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妖魔夜行 真夜中の翼
山本弘/下村家惠子/友野詳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)妖怪《ようかい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)船頭|鬼《おに》
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(例)[#改ページ]
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目 次
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Take-1――――――――
「なにか、悩《なや》みごとがありそうね」
それは、訊《たず》ねるのではなくて、きっぱりとした断言だった。ごく小さな声だったのに、周囲の雑踏《ざっとう》にかき消されることもなく、ぼくの耳に届いたのだ。
ぼくは、はじめ、それが自分に向けられた言葉だとは気がつかずに、赤信号をみあげていた。
「……さん」
だけど、声は続けてぼくの名を呼んだ。
ぼくは、ぎょっとしてふりかえった。それは、ぼくが最初の本を出すしばらく前のことだ。もっとも、今だって街角で見知らぬ読者に声をかけられたことなどないが。
信号が青に変わった。
歩きだした人の肩《かた》が、ぼくの肩にぶつかる。
ぼくは小さく頭をさげると、人の流れに逆らって動いた。
それが、いったいどこの街角でのことだったのか。なぜか、記憶《きおく》から消えている。
歩道のかたすみに、小さな机と椅子《いす》がおかれていた。そして、そこに座っている女性が一人。占《うらな》い師だと思えた。けれど、どこにも手相だの人相だの、あるいは星占いのホロスコープだとか、キーボードだとかサイコロ、インコ――いや、まったく、近頃《ちかごろ》はいろいろな占い法があるものだが――、そのどれも見当たらなかった。
「悩《なや》みがあるのかって言われたら、確かにいろいろとありますけどね」
ぼくは、いつのまにかその女性の前に立っていた。ぼくは、じつは意外と人見知りするほうである――笑わないでほしいな、そこの人――。それなのに、彼女に対して、ぼくはいきなりかなりぞんざいな口調で話しかけていた。横柄《おうへい》なやつだ、とは思わないでほしい。そもそも、どんな風に自分をよそおっでも無駄《むだ》だ、そういう直感が働いたのだ。もっとも、そう気がついたのは、後になって自分の言動を分析《ぶんせき》してからのことだが。
「けどねぇ、占《うらな》いで解決できるたぐいの悩みはないですね」
じっさいのところ、ぼくは、それまで街頭の占い師と言葉をかわしたことなどなかった。ほくはオカルトには、かなりの興味を持っているが、あまり実用的なものとしてはとらえていない。少なくとも、新しいゲーム企画《きかく》のアイデアなんて悩みには、役に立たないだろう。
「わたしも、占いをするつもりはないわ」
だが、返ってきたのは、そんな言葉だった。
占い師じゃなかったのか。ぼくは、そう思った。では、いったい彼女は誰《だれ》なんだろう。
「あの、どっかで会いましたっけ?」
ぼくの問いに答えるかのように、彼女が顔をあげた。
彼女がどんな顔をしていたのか、それもまた、ぼくは覚えていない。ただ、綺麗《きれい》な瞳《ひとみ》が、ぼくの奥底《おくそこ》まで写しこむように光っていた。それだけが、記憶《きおく》に焼きついている。
「何度か会っているかもしれないわ。でも、あなたは気がついていない」
こんな瞳の持ち主に、会っていて気がつかない? そんなことはないと思うんだけど。
「少し、聞いて欲しい話があるのよ」
彼女の言葉に、ぼくはうなずきを返していた。
そして。
次に気がつくと、ぼくは自宅に戻《もど》って、パソコンのワープロソフトをたちあげているところだった。ぼくは一気に、ある企画書《きかくしょ》を書き上げていたのだ。
翌日は、グループSNEの会議があった。新しいシェアードワールド小説シリーズの企画会議だ。シェアードワールドというのは、共通の世界やキャラクターを背景にして、何人もの作家が物語を展開していく小説形式だ。
そこで、ぼくはぺらぺらと新しいアイデアについて話した。
現代の社会を背旗にして、都会の闇《やみ》にひそんでいる妖怪《ようかい》たちの物語。ぼくの舌はかろやかに動いた。アイデアの細部を考えたり、つじつまあわせのためにだまりこんだりすることはなかった。まるで、あらかじめすべてを誰かに教えてもらっていたかのように、すらすらと言葉が出てきた。そして、他のみんなも、それについてよく知っていたかのように、うなずきながら聞いていたのだ。
その企画は、しごくすんなりと通った。『妖魔《ようま》夜行』と名づけられたそれは、小説シリーズとしてはじまり、テーブルトークRPGにもすることが決った。
数日後、ぼくは、グループSNEのメンバーであり、ぼくとともに『妖魔夜行』の中心となってもらう山本弘さんと、その第一話についてうちあわせていた。
「じつはやな」
山本さんは、先日、別の仕事でホテルに缶詰《かんづめ》になっている時に、おかしなものを目撃《もくげき》したのだと言った。その経験を、小説に生かしてみたいのだと。聞かされたプロットは面白《おもしろ》く、うちあわせのあいだ、ぼくは、うなずいているだけでよかった。
最後に、登場する妖怪《ようかい》たちの設定やネーミングをいくつか決めていった。ネーミングというのは、いつも苦労する作薬だ。
だのに、その日に限って、すらすらと進んでいった。
「で、主人公に妖怪たちのたまり場を教えてくれる占い師なんだけど」
「ああ、霧香《きりか》さんね。どういう名前にしましょ……」
ぼくたちは顔をみあわせ、それからなにごともなかったかのように、次の話題に移った。
[#ここで字下げ終わり]
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1.道玄坂の赤い扉《とびら》
2.摩耶の悩み
3.初めての友達
4.うわべり
5.闇《やみ》からの声
6.夜に舞《ま》う翼《つばさ》
7.かなたの賭《か》け
8.新たなる力
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1 道玄坂《どうげんざか》の赤い扉《とびら》
渋谷《しぶや》駅ハチ公前・午後七時――
紫色《むらさきいろ》に染まりはじめた初夏の空を背景に、赤や白のネオンが色あざやかに点滅《てんめつ》していた。東と南をビルに、北と西を道路に囲まれた小さな空間には、いつもの金曜日の夕方と同じく、大勢の男女が袖《そで》の触《ふ》れ合う距離《きょり》でひしめき合っている。ある者は会社の同僚《どうりょう》を、ある者はクラスメートを、ある者は恋人《こいびと》を待っている。それぞれのささやかな期待、それぞれのちっぽけな幸せを胸に抱《いだ》いて。
話し声と笑いと足音が、車の騒音《そうおん》と混ざり合い、大都会のシンフォニーを奏でていた。掲示板《けいじばん》がかちゃかちゃと音を立て、お節介にもNOX濃度《のうど》を表示している。ビルの壁画《へさめん》のフォーラム・ビジョンは、どこかの国の内戦の模様を映し出している。雑踏《ざっとう》と喧騒《けんそう》に負けまいと、スピーカーで「神の国の到来《とうらい》は近いのです」と説いている者がいる……。
だが、誰《だれ》一人そんなものには注意を払わない。ここに集まった者たちが考えているのは、これからどこに飲みに行くかということだけだ。大気|汚染《おせん》のことや、遠い外国のこと、最後の審判《しんぱん》の日のことなど、考えている余裕《よゆう》はない。
巨大《きょだい》な生物がもらす長いため息のように、また数百人の人間が駅の改札口《かいさつぐち》から吐《は》き出されてきた。その中に、この街には場違《ばちが》いな感じのする少女がいた。満員電車に詰《つ》めこまれてきたためだろう、どこかの女子校の制服らしい白いブラウスは、ひどく皺《しわ》が寄っていた。茶色の学生カバンを提《さ》げ、あたりをおどおど見回しながら歩いている。
突然《とつぜん》、画板のようなものを首から提げた若い男が「アンケートを……」と言って立ちはだかった。少女はびっくりした様子で、小さな悲鳴をあげ、男を突《つ》き飛ばすようにして、ちょうど青信号に変わったばかりの横断歩道に飛び出した。
男はほんの数秒、走り去ってゆく少女の後ろ姿をあきれた様子で眺《なが》めていたが、すぐに自分の仕事を思い出し、別の若い女に声をかけた。一分もしないうちに、そんな少女がいたことすら忘れていた。
少女は人ごみをとまどい気味にすり抜《ぬ》けていった――左手に小さな紙片を握《にぎ》りしめ、何かに急《せ》かされるように、足早に。
道玄坂一丁目――
駅から二〇〇メートルも離《はな》れると、街の様相は変化する。人通りは決して少ないわけではなく、路地に林立するバーや居酒屋の看板《かんばん》がにぎやかに客を誘《いざな》っているのに、その光にはどことなく明るさが感じられない。パチンコ店から洩《も》れる電子音や、表通りから響《ひび》いてくる喧騒《けんそう》でさえ、どこか別世界の出来事のように感じられた――まるで異質な空気が路上によどみ、光や音を濁《にご》らせて、華《はな》やかさを奪《うば》っているかのように。
左手に持ったメモ用紙をちらちら見ながら、摩耶《まや》は雑居ビルの立ち並ぶ路地を歩き回った。鉛筆《えんぴつ》でずさんに描かれた地図のために、すっかり迷ってしまっていた。
(からかわれたんじゃないかしら?)
彼女は不安と疑惑《ぎわく》がふくれあがってくるのを抑《おさ》えられなかった。不確実な情報を頼《たよ》りに、知らない街を歩き回るのは、それだけで充分《じゅうぶん》に緊張するものだ。まして今の彼女はあらゆる点で神経質になっており、平凡《へいぼん》なものにさえおびえていた。
コンパに向かうらしい陽気な大学生の集団や、居酒屋を探している中年サラリーマンたちとすれ違《ちが》うたびに、摩耶は恥《は》ずかしさと心細さを感じた。彼らの笑い声を耳にすると、何も悪いことをしていないはずなのに、罪悪感のようなものを覚えた。来てはいけない場所に来てしまったという想《おも》い、自分はここではひとりぼっちなのだという感覚が、ますます強くなってきた。ミッション系の女子校の制服は、この盛り場では目立ちすぎる……。
(なんてバカなの。世間知らずのお嬢様《じょうさま》。インチキな占《うらな》い師にだまされて、ありもしない店を探してるなんて)摩耶は悔んだ。(ああ、せめてどこかで着替《きが》えてくるんだった。みんな振《ふ》り返って私を珍《めずら》しそうに見てる……)
もちろん、それは彼女の思いこみだった。迷子《まいご》の少女にいちいち注目するほど、この街の人間は暇《ひま》ではない。あらゆるものが雑多に混じり合ったこの街の中で、彼女は背景の一部にすぎないのだ。
同じ道を三度も通り、もうあきらめて帰ろうかと思いかけた時、唐突《とうとつ》にその看板《かんばん》の文字が目に飛びこんできた。
<BAR うさぎの穴 5F>
そこは薄汚《うすよご》れた小さな雑居ビルだった。看板は血のように真っ赤で、文字は黒い。さっき二度も通ったのに、見落としていたのが不思議だ。彼女は何度もメモを見て、そこに書かれた名前と同じであることを確認した。
(本当にあったんだ……)
摩耶は心臓がどきどきするのを感じた。次の行動を決定するゼンマイが心の中で巻かれている間、犯罪者のようにあたりを落ち着きなく見回していた。この街に来るだけでも決心が必要だったのに、中に入る勇気があるだろうか……?
結局、彼女の背中を押《お》したのは、勇気ではなく内気さと羞恥《しゅうち》心だった。突っ立ってバーの看板を見つめている自分が、通行人の目にどう映るかと気づいたのだ。
摩耶がそのビルに飛びこんだのとほとんど同時に、エレベーターの扉《とびら》が開いた。空のコーラ瓶《びん》の詰《つ》まった箱を乗せたカートを押して、配達員の制服を着た若者が降りてきた。若者は摩耶の前を通り過ぎながら、にこっと微笑《ほほえ》みかけた。
入れ替《か》わりにエレベーターに飛びこみ、夢中で <5> のボタンを押《お》す。扉《とびら》が閉じ、がたんがたんという大きな音を立てて、エレベーターはやけにゆっくりと上昇《じょうしょう》を開始した。壁《かべ》のグリーンの塗装《とそう》はかなり剥《は》がれており、釘《くぎ》でひっかいたらしい落書きもあった。それが卑猥《ひわい》な文句だと気づいて、摩耶は慌《あわ》てて視線をそらせた。
最上階に逢したエレベーターは、がくんと何センチか落ちるような感じで停止した。扉が開くと、真っ赤な色が視界に飛びこんできた。表の看板《かんばん》と同じ、血の色に塗《ぬ》られた扉だ。 <うさぎの穴> というプレートの下には <営業中> というプラスチックの札《ふだ》が下がっている。
(とうとう来ちゃった……)
摩耶はその扉の前で立ちすくんだ。不安は最高潮に達していた。何度も唾《つば》を飲みこみ、扉を開ける勇気を奮《ふる》い起こそうとする。何度も手を伸《の》ばそうとするが、ノブまでは無限の距離《きょり》があるようだった。
一瞬《いっしゅん》、引き返そうかと思い、振《ふ》り返った。そのとたん、まるで彼女の心を読んだかのように、目の前でエレベーターの扉が閉じた。がたがたと音を立てて一階へ戻《もど》ってゆく。摩耶は五階に取り残されてしまったのだ。
そのことが彼女に最後の決意をさせた。ここまで来て引き返すのは、むなしすぎる。それに何の問題解決にもならない。このまま家に帰っても、午前|零時《れいじ》になれば……。
摩耶はかぶりを振《ふ》った。あの占《うらな》い師の言ったことを信じよう。他《ほか》に方法はない。だめでもともとだ。
彼女は震《ふる》えるか細い指でノブを握《にぎ》りしめ、おそるおそる扉《とびら》を押《お》した。ちりん、とベルが鳴って、扉は思ったより軽く開いた。
2 摩耶の悩み
最初に耳に飛びこんできたのはピアノの音色だった。静かでゆったりとしたポピュラーだが、摩耶は曲名を知らなかった。幼い頃《ころ》にピアノのレッスンを受けたことのある摩耶には、そのうまさがよく分かった。ちょっとかじっただけの素人《しろうと》ではない。人を感動させる力を持った、プロなみの腕《うで》だ。
バーの隅《すみ》でピアノを弾いているのは、長い髪《かみ》の美しい女性だった。ひと目で一流ブランドと察しがつく、肩《かた》パッドの入った白いサマースーツを、優雅《ゆうが》に着こなしている。演奏を続けながら、摩耶の方を流し目でちらっと見て、意味ありげに微笑《ほほえ》んだ。その妖《あや》しい色気に摩耶はどきっとした。
(ホステスさんなのかしら?)
と摩耶は思った。本物のバーになど来るのは初めてなので、第一印象はまったくあてにならない。彼女の水商売に関する知識は、テレビドラマの中のそれに限られていた。
彼女は一歩|踏《ふ》みこみ、おどおどと店内を見回した。柱も床《ゆか》も木でできていて、落ち着いた雰囲気《ふんいき》だった。大きな柱時計や、小さなギリシャ風の彫像など、アンティークな装飾《そうしょく》が印象的だ。ちょっと照明が薄暗《うすぐら》いのが気になるぐらいで、あやしいところは何もない。客はまばらで、静かだった。
カウンターに座《すわ》っているのは、男が一人だけだった。中年で、服装はちょっとくたびれた感じはするものの、よく見れば顔はハンサムだ。興味なさそうに手にしたグラスを眺《なが》めてはいるが、実際はグラスの側面に映る摩耶を見つめ、警戒心《けいかいしん》を覗《のぞ》かせている。
カウンターの奥《おく》では、丸い眼鏡《めがね》をかけた人の良さそうな初老のマスターが、のんびりとグラスを磨《みが》いていた。こちらも最初にちらりと摩耶を見て微笑んだだけで、後はわざとらしく無関心を装《よそお》っている。
少し離《はな》れたテーブルには、大学生らしい二人の青年がいた。一人はちょっと太り気味で眼鏡をかけており、もう一人は長身のスポーツマン・タイプだ。二人は向かい合って頭を寄せ合い、小さなガラス玉をピラミッド状に稽み上げるゲームに熱中していた――いや、熱中するふりをしていた。ちらちらと横目でこちらをうかがい、小声で品定めをしている様子だ。
そのテーブルには女の子もいた。摩耶と同じぐらいか、年下かもしれない。白いTシャツを着ており、顔は丸っこく、おかっぱ頭が幼さを強調していた。二人の青年の間にいて、口をすぼめてストローでジュースをすすりながら、ガラス玉のピラミッド越《ご》しに摩耶をじっと見つめている。何かを期待するような、楽しそうな眼だ。その少女だけが摩耶への関心を隠《かく》していなかった。
「あ……あの」
摩耶はどうにか声を絞《しぼ》り出した。大きな声を出したつもりはなかったが、静かな店内の雰囲《ふんい》気をかき乱してしまった気がした。
「ここ、 <うさぎの穴> ……ですよね?」
声は急速に先細りになり、語尾はかすれて空気中に消えてしまった。
「表にそう書いてあっただろ?」
初老のマスターが、子供に言い聞かせるようなおだやかな口調で言った。摩耶は耳まで真っ赤になった。
「は、はい……あの、私、このお店のことを聞いてきたんです」
摩耶は初舞台《はつぶたい》であがりまくっている新人俳優のように、かちかちになり、つっかえながら台詞《せりふ》を吐《は》き出した。
「こ、ここが、普通《ふつう》のお店じゃないと聞いて……つまり……ここに集まる人はみんな……」
「……人間じゃない?」
そう言ったのは、カウンターにいた中年男だった。
今や店内の全員の視線が自分に向けられているのに気づき、摩耶はうつむいた。心が千々《ちぢ》に乱れていた――もし、とんでもない間違《まちが》いだったらどうしよう? それとも、誰かにからかわれているだけだとしたら……?
「こっちへ来て座らないかい?」マスターは優しく言った。「そんなとこに立ってないで」
「は、はい…」
摩耶は言われるままにおずおずとカウンターに進み、中年男の二つ隣《とな》りのスツールに腰掛《こしか》けた。
「未成年だからお酒はだめだな。コーラかオレンジジュースか、どっちがいい?」
「あ、あの、オレンジジュースを……」
マスターはにっこりと微笑み、グラスに氷とオレンジジュースを注ぎ、マドラーで軽くかき混ぜた。しばらくは重苦しい沈黙が続いた。緊張している摩耶にとっては、無限とも思える時間だった。
「さっきの話だけど……」摩耶の前にジュースを置きながら、マスターは言った。「どこで聞いたのかな、この店のこと?」
「あ、あの……」摩耶はジュースに手をつける気になれなかった。「ずっと前から、同じクラスの子が休み時間とかに噂《うわさ》してるのを、よく耳にしてたんです。こんなお店が渋谷にあるってことを……」
「アーバン・レジェンド……都市伝説≠チてやつだ」中年男が嘲笑《ちょうしょう》のこもった口調でつぶやいた。「人面犬だとか、口裂《くちさ》け女だとか、消えるタクシーの乗客だとか……常識で考えれば絶対にあるはずがない、単なる噂だ。街に生まれては消えてゆく伝説のひとつにすぎない――」
「私もそう思ってました」と摩耶。「ここに来るまでは…」
「じゃあ、その伝説の続きも、もちろん知ってるわけだな?」中年男はサディスティックな笑みを浮かべ、鷹《たか》のような眼で摩耶を見つめた。「この店に来ていいのは、他《ほか》に頼《たよ》るあてのない、せっば詰《つ》まった人間だけだ。何の用もなく、単なる好奇心《こうきしん》でやって来た者は――」ちょっと言葉を切って「二度と帰れない」
摩耶はごくりと唾《つば》を飲みこみ、どうにかうなずいた。「はい……知ってます」
「なるほど」
いきなり背後で声がしたので、摩耶はびっくりして振《ふ》り返った。いつの間に近づいていたのか、テーブルにいた二人の青年と一人の女の子、それにピアノを弾《ひ》いていた美女が、彼女のすぐ後ろに集まってきていた。
茫然《ぽうぜん》としていると、美女が摩耶の右隣《みぎどな》りに、女の子が左隣りに座《すわ》った。青年二人は、背後にぴったりくっつくように立っている。
侵入者《しんにゅうしゃ》を逃がすまいとするかのように。
「つまり君は、どうしようもなくせっぱ詰まって、ここに来たってわけだ?」スポーツマン・タイプの青年が冗談《じょうだん》めかした軽い口調で言った。「警察でも、病院でも、家庭裁判所でもなく、わざわざここに?」
「はい……」
「じゃ、いいよ、話してごらん。ただし――」青年は摩耶の耳許《みみもと》に口を寄せ、温かい息を吐《は》きかけた「もし、つまんない話だったら、帰れないかもしれないぞお」
摩耶は心臓が止まるかと思った。
「これこれ、流《りゅう》ちゃん」おかっぱの女の子が肘《ひじ》で青年を小突《こづ》いた。「無意味に人を怖《こわ》がらせてどうすんだね」
「ええ? だって俺《おれ》たちってそういうもんじゃなかった?」
「助けを求めてる人だよ!」
「へいへい」
流と呼ばれた青年は、少女ににらまれて引き下がった。少女は摩耶に向き直り、小犬のような人なつこい笑みを浮かべた。
「ごめんね。あなた、名前は?」
「も……守崎《もりさき》摩耶です」
「守崎……?」中年男が何かに気づいたらしく、ちょっと眉《まゆ》を上げた。
「摩耶ちゃんかあ。ちゃんと帰してあげるからさ、話、聴《き》かせてよ」
「はい……あの……」摩耶は少しためらってから、思いきって話しはじめた。「実は私の部屋のテレビのことなんですけど……」
「テレビの修理なら電気屋に――」
「流ちゃん!」
「故障じゃないんです!」摩耶は思わず声を高くした。「そうじゃなくて……夜中の十二時になると、変なものが映るんです」
「変なもの?」
「はい、あの……いやらしいのが……」
「へ?」
「その、いわゆる……ポルノ……」
内気な摩耶にはそこまで言うのが精一杯《せいいっぱい》だった。 <うさぎの穴> のマスターや客たちの間に、気まずい沈黙《ちんもく》が広がった。
「……それってさあ」太った方の青年が口を開いた。「近所でビデオを見てる人の電波が混信してるんじゃないかい? 意外に知られてないけど、ビデオの端子《たんし》からは、弱い電波も出てるんだよ」
「違《ちが》うんです」摩耶はかぶりを振《ふ》った「そんなんじゃないんです」
「どうしてそんなことが言えるの?」美女がおだやかに訊《たず》ねた。
「だって……出演してるの、私なんです」
「…………」
再び、数秒の沈黙があたりを支配した。
「君がねえ……」と中年男。「で、君はそんなビデオに出演した覚えは――」
「ありません! 絶対に!」
「確かにそれは君なのかな? そっくりな誰かってことは? たとえば君の双子のお姉さんとか――」
「いません、そんな人。私、一人っ子です」
「つまり、ありえない映像が映ってるってわけね」美女が首をかしげた。「いつ頃《ごろ》から?」
「二週間前です。土曜日だったんで、夜遅《よるおそ》くまでファミコンをやってたんですけど、そろそろ寝《わ》ようと思って、ファミコンのスイッチを切ったんです。そしたら、真っ白な画面に、何か映ってるような気がしたんです。何だろうなと思って眺《なが》めてるうちに、だんだんはっきりしてきて――」摩耶は口ごもった。「それが最初でした。それ以来、毎晩十二時になると、必ずそれが映るんです」
「それって、ハードなのかな? どのへんまで見えてるの?」
太った若者が真剣《しんけん》に訊《たず》ねた。女の子が露骨《ろこつ》に嫌《いや》な顔をする。
「大樹《だいき》くん、やらしー!」
「ち、違《ちが》うよ。やだなあ、かなたちゃん」若者はしどろもどろになった。「事件を推理するためには、どんな些細《ささい》な手がかりでも重要なんだ。探偵の基礎《きそ》だよ」
「そういうの見たことないから、あまり分かりませんけど――」と摩耶。「たぶん、ハードな方なんじゃないか……と思います」
「映像だけ? 声は?」
「あまり大きくないけど、声も聞こえます。私の声が……」記憶《きおく》の底から、いまわしい声がよみがえってきた。摩耶は泣きそうになった。「私もう、どうしていいか……今夜もまたあれが映るかと思うと、自分の部屋に戻るのが怖いんです」
「見るのが嫌なら、スイッチ切っとけば?」
「一週間前から、スイッチも切って、コンセントも抜《ぬ》いてあります。それでも十二時になると勝手に映るんです。他《ほか》の番組に合わせておいても、チャンネルがひとりでに空きチャンネルに切り替わって……」
「なるほど、そりゃ確かに怪奇《かいき》現象だ」太った眼鏡《めがね》の青年――大樹は、腕組みをして、おおげさにうんうんとうなずいた。「誰《だれ》かに相談した?」
女の子――かなたが訊《たず》ねると、摩耶は絶望的に首を振《ふ》った。
「こんなこと、先生にも両親にも相談できません。恥《は》ずかしくて――これまで、話したのは一人だけです」
「誰?」
「原宿《はらじゅく》にいる占《うら》い師の人です。さっき、相談してきました。そしたら、ここに行けって、地図を書いてくれたんです」
「ああ、霧香《きりか》だあ」かなたがうなずく。「なるほど、それでこの店が分かったのね」
「どう思う、八環《やたまき》くん?」美女が中年男に訊《たず》ねた。「うわべりかしら?」
「違《ちが》うだろ?」男はやる気なさそうに答えた。「あいつ、すれてるように見えて、けっこう純真だからな。そんな悪質ないたずらはしないと思うぜ。第一、うわべりなら、コンセントを抜《ぬ》いたテレビには入ってこれないはずだ」
「それもそうねえ……」
八環という名前に、摩耶は聞き覚えがあった。確か山の写真を撮《と》り続けているカメラマンで、テレビでも紹介《しょうかい》されていた。
「しかし、普通《ふつう》の現象じゃないのは確かなようだな」八環は言った。「誰《だれ》かがその家に行って、調べてみた方がよさそうだ」
「じゃ、俺《おれ》がちょっくら――」流が嬉《うれ》しそうに立候補《りっこうほ》する。
「待った」美女がさえぎった。「流くん、今回は男性陣《だんせいじん》は遠慮《えんりょ》して」
「でも、未亜子《みあこ》さん――」
「女の子のプライバシーに立ち入っちゃいけないわ――摩耶ちゃん。家はどこ?」
「吉祥寺《きちじょうじ》です……」
「なあんだ、じゃあ、井《い》の頭《かしら》線ですぐじゃない――かなたちゃん、行ってくれる?」
「はーい♪」
かなたは元気良く返事すると、摩耶の腕《うで》を取って立ち上がらせた。
「さ、行こ。摩耶ちゃん」
「は……はい」
「あ、ちょっと待って」
長髪《ちょうはつ》の美女――未亜子が呼《よ》び止めた。優雅《ゆうが》な手つきで、左手から銀の鎖《くさり》でできたブレスレットをはずし、かなたに手渡《てわた》す。
「はい、お守りよ」
「サンキュー、未亜子さん」
「頼《たの》んだわよ」
「お・ま・か・せ♪」
摩耶はかなたに引きずられるようにして店の外に出た。赤い扉《とびら》が閉じると同時に、ピアノの昔も聞こえなくなった。
エレベーターが昇《のぼ》ってくるのを待つ間、摩耶はふと、妙《みょう》なことに気がついた。店の中にいる間、ずっとピアノが聞こえていたのだ。
ピアノを弾《ひ》いていた未亜子が、ピアノから離《はな》れていた間も、ずっと。
「あのピアノ……」
「え、何?」
「あれ、自動ピアノなんですか?」
「あはは!」かなたは無邪気《むじゃき》に笑った。「ただのピアノよ。古〜いピアノ」
「はあ……?」
エレベーターが五階に着いた。二人が乗りこむと、扉が閉じ、エレベーターはがたごとと下に降りはじめた。
摩耶の疑問がまたひとつ増えた。かなたはまったくボタンに手を触《ふ》れなかったのだ――古いエレベーターは、まるで自分の意志で乗客を運んでいるかのようだった。
3 初めての友達
京王電鉄井の頭線・午後八時――
東京のプレイスポット渋谷と、代表的なベッドタウンである三鷹《みたか》市・武蔵野《むさしの》市を結ぶ、全長十数キロの短い路線である。途中《とちゅう》には東大教養学部などもあるので、サラリーマンだけではなく、若者の利用客も多い。
ラッシュのピークは過ぎていたが、それでも車内は満員に近い。摩耶とかなたは立たなくてはならなかった。湿度が高い日だったので、ブラウスがべとついて気持ちが悪い。
摩耶は横に立っているかなたの様子を、それとなく観察した。背は摩耶より少し低い。中学生ぐらいだろうか。白いTシャツにデニムの短パン、それにサンダルという格好で、吊《つ》り革につかまって揺《ゆ》られている姿は、どう見てもごく普通《ふつう》の女の子だ。
見つめられているのに気づき、かなたは振《ふ》り返って微笑んだ。
「どしたの?」
「あ、いえ、別に……ちょっと考えていたのと印象が違ったものだから」摩耶はぎこちない笑みを浮かべた。「あなたたちも電車に乗るんだなって……」
「一反木綿《いったんもめん》に乗って空飛ぶとでも思った?」
「そういうわけじゃ……」
「電話だって使うわよ、ほら」
かなたは尻ポケットから可愛らしいパスケースを取り出し、『ミラクル☆ガールズ』のテレホンカードを見せた。
「妖怪《ようかい》ポストより早いし、確実だもんね」
「はあ……」
テレビや浸画から仕入れたイメージが、どんどん崩《くず》れてゆく。
「あー、神田上水《かんだじょうすい》だあ」
かなたは窓の外を見て声をあげた。コンクリートの土手にはさまれた狭《せま》い川が、線路と平行に走っている。
「知ってる? 最近、この川に野鳥とか魚が戻《もど》って来てるんだよ。東京も捨てたもんじゃないね」
「……自然が好きなんですか?」
「街も好きだけどね。でも、森やきれいな川は、ないよりあった方がいいでしょ?」
「そうですね」
かなたは不意に向き直り、まん丸い眼で摩耶の顔をしげしげと覗《のぞ》きこんだ。
「それ、やめようよ」
「え?」
「です・ます調。堅苦《かたくる》しくってしょうがないよ。です・ます抜《ぬ》きで話そ? ね?」
「は……はい」
「返事は『うん』よ」
摩耶はひどく困惑《こんわく》した。学校でも家庭でも「返事は『はい』」と教えられて育ってきた。十六年も続いてきた習慣は、すぐに変えられるものではない。
「どうなの?」
かなたは期待に満ちた眼で摩耶を見つめている。笑顔の脅迫《きょうはく》だった。摩耶はどうにか心理的な障壁《しょうへき》を乗り越え、声を出した。
「……うん」
「よろしい♪」
かなたは満足そうにうなずいた。
電車は井の頭公園の横を通り、終着駅・吉祥寺に近づいていた。
摩耶の家は井の頭公園の北にあった。駅から歩いて一〇分もかからない距離《きょり》だ。街灯は明るく、八時を過ぎてもけっこう人通りは多い。怪談《かいだん》には縁のなさそうな街だった。
二人は駅前の商店街を並《なら》んで歩いた。
「あなた、いいとこの子でしょ?」突然《とつせん》、かなたが訊《たず》ねた。「こんな時間に帰って、だいじょうぶ?」
「クラブ活動で少し遅《おそ》くなるって言ってありま――あるから……」
「クラブは何やってんの?」
「美術部……」
語尾《ごび》から「です・ます」は取れたものの、まだ「なの・よ」がつかないので、必然的に体言止めが多くなる摩耶だった。
「いいなあ、クラブ活動――あたしも学校に行きたかった」
「学校……行ってないの?」
「そう、あたしらには学校も、試験も何にもないの♪」
そう言ってかなたはけらけらと笑った。ちょっと寂《さび》しそうな笑いだ、と摩耶は思った。
「ほら、入学のために戸籍《こせき》とかごまかすのが大変なのよ。それに身体検査とかもたびたびあるでしょ? 姿形を変えるのは簡単でも、きちんとしたペースで成長しないと怪《あや》しまれるの。血液検査なんかやったら、どんな結果が出るか……」
「はあ……」
「就職の方は、まだどうにでもなるのよ。履歴書《りれきしょ》はごまかし効くもんね。会社でなくても、八環さんみたいにフリーで稼《かせ》ぐこともできるし……ま、いろいろあるってことよ」
歩きながら話しているうちに、摩耶の家に着いた。八〇坪はありそうな大きな家で、もちろん庭やガレージもある。父は建設会社の重役だ。
「先に入ってて」かなたは言った。「あたし、ちょっと買い物してくるから」
「買い物?」
「必要なものがあってね。自分の部屋に入ったら、窓は開けといて」
「は……うん」
摩耶はうなずいた。かなたはサンダルをぺたぺた鳴らして走り去る。摩耶は首をかしげながら、自分の家の玄関《げんかん》をくぐった。
親子三人で暮らすには広すぎる家だった。父は仕事で多忙《たぼう》だし、母も文化セミナーやらエアロビクス教室やらに頻繁《ひんぱん》に通っているので、帰りが遅《おそ》いことが多い。月・水・金の昼間はお手伝いさんが来るが、摩耶と入れ違《ちが》いに帰ってゆくので、あまり長く顔を合わせたことはない。二日に一度は、摩耶は無人の家に帰ることになる。
今日は母が先に帰っていた。ピンクのバスローブ姿で、応接間のソファーにだらしなくよりかかり、30インチのモニター・テレビをつけっ放しにしたまま、画面は見ずに女性週刊誌を読んでいる。
「ただいま……」
「お帰り」母は週刊誌から目を離《はな》さずに返事した。「夕飯は?」
「食べてきた」
「お風呂《ふろ》、沸《わ》いてるわよ。終わったら、お湯は流しといてね。お父さん、今日は帰らないそうだから」
「はい……」
テレビの中では、水谷《みずの》豊《ゆたか》の刑事が犯人と格闘《かくとう》していた。摩耶は二階の自分の部屋に上がって行った。
部屋はいつもと変わらなかった。六|畳《じょう》の広さがあり、勉強机、ベッド、本棚《ほんだな》、洋服ダンスがある。床には落ち着いたブルーの色調のカーペットが敷いてあり、ベッドカバーも薄《うす》いブルーだ。空いた壁《かべ》には『ラムネ&40』のポスターと、中学の修学旅行で買ってきた金閣寺《きんかくじ》のペナントが貼《は》ってある。
本棚は二つあった。大きな本棚には、歴史小説や現代文学に混じって、ピンクの背表紙の文庫本が並《なら》んでいて、女の子の部屋であることを証明している。アニメ雑誌、オカルト雑誌、コミックスなどもあるが、あまり数は多くない。出版社別・著者《ちょしゃ》別にきれいに整理された、まったく乱れのない並べ方を見れば、几帳面《きちょうめん》な性格がよく分かる。空いたスペースには、小さなマスコットやぬいぐるみが置かれていた。
机の横には別の小さな本棚があった。教科書や図鑑《ずかん》や参考書の類《たぐい》、それに美術書が十数冊、ぎっしりときれいに並べられている。趣味《しゅみ》はオリエント美術だが、日本の仏教美術にも関心がある――ちょっぴりかじった程度《ていど》だが。
そして、小さい方の本棚の上には、テレビがうずくまっていた。
12インチの小さなテレビだ。機能的なデザインで、ボディーは赤。まともな大手家電メーカーの製品であり、買ってからまだ一年目で、調子の悪いところはない。
摩耶はぶるっと肩を震《ふる》わせた。今は何も映っていないが、なるべくテレビの方を見ないようにした。捨ててしまおうかと思ったことも何度かある。しかし、悪霊《あくりょう》のしわざだとしたら、崇《たた》りが恐《おそ》ろしかった。
第一、新品同様のテレビを捨てる理由を、両親にどう説明すればいいのか? 「毎晩、夜の十二時になると、私の出演してるポルノビデオが映るから……」ああ、とてもそんなことは言えない。
勉強の邪魔《じゃま》になるから、という口実で、他《ほか》の部屋に移してもらうことも考えたが、やめにした。他の部屋に移されたテレビが、午前|零時《れいじ》にあれを映し出したら……。
摩耶はアルミサッシの窓を開けた。窓の真下には隣家《りんか》との境界のブロック塀《べい》があり、その向こう、窓からほんの二メートルほどのところに隣家の屋根が迫《せま》っている。
かなたなら、きっとここから入って来れるのだろう。
不思議なことに、かなたを疑う気持ちはまったく湧《わ》いてこなかった。かなたの言うことなら何でも信じられそうな気がする。あの子には疑いや警戒心をとろけさせる不思議な魅力《みりょく》があるのだ。
かなたの買い物にどれぐらい時間がかかるか分からないので、先に風呂に入ることにした。
ルーズリーフのノートから一枚はずし、グリーンのサインペンで <お風呂に入っています。しばらくここで待っててください> と書いて、机の上に置く。
部屋を出る直前、急に思い直して机の前に戻り、棒を引いて <ください> を消した。
「ふう……」
大きなホーローの湯舟《ゆぶね》に体を沈《しず》め、摩耶はため息をついた。不思議な一日だった。何もかも初めての体験で、とまどうことばかりだった。体よりも心が疲《つか》れていた。
だが、まだ一日が終わったわけではない。テレビの怪異《かいい》を究明するという大仕事が残っている。それを考えると摩耶は気が重く、自室に戻るのがためらわれた。かなたのことは信頼していたが、それでも不安は残った。もし、あれがかなたにも分からないような現象だったら、この世の誰《だれ》にも解明できないだろう……。
「あら、摩耶ちゃん、お風呂入ったんじゃないの?」
廊下から母の声がした。別の声がそれに答える。
「いいえ。これから入るの」
摩耶は湯舟の中で体を固くした。(今、返事したのは誰?)
誰かが脱衣所《だついじょ》に入ってきた。すりガラス越しに、人影《ひとかげ》が服を脱《ぬ》いでいるのが分かる。摩耶は恐怖《きょうふ》にかられ、タオルを胸許《むなもと》に引き寄せて、湯舟の中で縮こまった。
「ばあ♪」
入ってきたのは、かなただった。摩耶は驚《おどろ》きに眼を丸くした。
「あなた、どうして……?」
「だって、待ってるの、退屈《たいくつ》だったんだもん。あたしだって汗《あせ》かいたから、お風呂、入りたいしさ――よいしょっと」
軽くかかり湯を済ませると、かなたは有無《うむ》を言わせず、摩耶の横に割りこんできた。湯舟からどっと湯があふれる。大きいとは言っても、やはり女の子が二人入ると狭《せま》い。肩《かた》と肩、脚と脚が触《ふ》れ合い、摩耶はどぎまぎとなった。
「うーん、いい気分♪」かなたはご満悦《まんえつ》だった。「歌っちゃおかなー」
「やめて! お母さんに聞かれたら――」
「だーいじょうぶ。小声なら」
「…………」
しばらくの間、二人は静かに湯に浸《つ》かっていた。かなたはタオルをちょこんと頭に載《の》せ、鼻《はな》歌で小さく『絶対無敵ライジンオー』のテーマを口ずさんでいる。
一分ほど過ぎるうちに、摩耶の心の中に不思議な変化が起こっていた。他人《たにん》と肌《はだ》を触れ合うことへのとまどいや嫌悪感《けんおかん》は消え失《う》せ、反対にごく自然なことのように感じられてきたのだ。
「……こんなの、忘れてた」摩耶はぽつりとつぶやいた。
「え? 何?」
「こういう感覚。お母さんといっしょにお風呂《ふろ》に入らなくなって、五年以上になるもの」
「修学旅行の時、みんなといっしょにお風呂に入ったりしなかったの?」
「入ったけど……」
摩耶は話すのをためらった。中学の修学旅行には嫌《いや》な思い出があった。
その頃、クラスの女の子たちは、休み時間などによく性についての話題に花を咲《さ》かせていた。摩耶はそうした話の輪には決して加わらなかったが、彼女らの話し声は否応《いやおう》なしに耳に飛びこんできた。とりわけ摩耶にショックを与えたのは、「遊んでいる女の子は乳首《ちくび》が黒い」という噂だった。もちろん、そんなものは単なる個人差であって、男性経験などとはまったく無関係なのだが、迷信好きでゴシップ好きの少女たちに、そんな正論が通用するはずがない。
コンプレックスも手伝って、摩耶は自分の乳首の色が人より濃《こ》いと思いこんでしまった。だから彼女は、旅館の風呂に入る時、胸にきっちりタオルを巻いて、クラスメートに見られないようにした。だが、そのことでかえって嘲笑《ちょうしょう》の的になってしまった。内気で人づき合いの下手《へた》な摩耶は、普段からクラスの中で孤立《こりつ》していたのだ。
その事件は彼女の多くのエピソードのひとつにすぎなかった。小学校・中学校を通じて、摩耶は「変な子」と呼ばれ、いつもクラスの中で孤立していた。自分では真剣《しんけん》に悩《なや》み、真剣に生きているつもりなのに、その行動のひとつひとつが、なぜか他人《たにん》には滑稽《こっけい》に映るらしいのだ。
学校は英単語や年号や三角関数を教えてくれる――しかし、人と協調して生きてゆくためのテクニックまでは教えてくれない。摩耶のようにそれを学びそこねた者は、どんどん置き去りにされてゆくのだ。
「……どうして?」
「え?」
「どうして私とお風呂《ふろ》に入ろうなんて思ったの? 会ってまだ二時間も経《た》ってないのに」
「やだなあ」かなたは苦笑した。「深い意味なんてないよ。あたしはただ、自分が行動したいように行動するだけ」
そんな風に生きられるというのが、摩耶にはうらやましかった。
「迷惑《めいわく》?」
「ううん、そんなことない」摩耶は慌《あわ》ててかぶりを振《ふ》った。「ただ、とまとってるだけ。だって……十六年も生きてきて、こんなに私に近づいた人、初めてだもの」
「でも、摩耶ちゃんだって学校に友達ぐらいいるでしょ?」
かなたの言葉が、鋭《するど》い刃物《はもの》のように胸に突《つ》き刺《さ》さった。摩耶の表情が凍《こお》りつく。
「あ……」かなたは口を押《お》さえた。「ごめん。まずいこと言っちゃった?」
「ううん、いい」摩耶は悲しげな笑みを浮かべてかぶりを振《ふ》った。「自分でもあきらめてるから。私、変な子なの……きっと一生、友達なんてできないわ」
「違《ちが》うよ!」
かなたはそう言って、湯舟《ゆぶね》の縁《へり》に置かれた摩耶の手に、自分の手を重ねた。
「摩耶ちゃんは変な子なんかじゃないよ。それに、あたしたち、もう友達じゃない!」
「え……?」
「ほら、です・ます、取れてるじゃない」
「あ……」
摩耶は驚《おどろ》いた。確かに、さっきからごく自然に「です・ます」抜《ぬ》きで話している。
「ほんとだ……」
「ね?」かなたは微笑《ほほえ》んだ。「あたし、記念すべき摩耶ちゃんの友達第一号なんだ。これから第二号、第三号もきっとできるよ」
「友達……」
その言葉は胸に熱かった。ドラマを見たり小説を読んで、登場人物の愛や友情に感動したことはある。しかし、これは実際に自分の身の上に起こっていることなのだ。フィクションではないのだ。
十六年のあいだ、固く閉ざされていた心の扉《とびら》が、ほんの少し開いた。たまりたまっていた熱い想《おも》いが、ひとしずくの涙《なみだ》となって頬《ほお》を伝い落ちた。それをぬぐうことさえ、摩耶にはもったいない気がした。
4 うわべり
午後九時半――
風呂《ふろ》から上がり、二人は摩耶の部屋に戻った。「例のテレビって、これね?」
「うん」
意識せずに「うん」が出てくるのが、摩耶は嬉《うれ》しかった。
かなたはしゃがみこみ、テレビのスイッチを入れた。平凡《へいぼん》なトレンディー・ドラマの一場面が映る。かなたはいろいろな角度からテレビを眺《なが》め、首をひねった。
「特に変なところはないなあ……?」
「あの……妖怪《ようかい》にはテレビに似たのもいるってほんと?」
「まあね」かなたは苦笑した。「どんなものでも何十年も使い続ければ妖怪になる可能性はあるよ――でも、これは違《ちが》うねえ。新しすぎるし、妖気も感じない」
「はあ……」
「とにかく、うわべりを呼んでみましょ。あいつはテレビのことに詳しいから――ええっと、北はどっちかな?」
摩耶は一方の壁《かべ》を指さした。「あっちだけど……?」
「ちょっと手伝って。テレビの画面を南西に向けるの」
「南西?」
「丑寅《うしとら》(北東)の反対よ。あたしたちから見て、テレビが鬼門の方向に位置するわけだから、うわべりが入って来やすくなるの」
摩耶は深くは訊《たず》ねなかった。電気屋にテレビの故障の原因を訊ねるのと同じで、説明されても分からないだろうと思ったのだ。二人は協力してテレビの位置を変えた。
「これでよし……と」
かなたはテレビのチャンネルを空きチャンネルに合わせた。画面には白と黒の粒子が激しくひしめき合い、サーッというノイズだけが聞こえる。
「ちょっと聞いてごらん」
かなたはテレビに耳を寄せて、摩耶を招いた。摩耶はそれをまねて、恐《おそ》る恐るテレビに耳を寄せた。
「何も聞こえないけど……?」
「よおく耳を澄《す》ますの。しばらく待ってると聞こえてくるから」
言われた通り、摩耶はじっとノイズに耳を傾《かたむ》けていた。三〇秒ほどすると、渓流《けいりゅう》の滝《たき》の音に似たノイズの中に、小さな人の声のようなものが混じっているのが分かってきた。よくは聞こえないが、何かしきりに不満をつぶやいているようだ。
<……ちっとも……早く……しやしねえ……何だか……みたいな……ちくしょう……どうしようもねえなあ……>
「誰《だれ》かぶつぶつ言ってる……」
「うわべりよ。ひとり言が好きなの。電波の世界に棲《す》んでいて、一日中いろんな番組を見ながら、ああやって文句を言ってるのよ――どれ、呼び出してみようか」
そう言うとかなたは、机の上に置いておいたコンビニの白いポリ袋《ぶくろ》を持ち上げた。頬《ほお》に当てて、気持ちよさそうににこにこする。
「おー、ほどよく冷えてる。氷もいっしょに買ってきて正解だったな」
かなたが嬉《うれ》しそうに袋から取り出したのは缶《かん》ビールだった。摩耶はびっくりした。
「それ、飲むの?」
「うん。湯上《ゆあ》がりにはサイコーだよ。いっしょにやろ♪」
「でも、私、お酒なんて……」
「ああ、ひと缶《かん》ぜんぶ飲む必要ないよ。ちょっと口つけるだけでいいの。儀式《ぎしき》みたいなもんだから」
「儀式?」
「そ、うわべりを呼ぶ儀式。あいつ、ビールが好きだから」
近所のコンビニのロゴが入ったポリ袋《ぶくろ》に目をやり、摩耶は首をかしげた。
「あのお店、未成年にはアルコールは売らないはずだけど……?」
「ああ、もちろん未成年の姿で買いに行ったんじゃないわよ」
摩耶は深く追及《ついきゅう》するようなことはしなかった。質問するのが怖《こわ》かったのだ。たとえば、かなたの本当の姿はどうなのか、といったようなことは……。
二人はテレビから二メートルほど離《はな》れ、並《なら》んで正座した。かなたは三個の缶《かん》ビールを取り出し、リングプルをすべて開けた。一個は自分で、一個は摩耶に持たせ、もう一個は二人の間に置く。
「言っとくけど、うわべりはちょっと怖く見えるかもしれないけど、基本的にいい奴《やつ》だからね。驚《おどろ》いちゃだめだよ。口は悪いけど、けっこう繊細《せんさい》でね。気ィ悪くするから」
「うん……」摩耶はよく分からないけれどもうなずいた。
「じゃ……」
かなたに目くばせされ、摩耶はおずおずと缶に口をつけた。眼を閉じてひと口だけ飲んでみたが、苦いだけで、あまりおいしいものとは想《おも》えなかった。
かなたは自分でもひと口だけ飲んでから、テレビに向かって歌うような口調で呼びかけた。
「うわべり、うわべり。あなたの分あるよ。早く来ないと気が抜《ぬ》けちゃうよ」
数秒後《すうびょうご》、摩耶はテレビの画面に変化が起きたのに気づいた。白と黒の粒子《りゅうし》が渦巻《うずま》き、何か形を取ろうとしている。まるで霧の奥から何かが接近してくるように、しだいに形がはっきりしてくる。
やがて、画面いっぱいに一|匹《ぴき》の怪物《かいぶつ》の顔が映った。顔は銀色の長い毛に覆《おお》われていた。人間の三倍はありそうな大きな口。顔の真ん中には、車のヘッドライトを連想させる銀色の複眼が一個だけある。摩耶は悲鳴をあげそうになった。
「だいじょうぶ……」
かなたはそう言って、優しく摩耶の肩《かた》に手を置いた。摩耶は部屋から逃《に》げ出したいという衝動《しょうどう》をどうにかこらえた。
「何だ、かなたじゃねえか」
怪物は画面の縁《へり》に指をかけてひょいと乗り越《こ》え、12インチのブラウン管からするりと抜け出してきた。摩耶はすぐ目の前に降り立ったそいつを、信じられない思いでまじまじと見つめた。現実感覚が崩壊《ほうかい》し、今にも失神するのではないかと思われた。
大きさは小学生ぐらいだった。やや太っていて、猫背《ねこぜ》で、体に比べて顔が異常に大きい。全身がヤマアラシのような銀色の針に覆《おお》われていて、動くたびにそれがしゃらしゃら音を立てるのだ。指はぽっちゃりとしていて、鋭《するど》い爪《つめ》が生えており、猫科の動物を思わせた。
「元気してた、うわべり?」
「ああ、もっとも最近、あまり面白《おもしれ》え番組がねえがな」うわべりはそう言いながら、床《ゆか》に置いてあった缶《かん》ビールをつまみ上げた。「何だ、ドライじゃねえか。俺《おれ》、ドライはいまいち好きじゃねえんだよなあ」
「ぜーたく言ってんじゃないの。ただで飲ませてやってんのに」
かなたは手にした缶ビールの尻で、うわべりの頭をこつんと叩いた。
「へいへい――こっちのお嬢さんは何だ? おめえの友達か?」
「そう、摩耶ちゃんよ。摩耶ちゃん、これがうわべり」
「よ……よろしく」
摩耶は頭を下げた。笑みがひきつっていた。
かなたは事情を手短に説明した。うわべりはベッドの上にちょこんと座《すわ》り、「うーむ」とうなった。
「俺《おれ》にはぜんぜん心当たりねえなあ。誓《ちか》って言うが、こっちのお嬢《じょう》さんとも初対面だぜ」
「別にあんたを疑ってたわけじゃないのよ。ただ、テレビのことならあんたに訊《き》けば分かるかもしれないと思って……」
「俺は関東一円のテレビ電波をモニターしてるが、このお嬢さんが出演してるスケベ番組なんて、見た覚えはねえなあ」
「ということは、やっぱり超常《ちょうじょう》現象がらみかな?」
「うむ――お嬢さん、つかぬことを訊くけど、ご先祖に何か因縁話《いんねんばなし》があったとか、家族の誰《だれ》かが霊《れい》に崇《たた》られたとか、その手の話は聞いたことねえかな?」
摩耶は首を振《ふ》った。
「いいえ。そういうのは全然……」
「じゃあ、あんた自身が誰かに恨《うら》みを買うようなことは?」
「学校でよくいじめられましたけど……」
「そいつぁ逆だ」うわべりは苦笑した。「恨むのはいつでもいじめられる側だ。いじめる側には、心霊《しんれい》現象を起こすほどのパワーなんてありゃしねえ。他人《たにん》をいじめることで、心にたまったものを発散してるんだからな」
「…………」
「ねえ、摩耶ちゃん、他《ほか》に心当たりは? どんなことでもいいんだけど?」
「あっ、叔母《おば》さんが肩《かた》が凝《こ》った時に、祈祷師《きとうし》さんにお祓《はら》いをしてもらったら良くなったとか言ってました。悪い動物霊《どうぶつれい》がついていたとかで……」
「そういうのは関係ねえよ」うわべりは頭をぽりぽりかいた。「そういう話は、たいていインチキだから」
「そうなんですか?」
「そうよ」かなたは不満そうに頬《ほお》をふくらませた。「何でもかんでも霊《れい》や妖怪《ようかい》のしわざにされたんじゃ、たまんないわ」
「まったくだ」うわべりは大きな口を歪《ゆが》めて笑った。「テレビの特番なんかでも、背後霊がどうのこうのってのを見てると、大笑いしちまうぜ。ただの撮影《さつえい》ミスを『心霊写真だ』とか言ってさ。本物の心霊現象なんてのは、一〇〇のうちせいぜい二つか三つだな」
うわべりはテレビに出てくる超能力者や霊能者の誰《だれ》と誰が本物で、誰と誰がインチキかということを、摩耶に教えてくれた。彼はテレビ局のモニターにも侵入《しんにゅう》できるので、テレビに映らない舞台裏《ぶたいうら》もみんな知っているのだ。
本物の妖怪が言うのだから、これにまさる確実なニュースソースはない。
「とにかく、実物を見てみるしかねえな。何か手がかりがつかめるだろう」
摩耶は慌《あわ》てた。
「み……見るって? あの……私……」
「だーいじょうぶ♪」かなたは摩耶の肩《かた》を叩《たた》いた。「気にすることないよ。うわべりには性別なんてないんだから。ほら、よく見て。あれだってないでしょ?」
「え? でも……?」
うわべりは大きな口を歪《ゆが》め、にやりと実った。
「だったらどうやって繁殖《はんしょく》するのか、って訊《き》きたいんだろ?」
摩耶はそんなことを訊きたいのではなかったが、つい反射的にうなずいてしまった。
「答えは簡単。繁殖しねえのさ。俺《おれ》みたいに生まれたばかりの種族はよ」
「生まれたばかり?」
「そう。うわべりは生まれてからまだ三〇年も経《た》ってないの」かなたが解説する。「テレビができてから生まれた種族だもんね」
「あの、よく分からないんですけど……妖怪って、新しく生まれてくるんですか?」
「おう、もちろんさ」とうわべり。「ここ十何年の間にも、いろんなのが生まれてる。聞いたことがあるだろ? 口裂《くちさ》け女、人面犬、花子さん……今この瞬間《しゅんかん》にも、どこかで新しいのが生まれてるかもしれねえぜ」
「はあ……」
「要するにだ、この世界には生命の生まれ方が二通りあるんだな」
「二通り?」
「そう。この世界にはどこでも目に見えない力がふわふわ漂《ただよ》ってる。いわば生命の根源の力だな。それが吹きこまれることによって、動物や植物は生命を得る。魂《たましい》≠ニか生命エネルギー≠ニか気≠ニか、呼び方はいろいろだが、まあ、そういったようなもんだ。それがなければ生物は粘土《ねんど》のかたまりも同然さ。死ねばそれは体から抜《ぬ》ける。
ただし、その力には形も意志も知能もねえんだ。力があるだけなのさ。だから小石一個だって動かすことはできやしねえ。意志があるとすれば、何かの形になろうとする意志だけだ。鋳型《いがた》に流しこまれる前の融《と》けた鉄みたいなもんだな。どんな形にでもなる。良くなるも悪くなるも、鋳型しだい、環境《かんきょう》しだいってわけだ。分かるかい?」
「ええ、まあ……」
「そうした目に見えない生命力が、肉体という鋳型に流れこんで、生命が生まれる。その手助けをするのが想《おも》い≠セ」
「想い?」
「そうだ。人間だけが想いを持ってるわけじゃねえ。カエルにだって鳥にだって花にだって、ちっぽけな細菌《さいきん》にだって、子孫を残したいっていう想いはあるさ。人間の場合、まだ生まれてこないわが子に対する母親や父親の想いが、宙に漂《ただよ》っている生命力を引き寄せて、腹の中の子供に生命を吹《ふ》きこむきっかけになるわけだな。
それがごく普通《ふつう》の生命の生まれ方だ。だが、それ以外に別の生まれ方がある。人間のもろもろの想い≠ェ作用して、本来なら生命を持たないはずのものに生命が吹きこまれることがあるんだ――それが妖怪《ようかい》さ。
たとえば女が一枚の着物に愛着を持って、ずっと大事にし続けたとする。すると、いつの間にかその着物に生命が宿って、妖怪になることがある。いつも必ずそうなるわけじゃねえが、想《おも》いが強ければ強いほど、空中に漂っている目に見えない生命力を強く引きつける。妖怪が生まれる確率が高くなるわけだな。
俺《おれ》の場合、この体は電波でできてる。何十年も続いたテレビの放送にかかわった何万人という俳優やスタッフ、何千万人という視聴者の想いが、テレビ電波に形を与えて、この俺が生まれたってわけさ」
「じゃあ……?」
摩耶は振《ふ》り向いてかなたを見た。かなたはいたずらっぽく肩《かた》をすくめた。
「ああ、かなたは俺とは違《ちが》うさ。古い種族だからな。もう何百年、ひょっとしたら何千年も続いてる家系だ。妖怪も長く続いていると、人間みたいに生身の体を持って、子供を産むこともできるようになる。その気になれば人間と結婚だってできるんだぜ」
少なくともかなたが生身の体を持っていると知って、摩耶はほっとした。
「妖怪にもいろいろいるんですね」
「そうだな。大別すると愛情型≠ニ恐怖型《きょうふがた》≠ノ分かれる。俺みたいに人間が何かに注いだ愛情が結晶《けっしょう》して生まれるタイプと、夜の闇《やみ》とかに対する人間の本能的な恐怖が、擬人化《ぎじんか》されて誕生するタイプだ。
もっとも、必ずしも愛情型が善、恐怖型が悪ってわけじゃねえ。愛情型の妖怪《ようかい》だって、人間に裏切られたり、歪《ゆが》んだ想《おも》いを注がれたら、悪さをすることがある。その逆に恐怖型にもいろいろある。このかなたなんて、由来からすれば、どっちかっつーと恐怖型だが、そうは見えねえだろ?」
「はい」
うわべりの話を熱心に聴《き》くうちに、摩耶は奇妙《きみょう》な高揚感《こうようかん》を覚えていた。妖怪と同じ部屋にいて、この世界のほとんどの人が知らない事実を明かされているというのは、何とも不思議な感じだった。
こんなことは絶対に学校では教えてくれない。
5 闇《やみ》からの声
三人でよもやま話をしているうちに、時間は過ぎ去り、いよいよ午前|零時《れいじ》まであと数分となった。「例の映像だけど、いつも午前零時きっかりに出るの?」かなたが訊《たず》ねた。
「だいたいは……何秒《なんびょう》かの誤差はあるかもしれないけど」
零時が近づくにつれて、摩耶はそわそわしてきた。あれを他人に見せるのは初めてだった。他《ほか》に方法がないとは言え、かなたやうわべりに自分の恥《は》ずかしい姿を見られるのは、想像するだけでたまらなかった。
その反面、別の不安もあった――もし、今夜に限ってあの映像が現われなかったらどうしよう?
かなたたちは私のことを嘘《うそ》つきだと思うんじゃないかしら?
いや、もっと恐《おそ》ろしいことがある。あの映像が自分の目にだけ見えて、彼らに見えなかったら――すべて自分の妄想《もうそう》だったとしたら?
摩耶はかぶりを振った。そんなことがあるはずがない。あの鮮明な映像が幻覚や妄想《もうそう》であるはずがない。きっと今夜も現われるはずだ。
「お、何か見えてきたぜ」
うわべりが身を乗り出した。時計を見ると、午前零時一分前だった。
灰色の粒子《りゅうし》がちらつくブラウン管の中に、まるで二重|露光《ろこう》のように、ぼんやりと映像が浮《う》かび上がってきた。最初は白い影《かげ》がゆらめいているだけだったが、やがてピンク色を帯び、急速に鮮明さを増していった。
と同時に、ノイズの中から人の声が聞こえてきた。一方はいやらしそうな、しかし何となく心をくすぐられる青年の声、もう一方は摩耶自身の声だった。
<……さあ、もっと泣け。わめけ。今夜はたっぷりかわいがってやるぜ……>
<……いや……やめて……許して……>
「おお」とうわべり。
「へえ」とかなた。
「なかなか」
「すごーい」
今や画像はきわめて鮮明《せんめい》になっていた。二人は熱心に画面を覗《のぞ》きこんでいる。摩耶は恥《は》ずかしさで死にそうだった。
「なるほと、こいつぁハードだ」
「こういうの見たことある、うわべり?」
「いや、あんまりこういうのは公共の電波には乗らねえからなあ」
「男の顔がよく見えないねえ。シルエットになってて……あれえ? 解剖学《かいぼうがく》的にちょっとおかしくないかな、これ?」
「へ? 何のことだ?」
「あ、そうか。あんたに訊《き》いてもムダだったね……」
「あのう……」摩耶は耐《た》えかねて口をはさんだ。「何か手がかりは……?」
「おっと、そうだった。うわべり!」
かなたはうわべりの頭をコツンと殴《なぐ》った。
「何だよ!」
「見とれてる場合じゃないでしょ? この電波がどっから飛んでくるか、調べなさいよ」
「こりゃ電波じゃねえよ」うわべりは、ぶすっと答えた。
「へ?」
「電波じゃねえ。俺《おれ》はどんな電波でも感じる能力があるんだ。こんな電波は、どっからも飛んできてねえよ。嘘だと思うなら、テレビの後ろの同軸《どうじく》ケーブル、はずしてみなよ」
「電波じゃないなら、何なのよ?」
「念写じゃねえか?」
「念写ァ!?」かなたはすっとんきょうな声をあげた。「テレビに念写なんてできんの?」
「知らねーよ、そんなこと。でも、他《ほか》に説明がつくかい?」
「だとすると厄介《やっかい》だね。念力は電波みたいに発信源を探知できないから……」
それは約十五分続いてから、不意に終わった。画面はまた真っ白になった。
かなたは肩《かた》を落とした。「うーん、あんまり手がかりにならなかったなあ」
「すまねえな。役に立たなくて」
「いいよ。ありがと。電波じゃないってことが分かっただけでも大収穫《だいしゅうかく》だよ」
摩耶はため息をついた。「やっぱり、誰《だれ》かが私を恨んで、嫌《いや》がらせしてるのね……」
「ほらほら、そんなに暗くならない!」かなたは摩耶の背中をどんと叩いた。「まかしといてよ。どこのどいつか知らないけど、こんな卑劣《ひれつ》な嫌《いや》がらせする奴、必ず見つけ出してとっちめてやるから!」
<……それはどうかな?>
三人は驚《おどろ》いて振《ふ》り返った。いったんは真っ白に戻ったテレビ画面に、また人影《ひとかげ》が映っている。
若い男らしいが、逆光になっていて顔はよく見えない。
<お前たちには、俺《おれ》を見つけることも、止めることもできはしない……>
「何者よ、あんた!?」
<今日までのはただの予告編だ。摩耶、もうじきお前を迎《むか》えに行く。そして、これまでこの画面で見たのと同じことをしてやるぞ。楽しみにしていろ……>
「待ちなさいよ、ちょっと!」
かなたが呼び止めたが、遅《おそ》かった。人影は消え、画面はまた空白に戻っていた。
摩耶はがたがた震《ふる》えていた。恐怖《きょうふ》のあまり気を失いそうだった。これまでは一方的に映像が映し出されるだけで、向こうから何かを伝えてきたことはなかった。だが、敵は今やはっきりと悪意を表明し、脅迫《きょうはく》してきたのだ。
かなたは立ち上がった。
「あたし、八環さんたちに連絡《れんらく》してくる。まだ <うさぎの穴> にいるはずだから。何かいい知恵、貸してくれるかもしれない」
「いや! 行かないで!」
切実な眼で訴《うった》えかける摩耶に、かなたは笑顔を返した。
「だいじょうぶ。すくそこの公衆電話に行くだけだから。あ、そうそう……」
かなたは未亜子から預った銀のブレスレットを摩耶に手渡《てわた》した。
「これ、渡しとく。身につけといて。お守りよ」
「うん――」
摩耶はよく分からないけれども、言われた通りにブレスレットを手首にはめた。
「うわべり、しばらくここに残って彼女をガードしてて」
「よしきた!」
「じゃあね!」
さわやかな笑顔を摩耶に投げかけると、かなたはひらりと窓の外に飛んだ。
<うさぎの穴> ・午前|零時《れいじ》二〇分――
静かな店内に電話のベルが鳴り響《ひび》いた。店に居残って、かなたからの報告を待っていた八環たちは、さっと緊張《きんちょう》した。
マスターが電話を取った。
「はい、 <うさぎの穴> ……おお、かなたか。どうだった?」
<父さん、大変なの! 厄介《やっかい》なことになっちゃったみたい>
かなたは早口で一部始終を話した。一同は電話口に耳を寄せて、その報告を聴《き》いた。
「念写だって?」八環は眉《まゆ》をしかめた。「おい、大樹。ブラウン管に念写できるようなエスパーなんて、知ってるか?」
大樹は首を振《ふ》った。「知りませんねえ。アメリカのテッド・シリアスが、七〇年代にテレビでの念写実験に成功したって例はあるけど、あれはブラウン管じゃなく、ビデオカメラに念写するんだったし、映ったのも静止画でした……だいたい、シリアスの演技には疑惑《ぎわく》が多いんですよ。実顔の時には、精神集中のためと称して、いつも手に小さな紙の筒《つつ》を持ってるんです」
「それって、あやしさ大爆発だぜ」流が口をはさむ。
「それに、ブラウン管は高電圧で加速した電子を使ってるし、動く映像を得るとなると、毎秒三〇回も念写しなくちゃいけない。写真に映像を焼きつけるのに比べて、必要なエネルギーは桁違《けたちが》いですよ」
「とにかく、ブラウン管に念写できるような人間はいないってことだな?」
大樹はうなずいた。「人間はね」
「ねえ、かなたちゃん」流が受話器に口を寄せた。「その男の声に聞き覚えない? ひょっとして俺《おれ》たちの同類かもしれない」
<うーんとね……あ、そうだ。そう言えば聞き覚えあるよ>
「何!? いったい誰《だれ》だ!」
<矢尾《やお》一樹《かずき》♪>
どでっ。流はカウンターに突《つ》っ伏《ぷ》した。
「誰だ、それ?」と八環。
「アニメの声優ですよ」と大樹。
「かなたちゃ〜ん!」流が泣きそうな声で受話器にわめく。
<だって、似てたんだもーん>
「いくら似てたって、矢尾一樹は妖怪《ようかい》じゃない!」
八環は受話器をひったくった。
「他《ほか》に何か気づいた点は?」
<えーと……そうそう、男の方は解剖学的《かいぼうがくてき》に少し変だった>
「解剖学的に?」
<うん。例の部分がね。ちょっと形が間違《まちが》ってた。女の方は正確だったけど>
「ふーむ。つまり犯人は、男の裸《はだか》の実物を見たことがない可能性が強いわけだ……」
<言いたいことは分かってるよ、八環さん。摩耶ちゃん自身が犯人じゃないかっていうんでしょ?>
「そういう可能性もあるってことだ」
<あたしは信じないよ、そんなの。あの子は嘘つくような子じゃないもの。第一、人間にはそんなエスパーはいないって言ったばかりじゃない?>
「その子自身の力とは限らんさ。裏に妖怪《ようかい》がからんでるかもしれん――」
その時、受話器の向こうで、くぐもったガシャンという音がした。遠くで何かが壊《こわ》れた音のようだ。
「何だ、今の音は!?」
<待ってて! 見てくる!>
6 夜に舞《ま》う翼《つばさ》
「はあ……」
摩耶はため息をついた。不安をまぎらわすため息だった。かなたが窓から出て行って、まだ五分も経《た》っていない。五〇メートルも離《はな》れていない電話ボックスに電話をかけにいっただけなのに、まるで永遠の別れのような気さえした。出会ってたった五時間の間に、かなたは摩耶にとってかけがえのない存在になっていた。
ねそべって『EXテレビ』を見ていたうわべりが、ため息に気がついて振《ふ》り返った。
「不景気な面《つら》すんなよ。俺《おれ》がついててやるから、誰《だれ》にも指一本触れさせやしないって」
「ええ……」
「俺が信用できないっつーの?」
「そうじゃないの。あなたも、かなたちゃんも、とってもいい人なのは分かるけど――」
摩耶は言葉を切り、寒さに耐《た》えるかのように自分の肩《かた》をぎゅっと抱いた。
「怖《こわ》いの。何かも分からない――なぜ? どうして私がこんな目に遭《あ》うの? 誰がこんなことをするの?」
「わけの分からないものが、いっとう怖いのさ」うわべりは大きくうなずいた。「人間は昔っから、夜の闇《やみ》とか、自然界の神秘とか、運命とか、わけの分からないものを怖がってきた。その恐怖心《きょうふしん》が俺たち妖怪《ようかい》を生み出してきたんだ。逆に言やあ、わけが分かったとたんに怖くなくなるわけだな――どうだ? 俺も最初見た時に比べて、わけが分かってきたから、怖くなくなっただろ?」
「ええ……」
確かに、うわべりに対する恐怖心はすっかり消え失《う》せていた。
「ま、そういうこった。今度の件も、真相が分かったら怖くなくなるさ」
「そうだといいんだけど……」
その時、部屋のドアがノックされた。
「摩耶ちゃん、入るわよ」
「お母さんだわ!」
「やベ!」
うわべりは、さっとテレビの中に飛びこんで姿を消した。入れ替わりに、摩耶の母、麗子《れいこ》が入ってきた。
「摩耶ちゃん! いったいいつまでテレビ見てるの!」
麗子はそう言うと、すたすたとテレビに歩み寄り、スイッチを切った。摩耶は「あ……」と声をあげた。
「テレビもファミコンも、一日二時間までって言ったでしょ!」
「ごめんなさい……」
「お勉強はどうしたの?」
「あ……あの」そんなことをやっている余裕《よゆう》はなかった。
「まったく! そんなことで受験に失敗でもしたらどうするの!? 浪人《ろうにん》なんてことになったら、世間体《せけんてい》が悪いでしょ!」
摩耶は縮こまった。「はい……」
「あらまあ!」
いつものお説教を済まして部屋を出て行こうとした麗子は、ドアの横に貼《は》ってあるアニメのポスターに目を止めた。「またこんなもの貼って!」
麗子は腹を立て、摩耶の大事にしているポスターに手をかけた。
「あ、それは……」
「いけません! 十六にもなって、アニメやゲームにうつつ抜《ぬ》かしてるなんて! 大人になりなさい、大人に!」
「やめて!」
摩耶の抗議の声は届かなかった。麗子はポスターを乱暴に破り取った。
次の瞬間《しゅんかん》、破れたポスターの裂《さ》け目から、真っ黒な影《かげ》が飛び出した。がっしりした黒い腕《うで》が風のように伸《の》び、長い爪のある指が麗子の顎《あご》をつかむ。麗子は悲鳴をあげる暇《いとま》さえ与えられなかった。そいつは腕を大きく振り回し、麗子をベッドに叩きつけた。
摩耶は息を飲んだ。空間の裂け目から、そいつの全身が現われた。身長は二メートル近くあるだろうか、全身が闇のかたまりのように真っ黒で、ぬめぬめしており、部屋の中で狭《せま》そうに腰をかがめている。背中にはコウモリに似た大きな翼《つばさ》があり、それが天井《てんじょう》をばたばた叩《たた》いていた。肘《ひじ》には大きなトゲがあり、尻《しり》にはしなやかな長い尾があった。
麗子が一撃《いちげき》で失神したのを確認すると、そいつは巨体《きょたい》をおもむろにひねり、摩耶に向き直った。摩耶は悲鳴をあげた。
そいつには顔がなかった。にたりといやらしく笑う大きな口があるだけだ。
黒い怪物《かいぶつ》は何かを要求するかのように腕を差し伸《の》べ、ゆっくりと迫《せま》ってくる。摩耶は窓際《まどぎわ》に追い詰められた。かなたが出て行った状態のまま、窓は開いている。摩耶はちらっと後ろを見た。跳《と》ぶしかない。
摩耶は窓枠《まどわく》に足をかけ、隣家《りんか》の屋根に向かって思いきって跳んだ。瓦《かわら》に着地し、膝《ひざ》をひどくぶつける。
背後ですさまじい音がした。怪物がアルミサッシを突き破って飛び出してきたのだ。紙屑《かみくず》のようにひしゃげた窓の残骸《ざんがい》が、摩耶のすぐそばに落下し、ガラスの破片をまき散らしながら屋根を転がり落ちていった。
怪物は大きな翼《つばさ》を広げ、摩耶をまたぐような格好で、屋根にふわりと着地した。星空を背景に立ち、おびえる少女を楽しそうに見下ろして、ゲラゲラと下品に笑う。
「来たぞ、摩耶……」そいつは言った。「約束通《やくそくどお》り、来てやったぞ……」
摩耶は尻餅《しりもち》をついた状態で、必死に屋根の上を後ずさりしたが、すぐにテレビアンテナにぶつかった。アンテナを背負うような格好になる。
ビンッ! ビンッ! アンテナを屋根に固定していた四本の針金が、見えない力でひきちぎられた。それは蛇《へび》のように摩耶の手足にからみつき、ぐるぐると縛《しば》り上げる。
「摩耶ちゃん!」
路上を駆《か》けてきたかなたが、一気に五メートルもジャンプし、怪物《かいぶつ》に背後から飛びかかった。
怪物は振り向きざま、太い腕《うで》をバットのように振り回した。直撃《ちょくげき》をくらったかなたは、軽々と吹き飛ばされ、二軒向こうの家の壁《かべ》に叩《たた》きつけられる。
「いやあ!」摩耶は絶叫《ぜっきょう》した。
怪物は振《ふ》り返り、アンテナをひっつかむと、それにからみついている摩耶もろとも空中に吊《つ》り上げた。差し渡《わた》し四メートルはある黒い翼《つばさ》が、力強く夜空にははたく。怪物の精悍《せいかん》な体が宙に浮《う》いた。
そいつは摩耶をぶら下げたまま、東の空に昇《のぼ》りはじめた半月に向かって、住宅街の上をものすごいスピードで飛び去っていった。ごうっという音とともに、突風《とっぷう》が巻き起こり、コース上にある屋根瓦《やねがわら》をウエハースのように舞《ま》い上げる。
「ち、ちくしょう……」
かなたは痛みをこらえながら、なかばモルタルの壁にめりこんだ体をどうにか引き剥《は》がした。東の空を見たが、すでに怪物は何百メートルも向こうだった。たちまち闇にまぎれて見えなくなる。風の音と、得意げな高笑いだけが耳に残った。
「ちくしょう……」
かなたは泣いた。苦痛ではなく、悔《くや》しさの涙《なみだ》だった。
<大変……摩耶ちゃんがさらわれた!>
二分あまりの沈黙《ちんもく》の後、受話器から聞こえてきたかなたの苦しそうな声は、 <うさぎの穴> の面々を色めき立たせた。
「さらわれたって!? 相手は?」
<真っ黒い大きな奴《やつ》……翼《つばさ》があった。摩耶ちゃんをさらって東に飛んでった……あんな奴、初めて見たよ>
「ブレスレットはどうした? 彼女に渡《わた》してあるか?」
<うん……>
八環は未亜子たちに目くばせした。待機していた大樹が、すかさず東京近辺の五万分の一の地図をテーブルに広げる。一同はそれを覗《のぞ》きこんだ。
未亜子はネックレスをはずし、細い銀の鎖を右手の指でつまんだ。鎖の先端《せんたん》には菱形《ひしがた》の水晶《すいしょう》が振《ふ》り子のようにぶら下がっている。左手には、摩耶が身につけているブレスレットの片割れを握《にぎ》っている。
地図の上、武蔵野市のあたりに水晶をかざす。数秒後、振り子は自然に左右に揺《ゆ》れはじめた。ゆっくりと東に移動させてゆくと、往復運動が回転運動に変化した。反応が最も強くなる点を求めて、未亜子は振り子を移動させていった。
ブレスレットの反応は、中央線沿いにまっすぐ東へ移動していた。すでに杉並《すぎなみ》区を通過し、中野《なかの》区に入ろうとしている。
「すけえ。時速一〇〇キロは出てるぜ」流が感嘆《かんたん》の声をあげる。
「一八〇キロだ」大樹が地図に定規《じょうぎ》を当てて言った。「|阿佐ヶ谷《あさがや》と高円寺《こうえんじ》の間、約一・五キロを三〇秒で飛んだ」
「こいつは並みの奴《やつ》じゃないぞ!」
「ああ、この事件、甘く見てたな」
<まだ行方は分からないの!?> 電話の向こうでかなたが絶叫《ぜっきょう》する。
「もう少し待て」八環が冷静に言った。「スピードが速すぎて、俺《おれ》たちじゃ追いつけん。どこかに止まるのを待つしかない」
一分後、反応は中野区を通り過ぎた。そこで急に進路を北東に変え、上落合《かみおちあい》、下落合《しもおちあい》、目白《めじろ》と通過し、池袋《いけぶくろ》に入る。しばらく池袋周辺をうろうろしていたが、やがて池袋駅の東でぴたりと止まった。
「拡大地図!」
未亜子が指示するまでもなく、大樹はすでに池袋周辺の五〇〇〇分の一の地図を用意していた。未亜子は再びその上に振《ふ》り子をかざし、精密な位置を特定した。
振り子はサンシャインシティを中心に旋回《せんかい》している。
「かなた、聴いてるか? 反応が止まった。池袋のサンシャインのあたりだ」
<そこに摩耶ちゃんがいるの?>
「おそらく。ブレスレットを落っことしたんでなければな。マップ・ダウジングは精度に限界がある。ともかく、俺《おれ》たちはこれからそこに急行する」
<分かった。あたしもうわべりを見つけて、大急ぎで行く……>
「よし、東池袋公園で落ち合おう」
「だいじょうぶか、かなた?」マスターが娘《むすめ》を心配して言った。「声が苦しそうだぞ?」
<平気よ、これぐらい!> かなたの声は怒《いか》りと虚勢《きょせい》を含んでいた。
かなたは痛む胸を押《お》さえながら、電話ボックスからよろめき出た。物音を聞いて家の外に出てきたパジャマ姿の人々で、すでに路上はごった返している。彼らは吹き飛んだ守崎家の窓や、その隣家《りんか》の屋根の破損《はそん》を見て、ガス爆発ではないかと噂《うわさ》し合っていた。
「かなた、こっちだ、こっち」
近くの生け垣《がき》の影《かげ》から呼ぶ声がした。うわべりがうずくまっている。
「あんた、何やってたのよ!?」
「しょうがねえだろ! 摩耶の母親が入って来たんで、テレビの中に隠れたら、スイッチを切られちまったんだ。うまい具合に居間のテレビがつけっ放しになってたんで、そっから出てきて二階に行ってみたら、母親が倒れてて――」
「摩耶ちゃんのお母さん!?」
「うんにゃ、心配ねえ。かすり傷《きず》だ。気を失ってただけだ。今しがた、誰《だれ》かが救急車呼んでたぜ」
「良かった――とにかく、池袋に行かなきゃ」
「池袋ォ!?」
「そこに摩耶ちゃんがつれてかれたのよ。うわべり、あたしもテレビの中、通して。できるんでしょ?」
「できねえことはねえが……」
「うまい具合に、このへんの人はみんな、家の外に出てるわ。あたしが入れるような大型のテレビ、探しましょ。池袋なら、真夜中でもついてるテレビがいくらでもあるはずよ」
「しかしなあ、正直言って、あんな奴《やつ》とは正面からやり合いたくねえぜ。窓のぶっ壊《こわ》れ方を見たろ? パワーが違《ちが》いすぎる――」
「あんたに戦えなんて言ってないよ!」かなたは苛立《いらだ》った。「とにかく急いで!」
「へいへい!」
摩耶は目を覚ました。一時的に気を失っていたのだ。どこか屋外らしく、びゅうびゅうという風の音がする。もう空を飛んでおらず、冷たいコンクリートの上に横たえられているようだ。
体を束縛《そくばく》していた針金もほどかれていた。くらくらする頭を振《ふ》り、半身を起こしてあたりを見回す。
はっと息を飲んだ。月の光をバックに、裸《はだか》の青年が立っていた。長い髪《かみ》が強い風にあおられ、ひるがえっている。
顔は暗くて見えなかったが、とっさに相手の正体を悟った。いつもテレビの中に現われていた、あの男だ。
「ようやくだな、摩耶……」そいつは残忍《ざんにん》だが魅惑《みわく》的な声で言った。「ようやくこの時が来たんだな……」
摩耶は悲鳴をあげた。逃げ道はないかと背後を振り返る。
一瞬《いっしゅん》、めまいを覚えた。背後には何もなかった。深い空虚《くうきょ》がぽっかりと口を開けている。眼下にはメガロポリス東京の壮大《そうだい》な夜景が広がっていた。黒いビロードの上にダイヤモンドをぶちまけたように、きらびやかな灯火やネオンが、視野いっぱいに輝《かがや》いている。深夜の高速道路を行き来する車の騒音《そうおん》でさえ、遠いさざめきにしか聞こえない。
摩耶はぺたんと尻餅《しりもち》をついた。金魚のように口をばくばくさせる。恐怖《きょうふ》と驚《おどろ》きのあまり、全身の力が抜《ぬ》けてしまった。
ここは地上二四〇メートル、サンシャイン60の屋上なのだ。
「どこにも逃げ場はない」男は笑った。「誰《だれ》も助けには来ない。いくら叫《さけ》んでも誰にも聞こえない。ゆっくりと二人だけで楽しむことができる……」
男は凍《こお》りついている摩耶にゆっくりと歩み寄り、背後からマントのように覆《おお》いかぶさってきた。太い腕が摩耶の胸に回された。熱い息が耳にかかる。
「朝まで、たっぷり、二人だけで……」男は魅惑《みわく》的な声で、一語ずつささやいた。「誰《だれ》にも邪魔《じゃま》されず、思う存分、疲《つか》れ果てるまで……」
男の指がブラウスのボタンをまさぐり、一つずつはずしはじめる。摩耶は弱々しくかぶりを振《ふ》った。しかし、抵抗の気力は残っていなかった。
「……いや……やめて……許して……」
摩耶はつぶやいた。それはあの映像の中の彼女が何度も発していた言葉だった。ずっと前から決まっていた台詞《せりふ》のように、摩耶は機械的にそれを口にした。
男はいっそう深く覆《おお》いかぶさってきた。摩耶は絶望と官能の中で眼を閉じた。少女の震《ふる》える唇《くちびる》に、男の唇が強引に押し当てられる。摩耶はそっと涙《なみだ》を流した。
7 かなたの賭《か》け
サンシャインシティ・プリンスホテル2636号室・午前一時ジャスト――
「おじゃましまーす」
ベッドに寝《ね》そべり、衛星放送を見ながらいつの間にか眠ってしまった小説家の浜本《はまもと》弘《ひろし》は、女の子の声に目を覚ました。走り去るばたばたという足音、そしてカチャンとドアの閉じる音がした。
「ん?」
寝惚《ねぼ》けまなこで室内を見回すが、もちろん誰《だれ》もいない。ドアには鍵《かぎ》がかかっているはずだし、高層ホテルの二六階に外から誰かが入って来れるはずがない。
「幽霊《ゆうれい》?……まさかね」
科学合理主義者の浜本は、そうつぶやくと、大きなあくびをして、つけっ放しになっていたテレビに目をやった。アメフトの中継《ちゅうけい》をやっていたが、興味がなかったのでスイッチを切った。
東池袋中央公園・午前一時五分――
巨大《きょだい》ビルの複合体、サンシャインシティの一画にあるこの空間は、公園と呼ぶにはややためらいのある、高層ビルと道路に囲まれたささやかなオアシスだった。植物が植えられ、階段状の人工のせせらぎが涼《すず》しさを提供している。昼間は散策する人もいるが、この時刻にはさすがに誰もいない。アベックのデートの場所としては、にぎやかすぎ、狭《せま》すぎるのだ。
若者には意外に知られていないが、サンシャインシティはかつてB級戦犯を収容した東京|拘置所跡《こうちしょあと》に建てられている。その暗い歴史を示すものは、この公園の片隅《かたすみ》にある小さな平和の碑《ひ》だけだ。
ヤマハのバイクが、続いて中古のフォルクスワーゲンが、相次いで公園の前に止まった。渋谷から信号無視とスピード違反を重ねながら走ってきたのだ。バイクからは流が、ワーゲンからは八環・未亜子・大樹・マスターが、あわただしく降りてくる。すでにかなたは公園でじりじりして待っていた。
「遅《おそ》おい!」
「これでも急いで来たんだ」流が言い訳した。「摩耶ちゃんは?」
「それが分かんないから苛立《いらだ》ってるんじゃない!」
未亜子はすでに振《ふ》り子を取り出し、ダウジングを開始している。
「うわべりは?」と八環。
「びびっちゃって、ついて来なかった」
「まあ、しかたなかろう。あいつはパワーで勝負するタイプじゃないからな」
黙々《もくもく》と振り子の反応を調べていた未亜子が、顔を上げて眉《まゆ》をひそめた。
「どうもサンシャインの中らしいわね」
「中って、どこだよ!?」と流。「ここは床面積《ゆかめんせき》だけで後楽園《こうらくえん》球場の五倍あるんだぜ! 一部屋ずつ探すわけにいかないよ!」
「そんなこと言っても……ちょっと待って、急に反応が強く――」
未亜子が言い終わらないうちに、ちゃりーんという涼《すず》しい音を立てて、小さな物体が近くの敷石《しきいし》に落下した。かなたが駆《か》け寄り、拾い上げる。
「ブレスレットだ!?」
一同ははっとして、夜空にそそり建つ巨大ビル、サンシャイン60を見上げた。
「あの上か!?」
「他《ほか》にないだろ」
「流くん! 八環さん!」
「分かってるって」
流はすばやくシャツを脱《ぬ》ぎ捨て、続いてジーンズも脱ぎはじめた。八環もワイシャツを脱いで上半身をあらわにする。
「流くん、乗せて!」かなたがせがむ。「あたしも行きたい!」
「しょうがねえなあ。落ちても知らんぞ」
そう言うと、素裸《すはだか》になった流は変身をはじめた。体が長く伸《の》び、全身が金色の鱗《うろこ》に覆《おお》われる。髪《かみ》の毛も金色に変わり、それが頭から尻尾《しっぽ》までずらりと生えて、美しいたてがみになる。手足は短くなり、さっと鉤爪《かぎづめ》が生えた。ほんの数秒《すうびょう》で、流は全長五メートルの爬虫類《はちゅうるい》のような姿に変化を完了していた。
かなたがまたがると、流は重力を無視してふわりと宙に浮いた。八環も背中から大きな鳥の翼《つばさ》を広げ、空に舞い上がる。
「落ちるんじゃないぞー!」地上から大樹が声をかける。「二四〇メートル落ちるには、七秒しかかかんないんだからな!」
「分かってる!」
かなたの声は急速に遠ざかっていった。三匹の妖怪《ようかい》は、分速六〇〇メートル、世界最高速のサンシャイン・エレベーターにも劣《おと》らぬ速度で上昇を開始していた。
屋上に達したかなたたちが見たのは、風の中にすっくと立った裸《はだか》の青年だった。その足許には、あられもない下着姿にされた摩耶が横たわっている。青年は今まさに彼女に覆《おお》いかぶさろうとしていた。
「おやめ!」
かなたの鋭《するど》い叫《さけ》びが青年をたじろがせた。青年はゆっくりと振《ふ》り返る。と同時に、画面がフェイドアウトするように、その肌《はだ》が真っ黒に染まった。体が膨張《ぼうちょう》し、背中に巨大《きょだい》なコウモリの翼《つばさ》が出現する。
「寄るな!」顔のない黒い怪物は、かなたたちに向かって吠《ほ》えた。「こいつは俺《おれ》の女だ!」
「勝手なこと言うな!」
かなたは流の背中からジャンプし、猫《ねこ》のようにふわりと屋上に着地した。怪物が彼女に気を取られたすきに、身軽になった流が空中から背後に回りこんだ。突進《とっしん》して怪物を突《つ》き飛ばそうとしたが、怪物はすばやくそれをかわし、通過する瞬間《しゅんかん》、翼で流の横腹をはたいた。しかし、たいした打撃《だげき》ではない。
八環が激《はげ》しく翼をはばたかせながら、側面に回りこんで牽制《けんせい》する。風を思い通りに操る彼の妖術《ようじゅつ》は、あまりに強力すぎて、怪物の足許《あしもと》にいる摩耶をも巻きこみかねないので、使うのをためらっていた。
怪物は摩耶を人質に取った状態で、八環とにらみ合っていた。その際に体勢を立て直した流は、ぐるりと旋回《せんかい》し、再び攻撃位置に来た。今度はワニのような大きな口を開き、怪物めがけて電撃を放つ。
バシッ! 紫色《むらさきいろ》の電光は、怪物のすぐそばにあったビルの避雷針《ひらいしん》に吸いこまれた。
「あちゃー!?」
「何やってんだよお!」
摩耶を救うために、かなたと八環が二方向から突進する。しかし、怪物は摩耶の前に仁王立《におうだ》ちになり、がっしりした腕《うで》と翼を振《ふ》り回して、彼らを近寄らせない。二人は後退せざるを得なかった。
そこへ流が三度目の突進をかけた。金色の矢のように、怪物の側面から体当たりする。ワニのような固い口が右肩《みぎかた》にぶつかり、怪物《かいぶつ》はよろめいた。
摩耶が悲鳴をあげた。そちらに注意を向けたかなたは、はっとなった。摩耶は右肩を押《お》さえてうめいている。
「流くん、だめ! そいつ、摩耶ちゃんと一体になってるよ!」
「何ィ!?」
「その通りだ」と八環。「この怪物はあの子と一心同体だ。こいつを殺したら、おそらくあの子も死ぬ」
「そんな! どうしろってんですか!?」
流と八環は、怪物から距離を置いてホバリングした。かなたと三人で、三方向から怪物を包囲した形になる。だが、このままでは攻撃《こうげき》はかけられない。怪物はうなり声をあげ、うるさそうに三人を見回すが、摩耶のそばを離《はな》れようとしない。
膠着《こうちゃく》状態だった。
「聞こえるか、摩耶ちゃん!?」八環は風の音に負けまいと怒鳴《どな》った。「よく聴《き》け! そいつは夢魔《むま》だ! 中世ヨーロッパによく現われた奴《やつ》だ! 日本にも昔からいた!」
「助けて……」摩耶は怪物の足許《あしもと》にうずくまり、放心した表情で弱々しくつぶやいた。「お願い、助けて……」
八環は首を振《ふ》った。「我々には助けられない。そいつは攻撃できない。そいつを殺せば君も死ぬんだ!
夢魔は妖怪《ようかい》じゃない。妖怪の前段階、妖怪に進化する前の、単なるエネルギーだけの存在なんだ。決まった形なんかない。性別もない。男の前には女の姿で、女の前には男の姿で現われる。意志も知能もない。ただのあやつり人形だ。憑依《ひょうい》した人間の欲望の命じるままに、粘土《ねんど》みたいに形を変えるだけだ。
そいつは君なんだ! 君の潜在《せんぎい》意識だ! 君の心の底に渦巻《うずま》いてる欲望が形になったものなんだ! 分からないのか!?」
摩耶には理解できなかった。「どういうこと……何なの……?」
「馬鹿《ばか》なこと言うな! 俺《おれ》はあやつり人形じゃない」怪物は吠《ほ》えた。「俺はあやつり人形なんかじゃないぞ!」
「目を覚ませ、摩耶ちゃん! 早く気づくんだ! そいつの台詞《せりふ》は、ぜんぷ君が喋《しゃべ》らせてるんだぞ! そいつは君の望んだ通りに行動してるだけだ!」
「そんな……そんなことない」摩耶は茫然《ぼうぜん》と首を振《ふ》った。「私…こんなの望んでない。望んでないもの……」
かなたは舌打《したう》ちした。「だめだよ、八環さん! 言葉で説明したって分かんないよ」
「じゃあ、どうやって説明する!?」
「あたしにまかせて」かなたは摩耶に向き直り、優しく呼びかけた。「摩耶ちゃん。聴《き》いて。これからそっちに行くから――」
「来ちゃだめ! 殺されるわ!」
かなたは微笑《ほほえ》み、首を振った。「だいじょうぶだよ。摩耶ちゃんがあたしを殺せるはずないもの。さっきははずみでああなっただけだよね?」
そう言いながら、かなたは一歩前に踏み出した。怪物《かいぶつ》は歯を剥《む》き出して威嚇《いかく》するが、かなたは動じない。
「お母さんもだいじょうぶだよ。かすり傷だけだって――摩耶ちゃんは本当は誰《だれ》も傷つけたくなんかないのよね。だって、優しい子だもん。そうでしょ?」
かなたは一歩ずつ前進しはじめた。
「来るな!」
「来ちゃだめ!」
怪物と摩耶の声が唱和した。だが、かなたはまったく恐《おそ》れる様子を見せない。ゆっくりと、だが着実に、怪物に近づいてゆく。
「おい、かなたちゃん……!」
流が頭上を旋回《せんかい》しながら、心配そうに声をかけた。かなたは彼の方をちらっと見て、小さく手を振った。
「だいじょうぶ、あたしにまかせて」
「流、近づくな!」八環が警告する。
「でも――」
「そいつを刺激《しげき》するんじゃない。かなたにまかせるんだ」
すでにかなたは怪物まで五メートルに近づいていた。一回の跳躍《ちょうやく》で飛びかかれる距離だ。怪物は鉤爪《かぎづめ》のある腕を大きく振り上げ、かなたを脅した。
「近づくな! それ以上近づいたら、引き裂《さ》いてやるぞ!」
「……できるはずないよ」
かなたは怪物《かいぶつ》の警告を重視した。まっすぐに摩耶を見つめ、微笑《ほほえ》みながらかぶりを振る。
「摩耶ちゃんにそんなこと、できっこないよ。だって、あたしたち、友達でしょ?」
かなたはさらに一歩を踏《ふ》み出した。怪物の攻撃圏内《こうげきけんない》に入る。怪物は凶暴《きょうぼう》な咆哮《ほうこう》をあげた。ちっぽけなかなためがけて太い腕《うで》を振り下ろす――
「やめてえ!!」摩耶が絶叫《ぜっきょう》した。
その瞬間《しゅんかん》、まるで時間が静止したようだった。予想された鮮血《せんけつ》のシャワーはなかった。振り下ろされた怪物の爪は、かなたの顔面の数センチ手前で、ぴたりと停止している。
かなたは自信たっぷりに、さらに一歩を踏み出した。怪物は爪をひっこめ、おずおずと後ずさりして、かなたのために道を開けた――まるで忠実な飼犬《かいいぬ》のように。
かなたは茫然《ぼうせん》としている摩耶のそばにやって来た。にっこりと微笑《ほほえ》み、彼女を立ち上がらせようと、優しく手を差し伸《の》べる。
「もうだいじょうぶだよ、摩耶ちゃん――」
摩耶は信じられない想《おも》いで、かなたと怪物を何度も見比べた。怪物はすっかり凶暴性を失い、西洋の寺院の壁《かべ》を飾《かざ》るガーゴイル像のように、うずくまってじっとしている。
恐《おそ》ろしい真実がゆっくりと摩耶の心に浸透《しんとう》してきた。それ自身は知能も意志も持たず、人間のひそかな願望を満たすためだけに現われる夢魔《むま》。意識の底にひそむどす黒い欲望が生み出した、真っ黒な醜《みにく》い怪物――あのみだらな映像もすべて、彼女が抱《いだ》いていた妄想《もうそう》が増幅《ぞうふく》されたものだったのだ……。
真実に目覚めると同時に、パニックが襲《おそ》ってきた。
「いやあっっ!!」
少女は絶叫《ぜっきょう》し、かなたの手を激《はげ》しく振《ふ》り払った。
「摩耶ちゃん――」
「いや! 近寄らないで! いや!」
摩耶は泣き叫《さけ》んだ。涙《なみだ》をぼろぼろ流しながらも、おかしさがこみあげてきて笑った。発狂寸前だった。
どんな人間にも、心の中には黒い怪物がひそんでいる。だが、それを具象化して見せつけられた者はほとんどいない。ほとんどの人間は、そんな醜《みにく》い欲望が存在することさえ気づかず、認めようとはしない。そんなものが自分の中にあるということに、理性が耐《た》えられないのだ。ましてや、それが多感な少女であれば――
「いやああああっっっ!!」
摩耶は夜空に向かって叫んだ。この世のすべてを否定する叫びだった。夢魔《むま》がそれに呼応した。彼女の願望をかなえるために、再び動き出した。
夢魔は翼《つばさ》を広げ、摩耶に飛びかかった。鉤爪《かぎづめ》で彼女をさっとすくいあげ、空中に飛び上がる。
「摩耶ちゃん!」
かなたはとっさにジャンプした。間一髪《かんいっぱつ》で夢魔の脚にしがみつく。夢魔は二人の少女をぶら下げたまま、星空に向かって急上昇《きゅうじょうしょう》を開始した。
「かなたちゃーん!」
流と八環は、飛び去る夢魔を必死に追った。だが、夢魔のスピードは圧倒《あっとう》的だった。二人は見る見る引き離されていった。
8 新たなる力
「摩耶ちゃん! 摩耶ちゃん!」
高速で飛行する夢魔の脚《あし》に必死にしがみつき、かなたは風圧に耐えながら絶叫《ぜっきょう》した。
「放っておいて!」
摩耶は絶叫で返した。彼女は夢魔にしっかりと抱きかかえられている。気圧が変化したせいで、耳がツーンと鳴っている。
「私、死ぬ! 死んでやる!」
「だめだよ、摩耶ちゃん!」
「いや! こんなの耐えられない! こんな――こんな怪物《かいぶつ》が私だったなんて……」
摩耶は泣いた。泣きながら笑った。
「私……私、できそこないだったんだ! 醜くてスケベな人間だったんだ!」
「そんなことないよ!」
「いいのよ、もういいの! 私、死ぬわ。私が死ねば、こいつも消えるの……」
「そしたら、あたしも落ちちゃうよ!」
かなたの言葉に、摩耶ははっとした。狂いかけていた頭に、一瞬《いっしゅん》、理性が戻ってくる。
「あたし、空は飛べないのよ。この高さから落ちたら、妖怪《ようかい》でも死んじゃうんだからね! あたしを殺したいの、摩耶ちゃん?」
「…………」
心なしか、夢魔のスピードが少し落ちたようだった。
「絶望しないで、摩耶ちゃん。摩耶ちゃんが絶望したら、あたしだって悲しいよ」
「だって……だって」
「摩耶ちゃん、死なないで! お願いだから、死なないでよ! あたし、摩耶ちゃんのことが大好きなんだから!」
「だって、私、こんなに醜い……」
「誰《だれ》だって醜い心ぐらいあるよ! 清いだけの人間なんていやしないよ! でも――それでもあたし、人間が好きだよ! 摩耶ちゃんが好きだよ! いい部分も悪い部分もひっくるめて、今のままの摩耶ちゃんが目いっぱい好きだよ!」
今や夢魔のスピードははっきり分かるほどに落ちていた。
「お願い……お願い、摩耶ちゃん!」
かなたは泣いていた。摩耶は困惑《こんわく》した。自分なんかのために泣いてくれる者がいることが、とても信じられなかった。
「どうして……?」摩耶はつぶやいた。「どうしてそんなに私のことを……?」
かなたはきっぱりと言った。「だって……だって、あたしたち友達じゃない!」
その言葉が最後の衝撃《しょうげき》となった。夢魔の動きはぴたりと止まった。
夢魔の体が実体を失い、ぼんやりとした黒い影《かげ》になった。元の形のないエネルギーに戻ったのだ。鉤爪《かぎづめ》が摩耶の体をすり抜ける。同時に、かなたがしがみついていた脚も、つかみどころのない黒い霧の柱になった。
二人は落下した。
「きゃあ!?」
「摩耶ちゃん!」
東京ははるか数百メートル下だった。幾万《いくまん》ものきらびやかな灯火が、メリーゴーランドのように回転している。摩耶はぐるぐる回りながら落ちていった。少し離《はな》れたところを、同じようになすすべもなく落ちてゆく、ちっぽけなかなたの姿が見えた。何か叫んでいるようだが、びゅうびゅうという風の苦しか聞こえない。
この高さから落ちたら妖怪《ようかい》でも死ぬのだ、というかなたの言葉が思い出された。
(死にたくない!)摩耶の心に強烈《きょうれつ》な衝動《しょうどう》が起こった。(私は死にたくない! かなたも死なせたくない!)
二人のはるか頭上で、宙に漂《ただよ》っていたエネルギー体が、その思念に反応した。影《かげ》が再び実体化し、落下してゆく二人を追って、真っ黒な矢のように降下する。
影はほんの数秒で摩耶に追いついた。その背中にぶつかり、体内に吸いこまれる。その衝撃《しょうげき》で摩耶はビリヤードの玉のようにつき飛ばされ、連鎖《れんさ》反応でかなたにぶつかった。二人はとっさに抱き合った。
摩耶は背中が強く引っ張られるのを感じた。降下速度が見る見る落ちてゆく。風の音が急速に弱まる。首にしがみついているかなたが重い。
地上一〇〇メートルで、二人は停止した。
「摩耶ちゃん……」
摩耶の首からぶら下がって、かなたは眼を丸くしていた。摩耶は不思議に思って、そろそろと振《ふ》り薮った。
背中に羽根が生えていた。夢魔が彼女の体に融合《ゆうごう》したのだ。巨大《きょだい》な翼《つばさ》は力強くはばたき、二人の体重を宙に支えている。
翼はもう黒くはなかった。半透明《はんとうめい》で、内側からネオンのように光を放っている。まるで熱帯の蝶《ちょう》のように、鮮《あざ》やかな緑や青でステンドグラス状に彩《いろど》られている――夢魔の黒さが彼女の心の闇の反映であるように、その鮮やかさは彼女の心の輝《かがや》きの反映なのだろう。
「私……飛んでるの?」
「そうだよ。すごいよ、摩耶ちゃん!」
摩耶は試しに翼をコントロールしてみた。ちょっと念じるだけで、前進することも旋回《せんかい》することもできた。強くはばたいて上昇することも、ゆっくりと滑空《かっくう》することも、思いのままだ。
摩耶は有頂天《うちょうてん》になった。
「私、飛んでる! 自分の力で飛んでる!」
「すごい! すごいよ、摩耶ちゃん!」
二人の少女の笑い声が、東京の夜空にさざめいた。眼下にきらめく無数のネオンと灯火は、彼女たちに拍手《はくしゅ》を送り、新しい友情の開幕を祝っているようだった。
<うさぎの穴> ・翌日午後六時――
摩耶が警察の執拗《しつよう》な事情|聴取《ちょうしゅ》から解放されたのは、つい二時間前のことだ。母を傷つけ、自分を誘拐《ゆうかい》した犯人について、彼女は「熊のような大男でした」とだけ答え、シラを切り通した。
警察は窓の派手な壊《こわ》れ方に首をひねったものの、爆発物の形跡《けいせき》もなく、被害者《ひがいしゃ》の少女の証言を無視するわけにもいかないので、存在しない「熊のような大男」を捜索することにした。
摩耶の母・麗子の傷は軽いものだった。意識は回復したものの、突然《とつぜん》のことだったので記憶《きおく》が混乱しており、何が起こったかは説明できなかった。
いずれ事件は迷宮入りし、警察のファイルの中で埃《ほこり》をかぶることになるだろう――これまでにもあった、多くの妖怪《ようかい》がらみの事件と同じように。
しかし、摩耶にとって、事件は終わったわけではなかった。地上に降りると同時に翼は消えたが、夢魔《むま》のエネルギーはまだ彼女の意識と結合しているのだ。
「夢魔を分離《ぶんり》するのは不可能だ」八環は説明した。「夢魔は偶然《ぐうせん》に君を選んだわけじゃない。おそらく君の体を流れる血が、夢魔を呼んだんだ」
「血が?」
「ああ。最初に守崎という名字を聞いた時、ぴんと来た。守崎は防人≠ェ変化したものだ。一般には、万葉集の時代に九州を守っていた兵士のことだが、と同時に、呪術《じゅじゅつ》を使って朝廷《ちょうてい》を守護していた陰陽師《おんみょうじ》の一族の名でもある――おそらく、何百年も忘れられていた先祖の素質が、隔世《かくせい》遺伝で君に発現したんだろう」
摩耶は不安になった。「じゃあ……じゃあ私、一生あの夢魔をつれてなくちゃならないんですか?」
「悲観したもんでもないさ」流が陽気な口調で言った。「あいつは君の意志のままに動くんだ。優秀なボディガードだとでも思えば?」
「ボディガード……?」
「そうだよ!」とかなたがはしゃぐ。「あたしたちの命、助けてくれたじゃない! あんなすごい力、捨てるのもったいないよ!」
「でも、またいつ暴れ出すか……」
「コントロールする方法を学べばいいさ」八環がアドバイスする。「昨日だって、ちゃんとコントロールできたんだろう?」
「コントロール……?」
「ああ。人間には誰《だれ》でも、凶暴《きょぼう》な衝動《しょうどう》やみだらな欲望がある。しかし、同時にそれをコントロールする力もある。
コントロールすることは、否定することとは違《ちが》う。君みたいに、自分にはそんな欲望はないんだと否定したり、無視したりすると、抑圧された欲望は意識の下でどんどん膨《ふく》れ上がる。それが限界に達した時、夢魔が現われるんだ。中世のように性が抑圧された時代に夢魔がよく現われたのは、そのせいさ。適当に発散させなくちゃだめなんだ」
「発散って、言われても……」
「難《むずか》しいことじゃないさ。そうだなあ、とりあえず、友達とワイ談でもしてみたら?」
「はあ?」
「いや、冗談《じょうだん》なんかじゃないよ。そういうのが安全弁になってるんだからね」
かなたが摩耶の脇《わき》をつんつんとつついた。耳許《みみもと》にいたずらっぽくささやきかける。
「摩耶ちゃん、今度ワイ談やろうよ♪」
「う……うん」
摩耶は顔を赤らめながらうなずいた。
何もかも初めてで、とまどうことばかりだったが、もう恐《おそ》れはなかった。かなたをはじめ、たくさんの友達が守ってくれる。これから先、どんなことが起ころうと、みんなの助けがあれば切り抜《ぬ》けてゆくことができる。それを思うと嬉《うれ》しくて、小さな胸が熱くなった。
彼女はもう孤独ではないのだ。
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Take-2――――――――
「だからね、命の生まれ方には二つあるっていう設定なわけですよ」
妖魔《ようま》夜行の第二話は、下村家惠子さんにお願いした。もちろん、基本的な設定を渡《わた》して、山本さんの第一話も読んでもらっていたのだが、念を入れてうちあわせをしていたのである。
「それは、まずふつうに生まれる命。それから、人の、う〜ん、そうとは限らないな。どんな形であれ、生きているものの想《おも》いが生み出す命というのがあるんです。
命の源になる、なにかが、いつもどこかにいる。それ自体が、どうやって生まれてきたのか、誰《だれ》も知らないんだけど……まあ、地球が生まれたのと同時に、そういう生命の源が存在する次元世界への扉《とびら》も出来たわけですよ。
で、そこからやってきた命の源は、とても不安定なものであると。強い意思によって、すぐに影響《えいきょう》を受けてしまって、物質に宿り、あらたに生き物が生まれる。まあ、宿んなくてもいいんですけどね。
人の信じることが形になったもの。それが妖怪《ようかい》たちなんですね。愛や優しさや、恐怖《きょうふ》や憎悪《ぞうお》からも、妖怪が生まれてくるわけです。
そして、新しい存在は、生まれた瞬間《しゅんかん》から、生み出したものの手を離れて、独立して生き、また自分自身で新たな命を生み出すことになる」
「じゃあ、神話や伝説に登場する妖怪なんかは、そんな妖怪がいるって、みんなが信じたから存在するようになったわけですね?」
「そうそう」
ぼくはうなずいた。
「じゃあ、今だって新しい妖怪は生まれているってことで、いいんですか?」
下村さんの問いに、ぼくは何度もうなずいた。
「もちろん、もちろん。いくらでも新妖怪は作ってくれてかまいませんよ。それに、古い妖怪をリニューアルしてくれてもいいです。でね、彼らは、じつは意外にしっかりと現代社会に適応しているんですよ。あるものは人間としての顔をもって生活し、あるものはそのままの姿で人間の手の届かない場所で暮《く》らしているってぐあいで」
「面白《おもしろ》いなあ。いくつもお話しを思いつきそう」
「でしょう」
えたりとばかりに、ぼくはうなずいた。
「それで、こんどの小説ですけど、何か思いつきました?」
「顔を洗ってたんですよ」
下村さんは言った。
「で、その時に見えたんですけど」
思いついたのだとは、彼女は言わなかった。こう言ったのだ。見えた、と。
「何がです?」
我ながら、間抜《まぬ》けな顔つきをしていたんではないかと思う。しかし、それも無理はないというのも認めてもらえるだろう。
「鏡の中に、轟音《ごうおん》をたてて走る地下鉄が見えたような気がしたんです」
そして、できあがってきたのが、この物語だ。
下村さんが見たのは、地下鉄だけである。だから、この物語は、フィクションなのだ。
たぶん。
ほんとうは、もっと違った出来事がおきていたのだろう。
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1.幽霊《ゆうれい》列車
2.消えた親友
3.彷徨《さまよ》う少女
4.占《うらな》い師、霧香《きりか》
5.闇《やみ》を走る列車
6.闇《やみ》の中の光
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1 幽霊《ゆうれい》列車
ゴゴゥン ゴウン ゴゴゥン ゴウン
体の下から伝わってくるかすかな振動《しんどう》に、俺《おれ》は目を覚ました。
体が重い。そして寒い。身動きしようとしたが、氷浸《こおりづ》けになってしまったように動けない。
ここはどこなんだ?
最初に思い出したのは、家に帰らなくては……ということだった。次に、友人とつるんで浴びるほどに安酒を飲んだことを思い出した。
ああ、そうか、酔《よ》っ払《ぱら》って寝込《ねこ》んじまったんだな。
目を開けると、灰色に沈《しず》んだコンクリートがむきだしになった天井が見えた。
ずいぶんと高い天井だ。周囲からおしよせる闇《やみ》に取り巻かれて、細い蛍光灯《けいこうとう》がぼやけた光りを放っている。
体を動かそうとして、あまりの痛さに呻《うめ》きをあげた。顔をかたむけると氷のように冷たい感触《かんしょく》が頬《ほお》にふれた。タイルの貼《は》られた床《ゆか》が見える。薄汚《うすよご》れた床だ。ガムの食べかすがこびりつき、タバコの吸いがらや、缶ジュースのリングプルやらが転がっている。俺はそんなものと一緒《いっしょ》に、床《ゆか》に寝転《ねころ》がっているらしい。
呆《ぼ》けた頭が少しずつ働きはじめた。
「おい浩二、電車がくるぞ」
声がして、肩《かた》がゆすぶられた。聞き覚えのありすぎる声だ。よく一緒に飲みにいく友人の声だ。なんだ、こいつも一緒に寝込《ねこ》んでいたのか。
俺《おれ》は生返事を返して、床の上で寝返りをうった。腫《は》れぼったい目をした友人――同級生の牧原《まきはら》――が俺を見下ろしていた。
「ほら、起きろよ、乗りおくれちまうぞ」無雑作に肩口をつかまれて、ひきおこされた。体中の筋肉と骨がきしみをあげる。俺は顔をしかめた。重い腕《うで》をなんとか引っ張り上げて、肩をつかむ手を払いのける。
「やめろよ。一人で起き上がれるからさ」
言ったものの、頭の芯《しん》は砂でもつまっているように、ぼんやりとしていて頼りない。
よたよたと起き上がろうとしたとたんに、もやもやしたものが鳩尾《みぞおち》から喉《のど》をかけあがってきた。唐突《とうとつ》な吐《は》き気に、あわてて体を屈《かが》める。喉の奥《おく》から流れ出してきたガスは、アルコールと食物のまざった独特の臭気《しゅうき》に染っていた。
こみあげてくるものが静まったので、おそるおそる体を起こして周囲を見回すと、安っぽいベンチと、アルミ色のずんぐりとしたごみ箱《ばこ》が目に入る。駅のホーム、それも地下鉄のホームのようだ。
「ほら、早くしろよ」
再び服をつかまれる。俺《おれ》を見下ろす牧原の顔は、血の気が失せて青ざめている上に、不気味に黒ずんでいた。
スポーツマンタイプの引き締《し》まった表情の中から、とろんとした目が俺を見かえしていた。長めの髪《かみ》は勝手気ままに四方へはねあがり、重ね着しているシャツやチョッキは、だらしなく着崩《きくず》れてジャケットの襟《えり》や裾《すそ》からはみだしている。
牧原が口を開くたびに、酒臭い息が白いモヤとなって俺の顔に吹《ふ》きかかってきた。
「こんな所で寝てると凍死《とうし》するぞ。さっさと乗ろう」
「ここはどこだ?」
「さあな。ほら電車が来たぞ」
牧原が指さす先、レールがのみこまれてゆく深い闇《やみ》の中から、くすんだオレンジ色の列車が現れた。轟音《ごうおん》とともに列車はホームに滑りこむと、俺たちの前でゆったりと速度をおとした。
「おい、乗るぞ」疲れた声で牧原が言う。
列車のドアが開き、がらんとした車内が見えた。ベージュ色の壁《かべ》に床《ゆか》はねずみ色だ。臙脂色《えんじいろ》の座席がやけに鮮《あざ》やかに感じられた。
「浩二《こうじ》、さっさとしろよ」
うながされてドアへ近づいた俺《おれ》は、なにか言いようのない不安な気分に襲《おそ》われた。まじまじと列車を見る。何か大切なことを忘れているような、そんな気分がした。
開いたドアの中から奇妙《きみょう》な匂《にお》いがただよってくる。何かが腐《くさ》ったような不快でいながら甘《あま》い、奇妙な匂いだ。匂いと一緒《いっしょ》に、温かい空気が俺をとりかこんだ。車内は暖房《だんぼう》が効いているようだ。寒さに凍《こご》えていた体が温《ぬくも》りを求めて震《ふる》えはじめる。このまま、中に入って柔《やわ》らかな座席へ横になってしまいたい。しかし、
「おい、待てよ。ここがなに駅かわかんなきゃ、どこ行きの列車かわからないじゃないか」
半分、乗りかかっていた牧原は不満の唸《うな》り声をあげると、俺の腕《うで》をつかんだ。思いがけない強い力に、俺は驚《おどろ》いて乱暴に振りほどいた。牧原はさらに捕まえようとする。それをかわすと、俺は天井《てんじょう》を見上げて、行き先を表示しているはずの掲示板《けいじばん》を探した。
掲示板はあった。しかし駅名は表示されていない。真っ黒な面《おもて》が蛍光灯《けいこうとう》の光を照らし返しているばかりだ。
「なにやってんだ。置いて行くぞ」
再び牧原が俺の腕をつかむと車内へ連れこもうとする。牧原の顔は熱にうかされているようで、やつれて色の悪い顔のなかで目だけがぎらぎらと輝《かがや》いている。列車の中をにらみつける牧原の横顔に、俺はなぜか恐怖《きょうふ》を感じた。
もう一度、列車を見る。腐臭《ふしゅう》は感じなくなっていた。まぶしいほどの照明にうかびあがった車内は、優しく俺《おれ》を誘《さそ》う。外の身を切るような寒さも、よどんだ闇《やみ》も関係ない。これに乗れば家路につくことができるのだと囁《ささや》きかけてくるようだ。
俺は牧原にしたがうことにした。見当ちがいの所へ行ってしまったなら、タクシー代をせびってやろう。そんなことを考えながら乗り込むと、中は予想通りに曖房《だんぼう》が効いていて心地よい。俺は無意識のうちに腕《うで》時計に目をやった。
アナログの針が午前二時すぎを示していた。俺はぼんやりと時計を見ていたが、ふとそれが意味することに気づいて息をのんだ。酔《よ》いが急速に醒《さ》めてゆく。
「牧原、降りろ!」
俺は身をひるがえすと、閉りかけたドアの間をすりぬけて、ホームに飛び出した。背後でドアが閉る。俺はふりかえった。ドアごしに牧原が意外そうな表情を浮《う》かべている。
「牧原、降りろよ。この列車は……」
俺は大声でわめこうとして、言葉を失った。
この列車は……終電が終わってしまったあとに走る、この列車はなんだ?
ふわぁん! 列車が鳴いた。モーターの駆動音《くどうおん》が高まり列車が動き出す。
牧原は俺の方を見ていたが、すぐに座席へ座りこんだ。流れて行く列車を追おうとしたが、吐《は》き気がぶりかえして喉《のど》がつまった。下をむいて吐き気をこらえる。
ようやく顔を上げると、列車の最後尾《さいこうび》が通り過ぎて行くところだった。非常に幅《はば》の狭《せま》いフロントガラスの向こうから車掌《しゃしょう》が俺《おれ》を見ていた。嬉《うれ》しそうにニコニコと……いや、気味の悪いニタニタ笑いを浮かべている。
仮面のようにこわばった笑顔が遠ざかり、列車もろともトンネルの闇《やみ》の中へ消えていく。白いテールランプがしばらく見えていたが、それも溶《と》けるように消えた。
茫然《ぼうせん》と見送った俺は、はっと我にかえった。急に寒さが身にこたえてきて、しわくちゃになった襟《えり》をかきよせる。信じられないほどの静けさがあたりを取り巻いていた。
寒さとはちがう別の震《ふる》えが足下から這《は》い上がってきた。俺はホームを見回した。すぐそばに階段を見つけてあわてて登ろうとしたが、階段の上には漆黒《しっこく》の闇が満ちている。闇にうろたえて立ち止まったとたん、それまでホームを照していた蛍光灯の明りが一斉《いっせい》に消えた。
「誰《だれ》かいるのか?」
恐怖《きょうふ》にかられて俺は叫《さけ》んだ。俺の声は幾重《いくえ》ものこだまになって闇の中を響《ひび》きわたった。声をあげるんじゃなかった。俺は壁《かべ》に背をつけて身をちぢこめた。こだまが消えると闇と沈黙《ちんもく》があたりを取り巻いて息がつまりそうになる。と、頭上のどこか遠くで車が行き交う音がきこえた。俺は音をめざして暗闇《くらやみ》の中を探りつつ階段を昇った。
暗闇に目がなれてくると、わずかに明りがさしこんでくる場所があった。そこへ行こうとして改札機《かいさつき》にぶつかり、どうにかそれをのりこえた。タイル張りの地下道に、俺の足音とうわずった吐息《といき》が響《ひび》き渡《わた》る。明りは通路の端《はし》にある昇り階段の先からさしこんでくるのだ。俺は暗闇から逃《のが》れたい一心で階段を駆《か》け昇った。
白い外灯の明りと、街路樹と小さなビルの姿が見えた。しかし、そこへ行き着く前に、俺は檻《おり》を思わせる頑丈《がんじょう》な金属のシャッターに行く手をはばまれた。そうだ、地下鉄は終電が終わるとシャッターを降ろして、人が入らないようにするのだ。
だが、ならばどうして俺はここにいるんだ?
一体、何がどうなっているんだ。
俺は茫然《ぼうぜん》とシャッターによりかかった。
2 消えた親友
「え、牧原くんを見なかったかって?」
大学のキャンパスには講義を終えた学生たちがたむろしている。俺はその中に如月《きさらぎ》優子《ゆうこ》を見つけて声をかけた。
少し長めの天然パーマの髪《かみ》に、エスニック風の髪|飾《かざ》りをとめた、小柄《こがら》な彼女は手編セーターの上に大きめのジャケットをはおって、デフォルメされたキツネのマフラーをしている。
「見てないわ。だって……知ってるでしょ?」
彼女はもじもじと体をゆすると、とがめるように俺を見た。
「あ、ああごめん。喧嘩《けんか》してたんだっけ」
優子は視線をそらすと、こくんとうなずいた。
「ごめん。気を悪くした?」
優子は首をふると少しの間、脇を通り過ぎていく学生たちを見ていたが、くるっと俺《おれ》の方を向いた。
「牧くんが、どうかしたの?」
「いや、昨日から見かけてないから、ちょっと心配になってね。まあ、風邪《かぜ》で寝込《ねこ》んでるのかも知れないな」
俺は軽く受け流そうとしたが、笑い顔がこわばっているのではないかと心配だった。
「ふうん、そう」
優子はしばらく俺を見ていたが、一言つぶやくと立ち去りかけた。しかしすぐに立ち止まってふりかえった。
「お見舞《みま》いにいく?」
「う、うん、たぶん」
「じゃあ、伝えてくれる?」
優子がうつむく。牧原が、彼女はふし目がちの表情が可愛《かわい》いと言っていたことを思い出した。
「意地はってごめんね、って。今度、ちゃんと謝りにいくから、ってお願いできる?」
俺がうなずくと優子の表情が明るくなった。
「ありがと。今度のコンパでお礼するね」
優子は小走りに廊下《ろうか》を横切ると、待っていたらしい女友達の中へまぎれていった。
あの夜から牧原の姿が見られなくなった。大字に来ないし、普段《ふだん》出入りしている遊び場や友人のところなども探してみたが、どこにもいない。
牧原の住むアパートは大学から地下鉄東西線に乗って西へ十五分ほど。線路は地上に出ると川を渡って、高架を走り始める。家やビルを見下ろす駅から出ると、冷たい冬の風が吹《ふ》き抜《ぬ》けていった。
駅前の商店街を抜けていく。もう一月の中ごろもすぎたというのに、あちこちにはまだ年末大売り出しの張り紙が残っている。商店街のアーケードを抜けてほんの数分歩いたところに、少しくたひれかけたアパートがあった。
柘植《つげ》と沈丁花《じんちょうげ》が植えられた植込みがある、細い小道を通ってアパートにちかづく。階段のわきには使いこまれた三輪車と自転車がとめてあった。そのすぐうえの壁《かべ》には銀色の郵便受けがある。ふと思い当って俺は郵便受けをのぞきこんだ。
牧原と書かれたシールの貼られたポストには、ダイレクトメールや商店街の安売りのチラシなどが入っている。この間たずねた時よりも増えてはいるが、減ったようすはない。
薄暗い階段を三階まで昇る。錆色《さびいろ》に塗《ぬ》られた扉《とびら》がずらりと並んでいる。牧原の部屋《へや》の新聞受けには新聞がひしめいていた。
「やっぱり帰っていないみたいだな」
俺《おれ》は新聞の日付が今日のものであるのを確かめると呼び鈴《りん》を押《お》した。扉の向こうで呼び鈴が鳴っているのが聞こえるが、何度鳴らしてみても反応はない。
「おい牧原、居るのか?」
扉《とびら》を叩《たた》いてみたが、やはり返事はない。しかし、ひょっとすると病気か、もっと悪い理由で返事ができないはめに陥《おちい》っているのかもしれない。
戸口で悩《なや》んでみたところでしかたがない。俺は一階の大家《おおや》を尋《たず》ねた。呼び鈴を押してしばらくすると、眠《ねむ》たそうな顔つきの中年女性が顔をのぞかせた。
俺の方は大家を知らなかったが、大家の方は俺のことを知っていたようで、わけを話すと合鍵《あいかぎ》を持ちだしてきた。
合鍵で扉は簡単に開いた。台所と洋間が二つ。敷いたきりのふとんや、散らばった雑誌とレポート用紙などの紙屑《かみくず》。新聞の山。脱《ぬ》ぎ捨てられた服などが目についたが、牧原の婆はない。俺は大家に手間を取らせたことを詫《わ》びると、アパートをあとにした。
俺は重たい気持ちを抱《かか》えたまま駅へ引き返した。改札《かいさつ》を抜《ね》けてホームへ出る。ちょうど列車が来たところだった。この路線の列車は銀色の車体に、窓枠《まどわく》の下に青いペイントが入っている。
向かいのホームに、あの夜の列車とよく似たオレンジ色の列車がすべりこんでくる。しかし、あの時と同じ形、同じ座席の色をした列車はまったく見かけなかった。
昼下がりのためか、乗客はあまりいなかった。俺は座席に沈《しず》みこむとドアが閉まるのを見るともなく眺《なが》めていた。大きな揺《ゆ》れがきて列車が動きだす。
あれは本当にあったことなんだろうか?
俺は何度目かの問いかけを繰り返した。俺はとまどっていた。終電が終わったあとに現れた地下鉄……まるで幽霊《ゆうれい》列車≠カゃないか。まともに考えればあまりにばかばかしい代物《しろもの》だ。酒を飲んだ上に寝呆けていて、夢と現実の区別がつかなかっただけだろう。
しかし、牧原がいなくなってしまったことは事実だ。あいつがどこへ行ったのか、手がかりはないのだ。幽霊列車∴ネ外は。
列車の単調な振動音《しんどうおん》を聞きながら、俺はあの日の自分たちの足取りを追いかけてみようと考えた。
3 彷徨《さまよ》う少女
あの夜、俺《おれ》と牧原は銀座のはずれの飲み屋で夜更《よふ》けまですごした。山手《やまのて》線や地下鉄の駅に囲まれた中心街には、会社がひけて繰《く》り出してきたサラリーマンたちが、ぞろぞろと行き交っている。落ち着いた色彩《しきさい》のネオンに飾りたてられたビルが立ち並《なら》ぶ間を、北へ抜《ぬ》けて宝町駅の方へ進むと、細い路地の入口に小さな電光看板が出ている。
その看板の前に立って、俺《おれ》はぼんやりと考えこんだ。ここまで来たことは覚えている。ここで呑みつぶれたとしても、東西線への乗り換《か》えなぞ、日頃《ひごろ》かよいなれた道だ。一体どうして丸の内線に乗っていたのだろう。
札入《さつい》れを探ってみたが、持っていたと思った地下鉄路線図が見あたらない。このまま考え込んでいてもラチはあかないので、俺は銀座の駅へ歩き出した。
飾《かざ》り立てられたショーウィンドーの隣《となり》に、地下へ降りる階段が、ぽっかりと口を開いている。地下にも繁華街《はんかがい》があって暖房《だんぼう》が効いている。俺はちぢこめていた体を伸《の》ばした。たくさんの人々が暖かい地下に逃げこんでいた。ざわざわとさざめく人の波に乗り、時にはかきわけて俺は地下鉄の駅へ向かう。
改札《かいさつ》の周りはざわめきに満ちていた。高価そうなコートで身を飾《かざ》った女や、今日の仕事を終えて帰るサラリーマン、俺と同じように遊びほうけている学生。買物帰りの女子高生がけたたましい笑い声をあげる隣で、アベックが自分たちの世界にひたりこんでいる。
券売機のそばには、地下鉄路線の始発と終電の時刻が貼《は》ってある。そこにあるなかで最も遅《おそ》い終電でも、一時前には出発して一時半までには役目を終えてしまう。二時をすぎてまで動く列車はありそうにない。
だが確かめて悪いことはあるまい。俺は改札口《かいさつぐち》へ近づいたが、駅員はすでに高校生ぐらいの女の子と話をしていた。彼女が立ち去ったら尋《たず》ねてみようと考えて近づいた俺は、二人の話を聞くとはなく聞いていたが、少女の言葉に思わず耳をそばだてた。
「だから、そんな時刻に走っている列車はないね。確かに終電のあとにも何本か回送列車が走るけれども、ドアを開けてお客を乗せることはないんだよ」
「では、この人を見たことはありませんか? 一週間ほど前に地下鉄の写真を撮《と》りに来たはずなんです」
終電の後の列車? 俺は驚《おどろ》いて女の子を見た。女の子は小さなショルダーバッグから写真をとりだして駅員に見せている。駅員はちらりと写真に目をやったが、すぐに首をふった。
「わからないね。ここでは人探しはできないから、警察にいってはどうかな」
女の子は落胆《らくたん》したようだった。小さくうなずくと礼のことばを言って背をむける。
飾《かざ》りっけのない子だった。髪《かみ》はストレートでゆったりと束《たば》ね、顔だちは目を引くほどではないが、悪くもない。ベージュ色のあたたかそうなハーフコートの下からはタータンチェックの長めのスカートと、革ブーツがのぞいている。
彼女は俺にぶつかりそうになって、ごめんなさい、と小さな声であやまると、どこかうわの空で人の波の中へ入って行こうとする。
俺は駅員と女の子とを見比べたが、すぐに決心はついた。
声をかけたとき、彼女は俺を街頭アンケートかキャッチセールスだと思ったらしく、こわばった顔つきで振り返った。しかし、地下鉄のことを話すと、やや警戒心《けいかいしん》を解いたようだった。俺《おれ》たちは近くにあった喫茶店《きっさてん》に入った。
彼女の名は河瀬《かわせ》ゆかりと言った。千葉の船橋《ふなばし》に住んでいるのだが、しばらく前から音信の途絶《とだ》えた兄を探しに来たのだ。
「じゃあ、その兄さんが幽霊《ゆうれい》列車≠見たって言ってたのかい?」
ゆかりはうなずいた。
「兄は昔《むかし》から写真が好きだったんですが、東京の都心で暮らすようになってから、建物や列車の写真を撮《と》るようになったんです。会社の合間にあちこちに出歩いていたみたいでした。一週間前、兄と電話で話をしていたときに、奇妙《きみょう》な地下鉄のうわさを聞いたって教えてくれたんです。終電のあとで古い型の車両が走っているらしい。おもしろそうなので、一度確かめてみたいって」
「古い型の車両……」俺の脳裏にあのオレンジ色の車体が浮び上がった。
「阿部さんの話も、くわしく聞かせてもらえますか? どんなささいなことでもいいんです。兄の消息が判《わか》るかも」
ゆかりが真剣《しんけん》な面持ちでこちらを見る。その中にすがるような思いを感じ取って俺はうろたえた。
「俺が見たのも、同じ列車かも知れない」
「本当ですか?」
「いや、それがよく判らないんだ。なさけない話だけれど、酔《よ》っ払《ぱら》って夢《ゆめ》を見ていただけかもしれない」
ゆかりはしばらく考えこんでいたが、持っていたバッグから数枚の写真を取りだした。テーブルの上にひろげる。
「これだ」
俺は食い入るように写真を見つめた。箱型《はこがた》のスポンジケーキのように、上の角《かど》だけが丸くけずれたオレンジ色の車体。他の地下鉄のほとんどが、広くて大きなフロントガラスを持っている中、あまりにも小さなフロントガラスが、まるでのっぺりした仮面の目のように見える。そして臙脂色《えんじいろ》の座席。見まちがえようはなかった。
幽霊《ゆうれい》列車≠フ写真は三枚あった。一枚は先頭車両が通り過ぎようとしているところ、もう一枚は中間の車両を写したもの、最後の一枚は最後尾《さいこうび》を写そうとしたものだが、いささかシャッターをきるのが早すぎたらしく、せまいフロントガラスの半分しか画面に入っておらず、中にいる車掌《しゃしょう》の右肩《みぎかた》と頬《ほお》のあたりだけが写っている。
「この写真はどうやって?」
「兄の部屋《へや》にあったものです。その写真をとったすぐあとぐらいに、また兄から電話があったんです。熱に浮《うか》されたみたいな声で、その列車に乗りたい。どうしても乗りたいんだ。その列車は自分を迎《むか》えに来ているのだから、絶対に乗らなくてはいけないんだ……と言いはるのです」
「熱に浮されたように……?」
幽霊列車≠ノ乗ろうとした牧原の様子もよく似ていた。俺自身も誘《さそ》われたような気分になった。ゆかりは続けた。
「あまりに様子が変だったので、心配になって兄のマンションを訪ねてみたのですが、兄はいなくて、その写真のフィルムが入ったままのカメラだけが残っていたのです。手がかりと言えばそれぐらいしかなくて……。阿部さんはどこでこの列車を見たのですか?」
俺は幽霊列車≠ニ出くわした時のようすと、それに乗っていったきり、行方《ゆくえ》の知れない友人のことを話した。
話を終えて時計を見ると十二時近くになっていた。ゆかりは思い悩《をや》んだ表情で、すっかり冷めてしまったコーヒーをすすっている。
「君はこれからどうするんだい?」
尋《たず》ねるとゆかりは小首をかしげた。
「兄のマンションで寝泊《ねとま》りしてるので、そこまで帰ります」
「マンションはどこ?」
「国分寺です」
「それなら丸の内線で荻窪《おぎくぼ》まで出て乗り換《か》えだね。一時間ぐらいかかるんじゃないかな。一人で大丈夫《だいじょうぶ》かい、送ってゆこうか」
「大丈夫です。それに寄らなくちゃいけない所があるので……もう、こんな時間なんですか、急がないと」
「寄るところって、この時間に?」
「ええ、幽霊《ゆうれい》列車≠ノついて調べてくれてる人がもう一人いるんです。霧香《きりか》さんっていう人なんですけど」
「その人も幽霊列車≠見たのかい?」
「いいえ、でもこんな不思議な出来事にくわしい人なんですよ。原宿《はらじゅく》で占《うらな》い師をやってらっしゃるんです」
「占い師?」
俺《おれ》はついうさんくさそうな言い方になるのを、おさえることができなかった。
「あること無いことを、さも本当のことのように話すようなやつだろう? うかつに信用していいのかな。そのうち色々となんくせつけて金をせびられるのがオチだよ。気をつけたほうがいい」
「霧香さんはそんな人じゃありません!」
どちらかと言えば、大人しくてのんびりした感じのゆかりが、強い口調で反論したので、俺《おれ》は驚《おどろ》いて彼女を見た。ゆかりは悲しそうな目で俺を見ていた。
「確かに占い師の中には、あまり信用できない人がいるかも知れません。でも霧香さんはちがうんです。霧香さんに会うまでに私はいろんな人に相談しました。どこの地下鉄かわからないので、大きな駅は一通りまわりましたし、警察にもいきました。私立|探偵社《たんていしゃ》にもいってみたのですが、どこでもほとんど相手にしてもらえませんでした。当然ですよね、唯一《ゆいいつ》の手がかりが幽霊《ゆうれい》列車≠ネのですから」
ゆかりはぼんやりとショルダーバッグを引き寄せた。取っ手につけたメダルみたいな飾《かざ》りがチリンと澄《す》んだ音をひびかせる。ゆかりはそれを見下ろした。
「でもある探偵社の人が『本気でその列車を探すのなら訪ねてごらん』と言って霧香さんのことを教えてくれたんです。霧香さんは私の話を馬鹿《ばか》にしたりせずに、最後まで聞いてくれました。そしてきっと力になってあげられるから、安心していいって言ってくれたんです。どんなに嬉《うれ》しかったか」
俺は何も言えなかった。その占い師がサギ師だったとしても、いま、こんなに信頼《しんらい》しきっている彼女の前でそのことを言うのは心がとがめた。しかし、だからと言ってこのまま放っておくわけにもいかない。
「その霧香って人は、原宿のどこに居るんだい」
「住んでいるのは青山の方なんですけど、ふだんは神宮前にあるお店にいるんです。お店の住所の入ったカードをもらったんだけど……あった、これです」
ゆかりが取り出したのは和紙でできた名刺《めいし》のような物だった。霞《かすみ》がかかったような薄紅色《うすべにいろ》の紙の上に墨《すみ》で霧香の名と住所が記してある。住所は神宮前四丁目の辺りだった。
「俺《おれ》も一度会いにいってみたいな」
「じゃあ、一度電話を入れてみます」
ゆかりは席を立つと、入口のそばの電話へ近づいた。慎重にプッシュボタンを押《お》して行く。しばらく受話器に耳をかたむけていたゆかりは、二言三言|喋《しゃべ》っただけで、受話器をおいた。とことこと戻ってくる。
「留守番電話になってました。阿部さんのことは伝えておいたので、明日にでも返事があると思います。ところで明日どうされます?」
「そうだな、昼ぐらいに原宿駅のみどりの窓口前で待ちあわせかな。そうだ、俺んところの電話番号を教えておこう。一人暮らしだから気がねなくかけてくれていいよ」
ゆかりはうなずくと万年筆をとりだして、俺の電話番号と住所をひかえてゆく。
「そろそろ急いだ方がいいよ。終電を逃《のが》すと大変だ」
万年筆をしまいこんだゆかりは、ふと俺《おれ》に問いかけた。
「たしか、阿部さんが幽霊《ゆうれい》列車を見たのも丸の内線ですよね」
「そうだよ。茗荷谷《みょうがだに》だったんだけど……」答えた俺は彼女が何を考えているのか思い当った。
「見にいく気かい」
ゆかりはうなずいた。俺は慌《あわ》てた。
「止《や》めた方がいい。女の子一人じゃ物騒《ぶっそう》だ。それに今帰らなくては帰れなくなるよ」
「いざとなったらタクシーか、ホテルを使います。私、知りたいんです。兄が見た、そして阿部さんも見た幽霊列車≠ェどんなものなのかを」
彼女はうつむいて唇《くちびる》を噛《か》んだ。しばらくして顔をあげて俺を見るとかすかに微笑《ほほえ》む。
「私も本気で幽霊列車≠ネんていう話を信じているわけじゃないんです。ただ、今は幽霊列車≠ェなんなのかを知る方法がないだけ。でも、この目で見ることができれば何かわかるかも知れない」
確かにそうだろう。俺だって自分の目が信じられなくて、何度もあれは夢《ゆめ》だったのじゃないかと自問していたのだ。現に今だって正直言ってあまり自信がない。でも、もう一度見ればはっきりするかもしれない。
「じゃあ俺がこれからいって調べてこよう。何かわかったなら知らせるよ」
「待って、私もいきます」
俺《おれ》が反対しようとするのをさえぎって、彼女は身をのりだして訴《うった》えた。
「自分の目で見なくちゃ納得できないんです」
俺はゆかりを見下ろし、そしてあることに思い当って眉《まゆ》をよせた。
「でも、その、なんだな。男一人、女一人でちょっと危ないなぁ、なんて思ったりしないのかな君は?」
一瞬《いっしゅん》きょとんとなったゆかりは、次の瞬間《しゅんかん》真っ赤になってうつむいた。
「そ、そう言えばそうですけど……全然考えてませんでした。阿部さんはそんな風に私を見てたんですか?」
「そんなことない!」俺は慌《あわ》てて言った。
「ただ、やっぱり気にしておいた方がいいんじゃないかな。それに、俺が実はただのナンパ野郎で、単に話をあわせているだけかも知れないよ」
「いえ、阿部さんは悪い人に見えませんし、列車の写真を見た時、本当に驚《おどろ》いた顔をしてましたもの。お願い、幽霊《ゆうれい》列車≠見たところへ私を連れていって下さい」
ゆかりは瞳《ひとみ》を大きく見開き、真剣《しんけん》な表情で俺を見上げる。俺はその気迫《きはく》に押《お》されるようにうなずいていた。
店を出た俺たちは、暖房《だんぼう》と人々の熱気がこもった地下道を、丸の内線のホームへ向かった。終電が近いためか、行き交う人の足取りがこころなしか早くなっている。階段やエスカレーターなどで上下に入り組んだ駅の中を、人々が右往左往している。
まもなく終電だというのに、ホームからは人の波が湧《わ》き出してくる。都会の夜を楽しもうとする人々は、一様に酔《よ》った目をして浮《う》かれ騒《さわ》いでいる。
そうぞうしい騒ぎ声はホームにも響《ひび》き渡《わた》っていた。すっかりでき上がった様子の、中年の男たちが大声でわめきながら、なだれこんでくる。他にも疲《つか》れ切った様子の会社員がベンチにすわりこみ、労働者風の男が水道で顔を洗っている。俺《おれ》とそう年の離れていない痩《や》せた男が、一人でぼんやりと壁際《かべぎわ》に立っていた。
俺には見慣れた光景だったが、ゆかりには縁《えん》のないものだったようで、彼女はホームにたむろする人々を、奇妙な生き物を見るような目でうかがい見ていた。
列車が近づく轟音《ごうおん》が聞こえてきた。鈍《にぶ》い白銀に輝《かがや》く車体がホームに入ってきた。車体に引かれた真紅のラインが目に鮮《あざ》やかだ。
扉が開いて人の波が出入りする。その波にのって俺たちは列車に乗った。室内は広告と、落ち着いたワインレッドの座席に彩《いろど》られている。列車が動き出す。ホームの明りが遠ざかって、トンネルのむき出しの肌《はだ》が視界を覆《おお》った。
ゆかりが居心地悪そうに身じろぎした。俺と目が合うと困ったように小さく首をふる。
「あの、その駅までどれくらいかかります?」
「十五分ぐらいかな。たぶん、これの次の列車が終電だろうから、そのあとは回送が走るだけになる」
「でも、ホームに残っていたら、駅員に追い出されるんじゃないですか?」
「それが一番の問題だろうな。考えはあるけれど、うまく行くかな」
気がつくと、さっきホームで見かけた痩《や》せた男が、じっと俺《おれ》たちを見ている。目が合うと、さりげなく視線をそらしたが、まるでこれからやろうとしていることを見抜《みぬ》かれたように感じて、俺は嫌《いや》な気分になった。
足音が遠ざかり、ややあって明りが一斉《いっせい》に消えた。小さな声をあげてゆかりが身をすくませたのが、気配でわかる。
「大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
「は、はい、ごめんなさい。こんなに真っ暗になるなんて思ってなかったものだから……」
「もう少したったら、ライトをつけるよ。しばらくはこのままじっとしていよう」
暗闇《くらやみ》の駅の構内。造ったものの、使われなくなった改札口《かいさつぐち》のそばに、工事に使うオレンジ色の柵《さく》や看板、木材、鉄パイプなどが置きっぱなしになっている。それを覆《おお》っているビニールシートの中にもぐりこんだまま、俺とゆかりは息をころしていた。
遠くで駅員たちが話している声が、反響《はんきょう》しながら伝わってくる。鉄の扉《とびら》を開け閉めする音のあと、急にまったく何の音も聞こえなくなった。
「そろそろ、いいかな」
俺《おれ》はポケットから、コンビニエンスストアで買っておいたペンライトを取り出した。明りをつけると、びっくりした表情のゆかりがいた。
シートから出ると寒さが身にしみた。小さなライトの明りでは、周囲はぼんやりとしか見ることはできない。時計は一時をかなりまわっていた。
券売機は灰色のシャッターで閉ざされており、改札《かいさつ》も閉められている。
「どうやって入るんです?」
ゆかりが心配そうにたずねる。
「こうやるのさ」
俺は改札を閉ざしている銀色の扉《とびら》をひょいととびこえた。
ホームに出ると、ペンライトの明りは本当に心細いものになった。暗闇《くちやみ》が周囲からのしかかってくるように感じられる。ゆかりは足下を見ながら、すぐ後ろについてくる。軽く唇《くちびる》をかみしめ、ショルダーバッグをしっかりと抱《だ》いている。俺自身も不安だったが、わざと気楽そうに声をかけた。
「列車が来るまで、まだ間があるだろうから、座って待った方がいいんじゃないかな」
ゆかりは文字通りびくっと跳《と》び上がった。ふりかえった彼女は、照れた笑顔を浮《う》かべてうなずいた。
俺《おれ》とゆかりはベンチへ近づいた。椅子《いす》一つの隙間《すきま》を空けて隣《となり》に座ったゆかりは、抱《かか》えこんだショルダーバッグにつけた、メダルの飾《かざ》りをいじっていた。ライトのかすかな明りにも、それはきらきらと輝《かがや》いた。
メダルの片方の面は鏡のように磨《みが》き上げられている。いや、それは鏡になっていた。朱色《しゅいろ》の房《ふさ》で飾られた小さな鏡だ。俺の視線に気づいたゆかりが言った。
「霧香さんがプレゼントしてくれたんです。銅鏡のレプリカなんですって」
鏡はゆかりの手の中で輝いた。
俺たちが身動きを止めると、物音はまったく途絶《とだ》えてしまった。耳を澄《す》ませば、トンネルの中を風が抜《ぬ》ける音までが聞こえそうだ。
「あの……」
しゃべりかけたゆかりは、自分の声が大きく聞こえたのだろう。一度口をつぐむと、声をひそめて言葉を続けた。
「阿部さんが幽霊《ゆうれい》列車≠見たのは二時をすこしまわった時でしたよね」
俺はうなずいた。
「でもその時間に現れるとは限らないと思うな。それに……あれが本当のことだったのか、未だに自信が持てない」
俺《おれ》を見上げるゆかりの顔が不安そうになるのを見て、俺は慌《あわ》ててつけくわえた。
「でも、あの写真がある。それに牧原もいなくなったんだ。何かが実在しているはずだ」
ゆかりは不安そうな顔のまま視線をそらした。俺も視線をそらすと、ぼんやりとホームを見つめた。
「兄は都心に出ちゃいけなかったんです」
急にゆかりがしゃべりだした。俺は驚《おどろ》いて彼女を見た。
「兄はのんびり屋でした。おまけに正直者すぎて、おべっかやゴマすりなんてとうていできない人だったんです。だから兄が東京に出たいと言った時、両親はすごく心配したんです。何も無理して都心へいくことはない。家の商売を継《つ》いでくれればそれでいいのだからと言って止めました」
「そうだね。東京はつらいところだよな」
俺が言うとゆかりはゆっくりうなずいた。
「私も今はそう思います。でもあの頃《ころ》の私は兄と同じで、東京の明るい面しか見ていませんでした。私は兄の味方をしました。東京で暮らすのはきっといい結果になる。いかせてあげたら、って」
ゆかりはため息をついた。
「最初のうちは兄も新しい会社が楽しいようでした。でも一年も経《た》ったころからは、兄からかかってくる電話の内容は、グチや泣き事が増えていました。おまけに勤める会社の経営がおもわしくなくなってきたらしくて……兄はひょっとするとノイローゼになっていたのかも知れません」
「そう言えば牧原も似たようなやつだったな」
俺《おれ》は無愛想に見える牧原の顔を思い出していた。
「とてもいいやつなんだけど、人づきあいが下手《へた》でさ、他人から誤解されやすいやつだったんだ。真面目《まじめ》で、完璧《かんぺき》主義なところがあって、長年つきあってきた俺でも、時々いやになることがあった。その完璧主義ってのが、やつの親父《おやじ》さんから受け継《つ》いだものだったらしいんだが、その親父さんが牧原とは考え方やら好みが正反対で、子供のころからひどい目にあってきてたって言ってた」
俺は牧原と一緒《いっしょ》になって飲みにいった時のことを思い出して、笑顔を浮かべた。
「俺も親父が大嫌《だいきら》いでさ、そこで馬があったのか、高校の頃から友達づきあいをしてたんだ。学部は違《ちが》ったが、同じ大学に入ったこともあって、よく遊びにいって飲んでは、ゲロ吐いてブッ倒《たお》れてたもんだ」
言ってから、女の子の前だったと気づいて、
「あ、悪い」
ゆかりはくすっと笑った。俺もつられて笑い出し、しばらく二人そろって笑い続けていた。
笑いすぎてきれた息を整えようと、大きく息をついだ俺《おれ》は、ふと笑いの衝動が消え去ってしまうのを感じた。
「そうだ……あの日もヤケ酒を飲んでた。牧原の親父《おやじ》が大学を止《や》めろと言ってきたんだ。今の大学を選んだのは牧原自身だった。牧原は大学を出たらすぐに職につきたがっていた。『実のあることがしたいんだ』と言ってた。でもあいつの親父は、あいつを大学院へ進ませたがっていた」
牧原が泣きそうな顔で叫んでいた言葉が思い出された。
『俺は親の玩具《おもちゃ》じゃない!』
俺は天井《てんじょう》をあおいだ。情けなく、やりきれなかった。
「俺も似たようなもんなんだ。俺の方は無視されすぎて、腹を立ててたんだ。俺はおまけなんだよ」
「おまけ?」
黙《だま》りこくった俺をうながすようにゆかりが声をかける。俺は上を向いたままうなずいた。
「おふくろが冗談《じょうだん》めかして言ったんだ。本当は子供は兄貴一人で良かったんだ、ってね。冗談だったのかも知れないけれど、冗談にしては兄貴と俺とじゃ待遇《たいぐう》が違《ちが》いすぎた。特に親父が兄貴を猫《ねこ》かわいがりするところは、血のつながった俺でもぞっとしたほどだ。兄貴が独り立ちしようとした時は、両親ともに大騒《おおさわ》ぎだった。親父はうろたえるし、おふくろはそんなに家が嫌《いや》か? と騒ぐし」
その時の滑稽《こっけい》な情景を思い出して、俺は唇《くちびる》の端《はし》で笑った。
「ところが俺の時はあっさりしたものさ。『あ、そう』と『金は送るから後のことは自分でしろ』だぜ。情けなくて笑っちまう」
俺は目を閉じた。こんな話をしてしまって、ゆかりがとまどっているのじゃないか、悪いことをしたと思った。その一方で誰《だれ》かに聞いてもらえたことで、胸の奥《おく》でこりかたまっていたものが、ほぐれたように感じていた。
沈黙があたりを包みこんだ。
「阿……部さん!」
どれぐらい経《た》ったのだろうか。とつぜん、ホームが白い光に照らされた。天井《てんじょう》の蛍光灯《けいこうとう》が次次と光を放ち始める。俺ははじかれたようにベンチから飛び上がった。
駅員に見つかったのか? 俺は改札《かいさつ》に通じる階段を見た。しかし、何ものかがおりてくるようすはない。そのうちに、微《かす》かな唸《うな》りが聞こえてきた。
「阿部さん、列車が来る!」
レールが伸びてゆくトンネルの奥の、漆黒《しっこく》の闇《やみ》のはるかな彼方《かなた》から、奇怪《きかい》な獣《けもの》の唸り声のような、列車の音が響《ひび》いてくるのだ。
俺は時計を見下ろした。二時をほんの少しまわっている。
足がすくむ。幽霊《ゆうれい》列車≠ネんてあるわけがない。俺は自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返した。
幽霊列車≠ネんかあるはずがないんだ。回送車か、保安車両が来るんだ。
トンネルの奥から聞こえてくる唸りは、さらに大きく近づいてくる。まるでこのまま音だけが際限もなく大きくなって、無形の圧力で俺たちを叩きのめしてしまいそうな恐怖《きょうふ》がわきおこってきた。
闇《やみ》の中に光があらわれ、ついでオレンジの反射光があらわれた。うわあん、と反響音《はんきょうおん》を響かせながら、オレンジ色の列車がホームに滑《すべ》りこみ、速度をおとしながら、長々とした全身をあらわした。
くすんだオレンジ色の大蛇《だいじゃ》のように見えた。車体が自《おの》ずから燐光《りんこう》を放っているようにも見える。車内は蛍光灯《けいこうとう》の白い光で、こうこうと照らされており、臙脂色《えんじいろ》の座席が空席のまま乗客をまっていた。
動きを止めた大蛇の脇腹《わきばら》にある口が、一斉《いっせい》に開いた。臙脂色の座席が、一瞬《いっしゅん》、大蛇の舌のように見えた。
ナレーションもなく、行き先を示すはずの電光|掲示板《けいじはん》はブラックアウトしたままだ。列車のたてた反響が消えたあとの、凍《こお》りつきそうな沈黙《ちんもく》の中に、自分の荒《あら》い呼吸の音だけが耳につく。
「これが……幽霊列車=H」
かすかなゆかりの声に、俺《おれ》はただうなずくだけだった。
俺はベンチから立ち上がると、開かれた扉《とびら》へ近づいた。突然《とつぜん》、扉が閉ざされて走り去ってしまうような気がしたが、扉はのんびりと……俺たちを誘《さそ》うように開かれたままだった。
車内は一見しただけで非常に古いものだとわかった。使い古されてぼろぼろだという意味ではない。つくりが古臭《ふるくさ》いのだ。つり皮の取っ手は金属でできているようだし、手すりの形や場所が、見慣れているいつもの地下鉄とは違《ちが》っている。
列車の中をのぞくうちに、恐怖感《きょうふかん》が薄《うす》れて行くのに気づいた。変わって、押《お》さえようのない好奇心と、安心感が広がってくるのを感じていた。俺は自分がこの列車に乗りたくてたまらなくなっていることに気づいた。この列車は待っているのだ。俺をこのうざったい日常から連れ出すために、こうやって待っているのだ。
軽い足音が背後に近づいてきた。ふりかえるとゆかりが歩いてくる。こわばった顔つきの中、目だけがきらきらと輝《かがや》いていたが、それが恐怖のためか、得体《えたい》の知れない期待のためなのかはわからなかった。
ゆかりは恐《おそ》る恐る車内をのぞきこむ。
「誰《だれ》もいないの?」
「そう見えるけれど……」
「まさるお兄ちゃん?」
ささやくように呼びかけながら、ゆかりは車内に入って行く。ゆかりは俺の横を通りすぎて列車に乗る。俺《おれ》も続いて乗りこむ。
列車が満足の吐息《といき》のような音をたてた。振《ふ》り返った鼻先でドアが閉まる。小さな揺《ゆ》れが起こって列車が走り出した。窓の外を見ると、がらんとしたホームがみるみる遠ざかっていく。
「まさるお兄ちゃん、居たら返事して!」
「ゆかりちゃん、待つんだ!」
次の車両に行こうとするゆかりを追う。目の端《はし》に、遠ざかるホームに人影《ひとかげ》が走りこんできたように見えたが、確かめる間はなかった。
次の車両に入ったところで、ゆかりがふりかえった。
「阿部さん……」
俺はあらためて列車の中を見回した。列車の中はほのかに暖かい。人気はまったくなく、臙脂色《えんじいろ》の座席が向かい合って並ぶ灰色の通路に、俺たち二人だけがたたずんでいる。
広告などはまったくなく、薄汚《うすよご》れたベージュ色の壁《かべ》が光を照りかえしている。列車がゆれるたびにつり皮が一斉《いっせい》に傾《かたむ》く。レールの上を車輪が走る規則正しい音が、なぜか不安感を誘《さそ》う。
俺はおじけづきそうになる自分をしかりつけた。首をふっておびえた考えを頭の中から振《ふ》り払《はら》う。
「先頭まで行ってみよう」
俺は先頭へ向かって歩き出した。
車両と車両のあいだにある扉《とびら》も、古臭《ふるくさ》くてがっしりとした重い扉だった。それを引き開けて次の車両へとうつる。さきほどの車両と変わりのない、臙脂色《えんじいろ》の座席がずらりと並んだ車内だ。人の気配はない。
足早に通り抜《ぬ》けて次の扉を開く。再び車内を通る。扉を開ける。車内を通る。扉を開ける。車内を通る。扉を開ける……。
その向こうにあった車両は、今までの車両とは違《ちが》っていた。長距離《ちょうきょり》路線の特急車を思わせる座席の並び……二人がけの椅子《いす》が二つずつ向かい合って並んでいる。
ここが先頭車のようだった。車両の奥《おく》には、運転席へ通じる扉があった。俺とゆかりは顔を見あわせた。
扉にはガラスがはめこまれていたが、光の加減のためか、俺たちの場所からでは、人影《ひとかげ》がいるかどうかは確かめられなかった。
そちらばかり注意していたので、俺もゆかりも座席の一つに人影があることに気づかなかった。
「やっと来たな」
俺たちはとびあがった。見ると座席の一つに沈《しず》みこむように座った人影が、こちらを向いて手をふる。
「牧原?」
人影を見た俺《おれ》は驚《おどろ》きの声をあげた。
牧原はあの夜、列車に乗った時と変わりないように見えた。疲《つか》れた顔にかすかな笑みをうかべた牧原は俺を手まねきする。
「ビールあるぜ、飲むか?」
窓際の壁《かべ》についている小さなテーブルには、ビールの缶《かん》が並《なら》んでいる。
ゆかりが俺の腕をとる。俺は安心させるようにうなずくと、牧原のそばへ近づいた。牧原は片手をふって、向かい側に座るように示したが、俺は立ったまま友人を見下ろした。
「おまえ……何をやっているんだ?」
牧原は腫《は》れぼったいまぶたの下から俺を見上げた。
「何って、見ての通り楽しんでるのさ。なにつっ立っているんだ。座れよ。
お前も、自分からこの列車に乗ったんだろう? 乗りたがっている人間の前にしかこの列車は止まらないんだ。いくところまでいこうじゃないか」
「俺がここに来たのは、おまえを連れて帰るためだ。降りよう」
俺は牧原の肩《かた》に手をやった。牧原は顔をしかめてその手をはらいのけた。
「まっぴらだ。やっと俺は自由になれたんだ。いまさら元の場所に戻《もど》りたいとは思わないね」
「馬鹿《ばか》を言うなよ。こんなわけのわからない列車に乗っていたら、どこへ連れて行かれるかわかったものじゃ……」
そう言った俺はぎょっとなった。そう言えば俺たちが乗ってから、列車は一度も止まっていない。俺の心を見透《みす》かしたかのように牧原が答えた。
「止まらないさ。終点まで止まりはしない。でも俺は終点がどこなのか知らないんだ。そろそろ車掌《しゃしょう》が来るから聞いてみろよ」
「他に乗っている人はいないんですか?」
辺りを見回していたゆかりが、おそるおそるたずねる。
牧原はぼんやりとした目つきでゆかりをながめていたが、にやっと笑みをうかべた。
「いるだろうけれども知らないし興味はないね。それも車掌に聞いたらどうだ? ほらそこにいる」
牧原が指をさす。ふりかえったゆかりはかすれた悲鳴をあげて俺にしがみついた。
いつの間に現れたのだろうか。深い紺色《こんいろ》の制服を着た男が、俺たちのすぐ後ろに立っていた。
男は帽子《ぼうし》のひさしをつまむように会釈《えしゃく》すると、にこりと笑いかけてきた。
「私になにか御用《ごよう》ですか?」
平坦《ヘいたん》で感情のない声に二の腕《うで》が粟《あわ》だった。愛想よく見える笑顔もどこか空ろで人形のようだ。ゆかりがさらに身をよせてくる。俺は勇気を出して半歩|踏《ふ》み出した。
「降りたいんだ。列車を止めてくれ」
車掌は《しゃしょう》目を細めた。
「無理なことをおっしゃらないでいただきたいですな。この列車は終点までは止まらないんですよ」
「俺《おれ》たちが乗った他《ほか》にも駅はあるはずだろう」
「乗る方々のためには停車しますが、降りる人のためには止まらないんですよ」
車掌は大きく笑み崩《くず》れた。俺が最初に幽霊《ゆうれい》列車≠見送った時に、フロントガラス越《ご》しに見えた笑顔だ。
「降りる方がいるとは思えませんね。この列車はおぞましい人間の社会から離《はな》れて、楽園へ向かう列車なんですからね」
牧原が笑い出した。乾杯《かんぱい》するように高々と缶《かん》ビールを差し上げる。
「一緒《いっしょ》に行こうぜ。極楽浄土《ごくらくじょうど》の世界へ!」
「牧原!」
俺は叫んだが、牧原は気にもとめず、大声で笑いながらビールをあおった。車掌が静かに言った。
「お客さん、この列車が向かうのは、隠《かく》された里=Bもうひとつの生命たちが住む楽園。隠れ里≠ニ呼ばれる所。そこの住人はあなたがたのような夢見《ゆめみ》がちな人々を歓迎《かんげい》しているのです」
車掌《しゃしょう》の言葉の中にかすかな皮肉を感じたように思ったが、気のせいだったかもしれない。
「どうぞ静かに列車の旅をお楽しみください」
車掌はもう一度|会釈《えしゃく》すると、立ち去ろうとした。
「待て、降りたいと言ってるんだ!」
俺《おれ》の声に振《ふ》り返った車掌の顔からは、笑みが薄《うす》れていた。
「困った方ですね。止まることはないと言ったではありませんか」
「じゃあ、力ずくでも止める」
俺は足早に降り口へ近づいた。ゆかりが慌《あわ》ててついてくる。
扉《とびら》のそばに赤い塗料で強調された蓋《ふた》があった。蓋の上には同じ色の塗料で『緊急時《きんきゅうじ》イガイ使用セザルコト』と古臭《ふるくさ》い書体で書かれている。緊急用の非常停止装置だ。
俺は蓋を開いた。ボタンかレバーがあるものだと思っていたが、中にはワイヤーロープのようなものが、一本だけ通っている。だが形はどうであれ、それを引けば列車は止まるはずだ。
俺はロープをつかむと思いっきり引っ張った。
ロープは何の抵抗《ていこう》もなく引き出せた。抵抗がなさすぎた。俺はさらにロープを引いたが、何かが起こる様子はなかった。列車はあいかわらず闇《やみ》の中を軽快に走り続けている。
「どうして?」ゆかりがつぶやく。
「無駄《むだ》ですよ。以前にもそれを使って列車を止めた、困ったお客がいらっしゃったもので、切ってしまったのですよ」
笑いを含《ふく》んだ声にふりかえる。車掌は笑いながら俺を見ていた。だが、その目は冷やかに俺を見すえている。
「これ以上の騒《さわ》ぎは起こしていただきたくありませんね」
「そうさ。邪魔《じゃま》はいけないよ」
座席の上から身を乗り出して牧原が言う。
「そうだ。その通り」
突然《とつぜん》、他の声が聞こえた。見ると先程まで空席だと思っていた席にサラリーマン風の男が座っていた。俺《おれ》たちに敵意のこもった目をむける。その向かいにはOL風の女がいて、うざったそうに俺たちをねめつけた。
重い扉《とびら》を引き開ける音が聞こえた。隣の車両へ続く扉がひらき、うつろな目つきの青年が踏みこんできた。
「やっと目的をみつけたんだ。邪魔をするな」
そう、怒《いか》りのこもった低い声でつぶやく。その背後にも人の姿があった。中年の女性や、老人、まだ小学生と思える子供や若い女たちが次々と入ってくる。その誰《だれ》もが俺たちに憎しみの目をむけ、口汚《くちぎたな》くののしり声をあげる。
気がつくと俺たちを取り囲むように人々が迫《せま》っていた。全員から不気味な敵意を感じて、俺とゆかりはあとずさった。
「阿部、何をそんなに怒《おこ》ってるんだよ」
牧原がのんきに言い、車掌《しゃしょう》がうなずく。車掌は一歩|踏《ふ》み出すと手をのばしてくる。俺は逃《に》げ道を探したが、人々の頭の上を飛び越《こ》えでもしない限り、逃げられそうにはなかった。
車掌はさらに近づいてきた。大きな笑みを浮《う》かべているが、どこか奇妙《きみょう》に引きつっている。ふと、その顔がさらに大きく笑いくずれた。口の両端が上へひきあげられ、マンガじみた奇怪《きかい》な笑顔になる。俺の喉《のど》もとへ差し伸《の》べられた指が奇妙にねじれて萎《しな》びると、高速度|撮影《さつえい》のフィルムを見ているように、爪《つめ》が伸びて尖《とが》り、手の甲《こう》に荒《あら》い剛毛《ごうもう》が生えた。
俺は悲鳴をあげそうになったが、声がでなかった。ただ、頭を後ろへそらせて、奇怪な指先を避《さ》けるだけだった。
車掌は喉の奥《おく》で唸《うな》るような笑い声をあげた。やつの手が俺の腕《うで》に触《ふ》れそうになったとき、窓に何かを叩きつける、鈍《にぶ》い音が響《ひび》き渡《わた》った。車掌がはっと音の方を見る。列車の窓の向こうに、黒い影《かげ》が貼《は》りついていた。その影が窓を破ろうとしているのだ。
再び鈍い音がして窓にヒビが走った。クモの巣《す》のように白いヒビが窓を覆《おお》う。車掌は猫《ねこ》か蛇《へび》を思わせる威嚇《いかく》の声をあげた。
「ぬうぅ、おのれ何者だ。列車を傷つけおるのは。窓を開けろ。あいつを中へ引きずりこんでしまえ」
車掌の叫びに弾《はじ》かれるように、乗客たちの何人かが窓に駆《か》けよる。しかし、その前に次の一|撃《げき》があって、ガラスが弾《はじ》け飛んだ。車内に冷たい空気が流れ込み、スニーカーを履《は》いた足が見えた。足が抜《ぬ》かれてガラスの破れ目から人の顔がのぞく。
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
顔は消え、再び足がさらに窓をやぶろうと蹴《け》りつける。乗客の中の背広を着た小柄《こがら》な男が足につかみかかる。しかし、男は驚《おどろ》きの声をあげてとびすさった。細いツタのようなものが、窓の外から蛇《へび》のようにうねりながら滑《すべ》りこんでくるのだ。
「樹霊《じゅれい》のザコ妖怪《ようかい》がどうしてここに!」
憎々《にくにく》しげに言った車掌は《しゃしょう》、ギロリと俺《おれ》を見すえた。
「そうか、おまえらの仲間だな。あいつらとつるんでいると判《わか》った以上、生かしては帰さんぞ」
「な、なんのことだ!」
車掌の表情がみるみる険悪になってゆく。怒《いか》りに顔をゆがませているが、その変貌《へんぼう》は怒りのためだけとは思えなかった。
顔や頭の骨の形自体に変化が起こっているように見えた。柔和《にゅうわ》だった顔つきが般若《はんにゃ》の面のように皺《しわ》がよってひきつれ、目は眼球がとびだしそうなまで見開かれて、ギラギラと光を放たんばかりだ。
「あれ[#「あれ」に傍点]だけではあるまい。他《ほか》にどんなザコ妖怪を潜《ひそ》ませている!」
ザコ……なんだって? とまどう俺《おれ》の耳に、ゆかりの声が聞こえた。
「霧香さん、霧香さんなの? 鏡? 扉《とびら》に向けるの?」
俺は驚《おどろ》いてゆかりを見た。ゆかりは両手で耳をふさいでうつむいている。彼女のカバンについた鏡が、いやにキラキラと光を反射している。
「そこに潜んでおるのか!」
車掌《しゃしょう》が轟《とどろ》くような声をあげた。カッと口を開く。するどくとがった犬歯と、血にぬれたように真っ赤に染った舌がのぞく。
こいつは一体なんだ! 俺は足がすくんでがたがたと震《ふる》えるのを感じていた。
「こやつの守護者か? こざかしい!」
車掌の顔はすでに別人となっていた。唇《くちびる》がめくれあがって犬歯がむきだしになっている。ゆかりにつかみかかろうとする両手を、俺は夢中《むちゅう》で払《はら》いのけた。ゆかりのいる場所から静電気に似たパチパチという音が聞こえた。一斉《いっせい》に襲いかかって来ようとしていた人々の顔に恐怖《きょうふ》が広がる。俺はゆかりをふりかえった。
ゆかりは目を閉じて、両手を胸元に掲《かか》げていた。何か丸いものを持っている。鏡だ。鏡の内側に白い光が渦巻《うずま》きながら、刻一刻と大きさを増している。
ゆかりは輝《かがや》く鏡を頭上にかざした。
『さあ、扉《とびら》に向けて!』
女性の声が聞こえた。ゆかりはうなずくと鏡を扉へ向かって突《つ》き出した。まばゆい光が走り、はじける。
「おのれ!」車掌《しゃしょう》が吠《ほ》えた。
光は急速に薄れ、扉には大きな穴が開いていた。
「早く逃げろ、俺《おれ》が受け止めてやる!」
窓を破った人影《ひとかげ》が叫《さけ》ぶ。窓の周囲に伸《の》びたツタのようなものが、周囲の乗客をからめとり、身動きが取れないようにしている。乗客たちが動くたびに、木の葉がざわめく音がした。
「きゃあ」
乗客の一人がゆかりに襲いかかろうとしたが、ショルダーバッグでの反撃《はんげき》を顔面に受けてよろける。
獣《けもの》のような叫び声をあげて、車掌が俺につかみかかった。鋭《するど》い爪《つめ》が皮膚《ひふ》を薄《うす》く切り裂《さ》き、ふしくれだった指が襟首《えりくび》を締《し》め上げる。俺は無我|夢中《むちゅう》で車掌の腹を蹴《け》った。わずかに指がゆるんだので、体をひねって振りほどくと、扉に開いた穴へ近づいた。
「ゆかり!」
ゆかりは俺に飛びついてくる。しかし、いざ戸口に立った俺は外を見て決心がにぶるのを感じた。
外は漆黒《しっこく》の闇《やみ》しか見えなかった。車内から漏《も》れる明りすら、闇の中に吸いこまれて消えていくのだ。ゆかりを支えたまま、俺はとほうにくれて闇を見つめた。
「逃《にが》さん!」
ふりむくと、今まさに飛びかかって乗ようとする車掌《しゃしょう》と目があった。その姿は昔話《むかしばなし》に出てくる鬼《おに》のように見えた。
「いくぞ!」
俺は意を決して扉《とびら》の穴から身を躍《おど》らせた。ゆかりがしがみついてくる。俺たちの体は暗闇《くらやみ》の中へと落ちて行った。
戸口から俺たちのほうをにらみつけている車掌の姿がたちまち遠ざかっていく。
「お兄ちゃん!」
ゆかりが小さく叫《さけ》んだ。
突然《とつぜん》、木の葉のざわめく音が周囲を包み込んだ。枝《えだ》と葉のような物が手や頬《ほお》にあたる。同時に何者かの腕《うで》が、俺をしっかりと抱《かか》え込むのを感じた。
「暴れるな、味方だ」
長めの髪《かみ》をちらした、細面《ほそおもて》の男が俺をつかんでいる。痩《や》せぎみのその男をどこかで見た憶《おぼ》えがある。
「あんた、たしか……」
男はニヤッと笑った。
奇妙《きみょう》な男に抱《かか》えられたまま、俺たちは闇《やみ》の中を落ちていく。落下の感覚はおさまらず、どこまでもどこまでも落ちていくような気がした。ふっと気が遠くなり、俺は生れて初めて気絶というものを体験した。
4 占《うらな》い師、霧香
「僕がもう少しきちんと彼女をガードすべきでしたね」
「いいえ、仕方ないわ。急にお守りを頼《たの》んだのは私なんですもの」
意識がもどったとき、そんな会話が聞こえてきた。一人は男の声。もう一人は柔《やわ》らかな女性の声だ。
目を開く。どこかのマンションの一室だろうか、機能重視のシンプルでいながら美しい家具が並び、そのあちこちに和洋さまざまな骨董品《こっとうひん》が飾《かざ》られている。部屋《へや》全体にただよう柔らかな雰囲気《ふんいき》がとても心地好く感じられた。少し離《はな》れたところにベットがあって、ゆかりが寝《ね》かされている。
話し声は隣《となり》の部屋から聞こえてくる。隣と言っても壁《かべ》でしっかり区切られているわけではなく、クローク棚《だな》とバーのカウンターを思わせるテーブル、そして大きな水槽《すいそう》でくぎられているだけだ。
もっとよく見ようと身動きしたとたん、自分でも驚《おどろ》くほど大きな呻《うめ》き声をあげてしまった。ぴたりと話し声がやんだ。
「気がついたのかしら」
ややあって女の声が言った。
俺《おれ》は毛布をはねのけて立ち上がった。少しふらついたが、すぐにしゃきっとなった。早足でテーブルに近づき、向こうの部屋《へや》をのぞく。
そちらはダイニングキッチンになっているようだった。広々とした部屋の中央にL字型の変わった形のダイニングテーブルがある。テーブルには男と女が向かい合って座っている。二人はこちらを向いた。
「あの……俺……」
女が立ち上がると、優しく微笑んだ。
とても日本的で端正《たんせい》な顔立ちをしている。彼女は再び微笑むと、そばに来て椅子《いす》に座るようにとまねいた。
俺が座ると彼女は静かなまなざしで俺を見た。黒いストレートの髪《かみ》が、白い肌《はだ》をきわだたせている。その中の黒い瞳《ひとみ》。何もかも見透《みす》かしてしまいそうなのだが、すべてを暴《あば》き立てるのではなく、静かに見守ってくれるやさしい瞳だった。
向かい側に座っているのは、列車から飛び降りた俺たちを助けてくれた男だった。
「あんた、確か銀座駅や電車の中で見かけたことがあるぞ。ずっとつけていたのか?」
「君を追っていたわけじゃなく、ゆかりさんを追いかけていたのだけどね」
男は微《かす》かに笑みを浮かべてうなずいた。
「阿部さん――ごめんなさい、学生証を拝見させてもらったの――彼は加藤くん。ときどき助手もやってもらっているの。私は霧香」
「占い師の霧香さんですね」
俺《おれ》が言うと女性はうなずいた。
「ゆかりちゃんを助けてくれてありがとう。お礼を言わせてください」
「礼だなんて……」
俺はもう一度目の前の女性を見つめた。占い師と聞いた時のうさんくささは抜《ぬ》け切っていないが、真っ直くみつめる瞳《ひとみ》の美しさと実直そうな笑顔に、警戒心《けいかいしん》が薄《うす》れて行くのを感じていた。
「俺は彼女を危ない目にあわせちまっただけなんです。俺がいなかったら、あの子が幽霊《ゆうれい》列車≠ノ乗ることはなかっただろうし、列車から逃げ出せたのはあなたたちのおかげ……なんでしょう? あなたたちは、あの幽霊列車≠ノついて何か知っているんですか? それに……」
俺は車掌《しゃしょう》の変身を思い出した。映画のワンシーンのような不気味な変化と、乗客を抑《おさ》える木のツル、ゆかりが持っていた輝《かがや》く鏡……。
「それに……あの化物は何なんです?」
霧香は目をふせると、ややあって加藤という男の方をむいた。
「加藤さん、申し訳ないのですけど、私が阿部さんとお話ししているあいだ、ゆかりちゃんを見ていてあげてくれますか」
加藤はうなずくと、ゆっくりとした足取りで隣《となり》の部屋《へや》へ歩いていった。
見送ったあと、霧香は言葉を続けた。
「あなたの疑問に答える前に、よかったら、どうして幽霊《ゆうれい》列車≠探すようになったのか、詳《くわ》しい話を聞かせてもらえますか?」
俺《おれ》はうなずくと、最初に幽霊列車≠ニ出会った時の様子から、牧原が一人で乗っていってしまったこと。そして、ゆかりと一緒《いっしょ》に列車にのって、命からがら逃げ出すまでのことを話した。
霧香はときおり質問をさしはさんだり、俺の説明が不十分なところをつきつめたりしていたが、聞き終わったあとに俺に質問してきた。
「阿部さん、あなたは幽霊列車≠ヘ何なのだと思いますか?」
「何だと思うかと言われても……幽霊列車≠セから幽霊なんじゃないですか?」
俺はしどろもどろで答える。霧香は深い湖をおもわせる瞳《ひとみ》を、まっすぐ俺に向けた。
「信じてもらえるかわからないけれど、この世界には今の科学では捕《とら》えることも、調べることもできない力がたくさんあるのですよ。その力はどこにでもただよっています。よく言われる魂≠竅豪C≠ニ言うものがそう。
その力が物や場所に宿ったり、力だけが集まって新たな生き物を生み出すこともあります。それを人々は幽霊《ゆうれい》やおばけ、妖怪《ようかい》と呼ぶのです」
「そういえば幽霊列車≠フ車掌《しゃしょう》がザコ妖怪がどうのって……じゃああなたや、あの加藤っていう人は……いや、まさか」
「いいえ、その通りです。あら、私の頭が変だと思ってらっしゃるみたいね」
「あ、いや、そんなつもりは」
弁解しながらも、俺《おれ》はまじまじと霧香を見た。霧香はにこりと微笑《ほほえ》んだ。
「私は大昔《おおむかし》の鏡に宿った命。私が人間とまったく同じ姿でいられるのは、私を愛してくれたたくさんの人々の心のおかげなのです。私たちは人間の想《おも》い≠ゥら生れたのです。人形を我が子のように愛せば、人形に魂がやどります。つくった人間の心がこもった品物は、ときおり思いがけない幸運を呼びこみます。反対に憎しみの想い≠ヘ呪《のろ》いとなって人を苦しめますし、未練を残して死んだ人の魂は道連れをもとめるのです。聞いたことがあるでしょう?」
俺はうなずいた。
「世界に満ちる力は、人の感情や想い≠反映する鏡のようなものです。そして人の想い≠ヘえてして憎しみや苦しみといった、暗い力の方が強くて大きいものなのです。幽霊《ゆうれい》列車≠烽サうやって生れたものでしょう」
「霧香さん」
隣《となり》の部屋《へや》から加藤の声がした。水槽《すいそう》の向こうから手招きしている。
「ゆかりちゃんが目を覚ましましたよ」
霧香はうなずいて席を立つ。俺《おれ》も立ち上がった。
俺たちが部屋に入って行くと、ゆかりは慌《あわ》ててベッドからおりようとしたが、霧香が止める。ゆかりは霧香の手をとった。
「霧香さん、兄がいたんです。幽霊列車≠フ中に兄がいたんです」
霧香が真顔になった。
「本当?」
「ええ、列車から出た時に、窓の一つからこっちをのぞいている姿が見えたんです」
「どんな様子だった?」
「すぐに遠ざかってしまったので、そこまではわかりませんでした」
俺たちは顔を見あわせた。
「そう言えばあの時、ずいぶん高い所から落ちたような気がしたんだけれど、あれはどうしてなんだ。あの列車は地下のトンネルを走っていたはずなのに?」
霧香が加藤へ問いかけるような視線をおくる。加藤はうなずいた。
「俺《おれ》もそう思った。実際おっこちた場所はトンネルの中だった」
「縦穴《たてあな》の?」
「いや、普通《ふつう》の横穴のトンネルさ。ただ、ずいぶん古い上に、まったく使われていないトンネルだった。それをたどっていくうちに、山手《やまのて》線の線路|脇《わき》に出たんだ」
「山手線? 一体どうして」
「たぶん、建設されたものの、何かの理由で使われなくなった路線に出てしまったんだろう」
加藤は平然と言う。
「でも私たちが乗ったのは地下鉄の丸の内線よ」
ゆかりの言葉に霧香はにっこりと笑みを浮かべた。
「確かに不思議な話だと思うわ。でもね、あなたたちが会ったあの列車には、距離的な問題はあまり意味がないんじゃないかしら。それよりも……」
霧香の言葉をさえぎるように電話のベルが鳴り響《ひび》いた。霧香は立ち上がると、さきほどの部屋へ引き返す。ベルの音はすぐに止んで、かわりにファックスが紙を送る時の鈍《にぶ》い音が聞こえてきた。
「文ちゃんとマスターからだわ」
ややあってから紙を手にした霧香がもどってきた。俺《おれ》とゆかりの問いかけるような表情に気づいてつけくわえる。
「私の友達で、よく力をかしてもらうのよ」
霧香は部屋《へや》のすみにあった小さなテーブルを運んでくると、俺たちの中央に置いた。そしてもっと近づくように手でまぬくと、テーブルの上に紙を広げた。
東京都の地図だ。ファックスの解像度がさほど良くないためか、あちこち細かいところがつぶれてしまっているが、地下鉄の路線図だった。
地下鉄の路線以外にも、電信ケーブルと記された線や、水道、工事用、不明などと書かれた線が走っている。
「さすがね、よくここまで調べてくれたわ」
霧香が感心した声をあげる。
「阿部さんとゆかりちゃんが幽霊《ゆうれい》列車≠ノ乗った駅は確かここね」
雰香の指が茗荷谷《みょうがだに》の駅を示す。俺はうなずいた。
「山手線のどこに出たの?」
問われて加藤は地図をのぞきこんだ。
「目白のそばだったから……この辺りだと思います」
加藤はいびつな山手線の路線の北西を指さす。霧香は赤ペンで二カ所に印をつけた。そして、さらにペンで印をつけてゆく。よく見ると地図にはあらかじめ、数カ所に印が打ちこまれていた。
「その印はなんですか?」
ゆかりの問いかけに霧香は顔をあげた。
「ここ二、三年以内に地下鉄にまつわる異変が起こった場所よ。あなたたちの他《ほか》にも同じように幽霊《ゆうれい》列車≠見たり、走る列車の窓から人影《ひとかげ》を見たりした人がいるの。そんな話を集めてもらったのよ」
「特に法則やつながりがあるようには見えないけれど……」加藤がつぶやく。
赤い印は東京の上を点々と散らばっている。ときおり印が集中している場所があるものの、その中から何かを見出せるとは思えない。
「幽霊列車≠ヘどこへ向かっているんだろう? 一度ぐらいは終点≠ノたどりついたのかな」俺《おれ》は地図をにらみつけた。
「で、これからどうするんだ? 牧原やゆかりちゃんの兄貴をどうやればあの列車から引きずり降ろすことができるんだ? 俺たちの目的はそのことなんだろ」
俺とゆかりの目は、自然と霧香に向けられた。霧香は静かに俺たちの視線を受け止めた。
「相手に鬼《おに》≠ェいるのがやっかいだわ。私たちの力だけでは不十分のようね。地下で能力を発揮できる人を探さないと」
「すぐに探せますか?」
「心当りはあるんだけれど、彼も忙《いそが》しいみたいだから」
「霧香さん、お願いします! 列車に乗っていた人たちは、みんな変になっていました。兄もあんな風になってしまうんじゃないか、なってしまったんじゃないかって考えると、とても恐《おそ》ろしいんです」
ゆかりの気持ちはよくわかった。
「俺からもお願いします。あの列車がどこへ行くのかわかりませんし、終点があるのかも知りませんけど、そこへいってしまったら終わりなんじゃないかって思うんです」
「俺も手伝うよ」加藤がぼそりと言った。
「ここまで関わったんだから、つきあうのが当然ってやつだよな」
「わかったわ。できるだけ急いで連絡《れんらく》をつけてみるわ」
霧香は立ち上がった。
5 闇《やみ》を走る列車
「いないんですか?」
公衆電話の受話器をおろした霧香の表情がさえないのを見て、俺《おれ》はたずねた。霧香は眉《まゆ》をよせつつも、いたずらっぽい笑顔で応えた。
「ええ。夕方にでかけてしまったんですって」
電話ボックスから出てきた霧香は、軽く肩《かた》をすくめた。
彼女の背後には、闇《やみ》に沈《しず》んだ背の高いビルが立っていた。ビルの窓に明りはない。空は星も月も見えず、ただどんよりとたちこめた雲に街の明りがうつって、けぶるように白く染っている。
霧香が近づいてきたので、俺は車の扉《とびら》をあけた。暖房《だんぼう》であたたまった車内に、外の冷たい空気が流れ込む。
車はずいぶんと使いこまれたフォルクスワーゲンで、霧香が知りあいから借りてきたものだ。古いが手入れはゆきとどいている。エンジンがかけられたままのワーゲンは低く唸《うな》りながら体を振《ふ》るわせている。
霧香は助手席に滑《すべ》りこんだ。軽く息をついでから、くるりと後ろを向く。後ろの座席には不安そうなゆかりと加藤がいる。
「どうする、ゆかりちゃん。私としては今夜は避《さ》けたいわ。明日なら人手も集まるし、ね」
ゆかりは唇《くちびる》を噛《か》んでうつむいた。兄のことを心配している彼女の気持ちはよくわかった。
「霧香さん、どうしても助っ人が欲しいほど、あの地下鉄は危険なんですか? あれはいったい何なんです?」俺《おれ》は尋《たず》ねた。
「あれはおそらく迎《むか》え車≠フ一種じゃないかと思うの」
「迎え車=H」
「死を迎えた人の前にお迎え≠ェ来るっていうでしょ、あれと同じようなもので、人をこの世以外の場所へ連れさってしまう乗り物なのよ」
「この世以外って……どこなんです?」
ゆかりが感情を押《お》し殺した声で言う。霧香は目をふせた。
「残念だけれど、それまではわからないわ」
それまで目を閉じ、腕《うで》組みをして座席に沈《しず》みこんでいた加藤が顔をあげた。
「あの列車はどうして目的地へいかないんだろう? 乗客たちを乗せたまま、一体なにをしているんだ?」
「そう言えばそうだよな。ゆかりちゃんの兄貴が乗っているということは、一週間ちかく走り続けていることになるな」
「私たちが感じている実際の時間と、幽霊《ゆうれい》列車≠フ時間を同じにしないほうがいいかもね」
霧香は座りなおすと、フロントガラスごしに夜の街へ目をやった。言葉を続ける。
「列車から逃《に》げ出すときに、落っこちる感じがしたって言ったでしょ。幽霊列車≠ェ走っているのは、特別な空間――ぞくに言う結界≠フ中だと思うわ。結界の中に造られた、現実世界とは異なった空間の中のレールにそって列車は走っているはず」
「異なった空間を走るんだったら、なぜ、実在のトンネルをつかうのかな。自由自在に走ればいいと思うけれど」
俺は口をはさむ。霧香は笑顔を浮《う》かべて首をふった。
「それはできないのよ。妖怪《ようかい》が生れるには人間たちの想《おも》い≠ェ必要だって話したわね。人間の想いは無秩序《むちつじょ》に広がるものではないの。地下鉄の姿をもって生み出された迎《むか》え車≠ヘ『地下鉄は地下のトンネルを走るもの』という常識に縛《しば》られているの。でも、それも力が弱い間だけだわ」
霧香の顔から笑みが消えた。
「地下鉄の幽霊≠ニ思われている間は迎え車≠ヘ線路のあるトンネルしか走れないわ。でも乗客を乗せて、その乗客に特別な力を持つ列車≠セと思いこませれば、普通のトンネルでも走れるようになるはず。同じように異なる世界に行く列車≠ニ思わせて、結界の中を走るようになった……」
「じゃあ、あの列車がいまだにこの世をうろついているのは、異世界≠ヨ行くための力を蓄《たくわ》えているのだと思っているんですね」
加藤が静かな口調で言う。霧香は重々しくうなずいた。
「異世界≠ツまり隠れ里≠ヨ行くために乗客の想い≠まとめようとしているんだと思うの……でも隠れ里≠ヨの移動はさほど難しいものではないはずなのに」
「霧香さん、考えていたんですけれど、乗っている人をみんな助ければ、列車は動かなくなるんじゃないですか?」
ゆかりが口を開いた。霧香の方へ身をのりだして熱心に言うが、霧香の横顔は固い。
「私もそれを考えていたの。たぶんそうだわ。でもそれなら、なおのこと応援《おうえん》をたのむべきだわ」
俺《おれ》は後部座席のゆかりと加藤を見た。加藤は肩《かた》をすくめた。
「僕《ぼく》もまだまだヒヨッコだから、ろくな妖力《ようりょく》を持っていないもんな」
「ごめんなさいね、ゆかりちゃん。でも今日はがまんしてちょうだい。まだ列車は隠れ里≠ヨは行きつけないわ。私が保証してあげる」
霧香はバックミラーへ微笑みかける。ゆかりが見えているのだろう。
「隠《かく》れ里≠ノいったらどうなっちゃうんですか?」
ゆかりが不安げに尋《たず》ねる。霧香は肩越しにふりかえると、座席の上で体をこわばらせているゆかりを見た。ゆかりは憂《うれ》いをたたえた瞳《ひとみ》で霧香を見返す。
「隠れ里≠ニは普通《ふつう》は妖怪《ようかい》たちが暮らす村のことを言うの。人の目につかない場所にあって、人の姿になれない妖怪や、人とつきあうのが苦手な妖怪たちが住んでいるわ。すごく平和な場所だから、隠れ里≠ヨ行っても問題が起こることはないんだけれど……」
「あの車掌が鬼《おに》だったのがひっかかる」
加藤が言葉をつぎ、霧香はうなずいた。
「隠れ里≠ニいう場所が問題なのじゃなくて、そこに住む妖怪たちの性格が問題なの。鬼が住む隠れ里は、地獄《じごく》のような場所かも知れないわ。だとすると、確かに一刻を争う事態かも……」
霧香はハンドルに手を置いた。しばらく夜の街をながめていたが、思い切ったように言った。
「目白だったわね」
「霧香さん?」加藤が意外そうな声をあげる。
霧香はふりかえると、不敵とも見える笑顔をうかべた。
「乗客を解放するぐらいなら、私でもなんとかなるんじゃないかしら。加藤くんという護衛もいることですしね」
サイドブレーキを引き、ギアを入れる。ワーゲンはうれしそうに唸《うな》りを高めると車道へ走り出た。
幅《はば》広い車道はまばゆい外灯に照らされており、色とりどりの車がテールランプを輝《かがや》かせながら流れて行く。木立がきれて、代りにビルや店舗《てんぽ》が並《なら》ぶようになると、さらにネオンの明りが周囲を包み込むようになった。
腕《うで》時計を見ると、時刻はそろそろ夜の一時になろうとしていた。しかし、夜は始まったばかりと言いたげに、老若男女が波になって通りを行き交っている。
ワーゲンは明治通りに出た。車の背後には、天にそびえる超《ちょう》高層ビルの明りが、冬の夜を寒々と照らしている。
ワーゲンは橋を越《こ》えて、さらに通りを走った。行く手の夜空を池袋《いけぶくろ》の明りが染めるのを見ながら、車は東へ進路を変えると、まもなく、道路は山手《やまのて》線に接した。加藤が身を乗り出してきて細かく指示を出す。やがて目的地に着いたらしく、霧香は無雑作に路肩《ろかた》へワーゲンを止めた。
道路の脇《わき》には急な斜面《しゃめん》があり、その底に山手線の線路が走っている。木が斜面に覆《おお》いかぶさるように生え、伸《の》びほうだいの草が地面を覆っているが、所々セメントの肌《はだ》が見えている。
斜面の中ほどに、建物の一部のようなセメントの塊《かたま》りが突《つ》き出している。
「そこだ」加藤は先に立って降りると手まねさした。
ぽっかりと開いたトンネルは、大昔《おおむかし》の古墳《こふん》の入口のように見えた。仰々《ぎょうぎょう》しい『立入禁止』の看板と、木のバリケードがあったが、どちらも半分|壊《こわ》れて傾《かたむ》いている。トンネルの奥《おく》を覗《のぞ》きこんでみたが、暗闇《くらやみ》があるばかりで何も見えない。
「野火?」
霧香がつぶやいた。突然《とつぜん》、俺《おれ》の頭上に淡《あわ》い光が現れた。
『霧香、呼んだか?』
それはガスの炎《ほのお》が宙に浮《う》かんでいるように見えた。だが、炎と呼ぶには淡《あわ》くてホタルの光のように静かだった。光は揺《ゆ》らめき脈動すると、中心にぼんやりと老人の顔を浮かび上がらせた。
俺は驚《おどろ》いてあとずさった。
「野火、よく生きてたなぁ」
加藤がうれしそうに言う。加藤の背後からびっくりした様子のゆかりが顔をのぞかせている。
『ん? おお、なんだ藤《ふじ》の若造か。まだ枯《か》れもせずにおったか』
加藤が笑い、光も笑うように大きくゆらいだ。
「阿部くんにも、ゆかりちゃんにも、もっと私たちの仲間に慣れてもらわなくちゃいけないわね」
霧香はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「私たちを理解してほしいの。ただ気味悪がったり、怖《こわ》がるだけでは幽霊列車≠ノは立ち向かえないのだから」
『この穴蔵《あなぐら》の奥《おく》に迎《むか》え車≠フやつがおるのか?』
野火がふわりとトンネルの奥へとただよう。
「おそらく」
霧香は野火とともに奥へ歩いて行く。俺たちもあとに続いた。
野火の淡《あわ》い光で、工事の跡《あと》もそのままのトンネルの中が照らし出された。野火をしたがえて、霧香と加藤が先に立って進んで行く。ゆかりは両手を握《にぎ》り合わせ、体を堅《かた》くこわばらせている。
声をかけると、少し安心した表情を浮かべた。
俺たちの立てる足音が、セメントの壁《かべ》にはねかえってこだまを返す。五分ほど進んだ頃、加藤が立ち止まった。
「この辺りに落ちてきたんだ」
俺は天井《てんじょう》を見上げたが、セメントの肌《はだ》が見えるばかりだった。
「この奥に駅があるみたいね」
地図をのぞきこんでいた霧香が言う。俺たちはさらにトンネルを奥《おく》へと進んで行った。
無言のまま歩き続けて、くたびれ果ててきたころ、急にトンネルが広くなった。
タイルなどの化粧《けしょう》の施《ほどこ》されていない、無骨なホームが目の前にあった。よじ登って周囲を見回す。野火が高い天井へと舞《ま》い上がった。ごつごつとしたセメントがむき出しになった壁《かべ》と太い柱が、自然の洞窟《どうくつ》を思い起させる。
向かい側には対向する路線のホームもつくられている。
「もったいない話だな。レールさえ引けば、すぐにでもつかえそうなのに」
木材をつまさきでつつきながら、加藤がつぶやく。霧香が柔《やわ》らかな笑い声をあげた。
「幽霊列車≠ノとっては好都合ね。今夜はここで見張ってみましょう」
「本当にここに来るでしょうか?」
不安そうなゆかりに近づいた霧香は、そっと彼女の肩《かた》をたたいた。
「たぶんね。来ると信じてごらんなさい。そういう思いが、あの列車を引き寄せるのよ。でも、あの列車は敵だということだけは忘れないでね」
ゆかりは霧香を見上げると、小さくうなずいた。
ホームには木材や、すっかり固まってしまったセメントの袋《ふくろ》などが残されている。俺《おれ》はほこりを払《はら》って、その上に座りこんだ。野火は二つのホームの間を、ゆらゆらただよっている。
「やっぱり二時ぐらいにくるのかな」
まだ奥《おく》へと伸《の》びるトンネルをのぞきこみながら加藤が言う。
「おそらくね」
答えた霧香は木材の一つへ無雑作に腰《こし》をおろした。ゆかりはホームのそばで心細そうに立っている。加藤はゆかりのそばに近づくと、霧香のそばへいくようにうながした。
俺たちは思い思いに座って、ぼんやりと時間が過ぎていくのを待った。地上に比べれば地下は風もなくてほのかに温かい。それでもしばらくすると、足下から寒さが這《は》い上がってきた。
時計の針はのろのろとしか進まない。
天井《てんじょう》近くに張りついていた野火が、ゆらりと舞《ま》いおりてきた。加藤の方へ近づく。
『藤《ふじ》の木。何か感じぬか?』
加藤は眉《まゆ》をよせると霧香や俺やゆかりの方を見る。霧香は首をかしげ、俺とゆかりは顔を見合わせた。
野火は炎《ほのお》を渦巻《うずま》くと、天井近くまでとびあがってしまった。それを見ていた俺は、ふと不安になった。
俺は一体こんな所で何をしているんだろう。こんな不気味なやつらと一緒《いっしょ》に、見捨てられたトンネルの奥で……。
幽霊《ゆうれい》列車≠ノ乗ったままの牧原と、ゆかりの兄さんを助けるためなのだから、頑張《がんば》らなくてはならない。俺は自分に言い聞かせた。しかし、どうしても押《お》さえきれない、疑いの気持ちが高まってくるのだ。
大体、どうして牧原を助けなくてはいけないのだろう?
牧原は列車に乗ったことを喜んでいたじゃないか。将来のことも、苦労も悩《なや》みも放り出すことができたのだ。良いことではないか。俺だって、人生だの、生きる目標だの、重たいかせをはめられて生きて行くなんて、まっぴらごめんだ。列車に乗って、隠《かく》れ里へ行ったっていいじゃないか。
しかし、列車に乗ろうにも、ここで待っていても列車は来ないんじゃないだろうか?
幽霊列車≠ニ敵対する霧香や加藤がいるのでは、出てくるものも、出てこなくなるのじゃないだろうか?
この二人とは別れた方がいい。それが無理なら、少しでも遠ざかった方がいい。
俺は、自分の考えが、少しずつ奇妙《きみょう》な方向へとねじ曲げられていることに気づけなかった。俺は霧香と加藤から離《はな》れる場所を探して、周囲を見回した。
俺は向かい側のホームへ目をやり、小さくうなずいていた。
「阿部くん、ゆかりちゃん、二人ともどうかしたの?」
霧香の声に俺は霧香を見て、次いでゆかりを見た。ゆかりはじっと向かい側のホームを見ていたが、俺の方を向いた。直感的に、俺はゆかりも同じことを考えているのだとわかった。
「俺、ちょっと向こうのホームも調べたいので、行ってきます」
「あたしも行く」
俺が立ち上がると、ゆかりも同じように立ち上がった。霧香は不審そうに俺たちを見た。
「かまわないけれど……大丈夫《だいじょうぶ》?」
『霧香に藤の木、本当に何も感じぬのか?』
さらに問いかけたそうな霧香へ、野火が話しかける。そのスキに俺とゆかりは線路へ降りると、反対側のホームへ近づいた。
反対側のホームに登った俺とゆかりは、どちらともなく、トンネルの奥《おく》へ目をやった。
「聞こえるわ」
闇《やみ》の中を見ていたゆかりがつぶやいた。俺はうなずいた。かなたから列車の近づく響《ひび》きが聞こえていた。響きはすぐに轟《とどろ》きになり、闇に浮かんだ白い光点が、みるみる明るいヘッドライトに変わった。オレンジ色の列車が近づいてくるのを、俺は妙《みょう》な満足と期待を持ってみつめていることに気づいた。
「戻《もど》って、ゆかりちゃん、阿部くん!」
霧香の悲鳴のような声も、地下鉄の騒音《そうおん》に覆《おお》いかくされてしまう。列車はブレーキをきしませながら、俺《おれ》たちの前に止まった。車体が止まるとドアが開く。列車が急《せ》き立てているのがわかった。俺とゆかりは列車に駆《か》け込んだ。
窓の向こうに目を見開いて、こちらを見つめる霧香と加藤、そして倍ほどにふくれあがった野火の姿があった。列車が動き出した。
「なんてことを!」
霧香の叫《さけ》び声が聞こえる。
「くそっ!」
加藤がホームからとびだした。人間|離《ばな》れした跳躍《ちょうやく》で列車の上へ消える。屋根に飛び乗ったようだ。霧香もホームからとびおりた。
モーターの音が高まり、ホームが見えなくなった。列童は速度をあげて暗いトンネルの中を疾走《しっそう》してゆく。
列車に乗ることが嬉《うれ》しくてたまらない。うかれていた俺は、突然《とつぜん》、我に返った。
「おや、もう自分を取り戻してしまったか。だが、もう遅《おそ》い」
あざ笑うような低い声に、俺たちはぎょっとなって振《ふ》り返った。隣《となり》の車両へ続く扉の前に、車掌《しゃしょう》が薄《うす》ら笑いを浮かべて立っていた。
「ようこそ、お客さん。こんどは帰しませんよ」
背筋に寒気が走った。罠《わな》にはまったのだ。車掌《しゃしょう》は笑いながら歩み寄ってくる。小さな悲鳴をあげてゆかりが腕にしがみついた。
「阿部さん、わたしどうして……」
「どうやら、あいつにまんまと誘《さそ》い込まれたらしい」
ゆかりはうろたえていた。青ざめた顔で車掌を見ている。
「お、お兄ちゃんはどこ?」
やっとの思いで叫《さけ》んだゆかりの声に、車掌は笑顔で応《こた》えた。
「すぐに会えますとも。でも、そのためにはあなたたちもこの列車の良き乗客になっていただかなくてはいけませんよ」
「またさっきのように俺《おれ》たちをトチ狂《くる》わせるつもりか?」
近づいてくる車掌との距離《きょり》をあけるために、俺たちはじりじりと後ずさった。車掌は楽しげに目を細めながら、さらに近づいてくる。
「狂わせるですと? なにを言うのです。あれはあなたたちが望んでいたことじゃないですかな。人生だの、生きる目標だの、重いかせを捨てさってしまいたいのでしょう?」
自分が考えていた通りの事を言われて、俺はたじろいだ。
うおおおぉん……!
耳に聞こえるか聞こえないかの音と、体を振るわせる響《ひび》きが車中にこだました。巨大《きょだい》な獣《けもの》を思わせる声とともに、車体が大きく震《ふる》えた。車掌《しゃしょう》の顔から笑みが消え失せ、苦々しげな顔つきに変わる。
俺《おれ》たちの背後になっている、次の車両から争うような物音が響いてきた。
「まったく、あなたがたは、やっかいな者どもに列車の存在を知らせてしまった。その償《つぐな》いはあなたがた自身にしていただかねば」
車掌は素速く近づいてくる。俺は身構えると車掌をなぐりつけようと拳《こぶし》をふるった。だが、それはあっけなく受け流されてしまい、反対に腕をつかまれて捻《ねじ》り上げられた。
「そこの娘《むすめ》さんも怪我《けが》をしたくなければ、大人しくしていなさい」
車掌は再び不気味な笑顔を浮かべた。
「ただの人間ごときが、私に立ち向かうことなどできないのだからね」
ゆかりは恐怖《きょうふ》に目を見開いたまま、よろめくように次の車両への扉《とびら》にもたれかかった。隣からは、まだ争いの音が響いてくる。
その扉が引き開けられた。背広を着て銀ぶちの眼鏡《めがね》をかけた男がゆかりの肩《かた》をつかむ。ふりかえったゆかりは小さく息をのんだ。
「お兄ちゃん……?」
兄と呼ばれた男は、生気のない空ろな表情のまま、ゆかりの肩を両手でつかまえた。中肉中背で、ぱっとしたところのない平凡《へいぼん》すぎる男に見えた。
「加藤くん、乗客に怪我《けが》をさせちゃだめよ!」
ゆかりの兄貴の背後で、大勢の人々がもみあっているのが見えた。霧香の鋭《すろど》い声が飛ぶ。車掌《しゃしょう》が大声で笑った。
「なんとも賢明《けんめい》なことよ。そうとも、手向かわなければ良いのだ」
俺《おれ》はなんとか車掌の手をふりほどこうとしたが、いっそう強く腕《うで》をねじりあげられただけだった。車掌は俺を突《つ》き飛ばすように前に押《お》し出す。ゆかりの兄が彼女を捕《つか》まえたまま道をあける。
「樹霊《じゅれい》、野火、そして女! そこまでにしろ。さもなくば、こいつらが痛い目にあうことになるぞ」
突《つ》き飛ばされて、俺はぶざまに床《ゆか》へ突《つ》っ伏《ぷ》した。近くにいた乗客たちが、獲物《えもの》にむらがる肉食|獣《じゅう》のように俺につかみかかり、押《お》さえ付けた。
「くそっ、離《はな》せ、離しやがれ!」
もがいてはみたが、指がくい込むほどにつかまれてしまい、手と首がかろうじて動かせる程度だ。
列車の中は混乱を極めていた。窓の一つが壊《こわ》れて大きな穴が開いている。そのそばに霧香が立ち、そのさらに前に加藤が立ちはだかっている。二人に向かって乗客たちが襲《おそ》いかかっているが、ツルのようなものが、うねりながら広がって乗客たちの動きを封《ふう》じていた。天井近くでは野火が飛び回り、火の粉のような光の粒《つぶ》をまき散らしては、乗客の目をくらませている。
しかし、霧香たちはそれ以上のことができないようだった。ツルは引きちぎられ、野火は消火器の泡《あわ》をあびて姿を消した。
そのうち、腕《うで》をつかんでいるやつの服装《ふくそう》に見覚えがあることに気づいて、俺《おれ》はもがきながら顔をあげた。そんな俺を、憎々《にくにく》しげな表情の牧原が見下ろしていた。
「牧……?」
牧原の手が俺の頭をつかみ、床《ゆか》に押《お》しつけた。
「善良づらした外道妖怪《げどうようかい》ども。大人しくしろ。お友達がどうなってもいいのか?」
車掌《しゃしょう》が一喝《いっかつ》する。俺に見えるのは、列車の床と前に進み出てきた車掌の黒い革靴《かわぐつ》だけだったが、物音で乗客たちと戦っていた加藤たちがひるんだのが感じられた。乗客たちの勝ち誇《ほこ》ったざわめきに重なって、重いものが床に落ちる音と、加藤と霧香の叫《さけ》び声が聞こえた。
「野火は逃《に》げたか。その藤の木は知っているが、女は初顔だな」
車掌の靴が遠ざかって行く。目をあげてあとを追う。霧香と加藤は乗客たちに取り押さえられていた。車掌はまじまじと霧香を見下ろす。霧香の髪《かみ》をすくい上げてもてあそぶ。霧香は鋭《するど》い目で車掌をにらみつけたが、車掌はかまわず彼女の頬《ほお》に指を這《は》わせる。
バシッと静電気に似た音がして、車掌は顔をゆがませて手をひいたが、すぐに大きく笑み崩《くず》れた。
「ほお、正体は雲外鏡≠ゥ、今時めずらしい」
「船頭|鬼《おに》¥諡qたちを解放なさい!」
霧香がぴしりと言い放つと気圧《けお》されて車掌はわずかに身をひいたが、一息の間をおいて船頭鬼≠ヘ肩《かた》をすくめて大きく手をふった。
「なにを言うかと思えば。彼らは自ら望んでこの列車に乗って来たのだよ。みんなこの列車を待ちのぞんでいたんだ。追い出したりできるものか。追い出すとしたらお前たちだけだ」
「うそをつけ! どうせ幻術《げんじゅつ》でたぶらかして連れこんでいるだけだろう」加藤が叫ぶ。
俺《おれ》は押《お》さえつけられたまま、あごをそらして船頭鬼≠にらみつけた。
「そうだ。俺とゆかりをここに誘い込んだようにな!」
「お兄ちゃんはどこに行くつもりなの、お兄ちゃんがこれに乗ってから、一週間も経つのよ。本当に隠《かく》れ里≠チて所はあるの? 答えて!」
ゆかりは兄の手をふりほどくと、反対に彼をつかまえてゆすぶった。ゆかりの兄は驚《おどろ》いたように妹を見下ろしている。
ゆかりの言葉で俺はあることに思い至った。
どうして列車は同じ場所を走り続けているのか? 隠《かく》れ里へ行くために走り続けていると考えるには、不自然だった。疑問が、ゆかりの言葉で氷解した。俺は大声でわめいた。
「そうだ、その通りだ。隠れ里≠ヨ案内するなどとほざいているが、本当はそんな場所はありはしないのだろう! おまえはただ、人間を捕《つか》まえて、引きずり回すことが楽しいのだろう? ちがうと言うなら、隠れ里≠ヘどこにあるのか、どんな場所なのか説明してみろ!」
車掌はぎくりと身をふるわせた。霧香は、はっと瞳《ひとみ》を見開いた。
「そうなのね船頭鬼=Bおまえは自分とこの列車を生かすために人々を捕えているのね?」
車掌は答えない。霧香は優雅《ゆうが》に顎《あご》をそらした。軽く頭をふって、乱れて顔《かお》にかかった髪《かみ》を払《はら》いのける。
「お前とこの列車は、現実から逃《のが》れようとする人々の想《おも》い≠ニ、夜中に現れる幽霊《ゆうれい》列車≠フ都市伝説から生れた存在。人々を乗せて隠れ里=\―ありもしない楽園――へ走ることが存在の理由であり、走り続ける限り、永遠に存在しつづけるもの。
お前は生きるために人々を捕えた。私にはそれを責める権利はない。でもこのまま人々があてのない放浪《ほうろう》の果てに、衰弱《すいじゃく》して死んでゆくのを見逃《みのが》すわけにはゆかないの」
俺を押《お》さえつける腕《うで》の力がわずかにゆるんだ。乗客たちは動揺《どうよう》したようだった。ざわざわと浮き足立つ。
「だったらどうするというのだ?」
車掌は《しゃしょう》霧香につめよった。その姿が大きくふくれあがり、鬼《おに》の正体を現しはじめる。
「今は里≠ヘない。しかしこの人間たちがそれを信じれば、里は実現するのだ!」
「どれぐらいの時がかかるのかしら」
霧香は静かに言った。
「人間たちが思い描《えが》く楽園≠ヘ様々だわ。そんな漠然《ばくぜん》としていてあやふやな想《おも》い≠ナは力≠まとめあげて一つの世界をつくることはできないわ」
乗客がさらにざわめいた。見上げると牧原はとまどいの表情をうかべている。ゆかりの声が響《ひび》いた。
「お兄ちゃん、目をさまして! 一緒《いっしょ》に帰ろう。パパもママもすごく心配してるわ。家に帰ろう。ゆかりと一緒に帰ろう」
俺《おれ》は牧原を見上げた。
「おい、牧原。こんな列車の中でグルグルとわけのわかんない所を回っているよりも、また一緒に飲みにいこうじゃないか」
牧原は茫然《ぼうぜん》と俺を見下ろした。腕の力がゆるむ。
「ああ、そうだ。優ちゃんから伝言があったんだ。意地はってごめんね、ってさ。今度、きちんと謝りにいくって言ってたぞ。どうするんだ、彼女を放っておくのか?」
その時、急に目の前の景色がゆがんだ。
そして唐突《とうとつ》に、本当に突然《とつぜん》、俺は昔《むかし》のことを思い出していた。
まばゆいばかりの白さが目にとびこんできた。新雪だ。雪が周囲一面を覆《おお》っている。遠くには切り立った白い峯《みね》と、やはり純白に覆われた緩《ゆる》やかな尾根《おね》が広がり、抜《ぬ》けるような青い空からは澄んだ光がふりそそいでくる。冷たい風も痛いほど澄み切っていて、あざやかなすがすがしさに俺は目をみはった。
雪の所々に緑色の地面がのぞいて、そこここに高山植物が色|鮮《あざ》やかな花を咲《さ》かせていた。背の低い松のしげみの間を、茶色い羽の雷鳥《らいちょう》が見え隠《かく》れしている。あきれるほどに透《す》き通った空には、あくまで白い雲が、高く低く染みわたっている。
山頂近くの峯から下界を見下ろすと、緑がかった山の峯々に雲と霞《かすみ》がかかっていた。
俺は息をのんで景色をみつめていた。この景色には覚えがあった。たしか俺が小学生のころに見た景色だ。
それは俺が小学生の低学年の終わりの頃だった。夏休み、親父がめずらしく俺をつれて山に登った。親父はあまり趣味を持っていなかったが、唯一《ゆいいつ》の趣味が登山だった。
北アルプスの山だったと思うが、どの山だったのかは忘れてしまった。
親父はいつものごとく無口だった。俺はその頃から親父が俺を気に入ってないと判《わか》っていたから、どうして俺を連れてきたのか不思議だった。このまま山に置き去りにされるんじゃないかとさえ思っていた。
視界の端《はし》で大きな人影《ひとかげ》が動いた。親父《おやじ》だ。思い出の中の親父は、恐《おそ》ろしいほどに巨大《きょだい》に見えた。目鼻だちは扁平《へんへい》なほうで目は小さく、あまり表情を見せない。今も親父の横顔は仮面のように表情がなかった。ただ、じっと眼下の雄大《ゆうだい》な風景を見つめている。
ふと、親父が口を開いた。
「でかいだろう。自分がちっぽけに思えるだろう?」
俺は驚《おどろ》いて親父を見た。親父はかすかに笑っていた。疲《つか》れた老人の微笑《ほほえ》みだった。俺は驚いた。心細く思い、急に親父との距離《きょり》が離《はな》れてしまったように感じた。親父が……山のように大きく、岩のように頑固《がんこ》に思っていた親父が、急に小さくもろくなったように見えた。小さく、小さくなって、どんどん離れて行ってしまう。置いてけぼりになってしまうのではないか。
心細さに俺は泣き出したらしい。すると、親父は慌《あわ》てて俺を抱《だ》き寄せて、なだめるように何度も背を叩《たた》いてくれた。
俺がしゃくりあげるのをやめても、親父は手を離《はな》さず、しっかりと俺を抱きよせたまま言った。
「浩二、人間はちっぽけだが、こんなところまで登って来れるほどすごいんだぞ。忘れずに覚えておけ」
そして小さくつぶやくように続けた。その声はほんとうに小さくて、耳では聞き取れなかったが、親父の胸を伝わった低い振動《しんどう》が、俺の中に届いた。
「私はお前の兄に自分の夢《ゆめ》ばかりを押《お》しつけてきた。お前には自分の道を歩いてほしいと思っているのだよ」
俺ははっと我にかえった。俺が居るのは北アルプスの山ではなく、地下鉄の床《ゆか》の上だった。
しかし山の鮮《あさ》やかな景色は、まだ瞳の奥《ひとみおく》に焼きついていた。
体が震《ふる》えた。忘れていたあの言葉。いや、忘れようとしていたのだ。すべてを親父の罪にするために。
牧原はどこかあらぬ彼方《かなた》を茫然《ぼうぜん》と見つめていた。目頭から鼻筋を涙《なみだ》がすべりおち、牧原はかすれた声でつぶやいた。
「俺……やりたいことが……あるんだ。ゆるしてくれよ……父さん」
「牧原……?」
「船頭鬼@車は止ったわ。扉《とびら》を開けてちょうだい」
霧香の声が俺を完全に現実へ引き戻した。霧香は背筋を伸《の》ばして車掌《しゃしょう》と対峙《たいじ》していた。加藤も同様だった。二人を押《お》さえつけていた乗客たちは、ある者は茫然《ぼうぜん》と虚空《こくう》を見つめ、ある者は泣き、ある者は列車から降ろせと叫びながら扉を開けようとしている。
「雲外鏡≠゚、術を使ったな」
車掌は鬼《おに》の姿ではなく、平凡《へいぼん》で非力そうな人の姿に戻っていた。憎々しげな声も心なしか力を失って、うろたえているようだった。
霧香は微笑《ほほえ》みで応《こた》えたが、その笑みは少し悲しげだった。
「あなたは人の絶望と悲しみを増幅《ぞうふく》させた。私は彼らの心の中の希望と思い出を、そのまま映し出してあげただけ。さあ、どうするの? 乗客たちがいなくなって、列車は力を失った。あなたも同様のはず。おとなしくみんなを解放してくれるわね」
ゆるやかな振動《しんどう》がおこって列車が止った。馴染《なじ》みの音を響《ひび》かせて扉が開いた。その向こうに広いホームが静かに待っていた。人々は誘《さそ》われるように列車をおりてゆく。
「加藤くん、あの人たちを誘導《ゆうどう》してあげて。無事に街に出られるように。野火、隠《かく》れてないで彼を手伝ってあげて」
うなずく加藤の頭上に小さな火が現れた。野火はぐるぐると渦巻《うずま》くと、弁解したげに二言三言つぶやいたが、加藤ににらまれて沈黙《ちんもく》すると、早々に列車を降りた。加藤も続く。
霧香はゆかりと俺《おれ》に優しく微笑《ほほえ》んだ。
「さあ、あなたたちも降りなさい」
立ち上がろうとした俺を、牧原が助けてくれた。
「阿部、俺は……」
「いいんだ。行こう」
俺は牧原の言葉をさえぎった。
ゆかりは兄貴の手を引いて降りてきた。最後に霧香が降りて、列車には車掌が残るだけになった。車掌の顔は人形のように無表情だった。ただ、憎々《にくにく》しげに俺たちをにらみつける目だけが、異様なまでに感情をむき出しにしていた。
「雲外鏡=v
車掌は憎しみをあらわに、霧香へ話しかけた。
「俺は消えない。この列車も消えない。その事が俺たちの正義だ。いつの日か力を取り戻《もど》したなら、たっぷりと礼をさせてもらうぞ。覚えておくがいい!」
霧香は何も言わなかった。車掌の姿が消えた。列車の扉《とびら》が閉ざされ、地下鉄はゆっくりと動き出した。
オレンジ色の車体が目の前を流れてゆき、最後に後部運転席が通り過ぎる。フロントガラスの内側に車掌の姿があった。列車は闇《中み》の中に飲まれてゆき、テールランプが漆黒《しっこく》の中を小さく小さく遠ざかって、やがて消え失せた。
振《ふ》り返った霧香の表情は、どこか悲しげだった。しかし俺たちが見ていることに気づくと明るく微笑《ほほえ》んだ。
「ごくろうさま。さあ、帰りましょうか」
6 闇《やみ》の中の光
あれだけたくさんの人々が行方不明になっていて、さらにそれが一斉《いっせい》に帰ったはずなのに、世間は何一つ気づいていないようだった。その事を言うと加藤は肩《かた》をすくめた。
「そう言うもんさ。話題にすべきことは語り、せざるべきことは話さない。それが一番なのさ」
加藤が同じ大学の生徒だというのは驚《おどろ》きだった。まあ、学部がいくつもあるのだから、知らない者のほうが多いのは当然ではある。
髪《かみ》を後ろでたばねて、小犬のしっぽのように、ぴんとはねあげている。かすかに色の入った眼鏡《めがね》をかけている加藤は、まったく平凡《へいぼん》な有閑《ゆうかん》学生だ。
時間はずれの学食でのんびりとコーヒーをすする。
「ゆかりちゃんたちはどうしてるかな?」
俺《おれ》が尋《たず》ねると加藤は原書本から目をあげた。
「兄さんと一緒《いっしょ》に、両親の所へ帰ったとは聞いたけれど」
「あの兄さん、ずいぶんショックを受けていたようだけれど、これからどうするんだろう」
「家業を継《つ》ぐんじゃないかな。両親はそう望んでいた、ってゆかりちゃんも言ってたし」
そう言った加藤は、本をぱたりと閉ざすと、俺をじっと見つめた。
「河瀬の兄さんを心配するよりも、自分のことを心配してはどうだ?」
「え?」
「おまえも幽霊《ゆうれい》列車≠ノ乗りかかったんだろう? それなりのトラウマやストレスがあるんじゃないのか?」
「ん、そのことならもう……」
「おおい、阿部!」
学食の入口に牧原が現れた。俺は手をふって合図する。近づいてきた牧原の表情は明るい。列車に乗っていた時の憔悴《しょうすい》して荒《あ》れ果てた様子はすっかり消え去り、元気な姿を取り戻していたが、近づいてくる牧原の表情は、それ以上に嬉しそうに見える。
「どうしたんだよ、ひどくうれしそうじゃないか。優子ちゃんと仲直りしたのか?」
たずねると、牧原は一瞬《いっしゅん》きょとんと俺を見たが、すぐに照れながら言った。
「優ちゃんとは戻《もど》ってからすぐに仲直りしたよ。そうじゃなくて、親父《おやじ》と話がついたんだ。俺のやりたいことをやってみろって。半分、勘当《かんどう》に近いけど、何はともあれOKが出たよ」
「もう、大丈夫《だいじょうぶ》だな」加藤は目を細めた。
本当に嬉しそうな牧原の顔を見ながら、俺はふところに突《つ》っ込んだままの手紙に思いを向けた。もう一度|一緒《いっしょ》に山に登りたい。そうしたためた親父への手紙だ。山の上でなら素直になれそうな気がするのだ。あのときの親父のように。そうしたら、言うことができるだろう。俺の夢《ゆめ》と気持ちと、おやじへの、ごめんの一言が。
俺たちはにぎやかに騒《さわ》ぎながら学食を出た。この分だと今夜は祝い酒になりそうだった。また終電のお世話だろう。
終電を逃《のが》してしまったら、またあの列車を見るかもしれない。
しかし、列車が目の前に止ることはないだろう。
今は。
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Take-3――――――――
小説を書いているうちに。
あるいは、テーブルトークRPGとして遊んでいる時に。
ふっと、記憶《きおく》が甦《よみがえ》ってくることがある。
あの街角で、あの美しい瞳《ひとみ》の女性と、どんな会話をかわしたのかが。
それは、ごくごく断片的なものでしかない。それどころか、本当に記憶なのかどうかも定かでないのだが。まるで夢《ゆめ》の記憶のように、それは現実感のないしろものでしかなかった。
もしかしたら、自分がその瞬間《しゅんかん》に思いついたことにすぎないのかもしれない。やれやれ、これではまるで、ぼくは妄想《もうそう》に憑《つ》かれた男のようだ。
しかし、そんないくつもの記憶の中で、たったひとつだけ鮮明《せんめい》によみがえってきたものがある。
それは、彼女、霧香さんに別れぎわに尋《たず》ねたことについての記憶だ。
ぼくは、こう言ったのだ。どうして、ぼくにこんな話をしたんですか、と。悩《なや》みを解消してくれるためにしては、重大すぎる話じゃないですか……。もしも、みんながこれを信じたらどうするんです? 妖怪《ようかい》たちが狩《か》りたてられることになりはしませんか?
おそらく、ぼくは、どうせ誰《だれ》も信じたりしないわ、なんて答えを予想していたんだと思う。自分のことなのに頼《たよ》りなくてもうしわけないが、その後に返ってきた言葉の印象が強すぎて、ぼく自身の思惑《おもわく》なんぞ、どうでもよくなってしまったのだ。
彼女の答えは、こう。
「忘れられると、生きてはいけないのよ。どんな生まれ方をした命でも……」
あれから、もうずいぶんたってしまった。もっとも、妖怪たちの時間観念からすると、まだほんのちょっとなのかもしれない。
ともかく、ようやくこの短編集が、妖魔《ようま》夜行シリーズ最初の単行本としてまとまることになった。で、ぼくの担当分は書き下ろしである。
ぼくは、アイデアを考えながら、道を歩いていた。ぼくがアイデアを思いつく場所としては、歩きながら、風呂《ふろ》に入っている時、布団《ふとん》の中がベスト3だ。特に、自宅から最寄りのJR駅まで徒歩で二十分ほどかかるため、その途中《とちゅう》でプロットをまとめてしまうこともある。
もっとも、その時は、神戸から戻って――グループSNEの事務所は神戸で、ぼくは大阪に住んでいる――乗り換《か》えのために繁華街《はんかがい》を歩いていた。
ぼくは、ある場所にさしかかった。
その瞬間《しゅんかん》に気がついたのだ。
ここだ。
ぼくは、ここで霧香さんに出会ったのだ。
もちろん、そこには占《うらな》い師などいなかった。テレクラの広告つきボケットティッシュをくばる、パンクなあんちゃんがいるたけだ。
ただ、どういうわけだろう。そこには、街角なのに、古ぼけた鏡が一つ、ぽつんと薄汚《うすよご》れた壁《かべ》にかかっていた。
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1.矢代《やしろ》知美《ともみ》
2.守崎《もりさき》摩耶《まや》
3.小諸《こもろ》沙菜《さな》
4.忍《しの》びよるもの
5.探 索
6.決 意
7.イブラリン
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1 矢代《やしろ》知美《ともみ》
窓は開かない。
だから、そこから出ていくことはできない。そこから何も入りこんでくることはない。
矢代知美は、ぽうっと外の暗闇《くらやみ》を見つめていた。見えるのは、光る看板がいくつか遠くにあるのだけ。向かいのビルは、もうほとんどの明かりが消えてしまっている。時々、窓が真っ白に染まる。はるか下の道を走り去る車のヘッドライトだ。
一瞬《いっしゅん》だけ照らして。
そして、すぐに去ってしまう。
夏のあいだは、この窓が開かないことも気にはならなかった。機械でほどよく冷やされた部屋《へや》にいて、窓を聞けようとは思わない。
そして、あの人もいた。
でも、今は、もう秋だ。
そして、あの人はいない。
この部屋の窓は開かない。
息がつまるというわけじゃない。五十人近くの生徒を、余裕《よゆう》たっぷりに収容できる部屋なのだ。夜中にぽつんとひとりでいると、寂《さび》しいどころか怖《こわ》くなってくるくらいだ。
低いエアコンのうなり。
空気は入れ替《か》えられているのだ。よどんではいない。だいいち、外の空気は排気《はいき》ガス臭《くさ》くて、深呼吸するどころじゃないだろう。
でも、窓が開かないのは、なんとなくいやだ。風が、入りこんでこない。
知美は、立ちあがった。手にしていたシャープペンシルを、AやらBやらの文字が並《なら》んだプリントのかたわらに置く。
それは、もう大半が埋《うま》っていた。あと、二問。それだけ終われば、家に帰れる。
そうなんだから、さっさとすませてしまえばいい。開かない窓のことなんか気にしないで。
知美は、そう思いながら、でもやっぱり窓に向かって歩いていた。
家に帰っても、父さんも母さんもあたしのことなんか見向きもしない。受験を控《ひか》えた兄さんと、妹の清美のことで頭がいっぱいだもの。
いくつもいくつも並《なら》んだ蛍光灯《けいこうとう》の明かりが、いくつもいくつも並んだ机を照らしている。椅子《いす》を避《さ》けて歩いていく知美以外、その明かりを利用する者はいない。
誰《だれ》も。
いないのだ。
きっと、この高校二年クラスだけじゃない。他のクラスの子もみんな帰っている。塾の教室があるのは四階と五階、それから三階にオフィスがあって一階には自習室。二階は小学生部の開設準備中で、六階にはビルの管理事務所。でも、どこももうからっぽじゃないだろうか。
そんなことはないはずだと、理性は教えてくれる。一階に警備員もいれば、他《ほか》にも……。
でも。
知美の気分は、誰かの存在を否定する。
このビルには、あたしだけ。
たとえ誰かいたところで同じだ。私のほうを見ることはない。
そして、外を行きすぎる人たちが、こちらを気にかけることもない。
外は暗闇《くらやみ》。誰もいない。いるとしても、見えやしない。
知美の息が、ほんの一瞬《いっしゅん》だけ窓ガラスを曇《くも》らせる。窓枠《まどわく》に手をかけて、軽く引っ張ってみる。もちろん、動くはずがない。知美は、ますますいやな気分になって、今度は思い切り窓枠を引いてみた。体重をかける。
何をやってるんだろう、あたし。
まるで動かない窓枠。
声も、ガラスに遮《さえぎ》られている。
もう、いくら叫《さけ》んでも届かないだろう、あの人には。
届くかもしれなかった時には、あたしはとうとう何も言えなかった。運命がそう定められているのなら、きっとあの人のほうからふりむいてくれる。そう信じて待っていたのに。
結局、あたしには、なんの運命も用意されていないということなのだろう。
知美は、ふっと力をぬいた。ため息。両手で、窓ガラスにそっと触れた。額をこつんと窓にぶつける。
ヘッドライトが、またひとつ行きすぎていった。
「さ、さっさとやっちゃおう」
知美は、ことさらに大きな声を出して、自分を元気づけた。
なんとか立ち直りかけていたのに、何を暗くなっているのだろう。きっと疲《つか》れているからだ。ここしばらく、居残りさせられることが多かったから。友達からも、つきあいが悪いと言われてしまった。
……嘘《うそ》だ。友達なんて、ほとんどいない。休み時間に、おしゃべりするくらい。あたしがいなくても、彼女たちはしっかり遊んでいることだろう。
ううん、駄目《だめ》だ。こんな風に考えてちゃ。
寂《さび》しくなんかない。遊ばないぶん、成績はあがった。昨日のテストは、ほぼ満点。母さんにも、担任にもほめられた。
この調子で、どんどん頑張《がんば》らなくちゃ。もっと成績をあげなくちゃ。もっともっと。そのためには、多少|疲《つか》れるくらいどってことないじゃないの。
「いい大学に受かったら、ゆっくり休んで、じゃんじゃん遊べばいいんだもんね」
友達だって、恋人《こいびと》だって、それからゆっくり探せばいい。きっと見つかる、あたしのことを、いちばん大事に思ってくれる人が。
椅子《いす》に座って、シャープペンシルをとりあげる。プリントに目を落とす。
その時、がらりと扉《とびら》が開いた。
「あ、先生」
知美は、なんとなく嬉《うれ》しくなった。そうだった。どうして忘れていたんだろう。先生だっていたんだ。それに、窓は開かなくても、扉が開くじゃないか。
「先生、もうすぐできます。もうちょっと、待っててください」
知美は、笑みを浮かべて言った。
「昨日の学校のテスト、とっても成績がよかったんですよ。先生のおかげです」
先生は、無言のまま近づいてくる。
「あの……先生?」
先生は笑みを浮かべている。満面の笑みを。
「先生、どうかしたんですか?」
知美の声に、わずかな震《ふる》えがまじった。凍《こお》りついたような笑みを見ていると、背筋を寒気が昇《のぼ》ってくる。
がたん。
知美が体をずらすと、椅子が、思っていたよりはるかに大きな音を立てた。
いつでも立ちあがれる姿勢になった時には、もうプリントの上に影《かげ》が落ちていた。先生が、知美をのぞきこんでいる。
白い大きな手がのびてきて……。
プリントの一|箇所《かしょ》を指さした。
「あ、いけない」
そこの答えが間違《まちが》っていた。単純なケアレス・ミスだ。
知美は、あわててかがみこむと、書き直した。誤りを指摘《してき》した手は、彼女の背中を、はげますようにぽんと叩《たた》き、そっと撫《な》でた。
いとおしげな動き。
何も怯《おび》えることなんてないじゃないか。知美は、そう自分に言い聞かせた。それでも去ってくれない恐怖心《きょうふしん》を、無理やりに押《お》さえつける。
知美は、笑みを作って顔をあげた。
「先生、これで……」
がたん!
今度の音は、さっきよりずいぶん大きかった。椅子《いす》が倒《たお》れてしまったからだ。
口が、裂《さ》けていた。
にんまりと笑った先生の口は、耳のつけ根まで裂けていたのだ。
「!!!!」
悲鳴は、声にならなかった。
知美は、椅子から転げ落ちた。そのまま逃《に》げる。しばらくは手足を両方使って逃げた。立ちあがろうとした瞬間《しゅんかん》に、背中に重いものがぶつけられた。
つぶれてしまう。
耳もとに、はあっと息が吹《ふ》きかけられる。生臭《なまぐさ》い匂《にお》いが、鼻孔《びこう》いっぱいに広がった。
どうなったのか見ようとして首をひねったが、視界に入ってきたのは先生の足もとだけだった。
それは、さっき、知美の机のかたわらに立った位置から、一ミリも動いていない。
知美は、床《ゆか》を這《は》って逃げた。
壁《かべ》にぶつかる。扉《とびら》のあるほうには逃げられなかった。知美は、壁にすがって立ちあがろうとした。だが、彼女の足は自分自身を支えきれなかった。
よろける。
ぴったりと張りついた頬《ほお》に、窓ガラスの冷たい感触《かんしょく》が伝わってくる。
窓は、開かない。
知美の喉《のど》に、柔《やわ》らかくて湿ったものが押《お》しつけられる。
唇だ《くちびる》。
その奥《おく》に、固くて尖《とが》ったものがある。
牙《きば》だ。
知美は、窓枠《まどわく》に手をかけた。体の中に残った力を、全部集めて引っ張る。
窓は開かない。
ここから助けは来てくれない。誰《だれ》もいないのだ。
私はひとり。知美は、そう思った。
牙が、知美の柔らかな喉に喰《く》いこむ。
窓から助けはこない。誰も、あたしなんか必要としてないからだ。いてもいなくても、同じ。
扉《とびら》からも助けは来ない。そこから、来たのは。
「おいしい、よ」
ねっとりとした声が、知美の耳もとで囁《ささや》いた。
おいしい?
あたしが?
あたしの、血が?
「もっと、欲しい」
欲しい? 欲しいの、あたしが? 必要なの、あたしが?
恐怖《きょうふ》を打ち消してわきあがってくる、甘美《かんび》な喜び。
「私もあげるから、おくれ」
なにを? なにをくれるというの? この喜び以上の何を?
「お前が欲しいものを」
あたしが欲しいもの? くれるの? ほんとうに?
知美は、望みを口にした。
そして、知美はひとりではなくなった。
2 守崎《もりさき》摩耶《まや》
「ろくろ首って血を吸うんでしょうか」
摩耶に訊《たず》ねられて、その日 <うさぎの穴> に集っていた面々は、顔を見あわせた。
摩耶の顔は、真剣《しんけん》そのものだ。そもそもが、この少女は、つまらない冗談《じょうだん》を言ったり、人をからかったりなどということは、やれと言われてもできる性格ではない。
だいいち、この内気な少女は、かなた以外の者に自分から話しかけることは、まだめったにない。
今の質問だって、かなたにうながされて、ようやく口にしたのだ。
「あたしは、ろくろ首に知りあいはいないから、はっきり言えないんだけど」
かなたが、そうつけくわえる。
「ないよね、そういうの」
かなたの念|押《お》しに、真っ先に答えたのは教授と呼ばれている中年男――の姿をしたもの――だった。
「少なくとも、キィ坊《ぼう》はそういうことはしませんでしたよ」
もったりとした口調で、そう言う。まん丸いサングラスを大きな鼻の上に乗せ、体形はずんぐりむっくり。彼の学生たちは、モグさんというあだ名をたてまつっている。しかし、誰《だれ》ひとり、それが彼の正体を言い当てているなどとは考えもしないだろう。
まさしく彼は、化けモグラなのだ。
<うさぎの穴> に顔を見せるのは、ずいぶん久しぶりだった。生まれが生まれだから、日差しの強い夏場は、北のほうに旅行に出ることが多い。土屋《つちや》野呂介《のろすけ》教授といえば、考古学会では、それなりの有名人である。発掘《はっくつ》と称して、助成金までもらって旅に出ているのだ。
「キィ坊ってのは誰だい、教授?」
八環が訊《き》いた。
「わたしが昔《むかし》知ってたろくろ首ですよ。文脈からわかりませんか?」
「そりゃ、わかるけどね」
強い光を嫌うモグラ妖怪《ようかい》と、フラッシュを焚《た》くカメラマン。
仲が悪いかと思いきや。
「……で、やっぱり女の子だったのか?」
「当たり前でしょう。男なら、抜《ぬ》け首か飛頭蛮《ひとうばん》ですよ」
「美人なわけだ?」
「そのあたりは、御想像におまかせしましょうか」
けっこう、いいコンビだったりする。
「ちょっと、おじさんたち。もう少し、真剣に考えてあげてよね」
かなたが、ぱんぱんと二人の後頭部をはたいた。
「私も、ろくろ首が血を吸ったっていう話は聞かないわね」
未亜子《みあこ》が、演奏を止めて立ちあがる。ピアノ自身が後をひきついで、自分好みの陽気な曲を演奏しはじめる。
「ろくろ首は、たいていおとなしいわよ」
黒髪《くろかみ》の妖艶《ようえん》な美女は、中年コンビのいるボックスに腰をおろしながら、すばやく二人をつねった。
「ただし、今も話に出た抜け首や飛頭蛮なら、肉を喰らうことはあったわね」
未亜子は、悲鳴を必死の形相《ぎょうそう》で噛《か》み殺している二人を無視して、言葉を続けた。摩耶は、とまどった表情だ。
「あのね、ろくろ首っていうのはつながったままの首が伸《の》びる奴《やつ》。あとの二つは、首が抜けて空を飛びまわるタイプ」
かなたの説明を受けて、摩耶はわかったという風にうなずいた。
「なら、抜け首じゃありません。首はつながってたっていう話です」
「こういう時に、大樹《だいき》のやつがいてくれると、だぁ〜っと、十五分くらいうんちくをかましてくれるんだけどな」
長い足をもてあましぎみに、カウンターのストゥールに座っている青年が、くるくるとグラスをもてあそびながら言った。
「今日は彼、来ないの、流くん?」
かなたの声に、半龍《はんりゅう》人の青年はグラスの中身を一口|含《ふく》んでからうなずいた。
「ああ、しばらく旅行に出るってさ」
「情報だけなら、文《ふみ》ちゃんか霧香に聞いてみるという手もあるけれどね」
未亜子が、古本屋を根城にする妖怪《ようかい》文車妖妃《ふぐるまようひ》と、占《うらな》い師としての顔をもつ雲外鏡《うんがいきょう》の名を口にする。
「その霧香さんのおつきなんですよ。今回は加藤《かとう》じゃなくて、大樹が必要なんだそうで」
「ああ、そうなの? 霧香が旅行に出たのは知ってたけど。それなら文ちゃんに」
「でも、その前に、どうして摩耶ちゃんがそういうことを言いだしたのかを聞いてからにすべきだろうな」
八環《やたまき》に、途中《とちゅう》で台詞《せりふ》を奪《うば》われても、未亜子は特に感想をもらさなかった。黙《だま》って、ぐいっと手にした長いグラスを傾《かたむ》けただけだ。そこには、独特の臭気《しゅうき》をもつ、真っ赤なとろりとした液体がたたえられている。グラスがからっぽになったのを見て、八環は席を立っておかわりを取りにいった。
「ああ、そうか。もう、みんなも聞いた気になっちゃってた」
かなたが、てへへと笑って、摩耶をうながす。摩耶は、固い表情を崩《くず》さずに話しだした。
「見たっていう噂《うわさ》を聞いたんです、塾で」
摩耶が話したのは、よくあるといえば、よくある怪談《かいだん》だった。
彼女が週三回通っている塾で、居残り勉強をしていた生徒が帰りがけに見たというのだ。窓に映った、奇怪《きかい》なシルエットを。
天井《てんじょう》近くでゆらゆらと頭が揺《ゆ》れている。それと胴体《どうたい》をつないでいるのは、一メートルあまりも長く伸《の》びた、細い首。
「それだけなら、見間違《みまちが》いかもしれないし。そうでなくても、悪いことをしてるのじゃなければ別にかまわないんですけど」
異形《いぎょう》のものたちだって、友達になれる。 <うさぎの穴> の常連たちと知りあって、そのことがわかったと、摩耶は考えている。もっとも、まだ、かなたや未亜子の『本当の姿』は見せてもらったことがないけれど。
「他《ほか》にも、このごろいろんな話があるんです。私が聞いたくらいだから、かなり広まってるんじゃないかと思います」
それは、自分には友人が少なくて、噂《うわさ》をささやいてくれる人もないという悲しい自覚が言わせた台詞《せりふ》だった。かなたが、摩耶の手をぎゅっと握《にぎ》りしめて、にっこりと笑う。
摩耶は、小さくうなずくと言葉を続けた。
彼女の通う塾の名は『創明ゼミナール』と言った。この四月から開校した新しい塾だが、評判は上々で、どんどん新しい生徒を受入れている。塾といっても、かなりの規模で、中学二年生から高校三年生まで、二百人あまりの生徒がいる。
その『創明ゼミ』に関して、近頃《ちかごろ》おかしな噂が子供たちのあいだで流れはじめたのだ。
『創明ゼミ』には、化け物が住みついている。あそこに通ってるやつが、次々に祟《たた》り殺されてるらしい。化け物に変えられてる。成績があがったのは、頭の中を作り替《か》えられた証拠《しょうこ》だ。
あんたは大丈夫なの?
摩耶は、クラスメイトにそう囁《ささや》かれたらしいのだ。
そして、それはまるっきり事実無根の噂というわけでもない。
摩耶が知っているだけでも、この三月のあいだに、五人の生徒が死んでいるのだ。
「自殺か事故っていうことになってます、どれも」
交通事故が三人。転落したのが二人。どれも事故か自殺、ということになっている。
それぞれの家庭の事情で、どちらかに決められた。正確な判断はできていない。死んだ生徒は、みんな、最近成績があがって喜んでいたはずで、死ぬ理由などないはずなのだ。
「成績がよけりゃ、悩《なや》むことなんてないだろう、っていうのも短絡《たんらく》的だよな」
流が、バンダナの下に指をもぐりこませて、額を掻《か》いた。
「あくまで、みんな噂。そうでしょう?」
未亜子の言葉に、摩耶はこくりとうなずいた。
「これも噂なんですけど」
摩耶の声は、消えいりそうにか細かった。恥《はず》かしさからではない。怖《こわ》かったのだ。今から、自分が口にしようとしている言葉が。
「事故を見た子がいて。はねられた死体から、血が一滴《いってき》も流れなかったって」
「ふうむ」
八環が、尖《とが》った顎《あご》をひょいとつまんだ。
「調べてみたほうがいいかもしれないわね」
未亜子がそう言ったので、摩耶は複雑な表情になった。馬鹿《ばか》にされたり、いい加減にあしらわれるとは思っていなかった。だけど、できれば、そうしてもらったほうがありがたかった。
なんでもない、思いすごしだと笑われたほうが、どれだけ気が楽だったろう。
「それで、どうやって調べます?」
流が、妙《みょう》なくらい勢いこんで言った。
「少なくとも、流くんが塾に通ってる女子高生のみなさんに聞きこみをするって方法じゃないのは確かだよ」
ひょいと立ちあがったかなたが、流の鼻先をぴんとはじく。
「真面目《まじめ》にやんなさい、真面目に」
「俺《おれ》は真面目だよ。不真面目な想像をしてるのはかなたじゃないか」
流が、かなたの額をこつんと叩くふりをする。
「ま、誰かがもぐりこむのがいちばんだろうな」
八環が割ってはいった。
「はぁい」
かなたの手が、元気良くあがった。
「じゃあ、あたしが摩耶ちゃんに化けて入りこむってのどうかな? 塾って、いっぺん、行ってみたかったんだよね」
「よせよせ、あんなとこ、三日で飽《あ》きるぞ」
人間の母を持つ流は、一応、きちんと小学校から大学までこなしている。予備校も、きっちりとすませた。
「いいよ。飽きるまでに事件を解決すればいいんでしょ」
ちょっぴりむきになっているかなたの上着のすそを、摩耶が引っ張った。
「あ、あの、それはちょっと」
「? 駄目《だめ》かな、摩耶ちゃん」
かなたに言われて、摩耶はうつむいてしまった。
「駄目じゃないけど、……ちょっと困る。勉強、遅《おく》れるし」
かなたが、何か言おうとして、途中《とちゅう》で考え直す。摩耶が、悲しげな顔つきになった。
「ま、かなたじゃあ、まだまだ、摩耶ちゃんに化けるなんて芸当は無理だな」
八環が、ことさら大きな声で言った。
「どうしてよ、八環さん」
かなたも、わざと大仰《おおぎょう》にすねてみせる。
「決ってる。いくら外見をそっくりにしたところで、内面ってのはにじみでるもんだ。十分で、ぼろが出て、摩耶ちゃんに恥《はじ》をかかせることになるだろうな」
「う〜」
きっぱりと断言されて、かなたは反論できない。
「あの、やっぱりいいです。かまいません、私。かなたちゃんがせっかく言ってくれたんだから」
摩耶が、顔を正面にあげた。
「そうもいかないわ。もしも万一のことがあった時、かなたじゃたよりないものね」
未亜子にやんわりと言われて、かなたはぺろりと舌を出した。
「てへっ、そうだね。あたしじゃ、探索はできても護衛や退治はできないや」
「そのくらい、外で誰《だれ》かがサポートすれば?」
「あのな、流。俺《おれ》やお前が、女子高生の通う塾を見張っててみろ。いきなり痴漢扱《ちかんあつか》いされるのがオチだぞ」
「八環さん、そんな経験があるんですか?」
「……流、お前、もう少し年長者に対する口のきき方を覚えろよ」
摩耶の口もとが、ようやく少しほころびた。
「ねえ、マスター。誰か適当なお手伝いはいないかしら?」
未亜子が、カウンターの内側でグラスを磨《みが》いている、かなたの父親に問いかける。
「むぅ? そうですな。塾の生徒がつとまるようなのというと」
考えこんでしまった。
「別に、女子高生になりすまさなくてもいいのでしょうが」
そこで、教授が口をはさんだ。
「そうだ。別に摩耶ちゃんに化けなくても、かなたが小学生部に新入生として入れ……!」
最後まで言い終わらないうちに、流は思い切り足を踏《ふ》まれていた。
「年長者に対する口のきき方を覚えなさい」
かなたのすました台詞《せりふ》に、摩耶が、こんどこそ声を立てて笑う。
「続きを話してよろしいかな?」
教授が、急に大きな声で言った。流とかなたが、ぴたりと動きを止め、摩耶が目をぱちくりさせている。
「誰《だれ》か、心当たりでも?」
平然と答えたのは、未亜子だった。
「確か、加藤くんがバイトを探しておったように思うんですがね。その塾では講師の募集《ぼしゅう》なんかはしとらんですか?」
加藤というのは、 <うさぎの穴> の仲間の一人。藤の木の変化《へんげ》だ。人間としての顔は大学生。学部は違《ちが》うが、教授が在籍《ざいせき》する大学に通っている。
「そうか、霧香さん、旅行中だっけ」
流がぽんと手を叩いた。加藤は、ふだんは雲外鏡の霧香を手伝っている。彼女には占《うらな》い師としての表の顔もあり、そちらの助手もつとめているのだ。しかし、その霧香は、関西の友人――もちろん妖怪《ようかい》――から助けを依頼《いらい》されて、神戸に出かけている。
「それに、霧香さんの手伝いが、お金になると思いますか?」
「……思わないッス」
「というわけで、加藤くんなら暇《ひま》ですよ」
教授の言葉に、マスターがうなずいて賛意をしめす。
「でも、そういうことなら俺《おれ》だって」
流は、まだいささか不服そうだ。
「教授や加藤んとこと、お前のとこじゃ偏差《へんさち》値が違うだろうが」
「たはあ、面目ない」
八環に断言されて、流はわざとらしく頭をかかえこんでしまう。そのやりとりを聞いた時の摩耶の笑いは、屈託《くったく》ないとは、あまり言えなかった。
3 小諸《こもろ》沙菜《さな》
ついてない、と小諸沙菜は思った。
そもそも、この塾に通わなければならないはめになったのが、ケチのつきはじめだ。
確かに、この塾の評判は、大人たちのあいだではいい。ここに通って、成績を驚異《きょうい》的にあげた生徒はけっこう多いからだ。
でもなぁ、と沙菜は親友の鮎子《あゆこ》に聞いた噂を思いだした。
あの塾の地下には悪魔《あくま》と契約《けいやく》できる魔法陣《まほうじん》があるんだって。成績のあがったやつは、みんなそこで悪魔に魂《たましい》を売っちゃったんだってさ。だから、次々に生徒が死んでいるんだよ。
まさか、そんなことがあるはずはない。
あるはずはないが、やっぱり気味が悪かった。
だから、両親から塾通いをすすめられた時も、できるかぎり他の塾にしようとしたのだが、まさかお化けが怖いなんて理由を口にすることもできない。かくして、教室の最後列に座っているというわけだ。
一学期の成績は二年の時よりさがっちゃうし、夏休み明けの実力試験は最低だった。いくら手頃《てごろ》な短大|狙《ねら》いと言っても、これじゃ担任も首をひねる。
それもこれも、恭一《きょういち》のせいだ。一学期のことは、まあいい。楽しい思いをしたから、成績がさがっても埋《う》めあわせがつく。でも、夏休み明けは、そうはいかない。ふられた上に、そのショックで成績まで沈《しず》みこんだなんて、まったく最低だ。
おまけに、苦手の国語の担当講師は、新任の学生アルバイトときた。あの頼りなさそうな兄ちゃんじゃ、成績の回復も望めそうもない。
背だけは高いが、ひょろりとした体形は強い風でも吹《ふ》けば折れ曲りそうだ。後ろで束《たば》ねられた長い髪《かみ》の毛は、手入れなどしていそうにない。あっちこっちに飛びはねている。着ている服も、かけている眼鏡《めがわ》も、おせじにもセンスのいいしろものではなかった。
そのアルバイト講師の名は、加藤《かとう》蔦矢《つたや》と言った。
じっさい、国語の講義は退屈《たいくつ》だった。その次は英語。
今日のカリキュラムは、国語と英語が、それぞれ一時間半ずつ。国語はともかく、英語の講師はネイティヴスピーカーのメリンダ・ウェイトン。アルバイトではなく、専任の講師だ。彼女の講義を受ければ、成績は軽く十番はあがるという噂《うわさ》である。
しかし。
なんのために、こんなことしてるんだろう。そんなことを考えていて、講義が耳に入るはずもなかった。
講義が終わって、ざわざわとまわりのみんなが席を立ちはじめても、沙菜はしばらくのあいだ、ぼうっとしていた。
目の前に置かれたノートは、白いままだ。
「どうしたの、あなた?」
急に声をかけられて、沙菜ははっと顔をあげた。
三つ編みにされた黒い髪《かみ》が揺《ゆ》れている。その髪は、沙菜が自分の赤みがかった髪を恥《はず》かしく思えるほど、つややかで黒く美しかった。
外人さんのほうが、どうして、黒いんだろうなぁ。恭一のやつの新しい彼女も、きれいな黒い髪の毛だったっけ。
「気分でも悪いのかしら?」
のぞきこんでくる、はしぼみ色の瞳《ひとみ》。赤い唇《くちびる》が、キスできそうなくらいの近さに迫《せま》っている。
「あ、ウェイトン先生。大丈夫《だいじょうぶ》です」
沙菜は体を引くと、あわててノートを閉じて鞄《かばん》にしまった。部屋《へや》にはもう誰《だれ》もいない。
「勉強するなら、自習室は十一時まで使えるわよ」
流暢《りゅうちょう》な日本語だった。
「いえ、もうすぐに帰ります」
沙菜は立ちあがって、あわてて一礼した。頬が熱い。
「そう? さようなら」
顔をあげると、きれいな笑顔が飛びこんできた。沙菜は、ますます頬が赤くなるのを感じた。
口の中で、もごもごと返事をすると、そそくさと部屋を出る。
やだなぁ、もう。あたしって、おかしな気があったのかしら。
エレベーターを待ちながら考えこむ。
まさかね。やっぱり、ふられてからちょっと情緒《じょうちょ》不安定なのかもしれない。
沙菜は、ちらりと周囲に視線を走らせた。
しばらく離《はな》れたところで、どこぞのカップルがくっつきあって話をしている。時と場所を考えろってんだ、もうっ。
「ねえ、小諸さん」
「きゃ」
視線と逆の耳もとで囁《ささや》かれて、沙菜は思わず飛びのいた。
囁きかけてきたのは、ショートヘアの地味な娘《むすめ》だった。
「あなた、ウェイトン先生と話していたわね」
その娘は、上目づかいに沙菜を見ながら、まるですりよるように近づいてくる。
「えと、誰《だれ》、あなた?」
沙菜は一歩後ろにさがった。
「知らない? 知らないかしら、あなたとは隣《となり》のクラスなんだけど」
「ああ、ええと、矢代さん……だったっけ?」
下の名前までは思い出せない。
「矢代、知美よ」
「顔色が悪いよ、矢代さん。声も変だし。風邪《かぜ》でもひいてるんじゃない、平気?」
早く来い、エレベーター。早く。たった三階やそこらじゃない。何をしてるのよ。
「大丈夫《だいじょうぶ》よ」
赤黒い舌の先から、言葉がひそやかに滑《すべ》り出てくる。
「私は元気よ。これまでの生涯《しょうがい》で、一度もなかったくらい元気」
ちぃん。
エレベーターの扉《とびら》が開いた。
「あ、来たよ、エレベーター」
沙菜は、笑顔を作ってエレベーターを指差した。さっきのアベックが、こちらにやって来る。
だが、沙菜が『開』のボタンを押《お》すより早く、知美が『閉』のボタンを押してしまった。
「あ」
エレベーターの扉が閉じる。
「一言、忠告してあげる」
低い声。
「ウェイトン先生には近づかないで」
肩《かた》に手をかけて、知美が顔をよせてくる。
首すじに、大きな絆創膏《ばんそうこう》が張ってあるのに、沙菜は気がついた。
「近づくと、どうなるっていうの」
ようし、まだ声は震《ふる》えてないぞ。
「どうなるのかしらね、あなたは」
ちぃん。
エレベーターの扉が開いた。
あわてて、降りようとした沙菜は、どすんと何かにぶつかった。
「うわ」
ファイルケースが、ばさばさと音を立てて床《ゆか》に落ちる。
「ごめんっ。平気っ?」
「いや、ぼくはどうってことないんだけど」
加藤蔦矢は、情けなさそうな顔で、散らばったファイルを見回した。ため息をついて、一つずつかかえこみはじめる。
「あ、手伝う」
沙菜もしゃがみこんだ。
ごーっ、がっ、ごーっ。
閉じかけたエレベーターの扉が、ファイルケースをはさみこんで、また開く。
それをまたいで、矢代知美が外に出る。
「きみ、まだ一階じゃないよ」
知美は、そう言った蔦矢にちらりと視線を走らせると、薄く笑った。
「いいのよ、ここで」
沙菜は、ほっとしてその後ろ姿を見送った。
知美は、エレベーターの外で待っていたらしい数学の講師の辰巳《たつみ》に話しかけている。若いし、顔も悪くないが、すぐに生徒の体に触《ふ》れようとするので、嫌われている。
「なんなんだろ、あいつ」
まさか、私のウェイトンお姉さまを取らないで、とかいうんじゃないでしょうね。あぁ、気持ち悪い。
「はい、センセ」
「うわ、とっとっと」
沙菜は、束《たば》ねたファイルを、どさりと蔦矢が持っていたファイルの上に重ねた。うまく重ならずに崩《くず》れかかるのをあわてて支える。
沙菜の顔を見て、蔦矢がにこっと笑った。
「や、ありがとう。ついでに、エレベーターのボタンを押《お》してもらえると助かるんだけど」
「いいわよ」
エレベーターの扉《とびら》が閉まる直前、沙菜は、知美が辰巳と一緒《いっしょ》に講師の待機室に入っていくところをちらりと見た。
「二階?」
「いいや、一階」
蔦矢の答えに沙菜は、あきれたように言い返した。
「それなら、ボタン、もう押してあるわよ」
「ああ。そうだね」
やれやれ、こんな人に、ほんとうに講師がつとまるのかな。
そう考えているうちに、エレベーターが着いた。一階には自習室があるから、まだ出入りしている人影《ひとかげ》もけっこう多い。
「それじゃ、センセ。さよなら」
「あの、ちょっと」
沙菜は聞こえないふりをしようかと思った。けれど、さっきのぞきこんでしまった眼鏡《めがね》の奥《おく》の優しい目が少しひっかかった。
「できればさ、車までつきあってもらえないかな。これじゃ、ドアが開けられないんだ」
沙菜は、少しのあいだ考えた。確かに、あたしより細そうなこの腕じゃ、しょうがないわね。
こっくりとうなずく。
「ありがたい。それじゃ、ジュースでもおごるよ。上着のポケットに小銭入れが入ってるんだ。そこの自販機で好きなのを買ってくれ。二つ、ね」
そういえば、なんだか、とても喉《のど》が乾《かわ》いていることに沙菜は気がついた。さっきの知美とのやりとりで、そんなに緊張《きんちょう》したのだろうか。
沙菜は、遠慮《えんりょ》なく蔦矢のポケットに手をつっこんだ。小銭入れから、百円玉を三枚とりだす。
「コーヒー? ウーロン茶? それとも他の種類がいい?」
「おいしい雨水」
「そんなもの、自販機にないよ」
冗談《じょうだん》を言ってるんだと思って、沙菜は笑った。
4 忍《しの》びよるもの
「あ〜あ」
やっと終わった。沙菜は、大きく伸《の》びをすると、まわりを見回した。まだ五人ほど、居残ってプリントをこなしている。その中に、矢代知美がいた。
沙菜は、手早く缶《かん》ペンケースを鞄《かばん》にほうりこむと、プリントを教卓で原書を読んでいる美人講師に提出した。
「さよなら、ウェイトン先生」
教室を出る時に明るく挨拶《あいさつ》をすると、彼女はにっこりと笑みを返してくれた。気さくで明るい美人。彼女のことを、沙菜も他の生徒同様すっかり気にいっていた。
扉《とびら》を開けたところで、沙菜はととっとたたらを踏んだ。入ってこようとした辰巳《たつみ》講師とぶつかりそうになったのだ。
「あ、さようなら」
したくはなかったが、こっちにも一応挨拶した。沙菜の気分がやはり伝わったのか、辰巳はそっけなくうなずきを返しただけだった。
沙菜は、辰巳に道を譲《ゆず》ると、彼が矢代知美に近づいていくのを視野のすみにおさめて、部屋《へや》を出た。
足取りは軽い。
待ってくれている相手がいるからだ。
あたしはついてる。沙菜は、そう思った。
この塾に通うようになってから、二週間。週三回、月水金。そのうち、蔦矢に送ってもらうのは、今日で四度目だ。
「ごめん、待った?」
恭一にふられてから、たった一月なのになぁ。とか、ちらりと思わないでもない。けど、単に送ってもらうだけで、それ以上のことはなんにもないし。まだ、塾に来た日以外にあったこともないし。そろそろ、お誘いのひとつもかかるかなと思うんだけど。
「ここまで遅《おそ》くなったんだから、今日は、もうちょっと遅くなってもいいかな?」
「え?」
そんなことを考えている時に蔦矢に言われて、沙菜は顔がかっと熱くなるのを感じた。
「ファミレスで、コーヒーくらい飲んでいこうよ」
う〜ん、どうしよう。ま、手始めとしてはそんなものかな。
「平気、大丈夫だと思う」
おとついの抜《ぬ》き打ちテストの成績、けっこうよかったからね。母さんに言い訳しやすいってものさ。
沙菜は、蔦矢のランドクルーザーに乗りこんだ。最初は似合わない車に乗ってるんだねって驚いたものだ。もう一つのバイトに必要だとか言ってたけど。
「あそこでいいよね。いつもの道の途中《とちゅう》にある」
「うん」
「ところでさ」
ハンドルを握《にぎ》りながら、蔦矢が話しかけた。
「何か、変な噂《うわさ》、聞かないか?」
「まぁだ気にしてんのぉ? あんなのでたらめだよ」
やっぱり頼りないよな、この人。沙菜は、もりあがった気分に、ちょっぴり水をさされたように思った。自分がアルバイトしてる塾におかしな噂があるからって、こうもしつこく気にしてるなんて。
「ないよ、なんにも。いったい、加藤センセってば、何をそんなに気にしてるわけ?」
「う〜ん、強いて言うなら辰巳さんのいやらしい目つきを気にしてるんだけどな」
蔦矢は、ずりさがりそうになった眼鏡《めがね》を押《お》しあげた。
「平気、平気」
沙菜は、きゃははと笑ってみせた。その顔が、何かを思い出してこわばる。
「あ」
前を見たまま、ぽんと蔦矢の腕《うで》を叩《たた》いた。
「どうした」
その瞬間《しゅんかん》に、蔦矢の目に宿った鋭《するど》い光を、沙菜は見なかった。
「ごめん、加藤センセ、引き返して」
「何か思い出したのか?」
蔦矢の声に含《ふく》まれた真剣《しんけん》さにも、沙菜は深い意味を読み取らなかった。
「英語の辞書、忘れちゃった」
「あ、そう」
蔦矢の表情が、間延びする。
Uターンできる場所を探すまでに、けっこうな時間がかかってしまった。『創明ゼミ』に戻ったころには、窓の明かりはほとんど消えていた。
「これじゃ、寄り道は次回にお預けだな」
蔦矢が、腕《うで》時計を見て言った。沙菜は、何かフォローしてやろうかと思ったが、今回はお預けを食わせておくことにする。
「じゃ、ちょっと待っててね。すぐに取ってくるから」
「ついてってあげようか?」
「平気だよ。まだ警備員のおじさんだっているじゃない。それに、加藤センセの細腕じゃ、かえってあたしが守ってあげなくちゃって思っちゃう」
蔦矢が苦笑いする。
「ほんじゃ、すぐだから」
歩き出した沙菜に、蔦矢が後ろから声をかけた。
「なあ、センセってのは、そろそろやめてもらえないかな」
沙菜は、くるりと体ごとふりむいた。
「考えといてあげる」
たたたっと、沙菜はゼミのビルに駆《か》けこんでいった。
玄関《げんかん》の警備員さんに――あんまり頼りにはなりそうにない六十がらみのお爺《じい》さんだ――ぺこりと挨拶《あいさつ》をして、沙菜はエレベーターのボタンを押《お》した。
まだ、自習室には明かりがついている。
エレベーターの扉《とびら》が開いた。
降りてくる者はいない。沙菜は乗りこんで三階のボタンを押した。忘れたところはわかってる。
もう、矢代さんが帰ってるといいなあ。
そう考えているうちに、エレベーターの扉《とびら》が開いた。
三階だ。がらんとしている。どこにも人の気配はない。廊下《ろうか》の明かりは、半分。教室の明かりは、全部消えている。
沙菜は、はじめほっとした気分で廊下を歩いていった。
だが、教室の扉に手をかけるころには、なんとなく嫌《いや》な気分になっていた。認めたくはないけど、怯《おび》えているのだ。
蔦矢が気にしているのは馬鹿《ばか》にしてるけど、いざ、こうして夜中に一人でいると、なんだかマジな気分になってしまう。
扉にかかった手が、三ミリ開けて止まる。
この向こうは真っ暗闇《くらやみ》だ。もしかして、何かいたりして。
ごくりと唾《つば》を飲みこむ。
「何がいるってのよ、馬鹿だなぁ」
いきおいよくがらっと開けると、暗闇から目をそむけながら、手探りで明かりをつける。
かちりと音がして、蛍光灯《けいこうとう》が輝《かがや》きをはなつ。
もちろん、誰《だれ》もいないし、何もいない。
沙菜は、机をざっと見回した。机の上には、何も置かれていない。
沙菜は、前から五列目の机の引き出しをのぞきこんだ。
二つ目に見たのが正解。席順が決ってるわけではないし、講義ごとに教室が変わるから、そうそうはっきり覚えていないのだ。
辞書を取りだす。さあ、早く戻らなくては。
「何をしているのかね」
いきなり声をかけられて、沙菜はびくんと背筋を伸ばした。
「さっき帰ったはずだろう、小諸くん?」
「辰巳センセ……」
沙菜はぺこりと頭をさげた。
「あの、忘れ物をとりにきたんです。すぐに出ていきますから」
辞書をばっと前につきだす。
「ああ、忘れ物をね」
そう言いながら、辰巳が一歩|踏《ふ》みだした。沙菜は、じりりと横に動く。
この教室には、扉は《とびら》一つしかない。
「それはともかくね、小諸くん」
年齢は二十代後半、どちらかといえば整った顔だと言っていい。背も高いし、体つきも筋肉質でたるんだところはない。着ているものだって、きちんとした一流品のスーツだ。センスは、それほどよくもないけれど。
しかし、大きすぎる鼻と、こせこせした目つきのおかげで、鴉《からす》というあまり嬉《うれ》しくはないあだ名で呼ばれていた。
「センセではなくて、先生と、きちんと呼びたまえ」
いきなり大股《おおまた》に近づいてきた辰巳は、がっしと沙菜の肩《かた》をつかんだ。辰巳が生徒たちに嫌われているのは、何かと言えば女生徒の体に触《ふ》れるからだ。
「はい、先生」
沙菜は、ぎゅっと肩をひねって、辰巳の手をふりはらおうとした。
がっちり掴《つか》まれていて、離《はな》れない。
「先生、わたし、待っている人がいるんで、急ぐんですけど」
「加藤くんだね」
両肩を掴まれた。
「離してください」
沙菜は体をねじった。だが、まるでふりほどけない。それほど強く掴まれているようには感じられないのだが、まるで張りついたように離れないのだ。
「心配いらない。ぼくはね、生徒と教師の恋愛《れんあい》には理解があるつもりだからね」
なにが教師だ、このやろ。顔にかかる息が気持ち悪かった。
「けれど、彼はよくないな。あんな未熟な若者に、きみは似合わないよ」
「やめてください」
沙菜は、辞書で辰巳の胸を殴《なぐ》りつけた。どすっというにぷい音がしたけれど、辰巳はまるでこたえたようすを見せなかった。
「金もない。たいしてハンサムでもない。力もない。私とは正反対の男だ。あんなのにひっかかると、いずれ泣くのはきみのほうだよ」
「やめてよっ、このっ」
辰巳の手が、肩《かた》を離《はな》れた。しかし、沙菜に逃げる隙《すき》を与《あた》えてはくれない。右手は沙菜の手首をつかみ、左は沙菜のふとももを掴《つか》んだ。おぞましい感触《かんしょく》に、沙菜は自由な片足で辰巳の股間《こかん》を蹴《け》りあげようとした。
だが、辰巳は自分の脚《あし》をたくみにからませて、それを封じてしまう。
「やだぁっ」
「すぐにすむ。きみも、すぐに喜んでぼくを受け入れるようになるからね」
辰巳のくちびるが、沙菜の首すじめがけておりてくる。それは、生気のない、蒼《あお》ざめたくちびるだった。
「辰巳さんっ!」
がらりと扉が開いたのは、その時だ。
「なにしてるんですっ!」
その声に含《ふく》まれた怒《いか》りの激しさ。それに撃《う》たれて、辰巳の手が、沙菜の体からわずかに離れる。
沙菜は、全力でそれをふりほどくと、蔦矢に向かって走った。ころびそうになりながらたどりついて、沙菜は彼の後ろに隠《かく》れた。
「なにをなさってたんです」
しがみついてくる少女の手に、そっと蔦矢の手が触《ふ》れた。
「きみこそ、何をしているのかね。もうとっくに、きみの勤務時間は終わっているよ」
辰巳は、射殺さんばかりの目つきで、蔦矢を睨《にら》みつけている。
「帰るところです、これから。遅《おそ》くに女の子をひとりで帰すのは心配なので、待ってたんです」
「感心せんな、生徒をひとりだけえこひいきするのは。アルバイトの立場を、きみはわきまえてるのかな」
「ええ、そのつもりですよ」
蔦矢は、沙菜の肩《かた》を一瞬《いっしゅん》だけ抱《だ》くと、
「辞書を拾ってくる」
と囁《ささや》いた。
すっと離れていく蔦矢の背中を、沙菜は見つめていた。
蔦矢がかがんで、沙菜が逃げてくる時に落とした辞書を拾う。そのあいだ、蔦矢の顔はずっと辰巳に向けられていた。
すっと立ちあがって、真正面。
「早く帰りたまえ」
辰巳が、一歩さがって言った。
「ええ、帰ります」
くるりときびすを返した蔦矢がこちらに歩いてくるあいだ、今度は沙菜が辰巳を見ていた。辰巳のほうは、憎悪にぎらぎらと輝く《かがや》目で、蔦矢の背中を見ている。沙菜のことなど、もはや眼中にないようすだった。
「行こう」
蔦矢にうながされて、沙菜は辰巳に背を向けた。今にも襲《おそ》いかかってくるかもしれない、そうも思う。けれど、その時は背中に回されているこの手が守ってくれるだろう。
外に出た時、背後の教室から、大きな音が聞こえてきた。
「やつあたりしてる。明日の講義までに、誰《だれ》が片付けるんだろ」
その言葉の軽さに、沙菜は小さく笑った。
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「うん、平気」
沙菜は、蔦矢の胸に頭をもたせかけた。薄いだろうと思っていた蔦矢の胸は、意外にたくましい感触《かんしょく》がした。
机を蹴飛《けと》ばしてころがすと、大きな音がした。その音が、さらに辰巳をいらだたせる。
「くそっ」
辰巳は、また、別の机をひっくりかえした。
「くそっ」
黒板を殴《なぐ》りつける。ひびが入った。
「このぼくを馬鹿《ばか》にしやがって」
教卓《きょうたく》をひっくり返した。荒《あ》れ狂《くる》っている。表情は歪《ゆが》み、鴉《からす》というよりは醜《みひくい》い禿鷹《はげたか》のようになっていた。
「先生、もう少しお静かに」
低い声が、辰巳を制した。
矢代知美である。いつの間にか、この教室に入ってきていたのだ。
「どこにいた、お前! ここに誰《だれ》も来ないように、見張っているはずだったろう」
辰巳は、知美に近づくと乱暴に突《つ》き飛ばした。知美は無抵抗《むていこう》のまま、派手に転倒する。
「あの男は、いけないのです」
知美は、床《ゆか》に転がったまま、冷静な声でそう言った。
「何がいかんというんだ!」
辰巳は、知美の首を片手で掴《つか》むと、彼女を持ちあげるように立ちあがらせた。
「いかん理由なんかない。ぼくが、そうしろと言っているんだからな」
「あいつに手を出すと色々と厄介《やっかい》なことになるから、きちんと準備してから……」
辰巳が、知美の喉《のど》をつかんでいる手に力をこめた。息ができなくなって、それ以上言葉が出てこない。
「いいか、お前の主人に伝えておけ。ちゃんと契約《けいやく》を果たせとな。ぼくが望んだものは、全部ぼくのものになるんだ」
そして、辰巳は知美の顔に目を止めた。
「お前はもういい、飽《あ》きた」
投げ捨てるように、辰巳は知美を床にほうりだした。
「いいな、主人に念を押《お》しておくんだぞ」
「主人なんかじゃない。あの人はあたしの運命の人だもの」
床にはいつくばったまま、知美はぽつりと口にした。その声は、辰巳には届かなかったようだ。
辰巳は、ワイシャツの白い襟《えり》に覆《おお》われた首すじを、無意識のうちに撫《な》でている。
そして、知美の首すじでも、さきほど辰巳に掴《つか》まれた拍子に、張ってあった絆創膏《ばんそうこう》がはがれていた。絆創膏の下からは、うじゃじゃけた丸い傷口がのぞいている。
その傷口は、まだ血を流し続けていた。
5 探 索
「すいません、ちょっとお話を聞かせていただきたいんですがね」
八環は、数年前にアルバイトしたことがある写真週刊誌の名が入った名刺《めいし》を、監視《かんし》カメラのレンズ前にさしだして、そう言った。聞きこみの時には、この名刺を使うのは、けっこう賭けみたいなところがある。
「どういうお話でしょう」
インターホンごしでも、警戒《けいかい》されていることがはっきりわかるような口調だ。
「お隣《となり》の息子さんが亡くなられた件で少々」
「もう何も話すことはありません。そっとしておいてあげたらどうなの!」
ぷつ。
インターホンが切れた。
右隣にも回ってみたが、こっちでは、もっとひどい扱《あつか》いを受けた。
インターホンがないから扉《とびら》を開けてくれたまではよかったのだが、用件を切り出した後、いきなりバケツの水をかけられそうになったのだ。
もっとも、八環は、その態度に腹を立ててはいなかった。隣人の不幸をあばきたてようとするよそ者を警戒するのは、当然のことだ。おまけに、その写真週刊誌が有名なのは、いっさいの遠慮なしにスキャンダルをあばく、ほとんど悪辣《あくらつ》と言っていいやり口のおかげだった。
そんなわけで、向かいの主婦が喜んで事件のようすを話してくれた時には、八環はけっこう複雑な気分だった。
居間にあげてくれた上に、お茶と茶菓子《ちゃがし》まで出してくれたのだ。
「そうねえ、どこから話せばいいのかしらねぇ」
哀《かな》しげな表情を作ってはいるが、内心ではこの状況を楽しんでいるのが、八環には手にとるようにわかった。読心や観情《かんじょう》の妖術《ようじゅつ》が使えなくとも、そのくらいはわかる。
「亡くなった息子さんは、どういう人だったんです?」
「そうねえ、まあ普通《ふつう》の高校生だったわよ」
それじゃ、なんにもわからないだろうが。八環は、いらだちを押《お》さえて手帳とペンをとりだし、メモをとるふりをした。
「でもね、朝見かけて挨拶《あいさつ》してあげても、ちょっとうなずくくらいでさっさと行っちゃうの。礼儀《れいぎ》知らずっていうより、性格が暗かったのかしらね」
あんたが嫌いだったんじゃないのか? 八環は、手帳にそう書きこんだ。
それから彼女は、死んだ若者のささいな日常生活について、いくつかのことを話してくれた。
基本的に、彼はごくふつうの高校生だった。
特に不良だったわけではない。しかし、ときおり、夜の帰宅途中に近所のゴミ箱《ばこ》を蹴《け》りつけていることがあった。子供と、むきになって喧嘩《けんか》していたこともある。
勉強はきちんとしていたようだが、決して好きなわけではなかった。母親は、かなりしつけにはうるさいほうで、口癖《くちぐせ》は『一流大学に入るまでは』だった。
「やっぱり、あれが重圧だったんじゃないのかしらねぇ」
そうだったのだろうか?
八環は、ここに来る以前に、彼のクラスメイトから話を聞いていた。そのひとりが言った言葉を、八環は思い出していた。
『あいつは、何かにつけ不満の多いやつだったんですよ。もっとああだったらいいのに、自分はほんとならこうなっているはずなのに』
そんな人間は、自殺などしない。むしろ、自分を邪魔《じゃま》する者を排除《はいじょ》しようとするはずだ。
「それで、事故前後のことなんですが、何か変わったことはなかったですかね」
まだ考えるには早い。もう少し、手がかりを集めてからだ。
「あら、自殺なんでしょ?」
声をひそめる。良識という仮面の下で、笑っているのが透《す》けてみえた。
「という見方もありますね」
八環は、嫌悪感《けんおかん》を押《お》さえて言った。
「あら、事故ならあなたみたいな人が取材に来るはずないじゃない」
かすかに勝ち誇《ほこ》った調子で、主婦が言う。八環は、むっとした気分を苦笑でごまかした。
「だいいち、夕方、屋上なんかで何をしてたっていうの」
「それは、まあ、夕日が見たかったとか、いろいろとあるんじゃないですか」
八環の言葉に、主婦がけたけたと笑った。
「やだ。マスコミの人って、おもしろいわね」
や、やめてくれ、その流し目は……。
八環は、背筋をうすら寒いものが走るのを感じた。こんな気分は、どんなおぞましい凶悪《きょうあく》な妖怪《ようかい》と戦った時にも感じたことがない。
「まあ、自殺だったとして」
あるいは、殺されたのだったとして。
「原因は、なんだと思います?」
「それがわからないのよね。お母さん、成績があがったってずいぶん喜んでたところだったし。なんか、女の子ともおつきあいしはじめたって悩《なや》みもあったけど、どっちにしても本人にとっちゃ自殺するようなことじゃないわよね」
その通りだ。
「噂《うわさ》で聞いたんだけどね。何をしても虚《むな》しいだけだって、そんなこと言ってたらしいわ。若いころって、そんな風に思うことはあるものよね」
そういうものなのだろうか。すでに百数十年を生きてきた八環には、若い頃《ころ》の記憶《きおく》は薄《うす》れている。そもそも、妖怪は、はじめから齢《とし》を経た姿と心を持って産まれるものなのだ。
それだけで死ぬのか。八環には、否定することも肯定《こうてい》することもできない。人間という生き物の心の奥深《おくぶか》さは、八環の、いやすべての妖怪にとって永遠の憧《あこが》れと畏怖《いふ》、驚異《きょうい》の対象であることだろう。
なぜなら、そここそが妖怪たちの産まれでた場所なのだから。
わきあがってきた感傷をぐっと押《お》さえて、八環はことさらに事務的な口調で訊《たず》ねた。
「他《ほか》に何か面白い噂でも御存知じゃないですか?」
主婦は、少しむっとしたようだったが、口をつぐみはしなかった。
「校舎の屋上から飛び降りた時、血がほとんど流れ出なかったんですって」
ここもか。八環は、ペンを握《にぎ》った手に力をこめた。これで三件目。五つのうちの三つで、まことしやかにそんな噂が囁《ささや》かれている。
主婦は、さらに声をひそめて続けた。
「覚醒剤《かくせいざい》とか、シンナーでもやってたんじゃないかしらね。それとも、エイズとか。血が変になるんでしょ」
そんな馬鹿《ばか》なことがあるか! 怒鳴りつけたくなるのをぐっとこらえて、八環はそうそうに辞去した。
左|隣《どなり》の住人が外出して行った。じつに好都合。
「間違《まちが》いありませんね」
教授は、表札《ひょうさつ》を確かめた。ここで間違いない。何をいまさら、ではある。ここを訪れるのは二度目。八環が、聞きこみにもやってきている。蔦矢が『創明ゼミ』に入りこんで二週間。これといった事件はない。だが、教授たちは、死んだ生徒たちの周辺を探るうち、確かに何らかの異常なものが、彼らの死の背後にいることを感じとっていた。
「いやあ、まったく、困ったものです」
教授は、小さくため息をついた。
「ヤクザや政治家なんぞの悪党ならともかく、ごくふつうの家庭を探るというのは、どうも気分がよろしくないですなあ」
悪い妖怪《ようかい》に、今現在|憑《つ》かれているというならまだしも、死んでしまったもののプライバシーをあれこれ探るというのは、教授にとって気の進む仕事ではなかった。
しかし、彼女の死が妖怪の仕業なのかどうか、そのことを確かめるには、一歩踏みこんだ調査が必要だった。文字通りに。
「ま、御容赦《ごようしゃ》くださいよ」
教授は、そっとドアのノブを回してみた。
鍵《かぎ》がかかっている。
彼は、素遠く左右を見回した。ずらりと鋼鉄のドアが並んだ、マンションの廊下《ろうか》だ。時刻は夜七時。仕事から帰ってくる者が、いつ通りかかるともしれない時間帯だ。
「忍びこむなら、すばやくしなければなりませんね」
教授は、ぼそぼそと呟《つぶや》いた。言った途端《とたん》に、階段から人影《ひとかげ》があらわれた。
「いや、これがどうも、困ったものですね」
若い、OLらしい女性だった。ぶつぶつ呟いている教授を、気味の悪そうな目つきで見ながら、なるべく離《はな》れるようにすれちがう。
「いや、いけませんね。このぶつぶつ言う癖《くせ》は直さなくては」
今のは、確実に印象に残ってしまっただろうなと思う。この独り言のおかげで、女子学生には人気がない、と教授は自覚していた。さらなる原因は、ファッションセンスが欠しているせいなのだが、そちらはすでにあきらめている。
OLは、ちらちらと教授のほうを見ながら、バッグからとりだした鍵をドアの鍵穴にさしこんでいる。
教授は、会釈《えしゃく》のひとつもしようかと思ったが、かえって気味悪がらせるだけだと考えて、やめておいた。
そのOLは、ひときわ音高くドアを閉めた。
「そこまで嫌わなくても、いいじゃありませんか」
人目は、もうない。
それを確かめると、教授は、するりと壁《かべ》に体をすべりこませた。物体を透過《とうか》する時の、独特な感触《かんしょく》を伝える言葉は、人間の語彙《ごい》にはない。水よりももっと濃い何かの中に沈《しず》んでいくようなものだが、水なら自分の体に染みこんでくるような感覚はあるまい。
モグラ妖怪《ようかい》である教授は、地中を自在に往き来するために、物体を透過する妖力を持っているのだ。
「失礼します」
教授は、部屋《へや》に入ると、帽子《ぼうし》にちょいと手をそえて、頭をさげた。
部屋の中は真っ暗だった。窓には厚いカーテンがおろされている。だが、教授にとって、陽の光が遮《さえぎ》られているのは、かえってありがたいことだった。闇《やみ》を見通す目を持つ彼には、暗さはなんの障害にもならない。
部屋は、きちんと整頓《せいとん》されていた。
「まずは奥《おく》から確かめましょう。子供の部屋というのは、手前にあることも多いですが」
あまり、ぐずぐずしてはいられない。パートに出かけた母親が、急に帰ってくることだってないとは言えないし、やはり『創明ゼミ』に通っている妹だってあと一時間もすれば帰るだろう。
『創明ゼミ』、四人目の死者。ここは、彼女の家だった。
教授は、そっとふすまを透《す》り抜《ぬ》けた。
正解だ。二つの机が並《なら》んでいる。片方の机は乱雑にちらかっており、もう片方はきちんと整理されていた。
教授は、整理されたほうの机に近よった。机の上に置かれた本立てには、中学校の教科書が並んでいる。
「あ、こっちじゃないんですね」
教授は、思わず苦笑をもらしたが、それはすぐに消えてしまった。もう一つの机に近づく。
かたすみには無秩序《むちつじょ》にノートや雑誌がつみあげられ、クリップや消しゴムがころがっている。
おそらくは、最後に出かけた日のままになっているのだろう。『娘の持ち物に触《ふ》れる気には、どうしてもなれない』母親は、近所の主婦にそう言っていた。教授は、それを壁《かべ》に身を隠《かく》して聞いたのだ。
教授は、引き出しを開けた。
さまざまなものが雑然とつめこまれている。キティちゃんがプリントされたバンドエイドと、キャップがきちんとはまっていないリップクリームの下に、小さなハードカバーのノートがある。
「日記、ですな」
教授は、それをもちあげた。ささやかな鍵《かぎ》がかけられている。壊《こわ》すのは、雑作《ぞうさ》もない。だが教授は、それをせず、日記を持ったまま部屋《へや》を出た。隣の居間、仏壇《ぶつだん》の前に戻る。
写真の中で、丸顔の少女が、目を糸のように細めて笑っていた。
「まことにもうしわけありません。見させていただきます」
教授は、彼女に向かって深々と頭をさげると、日記をささげ持つようにして精神を集中した。
教授には、その品が過去にどんな歴史を経てきたのか見通す力がある。彼はモグラだ。土の中に暮《く》らしている。彼の住み家には、さまざまな古い品が埋まっており、教授はそれに接するうちに、品物にこめられた人々の思いを感知するすべを知ったのだ。
だが、教授はめったなことで、その力を使わないことにしている。その気になれば、教授はあらゆるプライバシーを知ることができるのだから、その力をふるうことについて、自分自身に厳しい制限を課しているのだ。
ときとして、知識はそれを知ったものを傷つけることすらあるのだから。
しばらく念じていると、教授の脳裏にはこの日記をつけていた少女の映像が浮かんできた。
しばらくして、教授は苦笑いを浮かべた。日記のかかわった過去を見たところで、それは机に向かって、あるいはどこか別のところで、書きこんでいる少女の姿があらわれるばかりだったのだ。
だが、その苦笑いがしばらくしてすぅっと消えた。日記を書いている少女の、ひとつの仕草が、教授の表情をこわばらせたのだ。
「ほんとに、もうしわけありません。読ませていただきます」
教授は、短い足を折り畳《たた》んで正座すると、仏壇《ぶつだん》の写真に向かって深々と頭をさげた。
日記の鍵《かぎ》は、机のかたわらにおかれていた鞄《かばん》の中に見つかった。
「これは……」
最初のほうに記されているのは、たわいもない女子高校生の日常だった。片思いの相手が、どうしたこうしたというのが目立つ。いくつものおまじないやらを試しているが、どれも長続きしていない。規則正しく、毎日何かを続けるというのが苦手な性格のようだった。
彼女が死ぬ一週間前。そこに、こんな記述があった。
『ほんとうにすべてうまくいくんだろうか。あれだけで、なんでも願いをかなえてくれるって、ほんとうなのだろうか。伝説通りなら、あたしは』
ここで、一行ばかり真っ黒に塗《ぬ》りつぶしてある。
『信じてみよう。怖《こわ》かったけれど、言う通りにすれば、わたしの願いをかなえてくれる』
そこには、彼女が何をしたのかは書かれていなかった。しかし、それを書きながら、彼女がどんな仕草をしていたのかを、教授は見ていた。
彼女は、何度となく首すじを撫《な》でていたのだ。短い指と指のすきまから、ちらりとのぞいたのは、うじゃじゃけた二つの丸い傷跡《きずあと》だった。
教授は、そんな傷跡をつけるものを知っていた。
それからの数日、彼女はおのれの願いがかなえられるようすを日記に記していた。テストの高得点、片思いの先輩《せんぱい》との急接近。
しごく淡々《たんたん》とした記述で。
そこには、願いがかなった喜びはなかった。そして、彼女がふらりと六車線の道路にさまよいでて、トラックに跳《は》ねとばされた前日に、日記は終わっていた。
最後の一ページ前には、こう記されていた。
『わたしは願いをかなえてもらうために、何を渡《わた》したの? 血じゃない。血だけじゃない。あいつは何を吸いとったの?』
そうだ。あれは、吸血鬼《きゅうけつき》が残す傷跡《きずあと》だった。だが、吸血鬼ほど多種多様な妖怪《ようかい》を、教授は知らない。彼女の生命のエキスをすすったのが、どんな吸血鬼であったかによって対処の手段は、まるっきり違ってくる。
そして、最後の一ページには、いっぱいにこう書かれていた。
『どうでもいい』
よくはない。
教授は思った。
6 決 意
もうくよくよ考えこむのはよそう。今日は迎《むか》えに来てくれるだろうか。来たならば、その時に、ちゃんと訊《たず》ねればいい。
沙菜は、自分にそう言い聞かせた。
来なくても、まだふられたと決まったわけじゃない。ううん。そもそも、つきあってたわけじゃないもの。好きだと言ったこともなければ、言われてもいない。
言葉にしてなくとも、あたしはあいつが好きだったんだ。
沙菜は、そのことを自覚した。
たった二週間だったのに。どうして、こんなに好きになっちゃったんだろ。
「どうかしたの?」
沙菜は、はっと顔をあげた。そんなにはっきりとわかるほど、顔に出していただろうか。
その時、ようやく沙菜は、自分が瞳《ひとみ》をうるませていることに、いいや、頬《ほお》まで濡《ぬ》らしていることに気がついた。
「やだな、もう。あたし、目が弱いんですよ。長いあいだ白い紙見てると、目が痛くなっちゃって。あたし、馬鹿《ばか》だから全然埋まらないんですよ」
「それは、ワタシの教え方が悪いということになるのかしらね」
メリンダは、沙菜の顔をのぞきこんだ。
「そ、そんなことないですよ。先生の教え方、とってもうまいって評判だし」
あわてる沙菜の肩《かた》を、メリンダはそっと押《お》さえた。
「もしも悩みがあるのなら、ワタシでよければ聞かせてくれないかしら?」
「あ、あの」
メリンダ・ウェイトンはにっこりと笑った。
「いいのよ。涙《なみだ》を流すなんて、よほどのことだわ。ワタシの役目は、みんなが勉強に集中できるようにすることネ」
メリンダは、わざとらしくおかしなイントネーションで、その言葉を口にした。
「先生……ありがと。でも」
「助けにはなれなくても、話せば楽になれるわよ。その証拠に」
メリンダは、沙菜の口もとをちょんとつついた。
「ほら、ちょっとだけど、笑ってるわよ」
これは……ただの愛想笑い。それでも、笑えば心は少し軽くなった。
「もしかしたら、もっと頼りになる人が、相談に乗ってくれるのかしら?」
沙菜は、答えを迷った。あいつは、来るだろうか。来たとしても、あたしはついていくのだろうか。
「いいわ。その気があるなら、帰りに講師の準備室によってちょうだい。ワタシ、今日は自習室の監督当番なの」
沙菜はこくりとうなずいた。立ち去ろうとしたメリンダは、くるりとふりむいてウインクした。
「あ、心配しなくても大丈夫。ワタシは、ストレート、ゲイでもバイでもないからネ」
沙菜は、くすっと笑った。こんどは、本当に。
それと、ほぼ同時刻。教授はマンションを抜《ぬ》けだし、八環は聞きこみを終えて、それぞれ <うさぎの穴> に向かっていた。
「こんちわ」
二人よりも、一足先にあらわれた人物がいる。挨拶《あいさつ》の声に、力がない。
「来たな、この色男」
一週間ぶりに、 <うさぎの穴> に顔を見せた蔦矢の頭を、いきなり流がかかえこんだ。
「な、なにすんだよ」
「何すんだよじゃない」
ヘッドロックに極《き》めて、頭のてっぺんにぐりぐりと握《にぎ》り拳《こぶし》を押《お》しつける。
「とぼけんなよ、この野郎。『創明ゼミ』の情報源はお前だけじゃないんだ」
流は、白い歯を見せて、にやにやと笑っている。
「やめんか、流」
蔦矢は、彼の腕を押しのけると、 <うさぎの穴> の中を、きょろきょろと見回した。
「摩耶ちゃんは、かなたが送ってった……よっ」
流が、ヘッドロックからスリーパーホールドにうつろうとする一瞬《いっしゅん》の隙《すき》を逃《のが》さず、蔦矢がスープレックスをはなとうと背中に回る。
「いいかげんにしなさい。ほこりがたつわ」
蔦矢が流の腰《こし》を軽々ともちあげたところで、未亜子が静かに言った。流と蔦矢は、一瞬で離《はな》れた。まるで、磁極のSとSのようだ。
ぎごちない動きで、カウンター前のスツールに腰をおろす。
「さっき、教授と八環くんから電話があったよ」
グラスを磨《みが》きながら、マスターが言った。
「あの塾に吸血鬼《きゅうけつき》がひそんでいることは、間違《まちが》いなさそうだ。それも血だけを吸う奴じゃない。気力だか生命力だか、そんなものまで吸い取るたぐいのがね」
「けっ! どこの国から渡《わた》ってきたのか知らないけど、俺《おれ》たちの目と鼻の先で、よくもやってくれるぜ」
「文ちゃんが文献《ぶんけん》を調べてくれてるけれど、まだ、どこの国のどういう吸血鬼かまでは特定できてないみたい」
「どんなやつだろうと、ぶちのめすだけですよ。五人も死なせてるんですからね」
流が、音高くてのひらと拳《こぶし》をうちあわせた。それから、いぶかしそうに蔦矢を見る。
「どうしたんだ? お前、なんかやる気なさそうだな。彼女と喧嘩《けんか》でもしたのか?」
沈《しず》んだ顔の蔦矢は、流をちらりと見ると、気弱そうに笑った。
「おいおい、図星かよ」
蔦矢は、視線を床《ゆか》に落とすと、おおきく息を吐いた。
「昨日、霧香さんと大樹が帰ってきたろ?」
「ああ」
それがどうしたんだと思いながら、流はうなずいた。
「かなりきつかったらしいな。大樹のやつ、今日は一日|眠《ねむ》ってるから、 <うさぎの穴> の仲間に心配しないように言ってくれって電話かけてきた」
蔦矢は、力なくうなずいた。
「霧香さんは、それに輪をかけてる。昨日なんか、歩く力も残ってなかった。俺が車で神戸まで迎《わか》えにいって、寝ぐらまで抱《だ》いて運ばなきゃならなかった」
「あ、ひょっとして、まさか」
「そのまさか」
蔦矢は、情けなさそうに顔を手でおおった。
「見られちゃったの」
「けど、こうやって抱きかかえて運んでたわけだろ? そのくらいで」
「見られたの、シティホテルのロビー」
流は、一呼吸置いて言葉を続けた。
「どうして、お前の彼女もそんなとこにいたんだよ。そこんとこで攻《せ》めればだな」
「彼女のおやじさん、そのホテルのフロントにいんの。霧香さんが、時々使うんだ、そこ」
霧香は、家をもたずに、あちこちのホテルなどを泊まり歩いている。流は、気の毒そうな表情で蔦矢を見た。
「なるほど。じゃあ、最初近づく時に、そこなら知ってるよとか言って話題にしたわけだ」
「おやじさんの顔|訊《たず》ねて、さんざもりあがった」
蔦矢の顔が、どんどん膝のあいだにめりこんでいく。
「よく使うって、こういうことだったわけね、サイテーだとさ」
「気の短い子だなぁ」
流の言葉に、蔦矢はきっと顔をあげて睨《にら》みつけた。
「前の彼氏と別れた状況《じょうきょう》ってのが、別の女とラブホテルから出てくるところにばったり、ってやつなんだ。あの子には、トラウマになってんだよ。いつもならわけも聞かずに、決めつけたりしない娘《こ》なんだ」
ふっと、むきになっている自分に気がついて、蔦矢は言葉を切った。
「わかった。わかった。そういういい子なら、きちんと話せばわかってくれるさ。なんだったら霧香さんを紹介《しょうかい》してやればいいんだよ。そうすりゃ、一発さ」
「ああ」
蔦矢は、力なくうなずいた。
「でもな、流。そうやって、誤解を解いてどうするんだ?」
「どうするって、お前。楽しく男女交際するんだろうが」
「彼女は人間なのよ」
未亜子が、ぽつりと口をはさんだ。
マスターは、黙《だま》って水割りを作り、蔦矢の前に置いた。それに手をのばきずに、蔦矢は言葉を続けた。
「そういうことさ。事件が終われば、どうせさよならだ。なら、これがいいきっかけじゃないか。どうせ、あの子から、これ以上なにか情報が得られるってわけじゃない。あとは吸血鬼《きゅうけつき》の正体をつきとめればいい。もう目星はつけてあるんだ。一カ月分の給料をもらって、ぼくは『創明ゼミ』をやめる。彼女とはお別れ」
蔦矢の手が、グラスにのびる。彼の指が触《ふ》れるより早く、流がそれをかっさらった。
「おい」
力ない抗議《こうぎ》の声にかまわず、流は一息でそれを飲み干した。どんと音を立てて、からになったグラスをカウンターに置く。
「俺のおふくろは人間だ」
流は、蔦矢を睨《にら》んだ。その顔が紅潮しているのは、酒のせいではない。
「…………」
蔦矢は、その目を見つめかえして、ふっと笑った。
「酒はやめとく。飲酒運転で、あいつを迎《むか》えにいくわけにいかないからな」
蔦矢はストゥールから、ひょいとおりた。
「ちょっと行ってくる。吸血鬼《きゅうけつき》がいるようなとこで、あいつ一人にはしておけない」
蔦矢の瞳《ひとみ》には、もう一度力がみなぎっていた。彼は腕《うで》時計にちらりと視線を落とした。今から『創明ゼミ』に向かっても、もう沙菜は帰っているかもしれない。
「加藤くん」
その背後から、未亜子が声をかける。
「それでも、やっぱり私たちは妖怪《ようかい》なのよ」
「……わかってます」
蔦矢の目は、それでもなお、前を見つめていた。
7 イブラリン
沙菜は、重い足取りで講師準備室に向かった。
十五分ほど待ってみたけれど、蔦矢はあらわれなかった。昨日、彼は都合とやらで休んでいる。今日は、彼が担当している講義はない。
でも、先週は迎《むか》えに来てくれた。
あたしは来てほしいのだろうか。ほしくないのだろうか? 未練がましい女にはなりたくない。
終わったのなら、終わったんだ。他に好きな女ができたのなら、しつこくつきまとったりしない。あたしは、いさぎいい女なんだから。
沙菜は、メリンダに相談する気はない。ただ、はっきり自分からそう言ってこない蔦矢への不満を、誰《だれ》かに聞いてもらいたいだけだ。
沙菜は、自分にそう言い聞かせた。
だから泣くまい。怒《おこ》れ、あたし。
でも、怒《いか》りをかきたてればかきたてるほど、どういうわけか目頭が熱くなってくる。
幸いなことに、誰ともすれ違《ちが》わなかった。今日は、どういうわけかみんな早く帰ることにしたようだ。まるで、誰かに帰れと囁《ささや》かれたみたいに。
「失礼します」
講師準備室の扉《とびら》は、ほとんど音を立てずに開いた。まるで、念入りに油でもさしてあるかのようだ。
「いらっしゃい」
メリンダは、にこやかに笑って沙菜を迎えた。
「さあ、入ってちょうだい」
「はい……」
沙菜は躊躇《ちゅうちょ》した。
メリンダ一人ではなかったからだ。準備室には、もう一人、講師がいた。それも、いちばんいてほしくない人物が。
「やあ、小諸くん。このあいだ以来だね。ずっと、私の講義に出てくれないのは、どうしてかな」
辰巳だ。どうして、ここに。ともかく、こんな奴《やつ》がいる前では、泣くどころか愚痴《ぐち》をこぼす気にもなれなかった。沙菜は、メリンダと辰巳を、困惑《こんわく》をあらわにして交互《こうご》に見た。自分の意図は、メリンダには伝わったはずだ。
だが、メリンダは笑っているだけで、なにも言ってくれない。
「ごめんなさい、先生。あたし、今日はやっぱり帰ります。それだけ言いに来たんです」
沙菜は、そう言って頭を深々とさげた。裏切られたような気分だ。歯をぎゅっとくいしばった。
その瞬間《しゅんかん》、いきなり背後から腰ににぶい衝撃《しょうげき》が来た。バランスがとれずに、前につんのめる。床《ゆか》に手をついた。鞄《かばん》がほうりだされて、床を滑《すべ》っていく。その時になって、ようやく蹴《け》られたのだと理解できた。
「帰っちゃだめよ」
声とともに、もう一度蹴りが来た。聞き覚えのある、低いかすれた声だ。
沙菜は、とっさに横にころがった。蹴りは、彼女の脇腹《わきばら》をかすめた。
「逃がさないわ」
淡々《たんたん》とした口調。
「失代?」
さん、なんてつけてやるもんか。
知美が、沙菜にのしかかってくる。彼女は、無表情なままだ。あおむけになった沙菜は、知美の手首をつかむと、腹にむかって思い切り蹴りをくりだした。
知美は、ぐっと唸《うな》ると激しく咳《せ》きこんだ。手首をつかんだまま立ちあがって、渾身《こんしん》の力をこめて、いつのまにか近づいてこようとしていた辰巳めがけてつきとばす。少女の体を受け止めきれずに、辰巳は知美ともども転倒《てんとう》した。
中学時代に体で覚えた喧嘩《けんか》のやり方は、長い高校生活のブランクを経ても、衰《おとろ》えてはいなかった。
「どういうことなのよ!」
沙菜は、悠然《ゆうぜん》と微笑《ほほえ》んでいるメリンダを睨《にら》みつけた。
彼女の足もとに、鞄《かばん》がころがっている。辰巳と知美が起きあがってくる前に、なんとかして隙《すき》を見つけて、あれを取り戻《もど》して逃《に》げなければ。
「そう興奮しないで」
「いきなり蹴飛《けと》ばされりゃあ、誰だって怒《おこ》るわよ」
罠《わな》だ。罠にひっかけられたんだ。沙菜は、そう悟《さと》っていた。メリンダが向けてくる笑顔が、急にぼやける。怒れば怒るほど、涙《なみだ》がわいてきた。信頼《しんらい》していたのに。信用していたのに。あなたもあたしを裏切るんだね。
「ふだんなら、こんなやり方はしないのだけど」
メリンダは言った。
「この人たちの望みをかなえると約束《やくそく》してしまったのよ」
メリンダの顔が、歪《ゆが》んでいる。それは、あふれてくる涙のせいではない。確かに、彼女の顔が歪んでいるのだ。造作は変わらない。位置や大きさが変化しているわけではない。だのに、それは間違《まちが》いなく変化していた。真っ赤なくちびるは、ぬめりを増している。そのあいだに白く輝《かがや》く歯は、ぎざぎざと尖《とが》っている。そして、その瞳《ひとみ》。沙菜を吸いこんでしまいそうなほど深い瞳は、無言のままに沙菜を誘惑《ゆうわく》している。
何を誘《さそ》っているのだろう。
「ワタシが望みをかなえてあげると言ったら、この人たちは、喜んで持っているものをワタシに提供してくれた。あなたも協力してちょうだい。まずは、辰巳さんの望みのために」
「そんなの、あたし知らない」
沙菜は、絶叫《ぜっきょう》して逃《に》げた。鞄《かばん》のことなど、かまっていられない。辰巳や知美のことは、気持ち悪いけれど怖《こわ》くはない。だが、今のメリンダはとてつもなく恐《おそ》ろしかった。
いちばん恐ろしいのは、もうしばらく彼女の瞳《ひとみ》を見ていると、彼女が恐ろしくなくなりそうなことだった。
「待ちたまえ」
廊下《ろうか》に飛びだして、ほんの数歩。
辰巳が目の前にあらわれた。追いついて、後ろから肩《かた》でもつかめばいいのに、わざわざ追い抜《ぬ》いてから立ちはだかったのだ。
「やっ!」
もう、憎《にく》まれ口を叩《たた》いている余裕《よゆう》もなかった。大きく手を開いて掴《つか》みかかってくる辰巳を避《さ》けるには、後ろにさがるしかない。
「逃がさないと言ったでしょ」
冷たい手が、沙菜に巻きついてきた。
知美だ。彼女が、背後から沙菜を抱《だ》きしめている。てのひらが、沙菜の胸を握《にぎ》りしめる。にぶい痛み。
知美の手は、布地ごしでもはっきりとわかるほど冷たかった。
沙菜の動きが、凍《こお》りついたように止まる。
だが、それは一瞬《いっしゅん》だけのことだった。沙菜は、思い切って肘《ひじ》をみぞおちに叩《たた》きこんだ。高校に入学したてのころ、これで痴漢《ちかん》を交番につきだしてやったこともある。
知美には、もちろん耐《た》えられなかった。ゆるんだ腕《うで》をふりはらって、沙菜は逃げる。
辰巳が迫《せま》ってきた。ただ逃げてるだけじゃだめだ。沙菜は考えた。辰巳が近づくのを待って、狙いすまして股間《こかん》を蹴《け》りあげる。
だが、その動きは遅《おそ》すぎた。
「なめるな」
足首を捕《と》らえられた。ぐいっと引っ張られる。頭の中はパニックだ。どうしていいのかわからない。わからないうちに、床《ゆか》にころがされていた。
「てこずらせやがって」
辰巳がのしかかってくる。くちびるが首すじに押しつけられた。胸がまさぐられている。辰巳の脚《あし》が、沙菜の膝《ひざ》と膝を割って入りこもうとしてきた。
「やだ、やだ、やだ。離せ、バカ!」
沙菜はあばれた。すっかり押さえこまれている。いくら喧嘩《けんか》の経験をつんでいても、こうなってしまっては、男の力にはかなわない。
「この!」
喉《のど》を押《お》さえこもうとした手に思い切り噛《か》みついてやる。口の中に、血の味が広がった。まずい。沙菜は、それでもひるまなかった。
だが、小指を噛みちぎる寸前まで力をこめても、辰巳はなんの反応もしめさなかった。
「助けて! 蔦矢!」
赤く染った唾《つば》を、辰巳に吐《は》きかけて、沙菜は叫《さけ》んだ。
「かなえてあげましょうか」
耳もとで囁《ささや》く、その声は甘かった。
「あなたの望みも、かなえてあげるわ」
沙菜は首をひねった。鼻の先にあたりそうな近さに、メリンダのハイヒールがある。すらりとしたきれいな足、豊かな腰《こし》。
どっちも曲っていない。
「この人たちの望みをかなえてあげたように」
それなのに、メリンダは沙菜の耳もとで囁いている。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ」
沙菜は絶叫《ぜっきょう》した。
メリンダの頭は、床《ゆか》に倒《たお》れた沙菜と同じ高さにある。メリンダの胴体《どうたい》はまっすぐに立っている。
そのあいだをつないでいるのは、赤黒い肉の管だ。
首ではない。
ぶよぶよとした細い管が、頭のつけねから伸《の》びている。途中《とちゅう》がぶくりとふくれあがっていた。食道と胃だ。
頭がちぎられて、内臓がずるずるとひきずりだされているのだ。
「いやっ、いやっ、いやっ」
恐怖《きょうふ》が、自分でも思いもよらない力を引き出してくれた。辰巳をつきとばす。無我|夢中《むちゅう》でつきあげた膝が、男の股間《こかん》をつぶした。
だが、辰巳を跳《は》ねのけても、沙菜は立ちあがることができないでいた。腰《こし》が抜《ぬ》けているのだ。
「あなたの望みはなにかしら? みんなと同じにお勉強? それとも、恋《こい》をかなえてもらうこと? 辰己さんのように欲望を満たすこと? 知美のようにお友達?」
「よらないでよ、化け物っ」
沙菜は、ようやく上半身を起こすと、じりじりと後ろにさがった。
「イブラリンさまを、化け物なんて呼ばないで」
その肩《かた》を、知美がしっかりと背後からつかむ。
「ちょっと、あんた正気なの? はなしてよ、はなしてってば!」
もちろん、知美は正気ではない。
「ワタシはイブラリン。かつて、はるかな西の国で姫《ひめ》とも呼ばれたことがある。不死を得て、力《ちから》を得て、永《なが》い年月を人の望みをかなえて生き続けてきたわ」
床《ゆか》すれすれにまでさがっていた首が、すぅともとの高さにまで持ちあがった。首の真下で、大きな胃が揺《ゆ》れている。
「ワタシには、願いをかなえる力がある。その代償《だいしょう》は、あなたの血をほんの数滴《すうてき》だけ」
「ほんとうよ、小諸さん」
知美の息が、沙菜の頬《ほお》をなぶる。
「血を吸われると吸血鬼《きゅうけつき》になるとか、そんなのは嘘《うそ》。吸われた後が、ちょっとだるいだけ。御飯《ごはん》をたくさん食べれば、すぐに治るわよ」
沙菜は、ぶるぶると首をふった。
「願いを言いなさい、小諸さん。すぐにかなうわ」
「それは、どうかな」
ようやくのたうち回るのをやめた辰巳が、憎々《にくにく》しげに言った。
「僕の願いは、まだかなっていないぞ」
辰巳が、沙菜の両腕《りょううで》をつかんだ。
「もっとも、そのひとつは、もうすぐかなうがな」
辰巳の目つきも、すでに尋常《じんじょう》なものではない。
沙菜は、気絶してしまいたかった。体に、まるで力が入らない。知美の手をふりほどく気力がわいてこないのだ。
ゆらゆらと揺《ゆ》れるメリンダの、いや、イブラリンの頭。
ぼろぼろと、涙《なみだ》がこぼれてくる。沙菜は、助けてほしかった。父さんに、母さんに、中学校の時の宇津木《うつき》先生に……。
誰《だれ》も助けてくれない。
「蔦矢、どうして、ここにいてくれないんだよぉ」
沙菜は、声をあげて泣いた。
「いてくれるわ、あなたが望めば」
メリンダの頭が、またおりてきた。
「あなたの血には、あなたの望みが染みついている。望みこそは生きる糧《かて》。ワタシに、それをわけておくれ」
メリンダがささやく。
前からのしかかってきた辰巳は、沙菜の胸もとを押《お》し開こうとしている。沙菜は、泣きながらでも、そうさせまいとしてもみあっていた。
「望みをかなえてあげる」
メリンダの唇《くちびる》が、沙菜の白い首すじに触《ふ》れる。
「だから、ちょうだい」
メリンダの口が、かっと裂《さ》けた。
白い、牙《きば》。
沙菜は無力だ。けれど、あきらめることだけはしたくなかった。望めというなら、あたしは……。
牙が、沙菜の皮膚《ひふ》にもぐりこもうとした、その瞬間《しゅんかん》。
「沙菜っ!」
声が聞こえた。
「ぎゃああっ」
辰巳が悲鳴をあげた。背中がばしっとはじけたのだ。沙菜の体からころがり落ちて、のたうちまわっている。背広が裂けて、血まみれだった。鞭《むち》で、はげしく打たれたのだ。
あいつ、こんなことができるなんて知らなかった。
「沙菜、こっちだっ! 来い!」
蔦矢が叫《さけ》んでいる。ほんの数メートル先で。来てくれたんだ。
沙菜の体に、力が戻った。
「沙菜、起きろっ! 逃げるんだ!」
言われるまでもない。沙菜は、しがみついている知美の鼻にパンチを叩《たた》きこんだ。ゆるんだところをふりほどいて立ちあがる。
「お待ちなさい」
メリンダの声は、まだ優しい。
沙菜は、一歩前に踏《ふ》み出した。
「信じていいのかしらね、彼を」
沙菜の足が止まる。
「彼も化け物なのに?」
沙菜は見た。
蔦矢がふるった鞭《むち》は、彼の手首から直接生えていたのだ。それは、緑色だった。鞭というよりも蔦《つた》だった。彼自身の名前。
沙菜は、どんな表情で蔦矢を見ればいいのだろうと思った。彼やイブラリンが、いったい、何者なのかはわからない。理解できることはただひとつ。正体を隠《かく》していたということ。沙菜を騙《だま》していたということだ。恭一と同じに。
「どうなってるの? ねえ、どういうことなの、蔦矢?」
「彼は妖怪《ようかい》よ。ワタシと同じ。この塾に、妖怪がひそんでいることを知って、それを探るためにあなたに近づいたの。かわいそうにね、沙菜」
イブラリンの声は、ほんとうに沙菜に同情しているように聞こえた。
「ほんとなの、ねえ、ほんとなの、蔦矢!」
沙菜には、まだわからない。自分が、どんな感情を持つべきなのか。怒鳴《どな》ればいいのか? 泣きわめけばいいのか? それとも、いっそ笑い出せばいいのだろうか。
「違《ちが》う。あ、いや。ほんとうだ。ほんとうだっていうのは……」
蔦矢は、言葉を切って、沙菜から目をそらした。
「ほうら、ごらんなさい」
誰《だれ》かが、足首をつかんで言った。
沙菜は、足もとをみおろした。知美だ。とんでもない顔になっている。目のまわりはひどい痣《あざ》になっているし、前歯は一本なくなっていた。鼻から流れ出した血が、顔の下半分を真っ赤に染めている。
「あんただってひとりなのよ。みんなひとりきりなんだわ。誰も、他人《ひと》のことなんか気にかけてないの。イブラリンさまだけ。お願いして、友だちになってくれたわ」
沙菜は、凍《こお》りついたように知美を見つめていた。
「でもね、でもね。ほんとの友だちじゃないの。だから、やっぱりあたしはひとりきりなのよ。だから、どうでもいいの」
知美は、沙菜を見つめていた。すがっているのだ。そのことはわかった。
でも、どうしてやればいいのだ。自分は、友だちだと、そう言ってやればいいのだろうか。
たとえ、嘘《うそ》でも。
「ほんとうに、もうどうでもいいのね」
ずるり。内臓をひきずったイブラリンが、知美の耳もとで囁《ささや》いている。
「だめっ」
そう言った沙菜の声は、囁きにすらならなかった。知美には、届かなかっただろう。そして、知美がうなずく。
イブラリンのくちびるが、知美の首すじに張りついた。
「だめぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
ようやく、沙菜のくちびるは、彼女の思いどおりに動いてくれた。
「おおおお」
蔦矢が駆《か》けてくる。
ぶぅんと空気を裂いて、鞭《むち》がしなる。それは、イブラリンの頭頂を直撃《ちょくげき》した。
「きいっ」
イブラリンが知美から離《はな》れた。イブラリンの口もとと知美の首すじが、細い線で結ばれていた。空中に、すぅっとねばついた赤い橋がかかっている。知美は、まだかろうじて息をしていた。
「日本の妖怪《ようかい》さん」
イブラリンの笑みは、蠱惑《こわく》的だった。
「あなたの望みだって、かなえてあげるわよ」
イブラリンは、沙菜と蔦矢を交互《こうご》に見ている。
「結ばれることもできるのよ」
蔦矢は、無言のまま鞭《むち》をふるった。イブラリンの額が割れる。
「小諸さん、あなたはどうなの」
首の下から内臓をぶらさげた奇怪《きかい》な姿に変化しながら、イブラリンの口調は、メリンダ・ウェイトンを名乗っていたころと変わらない。
「それとも、そんな化け物はやっぱり嫌いかしら」
「あ、あたしは……」
沙菜と、蔦矢と、イブラリン。ちょうど正三角形を描《えが》いている。
無言のまま、蔦矢が鞭をふるった。イブラリンの髪《かみ》が数本、宙に舞《ま》った。
「素直になりなさい、日本の妖怪《ようかい》」
イブラリンの額の傷からは、一滴《いってき》の血も流れない。
「その娘《むすめ》が好きなら望めばいい。すぐに手に入るのよ」
「俺《おれ》は、俺は……」
「ここでワタシを倒してなんになるの?」
蔦矢は、もう一度鞭をふるった。それは、イブラリンの頬《ほお》に当たった。吸血妖怪の頬が、かすかに赤い。
それだけだ。額を割った威力《いりょく》は、もうない。
「あなたの鞭には、もう力がないわよ」
蔦矢の手が、力なくたれさがる。
「さあ、沙菜。あなたは、何を望むの? ほんのひとすすりでいいわ。そうすれば、望みをかなえてあげる」
「やめろ」
蔦矢の腕《うで》がわずかにあがった。
「彼女に手を出すな。彼女は死なせない。彼女の生きる意志は奪わせない!」
蔦矢が鞭《むち》をふるう。
「ワタシは、血をもらうだけ。ほんの少し」
イブラリンの声に、ほんの少しだけ不満の響《ひび》きがまじっていた。
「人間たちは勝手に死にたくなるの、ワタシは望まれたから手助けをしてやるだけなのよ」
どうすればいいんだろう。沙菜は、ぼんやりと考えていた。これは、ほんとうに現実なのだろうか。もしかしたら、悪い夢なのかもしれない。
そうであってくれれば、どんなにいいだろう。でも、悪夢なら、どうして体のあちこちがこんなにずきずきと痛むのか。どうして目が覚めないのだろう。
「さあ、沙菜。返事をなさい。あなたは、どうしたいの?」
どうしたい? あたしは、どうしたいんだろう? どうして欲しがられているんだろう。どうふるまうべきなんだろう。
「沙菜! こいつの声を聞くな。催眠術《さいみんじゅつ》にかけられるぞ。一度望みを口にすれば、呪《のろ》いにかけられるんだ!」
蔦矢のその声も、すでに沙菜の耳には入っていない。沙菜は、ひたすらに考えた。そして、気がついた。
どうするべきか、なんてわからない。でも、あたしには望みがあった。
それを、正直に口にしよう。
「あたしは蔦矢が好きだわ」
「沙菜、ぼくは……」
何か言いかけた蔦矢を、にっこりと笑って近づこうとするイブラリンを、さえぎるように沙菜はきっぱりと言った。
「でも、誰《だれ》かになんとかしてもらおうとは思わない。困難があれば、自分で破る。蔦矢があっちを向いてたら、無理やりにでもこっちをふりむかせる」
そして、沙菜は、イブラリンを正面から睨《にら》みつけた。
「妖怪《ようかい》だろうがなんだろうが、あたしは蔦矢が好きだ。だから、誰にも邪魔《じゃま》させない。何があろうと、あんたの力なんか絶対に借りない」
「あたしの望みは……」
沙菜は大きく息を吸った。
「あんたが消えてなくなることよっ!」
イブラリンが、魂《たましい》の消しとぷような悲鳴をあげた。まさしく、その通り。人の心の隙間《すきま》、誰かにすがる弱い心を糧《かて》とするこの妖怪の弱点は、その誘惑《ゆうわく》を否定されることに他《ほか》ならなかったのた。
「おのれ! 殺してやる!」
メリンダ・ウェイトンの面影《おもかげ》は、完全に消滅《しょうめつ》した。イブラリンの耳がコウモリの羽に変じる。牙《きば》は数センチの長さに伸《の》びて、口からはみ出した。
それだけではない。
メリンダの胴体《どうたい》が、破裂《はれつ》した。
中から肺が、腸が、肝臓《かんぞう》が、うねくりながら飛び出してくる。ばらばらになった手足も、それぞれ動きながら、襲いかかってきた。あるものは、倒れている辰己と知美に向かっている。
「逃《に》げろ、沙菜。この子を連れて!」
沙菜は、言われるままに知美の脇《わき》の下に手をさしこんで、ひきずりはじめた。
「蔦矢は、どうするの?」
片方の手で、辰巳をかかえこみ、もう片方の鞭《むち》でイブラリンの部分を跳《は》ね飛ばしながら、晴れやかな顔で蔦矢は言った。
「お前を守るに決まってるじゃないか」
「一生、守ってくれる?」
蔦矢は、半呼吸だけ、間を置いて言った。
「一生だ」
その時、窓がいっせいに割れた。
開かないはずの窓から、いくつもの影《かげ》が飛びこんでくる。流が、八環が、教授が、未亜子が助けにきてくれたのだ。
水と稲妻が、激しい風が、揺れる大地が、髪《かみ》と鉤爪《かぎづめ》が、イブラリンをずたずたにするのに、ほんの十秒とかからなかった。
家まで車で送ると蔦矢は言い、沙菜はうなずいた。
「あの二人は、記憶をうまく消して、なんとかふだんの生活に戻れるさ」
辰巳が元通りっていうのは、ちょっとやだな。と、沙菜は思った。
「まるっきり、そのままじゃないよ。償《つぐな》いはしなくちゃいけない。変ってもらわなくちゃな」
沙菜の気分を読んだように、蔦矢が言う。
「ところでさ、蔦矢」
沙菜は口調を変えて言った。
「あの、痛いんですけど……」
肩にまわそうとした蔦矢の手の甲を、沙菜はつねりあげている。
「昨日のホテルの女の人について、まだ説明してもらっていなかったよね」
蔦矢は、しどろもどろに霧香について話しはじめた。後で <うさぎの穴> のマスターに相談しなくちゃな、と蔦矢は考えていた。妖怪《ようかい》たちのこと、どこまで彼女に知らせていいのだろう。
そして、沙菜は、さっきの半秒分の間を、どうやって蔦矢につぐなわせてやるかを考えていたのだった。
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妖怪ファイル1
[井神《いかみ》かなた(化け狸)]
人間の姿:一五歳ぐらいの少女。実際の年齢は流より上。
本来の姿:体長一メートルぐらいの野獣。現実のタヌキにはあまり似ていない。
特殊能力:いろいろな人間に変身できる。動物や鳥と会話できる。動物(犬以外)を操れる。驚異的な跳躍力。鋭い嗅覚。
職業:バー<うさぎの穴>のマスターの娘。時々店を手伝っている。
経歴:江戸に古くから棲む化け狸夫婦の間に生まれた。現在は渋谷の神泉《じんせん》町に住む。母はある事情で行方不明。
正体がばれないようにするため、父親が近所とのつき合いを慎重に避けてきたので、摩耶に出会うまでは人間の友達がおらず、友情に飢えていた。明るくて好奇心|旺盛《おうせい》。どんな時でも人間を信じる。
好きな物:アニメ。マンガ。カラオケ。ビデオ・ゲーム。日本酒。
弱点:犬が大嫌い。犬に噛《か》まれると大怪我をする。
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妖怪ファイル2
[八環《やたまき》秀志《ひでし》(鴉天狗《からすてんぐ》)]
人間の姿:四〇歳ぐらいの男。服装はだらしない。
本来の姿:背中に大きな黒い翼が生えており、顔にはくちばしがある。
特殊能力:翼で空を飛ぶ。風を自由に操り、敵を攻撃する。
職業:山岳写真家。そこそこ有名。
経歴:大天狗に率いられたカラス天狗一族の一人で、昔は日本アルプスに棲《す》んでいた。年齢は四〇歳を超える。明治の初期に山から降りてきた時、カメラ(当時はダゲレオタイプ)の魅力にとりつかれ、写真家となる。
皮肉っぽい言動が多いが、実際には人間が好きである。山の自然を愛し、写真を通して自然保護を訴えている。東京に暮らしている今でも、大天狗に忠誠を誓っており、大天狗の命令には逆《さか》らえない。
好きな物:タバコ。美しい女性。カメラ。
弱点:特になし。
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妖怪ファイル3
[水波《みなみ》流《りゅう》(半龍半人)]
人間の姿:二〇歳ぐらいの青年。実際の年齢もほぼ同じ。
本来の姿:金色のウロコに覆われた龍。全長約五メートル。龍としてはまだ赤ん坊であり本物の龍の能力にははるかに劣る。
特殊能力:空を飛ぶ。局地的に天候を操作できる。口から電撃。水流を吐《は》いて敵を吹き飛ばすこともできる。
職業:大学生。ただし、ほとんど出席していない。
経歴:母は中国残留日本人孤児で、龍王に拾われて育てられ、のちにその妻となり流を生み落とした。息子を人間界で育てたいという母親のたっての希望により、二〇年前に日本に帰国。現在は蒲田《かまた》で母親と二人暮らし。
かわいい娘を見ると誘惑せずにはいられない性格。困っている人(特に女性)を見ると放っておけない。弱い者いじめを見過ごせない。お祭り好き。
好きな物:美しい女性。水風呂《みずぶろ》。
弱点:背中にある逆鱗《げきりん》。これに触られると逆上する。またここを突かれると死ぬ。
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妖怪ファイル4
[狩野《かのう》霧香《きりか》(雲外鏡《うんがいきょう》)]
人間の姿:三〇歳ぐらいの美しい女性。
本来の姿:銅でできた直径三〇センチほどの鏡。
特殊能力:隠れているもの、遠くにあるものを感知する。幻影を見破る。遠く離れた場所の風景を映し出す。人間の記憶を探る。限定的な未来予知。鏡を通して人間を別の場所に移動させる。弱い電撃と光線で相手をひるませる。
職業:占い師。原宿で<ミラーメイズ>という店を開いている。
経歴:何百年も使われ続けた銅鏡《どうきょう》に、人間の愛着が染みつき、妖怪となった。人間を愛し、人間を守るために行動している。それ以外の点では謎《なぞ》が多い。
年齢は一〇〇〇歳を超えるが、年のことを言われると機嫌を悪くする。
好きな物:パソコンが趣味。
弱点:攻撃力がほとんどない。
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妖怪ファイル5
[加藤《かとう》蔦矢《つたや》(樹木の精)]
人間の姿:メガネをかけたぼさぼさの長髪の大学生。
本来の姿:藤の木。
特殊能力:手が伸びてムチ状になる。植物を操り、敵を縛り上げる。
職業:大学生。
経歴:ある家の庭に植えられていた藤の木が、老婦人に大事にされているうちに妖怪となった。妖怪としての自我を持つようになったのはつい最近で、最初は自然を破壊する人間たちを憎んでいたが、霧香《きりか》たちと出会って考えをあらためる。
老婦人の好意により戸籍を獲得。人間として暮らしている。
好きな物:きれしな水。きれしな空気。日光浴。
弱点:火に弱い。
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妖怪ファイル6
[うわべり]
人間の姿:なし
本来の姿:銀色の針に覆《おお》われた単眼の怪物。
特殊能力:テレビの中に入りこみ、自由に移動できる。人間をテレビに引きずりこむことも可能。あらゆる電波を感知できる。
職業:なし。
経歴:テレビを愛する人々の想いが集まって誕生した電波妖怪。電波の世界に棲《す》んでいる。口が悪く、軽薄だが、純粋できっぷがいい。
好きな物:ビール。
弱点:磁石に弱い。
妖怪ファイル7
[夢魔《むま》]
人間の姿:超美形の青年(または美女〉
本来の姿:全身真っ黒で、顔のないガーゴイルのような姿。
特殊能力:時速一八〇キロで飛行。影に変身できる。念力。
職業:なし。
経歴:まだ完全な妖怪ではなく、自分自身の意志や知能を持たない。主人(取りついた人間)の潜在意識下の欲望をかなえるために出現する。
好きな物:しばしば主人を誘惑する。
弱点:主人が死ぬと消戚。
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妖怪ファイル8
[船頭鬼《せんどうき》]
人間の姿:幽霊列車の車掌。
本来の姿:いわゆる鬼
特殊能力:『迎え車』を思い通りに動かす。人の心を操る。
職業:幽霊列車の車掌。
経歴:現実から逃げ出したいと願う人々の想いかなえるために出現した。彼らを幽霊列車に閉じこめ、その想いをエネルギーとして生き続ける。
好きな物:なし。
弱点:乗客がいなくなると力を失う。
妖怪ファイル9
[イブラリン]
人間の姿:黒い髪の美しい外人女性。
本来の姿:首が胴体から抜け内臓を引きずって移動する。口が耳まで裂ける。
特殊能力:人間の望みを叶《かな》えることを粂件にその人関を支配する。
職業:塾の英語講師。
経歴:外国からやって来た邪悪な吸血妖怪。塾の講師や生徒を支配し、血を吸っていた。
好きな物:人間の血。
弱点:望みを口にしない人間は支配できない。
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[#地付き]安 田 均
いかがだったでしょう?
こわい話が三つばかり載《の》っていましたね。
いや、こんなことがじっさいに起こるはずがないって? まあ、そう思ってる人は幸せです。でもね、それが事実だとすると、どうして世の中の人は、いまだに吸血鬼の映画なんかを見に行くんでしょうか。電子の流れをコントロールして生まれる、コンピュータ・ゲームなんかに、幽霊《ゆうれい》や狼男《おおかみおとこ》などの出現するホラーが多いのも、不思議なことですね。
いや、そんなありふれたホラー分野の作品だけじゃなくって、じっさいにこわい体験をしたことなんかはありませんか。例えば、人里|離《はな》れたところに旅行にいったとき、仲間とのにぎやかな話も終わり、ふと一人になって、あたりが妙《みょう》にしん[#「しん」に傍点]としていると、なにか感じてはいけないものを感じたような気になったりしませんか。このとき、さきほどまでの仲間との話が怪談《かいだん》だったりしたら、言うことはありません。
そう、超常的《ちょうじょうてき》なものへの恐怖《きょうふ》というのは、われわれが生まれながらに持っている感性です。ふだんの日常生活をしていると、そうした感覚は埋《う》もれてしまっていますが、なにかの拍子《ひょうし》に日常性の枠《わく》がはずれると、それ――超常的なものへの恐怖――が吹《ふ》きだしてくるのです。
で、そうした恐怖をだれもが感じるのなら、その恐怖の対象というのは、実在していてもおかしくないんじゃないでしょうか。俗にいうお化け∞妖怪《ようかい》∞モンスター≠フ類ですね。もちろん、現代ではこうしたものはいないということになっていますが、本当にそうなんでしょうか。
わたしは、現代の怪談といわれる都市伝説――人面犬とか学校の七不思議といったものです――と呼ばれるあやしげなウワサも、それがこれだけ広がるところをみると、少なくともそれを伝えている人間は、心のどこかでそれを信じてるんじゃないかと思いたいですね。
信じるから存在するのか、存在するから信じるのか?
これはなかなか現代でも答えられない問題でしょう。
少なくとも、怖《こわ》いものに限らず、そうしたものへの想《おも》い≠ニいうのは強いものです。人を愛する気持ち、人に裏切られたという気持ち、何かおもしろいものを見たいという気持ちときとして、それらは現実の可能性を超《こ》えて、この世ならざるものを現出させることがあります。とりえのないふつうの人が、狂《くる》ったようになにかに取りつかれて、とんでもない成功を収めたり、異常な事態を引き起こす霊《れい》、じゃなかった例は、枚挙に暇《いとま》がありません。
そう、想い≠ニいうのは、超現実への扉《とびら》なのでしょう。
ですから、想い≠ェ結晶《けっしょう》すると、それまで存在していなかった、あるいは、存在しようかどうか迷っていたものも、存在するようになる――生命がやどるといったようなこともあるかもしれません。まるで、本書での妖怪たちのように――
実は、これから展開されていく <妖魔夜行> シリーズというのは、グループSNEという創作/ゲームデザイナー集団の、そうした不思議なもの、怖いものへの想い≠集めたものです。
題名にシェアード・ワールド≠ニありますが、別に、これはぼくがすべてを立案したり、作者たちがそれぞれ依頼されて書いたものじゃないのです。ある暑い日、ぼくの仕事場に集った、山本弘、下村家惠子、友野詳、高井信、水野良といったメンバーたちの中から、発想は自然と湧《わ》いてきたものです。これをガープス≠ニいうRPGでも遊べるようにしたいというのも、最初から計画されたものではありませんでした。
みんなそれぞれの不思議なもの、怖いもの≠現代に甦《よみがえ》らせたい、それをゲームで遊びたいと想った≠セけです。
その想い≠ェどれだけ結実していくのか、いまぼくは期待と不安の中で、結果を見守っています。
怖いものって、やっぱり見てみたいですよね。
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<初出>
第一話 真夜中の翼 山本 弘
カドカワムック「コンプRPG」Vol.1
一九九一・一一・三〇刊
第二話 幽霊列車 下村家惠子
カドカワムック「コンプRPG」Vol.2
一九九二・三・三一刊
第三話 血の望み 友野 詳
書き下ろし
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底本
角川スニーカー文庫
シェアード・ワールド・ノベルズ
妖魔夜行《ようまやこう》 真夜中《まよなか》の翼《つばさ》
平成五年十月 一 日 初版発行
平成八年三月二十日 七版発行
著者――山本《やまもと》弘《ひろし》/下村《しもむら》家惠子《かえこ》/友野《ともの》詳《しょう》