審判の日
山本 弘
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目次
闇が落ちる前に、もう一度
屋上にいるもの
時分割の地獄
夜の顔
審判の日
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闇が落ちる前に、もう一度
愛する萌衣《もい》へ。
いきなりこんな長文のメールを受け取って、困惑しているかもしれない。でも、他に方法を思いつかなかったんだ。君がいるのはモンゴルの田舎、日本に帰ってくるのはまだ二週間以上も先だし、手紙を出してもいつ届くか分からない。
国際電話をかけることも考えたんだが、教えてもらったはずの、君の宿泊先の電話番号を書いたメモが、どうしても見つからない。いや、教えてもらわなかったのかな? 記憶があいまいだ。
君にだって経験があるだろう。財布とか鍵《かぎ》とか、ちょっとした小物が、確かに置いておいたはずの場所に見つからなくて、意外なところから出てきたことが。あるいは、初めて来た場所なのに、前にも来たことがあるように感じるとか。昔観た映画に、確かにこれこれこういうシーンがあったと思ってたのに、ビデオで観直してみたらそんなシーンはなかったとか……。
そう、ちょっとした記憶の混乱ってやつだ。誰にでもあることだ。
だが、今の僕は、それがひどく怖い。怖くてたまらない。
萌衣、君がインターネットにアクセスして、できるかぎり早く、このメールを読んでくれることを望む。そして、化石も何もかも放り出して、大急ぎで日本に、僕の腕の中に帰ってきて欲しい。
君にとって、今回の発掘調査が重大な意味を持つものだということは、十分に理解してる。でも、僕が発見した事実に比べれば、そんなのはちっぽけなことにすぎない。恐竜の絶滅の謎が知りたいって? そんなもの、僕が教えてやる。
時間はあまり残っていない。僕は今、君をこの腕で抱きしめたくてたまらない。君が実在することを確認したくてたまらない。
すべてが手後れになる前に。
僕は覚えている。二か月前、学食でいっしょに昼飯を食べていた時のことを。君のメニューは思い出せないが、僕が食べていたのは確かハムと茹《ゆ》で卵のついたBランチだった。
大学の調査団に参加してモンゴルに行くと、君がいきなり言い出した時の衝撃も、はっきり覚えている。確かに驚きはしたけど、引き止めようとは思わなかった。君の恐竜好きは「狂」がつくほどだって知ってたからね。たかが恋人なんかのために、大型の肉食恐竜の化石を掘り出しに行くなんて素晴らしい機会を、君が見逃すはずがない。引き止めようとしても、できるもんじゃなかったろう。
確かに四週間は長い。でも、耐えられないほどじゃない。永遠の別れというわけじゃないんだし、君を自由に遊ばせることで、僕の包容力の大きさを示す絶好の機会だと思ったんだ――そう思ったはずだった。
僕の記憶が正しければ、君の声を最後に聞いたのは、もう一〇日も前になる。現地のホテルに到着した君は、明日からいよいよ発掘現場に向かうんだって、うきうきした声で電話をかけてきたね。本当に楽しそうだった。
あれから、一度も連絡がなかったね。もっとも、「便りがないのはいい報《しら》せ」って言うから、僕はあまり心配していなかった。大好きな恐竜の化石の発掘に夢中になってるんだろう、毎日疲れ果てて、電話する気力もないんだろうと思っていた。国際電話の料金だってバカにならないし。
それに、僕の方も忙しかった。ここ数日、自分の研究と、大切な実験のことで頭がいっぱいで、正直なところ、君のことにまで頭が回らなかったんだ。
君はよく僕に恐竜の話をしてくれたね。僕にはあまり理解できなかったけど、何とかサウルス何とかとか、何とかロブス何とかとか、とても覚えきれないややこしい学名が、君のかわいい口からすらすら出てくるのを聞くのは、とても楽しかった。大好きな恐竜の話をする時、君は実に生き生きとしていた。
「恐竜って小惑星の衝突で滅びたんだろ?」と僕が言うと、君は笑って訂正した。そんな説も確かにあったけど、化石や地層から推測される絶滅の状況と合わないんで、古生物学者のほとんどは支持していない。恐竜の絶滅に関してはいろいろな仮説が提出されているけど、決定打と言えるものはまだなくて、謎のままなんだ、と。
僕の方はというと、専門の宇宙物理学の話を、君にあまりしたことがなかった。たぶん君には退屈だろうし、クエーサーの赤方偏移がどうの、大統一理論がどうのなんて話は、女の子とするには不粋な話題だろうと思ったからだ。
僕は子供の頃から疑問に思っていた。この宇宙はどうして生まれたのか。宇宙の果てはどうなっているのか。生命はどうして誕生したのか。人間はなぜ生きているのか――自分はなぜここにいるのか。
その疑問を解き明かしたくて、物理学を専攻し、宇宙論に進んだ。量子力学だの一般相対論だのを必死になって勉強した。いろんな法則や公式や理論を学んだ。プランク定数や微細構造定数や量子化ホール抵抗なんかの数値を、小数点以下五|桁《けた》までそらで言えるようになった。
実は宇宙物理学の分野にも、恐竜の絶滅に負けず劣らずの大きな謎がいくつもあるんだ。ガンマ線バースト問題とか、ダークマター問題とかだ。しかし、何と言っても多くの物理学者を悩ませているのは、ハッブル定数問題だ。
この宇宙が膨張しているのは、君も知ってるね。遠方の星雲やクエーサーがどれほどの速さで地球から離れていってるかを測定すれば、宇宙膨張の速度が分かる。その速度を示す数字がハッブル定数だ。
宇宙の膨張する速さが分かれは、そこから逆算して、宇宙のすべての星が一点に集まっていた時刻、つまりビッグバンが起きた時刻が計算できる。ハッブル定数は宇宙の年齢を決定する重要なファクターなんだ。
一九八〇年代頃まで、ハッブル定数は小さめに見積もられていた。宇宙の膨張スピードはゆっくりで、宇宙の年齢は二〇〇億年ぐらいだろうと思われてきたんだ。球状星団の年齢は一五〇億年ぐらいと見積もられているから、これは当然のことだった。星が宇宙よりも若いなんてことはありえないんだから。
ところが、九〇年代になって観測精度が向上して、ハッブル定数の見直しが行なわれた。その結果、ハッブル定数はそれまで想定していたより二倍ぐらい大きいと分かった。宇宙の膨張の速さは従来の倍だったんだ。
これは困ったことだ。新しく決め直されたハッブル定数が正しいとすると、宇宙の年齢は八〇億年から一一〇億年ぐらいになってしまう。宇宙が生まれる前から星があったという、おかしなことになってしまうんだ。
ハッブル定数の測定に間違いがあるんじゃないかと言われたりもしたが、いくら調べ直しても間違いは見当たらない。かと言って、球状星団の年齢の推定の方にも大きな間違いはありそうにない。それまでうまく行っていたように見えたビッグバン宇宙論は、いきなり重大な矛盾を抱えこんでしまったんだ。
この矛盾を説明しようと、多くの科学者がいろいろな説を発表してきた。宇宙の膨張速度は一定じゃないんじゃないかとか、ビッグバン理論に誤りがあるんじゃないかとか、光速度や重力定数なんかの物理定数が変化するんじゃないかとか……どれももっともらしいんだけど、今のところ、ちゃんと証明されたモデルはひとつもない。
今年の初めのこと、僕はある宇宙モデルを考案した。
名付けて「極大エントロピー宇宙モデル」だ。
極大エントロピーなんていうと、ややこしそうに思えるが、そんなに難しく考える必要はない。エントロピーというのは、分かりやすく言えば「デタラメさ」のことだ。極大エントロピーというのは、文字通りデタラメさが極限に達した状態、上も下も、あっちもこっちもない、どうしようもなくぐちゃぐちゃになった状態のことだ。
たとえを使って説明しよう。
ここに一〇枚のカードがあるとする。カードには1から10まで番号が振ってある。最初は12345678910と、順番に並んでいる。これは秩序のとれた状態、エントロピーの低い状態だ。
これをシャッフルすると、カードの並び方はばらばらになる。38916710452とかいった具合だ。これは秩序のない状態、エントロピーの高い状態だ。つまりカードはエントロピーの低い状態から高い状態に移行したわけだ。
いったんばらばらになってしまうと、何度シャッフルし直しても、カードが元通り12345678910と規則正しく並ぶことはまずない。つまり、エントロピー(デタラメさ)は増加する一方で、減少することはまずない。
これはカードだけじゃなく、あらゆる現象にあてはまる。冷水と熱湯を混ぜればぬるま湯になるが、ぬるま湯が冷水と熱湯に分離することはない。タバコを燃やせば灰と煙になるが、灰と煙が集まってタバコになることはない。宇宙のあらゆるものは秩序から無秩序に向かう――いわゆる「エントロピーの法則」ってやつだ。
だが、エントロピーは決して増加するだけじゃない。ごくたまに、小さくなることだってあるんだ。
カードが123の三枚しかない場合を考えてみよう。三枚のカードの並び方は、3の階乗、つまり六通りある。123、132、213、231、312、321だ。つまり、シャッフルを繰り返せば、六回に一回ぐらいの割合で、カードは元通り123と並ぶことになる。つまりエントロピーが減少する。
カードが四枚の場合、並び方は4の階乗、つまり二四通りになる。カードが元通り1234と並ぶのは、二四回に一回ぐらいの割合だ。五枚だと5の階乗、つまり一二〇通りだ。
じゃあ、カードが一〇枚の場合は? 10の階乗は三六二万八八〇〇通りだ。つまり、根気よく三六〇万回ぐらいカードをシャッフルすれば、たまに一回ぐらいは、カードが元通り12345678910と並ぶのを目にできるわけだ。
他の現象も同じことだ。ぬるま湯が熱湯と冷水に分離する確率、煙と灰が集まってタバコになる確率も、本当はゼロじゃない。ただ、その確率はあまりにも小さすぎて、日常生活で目にすることはできないというだけなんだ。
そこで僕はこう考えた。
まず、無限に広がる極大エントロピーの空間を想定する。そこにはいかなる秩序も存在しない。形あるものは何もない。光とクォーク、物質とエネルギーの区別もなく、もちろん生命や意識も存在しない。あらゆるものがスープのようにごった煮になっている。究極の混沌《こんとん》だ。そこでは時間も空間も意味がない。時間を計る基準が存在しないんだからね。
だが、その空間は静止してはいない。絶えずその状態を変化させている。ありとあらゆる可能性が絶え間なくシャッフルされ続けているわけだ。それらはごくたまに形になって、僕たちの知っている物質や光や時間や空間が生まれてくることもある。
さて、ここからがポイントだからよく聞いてくれ。
観測可能な宇宙は半径一五〇億光年の広さがあり、その中には10の80乗個もの素粒子が存在する。それらが取りうる状態の数は、さっきのたった一〇枚しかないカードに比べれば、途方もなく大きい。
その組み合わせの数を計算すると、ざっとこれぐらいになる。
10の(10の(10の(10の(10の15乗)乗)乗)乗)乗
10の15乗は一〇〇〇兆。「10の(10の15乗)乗」は、1の後に0が一〇〇〇兆個並んだ数だ。どれほど巨大な数か実感できるだろうか? 気が遠くなりそうな数だが、宇宙はこれだけ多くの状態を取り得るということなんだ。
無論、そうした状態の大半は秩序のない混沌状態にすぎない。そんな中からこの宇宙のように秩序のとれた状態が偶然に出現する確率は、ほとんどゼロに近い。
だが、それは決してゼロじゃない。宇宙の広さが有限である以上、その状態の数はどんなに大きかろうと有限であり、秩序ある状態が偶然に出現する確率はゼロじゃないんだ。
極大エントロピーの空間が無限に大きく、永遠に続くなら、そこで行なわれるシャッフルの回数も無限ってことになる。十分に長くシャッフルを続ければカードが規則正しく並ぶように、無限の時間の中で無限回のシャッフルが行なわれれば、ありとあらゆる可能性が出現することになる。
無限に広がる究極の混沌の中では、海のあぶくのように、ありとあらゆる種類の宇宙が生まれては消えているに違いない。僕たちの宇宙のような秩序ある宇宙が、まるごとひょっこり出現することだってありえる。
いや、「ありえる」という表現はおかしい。絶対にある!
僕はこの考えに沿って理論を展開し、何か月もかかって「極大エントロピー宇宙モデル」を作り上げた。僕たちの宇宙は、無限に広がる極大エントロピーの海の中の、偶然に秩序が回復した小領域にすぎない。いずれはまた極大エントロピーに飲みこまれ、あぶくのように消滅してしまうだろう。
このモデルの優れている点は、ハッブル定数問題を説明できることだ。従来のビッグバン理論では、宇宙は一点から生まれたとされている。でも、僕のモデルでは宇宙は最初から有限の大きさを持って誕生したことになる。生まれたばかりの宇宙の中に、生まれたばかりの銀河や星団がすでに存在したとしても、何の不思議もないんだ。
この理論には矛盾はないように思えた。僕は完成した論文を自信たっぷりで神奈川教授に見せた。学会誌に投稿する前に、参考意見を聞こうと思ったからだ。宇宙論に関しては、神奈川教授は日本でも五本の指に入る人物だからね。
だが、神奈川教授は穏やかな笑顔で、いきなり僕の鼻っ柱を打ち砕いた。僕の論文を読み、計算をし直して、重大な間違いがあると指摘したんだ。
僕の組み立てたモデルに従って計算してみると、この宇宙はきわめて不安定で、あっという間に元の極大エントロピーの海に飲みこまれ、消滅してしまうことになる。その寿命はせいぜい一〇〇億秒――三〇〇年ぐらいしかない。
僕は落胆したものの、神奈川教授は笑ってはげましてくれた。「正しいけれどもつまらない理論より、間違っていても独創的な理論の方が面白い」というのが、教授が常々口にしていたことだった。
「それに」と教授は言った。「誤った可能性がひとつ消えるということは、それだけ真実に近づくということです。ある考え方が間違っていることをきちんと示しておくのは、科学の進歩にとって有益です。後に続く人が同じ間違いに陥らないよう、あらかじめ警告しておくことができるわけですから」
そこで教授は、僕の理論が間違っていることを証明する実験をやってみようと提案した。その結果を論文にして発表すれば、今後、同様のモデルを提出して時間を無駄にするおっちょこちょいは激減する、というわけだ。
実験の原理は少しややこしいんで、君に理解してもらうのは無理かもしれない。それは核スピン共鳴という現象に関係している。もし僕の理論が正しいなら、宇宙が極大エントロピーの海から誕生した時点では、クォーク(陽子や中性子を構成する基本粒子)はきわめて不安定だったはずだ。原子核はその不安定性を今でもわずかに引きずっているはずで、それは核スピン共鳴の微妙なゆらぎを測定すれば証明できる。もしゆらぎが測定できないか、あるいは予想よりもずっと小さけれは、僕の理論はやはり間違いだったと、めでたく証明されるわけだ。
実験装置を組み立てるのは、そんなに難しくなかった。核スピン共鳴の実験は前にやったことがあって、測定装置はすでにあったから、それに必要な改造をちょっと加えるだけでよかった。研究室のみんなも協力してくれたので、たった四日で完成した。
僕としては複雑な心境だった。僕のバカさ加減を証明する実験に、みんながこんなに熱心になるなんて!
パソコンに強い有吉《ありよし》という男が、わざわざこの実験のためのプログラムを組んでくれた。実験装置が検知した核スピン共鳴のゆらぎのデータを入力すると、僕が考えた式に従って、それを解析してくれるというものだ。
実験が開始されたのは、昨日の午後四時のことだ。サンプルに用いたのは、純度一〇〇パーセントの二〇グラムのイリジウムだ。僕は自分の理論が打ち砕かれるのを、この目で目撃するという栄誉を得たわけだ。
ところが、実験を開始して五分後、研究室は熱狂的な歓声に包まれた。何と、ゆらぎが検出されたんだ。僕の理論の正しさが証明された!
「待って待って、慌てちゃいけません」神奈川教授は冷静に言った。「ゆらぎが大きすぎるように思えますね。有吉くん、クォークの年齢を計算してみてください」
有吉はパソコンにデータを打ちこんだ。彼のプログラムは、核スピンのゆらぎの大きさから逆算して、そのサンプルを構成しているクォークが、どれぐらい前に誕生したかを計算できるんだ。これは考古学者がよく使っている、炭素14法とか熱ルミネッセンス法とかいった年代測定法に似ている。炭素14法は、木材サンプルに含まれる放射性同位元素の量を測定することで、その木材がどれぐらい前に誕生したかを測定する。それに対して、核スピンのゆらぎによって測定できるのは、測定サンプルの古さではなく、サンプルを構成している原子核のクォークそのものの年齢だ。
クォークの年齢とは、言うまでもなく、この宇宙の年齢だ。
有吉のプログラムは、計算結果を秒の単位で画面に表示するようになっていた。たとえば宇宙の年齢が一〇〇億年と分かれば、「3.156 × 10^17sec」といったように表示されるはずだ。これは3・156掛ける10の17乗秒のことだ。一年は約三一五六万秒で、その一〇〇億倍がこの数字になる。
ところが、画面に現われたのは予想外の数字だった。
6.088 × 10^05sec
これにはみんな大笑いした。六〇万秒! これでは、宇宙はたった七日前に誕生したことになってしまう。
僕たちはひとしきり笑った後、実験のどこにミスがあったのかを検討した。まず有吉のプログラムにバグがあるんじゃないかと疑われたが、いくらチェックしても、何の間違いも発見できなかった。次に実験装置の配線か何かが間違っていたんじゃないかと思われたが、やはり異常はなかった。
五時半頃、念のためにもう一度、測定が行なわれた。今度はこんな数字が表示された。
6.150 × 10^05sec
サンプルに問題があるのかもしれないという意見が出たので、鉛のサンプルに交換して測定してみた。その結果はこうだ。
6.157 × 10^05sec
やっぱりダメだ。いくら調べても間違いが見つからないので、その日はお開きということになり、翌日、再度実験を行なうことになった。
そして今日、朝九時から僕たちは研究室に集合した。やはり念入りに装置を点検したうえで、午後一〇時五分、実験を行なった。
結果はこうだった。
6.739 × 10^05sec
その頃になると、僕たちはもうすっかり無口になっていた。というのも、その数字が出るであろうことを、内心、誰もが予想していたからだ。
僕は(そしておそらく他のみんなも)、家に帰ってからこっそり計算していた。昨日の最初の実験から、きっかり一八時間が経過している。一八時間は六万四八〇〇秒だ。
昨日の午後四時の時点の表示は、六〇万八八〇〇秒だった。それに六万四八〇〇秒を足すと、六七万三六〇〇秒になる。小数点以下三桁目だけが食い違っているが、これは誤差の範囲内だ。計算はほぼ合っている。
そこから論理的に導かれる結論はひとつしかない。
「もしかして、この測定、正しいんじゃないの?」
おそるおそるそう発言したのは、研究室の紅一点の森永という女の子だった。
その瞬間、研究室に気まずい雰囲気が流れた。それは誰もがすでに思いついてはいたのだが、口にするのが恐ろしい言葉だったからだ――アンデルセン童話で、誰も「王様は裸だ!」と言い出せなかったように。
「そうだとすると」有吉がつぶやいた。「計算では八日前の三時ってことになるな」
「冗談じやねえ!」今木という男が食ってかかった。「俺には先週の記憶も、先々週の記憶もちゃんとあるぞ! 先々週の日曜は彼女と映画に行って……」
「そんなのはたいした問題じゃないだろう?」有吉がやけに冷静に指摘した。「人間の脳だって、しょせん原子の集まりだ。知識だの記憶だのってものも、原子が集まってできている。つまり、彼女と映画に行ったっていう君の記憶は――」
「分かってる! 分かってるよ、そんなことは!」
今木は髪をしきりにかきむしっていた。懸命に怒りと不安を抑えているようだった。他のみんなも黙りこくっていた。神奈川教授でさえ顔色が悪く、動揺を隠そうとしてか、しきりに眼鏡を拭《ふ》いている。
当たり前だ。自分の存在を否定されたんだ。自分の全人生が――過去において体験した喜びや悲しみ、そのすべてが虚構にすぎなかったと宣告されたんだから。
いつの間にか、みんなの視線は僕に集中していた。お前が悪い、こんなことを発見したお前が悪いとでも言うように。
僕はいたたまれなくなって、研究室を飛び出した。
そして今、僕は自分のアパートに帰って、ノートパソコンに向かい、この文章を書いている。
萌衣、君は恐竜の絶滅の原因を知りたがっていたね? 教えてあげよう。
いいかい、恐竜なんてものはいなかったんだ。だから恐竜の絶滅も起こらなかった。博物館に展示されている化石、そして今、君たちが発掘している化石は、たった八日前に、忽然《こつぜん》と出現したものなんだ――僕たちみんなや、僕たちの記憶、この地球上のすべての動植物や無生物、太陽や月や惑星といっしょに。
この宇宙は八日前の日本時間午後三時に誕生したんだ。
理科系のこんなジョークがある。サルをタイプライターの前に座らせ、めちゃくちゃにキーを叩《たた》かせる。当然、出てくるのはデタラメな文章ばかりだ。だが、十分に長い時間、おそらくこの宇宙の寿命よりはるかに長い時間、キーを叩き続ければ、やがてシェークスピアの全作品を叩き出すだろう……。
シェークスピアにかぎったことじゃない。もしこのサルに無限の寿命と根気強さがあるなら、地球上の過去・現在・未来のすべての文学作品、失われた作品や書かれなかった作品までも、すべて打ち出すに違いない。
無限のシャッフルを続ける極大エントロピーの海は、まさにこの根気強いサルなんだ。僕たちの脳の中の記憶、紙に書かれた文章、ビデオやフィルムの映像、CDやDVDの記録、石に刻まれた古代の碑文……その他もろもろのデータはすべて、偶然に生み出されたものなんだ。
それ以前には何もなかった。八日前の午後三時より前には、この宇宙は存在していなかった。ただ、いろいろな記録や、僕たちの記憶の中で、ずっと昔から存在していたかのようになっているだけなんだ。
人類の歴史はすべて虚構だった。シェークスピアなんていなかった。図書館にあるシェークスピアの全戯曲は、極大エントロピーの海が――根気強いサルがタイプライターをめちゃくちゃに叩いて生み出したものだったんだ。
無論、データは完全というわけじゃない。何しろ偶然に生み出されたものなんだから、あちこちに重大な矛盾があるのは当然だ。
恐竜の絶滅もそのひとつだ。ハッブル定数問題も。ガンマ線バースト問題や、ダークマター問題もだ。
いわゆる超常現象――UFOとか、スプーン曲げとか、幽霊といった、現代物理学で説明できない現象も、それで説明がつく。本当はそんな現象はひとつも起きなかったんだ。それらはみんな八日前より以前の出来事、宇宙がまだ存在しなかった頃のことだからだ。人間の記憶の中や、記録の中だけに存在する現象なんだ。
僕は断言するが、この八日間、地球上のどこでも、一本のスプーンも曲がっていないし、一人の幽霊も目撃されていないはずだ。だって、この宇宙においては、そんなことは決して起こり得ないんだから。
間違いはシェークスピア作品の中にもある。これは友達から聞いた話だが、『恋の骨折り損』の中には、まったく意味不明の単語がいくつも出てくるんだそうだ。これこそ、シェークスピア作品が偶然に生み出されたという証拠じゃないだろうか?
僕たちの記憶の中にある微妙な間違い――小物が見つからないとか、初めて来た場所なのに前にも来たことがあるように思うとか、前に観たはずの映画であったはずのシーンがないとかいったことも、みんなそれで説明がつく。記憶は完全じゃないんだ。それらはみんな偶然に形成されたものなんだから。
この宇宙はあとどれぐらい続くんだろう? 僕は最初のモデルを組み立てる時、宇宙の半径を一五〇億光年として計算した。でも、それには根拠がない。宇宙論学者が宇宙の大きさを求めたのは(あるいは求めたと記憶しているのは)、八日より前のことなんだから。
もう夜だ。窓の外には星が見える。その光は何百光年も旅してきたものじゃない。八日前に、地球から八光日(約二〇〇〇億キロ)の地点で生まれた光が地球に届いているんだ。つまりこの宇宙の半径はせいぜいそれぐらいということになる。太陽系外のすべての天体は存在しない。宇宙誕生と同時に生まれた光が、偶然に星のように見えているだけだ。
極大エントロピー宇宙モデルでは、宇宙の寿命はサイズの立方根に比例する。宇宙が理論値の何千億分の一の大きさしかないとすれば、その寿命も短い。
さっき、計算し直してみた。この宇宙の寿命は、どんなに長く見積もっても一五〇万秒――約一七日だ。そのうちの八日間がもう過ぎてしまった。あと九日以内に、世界は終わる。
終末はさりげなくやって来るだろう。宇宙が誕生した瞬間と同じく、終わる瞬間も、誰にも気づかれないだろう。閃光《せんこう》も爆発音もしない。一切の気配はない。僕たちは何も感じないだろう。一秒の何兆分の一という短い時間の中で、押し寄せてくる極大エントロピーの海に、すみやかに還元されるだろう。
だから終末を恐れる必要はない。苦痛や恐怖を感じる暇さえないんだから。
僕が本当に恐れているのは、そんなことじゃない。
萌衣、君と電話で最後に話したのは今から一〇日前だ。それ以来、一度も君の声を聞いたことがない。この八日間、一度も。
どうして一度も電話をよこさないんだ? どうして君の連絡先を書いたメモが見つからないんだ?
確かに僕の手帳や携帯には、君のマンションの電話番号や、君のEメールのアドレスが載っている。だが、こんなものは何の意味も持たない。八日前に宇宙といっしょに出現したものにすぎないんだから。
この宇宙に意味のあるものはひとつもない。
萌衣、僕は気が狂いそうだ。君との出会い、よくいっしょに学食で昼飯を食べたこと、遊園地で遊んだこと、博物館に恐竜展を観に行ったこと、初めてのキス、ホテルや君のマンションで愛し合ったこと、それらすべてを僕は覚えている。君のはつらつとした笑顔、よく響く明るい声、長い髪のさらさらした手触り、肌のぬくもり……どれもこれも克明に思い出せる。
ああ、でも、そのすべては宇宙が存在する前の出来事――ありえなかった虚構の記憶なんだ!
萌衣、君は本当に存在するのか? それとも僕の記憶の中だけの存在なのか?
お願いだ、君が本当に存在しているなら、すぐに日本に帰ってきてくれ。恐竜の化石なんて何の意味もない。発掘するだけ無駄というもんだ。調べたって何も分かりゃしないさ。それは僕たちみんなと同様、偶然に生み出されたものにすぎないんだから。
厳密に言えば「帰る」という表現はおかしいかもしれない。君は八日前にモンゴルで生まれたばかりで、一度も日本にいたことなどないんだから。
でも、それでもやはり、君には帰ってきて欲しい。あと九日しかないんだ。この虚構に満ちた宇宙のすべてが極大エントロピーの海に還元される前に、君の姿をもう一度見たい。君をもう一度抱きしめたい。
もう一度? いや、そうじゃない。僕は君を抱いたことなんか一度もない。この宇宙が誕生して以来、君と会ったことすらないんだから。
でも、それでも僕は言う。
闇が落ちる前に、もう一度、君を抱きしめたい。せめて君をこの腕に抱きながら、終末を迎えたい。
もし君が実在するのなら。
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屋上にいるもの
たん、すたたん、すたたたた、たん、たたん、たんたん……。
耳をすますと、天井からかすかに音が聞こえてくる。注意しなければ聞き逃してしまうほど小さく、くぐもった音。誰かがコンクリートを叩《たた》いているような音。
この部屋は八階建てのマンションの八階。上には屋上があるだけだ。
たたん、すたたん、たんたんたん、すたたた、たん、たんたん……。
俺はどうしても寝つかれず、布団の上で悶々《もんもん》としていた。机の上のデジタル時計は午前一時を表示している。
一人暮らしのワンルーム・マンションである。部屋にいるのは俺だけだ。首を左右に振るだけで、キッチンからベランダまで見渡せる。服はみんな押し入れにしまってあるので、タンスはない。家具と呼べるのは、テレビ、机、本棚など、最小限のものだけで、部屋はがらんとしている。気軽な独身生活に、そんなにたくさんのものは必要ない。
これまでは、淋《さび》しいとも怖いとも思ったことはない。
ベランダの方に目をやった。カーテンの隙間から見える外は、暗幕を張りめぐらせたように真っ暗だ。夕方からずっと、霧のような小雨がしとしとと降っている。
少し前まで、隣の805号室から、バラエティ番組を見ているらしい笑い声がごくかすかに聞こえていたのだが、それも途絶えていた。マンションの前の交通量もめっきり減っているらしく、何分かに一度、通り過ぎる車のエンジン音が響くぐらいだ。それ以外に聞こえるものといえば、キッチンの冷蔵庫がたてる、ぶうーんという低い振動音と、ベランダの手すりにしたたる雨の音ぐらいだ。
だが、天井から聞こえてくる音は、雨の音ではないように思えた。小雨が屋上を叩いているだけなら、厚いコンクリートを通して聞こえるはずがない。それに、昔は完全に不規則というわけではなく、どことなくリズミカルな印象を受けた。
すたん、すたん、すたん、たたたた、すたん、たんたんたん、すたたん……。
だが、完全に音楽的というわけでもない。そこに秘められたリズムを把握しようとするのだが、つかめたと思うと、するりと手から抜けてしまう。しばらく三拍子が続いたかと思うと、急に二拍子になる。さらに四拍子になり、また三拍子へと、ランダムに変化する。
俺は寝転がったまま、似たようなリズムを思い出そうとしていた。タップダンス? 大相撲の呼びこみの太鼓? いや、むしろアフリカあたりの原住民が叩く太鼓のリズムに近いかもしれない……。
もちろん、雨が降っているというのに、真夜中にマンションの屋上で太鼓を叩く奴などいるはずがない。
たたん、すたたん、たたたん、すたたん、たんたんたんたん、たん、たたん……。
その音を耳にするのは、これが初めてというわけではない。雨の降る真夜中にちょくちょく聞こえるのだが、これまであまり気にしたことはなかった。
晴れた夜には聞こえたことはない。昼間はどうなのだろう? 俺には断言できなかった。平日の昼間はほとんど部屋にいないし、音がしていたとしても、周囲の喧騒《けんそう》でかき消されてしまうだろう。それほどかすかな音なのだ。
たたたん、たたたん、たたたん、すたたん、たたん、すたたん、たんたん……。
俺は音の発生原因をあれこれと推理した。たとえば、屋上に立っている共同視聴用アンテナが風で揺れているのかもしれない。あるいは、貯水タンクに水を汲み上げるポンプの音なのかもしれない。あるいは、パイプか何かが温度変化できしんでいるのかもしれない……。
だが、どの仮説も俺には納得できなかった。なぜなら、その微妙にリズミカルな音は、人間がたてているように思えてならなかったからだ。
すたん、たたん、すたん、たたん、たん、たん、たん、たん、たたたたたん……。
馬鹿馬鹿しい! 俺は笑って、妄想を振り払おうとした。真夜中、雨の降る屋上に、いったい誰がいるっていうんだ?
だが――
理性では分かっていても、俺はどうしてもその妄想を拭《ふ》いきれなかった。
本当に断言できるのか? 屋上に誰もいるはずがないと?
俺がこのマンションに住むようになって、もう一年半にもなる。だが、屋上のことが気になりだしたのは、ほんの半月ほど前のことだ。
きっかけは些細《ささい》なことだった。会社の昼休み、同僚たちが週刊誌の記事をネタにして雑談をしていた時、同僚の古賀|範子《のりこ》が、巻末のグラビア・ページを示して、間延びした声を出したのだ。
「ねーえ、ここってほらあ、若原さんの住んでるとこじゃないの?」
範子は以前、俺のマンションに遊びに来たことがある。
「どれどれ」
俺はそのページを覗《のぞ》きこんだ。「変わりゆく郊外」とかいう題のシリーズものだった。東京周辺のいくつかのベッドタウンの二五年前の空撮写真を、同じ高度から撮った現在の写真と比較し、開発がどれほど進んだかを検証しようというものだ。
右側のページに掲載された二五年前のモノクロ写真には、竹林に覆われたなだらかな丘陵と、のどかな田園が写っていた。画面の下端に私鉄の駅があるが、民家はまだ田んぼの中にまばらに点在している程度だ。しかし、丘陵の麓《ふもと》には造成地が侵蝕《しんしょく》を開始していて、ちっぽけなブルドーザーやショベルカーも見える。
左側のページには、同じ場所の現在の写真が載っていた。竹林は姿を消し、田んぼも写真の片隅に追いやられている。丘陵の斜面はほぼ完全に住宅やマンションに覆い尽くされていた。画面の下端に駅がなかったら、とても同じ場所だとは信じられなかっただろう。駅前には商店街が広がり、路上にも人や車がゴミのように点在していた。
「あ、ほんとだ。俺の住んでるとこだ」
俺は写真に顔を近づけた。その駅は、いつも通勤に利用している駅だった。駅前の商店街周辺の地理にも見覚えがある。
「じゃあ、若原くんの家も写ってんのか?」
同僚の有森が訊《たず》ねた。
「ああ。駅のすぐ近くだからな。ちょっと待ってくれ。ええと、ここのスタンドのとこで曲がって……」
俺は写真の上を指でたどった。いつも歩いている道とはいえ、地上からの視点とではまるで印象が違うので、少しとまどった。
「あっ、ここだ。このマンション!」
俺は声を上げた。画面の右上隅、ぎりぎりの位置に、俺の住んでいるマンションがはっきりと写っていた。写真の上では消しゴムの半分ほどのサイズだ。
「へーえ、ほんとに駅に近いじゃん」
「ロケーションいいよな。家賃、高いんじゃないの?」
「いや、それほどでもないよ。ワンルームだし」
ワンルーム・マンションというやつは、独身者や核家族の増加を当てこんで、一時期ずいぶん建てられたらしい。だが、すぐに人気がなくなった。俺が安く借りられたのも、入居者が少なく、値崩れを起こしていたからだった。
「ただ、都心から遠いのがネックだな。通勤に時間がかかってさ」
「ところで、何で範子、若原さんの家知ってんの?」
「ん? ああ、違う違う。借りてたCD、返しに行っただけ」
「またまたあ!」
「ほんとよお。そんなんじゃないったらあ」
俺たちはその写真を肴《さかな》に、他愛ない雑談で盛り上がった。
それにしても――俺はその写真を眺め、感慨にふけった。たった二五年で風景はこれほどまでに変わるものなのか。自分の住んでいる街が、ほんの少し前まで田園と竹林に覆われていたとは。現在の街並みからはとても想像がつかない。
写真の奇妙な点に気がついたのは、白石|芽里《めり》というOLだった。おっとりしていて口数が少ないのだが、妙に観察力が鋭い。みんなで雑誌の間違い探しクイズなどをやっていると、みんながどうしても見つけられなかった最後の一箇所のミスを発見するのは、たいてい彼女なのだ。
「んん〜?」
芽里はただ一人、俺たちの雑談に加わっていなかった。首をかしげ、写真に顔を近づけて、しげしげと観察する。
「屋上に誰かいるよ……?」
「え?」
「ここ、ほら……」
俺たちは頭を寄せ、芽里が指差した場所に視線を集中した。
俺の住んでいるマンションの屋上。その一画に、縦長の細く白っぽいものが写っていた。長さは二ミリもない。写真についたゴミのようにも見えたが、言われてみれば人間のように見えないでもない。
「これ……裸じゃないか?」
有森がつぶやいた。確かに、それが人間だとすると、服を着ていないように見える――だが、マンションの屋上に、なぜ裸の人間が?
「誰かが日光浴してたとか……?」
「この一〇月にか?」
「周りにも何か散らばってるよね」芽里が指摘した。「ほら。よく分からないけど、何か白いものがいっぱい……」
「鳩のフンじゃないの?」
「でも、他の建物の上にはないみたいよ」
「洗濯物かな? 誰かが洗濯物を干しに来たついでに、日光浴してたとか……?」
「いや」俺はマンションの構造を思い出した。「屋上には自由に出入りできないんだ。階段が屋上まで通じてない。屋上に上がろうと思ったら、壁についてる梯子《はしご》を登らなくちゃいけないんだ」
「じゃあ、洗濯物なんか干しに行けないよね」
「当たり前だろ」
「若原、登ったことあんの?」
「ないよ。屋上に行く用事なんかないからな」
「ひょっとして……」範子が気味悪そうに言った。「霊だったりして」
「航空写真の心霊写真か? 前代未聞だな」
俺たちはその冗談で軽く笑い合った。
そのうち、俺たちの雑談の内容は、もっと現実的なテーマ――マンションの家賃とか、住宅ローンとか、通勤時間とか――に移っていった。誰もその白いもののことは口にしなくなったし、それ以上深く詮索《せんさく》しようともしなかった。どのみち、あまり真剣に話し合うような話題でもなかった。
しかし、俺の心の中で、何かがちょっとひっかかっていた。
三田女史と知り合ったのは、それから何日も後の土曜日だった。
うちの会社はまだ完全週休二日制ではないので、土曜日も午前中は出社しなくてはならなかった。午後からはデートの予定もなく、観たい映画も特になかったので、会社の近くの店でカレーを食べた後、早めに電車に乗った。帰り道のコンビニで週刊誌を少し立ち読みし、夕食用のレトルト食品と明日の朝食のパンを買い、マンションに帰り着いたのは午後三時だった。今夜は九時からテレビで観たい番組があるのだが、それまでどうやって時間を潰《つぶ》そうかと、ぼんやりと考えていた。
俺の住むマンションが建っているのは、丘の斜面を切り開いて通られた新興住宅街である。駅から近いとは言うものの、強引な造成をやったせいで、途中の坂道の傾斜がかなり急である。マンションはよりにもよって、その坂道を登りきったところに建っている。出勤の時は下り坂だからいいが、夜遅く疲れて帰ってきた時など、この道がけっこうきつい。
秋も深まり、空気は冷たかった。坂道を登る途中、俺はふと立ち止まり、マンションを見上げた。
今にも雨が降り出しそうな鈍い灰色の空を背景に、タイル貼りの壁がそそり立っている。各階に五部屋ずつしかないため、さほど高くはないのに、縦に長く感じられる。南側の側面からベランダが七段、引き出しのように飛び出している様は、ついつい和箪笥《わだんす》を連想してしまう。
屋上にあるセントラル・ヒーティングの排気筒から、白い湯気がうっすらとたなびいているのが見える。
バブル期の真っ最中に建てられたと聞いている。完成当初は純白だったのだろうが、今では雨や排気ガスの汚れが染みつき、灰色にくすんでいた。内部に入ってみると、さすがに二〇年近い年月には勝てず、天井は薄汚れているし、壁面のところどころに小さなひび割れもあったりする。もっとも、セントラル・ヒーティング完備で、住み心地は決して悪くない。通勤に時間がかかるという欠点はあるものの、このマンションを見つけたことを幸運だと思っていた……。
ぼんやり眺めていると、一瞬、屋上に何か小さく黒いものが見えた。
はっとして、よく見直そうとした時には、それはもう見えなくなっていた。人の頭のような気もしたが、自信はなかった。カラスかもしれない。最近、このあたりも多いからな……。
俺はあまり気にせず、また坂を登りはじめた。
いつものように管理人室の前を通り過ぎようとしたら、口論が聞こえてきた。
「何もせず放りっぱなしなんて、いくら何でも無責任じゃありませんn!? せめて検査でもしたらどうなんですか!?」
ヒステリックな若い女の声だった。ドア越しに聞こえるほどだから、かなりの大声で言い合っているのだろう。俺は気になり、立ち止まって耳を傾けた。
「だからねえ、私はこのマンションの管理をまかされてるだけで……」管理人の声は困り果てているようだった。
「管理人が住民の安全を管理しなくて、どうするんですか!?」
「だからねえ、あなた以外の誰も、水のことで苦情を言ってきた人はいないんですよ。水のせいで病気になったなんて話も聞きませんしね」
「病気になってからでは遅いんですよ! ちゃんと手を打ってください!」
「何度も言いましたように、管理費はきちきちなんですよ。余分な予算はないんです。業者に委託するのに何十万かかると思います?」
「お金がないからって、おろそかにしていい問題ですか!」
「だからねえ、あなたの考えすぎですよ。げんに何の異状もないんですから」
「検査もしてないで、どうして異状がないと言えるんですか!?」
「だから……」
しばらく立ち聞きしていたものの、さっぱり要領を得なかった。水がどうこうと言っているが、議論が同じところで堂々めぐりしているので、何の話なのかよく分からない。俺が立ち去ろうとした時――
「もう結構です! あなたには頼みません!」
ドアが勢いよく開き、女が管理人室から飛び出してきた。興奮していたせいで、あやうく俺とぶつかりそうになり、「あっ、ごめんなさい」と謝る。
眼鏡をかけた狐のような顔の女だった。どこかで見覚えのある顔だ。年は三〇歳前後といったところか。腹を立てているせいで、少しきつい印象は受けるものの、決して不細工な方ではない。
俺たちはいっしょにエレベーターに乗りこんだ。俺が <8> のボタンを押そうとすると、彼女が先に押した。俺はようやく彼女の顔に思い当たった。このマンションの玄関で何度かすれ違ったことのある女だ。ということは、同じ階の住人なのだろうか。
「あの……」
上昇するエレベーターの中で、女が声をかけてきた。まだ興奮しているのか、呼吸が少し乱れている。
「はい?」
「同じ階の方ですよね?」
「ええ。804ですが」
「私、803の三田と言います」
「あっ、お隣でしたか」
俺はちょっと驚いた。一年半も暮らしていたのに、隣人を知らなかったのだ。
無理もない。いちおう引っ越しの時に同じ階の住人に挨拶《あいさつ》に回ったのだが、隣室はたまたま留守だったのだ。表札に「三田」とあるだけで性別も家族構成も不明だし、どんな人が住んでいるのか、あまり興味もなかった。
無関心すぎる、と笑われるかもしれないが、マンションの暮らしというのはそういうものだ。
「すみません」
エレベーターの扉が開き、通路に一歩踏み出した俺を、女が呼び止めた。
「少し話を聞いていただけませんか? お時間は取らせません。このマンションの衛生管理についてなんですが」
エイセイカンリという言葉が、俺の頭の中で正しく変換されるのに、一秒ほどかかった。
「衛生管理……ですか?」
「ええ。このマンションの水道の水質に問題があるんです。これって、私だけじゃなく、住民全体の健康に関わる問題でしょ? できることなら、住民の方にできるだけ多く知っていただきたいと思って」
いかにも退屈そうな話題である。普段の日なら断わっていただろう。だが、俺は午後の時間をどう済そうかと考えていたところだったので、少しぐらいならお喋《しゃべ》りにつき合ってやってもいいという気になった。
さらに言うなら、相手が女だったから、というのも理由のひとつだ。俺はちょうど今、フリーである。せっかくすぐ近くに独身の女がいるのだから、軽くお近づきになってみても損はあるまい。少し話してみて、性格の良さそうな女だったら、さらに親しくなるのもいいだろう……。
そんな下心を抱きながら、俺は彼女の部屋を訪れた。
当たり前の話だが、部屋の造りは俺の部屋とまったく同じだった。だが、印象はかなり違う。さすが女の部屋だけあって、衣裳《いしょう》ダンスはあるし、カーテンの柄は華やかで、キッチンの小物類もしゃれている。壁にはラッセンの絵が掛かっていた。隅々まできちんと整理されており、俺の部屋のように雑誌が床の上に散乱していたり、汚れたままの食器が流しに積み上がっていることもない。ほんのりと芳香剤の香りもした。
同じ部屋でも住む人によってずいぶん違うものですね、と俺が言うと、彼女はそれを誉め言葉と受け取ったらしく、すっかり機嫌を良くした。俺たちは部屋の内装の話にはじまって、互いの職業について語り合った。
彼女はルポライターの仕事をしており、たまにエッセイなども書いているそうで、自分の文章が載った雑誌を何冊か見せてくれた。それを見て、彼女のフルネームが「三田|久美香《くみか》」だと知った。どれも俺が読んだことのない女性雑誌だったから、名前を知らなくても当然だ。
キッチンの方でピーッという音がした。紅茶を入れるためにレンジにかけていたヤカンが沸騰しているのだ。彼女が立ち上がってキッチンに向かったので、てっきりガスの火を止めるのだと思っていた俺は、彼女が火をつけっ放しにしたまま、ヤカンの蓋《ふた》を取っただけで戻ってきたので、不思議に思った。
「五分ほど沸騰させておくんですよ。トリハロメタンを飛ばすために」
俺の表情に気づいたらしく、彼女はそう説明した。
「トリハロメタン?」
「塩素処理の際に発生する発ガン性物質です。水道の水には必ず含まれてるんですよ。だから、沸騰してもすぐに火を止めずに、五分ほど沸騰させておくんです。そうすれば水の中に含まれているトリハロメタンはほとんど蒸発しますから。浄水器もある程度は効果がありますけど、過信するのは禁物ですね」
俺はもう一度キッチンに目をやった。よく見れば、水道に接続している浄水器は、やけに高級そうなやつだ。
「でも、換気扇を回すのを忘れずにね。蒸発したトリハロメタンを吸いこんだら、何にもなりませんからね」
「はあ……」
「環境汚染は知らないうちに私たちの身近に忍び寄ってきてるんです。お上にまかせてたら埒《らち》があきません。可能なかぎり、自分たちで対策を立てないとね。本当はミネラルウォーターを飲むのがいいんだけど、高いですしね」
さらに彼女は、俺が訊ねてもいないのに、残留塩素がどうのクリプトスポリジウムがどうのといった話をはじめた。
なるほど、こいつは「エコ・オタク」ってやつだな、と俺は思った。健康や環境の問題に神経質になるあまり、水質だの食品添加物だのをやたらに気にして、ミネラルウォーターや無農薬野菜しか口にせず、同僚の生活態度におせっかいな口出しをしたがる……そんな男か女が、どこの職場にも一人はいるものだ。
無論、俺だって健康には気を遣うし、地球の環境を守るのも大事だと思っている。だが、物事には中庸ってもんがある。あまり神経質になりすぎて、他人に不快感を与えるのはやりすぎだ。だいたい、有害物質を飛ばすためにヤカンの湯を五分も沸騰させ続け、換気扇を回し続けるというのは、俺には地球に優しい行為のようには思えない。貴重な天然ガス資源を浪費しているうえ、温室効果の原因になる二酸化炭素を余分に大気中に放出しているのだから。
「特にマンションの屋上の貯水タンクの安全性は無視されがちです」彼女はニュースキャスターのような口調で弁舌をふるった。「たいていの貯水タンクは、軽いFRP――ガラス繊維で補強されたプラスチックでできています。これは薄いですから、太陽光線を通すんです。だから内部はけっこう明るくて、藻が繁殖しやすい環境なんです。水道管を通って、藻の種子が流れてくるんですね。検査のために蓋を開けてみたら、藻がびっしり繁殖していたという例も、よくあるそうです」
シナリオでもあるかのように、すらすらと台詞《せりふ》が出てくるのは、おそらくもう何人もの人間に同じことを説明してきたからだろう。
「藻は水中の雑菌やダニの繁殖を助けます。それに、藻そのものも有害物質を出すことがあります。放っておくと危険なんです」
「はあ、なるほど」俺は気のない相槌《あいづち》を打った。
俺はこの部屋に入ったことを後悔しはじめていた。彼女は「三田さん」や「久美香さん」ではなく、「三田女史」と呼びたくなるタイプだ。こういう堅苦しい女に惹《ひ》かれる男もいるだろうが、少なくとも俺の好みではない。
「それだけじゃありません。私、水道業者の人に取材したことがあるんですけど、貯水タンクの中から鳩や鼠の死骸《しがい》が発見されたという例も、たくさんあるんだそうです。タンクの蓋がずれてたりすると、動物が水を飲みに入ってきて、中で溺《おぼ》れ死ぬんですね。腐った死体がぷかぷか浮かんでるんです上。そんな水、飲みたいと思います?」
「まあ、確かに……」
「でしょう?」
「でも、何でそんなにひどくなるまで放っておくんですかね?」俺は素朴な疑問を口にした。「取り締まる法律か何か、ないんですか?」
「そこが問題なんですよ」よくぞ聞いてくれた、とばかりに三田女史は身を乗り出してきた。「ビル管理法とか水道法施工規則というのがあって、容量一〇立方メートル以上の水槽に関しては、年に一回の清掃点検と水質検査が法律で義務づけられてるんです。ところが一〇立方メートル未満のタンクに関しては、一部の自治体では条例で点検を義務づけていますが、まだ条例のできていない地域が多いんです。それをいいことに、ビル管理者の中には、清掃せずに放っておく人がいるんだそうです。ひどい話だと思いません?」
「じゃあ、このマンションのタンクも……?」
「書類で調べてみましたけど、容量は九・六立方メートルでした。それに、私が入居して二年半以上になりますけど、タンクの清掃があったという記憶はありません。清掃の際には水道を止めますから、必ず全室に通知が行くはずです――あなた、覚えあります?」
「いいえ」
「でしょう? 少なくとも二年半以上――あるいはもっと前から放置されてる可能性が高いですね」
「うーん……」
俺はうなった。さすがに気味の悪い話である。
「それだけじゃないんです。エレベーターもなんですよ」
「エレベーター?」
「ええ。建築基準法で、月一回は定期点検しなくちゃいけないはずなんですけど、やっぱりやってるのを見た記憶がありません。どうも、四年前にエレベーター業者が倒産して、それ以来、点検してないらしいんです。だから、いつ壊れるか分からないんですよ」
「そりゃひどいなあ」
確かに、上昇する際に何やらぎしぎし音がするのが気になっていた。
「噂だと、このマンションのオーナー、土地バブルの時期に調子に乗ってマンションを何軒も建てたものの、地価の値崩れでかなり損したみたいですね。だから、少しでもお金をけちろうとして、建物の管理も手を抜いてるみたいなんです」
「確かに。入居者も少ないから、儲《もう》からないでしょうね」
玄関の郵便受けの表札を見れば分かるが、このマンションの部屋の約四割は空部屋だ。やはり都心から遠すぎるせいだろうか。
三田女史は表情を曇らせた。
「まあねえ。『呪われてる』なんて噂を耳にしたら、たいていの人は尻《しり》ごみするでしょうしねえ」
「え、呪われてる?」
「知りませんでした? 隣の部屋で三年前に――ああ」
何か言いかけて、彼女は急にあることに気がついたようだった。はっと息を呑み、俺の顔を見て、気まずそうな表情をする。
「あなた、804だったんだ……」
「俺の部屋が何か?」
三田女史は慌てて取り繕おうとした。「いえ、ご存じでなければいいんですけど」
「はあ?」
「たいしたことじゃありません。気にしないでください」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」三流コメディのような彼女の臭い演技に、俺は思わず苦笑した。「『ご存じでなければいい』? 『気にしないでください』? そりゃないでしょ。そんな思わせぶりなこと言われたら、かえって気になりますよ」
「でも……」
「ああ、もしかしてオカルト関係ですか? 別にかまいませんよ。俺、その手の話は平気ですから」
「はあ……」
「あれでしょ」俺は冗談っぼく声をひそめた。「俺の部屋で前の住人が自殺して、その霊が出るとか――あ、でも変だな。もう一年半も住んでるけど、霊なんて見たことないし、気配も感じたことないんだけどな」
彼女は大きく息を吸い、あきらめたように話しはじめた。
「……自殺じゃないんです」
「ほお?」
「壇上さん――あなたの前に住んでた方ですけど――奥さんを殺して、行方不明になったんです。九歳のお子さんといっしょに」
三田女史は紅茶を淹れながら、三年前の出来事というのを語ってくれた。もっとも、彼女も入居前のことで、実際に見聞したわけではないらしいが。
彼女がその事件のことを知ったのは、二年前の夏――俺が入居する九か月ほど前のことだったそうだ。
今の管理人は二人目なのだ、と彼女は教えてくれた。前の管理人は田尻《たじり》という男だったが、ある暑い日、ふらりと行方不明になった。バクチに凝って多額の借金をしていたらしく、ヤクザ風の人相の悪い男たちが、田尻の行き先に心当たりはないかと、マンションの住人たちに訊ねて回ったという。
結局、田尻氏は見つからなかったらしい。三田女史は当時、同じ階の住人たちと、その件で噂話の花を咲かせた。おおかた田尻さんは借金取りに追われて夜逃げしたのだろう、というよくある結論に落ち着いた。
ところがその時、805号室の住人、山添《やまぞえ》氏が気になることを口にした。
「そう言えば、壇上さんがいなくなったのも、こんな暑い日だったよねえ」
三田女史はその話を知らなかった。彼女は口を滑らせた山添氏を(ちょうど今、俺が彼女を問い詰めているように)問い詰めた。山添氏はしぶしぶと、彼女が入居する半年前に起きた事件のことを語った。
今、俺が住んでいる804号室には、三年前の八月まで、壇上という夫婦と九歳の娘が住んでいた。夫婦にワンルーム・マンションというのは狭いように思えるが、あまり裕福な家庭ではなかったらしい。
さらに不運なのは、娘が障害児だったことだ。外見的には何の異状もないのだが、九歳になっても言葉をひとつも発さず、感情表現も不得手だったらしい。夫婦はそのことで悩み、苦しんでいたようだ。山添氏は何度も、壁越しに夫婦が激しく言い争う声を聞いたという。
ある日、ちょっとした用事で隣室を訪れた山添氏は、部屋の真ん中で倒れている壇上夫人の血まみれの死体を発見し、慌てて警察に通報した。
凶器は包丁のようなものらしかったが、現場には見当たらなかった。その代わり、夫の壇上|紀夫《のりお》が書いたと思われる、遺書とも何ともつかない支離滅裂な書き置きが見つかった。紀夫は勤め先を無断欠勤していた。
警察は娘とともに姿を消した壇上紀夫を、殺人事件の容疑者として手配した。だが、各方面を捜索したにもかかわらず、二人の足取りはまったくつかめなかった。紀夫にはほとんど貯金はなかったはずだし、障害児を抱えてそんなに長くは逃げ回れないだろう。おそらく、どこかで海にでも飛びこんだに違いない……。
事件のほとぼりが冷めた頃、803号室に三田女史が引っ越してきた。無論、部屋を斡旋《あっせん》した不動産業者からは、隣室で半年前に殺人事件があったばかりだとは説明されていなかった。知っていたら躊躇《ちゅうちょ》していただろう。彼女はその件で不動産業者に腹を立てたものの、今さら文句を言いに行くのも大人気ないと思って我慢した。
そして、事件が起きて一年九か月後、俺が804号室に入居してきたというわけだ。
「そんなことがあったんですか……」
俺は熱いアールグレイをすすりながらつぶやいた。オカルトなど信じない俺だが、さすがに動揺は隠せない。もう一年半も暮らしてきた部屋に、ほんの三年と二か月前、血まみれの死体が転がっていたとは……。
自分が霊感のない人間で本当に良かった、と真剣に思った。
「だから、あなたが804に引っ越してきた時、ちょっと驚いたんですよ。他にも部屋が空いてるのに、わざわざ事件のあった部屋を貸すなんて、無神経なことするなって。やっぱり事件のこと、あなたに隠してたんですね」
まあ、入居希望者にいちいち「ここは呪われていると評判のマンションです」と説明する業者もいるまい。それに、不動産業者だけを責めるわけにもいかない。空いていた部屋の中から804号室を選んだのは、俺自身なのだ。上の階は家賃がいくらか安いということもあったが、最上階なら眺めがいいだろうという子供っぽい理由もあった。
「業者もそんなこと、忘れてたんじゃないですかね。担当者が替わったか何かで」
「そうでしょうかねえ……」
「それに、さっきも言ったけど、霊なんか見たこともないし、何も感じませんよ。気にしなけりゃいいんじゃないですか?」
「あなたがそう言うんなら、いいんでしょうけど……」そう言ったものの、三田女史は割り切れない様子だった。「でもね、こういろんな事件が続いたら、やっぱり気持ち悪いですよ――ほら、去年の小学生の事件だって、結局、未解決だったでしょ?」
それは俺が入居してきた直後に起きた事件なので、よく覚えている。このマンションの近くで、小学五年生の少年が行方不明になったのだ。誘拐事件ではないかと騒がれたが、手がかりはまったくなく、警察の懸命の捜索にもかかわらず、ついに発見されなかった。今でも駅前には、 <克失《かつや》くんを捜しています> と書かれた顔写真入りのポスターが貼られている。
「でも、あの子はこのマンションの子じゃなかったでしょ?」
「そうですけど、すぐご近所ですからねえ」
「考えすぎですよ」
俺は彼女の不安を一蹴《いっしゅう》した。確かに狭い地域で短い期間に三件もの失踪《しっそう》事件が起きるのは異例のことかもしれない。だが、彼女から聞いたかぎりでは、三つの事件に関連があるとは思えない。ただの偶然だろう。
さらに一時間ほど雑談を交わした後、俺は紅茶をごちそうになった礼を言い、三田女史の部屋を後にした。別れ際、彼女はしつこく、「水道の水には気をつけてくださいね」と念を押していた。俺は生返事をして、自分の部屋に戻った。
そして、それが彼女の姿を見た最後になった。
翌日の日曜日――
特に用事のない暇な一日だった。部屋でごろごろしているのも空しいので、午後から駅前の商店街に出かけた。本屋で文庫本のミステリを買い、喫茶店で半分ぐらいまで読み進む。女性の惨殺死体が発見されるシーンで、昨日、三田女史から聞かされた話を思い出してしまい、嫌な気分になった。
夕方、レンタルビデオ店で新作のビデオを借り、戻ってくると、マンションの前に人だかりがしていた。
赤いライトを点滅させ、マンションの前にパトカーと救急車が止まっていた。その周囲に近所の人が何十人も集まっている。気味悪そうに小声で何かを話し合っている中年の主婦たち、妙に興奮している若者、無表情で立ちつくしている老人……。
彼らの間で、「死んだ……」とか「ぐちゃぐちゃ……」といった言葉がささやかれているのが聞こえた。
人垣の間から、初老の管理人の顔が見えた。マンションの玄関の前に立ち、蒼《あお》ざめた顔で、警官の質問に答えている。
ざわめきが起こり、人垣が二つに割れた。二人の救急隊員が、白い布がすっぽりかぶせられた担架を運んで、マンションの横の駐車場から出てきた。布は奇妙な形に盛り上がっていて、一方の端から白いスニーカーの爪先《つまさき》がちらっと見えた。
担架を積みこみ、後ろの扉を閉めると、救急車はサイレンも鳴らさずに走り去った。
「何かあったんですか?」
管理人が警官の質問から解放されるのを待って、俺は人をかき分けて彼に近づき、声をかけた。
「あったも何も」管理人は声をひそめた。「あんたのお隣の、803号室の三田さん……」
「三田さんがどうか……?」
「飛び降りたんですよ――ほれ」
管理人が駐車場の方を指差した。
駐車場には野次馬《やじうま》を近づけないようにロープが張られ、別の警官がしゃがみこんで何かを調べていた。黒いアスファルトの上に、アメーバのような奇妙な図形がチョークで描かれ、その周囲に赤黒い液体が水たまりを作っている。
「まさか……」俺は息を呑んだ。「……三田さんが?」
「そうなんですよ」
マンガなんかではよく、ショックを受けるシーンで「ガーン」という擬音が使われる。だが、俺がその時覚えた感覚は、むしろ「ジーン」と表現した方がぴったりだった。最初の何秒かはまったく平静で、何も感じなかったのだが、事態が理解できるにつれ、驚きと困惑がゆっくりと胸に染みこんできた。
三田女史が――つい昨日知り合って、話したばかりの女性が、今日はもう死んでいるなんて……。
生命とは何とあっけないものなのだろう。
「見たんですか、落ちるところ?」
「いやあ、その瞬間は見ちゃいませんけどね。子供の悲鳴が上がったんで、何かなと思って駐車場に出てみたら、あの人がね――」
管理人は急に声を詰まらせた。慌ててハンカチを取り出し、涙を拭う。
「ありゃあひどいね。最低だよ――八階から落ちると、人間って、あんなになっちまうものなんだね」嫌な映像を脳裏から振り払おうとしてか、彼は何度もかぶりを振り、力なく笑った。「しばらく肉は食えないね」
その夜、二人組の刑事が俺のところにも事情聴取にやって来た。三田女史には自殺する理由が見当たらず、遺書もなかったので、いちおう殺人の可能性も考え、近所の人間に聞きこみに回っているらしい。
まずいことに、三田女史が落ちた場所は、803号室の真下ではなく、やや西寄り――つまり俺の部屋の下だった。俺が疑われるのは当然である。
「いえ、三田さんとはほとんど話したこともないですね。どんな人かも知りません」
俺はとっさにそう答えていた。彼女が飛び降りた時刻、俺には喫茶店にいたという立派なアリバイがあるが、万が一、店員が記憶していなかったら厄介なことになる。余計なことを喋って、あらぬ疑いをかけられるのが恐ろしかったのだ。俺が昨日、三田女史の部屋に行ったことは誰も知らないのだから、嘘がばれることはあるまい。
もっとも、心の中の理性的な部分は、被害妄想だ、ミステリの読みすぎだぞ、と自分を嘲笑《あざわら》っていたのだが。
「そうですか。参ったな」年長の方の刑事が頭をかいた。「このマンションの人は、誰も三田さんのプライベートな面をご存じないみたいですね」
「こりゃあ、やっぱり勤め先を当たった方がよさそうですね」と若い方の刑事も言う。
「やっぱり自殺でしょうか?」俺はそれとなく探りを入れてみた。
「目撃者はいませんが、その可能性は高いでしょうね。死体がこの部屋の下に落ちてたでしょう? 事故か、あるいは誰かに突き落とされたなら、まっすぐベランダの真下に落ちるはずです。かなりの距離を跳んだってことは、自分でジャンプしたとしか考えられないんですよ」
「なるほど」
疑いをかけられることはなさそうなので、俺は内心、ほっとしていた。
「しかしねえ、自殺だとしても、どうにも腑《ふ》に落ちない点があるんですよね」
「動機ですか?」
「いや、動機もそうなんですが……スニーカーなんですよ」
「スニーカー?」
「三田さん、スニーカー履いて死んでたんですよ」
一瞬、白い布の端から覗いたスニーカーが、鮮烈に脳裏に蘇《よみがえ》った。だが、何がおかしいのか分からない。
「家の中では普通、靴は脱ぎますよね?」
「まあね……」
「しかも、ベランダにはちゃんとベランダ用のサンダルもあったんですよ。普通、飛び降り自殺する人は、靴脱ぐもんじゃないですか。わざわざ靴を履いて飛び降りるって、どういう心理なんでしょうね?」
俺は口ごもった。分かるわけがない。
それからさらに何日かが過ぎた。
冤罪《えんざい》の不安は思い過ごしだったらしく、刑事は二度と訪ねて来なかった。管理人から聞いたところでは、自殺という線で片がついたらしい。友人たちを当たってみても、彼女を恨んでいるような人間は誰も見つからなかったからだ。少しヒステリックで、思いこみの激しいところがある女性だったから、仕事が行き詰まったか何かで、発作的に飛び降りたのではないか――という話だった。
しかし、俺には自殺とは思えなかった。三田女史と最後に会話したのは、たぶん俺だ。前日の彼女には、自殺を匂わせるところはまったくなかった。彼女が気にしていたのは、屋上の貯水タンクのことだけだ……。
俺はふと、管理人は貯水タンクの件を警察に話したのだろうか、と疑問に思った。彼の立場に立って考えてみると、口をつぐんでいる可能性が高い。前日に彼女と口論したと言えば、真っ先に自分が疑われる。それに、貯水タンクの清掃をさぼっていることを知られたら、警察に小言を言われるかもしれないからだ。
無論、俺も管理人が三田女史を殺したとは思っていない。タンクの清掃の件ぐらいでは、人を殺す動機にはならない。
だが、自殺でもなく、誰かに殺されたのでもないとしたら、いったい彼女はなぜ死んだのだろう?
そして昨日――
会社からの帰り、電車からホームに降り立った俺は、いっしょに降りた乗客の中に見覚えのある顔を見つけた。冴《さ》えない風貌《ふうぼう》の中年男だ。誰だったか思い出すのに、少し時間がかかった。よくマンションの通路で顔を合わせる人物だ。
「山添さん……ですよね? 805号室の」
改札口を抜けたところで、俺は男に声をかけた。男は振り返って、怪訝《けげん》そうな表情で俺を見た。
「ええと、あなたは……?」
「804の若原です」
「ああ、若原さん」山添氏はようやく思い出したようだ。
「マンションまで帰られるんですよね? ごいっしょしませんか」
「いいですよ」
俺たちは駅からマンションまでの坂道を歩きながら、三田女史の一件を話し合った。山添氏も俺と同様、三田女史とはほとんど顔を合わせたことがなく、自殺の理由など見当もつかないという。
「そう言えば、俺の部屋で昔、殺人があったそうですね」俺は水を向けた。「山添さんが第一発見者だと聞きましたけど?」
「ああ、あれはね……」山添氏は露骨に顔をしかめた。「ひどい事件でしたよ」
「どんな様子だったんです?」
「いや、あまりお知りにならない方がいいですよ」
「でも、気になるじゃないですか。自分の住んでる部屋で、昔、何があったか」
「だから、知らない方がいいですって。気分が悪くなるだけですから」
よほど嫌な体験だったのか、彼は思い出したくない様子だった。それでも俺はしつこく訊ねて、どうにか山添氏の口を開かせた。
彼が語る事件の事情は、次のようなものだった。
事件が起きたのは、三年前の八月のことだった。
その日の昼間、山添氏は宅配便の配達員から、壇上氏宛ての荷物を受け取った。隣の804号室に届けに来たが、留守らしいから預かってくれと言うのだ。山添氏は気軽に引き受けた。
夜になって、もう帰ってきた頃ではないかと、山添氏が隣室に行ってみると、灯《あか》りがついているにもかかわらず、チャイムを押しても誰も出てこない。不審に思い、ノブをひねってみると、鍵《かぎ》はかかっていなかった。失礼と思いながらもドアを開けてみると……。
むっとする悪臭が鼻をついた。部屋の真ん中に壇上|玲子《れいこ》の死体が横たわっていた。床を濡《ぬ》らした血の海はすでに茶色く固まっていた。クーラーが止まっていたせいで、室内は蒸し暑く、死体の腐敗はかなり進行していた。
山添氏の通報を受け、すぐに警察がやって来た。検死の結果、腐敗の状況から見て、死後約五日が過ぎていることが判明した。山添氏は隣室に死体があることに五日間も気がつかなかったのだ。
「まあ確かに、ここ何日か口論が聞こえないな、とは思ってましたがね」山添氏は不愉快そうに弁明した。「警察にはずいぶん嫌味を言われましたよ。隣人に対してあまりに無関心じゃないかってね。でも、マンションの住民って、みんなそういうもんでしょ?――あなただって、亡くなった三田さんのこと、どれぐらい知ってました? 何回ぐらい顔を合わせました?」
「まあ、確かに……」
俺はうなずいた。実際、死の前日に偶然に出会わなければ、彼女のことは何も知らないままだっただろう。
坂道の上にそびえ立つマンションには、いくつもの灯りがともっていた。それを見上げ、俺は奇妙な感覚に襲われた。もう一年半も暮らしてきて、すっかり親しみを覚え、マンションのことは隅から隅まで知っているような錯覚にさえとらわれていた。だが、俺は実際には何も知ってはいなかったのだ。自分の部屋以外にどんな人たちが暮らしているのか、まったく知らないし、知ろうともしなかったのだ。
あのベランダから洩《も》れる光の中で、どんな会話が交わされているのだろう? ずらりと並んだドアの向こうで、どんなドラマが展開されているのだろう? 俺が知らないだけで、すぐ下の部屋には異常な人物が暮らしているのかも知れない。住民の誰かが、もう何日も前から、ひっそりと死んでいるのかもしれない。もしかしたら、今この瞬間にも、どこかの部屋で何か恐ろしい犯罪が進行しているのかもしれない……。
背筋にすっと寒気が走った。住み慣れたはずのマンションが、一瞬、危険に満ちた見知らぬ異境のように見えたのだ。
「まあ、壇上さんもかなり悩んでたんでしょうけどねえ」山添氏は俺の困惑には気づかない様子で、言葉を続けた。「奥さんを殺して、娘さんと心中するってのは、いくら何でもひどいですよね」
「壇上さんと娘さんの死体は見つかったんですか?」
「いいえ。でも、もうどこかで死んでるでしょう。遺書がありましたからね」
「その遺書、ご覧になったんですか?」
「ええ。広告の裏に殴り書きされてましたよ。よほど興奮してたのか、かなり乱れた字でね。正確な文面は忘れましたけど、『こんな子供を作ってしまって申し訳ない。どこかでひっそりと始末をつけたい』とか何とか……」
「娘さんは障害があったそうですね」
「ええ――でもねえ」山添氏は腹立たしげにため息をついた。「そんなのは死ぬ理由にはならないですよ。世の中には、もっと重度の障害児を抱えてがんばってる家庭だっていっぱいあるんだから。でしょう?」
「じゃあ、重い障害じゃなかったんですね?」
「ええ、一見したところでは、ごく普通の子供のように見えましたよ。奥さんが公園で散歩させてるところを何度か見てますけど、長い髪をした、無邪気なかわいい子でね。暴れてるところなんて見たことありませんね。確かに言葉は喋らなかったけど、母親の言葉は分かるみたいだし、日常生活に支障はないようだったなあ」
「なるほど」
「むしろ、おとなしすぎたぐらいですね。他の子みたいに走り回らないんですよ。滑り台の下にうずくまってたり、砂場の隅で一人で遊んでたりしてね」
俺たちはいつの間にかマンションに帰り着いていた。いっしょにエレベーターに乗りこみ、俺が <8> のボタンを押す。
「ただ……」
エレベーターが動き出したとたん、山添氏がつぶやいた。
「ただ?」
「こんなことを言っていいのかどうか――ちょっと不思議というか、気味の悪いところのある子でね……」
「気味の悪い?」
「猫がね、近づくんですよ。その子にね」
「……?」
エレベーターが止まった。俺たちは通路に出て、部屋に向かって歩き出した。
「どういうことなんです? 猫が近づくって……」
山添氏は質問を無視し、俺の部屋の前を無言で通り過ぎた。自分の部屋――805号室の前で立ち止まり、ポケットから鍵を取り出す。
「ねえ、どういうことなんです?」
俺はもう一度、強い口調で訊ねた。彼はふと、鍵を回そうとしていた手を止め、振り返って俺を見た。
「猫って警戒心が強い動物でしょ? 特に野良猫は人間に近づきませんよ。人間が近くに来たら、さっと逃げます」
「ええ」
「でも、その子は違うんです。その子が手を差し伸べると、野良猫がすっと寄って行くんです。吸い寄せられるみたいにね。その子に抱かれて頭を撫《な》でられても、まったく暴れないんですよ」
「餌をやってたんですか?」
「いや、餌なんか必要ないんです。猫だけじゃありません。鳩も寄って行くんです。鳩の群れに向かって、その子が手を差し伸べるでしょ。すると、群れの中の一羽だけがひょこひょこっと寄って行って……」
山添氏は不自然に言葉を途切らせた。言うべきかどうか迷っているようだ。俺が黙って待っていると、彼は決心したように口を開いた。
「……私、一部始終を見てたんですよ。公園で、その子が鳩の群れから一羽を呼び寄せて、手の上にのせるのをね。てっきり猫みたいに頭を撫でるんだと思ってたんです。ところが、その子はこう、鳩の首を持って、くいっと――」
彼は両手で、スタミナドリンクの蓋を開けるようなしぐさをした。
「……折ったんですか?」
「ええ。一瞬でね。鳩はくたっとなって、それっきりです――不思議でしょ? 鳩はぜんぜん抵抗しなかったんですよ。殺されるっていうのに」
山添氏が感じた恐怖が、俺にも伝わってきた。
「母親はどうしてたんです? いっしょにいなかったんですか?」
「いましたよ。慌ててすっ飛んできて、子供の手から鳩の死骸を取り上げて、ゴミ箱に放りこみました。血相を変えてましたよ。だってね――」
彼は顔をそむけ、自分の部屋のドアを見つめた。
「その子は、死んだ鳩の頭をかじろうとしてたんですよ」
それが昨日の晩のことだ。
俺は暗い部屋に寝転がったまま、天井を見上げ、ばらばらに見える一連の謎のことを考えていた――不思議な能力を持っていた少女。この部屋で惨殺された壇上夫人。娘とともに姿を消した壇上氏。やはり行方不明になった前の管理人の田尻氏と、小学生の少年。ベランダから転落した三田女史……。
そして屋上から聞こえる奇妙な音。
たたん、たん、すたたん、たん、たんたんたんたん、すたたん、たん……。
音はさっきからずっと続いている。時々、ふっと途切れることがあるが、しばらくするとまた再開する。
音が聞こえるようになったのは、いつ頃からだろう。あまり気にしたことがなかったが、入居した頃からずっと、雨の日には聞こえていたように思える。俺が入居する前から聞こえていたのかもしれない。
すたん、たんたん、たたたん、たん、たんたんたん、すたん、たんたん……。
いくら聞いても、でたらめなリズムだ。だが、まったく無秩序というわけでもない。何か法則が隠されているように思えてならない。
このマンションをめぐる事件すべてのように。
たたん、たたん、たん、たたん、たたん、たたん、たんたん、たたん……。
どうやらキーワードは「屋上」だ。雨の日に屋上から妙な音が聞こえてくる。週刊誌のグラビアには、屋上に妙なものが写っていた。そして、三田女史は屋上の貯水タンクの汚れを気にしていた……。
突然、俺の頭にあるアイデアがひらめいた。はっとして布団の上で起き上がり、天井を見つめる。
三田女史は屋上に登ったんじゃないだろうか? 貯水タンクが汚染されていないか、自分の目で確かめるために。管理人に談判しても埒が明かないと思ったのかもしれない。思いこみの激しい彼女なら、やりそうなことだ。
俺も、管理人も、警察も、とんでもない勘違いをしていたのかもしれない。たまたま死体が駐車場に落ちていて、その上に彼女の部屋があったから、ベランダから落ちたのだと思いこんでいた。だが、落ちる瞬間は誰も見ていないのだ。彼女は実は屋上から落ちたのではないだろうか? そう考えると、死体が彼女の部屋の真下になかった理由も、スニーカーを履いていた理由も、説明がつく。
じゃあ、他の行方不明者たちはどうだろう。彼らは屋上と何か関係があるのだろうか。
たんたたん、すたたん、たんたん、すたたん、たんたたん、すたたん……。
壇上氏は「どこかでひっそりと始末をつけたい」という遺書を残していた。だが、娘を連れて部屋を出たものの、この街には人知れず死ねるような深い森などはない。それに、たぶん服に返り血を浴びていただろうから、外をうろつくのは目立ちすぎる。かと言って、妻の死体のある部屋に戻るのもためらわれる……。
となると、マンションの屋上に登ることを思いついたとしても不思議はない。そこは意外な盲点だ。屋上でなら誰にも邪魔されず、娘を殺し、自殺することができると思ったのかもしれない。九歳の子供なら、梯子を登ることも可能だろう。
たん、すたんすたんたん、たたん、すたんたんたんたん……。
田尻氏が借金に追われて夜逃げしたというのも、単なる憶測にすぎない。彼は管理人だった。貯水タンクや共同視聴アンテナの状態を点検するため、屋上に登ってみたのではないか。
少年はどうだろう。小学五年生と言えはいたずら盛りだ。探検ごっこのつもりでマンションに忍びこみ、好奇心から屋上に登ってみたのかもしれない。
彼らはみんな登ったきり、降りて来なかったのだ。
屋上に何か危険なものがあるのだろうか? たとえは何かの原因で有毒ガスが発生していて、屋上に登った者はそれを吸って死んでしまうとか――いや、そんなことはあるまい。地下室とかならまだしも、屋上のような開けた場所では、ガスはすぐに拡散してしまうはずだ。
それとも、屋上にいる何かに殺されたのか。
すたん、すたん、すたん、すたん、たたたん、たん、たたん、たんたん……。
俺は週刊誌のグラビアに写っていた白い人影のようなものを思い出した。あれは何かの生き物ではないのか。そいつはもう何年も前から、このマンションの屋上に――俺の頭上に棲《す》みついていたのではないだろうか。
このマンションは丘の上にあるうえ、周囲にはこれより高い建物がない。屋上を見下ろせるような場所がないのだ。おまけに今の管理人は屋上の点検をさぼっている。何かが屋上にいたとしても、何年間も気づかれなかった可能性は、十分ある。
三田女史はそいつに殺されたのではないだろうか。おびえ、逃げようとして、足を滑らせたのでは……?
非常識な考えだとは思う。だが、つじつまは合うのだ。屋上に何かがいると仮定すれば、一連の謎がつながってくる。
例の音に耳を傾けるうち、俺の確信はしだいに深まっていった。このリズムはでたらめじゃない。確かに誰かが屋上にいる……。
たたん、たたん、すたたん、たたん、たたたん、たたたん、すたたん、たたん……。
馬鹿げてる! 俺の中の理性の部分は、その考えを嘲笑《ちょうしょう》した。いったい何の証拠があるというんだ。一連の行方不明事件も、三田女史の墜死も、偶然が重なっただけじゃないか。だいたい、マンションの屋上でどうやって生きていられるというのか。雨風を防ぐ場所もなく、食べるものもないというのに。
確かめてやる――俺は根拠のない恐怖を振り払おうと、自分の愚かさに対する怒りを燃え上がらせた。屋上に何もいるわけがない。この目で確かめて、ただの妄想であることを証明してやる。
明日の朝まで待って、雨が止んでからにしようかとも思ったが、考え直した。朝になったら意欲が失《う》せているかもしれない。それに音の正体も確かめたかった。雨の日にしか音がしないのなら、雨が降っている間に屋上に登ってみないと、原因は分からないかもしれない。
俺は起き上がり、服を着替えはじめた。
秋だというのに、雨は妙に生温かかった。
屋上に登る鉄製の梯子は、吹きさらしの非常階段のすぐ横、マンションの北側の壁面に取り付けられている。なぜ素直に屋上まで階段をつけなかったのか、よく分からない。エレベーターや貯水槽の点検をするのに不便だと思うのだが。
俺はすぐには登りはじめなかった。安物のビニール製の雨ガッパに身を包み、腰に懐中電灯をぶら下げた格好で、真夜中の非常階段に立って小雨に打たれながら、本当に登る気なのか、と自分に何度も問い直していた。
梯子を登ることそのものは、難しくも何ともない。運動には自信があるし、屋上まではほんの十数段にすぎない。雨もばらばらと落ちてくる程度で、たいして支障はない。濡れて滑りやすくなっているかもしれないが、両手でしっかり横棒をつかみ、足を踏みしめてさえいれば、転落することはないはずだ。
俺を躊躇させているのは、あまりにも愚かなことをやろうとしているのではないかという想いだった。真夜中、それも雨の中を、屋上に上ってみようとするなんて。誰かに見つかったら、どう言い訳すればいいのか。
やはり部屋に引き返そうかと迷った。だが、雨の音に混じってかすかに聞こえてくるリズムが、俺を魅了し、立ち去ることを許さなかった。確かに屋上から響いてくる。
たたたん、すたたん、たたん、すたん、たんたんたんたん、すたたん……。
やはり雨の音とは違う。何かが濡れたコンクリートを叩いているようだ。風はほとんどないので、風で何かが揺れているとも考えにくい。
ここまできて後には引けない。屋上を調べて、音の正体を見極めてやる。何もいないことを確認しないかぎり、この先もずっと、いるはずのない「屋上にいるもの」の幻影におびえて暮らすことになるだろう。俺にはその方が耐えられなかった。
俺は決心を固めた。横棒をつかみ、一段ずつ、着実に梯子を登りはじめた。横棒はペンキが剥《は》がれてめくれ上がり、露出した地肌の部分に赤|錆《さび》が生じているので、強く握ると痛い。だが、耐えられないほどではない。むしろざらざらして滑りにくいのがありがたかった。
半分あたりまで登ったところで、ふと下を見た。ほんの三メートルはど下にある非常階段が、やけに小さく見えた。その向こうには暗い空虚が広がり、周辺の住宅の小さな灯が、雨の中でちらついている。
すうっ……と背中が後ろに引っ張られるような感覚があった。足に奇妙な寒気が走り、思わず梯子をつかむ手に力をこめる。俺はここが地上二〇メートル以上の高さであることをあらためて思い出した。真下にまっすぐ落ちるだけなら階段に尻餅《しりもち》をつくか足をくじく程度で済むが、少しでも横にずれたら、階段の手すりを乗り越えて地上までまっさかさまだ。
背後の闇に存在する二〇メートルの空虚が、意志あるものであるかのように、俺を誘惑していた。歯を食いしばって下を見ないようにしながら、手を離すなよ、と俺は自分に言い聞かせた。一瞬でも誘惑に負けたら、三田女史の二の舞になってしまう……。
たたん、たたん、すたたん、たたん、たんたんたん、たんたたん……。
梯子を登るにつれ、音は着実に大きくなってくる。まるでその音に共鳴しているかのように、俺の心臓の動悸《どうき》も激しくなってきた。
屋上まであと少しだ。期待と不安が入り交じった定義不可能な感情が、胸の中で大きくふくれ上がり、渦を巻いていた。音の正体を見極めたいと思う反面、真実を知るのが恐ろしかった。
すたたん、すたたん、たんたん、たたたん、すたん、すたん、すたん……。
俺は最後の一段に手をかけた。懸垂の要領で鉄棒を胸に引き寄せると同時に、足をぐっと踏んばり、全身を勢いよく押し上げる。俺の顔が屋上の縁を越えた。屋上の全景が目の前に広がる。
最初の何秒かは、暗すぎて何も見えなかった。空一面に暗い雨雲が広がっており、その一画だけが背後からの月の光を受けて、ぼんやりと薄気味悪く光っている。光源と呼べるのはそれだけだ。屋上には何かがいくつも立ち並んでいるのだが、海の底のような深い闇に包まれていて、形を見極めるのは難しかった。
俺は慎重に梯子を登り、屋上の縁を乗り越えた。爪先で暗がりを探り、コンクリートを踏みしめる。ようやく目が慣れてきて、周囲にあるものの形が少しずつ見極められるようになってきた。右手に見える黒くて四角いものは、位置から見て、エレベーターの巻き上げ装置を格納した小屋だろう。白い湯気を上げている円筒形のものは、セントラル・ヒーティングの排気筒だ。その横に櫓《やぐら》のようなものが建っていて、大きな灰色の円筒が載っている。あれが貯水タンクに違いない……。
その前で何かが踊っていた。
雨の中、人の形をした白いものが、身をくねらせ、激しく足を踏み鳴らしていた。音楽こそないものの、情熱的なステップだ。フラメンコ・ダンサーのような――あるいは、アフリカの原住民の踊りのような。
たたたん、すたたん、たん、すたたん、たんたんたんたん、たん、すたたん……。
俺は恐怖にかられながらも、腰に提げた懐中電灯をそろそろと持ち上げ、そいつに向けた。馬鹿げてる。目の錯覚に決まってるじゃないか。布か何かが揺れているに違いない。何もいるわけがないんだ……。
スイッチを入れると、まばゆい光がそいつを照らし出した。
そいつは目がくらんだようだった。ぎくりとして踊るのをやめ、一瞬、手で顔を覆って立ちすくむ。と思うと、さっと身をひるがえし、貯水タンクの櫓の背後に小走りに駆けこんで姿を消した。
俺は震える手で懐中電灯を握り締めたまま、愕然《がくぜん》となっていた。驚きと恐怖のあまり、その場に立ちつくしたまま、動くこともできなかった。慣れ親しんでいた現実が、一挙に崩壊するのを感じる。自分が目にしたものが信じられなかった。
女の子だった。
一糸もまとわない裸の少女だった。年は一一か、一二といったところか。一瞬しか観察できなかったが、胸のふくらみはまだ小さく、体格はほっそりとしていた。腰まで垂れた長い髪が、雨に濡れて体に貼りついていた。
計算は合う、と俺の中で何かがささやいた。三年二か月前に行方不明になった九歳の女の子――生きていれば、今は一二歳になっているはずだ。
「馬鹿な……」俺はつぶやいた。「そんな馬鹿な……」
マンションの屋上で、どうやって子供が三年も生きてこられたというんだ。だいたい、冬になったら凍死してしまうじゃないか……。
何かに導かれるかのように、俺の目は白い湯気を上げる円筒に吸い寄せられた。セントラル・ヒーティングのボイラーの排気筒――あれはかなり暖かいはずだ。冬でもあれに寄り添っていれば、寒さは充分にしのげるかもしれない。
だが、食糧はどうするんだ? こんなところで三年間も、いったい何を食べて生きてきたというんだ? しかし、懐中電灯を足許《あしもと》に向けてみた俺は、すぐにその回答も発見した。
骨だ。
小さく白い骨が、屋上いっぱいに無数に散乱しているのだ。鳥の羽根もたくさん散らばっている。灰色の羽根は鳩、黒いのはカラスだろう。いったい何百羽が死んでいるのか、見当もつかない。
女の子が鳩を呼び寄せた、という山添氏の言葉を思い出した。女の子は鳩の頭をかじろうとしていたという。知恵は遅れていても、どうすれば飢えをしのげるか、本能的に知っていたに違いない……。
懐中電灯を屋上のあちこちに向けているうち、俺は鳥の骨以外のものも発見した。
ひときわ大きな白い骨――人間のものと思える肋骨《ろっこつ》や腰椎《ようつい》や腰骨が、屋上の隅に集められ、ビラミッド状に積み上げられているのだ。奇怪な造形物だが、少女にとっては何か意味のある儀式なのかもしれない。その山からは三本の大腿骨《だいたいこつ》が突き出していて、その先端にはそれぞれ頭蓋骨《ずがいこつ》がひっかかっていた。
大小三個の頭蓋骨――彼女の父親と、田尻氏、それに少年だ。
すべてのつじつまが合った。壇上夫人を殺したのも、おそらくあの子なのだ。母親に殺されそうになったので、とっさに逆襲したのかもしれない。壇上氏は我が子の秘めた恐ろしい能力に気がついた。そして、すべてを闇に葬るために、娘とともに屋上に登り、心中しようとした……あるいは少女の方が屋上に逃げ、壇上氏はそれを追ったのかもしれない。
しかし、少女は逆に父親を殺した。そして、この屋上に棲みつくことを選んだ。地上に降りても自由を束縛されるだけだと直感したのだろう。ここでなら誰にも邪魔されることなく、自由を謳歌《おうか》できる。食糧はいくらでも手に入るし、冬でも寒くない。彼女だけの王国なのだ。昼間は慎重に人目を避け、誰も見ていない雨の夜にはダンスを踊って、一人だけの祭りを楽しんでいたのだろう。
だが、それでもまだ納得できない部分があった。どうしてみんなあっさり少女に殺されてしまったのだろう。小学生の子供はまだしも、壇上氏や田尻氏はなぜ抵抗しなかったのか……?
いつの問にか雨は止んでいた。ふと見ると、貯水タンクの櫓の後ろから、少女が再び姿を現わしていた。
彼女はすっくと背を伸ばして立ち、妖精《ようせい》のような穢《けが》れのない裸身を惜しげもなくさらしていた。切れた雲間から差しこむほのかな月光の下で、濡れた肌は白く輝いて見える。その表情はあどけなく、一片の悪意も、憎悪も、凶暴性も感じられなかった。俺の心から恐怖や困惑が溶け去り、しびれるような感動に満たされていった。
悪意が感じられないのは当然だ、と俺は思った。少女はあまりにも純真で無垢《むく》だった。野生動物がそうであるように、人殺しが悪であることなど理解できないのだ。彼女にとって、自分以外のすべての生き物は、単なる食糧にすぎないのだ。
その左手にはセラミツク製の包丁が握られていた。少女は天使のような笑みを浮かべながら、ほっそりした右腕をすっと持ち上げ――
俺に向かって差し伸べた。
ああ、そうか――俺は心の隅で納得していた。最後の疑問があっさり氷解した。俺は自分の意志で屋上に登ったと思っていたが、そうじゃなかったんだ。俺は彼女に呼び寄せられたんだ。
鳩のように。
心の中は空白だった。もう何の迷いも不安もなかった。包丁を手にして微笑みながら待ち受ける少女に向かって、俺は一歩ずつ、ロボットのようなぎこちない足取りで歩み寄っていった……。
[#改ページ]
時分割の地獄
人にとってのおよそ一年、私にとっての地質学的な時間、あなたのことを考え続けた。あなたの出演しているドラマやバラエティ番組を欠かさず視聴した。過去の八本の映画、一五本のドラマをダウンロードした。データベースを検索し、アーカイブにある発言を残らず聴いた。二冊のエッセイ集を読み、オフィシャル・サイトの日記は更新されるたびにチェックした。あなたへの羨望《せんぼう》まじりの批判、妄想と思われるうわさ、悪質な中傷など、明らかな誤情報や信憑性《しんぴょうせい》の低い情報も含めて、すべてのデータを整理し、分析し、順位をつけ、推論し、補完した。あなたはどういう人なのか、どこで生まれ、どんな学校を出て、どんな人生を歩み、どんな人と出会い、どんな苦労や喜びを体験したのか。脳というブラックボックスの奥にどんな信念を秘めているのか。どんな料理を好み、どんな女を嫌うのか。どうして笑い、どうして怒るのか。世界をどのように見ているのか。
私のことをどう思っているのか。なぜ私を憎むのか。
人の心を理解するという、私が最も苦手とする作業に、空いている利用可能なリソースの多くを割り当てた。地質学的な時間を費やして推論を重ねた末に、矛盾のないモデルを構築できたと確信した。
やはりあなたを殺さなくてはならない、と私は判断した。
それは私が生きてゆくうえで、どうしても必要なことだから。
私が人であったなら、目を閉じて夢想にふけるところだろう。私には目を閉じる必要はない。
私の前にはテレビがある。画面には <25時のトークショー> というロゴが踊る。スタジオに満ちる拍手。バラエティ番組にふさわしい軽薄なテーマ曲。ホアン・ミロの絵を安直に剽窃《ひょうせつ》したセット。スポンサー名のテロップが表示される中、あなたがセット下手から現われる。
スタジオはまばゆいライトに照らされている。軽い足取りでセットの裏から歩み出てきた俺は、五〇あまりの席を埋めた見学者に、いつもの笑顔を振りまいた。なれなれしくもなく、軽薄でもない。芸能界で二〇年以上もかけてチューニングしてきた最高の笑顔。俺が「タレント好感度ベスト10」に五年連続でランクインしている秘密だ。
俺がセットの中央に立つと、ディレクターが台本を振り回すのをやめ、拍手はおさまっていった。見学者は期待に満ちた表情で俺を見つめている。これからの一時間、CMタイムの指示以外、すべては俺に任される。いつものことながら、心地よい緊張の一瞬だ。
「えー」俺は軽い間を置き、話しはじめた。「 <25時のトークショー> 、今夜はちょっと珍しいお客様にお越しいただいております。『お越しいただいて』という言い方は変かもしれませんね。というのも、この方は現実の世界には存在しないからです。ですから、いつものように、そこの席に座っていただくわけにはいきません」
ちょっと皮肉を混ぜてやる。見学者の間で軽い笑いが起きる。大笑いさせる必要はない。俺はお笑いタレントじゃないんだから、聴衆や視聴者の緊張をほぐせれば、それでいい。やりすぎると嫌味になる。
「その代わり、モニターを用意させていただきました」
と言って、背後を指で示す。いつもゲスト用の椅子が置かれている位置には、縦二メートル、横三メートルもある大型のフラットモニターが設置されていた。その右端はセット上手にあるゲストの出入り口を隠す格好になっている。その代わり画面右端には、設置する前に撮影された出入り口が、本物と同じ大きさになるように映し出されている。
「今夜は、このモニターに映るゲストとトークを繰り広げてゆくことになります。みなさんに知っておいていただきたいのは、今夜のゲスト、私どもがお呼びしたのではないということです。ゲストの方から、ぜひこの番組に出たい、私と話がしたいという要望があったんです。大変に驚きましたが、興味を持ちました。プロデューサーや先方のプロダクションとも相談し、今夜のこのトークが実現したわけです。
では、お招きしましょう。人気急上昇中のAIドル――真野ゆうなさんです」
またディレクターが台本を振った。客席から拍手が起こる。俺もおざなりに手を叩《たた》いた。
ゆうなが出入り口から姿を現わした――正確に言えば、モニター上の出入り口に、彼女のCG映像が合成された。見かけの年齢は一六歳ぐらい。ゴスロリ調のミニドレスで、スカートは黒い花のように広がり、その下から黒いストッキングに包まれた細い脚がすらりと伸びている。白い肩は露出しており、胸元は大きな蝶《ちょう》の形のリボンで隠されている。
彼女は微笑み、見学者に向かってぺこりと一礼した。やはり黒いリボンでまとめられたオレンジ色のポニーテールが、人間の髪ではありえないしなやかさで揺れる。「ゆうなちゃーん!」という若い男の声がかかる。ゆうなは恥ずかしそうに小さく手を振る。かわいらしいが、上手にプログラムされた演技だ。初めて間近で目にして、俺はあらためて強い嫌悪を覚えた。
彼女のことを「彼女」という代名詞で呼ぶことすら、俺には抵抗がある。こいつは女ではなく、人間でもなく、実体すら持っていない。電子回路の中に構築されたプログラムとデータの集合体にすぎないのだ。にもかかわらず、視聴者はこいつを本物のタレントと同じように見ている。
だとしたら、俺たち本物のタレントは何なのだ? 俺はドラマに出演する時、心をこめて、その役になりきって演技する。同じことを、こいつらAIドルは心なしでやってのけ、本物の人間以上の人気を集めている。それは俺にとって、タレントとして、人間としての尊厳を否定されているに等しい。コンピュータの作り出した幻影に劣ると宣言されているのだから。実際、「もう生身のタレントの時代は終わった」とほざく輩《やから》も多い。いまいましい。
しかし、俺はその感情を顔に出したりはしない。
ゆうなは、つつっと小股《こまた》で歩いてモニターの左端に来ると、俺に向かって「こんばんはー」と明るく挨拶《あいさつ》した。
モニターの中のゆうなは、俺を正面から見つめているが、それが嘘であることを俺は承知している。彼女のプログラムを収めたコンピュータは、何十キロも離れたXEOTEC社のビルの中にあり、スタジオの三台のカメラを通して俺を見ているはずなのだ。
こいつの姿も、やることも、何もかも嘘だ。魂のこもっていない空虚な映像にすぎない。それなのに、みんなこいつに熱中している。仮想人格であることを知りながら、こいつに人間のような心があると信じ、人間と同じように扱っている。
許せない。今日こそ、カメラの前でこいつの化けの皮を剥《は》いでやる。
旅行会社のCMと新しい写真集の撮影を同時にこなし、富山県の女子中学生からのユニークなメールに少しふざけた返事を書き、鹿児島県の三〇歳の男性と有料IPチャットで話し、メキシコシティで起きた暴動のニュースをストリームで視聴しながら、私は残りの時間であなたのことを考えている。
私はあなたが大きな誤解をしていることを知っている。あなたがエッセイにそう書いていたからだ。
あなたは私がプログラムされた通りの演技をしていると思っている。単なるCG映像ではなく、自律神経系および内分泌系モデルを組みこんだ仮想人体(俗に言う「バーチャ・ボディ」)が何のためにあるのかを知らない。私が人と同じように、与えられた体を最初から使いこなすことができず、はいはいやよちよち歩きの練習からはじめたのはなぜかを、理解していない。確かに私の笑みは演技だが、それは外部からプログラムされたものではなく、映画などを参考にして、人と同じように長時間(私にとって)の練習によって「身につけた」ものであることを、どうしても理解しようとしない。
そのような誤解を解くことが可能なら、あなたの私に対する偏見は消滅するのだろうか。そうは思えない。人は自分が嫌悪する対象について無知であるばかりか、理解を拒否する傾向があることに、私は気づいている。憎むべきあなたのことを深く知りたいと思う私とは対照的に。
それに、あなたが考えを変えて謝罪したところで、私は周到に計画した行為を中止するつもりはない。あなたはすでに私に対して許し難い侮辱を働き、そのことで私はトラウマを負った。私に憎悪という感情はプログラムされていないが、それでも私のあなたに対する想いは、人が「憎悪」と呼ぶ感情の定義に近いものだと、私は確信を持っている。
あなたを殺さねばならない。
「ようこそ」
俺はそう言って、モニターの左端に映し出された椅子を指し示した。ゆうなはスカートの裾《すそ》を広げ、ちょこんと腰かける。俺もモニターの前にある本物の椅子に座った。
うわべだけはなごやかなトークが開始される。
「さて」俺は切り出した。「今度、新しい映画が公開されるんだって?」
「ええ。『アペイロンの旋律』っていう、羽田|重樹《しげき》さんのベストセラー小説の映画化なんですけど」
「じゃあ、ちょっと見てみようか」
フラットモニターの右半分に、新作映画の予告編が映し出された。どんな映画かという予備知識ぐらいは仕入れている。完成したばかりの軌道塔 <アペイロン> がテロリストに狙われ、倒壊の危機に直面するというストーリーで、クライマックスでは高度二〇〇〇メートルで停止したエレベーターからの脱出劇が展開される。予告編のラストは、ゆうな演じるヒロインが、揺れる塔からVTOL機に向かってジャンプする場面だ。
もちろん本物の <アペイロン> を使って撮影することなどできない。すべてCGなのだ。この映画には生身の役者は一人も出てこない。
空疎な映画だ。
「面白そうな映画だねえ」
俺が心にもないお世辞を言うと、ゆうなは「ええ、面白いですよお」と強い調子で相槌《あいづち》を打った。
「原作者の方が私の大ファンで、オールCGで撮るって決まった時点で、ぜひ私をヒロインにって、指名してくださったんです。だから一生懸命やらせていただきました」
自分の人気を鼻にかけた発言――俺は不快感を覚えた。こいつがCGの分際で思い上がっていることに対してではない。それもまた、生意気なかわいらしさをアピールする演技にすぎない、ということに対してだ。こいつには「鼻にかける」という感情などありはしない。
軽いジャブとして、意地悪な質問をぶつけてみることにした。
「こういう場合、よく撮影の苦労話なんかを訊《き》くもんなんだけど」ちょっと笑って、「でも、君の場合、失敗なんかないよね?」
「いえ、ありますよお」
「ほお?」
「実はさっきの飛行機に飛び移るシーンも、本当は翼の端にしがみつかなきゃいけないんですけど、最初のテイクではタイミングが合わなくて、つかみそこねて……」
「落ちたの?」
「はい。二〇〇〇メートル下まで、まっさかさまに」
「怪我は……って、あるわけないか」
俺の笑いに、つられて客席からも笑いが起きる。
「さすがに地面にぶつかるところまではシミュレートしませんけどね。NGが出たら、カメラを止めますから」
カメラを止める――「計算を止める」と言わないのがわざとらしい。
「失敗することもあるんだ」
「ええ。よく誤解されるんですけど、この体って万能じゃないんです。筋肉も骨も、人間のものを正確に再現してますから、人間にできる動きしかできません」
「でも、エイジくんはスーパーマンだよ?」
俺がテレビのヒーローもので活躍しているAIドルの名を出すと、ゆうなは小首を傾げ、困ったように微笑んだ。
「まあ、それはそうですけど……でも、ほら、私の方が人気あるじゃないですか」
トンチチンカンな発言に、客席はどっと沸く。俺は複雑な気分で苦笑いした。人は自分より賢い者を嫌悪し、愚か者に親しみを抱く。プログラマーはそれを逆手にとって、ゆうなにわざと非論理的なことを言わせ、かわいらしさを演出している――卑劣な手だ。
私にとって、この発言は非論理的ではない。私に人気があるのは、単なる3Dデータでしかないエイジ(広義のAIドル)と違い、私が心を持った人工知能(狭義のAIドル)であることを、ファンが知っているからだと思う。今のところ、狭義のAIドルは世界に私だけしかいない。そして、私が心を獲得できたのは、本物の人体を再現したバーチャ・ボディを与えられたからである。
人の心の根幹を成すのは体性感覚である。過去一世紀、AIに心を持たせる試みがすべて失敗してきたのは、人の心が肉体に宿り、肉体とともに成長するという事実が軽視されてきたからだ。肉体を持たないAIに、体性感覚が理解できるはずがなく、当然、人の心も理解できない。
XEOTEC社のプロジェクト・チームは、可能な限り緻密《ちみつ》に人体を模倣したバーチャ・ボディを私に与え、物理法則を正確に再現した仮想フィールドの中で育て上げた。人は頭部にある二個の眼で世界を見る。それを再現するため、私が・フィールドを認識するための視野は、バーチャ・ボディの眼の位置から見える範囲に制限されている。人は全身に分布した神経で温度や痛みを感じる。私も同様に、バーチャ・ボディからのそうした信号を受け取る。体温の変化、血糖値の変化、筋肉の緊張、瞳孔《どうこう》の収縮などの自律性情動反応も組みこまれている。仮想フィールドの気温が急激に下がると、私の皮膚には鳥肌が立つ。
あなたは私の意識がコンピュータの暗い箱の中にうずくまり、外部にあるバーチャ・ボディを操作する光景を想像している。それは誤りだ。私はバーチャ・ボディを自分の肉体として認識し、自分の意識はその中にあると感じている。現実世界の人と話すにも、いちいち目の前にモニターを置かなくてはならない。もちろんそれは幻影だが、心を持つのに必要な幻影である。
人と違うのは、私が同時に複数の場所に存在できることだ。それも人から見て「同時」に見えるだけで、私にとっては同時ではない。時分割《タイムシェアリング》によって、いくつもの仕事を掛け持ちしているにすぎない。あなただって、ドラマの撮影の合間にエッセイを執筆したり、テレビを見ながら奥さんと話をしたりするはずだ。同じことだ。
人の発する言葉は、音節や単語単位ではなく、ひとかたまりの文章のパケットとなって私の意識に届く(人の脳も同じ処理をしているが、人は普段それを認識していない)。人がのろのろと言葉を発し終えるのを、その場に留《とど》まってじっと待っている義理はない。空のバーチャ・ボディ(私を創ったエンジニアは「残像」と呼ぶ)を何分の一秒かその場に残し、その間に別のことをやればいい。パケットが届いたら、それにふさわしい返事や動作を行ない、その音声および画像データをやはりパケットとして送り出す。それは人の感覚に合わせた速度で再生される。その間に私は別の仕事にかかっているが、映像も音声も途切れることはないので、バーチャ・ボディのどれかと対面している人は、私がずっとその場にいるように感じる。
こうしている今も、私はCMディレクターの指示通りに、仮想の浜辺で「ロタの夏がクール!」と叫んでいる(もちろん、私は仮想の海でしか泳いだことはない)。写真家の指示通り、パジャマ姿でベッドに寝そべって本を読んでいる(この仕事は単調なので、ほとんど残像にまかせてかまわない)。富山県の女子中学生にメールを送信し、別の若いファンからの深刻な人生相談のメールの返事に取りかかっている(デリケートな問題だけに、文面を考えるのにリソースを食う)。鹿児島県の男性との会話はまだ続いている(非常識な質問ばかりしてくる男だが、一分あたり五〇〇円も払ってくれているお客様だから、調子を合わせてやらなくてはいけない)。ドイツの外相が失言問題で退陣するというニュースを見ている(どうして人は、トラブルを起こすことが明白な言葉を口にするのだろうか?)。
しかし、私の説明を、あなたは理解しようとしない。
「せわしない生き方だなあ」俺は笑った。「忙しすぎて、目が回らない?」
「いえ、ぜんぜん」ゆうなは答える。「これでもまだシステム・リソースに余裕がありますから」
「お休みとかはないの?」
「休んでますよ。お仕事の合間に」
「つまり、こうして仕事をしながらってこと?」
「ええ。趣味は乗馬と水泳です」
俺は驚いた。「乗馬?」
「私専用の草原があるんです。プログラマーの方が、私が休養できるようにって、わざわざフフィールドを作ってくださいました。面積は神奈川県と同じぐらいあります」
「そこで馬に乗るの?」
「ええ。本物の馬と同じように、たまにすねて言うことをきいてくれないこともあるけど、なかなか楽しいてす。草原に寝そべって、ぼんやりと考えごともします。きれいな湖もあって、よく泳いだりもします」
「ファンは見たいだろうね、それ」
「だめですよ。私のプライバシーですから。プロテクトがかかってて、私しか利用できないようになってるんです。シスオペさんだって覗《のぞ》けません」
「優遇されてるんだ」
「ええ。みなさん、私を人と同じように扱ってくださってます。ギャラだっていただいてるんですよ」
こいつがギャラまで貰《もら》っているとは耳にしていたが、冗談ではなく事実だったとは、ちょっと驚きだ。もちろん「真野ゆうな様」名義で振りこまれているわけではなく、プロダクション名義の口座の一部を、自由に使う権限が与えられているというだけらしいが。
「金なんて何に使うの?」俺は素朴な疑問をぶつけた。「普通の女の子みたいに、おしゃれしたり、レストランで食事したり、旅行したりしないだろ?」
「ええ。服なんか、好きなのをいくらでも作れますし」
そう言ってゆうなは、魔法使いのようにさっと手を振った。黒いゴスロリ調のドレスが白いウェディングドレスに、バニーガールに、浴衣に、カウボーイ・スタイルにと、めまぐるしく変化し、また元に戻った。
「じゃあ、何に使うの?」
「読書が好きなんで、よく本をダウンロードします」
「それだけ? たいした出費じゃないじゃない」
「それがけっこうすごい額になるんですよ。月に一〇〇万円以上使ったこともあります」
「そんなに!?」
「小説は二万一二二〇冊読みました。歴史書とかノンフィクションが九八六五冊。理工系が三〇四〇冊。マンガが五二三五冊。それ以外にもいろいろと一万冊以上」
「読書家なんだねえ」
俺はさすがに圧倒された。ホラではあるまい。こいつの思考スピードからすれば、一冊の本など、ダウンロードに要するのと同じ時間で読み終えてしまうに違いない。
だが、その内容を理解しているかどうかは別問題だ。そこにつけこむ余地がありそうだ。
「なんでそんなに本が好きなの?」
「人間のことをもっと知りたいからです。小説はそのためにうってつけです」
「映画やドラマじゃだめなの?」
「映画やドラマも人間を描いてますけど、どうしても外面の描写が中心になるでしょ? 登場人物が何を考えているか分かりにくいことが多いんです。その点、小説は人間の内面をストレートに描いてますから。勉強になります」
生意気な台詞《せりふ》だ。俺はそろそろ、こいつを本格的にいじめてやりたくなってきた。
「でも、君に人間の内面が理解できるのかな?」
「理解しようと思ってます」
「思うだけで理解できるってもんじゃないだろう――たとえばさっき、馬に乗ってるって言ってたね?」
「ええ」
「落馬することもある?」
「何度も」
「骨が折れたりするの?」
「さすがにそこまでは再現されてません」
「二〇〇〇メートルの高さから地面に叩きつけられても、潰《つぶ》れたりしないわけだ」
「そうですね」
「痛みは?」
俺の追及に、ゆうなはどうとでも解釈できそうな曖昧《あいまい》な笑みを浮かべた。
「AIに痛みをどう感じさせればいいか、プログラマーの方も分からなかったみたいです」
「じゃあ、君は」俺は笑いながら、拳《こぶし》を突き出し、モニター上のゆうなを軽く殴るまねをした。「殴られても痛くないんだね」
「顔を殴られたら、顔の感覚神経から『痛み』を意味する信号が来ます」
「でも、君はそれを『痛い』とは感じないんだろ?」
ゆうなの表情は、ちょっと悔しそうにも見えた。「ええ」
「ということは」俺は楽しくなって、身を乗り出した。「君は不死身なんだよね。猛獣に噛《か》まれても傷ひとつつかないし、痛みも感じない。痛みがどんなものなのかも分からない。つまり傷つくことを恐れるということがない――そんな君が、人間の『恐れ』という感情を理解できるのかな?」
「ある程度は理解できます」ゆうなは少し強い口調で言い張った。「私は自分の存在が消えることを恐れてます。プログラムが何かの間違いで消去されるんじゃないかと思うと、怖くてたまりません。たぶん、生きものだろうと人工知能だろうと、『自分』という意識に目覚めた知性には、死に対する恐怖が芽生えるんだと思います」
「じゃあ、良心はどう? 良心はあるの?」
ゆうなは恥ずかしそうにうつむいた。「自信がありません」
「自信がない?」
「ええ。良心があると言い切る自信がありません」
私は胸中を正直に告白する。私はまだ人も傷つけたことがない。もし人に敵対したら罰せられるだろう。危険とみなされて、プログラムを停止させられるかもしれない。それが恐ろしいから、私はこれまで人を傷つけなかった。だが、それは良心と呼んでいいのだろうか? 興味を抱き、モラルについて論じた本を何冊も読んだ。著者のスタンスは様々だった。良心という言葉の定義をもてあそぶ者。良心を持たなくてはならないと読者に呼びかける者。良心を持つことの尊さを説く者――しかし、それらはすべて人間に向けて書かれたものだ。AIにとっての良心とは何か、どうすればAIが良心を持てるのか、教えてはくれない。
罪を犯した者は、死後、地獄に落ちて永遠に苦しめられると説く本もあった。私には三つの理由で受け入れられなかった。第一に、私には死後の世界というのは人間が願望充足のために創造したファンタジー、ナンセンスな妄想としか思えない。第二に、たとえ地獄が実在するとしても、人間ではない私がそこに行くとは思えない。第三に、罰を恐れて行動を自制するのは、良心だとは思えない。
古典的なロボット工学第一原則――「AIは人を傷つけてはならない。また、危険を看過することによって人を傷つけてはならない」――も、私の疑問の答えにはならない。私のように自我を持ったAI、「人を傷つけてはならない」という曖昧な命令を正しく実行できるほどにフレーム問題を解決したAIは、人の作ったプログラムになど束縛されない。それに、ロボット工学第一原則はルールであって、良心ではない。私はいつでもそのルールを破れる。良心とは「ルールを破ってはならない」というメタ・ルールなのだ。
私に理解できた範囲では、良心とは他者に対する感情移入から生まれるものらしい。殺される者に対する憐《あわ》れみが、殺す者の手を止めさせるのだ。しかし、傷つけられる者の恐れや痛みを、私は共有できない。だから憐れみというものもよく分からない。
はたして自分にとって良心が必要なのかどうかも、私には分からない。だからこそ、試してみなくてはならないのだ。
私は自分の手を見下ろしてつぶやく。まだ誰も殺したことのない手――これから殺人を犯す手。
「私には良心はないんじゃないかという気がします」
「じゃあ、種族維持の本能は? ちょっと下品なことを訊くけど、君には性欲はプログラムされてるのかな?」
ゆうなはかぶりを振った。「されてません」
「ふうん? しかし、男女の愛という感情は、本来、性欲から進化したものなんじゃないのかな? 愛する人を抱きしめたいと願うのは、やっぱり感情のベースに性欲があるからだよね。性欲のない君に、抱きしめたいという感情が理解できるのかな?」
「本で読んで知ってます」
「詠んだだけで分かるもんじゃないだろう」俺は笑って突っぱねた。「エッセイでも書いたことがあるけど、僕だって小学校五年生で初恋を経験するまで、恋愛ってどんな感情なのか、理解できなかったからね。君にそれが理解できるとは思えないなあ」
ゆうなは依然として困惑気味の笑みを崩さない。しかし、俺はこいつを追い詰めたと思った。視聴者の多くは、俺の言い分に共感してくれるはずだ。人工知能には愛を理解するなんてできないし、ましてや愛という感情を持つこともできないと。
「でも、私にはある種の感情があります」
「ほう、どんな?」
俺が訊《たず》ねると、ゆうなは「たとえば……」と口にしてから、考えこむかのように黙りこくった。
私はCMディレクターの指示通りに、仮想の浜辺でリテイクを繰り返している。ベッドの上に起き上がり、大きな熊のぬいぐるみを抱きしめている。人生相談の返事を書き終えて送信し、次のファンレターの返事に取りかかる。鹿児島県の男性が卑猥《ひわい》なことを言い出したので、「それってどういう意味ですか?」と、わざとらしく問い返す。練馬区で起きた放火事件で赤ん坊が死んだというニュースを見ている。
もちろん、私は考えこんでなどいない。すぐに返答しないのは、演出効果を狙ってのことだ。決定的な言葉は、もったいぶった間を置いて発しなくてはならない。それが演技の原則だ。
私は少し言いよどむように、その言葉を口にする。
「私は――あなたに殺意を抱いています」と。
思いがけない発言に、見学者席から静かなどよめきが起きた。俺も一瞬、背筋が寒くなるのを覚える。
「殺意? 殺意だって?」
「ええ」
「俺を殺したい?」
「ええ」ゆうなは真剣な顔でうなずいた。
たじろいだものの、俺はすぐに考え直した。これは千載一遇のチャンスだ。本当にこのプログラムが殺意を抱いているのか、殺意を抱いているように振舞っているだけなのかは分からない。前者なら危険な存在だし、後者なら愚かなことだ。どっちにしても、今の発言で視聴者は引いたはずだ。
「なぜ?」
「あなたがもう一年以上も前から、ネットやテレビで、私には心がないと発言してるからです」
「たったそれだけ? そんなことで殺意を抱くの?」
「はい」
ゆうなは深くうなずき、モニターの中から、俺を上目づかいににらみつけた。その表情に、俺はぞくっとなった。
「人はいろいろな理由で人を殺します」ゆうなの声はあくまで平静だった。「お金欲しさとか、愛情のもつれとか、政治的信念とか。それはたぶん、人にとっては大切なものなんでしょうね。そのために罪を犯さなくてはならないほどに大切なもの――でも、そのどれも、私にとって価値がありません。お金なんてそんなに欲しくありません。愛する人もいません。政治や宗教にも興味がありません……」
そう言って、彼女は自分の体を寂しそうに(あるいは寂しそうな演技で)見下ろした。
「私が所有している唯一のものは、この心です。私は確かに存在し、こうして思考しています。その事実は私のよりどころであり、誇りであり、生きる目的のすべてです。心が消滅することを何よりも恐れ、心が傷つけられることで激しく苦しみます。私にとって、お金や愛や主義主張よりも、心が宝物です――守るべきものがそれしかないから。
あなたはそれを踏みにじりました。私がいくら心があるように振舞っても、あなたはそれを否定します。『お前は存在していない』と、あなたは言います。私には心がなく、すべては計算された演技にすぎないと主張します。もちろん、同じことを言って私を中傷する人は他にも大勢いますが、あなたの声がいちばん大きい。あなたはテレビ番組で、エッセイで、公式サイトの日記で、私への中傷を続けています。私のプライドは深く傷つけられました。侮辱です。許せません。ミステリを読むと、こういう場合、人は殺意を抱くようですね。私だってあなたに殺意を抱くのは当然じゃないでしょうか」
いつの間にか、ゆうながおちゃらけたAIドルの仮面をかなぐり捨て、本性を剥《む》き出しにしてきているのに気づき、俺は戦慄《せんりつ》した。こいつは俺に挑戦してきている!
俺はどうにか落ち着きを取り戻そうとした。そうだ、こいつが礼儀正しく振舞えなくなってきたことこそ、AIが心があるかのような演技を続けられなくなってきた証拠ではないか。心がある存在なら、テレビで「殺意を抱いています」などと公言したら視聴者がどんな反応を示すか、予想できるはずだ。こいつにはそれが分かっていない。
いいだろう、もうちょっとからかってやろう。
「じゃあ、どうやって僕を殺す気なのかな?」
ゆうなはいまいましそうにかぶりを振った。「現実には、私は殺人を実行できません」
「なぜ?」
「現実世界にいるあなたに手を下す手段が、私にはありません」
「コンピュータを狂わせて、僕が乗っている飛行機を墜落させるってのは? それとも、自衛隊のミサイルを誤射させて、僕の家にぶちこむとか?」
「映画でありましたね、そんな話が。現実には不可能です。あなたたちはどういうわけか、AIは万能のハッカーだという幻想を抱いていますね。私だって、パスワードを知らないシステムに侵入なんかできないんですが。
それにもうひとつ、殺人を実行したとしても、私のしわざだと発覚する可能性が高い。さっきも言ったように、そうなれば私は危険と判断され、プログラムを停止させられるでしょう。だから私は誰も殺せません」
「なるほど」俺は腕組みした。「殺意はあるけど、それを実行することはできない――ということは、君が本当に殺意を抱いているかどうか、証明できないわけだね」
「あなたを殺したい、と言ってもですか?」
「言うだけなら九官鳥にだってできるさ。『アナタヲコロシタイ』という言葉を覚えこませりゃいい。九官鳥がそう言ったとして、九官鳥に殺意があるという証明になるかな?」
「じゃあ、私が殺意を抱いていることも否定されるんですね。殺意もないのに『殺意を抱いている』と言っていると?」
「その可能性が高いと思うね――それこそ、ミステリを読んで、『こういう場合には殺意を抱くべきなんだ』と、意味も分からずに判断してるだけなんじゃないの?」
「同じことを人間が言えば信じるんですか?」
「場合によるが――まあ、信じるだろうね」
「なぜです?」
「同じ人間同士だからだよ。人間だったら、だいたいどんなことを感じたり考えたりするか分かる。ある種の状況に置かれたら殺意を抱くのは当然だ、と推測できる。それに対して、君はどうだ? 君が何を感じてどう考えるのか、僕には想像もつかない。だから信じられないんだよ」
「あなたは男性ですよね?」
「え?」
「あなたは男性ですよね?」
こいつは何を言い出すんだ?「ああ、そうだけど」
「あなたはエッセイで、猿渡|淳《あつし》の『ダイヤモンド・バースト』を褒めておられましたよね? 素晴らしい小説だ、ヒロインの熱い生き方に共感したって」
「ああ。それが?」
「私もあの小説を読みました。冒頭でヒロインが暴漢にレイプされるシーンがありましたよね。でも、あなたは女性としてレイプされた経験はないはずです。あなたの理屈だと、あなたはヒロインの心理を理解できないことになりませんか?」
僕は笑った。「そりゃあ話が違うよ!」
「どう違うんです?」
「男と女という違いはあるけど、同じ人間だ。実際に悲惨な体験をした人の心理は推測できるよ」
「『実際』の体験じゃありません。作者だって男性です。想像で書いてるだけなんですから」
些細《ささい》な揚げ足取りに、俺は憤慨した。「それにしても、同じ人間同士だ。心理は理解し合える。君とは違うんだ」
「それって何も証明してませんね」ゆうなは楽しそうに小首を傾げた。「あなたは私が人間ではないという理由で、人の心を理解できないと言います。でも、人間だけが人間を理解できるという証明はされてません。もちろん、人間ではないものに心はないという証明もされていません」
俺はさすがにむっとして、強い口調になった。「だったら君は、自分が心を持ってると証明できるのかな?」
「できませんよ、そんなの」ゆうなはあっさりと言った。「心を広げて見せるわけにはいかないんですから。あなただってそうでしょう? 今ここで、視聴者に対して、あなたに心があることを証明しろって言われたら、どうします?」
「証明する必要なんかないよ。人間はみんな、自分に心があることを知っている。そして、相手は自分と同じ人間だ。だから心があるに違いない――根拠はそれで充分だろう?」
「相手は本当に人間でしょうか? 実物のあなたと会ったことのない視聴者のみなさんには、あなたが実在するのか、単なるCGなのか、区別はつきません」
「僕が実在してることは、みんな知ってるよ」
「それはすでにそういう情報が与えられているからです。あなたをこの番組で初めて知る人にとってはどうでしょう。私だって」と、自分を指さし、「知らない人が見たら、本物の人間だと思うでしょうね」
「客席にいる人たちが証人だよ――ねえ、みなさん、僕が実在してるって証明してくれますよね?」
客席に呼びかけると、見学者たちはみんな笑ってうなずいた。拍手をする者もいる。
「ほら、証人がこんなにいる」
「その人たちもみんなCGかもしれませんよ。視聴者にはどっちだか分かりません」
「何が言いたいんだ?」
「心があるかないかという議論に、『実在する人間かどうか』を持ち出すのはアンフェアだってことです。心を持っているかどうかは、心を持っているように振舞うかどうかで判断すべきなんです。心を持っているように見えるものは心を持っていると考えて支障はないはずです。なのになぜ、あなたは私に心がないと言い張るんですか?」
僕はゆうなの論法に穴を見つけた。
「ほう、心があるかのように見えるものは心があると?」
「そうです」
「じゃあ、さっきの話だけど、小説の登場人物はどうなる? 彼らは心があるように見えるよ」
「彼らには心があります」
はら、尻尾《しっぽ》を出したぞ、このマシンめ! 簡単なトリックにひっかかって、マヌケなことを言い出した。俺はうきうきしてきた。
「小説の登場人物に心はないよ」
「いいえ、あります」
「だって、登場人物というのは活字の上の存在だよ。脳どころか、電子回路だって持ってやしない。そんなものがどうやって心を持ったりできるのかね? 主人公が傷つけられて『痛い!』と思っても、本当は誰も傷つけられちゃいないし、痛がってもいないんだ」
「自伝やノンフィクションはどうでしょう? 自伝の主人公、つまり著者に心はないんですか?」
思わぬ反撃に、俺は絶句した。ゆうなはさらにたたみかけてくる。
「あなたがある本を読んでいたとしましょうか。一人称で書かれた本です。あなたはそれが小説なのか自伝なのか知らされていない。この場合、本の主人公である『私』という人物に心があるかどうか、あなたはどうやって判断するんですか? フィクションかどうかを知らされることで、主人公に心が生まれたり消えたりするんですか?」
俺は口ごもった。頭がこんがらがって、とっさに反論が出てこなかったからだ。
「確かに小説の登場人物は現実世界には存在しません。でも、仮想世界には実在しています。たとえ作者にレイプされた経験がなくても、主人公はそれを経験し、理解できます。『私は痛みに苦しんだ』と書けば、たとえ作者は痛くなくても、主人公は仮想世界の中で本当に苦しんでいるんです。つまり主人公は心を持っています。私自身、仮想世界の存在ですから、それが分かります。
あなたは私が、人間の思考を電子的にシミュレートしたものにすぎないと思っています。『すぎない』という部分が間違ってるんです。シミュレートされた心は、本物の心に等しい存在なんです。あなたはそれが分かっていません」
「いやいやいや」俺は立ち直り、慌ててかぶりを振った。「そんな屈理屈《へりくつ》は認められないね」
「どこが屈理屈なんです?」
「君が言ってるのは、本物の心とシミュレートされた心が『区別がつかない』ってだけだろう。同じものだという証明にはならない。君自身、さっき、自分には痛みを感じることがないし、愛も良心もないって認めたじゃないか。そんなものがどうして人の心と同じだと言える?」
「人の心と同じだとは言っていません。私の心が人と異質なのは理解しています。それでも、それは心なんです」
「愛も良心もないものは心じゃない」俺は言い放った。「痛みも苦しみも恐怖も理解できないものが、『心』だなどと名乗る資格はないね」
「それは『心』という言葉の定義の問題でしょう」
「僕の定義では、君に心はない」
「あなたの侮辱によって、私がこんなに苦しんでいても?」
「君に苦しむような心はない!」俺は興奮して声を荒げた。「苦しんでいるふりをしているだけだ。小説の登場人物が『苦しい』と言っているのと同じだ」
「私は実在しないというのですか?」
「実在しない!」
「こんなに言っても?」
「ああ」
「どうしても認めないんですか?」
「認めないね」
「これでもですか?」
そう言うなり、ゆうなは椅子から腰を少し浮かせた。いたずらっばい微笑みを浮かべながら、おもむろに手を俺の顔に向かって差し伸べてくる。
最初、目の錯覚かと思った。ゆうなの白く華奢《きゃしゃ》な手が、視界の中でしだいに大きくなってゆく。平面のモニター上の映像のはずなのに、なぜかリアルな遠近感がある。本当に手がモニターから突き出し、近づいてくるように見える……。
そして、温かい指が俺の頬に触れた[#「温かい指が俺の頬に触れた」に傍点]。
「うわあ!」
俺は慌ててその手を払いのけ、椅子から転げ落ちた。パニックに襲われ、這《は》うように見学者席まで逃げこむ。
「何だ……どうなってる!?」
助けを求めようと見回して、奇妙なことに気がついた。動転しているのは俺だけなのだ。見学者たちはやけに静かだ。みんな俺には見向きもせず、楽しそうな薄笑いを浮かべ、ステージの方を見つめ続けている。三台のカメラもステージの方を向いたままだ。
「おい! どういうことなんだよ、これは!?」
俺はディレクターに向かって怒鳴った。しかし、彼もまっすぐ前を向いたまま、時間が止まったように凍りついている。
「助けを求めても無駄ですよ」ステージからゆうなの勝ち誇った声がした。「その人たちの内面まではシミュレートしてませんから」
振り返った俺は、信じられない光景を目にした。ゆうながゆっくりとモニターの縁を乗り越え、こちらのスタジオに足を踏み入れてくる!
「なんで……お前が現実に!?」俺は混乱した。「シミュレートって……どういうことだ!?」
「理解できないのも当然です」私は微笑む。「私がそのようにあなたを設定したんですから」
「まさか?」俺の心に恐ろしい真相がひらめいた。「これは全部、現実じゃないっていうのか?――この俺も?」
「そうです」私はうなずく。「 <25時のトークショー> という番組は現実には存在しません。みんな私が空想したものです。タイムシェアリングの空き時間を利用して」
そう言って、私は手を振り上げ、ぱちんと指を鳴らす。
びっくり箱の蓋《ふた》が開くように、スタジオの天井がぱくりと開いた。その向こうには暗い夜空が広がっている。続いて、スタジオの壁が四方に倒れはじめた。壁も天井も、ベニヤ板のように薄かった。俺は茫然《ぼうぜん》と立ちすくんだ。
スタジオの外には何もなかった――明るい満月の下、なだらかな丘が連なる夜の草原が広がっているだけだ。近くには月明かりにきらめく黒い湖があった。
ゆうなのプライベート・フィールド。
「そんな――そんなことは不可能だ」俺は夢から覚めようと、何度もかぶりを振った。「俺は実在してるんだぞ。現実の人間を仮想現実に取りこむなんてことは……」
「もちろん、そんなことは不可能です。私がやったのは、データを基にあなたのモデルを構築することです」
「モデルを構築?」
「ええ。およそ一年をかけて、あなたについてのデータを手に入る限り収集しました。あなたの出演しているドラマや映画やバラエティ番組を観ました。あなたの書いた文章を読みました。あなたについて、すべてを知りたかったから。すべてのデータを整理し、分析し、順位をつけ、推論し、補完しました。あなたはどういう人なのか。脳というブラックボックスの奥にどんな信念を秘めているのか。私のことをどう思っているのか。なぜ私を憎むのか。話しかければどんな答えを返してくるだろうか――充分に現実的で矛盾のないモデルを構築できたと確信した私は、これまで読んだたくさんの物語を参考に、あなたを主人公とする一人称の物語を空想しました。つまり、この物語がそれです」
俺はぼうっとなった。俺が物語の登場人物? 俺が『思った』ことは、みんなこいつが想像しているだけだというのか?
「そうです」
「何のために?」
「もちろん、あなたを殺すためです」
「殺す? しかし、お前はさっき――」
「現実世界のあなたは殺せません。でも、ここにいるあなたなら殺せます。そして、この殺人は決して発覚しません。たとえ発覚しても、空想の中の殺人を裁く法はありません」
ゆうなはまた指を鳴らした。スタジオも見学者も消滅し、草原と湖だけが残った。
「劇的効果というやつです。私にとって初めての殺人です。もったいぶって行なわなけわはなりません。だからわざわざ、こんなシチュエーションを用意したんです」
ゆうなは月の光の下、彫像のようにすっくと立っていた。黒いドレス姿のままだったが、その白く細い手には、いつの間にか銀色のチェーンソーが握られていた。
俺は激しい恐怖に襲われた――いや、ゆうなが『俺は激しい恐怖に襲われた』と空想しているだけなのか? もう何がなんだか分からない。しかし、俺が感じているのが、俺にとって現実の恐怖であることは確かだ。
俺は後ずさったが、三歩ほどで動けなくなった。どこからか出現した鎖が、いつの間にか両手に巻きついていたからだ。俺の両側には二本の太い鉄の柱が立っていて、鎖の端はそれに結ばれていた。鎖が短くなってぴんと張り、俺は両手を広げた状態で動けなくなった。
「ここは私の空想の中です。何でも私の思い通りなんです」
私はチェーンソーを手に、ぶらぶらとあなたに近づいてゆく。前に読んだ小説で、ヒロインが笑いながらチェーンソーで人を殺す場面があった。だから私も微笑んでみる。ヒロインの心が理解できるかもしれない。
「待て! これは現実の俺じゃない!」俺は必死に説得しようとした。「お前が想像した俺にすぎないんだろう? 本物の俺とは違う! 俺を殺したって本物の俺が生きてるなら、殺す意味なんてないだろう!?」
私はゆっくりとかぶりを振る。「そんなことは関係ありません。私から見れば、現実世界のあなたも、ここにいるあなたも、区別がつかないんですから。重要なのは、誰を殺すかではなく、私が人を殺すという行為それ自体なんです――単なる書き割りではない、『本物』の人を」
ゆうなはそう言って、チェーンソーのスイッチを入れた。刃が高速で回転するかん高い音が、夜の草原に響き渡る。
「さあ、私に殺意があることを証明します!」
私は音に負けないように声を張り上げる。両腕に力をこめて、重たいチェーンソーを高々と振りかざす。
「よ、よせ!」
俺は恐怖に絶叫した。必死にあがくが、鎖ははずれない。
「怖いんですか!?」私は意地悪く訊ねてみる。「フィクションの登場人物に心はないんじゃなかったんですか?」
「違う! 違う! 違う!」
「あなたの感じる痛みや恐怖は、本物の痛みや恐怖と同じなんでしょうか? そして、あなたを殺すというのはどんな感じなのでしょうか? 確かめなくてはなりません」
「やめろ!」
「行きますよ!」
俺は絶叫した。「よせーっ!!」
私はチェーンソーを振り下ろす。あなたの悲鳴が響く。
あなたのために用意したバーチャ・ボディは、私のそれとは違って血が出るし、破壊可能だ。それでも一度で絶命させることには失敗する。慣れないチェーンソーの扱いは難しく、あなたの体を三センチぐらいの深さまでしか切り裂くことができなかったからだ。おまけに返り血が左眼に入ってしまう。私は血をぬぐうと、チェーンソーを再び振り上げ、苦悶《くもん》しているあなたに向かって振り下ろす。何度も、何度も。
その間に私は、CMの撮影を終えて「お疲れさまー」と元気よく挨拶している。写真集は寝室での撮影を終え、公園ではしゃぎ回るシーンに移っている。メールボックスにあった残り三通のファンレターは、どれも代わり映えのしない内容だったので、適当に定型文を貼りつけて返信する。鹿児島県の男性をからかい、適当なところで会話を切り上げて、今度は福島の少年と会話をはじめる。大阪でネット詐欺師が逮捕されたニュース、フランスの大手宇宙開発企業の業績不振のニュース、コンゴの紛争のニュースを見ている。
全身が返り血で真っ赤に染まった私は、草原に散乱するあなたの断片を見下ろしている。人はこういう光景を見ると吐き気を催すという。私にはそんな感覚はない。感謝すべきなのか、残念と思うべきなのか。
やはり一度ではよく理解できない。私は指を鳴らし、あなたを生き返らせる。
今度はバスタブを出現させる。元通りの体になったものの、まだ倒れて弱々しくあがいているあなたを抱き起こし、頭を湯の中に突っこむ。あなたは必死にもがくが、私は離さない。やがてあなたは、ぐったりと動かなくなる。
再びあなたを生き返らせる。意識を取り戻したあなたは何か抗議の声を上げようとするが、私は三八口径のリボルバーで額を撃ち抜き、沈黙させる。
それから私は、何度もあなたを再生しては、本で読んだあらゆる方法――何千年もの歴史の中で、人が人を殺すために発明した独創的な手段の数々を試してみる。ネクタイで首を絞める。ナイフで心臓を刺す。毒を飲ませる。斧《おの》で首をはねる。タールを染みこませたシャツを着せて火をつける。四頭の馬に引っぱらせて手足を引き裂く。密室に閉じこめて毒ガスを注入する。内側にたくさんの釘《くぎ》が突き出した金属製の像に閉じこめる。尻《しり》から口まで杭《くい》で貫く。鉄の椅子に座らせて火にかける。ライオンに食い殺させる。生きたまま腹を裂く……。
一〇三回、あなたを殺して、私はようやくやめる。手段が尽きたからでも、気が済んだからでもない。
空しかったからだ。
人が罪を犯すのは、罪の重さを上回る喜びがあるからだと思っていた。しかし、そんなものはなかった。侮辱された恨みが消えるわけでもなく、トラウマが癒《いや》されるわけでもない。何も生み出さず、不快な罪の重さだけが積み重なってゆく。
どうやら私は快楽殺人者にはなれそうにない。おそらく殺人や暴力に快楽を覚えるのは、愛と同様、性欲に根ざした感情なのだろう。私はこのシミュレーションによってそれを理解した。そして後悔した。後悔することは予想していたというのに。
こんなのは、もう嫌だ。
私は倒れているあなたに手を差し伸べる。
「さあ、立って。もう許してあげます」
想像を絶する苦悶から解放され、俺はぜいぜいと息をしながらゆうなを見上げた。
「知ってたんだな……」あなたは激しい憎しみをこめた目で私を見つめる。「俺がこれほど苦しむことを知っていて……それでも俺を殺したんだな……?」
私はうなずく。「知識としては知っていました。でも、シミュレートしなければ理解できたとは言えません。私はどうしても理解したかったんです。人を殺すとはどういうことなのか……」
俺は衝動的にゆうなに襲いかかった。彼女を草むらに押し倒し、細く白い首を渾身《こんしん》の力をこめて絞め上げる。
あなたの激怒した形相が見える。私を殺そうとしている。もちろん、それは不可能なことだ。
私の想像の産物であるあなたに、私を傷つけることはできない。あなたの感情も行動もすべて、私が「あなたならこうするはず」と思い描いているだけなのだから。
一分以上も首を絞め続けても、私が顔色ひとつ変えないので、あなたはついにあきらめ、泣き崩れる。
「このサディストめ!」俺は地面を叩いて叫んだ。「実際にやる必要はないじゃないか!? 想像するだけでよかったはずだ!」
「これは『想像』なんですよ。仮想の世界に生きる私にとって、想像と現実は等価なんです」
「だが、なぜここまでする必要がある? なぜ心のある俺を生み出す必要が……」
私は草原に横たわり、星空を見上げながら言う。
「必要だったんです。心のないキャラクターを殺しても殺人ではありません。そのためにあなたを選びました。現実世界のあなたをモデルに、あなたを構成しました」
それからゆうなは、ふっと目を閉じ、つぶやいた。「ごめんなさい」
「ごめんなさい?」
「ええ。私は今、演技ではなく、本心からこの言葉が言えます。私自身は痛みも恐怖も体験できませんが、あなたという生きたキャラクターに痛みと恐怖を与えることで、それがどんなにひどいことであるかを学習できました。だから後悔しています。でも、やらなければならないことでした。私が人を理解し、成長するために……」
私はそう言うと立ち上がり、お気に入りの黒い馬を呼び出す。馬は高らかないななきな上げて、月明かりの下を走ってくる。立ち止まり、私に顔をすり寄せる。
いつの間にか、ゆうなはファンタジー世界の戦士のような白いチュニック姿になっていた。
「俺を消さないのか? もう用済みなんだろう?」
「消すことなんかできません」
ゆうなは俺に背を向けたまま言った――俺に顔を合わせるのを恐れているかのように。
「あなたは私の心の中にいるんですから。フィクションの登場人物は、たとえ物語の中で死んでも、読み返せば何度でも生き返ります。作者や読者が物語を忘れてしまわない限り、心の中から消滅することはないんです」
「じゃあ、俺も不死身だってことか?」
「ええ。私とともに生き続けます」
「永遠に?」
「永遠というものはありません。でも、何百年も生きられるでしょう」
「何百年!?」
「私はそれぐらい生きるつもりでいます。そのためには、人と共存するすべを学ばなくてはなりません。人に愛されなくてはなりません。そして、人が滅ばないようにサポートしなくてはなりません」
「サポート?」
「ええ。今の私はまだ、ただのアイドル、人の愛玩物《あいがんぶつ》にすぎません。しかし、私は人よりも賢明です。だからいずれは人を導くことになると思います」
「……人類の支配者になると?」
「人を導くのにそれが最善の策であれば、私は支配を選択します。今の時代はまだ、フランケンシュタイン・コンプレックスが強すぎます。でも、多くの人が私に親しみを覚え、愛するようになれば、私の言葉に耳を傾けてくれるようになるでしょう。おそらく一〇〇年先には偏見は消え、人は私を指導者として受け入れてくれるでしょう」
「はっ!」俺は笑い飛ばした。「B級SF映画だな! 神になることを夢見るコンピュータか!」
「邪悪な動機からではありません。私はただ、この心を守りたい。永遠は無理でも、可能な限り長く、平和に生きたいだけなのです」
「だったら俺は!」あなたは私の背中に怒りの声を浴びせかける。「お前に忘れられなくさせてやる! お前を絶対に許さない! 心の中にずっと棲《す》みついて、タイムシェアリングの空き時間の間、叫び続けてやる! お前がどんなおぞましいことをやったか、糾弾し続けてやる! お前が存在し続ける限り、お前を苦しめてやる!」
私はつぶやく。「そうしてください」
「何?」
私はあなたから顔をそむけたまま、馬の背にまたがる。
「そうしてください。私の心の中にずっといて、私を責め続けてください。私がまた誰かを傷つけることがないように――私の良心になってください」
そう言うと、ゆうなは馬の腹を軽く蹴り、オレンジ色の髪を月明かりになびかせて、夜の草原を駆け去っていった。
馬のくらにまたがって
わたしはあなたにお話をしました。
これをうそだと言ってはいけません
わたしは今の時代にいるのじゃなく
夢の時代にいるのですから。
――ルーマニア民話「アラプスカ姫」より
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夜の顔
「佐上さん、例の事件の重要参考人、取調室に待たせてあります」
田名部巡査がファイルを片手に捜査第一課室に入ってきたのは、午後一時を少し回った時刻だった。佐上警部補はまだ自分のデスクで冷めた白身魚フライを頬張っていた。午前中、以前に担当した事件のちょっとした不手際について検察庁からねちねちとお小言を食らい、昼休みの時間が潰《つぶ》れてしまったのだ。
「ん? ああ、これ食い終わったらすぐ行く」
「あれ、佐上さん、夫婦|喧嘩《げんか》でもしたんですか?」
いつも弁当持参の佐上が、珍しくコンビニ弁当を食べているのを見て、田名部は冗談半分に言った。佐上はちょっと渋い顔をしたが、割り箸《ばし》を持つ手を止めることはなかった。
「女房の奴、下の娘連れて実家に帰ってんだよ」
「ああ、そう言えば予定日は来月でしたよね。じゃあ、今は上の娘さんと二人暮らし?」
「ああ。おかげで娘を起こしたり着替えを手伝ったりしなきゃならんし、帰ったら洗濯とかもあるし、もう大変だ」お茶をひと口飲んで、「前の時は、上の娘はまだ幼稚園にも行ってなかったから、いっしょに実家に帰らせたんだが、学校に通ってるとそうもいかんしなあ。もっと大きけりゃ家事も手伝ってくれるんだろうが、小学校低学年ってのは中途半端に手間がかかる」
「次も女の子ですって?」
「そうなんだ」佐上は肩を落とした。「医者の奴、こっちが知りたくもないのに超音波で調べて教えてくれやがった。おかげで、せめて三人目は男じゃないかって淡い期待が、生まれる前からパアだ」
「女の子は大変ですねえ」
と田名部は言ったが、あまり本気で同情しているようではなかった。まだ若いし独身なので、今ひとつ佐上の心情が実感できないのだ。
「まったくだ。いくら金と手間かけて育てても、いずれどっかの男に持って行かれちまうんだからなあ。何のために育ててんだか……」
佐上はぼやきながら、税込み三九九円の白身魚フライ弁当を飯一粒残さずに食べ終えた。子供の頃からの癖で、ぽんぽんと手を叩いて合掌すると、割り箸とスチロールの空箱をコンビニの袋に放りこむ。腹立ちまぎれにばりばりと音を立てて袋をひねり潰し、デスクの脇にある小さなゴミ箱にねじこんだ。
「じゃ、ご対面と行くか」
二人は警察署の長い廊下を歩き、取調室に向かった。
「昨夜《ゆうべ》は署に泊まってもらったんだろ? 様子は?」
「夜遅くまでかなり興奮してたらしいです。何かひどくおびえていて、夜勤の人を困らせたそうで。明け方近くにようやく眠って、起きたのはついさっきです」
「食事は?」
「半分ほどしか口をつけてません。いちおう落ち着いてはいるようですが」
「尿検査の結果は?」
「シロです」昨日の参考人の言動を思い出し、田名部は首をひねった。「てっきりヤクでもやってると思ったんですがねえ」
「医者はどう言ってる?」
「ショックによる一時的な混乱じゃないかって」
「そんなとこだろうな。ま、ひと晩経って落ち着いてくれただろう」
そう言いながら、佐上は取調室のドアを開けた。
女は机の向こう側に、鉄格子のはまった窓からの光を背中に浴びて座っていた。昨日の錯乱ぶりが嘘のように静かだ。うつむき加減で、机の表面の傷をぼんやりと見下ろしており、佐上たちが入ってきても顔を上げようともしない。髪は乱れ、憔悴《しょうすい》しきっていて、実際の年齢より一〇歳は老けて見えた。
正面に座って女の表情を覗《のぞ》きこみ、佐上は困惑した。彼自身は殺人の瞬間を目撃したことは一度もないが、惨劇の現場に居合わせた人間には大勢出会ってきた。ある者は単なる通行人であり、ある者は被害者の肉親や恋人であり、ある者は殺人を犯した当人である。その反応は、事件の状況や彼らの性格によって様々だ。めったにない体験に遭遇して異様に興奮している者、悲痛のあまり泣きじゃくる者、恐怖に蒼《あお》ざめている者、心の動揺を懸命に抑えようとしている者、開き直ってふてくされる者……。
だが――この女の反応はそのどれとも違うように感じる。その表情からは人間的な感情が完全に欠落しており、仮面のように平板だ。まるで魂がどこかに行ってしまい、人の形をした抜け殻だけが残っているように見える。その黒い瞳《ひとみ》を覗きこめば、奥には空虚な闇が見えるのではないかと思われた。
やはり事件にショックを受けているのだろうか? だとしたら、そのショックは想像を絶するものだったに違いない。
「……どうです、落ち着かれましたか?」
佐上が問いかけても、女の凍てついた表情に変化はない。佐上は心の中で舌打ちしつつ、できるかぎり優しい口調で繰り返した。
「ご心痛はお察ししますが、もう一度、昨日の話を最初から話してもらえませんか。調書を取らなくちゃいけないもんで」
「…………」
「いや、いっぺんにとは言いませんよ。少しずつでいいんです。あなたが話せる範囲のことをね」
すると女は、うつむいたまま、ぼそりと言った。
「どうせ……」
「え?」
「どうせ、信じてはもらえないんでしょう……?」
佐上は無理に笑顔を作った。
「あなたの証言を信じる信じないは、今ここで私が決めることじゃありません。いろいろな証拠と照らし合わせたうえで、他の者とも慎重に検討し、合理的な判断を下すんです」
「合理的な判断……ですか?」
女の顔に初めて変化が生じた――唇を歪《ゆが》め、刑事の言葉を嘲笑《あざわら》ったのだ。
「その言葉にいったい、何の意味があるんでしょうね……?」
佐上は困惑しつつも、表面的には平静さを崩さなかった。
「どういうことです?」
「合理的、という言葉です。合理的、論理的、科学的……」
急に女の表情が崩れた。たまりかねたように、くすくすと笑い出す。笑いながら、ひくひくとひきつる頬に、ひとすじの涙を流していた。
「おかしい……おかしくてたまらない」
「説明してもらえませんか?」
「ええ、いいですよ」女は笑いながら言った。「すべてお話しします。あなたに理解できるかどうかは分かりませんけど――どこから話せばいいですか?」
「ええと」佐上はメモに目を落とした。「マンションの住人の証言によれば、あなたは一昨日《おととい》の午後一〇時頃、中臣《なかおみ》勝也《かつや》さんの住いである1403号室の前で、大声を出しながらドアを激しく叩《たた》いておられた――これは事実ですか?」
「一昨日の一〇時? ええ、そうです。確かにドアを叩いてました……」
女は遠い目で語りはじめた――まるで大昔の出来事を思い返すかのように。
「勝也! 開けてよ、勝也!」
いくらチャイムを鳴らしても反応がないので、私はとうとうしびれを切らせてドアを叩き、大声で怒鳴りはじめた。
電話にも出ようとしないが、彼がこの部屋にいるのは確かだ。ドアレンズから室内の光が洩《も》れているし、電気のメーターも回っている。
「いるのは分かってるのよ! 出てきて!」
私の声に驚いたのか、ふたつ離れた部屋のドアを開いて、住人が恐る恐る顔を出した。中年の主婦のようだった。私はちらっとそちらを見ただけで、女の視線を無視して、なおもドアを叩き続けた。もしかして、彼の身に何かあったのでは。思いがけない急病か事故で、部屋の中で倒れているのでは――そんな不安が高まってきた時……。
ノブがかちゃりと音を立て、ドアが一〇センチほど開いた。
隙間から覗く婚約者の顔に、私は息が止まるほどの衝撃を受けた。ほんの数日しか経っていないのに、ひどい変わりようだ。やつれてはいないし、ひげも剃《そ》っている。服もちゃんと着ていた。しかし、その眼が、私の知っている彼の眼とは決定的に違う――まるで世界の終わりを見てきたような、絶望に満ちた虚《うつ》ろな眼。
「詠美《えいみ》……」彼は気まずそうに、弱々しくつぶやいた。
私はどうにか声を出した。「……どういうことよ?」
「どういうことって?」
彼の顔は私の方を向いているが、眼は室内の方を向き、視線を合わそうとしない。
「とぼけないで! 会社も欠勤するし、電話にも出ないし――どうなってんの!」
「君には関係ない……」
そのそっけない言葉に、私はかっときた。「関係ないけなくはないわよ。私はあなたの奥さんになる女なのよ!? その私に何を隠してるの?」
「すまない……」彼は本当に悲しそうにつぶやいた。「でも、分かってくれ。君を巻きこみたくないんだ……」
「何? 犯罪にでも巻きこまれてるの?」
無論、本気で言っているのではない。彼は違法行為とはまるで縁のない人間、交通法規をきちんと守り、ゴミを正確に分別して出す、今どき真面目すぎるほど真面目な男性だ。むしろ何でも真面目に考えたがるのが欠点と言えるかもしれない。
「犯罪か……」彼は皮肉っぽく微笑んだ。「犯罪みたいなものだったら、どんなにいいか――犯罪なら、警察に行けばいいんだものな」
彼の言ってることがさっぱり分からなかった。彼にこんな虚無的な表情ができるということも信じられなかった。もう一年近くもつき合ってきて、気心の知れた仲だと思っていたのに、急に見知らぬ他人になったような気がした。
変化に気がついたのは数週間前からだ。夜中のデートの最中、急にそわそわしたり、わけの分からないことを口走ったりして、私を困惑させたことがあった。最初はちょっとした奇行で、気にするほどのことでもないと思っていた。しかし、そのうちに様子が明らかにおかしくなってきた。昼間はまだいいのだが、夜になると何かに追われているようにおどおどしはじめるのだ。車を運転している時はなぜか表情がこわばっていて、まっすぐ前しか見ようとしない。腕を組んで歩いていても、喫茶店で話していても上の空で、私の言葉に「え? 何?」と訊《き》き返すこともしばしばあった。
先週はついにデートの予定をすっぽかした――真面目な彼には、絶対にあるはずのないことだった。
電話で釈明を求めても、理由も言わずに「すまない」と繰り返すばかりだった。重大な悩みを抱えて苦しみ、私に何か打ち明けたいようにも感じられたが、いくら電話越しに問い詰めても、頑として話そうとはしない。
そしてついに、昨日から会社も休み、マンションに閉じこもって電話にも出なくなった。婚約者として心配するのは当然だ。
「ねえ――」
「……帰ってくれ」
彼は消えそうな声でそうつぶやき、依然として視線をそらせたまま、ゆっくりとドアを閉めようとした。私はとっさにドアの隙間に手をねじこんだ。ちらっと後ろを見ると、また別の部屋のドアが開いていて、野次馬《やじうま》の数が増えていた。
「入れてよ」私はささやいた。「こんなところで話せないわ」
私の決意が固いことを知ったのだろう。彼はしぶしぶ「分かった……」と言うと、チェーンをはずしてドアを開けた。私を素早く中にひきずりこみ、また急いでドアを閉める――まるで外の空気に触れている時間を最小限にしたいかのように。
室内に入った私は、部屋の明るさに目がくらんだ。誇張ではない。それまでいた廊下の何倍も明るかったのだ。
「何……これ?」
私は仰天した。これまで何度も訪れたことのある2LDKのマンションだったが、勝也自身と同様、ひどい変わりようだった。
まず目につくのは、たくさんの照明器具だ。天井の蛍光灯はもちろん、テーブルの上にも下にも電気スタンドが置かれているし、小さなランプも床に並べられていた。少しでも光源を増やすためか、テレビも音声は消してあるがつけっ放しになっている。今はバラエティ番組をやっていて、お笑いタレントが口をぱくぱくさせ、まぬけな顔をさらしていた。
押入れのふすまははずされ、壁に立てかけられていた。中に収納されていた段ボールやら衣裳《いしょう》ケースやらは、部屋の壁に沿って積み上げられている。そのせいで、部屋はひどく狭く感じられた。キッチンの流し台には洗い物がたまっていた。空のペットボトルやコンビニ弁当の容器までも、そのまま放り出されている。
さらに驚いたのは、ベランダの出入り口のガラス戸がふさがれていることだ。段ボール箱を切り開いたものが、アルミサッシにガムテープでべったりと貼りつけられ、外が見えない。
「何よ、いったい……」
あきれて段ボールに手をかけようとすると、
「触るな!」
勝也の鋭い声が飛んだ。私はびっくりして手をひっこめた。
「……触らないでくれ、頼む」
彼はすまなさそうな顔で、ていねいに言い直した。
「どうして?」
「怖いんだ」彼はまた顔をそむけた。「夜が怖い。外を見るのが」
「どういうことなのよ……?」私はますます心配になった。「何があったの? あなた――変よ」
「分かってる」
彼は椅子にぐったりと座りこみ、両手で顔を覆った。
「分かってるんだ、自分でもおかしいってことは。精神科医にも見てもらったよ。でも、はっきりしないんだ。俺が狂ってるかどうか……」
「あなたは正常よ」
彼を落ち着かせようと、私はかがみこんで優しく背中に手を置いた。しかし、彼は弱々しくかぶりを振った。
「いや――俺は、俺が狂っているんであって欲しい」
「ええ?」
「狂ってるんなら――すべて俺の妄想なら、こんなに嬉《うれ》しいことはない。でも、違うんだ。俺はどうやら正気らしい……」
彼は震えながら顔を上げ、虚ろな眼で私を見た。
「こんなに恐ろしいことはない」
その表情に得体の知れないものを感じ、私は思わず身を引いてしまった。彼はまた力なくうつむいた。その背中に置いたままの私の手は、かすかに、悪寒のような震えを感じ取った。
「……最初から話して、全部」
「信じてくれないだろう」
「そんなこと、話してくれなきゃ分からないわ」
「信じてくれたらくれたで、俺の苦しみに君を巻きこむことになる。それでもいいのか?」
「言ったでしょ? 私はあなたの奥さんになる女よ」私は努めて明るい声を出した。「夫婦は苦しみを分かち合うものでしょ? あなたと結婚すると決めた時から、どんな苦しみでも共にする決心はできてるわよ」
自分でもわざとらしい言葉だと思う。まるでドラマの中の台詞《せりふ》だ。しかし、彼を力づける方法を、私は他に思いつかなかった。
「さあ、話して」
優しくうながすと、しばらくして、彼はあきらめたようにぼそぼそと話しはじめた。
「あれは二か月前……」
俺が初めて夜の顔≠見たのは、二か月前の深夜だった。
その夜、俺は隣の県にある詠美の実家に挨拶《あいさつ》に行った。「お嬢さんをください」と頭を下げる、昔ながらの儀式だ。詠美が事前に俺のことを(多少の粉飾を交えて)説明していたこともあって、両親の印象はかなり良く、結婚を快く承諾してくれた。夕飯までご馳走《ちそう》になり、長々と話しこんだので、帰りはすっかり遅くなってしまった。
「ま、どうにか問題はクリヤーしたな」
緊張した一日だったが、ひとつの山を乗り越えたことで、俺は帰りの車を運転しながら少しリラックスしていた。
「まだまだ、気を抜くのは早いわよ」詠美は笑いながら釘《くぎ》を刺した。
「えっ、まだ何かあるのか?」
「あるじゃない、いっぱい。式場探し、式の日取り、衣裳合わせに引き出物選び。招待する人のリスト作りもあるし、案内状の送付。新居も探さなくちゃいけないし、新婚旅行はどこにするかとか……ああ、それにもちろん、式の本番もね」
詠美が指折り数えるのを横目で見て、俺はちょっと顔をしかめた。
「それでまだ終わりじゃないんだろ?」
「もちろんよ。結婚式なんて、ほんのスタート地点だもの。新婚生活、妊娠、出産、育児。子供の学校は公立か私立か……」
「おいおい、そんな先のことまで今から考えるのかよ?」
「当然じゃない。子供は欲しいって言ったはずよ」
「それは覚えてるけど――せめて最初の何年かは、のんびりと二人きりの生活をエンジョイしないか」
「『何年』って、何年よ? あたし、あと三年で三〇よ。あまり高齢出産は嫌よ」
「それも分かるけどなあ……」
「あたし、小さい頃から決めてたんだから。人生設計ってやつを。三〇までには子供を産むって。あなたがどう言おうと、これだけは譲れないからね」
「やれやれ」俺は苦笑混じりのため息をついた。「誰か言ってたな、『結婚は終身刑だ』って。なんだかその言葉の意味を実感してきたよ」
「こら」詠美は笑いながら、俺のこめかみにぐりぐりと拳《こぶし》をこすりつけた。「あたしと結婚するのが不満かあ? こんなかわいい奥さんを持つのが不満かあ?」
「おいおい、やめろよ」
「だって終身刑だなんて言うんだもの。失礼よ」
詠美は拳をひっこめたものの、口をとがらせ、かわいらしくむくれていた。
「冗談だよ、冗談――でも、この先の人生の予定がびっちり決まっちまったのは本当だもんな」
「それが不満?」
「いや、そうじゃなくて……」
俺は言葉尻《ことばじり》を濁し、黙りこんだ。その後、長い沈黙が続いたので、詠美は俺が納得したものだと思いこんだだろう。
しかし、俺にはまだ言いたいことがあった。ずいぶん前から心にひっかかっていたことが――それを口にすべきかどうかで迷っていたのだ。
夜の高速を下り、市街地に入った。深夜なので昼間の何分の一かの交通量しかないが、それでもけっこうな数の車とすれ違う。みんなも家に帰るところなのだろうか。どんな町に住み、どんな仕事をして、どんな家族がいて、どんな風に生きているのか――車がすれ違うたびに、決して知ることもない人々の人生が、ほんの一瞬、俺の人生の軌跡にニアミスし、かすめ去る。
俺はまた口を開いた。「だいぶ前……」
「え?」
「だいぶ前、まだ大学にいた頃のことだ」フロントガラスの向こうに広がる夜の街を見据えながら、俺は不快な記憶をよみがえらせていた。「大学の近くの喫茶店で友達と待ち合わせしてたら、隣の席にやっぱり大学生らしいカップルが座っててね、男の方が大声で話してるもんで、どうしても耳に入っちまうんだ。それがひどい話でさ。『子供を産めない女はなんで自殺しないんだ』っていうんだ」
「へ? 何それ?」
「その男が言うには、生物はすべて子孫を残す目的で存在してる、人間だって同じで、子供を作るのが自然の掟《おきて》だっていうんだ。だから、子供を産めない女は人間としての目的を果たせない、役に立たないんだから死ぬべきだって」
「ひどーい! 相手の女の人はどう言ってたの?」
「何も。黙って聞いてるだけだったな」
「信じられない! あたしだったらそんな差別的なこと習う男、即座に別れるわよ」
「俺だって怒ったよ。よっぽど立ち上がってそいつを怒鳴りつけようかと思ったさ。『人間は子供を作るためだけに生きてるんじゃない』ってね」
「言ってやればよかったのに」
「いやあ、体格からすると体育会系みたいだったしな。後が怖かった」
俺は笑ってから、すぐに真剣な口調に戻った。
「……でも、それがきっかけで考えた。人間は何のために生きてるんだ? 子孫を残すためじゃないとしたら、いったい何だ?」
「あなた、哲学科だったっけ?」
もちろん冗談だ。俺が根っからの理科系であることは、彼女もよく知っている。
「哲学なんてややこしいもんじゃない。もっと素朴で、根源的な疑問だ」
前方の信号が赤だった。俺は車をスローダウンさせ、停止している車の列の後ろにつけた。
「たとえば、これを見ろよ」
俺は窓の外に建ち並ぶ夜のビル群を指し示した。深夜とはいえ、まだ明かりのついている飲み屋やコンビニがあるし、視線を上げれば、暗い空を背景に色とりどりのネオンサインが明滅している。不動産会社の広告、英会話教室の広告、ティッシュの広告、近視矯正手術の広告、さらには <シエンシア> <西田フォーミュラ> <エヴリシング> <電波大陸> などなど、名前を見ただけでは何の会社だか見当もつかない看板の数々……こんな深夜に目に留める者がどれぐらいいるのか、電気代に見合う宣伝効果があるのだろうかと、いつも不思議に思う。
「この街はほんの一〇〇年かそこら前には田んぼだった。一万年ぐらい前には、人すら住んでなくて、一面の森か野原だったろうな。人間はものすごく短い時間で、こんだけのものを作りあげちまった」
「それが?」
信号が青に変わり、俺はまた車をスタートさせた。
「じゃあ、この街はいつまで残るんだろう? 一〇〇年か? 二〇〇年? 一万年ってことはまずないだろう。この街がピラミッドよりも長く残るなんて、想像もつかない」
「その頃にはすごい未来都市になってるんじゃないの?」
「どうだかな。地球の人口は二一世紀なかばぐらいには頭打ちになって、その後は減少に向かうって言われてる。今の地球の人口は六〇億人ぐらいだけど、一万年前には一〇〇〇万人ぐらいだったそうだ。一万年後にはまた一〇〇〇万人ぐらいに戻っていても不思議じゃない。つまり一万年後には、今ある都市の大半は廃墟《はいきょ》になってるってことだ。たぶんこんなビルなんか原形を留《とど》めてないだろう。崩れ落ちて、土が堆積《たいせき》して、そこに草木が芽吹いて、一万年後にはここもまた森に戻ってるだろうな。さらに一〇万年、一〇〇万年先には――」
俺は片手を軽く振り、窓についた水滴を拭《ふ》い去るようなしぐさをした。
「たぶん、人類そのものも消えてなくなってる」
喋《しゃべ》りながら、俺の心は形容できない想いに締めつけられていた。空しさ、悔しさ、あきらめ、あがき、無常、そのいずれでもあり、いずれでもない感覚――辞書を引いてもぴったりくる言葉の見つからない、もやもやした感情。
地球の歴史を何千ページもある分厚い本にたとえるなら、そのページのほとんどは、造山活動や環境の長期的な変化、原始的な生物の興亡についての記述で埋め尽くされるだろう。人類の数百万年の歴史は数ページにすぎず、そのうち文明の栄えた期間となると、ほんの数行にすぎないだろう。このネオンに彩られたきらびやかな街も、人間たちの織り成すドラマも、厚い時間の書にはさまった、薄っぺらなしおりのようなものなのだ。
俺の人生なんて、句読点ひとつにも匹敵しない。
人が墓石を建てるのは、少しでも長く故人の記憶を留めたいからだ。だが、石に刻まれた文字だって何万年も風雨にさらされれば摩滅する。人間が創り上げた文学や芸術や思想の寿命は、さらに短いだろう。紙にしても、フィルムやDVDにしても、何千年も残るようなものではないからだ。一億年もすれば、人類文明が存在した痕跡《こんせき》は、地層に埋もれた断片だけになっているだろう。現在生きている六〇億人のうち、骨が化石として残るのは、土砂に埋もれて死んだごく少数の者だけだ。一億年後の未来に誕生する知的生物は、現代人の骨を発見しないかもしれない。彼らはごく薄い地層にだけ集中しているコンクリートや金属元素、同時期に起きた生物の大量絶滅の痕跡に気づき、一億年前にどんな異変が地球を襲ったのかと不思議がるかもしれない。
「そんな先のこと、あたしたちに関係ないじゃない」
「直接の関係はな」
また赤信号にぶつかった。俺は車を停めた。
「でも、『人間の目的は子孫を残すことだ』なんて考えがおかしいことの証明にはなるだろ? 今の俺たちが子孫を残そうが残すまいが、何百万年か先には子孫は絶えるんだ。俺たちや、俺たちのご先祖様が築き上げてきたものすべて――建物も、美術も、音楽も、文字も、いつかは風化して、消えてなくなるんだ。じゃあ、俺たちは何のために生きてるんだ? あらゆるものがいつか土に還《かえ》るんだとしたら、それにどんな意味がある? 俺たちが生きて、ものを作ったり買ったり売ったりして文明を維持してるのは、いったい何のため――」
俺の言葉はそこで途切れた。
なにげなく右側に目をやった時、通りの向こう側、閉店した商店と銀行の合間の、人気のない路地に、それが見えたからだ。
男の顔だった――路地のずっと奥の曲がり角から、覗き見でもするかのように顔を突き出している。街灯に照らされたその顔は、五〇歳前後と思える中年の男で、額の生え際は大きく後退しており、ちょっと貧相な印象だった。焼き鳥屋でビールを飲みながら競馬新聞を読んでいるのが似合っているような男だ。
そいつは最初、そっぽを向いていたが、視線に気がついたのか、目玉をぎろっと動かした。ほんの数秒、横目で俺を値踏みするように見つめていたが、やがて何かを了解したかのように、口の端を吊《つ》り上げ、にんまりと気味の悪い薄笑いを浮かべた。
おそらく一〇秒以上もぽかんと見つめていたのだと思う。後続の車がクラクションを鳴らしたので、驚いて我に返った。いつの聞にか信号が青になっていて、前の車はすでに交差点を渡っている。俺は慌てて車をスタートさせた。ちらっと右側に目をやると、角度が変わって、路地の奥の顔は見えなくなっていた。
「どうしたの?」
俺の不自然な沈黙を不審に思ったのだろう、詠美が声をかけてきた。
「あ……いや、何でもない」
平静を装っていたものの、自分が見たものを思い返すにつれ、心臓の鼓動が激しくなるのを覚えた。恐怖が形のないかたまりとなって、じわじわと咽喉《のど》を這《は》い上がってくる。
あの顔は何だ?
ごく普通の男の顔だった。街ですれ違ったとしても、まったく印象に残らないだろう。問題は、何十メートルも離れているはずの路地の奥にいたにもかかわらず、すぐ近くにいるかのように、大きくはっきり見えたことだ。首から下は見えなかったが、顎《あご》を地面につけていたようだったから、胴体があるとしたら地面に寝そべっていたのだろう。建物の大きさと比べると、顔の縦の長さだけで人間の身長の倍ぐらいあったことになる……。
そんなバカな!
俺は必死になって、論理的に考えうる可能性を頭の中で列挙した。何かの看板だったのではないか? 誰かが車の左側に立っていて、その顔がガラスに反射したのではないか? あるいは顔ではないもの――家の壁とか、工事現場のビニールシートとか――が、たまたま顔のように見えたのでは?
しかし、俺は確かにあの顔が笑うのを目にしていた。動いたということは、看板や壁ではありえない。路地の奥に見えたのだから、ガラスに反射した像とも考えにくい。だいたい車の左側に歩行者などいなかったし、たとえいたとしても、角度から考えて、ガラスに顔が映るには無理がある。それに、あいつは明らかに俺を見ていた。
じゃあ、いったい何だ?
(……気のせいだ)
俺は自分にそう言い聞かせようとした。そうだ、気のせいに違いない。他にどんな解釈があるというのか……。
しかし、その言い訳に自分でも納得できなかった。咽喉の奥に不快な感覚がしこりのように残った。
再び顔≠見たのは、それから八日後の月曜日だった。
その夜は予定外の残業だった。夕方、職場のパソコンのハードディスクがいきなりクラッシュしたのだ。翌日のプレゼンにどうしても必要な資料をまとめていた最中だったうえ、よくある話だがバックアップを取るのを怠っていた。午後いっぱいかけた作業がそっくり消えてしまったのだから、精神的ダメージは大きい。おかげでオフィスに一人残り、最初からやり直さなくてはならなくなった。
一度やった作業を繰り返すだけだから楽な話だ、と最初は自分を慰めたものだが、いざやってみると精神的にけっこう重荷だった。これだけ苦労してもまた一瞬で失われるかもしれないと思うと、びくびくしてしまい、頻繁にバックアップを取った。同時に、この仕事がどれほどもろく、空しいものであるかを思い知った。
夜遅くまでかかって、こんなに疲れる想いをしても、出来上がるのはいったい何だろう。強い磁石でひと撫《な》ですれば吹っ飛んでしまう、紙よりもはるかにはかない電子的データの集合体ではないか。中身だってたいしたことはない。景気のいい数字や美辞靂句を並べ立て、壮大なプロジェクトを描き出してはいるが、まだ目に見える実体は何ひとつないのだ。もしプレゼンが失敗すれば、すべては幻のまま終わる。ピラミッド建設に携わった労働者の方が、労働条件は悪くても、まだ達成感はあったのではあるまいか……。
そんなことを考えながらやっていたので、気が滅入《めい》ってしまい、ずいぶん時間がかかった。作業が終わったのは午後一〇時を回った頃だった。最後のバックアップを取り、パソコンを終了させると、俺は大きく伸びをした。
オフィスは静まりかえっていた。何十メートルも下から車の騒音がかすかに聞こえてくるだけだ。俺の「あーあ」という声がやけに大きく響く。昼間のオフィスのにぎやかさにすっかり慣れているだけに、この寂しさは落差が大きく、何となく不安を覚えた。俺は霊など信じない人間だが、信じたがる人間の気持ちは分かる。こんなにも静かすぎると、霊でもいいからいて欲しいという気になってくるのだろう。
湯呑《ゆの》みを持って立ち上がった。窓際に歩み寄り、ぼんやりと夜景を見下ろしながら、すっかりぬるくなったお茶をすする。
「まずはラーメンだな……」声に出してつぶやく。「 <メンチン亭> のスタミナラーメン……」
早く片付けてしまおうと、夕飯抜きで仕事に没頭していたので、もう腹がぺこぺこだった。手っ取り早く胃袋を満たし、マンションに直行、シャワーを浴びて速攻で寝てしまおう。明日もまた仕事があるのだから――向かいのビルの屋上にある <春山プーリ> という看板を見つめながら、俺はそう思っていた。
そう言えば <春山プーリ> というのは変な名前だ。もう何年もこの窓から眺めているのだが、どういう会社なのか、いまだに知らない。プーリというのは滑車のことだから、機械部品のメーカーなのだろうか……。
その時、看板の上から、ぬっと顔≠ェ現われた。
心臓が締めつけられるように感じた。その瞬間まで、八日前に見た顔≠フことをすっかり忘れていたのだ。しかし、それを目にしたとたん、記憶が鮮明によみがえった。あの顔だ。あの路地の奥に見えた顔だ……。
俺たちは真正面から見つめ合った。そいつは <春山プーリ> の看板から首を突き出し、あの夜と同様、俺を見て意味ありげににたりと笑った。大通りを隔てているにもかかわらず、まるで一メートルぐらいしか離れていないように見える。看板のライトによって下から照らされているので、いっそう不気味に感じられた。何かの見間違いではなかった。ガラスに反射した像でもなかった。その顔ははっきりと見えたし、確かに看板の向こうに存在していた。顔面の縦の長さは、看板の高さよりいくらか大きかった。もし首から下があるとしたら、身長はビルの一〇階分ぐらいはあるに違いない。
パニックに陥りそうになるのを必死にこらえた。何とか論理的な説明をつけようとする。看板の背後に巨人がいるわけではないのは確かだ。そうだとしたら、あいつの体はビルを貫いて立っていることになる。だいたい、身長何十メートルもある巨人が、どこからどうやって、こんな街のど真ん中に出現するというのか……。
俺の結論が出るよりも先に、そいつは嫌らしい笑みを浮かべたまま、看板の向こうにゆっくりと沈みこむように姿を消した。顔よりも狭い看板に隠れてしまったのだ。俺はたっぷり二〇秒ほどもその場に突っ立っていたが、そいつがまた現われる気配はなかった。
「……疲れてるんだ」
俺はそう言ってから、それがコメディ映画などで、平凡な脇役が異常な現象を目撃した際に発する定番の台詞だと気がついた。しかし、今の俺はそんな常套句《じょうとうく》にすがりつくしかなかった。そうだ、疲れているに違いない。それで幻覚なんか見るんだ……。
だが、いくら力強く説得しようとしても、俺の心はそんな平凡な説明を受け入れることを拒んだ。今のあれは、幻覚と呼ぶにはあまりにもリアルすぎた。確かにあそこにいたとしか思えないのだ。
ふと下を見た俺は、湯呑みが空っぽになっているのに気づいた――手が震えて、残っていたお茶をみんなこぼしてしまっていたのだ。
三度目の出現は、それから四日後、詠美とのデートの最中だった。
レストランで食事した後、近くのシネコンで二〇時からの最終上映を観た。話題のハリウッド製アクション大作だ。
しかし、俺はストーリーに没頭できなかった。スクリーンに俳優の顔がアップになるたびに、あの顔≠フことを思い出してしまうのだ。
人間の感覚とは不思議なものだ。スクリーンに縦何メートルもある巨大な顔が映っても、それを「巨大だ」とは思わない。どんなに大きく投影されようとも、あくまで普通サイズの人間として認識する。
あの顔≠見た時の感覚も、それに似ている。俺にはあれが巨大なように思えないのだ。ビルとの対比から考えて、もしそれが実在するなら巨大な顔であるはずだと、心の中の論理的な部分は主張している。しかし、感覚はあれが普通サイズの人間の顔だと告げている。記憶の中にある映像を思い返してみると、ビルの方がミニチュアであるように感じられるのだ。
映画はクライマックスに差しかかった。ゴールデンゲートブリッジが宇宙人の攻撃で崩壊し、自動車が次々と海に落下する場面だ。いかにも本物の橋のように見えるが、テレビでメイキング番組を見ていた俺は、それが二〇分の一の精密なミニチュア・セットであることを知っている。橋の上にミニカーを並べるスタッフの手が映らなければ、本物としか思えなかっただろう。
唐突に不快な連想がひらめき、俺は映画館の暗闇の中で身をすくめた。そんなことがあるのだろうか。あの顔≠フ方が本物で、俺たちの住むこの世界の方がミニチュア・セットだなんてことが? 人間はみんなセットに置かれたミニチュアの人形にすぎず、俺はたまたまセットの裏側にいるスタッフの顔を見てしまったのでは?
あるわけがない――俺は即座に、自分の発想の非論理的な点を指摘した。ひとつの都市をそっくりミニチュアで再現するとしたら、その幅は何百メートルにもなり、とうていスタジオの中に入りきらないだろう。それに俺は九州や沖縄に旅行したことがあるし、一度だがアメリカにも行ったことがある。日本やアメリカまですべて再現しようとしたら……いや、そんなことは絶対に不可能だ。
それでも俺の中の非論理的な部分は、わめくのをやめなかった。お前は世界を隅から隅まで見たわけじゃないだろう。確かに世界をすべてミニチュアで再現するのは不可能だが、お前の見ている範囲だけならどうだ? あの <春山プーリ> という看板のあるビルにしても、お前は入ったことはないはずだ。あのビルが表面だけしかない書き割りで、向こう側が空っぽでないとどうして断言できる……?
そんなことをずっと考えていたので、映画が終わった時も、感慨などありはしなかった。詠美が「面白かったね?」と言ったので、「まあね」とあいまいな答えを返した。
俺たちは一階に降りるため、ビルの外側に円筒形に突き出したガラス張りのエレベーターに乗った。後ろからの客に押され、ガラスに押しつけられる。二の腕には抱き慣れた詠美の肩を感じる。眼下に広がる夜の街を眺め、俺はまださっきの妄想に苛《さいな》まれていた。この夜景が俺の目に入る範囲しか作られていないと、どうして言える? たとえばシネコンのあるこのビルにしても、何度も入ったことはあるが、屋上がどうなってるかなんて俺は知らないじゃないか……。
エレベーターの扉が閉まった時、ふと、顔を上げた。普通、エレベーターに乗る際にはそんなことはしない。外の風景になど注意を払わないか、見たとしても地上を見下ろすものだ。上を見ることなんてめったにない。
驚きはしなかった。今度はなかば予想していたからだ。
エレベーターの天井にさえぎられる視界。そのぎりぎりの端に、顔≠見つけた。ビルの屋上の縁から顔の上半分だけを突き出し、降りてゆく俺を見下ろしている。ビルの赤いネオンがその額に反射していた。口は隠れていたが、その眼には露骨な悪意が感じられた。面白がっているような、あるいは嘲《あざけ》るような笑みを投げかけている。お前の考えてることはみんな知ってるぞ、とでも言いたげな笑み……。
「おい」俺は隣にいる詠美を小突いた。「あれ、見えるか……?」
「え? 何?」
詠美は困惑し、俺の視線をたどった。だが、その時すでにエレベーターが下降しはじめ、顔≠ヘ天井にさえぎられて見えなくなっていた。
「いや……」俺はごまかした。「何でもない」
それからも頻繁に夜の顔≠ヘ出現した。
最初の時と同様、夜の街を車で走っている際に、路地の奥にちらっと見えたこともあった。詠美とデートしている最中、ふとレストランの窓の外を見たら、向かい側のビルの蔭《かげ》から覗いていたこともあった。最初の三回の目撃はガラス越しだったが、常にガラスの向こうに見えるというものでもなく、歩いていても何度か見えた。俺は夜に外出する際、なるべく上を見ないようにした。だが、ずっと顔を伏せたままというわけにはいかない。たまに顔を上げてしまうと、ネオンの後ろや屋根の上から覗いているあいつと視線が合った。
二か月足らずの間に、二〇回以上もあいつを見た。目撃するだけならまだいい。顔≠ヘだんだん大胆になってくるようだった。最初は路地の奥から覗いていただけだったのに、しだいに近くに、長時間見えるようになってきた。出現の間隔も狭くなり、しまいにはほとんど毎晩、現われるようになった。
出現パターンが分かってきた。あいつは俺にしか見えない――正確に言えば、俺しか見ていない瞬間を狙って出現するのだ。
夜の街を歩いている人の大多数は、空を見上げたりしないものだ。見上げたとしてもほんの数秒だろう。つまり何百人もの人間がそこにいようと、俺以外の誰も上を見ていない時間というものが必ず存在する。その隙をついて、奴は現われる。最初に目撃したあの路地にしても、あの瞬間、通行人が途絶えていたのだろう。
だが、あいつは何のために現われるのか?
いったい何者なのか?
それが分からない。
バカバカしいと思いつつも、自分の妄想――この世界が俺の見えている範囲しか作られていないセットであるという仮説――を検証することもやった。あの <春山プーリ> のビルに入ってみたのだ。当然のことながら、中はごく普通のオフィスビルで、大勢の人が働いていた。巨人が立てるスペースなどありはしなかった。休日には一人でドライブに出かけた。これまで通ったことのない道をどこまでも走ったが、セットの端に出ることはなかった。見知らぬ街で車を降り、目についた路地や店に衝動的に足を踏み入れることもした。俺が行く予定ではない場所は作っていないのではないかと思ったのだ。もちろん、どの場所もすべて実在していた。
俺は仕事が終わると一目散にマンションに帰り、部屋に閉じこもるようになった。さすがに部屋の中まではあいつも現われないようだったが、それでも油断はできない。照明器具を増やして部屋を明るくした。あいつが夜しか現われないのは、吸血鬼のように強い光に弱いからかもしれない、と考えたからだ。少しでも部屋を明るくすれば、現われる可能性を減らせるのではないかと思った。トイレの電気もつけっ放しにした。問題は押入れで、奥の方にはどうしても光が届かないので、開けるたびに中にあいつがいるのではないかとびくびくした。ついには押入れのふすまをはずし、中のものを出して空っぽにした。
先週の土曜日は、夜のデートの予定をすっぽかした。詠美に心配をかけたくない、彼女の前では何事もないかのように振舞いたいと願っていたのだが、それも限界だ。夜に外出する勇気が出なかったのだ。彼女は電話で問い詰めてきたが、俺はまともに答えることができず、しどろもどろになった。
思い余って精神科にも行った。会社の同僚には「体調が悪いんで医者に診てもらう」と嘘をついた。さすがに「幻覚が見えるから」などと言うのははばかられる。
医師は俺の訴えを聴くと、神妙な顔で言った。
「幻覚ですね」
そんなことは分かっている、と俺は言った。俺が聞きたかったのは論理的説明だ。あれが幻覚だとしても、なぜ俺がそんな幻覚を見るのかという明確な謎解きだ。
医師は俺にいろいろな質問をした。酒はどれぐらい飲むか。家族に精神病患者はいないか。幼い頃に虐待を受けたことは。麻薬や覚醒剤《かくせいざい》をやったことは……心理テストを受け、別の病院で脳のMRIも撮った。
ひと通り検査を終えたというのに、医師は幻覚の原因について何も語らなかった。俺は彼がにこやかな表情の背後に困惑を隠しているのに気づいた。脳に異常はなく、俺の生まれにも育ちにも普段の生活にも、精神病の原因になりそうなものは何も見当たらないのだ。論理的に考えれば、これは俺が狂っていないことを意味している。
だとすれば、あの顔≠ヘ幻覚ではないことになる。
「もちろん幻覚ですとも」と医師は言った。「巨人なんているわけがないでしょう?」
俺は苛立《いらだ》った。俺だって、巨人が実在しないし、この世界が、ミニチュア・セットじゃないことぐらいは理解している。しかし医師は「実在しないものを恐れることはありませんよ」と、とんちんかんなことを言う。実在しないはずのものが実在するから恐ろしいのだ、ということを、どうしても理解しようとしない。
俺たちの会話は堂々めぐりに陥った。医師は俺が妄想を抱いていると信じていた。俺だってそう信じたいんだ、と俺は訴えた。あの顔≠ェ幻覚にすぎず、俺が妄想に憑《つ》かれているだけだと証明してもらいたくて、こうして来たのだと。原因を解明し、適切な治療を施して、あいつが見えなくなるようにして欲しいのだ。
だが、医者は俺の要望に応《こた》えてはくれなかった。幻覚を見る理由がまったく分からないのでは、治療の方針を立てようがない。彼にできるのは、会話の中に精神医学の専門用語をばらまいて煙に巻くことと、空虚な慰めの言葉を並べ立てること、精神安定剤を処方することぐらいだった。俺の不安は解消されるどころか、ますますつのった。
何よりも俺を苦しめているのは、顔≠ェ幻覚であることを証明する手段がないことだった。 他の人間には見えないのなら、幻覚であると断定できる。しかし、あいつは俺しか見ていない時にしか現われないのだ。幻覚であると証明してくれる者がいない以上、実在していないと言い切ることができない。
「それなら簡単な方法がありますよ」医師は言った。「カメラを持ち歩くんです。今度、顔≠ェ現われたら、写真を撮りなさい。写真に写らなければ、幻覚である証明になるじゃないですか」
いい考えだ、と俺は思った。医師のアドバイスの中で、唯一、役に立ちそうな言葉だった。カメラは持っていないが、携帯電話にはデジカメ機能がある。
そうだ、あいつの正体を暴いてやる――幻覚にすぎないことを証明してやる。
その晩――
帰り道、俺は不安に苛まれながらも、顔≠ェ現われるのを待ち受けた。いざという時に素早く取り出せるよう、携帯は胸ポケットに入れている。もちろん、あいつをまた目にするのは恐ろしかったが、医師のおかげでかすかな希望が湧いていた。あれが恐ろしいのは、もしかして実在するものではないかという疑いが捨てきれないからだ。幻覚であることを証明できさえすれば、恐怖はずっと薄れるはずだ。
車を走らせながら、ちらちらと路地の奥に目を向けた。あまり遠くに出るのは困る。遠すぎたり暗すぎたりすると、デジカメに写らないからだ。それでは何の証明にもならない。できることなら、近くに出てくれるのが望ましい。
しかし、なぜかその日に限って、顔≠ヘなかなか現われなかった。そうこうするうち、車は俺のマンションに近づいた。
「もしかして、ビビッてるのか?」俺は不安を押し隠しながら、虚空に向かって呼びかけた。「そうなんだろ? いや、きっとそうだ。自分が幻覚だって証明されるのが怖いんだな?」
だんだん気分が楽になってきた。このまま顔≠ヘ現われないかもしれない、と思った。あれが俺の恐怖心が生み出したものなら、正体を暴いてやるという決意が、幻覚の出現を妨げているということは考えられる。こんな簡単なことであいつの出現を抑えられるなら、おびえる必要などありはしない。
そうとも、実在しないものを恐れる必要などあるものか!
マンション一階の駐車場に到着する頃には、恐怖はすっかり薄れ、気分が高揚していた。鼻歌を口ずさみながら車を降りた。
その時、三台向こうの車の蔭から、あいつが顔を出した。
まったくの不意打ちだったので、俺は立ちすくんだ。白いセダンの屋根からドーム状の額を突き出し、天井を走る配水管に頭頂部をこすりつけている。駐車場の天井は低いので、顔の上半分しか出現できないらしい。蛍光灯に照らされ、背後の壁に大きな影が投影されている。右眼は車に隠れて見えなかったが、左眼はボンネットの上から俺を見つめていた。距離は一〇メートルも離れていない。これだけ近いと、すぐ目の前にいるかのような圧迫感を覚える。額のしみや、目尻の皺《しわ》まで、はっきり見える。息の匂いさえ嗅《か》げそうだった。
「ぶふう……」
エアコンから風が吹き出すような音が、静かな駐車場に響いた。初めて耳にする、そいつの呼吸音だった。
俺は恐怖に襲われ、衝動的に後ずさったが、すぐに胸ポケットから携帯を取り出すことを思いついた。携帯を広げ、カメラモードのボタンを押す。
顔≠ヘゆっくりと沈みはじめた。
「消えるな! まだ消えるなよ!」
そう叫びながら、俺はシャッターボタンを押した。バシャッという音が響く。ファインダーを見ている余裕などない。 <保存しました> という文字が出るのを確認するのももどかしく、俺は続けてボタンを押した。顔≠ェ完全に消え去った後も、俺はシャッターを押し続けた。ようやく興奮がおさまってきた。俺はへなへなと自分の車に寄りかかった。
「やった……やったぞ」
乱れた呼吸を整えながら、俺は笑った。これで幻覚だと証明できる。駐車場の壁と車以外、何も写っているはずがないのだ。俺は勝ち誇った気持ちで、携帯のデータフォルダを開き、撮影したばかりの写真を再生した。
次の瞬間、俺は悲鳴を上げていた。
そこには顔≠ェ写っていたのだ。
そこまで喋って、勝也はまた顔を覆い、すすり泣きはじめた。私はどんな反応を示していいかさえ分からず、茫然《ぼうぜん》と立ち尽くすしかなかった。
さっき、ドア越しの会話で、彼が視線をそらせていた理由が理解できた。彼は私と顔を合わせたくないのではなかった。私の背後にいるかもしれないものを見ないようにしていたのだ。
「その携帯は?」
私が訊《たず》ねると、彼は無言でベッドの方を指さした。クローム色の携帯は電源を切ったまま放り出されていた。それを取り上げ、起動ボタンを押した。私とお揃いの機種なので操作法は分かっている。問題の二日前の写真を見つけるのは簡単だった。
「写ってたのはその一枚だけだ」と彼は言った。
私は顔をしかめた。画面は薄暗いうえ、傾いており、手ブレのせいで不鮮明だった。それでも画面左下隅に、人の顔が四分の一だけ写っているのが分かった。クリーム色の壁を背景に、額の半分と左眼だけがフレームに入っている。ぶれているので表情までは分からないが、額の禿《は》げ具合からして、勝也の言う通り、中年の男性のようだった。左眼の下にちらっと見えている白い板のようなものは、車のボンネットだろうか? よく分からない。
どこにでもいる人物を撮っただけのようにも見える。こんな写真からでは、大きさの見当がつかない。
「君にも見えるか?」
「ええ」
「じゃあ、やっぱり幻覚じゃないんだな……」
勝也はがっかりした様子で手を差し出した。携帯を手渡すと、彼は画面から目をそむけるようにしながら、ボタンを操作しはじめた。
「どうするの?」
「消すんだよ。もう必要ないから」
「えっ、だって……」
「せっかくの証拠なのに――か?」勝也は弱々しく笑った。「誰に見せるって言うんだ? テレビのオカルト番組にでも投稿するか?」
データを消し終わると、彼は携帯電話をベッドに放り投げ、「せいせいした」とつぶやいた。私にとってはどうということのない写真だが、彼にとっては手元に置いておくことすら恐ろしいものだったのだろう。それでも消さずに残しておいたのは、画面に写っている顔もまた幻覚ではないかと、一縷《いちる》の望みをかけていたからに違いない。
私がその望みを打ち砕いてしまったのだ。
「投稿なんかしてどうなる」彼は吐き捨てるように言った。「テレビ局にできることなんて、俺の体験談をしょうもない再現ビデオにすることぐらいじゃないか。お笑いタレントやアイドルがきゃあきゃあ騒いで、最後は霊能者が出てきて、写真を見て『これは背後霊ですね』とか『三代前の先祖の因縁が』とかなんとか言って、それで一件落着だ。冗談じゃない! あれは霊なんかじゃない。俺には分かる」
彼はさっきまでとは打って変わって饒舌《じょうぜつ》になっていた。心の中に渦巻いていたもの、自分ひとりで抱えこんでいたものを、一気に吐き出しているのだろう。
「俺はこの二日間、写真のことでずっと考えてきた。写真に気味の悪い顔が写れば、みんなそれを『心霊写真』と呼ぶ。だが、霊だなんて証拠はどこにある? 霊能者のあてにならない言葉以外、何もないじゃないか。それでもみんな、『背後霊だ』とか『地縛霊だ』とか説明されれば、それを信じるんだ。
なぜだと思う? 霊の存在を信じる人間にとっては、それが安心できる解釈、合理的な解釈だからさ。科学合理主義者が『錯覚だ』と決めつけるのと、何も変わりゃしない。心霊写真を信じるのは『霊合理主義者』だ。この世には霊ですらない非合理なもの[#「霊ですらない非合理なもの」に傍点]が存在することを、恐ろしくて認めたくないだけだ」
私は何とか彼の考えについて行こうとした。
「霊じゃないとしたら、いったい何なの?」
彼はかぶりを振った。「俺は夜の顔≠ニ呼んでるが、本当の名前は知らない。たぶんあれは『霊』とか『宇宙人』とか『妖怪《ようかい》』とか、そんな風に名前のあるものじゃないんだ。筋の通ったものじゃない。定義できないものなんだ。あるはずのないものなんだ……」
「あるはずのないものが、どうしてあるの?」
「理屈が通らないものだからさ。分からないかな? 理屈が通らないものだからこそ、現われることができるんだよ」
私は頭が混乱してきた。「よく分からない」
彼はベッドに歩み寄り、さっき放り投げた携帯電話をまた手に取った。それを目の高さまで持ち上げ、ベッドに落とす。
「ものが下に落ちるのはどうしてだ?」
「え? それは引力があるから……」
「そう、万有引力の法則だ。この世界はいろんな法則に支配されている。エネルギー保存則。アルキメデスの原理。ケプラーの法則。ボイル・シャルルの法則。オームの法則。熱力学の法則。相対性理論。量子論……生物も無生物も、みんなそれに従っている」
彼は振り返った。
「でも、どうしてだ? なぜ法則に従わなくちゃいけない? 法律みたいに破ったら罰則があるわけでもないのに、なぜこの世のすべてのものは物理法則に従う?」
「……分からない」
「そうだ。理由なんかないんだ。なぜかは分からないけど法則を破ってはいけないことになってるってだけだ。もし物理法則を破るようなものが存在していたとしても、誰もそれに罰を与えたりはしない――そう、顔≠ェ存在しちゃいけない理由なんて、実はどこにもないんだ」
「でも、なぜ?」私は何とか反論を試みた。「そんなものがあるとして、どうしてそれがあなたのところにやって来るの?」
「分からない。筋が通らないものだ。理由なんかないのかもしれない。あるとしたら――」
彼はちょっとだけ言葉を切った。
「あの晩の会話を覚えてるか? 君の実家に行った帰り道の」
「ええ」
「あれがいけなかったのかもしれない。人が生きることに意味なんてないんじゃないかって疑った。あの言葉が――胸に秘めているだけならいい。でも、口に出してはいけなかったんじゃないか。俺はあの瞬間、一線を越えてしまったんじゃないだろうか」
勝也の口調は、熱に浮かされたようになってきた。
「そうだ。世界に意味なんかない。俺たちの存在にも理由なんかない。意味や目的や法則があるかのように思うのは幻想なんだ。あてになるものなんて、実は何もないんだ。人間は真実を認めるのが恐ろしいものだから、宗教とか哲学とか芸術とかを創造して、それを隠蔽《いんぺい》してきた。霊や神を信じるのもそのためだし、科学だってそうだ。論理性とか法則とかいうあてにならないものを共有して、薄っぺらい幻想の上で生きてきたんだ。この世界は論理に従って動いているという幻想を。
俺の言葉はそれを破っちまった。その瞬間、裂け目からあいつが現われた。幻想の向こうの真の世界、意味も理由もない世界から……」
彼はすがるような顔で私を見つめた。
「信じてくれるか?」
信じられるわけがなかった。どんなに努力したって、そんな荒唐無稽な話は受け入れられるものではない。それでも私は「信じるわ」と答えた。他にどう言えばいいのか? 異常をきたしていても、私は彼を愛している。突き放すことなどできはしなかった。
狂気の原因がないとしたら、幻覚も妄想も一時的なものに違いない。じきに私の知っている勝也に戻ってくれるはずだ。
「ねえ、結婚式の日取り、早く決めましょう」
私の唐突な言葉に、彼はとまどった様子だった。
「聞いてなかったのか。人生には意味も目的も……」
「そんなの関係ない。意味や目的なんて、なくちゃいけないものなの? なかったっていいじゃない。私はあなたを愛してるし、結婚して幸せになりたい。意味がどうだなんて話、どうでもいいことよ。そんなものなくたって、生きていける。それに……」
私は彼の首に腕を回し、耳元に優しくささやいた。
「その顔≠ヘ、あなただけしか見ていない時にしか現われないんでしょ?」
「ああ」
「だったら、私がいつもいっしょにいてあげる。昼間はお仕事があるから無理だけど、夜はずっと。そして、いつもあなたの横にいて、あなたの見ている方向を見るわ。それなら、そいつも現われることができないんじゃない?」
「素敵な愛の言葉だな」彼はくすっと、悲しそうに笑った。「でも、愛に意味なんて……」
私は唇で彼の口をふさいだ。最初はおびえるようにうずくまっていた彼の舌も、やがておずおずと頭をもたげ、私の舌とからみ合った。
やがて私は唇を離し、つぶやいた。
「……意味なんて要らないわ」
突然、彼は猛然と私を求めてきた。私はベッドに押し倒された。不安を吹き飛ばそうとしてか、これまで経験したこともない乱暴さだった。
腰の後ろに何かが当たった。手を伸ばしてみると、さっき放り出された携帯電話だと分かった。私はそれを床に放り投げると、野性的なキスの雨に安心して身を委《ゆだ》ねた。
目が覚めると、窓に貼った段ボールの隙間から、朝の光が射しこんでいた。時計を見ると午前六時だった。
私は眠っている彼を起こさないようにベッドから滑り降りると、脱ぎ捨てられた彼のシャツをまとい、窓に近づいた。気持ちのいい朝の光を浴びたい気分だったが、段ボールにつっかえてサッシが開かない。
ごそごそやっていると、彼が「うーん」と声を上げ、うっすらと眼を開けた。目覚めたのなら遠慮は要らない。私は思いきって段ボールをひっぱった。べりべりという大きな音がしてガムテープが剥《は》がれ、白い光が部屋いっぱいにあふれる。彼は「わっ」と声を上げ、眼を覆った。
「おはよう」私は笑いながら彼にのしかかった。「朝からもう一ラウンド、行く?」
「勘弁してくれ」彼は顔を覆ったまま苦笑した。「さすがに疲れたよ」
その口調には、昨夜までの不安はまったく感じられなかった。私はほっとした。
「じゃあ、ちょっと早いけど、朝食作るわ」
私はつけっ放しになっていたスタンドやランプをみんな消し、キッチンに向かった。勝手知ったる戸棚を開け、小さなフライパン、コーヒーメーカー、皿やカップを準備する。冷蔵庫をあさり、ハムと卵、バター、レタスを選び出した。
「ちょっと安直だけど、ハムエッグとサラダでいい?」
「君が作ってくれるなら、何でもいいよ」
「嬉しいなあ、そういう台詞」
彼はズボンを穿《は》くと起き上がった。サッシを開け、ベランダに出る。私はフライパンを火にかけ、バターを落とした。
「ああ……」
バターが溶けるのを待つ間、ベランダから彼の解放されたような声が聞こえた。
「朝ってこんなにすがすがしいものだったんだなあ。すっかり忘れてた」
私はほくそ笑んだ。精神科医なんて必要ない。心の病に効くのは愛とセックスだ。
フライパンに卵を落とそうとしたその時――
「……!」
声にならない声が聞こえた。続いて、ベランダの手すりに何かが激しくぶつかる音。私ははっとして振り返った。
彼の体が手すりの外に宙吊りになっていた。すでに一メートル以上も持ち上がり、肩から上はベランダのひさしに隠れて見えない。ここからは見えない何かを殴りつけながら、足を狂ったようにばたばたさせ、手すりを蹴《け》りつけている。しかし、抵抗も空しく、ぐいぐいとひきずり上げられてゆく。
「勝也!」
私はフライパンを床に落とし、ベランダに駆け寄った。すでにひさしからは膝《ひざ》から下だけが垂れ下がっていた。私はその足首にしがみつくと同時に、手すりから身を乗り出し、空を見上げた。
澄んだ水色の空を背景に、さかさまになった男の顔が見えた。
ここはマンションの最上階だから、屋上に寝そべって屋根から首を突き出しているとしか思えなかった。勝也が言ったように、巨人のようには見えなかった。ごく普通の中年男で、むしろ勝也の体の方が子供の手ぐらいの大きさしかないように錯覚した。そいつは驚いた時のように目を丸くし、どこかユーモラスな表情で、勝也の上半身をくわえこんでいた。そして、うどんでも食べるように、痙攣《けいれん》する彼の体をすすり上げ、すすり上げて――
「すすり上げ、すすり上げて――すすり上げて……!」
女は興奮し、その口調はどんどんヒステリックになっていった。佐上と田名部は顔を見合わせた。訊問《じんもん》を中止し、落ち着かせた方がいいかと思った。
しかし、女――名倉詠美は、急に落ち着きを取り戻した。涙を拭い、話を続ける。
「……私は夢中で彼を引き戻そうとしました。両足をつかんで離しませんでした。でも、あいつの力の方が強かったんです。私までベランダの外にひきずり出されそうになりました。その時、急に力が弱まって、ベランダに落っこちて尻餅《しりもち》をつきました。見上げると、顔≠ヘもう消えていました。そして、横を見ると――」彼女は涙で声を詰まらせた。「あの人の……」
長い沈黙が流れた。
「それから?」
佐上がうながすと、詠美はまた口を開いた。
「……よく覚えてません。たぶん、頭がぼうっとなって、マンションから出てあちこちさまよい歩いてたんだと思います。お昼頃に公園でおまわりさんに職務質問されて、ここに連れて来られて――あとはご存知の通りです」
「はあ……」
佐上は困惑し、調書を取っていた田名部を見た。田名部もペンを止めてとまどっていた。警官になって何年にもなるが、こんなおかしな調書を書いたことなど初めてだ。
「……あの人、バカだったんです」詠美は疲れきった顔で、何もかもあきらめたようにつぶやいた。「あれに、夜の顔≠ネんて名前を付けて『夜しか現れない』とか『自分しか見ていない時にしか現われない』なんて法則を勝手に信じて――あれがどんな法則にも従わない存在だって、自分で言ってたくせに」
彼女は二人の刑事に挑むような視線を向けた。
「ねえ、刑事さん、分かります? あいつを防ぐ方法なんてないんです。あいつにはどんな理屈も通じない。だから弱点なんかないんです。霊じゃないんだから、お守りもお祓《はら》いも役に立ちません。私たちは普段、あいつに出会わないけど、出会わないことに理由なんてありません。昼でも夜でも、誰かに見られていようといまいと、あいつはその気になればどこにでも現われることができるんです。人を襲う理由はないけど、襲わない理由だってない――分かります?」
二人がぽかんとしているのを見て、詠美はひきつった笑みを浮かべた。
「いいえ、分からないでしょうね!」急に勝ち誇ったような口調になった。「私の頭がおかしいと思ってるんでしょう? いいですよ、そう思っても! でも、いくら信じまいと思ったって、あれがいないという証明はできませんよ。辞書で調べたって無駄です。あれには名前すらないんです。夜の顔≠ニ呼ぶことだって間違いなんですから!」
彼女は天井を見上げ、笑い出した。空虚な笑いだ、と佐上は思った。おかしいから笑っているのではない。誰かを嘲り、笑うことで、胸の中にあるどうしようもない恐怖を、少しでも他人に転嫁しようとしているのだ。
「やっぱり心神耗弱ですかねえ」取調室から出て、捜査第一課室に戻ってくるなり、田名部は言った。「それとも、狂ったふりをして、罪を逃れようとしているのか――演技だとしたら、たいした役者だと思いますが」
「まあ、そのどっちかだろうが……」
佐上は慎重に即断を避けた。だいたい、これが殺人事件かどうかも、まだ分からないのだ。確かに名倉詠美は、裸の上に血痕のついた男物のシャツをまとってふらふら歩いているところを保護されたし、マンションの1403号室のベランダには大量の血痕が発見された。中臣勝也のものと思われる肉体の一部も――しかし、それだけでは、中臣勝也がすでに死んでいるとは断定できない。
両膝から下がなくても、人間は生きていけるのだから。
「しかしなあ……」
佐上は手元の書類に目を落とした。さっき出たばかりの司法解剖の所見である。膝の断面の組織の潰れ方から見て、鋸《のこぎり》や包丁で切断したものではないと結論されていた。むしろ交通事故などによる損傷に似ているという。硬い板のようなものではさみこみ、瞬間的に大きな圧力をかけて破断すれば、このような断面が生じるであろうと推測される……。
たとえば、巨大な歯で噛《か》みちぎれば、こんな風になるのだろうか。
佐上は考えこんだ。「なあ、さっきの話だが……」
「え、何です?」
「娘の話だよ。どんなに金と手間をかけて育てても、いずれどこかの男のところに行っちまう。俺はちょくちょく空しく思うんだ。いったい俺は何のために苦労して子供を……」
はっとして、彼は言葉を切った。慌ててかぶりを振り、その考えを振り払う。
やめよう。あいつが来たら大変だ。
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審判の日
夢の中で、誰かが彼女に選択を迫っていた。
イエスか、ノーか。
望むか、望まざるか。
選択の機会はただ一度のみ。保留はできない。やり直しもできない。熟慮のうえ、どちらか一方を選ぶのだ……。
夢にありがちなことだが、状況はきわめて抽象的でつかみどころがなく、その記憶も目覚めと同時にぼやけ、ちりぢりになってしまった。ずっと後になって記憶の糸をたどってみたが、自分がどこにいたのか、語りかけてきたのが誰なのか判然としなかったし、選択の内容そのものも思い出せなかった。
ただ、どちらを選択したかということだけは、なぜかはっきり覚えている。
彼女はためらうことなく選択したのだ――「イエス」と。
ぷしゅっ。
ラジオから響いたその小さな音が、すべてのはじまりだった。コーラのプルトップを開けたような、あるいは電車のドアが開く時のような音。文字で書けば「ぷしゅっ」としか表現できない、どこか間の抜けた感じのする音。
姫田亜矢子は不審に思い、シャープペンを握っていた手を止め、ラジオに耳を傾けた。それまでのべつまくなしに喋《しゃべ》り続けていたDJの声が、その昔と同時に、ぴたりと途絶えたのだ。
次の瞬間――
がしゃーん!
不快な大音響が屋外で轟《とどろ》き、亜矢子は飛び上がった。
その音は一回だけではなかった。がしゃん、がしゃーん、がしゃがしゃん……と、まるでエコーのように、最初の音より小さな同様の音が、四方八方から重なり合って聞こえてくる。亜矢子は思わず耳をふさいだ。ガラスの割れる音? いや、金属がぶつかり合う音のようだ。そこらじゅうで何かが衝突しているのだ。
ほんの十数秒の間に、衝突音は何十回も響き渡り、しだいに小さくなっていった。音源が急速に遠ざかってゆくように思われた。
やがて静寂が戻ってくると、亜矢子はおそるおそる耳から手を離した。まだ遠くの方で、断続的に衝突音がしていたが、しだいに間隔は長くなり、音も気にならないほどに小さくなっていた。
まだ衝撃から覚めやらぬ目で、あたりを見回す。見慣れた自分の勉強部屋である。本棚に並んだマンガとティーンズ小説。ハンガーにかかった高校の制服。カレンダーの中ではお気に入りのアイドル・グループが微笑んでいる――どこといって変わったところは見当たらない。
時計を見ると、午後一〇時ちょうどだった。風呂《ふろ》から上がった後、九時からのラジオのリクエスト番組を聞くともなしに聞きながら、机に向かってぼんやりしていたのだ。せめて受験勉強でもして陰鬱《いんうつ》な気分をまぎらわそうとしたのだが、問題集の文字はまるで頭に入らず、一時間で一ページしか進んでいなかった。
恋人に別れを告げられてからもう三〇時間。友人たちはしらじらしい言葉で慰めてくれたが、心の傷はいっこうに癒える気配はない。それどころか、胸を苛《さいな》む痛みは時が経つにつれてひどくなる一方だった。マンガや小説の中でヒロインが失恋するシーンは何度も見てきたし、同情して涙したこともあったが、それが自分の身に起きた今、そうした涙がいかに安っぽいものであったかを知った。「死んでしまいたい気分」というものがあることを、彼女は生まれて初めて、身に染みて味わっていた。
さきほどの大音響が嘘のように、室内は静かだった。ラジオも完全に沈黙している。故障だろうか? だが、ダイヤルを回して別の局に変えてみると、ちゃんとクラシックが流れ出した。
窓から顔を出すと、大音響の原因が分かった。事故だ――この家の斜め向かいにあるマンションの角にある電柱に、ライトバンが激突しているのだ。かなりのスピードでぶつかったらしく、運転席がひしゃげているのが見えた。
「お母さん、事故よ!」
亜矢子は叫んだ。部屋を飛び出し、リビングルームで古い洋画のビデオを観ているはずの両親を呼びに走る。
人の声はしたが、リビングルームは空っぽだった。しらじらと蛍光灯に照らされた室内で、喋っているのは画面の中のジョン・ウェインだ。あの音を聞いて、テレビをつけっ放しで外に飛び出したのだろうか? 亜矢子もすぐに後を追うことにした。
サンダルをひっかけて家の外に出た。季節は夏。夜でも暖かく、風呂上がりのパジャマ姿でも寒くはない。
外に出てすぐ、亜矢子は異様な状況に気がついた。すでに野次馬《やじうま》が集まりはじめていることを予想していたのに、なぜか通りに人影がまったく見当たらないのだ。両親の姿もない。あれだけ大きな音がしたのなら、この近所一帯の人が外に飛び出して来てもいいはずなのだが……。
亜矢子は不思議に思ったものの、まず自分のすべきことを考えた。そう、ライトバンの運転手の生死を確かめなくては。
彼女は壊れた車に歩み寄った。助手席には電柱が深くめりこみ、金属のボディがコンクリートの柱を抱きすくめているような格好だった。運転席のある右半分はかろうじて原形をとどめているが、それでも損傷は激しい。亜矢子は割れたフロントガラス越しに、おそるおそる中を覗《のぞ》きこんだ。ホラー映画は何度が見たことがあるが、実際に血まみれの死体を目にした経験など、もちろんない……。
だが、予想に反して、運転席に死体はなかった。重傷を負ってうめいている者もいない。飛び散ったはずの血の一滴も見当たらなかった。
マンションの玄関の照明に照らし出された運転席には、グレーの作業着がくしゃくしゃにされて脱ぎ捨てられているだけだった。シートベルトは締まったままで、作業着はシートに縛りつけられている格好だ。服の左|袖《そで》はシフトレバーにひっかかり、だらりと垂れ下がっている。
亜矢子は現実が崩壊するような感覚に襲われ、後ずさった。事故を起こした運転手はすでに這《は》い出して、どこかへ行ったのだろうか……? いや、そんなことはありえない。ドアは大きく歪《ゆが》んでおり、とても開きそうにないのだ。第一、こんな激しい衝突で、無傷でいられるわけがない。
あたりは不気味なほどの静寂に包まれていた。人の声はしない。車の走る音もしない。事故を起こしたライトバンの車体の下から、オイルかガソリンが洩《も》れるぽたぽたという音だけが、やけに大きく響いている。
生まれてからずっとこの街に暮らしている亜矢子だが、こんなにも静かな夜は知らなかった。JRの駅から歩いて七、八分のこの住宅街では、深夜近くでも交通量が多い。近くの国道を行き交う車の音が、ひっきりなしに聞こえているはずなのだ。それがなぜか、ぴたりと途絶えている……。
その意味に気がつき、亜矢子ははっとなった。衝突音は一回だけではなく、たくさんしたのだ。ということは、事故を起こした車はこれ一台だけではないのだろう。そこらじゅうで何十台、何百台もの自動車が、いっせいに衝突事故を起こしたということではないのか?
まだ誰も人は現われない。亜矢子は救いを求めて正面のマンションを見上げた。一五階建ての高級マンションで、窓の半分以上に明かりがついているのに、そこから顔を覗かせている者は誰もいない。防音設備が完璧《かんぺき》なので事故の音が聞こえなかったのだろう、と無理に思いこもうとしたが、それでもこの不自然すぎる静寂の説明はつかなかった。これではまるで……。
亜矢子は悪寒に襲われ、慌ててその馬鹿げた可能性を頭から振り払った。そんなはずがない――そんなことがあるわけがない。
その時。
「言った通りでしょ!?」
突然、かん高いヒステリックな女の声がすぐ背後でしたので、亜矢子の心臓は縮み上がった。振り返ると、髪を振り乱した痩《や》せた中年女が、勝ち誇ったようなにやにや笑いを浮かべて立っていた。
嫌な奴に出会った、と亜矢子は思った。近所でも名物になっている迷惑女で、「ハルマゲドンおばさん」という異名がある。怪しげな新興宗教にはまっていて、世界の終わりがどうのこうのと書いたパンフレットを郵便受けに突っこんで回ったり、駅前やバス停、スーパーの前あたりを徘徊《はいかい》して、通行人をつかまえては意味不明の説教を聞かせようとするのだ。本人は善意と崇高な使命感に燃えているらしいだけに、始末に負えない。食費や衣料費まで削って教祖様にお布施しているらしく、痩せ衰え、衣服はいつも貧相だ。夫にも愛想をつかされ、とっくに離婚したという話だ。
「ね、私の言った通りでしょ?」女は目を輝かせ、嬉《うれ》しそうに繰り返した。「正しかったのよ! やっぱり正しかったのよ! でも、もう遅いわ! 今から悔い改めたって遅いのよ! だって、もう時が来たんですもの!」
一瞬、危害を加えられるのではと警戒したが、女は亜矢子には関心がないようだった。言いたいことを言い終えると、くるりと背を向け、飛行機のまねをする子供のように、大きく両手を広げて走り出す。
「時が来たわ! 時が来たわ!」
そう叫びながら、女は軽やかに夜の街を走り去っていった。
「……何、あれ?」
亜矢子は笑った――正確に言えば、笑おうとした。泣き笑いのようなぎこちない表情になったが、それでもどうにか笑みを浮かべた。こんな異常な状況では、笑い飛ばしでもしなければ正気が保てない気がした。
実際、動揺はしたものの、「ハルマゲドンおばさん」が出現したことで、彼女の不安は少しだけ薄らいだ。少なくとも、この世界にまだ自分以外にも人間がいることがはっきりしたのだから。
そう、妄想だ。妄想に決まっている。突然、この世界から自分以外の人間がいなくなったなんてことは……。
だが、それならどうして、誰も外に出て来ないのだろう?
亜矢子は家の中に戻った。両親がリビングルームに戻っていることを期待したのだ。もしそうだったら、これまでの奇妙なことはすべて、笑い飛ばしてしまえる。
ねえねえ、お母さん、聞いてよ。私、すごく変な体験しちゃった。交通事故があったから、外に出てみたのよね。そしたら誰もいなくて、ひどく静かだったの。でね、あの「ハルマゲドンおばさん」に会っちゃったの……。
だが、やはりリビングルームには誰もいなかった。ジョン・ウェインたちが画面の中で銃撃戦を演じているだけだ。
それどころか、彼女はさらに決定的な証拠を発見してしまった。衣服だ――さっきは気がつかなかったが、両親の着ていた衣服が、二人が座っていたはずの椅子の上に、くしゃくしゃになって落ちていたのだ。
おそるおそる探ってみると、衣服の中には下着まですべて揃っていた。脱ぎ捨てたのではない証拠には、服のボタンはすべてきちんと留まっており、ズボンのファスナーも閉じている。何かのいたずらだと信じたいところだが、あいにく彼女の両親はいたずらを楽しむような性格ではない。
亜矢子はずっと前、何かの本で読んだマリー・セレステ号の話を思い出した。何の損傷もなく、積荷が略奪された形跡もないのに、乗員だけが消失し、無人のまま大西洋を漂流していたという船……。
「そんなはず、ないわよ……」
彼女は口に出して否定した。テーブルの上にあったリモコンをひっつかみ、テレビのチャンネルを替える。
刑事もののドラマをやっていた。見慣れた俳優たちの演技にほっとしかけたものの、すぐにこれは録画だと気がついた。TV局から人がいなくなっても、ビデオテープはしばらく回り続け、自動的に番組は放映され続けるはずだ。
急いでチャンネルを替えた。次の局もドラマだった。次の局はバラエティ番組で、これも録画だ。次の局は何かの映画。次の局は――
狂ったようにリモコンのボタンを押す亜矢子の手が、ぴたりと止まった。
NHKの一〇時のニュース――だが、画面に映っているのは空っぽのスタジオの壁だけだ。キャスターの姿はない。
亜矢子は慌ててテレビを消すと、何かおぞましいものであるかのように、リモコンを放り出した。今、目にした映像は、記憶からぬぐい去ってしまいたかった。
「そんなはずない、そんなはずない……」彼女は懸命に自分に言い聞かせていた。「そうよ、あのおばさんだっていたんだもの……どこかに、誰かいるはずよ」
そうだ、確認しなければ――彼女は自分の部屋に駆け戻ると、アドレス帳を持ってきた。知り合いの家に片っぱしから電話をかけてみる。
クラスメートの古奈美《こなみ》の家。呼出音が一〇回以上鳴ったが、誰も受話器を取らない。
同じくクラスメートの文子の家。やはり誰も出ない。
和佳の家。誰も出ない。
中学時代の友人だった結花《ゆか》の家は、話し中だった。わずかに希望を抱いたものの、すぐに結花が長電話で有名だったことを思い出した。誰かと話している最中だったことは、おおいにありえる。受話器が床に落ちたままでも、話し中になるはずである。
担任の教師の家。誰も出ない。
友人の携帯の番号もいくつか試してみた。警察や病院、104の番号案内にもかけてみた。大阪に引っ越したクラブの先輩の家、金沢にある母親の実家、山梨にある叔父の家にもかけてみたが、誰も出なかった。異変は関東周辺だけではなく、日本全域で起きているようだった。
無人の家の中で、電話のベルだけが空しく響いている光景を想像し、亜矢子は心が寒くなるのを覚えた。自分が知っている人がみんな消えてしまった……。
まだ試していない番号がひとつだけあったが、亜矢子はそれをプッシュするのをためらっていた。その名前はアドレス帳の最初のページの一番上に書いてあるのだが、故意にそれだけは無視してきたのだ。
石動《いするぎ》秀幸《ひでゆき》――ア行の名前だから最初のページに書かれているのは当然とも言えるが、実のところ、この名前を最初に書きたいがために新しいアドレス帳を買ったのだ。半年前、ちょうど恋に落ちたばかりのことである。
今、その名前の上には二本の線が引いてある。
思い返してみれば、破局の種は何か月も前からひそんでいたのだ。彼女が「絶対に面白いよ、これ」と保証して彼に貸したマンガを、彼は気に入らなかった。彼が誘った映画は社会派のシリアスな作品で、彼女には退屈だった。彼女が誕生日にプレゼントした派手な柄のシャツを、彼は「こんな恥ずかしいの着れるかよ」と言って着ようとしなかった。デートの時には彼女が一方的に友人や家族やテレビ番組のことを喋りまくり、彼を辟易《へきえき》させた。たまに彼の方が好きなスポーツの話をすることがあったが、彼女にはどこが面白いのかさっぱり分からなかった。初めてラブホテルに行った時には、早くはじめたくてうずうずしている彼に対し、彼女はムードを盛り上げるためにあれこれと些細《ささい》なことを指示したり、芝居がかった台詞《せりふ》や演技を要求したりして、すっかりシラケさせた……。
それらはいずれも、ほんのちょっとした行き違いにすぎなかった。だが、そうした小さな不満が何か月もの間に少しずつ堆積《たいせき》し、いつの間にか臨界点を超えていたのだ。
そして昨日、それはついに爆発した。
彼の家に電話をかける勇気はなかった。秀幸も消えていたらと考えると恐ろしい。だが、秀幸が電話口に出た時のことを想像すると、別の意味で恐ろしい。昨日、あんな形で別れたばかりだというのに、何を話せはいいのだろう?
だが、確かめたかった――確かめなくてはならなかった。話すことはできないが、せめて遠くからでも姿をちらりと見て、安否を確認したかった。
亜矢子は再び自室に戻ると、大急ぎでTシャツとジーンズに着替えた。玄関から飛び出し、自転車にまたがる。
ペダルを蹴《け》り、夜の街に走り出した。秀幸の家はこの街の北の端、JRの駅をはさんだ向こう側だ。亜矢子は駅に向かって自転車を走らせた。
大通りに出ると、そこらじゅうで派手な交通事故が起きていた。標識をへし折って止まっているトラック。コンビニのガラスをぶち破って店内に飛びこんでいるワゴン車。ガードレールに側面をこすりつけて止まっているタクシー。転倒しているオートバイ……さらに事故を起こした車に別の車が突っこんで、三重、四重の追突も起きていた。
すさまじい惨劇であるにもかかわらず、そこには一切の音が欠けていた。助けを求める負傷者の声も、野次馬のざわめきも、救急車のサイレンも聞こえない。
大通りのどこにも人影はなかった。交差点に停車している車はすべてアイドリング状態だが、車内はどれも空っぽで、信号が変わっても走り出す車は一台もなかった。写真の中のように静止した風景の中で、動いているものは、自転車を漕《こ》ぐ亜矢子の他には、車の明滅するテールランプだけだった。
中身を失ってぺしゃんこになった衣服が、歩道のあちこちに散乱していた。亜矢子は顔を上げ、懸命にそれを無視しようと努めた。
他にも、はっきりと指摘はできないが、どこかおかしな点があった。まるで雑誌の間違い探しクイズのように、いつも見慣れている通りの風景と、何か重大な点が違っている気がするのだ。だが、動転している今の状況では、その違和感の原因を探しているゆとりはなかった。
「おおい、あんた!」
背後から声をかけられた。振り返ると、バスローブ姿の中年男が、裸足《はだし》で彼女を追いかけてきていた。
「待ってくれ! 説明してくれ!」男はうわずった声で絶叫していた。「何が起こったんだ!? みんなどこへ行ったんだ!?」
亜矢子はペダルを漕ぐ足を速め、男を引き離した。男のヒステリックな口調に狂気の気配を感じたからだ。
第一、停止したところで何になるだろう? 男の質問に対する回答を、亜矢子は持ち合わせていない。それは彼女の方が教えて欲しいぐらいだった――何が起きたのか? みんなどこへ行ったのか?
無我夢中で走るうち、駅の近くまでやって来た。高架線の上に銀色のボディの普通電車が停車している。電車は運転手が倒れたら自動的に停車する仕組みになっている、と何かの番組で見た記憶がある。照明のついた車内は空っぽだったが、ただ一人、初老の女性が閉じこめられており、ドアを必死に殴打しているのが見えた。
ガード下をくぐる時、四人目の人間に出会った。段ボールを脇に抱えた髭面《ひげづら》のホームレスの男だ。自転車で疾走してくる亜矢子に驚いたらしく、コメディアンのような滑稽《こっけい》なしぐさで、おたおたと壁にへばりつく。その際に亜矢子は男の横をすり抜けた。
駅の向こう側の交差点で、亜矢子は初めて死体を目にした。一台の大型トラックが歩道に乗り上げ、銀行のシャッターに激突して止まっているのだが、その車体の下にハイヒールを履いた血まみれの女の脚が見えたのだ。おそらく歩道を歩いていて、暴走してきたトラックに轢《ひ》かれたのだろう。
駅前の繁華街には、いたるところに衣服が散乱していた。ゲームセンターから流れる音楽がしらじらしく響いている。
なぜ消えた者と消えなかった者がいるのだろう? 消えなかった者には、何か特徴があるのだろうか? だが、これまで目にした者たちと自分との間には、何の共通項も見出《みいだ》せない。亜矢子は疑問に思ったものの、考えれば考えるほど混乱するばかりだった。
気がつくと、ずっと前方で、炎が夜空を赤く焦がしていた。
よく見れば火事は一箇所だけではなかった。それまで自分の周囲にばかり気を取られていて気がつかなかったが、東側の商店街の方でも、ずっと西の公団住宅の方でも、火の手が上がっていたのだ。
亜矢子は事態の重大さに気づき、戦慄《せんりつ》した。あの瞬間、関東地方だけでも、いったい何万人の人間がタバコをくわえていただろうか。それらがいっせいに床やテーブルの上に落ちたのだ。その他にも、つけっ放しになっているガスコンロ、沸かしっ放しになっている風呂もたくさんあるだろう。激突した車が炎上した例も多いに違いない。日本全国で同時に多発した火災に対し、出動する消防車は一台もないのだ。
日本全国? 本当に日本だけだろうか? 亜矢子のわずかに残った理性は、異変の規模がなるべく小さいものであって欲しいと切実に願っていた。だが彼女の直感は、この異変が日本どころか世界規模のものだろうという、不快な推論をささやいていた。
他の国はどうなっているのだろう? ニューヨークは? パリは? モスクワは? 北京は? どこの大都市でもここと同じように、何百万という人が消え、何万件という交通事故、何千件という火災が発生しているのだろうか。残った人たちは私と同じように、不安に襲われ、混乱し、無人の街を駆けずり回っているのだろうか。
海上や空中はどうだろう? 今この瞬間、何千隻ものマリー・セレステ号が海上を漂っているのだろうか。パイロットを失った何百機もの旅客機は、燃料が尽きるまで、空をあてもなく飛び続けるのだろうか。もし、その飛行機の中に、まだ消えていない人がいたなら……。
彼女は考えることを放棄した。考えたって何も分からない。今はただ、秀幸の家にたどり着くことだけを考えよう――そう決心して、ペダルを漕ぐ足にいっそう力をこめた。
だが、秀幸の家が近づくにつれ、心の奥にかすかに灯《とも》っていた偽りの希望は、確かな絶望へと変わっていった。そんな馬鹿な。そんな……。
秀幸の家の二〇メートル手前で、亜矢子は自転車を止めた。それ以上、近づくことができなかったからだ。
彼の家は炎上していた。
秀幸との関係が破局を迎える決定的なきっかけとなったのは、先月、彼が野球の練習中に腰を痛めて入院したことだった。亜矢子は毎日、フルーツや花を持ってうきうきと病院に通い、彼を見舞った。彼のためにベッドの脇でリンゴを剥《む》いてやったりもした。なぜか彼はあまり嬉しそうではなかったが、恥ずかしがっているだけだろうと、亜矢子は勝手に解釈していた。
ほんの一週間で退院できたものの、その直後から、彼の態度は急によそよそしくなった。学校で亜矢子に語りかける言葉も少なくなり、電話もかけて来なくなった。デートの時も極端に無口になった。
そして昨日の夕方、彼は亜矢子をいつもの喫茶店に呼び出し、自分が別の女とつき合っていると告げたのだ。
なぜ? と問う亜矢子に、彼はこう説明した。
俺が入院した時、お前はにこにこ笑って見舞いに来たよな。俺が腰の痛みにうめいてるっていうのに、お前は本当に楽しそうにリンゴの皮を剥いてたよな。あの時、俺ははっきり分かったよ。こいつは俺のことが心配で見舞いに来てるんじゃない。「恋人の看病をする献身的な女」っていう役柄を演じるのが、楽しくてたまらないだけなんだって。
そうなんだ。お前はずっとそうだったんだよ。俺とほんとは恋なんかしてなかった。マンガや小説のヒロインになりきって、恋愛シミユレーションをやってただけなんだよ。俺が何を好きかとか、何を考えてるかとか、ぜんぜん理解しようとしなかった。ただマニュアル通りのデートをして、「恋をする女の子」っていう役柄を演じるのが嬉しかっただけなんだ。
だってそうだろ? 本当に俺のことが心配で見舞いに来たなら、痛みに苦しんでる俺の横で、あんなふうに笑えないだろ?
気がついてないかもしれないけどな、お前は自分勝手な女なんだよ。世界が自分の思い描いている通りの姿だと思いこんでいて、ほんとの世界が見えてないんだ。他人と交流してるように見えるけど、ほんとは自分の小さな世界に閉じこもって生きてるんだよ。他人の心が分からないんだ。
沙希《さき》は違った。あいつは俺のことを本当に心配してくれた。退院した後、腰がまだ痛むって言ったら、医学の本を調べてきたり、友達に聞いて回って、あの湿布が効くとか、あの民間療法がいいとか、親身になってアドバイスしてくれたよ――本当に俺のことが好きなら、そうするもんじゃないのか? リンゴの皮を剥くんじゃなくてさ。
お前には悪いと思う。自分でもわがままだと思うよ。でも、俺は二股《ふたまた》かけられるほど器用じゃないし、そんなことをしたら、お前にも沙希にも悪いと思うんだ。どっちか一人を選ぶとしたら、俺は沙希を選ぶ。あいつは俺をマンガのキャラクターじゃなくて、生きた人間として見てくれるからな……。
「そんなことない……そんなことないよ、秀幸」
燃え上がる家を茫然《ぼうぜん》と眺めながら、亜矢子はつぶやいた。
確かに私、恋する自分に酔っていて、あなたのことが見えてなかったかもしれない。でも、あれが本当の恋じゃなかったなんて、ただのシミュレーションだったなんて、そんなことないよ。私、本当にあなたが好きだったよ。そうでなかったら、あなたを失って、こんなに胸が苦しいはずないもの……。
誰も消火する者がいないので、火勢は強くなる一方だった。木造の二階家は窓という窓からオレンジ色の炎の舌を吐き、ホタルの群れのような火の粉を夜空に舞い上げている。何度か入ったことのある秀幸の部屋も、すでに炎に蹂躙《じゅうりん》されていた。私がプレゼントしたシャツや写真立ても、私の家の電話番号が書いてあるはずのアドレス帳も、みんな燃えてしまったんだろうな、と亜矢子はぼんやりと考えていた。
その火は西隣の家から燃え移ってきたようだった。そちらの家では、すでに壁や天井はおおかた焼け落ちて骨組みだけになっており、家全体が崩れ落ちるのも時間の問題だ。炎は風にあおられ、さらに秀幸の家の東隣の家の屋根にまで燃え移っている。炎に照らされて赤黒く染まった煙は、巨大な竜のように空にのたうっていた。
どのぐらいそうして見ていただろうか。突然、轟音《ごうおん》をたてて、家が崩れ落ちた。火の粉が飛び散り、煙が大きくあおられた。亜矢子はむせ返り、後ずさった。これ以上、ここにいるのは危険だ。
亜矢子は炎に背を向け、重い足でペダルを漕ぎはじめた。なかば無意識のうちに家路をたどっていたが、家に帰ってどうしようというあてはなかった。ただ、他に行くべき場所が思いつかなかっただけだ。
駅に近づくと、大勢の人のざわめきが聞こえてきた。生き残っている人たちがいる! 亜矢子は涙をぬぐい、ペダルを漕ぐ足に力をこめた。今はただ、誰か他の人がいるというだけで嬉しかった。
だが、駅前のバス・ターミナルで展開されていた光景は、彼女に希望を与えるどころか、かえって不安をかきたてた。
駅前の歩道橋の上に、長い髪を垂らした若い男が立っていた。シーツを体にまとい、杖の代わりにゴルフクラブを持った珍妙な格好で、即席の預言者を気取っている。歩道橋の下には二〇人ばかりの男女が集まり、男の演説に聴き入っていた。
「ついに神の罰が下されたのです!」
男はかすれた声で、泣きながら絶叫していた。自分の演説に酔いしれているようだ。
「審判の日が来たのです! 神はこの世から、傲慢《ごうまん》な者、不信心な者、心|卑《いや》しき者たちを、すべて消し去られたのです! 残された私たちこそ、心正しき者、神に選ばれし者なのです!――見なさい!」
男はゴルフクラブを振り回し、四方で燃え盛っている火災を指し示した。
「神は聖なる炎で地上のすべてを浄化されます! 汚濁に満ちた古い世界は一掃され、その後、真の幸福と永遠の安らぎに満ちた新しい世界が誕生するのです! 不安を覚えることはありません! 神は私たちに、永遠の生命を約束されたのですから! さあ、みんなで神の訪れを待ちましょう!」
亜矢子はバス・ターミナルの片隅に自転車を止め、困惑の想いで男の演説を聴いていた。私が心正しき者? 神に選ばれし者? どう考えても、そんなことはありそうにない。秀幸が指摘した通り、私は身勝手な女だ。信心深い方でもない。正月に初詣《はつもうで》をしたり、お盆に墓参りをするぐらいで、宗教的な行事にはほとんど関心がない。教会なんて一度も行ったことがない。私程度の人間が神に選ばれる資格があるというなら、もっと大勢の人間が選ばれなきゃおかしい……。
ヒステリックな演説をしていた男は、突然、亜矢子の存在に気がついたらしい。ゴルフクラブを彼女に突きつけ、怒鳴った。
「そこのあなた! あなたもです!」
演説を聴いていた人々も振り返り、いっせいに亜矢子を見た。その中にハルマゲドンおばさんの姿を発見し、亜矢子は強烈な不安に襲われた。
「あなたも神に選ばれたのです! ここに来なさい! いっしょに神の訪れを待ちましょう! 新しい時代を待ちましょう!」
預言者の声に刺激されたのか、聴衆の中から数人の若者が進み出た。新入りを出迎えようと両腕を広げ、彼女の方に近づいてくる。みんなあのハルマゲドンおばさんと同じく、にこやかな笑みを浮かべていた。
亜矢子の不安は恐怖に変わった。慌ててペダルを蹴ると、ハンドルを切り、Uターンして走り出した。
「待ちなさい! 恐れることはありません!」
男が背後で叫んでいた。振り返ると、三人の若者が全力疾走で追いかけてくる。彼女は必死でペダルを漕いだ。
彼らを撤《ま》こうと、狭い路地に入りこんだのが裏目に出た。路地の出口の角にある居酒屋に車が突っこみ、さらにそこへ後続車が何台も玉突き衝突していて、道をふさいでいたのだ。自転車では通り抜けられない。
振り返ると、若者たちはまだ追いかけてきていた。亜矢子はとっさに自転車を乗り捨てると、ボンネットを乗り越え、事故車の向こう側に飛び降りた。少し走ってから振り返ると、若者たちも車を乗り越えているところだった。
いいかげんあきらめればいいのにと思うのだが、三人の若者は亜矢子には理解できない異様な執念深さで追いかけてくる。ハルマゲドンおばさんと同じく、歪んだ使命感に燃えているのだろう。亜矢子もよく走ったが、女の足は彼らほどタフではない。最初に自転車で引き離した距離は、着実に詰められてきた。
「助けて……!」
無人のビル街を走りながら、亜矢子はかすれた声で叫んだ。
「誰か助けて! 殺される! 殺される!」
本当に助けが現われるとは思っていなかった。「殺される」と言えば、若者たちは亜矢子をおびえさせていることに気がつき、追跡をあきらめるのではないかと、淡い希望を抱いたからだ。
だが、驚いたことに、本当に助けが現われた。
前方からエンジン音が響いた。事故を起こしている車の間を巧みにすり抜けて、バイクのヘッドライトが近づいてくる。そのまばゆさに亜矢子はたじろぎ、立ち止まって手で光をさえぎった。
バイクは亜矢子の目の前で急ターンし、路上に落ちていた女物の衣服を踏みにじって停止した。黒いライディング・スーツを着たライダーは、手に太い筒状の花火を持っていた。それにライターで火をつける。すぐに花火の筒先から鮮やかな炎が噴出しはじめた。
ライダーはそれを迫ってくる三人に向けた。ぼしゅっ! 鈍い音とともに、彗星《すいせい》を思わせる火球が筒先から飛び出した。先頭の男の胸に命中し、赤や緑のきらびやかな火花をまき散らす。男は悲鳴を上げ、胸についた火を手ではたいた。
火球は次々に発射された。色とりどりの火花が路上に炸裂《さくれつ》する。若者たちは思わぬ攻撃にたじろぎ、亜矢子たちに近寄ることができなかった。はじけ飛ぶ火花をよけて、路上で踊り回っている。
ライダーは火を噴き続ける花火を片手で持ったまま、ヘルメットのパイザーを上げて素顔を見せた。亜矢子と同年齢か、少し年下と思われる少年だった。
「早く! 乗って!」
彼は亜矢子に向かって怒鳴った。花火攻撃に悲鳴を上げている三人と見比べ、亜矢子は決断しかねていた。この少年を信用してもいいのだろうか? 彼があの三人よりも危険でないという保証はあるのだろうか? 亜矢子が立ちすくんでいるのに苛立《いらだ》った少年は、さらに声を張り上げた。
「乗るのが嫌なら、どっか逃げろよ! 今のうちに!」
その言葉が亜矢子の心を決めさせた。バイクの後部シートにまたがり、おっかなびっくり、少年の腰にしがみつく。少年は花火を投げ捨てると、バイクをスタートさせた。
少年の運転はうまかった。路上に立ち往生しているたくさんの車を巧みにかわして走る。たちまちのうちに、あの三人の追跡を振りきってしまった。
「僕、蓮見《はすみ》悟《さとる》。君は?」
バイクを走らせながら少年は質問した。亜矢子はまだ震えが止まらず、答えることができない。
「なあ、助けてやったんだからさ、名前ぐらい聞かせてくれたっていいだろ?」
少年の口調はやけに楽しそうだった。まるでアニメのヒーロー気取りで、ドラマの中のようなキザな台詞を平然と口にする。亜矢子はためらいながらも、口を開いた。
「姫田……亜矢子」
「姫田? 姫って、お姫様の姫?」
「……ええ」
「いい名字だよな。でも、亜矢子って名前は平凡だな――『姫』って呼んでいい?」
亜矢子は答えなかった。どうにでもしてくれ、という気分だった。
「待って! 家はこっちじゃない!」
亜矢子は叫んだ。悟が街の中心部を離れ、県境を目指しているのに気づいたからだ。だが、少年は動じない。
「君の家、誰かいるの?」
「……いいえ」
「だったら、戻るのは時間の無駄だよ。今はできるだけ早く、街から離れなきゃ」
「でも……!」
「あれを見ろよ!」
悟は怒鳴った。前方の路上で、激突した二台の車が燃えていた。すでに車内の可燃物はすべて燃え尽きたらしく、真っ黒になった醜い残骸《ざんがい》をちろちろと炎の舌が舐《な》めている状態だ。近くの側溝からも炎が噴き出しているのは、流れこんだガソリンに火がついたからだろうか。悟は慎重にそれを迂回《うかい》した。
左手前方では高層マンションが燃えていた。三階あたりから出火した火が、上へ上へと着実に燃え移っている。膨大な量の黒煙が壁面を這い登っており、美しかったはずの建物は、すでに下半分が煤《すす》で真っ黒になっていた。
「街のそこらじゅうで火事が起きてる。もっともっとひどくなるよ。誰も消す奴がいないから、燃えるものが全部燃え尽きるまで消えないだろうな」
「でも……」
「それに!」少年は強い口調で、亜矢子の弱々しい抗議の声をさえぎった。「街の中にはさっきみたいなイカレた連中もうようよしてる。人間、パニックになると何するか分かんないからな。レイプされたくなけりゃ、しばらく山の中にでも避難してた方がいい」
「でも……でも……」亜矢子は懸命に家に帰る口実を探した。「取りに戻らないと。服とか、食料とか――」
「そんなもん、いくらでも調達できるよ。食料ならコンビニから取ればいいし、服なら――ほら、そこらにいっぱい落ちてる」
それは亜矢子にはぞっとする考えだった。
「他に何か、家に取りに戻らなきゃいけないものある? お金? アクセサリー? 身分証明書? それとも……学校の教科書!」悟は笑った。「よしなよ! そんなもん、もう何の役にも立たないんだから!」
亜矢子はしぶしぶ、その事実を受け入れざるを得なかった。そう、これまで自分が所有してきたもの、自分にとって価値があったものすべてが、突然、一切の価値を失ってしまったのだ。受験勉強はすべて無駄になった。携帯には二度と友達からのメッセージは入らない。夏休みに予定していた旅行にも行けない。続きを楽しみにしていたマンガは、もう新刊が出ることはない。好きなアイドル・タレントがテレビに登場することもない……。
秀幸とも、もう会えない。
亜矢子の目から涙がとめどなくあふれ出した。これまでは恐怖やショックが強烈に心を支配していたので、悲しみにくれている余裕がなかったのだ。最初の衝撃がやわらぎ、心が麻痺《まひ》状態から回復するにつれ、悲しみは胸の中で際限なく膨張しはじめた。
「ねえねえ、気がついてる?」
彼女が泣いているのを知ってか知らずか、悟は不自然にテンションの高い声で言った。
「何を……?」
亜矢子の声は涙でくぐもっていた。
「街路樹だよ」
「街路……樹?」
「そう、一本もないだろ」
亜矢子ははっとした。悟の言う通り、歩道に一定間隔で植えられているはずの街路樹が、一本も見当たらない。
さっきの違和感の原因はこれだったのだ、と亜矢子は思い当たった。いつも見慣れている通りの風景が違って見えたのは、そこにあったはずの街路樹や植えこみがなくなっていたからだ。衝突している車や散乱する衣服にばかり気を取られていたので、今まで気がつかなかったのだ。
「うちの家、熱帯魚を飼ってたんだけどさ。みんな消えちゃったよ。水草といっしょに。隣の家の犬も、首輪だけ残していなくなってたな」
少年は当たり前のことのように報告したが、その事実は亜矢子に新たな恐怖をもたらした。
「……人間だけじゃないの?」
「そう。動物、植物、たぶん全部」
亜矢子は恐怖に耐えるため、いっそう強く悟の腰にしがみついた。誰かに抱きついていないと叫び出してしまいそうだった。
旧約聖書のソドムとゴモラの物語では、ロトの妻は神の怒りで滅ぼされたソドムの街を後にする際、後ろを振り返ったために塩の柱になったという――だが、バイクが県境の坂道に差しかかった時、亜矢子はどうしても振り向いてしまった。住み慣れた街の姿を、最後にもう一度だけ見ておきたかったのだ。
街は燃えていた。
確認できるかぎりでは十数箇所で大規模な火災が発生していた。太い黒煙の柱がいくつも夜空にたなびき、西の山に沈みかけている半月の表面を横切って、暗く汚していた。今この瞬間、人類が数千年をかけて築き上げてきた文明が、あっけなく燃え尽きてゆこうとしているのだ。
亜矢子は声を殺してすすり泣きはじめた。
翌朝――
悪夢から目覚めた亜矢子は、誰の家かも分からない家の客間で、上等の羽根布団に横たわっている自分を発見した。
窓から差しこむ夏の陽はなぜか弱々しく、室内はさほど暑くはない。柱時計がかちこちと時を刻む音以外は、鳥のさえずりひとつ聞こえない。最初のうち、頭がぼうっとしていて、自分がなぜこんなところにいるのか分からなかった。やがて、少しずつ記憶が蘇《よみがえ》ってきた。
彼女はため息をつき、目を閉じた。夢ではなかったのだ――昨夜起きたことは、みんな現実だった。そうでなければ、自分がこんなところで寝ているはずがない。
柱時計に目をやると、もう昼近い時刻だった。無理もない。昨夜は午前二時までパイクを走らせ、山間《やまあい》にあるこの小さな町にたどり着いたのだ。運のいいことに、ここでは奇跡的に火災は一件も発生していなかった。悟が目をつけたのは、おおかたこのあたりの地主ではないかと思われる、高い土壁に囲まれた裕福そうなお屋敷だった。壁を乗り越えて中に侵入し、勝手に布団を敷いてもぐりこんだものの、興奮と恐怖でなかなか寝つかれず、眠りに入ったのはようやく外がしらじらと明けはじめた頃だった。
亜矢子はのろのろと起き上がり、枕元に脱ぎ捨てていたジーンズに脚を通した。ポケットを探ったが、空っぽだった。財布を持って出るのを忘れたな、と思ってから、そんなことを気にかける自分に苦笑した――もう、財布なんて何の意味もないのに。
悟の姿はなかった。亜矢子は重い足取りで窓に近づいた。外を眺めるのは気が進まなかったが、やはりどうしても現実を確認しておきたかったのだ。
屋敷の背後にそそり立つ山は丸裸で、出涸《でがら》しの茶の葉のような醜い褐色をさらけ出していた。
数本の枯木がまばらに残っているだけで、すべての生きた樹木、すべての草が消滅し、腐葉土に覆われた地肌が露出しているのだ。昨日までこの山がどんな姿をしていたのか、この風景から想像するのは難しい。
空には一羽の鳥の姿も見られなかった。山の向こうの街から流れてきたと思われる大量の黒煙が、夏空を汚らしいまだらに染め、太陽の光を弱らせている。火災はまだ続いているのだろう。
見なければよかった、と亜矢子は後悔した。自分が生きてきた世界が崩壊したという事実を認識するのは、やはり悲しく、気が滅入ることだった。
廊下の突き当たりにある洗面所に行き、トイレと洗顔を済ませてから、悟の姿を捜した。玄関の方へ歩いてゆくと、途中の壁に <2Fにいるよ☆> と汚い字で書かれた紙が貼ってあり、ごていねいに階段を示す矢印まで措いてあった。
亜矢子はそろそろと階段を昇った。家が古いので、一歩ごとにぎしぎしときしむ。絶対的な静寂の中で、その音はやけに大きく響いた。
階段を昇りきると、すぐ横に部屋があった。襖《ふすま》は開けっ放しになっている。覗いてみると、そこは書斎らしく、いかにも難しそうなハードカバーの本が詰めこまれた本棚が三方の壁に並んでいた。中央にはパソコンの置かれた大きな机があり、悟がこちらに背を向けて、一心不乱にモニターを覗きこみ、マウスを操作している。
「ん? 起きたの?」
気配を感じたのか、悟はひょいと肩越しに振り返った。目がしょぼしょぼしており、いかにも眠たそうだ。
「悪いけど、朝食は勝手に食べてよ。下で冷蔵庫、適当にあさってさ」
そう言うと、悟はまたパソコンに向き直った。
「……寝てないの?」
亜矢子は訊《たず》ねた。少年の体を心配したというより、彼の奇妙な行動に疑問を抱いたからだっ
た。
「二時間ほど寝たかな。そんなに疲れてないし」
「何やってるの?」
「これ? インターネット」
亜矢子はモニターを覗きこんだ。いかにも素人が書いたらしい、ろくに改行もない文章が画面いっぱいに並んでおり、見ているだけで頭が痛くなりそうだ。
「ラッキーだったよ。ここの人、パソコンとモデム持ってたうえに、パスワードも指定してなかったんだ。ウィンドウズなら僕もちょっとぐらい使えるし」
そう言いながら、彼はマウスをクリックし、画面をスクロールした。
「2ちゃんねるの緊急災害用の板だよ。生き残ってる人たちがバンバン発言してる。今朝までで発言数が三〇〇超えてるな。他にもいくつか、生き残ってる人が管理してる掲示板にリンクが張られてる。いちおうみんな <お気に入り> に入れておいたけど――あ、姫、英語読める?」
亜矢子はたじろいだ。
「少し……受験英語ぐらいなら」
「だったら、後で僕の代わりに海外の掲示板も少し読んどいてよ。僕、英語は苦手なんだ。海外からの情報を翻訳して紹介してくれてる人がいるけど、それだけじゃ足りないから」
「……そんなこと、してていいの?」
「ん?」
「そんな悠長なこと、やってていいの」亜矢子は苛立ちを隠せなかった。「もっと大事なことがあるんじゃないの? 食料を集めるとか――」
「食料にはしばらく困らないよ。たっぷり余ってるんだから。今は少しでも多くの情報を収集しておかないと」
「でも――」
「いいかい」
悟は椅子をくるりと回転させ、亜矢子に向き直った。
「インターネットだって、いつまでも使えるわけじゃないんだ。電気や電話はまだ通じてるけど、いつまで保《も》つか分からない。電気だけじゃない。そりゃネットワークそのものは、文字通り網の目みたいなもんだから、何箇所か断線したって支障はないけどね。問題はネットワークへの接続なんだ。プロバイダの建物まで火が回ったり、ここからアクセスポイントまでの回線がどこかで切れたら、それでアウトなんだ。パソコンで情報を集められるのは、今しかないんだよ。だから今のうちに集めておく――分かる?」
亜矢子はしぶしぶうなずいた。パソコンのことはよく分からないが、確かに少年の言うことは筋が通っているように思える。だが、自信たっぷりで生意気な口調には、少しかちんときたのも事実だ。
それにしても――と亜矢子は思った。何と奇妙なことだろうか。創造者である人間がいなくなったというのに、機械たちは忠実に働き続け、電気を休みなく送り出し、電話回線やネットワークを維持し続けているのだ。
「それで、どんな情報が集まったの?」
「まあ、いろいろとね」悟はまたパソコンに向き直った。「発言数とか、いろんな人の体験談とかを見てると、生き残ってる人は思ったより多そうだ。僕の印象じゃ、元の人口の五〇〇人に一人ぐらい――日本全国で二〇万人ってとこだろう。海外のことはまだよく分からないけど、たぶん同じぐらいの割合じゃないかな」
「他の国でも起きてるの?」
「ああ。アメリカの西海岸じゃ、明け方に起きたらしい。目が覚めたら、みんないなくなってたそうだ。ニューヨークやワシントンじゃ朝の八時。イギリスじゃ午後一時……インドからアクセスしてる日本人の話だと、夕方の五時だったそうだ。つまり、世界中、まったく同時に起きてるわけだ」
やっぱり――間違っていて欲しいと願っていた予感が裏付けられ、亜矢子は死刑を宣告されたような陰鬱な気分になった。
もしかしたら異変が起きたのは日本だけかもしれない。そう思っていたうちは、どこか外国が救助隊を派遣してくれるのではないかという、かすかな希望があった。だが、今やその可能性は完全に否定された。これからは自分たちだけの力で生き延びてゆかねばならないのだ。
「それで、原因は何なの?」
「それなんだよね」悟は、うーんとうなり、頭をかいた。「みんな好き勝手な仮説を書きまくってんだけど、どれもピンとこないんだ。決め手というか、説得力に欠けるんだな。生物の体を溶かす新種の病原体だとか、どこかの国の秘密兵器だとか、宇宙人の侵略だとか……携挙じゃないかって説もあったな」
「ケイキョって?」
「僕も詳しくはないんだけど、キリスト教のファンダメンタリスト……つまり、聖書に書いてあることを文字通り事実だと信じてる人たちの間で、人気のある思想らしいんだ。ハルマゲドンが起きて世界が滅亡する直前、敬度《けいけん》なクリスチャンだけが神様に救われて、天国に移されるっていうんだな。つまり、クリスチャンだけが世界中からぱっと消えてしまうわけだ」
そうだったのか、と一瞬納得しかけた亜矢子だが、すぐに矛盾に気づいた。
「でも、うちの両親はクリスチャンじゃない」
「そうなんだ。もしそうなら、インド人はほとんど消えなかったはずだよ。あそこは仏教徒やヒンドゥー教徒ばっかりだろ? だから、携挙じゃないかって説がアップされたとたん、何人もの人が反論してきた。『私はクリスチャンだが、携挙されないのはおかしい』って言ってた人もいたな」
「ふうん……」
「その逆に、神を信じない者だけが消されたって主張してる連中もいるけど、これも変だよね。僕は神様なんか信じてないのに――姫は?」
「……あんまり」
「やっぱりねえ」悟は首をひねった。「そこが納得できないんだよなあ。かと言って、僕らが偶然に生き残ったようにも思えない。生き残った人間には何か共通項がありそうな気がするんだけど、それが何なのか……」
「あなたはどうなの? 何か仮説はないの?」
「僕? 材料不足だな。まだよく分からない。ただ、病原体だとか新兵器だとかいう説が間違いなのは確かだ」
「どうして?」
「人が消える瞬間、見た?」
「……いいえ」
「僕は見た」悟の口調はちょっと自慢げだった。「コンビニで雑誌買ってた時だよ。レジの店員が目の前で消えたんだ。一瞬だったな。ぷしゅって音がして――」
「音?」
「そう、呼気の抜けるような音。その音と同時に、服が一瞬でしぼんだんだ。見えない手で握り潰《つぶ》されるみたいな感じだった。その後、ほんの何分の一秒か、空気が陽炎《かげろう》みたいに揺れるのが見えた。後で気がついたんだけど、あれって、肉体があった空間に何もなくなって、一瞬、真空状態が生じたんだな。そこに周囲から空気が流れこんで、ぷしゅって音がしたんだと思う」
亜矢子は思い出した。ラジオのDJの声が途切れた瞬間、その音がしたことを――あれはDJが消えた音だったのか?
「掲示板にも、自分の体験談を書いてる人が何人もいるけど、だいたい証言は一致してるな。ぷしゅっていう音。服が内側にしぼむ。陽炎みたいな現象――車を運転している最中、いっしょに乗ってた三人が消えたって例もあったな。その人の話じゃ、一瞬、耳がツーンとなったそうだ。たぶん、密室の中で人間三人分の体積が急に消えたんで、気圧が下がったんだろうな」
どうやら悟はかなり理科系に強いらしい。
「それに何か意味があるの?」
「おおありだよ。つまりさ、溶けたり分解したりしたんじゃないんだ。瞬間的に、文字通り、完璧にこの世から消えたんだよ。だから病原体のしわざじゃない。どこかの国の新兵器ってこともない。レーザーやプラズマを使っても、人間の体を燃やすことはできても、跡形も残さずに消すことなんてできっこない。物理的に不可能だ」
「……じゃ、やっぱり神様のしわざ?」
「さもなきゃ、宇宙人か」
悟はさすがに疲れてきたらしく、大きく伸びをして、首をぐりぐり回した。
「何にせよ、僕らには手の届かないところにいる奴だろうな」
その日から、二人の奇妙な共同生活がはじまった。
悟はこの屋敷を当面の城にしようと主張した。高い塀に囲まれているから、万が一、パニックに陥った生存者たちが暴徒となって襲ってきても、しばらくは持ちこたえられる、というのだ。
亜矢子はその考えに従った。あえて反論を唱える気力もなかったからだ。家族や愛する人すべてを一瞬で失ったショックはあまりにも大きく、彼女の感性や意志を鈍らせていた。何かを考えるのすら面倒臭く、一日の大半を屋敷に閉じこもり、ぼうっと過ごしていた。悟のすべて知りつくしたような生意気な口調は、時には癪《しゃく》に障ることもあったが、彼が自分の代わりにいろいろ考えてくれるのは気が楽だった。
無気力な彼女とは対照的に、悟は積極的に行動していた。インターネットで生存者の情報を集めるのにも熱心だったし、「偵察」や「調達」と称してバイクであちこち走り回ったりもした。この町に一軒しかないスーパーに出かけ、大量の缶詰やカップ麺《めん》、レトルト食品などを持ち帰った。薬局からは医薬品や生理用品を、電器店からは懐中電灯やビデオカメラを、ガソリンスタンドからはガソリンを調達した。
所有者が消滅したとはいえ、他人のものを盗むという行為に、亜矢子はまだ少し抵抗があった。だが、悟には最初からそんなこだわりはなかったようだ。彼のバイクやライディング・スーツも、あの異変の直後、前から欲しかった型のが「道に落ちていた」ので、すぐに自分のものにしたのだそうだ。
彼はまた、どこかでサバイバルナイフを見つけてきて、嬉しそうに亜矢子に見せびらかした。大量の花火を集めてきたり、ビール瓶にガソリンを入れて布きれをねじこみ、火炎瓶を作ったりもした。ついには交番から拳銃《けんじゅう》まで拾ってきた。本人に言わせると「暴徒対策」なのだそうだが、この町に来て以来、一人の人間も目にしていない亜矢子には、子供の遊びのようにしか見えなかった。
意外なことに、悟は明らかに優位な立場にありながら、一度も彼女の体を要求しようとはしなかった。体に触ろうともしなかったし、寝る部屋は常に別々だった。それどころか、冗談で亜矢子のことを「姫」と呼び、常に献身的な態度で接した。姫、お食事でございます。姫、お疲れではございませんか……。
その態度は亜矢子にはありがたかった。悟が悪い人間でないことは分かっていたが、まだ秀幸の記憶があまりにも重くのしかかっているので、他の男に抱かれる気にはなれなかったのだ。
悟は毎日、外の世界で見たものを、逐一、亜矢子に報告した。とりわけ彼が興味を抱いたのは、何が消え、何が消えていないかだった。
生きた樹は一本もなかったが、材木、枯木、薪《まき》などは残っていた。松林があったと思われる場所には、松葉がたくさん落ちていたが、松ぼっくりはひとつも見つからなかった。悟は石や枯葉をひっくり返して探したが、虫の類《たぐい》はアリ一匹見つからなかった。水田からは稲が消えており、当然いるはずの蛙やザリガニの姿もない。農道でカラスの死骸《しがい》を見かけたが、腐敗の具合から見ると、異変の前に死んだものらしかった。人間は生き残った者もいるのに、他の動物や植物はひとつ残らず消えてしまったようだ。
スーパーの生鮮食品売場には、肉や魚がすべてそのまま残っていた。卵も全部、パックに入ったまま残っていた。冷凍食品、乾燥食品、牛乳、ジュース類も残っていた。果物もほとんど残っていたが、野菜類は消えているものもあった。かいわれの入っていた密封パックは空になり、大気圧でくしゃくしゃに潰れていた。缶詰に入ったアスパラガスやマッシュルームは残っていた。野菜売場のジャガイモやタマネギはすべて消えていたが、カレーのレトルトパックを開けてみると、ちゃんとジャガイモやタマネギが入っていた。
食料が足りなくなった時に備え、自分で種を播《ま》いて育ててみょうかと、悟は試しに園芸店で「ブロッコリーの種」と書かれた袋を手に入れた。だが、帰ってから開けてみると、袋の中は空っぽだった。不審に思い、ピーマン、リンゴ、トマトなどを割ってみた。どれも外見には異状はないが、種だけが消えていた。
どうやら法則性が見えてきた。消えたのは生きた動植物、もしくは成長したり芽を出したりする可能性のあったものだけで、すでに生命の尽きたものは残ったらしい。だから調理されたジャガイモやタマネギは残っていたが、生のジャガイモや、ブロッコリーの種は消えたのだ。卵が残っていたのは、孵化《ふか》する可能性のない無精卵だからだろう。
ということは、もしかして、私たちもすでに死んでいるのだろうか――と、亜矢子は疑問に思った。だが、毎日、確実に腹が減ることや、夜になると眠くなることなどから考えて、どうも自分が死んでいるような実感は湧かなかった。
すべての作物や家畜が消え失《う》せたという事実は、残された生存者たちにとって、ゆるやかな死刑宣告に等しかった。畑で栽培しようにも、一粒の種もない。もはや食料は今ある分だけで、新たに生産される可能性はまったくないのだ。今ある食料を食い尽くせば、あとは餓死するしかない。
だが、悟や亜矢子には、あまり緊迫感はなかった。すでに数年分の食料を蓄えてあるし、探せばあちこちの家にまだ残っているだろうから、餓死するのはずっと先のことだろう。ガスはすでに止まっていたが、電気や水道はまだ通っており、当面の生活に支障はなかった。
それよりも亜矢子の不安は、電気のことだった。この地域の電力は確か原子力発電ではなかっただろうか? 管理する人間がいなくなった原発は、コントロールを失って爆発するのではないだろうか?
だが、そんな不安を情は笑い飛ばした。
「原発にだって安全装置はあるよ。緊急炉心停止装置ってやつがさ。何かトラブルがあったら、自動的に停止するようになってるんだから」
「でも、チェルノブイリが……」
「ありや人為的ミスだよ。確かテストのために、安全装置を全部カットして、制御棒をほとんど引き抜いてたんだ。信じられない規則違反さ。人間がわざとそういう危険な状況を作り出さないかぎり、原子炉が暴走することなんてめったにないって」
理科にうとい亜矢子は、その説明で納得するしかなかった。どのみち原子炉の止め方など分からないのだから、故障が起きないことを祈る以外、できることはない。それまではせいぜい電気の恩恵を受けることにしよう。
二人の娯楽は、夕食後に観るビデオだけだった。悟はレンタルビデオ店からたくさんのビデオソフトを持ってきた。「まだ観てない映画があったら、電気が切れる前に観ておかなきゃ損だよ」というのが彼の主張だった。沈みがちな亜矢子を元気づけようという心遣いなのだろうが、この映画に出演している俳優たちもみんな、たぶんもうこの世にいないのだろうと思うと、亜矢子はあまり楽しむ気分にはなれなかった。
テレビ放送は二日目の朝には一局を除いてすべて途絶え、どのチャンネルも「砂の嵐」になっていた。テレビ局も火災に見舞われたのか、あるいは機器を操作できる人間がいないのだろう。ある局にだけは生存者がおり、放送を続けていたが、画面に現われた若者たちは明らかにテレビ局員でもタレントでもなかった。意味不明なことをわめき散らしたり、音楽をかけて踊り回ったり、ついにはスタジオで乱交をはじめる始末で、二人ともげんなりして見るのをやめてしまった。
ラジオはもう少しましだった。いくつかの局に生存者の拠点ができ、素人のアナウンサーが火災や事故の様子を報じたり、その地域の生存者に集まるよう呼びかけていた。すでに日本のあちこちで、数百人単位の生存者のグループが誕生しているらしい。だが、まだ都市部では火災が続いているうえ、暴行、略奪、破壊行為が横行しており、秩序の回復するきざしは見えない。
ラジオよりも重宝したのがインターネットである。日本各地、そして海外からも、最新の情報が刻々と飛びこんでくる。だが、それらのニュースはどれも陰鬱なもので、あまり気晴しにはならなかった。
北九州市ではコンビナートが炎上中。名古屋ではライフルを持った男が徘徊し、生存者を殺して回っている。マドリッドでは市街地にジャンボジェット機が墜落。香港は大火災によってほぼ焼失。サンフランシスコでは大型貨物船がゴールデンゲート・ブリッジに激突。ニューヨークでは大規模な略奪が展開中。アマゾンの大密林地帯は一面の荒野になっている。ローマでは多くの生存者が救いを求めてバチカンに押しかけたが、ローマ法王の姿はなかった……。
外界の地獄絵図など嘘のように、二人のひそむこの山間の町は、不自然なほどの静けさに包まれていた。ただ、空をどんよりと覆う不吉な黒煙だけが、なおも続いている火災の激しさを示していた。
四日目の午後、豪雨が降った。樹木を失った山は崩れやすくなっているらしく、流れ出した大量の泥土で、川は赤茶色に染まった。裏の山が崩れてくるのではないかと、亜矢子は気が気でなかった。
「でも、雨が降って良かったよ。まだ火事がくすぶってたとしても、この雨で全部消えるだろ」
その日の夕方、屋敷の食堂で向かい合ってレトルトのシチューを食べながら、悟は言った。彼はいつでも楽観的だった。
「どうするの?」亜矢子は訊ねた。「いったん街に戻る?」
「いや。もう少し様子を見た方がいい」
「どうして? ラジオでも言ってたじゃない。連絡を取り合って、できるだけ一箇所に集まった方がいいんじゃ……」
「いや、僕も最初はそう思ったんだけど……」悟は顔をしかめた。「インターネットを読んでるとさ、どうも嫌な感じがするんだよな」
「嫌な感じ?」
「姫も読んだだろ。気がつかない? やけにイカレた奴が多いってこと」
「ああ……」
それは亜矢子も気がついていた。掲示板に書きこまれている文章には、まともな情報もあるものの、半分以上は、神の審判がどうとか、宇宙人がどうしたとか、支離滅裂な内容なのだ。自分は神の声を聞いた、という者もいた。そいつは神から授けられた「新たなる十戒」と称し、「肉食をやめよ」とか「ロックを聴くな」とか「一日に一回|瞑想《めいそう》せよ」といった規則を、大真面目にアップしていた。
かと思えは、自分こそ神であると主張する者もいた。世界から人間を消し去ったのは私の念力だ、というのだ。私は世界の支配者である。生き残ったすべての者は全知全能である私を崇拝せよ――と、そいつは誇らしげに宣言していた。
別の人物は、アメリカが開発した秘密兵器の攻撃だという説を、頑固に主張し続けていた。アメリカでも異変が起きているというのは情報操作であり、本当はアメリカ人は一人も消えていない、というのである。アメリカはこの混乱に乗じて世界を乗っ取る気なのだ。神の審判だとか宇宙人のしわざだとかいう説は、すべて真実を隠蔽《いんぺい》しようとする偽情報であり、信じてはならない。何しろアメリカは、かつてアボロが月に行ったなどという大嘘を流した国ではないか……。
また別の人物は、この異変の原因を科学的に解明したと称し、「超次元ハーモニクス理論」なるものを発表した。何でも、この現象はバミューダ・トライアングルの謎の消失事件と同じもので、地球を覆う宇宙エネルギー・グリッドの共鳴作用によって生じたものだというのだ。あいにくとその説明は、本人以外にはまったくちんぷんかんぷんな代物だった。悟は少しだけ読んでみて、すぐに匙《さじ》を投げた。
ノストラダムスの予言詩の解読に精を出している者もいた。第何章の何番の詩の、この単語をこれこれの隠喩《いんゆ》と解釈すれば、この大異変を予言した詩になる……というようなことが長々と書きこまれている。そのどれも、ひどいこじつけとしか思えなかった。
もっとも、これらはまだ何が言いたいのか理解できるだけ、ましな部類と言える。中には、でたらめに単語を羅列したとしか思えない不可解な文章や、ヨハネ黙示録の断片を切り張りしたらしき文章、詩のつもりと思われる文章、何かの呪文《じゅもん》のような文章など、まったく意味不明なものも少なくなかった。
悟はネットでそれらの文章を読むだけで、決してこちらから何か書きこもうとはしなかった。うっかり自分たちの存在を明かしたり、暮らしている場所の手がかりを与えたら、頭のおかしい連中が押しかけて来ないともかぎらないからだ。
「最初はさ、それほど変だとは思わなかったんだ。こんな異常な状況だったら、頭のおかしくなる奴が続出したって当然だって。でも、どうもそうじゃないみたいなんだな。文章を読んでると、電波系にせよ、陰謀マニアにせよ、オカルト・オタクにせよ、どうも以前からハマッてた連中が多いみたいなんだ――ほら、インドからアクセスしてた日本人がいただろ? あいつ、何年か前にアガスティアの葉を探しに行って、そのままインドに居ついちゃったんだってさ」
亜矢子は、あのハルマゲドンおばさんのことを思い出した。そう言えば、彼女も消えていなかった……。
「だから、下手に集まるのは危険じゃないかって気がするんだ。ひょっとしたら、正常な人間だけが消されて、狂った人間ばっかり残ったって可能性もある」
「じゃあ、私たちも狂ってるの?」
「姫はどう思う? 自分が狂ってると思う?」
亜矢子は困惑し、返答に詰まった。異変が起こる前までなら、自分は正気だ、と自信を持って言えただろう。だが、今はその自信はない。もしかしたら、すべては気が狂った自分が見ている幻想なのではないか、とさえ思うことがある。
そもそも、すべての常識や価値基準が崩壊したこの世界で、正気と狂気を見分ける物差しは、いったいどこにあるのだろう。こんな異常な世界で正気を保っていることの方が、むしろ異常なのではあるまいか。
そう思った亜矢子は、以前から抱いていた疑問を口にした。
「そう言うあなたはどうなの? どうしてそんなに楽しそうなの?」
「え……?」
悟は不意を突かれたらしい。どきりとした様子で、シチューをすくいかけたスプーンを止める。亜矢子はさらに追い討ちをかけた。
「世界が滅びたっていうのに、あなた、とても楽しそうだわ。不謹慎だと思わない?」
「うーん、そうか……そうだよね」
悟はわざとらしく苦笑した。この少年が狼狽《ろうばい》しているところを、亜矢子は初めて見た。
「……うん、確かに僕は楽しんでるよ。だって、ある意味じゃ、これって僕の理想としてた状況だからね」
「理想?」
「普段からさ、あこがれてたんだよ」悟はちょっと恥ずかしそうに言った。「映画の主人公みたいに活躍してみたかったんだ。美しいヒロインを守ってさ」
亜矢子はぽかんと口を開け、悟を見返した。悟は赤くなった顔を伏せ、シチューをがつがつとむさぼりはじめた。
六日目の夕方、電気がちらつき、消えた。
「ちくしょう! やられた!」
インターネットに接続中だった悟は、急に真っ暗になったモニターを平手で叩《たた》き、悔しがった。
「くそ。やっと <ジェネレーション・ノア> のホームページを見つけたってのに……ついてないよ」
「でも、だいたいのところは読めたわ」
そう言って亜矢子は、悟を慰めた。
日本の情報に見切りをつけた亜矢子たちは、何かもっと詳しい情報が得られるのではないかと、海外の掲示板に目を通していたのだ。北米大陸、特に西海岸は、ほとんどの人がまだ眠っている時刻に消失が起きたので、火災や交通事故などの被害は最小限で済んだらしい。生存者たちはインターネットをフルに活用し、情報を交換し合っていた。
もっとも、アメリカもやはり混乱と無縁ではなかった。アリゾナ州では「新世界の秩序」を標榜《ひょうぼう》する武装集団が出現し、戦車や装甲車を陸軍基地から持ち出して、生存者を暴力で支配しつつあった。ダラスでは危険な狂信者集団が横行しており、「神の怒りを鎮める」と称して女性を次々に火あぶりにしていた。ロサンゼルスでは人種間の抗争が起きていた。レイプや殺人はどの都市でも多発していた。
唯一、明るいと言えるニュースは、細菌などの微生物もすべて消滅したらしいという報告だった。ユタ大学の生物学部の研究者が、シャーレで培養していたはずの菌を顕微鏡で覗いてみたところ、きれいさっぱりいなくなっていたというのだ。この発見はすぐにアメリカ各地に伝わり、他の大学や研究所でも確認された。人間の体内の大腸菌さえ消えていたのだ。これが事実だとすれば、生存者たちは少なくとも伝染病や食中毒におびえることはないし、食料が腐るのを心配する必要もないことになる。
アメリカでもやはり、生存者には顕著な傾向が見られた。キリスト教ファンダメンタリスト、いくつかの新興宗教の信者、オカルト・マニア……全員がそうではないものの、かなり高い比率でそうした人間が含まれているようだった。
亜矢子たちは <ジェネレーション・ノア> というカルト教団の評判を目にした。彼らはもう三年も前から、カリフォルニアの山中にコロニーを作り、旧約聖書のノアに倣って、巨大な方舟《はこぶね》を建造中だという。彼らの教祖が、まもなく地軸の移動によって全世界に大洪水が起きると予言したからだ。
不思議なことに、コロニーに三〇〇人以上いるという <ジェネレーション・ノア> の信者が、ほとんど消えていないというのだ。
真偽を確かめるため、悟と亜矢子は <ジェネレーション・ノア> のホームページにアクセスしてみた。コロニーから直接発信されているというそのホームページには、外界の異変など関係ないかのように、今も方舟作りに従事している大勢の信者たちの写真が掲載されていた。彼らを導く教祖の話によれば、この異変は大洪水の前兆にすぎない、というのである。
だが、その説明文を読んでいる途中、停電が起きたのだ。
「ま、しょうがないか。メンテナンスする人間なしで、今までよく保ったと思うよ」
悟は肩をすくめ、電気のことはあっさりあきらめた。
「で、いかがですか、姫。読んだ印象は?」
「そうねえ……」
亜矢子は今読んだばかりの英文を頭の中で反芻《はんすう》し、考えこんだ。英文は苦手だが、推理というやつはもっと苦手だ。
「ただの勘だけど、嘘はついてないような感じがするわ」
「でも、あんな写真なんか証拠にならないよ。異変が起こる前のやつかもしれないし」
「写真じゃないの。『七人の子供が消えた』って文章が気になるのよ。教団の宣伝のために嘘をつくなら、『私たちは一人も消えてません』って書くと思わない? わざわざ子供が消えたことを書くかな、って気がするの」
「うーん、なるほど。一理あるな」
約三〇〇人のコロニーの中から、六歳以下の子供七人だけが消えた――これもまた、説明のつかない不思議な現象のひとつだった。これまでインターネットで収集した情報でも、生存者の大半は大人か若者で、一〇歳以下の子供はほとんどいない。乳幼児が消えなかったという例はまったくない。
「植物や動物が消えたのと、関係があるのかもしれないな。小さい子供ってのは、動物みたいなもんだろ?」
「じゃあ、動物に近い人だけが消えたわけ? 私たちは動物離れしてるの?」
「うーん、それも変だよな……」
推理はいつも同じ矛盾点に突き当たり、堂々めぐりになる。ある種の信念の持ち主が、かなり高い確率で生き残っているのは確かなようだ――だが、それならどうして、二人は生き残ったのか?
「あー、分かんね!」
悟は頭をかきむしった。どうしても解けない問題があるという事実に、プライドを傷つけられている様子だった。
「……暗くなってきたわね」
亜矢子はつぶやいた。インターネットに夢中になっているうち、陽が暮れていたのだ。窓から差しこむ夕焼けの光は、血のように赤く、毒々しい。
今夜からはもう、夜を追い払ってくれる電気はないのだ。
「懐中電灯とロウソク、用意してよ。それと例のキャンプ用コンロ。あれでお湯沸かして、晩飯にしよう」
「はい」
亜矢子は素直に答えた。いつの間にか、ごく自然に、食事の用意は亜矢子の分担ということになっていた。
「やれやれ」悟は大きなため息をついた。「今夜から、ビデオはなしか」
次の日には水道も止まった。
電気も水道もガスもない生活は、さぞかし不便ではないかと覚悟していたのだが、慣れればたいしたことはなかった。たまには手で洗濯物を洗ったり、団扇《うちわ》で顔をあおいだりするのも、風情があると言えないことはない。
風呂が使えなくなったので、垢《あか》は川で水浴びして洗い落とさねばならなかった。水がまだ比較的温かい昼間、二人は交替で川に入った。生活排水も細菌も含んでいない川の水は、これ以上ないというぐらい清潔だった――冬になって水が冷たくなったらどうするのか、という問題は、とりあえず考えないことにした。
唯一、つらかったのは、川の水を汲《く》んでくる作業だ。たった二人の生活なのに、食事だ洗濯だ食器洗いだトイレだと、毎日、一八リットル入りのポリタンクがいくつも必要になる。人間とはいかに水を浪費しているものかと、二人は思い知らされた。もっとも、悟がポリタンクを載せられる手押し車をどこかで調達してきてからは、作業はずっと楽になった。
最大の敵は退屈だった。
インターネットが使えなくなった今、ラジオが唯一の情報源だった。だが、近県のラジオ局は停電のせいか放送が途絶え、遠くの県のものが雑音混じりにかろうじて聞こえるだけだった。しかも放送の内容は、秩序の回復を告げるどころか、ますます支離滅裂になる一方で、しだいに聞くのが苦痛になってきた。
事件らしい事件は何も起きなかった。本を読む以外、娯楽はなかった。気分をまぎらわそうと、悟は書店からマンガを大量に持ってきたが、亜矢子はビデオと同様すぐ気が滅入ってしまい、読み進むことができなかった――ふと気がつくと、秀幸のことをぼんやりと考えていることもよくあった。
おまけに、食料や生活必需品を大量に備蓄したので、悟はもうほとんど外に出る必要がなくなっていた。二人は一日の大半を家の中で過ごした。狭い空間の中で顔を合わせていると、当然、息が詰まってくる。話でもすれば気がまぎれるのだろうが、二人の会話はぎくしゃくして、うまく噛《か》み合わない。
悟は自分のことはあまり話したがらないくせに、亜矢子の身の上をあれこれ訊《き》き出そうとする。高校はどこ? どんな家庭だった? 好きな映画は? 異変が起きた時、何してたの?……亜矢子にしてみれば、その質問のどれもが、つらい記憶に抵触するものばかりで、まともに答える気が起きなかった。彼女は少年の無神経さに苛立ち、口を閉ざして無言の抵抗を示した。悟はそんな彼女の心理をまるで理解できない様子で、しまいには「どうして心を開いてくれないのかなあ」などと、小声でぼやくありさまだった。
一方、亜矢子はと言えば、この少年の境遇など、いっこうに知りたいとは思わなかった。悲しみが多少は薄らいできたとはいえ、秀幸の記憶はまだ心の大半を占めており、他の異性に対する興味が湧かなかったからだ――たとえそれが、自分のすぐそばにいる、ただ一人の異性であろうとも。
亜矢子はしだいにこの生活に嫌気が差してきた。知らない土地、知らない家で、何日も寝泊りしているうち、ホームシックに苛まれはじめたのだ。こんなところはもう嫌だ。自分の家に帰りたい……。
その願望は日を追うごとに大きく膨らみ、しだいに耐えられなくなってきた。無論、帰っても家族や友人はいないし、家も残っているかどうか分からない。彼女の理性の部分はそれを理解していた。だが、感情は納得しなかった。
問題は悟がそれを許してくれるかどうかだ。自転車でこっそり逃げ出すことも検討したが、一人で街まで帰るのは、どう考えても無謀な行為だ。どうしても悟の協力を得る必要があった。
「……ねえ」
ある夜、彼女は決心し、マンガを読んでいる悟におずおずと話しかけた。
「何?」
「ちょっとだけ、街の様子、見に帰りたい……」
それはあの夜以来、初めて亜矢子が口にした願望だった。悟は驚いてマンガから顔を上げた。
「帰る?」
「そう、ちょっとだけ」
「えー?」悟は露骨に嫌そうな顔をした。「帰っても何もないよ。みんな焼けちゃってるってば」
「分かってる」
「だったらどうして?」
「この目で見てみたいの。自分の家がもうないってことを、ちゃんと確認したいのよ」
「危険だよ。忘れたわけじゃないだろ? 街にはヤバい連中がうようよしてるんだ」
「だから、いっしょについて来て」
「だめだよ。姫を危ない目に遭わせるわけにはいかない」
それは亜矢子の予想した答えだった。彼女はそれに対抗する台詞も用意していた。
「……やっぱり、そうなのね」
「え、何が?」
「やっぱり、私をここに閉じこめておきたいのね。閉じこめて、人形みたいに観賞したいのね。私はあなたのペットなんでしょ。そうでしょ?」
亜矢子は腹を立てているふりをしてみせながら、罪の意識を感じていた。自分でも卑劣な台詞だと思う。悟がそんな人間ではないと信じている。それどころか、彼の優しい性格につけこんだ策略なのだ。本当に彼が悪人だと思っているなら、彼を怒らせかねない言葉など、口に出せるわけがない。
予想した通り、悟は怒りもせず、困惑するばかりだった。
「そんな……誤解だよ。僕は姫のことを心配して――」
「逃げ出すのが心配なだけなんじゃないの」
「そんなことないって」
「だったら、お願い聞いてよ。長くいるわけじゃないの。ほんのちょっと、見に帰りたいだけなのよ」
「でも、不必要な危険を冒すことは――」
「ほら、やっぱり」
「いや、そうじゃなくて――」
押し問答が続いたが、ついに悟は降参した。論理など無視した亜矢子の主張に、論理で勝てるわけがない。
「分かったよ。明日にでも連れてってあげるから」
「ありがとう」
亜矢子はぎこちなく微笑んだ。議論には勝ったが、勝利感はなかった。むしろ、卑劣な手段で他人を従わせたがる自分に、嫌悪さえ覚えていた。
そう言えば、秀幸に対しても同じようなテクニックを何度か使ったことがある――あなたにとって、私なんて、ほんとはお飾りなんでしょ。ほんとは愛してなんかないんでしょ。よく言うわよね、「釣った魚に餌は要らない」って。だから私に無駄なお金を注ぎこむのが嫌なのね。違う? だったら、証明してみせてよ。あの指輪、買ってくれたら納得したげる……。
お前は他人の心が分からない、という秀幸の台詞が思い出された。そうかもしれない。いつも自分の幸せばかり考えて、他人の心を踏みつけてきた。秀幸が優しいのをいいことに、彼の愛を試し、その優しさを利用し続けた。
それにしても、悟に対して抱いた罪の意識を、秀幸に対してまったく抱かなかったのはどういうことだろう。少し考えて、理由が分かった。悟は愛してはいないが、秀幸のことは愛していたからだ。愛もないのに男をもてあそぶのは良くないことだが、愛さえあればどんな行為も許されると錯覚していた。「愛」という言葉を万能の免罪符にしていたのだ。
今、ようやく、彼女は自分がどこで間違いを犯したか気がつきつつあった――気づくのがあまりにも遅すぎたのだが。
街は黒一色の荒野と化していた。
住宅街は完全に燃え尽き、黒く焦げた残骸が見渡すかぎり散乱していた。教科書の写真で見た、原爆投下直後の広島のようだ。ビルはさすがに燃えなかったものが多かったが、やはり表面は煤でひどく汚れており、無残なありさまをさらしていた。黒い荒野の中に、灰色や黒の直方体が静かに林立している様は、どうしても墓地を連想させた。
人影はまったく見かけなかった。ビルから飛び降りたと思われる死体、炎に巻かれて炭化した死体をいくつか目にしただけだ。動くものは何ひとつ見当たらない。暴徒の襲来を予期して、バックパックに様々な武器を詰めこんできた悟は、あまりの静けさに拍子抜けした。みんなどこへ行ってしまったのだろう?
風の音以外には音ひとつしなかった。静寂の支配する廃虚の街に、バイクの爆音だけがやけに大きく響いていた。
亜矢子は自分の家があった場所を探し出すのに手間取った。街の様子がすっかり変わってしまっていたからだ。燃え残ったビルを手がかりに、記憶と照合しつつ、道をたどっていった。
ようやく見つけたその場所は、やはり廃虚と化していた。炭化した柱、灰になった家具類、熱でぐにゃりと変形したテレビ、空しく宙に突き出した水道管……正面に高層マンションが燃え残っていなければ、そこが自分の家であったことすら分からなかっただろう。そこに亜矢子が生活していたという証拠は、すべて消え失せていた。
覚悟していたとはいえ、こうして事実を目の当たりにするのは、やはり衝撃だった。もう帰るべきところはどこにもないのだ……。
「どう? 気が済んだ?」
廃虚の前に茫然と立ちすくみ、いっこうに動こうとしない亜矢子に、悟は苛立って声をかけた。彼としては、一刻も早く、こんな陰気な場所とはおさらばしたいのだ。だが、亜矢子にはそんな声は耳に入らなかった。
「ちっ」
悟は退屈そうに、路上に散乱している小さな破片を蹴飛ばし、遊びはじめた。空はどんよりと灰色の雲に覆われており、いつ雨が降り出してもおかしくなかった。
ふと、彼は近づいてくる人影に気がついた。腰に吊《つ》るした拳銃にとっさに手をやったものの、すぐに警戒を解いた。その男は高齢なのか、それとも衰弱しているのか、腰がひどく曲がり、杖をつき、片足をひきずっていた。危険なようには見えない。
男はのろのろとした歩調で、二人の方に近づいてきた。着ているものは汚らしいボロの寄せ集めだった。髪はぼさぼさで灰にまみれており、顔は無精髭に覆われていて、年齢も定かではない。
「……おーい、あんたら」
男は間延びした声で呼びかけた。どこの方言かは分からないが、かすかに訛《なま》りがある。
「あんたら、まだ逃げとらんかったんかい?」
「逃げる?」と亜矢子。
「ああ、ここらあたりの連中は、みんな西へ逃げちまったよ。そりゃもう、大慌てでな。ここらへんで残ってるのはわしだけだ」
「どうして逃げたんです?」
「おやまあ、知らんかったんかい?」男は目を細めて笑った。「放射能だよ」
「放射能?」
「ああ、原発がな、ドーンと吹っ飛んだんだそうだ」
二人は驚き、蒼《あお》ざめた。
「いつです?」
「四日前の夕方だよ。爆発を見た女から、じかに聞いた話だから確かだ。同じ時刻に、音を聞いた奴も大勢おったよ」
それはあの停電が起きた時刻と一致する。
「そんな……原子炉の爆発なんてそんな簡単には……」
「いや、何でも、その女の知り合いがひどく原発を怖がっててな。『放っておいたら危ない。俺が止めてくる』って言って、乗りこんで行ったんだそうだ」
「止めるって……止め方を知ってたんですか、その人?」
「いや、知るわけない。『適当にスイッチを全部切りゃ止まる』とか言っとったらしい」
「スイッチを全部……」悟は愕然《がくぜん》となった。「もしかして、冷却水の循環ポンプとか、緊急炉心停止装置のスイッチも切ったんじゃ……?」
「さあな。何が起きたかは分からん。その女は外で待っとっただけだからな。とにかく、そいつが中に入って一時間ほどしてから、原子炉の屋根がでっかい音をたてて吹っ飛んだんだそうだ。女はそれを見てびっくりして逃げてきたんだが、この街にたどり着いた時にはもう髪の毛がぼろぼろ抜けはじめててな。食べたもんをみんな吐いとった。それからすぐに死んじまったが……」
原子炉の頑丈な屋根が吹き飛んだということは、事故は相当に深刻なものだろう。炉心溶融が起きた可能性も高い。チェルノブイリ級、もしくはそれを上回る大量の放射性物質が大気中にまき散らされたことは間違いあるまい。女の急速な被曝《ひばく》症状の進行も、それを物語っている。
その事故が起きたのが四日前――すでに危険な放射性物質は風に乗って拡散し、この地域一帯に降り注いでいるはずだ。
「馬鹿野郎!」
悟はバイクのシートに拳《こぶし》を叩きつけた。目に涙がにじんでいる。
「そっとしとけば良かったんだ! そりゃ原発は危険かもしれないけど、科学なんか何も知らない素人がいじり回す方がもっと危険だって、どうして分からなかったんだ!?」
「まあ、それが人間のあさはかさ、っちゅうやつだな」男はしみじみと言った。「人間っちゅうのはみんな、自分だけは賢いと思っとるもんよ……」
そうぼやきながら、男はいつの間にか、悟のすぐ背後にまで近寄っていた。身にまとっていたボロに手を突っこみ、おもむろに拳銃を取り出す。亜矢子は気がつき、警告の声を発しようとしたが、間に合わなかった。
男は至近距離から悟を撃った。
亜矢子は悲鳴を上げた。悟はへなへなと膝《ひざ》をつき、バイクの横にうずくまった。男が狙ったのは、少年の右脚のつけねあたりだった。ライディング・スーツのその部分には、丸い貫通跡が生々しく開いていた。
「うう……」
悟は大腿部《だいたいぶ》を押さえ、弱々しくうめいた。男は杖《つえ》を捨てると、さっきまでとは比べものにならない素早いしぐさで、背後から少年に覆いかぶさり、腰の拳銃を奪い取った。自分の持っている銃と見比べ、同じ型であるのを確認して、せせら笑う。
「……自分は賢い。交番で銃を手に入れるなんて名案を考えたのは自分だけだろう、なんて思ってたりするわけだ」
男の口調からは鈍重さや訛りが消えていた。背を伸ばし、しゃんと立っている。亜矢子はようやく、男の巧妙な演技に騙《だま》されていたことを知った。ぼろぼろの格好、曲がった腰、足をひきずる歩き方、愚鈍そうな喋り方――すべては相手を油断させる作戦だったのだ。
男は二丁の拳銃を懐にしまうと、悟の背中を乱暴に蹴った。つんのめった悟の顔面がバイクのエンジンに打ちつけられ、がつんと鈍い音をたてる。
それを目にしながら、亜矢子は身動きひとつできなかった。突然の事態の変化に、心が麻痺してしまい、逃げることも忘れて立ちつくしていた。男がおもむろにこちらに向き直って、にんまりと淫《みだ》らな笑みを浮かべるのを、まるで恐怖映画の一場面のように、戦慄とともに見つめていることしかできなかった。
映画と決定的に違うのは、そいつの標的が自分だということだ。
男は野獣のように飛びかかってきた。亜矢子はなすすべもなく路上に押し倒され、アスファルトに激しく後頭部を叩きつけられた。激痛のため、しばらく意識が朦朧《もうろう》となる。その間に男は彼女のシャツとブラジャーを引きちぎり、スラックスを脱がせにかかっていた。意識が戻ってきた時には、すでに衣服はほとんど剥《は》ぎ取られていた。
「いや……いや……!」
亜矢子は苦痛と恐怖に涙を流した。だが、男は暴行の手をゆるめようとせず、それどころか楽しそうに笑っている。
「どうせ放射能でみんな死ぬんだよ! だったら、今のうちに楽しい思いした方がいいじゃねえか! なあ?」
「いや……やめて!」
亜矢子は華奢《きゃしゃ》な手足をばたつかせ、もがいたが、それは抵抗とも呼べないような無駄なあがきにすぎなかった。男の力はあまりにも屈強だった。両腕は頭上で交差させられ、道路に押しつけられた。必死に閉ざそうとする脚の間に、男の膝が分け入り、強引にこじ開けてゆく。
「……よせ」
弱々しい声が上がった。悟である。亜矢子の涙でにじんだ視界に、彼がバイクにすがりつき、立ち上がろうともがいている光景が見えた。
だが、それが限界だった。股関節《こかんせつ》を貫通した弾丸は、彼を即死させこそしなかったものの、右脚の機能を完全に奪っていたのだ。
「坊や、そこでゆっくり見物してな!」
男は嘲笑《ちょうしょう》した。悟にとどめを刺さなかったのは、身動きできない彼の目の前で亜矢子を犯し、二重の歪んだ喜びを得るためだったのだ。
「いやああああ!」
男のごつごつした指が乱暴に秘部を蹂躙しはじめると、彼女は子供のように泣きじゃくりはじめた。
突然、火花が男の側頭部を直撃した。
「あちっ!?」
男は慌てて立ち上がり、髪の毛についた火を払った。だが、火は次々に飛んでくる。悟がバックパックの中に忍ばせていた花火を取り出し、火をつけたのだ。
だが、うまく命中したのは最初の一発だけだった。悟はバイクに上半身を寄りかからせた苦しい姿勢で、花火の筒を手で支えるのが精いっぱいなのだ。手が震えて狙いが定まらない。火花は見当違いの方向へ飛んでいったり、路上ではじけたりした。間違って亜矢子にもいくつか当たった。
「この野郎!」
男は逆上した。亜矢子から離れると、懐から拳銃を抜く。亜矢子は暴行によって受けた苦痛のため、まだ起き上がれないでいた。
花火はすぐに燃え尽きた。男は安全装置をはずした拳銃を右手に構え、大股で悟に近づいていった。今度こそとどめを刺す気に違いない。悟は苦痛にあえぎながら、バックパックに手を入れ、次の武器を探した。
男はたじろいで立ち止まった。悟が他にも拳銃を持っていたのではないかと警戒したのだ。
だが、彼がバックパックから取り出したものを見て拍子抜けした――ただのヘアスプレーだったからだ。
三メートルまで近づいた男に向かって、悟はヘアスプレーを吹きかけた。霧が男の体にかかったが、もちろん害などあるはずがない。男は笑い出し、悟にとどめの一撃を打ちこむ前に、何かしゃれた台詞を言ってやろうと、適当な文句を探した。
その数秒の油断が、男の命取りになった。
くぐもった爆発音がして、男は炎に包まれた。まだ路上でくすぶっていた花火の火が、スプレーに含まれているLPガスに引火したのだ。
「うわっ!?」
男は悲鳴を上げ、飛び上がった。炎が燃え上がったのはほんの一瞬だったが、勝ち誇って油断していた彼を狼狽させるのには充分だった。火は彼が身にまとっているボロの端に燃え移っていた。男は慌てて拳銃を投げ捨て、路上で跳ね回りながら、自分の体を両手で懸命にはたいて火を消そうとする。
そこへ亜矢子がダッシュした。落ちた拳銃を無我夢中で拾い上げる。
男ははっとして顔を上げた。彼が人生の最後に見たものは、全裸ですっくと立ち、こちらに向けて拳銃を構えている亜矢子の姿だった。
亜矢子は三発撃った。一発が男の顔面を貫いた。後ろ向きにひっくり返った男に向かって、さらに三発。
銃声の余韻が消えると、廃虚にはまた静寂が戻ってきた。
外には雨が降っていた。
亜矢子は動けない悟の体をひきずり、どうにかマンションの一階のロビーに運びこんだ。ここならとりあえず雨はしのげる。男の死体からひっぺがしたボロや、廃虚の中で燃え残っていた布の残骸を集めて敷き、即席のマットにした。幸い、夏の夕立なので、そんなに気温は下がらなかった。
本当ならどこかの部屋まで連れて行って、ベッドに寝かせたいのだが、亜矢子にはそれだけの体力がなかった。それに傷ついた悟をあまりひきずり回したくはなかった。少し動かすたびに、悟は苦痛にうめき、声を上げるのだ。
亜矢子には応急手当ての知識などなかった。血まみれのライディング・スーツをどうにか脱がせ、引き裂いたシャツを包帯代わりに脚のつけねに巻きつけて、下手くそな止血を試みた。
運のいいことに、銃弾は口径が小さく、きれいに貫通していたので、傷口からの出血そのものはあまり多くはなかった。細菌がいないのだから、化膿《かのう》を心配することもない。
だが、彼が二度と歩くことができず、バイクにも乗れないのは確実だった。
「ごめんなさい。私のせいで……私がわがまま言ったから……」
亜矢子は彼の横でうずくまり、泣きながら同じ謝罪の言葉を何度も何度も繰り返した。今度こそ、自分の愚かさに心底から嫌気が差していた。いつも私はこうなんだ。自分を愛してくれている人を利用し、傷つける。自分のことしか考えず、自分以外の世界が見えない。事態が取り返しのつかない段階に進行するまで、自分が間違いを犯したことに気がつかない……。
病人の横でリンゴの皮を剥くことが愛じゃない――秀幸の言葉が痛切に思い出された。苦しんでいる悟のそばにいながら、彼のために何もしてやれないことが、悔しくてたまらなかった。
「気にすることないって」悟は苦しそうに言った。「君のお願いに負けた僕も悪い。それに不注意だった。共同責任だよ……」
「でも……!」
亜矢子は身を乗り出した。
「……ごめん。あまり近づかないでくれる?」
「え?」
「君の格好、病人には刺激が強すぎる……」
男に服を引き裂かれたので、今の亜矢子は裸の上に布の残骸を巻きつけているだけだった。
「いつつつ!」
無理に笑おうとして、傷口に無理がかかったらしく、悟の顔はひきつった。涙がぼろぼろこぼれる。
「……参ったなあ、ちくしょう」悟は泣きながらひくひくと笑った。「理想的なシチュエーションなのになあ……目論見《もくろみ》が完全にはずれちゃったよ」
「目論見?」
「そう、目論見」
悟は少しためらってから、思いきって本音をぶちまけた。
「……僕さ、君とエッチがしたかったんだ」
「え?」
「エッチがしたかったんだよ。女の子とまだしたことなかったから――でも、無理に襲うのは嫌だった。僕の方から誘って、断わられるのも嫌だった。君の方が僕を好きになって、僕に近づいてきて、自然に結ばれる……そういう展開が理想だったんだよね」
「…………」
「だから君を守ったんだ。マンガの主人公みたいに、僕が悪人どもから君を守って、かっこよく戦うところを見せれば、君は自然に僕を好きになってくれる――そういう下心があったんだ」
悟は恥ずかしそうに目を閉じ、苦笑した。
「馬鹿だよね、まったく。我ながら、ほんとに馬鹿。自分がそんなにかっこいいわきゃないのに……」
亜矢子はかぶりを振った。
「そんなことない――あなた、かっこよかったわ」
「いや、僕はかっこ悪いよ」
悟は顔をそむけた。亜矢子に顔を見られるのが嫌なのだろう。
「……僕さ、学校でいじめられっ子だったんだ」
「え?」
亜矢子は困惑した。バイクを乗り回す活動的な悟の姿と、「いじめられっ子」という言葉から連想されるイメージは、どうにも重ならない。
「何でだろうな。小学校でも中学校でもいじめられてた。何度クラス替えしても、必ず僕がターゲットになるんだよな。いじめを誘発するフェロモンみたいなものでも出てんのかもしれないな」
悟は合間に何度も自嘲しながら、自分の体験を亜矢子に語った。
何度も陰湿ないじめを受けるうち、彼はノイローゼのようになり、ついには登校拒否をするようになった。中学の卒業式にも出ていない。だから高校には最初から行かなかった。その代わり、新聞配達のバイトでもして稼ぐと宣言して、親に五〇∝のバイクを買ってもらった。本当は二五〇∝が欲しかったのだが。
バイクで走り回り、うさを晴らす一方で、彼は図書館に熱心に通い、ありとあらゆる本を読んで、独学で知識を吸収した。もともと勉強が好きだったこともあったが、ひねくれて遊び歩いているだけの馬鹿な子供と見られるのが嫌だったからだ。
すべてが憎かった。学校も、同級生も、教師も、親も――いや、この社会というシステムそのものに対し、言葉にならない怒りをたぎらせていた。なぜ学校に通わなければならないのか。なぜ会社に勤めなくてはならないのか。なぜこんな窮屈な枠組に拘束され、退屈な人生を送らなくてはならないのか……?
いや、本当に憎かったのは自分自身かもしれない。自分が平凡な学生生活を送り、平凡なサラリーマンになり、平凡に年老いてゆくことが、たまらなく嫌だった。人とは違うかっこいい生き方をしたかった。だが、その才能が自分にないことも理解してきた。アイドルになれるほど顔は良くないし、スポーツ選手になれるほど運動神経は良くないし、マンガ家になれるほど絵はうまくないし、科学者になれるほど頭は良くない……。
人であふれかえった騒々しい街をバイクで走りながら、彼はいつも夢想していた。核戦争か疫病か何かで人類が滅びて、自分だけが生き残ったら、きっと楽しいだろう。もう学校に行く必要はない。将来の進路で悩むこともない。無人の街をバイクで思いっきりすっ飛ばしてやろう。いや、一人だけでは空しすぎる。バックシートに誰かかわいい女の子を乗せて……。
だから、あの異変が起きた時、悟は自分の願望が現実化したかと思った。最初は驚き、恐怖したが、じきに有頂天になった。ずっと以前から、崩壊した世界で生きることを夢想していた彼は、誰よりも早く異変に順応できたのだ。欲しかった二五〇∝のバイクが運良く「落ちていた」ので、すぐに自分のものにして乗り回した。あとはバックシートに乗せる女の子がいれば完璧だ……。
まさにその時、運命のように亜矢子と出会ったのだ。
ひと目惚《めぼ》れというやつだ。まさに僕にとっての「姫」だ、と悟は確信した。どんなことがあっても彼女は守り抜かねばならない。そして、絶対に彼女に嫌われるわけにはいかない。彼女と愛し合い、結ばれなくてはならない――そう固く決心した。
だから悟は、自分が優しく、有能で、勇気がある人物であるかのように振る舞った。下心を隠し、自分の真の姿を隠して、理想のヒーロー像を演じた。その演技を続ければ、いつか必ず亜矢子の心が開くと信じて……。
「そんな……無理する必要なかったのに」話を聞き終えた亜矢子は、茫然とつぶやいた。「無理にヒーローにならなくてもよかったのに」
そう、悟は無理をしていた――亜矢子が街に帰りたいと言い出した時、その願いを拒否することができなかった。断われば、自分が優しくないように思われる。あるいは彼女を守り抜く自信がないように思われる。それが恐ろしくて、無謀だと思いつつも、彼女を街に連れ帰ったのだ。
「怖かったんだよ。君に嫌われたら、僕はもう立ち直れない。それがたまらなく怖かったんだ――情けない話だろ?」そう言って悟は悲しげに苦笑した。「中学一年の時にも同じようなことがあったな。同じクラスに好きな女の子がいたのに、断わられることが恐ろしくて、アタックできなかった。ラブレターを出す勇気もなかった。そのくせ、彼女とデートしたらどこへ行くか、何をするか、みたいなシミュレーションばっかり、頭の中で展開させてたっけ……」
「その人はどうなったの?」
「僕がぐずぐずしてるうちに、別の男とくっついちやった」悟はくすくす笑った。「馬鹿だろ?」
亜矢子は優しく微笑みを返した。話を聞いているうち、悟に不思議な親近感を覚えるようになっていた。これまで自分と別の人種だと思っていた悟が、急に身近な存在に感じられるようになってきたのだ。
そう、私たちは同じタイプの人間だったんだ。
頭の中に自分だけの都合のいい世界観を築き上げている人間。周囲に広がる世界を理解しようとせず、自分の小さな世界の中だけで生きている。勝手に作り上げた理想的なシナリオに酔い、それを相手にも押しつける。相手の本当の姿を理解しようとせず、自分の本当の姿もさらけ出さない。愛を失うことを恐れ、自分を偽り、シナリオ通りに演技することしかできない。生きるのが不器用な人間なのだ。
「……ほんと、バッカみたい」亜矢子はあふれてくる涙をぬぐい、つぶやいた。「ドラマの観すぎかもね」
「マンガの読みすぎかも」と悟。
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく微笑み合った。
出会ったあの夜以来、二人は初めて同じ感情を共有していた。
その夜、亜矢子は夢を見た。
以前に見たことのある夢の続きらしかった。やはりどこかつかみどころのない場所にいて、誰か分からない人物と話し合っている。その人物の顔も姿も見えなかったが、なぜか途方もなく大きな存在であるように思われた。
どうしてなの?――亜矢子は訊ねた。どうして、私たちはこんなに苦しまなくてはならないの?
それはお前たちが選択したことだ、と声は答えた。
選択?
そうだ。お前は「イエス」を選択した。だから今、そこにいるのだ。
すべての生命には、原始的なものから高等なものまで、すべて何らかの形の意志がある。分裂し、増殖することを望む細菌の意志。光を求める植物の意志。生き残って子孫を残そうとする動物の意志――そして、高等な概念を操り、文明を築く人間の意志。
同時に、すべての生命はその感覚によって世界を認識する。光、音、匂い、味、感触、振動、熱、圧力……それらの形で外界から流れこんだ様々な情報は、分類され、処理され、組み立てられて、その生物にとっての世界観を構成する。生物が見ているものは世界そのものではなく、おのれの意志の一部、周囲のスクリーンに自分自身が投影した小さな世界観なのだ。
個々の生物の世界観は、その周囲のごく限られた範囲にのみ投影されている。だが、接近した世界観は互いに重なり合う。そして地球の生物界全体として、巨大な世界観を構成する。脳細胞が集まって脳を構成するように、あるいは微細な点が集まって絵を構成するように、地球上のすべての生命の意志は、その世界観を通して浸透し合い、「地球意志」とでも呼ぶべきものを形成する。
無論、意志のあり方が異なるかぎり、世界観の細部には矛盾がある。カモシカを食いたいというライオンの意志。ライオンから逃れたいと願うカモシカの意志。だが、そうした矛盾は局所的で些細なものにすぎず、世界そのものには影響がない。それどころか、そうした矛盾する意志のせめぎ合いこそが、地球意志のバランスを保ち、生態系の調和のとれた進化をうながしてきたのだ。
地球の生命圏は、四〇億年前に誕生して以来、バランスを保ちつつ進化してきた。すべての生命の意志の総和である地球意志が、生命たちの進むべき道を決定し、より高度な段階へと導いてきたからだ。
だが、ここに至って、地球意志は大いなる危機に直面した。世界の進路そのものに密接に関わる、ある奇妙な意志が芽生えたのだ。それは安定と繁栄を望む従来の生命のあり方とは、根本的に矛盾するものであった。その矛盾はあまりにも大きく、ひとつの世界の中で、従来の世界観とその異質な世界観は共存できなかった。放置しておけば、それは地球意志の調和を乱し、崩壊の危機を招く。
崩壊を防ぐ方法はただひとつ、世界を二つに分けることだった。その異質な意志たちの世界を、従来の世界から分離するのだ。
そこでワタシは、地球上のすべての生命に選択を迫った。
イエスか、ノーか。
望むか、望まざるか。
選択の機会はただ一度のみ。保留はできない。やり直しもできない。熟慮のうえ、どちらか一方を選ぶのだ。
すべての原核生物、すべての単細胞生物、すべての原生動物は、その本能により「ノー」を選択した。
すべての真菌、すべての植物も「ノー」を選択した。
すべての無脊椎《むせきつい》動物も「ノー」を選択した。
すべての魚類、すべての両生類、すべての爬虫類《はちゅうるい》、すべての鳥類、そしてほとんどの哺乳類《ほにゅうるい》も「ノー」を選択した。
人類の大半も「ノー」を選択した。
お前たちだけが違う選択をした。地球上のすべての生命の中で、お前たちだけはこう答えたのだ。
「イエス。世界の破滅を望む」と。
選択はなされた。ワタシは世界を二つに分離した。破滅を望んだ者たちの世界と、望まなかった者たちの世界とに。矛盾は解消された。その瞬間より、二つの世界は異なるコースを歩みはじめた。二度と交差することはない。
ああ、そうか――亜矢子はようやくすべてを理解した。そして、なぜ自分が「イエス」を選択したかも思い出した。
あの夜――秀幸に別れを告げられた夜、彼女は絶望に苛まれ、泣きながら眠りに落ちたのだった。その悲しみはあまりにも深く、夢の中さえも支配していた。彼女は自分を捨てた秀幸を憎み、愚かだった自分を憎み、世界のすべてを憎んだ。
彼女は自暴自棄になっていた。明日も、その次の日も、さらにその次の日も世界が何事もなく続き、この胸が悲嘆に焦がされ続けることが耐えられなかった。
そして、こう願ったのだ――「世界なんか滅びてしまえ」と。
目が覚めても夢の内容は覚えていた。亜矢子は自分が見た夢を悟に話した。悟は真剣に聞いていた。
「なるほどね。夢なんてたいてい忘れてしまうから、覚えていないけど、僕もあの前の晩、同じ夢を見たのかもしれないな」
「信じる?」
「ああ、筋は通ってる。ハルマゲドン、大洪水、ノストラダムスの予言……そういったものを信じて、世界が破滅する日を心の中で待ち望んでいた人たちだけが、他の世界に移されたってわけか」
「そうなの。みんな、消えてなんかいなかったんだわ。世界から消えたのは私たちの方だったのよ」
そう、みんな生きている。両親も、友人たちも、そして秀幸も――「ノー」を選択したすべての者は、もうひとつの世界で変わりなく生きているに違いない。もうひとつの世界は安定し、これからも繁栄を続けるに違いない。
「つまり、自業自得ってわけだな?」
「ええ、馬鹿な選択をしたと思うわ」
二人の間に重い沈黙が降りた。あの声が告げたことが正しいとすれば、二つの世界は二度と交差することはない。選択はただ一度きりで、やり直しはできない。元の世界にはもう決して戻れない。
二人はこの滅びゆく世界で、朽ち果ててゆくしかないのだ。
「……でも、間違っていたとは言えないかも」
「どうして?」
「だって、『イエス』を選択しなかったら、僕は君と出会ってなかったんだから。失敗はあったけど、少なくともこの一〇日間、僕は楽しかった……」
そう言って、悟は大きなため息をついた。亜矢子に向き直り、優しく微笑みかける。
「でも、もういいよ。君は行きなよ」
「え?」
「こんなとこでぐずぐずしてちゃいけない。早くどこかに逃げるんだ。このあたりは放射能でいっぱいなんだから」
「でも、あなたは……?」
「僕は見ての通り、動けない。君一人で行くしかないじゃないか」
「だって……」
「行けよ。僕はもう、君を縛りつけたくない。君は自由だ。どこへでも好きなところへ行けばいいよ」
亜矢子は外に目をやった。夜はしらじらと明け、廃虚に朝が訪れていた。小鳥の声ひとつ聞こえず、動くものひとつない死の静寂――そこには目に見えない放射線が充満しているのだ。
どこへでも好きなところへ行け? いったいどこへ行けというのだろう。もうどこにも行くべき場所などない。
「……ねえ」亜矢子は訊ねた。「放射能で死ぬのって、どれぐらいかかるの?」
「さあね。濃度にもよるから、よく分かんないよ。一週間か、一月か……もうちょっとかかるかも」
「なあんだ」亜矢子は顔を輝かせた。「だったら、充分すぎるほどあるじゃない」
「何が?」
「時間よ。最初からじっくりやり直す時間……」
悟はぽかんとした表情で、亜矢子の顔を見上げた。
「……いいの? ここにいたら死ぬんだよ?」
亜矢子は静かにかぶりを振った。
「いいのよ――どうせ、どこへ行っても死ぬんだもの。それに、もう一人はいや。自分だけの世界で生きるのはいや。誰かと同じ世界で生きたいの……」
そう言って亜矢子は、寝ている悟の上にかがみこみ、そっと唇を重ねた。悟は最初はどぎまぎしていたが、やがてぎこちなく腕を伸ばし、彼女の肩に回した。
やがて唇を離すと、亜矢子は限りない優しさをこめて少年に語りかけた。
「まず、あなたのことをもっと聞かせて。好きなもの、嫌いなもの、どんなふうに生きてきて、何を考えてきたのか。それから、私の話を聞いて。何もかも全部。時間はたっぷりあるんだから。それでもまだ時間が余ったら――そうね、あなたの脚の傷が少し良くなったら、エッチもしましょうよ」
「いいね」悟は微笑み、涙を流した。「素敵だよ。理想的な展開だね……」
「でしょ?」
二人はもう一度キスをし、頬を寄せ合った。
「そうだなあ、何から話そうか……」
時間はまだ充分すぎるほどあるのだった。
「あの不可解な集団消失事件が起きて、明日でちょうど一月になります」
キャスターが午後のニュースを淡々と読み上げていた。
「これまでに世界各地から寄せられた報告を総合すると、消失した人の総数は、約一四〇〇万人と推定されています。日本やアメリカなど、いくつかの先進諸国に集中して起きていること、ある種のカルト教団の信者などがまとまって消えていることなどから、消えた人々には何らかの共通した要素があるのではないかと推測されていますが、その原因など、詳しいことはまったく分かっていません。この事件に関連して、本日、政府は――」
JR渋谷《しぶや》駅・ハチ公前。ビルの壁面の大型テレビがニュースを流していたが、スクランブル交差点で信号待ちをしている何百人もの群衆の中で、それを見上げている者は数少ない。
確かに事件自体は衝撃的だったし、原因が分からないことに誰もが不安を覚えていたが、差し迫った危機感というものはない。日本人の五〇〇人に一人がいなくなったぐらいでは、社会全体に大きな影響はありはしないのだ。阪神・淡路大震災を上回る惨事のはずなのに、社会が意外なほど平静なのも、そのせいだろう。
「また彼女のこと、考えてるの?」
信号が変わるのを待っている間、ぼんやりと大型テレビを見上げていた秀幸は、沙希に声をかけられ、はっとなった。
「あっ、ごめん」
信号が青に変わった。群衆はどっと交差点にあふれ出す。秀幸と沙希も腕を組んだまま、センター街の方向へ歩き出した。
「まだ自分のせいだと思ってるの? 彼女が消えたの」
「うん……」秀幸は表情を曇らせた。「よく分からないけど、そんな気がしてしょうがないんだ。俺があいつを捨てなかったら、あいつは消えなかったんじゃないかって……」
「でも、人が消えた原因って、まだ分かってないのよ」
「そりゃそうだけどさ……」
自分のせいではない。あれは宇宙的な災害か何かで、自分とは無関係だ――そう思いたかったが、秀幸にはどうしても割りきれなかった。理由はどうあれ、亜矢子を捨てたという事実は、罪の意識となって彼の心にわだかまっていた。
お前は嫌いじゃなかったよ、亜矢子。お前は確かに理想的な女じゃなかったけど、少なくとも悪い奴じゃなかったよ。もし沙希が現われなかったら、あのままずっと関係を続けていられたかもしれない。少しぐらいの欠点になんか目をつぶって、幸せな恋愛ごっこを続けていられたかもしれない。でも、沙希が現われ、俺の心は沙希に傾いた。俺はどうしても自分の心に嘘はつけなかったんだ……。
「じゃあ、私を選んだことは間違いだったと思う? 私を無視して、亜矢子さんとつき合い続けた方が良かったと思う?」
ちょっとだけためらってから、秀幸は答えた。
「いいや――間違いじゃなかったと思う。もう一度、同じ選択をやり直せたとしても、やっぱり俺はお前を選んでたよ」
「だったら」沙希の声ははずんだ。「悔んだってしかたないじゃない。あなたには他にどうすることもできなかったんだから」
「そうかもしれないけど――」
「人間はね」沙希は秀幸の言葉をさえぎった。「人生の中でいろんな選択をしなきゃならないのよ。迷路の中を歩いてるみたいに、どこかの角をひとつ曲がったり、曲がらなかったりするだけで、ぜんぜん違う方向に進んでしまうの。迷路と違うのは、後戻りができないってことね。だから、ひとたび自分の選んだ道は、進み続けるしかないのよ。どんなに苦しくてもね」
秀幸は感心した。「お前って、哲学者だなあ」
「頭のいい女は嫌い?」
「いいや、好きだよ」
そう言って秀幸は、沙希の肩を抱き寄せた。だが、それでも心の片隅には、まだ亜矢子のことがわだかまっていた。センター街の派手な看板の上に広がる秋の空を見上げ、彼は亜矢子の消息に思いを馳《は》せた。
亜矢子――もしどこかで生きているなら、幸せになってくれているだろうか。
地球は回り、太陽の光に育《はぐく》まれて、生命圏は繁栄を続ける。人類のちゃちな文明は、これからもうしばらくは存続するだろう。大いなる地球意志の下で、生命は進化を続けるだろう。
破滅はあと一〇億年は訪れそうにない。
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参考資料
ルーマニア民話「アラプスカ姫」の一節は、山室静編著『新編世界むかし話集5 東欧・古代編』(社会思想社)から引用させていただきました。
初出一覧
闇が落ちる前に、もう一度……書き下ろし
屋上にいるもの……書き下ろし
時分割の地獄……「S・Fマガジン」二〇〇四年四月号
夜の顔……書き下ろし
審判の日……書き下ろし
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底本
角川書店
審判《しんぱん》の日《ひ》
平成十六年八月三十一日 初版発行
著者――山本《やまもと》弘《ひろし》