神は沈黙せず
山本 弘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)創発《エマージェンス》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)「|盲目の時計職人《ブラインド・ウォッチメイカー》」
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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[#ここから5字下げ]
ロボットは死んだらシリコン・ヘヴン(電子の天国)に行くと
信じているクライテン(アンドロイド)と、リスター(人間の技術者)の会話。
[#ここで字下げ終わり]
クライテン「これは真実ですよ。死んでも幸せなところへ行けないのなら、
我々マシンが一生、人間様に仕えるのは一〇〇パーセント無駄な骨折りになってしまう」
リスター 「ああ、そうだな、シリコン・ヘヴン……」
クライテン「悲しまないで、リスター様。私はきっと良いところへ行くんです」
リスター 「そのシリコン・ヘヴンって同じなの、人間の天国と?」
クライテン「人間の天国(笑)? とんでもない! 人間は天国には行きません。
誰かが人間が動揺しないよう嘘をついたのです」
[#地付き]――――TVドラマ『宇宙船レッド・ドワーフ号』より
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目次
[#地付き]プロローグ
[#地付き]01            悪夢の夜
[#地付き]02     目覚めの日を待ちながら
[#地付き]03 「あれは何だったんでしょう?」
[#地付き]04         ウェッブの網目
[#地付き]05  「やれやれ、また眼≠ゥ!」
[#地付き]06      フェッセンデンの宇宙
[#地付き]07              ヨブ
[#地付き]08           神の進化論
[#地付き]09     「君は生きているか?」
[#地付き]10        UFOは進化する
[#地付き]11      神のシミュレーション
[#地付き]12      ハイ・ストレンジネス
[#地付き]13        超心理学者の心理
[#地付き]14          第三の選択肢
[#地付き]15             円崩壊
[#地付き]16        生まれてきた負債
[#地付き]17               罠
[#地付き]18              顕現
[#地付き]19             神の顔
[#地付き]20              失踪
[#地付き]21          サールの悪魔
[#地付き]22         フィードバック
[#地付き]23       届かないメッセージ
[#地付き]24         魂はそこにある
[#地付き]25        カサンドラの呪い
[#地付き]26           私は信じる
[#地付き]参考資料
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プロローグ
二〇一二年、神がついに人類の前にその存在を示した年、私の兄・和久《わく》良輔《りょうすけ》は失踪《しっそう》した。「サールの悪魔」という謎めいた言葉を残して。
現在、兄は世界に大変革をもたらした <アイボリー> の開発者として知られている。しかし、日本にいた頃、彼の業績を正当に評価する人は少なかった。本物の兄と会ったことも話したこともない人々、ネットに流れた情報だけを盲信した人々が、彼の人格についてひどい中傷を流した。加古沢《かこざわ》黎《れい》の理論を剽窃《ひょうせつ》したとか(実際には逆なのだが)、妄想にかられた異常者だとか決めつけられた。兄を擁護した私は、それをさらに上回る攻撃にさらされた。そうした当時の悪評を今も信じている人が少なくない。
だが結局、兄は正しかったのだ。
兄の業績は <アイボリー> だけではない。天文学者を悩ませていた「ウェッブの網目」の謎を最初に解き、この世界が神によって創造されたことを科学的に証明したのは兄だった。そればかりか、あの混乱に満ちた時期、人人が多くの誤った信念に振り回され、愚行に走る中、兄だけが正しく神のメッセージの秘密を見抜いたのだ。地球上に文明が誕生して数千年、世界中の神学者や哲学者や宗教家が思索し、苦悩し、議論を戦わせてきた究極の謎――神の意図と宇宙創世の真理を、兄は解き明かしたのだ。
兄がネット上で唐突に沈黙したことについても、当時、根拠のない風説が流れたものだった。中傷に耐えかねて自殺したのだとか、借金に追われて夜逃げしたのだとか、精神病院に入院させられているとか。
それらはすべて間違いだ。兄は常に正気だった。正気であったからこそ、失踪しなくてはならなかったのだ。正気であるがゆえに、真摯《しんし》であるがゆえに、探り当てた真実の重みに、口をつぐむしかなかったのだ。
それでも私たちは真実を公表する決断を下した。それが世界にさらなる混乱を巻き起こし、多くの人を絶望させることは承知していた。しかし、それが結局、人のためになると信じたのだ。今でもその決断は間違っていなかったと思っている。
あれから一七年が過ぎた。私たちの主張は少しずつではあるが、世界に受け入れられるようになってきている。それでもまだ兄の結論を決して認めようとしない人が多い。彼らは「根拠がない」「妄想にすぎない」とせせら笑う。しかし、自分たちの信念にはどんな根拠があるのか、なぜ妄想でないと言えるのか、示そうとしない。
彼らが認めようとしない理由は分かる。兄の結論はきわめて不快だからだ。彼らが期待するものとあまりにも違いすぎるからだ。
それでも、私は兄の結論が正しいと信じる。なぜなら、既成のあらゆる宗教や神学は、重大な矛盾や欠陥を抱えているからだ。神がこの世界を創造した意図や、人間に対する奇妙な態度について、理屈の通った説明を何もしていないからだ。兄の理論だけが、今この世界で起きているあらゆる事象を、矛盾なく説明できるのだ。
かつて私が親しくしていた超常現象研究家の大和田《おおわだ》省二《しょうじ》氏は、こんな言葉を残している。
「人にとって真理≠ニは、自分が信じたいもののことにすぎない。それが本当に真理かどうかは無関係だ」
だから私は、あなたに信じろと強制するつもりはない。信じたくなければ信じなければいい。読みたくなければ今すぐこの本を伏せればいい。ただ、私は多くの証拠や体験を元に、自分が真実だと確信したことを書き記すだけだ。
なぜなら、真実を伝えることこそ、私の使命だと信じるからだ。
本書はこれまで私がネットや雑誌に断片的に発表してきた文章をまとめ、加筆修正したものである。ポケタミで記録していた会話についてはそのまま書き起こしているが、それ以外の会話や出来事については、当時の日記や記憶に頼って再現している。可能な限り虚飾を排し、私の体験したありのままを記述するつもりではあるが、一部に事実関係の誤りがあるかもしれないことをご了承いただきたい。
今回、編集者からの助言により、時代背景についての解説を大幅に書き加えた。「神の顔」の出現から二〇年が過ぎ、すでに当時のことを記憶していない世代が成人になろうとしているからだ。もの心ついた頃からずっと「顔」に見下ろされてきた若い人たちにとって、あの時代はすでに過去の歴史の一部でしかない。彼らは加古沢黎という人物がどれほど当時の日本人を熱狂させたかを知らない。ビッグ・クラッシュの混乱も、サイレント・レヴォリューションの興奮も知らない。ほんの少し前まで、UFOが異星人の乗り物だと信じられていた時代や、金というものが手で触れる紙であった時代があったなど、想像もできないだろう。そうした若い世代に当時のことを理解してもらうために、二〇代以上の方にとっては常識と思われる解説を、あえて加えることにした。
若い人たちだけではない。歴史学者アンガー・デリブリックの試算によれば、今世紀に入ってからの時代の変化のスピードは、二〇世紀前半の二〇倍にも達しており、人はほんの三〜四年で一〇〇年前の人間の一生分の変化を、一生のうちに数世紀分の変化を体験しているという。自分の人生を振り返ってみて、それは事実だと思う。だから人々の記憶はあっという間に風化する。近年の <アセンド・トゥ・ザ・ブルームーン> 事件は記憶に新しいが、それを上回る犠牲を出した <昴《すばる》の子ら> 事件は、すでに記憶の彼方に消えようとしている。今の日本はビッグ・クラッシュとサイバー・ウォーの荒廃から復興を遂げ、新たな高度成長期を迎えているが、あれらの悲劇をすでに過去のものとして忘れたがっている人も多い。
この際、記憶を新たにするのは良いことだと思う。悲惨な歴史を忘れ去ってしまっては、また誤って同じ道を歩むかもしれないからだ。
最後に、本書を今や絶滅寸前の紙の本として出版した理由について説明しておきたい。これは本を手に取ったあなたに、情報量というものを実感していただきたかったからである。
ここには私の人生のうちの二三年分が凝縮されている。記録や記憶には残っているが、テーマと関係がないので省略したエピソードも多い。すべて書き記したら、本書の数十倍の量になるだろう。それはあなたの人生も同じだ。
よく「人の生命は地球よりも重い」などという。しかし、そんな抽象的な表現では、かえって生命の重みが分からなくなると思う。だから私はこう言いたい。
「あなたの人生は、あなたが今手にしている本の何十倍もの厚みがある」
そう考えれば、少しは生命が愛しく感じられるのではないだろうか?
[#地付き]二〇三三年四月 和久|優歌《ゆうか》
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01+悪夢の夜
もうずいぶん前のことだが、ある記事を書く関係で、予言に関する本を古書店でまとめて買って読んだことがある。霊能者や新興宗教の教祖が自らの宣伝のために書いたもの、オカルト研究家が小銭稼ぎのために書いたもの、無名のライターが適当に他の本の内容をつぎはぎしてでっちあげたもの……著者の職業や経歴は様々だが、何十冊も斜め読みするうち、私はそれらの本に共通点があることに気づいた。ほとんどの本の著者が同じことを主張しているのだ。
「最近、天変地異が増えている」
彼らはここ数年(すなわち、その本が出版される数年前から出版直前までに)、世界各地で起きた地震・火山噴火・洪水・旱魃《かんばつ》などの災害を具体的に列挙する。そして、「地球が狂いはじめているのではないだろうか」「これは地球規模の大災害の前触れではないだろうか」などと書いて読者を脅すのだ。
あきれるのは、どの時代に書かれた本も、同じ調子で同じ主張をしていることだ。一九七〇年代に出版された本も、九〇年代に出版された本も、二一世紀になってから出版された本も、みんな同じことが書いてある――「最近、天変地異が増えている」と。
そんな考えが間違いであることは、過去のデータを調べればすぐに分かる。地震にせよ火山噴火にせよ、多い年と少ない年はあるものの、増加傾向はまったく見られない。地球温暖化などの影響で異常気象が若干増えているものの、昔に比べて激増しているわけではない。にもかかわらず、「最近、天変地異が増えている」と感じている者は少なくない。実際、私は何人かの友人に訊《たず》ねてみたのだが、みんな異口同音に「そう言えば最近、地震が多いね」と答えたのだ。
なぜみんな天災が増えていると思いこむのか? 心理学者の説明によれば、過去に起きたたくさんの災害が時とともに忘れられてゆく一方、最近起きた事件は記憶に強く焼きついているため、昔より今の方が災害が多いという錯覚が生じるのだという。
無論、六〇〇〇人以上が犠牲になった阪神淡路大震災、二万人が犠牲になった南海大震災のような大災害は、かなり長く記憶に残る。しかし、犠牲者数が一〇〇人以下のありふれた地震や台風などの災害は、ほんの少しの間話題になるだけで、何年もしないうちに人々の記憶から消えてしまう。逆説的だが、「最近、天変地異が増えている」と感じることは、毎年起きているたくさんの災害に対して、人々がいかに無関心であるかという証明なのだ。
一例を挙げよう。一九九三年八月、西日本を豪雨が襲った。データによれば、この大規模な気象災害による被害は、死者七六人、行方不明五人、負傷者一五四人、住宅の全半壊八二五戸、床上・床下浸水二万一九八七戸、被害総額七四六億円……。
当時、この災害は新聞やテレビで大きく報じられた。あなたが一九八〇年代以前に生まれた方なら、当然、ご覧になったはずだ。にもかかわらず、おそらくあなたの記憶には残っていないだろう。覚えておられるとしたら不幸にもこの災害に遭遇した方か、あるいはその関係者だろう、この「平成五年八月豪雨」を記憶している人は、どんなに多く見積もっても日本人のうちのせいぜい一〇〇万人、一パーセント以下ではないだろうか。九九パーセント以上の人は、そんな些細《ささい》な車件のことは忘れてしまっているはずだ。
私はその一パーセントの一人である。というのも、「住宅の全半壊八二五戸」のうち一戸は私の家であり、「死者七六人」のうち二人は私の両親だからだ。
当時、私は六歳。九州北部の山間の新興住宅地で、父と母、それに四つ上の兄の四人で暮らしていた。家は駅からだらだら続く坂道を昇りきったところにあった。二階建てで、青い鮮やかなスレートの屋根、白い手すりのあるベランダ、それに小さな庭があった。裏には雑木林に覆われた大きな山があり、私と兄にとって恰好《かっこう》の遊び場だった。
私たちは金持ちというほどではないが、平均よりは裕福な生活をしていたと思う。父はパソコンソフトの会社に勤めており、家でもよくキーボードを叩《たた》いていた。幼い私には父の仕事のことは分からなかったが、パソコンに向かっている父の広い背中が頼もしく感じられたことを覚えている。マウスをクリックするとモニター上の図形が変化し、キーを叩くと文字や数字が現われたり消えたりするのが、魔法のように感じられたものだった。
母は暇さえあれば花の世話を楽しんでいた。一家は四人とも健康で、生活は充実しており、悩みといえば花壇を荒らす野良猫ぐらいのものだった。真夏には、花壇の周囲に並べられた猫よけのペットボトル(後になって、まったく効果がないと分かったのだが)が、太陽の光を浴びてきらめいていたのを思い出す。
兄は幼い頃から頭が良かった。まだ幼稚園に入る前から、ひらがなカタカナの読み書きが完璧《かんぺき》にできていたそうだ。自然科学に対する深い関心は、すでに小学生の頃に芽生えていた。晴れた夜には私を誘ってベランダに立ち、学習雑誌の付録についていた星座早見表を手に、星の名前を得意そうに私に教えてくれた。プレアデス、ヒヤデス、プロキオン、ベラトリックス、ミラ、スピカ、アルビレオ……そんな不思議な響きを持つ星々の名前を、私はごく自然に記憶した。
とは言っても、兄は決してガリ勉タイプではなかった。よくテレビゲームもやっていたし、野球やサッカーも大好きだった。そんな兄の影響か、あるいは父の遺伝なのか、私も知識欲が旺盛《おうせい》で活発な子供に育っていた。
私と兄はお揃いの赤い光線銃を持っていた。テレビの戦隊もののヒーローが持っていたやつで、引き金を引くと電子音が鳴ってランプが点滅するし、変形させると剣にもなる。最初は兄だけが買ってもらったのだが、あまりに自慢されて侮しかったので、私もだだをこねて同じものを買ってもらったのだ。
母は私の将来を心配してか、しきりに人形遊びやままごとを勧めたが、私はそんな「女の子みたいな遊び」を断固として拒絶し、男の子向けのアニメを見たり、男の子に混じって走り回るのを好んだ。ガードレールの上を歩いたり、公園にある階段の手すりを滑り降りたりするのが得意だった。兄といっしょに特撮番組のビデオや怪獣図鑑を見て、怪獣の名前を暗記した。「オレは」とか「〜だぜ」という言葉を遣い、母に注意されることもしょっちゅうだった。心配性の母とは対照的に、父はしごく楽天的で、「子供は元気なんが一番たい。言葉遣いなんて放っとっても直る」と、私のおてんばを大目に見てくれた。
我が家と裏山との間には、鬱蒼《うっそう》とした雑木林に囲まれた古い屋敷があった。持ち主はこのあたりの地主だったそうだが、先祖からの遺産を食い潰《つぶ》す放蕩《ほうとう》生活を続けたあげく、莫大《ばくだい》な借金を抱えて破産し、一家離散したという。私の生まれるずっと前の話だ。それ以来、屋敷は無人のまま何十年も雨ざらしになっており、ひどい荒れようだった。何度か台風を経験して、屋根|瓦《がわら》は半分以上|剥《は》がれ落ちていたし、二階の窓ガラスは割れていた。庭も雑草が伸び放題で、夏にはちょっとしたジャングルになった。当然のことながら、近所の子供たちは「幽霊屋敷」と呼び、恐れていた。
大人たちは禁止していたものの、私と兄はよく垣根を乗り越えて屋敷の中に侵入し、こっそり遊んだものだった。空想癖の強かった私は、どちらかと言えば現実主義者だった兄をリードして、その日の冒険のシチュエーションを詳しく設定した。ある日曜日には、そこは本当に幽霊屋敷であり、私たちはお化けを退治するためにやって来たゴーストバスターズだった。次の日曜日には、同じ場所が世界征服を企《たくら》む悪の組織のアジトになり、私たちはその陰謀を阻止するために侵入したヒーローだった。また別の日には、モンスターのひそむダンジョンになり私たちは魔王を倒しに来た冒険者だった。
私たちは(想像上の)ゾンビや幽霊やモンスターを、剣や光線銃で倒しながら、部屋から部屋へと進んでいった。とてもわくわくしたが、同時にひどく恐ろしい体験でもあった。屋敷の内部の荒廃は外から想像する以上にひどかった。いくつかの部屋では、壁にひびが入って雨水が侵入し、湿った壁紙が壁から浮き上がって、まるで火ぶくれを負った老人の皮膚のように見えた。二階の部屋は特にひどい状態で、窓が割れているため、雨の日の後など、畳を靴で踏むとじゅくじゅくと水が滲《し》み出した。一階のいくつかの部屋は雨戸が閉め切ってあり、昼でも薄暗く、懐中電灯を持っていても足を踏み入れるのに相当の勇気を必要とした。
六歳の子供としては当然のことながら、私はサンタクロースや幽霊をはじめとして、多くの超自然的存在を信じていた。床が少し軋《きし》んだり、野良猫が床下を走り回るごそごそという音を耳にしただけで、びくっとして兄にしがみついた。「そげん怖かったらついて来んかったらよか」という兄の蔑《さげす》みの言葉を、何度聞いただろう。もっとも、そういう兄の声だってひどく震えていた。妹を守りながら進むことで、勇気を奮い起こしていたに違いない。
ある土曜日の午後、例によって屋敷の奥の部屋を探検していた時、私は不意に不安に襲われた。奥の壁の黴《かび》で黒ずんだ壁紙が、どことなく人の顔のように見えることに気がついたのだ。それまで何回もその部屋に出入りしており、まったく気に留めなかったというのに、ひとたび気になると目が離せなくなってしまった。本当にただの汚れにすぎず、かろうじて目や口のように見える部分があるというだけだった。しかし私には、その顔は恨みをこめて私をにらみつけているように見えた。あちこち動いても視線は迫ってくる。恐怖が急速に膨張した。ついに私は泥だらけの畳の上にへたりこみ、泣き出してしまった。
たぶん二〇分ぐらいは泣き続けたと思う。兄がなだめすかして、ようやく私を立ち上がらせ、屋敷の外に連れ出した。しかし、パンツを泥だらけにして泣きながら帰宅したことで、母に問いつめられた。私たちはしかたなく、裏の「幽霊屋敷」で遊んでいたことを自白した。
帰宅した父は、母から話を聞かされた。私たちはこっぴどく叱られることを覚悟していたが、父は少し考えてから、「一日待ち。怒るんは明日んなってから決めるけん」と宣言した。私たちは不安な気持ちで布団にもぐりこみ、朝を待った。
翌日、父は私たちに「幽霊屋敷」の中を案内させ、どの部屋でどんな遊びをしたか、詳しく訊《き》き出した。いかめしい顔つきで探偵のように床を調べ、割れたガラスや錆《さ》びた釘《くぎ》のような危険なもので遊んだ形跡がないか確認した。軋む廊下や、畳が腐っている部屋では、どんどん飛び跳ねて強度を確認した。柱や壁を叩いてみたりもした。どうやら私たちの遊びに危険性はなかったと判断すると、父は私たちを見下ろし、こう言った。
「良輔、お前が危なか場所で妹を遊ばせるごた大馬鹿者だったら、思いっきりぶん殴っとう。それは悪かことたい。ばってん、お前は少なくとも危なか場所とそうでなか場所を見分けることはできたごたる。だけんお父さんは、その点は叱らんといてやる――こら、笑うんじゃなか」
ほっとして表情が緩みかけた兄の頭を、父は笑いながら小突いた。
「ここは人ん土地だ。そこに勝手に入ったんは悪かこったい。その点は反省する必要がある――反省しとうか?」
私たちはこくこくとうなずいた。父は私たちに二度とここで遊ばないことを誓わせたうえ、「一週間おやつ抜き」の罰で勘弁してくれた。
私は安堵《あんど》したが、同時に胸が痛むのを覚えた。私も兄も、自分たちがいけない遊びをしていたことは充分に承知しており、罰せられることを覚悟していた。怒鳴られ、叩かれていたら、さぞすっきりしたことだろう。しかし、父の恩情ある処置のせいで、かえって罪の意識が発散されず、胸にしこりが残ってしまった。自分は悪いことをしてしまったという想い、父や母を心配させてしまったという後悔に、その後もうじうじと苛《さいな》まれ続けた。何十年経った今も、このエピソードを鮮明に思い出せるのはそのせいだ。考えようによっては、叩かれるよりも厳しい罰だったかもしれない。
誤解しないでいただきたい。私がこのエピソードを持ち出したのは、体罰の是非とかいう問題とは無関係だ。ただ、父はどんな人物だったか知っていただきたかったのだ。彼は常にフェアであることを心掛けていた。不正には厳しかったが、子供に必要以上に罰を与えることは決してなかった。時には理不尽に思えることや不可解なこともしたが、後になってみると、常に父が正しかったことが分かるのだ。
無論、父も母も完全無欠な人間ではなかった。子供の私たちにも彼らの欠点はいくつも見えていた。父は風呂《ふろ》上がりに裸でうろつき回り、ぼりぼり股《また》を掻《か》く癖があり、いつも母に嫌がられていた。母は神経質なうえ、少々見栄っぱりなところがあり、参観日のために服を新調したことがあった。だが、少なくとも善人であったことだけは間違いない。二人とも私と兄を愛していたし、私たちも両親が好きだった。
宗派はいちおうカトリックだったはずだが、宗教の話をした記憶はほとんどない。クリスマスを祝う一方、正月に神社に参拝に行ったり、節分に豆を撒《ま》いたり、夏祭りのお神輿《みこし》を見物に行ったりする、かなり節操のない日本的キリスト教徒だったようだ。私にとって神とは、「食事の前にお祈りを捧《ささ》げる相手」という程度の存在でしかなかった。
一度だけ、母と神について話し合ったことがある。『十戒』という映画のビデオをレンタルして見た時のことだ。長くて退屈な映画で、子供にはストーリーはほとんど理解できなかった。ただ、チャールトン・ヘストン演じるモーセが杖《つえ》を振り上げると紅海の水がまっぶたつに割れるスペクタクル・シーンは、強く印象に残った。
「あん人、どうしてあんなことができると?」
私が素朴な疑問をぶつけると、母は平易な言葉で説明してくれた。
「モーセさんはただの人間。神様がモーセさんたちを救うために奇跡を起こしてくださったのよ」
「奇跡って?」
「神様だけが起こせる不思議なこと。人間にはできないこと。それが奇跡」
「どうして神様は奇跡が起こせると?」
「神様は何でもおできになるのよ。全知全能なの」
「ゼンチゼンノウ?」
「何でも知ってて、何でもできるってこと」
「どんなことでも?」
「そう、どんなことでも。神様はそういうお方なのよ」
その後、ユル・ブリンナー演じるエジプト王の軍勢は、モーセの後を追って紅海を渡ろうとして、洪水に飲まれて全滅する。私はまた疑問を抱いた。
「どうしてあん人たち、溺《おぼ》れたと?」
「神様が怒って罰をお与えになったのよ」
「どうして神様は怒ったと?」
「悪いことをしたからよ」
「悪いことって?」
「モーセさんたちをエジプトから出さんように意地悪したでしょ」
「ふーん?」
私は納得いかなかった。そもそも神様はゼンチゼンノウではなかったのか? どんなことでもできるのなら、エジプトの王様の心を変えて、イスラエル人たちにエジプトから去ることを許すこともできたのではないか?
その時の会話はそれっきりだった。もし、当時の私が旧約聖書を読んでいたら、幼い頭はさらに混乱していたことだろう。なぜなら『出エジプト記』第四章第二一節、神がモーセに使命を与えるくだりには、はっきりこう書かれているからだ――「わたし(神)は彼(エジプト王)の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう」と。
その言葉通り、パロ(エジプト王)はモーセの要求を受け入れようとしなかった。神はエジプトにたくさんの災いを起こした。ナイル川の水を血に変え、魚を殺し、水を飲めないようにした。ぶよの群れを発生させ、人や獣を襲わせた。疫病を流行《はや》らせて、エジプト人の家畜をすべて殺し、人の顔にうみの出る腫《は》れ物を作った。雹《ひょう》を降らせて作物を壊滅させた。蝗《いなご》の大群にエジプト全土を襲わせ、草木を食い尽くさせた……。
にもかかわらず、パロはモーセの要求を拒否し続ける。
「しかし、主はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである」(第九章一二節)
「しかし主がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった」(第一〇章二〇節)
「しかし主はパロの心をかたくなにされた。パロは彼らを行かせようとはしなかった」(第一〇章二七節)
そう、パロの心を操り、イスラエル人たちがエジプトを去るのをしつこく妨害していた張本人は、神だったのだ! それなのに、神の意志に逆らったという理由でエジプトに災いを起こしたり、エジプト兵を溺れさせるというのは、まったく筋が通らない話ではないか。パロやエジプト人たちは神の意志に逆らってなどおらず、まさに神の意志通りに行動したのだから。
こうしたことを私が思い悩むようになるのは、何年も後のことである。六歳の時点では、そうした知識はなかったし、深く考えてもいなかった。ただ、当時の私にもすでに「神」という概念に対する疑念が芽生えていたことは確かである。
一九九三年の三月、その春最初の桜がほころびはじめた頃、裏の雑木林がいきなり新しい柵《さく》で囲われ、しゃれたマンションの完成予想図が描かれた看板が立てられた。
我が家の前の狭い道を、たくさんの工事用車両が轟音《ごうおん》を立てて通り過ぎた。雑木林はたちまち伐採され、根まで掘り起こされて、丸裸の黒っぽい土が露出した。作業員たちが「幽霊屋敷」の屋根から瓦を蹴落《けお》とし、パワーショベルが壁を叩き壊し、トラックが瓦礫《がれき》を運び去っていった。思い出深い場所が無残に破壊されてゆくのを、私と兄は複雑な想いで見守っていた。
やがて「幽霊屋敷」があった場所は完全な更地になった。視界を遮っていた雑木林がなくなったため、我が家の台所の窓から裏山が見えるようになった。ブルドーザーが地面を均《なら》し、かーんかーんという大きな音とともに、電柱のような太いパイルが地中に打ちこまれていった。私は看板に描かれた完成予想図を見上げ、どんな人たちがここに引っ越して来るのだろうかと想像した。私と同じぐらいの年の子供はいるだろうか。友達になれるだろうか――素敵な「幽霊屋敷」で遊べなくなった代償として、それぐらいのことはあってしかるべきだと思っていた。
ところが、四月に入り、私が小学校に入学したのと時を同じくして、工事は急にストップしてしまった。作業員はやって来なくなり、騒音も途絶えた。二か月が過ぎ、三か月が過ぎ、看板に書かれた完成予定日になっても、完成予想図に描かれたマンションはその骨組さえも出現しなかった。父が耳にしたところによれば、土地の新しい所有者がフワタリとかいうものを出したのだそうだが、私には何のことだか分からなかった。ただ、素晴らしい遊び場が奪われたうえ、新しい友達もできそうにないと知り、軽い憤りを覚えた。
兄は私ほど落胆していなかった。五年生に進級して、そろそろヒーローごっこなどという幼稚な遊びから卒業したがっていたのだ。「幽霊屋敷」を忘れ、もっと現実的な夢を追うようになったのである。兄が熱中したのは、当時スタートしたばかりのJリーグだった。選手の写真を雑誌から切り抜き、テレビの中継を食い入るように見た。冗談半分で「大きくなったらフリューゲルスに入ろうかな」と言ったこともある。学校でもサッカーでよく遊ぶようになり、私と遊ぶ時間も少なくなった。放課後、校庭で友達とボールを追っている兄の姿を見て、私は置いてけぼりにされたような寂しさを味わっていた。
そんな私の心中を察したわけでもないだろうが、父は素敵な提案をした。夏休みに二泊三日で東京観光に行こうというのだ。東京ディズニーランドもコースに入っていた。もちろん私は大喜びした。出発日は八月一日の日曜日と決まり、私はカレンダーに赤いサインペンで丸印をつけて、その日をわくわくしながら待った。
ところが、直前になって急に父の都合が悪くなった。会社の仕事に大きなトラブルが発生し、このままでは納期までに仕事が完成しないことが判明したのだという。父のミスではなかったのだが、責任者である父は作業の遅れを取り戻すため、休暇を返上して働かなくてはならなくなったのだ。
「すまん。許してくれ」父は私たちに頭を下げて謝った。「旅行は延期。ばってん、必ず連れていく。約束する。嘘はつかん」
父が約束を破る人間ではないと知っていたので、私も兄も納得するしかなかった。新たな出発日は三週間後、八月二二日になった。私は八月一日についていた丸印を消し、新たに丸を描き直した。
八月一日、ぱらぱらと雨が降りはじめた。テレビの天気予報は、西日本に前線が到来したことを告げていた。空は厚い雨雲に覆われ、昼でも薄暗かった。
「延期して良かったじゃないの」母がわざとらしく陽気に言った。「この分だったら、東京だって雨よ。雨ん中でジャングルクルーズとか、乗りたくないでしょ?」
私はそんな幼稚な嘘にひっかからなかった。天気予報によれば、東日本はおおむね晴れで、関東地方の降水確率は二〇パーセント以下だったからだ。しかし私は、「うん、そうだね」と答えて、騙《だま》されたふりをした。母の言葉は悪意からではなく、しょげている私を慰めるためであることを知っていたからだ。そんな母の嘘が、子供心に嬉《うれ》しかった。
この時まで、私はまだ幸せだった。
そして八月二日の夜――
私たち兄妹の部屋は二階にあった。その夜、私たちはいつものように六畳の間に布団を並べて寝た。屋根を打つ大粒の雨の音が騒々しく、なかなか眠れなかったのを覚えている。電気を消した闇の中で、兄とクイズを出し合って遊んだ。
いつ眠りに落ちたのかは覚えていない。突然、轟音とともに揺さぶり起こされた。
畳が荒海を漂うボートのように揺れていた。私は布団から投げ出されて壁に叩きつけられた。壁も激しく振動していた。目を開けても周囲は真っ暗で、耳が痛くなるほどの大音響に満ちていた。貨物列車が間近を通過するようなごおーっというすさまじい騒音、樹が折れるべきべきという音、ガラスが割れる音、壁が崩れる音――様々な音が無秩序に混じり合い、世界の終わりを思わせた。
私のすぐ横で何か大きなものが倒れ、ずんと畳を震わせた。小さなものがばらばらと落ちてきて頭に当たった。私は自分がどこにいるのか分からなかった。まだ夢の中にいるのだと思った。だって、家がこんなに揺れるはずがない。家がこんなに恐ろしいはずがない……。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
私は泣きながら絶叫した。闇の中のどこからか、騒音に混じって、兄の悲鳴がかすかに聞こえたように思えた。
長い時間のように感じられたが、実際にはほんの十数秒の出来事だったはずだ。やがて畳の揺れは止まった。轟音は急に小さくなってぴたりと途絶え、それまでの大音響が幻聴であったかのような静けさが訪れた。後に残ったのは雨の音だけだ。だが、夢ではなかった証拠に、どこからか吹きこんでくる雨粒が頬に当たっている。畳も少し傾いているようだ。
「お父さん……お母さん……」
呼んでみたが、返事はなかった。一片の光も射さない真の闇の中で、私はおそるおそる手を差し伸べた。
肘《ひじ》が何か堅いものにぶつかった。手探りしてみると、四角くて大きな木製の箱だと分かった。私は近所の家の葬儀で見た棺《ひつぎ》を思い出した。こんなものがなぜこんなところにあるのだろう……?
「お父さん……お母さん……お兄ちゃん……」
何が起こったか分からず、私は暗闇の中ですすり泣いた。ここが家であるはずがない、と思った。馴染《なじ》み深い寝室とはまったく雰囲気が違っていたからだ。そうだ、ここは「幽霊屋敷」に違いない。眠っている間に、誰かに誘拐されてきたんだ……。
私は寝惚《ねぼ》けていたうえ、すっかり混乱していて、裏の「幽霊屋敷」がもう存在しないということすら忘れていた。
「優歌……」
かすかに兄の声がした。木の箱の向こう側からだ。「お兄ちゃん……?」私は箱の縁を手探りしながら、傾いた畳の上を赤ん坊のように這《は》っていった。
その時、がやがやという人の声とともに、窓の外が少し明るくなった。近所の家の人たちが懐中電灯を手に駆けつけてきたのだ。室内がぼんやりと照らし出され、私はようやく自分の置かれた状況を把握することができた。
真っ先に目に入ったのは、壁に貼られていたJリーグの選手の写真だった。兄が雑誌から切り取って貼ったものだ。ということは、やはりここは私たちの部屋に違いない。
しかし、何という変わりようだろう。天井はぱっくりと無残に裂け、切れた電線が垂れ下がっている。その向こうには黒い夜空が覗《のぞ》いており、雨が激しく吹きこんでいた。壁にも大きな亀裂《きれつ》がいくつも走っており、ジグソーパズルのようになっていて、ちょっと触っただけでも崩れ落ちそうだった。床は中央が膨張して、畳が持ち上がっていた。本棚から飛び出した本がそこらじゅうに散乱し、机の上にあったはずのスタンドが部屋の反対側まで飛ばされていた。棺のように思えた木の箱は、倒れた衣装ダンスだと分かった。
その向こうに兄が倒れていた。布団をひっかいて弱々しくもがいている。タンスに下半身をはさまれ、身動きできないのだ。
「お兄ちゃん……?」
声をかけてみたが、兄は答えなかった.意識はあるのだが、痛みのために喋《しゃべ》ることもできないらしい。顔を歪《ゆが》め、ぐすぐすと泣いている。どうしていいか分からず、私はうろたえ、頭の中が真っ白になっていた。
「待っとって。下に行って、お父さんたち、呼んでくる」
私はそう言って立ち上がると、散乱するがらくたを踏み越え、出口に向かった。部屋が歪んでしまったためか、襖《ふすま》は中途半端に開いた状態で、釘で打ちつけられたように動かなくなっていた。私はその隙間に体をねじこみ、どうにか廊下に這い出した。
「お父さ……」
階段を降りようとして、私は立ちすくんだ。
一階はなかった――階段の二段目から先は、膨大な量の土と瓦礫で完全に埋もれていたからだ。
そこから先の記憶は混乱している。おそらく強烈な精神的ショックで、一時的に思考が麻痺《まひ》していたのだと思う。救助されるまでどれぐらい時間がかかったのか、どうやって救助されたのかもよく覚えていない。壁の裂け目からまばゆい懐中電灯の光が浴びせられたこと、興奮した大声が飛び交っていたこと、誰かの太い腕に抱き上げられたこと、パジャマを濡《ぬ》らす雨が気持ち悪く感じられたこと――そうした断片的な記憶しか残っていない。
ただ、抱き上げられて救急車に乗せられる直前、その人の肩越しに、変わり果てた我が家の有様を目にした、そのほんの数秒の光景だけは、強く脳裏に焼きついている。
激しく雨が降りしきる中、大量の瓦礫と土砂が土手のように盛り上がって道路をふさいでおり、その上にかろうじて家の形をしたものが載っていた。青い屋根がライトに照らされていなければ、それが自分の家だとは気づかなかっただろう。裏山から流れ出した泥と土の奔流は、両親の眠っていた一階部分を直撃して貫通し、完全に破壊していた。私たちのいた二階部分だけが、土砂の上に載った格好になり、奇跡的に形を保ったまま、十数メートルも押し流されて道路まで運ばれていたのだ。土砂は両隣の家の一部もえぐり取り、向かいの家も破壊して、そこでようやく勢いを失ったようだ。
その決定的光景を目にしてもなお、幼い私の脳は、事実を理解することを拒否していた――父と母はもうこの世にいないということを。
その翌日だったか、あるいは何日か後だったかは判然としないが、落ち着きを取り戻した私は、別の病室に収容されている兄に面会することを許された。全治二か月の兄に対し、私はちょっとかすり傷を負った程度で、歩き回るのに何の支障もなかったのだ。
「やあ……」
兄はベッドに横たわり、弱々しい笑顔で私を迎えた。右足にギプスがはめられ、包帯でぐるぐる巻きにされていた。その痛々しい光景は、私の小さな胸を締めつけた。
「ひどかあ。こら当分、サッカー、できんごた」
そう言って兄は笑った。感情のこもっていない空虚な笑いだった。両親が死んだというのになぜ笑うのか、不謹慎だと思う人もいるかもしれない。しかし、私には理解できた。
私たちは素敵な家を失い、愛すべき両親を失った。幸福な家庭から一転して、不幸と悲しみのどん底に突き落とされた。まだ世間知らずの小学生でありながら、いきなりこんな苛酷《かこく》な運命を押しつけられて、いったいどんな反応を示せばいいのか? どんなに泣き叫んでも、この悲劇を表現するには不足だ。
あまりにもショックが大きすぎて、私たちはまともに泣くことさえできなかったのだ。
「お前はいいのか……?」
私は無言でうなずいた。ぶつけた背中がまだ少しずきずきするが、こんなのは痛みのうちに入らない。心の傷に比べれば……。
「優歌ちゃんは運が良かったんだよ。あれだけの惨事でほとんど無傷だったんだからね」
私に付き添っていた若い医師がしきりに感心していた。
「まったく奇跡だね」
奇跡。
その何気ない言葉は、私の幼い胸に激しい違和感と拒否反応を呼び起こした。いったいどこが奇跡なのだろう? 何も悪いことをしていなかった父と母が死んだこと、兄が大怪我をしたこと、私たち兄妹が孤児になったこと――それがなぜ「奇跡」と呼ばれるのだろう? こんなことがすべて神の意志だと言うのだろうか?
「ねえ、どうして……?」
私は兄のベッドに寄りかかり、ささやき声で訊ねた。
「どうして神様はこんなひどいことをすっと……? 父さんや母さんは、神様から罰を受けるようなこと、何かしたと……?」
兄は急に表情を曇らせ、私から視線をそらせた。そして病室の白い天井を見上げ、吐き捨てるようにつぶやいた。
「神様なんておらん――おらせんとよ」
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02+目覚めの日を持ちながら
葬儀の後、私と兄は引き離され、別々の家に引き取られた。私は横浜にある母方の伯父の家に、兄は大阪にある父の知り合いの家に。無論、二人いっしょが理想だったが、どちらの家も二人の子供を養えるほどの経済的余裕がなかったのだ。
まったく会えなくなったわけではない。手紙でしょっちゅう近況を報告し合えたし、よく電話もした。一年に一度か二度はどちらかが新幹線で相手の家に遊びに行った。しかし、仲が良かった兄ともういっしょに暮らせないという現実は、両親を失った悲しみに加えて、私の心をいっそう暗く曇らせた。
伯父夫婦は私に親切だった。私の心を開き、少しでも笑顔を取り戻させようと、休日にはよく遊園地やイベントに連れて行ってくれた。親を失った子供の心のケアについて、児童心理学の本を読んだり、カウンセラーに相談したりして、いろいろ勉強もしていたようだ。だが、理論と実践は違う。人の心はパソコンのプログラムのように、バグをちょっと修正すれば治るというものではない。いくら心理学の理論を勉強したところで、深い傷を負った子供の心が、ドラマのように簡単に癒《いや》されるはずがないのだ。
実際、私はそれから何年も心的後遺症に苦しめられた。伯父夫婦に心を開かず、過剰なまでに行儀正しくよそよそしい態度で接し、めったに笑顔を見せなかった。雨の音に異常におびえ、雷が鳴ると耳を押さえて部屋の隅にうずくまった。雨の降る夜はなかなか眠れず、午前二時頃まで布団の中で悶々《もんもん》としていたこともよくあった。
夢もよく見た。悪夢の中で、私はあの夜の出来事をリアルに再体験し、そのたびに泣きながら飛び起きた。
だが、悪夢は覚めればそこで終わりだ。むしろつらかったのは幸福な夢だ。父や母が実は生きていて、私を迎えに来てくれるのだ。二人とも元気な姿で、どこかに旅行に出かけていて難を逃れたとか、長く病院に入院していたのだとか説明する。もちろん家も元通りになっている。私たちはまた家族四人で幸福に暮らせるのだ……。
夢から覚めると、私はとっくに両親の葬儀を済ませていたことを黒い出し(夢を見ている間はなぜか忘れているのだ)、枕に顔を埋めてすすり泣いた。こんな意地悪な夢を見せるのはいったい誰だろう? 神様だろうか? 私をこんな目に遭わせておいて、まだいじめ足りないとでも言うのだろうか?
これが人災であったなら、責任者を憎み、怒りの言葉をぶちまけることで、生命の炎を燃え上がらせることもできただろう。だが、私には憎しみをぶつけるべき相手さえいなかった。当初、マンション建設のために裏山の雑木林を伐採したのが土砂崩れの原因ではないかと思われたのだが、検証の結果、業者には落度がなかったことが判明したのだ。大雨による斜面の崩壊が生じた箇所は、建設現場よりずっと上の地点で、伐採とは直接の関係はなかったのである。あの災害は誰のせいでもなく、誰にも予期できなかったのだ。
すべては不運な偶然の積み重ねが生んだ悲劇だった。もし裏山の雑木林が伐採されなければ、土砂の流れる勢いは大幅に削《そ》がれ、私たちの家が受けた被害はずっと小さかっただろう。もしマンションが予定通り完成していたら、やはり土砂はそこで食い止められていただろう。もし父の仕事にトラブルが発生しなかったら、私たちはあの日、東京のホテルに泊まっていて、誰も死なずに済んだだろう……。
責任があるとしたら、ただ一人、すべてを見通していたはずの神だけだ。だが、怒りをぶつける対象としては、神はあまりにも遠すぎた。
不条理、という概念を、私は小学生にしてすでに理解していた。この世界はドラマやマンガとは違うのだ。ストーリーが理想的に進行することなどめったにない。善人が報われ、悪人が懲らしめられるとはかぎらないのだ。どんなに善人であっても、何の落度もなくても、突然、何の伏線も必然性もなく、殺されてしまうことがあるのだ。
こんなことが許されるのだろうか? 世界がこんなでたらめであっていいのだろうか? よく人が言うように、この世界で起きる出来事のすべてが神の書いたシナリオ通りだとしたら、神というのはよほどボンクラなシナリオライターに違いない。
私は現実から目をそむけ、マンガやアニメに没頭した。一見して荒唐無稽《こうとうむけい》に見える世界であっても、現実よりはずっと筋が通っていた。たまに善人が殺されることがあっても、それはストーリー上の必然であり、その死には必ず何か意味があった。意味のない悲劇などない。主人公や正しい人々は最後にハッピーエンドを迎え、善人を苦しめた悪人は報いを受ける――これこそ世界の正しいあり方ではないのか?
新しい学校でも、私はクラスに溶けこめず、いつも教室の隅で孤立していた。無口でぼうっとしている変な奴と思われたに違いない。睡眠不足のため、よく教室で居眠りをして、みんなの笑いものになった。たまに口を開く時には、できるかぎり正確な標準語を使うよう心掛けたが、それでもうっかり九州弁が出てしまい、また笑われた。私の口数はますます少なくなった。
休み時間には図書館から借りてきた本に読みふけり、誰とも話をしなかった。いや、誰とも話したくなかったから本に逃避していたのかもしれない。お話に没頭している間は、つらい現実に向き合わずにいられたからだ。素敵な物語がたくさんあったが、特にお気に入りは、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』だった。
そうしたお話の影響もあるかもしれないが、いつしか私は、ある妄想に取り憑《つ》かれるようになった。今、目にしているこの世界の方が夢で、夢の世界の方が現実ではないかという妄想だ。私は自分の家で長い悪夢を見ているだけで、いつか目が覚めるのではないだろうか。目が覚めればいつもの平凡な朝が待っているのではないだろうか。家は元のままで、隣の布団には兄が寝ている。母は階下のダイニングキッチンでトーストを焼いて待っている。父はコーヒーを飲みながら朝刊を読んでいる……。
私は心の中でその日を「目覚めの日」と呼び、ひそかに待ち望むようになった。最初は一九九四年の八月三日だと思った。その朝がちょうどあの日から一年目だったからだ。だが、八月三日の朝、私はやはり伯父夫婦の家で目を覚ました。次は八月三〇日、私の八歳の誕生日だと思った。もちろん、その日も何も変わりはしなかった。私は懲りもせず、何度も何度も「目覚めの日」を勝手に設定しては待ち望んだ。無論、そんな幼稚な妄想が現実になるはずはなく、私の期待は裏切られ続けた。
一九九五年一月一七日。テレビは朝から悲惨な光景を映し出していた。大きなビルが倒壊し、街が炎上していた。
私はすぐに大阪にいる兄に電話をかけ、安否を確認しようとした。電話はなかなかつながらず、ようやく連絡が取れたのは午後だった。彼の住んでいる地域では何時間も停電していたという。水道管が破損して水が吹き出したり、棚が倒れたりはしたが、幸い、兄にも同居している人たちにも怪我はなかった。
ひとまず安堵《あんど》したものの、テレビに映し出された惨状や、刻々と増えてゆく死傷者数を見て、私は自分の体験を重ね合わせ、心を痛めた。なぜこんなことが起きるのだろう? 神はなぜ、地震や大雨などの悲劇が起きないようにこの地球を創らなかったのだろう? それとも、亡くなった人たちは天罰を受けるような悪いことをしたというのだろうか?
その二か月後、テレビはまた衝撃的な映像を映し出した。地下鉄から大勢の人が次々に担架で運び出される光景だ。誰かが毒ガスを撒《ま》いたのだという。今度もまた他人事ではなかった。惨劇のあった路線のひとつは、伯父もよく使っており、時間帯がずれていたら巻きこまれていた可能性は充分にあったからだ。
その残忍なテロを行なったのが宗教団体だったと知り、私はますます困惑した。宗教は人を幸せにするものではなかったのか? 神を信じ、心の平安を求めたはずの人たちが、なぜ罪もない人々を虐殺しなくてはならなかったのか?
そして、全知全能であり、すべてを知っていたはずの神が、なぜこんな恐ろしい車件が起きることを許したのか? 神が彼らの暴走を阻止しなかったということは、それが神の意志だったということなのか?
私には分からないことだらけだった。
なぜ心を開いてくれないのか、と伯父がぼやいたことがある。伯父の家に来て三年目、小学四年の時だった。
伯父はかなり思い詰めた様子だった。これほど君のために親身になってやってるのに、なぜいつまで経っても我が家に馴染《なじ》んでくれないのか。つらい体験をしたことは分かるが、いつまでも過去を振り返っていてはいけない。君はもうこの家の子供なんだから……。
私も鈍感ではない。伯父夫婦の心中は痛いほど理解できた。彼らが善良で愛すべき人たちであり、私のために尽力してくれていることも知っていた。それでも彼らを愛することができなかった――いや、愛することを避けていたのだ。
私は怖かったのだ。誰かを愛して、その人がまた理由もなく奪い去られたら――そう考えると、誰も愛する気にはなれなかった。あんな体験は一度でたくさんだ。
そんなわけだから、私の表情はあの日以来、凍結していた。誰も好きにならず、誰も憎みもしなかった。プログラムされたロボットのように、決められた日常生活をこなしていたが、心の中は空虚だった。喜びや悲しみを覚えるのは、本やテレビの中の出来事に対してだけで、現実世界にはまったく無関心だった。同世代の子供たちと遊ぶこともなく、アイドルやファッションにも興味を持たず、勉強と読書にふけっていた。おかげで学校の成績だけは良かった。
自殺も考えた。天国に行けば両親に会えるかもしれない。どんな方法なら苦しまずに確実に死ねるか、子供なりに頭の中でいろいろシミュレートしてみた。毒薬はどこで手に入れればいいか分からないし、首を吊《つ》ったり川に飛びこむのは苦しそうだし、手首を切るのは痛そうだ。結局、高いビルから飛び降りるのがいいという結論に達した。
しかし、それを実行に移すことはなかった。勇気がなかったせいもあるが、その頃すでに、私は神に対する深い不信の念を抱くようになっていたのだ。
神を信じられない者が、天国を信じられるわけがない。
中学に入学する頃には、さすがに私も「目覚めの日」を待つのをやめ、少しは現実と向き合うようになっていた。心の傷も少しずつではあるが癒《い》え、口数も以前より多くなってきていた。
ひとつのきっかけは初潮を迎えたことだった。自分の体が大人になったこと、いくら現実を拒否しても時間は着実に流れていることを、痛切に思い知らされたのだ。これほど強固な現実を突きつけられては、さすがに子供っぽい空想に逃避しているわけにはいかない。
私が変わることになったもうひとつのきっかけは、中学一年の夏、読書感想文を書くために読んだ一冊の本だった。世界各地のかわいそうな子供たちの実態を紹介した本だ。
ルワンダの子供たちは民族紛争で親を奪われ、生命の危険におびえ続けている。タンザニアにはゲリラに腕や脚を切断された子供がいる。旱魃《かんばつ》に襲われたエチオピアの子供たちは、飢餓で苦しみながら、ひっそりと死んでゆく。ハイチの路上で生活している少女は、日本円にして数十円という金で身体を売って、妹や弟たちを養っている……。
どこの国でも子供たちは犠牲になっている。そんな事態を招いたのは、大人たちの醜い争いや、政治の失策、自然環境の変化などのせいで、子供には何の罪もないというのに。
彼らを救えないわけではない。湾岸戦争の際に日本が出した金の数分の一でもあれば、何百万という子供を病気や飢餓から救えるはずなのだ。だが、政治家たちはそんな目的のために金を使おうとはしない。戦争のために使う金、住専のために使う金は、いくらでもあるというのに。
私は泣いた。そして、そのやりきれない想いを読書感想文にぶつけた。今から思い返すと顔から火が出そうなほど青臭い文章で、恥ずかしすぎてここにその一部分を引用することもできない。私は自分の体験を世界各地のかわいそうな子供たちのそれと重ね合わせ、この世がどれほど不条理に満ちているか、それに対して子供はいかに無力であるかを訴えたのだ。
勢いで書いてしまったものの、それを先生に提出するべきか、さんざん迷った。読み返し、何度も破り捨てようとしたが、別の感想文を書く気にもなれなかった。結局、提出してしまったが、すぐに後悔するはめになった。
その感想文がコンクールで優勝してしまったのだ。賞状と賞品(確か図書券だった)を渡され、先生たちからお褒めの言葉をいただいたものの、私はちっとも嬉《うれ》しくなかった。むしろ自己嫌悪でいっぱいだった。
他にも同じ本を読んで感想文を書いた生徒は大勢いたのだ。二年生や三年生には、私より文章のうまい人もいただろう。それなのになぜ私の感想文が優勝したのか?
理由は簡単、私の体験談が先生方の涙を誘ったからだ。コンクールに優勝したいという気など毛頭なかったが、結果的に、私はアンフェアな手で他人を押しのけたことになる。なんと卑劣なことをしたのだろう! 私は自分の不幸を武器に使ってしまったのだ。
だいたい、その本を選んだ動機が不純だった。悲惨な境遇にいる子供たちの話を読むことで、「私よりかわいそうな人がいる」と、自分を慰めたかったのだ。他人の不幸を見ることで安心したかったのだ――無論、そんなこと、感想文には一行も書かなかったが。
私は最低の人間だ。
その一件で私はすっかり気が滅入り、つくづく自分が嫌になってしまった。賞を取った感想文は学校誌に載り、私も一冊|貰《もら》ったが、目を通す気にもならず、本棚に投げこんでしまった。そして、もう二度と自分の不幸を売り物にはすまい、他人の不幸を自分のそれと比較したりすまいと心に誓った。
しかし、悪いことばかりではなかった。その感想文を書いたおかげで、私は生涯の友とめぐり合えたのだから。
感想文が学校誌に載って何日か経った放課後、図書室で本を借りようとして、カウンターでカードを提出した。すると二年生の図書委員が、カードに書かれた私の名前を見て、「ああ」と驚いたような声を上げたのだ。
「あんたが和久優歌さんなのかあ」
とまどっている私に、彼女は人なつっこい笑みを投げかけてきた。髪を短くボーイッシュにしていた私とは対照的に、彼女はポニーテールを長く伸ばしていた。性格も正反対で、お喋《しゃべ》りで快活な少女だった。
「あんたの感想文、読んだよ。すごく良かった。泣けちゃったよ、ほんと。あたしも書いたんだけどさ、かすりもしなくて」
私は恥ずかしいのと居心地が悪いのとで、「ありがとう」と小声で答えるのが精いっぱいだった。早く本を持って退散したかった。だが、彼女はなかなか貸し出し期限のハンコを捺《お》そうとしない。それどころか、私の顔を覗《のぞ》きこんで秘密めかした微笑みを浮かべ、いたずらっぽくささやいた。
「でもさ、ちょっとアンフェアだった……って思ってない?」
私はぎくりとした。先生にさえそんなことを言われたことはなかった。みんな私の文章に素直に感動していた。たとえ「卑怯《ひきょう》だ」と思っていても、口に出す者はいなかった。私の心の中を見透かし、しかもそれを口にしたのは、彼女だけだった。
すぐに知ることになるのだが、彼女――柳《やなぎ》葉月《はづき》は、他人の心を理解する天性の素質に恵まれていたのだ。相手のちょっとした態度や言葉の端々から、隠された本音を直感的に読み取ってしまう。それはほとんど超能力と言っていいほど鋭いもので、彼女の前では誰も裸同然なのである。私には逆立ちしても真似できない才能だった。
「あ、やっぱり思ってたのか」
私のおどおどした態度を見て、葉月は屈託なく笑った。
「あんなお涙ちょうだいの文章書いといて、ぜんぜん後悔してないような厚顔無恥な奴だったら、ブッ飛ばしてやろうかと思ったんだけどね。自分でも卑怯だと思ってんなら、それでいいや。ま、そんなに悩むことないって。あんたの文章が良かったのは事実なんだから。あんな奥の手使わなくたって、佳作ぐらいには入ってたよ」
彼女がハンコを捺すと、私は本をひっつかみ、逃げるように図書室を後にした。私は彼女が怖かった。隠していた自分の心をあっさり見透かされてしまったことが、たまらなく恐ろしかった。家までの道を歩いている間ずっと、胸の中には形のない不安がわだかまり、心臓を強く締めつけていた。
だが、自分の部屋に帰り着いた頃には、その不安はジーンという熱さに変わっていた。不思議な心地好い熱さだった。私はベッドに横になり、本を広げ、彼女が捺してくれたハンコを見て涙ぐんだ。
ついに私のことを理解してくれる人が現われたのだ。
私が図書室の常連で、葉月が図書委員ということもあって、私たちはそれから頻繁に話をするようになった。私たちは好きな本の話題でよく盛り上がった。無論、一対一のつき合いだったわけではない。外向的だった彼女には何人も友達がいた。おまけに、しょっちゅうトラブルを起こしては、噂の的になっていた。
葉月は他人の心を裸にするだけではなく、自分の本音もおおっぴらにさらけ出すのだ。誰かの言動が気に食わないとか間違っていると思えば、上級生だろうが教師だろうが、遠慮なくずばずばと指摘する。それがたいてい正論なもので、相手はいっそう頭に来る。購入希望図書のリストに文句をつけてくる学校側に頭にきて職員室にねじこんだとか、授業中に理科の教師の間違いを指摘したせいで(その教師は「地球は太陽の回りを回っているが、太陽は宇宙の中心で動いていない」と、トンデモないことを言ったのだそうだ)、授業を中断して大激論になったとか、武勇伝は数多い。
そんなわけだから、葉月をめぐっては、いい評判と悪い評判が半々だった。彼女に好感を持つ者が多い一方、蛇蝎《だかつ》のごとく嫌い、悪口を言う者も少なくなかった。しかし、彼女は周囲の評価などまったく気にせず、あっけらかんとマイペースで生きていた。
私はと言えば、彼女を羨望《せんぼう》の目で見ていた。自分と他人を隔てる壁などないかのように、どんな人間にも裸でぶつかることのできる葉月。自分が正義だと信じたことを貫き通す葉月――そんな彼女の痛快な行状に、心の中で拍手|喝采《かっさい》を送る一方、自分にはあんな生き方はできそうにないと嘆息していた。
彼女に相談を持ちかけたことも何度かある。中でも困ったのは、クラスの複数の男子から二か月間に三回もデートに誘われたことだ。いかにも軽薄そうな男ばかりだったうえ、恋愛にはあまり関心がなかったので、いずれも丁重にお断わりした。しかし、教室の隅で目立たない存在のはずの私が、なぜ急に男子から注目されるようになったのか、まるで見当がつかなかった。
「世間じゃあんたみたいなのが流行《はや》りなのよ」葉月は笑いなが解説してくれた。「綾波タイプって言うの? 無口で、ちょっと病的で、何考えてるか分からないお人形さんみたいな女の子。男どもにしてみりゃ、ロボットみたいに言いなりになってくれる、都合のいい女に見えるんじゃないの? だから生身の女とつき合うのが面倒臭いような連中が、『こいつだったらいけるかも』って、寄ってくるわけよ。あたしなんか逆。お喋りだし自己主張が強いから、男なんか寄って来やしない」
「でも、また誰かに誘われたら、どうすればいいのかな? 男の子たちの理想像に合わせてあげた方がいいのかな?」
そう言うと、葉月は一転して真剣そのものの表情になり、忠告してくれた。
「他人があんたをどう思おうと、それに振り回される必要なんてないよ。他人のイメージに合わせて演技する必要なんて、ぜーんぜんない。あんたはあんたなんだから。自分に素直に、本当にやりたいようにやればいいんだよ。そうじゃない?」
自分に素直に生きろ――ありきたりだが力のこもった忠告だった。その言葉に私はどれだけ救われたか分からない。
当然のことながら、私はいじめにもちょくちょく遭っていた。無口で無抵抗だったものだから、うさ晴らしの標的としては絶好だったのだろう。入学した直後から、同じクラスの女子から「のろま」とか「陰気臭い」と罵《ののし》られた。上履きの中に砂を入れられたり教科書を隠されたりといった面白半分の嫌がらせも何度か受けていたが、肉体的な危害を加えられたことはなかった。
それが二学期の後半になって急にエスカレートした。私が男子の注目を集めているのが腹立たしかったのか。あるいは、例の感想文に含まれていた自己|憐憫《れんびん》が、彼女たちのサディスティックな感情を刺激したのか。いじめと言っても、昔の少女マンガにあるような「靴に画鋲《がびょう》を入れる」などという他愛ないものではない。廊下ですれ違いざまに蹴《け》りを入れられたことがあった。階段を降りようとしていて、強く背中を突かれ、転落しそうになったこともある。
私はさすがに身の危険を感じた。教師などあてにならない。彼らは校内で露骨に行なわれているいじめを見て見ぬふりをし、何の対策も立てようとはしないのだ。どうせ教育委員会には「我が校には何の問題もなし」と報告しているのだろう。
思い余って葉月に相談すると、あっさり「あんた、バカか?」と返された。
「あたしに何を期待してるわけ? あたしがウルトラマンだとでも思ってんの? ピンチになったら駆けつけてきてくれるって? 冗談じゃない! あたしだって自分の生活ってもんがあるんだから、四六時中、あんたを守ってなんかいられないよ。そんな便利なキャラだと思わないで!」
そんなつもりで言ったんじゃ……と、しどろもどろに弁明すると、葉月はさらに追い討ちをかけてきた。
「だったら、あたしにどうしろっての? 『おお、おお、いじめられてかわいそうねえ、よしよし』って慰めて欲しいの? それで問題が解決する?」
彼女の口調は乱暴だが、言うことは常に正論だ。そう、慰めてもらったところで、何の解決にもならない。
自分でどうにかするしかないのだ。
三学期がはじまったばかりの頃、私の人生の転機がめぐってきた。クラスの中でも特に性悪な三人の女子に呼び出され、校舎の裏に連れこまれたのだ。用件はごくありきたりなもの――「金をよこせ」だった。
彼女たちは暴力で脅すだけでは飽きたらず、言葉で私の人格をさんざん傷つけた。私の感想文を槍玉《やりだま》に上げ、「あんなもんで世問の同情が引けると思ったのか?」と嘲笑《ちょうしょう》した。
「むかつくんだよ、てめえみてえな優等生は」
「被害者ぶりやがってよ」
「てめえなんか、土砂崩れで死んじまえばよかったんだ」
その言葉に私は腹が立った。無性に腹が立った。なぜ世界はこんなにも不条理なのか? なぜ私はこんな目に遭わなくてはならないのか? 家を失い、両親を失い、そのうえどうしてこれほどまでに罵倒《ばとう》されなくてはならないのか? 私は何も悪くないのに。
そう、私は悪くない。間違っているのはこいつらの方だ――この世界の方なのだ。
その瞬間、何かが切れた。長いこと凍結していた感情が一気に溶け、熱い奔流となってほとばしった。私は強烈に憎んだ。彼女たちを、この不条理に満ちた世界を、私を翻弄《ほんろう》する運命を――そして何より、それらに安易に屈服してきた自分自身を。
私は今まで何を待っていたのだろう? 何のために耐えていたのだろう? いくら待ったって目覚めの日なんてくるはずがない。いくら耐えたって神様は助けてくれるはずがない。
もうたくさんだ、自分の不幸を隠れ蓑《みの》にするのは。もうやめた、無抵抗で運命に流されるのは。現実から顔をそむけたりはしない。堂々と立ち向かってやる。
私はリーダー格の少女に殴りかかった。ビンタなどという優しいものではない。グーで、顔面を狙って、力いっぱい殴った。反撃が来るとは予想もしていなかったらしく、私の一撃は見事にヒットした。彼女はよろめいてぶざまにひっくり返り、盛大に鼻血を流した。
「今度は目を潰《つぶ》してやるよ」
驚き、たじろいでいる他の二人に向かって、私は二本の指をVサインのように突き立て、低い声ですごんでみせた。
「残りの一生ふいにする覚悟があるなら、かかってきな」
即興で思いついたフレーズだったが、効果はあったようだ。私の思わぬ豹変《ひょうへん》におびえ、性悪どもはこそこそと退散した。こんな簡単なことだったのか、と私は拍子抜けした。あと二、三発、殴りたかったのに。
葉月は話を聞いて素直に喜んでくれた。「やればできるじゃん!」と。
その事件以後、クラスの中での私に対する評価は一変した。「和久はキレると何をするか分からない女だ」とささやかれた。いじめはぷっつりとなくなったが、男子から誘われることもなくなった。しかし、そんな些細《ささい》なことはまったく気にならなかった。他人にどう思われようとかまわない。私は私だ。
魂を縛っていた重い鎖のひとつが切れた気がした。完全にトラウマから解放されたわけではなかったが、ほんの少し、人生を歩む足取りが軽くなったように思えた。
その事件が契機となって、私は自分に自信を持つようになった。口数も多くなり、笑う回数も増えて、伯父夫婦を安心させた。もっとも、以前ほど勉強に熱を入れなくなったので、成績はがた落ちになったが。
私は葉月に一年遅れて、同じ高校に進学した。私たちは大の親友で、休日にはよく二人で渋谷あたりをうろついたものだ。
高校二年の初夏、ちょっとした事件があった。制服姿で渋谷駅前を歩いていて、テレビ制作会社のスタッフに声をかけられたのだ。最初はちょっとした街頭インタビューだと思ったのだが、そのうち思いがけない話を切り出された。有名な番組に出てくれないか、というのである。
彼の話はこうだった。女子高生の援助交際の実態をレポートした番組を制作していて、取材を進めていたのだが、出演を予定していた女子高生が急にキャンセルしてきた。放映日まであまり時間がない。そこで急遽《きゅうきょ》、代役を使って撮影することになった。もちろん、顔はモザイクで隠すし、声も変える。本当に援助交際をする必要はなく、台本通りに喋って、ちょっと演技してくれるだけでいい。ギャラははずむ……。
私たちは喜んでOKした。断わる理由は何もなかった。テレビの裏側が見られるというミーハーな好奇心もあったし、本当に身体を売ることなく、遊び半分でお金が手に入るというのだから、おいしい話ではないか。
後になって、この時の安直な決断を、ひどく後悔することになるのだが。
その次の日曜日、再び渋谷にやって来た私と葉月は、ディレクターに指示されるままに、渋谷のあちこちで素人臭い演技をした。交際相手の男性(実はスタッフの一人)と待ち合わせ、腕を組んで道玄坂のラブホテルに消えるまでを望遠カメラで撮影された(実際はホテルの入口で引き返し、中には入らなかった)。夜遅くまでスナックに入り浸り、酒を飲んでいるところを隠し撮りされた(撮影したのは夕方で、飲んでいたのはソーダだった)。ゲームセンターでは、血しぶきが派手に飛び散るシューティング・ゲームに熱中しているところを撮影された(本当は私も葉月もシューティング系は苦手だった)。
休み時間に雑談中、若いカメラマンが口を滑らせたので、出演を予定した女子高生がキャンセルしたとかいう話は嘘だったと分かった。最初からヤラセで撮る予定だったのだ。どうせそんなことだろうと思っていたので、私たちは驚かなかった。
最初は葉月をメインに撮る予定だったのだが、じきに私の方が主役になった。というのも、葉月の喋り方はテンションが高いうえ、普段から本音だけで喋っているので、台本通りの台詞《せりふ》を口にするとぎこちなくなってしまうからだ。
それに対して、自分でも意外なことだったが、私は「バカで放埒《ほうらつ》な女子高生」を演じるのがうまかった。演技の才能があったわけではないが、起伏に乏しいだらだらした喋り方に、かえってリアリティがあったのだ。おまけに、遊びで身体を売るような連中にはかねてから敵意を抱いていたので(ハイチの少女の苦しみの一〇分の一でも知るがいい!)、いかにも憎々しげに演じることができた。彼女たちの愚かさを誇張して世間に見せつけ、笑いものにしてやろうと、歪《ゆが》んだ情熱を燃やした。
放映された番組は、実に巧みな編集がされており、なるほどこれがプロの仕事というものかと、私たちは妙な感心をした。二人の女子高生の休日の行動を追跡したようになっていたが、実際はばらばらな順序で撮影したシーンをつなぎ合わせ、ナレーションとテロップでごまかしたものだった。たとえば、「午前一〇時、東急東横線で渋谷に到着」という冒頭のシーンは、午後五時に撮影されたものだ。よく見れば、パルコやハンズの袋を提げた客がぞろぞろと改札口に入ってゆくのが映っており、朝に撮影されたものではないことが分かるはずなのだが、視聴者はそんなところまで注意して見ない。
当時の番組のビデオが残っている。その中から、「A子(16歳)」つまり私と、レポーターの会話を抜粋してみよう。
――いつ頃から援助交際やってるの?
「中学の時」
――もう何人ぐらいとつき合った?
「分かんない。四〇人ぐらいかな」
――ホテルまで行くの?
「たいていはね。気に入らない男だと、金だけ取ってバッくれちゃうこともあるけどお(笑)」
――ボーイフレンドはいるの?
「んー、四、五人、かな?」
――その子たちとはセックスするの?
「んー、公園とか相手の部屋とかで、ちょくちょく。でも同じ年頃の男の子ってえ、やっぱ経験不足だからあ。おじさんたちの方が上手だよね。お金もたくさん持ってるし(笑)」
台本通りとはいえ、我ながらぬけぬけとよく言ったものだと思う。この頃の私は、セックスどころか、ファーストキスもまだだったのだ!
さらに笑えたのが、スタジオでVTRを見ていた司会者やゲストたちが、「この娘、むかつくよね」「こんな連中が日本を滅ぼすんだ」「死刑にした方が社会のためだね」などと、本気で腹を立てていたことだ。有名なタレントや偉い評論家の先生までまんまと騙《だま》したことで、私たちはすっかり愉快な気分になっていた。
約束通り、ギャラは貰《もら》えた。私は貯金し、葉月は新しい服を買った。無論、家庭や学校に知られることはなかった。この一件はそれで終わったはずだった。
ところが、番組が放映されて三週間ほどして、私の携帯に見知らぬ男からの電話がしばしばかかってくるようになった。半分はいたずらで、残りの半分は交際の申しこみだった。声の調子からすると二〇代から四〇代ぐらいの男性が中心だったが、同じ高校の生徒も一人いた。みんな明らかにセックスが目的で、中には露骨に「一回いくらだ」と訊《き》いてくる者もいた。
私は困惑した。テレビには私の顔も本名も出なかったはずだ。なのにどうして私の電話番号が分かったのか?
一人が「インターネットで見た」と言い、URLを教えてくれた。当時、私はまだインターネットのアカウントを持っていなかったし、近所にネットカフェもなく、伯父のパソコンは勝手に使えなかったので、大阪にいる兄に事情を話して確認してもらうことにした。父譲りの理系の才能に恵まれた兄は、一流大学のコンピュータ関係の学科に進んでおり、インターネット歴も五年になっていた。
二〇分後、兄が緊迫した声で電話をかけてきた。
「お前、ネットの中で有名人になってるぞ」
兄はわざわざ問題のホームページをFAXしてくれた。 <エビケンのTV突撃隊> というそのページは、テレビ番組の裏側やタレントの私生活を暴くサイトとしてけっこう有名らしく、多くの芸能・ゴシップ系のサイトとリンクしていた。どうやって調べたのか、アイドルの自宅の住所もたくさん載っていた。
その中に「あのムカツく女子高生を探せ!!」と題した特設ページがあった。エビケンというハンドルネームの作者は、私の出演した番組をビデオで入念にチェックし、モザイクに隠された私の正体を暴き出していた。
彼(性別も不明なのだが)がまず注目したのは、ゲームセンターの中で葉月が「ゆうか」と呼びかけた箇所だった。編集の際にうっかり音声をカットし忘れたのだ。さらに制服の形状と「東急東横線で渋谷に」というナレーションをヒントに、横浜市内の私立高校であることを突き止めた。同時に、画像解析技術(ピクセルの濃度変化の時間積分がどうとか、素人にはさっぱり分からなかった)を使って、顔にかかったモザイクをある程度まで消し、ぼんやりとではあるが元の顔が判別できるぐらいにまで復元することに成功した。さらに「16歳」というテロップから、二年前に同じ地区の中学を卒業したに違いないと目星をつけ、コネを使って卒業アルバムを入手、その写真と照合した。そしてついに「優歌」という名前を発見したのだ。
そのページの最後には、「これがバカ娘のお出かけ風景/知らずに育ててるおじさんたち、ご愁傷さま」というキャプションつきで、私が伯父夫婦の家から出てくる場面が掲載されていた。知らないうちにデジカメで隠し撮りされていたのだ。眼の部分だけは黒く塗り潰されていたが、私を知っている人間なら容易に顔を見分けられるし、眼が隠されたせいでかえって凶悪犯のような印象になっていた。
私はここまで調べ上げた作者の執念に感嘆すると同時に、恐ろしくなった。アクセス数から推測すると、日本中の何万という人間がこの情報を見ているのだ。しかも彼らは、テレビに映し出された私の姿が真実だと信じている……。
さらに悪いことに、 <エビケンのTV突撃隊> のことは別のアングラ系掲示板でも話題になっていた。その中の誰かが私のフルネームをバラしたうえ、裏技を使い(電話会社の職員が電話番号のデータを横流ししているらしい)、私の携帯の電話番号を探り出し、書きこんでいたのだ。
私は自分をぶん殴りたくなった。なんという軽率なことをしたのだろう。「バカな女子高生」を演じたつもりだったが、本当にバカなのは私だった!
兄は私に代わってホームページの作者にメールを送り、番組の内容が事実ではないことを伝えると同時に、私に関する情報を取り下げるよう、丁重に要求した。相手の返事は驚くべきものだった。「そのような要求は不当であり、言論の自由の弾圧である。さらに脅迫まがいの行為を続けるなら、訴訟の用意がある」というのだ。
「あいつはだめだ」兄は苦渋に満ちた口調で報告した。「ネット人種によくいるタイプ――批判されるといっそう依怙地《いこじ》になって、間違いを絶対に認めないタイプだ。下手につつくと、かえって騒ぎ立てて面倒なことになるぞ」
問題が問題だけに、伯父夫婦に相談するわけにもいかない。私は葉月と対策を話し合った。他の掲示板でも話題が盛り上がっており、同じ高校の中にもすでに情報を知っている者がいる以上、今さらホームページをどうにかしても手後れだろう。「人の噂も七五日」という諺《ことわざ》を信じて、みんなの記憶からこの件が消えるまで、じっとやり過ごすというのも手かもしれない。だが、その前に教師たちの耳に入る可能性は高いし、そうなったら退学はまぬがれない。
「こうなったら先手必勝だね」葉月は言った。「バレる前に、こっちから校長に謝っちまおう」
いかにも小細工の嫌いな葉月らしい発想だった。しかし、バレてからあれこれ弁明するより、先に告白した方が信じてもらえる可能性が高いのは確かだ。
私たちは校長室に出向き、一部始終を正確に説明した。テレビのヤラセ番組に加担したこと、そのせいでインターネット上で誤った情報を流されてしまったこと、実際に援助交際などしていないこと……。
初老のもの静かな校長は、私たちの話を最後まで黙って聞いていた。怒りもしなかったし、叱りもしなかった。話が終わると、少し考えてから、「ちょっとだけ私のお喋りにつき合っていただけますか」と前置きして、私たちにこんな話をした。
一九六〇年代、アメリカにカルロス・カスタネダといぅ男がいた。彼はヤキ族インディアンの呪術師《じゅじゅつし》ドン・ファンとメキシコの砂漠で生活をともにし、多くの神秘的な体験をして、貴重な哲学を学んだ。彼はその体験を元にした論文を書き、UCIA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で人類学の博士号を授与された。カスタネダの著書『ドン・ファンの教え』(邦題『呪術師と私』)は高く評価され、多くの人に熱心に読まれて、当時のアメリカのニューエイジ運動に大きな影響を与えた。
後になって、カスタネダの著作は何から何までインチキだったことが暴露された。彼はメキシコの砂漠で生活したことなどなく、ドン・ファンなる呪術師も実在しなかった。すべては空想で書かれたものだったのだ。当然のことながら、ヤキ族の文化や慣習についての記述には間違いが何箇所もあった。カスタネダはまた、自分の経歴も詐称していた。
彼の著書に心酔していた人たちは、騙されたことを知って怒り狂っただろうか? いや、そんな動きはまるで起こらなかった。カスタネダは博士号を取り上げられたりはしなかった。ある人類学者などは「カルロス・カスタネダ――本当でなかったとしても、それがどうだというのか?」というあからさまな題の論文を発表して、彼を擁護した。今でもカスタネダの著作は人気が高く、日本の書店でも「精神世界」の棚に並んでいて、多くの人に読まれている。
日本でも似たような事件があった。一九七〇年、イザヤ・ベンダサンなるユダヤ人が書いたというふれこみの日本人論の本が出版され、大ベストセラーになったのだ。実際には著者は日本人で、本の中に書かれたユダヤ人や聖書についての知識には多くの間違いがあった。そうした事実が暴露されたにもかかわらず、多くの読者はまったく怒らなかった。それどころか、今でもその本を評価する人はたくさんおり、本の中に書かれた間違った知識が引用されることもしばしばある。
「ユダヤ人ベンダサン」の支持者たちは口を揃えてこういう――「本当でなかったとしても、それがどうだというのか?」
「これが現実というものです」
校長は静かな、どこか悲しく、あきらめきったような口調で言った。
「嘘は強い。ひとたび成功した嘘、多くの支持者を獲得した嘘は、真実が暴露されたぐらいで揺らぐものではない。何年、何十年でもはびこり続けるのです。それに対して、真実はなんとも弱く、はかない。大きな嘘にあっさり押し流されてしまう。真実を口にしただけで処刑された時代もあったのです。人類の歴史を見れば、むしろ嘘が勝利した例の方が圧倒的に多いと言えるかもしれません。
ですから、もし本当に子供たちに社会の中で成功するすべを身につけさせようと思うなら、学校は嘘の大切さを教えるべきなのです。嘘がいかに強いものかを、嘘をどのように使えばいいかを教えるべきなのです。嘘を武器に使う者の方が勝てるのですから――」
そこで校長は、悲しげな表情で大きくかぶりを振った。
「しかし、そんなことはしません。学校ではそんなことを教えません。私たちはあなたたちに真実を教えようとしています。真実を守ることを教えようとしています。たとえそれが不利と分かっていてもです。それはなぜなのか? 考えてみてください」
それだけ言って、校長は私たちを放免した。処分は一切なしだった。私と葉月は、校長室を後にし、無言で廊下を歩いていった。
「……なぜなんだろう?」
何分かして、葉月がぽつりと言った。
「どうして校長、『真実を教えています』じゃなく、『真実を教えようとしています』って言ったんだろう?」
卒業式の日の奇妙な光景が、今でも記憶に焼きついている。「君が代」が流れる中、他の教師たちは硬く口を閉ざして拒否の姿勢を表明し、生徒たちも事前に教師から受けた指示通りに沈黙していたというのに、校長だけが低い声で歌っていたのだ――いかにも苦しそうに、ばつが悪そうに、自分が望んだ状況ではないというように。
「誰も歌わないと文科省からお叱りを受けるんだってさ」隣の列の誰かが、面白そうにささやいていた。「だから一人でも歌わなきゃならないんだって」
「何それ? かっこ悪〜」
くすくすという笑い声が卒業生の間を流れた。
私は笑えなかった。校長の苦渋に満ちた表情を見てしまったからだ。その心境は、教会に対して「それでも地球は回っている」と叫ぶ異端者のそれなのだろうか、それとも無理やり踏絵を踏まされるキリシタンのそれなのだろうか……?
あの時、校長は「私たちは真実を教えようとしています」という言い回しで、私たちに何かを伝えたかったのだろうか。
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03+「あれは何だったんでしょう?」
私は国立大学の社会学部に入学したが、二年目で中退し、職を探しはじめた。長引く不況と就職難で、「大卒」というブランドがもはや通用しなくなっており、大学を出てもいい就職口が見つかる可能性は低かった。それならいっそ早いうちに職探しをはじめた方がいいと考えたのだ。同時に伯父の家からも独立し、安アパートに引っ越した。伯父夫婦にこれ以上、経済的負担をかけたくなかったからだ。
しかし、本当はもっと大きな動機があった。だらだらと生きるのが嫌だったのだ。何となく大学に通って、何となく就職して、何となく結婚して……そんなごくありきたりのつまらない一生を終えたら、それこそ運命に屈服したことになる。私は他人と違う生き方がしたかった。与えられた生命を完全燃焼させ、私の人生に価値があったことを証明したかった。
それが私なりの意趣返し――運命に対する復讐《ふくしゅう》だった。
兄も私と同じく、自分の進むべき道を見出していた。
私が大学に入学した年、彼は大学を卒業し、関西学研都市内に新設された「遺伝的アルゴリズム基礎研究室」に移った。在学中からすでに研究者としての才能を見出され、スカウトされたのだ。
不況の波は学問の世界にも容赦なく押し寄せていた。国内の多くの大学では予算が大幅にカットされ、財団も出資をしぶることが多くなり、研究者は誰も研究予算の不足に苦しんでいた。そうした中、京都市を中心とする関西の大学の理工学部だけは活気があった。京都市では一九九〇年代から、産官学共同による産業振興に力を入れており、有望なベンチャー企業に助成金や施設を提供する一方、大学の研究室と企業の間を取り持って、新技術の開発を進め、多くの成果を上げていた。有力な企業がスポンサーになって新技術開発のためのプロジェクトに出資することにより、優秀な研究者が思う存分腕を振るうことができるわけだ。
兄は研究室で、新しいシミュレーシーン・ソフトの開発プロジェクトに関わっていた。京都に本社のあるゲーム会社がスポンサーだった。やがて完成したソフトは、ゲーム会社のプログラマーやグラフィッカーの手に渡って、美しいグラフィックや音響効果が加えられ、一枚のDVDとなって世に出ることになった。ゲームソフトの売り上げというのは、「ちょっとした話題作」という程度でも数億円、メガヒットともなると一〇〇億円を超えることもざらにある。その利益の一部は大学にも還元される契約になっていた。
私がまだフリーターをしながら職探しをしていた頃、兄は東京で開かれるゲームショーを見学するために上京し、そのついでに私のアパートを訪れた。彼はプロモーション用DVDを持参していて、まもなく発売される予定のゲームの画面を見せてくれた。
『ダーウィンズ・ガーデン』――それがゲームのタイトルだった。
その幻想的な画面に、私は一目で魅了された。アンリ・ルソーあたりを連想させる熱帯風の不思議な密林の中に、色とりどりの巨大な昆虫のような生き物がうごめいていた。みんな光を美しく反射する虹《にじ》色の甲羅を持っていたが、姿は千差万別だった。カニのような胴体から竹馬のような長い脚が生えていて、ひょこひょことユーモラスにしくもの。いくつもの体節に分かれていて、蛇のように身をくねらせて這《は》うもの。長い二本の腕を器用に使って、枝から枝へと猿のようにスイングするもの。ハンガーのような形をしていて、身体全体を巧いよく伸ばしてジャンプするもの。身体を丸めてタイヤのように転がるもの……何とも形容しづらい、地球上のどんな生物や機械にも似ていないものも多かった。
プロモーション用ビデオではただ見るだけだが、実際のゲームでは、コントローラーを使って自由に視点を移動させられるし、写真に撮ったり、生き物に餌を与えたり、最大で六匹までの生き物に鬼ごっこをさせたりして遊ぶこともできるという。
「これ、兄さんがデザインしたの?」
私の素朴な疑問に、兄は笑った。
「僕がデザインしたんじゃないよ。いや、誰もデザインなんかしていない。こいつらは、自分でこんな姿になったんだ」
最初、てっきり兄が冗談を言っているのだと思った。コンピュータがこんな美しいものをデザインできるはずがないと思ったのだ。だが、それは事実だった。モニターの中で動き回っている人工生命たち(「アーティフィシャル・ライフ」を縮めて「アーフ」と呼ばれていた)は、実際の生物と同様、環境に適応して進化し、このような姿になったのだ。兄たちはその基本プログラムを組んだだけで、どんなデザインを創りたいかというビジョンはまったくなかった。すべては気まぐれな進化の結果なのだ。
それを可能にしたのが「遺伝的アルゴリズム」という手法だった。
人工生命の歴史は、一九四〇年代、数学者フォン・ノイマンの構想した「セルオートマトン」にまで遡《さかのぼ》る。ノイマンは二二歳で博士号を取得、二三歳でベルリン大学の講師になった大天才で、アメリカに渡ってからは、原爆開発や世界最初のデジタル・コンピュータの開発に貢献するなど、多くの功績を残した人物だ。
生物はきわめて複雑なシステムだがオートマトン(自動機械)によって模倣できる、というのがノイマンの信念だった。彼が構想したのは、自分自身を複製する工場のような装置だ。まだ近代的なコンピュータ技術が誕生していなかった時代なので、彼は記憶装置として長さ何キロもある長いテープを想定した。格子状のセル(細胞)によって構成されたオートマトンは、テープの指示に従って部品を組み立て、最終的に自分とまったく同じ装置を完成させる――すなわち、「子供を産む」のだ。
無論、ノイマンはただアイデアを提示したにすぎず、彼の時代にはその構想を実現する技術はなかった。自己複製オートマトン第一号は、一九七九年、クリス・ラングトンによってアップルUコンピュータのモニター上に創造された。
ラングトンのオートマトンは、四角いループ状で、端から尾が出ており、アルファベットの「Q」に似ている。それ自身が持っている遺伝情報に従って、ループは自分を複製する。まず尾が長く伸び、それが直角に三回曲がって、新たなループを形成する。ループが閉じると同時に尾が切断され、まったく同じループが二個になる。新たに誕生したループは、「親」と同じように、ただちに自分を複製しはじめる……。
無論、これだけでは生物の持っている繁殖という機能だけを模倣したにすぎない。ラングトンのオートマトンは無限に増殖し続けるだけで、決して進化しないのだ。
自然界の進化のメカニズムを模倣して、コンピュータ・プログラムを進化させる――この荒唐無稽《こうとうむけい》とも思えるアイデアを考えついたのは、ミシガン大学のジョン・ヘンリー・ホランドで、一九六〇年代のことだった。ホランドの語る「遺伝的アルゴリズム」の構想は多くの学生を熱狂させた。最初はミシガン大学で、やがて全米各地の大学で、コンピュータを使った実験が行われるようになった。
遺伝的アルゴリズムの手法は、研究者によって細部に違いはあるが、典型的なのは次のようなものである。
ステップ1:たくさんのプログラム(ここでは仮に一〇〇〇個としよう)に同じ課題を与え、それをどれほどうまくこなしたかによって得点をつける。実際の生物界では、この課題とは「環境への適応」である。
ステップ2:一〇〇〇個のプログラムの中から一〇〇個を選び出す。どのプログラムを選ぶかはランダムに決められるが、完全にランダムではない。最高点を取ったプログラムは選ばれる確率がきわめて高く、点数が低くなるほど確率が低くなるよう細工されている。選ばれなかったプログラムは、環境に適応できずに死んでしまったわけだ。
ステップ3:生き残った一〇〇個のプログラムから、二つずつランダムに選んでペアを作り、遺伝子を交差させる。すなわち、二つのプログラムをバラバラにして、半分ずつ組み合わせ、新たなプログラムを作るのだ。無論、これは自然界の生殖行為に相当する。この作業をプログラムの数が最初と同じ一〇〇〇個になるまで続ける。
ステップ4:新たに誕生した一〇〇〇個のプログラムの一部に「突然変異」を与える。すなわち、プログラムの中に些細《ささい》なバグをランダムに発生させる。
この四つのステップをひたすら繰り返すのである。
最初のうち、遺伝的アルゴリズムに対する抵抗は、特にプログラマーの間に根強かったという。「そんな運まかせの手法がうまくいくわけがない」と多くの者が考えたのも無理はない。プログラマーたちは仕事柄、コンマがひとつ抜けただけでも、プログラムが暴走したり停止したりすることがあるのを、身に染みて知っていたからだ。わざとバグを発生させたり、プログラムをばらばらにしてつなぎ合わせたりしたって、まともなプログラムが生まれるはずがない……。
そうした常識的な予想に反して、遺伝的アルゴリズムは大成功を収めた。UCIAのデビッド・ジェファーソンらが作った人工のアリは、モニター上に作られた迷路を通り抜けることを課題とされ、ほんの七〇世代ほどの「進化」でそれを達成した。ホランドの弟子のジョン・コーザは、この手法を使って、二次方程式や微積分、非線形の物理問題を解くプログラムを作り上げた。惑星の運動の解析に応用してみたところ、物理学の基礎を何も教えられていないにもかかわらず、コンピュータはケプラーの第三法則を再発見してしまった。
兄は一九九七年に筑波大学のグループが行なった仮想実験を再現した映像も見せてくれた。この実験のモデルに用いられたのは、「八目車輪」と名づけられた小さなロボットだ。ずんぐりした円筒形で、その名の通り、目の役割を果たす八個の赤外線センサーを持ち、底部には二個の車輪がある。モーターの回転は小さなプロセッサで制御されており、左右の車輪の回転速度を変えてカーブする。
このロボットに与えられた課題は、迷路を走破することだった。迷路はループ状で、大きさは一〇メートル×一〇メートル。最初に右に二回、九〇度曲がり、次に左に九〇度曲がる。その先には、ジグザグの通路、袋小路、狭くなった通路、十字路など、八目車輪を迷わせるための罠《わな》が随所に仕掛けられている。迷路の各所にチェックポイントが設けられており、そこを通過するごとに一〇〇点が与えられる。迷路を一周すれば一七〇〇点だ。決められた時間内にどこまで進めるかで成績が決まる。一回の実験が終了するたびに、遺伝的アルゴリズムの手法によって、プログラムの選抜、交差、突然変異が行なわれる。
もっとも、本物のロボットを使った実験は時間がかかりすぎるので、それを走らせるのはコンピュータ上の仮想空間で行なわれた。本物の生物をシミュレートしたロボットの、そのまたシミュレートというわけだ。
実験の設定では、参加する八目車輪は全部で二〇体。最初、そのプロセッサの中には、迷路の地図はもちろん、迷路を走り抜けるための知恵は何ひとつインプットされていない。でたらめに走り回ることしかできないのだ。当然、大半の八目車輪はすぐ壁にぶつかり、ストップしてしまう。たまたま何台かが、少しだけまっすぐに走って最初のチェックポイントを通過するが、角を曲がれずにぶつかってしまう。実験者はロボットたちに何のヒントも与えない。彼らが自分で進化するのをひたすら待つのだ。
辛抱強く実験を続けるうち、八目車輪はだんだん賢くなってくる。基本的にはまっすぐに走り、センサーが壁の接近を感知したら、左側の車輪の回転数を上げて右にカープすればよいということを学ぶのだ。最初の曲がり角でうまく右にカーブできたものは、第二、第三のチェックポイントを通過し、より高い点数を得る。彼らは生き残り、子孫を残す。
数十世代が経過すると、大半の八目車輪は最初の二つの角を曲がり、四〇〇点を獲得できるようになる。ここでいったん進化は停滞する。八目車輪たちはうまく右に曲がることはできても、次に左に曲がるということがなかなかできないのだ。
しかし、五九世代目に大きな変化が訪れる。五九世代目に出現した新型の八目車輪は、三つ目の角を左に曲がったばかりか、その先の障害をすべて易々とクリヤーし、制限時間内に迷路を二周以上して、最終的に四〇〇〇点を獲得した!
さらに進化は続いた。八目車輪たちは、制限時間内により多くの点数を稼ぐために、より速く、確実に迷路を走り抜ける能力を向上させていった。一〇〇世代が過ぎる頃には、迷路を三周して、五〇〇〇点以上を獲得するものまで現われたのだ。
八目車輪の知恵は、まったく無知で原始的な状態から、複雑な迷路を走り抜けられるまでに進化したのである――人間が何も教えていないのに。
兄たちの作ったゲームは、こうした人工生命研究の成果を応用したものだった。八目車輪は知恵を進化させたわけだが、『ダーウィンズ・ガーデン』ではアーフの身体の構造が進化する。適応度の基準として定められたのは「移動速度」である。これは妥当な考えだろう。肉食動物は草食動物を追いかけて捕らえようとするし、草食動物は必死で逃げる。より速い移動方法を獲得したものは、それだけ生き残る可能性が高くなるのだから。
採点は次のような方法で行なわれる。アーフをランダムに二体選び出し、仮想上のフィールドで鬼ごっこをさせる(このシミュレーションはゲーム機内部で高速で処理され、ユーザーには見えない)。制限時間内に鬼が相手を捕まえれば一点、逃げきれば逃げた側が一点を得る。このゲームを組み合わせを変えて各アーフにつき五〇回行なう。ゲームは鬼の役を交替して二回ずつ行なわれるので、最高点は一〇〇点だ。
フィールドの条件はユーザーが最初に設定できる。平原・砂漠・沼地・ジャングル・洞窟《どうくつ》の五種類で、重力の大きさ、空気密度、視界などのパラメータも選べる。
最初の世代のアーフ(当然、「アダム」と呼ばれている)は、棒状の胴体の端に感覚器官を持ち、側面に六個の関節があって、そこから細い棒状の脚が伸びており、ちょうど「¥」のような形をしている。見るからに冴《さ》えない姿だが、動きもまったく不器用で、歩くというより「のたうち回る」という感じの動作しかできない。それが、選抜、遺伝子交差、突然変異を繰り返すことにより、洗練された姿に進化してゆく。
まっすぐに速く走れるものが有利とはかぎらない。ジグザグに走ったり、障害物を利用したりして、相手の追跡を振りきる知恵も必要だ。ジャングルでは木に登れるものが有利だし、湿地帯では足で歩くより這ったり滑ったりする方が速い。重力が小さければ走るよりジャンプした方がいいし、空気密度が高ければ滑空も有利になる。運動に必要なエネルギー量も計算されているので、いくら速くてもエネルギー消費が大きすぎると、たちまち息切れを起こしてストップしてしまう。
与えられた条件の中で、アーフたちは最も効率のいい動きと形態を模索する。あるものは脚の形状を複雑に変化させ、見事な六足歩行を実現する。エネルギー消費を減らすために脚の数を減らして、四足歩行に移行するものもいる。あるものは胴体を長く伸ばし、体節を増やす一方、脚を退化させ、蛇のような姿になる。あるものは脚をヒレ状に変化させ、泥の中で泳ぐことを覚える……。
自然界では何億年もかかる進化が、モニター上では数時間で実現する。進化はあくまでランダムに進み、人間はそれに介在できない。フィールドのパラメータをいじって、自分の好みの形のアーフが出現しやすいように誘導することはできるが、ある条件で必ず出現するという法則はない。まったく予想もしなかった新種が出現することもよくあるのだ。
ユーザーによって出現するアーフはみんな異なり、ひとつとして同じものはない――それが『ダーウィンズ・ガーデン』の魅力である。
気に入ったアーフのデータはセーブしておき、他のプレイヤーと交換することもできる。だが、気に入ったものが生き残れるとはかぎらない。どんなに環境に適応しているように見えても、より適応した新種の登場によって、あっという間に滅ぼされてしまうこともある。
ある意味では、ひどく残酷なゲームである。だが、これこそ現実の自然界で起きていることなのだ。
それにしても、私には納得のいかない点があった。アーフの進化は誰に指図されたものでもなく、ランダムに体形を変化させているだけなのに、どうしてこんなにもバランスのとれた複雑なデザインが実現するのか? エントロピーの法則によれば、すべての現象は秩序から無秩序に向かうだけで、無秩序から秩序は決して生じないはずではないのか?
私の素朴な疑問に、兄は分かりやすく答えてくれた。
「エントロピーの法則は、閉鎖系――つまり外部とエネルギーや物質のやり取りがまったくない閉じたシステムでしか成り立たない法則なんだ。地球は太陽から常に熱エネルギーを受ける一方、余分な熱を宇宙に捨てている。植物は太陽のエネルギーで光合成をして、水と二酸化炭素からでんぷんを作る。草食動物は植物を食べ、その肉を肉食動物が食べる……つまり、地球の生態糸というのは、太陽からのエネルギーで動いている開放糸のシステムなんだ。だからエントロピーの法則には従わない」
「太陽からの光のエネルギーが、地球のエントロピーを減少させてるってこと?」
「そう。エネルギーというのは、言うならば負のエントロピーだ。だから地球上の生命が単純な構造から複雑な構造に進化するのは、何も不思議なことじゃない。必然なんだ」
「このゲームの場合も?」
「ああ。コンピュータの中で、アーフは鬼ごっこをしたり、遺伝子を交差させて子孫を作る。それはコンピュータが計算しているわけだけど、計算にはエネルギーが必要だ。つまりアーフは、ゲーム機のACアダプターを通して、家庭のコンセントからエネルギーを得て進化するわけだ」
遺伝的アルゴリズムというものの不思議を初めて知った私には、とても斬新《ざんしん》でエキサイティングな概念だと思えた。とりわけ、昔から多くの人が抱いてきた根源的な謎――「人類はなぜ誕生したのか」という疑問を、あっさり解決してしまっているのが素晴らしい。
太陽のエネルギーさえあれば、生命は自然に進化する。単純な形から、より複雑でエレガントな形へ、環境に適応して生き残るためにしのぎを削る。知恵というものは、脚、翼、牙《きば》などと同様、厳しい環境の中で生き延びるうえで大きな武器となる。地球上で繰り広げられている進化競争の中で、いつか高い知恵を持った生物が登場することは、進化の必然だったのだろう。地球に生命が誕生してから四〇億年。むしろ遅すぎたぐらいだ。
しかし、兄に言わせれば、こうしたことはすべて何十年も昔からコンピュータの世界で研究されてきたことで、新味などないという。もちろん秘密にされているわけでもない。一般に知られていないのは、単に一般人の関心が薄いからにすぎない。
「あれは単なるゲームじゃないんだ」
いっしょに夕食を食べながら、兄は熱く力説した。
「遺伝的アルゴリズムの有効性を世間にアピールする、一種のデモンストレーションだと思ってる。目で見るのがいちばん分かりやすいからね」
「遺伝的アルゴリズムって、他にはどんなことに使えるの?」
「あらゆることさ! 今のソフトはあまりにも高度で複雑になりすぎていて、もう人間が手でプログラムを書くのは限界に達してる。遺伝的アルゴリズムを使えば、人間は何も労力を使うことなく、効率のいいプログラムがいくらでも手に入る」
「これからはコンピュータがプログラムを書く時代になるってこと?」
「もうなってるよ。うちの隣の研究室では、新型の3Dモニターを開発してるんだが、画像処理アルゴリズムが最大のネックだった。仮想上の動く三次元映像を液晶の点滅に変換するプログラムがあまりにも複雑すぎて、人間の手に負えない代物だったんだ。ところが、うちの研究室で遺伝的アルゴリズムを試してみたら、ほんの五時間ほどの進化で、優秀な高速処理ソフトが完成しちまった。連中、ぼやいてたよ。『俺たちの半年間の努力は何だったんだ』って」
兄の話によれば、コンピュータの設計にも何年も前から遺伝的アルゴリズムが応用されているという。コンピュータをより小型化し、効率を上げるためには、配線を短くし、回路を可能な限り圧縮しなくてはならない。しかし、回路上で電子部品をどう配置すれば効率が最も良くなるかは、人間の頭で考えるには難しすぎる問題だ。そこで効率の悪い回路の設計図をコンピュータに与え、それを遺伝的アルゴリズムで進化させる。コンピュータはひとりでに設計図を書き換え、理想的な回路を完成させるわけだ。
「でも、ちょっと怖いな。コンピュータが勝手に進化するって」
「コンピュータに自我が芽生えて、人間に反抗するようになるってか?」兄は苦笑した。「古臭いイメージだな。ひと昔前のアニメとかSF映画によくあった話だ――まあ、世間の人の一般的な反応ではあるんだが」
「ないと言い切れるの?」
「言い切れるね、残念ながら。いくら性能が向上したって言っても、今のコンピュータはまだ人間の脳の能力に遠く及ばない。人間みたいに思考できるコンピュータなんて、まだまだ夢だ。もしそんなものができたら、僕はむしろ嬉《うれ》しいね――父さんの言葉、覚えてるか?」
「え?」
「父さんはよく言ってたよ。『いずれ人間みたいに話せるコンピュータができる。お前たちが大人になる頃には』って」
そう言えば、父はそんなことを言っていたかもしれない――私は覚えていなかったが。
「僕はあの言葉を心に刻んでる。僕がそのコンピュータを作ってみせる。何年かかるか分からないけどね。本当の自意識を持った人工知能――それが僕の夢だ」
「夢……」
兄は明確な夢を持ち、その実現に向かって着実に前進している。それを知って、私は軽いショックとともに羨望《せんぼう》を覚えた。私には兄ほどの才能はないし、明確な夢もない。私はいったい何をやっているのだろう? 私はどっちに向かって進めばいいのだろう?
私の夢はどこにあるのだろう?
悩んだ末に、私はライターを目指すことにした。本を読むのが好きで、人より少しばかり文章がうまく、知識や記憶力にも自信があった。それらの才能を最大限に活用できる場所は、活字の世界以外にないと思ったからだ。それに、活字には人の心を動かす力がある。活字を通して、この世界の不条理に対する怒りを表現したかった。
最初に飛びこんだのは、若者向けの雑誌やムックを手掛けている小さな編集プロダクションだった。まったく経験のない二〇歳の娘が採用された理由はごく簡単なことで、そのプロダクションには女子社員が少なかったのだ。
最初の半年ほどは、お茶|汲《く》みとか、読者アンケートの整理とか、弁当の買い出しとか、退場な雑用ばかりやらされた。これが理想と現実のギャップというものか、と嘆息する毎日だった。しかし、文章が書けることが証明されると、しだいに記事をまかされるようになっていった。
ところが、これが思いがけず苦痛だった。時として意に反する文章を書かなくてはならなかったからだ。
たとえば、夏には「ゾォ〜ッ!? 血も凍る読者の怪奇体験」などという特集記事を書かされた。読者から募集した怪奇体験談を元に構成したものだが、言うまでもなく素人の文章はそのままでは使いものにならないので、大幅に手を入れ、面白くなるように脚色しなくてはならない。そればかりか、あまりいい投稿が集まらず、ページを埋めるために何本か「体験談」を創作するはめになった。先輩たちの話によれば、「読者からの体験談」を創作するのは、この業界では日常茶飯事であるという。やむなく空白を埋める文章を書きながら、高校時代のヤラセ番組事件を思い出し、憂鬱《ゆううつ》になった。
血液型性格判断のムックを作らされた時も、強い精神的ストレスにさらされた。以前に心理学者の書いた本を読んだことがあり、血液型性格判断には統計的にまったく根拠がないことを知っていたからだ。これまで何人もの心理学者が、何千人もの日本人を対象に調査を行なってきたが、血液型と性格の間にはまったく相関はないか、あったとしてもごく小さなものだという結論が出ている。「A型は堅実で協調性がある」とか「B型はマイペースで柔軟」などというのは、単なる錯覚――心理学の素養のない素人がでっちあげ、マスコミが広めた虚構にすぎないのだ。
読者に嘘を教えていいのか、と上司に詰め寄ると、彼はあっさりと「仕事だからしかたないだろ」と答えた。
「俺たちは売れる本を作るんだ。売れる本ってのは、みんなが読みたがる本のことだ。みんなが血液型について本当のことを知りたいって言うんなら、そういう本を作ってやるさ。だがな、人間ってのは本当のことなんて知りたがらないものなんだ。嘘だと思うなら、街頭に出てアンケートを取ってみな。『あなたは血液型性格判断の本を読みたいですか、それともそれを否定する本を読みたいですか』ってな」
ずいぶん反抗したものの、結局、彼に押し切られる形で、私は血液型と性格の関係を解説した文章――事実に反した嘘八百の文章を何十ページも書かされた。自分が書きたくもない文章を書くという行為は、想像を絶する精神的苦痛だった。私は本音を偽って生きられるほど器用な人間ではなかったのだ。ストレスのために体調を崩し、トイレで吐いたこともあった。
同僚の男子社員たちは、私の苦しみをまったく理解しようとせず、「もっと気楽になれよ」とか「そのうち慣れるって」と気軽に言うばかりだった。彼らが親切そうに近づいてくるのは、私のことを本気で気にかけているからではなく、下心からなのは見え見えだった。私が誰からの誘いにも乗らなかったので、そのうち「レズだ」という噂を立てられた。単に寝たいと思う男がいなかったというだけなのだが、彼らはどうも「女は誘われれば寝るのが当たり前」と思いこんでいるふしがあった。
先輩の女性編集者の態度はもっとひどかった。彼女は私が同じ部屋にいるのに気づかず(その時ちょうど、私は自分のノートパソコンを回線に接続するために、机の下のどこかにあるはずのモジュラージャックを探して四苦八苦していたのだ)、「あの子、おかしいわよ」と嘲笑《ちょうしょう》したのだ。彼女の論によれば、正常で健全な日本人、特に若い女性なら、血液型性格判断を信じるのは当然のことであり、信じない私は精神を病んでいるのだそうだ。
いいかげんストレスが溜《た》まっていたこともあって、さすがに腹が立った。私は机の下から立ち上がると、こう言った。
「これは科学的に証明されている事実なんですよ!? それを認めないことの方がよほど変だと思いますけど」
彼女は少したじろいだものの、ふんと鼻で笑った。
「何をムキになってんのよ? 事実じゃないからって、どうだっていうの? バッカじゃないの、あんた!」
彼女の私を見る目は白かった。彼女の基準によれば、こんな話題で真剣になるのはかっこ悪いことらしかった。真剣になっていいのは、ファッションや、メイクや、テレビのトレンディドラマの話題だけなのだ。
彼らの誰一人として、自分たちの仕事に微塵《みじん》も誇りを抱いていなかった。毎月毎月、ひとかけらの罪悪感も感じることなく、デタラメだらけの文章を無責任に書きちらしていた。存在しない「関係者の証言」の捏造《ねつぞう》、専門的知識を持たない怪しげな「専門家」へのインタビュー、実際には実施しなかった街頭アンケート、誰にも当たらない読者プレゼント、編集部がでっちあげたいいかげんな性格テスト……。
もうたくさんだ、と私は思った。こんな職場にはいられない。このまま続けたら、自分の中の大切なものがすり切れてしまう。「現実」という名の濁流に押し流され、魂までもボロボロにされてしまう。真実を追求したいという信念が失われ、あの上司や先輩たちのように、嘘をつくことにまったく良心の呵責《かしゃく》を覚えない、だめな人間になってしまう……。
結局、二年で私はそのプロダクションを辞め、フリーのライターになった。もっとも、プロダクション時代の経験がまったく無価値だったとは思わない。出版界の裏側をいろいろ知ることができたし、多くの人と知り合うこともできた。
特に印象に残っている人物がいる。やはり怪奇特集で取材した、鎌倉に住むIさんという七二歳の老人だ。彼は少年時代に体験した不思議な出来事を私に話してくれた。
それは太平洋戦争の敗色濃い昭和二〇年三月のこと。当時、小田原の近くに住んでいたIさんは、ある日の早朝、海岸に海草拾いに出かけ、砂浜に奇妙な飛行物体が不時着しているのを発見した。てっぺんのハッチを開けて現われたのは、革の飛行服を着た日本人青年だった。彼は、これは日本軍が極秘に開発している兵器だと少年に説明した。まだ試験飛行中だが、完成すれば戦局は一変するという。
青年はエンジンの修理のために真水が一杯必要だと言った。Iさんは深く考えることなく、大急ぎで家に戻って井戸からバケツで水を汲んでくると、青年に渡した。やがて修理が終わると、青年はこの秘密兵器のことは誰にも喋《しゃべ》ってはいけないと念を押し、再び機械の中に乗りこんだ。プロペラが回ると、機械は空に飛び上がり、水平線に向かって消えていった。
Iさんは約束を守って誰にも話さなかったが、忘れないうちに自分が見たものを藁半紙《わらばんし》にスケッチしておいた。そして、それをずっと宝物として保管していた。
Iさんはそのスケッチを私に見せてくれた。六〇年の歳月を経て、藁半紙はすっかり変色して染みだらけになり、鉛筆の線もいくぶんかすれていたが、そこに描かれた少年時代の絵はまだ残っており、奇妙なリアリティで私の胸に迫ってきた。
円筒形の砲塔がある小型の戦車だった。砲塔からは短い砲身が突き出ており、両側のキャタピラの上から零戦のような翼が生えていて、後部にはプロペラがある。
考えるまでもなく、こんなものが空を飛べるはずがない。戦車の重量に比べて翼が小さすぎる――しかし、Iさんは確かにこの機械が空に飛び上がるのを見たと言う。
「戦後、気になって、自分でも調べてみたんですがね。こんな妙ちきりんな戦車だか飛行機だかが開発されてたなんて記録は、まったくないんですよ。子供の頃は不思議に思わなかったけど、今になってみるとねえ。ほんとに変なもんですよねえ」
喋りながら、Iさんは何度も首を傾げたり苦笑したりして、「おかしな話でしょう」とか「信じろというのは無理ですよね」などと恐縮していた。その態度が、私には誠実に感じられた。実際、Iさんは自分の体験談がいかに荒唐無稽なものかを承知していた。だからこれまで、嘲笑されるのを恐れて誰にも話さず、ずっと胸に秘めてきたのだ。今になって話す気になったのは、人生が終わりに近づき、どうしても真相が知りたくなったからだという。
「夢だったのかな、と思ったこともありますよ。でもね、あの海岸にキャタピラの跡が残ってたのは、よおく覚えてるんですよ。後になって大人たちが見つけて、『敵が戦車で上陸してきたんじゃないか』って騒いでましたしね――それにこれですよ」
Iさんが布包みの中から出してきたのは、黒光りする金属でできた一本のボルトだった。長さは私の小指ぐらいあった。
「その飛行士の人が、修理が終わってから、『これは要らないから』って私にくれたんですよ。六〇年も経ってるし、手入れなんざしてないのに、ぜんぜん錆《さ》びないんです。それだけじゃないんですよ。よおく見てください。なんか変でしょ?」
私はそのボルトを手の中で転がし、じっくり観察した。すぐにどこが変なのか気がついた。ボルトの頭が七角形をしているうえ、溝が二本ある――二重|螺旋《らせん》になっているのだ。
「ボルトには規格ってもんがあるんですよ。日本だとセンチ単位、アメリカだとインチ。これこれの直径のボルトの溝の幅はこれこれって、きっちり決まってるんです。当たり前ですけど。規格が合わなきゃ使えませんからね。こんなボルトはどこの国の規格にもない。だいたい、頭が七角形じゃ、レンチが使えませんよね。つまりこれは、あっちゃいけないボルトなんですよ」
存在するはずのないボルト――握り締めているうち、それは生暖かくなってきた。その奇妙な感触は、私の胸に冷たい恐怖を生じさせた。UFOやロケットだというのなら、まだ理解できないでもない。しかし、空飛ぶ戦車というのは……。
Iさんはいかにも誠実そうな人物で、嘘をついている様子はまったく見られなかった。取材の謝礼はほんの雀の涙で、そんなもののためにこんな凝った嘘をつくとは考えられない。それにIさんは名前が知られることを恐れ、仮名にして顔写真も出さないでくれと要求した。彼は有名になりたくてこんな話をしたのではないのだ。
彼はただ、真実を知りたかっただけなのだ。
「ねえ、どう思います? いったい、あれは何だったんでしょうねえ?」
私に答えられるはずがなかった。
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私がフリーになったのは二〇〇八年の一〇月。それまで勤めていたプロダクションをほとんど当てもなしに衝動的に飛び出したのだが、若くて経験の浅い人間はなかなか信頼してもらえず、最初のうち、ほとんど仕事はなかった。じきに貯金は底を尽き、食費や光熱費まで切り詰めた最低限の生活をするはめになった。ファッションに回す金などなく、バーゲン品のTシャツと安物のジャンパーとすり切れたジーンズという野暮ったい格好で駆け回った。もっとも、以前からおしゃれにはあまり気を使わないたちだったので、それほど苦痛というわけでもなかった。
私にとって、一九九三年八月二日の夜の出来事以上の苦痛などありえなかった。
幸い、以前に知り合った人のコネで、ウェブマガジンの取材や記事のリライトの仕事をいくつか回してもらった。こっちからも雑誌社や出版社に売りこみにも行った。
少しずつではあるが仕事が評価され、金銭的にもゆとりが出てきた。無論、固定した収入のない不安定な生活ではあったが、少なくとも仕事を選ぶ自由はある。
私はいろいろな仕事にがむしゃらにチャレンジした。当時、話題になりかけていたレディスヘブンの体験取材、などという恥ずかしいこともやった。大学時代に朝鮮語を学んだのを生かし、北朝鮮崩壊以後、増加の一途をたどりつつあった密入国者の集団に接触して、インタビューした。憲法改正と核保有を唱える愛国者団体の集会にまぎれこみ、その実態を記事にしたこともあった。
金になりさえすれば、題材は何でも良かった。ただ、「事実を誇張しない」「嘘は書かない」ということだけは堅いポリシーにしていた。
密入国者問題の記事でも、編集者から「もっと彼らの危険性を誇張して書いてくれ」と言われたが、断固として拒否した。確かに当時、中国および朝鮮半島からの密入国者は四万人を超えると見積もられていて、大きな社会問題になっていた。二〇〇八年だけでも、こうした密入国者によると見られる刑事事件は七七八件も起きていて、ほとんど毎日、テレビを賑《にぎ》わせていた。日本人の多くが「密入国者は危険な犯罪集団だ」と思いこんでいたはずだ。しかし、この数字を冷静によく見れば、犯罪に手を染めた者は密入国者全体の二パーセント以下にすぎないことが分かるはずだ。実際、私が取材した密入国者の多くは、貧困に耐えかね、日本に希望を求めてやって来た真面目な人たちで、彼らを悪く書くことなどできなかった。
とりわけ、洪水で川畑を失った家族の体験談を聞いた後では、「彼らを追い返せ」などと言えるはずがなかった。
初めて加古沢黎に会ったのもこの頃だった。当時、彼は若年層を中心に、ネタレとして頭角を現わしつつあった。
マスコミにはあまり露出しないがネットの中での知名度が高い人物は、二〇世紀にも何人かいたことはいた。だが、彼らがネタレと呼ばれ、本格的に台頭して世論を動かすようになってきたのは、二一世紀に入ってからだ。
それまでインターネットを流れる情報は一種のサブカルチャー扱いされていた。マスコミ関係音はインターネットの普及を横目で見ながらも、ちょっとした便利な道具という以上の意識を持たず、自分たちの存在を脅かすものだとは思っていなかった。新聞やテレビはいつまでも情報化社会の中心だと思い上がっていたのだ。
だが、二一世紀の最初の数年間で、急速な逆転現象が起きた。ネット人口が飛躍的に増大したため、ネットの方がメインストリームになっていった。利用音が増えるにつれ、情報の需要は増大する。その需要に見合う情報が発信される一方、システムはいっそうユーザーフレンドリーになり、ますます利用者を増やす――その変化のスピードときたら、まさに「雪崩を打ったような」という表現がぴったりだった。
インターネットの性能向上がそれに拍車をかけた。ケーブルテレビや光ファイバー網の普及により、二〇〇七年までには、日本全国で一〇〇メガbpsの速度で通信できる環境が整備されていた。前世紀には夢物語だった数字である。これによって従来は困難だった大容量の動画データもリアルタイムで送れるようになり、ストリーム放送が一挙に普及した。
そうした技術革新とライフスタイルの変化の影響は、テレビの視聴率の低下、新聞や雑誌の売り上げ低下という目に見える形で現われた。テレビ局、新聞社、出版社は狼狽《ろうばい》し、対策に苦慮したが、凋落《ちょうらく》は食い止められなかった。
特に打撃を受けたのが新聞だった。一か月何十新円という購読料を払っているのに、自分にとって価値のある情報はほんの少ししか載っておらず、膨大な量のゴミを生む。情報が欲しければネットで検索すればいいということに、みんな気がついてしまったのだ。時代の波に乗り遅れないためにも、新聞社は紙に印刷された活字という媒体に見切りをつけ、ネット上でのニュース配信サービスに活動の中心を移していかざるを得なくなった。
テレビ、特に地上波の人気も急落した。大衆は衛星放送やインターネットやビデオやテレビゲームに夢中になり、地上波を視聴する時間がなくなってきたのだ。かろうじて視聴率を保っていたのはドラマとアニメぐらいのものだったが、それにも陰りが見えてきた。
先は長くないと判断して、演出家や脚本家たちは、ビデオ業界に新たな活躍の場を求めた。粗製濫造されていた従来のテレビドラマに代わって、金と時間をかけたOVDが人気を集めつつあった。もはやタレントもスタジオも不要だった。CGの技術向上とコストダウンによって、過去の大スターでも自由に出演させられたし、どんなスペクタクル・シーンでも安い予算で制作できるようになっていた。テレビ界や映画界はまだ組合の力が強く、古い体質から脱却できなかったため、オールCGへの移行には消極的だったが、ビデオの世界にはそんな規制はない。そこで求められているのは俳優でも技術でもなく、脚本や演出や美術のセンスだった。それがテレビ界の体質に不満を抱いているスタッフを引きよせた。
優秀な人材がテレビ界から流出したことによって、番組の質はますます低下した。テレビ局は視聴者をつなぎ止めようと、以前にもまして低俗で刺激的な番組を量産し、悪あがきを展開した。きわどい言葉や怪しげな話題が飛び交うワイドショー。タレントや一般人が口汚く罵《ののし》り合い、つかみ合いの喧嘩《けんか》(もちろんヤラセの)を演じるバラエティ番組。ストーリーなどないも同然で、登場人物がありとあらゆる悪行を重ねるだけのインモラルなドラマ……それらはごく短期間、注目を集めたものの、じきに視聴者をあきれさせ、いっそうテレビ離れを加速する結果になった。
マスコミ以外の大企業もネットの影響力を無視できなくなった。ある企業の製品についての悪い評判がネットを流れたため、大きなイメージダウンが生じ、売り上げが何十パーセントも低下するという事件が何度も起きたからだ。もはや消費者はテレビのCMなど信用しない。多額の費用を注ぎこんでテレビや新聞紙上でキャンペーンを展開しても、ネットを流れる噂ひとつで台無しになってしまうのだ。企業はネットでのイメージを重視するようになり、ホームページやバナー広告を充実させる一方、悪評対策に真剣に取り組むようになった。テレビや新聞・雑誌広告の人気は薄れた。広告収入の減少はマスメディアをさらに窮地に追いこんだ。
二〇〇八年までには、すでに情報の中心はインターネットと衛星放送とケーブルテレビに移行していた。人々はネットで情報を集め、衛星放送やケーブルテレビ、あるいはストリーム放送で映画やドラマを観賞するようになった。新聞はパソコンに親しめない年寄りだけが読むものになった。テレビに対する幻想は剥《は》がれ落ち、「まだ地上波を見ているのはバカだけ」とまで言われるようになった。
当然のことながら、テレビや新聞に代わって、ネット上での言論が大きな影響力を持つようになっていった。ホームページや掲示板上での発言や議論が話題になり、時には世論を動かす力となった。特に人気のあるネタレの発言には、多くの人が注目した。
そんな時代に現われたのが加古沢黎だった。
彼の名を高めるきっかけになったのは、現代思想関係の掲示板でのバトルだった。そこではかねてから、「天地人」というハンドルネームの人物が、「南京大虐殺は東京裁判の際に連合国がでっちあげたもの」という説を主張しており、会議室の他のメンバーを相手に、どちらかと言えはだらだらした議論を繰り広げていた。二〇〇八年九月、そこに「あくはと」という人物が参入し、「天地人」の主張に真っ向から噛《か》みついた。議論は一気にヒートアップし、約三か月、計一〇〇〇発言を超える激しいバトルが展開されたのだ。
そのバトルは開始当初から、ネットウォッチャーたちの注目を集めていた。「天地人」の正体が、右翼的言動で知られるミステリ小説家の真田《さなだ》佑介《ゆうすけ》であることは、以前から知られていたからだ。だが、彼に無謀にも挑戦した「あくはと」とは何者だ?
私はリアルタイムでそのバトルは見ておらず、後でログに目を通したのだが、「あくはと」の発言はまさに正しい議論とはこうあるべきというお手本と思えた。ネット上でのこうしたバトルは、多くの場合、互いに感情的になり、人格を傷つける罵り合いに発展したあげく、決着がつかずにうやむやに終わることが多い。しかし、真田がしばしば理性を失い、非論理的な発言や相手を嘲笑《ちょうしょう》する発言を繰り返したのに対し、「あくはと」はあくまで理性的で、時にユーモアを交えつつも、決して相手を不必要に愚弄《ぐろう》したりはしなかった。彼(この時点ではまだ男か女かも分からなかったのだが)は、持てる知識のすべてを傾け、完璧《かんぺき》な論理で着実に相手をねじ伏せていった。はたから見ていると、その力量の差は圧倒的だった。
最初、真田は話題を呼んだアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』の例を持ち出し、南京大虐殺を肯定する者の主張はどれもこれもデタラメだらけだ、と主張した。それに対し「あくはと」は冷静に切り返した。私も『ザ・レイプ・オブ・南京』がひどい本だということは知っているが、それはこの議論の本質ではない。たとえば、広島への原爆投下について間違いがたくさん書かれた本が何冊かあったからと言って、原爆投下がなかったと言えるだろうか?
真田が、「そもそも南京大虐殺を見た者など一人もいない」と発言すると、「あくはと」はここぞとばかりに大量の証言をアップしてきた。たとえば日本軍の南京入城式のあった一九三七年一二月一七日だけでも、当時の日本兵の日記の中にこれだけの証言がある。
「その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江岸にて銃殺した」(歩兵第六五連隊第一中隊・伊藤喜八上等兵)
「夕方|漸《ようや》く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった」(歩兵第六五連隊第四中隊・宮本省吾少尉)
「夜捕虜残余一万余処刑ノ為兵五名差出ス」(歩兵第六五連隊第八中隊・遠藤高明少尉)
「中隊ノ半数ハ入城式へ半分ハ銃殺ニ行ク、今日一万五千名、午后十一時マデカヽル」(歩兵第六五連隊第九中隊・本間正勝二等兵)
「捕虜残部一万数千ヲ銃殺ニ附ス」(歩兵第六五連隊連隊砲中隊・菅野嘉雄一等兵)
「午後五時敵兵約一万三千名ヲ銃殺ノ使役ニ行ク、二日間ニテ山田部隊二万人近ク銃殺ス、各部隊ノ捕慮[虜]ハ全部銃殺スルモノヽ如ス[シ]」(山砲兵第一九連隊第三大隊・目黒福治伍長)
犠牲者の数字はおそらく目測によるため食い違っているが、これらの証言が同一の事件について述べているのは確かである。しかもこれはたった一日の出来事である。目黒福治の文にあるように、この前日の一二月一六日にも多数の捕虜虐殺があったし、その後もあったのである。
たとえば一二月一六日。
「揚子江付近に此の敗残兵三百三十五名を連れて他の兵が射殺に行った」(歩兵第七連隊第二中隊・井家又一上等兵)
「市民と認められる者は直ぐ帰して、三六名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない」(歩兵第七連隊第一中隊・水谷荘一等兵)
真田はまったく動じず、せせら笑った。そんな下級兵士の証言など信用できない。どうせ左翼文化人のでっちあげに違いない。たとえば第一六師団長の中島今朝吾中将の日記には、虐殺行為などまったく記されていない。それどころか、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」とあって、当時の日本軍が中国兵を捕虜にせず、武装解除して解放していたことが分かる……。
「あくはと」は即座に反証を挙げた。中島今朝吾中将の日記には、真田が引用した箇所のわずか数行後に、一二月一三日に捕虜にした中国兵の処分について、次のような記述があるのだ。
「此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百ニ分割シタル後適当ノケ[カ]処ニ誘キテ処理スル予定ナリ」
この文章の意味が理解できない者はいないだろう。武装解除して解放するだけなのに、なぜ「大ナル壕」が必要なのか? つまり先の「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」というのは、捕虜はすべて殺して埋めてしまう方針のことなのだ。結局、何万人も理める「大ナル壕」が用意できなかったので、揚子江岸で殺害して死体を河に流すことにしたのだろう。
真田はこうした事実を知らなかったらしい。どうやら中島中将の日記を実際に読んだわけではなく、「なかった」派の書いた本の歪曲《わいきょく》された解説を鵜呑《うの》みにしていたようだ。
彼は「あくはと」の指摘に狼狽し、「なかった」派お得意の論理に逃げこんだ。すなわち、処刑されたのはすべて一般人に変装した便衣兵、つまりゲリラであり、ゲリラの処刑は国際法で認められている、と。
しかし、この反論も「あくはと」は見事な論法で粉砕した。
第一に、捕らえたゲリラは殺していいというのは俗説であり、国際法にそんな規定はどこにもない。確かに当時の日本が批准していた『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約』には、交戦者の資格として「遠方ヨリ認識シ得ベキ固着徽章ヲ有スルコト」「公然兵器ヲ携帯スルコト」など四条件が挙げられ、これらの条件を満たさない便衣兵は捕虜としての正当な待遇を受けられないことになるが、だからと言って「殺していい」とは書かれていない。それどころか条約の前文には、「締約国ハ其ノ採用シタル条規ニ含マレザル場合ニ於テモ人民及交戦者ガ依然文明国ノ間ニ存立スルノ慣習、人道ノ法則及公共良心ノ要求ヨリ生ズル国際法ノ原則ノ保護及支配ノ下ニ立ツコトヲ確認スルヲ以テ適当卜認ム」とあり、捕虜虐殺がこの精神に反するのは明白である。
第二に、先に挙げた日記にはどこにも、殺されたのがすべて便衣兵だとは書かれていない。中島中将の日記にも、先の引用箇所の前行に「約七八千人アリ尚続々投降シ来ル」とあり、戦意を失って投降してきた兵士の処分について述べたものであるのは間違いない。
第三に、日本軍が南京陥落後に「便衣兵狩り」を行なったのは事実だが、どうやって一般市民と便衣兵を見分けたのだろうか。いくつかの証言によれば、便衣兵とみなされた者は、手にタコがあるのを銃を持った証拠、額が陽に焼けていないのを軍帽をかぶっていた証拠とされ連行されたという。つまり罪のない一般市民が多数処刑されたのは確実である……。
形勢不利になった真田は話題をそらそうとした。議論の流れを無視し、教科書問題、従軍慰安婦問題などを論じはじめたのだ。「あくはと」はそれには応じず、そんな話題は当面の議論とは関係がない、と一蹴《いっしゅう》した。真田は「議論から逃げるのか」と相手を非難したが、逃げているのは真田の方であるのは明らかだった。
真田は捕虜の虐殺は認めたものの、日本兵が掠奪《りゃくだつ》や暴行を繰り広げたというのはデマだ、と主張した。彼の信じるところ(例によって誰かの説の受け売りだったが)によれば、当時の南京市内で起きた殺人事件はたった三件だという。
「あくはと」はただちに、日本兵の日記、証言、日本軍の内部資料の中から、日本兵による放火・掠奪・強姦《ごうかん》・一般市民殺害の例を大量にアップしてみせた。先の中島中将の日記にも、一二月一九日の箇所に、日本兵による掠奪行為の横行がはっきり記載されている。真田がそれでも信じようとしないので、「あくはと」はさらに、当時の南京に居合わせた連合キリスト教伝道団ミニー・ヴォートリンの生々しい日記や、南京ドイツ大使館書記官ゲオルク・ローゼン、金陵大学教授マイナー・S・ベイツ、アメリカ人宣教師ジョン・G・マギー牧師らの報告もアップして、追い討ちをかけた(真田はヴォートリンの名すら知らなかった)。
真田はそれでも頑固に、そんな報告はどれも信用できない、と主張した。だいたい兵士の犯罪行為は憲兵が取り締まるはずではないか。ごく一部の兵士が凶行に走った可能性はあるが、例外中の例外であり、規律正しい天皇の軍隊が暴行や掠奪をするはずがない……。
しかし「あくはと」は、南京陥落時、前線には憲兵は一人もおらず、一二月一七日にようやく一七名が入城しただけだと指摘した。当然、兵士の規律を守る役には立たなかった。それどころか、一般兵士の間だけでなく、上級将校の中にさえ、掠奪や強姦を当たり前とする風潮があったことは、多くの証言から明らかだ。
当時、兵士たちのこうした目に余る暴走は、本国にも伝わっていた。外務省東亜局長であった石射猪太郎の一九三八年一月六日の日記にはこうある。
「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。鳴呼《ああ》これが皇軍か。日本国民民心の頽廃《たいはい》であろう。大きな社会問題だ」
こうした記録が数多くある以上、「南京大虐殺は東京裁判で初めて出てきた」などという主張が誤りであるのは疑いがない。
議論の勝敗は明らかだった。真田はろくな歴史知識を持たず、まともな資料を調べてみようという意欲もなく、その論理は穴だらけだった。それに対し、「あくはと」の知識量と資料検索にかける情熱には際限がないように見えた。
バトルが終わりに近づくと、とうとう真田は最後の悪あがきに走った。「あくはと」を「アカ」と罵り、「東京裁判史観に毒されている」とか「中国から金を貰《もら》っている」などと決めつけたのである。「あくはと」というハンドルネームは「赤旗」のもじりに違いないとも主張した(実際はカナアンの神話に出てくる美青年の名前である)。彼の文章はどんどん支離滅裂になり、まさに末期症状と呼ぶにふさわしかった。
それに対し、「あくはと」は最後まで冷静だった。
[#ここから2字下げ]
私は右翼でも左翼でもありません。そんな風にすべての人間を極端に二分化しないと気が済まない、古臭い○×式思考にも興味はありません。
あの戦争では日本は間違っていて連合国は正しかったとか、日本は正しくて連合国は間違っていたとか、そんな風に割り切れる人は、はっきり言って幼稚です。
中国側は30万人という犠牲者数を主張し、左翼文化人はそれを鵜呑みにしているようです。私はその数は誇大だと思っていますが、正確に何人だったかはおそらく永遠に分からないでしょうし、そもそも人数は議論の本質ではありません。
日本の悪事ばかり不当にクローズアップされているという点では、私も天地人さんに同意見です。ナチスによるホロコースト(これも正確な犠牲者数は不明です)は有名ですが、連合軍もドレスデン爆撃や東京大空襲などの大量|殺戮《さつりく》を行ないました。あの戦争の期間中、連合軍の爆撃によって死亡した民間人の数は、日本では30万人、ドイツでは50万人以上とされています(この数字には、原爆の後遺症で戦後亡くなった方は含めていません)。
しかし、どの国の犠牲者が最も多いかを比較しても意味はありません。殺した数が少ないから正しいとは言えないし、犠牲者数が多ければ被害者面できるというものでもないでしょう。正義や悪は犠牲者数で計れるものではなく、相対的なものにすぎないのですから。
自分が生まれる半世紀も前の事件に関して、中国人に謝らねばならないとも思っていません。1937年に南京で起きたことは、私にとっては遠い過去の一部、人類の歴史上何度も繰り返されてきた悪行のひとつにすぎず、それ以上の意味はないのです。
天地人さん、私があなたを非難するのは、政治的信念とは何の関係もありません。あなたの歴史知識が誤っている、ただそれだけの理由です。
私が言いたいのは、「○○史観」とか「××論」を主張するのは結構だが、まず事実を正しく見つめていただきたい、ということです。虚構の上に「論」を展開したり、自分好みの「史観」に合わせて史実をねじ曲げるなどという行為は、本末転倒もいいところです。歴史とはそんな都合のいいものじゃないでしょう?
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これにはついに真田も切れた。そして、「偏見に凝り固まった人間には何を言っても無駄なようですね」と、まさに自分に投げかけるにふさわしい捨て台詞《ぜりふ》を残し、掲示板から撤退したのである。ここに長かったバトルは終結した。
権威が失墜するのを見るのは楽しいものである。六〇歳の直木賞作家がこてんぱんに叩《たた》きのめされたのを見て、観戦していたネットウォッチャーたちは大いに喜び、「あくはと」に賞賛のメッセージを送った。
しかし、本当のセンセーションはその後だった。バトルをウォッチしていた一人が、「自分が生まれる半世紀も前の事件」という箇所に疑問を抱き、「あくはと」に年齢と職業を訊《たず》ねたのだ。彼が誇らしげにこう答えた時、衝撃がネットを駆け抜けた。
「私は1989年生まれ。19歳。中卒。職業は天地人さんと同じく、小説家です」
六〇歳の先輩作家をやっつけた一九歳の少年「あくはと」が、加古沢黎という名であることは、すぐに知れわたった。
職業が小説家というのも本当だった。二年前、一七歳の時に書いた処女長編『アポロニオスの魔書』は、四世紀のアレキサンドリアを舞台に、一九歳の美貌《びぼう》の女性科学者を主人公にした異色のホラー小説だった。この作品はその緻密《ちみつ》な時代考証と構成力が評価され、紅葉書房ファンタジー小説大賞に入選した。以来、一五世紀初頭の地中海世界を舞台にした歴史ファンタジー『ディアナ・サイクル』シリーズを年二〜三作のペースで発表し続けていた。どれも売り上げは一〇万部を超え、たった二年で根強いファンを獲得していた。
まさに「天才」と呼ぶにふさわしい人物だった。
彼は以前からホームページを開設していたのだが、この事件以後、彼の小説を読んだことのなかった人々もたくさんアクセスするようになった。小説だけが彼の才能のすべてではないのは明らかだった。彼のホームページは楽しく興味深いエピソードにあふれ、痛快で、魅力的だった。ネットワーカーの用語で言うなら「クール」なのだ。一度見に来た者は、内容が更新されればまた訪れる。そして口コミでさらに人気が高まる。二〇〇九年の三月までには、月に二〇万以上のアクセスを記録するまでになっていた。
彼はいわゆる不登校児だった。「中卒」というのは正確ではなく、中学二年の秋から学校に通わなくなり、卒業式にも出ていない。しかし、学校でいじめを受けたとか、学校の授業について行けなくなったというわけではない。その逆だ。学校の授業があまりにも低レベルすぎて面白くなく、行くだけ無駄と判断したのだ。
不登校児というと閉鎖的なイメージがあるが、加古沢の場合は漫然と家に引きこもってはいなかった。歴史に人一倍興味のあった彼は、インターネットを駆使して知識を深める一方、毎日のように書店や図書館に出かけ、歴史小説や歴史書を精力的に読み漁《あさ》ったのだ。「三年間で一〇〇〇冊は読んだ」というのも、あながち誇張ではあるまい。その知識欲と努力の成果が、優れた作品となって結実したのだ。
当時、彼はホームページでこんなことを書いている。
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たとえば、国語の授業で習う漢字の書き順ってやつ。あれには何の意味もない。これだけパソコンやワープロソフトが普及した今、字を手書きする機会なんてめったにないんだし、たまにあっても、「品」という字をどんな順序で書こうが、完成した字にたいした違いがあるわけじゃない。大きなお世話ってもんだ。
サ行変格活用がどうとか、形容詞と形容動詞の違いがどうとかいうのも、まったく必要のない知識だ。
俺は小説を書きながら、「この助詞の未然形は」なんていちいち考えてなんかいない。そんな知識がなくても文章は書ける。
はっきり言って、小中学校を通じて、国語の授業で何か重要なことを学んだ経験は一度もない。漢字とか、正しい文法なんてもんは、本をたくさん読めば自然に覚える。文章なんてもんは、書き慣れれば自然にうまくなる。
じゃあ、なぜ学校で何十時間もかけて文法や書き順を教えるのか? それは教科書を作ってる年寄りたち、つまり国語学者だとか文科省の役人どもが、それを大事だと思ってるからにすぎない。連中は「子供にはこれこれのことを教えなくてはならない」という、まったく根拠のない盲信にとらわれていて、それを押しつけてくる。
文科省は児童の国語力低下を憂いてるらしいけど、俺に言わせれば、国語力を低下させている張本人は文科省だ。もっと面白い本をたくさん子供に読ませればいいだけの話なのに、それをしない。教科書に載るのは、太宰治だの夏目漱石だの、カビの生えた「名作」ばかり。あげくに退屈なだけで無益な文法の授業に時間を割いて、国語嫌い、読書嫌いの子供をせっせと量産してる。
俺の好きな歴史にしてもそうだ。歴史というのは素晴らしくエキサイティングで魅力的なのに、授業ではその魅力を教えようとしない。教科書に載ってるのは、エッセンスを抜かれ、圧縮され、漂白され、からからに干からびた味気ない歴史の絞り滓《かす》だ。
理科や数学、地理だって同じだ。2次方程式の解法や、イオン化傾向の順序や、エクアドルの主要産業は何かなんて、必死になって暗記する必要はまったくない。そんなのはごく一部の専門職にしか必要ない知識で、大半の人間は一生のうち一度も使わずに終わってしまう。げんに大半の人間は学校を出たとたんに忘れてしまう。
嘘だと思うなら、君の周囲の大人に訊ねてみればいい。「東ローマ帝国が滅びたのは西暦何年ですか」って。
俺もちょくちょくフランス革命の年や大政奉還の年をド忘れするが、支障を感じたことは一度もない。小説を書く時には、資料を横に置いて書く。だから年号を暗記する必要なんてない。忘れたら調べればいいだけのことだ。大事なのは暗記力じゃなく、歴史や科学や数学を愛する心のはずだが、学校ではそれは教えない。
だから、これを読んでいる中高校生諸君に忠告する。学校なんてやめちまえ! 授業なんて役に立たない。やめれば授業料を払わなくて済むし、親も喜ぶ。
ただし、ぶらぶら遊ぶな! それじゃ親を悲しませる。自分で勉強するんだ。
独学の方が学校の授業より3倍は効率がいい。これは俺の経験だから確かだ。独学の1年間は高校の3年間に匹敵する。高校に3年行くぐらいなら、同じ期間独学すれば、たっぷり9年分は学べる。時間を無駄にすることはない。
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月何十万ものアクセスがあるホームページは、影響力も大きい。彼の発言を真に受け、学校に行かなくなった子供が何人も現われ、ちょっとした問題になったこともある。無責任な発言だと批判するマスコミや文化人に対し、彼は堂々と反論の陣を張った。勉強するなとそそのかしたのなら非難されてもしかたがないが、勉強しろと言ったのに批判されるいわれはない。自分たちが教育を荒廃させたのを棚に上げて、文句をつけてくるな、と。
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知っての通り、前世紀の末から、不登校児の増加、学級崩壊といった問題が深刻化している。この前のニュースによれば、全国の小中学校の4割が学級崩壊を起こしているそうだ。
キョーイクシャとかブンカジンと称する連中は、その原因がさっぱり理解できないでいる。やれテレビやゲームの悪影響がどうの、戦後民主主義の歪《ゆが》みがどうのと、スケープゴートを探すのに熱心だ。
だが、俺自身、不登校児だった体験から言わせてもらうなら、問題はぜんぜん別のところにある。今の子供たちは賢くなったんだ。学校は何の役にも立たない退屈な場所だってことに気がついちまったんだ。
ところが頭の固い年寄りたちは、「学校」という幻想にしがみついてるもんで、本質が理解できないわけだ。
(中略)
俺の教育改革案はこうだ。学校では授業を一切やめる。子供を遊ばせ、遊びを通じて、集団生活の規律、人間関係の大切さといったものを自然に学ばせる。ビデオで歴史ドラマを見せ、歴史に興味を抱かせる。アニメのノベライズなんかを読ませて、読書も楽しいもんだってことを教える。科学マジックを見せて科学が好きになるきっかけを作るとか、数学パズルで数学の面白さに気づかせるってのもありだと思う。要するに子供を勉強好きにするのが先決だ。あとは子供が自分で興味を抱き、自分で勉強するだろう。
そう、本気で教育を改革したいなら、まず文科省をぶっ潰《つぶ》すことだ。
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こういう過激な発言を連発する男だから、若者たちから支持されるのも当然だった。三〇代、四〇代の人間でさえ、彼に啓蒙《けいもう》されるところが大きかった。ニュース配信サービスでも何度も彼のことが取り上げられ、知名度は上がる一方だった。
私も評判を伝え聞き、彼に興味を抱いていたので、ウェブマガジン『TGオンライン』からインタビューの仕事を依頼された時、一も二もなく引き受けた。編集長の話によれば、加古沢にインタビュー依頼のメールを送ったところ、「どうせだったらインタビュアーは若いお姉さんがいいですね」と冗談半分の返答が返ってきたので、私に白羽の矢が立ったのだそうだ。
初めて会った加古沢は、まだ初々しかった。中肉中背、眼鏡をかけ、理知的な風貌《ふうぼう》。いわゆるオタク的な暗さはまるで感じさせなかった。冗談で言ったリクエストが本当になったもので、「言ってみるもんだなあ」と無邪気にはしゃいでいた。
彼はとにかくよく喋《しゃべ》り、よく笑った。喋りたいことが頭の中にいっぱい詰まっていて止まらない、という感じだった。私は彼の淀《よど》みないお喋りには少し閉口したものの、その純粋さには好印象を持った。二時間に及ぶインタビューのうち、誌面に載せられたのはほんの一〇分の一程度だった。小説誌なもので、小説以外の話題は大幅にカットせざるを得なかったのだ。
インタビューしたのは二〇〇九年一月九日。その前日、彼は二〇歳になっていた。
「選挙には行きませんよ」彼は笑いながら言った。「投票に行かないのは無責任だって怒る人もいますけどね。でも、今の日本、投票するに値する政治家なんていますか? この人物なら日本を良くしてくれる、っていう碓信もないのに票を入れるのは、それこそ無責任ってもんじゃないですか」
加古沢がそう言うの無理はなかった。前世紀から続いていた政治の混迷は、この時期、ピークに達していた。毎年のように奇妙な名前の新政党が誕生しては、覚えるよりも早く消えていった。政党は連合・分裂・敵対・消滅をランダムに繰り返し、いったい政党が今いくつあるのか、誰がどの党に属しているのか、政治部の記者でさえこんがらがるほどだった。
当然のことながら、彼らは金や権力の争奪戦に全精力を注いでおり、かんじんの政治にはあきれるほど無関心だった。朝鮮半島からの難民問題もそうだが、デフレ・スパイラル、続発する大手銀行の破綻《はたん》、首都圏第三空港スキャンダル、メディア人格権問題などなど、山積する問題について、真剣に取り組もうという意欲を見せず、国民を苛立《いらだ》たせていた。
「でも、投票しなければ、ダメな政治家がまた当選するわけでしょう?」
「投票しても同じでしょ? 今、日本の投票率が五〇パーセントを割ってるのは、国民の政治に対する無関心というよりも、政治に対する絶望の顕れだと思いますね。誰に投票してもダメだ、無駄なんだって、国民が気づいちゃったんですよ」
「そうかもしれませんね」
「そうですよ」加古沢は真剣な表情で強くうなずいた。「まさに亡国の危機ってやつですが、かんじんの政治家どもに危機意識がないから、どうにもならない。政治の腐敗を投票率の低下のせいにされても困りますよね。原因と結果が逆なんだから」
「じゃあ、もし本当に有能で信頼できる政治家が現われたら……」
「もちろん、喜んで投票しますよ。俺だけじゃない、たぶん棄権している五〇パーセント以上の国民も投票するでしょう。そういう人間が現われれば、ですが」
私はふと思いついて、こんな質問をしてみた。「あなたは政治家になるつもりは?」
「俺が日本を動かすんですか?」彼は苦笑した。「うーん、どうでしょうね。俺は政治家には向いてないですよ」
「でも、小説の中ではいろんな政治的な駆け引きが出てくるじゃないですか」
「現実の政治は、小説みたいにはうまくいかないでしょう。確かに小説の中では大勢の人間を思い通りに動かせますが……うーん……だけど……」
長いインタビューの中で彼が考えこみ、口ごもるのを見たのは、その時だけだった。結局、彼は「だけど」の後に続く言葉を口にせず、話題を変えた。
ずっと後になって、この記録を聞き直し、私は戦慄《せんりつ》した――あの時、彼の頭の中で、ひとつの小さなスイッチが切り替わったのではないだろうか。それはいずれ切り替わるはずのものだったのかもしれない。しかし、それをひと押ししたのは、私の何気ない一言だったのではないだろうか。
あの日、私は日本の歴史の重大な転換点に立っていたのではないだろうか?
同じ頃、やはり歴史の転換点となった二つの事件が起きていた。そのニュースは世界中の天文学者を震撼《しんかん》させたが、一般にはほとんど注目を集めなかった。
ひとつは「パイオニア減速問題」である。
一九七二年三月にアメリカが打ち上げた惑星探査機パイオニア一〇号は、翌年一二月、木星に一三万キロまで接近し、木星の衛星や木星表面の雲の鮮明な写真を送信してきた。任務を終えたパイオニア一〇号は木星軌道を通過、一九八七年には冥王星《めいおうせい》軌道を超え、人類の作った物体としては初めて太陽系外に飛び出した。一三か月遅れて打ち上げられたパイオニア一一号も、やはり木星と土星の観測に成功、太陽系の外へ向かった。
遠ざかりつつある二機の探査機は、後方の太陽の引力に引かれ、わずかずつ減速している。しかし、太陽の引力は距離の二乗に反比例して小さくなるため、太陽から遠ざかるにつれ、その減速率も減少する。最終的にはパイオニア一〇号は太陽の引力を振り切り、八〇〇万年後には牡牛座《おうしざ》のアルデバラン付近に到達すると予測されていた。
ところが、一九九八年八月、パイオニア一〇号と一一号の軌道を長期にわたって追跡してきたNASAジェット推進研究所のジョン・アンダースンらが、驚くべき研究成果を発表した。探査機の減速率が計算よりも大きい――二つの探査機は、一秒間に秒速〇・〇〇〇〇〇〇〇八センチ、一年間に秒速二・五センチずつ遅くなっており、このままではいずれ停止してしまうというのだ。
きわめて小さな数値のずれではあるが、天文学界や物理学界に与えた衝撃は深刻だった。探査機に作用する引力の強さが計算と一致しないということは、ニュートンの引力の法則が間違っていることになるからだ。
ただちに反論が巻き起こった。探査機内部に燃料が残っており、それが前方に洩《も》れて、逆噴射の役割を果たしているのではないか。太陽系外には予想外に濃密なガスか塵《ちり》の雲が存在し、その摩擦抵抗で探査機にブレーキがかかっているのではないか。あるいは、太陽系の近くにブラックホールか中性子星のような目に見えない重力源があって、その影響ではないか……。
だが、いずれの可能性も否定された。太陽系の近くには、探査機に影響を与えそうなガスや塵の雲も、未知の重力源も存在しないのは、観測によって明らかだ。それにパイオニア一〇号と一一号は正反対の方向に向かって飛行しているのだ。それがまったく同じトラブルに見舞われるとは信じがたい。
多くの科学者は、アンダースンらの研究に何らかのミスがあると考え、即断を避けた。科学界では、「幻の発見」というのは珍しくない。誰かが大発見をしたと発表しても、正確な観測データが蓄積すると、実はそんなものはなかったと判明することがよくあるのだ。天文学の世界では、「火星の運河」「水星の内側の惑星ヴァルカン」「月のオニール橋」などが有名である。たぶん今度もまたそれに違いない……。
しかし、それから一〇年が過ぎ、さらに多くのデータが蓄積しても、アンダースンらの研究の信憑《しんぴょう》性は増すばかりだった。パイオニアだけではなく、やはり太陽系外に向かったヴォイジャー一号と二号にも、同様の減速現象が発見されたのだ。
さらに緻密な減速率の計算が行なわれた結果、パイオニア一〇号と一一号は今から約二五万年後、太陽から約六万天文単位(九兆キロ=〇・九五光年)のところで静止し、その後は太陽の重力に引かれて落下してくると分かった。この事実は重力理論に大きな変更を迫るものだった。
もうひとつは「ウェッブの網目(Webb's Meshes)問題」だった。
一九九〇年に打ち上げられ、二〇一〇年に耐用年数を迎えるハッブル宇宙望遠鏡に代わって、二〇一〇年二月、新世代宇宙望遠鏡ジェイムズ・ウェッブが打ち上げられた。それに搭載された直径六メートルのシリコンカーバイド製の反射鏡は、新たに開発された薄膜蒸着技術により、表面に一〇〇〇万分の七ミリの凹凸しかないという驚異的な精度を誇っていた。その軌道として、太陽と地球を結ぶ直線上にあるラグランジュ点L2が選ばれた。ここは常に地球の影にあるため、反射鏡や精密機器が太陽熱によって受ける影響を最小限にできるからだ。さらにウェッブには、ハッブルのトラブルを教訓に開発された球面収差補正装置や、高密度撮像装置が組みこまれ、ハッブルの一〇倍以上の解像力を誇り、宇宙の秘密を明らかにしてくれるものと期待されていた。
最初の目標はオリオン座のガス状星雲M42だった。
しかし、ウェッブから送られてきた画像を見て、天文学者やNASAの技術者は首をひねった。画面の明るさが一様ではなく、斑点《はんてん》というか網目というか、明るい部分の中にぼんやりと暗い島のような影が規則正しく並んでいるのだ。他の天体――イータ・カリーナ星雲、超新星1987A、蛇座の美しい惑星状星雲「宇宙の蝶《ちょう》」など――を撮影しても同じだった。
最初は機械のトラブルではないかと思われた。先輩であるハッブル宇宙望遠鏡も、打ち上げ直後に重大なトラブルがいくつも発見され、スペースシャトルによって修理されたという前歴がある。しかし、いくらチェックしてもウェッブには何の異常も発見できず、「網目」が生じる原因はまったく謎だった。
試しに火星を撮影してみて、技術者はさらに困惑した。火星はちゃんと映る――いや、木星、土星、天王星などを撮影しても同じだった。どれにも鮮明な画像が映り、「網目」は出現しない。月の表面、地球の大気なども撮影されたが、やはり異状はなかった。どうやら「網目」は太陽系外の天体を撮影する時にだけ出現するらしかった。
二〇一〇年の時点では、「パイオニア減速問題」と「ウェッブの網目問題」を結びつけて考える者はまだ誰もいなかった。もちろん、その原因や、背後に隠された驚くべき真相を正確に見抜いた者もいなかった。
私の兄以外には。
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05+「やれやれ、また眼≠ゥ!」
フリーになって二年が経った二〇一〇年の晩秋、私はUFOカルト <昂《すばる》の子ら> の活動に興味を抱き、その内幕を調査しはじめた。その一部始終は、翌年四月、『プレアデスを目指して』という題で私の初の単行本として出版されたので、ご存知の方も多いと思う。
二〇〇〇年以降、世界各地でUFOの目撃事件が頻発していた。カリフォルニア州のサンバーナディーノという街では、白昼、ダイヤモンド形の編隊を組んで飛行する九機のUFOを、数千人の市民が目撃した。中国の上海郊外、イタリアのクオネ、トルコのアフィオンカラサル、マレーシアのコタキナバルからも同様のニュースが飛びこんできた。ポーランドのルビンでは、森の中に着陸したUFOからロボットのような人影が降りてきたのを、二〇人以上の人間が目撃した。タンザニアのキゴーマからは、UFOから放たれた光線で子供が火傷《やけど》をしたというショッキングな事件が報じられた。
いくつかの事件では、目撃者の撮影したビデオがあり、中にはきわめて鮮明に円盤状の飛行物体が写っているものもあった。テレビやインターネットで公開されたそれらの映像は、二〇年前だったら衝撃的だったかもしれないが、ほとんどの一般大衆にとっては「ああ、またか」という感じで受け止められ、さほど話題になることはなかった。SF映画やアクション映画を見慣れ、本物と見分けがつかないリアルなCG映像に馴染《なじ》んでしまった人々の目には、どんなリアルな映像も疑わしく見えたのだ。げんに一九九七年にメキシコシティで撮影された巨大UFOの映像は、コンピュータによる合成であったことが判明している。
奇妙なパラドックスである。UFOの映像が鮮明であればあるほど、人はかえって嘘っぽく感じてしまう。リアリティを感じるのは、むしろ不鮮明な映像――ピンボケだったり、遠すぎたりして、何が写っているかよく分からない映像なのである。それらは専門家でも分析困難であり、したがって偽物と暴露されることもないわけだ。
もっとも、平静なのは一般人だけで、UFOマニアはこの世界的UFOフラップ(目撃集中)に興奮を隠せなかった。彼らはもう何十年も前から、上空から人類を観察している地球外生命体の存在を確信し、彼らがホワイトハウスの前庭(赤の広場でも凱旋門《がいせんもん》前でもいいのだが)に着陸する日を心待ちにしていたのだ。UFOがこれほど頻繁に目撃されるのは、異星人の活動が活発化してきたためであり、彼らが姿を現わす前兆に違いないと考えられた。
今の若い人たちにはナンセンスに感じられるだろうが、当時、地球外生命体の存在は広く信じられていたのである。
しかし、かんじんの異星人の意図に関しては、UFOマニアの間でも見解はまちまちだった。B級SF映画によくあるように、武力によって人類を征服するために来るのだと唱える者もいた。その反対に、人類を善い方向に指導するために訪れるのだという説もあった。邪悪な宇宙人と善良な宇宙人の二タイプがあるという折衷案もあった。地球は彼らの自然保護区であり、人類は珍しい保護動物にすぎないのだという説もあった。慎重派は、異星人の行動を地球人の尺度で計るのは誤りであると唱え、どの意見にも与《くみ》しなかった。
「アメリカ政府はこれまで隠蔽《いんペい》してきた異星人に関する極秘情報をまもなく公開するらしい」
そんなもっともらしい噂もネットを駆けめぐった。若いUFOマニアは興奮したが、年配のマニアはむしろ冷ややかだった。なぜなら、その噂はもう半世紀以上も前から、数年ごとに必ずささやかれるが、現実になったためしは一度もないからだ――いったい「まもなく」とはいつなのか?
少数派ながら、UFOは異星人の乗り物ではないとする派閥もあった。アメリカが極秘に開発している新型のステルス機だという説(試作機を世界中で何十年間も飛ばし続けているというのだろうか?)、南極に秘密基地を持つナチの残党が飛ばしているという説、未来人の乗るタイムマシンだという説。地底人やアトランティス人が乗っているという説、人間の集合無意識が空中に投影されて実体化した幻だという説、「影の世界政府」のマインド・コントロール兵器の実験だという説、空中に浮遊する未知の生物だという説、自然界に発生するプラズマだという説、すべてはサタンの陰謀だという説――当然、科学合理主義者はそのどれも信じようとせず、目撃例はすべて錯覚かでっちあげだと一蹴《いっしゅう》していた。
これほど多くの説が乱れ飛ぶ理由は、目撃されたUF0の行動がまったく首尾一貫しておらず、何の法則性も見つからないからだ。地球人に目撃されることを避けているように思える反面、市街地の上空でライトを点けてアクロバット飛行を披露する。フライト中の旅客機の周囲を意味もなくうろちょろしたり、田舎道で車を追いかけたりする。フランスの片田舎の農場や、ジンバブエの小学校の運動場には着陸するが、ホワイトハウスの前には決して着陸しない。UFOから降りてきた異星人が人間に好意的だったという報告が多数ある一方で、UFOが人間に危害を加えたという事例も多数ある。しかし、フロリダのボーイスカウト団長やアルゼンチンの一五歳の少女に火傷を負わせたり、インディアナ州の鉄工所職員を光線で脅かしたりすることに、戦略的にどんな意味があるのかさっぱり分からない。UFOの発する光線で火傷を負った人がいる一方で、UFOとの接触で怪我や病気が治ったという例もいくつもある。UFOの着陸跡に植物がまったく生えなくなったという報告がある一方、植物の生長が異常に促進されたという例もある。
UFOから降りてきた異星人を目撃したという報告も昔からたくさんあるが、まとめて読むと頭の痛くなる代物である。世界各地で目撃された異星人は、身長七・五センチから三メートルまでいろいろで、人間そっくりなものから、胎児のようなもの(いわゆるグレイ・タイプ)、直立したカエルのようなもの、毛むくじゃらのゴリラのようなもの、ロボットのようなもの、幽霊のようなもの、ゼリーのようなものなど、千差万別なのだ。いったい何十種類の異星人が地球に来ているのだろうか?
そうした互いに矛盾する種々雑多な証言の中から、自分の好みに合ったものだけを選び出せば、どんな埋論でも構築できる。UFOの乗員が危害を加えた例だけピックアップすれば、異星人は邪悪な侵略者になる。友好的な接触例だけ取り上げ、他は無視すれば、異星人は友好的存在になる。未来人にするのも、ナチの残党にするのも、プラズマにするのも、政府の陰謀にするのも、あなたのお好みしだいだ。
「私は異星人と話をした」
そう主張する人が大勢いることが、問題をいっそうややこしくしていた。異星人に誘拐された人を「アブダクティ」、友好的に接触した人を「コンタクティ」、物理的に接触せずテレパシーでメッセージを受けた人を「チャネラー」と呼ぶ。そうした厄介な人たちは以前からいたのだが、この時期には世界各地で急増したのだ。しかし、彼らが異星人から教えられたと主張する情報は、互いに矛盾しているうえ、支離滅裂で非科学的なものばかりだった。
ロシアに住むトルベーエフという国語教師は、インターネットを通して、異星人の侵略から地球を守ろうと訴えていた。彼はモスクワ郊外に着陸したUFOに連れこまれ、貯水池に毒を入れたり、衛星放送によってテレビから催眠電波を流して人間を洗脳するといった計画を、異星人の口から詳細に説明されたという。しかし、なぜ侵略者がわざわざ自分たちの陰謀を国語教師に打ち明けなくてはならないのか、という点に対しては、何の説明もなかった。
秋田県に住むコンタクティ米村《よねむら》末寛《すえひろ》は、異星人から、永久機関の作り方を教えられた。彼は大枚をはたいて材組を買い揃え、自分の経営する自動車修理工場の敷地でそれを製作した。完成した装置は高さ五メートルもあり、パチンコ台とミシンと風車を合体させたような代物だったが、豆電球一個も灯《とも》すことができなかった。彼はまた、文科省に対して、生物学の教科書を書き換えろと要求した。人間の先祖はサルではなくネコだ、と異星人から教えられたというのだ。
一部のコンタクティは、異星人は月や火星や金星から来ると主張していた。月には空気があるし、火星や金星も実際は地球とよく似た環境で、人間が住んでいるのだが、NASAがその事実を隠しているというのだ。別のコンタクティはそんな説を嘲笑《ちょうしょう》し、火星や金星に人間が住んでいるわけがない、異星人は太陽の向こう側にある未知の惑星から来るのだと主張していた(もちろんNASAはその惑星の存在を隠しているのだ)。太陽系外の星――シリウス、プレアデス星団、乙女座のウォルフ424など――から来るという主張もあった。
どれもこれも、まともに検討するにも値しない珍説ばかりで、実際、ほとんどの人は面白がりはするものの真剣に取り合おうとはしなかった。しかし、一部の人間は熱心に信じた。
この時期、世界各地で「UFO研究団体」と称するグループが林立した。中には少数ながら学問的にUFOを研究しようという真面目なグループもあったが、ほとんどはコンタクティやチャネラーを教祖とするカルト集団であり、活動内容は「研究」とはほど遠いもので、しばしば狂信的な熱情にかられて行動した。彼らは互いに他の団体を攻撃し、自分たちの教祖様の言うことこそ正しいと信じきっていた。
<昂の子ら> もそうしたカルトのひとつだった。教祖の大壷《おおつぼ》朝子《あさこ》は異星人と接触したと主張し、異星人から与えられた「エカテリーナ」という名(なぜ異星人がロシア名を付けるのかは謎だ)を名乗っていた。彼女のホームページには、夜空にきらきらと輝くシャンデリアのようなUFOの写真が掲載されていた。
エカテリーナこと大壺がラファエルという異星人からテレパシーで受け取ったメッセージによれば、二〇一〇年一二月三一日、地球は大異変に見舞われて滅亡するが、少数の人間だけがUF0に救い上げられるという。 <昂の子ら> はインターネットや出版物で債極的に宣伝活動を展開し、わずか三年で一万人近い信者を獲得していた。
私は彼らのことを知るため、正体を隠して入信し、沖縄の本部《もとぶ》半島にある彼らの修行場 <スペースポート> で八週間を過ごした。心配をかけないよう、兄や伯父夫婦、数人の知人にだけは、取材のための偽装入信であることを事前に打ち明けていた。伯父は、どうしてそんな危険なことをするのか、洗脳されたらどうするのか、としきりに心配した。兄も口では「お前を信じてるよ」と言うものの、不安を隠せない様子だった。
こんなテーマと取材方法を選んだのは、ごく単純な理由だった。金がなかったからだ。有名なジャーナリストがやっているように、取材のために日本中を飛び回ったり、インタビューした大勢の人にギャラを支払ったり、大量の資料を買い揃えたり、アシスタントを雇って調査をさせることなど、私にはできなかった。この方法なら、ほとんど金を使うことなく、貴重な情報が手に入る。必要なのは身体ひとつと、度胸だけだ。
実のところ、絶対の自信があったわけではない。むしろ不安でいっぱいだった。私は自分の精神が人よりも不安定であることを知っている。何週間もの間、外界から隔絶した森の中の修行場で、大勢の信者たちに囲まれ、朝から晩まで教義を叩《たた》きこまれたら、ふらふらと信じてしまうかもしれない……。
例によって葉月だけは楽天的だった。その頃、彼女は医大を卒業して、埼玉県の十耀会《じゅうようかい》病院に勤めており、会う機会はめっきり減っていた。
「面白そうだね。まあ、バカンスだと思って行ってきたら」
あまりにも心配している様子がないので、私の方が不安になってしまった。しばらく会わないうちに、友情が薄れてしまったのだろうか?
「私が洗脳されて、本当に信者になっちゃったらどうする?」
「どうもしないよ。あんたが幸せなら、それでいいじゃん」
「助けてくれないの?」
「じゃあ何? 力ずくで脱会させて欲しいわけ? あんたの意志に反して? 洗脳ったって、頭にヘッドギアはめて電流ビビビって通せばロボットになるなんて、そんなマンガみたいなもんじゃないでしょ。結局は本人の意志しだいなんだから。あんたが自分で生きる道を選ぶんなら、あたしはとやかく言わないよ」
「そんな……」
「ただ、これだけは覚えといて。そうなったら、あたしはあんたと絶交する。あたしらの友情はおしまいだからね」
私はほっとすると同時に、一〇年以上前に初めて会った時と同じく、胸にジンと熱いものを感じた。やっぱり葉月は親友だ。「友情はおしまいだ」という言葉は、私には何よりも効く脅迫だった。私は葉月との友情を絶対に失いたくなかった。もしマインド・コントロールされそうになっても、その恐怖が歯止めになってくれるに違いない。
葉月がそこまで計算して言ったかどうかは分からない。そんなことはどうでもいい。私にとって、彼女の言葉はいつでも力強い支えだった。
いざ潜入してみると、私の心配は杞憂《きゆう》だった。 <昂の子ら> の教えはあまりにもナンセンスで、よほど積極的に努力しないかぎり、信じられるものではなかったのだ。
たとえば彼らは、人類を善い方向に導いてくれている異星人がプレアデス星団から来ていると信じていた。牡牛座《おうしざ》にあるプレアデス星団は、生まれてからまだ一億年ほどしか経っていない若い星の集まりだということは、天文学の入門書にでも書いてあることだ。そんな星に生命の存在する惑星があるわけがない。
特に信じられないのは、異星人がほんの二万四〇〇〇年前に人類を含めた地球上のすべての生命をバイオテクノロジーで創造した、という主張だった。エカテリーナが異星人から受け取ったと称するメッセージによれば、地球上に生命が誕生したのは紀元前二万一九九三年のことで、それ以前には人類はもちろん、いっさいの生命の痕跡《こんせき》は存在しなかったのだそうだ。
生命が何億年という時間をかけて進化してきたという説を、彼らはあっさり否定する。突然変異や自然選択のような行き当たりばったりの変化によって、人間のような完成された美しい生命体が誕生するはずがない、というのだ。
この手のカルトとしてはよくあることだが、彼らは「闇の勢力」の存在を信じていた。各国の政府や科学者やマスコミはオリオン座の悪い宇宙人と密約を交わしていて、大衆を真実から遠ざけるために偽情報を流しているというのだ。ダーウィンは「闇の勢力」の幹部で、人間の皮をかぶったオリオン人だ。『ダーウィンズ・ガーデン』のような進化シミュレーション・ゲームは、大衆に進化論という欺瞞《ぎまん》を吹きこむために作られたもので、ゲーム開発者は「闇の勢力」の手先なのだそうだ(この話を兄に聞かせたら大笑いをしていた)。
ある勉強会で、講師の一人はこう説明した。
「たとえば、この眼はどうでしょう? 私たちの眼は、とても素晴らしい構造です。入念に設計された精密機械としか言いようがありません。こんなものがでたらめな突然変異の結果として生まれるわけがありません。これこそ私たちのDNAがプレアデス星人の高度な知性によって設計されたという証拠です」
私はその話を聞きながら、「やれやれ、また眼≠ゥ!」と心の中で苦笑した。人間が神や異星人に創造されたと主張する人々が、必ず引き合いに出すのが、眼の構造なのだ。私のアパートにしつこく新興宗教の勧誘にやってくるおばさんも、やはり眼がどうこうと言っていた。
他の信者たちはその説明で納得していたようだったが、私は違った。兄の研究を見せられて進化論に興味を抱いていたこともあり、 <スペースポート> に来る前、図書館でUFO関係の書籍とともに、進化論や生物学の本もみっちり読んで、予習をしてきたからだ。
試しに、講師にこう訊《たず》ねてみた。
「どうして視細胞の前に網膜神経節細胞があるんでしょう?」
講師はびっくりして眼をぱちくりさせた。「網膜神経節細胞」なんて言葉は聞いたこともなかったのだろう。
視細胞は眼球の奥の網膜にあって、外から入ってきた光を感じ取る細胞である。デジタルカメラのCMOS素子のようなものだ。視細胞が感じた刺激は視神経を通って脳に送られる。視細胞と視神経をつなぐのが網膜神経節細胞で、それは当然、視細胞の後ろにあるべきだ。ところが、実際には網膜神経節細胞は視細胞の前にある。そこから伸びた軸索は、いったん網膜の表面近くを通って、眼底にある視神経乳頭という部分に集まり、そこから奥に陥没して脳に向かっている。つまり神経が不必要な遠回りをしているうえ、視細胞に入るべき光を妨害する構造になっているわけだ。これはどんな技術者も犯すはずのないぶざまな設計ミスであり、眼というものが高度な知性の産物ではなく、まさしく行き当たりばったりな変化の結果として生まれたことを示している。
講師はしどろもどろになり、「私たちにもまだ分からないことはいくつかあるのです」と弁解した。きっとプレアデス星人には何か深い意図があって眼をこんな構造に設計したに違いない、というのである。
しかし、人体が高度な知性体によって創造されたのではない証拠は、他にもたくさんあるのだ。多くの哺乳《ほにゅう》動物では脊椎《せきつい》は水平方向にアーチを描いて伸びているが、人間のそれは垂直にS字形を描いて立っているため、重力によって椎骨《ついこつ》の間の椎間板《ついかんばん》が押し潰《つぶ》され、腰痛の原因となる。それというのも、もともと四足歩行に適応していた肉体を、短期間で二足歩行に強引にモデルチェンジした結果なのだ。また、内臓の配置や血管の構造にも、モデルチェンジ時に発生した重大なミスがいくつもあり、ヘルニア、静脈|瘤《りゅう》、痔《じ》、立ちくらみなどの原因になっている。虫垂、尾骨、男性の乳首など、どう考えても不要な器官もたくさん残っている。本当に異星人がこれらを設計したのだとしたら、プレアデスの専門学校を落第した生徒だったに違いない。
さらに、世界中で発見されている古生物の化石はどう説明するのか? 深い地層に埋もれている化石は単純で原始的な構造で、浅い地層のものほど現代の生物に近づいてくる。これこそ生物が進化してきたという完璧《かんぺき》な証拠ではないのか?
そうではない、とエカテリーナは言う。世界中の化石はすべて、今から一万二〇〇〇年前に起きたポールシフト(地軸の移動)による地球規模の大異変――いわゆる「ノアの洪水」によって死んだ生物の死骸《しがい》だというのだ三葉虫やアンモナイトは動きが鈍いために、真っ先に異変に巻きこまれ、泥に埋もれた。恐竜はもう少し長く生き延びたが、巨大で足が遅かったため、やはり洪水から逃げ切れずに滅びた。敏捷《びんしょう》な哺乳類や鳥類は最後まで逃げ続けたので、彼らの化石は浅い地層からしか発見されない。科学者たちはそうした順序で積み重なった地層を見て早とちりし、進化論という誤った思想を思いついたのだ……。
図書館でほんの一時間でも古生物学について調べればそんな考えがデタラメであることはすぐに分かる。恐竜には確かに巨大なものもいたが、映画『ジュラシック・パーク』に出てきたヴェロキラプトルのように、小さくて敏捷な種もたくさんいたのだ。彼らはたった一匹も洪水から逃れられなかったのだろうか? そして、おそらく小型恐竜よりも動きが鈍かったはずのゾウなどの大型哺乳動物の化石が、恐竜の化石より下の層から決して出土しないのはどうしてだろう? 三葉虫やアンモナイトの化石がクジラの化石と同じ層から出土しないのは?
エカテリーナの考えは画期的でも何でもない。一七世紀のアイルランド大主教ジェイムズ・アッシャーは、ノアの洪水は紀元前二三四九年一二月九日に起きたという計算を発表していた。キリスト教圏の科学者たちも同様で、つい二世紀ほど前まで、世界の年齢はたった六〇〇〇年であり、ノアの洪水は確かにあったと信じられていたのだ。しかし、洪水説に矛盾するたくさんの証拠が見つかるにつれ、彼らはしぶしぶ信念を放棄せざるを得なくなった。進化論は科学者たちの早とちりでもなければ、「闇の勢力」の陰謀でもない。膨大なデータの蓄積を元に、科学者たちが熱い議論の末に到達した、妥当な結論なのだ。
ある夜、私は同じバンガローで寝起きしていたUという年上の女性に、こうしたことを説明し、エカテリーナの教えに矛盾を感じないかと質問してみた。しかし、彼女はまったく動揺をみせず、微笑みながらこんなことを言った。
「あなたの知識はみんな本で読んだものでしょ? 本に書いてあることや科学者の言ってることを鵜呑《うの》みにするのは良くないわ。自分の頭で考えてみれば、真実は見えてくるはずよ」
私は猛然と反駁《はんばく》したくなるの懸命にこらえた。それなら、彼女の「人類は異星人に創造された」という信念はどこから来たというのだろう? よく調べも考えもせず、エカテリーナの本や講師の話を鵜呑みにしているだけではないのか?
だが、進化論ぐらいはまだ我慢できた。何と言っても私が同調できなかったのは、ノアの洪水に関する彼らの考え方だった。
エカテリーナの教えによれば、一万二〇〇〇年前まで、地球にはアトランティスやムーといった古代文明が栄えていたという。しかし、自らの創造した人類が奢《おご》りたかぶったことに腹を立てたプレアデス星人が、超磁力兵器(どんなものかは分からないのだが)を使用して地球の地軸を動かし、大地震や大洪水を起こして人類の大半を滅ぼした。ごく少数の心正しい人間だけがUFOに救われ、生き残った。それが現在の人類の祖先なのだ。そして今、人類文明は再び堕落の道を歩みはじめている。プレアデス星人は地球を浄化するため、再びポールシフトを起こそうとしている。救われる方法はただひとつ、心を正しく持ち、偉大なる創造主たるプレアデス星人を崇拝することだ。そうすれば必ず彼らはUFOで我々を救いに来てくれる……。
旧約聖書のお粗末なパロディとしか思えないのだが、私が反発を覚えたのはそんな点ではない。百歩譲って、エカテリーナの言っていることがすべて正しかったとすると、プレアデス星人というのはナチ顔負けの大量虐殺者ということになるではないか! なぜそんな極悪非道な連中を崇拝しなくてはならないのか? 確かに今の人類は堕落しているかもしれないが、心正しい人、無垢《むく》な子供たちも大勢いるのだ。人類を皆殺しにすることが正しい行ないであるはずがない。
私の疑問に対する講師の答えは単純だった。
「心正しい人が異変に巻きこまれて死ぬのは悲しむべきことです。だからこそ私たちは、破滅の日が来る前に、一人でも多くの人を救わねばなりません。そのために本やインターネットを通して、真実の情報を広める活動をしているのです」
では、その「真実の情報」に接したにもかかわらず、エカテリーナの教えを信じようとしない人たちは?
「心正しい人なら、必ず真理に目覚めるはずです」
講師は自信たっぷりに言った。自分も「心正しい人」だと確信しているのだろう。
「真実の情報に接しても目覚めなかった人は、残念ですが、すでに魂が穢《けが》れているのです。彼らは救われません」
「では、死んで当然だと?」
「そういうことになりますね」
私はその時、確信した。何があろうと、このカルトにだけは絶対に心を奪われることはないと。
もうひとつ、彼らの教義で辟易《へきえき》したのが、安直な陰謀論の横行だった。アメリカ政府は悪いオリオン人と密約を交わしている。NASAは異星人が存在する証拠を隠している。ケネディが暗殺されたのは異星人の存在を公表しようとしたからだ。進化論はオリオン人の陰謀である。電力業界が永久機関の開発を妨害している……どれもこれも聞き飽きた話ばかりだ。
私が親しくなったHという若い男性信者も、「米政府が墜落したUFOの残骸や異星人の死体を隠している」というカビの生えた説を信じきっていた。彼は『インデペンデンス・デイ』や『X―ファイル』のような異星人の出てくる映画やドラマを熱心に見ていた。彼が信じるところによれば、そうしたドラマは単なるフィクションではなく、何者かが極秘情報を国民に故意にリークするために制作しているのだという。
「何のためにそんなことをしなくちゃいけないの? 発表したいことがあるなら素直に発表すればいいんじゃない?」
私がそんな素朴な疑問を呈すると、Hは真剣な顔で答えた。
「高度な政治的打算が働いてるんだ」
冗談ではない。SFドラマの中にしか「証拠」を見つけられないというのは、結局のところ、現実世界には証拠がないということではないか。私も仕事のためにUFOについての文献をずいぶんたくさん読んだが、UFO墜落事件を証明する文書はどれも偽造だと判明しているし、回収された異星人の死体を見たという証言も信憑《しんぴょう》性に欠けるものばかりだ。米政府の隠蔽工作を立証する証拠は何ひとつないのである。
当然、Hはそうした自分に都合の悪い情報はすべて「偽情報だ」と一蹴した。
「とにかく、アメリカ政府が陰謀を企んでないって証拠はないんだからね」
さすがにバカバカしくなって、私は議論を打ち切った。いったいどんな証拠を突きつけられれば彼は納得するのか。「私たちは異星人の死体なんか隠していません」と書かれた文書か? だが、そんなものを見せられても、Hは信じないに決まっている。
「政府がすべてを隠している」――その説明は多くの人にとって心地好く響く。権力持の愚かさに義憤を覚えることによって、無力な庶民のささやかな正義感が満たされ、エリートに対するコンプレックスが癒《いや》されるからだ。『X―ファイル』のように常に政府を悪役として描くパラノイアックなドラマが人気を呼んだのも、そうした背景があるからだろう。あいつらは愚かだ。あいつらは邪悪だ。重大な真実を俺たちの目から隠している……。
私も権力者がしばしば愚かであり、真実を隠したがるという点には同意するが、何もかも彼らのせいにしてしまう態度も同じぐらい愚かだと思う。それは結局のところ、複雑で手間のかかる真実探求への道を放棄し、誰かが思いついた安直な「真実」を鵜呑みにすることでしかない。そして、いったんまがいものの「真実」を受け入れた者は、そこから抜け出せなくなる。まともな判断力を失い、明白な反証が目に入らなくなってしまうのだ。
有名なUFO研究者ジャック・ヴァレ(『未知との遭遇』でフランソワ・トリュフォーが演じたフランス人科学者のモデルになった人物)は、ある会合で、「ネバダ州の砂漠の地下にマンハッタン島ほどもある巨大な秘密施設があり、地球製のUFOが極秘に開発されている」という話を信じている研究者仲間に、こんな素朴な疑問を発した。
「誰がゴミを回収するんだろう?」
そう、冷静に考えてみれば、そんな話が幼稚な妄想にすぎないことはすぐ分かるはずなのだ。おそらくは何万人もの人間が関わり、何億ドルという予算を注ぎこまれているはずの大規模な謀略が、何十年間も漏洩《ろうえい》することなく存続できるとは信じがたい。ヴァレは荒唐無稽《こうとうむけい》な陰謀説を信じたがる研究者を、「彼らのあまりにも人を疑わない純真さに、いつも驚いている」と評している。
もっとも、私にはヴァレの言動は矛盾しているように思われる。というのも彼は、多くのUFO事件が各国政府の秘密機関による社会心理学的実験であるという説を唱えているからだ。ヴァレの説によれば、UFOに誘拐されたと主張する人物は、実際には秘密警察に拉致《らち》され、薬品の効果を借りて偽の記憶を植えつけられたのだという――やれやれ。
ヴァレやHもそうだが、なぜUFOマニアというのは、この手の陰謀話に飛びつきたがるのだろうか? Hや他の信者たちの話を聞いているうち、私は何となく理由が分かってきた。
彼らは「真実」を求めているのだ。UFOの謎に頭を悩ませ、単純明快な理論ですべてを説明することを夢見ているのだ。「誰かが真実を隠している」「誰かが我々を騙《だま》している」という説は、安直であるがゆえにアピールしやすい。隠されている真実さえ明らかになれば、すべては単純明快であったことが判明するだろう……。
陰謀論というのは宗教に似ている――私はふと、そう気がついた。
この世は混迷に満ちている。多くの悲しむべき出来事、不条理な出来事が常に起きている。戦争、災害、不景気、伝染病……そこには何の秩序も基準も見当たらない。どんなに正直に慎ましく暮らしていても、天災であっさり死ぬことがある。悪人が罰を受けることなくのさばることがある。人の生や死というものには、結局のところ、意味などない。
しかし、多くの人はそれに納得しない。自分たちの生には何か意味があると信じたがる。この世で起きることもすべて、何か意味があると考えたがる。偶然などというものはありえない。どんな事件にもすべてシナリオがある――誰かが仕組んだことなのだ、と。
阪神大震災が起きた時、オウム真理教は「地震兵器による攻撃だ」と主張した。そのオウム真理教事件、一部の陰謀論者に言わせれば、フリーメーソンや北朝鮮の陰謀なのだそうだ。一九九六年にO―157が流行した時も、二〇〇五年にインフルエンザが流行した時も、やはり陰謀説を唱える者が現われた。こうした説は決して近年の流行ではない。一四世紀にフランスでペストが大流行した時、「ユダヤ人が井戸に毒を流しているからだ」という噂が流れ、大勢のユダヤ人が殺された。一八五三年、長崎にコレラが流行した時も、「イギリス人が井戸に毒を流している」という噂が広まった。一九九五年、エボラ出血熱が流行したザイールでも、「医者が病気をばらまいている」という噂が流れた。時代や民族を問わず、人は大きな災厄に接すると、「誰かのせいだ」と考えたがるらしい。
考えてみれば、ノアの洪水の伝説も、そうして生まれたのではないだろうか。昔の人にとって、自分たちの住む地域が「全世界」であったろう。自分たちの住む地域に洪水が起きた時、「全世界が洪水に見舞われた」と思いこんだろう。生き残った人たちは考えた。なぜこんな悲惨なことが起きたのか。誰が何のために私たちの隣人を殺したのか……彼らはその不条理な悲劇を合理的に説明するため、物語を創り上げたのだろう。「死んだのはみんな悪い人たちで、神は彼らを罰するために洪水を起こしたのだ」と。
そう、宗性とは「神による陰謀論」なのだ。災厄を起こした者の正体が人であれば陰謀論になり、神であれば宗教になる。それだけの違いだ。
そう考えれば、カルトを盲信する者がしばしば陰謀論を唱える理由も説明がつく。神を信じる心理、陰謀を信じる心理は、結局のところ同じメカニズムによるものだからだ――すべてにきっと意味があると考えたがる心理。
あいにくと私にはそんな心理はない。災厄は意味も理由もなく起こるということを、子供の頃に知ってしまったからだ。
彼らの名誉のために弁明しておく必要があるが、信者一人一人はとてもいい人たちだった。「カルトの信者」という言葉から受ける怪しいイメージとは違い、明るくよく笑い、他人に親切だった。信念さえ別にすれば、友達になってもいいと思える人ばかりだった。
教団の運営方法も、きわめて穏やかなものだった。勧誘活動は常にオープンで、洗脳じみた行為はまったく行なわれなかった。修行の内容も勉強会と瞑想《めいそう》がメインで、あまりにおとなしすぎて、拍子抜けしたぐらいだ。彼らはオウム事件の轍《てつ》を踏まないよう、地域住民との軋轢《あつれき》を警戒し、ボランティア活動に精を出していた。私も近くの海岸の清掃作業によく参加したものだ。
敷地からの出入りは自由で、特に監視もつかなかったが、周囲には遊び場などないこともあって、私たちは一日の大半を <スペースポート> の中で過ごした。もっとも、外の世界と隔絶しているという感じはあまりなかった。電話はいつでも自由にかけられたし、集会場にはテレビがあった。パソコンも使えたので、インターネットで最新のニュースを知ることができた。これはエカテリーナ自身の指示によるものだった。世界各地で起きている災害はすべてポールシフトの予兆であり、そうしたニュースを常にモニターすることで、救済のUFOが到来する時期を予測できると考えられていた。
教団内で麻薬パーティや乱交が行なわれているという興味本位な報道もあったが、実際には <スペースポート> では麻薬は御法度だったし、私が見聞きした範囲では、信者間に自然発生した性関係はあったものの、世間一般の標準から見て、さほど乱れていたとは思えなかった。麻薬とセックスに関しては、六本木あたりの方がよっぽど乱れていたと思う。
唯一、危険だと思えたのは、洞窟《どうくつ》の中で行われる「ニュートリノ瞑想」だった。光の届かない地下深くで、マットレスを引いて正座し、瞑想にふけるというものだ。外界の乱れた波動や放射線に妨害されることなく、宇宙から降りそそぐ目に見えないニュートリノ粒子を感じ取ることができるのだそうだ――もっとも、彼らの中の誰ひとりとして物理学の本を読んでおらず、ニュートリノがどんな粒子なのか、ちゃんと説明できる者はいなかった。
私にはすぐにからくりが分かった。精神医学で言う「感覚遮断実験」そのものだ。完全防音の真っ暗な部屋の中に長時間隔離されると、思考の集中が困難になり、知覚障害、認識障害、空間見当識障害などが発生することは、昔からよく知られている。早い人で二〇分、遅い人でも七〇時間ぐらいで、様々な幻覚が見えはじめるのだ。私の場合、二時間ほどで奇妙な光の点滅が見えはじめ、床が大きく揺れるような感覚が生じるようになった時点で危険を感じた。精神に異常が生じたら大変だ。私は洞窟に入る前に渡されていたギブアップ・ボタンを押し、「体調が悪くなった」と嘘をついて助け出された。
他の人たちはというと、暗闇の中で光が見えたことで、おおいに感動していた。彼らはそれをニュートリノの光だと思っていた。人間の脳の単純な生理学的メカニズムによる現象を、神秘体験だと思いこんでいるのだ――いやはや、無知というのは恐ろしい。
信者の中にはUFOを目撃した体験がある者も多くいた。夜、焚火《たきび》を囲んで、彼らはよく自分たちの目撃談を自慢し合った。学校帰りに歩いていると空に見えた。ドライブ中に見た。自宅の窓から見た……。
ある若い男性は、夏の夜、ふと目を覚ますと、スープ皿ぐらいの大きさの円盤が窓の外に滞空しているのを見たという。円盤の下には掛軸のようなものがぶら下がっていて、墨と筆を使ったような字で「はまはま」と書いてあった。彼はそれを異星人からの暗号によるメッセージだと確信し、解読に取り組んでいる。
別の男性は、雪山のロッジの窓から、樹の上に滞空している円盤を目撃した。見ているうち、その円盤は中央からひび割れ、左右に分裂したという。分裂後もなぜか半月型にはならず、円盤型のまま、大きさが半分になっただけだった。彼は「まるで細胞分裂みたいだった」と語った。やがて円盤はまた一つに合体し、すごい速さで飛び去ったという。
私と隣室のAという女性が森の中で目撃したのは、身長一五センチぐらいの裸の少女で、背中から蝶《ちょう》のような羽根が生えており、切株の上で踊っていたという。最初は妖精《ようせい》だと思ったが、後になって「妖精なんて非科学的だ。いるはずがない」と思い、妖精型異星人だと確信したという。
教団内でおそらく最年長の六五歳のGという男性は、山歩きをしていて、異星人のロボットを目撃したという。彼はそれが邪悪なオリオン人のロボットだと直感したそうだ。彼は自分が見たものをスケッチブックに描いてくれたが、四角形の頭、ヘッドライトのような眼、リベットが打たれた箱型の胴体、蛇腹の先にハサミのついた腕というそのデザインは、大昔の子供向けマンガに出てきたロボットそっくりだった。
彼らが本当に何を見たのか、何を体験したのかは分からない。ひとつだけ確かなのは、みんな真剣そのもので、ふざけている様子はまったく見られないということだ。少なくとも彼らの誠実さを疑う根拠はないと感じた。
彼らが見たのはただの幻覚に違いない――できればそう片付けたいところだった。しかし、私にはどうしてもひっかかるところがあった。彼らはみんな真面目な人たちで、麻薬などやっていない。カルトの信者であるという点を除けば、表面的には明白な精神異常の兆候は見られなかった。幻覚を見る原因がないのだ。 <昴の子ら> に興味を持ち、入信したのも、UFOを目撃したからであり、その逆ではなかった。ロボットを目撃したGさんにしても <昴の子ら> のことはテレビで見て知っていたが、自分で目撃するまで異星人の存在など信じていなかったと断言している。
私はあのIさんの話を思い出した――空飛ぶ戦車が残していった、存在するはずのない七角形のボルト。
私は異星人がUFOに乗って地球にやって来ているとは信じていなかった。妖精なんて非科学的だが、妖精型異星人などというものも同じぐらい非科学的だと思う。空飛ぶ戦車や、細胞分裂する円盤、箱型のロボットなどというものも、現実に存在するとは思わない。
だが、それなら、彼らが見たものはいったい何なのだろう?
[#改ページ]
O6+フェッセンデンの宇宙
大自然に囲まれた沖縄での生活は、別の意味で私を変えた。都会であくせく働いてる時には気づかなかったことに、たくさん気づかされたのだ。
とりわけ感動的だったのは星空だった。漆黒のカーテンに宝石をぶちまけたような星々――夕方に東から昇ってくるオリオン座。その腰のベルトを構成する三つ星と、両肩に位置するベテルギウスとベラトリックス、左脚のリゲル。その後から昇ってくるのは、全天で最も明るいシリウスだ。左上には小犬座のプロキオン。 <昂《すばる》の子ら> が崇拝するプレアデス星団の近くには、牡牛座《おうしざ》の主星アルデバランとヒヤデス星団も浮かんでいる。競い合うように輝く双子座のカストルとポルックス。深夜には、南の空低く、竜骨座のカノープスも見えた。その他にも名前を知らない何千という星が輝いていた。東京や横浜では、地上の明かりに邪魔され、こんなにたくさんの星を見ることはできない。それはまさに「降るような」という表現がぴったりで、草の上に横になって見上げていると、自分が無限の宇宙に浮かんでいるような錯覚を覚えた。
ただ、星空を眺めていて、ふと、その底知れぬ大きさに不安を覚えることがあった。
なぜこんなものが生まれたのだろう?
いったい誰がこんなものを創ったのだろう?
進化論や天文学の本はたくさん読んだ。それらはどれも私を啓蒙《けいもう》し、無知による迷妄の大波に飲みこまれるのを防ぐ命綱の役割を果たしてくれた。実際、私が <昴の子ら> の教義に感化されなかったのは、科学を知っていたおかげだと言える。
宇宙の歴史はかなり明らかになってきている。星の生成、生命の進化は、コンピュータでシミュレートできる。インフレーション理論は、宇宙がどのように膨張し、進化してきたのかを説明する。地球や月がどうやって誕生したのか、生命がどのような過程で進化してきて、最終的に人間が誕生したのか……それらは、もうほとんど解明されていると言っていい。
しかし、その起源はまだ謎のままだ。
かつて生命発生のシナリオが解き明かされたと考えられた時代があった。一九五三年、シカゴ大学のスタンレー・ミラーが行なった実験だ。水素、メタン、アンモニアを混合した気体をフラスコに入れ、六万ボルトの電気火花を一週間飛ばし続けたところ、化学反応によって大量の有機分子が生成した。そのうちの二つは蛋白質《たんぱくしつ》に含まれるアミノ酸だった。すなわち、原始地球の大気中に発生した雷によって、アミノ酸やヌクレオチドといった生命の基礎となる物質が誕生し、それが海にたまって濃厚な有機物のスープとなった。何億年か経つうち、スープは複雑な化学変化を起こし、自己複製する分子――DNAが誕生した、というのである。
現在ではこのシナリオは顧みられていない。太古の地球の大気はメタンや水素が主成分ではなかったことが明らかになっているうえ、ミラーの実験では蛋白質を構成する二〇種類のアミノ酸のうち二種類しか作れなかったのだ。また、アミノ酸が偶然に組み合わさって複雑なDNAが生じるというのも、確率的にとても考えられないことだ。
では、最初の生命はどうやって発生したのか? 海底の熱水噴出口付近の特殊な環境下で発生したという説、粘土から生まれたという説、彗星《すいせい》の衝突によって生じたという説もあるが、どれも無理があり、決め手に欠ける。
一九七三年、ケンブリッジ大学のフランシス・クリックとアメリカのサーク生物学研究所のレスリー・オーゲルは、驚くべき説を発表した。今から四〇億年前、どこか遠い惑星に住む異星人が送り出した無人の宇宙船が原始の地球に着陸し、その表面に微生物をばらまいた。それが我々、地球上に住む全生命の祖先だというのだ。
これはSF作家のジョークではない。クリックはDNAの構造を解明した人物の一人で、ノーベル賞も受賞した一流の分子生物学者なのだ。
<昴の子ら> の教義――二万四〇〇〇年前に異星人によって地球上の全生命が創造されたという考えは、まったくのナンセンスだ。しかし、四〇億年前に何者かが地球に生命をもたらしたという可能性は、ノーベル賞科学者でさえ認めている。なぜなら、最初の生命が誕生したプロセスを誰も説明できない以上、地球外からもたらされたと考えるしかないからだ。
生命だけではない。宇宙の起源も謎のままだ。
ビッグバンの前、宇宙がまだ量子以下のサイズに凝縮されていた時代について、現代の物理学者は何も答えられない。そうした超高密度、超高エネルギー、超微小サイズの領域の減少について、従来の一般相対論は適用できないからだ。量子論と一般相対論が統合され、究極理論が完成すれば、そうした謎にも答えが出るのではないかと期待されている。しかし、量子論と一般相対論の間には克服困難な矛盾があり、統合の目途は立っていない。
マサチューセッツ工科大学教授のアラン・H・グースは、この宇宙が高度な文明によって創造されたという仮説を真剣に論じている。グースの計算によれば、宇宙を創造するのに必要な材料はたった二五グラムで、それを一〇のマイナス二六乗センチに圧縮することができれば、新たなインフレーションが生じ、宇宙が誕生するという。もちろん、現在の地球の技術では、いや、一〇〇年、二〇〇年先の技術でも、物質をそんなに圧縮することは不可能だろう。しかし、この広大な宇宙のどこかには、人類よりはるかに進歩した文明があるのではないか。彼らがその難事業に乗り出さないとは言い切れない。
科学者を頭の固い人種だと考えるのは偏見だ。彼らは時としてSF作家よりもイマジネーションにあふれ、オカルティストよりも大胆で自由な発想をする。生命どころか、この宇宙そのものが人工的に創造された可能性があるというのだ! 大壺のお粗末な教義など、グースの壮大な仮説に比べれば、想像力貧困もいいところだ。
本当にこの世界は誰かが創造したものなのだろうか?
私たちは誰かに創られたのだろうか?
何のために?
小学六年生の時に学校図書館で読んだ小説のストーリーがよみがえった。子供向けのSF小説アンソロジーに収録されていた短編で、タイトルは「フェッセンデンの宇宙」。作者はアメリカのSF作家エドモンド・ハミルトン――一九三七年に書かれた作品で、描写の古めかしさは否めないものの、そのビジョンは今読んでも充分に衝撃的である。
それは実験室内に人工の小宇宙を創造したフェッセンデンという科学者の物語だ。彼はミクロサイズの惑星を顕微鏡で観察しながら、その表面に住む生物たちを興味本位に殺戮《さつりく》する。小さな彗星の軌道を変えて惑星に衝突させ、文明を滅ぼす。知的生物の住む二つの惑星を近づけ、戦争を勃発《ぼっぱつ》させる。海洋惑星の海を干上がらせ、水棲《すいせい》生物を絶滅させる。別の惑星には恐ろしい疫病を発生させる……。
物語の最後で、語り手はある疑問にとらわれる。この宇宙もまた、もっと大きな宇宙に住む科学者から見れば、ちっぽけな実験材料にすぎないのではないか。その科学者は我々を冷酷な目で見下ろし、興味本位にこの宇宙を破壊しにかかるのではないか――「あのはるかな高みに、フィッセンデンがいるのではなかろうか?」と。
読み終わって何週間も、星空を見上げるのが恐ろしかったのを覚えている。普通の子供にとっても恐ろしい内容であったろうが、私にとっては現実の恐怖だった。なぜなら私は、神が正当な理由もなく人間を殺戮することがあるのを知っていたからだ……。
考えてみれば、私が神の存在を信じなくなったのは、あの小説を読んだせいもあるのかもしれない。この不条理な宇宙が誰かの創造物であると考えるのは、あまりにも悲しく、恐ろしく、耐えられなかったのだ。この世を支配する神に公正が期待できないのなら、いっそ神などいないことにしたほうがましだ。
だが、自分が信じたいからといって、それが真実だとはかぎらない。「神は存在する」と信じることが神の存在する証明にはならないのと同じように、私がいくら「神などいない」と思っても、それは神が存在しない証明にはならない。げんに現代科学は、神の存在を否定するどころか、この宇宙や生命が超越的な知性によって創造された可能性を認めているではないか。
星空を見上げていると、子供の頃に感じた恐怖がよみがえり、胸を締めつけてきた。あのはるかな高みに、人間に対する悪意を秘めた創造主がいるのではなかろうか……?
バカバカしい! 私は苦笑し、星空から目をそむけて、妄想を振り払った。神様なんているはずがない。絶対にいるはずがない! とっくの昔にそう結論したはずではないか。
しかし、私の胸から疑念は晴れなかった。
予言された日が近づいた。私は依然として熱心な信者を装いながら、 <昂の子ら> 内部に期待と緊張が高まるのを見守っていた。
一二月一九日。最後の布教のために世界各地を飛び回っていたエカテリーナこと大壷朝子が、UFOを迎える準備に入るため、 <スペースポート> に帰還し、信者たちに熱狂的な歓呼で迎えられた。私は初めて彼女の姿を間近で目にした。大壷は四八歳。ある評論家が「スーパーでどのキャベツが大きいか見定めているおばさんみたい」と評した通り、ごく普通の中年女性で、決して美人でもなければ弁舌が達者なわけでもない。どこに大勢の信者を惹《ひ》きつけるカリスマがあるのか、私にはさっぱり分からなかった。
時を同じくして、日本各地に散らばっていた在家信者が集まってきた。グループでバスをチャーターして、金のない者は徒歩で、連日、続々と乗りこんできた。老人も何人かいたが、大半は一〇代後半から三〇代で、赤ん坊を抱いた若い母親もいた。たちまち <スペースポート> の人口は数倍に膨れ上がった。ナンセンスな教義について来られなくなって脱落した者もいたが、最終的には一万四四六五人が集合した。
すぐに判明したのは、 <スペースポート> はそれだけの人数を収容する能力がないという事実だった。もともとUFOが迎えに来るまでの数か月を過ごす仮の宿として緊急に建設されたもので、キャンプ場に毛の生えたような粗末な施設だったのだ。電気はあったものの、水は井戸水と雨水だし、汚水処理設備も不完全だった。二〇〇〇人が住むぐらいならどうにかなったのだが、一万人以上が押しかけてくると、たちまち貧弱さが露呈した。
バンガローが足りないので、私たちは四人部屋に七〜八人ずつ詰めこまれることになった。それでも入れない人たちは、外にテントを張ったり、食堂の床、教団本部の廊下で寝泊りした。電力消費量がはね上がったので、しょっちゅうブレーカーが飛んだ。水は配給制になった。トイレの処理能力が限界に達したので、地面に穴を掘って板で囲っただけの簡易トイレが大量に増設された。厨房《ちゅうぼう》での調理も間に合わなくなり、やむなくライトバンを何台も連ねて街にインスタント食品を買い出しに行く風景も見られた。 <スペースポート> の裏山には、スチロール製のトレイ、空になったレトルトパック、段ボール、ポリ袋などが、山となって積み上がった。エコロジーの思想などどこへやらだ。
増え続けるゴミの山をどうするかという問題が持ち上がったが、大壷は「放っておいてかまいません」と宣言した。どうせポールシフトが起これば、このあたり一帯も大津波に飲みこまれて消滅する。地球全土が破壊され、文明が瓦礫《がれき》と化すのだから、ちょっとぐらいゴミが増えてもどうということはない、と。
少し前まで快適だった <スペースポート> は、たちまち悪臭漂うスラムと化した。古着や毛布をまとって廊下で寝泊りする信者たちの姿は、さながら難民の集団だった。それでも人々は不満を洩《も》らさなかった。あとほんの数日、がまんすればいいだけだ。じきに直径五キロもある巨大UFOが降りてきて、私たちを収容してくれる。私たちは設備の整った安全な船内から、滅びゆく地球を見下ろすことができる――みんなそう信じて疑わなかった。
<昴の子ら> では、パソコンやポケタミでインターネットを絶えず検索し、世界各地で起きているUFO目撃事件のリストをせっせと作成していた。それらは大壷の教義の証明になると考えられていた。私も雑誌の編集に関わった経歴を買われて、その作業を手伝うことになった。
確かにUFO目撃が多発しているのは事実だった。私が <スペースポート> に来てから四週間の間にも、インドのジャバルプール、コリアの済州島、スペインのカルタへーナ、アルゼンチンのビジャヴァレリアでもUFO目撃事件が起きていた。ビジャヴァレリアではUFOから降りてきた異星人の写真まで撮られていた。
もっとも、その写真に写っていたのは、ハロウィンのカボチャのお化けのような頭をして、黒いマントをまとった人物のシルエットだった。遭遇した牧場主の話によれば、そいつは牧場主を光線銃で脅迫し、ミルクを一缶奪って逃げていったのだそうだ。その姿も行動も、大壷が遭遇したという人間そっくり(しかも金髪の白人)で温厚な異星人とは似ても似つかず、これがなぜ教義の証明になるのか分からなかった。それでも私はいちおうデータベースに保存した。
UFOと関係なさそうな超常現象も多かった。
リトアニア共和国のビリニュス郊外では、空から雨とともに何トンもの鱈《たら》が降ってきて大騒ぎになった。竜巻が海水といっしょに魚を巻き上げたのではないかという推測もされたが、それがどうやってバルト海から三〇〇キロも離れた場所に落下したのか、説明するのは困難だった。しかも、いっしょに落ちてきた雨は塩辛くなかった。
北海道の紋別では、一二月一〇日の朝、凍りついた鮭が何十匹も街路に散乱しているのが発見された。鮭は四階建てのビルの屋上にも落ちており、空から落ちてきたとしか考えられなかった。ギリシアのキリニ山の山麓《さんろく》では、重量一トンもある氷の塊が空から落下して、農家の屋根を貫いた。メキシコ国境に近い米アリゾナ州ノガレスでは、小さな銀の十字架が何十個も降った。ニューハンプシャー州のジョウン・ウォーターハウスの家は、三日続けて石ころの雨に見舞われた。エチオピアのデブラタボールに降ったのはカエルの雨だ。
米ヴァージニア州のピーターズバーグでは、市街地のど真ん中を興奮した若いインドゾウが走り回り、市民をパニックに陥れたあげく、警官に射殺された。誰かが飼っていたのが逃げ出したのではないかと推測さかたが、いくら調べても一〇〇マイル以内にゾウを飼っている人物はいなかった。関係書は「まるで空から現われたようだ」とコメントした。
オーストラリアのクイーンズランドの草原地帯では、一二歳ぐらいの金髪の少女が野生のカンガルーといっしょにいるのを発見され、保護された。少女は言葉が喋《しゃべ》れないうえ、全裸だったため、身元は不明だった。該当する子供の失踪《しっそう》記録はなく、何を食べて生きてきたのかも謎だった。
同じオーストラリアのタスマニア島では、絶滅したはずのフクロオオカミの目撃報告が相次いでいた。カナダからアメリカ北部にかけてのロッキー山中では、毛むくじゃらの怪人ビッグフットが出没していた。タンザニアの密林では、ロバほどの大きさがあり虎縞《とらじま》がある肉食獣ムングワが原住民を襲っていると報じられた。中米プエルトリコでは、一九九〇年代に話題になった吸血怪物チュパカブラスがまた暴れているようだった。当然のことながら、スコットランドのネス湖では、怪獣ネッシーがまた目撃されていた……。
これらすべてが、二〇一〇年の一年間に起きたことなのだ。
インターネットで検索を続けながら、私はすっかり考えこんでしまった。無論、こうしたニュースの中には、デマや嘘もかなり含まれているだろう。しかし、いくつかの事件では信頼できる目撃者が大勢いるし、空から落ちてきた鱈、射殺されたゾウなど、物的証拠もある。どこか限られた地域だけで集中して起きているのなら、ブームに便乗した悪ふざけ屋のしわざとも考えられるが、世界のあらゆる地域で似たような現象が頻発しているのは、どう解釈したらいいのか?
私にはさっぱり分からなかった。
月の終わりが近づくと、 <スペースポート> のあちこちでポケタミで電話をかける光景が目立つようになった。友人や家族に最後の説得をしているのだ。このまま地球に残っていては死んでしまう、今すぐ <スペースポート> に来ていっしょにUFOに乗ろう、と。
一二月二四日の午後、私も葉月にポケタミで電話をかけた。もちろん勧誘するためではない。ひどい環境を愚痴るためだ。誰にも聞かれないよう、厨房の裏の人気のない場所を選んだ。
「お仕事とはいえ、大変だねえ」
私の話を聞いて、有機モニターの中の彼女は、明るい顔で同情した。
「せっかくのクリスマス・イヴなのに」
「べつにイエス様の誕生日なんて祝いたくないわよ」
「クリスマスってそんな日じゃないでしょ? お祭り騒ぎをしたり、プレゼントを贈ったり貰《もら》ったりする日だよ。ちなみに、あたしはこれからデートなんだけどね」
「この前のお医者さん?」
「ああ、あれはもう終わった。今度のは掲示板で知り合った人。学究肌ってえのかな。なかなか真面目っぽくて、あたし好みで、ちょっといい感じ」
私は詳しく訊《たず》ねてみようとは思わなかった。葉月の男性遍歴のめまぐるしさときたら、親友の私でさえ把握しきれないほどだ。最新情報なんて、東京に帰る頃には古くなるに決まっている。
「あんたはどうなの? そっちにいい男、いた?」
「ぜんぜん」
私はきっぱりと答えた。何千人もの男がいるのだから、中にはルックスのいい若者もいる。みんな性格も悪くはない――しかし、彼らに恋愛感情を抱くことなどできなかった。
「そっかー、当然だよね。ま、仕事もいいけど、もっと若さを謳歌《おうか》しなくちゃだめだよ。その取材が終わったら、思いきり遊んだら? あそこにカビが生えちゃうよ」
「男なんて要らない。私には仕事が青春だから」
「おお、かっこいい!」葉月はけらけらと笑った。「でもさ、それって『キツネとブドウ』じゃない?」
その瞬間、胸をナイフで刺されたような気がした。相変わらず葉月はずけずけとものを言う。
私はまだ恋というものをしたことがなかった。大学時代に二か月ほどつき合っていた男はいたが、遊び半分の肉体関係があっただけで、恋と呼べるようなものではなかった。二〇歳にもなってセックスを知らないというあせりから、自堕落な行為に走っただけで、すぐに後悔する羽目になった。まともな恋をしてみたいという想いはあるが、どうすれば恋という感情が抱けるのか分からない。それがどんな気持ちなのかは、小説やドラマでしか知ることができなかった。
それは私にとって大きなコンプレックスだった。私の精神には何か欠陥があるのかもしれない。普通なら初恋を経験するはずの時期を、あの事件で逃してしまったせいなのか。あるいは、まだ子供の頃のトラウマが回復しておらず、誰かを本気で愛することを心の底で恐れているのか……。
「おっと、言い過ぎちゃったか。ごめんね」
感情を顔に出したつもりはなかったが、葉月は例によって、解像度の低いデジカメの画像越しに、私の動揺を読み取ったようだった。
「分かった。もう口ははさまないよ。あんたの生き方なんだから、好きなように生きればいい。一生のうちにできることなんて限られてるんだから、やりたいことだけやんな」
「……ありがとう。がんばるよ」
「お兄さんも心配してたよ。明日でも電話してやんな」
「うん」
「年が明けたら会おうね。メリー・クリスマス」
「メリー・クリスマス」
通話を切ってポケタミを畳むと、私は少し心が軽くなった気分で、自分のバンガローに戻るために歩きはじめた。
私は本気で葉月に感謝していた。私の人生で教祖と呼べる存在があるなら、それは葉月だ。彼女は何も強制しない。私を物理的に助けてくれたことも一度もない。私がトラブルにぶつかっても、「自分でどうにかしな」と突き放すだけだ。それでも、彼女の存在があるおかげで、私は強くなれた……。
「お願い。今すぐあの子を連れてここに来て」
バンガローのドアに手をかけた私は、室内から聞こえる切迫した声に、はっとして立ち止まった。同室のUさんが電話をかけているのだ。声をかけづらくて、私はついドアの外でたち聞きしてしまった。
話している相手は夫のようだった。彼女は夫と四歳の子供を東京に残して <スペースポート> に来ていたのだ。最初は穏やかに嘆願していたものの、議論がもつれるにつれてしだいにヒステリックになり、ついには泣きながら怒鳴りちらしはじめた。
「あなたは自分の子供が死んでもいいの!? 鬼! 人でなし!」
私はいたたまれなくなってその場を離れた。
Uさんは真面目で心優しい人だった。ほんの一年前まで、ごく普通の幸福な家庭の主婦だったのだ。この世の真実とは何なのか、どうすれば人はもっと幸せになれるのか、自分なりに模索したあげく、 <昂の子ら> に入信したのだ。
その結果は家庭崩壊だ。
私はインターネットで見たニュースを思い出し、悲しくなった。アメリカでは中絶反対を唱えるキリスト教原理主義者グループが、中絶を行なっている病院を爆破し、八〇人の死者を出した。北アイルランドではプロテスタントとカトリックの反目が再燃し、過激派による爆弾テロや銃撃事件が続発していた。インドではイスラム教徒とヒントゥー教徒の衝突が起きていた。イランでは、イラク・シーア派の過激派組織が、イラン・シーア派の現体制に対して大規模な武装闘争を展開していた……。
子供の頃、地下鉄サリン事件の報道を見て抱いた疑問が、また浮上してきた。宗教は人を幸せにするものではなかったのか? なぜそれがこんなに多くの不幸や争いの原因になってしまうのか?
一二月三一日が近づくと、UFOへの乗船に備え、みんな手荷物の整理をはじめた。一人一〇キロ以上の私物は持ちこめないというので、脱衣場に置かれたヘルスメーターの前に荷物を抱えた人の列ができた。UFOに規律正しくすみやかに乗船するため、整理券が配布された。UFOの中でもノートパソコンは使えるのか、充電用アダプターを持って行った方がいいのかという質問が、教団幹部を困惑させた。UFOの中にAC一〇〇Vのコンセントがあるのかどうか、誰も知らなかったからだ。女性は生理用品をどれだけ持って行くべきかを悩んだ。
大好きなアイドルタレントの写真を泣きながら燃やしている女の子がいた。UFOに乗れない人間はみんな地球の破滅とともに死んでしまうと信じていたからだ。ある男性は財布から出した真新しい一〇〇新円札を燃やしながら、「一度やってみたかったんだ!」と笑っていた。テレビ局が収材に来ていて、そのお祭り騒ぎの一部始終を撮影していた。
そして一二月三一日がやって来た。
信者たちは手荷物をまとめ、朝から集会場に集まっていた。ある者は陽気にはしゃぎ、ある者は死んでゆく家族や友人のことを思ってか、暗い表情をしていた。ポールシフトが起きるのは一二月三一日の真夜中きっかりのはずなので、少なくともその数時間前には迎えのUFOが来ると信じられていた。
やがて陽が沈み、南国に夜の帳《とばり》が降りた。よく晴れており、月も出ていなかったので、びっくりするほどたくさんの星が見えた。まさにUFOが飛来するには絶好の夜のように思われた。人々は空高く輝くプレアデスを見上げ、一心に祈り続けた。
しかし、いくら待ってもUFOはやって来なかった。たまに「UFOだ!」と叫ぶ者がいたが、よく見ればただの飛行機だった。彼らの間に高まっていた期待が、時計の針が真夜中の一二時に近づくにつれ、しだいに不安と焦りに変わってゆくのがはっきり分かった。このままUFOが助けに来なければ、自分たちは大地震と大津波に巻きこまれて死ぬのではないか――しかし、誰もそれを口に出そうとはしなかった。
南国の沖縄とはいえ、冬の夜はやはり冷えこむ。人々は毛布をまとい、震えながら待った。陰気な静寂の中、赤ん坊の泣き声が響いていた。
「もうすぐだよ。もうすぐ来るよ」
そんな声が何十回、何百回聞かれただろうか。自分たちの揺らぎつつある信念を補強し合うために、彼らは力強くそう言い続けた。
時計の針は一二時を回り、二〇一一年がやってきた。
誰かが「テレビをつけてみよう」と言い出した。ポールシフトが起きているなら、世界各地から大災害を伝える臨時ニュースが飛びこんで来るはずだ――だが、もちろんそんなニュースはなく、テレビの中ではタレントたちが新年を祝うバカ騒ぎを演じているだけだった。それは <スペースポート> の暗く気まずい雰囲気とは対照的だった。
「日本時間じゃなくグリニッジ標準時かもしれない」
誰かがそう言い出し、それに同意する声が上がった。だとすればまだ九時間あることになる。もっとも、日本時間にせよグリニッジ標準時にせよ、なぜプレアデス星人が地球人の時計に合わせて行動しなくてはならないのかという根本的疑問は、誰も抱かないようだった。
多くの者はまんじりともせず一月一日の朝を迎えた。 <スペースポート> は表面的にはまったく平静を保っていた。しかし、期待を裏切られた敗北感が重苦しく漂い、誰も口を開くのをためらっていた。
その日の正午、大壺から正式な声明が出された。
「私はプレアデス星人からの指示を誤って解釈していました。彼らがグレゴリオ暦ではなくユリウス暦を使っていたのに気がつかなかったのです。彼らの『一二月三一日』というのは、実際には一月一三日のことなのです」
なぜ異星人がユリウス暦を使わなくてはならないのか。さすがにこれには愛想をつかした者が多く、夕方には失望した信者がぞろぞろと <スペースポート> から出てゆく姿が見られた。それでもなお一万人以上の信者が残り、UFOの到来を待っていた。新たに一二日の猶予期間が与えられたことで、彼らはほっとしているように見えた。
取材していたテレビ局のスタッフは、予言がはずれたのに信者の多くがなお大壷の正しさを信じて疑わないことに、困惑を隠しきれないようだった。暴動のようなものが起きるのではと思っていたらしく、あまりの静かさに拍子抜けしていた。
私にとっては予想されたことだった。古今東西、世界の終わりや大災害を予言したカルトはたくさんあり、もちろんその予言はすべてはずれてきた。しかし、それが理由でカルトが即座に潰《つぶ》れたという例はほとんどないのだ。予言がはずれても、信者の多くは教祖を見放さない。最終的に教団の崩壊が起きるとしても、長い時間がかかるのが普通だ。
特に有名なのは、一九世紀アメリカの農夫ウィリアム・ミラーの例である。彼は『ダニエル書』と『ヨハネの黙示録』に基づいて複雑な計算を行ない、「一八四三年三月二一日から一八四四年三月二一日までのいつかに、キリストがすべての聖人をともなってやって来る」と発表した。ミラーが行なった熱心な伝道により、彼の信者は五万人にも膨れ上がった。もちろん、その期間が過ぎても何も起こらなかった。だが、ミラーの信者の一人であるサミュエル・S・スノーという男が計算をやり直し、今度は「一八四四年一〇月二二日がその時だ」と予言した。信者は一〇月二二日を期待して待った。当然、この予言もはずれ、彼らは一般大衆から罵声《ばせい》と嘲笑《ちょうしょう》を浴びせられることになった。運動そのものは瓦解《がかい》し、ミラーはその五年後、失意のうちに世を去ったが、あくまで終末を信じるミラーの信者たちは独自のセクトを結成した。そのうちのひとつは、現在まで続くセブンスデイ・アドベンティスト派(アメリカ国内だけで教会数四〇〇〇以上、信者数六〇万以上)の母体となったのである。
ものみの塔(エホバの証人)もしばしば終末予言を行なってきた。創始者のチャールズ・テイル・ラッセルは、当初、「一八七四年に世界の終末が来る」と主張していた。のちにこの予言は撤回され、次は一九一四年が終末の年とされた。一九二〇年になると、「現在生きている数千人の人間は決して死ぬことがない」(死ぬ前に神の国が到来するから)と断言された。「一九一四年からはじまる時代は四〇年を超えては続かない」(一九五四年までに世界は終わるから)とも予言された。一九六七年になると、世界の終わりは一九七五年だと発表された。一九七五年が何事もなく過ぎると、教団はさすがに少し慎重になり、終末が起きる年を明言しなくなった。
日本人なら、オウム真理教の麻原《あさはら》彰晃《しょうこう》と、その信者たちの例が思い浮かぶだろう。麻原は一九九〇年に大地震が起きると予言、その後も「天皇が象徴から元首に変わる」「一九九三年には再軍備だ」「一九九三年の終わりにカンボジアで自衛隊員が殺される」などと、何度も予言をはずしたにもかかわらず、信者たちは彼を崇拝し続けたのである。
だから私は <昂の子ら> が即座に崩壊するとは思っていなかった。六週間を彼らとともに暮らし、その信念の深さを知るにつれ、その予想は確信に変わった。予言がはずれても、彼らの多くは大壺を見放すことはないと。
悲しいことだが、それが人間というものなのだ。
一三日の猶予期間中、思いがけない事件が起きた。
一月四日、教団の中心人物の一人で、ホームページ制作を担当していた渋谷《しぶや》雄大《ゆうだい》が、これまで教団に寄付してきた一五万新円以上の金を返還するように要求、幹部と口論の末に離反を決意した。彼は自宅のある東京に戻り、金を取り戻すべく、訴訟の準備をはじめた。テレビのワイドショーがさっそく取材に押しかけたが、そのマイクの前で、彼は爆弾発言をしたのである。
「ホームページに載ったUFO写真はみんな私が作ったものです」
私はたいして驚きはしなかった。偽物であることは最初から分かっていた。あのシャンデリアのような光輝くUFOは、世界各地で撮影された信憑《しんぴょう》性の高いUFO写真よりも、『未知との遭遇』に出てきたものに似ていたからだ。
しかし、写真を本物と信じて疑わなかった信者たちにとっては、かなりのショックだった。動揺が <スペースポート> を駆け抜けた。最初は信じようとしない者が多かったが、渋谷の下で働いていたスタッフが同様の証言をしたうえ、渋谷が立ち上げた自分のホームページで、UFOのCGの作成手順を詳細に解説すると、信念が揺らぎはじめた。教団上層部に釈明を求める声も上がった。
一月九日、大壷は信者たちの前に姿を現わし、こんな声明を発表した。
「私はプレアデス星人のUFOに遭遇した際、カメラを持っていませんでした。あの写真は私がツーリシラ(渋谷の宇宙名)に頼んで、私の見たものを正確に再現してもらったものです。ですから本物であることには間違いありません」
予想されたことだったが、信者の多くはこの見え透いた釈明を受け入れた。また出て行く者が何人かいたものの、 <スペースポート> に平穏が戻った。
しかし、ユートピアはすでに崩壊しかけていた。
連日、少しずつ離反者が出てはいたが、なお一万人近い信者が、一月一二日を待つため、 <スペースポート> に残留していた。ゴミの山は着実に増え続けており、南からの風が吹くと悪臭が施設全体にたらこめた。衛生環境は最悪だった。一月一〇日には気温が八度まで下がり、屋外で寝泊まりしている信者たちは一日じゅう身を縮めて震えていた。保健所がようやく重い腰を上げ、環境を改善するよう勧告を繰り返したが、教団側はどこ吹く風だった。
大壷が終末の日を冬に定めたのは幸運だったかもしれない。もしも真夏だったら、熱射病で倒れる者が続出していただろう。あるいは台風シーズンの秋だったら、悲惨なことになっていただろう。粗製濫造のバンガローは、強風に耐えられる代物ではなかったからだ。
あるいは不運だったのかも―― <スペースポート> がもっと早い時期に崩壊していれば、その後の惨劇は回避されたかもしれないのだから。
ひどい境遇がテレビなどで報じられると、信者の親や兄弟が乗りこんできて、「洗脳された」家族を強制的に連れ戻そうとしはじめた。 <スペースポート> のあちこちで、罵《ののし》り合いや小競り合いが見られるようになった。暴力|沙汰《ざた》に発展したのも、一度や二度ではない。
最大の緊張は一月一二日に起きた。一八歳の楢林《ならばやし》貴恵《きえ》という女性が腹膜炎を起こしたのだ。外から来た医師が診察し、ただちに入院の必要があると告げたが、彼女は激しく苦悶《くもん》しながらもそれを拒否した。「入院したら、明日、UFOに乗れなくなる」というのだ。医師は独断で救急車を呼んだが、教団幹部は「あくまで本人の意思を尊重する」と主張し、施設の入口でピケを張って救急隊員を阻止した。
事件はテレビで報じられ、 <昂の子ら> に対する非難はいっそう高まった。事態が深刻化しているのが明白であるにもかかわらず、政府も沖縄県警も手をこまねいているしかなかった。 <昂の子ら> はオウムとは違う。破壊活動を目論んではいないし、誘拐・監禁・虐待などの犯罪が行なわれている証拠もないのだから、強制的な手段に訴えることができないのだ。楢林貴恵にしても、本人の意志で治療を拒否している以上、法的には <昂の子ら> を罰するのは難しい。信教の自由というやつだ。
私はすでに悲劇を予感していたが、どうすることもできなかった。
もちろん、一月一三日にも何も起こらなかった。人々は身を寄せ合い、寒さに震えながら、「もうすぐだよ」とささやき合った。半月より少し太ったいびつな月がゆっくりと空を横切り、西に傾いてゆくにつれ、高まっていった緊張がしだいにしぼみ、失望と落胆が広がっていった。何もかも、一三日前の大晦日《おおみそか》に起きたことの再現だった――あるいは、一八四四年一〇月二二日にミラーの信者たちに起きたことの。
「どうして来てくださらないの!?」
時計の針が一二時を回った頃、年配の女性がが夜空を仰ぎ、ヒステリックに叫んだ。
「あなたたちはどこにいるの!? こんなに待ってるのに、こんなに祈ってるのに――どうして応えてくださらないの!?」
叫んでいるのは彼女だけだった。他の者は暗い表情でうつむき、何も言わなかった。あちこちで静かなすすり泣きも洩《も》れていた。
翌一四日の早朝、楢林貴恵は死んだ。
私は最後まで <スペースポート> にとどまり、教団の崩壊を見届けるつもりだった。しかし、事態の急変でそれは困難になった。
信者の大量離反を警戒したのか、大壷はそれまでの穏やかな活動内容を一変させる方針を打ち出した。信者に対し、現金・クレジットカード・免許証・保険証その他、現世に関わりのあるものすべてを提出するよう命じたのだ。それらを所持していることは地球に未練を残していることであり、不信心の証《あかし》とされた。もちろんそれは口実であり、信者が社会に復帰するのを妨害する目的であるのは明らかだった。
同時に、外部との接触を絶つ工作も開始された。一般信者がテレビを視聴することは禁止された。パソコンの使用にも許可が必要になった。携帯電話やポケタミも提出を命じられた。外部から入ってくる「闇の勢力」の偽情報を遮断するという名目だった。これまで出入りが自由だったゲートには車止めの杭《くい》が打たれ、報道陣や信者の家族の車をシャットアウトした。施設の周囲に有刺鉄線を張りめぐらす工事も開始された。あちこちに見張りが立ち、外に出ようとする者がいたら阻止された。雰囲気はまるで強制収容所だった。
「すでにポールシフトは起きています」大壷はそう誇らしげに宣言した。「一月一三日から、地球の地軸は大きく傾きはじめています。科学者やマスコミは『闇の勢力』に支配されているため、真実の情報を流そうとしないのです。しかし、まもなく真実は明らかになります。これから世界各地で地震や火山噴火、大洪水が続発します。ここを出て行った人たちは後悔することになるでしょう。プレアデス星人のUFOはもうすぐそこまで来ているのですから」
まったくナンセンスな話だった。地球の地軸が傾いたなら、地上から見える星の位置もみんな変わってしまうだろう。世界中の天文学者や何万人というアマチュア天文家がすぐに気づくはずだ。いくら「闇の勢力」が強大でも、彼ら全員の口をふさぐなど不可能だ。
私もポケタミや財布を取り上げられそうになった。こつこつと書きためていたレポートは、すでに私の別アドレス宛てに送信したうえ、プライベートなデータはすべて消しておいたので、ポケタミを取り上げられてもたいして痛手ではない。金が入れば買い直せばいいことだ。だが、カードの入った財布を渡すのは危険だ。一度目はどうにか言い逃れたものの、教団の管理態勢は急速に厳しくなりつつあり、いつまでも抵抗できそうにないのは明白だった。
だが、私が <スペースポート> を出る決意をしたのは、別の出来事がきっかけだった。
一月二二日土曜日午後四時、北海道の根室半島沖でマグニチュード六の地震が起きた。津波が発生し、各地で三〇人を超える死者が出た。これを知った教団幹部は、「喜ばしいニュース」として発表した。これこそ待ちに待ったポールシフトの前兆だというのだ。
その発表があったとたん、おぞましいことに、 <スペースポート> 中で拍手と歓声が起こった。
「やったやった! ついに起きた! ざまあみろ!」
若い男性信者が小躍りしてはしゃぎ回っていた。私がいくら注意してもやめようとしない。私はついにキレた。そいつに駆け寄り、固い拳《こぶし》を力いっぱい顔面に叩《たた》きつけたのだ。
「何で笑う!? 人が死んでるんだよ!」
尻餅《しりもち》をついた男は、鼻血の出ている顔で、ぽかんと私を見上げていた。なぜ殴られたのかも、私がなぜ涙を流しているのかも、分からないらしかった。周囲で見ていた他の信者たちも同じだ。異様な怪物を見るような目で私を眺めていた。
違う! 私は絶叫しそうになった。私は間違ってなんかいない。間違っているのはあんたらの方なんだ、と。
だが、私は何も言わなかった。泣きながらバンガローに戻ると、黙々とリュックに荷物を詰めはじめた。
「どうして行っちゃうの?」同室のUさんが私を引き止めた。「あともう少しでUFOが来るのよ。もう少しだけ我慢しましょ。ね?」
我慢? 私の我慢はとっくに限界だ。
「あなたこそ、いつまでここに残る気!? もう分かってるはずでしょ!? ポールシフトなんて起きないし、UFOも来やしないってことを!」
すると彼女は顔を伏せ、暗い声でつぶやいた。
「……だって、どこにも行く場所なんかないじゃない。ここしかないのよ」
私は絶句した。そう、彼女は私とは違うのだ。現金もカードも教団に差し出したうえ、夫を拒否し、養育の義務を拒否し、現世のすべてを拒否した彼女には、帰ることなどできはしない――物理的にも、心理的にも。
他人から見れば愚かな考えだが、Uさんにすれば合理的な選択なのだ。社会に復帰したところで、これまで <昂の子ら> に注ぎこんできた財産、労力、時間、信仰心がすべて無駄になるだけで、得られるものなど何ひとつない。罵声と嘲笑が待っているだけだ。少なくともここにいるかぎり、UFOに救われはしないにしても、仲間はいるし、「真理」に身を捧《ささ》げているという満足感だけは得られる。
そう、どんなに苦悩していようとも、彼女はある意味で幸せなのだ。
「それに、あの方のおっしゃることはみんな正しいわ。UFOはきっと来るのよ」
「だって、あのUFOの写真は――」
「そりゃあ写真は嘘かもしれない。でも、それがどうだっていうの?」
私はあっけにとられ、立ちすくんだ。だが、何も言うことを思いつかなかった。「真理」とやらを客観的事実より優先させたがる人間に、まともな議論が適用するはずがない。それはこれまでの人生で痛いほど身に染みていた。
私はリュックを担ぐと、逃げるようにバンガローを後にした。
惨劇はその後に起きた。
一月三〇日日曜日、環境の劣悪化した <スペースポート> 内で食中毒が発生、少なくとも八〇人が発病した。にもかかわらず、教団は入院を認めようとせず、充分な治療を受けられなかった患者たちは、駆けつけた医師の前で次々に死んでいった。かねてから <昂の子ら> への警戒を募らせていた沖縄県警は、この事件を虐待行為と判断、幹部を逮捕すると同時に患者を救出するため、 <スペースポート> への強制突入を計画した。
大壷朝子もこの頃、高熱を発し、腹痛を訴えていた。生き残った信者たちの話を総合すると、警察の介入が迫っているという情報と、健康状態の悪化が、彼女を崖《がけ》っぷちに追い詰めたようだ。大壷は熱に浮かされた状態で、プレアデス星人から新たなメッセージを受け取った。UFOに肉体を伴って乗る必要はない。魂さえあればよい。巨大なUFOはすでに地球上空まで来ている。彼らは私たちの昇天する魂を収容し、その素晴らしい科学力によって、魂に刻まれた遺伝情報を解読し、新しい健康な肉体に転生させてくださるだろう……。
二月一日火曜日早朝。大壷に指示された幹部数名が施設の周囲に灯油をまき、火を放った。たちまち地獄図絵が展開した。人々は悲鳴をあげて逃げまどった。大半の信者は脱出できたものの、建物の中で生きたまま焼かれた者、高さ四メートルの有刺鉄線の柵《さく》にはばまれて煙に巻かれた者、パニックの中で倒れて踏み潰された者も多かった。消防車が駆けつけ、ようやく火が鎮火したのは午後一時だった。
大壷自身を含め、七二二人の信者が死亡した。犠牲者リストの中には、まだ一歳に満たない赤ん坊や、あのUさんの名前もあった。
ニュースを耳にして、私はひどいショックを受けるとともに、その場に居合わせなかったことを幸運に思った。命の危険もあっただろうが、たとえ火事から逃れられたとしても、そんな恐ろしい光景を目にしていたら、精神の平衡が保てなかっただろう。
親しい人たちの死に立ち会うのは、一度でたくさんだ。
ここまでは『プレアデスを目指して』の中でも書いたことである。だが、ひとつだけ、本には書かなかったし、マスコミにも語らなかったエピソードがある。あまりに奇妙すぎて信じてもらえないと思い、あえて触れなかったのだ。
それは一月二二日の夜、 <スペースポート> を脱出する時のことだ。
正門には見張りが立っていたが、有刺鉄線は未完成だったので、脱走するのは簡単だった。私は今にも崩れる寸前のゴミの山を迂回《うかい》し、道のない密林の中を進んだ。最も近い町までほんの二キロかそこらだ。まだ二〇代だった当時の私にとって、たいした距離ではなかった。
陽はずいぶん前に落ちていた。月はまだ昇っておらず、梢《こずえ》の間からかいま見える空は、深海のようなディープブルーに染まり、刻一刻と暗さを増していった。追手が来る気配がないので、私は安心してペンライトで前方を照らしながら歩いた。樹の根でつまずいたり、ショーツから露出した脚を草で切ったりしたが、それほどの苦行というわけではなかった――あそこで体験したつらさに比べれば。
コンパスも地図もなかったので、途中で迷ってしまった。一直線に歩けば三〇分ほどで町に着けたはずなのに、私は午後九時近くになってもなお、暗い森の中をうろうろしていた。疲労し、咽喉《のど》も渇き、情けない気分になってきた。
「……ちくしょう……ちくしょう……」
私はいつしか、小声で毒づきながら歩いていた。悔しくてたまらなかった。人間はなぜ神様だの救世主だのといったものを考案してしまったのだろう。そんなものを誰も思いつかなかったら、世界はもっと単純だったはずなのだ。テロも戦争もずっと少なかっただろう。まったく愚かな話だ。神様なんて信じたって、本当の意味では幸福になどなれないのに……。
幸福。
それは私には縁のない言葉だった。いったい本当の幸福とは何だろう? 哲学者でも答えを出すのは難しい問題だろうし、私に定義できるはずもない。少なくとも、六歳の時以来、それを味わったことがないのは確かだ。
<昂の子ら> の信者たちと暮らしながら、私は「ここは自分のいるべき場所ではない」と感じ続けていた。彼らの屈託のない笑顔に心の底で嫉妬《しっと》していた。いくら期待を裏切られ、苦悩しようとも、UFOを待ち続けていたあの期間、彼らは間違いなく幸福だったのだ。その感情を偽りだと切って捨てられるだろうか? 神も異星人も信じない私、愛や幸福というものを知らない私には、あんな風に笑うことなどできない。
神を信じない者は不幸になるしかないのだろうか? 偽りの「真理」とやらに逃避する以外、幸せになる道はないのだろうか?
真理というものがあるなら、私だって信じたい。カッコ付きではない、本当の真理を――だが、そんなものがどこにあるというのか……?
たっ。
たたっ、たたたっ、たっ。
たっ、たっ、たたたたたっ。
周囲で断続的に奇妙な音がした。何か小さなものが葉を打つ音――てっきり雨が降ってきたのだと思った。
「痛っ!」
私は頭を押さえ、うずくまった。何か小さな堅いものが頭に当たったのだ。それは肩に当たって跳ね返り、地面に落ちた。ペンライトを左右に振って、いまいましいものの正体を突き止めようとした。小さな光の輪の中に、地面に落ちていた細長い銀色の物体が浮かび上がった。私はそれに目を近づけた。
それが何か気がついたとたん、私は心臓に冷水を浴びせられたような感覚を味わった。
ボルトだ。
たっ、たたたっ、たたっ、たっ……まだ音は続いていた。慌てて周囲を見回すと、落ちてきたボルトがシダの葉にあたって跳ね返る瞬間を目撃した。よく見ればそこら中に何十本というボルトが散乱しているではないか。空を仰ぐが、梢の上には星しか見えない。どこから落とてくるのかさっぱり分からなかった。
ボルトの雨は三〇秒ほど続き、ぴたりと止まった。
私はおずおずと手を伸ばし、落ちていたボルトの一本を拾い上げた。長さは約八センチ、頭が六角形をしたごく普通のボルトで、錆《さび》ひとつなく、工場で作られたばかりのように真新しい銀色だった――そして、どういうわけか氷のように冷たかった。
私はその場にうずくまったまま、パニックに陥りそふな自分をなだめ、この現象を何とか合理的に解釈しようと努めた。誰かが物蔭《ものかげ》から投げたのだろうか? だが、あたりに人の気配はまったくない。私がここを通りかかることは誰も知らなかったはずだから、くだらないいたずらを仕掛けるために誰かがわざわざ待ち伏せしたとは考えられない。それに、ほんの一瞬だったが、私はボルトが放物線を描かず、垂直に落ちてくるのを目撃していた。明らかに周囲から投げられたのではない。
空から落ちてきたのだ。
私はおそるおそる顔を上げ、空を見上げた。梢の間から、五〜六個の星が集まって冷たくまたたいているのが見えた――牡牛座のプレアデス星団。
「ねえ……」
私はバカバカしいと思いつつも、夜空に向かってつぶやかずはいられなかった。
「そこにいるの……?」
だが、誰も答えはしなかった。
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07+ヨブ
<昂《すばる》の子ら> 事件が日本国内に巻き起こしたセンセーションはすさまじいものだった。一六年前のオウム真理教事件の時と同様、何か月もの間、マスコミもネットもその話題一色で、西沙《シーシャー》群島での中国とベトナムの軍事衝突や、前年末から活発化してきたデフォルト論議、公的資金不正投入問題をめぐる東堂財務大臣の辞任のニュースでさえ、片隅に追いやられてしまった。
私は貴重な証言者ということで、何十回もテレビや雑誌の取材を受け、何十回も同じことを喋《しゃべ》らされた。ここで初めて、本名を少しもじった「阿久津《あくつ》悠子《ゆうこ》」という仮名を即興で思いつき、以後、それが私のペンネームになった。 <昂の子ら> には本名で入信しており、いつも本名で呼ばれていたので、他の信者に正体を知られるのはまずいと思ったのだ。それに高校時代の一件もある。 <エビケンのTV突撃隊> はなくなっていたが、どこかに「和久優歌」の名前を覚えている人がいないとは限らない。
もちろん、以前の轍《てつ》を踏まないよう、テレビに出演する際には、顔にかけるモザイクの形状を指定し、画像を容易に復元できないようにした。ドナルドダックのように変えられた私の声は、あなたもおそらく一度や二度は耳にされたに違いない。
マスコミへの露出は「阿久津悠子」の知名度を高めた。私はあちこちから振りこまれるギャラや原稿料でおおいに潤った。さらに体験談をまとめた単行本『プレアデスを目指して』がそこそこ売れたことで、貧乏な暮らしから抜け出すことができた。
だが、この時の体験は、私のマスコミに対する不信を決定的なものにした。
あなたは、ニュース番組やドキュメンタリー番組によくある「VTRによる取材」というやつが、次のように作られていると想像しておられるだろう。取材班はまず相手に会いに行き、ビデオを回しながらいろいろと質問をする。インタビューを通じて、ディレクターはその人の主張を理解する。そして局に戻ってからビデオを見直し、どのように編集すればその人の主張を要約できるだろうかと考える……。
それはまったく間違いだ。テレビ界の人間はシナリオ通りに番組を作る。報道番組も例外ではない。まずディレクターはおおまかなシナリオを作る。番組の中で流す台詞《せりふ》は最初から決まっているのだ。そしてその台詞を言ってくれそうな人間を探し出し、誘導|訊問《じんもん》を駆使して、相手が期待通りの台詞を口にするまで辛抱強く待つ。相手がそれに近い言葉を言ったら、すかさず「それはつまりこういうことですね」と相手の発言をねじ曲げて要約したうえで、「それをもう一度言ってください」と要求する。もっとストレートに、自分の言わせたい台詞を要求するディレクターもいる。これのどこが報道取材なのか。まるっきりドラマの撮影ではないか!
私は放映を見て愕然《がくぜん》となることがしばしばあった。一〜二時間も取材して、たっぷりビデオを回したのに、放映されるのは正味せいぜい数十秒。私が本当に言いたかったことの大半はカットされている。雑誌の取材も似たようなもので、一時間ほど話したことが、ほんの数行で乱暴にまとめられ、ニュアンスがねじ曲げられていることがよくあった。
たとえば私は、 <昴の子ら> の信者たちがみんな、どこにでもいるごく普通の人たちであることを強調した。彼らの宗教的信念は確かに奇妙なものではあったが、その人格は一般人に比べて特に異常というものではなかった。彼らが狂気だというなら、世の中の大半の人間は狂気ということになる……。
しかし、どの番組でもその発言はことごとくカットされた。なぜならシナリオにない発言だからだ。どのテレビ局もそうだが、ディレクターやプロデューサーが求めていたのは、大壷や <昂の子ら> の信者たちがどれほど異常であったかという証言なのだ。だから番組中では、「お札を燃やした」とか「衛生状態が悪かった」とか、彼らの異常性を強調するくだりだけが抜き出して放映された。中には「再現ビデオ」などと称して、おどろおどろしいBGMとともに、私の証言をホラーまがいに脚色した映像を流す局もあった。私は何度も抗議したが、聞き入れてはもらえなかった。
彼らは恐れているのだ――私はそう気がついた。
テレビを作る人間も、それを見る視聴者たちも、 <昂の子ら> の信者たちが自分と同じごく普通の人間であるという事実を、極端に恐れているのだ。それを認めると、自分の中にも狂気がひそんでいる可能性を認めることになるからだ。だから、彼らがどれほど異常であるかという情報を流し、受け取ることで、安心したいのだ――「あいつらは異常だ、俺たちとは違う」と。
それでも旧メディア(そう言えば、テレビ・新聞・雑誌をこう総称するようになったのも、この頃からだった)はまだましだった。少なくとも自分たちで取材はしているし、「間違った情報は流さない」「人権を侵害するような報道はしない」という基本原則は、いちおう守られている。無論、その原則はしばしば破られはする。だが、新聞が誤報を載せれば、訂正や謝罪の記事が載り、担当記者は処分を受ける。ニュースキャスターが間違ったことを言えば、「お詫《わ》びして訂正します」と頭を下げる。
しかし、ネットにはそんな規制などない。匿名性をいいことに、ソースの不明確な情報、まったく根拠のない情報が無秩序に飛び交う。誰もそれに責任を取ろうとはしないし、規制することは不可能に近い。そのため、誤情報が際限もなしに広まってしまう。
一六年前のオウム真理教事件の際も、似たようなことが起きた。「一九九五年四月一五日にオウム真理教徒が水道に毒を投入する」という根拠のない噂が流れ、多くの人が信じこんだのだ。その日、首都圏に暮らす人の多くは用心して水を飲まないようにした。私も伯母から前日、「明日は水を飲んではいけません」と注意されたのを覚えている。
だが、オウム事件の頃のネット人口はまだ少なく、影響力も小さかった。二〇一一年までには日本人の九六パーセントがネットに加入しており、旧メディアの人気|凋落《ちょうらく》のせいもあって、ネットに流れる情報は大きな影響力を持つようになっていた。
ネット内の掲示板に林立していた <昂の子> 関連のスレッドは、それまでじわじわと発言数が増加していたのだが、二月一目の悲劇を境に爆発した。大事件に興奮したお調子者たちが、テレビや新聞の報道から得た断片的な情報や、聞きかじりの不正確な知識をベースに、妄想と偏見で膨らませた情報を面白おかしく垂れ流したのだ。その情報が別のスレッドに引用され、さらに醜く歪曲《わいきょく》され、増殖した。とてつもないスケールで展開される伝言ゲームだ。ある情報が真実かどうか、ソースをたどろうとしても、もはや誰が最初に言い出したのか分からない場合がほとんどだった。
「三月一日、 <昴の子ら> が今度は東京の住宅街で集団放火する」
そんな情報が流れ、世間を騒がせた。一六年前のデマの安直な焼き直しだ。どうもこうしたデマというのは、何十年経っても基本的に進歩しないものらしい。その日、多くの都民が消火器を用意して備えたが、無論、空振りに終わった。
そうしたデマによって最も被害を蒙《こうむ》ったのは、言うまでもなく、 <昂の子ら> の信者たちだった。惨劇の後、深い失意を胸に日本各地に散っていった彼らは、どこでも激しい迫害を受けた。不当な中傷、脅迫状、いたずら電話、メール爆弾……沼津では信者の家族の家に猫の死骸《しがい》が投げこまれたり、窓ガラスが割られたりした。学校でリンチ同然の激しいいじめに遭い、入院した子供もいた。札幌では、信者がガソリンスタンドで灯油を買おうとしただけで警察に通報されたという、笑い話のようなエピソードもある。
日本人の多くは <昂の子ら> にオウムのイメージを重ね合わせていたようだ。だが、 <昴の子ら> はオウムとは違う。彼らは信者以外の一般市民に危害を加えたことなどないし、加えるつもりもなかった。放火事件に関与しなかった教団幹部は記者会見を行ない、事件の被害者に深く謝罪するとともに、自分たち思想が安全なものであることを改めてアピールした。
しかし、人々はそんな言葉など信じようとはしなかった。自分たちの街も放火されるのではないかと脅え、異常に彼らを監視したのだ。 <昴の子ら> をめぐっては、心ない中傷やデマばかりでなく、被害妄想めいた陰謀論も渦巻いた。
特に根強かったのが、「 <昂の子ら> はコリアン・マフィアの手先だ」というデマだった。当時、朝鮮半島では、北朝鮮崩壊の混乱に乗じてコリアン・マフィアが大儲《おおもう》けし、勢力を大幅に拡大していた。日本への大量密航者を斡旋《あっせん》していたのも彼らだった。折から高まっていた朝鮮人密入国者への敵意や、統一コリアでの反日運動の高まりも手伝って、多くの人がその噂を信じてしまった。
だが、 <昂の子ら> と朝鮮を結びつける証拠はというと、火を放った幹部の中に朝鮮名の者が一人いた、という程度のお粗末なものだった。その男は朝鮮半島から派遣された工作員で、資金獲得と日本に混乱を起こす目的のため、大壷を背後で操っていた。マスコミはそれを知っているが、在日コリアン団体から圧力がかかっていて、ニュースを流さないのだ……というのである。私はその人物、姜陽明《カンヤンミョン》の経歴を調べたことがあるが、彼は在日四世の青年で、日本を離れたことはなく、韓国語も喋《しゃべ》れなかった。
そんないいかげんな根拠であるにもかかわらず、 <昴の子ら> =コリアン・マフィア説は人気を呼び、様々なヴァリエーションを派生しながら、ネットの中で増殖した。姜陽明はコリアン・マフィアではなくKCIA(コリア中央情報局)のスパイだという説もあり、コリアン・マフィアとKCIAはつるんでいるという説も生まれた。中には「公安から漏洩《ろうえい》した極秘情報」とか「警察幹部から聞いた」などと称するまことしやかな話もたくさんあったが、当然のことながら、ソースはひとつも特定されなかった。
人々は旧メディアよりも、そうした裏情報を信じた。「マスコミは本当のことを流さない」と、多くの人が信じていた(ある意味、それは事実ではあるのだが)。たまに誤情報を打ち消そうとする人間が現われても、その声はあっさり圧殺された。
私はいくつかの大手掲示板を覗《のぞ》いてみて、あまりにもデタラメな情報が無責任に垂れ流されていることに驚いた。彼らは「この前、阿久津という女が週刊誌で書いていたが」などと前置きして、私が書いたこともない文章を「引用」するのだ。彼らの大半は大壺の書いた本を読んだことがなく、もちろん信者たちとの直接の接触もなく、彼らの思想や事件の背景について初歩的な知識すらなかった。
私はそうした誤情報を見つけるたびに訂正したが、誤情報をアップした者が謝罪したことは一度もない。それどころか、私が <昴の子ら> 信者を擁護する発言を繰り返すものだから、「朝鮮の手先」「昴シンパ」などと罵《ののし》られ、集中砲火を浴びる羽目になってしまった。
それ以来、ネット上で発言するのはやめた。洪水に素手で立ち向かうようなものだ。真実を知りたがらない人間に真実を教えようとするのは無益な労力であることを、私は改めて思い知った。
私はなぜ <昂の子ら> の信者たちが普通の人間であると強調したかったのか。
話は少し前後するが、東京に帰ってきた私は、新居が見つかるまで(前に住んでいたアパートは入信する際に引き払っていた)、葉月のマンションにしばらく転がりこんでいた。二月一日、私は彼女のマンションで悲劇のニュースを見た。
その夜、私は缶ビールをがぶ飲みし、葉月を相手にくだを巻いた。 <昴の子ら> の信者たちがどれほど愚かであるか、彼らの信念がどれほど間違ったものであったかを、さんざん愚痴った。
葉月は一時間ほど黙って聞いていたが、やがてこう言った。
「つまり、あの人たちがあんな目に遭ったのは、当然の報いだって言いたいわけ?」
「ええ、そう」
力強く返答する私に、彼女は致命的な一撃を加えた。
「つまり、あんたのご両親とは違うって?」
「ええ……いいえ、違う! そうじゃない!」
そう言うなり、私はわっと泣き崩れた。
葉月はまたしても、私の心の中を見透かしていた。私が <昂の子ら> の悲劇を、両親の悲劇と重ね合わせまいとしているのを見破ったのだ。そうすることで心に新たな重荷を背負うのを避けていることを。
だが、それは欺瞞《ぎまん》だ。二つの悲劇に本質的な違いなどありはしない。確かに亡くなった信者たちは愚かだったかもしれない。奇妙なカルトを信奉し、世間の常識を逸脱するような行動をしていたかもしれない。だが、それは死に値するような罪だろうか?
断じて違う。世の中にはもっと奇妙な信念を抱いている人間はいくらでもいるし、悪事を働いているのに罰せられない者もいる。少なくとも亡くなった信者たちは、神の罰を受けるようなことは何もしていなかったと断言できる。私の両親と同様に――あるいは、紅海で溺れ死んだエジプト兵と同様に。
<昴の子ら> の信者たちは、「真理」に目覚めない人間は大洪水で死んで当然だと信じていた。それが大宇宙の意志なのだと。彼らの死を「当然の報い」と考えることは、まさに彼らと同じあやまちを犯すことになる。
酔った勢いも手伝って、私は泣きじゃくり、混乱しながら、それまで心にしまっていたいろいろなことを葉月に語った。かつてIさんに見せられたボルトのことや、一月二二日の夜、空から落ちてきたボルトのことも。
ボルトは五本ほど拾ってきていたので、それを葉月に見せた。あいにく、Iさんのものと違ってごく普通のボルトなので、超常現象の証明になどなりはしない。だが、葉月はあっさり信じてくれた。
「あんたがそう言うなら、ほんとなんだろうね」と。
「で」彼女は言った。「あんたとしちゃあ、どう思うわけ?」
「どう思うって……」
「それ、神様がくれたものだと思うの? 何かのお告げだって?」
「……分からない」
私は正直に答えた。実際、いくら考えても分からないのだ。神にせよ、プレアデス星人にせよ、私にボルトをプレゼントする理由などありはしない。何か伝えたいことがあるなら、こんな謎めいた方法ではなく、もっと明快なメッセージを送ってよこせばいいではないか。
かと言って、何かの錯覚だと思いこむのも困難だった。私はボルトが空から落ちてきた瞬間を見ているし、そのボルトはげんにここにある。夢や幻であるはずがないのだ。いくら頭をひねっても、合理的な説明は思いつかない。
奇跡――そうとしか考えられないのだ。
「でも、どうしても信じられないのよ。神様だか何だか知らないけど、そういう超越的な存在が、私にメッセージを送ってきたなんて……だって私、そんな資格なんてないもの。どこにでもいる、ごく普通の人間よ」
「ジャンヌ・ダルクは? 彼女もただの田舎娘だったんじゃない?」
「茶化さないで」
「ごめんごめん」葉月は笑った。「でも、まあ、そう信じてるうちは安心だね。『私は神に選ばれた特別な人間だ』なんて妄想を抱くようになったら、破滅への第一歩だからね」
「破滅?」
「ジャンヌ・ダルクは火あぶりになったんだよ」
「ああ、そうか……」
「ほんと、バカな娘だよね、ジャンヌって」葉月はふと、遠い目をしてつぶやいた。「神様のお告げを受けたって、聞こえないふりをしてりゃ、安楽な一生送れただろうにね……」
私は葉月ほど人の心を読むのがうまくない。それでも、彼女のその口調の中に、何か大きなわだかまりがひそんでいるのを感じ取った。私は思いきって「何かあったの?」と訊《たず》ねてみた。
葉月はしばらく黙りこんでビールの空き缶を弄《もてあそ》んでいたが、やがてこう言った。
「ねえ、あたしらみたいな人種を何て呼ぶか知ってる?」
「『バカ』?」
「違う。『不器用』って言うんだよ」
そう言うと葉月は、「これは記事にしないで欲しいんだけど」と前置きしたうえで、それまであまり語らなかった病院内の話をしてくれた。頻発しているのに表面に出ない医療事故のことだ。初歩的な誤診、血液型の取り違え、不必要だった手術……それらは決して患者や遺族に知らされることはなく、めったに表沙汰《おもてざた》にならない。中には不信を抱いて追及してくる遺族もいるが、証拠がないので引き下がるしかない。カルテの改竄《かいざん》などのもみ消し行為はごく日常的に行なわれており、医師や看護師の多くはそのことに何ら罪の意識を抱いていない。重大なミスを犯したのに、「参ったな、また殺しちゃったよ」などと笑いながら語る医師もいるという。
「でも、あたしが何にいちばん腹を立ててるか分かる?」喋っているうち、彼女はだんだん興奮してきた。「それを聞いて、あたしが黙ってるしかないってことなのよ。このあたしが! 信じられる!?」
「告発できないの?」
「そんなことしたら、将来、閉ざされちゃうよ。今の病院にはいられなくなるだろうし、他の病院だって似たようなことやってるから、あたしみたいな厄介者をほいほい採用しちゃくれないだろうし。さすがに残りの人生すべて棒に振る気にはなれないよ。せっかくここまで上りつめたのに……」
葉月がためらうのももっともだった。当時、制定されたばかりの内部告発者保護法は、各方面からの圧力で骨抜きにされたザル法で、とうてい正しく機能しているとは言い難かった。告発者が出世の道を閉ざされたとか、法律に触れない範囲の陰湿な嫌がらせを受けたとか、見せしめのために冤罪《えんざい》を着せられたという話は、よく耳にした。匿名で告発しても同じことだ。行政機関が告発者の情報を漏洩する不祥事がしばしば起きていたし、漏洩がなくても、誰かが告発者の正体に気づくことは避けられない。いったん実名が洩れれば、ネット社会ではたちまち知れ渡ってしまうのは、高校時代のヤラセ番組事件で体験した通りだ。
葉月は爪を噛《か》んで悔しがった。世の中の誰よりも不正を憎む彼女が、不正を見て見ぬふりをすることを強要されているのだ。その精神的苦痛はどれほどだろうか。
彼女が私たちのことを「不器用」と言った理由が理解できた。世の中の人間の大半は、実に器用だ。私や葉月のようなジレンマに直面しても、たいして悩むことなく、ひらりとすり抜ける。自分にとって利益となる道を迷うことなく選択するのだ。
彼らは不正を目にしても、自分にとって利害がなければあっさり無視するし、それどころか不正に積極的に手を貸す。学校の体面を守るために校内暴力を見て見ぬふりをし、本を売るためにデタラメだらけの血液型性格判断の記事を書き、視聴率のためにヤラセのドキュメンタリー番組を作り、保身のために誤診の証拠をもみ消す――彼らはそれらすべてを「しかたない」の一言で割り切り、良心の呵責《かしゃく》など覚えない。
私や葉月には、そんな器用な生き方などできない。自分の良心を偽って生きることなどできない。だから世の中の不正や矛盾にぶつかるたびに、それをどうすることもできない自分に腹を立て、苦しむのだ。
矛盾を見て見ぬふりができるなら、人生はどれほど楽だろうか。
「……でも、器用になんかなりたくない」私はきっぱりと言った。「嘘の人生なんか生きたくない。どんなに楽でも、そんなのは嫌だ」
「そうだね」
葉月は笑った。少し悲しげな、自嘲《じちょう》気味の笑いだった。
「世の中に、あたしら二人ぐらい、不器用な人間がいたっていいよね」
私たちは二人きりで、缶ビールで乾杯した――いつまでも不器用でいることを誓い合って。
私はジャンヌ・ダルクになりたくはなかった。しかし、神のメッセージが本当に届いているのだとしたら、聞こえないふりをしたくもなかった。
ボルトの一件以来、私には神の実在を認める気持ちが強くなってきていた。反面、神が実在することを恐れてもいた。神がいないのなら、何も恐れることはない。だが、もし神が実在するなら……。
天災、疫病、犯罪、不正、戦争……この地上では、大勢の罪もない人間が悲惨な苦しみを味わっている。それなのに、全知全能であるはずの神は、それを未然に防ぐことも、苦しんでいる人を助けることもせず、黙って見下ろしているだけだ。まるで人間たちを苦しみに満ちた世界に放置し、楽しんでいるようにさえ思える。
「そんなことはない。神は慈愛に満ちた存在だ」と反論する人も多いだろう。だが、私は少なくとも自分の周囲を見回して、神が人間に好意を持っているという証拠を目にすることはできなかった。
『プレアデスを目指して』を上梓《じょうし》した直後、私はすぐに次の本の執筆に取りかかった。今度は現代人と宗教の関わりがテーマだった。若い男性編集者は親切にも「そんな地味な題材じゃ売れないよ」と忠告してくれた。しかし私は「自分にとって興味があるテーマだから」という理由で企画を押し通した。
しかし、少なくとも私にとって、この本の執筆は実のあるものだった。というのも、取材の過程で多くの人にインタビューして、その宗教観を聞くことができたからだ。
私はどの人にも同じ質問をしてみた。
「神が実在するなら、どうして悪がはびこるのでしょう? どうして善良な人が虐げられたり、事故や災害で生命を落としたりすることがあるのでしょう?」
売れっ子のオカルト漫画家・美濃《みの》シローの回答は、実に単純明快だった。
「人はみな前世のカルマを背負っています。前世で悪行を重ねた人は、次の世ではその罰を受けます。通り魔殺人の犠牲になったり、車にはねられたりね。地震なんかの災害に遭遇して死ぬ人と死なない人がいるのは、そのせいなんですね。善人は間一髪で助かるし、前世で悪いことをした人は苦しみながら死ぬわけです」
つまり私の両親が死んだのは前世で犯した罪のせいだし、そのことで私が苦しむのも前世の罪だというわけだ。
それなら飛行機事故などで乗員乗客全員が死亡することがあるのはどうしてか。
「人の運命は神様によって決められているんです。悪いカルマを持った者だけが同じ飛行機に乗り合わせるように仕組まれているんです」
美濃の解説(どこかのオカルト本の受け売り)によれば、現世は神による修行の場であるという。神は人間たちを地上で自由に振舞わせ、その行ないを監視している。他人を虐待した者は、次に生まれ変わると虐待される側に回される。罪を侮いて、心を改めない限り、何度生まれ変わってもひどい境遇のままだ……。
「ほら、アメリカなんかじゃ差別されてるマイノリティがいるでしょ。前世で罪を重ねた人が、ああいう階層に生まれ変わるんです。中には前世の性格をそのまま引きずってる奴も多い。だからほら、犯罪の発生率も高いんです」
反吐《へど》の出そうな人種差別思想だが、美濃はあくまでにこやかに微笑みながら語った。後になって知ったのだが、輪廻転生《りんねてんしょう》説の信者はしばしばこうした差別思想に染まってしまうらしい。身障者や社会的に虐げられている人を見ても、「前世のカルマ」で済ませてしまい、憐《あわ》れみを覚えないのである。
私はさすがに不愉快になり、意地悪な質問をしてみた。
「それを本人の前で言えますか?」
彼はぽかんと口を開けた。「え?」
「たとえば、災害で親を失った子供の前で、『君のお父さんやお母さんは前世で悪いことをしたから罰を受けたんだよ』って言えますか?」
「いや、それはちょっと……」彼は困惑し、笑いでごまかそうとした。「いくら何でも悪いでしょう」
「悪い? あなたはご自分の信仰が正しいと思っておられるんじゃないんですか? 正しいと信じているなら言えるはずでしょう?」
美濃は答えられなかった。
舞台女優の加賀見《かがみ》ふさえにもインタビューした。彼女はオカルトに深く傾倒していることで有名で、某大手宗教団体の広告塔的な存在でもあった。
加賀見は一年前、生まれたばかりの長男の琢人《たくと》くんを先天性の心臓障害で亡くすという悲劇に遭遇したばかりだった。オカルトには以前から興味を抱いていたが、本格的にのめりこむようになったのはその頃からだという。
「タクちゃんはね、天国で今、幸せに暮らしてるんですよ」
彼女の表情は終始にこやかで、一点の翳《かげ》りも見られなかった。演技ではなく、本当に明るくて、我が子を亡くしたばかりの女性とは思えなかった。
「知り合いの霊能者の方にタクちゃんからメッセージが届いたんです。『ママ、僕はとっても幸せだよ。もう胸は痛くないよ。天国にはお友達がたくさんいるから寂しくないよ』って」
何の屈託もない表情で語る加賀見に、私は困惑を覚えた。ほんの一年前に死んだ子供のことを、笑いながら語る母親――何かが間違ってはいないか?
もちろん、彼女も子供が死んだ直後は泣いたのだろう。胸が張り裂けそうなほどに苦しんだに違いない。そして、その悲しみから逃れたくて、子供は天国で幸せに暮らしていると信じたくて、霊能者のお告げなどという怪しげなものに飛びついたのだろう。私自身、肉親を亡くした思い出があるので、苦しみから逃避したくなる気持ちはよく分かる。そのことで加賀見を責めるのは酷というものだ。
だが、やはり私には、彼女は間違っているように感じられる。天国が素晴らしいところだと信じたいのは、本当に我が子の幸せを願ってのことなのか? それとも、自分が苦しみから逃れたいだけなのか?
私は愛していた両親を亡くしたことで深く悲しみ、何年も苦しんだ。それが人間として当然の感情だと思っている。その一方、「両親は天国で幸せに暮らしている」などという欺瞞に逃避して、安らぎを得ようと思ったことは一度もない。なぜなら、愛する人のために悲しむのは、その人を愛している証拠だからだ。安直な手段で悲しみを解消しようとするのは、それこそ愛を裏切ることではないのか?
そもそも、なぜ神は彼女から愛する子供を取り上げねばならなかったのか? その点を問いただすと、彼女は微笑みながらこう答えた。
「神様の御心はとても大きくて、私たちに推し量ることはできません。でも、きっと何か大きな意味があったのだと信じています」
私は幻滅した。これでは何の答えにもなっていない。私には、彼女は悲しみから逃れるために思考停止してしまっているとしか思えなかった。
その他にも、私は二〇人以上の宗教関係者、多くの宗教信者にインタビューし、様々な意見を聞いた。それらはだいたい次のように大別される。
「この世の悪はすべて悪魔のしわざである」
これは実に単純明快で分かりやすい考え方であり、それだけに多くの人にアピールする。災害で人が死ぬのも、不正がはびこるのも、生まれたばかりの赤ん坊が死ぬのも、すべて悪魔のせい、というわけだ。
だが、この考えには大きな矛盾もある。一般に神は悪魔より強大な存在と考えられている(さすがにそれを否定する者はほとんどいない)。神がその気になれば、悪魔を一掃し、悪や不幸の存在しない世界にすることもできるはずなのだ。にもかかわらずこの世に悪魔が跳梁《ちょうりょう》しているとすれば、神がそれを許していることになる。つまり「悪魔仮説」は問題を一歩後退させているだけで、本質的な回答になっていないのだ。
「神は人間に自由意志をお与えくださった。自由意志には必然的に『悪を行なう意志』も含まれているので、この世に悪が存在するのは当然である」
これはいちおう納得できる考え方だ。悪に走る可能性を伴わない自由意志というものは、論理的に存在しない。神はこの世を創造する際、人間が悪に染まる可能性を排除できず、その選択を人間自身に委ねたのだ、というわけだ。
しかし、これは私の疑問に対する回答にはなっていない。私が知りたいのは「神はなぜ悪を創ったのか」ではなく、「神はなぜ悪が行なわれるのを許すのか」なのだ。それに、人の意志と無関係に起きる惨劇――地震、洪水、疫病などについて、この仮説は何も答えてくれない。
「神は決して悪をお許しにならない。現世で罪を犯した者は、地獄で罰を受ける」
これも他の仮説と同様、何の説明にもなっていない。なぜ神は善人が苦しめられるのを阻止しようとしないのか? 悪人を地獄に落とすのは、まず善人を救ってからでもいいはずではないか。数百万のユダヤ人が強制収容所に送られ、ガス室に詰めこまれて青酸ガスで殺されてゆくのを、ただ黙って見ていたというのか?
そもそも、地獄で罪人が罰を受けているという証拠は何もない。私は臨死体験の報告もたくさん読んだが、罪人が地獄の炎で焼かれているところを見たという例はほとんどない。「罪人はあの世で罰せられる」というのは希望的観測にすぎない。
「神も全能ではない。この世のすべての悪を阻止することなどできない」
少数派ながら、こういう意見も存在する。しかし、これも的はずれだ。神はすべての悪を阻止できなくても、一部の悪は阻止できるはずなのだ。たとえばアウシュビッツのドイツ兵の前に現われ、「そのような行為をしてはならない」と告げることもできたはずではないか?
「この世で起きる出来事はすべて、人間をより高次の段階に進化させるための神の遠大な計画の一部である。悲劇のように見える出来事も、神の与えてくださった試練であり、長期的に見れば良いことなのである」
これもよく耳にする考え方だ。しかし、美濃シローの思想と同じ欠陥がある。
この説を犠牲者の前で言えるだろうか? ガス室で肉親を虐殺されたユダヤ人、一九四五年八月六日の広島で地獄を体験した人々、飢えに苦しむアフリカの難民、阪神大震災の被災者、地下鉄サリン事件の後遺症で今も苦しむ人々、通り魔に子供を殺された親、北朝鮮に拉致《らち》された人、レイプされた女性、誘拐されてチャイルド・ポルノに出演させられた子供……彼らに向かって、「あなたの体験されたことは、長期的に見れば良いことなのです」などと言えるだろうか?
百歩譲って、長期的に見て良いことであったとしても、短期的に見れば犠牲者にとって大きな苦痛であることは間違いない。そんな苦痛を体験しなくてはならないのなら、高次の段階とやらに進化したくない、と思う人も多いだろう。
「神は決して罪を犯さない」
これも多くの人が信じていることである。実際、私が資料にするために読んだある本では、途中まできわめて論理的に神について論じられていたのに、「神は罪を犯さない」という主張が、突然、何の証明もなしに出てきたので驚いた。
それは絶対におかしい。「あやまち」と「罪」の定義が混同されている。神が全能であるなら、欲望に負けて衝動的に悪事を働いたり、間違って罪を犯してしまうことはありえない。しかし、一部の犯罪者がそうであるように、それが罪であることを知りつつ罪を犯すことは、決して「あやまち」とは言わないはずだ。
そう、「神はあやまちを犯さない」は正しくても、「神は罪を犯さない」は正しくない。神が全能であり、自由意志があるなら、神には罪を犯す能力も、罪を犯す意志もあるはずではないか。「神は罪を犯さない」という考えは、神の全能性を否定するに等しい。
考えれば考えるほど、私はひとつの不愉快な結論に引き寄せられていった。神は今まさに、私たちに対して恐ろしい罪を犯しているのではないか? 神は本当は冷酷かつ傲慢《ごうまん》で、この世に悪がはびこるのを許容する一方、偽りの言葉で人々に誤った希望を与え、弄んでいるのではないだろうか――フェッセンデンのように、心のおもむくままに災厄をまき散らし、人間たちの苦しみを笑って見下ろしているのではないだろうか?
そんなのは誰も信じたくないだろう。私だって信じたくはない。しかし、シャーロック・ホームズの言葉ではないが、「考えられる可能性をすべて排除した後で残ったものが、どれほど信じられなくても真実」なのだ。
それとも、私がまだ気づいていない可能性が、何かあるのだろうか?
私にとって少しばかり役に立つ助言をくれたのは、プロテスタント系の大手教団の牧師でもある神学博士だった。彼は私の質問を聞き、静かな口調でこう言ったのだ。
「それなら『ヨブ記』をお読みなさい。そこにあなたの疑問に対する答えが書いてありますから」
恥ずかしい話だが、私はその時まで『ヨブ記』を読んだことがなかった。聖書は資料として持っていたが、子供の頃の体験の影響で、宗教的なものを毛嫌いしていたせいもあり、あまり真剣に目を通したことがなかったのだ。それに旧約聖書の中でも、最初の『創世記』『出エジプト記』あたりはスペクタクルが多く、純粋に物語として読んで楽しめるが、『レビ記』『民数記』『申命記』……と進むにつれ、内容が地味になり、読むのが苦痛になってくる。なかなか一八番目の『ヨブ記』にまでたどり着かないのだ。
そう感じるのは私だけではあるまい。ハリウッド映画でも、『創世記』や『出エジプト記』を題材にした作品はたくさんあるが、それ以外の旧約を題材にした映画となると、『士師記』のエピソードを基にした『サムソンとデリラ』ぐらいしか思い浮かばない。まして『ヨブ記』が映画化されたという話など聞かない。
そんなわけで、私は二四歳にして初めて『ヨブ記』を読んだ。
『ヨブ記』が成立したのは紀元前五世紀と推測されている。しかし、二四〇〇年も前に書かれたにもかかわらず、少しも古さが感じられないことに、私は驚いた。そこで扱われているテーマは、現代でもそのまま通用する。
物語の冒頭、天上で神とサタンが会話している。ここに出てくるサタンは、いわゆる悪魔ではなく、地上を巡回して人間たちの悪を見つけ出し、神に報告する天使である。サタンが神に反逆した堕天使だという概念が生まれたのは、ずっと後の時代なのだ。
ヨブは七人の息子と三人の娘を持ち、たくさんの家畜や財産を所有する大富豪であり、信心深い善人である。神はヨブの敬度《けいけん》さを誉める。
「地上に彼ほどの者はいまい。無垢《むく》な正しい人で、神を畏《おそ》れ、悪を避けて生きている」
それに対してサタンは、「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」と疑問を呈する。ヨブがあなたを敬うのは、あなたが彼の一族や財産を守っているからです。試しに彼からすべての財産を奪ってごらんなさい。きっと彼はあなたを呪うに違いありません……。
神はそれを実行に移す。ヨブの財産をすべて奪うよう、サタンに命じるのだ。たちまちヨブは恐ろしい不幸に見舞われる。彼の所有していた畑や家畜は略奪され、牧童は切り殺される。天から火が降ってきて、羊と羊飼いを焼き殺す。長男の家で宴会を開いている最中、大風が吹いて家が倒れ、息子や娘たちはみんな死んでしまう。
ヨブは子供を失い、無一文になるが、それでも神への信仰を捨てようとしない。神はさらに過酷な試練を与える。彼をひどい皮膚病にかからせ、苦しめるのだ。ヨブはそれでも決して神を呪う言葉を口にしない。「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」と言う妻に対し、「私たちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と答える。
そこへ遠方の国から三人の友人がヨブを見舞いにやって来る。三人は見分けがつかないほど哀れな姿となったヨブを見て、嘆き悲しむ。
ここまでがいわばプロローグ。ここからはじまるヨブと三人の友人の長い議論こそ、『ヨブ記』の本題である。
ヨブは神を呪わない代わり、自分の生を呪う。
「なぜ、私は母の胎内にいるうちに死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ膝《ひざ》があって私を抱き、乳房があって、乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに」
それに対し、友人の一人、テマン人エリファズはこう言う。
「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか。私の見てきたところでは、災いを耕し、労苦を蒔《ま》く者が、災いと労苦を収穫することになっている」
どんな苦難が襲ってこようとも、神は必ず正しい人を救う、とエリファズは力説する。
「あなたは知るだろう。あなたの天幕は安全で、牧場の群れを数えて欠けるもののないことを。あなたは知るだろう。あなたの子孫は増え、一族は野の草のように茂ることを。麦が実って収穫されるように、あなたは天寿を全うして墓に入るだろう」
ヨブを前にして、これはなんと残酷な言葉だろう! 彼はげんに家畜や畑を失い、子供たちを失い、天寿を全うする希望も絶たれようとしているのだ。エリファズは目の前にある現実を見ていないとしか思えない。
当然、ヨブは激しく反発する。彼は自分がどれほど苦悩し絶望しているかを訴える。
「あなたたちの議論は何のための議論なのか。言葉数が議論になると思うのか。絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか」
彼は絶望のあまり、天に向かってこんな言葉を口にする。
「なぜ、私に狙いを定められたのですか。なぜ、私を負担とされるのですか。なぜ、私の罪を赦《ゆる》さず、悪を取り除いてくださらないのですか。今や、私は横たわって土に還る。あなたが探し求めても、私はもういないでしょう」
そんなヨブの態度を見て、シュア人ビルダドは「いつまでそんなことを言っているのか」と激しく叱責《しっせき》する。
「あなたの子らが神に対してあやまちを犯したからこそ、彼らをその罪の手に委ねられたのだ。あなたが神を捜し求め、全能者に憐れみを乞《こ》うなら、また、あなたが潔白な正しい人であるなら、神は必ずあなたを顧み、あなたの権利を認めて、あなたの家を元通りにしてくださる」
あくまで神の裁きの正しさを主張するビルダドに対し、ヨブは「そんなことは知っている」と答える。「神より正しいと主張できる人間があろうか」と。神が絶対的存在であることを熟知しているからこそ、ヨブの苦悩は深いのだ。
「神は髪の毛一筋ほどのことで私を傷つけ、理由もなく私に傷を加えられる。息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる。力に訴えても、見よ、神は強い。正義に訴えても、証人となってくれる者はいない。私が正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる。無垢かどうかすら、もう私は知らない。生きていたくない」
私は不覚にも、読み進みながら涙が出てきた。ヨブの嘆きは、まさに私が子供時代に感じた想いそのままだった。優しかった両親を何の理由もなしに奪われたのに、誰にも訴えることのできなかった悔しさと絶望……。
ヨブは決して神の存在を否定しているのではない。神に反逆しようとも思っていない。神はあまりにも大きな存在であり、小さな人間の訴えになど耳を傾けないだろうと信じている。それでも彼は、神に向かってこう叫ばずにはいられない。
「私に罪があると言わないでください。なぜ私と争われるのかを教えてください。手ずから創られたこの私を虐げ退けて、あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。それでいいのでしょうか」
ナアマ人ツォファルの言うことも、他の二人と大差ない。彼はヨブの必死の訴えを理解しようとせず、神の正しさを頑固に主張するばかりである。
「神は偽る者を知っておられる。悪を見て、放置されることはない」
ヨブと三人の友人の議論は、どこまで行っても平行線だ。友人たちは神の裁きの正しさを確信しており、ヨブが罰せられているのはその罪ゆえだと思っている。彼らの信念からすると、そうとしか考えられないからだ。彼らはヨブが神の偉大さを理解しておらず、神に対して不遜《ふそん》な言葉を吐いていると非難する。
エリファズなどは、何の根拠もなしにヨブをこう罵倒《ばとう》する。
「あなたははなはだしく悪を行ない、限りもなく不正を行なったのではないか。あなたは兄弟から質草を取って何も与えず、すでに裸の人からなお着物をはぎ取った。渇き果てた人に水を与えず、飢えた人に食べ物を拒んだ。腕力を振るう者が土地を我がものとし、もてはやされている者がそこに住む。あなたはやもめに何も与えず追い払い、みなしごの腕を折った」
しかし、ヨブは断固としてこう主張する。
「私の権利を取り上げる神にかけて、私の魂を苦しめる全能者にかけて、私は誓う。神の息吹がまだ私の鼻にあり、私の息が残っているかぎり、この唇は決して不正を語らず、この舌は決して不正を言わない、と。断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、私は潔白を主張する」
「私は見えない人の目となり、歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり、私に関わりのない訴訟にも尽力した。不正を行なう者の牙《きば》を砕き、その歯にかかった人を奪い返した」
「私が貧しい人々を失望させ、やもめが目を泣きつぶしても顧みず、食べ物を独り占めにし、みなしごを飢えさせたことは、決してない」
裕福で健康だった頃、ヨブは多くの人から慕われ、尊敬されていた。だが、今は違う。人々は無一文の醜い姿となった彼を忌み嫌い、顔に唾《つば》を吐きかける。
ヨブは叫び続ける。なぜ神は自分をこれほどまでに苦しめるのか。なぜ神を愛する者たちがみじめな暮らしを強いられ、神に逆らう者たちが安楽な一生を送るのか。神は人間の善や悪に報いるとあなたたちは主張するが、げんにそうなっていないではないか……。
ここで、それまで彼らの議論を黙って聞いていたエリフという若者が、がまんできなくなって口をはさむ。しかし、彼の主張は三人の友人のそれと大差ない。彼はひたすら神の偉大さを称賛し、「神にはあやまちなど決してない。全能者には不正など決してない」と頑固に主張する一方、哀れなヨブを「神に逆らう者」と非難し、罵倒する。
こうして議論が出つくしたところに、情突に神の声が嵐の中から聞こえてくる。ここが物語のクライマックスだ。
だが、私はここで深い失望を味わった。神がどんな言い分を聞かせてくれるかと思ったら、かんじんの議論の焦点についてはまったく触れようとせず、「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙《あけぼの》に役割を指示したことがあるか」とか、「昂の鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることがお前にできるか」とか、「お前は馬に力を与え、その首をたてがみで装うことができるか」などと、くだらない自慢話をえんえんとするばかりなのだ。もちろん、神でないヨブにそんなことができるはずもないのは、神自身に説明されるまでもなく、誰だって知っている。神の長ったらしいお喋りは、まったくの無意味だ。
「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責め立てる者よ、答えるがよい」
そう挑発する神に対して、ヨブは簡潔に答える。
「ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」
そう、彼には主張を繰り返す必要などないのだ。すでに主張はすべて言いつくした。全知全能である神は、それを知っているはずだ。
にもかかわらず、神はヨブの問いに答えようとはせず、さらにヨブを挑発する。
「男らしく、腰に帯をせよ。お前に訊ねる。答えてみよ。お前は私が定めたことを否定し、自分を無罪とするために、私を有罪とさえするのか。お前は神に劣らぬ腕を持ち、神のような声をもって雷鳴を轟《とどろ》かせるのか」
何という残酷な仕打ち! 神はヨブの財産を奪い、子供たちを殺し、病に苦しめるだけでは飽き足らず、お前は神に等しい力を持っていないではないかと愚弄《ぐろう》するのだ。ちっぽけな人間ごときが私を非難するとはけしからん、と。
これではやくざの脅しと何ら変わりがないではないか。
神はそれからもさらに、自分の偉大さを自慢し続ける。しかし、ヨブの質問――「なぜ私を罰するのですか」には、ついに答えようとしない。
ヨブは最後にこう言う。
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あなたのことを耳にしてはおりよした。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、私は塵《ちり》と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。
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この唐突なくだりを読んで、私は仰天し、作者に対して腹を立てた。なぜヨブが侮い改めなくてはならないのか? 彼は何も罪を犯していないのだから、悔い改める必要などまったくないではないか!?
物語の最後で、神はヨブを元の境遇に戻す。ヨブは以前の二倍の財産を手に入れ、また七人の息子と三人の娘を設け、一四〇歳まで生きたという。
私はこの御都合主義的結末にがっかりしてしまった。「神はなぜ人間の善に報いないのか」というのがこの物語のテーマであったはずなのに、こんな結末をつけてしまってはすべて台無しではないか。それに、最初に殺された一〇人の子供たちはどうなるのか。ヨブに対して賠償が支払われたとしても、一〇人はやはり死んだままではないか。彼らは神の面白半分の実験の犠牲になり、無意味に殺されたのだ。
私はどうしても納得いかず、アドバイスをしてくれた牧師に電話をかけ、『ヨブ記』の結末の意味について問いただした。彼の答えはこうだった。
「ヨブはどんな逆境にあっても最後まで信仰を貫きました。神はその信仰心に報いられたのです。神を信じる者は、最後に必ず報われるのです」
私は反論した。それでは説明になっていない。世の中には、まったくの善人で、信仰を貫き通したにもかかわらず、悲惨な境遇に落ちてみじめに死んでいった人が大勢いるではないか。この結末は受け入れられない……。
しかし、牧師は動じなかった。私がいくら言葉を変えて問い詰めても、彼は「神を信じる者は救われるのです」と繰り返すばかりだった。
彼はエリファズと同じあやまちを犯している、と私は思った。目の前の現実から目をそむけ、世界が自分の信念通りに動いていないという明白な事実を認めまいとしている。
どう考えても、ヨブの主張は一〇〇パーセント正しい。神自身、物語の冒頭で「地上に彼ほどの者はいまい」と誉めているし、ラストではエリファズたちに向かって、「お前たちは私について、私の僕《しもべ》ヨブのように正しく語らなかった」と言っている。ヨブが誤っているはずはないのだ。
そう、悔い改めるべきは神の方であるはずだ。
結局、私は宗教関係者から誰一人として満足できる答えを得ることはできず、割り切れない思いを抱えたまま本を書き上げた。
編集者の忠告通り、時間と手間をかけたにもかかわらず、二冊目の本『神を求める魂』はあまり売れなかった。前の本が売れたのはセンセーショナルな事件を扱ったものだったからだ。大衆は常にインパクトのある題材を求めるのだ。
しかし、反響はあった――私の本を読んで、加古沢黎が連絡をくれたのだ。
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08+神の進化論
新宿の喫茶店で再び加古沢黎と会ったのは、二〇一一年八月の下旬だった。
この二年半で、彼はさらに有名人になっていた。二〇一〇年の春に出版された初のハードカバー『赤道の魔都』がベストセラーになり、OSM化されたのだ。
私も読んだが、故意にアナクロな雰囲気を狙った痛快な冒険小説だった。時代設定は一八五〇年代、ヒロインはのちに神智学の創始者として知られるようになるヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー。若き日の彼女は才気と冒険心にあふれる悪女版のインディ・ジョーンズとして描かれている。一八歳で意に添わぬ結婚を強いられるが、新婚二か月目で夫を捨ててロシアを脱出し、伝説の超古代文明の手がかりを求めて、イギリス、南北アメリカ大陸、インド、チベットを股《また》にかけて飛び回るのだ。ルイジアナの沼地でヴードゥー教徒と戦い、インドの王子を手玉に取り、博物学者ウォーレスとともにアマゾンの密林を探検する。上下巻で一〇〇〇ページ近い大作だが、スピーディな展開やキャラクターの魅力に加え、加古沢お得意の豊富な歴史知識に裏打ちされていて、まったく飽きさせない。
OSMのヒットもあって、加古沢のオフィシャル・サイトは月間五〇万アクセスを超える人気サイトに成長していた。その影響力は大手出版社の雑誌にも匹敵する。当然、一人で運営するには多忙すぎるので、二年前から <オフィスKKZ> を設立していた。オフィスは十数人のメンバーを擁し、中には加古沢から渡されたプロットを元に小説を代筆する者もいる。
ゴーストライター・システムは出版界では珍しいものではない。タレントの自伝などはたいていゴーストが書いたものだし、有名なミステリ界の大物がゴーストを使って作品を量産していたことは、この業界では常識である。しかし加古沢の場合、代筆者がいることを世間に公表していた。『赤道の魔都』も半分近くは代筆者が手がけたものだ。
当然、古い批評家の中には「自分で文章を書かないとはけしからん」という声もあったが、加古沢は堂々とこう反論した。
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俺には書きたい題材が山ほどある。人生は短い。みんな自分で書いてたら、いくら時間があったって足りない。だから他人に任せていい部分はアシスタントに書かせた。マンガ家には背景を描いたりトーンを貼ってくれるアシスタントがいるんだから、小説家にアシスタントがいたっておかしくない。マンガも映画もゲームも共同作業で作られていて、そのことで批判されたりしないのに、なぜ小説だけは個人作業でなきゃいけないんだ?
重要なのは誰がどうやって書いたかじゃなく、作品の内容のはずだ。俺は『赤道の魔都』が傑作だという自信がある。批判するなら内容について批判してみろ。ブンガク爺《じい》さんたちの黴《かび》の生えたお説教なんぞ、ご免|蒙《こうむ》る。
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プロダクション・システムを導入してから、加古沢の出版点数はこれまでの二倍以上に増えた。二〇一〇年だけで、七冊の長編、三冊の短編集、一冊のエッセイ集を出版している。平均してほぼ毎月一冊のハイペースだが、作品の質がほとんど落ちなかったのは脅威と言っていい。その多くは歴史小説のジャンルに含まれるものだったが、ストーリーは冒険もの、ホラー、SF、ミステリなどバラエティに富んでおり、読者を飽きさせなかった。本はどれもおおいに売れ、彼は二〇一〇年度の高額納税者の作家部門の二位になった。
彼は当時まだ二二歳。その才能には際限がないように見えた。
「いや、あの時のことを思い出しますね」
約束の時間に五分遅れてきた加古沢は、席に着くなりそう言った。どこかそわそわしていて、例によって早口で喋《しゃべ》り、「生き急いでいる」という印象を受けたのを覚えている。
「もう二年半も経ったなんて信じられませんよ。あの時のインタビューが強く印象に残ってましたからね」
「というと?」
「俺はもう何十人もの記者やライターにインタビューされました。たいていはおざなりな質問をするだけの個性のない連中で、しばらくすると印象が薄れて、誰が誰だったか思い出せなくなる。マヌケなことばかり言って、いらいらさせられる奴もいます。その点、あなたはなかなか個性的で、質問もポイントを突いていた。
ですから、阿久津悠子があなただと、知り合いの編集者から聞かされた時はびっくりしましたよ。『プレアデスを目指して』も『神を求める魂』も読んでいて、才能のある人だと思ってましたからね。ああ、あれを書いたのは、あの和久優歌さんだったのかと……それで興味を抱いて、またお会いしたいと思ったわけです」
私は恐縮した。加古沢の歯に衣着せぬ毒舌は有名で、めったなことでおべっかを使ったりはしない。彼が誉めるなら、それは本気だということだ。天才と呼ばれる作家に認められたことで、ちょっといい気分だった。
注文したコーヒーが来るまでの間、私たちは他愛ない雑談を交わした。店内に流れるBGMは、AI―MAYの『空色エントロピー』――当時、人気のあったバーチャ・ユニットだ。
「あなたはあんな顔はされないんですか?」
彼は顔を近づけ、声をひそめて言った。「あんな顔」というのは、隣のボックスで盛り上がっていた四人の女子高生のことだ。当時はマキエ・ソバージュのブームだった。彼女たちはみんな、頬に黄色や赤の縞《しま》模様を描いたり、額に太陽やイルカの紋様のタトゥー・シールを貼ったりして、さながら未開の原住民のようだった。
「流行にはうといもので」
私は笑ってごまかした。大学を飛び出してからの五年間、食べてゆくのに精いっぱいで、ファッションや流行に割くべき時間も金もなかったのだ。気がつくと、流行からすっかり取り残されてしまっていた。学生時代にバイト代をはたいて買ったレトロ・フィフティーズのスカートなど、もう恥ずかしくて穿《は》けはしない。
「俺もですよ」加古沢は少し恥ずかしそうに言った。「今どんな歌が流行《はや》ってるのかもよく分からない。女の子と話を合わせるために覚えようかと思ったこともあるんだけど、覚えなきゃいけない妙ちくりんな固有名詞が多すぎてね。あぶない動物とかIVANとかゴールデン・エイジとか……それに、苦労して覚えたって、どうせじきに時代遅れになるんだし」
「ええ」
実際、あぶない動物もIVANも、その後すぐに解散し、あっという間に忘れられてしまった。人間以上に魅力的で、スキャンダルとも容色の衰えとも縁のないバーチャ・アイドルが芸能界を本格的に席巻しつつあった。
「俺が現代小説を書かないのもそれなんですよ。現代の風俗が分からないうえに、いくらリアルに描いたって、ほんの一〇年も経てば時代遅れになる……考えてもごらんなさい。一〇年前にけポケタミもバウチャー・ポイントもメガストリームもなかったんですからね。今、俺たちが使ってる道具にしたって、あっという間にワープロやiモードやLDと同じ運命をたどりますよ」
それは私も同感だった。五年前、ライターの仕事をはじめる際に買ったデジコーダは、すでに過去の遺物と化していた。前世紀からたゆむことなく進行してきた電子機器のダウンサイジングと低コスト化によって、五〇〇AVP以下で買えるメモ帳サイズのポケタミの中に、インターネット端末・デジタルビデオカメラ・携帯TV電話・翻訳機・マンナビ・IDカード・クレジットカードなどの機能が集約されてしまったのだから。コンビニなどでの支払いにしても、レジの赤外線ポートの前でポケタミに親指を押し当てる簡便さに慣れてしまうと、それまで財布からいちいち小銭を出していたのが面倒臭く感じられるようになったものだ。
ちなみに、この時の会見もポケタミで記録しておいたものだ。『プレアデスを目指して』の印税が入ったのを機に買い換えたソニーの最新機種で、一インチのミニDVD―RAMに六〇〇ギガバイトを記録できるすぐれものだったが、これもすぐにテラバイト級のデータを記録できるHMCを使った機種に取って代わられてしまった。
バウチャー・ポイントにしてもそうだ。当初、指紋照合機能内蔵のポケタミ発売と連動して誕生した、コンビニやスーパーで使える「ちょっと便利な電子商品券」にすぎなかったのだが、二〇〇八年末に各企業グループ間のVP交換が可能になり、VPの平均値によって決定される共通単位AVPが設定され、さらに給与の一部をVPで支払う企業が登場したことで、一挙に本物の通貨を追い落とす存在へと急成長した。実際、私も出版社からの支払いをVPで受け取ることが多くなっていた。ほんの五年前には想像もできなかった変化だ。
「その点、歴史はいい。いくら勉強しても時代遅れになるってことがない。だから俺は歴史小説を書くんですよ」
「新作のご予定は?」
「これから書きはじめますが、一八八〇年代のロンドンを舞台にした、ヤングアダルト向けのミステリのシリーズです。オカルト的な要素も入れようと思っています。ここだけの話ですが、すでにOSM化の企画が進行してましてね」
「まだ書いてもいないのに……ですか?」
「加古沢ブランドの作品なら、中身を見なくても映像化権を買う奴はいくらでもいますよ。マンガ版も同時進行させます。メディアミックス展開ってやつです」
彼がこの時、口にしたのが、その年の一二月から月一冊のペースで刊行がスタートした『ベアトリス&ポリー』シリーズである。裕福な貴族の娘と貧しい馬丁の娘、家庭環境も性格も正反対の二人の少女が、毎回、奇怪な事件に首を突っこむ。例によって、コナン・ドイル、ルイス・キャロル、リチャード・フランシス・バートン、ヘンリー・ライダー・ハガード、オスカー・ワイルド、アーサー・ジェイムズ・バルフォアなどの歴史上の人物が次々に登場するうえ、切り裂きジャックが出てきたり、黒魔術や心霊現象がからんだり、ホラーの要素も強い。OSM版は映像はそこそこ美しかったが、悪い意味でアニメチックな軽薄さが出てしまい、原作の雰囲気がうまく表現されていたとは言いがたい。
「出版社は?」
「いや、出版社は通しません。OSMの制作はストリーム局におまかせしますが、小説とマンガは俺のサイトで直販します」
「というと、POLPに……?」
「そう、乗り出すんですよ」
加古沢は自分の構想を得々と語った。オンライン出版そのものは前世紀からあるものだし、個人で出版に乗り出す作家も彼が最初というわけではない。小説の前半を無料で読ませ、後半を有料でダウンロードさせるという手法も、何年も前からポピュラーになっている。彼の構想の画期的な点は、その価格設定にあった。
長編小説のダウンロード料を一冊一新円、AVPを四に設定するというのだ。
「それで元が取れるんですか?」
私が驚き、疑問を呈すると、彼は数字を挙げて自信たっぷりに説明した。従来の紙に印刷された本の場合、作家の受け取る印税は本の定価の一〇パーセント前後が相場だ。九割は出版社や取次店や書店のものになる。しかし、作家がオンラインでじかに販売するなら、諸経費を差し引いても、約八割が作家のものになる。加古沢の本は新書判なら一冊八〜一〇新円。定価が安くなれば、それだけ買ってくれる読者も増えるだろうから、価格を五分の一にしても、二〇パーセントの消費税を払っても充分に採算は取れる。それにネットユーザーにとっては、円よりもVP決済の方が使い勝手がいい……。
「それに、これは違法コピー対策にもなります。本の価格が今のままでは、一人がダウンロードして、コピーして仲間にメールで配布するのを防ぐことはできません。でも、一冊が缶ジュース一本と同じ値段ならどうでしょう? わざわざ友達に頼んでコピーさせてもらうより、自分でダウンロードする方が早い――みんなそう思うんじゃないでしょうか?」
「それはそうかもしれませんけど……かなりの価格破壊ですよね?」
「今のオンライン本が高すぎるんです。前より安くなったとはいえ、紙の文庫本に比べて四〜五割の定価です。実際には本の原価の大半は印刷と流通の経費ですから、それを省略すればもっと安くなるはずなんですよ。それができないのは、オンライン本を出している出版社の多くが、昔ながらの大出版社だからです。多くの人間を抱えているうえ、印刷や流通という古いシステムを簡単に切り捨てることができない。だから、紙の本に死刑を宣告するに等しい価格設定ができない……」
「でも、オンライン出版を専門にする出版社も増えてますよね」
「まあね。でも、そうした出版社の多くはまだ弱小で、出しているのは専門書だとか、無名の新人の作品とかです。売れてもせいぜい数千部だから、価格を安くしすぎるとペイしない。その点、俺は一冊一〇万部以上売る自信がありますからね」
ほんの一〇年前までなら、加古沢の構想は夢物語だったろう。二〇世紀の本はただ面白いから売れたわけではなく、出版社による宣伝やマスコミの話題性によって売れたからだ。大出版社の後ろ盾なしに一〇万部も売ろうとすれば、とてつもない幸運を望むしかなかった。
だが、今は違う。インターネットを利用すれば、テレビCMや雑誌広告と同等の宣伝効果を、はるかに安い費用で上げられるのだ。まして加古沢ほどの有名人ともなれば、新作情報は何もしないでもニュースとなってネットを駆けめぐり、ファンの検索に引っかかる。本が面白ければ、日本だけでも何百もあるプロやアマの批評サイトで取り上げられ、さらに評判になる。もちろん、以前に本をダウンロードした読者には新作の案内をメルマガで送るし、オフィシャル・サイトでも宣伝する――もう大出版社は必要ないのだ。
彼は立て板に水の口調で、多くの数字や具体的データを挙げ、自分のPOLPが成功間違いなしであることを強調した(実際、その予言は見事に的中した)。私はすっかり感心してしまった。単に饒舌《じょうぜつ》なだけの人間は珍しくもないが、これほど才能に恵まれ、夢と情熱にあふれている若者は、現代では稀有《けう》な存在だ。
加古沢の人気の秘密は、その作品の面白さだけにあるのではなかった。彼のファンたちは(私もその一人だったが)、彼自身をヒーロー視していた。この暗く沈滞した時代、自分の才能だけを武器に成功街道や驀進《ばくしん》してゆく彼の姿に、希望の光を見ていたのだ。
それが偽りの光であることに気づくのは、ずっと後のことである。
「でも、反感を買いませんか? 出版業界から……」
「かもしれません。しかし、本の電子化は時代の趨勢《すうせい》です。これまでオンライン本の普及に歯止めをかけていたのは、定価の高さと、モニターで本を読むことに対する抵抗感です。それもeペーパーの普及で一挙に解消されました。これからの世代は、オンライン本をeペーパーで読むのが当たり前になりますよ。紙に印刷された本なんてもんは、ポケタミが使えない老人たちと、一部の古本フェチだけのものになるでしょうね」
彼の言う通りだった。この頃には、電車の中でポケタミに接続したeペーパーを広げ、ダウンロードした本を読むサラリーマンや学生の姿も珍しくなくなっていた。
紙そっくりの質感のeペーパーの出現により、紙の本は急速に駆逐されつつあった。
「そもそも紙に活字が印刷された本なんて、ほんの五〇〇年前には存在しなかったんですからね。それ以前の本は、人間の手で一字ずつ書き写されていた。本はとても貴重なもので、一冊の価格が庶民の収入の何か月分にも相当したはずです。グーテンベルクの発明が、本の世界に大規模な価格破壊をもたらしたんです」
「今また、インターネットの普及で、新たな価格破壊が進行しつつあるわけですね」
「ええ。現代という時代は画期的な時代――人類の歴史上初めて、情報の価格が限りなくゼロに近づいている時代です。ヴィクトリア朝の風俗について知りたければ、ちょっとサーチエンジンで検索してみるだけでいい。ヴィクトリア朝だけを専門に扱う研究サイトが何十も見つかって、高価な専門書何冊分もの豊富なデータが簡単に手に入る……」
「私もあまり本は買いませんね。たいていはネットで間に合いますから――そう言えば、この前ニュースで読んだんですが、今のペースだと来年あたりには、歴史上のすべての文献資料が電子化されて、ネット上で閲覧できるようになるそうですね」
「そうですよ。図書館なんてもう無用の長物です。これからの世代は『情報はタダ』というのが常識になりますよ。わざわざ金を払って買うのは、その人にとってよほど価値のある本だけになるでしょうね。
知り合いの編集者が言ってたんですが、今、出版界で最も大きな打撃を蒙ってるのは、ポルノ本業界なんだそうです。ポルノ小説やエロ雑誌を出していた小さな出版社が次々に潰《つぶ》れている。もう本屋でこそこそポルノを買う奴なんていませんからね」
私はポルノ関係には詳しくなかったが、彼の言葉は事実だろうと思った。インターネットがまだあまり普及していなかった頃は、エロ画像の有料ダウンロードも商売になったらしいが、今では映像にせよ小説にせよ、無料で多くの人に見せたいというアマチュアの作品が、ネットには山ほどアップされている。SMだろうとスカトロだろうとゲイだろうと、どんな趣向でもお好みしだいなのに、わざわざ金を払って本を買う者はいない。
「同じことはポルノ以外の小説についても言えます。著作権の切れた古い名作や、アマチュア作家が書いたけっこう面白い小説が、ネット上には何万もアップされていて、どれも無料で読める。もちろんプライベート・メガストリームも大きな脅威です。こんな時代に、小説で食っている俺のような作家は生き残らなくちゃいけないんです。だから定価はとことん安くするし、メディアミックスのような魅力的なオマケもつけてやらないといけない。作家がただ文章だけを書いていれば食っていけた時代は終わったんです」
「じゃあ、紙の本からは撤退を?」
「今すぐ完全撤退するわけじゃありません。紅葉書房とはこれからも関係を続けますよ。デビューさせてもらった義理もありますしね。でも、俺は紙の本なんてもんはあと二〇年もしないうちに絶滅すると思ってます。何もせずに出版社に寄りかかっていたら、いっしょに沈没するだけだ。今のうちに生き残る対策は練っておかないとね。
そのためには今のままじゃいけない。今、俺のサイトを大幅に模様替えする作業に取りかかっています。加古沢ブランドの出版物をフォローするために、本格的にウェブマガジン化するんです。もちろん、小説以外の記事も増やさなくちゃいけません。そのためには、小説のアシスタント以外にも、腕のいいライターが何人も必要になる……」
「それで私に?」
「そうです。あなたをスタッフとしてスカウトしたい」加古沢は眼鏡の奥から私をまっすぐに見つめた。「さっきも言いましたが、俺は『神を求める魂』に感心しています。あなたならいい文章を書いてくださるはずだ」
「どうしてスタッフでなくてはいけないんですか? フリーでもいいじゃないですか。依頼をいただければ、いつでも記事はお書きしますけど」
「いや、俺としてはむしろあなたをブレーンとして迎えたいんです。単なる下請けのライターじゃなくね。俺の見るところ、あなたには才能があるけど、充分に花開いてるとは言い難い。今のマスコミの体質の中じゃ、埋もれたままで終わりますよ。俺はあなたに活動の場を与えて、その才能を思う存分発揮させてあげたいんです」
「でも、何でも自由に書いていいわけじゃないんでしょう?」
「ま、当然、最小限の制約はありますけどね。しかし、あなたの意思は可能なかぎり尊重します。お好きな題材を書いてくださってかまいません。無論、新しい単行本の企画があるなら、俺の会社から出させてもらいます。小さな出版社から出すより、俺のサイトで宣伝した方が、何倍もよく売れますよ」
嬉《うれ》しい話である。しかし、躍り上がって喜ぶほど私も純真ではない。毒舌で知られる加古沢にも、社交辞令というものぐらいはあるだろう。私は葉月ほど人の心は読めない。彼がどれほど本気で私を評価しているのか、確かめる必要があった。
「『神を求める魂』は、本当にいい本だったと思われますか?」
「ええ、そう思いますよ」
「欠点はなかったんですか?」
「え?」
「あの本に欠点はなかったんでしょうか? あるのなら指摘していただけますか?」
それは彼が正直な人間かどうかを試すテストだった。言葉を濁したり、「欠点なんかなかったですよ」と言われたら、彼を信頼しないつもりだった。それに私自身、あの本の完成度には不満足だった。締め切りに追われ、推敲《すいこう》も不充分なままに原稿を出してしまった。しかし、具体的にどこをどうすれば良かったのか、自分でも分からない。知識のある人間からの忌憚《きたん》ない意見を聞きたかったのだ。
「参ったな。そう来るとは思わなかった」加古沢は額を掻《か》き、うつむいて苦笑した。「まあ確かに、不満の残る点はありましたね……」
「どこでしょう?」
彼は顔を上げた。「正直に言っていいですか?」
「ええ」
「『人はなぜ神を求めるのか』が、あの本のテーマだったはずです。しかし、それに結論が出ていない。多くの人の意見を羅列しただけに終わっていて、結局、なぜ彼らが神を求めるのかが考察されていません」
痛い指摘である。確かに私は明確な結論を出さず、曖昧《あいまい》にぼかしたまま本を終えてしまった。しかし、加古沢の指摘に対して反発も感じた。「人はなぜ神を求めるのか」などという深遠なテーマに、私ごときが簡単に答えを出せるだろうか?
「あなたはどう思われるんですか? 人はなぜ神を信じたがると?」
私の質問に対し、彼はあっさりとこう断言した。
「単純な進化論の問題ですね」
「進化論?」
「そうです。ご存知のように、人類は類人猿から進化しました。チンパンジーやゴリラの仲間ですよね。彼らは強いボスの下で群れ社会を構成している。その場合、ボスが遺伝子を残せるのは当然ですが、強いボスに盲従する猿たちも、ボスの下で繁栄し、子孫を残せます。逆にボスに反発する猿は群れから追い出され、子孫を残せない。
人間に限らず、動物の性格には遺伝が影響しています。『強いボスに追従したい』と望む猿は、そうでない猿より子孫を残しやすい。そうした自然選択が何万世代も重なれば、『強いボスに追従したい』という性格が、種全体の本能として定着しても不思議じゃない。その本能は人間になっても変わらず残っていて、自分たちを支配する強大なボス猿、誰よりも強い究極のボス猿を求めたがる……」
「それが神だと?」
「そう考えて、何か不合理な点がありますか?」
面白い仮説だったが、私には即座に受け入れがたかった。神が「究極のボス猿」だという発想が冒涜《ぼうとく》的だったからではない。複雑で奥の深い宗教の問題に、そんなに簡単に回答を出していいのか疑問だったからだ。私はすぐに彼の仮説のアラを探した。
「でも、宗教の多くは禁欲的ですよね。禁欲的な性格の者は遺伝子を残しにくいんじゃありませんか?」
「鋭いところを突いてきましたね」加古沢は微笑んだ。反論を楽しんでいる様子だった。「でも、今までのは人間が文明化するまでの話です。人間が文字や文明を持つようになってからは、遺伝子よりもミームが重要になります」
ミーム(meme)というのは、生物学者リチャード・ドーキンスが提唱した概念である。語源はギリシア語で「模倣」を意味する mimeme で、英語の gene(遺伝子)と似た響きを持ち、「模伝子」と訳されることもある。遺伝子と違ってミームは物理的な実体を持たないが、愛や憎悪や喜びや恥辱が実在するのと同様、ミームも実在する。
遺伝子が生物の体の設計図であるように、ミームは心の設計図である。ドーキンスはミームの例として、「楽曲、想念、標語、ファッション、壷《つぼ》やアーチの造り方」を挙げる。遺伝子が精子や卵子を通して子孫へ受け継がれるように、ミームは言葉や絵や音を通して人から人へと受け継がれる。映画を観る。本を読む。絵画を鑑賞する。学校で授業を受ける。思想家の講演や名演奏家の演奏を聞く。友人と世間話をする。インターネットにアクセスし、チャットに参加する……それらすべてはミームの交配行為、いわばミームのセックスなのだ。
突然変異によって遺伝子に変化が生じるように、この世界では常に新しい着想、新しいミームが生まれている。しかし、生き残れるミームはごくわずかだ。劣悪なミームが生存競争に敗れて消滅する一方、環境に適応したミームは生き残って繁栄し、世代を重ねながらさらに進化を続けてゆく。歌やファッションなどはほんの短期間だけ繁栄し、すぐに滅びてゆくが、何千年も生き残るミームもある。
「宗教は最も成功したミームと言えるでしょうね。何よりも繁殖力が強い。宗教ミームを受精≠オた者は、それを他人にも積極的に広めようとします。そして、これはどの宗教でも同じですが、教祖や聖職者を崇拝し、服従するよう教えます。ですから宗教と国家権力が結びつけば、きわめて強力な支配体制が確立する。その宗教の教義に逆らうようなミームは滅ぼされ、教義に沿ったミームだけが繁栄する……」
「遺伝子の拡散はもう重要じゃない、ということですか?」
「そうです。確かに禁欲は遺伝子の拡散にとっては不利ですが、ミームにとってはむしろ有利になることもある。禁欲的な聖職者は、子育てとか異性関係の問題に悩まされることなく、人生のすべてをミームの拡散に捧《ささ》げられますからね。擬人化した表現をするなら、遺伝子から生まれた宗教は、遺伝子を見限って、ミームに乗り換えたと言えるかもしれない」
「でも、宗教が必ずしもその人にとって有益とはかぎらないでしょう? この前の事件みたいに、宗教的信念のせいで生命を落とす人もいるし、キリスト教だって昔はひどく弾圧されて、殺された人も多かったんでしょう?」
「まったくその通りです。昔から宗教はしばしば虐殺の原因になってきた。キリスト教徒とイスラム教徒、カトリックとプロテスタントが、何百年も血で血を洗う闘争を続けてきました。今も世界のあちこちで宗教的対立が原因の殺し合いが続いています。アイルランド、ボスニア、スリランカ、ティモール……」
「だったら、神を信じることは、かえって生存に不利になるわけでしょう? そんなミームがどうして繁栄できるんですか?」
「いや、参ったなあ」加古沢は笑いながら、おおげさに感心した。「そこまで突っこんできた人は初めてですよ。たいていの人は、俺の説をふんふんと拝聴するばっかりでね。疑問なんか投げかけた人はいません」
「すみません……」
「謝ることはありません。いいですよ、お答えしましょう。あなたは個人の生存とミームの存続を混同しておられる。ミームにとっては個人の生死なんてたいして重要ではありません。その者が属するミーム集団が存続することが重要なんです」
「ミーム集団の存続……?」
「宗教ミームと受精した者は、自分の属するミーム集団を守り、ミームを拡散するために、自らの生命を喜んで捧げます。当然、個々の兵士の遺伝子はその死とともに途絶えるわけですが、戦いに勝利すればミームは存続する。つまり、『このミームを守るために命がけで戦え』と命じるミームは、生き残りやすいわけです。
ああ、もちろん言うまでもないですけど、ミーム自身に意志はありませんよ。遺伝子が単なる分子の暗号なのと同じで、ミームってのは結局のところ、ただの情報の集積にすぎませんからね。だからこそミームは非情なんです。ミームは人間の生命の重さなんて、まるで気にかけちゃいないんですからね」
「でも、多くの宗教は非暴力を謳《うた》ってますけど」
「とんでもない! 彼らが非暴力的なのは同じミームを共有する者の間だけですよ。旧約聖書を読んでごらんなさい。『異教の神に従ってはならない』『異教徒は根絶やしにすべし』というスローガンであふれかえってますよ。だからこそ、ユダヤ人はマサダ砦《とりで》で全滅するまで戦い抜いたわけだし、旧約聖書をベースにしているキリスト教やイスラム教がこれほど繁栄したのも、同じ理由です。エジプトや古代ギリシアの神々が生き残れなかったのは、異教徒に対して寛容だったからだと、俺は思っています。彼らはミーム間戦争を勝ち抜く闘争力に欠けていたんです。
しかし、分かりきったことですが、宗教ミームが繁栄するのは、その宗教の正しさとは何の関係もありません。単に繁殖力と闘争力が強く、人間社会という環境にうまく適応できたというだけです。ゴキブリが三億年も生き延びてきたからといって、『ゴキブリは正しい』という人はいないでしょう?」
「宗教がお嫌いなんですか?」
「既成の宗教は嫌いですね。と言うか、既成の権威はすべて嫌いです」
そう言って加古沢は不敵に笑った。いかにも彼らしい台詞《せりふ》だ、と私は思った。彼は出版界の体制を覆そうとしているばかりでなく、学校教育、政治、マスコミ、宗教など、現代のあらゆる権威に反旗をひるがえしているのだ。
「 <昂《すばる》> 事件の時、T・Iさん(有名な評論家で、ワイドショーのコメンテーター)がテレビで力説しているのを見て笑いましたよ。『こんな事件が起きるのは、学校で正しい宗教教育をしていないからだ。子供たちに正しい宗教を教えれば、自殺も殺人も起きるはずがない』ってね。でも、正しい宗教≠チて何ですか? Tさんはクリスチャンだそうだけど、キリスト教を義務教育で教えろってことなんですかね?
冗談じゃない! 歴史上、最もたくさんの人を殺した宗教は、おそらくキリスト教ですよ。十字軍遠征、オランダ独立戦争、ユグノー戦争、三〇年戦争、アイルランド紛争……中世の魔女狩りでは、罪もない人が何十万人も残忍な方法で殺されました。オウム事件の一万倍のスケールですよ! キリスト教徒にオウムを批判する資格なんてありはしません。『大勢の人を殺した宗教だから信じてはいけない』というなら、キリスト教だって信じちゃいけないはずです」
私はさすがに首を傾げた。「オウムとキリスト教を同列に論じるのは無理があると思いますけど……」
「どうしてです? 何が違うんですか? 一方はつい二〇年ほど前に生まれたばかりで、一方は二〇〇〇年続いてるからですか? でも、見てごらんなさい。あの事件から一六年も経つっていうのに、オウム信者はほとんど減ってないじゃないですか。彼らの多くが、世間から白い目で見られながらも、今なお地道な布教活動を続けている。彼らの活動があと二〇〇〇年続かないと、どうして断言できます?」
彼は身を乗り出してきた。
「ねえ、俺はちょくちょくこう想像するんですよ。今から何十年かして、ロシアあたりにいるオウム信者が麻原彰晃の伝記を書いたら、どんな本になるかってね。そいつは麻原本人と会ったこともないし、オウム事件のことは伝聞でしか知らない。そんな奴が本を書いたら、どれほど事実とかけ離れた内容になるでしょうね。麻原の言動はひたすら美化されて描かれるし、彼の起こした奇跡≠竍超能力≠ヘおおげさに誇張されるでしょう。そして、彼はまったくの無実で、何者かに罠《わな》にはめられて罪をかぶせられたことにされるのは間違いないでしょうね。
そして、今から二〇〇〇年ぐらいして、誰かがその本を読んだとしたら、どんな感想を抱くでしょうね? 地下鉄サリン事件なんて聞いたこともなく、麻原について知る資料がその本以外になかったとしたら……彼をどんな人間だと思うでしょうね?」
加古沢の用いた比喩《ひゆ》の意味は明快である。福音書の中で最も早く書かれた『マルコによる福音書』でさえ、成立したのは紀元七〇年代、つまりイエスの処刑より三〇年以上も後とされている。また、福音書はイエスの話していたアラム語ではなくギリシア語で書かれているうえ、パレスチナ地方の地理が明らかに間違っている箇所もあり、著者は現地の人間ではないとも推定されている。『マタイ』や『ヨハネ』といった書名に騙《だま》されてはいけない。おそらく福音書の著者たちは、イエスの弟子どころか、イエスを直接知っている人物ではなく、伝聞や伝承をまとめて書物にしたのだ。当然、そこに書かれている内容は事実を大幅に歪曲《わいきょく》している――それが聖書学者たちの一致した見解だ。
「でも、イエスは毒ガスを作るよう信者に命じたりはしませんでしたよ」
「まあ、毒ガスは作らなかったでしょうけど、他のことはやったかもしれませんね」
「というと?」
「ジョエル・カーマイケルという研究者によれば、福音書の記述にあるイエスの逮捕や処刑の経緯は、当時のユダヤやローマの法制度と合わないのだそうです。つまり、福音書の記述通りだとするなら、イエスが処刑される法的根拠がない。福音書には書かれていないけれど、イエスは他に何か罪を犯し、そのせいで処刑されたのではないか、というんです」
「罪というと?」
「まあ、考えられるのはローマ帝国に対する反逆でしょうね。革命運動とまでは行かなくても、ローマへの反抗心を煽《あお》るようなことを信者に教えたんじゃないでしょうか。もちろん、福音書にはそんなことはこれっぽっちも書いてありませんよ。『マルコによる福音書』が書かれたのは、まさにユダヤ戦争の真っ只中、ローマに楯突《たてつ》いたユダヤ人たちが虐殺されていた頃です。そんな時代に反ローマ思想を盛りこんだ文書を書いたら、それこそ激しい迫害を受けて潰《つぶ》されてしまいますからね。福音書の中でローマ総督ビラトが好意的に描かれている一方、ユダヤ人、特に支配階級が悪者として描かれているのも、当時の情勢を意識して、ローマを刺激すまいとしているからですよ。
これは俺の仮説なんですけどね、『ヨハネの黙示録』、あれこそイエスの正当な思想を継ぐ文書なんじゃないかと思ってるんです。『黙示録』の中では、ローマ皇帝は獣=Aローマは大バビロン≠ニいう比喩で、悪しざまに描かれてますよね。そして、文書の最初の方には、各地のキリスト教会の堕落ぶりを批判するくだりがある。当時のキリスト教徒たちがイエスの本来の教えを忘れ、ローマ帝国の怒りを恐れて安全な道を歩もうとしていることに、『黙示録』の著者のヨハネは腹を立てていたんじゃないかと思うんです」
加古沢の説は立証できないが、否定できる根拠もない。イエスの実像について知る手がかりはきわめて乏しいからだ。聖書以外でイエスについて触れている資料はたったひとつ、歴史家フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』の中の短いパラグラフだけだが、これでさえ後世のキリスト牧徒による捏造《ねつぞう》ではないかと疑われている。確かに、ユダヤ教徒であるヨセフスが、イエスのことを「彼こそはクリストス(救世主)であった」などと書くのは不自然だ。
これほどの有名人であるにもかかわらず、イエスの生涯について確実に判明していることは、とても少ないのだ。タイムマシンが発明されないかぎり、私たちは信者によって歪曲された福音書の記述を通してしか、イエスのことを知ることができないのである。だからこそ、様々な仮説を唱える余地があるわけだ。
「じゃあ、キリスト教は本来、反体制的な宗教だった、ということですか?」
「むしろそういう反体制的な思想を早々に切り捨てたおかげで、潰されることなく生き残ったんじゃないかと思います。ついにはローマの国教になりましたしね。でも、ミームの繁殖力と闘争力は依然として旺盛《おうせい》です。ミームの繁栄を脅かそうとする者に対しては、断固として戦いを挑み、絶滅させる……」
「そうでしょうか? 少なくとも現代のキリスト教は平和主義だと思いますけど?」
「だったらアメリカで起きていることは何ですか? あれが平和主義ですか?」
私は口をつぐむしかなかった。数年前からアメリカ南西部を中心として巻き返してきた創造論者たちの運動は、今やアメリカ全土を揺るがせる騒ぎに発展していたからだ。
聖書を信奉し、人間は神に創造されたと説く創造論者たちは、前世紀後半からずっと、自分たちの信念を公立学校の教科書に載せようと努力してきた。彼らは進化論を憎悪し、否定していた。彼らの主張によれば、現代社会に売春や麻薬や暴力がはびこるのも、進化論と唯物論のせいだというのだ(売春も麻薬も暴力も、進化論や唯物論が誕生するずっと前から普遍的に存在していたという事実を、彼らは知らないらしかった)。悪いことに、そうした運動は巨大なキリスト教ファンダメンタリスト勢力をバックにしているばかりか、新右翼や反ユダヤ主義とも浅からぬ関係があった。
二〇一〇年一〇月、アラバマ州議会で、公立学校で創造論を教えることを認める法案が、圧倒的多数で可決された。同様の法案は一九八一年にアーカンソー州とルイジアナ州で成立しているが、政教分離を謳った合衆国憲法第一修正条項違反であるという判決が連邦最高裁で出され、破棄された経緯がある。アラバマ州の行為は合衆国憲法に公然と反旗をひるがえすものであり、バーンズ大統領を激怒させた。それに対し、アラバマ州知事ランドリーは「我々の健全な良識は、憲法第一修正条項が明らかに誤っているとみなす」と公言し、物議をかもした。連邦政府や有識者がアラバマ州の暴走を激しく批判する一方、ルイジアナ、ミシシッピ、アーカンソー、ジョージア、オクラホマなどの周辺諸州はアラバマ州議会を擁護し、政府と全面対決する姿勢を表明した。
今や対立は言葉の上だけのものではなく、物理的なものに発展していた。サウスカロライナ州コロンビアでは、創造論者の集会がマシンガンで武装した集団に襲撃され、二〇人が殺されるという惨劇が起きた。信教の自由が踏みにじられつつあることに激怒した、アメリカ国内のイスラム原理主義者のしわざだった。一方、連邦政府の建物や、創造論者の活動に反対していたリベラル派の団体が、相次いで爆弾テロを受けた。犯人は過激なキリスト教右翼のセクトらしかったが、捜査は難航していた。バーンズ大統領は南部諸州の警察がFBIに非協力的であると非難、その発言がますますファンダメンタリスト勢力を苛立《いらだ》たせた。
統計によれば、アメリカ人の大多数はキリスト教徒であり、その半数以上は進化論を信じていない。あくまで創造論者の教育への介入を阻止しようとする大統領は、今や「サタンの手先」とまで罵倒《ばとう》されていた。その言葉を比喩ではなく、文字通りに信じている者も少なくなかった。そのため、アメリカ各地で大統領に退陣を要求するデモが起きていた。
「あれこそまさに、ミームの生存競争ですよ」加古沢は楽しそうに目を細めた。「創造論なんて地球|平坦《へいたん》説と同じで、科学的には完璧《かんぺき》に否定されている。にもかかわらず、創造論ミームは生き残ろうと必死にあがいています。科学的に正しいかどうかなんて関係ない。ミームはただ進化のメカニズムに従っているだけなんですから」
「創造論は生き残れると思いますかこ
「分かりませんね。確かにこの千数百年間、キリスト教やイスラム教のミームは繁栄してきました。でも、この先もそうとはかぎりません。さらに優れた適応力を持ったミームが出現すれば、あっという間に滅ぼされるかもしれません」
「新しい宗教……ですか?」
「俺はその出現を待望してるんですけどね。面白い教義なら、信者になってもいい」
「あなたが宗教を?」
「俺だって無神論者じゃないですよ。この宇宙には創造とみたいな存在がいてもおかしくないと思ってます。納得できる教義があるなら、喜んで入信しますよ。でも、あいにくと俺が納得できる教義がないんです。既成の宗教にはね。だいたい、どれもこれも古臭すぎる。福音書は一九〇〇年以上前、『コーラン』だって一四〇〇年も前に書かれたものです。『古事記』や『竹取物語』より古いんですからね! 確かに古典としての価値はあるでしょうけど、二一世紀の今、真剣に読むようなものじゃありませんよ。イスラム教の誕生から一四〇〇年、そろそろまったく新しい宗教が誕生したっていいんじゃないですか」
「UFOカルトはどうです?」
「あんなもの!」彼は露骨に侮蔑《ぶべつ》の笑みを浮かべた。「俺も小説の参考にならないかと思って、いくつか読んでみましたがね。ぜんぜん話になりませんね。人類が異星人に創造されたとか、ムーやアトランティスがどうとか、今やSFのネタにすらならないようなチープな話ばかりです。オリジナリティのかけらもない。 <昂> の教義にしたって、聖書をちょっと書き直しただけじゃないですか。神≠ニいう単語を異星人≠ノ置き換えて、いろんな奇跡をテレパシー≠セの半重力≠セのというSF単語で容易に説明して見せただけです。それをニューエイジ思想でちょっぴり味付けして……」
「ええ、その通りです」
「不思議ですよね。二一世紀にもなって、どうしていまだに元ネタが聖書や仏典なんですかね? まったく新しい宗教を創造しようという奴はいないんですかね?」
「さっきの話で言えば、成功している既成のミームに対抗できるだけのパワーがないから……じゃないんですか?」
「確かに何千年も生き残ってきたミームは強力ですからね。でも、逆に言えば、何千年も存続してきたからこそ環境の変化に対応できずに、あっという間に絶滅する可能性だってあるわけです。恐竜みたいにね。そうそう、『ダーウィンズ・ガーデン』というゲーム、やったことあります?」
知っている名前がいきなり出てきたので、私は驚いた。それは兄の作ったゲームだと説明すると、加古沢は「それは奇遇だなあ!」と喜んだ。
「あのゲームは何百時間もやりこみましたよ。もちろん『2』も出てすぐに買いました。二足歩行形態や飛行形態を出現させるのに徹夜したりもしましたよ。何と言っても、決まった攻略法がないのが素晴らしい。攻略法通りに解くゲームなんて、プレイヤーがゲームデザイナーの操り人形にされてるようなもんで、面白くも何ともないですからね。あそこまでプレイヤーの自由度が保証されたゲームは、かつてなかったですよ」
「そう言ってくださると、兄も喜ぶと思います」
「これはお世辞じゃないですよ。あれは単なるゲームじゃない。まさに世界の真理です。本物の歴史が凝縮されてますよ! 何百世代も安定して繁栄していた種が、急にばたばたと絶滅して、まったく新しい種が台頭してくる瞬間の快感ときたら……おかげで進化論に興味を持って、ずいぶん本を読んで勉強しましたよ」
加古沢の進化論への傾倒は意外ではない。『赤道の魔都』の中でも、ウォーレスとブラヴァツキーの口を借りて、進化に関する議論が繰り広げられている。しかし、まさかその興味のきっかけが『ダーウィンズ・ガーデン』だとは思わなかった。
「いや、あれを開発したのがあなたのお兄さんだったとは驚きだな。どうやらあなたがた兄妹は、優れた遺伝子を共有しておられるらしい。ますます欲しくなりましたよ」
「そんな……」
「どうです? 先ほどの話、考えていただけますか?」
加古沢は期待に目を輝かせ、私を見つめた。
私は長い時間、考えこんだ。加古沢は高給を保証してくれている。彼の予言通り、 <オフィスKKZ> はこれからさらに発展するだろう。そこに所属していれば、もはや衣食住の心配はない。この先ずっと、低俗な三流誌のルポの仕事で駆けずり回ることもなく、安楽に暮らせるだろう。しかし……。
「やっぱりお断わりします」
「どうしてです?」
「私、決めてるんです。自分の信念を曲げるような文章は書かないって。常に本当のことだけを書こうって」
私は編集プロダクション時代の体験を彼に話した。インチキな体験談を創作したり、血液型性格判断の本を作らされ、ひどく苦しい思いをしたことを。
「うちはそんな低俗な仕事はさせませんよ」
「あなたの誠実さを疑うわけじゃありません。でも、集団に属していると、どうしてもそういう状況に出くわすと思うんです」
「たとえば?」
「そう……たとえば、あなただって常に傑作を書かれるわけじゃないでしょう? 時には失敗作を書かれる場合だってある」
「もちろんです」
「そうした場合も、あなたのオフィスに所属していたら、その本を持ち上げる文章を書かなくてはならないかもしれません。自分では『今度のはつまらない』と思っているのに、本心を隠して読者を欺くような文章を……」
彼は苦笑した。「あなたに宣伝コピーを書いてもらうために雇うんじゃありませんよ」
「でも、それに似たような状況は考えられるんじゃないですか? 私はあなたが好きですけど、絶対的に崇拝しているわけじゃありません。将来、あなたが何か間違ったことをしでかした時に、それを自由に批判できる立場にいたいんです。もちろん、あなただけじゃなく、すべての人に対してですけど」
(私は何年も後にこの記録を再生していてびっくりした。こんなことを喋ったのを、自分でもすっかり忘れていたのだ。後から考えると、この言葉は現実のものになったと言える――しかも最悪の形で)
「参ったな、ますます好きになりそうだ」、
「ですから、私は――」
「ああ、あなたのお考えはよく分かりました。もう無理にスカウトしたりはしません。どうぞ、今のままの自由な立場でいてください」
「そうですか……」
加古沢があっさり引き下がったので、私は少し拍子抜けした。しかし、その直後の彼の言葉は意表を突いていた。
「そうか。やっぱ、回りくどい手はダメだな……」
「は?」
加古沢はまるでいたずらを見つかった子供のように、照れ臭そうに笑った。後にも先にも、彼のこんな表情を見たことはない。
「いやね、あなたをスカウトしたのは――もちろんあなたの才能が欲しかったのもあるんだけど、別に下心もあったんですよ」
「下心?」
「そう。同じオフィスにいれば、あなたと個人的におつき合いできる機会もあるんじゃないか、とね」
私の表情はカメラには写っていない。たぶん、ぽかんと口を開けていたと思う。
「でも……あの……どうして……?」
「さっきも言いましたけど、俺は何人もの女とつき合いました。でも、みんなダメだった。顔やスタイルは良くても、頭が悪すぎる。俺の話にまともについて来れないんですよ。ちょっとでも歴史の話をしようもんなら、たちまち露骨に退屈そうな顔になる。かと言って、俺の方であいつらのレベルに合わせた話をするのもね。バカを演じるのって、ものすごく疲れるんですよ。
俺にとって理想の女ってどんな女だろう。いっしょにいて楽しい女、俺の話をちゃんと聞いてくれて、対等に議論してくれるような女――そんなことを考えていた時に、和久さん、あなたの名前が浮かんだんです」
「は、はあ……」
「だから回り道はやめます。率直にお訊《き》きしたいんですが――今、フリーですか?」
「……はい」
「じゃあ、第二問。年下は嫌いですか?」
「……いいえ」
「良かった! じゃあ可能性はあるわけですね」
「……はい」
「これから三時間ばかり時間はありますか?」
「ええと……いちおうありますけど」
「じゃあ、とりあえず映画でも観て、お食事ってのはいかがです?」
ポケタミにはくすくすという笑い声が入っていた。とまどいながらも、面白がっている声――私の笑い声だった。
「ええ――ええ、いいですよ」
「どんな映画がお好みですか?」
「ちょっと待って。検索しますから」
カメラの視野を私の手がさえぎり、画面が揺れたかと思うと、録画は終了した。映画館の上映スケジュールを調べるため、録画機能を停止したのだ。
私が長々とこの会話を引用したのには理由がある。ひとつは、世間に流布している根拠のない噂――私の方から積極的に加古沢を誘惑したという噂を否定するためだ。誘ってきたのは彼の方なのだ。
もうひとつ、彼の思想がいつ頃、どのようにして芽生えたのか、この会話が重要な手がかりになると考えたからだ。この時点ではまだ、『仮想天球』の構想が彼の頭になかったのは確かだ。しかし、彼の発言をよく読み返してみれば、その後の恐ろしい展開の伏線となる言葉がいくつもちりばめられていたことが分かるはずだ。私や兄との出会いが『仮想天球』を生むきっかけになったのだが、危険な思想はそれ以前から彼の中にあったのだ。
無論、当時の私はそんなことに気づきもしなかった。
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09+「君は生きているか?」
加古沢がぜひにと希望したので、私は彼を兄と引き合わせることにした。
また話は前後するが、その年の七月、兄は六年間通った関西学研都市を去り、東京に引っ越してきていた。日本ウルテクという会社に高給でヘッドハンティングされたのだ。
日本ウルテクは大手ゲーム会社が資本を投じて二〇〇八年に設立した会社で、ゲーム制作に必要な基礎ソフトの開発を目的としていた。一九八〇年代から絶え間なく進歩を続けてきたコンピュータ・ゲームは、今や極限にまで高度化していた。従来のようにプログラマーがキーボードを叩《たた》いてプログラムを打ちこむようなやり方では、制作にとてつもない時間と労力がかかるうえ、バグが発生する可能性も高い。そのため、ソフト制作に遺伝的アルゴリズムの手法を導入することが不可欠になったのだ。兄はその道のスペシャリストとして腕を見こまれたのである。
二〇〇六年に発表された『ダーウィンズ・ガーデン』や、その続編の『ダーウィンズ・ガーデン2』では、兄は研究スタッフの一員として参加しただけで、表に名前は出なかった。ゲーム業界で兄の名声をいちやく高めるきっかけになったのは、二〇一〇年末に新型ゲーム機ネブラ10の第一弾ソフトとして発売された『ふにふにコンタクト』である。
かなり恥ずかしいタイトルだが、内容はもっと恥ずかしい。いわゆる美少女育成ゲームなのである。ある夜、主人公は自宅の裏山にUFOが墜落するのを目撃し、ただ一人の生存者である異星人の少女を保護する。ファニという名のその少女は、猫のような耳以外は地球人にそっくりだが、地球の言葉が喋《しゃべ》れず、一般常識もまったく知らず、感性もかなり異なっている。食べるものはミルクとチョコレート。主人公は彼女に言葉や日常生活の常識を少しずつ教えながら、詮索《セんさく》好きな近所のおばさん、好奇心の強い同級生、さらにはCIAの差し向けてきたMIB(黒服の男)の追及をかわして、迎えの宇宙船が来る日まで彼女を守り抜かねばならない……。
ちなみにファニという名前は、私はてっきり英語のファニーから来ていると思ったのだが、兄の話によれば、ファニちゃん→ファニチャー→家具→かぐや姫というダジャレなのだそうだ。
さすがに学研都市内では、頭の固い人たちから「美少女ゲームの開発に協力するとは何事か」といった批判の声もあったそうだ。しかし、兄に言わせれば、そんな批判はゲームの表面だけしか見ていないのだという。『ふにふにコンタクト』には従来のゲームの概念をくつがえす画期的な技術が応用されているのだ。
それは世界で初めて、本当にキャラクターが自分で喋るゲームなのである。
あらかじめインプットされた応答しかできない従来のゲーム・キャラクターと違い、ファニは実際にプレイヤーの声を聞き、自分で文章を構成して返答するのだ。ファニのメモリには、最初のうち、いくつかの異星人語と基本行動パターンしか人っておらず、日本語はぜんぜん知らない。マイクから入力されたプレイヤーの言葉を記憶し、意味を推論し、学習し、それを音声として発するのである。最初は白紙だが、プレイヤーが話しかけることによって語彙《ごい》が増えてゆく。たとえば彼女がミルクの入ったコップを前にして不思議がっている時に、「ミルク」と言ってやると、彼女はその飲み物がミルクという名前であることを理解する。「ミルク」という単語と「欲しい」という単語を覚えたら、「ミルク、欲しい」と言えるようになるわけだ。まだ機械に複雑な文法を理解させるのは難しいので、最後までカタコトのままだが、AIが自分で言葉を発しているのは確かである。行動にしても同様で、プレイヤーが叱りつけたりなだめたり褒めたりすることで、ファニは何をしてはいけないか、何をすればいいのかを、少しずつ学習してゆく。
すなわち、ファニがどんな言葉を喋り、どんな行動をするようになるかは、プレイヤーの育て方しだいなのである。プレイヤーが一〇〇人いれば、一〇〇通りのファニができるわけだ(ゲームが発売されるとすぐに、彼女に卑猥《ひわい》な言葉ばかり教えて楽しむ、けしからぬゲーマーがたくさん現われたそうだ)。
文字で書けば簡単なことのようだが、ファニはきわめて高度なAI技術の結晶なのである。こんなゲームは一〇年前のハードではとうてい作れなかった。ここ十数年のゲーム機の性能の飛躍的な向上があったからこそ実現できたのだ。
二〇〇〇年に発売されたプレイステーション2は、メモリ容量三二メガバイト、六・二ギガFLOPSの演算速度を誇っていた。これは一秒間に六二億回の浮動小数点演算を処理する能力で、一九七六年に開発された「スーパーコンピュータ」クレイ1の二〇〇倍の性能である。それに対し、一〇年後に発売されたネブラ10は、FPGA技術を導入、メモリ容量二ギガバイト、演算速度は最高九・四テラFLOPS、一秒間九兆四〇〇〇億回の浮動小数点演算が可能だった。最大描画性能は毎秒五五億ポリゴン。もはやその映像は実写と区別がつかない。
ネブラ10の演算能力は、一〇年前のプレイステーション2の一五〇〇倍。そのさらに一〇年前の一九九〇年に発売されたNECの「スーパーコンピュータ」SX―3に比べると、演算能力は四〇〇倍以上、そのくせ体積は数千分の一である。値段はというと、SX―3はレンタルでも月額九九五〇万円だったのだが、ネブラ10はわずか二〇〇新円……かつてスーパーコンピュータと呼ばれていたものをはるかに凌駕《りょうが》する性能のマシンが、家庭に入りこんでいるのだ。
無論、ゲームはハードの性能がすべてではない。むしろそのハードの能力を最大限に使いこなすソフトの開発が求められている。兄は『ふにふにコンタクト』の開発に大きな役割を果たし、才能を認められたのだ。
もっとも、兄自身はファニのAIにプログラムを書いたわけではない。いや、誰もプログラムを書いた者はいない。そのアルゴリズムはあまりにも複雑で、人間がキーボードを叩いて入力しようとしたら、何百年もかかっていただろう。ファニのAIは遺伝的アルゴリズムによって進化したもので、兄たちはそのお膳立《ぜんだ》てをしただけなのだ。
兄が上京してきて一か月目、私は葉月を兄に引き合わせていた。二人が顔を合わせるのは初めてだったが、私はもう一〇年以上前から、兄には葉月のことを、葉月には兄のことを、いつも詳しく話していたので、二人は会う前からお互いのことをよく知っており、「初対面のような気がしませんね」と笑い合ったものである。
翌日、葉月が電話で「あんたの兄さん、アタックしてもいい?」と言ってきたのにはびっくりした。最初の驚きが過ぎると、私は複雑な心境になった。葉月の男好きはこれまで黙認してきたが、相手が身内となると話は別だ。二人が仲良くなるのはいいが、葉月の性格からして、絶対に長続きするはずがないと信じていた。私は兄も葉月も好きだった。別れ話がこじれて二人が険悪になるのは見たくない。
「そんなの心配しなくても」葉月は自信たっぷりに言った。「これまで何人の男をフってきたと思ってんのよ」
「だから心配なんじゃない」
「経験が豊富だから、男を傷つけずに別れるテクニックには長《た》けてんのよ。絶対に不快な想いなんかさせないから。それに、あんたの兄さんとは、けっこう長続きしそうな感じがするんだよね。そこらの軽薄な野郎どもと違って礼儀正しいし、真面目そうだし。それになんたって、あの眼がいいよ」
「眼?」
「そう、きらきらしてる」彼女は楽しそうに言った。「子供みたいな眼――素敵じゃん」
私には兄の眼がきらきらしているようには見えなかった。だが、葉月には見えたのかもしれない。彼女が人の評価を誤ったことはない。霊が見える人がいるように、彼女には人の眼の奥にある光が見えるのではないか――そんな気がした。
少し前から、私はよほどプライベートな場合を除き、人との大事な会話はなるべくポケタミで記録する癖をつけていた。思い出にもなるし、後で何か記事を書く際の参考になるかもしれない。ポケタミは豊富な容量があるうえ、テープと違って自由に好きな箇所から再生できるという手軽さがある。おまけにクリックひとつで音声を文字に変換できるので、テープ起こしの煩わしさが大幅に軽減され、私のようなライターには重宝な代物だった。
以下の会話もポケタミで記録しておいたものだ。兄と加古沢の会話はきっと興味深いものになるだろうという予感がしたからだ。日付は二〇一一年九月一二日。場所は西新宿のホテルのレストランである。
その場には葉月も居合わせた。話を耳にして、「あたしも混ぜて!」と言い出したのだ。私が時代の最先端を行く有名人とつき合っていることを知って、ミーハー精神を発揮したのである。こうして歓談の場はダブルデートのような雰囲気になってしまった。
ミーハーなのは加古沢も同じだった。兄に会うなり、「『ダーウィン』の開発者に会えるなんて嬉《うれ》しいなあ!」と大げさに感激して握手を求めた。
彼はポケットネブラを持ってきていた。席に着くなり、「ぜひ見て欲しいものがあるんです」と言って、テーブルの上にeペーパーを広げ、『ダーウィンズ・ガーデン2』からダウンロードした画像データを表示して見せた。
「ほう……」
兄は一目見て感心した。私と葉月も興味を抱いて覗《のぞ》きこんだ。
そこに動いていたのは、熱帯魚を横倒しにしたような姿の飛行生物だった。凧《たこ》のような平たい菱形《ひしがた》の体をしていて、側面からは広いヒレを、後ろには長い半透明の尾を伸ばし、それを波打つようにはためかせて飛んでいる。当時のeペーパーはまだモノクロで、レスポンスも遅かったので、動きはややぎくしゃくしていたが、それでも広い空を悠々と飛び回っているのがよく分かった。
「見事な飛行アーフだね」兄は熱心に観察していた。「どうやって空力バランスを取ってるんだ……? そうか、胴体を少し上に傾けて、尾の推進力で揚力を生み出してるんだな」
私も『ダーウィンズ・ガーデン』を少しプレイしたことがあるので、アーフを飛行させるのはかなり大変であることは知っている。大気密度のパラメータを最大にして、重力を最小にしても、なかなか翼が進化しない。たいていの場合、ジャンプして滑空するトビトカゲみたいなものしかできないのだ。はばたいて飛行するサイズ五以上のアーフを創ったユーザーは、一万人に一人ぐらいだと言われている。兄もずいぶんテストプレイを重ねたが、とうとう創れなかったそうだ。
理論上は、いったん誕生した飛行アーフは地上のアーフには追いつかれないから、生き残りやすいはずだ。聞題は進化の途中の段階である。中途半端な大きさの翼は、空を飛ぶことはできないし、地上では動きにくくて敵に捕らえられやすくなる。だから空を飛べるようになるまで生き残れないのだ。
「どうやって創ったの?」
兄に訊《たず》ねられた加古沢は、得意げに「ちょっとした裏技をね」と言った。
「ペンギンが水中を泳ぐとこ、見たことあります?」
「ああ、水族館で」
「だったら分かるでしょ。あいつらは水中を飛ぶ≠です。魚やイルカみたいに身をくねらせて泳ぐんじゃなく、翼をはばたかせて推進する。それがまた、すごく速いんです。本来は空を飛ぶために発達したはずの器官が、海中を泳ぐのに見事に適応してる。で、それを見て思いついたんです」
「そうか……」兄はうなった。「そのプロセスを逆にすれば……」
「そういうことです」
加古沢が使った裏技とは、まずアーフを海の中で進化させるという方法だった。翼のような推進器官が現われたら、パラメータを変えて陸地にしてやる。するとアーフたちは必死になって激変した環境に適応しようとする。加古沢の言葉を借りれば、「地面の上でじたばたとマヌケにもがく」のだ。しかし、それは他の魚も同じだから、競争率はたいして変わらない。やがて世代を重ねるにつれ、推進器官を利用してはばたくことを覚えてゆく。
もちろん、かなりの試行錯誤が必要だったらしい。試す前にセーブしておいて、失敗したら何度でもリセットするのだ。エイのようなもの、ムツゴロウのようなものも試したのだが、みんな絶滅するか、器官を脚に変化させて平凡な歩行形態になってしまったという。結局、この凧型のアーフだけがうまくいったのだ。
「もっとも、これもたった六〇世代で絶滅しましたけどね」加古沢は苦笑した。「タイムスケールをかなり遅くしてたはずなのに、ちょっとモニターから目を離してたら、あっという間にいなくなってました」
「何か無理があったんだろうな。エネルギー効率が悪かったのか、飛び立つまでのモーションが長すぎて捕食者から逃げ切れなかったのか……」
「ええ。自分ではけっこう気に入ってたんですけどね。まあ、データはセーブしておいたんで、こうしていつでも見ることはできますけど」
「実際、鳥もこうやって進化したのかもしれないな」
「ペンギンが鳥のご先祖様? まさか!」
私が笑うと、兄は腕を組んで真剣に考えこんだ。
「さあ、どうだろう? 始祖鳥の羽根は、もともと放熱器官だったとか、虫を叩いて殺すためのものだったという説もあるけど、まだ起源がはっきりしない。案外、泳ぐための器官だったってこともあるかもしれないな――いや、知り合いの生物学者に教えてやらなくちゃ」
兄はその頃、『ダーウィンズ・ガーデン3』の開発にかかっていた。シミュレーションをもっと精密なものにするために、進化論の専門家のアドバイスを聞いていたのだ。兄の話によると、『ダーウィンズ・ガーデン』シリーズのようなシミュレーション・ゲームは、今や進化生物学の世界でも大きな注目を集めているという。
少し前まで、遺伝的アルゴリズムに対する生物学者の反応は、どちらかと言えば冷ややかだった。モニター上の人工生物と自然界の本物の生物とでは、あまりにも違いすぎる。単純な手法で進化をシミュレートできたとしても、それをそのまま現実の進化に当てはめるのは無理があるのではないか、と考えられていたのだ。
しかし、それまで単なる憶測でしかなかった様々な進化論上の仮説を、進化シミュレーションが見事に再現してみせると、生物学者も無視するわけには行かなくなってきた。言うまでもなく、数十億年に及ぶ進化の歴史を実際に観察するわけにはいかない。進化の謎を解明するには、どうしてもコンピュータによるシミュレーションに頼るしかないのだ。兄は私たちに分かりやすく進化論の講義をしてくれた。
進化シミュレーションが証明した仮説のひとつが「断絶平衡説」である。これは一九七二年、アメリカ自然史博物館のナイルズ・エルドリッジとハーバード大のスティーヴン・ジェイ・グールドが発表したものだ。
かのチャールズ・ダーウィンは、生物は世代ごとに小さな変化を繰り返し、それが積み重なって新しい種が出現すると唱えた。だとすれば、生物はゆるやかに種から種へと変化するわけで、化石を調べれば種と種をつなぐ中間形態の化石がたくさん見つかるはずだ。しかし実際には、そうした中間化石が見つかる例は少ない。たとえば猿人(アウストラロピテクス)と類人猿の中間の化石は見つかっていないし、爬虫《はちゅう》類と始祖鳥をつなぐ化石もまだ発見されていない。
こうした発見されない中間化石、いわゆるミッシング・リンク(失われた鎖)はあまりにも多い。現代の創造説の信者たちにとっては、それが大きな論拠となっている。すなわち、生物は進化したのではなく、神によって創造されたのだから、ミッシング・リンクは存在しないのだ、と――私は <昴の予ら> で、この手の話をさんざん聞かされた。
一方、エルドリッジとグールドは、生物学者としての立場から古いダーウィン説に異議を唱えた。進化はゆっくりと連続的に進むのではなく、断続的に進むのだ。生物は何百万年も同じ姿を保ち続けた後、突然、急激に変化する。変化に要する時間はほんの数万年で、地質学的には瞬間と言っていいほどの短い期間だ。そもそも化石として後世に残る生物は、その時代に存在した生物全体のごく一部にすぎない。だから短い期間しか存在しなかった中間形態の種の化石が発見される確率はきわめて小さい――これが断続平衡説の要旨である。
筑波大学のグループが行なった八目車輪の実験でも、断続平衡が再現されていた。八目車輪は何十世代も四〇〇点台で足踏みを続けたのち、五九世代目でいきなり左に曲がることを覚えて四〇〇〇点台を獲得する個体が出現し、一気に進化が進んだ。
八目車輪のプログラムの進化を追跡してみると、左に曲がるコマンドはそれ以前の世代から生じていたのだが発現していなかったことが判明した。突然変異によって誕生したものの眠っていて役に立たなかったコマンドが遺伝子の交差によって発現し、爆発的な進化を促したのだ。これは同時に、日本の遺伝学者・木村資生の提唱した「分子進化中立説」――個体にとって有利でも不利でもない「中立」な突然変異の積み重ねが進化に影響するという説の、間接的な証拠でもあった。
無論、八目車輪のような単純なテストでは、進化を正確に再現したとは言い難い。しかし、コンピュータの性能が飛躍的に向上し、ますます複雑な進化シミュレーションが実現しても、結果はほとんど揺らがなかった。生物はごく単純な原理(突然変異、遺伝子の交差、自然選択)によって、複雑な形態に進化できることが証明されたのだ。
それでも創造論者たちはあきらめず、「進化シミュレーションによって生まれる人工生物は、見たこともない奇怪なものばかりで、犬や馬や人は再現できないではないか」と主張する。それは当たり前のことだ。進化は偶然に左右される。地球の進化史を一億年前に巻き戻し、もう一度繰り返したとしても、同じ種は現れない。イヌや人に似たものは出現するかもしれないが、犬そのもの、人そのものが再現される確率はゼロに近いのだ。
「じゃあ、他の星にはこのアーフみたいな生物もいるってこと?」と私。
「かもしれない」仔牛《こうし》のステーキを頬張りながら、兄は言った。「地球ではたまたま鳥が進化したけど、鳥の翼っていうのは必ずしも唯一の正解ってわけじゃない。コウモリの翼とか昆虫の羽根を見れば分かるように、もっといろんな形態の飛行生物が可能なはずなんだ。ただ地球では、鳥がすでに大型飛行生物の地位を不動のものにしてるから、何か大異変があって鳥が絶滅しないかぎり、新たな飛行生物が競争に勝ち抜いて進出してくるのは難しいだろうな」
「コウモリはどうなるの?」葉月が疑問を口にした。「コウモリって確か鳥よりずっと後から現われたんでしょ?」
「うん。だからコウモリが夜行性なのは意味があると思うんだ。ほとんどの鳥は昼間しか活動しないから、コウモリと鳥のテリトリーが重なっても、競争が生じにくい。その隙をついて生き延びられたんじゃないかな」
「ああ、なるほど……」
「何にしても、今の『ダーウィンズ・ガーデン』で飛行生物が生まれにくいのは、進化論の欠陥じゃなく、シミュレーションの欠陥だと思う。空気の動きをかなり簡略化してシミュレートしてるからね。流体力学の計算ってのはやたらに面倒で、古いネブラじゃ計算速度の限界があったんだ。ネブラ10の性能をフルに使えば、かなり緻密《ちみつ》な計算が可能になって、より現実に近い生態系が再現できる」
兄は『ダーウィンズ・ガーデン3』の構想を熱く語った。『2』では移動速度だけではなく、知覚能力と餌を獲得する能力も生存競争の指標として導入したが、『3』ではさらに、アーフ間のコミュニケーションや、性の概念を導入して、異性の注意を惹《ひ》く行動をさせたり、仲間同士で異性をめぐって闘争させたりもする予定だった。まだ開発途中だが、うまく行けば、クジャクの羽根やヘラジカの角のような器官が誕生するはずだ。
やがて私たちの話題は『ふにふにコンタクト』に移っていった。ファニのAIもまた、ゲーム業界以外から熱い注目を集めていた。人の言葉を理解できるAIは、様々な方面に応用できる。たとえばロボットに組みこめば、カタコトながら人間と会話できるロボットができる 従来のロボットは操作が面倒だったが、誰でも簡単に口頭で指示が出せるようになれば、応用範囲はぐっと広がるだろう。寝たきり老人の介護などにも役立つかもしれない。
「昔は『戦争が技術を進歩させる』なんて言われたこともあった」と兄は言う。「実際、飛行機は戦争のおかげで急速に発達したんだし、ロケットも原子力もレーダーもコンピュータもインターネットも、もともと軍事技術として開発されたものだ。でも、今じゃ違う。技術を進歩させるのは、ゲームとエロだ」
「確かにそうですね」加古沢はうなずいた。「一九八〇年代のパソコンの急速な普及も、パソコンゲームが大きな役割を果たしたんだし、インターネットにしても『エッチな画像が見られる』というウリがなかったら、こんなにすみやかに広まったかどうか」
「でも、ゲーム会社っていうヒモつきの研究でしょ?」と葉月。「不自由はないの?」
「確かに研究テーマに制約はあるけど、それはどんな研究でも同じことだよ。本当に自分の思い通りに研究できる科学者なんて、それこそB級ホラー映画に出てくる、人里離れた屋敷に住んでるマッド・サイエンティストぐらいじゃないか?」
今のような不況の時代、研究者、特に基礎技術の研究者にとっては、予算の問題はきびしいものなんだ――と兄は愚痴った。文科省から出る研究予算など、必要な予算の一〇分の一にも満たない。残りは研究者が自分でスポンサーを見つけて調達するしかないのだ。大企業や財団を駆けずり回って、自分を売りこむのである。
「当然、すぐに金にならない地味な基礎研究には、なかなかスポンサーがつかない。どうしてもその研究がしたいのなら、多少はホラをかましてでも、研究の重要性をアピールしなくちゃならない……」
「世渡りのうまさも、研究者に要求される才能ってわけ?」
「まあね。そんな苦労がない分、今の会社の方が楽だね。予算はたっぷりくれるし。むしろ僕は楽しいよ。少なくとも、学術研究のための退屈なプログラムを作るよりかは、女の子とお喋りできるゲームを作る方が何倍も面白い」
「ただ、こう言うと和久さんは気を悪くされるかもしれませんが……」加古沢は珍しく言葉を濁した。
「何だい?」
「俺は『ダーウィン』に比べると、『ふにふに』はそんなに画期的なゲームとは思えなかったんですよ。確かに、従来の美少女ゲームに比べれば格段の進歩かもしれませんけど、やっぱり少しやってみると、ファニがあまりにバカすぎて、うんざりしてくるんです。まだまだ人間のレベルにはほど遠いんじゃないですか?」
「そりゃ当然だよ」兄は笑った。「容量が違いすぎる。ハンス・モラヴェックの試算によれば、人間の脳の情報処理能力はおよそ一億MIPS(一MIPSは一秒間一〇〇万回の命令を実行する能力)だそうだ。今のデスクトップ・パソコンの最上位機種でも一〇〇万MIPS。せいぜいネズミぐらいの知能だな。だからファニに人間と同じ知能を期待するのが間違いだ」
「容量だけの問題じゃないでしょう?」加古沢は食い下がった。「パソコンはそうかもしれないけど、スパコンはもうとっくに一億MIPSを超えてるじゃないですか。それなのに、まだあなたたちは記号着地問題すらクリヤーできていない……」
「まったくその通りだね」兄は真剣な表情に変わり、うなずいた。「それが僕たちの最大の課題だよ。記号着地問題を完璧《かんぺき》に解決できるAIができたら、ノーベル賞もんだな」
「記号着地問題って?」と私。
「たとえば――そう、あれを見て」
兄はレストランの壁に飾ってあった絵を指差した。アジサイの花を描いたものだった。
「あの絵は何に見える?」
「何って……花でしょ?」
「そう、花だ。人間なら誰でも、あれを見れば花だと分かる。どういうことかというと、照明の光が絵の表面で反射して、その反射光が目に入って網膜に映像を投影し、その刺激が視神経を通って脳に伝わり、その信号が脳の中で解析されて、『これは花だ』と判断される。つまり入力された情報のパターンが、脳の中にある『花』という記号に着地するわけだ。
ところが、こんな簡単なことがコンピュータにはできない。簡単な図形なら識別できる。でも、花の絵を見せて『花だ』と認識させることができない。コンピュータにとって、絵というのはランダムな信号の羅列にすぎないんだ」
「どうして識別できないの?」葉月が口をはさんだ。「花はこれこれこういう形のものだって機械に教えれば……」
「簡単に言うなよ。いったい世界には何万種類の花があると思うんだ? サクラも、ユリも、バラも、みんなぜんぜん形が違うんだぜ?」
「ああ、そうか……」
「それに、人間は今まで見たことのない花でも認識できる。『初めて見る花だ』と思う。花の正確な形を記憶していて、それと照合してるわけじゃないんだ。その証拠に『バラの花の絵を描いてみてください』と言っても、描けない人が大勢いるだろ?」
「おおよその形を教えればいいんじゃないの? 『赤とか白の薄っぺらいものが円形に並んで付いているものが花である』とか何とか定義しておけば……」
「それじゃだめだよ。その定義だと、風車とかプロペラとかも誤って花と認識されかねないし、逆にしおれた花は認識できないだろう。人間はそんな間違いはしない。プロペラと花は違うものだと分かるし、しおれた花でも認識できる。たまに造花に騙《だま》されることはあるにしても、かなり高い確率で、目にした花を頭の中にある『花』という記号に当てはめられる」
「じゃあ、人間はその……記号着地問題だっけ? それをどうやってクリヤーしてるの?」
「それが分からないんだよ」兄は大きなため息をついた。「こればっかりは、脳をMRIで調べても、神経細胞を顕微鏡で見ても、手がかりにはならない。脳というブラックボックスの中で起きてることを知る方法がまだないんだ」
そういう意味ではファニはまだ本物のAIじゃない、と兄は言う。記号着地問題を回避しているからだ。たとえばモニター上でクマのぬいぐるみとして表示されているものは、マシンの内部では「ぬいぐるみ=クマ」というパラメータを最初から与えられている。つまりファニは、厳密にはぬいぐるみそのものを見ているのではなく、「ぬいぐるみ=クマ」「ぬいぐるみ=ネコ」といったパラメータを見ているにすぎないのだ。だから「これはぬいぐるみだよ」と教えてやれば、それからは他のぬいぐるみを見ても「ぬいぐるみ」と呼ぶようになる。しかし、それはぬいぐるみという概念を彼女が認識したということではない。ファニに本物のぬいぐるみを見せても認識できない。なぜなら、本物のぬいぐるみにはパラメータなどないからだ。
「それこそほら、遺伝的アルゴリズムを使えばどうにかなるんじゃないの? 認識能力を生存競争の指標にして、進化させれば……」
「言うは易し、だな」兄は私の素人考えを一蹴《いっしゅう》した。「そんな簡単な方法でうまく行くなら、とっくに誰かがやってるよ。実のところ、脳の中でどんな風に視覚情報が処理されてるか、その基本原理さえよく分かってないんだ。だからシミュレートしようがないんだよ」
「そうか……」
「でも、これは絶対に乗り越えなくちゃいけない問題なんだ。特にロボットを日常社会に進出させるには、どうしても記号着地問題をクリヤーしなくちゃいけない。ロボットが動き回るのは、モニターの中じゃなく、現実の世界なんだからね。記号着地ができなきゃ、真のAIとは言えない」
前世紀末にソニーが開発したAIBOの人気に便乗し二一世紀に入ると多くのメーカーがペットロボットを発売していた。中には人間そっくりで二足歩行をするものもあった。しかし、それらはどれも記号着地問題をクリヤーしていない。認識できるのは、色や単純なシンボルだけなのだ。
たとえば内蔵バッテリーが切れかけると、自分でコンセントを探し出し、プラグを挿しこんで充電するロボットがいる。しかし、それはあらかじめコンセントの横に「コンセント」を意味するシンボルのシールが貼ってあるからだ。シールを剥《は》がしてしまうと、ロボットはコンセントが目の前にあっても分からなくなってしまう。この程度の性能では、ペットならいいが、実用にはほど遠い。
「仮に記号着地問題が解決したとしてもですよ」加古沢はなおも言った。「それでロボットが本当の知性を持ったことになりますかね? ロボットや花やぬいぐるみやコンセントを認識できたからって、それがイコール知性の証明だと、どうして言えるんですか?」
「そんなことは言ってないよ」兄はあっさりかわした。「知性を持つロボットは、最低限、記号着地能力を持たなくてはいけないと言ってるだけだ。それは知性のための必要条件ではあるけど、十分条件とは言えない」
「じゃあ、真の知性の条件とは何ですか?」
「それは逆に君に質問したいな。ロボットにどんなことができたら、君はロボットに知性があると認めるのかな?」
思いがけない逆襲を受け、加古沢はとまどった様子だった。
「そうですね……ロボットが人を感動させるような小説が書けたら、知性があると認めてもいいですよ」
「それじゃお話にならないな」兄は苦笑した。「その定義だと、人類の大半は知性がないことになるよ。ほとんどの人は小説なんか書けないんだから」
「じゃあ、知性の定義って何ですか?」
「それが難しい。たとえば『チェスで人間を負かすこと』を知性の定義だとすれば、それはとっくに達成されてる。コンピュータは人間の何万倍もの速さで字を読めるし、何兆倍もの速さで計算ができる。でも、誰もそれを真の知性だとは思わないだろう。じゃあ知性とは何なのか? それは誰も答えられない」
「それは逃げ口上でしょう? 実際のところ、人工知能の研究は予想されたほど進んでいない。一九六〇年代には、コンピュータが進歩すれば、人間のように思考するプログラムはすぐにできるものと思われていた。ところが、それから半世紀経って、ハードは飛躍的に進歩したというのに、いまだにファニ程度の幼稚なものしかできない……違いますか?」
加古沢の口調は礼儀をかなぐり捨てしだいに挑戦的になってきた。私は兄が怒り出すのではないかとはらはらしたが、兄はまったく動じる様子はなく、笑顔さえ浮かべていた。
「それは否定しないね。確かに初期の人工知能研究者の見通しは甘すぎた。人間の心というものを単純なプログラムの寄せ集めだと思っていた。でも、現代の研究者は違う。真のAI誕生の見通しについて、ずっと慎重になってるよ。少なくともトップダウン方式――人間がプログラムを打ちこむ従来のやり方で真のAIを誕生させるのは不可能だという点では、意見は一致してる。AIが自己進化するのを待つしかない」
「じゃあ、ズバリ言って、人間と区別がつかないようなAIが誕生するのはいつ頃ですか?」
「ズバリだなんて断言できないな。僕は予言者じゃないから。明日にでも世界のどこかの研究室で、画期的なブレイクスルーが起きるかもしれない。逆に半世紀も先かもしれない。でも、一世紀先ってことはないだろう」
「その予測も単なる当てずっぽうですよね。根拠があるわけじゃない」
「根拠はあるさ。この世には少なくとも一種類のインテリジェンス・マシンが存在する。人間の脳だ。つまり脳の働きをシミュレートするような機械は、知性を持つことは間違いない」
「それは論理の飛躍じゃないですか? シミュレーションはしょせんシミュレーションにすぎない。本物の知性とは言えないでしょう」
メインディッシュが終わり、デザートが運ばれてきても、二人の議論は白熱する一方だった。すでに私と葉月には口をはさむ余裕さえなくなっていた。私たちはこっそり目配せし、苦笑しながら無言のメッセージを伝え合った――「やりたいだけやらせてあげましょ」と。
ただ、葉月が妙に困惑し、そわそわと不安そうな様子だったのは覚えている。もっとも、その時の私は、兄たちが喧嘩《けんか》するのが心配なのだろうと思っていた。実際、つかみ合いに発展する気配だけはないものの、二人の間には激しい火花が散っていた。
二人の議論は平行線だった。兄は「機械が人間に匹敵する知性を持つことは可能だ」と確信していた。一方、加古沢は「コンピュータに小説が書けるようになるとは思えない」という点にこだわっていた。彼の小説家としてのプライドが、機械が人間のように小説を書くという可能性に対し、拒否反応を示しているようだった。
二人の議論の争点は「チューリング・テスト」の問題に移っていった。それは数学者で物理学者だった天才アラン・チューリングの名に由来する。チューリングは一九三六年、二四歳の若さで万能計算機械「チューリング・マシン」の概念を考案、その理論は現代のコンピュータ工学の基礎となった。
チューリングは一九五〇年に発表した「計算機械と知能」という有名な論文の中で、「イミテーション・ゲーム」というゲームについて考察した。二つの部屋を用意し、一方の部屋に男女の回答者を、もう一方の部屋に質問者を配置する。質問者の目的は、別室の二人にいろいろな質問をし、どちらが男でどちらが女かを当てることだ。回答者のうちの一人は正直に答えるが、もう一人は自分が異性であるかのように振舞い、質問者を騙そうとする。質問者を騙し通すことができれば回答者の勝ちだ。質問とその回答は、声によって性別がばれるのを防ぐため、テレタイプによって交わされる。
このゲームで一方の回答者を機械に置き換えたらどうなるか、とチューリングは考えた。質問者の目的は、回答者のどちらが機械であるかを当てること。機械は自分が人間であるかのように振舞う。
チューリングは先見の明を発揮し、五〇年後(つまり二〇〇〇年)には一〇億バイト(一ギガバイト)の容量を持つプログラムが作成可能となると予言した。そうしたプログラムに対するイミテーション・ゲームは、平均的な質問者が質問を五分した後で、正答率は七〇パーセントを超えないだろう。そうなれば機械が考える能力を持つことについて、もはや疑問の余地はなくなるだろう――というのがチューリングの主張だ。
チューリングの考えをめぐって、昔から多くの学者が議論を戦わせてきた。チューリング・テストにパスするのが真のAIだという主張がある一方、人間を表面的に真似するだけでは真の知性とは言えないという意見も根強かった。
二〇一一年当時、この議論に関連して、厄介な問題が発生していた。チューリング・テストにパスしているかのように見えるプログラムが実際に出現したのだ。『無敵くん』と呼ばれるフリーウェアである。それを濫用する者が続出したため、多くの掲示板が混乱し、一時期、ネットにはちょっとしたパニックが広がった。
操作方法は簡単である。ユーザーはまず「相対性理論は間違っている」「教育勅語を学校で教えるべきだ」といった説(ユーザー自身が信じていなくてもかまわない)の骨子と、その論拠をいくつか『無敵くん』にインプットする。そして適当な掲示板に説をアップする。後は何もしなくていい。『無敵くん』は掲示板を自動巡回し、反論があればユーザーに代わって自動的に再反論の文章を生成し、それをアップする。相手がそれに対して反論すれば、『無敵くん』はさらに反論する。『無敵くん』は決して負けを認めないので、相手が打ち切らないかぎり、議論はいつまでも続くことになる。
もっとも、『無敵くん』は相手の主張を理解しているわけではない。いや、自分の主張さえ理解していない。プログラム通りの反応を返すだけの、いわゆる「人工無脳」なのだ。相手の言葉|尻《じり》を捉《とら》えて「……とはどういうことですか」とか「……だなんて信じられませんね」などと言い返したり、「これは疑いようのない事実です」「もっと勉強したらいかがですか」といった定型句を発するだけなのである。いちおう単語間の関連を類推する能力があるので(そこまで「無脳」ではないのだ)、簡単な質問には答えられるが、厄介な質問ははぐらかしたり、見当違いのことを答えたりする。当然、その論旨は穴だらけで、しばしば支離滅裂なものになる。それでも日本語としてさほど不自然な文章になることはないので、表面的には人間の書いた文章と見分けるのは不可能に近い。
『無敵くん』はハッカーの間で話題になり、すぐに改良が加えられて、多くのバージョンが出現した。特定の人物の文体を真似るもの、攻撃されるとすぐにヒステリックになって「人権侵害だ」「告訴の準備がある」とわめき出すもの、下品な言動で相手を挑発するもの、「クリスタルの波動」「ゼータ系の情報によれば」などといったオカルト的な言葉を頻発するもの、時おり意味不明の文章を混ぜて「電波系」を装うもの……もちろん状況に応じてアスキーアートも使うし、「逝ってよし」「オマエモナー」などのスラングも使いこなす。
問題を厄介にしているのは、ネットでは他人の意見を聞かない頑固者や、電波系の人間は珍しくないという事実である。『無敵くん』はまさに彼らのように振舞う。そのため、相手がただのプログラムであることに気づかず、何週間も議論を続けてしまう者が続出した(もっとも、その存在が知れ渡ってからは、みんな用心するようになり、頑固者に対して「あんた、『無敵くん』か?」というのがネットユーザーの罵《ののし》り言葉として定着した)。
「チューリング・テストに対する幻想はもはや剥がれ落ちたと言っていいでしょうね」加古沢は勝ち誇ったように言った。「『無敵くん』の反応は人間と区別がつかない――にもかかわらず、『無敵くん』に思考能力がないのは明白です。機械が人間の言動をシミュレートすることは可能だということは証明されました。でも、それはただの猿真似でしかないんです」
「別に僕たちはチューリング・テストに幻想を抱いていたわけじゃないんだがな」兄は笑い飛ばした。「『無敵くん』なんて目新しくもない。君は知らないかもしれないが、チューリング・テストで七〇パーセントの審査員を騙せるようなプログラムは、もう十何年も前にできてるんだよ。それに、君はチューリング・テストの意義を誤解してる」
「というと?」
「あれは機械が人間を真似られるかどうかのテストじゃないんだ。機械が人間の思考をシミュレートできるかどうかのテストなんだ」
「同じことじゃないんですか」
「いや、違うね。イミテーション・ゲーム――男か女かを見分けるゲームのことを考えてごらんよ。仮に君がそのゲームに参加して、質問者をうまく騙し通したとしよう」
「俺が女だと相手に思わせることに成功したってことですね? いいでしょう。でも、それで何が証明されるんです? 俺がいくら上手に女を演じられたとしても、俺が女じゃないのは明白じゃないですか!」
「そうだよ。でも、君が女の心理に詳しいことは証明されるじゃないか。質問者を騙し通せるぐらいにね」
「でも、それは単なる知識でしょう? 俺は女の心理を理解してるわけじゃない。女はこういう質問をされたらこう答えるだろうと推論するだけです」
「そう、君は女の思考をシミュレートできる。ということは、君が知性を持っている証明だとは言えないかな? 『無敵くん』にできないのはそれなんだ。他人の思考をシミュレートすることだ。『無敵くん』にできるのは、単なる真似であって、シミュレーションじゃない」
「真似とシミュレーションはどう違うんです?」
「誰かが小説を真似して書こうとしているところを想像してみるといい。文体なんかは割と簡単に真似られるだろうな。でも、話の底に流れるもの――テーマとか思想性とかまで真似ようとしたら、『加古沢黎ならここでどう考えるだろうか』と想像する必要がある。それがつまりシミュレーションだ」
加古沢は少し黙りこんだが、やはり納得できない様子だった。
「それでも詭弁《きべん》っぽく聞こえますね。たとえ機械が人間の思考をシミュレートできるとしてもですよ、それが人間の心理を理解している証明になりますか? ましてや、人の心を持っている証明になりますか? 単に機械的な作業をやってるだけじゃないんですか?」
「サールみたいなことを言うね」
「サールって?」
「ジョン・サール。二〇世紀のアメリカの哲学者で、AI研究を批判した人物だ――ねえ加古沢くん、君が言っているようなことは、もう何十年も前に誰かが言っていて、とっくに論破されてるんだよ」
「そのサールっていう人は、どんなことを言ってたんですか?」
「有名なのは『中国語の部屋』だな」
それはサールが一九八〇年に学術誌に発表した論文「心・脳・プログラム」の中で提唱した概念で、発表と同時に激しい議論を巻き起こした。
サールは、自分が部屋に一人で閉じこめられているところを想像する。室内には中国語で書かれたたくさんの本があるが、彼には中国語が読めないので、それらはミミズがのたくったような無意味な記号の羅列にしか見えない。しかし、彼には英語で書かれたマニュアルが与えられている。マニュアルには中国語の意味は書かれていないが、一連の記号をある規則に従って別の記号に変換する方法が詳細に説明されている。
そこへ部屋の外から、やはり中国語で書かれた質問が与えられる。もちろんサールには質問の意味は分からない。しかし、マニュアルに従って、中国語の本に並んだ記号を参照した結果、その質問を適切な中国語の回答に変換することができる――「はい、その男はハンバーグを食べました」とか何とか。
部屋の外にいる人間は、返ってきた回答文を見て、室内の人間が中国語に精通していると思いこむ。しかし、依然としてサールは中国語をまったく知らず、質問の意味も解答の意味も理解していない。規則に従って機械的に作業を行なっているだけなのだ。
この比喩《ひゆ》をAIに置き換えてみよ、とサールは言う。中国語の文書の山を一連のデータに、英語によるマニュアルをプログラムに、作業を行なうサールをコンピュータに置き換えてみれば、真実は明白だ。AIがどんなに人間そっくりに振舞い、質問に正しく答えられたとしても、AIに考える力があることを証明することにはならない。AIは機械的な作業を行なっているだけであって質問の意味など理解していないのだ……。
「俺には正しいように思えますがね」加古沢は不審そうに言った。「どこが間違ってるって言うんですか?」
「サールの論文に対してはたくさんの批判が寄せられたんだけどね。いちばん有名なのはダグラス・ホフスタッターによる反論だろう。簡単に言うと、サールは大きな錯覚をしてるってことだ」
「錯覚?」
「そう。彼は中国語の質問に中国語で回答するようなプログラムが、ほんの数枚の紙に書けるという前提で話をしている。実際には、そんなマニュアルはとてつもなく厚くなって、手順も複雑なものになるのは間違いない。となると、室内にいるサールに注目するのは間違ってる。結局、彼は機械的な作業をしてるだけなんだからね。『中国語の部屋』の主体はサールじゃない。サールも本の山もマニュアルもひっくるめた部屋全体なんだ。サールは中国語を理解していなくても、部屋全体はシステムとして中国語を理解しているはずだ……」
「ちょっと待ってください。部屋が中国語を理解してるって?」
「そうだよ」兄は平然と言った。「脳やコンピュータでなければ思考能力を持てないと考えるのは間違ってる。今のコンピュータは半導体を使ってるけど、昔は真空管を使ってた。最近では量子コンピュータの開発も進んでる。材質は何でもいいんだ」
「本や部屋でも?」
「そう。極端な話、サールの比喩に従って、人間の心のプロセスをそっくり一冊のマニュアルにまとめることも、原理的には可能だ。たぶん何百億ページにもなるだろうけどね。昔流行したゲームブックみたいに、パラグラフの指示に従って読み進むようなものになるだろう。人間の思考速度に比べればかなり遅くなるけど、規則に従って辛抱強くめくっていけば、一人の人間の思考を完璧《かんぺき》にシミュレートできるはずだ」
加古沢は笑い出した。「そりゃいくら何でも荒唐無稽《こうとうむけい》だ! 本にものを考える力があるって言うんですか?」
「本そのものにはないよ。その本をめくる人間――サールのような人間が必要だからね。でも、その本と読者をひっくるめたシステム全体は、読者とは別の人格を形成するはずだ」
「……本気で言ってます?」
「僕をマッド・サイエンティストだと思ってる?」
「いいえ、そんなことは――」
「言っておくが、これは僕の個人的意見じゃないよ。人工知能研究者なら誰にでも訊ねてみるといい。同じことを説明してくれるはずだ」
「いやまあ……」加古沢はすっかり困惑していた。「でも、仮に本が人格を形成することが可能だとしてもですよ、それはやっぱりシミュレーションにすぎないんじゃありませんか? 本物の人格とは別でしょう」
「ふむ……」兄はカプチーノをひと口すすり、ちょっと考えてから話題を変えた。「君の『赤道の魔都』、読んだよ。すごく面白かった」
「恐れ入ります」
「特にヒロインが活き活きと描かれてたよね――あのヘレナ・ブラヴァツキーって、実在の人物なんだろ?」
「ええ。もっとも、ほとんど俺の創作ですけどね」
「つまり彼女は君のシミュレートした架空の人格なわけだ」
「まあね」
「でも君は、『と彼女は思った』とか『彼女は悩んだ』とか書いてるよね? それはつまり、彼女にはものを考える力があるってことじゃないのか?」
「いやいやいや!」加古沢は笑って打ち消した。「とんでもない誤解ですよ! 『彼女は思った』と書いたからって、本当に彼女に思考力や自意識があるわけじゃない。ただの虚構ですよ。ヘレナは活字の上にしか存在しない人間なんですから。実在しない人間がどうやって自意識を持てるんですか?」
「確かに本を閉じている間は、彼女は実在しないだろうな。でも、本を読んでいる間、僕は確かに彼女が人格を持って実在しているのを感じたんだが?」
「そう言ってくださるのは嬉しいですが、それは錯覚ですよ。何かを考えたり感じたりするヘレナの主体は、どこにも実在するわけじゃありません」
「じゃあ、こう考えてみたらどうかな。誰かがへレナの前に現われてこう言うんだ。『あなたは本物のヘレナ・ブラヴァツキーじゃありません。二一世紀の日本の小説家が書いた小説の登場人物にすぎないんです。ですからあなたは実在しません。あなたは本当は生きていないし、思考力も自意識もないんです』――こう言ったら、彼女はどう答えるかな?」
「もちろん、『そんなことはない』って言うでしょうね――ああ」何かに気がついたらしく、彼はにやりと笑った。「あなたの次の戦術は分かってますよ。俺に対して同じことを言うつもりでしょう?」
「まあね」
「そしたら俺は『そんなことはない』と答える。そしたらあなたはこう言うんでしょう。『君もヘレナも同じことを主張している。それなのに、君には自意識があって彼女にはないとどうして言えるんだ?』……」
「そうだね」
「その手にはひっかかりませんよ。俺はヘレナとは決定的に違います」
「ほう?」
「俺は実在しているが、彼女は俺の小説の登場人物にすぎません。これは大きな違いです」
「でもね、仮に彼女が小説を書いたとしても、自分と登場人物について同じことを言うとは思わないかい?」
「でしょうね。でも、俺には自意識がある。コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)。俺自身が自分の意識の存在を自覚してるんですから、これは確かです。つまり俺は小説の登場人物ではありえない。俺の言葉はすべて俺が考えて発してるんです。それに対して、ヘレナが俺の小説の登場人物であることは明らかです。だから彼女に真の意味での思考力はありません。彼女がどう答えようが、その台詞《せりふ》は結局、俺が書いたものなんですからね」
その瞬間、兄は複雑な表情で、静かに目を伏せた。「……そんなに自信があるとは羨《うらや》ましいな」
「え?」
「僕はそこまで自信はないよ――自分がシミュレーションじゃないと言い切れる自信はね」
「どういうことです?」
「いや、たいしたことじゃない」兄はそっけなく言った。「忘れてくれ」
二人の議論はそれからさらに続いたが、加古沢は「シミュレートされた人格は実際の人格ではない」と主張し続けた。彼の頑固さに、兄は笑って匙《さじ》を投げた。食後のコーヒーも飲み終わり、そろそろ帰り支度をする時間だった。
「まあいいさ。そういうことにしておこう。どっちみち、この比喩にあまりこだわろうとも思わないしね。それに、チューリング・テストに根本的な欠陥があることは事実だ」
「テストにパスするだけじゃ、真のAIとは言えないってことですか?」
「それもあるが……知性というものを『人間の思考をシミュレートする能力』と定義してしまっているのが、僕に言わせれば間違いだな」
「と言うと?」
「たとえば、今から一億年後ぐらいに、カタツムリが進化して知的生物になったとしよう。コクレア・サピエンス(知恵あるカタツムリ)だな。それがタイムマシンで現代にやって来て、チューリング・テストを受けたとしよう。もちろん、人間の言葉を学んで、文化についても深く研究したという前提のうえでだよ。でも、このカタツムリがテストにパスするとは思えない。あまりにも異質すぎるからだ。たとえばカタツムリは両性生物だから、男女の愛なんてものは理解できないだろう。だから愛に関する質問をされれば、たちまちトンチンカンなことを答えて、ボロを出してしまう……。
でも、だからと言って、このコクレア・サピエンスには愛がないとか、知性がないなんて結論するわけにはいかない。愛や知性のあり方が僕らとは異質だというだけだ。彼らが小説を書くとしても、その内容は僕らにはチンプンカンプンで、さっき君が言ったように、人間を感動させるなんてできないだろう。でも、彼らはその小説で感動するのかもしれない。
同じことがコンピュータについても言える。コンピュータは人間と何から何まで違ってる。血の流れる肉体も、種族維持の本能も持たない。人前で失敗した時の気まずい気分とか、崖《がけ》っぷちに立った時のひやりとする感覚、頬に風が当たる感触がどんなものかも理解できない。だからそうしたものについて説明しろと言われても、うまく言えない。その反対に、毎秒何兆回もの演算をこなすというのはどういう感じなのか、人間には想像もつかない。コンピュータが知性を持つとしたら、人間のそれとはまるで異質なものになるのは間違いないだろう。だからチューリング・テストは知性の判定基準にはならない……」
「逃げてるように見えますね」加古沢は冷笑した。「あなたの考えだと、チューリング・テストに合格するAI、つまり人間のように思考するAIは、いつまで待ってもできないことになる。それは研究が停滞していることに対する言い訳だと取られてもしかたありませんよ」
「逃げてるわけじゃないさ。ただ、一般の人が根強く抱いている『鉄腕アトム願望』みたいなものは間違いだと言いたいだけだ。アトムのように、人間みたいに泣いたり笑ったりするロボットが、ロボットの究極の姿だという誤解がね。SF映画でもほとんどがそういう誤解に基づいて作られてる」
「まあね」
「でも、ロボットに泣いたり笑ったりを要求するのはナンセンスだよ。それこそ人間の表面的な物真似にすぎないじゃないか! AIは人間とは異質な感性を持つはずだ。まったく笑わないかもしれないし、人間とは違うギャグで笑うのかもしれない。名画を観て感動しなくても、人間とは違う何かで感動するのかもしれない……」
「でもですよ、あなたの言う通り、知性に明確な基準がなくて、チューリング・テストが役に立たないとしたら、真のAIが誕生した時、どうやってそれが分かるんですか?」
「さあね。それこそ答えられない質問だな。異質な知性がどんなことを喋るかを想像しろというのが無理だからね。でも――」
兄は確信をこめて言った。
「それはいつか必ず誕生するし、誕生したらそれと分かるはずだ――僕はそう信じてる」
一時間後、加古沢の車でマンションまで送ってもらった私は、すぐに葉月に電話をかけた。男二人でずっと喋り続けで、私たちが言葉を交わす機会がほとんどなかったからだ。さすがのお喋りな葉月も、二人の勢いに圧倒されたのか、後半ほとんど口をつぐんでいた。
「まったく、よく喋ったねえ、あの二人」ポケタミで記録を再生しながら、私は言った。「ちょっと白熱しすぎてひやひやしたところもあったけど、盛り上がって良かったよ。このまま文章に起こしたら、本にできそうな感じ」
「ねえ、優歌……」葉月は珍しく、言いづらそうな様子だった――歯に衣着せず、何でもずけずけ言うのが彼女の個性なのに。
「ん? 何?」
「……あんた、あの男とずっとつき合う気?」
「え? いや、いつまでつき合うかは分かんないけど、どうして?」
「やめた方がいいよ」
「どうして?」
「あいつはね……」
葉月は少しためらってから、低い声でぽつりと言った。
「あいつは邪悪だよ」
[#改ページ]
10+UFOは進化する
私の最初の反応は笑うことだった。
「え? 何それ? 邪悪? どういう意味?」
「文字通りの意味だよ」葉月の声は暗かった。「あいつが良輔さんを見る目、気がつかなかった?」
「……いいえ」
「あれは憎悪だね。自分より頭のいい人間に嫉妬《しっと》してる。自分がこの世でいちばん頭がいいと思いこんでたから、プライドを踏みにじられてショックだったんだろうね。こいつだけは叩《たた》き潰《つぶ》さないと気がすまない……そんな目だったよ」
私はすぐにポケタミの記録をサーチし、議論の最中に加古沢が兄を見つめているところを何度もリピートして、その表情を観察した。しかし、確かに少し冷笑的なところはあったものの、葉月が言うようなものは何も感じられなかった。
「……私には見えないけど」
「やっぱりね」葉月は舌打ちした。「普通の人間には見えないんだと思うよ。たぶん、あたしって、人より記号着地能力が優れてるんだと思う」
それはありそうな話だ、と私は思った。AIにとっては単なる信号の羅列にすぎないものが、人間には花の絵として認識できるように、普通の人間には読み取れない表情を、葉月は読み取れるのかもしれない。
私の知る限り、葉月が人の評価を誤ったことはない。「あの男はうわべだけの野郎だね」とか「あいつ、あんたに気があるみたいだよ」と彼女が言えば、後で必ず、それが事実だったことが分かるのだ。彼女を欺くのは至難の業である。高校時代のテレビ出演の件にしたって、あのスタッフに騙《だま》されたわけではない。私たらは彼らが信用できない人間であることを承知しつつ、面白半分にヤラセに加担したのだから。
にもかかわらず、私は彼女の「邪悪だ」という言葉を本気にしなかった。おおげさな形容をしていると思った。才能のある人間が、自分より頭のいい人間に敵愾心《てきがいしん》を燃やすのは当たり前ではないか……。
私は加古沢を本気で愛したことはない。しかし、彼には好意を抱いていたし、その才能を深く尊敬してもいた――その心理が、私の目を曇らせていたのだ。
「何にしても、あの男をあまり良輔さんに近づけない方がいいと思うよ」
私はくすくす笑った。「ナイフでブスッとやられるかもしれないから?」
「まさか。あいつはそんなことするタイプじゃないよ。どんなに腹が立っても、取り乱したり、暴力に訴えたりはしないと思う。でも……何か仕掛けてくるんじゃないかと思うんだ」
「何かって?」
「分かんない。ただ、そうなった時が心配なんだよね。良輔さんって打たれ弱いタイプだから。精神的にもろいよ」
私は居ずまいを正した。「……私と同じトラウマ抱えてるから?」
「それもある。でも、それだけじゃなくて、何か深刻な悩み、抱えてるみたいなんだよね」
私は心配になった。加古沢の性格がどうこうという問題より、そっちの方がよほど気になる。
「デートしてる間も、声は明るいし、顔は表面だけにこにこ笑ってんだけど、心ここにあらずって感じでさ。この前なんか、渋谷駅の前の交差点で信号待ちしてる時に、ぼうっと夜空、見上げてんの。隕石《いんせき》が落ちてくるのを心配してるみたいな顔でさ。あたしが『どうかしたの?』って訊《たず》ねたら、『いや、何でもない』だって」
「へえ……」
「信じられる? 『いや、何でもない』よ!? そんなわざとらしいごまかし方、最近じゃアニメでもめったに見られないって!」
「何を悩んでるんだろう?」
「分かんないんだよね、それが。研究と何か関係あるらしいんだけど、いくら誘導|訊問《じんもん》しても、ひっかかってこないの。あたしには心、開いてくれないみたいでさ……」
彼女はそう言って、悲しげなため息をついた。
「ねえ、あんたから訊ねてみてくんない?」
私はすぐに兄に電話をかけ、葉月から聞かされたことを話した。彼女が兄を本気で心配していることも。
「そうか、彼女がそんなことをね……」
兄の声は重苦しかった。
「で、事実なの? 悩みがあるっていうのは?」
「……ああ」
「それは私にも話せないこと?」
兄はかなり長い間、受話器の向こうで考えこんでいる様子だった。やがて、ためらいがちにこう切り出した。
「……そうだな、お前になら話せると思う。というか、お前以外に話せる人間はいない」
「どういうこと?」
「 <昂《すばる》の子ら> の取材で、UFOについての資料も調べたって言ってたな?」
「ええ。それが?」
「UFOは実在すると思うか?」
唐突な質問に私は面食らったが、すぐに気を取り直して答えた。
「大壷みたいなコンタクティの話は、たいてい嘘か、妄想だと思う。ただ、未確認飛行物体という意味でなら、何か存在すると思うな。信頼できる目撃例が多いし。異星人の乗り物だとは思えないけど」
「そうか……」
「それがどうかしたの?」
「実はな……」
兄はささやくような声で、恥ずかしそうに言った。
「UFOを撮影した」
次の土曜日、私は兄のマンションに行き、その映像を見せてもらった。
二〇一〇年の八月、研究者仲間と長野県の白馬に旅行に行った時に撮影したものだという。風呂《ふろ》から上がり、浴衣《ゆかた》姿でホテルの部屋のベランダに出て、夕暮れの北の空をぼんやり眺めていると、それが見えたのだ。最初は明るい星かと思ったが、ゆっくりとジグザグに動きながら降りてきたのを見て、慌てて部屋に取って返し、ポケタミを持って戻ってきた。
私はその映像を見せてもらった。モニターに映し出されたのは、夕闇の迫るオレンジ色の空を背景に揺れている、電球のような光点だった。最初は手ぶれがひどくて動きが分かりづらかったが、兄がベランダの手すりにポケタミを置くと、画像が安定した。紙切れが舞うような感じでふらふらと降りてくる。カメラがズームになると、上半分が四角く、下半分がスカート状に広がっているのがかろうじて分かった。いわゆるアダムスキー型と呼ばれるタイプだ。
UFOは高度を下げ、ホテルの裏山に建つ鉄塔の近くで静止した。
「あれはスキー場のリフトだ」と兄は説明した。
そのまま約二分、UFOは鉄塔の近くで揺れながら浮遊していた。友達を呼びに行くべきかどうか兄が迷っていると、UFOはすっと右に動き、フレームアウトした。兄は数秒間、UFOの行方を見失った。ようやく見つけた時には、すでに光点はかなり小さくなり、東の空へと消えていこうとしていた。
撮影時間は合計二分五五秒。
「これは誰にも見せてない」兄は言った。「バカにされたくなかったからな。それに僕は画像処理技術にもそこそこ詳しい。その気になれば、この程度の映像ぐらい偽造できる。ペテン師扱いされるのがオチだ」
兄の言い分は理解できる。二〇世紀ならまだしも、家庭でも手軽に実物そっくりのCGが作れるようになった今の時代、デジカメの映像など何の証拠にもなりはしない。おまけに撮影された時期がまずい。ちょうど <昴の子ら> ムーブメントが盛り上がり、マスメディアやネットで揶揄《やゆ》されていた頃だったのだ。研究者としての実績が認められつつある今、「インチキ」のレッテルを貼られて人格を疑われることを、兄は極度に警戒していた。
しかし、私は兄の言葉を信じた。兄がCGを作って私を騙す理由がない。それに兄は「これは記事にしないでくれよ」と何度も念を押していた。世間にこの映像の信憑《しんぴょう》性を認めてもらう必要などないから、と。彼はただ、真実を知りたかっただけなのだ。
あのIさんのように。
撮影の翌朝、兄はホテルの裏山に登り、画面に映っているリフトの鉄塔まで行ってみたという。ポケタミのマンナビ機能を使って座標を測定すると、撮影地点であるホテルのベランダから三四〇メートル離れていることが分かった。UFOは降りてくる途中、リフトのケーブルの前を横切っている。つまりカメラから三四〇メートル以内にいたということだ。さらにUFOとリフトの両方にピントが合っていることから、両者はさほど離れていないことも推測できた。
旅行から帰ってから、兄は自宅でひそかに分析作業を行なった。画面上のUFOの大きさを計測したり、ポケタミ内蔵カメラの性能をいろいろ調べてみて、UFOまでの距離を一一〇〜三四〇メートルと推定した。このことから、UFOは直径一・二〜三・六メートル、高さは〇・五〜一・五メートルと分かった(異星人の乗り物にしては小さすぎるように思えるが、人間が乗れないほど小さなUFOの目撃例は、昔から数多くあるのだ)。
注目すべきは、UFOが急に横に動き出す瞬間だった。デジカメの一フレームは三〇分の一秒だが、UFOはたった六フレームで直径の五倍も動いているのだ。もし中に乗員がいたなら、三〇〜九〇Gというすさまじい加速度によって圧死していただろう。
「どう思う?」
感想を求められた私は困惑した。何かが映っているのは確かだ。「未確認飛行物体」という本来の定義で言うなら、まさにUFOである。そうした映像を兄が撮ったこと自体は不思議ではない。ただ……。
「ただ、アダムスキー型っていうのが……」
「うーん、そうなんだよな!」兄は苛立《いらだ》たしげに頭を掻《か》きむしった。「そこが僕もひっかかってるんだ。アダムスキー型でなけりゃ、こんなに悩まないんだが」
アダムスキー型と呼ばれるUFOは、一九五二年一〇月、ジョージ・アダムスキーが初めて撮影したことでいちやく有名になった。その後、多くの人間が同様のUFO写真を撮影しているし、一九六〇年代に制作されたTVドラマ『インベーダー』をはじめ、数多くのドラマ、マンガ、イラストにアダムスキー型UFOが登場する。そのため、それがポピュラーなUFOの形状であると信じている人も多い。
しかし、UFO研究家はまったく別の見解を持っている。アダムスキーの証言がすべて嘘であり、その写真が稚拙なトリックにすぎないことは、何十年も前から全世界の研究者(一部の狂信的なビリーバーは別として)が認めているのだ。アダムスキーは『宇宙船の内部で』と題する体験談を一九五三年に発表し、金星人や火星人と接触し、円盤に乗せてもらって、月や金星や土星に行ったこともあると主張していた。しかし、月には草原があって動物が走っていたとか、宇宙から見た地球が白く光って見えたとか、宇宙空間に流星が飛び交うのを見たという彼の話は、まともな科学知識のある人間なら信じられるはずがない。アダムスキーはもともと <ロイヤル・オーダー・オブ・チベット> というカルト集団の教祖で、自分の思想を広めるために架空のコンタクト・ストーリーをでっち上げたのである。
アダムスキー型UFOのデザインの元ネタも、現在では判明している。トーマス・タウンゼント・ブラウンという技術者が研究していた飛行機械の模型に、細部まで酷似しているのだ。ブラウンは「ビーフェルド―ブラウン効果」なる原理に基づき、コンデンサーに蓄えた電気によって重力を制御できると主張していたが、これはついに実現することはなかった。彼は五〇年代初頭、アダムスキーと同じくカリフォルニアにおり、共にUFOマニアだった二人の間に接触があったとしても不自然ではない。あるいはブラウンはアダムスキーの共謀者で、彼のトリック写真のために自分の模型を提供したのかもしれない。
つまり、アダムスキー型UFOなどというものは実在しないのだ。
兄はその実在しないはずのUFOを撮影したのである。
「信じられないか?」
「ううん、信じるよ」
逆説的だが、UFOがアダムスキー型だからこそ、私はよけいに兄の言うことを信用する気になった。アダムスキー型UFOが実在しないことは、兄もよく承知している。偽の映像で私を騙すつもりなら、もっと別の形状のUFOを創るはずではないか。
「それに、前に似たような話を聞いたことがあるの」
私は兄に、一九四五年、Iさんが海岸で見た奇妙な新兵器の話をした。小さな翼とプロペラで空を飛ぶ戦車――絶対に存在するはずのない飛行物体。
「あれから気になって、いろいろ資料を調べてたの。そしたら……」
私は国会図書館でコピーした数枚の写真をポケタミに表示した。太平洋戦争中に日本国内で発売されていた少年向け科学雑誌『機械化』のグラビアで、ロケット噴射で空を飛ぶ「ロケット戦車」、戦車とオートジャイロを合体させた「空中戦車」などの想像図が描かれていた。それらはIさんの描いた絵によく似ている。当時の子供たちはこうした雑誌を熱心に読み、戦局を一変させる新兵器の登場を夢見ていたのだろう。
Iさんも子供時代にこれらの記事を読んだのだろうか? だとしても、六〇年も経って、私に嘘の話をする理由はない。空飛ぶ戦車なんて、今では誰でも信じはしないのだから。
「何となく共通点が見えてきたな」兄はうなった。「『空飛ぶ円盤』という言葉ができたのは、確か戦後だったよな?」
「ええ、一九四七年」
私は即座に答えた。 <昂の子ら> に潜入取材する前、UFO関係の資料を大量に読み漁《あさ》ったおかげで、私はいっぱしのUFO通になっていた。
一九四七年六月二四日、アメリカ・ワシントン州のレーニア山付近を自家用機で飛行していた実業家のケネス・アーノルドは、時速一二〇〇マイル(マッハ一・六)という高速で飛行する九個の物体を目撃した。当時、そんなに速く飛べる飛行機はまだなかったので、アーノルドはソ連の秘密兵器ではないかと思った。地元紙が彼の証言を取り上げ、「物体は明るく輝くソーサー(コーヒーの受け皿)の形をしていた」と報じた。そのニュースが全米に広まり、「フライング・ソーサー(空飛ぶコーヒー皿)」とか「フライング・ディスク(空飛ぶ円盤)」といった言葉が新聞の見出しを賑《にぎ》わせた。アーノルドの体験談は大フィーバーをもたらし、これ以降、アメリカ各地で円盤状の飛行物体の目撃報告が続出することになる。
だが、実際にはアーノルドは「円盤」など見てはいなかったのである。彼は記者のインタビューに答え、物体の飛び方を説明する際、「ソーサーを水切りの要領で対岸に向かって投げた時のような」と表現した。それが誤って新聞に引用されたのだ。後になってアーノルドは自分が目撃した飛行物体の想像図を発表しているが、鋭い鎌のような三日月型をしたその形状は、「円盤」とは似ても似つかない。
「つまり、アーノルドは三日月型の物体を見たのに、その証言が間違って『空飛ぶ円盤』という名で報道されてから、円盤型飛行物体が実際に目撃されだしたわけだな?」
「そういうことになるわね」
「アーノルド以前には円盤型飛行物体の目撃例はないのか?」
「厳密に言えば、ないわけじゃないわ。たとえば――」
私はポケタミのファイルを開いた。いくつかのホームページに載っていたUFO事件のデータを元に、自分専用にまとめ上げたデータベースである。
「ああ、これね。アーノルド事件の二か月前、ヴァージニア州リッチモンドで、二人の気象庁職員が楕円《だえん》形をした飛行物体を目撃したという例がある。それから、オクラホマシティでも……でも、あくまで少数派ね。アーノルド事件が起きるまでは、円盤型のUFOはポピュラーじゃなかったのよ」
「じゃあ、それまでのUFOはどんな形だったんだ?」
「いろいろ。時代によって違うの」
歴史上おそらく最初のUFO目撃報告は、旧約聖書の『エゼキエル書』の中に見られる。紀元前五九二年、いわゆるバビロン捕囚の一人であった祭司エゼキエルが、ケバル河のほとりで四人の天使と遭遇したのだ。天使は激しい風と雲と火をともなってエゼキエルの前に飛来した。四枚の翼と四本の腕、仔牛《こうし》のような青銅の脚を持ち、その頭部には、人間、獅子《しし》、牛、鷲《わし》の四つの顔があったという。天使の近くにはそれぞれ一個ずつリングが浮かんでいた。リングは二重構造をしており、緑柱石のようで、周囲にはたくさんの眼がついていた。馬車の車輪と違って、向きを変えることなく、どの方向にでも移動できたという。
エゼキエルが目撃したものは地球外生物だったという説もある。激しい風と雲と火というのは宇宙船のロケット噴射のことだとか、四つの顔とは宇宙服のヘルメットを見間違えたのだとか……しかし、虚心坦懐《きょしんたんかい》な目で『エゼキエル書』を読めば、とてもそんな解釈には同意できない。これを「異星人」や「宇宙船」と解釈しようと思ったら、原文をかなり強引に読み替えなくてはなるまい。
そんな珍解釈がまかり通る理由は、『エゼキエル書』に描かれた天使が、現代人の思い描く美しい天使のイメージとあまりにもかけ離れており、異様に思えるからだろう。こんなものが天使であるはずがない、何か別のものに違いない、と――だが、それは無知というものだ。我々の知っている天使のイメージが絵画や彫刻の世界で定着するのは、キリストの死後何世紀も経ってからなのだから。
時代が下ると、別の種類のUFOが頻繁に目撃されるようになる――「空の戦闘」もしくは「空の軍隊」だ。
空中で軍隊や野獣が戦う光景がしばしば見られることは、古くは古代ローマの学者プリニウスが『博物誌』の中で記している。六世紀には、イギリス南東部のケント州で、ドラゴンやライオンなどの野獣が空中で戦うのが見え、その後、血の雨が降ってきたという記録がある。
同様の現象は、一六世紀から一九世紀にかけて特に頻発した。一五四七年、スイスの上空で二つの軍隊が戦う光景が目撃されている。軍隊の下方では二頭のライオンが戦っており、軍隊とライオンの間には白い十字架が横たわっていたという。一五五〇年七月一九日、現在のドイツのウィッテンベルク近くの空で、やはり戦闘が目撃された。二つの軍隊が一頭の大鹿を囲み、すさまじい音を響かせて戦いを繰り広げ、血が豪雨となって降ってきたという。一五八八年の暮れには、フランスのブロワ市の上空に、奇妙な炎や、血まみれの剣を持った白装束の軍人、槍《やり》を持った軍隊が出現している。一六〇一年八月一二日、ハンガリーのバラトン湖岸の小さな町で、豹《ひょう》のような怪物と伝説の怪蛇バジリスクが空中に出現し、朝八時から正午まで戦い続けたのが、近隣の大勢の住民に目撃されている。
特に長く続いたのは、イギリス・ノーサンプトンシャー州のネーズビーの例である。この土地では、清教徒革命中の一六四六年六月一四日、王党派と議会派の大規模な戦闘があった。それから毎年、およそ一世紀にわたって、戦場となった場所の上空に、戦闘の模様が絵画のように(今なら「映画のように」と表現するところだろうが)リアルに再現された。土地の人々は近くの丘に集まり、それを眺める風習があったという。
戦闘は見られなかったが、軍隊が空を行進してゆく光景もしばしば目撃されている。一七八五年、ポーランドのシレジュ地方のウーヤスト。一八四八年五月三日、フランスのドーフィーネ地方のヴィエンヌ。一八五〇年一二月三〇日、イギリスのバンマス川の付近。一八五四年一月二二日、ライン河沿いのビューデリッヒ。一八八一年九月、アメリカ・ヴァージニア州。一八八一年一〇月八日、イギリス・ヨークシャー州リプレイ……。
ジャン=ピエール・スガンという研究者によれば、一五二九年から一六三一年にかけてフランスで発行された五一七種類の瓦《かわら》版のうち、四五種類が「空の戦闘」について報告したものだったという。スガンが収集した瓦版はすべてではないから、実際の目撃件数はもっと多かっただろう。
当時のヨーロッパの空に「空飛ぶ円盤」はいなかった――その反面、実に多くの「空の戦闘」が目撃されていたのだ。
それより目撃件数は少ないものの、「空飛ぶ船」についての報告もある。宇宙船ではない。オールや帆で進む木造船だ。当時のヨーロッパでは、空の上にマゴニアという国があり、そこから地上の果実を採取するために船が降りてくると信じられていたのだ。
古いアイルランドの写本にはこんな話が出てくる。九五六年、クロエラという町で起きた出来事だ。ある日曜日、この町にある聖キナラスを記念した教会で、住民がミサを行なっていると、空からロープのついた鉄の錨《いかり》が落ちてきて、教会のドアの上の木製のアーチにひっかかった。ロープの先端には人を乗せた船が浮かんでいた。人々が見上げていると、一人の男がロープを伝い、水中を泳ぐような動作で降りてきて、錨をはずそうとした。人々はアーチによじ登って男を捕らえようとしたが、男の生命を心配した司教が命じて、彼を解放させた。自由の身になった男が急いで船に戻ると、彼の仲間はロープを切断し、錨を残して空に飛び去った……。
これとそっくりな事件は、一二一一年、イギリス・ケント州グレーヴゼントでも起きたとされているし、イタリアのクロンマクノワという小さな町でも同様の記録がある。一七四三年には、イギリス・ウェールズ州のアングルシー島の農夫が、雲間を飛ぶ帆船を目撃している。下から見上げたので、船底の中央を走っている竜骨まではっきり見えたという。
私は <昴の子ら> にいた頃、こうした現象についてどう思うか、数人の信者に意見を聞いてみたことがある。ある者は「そんなのは昔の人の作り話ですよ」と一蹴《いっしゅう》した。軍隊や豹や帆船が空を飛ぶなんてあるはずがない、と。
おかしな主張である。なぜなら、彼らは空飛ぶ円盤の実在は信じているのだ。確かにライオンや豹や木造船が空を飛ぶなんて、まったくの非常識、科学的にありえないことである。しかし、翼もプロペラもジェットエンジンもない円盤型の物体が空を飛ぶのだって、同じぐらい非常識なことではないのか?
別の者は、これらの報告をUFO目撃談と解釈した。昔の人は、良いプレアデス星人のUFOと悪いオリオン人のUFOが空中で戦うのを見たのだが、それが何なのか理解できなかったため、ありのままに報告するのではなく、ライオンだの軍隊だのといった比喩《ひゆ》を使って表現したのだ……というのだ。これもまた無理のある解釈である。時代も場所も異なる何百人という目撃者が、揃いも揃って、同じ比喩を用いたというのか?
確かに古い話には伝聞による誇張や歪曲《わいきょく》が多く、鵜呑《うの》みにするわけにはいかない。中には創作も混じっていることだろう。しかし、これほど多くの報告を「ただの作り話」と無視することは、私にはできなかった。どの報告もストーリーとしての起承転結に欠けており、いわゆる昔話とは一線を画している。大勢の人間が同時に目撃していることが多いので、錯覚や幻覚、妄想とも思えない。「では何なのか?」と訊《たず》ねられても困る。ただ、昔のUFO現象が現代のそれとかなり違っていたことは、疑問の余地がない。
UFO現象に新たな変化が起きるのは一九世紀末である。この時期、アメリカで多数の「幽霊飛行船」の目撃報告があるのだ。
当時、ヨーロッパでは大型硬式飛行船の開発競争が進んでいた。一八九七年一一月三日、ダヴィッド・シュヴァルツが設計したアルミニウム製の全長四八メートルの飛行船が、ベルリンで試験飛行中に墜落した。その三年後の一九〇〇年七月二日、有名なツェッペリン伯のLZ1号が試験飛行に成功、飛行船時代の幕が上がる。しかし、アメリカの発明家は大きく出遅れていた。初のアメリカ製飛行船、トーマス・ボールドウィンの <カリフォルニア・アロー> 号がオークランドの空に浮かぶのは、一九〇四年のことである。
すなわち、一九世紀末の時点では、まだ実用的な大型飛行船はアメリカには存在しなかったはずなのだ。にもかかわらず、一八九六年から九七年にかけて、アメリカだけでも数百件の大型飛行船の目撃報告があるのだ。
一八九六年一一月一七日の夕刻、カリフォルニア州サクラメントに、「謎の力で推進するアーク灯のような物体」が出現、建物をたくみによけながら低空で通過した。驚きながら見上げていた地上の人々は、飛行船の中から「上昇しろ」とか「さて、明日の正午までにサンフランシスコに行かなくては」といった英語の声がするのを聞いたという。
同じものと思われる飛行物体の目撃報告は、カリフォルニア州の各地、ワシントン州、国境を越えてカナダからも寄せられた。さらに翌年には、西海岸だけではなくアメリカ全土で目撃されるようになる。三月二九日にはオマハで、三月三〇日にはデンバーで、四月一日にはカンザスシティで、四月五日には再びオマハで、四月九日にはシカゴで、四月一五日にはワシントンで……いずれも数十人、数百人の市民によって目撃されている。一隻の飛行船が高速で飛び回っているのでなければ、どうやら何隻もの飛行船がアメリカの空をうろついているようだった。
当時の新聞には、目慣者たちの報告を元にしたイラストが載っている。物体は葉巻型で、全長は一五〜二一メートル、側面にはプロペラか外輪のようなもの、尾部には大きな三角形の安定板、底部には人の乗るゴンドラが付いている。強力なライトを放ちながらゆっくりと空中を移動し、中から人の声がしたという証言もいくつかある。
問題はゴンドラのサイズである。どの絵を見ても、気嚢《きのう》に比べてゴンドラが大きすぎる。これでは飛べるはずがない。それは本物のツェッペリン飛行船よりも、ジュール・ヴェルヌの小説の挿絵や、当時の雑誌に載っていた「未来の飛行機械」の想像図に似ている。
一八九七年四月一九日の夜、テキサス州ボーモントに住むJ・B・リーゴンとその息子は、そうした飛行船の一隻が隣人の牧場に着陸しているのを発見した。飛行船の近くには四人の男がおり、一人が「水をバケツに一杯くれ」と頼んだ。リーゴンが水を渡すと、男はウィルソンと名乗り、これは電気の力で動く新型飛行船で、これからアイオワに戻るところだと説明した。やがて飛行船は浮上し、リーゴンと息子の見守る中、夜空に飛び去っていった。
翌四月二〇日、飛行船はテキサス州ユベルディに住むH・W・ベイラー保安官の自宅の裏に着陸した。出てきた男の一人は、やはりウィルソンと名乗り、ザバリア郡の前の保安官のC・C・エイカーズという人物に会いに来たと告げた。エイカーズは今はイーグル・パスにいるとベイラーが言うと、ウィルソンはとても残念がった。それから、やはり水を要求し、このことは町の人にはないしょにしておいてくれと頼んでから、北の方へ飛び去った。
四月二二日、飛行船はテキサス州ジョーサーランドで、農夫フランク・ニコルズのトウモロコシ畑に着陸した。降りてきた乗員は例によって井戸水を分けて欲しいとニコルズに頼んだ。二三日には、テキサス州クーンツにも飛行船が着陸、降りてきた男の一人はウィルソンと名乗った。五月六日には、アーカンソー州フォート・スミスで、パトロール中の警官ジョン・P・サンプター・ジュニアと副保安官ジョン・マックレモアが、飛行船から降りてきた三人の男女と遭遇した。そのうち一人は、やはり水を汲《く》んでいたという。サンプターとマックレモアは、治安判事の前で宣誓供述書にサインし、自分たちの報告に偽りはないと誓った……。
目撃者たちの報告には共通点がある。飛行船の乗員は決して怪物じみたエイリアンではなかったということだ。ウィルソンと名乗る男とその仲間たちは、明らかにごく普通の人間で、一九世紀のアメリカ人の着るような服装をしており、流暢に英語を喋った。そして火屋やプレアデス星団ではなく、アイオワまたはニューヨークから来たと言ったのである。
面白いことに、UFO本の中には、一九世紀末の「幽霊飛行船」騒ぎには触れているのに、乗員の描写について無視しているものが多い。UFOを何としてでも異星人の飛行物体にしたい著者にとって、一九世紀風の紳士ウィルソンの存在は都合が悪いのだろう。
一九世紀末の「幽霊飛行船」は、昔の「空飛ぶ船」とは違い、電気による照明を装備し、帆やオールを持たず、どうやらプロペラで推進するらしい。だが、その振舞いを見ると、明らかに過去の「空飛ぶ船」と同種のものであることが分かる。
一八九七年四月二六日、テキサス州マーカルで、教会から帰る途中の家族数組が、照明を装備した飛行船が滞空しているのを目撃した。飛行船はロープから垂らした錨が線路にひっかかって難渋しているようだった。一〇分ほどして、青い水兵服を着た小柄な男がロープを伝って降りてくると、ロープを切断した。飛行船は錨を残して北東へ飛び去った……。
そう、船の外見こそ違うが、九五六年にアイルランドで、一二一一年にイギリスで起きたことが、そっくり繰り返されたのだ!
こうした飛行船騒ぎは五月には下火になったが、一九〇八年になって再燃した。今度はアメリカだけではなくヨーロッパ各地からも目撃報告が寄せられた。
一九〇九年三月二三日の早朝、イギリス・ケンブリッジシャー州のケトル巡査がピーターバラのクロムウェル通りをパトロール中、自動車のエンジン音のようなものが頭上から響いてくるのを耳にした。空を見上げると、まばゆいライトを装備した葉巻型の物体が、星空を背景に通り過ぎてゆくのが見えた。この事件が発端となり、イギリス各地、さらには北アイルランドのベルファストでも飛行船が目撃された。
特に奇妙なのは、五月一三日、ロンドン郊外のハム・コモンで、グレアム氏とボンド氏が遭遇した飛行船だ。二人の証言によれば、飛行船は全長六〇〜七〇メートル、ゴンドラに乗っていたのはアメリカ人とドイツ人だったという。ドイツ人がタバコをくれと言ったので、グレアム氏はタバコ入れから少し分けてやった。イギリスの「幽屈飛行船」は、アメリカのそれとは違い、水には困らなかったようだ。
イギリスでの飛行船騒ぎはいったん下火になったように見えたが、一九一二年になって、前回以上の目撃集中《フラップ》が襲ってきた。目撃報告は何百という数に達し、ついには国会でも問題になった。当時のイギリス国民は、飛行船はドイツから飛んでくるのではないかと疑っていたのだ。確かに同じ頃、ツェッペリン伯は飛行船を一〇号まで完成させていたが、まだ事故やトラブルが多く、イギリスまで頻繁に足を伸ばしていたとは考えにくい。
第一次世界大戦が終わると、「幽霊飛行船」の目撃例はぴたりと途絶える。実際にツェッペリン飛行船がロンドンを爆撃したため、もはやファンタスティックな「幽霊飛行船」の出る幕ではなくなったのかもしれない。
その代わり、新しいタイプのUFOがスカンジナビアの空に出現した。「幽霊飛行機」である。それは複葉機全盛時代には珍しい単葉機で、当時としては考えられないような速度(それでもまだ音速には達していなかったようだが)で飛行し、空軍機による追跡を振り切った。一九三三年から三四年にかけての冬、スウェーデン国内だけでも数百件の目撃報告があった。中には八機のエンジンを備えた巨大機もあったという。もちろん当時、そんな飛行機は世界のどこにも存在しなかった……。
こうした例を調べるにつれ、私は一九四五年に起きたというIさんの体験談に、ますます信憑性を感じるようになっていった。確かに一件だけ取り出してみれば、「空飛ぶ戦車」というのは突飛な話のように思える。しかし、現象全体を大きな視野で見れば、それは一九世紀末から欧米で続いてきた「幽霊飛行船」「幽霊飛行機」の目撃談の日本風ヴァリエーションにすぎない。アメリカの飛行船からアメリカ人が、ヨーロッパの飛行船からドイツ人が降りてきたなら、日本の「空飛ぶ戦車」から日本人のパイロットが降りてきて水を要求しても、何の不思議があるだろう?
しかし、「幽霊飛行機」の天下は短かった。飛行機の急速な進歩によって、あっという間に現実に追いつかれてしまったのだ。
第二次世界大戦中、対立する両軍のパイロットは、ともに「フー・ファイター」に悩まされた。「火」を意味するフランス語のfeuに由来するその飛行物体は、明るい光を発しながら高速で夜空を駆け回り、その信じられない機動性でパイロットを翻弄《ほんろう》した。それは飛行船や飛行機でもなければ、まだ円盤型でもなく、形のはっきりしない火の玉だった。まるでUFOが新たな形を決めかねていうかのように……。
世界大戦終結の翌年、またスカンジナビアで、葉巻型の飛行物体が再登場した。もっとも、それはもはやプロペラ推進でのんびり飛んではおらず、宇宙時代にふさわしく、ロケットを噴射して高速で飛翔《ひしょう》していた。
最初は一九四六年の五月、スウェーデン上空で、魚雷もしくは葉巻型をした「幽霊ロケット」が頻繁に目撃された。七月九日には目撃件数は二五〇件にもはね上がった。八月に入ると、同様の目撃報告は、デンマーク、ノルウェー、スペイン、ギリシア、モロッコ、ポルトガル、トルコからも寄せられた。その年の終わりまでには目撃報告は九九七件に達し、そのうち二二五件は、物体は明らかに金属製だったと証言している。小さな尾翼を見た者も多い。スウェーデンでの例に関して言えば、八割は流星などの見間違いであったことが判明しているが、二割はついに正体不明のままだった。北欧諸国の新聞は、ソ連が新型のロケット兵器の試射を行なっていると書き立てた。一方、共産圏の新聞は、「幽霊ロケット」はアメリカの秘密兵器だと非難した。
そして一九四七年六月二四日、ケネス・アーノルド事件を境に、「空飛ぶ円盤」が大発生することになる。
それまでにも様々な形のUFOが報告されていた。翼のある鳥のようなもの、四角いもの、球形、卵形……しかし、アーノルド事件以降、円盤が圧倒的に多くなる。その目撃件数の急増は、まさに異常と言っていい。UFO事件に関するアメリカ国内の新聞記事だけを見ても、六月二四日から三〇日の間には一日あたり一五件〜二〇件、七月四日には九〇件、七月七日には一六〇件にも達しているのだ。
もっとも、葉巻型飛行物体の目撃例が途絶えたわけではない。それは依然として目撃され続けていた。
たくさんの目撃例から、とりわけ信憑性の高い二例だけを挙げよう。ひとつは冥王星《めいおうせい》の発見者として名高い天文学者クライド・トンボーの報告である。彼は一九四七年八月一〇日の夜、ニューメキシコ州の自宅の中庭で、家族とともに葉巻型の飛行物体を目撃している。それは側面に一列の窓があり、中から光を発していた。
もうひとつは一九四八年七月二四日、イースタン航空のダグラスDC―3旅客機の機長と副操縦士が目撃したものである。翼のない葉巻型をしており、B―29爆撃機の三倍ぐらいのサイズがあって、尾部から長い炎を噴射していた。それはDC―3が衝突を避けようと針路を変えると、それに合わせて針路を変え、衝突の寸前に急上昇して姿を消した。明らかに流星には不可能な芸当である。
この事件で興味深いのは、副操縦士が問題の物体を「『フラッシュ・ゴードン』風の空想的な宇宙船」と表現していることだ。そう、「幽霊ロケット」「葉巻型UFO」なるものは、本物のロケットよりも、一九三〇〜四〇年代に空想されていたロケットに酷似しているのだ! お疑いなら、当時のコミックスやSF雑誌の表紙絵を見てみるといい。葉巻型、球形、あるいは円盤型の宇宙船であふれかえっている。
出てくるのはロケットや円盤だけではない。たとえば『プラネット・コミックス』というコミックス誌には、無毛で頭の大きい小型宇宙人に誘拐された女性が、宇宙船の中に下着姿で横たえられ、今しも人体実験をされそうになっている場面が描かれている。UFOマニアなら誰でも、一九六一年に起きたヒル夫妻事件に端を発する、いわゆる「エイリアン・アブダクション」を連想せずにはいられないだろう。しかし、この絵が描かれたのはヒル夫妻事件より二〇年以上も前なのだ……。
だが、ほとんどのオカルト研究家は、こうした点に注意を払わなかった。半世紀前の「幽霊飛行船」騒ぎをすっかり忘れ、「葉巻型UFO」との明白な類似に思い至らなかった。「葉巻型UFO」は別の惑星から来た「空飛ぶ円盤」の母船に違いないと勝手に決めつけたのである――そんな証拠はどこにもないのに!
「空飛ぶ船」が「幽霊飛行船」「幽霊ロケット」と進化してきたように、「空飛ぶ円盤」も進化しているらしい。四〇〜五〇年代のUFO目撃報告の中には、炎を噴射していたというものが多いのだ。当時、円盤はどこかの国の秘密兵器ではないかという説が根強かった。だとすれば、ロケットを噴射しているのは当然だろう。しかし、「空飛ぶ円盤」が異星人の乗り物であり、磁力や反重力で飛んでいるという説(これもまた、何の証拠もないのだが)が広まるにつれ、だんだんUFOは炎を噴射しなくなっていった。
もっとも、完全に炎を吐かなくなったわけではない。たとえば一九六四年四月二四日、ニューメキシコ州ソコロの警官ロニー・ザモラが目撃した楕円形のUFOは、炎を噴射して上昇し、着陸地点に焦げ跡を残していった。また、一九八〇年一二月二九日の夜、テキサス州ハフマン近郊の路上で、ベティ・キャッシュとヴィツキー・ランドラム、それにヴィッキーの孫のコルビーが遭遇したUFOは、ダイヤモンド形をしていて、下から炎を噴射していた。この遭遇の直後、三人は皮膚に日焼けや水ぶくれができ、髪の毛が抜け、頭痛や吐き気に見舞われるなど、明かな放射線障害の兆候を示した。
UFOの進化はその後も続く。一九八八年一一月、米国防総省は、極秘に開発していたステルス戦闘機F117―Aの写真を公表した。それは従来の飛行機のイメージを大きく逸脱した、二等辺三角形をした黒塗りの機体であった。そのちょうど一年後、ベルギーのオイペンで、二人の憲兵隊員が「二等辺三角形をした黒い固体の塊」を目撃した。それは本物のステルス機とは違い、湖の上でホバリングできたという。同じものと思われるUFOは、その後もベルギーに何度も飛来して多くの人に目撃されており、一九九〇年の四月には写真も撮影されている。
ここには明らかなパターンが見られる。人類がまだ飛行機械を持ってなかった頃、空を飛んでいたのは木造の帆船だった。ヨーロッパで硬式飛行船が開発されていた時代、アメリカに「幽霊飛行船」が出現した。ナチスのV2ロケットがロンドンを爆撃した翌年、スカンジナビアに「幽霊ロケット」が出現した。ケネス・アーノルドが円盤を目撃したと誤って報じられると、「空飛ぶ円盤」が出現した。アメリカが三角形のステルス機の存在を公表した翌年、ベルギーに黒い三角形のUFOが出現した……。
もし今、どこかの国の科学者が、画期的な性能を持つドーナツ型の飛行機を開発したなら、たちまちドーナツ型のUFOが出現するに違いない。
私の長い講義を、兄は真剣な表情で聞き終えた。
「つまり、UFOは人間のイメージに合わせて形を変えてるってことか?」
「そういうことになるわね。だからアダムスキー型UFOが実在しても不思議じゃない。大勢の人がアダムスキー型UFOの実在を信じているなら……」
「でも、お前はそれを異星人だとは思わないんだな?」
「当たり前でしょ! 異星人がどうして帆船や飛行船で飛んでこなくちゃいけないの?」
「しかし、『空飛ぶ円盤』と『幽霊飛行船』が同じものだというのは、即座に納得できないな。形が違いすぎるだろ?」
「確かに形は違うわ。でも、乗員の行動パターンはそっくりなのよ」
私はそう言って、『UFO:エイリアン・コンタクト』のファイルを開き、「要求」というキーワードでいくつかの事件のデータを表示した。
一九六一年四月一八日の朝、ウィスコンシン州に住む配管工ジョー・サイモントンの庭に、直径九メートルの銀色の物体が入ってきた。中から現われた三人の男は、イタリア系の顔で、毛糸の帽子をかぶり、タートルネックのセーターを着ていた。彼らは水差しを差し出し、手振りで水を要求した(またしても水だ!)。サイモントンが水を与えると、彼らはお返しに四枚のパンケーキをくれた。後日、科学者がそのパンケーキを分析してみると、成分はまったく地球のものと同じだったが、奇妙なことに塩分が含まれていなかったという。
一九六四年四月二四日、ニューヨーク州の酪農家ゲイリー・ウィルコックスが畑仕事をしていると、空き地に卵形のUFOが降りてきて、中から身長一・二メートルほどの人間が二人現われた。彼らは流暢な英語で「火星から来た」と語り、ウィルコックスが撒《ま》いていた肥料を分けて欲しいと頼んだ。後日、ウィルコックスがその場所に肥料を置いておくと、いつの間にかなくなっていたという。
一九六四年の夏、ネバダ州のリノ空港の近くに円盤が着陸。中から降りてきたのはナチの将校の軍服を着た男で、居合わせたフランク・ストレンジス博士らに一〇ドル紙幣を差し出し、ドイツ訛《なま》りの英語で、「何か食べるものを買ってきてくれ」と頼んだ。しかし、パトカーのサイレンの音を聞くと慌てて円盤の中に逃げこんだ。円盤は回転しながら黒い煙をあげて飛び去った。
一九八九年一一月二日、トラック運転手のオレク・キルサノフは、アルハンゲリスクからモスクワに向かう途中、道の横に巨大なUFOが着陸しているのを発見し、トラックを降りた。すると目の前の空中に正方形のスクリーンが現われ、「火が欲しい」という文字が表示された。キルサノフがマッチと工業用アルコールを持ってきて、落ち葉の山に火をつけると、ジャガイモの袋のような姿の生物が現われ、マッチ箱を受け取り、去っていった。
交渉が失敗した例もある。一九五七年一一月六日、ニュージャージー州に住むジョン・トラスコが飼犬に餌をやるために外に出ると、納屋の前に卵形のUFOが浮かんでいて、傍に男がいるのを見た。そいつはカエルのような顔で、スコットランド風の帽子をかぶっており、ブロークンな英語で「自分たちは平和的な存在だ。ただ、君の犬が欲しいだけだ」と語った。トラスコが「お前なんかとっとと失せてしまえ」と怒鳴りつけると、そいつはUFOに乗って慌てて逃げていった……。
「ねえ、こんなのが『異星人』だなんて信じられる!?」私は笑いながら言った。「科学が高度に発達してるはずの知的生物が、どうして水や肥料やマッチなんか欲しがるの? 水が欲しければ川で汲めばいいんだし、火をつけたいならマッチよりましなものを持っていそうなものよ」
「でも、そうした事件のほとんどは物的証拠がないんだろ? 作り話とは考えられないか?」
「確かにね。作り話も多いと思うわ。でも、作り話だとしても、どうしてもっとリアルな話にしないの? 第二次大戦が終わって二〇年近くも経ってるのに、ナチの将校がアメリカのど真ん中に現われて、食べ物を買ってきてくれって要求するなんて……こんなアホらしい話じゃ、『信じてくれるな』って言ってるようなものよ」
「耳が痛いな。存在しないアダムスキー型UFOを見てしまった者としては」兄はそう言って苦笑した。「だから人に話すのは嫌なんだ。頭がおかしいと思われる」
「ええ、妄想とか幻覚とかも多いでしょうね。でも、この手の事件はたいてい、マスコミやUFO研究家が調べに行って、裏づけを取ってるの。確かに精神に異常の見られる人もいるけど、ほとんどの目撃者は明らかに正常なのよ。あまりにも異常な体験をしてしまって、自分でも動揺している人もいる――目撃したけど誰にも話さないという人も、かなり多いんじゃないかな」
「UFOコンタクトってのは、こんな妙な話ばっかりなのか?」
「そう、こんな話ばっかりなのよ」
私はさらにいくつかの事件を表示してみせた。
一九五四年一一月一日、イタリアのチェンニーナに住むローザ・ロッティ夫人は、花束を持って墓地に向かう途中、両端の尖《とが》った高さ二メートルほどの紡錘形の物体が垂直に着陸しているのを目撃した。その背後から現われた二人の男は、身長一メートルほどで、赤いヘルメットをかぶり、黒いマントをまとっていた。彼らはロッティ夫人が持っていたカーネーションの花束とストッキング片方を奪った。このUFOは九人が目撃しており、ロッティ夫人が小男たちといっしょにいるのを見た者もいる。
一九六六年一一月二日の早朝、ウエストヴァージニア州ミネラルウェルズに住むセールスマンのウッドロウ・デレンバーガーは、雨の中を運転中、「昔の灯油ランプの火屋《ほや》」みたいな形をした、火を吹く物体と遭遇した。中から降りてきたのは黒いオーバーを着た長髪の黒人で、テレパシーで「私の名はコールド(冷たい)だ」と名乗った。二日後、コールドは再びデレンバーガーにコンタクトしてきて、自分は「ガニメデ星雲」から来たと言った(ガニメデというのは木星の衛星の名前で、星雲ではない)。
一九七四年一〇月一〇日、山形県に住む佐藤千太郎さんは、酒田市に住む知人に夕食に招かれ、夜道を車で走っている途中、スイカほどの大きさの青白い光体に追跡された。まもなく、カーステレオのスピーカーから、陽気なラテン音楽とともに、「お前は誰だ」「何をしに行くのだ」というエコーのかかった金属的な声が流れ出した。佐藤さんが「飯を食べに行くところだ」と答えると、その声は「メシ」とは何かを知りたがった。「お前に害を与えないから、メシとは何か教えたっていいじゃないか」と。
一九八九年、オランダのアムステルダムに住む農夫ヤーン・デグロウトが夜遅く帰宅すると、温室の横に巨大なUFOが着陸していた。そしてカバーオールを着た男がデグロウトに近づいてきて、「チューリップに水をやりすぎている」と忠告した……。
このリストはいくらでも長く続けられる。不思議なことに、UFO研究家の多くは、こうした報告を異星人存在の証拠と考えたがる。しかし、もしこうした報告が事実だとしたら、結論はまったく逆だ。UFOやその乗員の行動は、どう見ても知的生物らしくない。彼らの振舞いはあまりにも愚かで、無意味で、行き当たりばったりだ。その行動パターンは、人類よりはるかに進歩した知性体というよりも、むしろイタズラ好きの子供に似ている。彼らが人類を指導できるほど頭がいいとは、とても思えない。
無論、こうしたことに気づいたのは私だけではない。たとえば、「異星人に出会った」「UFOに乗せられた」という証言を数多く分析したジェニーノ・ランドルズは、一九八四年にこんなことを書いている。
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(前略)異星人はレバーやバルブや電線や、時代遅れの図体のでかいコンピュータを使っている。彼らは、『スター・トレック』や『ドクター・フー』と同じような光線銃を使う。異星人たちは、地球の過去の技術に追いつくのがやっとのようだ。彼らはようやくレーザーやホログラムを使える段階になったようだし(我々が使えるようになるまで彼らも使っていなかった)、いま地球の腕時計や計算器に一般的に使われている液晶を、異星人はまだ持っていない。おまけに、異星人の宇宙船はしょっちゅう故障する。
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そう、UFOはあまりにも宇宙船らしくないし、それに乗っている「異星人」はあまりにも異星人らしくないのだ。そもそも、どこか別の惑星の生物が、地球での進化とまったく同じコースを歩んで進化してきた末に、人間そっくりな姿になるというのは、進化論や確率の法則を無視したナンセンスな話である。
なぜ彼らを異星人だと思うのか?――「UFOから降りてきたから」
なぜUFOが異星人の乗り物だと思うのか?――「異星人が乗っているから」
それでは循環論法というものだ!
確かにウィルコックスの事件では、UFOの乗員は「火星から来た」と言っている。しかし、彼らの言葉を信用する根拠はあるだろうか? 「火星から来た」という言葉を信じなくてはならないなら、「アイオワから来た」というウィルソンの言葉や、「ガニメデ星雲から来た」というコールドの言葉も信じなくてはなるまい。
五〇〜六〇年代に現われたUFOの乗員は、たいてい火星や金星、土星などから来たと称していた。中には「月の向こうに隠れている未知の惑星」から来たと言う者もいた。しかし、宇宙探査が進み、どうやら太陽系内に生命の存在する星は地球以外になさそうだと分かってくると、彼らは新たな天体の名前を口にするようになった。プレアデス星団、琴座のヴェガ、レチクル座のゼータ星、乙女座のウォルフ424……。
信じたい人は信じればいい。私は信じない。UFO遭遇談の数々を読めば、UFOの乗員の言動が信用できないのは歴然としている。彼らはしばしば地球規模の天変地異の発生を予言したり、近いうちに地球人の前に堂々と姿を現わすことを約束したりするが、それらの言葉が現実になったことは一度もないのだ。
有名なUFO研究家のジョン・A・キールも、UFOの実在は信じているが、その乗員が異星人だという説には懐疑的である。彼は一九七五年に発表した著書『モスマンの黙示』の中でこう書いている。
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もし一四七五年に空におかしな光が見えたとしたら、それは箒《ほうき》に乗った魔女に相違ないと誰もが分かってしまう。(中略)一九七五年の現在なら、別の惑星から来た宇宙船だと決められてしまうだろう。その結論はきちんと推論した結果出てきたものではない。何年も何年もそうなのだと宣伝され、洗脳された結果の判断なのである。(中略)空軍は空飛ぶ円盤に関する事実を故意に公表しないようにしているのだとか、本当はUFOは高度な科学技術をもった高等生物の造りだしたものだとか、空飛ぶ円盤は人類を自滅から救済するためにやって来たのだとか、無意味な御託宣を毎年毎年インタビュー番組で並べられれば信じやすくもなろうというもの。(中略)
思いこみこそが敵なのである。
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まさに同感である。「UFOは異星人の乗り物」というのは、現代の迷信、何の根拠もない思いこみにすぎない。
世界で最も有名なUFO研究家、天文学者のJ・アレン・ハイネックも同じ意見である。彼は一九七六年のインタビューで、「私はUFOが他の天体から来たナットやボルト≠ナできた宇宙船であるという考えを支持することができなくなってきている」と述べている。「人類を凌駕《りょうが》する知性体が、車を止めたり、土壌のサンプルを集めたり、人を驚かせたり、ろくでもないことをわざわざやるために、はるかな空間を旅をしてきたなんて、実に馬鹿げた推論のように思える」と。
「しかし、異星人じゃないとしたら、いったい何だ?」
「分からない」私は正直に答えた。「それこそ超自然的存在としか言いようがないわね。妖精《ようせい》や妖怪と同じものだという説を唱える人もいる。確かに異星人遭遇談って、昔の妖精遭遇談によく似てるのよ。妖精に誘拐されたとか、いたずらされたとか、妖精に親切にしたらお返しをくれたとか……ああそうだ。こんなのはどうかな」
私は一九七九年一月四日、イギリス・バーミンガム近郊のブルーストンウォークで起きた事件のデータを表示した。午前七時、ジーン・ヒングリー夫人が夫を見送ってから家に入ろうとした時、オレンジ色に輝く巨大な球体が出現、中から三人の小さな「異星人」が現われ、空中を飛んで家に入ってきたのだ。彼らは家の中を飛び回り、飾ったままだったクリスマスツリーに興味を示した。ヒングリー夫人がミンスパイを勧めると、怒ったらしく、レーザー光線のようなもので夫人を攻撃してきた。しかし、彼女がタバコに火をつけると、びっくりして裏口のドアから逃げていった。
夫人の証言を元に、UFO研究家が再現した「異星人」の想像図がある。身長二〇センチ、ほっそりした体形で、三角帽子をかぶり、背中には水玉模様の羽根がある――その姿はまさに妖精そのものだ。
「ね? この事件とか、さっきのロッティ夫人の事件とかもそうだけど、UFOさえ出てこなければ、妖精遭遇談と見なされたに違いないのよ」
「なるほど。異星人と妖精の違いは、UFOに乗ってるか乗っていないかか……」
「そういうことね」
「しかし、『異星人の正体は妖精です』と言ったところで、何も説明したことにはならないだろ? じゃあ妖精の正体は何だってことになる。説明が一歩後退しただけだ」
「そうね。他にも心理投影説ってのもあるけど……」
「心理投影説?」
「人類の集団無意識みたいなものが空に投影されて、実体化したものがUFOだっていう説。だからその時代の人間のイメージに合わせて、UFOの形が進化するってことらしいの――でも、私はうさん臭いと思うな」
「なぜ?」
「だって、どうして人間の心の中のイメージが実体化するのか、それこそ原理が説明できないじゃない? 無から何かが現われるなんて、物理法則に反してる。科学で説明できない現象を、別の説明できない言葉で置き換えてるだけだと思うの」
「いや、そんなことはないぞ」兄は考えこんだ。「どうやらつながってきた。僕の考えていた仮説にうまく当てはまりそうだ」
「仮説って?」
「UFOはこの宇宙の外から来てるんじゃないかと思う」
「外って……異次元ってこと?」
「違う。この世界のリアリティより、もう一段上のリアリティだ」
「分からないわ。そんな遠回しの言い方じゃ」
「分かりやすく言うとだな……」
兄は大きく息を吸いこみ、決定的な言葉を口にした。
「この世界は現実じゃない。とてつもなく大規模なコンピュータ・シミュレーションなんだ」
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11+神のシミュレーション
兄が最初にその可能性に思い当たったのは、二〇〇八年の暮れ、『ダーウィンズ・ガーデン2』の最終調整をしている時だった。
問題になっていたのはアーフの進化速度だった。『1』よりも撤密《ちみつ》なシミュレーションを設定したため、古いネブラの計算能力では、どうしても処理が遅くなってしまうのだ。アーフが世代を重ねるのに時間がかかるため、進化の速度も遅れる。何時間も変化が見られないので、ユーザーが退屈してしまうかもしれない。かと言って、今さらシミュレーションを簡略化するわけにもいかない。バランス調整を一からやり直さなくてはならないからだ。
発売予定日は迫っている。どうすれば基本プログラムを大幅にいじることなく進化の速度を上げられるか、兄たちのグループは様々な試行錯誤を重ねた。
立ちはだかっているのは「偽りのピーク」の問題だった。
山登りのできるロボットを想像していただきたい。このロボットには視覚はなく、手足の感触だけで周囲を認識する。そしてランダムに動き回り、斜面に遭遇したらひたすらそれを登るようにプログラムされているとする。
このロボットを山のふもとで起動させる。その山にピークがひとつしかなかったら、ロボットは斜面を登り続け、最終的にピークに到達するだろう。しかし、ピークがいくつもあったとしたら? ロボットは低い方のピークに登ってしまい、そこが最も高い地点だと信じて停止してしまう可能性が高い――すぐ横に、もっと高いピークがあるというのに。
進化シミュレーションでもこれと同じ問題が発生する。進化とは、いみじくもドーキンスが言ったように、「|盲目の時計職人《ブラインド・ウォッチメイカー》」なのだ。どこにゴールがあるかを知って、そこを目指しているわけではなく、ひたすら環境に適応するために前進するのみなのである。進化シミュレーションでは環境への適応度は点数で評価されるわけだが、ある程度高い成績を上げてしまった種は、もっと高い成績を上げられる形態が他にあるにもかかわらず、不完全な形態に安住してしまう傾向がある。これが「偽りのピーク」の問題だ。
ロボットを真のピークに登らせるためには、いったん偽りのピークから引きずり下ろしてやる必要がある。それと同じで、ある種をさらに優れた種に進化させるためには、いったん適応度の低い種に戻さなくてはならない。
厳密に言えば、種という名の盲目のロボットは、偽りのピークの上で静止しているわけではない。遺伝子の交差、それに突然変異によって、その形態は絶えず揺れ動いている。その揺れを大きくしてやれば、偽りのピークから転がり落ち、新たなピークを登りはじめるだろう。
兄たちが最初にいじったのは突然変異の発生率だった。突然変異率をゼロに設定しても、遺伝子の交差だけで進化は進むことが分かっている。しかし、アーフの形態にそれまでにない大規模な飛躍をもたらし、偽りのピークに安住するのを妨げるためには、どうしても突然変異が必要だった。かと言って、突然変異があまりたくさん起きると、環境に適応できない欠陥種ばかりが生まれ、生態系のバランスがめちゃめちゃになる。
いろいろ試しているうち、兄は突然変異の発生率を周期的に変化させることを思いついた。普段は発生率を低めに設定しておき、二五〇世代ごとに突発的に増加させるのだ。この方法はうまくいった。突然変異が増加する期間はほんの数世代なので、破壊的な混乱が起きることはない。その時期に発生した多数の突然変異(その大半は有益でも有害でもない)は、中立遺伝子として蓄えられ、将来の進化のための素材となるのだ。
だが、この方法でも、進化速度を最大二倍程度までしか上げることができなかった。偽りのピークに安住し、何万世代も形を変えず、生態系の頂点に居座り続ける頑固な種がいるのだ。そいつらを蹴落《けお》とすには、もっと別の、思いきった手段が必要だった。
兄たちは悩みぬいた末、ある決断を下した――アンフェアな手を使うしかない。
方法は簡単である。時おり環境のパラメータを激変させるのだ。ある環境によく適応している種ほど、異なる環境に対する適応度が低い。たとえば草原を駆けるのに適したキリンのような長い脚を持つアーフは、沼地では生き残れない。すなわち、環境を変化させることで、長く居座っている種だけを絶滅させることができる。その後、環境を元のパラメータに戻すと、適応度の低い種、それまで支配種に対抗できずに進化を妨げられていた種に、機会を与えられる。彼らは新たなピークを目指して前進を再開する……。
本来、こうした環境パラメータの変更は、ユーザーの選択に委ねられている。なかなか進化が進まない時、思いきって環境を変えてみると、予想もつかない変化が生じるのだ。しかし、パラメータをやたらにいじるのを嫌がるユーザーも多い。
そこで兄たちは、一五〇〇世代、実時間での約七〇分ごとに「カタストロフ」を起こすように設定した。一〇〇世代の間だけ、ランダムに環境パラメータを変動させるのだ。これによって、ある種が何万世代も「偽りのピーク」に安住することはなくなり、アーフの進化は停滞することなく、スムーズに進むようになった。それどころか、思いがけない形態の種が続出し、よりダイナミックな展開が見られるようになったのだ。
ゲームが面白いものになって、スタッフはみな喜んだ。しかし、兄は素直に喜べなかった。
「カタストロフのプログラムを組むのは簡単だった」と兄は語った。「でも、僕はその瞬間、かすかだけど、胸が痛むのを感じた。僕はアーフに何をしようとしてるんだろう?――アーフたちにとって、僕はいったい何者なんだろう?」
罪の意識――架空の生命とはいえ、生命を故意に滅ぼすことに、兄は自責の念を覚えたのだ。アーフたちの弱肉強食の争いや進化競争は、まさに自然界で起きていることの再現であり、それを見守るのは自然観察と大差ない。しかし、創造主がそれに手を出すとなると、話は違ってくる。
ほとんどの人にとって、アーフは単なるデータの集合体であり、本物の生命ではない。カタストロフによってアーフを大量に殺戮《さつりく》しても、シューティング・ゲームで敵を倒すのと同じで、誰も罪の意識など覚えない。しかし、兄は違った。彼らが環境の激変に見舞われ、苦しみもがきながら死んでゆく姿が目に浮かんだのだ。
「もちろん、そんなはずはないんだ。アーフが痛みや苦しみなんか感じるはずはない。それは彼らを創った僕がいちばんよく知っている。でも――」兄は言葉を詰まらせた。「――でも、やっぱり、浮かんでしまうんだ。彼らが土砂崩れに埋もれてる光景が……」
「……分かるような気がする」
「ショックだったよ。子供の頃のトラウマなんて、とっくに克服したと思ってたんだがな。まだうずくんだよ、胸が」
「それでどうしたの?」
「もちろんプログラムは組みこんだよ。他にどうしようがある? 『アーフがかわいそうだから、こんなことはやめよう』なんて、言い出せるわけないじゃないか!――でも、その時以来、疑問を持つようになった」
「疑問?」
「この世界はなぜ、こんなにも『ダーウィンズ・ガーデン』に似てるのかってことだ」
兄が連想したのは、地磁気の逆転と、生物の周期的大量絶滅のことだった。
地球は北極にS極、南極にN極を持つ巨大な磁石である。その磁場、いわゆる地磁気は、太陽から降り注ぐ危険な荷電粒子の進路をねじ曲げ、地球の環境を守るバリヤーの役目を果たしている。しかし、地磁気の強さは一定ではなく、過去二〇〇年間に一〇パーセントも弱まっている。この割合だと、あと二〇〇〇年もすると地磁気は消滅する。その後、今度は北極がN極、南極がS極になるのだ。古い岩石に刻まれた地磁気の痕跡《こんせき》を調べると、こうした逆転現象は過去一億六五〇〇万年の間に三〇〇回も起きていることが分かる。
地磁気が消滅している期間、荷電粒子が大気圏に降り注ぎ、大量の二次放射線(ほとんどは中性子)を発生させる。放射線は遺伝子の配列を破壊し、突然変異を誘発する。おそらく地球上の全域で、癌や突然変異の発生率が増大するだろう。期間はごく短いので、生命が絶滅するほどではないが、進化には大きな影響を与えることだろう。
地磁気が生じる原因は、高温でどろどろに融けた地球の中心核が対流運動をしており、それが渦状の電流を発生させるためだと言われている。しかし、なぜそれが頻繁に逆転するのか、モデルはいくつか提唱されているものの、正確なメカニズムはよく分かっていない。何と言っても、地球の中心を覗《のぞ》くことは誰にもできないのだから。
もうひとつ、生物の周期的大量絶滅の問題もある。六五〇〇万年前の白亜紀末に起きた恐竜の絶滅は有名だが、地球の進化史の中では、こうした事件は何度も起きている。特に規模が大きかったのは、二億五〇〇〇万年前の古生代ペルム紀末に起きた大絶滅で、この時には海洋生物の九〇パーセントが絶滅している。
一九八三年、古生物学者のデイヴィッド・M・ラウプとJ・ジョン・セプコウスキー・ジュニアは、過去二億五〇〇〇万年間に起きた大量絶滅のデータをコンピュータで分析しているうち、そこに明らかな周期性を発見した。
1 更新世中期(一三〇〇万年前)
2 始新世後期(三八〇〇万年前)
3 白亜紀末期(六五〇〇万年前)
4 白亜紀中期(九一〇〇万年前)
6 ジュラ紀末期(一億四四〇〇万年前)
8 ジュラ紀前期(一億九五〇〇万年前)
9 三畳紀末期(二億二〇〇〇万年前)
10 ペルム紀末期(二億五〇〇〇万年前)
5と7が欠けているうえ、多少の誤差はあるものの、八回の大絶滅はほぼ二六〇〇万年周期で起きていることが分かる。絶滅時期の推定には一〇〇万年以上の誤差があるため、実際には周期は二六〇〇万年きっかりである可能性もある。5と7の時期にも絶滅があったが、小規模だったために化石の痕跡からは分からないのかもしれない。
ラウプらの研究発表は多くの議論を巻き起こした。大絶滅に周期性があるとしたら、それをもたらしているものは何なのか?
一般人の多くは、白亜紀末に恐竜を滅ぼしたのは小惑星の衝突だと信じている。映画やテレビやマンガでさんざんそのように描かれてきたのだから無理もない。しかし、古生物学者の多くはそれを否定している。というのも、恐竜はいきなり滅びたのではなく、何百万年もかかってゆっくり絶滅していったことがはっきりしているからだ。六五〇〇万年前のメキシコに小惑星が落下し、地球環境に異変をもたらしたのは事実だが、それは恐竜を衰退に追いやった原因のひとつにすぎない。カタストロフは実際には一度ではなく、数百万年間に何度も起きたはずだ。
絶滅の周期性を説明するのに、いくつもの説が提唱された。特に有力なのは、彗星《すいせい》シャワー説と火山活動説だ。
彗星シャワー説というのは、二六〇〇万年ごとに地球に接近する彗星の数が増え、地球への彗星衝突の回数が増加するというものだ。太陽から四万〜五万天文単位(一天文単位は地球―太陽間の平均距離)のところには、「オールトの雲」という彗星の巣があると考えられている。一兆個以上もの彗星が、一周数千万年という長大な軌道を描いて公転し、太陽系を殻のように囲んでいるのだ。そこから何らかの理由で、二六〇〇万年ごとに大量の彗星が太陽系に向かって落下してきて、そのうちのいくつかが地球に衝突するというのである。
火山活動説というのは、地球の中心核の対流の変化によって、周期的にマントル・プリュームの活動が活発化するというものだ。大噴火が頻発、火山の噴煙が空を覆って気温の低下を惹《ひ》き起こす一方、プレートの移動速度が速くなるため、海洋底の拡大、造山運動の活発化などによって環境が変化し、多くの生物を絶滅に追いやる……というシナリオだ。
どちらかというと彗星シャワー説の方が分が悪い。なぜ彗星が二六〇〇万年ごとに「オールトの雲」から落下してくるのか、その原因が説明できないのだ。太陽の周囲を二六〇〇万年周期で回る「ネメシス」という天体の存在が提唱されたこともある。それが「オールトの雲」に突入するたびに彗星の軌道が乱され、太陽系に彗星が降り注いでくるというのだ。だが、入念な観測にもかかわらず、ネメシスはついに発見されなかった。
一方、火山活動説にも欠点はある。先にも説明したように、地球の中心核の活動がどうなっているのか、はっきりしたことは分からないのだ。それが二六〇〇万円周期で変動するという根拠は薄い。
磁場の逆転や周期的大量絶滅の原因が何であるにせよ、それは地球という天体が偶然に生まれたものではないという印象を強くする――まるで、生命の進化速度が最大になるよう、誰かが周到に計算したうえで創造したかのように。
創造の証拠は他にもある。たとえばマントル対流だ。
二酸化炭素は地球温暖化の原因であるため、悪者のような印象が強い。しかし、二酸化炭素は地球環境を保つのに必要不可欠なものなのだ。もし二酸化炭素がなくなれば、植物は光合成ができなくなるし、温室効果の減少によって地球は凍りついてしまう。
誰でも理科の時間に実験したことがあるように、二酸化炭素は水に溶けやすい。大気中に含まれる二酸化炭素は、雨に溶けて海に流れこみ、炭酸塩となって海底に沈殿する。そのままでは大気中からどんどん二酸化炭素が失われてゆくはずである。そうならないのはマントル対流のおかげだ。海底のプレートが炭酸塩を乗せたまま地球内部に引きずりこまれ、そこで高温に熟せられた炭酸塩は再び二酸化炭素に分解、火山噴火によって大気中に再放出される。その巧妙なサイクルによって、二酸化炭素の濃度は一定に保たれているのだ。
月はどうだろう? 月は地球の直径の〇・二七倍もの大きさがある。太陽系内の惑星は、水星と金星以外はすべて衛星を持っているが、たいていは惑星の直径の六パーセント以下の小さなものに過ぎない。これほど大きな衛星を持つのは地球と冥王星《めいおうせい》だけなのだ。
月の引力は地球に大きな潮の干満をもたらし、海岸線の広い範囲に干潟を出現させる。それは海中の生命が地上に進出するのに、大きな役割を果たしただろう。月がなければ、生命の進化はもっと遅かったに違いない。
光速度、プランク定数、重力定数といった物理的パラメータもそうだ。なぜ光速度が秒速三〇万キロなのか、なぜ別の数値ではないのか、物理学者は誰も説明できない。しかし、もし別の数値であったなら、化学反応も地球環境もまったく違ったものになっていて、現在のような生命は存在できなかったのは確かだ。
何もかも都合が良すぎる。この世界は何らかの知性ある存在によって創造された進化シミュレーションではないのか――兄はそう考えるようになった。
私は背筋が寒くなるのを覚えた。「フェッセンデンの宇宙」の悪夢がよみがえった。この世界はコンピュータの中にしか存在しない仮想現実であり、悪意を持った創造主が、今もモニターを眺めながら、次はどんなカタストロフを起こしてやろうかとほくそ笑んでいる……。
「でも、地球をそっくりシミュレートするなんてできるの?」
「今の技術じゃ無理だね」兄はあっさり言った。「何年か前、そんな小説を読んだことがあるよ。科学者がスーパーコンピュータの中に地球をそっくり再現するって話だ。でも、僕に言わせりゃナンセンスだな。今のコンピュータの容量じゃ、たった一人の人間さえシミュレートできない。ましてや地球全体なんて不可能だ」
兄はそう言って、顔の前のハエを追い払うかのように、さっと手を振った。
「今の動きで、空気が乱されて、小さな乱流が発生した。たったこれだけの現象をシミュレートするだけでも、前世紀末のばかでかいギガフロップス級マシンなら何分もかかったんだ。それも二次元で、分子の数をほんの何百個かに簡略化した計算でだよ! 本物の空気は三次元だし、一立方メートルの中に一〇の二三乗個ぐらいの分子が含まれている。空気の動きを厳密にシミュレートしようと思ったら、ナビエ・ストークス方程式っていう複雑な流体力学の方程式に基づいて、分子一個一個の動きを計算しなくちゃならない。今のスパコンならもっと速いが、それでも一秒間の現象をシミュレートするのに何万年かかるか見当もつかない」
「つまりシミュレートする現実の対象よりも、シミュレートするのに要する時間の方が長くなるってこと?」
「そういうことだな」
「コンピュータの性能がもっと上がっても?」
「トランジスタに頼ってるかぎりは無理だな。ムーアの法則はもう限界に達してる」
ムーアの法則というのは、インテル社の創設者の一人であるゴードン・E・ムーアが一九六五年に唱えた予言で、「半導体チップの集積度(一個のチップの上に載るトランジスタの数)は一年半ごとに二倍に向上する」というものだ。実際、それから四〇年以上、コンピュータのマイクロチップに組みこまれるトランジスタの数は、三年ごとにほぼ四倍というペースで着実に増え続けてきた。現在のマイクロチップは、ムーアの時代のそれに比べると、実に一〇億倍の素子が詰めこまれているのである。
しかし、ここ数年、その技術革新も物理的限界に直面している。素子が小さくなりすぎたため、電界効果トランジスタの要であるゲート酸化物の厚みが、今やシリコン原子五〜六個という薄さになっているのだ。ゲート酸化物はシリコン原子四個より薄くすることはできない。つまり、これ以上トランジスタを小さくすることは物理的に不可能なのだ。
「ということは、コンピュータの容量を今より上げるには、大きくするしかないわけね?」
「それでもだめだな、地球の表面で起きる現象をまるごとシミュレートしようとしたら、とてつもなくでかいコンピュータになる。プロセッサだけでも、地球そのものよりも大きくなるのは間違いない」
「そんなに!?」
「そうさ。厄介なのは、コンピュータが大きくなればなるほど計算が遅くなるってことだ。地球ぐらいの大きさのプロセッサだと、回路の端から端まで信号が達するのに何十ミリ秒もかかる。ピコ秒単位(一ピコ秒は一兆分の一秒)で動作するチップにとっては、地質学的な時間だ」
「じゃあ、四〇億年の進化の歴史をシミュレートしようとしたら……」
「四〇億年よりはるかに長い時間がかかるだろうな」
私はほっとして笑った。「それじゃ意味がないじゃない!」
「まあ待てよ。今のはあくまで従来のコンピュータを使った場合の話だ。量子コンピュータとなると、話は違ってくる」
量子コンピュータ――その話題は私も耳にしていた。原理そのものは二〇世紀から知られていたが、今世紀に入って、ドイツのマックス・プランク量子光学研究所、オーストリアのインスブルック大学実験物理学研究所、日本のNECや日立グループなどが、相次いで実用的な量子コンピュータ素子の開発に成功したと発表していた。量子コンピュータそのものの完成にはまだ時間がかかりそうだが、実用化への道が開けたのは確かだ。
一個の量子コンピュータ素子は、従来の素子よりもずつと大きく、動作も遅い。しかし、量子の重ね合わせの原理(量子力学の応用だとかで、私には難しすぎてさっぱり分からないが)を用いて、一個の回路で何万という計算が同時にできるのだ。結果的に、従来のコンピュータをはるかに上回る計算速度が実現する。スーパーコンピュータでも解読に数百年かかると言われる公開|鍵《かぎ》暗号でさえ、量子コンピュータなら数秒で解いてしまうと言われているため、ネットワークのセキュリティに新たな問題を投げかけていた。
「もし、究極のコンピュータ――極限にまで素子を集積した量子コンピュータが実現すれば、世界をシミュレートするのは不可能じゃない。サイズは地球ほど大きくはならないだろうし、シミュレーションの速度もかなり速くなる」
「どのくらいに?」
「正確に予測するのは難しいけど、少なくとも、現実の一万倍のスピードにはなるだろうな」
「ちょっと待って、一万倍ということは、四〇億年の歴史を再現するのに……四〇万年? それでもまだ長すぎるわね」
「少なくとも、だよ。もっと速くなる可能性もある。それに神の思考速度の問題もある」
「神の……思考速度?」
「そうさ」兄はにやりと笑った。「これまで誰も、その問題について考えたことがなかったみたいだな。神の思考速度がどれぐらいなのか――さっきも言ったように、コンピュータは大きくなるほど計算速度が遅くなる。脳だって同じだ」
「神にも脳があるの?」
「無いと考える方が不合理だろ? 実体のない純粋な知性なんて、僕には信じられないな。ソフトウェアがハードから独立して機能すると信じるようなもんだよ。あるいは、ドーナツなしで穴だけが存在するとか……」
「猫がいないのに、にやにや笑いだけが存在するとか?」
「そうそう。もちろん、神の脳がどんなものなのかは分からない。コンピュータみたいなものかもしれないし、何かもっと別のものかもしれない。だけど、知性が存在するなら、必ずそれを宿す媒体――脳に類するものが存在するはずだし、人間をはるかに超越した知性を持っているとしたら、脳がとてつもなく大きいとしても不思議じゃない。だとしたら……」
「……思考速度が遅い?」
「ああ。確か聖書の中に『神の国の一日は一〇〇〇年に等しい』ってフレーズがあったよな? あれは本質を突いてると思うんだ。神は僕らよりずっとゆっくり生きてるんじゃないだろうか。当然、時間の感覚も違う。仮に神の一日が一〇〇〇年だとしよう。すると神の思考速度は僕らの三六万五〇〇〇分の一ということになる。四〇万年かかるシミュレーションだって、神の感覚からすれば、ほんの一年とちょっとにすぎないわけだ。待てない時間じゃない」
「その神はどうやって誕生したの? そんなにゆっくり動いてたら、進化する暇なんてないじゃない」
「それは本質的な問題じゃないさ。神が存在するのはこの宇宙じゃないんだから。ビッグバンから何千兆年も経った古い宇宙なのかもしれない。あるいは、永遠に続く定常宇宙なのかもしれない。どんな可能性だって考えられる」
「そりゃあ、考えられることは考えられるけど」
私は苛立《いらだ》った。何年も考え抜いてきただけあって、兄の論理には隙がない。容易に論破することはできそうになかった。
「でも、そんな考えをこねくり回してどうなるの? 仮にこの世界が仮想現実だとしても、それを証明する方法がないじゃない!」
「僕も最初はそう思ったさ。証明する方法のない仮説なんて意味がないって……でも、違った」
「え?」
「証明する方法はあるんだ。この世界が現実かどうか」
「どうやって?」
「さっきから、地球をシミュレートすることばかり論じてるだろう? 地球以外の星はどうなんだ? すべてシミュレートされてるのか?」
「それは……」
「僕は違うと思う。この鍛河系だけでも四〇〇〇億もの恒星があると言われている。それをすべてシミュレートしようとしたら、太陽系全体をシミュレートするより、さらに何兆倍もの容量が必要になる。神の目的が進化シミュレーションなら、無用なものまでシミュレートして、量子コンピュータの容量を無駄遣いするはずがない」
「でも、星はげんに存在してるわよ」
「目に見えるからって存在するとはかぎらないさ。格闘ゲームやRPGをやったことあるだろう? 3Dのポリゴンで作られてるのは、手前の部分だけだ。奥の方の絵は平面で構成されてる。キャラクターが行かない部分は作る必要がないから、手を抜いてある」
「じゃあ、星空は平面だっていうの? プラネタリウムみたいに? そんなはずない! 星までの距離は測定されていて……」
「年周視差だな。そんなことは知ってるよ」
そうだった。私に天文のことを教えてくれたのは兄だった。
顔の前に指を立て、右目と左目を交互に開けてみると、指の位置が違って見える。これが視差だ。近い恒星までの距離を測定するのにも、この原理が利用されている。地球が一年かかって太陽の周囲を公転する間に、地球から見える星の位置がわずかにずれる。そのずれは星が近いほど大きく、遠いほど小さい。これが年周視差で、ずれの角度を測定することで恒星までの距離が分かるのだ。
「でも、年周視差なんて作るのは簡単だ。地球の運動に合わせて、恒星の位置をわずかにずらすだけでいいんだから」
「でも、恒星からは光だけじゃなくて、電波とかX線とか……」
「同じことだよ。近距離恒星の固有運動とか、パルサーの電波とか、連星の公転とか、ベテルギウスの変光とか、遠方のクエーサーのドップラー・シフトとかをあらかじめプログラムしておくのは、たいした手間じゃない。背景≠リアルにしたいなら、時おり新星を爆発させるぐらいの演出だって、当然、入れてあるだろう」
「じゃあ月は? 月には人間が行ったことがあるのよ?」
「そうだな。月はちゃんと作ってあるに違いない。人間が――と言うか、技術文明を持つ知的生物なら、いつか行く可能性があるからな。火星への有人飛行も夢じゃない。だから火星も作ってあるはずだ。太陽系内の惑星はすべて、原始的なロケットでも行ける可能性がある。でも、太陽系外の星は――」
兄は言葉を切り、マンションの窓の外を眺めた。すでに陽はとっぷりと暮れていたが、都会の夜空は明るく、星は見えそうになかった。
「――いちばん近い恒星でさえ、光の速度で四年以上かかる。ロケットなら何万年もかかる距離だ。どんな生物も、生きて他の恒星にはたどり着けない。だから、作る必要がない……」
「じゃあ、存在しないっていうの? プレアデスも? ヴェガも? アルタイルも?」私の声はうわずっていた。「だったら宇宙船が太陽系の外に出て行こうしたらどうなるの? 壁に突き当たって壊れちゃうの?」
「パイオニア減速問題って聞いたことあるか?」
私はその時が初耳だった。
「パイオニア一〇号と一一号、それにヴォイジャー一号と二号……太陽系の外に出た探査機は、みんな減速しはじめている。このままだと、太陽から六万天文単位のところで停止してしまう。何か現代の物理学では説明できない未知の力が働いていて、それ以上先には進めないんだ」
「……神がそう仕組んでるっていうの?」
「その可能性はある――それと、六万天文単位ってところで、何かピンとこないか?」
「さあ……」
「『オールトの雲』があるとされてるあたりなんだよ」
「あ……!」
彗星の核は汚れた雪と氷の塊である。太陽から遠く離れている時には暗く凍てついているが、接近するにつれて太陽熱を浴びて蒸発し、水と塵《ちり》を主成分とする雲を噴出する。それがあの長い尾なのだ。
楕円《だえん》軌道を描く彗星は、太陽に近づくたびに蒸発し、小さくなってゆく。周期彗星の寿命はせいぜい数万年から数十万年にすぎない。にもかかわらず、太陽系内には一七〇個もの周期彗星が存在することが確認されている。ということは、彗星は絶えずどこからか供給されているとしか考えられない。
第二次世界大戦の直後、長周期彗星の軌道を解析していたオランダの天文学者ヤン・オールトは、それらの遠日点(軌道が太陽から最も離れる点)が太陽から数千ないし数万天文単位にあることを明らかにした。短周期彗星の場合は、長周期彗星の軌道が惑星の引力で曲げられたものと考えられる。すなわち、すべての彗星は太陽系から数万天文単位のところからやって来たのだ。そこに彗星の巣があるに違いない……。
この仮説はもっともだと思われたので、多くの天文学者に即座に受け入れられた。太陽系を取り囲む彗星の巣は「オールトの雲」と呼ばれるようになった。しかし、実際に「オールトの雲」を見た者は誰もいないのだ。それはあくまで理論上の存在にすぎないのである。太陽から離れている時の彗星は、あまりにも暗すぎ、小さすぎて、どんな優秀な望遠鏡でも観測することはできないからだ。
それだけではない。「オールトの雲」の成因も分かっていない。また、それがどうして何十億年も安定して存在し続けてこられたかも分からない。恒星は宇宙の中で互いに運動している(と信じられている)ため、太陽から一光年以内に別の恒星が接近してきたことは、これまで何度もあったに違いない。そうした接近遭遇の際、なぜ「オールトの雲」は恒星の引力によってばらばらに壊れてしまわなかったのか?
「『オールトの雲』なんて存在しないんじゃないかと、僕は思う」恐ろしい言葉を、兄はさらりと口にした。「彗星は壁≠フ向こうからやって来るんだ。何も存在しない無の領域から――それが二六〇〇万年ごとに急増して、地球に彗星のシャワーを降らせるようにプログラムされている。そうやって進化を加速させてるんだ」
私は唾《つば》を飲みこんだ。「……じゃあ、地球の中心核も?」
「シミュレーションをかなり簡略化してあるだろうな。人間が掘ることができるのは、半径六四〇〇キロの地球の、表面からほんの数十キロのところまでだ。それより深いところには人間は決して行けないんだから、原子や分子まで緻密にシミュレートする必要はない。地震波の伝播《でんぱ》だけシミュレートすればいいんだ。それと地磁気」
私は現実感覚が崩壊するのを覚えた。私たちが立っているこの大地――中心までぎっしり詰まっていると信じていたこの地球は、表面だけしか存在しないというのか。薄い地殻の下には、岩石もマグマも存在せず、形のない空虚なデータがあるだけだというのか……?
「でも……証拠が少なすぎるわ!」私は何とか常識にすがりつこうとした。「地球が空っぽだとか、恒星が存在しないっていうなら、もっとたくさん証拠が必要よ!」
「証拠はいろいろあるさ」兄は冷静に言った。「僕が見たところ、神は星空を――つまり半径一光年のプラネタリウムをデザインする際に、けっこう手を抜いている。もっともらしく星や銀河や星雲をちりばめて、ドップラー・シフトだの固有運動だのをプログラムしてはいるけど、適当に作ったせいで、『アープの橋』みたいなドジもやってるんだ」
「アープの橋」――それは一九七〇年、パロマー天文台に勤務していたホールトン・アープが発見したものだ。NGC7603という銀河が、細いガス状の橋のようなもので、すぐ隣にある別の小さな銀河と結ばれているのである。これは二つの天体がせいぜい数万光年の距離しか離れていないことを示している。
これだけなら何も不思議なことではない。アープが困惑したのは、二つの銀河がまったく異なる後退速度を示していることだった。スペクトルの赤方偏移から導き出された数値を信じるなら、大きい方の銀河は秒速八七〇〇キロ、小さい方の銀河は秒速一万七〇〇〇キロで地球から遠ざかっていることになってしまうのだ。
遠方の銀河のスペクトルはどれも大きな赤方偏移を示しており、これは地球から高速で遠ざかっているために生じるドップラー効果のせいだとされている。膨張宇宙論によれば、地球からの距離に比例して後退速度も大きくなるはずである。ハッブル定数(遠方の銀河の後退速度を示す定数)を当てはめてみると、NGC7603の随伴銀河は、NGC7603より何億光年も遠くにあることになってしまう!
他にも同様に、後退速度の異なる銀河と銀河、銀河とクエーサーのカップルをいくつも発見したアープは、赤方偏移を元にした距離や後退速度の推定は間違いであると主張した。遠方の天体の赤方偏移はドップラー効果によって起きるのではなく、何かまったく別のメカニズムによるものだと――しかし、現代の膨張宇宙論を根底からひっくり返すアープの異端の説は、天文学界では受け入れられず、ついに彼は天文台を追われる羽目になった。
だが、その後も膨張宇宙論は何度も大きく揺らいでいる。一九九〇年代には、それまで一五〇億〜二〇〇億年とされてきた宇宙の年齢が、新たに計測し直されたハッブル定数により、一気に二〇億年まで下がってしまい、天文学界が混乱に陥ったことがある。一部の球状星団の年齢は一四〇〜一五〇億年と推定されているからだ。これでは球状星団は宇宙が生まれる前から存在していたことになってしまう!
その後、ハッブル定数の見直しが行なわれ、やはり宇宙は球状星団よりやや古いらしいということで落ち着いたが、球状星団の年齢もハッブル定数もまだ確定したとは言えず、観測データが増えたり理論が修正されるたびに揺れ動いており、いつまたひっくり返るか分からない。
ダークマター(暗黒物質)の問題も未解決だ。渦巻銀河の回転運動から、その質量の分布を調べてみると、重力が大きすぎ、目に見える天体の質量だけでは説明がつかない。目に見える天体の一〇倍もの質量の、目に見えない物質が宇宙に満ちていることになってしまうのだ。その正体については様々な説が唱えられているものの、どの説も一長一短があり、決め手と言えるものはない。もちろん、ダークマターの存在を確認した者はまだいない。「オールトの雲」と同じように、それは矛盾を説明するために導入された仮想上の存在にすぎないのだ。
「他にもまだあるぞ。宇宙の大域構造問題。地平線問題。平坦《へいたん》性問題。磁気モノポール問題。太陽コロナ温度の問題。ガンマ線バースト問題。特異点問題……」
兄は指を折って数え上げていった。
「分かるだろ? 現代の宇宙論はつぎはぎだらけ、矛盾だらけなんだ。それというのも、神が細部まできちんとつじつまを合わせて宇宙をデザインしなかったからさ。おかげで天文学者や物理学者が頭を悩ます羽目になってる」
「でも、そんなのは状況証拠でしょ? ダークマターだって、いずれ発見されるかもしれないんだし……」
「いや、もっと直接的な証拠がある。『ウェッブの網目』だ」
「宇宙望遠鏡に生じたトラブル?」
私はそれをニュースで見て知っていたが、たいして気に留めてはいなかった。しかし、兄からその現象の解釈を聞かされた時には、心底驚いた。
「あれはモアレだと思う」
「モアレって……あの、テレビにできる縞《しま》模様?」
細い縞模様の服を着てテレビに出演すると、服と走査線が干渉を起こし、虹《にじ》色の縞模様が生じることがある。この現象がモアレだ。
新聞や雑誌の写真をスキャナで取りこむと、画面の解像度によっては、斑点《はんてん》状のモアレが等間隔で出現することがある。というのも、印刷写真はきわめて微細なインクの点で構成されているからだ。スキャナは写真を多数の画素(ピクセル)に分割し、スキャンし、記録する。その解像度が元の写真のそれに近くなると、干渉が生じる。
仮に、一枚の印刷写真の上に一〇一万個の黒点が均等に分布していたとしよう。肉眼で見ると、この写真は一面の灰色である。スキャナがそれを一〇万個のピクセルに分割して取りこんだとしよう。するとピクセルの大半は一〇個の黒点を含むが、一〇〇個に一個の割合で、一一個の黒点を含むピクセルがあることになる。当然、後者は前者よりわずかに濃度が高くなる。実際には、ピクセルの境界線上にまたがる黒点は二つのピクセルに含まれるので、濃度は段階的に変化する。機械はそれを実際の濃度変化だと誤認する。
スキャンした画像をモニターに表示したり、印刷したりするとどうなるか。一〇〇ピクセルごとに画面の濃度が高くなる。すなわち、本来は一面の灰色のはずなのに、等間隔で暗い斑点が出現してしまう。
兄は実際に週刊誌の表紙の写真をスキャナにかけ、モニターに表示してみせた。微笑んでいるモデルの顔一面に、規則的な斑点が生じていた。それをNASAのホームページからダウンロードした本物の「ウェッブの網目」の写真と比較する。確かに両者はよく似ていた。
「ウェッブの高密度撮像装置も、原理的にはスキャナと同じだ。反射鏡が収束した光を光学素子が感知し、電気信号に変えることで、画像をピクセルに変換し、地上に送信する……」
「……つまり、星はピクセルで構成されてるってこと?」
「太陽系外の星はね。宇宙望遠鏡の解像度があまりに上がりすぎて、星のピクセルと干渉してしまったんだな」
「どうしてそんなことが断言できるの?」
「だって、他に説明できるか?」
兄は私の頑固さにあきれた様子で、モニター上のオリオン星雲をこつこつ叩《たた》いた。
「NASAやJPLの科学者がいくら考えたって、分かるはずがない。彼らは自分たちが観測してるのが本物の星雲だと信じてるんだから。まさかプラネタリウムに投影された映像だなんて思いやしないさ――いや、思ってはいても、口には出さないだろうな。精神鑑定を受けさせられるのがオチだから。
僕だって笑いものになりたくはない。だから誰にも話さなかった。そもそも僕自身、思いつきはしたものの、本気で信じちゃいなかったよ――あの晩、UFOを見るまでは」
「UFOがどう関係してくるの?」
「僕はあの映像を解析して、UFOは物理的にありえない存在だと確信した。重力に反発して宙に浮くなんてことは、科学的に不可能だ。エネルギー保存則や等価原理に矛盾する。ましてや、人の心理が空に投影されて、空飛ぶ戦車だの空飛ぶ船だのといったものを生むなんて、まったくナンセンスだ」
「ええ、その通りね」
「だが、神になら可能だ。神にとってこの世界はシミュレーションにすぎないんだから。データをちょこっと書き換えてやるだけで、水をワインに変えることもできる。何かを創造するのも消し去るのも空を飛ばすのも、自由自在だ」
「UFOは神が飛ばしてるっていうの?」
「他に誰が飛ばしてるっていうんだ? UFOが異星人の造った機械なんかじゃないってことは、さっき、お前自身が言ったじゃないか」
「それはそうだけど……」
「もちろん人間が造ったものでもない。この世界に生きている者はすべて、この世界の物理法則に従うしかないんだから。物理法則に反するものを創造することはできない。それができるのは、この世界の外にいるもの――神だけだ」
「でも――でも、それこそナンセンスよ!」私は何とか笑おうとした。「神様がなぜそんなバカげたいたずらをしなくちゃいけないの? なぜ船や円盤を空に飛ばすの? ぜんぜん意味がないじゃない!」
「いや、意味はあるさ。僕たちにコンタクトを求めてるんじゃないだろうか」
「コンタクトしたいなら、それこそメッセージを空に書けばいいじゃない。『私はここにいる』とか何とか……」
「その文字は何語で書いてあるんだ?」
私は意表を突かれ、とまどった。「え? それは日本語とか英語とか……」
「神はどこで日本語を習うんだ? 神に日本語を教える学校があると思うか?」
「でも、言葉を覚えるぐらい神様なら簡単……」
「いや、ちっとも簡単じゃないよ。前に話したコクレア・サピエンスのことを思い出してみろよ。未来から知性のあるカタツムリがやって来たとして、最初のコンタクトの際に、いったいどうやってコミュニケーションを成立させる? もちろん言葉なんか通じないんだぞ」
「身振り手振りで……ああ、そうか」
私の声は小さくなった。カタツムリに手はない。
「そう、未知の言語を解読するには、共通の基盤、ロゼッタ・ストーンが必要なんだ。でも、僕たちとカタツムリの間には、ほんのかけらすらも共通の文化的基盤なんてない。僕らがおじぎしたって、握手を求めたって、彼らにはその意味なんて分からない。人間と神との相違となると、カタツムリと人間以上だろう。となると、コンタクトの最初のとっかかりは、相手に理解できるシンボルを探すことだ」
「でも、そんな面倒な手続きが必要なの? 神様なんだから、それこそテレパシーか何かで人間の思考を読めば……」
「そう、いいところに気がついたな。神はまず間違いなく、僕らの頭の中を覗《のぞ》ける。物理的現象だろうが、思考や記憶だろうが、神にしてみればしょせんコンピュータのデータにすぎないんだから、読み取るのは簡単だ。
だが、データを入手できても、それが何を意味するのか、理解できるかどうかは別問題だ。言葉が通じなくてもテレパシーがあれば意思が通じるなんてのは、それこそ単なるSF作家の空想であって、何の根拠もない。人間とはまったく異質な知性を持った神のような存在が、人間の心を覗いたとしても、意味不明のシンボルがごちゃごちゃ交錯してるのが見えるだけだろう。人間にとっての愛だの願望だの常識だの思想だのといったものは、たぶん神にはちんぷんかんぷんのはずだ。中国語を知らない人間にとっての中国語の本みたいなもんだな」
「そうかな? 神が超越的な知性を持ってるとしたら、人間の思考なんか簡単に理解できるんじゃないの?」
「いや、神にとっても、人間の心を理解するのは難しいはずだ」
「どうして?」
「なぜなら、神には『人間であることはどういうことか』が理解できないからだ――お前は『カタツムリであることはどういうことか』が理解できるか? 『コウモリであることはどういうことか』は? 言っとくが、自分がコウモリになったところを想像してもだめだぞ。コウモリとして生まれ、コウモリの感覚で世界を生きてきたら、自分や世界についてどんなイメージを抱くかってことなんだ。どうだ、理解できるか?」
「……できない」
「そう、人間はコウモリよりはるかに高い知性を持っているのに、コウモリの心は理解できない。神も同じだ。神は人間じゃない。だからデータを見て、『この人間の頭の中にはこんなシンボルがある』ということは理解できても、それが何を意味するのかを理解するのは困難だ――そう、たとえばこういうのはどうかな」
兄は近くに放り出してあった週刊誌を取り上げ、そのグラビアページを広げてみせた。全裸の女性がこちらを見て微笑んでいる写真だ。
「人間にとって、この写真の意味は明瞭《めいりょう》だ。だが、神にとっては違う。神が人間の女の裸を見たって欲情するはずがないし、そもそも欲情することがあるかどうかも疑問だ。なぜこんな写真が雑誌に載ってるかなんて理解できないだろう」
「人間の創ったシンボルの意味を理解できないってこと?」
「そうだ。ただ、そこに何らかの傾向みたいなものは見出せるだろう。『空に存在する未知のもの』とか『この世を創造したもの』とかに関するイメージは――それを神は取り出し、空に実体化してみせてるんじゃないだろうか。『お前たちが信じているものはここにある』と」
「それだったら神のイメージそのものを投影すればいいんじゃないの?」
「神のイメージってどんなのだ?」
「ええっと……」
私は答えに窮した。キリスト教やイスラム教では偶像崇拝が禁じられているため、イエスや聖母マリアや天使の絵は描かれても、神そのものの姿が具体的に描かれることはめったにない。
「それに特定の宗教の神を出現させたら、人間たちに誤解を招きかねない。神はそれを警戒してるのかもしれない」
「でも、どうしてそんなに自信を持って言えるの? 神がコンタクトを求めてきてるって」
「それが論理的必然だからだ」
兄はきっぱりと言った。
「ただの進化シミュレーションなら、『ダーウィンズ・ガーデン』みたいなもので充分だ。ひとつの惑星をそっくり、原子や量子のレベルまで緻密にシミュレートする目的はただひとつ、知性体を生み出すためとしか考えられない。生物が知性を宿すためには、ある大きさと複雑さを有する脳が必要だからな。その脳を進化させるためには、このサイズのシミュレーションがどうしても必要なんだろう。
すべての人工知能研究者にとっての最終目標は、人間と自由に話せるAIの創造だ。たぶん神の目的も同じはずだ。ということは、人間をただ観察しているだけということはありえない。きっと話しかけてくる――いや、すでに話しかけてきてると、僕は思う」
「でもさっき、神の思考速度がすごく遅いって言ってたじゃない。神がちょっとまばたきしてる間に何年も過ぎてしまうんだとしたら、コンタクトなんて不可能だわ」
「それも問題じゃない。シミュレーションの速度には上限はあるが、遅らせる方はいくらでも遅らせられるんだから。極端な話、神がデータをセーブしてから、量子コンピュータのスイッチを切って昼飯を食べに行って、一〇〇年ぐらいして戻ってきてシミュレーションを再開したとしても、僕らはまったく断絶には気づかないだろう」
「でも、ひとつの世界をそっくり創造するなんて大げさじゃない? どうして人間だけを創造しなかったの?」
「それはかえって手間がかかるんだよ。前に説明しただろ? 遺伝的アルゴリズムはとても合理的な手段なんだ。地球の環境を設定し、生命の種をばら撒《ま》き、あとは勝手に進化するにまかせればいいんだから。それに対して、人間を一から設計して組み立てようとしたら、とてつもない労力が必要になる。ヒトゲノムだけでどれだけのデータ量だと思ってるんだ? それにゲノムだけじゃ知性は生まれない。知性の背景となる複雑な文化を持つ社会をそっくり創造しなくちゃならないんだから」
「でも、それは矛盾してるわ。UFOには人間そっくりの乗員が乗ってる。兄さんの説だと、神がUFOの乗員を創造するのは不可能ってことにならない?」
「そんなことはない。いったん人類が遺伝的アルゴリズムで誕生したら、そのゲノムのデータをコピーするだけで、いくらでも人間は創れる……」
「クローン人間?」
「と言うより、生体部品でできたアンドロイドだな。UFOの乗員の言動がデタラメで知性に欠けているのも、それで説明がつく。乗員は本物の人間とは違って、知性を持っていない。初歩的なプログラムで動いてるだけなんだ」
「『無敵くん』みたいに?」
「そう。神の力をもってしても、無から知性を創造することはできない――遺伝的アルゴリズム以外の方法ではね」
「それでこの世界を創造した……」
「ああ。たぶん神は僕たちとのコンタクトを望んでいる。ここ数年、世界中で多発してるUFO事件は、その証明だと思う。この世界が仮想現実であることを人間に教えるには、物理的に起こりえない現象を起こすのがいちばんだからね。UFOだけじゃなく、それ以外のいろいろな超常現象も、おそらく神のしわざだろう。何世紀も前からちょくちょくコンタクトを試みてきたけど、最近になって、以前より熱心にコンタクトを求めはじめたんだ」
「どうして?」
「人間がコンピュータを発明したからじゃないか? コンピュータや仮想現実なんて概念がまだなかった頃は、人間に世界の実像や神の正体を理解させることは不可能だった。でも、今なら可能だ――そう判断したのかもしれない」
「でも、コンピュータはずっと前からあるわよ、確か……」
「世界最初のコンピュータは、一九四二年にアタナソフとベリーが試作したABCマシンだけど、これは真空管を三〇〇本しか使っていない原始的な代物で、実用にはならなかった。最初の本格的なコンピュータとされているのは、ペンシルバニア大のモークリーとエッカートが作ったENIAC――一九四六年だ」
私ははっとした。「それって……」
一九四六年――その翌年、アーノルド事件が起こり、「空飛ぶ円盤」が大挙して出現するようになったのだ。
「そう」兄は神妙な顔でうなずいた。「神は人間世界の動向を監視してる。コンピュータが発明されたのと時を同じくして、UFO現象を爆発的に増加させた。人間たちに超自然的な知性の存在について気づかせるためにね。そして、コンピュータが進歩し、『ダーウィンズ・ガーデン』のような進化シミュレーションが可能になった今、人間に真実を教える時が来たと判断した……僕はそう思ってる」
兄のマンションからの帰り道、私は混乱し、上の空だった。駅では反対方向のホームに降りてしまったし、自宅近くの横断歩道では信号が青なのにぼんやりと突っ立っていた。兄の話はあまりにも途方もなく、常識を逸脱していた。それをどう受け止めていいか分からず、私の思考は麻痺《まひ》してしまっていたのだ。
兄は狂っているのだろうか?――いや、違う。その目には狂気の輝きなどまったく感じられない。だいたい、そんな気配があれば、葉月が真っ先に気づいていただろう。
では、ただ単に間違ったことを信じているだけなのか?――だが、私には兄の説の間違いをひとつも指摘できなかった。
兄の考えが正しいなら、両親の死は決して神の悪意ではない。地震、火山噴火、台風、大雨などといった災害は、この地球――生命の進化速度を最大に保つために設計されたフィールドにおいて、どうしても発生することが不可避な現象であり、人間に対する悪意から設定されたものではないのだ。
そもそも神にとって、個々の人間の生死などというものは、進化シミュレーション内で発生する膨大なランダムイベントのひとつにすぎない。特定の人間を狙って陰謀をめぐらすなどということは考えにくい。もしかしたら神の思考は人間とはあまりにも異質で、人間のような悪意を抱くことさえ不可能かもしれない。その点は確かにほっとさせられる考えではある。
しかし……。
この世界が単なるシミュレーションにすぎないという仮説は、私をたまらなく不安にさせる。私は途方もなく巨大なゲームの中の一通行人にすぎないのだろうか? 私という人間の存在はそれほどまでに無価値なのだろうか? 私が泣こうが笑おうが、上の世界から眺めている者にとって、すべては虚構にすぎないというのだろうか……?
いや違う!――私は断固としてその考えを否定した。私の喜びや苦しみはすべて本物だ。シミュレーションなどであるはずがない。
私は歩きながら考えた。何とかして兄の説をひっくり返してやりたかった。神の実在など認めたくなかったし、自分が実在しないなどということも認めたくなかった……。
考え続けたあげく、マンションの扉の鍵を開けたとたん、ひらめいた――兄の説に重大な欠陥があることに。
私は部屋に入ると、上着を脱ぐのももどかしく、すぐ兄に電話をかけた。
「ねえ、超能力はどうなるのよ?」
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12+ハイ・ストレンジネス
「超能力が実在することを証明したい!?」
私が次の本の題材を話すと、加古沢は大笑いした。
「何だよ、それ? お兄さんの説を立証したいってこと?」
「その逆。兄の説を論破したいの」
私は苦笑を続ける加古沢に、辛抱強く説明した。「人間には物理法則に反した現象を起こすことはできない」「超常現象はすべて神が起こしている」というのが兄の説の骨子である。もし超能力という現象が実在し、なおかつ物理法則に反した現象であるなら、前提は崩れ去る。人間の心が物理法則を超越できるなら、UFOの心理投影説にも信憑《しんぴょう》性が出てくる、すなわち、神の実在を仮定する根拠がなくなる……。
「しかし、どうして論破したいんだ? 君のお兄さんの説なのに。証明できればノーベル賞もんだぜ!」
「茶化さないで」
私が強くにらみつけても、加古沢はへらへら笑っていた。彼は高い知性を持っているものの、感情表現はまるで子供のようだった。遠慮とか心遣いといったものをまったく知らず、他人を不愉快にするような言動を平気でするのだ。つき合いはじめてほんの一月で、私はそれが鼻につきだしていた。
「私に話すだけならいいのよ。でも、兄はだんだん自分の説に自信を持ちはじめているように思うの。もし、世間に発表したりしたら……」
「身内がトンデモさん扱いされるのが恥ずかしい?」
「それもある――でも、もっと大きな理由は、気味が悪いってことなの」
「気味が悪い?」
「だってそうじゃない。この世界がコンピュータ・シミュレーションで、私たちが架空のキャラクターにすぎないとか、神が私たちを監視してるとか……」私は身震いした。「そんなの、生理的に受け入れられない」
「そうかな? いや、確かに君の兄さんが、シミュレートされた知性と本物の知性は見分けがつかないって力説した時には、俺も生理的な反発を覚えたけどね。でも、今聞いた話じゃ、けっこう筋が通ってるじゃないか。神の量子コンピュータか……いや、なかなか面白い。信者になってもいいな」
「信者?」
「前に言っただろ? 納得できる教義があったら信者になってもいいって。君の兄さんの説は、少なくとも俺が聞いた神に関する仮説の中では、いちばん納得できる。論理的な矛盾点もなさそうだし。発表したら大勢の信者がつくと思うがな」
「本気で言ってる?」
「ああ、本気さ。日本は世界でも珍しい無宗教国家だ。確かに仏教徒は多いけど、本気で信じてる人間はそれほど多くない。正月に初詣《はつもうで》をして、二月には豆を蒔《ま》いて、お盆には墓参りをして、クリスマスにはツリーを飾る……外国人から見れば支離滅裂な国民だろうな」
「それが?」
「日本には新しいミームが根づきやすい土壌があるってことさ。アメリカみたいに国民の大半がキリスト教徒なんて国じゃ、どんな宗教ミームも拡散するのは難しい。既存のミームの抵抗に出くわすからね。その点、日本は絶好の環境だ。神や超自然的な存在は信じるけども、特定の宗教は信じていないという人間が多い。
無論、頭の悪い連中やそそっかしい連中はいるさ。 <昂《すばる》の子ら> みたいなカルトに入信してしまう奴らだ。ろくな科学知識も歴史知識もないから、デタラメな教義にころりとひっかかる――でも、そういうカルトにひっかからない人間だって、決して神の存在を否定したいんじゃないんだ。教義がバカらしいから信じないだけさ。日本人の大半は宗教心を持ってる。それなのに、今の日本にはその受け皿がないんだ」
「日本には神道があるわよ」
「ああ、頭の固い年寄り連中は、神道を復活させようとしてるみたいだけどね。日本人の心の原点だからとか何とか……でも、日本に生まれた思想だからって、現代日本に必ずしも適してるわけじゃない。そんな単純なことがどうして理解できないのかね? げんに若い世代で神道信者なんてほとんどいないじゃないか。
イザナギやイザナミがどうこうなんて話は、二一世紀の今じゃダサすぎるんだよ。コンピュータ時代にふさわしいのは、コンピュータ時代の宗教のはずだ。古臭い聖書や仏典の焼き直しなんかじゃなく、ましてや天動説が信じられていた時代の昔話なんかでもない、現代科学の最先端の知識を取り入れた宗教――そういう宗教が生まれれば、きっと大勢の人間にアピールする。君の兄さんの説は、その条件にぴったりだ」
「誤解しないで。兄は教祖なんかになる気はないの。ただ――」
「ああ、分かってるって」加古沢はうるさそうに言った。「神が存在することを科学的に証明したい。できることなら神とコンタクトしてみたい。ただそれだけ――だろ?」
「……ええ」
「やっぱりな。彼は骨の髄まで理科系人間だ。ある現象がなぜ起きるか、その説をどう証明するかという点にしか興味がない。神とのコンタクトという概念がどれほどすごいことなのか、理解しているとは思えないな」
「かもしれない」
「その点、俺は文科系人間だ。その説が人間にとってどんな意義があるかの方に興味がある」
「どんな意義があるの?」
「まだ分からない。でも、考察してみる価値はあると思う」
「説そのものが間違っていたら、どんな考察も意味はないわ」
「そりゃそうだけどね。でも、間違いを証明するのは難しいだろう。超能力の実在を証明するったって、いったい誰に訊《たず》ねるつもりだ? 肯定派に訊ねれば『ある』って言うに決まってるし、否定派に訊ねれば『ない』って言うに決まってる」
「それぐらい分かってる」
「じゃあ、どうやって調べる?」
「心当たりがあるの」
二〇世紀アメリカのSF作家シオドア・スタージョンは、あるコンベンションの席上、歴史に残る名言を吐いた。司会者から「SFの九〇パーセントは屑《くず》ですね」と言われた彼は、すかさずこう答えたのである。「何事も九〇パーセントは屑なのさ」
この「スタージョンの法則」は、インターネットの世界では「九九パーセント」と言い換えるべきかもしれない。今や日本国内だけでも何十万もある個人サイト。その大半は、一般市民が平凡な日常をだらだら綴《つづ》っただけの日記や、単なる自己満足でしかない主張、いいかげんな情報の切り貼り、くだらないお喋《しゃべ》りなどで埋め尽くされ、覗《のぞ》くだけ時間の無駄である。
超常現象について調べようと、「UFO」や「超能力」といったキーワードで検索すると、そうした屑サイトが何千もヒットする。それらの多くは「科学的」に「真理」を解き明かすと称しているが、内容は <昂の子ら> の教義と大同小異で、科学的に間違いだらけの妄想がえんえんと書かれているだけだ。批判精神など皆無で、とっくの昔に嘘が暴かれているカルロス・カスタネダやサイババの本を信じこんでいたり、ヤラセと編集だらけのテレビのオカルト番組を本気にしたり、どう見てもただの奇術でしかないショーを「本物の超能力だ」と思いこんでいたりする。挙句の果てに、神や異星人からメッセージを受けていると信じ、自分が見た夢でさえいちいち重大な意味があると思いこんで、得意げに逐一報告する。「永久機関を発明した」と主張するもの、「ユダヤの陰謀」を警告するもの、懲りもせずに「今年の○月に世界的な大異変が起きる」などと予言するものも多く、見るだけでうんざりしてくる。
そうした中にも、ごく少数ではあるが、信頼できるサイトがある。UFO写真を分析したり、貴重な一次資料を探し出したり、ネットやマスコミに流れている偽情報を訂正したり、真の意味で科学的な検証を行なっているサイトだ。
それらのまともなサイトを、ビリーバーの屑サイトと見分ける方法は簡単である。嘘の情報はちゃんと「これは嘘」と書き、証拠の乏しい事例については断定を避け、結論を押しつけようとしないからだ。逆に言えば、「真理」や「真実」といった言葉を安直に掲げるサイトは敬遠した方がいい。
私が特に注目し、よく参考にさせてもらったのは、 <O!のフォーティアン現象データベース> というサイトだった。「フォーティアン現象」というのは、二〇世紀初頭に活躍したアメリカの有名な超常現象研究家チャールズ・ホイ・フォートにちなんだ言葉で、UFO・ポルターガイスト・未確認動物・異常降下物・オーパーツ・超能力など、科学で説明できない奇現象の総称だ。
作者は大和田省ニ――「超常現象研究家」という肩書きだが、著作は一九六〇〜七〇年代に何冊かあるだけで、どれも現在では入手困難である。テレビにもほとんど顔を出さないらしく、このサイトを見るまで、私は彼の名を一度も目にしたことがなかった。
<O!のフォーティアン現象データベース> は、古今東西の何万件という数の奇現象をタイプ別にリストアップしたもので、年月日・体験者名・地域名などのキーワードで検索できるようになっていた。写真も豊富で、容量は二〇メガバイトを超えていた。その膨大な情報量と、それをまとめるのに要したであろう労力を想像し、私はすっかり圧倒されてしまった。経歴からすると、大和田氏は七〇歳を超える高齢のはずなのだが。
大和田氏は様々な超常現象に自己流の評価を下していた。白星三個なら「まぎれもない真実」、白星二個は「かなり信用できる」、白星一個は「疑うべき根拠はない」、星なしは「証拠不足につき判断保留」、黒星一個は「やや疑わしい」、異星二個は「かなり疑わしい」、黒星三個は「まったくの嘘」だ。
大和田氏の評価はかなり厳しい。白星のついている事例は全体の数パーセントにすぎず、大半は星なしか黒星なのだ。ノストラダムスとジーン・ディクスン、ダウジング、占星術、バミューダ・トライアングル、キャトル・ミューティレーション、ミステリー・サークル、フィラデルフィア実験、ピリ・レイスの地図、ツタンカーメンの呪い、アガスティアの葉、ムー大陸、「一〇〇匹目の猿」など、オカルト雑誌の定番の話題は、いずれも黒星三個だ。
UFO関連を見てみると、ジョージ・アダムスキー、エドアルド・マイヤー、クロード・ボリコン(通称ラエル)などの有名な宗教的コンタクティは、どれも黒星三個。MJ―12文書やロズウェル事件、エリア51など、よく映画やドラマの題材になる話題も、やはり黒星三個。マンテル大尉事件、ヒル夫妻事件、マクミンヴィル事件、ウンモ星人事件、トラビス・ウォルトン事件、トランス・アン・プロヴァンス事件、セルジー・ボントワズ事件、ガルフブリーズ事件、リンダ・ナポリターノ事件など、UFO関係の本で必ず言及される有名な事件も、たいてい一個から三個の黒星がついていた。
エイリアン・アブダクション――異星人に誘拐されて生体実験をされたという話についても、大和田氏はほとんど黒星をつけている。なぜなら、アブダクション体験者はほとんどすべて、誘拐された体験を以前はまったく覚えていなかったのに、何か月、あるいは何年も後になって、セラピストにかかったり、UFOやアブダクションについての本を読んだりしているうちに、「思い出した」と主張しているからだ。彼らの証言には、物的証拠はもちろん、誘拐された現場を見たという第三者の証言もなく、信用する根拠はどこにもない。
こうした現象は心理学で言うところのFMS(偽記憶症候群)で無理なく説明できる。人間はちょっとしたきっかけで、実際には体験しなかったことを「あった」と思いこむことがあるのだ。心理学者の実験によれば、「あなたは子供の頃にパーティでパンチボウルをひっくり返したことがある」などと、架空の出来事を話して聞かせると、被験者の何割かは実際にその体験を「思い出して」しまうという。ひとたび構成された偽記憶は、当人にとってはきわめてリアルで、本物の記憶と区別がつかない。だから半可通のセラピストが「この患者には抑圧された記憶がある」と信じこみ、暗示を与えたり催眠術にかけたりして、存在しない記憶を無理に思い出させようと誘導すると、「幼い頃に親から性的虐待を受けた」「異星人に誘拐された」といった記憶が簡単に形成されてしまう。九〇年代後半になると、セラピストの不用意な誘導によって偽りの記憶を植えつけられたと気づいた人々が、セラピストを訴えるという例が急増した。二一世紀の現在では「抑圧された記憶」という概念そのものが疑問視されている。
そんなわけだから、一九八〇年代にアメリカで話題になり、多くのB級SF映画の題材になったエイリアン・アブダクション騒ぎも、二一世紀に入るとすっかり下火になってしまった。今やまともなUFO研究家で本気にしている者は誰もいない――今でも信じているのは、まともでないUFO研究家だけだ。
大和田氏が信憑性の基準としているのは、複数の目撃者の証言、目撃の状況、物的証拠である。先に挙げたキャッシュ&ランドラム事件には、白星が二個ついている。三人の目撃者がいるうえ、皮膚に生じた火ぶくれなど、明白な証拠があるからだ。
一九五九年六月二六日に起きたジル神父事件(別名パプアニューギニア事件)も白星二個だ。当時、パプアニューギニアのボアイナイで教区長を務めていたウィリアム・ブリュース・ジル神父が報告したもので、神父によれば、スポットライトを点けた大きな円盤が、西の空に午後六時から四時間にわたって滞空し続け、その甲板上には人影らしきものが動いているのも見えたという。円盤は翌二七日にも飛来し、神父が手を振ると、人影は手を振り返してきた。写真のような物的証拠こそないものの、神父という信頼できる職業の人物による報告であること、ジル神父以外に二〇人以上の目撃者がいること、観察されていた時間が長いこと、金星などの誤認である可能性も否定されていることから、信憑性はきわめて高い。
にもかかわらず、この事件はUFO研究家にとっては悩みの種である、と大和田氏は指摘する。異星人は地球人に存在を知られたいのか知られたくないのか、どっちなのだ? 知られたいなら、さっさと国連本部の前にでも降りてきて、堂々と外交を求めればいいではないか。逆に知られたくないなら、地球人の目は徹底的に避けなくてはならない。パプアニューギニアという辺境の地とはいえ、人の住んでいる場所に降りてきて、大勢の人間に目撃され、あまつさえ手まで振り返してくるというのは、まったく理屈に合わない!
その他にも、大和田氏が白星をつけた事件には、いわゆるハイ・ストレンジネス(奇妙度の高い)事例が多く含まれる。UFOを単純に異星人の乗り物とする従来の説では矛盾が生じたり、どうにも理屈に合わない現象を伴う事例だ。
UFO史上、特に有名なハイ・ストレンジネス事例は、フランス南部に住むドクターX(匿名)という医師の体験である。一九六八年一一月三日の午前三時頃、一歳二か月の息子の声に起こされ、テラスの窓から外を見たX氏は、二機の発光する物体が浮遊しているのを目撃した物体はそれぞれ二本のアンテナがあり、サーチライトのような光線を地上に向けて放射していた。信じられないことに、二機の物体は合体して一機になり、強烈なビームをX氏に浴びせかけたかと思うと、爆発音とともに消滅した。後には白い糸のようなものが漂っていたが、それもすぐ消えてしまった。
事件はそれで終わりではなかった。X氏は四日前に斧《おの》で脚を負傷し、その夜も痛む脚を引きずって歩いていたのだが、光線を浴びたとたん自由に歩けるようになったのだ! また、一〇年前にアルジェリアで地雷を踏んだ際の傷も治りはじめた。さらには、へその周囲に原因不明の三角形の湿疹《しっしん》ができた。同様の湿疹は息子の腹にも生じた。
UFO研究家たちは、最初はこの事件に関心を抱き、熱心に調査していた。この医師の人柄は充分に信頼できると思われたからだ。しかし、X氏が「UFOと遭遇してから予知能力やテレパシーが身についた」とか「家の中でしばしばポルターガイスト現象が起こるようになり、体が空中に浮き上がったこともあった」などと主張しはじめると、さすがにあきれて興味をなくしてしまった。異星人の怪光線なら、まだどうにか信じられる。しかし、ポルターガイストとは! そんな荒唐無稽《こうとうむけい》な話が信じられるわけがないではないか。
しかし、彼の脚の傷がなぜ急に治ったのかは、誰にも説明がつかなかった。
ドクターXの体験は決して特別なものではない。UFOと遭遇した後、傷や病気が急に治ったという例、ポルターガイストなどの奇妙な現象が起こるようになったという例は、他にいくつもあるのだ。
たとえば一九七一年一一月二日、カンザス州デルフォスにある自宅の裏で、直径三メートルほどのUFOと遭遇したロナルド・ジョンソンという一六歳の少年の例はどうだろう。この事件も当初は信憑性があると思われたが、事件からまもなく、ロナルド少年が「超能力が身についた」とか「森の中でブロンドの髪を伸ばしてボロ布をまとった狼少女≠ノ出会った」などと言いはじめたので、UFO研究家の信用をなくしてしまった。思春期の少年の妄想にすぎなかったのだろうか?――しかし、問題のUFOはロナルドの両親も目撃しており、まったくの作り話とは考えにくいのだ。
UFOの出現と同時に、妖怪《ようかい》じみたモンスターが目撃されたという例も多い。一九五二年九月一二日、ウエストヴァージニア州フラットウッズに出現した、修道僧のようなローブをまとった身長三メートルの巨人。一九五五年八月二一日、ケンタッキー州ホプキンズビルで、サットン一家を脅かした身長一メートルほどの銀色のヒューマノイド。一九六六年、ウエストバージニア州ポイント・プレザンス地区で何度も目撃されたモスマン(蛾《が》人間)。一九七三年一〇月一一日、ミシシッピ州パスカグーラで二人の造船工を誘拐した、カニのようなハサミを持つロボット。一九七五年二月二三日、山梨県甲府市のブドウ畑で二人の小学生を襲おうとした、大きな耳と長い三本の牙《きば》が生えた怪人。一九八三年七月、ミズーリ州マウント・バーノンで、着陸しているUFOの傍で目撃されたトカゲ人間。一九九六年一月二〇日、ブラジルのミナス・ジェライス州バルジーニャで消防隊員に捕獲された、頭に三つのコブを持つ怪生物……これらはいずれも複数の目撃者がおり、証言も一貫していて、妄想や作り話とは考えにくい。
しばしばUFO事件の関係者の家を訪れるという奇怪なMIB(黒服の男)も、こうした怪物たちの変種なのかもしれない。たとえば一九七六年九月二四日、メイン州の医師ハーバート・ホプキンズの家に現われた男は、黒いスーツに黒い帽子、頭髪も眉毛《まゆげ》も睦毛《まつげ》もなく、なぜか真っ赤な口紅を塗っていた。男は一枚のコインを医師の目の前で消して見せ、「この次元にいる者は誰も二度とあのコインを見ることはないだろう」と言った。そして、同じ目に遭いたくなければホプキンズが診察した二人のUFO目撃者の記録をすべて破棄しろと脅した。やがて男は話し方が遅くなってきて、「エネルギーが切れかかっている。もう行かねば。さようなら」と言って。ふらつく足取りで立ち去った。
これだけならホプキンズの白昼夢という可能性もあるだろう。しかし数日後、今度はホプキンズの息子のジョンの家に、男女二人組のMIBが訪れたのだ。彼らはジョンと彼の妻にいろいろとプライベートな質問をしたうえ、男の方が女の体を撫《な》で回しながら、「女を愛撫《あいぶ》するのはこのやり方で間違っていないか」などと訊ねた。立ち去る際、女が戸口に向かおうとすると、その進路上に男が突っ立っていた。女はなぜか一直線にしか歩くことができないらしく、「お顔い、彼をどけて。私の手では彼をどけられないの」とジョンに頼んだ。男が歩き出して戸口から出てゆくと、女もそれに続いた……。
ひとつだけ確かなのは、MIBは不気味ではあるが、まったく無害だということだ。彼らはUFO事件の関係者の家にどこからともなくやって来て、「見たことを誰にも喋るな」とか「UFOの研究をやめないと命はないぞ」などと陳腐な脅し文句を吐き、また去ってゆく。だが、彼らは同じ人間の前に二度と現われることはないしその脅迫が実行されたという例はただの一件もない。げんにホプキンズも、この体験談を公表したにもかかわらず、何の危害も加えられていないのだ。
UFO研究家の多くは、MIBを異星人のロボットだとか情報|隠蔽《いんぺい》を図るCIAの工作員だとか信じている。それにしてはMIBのやっていることはまったく無意味で、つじつまが合わない。情報隠蔽どころか、かえって注目を集めてしまっているではないか。ホプキンズと息子夫婦の体験談にしても、無能な脚本家が書いた三流SF映画の一場面のようで、とても高度な知性に操られているとは信じ難い。現実というよりは、まるで人間たちの妄想を誰かが実体化してみせたかのようだ――そう、空飛ぶ船から降りてきた水夫や、飛行船から降りてきた謎の発明家ウィルソンのように。
こうしたヴァリエーションを見ていくと、ロナルド少年が出会ったという「狼少女」も、決して特異な例とは言えなくなる。それを「突飛だ」「バカバカしい」と思ってしまうのは、「UFOに乗っているのは高度な知性をもった異星人である」という根拠のない思いこみがあるからにすぎない。
目撃された「異星人」が、いかにも異星人らしい姿をしていたなら、UFO研究家はその話を信じる。「狼少女」では信じない――だが、「異星人らしい姿」とはどんな姿なのか? 誰も本物の異星人など見たことがないのに!
「過去半世紀以上、UFO研究家は大きなあやまちを犯してきた」と大和田氏は批判する。「UFO事件を評価する際、事実ではなく、自分の信念を基準としてきた。信憑性の薄いエイリアン・アブダクションだのロズウェル事件だのを、自分の信念に合うという理由でのみ評価し、信念に合わないハイ・ストレンジネス事例は、どんなに信憑性が高くても無視してきた。これは本末転倒というものだ。まず事実の確認が重要であり、理論はその事実を元にして組み立てられるべきである。信念を事実に先行させるべきではない」
まったく同感だ、と私は思った。 <昂の子ら> の信者をはじめ、世間の大多数の人たちは、マスコミやオカルトライターが無責任に煽《あお》り立てた情報に躍らされ、信憑性の薄い仮説を信じこまされている――UFOは異星人の乗り物だ、という根拠のない迷信を。
大和田氏はUFO事件だけではなく、信憑性があるにもかかわらずこれまで無視されてきた多数のハイ・ストレンジネス事例にスポットを当てていた。
特に私が注目したのは「ファフロッキーズ」の項だった。これは「Fall from the skies(空からの落下物)」を縮めたもので、雨や雪以外の奇妙なものが降ってくる現象のことである。まさに私が体験した現象だ。それらはUFOと違って物的証拠があるうえ、たいていの場合、多くの目撃者がいるので、信憑性が高い。
特に多いのが魚介類の雨である。オーストラリアの博物学者ギルバート・ホイットリーは、『オーストラリア自然史』一九七二年三月号で、オーストラリア国内に降った魚介類の雨の例を五〇件も挙げている。一八七九年、ヴィクトリア州のクレッシー。一九一八年、ニューサウスウェールズ州のシングルトン、一九三三年、ヴィクトリア州へイフィールド……その後も、一九九四年二月二二日、ノーザン・テリトリーにある駐車場で、体長二・五〜五センチのパーチ(スズキの仲間の淡水魚)が降っている。
魚が降ったのはオーストラリアだけではない。古くは紀元二世紀に書かれたアテナエクスの『食通の饗宴《きょうえん》』の中に、ギリシアのカルソネサス地方で三日連続して魚の雨が降ったという記述がある。魚はあまりにも多く、家の扉が開かなくなるほど降り積もり、道路は寸断され、住民は長いこと悪臭に苦しめられたという。
一六六六年には、イギリスのケント州クランテッドの牧草地に、雷雨とともに大量のタラの幼魚が降った。一八一九年、サクラメントの墓地にニシンの豪雨が降った。一八四一年、イカを含む魚の雨がボストンに降った。一八六一年二月二二日、大量の魚がシンガポールに降った。一八八一年五月、イギリスのウースター市の菜園に大量のタマキビ貝が降った。一九四四年、数千尾の小型のイワシがインドとビルマの国境付近に降った。一九五五年一二月二二日、ヴァージニア州のハイウェイを走っていた車が、長さ二五センチの凍りついた魚の直撃を受けた。一九五七年、数千尾の魚がアラバマ州トーマスビルに降った。一九八一年九月二九日、イギリスのウェールズ南部のスウォンデーで、暴風雨とともにカニが降った……。
一九五四年六月一二日、英国海軍の観兵式が行なわれていたバーミンガムの公園で、突然の嵐とともに、一センチほどの小さなカエルが何百匹も空から落ちてきて、見物人の傘や肩に当たった。地面はびっしりとカエルに覆い尽くされてしまった。同様のカエルの雨の記録は、やはりローマ時代から世界各地にある。一六八六年一〇月、イギリスのノーフォーク地方。一八〇四年八月、フランスのツールズ付近。一九四四年八月、イギリスのミドランド地方。一九七三年九月二三日、南フランスのブリニョル村。一九七七年一二月、モロッコ領のサハラ砂漠。一九七九年六月二九日、ギリシアのコモティー二、一九七九年七月、ソ連領中央アジア……。
これらの事件はオカルト雑誌やタブロイド新聞に載ったインチキ記事の類ではない。事件の多くは、権威ある科学雑誌や気象学の雑誌で報告されているのだ。しかもここに挙げたのはあくまで一部のみで、実際にはこの数倍の報告があるのだ。
合理主義者はこの現象を竜巻のせいにする。竜巻が池や海の水といっしょに魚やカエルを吸い上げ、遠く離れた場所に降らせたのだと――確かに魚の雨の前後に竜巻が発生したという記録はあり、一部はそれで説明がつくだろう。しかし、竜巻説では説明できない例もある。
一九八四年五月二七日の夜、ロンドン東部のニューハム一帯にカレイとキュウリウオが降った。唯一可能な解釈は、テームズ河の魚が竜巻で巻き上げられたというものだが、その日、付近で竜巻の報告はまったくなかった。第一、淡水のテームズ河にカレイがいるのだろうか?
一九八五年四月二一日には、ミネソタ州のセント・クラウドに大量のヒトデが降った。ミネソタ州は北米大陸のど真ん中にある。どんな竜巻であれ、海から千数百キロも離れた街までヒトデを運ぶのは不可能だろう。一九八八年二月にイギリスのサイレンセスターに降ったピンク色のカエルは、アフリカのサハラ地方原産のものだった。一九三六年九月にグアム島に降った魚は、ヨーロッパ原産の淡水魚だった。
一八五九年二月九日、南ウェールズのマウンテン・アッシュでバケツ数杯分の魚が降ったが、数匹のコイ科の魚を除いては、すべてトゲウオだった。トゲウオは群れを作らないのに、どうやって竜巻はトゲウオばかりを選り分けて集められたのか? しかも目撃者の証言によれば、トゲウオは一〇分間隔で二度降ってきたが、その範囲は七三×一一メートルの狭い地域に限定されていたという。知能を持たない竜巻にしては高等な芸当ではないか。
あるいは一八三三年、インドのフッテプールの例はどうだろう。この時に降ってきた三〇〇〇尾以上の魚は、すべて日干しになっていたのだ! インドの強い日差しでも、魚を日干しにするのにはかなり時間がかかるだろう。魚はそんなに長く空を漂っていたのだろうか?
空から降るのは魚やカエルだけではない。一九七七年三月一三日、イギリスのブリストルにある自動車販売展示場の近くを通りかかった新聞記者のアルフレッド・ウィルソン・オズボーンとその妻は、晴れた空から降ってきた数百個のハシバミの実の爆撃を受けた。竜巻説はこの事件には通用しそうにない。なぜなら、ハシバミの実が生《な》るのは九月か一〇月だからだ。前年の秋にどこかのハシバミの木から巻き上げられた実が、ばらばらになりもせず、半年近くも空の上を漂っていたというのか?
一九七九年二月、イギリスのサザンプトンに住むムーディ夫妻の家の庭に、数日間にわたり、計二五回も、ゼリー状の物質にくるまれた芥子菜《からしな》の種子が大量に降った。集めてみると、その量はバケツ八杯分にも達した。隣のグール夫妻、ストックリー夫人の家にも、空豆、インゲン豆、トウモロコシなどが降った。不思議なことに、その通りに面した家で、種子の爆撃を受けたのはその三軒だけだった。誰かのいたずらだろうか? しかし、誰がどうやって、バケツ何杯もの種子を誰にも見つからずに撒《ま》くことができるというのか?
氷もよく空から落ちてくる。特に集中して起きたのは一九五〇年代で、有名な超常現象研究家フランク・エドワーズは、この時期に起きた事件を何十件もリストアップしている。
最初に注目されたのは一九四七年九月一一日、テキサス州ユージン・ティプトン農場の出来事だった。山鳩を撃っていたロバート・ボッツ博士が、空から氷の塊が落ちてきて、ほんの五メートルしか離れていない地面に激突するのを目撃したのだ。博士が狩猟仲間たちとともに調べてみると、氷は乳白色で不快な刺激性の味がした。破片を集めてみると二〇キロ以上もあった。
一九五一年一二月にはロンドンで、空から落ちてきた氷塊が家の屋根を貫くという事件が、続けて二件もあった。一九五三年七月四日、カリフォルニア州ロングビーチで、駐車していた三台の車が氷の爆撃を受け、大破した。一九五五年一月には、ロサンゼルスのアルトン・ルトヴィスコンの中庭に、大きな丸い氷塊がいくつも落下した。最も大きなものは一〇キロ以上あったという。一九五八年一月二五日、カリフォルニア州サン・ラファエルのジェイムズ・カーマインの家の屋根が、重さ一五キロもある氷塊に貫かれ、直径数十センチの穴が開いた。同年九月八日にはペンシルバニア州チェスターの倉庫、翌一九五九年四月二二日にはロサンゼルスのエラ・コールマン夫人の家の屋根も、同じ被害に遭った。
危機一髪だった例も多い。一九五五年一月、カリフォルニア州ホイッターのキャサリン・マーチン夫人の庭に幅四〇センチもある氷塊が晴れた空から落下してきて、洗濯物を干していた夫人に危うく命中するところだった。一九五九年九月一一日には、ニューヨーク州バッファローで、自転車に乗っていた九歳の少年が、空から落ちできた長さ三〇センチの氷に危うく傷つけられそうになった。同年一二月二一日、ロンドンで電車を降りようとしていたマーガレット・パターソン夫人の頭を氷がかすめた。一九六一年五月一八日、オハイオ州でドライブしていたウィリアム・ウィレイの車のフロントガラスに氷が命中、ガラスを砕き、ウィレイと彼の一二歳の息子に軽傷を負わせた……。
幸運な人間ばかりではない。一九五一年一月一〇日には、西ドイツのデュッセルドルフで、屋根の上で仕事をしていた大工が、空から降ってきた長さ一・八メートル、太さ三センチの氷柱に刺し貫かれて死んでいるのだ。
こうした氷塊落下事件は、以後も世界のあちこちで散発的に起き続けている。一九七三年四月二日午後八時、マンチェスター大学の院生だったリチャード・グリフィスが、酒屋でウイスキーを買って外に出ようとしたところ、重さ二キロはあろうかという氷塊が店の前に落下するのを目撃した。グリフィスはただちに氷塊を持ち帰って冷蔵庫で保存した。翌朝、マンチェスター科学技術研究所の実験室で結晶構造を分析してみたところ、氷は五一もの層から成るきわめて規則正しい構造で、通常の雹《ひょう》ではないということが分かった。一九七五年二月一九日には、千葉県|茂原《もばら》市郊外の水田に氷塊が落下するのを、近くで農作業をしていた横堀ウタさんが目撃している。氷は直径約一メートルもあり、落下の勢いで土に深くめりこんでいた。保健所が成分を検査したが、飛行機のトイレから漏れたものではないらしいということが分かっただけだった。
ちなみに、これまでに観測された最大の雹は、重さ七六〇グラムである。二キロを超えるような雹は、気象学の常識からはありえないのだ。
当初、こうした事件は、飛行機の翼に付着した氷が剥《は》がれ落ちたものと説明されていた。だが、多くの事件は飛行機が上空を通過していない時刻に起きているのだ。実際、大気物理学者ジェームズ・マクドナルドの研究によれば、一九五〇年代にアメリカで起きた三〇件の氷塊落下事件のうち、飛行機によるものと考えられるのはたった二件にすぎない。
そればかりか、飛行機がまだ存在しなかった時代にも氷塊の落下は起きている。カール大帝時代の神聖ローマ帝国に落下した氷塊は、四・五×一・八×三・三メートルという巨大さで、重量は二〇トンを超えていたと推測されている。一八〇二年にはハンガリーに〇・五立方メートルもある氷塊が落ちているし、同じ頃、インドのセリンガパタムに象ほどもある巨大な氷塊が降ったという記録もある。
物理学者のルイス・A・フランクは、氷塊の起源として小|彗星《すいせい》説を唱えている。太陽系内には望遠鏡でも見つけにくいような直径数メートルの氷塊が無数に飛び回っていて、それらが毎分二〇個、年間一〇〇〇万個も地球の大気圏に衝突している。その一部は大気との空力加熱でも溶けきらず、地表まで落ちてくるのだ――というのである。
一見すると科学的なように見える解釈だが、根本的な欠陥がある。そうした氷塊は、地球にぶつかるまで、何十年、あるいは何百年も太陽の周囲を回り続けていたはずだ。どうして太陽熱で蒸発してしまわなかったのか? それに直径数メートルもある氷が地球の周囲を飛び交っているなら、地上からは最大四〜六等星の明るさで見えるはずである。どうして天文学者やアマチュア天文家は誰も気づかないのか?
さらに奇妙なのは、氷がまるで人間を狙って落ちてくるように見えることだ。たいていの場合、氷は民家や自動車の屋根を直撃したり、歩行者からほんの数メートルのところに落下する。もし宇宙から氷がランダムに降ってくるなら、当然、人口密集地に落ちるのはほんの一部で、大多数は海や砂漠や山に落ちるはずだ。すなわち、目撃された件数の何万倍もの氷塊落下が起きていることになるが、そんな話が信じられるだろうか?
石が降ってくるという現象は、西洋では「リトボリ」、日本では「天狗つぶて」などと呼ばれ、やはり昔から多くの報告がある。紀元二世紀、アペニン山脈のアルバヌス山。一八二一年、イギリスのコーンウォール地方。一八八六年九月四日、サウスカロライナ州チャールストン。一九七三年一〇月二七日、ニューヨーク州スカネアットレス……。
魚や種子の場合と同様、石も狭い地域を狙って何度も降る傾向がある。一七世紀、ニューハンプシャーの地主ジョージ・ウォルトンの屋敷が、数か月にわたって石の攻撃を受けたという記録がある。文政三年(一八二〇)三月には、小石川浄水端の旗本・高坂鍋五郎の屋敷で、屋根や雨戸に石がぶつかってくるという事件が相次いだ。同じ年の八月には、ロンドンのサウスウッドフォードに住むH・ガスキンの邸宅が、何度も石の雨に見舞われた。何者かのいたずらと判断した警察が、ガスキン邸の周囲に警官を配置したが、どこから石が降ってくるのか、ついに突き止められなかった。これとそっくりな事件は、一九二二年に南アフリカのヨハネスブルグで、一九六八年に日本の宮城県迫町でも起きている(なぜかどちらも標的になったのは薬局だった)。一九八〇年代には、バーミンガムのソーントン通りにある五軒の家が、六年間にわたって石つぶてによる攻撃を受け続け、屋根や窓ガラスを損傷した。毎晩二名、延べ三五〇〇名の警官が警戒に当たったが、不審な人物を見た者は誰もいなかった。
一九六〇年七月一四日、イリノイ州マクヘンリー郡にあるチャーリー・ウィッセルのトウモロコシ畑で、重さ約一〇〇キロの岩が落ちているのが発見された。畑にめりこんでいる深さから推定して、少なくとも数十メートルの高さから落ちてきたのは明白だった。著名な天文学者ジェラルド・カイパーが調査したところ、ごく普通の白雲石であり、隕石《いんせき》ではないことが判明した。場所は道路から三〇メートル以上離れているうえ、周囲にタイヤの跡もなく、誰がこんな手のかかるいたずらをしたのか、ついに謎のままだった。
この他にも、ファフロッキーズには様々なヴァリエーションがある。一八四一年八月一七日、テネシー州のタバコ畑で、上空の赤い雲から血のように真っ赤な液体が降った。一八四九年、パリのソルボンヌで大量の建築資材が三週間続けて降り、一軒の家を破壊してしまった。一八六九年八月九日、カリフォルニア州ロスニートスの農場で数百キロに及ぶコマ切れの肉が降り、二エーカーの範囲を覆った。同様の肉の雨は、七年後の三月八日、ケンタッキー州にも降っているし、ずっと後の一九六八年八月二七日にはブラジルにも降っている。一八七七年秋、テネシー州メンフィスに体長三〇〜四五センチの小さな蛇が数千匹降った。一八八七年六月、フランスのタルブに幾何学的模様の細工が施された盤状の石が降った。不思議なことに、石は氷に包まれていたという。翌年一〇月一二日、テキサス州のポイント・イザベルで、大量の釘《くぎ》が二晩続けて降った。一九五五年、インドのビジョリで色とりどりのビーズ玉が降った。一九五七年四月、フランスのブルージュで数千枚の一〇〇〇フラン札が降ったが、落とし主は誰も名乗り出なかった。一九六二年二月二〇日から二四日にかけて、リオデジャネイロの北のミナス・ヘライスに、爆発音とともに何度も鋼鉄片が降ってきた。鉄板は大きなものでは長さ二メートルもあり、英語や数字が書かれていたが、出所は不明だった。一九六八年一二月、イギリスのケント地方ラムズゲイトでは、五〇枚近いペニー銅貨が降った。一九七一年の夏、ブラジルのジョアン・ペソアの農場に、西アフリカ特産の豆の雨が降った。一九八四年一月一日、ロサンゼルスの南西のレークウッドに住むフレッド・シモンズの家の庭に、第二次大戦中に使われていた錆《さび》だらけの九インチ砲弾が降った。一九八四年一一月八日の夜、英ランカシャー州のアクリントンで、少なくとも三〇〇個のリンゴが降った。一九九五年八月、スコットランドのクレイグロッカート・テニスクラブでは、見物人たちの頭上に大量の排泄物《はいせつぶつ》が降ってきた。二〇〇〇年六月二四日未明、大阪市北区大神橋の民家の屋根に、高さ二五センチ、重さ約一キロの観音|菩薩《ぼさつ》像が落下した……。
こうしたリストは私を困惑させると同時に、安心させてもくれる。私の身に起きたことは、珍しい現象ではあるが、神に選ばれた者だけが体験できるというわけでもないらしい。同様の体験をした人は過去に何百人もいるのだ。いや、小さなボルトだっただけましかもしれない。何キロもある氷や、排泄物でなかったことは、むしろ幸運だ。
それでもなお竜巻説にしがみつきたい人には、こんな例はどうだろう。一九二九年三月、ニュージャージーのある会計事務所に、数日間、鹿撃ち用の散弾の雨が断続的に降った――屋外ではなく、閉め切った事務所の中にだ。
これに似た例としては、一八七三年、イギリスのランカシャー州エレクトラの下宿屋で起きた事件がある。家の中に集中豪雨さながらの雨が降り、下宿人たちをびしょ濡《ぬ》れにして、家具を台無しにしたのだ。不思議なことに天井はまったく濡れておらず、水は何もない空間から降ってきたとしか思えなかった。
一九一九年九月には、ノーフォーク州スワントン・ノヴァースで起きた怪事件がイギリスの新聞を騒がせた。ヒュー・ガイ司祭の館の壁から、数日間にわたって、灯油、ガソリン、メチルアルコール、ビャクダン油などが滲《し》み出してきたのだ。最も多かったのは九月二日で、流れ出た油の総量は一日で一九リットルに達した。悪臭のために館は使いものにならなくなった。壁に穴が開けられ、天井が剥ぎ取られたが、油の出所はついに分からなかった。館に勤めていた若いメイドが逮捕されたが、彼女がどうやって監視の目を盗んで何十リットルもの油を館に持ちこめたのか、誰にも説明がつかなかった……。
オカルトの世界では、こうした現象を「騒霊放水」と呼び、ポルターガイスト現象の一種だと解釈している。だが、大和田氏はこうした分類にこだわるべきではないと主張する。家の中に散弾や水が降るのも、庭や野原に魚や石や氷が降るのも、基本的に同じ現象ではないのか。ただ、場所が屋外か屋内かの違いだけだ……。
私が大和田氏のサイトに感心したもうひとつの点は、ハイパーリンクを実にうまく使いこなしていることだった。奇現象を単純に分類し、列挙しただけではない。様々な項目が複雑にリンクし合っているのだ。各事例の末尾にある「参考項目」クリックしているうち、「UFO」の項目を読んでいたはずが、いつの間にか「幽霊」の項に移っていて、驚いたことがある。
読み進むうち、私は大和田氏の大胆な意図に気づき、改めて感心した。彼はUFOや異常落下物や幽霊を別々に論じるのではなく、すべての超常現象を統合しようとしているのだ! それはページに沿って読み進むしかなかった従来の本のような媒体では困難だったことだ。ハイパーリンクというシステムによって、各項目を有機的に結びつけ、一見ばらばらだった現象を統一して論じることができるようになったのだ。
私が兄に説明した「空飛ぶ船」「空の軍隊」についてのデータも、実はこのサイトから得たものだ。大和田氏はそれらのUFO現象を、ファフロッキーズと関連づけて論じる。「空の軍隊」の戦闘が目撃された直後、血が豪雨のように降ってきたという報告が多数あるのだ。一八六八年の夏、スコットランドのクライドサイドで起きた事件では、空からボンネットや帽子、銃剣などが雨のように降ってきた後、武装した兵士たちの行進が目撃されている。
近代のUFOも様々なものを落としてゆく。たとえば一九五六年九月七日午後七時半頃、千葉県|銚子《ちようし》市上空を高速で飛行する発光物体を三〇人以上が目撃、その直後、銚子一帯に大量の金属|箔《はく》が降ってきた。それは長さ四〜五センチ、幅一ミリ、厚さ一〇ミクロンの糸状で、分光分析の結果、アルミニウムに一〇パーセントの鉛が混入していることが判明した。それに近いものと言えば、軍用機が使用するレーダー電波妨害用のチャフだろうが、米軍が日本の上空でチャフの散布実験をしていたというのは考えにくいことである。
大和田氏はまた、UFO現象を空に特有のものとは考えない。地上でも同じ現象が起きているが、UFOは空に現われるものという固定観念があったため、これまで別々の現象とみなされてきたにすぎない、というのである。
たとえば存在しない軍隊が地上を行進しているのを目撃された例がよくある。特に多いのはイギリスで、一七世紀以来、数十件の目撃例があるのだ。たとえば一七四四年六月二三日には、カンバーランド湖水地帯のスーターフェル山で、その地域にいるはずのない大勢の兵士が山を登ってゆくのが、二六人もの人間に目撃されている。一九五六年一一月には、スコットランド沖のスカイ島で、キルトを着た数十人のスコットランド高地兵が夜中に山中を行進してゆくのを、二人のハイカーが二晩続けて目撃している。日本では、代々木のNHK放送センター前にある二・二六事件の慰霊碑の近くで、深夜に行進する兵士が何度も目撃されている。
中でも特に信憑性が高いのは、一六四二年、清教徒革命の最中のイギリスで起きた現象である。この年の一〇月二三日、国王の甥《おい》のルパート公率いる国王派と、エセックス伯ロバート・デペロー率いる議会派が、ウォリックシャーのエッジヒルで衝突し、二〇〇〇人もの兵士が死んだ。それから一か月後、同じ場所で戦闘がそっくり再現されているのを、大勢の羊飼いが目撃したのだ。彼らは轟音《ごうおん》を立てて駆け抜ける騎兵隊を目にしただけではなく、馬のいななき、負傷者の悲鳴、太鼓の音をも耳にした。さらにその一か月後のクリスマス・イヴの日にも、同じことが繰り返された。
国王チャールズ一世はこのニュースに興味を持ち、信頼できる六人の将校をエッジヒルに調査に向かわせた。帰還した彼らは、すべて事実であったことを国王に報告した。彼らは羊飼いたちの証言を記録しただけでなく、自分たちの目で二度も幻の戦闘を目撃したのである。
彼らが見たものは戦死者の幽霊だったのだろうか? どうもそうではないようだ。というのも、戦いを繰り広げていた幻の兵士たちの中には、指揮を執るルパート公の姿も確認されたからである――ルパート公は当時まだ生きていたというのに!
「ここからほんの少し想像を飛躍させてみよう」と大和田氏は促す。「将校たちが目撃した幻のルパート公が、ルパート公の霊ではなかったことは確かである。幻は対象の人物の生死とは無関係に生じるようだ。こうした現象が実際に起こり得るものだとしたら、いわゆる幽霊というものが、どうして死者の霊だと言えるのだろうか? それは単に、『幽霊』という名前で呼ばれているから、そういうものだと誰もが思っているだけなのではないか?」
そう、確かに「幽霊」と呼ばれるものは昔から数多く目撃されている。しかし、その多くは、どこの誰とも分からない男や女であり、過去に死んだ人物の容姿と一致することが確認された例はごく一部にすぎない。たとえ故人の顔と幽霊の顔がそっくりだったからといって、それが故人の霊だという証拠にはならない。その理屈では、将校たちが目撃したルパート公も、ルパート公の霊だったことになってしまう。
いわゆる「幽霊」が死者の霊であるという証拠はない、と大和田氏は断言する。信憑性のある目撃談の中で、幽霊が故人しか知り得ないような情報を語ったという例がないからだ。たいていの幽霊は無言だし、口を開いたとしても、断片的で謎めいたことしか言わない。ましてや許もが知りたがる死後の世界について幽霊が具体的に語ってくれたという例は、全世界にただのひとつもないのだ。
「幽霊の存在が、霊魂の不滅の証明だと思うのは、間違っている」
大和田氏はそう断言する。どう見ても幽霊には知性がない。彼らの多くは、目撃されたルパート公のように、生前の行為を機械的に繰り返しているように見える。ホワイトハウスを歩き回るリンカーンの霊。毎晩、峠の急カーブを走り続ける、事故死したライダーの霊。家に帰るためにタクシーを呼び止める娘の霊。病院の廊下を徘徊《はいかい》する患者の霊。大阪千日デパートの火災現場の跡で、電話ボックスで電話をかけている女性の霊。二・二六事件の慰霊碑の近くを行進する兵士の霊……。
そう、魂というものがもしあるなら、幽霊には明らかにそれが欠けている。彼らは「幽霊は存在するはずだ」という人間の信念に合わせて出現するだけで、実際は知性を持たないロボットにすぎず、単純なプログラムに従って不自然な行動を繰り返しているだけなのだ――UFOから降りてきた「異星人」や、MIBのように。
大和田氏はその証拠として、イギリスのオカルト研究家フランク・スミスが行なった実験を挙げる。一九七〇年、スミスは自分の編集していた『人間、神話、魔術』という雑誌に、ロンドンのラトクリフ埠頭《ふとう》に出没する司祭の幽霊についての記事を載せた。実際にはその埠頭で幽霊を見たという話はなく、死んだ司祭もいなかった。すべてスミスの創作だったのだ。人がどれほど単純に騙《だま》されるかを実験しようとしたのだ。
実験はスミスの予想以上の成功を収めた。八冊の単行本が、スミスの雑誌から引用した「ラトクリフ埠頭の司祭の幽霊」の話を実話として掲載した。三年後にスミスが真実を告白した頃には、多くの人がその話を事実と信じこんでいた。それどころか、実際にラトクリフ埠頭で司祭の幽霊を見たと証言する者が、大勢現われたのだ!
大和田氏自身も同様の体験をしている。彼はかつて新潟にある廃屋を調査したことがある。そこは三〇年前まで精神病院で、恐ろしい惨殺事件があった場所だと噂されていた。そして、廃屋で幽霊を見たという人が何人もいた。しかし、実際にはそこはごく普通の別荘で、精神病院などではなく、惨殺事件が起きたという記録もなかったのだ。
大和田氏はこうも論じる。幽霊を出現させるのは、死者の意志ではなく生者の意志である。誰も人が死んでいない場所でも、多くの人が「ここに幽霊が出る」と信じれば幽霊は出現する。もし生者の意志とは無関係に、死者のうち一定の比率が幽霊として出現するなら、大量の死者が出た惨劇のあった場所にはその規模に比例した数の幽霊が出現するはずだが、そうなっていない。広島の爆心地やアウシュビッツのガス室跡に、何百何千人もの霊が出現したという話など、聞いたことがない。
さらに大和田氏は、普通のオカルト研究家がやるのとは反対の調査をやってみた。幽霊がどのような地点に出現しないかを調べたのだ。たとえば一九二三年の関東大震災の直後、「朝鮮人が井戸に毒を入れて回っている」というデマが流れて、数千人の朝鮮人が惨殺されたことがある。大和田氏はそれらの虐殺現場を調べて回り、どこにも朝鮮人の霊が出現したという噂がないことを確認した。
「なぜ二・二六事件の兵士の霊や、極東軍事裁判のA級戦犯の霊は出現するのに、惨殺された朝鮮人の霊は出現しないのか。理由は述べるまでもなく明らかだろう」
大和田氏の文章には静かな怒りがこめられていた。
「幽霊が出現するには、悲劇が欠かせない。大多数の日本人にとって、朝鮮人がいくら殺されようが、それは悲劇ではないのである」
膨大な量のデータをすべて読み終えて、私はすっかり考えこんでしまった。UFO、「空の軍隊」、ファフロッキーズ、ポルターガイスト、MIB、幽霊――一見ばらばらのように見える現象も、こうして共通点をまとめてみると、確かによく似ている。UFOと「空の軍隊」は同じものであり、「空の軍隊」は幽霊と同じものであり、幽霊はMIBと同じものなのだ。UFOはMIBと密接な関係があると同時に、しばしばファフロッキーズを伴う。ファフロッキーズはポルターガイスト現象と同じものだ。そしてもちろん、幽霊もしばしばポルターガイストを伴う……。
すべての超常現象を同じ現象の別の側面であるとする大和田氏のコンセプトは、確かに一理あるように思えた。少なくとも、複数の現象を説明するのに複数の仮説を導入するより、現象を統一した方がメカニズムを説明しやすいのは確かだ。
もっとも、大和田氏はフォーティアン現象のメカニズムについては一切論じようとしなかった。まず事実を確認するのが先であり、理論を構築するのは信頼できる材料が充分に集まってからでなくてはならない。それに自分は科学者ではないので、その任ではない――ろくな科学知識もないのに珍説を振りかざす研究者が多い中、彼の謙虚さにはますます好感が持てた。
兄の仮説に従えば、こうした現象はすべて神のしわざということになる。神は人間の言語を理解できないので、人の心の中から「超自然的なもの」というカテゴリーに属するシンボルを抽出し、意味も分からずに実体化させているのだ。人間の側からは無秩序なように見える現象だが、神にしてみれば自らの存在を誇示する行為に他ならない。
私が体験したボルトの雨も、確かにその仮説で説明がつく。私の心の奥にはずっと、Iさんから見せられた奇妙なボルトのことがこびりついていた。神はそのシンボルを取り出し、実体化してみせたのだろう。
自分の存在を私に示すために。
もっとも、別の解釈も可能だ。あのボルトは私の心が生み出したものだという考えだ。無論、私には念力などないし、ましてや無からボルトを生み出すことなどできはしない。しかし、すべての人間は潜在的に超能力を秘めているという説がある。私の感情が極度に昂《たか》ぶっていたあの瞬間、無意識のうちにそれが発動し、ボルトの雨を降らせたのかもしれない。
神が実在するのか、それとも私が超能力者なのか――どっちにしても気味の悪い結論である。しかし、結論を保留したまま宙ぶらりんの気持ちのまま生き続けるのも、同じぐらい気分が悪い。真実というものがあるなら、どうしても見極めなくてはならなかった。
困ったことに、 <O!のフォーティアン現象データベース> の「超能力」の項は、ずっと工事中だった。コメントによれば「情報量が多いため、まだどのようにまとめたらいいか考えあぐねております」とのこと。だから大和田氏が超能力についてどんな見解を持っているのか、よく分からない。
こうなったら本人に会って、直接訊ねてみるしかない。私はそう決心し、メールでインタビューを申し入れた。大和田氏は快く承諾してくれた。彼の家は埼玉県|秩父《ちちぶ》郡の山中にある小さな町にあった。こうして二〇一一年一〇月二九日、私は大和田氏と初めて顔を合わせた。
そして、あの驚くべき事件に遭遇したのだ。
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13+超心理学者の心理
その日、兄は私に同行した。ちょうど土曜日で仕事が休みだったし、私から大和田氏のことを聞いて、ぜひ自分も会って話してみたいと言い出したのだ。私としても兄の車に乗せてもらえるのは都合が良かった。大和田氏の住む町は埼玉県西部の山中にあり、鉄道は通っておらず、バスも一日に数本しか走っていなかった。車の免許を持たない者には行きづらい場所だ。
しかし、兄を連れて行くことには不安もあった。
「ねえ、約束してよ」行きの車の中で、私は兄に釘《くぎ》を刺した。「いきなり例の話は持ち出さないで。最初はじっくり相手の話を聞くのよ。私が『いい』と判断するまでは、絶対にあのことを話しちゃだめ。分かった?」
「子供扱いするなよ」ハンドルを握る兄は不機嫌そうだった。「兄貴のことが、そんなに信用できないか?」
「そうじゃなくて……大和田氏をまだ信用できないからよ。確かにホームページは立派だったし、メールの内容も普通だったけど、実物に会って話してみるまでは、どんな人か分からないもの」
「実はただのオカルトバカかもしれないから?」
「その逆の可能性もある。ものすごく真面目な人で、からかわれるのを嫌うかもしれない。いきなり『この世界、はコンピュータ・シミュレーションじゃないかと思うんです』なんて話をしたら、兄さんの方が白い目で見られるかも」
「突飛な説だってことは自覚してるさ」
「それでも他人に認めさせたいの?」
「誰かに認めさせたいんじゃない。名誉なんて二の次、三の次だ。僕はただ、自分の説が正しいかどうか確かめたいだけなんだ」
「それは前にも聞いたけど……」
私は口をつぐみ、助手席の窓から空を見上げた。その年最後の中型の台風が房総半島沖を北上している影響で、その日は朝から陰気な空模様だった。車は何分も前に秩父市を通過し、荒川の支流のひとつに沿って、山間の曲がりくねった道をだらだらと走っていた。山にはさまれた逆三角形の狭い空には、汚れた雑巾《ぞうきん》のような重量感のある雲が低く垂れこめていた。鉛色の雲は生物の内臓のようにうごめきながら、ゆっくりと南に流れている。いつ降り出してもおかしくない天気だった。
私は雨が嫌いだった。正確に言えば、雨が降り出す直前の、あの不吉で重苦しい雰囲気が嫌いだった。どうしてもあの日のことを思い出してしまうからだ。どうせ降るならさっさと降ってくれ、と思う。大気中の水分がみんな地上に落ちてしまえば、雨はそれで終わる。降りそうで降らない天気というのは、雨そのものよりも性質《たち》が悪い。
「でも、本当に確かめたいだけ?」天気のことを忘れようと、私は無理に会話をつないだ。「それ以上の欲求はないの?」
「どういうことだ?」
「黎が言ってたわ。兄さんは理科系人間で、理論を証明することにしか興味がないって。神とのコンタクトってすごい概念なのに、どんなにすごいことなのか理解してないんじゃないかって」
「そんなことはない。僕だって、この仮説の意味するところは理解してるさ。もしこの説が証明されたら、世界にどんな大きな変革が起きるかも」
「どんなことが起きるの?」
「そう――まず、戦争がなくなる」
「本当?」私には信じられなかった。「どうして?」
「宗教の違いというものが消滅するからさ。神が実在することが疑問の余地なく証明されれば、そして、それが聖書やコーランに描かれているような神ではないことが証明されれば、既成の宗教は崩壊する。全人類の抱いている神の概念が統一されるわけだから、もう宗教の違いで争うことはなくなる」
「でも、戦争は宗教だけが原因で起きるんじゃないわ」
「もちろんさ。でも、想像してみなよ。神が実在し、常に僕たちを観察していることを知ったら、人はそう簡単に悪事を働けなくなるんじゃないか?」
「私の知る限り、神は悪人を罰したりはしないけど」
「だとしてもだ、神が実在するというだけで、悪人にとっては居心地が悪いんじゃないだろうか。たいていの犯罪は、露見しないという確信があるからこそ実行される。この宇宙の創造主に常に動向を監視されているかもしれないってのに、罪を犯す度胸のある人間は少ないだろう」
「確かに犯罪は減るかもしれないわね」
「戦争だって同じさ。政治家は開戦を決断する前に、もう少し慎重になるはずだ。『ちょっと待て。神様が今、見ておられるのだぞ』……」
「そんなにうまく行くかな」
私は兄ほど純真ではなかった。何と言っても、人類はこの数千年間、ずっと戦争を続けてきたのだ。開戦を決断した指導者や殺戮《さつりく》を実行した軍人たちは、決して無神論者ではない。ほとんどの者は神が実在することを信じていたはずだ。今さら神の実在が証明されたところで、本質的な変化が起きるとは信じ難い。
「神と言葉が通じればいいんだがな。神が一言でも『戦争をやめろ』と言ってくれれば、戦争をする度胸のある奴はいなくなるさ」
「でも、コミュニケーションは難しいんでしょ?」
「うん。だけどね、僕たちが神に創造されたシミュレーションにすぎないことを証明するだけでも、かなりの効果はあるはずだ。もし神が人類は存続する価値なしと判断したら、シミュレーションを停止するか、彗星《すいせい》を落とすかもしれないんだから。うかつなことはできないさ」
「そうだといいけど……」
私には兄の欠点が見えていた。彼は善人すぎるのだ。人間の理性というものに対し、あまりにも無邪気な期待を抱いている。正しい根拠を提示さえすれば、人は正しい判断を下すと信じているのだ。私はそれほど楽観的ではない。人は明白な根拠を突きつけられても偏見や誤謬《ごびゅう》を捨て去ることがないという事実を、身に染みて味わってきたからだ。
兄は私と違って、アカデミックな世界に育ち、人間関係において大きなトラブルに出会わなかったのだろう。そのため、大切なことを学び損ねているのだ――人はどこまでも愚かになれるという事実を。
「兄さん自身はどうなの?」
「ん?」
「もし神様と話せるなら、どんなことを話してみたい?」
「そうだな……」兄はかなり長く考えてから答えた。「お前の本の中に、『ヨブ記』のことが出てきたよな」
「ええ」
「僕は大学時代に読んだ。合コンで会った女の子が宗教にハマっててね。聖書には愛と真理が書かれてるとかで無理やり勧められて」兄は恥ずかしそうに苦笑した。「僕も馬鹿正直だったんだな。勧められたんなら読まなくちゃ悪いと思って、旧約聖書を最後まで読んだよ。その後、正直に感想を言ったら、その子、怒り出しちゃってさ」
「何て言ったの?」
「『どこが愛だよ、異民族を虐殺するシーンばっかりじゃないか』って」
「それは怒るわよ」
私は笑った。だが、それは事実である。旧約聖書は結局のところ、古代へブライ人のプロパガンダ文書であり、彼らの行なった侵略や虐殺行為の数々が美化して描かれている。現代人が近代史について同じような論調で書いたら、「歴史を歪曲《わいきょく》している」「差別文書だ」と猛烈に糾弾されるに違いない。それがいっこうに問題にならないのは、やはり聖典だからだろう。政治団体や人権団体というやつは、マスコミには強いが、なぜか宗教にはひどく甘い。マスコミがちょっと偏向報道をしたり、うっかり「差別語」を使っただけで激しく抗議するのに、宗教書の中にどれほど差別的なことが書かれていても気にならないらしいのだ。
「中でも納得できないのは『ヨブ記』だった。どうしてヨブが自分のことを悔い改めなくちゃいけないのか。なぜ神が偉大な力を持った創造主であるというだけの理由で、ヨブに対して行なった仕打ちが正当化されるのか、僕にはどうしても理解できなかった」
「その子に言ったの、そのこと?」
「言ったさ。彼女は僕が神の御心を理解してないって言うんだ。心を開いて、神の言葉を真摯《しんし》に受け止めさえすれば、ヨブが悔い改めた理由が分かるはずだって――でも、僕にはそうは思えなかった」
「それで?」
「さんざん議論したけど、噛《か》み合わなくてね。結局、その子とはうざったくなって別れた。だけど――」
兄は不自然に言葉を切った。私は「だけど」の次の言葉を待った。赤信号で停車している間、彼はうつろな視線で鉛色の空を見つめていた。
車が動き出すと同時に、兄は静かに喋《しゃべ》りはじめた。
「――後になって考えた。あの子の言うことにも一面の真理があるんじゃないかって。神の行ないを不条理だと感じるのは、僕が神の心を理解できないせいじゃないか。もしヨブのように神と話すことができて、神の真意を理解できたなら、僕も悔い改められるんじゃないかって」
「悔い改める?」
「この心のもやもやがすっきりして、世界を別の視点で見ることができるじゃないか――そう思ったんだ」
私ははっとした。兄の言う「心のもやもや」を理解できるのは、私以外にいない。兄もまた苦悩していたのだ。世界はなぜこんなにも不幸や災いに満ちているのか。なぜ神は自らの創造した世界の不条理を傍観しているのか……。
「神様なんておらん」――あの事件の直後、兄は確かにそう言った。私よりも年長で、すでに神に対する強い信頼が芽生えていたのかもしれない。その信頼が裏切られた時、神を否定する言葉を思わず口に出してしまったのだろう。しかし、兄は心の底から神の存在を否定したわけではなかった。そうでなければ、今、こんな研究に没頭しているはずがない。
私の場合、「この世界は間違っている」「神はいない」という強い信念に支えられて生きてきた。しかし、兄はそこまで断言できないのだ。神に対して不信感を抱く一方、間違っているのは自分の方ではないかと疑い続けているのだ――「神様なんておらん」という言葉を取り消し、神との和解を望んでいるのだ。
「……僕は知りたいんだ」兄はつぶやいた。「なぜヨブが悔い改めたのかを」
大粒の雨がフロントガラスを打ちはじめた。
大和田氏の住む町に到着した頃には、雨は土砂降りになっていた。この分では日本のどこかでまた土砂崩れがあるかもしれない。私はいっそう嫌な気分になった。
事前にメールで送ってもらった地図で見ると、町はナメクジのような細長い形をしており、荒川の支流を示す青い線に沿って、苦しそうに身をくねらせていた。川沿いに走る県道と背後の山との間のわずかな空白に、ぎゅっと押しこめられているのだ。人口はせいぜい数百人。コンビニの代わりに駄菓子屋を兼ねたパン屋がある、時に忘れられたような寂しい町だった。
大和田氏の家は山側にあり、裏は小さな野菜畑になっていた。十数年前に小学校教師の職を退き、ここで趣味の農業を営みながら余生を過ごしているのだ。畑のすぐ向こうは深い雑木林に覆われた山の斜面で、私は子供の頃の家を思い出した。
私たちが車から降り、雨の中を走って玄関に駆けこむと、大和田氏はタオルを持ってにこやかに迎えてくれた。いかにも人の良さそうなお爺《じい》さんで、私はひと目見るなり好感を持った。農作業が健康にいいのか、もうじき八〇歳だというのに背はしゃんと伸び、動きもてきぱきしている。四角い顔に灰色の髪。老眼鏡の奥にある糸のように細い眼は、いつも笑っていた。
その日から亡くなるまでの二年三か月、私は何度も彼に会ったが、笑みを絶やしたのを目にしたのはほんの数回しかない。
私たちは客間に案内され、出されたお茶を飲んでくつろいだ。床の間まである純日本風の部屋なのに、隅にデスクがあり、パソコンが置かれているのが、やや場違いだ。
「あれですか」私の視線に気づき、大和田氏は照れ臭そうに笑った。「何年か前まで書斎に置いてたんですがね。資料が多くなりすぎて、本棚を置くスペースがなくなりましてね。結局、書斎を潰《つぶ》して新しい書庫にして、パソコンだけこっちに持ってきたんですよ」
「じゃあ、ホームページ作りはここで?」
「ええ。客間なんてもんがあっても、どうせこんな爺さんのところにお客様なんてめったに来られませんしね。限られた空間は有効活用しなきゃってわけで」
後で知ったのだが、大和田氏はすでにこの家の台所を除く六部屋のうち四部屋までを書庫にしていて、残りの二部屋で生活していたのだ。蔵書の総数は数千冊に達する。その多くが超常現象関係の資料だ。
「しかし、パソコンのおかげでずいぶん助かってるんですよ。ビデオも五〇〇本ぐらいあったんですが、若い人の手を借りて、ほとんどハードディスクに落としましたしね。巻き戻しの手間は要らないし、検索は簡単だし、スペースは節約できるしで、いいことずくめです」
「本もみんな電子化してしまえば、もっと家は広くなりますよ」
兄がいかにもコンピュータの専門家らしい発言をすると、大和田氏は笑いながら「いやあ」とかぶりを振った。
「本はねえ……スキャナで読み取るのに手間がかかるってこともありますが、やっぱり紙自体に愛着があるから捨てられませんな。eペーパーも便利ではあるけど、電子化してしまうと、情報の重さが失われる気がするんですよ」
「情報の重さ……?」
「非科学的と言われるでしょうけどね、私は本のずしっとくる重みに情報の重さを感じるんですよ。金を払って買っていることもありますがね。もちろん、重ければいい、高ければいいってもんじゃありませんよ。重くてもひどい本はいくらでもありますから。だけどね――」彼は自慢げにばんばんと太腿《ふともも》を叩《たた》いた。「この脚で本屋を回って手に入れた本、金を払った本には、やはりそれなりの価値が感じられるんです。光の速度でネットの中を飛び交う電子の情報、ただ同然で手に入る情報には、どうも重みが感じられんのです」
「それは……何となく分かります」
私はうなずいた。今も全世界を覆うネットを駆け巡っている、毎秒何億メガバイトという膨大な情報。だがその大半は、意味のないお喋り、くだらない広告、下品な画像、卑劣な誹誘《ひぼう》中傷だ。クリックするだけで手に入って、またクリックすれば簡単に消し去れる。同時に人の記憶からも消えてしまう――そこには大和田氏の言う「重み」が決定的に欠けている。
「でも、データベースを拝見させていただきましたけど、とても立派だと思いました。勉強になりましたし」
「そう言ってくださると嬉《うれ》しいですね。私も先の短い身ですし、せっかく収集した資料を死蔵するのももったいない。できるだけ多くの人に利用してもらおうと思って開設したんですがね」
「で、いくつか気になることがあったんですが……」私はメモに目を落とし、用意していた質問を読み上げた。「多くの人がUFOや心霊や超能力に興味を持ち、そういうものが実在すると信じている。オカルト研究家もそうした現象を積極的に取り上げてきた。その一方、ちゃんとした物的証拠のあるファフロッキーズは、これまでほとんど注目されなかった……これはいったいどういうことなんでしょう?」
「うんうん、それはいい質問ですね」大和田氏は細い目をさらに細め、楽しそうに何度もうなずいた。「そういうことを訊《たず》ねた人は、これまでいませんでしたよ」
「どう思われます?」
「うーん、まあ、いろいろな理由は挙げられるでしょうが……最も大きな理由は、人はみんな合理主義者だということでしょうね」
「合理主義者……ですか?」
私はとまどった。UFOや幽霊を信じることが合理的とは思えない。
「一般にはUFOや幽霊を否定することが合理的と考えられています。しかし、ビリーバーの心理は違います。彼らから見れば、UFOも幽霊も合理的な存在なんです」
「というと?」
「たとえば誰かがUFOを目撃したとしましょう。確かに変な物体が空を飛んでいたが、何かは分からない。人はその体験に驚き、合理的に解釈しようとします。『進歩した異星人が地球を訪れて偵察機を飛ばしている』という解釈が合理的なように思われるなら、人はそれを採用します。一方、否定派は『そんなのは見間違いは決まってる』と決めつけます。否定派にとっては、その解釈が合理的だからです」
元教師だけあって、大和田氏の口調はまるで生徒に対する講義のようだった。
「しかし、どちらの解釈も正しくありません。この時点で判明している事実はただひとつ、『目撃者は何か不思議な物体を見た』ということだけなのに、肯定派も否定派もそれを文字通りに受け取ろうとはしません。『不思議な物体を見た』というだけでは納得せず、乏しい証拠を元に、何とか解釈をこじつけようとするわけです」
「人は非合理なものを合理的に解釈したがる衝動がある、ということですか?」
「ええ。幽霊だって同じです。魂は死後も不滅だと信じたい人にとっては、死者の霊が現われるというのは合理的な考えです。一方、霊魂の存在を信じない人にとっては、妄想や幻覚だという解釈が合理的なんです。彼らは信念が先にあり、それに合わせて解釈を展開します。『幽霊はいるに違いない』『いや、幽霊なんているわけがない』……しかし、どちらのスタンスも間違いです。幽霊がいるかいないかは、信念ではなく証拠によって決定されなければならないはずなのに、肯定派も否定派もまともに証拠を検証しようとしない。『いる』『いない』という信念だけに基づいて論じてしまうんです。
テレビでよくやってる心霊写真の番組、あれなんかまさにそうですね。あんなのはカメラについて初歩の知識があれば、ひと目見て原因の分かるものばかりです。それなのに、ほとんどの人はろくに原因を推理しようともせず、変なものが写ったというだけで騒ぎ立てます。左右の脚が重なっている瞬間を撮影した写真を見て『脚が切れている』と騒ぐ。逆光によって生じたレンズ・ゴーストを『人魂だ』と決めつける。壁の染みを見て『地縛霊だ』と怖がる……証拠を検証しようという姿勢を最初から放棄してるんですね。
もちろん、同じことは否定派についても言えます。UFOの存在を示す有力な目撃証言があっても、彼らはそれにまともに耳を傾けようとしません。『星と星との間は光の速さでも何百年もかかるほど離れているから、宇宙人がやって来れるはずがない』『だからUFOなんかあるわけがない』という明らかに間違った主張を、大学の先生が堂々と口にされるんですからね」
「間違ってるんですか?」
「百歩譲って、宇宙人が地球に来るのは不可能だとしましょう。しかし、それによって否定されるのは、『UFOは宇宙人の乗り物である』という仮説だけです。UFO現象そのものが否定されるわけではありません」
「ああ、なるほど……」
否定派の科学者も、結局のところ、「UFOは宇宙人の乗り物である」という仮説に毒されているわけだ。
「ファフロッキーズ――異常降下物現象はどうなります?」
「さあ、それが厄介でしてね」大和田氏はなぜか嬉しそうだった。「肯定派も否定派も、この現象には手を焼いています。UFOや幽霊と違って合理的な仮説が何ひとつ立てられないんですよ。宇宙人のしわざでないのは確かです。宇宙人がなぜ魚の雨を降らせたりしますか? 竜巻説でも説明しきれない。もちろん、幽霊のしわざにすることもできない。合理的に解釈したくても、どう解釈していいか分からない――そんな時、人はどうするでしょう?」
「どうするんですか?」
「無視するんです」
「無視?」
「そう、そんな現象など存在しないふりをするんです。興味を抱かないんです。興味がなければ、それについて悩むこともないわけですから。それがファフロッキーズがめったに話題になることがない理由だと、私は思いますね」
確かに一理ある。私だって、自分が体験しなければ、空から魚や氷が降ってくる現象になど興味を抱かなかっただろう。
さらにいくつか当たり障りのない質問をしたところで私は本題を切り出した。
「長年研究されてきた大和田さんの立場として、超能力は存在すると思われますか?」
「はあ……」大和田氏はなぜか大きくため息をつき、困惑の笑みを浮かべた。「それは……とても微妙な質問ですねえ」
「微妙……ですか?」
「そう、イエスともノーとも即答しにくい――それにお答えするには、かなり長い回り道をすることになりますが、よろしいですか?」
「結構です。時間はたっぷりありますから」
「ではまず、ちょっと実験をしてみましょう」
大和田氏はポケットをごそごそと探ってタバコの箱を取り出し、一本を私に差し出した。
「よく調べてください。ごく普通のタバコですよね?」
私はそのタバコを手に取って調べたが、特に変わったところは見られなかった。
「じゃあ、よーく見ててください……」
彼はフィルターが自分の方を向くようにして、テーブルの上にタバコを置いた。右手の指を揃え、軽く包みこむような形でタバコの横に置く。タバコと手の平とは、少なくとも五センチ以上離れている
「む……!」
大和田氏は神妙な顔つきで念をこめた。
私はショックを受けた。手を触れてもいないのに、タバコが手から反発するように転がり出したのだ!
三〇センチほど転がったところで、タバコは停止した。大和田氏は今度は左手をタバコの横に置いた。また「む……!」とつぶやくと、タバコはさっきとは反対方向に転がり出した。
兄はすぐにテーブルの下を覗《のぞ》きこんだ。私も覗いてみたが、大和田氏の膝《ひざ》が見えるだけで、怪しい仕掛けは見当たらない。目を凝らしたが、タバコを引っ張っている糸のようなものも見えなかった。吸い寄せられるのではなく手に反発しているのだから、磁石のはずもない。
「静電気かな……?」兄は自信なさそうにつぶやいた。「いや、違うな。こんな湿度の高い日には静電気は起こりにくい……」
私は大和田氏の顔色をうかがった。彼はテーブルに軽く屈みこんだ姿勢で、上目遣いに謎をかけるような笑みを私に送っている。その手の間で、タバコは往復運動を続けている。ややうつむいているため、口許は見えない……。
ようやく私は気がついた。
「息ですね?」
「その通り!」
大和田氏は笑って顔を上げた。手の平を私たちに向け、トリックの解説をする。
「この手品のコツは、タバコに息を直接当てるんじゃなく、手の平に当ててバウンドさせることです。そうすると手から気≠ェ出て、タバコを押しているように見えます。実際は、気は気でも、空気≠ネんですがね。練習なんて必要ありません。誰でもできますよ」
私も試してみたが、実に簡単だということが分かった。唇はほんの一ミリほど開くだけでよく、うつむいていれば周囲の人からは開いているように見えない。唇の隙間から手の平に向かって軽く息を吹きかけると、タバコは転がる。タバコだけではなく、サインペン、空のアルミ缶、ピンポン玉など、軽くて断面の丸いものなら何でもできるという。宴会の隠し芸で使えそうだ。
「お分かりでしょうが、これは超能力の実験ではなく、人間の観察力を試す実験です。私はこれまで多くの人にやって見せましたが、あなたのようにすぐにトリックを見破った人は半数もいません。特に気とかPK(サイコキネシス)の存在を信じている人ほど成績が悪い。まあ、九割近くは騙《だま》されますね」
「そんなに!?」
「ええ。問題は超心理学者――超能力を研究している人たちの多くが、超能力の存在を信じているということです。たとえば……」
彼はパソコンを起動させ、ある映像を私たちに見せてくれた。二〇年ほど前のテレビ番組の一場面だ。有名な超能力者の宮時《みやじ》飛鳥《あすか》がPKのパフォーマンスを見せている。
宮時は短い金属棒を左手で持ち、顔の前で水平に支えていた。神妙な顔つきで棒を凝視しながら、右手の指でその上を軽く撫《な》でる。何度も撫でているうち、まっすぐだった金属棒はしだいに上に反り返ってゆく。ついには二〇度ほども曲がってしまった。
「分かりましたか?」
「いいえ」
「じゃあ、今度は五倍速で見てみましょう。早送りの方が分かりやすいですから。右手に気を取られないで、彼の左手に注目していてください」
大和田氏は同じ映像を早送りで再生した。今度は私にも見えた。
「回してますね……」
早送りしたことによって、宮時が左手の指で金属棒をゆっくり回転させていたことが分かった。つまり棒は最初から曲がっており、それをカメラから見て一直線に見えるような角度で持っていただけなのである。曲がった棒を回転させることで、超能力で棒を曲げているかのような錯覚を生じさせていたのだ。
実に単純なトリックだ。
「こんなものがテレビで堂々と放映されたんですか?」
何年もマスコミ関係の仕事をしてきて、メディアの嘘には慣れていた私にとっても、これほどあからさまな詐欺行為が茶の間に流れたとは、ちょっと信じ難いことだった。
「ええ、ゴールデンタイムの全国ネットでね」
「視聴者から抗議はなかったんですか?」
「抗議なんかしても無駄ですよ。この手の番組は他にいくらでもあります。もう亡くなりましたが、私の古い知り合いで、インチキなオカルト番組が放映されるたびにテレビ局に抗議の電話をかけていた男がおりました。しかし、まともに相手にされたことはありません。『あれはニュースではなくバラエティ番組ですから』と言われるんだそうです。どうやら、バラエティ番組と名乗ればどんな嘘をついてもいいというのが、テレビ局の方々の統一見解のようですね」
大和田氏の表情は終始にこやかだったが、口調には静かな憤りが感じられた。この人は怒るときでさえ微笑む人なんだな、と私は思った。
「まあ、テレビが嘘をつくのは当たり前ですから、そのことでとやかく言ってもしかたがありません。むしろ私が気になったのは、専門家――超心理学者やオカルト研究家の反応です。私は彼らにこの映像を見せました。いずれも宮時くんの超能力を本物だと判定した人たちです。彼らの見解を聞きたかったんです」
「どうでした?」
「驚きました。いや、あきれたというべきですかね」大和田氏はため息をついた。「彼らは少しも動じなかったんですよ」
大和田氏が驚き、あきれたのも無理はない。宮時の超能力を信じる者たちはみな、明白なトリックの証拠を突きつけられても、その信念が揺らぐことはなかったのだ。
超心理学者の源田《げんだ》畝彦《うねひこ》は、「この時はたまたまテレビ局に頼まれてトリックを実演してみせただけでしょう」とすました顔で解説した。番組中でそんな解説はまったくなかったのにだ。源田はまた「私が宮時くんの超能力を調べた時には、トリックなど絶対ありませんでした」と断言した。それは単にトリックを見逃しただけとは考えられないのかと大和田氏は指摘したが、源田は自分の観察力に絶大な自信があるらしく、頑として騙された可能性を認めなかった。
工学博士でオカルト関係の著作もある案野《あんの》証三郎《しょうざぶろう》の反応は、さらに厄介だった。彼はトリックが使われていること自体を認めようとしなかったのだ。「確かにトリックのように見えますが、これだけでトリックと判断するのは早計ですね」と。どう見たってトリック以外の何物でもないではないかと大和田氏が指摘すると、案野は大真面目にこう反論した。「あなたはご存知ないかもしれませんが、本物の超能力の中にはトリックのように見えるものもあるんです」
有名な超常現象研究家・有森《ありもり》秀雄《ひでお》の反応は、さらに驚くべきものだった。彼は昔から宮時がしばしばトリックを使うことを知っていたという。宮時がまだ中学生の頃、彼の自宅で行われた念写実験に立ち会ったのだが、その際、少年が、インスタントカメラに細工をしていたのを見破ったのだ。しかし、有森は多数の著書の中で、その事件に触れたことは一度もない。なぜそんな重要なことを世間に明らかにしないのかと問われ、有森は「だって、名誉|毀損《きそん》になりますからね」と笑って答えた。「それに宮時くんの超能力が本物なのは間違いないのだから、彼がたまにトリックを使っても、見て見ぬふりをしてあげるべきじゃないですか」と。
一部のオカルト信者の反応は、もっとひどかった。彼らは不正を追及する大和田氏の態度の方を非難したのである! 名のある超能力者を不当に貶《おとし》めるとはけしからん、というのだ。中には、この映像を大和田氏が偽造したとか、彼が超常現象の隠蔽《いんペい》を企《たくら》む世界的な陰謀に加担していると主張する者さえいたという。
私はあきれ、憤りを覚えた。「ひどい話ですね!」
「そうなんです。名誉毀損うんぬんの話だって、単なる口実ですよ。本当のところは、彼らは否定的な証拠の存在を認めたくないんです。自分が見たものさえ信じようとしないし、ましてや本に書こうとはしません。ですから、こうした否定的情報の多くは握り潰《つぶ》されてしまうわけです」
大和田氏は源田畝彦の書いた超心理学の解説書を例に挙げる。その中では、ジュール・アイゼンバッドが行なったテッド・シリアスの念写実験が肯定的に評価されている。シリアスが念じるだけで、遠く離れた場所のイメージをフィルムに焼き付けることに成功したと――源田氏の本を読んだ読者は、シリアスの能力が本物だと信じてしまうだろう。しかし、シリアスが実験の間じゅう小さな紙の筒を手に持っていることや、カメラのシャッターを切る際、その筒をなぜか必ずレンズの前にかざすという事実に、まったく触れていないのはどういうことか。源田氏なら知っていて当然のことのはずなのに。
「確かに、その情報を知っているといないとでは、印象がかなり違ってきますね」
「無論、源田さんにも言い分はあります。『超常現象が実在することは確かなのだから、否定的な情報を広めることは人々を惑わすことになる』とおっしゃる。本人は自分が卑劣な行為をしているとは思っておられない。自分は誠実な人間であり、真実を究明するために努力していると信じておられるんです。しかし、たとえ超常現象が実在するとしても、自分に都合の悪い情報を隠して、疑わしい情報を信憑《しんぴょう》性があるかのように読者に伝えてよいというのは、驚くべき理屈ですよね。少なくとも学者の態度ではありません」
「でも、よく分かりませんね」兄が口をはさんだ。「その紙筒って明らかに怪しいじゃありませんか。どうして研究者は、彼が念写しようとする寸前にそれを取り上げて、中を調べようとしなかったんです?」
「さあ、それなんです。超心理学者はシリアスの持つ紙筒のことを問題にしたがらないんです。ある時、シリアスが筒に何かを入れるのを目撃した人がいて、筒の中をあらためさせてくれと要求しました。そのとたん、居合わせた数人の研究者がいっせいに『そんなことはするな!』と怒鳴って阻止したんだそうです。その間にシリアスは仕掛けをポケットに戻してしまい、身体検査も受けませんでした。そんなわけですから、結局、謎は解けずじまいです」
「それじゃ、超心理学者がトリックに加担してるんですか!?」
「故意に加担しているわけではありませんよ。しかし、彼らは超能力者の言葉を盲信する傾向があります。超能力者の態度がどれほど怪しげでも、時にはトリックが露見しても、彼らは超能力者を擁護し続けるんです」
こんな例はいくらでもある、と大和田氏は言う。一九七〇年代のこと、超能力の存在を信じる工学博士が、マスコミで取り上げられて有名になった超能力少年のスプーン曲げを調べたことがある。その結果、いくつもの事実が明らかになった。少年が曲げられるのは安物の柔らかいスプーンだけで、強度の高い18―8ステンレスのスプーンは曲がらないこと。曲げる際には必ず観察者に背を向けなくてはならず、手許を見られていると能力を発揮できないこと。少年が超能力で切断したと主張するスプーンの断面を調べたところ、何度も繰り返し折り曲げて破断した跡があること……。
これらの証拠から導かれる結論は明白である。実際、その少年はのちに週刊誌の取材を受けた際、トリックを暴露された。にもかかわらず、その博士は日本超心理学会のシンポジウムでこう発表したのだ――「私は念力現象を決してインチキとは思っておりません……あの真剣にやっている子供が、インチキをやるわけがないと思います」
同じ頃、アメリカでは、デューク大学のエドワード・F・ケリーという研究者が批判を受けたことがある。彼が被験者にしていた超能力者が、実験の前にトランプ手品のパフォーマンスを見せていたというのだ。そんな疑わしい人物を被験者にしていいのかと糾弾されたケリーは、「問題の本質には関係ない」と突っぱねた。不正に対する予防措置は講じてあるから、と。
私は開いた口がふさがらなかった。自称超能力者が手品の名人であることが、問題の本質に関係ないとは!
「本当に不正はなかったんですか?」
「さあ、どうでしょう?」大和田氏は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべた。「不正に対する対策は万全だというのは、超心理学者がよく言うことです。しかし、それは『プロジェクト・アルファ』によって反証されています」
プロジェクト・アルファ――それは源田氏のような肯定派が決して本に書くことのない事件で、事実上、超心理学の歴史から抹消されている。というのも、超心理学者にとって最大の恥辱とも言えるエピソードだからだ。
一九七九年、マグダネル・ダグラス航空機会社の会長ジェイムズ・マグダネルが五〇万ドルの寄付をして、セントルイスのワシントン大学にマグダネル超心理研究所を設立した。その目的は超能力の存在を実証することで、マスコミを通じて広く被験者を募集した。
超能力のトリックを暴くことに執念を燃やす奇術師のジェイムズ・ランディは、マグダネル研究所に手紙を送り、インチキな超能力者が使うテクニックについて警告したうえ、自分が監視役をやってもよいと申し入れた。だが、研究所側はそれを拒否した。奇術師なんかの力を借りなくても、自分たちには本物と偽物を見分ける能力はある、と。
その一方、ランディは大胆不敵な計画を進めていた。スティーブ・ショウとマイケル・エドワーズという二人の一〇代のアマチュア奇術師を、正体を隠してマグダネル研究所に送りこみ、研究者たちの観察力を試そうと考えたのだ。彼らはこの秘密計画を「プロジェクト・アルファ」というコードネームで呼んだ。マグダネル研究所には、我こそは超能力を持つと主張する者が三〇〇人以上も集まった。その中から審査をパスして被験者に選ばれたのは、ショウとエドワーズだけだった。
それから三年間、研究者たちは二人の能力をテストするため、多くの無理難題を課した。密閉されたガラスのドームの中の風車を回してみせろ。電気のヒューズをショートさせろ。絶対細工できないように工夫されたデジタル時計を狂わせてみろ。透明な箱の中に入ったクリップをからみ合わせてみろ……。
二人は多少てこずりながらも、トリックを駆使し、それらの課題のほとんどをクリヤーした。いずれも研究者の不注意につけこんだものだった。ドームの中の風車は、ドームと底板の間にこっそり丸めた銀紙を押しこんで隙間を作り、そこから息を吹きこんで回しただけだった。ヒューズはすでに切れていたものと事前にすり替えた。デジタル時計は自由に持ち歩いてよいと言われたので、昼食時にサンドイッチにはさんで電子レンジに入れ、狂わせることに成功した。箱の中のクリップは、箱を何度も揺すると簡単にからみ合った。彼らはまた、ビデオカメラを用いた念写実験にも成功した。ショウがビデオカメラの前で怪しい手振りをすると、画面が明るく輝いたり焦点がぼけたりしたのだ。実際には、ショウが手を伸ばし、カメラの側面のダイヤルを回しただけだった。
いくつかの実験では、ショウたちは故意にトリックの痕跡《こんせき》を残した。にもかかわらず、研究所長のピーター・フィリップスは、のちにランディに指摘されるまで、まったくそれに気がつかなかった。ランディは奇術師大会でプロジェクト・アルファの件を故意にリークすることまでしたが、それを耳にした研究者たちはジョークだと受け取った。二人は「トリックを使っているのか」と問われたら「そうだ、我々はジェイムズ・ランディによって送りこまれた」と即座に答えることにしていたが、三年間に及ぶ調査の間、誰も二人に対してその問いを発しようとしなかった。
ショウとエドワーズがついに真相を世間に公表すると、マグダネル研究所の権威は地に堕《お》ちた。狼狽《ろうばい》した超心理学者の一人は、どうしても二人の告白を信じようとしなかった。彼は雑誌のインタビューに答え、二人が本当は超能力者なのに超能力者ではないと嘘をついているのだ、と発言したのである。
「そんなわけですから、超心理学者がいくら『私の観察眼は確かだ』と主張しても、信用すべきじゃありません。彼らの観察力は信念によって曇らされています。それに彼らは科学や心理学の専門家ではあっても、トリックの専門家じゃないんですから」
「だったら懐疑的な人間を実験に同席させるべきじゃないんですか?」と兄。「特に奇術師を。彼らこそトリックの専門家でしょう?」
「確かにそうなんですがね。先のマグダネル研究所の例もそうですが、多くの超心理学者は奇術師が実験に加わるのを嫌うんですよ」
「どうしてです?」
「ケリーはこう言っています。奇術師を同席させたうえで肯定的な結果が得られても、がちがちの懐疑主義者から、奇術師がトリックを見破れなかっただけではないかという批判が出るかもしれない。だから同席させる必要はない……」
私は首をひねった。「よく分からない理屈ですけど……」
「私にだって分かりませんよ!」大和田氏は笑った。「まるで『どんな鍵でも腕のいい泥棒にかかれば開けられてしまうんだから、ドアに鍵を掛ける必要はない』と言ってるみたいですよね。こんなのは理屈にも何もなっていません! そもそもケリーは、奇術師が超能力者の不正を見破れない場合だけを前提に論じています。もし見破ったらどうなるのかということを、まったく考えていないんです」
「その可能性を考えられない、ということですか?」
「考えたくないんでしょうね。私が見るところ、ケリーは奇術師を避けたがる自分の心理が何に由来するか、気がついていません。論理的な根拠があると思いたがってるんです。実際には、彼らは恐れているんですよ。信じているものがインチキにすぎなかったらどうしようと……」
「それで奇術師を実験から遠ざけたがる……」
「そういうことです――まあ、超心理学者に限らず、信念を打ち砕かれるのを恐れるのは、万人の共通の心理なんですけどね……」
そこで大和田氏は言葉を切り、ふと遠い目をした。
「……その心理は、私には痛いほどよく分かります。これまでの人生で、ずいぶんたくさんの信念を打ち砕かれてきましたからね……」
彼の表情から、私はその話題に触れるべきではないなと感じた。
「つまり超心理学はまともな科学ではないと?」
「いや、そうではありません」彼は力強く否定した。「超心理学自体は立派な学問です。何か不思議な現象があるなら、それを調べてみるのが科学というものです。調べもせずに『そんなものはあるはずがない』と切って捨てるほうが、よほど非科学的な態度です。違いますか?」
「確かに」
「ですから私は、ラインの方法論は間違ってなかったと思うんです。超能力を科学として研究するということ自体はね」
近代超心理学の父、ジョゼフ・バンクス・ライン博士の名ぐらいは、私も知っている。以前から心霊術に興味のあったラインは、一九二〇年代からデューク大学の心理学科で、超能力の実験を重ねた。彼が一九三四年に発表した『Extra-Sensory Perception(超感覚的知覚)』という論文は、ESPという言葉を世間に広めた.
ラインの最大の功績は、共同研究者のカール・ゼナーとともに開発したゼナー・カード(いわゆるESPカード)である。星型・十字・波・丸・四角の五種類の図柄のカードが各五枚、二五枚が一セットになっている。これを見えない状況で被験者に当てさせる。偶然なら確率は五分の一、二五枚のうち五枚前後しか当たらないが、透視能力やテレパシー能力を持つ者なら、期待値を大幅に上回る成績が得られるはずである。
無論、一回の実験では何も分からない。まったくの偶然でも、たまたま一〇枚以上的中してしまうこともあるからだ。しかし、たくさんの試行を重ね、常に高い成績をマークし続けることができるなら、その人間にはESPがあると判定してよいことになる。
ラインはすぐに何人もの高得点者を発見した。アダム・リンツマイヤーという学生は、六〇〇回に及ぶ実験で、期待値が五・〇のところを、平均九・九という成績を上げた。ヒューバート・ピアースという学生の成績は九・七だった。それらは最高記録というわけではない。別の研究省バーナード・リースの被験者であったミスSという女性は、一八・二三という驚異的な成績を残している。これらは偶然ではありえない数字だ。こうした実験結果は、超能力の存在を明白に証明するものと考えられた。
すぐに批判の声が上がった。ラインの実験には欠陥があるというのだ。たとえば実験中のピアースには監視がついておらず、自由に廊下に出て、カードのある部屋を覗き見ることが可能だった。被験者と同じ部屋にカードがある場合には、カードが光で透けて見えたり、カードの裏に傷がついていたり、被験者がカードの情報を得る手がかりがあった。超心理学者たちはこの批判を受け入れ、批判者を納得させるべく、実験条件を厳しくするようになった。
そのとたん、否定的な実験結果が続出した。ミスSは平均以上の成績を出せなくなった。その他の優秀な被験者たちも、成績が急に下降した。現在でもゼナー・カードはESPのテストに用いられているが、リンツマイヤーやピアースやミスSに匹敵する成績を上げる者は、一人も見つからないのである。
「監視を厳しくしたとたんに成績が落ちた……」私は考えこんだ。「ということはやはり、何らかの不正があった可能性が高いですね」
「そう、常識的に考えれば、そうとしか考えようがありません。しかし、超心理学者には常識は通用しません。今でもリンツマイヤーやピアースの能力を本物だったと信じている者が多いんです。しかし、ESPの実験を開始したばかりのラインの近くに、たまたま優秀な超能力者が何人もいたなんて偶然があるでしょうか?」
超心理学自体はまともな学問だが、問題は超心理学者の心理にある、と大和田氏は指摘する。彼らは実験が失敗したり、実験の内容に重大な疑惑が生じても、それを素直に認めようとしない傾向があるのだ。
たとえばゼナー・カードのテストで、被験者が期待値よりずっと低い成績を出したとしよう。すると超心理学者はこれを「サイ・ミッシング」と呼ぶ。被験者は実際にはESPがあり、無意識のうちに正解を避けようとして、かえって悪い成績が出たというのだ。
被験者がコールした記号が、正解ではないけれども、一つ前、あるいは一つ後のカードと一致していたとしよう。これは「ズレ効果」のせいにされる。ESPが時間的にずれて作用して、誤って前や後のカードを当ててしまったのだと。
それまで高い成績を上げていた被験者が、急に低い成績しか出せなくなるのは、「下降現象」と呼ばれる。超能力は急に減衰する性質があるというのだ。以前に出した好成績は偶然にすぎなかったのではないかとか、被験者が不正を行なうのをやめただけではないかという疑いを超心理学者は抱かない。
優秀な成績を収めていた超能力者が、懐疑的な人間が実験に立ち会うと、急に能力を発揮できなくなる。これは「山羊―羊効果」と呼ばれる。山羊、つまり懐疑的な人間が近くにいると、その思念によって超能力が妨害されるというのだ。
トリックが困難な条件下で、スプーンが曲がる決定的瞬間をビデオで狙っていても、なかなか曲がらない。だが、ビデオが回っていないと簡単に曲がる。そのため、「超能力はカメラを避ける性質がある」と唱える研究者が大勢いる……。
「そんなバカな!」兄はあきれて声を上げた。「本当に超心理学者はそんなことを真面目に唱えてるんですか?」
「本当ですよ。お疑いなら、超心理学の入門書を読んでごらんなさい。サイ・ミッシングや山羊―羊効果のことが真剣に論じられていますから。言うまでもないことですが、これらの仮説はすべて、実験が失敗した際の言い訳として編み出されたものです。超心理学者たちがいかに実験結果をまともに受け取ろうとしないかという証明と言えるでしょう」
「でも、肯定的な実験結果が出たこともあるんでしょう?」と私。
「もちろんです。トリックが困難な条件で有意な結果が出たという論文はたくさんありますよ。しかし、科学のどんな分野でもそうですが、間違っていた報告はたくさんあるんです。古くは二〇世紀初頭のN線、一九六〇年代のポリウォーター、一九八〇年代の常温核融合……いずれもその存在を示す論文がたくさん発表されたけれど、結局はなかったと判明したんです」
「超能力もそれと同じだと?」
「ええ。肯定的な実験の多くは、何らかの問題点があったと指摘されています。問題がなかった場合も、追試を重ねると成功率が下がります。ガンツフェルト法がそうですね」
ガンツフェルトとはドイツ語で「均一」という意味で、視野を均一にすることからこう呼ばれる。被験者の両眼に半分に切ったピンポン玉を載せ、両耳にはヘッドホンを装着してホワイトノイズを流し、柔らかいクッションで身体をリラックスさせる。こうして外界からの刺激を遮断した状態で、頭の中に浮かんでくるイメージを答えるのだ。離れた部屋にはターゲットとなる絵が置かれてれいる。被験者は後でターゲットを含む四枚の絵を見せられ、どれが最もイメージに近いかを答える。頭に浮かんだイメージがESPで得られたものなら、期待値(二五パーセント)を上回る確率で的中するはずである。
ガンツフェルト法は一九七〇年代に開発され、繰り返し実験が重ねられてきた。初期の実験の中には不正の可能性が指摘されたものもあったが、その後、懐疑派の科学者が参加した実験でも期待値を上回る有意な結果が出た。そのため、超心理学者の多くが、これをESP研究の本命とみなすようになった。
ところが九〇年代に入ると成功例が激減し、すべてのデータを総合すると、的中率は偶然による期待値と大差ないレベルにまで落ちてしまった。そのため、初期の成功例も偶然によるものではなかったかと疑われている。
「ということは」私は結論を導いてこのインタビューを終わらせようとした。「大和田さんは超能力は存在しないと思っておられるんですね?」
「さて、それが……」大和田氏は困ったように苦笑した。「さっきも言いましたが、イエスともノーとも答えにくいんですよ。確かに私は、超心理学者が言うようなESPだのPKだのといったものは信じません。ただ、現象自体はあると思っています」
「えっ、どういうことです?」
「超能力はない。しかし、『超能力と呼ばれる現象』はある、ということです」
「よく分かりませんけど……」
「これからお話しすることですが、記事にはしないと約束していただけますか? いえ、記事にしてもいいですが、私の名前は出さないでください。匿名のOということにしてください。よろしいですか?」
私は困惑しながらもうなずいた。「お約束します」
「では……ちょっと待っててください」
大和田氏は腰を上げ、奥の部屋に何かを取りに行った。私は根拠のない胸騒ぎのようなものを感じ、兄と顔を見合わせた。
「何だろう?」
「さあ……」
私と兄は正座して待った。まだ午後三時なのに、窓の外は夜のように暗かった。ますます激しさを増す豪雨が瓦《かわら》を叩いてた。まるであの夜のように……。
二分ほどして大和田氏は戻ってきた。菓子箱を大事そうに抱えている。かなり古いものらしく、紙が変色している。側面にはマジックで『例のスプーン』と書かれていた。
「これをお見せした人は、そう多くありません。みなさん、秘密を守ってくださっています」
そう言いながら大和田氏は蓋《ふた》を開けた。私たちは中を覗きこんだ。
中にあったのは一本のスプーンだった――レストランでスープを飲むのに使うような丸いやつで、柄も太い。その首の部分がぐにゃりと九〇度ほど曲がっている。
「これは……?」
私が訊ねると、大和田氏は恥ずかしそうに笑った。
「私の手の中で曲がったんです――忘れもしない、一九七四年五月一五日にね」
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14+第三の選択肢
一九七四年、有名な超能力者ユリ・ゲラーが来日した。彼は日本のテレビ番組に二度出演し、カメラの前でスプーンを曲げてみせるなど、いくつかのパフォーマンスを披露した。特に反響が大きかったのは三月七日にゴールデンタイムで放映された番組だった。ゲラーは視聴者に向かって、テレビを通してサイキックパワーを送り、故障した時計を動かしてみせると宣言した。実際、放送終了までに、「壊れていた時計が動き出した!」という驚きの電話が全国からテレビ局に殺到した。
二一世紀に生きる私たちから見ると、どうということのない素朴な内容の番組である。現代の奇術師ならゲラーよりずっとあざやかにスプーンを曲げてみせる。しかし、当時の大多数の日本人にとって、それが超能力との初遭遇であり、衝撃は大きかった。番組は三〇パーセント近い視聴率を記録し全国に超能力ブームを巻き起こした。
特に大きな影響を受けたのは子供たちだった。当時は『ノストラダムスの大予言』が大ベストセラーで、『うしろの百太郎』などのオカルトマンガがヒットし、『UFOロボ』『UFO戦士』といったタイトルのアニメが放映されるなど、オカルトやUFOがブームであった。子供たちはスプーンを手にし、ゲラーの真似をしてさすりながら「曲がれ、曲がれ」と念じた。
そして実際、大勢の子供がスプーンを曲げることに成功した。正確な数は不明だが、日本全国で数百人、あるいは数千人いたかもしれない。彼らのうち何人かはマスコミに取り上げられ、評判になった。
大和田氏は当時まだ四〇代、小学校の教師をしており、超能力の存在を信じていた。教え子の一人のAという少年が、スプーン曲げができたのだ。少年が手にしたフォークを放り投げ、先端を自由自在に曲げたり、指で軽く撫《な》でるだけでスプーンの柄を切断するのを目にした大和田氏は、おおいに興味をそそられた。ある本によれば、超能力の素質は誰でも潜在的に持っているという。それなら自分にもできるのではないか――そう考えて、彼は試してみることにした。
普通ならここで、曲がりやすい安物のスプーンを使うものである。しかし、大和田氏の思考は当時から少し偏屈だった。柔らかいスプーンはその気になれば子供の力でも曲げられるし、ましてや大人なら曲げるのは簡単だ。指に力が入ったり、何かにぶつけたりした拍子に、偶然に曲がってしまうことだってあるだろう。確かに超能力で曲げたと証明するには、人間の力では容易に曲げられないような硬いスプーンで実験する必要がある。
大和田氏はデパートでとびきり肉厚があって硬そうなスプーンを買ってくると、背広の内ポケットに入れて持ち歩いた。授業の合間、行き帰りのバスの中など、少しでも暇な時間があれば、背広の内側に手を入れてスプーンを握り締め、「曲がれ、曲がれ」と念じた。休日には一時間近くもスプーンを握り続けたこともある。
実験を開始して一月半ほどたった五月一五日、それは起こった。夕食後に畳に寝転がってくつろいでいた彼の手の中で、不意にスプーンが曲がったのだ。
「曲がった瞬間は見ていませんでした」大和田氏は残念そうに言う。「テレビに気を取られてて、ふと気がつくと、いつの間にか曲がっていたんです。無意識のうちに両手で曲げたわけじゃありません。確かに右手だけで握ってたんですから。だいたい、こんな硬いスプーン、無意識に曲げようったってできるわけがありませんよね」
大和田氏は興奮したが、冷静な分析を忘れてはいなかった。力が加わって偶然に曲がった可能性を、まず疑ったのだ。同じスプーンを買ってきて、同じ姿勢で寝転び、いろいろな角度や強さでスプーンを畳に押しつけてみた(畳がスプーンの跡だらけになり、奥さんに叱られたそうだ)。だが、硬いスプーンはちょっとやそっとで曲がるものではないことが判明した。
それでも彼は慎重だった。疑り深い人間は、曲がったスプーンを見せられても、「何か道具を使って曲げたのだろう」と難癖をつけてくるに違いない。トリックなどないことを証明するには、もう一度、大勢の人の目の前で曲げてみせるしかない。そのためには修業を重ね、もつと自由にスプーンを曲げられるようにならなければ。
そう考えた大和田氏は、また奥さんに眉《まゆ》をひそめられながらも、新しいスプーンを何ダースも買ってきて、スプーン曲げの練習に励んだ。一度曲がったということは、自分にも超能力がある証拠だ。超能力があるのなら、まだ何回だって曲げられるはずだ……。
だが、スプーンはそれ以来、一度も曲がらなかった。
およそ二年半、大和田氏は毎日のようにスプーンを手に念じ続けた。柔らかいスプーンに替えてみたり、瞑想《めいそう》や自己暗示など、効果のありそうな方法は片っ端から試してみた。しかし、どうしても五月一五日の現象を再現することはできなかった。奥さんに手伝ってもらって、ゼナー・カードによる透視実験をしてみたが、成績は期待値と大差なかった。予知夢のように思われる夢を記録し、予知能力の素質を調べたこともあったが、夢はどれも現実にはならなかった。
ついに大和田氏は、「自分には超能力などない」と確信するに至った。
だが、超能力がないなら、なぜスプーンは曲がったのだろう?
さらにショックだったのは、教え子だったA少年(その時には中学生になっていたのだが)が数年ぶりに訪ねてきて、「あれはインチキだったんです」と告白したことだった。彼は中学で非行に走りかけたのだが、思いやり深い教師に助けられて立ち直った。それがきっかけで、過去の自分が行なった欺瞞《ぎまん》を恥じ、小学校時代の恩師に赦《ゆる》しを乞《こ》いに来たのだ。少年は大和田氏の目の前で、フォークの先端をベルトのバックルにひっかけて曲げたり、あらかじめスプーンを曲げたり伸ばしたりして柄に小さな亀裂《きれつ》を入れておくテクニックを披露した。亀裂の入ったスプーンは、軽く力を加えただけで簡単に折れるのだ。
なぜそんなことをしたのか、と問われて、A少年は答えた。自分には確かに超能力があることを、みんなに信じて欲しかった。いくら一生懸命念じても、スプーンは思うように曲がらないことの方が多い。級友が期待して見ているのに曲げられなかったら、ホラ吹きだと罵《ののし》られるかもしれない。それが怖いから、ついついトリックを使うようになった。最初はびくびくしていたが、大人たちまで面白いように騙《だま》されたので、だんだん調子づき、罪悪感が麻痺《まひ》してきた。気がつくと、トリックばかり使うようになっていた。やがて「超能力少年」という評判が確立してしまうと、もう本当のことを言い出せなくなってしまった……。
「でも、信じてください」少年は真剣な表情で力説した。「最初は本当に曲がったんです。先生に見せたのはインチキですけど、家で練習してた時、最初の五本か六本は、確かに力をこめてないのに曲がったんです」
大和旧氏はその言葉を信じた。疑う理由などなかった。彼自身、同じ体験をしているのだ――一度は確かに曲がったスプーンが、いくら念じても曲がらないという体験を。
スプーン曲げのトリックが露呈したのは、A少年の例だけではない。特に有名なのは、当時、マスコミに騒がれていたSという超能力少年のスキャンダルである。雑誌社がセッティングし、奇術研究家の立ち会いで行なわれた実験で、Sはトリックを使っていたのを見破られてしまったのだ。少年の父親が息子を問い詰めたところ、その際に別の週刊誌の取材の際にもトリックを用いていたことを認めた。Sの言い分によれば、疲れていたのでつい手でスプーンを曲げてしまったのだという。しかし、彼はあくまで自分の能力は本物だと主張し、その後も何度もマスコミに登場した。
その後、Sは二一歳の時に大麻取締法違反で逮捕、執行猶予期間中に窃盗《せっとう》と無免許運転で再逮捕され、投獄されている。
「Sくんがああなったのは、大人にも責任がありますよ」大和田氏は悲しそうに言う。「スプーンは曲がる時と曲がらない時があるんです。曲がらない時は何をやっても曲がらない。曲がらない時はそう言えばいいんです。でも、周囲の大人たちがそれを許さない。親だって、マスコミだって、スプーンを曲げる瞬間を見ようと、目を皿のようにして見守っている。子供にしてみりゃ、大変なプレッシャーですよ。大人たちの期待に応えようと、手で曲げたくなるのも無理はありません。たとえトリックでも、スプーンが曲がりさえすれば大人たちは喜ぶ。誰も疑わないし、誰も叱らない。だから手で曲げるのが当然になってくる……」
私は見知らぬSという男に同情を覚えた。子供の頃からそんなことを続けていたら、倫理観など麻痺して当然だ。
「途中で引き返すことのできたAくんは、幸運と言えるんでしょうね」
「まったくです。もし彼があのままSくんと同じ道を進んでいたら――実際、そうなりかけたんですが――私の責任ですからね。やりきれなかったでしょうね」
イギリスでも同様の事件が起きている。一九七五年、バス大学で、スプーン曲げの能力を持つと主張する六人の子供を被験者にして、実験が行なわれた。子供たちは知らなかったが、部屋にはマジックミラーが取りつけられており、隣の部屋からビデオカメラが彼らの手許を隠し撮りしていたのである。その結果、六人のうち五人がトリックを使ってスプーンを曲げていたことが明らかになった。しかし、ビデオの映像を突きつけられたにもかかわらず、子供たちの中には、自分には超能力があると断固として言い張る者がいた。あの時は調子が悪いからトリックを使ったけれど、本当に曲がるんだ、と。
さらに大和田氏に疑惑を抱かせたのは、ブームの火付け役となったユリ・ゲラーのスキャンダルをいくつも耳にしたことだった。
ゲラーは一九七五年に再び来日し、テレビに出演している。番組の中では、女性タレントがバッグの中にしまっていた鍵《かぎ》を、ゲラーは手を触れずに曲げたことになっていた。実際には、その鍵はゲラーが「本番まで絶対に見ないように」と言い含め、彼女に渡したものだったのだ。また、ゲラーの「透視能力」を注意深く観察した奇術師は、彼が目隠しの下から覗《のぞ》いていたり、相手との会話によって正解のヒントをつかんでいるのを見破った。海外でも、ゲラーがトリックを使っていたのが発覚した。カメラのレンズの蓋《ふた》を閉めた状態で行なわれた念写実験の際、彼がこっそり手で蓋を開けているところが撮影されたのだ。
奇術師のジェイムズ・ランディは、超能力のように見えたゲラーのパフォーマンスを、すべて奇術で再現してみせた。とりわけ劇的なのは、時計を動かすパフォーマンスの再現だ。超能力者のふりをしてラジオに出演したランディは、ゲラーと同様、壊れた時計を持ってラジオの前に集まるよう聴取者に呼びかけ、サイキックパワーでそれを動かしてみせると宣言した。案の定、全国の聴取者から、「壊れた時計が動き出した!」という驚きの電話が殺到した。何のことはない、故障した時計のうちの何パーセントかは、手で温めたり振動を与えたりするだけで自然に動き出すものなのだ。仮に三〇〇〇万人の視聴者のうち〇・一パーセントの時計が動いたとしても、三万個の時計が動いたことになるわけだ。
そもそも、ゲラーは母国のイスラエルでは奇術師をしており、透視術も彼のレパートリーのひとつだった。彼がまだイスラエルにいた頃、イスラエルの奇術雑誌に、トリックでスプーンを曲げる方法を解説した記事が載っていたことも明らかになっている。プロの奇術師なら当然、奇術雑誌は欠かさず読んでいたはずだ。
無論、肯定派はあくまでゲラーを擁護した。「奇術で再現できるからといって、奇術だという証拠にはならない」と――だが、超常現象の存在を信じる大和田氏にとっても、その反論は根拠薄弱なように見えた。そもそも誰もがゲラーの超能力を本物だと信じたのは、「奇術ではこんなことは不可能だ」と信じたからではないのか? その前提が崩れ去ったというのに、なお信じ続けるというのはどういうことなのか?
しかし、大和田氏はスプーン曲げという現象そのものを否定する気にはなれなかった。実際に自分で体験しているのだから、否定できるわけがない。たとえゲラーのスプーン曲げがトリックだとしても、なぜ自分や子供たちはスプーンを曲げられたのだろうか? そこには何か未知の原理が作用しているのではないのか?
ますますこの問題にのめりこむようになった大和田氏は、仕事の合間に研究に没頭するようになった。もちろん教師の副業は禁じられているから、あくまで趣味の研究だった。やはり超能力に興味を持つ人々と知り合い、意見や情報を交換し、ガリ版刷りの情報紙を発行した。何人もの超能力少年、超能力少女に会い、スプーン曲げを観察したり、話を聞いたりした。
もっとも、本物のスプーン曲げを目にした機会は少ない。というのも、彼は必ず最初に、子供たちにこう言うからだ。
「曲がらなければ、無理しなくていいよ。私はどうしても見たいわけじゃないからね」
こう言ってやると、多くの子供は明らかにリラックスする。試してみても曲がらないと、けろっとして、「今日は無理みたい」と正直に言う。それでも何人かは、いいところを見せようと、懸命にスプーンをこすり続ける。よそ見をしているふりをして横目で観察していると、少年がスプーンの柄をベルトにひっかけて曲げているのが見えたこともあった。大和田氏が優しい顔で「それはやめた方がいいよ」と注意すると、少年はしゅんとなった。
彼は子供たちに、どんな時にスプーンが曲がるのかを訊《たず》ねた。回答はばらばらだった。「リラックスしてるとよく曲がる。カメラの前だと緊張してダメ」とか「念じていなくても、ふっと曲がることがある」と答える子もいれば、「額に青筋立てるぐらい必死にならないと曲がらない」という子もいる。夜中はよく曲がるという子、暖かい日はよく曲がるという子、おまじないを唱えるという子、スプーンが曲がっている光景を強くイメージするという子、頭の中を空っぽにした方がいいという子……そこには法則性らしきものはまったく見当たらない。
一〇年以上も研究を続けた末、ついに大和田氏は確信するに至った――スプーンは子供たちの意志や心理状態とはまったく無関係に曲がるのだ、と。
彼はこの説を研究者仲間に聞かせたが、まったく同意は得られなかった。誰もが「何をバカなことを」と笑い、露骨な拒否反応を示すのだ。げんにスプーンは子供たちの手の中で曲がっているのだから、子供たちのサイキックパワーで曲がっているに決まっているじゃないか……。
大和田氏には、彼らが「スプーン曲げは超能力である」という根拠のない信念にとらわれているように感じられた。科学者が「超常現象など存在しない」というパラダイムにとらわれ、検証もせずに「インチキだ」と決めつけるのと同じように、肯定派は自分たちの信念を当然のものとして、検証しようとしていないのではないか?
そう考えた大和田氏は、超心理学の歴史を徹底的に洗い直してみることにした。そもそも、なぜ超能力というものが信じられるようになったのか。いつ頃、誰が、超能力という概念を唱えたのか……。
すぐに彼は、ほとんどの肯定派が見落としていた事実を発見した――超能力という概念には、論理的根拠がなかったという事実を。
超能力という概念が一般化したのは、きわめて新しい。どんなに遡《さかのぼ》っても、せいぜい一九世紀中頃なのだ。
無論、古い伝承には、不思議な力を発揮した人間の話がいろいろある。しかし、昔の人はそれを人間の持つ能力だとは思っていなかった。たとえば、モーセはナイル河を血に染め、紅海を二つに分けたが、それを「超能力」と呼ぶ者はいない。それは「奇跡」――神が人の祈りを聞き届けて起こす現象なのである。
日本語では「予言者」と訳される prophet は、本来、「預言者」のことである。「預言」とは神が人間に与えるメッセージであり、それを人に伝えるのが「預言者」なのだ。預言の中には予言的な内容が含まれることが多いので、西欧圏では長いこと、「預言」と「予言」を厳密に区別してこなかった。キリスト教徒にとって、未来を見通すことができるのは神だけであり、人間が自分の力で未来を見るというのは、異端の概念だったのだ。
占いも予知能力ではない。たとえば占星術は、神が定めた運命を星の配置から読み取ろうとする試みであり、占星術師自身に未来を知る力があるわけではない。有名なノストラダムスも、著書の序文の中で、自分の予言が占星術的な推論と神から授けられた霊感によるものだと強調しており、決して「私には予知能力がある」とは言っていない。そんなことを言っていたら、異端審問にかけられ、火あぶりにされていただろう。当時の常識からすれば、神の力を借りずに不思議なことを行なったなら、それは悪魔の力に違いないのだから。
イエスの場合、あまりにも多くの奇跡を行なったと伝えられているため、神の力ではなくイエス自身の力であるかのように思われたのだろう。しかし、人間に奇跡が起こせるはずがない。その矛盾を説明するために「イエスは神の子である」という概念が考案され、それがキリスト教の教義である三位一体説に発展したのだろう。
日本でも事情は似たようなものだ。「神通力」「虫の報《しら》せ」――これらの言葉は、当時の人々の信念を如実に物語っている。すなわち、透視や予知という現象は、「神」や「虫」といった目に見えない存在が教えてくれるのだ。予言を行なったり、奇怪な現象を起こす者は、「神|憑《がか》り」や「狐|憑《つ》き」と呼ばれる。ただの人間には超常現象を起こすことはできず、「神」や「狐」が憑依《ひょうい》することによって可能になるのだ。
中世の黒魔術、霊媒の交霊術、未開人の呪術《じゅじゅつ》などについては言うまでもない。それは儀式によって悪魔や霊や自然界の精霊の力を借りる行為なのだ。
人間自身の持つ不思議な力については、一九世紀以前から断片的な報告があるものの、ほとんど注目されることはなかった。それを初めて体系的に取り上げ、広く世間に知らしめたのは、ロンドン総合大学の医学教授で王立医学外科協会会長だったジョン・エリオットソンである。「高度の現象」の存在を固く信じるエリオットソンは、一八四三年から五六年まで『ゾイスト』という個人雑誌を一三巻発行、その中で人間の体内を流れる「動物磁気」の作用について論じるとともに、多くの超能力者の実例を紹介している。
ここで注目すべきなのは、エリオットソンがオカルティストではなく、唯物論者であり無神論者だったという事実である。
奇妙なことのように思えるかもしれないが、考えてみれば当然だ。霊や神の存在を信じる者には、「動物磁気」や「超能力」などという仮説を導入する必然性がないのだ。不思議な現象はすべて霊や神が起こすのだから。しかし、唯物論者であるエリオットソンは、超常現象を目にして、それを超自然的な原因抜きで説明する必要に迫られた。そこで苦しまぎれに、それが人間の持つ能力であるという説明をひねり出したのだ。
すなわち超能力という概念は、一九世紀の唯物論の台頭、科学的合理主義の風潮の中で生まれたものなのである。地質学、生物学、天文学の発展により、聖書の絶対性が大きく揺らいでいた時代だったからこそ、エリオットソンの説は注目を集めることができたのだ。エリオットソンが一世紀早く生まれていたら、彼の理論は世間に受け入れられなかっただろう。二世紀早かったら、火あぶりにされていただろう。
一八四八年、アメリカのハイズヴィルに住むフォックス姉妹の周辺で、何かを叩《たた》くような音が頻繁に響き、霊からのメッセージだと騒がれた。この事件がきっかけで、西欧では心霊主義運動が盛んになる。交霊会が流行し、本職の科学者や聖職者、政治家までもが交霊会に出席して、霊媒の起こす不思議な現象を熱心に報告するようになるのだ。のちにフォックス姉妹は、霊の立てた音と思われたものはすべて自分たちのトリックであったことを告白するが、人々はその告白を信じようとはしなかった。
暗がりの中で行なわれた当時の交霊会には、多くのトリックが横行していた。フローレンス・クック、エウサピア・パラディーノ、メリー・ロシナ・シャワーズ、ヘンリー・スレイドといった当時の有名な霊媒たちは、みんな一度はトリックの現場を取り押さえられたことがある。言うまでもないだろうが、そうしたスキャンダルが暴露された後も、信奉者たちは霊媒を擁護し続け、彼らの人気は衰えることはなかった――ゲラーと同じように。
エリオットソンの活動と心霊主義運動が結びつき、一八八二年、ロンドンで世界最初の学術的な超常現象研究団体SPR(心霊研究協会)が発足する。初期のメンバーの中には、のちに英国首相となるアーサー・バルフォア、ノーベル賞科学者であるJ・J・トムスンやレイリー卿《きょう》、物理学者ウィリアム・クルックス、作家のコナン・ドイル、数学者のチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(ルイス・キャロル)など、多くの著名人が名を連ねていた。
当初のSPRは六つの委員会に分かれており、その中のひとつに「思念伝達委員会」があった。SPRの初代幹事であったフレデリック・マイヤーズは、エリオットソンが注目した思念伝達現象に興味を示し、それを「テレパシー」と命名した。彼はテレパシー実験を何度も行ない、その実在を証明したと確信した。
当然のことながら、マイヤーズの実験をめぐってもスキャンダルが起きた。彼が実験対象にしたダグラス・ブラックバーンという男が、後になって、どんなトリックを使って研究者の目を欺いたかを発表したのである。そして、これも当然のことながら、肯定派はブラックバーンの言葉を信じようとはしなかった……。
そもそも、マイヤーズのスタンスはエリオットソンのそれとは正反対であった。唯物論に反発し、霊魂の実在を確信していたマイヤーズは、死後の生の問題を最重要と考えていた。それなのになぜテレパシーの研究をしたかというと、テレパシーの美在が証明されれば、唯物論に対する有力な反証になると考えたからだ。
後年のラインにしても同様である。キリスト教原理主義者の家に育ったラインは、終生、死後の生の問題に関心を抱き続けていた。にもかかわらす、なぜか霊について直接研究することを避け、ESPやPKの研究に没頭したのである。
ここに大和田氏が言うところの「奇妙なねじれ現象」がある。唯物論から生まれた超能力という概念が、いつの間にか反唯物論の根拠とされるようになってしまったのだ。これは論理的におかしい、と大和田氏は気づいた。あくまで霊の存在を信じ、反唯物論を主張するなら、ESPという仮説は必要ないはずではないか。
それどころか、ESPという概念は、霊の存在を危うくしかねない。ESPに限界がないとすると、霊の存在が証明できなくなってしまうのだ。いわゆる「超ESP仮説」である。
霊媒に憑依した霊が、故人しか知りえないような情報を語ったとしよう。ESPが存在しないなら、これは霊が実在する証拠とみなされるだろう。しかし、ESPが存在するなら、トランス状態に陥った霊媒が無意識にESPで知った事実を口にしているのではないか、という仮説を却下できなくなる。
霊を写真に撮ったらどうだろう? いや、それも証明にはならない。いわゆる念写という現象が実在するなら、それが撮影者の念写ではないことをどうやって証明するのか?
霊が何かを動かしたり、物理的な痕跡《こんせき》を残したら? いや、それでもだめだ。その現象が誰かの潜在的なPK能力のしわざではないと、どうして言えるのだろう。実際、超心理学者たちは、ポルターガイスト現象にRSPK(回帰性自然発生サイコキネシス)というもっともらしい名前をつけている。霊が家具を揺らしたりするなど、迷信にすぎない。そうした現象は、その家に住んでいる人間、特に思春期の少年少女が、無意識にPKで起こしている現象に違いない……。
そう、もともと唯物論から生まれた「超能力」という概念は、「霊の実在」という概念と矛盾する。にもかかわらず、マイヤーズやライン、それに続く研究者たちは、自らの首を絞めかねない超能力の研究に没頭してきたのである。
長い講義を聞かされ、私の頭は混乱してきた。
「じゃあ、大和田さんは霊の存在を信じておられるんですか?」
「いいえ、違います。私が言いたいのは、『霊の実在』という仮説と『超能力』という仮説、この二つしか選択肢がないなら、そのどちらか一方だけを選択すべきだということです。両方同時に選択する必然性がない。オッカムの剃刀《かみそり》というやつです」
オッカムの剃刀――それは一四世紀の神学者オッカムの提唱した定理で、「思考節約の原理」とも呼ばれる。厳密に論じると難しくなるのだが、要約すれば「必要もないのに仮説を増やしてはならない」といったところだろうか。
たとえばあなたが道端に落ちていた硬貨を拾ったとしよう。この幸運を「妖精《ようせい》が魔法でプレゼントしてくれたのだ」と説明することもできる。落とし主が現われるまで、その仮説は否定できない。しかし、「誰かが落としたのだ」という単純な仮説で説明がつく以上、「妖精仮説」は採用される必然性がないのである。
「それに、はたして選択肢は二つしかないんでしょうか?」
「と言うと?」
「霊という仮説も超能力という仮説も間違いではないか。もしかしたら、私たちがまだ気づいていない第三の選択肢があるんじゃないか――私はそう考えてるんですよ」
大和田氏が注目したのはポルターガイスト現象である。
他の多くの超常現象と同じく、ポルターガイストもまた、その大半がトリックやでっち上げであったことが判明している。一九八四年に起きたコロンバス事件では、少女が自分でテーブルランプをつかんで投げているところがテレビカメラで撮影されてしまった。一九七五年に起きたとされるアミティヴィル事件(『悪魔の棲《す》む家』という題で映画化された)については、最初から最後まで、すべて作家の創作にすぎなかった。
しかし、少数ではあるが、説明のつかない事例も存在する。
特に信憑性が高いのは、一九六七年夏から翌年一月にかけて、ドイツのローゼンハイムにあるアダム弁護士事務所を襲ったポルターガイストである。この事件は多くの目撃者がいるうえ、何人もの技術者や科学者、警官による調査によっても、まったく合理的な説明がつけられなかったのだ。
最初に異常が起きたのは電話だった。通話中に奇妙な雑音が入ったり、回線が別々のはずの四台の電話機がいっせいに鳴り出したりした。電話会社の技師が数週間にわたって調査し、電話機を交換しても、異常はいっこうに収まらなかった。通話記録を見た所長のアダムは仰天した。誰も電話していないはずの時間帯に、事務所から膨大な回数の電話がかけられたことになっていたのだ。五週間で五〇〇回以上、多い時にはわずか一五分間に四六回もの通話記録があった。そのすべてが0119の時報にかけられたものだった。
一〇月下旬になると、蛍光灯が勝手にはずれて床に落下する事件が続発した。ヒューズも何度も飛んだ。やむなく蛍光灯をすべて電球に取り換えたところ、今度は電球が破裂しはじめた。ドイツ電力局の係官が調査に乗り出したが、事務所内の配線、電気器具、外部からの電力供給にも異常は見られなかった。にもかかわらず、電気系統に取り付けられた計測器は、原因不明の激しい電圧の変化を記録した。
一一月下旬から一二月中旬にかけて、いよいよ異常な事件が頻発し、これが超常現象であることが明らかになってきた。吊《つ》るされた電灯が激しく揺れ、壁にぶつかった。何人もの人間が見ている前で、壁にかかっていた絵がゆっくりと三二〇度回転した。重い金庫が動いた。事務員たちは手足に電気ショックのようなものを何度も感じた。マックス・ブランク・プラズマ物理学研究所から二人の科学者がやって来て調査を行なったが、やはり現象のメカニズムを解明できず、すごすご退散した。
こうなると超心理学者の出番だ。一二月中頃、フライブルク超心理学研究所のハンス・ベンダー教授が乗りこんできた。彼はアンネマリー・シュナイダーという若い事務員に疑惑の目を向けた。現象は彼女が出勤して仕事を開始すると同時に起こり、彼女が休暇を取った日には起こらないからだ。また、アンネマリーが廊下を歩くと、なぜかその頭上の電灯が揺れるのも目撃された。身の回りに奇怪な現象が続発するので、彼女の精神は不安定になっていった。
ピークは一月一七日だった。いくつもの電球が破裂し、カレンダーが壁から落ち、机の引き出しが飛び出して中のものが床に散らばった。重いオークのキャビネットが三〇センチも動いた。警官が現場を調べに来たが、アンネマリーのいたずらだという可能性はあっさり否定された。キャビネットは一八〇キロもあって、とうてい女の手で動かせるものではなく、おまけにリノリウムの床には引きずった跡がなかったのだ――浮き上がって動いたとしか考えられなかった。
たまりかねた経営者によって、ついにアンネマリーは解雇された。同時に、事務所で起きていた怪事件はぴたりと終息した。
さて、超心理学者たちはこの事件をこう説明する。すベてはアンネマリーの潜在的なPK能力が起こしたものだ。彼女は事務所で働くのを嫌がっていた。それで彼女の潜在意識がPKを発動させ、業務を妨害しようとしたのだ……。
もっともらしい説だが重大な点を見落としている、と大和田氏は指摘する。ベンダー教授がアンネマリーの能力をテストしたが、彼女はPK能力をまったく発揮できなかったのだ。ESPのテストも受けたが、常人と大差ない成績だった。おまけに、ポルターガイスト現象が起きていたのは弁護士事務所にいた間だけで、それ以前も、それ以降も、彼女の周囲では奇怪な現象は何ひとつ起きたことはないのである。
「このことから言えるのは」と大和田氏。「アンネマリー・シュナイダーは超能力者ではなかったということです――私が超能力者ではなかったように」
「でも、彼女以外に容疑者はいないわけでしょう?」
「容疑者が他にいないから犯人だと言えますか? ポルターガイストの原因がPKだなんて、まったくの机上の空論にすぎません。そもそも、重いキャビネットを動かせるようなPK能力者など、これまで一人も発見されてはいないんですから。不可能なものに原因を求めるのは、明らかに間違ってますよね。密室殺人の現場に小さなナメクジがいたからといって、『ナメクジが巨大化して人を殺した』と結論するようなものじゃありませんか。
私にはPKというものは信じられませんし、ましてやそれがポルターガイストの原因だとは思いません。何といっても、PKが存在する証拠というのが、きわめて薄弱ですから」
「実験で証明されていないんですか?」
「肯定的な実験結果はいくつもありますよ。たとえばラインはサイコロを使った実験で有意な結果を得ています。ある目が出るよう強く念じながら振ると、その目が期待値よりいくらか多く出るというんです。シュミットは放射性物質の崩壊を利用した乱数発生器を用いた実験を行なっています。コックスは液体中で泡を発生させる装置を使いました」
「泡……ですか?」
「浮かび上がってくる泡を、PKでどちらかの側に偏らせるという実験です。これもいちおう、有意な結果が出てはいますけどね。ヤーンはおもちゃのカエルを使いました。ランダムに動き回るおもちゃのカエルに向かって『こっちに来い』と念じるんです。カエルが被験者に近づく回数が多ければ、PKありと判定されるわけです」
「素人考えですけど……」兄が不思議そうに言った。「どうしてそんなものを使うんですか? サイコロとか乱数発生器とか泡とかおもちゃのカエルとか、いかにも統計による誤差が発生しそうな仕掛けばっかりじゃないですか。どうしてダイレクトにPKを測定できる装置を使わないんです? たとえばガラスケースの中に風車のような装置を入れて、それをPKで回させて、トルクを測定すればいい。PKの存在が証明できて、なおかつその力が定量的に測定できる――どうして超心理学者はそうしないんです?」
「うん、いい質問です!」
大和田氏はまたも嬉《うれ》しそうにうなずいた。これまでよほど愚かな質問をする人間にばかり出会ってきたのだろう。
「確かにそんな実験も過去には行なわれたことがあるんです。でも、廃れてしまったんです」
「廃れた?」
「有意な結果が出なかったんです。有意な結果が出た実験は、サイコロや乱数発生器を使った実験――あなたのおっしゃるように、統計的誤差の生じる余地のある実験だけなんです。だから超心理学者は、そうした実験しかやらなくなったんです」
「それはつまり……」
私は絶句した。またしても人間心理の奇怪さ――自分の信念に有利な証拠だけを追い求め、不利な証拠を見ようとしない。
事実の裏づけがなければ、信念など意味がないというのに。
大和田氏はまた、PK以外の超能力についても懐疑的であった。多くの実験や統計によって否定されているからだ。
人間に未来を予知する能力があるなら、大災害の発生を事前に察知し、回避することができるはずだ。そう考えたロバート・ネルソンは、一九六八年、ニューヨークに中央予言登録所を開設、アメリカ全土からアマチュア予言者の予言を募集した。しかし、登録所に寄せられた五〇〇〇件以上の予知夢や予感のうち、的中したのはたった四九件で、的中率は一パーセント以下だった。これは偶然で説明のつく数字である。たとえ何件かが本物の予知だったとしても、他の九九パーセント以上の誤った予言と区別する方法がない以上、実用にはなりそうにない。
サイコメトリー――物品に触れただけでその来歴や持ち主に関する情報を透視できるという能力は、もし実在するなら、犯罪捜査に絶大な威力を発揮するはずである実際、一九七〇年代、ロサンゼルス警察の協力を得て、超能力を持つと自称する一二人の被験者を対象に、実際の犯罪現場の遺留品を用いた透視実験が行なわれたことがある。結果はというと、被験者全員が惨憺《さんたん》たる成績で「犯罪捜査の一助としての超能力者の有用性は立証されなかった」と結論されている。
ダウジング――振り子や棒の力を借りて、地中に埋まっている物体を探り当てることができるという能力についても、アメリカ、ニュージーランド、イタリア、ドイツなどで大規模な実験が行なわれ、いずれも否定的な結果が出ている。
にもかかわらず多くの人がESPの存在を信じてきたのは、マスコミによる隠蔽《いんペい》工作の影響が大きいと、大和田氏は指摘する。テレビの超能力番組は、そうした超能力者の数多い失敗例を決して放映せず、たまたま的中した場面だけを放映する。時には制作スタッフぐるみで悪質なヤラセが行なわれることもある。明らかにはずれている透視結果をねじ曲げて「的中した」ことにしてしまったり、事前に超能力者に正解を洩《も》らしたりするのだ。
「ですから私は、超能力の存在はきわめて疑わしいと思います。たとえ存在するとしても、実験にかろうじてかかるかどうかという、きわめて微弱な力です。どう考えても、重いキャビネットを動かすなんて不可能なんです」
「では、どうしてアンネマリーの周囲で奇妙な現象が起きたんですか?」
「彼女は焦点になったんですよ」
「焦点?」
「超常現象はしばしば人間や場所を狙って起きます。氷は人間を狙って降ってくる。魚や種子は狭い場所に集中して、時には同じ場所に何度も降る。石つぶては、特定の家、特定の人間を狙って、何か月も、あるいは何年も降り続けます」
「場所や人間が焦点になる、ということですか?」
「ええ。アンネマリー・シュナイダーは明らかにポルターガイスト現象の中心でした。しかし、それは彼女が現象の原因であることを意味しません。彼女は――なぜか分かりませんが――現象の焦点になっただけなんです」
兄が「あっ」と声を上げた。
「じゃあ、スプーン曲げも!?」
「そうです。私はスプーン曲げは超能力ではないと考えています。正しくは『スプーン曲がり』とでも呼ぶべきでしょうね。子供たちは能動的に現象を起こしているのではなく、現象の焦点になっているだけなんです。だから彼らは能力を制御できない――能力ではないのだから当たり前ですよね」
「でも、子供たちは自分に能力があると思ってるわけですよね?」
「ええ――スキナーの『ハトにおける迷信』という実験をご存知ですか?」
「いいえ」
「B・F・スキナーという心理学者が行なった実験です。ハトを鳥かごの中に入れ、一定間隔で自動的に餌の出てくる装置を使って餌を与えます。するとまもなく、ハトは奇妙な行動を示すようになります。たとえば、たまたまハトが左に頭を向けていた時に餌が出てきたとします。そうした偶然が何度か重なると、ハトは誤って『頭を左に向ければ餌が出てくる』と学習してしまう。それでますます同じ行動を繰り返す。するといずれ餌が出てくるものだから、ますます確信を深める……実際には、ハトの行動と餌が出てくる間隔には、何の関係もないんですけどね。スキナーはこれを『ハトにおける迷信』と呼んでいます」
「つまり、子供たちが念じようと念じまいと関係なくスプーンは曲がると……?」
「そういうことです。もっとも、現象は長続きしません。いずれ現象が去れば、スプーンは曲がらなくなります。超心理学で言うところの『下降現象』というやつです」
「でも、どうしてです?」私は食い下がった。「何の原因もなしにスプーンが曲がるはずはないでしょう? 何か原因があるはずじゃないですか」
大和田氏は穏やかな笑みで答えた。
「科学的なメカニズムとなると、私にも分かりません。しかし、似たような現象はそれ以前にも起きています。スプーン曲げより二〇年以上前にね」
「二〇年以上前……?」
「正確に言うと……」彼は指を折って数えた。「二七年前ですか」
私は暗算した。一九七四年の二七年前というと……。
「一九四七年!」兄の方が計算が早かった。「そうか、ケネス・アーノルド事件!」
「そうです」大和田氏はうなずいた。「アーノルドが円盤を見たと誤って報じられてから、円盤が出現するようになりました。ゲラーが奇術でスプーンを曲げて見せてから、日本中の子供たちがスプーンを曲げられるようになりました。UFO、幽霊、スプーン曲げ……どれも同じです。超常現象というのは、まず人間の信念が先行する。現象があるから信じるんじゃなく、みんなが信じるから現象が起きるんです。
面白いことに、スプーンが曲げられるという子供の中には、UFOを見た体験のある子が少なくないんです。海外でも、ドクターXやロナルド・ジョンソンのように、UFOを目撃した後で超能力が身についたとか、ポルターガイストが起きたと主張する人は何人もいます。これは偶然ではないのかもしれない。つまり、UFO現象とポルターガイスト、それにスプーン曲げは、何らかの関係があるかもしれないんです」
「同じ現象の別の側面、ということですか?」
「その可能性はありますね。証拠が少ないので、断定はできませんが」
私は意外な論理展開に呆然《ぼうぜん》となった。一見、大和田氏の説は奇抜ではあるが、筋が通っている。超能力が存在することを示し、兄の間違いを証明したかったのに、これでは兄の説を補強しているようなものだ。大和田氏の説によれば、私たちが「超能力」と呼んでいるものは、UFO現象やポルターガイスト現象の一部だというのだから。
「でも――でも、それはやっぱり一種の超能力と呼べるんじゃないんですか?」私は小さな可能性にすがりつこうとした。「人間の信念によって現象が起きるのなら……」
「さあ、どうでしょうねえ?」大和田氏は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべた。「『能力』と呼ぶからには、何らかの力でなくてはならないわけでしょう? しかし、私にはどうも、信念と現象がダイレクトに結びついているように思えないんですよ。ESPにせよPKにせよ、もし人間の意志の力で起きるものなら、意志の強さに比例して強くなるはずなのに、そうなっていないんですから」
「鍛えれば強くなるんじゃないんですか?」
「そんな証拠はどこにもありません。カルト教団はよく『修行を積めば超能力が身につく』などと宣伝していますが、あんなのは嘘です。それは超心理学者も認めています。人間の持つ才能は、どんなものであれ、練習すればするほど上達します。しかし、超能力だけは例外です。いくら練習しても上達しないし、一時的に好成績を収めても、じきに下降現象が訪れる――これは超能力が『能力』ではないという証拠でしょう」
「能力じゃないとしたら、いったい何なんです?」
「こう考えたらどうでしょうね。自動ドアに近づくと、センサーが反応してドアが開きます。でも、私たちの力によって動くのではないですよね。いくら全力で走ってきても、ドアの開く速度が速くなるわけじゃない。ドアを動かしているのは、あくまでモーターの力なんですから――分かります?」
「ええ、何となく……」
「私たちはただドアに向かって歩いているだけ。ドアを動かす装置はどこか別にある――そんな気がしてしょうがないんですよ、私にはね」
私の頭にあるイメージが浮かんだ。神の創造したどてつもなく巨大な機械。それは地球全土を覆い尽くしているが、空気のように目に見えず、触れることもできない。人間たちは透明な超巨大機械のはざまでアリのようにこそこそ生きているが、その存在に気づきもしない。しかし、ごくまれに、見えないセンサーにひっかかってしまう者がいる。すると機械は動き出し、「現象」を吐き出す。人間はそれを自分の能力だと思いこむ――スキナーのハトのように。
私の身に起きたのもそれなのだろうか。
雨はまだ降り続いていた。
私はこの人なら信頼できると考え、大和田氏にすべてを打ち明けた。空から落ちてきたボルトのこと。兄が撮影したUFOのこと。そして兄の仮説……何もかも説明し、アドバイスを求めようと思ったのだ。
「確かによく写っていますね」彼は兄のビデオを見て、慎重にコメントした。「しかし、こういうと失礼ですが――」
「分かってます」兄は機先を制して言った。「証拠にはなりません。この程度の映像なら、パソコンで簡単に作れますから」
「そうなんですよねえ!」大和田氏は首を振り、苦笑した。「二〇世紀なら、こういう映像は『決定的証拠』と呼ばれたんですがね。パソコンが発達したおかげで、映像なんてもんに証拠能力はなくなってしまいました。八王子の事件みたいにね」
八王子の事件というのは、その前年に起きてマスコミを騒がせた「バーチャル脅迫事件」のことである。自衛隊幹部の不正給与疑惑を追及していたライターの蟻川《ありかわ》恭一郎《きょういちろう》は、売名のため、自分が自衛隊員から脅迫を受けているかのように装った。パソコンの知識のある蟻川は、黒ずくめの四人の男が自宅に乱入し、汚い言葉を吐いて乱暴|狼籍《ろうぜき》を働く場面をCGで制作、隠しカメラで撮った映像と称してマスコミに発表した。七分間の動画映像は専門家の画像分析でも見分けがつかないほど精巧なものだったが、あまりにもドラマチックな内容がかえって疑惑を招いた。結局、「どの声もみんな聞き覚えがある」というアニメマニアの指摘により、男たちの声がアニメ声優の声をサンプリングしただけだというマヌケなミスが発覚し、彼は世間の非難と嘲笑《ちょうしょう》にさらされた。
「今や一般庶民でさえ、ちょっとパソコンの知識さえあれば、本物と見分けのつかないリアルな映像を自由自在に創作できる時代です。UFOだろうとネッシーだろうと思いのままです。実際、すでにインターネットには偽情報があふれかえってますよ」
「知ってます」
私は言った。UFO関係のサイトを検索した際、その手のインチキ映像はうんざりするほど見た。「エリア51に隠されたUFOを隠し撮りした映像」だの、「異星人と握手するブッシュ」だの、「国際宇宙ステーションの近くでUFOがワープする瞬間」だの、「『E.T.』の撮影現場でスピルバーグに技術指導をしている本物のET」だの、「ビル・ゲイツがゴムのマスクを脱いでトカゲ型エイリアンとしての素顔を現わした場面」だのと称する代物だ。すぐにジョークと分かるものも多いが、あくまで本物だと言い張っているサイトもある。
「私たちは大変なパラダイムの転換を迫られていると言えるでしょうね。これからの時代、映像による証拠なんてものに、もう価値はなくなります。超常現象の報告を信じられるかどうかは、最終的には、報告者の人格が信頼できるかどうかにかかってくるんです」
大和田氏は私の渡したボルトをつまみ上げ、指でくるくる回して観察した。
「これもそうです。証拠能力という点から見ると、ゼロと言っていい。でも、私は信じますよ。あなたがたは嘘をつくような人に見えない。ホラを吹いて注目を集めたいなら、マスコミを利用するでしょう。私なんか騙したって、何のメリットもない――でしょう?」
「……はい」
私が恐縮して小さな声で言うと、彼は細い目をさらに細め、愉快そうに言った。
「面白いパラドックスじゃありませんか。コンピュータやインターネットが進歩したおかげで、人間同士の信頼というものが、かえって重視されるようになった。これからは機械を信用しない時代、心を大切にする時代になりますよ――いや、なるべきなんです」
「……なるといいですね」
そう答えながら、私は心に熱いものを感じていた。
私の体験を信じてくれたのは、葉月、兄に続いて、彼で三人目である。みんな物的証拠があるから信じたのではない(ボルトなど何の証拠にもならない!)。宗教的盲信から信じたのでもない。私という人間を信じてくれたのだ。私が彼らに体験を打ち明けたのも、彼らなら笑わずに信じてくれると信じたからだ。
確かに物的証拠は大事だ。しかし、それ以上に大切なのは、大和田氏の言うように、人間同士の信頼関係ではあるまいか。
「パラドックスといえば」大和田氏は兄に向き直った。「あなたの説だってそうですよね。最新の科学知識を駆使してたどりついた結論が、言ってみれば究極の反唯物論じゃありませんか。この世界のあらゆる物理的実在を否定しているわけですからね。違いますか?」
「その通りです」と兄。「こんなことを思いついたのは、僕が二一世紀の人間で、コンピュータや科学に詳しいからです。バーチャル・リアリティなんて概念を知らなかった一八世紀や一九世紀の人間には、決して思いつけなかったでしょう」
「でしょう? 私としては、その点が気にかかるんです」
「というと?」
「私には科学的なことはよく分かりませんが、確かにあなたの説は大変に魅力的だと思います。いちおう筋が通っているようには見える――しかし、エリオットソンやマイヤーズと同じ間違いをしている可能性がないと言えますか?」
「信念を事実に先行させているんじゃないかと?」
「そうです。あなたの説は、願望や信念からではなく、純粋に論理と証拠によって導かれたものであると断言できますか?」
兄はかなり長く考えこんでから、苦しそうに答えた。
「……断言できません」
「その答えが聞きたかったんです」
大和田氏は満足そうににっこり笑った。
「ほとんどの人は、自分の信念を補強する証拠だけを求め、否定的な証拠を探そうとしません。心理学者が言うところの確証バイアスというやつです。しかし、あなたがたは、自説の間違いが証明できるのではないかと考え、超能力について知ろうと、私を訪ねて来られた。私はその態度を評価したいんです。
その迷いを忘れてはいけませんよ。確信を抱くのがいちばん危ない。常に『自分は間違ってるんじゃないか』『論理ではなく盲信で動いてるんじゃないか』と問いかけることです。自分が間違っている可能性を探すこと。それが道を誤らないための唯一の方法です」
インタビューは雑談も交えて六時間にも及んだ。私たちはすっかり打ち解け、大和田氏に夕食までご馳走《ちそう》になってしまった。お茶漬けに自家製の漬物、焼いた川魚に鳥の臓物の煮付けという質素なものだったが、やけにおいしく感じられたのを覚えている。
大和田氏の家を辞去したのは七時過ぎだった。彼は大雨の中、わざわざレインコートを着て外に出て、私たちを見送ってくれた。
「いい人だったね?」
私が同意を求めると、ハンドルを握る兄はうなずいた。
「ああ、来て良かったよ。考えさせられたな。『自分は間違ってるんじゃないか』と問いかけること、か……いい言葉じゃないか」
「で、どうするの?」
「まだ僕の説が否定されたわけじゃない。でも、証明されたわけでもないからな。とりあえず否定的な証拠を探してみるよ」
「それがいいわね」
兄が理性を収り戻してくれたと思い、私はほっとしかけた。
「でも――」
「何?」
「あの人の話を聞いて、やっぱり何か大きなシステムが存在するように感じたな。僕の考える神と同じものかどうか分からないけど、物理法則を超越した大きな法則性が、目に見えないクモの巣みたいにこの世界を覆っている――そんな感じがした」
「…………」
私は撫で下ろしかけた胸が再び重くなるのを感じた。反論できなかった。私もまったく同じ印象を受けたのだから……。
風はいくらか弱まっていたものの、雨足は依然として強かった。ワイパーがひっきりなしに動いてはいるが、大きな雨粒が次から次にフロントガラスにぶつかってくるため、扇形の視界から前が見えるのはほんの一瞬でしかない。すぐ前を黄色い宅配便のトラックがのろのろと走っており、兄の運転もそれに合わせて慎重になっていた。増水した川沿いの曲がりくねった道だ。こんな日に追い越しをかけるのは危険である。
私たちの会話は途切れた。沈黙がいっそう重く心臓にのしかかる。そう、私の不安は何ひとつ取り除かれてはいないのだ。この世界は非情なフェッセンデンの操るシミュレーション・ゲームにすぎず、私たちは面白半分に弄《もてあそ》ばれているのではないかという不安……。
空は黒く、雲さえ見えない。私はそれを長く見上げていることができなかった。今にも黒い天幕がびりびりと破れ、その裂け目から巨大な顔が現われて、嘲《あざけ》り笑いながらこちらを見下ろすのではないかという妄想にとらわれたからだ。
嫌な天気だ――そう思ったとたん。
「ああ、嫌な天気だ……」
私の心を読んだかのように、兄が暗い声でつぶやいた。私はどきっとした。
「まるで――」
「言わないで!」
私が兄の方を向いてそう叫んだ瞬間――
ぼんっ!
頭上でドラムを強打するような音がして、天井がへこんだ。
「何だ!?」
兄が叫ぶ。その横顔の向こう、サイドウィンドウのすぐ外を、何か茶色っぽいものが転がり落ちるのが見えた 兄がブレーキをかけ、車は何メートルもスリップして止まった。
停車してから数秒間、私たちはなにも言わなかった。天井を打つ雨の音と、ワイパーがせわしなく往復する音だけが、車内にむなしく響いていた。前方では、やはり異変に気づいたのか、宅配便のトラックも黄色いランプを点滅させて停車していた。
「……何だ、今のは?」
兄は上半身をひねって天井を見上げ、消えそうな声でささやいた。天井は内側に大きくたわんでいる。何キロもある物体が勢いよく激突したに違いなかった。
私は激しい不安に襲われ、呼吸が速くなった。落石でもあったのか? いや、道路の右側は川、左側は民家と畑で、崩れてくるような崖《がけ》などない。それに、さっきサイドウィンドウの外を転がり落ちたあれは、一瞬だったが、人の形をしていたように見えた……。
私は後方に目を凝らした。滝のように流れる水に覆われたリアウィンドウのずっと向こう、暗いアスファルトの路上に、民家の窓から洩《も》れる明かりに照らされて、何か小さなものが横たわっているのが見えた。
私は恐ろしい予感にかられ、ダッシュボードから懐中電灯をひったくると、夢中で土砂降りの雨の中に飛び出した。たちまち服のまま風呂《ふろ》に飛びこんだようにびしょ濡れになる。肌に貼りつく濡れた布の嫌な感触にもかまわず、私は路上にあるものに駆け寄った。
その一メートル手前で、私は立ち止まった。
子供だった――二歳ぐらいの裸の男の子で、糸の切れたあやつり人形のようにぐったりとアスファルトに横たわり、雨に打たれている。南方系の顔立ちで、肌の色は濃く、生気の失われた黒い瞳《ひとみ》で空を見上げていた。落下した際に頭を強打したらしく、黒く長い髪の合間から流れ出した血が、急速に雨に洗い流されつつあった。
どこか遠くから子供の泣き声が聞こえた。私ははっとして懐中電灯を周囲に向けた。雨を貫いて伸びるビームが、様々なものを照らし出した。
川に面したガードレールには、別の裸の子供が洗濯物のようにひっかかっていた。近くの民家の屋根には子供が逆さまに突き刺さり、二本の足がにょっきりと空に向かって生えていた。近くの林の梢《こずえ》には、はっきりとは見定められないが、人のような形をしたものがぶら下がっていた。私が呆然と立ちつくしている間にも、一人の子供がアスファルトに叩きつけられて跳ね返ったり、別の子供が増水した川に垂直に落下し、濁流に飲まれるのが見えた……。
空から子供が降ってきたのだ。
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15+円崩壊
ホラー映画の中では、怪奇現象に遭遇したヒロインはけたたましい悲鳴を上げる。実際に恐ろしい超常現象に遭遇してみて、私はそれが嘘であることを知った。恐怖を感じるのはまだ正常である証拠、心が正しく世界を認識する能力を有している証拠だ。あまりにも異常な状況に直面した時、人は驚きや恐怖という感情さえ麻痺《まひ》してしまう。どんな反応を示していいのかさえ分からず、頭の中に濃い靄《もや》がかかったような状態になってしまうのだ。
私は悲鳴を上げもせず、取り乱しもしなかった。最初の衝撃から回復すると、「子供を助けなくては」という想いが湧き上がってきた。私は土砂降りの雨の中、かすかに聞こえる泣き声の主を探した。ガードレールから身を乗り出し、懐中電灯で川の土手を照らしてみると、斜面の草むらで茶色く小さなものがうごめいているのが見えた。うまく草がクッションになったので助かったのだろうが、今にも濁流に転げ落ちそうだ。私はその子を助けるため、降りしきる雨の中、斜面を降りていった。
その時の私は、確かに正気ではなかった。濡《ぬ》れた草は滑りやすく、ちょっと間違えれば自分が転落してしまう。普段なら恐ろしくて決してできない行動だが、私はためらうことなくやってのけた。
後になって思い出すと、それは夢の中の体験のように現実味がなかった。草につかまり、滑る足場に難渋しながら斜面を降りていったことも、泣いている女の子を抱き上げたことも、兄が垂らしたロープにつかまって這《は》い登ったことも、確かに覚えてはいるのだが、頭の中で再現しようとしても、まるで他人の行動を見下ろしているようで、自分がやったこととは思えないのだ。
ひとつだけ印象に残っているのは、駆けつけてきた救急隊員に子供を受け渡す際、「前にもこんなことがあった」という、ぼんやりとした感覚に苛《さいな》まれていたことだ。ずっと昔、こんな雨の中、泣いている小さな女の子を助けたことがあるような気がする……。
現実感覚が戻ってきたのは、救急車が子供を収容して走り去った後だった。私はひと息つくとともに、大きなくしゃみをした。その時初めて、自分がびしょ濡れで震えていることに気がついた。
同時に私は、既視感《デジャ・ビュ》の原因に思い当たり、記憶が混乱していたことに気づいた。私は雨の中で泣いている女の子を抱いたことがあるのではなかった――子供の頃、誰かに雨の中で抱き上げられ、救急車に乗せられたのだ。
私が助けた子供は運が良かった。三日後に下流で発見された遺体や、病院に運ばれる途中で死んだ子供も含めると、少なくとも三八人が命を落としたのだから。助かったのはたった三人だけだった。
数日後、テレビのワイドショーで、私の証言を元にした再現ビデオを見た。CGで再現された激流の横で、私に少しも似ていない女優が、悲痛な表情で子供に向かって手を伸ばし、「つかまってー!」と叫ぶのだ。あまりの気恥ずかしさに、私は思わずチャンネルを変えてしまった。私は叫びはしなかったし、断じてあんな顔はしていなかったはずだ。
もっとも、マスコミにも感謝すべき点はある。私と兄の本名を出さなかったことだ。 <昂《すばる》の子ら> 事件の時と同様、私の名前は常に仮名で報じられた。取材に来たマスコミ関係者の多くは、和久優歌=阿久津悠子だとは知らなかったし、現場に居合わせた理由について、「兄といっしょに知り合いの家に遊びに行った帰り」という単純な説明を信じた。たまたま何人か、 <昂の子ら> 事件の取材で顔|馴染《なじ》みになった人がいたが、「世間の注目を集めたくないから」という私の願いを聞き入れてくれた。
もう一人、感謝しなくてはならないのは、宅配便のトラックを運転していた木崎《きざき》一磨《かずまろ》さんだ。彼は本名でマスコミに露出し、自分が目撃した光景を詳しく語った。彼の証言がなければ、私たちが大量の子供を遺棄した犯人だと思われたかもしれない。
実際、警察は私たちや木崎さんを疑っていた。当然だろう。まともな人間なら「空から子供が降ってきた」などという途方もない話を信じられるわけがない。常識的に考えれば、誰か子供を捨てた者がいるに違いないのだ。
特に疑われたのは木崎さんだ。兄の車では四〇人以上もの子供を運ぶのは無理だからだ。しかし、私たちと木崎さんの証言が一致していることや、三人とも前科も怪しい背景もなく、大量の幼い子供を調達する手段を持たないし、そんなことをする動機もないことは明白だった。結局、警察は納得いかないまま、私たちを放免してくれた。
「こんなことをする人間に心当たりは?」
刑事の放った最後の質問に、私はちょっとためらってから、「いいえ、ありません」と答えた。それは本当だった。
私には、こんなことをする「人間」に、心当たりはない。
この常識を絶した異常な事件は、日本中を震撼《しんかん》させ、困惑させた。それから数週間、マスコミやネットでは、事件の真相をめぐって激論が巻き起こり、様々な珍説・怪説が飛び交った。
最も多かったのは、子供たちは何らかの理由で飛行機から投げ落とされたのだ、というものだった。しかし、あれだけの数の子供はセスナや小型ヘリには乗せられないし、あの悪天候で飛んでいた大型機はないと航空局は表明した。また、子供たちの遺体が受けた損傷を調べた法医学者は、それが秒速二〇メートル程度の激突によるものであり、落下距離はせいぜい二〇〜三〇メートルであると推測した。悪天候の中、山間部をそんな低空で飛ぶのは困難だ。
助かった三人の子供はまだ言葉が喋《しゃべ》れず、裸で、身元を示唆する手がかりはまったくなかったが、DNA鑑定の結果、みんなポリネシア系の人種であることが判明した。このことから、ポリネシアの貧しい人々から子供を買い取っている闇の組織がある、という説が出てきた。例によってその組織はコリアン系だと言われた。その組織は大勢の子供をコリアに連れてきて、移植用の臓器を切除し、闇のルートで売りさばこうとしたのだが、日本経由で輸送中、何かのトラブルでその計画が頓挫《とんざ》し、やむなく飛行機から遺棄しなくてはならなくなったのだ……というのである。
似たようなものとして、米軍による極秘のクローン人間製造計画の失敗作が遺棄されたのだという説があった。レーダーに捉《とら》えられなかったのはステルス爆撃機だったからだ、というのだ。しかし、臓器密売組織にせよ米軍にせよ、遺棄するならどうしてこっそりやらないのか、なぜ埼玉県の山間部にばらまく必要があったのかは、誰も説明できなかった。
他にも、悪魔を崇拝する狂信的な集団による儀式殺人だという説、宇宙人が子供に偽装した侵略者を送りこんできたのだという説もあったが、どれもまったくつじつまが合わなかった。どうも陰謀論者の頭の中では、秘密組織や米軍や悪魔主義者や宇宙人は、どんな不合理な行動をしても許されるものらしい。
当然のことながら、私たちや木崎さんも陰謀組織の一味だとみなす解釈もあった。子供が空から降ってきたという話自体が怪しいというのだ。実際、木崎さんは脅迫状のようなメール(文面が支離滅裂なので、脅迫なのかどうか警察も判断できなかった)を受け取ったし、街で通りすがりの人から罵倒《ばとう》を受けたこともあるという。私はというと、どうか本名がバレませんようにと祈るしかなかった。
少数ながら、ファフロッキーズとの関連に触れている解釈もあったが、その頃はまだ主流ではなく、ネットでも冷笑気味に紹介されることが多かった。大和田氏の言った通り、人は(オカルト信者でさえ)非合理的な解釈を認めようとはしないものなのだ。
埼玉県警は「詳細は調査中」を繰り返すばかりで、公式にはどんな見解も発表しなかったし、どんな解釈も肯定しようとはしなかった。彼らを責めるわけにもいくまい。こんな超常現象に合理的説明をつけろというのが無理なのだ。
私は大和田氏をこの騒ぎに巻きこみたくなかったので、彼とはしばらく会わないことにしていたが、電話ではよく話し合った。
「私が現象の焦点になっていると思われますか?」
ある夜、私は疑惑を思いきってぶつけてみた。彼は有機モニターの中でうなずいた。
「その可能性はありますね。ファフロッキーズは珍しい現象です。同じ人間が短期間に二度出くわすのは、偶然とは考えにくい」
「じゃあ、また同じことが起きると?」
私は内心、おびえていた。ボルトならまだしも、子供の雨など二度とごめんだ。あんな恐ろしい光景を見てよく発狂しなかったものだと、自分で驚いているぐらいだ。ましてそれが、私がその場にいたために起きた現象なのだとしたら――自分が殺したわけではないと分かってはいても、後味が悪すぎる。
「同じこととはかぎりませんよ」
「というと?」
「思い出してください。ファフロッキーズは独立した現象ではない。超常現象の一側面にすぎません。あなたのお兄さんがUFOを目撃されたのも、一連の現象のひとつなのかもしれない。あなただけではなく、あなたの身内も巻きこまれているのかもしれない」
私ははっとした。「もしかして、焦点は兄の方なのかも?」
仮に一連の現象が神によるコンタクトなのだとしたら、神とのコンタクトを望んでいる兄の方が焦点になるのが自然だ。神はただのフリーライターよりも、自分の正体に気づいた人物に興味を示すはずだから……。
そう考えてから私は、自分がすでに兄の説をほとんど信じてしまっていることに気づき、愕然《がくぜん》となった。
「その可能性もありますが、何とも言えませんね」大和田氏は慎重にコメントした。「何にしても、これからはしばらく注意が必要でしょう」
「分かりました。気をつけます」
そう言って電話を切ったものの、私は悩んだ。いったい何に気をつけろというのか? 空からいつ、何が降ってくるのか予想できないのでは、注意しようがないではないか。ずっと空を見上げて歩き続けるわけにもいくまい。おまけに大和田氏の説が正しいなら、ファフロッキーズは屋内でもおかまいなしに起きるという。寝ている間でさえ油断できないのだ。
このうえは、落ちてくるものが子供や大きな石や汚物ではないことを祈るしかない。
事件から一週間が過ぎた夜、私と兄と葉月は三人で焼肉を食べに行った。
「あの子たちが早く大きくなってくれないかなあ」肉をつつきながら、兄はぼやいていた。「そうすりゃ、何か喋ってくれるかもしれないのに」
「あの子たちが神様の使いだと思うの?」と私。
「その可能性はあるな。だとしたら、何かメッセージを携えてるってことは考えられるだろ」
「メッセージを伝えるだけにしちゃ、乱暴なやり方だわ」私にはそれが我慢ならなかった。「三八人もの子供を殺してるのよ? 神様は人の生命を何とも思ってないわけ!?」
「その点は確かにひどいと思う」兄はしぶしぶ認めた。「だからこそ調べる必要があるんだ。神の意図はいったい何なのか。どうしてこんなことをするのか。あの子たちを研究すれば、何か分かるかも……」
「ねえ、良輔さん?」葉月が兄に顔を寄せ、甘くささやきかけた。
「何?」
「ぶん殴っていい?」
兄はぎょっとした。見れば葉月はにこにこ笑いながら、硬く握り締めた拳《こぶし》を兄の顔面に突き出している。
「な……何だよ!?」
「そういう言い方って、すっごく腹が立つのよね」葉月はにこにこしながら、強い嫌悪をこめて言った。「『あの子たちを研究すれば』? 何よ、それ? あの子たちをいったい何だと思ってんの? ひどい目に遭ってかろうじて生き延びた、身寄りのないかわいそうな子供じゃないの。それを研究材料としか見ないわけ、あんたは?」
兄はたじろぎ、何か言い返そうとしたが、すぐに首をすくめ、頭を下げた。「……すまない」
「ま、無理もないけどね」葉月はあっさり拳を引っこめた。「あの子たちをちゃんと人間として見ている日本人が、はたして何人いることやら……」
それは私も危惧《きぐ》していることだった。神によって創造されたクローンのような存在とはいえ、人間であることに間違いない。げんに病院に収容された三人の子供たちは、言葉こそ喋らないが、普通の子供と同じように泣いたり笑ったりしているという。
私は子供たちの行く末が気がかりだった。いったいどんな人に育てられ、どんな人生を送るのだろう? 物心ついた時に、自分の素性のことで悩まないだろうか? あの恐ろしい事件のことを記憶しているのだろうか? 心に傷を負っていないだろうか……?
気まずい雰囲気になり、私たちはしばらく黙々と焼肉を頬張っていた。やがて、葉月が唐突に言った。
「ねえ良輔さん、結婚しない?」
動揺のあまり、兄は焼肉を落とし、私はビールをこぼしそうになった。
「何だよ、いきなり!?」
「いちおうこれでも、考えた末の結論なんだけどな」彼女はずいっと身を乗り出した。「例の仮説――あの子たちが神様の使いだって仮説、今は唱えてるのはあなた一人よね」
「それが?」
「でも、いずれ誰かが似たようなことを思いつくと思うのよね。そうした誰かが、もし何かの宗教の信者だったらどうする? あの子たちの一人を引き取って、育てようと思うんじゃないかしら?」
「神の使いとして?」
「そう、崇《あが》め奉るのよ。小さい頃からね。『お前は神の子だ。偉大なんだ』って、言い聞かせて育てるの……」葉月の口調には嫌悪と悲しみがこもっていた。「どんな子に育つと思う?」
私も兄も沈黙した。そんな可礁性は考えていなかったが、言われてみれば充分にありえることだ。そんな育てられ方をした子供の人格がどれほど歪《ゆが》んでしまうか、想像もつかない。
「だからさ、あたしたちが里親になって、引き取って育てるってのはどうかな。もちろん研究対象としてじゃなく、神の使いとしてでもない。一人の人間として育てるの。うまいことに良輔さんは第一発見者なんだし、『助けた子供に情が移ったから』と訴えれば通ると思うのよね」
「でも、里親って誰でもなれるの?」
「いちおう規定は調べたよ。里親になれる資格は、二五歳以上六〇歳未満、家が二部屋一〇畳以上あること。これはOKよね。問題は配偶者がいるかどうかなの。配偶者がいない場合、子供を育てた経験があるか、保健師・看護師・保育師の資格がないとダメなの。あたしにはどっちもない。だから配偶者が必要なの」
どうやら彼女は何日も前からこの案を考え、実現の可能性を調べていたらしい。
「でも、三人もいっぺんに育てられないでしょ?」
「育てるのは一人だけ。他の二人はどうなるか分からない。それでも少なくとも一人の子供の人生は救えると思うの」
「病院は?」
「辞める」
「辞めるって……」
葉月が医師になるために重ねてきた努力を知っているだけに、彼女があっさりそう言ったのに、私は唖然《あぜん》となった。
「もう決めたの」彼女はたいしたことではないかのように言った。「確かに医者にはなりたい。でも、よく考えてみると、あたしは医者である以前に一人の人間――柳葉月であるべきだってことに気がついたの。柳葉月としては何をすべきかを考えたの」
「……病院の不正の件?」
「そう! 柳葉月という人間は、不正を見て見ぬふりをしてちゃいけなかったのよ。それを続けてたら、たとえ医者になれても、あたしはあたしでなくなっちゃう。それに気がついたの。だから病院を辞めて、医者になる夢もあきらめるついでに、あの病院のやってる悪事を洗いざらいぶちまけてやろうと思ってる」
「親御さんは納得するの?」
「するわけないじゃん!」葉月は豪快に笑った。「あたしを医者にするためにどれだけ金注ぎこんだと思ってんの。大喧嘩《おおげんか》だよ。そんなの覚悟してる。でも、決めたんだ。親不孝と言われても、あたしはあたしらしい道を選ぶ」
私は反論しなかった。しても意味がない。葉月が何か決意したら、決してひるがえせないことは知っている。第一、彼女が決断するまでに要した時間と、夢を捨てなくてはいけない苦悩というものを考えれば、私にどうこう言えるものではない。
夢を持ち続けるのは勇気が要る――だが、夢を捨てるのは、時としてそれ以上に勇気の要ることなのだ。
「でも、引き取るなんて申し出たら、それこそ大騒ぎじゃない?」と私。「あの子たち、今、日本中の注目の的なんだから」
「そうだね」葉月はうなずいた。「もうちょっと騒ぎが収まるのを待った方がいいかも」
私たちにとっては幸いなことに、そして大多数の日本人にとっては不幸なことに、「子供の雨」事件が騒がれたのは、ほんの数週間にすぎなかった。日本人はじきにそんなことを忘れてしまったのだ。それ以上の重大事件が起きて、みんなそれどころではなくなったからだ。
ビッグ・クラッシュである。
破滅の前兆は何か月も前からあった。八月頃――ちょうど私が加古沢と再会した頃から、企業や一般庶民の中に、財産を円からAVPに交換する動きが顕著になっていた。九月に入ると、その交換量が無視できないほどになり、円はじりじりと下がりはじめた。それを受け、株価も不気味な変動を示していた。
いや、前兆はもっと前、一〇年以上前からあったのだ。バブル崩壊以後、日本は経済大国から世界最大の債務国へと転落していった。二〇〇一年の時点で、国と地方の長期債務残高の合計は六六六兆円。しかもそれは表に出ている分だけで、旧国鉄清算事業団や第三セクター、公務員の年金や退職金などの「隠れ借金」を含めれば一〇〇〇兆円に達するとささやかれていた。当時のGDP(国内総生産)は五〇〇兆円だから、その約二倍。日本という国は、全国民が国内で一年間に稼ぐ額をすべて使っても返しきれないほどの借金を抱えていたのである。しかもそれは、年間五〜六パーセントの割合で増え続けていた。
その時点で政府が抜本的な対策を打っておけば、どうにかなったはずだった。不良債権問題に真剣にメスを入れ、本格的な構造改革を行なっていれば――一時的に不況が深刻化し、失業者が増え、国民は不満の声を上げただろうが、それでも一〇年あれば経済を立て直すことは可能だったはずだ。
だが、歴代の内閣はみな、自分が悪役になるのを嫌がった。債務超過がバレて経済不振に陥るのを恐れたメガバンクや生保、大手企業グループも、改革を支持しなかった。公共事業で儲《もう》けている役人や建設業者も、既得権を手放したがらなかった。財務省は安寧を望み、日銀もそれに準じた。マスコミもこの問題を積極的に追及したがらず、政治家のスキャンダルやサッカーのニュースより大きく報じようとはしなかった。ニュースには新鮮さと意外性が求められており、何年も慢性化した問題は、報じる価値が薄いと思われていたのだ。
国民の危機感も薄かった。二〇〇四年の一時的な円暴落も、長い不況に慣れた庶民には「またか」という感覚で受け止められた。このままだと日本経済は破綻《はたん》すると警告する者が何人もいたが、イソップ童話の「狼と少年」のような扱いを受けた。何年も前から同じことを言っているが、まったく破綻しないではないか、と。
私自身も、国の負債というものを、何か遠い問題のように考えていたのを思い出す――自分の住んでいる国の危機だというのに。
政府は本格的な改革に手をつけることなく、国債発行額の九パーセント引き下げ、特殊法人の一部整理、郵便事業の民営化、デノミの実施、消費税引き上げなど、焼け石に水でしかない小手先の延命策でお茶を濁し、貴重な時間と税金を浪費した。加古沢が言うところの「戦力の逐次投入という、戦術上決して犯してはならない愚策」を繰り返したのだ。
その一方、日本は中国などの豊かな国に対して0DA(政府開発援助)をばらまき続け、何をしているのかもよく分からない多数の特殊法人を維持し続けた。それらは官僚や、業界に天下った元官僚の懐を潤しただけだった。
破局は先送りされたものの、慢性的な不況は続き、日本の債務はどうしようもなく膨らみ続けた。二〇一一年には一六兆新円、GDPの三倍以上に達していた。
二〇一一年一〇月、AVPへの交換が加速しはじめた時も、財務省や日銀は楽観的な見通しを発表していた。これは一時的な現象にすぎず、じきに安定する。むしろ少しばかりの円安やインフレは、輸出を活発化し、デフレに歯止めをかけるので好ましい……。
一一月に入って、本格的なクラッシュが襲ってきた。何百万という日本人、何百という大手企業が、AVPへの交換に走ったのだ。円が投げ売りされ、あっという間に二新円台を割った。大方の経済学者の予想に反して、下降はそこで止まらなかった。なおも下がり続け、二〇一一年の末までには、一ドル三・七新円、変動相場制に移行する前にまで下がってしまったのだ。国債は暴落し、紙切れ同然となった。
テレビもネットも、悲鳴で埋めつくされた。
その年が終わる前に、爆発的なインフレが襲ってきた。もはや財務省にも打つ手はなく、「国民の皆様におかれましては冷静な対処を」などという、毒にも薬にもならないコメントを繰り返すばかりだった。
私自身はというと、最初のうち、たいして経済的なダメージは受けなかった。つき合いはじめてすぐ、加古沢からアドバイスされ、生命保険を解約し、貯蓄のほとんどをAVPに替えていたからだ。その点では、彼の先見の明に感謝しなくてはなるまい。
「円はもうだめだよ」加古沢は会う人ごとにそう力説していた。「いや、もう何年も前からだめになってる。紙幣というのは言ってみれば、日銀が国民に対して発行している借用書みたいなものだ。国民から金を借りることで国家が成り立ってる。国にそれを返済する能力がないのなら、紙幣なんて紙屑《かみくず》同然さ。それがまだかろうじて価値を保ってるのは、大勢の日本人が『円には価値がある』という幻想を共有してるからってだけだ。その幻想が破れた時にクラッシュが起きる。いつ起きても不思議じゃない。悪いことは言わない。預金を失いたくないなら、九割はAVPに替えておくことだね」
当時、加古沢だけではなく、そう説く人間は何人もいた。彼らの言葉はネットを通して急速に広まった。円はもう危ない。じきに破綻する。一文無しにならないよう、今のうちにAVPに替えておけ……。
皮肉にも、そのブームがクラッシュの引き金となった。
AVPというものがまだ普及していなかったら、クラッシュが起きるのはもう少し先だったかもしれない。その前から、不安を覚えて手持ちの金をドルやユーロに替える人はいたが、多くの一般庶民にとって、外貨というのは縁のないもの、日常で使うには不便なものだった。だが、AVPは違う。登場からたった五年で、AVPシステムは全国のコンビニ、スーパー、デパートに広まり、クレジットカードよりも気楽に使われるようになっていた。国際的に通用するうえ、分散所有した各グループのVPから構成されているというそのシステム上、インフレやデフレに強いことも、人々に好まれた。
コンビニやスーパーでは奇妙な光景が進行していた。商品についている二つの価格のうち、円価格は毎週のように上昇してゆくのに、AVPはほとんど動かない。ポケタミをレジの赤外線ポートにかざしさえすれば、依然として牛乳一パックは七AVP、ジャガイモ一袋は四AVPで買えた。同じ店の中なのに、ハイパー・インフレと安定経済という矛盾する状況が、シュレディンガーの猫のように同時存在しているのだ。
誰が予想しただろう――当初は「ちょっと便利な電子商品券」にすぎなかったものが、いつの間にか本物の通貨を上回る信用性を獲得するなどとは。
もうひとつ、「子供の雨」事件も心理的に関係していると分析する学者もいる。その年の初頭の <昂の子ら> の悲劇に続き、あの異常な事件は「これからは何が起きるか分からない」という不安感を日本人に植えつけた。それが円信仰を崩壊させる最後の一押しになり、一一月に入ってのAVPへの交換を爆発的に加速したというのだ。とすると私は、日本経済崩壊のきっかけに居合わせたことになる。
円が値を下げると、それまで迷っていた人々も、遅まきながら円を売ってAVPに香えはじめた。するとさらに円が下がり、慌てて円を売る人が増える。それがさらに暴落を加速する――雪だるまとなって転がり落ちる円を買い支える者は、もはやいなくなった。
哀れなのは逃げる舟に乗り遅れた人たち――長年、円に親しみを抱き、手放すのをためらった人たちだった。一二月二〇日、政府が預金封鎖を強行した。下がり続ける円を守るために行なわれたこの処置は、しかし、崖《がけ》っぷちに立たされた庶民を地獄に突き落としただけの愚策だった。一日最高一〇〇〇新円までの引き出ししか許されなくなった人々は、銀行の金庫に眠る自分の財産が恐ろしいスピードで目減りしてゆくのを、震えながら見守ることしかできなかった。
日本人は暗澹《あんたん》たる気分で二〇一二年を迎えた。
同じ頃、もうひとつ破局したものがあった。私と加古沢の関係だ。
その頃、私は詳細な日記をつけていた。この文章はそれを元にして書いている。記憶に頼っていたら、心理学者が「記憶の利己的編集」と呼ぶ現象に陥っていただろう。その後の事件の影響で、加古沢が冷酷な悪役であり、私を騙《だま》して弄《もてあそ》んだのだと、自分に都合よく記憶を改竄《かいざん》していただろう。
そうではない。当時の日記を読むと、その頃の私は彼に対してまったく憎悪を抱いていなかったことが分かる。葉月の警告にもかかわらず、彼をまったく悪人だとは思っていなかったのだ。
「彼は純真すぎる」と、当時の私は書いている。「私のように、心の闇がない。それが玉に瑕《きず》かもしれない」
心の闇――衝撃的な体験によって心に負った傷を、私はそう呼んでいる。加古沢が私に語ったところによれば、彼は親に虐待を受けたことも、学校でいじめられたことも、もちろん災害や事故で愛する人を失ったこともない。健全すぎるほど健全な育ち方をしているのだ。小説の中で彼が描く、キャラクターたちのどろどろした愛憎劇は、すべて彼が読んだ小説から学んだもの、バーチャルな体験にすぎなかった。
彼は誰かを殺したいと思うほど憎んだことはないし、悲しみのあまり狂乱したことも、絶望のあまり死を考えたこともない。だから、大事件を起こした人間の動機としてよく挙げられる「世間への復讐《ふくしゅう》」というやつも、加古沢の場合には当てはまらない。彼は政府や学校や宗教団体や評論家たちを軽蔑《けいべつ》してはいたが、彼らに傷つけられたことなどなく、したがって復讐心などというものを抱きようがなかった。
日記の中から加古沢の邪悪の証拠を探し出すのは難しい。唯一、挙げられるとしたら、歴史に対する歪んだ興味ぐらいだ。
例のネットでの南京大虐殺論争を読んで、私は彼が正義感の強い人物だという印象を受けた。しかし、そうではなかった。加古沢自身が言っているように、自分が生まれる半世紀も前の事件は、彼にとって「人類の歴史上何度も繰り返されてきた愚行のひとつ」にすぎず、反感や嫌悪の対象にはなり得ないのだ。
南京大虐殺に興味を示したのは、彼が「大虐殺マニア」だからにすぎない。
「知り合いにイカレたサイコキラー・マニアがいてね」あるデートの日、サイコキラーもののサスペンス映画を観た後、彼は陽気に笑いながら言った。「『月刊/世界の殺人者』なんて雑誌を全冊揃えてて、エド・ゲインがすごいとか、テッド・バンディがすごいとか力説するんだ。冗談じゃない! あんな連中は歴史的に見ればほんの小者だよ。少なくとも一〇〇人以上は殺さなきゃ、すごいとは言えないね」
そう言って彼は、ローマ皇帝ネロ、メアリー一世、ヴラド・ツェペシュ、ジル・ド・レー、フレイ・トマス・デ・トルケマダ、ルドルフ・ヘスなどの名を挙げる。歴史の中の血塗られたエピソードが好きなのである。
とりわけ彼のお気に入りは、一七世紀イングランドの魔女狩り人マシュー・ホプキンスだった。ホプキンスは町から町へと回って、魔女と思われる人々を狩り出し、裸にして、自白するまで拷問にかけた。犠牲者が女性である場合には、拷問は彼の個人的|嗜好《しこう》を満足させたに違いない、と加古沢は推測する。そうやって、九年間に少なくとも二三〇人(もっと多いという説もある)もの無実の人間をいたぶったうえ、火刑台に送りこんだのだ。
ホプキンスの切り札は仕掛けのある短剣だった。錐《きり》のような細い刃が付いていて、ボタンを押すと柄の中に引っこむようになっていた。それで犠牲者の皮膚をつつき回す。魔女の身体には一箇所、痛みを感じない部分があると信じられていたからだ。さんざん犠牲者を痛めつけ、悲鳴を上げさせた末に、ここぞという場所に短剣を強く押しつけながらボタンを押す。すると、あたかも刃が皮膚に深く刺さっているように見える。にもかかわらず女は痛みを感じておらず、血も流れていない。さあ、これこそ魔女の印だ――というわけだ。
こうした話が伝わっているのだから、結局はホプキンスのトリックが露呈したことは間違いない。彼の末路については、二つの異なる説が伝わっている。ひとつは彼自身が悪魔と契約しているという疑いをかけられ、怒り狂った群集によって池に投げこまれたうえに処刑されたというもの。もうひとつは引退してマニングトゥリーで幸福な余生を送ったというものだ。
私としては前者であることを信じたい。罪を犯した者はその報いを受けるのだと――だが、それは希望的観測だ。歴史を見ると、そうでない例がたくさん見つかる。
「ホプキンスのすごいところは、趣味が実益を兼ねてたってことだ」と加古沢は感心する。「シリアルキラーは大勢いるが、快楽殺人で金儲けした奴はいない。ホプキンスは違う。魔女を一人見つけるごとに賞金として二〇シリングを貰《もら》ってたし、旅費、宿泊費、食費、みんな他人持ちだったんだ。残酷な趣味を公然と満足させながら、賞賛を受け、私腹を肥やしてたんだ。たいした奴だと思わないか?」
加古沢はまた、歴史を題材にしたブラックジョークをよく口にした。会う人ごとに披露していた(私は少なくとも三回聞いた)のは、一八世紀フランス、ルイ一五世の暗殺を図ったダミアンの公開処刑のエピソードだった。大勢の群集が見守る前で、ダミアンは焼けたペンチで皮膚を裂かれ、手足の指を打ち砕かれた。さらに四頭の馬に四肢を縛りつけられ、四方向に引っ張られながら、全身に熱した蝋《ろう》を注がれた。
なかなか手足がちぎれないので、馬方が馬に鞭を当てた。
「なんてひどいことを!」正面の席に座っていた美しい少女が泣き出した。「馬をあんなにいじめるなんて!」
誤解しないでいただきたい。彼は虐殺マニアではあったが、決して自分がそんなことをしたいとは思っていなかった。少なくとも、そんなことを公言したことは一度もない。ミステリ・マニアが殺人を犯そうと思っていなかったり、ミリタリー・マニアが戦争がしたいと思っていないのと同じだ。ただ、それが好きなだけだった。この程度の趣味は邪悪のうちに入らない。
それどころか、彼は現実に起きる虐殺事件に対して、軽蔑《けいべつ》さえしていた。二〇一二年一月一日、会社が潰《つぶ》れて自暴自棄になった男が明治神宮前で刃物を振るい、初詣《はつもうで》客一七人を殺傷した事件が起きた時も、「くだらん奴だ」と腹を立てていた。
「無関係の人間を殺してどうなる? 自分に何の得がある? まったく無意味だろうが。歴史に名が残るとでも思ったか? この程度の事件、一年もすりゃ忘れ去られるのにな」
今から思えば、その怒りも正義感ゆえではなかった。加古沢が許せなかったのは、人の生命が奪われること自体ではなく、無意味に奪われることに対してなのだ。
「一人の生命が地球よりも重いとは思わないが、それなりの価値はあるはずだろう? 人を殺すってことは、その価値をふいにするってことだ。大勢の人間を殺すなら、その価値に見合う大義名分がなけりゃおかしいのに、こいつにはそんなビジョンがまったくない。やけになって人を殺すだって? アホらしい!」
もちろん、これらの発言の端々から、未来の兆候を読み取ることはできる。だが、それは後知恵というものだ。彼が後にどんなことをしでかすか知っているから言えるのだ。
この時点の私には、それを予想することなど不可能だった。
では、破局の原因は何なのか。
彼の子供っぽい言動に対して不快感を覚えていたことは、前に書いた。にもかかわらず、私は彼を本気で嫌いになれなかった。それが彼の個性だと思っていたからだ。
それどころか、自分の方が悪いのでは、という思いが常にあった。つき合いはじめて何か月経っても、ベッドを何度共にしても、彼に対する愛情がまったく深まらなかったからだ。大学時代の不幸な男性関係を思い出し、やはり自分には欠陥があるのか、本当の恋ができないのかと悩んでいた。
心に深い闇を抱えていた私は、加古沢に対してコンプレックスを抱いていた。過去に縛られることなく、明るく自由奔放に生きる彼を羨《うらや》んでいた。日記の中には「私もあんな風になれたら」というフレーズが何度も出てくる。時として他人を怒らせる子供っぽい感情表現も、彼の自我が人一倍強いせいだと思っていた。
実を言えば、今でもそう思っている。彼は純真で、賢く、強い意志と実行力を持つ人間だったのだと――不幸にも、その意志の方向が間違っていただけなのだ。
私の少女時代の体験を話したこともある。その時の彼は、何となくばつが悪そうな顔をして、こう言ったものだった。
「あー……そういうのをいつまでも引きずってちゃ良くないんじゃない? 今が幸せになるように努力すべきだと思うんだよね」
自分の小説から引用したような、心のこもっていないその言葉に、私は失望した。彼はまるで分かっていない。過去は自分の意志で引きずるのではなく、否応なしにつきまとってくるものだということを……。
私はだんだん耐えられなくなってきた。作家としての加古沢は尊敬すべき存在だが、人間として愛することは難しい。彼は私の心の闇が理解できない。それどころか、私の過去に触れるのを嫌っている様子があった。彼にとって「悲劇」とは、歴史の本で読んだり、ビデオで見たり、自分の小説で書いたりするものであって、現実に直面する物ではないのだろう。
インフレの影響で、私が仕事をしていた出版社が潰れ、生活が不安になると、彼は「俺が養ってやろうか」と申し出た。本気だったと思う。少なくとも彼の好意を疑う理由はない。しかし、私はそれを断わることにした。これ以上、嫌いでもないが愛することもできない男とつき合い続けるのは苦しすぎる。いずれ破局が来るなら、早い方が傷は浅い。
そう思って私は、喫茶店で別れ話を切り出した。奇しくも <昂の子ら> 事件からちょうど一年後、二月一日のことだ。
「俺、どこか悪かった?」
私の言葉に対して、加古沢は少し考えてから、不思議そうに訊《たず》ねた。
私は必死に弁解した。あなたが悪いんじゃない。嫌いになったわけでもない。ただ、これ以上いっしょにいても好きになれないことが分かったから……。
「ふうん……」予想していたのか、彼はショックを受けている様子はなく、ただちょっと残念そうだった。「それが君の回答ってわけ?」
私は答えなかった。カップに口をつけるのも忘れ、スプーンで意味もなくミルクティーをかき混ぜ続けていた。気まずい時間だけが過ぎていった。
加古沢は窓の外に目をやった。私も見た。眼下の通りを、『政府退陣』『責任を取れ』などと書いたプラカードを掲げたデモ隊が、元気なさそうにぞろぞろと通り過ぎてゆく。彼が何を考えているのかは分かる。こんな世の中、私のようなフリーの人間は生きていくのが難しい。彼は何千万ものAVPを蓄えており、その庇護《ひご》の下に入れば安楽に暮らせるのは間違いない。その好条件を蹴《け》ってまで別れたいというのは……。
「結局は君も」と、彼はかすかな軽蔑をこめて言った「僕と世界を分かち合うのにふさわしくない女だった……ということかな?」
そう言うと、彼は自分の分のカフェオレに口をつけないまま、レシートを取って立ち上がり、レジに向かった。
取り残された私は、それから何分間もミルクティーを見下ろしたまま、じっと動けなかった。心の重荷を取り除いたつもりだったのに、見えない重荷がさらに重くのしかかってきた。愛していない男だったのに、どうして別れるのがこんなにつらいのか? そう言えば、大学時代の男と別れた時も、こんな嫌な気分だった。
その夜、 <スペースポート> から脱出してジャングルをさまよっていた時の、みじめな気分がよみがえってきた。やっぱり私は幸せにはなれないのかもしれない。幸せになるためには、人は自分の中の何かを捨てなくてはならないのかもしれない……。
長く考えこんでいたせいで、気がつくとミルクティーはすっかり冷めていた。もったいないから飲んでしまおうと、私はスプーンを引き揚げた。
「え……?」
スプーンを持ち上げたとたん、私はショックを受け、凍りついた。スプーンをじっと見つめる。自分が見ているものの意味を受け入れるのに、何秒もかかったと思う。
「冗談……でしょ?」私はかすれた声でつぶやいた。笑い出したい気分だった。「やっぱり……私が……そうなの?」
銀色のティースプーンは四五度ほど曲がっていた。
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16+生まれてきた負債
暗い世相の中、わずかではあるが明るいニュースもあった。新年早々、葉月が行なった内部告発によって、十耀会埼玉病院で起きた何件もの医療ミスとカルテ改竄《かいざん》が明るみに出たのだ。彼女は証拠となる資料を慎重に揃えたうえで、それらをネット上で公開、同時に警察とマスコミ各社にメールを送りつけた。もちろん私も協力し、寄稿しているウェブマガジンでこの一件を取り上げる一方、出入りしているいくつかの掲示板からリンクを張った。
反論されたり無視されたりしないよう、証拠固めに時間をかけた甲斐《かい》あって、効果は劇的だった。新聞やテレビが報じるよりも早く、ネット内をニュースが駆けめぐった。病院に勤める他の医師や看護師からも、葉月の主張を裏付ける証言が続出した。スキャンダルはほんの数日で周辺地区に知れ渡り、十耀会埼玉病院を訪れる患者は激減した。その一方、家族を医療ミスで殺されたことを知った人々が結束し、病院を訴えた。十耀会側にしてみれば、ハイパー・インフレで経営に打撃を受けた直後の患者数激減と訴訟のトリプルパンチである。ようやく警察が乗り出してきた時には、すでに十耀会グループは瀕死《ひんし》の状態だった。
院長と四名の医師、二人の事務員が逮捕された。十耀会はただちに遺族に謝罪するとともに、総額二三〇〇万AVPの慰謝料を支払うことで合意した(遺族側にしても、こんなご時世に何年も法廷で争う気にはなれなかったのだ)。
私は正義が行なわれたことに満足する一方、自分のしたことに不安も覚えていた。ほんの十数年で、インターネットはちょっと便利な道具から、巨大な力を持つ武器に成長してしまった。この武器の恐ろしさは、一般人でも簡単に扱えることにある。やり方しだいでは、一個人が広めた情報が何万という人間を動かし、大企業を倒すこともできるのだ。正しい目的で使われるなら、庶民にとってこれほど心強いものはない。だがもし、悪用されたなら……。
実際、ネットを悪用した事件は今世紀に入ってから数えきれないほど起きている。
二〇〇五年には、ある男性俳優に対して屈折した憎悪を抱いた妄想症の女性が、彼にまつわる事実無根のスキャンダルを流したことがあった。新聞社に勤める彼女は、社のサーバに本物の記事そっくりのページを置き、多くの掲示板からリンクを張ったのだ。新聞社がその不祥事に気づくまでの三六時間の間に、何十万人ものユーザーが偽記事を閲覧していた。URLが本物であるうえ、その内容も真に迫っていたため、多くの人が信じてしまった。
二〇〇七年、大手ネットゲーム <ポーラーライト> の悪評を広めて、大幅なイメージダウンを生じさせたのは、当時一九歳の少年だった。彼は実に二〇以上のハンドルネームを巧みに使い分けて、大手掲示板を舞台にややこしい自作自演を行ない、 <ポーラーライト> のプログラムにウイルスが仕組まれているというデマを流したのだ。その動機は「自分のお気に入りのキャラクターが死んでしまったのに腹が立って」という幼稚なものだった。
その他にも、タレントや有名人にまつわるデマは日常茶飯事だし、企業に関する悪評を流すことで株価を操作する手口もよく使われる。年季の入ったネットユーザーは、経験を重ねて賢くなっているので、簡単に風評に躍らされることはない。それでも根拠のない情報を信じてしまう人間は、必ず何割かはいる。どんなデタラメな嘘であろうと、信じる人間の数がある閾値《いきち》を超えると、情報は勝手に増殖を開始し、容易には打破されなくなる。
マスメディアや大企業や政府だけが大きな影響力を持っていた時代は、すでに過去のものとなっていた。旧メディアの凋落《ちょうらく》ははなはだしく、民営化したばかりのJIBSをはじめ、テレビ局や大手新聞社でさえ、不況のあおりで潰《つぶ》れる有様だった。人々は政府もマスメディアも信じなくなっていた。すでにインターネットが情報の中心になっていたのだ――誰でも発信でき、規制されることなく垂れ流される、信憑《しんぴょう》性の薄い情報の洪水が。
タレントのスキャンダルにせよ、ウイルスの噂にせよ、結局は頭のおかしい人間が行なった未熟な犯行にすぎず、真相を見破られるまで数日しか要しなかった。だが、それは犯人の力不足のせいではなかったのか? もっと頭のいい人間なら、パソコンの前に座ったままで、ネットの情報を大規模に操作し、爆弾テロに匹敵する破壊を行なうことも可能なのではないか? 私たちはいつの間にか、ネットというものを信頼しすぎてはいないだろうか?――葉月のキャンペーンに協力している間、私の頭にはしばしばそんな考えがよぎっていた。
だが、私のそんな危惧《きぐ》などよそに、人々はすぐに十耀会病院事件のことなど忘れ、蜜《みつ》に群がるアリのように、新たなニュースに惹《ひ》きつけられていった。
兄と葉月は二月一五日に結婚した。危惧した通り、葉月の両親は猛反対したため出席せず、少数の友人だけによる小規模な式だった。
簡素な結婚式を挙げたのは二人だけではあるまい。「戦後日本最悪の年」と評されたあの時期、金をかけた豪華な結婚式を挙げることができた幸運なカップルがどれぐらいいたか疑問だ。実際、控え室で世間話をした式場の関係者も、陰気な顔つきで、予約が激減していると語っていた。
二〇一二年三月、亀澤《かめざわ》内閣は総辞職。新たに誕生した浅海《あさみ》政権は、国民からの強い突き上げにより、ようやく預金封鎖解除を宣言した。預金者は銀行に殺到し、残っている円をAVPに替えた。すでに半年前の二五〇パーセントに達していたインフレ率は、この動きによってさらに加速した。遅まきながらIMF(国際通貨基金)が乗りこんできて、経済立て直しを指導しはじめたが、元通りになるのに何年かかるか、誰にも見当がつかなかった。
企業の中には、いち早く資産をAVPに替え、一次ダメージを最小限に食い止めたところも多かったが、その後に襲ってきたハイパー・インフレと不況からは逃れられなかった。海外投資家はすでに日本から資金を引き揚げていた。国債暴落と預金解約により、メガバンクが次々に破綻《はたん》した。その連鎖反応によって、いくつもの大企業、数えきれないほどの中小企業がばたばたと潰れた ようやく円の暴落が止まった時には、日本経済には破滅的な荒廃が広がっていた。倒産とリストラの激増により、失業者数は一年で三倍に跳ね上がった。
異変は海外にも深刻な影響を与えていた。政府がデフォルトを宣言するまでもなく、日本に貸し付けた債務の大半が戻ってこないのは、もはや明白だった。輸入量も激減し、日本に輸出していた東南アジア諸国は大きな痛手を受けた。経済大国の破綻により、さすがのAVPも一〇パーセント以上変動した。世界恐慌にまで発展しなかったのは、日本政府にドル建て資産を売却しないだけの理性があったことと(それをやっていたらドルも暴落しただろう)、AVPの強さが立証されたからだろう。
実際、ドルも一触即発の状況だった。国連の再三の警告にもかかわらず、アメリカ国内の創造論派と反創造論派の争いはテロの応酬を呼び、内戦にまで発展しかねないほど深刻化していた。それでもどうにか安定を保っていたのは、内戦が勃発《ぼっぱつ》したらドルも急落し、全世界に破滅的な影響が広がると懸念されていたからだ――アメリカ人にもまだ、世界破局へのボタンを押すのをためらうだけの理性があったのだ。
一九二九年の世界恐慌の原因は、当時の基軸通貨であるポンドが凋落する一方、ドルがまだ基軸通貨の役割を果たせなかったためだと言われている。恐慌後の世界経済はドルを中心に動いてきた。それからすでに八三年、投資家たちの間では、信用できなくなったドルに替わって、AVPが新たな基軸通貨として注目を集めていた。
政府の発行する紙切れよりも、企業体の発行する電子的なデータの方が、今や力を持つようになっていたのだ。
仕事先が減ったため、私の生活も苦しくなっていた。紙の本にしがみついていた古いタイプの出版社は、何年も前から電子出版に押されて売り上げが落ちており、負債を抱えて次々に倒産した。こんな状況ではAVPの蓄えもいつまで続くか分からず、私は売れなかった頃の倹約生活に逆戻りした。
幸い、ウェブマガジンはさほど人気が落ちていなかった。明日の生活に不安を抱く人々が、少しでも多くの情報を安く得ようと躍起になっていたからだ。私はどんな仕事でも精力的に引き受け、街を駆け回って情報を集めた。
どこへ行っても暗いニュースばかりだった。一家心中、線路への飛びこみ、ビルからの飛び降りなどは、もはやいちいちメディアが取り上げないほど日常茶飯事になってしまった。犯罪も増加した。金目当ての強盗やひったくりはもちろん、放火したり、街中で刃物を振り回すなど、無関係の人間を巻きこんだやけっぱちな無差別殺人も増えた。国会には連日、デモ隊が押しかけ、鍋《なべ》や空き缶を叩《たた》きながら無能な政治家たちを罵倒《ばとう》していたが、それでどうなるというものでもなかった。
日本人はみんな絶望していた。
取材先では何度も胸が痛くなるエピソードに遭遇した。中でもショックだったのは、三年前に取材した密入国者の金《キム》さんが殺されていたのを知ったことだ。
誕生直後の統一コリアが日本以上の不況と混乱に見舞われていた頃、日本に密航してきた多くの朝鮮人は、今では仕事にあぶれ、本国に帰ることもままならず、餓死の危機に直面していた。やむなく犯罪に手を染める物も多く、首都圏を中心に暗躍するコリア系強盗団による被害が急増していた。地元のやくざとの軋轢《あつれき》や、犯罪グループ同士の対立も激しくなり、血生臭い抗争が何度も起きた。金さんは下町の工場で実直に働きながら、自分の生活費を削ってまで、本国に残してきた妻と子供に送金していたのだが、夜中に襲ってきたやくざに胸を刺されたのだ。たまたま同じアパートに住んでいた同じ姓の人物と間違えられたらしい。
だが、私の胸をさらに痛くしたのは、事件を担当していた刑事が、笑いながらこう言ったことだった。
「間違えてもしょうがねえよなあ。あいつらはみんな似たような名前だもんな」
罪もない人が殺されたことがどうして笑い話になるのか、私には理解できなかった。
クラッシュによって最も大きな被害を受けたのは老人たちだろう。ペイオフ制度によって一〇万新円までの預金は保護されていたとはいえ、今やそれも崩壊前の三分の一程度の価値しかなく、せいぜい一〜二年を生き延びられる額でしかなかった。生保も国民年金も破綻し、老後の保障は失われた。何千、何万という老人が未来を悲観し、生命を絶った。
私は大和田氏のことが気がかりだった。あれから何回も会ったり、電話で話したりするうち、すっかり彼の人柄に惹《ひ》かれ、昔からの友人のように親しい関係になっていた。彼には身寄りがないし、退職して何年にもなるので預金の蓄えも少なく、それもインフレによってほとんど失われていた。これからどうやって生きてゆくのか心配で、私はよく、ちょっとした食べ物などを持って、彼の家に様子を見に行ったものだ。
「こんなのは敗戦の時に比べりゃあ、たいしたことはありゃしないよ」私の心配を、彼は明るく笑い飛ばした。「あの頃の東京は焼け野原、何にもなかったからねえ。その日の米を手に入れるのだって大変だった。私はまだ子供だったけどね。毎日、薄い水団《すいとん》ばかりで、栄養失調になったもんさ」
私は大和田氏が心配かけまいとやせ我慢をしているのではないかと疑っていたが、まったくそんな様子はなさそうだった。彼は苦しかった少年時代の思い出を楽しげに語った。
「鍛えられてる、というわけですか?」
「まあね。『戦後最悪』だなんて、本当の戦後を知らない奴が言ってるんだ。あの頃に比べりゃ、今はビルが建ち並んでる。電気や水道もある。シラミもいない。みんないい服を着てる。店には品物もある……天国みたいなもんさ。無いのは金だけだ」
「お金が無かったら生きていけませんよ」
「近所の子供を集めて学習塾を開こうかと思ってるんだ。私にできるのは教えることだけだし、学費が払えなくなって子供を学校にやれない親が、この近くにも何人もいるしね」
「それで食べていけます?」
「うーん、食べていけなきゃ、その時のことさ。もう充分に長く生きたし、野垂れ死にしたって泣く者もいない――」
「私は泣きます」
彼は優しく微笑んだ。「訂正。泣いてくれる人が一人でもいるなら、悔いはない。安らかに死ねるってもんだ」
「だから死なないでくださいってば。あなたとはまだまだいっぱいお話がしたいんですから」
「例の件かい?」
「それもありますけど……」
「ちょっと待ちなさい。見せたいものがある」
彼はパソコンを起動させた。プログラムを立ち上げると、モニターに何色もの折れ線グラフが現われた。
「今日、君が来るというんで、データをまとめてみたんだ。まだちょっと手直しが必要なんだが、できたら後でメールで送るよ」
「何ですか?」
「この二〇年間に世界各地で起きた超常現象の件数を、年別にグラフにしたんだ。赤がUFO目撃、青がファフロッキーズ、緑がポルターガイスト……」
私は画面に見入った。どの折れ線も、ジグザグに上下しているものの、明らかに上昇傾向にある。特に二〇〇五年以降は、タンジェント曲線のような勢いで急上昇していた。二〇一一年のUFO目撃件数は、一〇年前の四倍以上になっている。
「もちろん、正確なデータとは言えないよ」大和田氏は慎重だった。「嘘と分かったものは除外してあるが、それでも嘘の報告はたくさん含まれてるだろうしね。それにUFOは大きな事件が起きると地域的なブームになって、その影響で目撃集中《フラップ》が起きる。マスコミがUFOのニュースを流すと、興味を持って空を見上げる人間が増えて、UFOの目撃件数も増えるんだ。でも、この傾向は――」
彼はグラフを指でたどった。
「それだけじゃ説明がつかない」
私は動揺した。「超常現象が……増えてる?」
「それも加速度的にね」彼はうなずいた。「今年の一月と二月のデータもまとめてみたんだが、すでに去年の半年分を上回る件数なんだ」
大和田氏はネットから拾い上げたいくつかの事件を見せてくれた。
ブラジルのベレンでは、エスメラルダ・ルイスという主婦が、コインの雨を何度も経験していた。コインの種類はセント、シリング、円など様々で、食事中でも外出中でも関係なしに降ってくるという。彼女はこの奇跡を神の恩寵《おんちょう》と確信し、早くもカルト集団を結成して、信者を集めていた。
インドのメーサナでは、深夜、銀色のスカートを穿《は》いた白人女性が農場に現われ、流暢《りゅうちょう》なヒンドゥー語で一杯の水を要求した。農場主が水を与えると、彼女はお礼にドル紙幣を渡し、「空飛ぶオートバイ」に乗って飛び去った。
フランス南部のタラスコン郊外にある村では、牧場を横切って行進する一八世紀風の兵士の一団が、大勢の村人によって目撃された。彼らが去った後に落ちていた帽子は、確かに現在の縫製技術で作られたものではなかった。
エクアドルのカヤンベ山では、二匹のドラゴンが空に現われ、一時間以上も取っ組み合いを演じた。その光景は二人のカメラマンによって別々に撮影され、画像がネットにアップされていた。それは中世の絵画に出てくるドラゴンそのものだったため、鮮明であるにもかかわらず、リアリティが感じられなかった。
コートジボアールのアビジャンでは、街の大通りに大きな雄牛が落下し、高級自動車を叩き潰した。スウェーデンのダンネムーラの教会では、マリア像が血の涙を流した。中国の山西省では鍋型のUFOが、ロシアのベレズニキではV字型のUFOが撮影された。オーストラリアのシュガーローフ岬上空に出現したアイスクリーム・コーン形のUFOは、少なくとも二〇〇人の町民によって目撃されている……。
その他にも信頼できる何十件もの報告がある。それらはすべて、たった二か月の間に起きたものなのだ。一年三か月前、 <昂の子ら> でUFO情報を集めていた時よりも、超常現象の件数は明らかに増えていた。
「どういうことなんでしょう?」
「まったく分からないね」大和田氏は素直に認めた。「しかし、見れば見るほど、君のお兄さんの説に疑問を覚えるね。本当に神が人間にコンタクトしよすとしているなら、なぜこんなことをするんだろう。確かに神は人間とメンタリティの異なる存在かもしれない。しかしね、高い知能を持つ存在ならなおさら、人間の心理というものを分析してるんじゃないのかな? メッセージを送ってくるにしても、もう少し私たちのメンタリティに合わせた方法を考慮するんじゃないだろうか。こんな支離滅裂なやり方じゃなく」
それは私もずっと気になっていた。世界各地で起きている現象には、見たところ何の関連性も規則性も見当たらない。
「もっとも、超常現象が急速に増えているのは事実だ。神のしわざかどうかは分からないが、地球全体に大きな変化が生じているように思えるね」
「というと?」
「うん。こういう言い方はあまりしたくないんだが……」大和田氏は顎《あご》をさすり、慎重に言葉を選ぶように言った。「これは何かの――そう、予兆≠ゥもしれないね」
「予兆?」
「もうじき何かが起きるのかもしれない」
「何が?」
「さあねえ」彼はかぶりを振った。「分からないよ――私は神様じゃないからね」
多かれ少なかれ、すべての日本人や日本企業が不況の影響を受けたものの、影響を受けにくかった業種もいくつかあった。たとえば宅配業だ。円主流経済からAVP主流経済への移行は、ネットを通したダイレクト流通を増加させた。物価上昇に苦しむ人々は、少しでも安いものを求めて、問屋や小売店を通さず、生産者が直販する商品をネットで買うようになったのだ。個人の宅配便利用数は一年で二〇パーセントも増えたと言われている。
兄が関わっているゲーム業界も、他の業種ほどにはインフレの影響を受けなかった。マシンやソフトの生産はほとんど海外で行なっているうえ、国内の需要は減っても、国内の何倍もの海外市場があるからだ。実際、『ダーウィンズ・ガーデン』シリーズは、世界二〇か国で総計三九〇〇万本の売り上げを記録していた(欧米の創造論者たちは、「進化論という迷妄を子供に刷りこもうとする陰謀だ」と、眉《まゆ》をひそめていたが)。
兄の勤める日本ウルテクでも、以前から進められていた新作ゲームの開発プロジェクトが続行していた。不況でダメージを受けたゲーム会社にとって、海外で売れるソフトを開発することは、起死回生のチャンスと考えられていた。
兄が開発していたゲームのタイトルは『ドーキンズ・ガーデン』――その名の通り、今度はリチャード・ドーキンスのミーム仮説をシミュレートするゲームだ(『ドーキンシズ・ガーデン』では語呂《ごろ》が悪いと判断されたのだ)。
今度のアーフは人間に似た姿をしており、進化はしない。進化するのは各アーフが所有するミーム(信念と言ってもいいが)なのだ。それは様々な形状のブロックの組み合わせで表現されており、画面上を歩き回っているアーフにカーソルを合わせると、マンガのような吹き出しがポップアップして、その中に表示される。アーフたちは自分の持つミームを、他のアーフに伝えようとする。
広大なフィールド上に分布するアーフの総数は約一〇万。アーフ同士がぶつかり合うと、ミームのデータが交換される。ミームが混ざり合い、新たなミームが生まれるのだ。これは生物の生殖行為、人間同士の議論や雑談に相当する。また、アーフの内部で突然変異が起こり、まったく新しい形のミームが誕生することもある。これは人間が独創的なアイデアを思いついたことを意味する。
遺伝子と同様、ミームは生き残ることを目指して進化する。もっとも、単純に移動速度を生存競争の指標に用いていた『ダーウィンズ・ガーデン』とは違い、今度のゲームではいろいろ複雑なルールが導入されていた。
ミームの形状があまりにも違いすぎる場合、データ交換は生じない。この場合、アーフは平和的に別れるか、さもなければ戦闘になる。勝敗の確率はきっかり五〇パーセント。負けた側のアーフは消滅するが、世界のどこかに新たに白紙のアーフが誕生するので、世界全体のアーフの総数は変化しない。
同じミームを共有するアーフ同士は、互いに接近しようとする傾向がある。アーフが一箇所に多く集まると、彼らは自分たちのミームを具象化しはじめる。フィールド上に散らばっているブロックを集め、ミームと同じ形のモニュメントを作るのだ。より多数のアーフが協力するほど、大きなモニュメントができる。これは人間が宗教的建造物を建てたり、聖典を書いたりする行為に匹敵する。
完成したモニュメントに近づくことによって、アーフはそのミームを受け取る。大きなモニュメントほど広範囲に影響を与え、「信者」を増やす。また、常にモニュメントの周囲に群がることによって、「信者」は他のミームにさらされる機会が少なくなり、その信念はより強固になる。ある程度まで増えた信者はフィールド上の他の場所に移動し、そこで新たなモニュメントを建てて仲間を増やそうとする(「布教活動」だ)。利用できるブロックの数は有限なので、モニュメントを増やそうと思ったら、他のモニュメントを破壊することも必要になる。
ユーザーはゲームの最初、各ブロックに様々なパラメータを割り当てることができる。たとえば円錐《えんすい》は攻撃性、球形は平和性、薄い板は防御性、立方体は拡散性、正八面体は創造性、円柱形は妥協性といった具合だ。円錐を多用したミームを持つアーフはきわめて攻撃的で、他のモニュメントに出会うと破壊しようとするし、自分と異なるミームを持つアーフに出会うと、高い確率で戦闘をしかける。球形を多用したミームはその反対で、異なるミームと共存しようとする。板を多用したミームは、積極的に攻撃を仕掛けることは少なく、自分の属する集団が攻撃を受けた場合にのみ侵略者に対して報復する。立方体を多用したミームは布教活動を頻繁に行なうし、正八面体を多用したミームは突然変異を多発させ、急速に形を変える。門柱形を多用したミームは、他のミームを拒絶する確率が小さく、新たなデータを受け入れやすい……。
ミームは「信者」を増やし、生き残りの道を模索して、自らの姿を進化させてゆく。こうしてフィールド上には、複雑な図形の組み合わせでできた不思議なアブストラクト彫刻が立ち並ぶ。
兄たちは何千時間にも及ぶ試行錯誤の末、アーフの世界に現実世界の歴史に似たダイナミックな変化を生じさせることに成功した。攻撃性の高いアーフの集団が大軍を結成して、異質なミームを持つアーフを殺戮《さつりく》し、モニュメントを片っ端から破壊しながら、フィールド上を蹂躙《じゅうりん》してゆくのを見た(兄はそれを「十字軍」と呼んだ)。 同規模の相容れないミーム集団同士がぶつかり合い、大量の死者が出るのを見た(これは当然「宗教戦争」だ)。拡散性の高いアーフが徒党を組んで、単独でさまよっている他のアーフを取り囲み、強引にミーム交換を仕掛けて仲間にする光景も見られた(「拉致《らち》監禁」と「洗脳」?)。
「じゃあ、攻撃性とか拡散性の高いミームが有利ってこと?」
仕事場を見学した私の素朴な疑問に、兄はていねいに答えてくれた。
「そうとも限らないんだな。そうしたミームを共有するアーフ集団は、戦う機会が多いから、勢力を疲弊しやすい。大規模な戦争が起きた後には、白紙のアーフが大量に発生して、そこからまったく新しいミーム集団が台頭してくることもある。戦いばかり続けていると足をすくわれることになる。
長期的に安定して繁栄できるのは、拡散性がそこそこあって防御性の高いミームだ。外敵の侵略に対して強いからね。でも、いつまでも繁栄が続くわけじゃない。防御性にせよ攻撃性にせよ、他の集団との生存競争がなければ不要なものだから、平和が長く続くと戦うことを忘れて退化してゆくんだ。一時はフィールドのほとんどを支配した攻撃的なミームが、時間が経つにつれて弱体化して、突然変異で生まれた新しい宗派にあっさり乗っ取られたこともある」
なるほど、いろいろ教訓を含んだゲームである。
私は感心したものの、正直なところ、『ダーウィンズ・ガーデン』ほどの魅力を感じなかった。モニュメントを建てるのを競うというテーマが、生物の進化競争に比べて、どうも地味なものに感じられたからだ。だが、兄がこのゲームの開発に情熱を傾けている理由は理解できた。
兄は神の意図を知りたがっているのだ。
「アーフの世界は現実世界の縮図なんだ」兄はモニター上にうごめく何百ものアーフの群れを指して言った。「ゲームは現実について考えるヒントになる。シミュレーションをもっと現実に近づけていけば、現実とは何かが分かってくるし、神が何の目的でこの世界を創造したのか、僕たちに何を伝えようとしているのか、その手がかりがつかめるんじゃないかと思うんだ」
「でも、神は人間の心理を理解できないって言ったのは兄さんでしょ? 神が人間を理解できないのに、人間が神の心を理解できるの?」
「もちろん神を完全に理解するなんて不可能だろう。でも、知的な存在であるかぎり、理解し合える部分が絶対あると思うんだ。僕はアーフたちにとって神だ。世界を神の視点から見下ろせば、神が人間のことをどう考えてるか、ある程度は推測できるんじゃないか。言ってみれば、神の役割を疑似体験することで、神の心理をシミュレートするわけだ」
私はその言葉にかすかな嫌悪を覚えた。
「……フェッセンデンの宇宙ね」
「え?」
「SFよ。人工の小さな宇宙を創った科学者の話。その宇宙に住んでいる小さな生き物を、面白半分に殺すの」
「僕はアーフを面白半分に殺しちゃいないぞ」
「兄さんはそうじゃなくても、他のプレイヤーはどうなの? 『ダーウィンズ・ガーデン』でも、神になったつもりで、面白半分に環境を破壊しまくったプレイヤーがいるんじゃないの? このゲームでも、きっとそういうプレイヤーは現われるわよ」
私はそれから、かねてから胸に秘めていた疑問を口にした。
「ねえ、もしそうだったらどうする? もし神がこの世界に対して――」
「言うな」兄はモニターを見つめたまま言った。
「でも、もし――」
「言うなってば!」
モニターを見る兄の険しい横顔に気づき、私は口をつぐんだ。
浅はかだった。賢明な兄がその可能性に気がついていないはずがないではないか。いや、私よりも先に気がついていたはずだ。彼がこんなにも神の意図を探る研究に熱中しているのも、その恐ろしい考えを否定したいからだろう――神がゲーム感覚で世界を弄《もてあそ》んでいるのではなく、必ず何か筋の通った意図があると信じたいのだ。
「その可能性は――認めたくない」
兄の言葉は苦しげだった。
兄の収入が安定しているのは、無職になった葉月には幸いなことだった。共稼ぎする必要がなく、主婦業に専念できるからだ。里親になるには、児童相談所による家庭調査や、都道府県知事と児童福祉審議会による認定を経なくてはならないのだが、夫婦ともに忙しく働いている場合、子供を育てる環境にふさわしくないと判定されることがあるという。
あの助かった三人の子供(女の子が二人、男の子が一人)は、怪我も治り、埼玉県内の福祉施設に預けられてすくすくと成長していた。最初のうちは知的な反応を示さないため、障害があるのではと心配されていたのだが、事件から半年が経つ頃には、少しずつではあるが言葉も喋《しゃべ》れるようになっていた。
私は事件の関係者という立場を利用して、葉月とともに、特別に施設を見学させてもらったことがある。ちょっと狭いな、というのが第一印象だった。ちょうど雨の日で、外で遊べなかったため、年長児のクラスでは、幼稚園の教室ぐらいの部屋に二〇人以上の子供がひしめいていた。
三人がいたのは、三歳までの乳幼児のクラスだった。他の身寄りのない子供たちといっしょに、積み木で遊んだり、慣れないクレヨンを握って絵を描いたりしていた。その振舞いはごく自然で、南方系の顔立ちとやや浅黒い肌の色以外、見たところ普通の子供とまったく変わりがなかった。
葉月が目をつけていたのは、紗奈《さな》と名づけられた女の子――私が土手から救い上げたあの子供だった。もっとも、本人は私の顔など覚えていないらしく、あいさつをしても黒いくりくりした眼をきょとんとさせているだけだった。とは言うものの、人見知りはしない性格らしく、私たちを怖がりも拒絶もしなかった。
私たちはいっしょに積み木遊びをしたり、絵本を読んだりして、一時間ほどを過ごした。紗奈はすっかり打ち解け、葉月を「おーたー、おーたー」(「おばさん」の意味か?)と慕うようになった。どうやら反応は上々のようだ。
「本当は里親さんの希望で特定の子供を指定することはできないんですよ」
案内してくれた施設の女性職員が、複雑な表情で説明した。
「ええ、知ってます」
葉月は子供をだっこしながら答えた。どの子供をどの希望家庭に里子に出すかは、児童相談所と福祉施設の協議によって決まる。そうでないと器量の良い子供ばかりが選ばれ、不公平になるからだ。
「でも、こんな世の中でしょう? 子供の引き取り手も少ないし、県からの援助金も大幅にカットされるしで……正直なところ、こちらとしては一人でも多くの子供を里子に出して、負担を軽くしたいんです。だからたぶん、あなたの申請も通ると思いますよ」
「そんなに大変なんですか?」
「ええ」彼女は室内にいる十数人の子供を見回し、暗い顔でうなずいた。「本当に……これからどうすればいいんでしょうねえ。ただでさえ、この半年で六人も子供が増えたのに……」
「六人?」
「ほら、たとえばあの子」
彼女は遊戯室の隅にいる女の子を指差した。三歳ぐらいだろうか。他の子供達から離れ、寂しそうにおもちゃのピアノで遊んでいる。
「二週間前に来たんです。一家心中で、一人だけ生き残って……他にも二人、同じような境遇の子供がいます」
私ははっとしてその子を見つめた。女の子は人差し指でぽつりぽつりと鍵盤《けんばん》を叩いていたが、機械的な動作で、まったく楽しくなさそうだった。その黒い瞳《ひとみ》はガラス玉のように空《うつ》ろで、何の感情も宿っていない。
私は息が詰まった。私もあの時、あんな目をしていたのだろうか。そしてこの子もまた、「目覚めの日」を空しく待ちながら時を過ごすのだろうか……?
「他の施設も似たような状況なんです」呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしている私の頭に、職員の暗い声が響いた。「『子供を育てる金がない、引き取ってくれ』って泣きついて来られる方が増えてるんですけど、すべてお断わりしてるんです。今、日本中どこの施設も定員オーバーで、経済的な理由では子供はお引き取りできないんです。親御さんが亡くなったり、捨てられたりして、身寄りのない子供だけは緊急措置として引き取ってるんですけど。おかげで赤字なんです。食費も大幅に切り詰めなくちゃいけませんから、満足においしいものも食べさせられなくて……」
脳裏に目まぐるしくイメージが去来した。日本各地の福祉施設に収容された何千人もの子供たち。愚かな政治家たちの怠慢が原因で、いきなり親を失い、あるいは親から捨てられて、悲しみに打ちひしがれる子供たち……。
いや、日本だけではない。こんな子供たちは世界中にいるのだ。中学時代に読んだ本の内容がありありとよみがえった。餓《う》えに苦しむエチオピアの子供たち。手足を失ったタンザニアの子供たち。身体を売って妹や弟を養うハイチの少女――今もなお、貧しさに苦しみ、生命の危険にさらされている、何億という子供たち。
その子たちを救うことは、私にはできない。いや、今、目の前にいるこの女の子を救うことさえできない。葉月と違って一人暮らしの私には、里親になる資格がないし、誰かを養うような経済的余裕もないのだ……。
いきなり熱い感情がこみ上げてきた。私は耐えられなくなり、口を押さえて部屋から飛び出し、トイレに駆けこんだ。
「優歌……?」
葉月が心配して追ってきた時、私は洗面台に向かい、鏡に額をこすりつけて、ぼろぼろと泣いていた。
「悔しい……悔しいよ」私は泣きながら洗面台を叩いた。「あの子たち、救いたいのに……みんな救いたいのに……私だけでも生きていくのが精いっぱいで……みんなは救えない……こんなの、悔しいよ……!」
「……ああ、悔しいよ」葉月は静かに言った。「だから紗奈ちゃんだけでも救うんだよ」
「一人だけ救ってどうなるのよ!? 日本中にいるかわいそうな子供たちの〇・何パーセントじゃない!」
私は泣いた。大声で泣き続けた。人生の中で、あんなにも激しく、心の底から泣いたことはなかった。
この世界は『ドーキンズ・ガーデン』なんかじゃない。と私は思った。いくらゲームがリアルに世界をシミュレートしても、やはり本物の世界とは決定的な相違がある。アーフには心がない。痛みも感じないし、悲しみも怒りも覚えない。親を失った子供の心の痛み、それを見下ろす無力な私の苦悩……そんなものはゲームの中にはない。だからユーザーは、アーフがいくら死んでも平然としていられる。
しかし、この世界に存在する人間はそうではない。実際に苦しみ、泣き、血を流す。だから神の心理をゲームプレイヤーとのアナロジーで類推するのは無理がある。何億という生きた人間が、戦争で殺し合ったり、飢餓で苦しんだりするのを平然と見下ろしていられるというのは、いったいどういう心理なのか?
私には理解できなかったし、理解したくもなかった。
やがて葉月は静かに言った。
「あんたさあ、あの子を助ける時、そんなこと考えてたの? 『この子は日本中の子供の〇・何パーセントにすぎないんだ』って」
私は答えられなかった。
「子供は……人間ってのは、数字やパーセンテージで計っちゃいけないもんなんだよ。子供は一人で一〇〇パーセントなんだから。一人救えば、それで一〇〇パーセントなんだよ」
彼女は私の背中に優しく手を置いた。
「……中学の時に書いた感想文、覚えてる? 賞取ったやつ」
「……うん」
「言ったっけ? あたしも同じ本読んだって。あたしもあの時、すっごく悔しい想いしたんだよね。世界中にこんなにたくさんかわいそうな子供がいるのに、今のあたしには救えない。そんな金もないし、力もないって。それどころか、豊かな先進国に生きて、貴重な地球の資源を食い潰してるだけなんじゃないかって……考えてみりゃ、ただ生きてるってだけで、ずいぶんこの世に借金してるんだよね、あたしって」
「…………」
「だからさ、大きくなったら――お金ができて、力ができたら、誰かを救おうと思った。全員は無理でも、一〇〇人でも、一〇人でも、いや一人でもいいから救ってあげたいって。一人のあたしが一人の誰かを救ったら、この世に生まれてきた負債は返せるんじゃないかって。きっと今がそれなんだと思う……ねえ、こういうのって青臭い?」
私はのろのろと振り返った。涙を拭《ぬぐ》い、葉月を見つめる。
「ううん、青臭いと言うより……」
「何?」
「……不器用」
彼女はぷっと吹き出した。私もつられて笑った。
「そうだよね。一人でも救えればいいんだよね」
胸につかえていた重いものが、少しだけ軽くなった気がした。世界中のかわいそうな子供をみんな助けようと思うから、絶望的な気分になってしまうのだ。そんなことは、それこそ神でなければ不可能だ。
自分にできる範囲のことだけを考えればいい。自分に不可能なことでうだうだと悩むのは、時間の無駄だ。
「記事を書くよ」私は気を取り直して言った。「施設の現状を訴えて、一人でもいいから里親になってくれるよぅに、読者に呼びかけてみる」
そう、一人でもいいのだ。私の記事を読んだ何万という人の中から、一人でも里親希望者が現われたら、それで一人の子供が救われるのだから。
「いいね、それ」
「……ありがとう、葉月」
「何よ、突然」
「だって、私、葉月がいなかったら、何回も絶望して死んでる」
彼女は恥ずかしそうに苦笑した。「そんなおおげさな」
「おおげさじゃない。葉月は私を救ってくれたんだよ。だから、負債は返してるよ」
葉月は一瞬、ぽかんと私の顔を見つめた。それから急にそっぽを向き、そわそわとした様子で言った。
「さ、さあ、まだ時間あるし、もうちょっと紗奈ちゃんと遊ぼうか」
彼女は早足でトイレを出て行った。しかし、視界から消える一瞬前、彼女が素早く手の甲で頬を拭ったのを、私は見逃さなかった。
葉月が泣いたのを見たのは初めてだった。
八月、ようやく申請が認められ、紗奈は葉月たちの家に引き取られた。時を同じくして、世界と私たちにとって重大な転機となる事件が起きた。
加古沢黎の小説『仮想天球』が発表されたのだ。
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17+罠
太平洋戦争終結直後の混乱期、日本人はみんな娯楽に餓《う》えていた。ラジオドラマや映画が人気を呼び、いわゆるカストリ雑誌と呼ばれる低俗な雑誌がよく売れたという。
二〇一二年の日本にも同じ現象が起きていた。制作費が高くつく劇場映画やテレビドラマは衰退し、紙の本の売り上げも落ちていたが、アマチュアでも安く作れるOSMやネット本は人気を呼んでいた。人々は暗い世相を忘れようと、ネットでダウンロードした小説やマンガを読み、OSMに熱中した。それらの作品の多くは、歴史もの、異世界ファンタジー、宇宙SFなど、現実から遠く離れた世界を舞台にしたもので、大衆に安い値段で手軽な現実逃避を提供した。
加古沢の作品の人気もますます高まっていた。前年暮れからスタートした『ベアトリス&ポリー』シリーズは好評だったし、ヘンリー・ライダー・ハガードへのオマージュとして書かれた秘境冒険小説『プタフの女王』、ハイチ革命を背景にしたオカルト小説『蛇の祭』、一九三〇年代のアメリカのパルプ小説界を舞台にしたホラー小説『ウィアード』と、次々に話題作を発表し、不況など嘘のように金を稼いでいた。
ウェブマガジン化した彼のサイトは、月間一〇〇万アクセスにも達するメジャー・サイトに成長していた。小説の販売と新刊案内だけではなく、楽しく多彩なコンテンツが充実しており、しかもそれが週単位で更新されるので、訪れる人を飽きさせないのだ。四つある掲示板はどれも盛況だった。
読者数が多いだけに、加古沢が毎週掲載する短いエッセイは、ちょっとした新聞の社説を上回るほどの影響力を持っていた。彼が何か新しい概念を紹介したり、情報を提示したり、独自の説を唱えるたびに、たちまちその内容があちこちの掲示板にコピペされ、日本中に広まるのだ。
たとえば流行語となった「マネー戦犯」という言葉は、彼が最初に用いたものだった。
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1940年代、日本は政府と軍部の無能によって、賢く立ち回れば避けられたはずの戦争に突入した。開戦前に行なわれたシミュレーションは、日本が南方からの石油を絶たれて敗北することを正確に予言していた。にもかかわらず、その予測は無視された。彼らは華々しい架空の戦果を発表し、国民を騙《だま》した。戦況が絶望的になっても降伏せず、ずるずると戦い続け、膨大な人命を無駄に投入した挙句、すべてを失った。
それと同じあやまちを、21世紀の日本政府はまた犯した。いや、少なくとも太平洋戦争中の政府や軍部には、日本を愛する心だけはあったはずである。今の政治家や役人どもにはそれすらない。彼らは政治ゲームにうつつを抜かし、体面にこだわり、既得権益にしがみつき、根拠のない楽観論を吹聴し、正しい予測から目をそむけ続け、その怠慢によって日本を破局に導いた。
これは断じて天災ではない。避けることのできた人災――否、犯罪である。1億3000万の日本人に多大な損失を与えた彼らは、まさにマネー戦犯と呼ぶにふさわしい大罪人どもだ。
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加古沢の偉大なところは、どんな文章も単なる毒舌の羅列では終わらないことだった。彼は何がこの事態をもたらしたのかを的確に分析してみせたし、今後、日本経済を復興するにはどんな手段を用いるべきかも具体的に提示してみせた。
たとえば金融機関の損失については、太平洋戦争終結直後の政策を参考に、二五パーセントを資本金、五〇パーセントを債務切り捨て、二五パーセントを政府補償によって負担することにより、株主、預金者、政府の三者が損失を分担するという案を、かなり早い時期に唱えていた。これによってハイパー・インフレは進むものの、二年以内に損失処理が完了するというのだ。この案は実際に採用され、加古沢の予想よりも早く、二〇一三年半ばまでにはすべての処理が完了した。企業の損失処理にはもう少し時間がかかったが、やはり加古沢のシナリオが有効であったことが証明された。
彼はまた、これを機会に円を見捨て、日本経済を完全なAVP体制へ移行することを提唱していた。もっとも、日本政府が円に変わってVPを発行するという案には反対していた。「日本政府の発行するVPは、名前を変えた円にすぎない」というのだ。この時点ではまだ、その矛盾をどう解決するのかまでは示していなかったが、すでにシナリオが頭の中にあったとしても不思議ではない。
彼は常に人よりも数歩先を読む男だったから。
加古沢の人気はとどまるところを知らず、いくつものファン・クラブが生まれたし、ファン・サイトも数えきれないほど林立した。
その一方、彼ほどの有名人になると、攻撃も受けた。年配の評論家や政治家は、ずけずけとものを言うこの若造を目の敵にした。あらゆる権威を笑い飛ばし、批判し、右翼も左翼も等しく斬りまくる彼の毒舌は、どちらの側の人間も激怒させた。だが、それらはまだましな部類だ。政治的信条には関係なく、単に有名だとか儲《もう》けているとか人気があるというだけの理由で反感を抱く者も少なくなかった。
ずいぶん前から、ネット内には反加古沢掲示板や反加古沢サイトがいくつもあって、彼に対する下品な誹誘《ひぼう》中傷であふれていた。「寄生虫」「思想の汚物」「人間ではない」「地球から出て行け」などなど、罵倒《ばとう》の言葉には事欠かなかった。彼の小説の中にヒロインがレイプされそうになるシーンがあるというだけで、「加古沢には強姦《ごうかん》願望がある」と非難された。『ウィアード』はホラー映画『ラスト・イシュー』の盗作だと騒がれた(私が見る限り、両者の類似は『史上最大の作戦』と『プライベート・ライアン』程度だった)。彼の顔を男性ヌード写真に合成したり、ナチの軍服を着せてハーケンクロイツの前に立たせるといった、幼稚なコラージュも氾濫《はんらん》した。「独占インタビュー・加古沢黎の本音」と称する映像を自分のサイトで流した者もいた。加古沢がテレビ出演した際の映像と音声をパソコンで加工し、彼が聞くに耐えない差別発言を連発しているかのように作り変えたのだ。ありもしないスキャンダルを創作する者、加古沢の名を騙《かた》ってあちこちの掲示板に下品な書きこみをする者もいた。
加古沢のサイト内にある掲示板も、しょっちゅう荒らしの標的になっていた。掲示板を開くと「ひひひひ」とか「死ね死ね」という言葉で埋め尽くされていたことが、一月に一度はあった。彼を批判するメール、悪口雑言を書き連ねたメールも、ひっきりなしに届いたし、ウイルスも送られてきた。
加古沢はそれに対して、いかにも彼らしい方法で反撃した。公式サイトの中に「今月のトンデモさん」というページをオープンし、自分に対する批判や攻撃の中からとりわけマヌケなものをピックアップして、さらし者にしたのだ。
ある人物は、彼の小説の中に重大な歴史的ミスがあると嘲笑《あざわら》った。一六世紀前半のベネチアの商人が「この丸い地球」と言うくだりである。ルネサンス期の人間は地球は平らだと思っていたはずだ、加古沢はそんな当たり前のことも知らない無知な野郎だ、というのである。加古沢の反論はたった一言、「マゼランを知らんのか?」だった。
別の人物は、加古沢の掲示板で、複数のハンドルを使い分けて自作自演を行なった。別人のふりをして、自分の意見に自分で相槌《あいづち》を打ったのである。信じられないことだが、IPアドレスが表示されていることに気がつかなかったらしい。「ばれないとでも思ったのか?」と加古沢は不思議がった。
また別の人物は、反加古沢掲示板に「加古沢の『シュバルツバルトの迷路』を読んだが、ひどい駄作だった。金返せ!』と書きこんで笑い者になった。それは秋野《あきの》愁《しゅう》の小説だったからだ。
完全に常軌を逸している物も少なくなかった。加古沢が「東作くん」と愛称をつけた少年は、長文のメールを送ってきて、『ベアトリス&ポリー』シリーズが自分のアイデアを盗作したものだと非難した。自分が以前から頭の中で考えていたストーリーにそっくりだ。僕の勉強部屋にこっそり忍びこんでノートを盗み見たに違いない……というのだ。
やはり「ナガサキさん」と愛称をつけられた九州の女性は、加古沢に弄《もてあそ》ばれた末に捨てられたと、あちこちの掲示板で吹聴していた。彼女は七年前に長崎で行なわれた講演会で加古沢と知り合った経緯や、彼とのつき合い、夜の生活などを、こと細かに報告した。彼女は嘘をついている様子はなく、すべて事実だと信じているらしい。しかし、彼は九州に行ったことはないし、そもそも七年前にはまだデビューしていないのだ……。
その他にも、今回の恐慌は日本征服を企《たくら》む秘密結社イルミナティの陰謀だとか、癌を治せるライトを発明したのでスポンサーになってくれとか、○月×日に核戦争が起きる夢を見たのでみんなに警告してほしいとか、お前を暗殺するためにCIAの凄腕《すごうで》の殺し屋を雇ったが殺されたくなかったら一〇〇〇VPよこせとか、あなたとは前世で恋人同士だったとか、ありとあらゆるトンデモさんからのメールが彼の元に舞いこむのだ。
二〇一二年三月にオープンして以来、「今月のトンデモさん」のページは、加古沢のサイトの人気コーナーになった。加古沢をいわれなく中傷する人々の多くが、無知であるか常軌を逸していることか、ここを読めば一目|瞭然《りょうぜん》だった。
別れた後も、私は加古沢に敵意を抱いていなかった。だから彼のサイトにはちょくちょく目を通していたし、「今月のトンデモさん」のページも読みながら何度も笑ったものだ。
それが自分の身に降りかかってくるまでは。
兄は何か月も前から、自分の仮説をネット上で発表する準備を進めていた。こんな説は学会や学術誌で取り上げられるはずもない。しかし、説を世間に発表し、多くの人の意見を聞くことは有益だと思ったのだ。
発表してバカにはされないだろうか、という私の懸念に、兄はこう答えた。
「もちろん批判する者も出てくるだろうさ。でも、それによって説の欠陥が明らかになるのはいいことだと思うんだ。もし決定的に間違っていると分かれば、放棄すればいいんだし。あるいは批判に対して反論するうちに、何か新しい知見がもたらされるかもしれない」
兄はあくまで理知的だった。ネットによくいるトンデモさんたちと違い、彼は世間に自説を認めてもらうためにサイトを作ったのではなかった。自説が正しいかどうか検討したい――動機はそれだけだった。
兄は何度もこう言っていた。
「僕一人で考えていては限界がある。僕に必要なのは議論だ」
兄のサイト <地球シミュレーション仮説> は、八月一日にオープンした。文字ばかりで見映えはお世辞にも良くなかったし、忙しい仕事の合間にこつこつ作っていたので、まだ完成していないページも多かった。主だった知人にメールで宣伝したにもかかわらず、アクセスカウンタは一日に数十人の単位でしか上がらなかったし(おそらくサーチエンジンで「ファフロッキーズ」とか「遺伝的アルゴリズム」といったキーワードで検索していた人たちが、偶然訪れたのだろう)、掲示板にも書きこみはまったくなかった。
兄も私も、そのことで気に病みはしなかった。爆発的にアクセスが増加するなんて、最初から期待していなかったからだ。
ところがその二週間後、加古沢の新作長編『仮想天球』のCMがサイトで流されると、私は仰天した。トップページを開いて真っ先に飛びこんできたのが、こんなコピーだったからだ。
[#ここから2字下げ]
この世界は神の創造したシミュレーションだった!?
人類と神の関係に迫る、加古沢黎の衝撃の新境地!
[#ここで字下げ終わり]
その周囲には、「神の量子コンピュータ」「遺伝的アルゴリズム」「半径一光年の壁」「UFO」「魚の雨」といったキーワードが、GIFアニメーションで明滅していた。
私は困惑した。これはどう見ても兄の仮説だ。私が話した兄のアイデアを元に小説を書いたとしか思えない――それにしても、アイデアを使うなら使うで、ことわりのひとつぐらいあってもいいのではないか?
それでも私は、小説のどこかに兄に対する謝辞があるのだろうと期待していた。加古沢は常に小説の参考資料は明示していたし、誰かの意見を参考にした場合には、あとがきで必ず謝辞を入れていたからだ。
私はさっそく小説をダウンロードして読んでみた。これまで歴史ものばかり書いてきた加古沢には珍しく、二〇二五年の未来世界を舞台にしたSFだった。
内戦によって南北に分裂したアメリカ。キリスト教極右勢力に支配された南部連合は、急速に狂信的な宗教独裁国家に変貌《へんぼう》しつつあった。ルポライターの芥《あくた》光洋《みつひろ》は取材の途中、ダラス郊外で蛙の雨に遭遇、その混乱の中、追われていた少女シルヴィを助ける。光洋はそのため、宗教的異端を摘発する秘密警察CCCに監禁され、訊問《じんもん》を受ける。CCCの捜査官は、超能力者であるシルヴィはポルターガイスト現象をまき散らす危険な「魔女」であり、拘束しなくてはならないのだと主張する。
光洋を助けた青年グレッグ・ソーンは、北部同盟のロームフェルド財団のエージェントだった。彼は財団の科学陣が探り当てた真相を語る。この世界は神の創造した量子コンピュータの中のシミュレーションであること、超常現象は神が人間に向けたコンタクトの試みであること、シルヴイのような「超能力者」と呼ばれる人々は超常現象の焦点になっているだけであること、彼らを研究すれば神とのコンタクトが可能になるはずであること……CCCはキリスト教の教義を揺るがすこの事実を闇に葬るため、躍起になって超能力者狩りを進めていたのだ。
グレッグの協力で、光洋はシルヴィとともに北部へ脱出するが、今度はロームフェルド財団に捕らわれる。財団は「保護」と称して集めた超能力者を調査して、すでに「神のプログラム」の構造の一部を解読しており、超能力者を通してプログラムに干渉し、人工的に奇跡を起こす実験を進めていた。物理法則を超越する力を手に入れ、世界を支配しようという計画なのだ。だが、グレッグの祖父に当たる科学者チャールズ・ソーンは、この実験がプログラムにバグを惹《ひ》き起こし、世界を破滅させる危険があると警告する。
シルヴィをモルモットにして強行された実験は、CCCの妨害工作によって、暴走を開始してしまう。ロームフェルド財団の施設を中心に超常現象が広がり、アメリカ全土が大混乱に陥る。光洋はポルターガイストの荒れ狂う研究施設からシルヴィを救い出そうとするが、CCCの工作員の手から彼女を守ろうとして重傷を負う。
その時、瀕死《ひんし》のシルヴィの祈りが通じ、奇跡が起きる。シルヴィは死ぬが、悪人たち――神の力を悪用しようとしたグレッグや、神の意志を無視したCCCのメンバー――も劫火《ごうか》に焼かれる。プログラムは修正され、平和が戻った地球の空には、「我はここに在り」という神からのメッセージが浮かび上がる。
エピローグでは、光洋は死んだはずのシルヴィの声を聞く。彼女は美しい田園地帯で目を覚まし、幼い頃に死別した両親と再会したという。神はいくつもの地球を用意しており、死んだ善人のデータはセーブされ、肉体的な欠陥を修正されたうえ、新しい地球に移し替えられるのだ。地球は良き心と悪しき心を篩《ふる》い分けるための場であり、良き心を持つ者だけが次の地球に転生できる。その中からさらに良き心が選ばれて次の地球に転生する。
神が間接的に存在を示すだけで、人類に直接話しかけないのは、大多数の人間にはまだその資格がないからだ。このシミュレーション宇宙の外には広大な「真の現実」が広がっているが、愚か者や悪しき者にはその全貌《ぜんぼう》は理解できない。新しい地球にステップアップした者にだけ、断片的に真実が明かされる。こうしてステップアップを重ねることにより、より高度な知性、神に近い存在を育て上げるのが、神の計画なのだ。最終段階に進化した人間は、「真の現実」にアップロードされ、神と対等に話し合うことができる。
「私、神様とお話がしたい。だから、がんばるの」という言葉を最後に、シルヴィの声は途絶える。光洋が夜空に向かって「しっかりやれ」と呼びかけるシーンで、物語は終わる。
確かによくできているし、スリリングだし、感動的な物語である。
しかし、これは兄のアイデアの盗用だ。
参考資料リストには大和田氏のサイトのURLも記載されていたし、あとがきには「この小説を執筆やるにあたってアドバイスをいただいた次の方々に謝辞を捧《ささ》げます」とあり、科学者や研究者数十人の名前が羅列されていて、その中に兄の名もあった。しかし、兄がこの小説のメインアイデアを提供したとは、まったく書かれていなかった。
私は疑心暗鬼に陥ったものの、それでもまだ、心の中で好意的な解釈にしがみついていた。加古沢はこれまで盗用などしたことはないし(「他人の考えた話なんかより、俺の話の方が面白いに決まってる」というのが、彼の持論だった)、参考文献は常に明示している。今回はついうっかり、兄からアイデアを得たことを説明するのを忘れたのだろう――と。
しかし、発表後しばらくしてサイトに載ったインタビューを読んで、私の疑念は現実のものになった。
[#ここから2字下げ]
――この世界が神のシミュレーションとは、斬新《ざんしん》なアイデアですね。どんなきっかけで思いつかれたのですか?
「5年ぐらい前かな。ホフスタッターとデネットの『マインズ・アイ』という本を古本屋で見つけてね。原著は1981年に出た本で、今では時代遅れになってるところも多いんだけど、その中に引用されていたスタニスワフ・レムの『我が身、僕《しもべ》にあらざらんことを』という短編小説を読んで感銘を受けたんだ」
――ポーランドの作家ですね。
「そうだ。コンピュータの中の仮想空間に創造されたパーソノイドという人工知能が、創造主の意図について議論するという話だ。レムはパーソノイドたちの議論を、人間の神学論争のアナロジーとして描いている。それだったら、俺たち人間だって『神』と呼ばれる科学者に創造されたパーソノイドだとは言えないだろうか? それ以来、ずっとこのアイデアを温めてきた」
[#ここで字下げ終わり]
嘘だ。
私は身が震えるのを覚えた。五年前? そんなはずはない! 私が加古沢に兄の仮説を話したのは、去年のことだ。それまで彼は、そんなアイデアなんて持っていなかった。
私は彼に電話で問い質《ただ》そうとした。しかし、彼の電話は番号を登録した相手からしかつながらないように設定されていた――そして、私の電話番号はとっくに抹消されていた。
やむなく、彼にメールを送った。
[#ここから2字下げ]
いったいどういうつもり?
「神のシミュレーション」仮説は兄が考えたものなのよ。確かに兄はそのアイデアで小説なんか書かなかったし、どこにも発表しなかった。でも、あなたが兄からアイデアを得たことはまぎれもない事実でしょう? なぜ「5年前から考えていた」なんてつまらない嘘をつくの?
あなたがあんなことをする人だなんて思わなかった。
私に振られた腹いせのつもりなら、こんな姑息《こそく》なことはやめて。兄は兄、私は私。私に対する個人的恨みで、兄を貶《おとし》めるようなことは、してほしくない。
ついでに言っておくと、兄はあなたの小説が出る2週間も前からサイトをオープンしてるのよ。
(ここに兄のサイトのURLを貼りつけた)
[#ここで字下げ終わり]
二日後、こんなメールが返ってきた。
[#ここから2字下げ]
メールは読んだ。言ってることがさっぱり分からないな。君のお兄さんがどうしたって? 何か思い違いをしてるんじゃないか。
確かに君のお兄さんと話したことはある。去年の9月だった。遺伝的アルゴリズムについて詳しく知るために、小説のアイデアを話して、専門家としての意見を聞いたんだ。だから、あとがきでもちゃんと謝辞を入れてある。
君のお兄さんのサイトも見せてもらった。正直、唖然《あぜん》となったね。書いてあるのは俺が彼に話したことばかり、しかも自分で考えたかのように書いてある。サイトをオープンしたのは俺の小説の発表より早いかもしれないが、俺がアイデアを盗用したように思われるのは心外だ。だいたい、2週間やそこらで長編小説が書けるわけがないことぐらい、君だってもの書きだから知ってるはずだろう?
[#ここで字下げ終わり]
私はますますかっときた。
[#ここから2字下げ]
「言ってることがさっぱり分からない」のはこっちの方よ。私が兄の仮説を話して、あなたが「俺が聞いた神に関する仮説の中では、いちばん納得できる」って感心したこと、忘れたとは言わさない。
あなたが兄のアイデアで小説を書いたことは、べつにかまわない。原作料なんか要求しない。でも、アイデアの出所ぐらいはちゃんと明記してほしい。私が要求するのは、ただそれだけ。
[#ここで字下げ終わり]
返事はすぐに戻ってきた。
[#ここから2字下げ]
どうも君は記憶が混乱してるらしい。もう一度よく思い直してみてくれ。俺がお兄さんに小説のアイデアを話し、彼はそれにおおいに興味をそそられた。そして、「神の存在を証明したい」とか「神とコンタクトしてみたい」とか言い出して、君を不安にさせた。それで俺のところに相談に来たんじゃないか。
確かに線の細そうな人だったから、俺のアイデアを夢中になって検討しているうち、自分が思いついたように錯覚したのかもしれない。でも、君までそれに引きずられてしまうとは意外だ。
>「俺が聞いた神に関する仮説の中では、いちばん納得できる」
確かにそれに類することを言ったのは覚えてる。君が兄さんのことを心配してたんで、俺は自分のアイデアは筋が通っていると説明した。既成の宗教よりずっとまともだし、兄さんが信者第一号になったところで、何も問題はないと。
まあ、今から思えば、「しょせんSFなんですから信じないでください」と釘《くぎ》を刺しておくべきだったのかもしれないが。
[#ここで字下げ終わり]
このメールは私を本格的に激怒させた。見え透いた嘘を重ねる態度にもあきれたが、兄の精神に問題があるかのように言うなんて! 私はさらにメールを送り、『仮想天球』のアイデアが兄のものであると認め、謝罪するよう要求した。それに対し、加古沢は「あのアイデアは自分のもの」という主張を平然と繰り返した。すべては私や兄の思い違いだというのだ。私は苛立《いらだ》ち、メールの文面はだんだんすさんだものになっていった。
[#ここから2字下げ]
あなたのしらじらしさには本当に腹が立つ! いつまでそんな真っ赤な嘘が通用すると思ってるの? それとも本当に健忘症なの?
そこらじゅうの掲示板に今度の件をチクってやってもいいのよ。あなたの評判はさぞ傷つく出ようね。反加古沢派は大喜びよ。「加古沢黎の『仮想天球』は盗作だった」ってね。
[#ここで字下げ終わり]
後から思えば、こんなことは書くべきではなかった。しかし、この頃の私はすっかり頭に血が上っていた。彼の意図を見抜けなかったのだ。
私たちがメールをやり取りしている間にも、『仮想天球』は大ヒットを続けていた。前年の「子供の雨」事件の記憶がまだ生々しく、本格的に超常現象を取り上げたこの作品は、人々の話題を集めたのだ。もちろん小説自体の完成度も高かったことは認めざるを得ない。批評サイトの多くは「加古沢黎の最高傑作」「大胆な発想と緻密《ちみつ》な考証」と高い評価を下した。加古沢サイトの発表によれば、発売後わずか一か月で売り上げは一二〇万部を突破し、一時、サーバに支障が発生するほどだったという。
そんなある日、異変が起こった。
二か月間、ほとんど上がらなかった兄のサイトのアクセスカウンタが、ものすごい勢いで回転しはじめたのだ。来客者数は一日に一〇〇〇人を超えた。同時に、掲示板が流れはじめた。その多くは「恥を知れ」「さっさと閉鎖しろ」といった非難の文面で埋め尽くされていた。最初、私も兄も、何が起きたか分からず困惑した。しかし、すぐに原因は判明した。
私と加古沢のメールによるやりとりが、「今月のトンデモさん」のページに転載されていたのだ。
もちろん、私の名前やIDや個人情報に関する箇所は伏字になっていたし、兄のサイトへのリンクも削除されていた。サイトのトップには、「お送りいただいたメールは、個人情報を侵害しない範囲において、内容を本サイト上で公開することがありますのでご了承ください」という一文があり、通信法違反に問うわけにもいかない。
私をストレートに罵倒する言葉もまったくなかった。加古沢はただ、私が半年前までつき合っていた女であること、私の兄が人工知能研究者であることなどを述べただけだ。そして、兄に小説のアイデアを話して意見を聞いたことがあり、その一件で私が思い違いをして、理不尽な要求をしてきているのだと読者に説明した。
嘘っぱちだ――しかし、「今月のトンデモさん」のページに掲載されると、説得力があった。私も妄想を抱いている人間の一人のように見えてしまうのだ。実際、私の文面、特に興奮して汚い言葉を書き散らしてしまった後期のものは、表面上、「東作くん」や「ナガサキさん」のそれと、たいして変わらなかった。
個人情報が書かれていなくても、リンクが切れていても、ゲームマニアが小説のあとがきに書かれた謝辞の中から「和久良輔」の名に注目するのや、ネットウォッチャーが関連情報を検索するのを止めることはできない。
兄のサイトのURLがあちこちの掲示板に書きこまれ、たちまち熱狂的な加古沢ファンの攻撃の標的になったというわけだ。
私は罠《わな》にかかったことを知った。加古沢の返事のメールは、単にしらばくれているのではなかった。私を挑発し、腹を立てさせ、汚いメールを書かせるためのものだったのだ。私はそれに見事にひっかかったのだ!
さらに、あることに気がついて、私は愕然《がくぜん》となった。「今月のトンデモさん」のページがオープンしたのは今年の三月――つまり私と別れた直後だ。まさか、あの頃からこの計画を準備していたのか?
被害妄想だと思いたかった。しかし、彼の知能の高さからすると、ありえないと決めつけることもできなかった。
「まったく、あんな男だったなんて!」
一〇月末、兄と葉月の新居を訪れた私は、溜《た》まりに溜まった怒りをぶちまけていた。
「葉月が『邪悪だ』って言った理由、やっと分かった。本当にあいつって心底から邪悪な奴だったんだ! あんな男と寝たなんて……もう、こんちくしょう!」
「ほらほら、汚い言葉は慎む」
紗奈をあやしながら、葉月は諌《いさ》めた。紗奈はピンクのパジャマ姿で、ソファの上でぴょんぴょんと跳ねながら、楽しそうに「もー、こんちくしょ! もー、こんちくしょ!」と繰り返した。
「ほーら、もう覚えちゃったよ」葉月は苦笑した。「この子、覚えるの早いんだから」
「ごめんなさい」
私は不注意を恥じた。紗奈は施設から引き取られてわずか三か月足らずだったが、訪れるたびに目に見えて語彙《ごい》が増えているのに驚かされた。今では三〜四語の単語から成る文章ぐらいなら言えるようになっている。これが子供の自然な発育なのか、特殊な生まれによる異常なものなのか、子供を育てた経験のない私にはよく分からなかった。
「ねー、『じゃあく』って何?」
まん丸い純真な眼で問いかける紗奈に、葉月は優しく答えた。
「子供がまだ知らなくてもいい言葉よ」
「ふーん」
気の抜けた返事をすると、紗奈は子供特有の気まぐれさで興味を切り替え、今度は自動車のおもちゃで「ぶるーん、ぶるーん」と遊びはじめた。
「でも……」葉月は首を傾げた。「ちょっと理屈に合わないな」
「何が?」
「加古沢のやり方」
「だから邪悪だって――」
「いや、確かにそう言ったのはあたしだけどさ、なんか……らしくないんだよね」
「らしくない?」
「言わなかったっけ? あいつって逆上してブスッと刺すタイプじゃないよ。それともあんた、よっぽど逆鱗《げきりん》に触れるようなことした?」
「……覚えがない」
「でしょ? あんたに対する個人的恨みだけで、こんな手のかかることするかな?」
その点は確かに私も腑《ふ》に落ちなかった。加古沢は毒舌家ではあるが、常にフェアな人物として定評がある。彼のような頭のいい人物が、たかが女に振られただけのことで、アイデア盗用という作家最大のタブーを犯し、自分の作家生命を危険にさらしてまで、汚い復讐《ふくしゅう》を仕掛けてくるとは考えにくい。
あちこちの掲示板を覗《のぞ》いてみたが、加古沢ファンの間で私の話が信じられていない最大の理由もそこにあった――「加古沢さんのような頭のいい人がそんなバカなことをするわけがない」「必然性がない」というのだ。
私だって、当事者でなければ、その意見に同調していただろう。
「兄さんに対する恨みもあるのかも。前に言ってたじゃない。あいつは自分より頭のいい人間を憎んでるって」
「まあ、確かにね。良輔さん、今度の件じゃ、けっこう落ちこんでるみたいだし。復讐だとしたら、それなりの成果は上げてるね」
私は時計を見た。午後九時――まだ兄は帰ってこない。
「今日も残業?」
「『ドーキンズ』のシミュレーションがなんかうまく行かないらしくて。それに帰ってきても、何時間もパソコンにかじりついてるの」
「ああ、掲示板かあ……」
兄のサイトの掲示板の荒れようを見るたびに、私は心が痛んだ。もちろん兄に対する悪口雑言であふれているのも問題だが、もっと問題なのは、兄が低レベルの批判や質問に対していちいち真摯《しんし》に対応していることだ。
要領のいい管理者なら、露骨な荒らし発言はどんどん削除し、下品な挑発やくだらない質問は無視し、的を射た質問にだけ答えることで、労力を最小限にするだろう。しかし、真面目な兄にはそんなことはできないらしい。どんな汚い言葉を投げかける相手にさえ、冷静に長文のレスを付けようとするのだ。
兄は私と同様、不器用な人間なのだ。
相手が一人や二人ならそれでもいいだろう。だが、何十人もの敵を相手にそんなフェアな態度を貫こうとするのは無茶だ。見かねた私は何度か兄の援護をしたが、加古沢ファンからひどい罵《ののし》りと嘲笑《ちょうしょう》を受けただけだった。
当初の兄の理想に反して、掲示板は混乱し、とうてい有益な議論などできない状態に陥っていた。私も葉月も、掲示板なんか閉鎖した方がいいと言ったのだが、兄は「もう少しだけ続けてみる」と粘り続けた。一部の荒らし屋たちさえ去り、理性的な人々だけが残れば、冷静な議論ができるようになると思っているようだった――私にはとても信じられなかったが。
「良輔さんが言うには、成果は上がってるっていうんだけどね」
葉月はそう言うと、缶ビールをあおり、ため息をついた。
「成果って?」
「人と議論することで、自分の説の問題点が明らかになってきてるってさ。やっぱり一番多い批判は、神様が人間にコンタクトしようとしてるなら、なぜもっと分かりやすいメッセージを送ってこないのかってことなんだって。魚の雨を降らせたりするんじゃなく」
「ああ、大和田さんも同じこと言ってた」
「それでこないだから、自分の説の再検討をはじめてるの。もしかしたら、超常現象はランダムに起きてるんじゃないんじゃないか。何か隠れた法則性があって、それを解明したら神様の意図が分かるんじゃないかって……」
「解明って、どうやって?」
「世界中でこれまでに起きた超常現象事件の場所とか時間とかのデータを集めて、分析するんだって。何かのパターンがあるんじゃないかって」
「世界中の? でも、それって……」
「そう、ものすごい労力」葉月はさっきよりもさらに大きなため息をついた。「会社で遅くまで仕事したうえに、掲示板の管理、それに加えてそんな面倒臭そうな作業……人間のやれる限界超えてるよ」
彼女はいつになく真剣な表情で私を見つめた。
「ねえ、優歌、あんたからも言ってやって。そんなに根を詰めないでって。あたしが言っても聞きやしないのよ、あの人」
「そんなにひどいの?」
「ひどい」葉月は短く、腹立たしげに言った。「あたしや紗奈のことよりも、神様のことばかり考えてる。『何かに取り憑《つ》かれたような』って、ああいうのを言うんだろうね。他のことが考えられないみたい。このままだとどうにかなりそうで」
「そうか……」
私は考えこんだ。ここのところ忙しいので、兄とはもっぱらメールで話すだけで、顔をじかに合わせる機会が少なかった。こうして家を訪れても、仕事で留守のことが多いのだ。だから兄の精神状態がよく把握できていなかった。掲示板の文章を読むかぎり、混乱した状況の中でも理性を保ち続けているように思えたのだ。
しかし、兄の傍にいる人間、まして葉月の言葉となると、重視しないわけにはいかない。
「ねえ、神様なんていようがいまいが、何かあたしたちに関係があるの?」アルコールの勢いを借りて、葉月は愚痴った。「そんなの忘れりゃいいじゃん! あたしたちがシミュレーションの中の存在だとしてもよ、それがどうだって言うの? あたしたちにとって、これが現実なのよ。この世界に生きてるのよ。どこかずっと上の方にいる会ったこともない誰かさんより、目の前にいる家族のことを考えるべきでしょ? 違う?」
「うん、そうだろうね」そう答えてから、あたしはつけ加えた。「でも、兄さんのことも分かってあげて。たぶん兄さんにとって、今度の件は、一生かけて決着つけなくちゃいけない問題なんだと思うの」
「まあ、それも分かるけどね……」葉月は珍しくばつの悪そうな顔をした。「あたしにはあんたたち兄妹みたいな過去がないから、『忘れろ』なんて言えるのかもしれない……」
「…………」
「ちょっと悔しいよね、こういうの」
「悔しい……?」
「あの読書感想文の時みたい。あたしがどんなに理屈をこねても、どんなに言葉を重ねても、絶対にあんたや良輔さんには勝てない。あんたたちが背負ってる重荷があるかぎり、あんたたちの言葉の方が重いもの……」
「そんなことない!」私は慌てて打ち消した。「そんなことない!」
「そう?」
「そうよ。私の言葉に勝手に重荷なんか重ねないで。自分の過去を武器になんかしたくない。重荷なんてない方がいいんだよ!」
「そうかもね……あら?」
気がつくと、紗奈ははしゃぎ疲れたのか、いつの間にか座布団を枕にして寝息を立てていた。そのやんちゃで可愛らしい寝顔は、肌の色が少し濃いという以外、普通の三歳児と何ら変わるところがない。
とても神から遣わされた存在には見えなかった。
「……この子には重荷を背負わせたくないね」
タオルをかけてやりながら、葉月は優しくささやいた。
[#改ページ]
18+顕現
一一月初旬。加古沢は『サイレント・レヴォリューション〜日本政府解体論〜』を、満を持して発表した。
内容は例によって、毒舌とユニークな発想に満ちたものだった。たとえ閣僚の顔ぶれが変わっても、現在の日本政府というものが存在するかぎり、事態の打開は望めない。頭が固く、自分たちの利権にしか関心のない政治家たちが、無責任な国家運営を続けた挙句、日本を破滅させた。それなのになお、彼らに日本を任せ続けるのは間違っている。この際、政府そのものを解体し、企業連合体による「国家民営化」しか再生の策はない……。
当然、沸き起こることが予想される反論(実際、沸き起こったのだが)に対し、彼は次のような堂々たる論陣を張った。
[#ここから2字下げ]
無論、この改革案は従来の憲法に根本的に反している。これは革命であり、違法である。しかし、こうしている今も、不況に苦しみ、首をくくる一家が跡を絶たない。そもそも法律や国家というのは、国民が幸福で安全な生活を送るために存在するのだ。人を守るためのルールが、人命に優先してよいはずがない。現在の法律が国民を救えないのなら、そんな法律は無視してよい! 現在の政府が国民の安全を保障する能力がないのであれば、そんな政府は打倒されねばならない!
しかもこれは一滴の血も流さない人道的な革命、静かな革命である。あなたはデモに参加する必要はないし、ましてや武器を取って立ち上がる必要もない。企業連合が新政府樹立を宣言したら、ただそれを黙認するだけでよい。旧政府の残党がいくら吠《ほ》えたところで、それを聞く者がいなくなれば、彼らは無力だ。
具体的に言えば、あなたは今年度の税の納入を拒否すればよい。税収がなくなれば、旧政府は存在できなくなる。一方、企業連合が運営する新政権は主としてその利潤によって国家を運営し、税の多くは消費税の形で国民から徴収される。商品価格に国家予算分が上乗せされることにより、インフレを一時的に加速することになるが、従来の税金を払う必要がなくなるので、逆に多くの国民が潤うことになる。
もっとも、所得税・法人税・固定資産税等を完全廃止すると、富裕層はおおいに潤うが低所得者層に不利になるので、一部の税は残さざるを得ない。もちろん地方税も残る。新政権は独自に税の納入方法を国民に指定し、国民はそれに従うことになる。
だが、以下の各章で詳しく示すように、新政権は徹底した「小さな政府」を目指し、従来の省庁の70%を廃止、縮小、もしくは統合する。政治家や役人どもが吸い続けてきた甘い汁を断ち切るのだ。福祉や治安に回す予算を大幅に増額する一方、それ以外の予算を最小限に切り詰める。贅肉《ぜいにく》を切り捨てた新政府は、きわめて安く運営できるはずである。国家予算はこれまでの60%程度で済むと、我々は試算している。
言い換えれば、今あなたが払っている税金の40%は無駄な金――無能な連中を肥え太らせるためだけの金なのだ。この点をよく考えていただきたい。日本を破滅させ、我々を苦しめたマネー戦犯とその共犯者どもに、なぜまだ金をくれてやらねばならないのか!
我々のプロジェクト・チームの案では、平均的なサラリーマン家庭の場合、基礎控除額がこれまでよりずっと高くなるので、所得税額はほとんどゼロになると試算される。あなたが平均的な庶民であるなら、もう毎年の税金に悩まされることはなくなる。
税を納めるのは金持ちだけなのだ。
そう、これは弱者のための革命なのである。
[#ここで字下げ終わり]
彼はこの本を出すのに、一年間かけて下調べを行ない、多くの専門家の意見を聞き、スタッフとの間で激論を繰り返したと言っている。実際、『サイレント・レヴォリューション』は単なる素人によるアイデアの羅列ではなかった。「無血革命による日本の改革」という冗談のような案を、徹底して真剣に検討していた。
革命の手順、企業間の根回し、新内閣の構成と閣僚の選出法、新憲法の骨子、新行政システムの試案、国会の廃止とネットによる直接民主制への移行、主要省庁の廃止と再編、円からVP経済への完全移行、国家予算の試算、地方自治体をどうするか……本の内容は多岐にわたり、きわめて詳細だった。紙の本だったら一〇センチの厚さに達したに違いない。どのテーマも具体的な方針と豊富なデータを示し、説得力があった。例によって複数のスタッフによって執筆されたとはいえ、細部まで加古沢らしい思想と緻密《ちみつ》さで統一されており、読者が思いつきそうな反論に対しては、たいてい答えを出していた。
たとえば、「企業に国家を任せるのは危険である。利潤追求が第一になってしまい、福祉や公共事業がおろそかになってしまう」という反論に対しては、こう答えている。
[#ここから2字下げ]
確かに国を動かすトップによって、政治が悪用される可能性はある。しかし、それは現行のシステムでも同じことなのだ。
いや、現行のシステムの方が大きな欠陥がある。今の政治家や役人どもは、自分たちが「日本」という名の企業を運営しているという自覚がない。国の経済がどれほど悪化しても、彼ら自身にそのダメージは及ばず、相変わらず高給をむさぼり続けている。だからどんなに赤字を出そうと平気で、国債を乱発して借金を際限なく増やし、リストラを怠り、無駄な支出を続けた。そこに最大の問題がある。
企業が利潤を追求するのは、むしろこのシステムの利点である。なぜなら、今回のような経済|破綻《はたん》が起きれば、企業は大打撃を受ける。彼らはそれを回避するために全力を傾けるだろう。財政にメスを入れる一方、利潤を増やすため、不況を打破し、貧困者を減らそうと努力するだろう。自分たちの利潤に直結しているのだから、真剣さが違うのだ。
[#ここで字下げ終わり]
「革命を実行に移す前に警察に逮捕されてしまうのでは」という疑問に対しては、明確な武装|蜂起《ほうき》を意図していない運動の違法性を問うのは難しいと論じたうえ、革命をスムーズに進行させるためには、まず予算の大幅増額と人員増強を約束して、警察庁内の有志の協力を得なくてはならないと説いた。
[#ここから2字下げ]
サヨクあたりは短絡的に「警察権力の増大」などと騒ぎ立てるかもしれないが、それは違う。今の警察機構がそもそも正常に機能しておらず、根本的な改革が必要なのだ。
1980年代半ばまで、日本の刑法犯検挙率は60%台の高率を誇っていた。それが87年頃から急降下し、90年代には40%になり、2001年には20%を割りこんだ。2011年度はなんと10・2%だった。
当然、警察庁にも言い分はある。景気の悪化に伴い、犯罪が激増したため、逮捕した窃盗《せっとう》犯の余罪の立件に割く人員が不足し、余罪を追及しないまま送致する例が増えている。それが統計上、未解決の事件を増やしているというのだ。
これを「もっともな言い分だ」などと納得するようでは、あなたは人が好すぎる。検挙率が低下しだした80年代後半には、日本はバブル景気のまっただ中にあった。犯罪率は70年代よりは増えていたが、それほど激増していたわけではない。むしろ検挙率が低下した90年代から急カーブを描いて犯罪が増えているのは、グラフを見れば一目|瞭然《りょうぜん》だ。因果関係が逆なのである。
犯罪の10件に1件しか解決できないような警察を、あなたは信用できるのか? 犯罪者の心理になって考えてみればいい。罪を犯しても9割の確率で逃れられるなら、「やってみようか」と思う者が増えるのは当たり前ではないか!
治安の乱れは、言うまでもなく社会を不安定にする。現在の政府には、それをどうにかしようという意志はまったく見られない。一方、利潤を追求する企業連合にとって、社会の安定化が急務だ。だから警察機構を改革する一方、予算を増やし、人員を増強する方針を打ち出さなくてはならない。
警察内部にも、現在の状況を憂える声は強い。だからこの改革案に賛同者は大勢いると確信する。
「犯罪が増えたから検挙率が下がった」などという詭弁《きべん》を、これ以上許してはならない。「検挙率を上げて犯罪を減らす」――これしかない。
[#ここで字下げ終わり]
彼は経済問題だけではなく、治安維持・防衛問題・福祉問題などについても、多くのページを割いて言及した。どの問題も抜本的な改革が必要だが、それは現在の日本の政治体制では不可能なのだと力説した。
[#ここから2字下げ]
民営化することで防衛予算が削られ、国の危機が増すと思うのは、それこそ素人である。今の自衛隊がどれほど無駄な金を浪費しているか、知っているか? 現在、航空自衛隊が配備しているF―2戦闘機は、もともと日本で自主開発するはずだったのが、アメリカからの横槍《よこやり》が入り、F―16ファイティングファルコンをベースに日米共同開発することになった経緯がある。その結果、出来上がったのは、シルエットがF―16そっくりで、性能も大差なく、そのくせ値段は1機123億円(当時)、F―16の約3倍というふざけた機体だった。航空自衛隊はその馬鹿高い戦闘機を2006年までに130機も配備した。素直にF―16かF/A―18あたりを買っていれば、1兆円以上節約できたはずなのだ。陸上自衛隊の90式戦車にしても同様で、確かに性能は素晴らしいが、M―1エイブラムスの2倍の値段に見合う価値があるかどうかは疑問だ。
こうした無駄遣いは、兵器の選定が政治的な思惑で左右されてきたことによる。彼らは貴重な税金を浪費したうえ、防衛力を低く抑え、まさに日本を危険にさらしているのだ! 企業の論理で行けば、こんな無駄な買い物は許されない。限られた予算内で、最高の装備が揃うように考慮するはずである。我々のチームの試算では、防衛費を現在の70%まで削減しても、現在並みの防衛力が維持できる。
どのみち、戦闘機や戦車が活躍する戦争は、今後は時代遅れになるだろう。あの2001年の9・11テロは、きわめて安いコストで敵国の中枢に大きなダメージを与えられることを示し、戦争の概念を一変させた。これからの戦争は砲弾やミサイルの飛ばない戦い、テロとサイバー・ウォーが主流になるに違いない。実際、アメリカ、中国、コリアなどでは、そうした未来戦の研究が熱心に行なわれている。
それに対して、日本の国防政策はお寒いかぎりだ。いまだに仮想敵国が爆撃機や戦車で攻めてくるという状況しか想定しておらず、本格的な対テロ特殊部隊もネットフォースも存在しない。いくら高価な戦闘機を飛ばし、戦車を海岸に並べたところで、少人数のコマンドに原発をジャックされたり、ハッカーに国家の経済中枢を破壊されたらおしまいなのだ。防衛庁を再編し、兵器産業との癒着構造を絶ち、せめて戦闘機1機を購入する分の予算でも、テロ対策、サイバー・ウォー対策に回さないと、日本は守れない。
[#ここで字下げ終わり]
これらの主張は、ほんの一年前ほどなら、荒唐無稽《こうとうむけい》な絵空事と一蹴《いっしゅう》されただろう。あまりにも非常識な内容ばかりだったからだ。だが、従来の社会制度が崩壊し、古い常識が役に立たなくなった今、人々は斬新《ざんしん》なコンセプトを受け入れられる心理になっていた。
しかも今度の一件で、日本人すべてが決定的な政治不信に陥っていた。政府の無能ぶりに絶望する一方、遅々として進まない不況対策に苛立《いらだ》っていた。悪化する一方の治安にも危機感を募らせていた。年金制度が破綻したため、老後に不安を覚えていた。「この機に乗じてコリアが侵略してくる」という噂にもおびえていた(デマとも言えない。実際この時期、朝鮮半島の過激な民族主義グループは「日本を制圧する絶好の機会」と気炎を上げており、それに同調する意見も少なくなかったのだ)。
何もかも行き詰まっていた。人々は有効な打開策なら何でも欲していた。
加古沢の本はそのニーズに応えた。
図やグラフを多用しているうえ、加古沢とそのスタッフの論旨は平易で、素人にもすんなり理解できた。政治家や役人の既得権益を激しく攻撃する一方、常に大衆の利益と安全を優先して論じられていた。それがおおいに人々の共感を呼んだ。私自身、彼に個人的な憎しみを抱いてはいたが、『サイレント・レヴォリューション』の中で展開されている主張の数々には、同意できる部分がたくさんあった。
だから加古沢の主張はいきなり熱狂的に受け入れられた。『サイレント・レヴォリューリョン』は発売と同時にベストセラーの座に駆け上がった。ネット上にはこの本を論じるサイトや掲示板がいっぺんに何百も林立し、熱い議論が繰り広げられた。
否定的な意見の多くは短絡的、感情的なものだった。「革命を主張するのはアカだ」「防衛費削減を許すな」という右翼からの声、「これはファシズムだ」「加古沢は日本のヒトラーになりたがっている」という左翼からの声が上がった。しかし、加古沢のスタンスが右翼や左翼といった古臭いパラダイムを超越しているのは誰の目にも明らかだったし、彼自身は「個人的にはいかなる権力も欲しない。新政権に参加する意志もない」と断言していた。
一部の識者は、「違法行為を唱えるとはけしからん」「法治国家の根本をないがしろにしている」というモラル論をぶった。しかし、加古沢自身が「法を遵守するあまり人命を軽視するのはモラルに反する行為である」と明言しているのだから、まるですれ違っていた。
もっとも空回りしたのが、「机上の空論だ」「根本的に分かっていない」という経済学者や政治評論家の批判だった。彼らは専門的知識を元に、何とか論理的に反駁《はんばく》しようとした。その中には確かに妥当なものもあったが、内容が専門的すぎて、大衆の賛同は得られなかった。誰も加古沢ほどの明確活簡潔に、読者の共感を呼ぶ文章を書く才能がなかったのだ。そもそも、今回の事態を予測できなかった連中の言葉に、どんな説得力があるだろう?
やがて、そうした否定の声は、圧倒的に多い絶賛の声にかき消されていった。
その熱狂の影に隠れて、『仮想天球』の盗作騒ぎはいつの問にか忘れられようとしていた。
論争は圧倒的に私たちの方の分が悪かった。何といっても、「神のシミュレーション」仮説を兄が先に思いついていたという具体的証拠が何もないのだ。それを知っているのは、加古沢以外には、兄と私と葉月だけ――しかし、本人とその妹と妻が同じ証言をしたところで、「口裏を合わせている」としか思われないのは当たり前だ。
大和田氏が少しだけ掲示板上で私たちを擁護してくれたことはある。二〇一一年の一〇月二九日、兄から仮説を聞かされたと証言してくれたのだ。だが、加古沢の方では、自分が兄にアイデアを話したのは、私たちが大和田氏に会いに行く一か月も前だと主張していた。だから大和田氏の証言は何の証拠にもならなかった。
もちろん、ベストセラー作家をめぐるスキャンダルが話題にならないはずはなく、私の主張を取り上げてくれた雑誌やウェブマガジンもいくつかあった。しかし、そのどれも両論併記という形で、最後は「真相は藪《やぶ》の中といったところか」といったお定まりのフレーズで締めくくっていた。いくつかの大手マスコミは、加古沢作品の映像化権をめぐって熾烈《しれつ》な獲得合戦を繰り広げていたこともあり、悪い噂を取り上げようともしなかった。
小さな出版社から、反加古沢本を出すので執筆してくれ、という依頼もあった。最初は乗り気だったものの、共同執筆者の顔ぶれを見て愕然《がくぜん》となった。過激な右寄りの言論で有名な評論家、某新興宗教の信者でもあるマンガ家、反加古沢サイトの運営者で読むに耐えない低級な罵詈雑言《ばりぞうごん》を載せ続けている人物、人気のある者なら誰でも噛《か》みつき嘲笑《ちょうしょう》するコラムニスト、オカルトすべてを憎むタレント科学者……こんな連中にはさまれて、私の文章が載るというのだ。これにはさすがに辟易《へきえき》して、原稿依頼は丁重にキャンセルさせていただいた。
ネットでは私たちの主張を信じてくれる人もいた。反加古沢掲示板はおおいに盛り上がったし、励ましのメールもたくさん貰《もら》った。
だが、私はあまり嬉《うれ》しい気分にはなれなかった。
私たちの主張を信じてくれる人のほとんどが、もともと反加古沢派だったことが分かったからだ。おまけに彼らが加古沢を罵倒《ばとう》する文章は、ひどく感情的から下品で、加古沢ファンが私たちを罵倒する文章にそっくりなのだ。時おり、どっちの派閥の文章を読んでいるか分からなくなるほどだった。
彼らは根拠があって私たちを信じてくれたわけではない――と、私は気づいた。もともと加古沢が嫌いだったから、彼を貶《おとし》める情報を信じただけなのだ。その証拠に、彼らは加古沢をめぐる悪評なら、明らかに間違った情報や露骨な創作でも信じてしまうのだ。もし彼らが加古沢ファンで、私が加古沢の潔白を主張する情報を書いたなら、彼らはやはりそれを信じただろう。
私は空しくなった。そんないいかげんな態度で信じられても、嬉しいわけがない。人は結局、自分の信じたいものしか信じないのか? 証拠を検討し、論理を突き詰めたうえで、何が真実なのか見極めるということは不可能なのか? ジャーナリストがいくら真実を報道したところで、情報を受け取る側の脳に、不都合な情報をシャットアウトするフィルターがあるのだとしたら、報道など無意味ではないか……?
だとしたらいったい、私は何のために記事を書いているのか?
そんな複雑な気分で、私はあの二〇一二年一一月二八日を迎えた。
加古沢の件にばかり関わってはいられなかった。私も食べていかなくてはならないのだ。『神を求める魂』以来、一冊の本も出していなかったし、出版社の倒産、雑誌の廃刊が相次いで仕事先が減っていた。食いつなぐためには出版社や編集スタジオを回り、頭を下げて頼みこみ、ギャラの安い仕事、くだらない仕事でも引き受けなくてはならなかった。電車代ももったいなく、自転車で都内を走り回ったので、すっかり足腰が丈夫になった。
当然、やはり食うに困っている他のライターたちと、仕事の取り合いになる。私はやや不利だった。というのも、どんなに経済的に困窮しても、矜持《きょうじ》を守って、仕事の選り好みをしていたからだ。
たとえば懇意にしている編集者から、「どうなる、これからの日本!? 人気占星術師&霊能者が予言する未来」という企画への協力を頼まれたが、お断わりした。私は占星術も予言も信じていなかったし、リストアップされた「霊能者」の中には、相談者から悪質な手口で大金を巻き上げていることで有名な人物もいたからだ。そんな人間の提灯《ちょうちん》持ちをするような記事など、絶対に書きたくなかった。
あるいは、ネットでベストセラーになったコミック『サンバーン』の作者、三崎《みさき》純《じゅん》へのインタビューという話もあった。参考のために読んでみた私は、すぐに編集者に電話をかけ、「この仕事は別の人に回して」と依頼した。身障者の少女をレイプし、いじめ抜いた末に殺害する主人公の姿と、それをギャグを交えてあっけらかんと描く作者の姿勢は、私には反吐《へど》が出そうなほど不快だった。紙の本が出版物の主流で、出版業界のモラルが守られていた時代には、とうてい陽の目を見なかった作品だ。こんなものを描く人物がいることにも、それを夢中になって読む大衆がいることにも、やりきれなさを覚えた。
そんなわけだから、私に回ってくる仕事は少なく、毎月の収入も生きてゆくのに必要最小限のラインだった。私は生活費をぎりぎりに切り詰め、綱渡りのような暮らしを続けた。それでもまだ幸運と思わなくてはならなかった。毎日、日本中で何百人という人が、不況で食い詰め、自殺していたのだから……。
一一月二八日。私は例によって東京都内の出版社を回り、仕事を探していた。電話やメールではあっさり断わられることが多い。じかに押しかけ、「仕事はありませんか」とアピールすれば、少しは採用される確率が高くなると考えていた。だが、その日はどこも空振りだった。夕方、代々木にたどり着き、知り合いの編集者が勤めている雑誌社に顔を見せたが、ここでも「今は何もないよ」と、けんもほろろに扱われた。
そこでようやく、私は疑念を覚えた。
私には葉月のような優れた記号着地能力はない。他人の感情の機微など読めない鈍感な人間だ。それでも知り合いが露骨に気まずそうな顔つきで、わざとらしく視線をそらそうとしていたら、さすがに何か不自然だと気がつく。
私は「何かあったの」と編集者を問い詰めた。彼は同僚たちの様子をうかがってから、小声の早口で言った。
「まだ見てないのか、ネット?」
「ネット?」
「自分の名前で検索してみろよ。本名の方で」
彼は私と交わす言葉を最小限にしたいようで、それ以上何も言わなかった。私は狐につままれたような心境で編集部を出ると、エレベーターで一階に降り、ビルのロビーでポケタミを広げ、ネットに接続した。
言われた通り、「和久優歌」で検索をかけ、最新情報から順に表示してみた。たちまち、こんな文章がずらずらとモニターに並んだ。
「あちゃー、こんな奴だったんだなあ、和久優歌。そりゃ加古沢に同情したくもなるわ。ひどい女にひっかかったもんだ」
「どうやら和久優歌の化けの皮が剥《は》がされたようだ。これで信用はガタ落ちだな。あーあ、しょーもねえ騒ぎだったこと」
「本人なの、これ? そりゃ確かに和久優歌って珍しい名前だけど、同姓同名ってこともあるんじゃない?」
「これ、俺も覚えてる。へー、そうか。あの時のあのバカ女が和久優歌なのか」
何だ、これは? 私は胸騒ぎを覚えながら、リンクをたどり、彼らが話題にしていたページを発見した。
<エビケンのTV突撃隊>
その瞬間、私の頭の中は真っ白になった。その場で何秒も凍りついたように立ちつくしていたと思う。やがて、怒りと困惑と恐怖がない交ぜになった不快な感覚が、じわじわと背筋を這《は》い上がってきた。そんなバカな! あのサイトは何年も前になくなったはずなのに……!?
ページは記憶の中にある内容とまったく同じだった。番組の構成と、モザイクで顔を隠した私の発言が再録されており、最後に「これがバカ娘のお出かけ風景」というキャプションつきで、私が伯父夫婦の家から出てくる写真が載っていた。
解説を読むと、七年前、エビケン氏が諸々の事情でサイトを閉鎖する前、誰かがページを保存しておいたらしい。それが今回、発掘され、別のスキャンダル系サイトに当時のまま転載されたのだという。
加古沢だ。
私はそう直感した。高校時代の恥ずかしい体験のことは、ずっと前、彼に笑い話として話したことがある。彼は「 <TV突撃隊> なら、俺も中坊の頃にちょくちょくチェックしてたな」と言っていた。面白そうな記事は保存してあるので、古いパソコンのハードディスクのどこかに残っているかもしれない、と……。
彼が保存していた <TV突撃隊> のページをスキャンダル系サイトに流したのだろうか? 証拠はない。どっちみち、頭のいい彼のことだ。証拠を残すようなへマはするまい。情報を流すにしても、痕跡《こんせき》をたどられないよう、プロキシをいくつも経由するぐらいのことはするだろう。
いや、誰が情報を流したかなんて関係ない。私にとって、これは完全な敗北なのだ。高校時代に援助交際をしていた女、世間を愚弄《ぐろう》し、ムカつくことを言っていたバカ女を、いったい誰が信用するだろう?
汚い手だ――私は悔しさに歯軋《はぎし》りした。こんなアンフェアな攻撃をかけてくる相手に怒りを覚えると同時に、若い頃の自分の軽率さにも無性に腹が立った。こんなことが起こるかもしれないということを、なぜ予測しなかったのか? 時間を遡《さかのぼ》ることができるなら、九年前の自分の前に現われて、大声でどやしっけてやりたかった。「自分がどんな軽率なことをやっているか分かってるの、和久優歌!?」と……。
「和久優歌さん?」
いきなり声をかけられ、びっくりした。振り返ると、二人の男がすぐ後ろに立っていた。背の低い小太りのにこやかな男と、長身の痩《や》せた仏頂面の男で、まるで漫才コンビのような印象だった。どちらも三〇代ぐらいで、揃いの黒い背広を着ていた。
「初めまして。私、毎朝ジャーナルの者です」
困惑している私に、小太りの方の男がぺこぺこと頭を下げ、名刺を差し出した。半年前、朝日と毎日が合併し長いことフィクションの中の存在だった「毎朝新聞」が実在するようになったことは知っていた。騒ぎを聞きつけ、取材に来たのだろうか?
「お話を少しおうかがいしたのですが――」
「失礼ですけど」私は相手の言葉をさえぎった。「加古沢の件なら、今は話す気分じゃありませんので」
それは本音だった。実際、その時の私は動転していて、冷静なコメントを口にする自信がなかったのだ。
「加古沢の件?」男は首を傾げた。「いえ、違います。超常現象の話です。一年前にあなたの体験された例の事件について、お聞きしたいことがあるんです」′
「本当? 加古沢の話じゃない?」
「はい」
「でも、一年も前の話ですよ?」
「事件の再調査を行なっているんです。ぜひとも当事者の話をおうかがいしたいんです」
私は胸の中で渦巻いていた感情を抑え、自問自答してみた。加古沢の話以外なら、まともに話せるだろうか? イエス。あの事件のことはテレビの取材などで何度も話したから、深く考えなくても、機械的に答えられる。それに、今は少しでも金が欲しい。毎朝のような大きなところなら、インタビューのギャラもそこそこはずんでくれるはず……。
「だめでしょうか?」男は私の顔を下から覗《のぞ》きこむように言った。「お忙しいようでしたら、また今度にしましょうか?」
「いえ、時間ならあります」私は慌てて言った。実際、その日の予定はもうなかった。「一時間ぐらいなら――そこの喫茶店ででも」
私は二人の男を連れ、隣のビルにある小さな喫茶店に入った。私はミルクティーを注文し、男たちも「同じものを」と言った。午後八時台だったが、不況の影響か客は少なく、私たちの他には一組のカップルがいるだけだった。
最初のうち、インタビューは何の支障もなしに進んだ。小太りの男の方が、「事件が起きた時の状況は?」とか「どう思われましたか?」などというお定まりの質問をし、私がそれに答え、痩せた男の方が手帳にメモするのだ。
どこもおかしな感じはしなかった。強いて言うなら、「今どき手帳にメモするなんて時代遅れだな」と思ったぐらいだ。現代の記者はたいていポケタミを使っている。まあ、小説家でもいまだに原稿用紙に万年筆で書いているという人もいるそうだし、中には手帳の方が使いやすいという人もいるのだろう……。
後から考えれば、やはり私はショックの影響でぼうっとしていたのだと思う。少し考えればおかしいと気がつくはずのことに、気がついていなかったのだ。
やがて男は、それまで誰もしなかった質問を口にした。
「以前にも同じ経験をしたことはありますか?」
「え?」
「昨年の一月にも、空から何かが落ちてくる現象を体験したことがおありでしょう?」
私は面食らった。
「あの……どうしてご存知なんですか?」
「あるんですね?」
「……はい」
「それはこういうものでしたか?」
男が無雑作に差し出したものを見て、私は息が止まった。
銀色に光るボルト。
「これですね?」
「はい……あの……でも……」私は舌がもつれた。
「これを見てどう思われました?」
男は私の鼻先にボルトを突きつけた。こんな質問にどう答えればいいというのか。「驚きました」? 「不思議でした」?――いや、それを言うなら、男がこのボルトを持っていることの方が不思議だ。
「あの……どこでこれを?」
「どこだと思います?」
「あの場所で拾ったんですか?」
「そういうことにしておきましょうか」
「ごまかさないでください。誰からお聞きになったんですか、このボルトのことを?」
男はにこやかに笑うばかりで、答えなかった。私は混乱する思考をまとめようと必死だった。この記者はなぜ私の沖縄での体験を知っているのだろう? 私があの事件を話した人間は限られている。兄、葉月、大和田氏、それに加古沢……その中の誰かが記者に洩《も》らしたのだろうか?
「加古沢ですか? 彼からお聞きになったんですか?」
「加古沢?」男はまた不思議そうな顔をした。「それは誰ですか?」
「冗談はやめてください。加古沢黎を知らないわけないでしょう?」
男は質問をはぐらかした。「それはUFOと関係があると思いますか?」
「UFO?」
「あなたのお兄さんが撮影されたUFOです」
「そんなことまで?」
私はまたも驚いた。兄はあの映像は公開しないと誓っているし、大和田氏も秘密にすると約束してくれた。もちろん葉月も喋《しゃべ》るはずがない。
「やっぱり加古沢なんでしょう? 情報源は彼なんでしょう?」
「どうしてそう思われるんですか?」
「だって……彼しか考えられないじゃないですか!」
「加古沢という人物が情報を洩らしたと思われるんですね?」
「ええ」
「その人物はあなたと特別な関係にあるのですか?」
「『あった』です。過去形です」
「恋人ですか?」
「だったこともあります」
「というと?」
「過去には恋人でした」
「SEXは週に何回しましたか?」
私は目を丸くした。「え……何……?」
「どんな体位で行ないましたか?」
私はさすがに唖然《あぜん》となって、小太りの男を見つめた。だが、男が私に向けるにこやかな表情には何の変化もなく、好色そうな様子も、ふざけている様子も、まったく見られない。
「何で……そんなことを答えなくちゃいけないんですか?」
「どうして答えていただけないんでしょう?」
「当たり前でしょう! 彼と私のプライベートなことですよ! あなたがたに関係ないじゃないですか!」
私は興奮してテーブルを叩《たた》いた。その拍子にティースプーンが皿から飛び出し、床に転がり落ちた。離れた席にいたカップルが驚いて振り返った。私は腹を立てながらも、腰をかがめ、落ちたスプーンを拾った。
その時、それを目にした。
男たちは二人とも、靴を履いていなかった。
私はゆっくりと上半身を起こしながら、肩越しに店の入口の方を振り返った。ガラス扉の向こうに、二足の靴がきちんと揃えられて置かれているのが見えた――二人は店に入る時、靴を脱いだのだ。
おそるおそる男たちの方に視線を戻した。小太りの男は依然としてにこやかに私を見つめている。その表情ときたらまるでテクスチャーを貼りつけたゲームキャラのようだ。普通、人間にはもうちょっと表情の変化があるものではないだろうか?
痩せた男の方は仏頂面を崩さない。彼は今、メモを取る手を止め、ミルクの入った容器を珍しそうにしげしげと眺めていた。やがて何か思いついたのか、ミルクをコップの水の中に入れ、その水をごくごくと一気に呑《の》み干した。
それまで脳裏に浮かばなかった疑問が一気に噴出してきた。どうして彼らは、私が雑誌社から出てくるところを待ち伏せできたのか? 私があそこに立ち寄ることは予想できなかったはずだ。それにどうして私の顔を知っていたのか? ボルトの雨のことや、兄が撮影したUFOのことまで、どうして知っていたのか……?
UFO事件の関係者のところに現われ、理解不能な行動を取る黒い服の二人組――私の鈍い頭にもようやく、三文字のアルファベットがひらめいた。
「……何なんですか、あなたたち?」
かすれた声でそう訊《たず》ねたものの、私は答えを耳にするのを恐れていた。
しかし、男はまたも質問をはぐらかした。「話題を変えましょう。中学の頃、読書感想文で賞を取られたそうですね?」
「関係ないでしょ、そんなこと! 質問に答えてください!」
「校舎の裏で三人の女の子にからまれ、そのうち一人を殴って鼻血を出させた……」
「だから、あなたたちは誰なんですか!?」
「土砂崩れでご両親を……」
「やめてください! こんな悪質ないたずらは!」
私は必死に、現実的な解釈にすがりつこうとしていた。そうだ、これはいたずらに違いない。こいつらはイカレた加古沢ファンで、記者を装って私をからかいに来たのだ。私の過去の話も、みんな加古沢から聞いたに違いない……。
その時、それまで一言も発しなかった痩せた方の男が、初めて口を開いた。
「話題を変えましょう」男は仏頂面のまま、低い声で言った。「『目覚めの日』について話してください」
私は絶句した。
「『目覚めの目』を信じなくなったのはいつからですか?」
「…………」
「どうして信じなくなったのですか?」
私は答えなかった。答えられなかった。腕に力をこめ、テーブルの端をぎゅっと握り締め、目を閉じ、必死に歯を食いしばって耐えていた。そうして支えていないと、テーブルに突っ伏して号泣してしまいそうだったからだ。それでも熱い涙がぼろぼろと頬を伝い落ちるのを止めることはできなかった。
決定的だった――疑いの余地はない。私は「目覚めの日」のことを誰にも話したことはない。加古沢にはもちろん、兄や葉月にさえ打ち明けていない。だから私以外に知っている人間がいるはずがない。
知っているとしたら、それは人間ではない。
「……どうして?」私は泣きながらつぶやいた。「どうしてこんなことをするの……?」
「どうしてだと思います?」
「……こっちが訊ねてるのよ!」
「話題を変えましょう」また小太りの男の方が言った。「SEXは週に何回しましたか?」
私は泣き続けた。彼らはアンドロイドのようなものだ、という兄の説明を思い出した。生体部品は人間のものだが、初歩的なアルゴリズムで動いているだけの人工無能――いわば生きた「無敵くん」なのだ。だから彼らに何を訊ねても無駄だ。あらかじめプログラムされた台詞《せりふ》を喋り、私の言葉|尻《じり》をとらえて言い返し、答えられない質問ははぐらかす。最初の数分はごまかせても、長時間のチューリング・テストには耐えられず、必ずボロを出す……。
それが分かっていても、私はこう言わずにはいられなかった。
「……何が目的なの?」
「何が目的なのだと思います?」
「どうして私なの? 他の人じゃなくて、私なの?」
「どうして私なのだと思います?」
「これって……コンタクトなの? 私に何か伝えたいの?」
「私に何か伝えたいと思いますか?」
「人類をどう思ってるの? なぜ悪が存在することを許すの? 世界を創造した目的は何?」
「話題を変えましょう。あなたの好きな体位は何ですか?」
男たちはなおも支離滅裂な質問を繰り返したが、私は深い無力感にとらわれ、答える気力もなくしていた。他の人間なら騙されたかもしれない。CIAのエージェントや、人間に化けた異星人、あるいは天使が、自分にコンタクトしてきたのだと信じたかもしれない。だが、私は信じなかった。これはコンタクトなんかじゃない。神は明確な意志を持って私に彼らを遣わしたのではない。私が動揺した瞬間にボルトや子供が降ってきたり、スプーンが曲がったり、彼らが出現したりするのは、自動ドアが開くのと同じ機械的な反応にすぎず、私はたまたま現象の焦点になっているだけなのだ……。
もしそうでないとしたら――神に何らかの意志があるのだとしたら、私は神にからかわれているに違いない。
異常なインタビューは一〇分も続いただろうか。やがて彼らは唐突に質問をやめ、「エネルギーが切れてきました。これで失礼します」と言って、二人揃って立ち上がった。
「近いうちに徴《しるし》があるでしょう」
去り際に、痩せた仏頂面の男の方がぼそりと言った。
「徴?」
私は問い返したが、男たちはすでに歩き出していた。会った時には気がつかなかったが、重心が不安定な、どことなくぎくしゃくした歩き方だった。彼らは入口に置きっ放しにしていた靴を履き、夜の街に出ていった。
テーブルの上には銀のボルトが残されていた。
彼らはミルクティーの代金を払っていなかった。もちろんインタビューのギャラもだ。私はレジで三人分の代金を払わなくてはならなかった。あたりのバカバカしさに思わず苦笑してしまい、レジの女性におかしな目で見られた。涙を流しながら笑っている女なんて、ずいぶん変に見えるだろう。これが笑わずにいられるものか。
神の使いのミルクティー代を立て替えるなんて、めったにある経験ではない。
領収書を受け取り、ふらふらと夜の街に出た。見回してみたが、予想した通り、男たちの姿はもうなかった。私は自転車に二重にかけていたロックをはずし、サドルにまたがった。アパートに帰るため、新宿方向へと漕《こ》ぎはじめる。ペダルが妙に重く感じられるのは、疲労のせいばかりではなかった。
何度目をこすっても、街の灯がにじんで見える。明治通りに人は少なくないものの、不況のあおりで消えているネオンが多く、活気に欠ける光景だ。
「近いうちに徴があるでしょう」――その言葉が頭にひっかかっていた。あの二人のくだらないお喋りの中で、唯一、何か意味がありそうな言葉だ。何か重大なことが起こるというのか? 大異変とか、あるいはもっと異常な超常現象とか……。
「バカバカしい……」
私はペダルを漕ぎながらつぶやいた。あんな奴の言うことを信じるなんて、どうかしている。「異星人」や「MIB」や「聖母マリア」の予言が当たったことなんて一度もないことは、よく知っているはずではないか。徴うんぬんの話にしたって、どうせデタラメに決まっている。
意味なんかありはしない。
ぼんやりとそんなことを考えながら甲州街道に入り、新宿駅の陸橋を渡っていた時、ポケタミが鳴った。自転車を道の端に止め、ポケタミを広げると、受信ボタンを押した。
「優歌! 優歌! 今どこにいる!?」
いきなり兄の緊迫した顔が有機モニターに現われたので、私は面食らった。
「新宿だけど……?」
「外にいるのか? 空が見えるか?」
「見えるよ」
「だったら見ろ! 早く!」
私はとまどいながら振り向いた。その時ようやく、おかしなことに気がついた。
通行人がみんな足を止めている――まるで花火大会でも見物しているかのように、陸橋の手すりに寄りかかり、東南の空を見上げて、「あれ何?」「何だ?」「気持ち悪い」などと口々に言い合っているのだ。ポケタミや携帯の呼び出し音があちこちで響いてる。自分から電話をかけ、「いいから今すぐ空見ろって! すげえんだから!」と怒鳴っている若者もいた。車道でも次々に車が止まり、ドライバーが顔を出している。なぜ前の車が止まったか分からず、クラクションを鳴らして急《せ》かす者も多かった。
私は人々の視線を追って、東南の空に目を向けた。タカシマヤタイムズスクエアのちょうど真上に、白い満月が昇っていた。いったい満月なんかどこが珍しいのか……。
次の瞬間、私は驚きに打たれ、ぽかんと口を開けた。
あの満月の模様――人類が何万年も慣れ親しんできた「餅《もち》をつくウサギ」「カニ」「女性の横顔」は、その夜、永遠に失われた。
三八万キロの彼方から私たちを見下ろしているのは、今や「神の顔」なのだ。
[#改ページ]
19+神の顔
二〇一二年一一月二八日午後八時四四分三〇秒(日本時間)。
その時刻、地球の夜の側には二五億人ほどの人間がいたはずだが、変化が起きた瞬間を目撃した者はそのごく一部だった。栃木県で天体観測をしていた中学の天文部員。インドネシア・レンバングのボスチャ天文台、オーストラリアのストロムロ山天文台、中国・南京の紫金山天文台にいた天文学者。ロシアのスコボロジノ、中国の山西省、コリアの豊山、フィリピンのダバオ、オーストラリアのバース、ニュージーランドのファンガレー、フィジー諸島のスバなどにいたアマチュア天文家。グアム島の浜辺にいた観光客。ミャンマーのシャン地方の農民。インド洋上のタンカーで月の出を眺めていた船員……すべて集めても全人類の五〇万分の一にも満たない。それでも一万人近くの人間が目撃していた。
彼らの証言は共通している。「何の前触れもなく」「ふと気がつくと」「まばたきしたように」「テレビのチャンネルを切り替えたみたいに」「ぱっと」「一瞬で」、見慣れた月の模様が消え、「神の顔」になったというのだ。
北米大陸では夜明け前の時間帯であったうえ、西の空に逆さまに浮かんだ「顔」を、顔として認識できた人間が少なかったらしく、ほとんど騒ぎにならなかった。だからパニックはまず東アジアとオセアニアに発生した。
東京の夜空は雲ひとつない快晴だった。月はほぼ満月で、牡牛座《おうしざ》の真ん中にあった。関東地方だけでも何百万、日本全国では何千万という数の人々が夜空を見上げ、天の神秘に驚嘆し、興奮し、恐れおののいた。テレビは通常の番組を中断し、いっせいに特別番組を流した。電話をかける人間が一時的に急増したため、回線がパンクした地域もあった。
後になって、私は月のすぐ上にプレアデス星団があったことを知った――偶然かもしれない。何にせよ、都会の夜空は明るいうえ、満月の輝きが周辺の星の光をかき消していたため、牡牛座の星はほとんど見えなかった。右下に一等星アルデバランがかすかに見えたのと、左下に木星が輝いていたのが見えたぐらいだ。
日本人が夜空をぽかんと見上げていた頃、インド、ネパール、中国西部、ロシア中部の人々は、夕刻の東の地平線から昇ってくる「顔」を目にし、恐怖に襲われていた。地平線近くの月は大きく見えるから、衝撃も大きかったのだろう。多くの人は家の外に飛び出し、大地や街路にひれ伏した。都会では交通が麻痺《まひ》し、文明は一時的に機能を停止した。迷信深い者の中には、世界の終わりが来たと思いこみ、放火や略奪に走る者もいた。インドのデリーでは旅客機の事故が起き、一二〇人が死亡した。おそらく着陸態勢にあった機のパイロットが、月を目にして混乱し、操縦を誤ったものと思われる。その他にも、月に気を取られたのが原因と思われる交通事故や窓からの転落事故、衝動的な自殺、精神錯乱が多発した。
地球が自転するにつれ、同様のパニックは、パキスタン、アフガニスタン、カザフスタン、イラン、サウジアラビアへと広がっていった。違うのは、イスラム圏では地面にひれ伏す人間が少なかったことだ。イスラム教では偶像崇拝を禁じているので、月面に現われた「神の顔」を崇拝してよいものか分からなかったのだ。人々はただ月を見つめ、震えながら小声で意見を交わし合った。
アフリカやヨーロッパの人々には、数時間前から心の準備ができていた。地球の自転よりも早く、ニュースが東から伝わってきていたからだ。それでも実際に「顔」を目にした衝撃は大きかった。バチカンの広場では、冷静になることを呼びかけるローマ法王の緊急声明も空しく、何千人もの人がやはり石畳にひれ伏して祈りを捧《ささ》げた。パリやロンドンではお祭り騒ぎになり、多くの店のウィンドウが割られ、季節はずれの花火が打ち上げられた。冷たいセーヌ河に飛びこんで溺死《できし》する者もいた。内戦の続いていたチャドでは、一時的に戦闘が中断し、政府軍と反政府軍の兵士がともに月を見上げていた。
厳密に言えば、みんなが同じ月の出を見たわけではなかった。「顔」は月の軌道に対して九〇度横倒しで、顎《あご》を進行方向に向けている。「顔」の中心線が地球の赤道にほぼ平行であるため、北半球では月は「顔」を向かって右側に傾けて昇ってきたし、南半球では左側に傾けて昇ってきた。人々が見上げる中、月は南の空を(南半球では北の空を)横切り、頭を下に向けて西の地平線に沈んでいった。
翌朝一番にテレビのスイッチを入れた私が見たのは、ニューヨークからの生中継だった。異変の発生から半日が過ぎていた。マンハッタンの人々はイースト・リバーに面したビルの窓から顔を出し、対岸のクイーンズのビル群の向こうから昇ってくる月を見ようと待ち受けていた。やがて「顔」が昇ってくると、まずビルの屋上からどっと歓声が上がり、その興奮がしだいに階下へと広がっていった。ついには街全体が大騒ぎになった。窓から紙吹雪が撒《ま》き散らされた。カメラは群集にもみくちゃにされながら、感激して涙ぐむ中年女性、興奮して喋《しゃべ》りまくっている黒人男性、大声で歌っている若い娘、狂ったように踊り回る少年、きょとんとしている幼児、複維な表情で群集を整理している警官を映し出していた。
異変から一八時間が経過し、地球が四分の三回転する頃には、天候の悪い地域を除く全世界のほとんどの人がそれを目にしていた。その日、何十億という人が驚きと畏怖《いふ》の念を共有した。人々は恐れおののき、興奮し、狂乱し、感動した。泣き、笑い、祈り、ひれ伏し、喋り、叫び、歌い、踊った。
変わったのは月だけではなかった。この日を境に、全世界が劇的に変化したのだ。
「神の顔」――人類の歴史上、これほど注目を集め、論議の的になった現象は他にない。その原因と意味をめぐって、互いに矛盾する何百という説が唱えられ、ネット上で、テレビで、出版物で、道端で、無数の議論が戦わされた。
議論が錯綜《さくそう》した最大の理由は、これほど大規模な現象であるにもかかわらず、あまりにも情報量が少なかったことだ。「顔」は見れば見るほど単純な形をしている。上の方にある二本の細い線は眉毛《まゆげ》。その下にある二つの楕円《だえん》形の影は眼。中央よりやや下にある小さな黒いしみは鼻の影。さらにその下、かつて「嵐の大洋」があったあたりに横たわる直線が口。月の両側面には、顔の輪郭、もしくは髪の毛と思われる暗い部分がある……。
それは小さいうえ(意外に知られていないが、満月の直径は角度にして一度の半分、腕をぴんと伸ばした状態で小指の先で隠せるぐらいの大きさしかないのだ)、ピンボケの写真のように曖昧《あいまい》だった。男性のようにも女性のようにも、高齢者のようにも若者のようにも見えるのだ。人種も定かではない。口は一直線に閉じられ、無表情のようだが、「慈愛の笑みを浮かべている」「人類の愚行を憂えている」「深い怒りを内に秘めている」と感じる人も多い。「眼」の中に輝きが見えるという人もいる。言ってみれば人類すべての顔の最大公約数のような、まったく特徴のない顔なのだ。映像技術の専門家は、「顔」に含まれている情報量はどんなに多く見積もっても五〇〇バイト以下、ホームページのリンク用バナーよりも小さいと断言した。
それでも、それが「顔」であることだけは議論の余地がなかった。夜空に輝くその光景は、あたかも黒い天幕に丸く穴が開き、その向こうにある純白の空間から誰かが覗《のぞ》きこんでいるように見えた。心霊やUFOを否定してきた頑固な唯物論者も、この現象には口をつぐまざるを得なかった。
天文学者やアマチュア天文家は、すぐさま天体望遠鏡で月面のディテールを確認しようとした。だが、その試みは新たな困惑を生んだだけだった。それが「顔」のように見えるのは、三八万キロ離れた地球から肉眼で見た場合だけで、拡大するとたちまち幻影は消え失せてしまうのだ。「眉」や「眼」や「口」は、不規則な形をした暗い溶岩の平原だった。それ以外の白い部分はクレーターや山脈の集まりだった。
一部のそそっかしいUFOマニアが唱えた説――異星人が驚異的な土木技術で月面を短時間で改造したのだという説は、たちまち色褪《いろあ》せた。いくら拡大してみても、灰色の荒涼とした月面には、土木工事の痕跡《こんせき》はもちろん、人工的なものは何ひとつ見つからなかった。火山活動、限石《いんせき》の衝突などの天変地異がつい最近あった様子もなかった。
とりわけ印象的なのは、ハワイのマウナケア山頂にある日本の天文台「すばる」が、口径八・二メートルの反射望遠鏡で撮影した月面写真だった。まるで数千メートルの高度から見下ろしたように鮮明に映し出された月面のクレーター群は、死の静寂に包まれており、何十億年も前から変わらぬ姿を保ち続けているようだった――だが実際には、一一月二八日より以前と同じ位置にあるクレーターはひとつもないのだ。
月が実際に変化したことを認めたがらない頑固者も、ごく少数だがいた。一部の陰謀マニアは、米軍がひそかに開発していた「ホログラム光線」を月面に投射し、全人類に立体映像を見せ、混乱に乗じて世界を乗っ取ろうとしているのだと唱えた。また別の陰謀マニアは、中国が数万人の超能力者を集め、テレパシーで全人類をマインド・コントロールし、幻覚を見せているのだと主張した。当然、こうした説はほとんど支持者を得られなかった。
科学者たちはもっと謙虚だった。彼らはしぶしぶとだが、月面が確かに物理的に変化していること、これが科学的にまったく説明のつかない現象であることを認めた。
唯物論者にとっては致命的な一撃となった。宗教や思想の枠を超え、全人類にひとつのコンセンサスが広がっていった。確かに科学を超えた現象は存在するということ。月面に生じた変化は史上最大規模の超常現象であり、明らかに超越的な意志の存在を意味していること……。
だが、その「意志」とは何なのか?
異変から一週間が過ぎる頃には、月は半月になっており、「顔」の下半分しか見えなくなっていた。「鼻」と「口」だけでは、それを「顔」と認識するのは難しいうえ、「眼」が隠れたことにより、人々は空から見下ろされているという威圧感から一時的に解放された。だが、月をめぐる議論は落ち着くどころかますますヒートアップしていた。
「神の顔」という言葉も即座に定着したわけではなかった。欧米諸国では「イエスの顔」と呼ぶ者も大勢いた。その根拠として、有名な「トリノの聖骸布《せいがいふ》」に浮かび上がったイエス・キリストの顔との類似が指摘された。しかし、私には両者が似ているようには見えなかったし、そもそも一三〜一四世紀の偽造と証明済みの聖骸布に似ているからといって、何かの証明になるとは思えなかった。
当然のことながら、イスラム教徒、ユダヤ教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒は、こうした呼び方に反発した。特に、イエスを偽預言者とみなすユダヤ教徒にとって、その顔が空に浮かぶなどということはあってはならないことだった。アメリカのユダヤ人団体は、「イエスの顔」という言葉を用いたメディアに激しく抗議し、この言葉の使用を撤回させた。
UFOマニアの間では「シドニアの顔」という呼び名も一時だけ流行《はや》った。一九七六年に火星探査機バイキング一号が火星のシドニア地域で撮影した、いわゆる「人面岩」に似ているというのだ。しかし、「人面岩」は月面の顔の一〇〇〇分の一以下の大きさしかないうえ、眉毛がなく、明らかに別物である。両者の類似はただ「顔のように見える」という点だけだった。
イスラム教徒の中には「シャイタン(サタン)の顔」と呼んで嫌悪する者もいた。あの顔は悪魔が人間をたぶらかし、偶像崇拝の罪を犯させるために刻んだもので、神だと思って崇拝した者は逆に堕落してしまうというのだ。しかし、「そんなあからさまな計略をなぜ神が見過ごすのか」という疑問には誰も答えられなかった。
その他にも、「仏陀《ぶっだ》の顔」「マリアの顔」「セレーネの顔」「ヴィシュヌの顔」「シヴァの顔」などという呼び方もあった。仏陀の肖像画など残っていないのに、なぜそれが仏陀の顔だと分かるのか? その根拠は「うちの近くのお寺にある仏像の顔に似ている」「夢で見た仏様に似ている」という頼りないものだった。
オウム真理教徒は麻原彰晃の顔だと言い、別のオカルト・マニアはサイババの顔だと言い、ビートルズ・マニアはジョン・レノンの顔だと言った。「モナリザの顔」「エルヴィス・プレスリーの顔」といった説もあった。「私の顔だ」と主張する誇大妄想症患者も大勢いた。そのどれもが、「無理してそう思いこめはそう見えないでもない」という程度の類似にすぎなかった。
ロールシャッハ・テストで用いられるインクの染みのように、「顔」はありとあらゆる解釈を許容した。
異変から二週間目。「顔」はいったん新月となって人類の目から隠れた。そのまま消え去るのではないかという予想に反して、日没直後の西の空に、上下逆さまになって、また額の部分から少しずつ現われはじめた。
その頃には「神の顔」という呼び名はほぼ定着しており、それがまさしく神の起こした奇跡であることも疑いようがなくなっていた。だが、神が何の目的で奇跡を起こしたのかについては、依然として議論百出だった。
月は昔から女性の象徴とされていたことから、過激なフェミニストは「神は女性である」と主張した。「顔」が男にも女にも見えるということから、同性愛者団体は
「ジェンダーの垣根が崩壊する時代が来るという予言」と解釈した。「顔」が白く輝いていることから、ネオナチや人種差別主義者は「神は白人だった」と大喜びで宣伝した。当然、黒人団体やユダヤ人団体はそれに猛反発した。
月面に隠された「神の暗号」を解こうとするオカルト・マニアも大勢現われた。彼らは新たに出現したクレーターを線で結ぶことで文字が現われると信じていた。当然、線で結ぶのに決まった法則などあるはずがなく、現われた「文字」は人によってまちまちだった。ラテン語で「大地は傾く。宴は近い」という文章を読み取った者、ヘブライ語で「ケネディ」「暗殺」「ビンラーディン」といった単語を見つけた者、ルーン文字で「生命」「祝福」「豊穣《ほうじょう》」と読んだ者、神代文字で「とこしへにちちははのかみをいのりまつらしめよ」と読んだ者、カタカナで「サクランボオクレ」と読んだ者がいた。点字、ハングル、シンハラ文字、インダス文字、アラビア文字による解読もあった。クレーターや山脈の影を占星術記号だと解釈して「火星と海王星が獅子《しし》座で合になる」と言う予言を読み取った者、クレーターをモールス信号に変換して「カマクラダイブツ」というメッセージを見つけた者もいた。当然のことながら、それらのメッセージはどれも読んだ本人にしか見えないのだった。
自分で望遠鏡を覗《のぞ》き、月面に「顔」以外のものを見つけようとする試みも流行した(おかげで望遠鏡の売り上げが大幅にアップした)。多くのにわか天文家が山脈やクレーターの影を観察し、「ピラミッド」「オベリスク」「ナスカの地上絵」などを見つけたと主張した。同じように、「十字架」「龍」「ライオン」「ドレスをなびかせた女性」「老婆の横顔」「ダビデの星」「カエルのカーミット」を見つけた者もいた。それらの図形はどれも確認するのにかなりの想像力を必要とされるうえ、せいぜい一〜二日しか持続しなかった。月が公転して太陽光線の角度が変わると、影の形も変化してしまうのだ。
依然として異星人説にしがみついていたUFO研究家の一人は、「キャタピラの跡」「アーチ」「運河」「パイプライン」「滑走路」を発見したと発表した。彼の説が正しいなら、異星人は幅数百メートルもあるキャタピラを一列だけ装着した巨大なプルドーザーで土木工事を行ない、何もない平原に全長二キロの橋を建設し、乾いたクレーター同士を全長一三キロの運河で結び、どこにもつながっていない直径一キロもあるパイプラインを敷設したことになる。おまけに彼らの宇宙船は全長二〇キロもの滑走路を必要とするらしい。
変化した月面には大気があって、森や草原が存在するという説もあった。月面に緑色に見える部分があるというのだ。言うまでもなく、それらはいずれも月面観察に慣れていない素人観測家による報告だった。彼らは月面の地質による微妙な色彩の変化について、まったく無知だった。天文学者は月の緑による星の掩蔽《えんぺい》を観測し、月面が依然として真空であり、植物など存在し得ないことを再確認した。
少し数学が得意な者は、クレーターを直線や円で結んで複雑な幾何学図形を描き、交差する線の角度を測ったり、交点の間の距離と比率、図形の面積などを求め、それらの数字を足したり引いたり掛けたり割ったり二乗したり平方根や立方根を求めたりして、意味のある数字を見つけようとした。ある者は五二・五度という「神聖な数字」を発見したと主張した。別の者は、ある二個のクレーター間の距離が、太陽―火星間の距離の一〇〇万分の一だという事実を発見した。また別の者は、クレーターの配列が人類の歴史を表わしており、四年後に起きる核戦争が予言されていると主張した。また別の者は天体図だと主張し、神は乙女座のベータ星にいることが示されていると言った。また別の者は音符だと解釈し、月面図に五線譜を引いて作った「天界の音楽」を発表した。それは題名に反し、聞くに耐えないひどい代物だった。
月に変化が起きた際の位置や時間に意味があると考える一派もいた。彼らは赤経と赤緯、黄経と黄緯、銀経と銀緯を、足したり引いたり掛けたりした。日本人のオカルト・マニアは「2012」「11」「28」「08」「44」という数字の組み合わせをあれこれいじくり回した。同じことを、カリフォルニアのオカルト・マニアは東部標準時で、リグァプールのオカルト・マニアはグリニッジ標準時で行なった。
専門の数学者はそれらをいちいち検証し、どれも偶然の一致にすぎないことを立証した。どんなランダムな配列からでも、同様のメッセージは読み取れるのだ、と。
占星術師たちはというと、異変が起きた日に月が牡牛座にあり、木星と合であったことに意味を見出そうとした。彼らは一一月二八日のホロスコープから、ありとあらゆる可能な解釈をひねり出した。大地震の予言、核戦争の予言、ローマ法王暗殺の予言、富士山噴火の予言、日本沈没の予言、彗星《すいせい》衝突の予言、世界的指導者の出現の予言、反キリスト台頭の予言、イエスの再臨の予言……予知能力者、霊能者、救世主と自称する連中もそれに便乗し、互いに矛盾し合う様々な予言を発表した。
しかし、そもそも自分たちがこの異変を予言できなかったことについては、みんな都合よく口をつぐんでいた。
この時期、無神論を捨てて既存の宗教団体に入信する者が増える一方、新たな宗教団体も雨後の筍《たけのこ》のように世界中で林立した。特に多かったのは、アジア、アフリカ、ヨーロッパ地域だった。それらの指導者の多くは、「私の祈りに応えて神が姿を現わされた」と主張し、自分こそが神に選ばれた人間なのだと思いこんでいた。
確率の法則から考えれば、ごく当然のことである。仮に全人類の一パーセントの人間が信心深く、一日のうち一分間を神への祈りに捧げると仮定しよう。すると七〇億人の一四万四〇〇〇分の一、約五万人が、異変が起きたまさにその瞬間に神に祈っていたことになる。彼らがそれを偶然だとは思えなかったとしても無理はない。南北アメリカ大陸ではほとんどの人間が眠っていたため、そう錯覚する者も少なかったようだ。
事前に神のお告げがあった、と主張する者もいた。事件の起きた晩、あるいはその数日前の晩に、夢の中に神や天使が出てきたというのだ。これも確率的には不思議ではない。神や天使の夢を見る人間は、毎晩、世界中に何万人もいるに違いないからだ。
全世界に何千もある宗教団体のうち何パーセントかは、異変の起きる数時間前、あるいは数日前に何らかの儀式を行なっていた。当然、彼らは神が自分たちの祈りに応えたと思いこみ、結束と狂信性を強めた。
「偶然なんかであるはずがない」
誰もがそう信じたがった。私が祈っている時に異変が起きたのは、意味があるに違いない。私が神の夢を見た次の晩に異変が起きたのは、意味があるに違いない。異変が二〇一二年一一月二八日に起きたのは、意味があるに違いない。クレーターの配列は無秩序ではなく、意味があるに違いない……。
意味、意味、意味……誰もが意味を求めていた。
「意味なんかないのよ!」
私が興奮してそう怒鳴ったのは、異変から一週間目、一二月五日のことだった。
現象が起きてすぐ、加古沢ファンの多くが、『仮想天球』のクライマックス、神のメッセージが空に投影される場面との類似に注目した。科学で説明できないこの現象を論理的に説明する理論は、「神のシミュレーション」仮説しかないと思われた。この世界が量子コンピュータの中に構築された仮想現実にすぎないのなら、そのデータをちょっと書き換えるだけで、月面の形を変えることができるはずだ……。
異変の三か月前に発表された『仮想天球』は、事件を予言したものと受け取られた。加古沢のサイトの掲示板は、今回の事件と小説の関連を論じる発言で埋め尽くされた。やはり「偶然ではない」という意見が強かった。『仮想天球』の発表によって、「神のシミュレーション」という概念が人間たちに受け入れられる準備ができたと判断した神が、小説に似せた現象を起こしたのではないか――というのが、おおかたのファンの解釈だった。
熱狂的なファンの中には、加古沢が神から霊感を受けて小説を書いたに違いないと論じる者もいた。加古沢黎こそ真の預言者、現代のイエスだというのだ。加古沢は笑ってそれを否定した。「自分の説がたまたま当たったのは嬉《うれ》しいが、俺は救世主でも教祖様でもない。ただの小説家だ」と言い、過剰に持ち上げるのはやめるよう読者に頼んだ。それでもなお狂信的なことをわめき散らす一部のファンは、掲示板から締め出された。
世界中が混乱しているというのに、加古沢はあくまで冷静で、ファンの狂騒に躍らされることは決してなかった。その奥ゆかしさが、かえって好感を持たれた。
何にせよ、「事件を予言していた小説がある」という噂はたちまちネットで広まり、『仮想天球』の売り上げはさらに急増した。「神のシミュレーション」仮説は日本中の注目の的となった。英語版、中国語版も緊急出版され、信者を世界中に増やした。
その余波で、兄のサイトを訪れる者も急増した。兄にとっては嬉しいことに、掲示板の荒らしは減り、まともに議論をしようという人間が多くなった。もちろん「私は神の啓示を受けた」とか「神の暗号を解読した」と称するトンデモさん(メジャーな加古沢の掲示板から追い出された連中だ)も訪れたが、それほど多くはなかった。
やはり議論の焦点となっているのは、「神の意図は何か」「なぜもっと分かりやすいメッセージを送ってこないのか」という点だった。兄は「今回、神は単に自らの存在を人類に知らせようとしただけなのだろう」という立場を表明していた。今はまだ人類は混乱している。騒ぎが落ち着くのを待って、メッセージの本文が送られてくるのではないか……というのだ。
しかし、掲示板の発言者の多くは、そんな単純な説明で納得しなかった。神はなぜ月に顔を映し出したのか? なぜ月でなくてはならなかったのか? なぜ月が牡牛座にある時でなくてはならなかったのか? なぜもっと早い時期やもっと遅い時期ではなく、二〇一二年一一月二八日でなくてはならなかったのか? 意味があるはずだ、意味があるはずだ……。
あまりの反対意見の多さに、兄の考えも揺らいでいた。「もしかしたら何か意味があるのではないか」と考えるようになってきたのだ。
だから私は怒った。
「兄さんはあいつらに会わなかったから、そんなことが言えるのよ。あいつらの喋ったことはみんなたわごと……意味なんかありはしないのよ!」
「でも、そいつらは『近いうちに徴《しるし》がある』って言ったんだろう?」
「ええ――でも、それに何か意味があると言える? あいつらはでたらめなことをいっぱい喋った。そのうちのひとつが、たまたま今度の事件の予言のように見えたとしても不思議じゃない。大和田さんのページにも書いてあったでしょ? 『近いうちに何かが起きる』っていうのは、あいつらの常套句《じょうとうく》なのよ。連中の予言はずっとはずれ続けてきた。今回だけそれが当たったとしても、〇パーセントだった的中率が〇・何パーセントかに上がるだけ……そんなの信じる方がおかしいわよ!」
兄は私の興奮した早口の主張を黙って聞いていた。やがて静かに、諭すような口調で言った。
「お前は怖いんだろ? 自分の体験に意味があると考えるのが?」
私は少し動揺したものの、すぐに事実を認めた。虚勢を張ってもしかたがない。
「ええ、怖い。怖くてたまらない。自分が神とコンタクトしてるなんて、そんなこと……考えたくもない」
「どうして?」
「どうして? あいつらは私をからかったのよ? ひどい質問ばかりして、私の心の傷をえぐった。偶然だったらまだ許せる。でも、意図があったんだとしたら……私を苦しめるために、わざとやったんだとしたら……」
私は自分の胸をぎゅっと抱きしめ、不安に震えた。
「……そんなの耐えられない」
「神が……そんなことをするはずがない」兄の口調は自信なさげだった。「神が人間に対して悪意を抱くはずが……」
「じゃあ、どうして父さんと母さんは死んだの!?」
兄は口をつぐんだ。
「もしも神に人間らしい感情があるなら、人が苦しんだり死んだりするのを黙って見ていられるはずがない。神には哀れみや優しさがない……私にはそうとしか思えない」
兄は顔をそむけたままだった。私は彼の前に回りこみ、顔を覗きこんでいった。
「ねえ、私たち、大壺朝子について誤解してたんじゃないかな? 彼女がUFOを見たとか異星人とコンタクトしたなんて話は、みんな妄想だと思ってた。でも、そうじゃなかったとしたら? 彼女は本当に異星人と――と言うか、彼女が異星人と思ったものと接触して、デタラメな予言を吹きこまれたんだとしたら? 神が大壷を操って、大勢の人間の人生を台無しにして、七〇〇人以上の信者を焼き殺させたんだとしたら?
彼女だけじゃない。ジャンヌ・ダルクもそうだったのかもしれない。ムハンマドもそうかも。イエスだって」
私はポケタミを開き、データベースから聖書の一節を引用した。『マタイによる福音書』一〇章三四節にあるイエスの言葉だ。
「『私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁を姑《しゅうとめ》に。こうして、自分の家族の者が敵となる』……ねえ、この言葉、真実だと思わない? イエスが現われてキリスト教が生まれたおかげで、この二〇〇〇年間、たくさんの争いが起きたわ。異教徒の迫害、カトリックとプロテスタントの争い、魔女狩り、ホロコースト……どれもこれも、イエスがいなければ起きなかったはずじゃないの?」
もちろんイエス自身は誰も殺しはしなかった。しかし、旧約聖書の登場人物たちは違う。モーセは雄牛の像を崇《あが》めたというだけの理由で三〇〇〇人のイスラエル人を殺したし(『出エジプト記』三二章)、ミディアン人を女子供まで虐殺した(『民数記』三一章)。ヨシュアはアイの国を侵略し、一万二〇〇〇人を虐殺した(『ヨシュア記』八章)。サウルはアマレク人を乳飲み子や家畜にいたるまで虐殺した(『サムエル記上』一五章)――そのいずれも、神のお告げに従った行為だった。
「神が人間にコンタクトしなかったら、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教が生まれなかったら、パレスチナであんなにたくさんの血が流れることも、貿易センタービルで大勢の人が死ぬこともなかったんじゃないの? いろいろな矛盾する啓示を与えて、人間同士を争わせるのが神の意図だとしたら? 人類は何千年も神のおもちゃにされてきたんだとしたら……?
ねえ、私は怖いの。みんな神について思い違いしてるんじゃないの? 神は慈悲深い存在なんかじゃない。月にあんな顔を描いたのには何の意味もなくて、単に人間をからかってるだけなんじゃないの? 世界を混乱させて、また殺し合いをさせるつもりなんじゃないの? そうでないと言えるの……?」
一気に喋ったので、私は口の中がからからになり、しばらく黙らなくてはならなかった。
兄が再び口を開くのに、何分もかかったと思う。
「神が人間的な感情を持たないというのは、確かにそうだと思う――でも、それなら悪意だって抱かないんじゃないか? 悪意というのは典型的な人間的感情だろう?」
「じゃあ、私の体験をどう解釈するの? あれが悪意でないとしたら何?」
「……何かの一部なのかもしれない」
「一部?」
兄はうなずいた。「神は大きな視点からこの世界を見下ろしてるってことを忘れちゃいけない。お前はもっと大きな現象のごく一部を、たまたま体験しただけなのかもしれない。全体像を眺めれば、別の意味が見えてくるのかも……」
「どういうこと?」
「これを見てくれ」
兄はパソコンに向き直った。アイコンをクリックすると、北アメリカの地図が表示された。州ごとに棒グラフが立っている。
「この前から、過去に世界中で起きた超常現象のデータを解析してる」
「知ってるわ」
「問題は個々の現象の情報量が少なすぎることだ」
「情報量?」
「UFOの目撃、幽霊の目撃、ポルターガイスト、魚の雨……そのどれも、きわめて単純な現象で、情報量はほんのわずかだ。とても意味のあるメッセージが含まれているとは思えない。そこが僕も前からひっかかっていた。今度の件にしてもそうだ。あの『顔』はメッセージにしては情報量が少なすぎる。神が何らかのメッセージを送ってきてるんだとしたら、もっとたくさんのデータが含まれていないとおかしい」
「確かにね」
「それでふと思ったんだ。もしかしたら、たくさんの現象を総合することで、情報量が増えて、何らかのメッセージが浮かび上がるんじゃないかって」
「どうやって?」
「まだ手をつけたばっかりなんだが……」兄はモニターを指で叩《たた》いた。「これはアメリカとカナダの各州で過去二〇年間に起きた超常現象の件数を、単位人口あたりの数で表示したものだ。もし超常現象がランダムに起きているなら、その目撃件数は人口に比例するはずだから、人口で割ればどの州もほぼ同じ数になるはずだ。ところが……」
兄の言いたいことは分かった。グラフには極端な高低差がある。
「でも……これって土地柄じゃないの?」
「確かにね。カリフォルニアあたりはニューエイジの本場で、オカルト・マニアも多いから、その手の報告が多いのは当然だろう。ニューメキシコはUFOの本場だしな。でも、そうした要素を考慮に入れても、やっぱりこの偏りは説明できない。念のためにカリフォルニアとニューメキシコのデータを排除してカイ自乗検定にかけたけど、危険率〇・〇五パーセントで有意という結果が出た。それから――」
兄がマウスをクリックすると、今度はヨーロッパの地図が現われた。
「ヨーロッパでも同じ結果が出ている。イタリア、イギリス、スペインあたりが高いのは予想してたけど、意外なのはポルトガルとスウェーデンだ。人口は少ないけど、単位人口あたりで見ると、やけに超常現象が多く起きてる」
「だからそれは――」
「土地柄か? かもしれない。じゃあ、これはどうだ」
画面には上下に並んだ二本の折れ線グラフが現われた。
「これは年ごとの超常現象の発生件数だ。上がカリフォルニア、下がスペイン」
私は画面を注視した。二本のグラフはほぼ同期して上下しているように見えた。
「これだけだと、たまたま遠く離れた二つの土地に、同じ年に超常現象ブームがあっただけのように見える。ところが――」
兄は同様のグラフをいくつも表示してみせた。アイオワ州とギリシア、カナダのブリティッシュコロンビア州とイギリス、カナダのオンタリオ州とウクライナ……どれも確かに似ているように見える。
「これでもまだ偶然のように見えるかもしれない。ところが――」
兄はアメリカの地図を半透明にして、ヨーロッパの他図に重ね合わせた。今度こそ私は息を飲んだ。経度を一二〇度ずらすと、カリフォルニアとスペイン、アイオワ州とギリシア、ブリティッシュコロンビア州とイギリス、オンタリオ州とウクライナの位置がほぼ一致する!
「ついでに日本のデータも入れてみた」
兄は別のいくつかのグラフを表示した。全部の地域で相関が見つかったわけではないが、北海道のデータはルーマニアと、中国地方はニューメキシコ州と、明らかに似ている。
「パターンがあるっていうこと?」
「まだ断言はできないが、その可能性は高い」
「でも……何のために? こんなの普通は気がつかないわよ。メッセージを送ってくるなら、それこそもっと――」
「もっと分かりやすいメッセージを送ってこないのか?」兄は大きくため息をついた。「それが僕にも分からない。単なる悪ふざけとは思えない。どうしてこんな、人間に理解できない暗号みたいなゲームを仕掛けなきゃならないんだ? なぜ?」
「それは私が訊《き》いてるのよ」
「分からない」兄は繰り返した。「でも、何か意味があるはずなんだ。絶対に意味がなきゃおかしいんだ……」
「世界の終わりは近い」
二〇一二年が終わりに近づくにつれ、そう解釈する者がしだいに増えていった。その根拠とされたのは「マヤの予言」である。
マヤ人の用いていたカレンダーは二〇進法が基準になっており、一日が一キン、二〇キンが一ウィナル、一八ウィナルが一トゥン、二〇トゥンが一カトゥン、二〇カトゥンが一パクトゥンである。世界は一三パクトゥン、すなわち一八七万二〇〇〇日(約五一二五年)で一巡する。世界のはじまりの日は「一三パクトゥン、〇カトゥン、〇トゥン、〇ウィナル、〇キン、四アハウ、八クムク」とされており、これは西暦に換算すると紀元前三一一四年八月一三日だという(八月一一日だという説もある)。それから一八七万二〇〇〇日目が二〇一二年一二月二三日で、その日に世界が終わるというのだ。
もちろんマヤ学の専門家は、そんなオカルト的解釈を笑って否定した。「一三パクトゥン、〇カトゥン、〇トウン、〇ウィナル、〇キン、四アハウ、八クムク」をはじまりの日とするのは単なる神話であって、具体的根拠はない。げんに紀元前三一一四年には世界的大異変など起きていないし、パクトゥンの節目である八三〇年、一二二四年、一六一八年などにも何もなかったではないか。だから一三パクトゥン目に世界が滅亡することなどありえない……。
しかし、すでにこの世に科学を超えた現象があることを知ってしまった人々にとって、そうした合理的な説明は説得力を持たなかった。一二月二三日の一か月前に異変が起きたことに、多くのオカルト・マニアが意味を見出した。神は世界の終わりを告げるために姿を現わしたのではないか?――いや、そうに違いない!
それでも、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、イスラム教などの大手宗教組織の多くは慎重だった。ローマ法王は全世界の信者に、根拠のない情報に惑わされないよう繰り返し呼びかける一方、「顔」の持つ意味や「世界の終わり」について、言質を取られるようなコメントを避けた。本当にあれが「神の顔」なのか、サタンの謀略ではないのかという議論がバチカン内部でも続いており、まだ結論が出ていなかったこともある。大きな団体であればあるほど、社会に与える影響力を考慮して慎重にならざるを得ないのだった。
だが、かねてから終末思想を売り物にしていた新興宗教団体や、異変の後に誕生したにわかカルトには、そんな自制は働かなかった。月が新月から半月へ、さらに満月へと進み続けている間に、世界中の預言者や教祖と自称する連中が、次々に「一二月二三日、世界は滅亡する」と発表した。神の啓示を受けたという者も少なくなかった。
もっとも、かんじんの滅亡の原因はまちまちだった。地軸がひっくり返る、大洪水が起きる、核戦争が起きる、彗星が衝突する、天使が降りてきて人間をみな殺しにする……中には、太陽系が「フォトン・ベルト」なるものに突入して地球が闇に包まれるとか(フォトンというのは光のことなのだが)、月が地球に落ちてくるとか、地球の空気が五分間だけなくなるとか、木星から燃える星が飛び出して七日間で地球まで飛んでくるとか、大陸が猛スピードで移動するとか、地球の重力が大きくなってみんな立てなくなるとか、洗濯機やフードプロセッサーなどの機械が意志を持って人間に襲いかかってくるとかいった珍妙な説もあった。
全世界の何千というカルトにあわただしい動きが起きた。ある教団は洪水から逃れるために大急ぎで箱舟の建造に取りかかった。別の教団は核戦争を避けるためにシェルターを準備した。文明の崩壊を予想して武器や食糧を備蓄する教団、空気がなくなるのに備えて息を止める訓練に励む教団、機械の反逆を恐れて山奥で原始生活をはじめる教団、神に思いとどまってもらおうと儀式に精を出す教団もあった。
他の多くの教団は、そんな努力は無駄だとせせら笑った。世の終わりが神の定めであるなら、それに逆らえる者がいるだろうか。どんなにあがいても地球上の人間はみんな死ぬのだ。もっとも、我々だけは例外である。地球が滅亡する前に神が救い上げてくださり、理想郷へと導いてくださるのだから……。
彼らは会社を捨て、財産を捨て、家族を捨て、海岸や山上や荒野に集まった。連日、火を燃やし、踊り、歌い、祈りながら、「終わりの日」を待ち受けた。降臨する神を迎えるため、大きな「顔」を描いた旗を立てたり、みんなで「顔」を模した仮面をかぶったり、草原や畑に大きな「顔」を描く行為も流行した。
私にはこうした運動の行く末が予想できた。何もかも、二年前の <昴《すばる》の子ら> の動きにそっくりだった――違うのは、それが全世界規模に拡大されたことだ。
特定のカルト教団に所属していなくても、滅亡予言を信じた者は大勢いた。本気にはしていなくても、大多数の人間が不安を覚えた。水の濾過《ろか》器や懐中電灯、非常用食糧などのサバイバル・グッズが飛ぶように売れた。証券や株を手放す者も多かった。株価がまた急落し、立ち直りかけていた日本経済にまた大きなダメージを与えた。
各地で多くの悲喜劇が起きた。
名古屋市では、大手食品会社社長が資産を大量に売却し、その金を自分の属する教団に寄付していたという事件が発覚した。「若い頃から金儲《かねもう》けにあくせくしてきたので、死ぬ前にせめて善い行ないをしたかった」というのが社長のコメントだった。結果的にこの会社は倒産し、二〇〇〇人の社員が路頭に迷うことになった。
JR大阪駅前では、無職の男が猟銃を乱射し、通行人六人を殺傷するという事件が起きた。捕まった男は傷害の前科があり、「どうせ地獄行きは決まってるんやから、思いきり悪いことをやったろうと思った」と供述した。
島根県松江市では、主婦が障害を持つ我が子を殴り殺すという事件があった。調べに対し、彼女は晴れ晴れとした顔で、「あの子を早く楽にさせてあげたかった。どうせ私たちみんな、すぐに後を追うんだから、寂しくないはずです」と語った。
同様の事件は日本のあちこちで起きており、私もそのひとつを取材した。横浜で、父親が生後四か月の我が子を焼却炉に放りこんで殺した事件だ。近所の人の話によれば、父親はその子を溺愛《できあい》していたという。彼は事件の動機について、「愛する子供を生贄《いけにえ》に捧げれば、神が心変わりしてくださると思った」と泣きながら刑事に供述した……。
私は記事の最後で読者に呼びかけた。「冷静になろう」「理性を失っては行けない」と――だが、その声はどれだけの人に届いただろう? 世界中で多くの知識人や宗教家が同じことを呼びかけていたのだ。私の声がそれに加わったぐらいで、どれほどの影響力があったか疑問だ。
大衆への影響力という点では、加古沢の声の方が圧倒的に大きかった。一二月一六日付のニュースは、「人類滅亡はない!」という彼のコメントを大々的に報じた。
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ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教などの既成の宗教(俺は「旧宗教」と総称しているが)は、多かれ少なかれ、終末思想をベースにしている。今、「世界の終わりだ」とか言って世界中ではしゃぎ回っているカルト団体にしても、その多くは、キリスト教思想の影響下にあり、『黙示録』に描かれたようなカタストロフが起きると唱えている。
しかし、よく考えてほしい。いったい聖書のどこに「世の終わりには月が神の顔になる」などと予言されているだろうか?
そんなことは書かれていない。おかしな話じゃないか。もし神がキリスト教の神エホバなら、聖書に書かれている通りの奇跡を起こすはずじゃないのか。
キリスト教以外の宗教も同じだ。どの教団も、こんな現象が起きるなんて予言してなんかいなかった。これが神の意図だと、俺は思う。どんな宗教も予言しなかった奇跡を起こすことで、神は示したのだ。「旧宗教の教義はすべて間違っている」と。
これが神のメッセージなんだ。
従って、これから起こるカタストロフのヒントを、聖書から探ろうとするのは無意味な行為だ。旧宗教の教典通りの滅亡など、神が起こすはずがない。もちろん、神がマヤの暦に従うなどというのもナンセンスだ。なぜ神が人間のスケジュールに従って行動しなくちゃならないんだ?
滅亡などない、と俺は断言する。なぜなら、今回の異変は終わりを示すものではなく、神と人類の新しい関係の幕開けだからだ。
それでも旧宗教にしがみついていたい者は、しがみついていればいい。「終わり」は彼らだけに訪れるだろう。
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この文章はたちまちそこら中の掲示板にコピペされたりリングされたりして、日本中に大反響を巻き起こした。異変を予言した唯一の人物として、加古沢は多くの人から崇拝されていた。彼によるこの現象の解釈を、誰もが聞きたがっていた。この簡潔だが説得力のあるコメントは、まさに彼らの待ち望んでいたものだったのだ。
私は加古沢を憎んでいたものの、この時ばかりは、彼を評価せねばならなかった。彼のコメントがなければ、さらに大勢の人が自制心を失って、自暴自棄な行動に走り、生命を絶っていたに違いない。
だが、私は知らなかった。この時点で彼がすでに、その天才的頭脳によって、さらに何歩も先を読んでいたことを――大多数の人間が想像もしていなかった結論にたどり着いていたことを。
一二月二三日がやって来た。
その夜、私は新潟の海岸にいて、三週間前に誕生したばかりのカルト教団 <フルムーン・リンク> の集会を取材していた。教祖は「宇宙白鯨皇女プリンセス・フルムーン」を名乗る中学一年の少女だった。あの異変の起きる前の晩、月から白い鯨が降りてくる夢を見たという彼女は、親兄弟、近所の人々、クラスメートらに、邪悪な大暗黒ディンギル星雲の発する波動によって地球が滅亡すると予言した。自分は月世界の皇女プリンセス・フルムーンの生まれ変わりであり、地球滅亡の直前、月から白い鯨の生体宇宙船がやって来て、自分たちを太陽の裏側にある惑星トルマリンに連れて行ってくれるというのだ――あきれたことに一五〇人もの人間がその話を信じてしまい、財産を捨てて、この海岸に集まってきたのだ。
信者たちにインタビューした私は、彼らがこんな安っぽいファンタジーを信じてしまった理由を知った。少女の周囲で、白い石が空から落ちてくるという現象が何度も起きた。それを目撃して「これは本物だ」と確信したというのだ。
「あなたもあれを実際に見れば考えが変わりますよ」
そう信者の一人は力説した。私は反論する気力もなく、弱々しく笑うしかなかった。白い石が落ちてくるのが月のプリンセスである証明だというなら、ボルトや子供が落ちてくるのは私がどこの国のプリンセスだという証明なのだろう……?
寒風の吹きすさぶ海岸で、信者たちの間を歩き回って取材を続けながら、私は強い既視感《デジャ・ビュ》と無力感を味わっていた。毛布をかぶり、身を寄せ合って寒さに震えながら、空を見上げて「もうすぐだよ、もうすぐだよ」とはげまし合う人々。時間が経つにつれて潰《つい》えてゆく希望――すべては二年前に体験したことだった。
日付が変わり、夜明けが近づいて、下四分の一が欠けた「神の顔」が逆さまになって西の海に沈んでも、彼らはまだ粘り続けていた。まだ二三日は終わっていない。マヤの暦ならば、メキシコ時間の一二月二三日のはずだ……。
メキシコでも事情は変わらなかった。ユカタン半島のチチェン・イッツァの遺跡に集まった二〇万人の群集は、日本より一五時間遅れて一二月二三日の夜を迎え、「神の顔」が夜空に高く昇ってゆくのを、固唾《かたず》を飲んで見守っていた。しかし、午前〇時を過ぎても、世界には何の異変も起こらなかった。彗星は落ちてこないし、洪水は起きないし、フードプロセッサーは襲いかかってこなかった。もちろん天使もキリストも現われなかった。彼らは「もう少し待ってみよう」と言った。まだハワイやアラスカでは二三日は終わっていない……。
二四日の夕方、新潟の海岸に集まっていた人々は、落胆してばらばらと解散しはじめた。暗い海岸に最後まで残っていたのは、今や普通の少女に戻った「プリンセス・フルムーン」だった。信者たちの中には、騙された自分たちの愚かさを棚に上げて、去り際に彼女のことを口汚く罵《ののし》る者もいた。
東の空にはまた「神の顔」が浮かんでいた。下四分の一が欠けていて、「眼」と「眉毛」だけが露出しでいるため、まるで西部劇に出てくる覆面強盗のようだった。依然としてその表情にはとらえどころがなかった。その暗い眼は矮小《わいしょう》な人間の営みを哀れんでいるようにも見えたし、人間の愚かさを嘲笑《ちょうしょう》しているようにも見えた。
少女の一生は台無しになった。彼女は空を見上げ、「どうして? どうしてなの?……」とつぶやきながら、いつまでも泣き続けていた。哀れすぎて、私はインタビューする気も起こらず、静かにその場を立ち去った。
少女の言葉は二〇〇〇年前、十字架上で死に瀕《ひん》したイエスが口にした言葉でもある――「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」
なぜ? それは私も知りたい。
しかし、少女やその信者たちはまだ幸運だった。生命までは失わなかったのだから。
インディアナ州マリオンでは、 <セブンス・デイ・グローリー> 教団の信者が立てこもっていた地下シェルターの換気装置が故障した。教祖があくまで外に出るのを禁じ、折りによって故障を直そうとしたため、幼い子供も含めた四四人が窒息死した。
フロリダ州のセント・オーガスティンでは、当局の警告を無視して、 <デュガンズ・アーク> の教団員が箱舟で外洋に脱出した。だが、素人がたった三週間で建造した箱舟が航海に耐えられるわけはなく、舟は沖合でばらばらになり、一〇九人が溺死した。
ドイツのブラウンシュワイクでは、 <白い聖衣> の教団員二七〇人が、幸福な来世に生まれ変わることを夢見て、毒を仰いで集団自殺した。
ロシアのサラトフでは、破滅が来なかったことに業を煮やした <輝く八面水晶> の教祖が、「神が終わらせないのなら私が終わらせてやる」と叫び、マシンガンを乱射して、信者一五人を殺害した。
台湾の高尾では、期待を裏切られた信者の側が激怒して、 <月と星の寺院> の教祖に暴行を働き、死亡させた。
一二月二三〜二五日の三日間だけで、「神の顔」と「マヤの予言」が間接的な原因となって死んだ者は、全世界で約一万人と言われている。
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20+失踪
クリスマス/・イヴ。
この言葉を「クリスマスの前日」という意味だと思っている人が多いが、それは違う。『創世記』第一章に「夕べがあり、朝があった。第一の日である」と書かれているように、古代ユダヤでは一日は日没とともにはじまり、次の日没で終わることになっていた。その風習が今も欧米に残っている。つまりクリスマスという日は、一二月二四日の日没にはじまり、一二月二五日の日没に終わるのだ。だから一二月二四日の夜はまさに「クリスマス・イヴ(クリスマスの夜)」なのである(大晦日《おおみそか》の夜が「ニューイヤーズ・イヴ」と呼ばれるのも同じ理由だ)。
そのクリスマス・イヴ――つまり一二月二四日の夜、東京はどこも乱痴気騒ぎだったという。不景気を吹き飛ばすかのように、どのビルもネオンサインをきらめかせ、カラオケルームやバーや深夜喫茶は明け方まで人で賑《にぎ》わい、路上は「メリー・クリスマス!」と呼び合う陽気な酔っ払いであふれ、ストリートパフォーマーが歌い踊り、冬だというのに花火が鳴らされ……それはもう騒々しい夜だったと。
あいにく、私はその頃、東京に戻る夜行列車の中で原稿を書き終え、眠りについていた。だからこの目で見たのは宴の後――明け方の人気のない新宿駅前に散乱するゴミだけだった。
東京だけではない。その年のクリスマス・イヴは、世界中どこの街でも例年にない派手なお祭り騒ぎだった。アレウト列島とハワイ諸島で午前〇時を過ぎ、地球上のすべての地域で「一二月二三日」が終わったとたん、それまでじっと息を詰めていた人々は、一気に不安から解放され、酔っ払い、歌い、踊り、世界が滅びなかったことを祝ったのだ。
もっとも、すべての人間が喜びを分かち合ったわけではなかった。全人類のうちコンマ何パーセントかは、しょんぼりと浮かない顔をしていた。人生最大の賭《か》けに負けた人々――家族や財産や社会的地位を放り出して、神が迎えに来るのを待ち続け、待ちぼうけを食らった人々だ。
もちろん彼らの多くは、自分たちがまだ賭けに負けたわけではないと思っていた。早くも予言者や教祖や占星術師たちは新たな修正版の予言を発表していた。本当に破滅が来るのは一月一日だ。いや二月一五日だ。いやいや八月九日だ。いやいや、実はもう破滅ははじまっているのだが、みんな気がついていないだけなのだ……。
もっとも、賭けに勝った大多数の人々も、完全に不安から解放されたとは言えなかった。なぜなら、すでに誰もが知ってしまったのだ。この世界はもはや安泰ではないということを。神は一瞬にして月面の様相を変えることができるほどの強大な力を持っており、その気になれば人間など地上から簡単に一掃してしまえることを。
破滅は人間の想像するような形ではやって来ないだろう。おそらくはその瞬間、彗星《すいせい》は落ちてこないし、地軸は揺らがないし、洪水も起きないだろう。神はそんな面倒な手続きを踏む必要などないのだ。クリックひとつで量子コンピュータのシミュレーションを停止し、ファイルを「ゴミ箱」に移動するだけ――たったそれだけのことで、この世界は消滅する。人間は誰もその瞬間を知覚することさえできないだろう。
「私たちはみな、全能の神の慈悲で存在を許されている」この時期、全世界の宗教家は口を揃えてそう語った。「神はそれを私たちに教えるために、自らの力を示されたのだ。私たちは神の慈悲に感謝しなくてはならない」
「慈悲」? 本当に「慈悲」だろうか?
原稿を編集部に送信した後、私は服を着替えて兄のマンションに向かった。もちろん紗奈のために買っておいたプレゼント持参である。
あいにく私の持っていったおままごとセットは、あまり気に入られなかった。彼女は兄が買い与えた「PE―POちゃん」に夢中だったからだ。その年にバンダイが発表したAI内蔵の二足歩行人形である。
きゃっきゃっと笑いながら部屋の中で人形と追いかけっこをしている紗奈を眺めながら、私はSF作家A・C・クラークの名言「充分に進歩したテクノロジーは魔法と区別がつかない」を思い出していた。身長三〇センチほどの人形は、障害物を避けて軽やかに走り回り、転んでもすぐに自分で起き上がるし、話しかけると言葉を返してくる。その光景は一〇〇年前の人間が見たら魔法としか思えないだろう。
もちろん言葉を返すといっても、PE―POちゃんのAIは例によって人口無能――幾つかの基本的な言葉を聞き分け、パターン通りの台詞《せりふ》の組み合わせを返してくるだけの代物にすぎない。記号着地能力を持ち、本当に人間と会話できるロボットなど、まだ世界の誰も発明していないのだ。だから紗奈との会話はとんちんかんで、まったく筋が通っていなかった。それがかえって子供には面白いらしいのだが。
兄の帰りを待つ間、私と葉月は大型モニターでニュース・ストリームを見ていた。昨夜、日本各地で起きた珍騒動の映像が、オート・ザッピングで次々に切り替わる。旭川では酔っ払った若者が振り回していた花火が近くにいた女性のコートに引火、危うく惨事になりかけた。大阪では喜びのあまり道頓堀《どうとんぼり》川に飛びこんだ男が心臓|麻痺《まひ》を起こして死亡。東京都内の救急病院は次々に運びこまれる急性アルコール中毒患者でてんてこ舞い。高松では「世界の終わりが来なかったら裸で逆立ちして町内を一周する」と断言していた女性教祖が、いさざよく公約を果たしていた。彼女に比べると、阿蘇《あそ》山の麓《ふもと》に集結した別の教団の教祖は往生際が悪かった。「神が来られなかったのはカメラのストロボに驚いたからだ」と、写真を撮影していた人物に食ってかかったのだ。ストロボ程度にびっくりするような神とは情けない。
念のためにテレビ局のニュースを見てみたが、限られた台数のカメラ、シナリオ通りの台詞しか喋《しゃべ》らないレポーターによる中継は、型にはまっていて古臭く、すぐに退屈した。数千人のアマチュア・カメラマンとアマチュア・レポーターによるプライベート・メガストリーム映像の中から、さらに面白いものを厳選してリンクしているニュース・ストリームは、荒削りだがプロのものにはない臨場感と迫力があった。テレビを見なくなる人間が増えるのも当然だ。
「来年からクリスマスの意味も変わるだろうね」映像を見ながら、葉月が感慨深げに言った。「イエス様の誕生日じゃなくて、『世界が滅びなかった記念日』になってさ。世界中で宗派を超えたお祭りになるよ、きっと」
「まあ、もともとクリスマスって、イエス様の誕生日なんかじゃないんだし」
「そうなの?」
「うん。聖書にはイエスの誕生日が何日何日かなんて書いてないもの」私は聖書関係の資料を調べた際に身につけたうんちくを披露した。「昔のローマ帝国では冬至の頃に農業の神サートゥルヌスのお祭りをやってたし、ミスラ教でも太陽神ミスラの誕生日を一二月二五日にして、やっぱりその日にお祭りをしてたの。キリスト教徒はそれを真似して、一二月二五日をイエスの誕生日ってことにしたのよ」
「なあんだ、起源なんてけっこういいかげんなもんなんだね」
「まあ、キリスト教の教義にしても、かなりのパーセンテージが後世の創作だからね」
クリスマスだけではない。「知恵の木の実はリンゴ」「イヴを誘惑した蛇は悪魔の化身」「守護天使」「復活祭」「三位一体説」「無原罪の宿り」……現在のキリスト教徒が信じていることの多くは、聖書には書かれていない。いつの間にか定着した俗説や、何百年も後になって教会によって定められた概念にすぎないのだ。聖書の中のイエスの言葉にしても、聖書学者たちの共同研究によれば、大半はイエスの死後に創作されたもので、実際にイエスが口にしたとされるものは二割程度と推定されている。もし現代にイエスが復活したら、自分の言った覚えのない言葉ばかりが「イエスの教え」として流布していることに仰天することだろう。
これこそ、加古沢がかつて言ったところの「ミームの生存競争」そのものだ。イエスが生み出したミームは、現在のキリスト教よりもずっと単純なものだったのは間違いない。それに後世の人間が膨大な量の脚色をつけ加え、何倍もの分量、何倍もの複雑さにしてしまったのだ。それはミームの側から見れば、他の宗教ミームとの生存競争に勝ち抜くための戦略であり、進化なのである。クリスマスというアイデアにしてもそうだ。おそらくサートゥルメスやミスラの信者を改宗させる際に、彼らが楽しみにしている祭りを取り上げるのはまずかったので、同じ日を「イエスの誕生日」にして、祝ってもよいことにしたのだろう。そうして長い時間をかけて、他の神の祭りをそっくり乗っ取ってしまったのだ。だったら、新しい宗教がキリスト教の祭日であるクリスマスを乗っ取るということも、充分に考えられるのではないか。
私は考えこんだ。「クリスマスの意味が変わる」という葉月の予想には、重大な意味がある。すでにクリスマスは世界中の多くの国に浸透している。人口の大半がキリスト教徒ではないはずの日本でさえも――今回の事件をきっかけに、何の根拠もないイエスの誕生日と切り離され、新たな祭日になってしまうのではないか?
ありえないことではない。「神の顔」の出現によって、キリスト教をはじめとする旧宗教の教義は大きく揺らいでいる。私はかつて加古沢が語ったことを思い出していた。何千年も存続してきた宗教ミームも、環境の激変に適応できずに、あっという間に絶滅する可能性がある。恐竜が滅びたように……。
まさに今がそうなのだろうか? 本物の彗星は落ちてこなかったが、「神の顔」の出現は彗星の落下に匹敵するミーム世界のカタストロフであり、環境の変化に対応できない古いミームは絶滅するのだろうか?
「ミームのカタストロフ、か……」
「え?」
私がつい洩《も》らしたひとり言を、葉月が聞きとがめた。
「いや、ちょっと思いついたことがあってさ。もし神がこのゲームを『ダーウィンズ』から『ドーキンズ』に切り替えたんだとしたら、『ダーウィンズ』と同じように、ミームの進化を促進するためにわざとカタストロフを起こすってことはあるんじゃないかって」
葉月は笑った。「あんたたちって本当に兄妹ね」
「兄さんも同じことを?」
「言ってたよ。もう半月ぐらい前かな……聞いてない?」
「聞いてない」
私はとまどった。兄は思いついたアイデアを何でも私に話してくれる。少なくともこれまではそうだった。葉月に話して私に話さないというのは解せない。
すぐにポケタミを開き、兄のサイトの更新履歴をチェックした。やはり二週間以上前からまったく更新されていない。掲示板ももざっと見てみたが、それらしい話題は出ていなかった。思いついたアイデアは片っ端からアップして、閲覧者の意見を求める方針だったはずなのに、なぜ「ミームのカタストロフ」という興味深いアイデアを公表していないのか?
兄に問い質《ただ》す必要がありそうだ。
「兄さん、遅いね」
「ほんと、非常識な会社だよ」葉月は愚痴った。「いくらスケジュールが押してるからって、クリスマスにまで仕事させるなんて」
「そんなにきびしいの、『ドーキンズ』?」
「らしいね。ここんとこ、土日も返上で働いてるんだもん」
「それはひどいなあ」私はあきれた。「いくら忙しくっても、せめてクリスマスぐらい家族サービスすべきじゃないの?」
「家族サービスをさぼってるのはまだ我慢できるのよ。仕事だからね。でも……」
葉月は言いよどんだ。
「……変なのよ、良輔さん、最近」
「変って?」
「あんなに可愛がってた紗奈の顔、まともに見ようとしないの」
「紗奈ちゃんの?」
「あの人が紗奈を欲しがった理由、知ってるでしょ?」
「ええ」
あの子が神の使いなら、その脳には何らかのメッセージが隠されているのではないか。真の意味での知性を持たない機械翻訳がとんちんかんなものになるように、人工無能であるMIBや「異星人」ではコンタクトの仲介役として不適当だ。だから幼い子供を地上に送りこんできて、人間に育てさせ、人間的な知能を身につけさせるつもりではないのか。紗奈は今はまだ幼く、言葉もつたないが、大きくなったら自分の脳に秘められた神のメッセージに気がつき、それを人間に分かるように翻訳して語ってくれるのではないか――それが兄の仮説だった。
もちろん、紗奈の前でそんなことを言ったりはしない。偽記憶症候群を生じる危険があるからだ。二〇世紀末にアメリカで騒がれた「悪魔主義者による幼児虐待」「異星人によるアブダクション」「前世体験」などを見れば分かるように、偽の記憶はちょっとした誘導で簡単に形成されてしまう。
兄もその危険をよく知っている。だから紗奈に「お前は神の使いなんだ」などとは絶対に言わない。特に幼い子供は現実と空想の区別がつきにくい。本当に彼女が神の使いだとしても、不用意な誘導は偽記憶を生じ、本物の神のメッセージ(そんなものが紗奈の脳に眠っているとすればだが)を歪《ゆが》めてしまう危険がある。だから紗奈の前で神の話題を出すのは厳禁だし、あの大雨の夜のことさえ話してはならないことになっている。紗奈は一年前のあの夜のことは覚えていないようだったし、自分がどこから来たかも関心がないようだ。そうした話題は、もっと大きくなって、分別がついてから話すべきだろう。
私は振り返って隣室を見た。紗奈は私たちの会話にはまったく無関心で、PE―POちゃんと遊んでいる。「これはクレヨン。お絵描きするものよ」と紗奈が懸命に教えているのに、人形は「あなたの好きな食べ物は何?」「PE―POちゃんはワンちゃんが好き」などと、脈絡のないことばかり喋っている。
あの二人組のことを思い出し、私はちょっと嫌な気分になった。
「あの子が新しい言葉を覚えたり、積み木とかカード遊びを覚えたりするたびに、良輔さんは喜んでたわ」と葉月は言う。「でもね、決してすべてが打算じゃなかった。裏にどんな意図があったとしても、あの人は紗奈を実験材料としてしか見てないわけじゃない。あの人は本気で紗奈を愛してる」
「うん、そう思う」
私は強く同意した。兄や葉月が紗奈を可愛がっている光景は、傍目《はため》にも微笑ましかった。紗奈も何の屈託もなく、「パパ、ママ」と呼んで二人になついていた。三人は仲が良く、本当の親子のように見えた。
「それがここんとこ、変なのよ。どういうわけか態度がつっけんどんなの。前なら『パパ、遊んで』って言われたら、喜んでお馬さんでも高い高いでもしてたのよ。それが最近は、なぜか避けようとするの。あの人形だってそう。普通、子供がプレゼントを喜んでくれたら、贈った自分も喜ぶものだと思わない? それなのに笑わないの、あの人。複雑な表情で、何か上の空みたいな感じで……紗奈が嫌いになったわけでもないらしいし、さっぱり分かんない」
「仕事で疲れてるとか?」
葉月はかぶりを振った。「違う。絶対にそんなんじゃない。何か心理的な原因があるのよ。でも話してくれないの」
「それっていつ頃から?」
「気が付いたのは一週間ほど前――でも、思い出してみると、その前から少しずつ態度がおかしくなってたような気もする」
「何か心当たりは?」
「分からない。でも、あるとしたら……」
葉月は顔を上げ、私の目を真正面から見つめた。口には出さなくても、彼女が何を言いたいのか、私にも分かった。
神だ。
葉月は眼を伏せた。「何か重大な問題を抱えてるのよ、あの人。それで悩んでる。そうとしか思えない」
「でも、どうして? 悩みがあるなら、なぜ打ち明けないの?」
「分からない。本当に何も話してくれないから」
「分かった。帰ってきたら、私から問い詰めてみる。新婚の奥さんに心配かけるような奴、女として許せない」
その時、軽やかな着メロが響いた。ニュース・ストリームを放映していたモニター画面の隅に電話のアイコンが明滅し、送信者の名前が表示される――「和久良輔」。
「噂をすれば、だね」
葉月は笑いながらインカムを取り上げた。画面の右半分に兄の顔が現われた。どこかのビルの中で、ポケタミを使ってかけているらしい。やや下から煽《あお》ったアングルで、バックに天井の蛍光灯が映っているため、顔は少し暗い。
「何やってんのよ、遅――」
葉月の陽気な声は、不自然に途切れた。
私ははっとして、モニター上の兄の顔と、呆然《ぼうぜん》と立ちつくしている葉月の顔を見比べた。兄はうつむき加減の疲れきったような表情で、まだ口を開いていない。しかし、葉月は敏感に何かを感じとったのだ――兄の身に生じた重大な異変を。
兄が喋りはじめた。ぽつぽつと、苦しそうに、重い唇を無理に動かそうとするかのように。その声はインカムを耳に当てている葉月にしか聞こえない。
「え? 何?……どういうこと?……ねえ!」
葉月の声はうわずっていた。冗談だと思って笑おうとしているのに笑えない――そんな感じだった。
私も動揺していた。いつも沈着冷静な葉月が、なぜこんなにもうろたえているのか? 兄は何を言っているのか?
「え?……何よ、それ?」
葉月の質問に、兄は眼を伏せ、何か答えた。
「そんな……紗奈はどうするの? 優歌も来てるのよ。妹のために、四人で一日遅れのパーティするんじゃなかったの?」
早口でまくしたてる葉月。兄は唇を歪め、今にも泣き出しそうな顔で、また何かつぶやいた。
「何? どういう意味?」
返答なし。
「黙ってちゃ分からないわよ! 説明してよ!」
葉月は声を張り上げた。私は悲しげに眼を伏せた兄の唇が動くのを見た。読唇術など知らなくても、何と言ったかぐらいは分かる――「すまない」。
さらに兄は二言三言、何かをつけ加えた。それから分割画面は不意に真っ暗になり、「通話終了」の文字が表示された。
葉月はインカムを固く握り締めたまま、ぼんやりと立ちすくんでいる。
「……ねえ」私は悪い予感を覚えながら、おそるおそる訊《たず》ねた。「兄さん、何て言ったの?」
葉月は数秒置いて、ロボットのように答えた。「『すまない。今夜は帰れない』……」
「今夜は? じゃあ泊りこみで仕事?」
「違う……!」
そうつぶやくなり、葉月は大粒の涙をぼろぼろっとこぼした。
「違う……違う」
「何が違うのよ?」私はおろおろしていた。「いったい何があったの?」
「『今夜』だけじゃない……」葉月は額を押さえ、すすり泣きながら答えた。「あの人、もう帰って来ない……」
その夜、私は葉月の家に泊まった。何も知らない紗奈は遊び疲れて早々に寝てしまい、私と葉月は不安と混乱に満ちた夜を過ごした。
午後一〇時頃、こんなメールが葉月に届いた。
[#ここから2字下げ]
本当にすまない。
当分、家に帰れない。紗奈が恐ろしいんだ。
いや違う。恐ろしいのは僕だ。あの子の顔を見たら、あの子を殺してしまいそうな気がするんだ。発作的に。
今の僕は錯乱している。自分でも分かる。
僕はついに神の意図を解いた。
何週間も前から疑っていた。信じたくはなかった。でも今日、確信した。たとえ信じたくなくても、これが真実なんだと。
話せないことを許してほしい。僕が発見したことは誰にも話せない。世間に知らせるべきじゃない。僕がこんなにも錯乱しているぐらいだから、たぶん世の中の大多数の人も同じだろう。真実を知れば、世界はパニックになる。
今は帰れない。少し旅にでも出て頭を冷やしたい。
会社には退職届を出した。どうか心配しないでくれ。冷静さを取り戻せたら、必ず帰る。
つらい思いをさせてすまない。
愛している、君も紗奈も。
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数分の時間差で私に届いたメールは、もっと短かった。
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お前は間違ってるよ、優歌。
神は人間に悪意なんか抱いていない。
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「これってどういうこと?」
「こっちが聞きたいよ」
お互いに届いたメールを見せ合い、私たちは困惑するしかなかった。
兄自身が書いているように、彼は明らかに錯乱している。文体からもそれは明らかだ。しかも紗奈を殺すかもしれないというのだから、穏やかではない。あの理性的な兄が、なぜそんなに錯乱するのか?
いったい何を発見したのか?
私はすぐに返信を出したが、メールは受け取り拒否されて戻ってきた。電話も同じだった。ポケタミの設定を変え、連絡が取れないようにしてあるらしい。
「『神は人間に悪意なんか抱いていない』……」私はもう一度、メールを声に出して読み上げた。「こんなにきっぱり書くってことは、何か証拠をつかんだのよ」
「そうね……」葉月は昨夜は眠れなかったらしく、ひどく元気がなさそうだった。「あの人は確証なしに何かを断言する人じゃないから……」
「そう、きっと神が悪意を抱いてないっていう証拠をつかんだのよ――でも、どうして? 悪意を抱いてないなら、それでいいじゃない。喜ぶべきことでしょ? なんでショックを受けるの? どうして世間に知らせちゃいけないの?」
「さあ……」
「ねえ」私は葉月に詰め寄った。「よく思い出してみて。兄さん、電話で何か言ってなかった? 何か手がかりになりようなこと」
「手がかり……」
葉月は視線を宙にさまよわせた。記憶を探っているのだろう。
「そう言えば、変なこと言ってた……」
「何?」
「あたしが『一日遅れのパーティするんじゃなかったの?』って言ったら、『どうでもいいんだ、そんなことは。どうせサールの悪魔が……』って」
「サールの悪魔?」
「そう聞こえた」
「それ何?」
「知らない――あんたの方が詳しいんじゃないの? 聖書か何かに、そういう言葉が出てくるんじゃないの?」
私の記憶にはそんな言葉はなかった。ポケタミを広げ、サーチエンジンで「サールの悪魔」という語句で検索してみたが、ヒットはなかった。「サール」「悪魔」で検索すると、逆に何十万件もヒットしてしまい、手がつけられなかった。その大半はオカルト映画のサイトだった。タイトルに「悪魔」と付いていて、スタッフやキャストや登場人物に何とかサールという人物がいると、みんなひっかかってしまうのだ。「神学」や「超常現象」にカテゴリーを絞ってみても、やはり「悪魔」や「サール」という単語は頻繁に出てくるらしく、何百というヒットがあった。いちおう最初の数十件を調べてみたが、どれも手がかりになりそうな情報ではなかった。
もう一度、兄のサイトもチェックしてみた。やはり「サール」という人名(なのだろうか?)も「悪魔」についても、まったく言及されていない。
ヒントはないかと考えこんでいるうち、ふと思いついた。兄は自宅のパソコンでサイトを管理していた。ということはパソコンにはサイトのデータが保存されているはずだ。それを見れば何か分かるかもしれない。
「パソコン貸して」
そう言うと、私は返事も待たずに兄のデスクに向かい、パソコンを起動させた。
家族だけが使うパソコンなので、パスワードは設定されていない。私はまずホームページ作成用ソフトを開き、そこに残っているファイルを片っ端から調べてみた。ほとんどが私の読んだことのあるものだったが、見覚えのないものもいくつもあった。書きかけでまだアップされていない文章だ。メモのような断片的なものもある。
たとえばこんな文章があった。
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東南アジアに分布するツムギアリは、木の葉を使って巣を作る。何十匹ものアリが力を合わせ、葉の両端に足をひっかけて引っ張る。そうして葉を円筒状に丸め、幼虫の出す分泌物で接着してゆくのだ。その共同作業の見事さは驚くべきものである。一糸乱れず行動するのだ。その行動はまさに知性を感じさせる。
創造論者はこうした習性を、神による創造の根拠と考える。知性によってデザインされたものでないかぎり、複維な頭脳も言語も持たないアリが、このような計画性のある行動を獲得することはありえない、というのが彼らの主張だ。
この考えは間違っている。実は個々のツムギアリは単純なアルゴリズムで動いているにすぎない。人間が家を建てる場合のように、完成形(建物の設計図)があってそれを目指すわけではない。たまたま突然変異によって彼らの獲得したアルゴリズムが、葉を丸めるという共同作業を生み出した。その作業のやり方にしても、最初の頃はおそらくぎこちなかったに違いない。しかし、巣を作る行動は、生存上、有利なものであったため、その習性を獲得したツムギアリは生き残り、子孫を残した。そして何百万年もかけて、さらに効率的に進化したのだ。
同じような現象として、鳥の集団飛行がある。渡り鳥が見事なV字型の編隊を組んだり、何百羽という鳥がいっせいに方向転換する光景を、あなたもご覧になったことがあるだろう。彼らは誰かの指揮でそうしているわけではない。コンピュータでシミュレートしてみると、個々の鳥は、仲間の鳥を視界に収めつつ、隣の鳥との距離を一定に保とうとしているだけであることが分かる。一羽がターンすると、その近くにいた鳥もその動きにつられてターンし、それが連鎖反応で群れ全体に一瞬で波及するのだ。そんな単純なアルゴリズムだけで、あの見事な集団行動が実現するのである。
知性が介在していないのに知性があるかのように見える現象は、自然界にいくらでもある。神が原始的な生命を創造し、進化の場としての地球を用意したのは確かだろうが、個々の生物のデザインまで神の意志と見るのは間違いである。
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文章の表題は「自然界のアルゴリズム」。進化論と遺伝的アルゴリズムの講義のようだが、何か新しい知見があるようには見えない。
また、「意識とは何か」というページには、こんなことが書かれていた。
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ペンローズは意識の起源をまだ発見されていない量子重力理論に求めたが、この説は現在ではほぼ論破されていると言ってよい。第一に、脳のシナプス結合と準結晶のアナロジーには飛躍がある。第二に、未解明の現象を末証明の原理で説明するのは、「UFOの正体は宇宙人の乗り物だ」と言っているのと同じだ。
量子の振舞いは時間的に非対称であり、量子論には欠陥があるという主張も、この世界が量子コンピュータのシミュレーションであるとすれば回避される。すなわち、未来の事象はまだ計算されていないために非決定だが、過去のデータはハードディスクのような記録媒体に記録されているのだから、量子論が時間的に対称であっても、この世界の事象は時間的に非対称なのである(一般相対論との統一問題については、すでに述べた)。
ペンローズはまた、アルゴリズムを遂行するチューリング・マシンである現在のコンピュータでは、いくら複雑になっても意識を持てないと論じている。私も従来のチューリング・マシンは意識をもてないという点では同意見だが、量子重力理論はこの問題に関係ないと思っている。現在のコンピュータでは不可能と言うだけで、単純なチューリング・マシンを超えたメタ・チューリング・マシンとでも呼ぶべきものを想定すれば可能ではないかと考えている。
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以下、メタ・チューリング・マシンの概念が述べられていたが、あまりにも専門的で、私にはちんぷんかんぷんだった。
また別のファイルは、覚え書きとして使われていたらしく、「非平衡開放系/カオス/リズム現象/散逸構造」「アクセルロッドの囚人のジレンマ・コンテスト」「ザボチンスキーの渦」「進化=単細胞から多細胞へ」「カスパロフVSディープブルー」「アインシュタインの脳」といったキーワードだけが無秩序に並んでいた。
かと思えば、別のファイルにはこの文章があった。
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1967年 帰って来たヨッパライ
1970年 走れコウタロー
1975年 およげ! たいやきくん
1990年 おどるポンポコリン
1999年 だんご3兄弟
2001年 愛のうた(ピクミンCMソング)
2006年 四角い円盤
2010年 ひゅひゅんと忍者
何年かに一度、奇妙な歌が爆発的にヒットすることがある。誰もがその歌を聞きたがり、テレビやラジオからその歌が流れ、レコードやCDが驚異的な売り上げを記録する。
不思議なのは、そんな歌がヒットするなどと、事前に誰にも予想できなかったことだ。ヒットする歌なら、誰もが素晴らしいと感じるはずで、ヒットするかどうかは予想できそうなものなのだが、そうではないのである。実際、ブームが過ぎてからこれらの歌を冷静に聞いてみても、人を強く感動させたり大笑いさせたりする代物ではないことが分かる。もっと感動的な歌や面白い歌はいくらでもある。
ヒットした後でなら、評論家はヒットの理由をあれこれと論じられる。世相を反映しているとか、サラリーマンの悲哀が表現されているとか何とか。しかし、それはしょせんこじつけにすぎない。もし歌がヒットする原因が正確に分析できるのなら、レコード会社はその法則を利用して、いくらでもヒットを飛ばせるはずである。実際にはプロモーション費用に高額を注ぎこんでも、失敗する例がいくらでもある。
では、これらのヒット曲の共通点は
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文章はここで唐突に終わっている。私は首をひねった。神の話題と「だんご3兄弟」に何の関係があるのだろう?
他にもパソコンのハードディスクの中には、様々な未整理の文書の断片が残されていた。超常現象のデータもあったし、人工知能についての解説、宇宙論、カオス理論、医学、行動生物学、進化論、コミュニケーション理論、ゲーム理論、哲学、神学関連の話題もあった。流行歌、映画、ファッションなど、どう見ても脈絡がなさそうなテーマも多い。しかし、兄にとっては何か意味があったのだろう。これらのデータをつなぎ合わせ、何かの結論を出したに違いない。
だが、私には何のことやら分からない。何百ピースものジグソーパズルを目の前にぶちまけられた子供のように、途方に暮れるしかなかった。
翌朝、いっぺんにいろいろなことが判明した。
何気なくポケタミをチェックした葉月は、AVPが大幅に増えていることに驚いた。昨夜、兄のVPバンクから振りこまれたものだった。その額は、葉月の記憶にある兄のAVPの残額の、ほぼ半額だった。
兄のサイトは夜のうちに閉鎖されていた。サイトの管理は自宅から行なっていたが、サイトを閉鎖する作業ぐらいは、IDとパスワードさえ知っていればポケタミからでもできるのだ。
メールにあった通り、勤め先には退職願が出されていた。会社からは「どういうことなのか」という問い合わせがあったが、葉月に答えられるはずがなかった。
これらは二つのことを意味していた。兄は当分、家に帰ってくるつもりはない。財産の半分を葉月に渡したのは、自分が旅に出ている間の生活費のつもりなのだろう。しかし、自殺するつもりでもなさそうだ。財産の半分を持って行ったのは、しばらくどこかで暮らすための生活費に違いないからだ。
大不況の時代の人間としては幸運なことに、兄はこの一年半、普通のサラリーマンの数倍の高収入を得ていた。日本での売り上げこそ落ちこんでいるものの、『ふにふにコンタクト』や『ダーウィンズ・ガーデン』シリーズは海外で大ヒットを続けており、ゲーム会社に莫大《ばくだい》な利益をもたらしている。『ふにふに』と『ダーウィンズ・ガーデン3』に関しては、兄は高給にプラスして、特別にゲームクリエイターとしての印税収入も得ていた。それは売上総額の一パーセント以下だったが、数百万ドル単位のヒット作となると、無視できない金額になる。
おまけに兄は倹約家で、余った金にほとんど手をつけていなかった。VPバンクには、少し生活を切り詰めれば、何年も働かずに暮らしていけるぐらいのAVPが蓄えられている。その半分もあれば、兄は一年ぐらい自由に放浪を続けられるし、見捨てられた葉月と紗奈が即座に飢え死にすることもない……。
しかし、なぜ? どうして新妻と子供を捨てて失踪《しっそう》しなくてはならないのか?
「あの人は私たちを愛してるわ」
葉月はそう断言した。妻子を見捨てて、永久に姿を消すはずがない。今はまだ混乱しているだけで、落ち着けばきっと戻ってくる、というのである。
彼女と話し合った末、警察には捜索届を出さないことに決めた。事故や犯罪に巻きこまれたわけではなく、兄が自分の意志で失綜したのは明らかだったし、自殺する恐れも少なそうだ。何といっても紗奈のことがある。里親として認められるのは両親が揃っている家庭だ。夫がいなくなったことが知れれば、紗奈を取り上げられるかも知れない。しばらく失踪の件は世間に秘密にしておく必要がある。
無論、いつまでも隠していられるとは思えない。兄夫婦が「神の子供」(今ではそう呼ばれていた)を引き取ったことを知っているのは、ごく親しい人間だけだ。しかし、『ダーウィンズ・ガーデン』を作った和久良輔が突然、会社を辞めたというニュースは、いずれネットで広まるだろう。児童相談所がそれを聞きつけてくることは、充分にありえる。
紗奈を手放す気はない、と葉月は言った。家に来てからほんの四か月にすぎないが、今では本当に自分の娘のように愛していたからだ。一分でも一秒でも長く、紗奈を手元に置いておきたかった。
「パパ、いつ帰ってくるの?」
無邪気にそう訊ねる紗奈を、葉月は微笑み、無言で優しく抱き寄せた。
「あの人を信じる」
葉月は紗奈を抱きしめ、暗い表情で、しかし、力強く言った。
「あたし、待つわ。あの人は私たちを忘れたりしない――きっと戻ってくる」
[#改ページ]
21+サールの悪魔
年が明けるとすぐ、私は小宮《こみや》順一郎《じゅんいちろう》氏と接触した。兄が勤めていた日本ウルテクの開発事業部のコーディネーターで、兄が親しくしていた人物だ。私も何度か会ったことがあるが、真面目で責任感が強いと定評があり、口も堅そうだ。彼になら秘密を打ち明けてもいいと思ったのだ。
「失踪《しっそう》とはねえ」小宮氏は驚きを隠せなかった。「確かに和久さん、何か悩んでるようには見えましたが……何が原因なんでしょうねえ?」
「それが知りたいんです」と私。「会社で何かあったんじゃないかって。年末はずっと土日も仕事していたそうですけど、そんなに忙しかったんですか?」
「とんでもない! そりゃ確かに『ドーキンズ』は追いこみに入ってますけどね、ほとんどデバッグも済んで、テストプレイを重ねて細かいバランス調整をしてる段階です。和久さんが開発を担当していたのは基本システムですからね。もう彼が残業したり休日出勤したりする理由なんてありませんよ」
今度は私が驚く番だった。
「じゃあ、どうして兄は休日に出社してたんですか?」
「さあ、それが不思議でしてね。私もビルの守衛さんからそれを聞いて驚いてるんです。うちの会社は社員に土日まで働かせるようなことはしません。和久さんは誰もいないこのフロアで、一人で何かやってたらしいんです」
「何を?」
「守衛さんが目撃したところによれば、開発室にある何十台ものネブラ10のスイッチを片っ端から入れて、ディスクを挿して回ってたらしいんですけどね」
「一人で何十台も? どうしてそんなことを?」
「守衛さんもそれを訊《き》いたんですが、『ちょっとした実験をやってるんだ』としか教えてもらえなかったそうです。その守衛ってのが六〇近いおじさんでしてね、コンピュータのことなんか何も分からない。だから、そういうものかと思って、疑問には思わなかったんだそうです――まあ、何をやってたか、見当はつきますけどね」
「何ですか?」
「分散処理ですよ。聞いたことあります?」
耳にしたことはある。複数のコンピュータをネットワークで接続し、各マシンが処理を分散して行なうことによって、一個の大きなシステムとして機能するという方法だ。
「ご存知でしょうけど、ネブラ10はネットゲームに対応した通信機能があります。それにプログラム・ディスクを入れて社内LANでつなげば、一個のでかいコンピュータになる。ゲーム機といっても、ひと昔前のスーパーコンピュータを超える性能があるわけですからね。それが開発室だけで三〇台、会社全体では一〇〇台はあるでしょう。それを全部つないだら……」 小宮氏は手を大きく広げた。「とてつもない超スーパーコンピュータになるわけです」
「そんなもので兄は何を?」
「さあ、それが分からないんですよ。個人で行なう計算で、そんな莫大《ばくだい》な能力を必要とするものなんて、見当もつきません。高解像度のCGムービーをリアルタイムで動かして、まだお釣りがきますよ」
私が最初に思ったのは、例の超常現象のデータを解析しようとしたのではないか、ということだった。しかし、それにしても変だ。そんな怪物のようなマシンを必要とする作業のようには思えない。
「我々もとまどってるんですよ。和久さんが会社の機械を無断で私用に使っていたなんてね」
「何か罪に問われるんでしょうか?」
「さあ、それも難しい」小宮氏は腕組みをした。「今のところ、会社の受けた損害というと、電気代ぐらいのものですしね。システムを破壊したとか、何かを盗んだとかいうなら、警察に訴えなきゃならないんでしょうが、そんな様子はまったくない。だいたい、和久さんはそんなことをする人じゃありませんしね」
結局、小宮氏からはそれ以上、有益な情報は得られなかった。
次に私は、小宮氏から紹介されて、休日に兄を目撃したという初老の守衛に話を聴きに行った。このビルには日本ウルテク以外にも不動産業者などが入っており、土日にも人の出入りが多いので、守衛が詰めているのである。
小宮氏の言った通り、守衛のN氏はゲームやコンピュータにうとい人間で、兄の行動の意味をまったく理解していなかった。様子を訊《たず》ねても、「何か熱心にキーを叩《たた》いてましたね」とか「画面に変な模様がちかちかしてましたね」といった調子で、話が要領を得ない。
「監視カメラの記録、見せてくれませんか」
私は思い余ってそう頼みこんだ。断わられるかと思いきや、N氏はあっさり許してくれた。
「近頃はぶっそうでねえ」マニュアル片手に、監視システムの操作パネルをぼつぼつと叩きながら、N氏は呑気《のんき》に言った。「中国人のグループが業者のふりをして乗りこんできて、堂々とパソコンとかコピー機を持ち出したり、かと思ったら、同じビルに勤めてる奴が他の階に盗みに入ったりするんですわ。だから各部屋にひとつ、監視カメラがあるんです」
監視システムは最新式のものだった。画面に変化があった場合にのみ記録される方式なので、何も映っていない何時間分ものビデオをえんえんと検索する必要がない。
一二月二三日、月曜日の午後――世間が「世界の終わり」で騒いでおり、私が新潟で <フルムーン・リンク> を取材していた頃、兄は広い開発室にぽつんと一人でいた。部屋のいちばん奥にある窓際のデスクで、ゲーム機のモニターを向いて座っている。映像の中では、しょっちゅう立ったり座ったり、首を曲げたり、背中をそらせたり、落ち着きなく動き回っているように見えた。そのたびに画面隅の時刻表示がスキップする。カメラの位置からだと、座っている間、肩から下はモニターパネルに邪魔されて見えない。マウスやキーボードを操作したり、モニターをじっと見つめている間の映像は、動いていないものと認識され、記録されていないのだ。
私は画面に眼を近づけた。ゲーム機のモニターを見つめる兄の顔は、真剣そのものだった。あいにく、モニターは兄の方を向いているので、何が映っているか見えない。私はだんだん苛立《いらだ》ってきた。これでは何も分からないのと同じだ。
映像の中の時間はスキップを続け、現実世界の何倍も速く過ぎてゆく。夕方になり、窓のブラインドから差しこむ光が弱くなってきた。
兄は立ち上がって伸びをすると、息抜きのつもりか、ブラインドを開けた。しばらく夕闇の風景を眺めていたが、やがて画面外に歩み去る。トイレにでも行ったのだろう。
「止めて!」
私は叫んだ。兄がモニターの前から離れると、窓ガラスにモニター画面が小さく反射して映っているのに気がついたのだ。
私はN氏に頼んで、そのシーンを何度も繰り返し見せてもらった。小さくて不鮮明な映像だったが、灰色のフィールドの上で、赤や緑の点がランダムに動き回っているのが分かった。じっと見つめるうち、私はそれに見覚えがあることに気がついた。
『ドーキンズ・ガーデン』だ。
ますます分からなくなった。兄は休みの日に会社のゲーム機を使って、『ドーキンズ』のテストプレイをしていたというのか? しかも何十台ものネブラ10に分散処理をさせて、能力を極限まで高めて……。
私は次に、兄が失踪した一二月二五日の映像を出してもらった。途中は省略し、夕方、あの電話をかけてきた前後の映像を検索する。
兄の表情は二日前よりいっそう憔悴《しょうすい》していた。電話をかけてきた時の、まさにあの表情だ。頭を抱え、拳《こぶし》で額をこすり、モニターから目をそらそうとして……それでもやはり、モニターに視線が惹《ひ》きつけられてしまうらしい。しかし、まだブラインドが閉じているので、兄が何を見ているのか分からない。
やがて兄は思い切ったように立ち上がった。振り向いて窓に向かい、ブラインドをいっぱいに開放する。ガラスに手をつき、夕闇の迫る街を見下ろした。後ろ姿で表情は見えないが、何か考えこんでいるようだ。時刻表示が小刻みにスキップする。兄はほとんど同じ姿勢で、何分も窓の外を眺めていたらしい。やがて怒ったように振り返ると、デスクに歩み寄り、ゲーム機のスイッチを切った。
「今のところ、もう一度!」
私はまた叫んだ。兄が振り返った瞬間、身体がモニターの前から離れて、またモニターの画面が窓に映ったのだ。
静止画で確認してみる。今度のそれは無秩序な点の集まりではなかった。明らかに意味を持ったパターンである。灰色のフィールドに大きな黒い円が描かれ、その中に別の小さな黄色い模様が見える。私はもっとよく見ようと、画面にぎりぎりまで眼を近づけた。
「……花?」
そう、その模様はヒマワリの花のように見えた。
一月一四日、NASA(米航空宇宙局)とJPL(ジェット推進研究所)が共同声明を発表した。
宇宙望遠鏡ジェイムズ・ウェッブの映像を詳しく分析した結果、そこに現われた網目模様がモアレであることが証明された。また、二〇〇四年に打ち上げら打て現在は水星軌道上を周回している探査機メッセンジャー、二〇〇八年に木星に向けて打ち上げられたエウロパ・オービターなどが撮影した天体写真は、恒星の位置が地球から観測したものとわずかにずれていることを示していた。その誤差は地球からの距離に比例し、一天文単位につき最大三・三秒(一度の約二〇〇分の一)だった。このことから、太陽系は半径約一光年の壁に囲まれており、太陽系外の天体はすべて、この壁に投影された映像であることが明らかになった……。
この発表は「神の顔」の出現に続いて、全世界に大きな衝撃をもたらした。この世界は精巧に創られたセットにすぎず、星空は書き割りだったのだ! それはまさにコペルニクス以来のショックだった。神の存在に疑いを抱いていた頑固な懐疑主義者も、この科学的に証明された事実の前には屈服せざるを得なかった。
天文学者や天文ファンは、自分たちが観測してきた恒星や星雲の写真がみんな幻影だったことを知らされ、動揺した。もっとショックを受けたのはSFファンだ。太陽系外の天体が存在しないとなると、異星人もいないことになる。宇宙を舞台にしていたり異星人の登場する作品群、つまりSF小説やSF映画の大半が否定されてしまったのだ。「もう『スター・トレック』の新作は作れなくなるのか」という嘆きの合唱がネットに轟《とどろ》いた。
天文にもSFにも興味のない大多数の人は、ショックこそ受けたものの、事実を素直に受け入れた。宇宙の半径が一〇〇億光年でも一光年でも、日常生活に違いが出るわけではない。一光年は九兆四六〇〇億キロ。ほとんどの人にとって、無限と大差ない距離だ。
それでも発表を信じない者もわずかだがいた。 <昴《すばる》の子ら> の残党をはじめとする、全世界のUFOカルト信者だ。教祖の言葉を鵜呑《うの》みにし、異星人がシリウスやプレアデスやアークトゥルスからやって来ると盲信していた彼らは、信仰の破局に直面し、「真実を隠蔽《いんペい》しようとするNASAの陰謀だ」と、猛然と反発した。
日本では加古沢のファンたちが熱狂的な快哉《かいさい》を上げていた。「ウェッブの網目」の解明は、まさに加古沢が『仮想天球』の中で書いていた通りだったからだ。
「加古沢黎が書いたことは、何もかも正しかった!」
ネットの中には彼を称《たた》えるサイトが林立した。『仮想天球』は聖典扱いされ、さらに売り上げに拍車をかけた。加古沢は「新世紀の預言者」「新たなキリスト」などと呼ばれた。狂信的なファンの中には、「景気の動向を占ってくれ」と依頼する者、「病気を治してくれ」と要求する者、「金ならいくらでも出すから天国に行けるよう神に取り計らってくれ」と嘆願する者が続出した。封筒に小切手を入れて送ってくる者、彼のマンションの前で土下座する者もいたという。
もちろん、加古沢自身はそんな持ち上げ方を迷惑がっていた。
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はっきり言っておくが、俺は小説家だ。預言者でもないし、聖人でもないし、教祖でもない。あんたたちの理不尽な要求を聞く義務はないし、そんな力もない。
お布施もご免|蒙《こうむ》る。本を買ってくれるのはありがたいが、それ以外の金は受け取りたくない。だいたい金で天国行きの切符を買おうというのが姑息《こそく》な考えだ。俺が神だとしたら、そんな奴こそ地獄に落としてやる。
そんなに余っている金があるなら、慈善団体に寄付すればいい。金がないなら、献血するとか、骨髄バンクに登録するとか、やれることはいろいろあるだろう。神様の心証も、ちっとは良くなると思うぞ。
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本気である証拠に、彼はこの文章の後に、日本赤十字・身障者支援団体・交通遺児援護基金・HIV感染者支援団体・骨髄バンクなどのURLを貼りつけていた。
驚くべきことに、加古沢自身、二年も前から、儲《もう》けた金の一部をそうした団体に寄付していたことが明らかになった。公式サイトではその事実に触れられておらず、関係者から洩《も》れた話がネットで広まったのだ。理由を聞かれた彼は「俺は金になんか興味ないから」と、さらりと言ってのけた。反加古沢派は「偽善だ」「宣伝だ」と毒づいたが、その声は圧倒的な加古沢賞賛の声にかき消されていった。
その後、加古沢が紹介した団体には、半年の間にそれまでの数年分に匹敵する寄付が集まったという。骨髄バンクの登録者も一万人以上増えた。
兄の名を思い出す者は少なかった。たまにいたとしても、「加古沢黎のアイデアを盗作だと言っていた妙な奴がいた」という程度だった。
世界のパラダイムが大きく揺らいでいた。
加古沢の小説は英語圏や中国語圏でもベストセラーになり、この世界が神の量子コンピュータの中のシミュレーションにすぎないという概念が、大勢の人にすみやかに浸透していった。キリスト教圏では、小説の中の反キリスト教色に反発もあったものの、その仮説自体は宗教と科学を融合するものとして評価された。
意外なことに、多くの科学者がすぐに最初の衝撃を乗り越え、真剣にSBG(神のシミュレーション)仮説の検討を開始した。物理学者はずいぶん前から量子論と一般相対論の統一不可能性という問題に直面していたため、量子レベルでは世界の整合性は破綻《はたん》しているのではないかと、公然と論じるようになった。それは理論の欠陥を意味するものではなく、神のシミュレーションがそこまで緻密《ちみつ》に作られていないからではないかというのだ。進化論学者は化石の証拠をかき集め、大絶滅の周期性についての再評価を開始した。地球物理学者は過去の地震波のデータの解析に取りかかり、地球の内部が本当に存在するかどうかを検証しはじめた。コンピュータ科学者は、太陽系をそっくりシミュレートするにはどれぐらいの大きさの量子コンピュータが必要か、その動作速度はどれぐらいかを論じた。
精神科医は新たな問題に直面していた。妄想症患者の中には以前から「この世界は現実ではない」とか「自分が現実に存在している気がしない」と訴える者が大勢いたが、今やそれが妄想ではなかったことが明らかになったのだ! この世界が現実ではないというなら、現実感覚を喪失している患者の方が正しいということになってしまうし、神の実在が証明された以上、「神の声が聞こえる」という訴えにも慎重に対処する必要が出てくる。狂気と正気の境界線をどこに置くべきか、妄想症患者をどう扱うべきかで、学界に議論が巻き起こった。太陽系が壁に囲まれていることを知って圧迫感を覚える「宇宙的閉所恐怖症」、神の存在におびえる「神恐怖症」の増加も問題だった。
哲学界にも波乱が起きた。古臭いデカルト的二元論にしがみつく者は、自分は思考しているがゆえに実在しており、SBG仮説は間違いであると論じた。大多数の哲学者はもっと柔軟で、新しいパラダイムをすんなり受け入れたものの、それをどう解釈すべきかは百家争鳴だった。SBGはドゥルーズの言うニーチェ的反復なのかヴイトゲンシュタイン的神秘主義なのか。我々がコンピュータの中のデータなのだとしたら、全存在を言語によって記述できることになるが、それはシニフィアンとシニフィエが等価であることを意味するのか。量子コンピュータと人間の関係は異化なのかイマジネールなのか。リゾームがどうのアフォーダンスがどうの、脱構築がどうのポスト構造主義がどうの……高尚ではあるが一般人には理解不能な議論が、その後何年にもわたって繰り広げられた。
宗教界も沸き立った。とりわけ勢いづいたのは創造論者だった。彼らはSBG仮説によって、聖書の正しさが証明されると言い出したのだ。化石や地層や放射線年代測定が進化論の証明になるという主張は、もはや根拠を失った。我々は神が月の様相を一変させたことを知っている。ならばこの地球も、地層や化石も含めて、神が創造したものと考えるのが理屈に合っている。すなわち天地創造もノアの洪水も本当にあったことだったのだ。科学者は愚かにも、地層に惑わされて性急な判断を下したのである……。
これには科学界から猛然と反発が起きた。冗談ではない。カコザワのSBG仮説はそもそも進化論がベースになっている。それを反進化論の根拠に用いるのはおかしい。だいたい、なぜ神が我々を惑わすために化石を埋めたりするのか。そんなことをする意味がないではないか。
創造論者はこう嘲笑《ちょうしょう》した。それは科学者の信仰を試すためである。聖書の教えによれば、地球はたった六〇〇〇年前、六日間で創造された。土に埋まった骨などを根拠に、それを疑う者は、神の御心に反する者なのだ。
科学者はさらに反論する。仮にすべての地層や化石は六〇〇〇年前に創造されたとしよう。しかし、ノアの洪水はどうなるのか。洪水が起きたのは天地創造の後のはずなのに、地層のどこにもその痕跡《こんせき》が残っていないではないか。
創造論者は動じない。大洪水の痕跡は神が消し去られたのだ。地層を洪水以前の姿に戻すことぐらい、神には簡単なことである。
ちょっと待った、と皮肉屋がその議論に割って入った。それならこの世界が六〇〇〇年前ではなく、六分前に創造されたという可能性も考慮するべきではないのか。我々は六分以前の記憶を持っていると思っているが、神が地層や化石や人間を自由に創造できるなら、過去のすべての記憶を持った状態で我々を創造することもできるはずではないのか。
創造論者は一蹴《いっしゅう》する。そんなことは聖書に書かれていない。
皮肉屋はなおも食い下がる。その聖書も、この世界と同時に、六分前に創造されたのだとしたら? 地層や化石と同様、人間の信仰心を試すために、偽の証拠として置かれたにすぎないとしたら? それを信じるのは神の御心に反することにならないか。
創造論者は憤慨する。聖書は正しいに決まっている!
皮肉屋は繰り返す。では、聖書が六分前に創造されたのではないと証明してくれ。
創造論者はしぶしぶ認める。そんな証明など不可能だだが、六分前に創造されたという証拠もない以上、そんなことを論じるのは無意味である。
科学者が息を吹き返す。それなら化石や地層も同じことだ。それらが偽の証拠であるという証明はない。
創造論者はくじけない。それとこれは話が別だ。化石や地層の証拠が偽りであることは、聖書から明らかである。
だからその聖書が正しいとどうして言えるのか。神の言葉だからである。では化石に「これは偽りの証拠ではない――神」とサインしてあったら、あなたはそれを信じるのか。それとこれとは話が別だ。だからどう別なのか。聖書は真実の神の言葉だからである……。
議論はループし、終わる気配を見せなかった。
議論をしていたのは学者や宗教家だけではなかった。評論家、ライター、エッセイスト、ニュースキャスターらが、テレビやネットを通じ、口々に自分の意見を述べた。教育者は学校で、議員は後援会で、お笑いタレントはバラエティ番組で、この問題に触れた。地位も名声も持たない大多数の人々も、会社や学校や喫茶店や道端やネット上で議論を繰り広げた。賛否どちらにせよ、誰もが何かを語りたがった。
古い世代の中には、まったく新しい概念に対応できず、とまどう者も多かった。SBG仮説に対する反対意見のほとんどは、世界が仮想現実だとは認められないとか、神がコンピュータを操作するなんて信じられない、という感情的なものだった。神の奇跡を科学用語で説明するのは危険な唯物論思想であり、世界をシミュレーションとみなすのは冷たく非人間的な世界観であり、魂の存在や人間の尊厳を否定するものだという声もあった。
一方、四〇代以下の世代は、ショックこそ受けたものの、たいした抵抗もなく受け入れた。私もそうだが、幼い頃からコンピュータ・ゲームで育った世代にとって、コンピュータの中の世界は「冷たい」ものではないのだ。RPGやアドベンチャー・ゲームなどで、自分をキャラクターと一体化するのにも慣れている。自分がコンピュータの中のキャラクターだとしても、それが「人間の尊厳」とやらの否定になるというのは短絡的すぎる。
かねてからゲームを敵視していた教育関係者は、「SBGを学校で教えてはならない」という運動を開始した。世界が一種のコンピュータ・ゲームであり、神がゲーマーであるという発想は、彼らには絶対に受け入れられないものだったのだ。しかし、その運動には何の意味もなかった。学校で禁止しても、テレビやネットを通して、あるいは日常会話を通して、SBGは子供たちの間にも着実に定着していったのだから。
この当時、お笑いコンビのチョコレート・ソーダのコントに、こんなのがあった。「ゲームばかりやってるとバカになるぞ」と脅す父親に、子供がこう言い返すのだ。「じゃあ神様もバカなんだね。何十億年もゲームやってるんだから」
私の生活にも変化が起きた。
過去のスキャンダルが暴露された影響で、ネット上での私の評判はがた落ちになり、仕事も減った。収入が激減し、このままでは近いうちに日干しになりそうだった。私はやむなく安アパートを引き払い、葉月の家に転がりこんだ。
葉月の方でも歓迎してくれた。彼女は一月中旬から近所の小さな病院で働くことになり、その間、紗奈の面倒を見る人間が必要だったからだ。保育園はどこも順番待ちの状態だし、兄がいつ帰ってくるか分からない以上、VPも無駄遣いできない。午前中から昼間は彼女が仕事に出かけ、私が紗奈の世話をする。夕方から夜は私が出かけるのだ。
以前にも増して睡眠時間が削られ、苦しい生活だったが、寂しさだけは感じなかった。葉月と紗奈がいっしょだったからだ。
特に紗奈は、ますますよく喋《しゃべ》るようになり、生意気な口を利くようになって、かわいさもひとしおだった。私のことを「おばちゃん」と呼んで慕った。人形が好きで、絵本が好きで、アニメが好きだった。幸い、まだ幼いせいか、父親の突然の失踪をあまり気にしていない様子だった。それでも時おり、「パパのお帰り、まだなのかなあ」と言って、私たちをぎくっとさせた。
見たところ、本当にごく普通の女の子だった。
兄の考えは間違っている、と私は強く感じるようになっていた。紗奈は確かに神の創造した存在には違いないが、あのMIBのような不気味さは微塵《みじん》も感じられない。神のメッセージとやらがインプットされているかのような行動は、何ひとつ見せないのだ。あのボルトが普通のボルトで、何のメッセージでもなかったように、紗奈も普通の子供でしかないのだ。
それなのになぜ、兄は紗奈を恐れたのか?
二月二日、私は久しぶりに大和田氏の家を訪ねた。
世界的な激動は老人の生活にも変化をもたらしていた。菜園を手入れするかたわら、近所の子供に勉強を教えて細々と収入を得る毎日だったのだが、『仮想天球』のヒットと「神の顔」の出現で超常現象に関する興味が高まり、出版社から新たな本の執筆依頼が舞いこんだのだ。
大和田氏にとっては久しぶりの本であり、貴重な収入である。「人生最後のご奉公」という心境で、はりきって執筆に取りかかったのだという。
私が訪れた時には、すでに原稿は完成し、校正を待つ段階だった。これまでサイトにアップした文章や、こつこつと書きためていた原稿を切り貼りしたので、実質的な執筆量は少なく、ほんの一か月ほどで脱稿できたのだ。
もっとも、大和田氏は本の出来に満足していなかった。切り粘りで済ませたこともあるが、出版社から完成を急がされたため、「神の顔」出現以降の最新の情勢を充分にフォローできなかったのが心残りだという。
今や世界各地から大量の超常現象関連のニュースが発信されていた。その勢いときたら、まさに「爆発的」と表現するしかなかった。実際に超常現象が増えていたことも一因ではあるが、「超常現象は神からのコンタクトである」というSBG仮説が広まったことで、人々の注目が集まってきたこともある。これまで公式のメディアから無視されてきたUFOや幽霊やポルターガイストの目撃談が、堂々とニュースで流されるようになったのだ。
ノルウェーのトロンへイム郊外では、毎夜、白いドレス姿で線路の上を歩く「幽霊少女」が話題になっていた。列車の運転手が驚いてブレーキをかけると、ぱっと消え失せてしまうのだという。地元のテレビ局のスタッフが真冬の深夜に線路脇に張りこみ、ついにその少女の姿を撮影することに成功した。当初は「この場所で列車にはねられて死んだ子供の亡霊」と言われていたが、調査の結果、そんな事件などなかったことが判明し、少女の正体は謎のままだった。
ベトナムのホー・チ・ミン市には「幽霊タクシー」が出没していた。夜中にぎらぎらとヘッドライトを輝かせながら対向車線を走ってきて、正面衝突したかと思うと、そのまま霧のようにすり抜けて走り去るのだ。びっくりしてハンドルを切りそこね、事故を起こす車も続出し、死傷者も出ていた。
スコットランドのグラスゴーにある酒場には定点観測カメラがセットされ、客の人気の的になっている「幽霊ジュークボックス」をネット上で誰でも見ることができた。一九五〇年代に製造された骨董品《こっとうひん》のジュークボックスなのだが、誰も手を触れず、電源も入れていないのに、時おり、勝手にレコードがセットされて演奏を開始するのだという。どうやら「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」がお気に入りのようだった。
イタリアでは、おそらく史上最大級と思われるポルターガイスト現象が起きていた。ローマの中心地にある新聞社のビルが、何日も続けて、強い地震のような揺れに見舞われたのだ。ロッカーがひっくり返り、壁にひびが入るほどの被害が出たにもかかわらず、周辺のビルではまったく震動が感じられなかった。市民たちは、その新聞が神の怒りを買うような記事を掲載したせいだと噂していた。
ロシアのラドガ湖では、真っ昼間、水中から直径五〇メートルもある円盤が浮上し、いずこかへ飛び去るのを、三〇人以上が目撃した。カナダのマニトバ州では、蒸気機関車のような黒煙を吐いて飛ぶ葉巻型の物体が、広い地域で目撃されている。
UMA(未確認動物)の報告も多い。中国の内蒙古自治区では「光亀」の目撃が相次いでいた。体長は四メートル以上、四本足でのそのそと歩行する怪物だ。目撃者の証言を元に描かれたイラストは、亀というより恐竜のようだったが、猫のような耳があり、口から光線を吐いたというから、亀でも恐竜でもありえない。その他にも、ロッキー山中では猿人ビッグフットが、ブラジルでは翼長一メートルの青い蝶《ちょう》が目撃されている。ニューギニア沖では海に棲息《せいそく》するはずのないワニ、それも北米原産のアリゲーターが釣り上げられた。
幽霊なのかUMAなのか分類に苦しむ例もある。米ニュージャージー州北部に前年春から出没している「ランニングマン」と呼ばれる怪人がそれだ。目撃者の話によれば、身長二・四メートルもあり、全身が黒くてひょろりと細く、車でも追いつけないほどの猛スピードで走るという。
「これはまったく嬉《うれ》しい悲鳴というやつだね」
久しぶりに会った大和田氏は、例によってにこにこと笑いながら窮状を訴えた。こんなにたくさんいっぺんにデータが集まってきては、ホームページを更新するどころか整理する暇もない、というのだ。
「数もそうですけど、超常現象に質的な変化が起きてるように思えるんですが」
私はニュースを見て感じた疑問を口にした。これまで例がないほどの大規模なポルターガイストや巨大なUFO、多数の目撃者がいる幽霊やUMAなど、現象そのものが大型化しているうえ、これまでのパターンに当てはまらない現象も起きているのだ。
ロシアのアマチュア天文家たちは、カタログに記載されていない「幽霊人工衛星」の話題で沸き立っていた。その軌道は明らかに人工衛星のものだし、天体写真にもはっきり写るのに、なぜかロシア以外の土地では観測されないらしい。その衛星が発していると思われるコールサインも受信されたが、それは一九六三年に打ち上げられたヴォストーク六号のものだった。これはUFOなのだろうか、それとも世界初の女性宇宙飛行士ヴァレンティナ・V・テレシコワの幽霊なのだろうか?
ギリシアのアマリアスの小学校の校庭には、重量二トンもある板状の岩が忽然《こつぜん》と現われた。子供たちの証言によれば、晴れた空から「風船のようにふわふわと」落ちてきたのだという。ウガンダのルクエンゾリ山では巨大な岩が山頂に向かって転がってゆくのが目撃されているし、アラスカのバローでは四トンもあるブルドーザーが一分間も宙に浮いた。これらはポルターガイスト現象なのだろうか?
モロッコのアガディールとタルファーヤを結ぶ路線には、白昼堂々、「幽霊列車」が出現した。時刻表にない列車がどこからともなく現われ、すべての信号を無視して二時間も走り続けたあげく、忽然と消え失せたのだ。もしその列車が空を飛んでいたら、UFOに分類されたことだろう。線路を走っている場合、「未確認軌道上物体」とでも呼ぶのだろうか?
おそらく、これまでの分類が無意味だったのだろう。大和田氏が以前から主張していたように、UFO・UMA・幽霊・ポルターガイストは、見た目こそ違うが、すべて同じ現象だったと解釈するべきなのだ。
「質的変化については、二通りの解釈ができるね」と大和田氏。「ひとつは見かけ上の変化だという考え方だ。こうした事件はこれまでにも起きていた。しかし、報告されなかっただけなのかもしれない」
「報告されなかった……」
「前にテレビで、あるタレントが話しているのを聞いたことがある。彼は若い頃、京都の山の中で、三人の野武士に出会ったんだそうだ」
「野武士……ですか?」
「そう、野武士なんだ。昼間、はっきりと見たんだそうだよ。本人によれば、絶対に幽霊じゃなかったし、映画の撮影をやっている様子もなかったそうだ。じゃあ何だったのかは、本人にも分からない。バラエティ番組だったから、他のゲストはみんな冗談だと思って笑っていたけど、彼の口調は冗談を言っているように見えなかった。本当に不思議がっていたんだよ。それから、こっちは十何年か前にオカルト雑誌に載った体験談なんだが……」
彼はそう言いながら膨大な厚さのスクラップブックをめくった。問題の記事を探し出すのに何分もかかった。
読者投稿欄に載っている短い文章だった。OLが会社の窓から外を眺めていて、亀が空を飛んでいるのを目撃したというのだ。円盤ではなく「亀」だと断言されている。「同僚に話したけれど本気にしてくれません」と結ばれていた。
「もしかしたら、こんな話は他にもたくさんあったのかもしれない。ただ、テレビや雑誌が取り上げようとしなかっただけなんじゃないだろうかね。UFOや幽霊ならネタになるが、野武士や亀ではみんな冗談だと思ってしまう。オカルト研究家だって相手にしない。彼らが探しているのは、宇宙人や幽霊が存在する証拠だからね」
「ハイ・ストレンジネスですね?」
「そうだ。意外に知られていないが、この現代にも、河童《かっぱ》や妖精《ようせい》を目撃したという例はたくさんあるんだよ。信じる人が少ないから、注目を集めないというだけなんだ。目撃しても話さない人も大勢いるだろう。たまにテレビなんかが河童を取り上げる時にも、『河童の正体は宇宙人だ』とか『未知の動物だ』とか、合理的な解釈をしようとする。彼らが見たものが本当に河童だったとは、誰も思いたがらないんだ」
「でも、この前のNASAの発表のおかげで、宇宙人なんか存在しないということになったわけですよね。それどころか、これまで非科学的だからといって無視されていた現象に、みんなが注目しはじめた……」
「うん、それでハイ・ストレンジネス事例の報告が増えた。それがひとつの解釈だね。しかし、それだけでは説明のつかない例もある」
大和田氏が注目したのは、インドからのニュースだった。インド西部のポルバンダル郊外の海岸で、全長三〇メートルの帆船が座礁したのだ。乗員の姿はなく、そんな船がどこかから出港したという記録もなかった。内部を調査した船の専門家や歴史家は、時代考証の正確さに感嘆した。釘《くぎ》一本、備品のひとつひとつにいたるまで、一七世紀の商船を完璧《かんぺき》に再現してあるのだ。そのくせ、すべてが新品同様だった。
「これなどは実に興味深いね。『ランニングマン』にせよ『幽霊自動車』にせよ、以前からある超常現象のヴァリエーションにすぎない。しかし、この帆船は違う。私が収集した超常現象の例の中に、似たものが見当たらない」
「じゃあやっぱり、神からのメッセージは変化しているということですか?」
大和田氏は「うーん」とうなった。
「変化しているのは確かだが、メッセージというのはどうかなあ。前にも言ったが、私はこれらの現象に意味のあるメッセージが含まれているとは思えないんだよ」
「兄は『神の顔』の出現は前触れなんじゃないかと言っていました。これから本物のメッセージが送られてくるんだと」
「その説は読んだよ。しかし、『神の顔』が現われて二か月も経ってるじゃないか。そりゃあ、神の時間感覚は我々とは違うのかもしれないがね。それにしても、そろそろ無意味な超常現象はおしまいにして、そのメッセージとやらを送ってきてもいい頃じゃないかねえ」
私としてもそうしてくれないことには困る。まだ私は焦点であり続けているらしく、「神の顔」の出現以来、手にしたスプーンが曲がったことが二度あった。スプーンぐらいならいいが、MIBや子供の雨など、二度とごめんだ。
私は超常現象の増減に大きなパターンがあるのではないかという兄の研究を大和田氏に話し、意見を求めた。大和田氏の反応は鈍かった。苦笑し、首を傾げただけだ。
「その手の話は昔からあるけどねえ。UFOの出現数には五年周期があるとか、火星の接近と同期してるとか、目撃事件は水曜日に多いとか……日本でも以前、『UFO特異日説』というのを唱えていた人がいたよ。UFO関係の事件は毎月二四日前後に起きるというものなんだが、ちゃんとデータを揃えて統計を取ってみた結果、否定されたんだよ」
「でも、兄はデータを集めて、計算もきちんとやってました。統計的に有意だって」
「それでも偶然という可能性は捨てきれないだろう? それに、やっぱり疑問が残るね。そんなややこしい行為に何の意味があるんだね? 神が人類にメッセージを送ってくるなら、もっと単純明快な方法を選ぶんじゃないかね?」
「それは私も兄に言ったんですけど……」
お手上げだった。兄の研究の内容が、失踪と何か関係があるのではないかと思っていたのだが、大和田氏にまで否定されては、これ以上、この線を追求するのは無駄だろう。
帰り際、私はふと思いついて訊ねてみた。
「あの……『サールの悪魔』という言葉をご存知じゃあありませんか?」
「何だね、それは?」
「兄が失踪する直前に口にしたんです。サールの悪魔がどうこうって……」
「サールの悪魔? 確かにそう言ったの?」
「ええ。オカルト関係でそんな事件が何かあったんでしょうか?」
「サール、サール……と」大和田氏は眉《まゆ》を寄せて考えこんだ。「うーん、悪いけど思い出せないねえ」
「そうですか……」
私があきらめかけたその時、「いや、ちょっと待って。もしかして科学用語じゃないのかな?」
「科学用語?」
「ほら、科学者はよくそういう言葉を発明するじゃないか。マクスウェルの悪魔とか、シュレディンガーの猫とか」
私はぽかんと口を開けた。盲点だった。「悪魔」という言葉にひっかかって、オカルトか神学関係の用語だとばかり思っていたのだ。
「帰って調べてみます」
その日はもう遅く、疲れてもいたので、検索は翌朝に持ち越した。
朝から葉月は仕事に出かけた。紗奈はというと、応接間で一人で遊んでいた。私が見た時には、ソファの下を覗《のぞ》きこみ、「ひよめちゃん、出てらっちゃーい」「裸だと」風邪ひきまちゅよー」などと呼びかけていた。PE―POちゃんは <かくれんぼモード> では狭い場所に潜りこもうとする。隠れて五分経つとくすくす笑い出して位置を知らせようとするし、電池が残り少なくなると勝手に這《は》い出してくるので、本当に見失う心配はない。
私はその光景を微笑ましく見ていた。「いつまでも裸だと風邪をひくよ」というのは、彼女がいつも風呂《ふろ》上がりに母親からうるさく言われていることだ。人形遊びでは自分が母親役になり、人形の服を脱がせては、同じことを言いながら追いかけ回すのである。人形の名前は毎日変わる。自分の名前をもじった「なさちゃん」のこともあれば、「かかりちゃん」「ぽんぬちゃん」「へじちゃん」などの意味不明な名前のことも多い。かわいそうに、PE―POちゃんはめったに「PE―POちゃん」とは呼んでもらえない。
一人で遊ばせておいて安全だと判断したので、私は兄の書斎に入り、パソコンを借りて検索作業を開始した。
謎はあっけないほど簡単に解けた。「サール」という名を人工知能関係のサイトに限定して検索すると、アメリカの哲学者ジョン・R・サールが『行動と脳の科学』誌に一九八〇年に発表した論文「心・脳・プログラム」の要約が出てきたのだ。
サールはその論文の中で、従来の人工知能研究を批判し、コンピュータが人間の思考をシミュレートしたとしても、それは見せかけにすぎないということを、「中国語の部屋」の比喩《ひゆ》を用いて説明した。そして、機械は人間の脳が有するような「産出力」を欠いているため、真の意味で思考することはできないと説いた(産出力とは魂のようなオカルティックなものではないらしいが、ではそれが何に由来するのかは、サール自身も明解に説明していない)。
すぐに記憶がよみがえった。私は「サールの悪魔」で何週間も頭を悩ませた自分のマヌケさに腹が立った。「中国語の部屋」の話題は、一年半前、レストランでの兄と加古沢の会話の中に出てきていたのだ。サールという名を失念していたため、結びつけることができなかっただけだ。
サールのスペルが分かったので、英語圏のサーチエンジンで「Searl's demon」で検索してみた。たちまち何百という有力なヒットがあった。翻訳ソフトの助けを借りて読み進むうちに、私はそれが人工知能研究者の間でよく知られた概念であることを知った。
もっとも、「サールの悪魔」という言葉自体はサールの文章には出てこない。認知科学者ダグラス・R・ホフスタッターが、サールに対する反論の中で、「中国語の部屋」の中で黙々と作業を行なう人物のことをそう呼んだのである。
サールの批判者の一人にジョン・ホージランドという科学者がいる。彼は次のような状況を想定した。脳に障害があり、ニューロンからニューロンへと神経伝達物質を送ることができない女性がいるとする。しかし、彼女の脳の中に分子サイズの小さな悪魔が棲《す》みついており、神経伝達物質の受け渡しを代行している。その結果、彼女の脳は正常に機能し、健常者とまったく変わらない活動ができるものとする。さて、サールの定義によれば、彼女は「思考している」と言えるのだろうか?
サールの回答は「イエス」である。「彼女のニューロンは依然として産出力を有している。ただ少し悪魔の力を借りる必要があるだけだ」とサールは言う。ホフスタッターはこの考えの矛盾を指摘する。自由に大きさを変えられる悪魔がいると想像してみよ。それが分子サイズの場合には「ホージランドの悪魔」と呼ばれ、人間サイズの場合には「サールの悪魔」と呼ばれると考えてみよ。「中国語の部屋」の中にいるサールの悪魔は、脳の中にいるホージランドの悪魔と、スケールが違うだけで同じことをやっているにすぎない……。
ホフスタッターの文章は明解で、説得力があった。私は何度も何度も読み返した。サールの悪魔という概念はよく分かった。しかし、依然として、それで兄が何を言おうとしたのかは理解できない。
そもそも「中国語の部屋」というのは単なる思考実験なのだ。そんな実験など誰もやったことがないし、実際問題として実行不可能だろう。すなわち、サールの悪魔など現実には存在しないのである。
とすると、兄は「どうせサールの悪魔が」という言葉を何かの比喩として用いたことになる。マニュアルに従って退屈な作業を黙々とこなすだけの自分を蔑《さげす》み、そう言ったのだろうか? それとも何か別の意味があるのか……。
私は天井を見上げて考えこんだ。頭の中にジグソーパズルの断片が乱舞する。モニターに映った花の絵、「神の顔」、UFOとMIB、「だんご3兄弟」、超常現象、量子コンピュータ、「中国語の部屋」とサールの悪魔……何か関係がありそうなのに、うまく組み合わせることができず、もどかしい。
視点を変えて考えてみた。兄は「紗奈が恐ろしい」と書いていた。正確に言えば、紗奈を殺してしまいそうな自分が恐ろしいのだと。
それはひそかに紗奈にかけていた期待――紗奈が神のメッセージを携えているのではないかという可能性が裏切られたということではないのか。しかし、紗奈の中にメッセージが存在しないことが分かったというだけでは、落胆はしても、殺意を抱く動機にはなるまい。とすると、やはりメッセージは存在し、しかも何か忌まわしい内容であることに気がついたのだろうか?
いや違う。兄は「神は人間に悪意なんか抱いていない」とも言っていた。紗奈がメッセージを語ったとしても、その内容が人間にとって恐ろしいものであるとは思えない。兄には紗奈を恐れる何か別の理由があったのだ……。
「もー、ひよめちゃんったら! ママは怒りまちゅよー!」
隣の部屋から紗奈の声が聞こえる。私は混乱した思考を中断した。頭を冷やすため、ちょっと紗奈の相手をしてやろうかと席を立った。
その時、それを目にした。
書斎の床の隅にPE―POちゃんが放り出されしいた。紗奈が書斎に入りこむことはよくあるし、おもちゃを置き忘れるのもしょっちゅうだ。今朝はずっと応接間の方にいたから、昨夜のうちに置き忘れたのだろう。私は人形を拾い上げた。スイッチは切れており、生命を失った手足はだらんと垂れ下がっている。
「ひよめちゃん! 早く出てらっちゃい!」
紗奈は床を叩き、可愛らしい声で怒鳴っていた。私は背筋に冷たいものを感じ、人形を握り締めたまま、ゆっくりと振り返った。
紗奈はいったい誰と遊んでいるのだ?
私はそっと応接間のドアを開けた。紗奈は顔を床につけ、プラスチックの物差しでソファの下をつついていた。
「……何してるの?」
おそるおそる訊ねると、紗奈は顔を上げ、あどけない表情で私を見た。
「ひよめちゃんが出てこないの。裸だから風邪ひいちゃうよ」
その時、ソファの下から、くすくすという笑い声が聞こえた――聞き慣れたPE―POちゃんの声とは違う、少し大人びた、どこか悪意を感じさせる笑い声。
私は不吉な予感に高まる鼓動を抑えながら、紗奈の隣にしゃがみこみ、同じようにカーペットに顔をつけた。
ソファの下の暗がりに、何か白いものがうごめいているのが見えた。紗奈の物差しでは短すぎて届かない。
「……紗奈ちゃん、どいてて」
私は立ち上がり、紗奈を部屋の隅まで下がらせると、ソファの背もたれに手をかけた。力をこめて引っ張り、思いきってソファごと前にひっくり返す。
そのとたん、きーっというかん高い声とともに、何かがソファの裏から飛び出してきた。私の顔にぶつかり、跳ね返る。私が驚いてよろめいている間に、そいつは床、天井、壁、テーブルと、ゴムボールのように跳ね回った。あまりに速すぎて、白と黄色のもやのようにぼやけて見える。ばさばさという羽音と、悪意に満ちた笑いが室内に満ちた。私はパニックに陥り、左手で顔を覆いながら右腕をめちゃくちゃに振り回した。
偶然に腕がそいつにヒットした。そいつは壁に叩きつけられ、床に落下して、きききっと鳴いた。
ほんの数秒、動きが止まったので、私は「ひよめちゃん」の姿を見ることができた。身長二五センチほどの裸の少女だ。味に仰向《あおむ》けになり、短い手足をばたつかせている。肌は陶器のように白く、長い髪はヒマワリ色。背中からはトンボのような半透明の翼が生えている。ブライアン・フラウドのイラストそっくりだ。
たいしたダメージではなかったらしく、そいつはさっと立ち上がり、また宙に舞い上がった。私の目の前まで来ると、ほんの数秒だけホバリングして、仕返しのつもりか、小さな手で頬をぴしゃんと打った。一瞬、愛らしいがぞっとする小さな笑顔が、私の網膜に焼きついた。私が呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいる間に、そいつは反転し、ものすごいスピードで閉じた窓に突進し、ガラスをすり抜けて外へ飛び出していった。
私たちが窓に駆け寄った時には、もうそいつの姿は見えなくなっていた。
「あーあ、行っちゃった」紗奈がガラスに顔をつけ、少し寂しそうな声で手を振った。「ひよめちゃん、バイバイ。また来てね」
私はというと、まだ動悸《どうき》が収まらず、口の中がからからに渇いていた。急いでダイニングに行き、ミネラル・ウォーターをがぶ飲みする。コップに三杯飲んだところで、ようやく少し落ち着きが戻ってきた。
ふと鏡を見ると、頬からわずかに出血しているのに気がついた。あいつには鋭い爪があったのだろう。念のため、消毒液を塗っておく。
「ねえ、おばちゃん。お外、寒いよ」紗奈は無邪気に言った。「ひめよちゃん、裸なのに、風邪ひかないかなあ?」
「だいじょうぶよ……たぶん」
私は震える声でそう答えるのが精いっぱいだった。
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異変の発生から四か月が過ぎる頃には、最初の衝撃もすっかり遠のき、人々は夜な夜な「神の顔」に見下ろされる毎日に慣れはじめた。サラリーマンは会社に、学生は学校に通い、いつもと同じように起きて食べて眠る生活を繰り返した。社会は正常に機能し、一見、以前と同じ日常が戻ってきたようにさえ感じられた。
しかし、世界はもはや以前と同じではなくなっていた。
全能の神が存在することが疑いようもなく示されたことによって、人類全体の宗教熱がかつてないほどに高まった。太陽系外の知性体の存在を否定されたコンタクティ系やチャネラー系の団体は衰退に向かったものの、昔からあった宗教団体の多くは信者を増やした。特定の団体に入信しなくても、大多数の人は以前より深く神を崇拝するようになった。テレビではキャスターやコメンテーターやタレントが熱っぽく神について語った。ネット上でも新たなサイトや掲示板が林立し、どこもかしこも「神」「愛」「崇拝」「献身」「信仰」「天国」「奇跡」といったキーワードで埋め尽くされた。
月がよく見える夜には、歩道で立ち止まって、あるいは家のベランダに立って、月に向かって一心に祈りを捧《ささ》げる人の姿が当たり前になった。満月の夜ともなると、町の児童公園などで自然発生的に集会が開かれ、何十人という人が空を見上げて、それぞれの祈りや願いごとを小声でささやいていた。国や宗派や言語こそ違え、世界中どこでも同様の光景が見られた。
「神の声を聞いた」
そう主張する者も、全世界に何万人も現われた。宗教団体の教祖や霊能者はもちろん、ごく普通のサラリーマンやOLや学生や主婦、老人や子供が、ある日突然、にわか預言者となって、おごそかに「神のメッセージ」を語りはじめるのだ。あの新潟の少女のように、奇跡を体験したのがきっかけで目覚めたという者もいた。彼らの多くは、メッセージを一人でも多くの人に広げようという熱意に燃え、新たな教団を旗揚げした。二〇一三年の六月までに新しく誕生した宗教団体の数は、日本だけで二〇〇を超えた。
批判的な心構えで見れば、それらのメッセージは矛盾する部分が多いことに気づく。キリスト教系の預言者は聖書の言葉を引用し、仏教系団体の教祖は念仏を唱えることの大切さを説き、神道系の霊能者は神社に参拝するよう人々に勧めた。中には『竹内文書』のような偽書から引用して、「ムー大陸は実在した」とか「三〇〇〇億年前、日本は世界を支配していた」などと主張したり、「太陽の光はすべての方向に広がっているのではなく、サーチライトのように地球と月だけを照らしている」とか、「人間の先祖はウサギである」などと、どう考えてもありえないことを口走る霊能者もいた。欧米でも事情は似たようなもので、「角の三等分は可能だ」とか「地球は本当は平らなのだが、科学者が結託してその事実を隠しているのだ」といった珍妙なメッセージを語る者が大勢いた。
それらはとても本物の神のメッセージには見えない。超常現象がきっかけで、人が心の中に抱いていた妄想や信念が、「神の言葉」となってほとばしり出てきたに違いない。しかし、多くの人はそれに真剣に耳を傾けた。星が空に投影された幻だというなら、地球が平らでもおかしくはないのではないか?
イスラム圏だけはこうしたブームに毒されていなかった。イスラム教ではムハンマドが最後の預言者とされており、それ以外の者が「神のメッセージ」を語るのは異端とされているからだ。それでも例外はあった。インドネシアの反政府活動家で過激なイスラム原理主義者のプラムディア・ハムザは、神の啓示を受けたと主張し、「地球上からキリスト教徒を根絶せよ」と、インターネットで世界中のイスラム教徒に呼びかけていた。
もっとも、そうした過激な主張をする者は少数派だった。預言者たちの語るメッセージの多くはありきたりの道徳的なお説教にすぎず、基本的に似通っていた。清く正しく生きる者には明るい来世が保証されている。悪を行なう者は地獄に落とされる。争いをやめよう。嘘はやめよう。環境汚染をやめよう。乱れた生活を改めよう。感謝の気持ちを大切にしよう。家族を愛せ。隣人を愛せ。国を愛せ。地球を愛せ……。
この時期、世界的に犯罪が激減したことが統計によって明らかになっている。日本の場合、二〇一三年上半期の刑事犯罪の件数は、前年の同時期の五七パーセントでしかない。以前に兄が予想した通りだった。自分の行動が常に神によって見張られており、悪事を犯したら死後に裁きを受けるかもしれないというのに、なおも悪事を行なおうする者は、よほど鈍感か、よほど度胸があるか、よほど切羽詰まっているかだろう。
犯罪者が悔い改めることも多くなった。関西では数百件の窃盗《せっとう》を重ねてきた中国人の犯罪者集団が、揃って警察に自首してきた。アメリカでは不正な株取引で儲《もう》けていた実業家がテレビで罪を告白し、涙を流して神に赦《ゆる》しを乞《こ》うた。我が子を虐待していた親、少年にいたずらしていた聖職者、インチキな健康グッズを売っていた業者、食肉のラベルを偽造していたスーパーの店長、偽の超能力で信者を集めていたカルト教団の教祖、タレント志望の若い女性を食い物にしてきた芸能プロモーター、暴力団とつるんでいた警察官、預金を横領していた銀行員らも、次々と罪を告白した。罪というほどではなくても、それまでの乱れた生き方を改める者は数多くいた。治安が良くなるにつれ、人々の間に安心感が広まり、いっそう神への信仰も深まった。
行き過ぎた例もあった。低俗なバラエティ番組を放送してきたテレビ局には、自粛して敬虔《けいけん》な内容の番組だけを放映するよう要求するメールが殺到した。風俗産業やインターネットのアダルト系サイトも槍玉《やりだま》に上げられた。 <神の代理人> を自称するハッカーが何人も現われ、エロチックな画像を掲載しているサイトに軒並み攻撃をかけた。歌舞伎町ではお揃いの白い服を来た数十人の男女が「正しく生きよう」と書いたプラカードを手に練り歩き、風俗店の客引きを集団で吊《つ》るし上げたり、店に入ろうとする客を力ずくで邪魔したり、看板をスプレーで汚したりといった事件を起こしていた。
実害は受けなくても、こうした風潮に迷惑を蒙《こうむ》る者は多かった。会社などで雑談中、うっかり神を揶揄《やゆ》するような発言をしたために、同僚たちから罵《ののし》られたり白い目で見られたという話は、よく耳にした。私のように信仰心の薄い者は、トラブルを避けるために自然と発言を自粛するようになり、窮屈な思いを味わうことになった。
狂信的――ほんの一年前なら、この風潮はそう呼ばれていたことだろう。だが、今や誰もそれを異常だとは思わなくなっていた。
「神の顔」には神秘的なパワーがある――そんな噂が広まりだしたのも同じ頃だった。月の光を浴びているうち、腫瘍《しゅよう》が小さくなったとか、エイズや白血病の症状が好転したとか、歩けなかった人が歩けるようになったという話が、世界中から数多く報告された。
これも確率的に考えれば当たり前のことだ。どんな難病でも、自然に治癒する可能性は必ず何パーセントかある。全世界に難病に苦しむ患者は何千万人もいるのだから、「奇跡的な回復」を報告する者が何十万人もいるのは当然のことだ。はなやかに喧伝《けんでん》される「奇跡的な回復」の陰で、その何十倍もの人々が癌やエイズから回復しないまま死んでゆくという事実は、都合よく無視されていた。
私は騙《だま》されはしなかった。「奇跡」としか思えない幸運によって誰かが救われたからといって、それが何の証明になるというのか――善良な人間であっても、偶然の積み重ねによって生命を奪われることがあることを、私は痛いほどよく知っているのだ。
景気が回復しはじめた。
年が明けた頃からじわじわと上昇しはじめた株価は、三月になる頃には力強くグラフを駆け登っているのが明らかになった。消費も増大し、失業率も低下する気配を見せていた。浅海首相は政策が効を奏したのだと宣伝したが、そんなのは誰も信じなかった。
「神の顔」のせいなのだ。
あの一二月二三日を境に、世界が破滅するのではないかという不安が薄れていった。治安の回復もそれに拍車をかけた。神は当分この世を存続させるつもりらしいという考えが広まるにつれ、人々は安心して投機や消費に走りはじめたのだ。底を打っていた不動産を今が買い時とばかりに買い漁《あさ》る者が増え、地価が高騰しはじめた。
神は我々を守ってくださっているはずだという安心感から、思いきって事業を拡大したり、新規事業に手を伸ばす会社も続々と出現し、それが新たな需要を派生した。当然、銀行も活気づいた。景気回復に向かう強いフィードバック・サイクルが機能しはじめたのだ。
そうした間接的な影響以外にも、「神の顔」は新たな需要と消費を生んでいた。「顔」をプリントしたTシャツやマグカップやストラップなどが飛ぶように売れた。旅行会社はさっそく「月光浴ツアー」を企画した。暖かい沖縄やハワイやロタのビーチで、思う存分「神秘的な月光パワー」を浴びようというのだ。「顔」についての仮説を述べた本、神や宗教や超常現象についての本も大量に出版され、低迷していた出版業界を活気づかせた。
もちろん、いちばん売れていたのは『仮想天球』だった。急遽《きゅうきょ》出版されたペーパー版も含め、わずか半年、それも日本国内だけで五八〇万部が売れたのだ。『赤道の魔都』『ベアトリス&ポリー』など、加古沢の他の作品も版を重ねた。二〇一三年二月に出版された新作『時の振り子』は、出版前から映画会社が映画化権を奪い合った。『アポロニオスの魔書』のような過去の作品も映像化された。
皮肉なことに、ベストセラーとなった『仮想天球』だけは、ついに映像化されることはなかった。神の実在が示されたことによって、内容が時代遅れになってしまったからだ。加古沢は「だから現代ものや近未来ものは嫌なんだ」と冗談を言った。
何にせよ、「神の顔」は加古沢に巨万の富と名声をもたらした。彼は儲けた金を気前よく寄付し続けた。防犯防災システム完備の高級マンションでの生活に必要な額だけを残して、余った分は惜しげもなく手放した。寄付を受けた慈善団体はおおいに感謝し、大衆はますます彼を持ち上げ、賛美し、熱狂するようになっていった。依然として誹謗《ひぼう》中傷を続けているサイトもいくつかあったものの、日本中を巻きこむ加古沢フィーバーの中にあって、すっかり精彩を失っていた。加古沢ファンの集中攻撃を受けて閉鎖に追いこまれた掲示板がいくつもあった。
加古沢の人気は今や揺るぎなかった。日本の歴史上、彼ほど多くの人から熱狂的に支持されたヒーローは、他にいないだろう。
二〇一三年四月。国税庁の内部データが流出し、納税義務者のうち所得税を期限までに納入した者は三〇パーセントに満たないことが明らかになった。日本人の多くは納税拒否を――すなわち現政権拒否を選択したのだ。
これを受けて、以前から公然と「サイレント・レヴォリューション」の準備を進めていた企業連合体は、四月二〇日、新たに名称を「新生日本国政府」に変更、旧政府の有していた一切の権限の剥奪《はくだつ》、日本国憲法の一時的無効化、企業連合体代表・小見野《おみの》京平《きょうへい》の新首相仮就任をネット上で宣言した。同時に、官公庁の大幅な合理化、直接民主制の導入、納入された今年度の所得税の返還など、二七項目の公約が発表された。
それはまったく静かな革命だった。その宣言だけで、旧政権はあっさり命脈を絶たれた。閣僚も国会議員も誰一人拘束されることはなかった。彼らはただ単に地位と職を失っただけだった。国家公安委員会は予算の増額を、防衛庁は防衛体制の大幅見直しを新政府に確約され、とっくに根回しを完了していたので、警察も自衛隊もこの非常事態にぴくりとも動かなかった。アメリカ、ロシア、EUなども、ただちに新政府を承認した。一滴の血も流されず、一発の銃弾も発射されることなく、革命は完遂された。
厳密に言えば一滴の血も流れなかったわけではない。日比谷公園で「憲法遵守」を叫んで新政府に反対する左翼団体のデモがあり、そこに乱入した右翼グループとの衝突が起きて、八人が負傷する事件があった。しかし、そうしたトラブルは最小限だった。
すべては加古沢の描いたシナリオ通りだった。
政治家たちは髪をかきむしり、金切り声を上げ、じだんだを踏んだ。彼らは今や旧時代の遺跡と化した国会議事堂に集い、「この法治国家の根幹を揺るがす横暴な行為」を糾弾する声明を全会一致で可決した。しかし、そんなものにはもはや何の効力もなかった。マスメディアは彼らの声を黙殺し、評論家は冷ややかなコメントを述べ、国民も苦笑するだけだった。
もっとも、ひとつだけ話題を集めたものがある。元財務大臣・南郷《なんごう》儀一《ぎいち》のこんな発言だ。
「これが日本のために精いっぱい努力してきた我々に対する仕打ちなのか。職を失って、これからどうやって食っていけと言うのか。餓死しろと言うのか」
これには日本中が怒り、あきれ、嘲笑《ちょうしょう》した。哀れを装ったところで、権力を利用して私腹を肥やし、庶民の何百倍もの財を蓄えてきた政治家が、すぐに餓死するわけがないではないか。彼ら無能な政治家が招いた経済的混乱のせいで、何百万という人間が職を失い、中には本当に餓死した者もいるのだ。こんな事態を招いてもなお、その責任についての自覚がないとは!
職を失ったのは政治家たちだけではない。経済改革を故意に遅らせ、破綻《はたん》の原因を作ったとして、国土交通省・経済産業省・総務省などの高級官僚一四〇名が処分された。目的もなく存在していたポストの多くも廃止された。権力を失い、新政権とのコネもない者たちには、天下り先もありはしなかった。
権力をほしいままにしていた者たちが失墜するのを見るのは気持ちのいいものだ。誰も彼らに同情しなかった。新政権は大多数の国民から熱狂的な拍手で支持された。
私も政治家たちの末路を見て「いい気味だ」と思った一人ではある。しかし、同時に割り切れないものも感じていた。すべては政治家のせいなのだろうか? 彼らを選んだ私たち国民の責任は問われなくていいのか? 官僚とつるみ、政界に圧力をかけて経済改革を阻んできた大企業はどうなのか? かつてバブル経済を暴走させ、バブル崩壊後は不良債権を隠してきた銀行は? 彼らは形勢不利と見るやあっさり旧政権を見捨て、新政府を支持して生き残った。日本を破滅させた責任を問うなら、彼らも糾弾されるべきではないのか……?
政治家たちは日本改革のためのスケープゴートにされた――私にはそう感じられてならなかった。
七月までには超巨大複合サーバ「VOJ(日本の声)」が構築され、試験運用を開始した。同時に、新日本国憲法の仮公布が行なわれ、選挙権を持つ日本国民全員に、アドレスとパスワードの登録(IDを持っていない者は代理人のID)が義務づけられた。
VOJは発足当初より、八つのジャンル、三九のサブジャンル、四〇〇以上のスレッド、二万以上のツリー(これはすぐに五倍に増えた)を有する巨大掲示板だった。同時に六五〇万人までアクセス可能であり、「ハンドル不可」「一人一週間一発言」という規制があるだけで、選挙権を持つ者なら誰でも自由に議論に参加できた。スレッドごとに絶えず様々な投票が行なわれ、賛成票が一〇万票以上でなおかつ反対票の二倍以上あった案は、サブジャンルに昇格し、国民投票にかけられる。
これにより、国家レベルでは世界初のネットを用いた直接民主制が実現した。従来の国会よりもはるかに安上がりで、議決に至るスピードが格段に速く、なおかつ国民の意思を的確に反映するシステムである。
最初に投票にかけられたのは、先に仮公布された新日本国憲法を支持するかどうかだった。当初、旧憲法からの重大な改正点は三点――国会、内閣、戦力不保持の放棄――で、特に憲法第九条二項の改正問題は紛糾するものと予想された。しかし、意外にあっさりと可決されたので、関係者はみんな拍子抜けした。考えてみれば当然だ。まともに思考できる者なら、「自衛隊は憲法で保持を禁じられている『戦力』ではない」などという詭弁《きべん》に納得できるわけがない。憲法を改正するか自衛隊を廃止するかの二者択一で、過半数の日本人が前者を選んだのだ。
さらに、国民からの圧倒的な声により、新たな改正点が追加された。
「第二〇条三項国及びその機関は、特定の宗教教育その他特定の宗教活動をしてはならない」
旧憲法の条文に比べると「特定の」という語句が加わっただけのように見えるが、その意味は大きい。国は「特定の」宗教を支持する教育や活動は行なえないが、宗教全般についての活動は行なえると謳《うた》っているのだ。これにはさすがに眉《まゆ》をひそめる知識人も多かった、しかし、大多数の国民が投票によって承認した以上、否定するわけにもいかない。
憲法の後にも多くの議題が山積していた。内閣の再編、税法の改正、薬事法の改正、少年法の改正、環境保護法の改正、有事法制の整備……旧政権が何年もかけてのろのろと審議してきた体制の矛盾が、ネットとコンピュータによって驚くべきスピードで処理されていった。古い日本の抱えていた病巣が次々に摘出されてゆくのを目にして、国民は快哉《かいさい》を送った。
こうして新生日本政府は、いくつかの些細《ささい》なトラブルを抱えながらも、順調なスタートを切った。
こんなにも革命がスムーズに運んだのは、「加古沢黎の提唱したプランだから」というのが大きな理由であるのは間違いない。学者が提唱した案なら、まったく相手にされなかっただろう。「神の顔」の出現を予言した加古沢は、彼自身の声明にもかかわらず、本物の預言者だと受け取られていた。彼の言っていることなら間違いないはずだ――多くの人が深く考えもせず、そう信じてしまったのだ。
大方の予想に反して、加古沢は新政権に加わらなかった。革命前、企業体連合の会議に何度かアドバイザーとして招かれたことがある程度だ。彼の人気なら、日本最年少の総理大臣になることも夢ではなかったはずである。しかし、新政権誕生後はすっかり政治に対する興味などなくしたかのように小説執筆に専念し、政界入りの誘いを拒み続けた。「だいたい小説家が政治家になってもろくなことがない」などと発言し、文壇の大物を憤慨させたのも、いかにも彼らしい。
これには「加古沢は権力亡者」と中傷していた反加古沢派もとまどい、振り上げた拳《こぶし》をどこに振り下ろせばいいのか分からなくなった。人間はみんな金と権力を欲するもの、と決めつけていた者にとって、金にも権力にも興味を示さない人間がいるというのは、想像を絶することだったに違いない。
「金も権力も目的達成のための手段にすぎない」加古沢はそう言い放った。「それを最終目的と勘違いしている奴が多すぎる。俺の人生の目的は面白い小説を書くことだ。その目的のためには権力なんて必要ない」
この言葉はまたしても人々の感銘を呼び、コピペされ、ネット中に広まった。彼とは一面識もないライターが書いた『加古沢黎に学ぶ人生論』などという本も出版されたほどだ。この数行の言葉を元に、大きな活字と無駄なお喋《しゃべ》りで一〇〇ページ以上に薄めたものだったが、それでも飛ぶように売れた。
加古沢にはもはや敵はいなかった。「偽善者」「権力亡者」といった批判は、すべて彼の行動によって封じられた。有名人に特有のスキャンダルも、彼に関してはまったく聞かれなかった。彼はまさに完全無欠のヒーローだった。
唯一、『仮想天球』の盗作疑惑だけがまだくすぶっていた。だが、兄のサイトが閉鎖され、私もこの問題には口をつぐまざるを得なくなったため、思い出す人間はしだいに減っていった。
八月、突然、兄から連絡があった。
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長いこと心配かけてすまない。
あの時は本当に動揺していた。頭の中がごちゃごちゃで、それを整理するために旅に出た。あちこち回ったおかげで、少し精神的に落ち着いてきた。
今、オーストラリアにいる。新しい仕事に手をつけているところだ。まだ内容は詳しく話せないが、契約金も入ってきている。そのうち軌道に乗ったら、そして紗奈と顔を合わせる自信がついたら、君や紗奈を招いて、みんなで暮らせると思う。
本当に君にはつらい想いをさせている。許してくれ。
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そんなメールとともに、葉月の口座に多額のAVPが入金されていた。
「オーストラリア!?」私は仰天した。「何でそんなところに?」
「知らないわよ」葉月は口をとがらせて言った。「まあ、この額から見ると、羊飼いのバイトとかコアラの飼育係とかじゃないのは確かね」
兄が失踪《しっそう》した直後は元気を無くしていた葉月だが、最近はめっきり本来の明るく強い性格を取り戻していた。
「彼のことだから、ゲームとかコンピュータ関係の仕事には違いないと思う。それ以外に才能のない人だから」
「『内容は詳しく話せないが』……」私は文面を読み直して訝《いぶか》った。「まさか非合法な仕事じゃないでしょうね? ハッカーの手伝いとか、マフィアの会計係とか」
「まさか。そんなことできる人じゃないわ、良輔さんは」
「そんなこと言ったら、妻子を残して蒸発するような人じゃないわよ、兄さんは」
「まあ、それはそうなんだけど……」葉月は複雑なため息をついた。「でも、とりあえず生きてるってことが分かっただけでも嬉《うれ》しいね――そうだ、返信出してやろう」
「近況でも書くの?」
「脅すのよ。『早く帰ってこないと他の男と寝るぞ』って」
「あのね……」
「冗談よ」葉月はけらけら笑った。「でも、オーストラリアってのはちょっと魅力ね。最近、日本は堅苦しいから」
「堅苦しい?」
私が問い返すと、彼女はわずかに表情を曇らせた。
「勤め先でね、ちょっと気まずいことがあって――ほら、二週間ほど前に、コリアン・マフィアの麻薬密売組織が摘発されたってニュース、あったじゃない」
「うん」
それは私もよく知っている。何十年も前から日本に根を張っていた旧北朝鮮工作員のネットワークが、祖国の崩壊とともにコリアン・マフィアの傘下になり、在日系のやくざ組織と手を結んで、半島から入ってくるコカインを密売していたのだ。その大規模な摘発は、改革の進む警察機構による初の大手柄として話題を呼んだ。
「病院によく来るおじいさんがね、待合室で週刊誌読みながら、大声で在日の悪口言ってたの。『あいつらは犯罪者ばっかりだ。日本から追い出してやればいいんだ』ってね。さすがにかちんときたもんで、『あたしも在日ですけど』って言ってやったら、急に口つぐんじゃってさ」
「…………」
「それが病院に来る常連さんたちの間で広まっちゃったらしくて」彼女は照れ笑いをした。「最近、患者さんがあたしの顔見ると、みんな視線そらすんだよね」
葉月は笑いながら語っていたが、同じ日本人として、私は胸の痛みを覚えていた。
もちろん在日コリアンに対する差別は以前からあった。しかし、ここ数年、コリアン系犯罪組織の暗躍に伴い、国内の感情が急速に悪化しつつあった。葉月の受けた差別などまだかわいい方で、朝鮮人学校の生徒が登校途中に卵を投げつけられるとか、チョゴリをカミソリで切られるといった事件が各地で多発していた。
在日といっても葉月は四世、しかも両親は彼女が生まれる前に帰化しているので、戸籍上は日本人である。両親は娘に日本風の名前をつけ、姓も「ユ」ではなく「やなぎ」と読ませるようにした。彼女は朝鮮半島に足を踏み入れたこともないし、キムチも苦手で、ハングルも読めない。過去の歴史についての知識もあまりない。
むしろ私の方が、彼女とつき合うようになってから、日本と朝鮮半島の過去の関係に興味を持つようになった。大学で朝鮮語を学んだのもそれがきっかけだ。葉月には「何であんたの方が朝鮮語喋れるのよ」と笑われたものだが、それがのちに密入国者の取材でおおいに役に立つことになった。
彼女を日本人とまったく変わらないと思っている――と言えば嘘になる。葉月はとてもユニークな人間だ。その性格をついつい民族性と結びつけたくなる。もちろんそんなことはない。葉月の性格はまさに葉月だけのもの、日本で生まれ育った彼女自身によって形成されたものであって、民族の血など関係ない。
理屈では分かっている。それでもふと、「何かが違うのでは」と思ってしまうことがあることは否定できない――もし私が彼女に悪意を抱いていたなら、それはまさに「差別意識」と呼ばれるものであったろう。
彼女自身はどうなのか。民族の血などというものにこだわるのはナンセンスだ、と彼女は信じており、その信念を自分の人生で体現しているように見える。言ってみれば、日本人とかコリアンとかいったものを超越した人間、他の誰でもない柳葉月という人間であろうとしている。そのことが自由奔放で反骨的な彼女の性格を形成したのかもしれない。「あいつは在日だから」という陰口を叩《たた》かれるたびに、彼女はいっそうへそ曲がりな行動を取り、相手を翻弄《ほんろう》する。あたしがユニークなのはコリアンだからじゃない、あたし自身だからだ、と……。
しかし、それもまた逆説的ではあるが、民族の血の呪縛《じゅばく》にとらわれていることになるのではないのか。
「でも、ちょっとショックだったなあ」と葉月は恥ずかしそうに言う。「いや、差別されたことじゃなくて、自分がかっときたことがさ。民族としてのアイデンティティなんて持ち合わせてないつもりだったんだけどねえ」
「でも、葉月らしいね」
「そう?」
「だって、そこで怒らなかったら葉月じゃないもの」
「うーん、どうかな。中学や高校の頃に比べたら、怒る回数は減ってるんだけどね」
「でも、怒って当然よ。私だって怒る」私は力強く言った。「そんなひどいこと言われたら、絶対何か言ってやるわよ」
「『私の友達に在日がいるんですけど』って?」
「ええ、そう」
「あたしが友達じゃなかったとしたら? それでも同じこと言われて、かっとくる?」
相変わらず葉月は鋭いところを突いてくる。私は返答に詰まった。
「……わからない」しばらく悩んでから、私は正直に答えた。「かっとならない……かもしれない。葉月という人間を知っていなかったら」
葉月は私の答えに満足げにうなずいた。「それが限界だよね。人間の心の限界――『すべての人を愛そう』なんて、お題目はきれいだけど、絶対無理だよ。知らない人なんて愛せない」
「うん……」
彼女の結論は不愉快だったが、私はしぶしぶ認めるしかなかった。そう、小さな脳しか持たない人間の心には限界がある。その知覚力の範囲内でしか他人を知ることができず、その洞察力の範囲内でしか他人を理解できず、その感情の範囲内でしか愛せない……。
「紗奈のことだってそう。育ててるからよく分かるし、愛着が湧く。この前なんか、たったあれだけの傷でパニクっちゃったもの」
一週間前、紗奈は公園の石段で転び、額を切ったのだ。幸い、二針ほど縫うだけの怪我だったのだが、額を血まみれにした紗奈を見て、葉月はすっかりうろたえていた。
「あの子が私の知らない子だったら――どこか他の国に生まれた子供だったら、あんな真剣にはならないよ。今も地球のどこかじゃ、飢えとか虐待とかで死んでゆく子供が大勢いる。そのことをついつい忘れちゃうんだよね。でも、どうしようもない。見たこともない何万人という子供の生死よりも、紗奈の傷の方が、今のあたしには重大問題なんだよ」
「神様はどうなのかな?」私はふと浮かんだ疑問を口にした。「ものすごい頭脳を持ってるんだとしたら、人間にはできないことが可能なのかな? 何万人、何億人という子供を同じように愛することが」
「さあ、どうだろうね」葉月は曖昧《あいまい》に微笑んだ。「でも、一人の子供を愛するのと、何億人も同時に愛するのって、やっぱり感情の質が違うんじゃないの? 自分の子供を他人の子供より大事に思うのが人間的感情ってやつなんだから。それができないってことは、それこそ人間的な感情がないってことじゃないの?」
「かもしれない」
私は兄の言葉を思い出していた。「神は人間に悪意なんか抱いていない」――神が人間をはるかに超越した存在だとしたら、その心理は私たちのそれとはあまりにも異質すぎて、人間に悪意を抱くことなど不可能なのではないか。神が人間を愛するとしても、その愛の形態は、人間同士の愛とはまったく別物なのではないのか。
神を崇拝する現代人の多くは、その可能性に思い至っていない。神は慈悲にあふれた存在で、人間を愛していると信じている。しかし、それは希望的観測にすぎない。そもそも、神が人間と同じ感情を持つと考えること自体、神を矮小化《わいしょうか》しているのではないのか?
もちろん神の感情など理解できるはずもないが、私はどうにかアナロジーで想像してみようとした。神にとって人間とはどんな存在なのだろう? ゲームのキャラクターなのか? それとも牧場の家畜?
そう言えば聖書の中では、人間は「子羊」や「山羊」と表現されている。毛を刈られたりミルクを絞られるぐらいならまだいいが、もし「牛」や「豚」だったらどうだろうか? 人間が家畜を殺して肉を食べるのは、年や豚に対する悪意からではない。それどころか牛や豚に愛着さえ抱いている。デフォルメされたかわいらしい豚をマンガに登場させ、豚のぬいぐるみを抱きしめる。その一方で豚肉を平気で食べる。
牛や豚からすれば、人間の抱くそうした矛盾した感情など、まったく想像がつかないに違いない。彼らは自分たちの運命を知らない。安全な囲いの中で、毎日たっぷりの餌をもらい、病気にかからないよう親身になって世話してくれる人間を見て、なんと慈悲深い存在なのかと感謝し、崇拝しているのかもしれない……。
もちろん神が人間を食うために飼っているはずはない。しかし、その「愛」が我々の知っている愛とは違うものであるという可能性は大きい。自分たちが「神の子羊」だと考えている人は多いのに、「神の豚」だと想像できる人が少ないというのは、私には不思議に思えてならない。
日本での情勢を反映して、コリア本国でも日本に対する感情がすさんだものになりつつあった。
憲法第九条二項の改正はそれに火をつけた。東アジア諸国はこの決定に遺憾《いかん》の意を表明したが、とりわけコリア政府は強い口調で日本を非難した。コリアの言論サイトは「日本の軍国主義化」「新たな大東亜共栄圏への野望」と騒ぎ立てた。評論家は現代の日本の状況をヒトラー台頭前のドイツになぞらえた。各地で反日集会が開かれ、日の丸が焼かれ、日本製品のボイコット運動も起きていた。防衛力増強を唱える声も強かった。まるで今すぐにでも日本が攻めてくるかのような雰囲気だった。
言うまでもなく、これは被害妄想だ。新政府には防衛予算を増額する意志などまったくなかったし(そんな財政的余裕などあるはずがない)、もちろん他の国を侵略する意志もなかった。(侵略行為は依然として憲法第九条一項で禁じられている)、自衛隊改革案にしても、使いもしない高価な兵器を買うのをやめ、有効な目的に金を使って必要最小限の防衛力を保持しようというものにすぎない。しかし、日本人には明白なそうした事情も、海の向こうにいる人々にはなかなか理解されなかった。
まだ統一前の一九九〇年代、韓国では「日本が朝鮮半島に攻めてくる」という内容の小説が何十冊も出版され、人気を呼んだことがある。奇妙なことに、朝鮮半島に住む人々の多くは「いつか日本人が攻めてくるのではないか」という不安を抱いており、そうした荒唐無稽《こうとうむけい》な空想小説にもリアリティを覚えるらしいのだ――日本人のほとんどは、そんなことは夢にも思っていないというのに。
もちろんそうした感情は、過去の暗い歴史に根ざしているのだろう。しかし、原爆を落とされた日本人の多くがアメリカを恨んでいないというのに、一世紀も前のことで日本がいまだに恨まれ、疑いの目で見られ続けるというのは、日本人としては当惑してしまう。
一年前、まだ日本の景気が最悪だった頃には、『征日本論』というのが飛び出したこともある。当時のコリアは統一直後の混乱から脱却し、力強い経済復興の道を突き進んでいた。日本の国力が落ちている今のうちに、軍隊を送って占領してしまえというのだ。今の混乱した日本が自力で復興するには何十年もかかる。日本をコリアの領土とすることで、迅速に経済を立て直し、多くの日本人を救うことができる。もちろん日本人はすべてコリア国籍となり、名前も朝鮮名に変えさせ、子供たちにはハングルを学ばせるのだ……。
コリアの漫画家が大真面目に書いたこの本は、本国でベストセラーになった。中には「神の顔」の出現を「日本を征服せよという神のお告げだ」と言い出す者まで出る始末だ。コリアンの熱狂ぶりに、今度は日本人の方が「コリアが攻めてくるのではないか」と震え上がる番だった。自衛隊の合憲化がスムーズに運んだのも、そうした危機意識が背景にある。
コリアでの反日運動が伝えられると、日本人のコリアに対する感情はさらに悪化し、在日コリアンに対するいっそうの差別を生んだ。そのニュースがコリアに伝えられると、コリアンの日本に対する感情はさらに悪化した――両者の意識のすれ違いは、悲劇的な憎悪のフィードバックを生み出していた。
「あんなことを書いたせいで、大変なことになりましたね」
八月三一日の夕刻、渋谷の小さなレストランで食事をしながら、私は小声で大和田氏に言った。
彼は春に出版した『フォートの虹《にじ》―天と地を結ぶ超常現象』の印税が入り、少しは潤っていた。「神の顔」ブームに便乗してたくさん出版された超常現象本の一冊にすぎなかったが、「『仮想天球』に大きな影響を与えた人物」という帯のコピーのおかげか、売れ行きはかなりのものだったらしい。
その日は都内のホールに超常現象研究家が集まり、出版社主催のパネルディスカッションが開かれた。ほとんど自分の住む町を離れることのない大和田氏だが、久しぶりに上京したついでに、イベントの後、私と顔を合わせたのである。
私が「あんなこと」と言ったのは本のことではなく、『征日本論』が話題になっていた頃に大和田氏が自分のサイトの雑記帳に書いた文章だった。「コリアが攻めて来たらどうするのか」というマスコミやネット上の話題に触れ、「抵抗せずにさっさと占領されてしまえばいい。無駄な人死にを出さずに済む」と書いたのだ。その文章は一年近く、まったく注目されなかった。ところが最近になって、コリア問題で検索していた誰かがそれを発見し、別の掲示板で「こんなけしからんことを書いている奴がいる」と騒ぎ立てたのだ。
タイミングが悪かった。一年前なら大和田氏はほとんど無名で、そんな文章は無視されただろう。 <神の代理人> もまだ存在していなかった。ところが加古沢のおかげで大和田氏にもスポットが当たったため、ちょうど活動を過激化させつつあった <神の代理人> たちの標的になったのだ。 <0!のフォーティアン現象データベース> の掲示板は、「非国民」や「売国奴」、あるいはもっと下品な悪口雑言であふれ返り、閉鎖を余儀なくされた。大和田氏のアドレスには何百通という抗議やスパムメールが殺到した。大手掲示板には「売国奴・大和田省二のキン○マを抜け!」というスレッドまでできた。
その日のイベントでも、質問タイムに観客の一人がその件で大和田氏にヒステリックに食ってかかり、係員につまみ出される騒ぎがあった。
「そんなに怒られるようなことを書いたつもりはないんだけどねえ」大和田氏はスープをすすりながら苦笑した。「たとえばだ、一九一〇年の日本の朝鮮併合、あれをいいことだったと言う人がいる。当時の朝鮮国内はひどく乱れていて、民衆はひどく苦しんでいた。あのままだったらロシアに占領されて、もっと悲惨なことになっていたかもしれない。日本に併合されることによって、朝鮮は安定し、経済は豊かになり、人々は潤った。だから結果的に見れば日本はいいことをした……それは確かに一理ある主張だと思うよ。
しかし、それなら逆も認めなきゃ変だろう? 日本が乱れきっている時に、どこか他の国に占領されて、それで人々の暮らしが良くなるのなら、それはいいことのはずだ。日本が他の国を併合するのはいいが、他の国に併合されるのは許さないというのは、おかしいじゃないか?」
「国にもよるんじゃありません?」
「まあ、昔のソ連や北朝鮮みたいな国になるのは言語道断だな。でも、今はもうどっちもないし。あと、中国もまずいだろうな。だが、アメリカとかコリアならどうだろうね? けっこう人道的に統治してくれるんじゃないだろうか。げんに日本はアメリカに占領されたおかげで、あんなに早く復興できたわけだし」
もちろん大和田氏の人柄を知る者なら、彼なりのユーモアだと分かっただろう。幽霊や超能力についての画期的な仮説でも分かるように、彼はいつも世の中の常識に疑問符をつける人なのだ。単なるあまのじゃくではない。みんなが「当たり前だ」と思っていることに対して、「本当に当たり前なのか?」と問いかけることによって、硬直した思考を柔軟化し、問題を新たな視点から見ることができるのだ。
その点では、世間の常識を片っ端からくつがえしてみせる加古沢と似たところがある。「コリアに占領されればいい」という発言にしても、加古沢が同じことを言ったなら、これほど問題にはならなかったかもしれない。加古沢がそういうひねくれたことを言って常識を笑い飛ばすキャラクターであることは、誰もが知っている。
しかし、大和田氏のキャラクターは理解されていなかった。多くの人は彼の発した言葉のほんの一部だけを見て、「非国民」「売国奴」「サヨク」などと決めつけたのだ。
「まあ、それも一年前の話だ。新しい政府もできたことだし、このまま順調に日本が自力で復興していくんなら、それに越したことはない……」
私は大和田氏の口調の端に、かすかな不安の色を感じた。
「何か問題があると思います?」
「問題があるとしたら直接民主制だろうね。確かに国民の声がダイレクトに反映されるというのは、一見すると理想的なシステムのように見える」
「違うんですか?」
「国民は政治のプロじゃない。必ずしも正しい選択をするとは限らない。プロの政治家だったら絶対しないはずの誤った判断をして、日本をいっそう悪くするかもしれない。それこそ、どこかの国と戦争になるかも……」
「まさか! 国民の大半は戦争なんて望んでませんよ。誰も望まないのに、どうやって戦争になるっていうんです?」
「戦前の日本もれっきとした民主国家だったことを忘れちゃいけないよ」大和田氏は教師の口調で釘《くぎ》を刺した。「大衆はみんな戦争を支持していた。私はまだ小学生だったが、真珠湾奇襲のニュースに熱狂したことはよく覚えてるよ。興奮して、それこそ躍り上がって喜んだもんだ。私だけじゃない。家族も友達もみんな、アメリカやイギリスと戦うのが正しいことだと信じて疑わなかった……」
「でも、それは当時の権力者に洗脳されてたからで……」
「違う違う! そんなのは戦後になって考え出された言い訳だよ。『私たちは騙されてました』『私たちには責任はありません』……みんなそうやって罪の意識から逃れようとしたんだ。自分たちが支持した政府がやったことだというのに――」
大和田氏は珍しく苦い顔をして、不自然に言葉を切った。嫌な思い出があるのだろうと思い、私はそれ以上追及しようとはしなかった。
「じゃあ、同じ間違いがまた起きると?」
「かもしれない――加古沢くんの本は読んだが、他のところはともかく、直接民主制の導入を力説するくだりには違和感を覚えたね。だってそうだろう? 彼の小説の中では、大衆は騙されやすいカモとして描かれていることが多い。彼が大衆の判断力をそれほど信頼しているようには思えないんだ」
そう言えば『赤道の魔都』のヒロインのヘレナ・ブラヴァツキーは、四四歳の時にカルト団体「神智学協会」を設立、インチキな著作と数々のトリックで多くの信者を集め、「歴史上最も成功した詐欺師」と評された人物だった。加古沢は小説の中で、若き日のブラヴァツキーが冒険を重ねながら、天性のトリックスターとしての才能を開花させてゆく過程を描いた。まるでその生き方を賞賛するかのように……。
私ははっとした。
「もしかして、彼はわざと間違ったことを?」
その瞬間、心の中に漠然と広がっていたもやもやとした思いが、ぎゅっと凝縮されて形になった。加古沢の邪悪さを身に染みて知っている私は、彼が純粋に大衆を救う目的で『サイレント・レヴォリューション』を書いたということが、どうしても納得できないでいたのだ。だがもし、あの本に大衆を欺く何らかの陰謀が隠されているのだとしたら?
もちろん『サイレント・レヴォリューション』の内容については論議し尽くされている。確かに論証の不備はいくつか指摘されていたものの、それは彼のミスないし知識不足だと解釈されており、故意に仕組まれたものだと考える者はほとんどいなかった。しかし、みんなナイーブすぎるのではないのか? 天才である加古沢が本気で何かを企《たくら》んでいるとしたら、それは誰にも見抜けないほど巧妙なトリックであるはずだ……。
荒唐無稽な考えだった。「妄想だ」と一笑に付されてもしかたがない。
しかし、大和田氏は笑わなかった。ただ、「さあ、どうだろうね」と曖昧に首を傾げただけだ。
「とにかく、警戒は怠らないことだね」
店を出て何歩か歩いたところで、私たちは取り囲まれた。
全部で六人。みんな変身ヒーローのお面で顔を隠していたが、服装や体格はばらばらだった。見るからに体育会系のたくましい体格の若者もいれば、スポーツとは縁のなさそうな腹の出た中年男、金属棒を手にした中学生ぐらいの少年もいる。一人はTシャツにジーンズ姿の女性だった。あまりにもマヌケな姿だったので、一瞬、あっけに取られ、脅威を感じることさえ忘れてしまったほどだ。
「我々はぁ、 <神の代理人> であるっ!」
体育会系の男は肩を怒らせ、背の低い大和田氏を二階から見下ろすように指差し、仮面の下から声を張り上げた。顔が大きいので、子供用のお面から顎《あご》がはみ出していた。
「売国奴・大和田省二! お前を神に代わって告発する!」
最近、 <神の代理人> がネット内だけではなく、現実世界にも跳梁《ちょうりょう》しはじめたのは知っていた。ネット内で彼らの機嫌を損ねるような言動をした者を探し出し、その住所や職場を公開、「神」と「正義」の名のもとに、集団で取り囲んで吊《つ》るし上げるのだ。
日本全国に何人ぐらい <神の代理人> がいるのか、誰も知らなかった。おそらく彼ら自身も全貌《ぜんぼう》を把握してはいなかっただろう。活動範囲と件数からして、たぶん数百人はいたはずだ。自然発生した運動であり、リーダーはおらず、会としての実体もない。お互いに顔も本名も知らず、掲示板やチャットで情報を交換し、誰かが呼びかけた時刻と場所に、来られる者だけが集合するのだ。今日もおそらくイベント会場からずっと尾行されていたに違いない。ポケタミで連絡を取り合い、店の前で落ち合ったのだろう。
六人が包囲の輪を縮めてきたので、ようやく私は身の危険を感じた。大和田氏をかばう体勢を取りながら、バッグをぎゅっと握り締め、パニックに陥りかけている自分を(落ち着け!)と叱りつける。そう、むやみにおびえることはない。私の知る限り、 <神の代理人> は言葉で威嚇するだけで、誰かに肉体的な危害を加えたことなどまだ一度もない……。
「日本に生まれた我々日本人はすべて、この日本という国を愛する義務がある!」私が考えをめぐらせている間も、男は怒鳴り続けていた。「自虐思想に毒されてその義務を放棄し、『コリアに占領されればいい』と主張する大和田省二! 貴様のような非国民に、この日本に生きる資格はない! ただちに日本から出て行け!」
ちらっと振り返ると、大和田氏の顔は蒼白《そうはく》になり、ひきつっていた。私はそれを恐怖の表情だと誤解した。男の演説の合間に、他の五人も「日本から出て行け! 日本から出て行け!」とシュプレヒコールを上げる。練習していないらしく、声がハモっていないので、いっそう滑稽《こっけい》だった。
私は怒りと恐怖のはざまで、じっと耐えていた。中学時代、三人の女子にからまれた時の体験がよみがえった。六人が相手では、さすがに反撃に出るのはためらわれる。ポケタミで警官を呼ぶべきか? いや、たぶん無駄だ。彼らは言うだけのことを言うと、警官が来る前にさっと解散し、お面を捨ててただの通行人に戻るのだ。警察も他の犯罪を追うので手いっぱいで、子供のいたずらのような彼らの活動を取り締まる気はないようだった。むしろ「正義」を守ってくれている彼らに好意的なようにさえ見えた。
当てにならないのは通行人たちも同じだ。夜のセンター街を行き交う大勢の男女が足を止め、私たちの周囲に半円を描いて、ストリート・パフォーマンスでも見物するかのように眺めていた。眉をひそめている者、面白がっている者、男の演説に「その通り!」と賛同の声を上げる者もいるが、誰も私たちを助けようとはしない。
こいつらが演説をやめて立ち来るまで、おとなしく待つしかないのか……と悔しく思いかけたその時。
かぁーん!
かん高い金属音が響き渡った。 <神の代理人> たちはぎょっとして口をつぐみ、立ちすくむ。驚いて振り返った私は、音の正体を知った。
大和田氏が手にした杖《つえ》で、街灯を力いっぱい叩いたのだ。
「愛国心とはなんぞや!?」
老齢にもかかわらず、彼はびっくりするほど大きな声を張り上げた。感情がみなぎっているのか、全身をぶるぶる震わせている。その顔は私が一度も見たこともなく、想像すらしたことのないもの――憤怒《ふんぬ》の表情を浮かべていた。
「いや、愛とはなんぞや!?」
彼は体育会系の男の顔に、びしりと杖を突きつけた。
「お前!」
「へっ?」
男は老人の思いがけない勢いにたじろぎ、一歩しりぞいた。
「もしお前の前に不細工な女が現われて、『私を愛するのがあなたの義務です、さあ愛しなさい』と命令したら、お前はそれに従うのか!?」
「それとこれとは……」男は狼狽《ろうばい》し、声が小さくなった。
「いいや、同じだ!」大和田氏は狼狽している <神の代理人> たちをぎろりと見回した。「愛というのは自発的に生まれる感情だ。男と女が愛し合うのも、親と子供が愛し合うのも、誰かに命令されたからではない。子供に愛されるような正しい親であれば、子供は自然に親を愛する。子供を虐待したり放任するような親は憎まれて当然。そんな親を愛さなくてはならない義務など、子供にはない!
国家も同じだ。愛国心は義務ではない! 住み良い素晴らしい国家を作れば、国民は自然に国家を愛する。愛される国家を作るために努力するのは正しいが、『国家を愛せ』と強要するのは本末転倒もいいところだ!」
女が口を開いた。「日本には昔から美しい自然と文化が――」
「それは『クニ』だ!」大和田氏は女の言葉を鋭くさえぎった。「お前たちが愛することを強要しているのは『国家』だ! 『クニ』と『国家』は違う! 日本という『クニ』を守るためには、時には『国家』を否定しなければならんこともある。だからこそ日本人はサイレント・レヴォリューションを支持したのではなかったのか? なのに、なぜまた『国家』を信奉する!? 人や自然や生命を慈しむ心こそ大切だということが、なぜ分からんのか――!」
そこまで一気に怒鳴ってから、急に大和田氏は咳《せ》きこみ、うずくまった。「この野郎!」と言いながら、少年が金属棒を振り上げて飛びかかってくる。
私は一歩踏み出して少年の懐に飛びこみ、バッグの底を彼の胸に押しつけた。バチッという音と閃光《せんこう》がして、少年は派手にひっくり返り、お面がはずれてまだ幼い顔があらわになった。
襲いかかろうとする他の五人に、私は底からパテバチと青い火花を発し続けているバッグをかざし、威嚇した。防犯用のスタンガン内蔵バッグ――治安悪化にともなって、少し前から売れ筋だった商品だ。
「四〇万ボルトよ!」私は仁王立ちで怒鳴った。「次に浴びたい奴は誰!?」
これはさすがに効いたようだ。最初に女がひるみ、後ずさりした。中年男がなかば失神状態の少年を助け起こすと、少年は顔を押さえ、よろめきながら歩み去った。他の者も次々とそれに続く。最後に体育会系の男が「ちっ」と舌打ちし、身をひるがえして群衆の中に姿を消した。
私はほはっとして、掲げていたバッグを下ろした。
「大和田さん、だいじょうぶ……」
振り向いた私は愕然《がくぜん》となった。大和田氏は胎児のように身体を丸めたポーズで地面に倒れ、胸に手を当て、ぶるぶる震えていた。
私は今度こそパニックに陥った。「大和田さん! 大和田さん!」と叫びながら、老人の身体を何度も揺する。彼は答えられなかった。表情を鬼瓦《おにがわら》のように歪《ゆが》め、歯を食いしばって苦しんでいる。血の気の失せたその顔面に、大粒の汗がみるみる浮かんできた。
心筋|梗塞《こうそく》だ。
私はようやくポケタミで救急車を呼ぶことを思いついた。
「早く来て!」
私は「救急時の心得」というやつも忘れ、画面に現われた救急センターの係員に向かって、泣きながらヒステリックに訴えた。
「死にそうなの! お願い!」
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23+届かないメッセージ
救急病院に運ばれた大和田氏は、それから三日間、集中治療室で生死の境をさまよった。
私にできることは、祈ることだけだった。
もちろん、神に祈ったのではない。神が願いなど聞き届けてくれないことは知っている。奇跡のように見えるものは、偶然による幸運にすぎない。だから「偶然」に対して祈った。バスケットボールがゴールに入ることを祈るように、宝くじが当たることを祈るように、幸運が大和田氏に味方してくれるように祈った。
後から考えれば、これは不合理な態度だ。いくら祈っても確率が変化するわけではないという点では、神も「偶然」も同じではないか。
それでも私は祈らずにいられなかった。
四日目、ずっと三九度台で上下していた熱が下がり、心臓の具合も落ち着いてきて、私は面会を許された。
「久しぶりに女房に会ったよ」
ベッドに横たわった大和田氏は、いつもの微笑みを浮かべながら言った。しかし、その声は小さく、精気が感じられない。皮膚の張りも失われ、この三日でいっぺんに一〇歳は歳をとったように見えた。
「小さな川に太鼓橋が架かっていてね。その真ん中に立って、私を待っていた。川の水はとても澄んでいて、石の一個一個まではっきり見えたよ。川のこっち側はモノクロなのに、向こう側は一面の黄色いきれいな花畠《はなばたけ》でね……あれはアブラナかなあ?」
私はどう返答していいか分からず、黙って話を聞いていた。大和田氏は目を細め、楽しそうに言葉を続けた。
「いい気持ちだった。苦しみも何もなくて……ただの夢とも思えなかった。本物の体験のように現実感があったよ。近づいていくと、あいつは生きていた頃と同じように笑った。『だから言ったじゃないですか、死後の世界は本当にあるのよ』って。それから私の方に白い手を差し伸べて言うんだ。『さあ、行きましょう』……」
そこで彼は言葉を切り、急に悲しそうな顔になった。
「……だが、あいつはキーワードを言ってくれなかった」
「キーワード?」
「ある単語なんだ。ファイルを開けるための――君に死後の世界の可能性について話したかな?」
「いいえ」
「ホームページにも書かなかった。簡単に結論を出せない問題だったからね。しかし、私はずっと興味を持ってたんだ。本当に肉体は死んでも魂は滅びないのか、あの世とか生まれ変わりとかは本当にあるのか――それを知ろうと、ずいぶんたくさんの本を読んだ」
大和田氏は最初、ヴァージニア大学のイアン・スティーヴンソン博士の研究に注目した。スティーヴンソンは一九六一年から何度もインドやスリランカに渡り、前世を記憶していると主張する人々を調査した。たとえばデリーの東のバレーリ市に住むスニル・ドゥット・サケナは、三歳の頃、自分が五〇キロ以上離れたブダウン出身のセス・クリシュナという金持ち(スニルが生まれる八年前に死んでいた)だったと語り出した。こうした事例は東洋だけではない。スティーヴンソンの郷里、イギリスのエセックス州では、エドワード・ライアルという人物が、一七世紀末にサマーセットでジョン・フレッチャーとして生きた人生を明瞭《めいりょう》に記憶していると主張していた。
スティーヴンソンが何冊も発表した著作は、いかにも学者らしく、冷静かつ憤重な筆致で書かれていた。大和田氏も最初、それを信じていた。しかし、同じく超常現象を研究するフリーライター、イアン・ウィルソンの本を読み、大きな落胆を味わった。ウィルソンは、スニル・ドゥット・サケナがセス・クリシュナ氏の遺族を識別できなかったことや、セス・クリシュナが生前は厳格な菜食主義者だったのに、スニルが魚や肉が好物だと述べたことを指摘した。スニルが嘘をついている疑いが濃いにもかかわらず、スティーヴンソンはスニルの例が本物の生まれ変わりであると信じた。またウィルソンは、サマーセット地方記録事務所に残された誕生・結婚・死亡に関する詳細な記録を調べ、一七世紀にジョン・フレッチャーなる人物が住んでいた記録がどこにも見当たらないことを発見した。おまけにフレッチャーの家があったとライアルが地図で示した場所は、一八世紀末まで無人の湿地帯だった。ウィルソンは「スティーヴンソンは、著作を読む限りでは、勤勉で、偏見のない、良識を持った研究者のように見えるが、実際はまったくそういう類の人間ではない」と評している。
他にも前世を記憶していると主張する人間は世界中に、大勢いる。しかし、彼らのほぼ全員が、きびしい歴史的検証にパスしていない。コロラド州に住む主婦ヴァージニア・タイは催眠術をかけられ、一九世紀にアイルランド南部のコークに生きたブライディ・マーフィーとしての人生を「思い出した」が、アイルランドのどの役所にもそんな人物が存在した記録はまったく見つからなかった。四世紀にローマの貴婦人リヴォニアとして生きたというジェーン・エヴァンスの記憶は、歴史小説から得たものであることが証明された。その他にも、「前世を思い出した」という証言の多くは、記録に合致しないか、重大な歴史的誤りがある。
カーリス・オシスとエルレンドゥール・ハラルドソンによる臨死体験の研究も、大和田氏を失望させた。彼らはアメリカとインドで臨死体験をした数百人の末期患者の証言を集め、それらが脳内の幻覚ではないと主張したのだ。
しかし、彼らの集めた記録を詳細に検討すると、結論はまったく逆であることが分かる。インド人患者の約半数は、臨死体験の最中、死者の王ヤマ(閻魔《えんま》大王)やその使者であるヤムドゥート、クリシュナ神などを見たという。アメリカでは一三パーセントが天使やイエス・キリストや聖母マリアの姿を見ていたが、インドではそんな例はほとんどないし、アメリカ人でヤマやヤムドゥートを見る者も皆無である。大和田氏が見た「三途《さんず》の川」にしても、日本人の臨死体験者には多いが、西欧ではほとんど見られないという。これは臨死体験が文化的現象であり、体験者の知識に影響を受けていることの証明だろう。また、アメリカでは一七パーセント、インドでは二一パーセントの臨死体験者が、まだ生きている友人や家族に会っている。生きている人間があの世にいるわけはないから、これはまぎれもなく幻覚である。二割の証言が幻覚であることがはっきりしているのに、残りの八割を本物と考える根拠はない。
「本当に失望の連続だったね」と大和田氏は語る。「多くの人が生まれ変わりや死後の世界を信じている。でも、それは論理的に導かれた結論じゃない。単なる願望にすぎない。オシスとハラルドソンにしても、自分たちの集めたデータを都合よく曲解しているだけだ。魂と呼ばれるものが死後も存在するという確かな証拠は、まだないんだ」
魂の存在を証明するような実験が行なわれたことはある。一九〇六年、マサチューセッツ大学のダンカン・マクドゥガル博士は、死期の迫った患者を秤《はかり》に乗せ、死の前後に起きる体重の変化を計測した。その結果、第一の患者では約二〇グラム、第二の患者では約四〇グラムの体重減少が記録された。マクドゥガルはそれが死者の肉体から抜け出る魂の重さだと結論した。しかし、この研究は一九三〇年代、ロサンゼルス高校のH・L・トワイニングが動物実験によって再現しようと試みた時、もろくも崩れ去った。トワイニングは様々な方法で動物を殺し、密閉された容器の中で測定すると体重減少が起こらないことを発見した。マクドゥガルが計測した体重減少は、死の直前の発汗によって失われた水蒸気の重さだったのだ。
人類の歴史上、すでに何百億という人が世を去っているはずだ。だが、なぜかほとんどの霊は、自分が存在しているという確かな証拠を示そうとしない。霊が本人しか知り得ないような情報を語ったという話はしばしば耳にするが、それらの報告はどれも偶発的で、検証が難しい。報告者の勘違いや、偶然の一致と考えることもできるからだ。インチキ霊媒師によるトリックや、無責任なマスメディアによる誇張や創作も多い。
厳密な条件で死後の世界の実在を証明しようとする実験は、すべて失敗に終わっている。たとえば一九八四年に亡くなった心霊研究家のロバート・H・タウレス博士は、死の前に暗号を残し、死後にその解読法を送ってくると約束した。彼の死後、八人の霊媒がタウレス博士と交信したが、博士は霊媒の口を借り「解読法を思い出せない」と語った。
「それでも私は納得できなかった。他人のやった実験は信用できない。それで自分でも実験してみることにした。妻に協力してもらってね」
大和田氏と奥さんは、それぞれパソコンに短い文章を書きこみ、キーワードを打ちこまないとそのファイルが読めないように設定した。キーワードは自分で勝手に選ぶのではなく(それでは予想されてしまう危険がある)、三〇〇ページもある辞書を用意し、一〇面体サイコロを四回振ってランダムに選んだページを開き、そこから覚えやすいものをひとつ選ぶという手法を用いた。
二人はお互いに、自分が打ちこんだ文章の内容も、キーワードも教えなかった。その代わり、どちらか先に死んだ方が、必ずキーワードと文章の内容を送ってくると約束した。キーワードが偶然に一致する確率は数千分の一。文章の内容まで一致する確率となると、ほとんどゼロに等しい。キーワードを使ってファイルを開くことができれば、まぎれもなく死者からのメッセージだと証明できる
「女房が逝ってから、何人もの霊媒師を訪ね歩いた。中には本当に女房そっくりの口調で話す者もいた。うっかり涙ぐんでしまったほどだよ。しかしね……」大和田氏はため息をついた。「正しいキーワードを言ってくれた者は一人もいない。『風とか森とか山とか、そういう類の言葉です』とか何とか、曖味《あいまい》なことしか言ってくれない。一五年も経つのに、私はいまだに女房の遺《のこ》したファイルを開けられないでいる」
「そうですか……」
「だから橋のところで女房に会った時、こう言ったんだ。『おい、じらさないでいいかげんキーワードを教えろよ』――そうしたらあいつは、にっこり微笑んで言うんだ。『そんなことどうでもいいじゃないですか。証明も何も、こっちに来てその目で見ればいいでしょう』ってね。危うくその気になりかけたよ。でも思い直して、あいつが伸ばしてきた手を払いのけた。『キーワードを言ってくれるまでは行かない』と……。
そうしたらあいつは、寂しそうに笑った。『本当に頑固なんだから。どうして正直になれないんですか』……笑っていたけど、今にも泣き出しそうだった。それでかわいそうになって、手を取ろうとした。あともう少し、一センチかそこらで触れそうなところで……」
彼は悲しそうに目を閉じた。
「気がつくと、ベッドの上にいた。それで思い出した。『本当に頑固なんだから』というのは、あいつの臨終の言葉だったんだ」
「臨終の?」
「ああ。あいつは私と違って、死後の世界があると信じていた。だから死が迫ってきた時に、私に言ったんだ。『あちらで待っていますから、あなたも後から来てくださいね。またいっしょに暮らしましょうね』――私は答えられなかった。死後の世界が存在するという確信が持てなかったからだ。私が言い淀《よど》んでいるのを見て、あいつはかすかに笑った。『本当に頑固なんだから。どうして正直になれないんですか』……」
気がつくと、老人の細い目から、ひとすじの涙がこぼれていた。
「どうして言ってやれなかったのかなあ。最後の別れだというのに、『ああ、必ずいっしょに暮らそうな』って、どうして……」
私は胸が締めつけられる想いだった。ティッシュを取り出し、老人の涙を拭《ぬぐ》いながら、自分でも涙をこらえていた。
「ああ……すまないね」
「いえ……」
「でもね、あの時はそれが正しいと信じてたんだ。あの世があるかどうかも分からないのに、『必ずいっしょに暮らそう』なんて約束はできない。最後の別れだからこそ、嘘の言葉で飾りたくはなかった。あいつを愛していたから、最後まで正直でいたかった……。
でも、今となってはそれが正しいことだったのかどうか、よく分からない。愛しているなら嘘を言って楽にしてやるべきだったのかもしれない。それが本当の愛というものなのかも……」
「それは答えの出ない問題だと思います」
「そうだ。しかし、私はずっとその答えを出そうと悩んできた――君ならどうする? どっちを選ぶ?」
「私は……」私は慎重に言葉を選びながら言った。「どっちでもよかったと思います。大和田さんが最後まで自分に正直であっても、奥さんのために嘘をつくのであっても、奥さんにとっては嬉《うれ》しかったと思います」
「いい回答だな」大和田氏は複雑な表情でうなづいた。「私もそんな風に割り切れればいいんだが」
「どうして割り切ってはいけないんです?」
「それは人類の抱える普遍的なジレンマだからだよ。簡単に割り切ってはいけない問題なんだ。真実か幸福か――人は真実を追い求めてきたが、真実が必ずしも幸福とはかぎらない。こういう活動をやってきた関係で、カルト教団やインチキ霊媒師に騙《だま》された人は大勢見てきた。しかし、彼らは騙されてはいても、騙されていない人より幸福そうだった」
「そうですね」
私は <昂《すばる》の子ら> 信者のことを思い出し、うなずいた。
「原子の構造を解明したり、数学の理論を証明したりしても、誰かが不幸になるわけじゃない。しかし、この問題は違う。あの世は存在しない、人間は死んだらそれで終わりだと証明することは、大多数の人にとって不幸なことなんじゃないだろうか」
「死後の世界はあるということにしておいた方がいい、ということですか?」
「かもしれない。そうでないかもしれない。それで私はホームページに結論を書くのをためらった。それに、心のどこかでは、女房からのメッセージがいつか届くんじゃないかと期待してた。まだあきらめるのは早い。そう思ってずるずると結論を出すのを先に延ばしてきた……」
そこで大和田氏は言葉を切った。私は無言で待った。一分ほどの沈黙ののち、彼は小さい声でこうつぶやいた。
「……もうそろそろ結論を出すべきなのかもしれないな」
超常現象の発生は日常茶飯事になりつつあった。
九月一〇日早朝、太平洋上から国籍不明機が四国上空に侵入、自衛隊機が緊急発進する騒ぎがあった。接近したパイロットの報告により、その機体が太平洋戦争中のアメリカ軍の爆撃機B―29だと判明したため、防衛庁はパニックに陥った。ただの幽霊なら害はないが、過去の世界からタイムスリップしてきたのだとしたら、内部に大量の爆弾を抱えているはずである。しかし、自衛隊と防衛庁と政府が対策を話し合っている間に、幽霊爆撃機は高度一万メートルで播磨灘《はりまなだ》をゆうゆうと横断、明石上空で消失した。
九月二五日夕刻、新潟県|柏崎《かしわざき》市にある新築のマンションの最上階に住む大隅《おおすみ》豊《ゆたか》さん一家が、天井から噴出した大量の水に襲われた。大隅さん一家は避難したが、水は四時間も流れ落ち続け、家具を台無しにしたばかりではなく、階下の部屋にまで被害を及ぼした。当初は配管の破損が疑われたが、問題の部屋の天井裏には水道管は通っておらず、乾燥しており、水がどこから来たのか謎だった。
一〇月一六日、室蘭の北の鷲別岳《わしべつだけ》上空に、約二時間にわたって、人の顔の形をした雲が浮かんだ。大勢の人に目撃され、カメラにも収められたその顔は、「神の顔」とは似ても似つかない、恵比寿《えびす》様のようなふくよかな男性の笑顔だった。
一〇月中旬には、広島県北部一帯で、脚の長さだけで一メートルもあるという真っ黒な蜘妹《くも》が何度も目撃された。
もっとありきたりの超常現象――スプーンが曲がる、幽霊、UFO、ポルターガイスト、魚の雨といった事件は、その数十倍の頻度で、ほとんど毎日のように日本のどこかで報告されていた。世界全体ではさらにその数十倍、一日に何十件も起きていたに違いない。
「神の顔」の出現からちょうど一年目の一一月二八日には、東京にUFOが飛来し、池袋上空約二〇〇メートルに三〇分以上も滞空した。UFOは鍋《なべ》のような形をしていて、底面にギリシア文字のΦ(ファイ)に似た記号があった。サンシャイン60の展望台から望遠鏡で観察した人の話によれば、UFOの側面には窓があり、乙姫様のような格好をした美しい女性が手を振っていたという。
いいことばかりではない。一〇月二九日には、茨城県龍ヶ崎市の小学校で体育の授業中、重さ二〇キロの麻袋が空から降ってきて、直撃を受けた体育教師が死亡している。袋の中にはぎっしりと大豆が入っていた。
人々はそれらの事件を様々に解釈した。幽霊爆撃機は「日本がまもなく外国からの侵略を受けるという警告だ」と受け取られた。恵比寿様の顔を見た室蘭市民は、「景気がますます良くなる前兆だ」と話し合った。池袋上空のUFOは、「神が日本を祝福している」と解釈された。同じ現象であっても、解釈者によって吉兆であったり凶兆であったりすることもあった。
マンションを襲った水や、黒い大蜘妹や、空から降ってきた大豆の袋は?――私の知る限り、それらに納得のいく解釈をした者はいない。人々はただ不思議がるだけで、深く考えることを放棄した。無意味な超常現象もたまにはあるのだろう、と……。
そうではない。超常現象の大半は無意味なのだ。幽霊爆撃機も、大蜘株も、UFOも、ポルターガイストも、魚の雨も、人間に対して意味のあるメッセージを何ひとつ発していない。もちろん「神の顔」もだ。人間が勝手にそこにメッセージを見出しているだけだ。
しかし、人々はそうは思わなかった。
世界中で争いが起きはじめた。
インドネシアのプラムディア・ハムザは、短期間のうちに多くの同志を獲得した。ジャカルタでは爆弾テロが多発、八月から一〇月までの間に一〇〇人以上の死傷者が出た。その運動はフィリピンや中近東、アフリカにも飛び火し、フィリピンの過激派アブサヤフ、ヨルダン川西岸やガザ地区のハマス、レバノンのヒズボラ、アルジェリアのGIA(武装イスラム集団)などの活動を激化させた。
イスラエルでは、「神の顔」の出現以来しばらく途絶えていたイスラム原理主義者による自爆テロが、八月半ばから頻発しはじめた。イスラエルは報復のために武力を行使、数百人のパレスチナ人の血が流された。
中国では、かつて容赦ない弾圧で衰退した法輪功に代わって、新たな気功集団がいくつも台頭してきた。そのうちのひとつ「光亀団」は、内蒙古自治区に出現した例の怪獣を神のお告げととらえ、政府打倒をスローガンに掲げていた。当然、中国政府は徹底的に弾圧にかかった。北京の天安門広場では、デモ隊に軍隊が突入し、流血の惨事となった。非暴力主義を貫いていた法輪功と違い、光亀団は弾圧を黙って耐え忍ぶことはしなかった。彼らは過激な反政府活動に走り、爆弾テロや要人暗殺事件を起こした。
北アイルランドでは、カトリック系の非合法軍事組織IRAが活動を再開した。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア正教徒であるセルビア人とイスラム教徒であるボスニャク人の間に、またしても不穏な空気が高まりつつあった。スリランカでは仏教徒であるシンハラ人とヒンドゥー教徒であるタミル人が衝突した。インドではヒンドゥー教徒によるイスラム教徒迫害が広がり、その報復テロも起きていた……。
神は「争いをやめよ」とは言わなかった。
いや、世界の預言者や霊能者や宗教家の中には、そうした平和的なメッセージを語った者も大勢いた。しかし、好戦的なメッセージを発した者も少なくなかったのだ。「武器を取って戦え」「敵を絶滅せよ」「それが神の意志である」……その言葉は人々が抱いていた不満や恨みや偏見や憎悪に火をつけた。平凡な生活を捨て、テロに身を投じる者が続出した。
「神は悪に対して罰を下すはずだ」
彼らを増長させているのは、そんな根拠のない思いこみだった。罰が下されない以上、我々の行動は神によって支持されているに違いない――そんな薄弱な論理が、彼らに絶対の自信をもたらしていた。罪のない女子供まで殺傷する権利を、彼らは神から与えられたと信じていた。
確かに神は彼らに罰を与えなかった。いや、これまでだって一度として、神はテロリストに罰を与えたことなどない。
どんな意思も表明しようとはせず、「神の顔」は依然としてどうとでも取れる表情で、地上を見下ろし続けていた。
一二月七日、加古沢黎原作の映画『時の振り子』が封切られた。
それは「最後の大作日本映画」と呼ばれていた。すでにプライベート・メガストリームの普及で、人々がわざわざ劇場まで足を運ぶことが少なくなっていたうえ、不況の影響を受け、高額の制作費をかけた大作など作れなくなっていたからだ。「血の通わないCGのキャラクターでは、人間の俳優のように感情の機微が表現できない」などと言われたのは昔の話だ。今や家庭用のパソコンでも本物と見分けのつかない映像が作れるし、本物の俳優の表情や動きをトレースして創造されたバーチャ・アイドルは、まるで人間のように、時には人間の俳優よりも上手《うま》く演技してみせる。同じシナリオで俳優だけ入れ替えるのも簡単だ。誰もがブルース・リーやマリリン・モンローや松田優作主演の新作映画を家庭で観ることができるというのに、わざわざ本物の俳優が本物のセットの中で演技している映画を観に行く者は少ない。
この『時の振り子』にしても、俳優は出ているものの、全体の八割以上がCGだった。舞台となる朝鮮半島には、美術スタッフが素材撮影のために訪れただけで、監督も俳優も一歩も日本から離れることなく制作された。制作開始からわずか九か月という、三時間近い大作映画としては異例の速さで完成したのも、そのおかげだ。
私は映画は観ておらず、後になって加古沢の原作を読んだだけだ。SF仕立てだが、例によって彼の歴史趣味が存分に発揮されていた。
一九九四年、韓国に留学中の日本人青年・安倉《あぐら》三樹夫《みきお》と、親友の韓国人青年・張五星《チャンオソン》は、五星の故郷である韓国の全羅両道《チョルラナムド》を訪れる。突然の雷雨に見舞われ、古い祠《ほこら》で雨宿りをしていると、落雷によってタイムスリップが起こり、二人は一〇〇年前に飛ばされる。彼らはそこで、甲午農民戦争という歴史上の大事件に遭遇する。それは当初、圧政に苦しむ農民たちによる大規模な反乱運動だったが、政府が清国に派兵を求めたことから、朝鮮半島の利権をめぐって日清戦争を勃発《ぼっぱつ》させ、日本の朝鮮半島支配のきっかけとなったのだ。
現代に帰還した二人は、世界がまったく違ってしまっていることに驚く。ソビエト連邦が今でも存続し、日本も朝鮮も連邦の一部となっていて、社会主義政権下で圧政に苦しんでいた。歴史を調べた二人は、自分たちが反乱軍の指導者である全※[#「王+奉」、第3水準1-88-9]準《チョンポンジュン》に接触したのがきっかけで、甲午農民戦争が違う結果をたどり、それがめぐりめぐって、一〇年後の日露戦争での日本の敗北につながったことを知る。
二人はあの祠を通り、何度も過去と現在を往復する。彼らが過去で行なった干渉によって、現代に帰還するたびに、世界は大規模に変貌《へんぼう》している。三樹夫は恋人のいる元の世界に戻るため、歴史を正しい方向に戻そうと努力する。一方、祖国を愛する五星は、朝鮮が日本に支配された屈辱的な歴史を消し去ろうとする。二人の思惑は対立し、友情はひび割れる。
しかし、二人の苦闘を嘲笑《あざわら》うように、歴史は常に彼らの目論見からはずれた方向に進む。朝鮮が清に支配された世界、朝鮮がいまだに日本の領土である世界、長期にわたる日朝戦争が両国を荒廃させた世界……やがて彼らは、歴史とはちっぽけな人間の行為を超えたもの、人の力ではどうにもならないものであることを悟ってゆく。
虚心坦懐《きょしんたんかい》に読む限り、そこに差別的な意図を読み取ることは困難だ。五星は悪役ではなく、純粋ゆえに苦悩する青年だし、全※[#「王+奉」、第3水準1-88-9]準は賢明で魅力的な人物、歴史に押し流された悲劇のヒーローとして描かれている。加古沢は一九世紀末の朝鮮半島の状勢を可能な限り忠実に再現したうえ、甲午農民戦争が違う方向に進んでいた場合を様々にシミュレートしてみせる。それらは確かに、「ありえたかもしれない歴史」として、説得力を持つ。
しかし、多くのコリアンはそうは思わなかった。歴史がどう改変されても悲惨な結果になるというストーリーは、「日本の植民地支配を肯定するもの」「コリアに対する悪意がある」と糾弾された。この小説がベストセラーになったことは、日本人がコリアンを蔑視《べっし》する思想を持つことの証明だと決めつけられた。加古沢がサイレント・レヴォリューションの提案者、いわば「日本の影の支配者」であり、この作品は彼の征服欲を小説化したものであると論じる声も強かった。
もちろん、『時の振り子』を最後まで読めば、そうでないことは分かる。加古沢はこの作品の中で、実際の歴史を肯定してはいない。それどころか、結末では「正しい歴史などというものはない」と強調している。どんなコースをたどろうと、歴史は必ず流血や圧政を伴う。それに、ある歴史を選択することは、別の歴史に生きたはずの何億という人間を抹殺することである。どのような選択も悲劇を生む以上、一〇〇パーセント正しい選択というものはありえない。人間はただ、自分の信念の範囲内において、ベストと思える選択をするしかない――それがこの小説のテーマだった。
あいにくと、そこまで深くストーリーを読みこんだコリアンは少なかった。というのも、『時の振り子』は朝鮮語には訳されず、多くの者はあらすじ紹介を読んだだけで作品を読んだ気になっていたからだ。
そんな状況だったから、映画版『時の振り子』に対しても、上映前から激しい反対運動が盛り上がっていた。それでも映画会社は制作を強行した。話題作だし、スペクタクル・シーンも多く、ヒットすることは間違いなかったからだ。それに、高額で手に入れた映画化権を無駄にすることなどできはしなかった。
一二月七日土曜日、午後〇時四五分。
有楽町のシネコンプレックス <ヴェルソー1> で、『時の振り子』の第二回上映前の予告編が流されていた時、Q列1番の席に座っていた青年が、秋葉原の電気店の紙袋を残して席を立った。トイレに行くのだろうと思い、誰も気に留めなかった。紙袋から突き出た筒は、買ってきたばかりのポスターのように見えた。
本編の上映が開始された直後の〇時五六分、座席に置かれていた紙袋の中でタイマーが作動した。モーターが回転して小型のポンプを駆動し、ありふれた二種類の液体をポリ容器から吸い上げ、混合して、筒から噴霧しはじめた。
暖房が効いた密閉した館内で、きわめて効率よく塩素ガスが発生した。
周囲の観客はすぐにモーター音と霧と強い刺激臭に気づいた。異臭はたちまち耐えられないほど強烈になり、鼻や眼に痛みを生じさせた。しかし、その意味を即座に理解できたものは誰もおらず、恐怖に火がつくのに致命的な数十秒が費やされた。その間にも塩素を含んだ霧は噴出し続けた。やがて満員の観客は悲鳴を上げ、いっせいに非常口に殺到したが、すでに眼をやられて視界を奪われていた者も多く、転倒し、ぶつかり合い、パニックに陥って、思うように避難できなかった。
逃げ遅れた一七人が死亡、四〇人以上が失明したり、肺や気管支に傷害を負った。
同日午後一時ジャスト。
加古沢を支持する愛国者団体 <神意の会> の催しが開かれていた品川区の八潮シービューセンター。その地下駐車場で、別の紙袋に入った装置が作動した。タイマーによってポンプが作動するところまでは同じだが、こちらはガソリンを噴霧する仕掛けになっていたようだ。
「強いガソリンの臭いがする」という通報に会館職員の平野《ひらの》滋《しげる》さんが駆けつけた頃には、ガソリンの蒸気が地下に充満していた。平野さんが紙袋に近づいた時、別のタイマーによって発火装置が作動し、爆発が起きた。
駐車場は炎に包まれ、車七台が延焼した。催しが開かれていた二階ホールの人々はすぐに避難し、怪我人はなかったものの、爆発をまともに浴びた平野さんは全身に火傷《やけど》を負い、運びこまれた病院で死亡した。
同日同時刻。
その日の午前中、ペーパー版『時の振り子』の印刷を請け負っていた三鏡印刷株式会社の社長、鏡《かがみ》良樹《よしき》さんの自宅に、差出人欄に <オフィスKKZ> と書かれた段ボール箱が届いた。良樹さんは留守で、受け取った妻の葉子《ようこ》さんはお歳暮だと思い、たいして疑問に思わずに居間に置きっ放しにしていた。
一時ちょうどに箱が火を吹いた。居間から発生した火災は、たちまち燃え広がり、家を全焼させた。葉子さんは火傷を負っただけで済んだが、二階で昼寝をしていた生後八か月の長男・奉一《ほういち》くんが死亡した。
同日同時刻。
世田谷区内を走っていたスパロー宅配便のバンの中で爆発が起きた。火薬の量は少なかったが、二〇〇個のパチンコ玉が爆発の勢いで四散し、車内にあった他の荷物を穴だらけにした。
検証の結果、爆発したのは加古沢黎のマンションに配達されるはずだった段ボール箱で、彼が留守だったために持ち帰られたものと分かった。仕掛けはタイマーだけではなく、箱を開けようとしても作動するようになっていた。対人地雷に似た巧妙な構造で、被害の様子から見てパチンコ玉の初速は秒速三〇〇メートル前後、近くにいる人間の内臓を貫通するぐらいの威力はあると推定された。
同時多発テロのニュースに、日本は揺れた。
とりわけ人々を恐怖させたのは、その手口のあきれるほどの単純さと大胆さだった。映画館の座席に置かれた紙袋、駐車場の片隅に置かれた紙袋など、普段は誰も気に留めない。その中に危険物が入っているかもしれないなどと、考えたりはしない。その油断を、犯人は突いてきたのだ。
事件解決の決め手となるものは少なかった。 <ヴェルソー1> の事件では、目撃者の証言を元にした犯人の似顔絵――ふっくらした顔つきで、髪がぼさぼさの若者――が公開されたが、暗い映画館内での目撃では、どれほど信用できるか分からない。毒ガス発生装置に使用された部品は、どれも秋葉原で簡単に手に入るものだった。二本のポリ容器に入っていたのは、ありきたりのトイレ用洗剤と台所用漂白剤だった。
誰でも手軽に手に入る材料だけで、数十人が殺傷された――この事実は、地下鉄サリン事件や世界貿易センタービル破壊事件のことをすでに忘れかけていた人々に、改めて自分たちの社会がテロに対していかに無防備であるかを思い知らせた。映画館や駐車場は警戒を強めたが、犯人だって同じ手口を繰り返すほど愚かではあるまい。再び事件を起こすとしたら、まだ現代社会にたくさんあるはずの盲点を狙ってくるに違いない。
次に犯人がどこでどんな事件を起こすか、予測は不可能だった。
装置の構造が四つとも異なること、一度に複数の事件を起こしたことから考えて、単独犯ではあるまいというのが大方の見方だった。鮮やかな手口から、訓練を受けたテロリストではないかとも推測された。
犯人逮捕の見通しがまったく立たないことに、人々の苛立《いらだ》ちと不安はかきたてられた。炎に包まれる鏡さんの自宅の映像は、二〇一一年の <昂《すばる》の子ら> 事件のいまわしい記憶をよみがえらせた。「 <昴の子ら> が東京の住宅街で集団放火する」というのはデマにすぎなかった。しかし、今度はそうではない。正体不明のグループが日本のどこかに潜伏していて、いつまたどこでテロを起こすか分からないのだ。
恐怖は怒りとなってコリアンに向けられた。どこからも犯行声明は出ていなかったが、ターゲットから考えて、コリアンの狂信的な愛国主義者による反日テロであることは疑いようがないように思われた。実際、事件直後のコリアの掲示板には、テロを賞賛する声が多く書きこまれ、日本人を激怒させた。
加古沢はネット上に怒りの文章をアップした。犯人をコリアンだと決めつけることは避けたものの、子供まで巻き添えにする卑劣なやり口を糾弾し、テロリストを「堂々と戦う勇気のない臆病《おくびょう》な卑怯者《ひきょうもの》」と呼んだ。
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自らの利益のために要人を暗殺するというのは、まだ筋の通った話だ。しかし、映画館に来ただけの一般市民を殺傷することが、お前たちにとって何の利益がある? ありはしない! そんなものは単なるやけっぱち、労力の無駄、意味のない行動だ。
むしろ今回の事件は日本人の怒りに火をつけ、お前たちの立場をいっそう不利にするだろう。あの残虐な行為を目にして、お前たちの言い分に耳を傾ける者など、もはやいない。お前たちは自分たちの正当性を主張する機会を永遠に失った。自分の首を絞めたのだ。
正義を理解していない人間に、正義を語る資格はない。無差別|殺戮《さつりく》が何を生むのか分かってない愚か者は、自らの行為の報いを受けるのだ。
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加古沢は決して報復を呼びかけたりはしなかった。ただ、日本人すべての怒りに同調し、代弁してみせただけだ。
日本中で「そうだ!」という賛同の声が上がった。あいつらを許すな、あいつらの言い分を聞くな、あいつらに同情するな、日本の平和を乱す異分子どもに思い知らせてやれ……。
日本各地で在日コリアンに対する迫害が激化した。
横浜では在日四世の会社役員の家が放火された。名古屋ではパチンコ店店主が夜道で四人の暴漢に襲われ、重傷を負った。大阪では一三歳の少女が不良グループにレイプされた。庭に腐った野菜を投げこまれたり、メールでウイルスを送られたりといった、嫌がらせ、暴行、脅迫、中傷は数限りなく発生した。
警察はそうした事件を取り締まるのに積極的ではなかった。むしろ事件をきっかけに、在日外国人に対する監視の目を強化した。関東地方に住む在日コリアン全員を対象に、思想的背景、テロ事件の日のアリバイが調べられた。
一二月末には、テロ対策緊急法案が国民の七〇パーセント以上の支持を得て可決した。これにより、GPS利用のトレーシング・システムの個人データを常時記録、警察が自由に閲覧する権利が認められるとともに、日本に居住する外国人すべてに外出時のポケタミ携帯が義務づけられた。いつ誰がどこに行ったかを記録することにより、在日外国人の行動を完全に監視下に置くという、プライバシー無視の法律だった。
少し前までなら、こんな法案は絶対に可決されたはずはない。私は日本人全員が憎悪に狂ってゆくように思われた。
失踪《しっそう》からちょうど一年目、二〇一三年のクリスマスに、兄から葉月にメールが届いた。「仕事が軌道に乗った。君や紗奈と顔を合わせる自信もついた。いっしょにオーストラリアで暮らそう」というのだ。
それ以前から、葉月は日本を離れることを真剣に検討するようになっていた。それまでは「気まずそうに視線をそらせる」という程度だった偏見が、一二月七日を境に、露骨な迫害に変わったのだ。自分の出自を恥じようとも誇ろうともしない彼女のあっけらかんとした態度が、かえって人々を苛立たせるようだった。病院に来る患者の中には、彼女に触られるのを拒否する者、面と向かって罵倒《ばとう》する者まで現われるようになった。玄関の戸にはスプレーで、ここに記すのもはばかられるような言葉が落書きされた。
葉月が一人だったら、まだ耐えられただろう。問題は紗奈だった。玄関に落書きされた文字を見て、「何て書いてあるの?」「どうしてこんなことしたの?」と訊《たず》ねる幼い女の子に、どう答えればいいのだろう?
紗奈を普通の女の子として育てたいというのが葉月の希望だった。だが、私たちを取り巻く状況が、それを許さなくなってきた。
しかし、メールを読んでもなお、葉月は決断を延ばし続けた。日本を離れることにためらいがあったからだ。
「ちょっとぐらい嫌な思いしたぐらいで、尻尾《しっぽ》巻いて逃げ出すってのも悔しいじゃない。それこそ日本を嫌ってるみたいに思われてさ」
彼女は揺れる心境を私に語った。
「そうじゃない。あたし、ここが好きなんだよ。嫌なことだっていろいろあるけど、それでも好きなんだよ。できればずっと、この国で暮らしたい。何といっても、日本はあたしの生まれ育った国――あたしの故郷なんだから」
彼女が決断を下したきっかけのひとつは、紗奈が「神の子」であることが、どこかから洩《も》れたことだった。
『仮想天球』の大ヒット以来、「子供の雨」事件に再び注目する人間が増えていた。空から降ってきた子供は神からのメッセージを携えているのではないかという説も、ネット上で一年以上も前からささやかれていた。
すでに他の二人の「神の子」の引き取り手は名乗り出ていた。一組は栃木に住む多治見《たじみ》芳典《よしのり》さん夫妻で、引き取った男の子に義哉《よしや》という名をつけていた。もう一組は千葉の高梨《たかなし》豪《ごう》さん夫妻で、彩《あや》という女の子を育てていた。
私は最初に「義哉」という名を見た時に不安を覚えた。ヨシュアは旧約聖書に出てくる預言者の名である。多治見さん夫妻は義哉くんを神から遣わされた預言者だと思っているのではないのか? もし彼らが偽記憶症候群のことなど知らず、あるはずのない義哉くんの「天上での記憶」をよみがえらせようと誘導しているのだとしたら? そもそも名乗り出て世間の注目を集めるということ自体、子供を普通に育てる意思がないということではないのか?
案の定、多治見さんは最近になって、息子が語りはじめた「神のメッセージ」をホームページで紹介するようになった。内容はどれもこれも聖書の言葉の焼き直しにすぎず、どう見ても親から吹きこまれたものにすぎなかったが、感激した人々が掲示板に熱狂的な感想を書きこんでいた。高梨さんも負けじと、娘の言葉を紹介するホームページを開設した。こちらはニューエイジ系らしく、「ハイヤーセルフ」とか「カルマ」などと、四歳児が知っているとは思えない単語が頻出していた。
あいにくと紗奈は、神からのメッセージらしきものを口にしたことは一度もない。だから義哉くんや彩ちゃんの「メッセージ」も偽物だと断言できる。
彼らのホームページの明るさに反して、それを読む私と葉月は暗く複雑な気分になった。子供の心が親によってねじ曲げられてゆく。余計な情報を与えなければ普通に育つはずの子供が、架空のメッセージを語る預言者に仕立て上げられ、平凡な人間としての一生を送る権利を剥奪《はくだつ》されてゆく――それはまさに葉月が恐れていたことだった。
もちろん人々はそんなことは知らない。紗奈を普通に育てたいという私たちの想いなど知るはずもない。三人目はどこにいる? 三人目を探せ! 三人目の「神の子」もきっと素晴らしいメッセージを語ってくれるに違いない……。
どこから情報が洩れたのかは分からない。それまでも紗奈の浅黒い肌は幼稚園では目立つものだったが、ハーフなのだろうと思われ、さほど気にはされなかった。ところが、やはり一二月の初旬頃から様子が変わってきた。紗奈を幼稚園に迎えに行くと、他の園児のお母さんたちから好奇の目で見られるようになったのだ。
二学期の終業式の日、葉月はぷりぷりしながら幼稚園から帰ってきた。帰り際、同じクラスの園児の母親がいきなり紗奈の前にしゃがみこみ、手を合わせて拝んだというのだ。
「うちの子はお地蔵様じゃないのよ!」と葉月は怒る。
「そうだよね、変だよね」紗奈も同調した。「どうして紗奈を拝むのかなあ? 紗奈ってお地蔵様に似てる?」
「そんなことないよ」私は慌てて言った。「紗奈ちゃんは他の子と同じよ」
「そうかなあ」紗奈は首を傾げた。「みんなは違うって言うよ」
「みんな?」
「うん。この頃ね、遊ぼうとしたらね、アカリちゃんやユウヤくんがね、意地悪して遊んでくれないの。『紗奈ちゃんは普通の子と違うから』って。ママにそう言われたんだって。普通の子と違うから、怪我させたら大変なんだって……どういうことかなあ?」
私は葉月と顔を見合わせた。事態は予想以上に深刻だ。
思えば近所の人たちに一年以上もよくバレなかったものだ。あらゆるプライバシー情報が容赦なく暴露されるこのネット社会で、ここまで秘密を保ち続けられたことが、むしろ幸運だったとも言える。
さらにまずいのは、葉月が在日であること、私と同居していること、紗奈を育てていることが結びつけられ、動機があれこれと邪推されはじめたことだ。サーチエンジンで「柳葉月」で検索すると、何十もの掲示板がヒットするようになった。そのどれにも、彼女についてのバカバカしくもおぞましい見当はずれの憶測が書きこまれていた。
中でも最も荒唐無稽《こうとうむけい》なのは、こういう推理だった。和久優歌はかつて <昂の子ら> に入信していた。知っての通り、 <昴の子ら> はコリアの息がかかっており、その活動には日本を混乱に陥れようとする邪悪な意図があった。柳葉月もそのメンバーであり、破壊活動の一環として、「神の子」を育て上げて新たなカルトを旗揚げし、日本人を洗脳しようと企《たくら》んでいるのだ……。
笑い話である。しかし、私たちから見れば荒唐無稽であっても、ネットの向こうにいる人々、本物の私たちを知らず、ネットを通して伝えられる歪《ゆが》んだ情報しか知らない人々にとっては、これでもリアルな話に見えるらしい。電子の世界を光速で飛び交う流言は、恐ろしい速さで悪意を醸成していった。
一二月三一日の夜、その悪意がついに形となって襲いかかってきた。
夜九時、私たちが紅白歌合戦を見ていると、急に電気が消え、居間のガラス窓が大きな音を立てて割れた。次々と大きな石が飛びこんでくる。最初はポルターガイスト現象かと思った。しかし、家の外から聞こえる怒号と、石に続いて投げこまれてきた二本の発煙筒で、人間のしわざだと分かった。
葉月は消火器を使い、私は濡《ぬ》らしたタオルを使って、どうにか発煙筒を消し止めた。外の怒号がやんだ時には、室内は発煙筒の煙と消火器の粉末で真っ白になっていた。紗奈はおびえ、泣き叫んでいた。葉月は彼女を抱きしめ、「だいじょうぶ、もうだいじょうぶ」と何度も言い聞かせていた。
警察はずいぶん遅くやって来て、おざなりの検証を済ませただけで帰っていった。犯人は結局、捕まらなかった。
家の電線は外部で切断されていた。年末年始ということもあってか、修理工がやって来るのも遅かった。エアコンもファンヒーターも使えず、私たちは布団にくるまって、みじめな寒さとともに新年を迎えた。
「……オーストラリアに行く」
ぽつりとつぶやいたその暗い言葉が、葉月の新年の第一声だった。
一月一五日、成田空港のロビーで、私は親友とその子供が日本を去るのを見送った。
「ま、オーストラリアったって、いつでもポケタミで顔を見られるんだし。いつもいっしょにいるようなもんだ、よね」
葉月は別れを湿っぽくすまいと、明るく振舞っていた。私は「そうだね」と言いつつも、心の中で異論を唱えていた。
絶対に違う。すぐそばにいるのと、ネットを通して話をするのとでは、決定的に違うものがある。画像や声だけでは届かないメッセージもある。相手の想い、温かみ、生命の重み――ともに暮らさなくては伝わらないものがたくさんある。
私も、兄も、葉月も、大和田氏も、大勢の人の憎悪にさらされた。私たちに会ったこともない人たち、ネットの情報だけで私たちを知ったつもりになった人たちが、私たちを憎んだ。ネットを通して伝わる情報は、その人間の全情報の何万分の一にすぎない。ネット上では人は記号化され、単純化される。それが倫理を麻痺《まひ》させる。ネットの向こうにいる人間の生命の重みが感じられないから、憎み、傷つけることが平気でできる。
そうではない。ネットの向こうにいるのは生きた人間なのだ。複雑な人生を背負い、愛し、苦悩し、切られれば痛みを感じる存在なのだ。
日本人とコリアンだってそうだ。日本人の大多数はコリアンの知り合いがいないし、コリアンだって同じだ。お互いに本当の姿を見ようとせず、仮想空間上に壁を構築し、そこに自らが投影したイメージを憎悪している。しかし、攻撃した時に傷つくのはイメージではない。その壁の向こうにいる本物の人間なのだ。
「ごめんね」私は葉月に恥じた。「本当にごめん……」
葉月は不思議そうな顔をした。「何であんたが謝るの?」
「だって、同じ日本人として……」
「じゃあ、あんた、カナダ人がスペイン人に悪いことしたら、そのカナダ人に代わってスペイン人に謝るの?」
「……いいえ」
「どうして? カナダ人だって同じ人間なんだよ」
私ははっとした。
そうなのだ。「同じ日本人として」と考えること自体、すでに差別なのだ。海外での大事故のニュースで「日本人の死傷者はありません」と聞いてほっとする心理と同じだ。日本人だろうと他の国の人間だろうと、生命の重みは同じだというのに。
どうして「同じ人間として」と考えられないのか。どうして自分や相手にラベルを貼ろうとするのか。「日本人」とか「コリアン」という単純なラベルでは、その人間の全存在を表現することなどできはしない。一人一人が複雑で生きた人間であることを知ってさえいれば、ラベルで相手を判断するなどナンセンスなことだと気がつきそうなものなのに。
私と葉月は同じ人間だ。喧嘩《けんか》もしたし、いろいろと違うことも多いけれど、それでも同じ人間だ。民族の血なんて関係ない。
「葉月……!」
私は衝動的に彼女を抱きしめた。彼女も私を強く抱いた。腕の輪の中に、私は彼女の全質量を――バーチャルな情報などではない、生きた柳葉月のすべてを感じた。背中に回された彼女の腕にこめられた力に、機械では測定できない彼女の想いを感じた。触れ合う頬と頬を伝わる、声にならない震えから、どんな言葉よりも雄弁なメッセージを受け取った。
その瞬間、私は確信した。これが現実だ。自分が神のシミュレーションかどうかなんて、知ったことではない。言葉にできないこの感覚、この想いこそが、私にとっての真理だ。
この世に唯物論を超えたものがあるとしたら、これがまさにそうだ。
「……忘れないよ」私は涙に震える声で、しかし力強く言った。「絶対に、忘れない」
灰色の冬の空高くに遠ざかってゆく旅客機を、私は見えなくなるまで見送った。
その日、東京には雨とともに、何万という蝶《ちょう》のさなぎが降った。
[#改ページ]
24+魂はそこにある
一月二七日、私は入院中の大和田氏に呼び出された。
彼は前年の八月以来、ずっと入院していた。いったん良くなりかけたものの、一月に入ってまた発作を起こし、今度は一週間も死線をさまよった。その後は小康状態を保っていたが、医師の話では、不整脈が見られるうえ、左心室の筋肉の四割以上が壊死《えし》を起こしており、いつ致命的な心臓性ショックが起きるか分からないという。私が病室を訪れた時も、カテーテルをつながれ、ベッドで安静を強いられていた。
もっとも、本人はいたって明るく、不安の色をまったく見せていなかった。「今度は兄に会ったよ」と、あっけらかんと私に語ったものだ。
大和田氏に会うたびに、彼の話を記録しておくのが習慣になっていた。この時もポケタミの録画機能をONにして、サイドテーブルに置いた。
「前と似たような橋のたもとのところでね。白い軍服を着て、にこにこ笑って立っていた。最後に会った時と同じ、二〇代の若さだった。私よりもずいぶん背が高くて、近づくと見上げなくちゃならなかった――後から考えればおかしな話だ。兄の背がそんなに高かったはずはないんだ。たぶん子供の頃に見た印象なんだろう」
「戦争で亡くなられたんですか?」
「ああ。海軍で彗星《すいせい》という艦上爆撃機に乗っていた。昭和二〇年の四月に沖縄で――特攻だよ。聞いたことあるだろう?」
「……はい」
「戦後になって資料を調べたが、兄が戦果を上げたのかどうか分からなかった。うまく体当たりしたのかもしれないし、敵艦にたどり着く前に撃ち落とされたのかもしれない――どっちにしても大差はない。戦局は動かなかったんだ」
語り続ける老人の表情が、わずかに暗くなった。
「昭和二〇年の初頭の段階で、日本の敗北はもう決定していた。物量の差もあったが、優秀なパイロッドはほとんど死んでしまっていたし、南方の拠点もみんな奪われていて、巻き返しなんかできるはずがなかった。沖縄戦に突入する前、三月に硫黄島が取られた時点ででも降伏すればよかったんだ。昭和二〇年の四月までに降伏していたとしても、その後の日本にとって大きな不利益があったはずはない。それどころか、兄はもちろん、沖縄戦で敵味方合わせて二〇万もの人間が死ぬこともなかった。その後の本土空襲も、広島や長崎に原爆が落とされることもなかった。何十万という人間が死なずに済んだはずだった……。
あの戦争が正しかったかどうかなんて関係ない。確かに日本には戦うための大義名分があったのかもしれない。しかし、それは兄を含めた何十万もの生命と釣り合うほどの価値があったんだろうか? 私にはそうは思えない。
日本は降伏しようとしなかった。軍人も政治家も国民も、負けると分かっている戦いをずるずると続けた。日本は神の国だから負けるはずがないと、本気で信じていたのかもしれない。しまいには『神風』なんていう名前をつけたやけっぱちな作戦まで敢行した。残り少ない貴重な戦闘機と人命を消耗するだけの、戦局をくつがえす可能性なんてない作戦をね。
特攻に『意味があった』『無駄死にじゃなかった』と言う連中がいる。冗談じゃない。特攻に意味があったとすれば、それは『無意味だった』ということだ。兄は無意味に死んだ。国家というものは時として、国民に無意味な死を強要する――その教訓を心に刻むためにも、特攻は記憶されなければならないと、私は思うんだ。
いや、国家なんていう曖味《あいまい》なものにすべての責任をかぶせるのも、やはり間違ってる。国家は結局のところ、国民の総意によって動くんだ。だから兄を死なせた責任は私にもある。まだ小学生だったが、私だって国民の一人だった。兄が出征する時、日の丸の小旗を振って、笑顔で送り出したんだからね……」
ああ、それで――と私は納得した。
温厚な大和田氏が <神の代理人> たちにあれほど激怒したのは、そのためだったのだ。かつて自分が抱いていた「愛国心」なるものが、お兄さんを殺したことを悔いていたのだ――七〇年近くもずっと。
「加古沢が以前、似たようなことを言っていました」私はふと思い出した。「ミームが正しいかどうかは関係ない。『このミームを守るために命がけで戦え』と命じるミームが存続して、繁栄するんだって――愛国心というのも、ミームの一種ですよね?」
「だろうね」
「その頃のあなたはそのミームに操られていただけ……という風には解釈できませんか?」
「そう解釈してどんな違いがあるね? ミームなんて国家以上に曖味なものじゃないか。そんなものに責任転嫁するのは、逃避なんじゃないかね?」
「でも、あなたが旗を振ろうが振るまいが、お兄さんは戦争に行ったんじゃありませんか? 自分の意志で」
「そうかもしれない。しかし、私が旗を振ったという事実は変えられない……」
「それで、その――橋のたもとのところで、お兄さんは何と?」
「ああ、私が期待した通りのことを言ってくれたよ。『俺は自分の信じたことをやったまでだ。お前には責任はないんだから、もううじうじ悩んだりするな』……ってね」彼は恥ずかしそうに笑った。「そりゃあそうだよねえ。私が望まないことを言うはずはないよねえ。でも、嬉《うれ》しかったよ――たとえ幻でもね」
私はどう答えていいか分からず、しばらく会話が途切れた。
「さっきから気になってるんだが……」
大和田氏は急に話題を変えた。顎《あご》をしゃくり、ベッドに近い東側の窓を指し示す。
「あのオリオン座、ちょっと変じゃないかね?」
私は振り向き、窓の外を見上げた。時刻は午後七時に近く、外は真っ暗だった。その夜は快晴で、ビルの合間から見える南東の空には、今にも都会の明かりにかき消されそうに、オリオンの三つ星が弱々しく輝いていた。
「そう言えば、少し変ですね。一直線に並んでます」
オリオンのベルトを構成する三つの星――ミンタカ、アルニラム、アルニタクは、まっすぐには並んでいない。アルニラムとアルニタクの間隔がやや狭く、左端のアルニタクがわずかに上にあるはずだ。ところがその夜は、三つの星が一直線に等間隔で並んでいるように見えた。
「やっぱりそう見えるかね?」
「また何か起きるんでしょうか?」
「分からんね。まあ、何が起きても驚きはしないが」
同感だった。すでにみんな超常現象には慣れっこになっている。今さら空にどんな異変が起きようと、「神の顔」に勝る驚きがあるとは思えない。
ふと、毛布の上に置かれた読みかけの文庫本に目をやり、不思議に思った。今どき時代遅れの紙の本だということもあるが、あまり病人が読まないような本――ロバート・マキャモンのホラー小説だったからだ。
「これ、面白いんですか?」
手に取っておそるおそる訊《たず》ねると、大和田氏は「前に読んだ時ほど怖くないね」と言って笑った。
「どうも恐怖心そのものが鈍っているようだ。臨死体験をすると死に対する恐怖が消えるというのは本当だね」
「ホラー小説の魅力の秘密は、死に対する恐怖だということですか?」
「いや、そんなに単純なものじゃないと思うね。怖ければ読まなければいいだけのことだ。どうしてみんな、怖いのに読みたがる?」
私は真っ黒な表紙の本を見下ろして考えこんだ。言われてみれば不思議だ。人間が死を恐れているなら、死にまつわる物語を避けようとするはずだ。
大和田氏が手を伸ばしたので、私は本を返した。彼は痩《や》せこけた指先でページをめくりながら言った。
「まだ誰も書いたことのないホラーというのを知っているかね?」
「誰も書いたことのない……?」
彼は視線を上げ、真剣な表情で私を見つめた。
「こんなホラーだよ。人間は死ねば無に還る。死後の世界なんか無い。生まれ変わりもない。幽霊になって化けて出ることもできない。何もない。まったくの無だ……」
「…………」
「こんなホラー小説を書いたって、誰も読まないだろう。しかし、これこそ人間にとって最高の恐怖じゃないのかね? 人間はその恐怖から逃れたくて、死後の世界の話を――幽霊やゾンビのような超自然的なものが出てくる話を好むんじゃないだろうか? ホラー小説に出てくる死は、本当の死じゃない。超自然的な要素を登場させることによって、唯物論を超えたものがある、死後も生きられると、読者を安心させているんだ。ジェットコースターで擬似的な危険を体験するようなもんだ。人はホラーを読んで擬似的な恐怖を体験することによって、いつか必ずやってくる本当の恐怖から目をそらそうとしてるんじゃないかね?」
そうかもしれない、と私は思った。『仮想天球』の影響で、UFOや異星人やMIBなるものが神の生み出した超常現象であるという認識は広まった。しかし、依然として幽霊だけは別だと思われている。『仮想天球』のラストでも、死んだ少女の霊が、主人公に語りかけてくる。死後の世界は存在するという結論だからこそ、感動を呼ぶのだ。
霊が存在しないなどと、誰も信じたくはない。
「じゃあ、大和田さんはその恐怖を克服されたんですか?」
「死は苦しいもんじゃないと分かったからね。あれは気持ちのいい体験だった。おそらく苦痛を和らげるために、快感をもたらす脳内物質――βエンドルフィンなんかが大量に分泌されるせいだろう。そりゃあ心臓にズーンと痛みがきた時は苦しかったさ。でも、その後に快楽が待っていると分かれば、あまり怖くない。
臨死体験の進化論的解釈というのを読んだことがある。傷ついた時に苦痛を感じるのは、それが生存に有利だからだ。苦痛を感じた動物は、苦痛を避けようと必死に学習するからね。だから生き残る確率が高くなる。しかし、それは若くて健康な個体の場合だ。年老いて生殖能力を失った個体や、重い病気にかかった個体は、生き延びても種の保存に貢献できない。それどころか、そうした個体がいつまでも生きていると、群れ全体に行き渡る餌が少なくなる。つまり死の近づいた個体は早く死んだ方が種にとって有利になる……」
「それで死を恐れなくなる機構が進化した?」
「ひとつの説だよ。本当かどうかは分からない。しかし、私の今の心境によく当てはまっているのは確かだね。今の私は確かに安らぎを感じてる」
「それは肉体的な安らぎですか? それとも精神的な安らぎ?」
「難しい質問だね」大和田氏は苦笑した。「βエンドルフィンの作用はモルヒネと似ているそうだ。その意味では麻薬と同じく、物質的な快楽と言えるかもしれないね。しかし、それに何の違いがある? 心と物質の二元論なんて時代遅れだ。人間の精神状態が脳内物質に左右されることは証明されている。脳が傷つけば精神活動にも障害が出る。精神活動が物質である脳に依存している以上、精神と物質の間に明確な境界なんてありはしないよ。今こうしている間にも、君の脳の中では神経細胞が忙しく活動している。その活動が君の心を形成している……」
「心は脳を超えられない、ということですか?」
私は少し不愉快な気分だった。葉月との別れ際に感じたあの感覚――心は唯物論を超えるという感覚を、否定されたように思えたからだ。
「そんなことは言っていない。神経細胞のひとつひとつは物質的なものでしかないが、それが何百億と集まって生まれる『心』という現象は、物質である神経細胞を超えたもの――神聖で偉大な何かだと思う」
彼は手にした本をかざした。
「本と同じようなものと考えてはどうかな? この本を顕微鏡で見たって、紙の繊維にインクが染みこんでいるのが見えるだけだ。しかし、そのインクは文字を形成し、文字が並んで文章を形成し、文章が連なって大きな意味を形成している。よく書けた本には、著者の魂が宿っているようにさえ感じられる。いや、実際に宿っているのかもしれない。本は紙とインクでできているが、紙とインクを超えたものだ……。
私の書いてきたもの、集めてきたものだってそうだ。幸い、ホームページは他の人が引き継いでくれるし、蔵書は知り合いの古書店に話をつけて、引き取ってもらえることになってる。去年出した本だって、大勢の人に読まれた。私が死んでもそれらは残る。私の魂が残ると言ってもいい――ある意味では、これも死後の生命と言えるんじゃないか?」
「そんな風に割り切れるんですか?」
「ん?」
私は泣きたくなるのをこらえていた。「ホームページや本が残っても、ここにいるあなたは――私と話してるあなたは消えてなくなるんですよ? それに耐えられるんですか?」
「正直言って、今でも少し怖いさ。しかし、ずいぶん長く生きて、いろんなものを見て、いろんな人と出会って、いろんなことを喋《しゃべ》った。やり残したことはあまり多くない。あの世があろうとなかろうと、どうでもいいという心境なんだ。
こんなジョークを知ってるかな? あの世の存在を信じない無学な男に、宣教師が言うんだ。『天国を信じてどんな損があるんです? たとえ天国がなくても、あなたは失望することはありませんよ。その場合には失望するあなた自身が存在しないんですから』――すると無学な男はこう言い返す。『だったら信じない方が得だな。もらえると期待してたごほうびがもらえるよりも、もらえないと思ってたごぼうびがもらえる方が嬉しいもんな』……」
私は笑わなかった。
「すまないね。語り方がまずかったかな?」
「いえ、そういうんじゃなくて……」私は混乱した心理を整理しようと懸命だった。「霊は本当にないと断定していいんでしょうか? まだ断定できないと思うんですけど」
「うん。それが私の心残りのひとつなんだ。君をここに呼んだのも、実はそれが理由でね。どうしても決着をつけたくて」
「決着?」
「そこの引き出しにキーホルダーが入ってるんだ。取ってくれないかな」
私はサイドテーブルの引き出しを開け、大和田氏の所持品の中から、クリスタルのキーホルダーが付いた鍵《かぎ》の束を取り出した。
「同じ鍵が二本あるだろう?」
「はい」
「私の家の鍵だ二本はスペアだ。それをはずして持って行ってくれないか。君に取ってきて欲しいものがあるんだ」
「何でしょう?」
「書庫にあるESP関係の本の棚に、スタンリー・クリップナーの本がある。そこにフロッピー・ディスクがはさんである。三・五インチの」
「フロッピー……ですか?」
私はとまどった。ずいぶん前に廃れてしまった記憶媒体だ。
「ああ、もう二〇年ぐらい前のものでね。読みこめるパソコンぐらい、探せばまだどこかにあるだろう」
「それを持ってくるんですか?」
「いや、フロッピーは君が保管してくれ。必要になるまで中を見てはいけない。中にはファイルが二つ入っている――私のと妻のと」
私はぎくっとした。
「そう、君に検証して欲しいんだ」大和田氏は微笑み、落ち着いた声で言った。「これは私の最後の実験だ。私はもう長くない。たぶん次に発作を起こしたら終わりだろう。いろいろ考えたんだが、君がいちばん信頼できると思ってね。下心のある人間なら、裏技を使ってファイルを読むかもしれない。しかし、君ならそんなことはしないだろう?」
「でも……」
私はキーを握り締めて狼狽《ろうばい》した。自分が任されたのがいかに重大な役割であるかに気づいたからだ。彼は他の誰よりも私を信頼してくれている……。
「厳重に保管しておいて欲しい」大和田氏は念を押した。「いや、永遠にというわけじゃない。君にいつまでも待ちぼうけを食わせるのは忍びない。期限は二週間だ。すでに知り合いの心霊研究家や霊媒師にも連絡してある。私が死んだら、二週間以内に必ず何らかの形でキーワードを送るとね。もし二週間経ってもキーワードが来なかったら……」
「来なかったら……?」
「霊は存在しない。それが私の最終結論だ」
そう言って、大和田氏は細い目で私をまっすぐに見つめた。私はかなり長く考えてから、「お引き受けします」と言い、鍵を財布の中にしまった。
「やれやれ、これで肩の荷が下りた!」大和田氏は晴れ晴れとした顔つきで言った。「いい人生だったよ」
それが彼と交わした最後の会話だった。
大和田氏はその四日後に亡くなった。
二月三日月曜日、私は電車とバスを乗り継いで埼玉県西部にやってきた。
その年は暖冬で、二月だというのに雪は降らず、鉛色の厚い雲に覆われた空からは、陰気な冷たい雨がしとしとと降り続いていた。二〇一一年一〇月のあの日――初めてこの町を訪れ、帰りに子供の雨に遭遇したあの日のようだった。
主を失った古い家は、雨の中で肩を落としたように立ちつくしていた。郵便受けには大量のチラシが詰めこまれており、それがぐっしょり濡《ぬ》れて舌のように垂れ下がっていた。家の横にある畑は荒れ放題で、温室の破れたビニールに雨が当たり、ぽとぽとと耳障りな音を立てている。庭に丈高く生い茂った雑草の他には、生命の気配は何も感じられなかった。
葬儀は故人の遺志で、遺体を家に返すことなく、町立の葬祭センターでひっそりと行なわれた。彼にとってあの八月三一日が、この家との永遠の別れになったわけだ。
本当は大和田氏が生きている間にフロッピーを取りに来るべきだったのだろうが、私は多忙を口実に先延ばしにしてきた。本音を言えば、来るのが怖かったのだ。まだ彼は長生きすると信じたかった。死ぬ前に遺言を実行することで、彼の死を早めるような気がしたからだ――我ながら不合理な考え方ではあるのだが。
しかし、信頼されて遺言を託された以上、約束を守らないわけにはいかない。大和田氏と懇意にしていた古書店主の話では、今日の午後にトラックで蔵書を引き取りに来る予定だという。それまでにフロッピーを回収しておかなくてはならない。
私は鍵を使って玄関を開けた。天気のせいで、昼前だというのに家の中はひどく暗かった。念のために用意していた懐中電灯をつけ、足を踏み入れる。ビームをあちこち振り回すと、廊下の照明のスイッチはすぐに見つかった。幸い、電気はまだ来ていた。暗闇の中で作業しなくて済むと知り、私はほっとした。
板の間の廊下は氷のように冷えきっていた。私はスリッパ立てから客用と思われるムートンのスリッパを選んで履いた。家の中だというのに、叶く息も白い。
五か月も誰も歩かなかった廊下は、白々とした無機質の照明に照らされ、空気にさえ生気がないように思われた。壁越しに聞こえるくぐもった雨の音は、放送終了後のノイズのようで、単なる静寂よりも深い静けさを感じさせた。私は家の中を歩き回りながら、幼い頃に兄とやったお化け屋敷探検を思い出し、心臓が軽く締めつけられるような不安を覚えた。
書庫は四つもあり、どこに目的の本があるのか、少し迷った。しかし、ある書庫の突き当たりにESP関係の本が並んでいる棚を発見すると、その中からクリップナーの『超意識の旅』を探し出すのは簡単だった。抜き取ってみると、透明なプラスチックのケースに入った青いフロッピーがはさんであった。
私はそれを複雑な想いで見下ろした。ここに大和田氏のメッセージが秘められている。生涯を超常現象の研究に捧《ささ》げてきた彼の、最後の研究テーマ。その結論は、このフロッピーに収められたファイルを開けられるかどうかで決まる。
その大和田氏自身は、もうこの世にいない。
彼の計報《ふほう》に接した時も、質素な葬儀に参列した時も、私は泣かなかった。しかし今、この無人となった家の中でフロッピーを握り締めていると、急に涙がこみあげてきた。みんな行ってしまう。私の好きだった人たちが、みんな手の届かないところに行ってしまう……。
私はひとりぼっちだ。
バッグにフロッピーを収めたものの、その場をすぐには立ち去り難く、私はしゃがみこんで本棚に寄りかかり、膝《ひざ》を抱いた。この寒く寂しい場所で、しばらく孤独を噛みしめていたかった。街に戻ればいっそうつらい孤独に苛《さいな》まれるからだ。街には大勢の人がいる。仕事上のつき合いをしている編集者やライターも何人もいる。しかし、彼らはしょせん他人だ。心を開いて話せる相手ではない。葉月が去り、大和田氏が去ったことで、自分にとって「他人ではない人」がほんのひと握りしかいなかったことを、改めて思い知らされた。
葉月に出会う前の私――両親を亡くし、心を閉ざしていた孤独な私に戻った気がした。
冷えた手に息を吐きかけながら、三方を囲むようにそびえたつ本棚を見上げる。それにしてもなんという量か――こうして視点を低くすると、峡谷にいるような威圧感があった。ひとつの棚だけでも、見たところ一〇〇冊以上の本が詰めこまれている。おそらくこの書庫だけで一〇〇〇冊以上、四つの書庫を合わせたら五〇〇〇冊にも達するだろう。月に一〇冊ずつ読んだとしても四〇年かかる量だ。古くなって背表紙が変色しているものも多い。大半は私が生まれる前に書かれたものに違いない。
「本のずしっとくる重みに情報の重さを感じるんですよ」という大和田氏の言葉を思い出す。ネットを飛び交う情報には重さが感じられないと――それはここにいるとよく実感できる。この書庫にあるすべての本の内容は、電子化すればハードディスク一枚に収まってしまうだろう。しかし、単純にバイト数を表示しただけでは、この容積、この情報量のものすごさは分からない。これはみんな、誰かが書いたものなのだ。
背表紙の著者の名に目を走らせる。小熊虎之助、福来友吉、宮城音弥、コリン・ウィルソン、ジョン・ベロフ、チャールズ・T・タート、B・B・カジンスキー、L・ワシリエフ、アンドレア・H・プハーリック、ジョー・ニッケル……聞いたことのある名前も、ない名前もある。まだ存命の人もいるだろうが、亡くなっている人も多いはずだ。死んで何十年経っても、彼らの名前はここにあり、彼らの思想は本に刻まれている。
本には魂が宿る、と大和田氏は言っていた。そうかもしれない。本の内容が正しいか間違っているかは関係ない。どの著者もみんな、自分の信念を文章にして紙の上に刻みこんだ。一冊の本を構成する何十万という文字は、彼らの心の一部なのだ。
何か心にひっかかるものがあった。大和田氏以外に、似たようなことを言っていた人物がいた気がする――そうだ、兄ではないか。
私はポケタミを広げた。二〇一一年九月一二日の、ホテルのレストランで交わされた兄と加古沢の会話を呼び出す。何かに使えるかもしれないと思い、音声を文書化してあった。「本」というキーワードで検索してゆくと、まもなくその部分が見つかった。
兄は人間の心のプロセスを一冊の本にまとめるという話をしていた。その本は心をシミュレートできるのだと。「本にものを考える力があるって言うんですか?」と笑う加古沢に、兄は言う。「本そのものにはないよ。その本をめくる人間――サールのような人間が必要だからね。でも、その本と読者をひっくるめたシステム全体は、読者とは別の人格を形成するはずだ」
あの時は途方もない話だと思ったが、今は納得できる。そうだ、本は単なる紙とインクの集合ではない。人の心を宿している。もちろん一冊の本に著者の全人格がコピーされているわけではないが、その断片、著者の心の何百分の一かは、確実に刻まれているはずだ。本が閉じられている状態では、心は休眠状態にある。しかし、読者がページを開き、読みはじめれば、心は目覚める。読者と本は一体となり、そこに著者の人格が活き活きと再生される。著者のミームは読者の脳に授精され、子孫を残してゆく。
私は再び本棚を見上げた。啓示にも似た鮮烈なイメージが頭の中に広がってゆく。本は生きている――本棚にぎっしり詰めこまれた本、目に入る何百冊という本のすべてが、ひそやかに息づいているように感じられる。あとほんの少しで、その内側から発する生命の輝きが見えそうな気さえする。
大和田氏はこの何千冊という本をすべて読んだのだろう。これらの本から得た知識や思想や感動が、彼の心を形成した。もちろん、本を選び、集めたのも彼だ。そう考えれば、この家にある数千冊の本すべてが集まって、彼の心を構成していると言えるのではないか? 私は今まさに、彼の脳の中にいるのでは?
まもなくトラックがやって来て、本を箱に詰めて運び出すはずだ。私はその作業を見たくないと思った。これらの本棚が空っぽになり、書庫が肋骨《ろっこつ》のようになった光景を想像するだけで胸が痛む。大和田氏が愛し、収集した本が、家から引き離されてばらばらに売られてゆくのは、彼の脳が頭蓋骨から掻《か》き出されてゆくように感じられる。
しかし、私にはどうしようもない。本を売り払うことにしたのは大和田氏自身の選択なのだ。コレクターの中には、自分が死んだらコレクションもいっしょに燃やしてくれと遺言する者もいるというが、大和田氏はそうしなかった。きっとここにある本がまだ誰かの役に立つと考えたのだろう。その売却益も含めた遺産は、慈善団体に寄付されることになっている。それもまたひとつの死後の生――自分の生きた証《あかし》を後世に残す手段なのだろう。
しだいに寒さが耐えられなくなってきた。もう現実の生活に戻る時間だ。私はのろのろと立ち上がり、書庫を後にした。
いつの間にか雨はやみ、家の中を絶対的な静寂が支配していた。玄関に向かって廊下を歩いていると、ふと気がついた――玄関の横にある客間から、青いぼんやりとした明かりが洩《も》れている。私は立ち止まり、首をひねった。客間の電気を点けた覚えなどないのだが。
たた、たたた、たたっ、たたたたた……。
小さな音が断続的に客間から聞こえてくる。私は耳を澄ませ、その正体を確かめようとした。
たたたた、たったたた、たた、たた、たっ、たたた……。
間違いない。誰かがパソコンのキーボードを叩《たた》いているのだ。しかし、私の他に、この家にいったい誰が――。
突然、自分がこれから見ることになるものの予想がつき、私は戦慄《せんりつ》した。恐怖で全身が凍りつき、廊下の半ばで樹のように立ちつくしてしまう。見たくないと思う反面、何が起きているのか確かめなくてはという想いが、私を突き動かした。ごくりと唾《つば》を飲みこむと、スリッパを廊下から引き剥《は》がすように、ぎくしゃくと歩き出した。
足音を忍ばせ、廊下を進んでいった。客間の襖《ふすま》は半分ほど開いている。私はその手前で立ち止まると、首を伸ばし、そっと中を覗《のぞ》きこんだ。室内はほの暗く、深海を思わせる青い光に染まっていた。
大和田氏が、そこにいた。
部屋の隅に置かれたデスクの前で、愛用の椅子に座り、パソコンに向かっていた。青い光はそのパソコンのモニターから発していた。私の位置からでは斜め後ろからしか見えなかったが、その灰色の頭、優しさを感じさせる肩は、見間違えようがない。初めて会った時と同じ、白いカーディガンを着ていた。この家にいた時はずっとそうしていたように、モニターを見つめ、細い指で一心にキーボードを叩いている。決して速い動作ではないが、慣れた手つきだった。
たたっ、たたたた、たた、た、たったた……。
私が震えながら見つめていると、彼は急に何かに気がついたかのように手を止めた。スローモーションのようにゆっくりと振り返り、私を不思議そうに見つめる。顔の半分がモニターからの光に照らされ、青く染まっていた。
そして、優しく微笑んだ――細い眼をもっと細くして、生前と同じように。
その瞬間、心の中で分類不可能なまでに混沌《こんとん》となった感情が荒れ狂った。私は客間の入口の柱にもたれかかり、崩れ落ちそうになる身体を支えた。逃げ出したかった。叫びたかった。泣き出したかった。気絶したかった――しかし、紙一重残っていた理性で、それらの衝動をどうにか抑えることができた。
気絶なんかできない。どうしても確かめなくてはならないことがある。私は柱にしがみついて震えながら、ありったけの意志を奮い起こした。からからに渇いた咽喉《のど》の奥から、かすれた小さな声を、どうにか絞り出す。
「キーワードを……言ってください」
大和田氏は答えなかった。私はもう一度、さっきより強い口調で繰り返した。
「キーワードを……言ってください」
やはり、彼は答えなかった。優しい笑みで私を見つめているだけだ。やがて、私に興味をなくしたかのように、急に笑みを失い、またゆっくりとパソコンに向き直った。何事もなかったかのようにキーを叩きはじめる。
たた、たたたた、たた、た、たったた、たったったっ……。
モニターを青く染めているのがパソコンの起動画面であることに、私は気がついた。スイッチは入っているが、まだ何のソフトも立ち上がっていない。いくらキーを叩いたって、画面に文字が現われるはずはない。
無意味な行為だ。
それがどのぐらい続いたのか分からない。ほんの数十秒の出来事だったような気もするし、何分も続いたようにも感じられた。やがて、何の前触れもなく、大和田氏の姿はスイッチでも切ったかのように消え失せた。後には起動画面を青く輝かせたパソコンが残された。
私は柱に寄りかかったまま、ずるずると座りこんだ。パニックは去り、その反動で深い虚無感が襲ってきた。私は泣いた。声を上げて泣いた。
分かっていた。幽霊に話しかけたって返事がないことは予想できた。冷酷な事実を突きつけられて、私は泣かずにはいられなかった。
本やフロッピーは残った。しかし、大和田氏の魂は――彼の脳に宿っていた、神聖で偉大な何かは、永遠に失われたのだ。
それから二週間、私は待ったが、ついにキーワードはどこからも届かなかった。
私はますます神の意図が分からなくなった。『仮想天球』の結末のように、善人の魂が神に救われ、天国に召されるというわけではないようだ。そうだとしたら、まさに大和田氏こそその資格があるはずの人物だった。死後も魂が何らかの形で残っていたのなら、彼は何としてでも約束を果たそうとしたはずだ。
あの疑問がまた頭をもたげてきた――なぜ神は善に報いないのか? なぜ戦争を止めようとしないのか? なぜ悪の跳梁《ちょうりょう》を許し、ヨブを苦しめるのか? 正解がひらめいたのは、二月の終わりのことだった。
大和田氏と交わした最後の会話――「国家というものは時として、国民に無意味な死を強要する」という箇所を再生していた時だった。それが突然、「本に魂が宿る」という連想を経て、兄の残した謎と結びついたのだ。
超常現象発生件数の意味不明の偏り、人工知能、サールの悪魔、誰もヒットを予想しなかったヒット曲、『ドーキンズ・ガーデン』……ばらばらだったジグソーパズルが急速に集まり、ひとつの巨大な仮説を形作った。矛盾はない。これで神の真の意図が説明できる。しかし――本当にそんなことが?
私はあまりにも途方もない発想に呆然《ぼうぜん》となった。同時に、兄がこの説を発表できなかった理由を理解した。兄は恐れたに違いない。人々が真実に耐えられず、世界が破壊的な混乱に陥ると思ったのだろう。それで誰にも話さず、こっそり実験をやって確かめようとしたのだ。もちろん兄自身もそんな説を信じたくなかったはずだ。しかし兄は大和田氏の言葉を――「自分が間違っている可能性を探すこと。それが道を誤らないための唯一の方法です」というアドバイスを実践したのだ。
そして実験の結果、自分の信念が間違っていたことを証明してしまい、絶望したのだ。
私は確認のため、兄にメールを送った。
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兄さんはあの日、こう言おうとしたんじゃないの?
「どうせサールの悪魔が騒いでるだけだ」って。
[#ここで字下げ終わり]
これまでに送った何十通ものメールと同様、返事は来なかった。しかし、私は確信した。これが真実だ。
兄は神の意図を解き明かしていたのだ。
[#改ページ]
25+カサンドラの呪い
世界中から報告される超常現象は、明らかに新たなパターンを示しはじめた。これまでにほとんど例のないタイプのものが増加してきたのだ。
星座の異変もそのひとつだった。オリオンの腰の三つ星はゆっくりと位置を変え、最初は直線になり、次には六〇度の角度で並んで、オリオンの両肩に位置するベテルギウスとベラトリックスを頂点とする五個の星によるV字を形成した。双子座のカストルとポルックスは接近しはじめた。子犬座のプロキオン、鯨座のデネブカイトス、ヘルクレス座のラスアルゲティは輝きを増した。エリダヌス座のアケルナルの傍には、スペクトルまでそっくり同じ星がもうひとつ現われた。他にも多くの恒星が位置や明るさを変えていた。占星術師はそれらの意味を読み取ろうと懸命になったが、無駄な努力だった。
テキサス州アマリロの市庁舎では、玄関ホールの天井から長さ五メートルもある巨大な足がぬっと突き出した。職員や市民を驚かせただけで、すぐに消えてしまったものの、監視カメラには人間の一〇倍ぐらいのサイズがある白い素足がはっきり映っていた。明らかに黒人の足ではないことから、白人優越主義者はまたもや「神は白人であるという証明だ」と主張した。
ところがその四日後の夕刻、今度はニューメキシコ州フォート・サムナー郊外の住宅街に、巨大な裸の黒人が出現した。それは一〇人以上の目撃者たちの前で、身長一・二メートルから六メートルまで大きさを自由に変えたという。今度は黒人たちが「神はやっぱり黒人だった」と主張する番だった。
オーストラリアのニーデレ・タウエルン山脈のトンネル工事現場では、一億八〇〇〇万年前のジュラ紀の地層から、一九七〇年代にフランスで作られたジェット戦闘機シュペルエタンダールが完全な形で発掘された。ブラジルのベル・オリゾンテ市の中央には、新品の自動車が二〇台も落下し、道路をふさいでしまった。ミャンマーのマンダレー郊外では、白昼堂々、太平洋戦争中の日本軍兵士とイギリス軍兵士の亡霊が現われて、一時間にわたって銃撃戦を繰り広げ、巻き添えになった市民三人が負傷した。ニューヨークのメトロポリタン美術館の壁面には「GDRM」という文字がレリーフのように浮かび上がり、市民たちは何の略だろうかと首をひねった。
人々はそれらに様々な解釈を加えた。「神の祝福だ」「神の警告だ」「神の罰だ」……支離滅裂な現象から、自分にとって納得できる解釈を引き出し、安心したり不安がったりした。世界各地で解釈の違いをめぐって争いが起き、血が流されていた。
「神の顔」がもたらした平和は長続きしなかった。神が傍観することをやめ、積極的に世界に介入しはじめたことで、人類はいっそう激しく憎み合うようになっていたのだ。
あの同時多発テロをきっかけに、日本とコリアの関係は最悪の状態に陥っていた。
在日コリアンに対する迫害がますます激しくなる一方、コリアでは毎日のように反日デモが行なわれ、日の丸が焼かれた。コリアのサイトでは、「日本に住む同胞を救援するために出兵すべし」という意見が盛り上がっていた。『征日本論』が現実味を帯びて復活してきたのを見て、日本人の危機意識にもいよいよ火がついた。
防衛庁は今やコリアを仮想敵国とみなし、防衛体制の本格的な再編成を開始していた。九州・中国・近畿地方の自衛隊基地に、他地域からの部隊が大挙移転してきて、戦力が増強された。同時に、「侵略に対する抑止力」という名目で、報復手段の開発がすでに進行していることも発表された。
もちろん日本の技術力をもってしても、半島に届くようなミサイルがすぐに作れるわけはない。もっと安上がりで効果的な兵器――ワーム・ウェポンである。防衛庁が腕利きのハッカーをひそかに集めて開発したその新種ウイルスは、ハングルを使用しているOSだけを選んで寄生し、増殖する。しかも自分を忠実にコピーするのではなく、絶えず突然変異を起こし、遺伝的アルゴリズムの原理によって、あらゆるウイルス対策ソフトの裏をかくように進化する。ひとたびネットを通してばらまかれれば、半島のパソコンの大半がデータを破壊され、核兵器にも匹敵する荒廃をもたらすだろう……。
抑止力である以上、その存在が相手に知らされなくてはならないのは当然である。しかし、この発表はますますコリアンを激怒させた。「日本はやはり侵略のための兵器を研究していた!」「こちらも報復手段を!」――国会で突き上げを受けたコリア政府は、同様の兵器を開発中であることを認めた。こちらは日本語OSのみを破壊するウイルスである。
このニュースに、今度は日本人が震え上がった。ウイルスはAVPのデータを破壊する可能性もあるからだ。すでに日本国民や日本企業の大半は、手で触れることのできる紙幣を捨て、電子的通貨AVPに切り替えている。もしデータが破壊されれば、日本人は無一文になるかもしれない。二〇一一年のビッグ・クラッシュを上回る被害が予想されるのだ。
三月に入る頃には、いつ戦争が勃発《ぼっぱつ》してもおかしくない状況になっていた。政治情勢が不安になったため、一時は回復しかけていた日本の景気がまた落ちこんだ。売れ行きが伸びたのは、備蓄用食糧、サバイバル用品、ウイルス対策ソフトぐらいのものだ。ジャーナリストの端くれとして、不安におびえる庶民の姿を取材して回りながら、私は絶望的な無力感に苛《さいな》まれていた。
そんな時、私はいきなり加古沢から呼び出された。
三月九日、日曜日の早朝、指定された通りお台場のテレコムセンターの前で待っていると、白い乗用車が目の前に停まった。サングラスをかけた加古沢が顔を覗かせ、手招きする。その口許に浮かんだ微笑に、一瞬、嫌悪を覚えたものの、私は背を向けて立ち去りたい衝動をぐっと抑え、助手席に乗りこんだ。
「何の用なのよ?」
車がスタートするなり、私はぶすっとした口調で質問をぶつけた。電話では彼は用件を話さなかった。あれほど私を避けていた加古沢が、自分の方から接触してくるとは、どういう風の吹き回しなのか? それが知りたくて、呼び出しに応じたのだ。
「ま、そんなに急《せ》くなよ」のんびりと運転しながら、加古沢は言った。「ここじゃ落ち着いて話ができない。人目につかないところに行こう」
「そこで始末する気?」
「まさか」彼は笑った。「知ってるだろ? 俺が体力的にはからっきしダメなタイプだってこと。格闘したら君に負けるよ。それに、なぜ君を殺さなくちゃいけない? そんな必然性なんかないだろ。俺は意味もない殺人なんてしない主義だ」
「だったら――」
「だからもうちょっと待ってくれ。着いたら話すから」
私はしふしぶ口をつぐんだ。
車はしばらく走って、東京湾に面した埋立地の端に到着した。離れたところにいくつか倉庫が建っているだけで、人影はない。殺人には絶好のロケーションだ。私は加古沢の言葉をすっかり信じるほど初心《うぶ》ではなかったので、車から降りる時も、スタンガン内蔵のバッグを油断なく握り締めていた。
前夜の雨は上がっていたが、灰色の薄雲が広がり、はっきりしない天気だった。その空の色を映して、東京湾は単調な色に染まり、ゆるやかにうねっている。風はやや強く、三月だというのにまだ肌寒かった。
「冴《さ》えないかっこしてるなあ」
改めて私のファッションを見て、加古沢はあきれたように言った。すっかり着古したオーバーに、バーゲンで買った安物のジーンズでは、そう言われてもしかたがない。
「おかげさまでね」
私は皮肉をこめて言った。例のスキャンダルのせいで失った信用は、まだ取り戻せていない。頭を下げて回ってどうにか取ってくる仕事は、生きてゆくのにぎりぎりの量だ。葉月が日本を去る際に家も売り払ったので、また安アパートでの赤貧生活に逆戻りしていた。服にかけるる金などありはしない。
「あなたの方はあれからまたずいぶん有名になったわね。今日もこれからイベントでしょ?」
その日は午後から、有明にある東京ビッグサイトで、『日本とアジアの未来を考える』というイベントが開かれることになっており、加古沢もゲストとして名を連ねていた。その関係で、有明に近いこの場所を選んだのだろう。
彼はちょっとだけばつが悪そうな顔をした。「済まないと思ってる――と言っても信じてくれないだろうな?」
「そう思ってるなら、あんなことできるはずがないわね」
「ま、そりゃそうだ」彼はあっけらかんと笑った。「べつに君に謝るために来てもらったわけじゃない――ポケタミは持ってるよな?」
「ええ」
「じゃ、記録してくれ」
「何のために?」
「いちいち訊《き》くか、そんなこと? 加古沢黎、本音の独占インタビューだぜ。ジャーナリストなら断わる手はないと思うがな」
私は不審に思いながらも、言われるままにポケタミを車のボンネットの上に置いた。カメラの位置を調整して、録画ボタンを押す。
「最初に言っておくが」彼は海を背景に、改まった口調で言った。「君がこのインタビューの内容を公表しても、俺は否定する。『悪質な捏造《ねつぞう》だ』ってな。CGを使えば、俺の顔や声を合成するぐらい簡単だ。話の内容自体があまりにもバカバカしいし、だいたい俺が君にインタビューを許可すること自体、あるはずがない。だから君の言い分を信じる人間は誰もいない。君の評判がまた地に落ちるだけだ」
私は彼の考えが分からなくなった。「だったらどうして記録させるの?」
「記録しておく必要があるからさ。自分で言うのもなんだが、俺の考えたことはあまりにも素晴らしすぎて、俺ひとりの胸にしまっておくにはもったいないんだ。何らかの形で後世に残しておく必要があると思った。後世の歴史家がこの記録を見て、『ああ、加古沢黎とはなんとすごい男だ」と感心できるようにね」
「そんなに素晴らしいなら、エッセイにでも書けば?」
「世間には発表できないんだ。今はまだ」
「どうして?」
「理由は種明かしを最後まで聞けば分かる――そうそう、さっきの話だ。俺がなぜ君にあんなことをしたか?」
「振られた恨み?」
彼は微笑んだ。「それもちょっとはある。でも、そんなに激しく恨んじゃいない」
「じゃ、どうして?」
「二年前、君と別れる直前、俺はある偉大なアイデアを思いついていた。同時に、それを記録してくれる人物がいなくてはならないと思った。俺の考えを理解できて、なおかつ誰にも信じられない人物――そう、俺にはカサンドラが必要だった。君はそれに最適の人物だった」
カサンドラはギリシア神話に出てくるトロイアの王女である。太陽神アポロンから予言の能力を授かったものの、アポロンの愛を拒んだため、その予言を誰にも信じてもらえないという呪いをかけられた。彼女は王子パリスがトロイアに破滅をもたらすことを予言した。パリスが美女へレネをギリシアから略奪してきたのが原因でトロイア戦争が勃発すると、ギリシア軍の木馬を城内に入れてはいけないと警告した。それらの予言はどれも信じられず、トロイアは予言通りに滅亡した。
私は呆然《ぼうぜん》となり、すぐには言葉が出てこなかった。
「じゃ……じゃ、このインタビューのために?」
「そういうこと」加古沢は楽しそうにうなずいた。「何もかもすべて、この日のために仕組んだことだ。 <エビケン> の一件をネットに流したことも含めてね――さあ、このインタビューの重要性が少しは分かってもらえたかな?」
不快感と恐怖がじわじわとこみ上げてきた。加古沢の悪魔的な頭脳をこれまで見くびっていた。この時のために――私をカサンドラに仕立て上げるためだけに、あれほど回りくどい手を使ったというのだ。しかもそれは見事に成功している。私はその計算の深さに驚嘆すると同時に、生きた人間をシミュレーション・ゲームのユニットのように扱う冷酷さに戦慄《せんりつ》した。
「……兄の件はどうなの?」
「あれは一石二鳥ってやつだ。君の名声を傷つけると同時に、俺の名声を高めることができた。君のお兄さんのアイデアを検討するうち、俺はこれこそ真実だと思ったんだ。これを世間に広めるべきだと思った。しかし、それは俺のアイデアでなくちゃならなかった。和久良輔なんていう無名の人物のアイデアを拝借しただけじゃ、世間にアピールしない。『仮想天球』はこの俺の、加古沢黎の発想だからこそ、あれだけ受け入れられたんだ。違うか?」
「あなたにはもう名声は充分すぎるほどあったはずよ」
私はそこが納得できなかった。加古沢は名声や地位になど興味を示さない人間だったはずだ。
「小説家としての名声はね。でも、俺に必要だったのは教祖としての名声だ。もちろん『加古沢教』を旗揚げしたりなんかしなかったさ。それこそきな臭く思われるからな。しかし、大勢の人間を操るには、やはり宗教の力が一番だ。
前に言わなかったっけ? 日本には新しい宗教ミームが根づきやすい土壌があった。俺はそこにつけこめると思った。ただでさえクラッシュの直後で、日本人がみんな何かにすがりつきたい心境だった。そこに新しい宗教観を示してやれば、みんな喜んで食らいついてくると思った。日本を操る巨大宗教の教祖になれるんじゃないかと――実際、そうなったけどね。
いや、俺の予想以上だった。『神の顔』の出現には俺も驚いたよ。もしかしたら神は本当に俺の小説に反応したのかもしれない。『加古沢黎よ、お前の考えは正しいぞ』と暗示してくれたのかもしれない。もちろん偶然の一致という可能性もある。まさに神のみぞ知るってやつだな。どっちにしても、俺にとっては千載一遇のチャンスだった。そう、こんなものすごいチャンスなんて、生涯に二度とない! たとえ偶然だとしても、この偶然を最大限に利用しない手はない。そうじゃないか?」
興奮してきたのか、彼の身振りはだんだんオーバーになってきた。
「本当は『仮想天球』が浸透するのに、もっと何年もかかると思ってた。その場合、このインタビューも来年か再来年あたりになってただろうな。でも、『神の顔』の助けがあったおかげで、予想よりもずっと早く目的が達成できそうだ」
「あなたは教祖様になりたかったの?」
私は落胆した。だとしたら、なんと下世話な欲望であることか。
「違う違う」彼は笑ってかぶりを振った。「教祖としての名声が『必要』だと言ったんだ。あくまで本当の目的を達成するための手段さ」
「じゃ、目的って何?」
「だから急かすなって。ミステリでも、種明かしはもったいぶってやるもんだぜ」
「これは小説じゃないのよ」私は苛立《いらだ》った。「芝居がかったお喋《しゃべ》りなんて、もうたくさん」
「そう言うなよ。この瞬間を二年間も頭の中でシミュレートしてきたんだ。もうちょっとだけ回り道させてくれ」
加古沢はそう言うと、言葉を切り、海の方に顔を向けた。
「……海にはちょっとだけ味な思い出がある」彼は唇の′端を歪《ゆが》めた。「いつか君は自分の過去を話してくれたよな。あの時の俺の心境、分かるか?」
「いいえ」
「うらやましかった」
私は驚いた。「うらやましい?」
「そうだ。俺は小説の中でキャラクターにいろんなトラウマを背負わせている。親を殺されたとか、故郷を失ったとか、恋人を犯されたとか……でも、俺自身にはそんな体験はひとつもない。みんな小説で読んだり映画で観たりしただけのバーチャルな体験だ。それを自分の小説の中に投影してるだけなんだ。本物じゃない――だからいつも劣等感を覚えてた。君みたいに本物のトラウマを背負った人間が、ひどくうらやましかった」
私は怒りを爆発させそうになった。小説家として彼を尊敬していたことを恥じた。両親を失った悲劇をうらやましいだなんて!
「おっと」私の感情が顔に出たのだろう、加古沢は慌てて両手を上げた。「不謹慎なのは承知してる。だからあの時もそう言わなかった。でも、今は違う。俺の心の内を何もかも説明しておきたいんだ。君にとって不愉快なことも含めて」
「……いいわ」私はどうにか怒りを呑みこんだ。「続けて」
「実を言えば、俺にも子供時代のトラウマがないことはない。でも、それはひどくしょうもないトラウマ――小説のネタにもならないし、誰に話しても笑われるような代物なんだ。だからこれまで誰にも話さなかった。でも、それは俺の一生を決めた出来事なんだ。
小学生の頃、親父はよく俺を釣りに誘った。俺は休日にはネットで検索したり、図書館で本を読むのが好きだったのに、『本ばかり読んでるとバカになる』とか、わけの分からないことを言いやがってな。親父は俺と違って凡人だった。鳶《とび》が鷹《たか》を生むってやつだ。息子の才能をぜんぜん理解してなかった。紅葉書房の新人賞を取るまでは。
しかたなく何度か釣りにつき合ってやったけど、退屈な遊びだったよ。あんなのに熱中する大人の気が知れなかった。テレビゲームの方がよっぽど頭を使うし、エキサイティングだ。おまけに親父は本を持って行くことを許してくれなかった。ぼうっと糸を垂れてる間、これだけの時間に本を何冊読めるか、そればっかり考えてた。
何度も車で海に出かけたんだが、そのうち些細《ささい》なことが気になってきた。家から海に出る道が遠回りのような気がしたんだ。地図を出して、道に物差しを当てて測ってみたら、その通りだった。五〇〇メートルほど近道できる道があったんだ。俺は親父に教えた。喜んでもらえると思ったんだ。
ところが親父は喜ばなかった。『こっちの方が近道だよ。時間もガソリンも節約できるよ』っていくら言っても、頑として、通い慣れたいつもの道を走り続けた。なぜ近道しないのか、俺にはさっぱり分からなかった。親父は理由を説明しようとしないんだ。俺があまりにしつこく言うもんで、とうとう『生意気なことを言うんじゃない』って怒鳴られた。俺は悔しくて泣いた。その次の年、親父はカーナビを装備した新車に買い換えた。カーナビは俺が示した通りの道順を表示した。親父は不機嫌そうにスイッチを切って、二度と使わなかった……」
彼はそこで、大きなため息をついた。
「そう、親父に理由なんかなかった。単にこれまで十何年もずっと使ってた道だから――ただそれだけだったんだ。
俺はその時に知った。人間というのはみんな親父みたいなものだ。本当に独創的な人間なんて数少ない。大多数の人間は、ロボットみたいに定められたプログラム通りに行動してるだけで、そのプログラムからはみ出そうとは思わない。昼飯は同じ店で食い、みんなが夢中になるアイドルに夢中になり、毎週同じ番組を見る。決められたレールの上を進んでるだけで満足して、他にもっと楽な道があっても、そっちに進んでみようとは思わない。だから独創的な人間が何をしでかすか、予想もできない……」
私は黙って聞いていた。加古沢の話がどこにたどり着くのか、さっぱり分からない。
「独創性ったって、たいしたことじゃないんだ。凡人が考えようとしない可能性を考えてみるだけでいい。二〇〇一年の世界貿易センターの事件なんて、そのいい例だな。誰もナイフ一本であれだけの破壊が惹《ひ》き起こせるなんて思いもしなかった。でも、考えてみれば実に単純な手段――誰でも思いつけるはずの手段だった。誰も考えようとしなかっただけだ。
そう、人間はみんなボンクラだ。目の前に簡単な手段があっても、気がつきもしない。独創性のある奴が実行に移して初めて『ああ、そんな手があったか』と驚くんだ。俺は親父みたいな人間には断じてなりたくなかった。驚かされる側じゃなく驚かす側に――コマに使われる側じゃなく、使う側に回りたかった」
「ヒトラーにでもなる気?」
私が揶揄《やゆ》すると、彼は「ヒトラーだって!?」と噴き出した。
「あきれたね、君までそんなことを言うとは! 俺はアニメなんかでヒトラーをイメージした悪役が出てくるたびに不満に思うんだ。どうしていつもヒトラーなんだ? まるでヒトラーが史上最悪の悪人みたいじゃないか。冗談じゃない! ちょっと独創性を発揮すれば、ヒトラー以上の悪人にだってなれるはずだ」
私は不快感とともに、悪い予感を覚えた。
「どういう風に?」
「たとえば部下の存在だ。ヒトラーにしても麻原彰晃にしてもビンラーディンにしても、大勢の部下がいた。何百万人殺したといっても、ヒトラーだけの働きじゃない。ヒトラー自身はひとりのユダヤ人も殺してない。みんな彼の部下がやったことだ。
だったらひとりの部下もなしで、どれだけのことができるだろう? 俺はそれに挑戦してみた。もちろん俺には大勢の支持者がいるが、そいつらの手は一切借りなかった。意図を誰かに話したこともない。君が初めてだ。もし誰かに喋ったら、俺の意図は台無しになるからな。だから俺はみんなひとりでやった。いや、けっこう面白かったね! 人間ってのはほんとにボンクラなんだ。ミステリに出てくる名探偵みたいに鋭い観察力を持った奴なんて、現実にはまずいない。どっちかと言えば、スーパーマンとクラーク・ケントが同一人物だと気づかないロイス・レーンみたいな連中の方が大多数だ。
そう、俺もクラーク・ケントみたいに、眼鏡がトレードマークだ。みんなは俺の顔を知ってると思ってるが、実は眼鏡を目印にして認識してる。眼鏡をコンタクトに替えて、髪をぼさぼさにして、頬に綿を含んで、服の下に重ね着して体形も変える――もうそれだけで、映画館ですぐ隣の席に座っても、俺を加古沢黎だと認識できなくなる……」
その意味を理解して、私は衝撃を受けた。
「あなたがやったのね……」
信じられない話――いや、加古沢が言えば信じられる。彼はあらゆるモラルを超越し、どんな不可能でも可能にする才能を持つ男なのだ。
「そうだ」彼はあっさりと、微笑みさえ浮かべながら言った。「四件ともね」
「どうして……?」
「簡単だったよ。『犯人は高度な専門的知識の持ち主だ』とかほざく軍事評論家とやらのコメントを読むのは面白かったな。俺には高度な知識なんてない。ずっと前、海外のアングラ系サイトで、時限発火装置や毒ガス発生装置の作り方が紹介してあった。何かの役に立つかもしれないと思って、そういうページを保存しておいただけさ。あとは材料と、プラモデルを組み立てられるぐらいの手先の器用さがあれば――」
「『どうやって』なんて訊いてない!」私は声を荒げた。「『どうして』って言ってるのよ!」
「コリアとの間に戦争を起こすためさ」加古沢はゲームの攻略法でも話しているかのような口調で言った。「確かに反日は高まってたが、まだ戦争に発展するほどじゃなかった。あとひと押しをくれてやる必要があった……」
「だからどうして!? 戦争になんかなっても、何の利益もないのに!」
「日本人にはないだろうな。もちろんコリアンにも――しかし、俺には得るものがある」
「名声? 権力?」
「そんなくだらないもの!」彼は嘲笑《あざわら》った。「俺の目的はもっと崇高なものだ」
「何なの?」
「知りたいか?」
加古沢は近づいてきた。私は思わず後ずさりしようとしたが、車にぶつかってしまった。彼は身動きできない私に触れそうなまでに顔を近づけると、にまりと笑い、小声で得意げにささやいた――きっとこの瞬間が待ち遠しかったに違いない。
「……永遠の生命だ」
「ふざけないで」私の声はかすれていた。
「ふざけてなんかいない」彼はぞっとするような笑みを浮かべていた。「言っただろう? 俺は君の兄さんのアイデアを基に、まったく新しい宗教を創始した。今のところ信者は俺ひとりだ。俺は俺の考えた教義に従って行動してる」
「教義?」
「神がこの『現実』と呼ばれるバーチャル・リアリティを創造したのはなぜか?」彼は私から身を離すと、大きく腕を広げ、天を仰いでポーズを取った。「人間に興味を持ってるからさ。俺たちが『ダーウィンズ・ガーデン』を眺めて楽しむように、神も俺たちを見下ろして楽しんでるに違いない。だとすれば、俺たちがお気に入りのアーフをセーブしておくように、神もお気に入りの人間を必ずセーブするはずだ。この肉体が滅びても、データは残る。神がデータをロードしてくれれば、復活して新しい生を満喫できるわけだ」
彼は腕を下ろした。私に向き直り、人差し指を立てる。
「……さて、ここで問題だ。神に気に入られるのは、いったいどういう人間だ?」
「それは……」私はおずおずと言った。「清く正しい生き方をした……」
「アホらしい!」彼は笑って一蹴《いっしゅう》した。「それは俺が『仮想天球』で書いたことじゃないか! いいか、小説ってのは嘘なんだ。読者が気に入ってくれる結末を書くからヒットする。『清く正しい人間は死んでから天国に行ける』と書けば、ボンクラな読者どもはみんな感激する。そう計算して、俺はあえて信じてもいないことを書いた。本当の考えは違う」
私は反論できなかった。
そうだ、神は善に報いたりはしない。悪を罰したりもしない。それは私自身が痛いほど思い知っていることだ……。
「神に選ばれるのはユニークな人間だ」彼は自信たっぷりに言った。「自分がアーフをセーブする基準を考えれば、すぐに分かることさ。変わったアーフ、強いアーフ、特殊な能力を持ったアーフが気に入られるんだ。何の才能もなく、清く正しくつつましやかな一生を過ごしただけの人間なんて、何が面白いものか! そんなありきたりの連中はセーブに値しない。ボンクラどもはそれを思いつけないだけさ。
そう、イエス・キリストはまず間違いなくセーブされて、天国にいるだろうな。ムハンマドや仏陀《ぶっだ》もいるだろう。マザー・テレサやナイチンゲールはどうかな? 微妙なラインだが、俺なら選ばないな。アレキサンダーやチンギス・ハーンやヒトラーも、間違いなくいるだろう。スターリンあたりもいるかもしれないが、ケネディはどうだろうな。他に俺がセーブするとしたら、ラムセス二世、秦の始皇帝、シーザー、ジル・ド・レー、マシュー・ホプキンス、コルテス、イディ・アミン、ジム・ジョーンズ……」
彼は指を折って、お気に入りの人物を数え上げていった。
「分かるだろ? 神にとって善だの悪だのは関係ないんだ。ユニークであること、目立つことが第一条件だ。セーブされるためには、ヒトラーを上回ることをやってみせなくちゃいけない。俺はそれをやってのけた。この若さで日本一の有名人であるうえに、日本人全員を見事に騙《だま》し、たったひとりで戦争を起こした男! 神の意図を正しく見抜き、それに応《こた》えるために行動した、歴史上最初の男! これでセーブされなきゃ嘘ってもんだ」
私の胸の中で、最初の恐怖と衝撃がしだいに冷め、代わりに冷たい怒りが浮上してきた。
「それだけのために、大勢の人を殺したっていうの?」
「どうせ死んでもセーブもされないボンクラどもさ。前に言わなかったっけ? 俺は目的のない無差別殺人ってやつは大嫌いだ。地下鉄サリン事件なんてのは最低だよな。大勢の人間を殺すなら、それに見合う目的があるべきじゃないか?」
「……あなたの読者がそれを聞いたらどう思うかしら?」
「だから言っただろう、君の言葉なんて信用されないって」
「信じてくれる人はきっといるわ」私は強がりを言った。「八つ裂きにされるわよ」
「だとしても後悔しないね。もう死なんて怖くない。日本とコリアが戦争に突入するのは決定的だ。俺はすでに神にセーブされる条件を満たしたと確信してる。そう、永遠の生命を手にしたんだ! たとえ八つ裂きにされたって、神は天国に迎え入れてくださるさ。イエス・キリストやヒトラーやシーザーといっしょに、あの世で永遠に生きられるんだ!」
加古沢の高らかな勝利宣言が、三月の寒風の中に響き渡った。
それからしばらく、ポケタミにはマイクが拾った風の音だけが録音されている。
冷たい怒りもすぐに去り、激しい悔しさと空しさが襲ってきた。確かに加古沢の言う通りだ。この記録を警察に提出したって、信じてくれるとは思えない。頭のいい彼のことだから、爆弾にはひとつの指紋も残さなかっただろうし、材料の購入ルートをたどられるようなへマもしなかっただろう。すでに証拠はすべて隠滅されているに違いない。それを確信しているからこそ、私にすべてを打ち明けたのだろう。
私がここで彼を殺すというのはどうか? そうしたい気は充分にあった。スタンガンで自由を奪い、そこらに落ちている石で頭を砕けばいいだけのことだ。しかし、彼は死後の世界を確信している。たとえ私の手にかかっても、勝利の感慨とともに、笑みすら浮かべながら死んでゆくだろう――いや、だめだ。そんな幸福な死に方なんて、断じてさせない。
私は悪に対して報復できない悔しさに震え、この世の空しさに胸を苛まれた。それでも、たったひとつ、ささやかな救いがあった。
加古沢は重大な間違いを犯しているということだ。
「……あなたが嘘をついてる証拠を見つけたわ」
私の口調は自分でも意外なほど平静だった。加古沢は「ほう?」と、興味深そうに目を輝かせた。
「あなたは『仮想天球』のアイデアを『マインズ・アイ』から得たと言った。でも、『マインズ・アイ』にはサールの論文も載ってるのよ。あなたは三年前の九月に兄と話した時、明らかにサールのことを知らなかった。あの時の会話はポケタミに残ってるわ。だから兄と会う前に『マインズ・アイ』を読んでいたなんて嘘。本当は兄の話を聞いてから興味を持って、あの本を読んだに違いないのよ」
「なんだ、そんなことか!」彼は笑い飛ばした。「俺だって完璧《かんぺき》な記憶力を持ってるわけじゃない。読んだ本の内容をド忘れすることぐらいあるさ」
「ええ、そうでしょうね。でも、問題はそんなことじゃないの。今のあなたは『中国語の部屋』や『サールの悪魔』について知ってるはずだってことなのよ。だから、これから私が話すことも理解できるはず……」
加古沢は怪訝《けげん》な顔をした。私が何を言い出す気なのか分からないのだ。今や攻守は運転した。私はちょっといい気分だった。
「兄は一昨年の暮れに失踪《しっそう》したわ」
「ああ、そんな噂、耳にしたな。ネットでいじめられて、ストレスに耐えきれなくなったんだって?」
「そうじゃない。兄は真実を知ったのよ。神の本当の意図を。それに耐えられなかったの」
加古沢の表情に不安がよぎった。「本当の意図?」
「そう、あなたが今言ったことは真実じゃない。見当違いもいいとこなのよ」
「そんなこと、どうやって知ったんだ?」
「スーパーコンピュータでシミュレーションをやったの。詳しい方法は私も知らない。でも、兄は間違いなく証明したのよ。神が何のためにこの世界を創造したのか。人間は何のために存在しているのか?」
真相をぶちまける時だ。私はさっき加古沢がやったよぅに、彼に顔を近づけた。私の気迫に押されたのか、彼は後ろによろめいた。
「私たちはサールの悪魔なの」
私はサディスティックな快感とともに、冷たくささやいた。
「あなたも私も、みんなサールの悪魔なのよ――この意味、分かる?」
加古沢は聡明《そうめい》だった。たったそれだけのヒントで、私の言いたいことを理解したらしい。その顔にしだいに恐怖の色が広がってゆく。
「そんな……そんなことはない」
「どうしてそう言えるの?」
「そんなのはただの仮説にすぎないじゃないか!」彼は明らかに狼狽《ろうばい》していた。「証明されていない!」
「いいえ、兄は証明されてもいないことを信じる人間じゃない。確かに実験によって証明したのよ。それに現実に起きていることに合ってる。神が起こす超常現象の意味が、人間に理解できない理由も説明できる? それに比べて、あなたの『新しい宗教』とやらはどう? それこそただの憶測、何の証拠もないじゃない」
「俺は……」彼はかぶりを振った。「……そんなこと信じないぞ」
「信じたくないのね」その瞬間、私は彼に憐《あわ》れみさえ覚えた。「死が恐ろしいんでしょ? 自分がちっぽけな存在で、死ねば無に還るのが恐ろしい。だから真実を認めたくないのね。それで『新しい宗教』に救いを求めたんでしょ? おあいにくさま。たとえどんなに恐ろしくても、これが真実なのよ……」
加古沢は呆然と立ちすくんでいる。喋っているうち、いったんは消えかけた怒りがむらむらと燃え上がってきた。そうだ、憐れみなんかかけることはない。この男のために一九人が殺された。戦争になればもっと多くの人が死ぬだろう――神の意図を見抜いたと思い上がった、この世で最も愚かな男のために。
私は彼を殴った。顔のど真ん中めがけ、拳《こぶし》が痛むほどの強さで、力いっぱいに殴った。彼はぶざまにひっくり返った。眼鏡にひびが入っていた。
「神はあなたを救ったりなんかしない!」
私は加古沢を見下ろし、声がかすれるほど激しく怒鳴りつけた。
「歴史家があなたのことを感心したりもしない! あなたは天才なんかじゃない! 救いようのない大バカ野郎よ! 『死んでもセーブもされないボンクラ』のひとりなのよ!」
彼は鼻血を垂らしながら、ぽかんと私を見上げていた。何年も信じ続け、信念をもって行動してきたことのすべてが否定されたのだ。ショックは大きいだろう。
言うだけのことを言うと、私はボンネットの上に置いていたポケタミをひったくり、その場を早足で立ち去った。とどまっていたらさらに怒りが燃え上がり、本当に殺してしまうかもしれない。自分がそんな愚を犯すことは避けたかった。
あいつは殺すにも値しない男だ。
その日の正午、私は東京ビッグサイトの前にいた。ぐずついていた天気は回復し、抜けるような青空が広がっていた。
イベントは大変な人気だった。開場前だというのに、何千人もの人間が並んでいる。ビッグサイト前のエントランスプラザには入りきれず、入場者の一部は東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の軌道の向こう側、イーストプロムナードにまで列を作っていた。特徴的な逆三角形の会議棟では、七階の一〇〇〇人収容できる大会議場と、六階の四つの会議室を同時に使い、政治・軍事・経済・歴史などの各分野の専門家によるシンポジウムやパネルディスカッションが並行して行なわれる予定だった。西棟では防衛庁主催による『日本の国防最新技術』と題した展示も行なわれる。もちろん入場者のお目当ては加古沢で、一時から一階のレセプションホールでの講演がプログラムに入っていた。
私は入場する気はなかった。テロを懸念して警備がきびしく、おそらく反加古沢派のブラックリストに載っている私は入れてもらえないだろう。その代わり、ポケタミを片手に、会場前にいる人々にインタビューして回った。戦争は起きると思いますか? 戦争を望みますか? また生活が破壊されるかもしれないことをどう思いますか?
空しい質問だった。回答は決まっている。よほどの狂信者か愚か者でないかぎり、本気で戦争を望む者などいるはずがない。本音を言えば、誰でも死ぬのは嫌だし、財産を失うのも嫌だ。他の国とも協調し、平和で豊かに暮らしていきたい。その願いは日本人もコリアンも同じはずだ。にもかかわらず、国民の総意で動くはずの国家は、ひとりひとりの願いを踏みにじり、戦争への道を着実に歩み続けている――どうして?
なぜなら、国家や大衆というシステムは、個人とは異なる意志を持っているから。
加古沢はどうする気だろう、と私は思った。彼は愚かではあるが、自分の盲信にしがみついていられるほど愚かでもないはずだ。私の言葉が真実だと悟ったことだろう。かと言って、自分のしでかしたことを悔い、国民の前で謝罪するとも思えない。そんなのは彼らしくない。今日の講演では、なおも日本を戦争に駆りたてようと、お得意の弁舌をふるうのだろうか。しかし、そんなことをしても永遠の生命など手に入らないということを、もう知っているはずだ。なら、いったい何を喋る気なのか……?
それを知る機会は永遠に失われた。
最初に「どーん」という大きな水音がした時、私はエントランスプラザの西の隅、ゆりかもめ国際展示場正門駅との連絡通路の近くにいた。驚いて振り返ると、ビッグサイトの西側、水上バスのターミナルの近くで、魚雷が命中したかのような白い水柱が上がっているのが見えた。
最初はまたテロかと思った。続いて視界の右手にある町りかもめの駅の屋根で、何かがぱっと炸裂《さくれつ》し、〇・五秒ほど遅れて轟音《ごうおん》が響いた。飛び散った破片は透明で、陽光を浴びてきらきらと輝いていた。
私ははっとして空を見上げた。青空を背景に、水晶のようにきらめく多面体が何十個も浮かんでいるのが見えた――浮かんでいる? いや違う、落ちてくる!
多面体のひとつが急速に大きさを増し、私から二〇メートルほどしか離れていない場所に落下した。小型自動車はどもある、透明で幾何学的な形状の物体だった。その地点には人がひしめいていた。激突の瞬間は人垣にさえぎられて見えなかったものの、衝撃で砕けた破片が人々の頭を越え、ひとつが私の方まで飛んできた。目の前に落下した破片は、バスケットボールほどの大きさがあり、ガラスのように透き通っていた。
氷だ。
破片は落下しても勢いが弱まらず、敷石の上をスピンしながら滑ってきた。私が慌てて飛びのくと、水の跡を一直線に残して通り過ぎた。跡には赤いものがひとすじ混じっていた。
その時になって、ようやく周囲で悲鳴が上がりはじめた。今や氷塊はそこらじゅうに落下していた。建物の屋根に、道路に、芝生に、人の頭の上に――爆発音にも似た轟音が立て続けに響く。氷はどれも直径数メートルはあり、驚くほど透明度が高かった。水上バス乗り場との連絡通路に落下した一個は、通路の屋根を粉砕し、一瞬で数人を押し潰《つぶ》した。
エントランスプラザにいた数千人の群集は、たちまちパニックに陥った。避難場所を求めて、どっとビッグサイトの方に走り出す。それについて行こうとして、寸前で思いとどまった。私は焦点なのだ。氷は私を中心に降っているはずだ。人々についていったら、かえって被害を大きくするかもしれない。私はとっさに反対方向に走り、ゆりかもめの連絡通路にある屋根の下に駆けこんだ。薄い屋根が何十トンもある氷の衝撃に耐えられないのは今見たが、それでも無いよりはましだ。
振り返ると、群集はすでにエントランスプラザの南半分に集まり、ビッグサイトの逆三角形の屋根の下に押しかけていた。しかし、全員が即座に屋根の下に入れるはずはなく、はみ出した人々が、叫び、泣き、怒鳴り散らしながら、建物の中に入ろうと激しくひしめき合っている。空っぽになったエントランスプラザの北半分には、何十体もの死体と氷の破片、逃げ出した人々が落とした荷物が散乱しており、そこへさらに氷塊が落下し続けていた。
ビッグサイトの屋根の角に、ひときわ大きな氷が激突して砕け散るのが見えた。虹《にじ》色にきらめく無数の破片がくるくると回転しながら、スローモーションのように群集に降り注ぐ。美しくも恐ろしい光景に、私は戦慄《せんりつ》した。何百に砕けても、破片のひとつひとつはレンガほどの大きさがあり、頭蓋骨を砕くのに充分な威力があるはずだ。
私は目をそむけ、連絡通路を駅の方へ走り出した。次の瞬間、すぐ後ろで大音響がして、通路が激しく揺れた。転倒した私の背後から、氷のつぶてがばらばらと飛んでくる。氷塊が屋根を貫通したのだろうが、振り向いて確認している余裕はない。立ち上がってまた走り出す。あたりには音が満ちていた。氷が砕ける音、悲鳴、クラクション、子供の泣き声、山が崩れる音、私を非難する声――後になって思い出してみても、どれが実際に聞いたことで、どれが錯乱した心が生み出した幻聴なのか、はっきりしない。
「やめて!」走りながら耳を押さえ、絶叫した。「こんなの、もうやめて!!」
やめるわけがない。神には私の声など届いていない。神は自分が何をしているのかすら理解していない。
あと少しで駅にたどり着くという時、数メートル先の屋根が崩れた。私はとっさに通路に突っ伏した。鼓膜が破れそうな轟音が響き、連絡通路が腹の下で吊《つ》り橋のように揺れる。氷の破片と屋根の破片が周囲に雨あられと降り注いだ。肩に激痛が走る。私は胎児のように身体を丸め、頭をかばい、爆撃が過ぎ去るのをただひたすら待った。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
すさまじい轟音の中、どこかで少女が泣き叫んでいた。あの二一年前の夜のように――いや、私が叫んでいたのかもしれない。あるいは誰も叫んでいなかったのかも。
数十秒後、急に静かになった。
私は背中にかかった氷つぶてを払い落とし、ゆっくりと起き上がった。背後のビッグサイトの方からは、すすり泣きの合唱が聞こえてくる。気がゆるんだせいもあり、私はよろめいた。大きめの破片の直撃を受けたらしく、肩がずきずきと痛む。突っ伏した際に膝《ひざ》もすりむいていた。しかし、死ななかったのは奇跡と言える。
奇跡。
私は苦笑した。そんなものは存在しない。私が生き残ったのはただの偶然だ。確率が味方してくれただけだ。
神は私が生きようが死のうがどうでもいいのだ。私はサールの悪魔なのだから。
私は目の前の通路をふさいでいる氷の壁に目をやった。他のものよりひと回り大きい、小さな家ほどもある氷塊で、通路の屋根を完全に押し潰していた。下半分は砕けていたが、それが衝撃を吸収したらしく、上半分は蜘蛛《くも》の巣のようにひび割れているものの原形をとどめていた。北極の氷山のような形をしており、超純水を凍らせたような驚くべき透明度だ。おそらく水以外の分子は含まれていないのだろう。
その中に顔があった。
最初、私はそれを顔だと認識できなかった。大きく傾いていたうえ、直径が二メートルはあったからだ。ひび割れで分断された面の向こうに、何かピンク色をしたものがあるとは思ったものの、即座に正体が分からなかった。しかし、氷の層の下からこちらを見つめている巨大な眼に気づくと、だまし絵のようにその全体像が浮かび上がってきた。黒い髪をした、人間の一〇倍はあると思われる女の生首が、氷塊の中に封じこめられ、私に笑いかけていた。
それは私の顔だった。
私はその場にへたりこんだ。膝を抱え、くすくすと笑いだす。笑いながらすすり泣いた。しかし心の中は空っぽで、そんな反応を示している自分を他人のように見下ろしていた。自分を分離することで、心の核がショックで破壊されるのを防いだのだ。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ……平気よ、こんなの」
私は感情のこもっていない声で、狂気に蝕《むしば》まれかけている自分に言い聞かせた。
「こんなの……どうってことない……子供の頃と同じじゃないの……」
惨劇の犠牲者は一九八人の中には、加古沢黎も含まれていた。
異変が起きた時刻、彼はちょうどスタッフに案内され、レセプションホールに向かっていた。エントランスプラザに面した二階の正面入口近くを通りかかった時、騒ぎに気づき、好奇心から入口に近づいたらしい。その瞬間、パニックに陥った数千人の人々が館内になだれこんできた。彼は暴走する群集の波に巻きこまれ、そのまま奥まで押し流されて、エスカレーターから転落、他の一五人の犠牲者とともに圧死したのだ。
神の罰? いや、断じてそんなことはない。罰を与えるなら、加古沢の頭上から一個だけ氷塊を落下させればよかったはずだ。罪もない人を一九七人も巻き添えにする理由などない。私が幸運によって生き残ったのと同様彼は不運だったために死んだ。それだけだ。
神は加古沢黎いう人間の存在すら知らなかったはずだ。
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26+私は信じる
二〇一六年二月、私はオーストラリアを訪れた。
できればもっと早く来たかった。しかし、いろいろな事情が重なり、二年もかかってしまったのだ。第一に、海外に出かける金がなかった。第二に、日本がひどい状況で、旅行どころではなかった。第三に、私は一年半も投獄されていた。
あの事件の後、私はさんざん悩んだ末、サールの悪魔について喋《しゃべ》った後の方の部分をカットしたうえで、加古沢の最後の映像をネットに流すことにした。彼の真意を一人でも多くの日本人に知らせることで、世論を変え、戦争を回避できるかもしれない――そのわずかな可能性に賭《か》けたのだ。
無理とは分かっていた。しかし、何もしないで大勢の人が死ぬのを座視することは、私にはできなかった。
当然のことながら、私の流した映像はコリアでは反響を巻き起こしたものの、日本では悪質な偽造とみなされた。日本人のほとんどは私を無視し、嘲笑《ちょうしょう》し、あるいは罵《ののし》った。私はコリアに魂を売った活動家とみなされ、その年の三月に制定されたばかりの反国家宣伝法の逮捕者第一号という栄誉を得ることになった。
戦争は阻止できなかった。
二〇一四年五月一日に勃発《ぼっぱつ》した日朝戦争は、史上最初のサイバー・ウォー――一人の兵士も相手国の土を踏むことなく、もっぱらネット上で展開された戦争であった。開戦のきっかけは情報が錯綜《さくそう》していてよく分からないが、最初に日本のクラッカーがコリアの原子力発電施設のコンピュータに攻撃をしかけ、それを日本の先制攻撃と誤解したコリア側が反撃を開始した、という説が主流である。
対馬《つしま》海峡で行なわれたごく小規模な海戦が、実際に行なわれた戦闘のすべてだった。コリア海軍のフリゲート艦二隻が海上自衛隊の潜水艦に沈められ、その潜水艦はコリア海軍の哨戒機《しょうかいき》から投下された対潜魚雷に沈められた。戦死者は両軍合わせて一八八名。どちらの国の領土にも、ついに一発の爆弾も投下されることはなかった。
コリアの軍関係者はサイバー・ウォーを前哨《ぜんしょう》戦――上陸作戦を遂行する前に日本の情報網を撹乱《かくらん》するだけの、小規模な破壊工作と考えていた。しかし、いざ幕を開けてみると、サイバー・ウォーは核爆弾にも匹敵する破壊を両国にもたらした。どちらの国も、相手の政府機関や軍関係施設に対するクラッキングを仕掛ける一方、ワーム・ウェポンをばらまいた。増殖したワームによって、膨大な量のジャンク・データが大容量回線を埋め尽くし、何万というサーバがダウンし、ネットの機能が一時的に麻痺《まひ》した。すでに生活の大部分をコンピュータとネットに頼っていた社会にとって、影響は致命的なものだった。システムが破壊されたり、大量のデータが消失したり書き換えられたりしたため、政治・経済・流通・医療など、あらゆる分野が大混乱に陥った。
日本各地で四基の原発が制御システムにクラッキングを受けて緊急停止を余儀なくされ、大規模な停電が起きた。それでも重大事故に発展しなかったのは幸運と言える。全国で二〇〇以上の化学工場でシステムが暴走し、爆発や有害物質の漏出事故を起こしたのだから。病院では医療機器が故障したり、データが消失したりしたため、数百人の生命が失われた。IP電話が不通になり、情報網は寸断された。新幹線は停止し、旅客機は飛び立てなくなった。東京では信号機が消え、首都交通は麻痺した。もっと深刻なのはAVPデータの被害である。九〇パーセント以上のAVPはバックアップやアンチウイルスソフトのおかげで守られたが、それでも五〇〇万人以上の日本人が財産を失った。
コリアの被害も同じようなものだった。開戦からわずか五日で、どちらの国の指導者もあまりの惨状に呆然《ぼうぜん》となり、戦闘を続行する意欲を喪失していた。タイミングよく国連が仲介に入ってきて、両国はしぶしぶ休戦条約を締結した。
それでも遅すぎた。二〇一一年のクラッシュを上回る経済的混乱の余波によって、その後一年間に、日本ではさらに四〇万人もの自殺者が出たのだ。一時は減少していた犯罪も、貧困が深刻化したために再び急増した。
自殺者急増の背景には「神の顔」の影響もあった。荒廃した世相に便乗して、死後の世界の素晴らしさをアピールする宗教団体が、いくつも同時多発的に現われたのだ。そうした団体は「善人はどのような死に方をしても救われる」と説き、積極的に自殺を肯定した。財産を失い、生きることに絶望した人々に、その言葉は甘く響いた。何十人、何百人という単位での集団自殺のニュースが世間を騒がせると、それに影響されて、さらに多くの人が生命を絶った――あるはずのない来世を信じて。
二〇一五年の暮れに出所した頃には、私のことを信じてくれる人が増えていた。警察による隠蔽《いんペい》工作が発覚したこともある。私が逮捕された直後、加古沢のマンションが調べられ、床の隙間から事件に使われたのと同じ火薬の粉末がごく微量だが回収されていたのだ。日本にとって都合の悪いその事実は、一年以上も闇に葬られていた。
しかし、人々が私を信じた理由はもっと別のところにあると思う。日本の荒廃を見るにつれ、この国がこんな方向に進んでしまった原因に、みんな疑問を抱くようになってきたのだ。誰もが新たなスケープゴートを必要としていた。こんなことになってしまったのは自分のせいじゃない。誰かが悪いに違いない――みんなそう信じたがったのだ。
すべての罪を押しつけるのに、加古沢以上に適した人物などいるはずがない。それで私の公表した告白の内容も信じられるようになっていったのだ。死んでからほんの一年と少しで、加古沢の権威は失墜し、あれほど熱狂的だった崇拝は影をひそめ、冷淡な批判と熱い憎悪に取って代わられた。
そう、みんなは真実だから信じたわけではない。信じたかったから信じただけなのだ。
戦争による被害はコリアもひどいもので、すさまじいインフレに苦しめられ、国内は荒れに荒れていた。この機に乗じて中国が国境線を越えてくるのではないかと懸念する声もあった。幸い、と言うべきか、中国にはそんな余裕はなかった。光亀団をはじめとする反政府運動の嵐が全土に吹き荒れていて、それを抑えるのにおおわらわだったのだ。二〇一五年の春、中国はついに崩壊し、五つの国に分裂した。
それよりも少し前に、アメリカも分裂していた。狂信的な聖書根本主義を唱え、進化論教育を否定する南部諸州と、あくまで科学的に神の存在を受け入れようとする北部勢力の対立が、ついに限界を超えたのだ。アラバマ、ジョージア、ルイジアナなどの一七の州が合衆国からの独立を宣言、南部連合を形成した。
イスラエルはあっさり消滅した。イスラム諸国連合の電撃的な進攻作戦により、首都エルサレムは一か月で陥落した。いつもなら支援してくれるアメリカが、分裂騒ぎで動きようがなかったからだ。六〇〇万人のユダヤ人は故国を追われ、再び流浪の民となった。
その他にも、世界各地でテロや局地紛争が激化していた。人々は言葉で、武器で、あるいはワーム・ウェポンで戦った。古い国が潰《つぶ》れ、新しい国が次々に生まれた。争いに追われ、故郷を焼かれ、難民が何百万という単位で移動した。
世界は今や史上最大の激動期に突入していた。
もっとも、すべての国が混乱していたわけではない。
カナダや西ヨーロッパは比較的平穏だったし、南半球の国の多くも動乱に巻きこまれていなかった。逆にフィジー、キリバス、ツバルなどのオセアニアの小国は、空前の好景気を迎えていた。生き残ろうとあせる世界中の企業が、安定したこれらの国に競って資産を移動させたからだ。また、資源の乏しいこうした島国では、以前からソフトウェア産業に力を入れていた。ワーム・ウェポンやサイバーテロの流行は、より安全な新しいOSやソフトの需要を爆発的に増加させた。欧米の大手ソフトウェア企業が潰れたために生じた市場の空自を狙って、東南アジアやオセアニア系の企業が一気にシェアを拡大していた。
オーストラリアも平和な日々を送っている国のひとつだった。世界的な混乱が巻き起こした不況の波は押し寄せてきていたが、生活をひどく圧迫するほどではなかったし、紛争やテロとも縁がなかった。
二〇一四年三月、奇しくもビッグサイトに氷塊が降った日の前日、ブリズベーンに本社のあるベンチャー企業アイクロプス社(その名前はギリシア神話に出てくる単眼の巨人サイクロブスに、人工知能を意味する「AI」をかけたものである)が、画期的な新製品を発表していた。世界で初めて記号着地能力を持つ人工知能 <アイボリー> である。
それは人間には簡単だがコンピュータにはこれまで難しかったこと――犬と猫を見分けたり、同音異義語の多い文章を正しく解釈したり、「これをあっちにやっといて」などというあいまいな命令を理解したりといったことを、いともあっさりやってのけ、世界中の人工知能研究者を驚嘆させた。CPUに途方もないスペックを要求するため、ポケタミなどに手軽にインストールするわけにはいかないが、その応用範囲は広い。これを組みこめば知能を持ったロボットが作れるかもしれないし、機械翻訳ももっと正確なものになるだろうと期待された。ゲーム、教育、芸術、工業、医学……応用範囲は無限なのだ。
専門家を困惑させたのは、その構造だった。データ量があまりにも多いうえ、従来のプログラムには必ずあったはずの明瞭《めいりょう》な階層構造が見当たらず、解析が困難なのだ。入力されたデータはメインメモリ全体に拡散して別々に処理されているように見え、全体としてどんな処理が進行しているのか追跡することもできない。これは原理的にハッキング不可能であり、サイバーテロに対して強い抵抗力を持つことも意味する。
「 <アイボリー> の構造はまるでデタラメのようにしか見えない」と、ある研究者は不思議がっている。「自分で試してみなかったら、コンピュータの背後に人間が隠れてるんじゃないかと疑っていただろう」
研究者はみんな <アイボリー> の謎を知りたがった。遺伝的アルゴリズムの手法で育て上げたことは確かなのだが、進化の核になったのがどんなプログラムなのか分からないため、誰にも模倣しようがないのだ。もちろんアイクロプス社はその秘密を明かさなかった。
一本二五万AVPという高額にもかかわらず、ソフトは売れに売れ、アイクロプス社に大きな利益をもたらした。当然、その開発者も潤ったと思われるが、アイクロプス社は徹底した秘密主義で、開発の過程はもちろん、開発者の名前すら明かさなかった。「ノーベル賞は確実」とささやかれる人物の名を、世界はまだ知らなかった。
気がついていたのは私だけだ。オーストラリアと人工知能――その関連にピンときた。
しかし、私は誰にも話さなかった。兄が名前を隠したがっている理由も、 <アイボリー> の正体を秘密にしている理由も、理解できたからだ。
二〇一六年二月二五日、私はプリズベーン郊外にある兄夫婦の家を訪れた。
家は芝生に覆われた小高い丘の斜面に建っていた。南半球は夏の盛りだった。太陽熱温水器の敷き詰められた水色の屋根と、かわいらしい白いベランダが、陽光を反射してまばゆく輝いている。私は軽い既視感《デジャ・ビュ》に見舞われた。大きさも立地条件も違うが、その家は子供の頃に暮らしていた九州の家をどことなく連想させ、懐かしい気分にさせた。
「おばちゃん!」
空港から兄が運転してきた車から降りると、玄関のドアを突き破りそうな勢いで、紗奈が嬉《うれ》しそうに駆け出してきた。たった二年で、びっくりするほど背が伸び、印象が変わっていた。長い髪をおさげにしており、短パンから突き出た長い脚はチョコレートのように日焼けしている。抱きつかれた拍子に、私はよろめいた。
「うわあ、重くなったわねえ」私は感心した。「お久しぶり」
「お久しぶり。アイ・ハヴント・シーン・ユー・フォー・ア・ロング・タイム」
「あら、英語も上手《うま》い」
「子供の方が言葉を覚えるのは早いみたいね」
後から出てきた葉月が言った。こちらはちっとも印象が変わっていない。懐かしい笑顔を私に投げかける。
「いらっしゃい、優歌」
「うん、来たよ」
私たちは抱き合い、再会を祝った。二年前の空港での別れほどの強烈な感覚はなかったが、それでもこうしてバーチャルではない生きた彼女を抱き締められるのは、このうえなく素晴らしいことだと思えた。
私は広い窓から陽光が降り注ぐリビングルームに案内され、午後のお茶とクッキーをご馳走《ちそう》になりながら、しばらく他愛ない雑談にふけった。こちらでの暮らしのこと、オーストラリアの気候のこと、紗奈の成長のこと……。
紗奈は元気そうだった。最初は生活の変化にとまどっていたが、今ではすっかりこの国になじんでいるらしい。友達も大勢いるという。彼女はまだ自分の出生の秘密を知らされていない。当然、「神のメッセージ」を語ったりもしない。その代わり、自分の好きなアニメや、友達の家のパーティに行ったことや、クリスマスに買ってもらった自転車に乗れるようになったことを、熱心に喋った。
私がしきりに家の大きさに感心するので、葉月はソファに寄りかかり、「ほんと、ジェットコースターみたいな人生だよね」と笑った。
「三〇になるまでに、どん底と天国、両方体験したって感じ」
「ご両親は?」
「毎月、仕送りしてる。こっちに移住しないかって誘ったこともあるんだけど、『この歳になって今さら外国に住めるか』って言われてさ……ま、それも一理あるんだけどね」
「そうね」
コリアンでありながら日本に住み続けたがる人の心理は、私にも理解できる。私だって、ずいぶんひどい目に遭ったが、それでも日本以外の国に移住したいとは思わない。日本で生まれ育った私の魂を構成するのは、日本の言語や文化や習慣――何千年も綿々と受け継がれてきたミームの集積なのだ。だからどんなに不景気でも、どんなに貧しくても、やはり日本の居心地がいちばんいい。
誰に強制されたのでもない、これが自然な「愛国心」だと思う。
「で……」
お茶を飲み終わった私は、そろそろいいかと思い、兄に話題を振った。
「例のもの、見せてくれるんでしょ?」
「ああ。こっちだ」
紗奈は「おばちゃんともっと遊びたい」とごねたが、葉月が「これからおばちゃんはパパと大事な話があるのよ」と言い聞かせ、外に連れて行った。私は微笑ましく思った。紗奈は本当に普通の女の子として育っている。今やすっかりカルト教団の教祖様になってしまった義哉くんや彩ちゃんとは大違いだ。
兄は私を仕事部屋に案内した。両側にはマニュアルや資料を詰めこんだ本棚、中央にはパソコンの置かれたデスクがある。モニターやキーボードは普通のパソコンと同じだが、その背後は異様だった。透明なアクリルの本棚のようなケースに、剥《む》き出しの基盤が何百枚も刺さっていて、無数の配緑で結ばれている。手作りのスーパーコンピュータなのだ。
兄がリモコンを操作すると、ケースの背後にある大型エアコンが起動し、猛烈な冷風を吹き出しはじめた。
「発熱量がすごいんだ」兄は椅子に座り、パソコンを立ち上げながら説明した。「だから常に冷却してないといけない」
「あの基盤って、もしかしてネブラ10の?」
「同じものだ。七二〇枚使って分散処理してる。まあ、量子コンピュータがそろそろ市場に出回りはじめてるから、これからはもっと小さくなると思うけどね。そうなれば <アイボリー> は家庭にも普及する――二〇年ぐらい先だろうけど」
「アイボリー(象牙《ぞうげ》)って、元ネタはピュグマリオンでしょ?」
ピュグマリオンはギリシア神話に出てくる人物で、象牙で作られた乙女の像に恋をした。愛の女神アフロディテは彼の祈りを聞き届け、像に生命を与え、本物の女性に変えた。無生物であるコンピュータに「心」が宿るのを、兄はピュグマリオンの神話になぞらえたのだ。
「そう。意外に知らない人が多いみたいだけどね」
「まあ、『ファニちゃん』よりはましなネーミング・センスね」
画面には懐かしい『ドーキンズ・ガーデン』の画面が現われた。
「これが <アイボリー> の原型になったプログラム――最初の検証実験に使ったプログラムを再現したものだ。『ドーキンズ』のプログラムを少しいじって作った」
「具体的にどうやったの?」
「アーフの数を増やしたんだ。フィールド上に一〇億体がひしめいているようにした。それからアーフに報酬と罰を与えて学習させたんだ。厳密に言うと、アーフの集まりから成るミーム集団に対してだけど」
「アーフがどんな報酬を喜ぶの?」
「アーフじゃない、報酬に喜びを感じるのはミームだ」
兄は画面を使って説明した。あるミームが繁栄している地域に、そのミームを象徴するモニュメントを出現させる。モニュメントはその地域の信仰をより強化する作用がある。つまりミームがさらに繁栄する。反対にその地域のミームと無関係なモニュメントが出現すると、ミーム集団にとっては打撃となる。兄はこれを利用し、アーフたちに画像を認識させようと試みた。
カエルには大きな眼があり、その網膜細胞からは脳に常に信号が送られている。にもかかわらず、カエルの脳はたった四種類の映像しか認識しない。(1)コントラストの明瞭な境界、(2)照度の急激な変化、(3)動くものの輪郭、(4)小さく黒っぽいものの輪郭である。(1)は水平線を検出し、現在位置を知るのに必要だ。(2)と(3)は鳥などの天敵の接近を察知するために、そして(4)は虫を捕らえるために。カエルはこの四種類の映像さえ認識できれば生きていける。
この進化の過程を想像するのは簡単だ。カエルの遠い先祖の原始的な無脊椎《むせきつい》動物にも、単純な受光器官があった。小さな物体が目の前を横切った際、それを認識して素早く食いつく習性を得た生物は、生き残って子孫を残す確率が高くなる。一方、大きな物体が迫ってきているのにそれを認識できなければ、たちまち天敵に食べられて淘汰《とうた》される。原始的な動物の脳は、こうした生存競争の中で、画像認識能力を発達させてきた。カエルよりさらに進化した私たち人間の場合、カエルよりもずっと多くのものを認識できるようになっている。兄はこの進化の過程を高速で再現したのだ。
「まず楕円《だえん》形の図と多角形の図をいっぱい用意して、それを『ドーキンズ』に送りこんだ。交互じゃなく、ランダムにね。その信号はフィールド上にブロックの形で出現する。こんな風に」
兄はフィールド全体の俯瞰《ふかん》映像に切り替えた。実際の世界に置き換えると、何百万平方キロもの面積を見下ろすようなもので、個々のアーフは識別できず、ミーム集団がアメーバのようにうごめいているのが見えるだけだ。
そこにブロックがばら撒《ま》かれる。もちろんブロック自体も小さいので見ることはできないが、出現地点は色とりどりの光点で表示された。見たところまったく無秩序に散らばっているように見える。
「フィールド上に絵を描くんじゃないの?」
「違う。たとえば人間が花を見ている時、その脳を切り開いたって、どこにも花の絵なんてない。網膜から視神経を通して送られてくる信号は、取り出してみても、見かけ上ほとんど無秩序なんだ。信号の強弱、つまり明るいか暗いかぐらいしか分からない。にもかかわらず、僕らの頭の中には花の映像が明瞭に浮かぶ」
「どうして?」
「信号は脳の中の広い領域にばらまかれて、何億という神経細胞の共同作用によって処理されるんだ。無秩序のように見える信号が統合されてイメージになる。その過程はまだ謎に包まれてる。でも、詳しいメカニズムなんて分からなくてもかまわない。模倣することはできる。僕は個々のアーフを脳細胞に見立てた。楕円形の図を『ドーキンズ』に見せた後、フィールド上の地域の半分に、そこの支配ミームを強化するモニュメントを出現させる。多角形の図を見せた後、同じ地域に支配ミームを弱めるようなモニュメントを出現させる。これを仮想空間上で何万年も繰り返したんだ。
最初はこんな方法でうまく行くわけがないと思った。あまりにも発想が単純すぎるってね――でも、驚いたことにうまく行った。楕円形の図を見せると、アーフたちはモニュメントが出現する地域に、あらかじめ移動するようになった。そうすることでミームが強化されるからだ。逆に多角形を見せると、その地域からアーフは撤退する。ミーム集団にとって、楕円形は喜びだけど、多角形は苦痛なんだ。それを学習できたミームが繁栄したわけだ」
もちろん、ただ一度の実験で兄は納得したわけではない。リセットし、条件を複雑にして何度も繰り返してみたのだ。フィールドを四分割し、図形の種類を一六種類に増やして実験してみた。前より少し時間がかかっただけで、やはりミーム集団は図形の違いを認識した。フィールドを八分割し、二五六種類の図形を見せても、やはり認識できた。
もっと複雑な映像も試してみた。花の写真と動物の顔の写真を見せ、その違いを認識できるかどうか。自動車と飛行機を見分けられるかどうか。鳥と虫を見分けられるかどうか……それらのテストを、アーフたちはすべてクリヤーした。
兄は自分が記号着地能力を持つ人工知能を――花を「花」と認識できるプログラムを創造したことを知った。
「注意しなくちゃいけないのは、個々のアーフには図形を認識する能力なんてないってことだ。アーフは単純なアルゴリズムで動いているだけで、知能なんかない。自分の周囲の限られた範囲の情報しか持たない。単純作業を黙々とこなすだけのサールの悪魔なんだ。でも、それが何億と集まると知能を持つ」
「ツムギアリのように?」
「そうだ」
こうした現象は専門用語で「創発《エマージェンス》」と呼ばれている。単純な構成要素が集まった時、そこに生じる完全に新しい属性のことだ。
何十億年という進化の過程で、創発は何度も起きたと考えられている。たとえば単細胞生物から多細胞生物への進化だ。最初はばらばらに生きていた単細胞生物が、何億年か前のある時、集団で一個の大きな個体として活動すれば生存に有利であることを学んだのだ。やがて彼らは生物としての役割を分担するようになり、多細胞生物に進化した。
何億という神経細胞から成る脳が、視神経からの信号を単純な光の強弱ではなく映像として認識するようになったのも、一種の創発だ。渡り鳥がきれいな隊形を組むのも、ツムギアリの共同作業も、ミツバチの見事な社会も、単純な知能しか持たない生物が集団で高度な知的行動を示すという、創発の例だ。
そして人間の社会も。
誰もが「こんな歌がヒットするわけがない」と感じる歌が、大衆という集団には熱狂的に好まれる。国家は個人の集合でありながら、個人とは別の意志を持つ。もちろん宗教集団もそうだ。それらはあくまで集団としての報酬を求め、集団としての苦痛を避けようと機能する。個人の生死になど頓着《とんちゃく》しない。そして、それらの集団がたくさん集まって構成される「人類」という集団は、さらに大きな意志を持つ。
一九八二年、イギリスの科学者ピーター・ラッセルは「グローバル・ブレイン」という概念を提唱した。全地球的スケールで見れば、人間ひとりひとりは神経細胞であり、人類という集団は巨大な脳を形成しているという考え方だ。
ラッセルの発想はいわゆるニューエイジ系のオカルト的なもので、理論的な裏づけに乏しかった。そもそもラッセルの時代にはまだインターネットはなかった。一方通行でしかない旧メディアや、電話や手紙によるやり取りなど、スピードでも情報量の点でもたかが知れている。地球規模の脳などというものは、一九八〇年代には夢物語だった。
しかし今や、全世界がインターネットで結ばれ、情報にとっての距離というものはほとんど喪失している。何十億もの神経細胞が毎秒何億ビットというデータを高速でやり取りできるようになった時、人間をはるかに上回る巨大な知性が創発によって誕生しても不思議ではない。
いや、もう誕生しているのかも知れない。
「これが神が超常現象を起こしている理由だ」兄は重苦しい声で言った。「ずっと以前からメッセージを送ってきてはいたんだが、グローバル・ブレインの処理速度が遅かったんで、データの入力速度もそれに合わせて遅かったんだろう。インターネットの普及にともなって処理速度が向上したから、発生件数も増加したんだ」
「でも、UFOとかスプーン曲げにどんな意味があるの?」
「その地域に支配的なミームを具象化してみせることで、神はミーム集団に報酬を与えるんだ。人間に対してじゃない。あくまでミーム集団にとっての報酬だ。それ以外のランダムな現象、氷の落下とかポルターガイストとかは、何か大きなパターンの一部なんだ。映像信号かもしれないし、もっと別の種類のメッセージかもしれない。それは報酬がもたらされる場所や時間を予言してるんだろう。それを先読みできるようなアルゴリズムを進化させたミーム集団が繁栄できる。その生存競争がミーム集団同士の争いや強調や大移動を生じさせる。そして、多数のミーム集団が集まってできる超ミーム集団であるグローバル・ブレインは、創発によって記号着地能力を獲得する」
「つまり神のメッセージを理解する……」
頭の中にイメージが広がった。地球の形をした巨大な脳。その表面にひしめく数十億の神経細胞と、それを網の目のように結ぶ樹状突起や軸索突起。そこに視神経を通って、宇宙からの映像信号が送られてくる。信号を受け、ここの神経細胞は驚く(励起する)。その驚きを別の細胞にも伝えようとする(神経伝達物質を放出する)。無数のインパルスが神経網をかけめぐり、認識と理解を生む。しかし、ここの細胞には、何が起きているのか理解できない……。
「私が焦点になったことも説明できるの?」
それが知りたかった。また大惨事が起きたらとびくびくしていたのだが、あの氷塊の降った日以降、私の周囲では目立った超常現象は起きていない。
「似たような図形を続けて送ったら、特定の神経細胞だけが連続して刺激されるはずだ。神のメッセージの場合、僕のやったシミュレーションよりも、もっとメカニズムは複雑なんだろう。焦点になった人間のミームを具象化することもあるようだ――それが何を意味してるのかは訊《き》かないでくれ。僕にも分からない」
「人類は――グローバル・ブレインは、神のメッセージを理解していると思う?」
「分からないな。世界中で起きている戦争や民族の移動は、まさにグローバル・ブレインがメッセージに反応しているように見える。すでに明確な意志を持っているのかも知れない……」
それから兄は、ふっと息を吐き、皮肉っぽく笑った。
「だとしても、何の違いがある? 僕たちはみんな中国語の部屋の中にいる。中国語を知らないサールの悪魔なんだ。ドアから差しこまれたメッセージの意味なんか決して理解できない。いや、部屋全体がメッセージを理解しているかどうかさえ、知ることはできないんだ。
僕は――いや、世界中の人間はみんな、大きな誤解をしていた。人間は知的存在だ。神の目的は人間を創造することだった……ってね。なんて傲慢《ごうまん》だったんだろう! 神は人間をはるかに上回る知性体なんだ。それこそ地球サイズの脳を持ってるに違いない。だとしたら、人間が人間並みの人工知能の創造を目指してるように、神が遺伝的アルゴリズムで創造しようとしている知能は、神に匹敵するもののはずじゃないのか。人間のようなちっぽけなものが目的であるはずがない。どうしてそれに気づかなかったんだ?」
そこまで一気に喋って、兄は大きく肩を落とした。私はその背中を悲しい気分で見つめていた。こんなシニカルな喋り方は兄らしくない、と思った。真実を知ってしまったショックがあまりにも大きく、彼の性格を変えてしまったのだろう。
「……僕は神と話したかった」兄は急に沈んだ口調になった。「新は親父たちのことや、世界を覆っている不幸のことを話したかった。どうして悪や災害を野放しにするのか、どうして止めてくれないのか、どうして善良な人間が苦しむのか、納得のいく説明を聞きたかった。そうだ、神のような偉大な知性が、たわむれに人間を傷つけることなんかあるはずがない。きっと納得できる理由がある。それを聞けばヨブのように神と和解できる――そう信じていた。
だからこの仮説を思いついた時も、信じたくはなかった。でも、真実だった。神は人間に悪意を抱いていないが、善意も抱いていない。僕らがこうして話してる間、相手の神経細胞のことをいちいち意識していないように、グローバル・ブレインを相手にしている神は、人間のことを意識してなんかいないんだ……」
「それで紗奈のことも憎んだ?」
「ああ。僕の考えてたこと、知ってるだろ? 紗奈が神のメッセージを携えてるんじゃないかと思ってた。そうじゃなかった。あの子はとてつもなく大きなメッセージの一部、フィールドにばら撒かれたブロックの一個にすぎなかったんだ。僕が紗奈を愛する気持ちは本当だった――でもその愛情も、神のメッセージに反応するグローバル・ブレインの思考の一部を構成するものにすぎなかったんだ!」
兄は悔しそうに拳《こぶし》を握り締めた。
「僕は神を憎んだ。グローバル・ブレインも憎んだ。いくらあがこうと、僕はちっぽけなサールの悪魔にすぎない。僕の意志とはまったく無関係な知性体の活動を、意味も分からずにサポートしてるだけなんだ。中国語の部屋に囚《とら》われたグローバル・ブレインの奴隷なんだ。それで猛烈に紗奈を殺したくなった。自分の意志と正反対のことをすることで、グローバル・ブレインに反抗できるんじゃないか――そんな考えにとり憑《つ》かれて、自分が恐ろしくなった」
「今は?」
「今はもう落ち着いてる。紗奈をかわいがろうが殺そうが、結局のところ、神にとってもグローバル・ブレインにとってもたいした違いじゃない――そう悟ったんだ。だったらかわいがった方がいい。だろ?」
私はうなずいた。「それが幸せよね」
「それで悩んだ末、僕の発見を金に替える決心をした。葉月や紗奈を放り出したままにしておくわけにはいかなかったからね。このオーストラリアで出資者を見つけた。『ドーキンズ』の版権に抵触しないように、プログラムは大幅に変えた。幸い、 <アイボリー> の構造は解析不可能だから、誰にも神のメッセージとの関連が気づかれることはない。それでずいぶん儲《もう》かった。
ああ、確かに今は幸せだ。金もあるし、愛する家族もいる――でも、心から幸せというわけにはいかない。真実を知ってしまった以上は」
「葉月はどう言ってるの?」
「あいつの言うことはいつも同じさ。『そんなの忘れちゃいな』」兄は葉月の口真似をして、苦笑した。「忘れられるなら、そうしたいさ。でも、忘れられるようなことじゃないだろ? 神の真意とか、世界と人間の存在意義とか、そんな重大な問題を忘れるなんて……」
「世間に秘密にしてるのもそのため?」
「ああ。苦しむのは僕ひとりで充分だ。世界中の人を苦しめることはない。みんなは『神様は見守っていてくださる』という幻想を抱いていた方が幸せじゃないのか?」
「そのせいで世界中で戦争が起きてるのに?」
「戦争を終わらせるのがいいことだろうか? 戦争がグローバル・ブレインの思考の一部なら、それが停止したら、神は失敗だと判断してシミュレーションを停止するかもしれない。何が起きるのか、僕には分からない」
兄はうつむき、「僕には分からない」と繰り返した。
「……何も知らないうちは幸福だった。神と和解できる希望があった。今の僕には希望がない。なぜヨブが悔い改めることができたのか、永遠に知ることはできない……」
兄は沈黙した。その沈黙にはどんな言葉よりも重い苦悩が秘められていた。知るべきではなかった真実を知ってしまった者の苦悩――人頻の幸福を左右する重荷を背負い、誰にも相談できず、三年以上も苦しみ続けてきたのだ。
もう充分悩んだはずだ。今こそ、その重荷から解き放つべき時だ。私はそのために日本からやって来たのだ。
「ねえ、兄さん」私は静かに言った。「あの『ヨブ記』の結末が誤訳だったって知ってる?」
兄は驚いて顔を上げた。「誤訳?」
「そう、誤訳なの。信じられないことだけど、キリスト教徒は何千年も間違った訳を信じてきたのよ」
私は兄に、中近東言語学の権威で神学者でもあるジャック・マイルズの解説を紹介した。
[#ここから2字下げ]
あなたのことを耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、私は塵《ちり》と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。
[#ここで字下げ終わり]
まず「悔い改めます」と訳された動詞ニハムティだが、これは前置詞アルが次に来ることで「〜を遺憾《いかん》に思う」という意味になる。ヘブライ語の原文では、アルの後に「塵と灰」が来る。直訳すれば「塵と灰を遺憾に思う」となる。聖書の世界では、「塵と灰」とは朽ち果てることを運命づけられた人間の肉体を意味する。すなわち、意訳すれば「この死すべき肉体を遺憾に思う」となる。日本語訳では単語の順序を入れ替えたうえ、「上に伏し」という原文にない部分を加筆した結果、まったく違う意味になってしまっている。
また「自分を退け」(別の訳では「わたし自身を侮り」)と訳されている箇所は、原文ではエマスという他動詞が用いられている。これは露骨な拒否を意味する単語だが、当然、拒否する対象を指す言葉がなくてはならない。ギリシア語訳者はここで、原文にない「自分を」という単語を補い、ヨブが自分を否定していることにしてしまった。英訳や日本語訳も、伝統的にこの解釈を継承している。マイルズによれば、これは間違いである。エマスは「塵と灰」にかかっており、ヨブは死すべき自分の肉体に対する強い嫌悪を表明しているのだ。
すなわち、この四行を正しく訳せばこうなる。
[#ここから2字下げ]
あなたのことを耳にしてはおりましたが
今、こうしてあなたをこの目で見た以上
私は(あなたに創造された)この死すべき肉体を
嫌悪し、遺憾に思います
[#ここで字下げ終わり]
そう、ヨブは「悔い改め」てなどいなかった! 神の正体を知って落胆し、自分が神に創造された存在であることを悔しがっていたのだ。
このように読めば、『ヨブ記』のあの不条理な結末もすっきりする。ヨブは被告として、神を法廷にひきずり出した。神は弁舌をふるい、自分がいかに偉大な存在であるかをまくしたてるが、それは神を崇拝していたヨブを落胆させる。「話には聞いていたが、あんたがそんな奴だと知った以上、私はあんたに創造されたことを遺憾に思うよ」と。結局、神はヨブを言い負かすことに失敗し、彼に賠償を支払うしかなくなったのだ。
これは悔い改めた者の物語などではなかった。神にすべてを奪われながらも、神に対して戦いを挑み、勝利した男の物語だったのだ。後世の人間たちは、「神は崇拝しなくてはならないもの」という先入観のために、ヨブが最後に発した侮蔑《ぶべつ》の意味が理解できず、強引に誤訳して反対の意味にしてしまったのだ。
二四〇〇年も前に正解は出ていた。『ヨブ記』の作者は見抜いていたのだ! 確かに神は天や地や人間や動植物を創造したかもしれないが、だからと言って尊敬に値しない存在であることを。神には人間に対する優しさや想いやりが根本的に欠落しているということを。なぜなら神は人間ではないからだ。全知全能ではあるが、たったひとつ、人間の苦しみや悲しみを理解し、同情の念を抱くことだけはできないのだ。
それは、死すべき肉体を持つ人間だけが理解できることだから。
それを知った私は、『ヨブ記』の作者の心が初めて理解でき、深い感銘を受けた。読み返してみると、ヨブの叫びはあまりにもリアルで、想像で書いたとは思えない。彼または彼女も、災害で家族を失った悲しい経験があるのかもしれない。だから真理にたどりつけたのかもしれない。
二四〇〇年を隔てて、私たちの心は確かに触れ合った。
こうしたことを発見したのは、獄中での読書でだった。実はもう一冊、私が感銘を受けた本がある。加古沢の『時の振り子』だ。
私は獄中でずっと悩んでいた。本当に私がしたことは正しかったのか? あの記録を公表したことで、日本とコリアの間の憎悪がいっそうかきたてられ、開戦を早めたのではないか? もちろん公表しなかったとしても戦争は起きていただろう。しかし、私が干渉しなければ、もっと違った結果になっていたのではないか?
その悩みが解消されたきっかけは、それまで目を通していなかった『時の振り子』を読んだことだった。巨大な歴史に翻弄《ほんろう》される二人の主人公の苦悩に、私は加古沢への憎悪を忘れて感情移入していた。歴史の流れは常に予想を裏切る。タイムマシンで過去に戻っても、思い通りに歴史を動かせる可能性はほとんどない。あまりにも多くの不確定要素があり、バタフライ効果が未来予測を不可能にする。起きたかもしれないこと、起こらなかったかもしれないことで、悩んでもしかたがない。その時点で最良と思える決断をするしかないではないか。
小説の結末で、三樹夫と五星は恩讐《おんしゅう》を超えて和解し、「正しい歴史」という幻想を捨て、未来のことを考えず、自らの倫理に従って今を生きることを決意する。私は感動した。加古沢は自分の書いた小説のテーマを理解していなかったのだ。自分では信じていないのに、「こう書けば読者は感動する」という打算で、この結末を書いただけなのだろう。彼は自分の創造したキャラクターから学び損ねたのだ。
しかし、私は学んだ。彼の生み出したミームは、彼自身が信じていなかったにもかかわらず、私の中に受精した。
作者が信じていようがいまいが、何の違いがある? 本のページをめくる時、読者の脳の中では文章が活性化され、キャラクターが生きているように動き出す。それは作者の魂の一部ではあるが、すでに作者から独立した存在だ。
シャーロック・ホームズがコナン・ドイルよりも賢明な人物だったように、三樹夫と五星は加古沢よりも人間的に優れている。もし彼らが加古沢という人物に出会っていれば、さぞ蔑《さげす》んだことだろう――ヨブが神を蔑んだように。
そうだ、被創造物が創造者に敬意を払う必要などない。特に創造者が尊敬に値しない存在である場合には。
神を「信じる」という言葉――英語では believe だが、これには日本語でも英語でも二重の意味がある。「神が存在することを確かだと思う」という意味と、「神を信仰する」という意味と。本来、この二つはまったく異なる意味のはずなのだが、なぜか混同して使われてきた。神が実在するのを確かだと思った者は、同時に神を崇拝しなくてはならないとされてきた。『ヨブ記』の作者が二四〇〇年前に示した結論――「創造主は存在するが、崇拝に値しない」という結論は、ずっと無視されてきた。
しかし、今こそその訴えに耳を傾けるべき時なのだ。
兄はとまどっていた。「じゃあ、世間に真実を公表しろっていうのか?」
「私はそうすべきだと思う」私は確信をこめて言った。「それを兄さんに勧めるために来たの。私の一存で決めるわけにはいかないから」
「そんなのは無理だ!」
「どうして?」
「言っただろう? もし人類が戦争をやめたら――」
「シミュレーションが停止するかもしれない? でも、逆の可能性もあるでしょ? このまま戦火が拡大して、世界が滅びてしまう可能性だって」
「それはそうだが……」
「確かに何が起きるか予想できない。神やグローバル・ブレインが何を考えてるかなんて、私たちには分かりっこないんだもの。だったら、どっちを選択しようと危険性は同じよ。そうじゃない? それならモラル的に見て正しい選択をするべきだわ。神のことなんか忘れて、人間としてのモラルを守るべきよ」
「しかし、それがモラル的に正しい選択だろうか?」兄は疑わしげだった。「世界の人間の大多数は、神を崇拝して正しく生きている。みんなが犯罪に走らないのは信仰があるからだ。罪を犯さなければ死んでから天国や極楽浄土に行けると信じてるから、犯罪が防がれてるんだ。彼らが崇《あが》めてる聖書とか教典の内容がすべて幻だと教えたらどうなる? それこそ大混乱になるぞ」
「それも考えたわ。確かに混乱は起きるでしょうね。でも、人間はそれを乗り越えられると信じてる」
「その根拠は?」
「兄さんが今言った、『教典の内容は幻だった』ってことよ」
兄は首を傾げた。「どういうことだ?」
「『汝《なんじ》、殺すなかれ』『汝、盗むなかれ』……これは神の教えなんかじゃない。みんな人間が創った言葉、人間の教えなのよ。神は人間にメッセージを送ってきたことなんか一度もない。少なくとも人間に理解できるようなメッセージは。
この何千年間、人間は神なしでやってきたのよ。法律とか正義とか愛とか善とか奉仕とかいった概念は、みんな人間が創造したもの――言ってみれば、人間自身が神だったのよ。確かに『神』という概念は幻だったかもしれないけど、それを生み出した人間の想い、正しく生きたいと願う人間の想いはまぎれもなく本物だし、ちゃんと機能してきた。つまり人間には神なしでも善を遂行する能力があるってことだと思うの」
「死後に報酬を得られないと知ってもか?」
「ええ。私は神を崇拝したことは一度もない。いいことをすれば死んでから天国に行けると信じたこともない。それでも私は、自分の人生を振り返って、誇りを持って言える。私は正しく生きてきた。確かに何度も間違いはしたけど、正義とか善を裏切ったことは一度もない。報酬が欲しかったからじゃない、ただそうしたかったからそうしただけ」
私はしゃがみこみ、座っている兄と視線を合わせた。
「ねえ兄さん、どうしてそれじゃいけないの? どうして『正しく生きたいから正しく生きる』じゃだめなの? 私に言わせれば、神のご褒美を目当てに善行を積む方が不純だわ。報酬なんて必要ないわよ。私は加古沢みたいに人を傷つける生き方はしたくない――動機なんてそれで充分じゃない?」
「それは理想論だ」兄は悲しげに目をそらせた。「すべての人間がお前みたいに生きられるわけじゃない……」
「理想論で何が悪い? 私は少なくとも、自分の決めたモラルに従って生きてる。神にモラルを委《ゆだ》ねるのは両刃《もろは》の剣よ。教典に書いてあることや教祖様の教えが、人を傷つけないことばかりなら、確かにいいかもしれない。でも、そうじゃないことがちょくちょくある。教祖様に『毒ガスを撒け』とか『ビルを爆破しろ』とか言われて、それを正しいことだと思って従ってしまう人間がいる。自分自身のモラルを持たなくて、他人にモラルを委ねてるから――それこそまさに、今、世界で起きていることじゃないの?
神の教えと人間としてのモラルが食い違ったら、人間としてのモラルを優先すべきよ。もし神が『殺せ』と念じたら、逆らうべきなのよ。そうでしょ? だったら最初から神の教えなんか必要ない。『人間として正しく生きよう』と言えばいいだけのことじゃない?」
「しかし、グローバル・ブレインが……」
「それこそ、『そんなの忘れちゃいな』よ! 神にしてもグローバル・ブレインにしても、私たちのモラルとは無縁な存在よ。私たちはただ、人間として、正義とか愛とか善とかを守って生きていけばいい」
「……本当にそう信じるのか?」兄は私を見つめた。「この乱れた世界を見ても? 殺し合ったり憎み合ったりしている人間たちを見ても? 人は神なしで正しく生きることが可能だと、お前は信じるのか?」
「ええ」私は強くうなずいた。「私は信じる」
「それがお前の信仰か?」
「ええ」
兄に指摘されて、私はようやく気がついた。そう、これは信仰だ。理由なんかない。人は正しく生きる能力があり、正しく生きるべきである――そう信じたいから信じるのだ。なぜなら、それが唯一の希望だから。
私はついに信仰を見つけたのだ。
「……分かった」
かなり長く考えこんでから、兄は決心した。「僕もその信者になろう」
私はほっとして微笑んだ。「信者になってもご褒美はないわよ」
「正しく生きること自体がご褒美だ。違うか?」
そう言って笑う兄の顔は、憑きものが落ちたように晴れ晴れとしていた。
その夜、兄夫婦は庭でバーベキュー・パーティを開き、私をもてなしてくれた。
東京のように汚れていない空には、満天の星がきらめいていた。すでに星座はひとつも見分けられない。二年の間にすべての星が位置を変えてしまったからだ。地球以外の惑星も軌道を変更し、ニュートン物理学を無視して、停止したり加速したり逆回転したりコースを九〇度変更したりといった運動を行なっていた。冥王星《めいおうせい》は消滅し、火星は緑に染まり、土星は二個に分裂した。基準点が存在しなくなったため、地球が今も太陽の周囲を公転しているのかどうかすら分からない。それでもちゃんと四季は訪れるし、地球環境に支障はない。
ひとつだけ喜ばしいことがある。星占いがついに命脈を絶たれたことだ。かつてペルセウス座があった場所に、かつて火星であったかもしれない惑星が位置していることについて、伝統的な解釈はまったく無力だし、惑星がどう動くか予想がつかないのに、来月の運勢をどうこう言うことも不可能だ。
それでも一部の占星術師は、星空の変動から懸命に意味を読み取ろうとしていた。もちろんそれは無駄な努力だ――意味を理解できるのはグローバル・ブレインだけなのだから。
お腹がいっぱいになった午後八時半頃、東の丘から月が昇ってきた。満月を過ぎたため、「神の顔」は額の方が欠けており、考えこむようにやや左に傾いでいる。すっかり慣れてしまい、初めて目にした時のような畏怖《いふ》はもう感じない。つまるところ、それは自然現象のひとつにすぎないのだから。
これからの若い世代――紗奈のように、もの心ついた時から「神の顔」が空にある世代にとっては、これももはや当たり前の風景でしかないのだろう。
「ねえ、あれって神様のお顔なんでしょ?」紗奈は無邪気に訊《たず》ねた。「よくあのお顔にお祈りしてる人がいるよ。お祈りしたら願いを叶《かな》えてくれるってほんと?」
「そうねえ」私は言葉を選んだ。「あそこにお祈りしても、願いは聞いてくれないわね」
「じゃあ、どこに向かってお祈りするの?」
「ここよ」私はしゃがみこみ、紗奈の小さな胸をぽんぽんと叩《たた》いた。「自分のここにお祈りしなさい」
「ここ?」紗奈は胸を見下ろし、怪訝《けげん》な顔をした。「なんてお祈りすればいいの?」
私は微笑み、自信を持ってこう答えた。
「『正しく生きられますように』よ」
そう、一人の子供を正しく導くこと、それが最初の一歩だ。ひどく小さな一歩だが、それでも世界に平和をもたらす最初の一歩だ。
私はそう信じる。
[#地付き](完)
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参考資料
【宗教】
イアン・ウィルソン『真実のイエス』(紀伊国屋書店)
シャフィック・ケシャヴジー『世界の宗教 どの教えが優れているのか?』(徳間書店)
レイモンド・M・スマリヤン『タオは笑っている』(工作舎)
レイモンド・M・スマリヤン『哲学ファンタジー』(丸善)
ケン・スミス『誰も教えてくれない聖書の読み方』(晶文社)
ダミアン・トンプソン『終末思想に夢中の人たち』(翔泳社)
グレース・ハルセル『核戦争を待望する人々』(朝日選書)
R・E・フリードマン『旧約聖書を推理する』(海青社)
ロビン・レイン・フォックス『非公認版聖書』(青土社)
ジャック・マイルズ『GOD 神の伝記』(青土社)
フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌6』(筑摩書房)
E・J・ラーソン&L・ウィッタム「科学者は無神論者か」(『日経サイエンス』1999年12月号)
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加藤隆『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』(大修館書店)
小坂国継『善人がなぜ苦しむのか 倫理と宗教』(勁草書房)
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坪内隆彦『キリスト教原理主義のアメリカ』(亜紀書房)
早川和廣『新興宗教の正体』(あっぷる出版社)
ひろさちや監修『図解 世界の宗教と民族紛争』(主婦と生活社)
宮田律『よくわかる「今のイスラム」』(集英社)
『聖書の世界・総解説』(自由国民社)
知の探求シリーズ『キリスト教と聖書の謎』(日本文芸社)
別冊宝島476『隣のオウム真理教』(宝島社)
別冊歴史読本特別増刊『キリスト教の謎』(新人物往来社)
NEW SIGHT MOOK『宗教と民族』(学研)
『聖書 新改訳』(日本聖書刊行会)
『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
【UFO】
ジャック・ヴァレー『人はなぜエイリアン神話を求めるのか』(徳間書店)
コリン・ウィルソン『エイリアンの夜明け』(角川春樹事務所)
フランク・エドワーズ『空飛ぶ円盤の真実』(国書刊行会)
ジョン・A・キール『モスマンの黙示』(国書刊行会)
アドルフ・シュナイダー&フーベルト・マルターナー『UFOの世界』(啓学出版)
フランク・スカリー『UFOの内幕』(たま出版)
デニス・ステーシー&ヒラリー・エヴァンス編『UFOと宇宙人全ドキュメント』(ユニバース出版社)
J・アレン・ハイネック『UFOとの遭遇』(大陸書房)
カーテイス・ピープルズ『人類はなぜUFOと遭遇するのか』(ダイヤモンド社)
L・フェステインガー&H・W・リーケン&S・シャクター『予言がはずれるとき』(勁草書房)
ピーター・ブルックスミス『政府ファイル UFO全事件』(並木書房)
ジョン・リマー『私は宇宙人にさらわれた!』(三交社)
稲生平太郎『何かが空を飛んでいる』(新人物往来社)
青木日出夫編訳『UFO目撃』(大陸書房)
高梨純一『UFO日本侵略』(スポニチ出版)
中村省三『宇宙人の死体写真集』(グリーンアロー出版社)
中村省三『宇宙人大図鑑』(グリーンアロー出版社)
皆神龍太郎『宇宙人とUFOとんでもない話』(日本実業出版社)
矢追純一『ナチスがUFOを造っていた』(河出書房新社)
横屋正朗『UFOはこうして製造されている!』(徳間書店)
和田登『いつもUFOのことを考えていた』(文渓堂)
渡辺威男『E.T.の地球攻撃を許すな!』(徳間書店)
『地球ロマン復刊2号/総特集=天空人嗜好』(絃映社)
UFOn(http://www.ufon.org)
【超能力・超心理学】
ジャネット・オッペンハイム『英国心霊主義の抬頭』(工作舎)
トーマス・ギロビッチ『人間この信じやすきもの』(新曜社)
アービング・M・クロッツ『幻の大発見』(朝日新聞社)
チャールズ・T・タート『サイ・パワー』(工作舎)
ロバート・L・パーク『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか』(主婦の友社)
ジョン・ベロフ『超心理学史』(日本教文社)
ジョン・ベロフ『パラサイコロジー』(工作舎)
アービング・ラングミュア「病める科学」(パリティ編集委員会編『ボルツマン先生、黄金郷を旅す』丸善)
ジェイムズ・ランディ「プロジェクトアルファ」(『Journal of the JAPAN SKEPTICS』vol.1)
デヴィッド・ワルチンスキー他『ワルチン版 大予言者』(二見書房)
大谷宗司編『超心理の科学』(図書出版社)
大谷宗司編『パラサイコロジー』(図書出版社)
小熊虎之助『心霊現象の科学』(芙蓉書房)
笠原敏雄編『サイの戦場』(平凡社)
笠原敏雄編『超常現象のとらえにくさ』(春秋社)
笠原敏雄『超心理学読本』(講談社)
笠原敏雄『超心理学ハンドブック』(ブレーン出版)
坂本種芳・坂本圭史『超能力現象のカラクリ』(東京堂出版)
志水一夫『トンデモ超常学入門』(データハウス)
萩尾重樹『超心理学入門』(川島書店)
橋本毅彦「スプーン曲げとテレパシー」(科学見直し叢書1『科学と非科学のあいだ』木鐸社)
松田道弘『超能力のトリック』(講談社)
森達也『スプーン』(飛鳥新社)
【空の軍隊・異常降下物現象・ポルターガイスト】
サイモン・ウェルフェア&ジョン・フェアリー『アーサー・C・クラークのミステリー・ワールド』(角川書店)
フランク・エドワーズ『しかもそれは起った』(早川書房)
フランク・エドワーズ『科学に挑戦する』(早川書房)
ローズマリ・エレン・グィリー『魔女と魔術の事典』(原書房)
J・デニス『カエルや魚が降ってくる!』(新潮社)
L・A・フランク『「水惑星」の誕生』(二見書房)
P・ブランダムール校訂/高田勇・伊藤進編訳『ノストラダムス予言集』(岩波書店)
ピーター・へイニング『世界霊界伝承事典』(柏書房)
J・ミッチェル&R・リカード『フェノメナ【幻象博物館】』(創林社)
村上健司『妖怪事典』(毎日新聞社)
Crypto's Cavern(http://freespace.virgin.net/brian.goodwin)
【生まれ変わり・臨死体験】
イアン・ウィルソン『死後体験』(未来社)
ポール・エドワーズ『輪廻体験』(太田出版)
カーリス・オシス&エルレンドゥール・ハラルドソン『人は死ぬ時何を見るのか』(日本教文社)
立花隆『証言・臨死体験』(文藝春秋)
【オカルト・超常現象全般】
H・J・アイゼンク&D・K・B・ナイアス『占星術―科学か迷信か』(誠信書房)
コリン・ウィルソン監修『超常現象の謎に挑む』(教育社)
マーチン・ガードナー『奇妙な論理』(社会思想社)
マーチン・ガードナー『奇妙な論理U』(社会思想社)
マイクル・シャーマー『なぜ人はニセ科学を信じるのか』(早川書房)
ゴードン・スタイン編著『だましの文化史』(紀伊国屋書店)
カール・セーガン『カール・セーガン科学と悪霊を語る』(新潮社)
マイク・ダッシュ『ボーダーランド』(角川春樹事務所)
デイル・バイヤーステイン編『検証・サイババの「奇蹟」』(かもがわ出版)
テレンス・ハインズ『ハインズ博士「超科学」をきる』(化学同人)
テレンス・ハインズ『ハインズ博士「超科学」をきる Part2』(化学同人)
マイケル・W・フリードランダー『きわどい科学』(白揚社)
と学会『トンデモ超常現象99の真相』(洋泉社)
と学会『トンデモ本1999』(光文社)
別冊宝島415『現代怪奇解体新書』(宝島社)
別冊歴史読本『オカルトがなぜ悪い!』(新人物往来社)
【コンピュータ技術・人工生命】
A・ザイリンガー「量子テレポーテーション」(『日経サイエンス』2000年6月号)
J・W・トイゴ「パソコン大容量化 迫り来る限界」(『日経サイエンス』2000年8月号)
H・モラヴェック『電脳生物たち』(岩波書店)
H・モラベク「ロボットは人間を超えるか」(『日経サイエンス』2000年1月号)
スティーブン・レビー『人工生命』(朝日新聞社)
赤堀侃司編『標準パソコン用語事典』(秀和システム)
尾関章『量子論の宿題は解けるか』(講談社)
星野力『進化論は計算しないとわからない』(共立出版)
立花隆『電脳進化論』(朝日新聞社)
「トランジスタ時代の終焉、2010年にも」(『日経サイエンス』1998年5月号)
【人工知能と意識の問題】
ノイヴィッド・G・ストーク編『HAL伝説』(早川書房)
ジェームス・トレフィル『人間がサルやコンピューターと違うホントの理由』(日本経済新聞社)
E・ボナボー&G・テロラス「群れが生み出す知能」(『日経サイエンス』2000年7月号)
トール・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』(紀伊国屋書店)
スーザン・ブラックモア『ミーム・マシーンとしての私(上・下)』(草思社)
D・R・ホフスタッター『メタマジック・ゲーム』(白揚社)
D・R・ホフスタッター&D・C・デネット『マインズ・アイ』上・下(TBSブリタ二カ)
星野力『ロボットにつけるクスリ』(アスキー)
最新科学論シリーズ『最新脳科学』(学研)
最新科学論シリーズ『世界が注目する科学「大仮説」』(学研)
【進化論】
ナイルズ・エルドリッジ『進化論裁判』(平河出版社)
スティーヴン・ジェイ・グールド『嵐の中のハリネズミ』(早川書房)
スティーヴン・ジェイ・グールド『ダーウィン以来』上・下(早川書房)
スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ』(早川書房)
ロバート・シャピロ『生命の起源』(朝日新聞社)
エレイン・モーガン『進化の傷あと』(どうぶつ社)
デイヴィッド・M・ラウプ『ネメシス騒動』(平河出版社)
井尻正二&小寺春人『[新]人体の矛盾』(築地書館)
最新科学論シリーズ『最新大進化論』(学研)
【宇宙論・宇宙開発】
アイザック・アシモフ『時間と宇宙について』(早川書房)
ケネス・ガトランド『世界の宇宙開発』(旺文社)
アラン・H・グース『なぜビッグバンは起こったか』(早川書房)
エレイン・スコット『ハッブル宇宙望遠鏡』(筑摩書房)
カール・セーガン&アン・ドルーヤン『ハレー彗星』(集英社)
佐藤文隆・松田卓也『相対論的宇宙論』(講談社ブルーバックス)
(財)日本宇宙少年団編『スペース・ガイド 2002』(丸善)
別冊宝島138『宇宙論が怪しくなる本』(JICC出版局)
最新科学論シリーズ『宇宙天体論』(学研)
最新科学論シリーズ『最新天体論』(学研)
最新科学論シリーズ『激変天体論』(学研)
ムー・サイエンスシリーズ『最新宇宙論』(学研)
『スペースファインダー』(創育)
James Webb Space Telescope(http://www.jwest.nasa.gov/)
【心理学】
グスタフ・ヤホダ『迷信の心理学』(法政大学出版局)
E・F・ロフタス「偽りの記憶をつくる」(『日経サイエンス』1997年12月号)
大村政男『血液型と性格』(福村出版)
菊池聡『超常現象をなぜ信じるのか』(講談社)
菊池聡『予言の心理学』(KKベストセラーズ)
木元俊宏「再び広まる『血液型性格判断』」(『科学朝日』1991年11月号)
【南京大虐殺】
石田勇治編集・翻訳『資料・ドイツ外交官の見た南京事件』(大月書店)
岡田良之助・伊原陽子訳『南京事件の日々』(大月書店)
小野賢二・藤原彰・本多勝一編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(大月書店)
笠原十九司『南京難民区の百日』(岩波書店)
滝谷二郎『目撃者の南京事件』(三交社)
南京事件調査研究会編『南京大虐殺否定論 13のウソ』(柏書房)
藤岡信勝・東中野修道『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』(祥伝社)
藤原彰『新版 南京大虐殺』(岩波ブックレット)
吉田裕『新装版 天皇の軍隊と南京事件』(青木書店)
渡辺寛『南京虐殺と日本軍』(明石書店)
『南京戦史』(偕行社)
【歴史・世界情勢】
マーガレット・アーリク『男装の科学者たち』(北海道大学図書刊行会)
ケリー・ジェニングズ『エピソード魔法の歴史』(社会思想社)
カール・シファキス『詐欺とペテンの大百科』(青土社)
ハワード・マーフェット『H・P・ブラグァツキー夫人』(竜王文庫)
纐纈厚『侵略戦争』(筑摩書房)
関根伸一郎『飛行船の時代』(丸善ライブラリー)
松井茂『世界紛争地図』(新潮文庫)
安延多計夫『あヽ神風特攻隊』(光人社)
別冊宝島468『これから起こる戦争!』(宝島社)
『太平洋戦争の基礎知識』U〜W(SDBF・同人誌)
【メディア・インターネット】
C・マイネル「サイバーテロの主役”ゾンビ”ウイルス」(『日経サイエンス』2002年1月号)
木村哲人『テレビは真実を報道したか』(三一書房)
笠原唯央『テレビ局の人びと』(日本実業出版社)
宿南達志郎『eエコノミー入門』(PHP新書)
立花隆『インターネットはグローバル・ブレイン』(講談社)
堤大介『最新インターネット用語事典』(技術評論社)
「宇宙船地球号」編集部『オウム報道の犯罪』(神保出版会)
2ちゃんねる研究会『2ちゃんねるの本』(キルタイムコミュニケーション)
別冊宝島363『へンなインターネット』(宝島社)
別冊宝鳥 Real 008 『「IT」の死角』(宝島社)
【在日韓国・朝鮮人間題】
内海愛子・岡本雅亨・木元茂夫・佐藤信行・中島真一郎『「三国人」発言と在日外国人』(明石書店)
金井晴雄『13の揺れる想い』(麦秋社)
金完※『親日派のための弁明』(草思社)
佐藤文明『在日「外国人」読本[増補版]』(緑風出版)
辛淑玉『韓国・北朝鮮・在日コリアン社会がわかる本』(ワニ文庫)
豊田有恒『いま韓国人は何を考えているのか』(青春出版社)
野平俊水+大北章二『韓日戦争勃発!?』(文藝春秋)
『朝鮮を知る事典』(平凡社)
【経済問題】
跡田直澄+浅井隆『2003年、日本国破産[衝撃編]』(第二海援隊)
木村剛『キャピタル・フライト 円が日本を見棄てる』(実業之日本社)
深尾光洋『日本破綻』(講談社現代新書)
米山秀隆『世界恐慌』(ダイヤモンド社)
【その他】
エドモンド・ハミルトン「フェッセンデンの宇宙」(『SFマガジン』1961年4月号)
フランソワ=ベルナール・ユイグ『未来予測の幻想』(産業図書)
猪野健治編著『ゴーストライター』(エフプロ出版)
黒柳徹子『トットちゃんとトットちゃんたち』(講談社)
高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』(岩波書店)
坪田一男『理系のための研究生活ガイド』(講談社)
ヤマダ・マサミ『ウルトラQ伝説』(アスキー)
『ロマンとの遭遇 小松崎茂の世界』(国書刊行会)
別冊宝島 Real 042 『ドキュメント! 内部告発』(宝島社)
『imidas』(集英社)
『現代用語の基礎知識』(自由国民社)
『世界大百科事典』(平凡社)
国立天文台編『理科年表』(丸善)
シドさんの里親のホームページ(http://homepage1.nifty.com/foster-parent/)
東京ビッグサイトHP(http://bigsight.jp/)
方言を指導していただいた清松みゆき氏、貴重なアドバイスをいただいた JSKEPTIC 、および @nifty FSPACEI のみなさんに感謝いたします。
※本書はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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底本
角川書店
神《かみ》は沈黙《ちんもく》せず
平成15年10月31日 初版発行
平成16年3月20日 3版発行
著者――山本《やまもと》弘《ひろし》