこんでは、もう甘い夢など追ってはいられない。結局、彼は平凡な商事会社に就職し、平凡なサラリーマン、平凡な夫となった……。
「時々、思うんですよ。もし女房と知り合わず、娘も生まれなかったら、どんな人生を歩んでいただろうかって……きっと、今よりも自由に、貧乏だけども夢を追って、楽しく、力強く生きられたんじゃないかって……」
朝津は露骨に顔をしかめた。「そりゃ、敗残者の台詞《せりふ》だな」
「僕は敗残者ですよ」
「そうかね? あんた、今でも夢を抱いてるんじゃないかい? あんなにたくさんのものを、捨てずに残してるじゃないか」
克巳は苦笑し、かぶりを振った。「単に未練がましいだけです。今さら会社を辞めて、特撮マンになんかなれるわけがない。マンションのローンもあるし、女房と子供を養わなくちゃならないんですから……あなたみたいに独身の人がうらやましいですよ」
「ふうむ……」
雰囲気が気まずくなり、会話が途切れた。二人は夜の歩道を無言で歩き続けた。
やがて稲城駅に着いた。さすがに十二時が近いので、改札口の前に人影はまばらだ。朝津は券売機で南大沢《みなみおおさわ》駅までの切符を買った。
「……ところでさ」振り返った朝津がぽつりと言った。
「何です?」
「あんたんとこの娘さん、いつもこんな時刻まで起きてるの?」
「え? ええ、まあ――」
「今じゃそれが普通なのかねえ」朝津は首をかしげた。「最近の子供は夜遅くまで塾に行ってたりするそうじゃないか。夜をこわがったりしないのかねえ。昔の子供は八時には寝たもんだったが」
克巳は恐縮したが、何とか弁明を試みた。
「昔とは環境が変わったんだと思いますよ。今はテレビもありますし、外も明るいですから――」
「……良くないねえ」
「え?」
「夜はこわくなくちゃいけない」朝津はきっぱりと言った。「子供が夜をこわがらなくなったら、おしまいだよ」
「はあ……?」
克巳はその言葉の意味を計りかねた。朝津は唇を噛《か》んで、何か考えているようだった。
やがて彼は顔を上げ、克巳を真正面から見つめて、意味ありげににやりと笑った。
「あんたにお礼をしなくちゃいけないね」
「お礼?」
「この人形をもらったし、それに、レーザーディスクを壊しちまったお詫《わ》びの意味もある。代わりにいいものをプレゼントしよう」
「そんな……気になさらないでください」
「いやいや、ぜひプレゼントさせてもらうよ。君がきっと幸せになれるプレゼントだ。楽しみに待っていたまえ、次郎くん[#「次郎くん」に傍点]」
「え?」
突然のことに、克巳はとまどった。それは『マグナマン』第二〇話「怪人バラガラガ・恐怖の誕生日プレゼント」の中の、地獄博士の台詞だった……。
克巳が問い返そうとした時、電車がホームに入ってきた。朝津は改札口をすり抜け、笑いながら階段を駆け降りていった。
「ふはははははははは……」
克巳は茫然《ぼうぜん》と突っ立っていた。マントこそひるがえしてはいないが、その笑いはまぎれもなく地獄博士の笑いだった……。
4 よみがえった悪夢
その翌日、覚巳は仕事がろくに手につかなかった。
憧《あこが》れの朝津三郎に会えた喜びよりも、彼が最後に残した台詞の方が気にかかった。「楽しみに待っていたまえ、次郎くん」……もちろん、ただの冗談に違いない。だが、その直前に交わした会話が、ドラマの内容と奇妙に符合しているのだ。
ドラマの中では、次郎少年が誕生日を前にして、ふとしたことから妹の由香とつまらない口論をする。母親が妹をかばって次郎を叱ったので、彼は怒って家を飛び出す。次郎は公園で出会った見知らぬ老人に、由香への不満をぶちまけ、「あいつなんかいなくなればいいんだ」と口走ってしまう。だが、実はその老人は地獄博士の変装なのだ。老人は次郎に「きっと幸せになれるプレゼント」をやろうと約束し、「楽しみに待っていたまえ、次郎くん」と言って、笑いながら去ってゆく。そして――
「そんな馬鹿な!」克巳は自分の考えを打ち消した。「何を考えてるんだ!? あれはただのテレビドラマじゃないか!」
だが、いくら理性で否定しても、意識の底から浮かび上がってくる形のない不安はぬぐい去れなかった。
その不安をさらにあおったのは、昼過ぎにオフィスにかかってきた電話だった。
<朝津だけど>
克巳はどきっとした。「あ、はい。昨日はどうも……」
<いやいや、こちらこそ――今晩、もういっぺん会えるかな?>
「いえ、今日はこれから得意先との打ち合わせで、その後、接待があるもんですから――」
<じゃあ、家に帰るのが遅くなるわけだね?>
「ええ、十一時頃になると思いますが……」
<そうか、じゃあ今日は会えないね。へへ> 朝津はいたずらっぽく笑った。 <じゃあ、次の機会に、また>
「あ、あの……」
問い返す暇もなく電話は切れた。
克巳は握り締めた受話器を見つめ、しばらく茫然《ぼうぜん》となっていた。できれば朝津に電話をかけ直して、昨日の言葉の意味を確かめたかった。だが、うかつなことに、こちらの会社の名前は教えたのに、向こうの住所や電話番号を訊《き》くのを忘れていた。連絡のつけようがないのだ。
まあいい、と克巳は思った。今度、電話がかかってきたら、ちゃんと確認しよう。あれがただの冗談であって、深い意味などないことを……。
だが――本当に意味などないのだろうか?
悪夢が現実になったのは、その夜のことだ。
得意先の接待を終えて、十一時過ぎに稲城に帰った克巳は、マンションの前の駐輪場で加奈子とばったり出くわした。
「ああ、あなた!」加奈子は混乱し、蒼白《そうはく》な表情でしがみついてきた。「舞衣が……舞衣がいなくなっちゃったの!」
「何だって!?」
克巳は衝撃を受けたが、驚きよりも先に恐怖を感じた。心臓を冷たい手でつかまれたような気がした。理性ではありえないと分かっていても、心の底ではこうなることを予想していたのだ。すべては定められたシナリオ通りに進んでいるように思えた。
「一時間ほど前に、駅前の『らんぽ』っていう酒場から、あなたが酔い潰《つぶ》れてるから引き取りに来てくれって電話があって――」
「そんな酒場、行ったことないぞ」
「そうなの。駅まで行ったんだけど、どこにもそんな酒場なんてないのよ。それでマンションに戻ったら、舞衣がどこにもいなくて――」
「『らんぽ』……か」
克巳はつぶやいた。乱歩と言えば怪人二十面相――地獄博士は怪人二十面相のイメージなのだと、朝津は言っていた。
「一人で出て行ったんじゃないか? コンビニに何か買いに」
そうであればいい、と克巳は思った。だが、加奈子は泣きながらかぶりを振る。
「違うの。あの子の靴はあるし、玄関の鍵はちゃんとかかってたわ。あの子の合鍵は机の上にあったし――だから玄関から出て行ったはずがないのよ!」
「じゃあ……」
「ベランダのサッシが開いてたの。それでべランダから落ちたんじゃないかと思って探しに出たんだけど――」
克巳はあたりを見回した。ベランダの真下は駐輪場になっており、十数台の自転車が置いてあるが、どこにも子供の落下したような形跡は見当たらない。五階から落ちたなら無傷では済まないはずなのだが――そう思いながら、五階の部屋を見上げた克巳は、どきっとした。マンションの屋上に、ほんの一瞬だが、何か赤いものが見えた気がしたのだ。暗い夜空を背景にひるがえったそれは、マントのように見えた……。
だが、その正体を見定めるよりも早く、それは見えなくなってしまった。
目の錯覚だ、と克巳は自分に言い聞かせた。
二人は五階の部屋に戻った。克巳は念のために玄関の鍵を調べた。何者かが鍵をこじ開けて侵入し、舞衣をさらい、元通りに鍵をかけ直して去ったのではないかと考えたのだ――だが、無理に開けたような形跡は発見できなかった。
考えられる可能性はひとつしかない。妻に馬鹿にされるのを承知で、克巳はその恐ろしい推理を口にした。
「誰かが君を偽の電話で呼び出しておいて、ベランダから侵入したんだ。そして舞衣をさらっていった……」
加奈子は目を丸くした。「そんなことできるわけないでしょ!――そりゃあ、身の軽い人なら五階のベランダまでよじ登って来れるかもしれないけど、途中で誰かに見つかるわよ。おまけに子供を抱えて降りるなんて、できるわけがないわ!」
「……一人だけ、できる奴《やつ》がいる」
「誰?」
「地獄博士」
二人の間に気まずい沈黙が降りた。加奈子はまじまじと克巳の顔を覗《のぞ》きこんだ。
「……冗談言ってる場合?」
「冗談じゃない。地獄博士なら空を飛べる。五階の窓から侵入するなんて簡単だ」
「頭がおかしいんじゃないの? 特撮番組の見すぎよ!」
「しかし――」
確かに理屈に合わないことは分かっている。現実はドラマとは違うのだ――だが、いくら否定しようにも、この奇怪なシチュエーションは、子供の頃に見た『マグナマン』のストーリーにそっくりなのだ。
ドラマの中では、次郎が夜になっても帰らないと聞いた天野卓矢ことマグナマンが、心配になって彼の家を訪れる。そこに地獄博士が「次郎くんが交通事故で怪我《けが》をした」という偽の電話をかけ、次郎の両親と天野卓矢を病院におびき出す。そして、次郎の妹の由香が一人で留守番をしている団地の一室に、ベランダから侵入する……。
その場面は子供心に特に恐ろしいシーンのひとつであり、鮮明に覚えていた。茶の間で一人、テレビを見ている由香。その背後、ベランダのガラス戸の向こうの暗闇《くらやみ》に、地獄博士の青白い顔が浮かび上がる。音もなくガラス戸が開き、地獄博士は室内に入ってくる。しかし由香はテレビに夢中で気がつかない。そして、背後に気配を感じて少女が振り返った瞬間、地獄博士はマントを広げて覆いかぶさる……。
その瞬間、テレビを見ていた九歳の克巳は、自分の背後に地獄博士が立っているような錯覚を覚えて、思わず振り返ったものだった。
まもなく次郎は帰ってくるが、家には誰もいない。そして彼は、自分の勉強机の上に、地獄博士からの恐ろしいプレゼントを発見する……。
「なあ」克巳はふと思いついて言った。「君に電話をかけてきた男だけど、もしかして、声は、朝津さんに似てなかったか?」
加奈子ははっとした。「そう言えば、似てたような気もするわ。でも――」
「彼は昼間、会社にも電話をかけてきたんだ。僕が何時頃に家に帰るか、確認したんだよ。君に偽の電話をかける時に、僕が帰ってちゃまずいからね――つまり、彼が舞衣をさらったと考えると、つじつまが合うんだ」
「そんな! 何であの人が舞衣をさらうのよ!?」
克巳は口ごもった。自分のせいだなんて言えない。自分が「もし女房や子供がいなければ」と口にしたせいだなんて……。
「だいたい地獄博士なんて、ただの架空の人物じゃないの! あの人はそれを演じた俳優さんなのよ?」
「そんなのは分かってるさ」
「分かってるなら、何でそんなこと言うのよ!?」
「それは――」
自分の感情を表現する言葉を、克巳は思いつかなかった。
彼の中では二つの矛盾する考えがせめぎ合っていた。論理や科学をつかさどる部分は、地獄博士など存在しないのだと言っている。だが、もう一方の部分は断固としてその説明を拒否している。論理など役には立たない。なぜなら、地獄博士が恐ろしいのは、論理を超越しているからなのだ。
そう、犯罪や交通事故や病気や災害も、確かに恐ろしい。だが、それらは日常の論理に支配された現象、科学的に説明がつく現象であり、その恐怖も日常の延長の恐怖にすぎない。だが、地獄博士は違う。彼の恐怖はまったく異質だ。彼がなぜ子供たちを恐ろしい目に遭わせるのか、論理的な説明はない。もちろん人間を人形に変えるなど、科学的にありえるはずがない――ありえないからこそ恐ろしいのだ。
「なぜだかは僕にも分からないよ! でも、すべてはあの番組のストーリー通りに進んでるんだ。だから次は――」
克巳は言葉を切った。
「次は、何なのよ?」加奈子は馬鹿にしきった口調で言った。
「子供部屋の机の上にプレゼントが……」
そうつぶやきながら、克巳はふらふらと舞衣の勉強部屋に入っていった。すべては妄想なのだ、机の上に何もあるはずがないのだ、と自分に言い聞かせながら……。
だが、それはあった。
真っ黒な紙で包装され、血のように赤いリボンがかけられた、高さ二〇センチほどの細長い箱――番組の中で次郎少年が受け取ったものとそっくりなものが、勉強机の上にぽつんと置かれている。まるで悪夢の中から実体化したように。
「あんなの、さっきはなかったわ……」加奈子が気味悪そうに言う。「この部屋も確かに探したんだもの……」
加奈子がマンションの外に出ている間に、犯人が戻ってきて、箱を置いていったとしか考えられなかった。
克巳はおそるおそる机に近寄った。箱には赤いカードがついている。わざわざ目を近づけて読むまでもなく、そこに何と書かれているか、彼は知っていた。
<親愛なる友へ 地獄博士>
「ねえ……」加奈子が背後から声をかけた。「開けてみてよ……」
克巳は泣きそうな顔でかぶりを振った。「いやだ……」
「どうして?」
「分かってるんだ――この中に何が入ってるか、僕には分かってるんだ……」
克巳は箱の前で硬直していた。恐怖で全身がしびれている。時間が二二年前に逆戻りし、あの時の記憶、あの時の感覚が、鮮明によみがえっていた。ブラウン管の前で恐怖に震えていた九歳の自分に、彼は戻っていた……。
あの時と違うのは、自分がブラウン管の中にいる、ということだ。
「早く開けてよ!」
加奈子が苛立《いらだ》って大声をあげた。だが、それでも克巳は動けない。
「いいわ、私が開ける」
「よせ!」
克巳は叫んだが、間に合わなかった。加奈子は箱をひったくり、ヒステリックに包装紙を引き裂いた。白いボール紙の箱が現われる。克巳は慌てて箱を奪い返そうとしたが、加奈子はその手をかわし、蓋《ふた》を開けてしまった。
中に入っていたものを、克巳は目にした。
細長いセロファンの緩衝材を敷き詰めた中に横たわっていたのは、身長十数センチの人形だった。小さな女の子で、髪は黒く、見覚えのあるピンクのパジャマを着ている。
その顔は舞衣にそっくりだった。
5 恐怖のプレゼント
「馬鹿なこと言わないで!」
加奈子は興奮して、リビングルームのテーブルを叩《たた》いた。テーブルの上に立っていた人形が揺れ、倒れそうになる。克巳は慌てて手で支えた。
「おい、気をつけろよ……」
「いいかげんにしてよ! あなたは本気で……本気でその人形が舞衣だと信じてるの?」
克巳は妻をにらみ返した。
「他に考えようがあるか?」
「あるわよ!」
「どんな?」
加奈子は髪をくしゃくしゃにかき回しながら、必死に別の仮説を探した。
「あの人はきっと変質者なのよ。舞衣を誘拐して、代わりにその人形を置いていって、あなたを混乱させてるんだわ」
「彼が舞衣と会ったのは昨日が初めてだぞ? たった一日で、こんなよく似た人形が作れるものか」
「名人なら作れるかもしれないじゃない!」
「いや、無理だ」
克巳はきっぱりと言った。フィギュア作りの難しさはよく知っている。フォルモ(手芸用粘土)で原形を造って乾燥させるだけで何日もかかる。彩色するのにさらに丸一日――それに、この材質はソフトビニールかセルロイドだ。素人が簡単に扱える素材ではない。
「それなら、きっとどこかの店で、よく似た人形を探して来たんだわ」
「このパジャマはどう説明する? あの子が着ていたパジャマじゃないのか?」
「あの人は昨日の晩、舞衣のパジャマ姿を見てたじゃない! 人形の服ぐらい、ミシンがあれは簡単に作れるわ!」
「それなら……」克巳は思いきって、人形のパジャマのズボンをずらしてみた。「あの子は今日、ウサギのプリントのパンツをはいてたんだな……」
「え?」
加奈子は驚いて振り返った。克巳は彼女に人形をつきつけた。
「まさか……」
加奈子の顔が蒼白《そうはく》になる。人形のパンツにはウサギの絵がプリントされていた。
「ぐ……偶然だわ」加奈子の声はかすれていた。
「じゃあ、これはどうだ。あの子の背中にはホクロがあったよな?」
克巳は人形の背中を加奈子に向け、パジャマをめくりあげてみせた。間違いなく、舞衣と同じ位置に、針で突いたぐらいの小さなホクロがあった。
「嘘《うそ》よ!」加奈子は絶叫した。「信じないわ! 絶対に信じないわよ! そんなことあるわけないじゃない!」
「そうだ、あるわけがない」克巳は静かに言った。「でも、それは現に起きたんだ」
「そんな……そんなことって……」
加奈子はぶつぶつつぶやきながら、テーブルの周囲を歩き回っていた。正気を失う一歩手前であることが克巳にも分かった。彼自身、自分の正気に自信が持てないのだ。こんなことが現実であるはずがない。悪夢の中にいるのだと思いたかった……。
緊張に耐えかねたのか、加奈子は急に身をひるがえし、電話機に飛びついた。震える指でプッシュボタンを押そうとする。克巳は慌ててその手を押さえた。
「何をする気だ?」
「決まってるじゃない! 警察に捜索願いを出すの! あの子を探してもらうのよ!」
「無駄だ」克巳は断言した。「いくら探したって見つかるわけがない。あの子はここにいるんだから……」
加奈子はうるさそうに夫の手を振り払った。「じゃあ、どうすればいいのよ!? このまま何もしないでいるつもり?」
「それは――」
「その番組の中では、いったいどうやって女の子は元に戻ったの?」
「……」
克巳は答えられなかった。その答えは、あまりにも絶望的だったからだ。
もちろんマグナマンが助けてくれたのだ。
地獄博士は恐怖のプレゼントと引き換えに、次郎を悪の世界に引きずりこもうと企んでいた。だが、次郎は断固として地獄博士の誘惑を拒否し、妹を元に戻せと迫った。怒った地獄博士は怪人バラガラガに次郎を殺させようとする。危機一髪、駆けつけてきたマグナマンは、バラガラガを倒し、地獄博士にも傷を負わせる。そのショックで呪《のろ》いが解け、由香は人間に戻った。
そして兄妹はめでたく仲直りした……。
しかし、今ここにマグナマンはいない。二二年前に宇宙に帰ってしまったのだ。
いや、違う――克巳は自分の思い違いに気がつき、かぶりを振った。最初からマグナマンなどいはしなかった。彼はテレビドラマの中の架空の人物なのだ。
「……私、もう一度探してくる」
加奈子は夫に背を向け、ふらふらと玄関に向かった。
「探すって……?」
「どこか見落としてるのかもしれない。あの子はどこかの物蔭《ものかげ》に落ちて、気を失ってるだけかもしれないわ……」
そう言って加奈子は外に飛び出していった。玄関の扉がぱたんという音を立てて閉まる。
「馬鹿な……何で分からないんだ」
克巳は頭を抱え、テーブルの上の人形を見下ろした。いくら外を探しても舞衣が見つかるわけがない。この人形が舞衣なのだ。地獄博士がベランダから入ってきて、娘を人形に変えてしまったのだ。
馬鹿げた考えだった。自分は狂ってしまったのだろうか? それともこの世界の方が狂ってしまったのか?
かわいらしい小さな人形は、世界観を根底からゆるがす恐ろしい意味を秘めていた。それを眺めていると、恐怖がじわじわと首を締めつけてくる。克巳は妻が部屋を飛び出した理由を理解した。彼女もこの恐怖に耐えられなかった。人形と同じ部屋にいることが、たまらなく恐ろしかったのだ……。
五分あまりもぼんやりとしていただろうか。静寂を破るけたたましい電話のベルが、克巳を現実に引き戻した。彼は急いで電話機に飛びついたが、誰からかかってきたかは、なかば予想がついていた。
<やあ、次郎くん> 受話器の向こうから聞き覚えのある声がした。 <どうだね、私のプレゼントは気に入ってもらえたかね?>
「よしてくれ……」克巳はどうにか声を絞り出した。「僕は次郎じゃない。それに、あんただって地獄博士じゃない……」
<本当にそう思うかね?>
克巳は自信が持てなかった。この男は朝津三郎なのか、地獄博士なのか、いったいどっちなんだ?
<地獄博士は変装の名人なんだよ。俳優に化けるぐらい、わけないことだ>
「……目的は何なんだ?」
<目的? もちろんあの素敵な人形をくれたお礼だよ。人形のお礼は人形で……理屈には合ってるだろう?>
不気味な笑い声が響いた。二二年前にテレビで何度も耳にした、あの笑い声――克巳は正気を失う寸前だった。
「人形なんか要らない! 娘を、舞衣を元に戻してくれ!」
<おやおや、私の好意を理解してもらえないようだね。娘がいなければ幸福になれたと、君は言ったじゃないか>
「あれははずみだ! 本気でそんなこと思ってやしない! 僕は娘を愛してるんだ! 失いたくないんだ!」
<本当にそうかね?> 男は意地悪く笑った。 <心の底のどこかで、妻や娘がいなくなってくれればいいと、願ったことはなかったかね?>
克巳は絶句した。その通りだった。確かに、ちらっと心の片隅で、そんなことを考えたことはあった……。
<図星だろう? 私は君のその願望を叶《かな》えてあげたんだよ>
「お願いだ……」
克巳はすすり泣いた。泣きながら受話器にしがみついた。
「頼むから元に戻してくれ……頼む……何でもするから……」
<いい年をして泣くなんて、みっともないよ。それより、私のもうひとつのプレゼントを受け取ってくれたまえ。これで君の幸福は完璧《かんぺき》なものになるはずだ>
「もうひとつ……?」克巳は不吉な予感に襲われ、ごくりと唾《つば》を飲んだ。
<言ったじゃないか。君にはお礼≠ニお詫《わ》び≠するって>
「まさか……」
<そうとも。さっきのは人形をくれたお礼、そして今度のはレーザーディスクを壊したお詫びだ。君の大事なものを壊した代わりに、君の不要なものを壊してあげよう……>
「やめろーっ!」
克巳は受話器に向かって絶叫した。しかし、受話器からは「ふはははは……」という不気味な笑い声が響いてくるだけだった。
唐突に電話は切れた。
「そんな……」
克巳は受話器を握り締めたまま、床にへたりこんだ。
彼は待った。夜明けまでまんじりともせずに待った。自分の予感が間違ってくれればいいと願った。
だが、ついに加奈子は帰って来なかった。
6 勇気ある対決
翌日、克巳は会社を休み、思いつくかぎりの場所を探し回った。
朝津が多摩に住んでいると言っていたのを思い出し、、多摩市の電話帳を調べた。確かに「朝津三郎」の名はあったものの、電話をしても誰も出なかった。念のためにその住所に行ってみたが、古い団地の一室は鍵もかかっておらず、中はもぬけの空だった。
彼がよく出入りしている撮影所に電話をかけてみた。応対に出た男は、熱狂的ファンの問い合わせには慣れているらしく、ぞんざいな口調で「俳優さんの予定は教えられません」の一点張りだった。それでも克巳がしつこく食い下がったので、ここのところ朝津の仕事の予定はまったくないと教えてくれた。
自分のマンションの周辺も徹底的に探した。ここがかつての地獄ケ原≠ネら、どこかにガラガの秘密基地が残っているのではないか、と考えたのだ――もちろん、そんなものがあるわけがなかった。
彼にはもう、何が現実で何がフィクションなのか、まったく分からなかった。妻と娘がいなくなったのが現実なのは確かだ。だが、地獄博士はどうなのだ? 昨夜かかってきたあの電話は、幻覚だったのだろうか?
地獄博士が実在するはずはない――だが、実在しない者が人間を誘拐したり、電話をかけてこれるわけがない。
夕暮れ、へとへとになってマンションに帰り着くと、電話が鳴っていた。
「もしもし!」
克巳は受話器をひっつかんでヒステリックに叫んだ。電話線の向こうから、くすくすという笑い声がする。
<元気なようだね、次郎くん>
「僕は次郎じゃないって言っただろう!」
<そんなことは些細《ささい》な問題だよ。それより喜んで欲しい。君の奥さんはもうじき、地上から消えてなくなる……>
「何だって!? 女房は――加奈子はどこにいるんだ!」
<ある場所だよ。誰にも見つからない秘密の場所だ。奥さんはそこに置いてきた――たった今、頭にロウソクを立てて、火をつけてきたよ>
克巳は全身から血の気が退くのを感じた。それはナメクジガラガの回に使われた手だった。あの時は頭にロウソクを立てられたのは次郎少年のクラスメートだったのだが……。
<大きなロウソクだから、火が頭に達するのに六時間ぐらいかかるだろう――君はセルロイドが燃えるのを見たことあるかね? 最近の人形はセルロイドなんか使ってないから、知らないかもしれないな。火がついたら一瞬だよ。緑色のきれいな炎をあげて、すうっと燃えつきてしまうんだ……>
「悪魔め……」
<そうとも、私は地獄博士だ。悪魔の化身だよ。ふははははは……>
電話は切れた。
「ちくしょう!」
克巳は怒りに我を忘れ、受話器を壁に叩《たた》きつけた。
「地獄博士め! いったいどこなんだ!? どこにいるんだ……!」
突然、混乱した脳裏にひらめくものがあった。絶望に沈んでいた克巳の心に、かすかな希望の光がともった。
そうだ、ストーリーが番組の通りに展開しているのなら、加奈子の居場所はあそこしかないじゃないか……。
午後九時半――
あの電話があって三時間後、タクシーを飛ばして、克巳はその場所にやって来た。そこは多摩市の南隣の町田市の北東部にあって、自宅からは車で二〇分もかからない距離だった。こんなに時間がかかってしまったのは、乗りこむための準備を整えていたのと、大学時代の特撮仲間に電話をかけて、ここの正確な住所を訊《たず》ねていたからだった。かつての仲間の中には、昔の特撮番組のロケ地を探索するのを趣味にしていた男がいて、彼にその場所の写真を見せてもらったことがあるのを思い出したのだ。
教えられた住所に間違いはなかった。克巳は少し手前でタクシーを降りると、紙の手提げ袋を持って、そこに向かって歩いていった。樹が黒々と生い茂った小さな丘の上に、白い月明かりを浴びて、まるで巨大な墓標のように、その異様な建物はそびえ立っていた。
お化けマンション。
その建物はそう呼ばれている。六〇年代の終わり頃に建設が開始された六階建ての大型マンションだが、半分ほど完成したところで土地所有権をめぐるトラブルが発生し、建設が中断してしまったのだ。以来、二五年以上、未完成のマンションはその不気味な姿をさらし続けている。まだ裁判が継続中なので、壊すに壊せないらしい。
現在は周囲を高さ二メートルほどの塀で囲まれ、誰も立ち入りできないようになっていた。克巳は塀に沿って半周し、どうにか侵入できそうな場所を発見した。塀のすぐそばに太い樹が生えていて、枝が敷地内に張り出しているのだ。克巳は手提げ袋をくわえて樹によじ登ると、塀の向こう側に飛び降りた。
靴が地面にぶつかった衝撃は、予想外に大きかった。克巳は闇《やみ》の中でしばらく足の痛みに耐えていた。子供の頃はマグナマンのまねをして、平気で高いところから飛び降りていたものなのに――やはり年なのだろうか?
頭上でばさばさっという羽音がしたので、克巳は驚いて首をすくめた。だが、特に変わったことが起きた様子はない。ただのカラスだったようだ。
痛みが退いてきたので、そろそろと立ち上がった。手提げ袋から懐中電灯を取り出し、あたりを照らしながら、慎重に建物に近づいてゆく。
間近で見るお化けマンション≠ヘ、いっそうすごい迫力があった。外壁ができていないので、部屋がすべて素通しになっており、まるで引き出しを抜き取られた書類棚か、内臓を露出した死体のようである。むき出しのコンクリートの柱は、月明かりを浴びて白骨のように白い。通路には手すりがなく、しかも途中で途切れている。階段には厳重に鉄条網が張られ、上がれないようになっていた。
その異様な外観から、何度も特撮番組のロケに用いられたことがある。特撮マニアなら知っている名所≠フひとつだった。『マグナマン』のナメクジガラガのエピソードも、ここで撮影されたのだ。
克巳は古くなった壁が崩れてこないか警戒しながら、建物の中に足を踏み入れた。床には小さなコンクリート片が無数に散乱しており、歩くたびにじゃりじゃりと音を立てる。恐怖が盛り上がり、心臓が高鳴った。
確かに見覚えのある場所だった。マグナマンがナメクジガラガの罠《わな》をかわしながら、この通路を駆け抜けたのだ。通路の奥には、人形にされ、頭にロウソクを立てられた子供がいるはずだった……。
克巳は目を凝らした。闇《やみ》の奥にぽつりと小さな光が見えた。星がまたたくように、不安定にゆらめいている――間違いない、ロウソクの灯だ。
慎重に、さらに慎重に……克巳は恐怖と戦いながら進んだ。左手に持った懐中電灯で油断なく周囲を照らし、右手は左肘《ひだりひじ》に吊《つ》るした手提げ袋に突っこんで、いつでも中のものを取り出せるよう身構えている。自分が現実の世界にいるようには思えない。ドラマの登場人物になった気分だった。
ひとつだけ確かなことがある、と克巳は自分に言い聞かせた。この世界にマグナマンはいないということだ。いくら待っても、いくら祈っても、危機一髪に駆けつけて、自分を救ってくれるヒーローなど現われないのだ。彼は最終回のマグナマンの台詞《せりふ》を思い出した――そう、今こそ勇気を奮わねばならない時だ……。
ロウソクの灯まで、ほんの一〇メートルほどに近づいた。そのロウソクが小さな人形の頭の上に立っているのが分かる。顔はまだ分からないが、人形が着ているワンピースは、確かに昨夜、加奈子が着ていたものと同じだった。
間に合った――克巳は安堵《あんど》した。ロウソクは人形の頭に達するまで、まだ数センチ残っている。彼はロウソクの火を消すために、最後の数歩を歩み寄ろうとした。
ゆらり。
人形の傍らの柱の背後から、黒い人影が現われた。克巳はびくりと立ち止まった。人影は彼の前に立ちはだかった。シルクハットをかぶり、白いステッキを持って、コウモリのようなマントをはおっている。ちらちらと見えるマントの裏は、血のように赤い。
「よく来たね、次郎くん」
地獄博士は凄《すご》みのある声でそう言うと、にたりと笑った。
克巳は唾《つば》を飲みこみ、必死になって恐怖に耐えた。くじけてはいけない。ここで恐怖に屈してしまったら、加奈子も舞衣も、永遠に戻って来ないのだ。
「お前なんかこわくないぞ……」
「ほう?」
「お前は二二年前に死んだんじゃないか。マグナマンに倒されたんだ。今のお前は過去の亡霊だ……」
地獄博士はくすくすと笑った。
「だが、必ずよみがえってくると約束したはずだ。そうじゃないかね?」
「ああ……」克巳は懸命に言葉を絞り出した。「……でも、僕も約束したんだ」
「約束だと?」
「そうさ。あの時、ブラウン管の前にいた僕たちはみんな、マグナマンと約束したんだ。悪と戦う勇気を、大人になっても忘れないと……」
「ふん、くだらんな」地獄博士は嘲笑《ちょうしょう》した。「お前にそんな勇気なんかあるわけがない。げんに今もがたがた震えているじゃないか――いや、たとえ勇気があったところで、それが何になる? 私を倒すことなどできはしない!」
「できるとも!」克巳は力強く言った。
「何だと?」
「お前を倒す武器も用意してきたんだ――これだ!」
そう言って克巳は、手提げ袋の中に入れて持ってきた武器≠取り出し、銃口を地獄博士の顔面に突きつけた。
一瞬、地獄博士は驚きに目をみはり――続いて爆笑した。
克巳が震えながら手にしている武器≠ヘマグナシューター――子供用のプラスチック製の水鉄砲だった。
「それが武器だと!? ふはははははは!」地獄博士は大口を開けて笑っている。
今だ!
克巳は力いっぱい引き金を引き絞った。薄く色のついた液体が勢いよく銃口からほとばしり、狙《ねら》いたがわず、地獄博士の口に飛びこむ。地獄博士の笑い声は、次の瞬間、すさまじい悲鳴に変わった。
「ぎゃあああああ!」
地獄博士は咽喉《のど》を押さえ、壁に体を打ちつけてのたうち回った。口から白い煙が出ている。
その液体は彼に対して劇薬のように作用しているのだった。克巳はなおも水鉄砲を構えながら、地獄博士の苦しむ姿を見守っていた。
克巳がマグナシューターに詰めてきたのはアブサン――アルコール度数七〇の世界最強の酒である。酎《ちゅう》ハイなどこれに比べれば水のようなものだ。
「お、おのれ……!」
地獄博士は激痛と戦いながらも、マントを広げ、ステッキを振り上げて、克巳に向かってくる気配を見せた。克巳はさらに水鉄砲を放った。アブサンは今度は目に命中した。地獄博士は再び悲鳴をあげ、目を押さえて後ずさった。
「馬鹿な! この私が……きさまごときに……負けるとは……!」
地獄博士は左手で虚空《こくう》をかきむしり、ステッキを持った右手で目を押さえながら、なおも数秒間、脚を踏ん張って立っていた。だが、ついに力つきたらしい。膝《ひざ》を折り、マントをひるがえして、どうっと前のめりに床に倒れる。シルクハットが床に転がった。
二度三度、地獄博士は手足を痙攣《けいれん》させた。それが断末魔であったらしい。動きが止まると同時に、その姿は霧がかかったようにぼやけ、薄れはじめた。
ほどなく、地獄博士の姿は完全に消えた。後に残ったのはシルクハットだけだった。克巳は緊張から解放され、長い安堵《あんど》のため息をついた。
通路の奥にあった人形が急に大きくなり、生身の加奈子に戻った。同時に意識も戻ったらしく、ショックのあまりよろめいて倒れそうになる。克巳は慌ててその体を支え、頭に載っていたロウソクを払い落とした。
「あなた……私……私……」
加奈子は目を見開き、口をぱくぱくさせている。
「こわがらなくてもいいよ」克巳は妻を強く抱きしめた。「悪夢は終わったんだ。もう心配することは何もない」
「でも、舞衣が――」
「だいじょうぶだよ。きっと元に戻ってるさ」
「何で分かるの?」
克巳は優しく微笑《ほほえ》んだ。「そういうことになってるからさ――さあ、早く帰ろう」
彼はよろめく妻を支えながら、その場を後にした。恐ろしい体験をした後なのに、気分は不思議と爽快《そうかい》だった。体内に自信が満ちあふれているのを感じる。
もう逃げないぞ、と克巳は思った。妻や娘がいなければ、別の人生を歩んでいれば、などと考えたりはしない。なぜなら妻や娘が自分にとってかけがえのない存在であることを、今度の一件で思い知ったからだ。
もちろん、この先も妻と娘をずっと養ってゆくのは、苦しい人生には違いない。だが、それは自分で選んだ道であり、この道を歩む以外にないのだ。人生は後戻りできない。ありえない可能性を考えてくよくよするのは、現実に立ち向かう勇気のない証拠だ。
克巳は微笑んだ。そう、地獄博士と戦うのに比べれば、ローンと戦うなど、たいしたことない。勇気さえあれば、どんな困難でも乗り越えていけるのだ……。
エピローグ
克巳と加奈子が立ち去ったのを見送ってから、ひとつの人影がお化けマンション≠フ奥に入っていった。暗い色の背広を来た長身の男だった。彼は鉄製の階段の裏側にひそみ、一部始終を見守っていたのだ。
彼は靴音を響かせながら通路を歩いてくると、戦いのあった場所で立ち止まった。それまで口にくわえたままがまんしていた煙草に火をつけて、ふうっと煙を吐き出す。
「……いつまでそうしてるつもりだ、赤マント?」
男がそう言うと、くすくすという笑いが闇《やみ》の中に響いた。
「八環の旦那《だんな》にゃかなわねえなあ。お見通しってわけですかい」
地獄博士の倒れた場所に、再びもやのようなものが現われた。それは人の形になり、むっくりと起き上がる。
「あい変わらず、死ぬ時の演技は大げさだな」
「へへ。やっぱり悪役やってると、これが最大の楽しみですからねえ」
朝津三郎――妖怪赤マント≠ヘ立ち上がり、体についた埃《ほこり》を払って、にんまりと笑った。
「それに今のは半分ぐらい演技じゃありませんでしたよ。マジで苦しかったんですから」
彼はげほげほと咳《せき》をし、目をこすった。声が少ししわがれている。
「酒を浴びせられるのは覚悟してましたが、あれほど強烈とはね。あと四、五発も食らったら、本当に死んでましたよ。もうちょっと長くやりたかったんだけど、とどめを刺されちゃかなわねえ。短く切り上げたわけで」
「根っから芝居が好きなんだな」
八環は顔をしかめた。赤マントは恥ずかしそうに頭をかく。
「そりゃもう、観客がマジに見てくれると、演技する方も張り合いがあるってもんで――八環さんも、さっきからずっと見てらっしゃったんでしょ?」
「ああ――昨日の晩、お前が例の妖術を使ったのを、霧香が感知してな。お前が四五年前の約束を破って、また子供をさらいはじめたんじゃないかって、警戒して出てきたわけだ。あの男が危ないようなら、しゃしゃり出るつもりだったが……」
「へへ、ご冗談を! 八環さんたちとまたやり合う気なんざ、毛頭ありませんや」
「危害をくわえるつもりじゃなかったっていうのか?」
「へえ、もちろん。人形にした奥さんと子供も、最初っから無傷で返してやるつもりでしたよ。もしあの男が、あたしを恐れて、家族を見捨てるような男であってもね。そんな情けない奴《やつ》なんか、どうなろうと知ったこっちゃない――でも、そうじゃなかった」
赤マントは克巳たちが立ち去った方向を眺め、愉快そうに目を細めて、しみじみとうなずいた。
「あの男はあたしの期待通りの――いや、それ以上の反応をしてくれた。これで人生に立ち向かう勇気も身についたことでしょうよ。これがあたしのささやかなお返しってわけです」
「お返し?」
「へえ。こいつの礼ですよ」
そう言って赤マントは、ポケットから地獄博士のフィギュアを取り出し、嬉《うれ》しそうに八環に見せびらかした。
「いいでしょう? これ、あたしですよ。番組が終わって二〇年以上経つっていうのに、今でもあたしのことを覚えてくれてる若い連中がいる――それを知っただけで、この朝津三郎、満足に退場していけるってもんです」
「これからどうするんだ?」
「そうですねえ。朝津三郎は借金に追われて失踪《しっそう》……ってことにしときますか。名前を変えて、顔を変えて、地方の劇団の下っ端あたりからやり直すつもりです」
赤マントは床に転がっていたシルクハットを拾い上げると、ぱんぱんと埃《ほこり》をはたき、また頭にかぶった。
「では、これで失礼をば――」
そう言ってキザなポーズで一礼すると、赤マントの姿は再び闇に溶けていった。
「しかしなあ、赤マントよ」八環は虚空《こくう》に向かって呼びかけた。「いくら人助けのためと言っても、子供を誘拐したり、罪もない人間をおびえさせたりするのは、あんまりいいこととは思えんぞ」
「おや、八環さん。何か勘違いなさってるんじゃござんせんか?」
闇の奥からくすくすという笑い声が返ってきた。
「あたしは悪役なんですぜ。いつの時代でも、子供を死ぬほどこわがらせるのが悪役ってもんでさあ。ふはははははは……」
笑い声はしだいに遠ざかり、闇の奥に消えていった。
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妖怪ファイル
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妖怪ファイル15
[文車妖妃《ふぐるまようき》(墨沢《すみさわ》文子《ふみこ》)]
人間の姿:眼鏡をかけた、小柄な女性。
本来の姿:妖怪仲間ですら知らない。
特殊能力:本の中の世界に送りこむ。書かれていない書物を呼びだす。
職業:古書|稀文堂《きぶんどう》店主。
経歴:平安ごろに、人が書物に託《たく》した想いから生まれた。以来、書物とともにすごしている。
好きな物:本と本好きな人間。
弱点:炎、湿気など本を傷めるもの。
妖怪ファイル16
[首酒《くびざけ》]
人間の姿:なし。
本来の姿:自由に動く真っ赤な液体。
特殊能力:物理的な打撃が通用しない。一部を人にもぐりこませてあやつる。高圧の水で攻撃する。
職業:なし。
経歴:1920年代に起きた異常な殺人事件にまつわる噂と、それにかかわった人々の想いから生まれた。女性の首をみずからに漬けこまずにはいられない。
好きな物:美しい女性の首。
弱点:高熱。
妖怪ファイル17
[こつりこつり]
人間の姿:腰が直角に曲がった老人。
本来の姿:全身真っ黒で、頭の大きな老人。顔には横一文字の口しかない。
特殊能力:影に変身する。足音を立てる。あらゆるものを飲みこみ消化してしまう。
職業:なし。
経歴:非常に古い妖怪で、夜道を歩く人間を脅《おど》かし喰らっていた。明治ごろに八環《やたまき》と戦い、人間を喰らうのはやめたが、脅《おど》かしのほうは続けている。
好きな物:酒、ガラス、砂、若い女性を脅《おど》かす。
弱点:影ができないように四方から光をあびせられること。
妖怪ファイル18
[サトリ]
人間の姿:様々。主として中年男。
本来の姿:緑色の皮膚に、ざんばら髪の小鬼。
特殊能力:他者の心を自由に読み取れる。様々な姿に化けられる。壁抜け、など。
職業:なし。
経歴:昔は山中に住んでいたが、人をからかう楽しみを覚えて、都会にやってきた。
好きな物:人間がうろたえている顔を見ること。
弱点:まるで考えてもいない行動をとられるとパニックにおちいる。
妖怪ファイル19
[うらはら]
人間の姿:なし。
本来の姿:もやもやしたかすみ。
特殊能力:本人がしようとしているのと正反対の行動をとらせる。ただし、それは秘められた願望であることが多い。
職業:なし。
経歴:まだ生まれたばかりで実体すらない。
好きな物:葛藤《かっとう》や矛盾をかかえた心。
弱点:特になし。
妖怪ファイル20
[河童《かっぱ》(三吉《さんきち》)]
人間の姿:なし。
本来の姿:伝説にあるとおりの、頭に皿、くちばしと甲羅《こうら》、緑の体。
特殊能力:水中で自由自在に行動できる。怪力。魚をあやつる。
職業:なし。
経歴:江戸ができる前には、利根川に住んでいたが、やがて不忍池に居を定める。いかにも典型的な河童。
好きな物:きゅうりと相撲。
弱点:頭の皿が乾くと、力が出せない。
妖怪ファイル21
[赤マント(朝津《あさつ》三郎《さぶろう》)]
人間の姿:初老の冴えない男。
本来の姿:シルクハットにマントの怪人。
特殊能力:人間を人形に変える。空を飛ぶ。姿を消す。
職業:悪役専門の俳優。
経歴:昭和初期、子供たちの夜に対する恐怖心から誕生した。多くの子供たちをさらっていたが、のちに八環《やたまき》たちと出会って改心し映画界に入る。
好きな物:子供をこわがらせること。
弱点:酒。
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あとがき
こんばんわ。
三人の執筆者を代表していちばんの若輩者が御挨拶《ごあいさつ》させていただきます。
ゲームデザイナー&創作集団グループSNEが自信を持ってお送りするシェアードワールドストーリー、妖魔夜行短編集の第二弾です。第二弾と言っても、短編集のことですから、まったく独立した作品として読むことができます。安心して、手にとってください。
もちろん短編集第一弾『妖魔夜行 真夜中の翼』と長編『妖魔夜行 悪夢ふたたび』とあわせて読んでいただけば、よりいっそう、妖魔夜行の世界が広がります。本書で活躍している、流や八環の他の冒険に接することもできますし、名前のみ登場しているかなたや摩耶が主人公となっているエピソードもあります。この妖魔夜行ができあがったきっかけや、シェアードワールドという言葉についても、『真夜中の翼』の解説で詳しく説明されています。どうか、ぜひそちらも読んでみてください。
世界が広がるといえば、前の二冊が出た頃には、まだ出版されていなかったテーブルトークRPG版『ガープス・妖魔夜行』も、ようやく発売されました。これと汎用《はんよう》RPGルールブック『ガーブス・ベーシック』の二冊を使えば、読者のみなさんが八環や流になりきって悪の妖怪《ようかい》と戦うことができます。
妖魔夜行の世界は、小説・ゲームともに、これからも続々と登場します。小説では、コンプRPG誌に、レギュラーで短編が登場しています。ゲームのほうも、すでに資料集『妖魔伝奇』が出ていますし、この短編集に前後して、実際にゲームを遊んでいるようすを読物として再現したリプレイである『妖怪秘聞』も書店さんの棚に並ぶはずです。
どうか末長くおつきあいいただけますように。
コマーシャル的解説ばかりでなく、本書のなかみについても少し。
最初の「真紅の闇《やみ》」は、友野が書いてます。当初「首酒」というタイトルで、「コンプRPG」誌に発表されたものですが、文庫収録にあたっていくらかの加筆訂正がしてあります。雑誌発表時にはいなかったキャラが顔を出してたりもして(おまけってところです)。ぼくとしては、テーブルトークRPGとしての『妖魔夜行』を遊ぶ時、黄金の基本パターンを提示してみようという意気込みで書いたのですが、さて面白さにくわえて、そのへんもうまく出ているでしょうか。
次の「大都会の陥穽」は、SF作家としてのキャリアが長い高井信さんの作品です。ユーモアあふれるアイデア短編が得意な高井さんの作風を生かして、今までのとは一味違う妖魔夜行の世界が展開されます。御本人は『新しいジャンルに挑戦できて楽しかった。そのぶん、読者のみなさんにも楽しんでもらえると嬉《うれ》しいです』と、ちょっと名古屋なまりの標準語で語ってくださいました。
最後の「さようなら、地獄博士」は、一味違うどころじゃない異色作。こーゆーネタは、ぼくもやりたかったんだけど。山本さんが、この原稿をぼくに見せてくれた時に言った言葉が『さあ、友野。感動しろ! きみも泣け!』。まさしく、感動させていただきました。素材になっているモチーフへの想い入れ(あなたの年齢にもよりますけど)で、感動度が多少変わるかもしれませんが、泣けます。
三人三様の妖魔夜行世界、どうか楽しんでください。この世界が気にいっていただけたなら、小説でゲームで、さらに一緒に楽しんでいただければさいわいです。
ただね。気をつけてください。妖魔夜行をはじめてからというもの、妖怪ないないやら妖怪みそ汁からいやら妖怪ブレーカー落としやらが事務所に跳梁《ちょうりょう》していますので、くれぐれも同じ目にあわないように(この崇《たた》りって、グループSNEのスタッフが他社でやっている某心霊RPGのせいもあるかもしれないゾ)。
我々も、妖怪〆切りだましにだけは、ひっかからないように気をつけますので……。
一九九四年七月中旬
[#地付き]友野 詳
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<初出>
第一話 真紅の闇(「首酒」改題) 友野 詳
カドカワムック「コンプRPG」Vol.3
一九九二・六・三〇刊
第二話 大都会の陥穽       高井 信
カドカワムック「コンプRPG」Vol.4
一九九二・八・三一刊
第三話 さようなら、地獄博士   山本 弘
書き下ろし
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底本
角川スニーカー文庫
シェアード・ワールド・ノベルズ
妖魔夜行《ようまやこう》 真紅《しんく》の闇《やみ》
平成六年九月 一 日 初版発行
平成七年三月二十五日 三版発行
著者――友野《ともの》詳《しょう》/高井《たかい》信《しん》/山本《やまもと》弘《ひろし》