妖魔夜行 私は十代の蜘蛛女だった
山本弘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)魔神古寺《まかみこじ》シャロン氏
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)妖怪|蜘蛛女《くもおんな》》
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(例)[#改ページ]
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目次
第一話  私は十代の蜘蛛女《くもおんな》だった
I was a Teenage Spider Woman
第二話  ロックンロール蜘蛛女《くもおんな》VSハイテク・ミイラ
Rock'N'Roll Spider Woman vs. The High-tech Mummy
第三話  私は緑の地獄から来た怪物と結婚した
I Married A Monster From Green Hell
妖怪ファイル
あとがき
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第一話  私は十代の蜘蛛《くもおんな》女だった
I was a Teenage Spider Woman
1.ちょっぴり不吉な朝だった
2.あたしと同じカツカレー
3.思いがけない大災難
4.そんなのちっとも聞いてない!
5.ちょっとは驚いてほしいのに
6.この父にしてこの母あり
7.どうして? いきなり大事件
8.ヒーローになんかなりたくない!
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1 ちょっぴり不吉な朝だった
ある朝、エッチな夢から目覚めると、あたし(穂月《ほづき》湧《ゆう》・16歳)はベッドの上で巨大な毒蜘蛛《どくぐも》になっている自分を発見した。
「ん……何、これ……?」
ベッドに片|肘《ひじ》をついて上半身を起こし、まだ焦点のよく定まらない目をこすって、自分の体を見下ろした。まだ日の出には間があって、カーテンの外は暗いけれど、闇《やみ》に包まれているはずの室内を、なぜかはっきりと見ることができた。
あたしはベッドに仰向《あおむ》けに横たわっていた。シーツが横にはねのけられ、醜く変形した下半身が露出している。へそから下は針のように固い毛でびっしり覆われていた。尻《しり》は大きく膨れ上がって、長さ一メートルはある巨大な柿の種のような形になっている。先端が錐《きり》のように尖《とが》った細長い脚が八本、空中でなまめかしくもがいている様子は、まるで天井にいる誰《だれ》かに向かっておいでおいでをしているようだ。
「うっ……ひどい夢……」
あたしはうめき、思わず目を閉じた。小さい頃から勝気な性格で、ゴキブリもナメクジも平気だけど、なぜか蜘蛛だけは苦手なのだ。蜘蛛の出てくる悪夢もちょくちょく見るけど、こんな悪趣味なのは初めてだった。
「あー、やだやだ。寝直そ……」
そう言うと、あたしはシーツを頭からひっかぶった。ほどなく、安らぎに満ちた眠りがあたしを包みこんだ……。
「ギャオー、ギャオー……」
恐竜の吠《ほ》える声で目が覚めた。いつもより少し騒がしい気がする。
「ん……」
ピンクのトリケラトプス型の目覚し時計の角のボタンを叩《たた》いて声を止めると、あたしはベッドの上に起き上がり、いつものように大きく伸びをした。今日は月曜日、時刻は午前七時三〇分。また平凡な高校生の一週間がはじまるのだ。
「あーあ、変な夢見たなあ……」
短い髪をぽりぽりとかきながら、あたしはぼやいた。
前半はいい夢だった――あたしは古代の秘宝を探し求める探検家で、アマゾンかどこかのジャングルを一人で歩き回っていた(昨夜、父さんといっしょに見た『ロマンシング・ストーン』の影響らしい)。泥沼を歩き続けて体が泥だらけなのが気になっていたら、ジャングルの奥地に露天風呂《ろてんぶろ》があったんで、これ幸いと服を脱いで飛びこんだ(これはその前に見た『日曜バラエティ/きわめつけ! アイドルがめぐる日本全国究極の秘湯の旅』の影響らしい)。すると、湯気の向こうから誰かが近づいてくる気配がした。それは憧《あこが》れの三条院《さんじょういん》和也《かずや》先輩だった。もちろんお風呂の中だから二人とも生まれたままの姿。三条院さんはあたしに「前から君のことを気にかけていたんだ」などと告白し、二人はごく自然に抱き合って……。
「きゃはー!」
あまりの恥ずかしさに、あたしはマンボウの形の枕《まくら》を抱きしめ、ベッドの上で身悶《みもだ》えした。少しだけエッチな夢というのは見たことあったけど、あそこまできわどい夢を見たのは生まれて初めてだった。自分の潜在意識にあんなすごい想像力があったなんて! これが思春期ってやつかしらん。
でも、その後がまずい――どうせなら最後まで行けばいいのに、なぜか急に蜘蛛になっちゃうんだもの。いくら夢に脈絡がないからといって、あれはひどすぎる。
「ま、プラスマイナス・ゼロかなあ……」
あたしはそう言って自分を納得させた。蜘蛛の夢は最低だったけど、その前の三条院さんの夢はすごく儲《もう》けものだった。その点に関しては、自分の潜在意識のサービス精神に感謝したかった。
「さて、と……ん?」
制服に着替えようとして、あたしは妙なことに気がついた。
あたしの部屋にはクーラーがついてない。夏場は暑苦しいので、パンツ一枚の上にTシャツを着ただけの格好で寝ている。寝相はいくらか――いや、かなり悪い方だけど、二階だから痴漢に覗《のぞ》かれる心配はない。
今、あたしはTシャツを着ている。でも、パンツが見当たらない。下半身すっぽんぽん状態。
「やだ……寝ながら脱いだのかな」
エッチな夢を見ている間、無意識のうちにパンツを脱いでいたことは充分に考えられる。あたしはどぎまぎしながらも、ベッドの周囲を探した。
パンツはベッドの脇《わき》に落ちていた。
「げっ! 何これ……?」
あたしはそれをつまみ上げ、顔をしかめた。パンツはずたずたに引き裂かれ、細長い布きれと化していた――いったいどうすりゃこんな風に破れるんだろ?
深く考えてる時間はない。あたしはそれをゴミ箱に放りこむと、タンスの中から新しいパンツを引っ張り出して穿《は》いた。
やけに騒々しい朝だった。外で道路工事でもやってんのかな。
あくびを連発しながらトイレに行き、身だしなみを整え、コーヒーとトーストを食べる。父さんはまだ起きていない。大学の助教授なんだけど、出勤するのはいつも九時頃からだ。夜遅くまで書斎で仕事をしていて、あたしが出かけてから起き出すもんだから、朝はめったに顔を合わせない。
父さんが大学でどんな仕事をしてるのか、実はよく知らない。専門は民俗学だそうだけど、授業にはあまり熱を入れていないらしい。それでもいちおうは給料分の仕事をこなしながら、その傍《かたわ》らに自分の趣味の研究をやっている――研究テーマは『妖怪《ようかい》伝説の真実と虚構』。
「いずれ本を書いて荒俣《あらまた》宏《ひろし》みたいに有名になってやるぞ」
が口癖だけど、あたしはあまり期待していない。その本がどんなに売れたって、これまでに父さんが「研究のため」と称して注ぎこんだお金には、とうてい追いつかないと思う。四畳半の書庫いっぱいに買い集めた古本(あたしにはカビ臭い紙屑《かみくず》の山にしか見えないんだけど)の総額は、たぶん何百万円にもなるはずだから。
トーストにかぶりつきながら、冷蔵庫にマグネットで貼《は》ってある当番表を確認する。今日はあたしが夕食を作る日だ。冷蔵庫の中はほとんど空のはずだから、帰りに夕食の材料を買って来なくっちゃ。
五年前に離婚して、父と娘の二人きりで暮らしてる――と説明すると、たいていの人は同情の視線を向けてくる。でも、あたしはそんなにたいしたことだとは思ってない。昭和の時代からまだしも、今じゃ離婚なんて珍しくもないんだし。
もちろん、小学校五年の多感な時期だったから、ぜんぜんショックを受けなかったと言えば嘘《うそ》になる。しばらくは精神的に落ちこみもした。でも、根っから楽天的な性格なもんだから、そんな時期はすぐに乗り越えてしまった。「別れちまったんだからしょーがねえ」ってな感じ。母親がいなくなったからと言ったって、死んだわけじゃないんだし、げんに今も二月に一回ぐらいは会っている。
父さんと母さんのどっちにつくかは、ずいぶん迷った――と言っても、どっちを深く愛してるか、なんて深刻なことじゃない。あたしが悩んだのは、浮世離れした研究に没頭して御先祖様の遺産を食い潰《つぶ》してる父親と、ノンフィクション・ライターの仕事に夢中で家事をぜんぜんやらない母親、どっちと暮らした方がましか、という問題だった。
似た者夫婦、という言葉があるけど、ダメなところまで似てるんじゃ、うまく行くわけないよね。
結局、父さんの方を選んだのは、母さんの実家が栃木《とちぎ》県の田舎《いなか》町だったからだ。二度ほど行ったことがあるけど、トイレがまだ水洗じゃないとか、バスが一時間に一本しか通らないとか、テレビ東京が映らないといった欠点を無視しても、やはりあたしには暮らせそうにない土地だと思った――裏が山で、蜘蛛が多いのだ。
あと、父さんの家の方が貯金がいっぱいあって、生活が楽そうだったということもある。穂月家はこの地方に代々住んでいて、江戸時代は裕福なお侍《さむらい》だったんだそうだ。高級住宅地にあるこの六〇坪の庭つき一戸建ての家は、御先祖様の遺産というわけだ――父さんの代になって、かなり減っちゃったけど。
もちろん、親子二人きりの生活じゃ、食事の支度とか、掃除とか、買い物とか、洗濯とか、やらなくちゃならないことがいっぱいある。でも、母さんについて行っても苦労は似たようなものだったと思うし、たいして後悔はしていない。
おっと、そろそろ時間を気にしなくちゃいけない――あたしはリモコンを手に取り、テレビのスイッチを入れた。
画面にアナウンサーの顔が現われた。
「……一連の無差別爆破事件の犯人グループは、依然、都内に潜伏中と思われ、警視庁はいっそうの警戒を……」
声がやけに大きかった。あたしは慌ててボリュームを絞った。
「んん?」
あたしは首を傾《かし》げた。起きてからずっと、異世界に迷いこんだような妙な違和感がつきまとってたんだけど、ようやくその正体が分かったのだ。
昔がみんな大きく聞こえる。
普段はあまり気にならない冷蔵庫のモーター音が、やけにはっきりと聞こえていた。外を通る車の音もだ。そう言えば、トイレの水洗の音も妙に大きく響いていた……。
あたしは確かめてみようと思った。リモコンを操作し、テレビのボリュームを少しずつ下げてゆく。いつもなら15から20ぐらいの音量にしてるんだけど、8、7、6……と下げていっても、まだ聞き取れる。
最低の1まで下げても、アナウンサーの声ははっきり聞こえた。
「何よ……これ?」
あたしはちょっと気味が悪くなった。頭をこんこんと叩《たた》いてみる――テレビの故障じゃないんだから、叩いたって治るわけないんだけど。
だいたい、音が大きく聞こえるようになる病気なんて、聞いたことがない。
あたしは混乱して、しばらく茫然《ぼうぜん》となっていたらしい。気がつくと、画面の隅に出ている時刻が「8:08」になっていた。
「やば! 遅刻する」
あたしはカバンをひっつかむと、慌てて玄関に走った。
2 あたしと同じカツカレー
外に出たら騒音でうるさくてしょうがないんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。車のエンジン音、通行人の足音、空を横切る飛行機の爆音なんかが、確かにいつもより大きく聞こえたけど、耳が痛いほどじゃない。意識しなければぜんぜん気にならなかった。
走ったおかげで、何とかいつものバスに乗り遅れずに済んだ。
満員のバスの中にもいろんな音が充満していた。床を震わせるエンジン音、テープに録音されたアナウンスの声、乗客の話し声、吊《つ》り革が鉄棒をこする音、停車を知らせるブザー、料金箱に小銭が投げこまれる音……普段こんなにいろいろな音に囲まれてたのかと、あたしはあらためて驚いた。
さらに驚いたのは、敏感になったのが聴覚だけじゃないということだった。
バスにはあたしと同じく、通学途中の学生がたくさん乗っていた。その体が周囲からぎゅうぎゅう押しつけられてくる――その体温や心音が、服を通してもはっきりと感じ取れるのだ。まるでオーケストラの真ん中に立っているようだった。
女の子はまだしも、隣に立っている見知らぬ男子生徒の心音がはっきり感じられたのは、ちょっとどぎまぎした。全身が聴診器になったみたいだ。
もしかして、これって性の目覚めってやつだろうか――あたしは昨夜の夢を思い出し、そんなことを考えた。性に目覚めた人間は感覚も鋭くなるとか……。
でも、そんな話、あんまり聞いたことがない。
私立|大利根《おおとね》学園。
はっきり言って、学力は練馬《ねりま》区の中では最低ランク、総合評価は東京都の中でも間違いなくワースト5に入るだろう。他校の生徒にこの名前を告げると、「え〜、大利根え〜っ!?」と、露骨に蔑《さげす》んだ目で見られる。無理もない。校内暴力がよく起きていて、新聞でちょくちょく話題になるからだ。先生もみんな無気力で、少なくともあたしの在学中には改善される気配はない。
あたしの学力なら、ちょっと努力すれば、他のもっとましな高校に進むことだってできただろう。それでもあたしがこの学校に進んだのは、その「ちょっと」の努力が面倒臭かったせいもあるけど、何と言っても柔道部が強かったからだ。
小学校の頃から柔道が大好きだった。過大評価するわけじゃないけど、自分ではかなりの腕前だと思ってる。オリンピックは無理でも、全国大会ぐらいは出てみたい。
おまけに柔道部には憧《あこが》れの三条院さんもいるし……。
夢の内容を思い出し、思わずデレ〜ッと下品に笑ってしまってから、今が授業中であることを思い出した。慌てて表情を固くし、周囲を見回す。数学の教師は黒板に三角関数の公式を書いている。クラスメートの七割は真面目《まじめ》にノートを取っていて、三割は隣の人と話をするのに夢中。あたしに注意を払っている者はいない。
良かった――あたしは胸を撫《な》で下ろした。今の超みっともない笑顔は誰《だれ》にも見られなかったらしい。
あたしは教師に注意を戻した。左手に金色のロレックスが光ってる。安月給のくせにいい時計してんな……。
教師の腕時計に意識を集中すると、たっぷり六メートルは離れてるはずなのに、チクタクという秒針の音がかすかに聞こえた。朝から変なことの連続だけど、聴覚の異常に関しては少し慣れてきた。特定の音源に顔を向け、意識を集中すると、それが何倍もはっきりと聞こえるのだ。
耳が指向性マイクになってる――うまく説明できないけど、そんな感じだった。
耳が悪くなったんなら一大事だけど、性能が良くなったんなら、たいして気にすることはないや――あたしはそう楽天的に考えることにした。今はそれより、勉強に集中しなくっちゃ。
黒板の公式を書き写そうとして、シャーペンの芯《しん》が切れていることに気づいた。ホルダーの中から替芯を取り出し、シャーペンに詰め替える……。
「……ん?」
あたしは替芯をつまんでいる自分の指を見つめた。
何か銀色の糸のようなものが、人差し指の先から出てる――それは目を凝らさないと見えないほど細く、シャーペンの替芯にからみついていた。
「疳《かん》の虫……?」
あたしはつぶやいた。ひきつけを起こす子供は、指先から白い糸のようなものが出るって聞いたことがある。でも、あたしはひきつけなんか起こしたことはない。
糸の先をつまみ、引っ張ってみた。糸は何の抵抗もなくするすると伸びる――いや、指の中から引きずり出されているのだ。
五〇センチほど伸びたところで、プツリと切れた。あたしはちょっと気味悪い思いをしながら、それを床に投げ捨てた。ほんとに今日は変なことが起こる日だ。
まるで夢の続きみたい。
昼休み――
「ねえねえ、耳が敏感になる時ってある?」
学食でカツカレーを食べながら、あたしは同級生の烏丸《からすま》詩織《しおり》と河原崎《かわらざき》亜紀《あき》に訊ねた。二人はきょとんとした目であたしを見る。
「そりゃまあ、耳を触られたら感じるけどさあ……」と亜紀。
「そーゆーんじゃなく! 音がよく聞こえるようになることよ」
「音が?」
「そう。今朝から何だかものすごくよく聞こえるの」
「耳掃除したからじゃない?」詩織が混ぜっかえす。
「あのねえ……」
「小学校の時、いたのよ。同じクラスの子でさ。耳の検査の時、耳の穴を覗《のぞ》きこんだお医者さんが、『うむ、これはひどい』とか言って、耳かきでほじくったの。そしたら中指の爪《つめ》ぐらいの大きさの耳くそが出てきて――」
あたしはカレーを食べる手を止め、顔をしかめた。「食事中はやめて――」
「あ、ごめん――でも、実際にあるらしいよ。難聴だと思ってたら、実は耳に何か詰まってただけだってことがさ」
「そーゆーんじゃないと思うな――今朝は耳掃除なんかしてないし」
「じゃあ心理的なもの?」と亜紀。
「……かもしれない」
「やっぱり恋かね?」
いきなり核心を突かれ、あたしは面食らった。
「あ、あ、あ、あたしはそんな……」
あたしの狼狽《ろうばい》ぶりを見て、詩織と亜紀はくすくす笑った。
「嘘《うそ》つけないねー、ゆーちゃん」
「う……」
「ほら、あの人じゃないの? 柔道部の先輩の――」
亜紀がきつねうどんの油揚げをつまんだ箸《はし》で、あたしの後ろを指した。あたしは驚いて振り返った。
いた――あたしの背後、距離約一〇メートル。食堂の端に三条院さんが座って、あたしと同じカツカレーを食べている。
かっこいい――典型的なスポーツマン・タイプで、そのくせ顔にはちょっぴり幼さが残っていて、そこがまた女の子の胸をきゅんと刺激する。柔道部員というと性格が荒っぽそうに思えるけど、そんなことはない。三条院さんは女の子にとても優しいし、練習中も下級生に対して決して汚い言葉は使わない。まさに理想の男性だ。
その三条院さんが、あたしと同じカツカレーを食べている……。
「……どうして分かったの?」
亜紀たちの方に向き直ったあたしの顔は、きっと真っ赤だったと思う。
「どうしてって……適当に言ってみただけなんだけど」亜紀が驚く。「え、ほんとにそうだったの、ゆーちゃん?」
しまった、ハメられた。
「意外だねえ。あーいうのがゆーちゃんのタイプ?」詩織も驚きを隠せない。
「あーいうのってどういうことよ?」あたしは小声で抗議した。「あの人、かっこいいじゃない!」
「いや、かっこいいのは認めるよ。あたしもかっこいいって思うもん――でもさ、ゆーちゃんって、ほら、ユニークじゃない?」
「ユニーク……」
「だからさ、男の子の好みもきっとひねくれてるんだと思ってたの。だから、当たり前すぎて、かえって驚いてる」
「……絞めたろか、おのれは」
「あはは、冗談冗談」
詩織は笑ってごまかしたけど、あたしは内心ちょっぴり傷ついていた。そうか、あたしってそんなに「ユニーク」って思われてるのか――やっぱり女だてらに柔道みたいなスポーツをやってると、そう思われるのかなあ? 自分ではごく普通の女の子のつもりなんだけど……。
「でも、あの隣にいる女の人、誰だろ?」
亜紀がそう言ったので、あたしはまた振り返った。
さっきは人の頭で見えなかったけど、三条院さんの隣に、知らない女生徒が座っていた。ちょっと大人っぽい雰囲気からすると三年生だろうか? 二人は何だか親しそうに話をしてる。
「あれって放送部の部長の平林《ひらばやし》さんだよ。タレント志望で、どこかの雑誌のモデルになったこともあるって」
詩織がすかさず解説する。彼女の情報量は並じゃない。
「怪しいんじゃない、あの二人……?」
「何話してんだろね?」
亜紀たちに言われるまでもない。あたしは即座に耳の感度を上げていた。一〇メートル離れた二人の会話が、すぐ隣にいるようにはっきりと聞こえる。
「……いや、危ないことはないですよ。きちんと受け身の練習さえしておけば、投げられたって、たいして痛くありません」
「そうなんですか?」
「ええ。見た目よりずっと安全なスポーツですよ、柔道は」
「でも、テレビで見てるとすごくって……今度、本物も見てみたいんですけど」
「いいですよ」
「じゃあ一度、ビデオとマイク持って、部活にお邪魔します」
あたしはほっとした。そんなに親しい関係じゃないみたいだ。
「怪しい話じゃないよ。放送部の取材の打ち合わせしてるだけだよ」
あたしがそう説明すると、亜紀と詩織はあっけに取られた。
「何でそんなこと、分かるのよ? この距離から……」
「だって聞こえたもん――言ったでしょ? あたし、今日は耳がいいの」
「またまたあ!」
二人に笑われ、あたしは肩をすくめた。まあ、分かってもらえなくたって、いっこうにかまわないけど。
この能力は秘密にしといた方がいいかもしれないな、とあたしは思った――遠くにいる人間の会話を自由に盗み聴きできると知れたら、周囲からどんな誤解を受けるか分かったもんじゃない。
それにあたし自身、盗み聴きはあまりいいことだとは思えなかった。たぶん誰《だれ》でもそうだと思うけど、親しい友人との間では、汚い言葉を使ったり、きわどい話題を口にすることがよくある。三条院さんのそうしたプライベートな面を耳にして、彼に対するイメージが壊れるのがこわかった。
我ながら純真だなあ、うん。
3 思いがけない大災難
その日の変な出来事は、それで終わりじゃなかった。
月曜日には柔道部の部活はない。学校からの帰り、あたしは夕食の材料を買うのに、スーパーマーケットに立ち寄った。亜紀と詩織も今日発売の週刊誌を買うとかで、いっしょについてきた。
あたしはスーパーの入口に立った――でも自動ドアが開かない。
「何やってんの、ゆーちゃん?」
ドアの前で立ちすくんでるあたしに、亜紀が後ろから声をかける。
「いや、このドアがね……」
「ドア?」
亜紀があたしの横に立つと、ドアはすぐに開いた。
「ドアがどうしたのよ?」
「あら……?」
あたしは首をひねりながら、店内に足を踏み入れた。その時は、それほど不思議だとは思わなかった。
ピーマン二パック、豚ひき肉二〇〇グラム、お豆腐《とうふ》一丁、それにコーラのペットボトルを買って、店の外に出ようとした時、それは起こった。
今度は詩織と亜紀が先に歩いていた。二人は自動ドアを通って外に出た。あたしはごく自然にその後に続いた――
「どひーっ!」
あたしは悲鳴をあげた。外に出ようとしたとたん、ドアが急に閉まったのだ! あたしの肩は両側からドアにはさまれてしまった。じたばたもがくけど、ネズミ取りにかかったネズミのように身動きがとれない。
「ゆーちゃん!?」
亜紀たちが慌てて駆け戻ってくる。二人が近づいたとたん、ドアは素直に開き、あたしはサンドイッチ状態から解放された。買い物に来たおばさんたちが、あたしのぶざまな格好を見てくすくす笑っている。
「いてててて……」
「だいじょうぶ!?」
「もう! このドア、おかしいよ!」
あたしはぷんぷん腹を立てながら、その場を後にした。
おかしかったのはドアじゃなく、あたしの方だったと気がついたのは、ずっと後になってからだった。
その夜――
お豆腐にひき肉を混ぜてピーマンに詰め、フライパンで焼いていると、父さんが帰ってきた。
「あ、お帰り」
「湧、何やってんだ!?」
いつもは脳天気な父さんの口調に、今日はただならぬものが感じられた。
「何って……晩ご飯作ってるんだけど?」
「そうじゃない! 何で電気をつけずに料理してるんだ!?」
「へ? 電気?」
父さんが壁のスイッチを入れると、天井の蛍光灯がばっと明るくなった。一瞬、あたしはまばゆさに目がくらんだ。
おそるおそる目を開ける。視界が真っ白に染まっていたけど、目はすぐに明るさに順応し、見慣れたダイニング・キッチンの光景が戻ってきた。どこと言って変わったところはない……。
「……父さん、もういっぺん消してみて」
「ん? 何でだ?」
「いや、いいから消してみてよ」
父さんは不審そうな表情を浮かべながらも、電気のスイッチを切った。
部屋の中は真っ暗になった――でも、それはほんの一瞬のこと。あたしの目はすぐに闇《やみ》に慣れて、室内にあるすべてのものがくっきりと見えた。娘の変な行動にとまどっている父さんの表情も……。
キッチンの隅の時計に目をやった。時刻は午後七時半を回っている。太陽は三〇分以上も前に沈んでいるはずだから、外はかなり暗くなっているだろう。もちろん、家の中はもっと暗いはずだ。
それなのに、あたしには明るく見える。
「……父さん、これって暗い?」
「当たり前だろ。ろくに見えんよ」
「やっぱりねえ……」
「さっきから何わけの分からんことを言ってるんだ?」
父さんはぶつくさ言いながら蛍光灯をつけた。説明すると長くなりそうなので、あたしはそれ以上何も言わず、フライパンでピーマンを焼く作業に戻った。
結局、父さんには事情を説明する機会を逸してしまった。
その晩は眠れなかった。
寝室の電気を消したけど、ぜんぜん暗くならない。カーテンの模様も、本棚に並んだ本の背表紙も、枕元《まくらもと》のトリケラトプス型目覚し時計の文字盤も、昼間と同じぐらいはっきり見えた。全体に色彩が失われて、灰色っぽく平板に見えるけど、たいして支障はない。
聴覚、触覚だけじゃなく、視覚までも異常に鋭敏になっているのは確かだった。これで後、味覚と臭覚も鋭敏になれば完璧《かんぺき》なんだろうけど、夕食を食べたかぎりでは、そんなことはないようだ。
「やっぱり思春期なのかなあ……」
あたしはつぶやいた。眠れなくなるのは大人のしるしだって、子供の頃、アニメで見たことがある――でも、これはそんなんじゃなさそうだ。
念のために明日、学校の図書室に行って、耳や目が敏感になる病気があるかどうか、調べておくことにしよう。それでも分からなかったら、眼科に相談しに行く――いや、耳鼻|咽喉《いんこう》科の方が先かな?
午前一時を回ったのに、蒸し暑さも手伝って、なかなか寝つけなかった。体温も上がってきた気がする。
「ふー、だめだこりゃ」
あたしはベッドから起き上がった。寝室を出て階段を降り、ダイニング・キッチンに向かう。冷たいものでも飲んで、火照《ほて》った体を冷やそうと思ったのだ。
コップに大量に氷をぶちこみ、コーラを注いだ。マドラーで静かにかき混ぜ、コップの表面に水滴がいっぱいつくのを待ってから、一気にあおる。よく冷えた液体が食道を流れ落ちてゆく感覚が気持ちいい。頭の芯《しん》まで冷える気がした。
「ぷはーっ」
あたしは何気なくリモコンを手に取り、テレビをつけた。見たい番組があったわけじゃなく、単なる気分転換だった……。
いきなり目に飛びこんできたのは、外人同士の濃厚なラブシーンだった。
「おお!?」
その瞬間、背筋にぞくぞくっと不思議な感触が走った。慌てて周囲を見回し、誰もいないことを確認する。父さんはまだ自分の部屋で仕事してるはずだ。あたしはどきどきしながら、念のためにボリュームを最小に落とし、聴覚の感度を最大に上げた。
「うひょお……」
あたしの口から感嘆の声が洩《も》れた。自慢じゃないけど、あたしはそういう方面は奥手なので、この手の映画って見たことがない。興味も持っていなかった。
でも、昨夜の夢のせいで、あたしの中の何かが変わっていた――一六年間も体の奥に眠っていた熱いものが、束縛を打ち破り、外に飛び出そうとあがいていた。その衝動には抵抗できなかった。
テレビの画面を見ているうち、煩悩《ぼんのう》が暴走し、妄想《もうそう》が膨れ上がっていった。あたしは目を閉じ、テレビから流れる音声に身をゆだねた。脳裏に昨夜の夢がフルカラーで再生される。自分の肩を抱き締めると、夢の中であたしを抱き締めた三条院さんの腕の感触が、克明によみがえった……。
その瞬間、あたしの中で何かがはじけた。
「どひえええええええっ!!」
あたしのすさまじい悲鳴を聞きつけて、父さんがどたどたと降りてサた。
「湧! いったい何が……!」
蛍光灯のスイッチを入れた父さんは、その場で恐怖のあまり凍りついた。目をいっぱいに見開き、ダイニングで展開している信じられない光景を網膜に焼きつけている。
恐怖のために身動きできないのは、あたしも同じだった。声を出すこともできず、視線だけで父さんに助けを求めていた。
たっぷり二〇秒間、あたしたち親子は無言で見つめ合っていた。
「父さん……」
ようやく言葉が口から出た。父さんはごくりと唾《つば》を飲みこむ。
「お前……湧か?」
「……そうらしい」
あたしはそう言ったけど、あまり自信がなかった。自分が誰なのか、何が現実なのか、さっぱり分からなくなっていた。悪夢の続きを見ているようだ。失神しそうになるのを必死にこらえながら、もう一度、勇気を奮って自分の姿を見下ろした。
あたしの下半身は毒蜘蛛《どくぐも》になっていた。
4 そんなのちっとも聞いてない!
あたしは蜘蛛が嫌いだから、蜘蛛の姿をよく観察したことはない。でも、尻《しり》が大きくて八本のグロテスクな脚を持った生物が、蜘蛛以外の何かであるはずがなかった。派手な原色の黄色と黒の縞《しま》模様に塗り分けられ、まるで踏切の遮断機のようだ。
髪の毛も長くなっていた。普段のあたしはショートカットなのに、今は腰のあたりまで伸びていて、まるで歌舞伎《かぶき》役者のかぶる鬘《かつら》のよう。
おそるおそる脚を動かしてみた。蟹《かに》の脚に毛が生えたような八本の脚は、あたしの意志の通りに曲がったり伸びたりした。そのすべてに感覚があり、神経が通っているのが分かる。動きが少しぎくしゃくしてるのは、脚を八本も同時に動かした経験がなくて(たぶん人間はみんなそうだろうけど)、とまどっているからだった。
「な、何よ、これ? いったい何なの? どうなってるのよ!?」
あたしの声は恐怖にうわずっていた。同じ変身するにしても、魔法のプリンセスとか、ウエディングドレスの花嫁とか、看護婦さんとか、ピンクの豚とかならまだしも(いや、豚も嫌だけど……)、何でよりによって蜘蛛!?
「お、落ち着け、湧! 落ち着くんだ!」
父さんはそう言ったけど、この途方もない状況で冷静さを保てる人間がいたら、お目にかかりたい。あたしはパニックの一歩手前だった。
「いやよ、こんなの! 元に戻して! 戻してよ!」
八本の脚をじたばたさせ、そう叫んだ瞬間――
元に戻っていた。
あたしは茫然《ぼうぜん》となって、ダイニングのリノリウムの床の上にへたりこんでいた。変化には一秒かそこらしかかからなかったと思う。下半身からしゅっと空気が抜けるような感覚があったかと思うと、次の瞬間、八本の脚のうちの六本が|脇腹《わきばら》に吸いこまれて消滅し、お尻も元に戻っていた。黒と黄色の縞模様の毛も消えている。
そうっと頭に手をやってみる。髪の毛は少し乱れていたけど、長さは元通りだった。
まるで悪夢を見ていたようだ。でも――
「夢……じゃなかったよね?」
あたしは父さんに確認を求めた。父さんは『サンダーバード』の人形みたいにかくかくとうなずく。
「ああ……夢じゃなかった」
「だったらいったい――」
「その前に……」父さんは手を上げて、あたしの言葉を制した。「上に行って何か穿《は》いて来なさい」
「え?……わっ!」
もう一度自分の体を見下ろしたあたしは、またしても下半身がすっぽんぽんであることに気がついた。蜘蛛に変身した時、パンツがちぎれ飛んだのだ。
「見るなー!」
あたしはTシャツの裾《すそ》をずり下ろして前を隠しながら、階段を駆け上がった。泣きたい気分だった。
一〇分後――
新しいパンツを穿き直して降りてきたあたしは、父さんに今日あった変な出来事をすべて話し終えていた。明け方に蜘蛛になった夢を見たこと(今から思えば夢じゃなかったんだけど)、耳が異常に敏感になったこと、触覚も鋭くなったこと、指から糸が出たこと、スーパーの自動ドアにはさまれたこと、闇《やみ》の中でも見えるようになったこと……。
そしてとどめに、テレビを見てたら蜘蛛女になったこと。
「ふーむ、やはり――そういうことはあるもんなんだなあ」
あたしの話を聞き終えた父さんは、納得したらしく、何度も大きくうなずいた。
「何か心当たりあるの?」
「うむ――ちょっと待ってろ」
そう言って父さんは、書庫から一冊の古い本を持ってきた。和紙を紐《ひも》で綴《と》じたもので、お茶をこぼしたような色に変色している。かなり年代物らしい。
「我が穂月家がこの土地に代々住んでいることは知ってるな?」
「うん」
「これはそのご先祖様から伝わる貴重なものだ――ほら、ここを見なさい」
父さんはそう言って、本の中ほどを開いて見せてくれた。そこに描かれた絵を見て、あたしはあっと叫んだ。
上半身が長い髪を振り乱した女、下半身が縞模様の毒蜘蛛――それはまさしく、あたしの変身した怪物だった。決して上手な絵とは言えなかったけど、細部までリアルに描かれていて、鬼気迫るものがあった。
あたしはその絵に既視感《デジャ・ビュ》を覚えた。
「この絵……何だか見たことある」
「そうだろうな。お前がまだ小さい頃に、一度見せたことがある」
「小さい頃?」
「ああ。幼稚園に入る前――四つか五つの時だったかな……」父さんは目を細め、懐かしそうに言った。「寝る前に絵本を読んでくれってせがまれたんだが、ちょうど手近に絵本がなくてな、この本の中のお話を読んで聞かせてやろうと思ったんだ。ところが、この絵を見せたとたん、お前はこわがって、火がついたように泣きだしてな。私の腕に噛《か》みついたり、おしっこを洩《も》らしたり、そりゃもう大変な騒ぎだった……」
「あ……」
あたしはようやく、自分がなぜ子供の頃から蜘蛛が大嫌いだったかという理由に思い当たった――その時の記憶が潜在意識に焼きついていたからに違いない。
「あんたね……」あたしは軽いめまいを覚えた。「小さい子供にこんな絵見せたら、トラウマになるに決まってるでしょうが!?」
「いやあ、子供はお化けの話とかが好きだし、喜ぶかなと思ったんだが……」
「喜ばん、喜ばん!」
あたしは非常識な親を持ってしまったことの不幸を呪《のろ》った。
「で、この怪物はいったい何なの?」
「横に説明が書いてあるだろうが」
確かに隣のページには筆で何か書いてあるけど、ミミズののたくったような字で、あたしにはチンプンカンプンだった。
「英語は得意なんだけど、古文は……」
「うーむ、しょうがないな」
父さんは咳払《せきばら》いをして、あたしのために本を読み上げてくれた。
「慶安二年――つまり、今から三五〇年ほど前のことだが……」
父さんの説明を要約すると、次のようになる。
その頃、穂月|格之進《かくのしん》という侍がこの地に住んでいた。ある時、格之進は村はずれで美しい娘に出会い、恋に落ちた。二人は結婚し、子供も生まれた。
そんなある日、格之進は村はずれの竹藪《たけやぶ》の中に出る妖怪《ようかい》「女郎蜘蛛《じょろうぐも》」を退治してほしいと村人に頼まれた。その妖怪は人には危害を加えないんだけど、不気味なので村人は竹薮に近づけず、竹を伐《き》り出すことができなくて困っていたのだ。蜘蛛は蜂の毒に弱いと知っていた格之進は、蜂の毒を塗った矢を持って竹薮の中に入っていった。
竹薮の中に入ってしばらくすると、彼の目の前に女郎蜘蛛が現われた。格之進は慌てず騒がず、弓に矢をつがえると、妖怪に向かって放った。矢は狙《ねら》いたがわず妖怪の脇腹に命中し、妖怪は逃げ去った。
彼が意気揚々と家に帰ってみると、妻が苦しんでいた。見ると、その脇腹に大怪我を負っていた。格之進は妖怪の正体が妻であったことを知った。
「あなたを好きになって結ばれましたが、真の姿を知られた以上、いっしょに暮らすわけには参りません。短い年月でしたが、私は幸せでございました」
そう言い残すと、妻は姿を消し、二度と戻ってくることはなかった……。
「……で、その穂月格之進と女郎蜘蛛の間に生まれた息子が、大きくなって妻を娶《めと》り、子供が生まれた――つまり、うちの家系には妖怪の血が流れていたわけだな」
「そんな話、聞いてないよ!」
「しょうがないじゃないか。説明しようとしたら、お前が泣きだしたんだから」
「子供にそんな気味の悪い話、しようとする方が悪い!」
「何を言う! 美しい恋物語じゃないか。これこそまさにメルヘンだぞ」
あたしは議論するのはあきらめた。父さんの感覚は常人と違う。蜘蛛というのは一般的に気味の悪い生物だと思われていることを、説明するだけでひと苦労だ。
「じゃあ、あたしの変身はそのせい?」
「うむ。穂月家の女子には、まれに女郎蜘珠に変身する者が現われると言われている。先祖返りというやつだな。この三五〇年間に三人の記録がある。最も新しい記録は、明治五年に生まれたりつ≠ニいう娘だ。お前で四人目というわけだな」
なるほど、感覚が鋭敏になったのも、蜘蛛なら説明がつく。蜘味は巣に獲物がかかったのを振動で感知するそうだし。
「スーパーの自動ドアが反応しなかったのも、何か関係あるのかな?」
「うむ、それこそまさに、私が以前から立てていた仮説を証明するものだ」
「仮説?」
「そうだ」父さんは得意そうに言った。「世の中には幽霊の写真やUFOの写真はたくさんある。なのに、妖怪の写真はなぜか一枚もない――なぜだか分かるか?」
あたしはかぶりを振った。「ぜーんぜん」
「結論はひとつしかない――妖怪は写真には写らないんだ」
「どうして?」
「よく分からんが、妖怪というのは現代科学とは根本的に相容《あいい》れない存在だからじゃないかな。だから人間の目には見えても、機械には反応しない。それで自動ドアの赤外線センサーもお前をとらえることができなかったんだ――分かるか?」
理解はできた――でも、納得はできない。この科学万能の世の中に妖怪がどうのこうのというナンセンスはさておくとしても、自分の身にこんな不条理な(バカバカしい)運命が襲いかかってきたことは、絶対に納得できない。納得したくない。
「……で」あたしは気を取り直して、父さんに訊ねた。「どうすれば治るの?」
「治る?」
「そうよ。どうすればこの変な体が元に戻るわけ?」
父さんは困惑した。「いや、病気じゃないんだから、治療するというわけには……」
「ぬわんですって!」あたしは興奮し、テーブルを叩いた。「これまでに変身した三人の女の人はどうなったのよ? その、りつとかいう娘さんは?」
「我が身の不幸をはかなんで自殺したそうだが……」
「じゃあ、何? あたし、一生このまんまなわけ!?」
あたしの勢いに押されて、父さんはたじたじとなった。
「いやまあ、そんなに深刻になることもないんじゃないか? 音や振動に敏感になったり、暗闇《くらやみ》で目が見えても、不便なことは何もないんだし……」
「それで慰めてるつもり?」
「それに、変身しても意志の力でいつでも元に戻れると分かったじゃないか」
「そういう問題じゃない! 人前で変身しちゃったらどうするのよ!?」
一瞬、頭の中を東スポの見出しがよぎった―― <妖怪蜘蛛女、練馬に現わる!> <好物はチョコパフェ> 。
「それにしても、一六年間も普通の女の子として暮らしてきたのに……何で急に変身しちゃったんだろ?」
「うむ。私もさっきからそれを考えていたんだが……」父さんはそう言って、ずいっと身を乗り出した。「湧、つかぬことを訊《たず》ねるが――」
「何よ、時代劇みたいに」
「親子の間だ。隠さずに正直に答えて欲しいんだが――」
「だから何よ?」
「お前、男性経験はあるか?」
沈黙。
「……いきなり何訊ねるのよ」
「だから、つかぬことを訊ねるが、と言ったじゃないか。最近の高校生は進んでると聞いたから、もしやと思ってな――どうだ? 誰《だれ》か体を許した男はいるか?」
「おらんわい!」
体を許したい人はいるけどさ……。
「じゃあ、マスターベーションの経験は――」
「ないない! そんなもん!」
「うーむ、やっぱりそうか……」
父さんは腕組みをして、うんうんと大げさにうなずいている。金田一《きんだいち》耕助《こうすけ》にでもなったつもりでいるんだろうか。
「その質問、何かこの状況に関係あるものなんでしょうね? なかったら、この場で一本背負いかますわよ!」
「おお、もちろん関係あるとも――ほら、テレビでラブシーンを見ていたら変身したと言っただろ?」
「うん」
「興奮したか?」
「う……」あたしは詰まった。「ちょ……ちょっとだけ」
「ちょっとだけか?」
「いや……かなりかな」
「昨夜のことだが、もしかして、淫《みだ》らな夢を見たんじゃないか?」
ぎくっ。
「た、確かに夢は見たけどさ。淫らとか、そういうんじゃなくて……」
弁解しても無駄だった。あの夢のことを思い出すだけで、顔が火照《ほて》ってくるんだもの。
「それだな」
「何が?」
「お前は今まで、性的に興奮したことが一度もなかった。それが昨日の晩、夢を見て初めて興奮した――」
あたしは、あっと声をあげた。
「じゃあ……じゃああたし、エッチな気分になると変身するってこと?」
「変身するというより、変身が解けると言うべきかな」
それが意味することの重大さを飲みこむのに、数秒かかった。あたしは愕然《がくぜん》となり、気が遠くなった。
こんな体じゃ、一生、男の人とエッチできない――もちろん三条院さんとも!
5 ちょっとは驚いて欲しいのに
一〇日が過ぎた。
気分は依然として最悪だった――両親が離婚した時だって、こんなには落ちこまなかったと思う。明日にでもハルマゲドンが起きてもいいや、って心境。
いくら重大なトラブルを抱えていても、学校には行かなくちゃいけない。異変を悟られまいと、なるべくいつも通り明るく振る舞うように心掛けてはいるんだけど、憂鬱《ゆううつ》な気分はどうしても態度に出てしまうらしい。詩織には「あの日?」と訊ねられ、亜紀には「恋する乙女は悩みが多いのねえ」とからかわれる始末。
お前ら、蜘蛛女《くもおんな》になってみろ。そんな軽口叩いてる余裕なんかないぞ。
よく心配事があると痩《や》せ細るって言うけど、あたしの場合、やけになって毎日バカ食いしたもんで、一キロほど太ってしまった。好物のチョコパフェなんか、学校帰りの喫茶店で一日に二つも食べた。蜘蛛になっても嗜好《しこう》が変化しなかったのだけは幸いだ。蝿《はえ》や蝶《ちょう》なんて食べたくないもの。
何と言っても、悩みを誰にも打ち明けられないってことがつらかった。こんなアホらしい悩み、新聞に投書することも、みのもんたに電話で相談することもできやしない。
本来なら娘の心の支えになるべき父さんは、ぜんぜん役に立たなかった。「人間、何事も経験だ」とか「健康で何よりじゃないか。難病で苦しんでいる人に比べれば……」なんて不謹慎な慰め方をするんだもの。
いくら健康でも、蜘蛛は嫌だ。一生、エッチできないのも嫌だ。
苦しかった。さしもの楽天的なあたしもプレッシャーで押し潰《つぶ》されそうだった。こうなったら頼れる人間は一人しかいない。
母さんだ。
パラゴン・ハイト・タワー。
新宿副都心の一画に昨年オープンしたばかりの、ガラス張りの美しい超高層ビルディングだ。
ひとつの建物の中にオフィスビルとホテルが同居している。二九階まではいろんなテナントが入っていて、三〇階がホテルのロビー、三一階がレストラン、三二階から四七階までが客室、最上階の四八階が展望台になっている。
一階からのエレベーターは二九階までしか行かない。客室に行くためには、まずエスカレーターで二階に上がってホテル専用エレベーターに乗り、いったん三〇階で降りて、ロビーを通過し、フロアの反対側の端にあるエレベーターに乗り換えなくちゃいけない。初めて訪れる人間には、この構造はちょっとややこしい。
木曜の夜、その三一階のレストランで、あたしは母さんと食事した。
「ほんとにいいの? こんなすごいところに泊まっちゃって……」
レストランの内装の豪華さに、あたしはちょっとビビっていた。壁や床は黒を基調にしていて、照明はやや暗く、高い天井から各テーブルごとにスポットが当たっている。随所に置かれたガラスや金属を多用したオブジェが、暗がりの中で輝き、アクセントをつけていた。ピアノの生演奏が静かに流れている。「高級」というイメージから連想されるけばけばしさはなく、シンプルだけど上品で落ち着いた雰囲気だ。あたしには設計やインテリアのことなんて分からないけど、お金がかかっていることだけはよく分かった。
絵画だの彫刻だのは必要なかった。一方の壁が全面ガラス張りになっていて、その外に広がるきらびやかな東京の夜景が、何よりも素晴らしい芸術だったからだ。東京で十何年も暮らしてきたけど、東京がこんなにもきれいな街だったとは気がつかなかった。
客の雰囲気もそこらのレストランとはぜんぜん違う。何かの会合でもあったのか、正装している人が多かった。あたしは場違いなところに迷いこんだ感じがして、肩身の狭い思いを味わっていた。こんな高級なところだと知ってたら、もうちょっといい服を着てきたのに……。
もっとも、目の前にいる母さんだって、思いっきり場違いな格好だった。ボロシャツにスラックスというスポーティなスタイルで、男のように短い髪、化粧っ気はなく、すぱすぱとバージニア・スリムを吹かしている。この照明の暗さじゃ、男と間違える人もいるんじゃないかしらん。
でも、ファッションセンス皆無の父さんと違って、ちっともだらしない感じはしない。母さんの場合、これが何十年もかけて完成させた独自のスタイルなんだもの。安っぽいなりに、ぴしっと決まっている。
今年で三九歳、まだまだ若い。
「私が決めたんじゃないわよ。出版社が用意してくれたの」
「もみじ書店?」
あたしは母さんがよく本を出している出版社の名前を口にした。
「あそこの待遇はこんなに良くないわよ」母さんはせせら笑った。「今回は明日川《あすかわ》出版――今度、本を出すとこよ。明日のお昼から打ち合わせがあるの」
「ふーん、お金のある会社なんだ」
「パソコン関係の本で儲《もう》けてるらしいわね――でも、待遇がいいのは、初めてつき合うからじゃないかな? 最初のうちは気心が知れないから、万一にも作家先生のご機嫌を損ねないように、用心して少し高級なところを用意するのよ。そのうち作家と編集者が親しくなってくると、あいつならこのぐらいでいいやってことで、少しずつランクを落としてくわけ」
「なーんだ、母さんが偉くなったわけじゃないのか」
「まあね」母さんは苦笑した。「少しずつ本も売れて、年収も増えてきてはいるけど、知名度はまだまだね」
母さんの仕事はノンフィクション作家。「水沼《みずぬま》まきほ」のペンネームで、これまで十何冊も本を出していて、何冊かは学校の図書館にもある。「これ、うちの母さんが書いたやつよ」と友達に自慢したりもする。
もっとも、あたし自身は母さんの本はあまり読んだことはない。活字ばっかり並んでて退屈なんだもの。ニホンザルやカモシカによる農家の被害がどうのこうのとか、林業従事者の高齢化が日本の森林に与える影響がどうしたなんて話題は、あまり高校生が読んで面白いもんじゃない。
母さんは二年近く前から、北海道の野性動物と環境破壊の現状をルポする仕事に取り組んでいて、一年の大半を釧路《くしろ》の山林や湿原で暮らしている。東京にあったマンションも引き払い、釧路の郊外に引っ越した。東京には二月に一度ぐらい、出版社との打ち合わせや資料調べなんかのために帰ってくるだけで、その時はホテルに泊まる。
もし、離婚の時に父さんでなく母さんを選んでいたら、あたしも今ごろ『北の国から』みたいな生活をしてたんだろうか――そう考えると、選択は間違ってなかったように思う。
「ところで、あなたの方はどうなの、湧? 何か悩みがあるみたいだけど?」
「うん……」
さすがは母さん、あたしの微妙な変化を敏感に察している。あたしは少しためらってから、真実を打ち明けることにした。
「母さん、聞いて欲しいことがあるんだけど」
「いいわよ」
「真面目《まじめ》に聞いてよね?」
「もちろん」
「最初に断わっとくけど、これから話すことは、冗談でも、おとぎ話でも、妄想《もうそう》でも、ドッキリカメラでもないの。信じられないほどバカバカしいことだけど、あたしの身に起きているまぎれもない事実なのよ。いい?」
「いいわよ、話して」母さんはプレゼントを斯待する子供のように、にこにこ笑いながらうなずいた。「私、『まぎれもない事実』って大好き」
とにかく信じてくれるように何度も念を押してから、あたしは自分が体験したことを洗いざらい話した。先週の月曜日に見た夢の話からはじめて、何もかも。
母さんの反応はと言うと――どうもよく分からない。あたしの話を聞きながら、最初から最後まで、にこにこした表情を崩さないんだもの。あたしが話し終えても、平然と食後のコーヒーをすすってる。
「……やっぱり信じられない?」
あたしがおそるおそる訊《たず》ねると、母さんは微笑《ほほえ》みながらかぶりを振った。
「いいえ、信じるわよ。娘の言うことだもの」
「だって、こんな突拍子もない話……」
「そんなことないわよ。充分にあり得ると思うわ。だって、あなた、あの人の娘だもの」
「はあ?」
「あの変わり者の血を引いてるなら、ちょっとぐらい変なとこがあっても、意外じゃないわ」
あたしはがっくりとなった。驚いて目を丸くするとか、狼狽《ろうばい》するとか、おびえるとか、あたしの頭がおかしくなったんじゃないかと疑いの目で見るとか、「親をからかうんじゃありません!」って怒りだすとか、いろんなリアクションを予想してたんだけど、こんなにあっさり受け入れられてしまわれたら、拍子抜けしてしまう。
「あたしにとっては『ちょっとぐらい』のことじゃないし、充分に意外なことなのよ!」
「まあ、そうでしょうね――ちょっと見せてくれる?」
「見せる?」
「証拠よ。疑うわけじゃないんだけど、いちおうノンフィクション作家としては、証言の裏付けはきっちり取らないとね」
「いいわ――タバコ、出してみて」
「タバコ?」
母さんは不思議そうな顔をしながらも、バッグの中から新しいバージニア・スリムを一本取り出し、顔の横にかざした。
「こう?」
「そのまま動かないで」
あたしはいちおう周囲を見回し、誰《だれ》もあたしたちのテーブルに注目していないのを確認してから、タバコを指差した。
人差し指の先から目に見えないほど細い糸が飛び出し、たっぷり三〇センチは離れたタバコにからみついた。急にタバコが指の間で動いたので、母さんは驚いたようだった。あたしがぐいっと引くと、タバコは母さんの指の間からすっぽ抜け、あたしの手元に飛んできた。
「へーえ、面白い!」
母さんは好奇心に目を輝かせ、あたしの指に顔を近づけて観察した。糸はものすごく細いものなので、この暗い照明の下では普通の人にはほとんど確認できない。時おり、きらっと輝いて見えるだけだ。母さんは指先でそれをつついた。
「気をつけて。これ、見かけによらず硬いの。ピアノ線みたい。うっかり触ってて、自分の指、切っちゃった」
あたしは左手の中指に巻いたバンドエイドを見せた。
「でも、ねばねばしてるように見えるけど?」
「うん、二種類出せるみたいなの。ねばねばしてるやつはまだ安全なんだけど、乾いてるやつはものすごい切れ味よ。東京都の電話帳でもすぱすぱ切れるの。剃刀《かみそり》……というよりレーザー光線ね、ほとんど」
「他にも何か能力はあるの?」
「蜘蛛《くも》の足。実験してみたんだけど、変身すると、壁や天井に張りついて這《は》い回れるようになるの。ほとんど床と変わらない感覚」
「すごいじゃない!」
あたしは顔をしかめた。「でも、そんな能力、あっても何の役にも立たないわよ! ビルの窓拭《まどふ》きするなら別だけど」
「うーん」
母さんはうなった。考えこむ時の癖で、獲物を見つけたライオンのように舌なめずりしたのを、あたしは見逃さなかった。
「もっとよく見てみたいわね――あたしの部屋に来ない?」
「え?」
「調べてみたいのよ、徹底的に! ね、いいでしょ?」
そう言いながら、母さんは早くも立ち上がっていた。
あたしはちょっぴり不安を覚えた――その目はすでに、母親が娘を見る目じゃなく、ノンフィクション作家が取材対象を見る目になっていたからだ。
6 この父にしてこの母あり
母さんの泊まっている部屋は四六階――つまり最上階の二階下にあった。眺望も最高だけど、室内の設備も第一級だった。
「うわあ、バスルームの中にテレビがある! わわわわ、バスタブと別にシャワールームがある! わわわわわ、使い捨ての歯磨きのチューブがこんなに大きい!」
あたしは当面の問題を忘れ、広いバスルームに靴のままずけずけと入りこんで、小市民的な感動にひたっていた。旅行は何度かしたことあるけど、こんな豪華なホテルは初めてだった。
「はーい、湧、こっち向いて」
母さんの声に振り返ると、母さんはバスルームの入口に立ち、小型のビデオカメラであたしを撮影していた。
「へーえ、ほんとだあ。ぜんぜん映ってないわ。あなたの後ろの壁が見えてる」
ビデオの液晶ファインダーを覗《のぞ》きこんで、母さんは楽しそうに言った。
「ねえねえ、ちょっと何か手に持ってみて」
「こう?」
あたしは言われるままに、近くにあったタオルを手に取った。ファインダーを覗いていた母さんは、ヒューッと口笛を吹いた。
「面白ーい! タオルが何秒か宙に浮いて、すぐに消えたわ。肉体だけじゃなく、服とか身につけたものも透明になるみたいね。どういう原理なのかしら?」
不思議な現象を前にして、母さんはあふれる好奇心を抑えきれない様子だった。観察対象にされてるあたしにしてみれば、あんまり気分のいいもんじゃない。娘の悩みの深さに比べて、母さんの真剣さが足りないように思えたからだ。
母さんは今度は愛用の一眼レフのカメラを取り出し、同じようにファインダー越しにあたしの姿を観察した。
「あら? こっちにはちゃんと映ってる。不思議ねえ」
「じゃ、普通のカメラにはちゃんと映るのかな?」
あたしにとって、それはけっこう重大な問題だった。この先、修学旅行とか卒業式とかで、みんなでいっしょに写真を撮る時に、あたしだけ写真に映ってなかったら大騒ぎになってしまう。プリクラだってできやしない。
「どうかしら。妖怪《ようかい》に関するあの人の仮説が正しいとしたら、フィルムの露光とか、映像の電気信号への変換とか、そうした機械的な処理を通そうとすると、透明になるのかもしれない。ビデオの液晶ファインダーと違って、普通のカメラのファインダーって、要するにただの鏡だものね」
商売柄、カメラを扱うことが多いだけあって、さすがにカメラには詳しい。
念のために何校か写真を撮った後、母さんはあたしと肩を並べてバスルームの鏡の前に立った。二人の姿が並んで鏡に映っている。
「ほら、鏡にはちゃんと映るのよねえ。やっぱり吸血鬼とは違うんだわ」
「だから蜘蛛女だって言ってるでしょうが!」
「妖怪は実在した! ああ、この世紀の大スクープを記事にできれば、ベストセラー間違いないのに! そうよ、ピュリッツァー賞だって夢じゃないわ!」
母さんは宝塚歌劇みたいに大げさなポーズで、目をきらきらさせていた。あたしは軽いめまいを覚えた。
「あんたね……自分の娘を世間のさらしものにする気?」
「バ、バカね、するわけないじゃない、そんなこと。親子ですもの。あはははは……」
はっと気がついて、慌ててそう弁明する母さんの口調は、でも、ちょっぴり残念そうだった。
あたしはため息をついた。本音を見抜かれた時にそうやってしらじらしく笑ってごまかす人間を、もう一人知っている。
そう、父さんだ。
それから急に、母さんは並んで立っているあたしの肩を強く抱き寄せた。
「大きくなったわね、湧」母さんは鏡の中のあたしを見つめ、シリアスな顔で言った。「ずいぶん大きくなったわ……」
そう、あたしは大きくなった――両親が離婚した時には、背伸びをしてもまだ母さんの胸ぐらいまでしかなかったと思う。それが今では母さんとたいして身長が変わらなくなっている。
「好きな人がいるって言ったわね?」
「……まあね」
「ふうん、そういう年頃になったのか……」
鏡の中のあたしが顔を真っ赤にしていた。
「でもね、気をつけなさい。あなたって純真すぎるところがあるから……」
「純真じゃだめなの?」
「男を見抜く目を持つことも大切よ。さもないと変な男にひっかかるわ。ほんと、男ってうわべだけじゃ分からないんだから……」
「それって体験の重みってやつ?」
「まあね」
この際、あたしはかねてから抱いていた疑問をぶつけてみることにした。
「ねえ、何で父さんなんかと結婚する気になったの?」
こればっかりはほんとに不思議――うわべに騙《だま》されたのならまだしも、父さんの場合、うわべからしてダサいもんね。
母さんは大きく深呼吸してから、一気にまくしたてた
「若気《わかげ》の至り、一時の幻、思いこみ、錯覚、気の迷い、眼鏡違い、見当はずれ、弘法《こうぼう》にも筆の誤り、猿も木から落ちる……」
あたしはあせった。「そ、そこまでボロクソに言わんでも……」
「言うわよ。あなたのことが心配だから」
「心配?」
「そうよ。いつもあんなD級の男の傍にいたら、あれが男の標準だと思いこみかねないわ。B級やC級の男でも、とびきりいい男のように錯覚しちゃうかもしれない……」
「だいじょうぶよ。いくらあたしでも、そこまで目は曇ってやしないから。三条院さんは、ほんと、素敵な人なのよ」
「だったらいいけど――一度、連れてきなさいよ。母さんが見定めてあげる」
「だから、まだぜんぜんそういう関係じゃないんだってば……」
突然、あたしは自分の置かれた状況を思い出し、暗澹《あんたん》たる気分になった。のんきに母娘の会話を交わしてる場合じゃなかったんだ。
「だって、この体じゃ、悪い男にひっかかることすら不可能よ」
母さんははっとなった。「ああ、ごめん、そうだったわね……」
「だいたい、何であたしがこんな不条理な目に遭《あ》わなくちゃいけないわけ?」あたしはむらむらと腹が立ってきた。「そりゃ人生山あり谷ありなのは分かるわよ。でもね、受験とか病気とか事故とか、試練なら他にいくらだってあるだろうに、何でよりにもよって蜘蛛女なの?」
母さんは困惑した表情だった。何とか娘を慰める言葉を探している。
「たぶん運命ってやつなんでしょうね……」
その言葉に、あたしはかちんときた。あたしがいちばん聞きたくない言葉だったからだ。
「運命!? 男の人とエッチできないのが運命? そんなのひどいよ! あたし、何か悪いことでもした? 神様に罰当てられるようなことした? 三〇〇年以上前の御先祖様のやったことなんて、あたし、ぜんぜん関係ないのに!」
「湧……」
「あたし、だいそれた望みなんか持ってない。有名人にもお金持ちにもなりたくない。あたしの望みって言えば、普通の女の子らしく生きたいっていう、ただそれだけなのに……!」
言葉が止まらなかった。心の中にぎっしり詰めこまれて、誰にも言えなかった言葉――この一〇日間、抑えに抑えていた感情がいっぺんに噴き出した。目から涙がぼろぼろこぼれる。
「あたし――あたし、普通の女の子でいたいよ。三条院さんとエッチがしたいよ……!」
もう限界だった。あたしはわっと泣きだし、母さんの胸に顔を埋めた。
その瞬間、あたしはこれこそが、この一〇日間、自分がやりたくてたまらなかったことだったと気がついた――思いきり泣くことが。
「湧……つらいのね」
母さんはあたしを抱きしめ、髪を撫《な》でながら、優しく語りかけた。
「ごめんね。私、あなたのために何もしてやれない……あたしにできるのはただ、あなたのためにこうして胸を貸してあげることだけ――だから思いきりお泣きなさい。遠慮は要《い》らないから」
あたしは泣きながらうなずいた。何度も何度もうなずいた。百万の慰めの言葉よりも、この胸が今はありがたかった。
生まれてから十何年、こんなにも母さんの愛を強く感じたことはなかった。
7 どうして? いきなり大事件
涙が尽きるのに一時間はかかったと思う。たっぷり泣きまくった後は、生まれ変わったように気分がすっきりした。心の中にわだかまっていたいろんなものが、涙といっしょに押し流されたようだった。
もちろん、本質的な問題は何ひとつ解決してはいないんだけど、心が軽くなって、運命とやらに立ち向かう勇気が湧《わ》いてきたような気がした。そう、不条理な運命なんかに負けてたまるか。押し流されたらおしまいだ。
「もう帰るわ。だいぶ遅くなっちゃったし、明日も学校があるから」
あたしが元通りの明るい声を取り戻したので、母さんも安心したらしい。
「エレベーターのところまで送るわ」
あたしたちはいっしょに部屋を出て、エレベーターに向かった。人生の重大な山をひとつ乗り越えた。これでまた当分、平穏無事な日常が戻ってくる――二人ともそう信じていた。
でも、そうじゃなかった。すぐ目の前に、とんでもなくでっかい山が待ち構えていたのだ。
エレベーターの前では、初老の夫婦が不安そうな表情で、「どうしましょうねえ」とささやき合っていた。あたしたちの姿を見ると、夫の方が声をかけてきた。
「エレベーター、故障してるみたいですよ」
「え、そうなんですか?」
あたしは下りの呼び出しボタンを押してみた。なるほど、普通ならボタンを押せばランプが点灯するはずなのに、ぜんぜん反応がない。
「もう一〇分ぐらい待ってるんですが、ちっとも来ないんですよ」
「電話でホテルの人を呼ばれました?」
「いや、それが電話も通じないみたいで……さっき、若い人が待ちかねて、非常階段を降りて行きましたけどね」
あたしは母さんと顔を見合わせた。エレベーターと電話が同時に故障するなんてことは、常識では考えられない。何だか嫌な予感がした。
まさにその時、非常階段の扉がバタンと開いて、若い男が通路に転がり出てきた。あたしたちは驚いて駆け寄った。男は息を切らせ、立ち上がることもできない様子だった。長い階段を急いで往復してきたせいだろう。
「どうしました!?」
母さんが訊《たず》ねると、男はがたがた震えながら非常階段を指差した。
「ば、ば、ば……」
男の咽喉《のど》は疲労と恐怖でかすれていた。それでも何とか声を絞り出そうとする。
「ば……爆弾」
「爆弾?」
「階段の……踊り場に……ち、近づいたら……ビーって……ビーって……」
「あたし、見てくる!」
あたしはそう言うと、非常階段を駆け降りていった。
いくら体力に自信があるとは言っても、十何階も階段を駆け降りるのは、さすがにこたえる。殺風景な壁ばかりが続く単調な光景の中を、ぐるぐると降り続けて、何だか目が回りはじめた頃――それはあった。
三一階と三二階の間の踊り場に、それは無雑作に置かれていた。オーブントースターぐらいの大きさの発泡スチロール製の箱で、全体にガムテープがぐるぐるに巻かれている。その角には小さなランプみたいなものが埋めこまれていて、赤く光っていた。
近くの壁には張り紙がしてあった――日本語と英語で書かれていて、ごていねいにも大きなドクロのマークまで描いてある。
<注意! 対人センサーつき爆弾。3メートル以内に接近すると警告ブザーが鳴り、5秒以内に退去しないと爆発する。爆薬は硝酸アンモニウム系。2・3キログラム。対人殺傷用にボールベアリング200個を充填《じゅうてん》。この警告を無視する者に責任は負わない>
部屋に帰ってテレビをつけてみると、どのチャンネルも臨時ニュースをやっていた。おかげであたしたちは、自分たちがどんな状況に追いこまれているかを理解できた。
このパラゴン・ハイト・タワーは爆弾魔にビルジャックされたのだ。
犯人は覆面をしており、少なくとも三人。レストランの厨房《ちゅうぼう》に材料を搬入する業者を装い、従業員専用エレベーターを使って、大量の爆弾をビルの三〇階に持ちこんだ。それを盾にして警備員やホテル従業員を脅迫、警備室を占拠する一方、三〇階および三一階にいたすべての客および従業員を地上に退去させた。
その後、彼らはエレベーターの電源をすべて切り、客室からの電話回線も切断した。さらに三〇階および三一階に通じるすべての非常階段に対人センサーつき爆弾を置き、ビルの三〇階から上を完全に孤立させた。
さらに犯人たちは、警官隊が不用意に踏みこんできたら大きな犠牲が出るであろうと警告した。ブザーのついていない対人センサーつき爆弾を、ビル内のあちこちに隠したと言うのだ――本当かどうかは分からないけれど。
そうした事件すべてが、あたしが母さんの胸で泣いている間に、あたしたちの足の下で進行していたのだ。
爆弾が本物であることを警察に納得させるため、犯人グループは爆弾のうちの一個を新宿公園の茂みの中に隠したと表明した。犯人が指定した場所で発見された爆弾は、センサーが切られている以外、実物とまったく同じだった。警察は爆弾の構造から、このところ世間を騒がせていた連続無差別爆破事件と同一グループの犯行と断定した。これまでの爆破事件は、今回の事件の予行および伏線だったらしい。
現在、彼らは三二階から四七階までの客室にいる約一四〇人の宿泊客(あたしたちも含まれてるんだけど)を人質に、パラゴン・ホテル・グループを脅迫している。要求しているのは、現在、池袋のパラゴン系列のデパートで開催中の「世界の宝石展」に展示されている宝石類、計一九億五〇〇〇万円相当……。
「なかなか考えたものねえ」テレビを見てメモを取りながら、母さんは感心していた。「よくぞこのビルの構造に目をつけたもんだわ」
「どういうこと?」
「警備室よ。あそこにはモニターがずらりとあって、ビルの要所を居ながらにして監視できるの。その部屋を占拠すれば、小人数でもビル全体を掌握することが可能なわけ」
そう言えば、母さんは昔、ホテルの内部をルポした本も書いたことがあったんだ。
「それなら、他のホテルでもいいじゃない?」
「だめなのよ。普通、ああいう警備室は一階とか地階とかにあるものなの。そんなところに立てこもっても、そこらじゅうの出入口やら窓やらからいっせいに警官隊に踏みこまれて、じきに取り押さえられてしまう。ところがこのビルでは、三〇階から上がホテルなもんで、警備室も三〇階にあったのよね」
なるほど、エレベーターと非常階段を封鎖してしまえば、簡単に要塞《ようさい》になるわけだ。
「でも、宝石を手に入れたとしても、どうやって逃げる気かな?」
「さあねえ。これだけ周到に計画を練ってるんだから、逃亡する算段もあるんでしょうね。あたしだったら自衛隊のヘリを要求するけど――でもこのビルって、屋上にヘリが降りられるようなスペース、あったかな……?」
あたしたちがそんなことを話していると、アナウンサーが慌ただしそうに、新しく入ったニュースを読み上げた。
「えー、ただいま警視庁が発表したところによりますと、停止したエレベーターの中に人が閉じこめられている模様です」
問題のエレベーターは二九階まで運行しているテナント専用のもので、二八階付近で停止しているようだった。電源がすべて切られているので、エレベーター内の緊急電話も使用不能になっている。中の乗客が携帯電話で119番に助けを求めてきたことから判明したらしい。二八階と二九階にはレストラン街があり、たぶんそこから帰ろうとした客なのだろう。
閉じこめられているのは赤ん坊を含めた男女六人。エレベーターの厚い壁にはばまれて携帯電話の送信状態が悪く、通話がすぐに途切れるので、内部の状況は分かりにくい。ただ、電話のバックには赤ん坊の泣き声が聞こえているらしい。救出しようにも、途中の非常階段には何箇所も爆弾が仕掛けられていて、救助隊が近づけない。
警察からの人質解放の要求に対し、犯人グループは「宝石を渡ししだい、交換として解放する」と言い続けているらしい。
「ひどい!」
電源を切られた真っ暗なエレベーターの中に閉じこめられ、おびえている人たちのことを想像し、あたしは怒りに声を震わせた。赤ん坊まで巻き添えにするなんて、やり口が汚すぎる!
「うーん、まずいわねえ……」母さんも表情を曇らせた。「六人も乗ってたら、じきに二酸化炭素が充満してくるわ。空調が切れてるから温度も上がってるだろうし、そんなに長くは保たないかもしれない……」
それから母さんは、ちらっと横目であたしを見た。
「どうする、湧?」
「もちろん、助けに行く!」あたしはすぐさま答えた。「あの人たちを助けられるの、あたしだけだもん!」
それはさっきからずっと考えていたことだった。犯人グループは監視カメラでビルのあちこちを常に見張っているだろうから、警察も宿泊客もうかつに動けない。おまけに対人センサーつき爆弾もたくさん設置されている。
でも、あたしなら平気。カメラに映らないし、センサーにも反応しない。げんにさっき、階段に置かれていた爆弾に近づいた時も、ブザーは鳴らなかった。
犯人は確かに用意周到かもしれない――でも、人質の中に蜘蛛女《くもおんな》がいる可能性までは、考慮に入れていないはず。
「止めないの? 危ないからやめろとか……」
「止めたって止まらない子じゃないの、あなたってば」母さんは優しく微笑《ほほえ》んだ。「変わってないのね。あなたったら、誰《だれ》かがいじめられてたら、すぐに飛びこんでって、いじめっ子をやっつけちゃう子供だった……」
あたしは微笑みを返した。「誰の遺伝?」
「さあ、誰かしらね」
そう、正義感の遺伝子なんてものがあるとしたら、あたしのはきっと母さんから受け継いだに違いない。母さんが北海道の大自然の中で悪戦苦闘してるのも、乱開発に対する怒りと、自然を守りたいという熱意があるからなんだもの。
「でもね、がむしゃらに突っこむのは無謀よ。相手は少なくとも三人いるし、銃を持ってるかもしれないんだから」
「何か策ある?」
「ええ、あるわよ」そう言うと母さんは、いたずらを思いついた子供のように、にんまりと笑った。「オードリー・ヘップバーンの『暗くなるまで待って』って映画、知ってる?」
8 ヒーローになんかなりたくない!
母さんといろいろ検討した結果、非常階段を降りるのはまずいという結論に達した。犯人たちもきっと階段は警戒しているはず。爆弾以外にも何かトラップがあるかもしれない。
となると、下に降りる道はひとつ――エレベーター・シャフトだけだ。
「しっかりね。無埋しちゃだめよ」
母さんに送られて、あたしは部屋を後にした。幸い通路に人影はない。みんなおびえて自分の部屋にこもっているんだろうか。
エレベーターの前まで来た。よく見ると、天井の隅の目立たない位置に監視カメラがある。
背中がむずむずする気分だった。今この瞬間、犯人はこのレンズを通して、この場所を見ているのかもしれない……。
でも、あいにくとその画面には、あたしは映っていないのだ。あたしはレンズに向かって思いきりあかんべえしてやった。
あたしはカメラの死角になっているエレベーターを選んだ。扉に忍び寄り、部屋から持ってきた靴べらを扉の隙間《すきま》に差しこむ。テコの原理でぐいぐいとこじ開けると、厚い扉はしぶしぶ少しだけ開いた。その隙間に体をねじこみ、シャフトの中を覗《のぞ》きこむ。
中は薄暗かった。たぶん人間の目には真っ暗で何も見えないんだろう。でも、あたしの目には充分に明るい。底の方まではっきり見える。
深かった――一階分の高さを約四メートルとすると、三〇階まではきっと六〇メートルあることになる。エレベーターはあたしの頭上、四八階で停止している。シャフトの底まで、落下をさえぎるものは何もないわけだ。
高所恐怖症の気はないはずなのに、脚に寒気が走った。自分の決断をちょっと後悔する。いくら妖怪《ようかい》蜘蛛女でも、六〇メートル落ちたら死ぬだろうなあ……。
でも、ためらっている時間はないのだった。事態は一刻を争う。のんびり傍観していたら、赤ん坊の命が危ない。あたししか動ける人間がいないなら、行くしかない。
あたしはためらいながらも、スカートの中にごそごそと手を入れた。パンツは部屋で脱いできた。変身するたびに破ってたんじゃ、パンツが何枚あっても足りないもの。ついでに靴と靴下も置いてきて、ここまで裸足で歩いてきた。
どうでもいいけど、この非常事態に、裸足《はだし》の女子高生がエレベーター・シャフトを覗きながらスカートに手を入れてるとこを見られたら、どう弁解したらいいんだろう……?
でも幸い、人は誰も来なかった。あたしの気分はじきに高まり――
「あ……」
あたしは小さく声をあげた。体内で何かがはじけるようなおなじみの感覚があって、あたしは蜘蛛女に変身していた。
「ようし――行くぞ」
自分にそう言い聞かせると、あたしは大きく深呼吸して、シャフトの中に身を乗り出した。
八本の脚の先端が、ぴたっとシャフトの内壁に張りついた。先端は角《つの》のように尖《とが》っていて、別にねばねばしてはいないし、ましてや磁石や吸盤でもない。そのくせ、どんな壁にも張りつくことができるのだ。物理法則を無視しているとしか思えない。
あたしは下に向けてゆっくりと歩きだした。重力が壁に向かって作用している感じで、歩くのに何の支障もない。感覚も九〇度変化していて、シャフトを降りてるんじゃなく、水平の通路を進んでいるように思えた。
六〇メートルの垂直のシャフトを伝い降りるのに、二分かそこらしかかからなかった。こそとも音を立てることなく、あたしはシャフトの底に到達した。
耳をすませて扉の外の様子をうかがう。人の気配が感じられないのを確認してから、扉をこじ開け、外に這《は》い出た。
エレベーター・ホールに人影はなかったけど、フロアの奥の方で、がさごそという物音や、人の声がしていた。犯人一味に違いない。あたしは聴力の感度を最大限に上げ、足音を忍ばせて、声の方向にそろそろと進んだ。
「……警備室の監視は?」
「……湯浅《ゆあさ》の奴《やつ》にまかせてる」
「……警察の動きは?」
「……おとなしいもんさ。爆弾が功を奏してるみたいだな」
近づくにつれ、犯人たちの会話がはっきり聞こえてきた。
「テレビは何て言ってる?」
「人質の安否が気遣われます、だってさ」これは女の声。「笑っちゃうよね。何でテレビの連中って、どんな事件でもお決まりの台詞《せりふ》しか言わないんだろ?」
「そんなことより、パラゴン・グループの出方はどうなんだよ?」
「まだ分からん」別の男の声。「だが、かなりあせってるだろうな。死にかけてる赤ん坊がいるとなれば、引き伸ばし策もできないだろう。下手に対応を遅らせて赤ん坊が死んじまったら、後でマスコミから非難されるしな」
その時、急に赤ん坊の泣き声が大きく響き渡ったので、あたしはびっくりした。
「おい、そいつを泣かすなって言ってるだろ! うるさいぞ!」
「何よお! あたしが託児所からこの子をさらってきたから、作戦がうまく行ったんじゃないの!」女が抗議する。「宝石をせしめてうまく逃げられるかどうかは、あたしとこの子の名演技にかかってるのよ。ねーえ、坊や?」
「うぬぼれるな。本当の正念場は最後の最後――救急車をうまく乗っ取れるかどうかだぞ」
連中の声はロビーの方から聞こえていた。あたしはロビーの入口に近寄り、柱の陰からそっと様子をうかがった。
ホテルのやや薄暗いロビーには、犯人一味が集まっていた。サラリーマン風の男が三人、赤ん坊を抱いた女が一人、警備室でモニターを監視しているはずのもう一人を含めれば、全部で六人――そう、エレベーターの中に閉じこめられているはずの人質と同じ人数だ。
服装からすると、連中は平凡な会社帰りのサラリーマンや、赤ん坊連れの観光客を装っているらしい。もっとも、平凡な会社帰りのサラリーマンが拳銃を持っているはずがないけど。
床の上にはものものしい工具類や、たくさんの瓦礫《がれき》が散乱していた。壁の一画が剥《は》がされ、その奥にエレベーターのワイヤーを巻き上げるモーターらしきものが見える。
三〇階に設置されたモーター――それはつまり、二九階で運行しているエレベーターを上下させているモーターなんだろう。当然、そのすぐ下にはエレベーターが待機しているはずだ。
縄梯子《なわばしご》か何かを垂らせば、乗り移るのはたやすい。
なるほど――あたしはようやく犯人たちの目論見《もくろみ》を理解した。まず宝石を受け取り、次にエレベーターに閉じこめられた人質を解放するふりをして、その人質に化けて脱出するという段取りだ。誰も赤ん坊を抱いた女性が犯人一味だとは思うまい。暑さと酸欠でふらふらになったふりをして、救急車に収容される。病院に向かう途中、拳銃で運転手を脅し、救急車を乗っ取って逃走する……。
「よくも騙《だま》してくれたわね……」
あたしは連中に聞こえないように小声でつぶやいた。実際、あたしは頭に来ていた。死に瀕《ひん》しているかわいそうな赤ん坊を救うために、危険を冒してやって来たっていうのに、それが犯人の策略だったなんて――あたしの振りかざした正義感の行方はどうしてくれるの?
ええい、こうなったら、正義の怒りをぶつけてやる!
あたしは柱の陰から指を突き出した。天井に並んだ照明に向け、細くて硬い糸を続けざまに発射する。
パリン! パリン! パリン! 小気味いい音とともに、糸に貫かれた照明が次々に砕けた。たちまちロビーは真っ暗になる。男たちはどよめき、女が悲鳴をあげた。
「どうした!?」
「ちくしょう、誰かいるぞ!」
照明が完全に消える直前、男の一人が柱から身を乗り出しているあたしをちらっと見たらしい。パンパンと銃を撃ってくる。弾丸は柱に命中してはじけた。
「よせ! 同士討ちになる!」
「だってよお……!」
拳銃を構えたまま、男たちは暗闇《くらやみ》の中で敵の位置が分からず、きょろきょろと首を振っている。その狼狽した表情までもが、あたしにははっきり見えた。
これぞ母さんの授けてくれた策略、『暗くなるまで待って』作戦――目の不自由な女性が凶悪犯と渡り合うために、家の中の電気をすべて消すという映画なんだそうだ。
「くそ! ライトだ! ライトを点けろ!」
女が慌てて赤ん坊を置いて、床に置いてあった懐中電灯を拾い上げた。まばゆい光があたしに向けられそうになる。あたしはそれに向かってすかさず糸を放った。
糸が懐中電灯の胴体にからみつく。ぐいっと引っ張ると、プラスチック製の懐中電灯は大根のようにすっぱりと切断され、電池がぼとぼとと床に落ちた。女がまた悲鳴をあげる。
あたしは八本の脚をちょこまかと動かし、暗闇の中でうろうろしている男たちの間に、音もなくまぎれこんだ。今こそ柔道が役に立つ。
拳銃を持っている男の手首をつかみ、ねじり上げる。男は拳銃を落とし、悲鳴をあげた。さらに勢いをつけて腕をねじると、男の体はきれいに一回転し、床に叩きつけられた。
「おい、どうした!?」
警備員室にいた男が、異変に気がついてロビーに駆けこんできた。あたしはそいつをひょいとかわすと、横から背広の衿《えり》をつかんだ。相手の勢いを利用して前につんのめらせ、顔面を柱に打ちつける。
別の男が手探りでこっちに向かってきた。その腕をつかみ、一本背負いで放り投げる。男は大きく弧を描いて、フロントのテーブルに背中から激突した。パソコンのモニターが壊れ、がっしゃーんという派手な音がする。
目隠しされた相手と戦うほど楽なことはない。あたしはそうやって男たちを次々に倒していった。八本の細い脚は足技には不向きだけど、下半身がしっかり安定するので、投げ技には都合がいいことが分かった。あたしはすぐにこの新しい体の使い方を覚えた。
一分後、男どもは全員、床に伸びてうめいていた。残るは女だけだ。
「来ないで! 来るとこの子を殺すわよ!」
女は錯乱してしゃがみこみ、床に寝かせた赤ん坊の上にナイフをかざしていた。あたしはねばねばした糸を飛ばし、赤ん坊にからみつかせて、安全な場所までひきずっていった。それからおもむろに女に歩み寄り、腕をつかんで立ち上がらせ、放り投げた。
無抵抗になった連中から武器を取り上げ、縛り上げるのに、そんなに時間はかからなかった。あたしは泣いている赤ん坊を抱き上げて警備室に行った。エレベーターの電源を捜し当ててONにすると、警察に電話した。
「犯人は全員取り押さえました。三〇階のロビーです。赤ん坊も無事です。急いで来てください。後はおまかせします」
性別をごまかすために、咽喉《のど》を押さえてがらがら声でそう言うと、相手が問い返すのを無視して、電話を切った。
赤ん坊を置いて警備室を去る時、あたしはちょっと心配になった。警備室の中には明かりがついていた。赤ん坊はあたしの姿を見てしまったことになる……。
あたしと同じように、蜘蛛《くも》嫌いに育たなきゃいいけど。
ビルジャック犯一味を取り押さえた謎《なぞ》の人物の正体は、世間の興味を惹《ひ》いた。新聞やテレビには、連日、心理学者やら評論家やら推理作家やらマンガ家やらが嬉《うれ》しそうに登場して、いろんな推理を展開した。だけど、幸いにもあたしの実像に少しでも迫ったものはなかった。ついにはマスコミは「ヒーローX」という恥ずかしい名前をつけ、その人物に名乗り出るように呼びかけはじめた。
もちろん、あたしは名乗り出るつもりなんか毛頭ない。
成りゆき上、父さんにだけは真相を打ち明けた。案の定、娘の活躍を知った父さんは、子供のようにはしゃぎ、目を輝かせた。
「これだよ、湧! これこそ天がお前に与えたもうた使命に違いないよ、うん!」
「何なのよ、その使命って?」
「もちろん、正体を隠して悪を倒す、正義のヒーローに決まってるじゃないか! おお、私の娘がヒーローX! 何て素敵なんだ!」
「あんたね……」
あたしは父さんの無邪気なはしゃぎぶりを眺めながら、げんなりとなった。何でこんなにも娘の悩みに対して無神経になれるんだろう?
あたしは正義のヒーローになんかなりたくない。断じて。絶対に。あたしがなりたいのは、ごく普通の女の子なんだから。
普通の女の子になって、男の人とエッチがしたい。
穂月湧、一六歳、それが心からの願いである。
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第二話  ロックンロール蜘蛛女《くもおんな》VSハイテク・ミイラ
Rock'N'Roll Spider Woman vs. The High-tech Mummy
1.その笑顔に要注意
2.深夜のアブナいアルバイト
3.ゾンビと吸血鬼はどう違う
4.ミイラに好かれて大迷惑
5.あたしの他にも妖怪が?
[#改ページ]
1 その笑顔に要注意
渋谷《しぶや》のセンター街にあるファースト・フード店――
土曜の午後一時。広い窓からはぽかぽかと真夏の太陽の日射《ひざ》しが差しこんでいる。五〇年代の陽気なロックンロールが流れる店内は、若い男女であふれていた。これから映画やショッピングに流れるんだろう。せっかくの盆休み、母子連れでこんなとこに来るのは、ちょっと空《むな》しいかもしんない。
「はうわいお?(アルバイト?)」
あたしは口いっぱいにチリドッグを頬張《ほおば》りながら、向かいの席に座っている母さんに問い返した。
「そ。母さんの仕事の手伝いよ。難しいことじゃないの。今晩、ほんの一時間ほどつき合ってくれるだけでいいんだから。いい話だと思うんだけどな」
母さんはにこにこ笑いながら、いかにも楽しそうに、でも、かんじんなポイントだけはぼかして説明した。
前にも説明したと思うけど、母さんの職業はノンフィクション・ライターだ。五年前に父さんと離婚して以来、一人で自由きままに日本各地を飛び回っている。あたしとこうして会うのも、パラゴン・ハイト・タワー事件以来、約一月ぶりだ。いつもはスポーティな格好で、化粧っ気もないんだけど、今日はこれからどこかで取材でもあるのか、珍しく上等のワンピースを着てめかしこんでいる。
「ふーん……」
あたしの頭の中で、ピコーンピコーンと警戒警報が鳴った。父さんにせよ、母さんにせよ、こんな風に不自然にテンションを高くして笑いながら、遠回しに話しかけてくる時には、必ず何かやましいことがあるのよね。
ついこないだも、家に帰ったら父さんが「やあ、お帰り、湧!」って、やけに陽気に迎えてくれたんで、何かあったな、とピンときた。案の定、あたしのお気に入りのティーカップを割ってたんだった。
「ほえあっはら(それだったら)……」あたしはコーラをがばがば飲んで、チリドッグを咽喉《のど》の奥に流しこんだ。「……誰《だれ》か他の人に頼めばいいんじゃないの?」
「それがねえ、あなたでなきゃできないお仕事なのよ、湧」
母さんは甘えるような声を出した。やっぱりか。
「それはつまり……」あたしはぎろりと母さんをにらみつけた。「あたしの体の秘密に関係があるってこと?」
「やだ、そんな目で見ないでよ」
母さんはしらじらしく笑ってごまかそうとする。でも、あたしがごく普通の高校生の女の子なら、母さんがわざわざ何かを頼みに来るとは思えない。
「娘の秘密を商売のネタにするわけ? 見損なったわよ」
「違うの、そんなんじゃないのよ、湧。最後までちゃんと聞いてよ」
「はいはい、うかがいましょ」
「実はね……」
母さんは身を乗り出し、ドアップになるまであたしに顔を近づけ、小声でささやいた。
「……あなたに今夜、ある研究施設に忍びこんで欲しいの」
あたしは額が触れ合いそうな距離から、母さんの顔を見つめ返した。
「……いつから産業スパイに転職したわけ?」
「そうじゃなくて、これは正義のためなのよ」
「その施設ってのは、ショッカーの秘密基地かなんかで、あたしにそれを爆破しろと……」
「そんなんじゃないの。マジな話、これには人の命がかかってるのよ」
母さんの話を要約すると、ざっとこうなる。
二年ほど前から、母さんは北海道の原生林の野性動物の生態を取材する一方、環境破壊の問題に積極的に取り組んでいる。たまたま、ある原生林の伐採《ばっさい》をめぐって、ライトシェル不動産という大手不動産会社のことを調べているうち、やはりライトシェル不動産の内情を探っていた天津《あまつ》真《しん》というフリーライターと知り合った。
母さんは天津さんから奇妙な噂《うわさ》を聞かされた。今年の二月に五六歳で亡くなったライトシェル不動産の前社長、明貝《みょうがい》久人《ひさと》氏の死に、重大な疑惑があるというのだ。
明貝氏は生前、悪どい方法で金を儲《もう》けてきたと評判の人物だった。表向きの死因は「肺炎」ということになっている。ところが、親しかった者の証言によると、ただの肺炎じゃなくカリニ肺炎――エイズによって起きる病気だったらしい。
明貝氏がエイズに感染した経路も、ほぼ判明している。彼は十数年前から、一年に何回もタイに買春ツアーに出かけ、一五、六歳の少女を買い漁《あさ》っていたらしい。
まあ、こう言うと不謹慎に聞こえるかもしれないけど、自業自得ってやつだわな。
でも、話はそれだけじゃない。彼の死がどう考えても急すぎるのだ。エイズは感染してから発症するまで何年もかかるし、発症したってすぐに死ぬわけじゃない。たいてい長い闘病生活が待っている。げんに明貝氏は、体調を崩して入院していたものの、死の数日前まで元気だったらしい。
おまけに入院していた病院の院長というのが、明貝氏と懇意だったらしい。類は友を呼ぶというけど、この院長もまた、いろいろあくどいことで儲けているという噂のある人物。明貝氏の死亡診断書も彼が書いたそうだ。
疑惑のとどめは、葬儀に出席した知人の証言――明貝氏は九〇キロを越える巨漢だったはずなのに、出棺《しゅっかん》の時、かつぎ上げた棺は妙に軽かった。おまけに火葬場で焼いた後、骨がまったく残っていなかった……。
棺は空だったんじゃないだろうか? だとしたら、明員氏は院長に金をやって偽の死亡診断書を書かせ、本当はどこかで生きてるんじゃないか?――そう考えた天津さんは、院長の人脈を徹底的に調べ、明貝氏がどこへ消えたのかを探った。その結果、東京都内にある施設の名前が浮かび上がった。
八王子《はちおうじ》クライオテック研究所。
某大企業が出資して作らせた民間の実験施設で、おもに作物の種子や家畜の精子などの低温保存に取り組んでいるという。でも、それは表向き。裏ではどうやらクライオニクス(人体の冷凍保存)を請け負っているらしい……。
「へえー、日本でもそんな会社、あるんだ」
あたしはちょっと驚いた。アメリカでは病気で死んだ人の遺体を冷凍保存する会社があるって、前にテレビで見たことがある。現代の医学じゃ、冷凍した遺体を生き返らせるなんて、もちろん不可能。でも、未来の進歩した科学技術なら、もしかしたら可能になるかもしれない――そんな小さな可能性に賭《か》けて、自分の死後に遺体を冷凍するよう遺言する人が、大勢いるらしい。
ちなみに、全身を冷凍保存するには一〇万ドルぐらいかかるけど、首だけなら料金はお安くなるんだそうで、首だけの保存を希望する人が多いらしい。脳だけでも残っていれば、未来の科学でサイボーグの体に移植してくれるだろう……って、きわめて楽天的な予想をしてるらしい。遺体は大きな液体窒素のタンクに沈められるんだけど、スペースを節約するために、生首は遺体と遺体の間の隙間《すきま》に詰めこまれてるんだそうだ。
「それにしちゃ、ぜんぜん宣伝しないよね」
「当然よ。アメリカと違って、日本じゃ死体の処理に関する法律がうるさいから。たぶん認可は下りないでしょうね」
「ということは非合法……?」
「ええ。天津さんの話じゃ、死期の近い金持ちをターゲットにして、ひそかに勧誘してるんじゃないかって話だったわ」
なるほど、明貝氏もエイズで死ぬのを恐れて、表向きは病死したことにして、冷凍保存してもらうことにしたわけか。
「クライオニクスが合法的なものなら、明貝氏だって、わざわざ偽の葬儀なんかするはずがないわ。おまけに明貝氏の場合、まだ元気だったはずだから、生きているうちに冷凍された可能性が高いのよ。アメリカでも、医師がきちんと死亡を確認するまでは、絶対に冷凍処理は行なわれないわ。理由はどうあれ、生きている人の心臓を止めたら、法律上は立派な殺人になるんだものね」
「うーん、なるほど……」
「分かるでしょ? 天津さんがクライオテック研究所を調べようとしてたわけが。本当に非合法な人体冷凍保存が日本で行なわれてるんだとしたら、大スクープなのよ」
「それで、その人、どうしたの?」
「それが問題なの」母さんは急に表情を曇らせた。「研究所で何かトラブルが起きたらしいっていう情報をつかんだらしいの。詳しく調べて、何か分かったら連絡をくれるはずだったのに、二日前からぷっつり消息不明……家にも帰ってないし、携帯電話にも出ない。心当たりのある場所にはどこにも顔を出してないの」
あたしにもようやく事態の重要さが飲みこめてきた。
「それ、ヤバいんじゃない?」
「もちろん。何しろ犯罪まがいの手段で金儲けしてる連中だもの。秘密を知った者を拉致《らち》するぐらい、やりかねないわ」
「警察には連絡した?」
母さんはかぶりを振った。「捜査令状がないと警察も踏みこめないわ。その研究所の中で犯罪が行なわれているという、動かぬ証拠が必要なのよ」
「証拠というと……」
「たとえば、誰《だれ》かが研究所に忍びこんで、遺体を保存しているタンクをビデオカメラで撮影してくれば、殺人および死体遺棄の証拠としては申し分ないでしょうね」
母さんはいつになく真剣な目であたしを見つめた。
「というわけで、引き受けてくれる、湧?」
「うーん……」
あたしは悩んだ。さすがは母さん、あたしの弱点をよく知っている――正義感が強くて、困ってる人を見過ごすことができないってことを。
たっぷり三〇秒ほど考えてから、あたしは母さんに訊《たず》ねた。
「バイト代、いくら出す?」
「これだけ」
母さんは右手を突き出し、指を三本立てた。
「危険手当つけて」
あたしはその手を取り、倒れていた親指と小指も聞かせた。互いの顔を見つめ合い、にんまりと不敵に笑い合う。
「OK、いいわ」
「じゃ、契約成立」
ぱん! あたしたちは右手と右手を打ち合わせた。
2 深夜のアブナいアルバイト
その夜の午前〇時――
東西に細長く伸びた東京都の南西の縁に位置する八王子市。そのさらに南の端、国道二〇号線から降りて車で数分走ったあたりに、その研究所はあった。新興住宅街から少しはずれたところにある田園地帯の真ん中に、ひっそりと建っている。
東京もこのあたりまで来ると、田舎《いなか》という雰囲気が強い。研究所の前には道ひとつ隔てて田んぼが広がり、バックには深い竹薮《たけやぶ》が暗幕のように生い茂っている。竹薮の向こうには真っ暗な山がそそり立っていた。道にはろくに街灯もなく、研究所の前だけが水銀灯で明るく照らされている。もちろんサラリーマンの帰宅時間はとっくに過ぎているから、人も車もまったく通らない。
あたしたちはレンタカーを竹薮の近くに止めた。ヘッドライトを消して、研究所の様子を観察する。
「どう? 何か見える?」母さんが緊迫した口調でささやいた。
「うーん……特に怪しいところはなさそうだけどなあ」
あたし目は暗闇《くらやみ》でもよく見える。視力そのものは普通の人間とたいして変わらないんだけど、光のまったくない闇でも見通すことができるのだ。げんに今も、一〇メートルほど離れたところに立っている <気をつけて! ちかんがあなたの後ろから> という看板の文字がはっきり読める――母さんの目には、暗くのっぺりした板にしか見えないだろうけど。
研究所は高さ二メートルぐらいあるコンクリートの塀に囲まれていた。建物は四階建てで、正面は温室のようにガラス張りだけど、側面の壁には小さな窓がまばらに並んでいるだけで、倉庫のように無愛想なデザインだ。機能的すぎて、周囲の田園風景にはそぐわない感じがした。ほとんどの窓は暗かったけど、側面のいくつかの窓には明かりが灯《とも》っていた。こんな時間まで残業している人がいるんだろうか?
「今日はお盆休みだから、所員はいないはずよ。でも天津さんの話じゃ、あちこちに監視カメラや赤外線警報装置が隠されていて、見かけによらず警備が厳重らしいわ」
「ま、それは心配いらないけどね」
あたしは気楽に言った。実際、警報装置に関してはまったく心配していなかった。万が一、発見されたとしても、切り抜けられる自信はある。
むしろあたしが心配しているのは、中に忍びこんで何も発見できなかった場合のことだった。もし、すべてが天津さんの勘違いで、ここがごくまっとうな研究所だったとしたら、あたしは正統な理由もなしに不法侵入の罪を犯すことになる……。
「しょうがない。参りますか」
あたしはするりと車から降りた。こんなところで悩んでいても埒《らち》があかない。どうせやらなくちゃいけないことなら、早めに済ませてしまいたい――バイト代五万円も前払いで貰《もら》っちゃってるしね。
あれからいったん家に帰って、タンクトップにスパッツという活動的なスタイルに着替えていた。これからジョギングでもしようかという格好だ。暗がりで目立たないよう、どちらも男っぽい系統のものを選んでいる。必要な道具を入れるための小さいリュックサックも用意していた。気分はすっかり女怪盗だ。
「母さん、カメラ」
「ちょっと待って。確認してるから」
母さんはビデオカメラをこちらに向け、ファインダーを覗《のそ》きこんでいる。
「うん、だいじょうぶ。映ってないわ」
「だから心配いらないって言ってるのに」
「万が一ってことがあるかもしれないじゃない……はい、落とさないようにね」
あたしは母さんからビデオカメラを手渡された。証拠を撮影するためのものだ。壁をよじ登るのにじゃまにならないよう、リュックの中にしまう。
「携帯電話は持った? 番号をメモした紙も忘れずにね。それとハンカチとビニール袋、ちゃんと入ってる?」
「はいはい」
忘れ物を注意する母さんの口調に、あたしは懐かしいものを感じ、笑みを洩《も》らした。小学校の時の遠足みたいな気分だ。
携帯電話は連絡用だ。あいにくと一台しかないので、母さんは車で三〇〇メートルほど後戻りして、ここに来る途中の道にあった電話ボックスで待機する。あたしが撤退する時、もしくは何か危機に陥った時には、電話すれば駆けつけてくれる手筈《てはず》になっている。ハンカチは指紋を残さないため、ビニール袋は何か証拠品を見つけた場合に持ち帰るためのものだ。準備は万全である。
「じゃ、くれぐれも気をつけてね」
「まかせといて」
あたしはウインクした。母さんはそれでも少し心配そうだったけど、名残惜《なごりお》しそうな様子で車をバックさせた。元来た道を戻ってゆく。
「さあて……」
あたしは深呼吸した。これからいよいよ、母親公認の非合法活動の開始だ。
ダッシュして塀に飛びつき、よじ登る。子供の頃から運動にはやたら自信があるので、これぐらいどうってことはない。中学の時、遅刻しそうになって、教室まで近道しようと、学校の裏の塀を乗り越えたことがよくあったのを思い出す。
塀の向こうは研究所の前庭だ。水銀灯にしらじらと照らし出されたその光景は、動くものはまったくなくて、まるで写真を見ているようだ。人の気配がないのを確認して、芝生の上にさっと飛び降り、身を低くして植えこみの後ろに隠れる。
聴力を最大に上げて、あたりの様子をうかがった。周囲の田んぼで合唱している蛙《かえる》の声がにぎやかだ。建物の中から響いてくるブーンという機械音は、冷凍装置を動かすポンプの音だろうか……。
あたしはスリルを感じ、背中がぞくぞくするのを覚えた。うーん、やみつきになりそうだな、これ。
陰から陰へと走りながら、建物の周囲をぐるっと回ってみた。正面のガラス張りのドアは、予想した通り、内側からロックされていた。裏口のドアも同様。荷物の搬入用らしい大きなシャッターもあったけど、とても開きそうにない。
となると――あたしは星空を背景にそびえる建物を見上げ、ため息をついた。やっぱり侵入路は上しかないか。
あたしは建物の裏に回ると、こっそりスニーカーを脱いで裸足になった。さらにスパッツとパンツも脱ぎ、手早く丸めて、リュックの中に押しこむ。
うら若い娘が真夜中に他所様《よそさま》の敷地に侵入したうえに、下半身すっぽんぽんになっている――なるべく(いや、断じて)人には見られたくない光景だ。でも、しかたがない。脱がずに変身したら服が破れちゃうんだから。
準備ができたところで、あたしはおもむろに変身した。
つい一月半ほど前、初めて変身した時には、あたしはまだ自分の意志で変身をコントロールできなかった。エッチな気分になると、意志に関係なく変身してしまうのだ。
それからあたしは、毎日必死で練習した。変身が嬉《うれ》しかったからじゃなく、その逆。変身をすばやく解除する方法を会得《えとく》するためだ。たとえばの話、学校のトイレとか更衣室とかで、何かの拍子に間違って変身してしまっても、誰《だれ》かが来る前に元に戻ればバレずに済む――そして、変身の解き方を練習するためには、まず変身しなくてはならない。
練習の甲斐《かい》あって(どんな練習をしたかは言いたくない!)あたしはいちいちエッチな気分にならなくても変身できるようになったし、元に戻る方法もマスターした。でも、本質的な問題はぜんぜん解決していない。エッチな気分になると意志に反して変身してしまうという性質だけは、どうしても治らないのだ……。
変身が完了すると、あたしは改めて自分のおぞましい姿を見下ろし、嫌悪感に身ぶるいした。もう数えきれないほどの回数、変身してるけど、どうしても自分の姿に慣れることができない――いや、慣れたくないと言うべきか。
髪の毛が異様に長くなっただけで、上半身のプロポーションは基本的にほとんど変化していない。問題は下半身だ。へそから下は針のような毛でびっしり覆われている。尻《しり》は柿の種のような形に大きく膨れ上がり、毒々しい黄色と黒の原色に塗り分けられていた。すらりとした白い二本の脚の代わりに、蟹《かに》の脚に毛が生えたような八本の脚が生えている。
上半身女で下半身|蜘蛛《くも》の妖怪《ようかい》――それがあたしの姿だった。
父さんに言わせると、「変身するんじゃなく、変身が解けて本来の姿に戻るんだ」そうだけど、あたしとしてはその解釈に同意したくない。自分の本当の姿が蜘蛛女で、人間の方が仮の姿だなんて、断じて認めない。認めたくない……。
おっと、こんなところで自己嫌悪と現実逃避にひたっている暇はないんだった。あたしは気を取り直し、母さんから頼まれた任務を続行することにした。
建物の側面の壁に脚をかけた。錐《きり》のように尖《とが》った細長い脚は、先端に接着剤でもついているかのように、すべすべした壁にぴたりと貼《は》りつく。あたしはするすると壁をよじ登っていった。まったく足がかりがない垂直の壁面なのに、まるで水平の地面を歩くように、何の造作もなしに這《は》い回ることができた。
四階の高さまで登った。側面の窓はどれもはめ殺しになっていて、開きそうにない。まさかこんな高さの窓に警報装置は仕掛けてないと思うけど、ガラスを割るのはためらわれた。怪我をするかもしれないし、音を聞きつけられる危険もあるからだ。
建物の背後に回りこむと、開く窓がひとつだけ見つかった。トイレの個室の窓だ。ちょっと下品な侵入経路だけど、この際、選り好みはしていられない。
蜘蛛の姿のままでは狭くて通れそうにないので、あたしはまずリュックを室内に落としてから、上半身をもぐりこませた。変身を解き、人間の姿に戻って窓を通り抜け、便器の蓋《ふた》の上に降り立つ。
リュックの中から脱いだばかりのスパッツとスニーカーを取り出し、身に着ける。面倒な手続きだけど、しかたがない。いくら人に見られていないからったって、さすがに下半身まる出しでビルの中を歩き回る度胸は、あたしにはない。
ドアをきしませないよう注意しながら、トイレの外に出る。通路の照明は消えていた。人間の目には真《ま》っ暗闇《くらやみ》だろうけど、あたしの目にはちょっと薄暗い感じがするだけで、通路の奥まで見通すことができる。
通路はしーんと静まりかえっていた。数十メートル先にある突き当たりまで、視界をさえぎるものは何もなく、壁に沿って等間隔でドアが並んでいるだけだ。冷たくて人間味が感じられず、ちょっと不気味な光景だ――妖怪が夜をこわがるのは変だけど、こわいんだからしかたがない。
あたしは耳を澄ませた。指向性マイクのように鋭敏なあたしの聴力なら、離れたところにいる人間の呼吸音でも聴き取れる。誰かが近くにいれば確実に分かるはずなのだ。
人間の気配はまったくなく、ポンプの音がするだけだった。ずっと下の方から聞こえてくるようだ。遺体を保管している冷凍タンクがあるとしたら、たぶん地下だろう。ドラマなんかでも、秘密の研究施設ってのは、たいてい地下にあるもんだし。
あたしは階段を見つけ、慎重に足音を殺して降りていった。途中で誰とも出会わなかったし、話し声ひとつ、足音ひとつ聞こえなかった。あまりに何も起きないので、あたしはかえって不安になってきた。外から明かりが見えたぐらいだから、警備員ぐらいいたっていいはずなんだけど……。
一階まで降りたけど、階段はさらに下に続いていた。とりあえず底まで降りてみることにする。地下に降りるにつれ、ポンプの音がだんだん大きくなってきて、空気もなんだか肌寒くなってきた。
地下一階。階段の終わりにはコンクリートの壁で囲まれた小さな部屋があって、 <関係者以外立入禁止> と書かれたドアがあった。ポンプの音はこの向こうから聞こえている。どこからか冷気がかすかに洩れているのも感じられる。
ふと見上げると、ドアの上には監視カメラがあった。あたしの方を向いている。
あたしはカメラに向かって舌を出してやった。今この瞬間、モニターを見ている人がいたとしても、何も気がつかないだろう。あたしの姿はカメラに映らないし、ビデオにも録画されない。もちろん警報装置にもひっかからない――機械にとって、あたしは透明人間も同然なのだ。
ハンカチをドアの開閉レバーにかけ、回してみた。鍵《かぎ》はかかっていない。断熱材が入っているせいか、ドアはやけに厚くて重かった。あたしは肩でドアを押し、ほんの少しだけ開けて、中の様子を覗《のぞ》いてみた。
そこはキャットウォークだった。大きな部屋の天井近くの壁に沿って、金属の格子でできた狭い通路が取り巻いていて、部屋を見下ろせるようになっている。
眼下には明かりのついた大きな部屋があった。広さは学校の教室の三倍ぐらい、床から天井までの高さは六メートルほどもある。壁際にはわけの分からない機械が並び、うがいをしているようなゴロゴロという音、ハミングしているようなブーンという音、何かをつぶやいているようなコポコポという音をたてていた。天井にはいろんな太さのパイプが何本も這い回っていて、大きな荷物を移動するのに使うらしいクレーンもぶら下がっている。工場みたいな雰囲気だけど、壁も床も真っ白に塗装されていて、清潔すぎて気味が悪い。
部屋の一方の壁には、ビルの屋上の給水タンクのような、大きな円筒形のタンクが三つ、台座に据えつけられていた。一個のタンクは人間が三人立って入れるぐらいの大きさだ。側面には赤い字で <DANGER! LIQUID NITROGEN> (危険! 液体窒素)と書いてある。あれがそうなんだろうか?
タンクの一つは蓋が開いていた。あたしはリュックからビデオカメラを取り出し、キャットウォークの上を進んだ。タンクを真上から見下ろせる位置に移動する。
緊張してカメラを構えたものの、あいにくとタンクの中は空っぽだった。あたしはちょっとがっくりした。タンクの中に保存されている冷凍死体をばっちり撮影できれば、これで任務完了だったのに……。
カメラのファインダーを覗いていて、あたしはふと、妙なことに気がついた。タンクの蓋がひどく変形してる――まるで内側から強い力でこじ開けられたような感じだ。爆発事故でもあったんだろうか? でも、確か窒素って爆発しないはずだ。
もっと詳しく調べるために、床に降りてみることにした。左手の指から細い糸を発射し、天井のパイプにからみつかせる。キャットウォークの手すりを乗り越え、糸の張力で空中にぶら下がった。右手にカメラを持ち、左手を高く掲げた姿勢で、指から糸をつむぎ出す。あたしの体は見えないエレベーターに乗っているかのように、するすると降下していった。
糸を切断し、床に降り立つ。冷気が沈殿していて、やけに寒い。あたしは自分の肩を抱いて、ぶるっと震えた。上からもう一枚着てくればよかった。
この部屋には入口が三つあった。ひとつはあたしが入ってきたキャットウォークのドア。ひとつは今あたしの正面にある大きなステンレス製の扉で、たぶん大型のエレベーターだろう。そしてもうひとつ、隣の部屋に続いているらしい小さなドアがあった。
あたしはそのドアに近づいた。小さなガラス窓から中を覗きこむ。こぢんまりした研究室になっているらしく、デスクの上にはパソコンやファイルが雑然と並んでいた。
白衣を着た男性が部屋の真ん中にいて、あたしに背を向けて立っていた。
慌てて首をひっこめた。こんなところで人に出くわすとは予想外だった。見つからないうちに退散しなくちゃ……。
振り向いてその場を離れかけて、あたしはぎくりとした。
どうして呼吸音が聞こえないの?
あたしはおそるおそる振り返り、もう一度、窓から室内を覗きこんだ。男はじっと立ったまま、マネキン人形のように身動きひとつしない。やっぱり呼吸音は聞こえなかった。よく見ると、男の着ている白衣や、その周辺の床が、バケツで水をぶちまけたようにびっしょり濡《ぬ》れている……。
ごくり。これはあたしが唾《つば》を飲みこんだ音。
あたしは心臓がどきどき高鳴るのを覚えながら、ゆっくりとドアを開けた。男はやっぱり動かない。まるで何かの動作の途中で時間が止まってしまったかのように、不自然な姿勢で立ちつくしている。
こわかった。できれば今すぐに逃げ出したかった。でも、真実を確かめないわけにはいかない。あたしは泣き出したい気分を懸命にこらえながら、男の背後から一歩ずつ忍び寄っていった。
ぴちゃり。これはあたしのスニーカーが床の水たまりを踏んだ音。
手を伸ばせば触れる距離まで近づいた。そうっと肩に手を伸ばす。恐怖で頭がぼうっとなっている反面、意識の片隅には妙に冷静な部分があって、こんなホラー映画みたいなパターンは嫌だな、あたしの趣味じゃないな、などと考えていた。
男の肩に触れた。濡れていて、異様に冷たい。あたしは触覚も鋭敏で、触れるだけで相手の脈拍を感じられるはずなのだが、指先にはわずかな振動も伝わってこなかった。嫌だ嫌だと思いつつ、少しゆすってみた……。
そのとたん、男の体はバランスを崩し、ホラー映画のパターン通り、硬直した姿勢のまま、床にどさっと倒れた。
3 ゾンビと吸血鬼はどう違う?
あたしは動けなかった。床に倒れている男と同じように硬直していた。
あたしは生まれて初めて本物の恐怖というものを知った。悲鳴をあげられるうちは、まだ本物の恐怖じゃない。恐怖も限界を超えると、感情が麻痺《まひ》してしまって、何も考えられなくなってしまうのだ……。
たっぷり一分は立ちつくしていたと思う。やがて、じわじわと氷が溶《と》けるように、あたしの思考はゆっくりと動きはじめた。
死体のそばにそっとしゃがみこんだ。めまいがしそうなのを必死に耐えながら、ビデオカメラで死体の様子を撮影する。髪の毛が後退しかけている中年男性だった。見たところ温厚そうな顔には血の気がまったくない。その表情は恐怖と驚きでこわばっていて、厚いメガネの奥の目は大きく見開かれている。白衣の胸には <所長 江戸《えど》礼次郎《れいじろう》> というネームプレートがついていた。
ただの死後硬直じゃないことぐらい、素人《しろうと》でも見当がつく。死体の冷たさも異様だ。死因はたぶん凍死――強烈な冷気を浴びて、床に倒れる暇もなく、一瞬のうちに凍ってしまったんだろう。
事故だろうか? タンクから洩《も》れた液体窒素を浴びてしまったとか――いや、それなら隣の部屋で死んでるはずだ。こんなところで立ったまま凍ってるのは、絶対におかしい。
何か常識を超えた力が作用していることは間違いない。
謎《なぞ》を解く手がかりを求めて、死体の周囲を見回した。死体や床が濡れているのは、氷が溶けたからだろう。おびただしい水の量から見て、かなり厚い氷だったはずだ。この室内の寒さでは、溶けるのにかなりの時間がかかったに違いない。とすると、死んだのは何十時間も前のことになる。
どうして誰《だれ》も警察に通報しなかったんだろう? 盆休みで他に所員がいなかったとしても、警備員ぐらいいるはずなのに――ひょっとしたら、他の警備員もすでに……?
ふと、近くのデスクの上に置かれている小型のテープレコーダーに気がついた。ひょっとしたら事件の前後の物音が録音されているかもしれない。かすかな希望を抱いて、あたしは再生ボタンを押してみた。
『……いつまであの死体を放っておくつもりなんですか、え? いいかげん、きちんと埋葬してやったらどうなんです?』
若い男の声が流れ出した。皮肉っぽい口調で相手を非難している。それに答えているのは、年長の男の声だ。
『死体などではないよ。未来へ希望を託して眠っている人たちだ』
『詭弁《きべん》ですな。あのタンクの中の連中は、心臓も脳波も完全に停止してる。あれは死体そのものだ。生き返る可能性なんてない』
『クライオニクスはまっとうな科学技術だよ。げんに動物実験は何十年も前に成功している。生きたビーグル犬を凍結させて、また蘇生《そせい》させた例がある』
『はっ! そんなセールストークはなしにしましょうや。その実験のことは俺《おれ》も本で読みましたがね、たった三〇分間、しかも凍結点近くまで冷やしただけで、細胞を凍結させてなんかいない。細胞内の水が凍って結晶化すると、細胞膜を破壊してしまう。壊れた細胞は解凍しても元には戻らない――所長さん、あんたも科学者なら、それぐらいご存じのはずでしょうが』
所長さん――ということは、年長の方はここに倒れている江戸氏なのだろうか。
あたしは死人の声を聞いているのだ。
『壊れた細胞でも理論的には修復可能だ。未来の進歩したナノテクノロジーなら、分子の配列を自由に操作できる……』
『ドレクスラーの主張ですな。だが、そいつは理論なんてもんじゃない。単なる希望的観測、というか夢物語みたいなもんだ。あんたは明貝氏と契約する前に、ちゃんと説明はしたんですか? 冷凍したって未来に蘇生できるという確かな科学的根拠はない。この事業は詐欺《さぎ》同然で、法律的には殺人そのものだってことを――』
ドン! 大きな音がした。たぶん興奮してテーブルを叩《たた》いたんだろう。
『話をそらすんじゃない、天津くん! 訊問《じんもん》しているのは私の方だぞ!』
天津さん! あたしはびっくりした。どうやらこのテープ、所長が天津さんを訊問しているところを録音したものらしい。
だが、驚くのはまだ早かった。
『言いたまえ! 明貝氏の死体をどこへやった!? どうやって盗んだ!?』
死体を盗んだ? 天津さんが?
『さあ、知りませんね。だいたい、死体がなくなったのは昨日のことなんでしょ? 俺は今日、ここに忍びこんだばかりですぜ』
『とぼけるのはやめたまえ! おおかた他の死体も盗みに来たんだろう。きっと仲間がいるに違いない。あの重い死体を一人で運び出すなんて不可能だからな』
『誰かが運び出したとはかぎらんでしょう』
『どういうことだ?』
『自分で歩いて出てったんじゃないですか?』
『……歩いて?』
『そうですよ。だからちゃんと葬ってやるべきだったんだ。いつまでも死体を葬らずに放っておくから、こんなことになる――』
『バカな! 死体が……零下二〇〇度の液体窒素に浸かっていた死体が、勝手に歩き出すわけ示なかろう!』
『おやおや、矛盾したことをおっしゃいますなあ』天津さんは嘲笑《ちょうしょう》した。『あんたはさっき、あれが死体じゃないって主張したばかりじゃないですか。それとも、死体が生き返ることを信じないんですか?』
『それは未来の科学の話だ。オカルトの話をしているんじゃない!』
『ナノマシンによる細胞修復というファンタジーは信じるけど、オカルトは信じないってわけですか?』
『当たり前だ! 死体が勝手に歩き出すなんて、そんなことは――そんなことは科学的に絶対にありえないことだ!』
あたしはレコーダーのスイッチを切った。
おそるおそる振り返る。開いたドア越しに、隣の部屋にあるタンクが見えた。蓋《ふた》が内側からこじ開けられたタンク……。
所長の言う通り、冷凍された死体が勝手に動き出すなんて、科学的にはありえない。それは確かだ――でも、そんなことを言ったら、蜘蛛女《くもおんな》だって科学的にありえないんだけど。
背筋がぞくぞくするのは寒さのせいばかりじゃなかった。こんな事件はとてもあたし一人の手には負えない。この際、誰かに助けを求めるしかない。
あたしはリュックから携帯電話を取り出した。こういう場合、真っ先に誰に知らせるべきだろう? 母さん? 警察? 病院? それとも、死体の処理だから保健所?
いや違う。まず専門家の助言をあおぐのがベストだ。
あたしは自宅の電話番号をプッシュした。呼出音が八回ほど鳴ったところで、受話器が上がった。
『ふわーい、穂月ですが』
父さんの間の抜けた声がした。もう寝ていたらしい。
「ごめん、あたし。起こしちゃった?」
『何だ、湧か……どうしたんだ? 友達の家に泊まってるんじゃなかったのか?』
まさか母さんにそそのかされて非合法活動をしてる最中とは言えない。
「いや、まあその話はおいといて……父さんに訊《き》きたいことがあるんだけど」
『うん? 何だ?』
ためらっていてもしかたがない。あたしは思いきって切り出した。
「死体が勝手に動き出すってこと、ある?」
『何だ、薮から棒に。友達と百物語でもやってるのか?』
「ま、そんなとこだけど……父さんならその手の話、詳しいでしょ?」
『まあな。死体が動き出すというフォークロアは、それこそ世界中に分布してるから、いちいち例を挙げたらきりがない。まあ、いちばん有名なのは東欧のヴァンパイアだが』
「ヴァンパイアって……ドラキュラ伯爵?」
確かにドラキュラも棺の中で寝てたりはするけど……ちょっとイメージが違う。
『いやいや、ヴァンパイアが黒いマントを着た高貴な伯爵だというイメージは、一九世紀に書かれたブラム・ストーカーの小説が広めたものなんだ。それ以前、ヨーロッパ各地に分布していたヴァンパイアのイメージは、腐乱した醜い死体が墓から這《は》い出してきて、人間を襲うというものだった。地方によっていろんな呼び名があった。スラグ語ではヴァンピールといって、これが英語のヴァンパイアの語源だな。ギリシャではヴリュコラカス、ドイツではナハツェーラー、ロシアではウピール、北欧ではボグボディ、それとルーマニアでは確か……』
「それ、ゾンビとどう違うの?」
『ゾンビは本来、ブードゥー教の呪術《じゅじゅつ》で蘇《よみがえ》った死体のことだ。ホラー映画では悪者として描かれているが、基本的には術者の命令に従って労働を行なうだけで、おとなしい存在だ。それに対して、ヴァンピールやヴリュコラカスってのは、死体が勝手に動き出す現象で、人間を襲って血を吸ったり肉を食らったりする危険な奴《やつ》だ――まあ、昨今のホラー映画に出てくる凶暴なゾンビは、ハイチの伝統的なゾンビよりは、ヨーロッパの古いヴァンピールのイメージに近いと言えるな』
「でも、どうして死体が勝手に生き返ったりするわけ?」
『うむ、悪霊が死体に取り憑《つ》くからだとも言われているが……私の考えじゃ、人間の想いが死体を動かすんだと思うな』
「想いが?」
『そうだ。安らかに死ねなかった人間――現世に異常な執着のある人間は、死んでもその想いは消えない。死にたくない、もっと生きたいという本能的欲求が、残留思念となって死体に染みついている。その思念が死体を動かすんだろうな』
「それがどうして人間を襲うの?」
『残留思念と言ったって、脳細胞が腐ってしまってるんじゃ、まともにものを考える力なんてあるわけがない。本能のままにうろつき回って、飢えを満たすために人や家畜を食うんだろう。昔の人はそれを知っていたから、死体を深く埋めたり、燃やしたりして、二度と動き出すことがないようにしていたわけだな。埋葬や火葬というのは、死体がヴァンピールになるのを防ぐ古代人の知恵なんだ』
「でも、死体をミイラにして保存しようとした人もいたじゃない。エジプトのファラオとかさ」
『その通りだ。彼らは死体がまれに動き出すことがあるのを知っていた。だからこそ、いつか復活することに望みをかけて、自分の死体を最高の状態で保存させようとしたんだろうな。もちろん、科学的にはまったくのナンセンスなんだが――知ってるか? エジプトのミイラ造り職人は、まず最初に、死体の鼻の穴に耳かきのような道具を差しこんで、脳ミソを全部かき出してしまうんだ。魂が肉体に戻って来たって、脳ミソがないんじゃ、まったくお話にならないのにな』
父さんのお喋《しゃべ》りを聞いていて、さっきの天津さんの言葉を思い出した。遺体の冷凍保存を望む人たちは、未来の科学技術によって復活することを夢見ている。でも、実際にはその細胞は完全に破壊されていて、生き返れる望みはまったくない……。
クライオニクスは科学というより、一種の信仰だ。それは現代のハイテクが生んだニュータイプのミイラなのかもしれない。
そんなことを考えていた時――
ゴオオオオーン……。
突然、地鳴りのような音が地下室に轟《とどろ》いたので、あたしの心臓は飛び上がった。それがエレベーターの音だと気がつくのに、三秒ほどかかったと思う。
誰《だれ》かがエレベーターで降りてくる!
「ごめん! これで切るね!」
『おい、湧。いったい何が――』
あたしは父さんの質問をさえぎって電話を切った。電話をリュックの中にしまうと、慌ててさっきの部屋に駆け戻る。
エレベーターの扉の上にある階数表示のランプに目をやる。すでに <B2> のランプが点灯していた。キャットウォークに登っている時間はない。あたしはとっさに近くにあった太いパイプの後ろに身を隠した。
エレベーターががくんと停止する音がしたかと思うと、重々しい音を立てて、幅三メートルほどもあるステンレスの扉が、ゆっくりと上にスライドしはじめた。扉の隙間《すきま》から白い霧が流れ出す。
やがて、扉が完全に開くと、そいつは体を左右に揺らし、おもむろに歩み出てきた。
べりっ……べりっ……。
そいつが歩くたびに、何かが破れるような嫌な音がした。
あたしは悲鳴をあげまいと、必死で自分の口を押さえていた。本当は目もふさぎたかったけど、好奇心がそれに勝った。あたしは見たくもないのに、そいつの姿をありありと見てしまった。
冷凍ミイラが歩いてる!
4 ミイラに好かれて大迷惑
ミイラは全裸で、かなり背が高く、太り気味だった。明貝氏の顔は知らないけど、生前は九〇キロを越える巨漢だったというから、たぶん本人に間違いない。
たとえ顔を知ってたって、確認するのは難しいだろう。だって、顔は真っ白な厚い霜に覆われてるし、頭からはつららがロングヘアのように垂れ下がってるんだから。体も霜と氷にびっしり覆われていて、体を動かすたびに小さな氷のかけらが剥《は》がれ落ちる。足には白い霧がまとわりついていた。
それだけでも充分に気持ち悪いのに、さらに悪趣味なことには、そいつは両手に一個ずつ、やはり霜に覆われた生首をぶら提げているのだ。同じタンクの中で冷凍にされていた人のものだろうか。
べりっ……べりっ……。
冷凍ミイラは歩くのが難儀そうだった。低温のために足の裏が床に貼《は》りついてしまい、一歩ごとにそれをひっぺがさなくてはならないのだ。
そいつはあたしに気がついた様子はなかった。冷凍タンクの前まで来て立ち止まると、片方の生首を前に突き出す。生首が口を開き、タンクの側面についているパイプのバルブに、がぶりと食らいついた。
冷凍ミイラが何度か腕をひねると、バルブがゆるみ、パイプから白い蒸気の混じった液体が勢いよく噴出しはじめた。タンク内に満たされている液体窒素だろう。冷凍ミイラはそれをシャワーのように全身に浴び、嬉《うれ》しそうに体を震わせた。「おおおおお……」としゃがれた声まで出している。低温を維持するために、液体窒素を定期的に浴びる必要があるらしい。
あたしはそっとビデオカメラを持ち上げ、そいつにレンズを向けた――でも、液晶ファインダーに映っているのは、噴出する液体窒素と白い霧だけ。それを浴びている冷凍ミイラは映っていない。
なるほど、動き出した死体はもう人間じゃない。あたしと同じ、妖怪《ようかい》ってわけだ。
明貝氏はひどく死を恐れていた。生に執着するあまり、死ぬべき運命と向かい合うのを避けたのだ。だから大金を投げ出して、自分の体を冷凍にする道を選んだんだろう。その体に染みついた執念はあまりに強すぎて、ついには冷凍された死体を動かし、妖怪に変えてしまったのだ。
所長を殺したのもこいつに違いない。いったんは研究所の外に逃げ出したけど、冷気を補充するために戻ってきたのだろう。脳細胞もすっかり壊れてしまっていて、まともにものを考える力もなく、本能のままに動いているのだ。もしかしたら、天津さんももう殺されてしまったのかも……。
液体窒素が噴出したせいで、ただでさえ低かった室内の気温は、さらに低下した。その寒気は薄着のあたしに容赦なく襲いかかってくる。鼻がむずむずしてきた。
まずい。くしゃみが……。
「くしゅん!」
出た。
ぎりぎりぎり……氷がきしむ嫌な音を立てて、冷凍ミイラが振り返った。あたしともろに視線が合ってしまう。
「あはははは……こ、こんばんは」
あたしはしらじらしく笑った――笑ってごまかせるような事態じゃないんだけど。
ミイラはあたしの姿をしげしげと眺めると、凍りついた歯の間から、老人のようなしゃがれた声を絞り出した。
「かわいい……」
「へ?」
「かわいい……だきたい……」
「はあ?」
あたしの笑みは凍りついた。生前の明貝氏が、海外に少女買春ツアーに出かけるほどの、ロリコンの変態オヤジだったことを思い出したのだ。その欲望が残留思念となって、この冷凍ミイラに染みついているとしたら……?
悪い予感は的中した。
「いくらだあああ……」
「ひええええええーっ!?」
あたしは情けない悲鳴をあげた。恐怖のあまり腰が抜けそうになる。変態の中年オヤジで、そのうえ冷凍死体――そんなのの相手なんて、何億円積まれたってごめんだ!
べりっ……べりっ……冷凍ミイラは両腕を前に突き出し、足を床からひっぺがしながら、磁石に吸い寄せられるかのように、あたしの方によろよろと近づいてきた。やばい!
あたしは必死に逃げ道を探した。キャットウォークによじ登るのは難しい。ハシゴは冷凍ミイラの背後にあって、奴《やつ》の横をすり抜けないとたどり着けない――となると、脱出路はエレベーターしかない。
マヌケな話だけど、あたしはこの時、パニックに陥っていて、自分に壁を登る能力があることをすっかり忘れていたのだった。
聞きっぱなしになっていたエレベーターの中に駆けこみ、 <4> と <開> のボタンを叩《たた》いた。冷凍ミイラも追いかけてくるけど、さっきよりかなり歩調が速い。冷気を補充して元気になったんだろうか。ステンレスの扉が音を立てて下がりはじめたけど、間に合いそうにない。
「いくらだあああ……」
「来るなあ!」
あたしはミイラに向けて糸を放った。ぐるぐる巻きにして足止めするつもりだった。糸はうまくミイラの手足にからみつき、動きを鈍らせた。
でも、それはほんの数秒のことだった。そいつは体をよじると、糸をやすやすとひきちぎってしまったのだ――鋼鉄なみの固さがある糸なのに!?
幸い、ミイラの目の前で扉はぴしゃりと閉まり、エレベーターは上昇を開始した。
あたしはエレベーターの壁によりかかり、ほっとひと息ついた。壊れやすいサンプルを運ぶのに使うためだろうか、エレベーターの上昇速度はかなり遅かった。それでも着実に回数表示のランプは上がってゆく。あのミイラの歩調では、追いつけるとは思えない。四階に到着したら、トイレの窓から脱出する時間はたっぷりある……。
がこん! 頭上でものすごい音がしたかと思うと、エレベーターが大きく揺れ、照明が消えた。
「な、何!?」
あたしはうろたえた。エレベーターは三階と四階の中間で止まってしまった!
がこん! がこん! 続けざまに音がした。何かが激しく天井を叩いている。衝撃で天井の照明パネルがはずれて落下し、蛍光灯がむき出しになった。
「嘘《うそ》!? どうして上から!?」
冷静に分析している余裕はなかった。蛍光灯が砕けたかと思うと、天井がばりばりと裂け、凍った生首をつかんだ腕が飛び出してきたのだ!
「いくらだあああ……」
裂け目から覗《のぞ》きこんできたミイラが、あたしを見つめてつぶやいた。
その姿がぼやけたかと思うと、体全体がガス状に変化した。白く太い霧の滝となって、裂け目からエレベーターの中になだれこんでくる。遅まきながら、あたしはヴァンパイアの伝説を思い出した――ヴァンパイアは霧になって移動することができるんだ。
流れ落ちた霧は、エレベーターの中央で大きく盛り上がり、人の形になりはじめた。また実体化しようとしているのだ。こんな狭い場所じゃ逃げ場がない。
でも、何もせずにじっと待っているほど、あたしはお人好しじゃない。逃げ道がないなら強引に作るまでだ。あたしは切れ味の鋭い乾いた糸を天井に向かって放ち、割れたパネルをさらに切り裂いて、穴を広げた。
実体化した冷凍ミイラが、ゆっくりと起き上がってきた。あたしはスパッツを引き裂いて蜘蛛女《くもおんな》に変身すると、後ろ向きに壁を這《は》い上がり、天井の穴から外に出た。
「いくらだあああ……」
置き去りにされた冷凍ミイラはあたしを見上げ、恨めしそうな声を出した。
「おとなしく死んでろ!」
あたしは八本の足でエレベーター・シャフトの壁面にへばりつくと、エレベーターを吊《つ》るしている太いケーブルに向かって糸を放った。さすがに一回でスパッと切断というわけにはいかなかったけど、二回、三回と切りつけると、撚《よ》り合わされたワイヤーがぷつぷつと切れていった。
四回目に切りつけた時、ケーブルは重量に耐えかねて引きちぎれた。エレベーターはすごい音をたてて落下してゆく。
シャフトの底に激突しても、思ったほど大きな音はしなかった。エレベーターの側面には非常用の減速装置がついていて、万一ケーブルが切断されても、ゆっくりと落下する仕掛けになっている。当然、中の冷凍ミイラはぜんぜんダメージなんか受けていないだろう。
思った通り、シャフトの底から白い霧のかたまりが上がってくるのが見えた。ぐずぐずしてはいられない。あたしは近くにあった扉を力まかせにこじ開けにかかった。重くてなかなか開かない。
ようやく扉が開いたとたん、硬直した警備員の死体が倒れかかってきた!
「うひゃああああああ!」
あたしは驚きのあまり、あやうく足を滑らせそうになった。のしかかってきた死体を慌てて払いのける。死体はマネキンのように硬直したまま、シャフトの底に落ちていった。まさかこんなところで殺されてたなんて、予想できるわけがない。
あたしは四階の廊下に転がり出た。その直後、霧のかたまりもあたしを追ってシャフトから流れ出してきた。床の上で実体化して、あたしの行く手をさえぎろうとする。
「いくらだあああ……」
「しつこい!」
あたしは怒りを爆発させた。ミイラが実体化した瞬間を狙《ねら》って、切れ味の鋭い糸を発射する。命中すれば人間の首ぐらい簡単に切り落とせる――はずだった。
冷凍ミイラは右腕を突き出した。右手に持った生首の口から、真っ白なガスが噴出する。あたしの放った糸はそのガスに包みこまれた。ぴきびきと音をたてて空中で凍りつき、飴細工《あめざいく》みたいになって床に落下する。
「この! この!」
あたしは何度も糸を放ったけど、無駄だった。ミイラの噴射する冷気が盾になって、糸の攻撃を阻んでしまう。それどころか、冷気は勢い余ってあたしの体にも襲いかかってきた。気がつくと、あたしはまるで吹雪の中を歩いてきたかのように、全身が真っ白になっていた。
「く……寒い!」
あたしは震え上がった。このままじゃ所長みたいに氷漬けにされてしまう。この場はとにかく逃げるしかない。
あたしは冷凍ミイラに背を向け、廊下の反対側に向かって走った。ミイラはべりべりと音をたてて追いかけてくる。
廊下の突き当たりに追い詰められた。ミイラは着実に距離を詰めてくる。救いを求めて、近くにあったドアのノブを回してみた。幸い、鍵《かぎ》はかかっていなかった。あたしはその部屋の中に転がりこんだ。
誰《だれ》かのオフィスらしく、正面には大きなガラス窓があった。外には平和な夜の田園風景が広がっている。
あたしはデスクの上にあったパソコンのモニターを持ち上げ、窓に投げつけた。強化ガラスにひびが入ったけど、モニターははじき返されてしまった。あたしはそれでもめげずに、今度はシュロの鉢植えを持ち上げ、力いっぱい窓に叩きつけた。
がっしゃーん! 派手な音がして、ガラスは砕け散った。あたしは窓の外にダイブしようとした。
その瞬間、あたしの足元めがけて、背後から白いガスが吹きつけられた。飛び出そうとしたあたしは、前につんのめった。
足が床に貼《は》りついちゃった!
目の前にある、まだ割れ残った窓ガラスには、動きを封じられてもがくあたしと、その背後から迫ってくる冷凍ミイラの姿が映っていた。ミイラは両腕を突き出し、蜘蛛の形をしたあたしの下半身に触れようとしていた。絶体絶命だ。
二つの生首が大きく口を開け、あたしのお尻《しり》にむしゃぶりついてきた。
「ひいいいい〜っ、冷たい!」
あたしは悲鳴をあげた。蜘蛛になってもお尻の感覚は元のままなのだ。氷のかたまりを押し当てられたみたいで、しびれるような冷たさだった。
「いくらだあああ……」
「ふえ〜ん! やだやだ〜っ! 助けてえ〜っ! もうやだよう〜っ!」
気の強いあたしも、さすがに限界だった。恐怖と冷たさに耐えられず、子供みたいに泣き出してしまった。その泣き声がミイラ男を興奮させたのか、さらに激しくお尻にむしゃぶりついてくる……。
その時、あたしは見た――ガラスのずっと向こう、暗い夜空から、何か灰色のものが急降下してくるのを。
そいつは見る見る大きくなってくると、窓の直前で翼を広げ、急停止した。割れた窓から激しく風が吹きこんでくる。
あたしは自分の危機も忘れて、その異様な怪物に見入っていた。鷲《わし》を思わせる巨大な翼は、広げると五メートルぐらいあるだろう。翼の後ろには蛇のような長い胴体がある。二本の脚があり、爪《つめ》は鋭くとがっていた。頭は人間のようだけど、オウムのような曲がった嘴《くちばし》がある。
「やっと見つけたぜ!」
そいつは聞き覚えのある声でそう言うと、足の爪を窓の縁にひっかけ、室内にのっそりと首を突っこんできた。冷凍ミイラはたじろいで後ずさる。
翼のある怪物は、かっと嘴を開いた。ほんの一瞬、真っ赤な口の中に並んでいる鋭い歯の列が見えた。
怪物の口から炎がほとばしった! それはあたしの横をかすめ、冷凍ミイラを直撃した。炎に包まれたミイラは、すさまじい悲鳴をあげ、悶《もだ》え苦しんだ。体のあちこちから激しい勢いで蒸気が噴出し、全身を包んでいた氷が溶けて、水が滝のように流れ落ちる。
数秒後、ミイラが立っていたはずの場所に残っているのは、湯気をたてている小さな水たまりにすぎなかった。
「だいじょうぶだったか?」
怪物はあたしの足元にも軽く炎を吹きかけ、氷を溶かしてくれた。あたしの足は床から解放された。
触られていたお尻は、霜焼けになったのか、ひりひりしている。
「あ……あの、ありがとうございます」
とまどいながらも、あたしはいちおう礼を言った。どうやら悪いやつじゃなさそうだし、助けられたら礼を言うのは当然だ。
「このあたりじゃ見かけない顔だな」怪物はあたしの顔をしげしげ見つめて言った。「どうして今夜は出かけなかったんだ?  <うさぎの穴> から召集がかかってただろうが」
「うさぎの……穴?」
「 <うさぎの穴> を知らないのか? 東京に何年住んでるんだ?」
「生まれてからずっとですけど……」
そう言ってから、あたしはさっきから抱いていた疑問を吐き出した。
「ひょっとして……あなた、天津さん?」
その怪物の声は、テープに入っていた天津さんの声にそっくりだったのだ。
「ああ、人間の姿じゃ、そういう名前を使ってるがな――どこかで会ったっけ?」
5 あたしの他にも妖怪が?
あたしはすぐに携帯電話で母さんに連絡し、車で迎えに来てもらった。スパッツが破れたもんで、人間の姿に戻ったら下半身がすっぽんぽんになってしまうからだ。蜘蛛女の格好もみっともないけど、そんなはしたない格好で外を歩くわけにはいかない。
あたしから事情を聞いた天津さんは、現場に残り、親切にもあたしに代わって事件の後始末をしてくれた。
後で知ったんだけど、天津さんの後始末のやり方は実に乱暴だった。地下の研究室にあった実験用の酸素ボンベのバルブを開き、高濃度の酸素が室内に充満したのを見計って、火をつけたのだ。高温の炎は室内にあったいろいろな化学薬品にも引火し、誘爆を起こした。クライオテック研究所は派手に炎上した。
凍死体が二体だけなら、こんな大げさな偽装工作は必要なかったんだ――と、天津さんは後で説明した。死体を壊れた液体窒素タンクの傍に置いておけば、単なる装置の事故ってことで処理できたかもしれない。ところが、あたしがエレベーターのケーブルを切断したり、窓を割ったりしたもんで、ごまかせなくなってしまった。証拠隠滅のためには、建物全体を燃やすしかなくなったのだ。
ちょっぴり心が痛んだけど、しかたがない。妖怪《ようかい》が(この場合はあたしが)この世に存在する証拠を残すわけにはいかないんだから。
後始末を済ませると、天津さんは人間の姿に戻り、あたしたちと合流した。天津さんが生きていたことを知って、母さんは素直に喜んだ。
その夜、あたしたちは天津さんからいろいろなことを教えてもらった。
天津さんは以津真天《いつまで》という、日本に古くからいる妖怪だった。葬られずに放置されている死体があると、「いつまで、いつまで」と鳴きながら、その死体を食いあさるのだという。
もっとも、誕生してから七〇〇年ぐらい経った今では、さすがに人間の死体を食べるのはやめているらしい。「死体なんか探さなくても、焼肉屋に行けば、うまい肉はいくらでも食えるからな」というのが本人の弁だ。
でも、死体が正しく埋葬されずに放置されているのががまんならない、という性格は変わっていない。そこでフリーのルポライターになって、日本各地を飛び回り、殺人と思われる行方不明事件や死体遺棄事件を専門に調査しているのだ。明貝氏に関する噂《うわさ》に興味を持ち、このクライオテック研究所の内情を調べるようになったのも、死体が葬られなかったことに嫌悪感を覚えたからだ。
二日前、天津さんはクライオテック研究所で何かトラブルがあったらしいと聞いて、真相を知るために夜中に忍びこんだ。そのトラブルというのは、明月氏の冷凍死体が消えてしまったことだった。ドジを踏んで捕らえられた天津さんは、死体泥棒の疑いをかけられ、所長に訊問《じんもん》された(それがあたしの聞いたあのテープだったわけ)。
その後、監禁されていた天津さんは自力で研究所を脱走、消えた死体の行方を追っていた。ところが冷凍ミイラは、彼の裏をかいたわけでもないんだろうけど、研究所に舞い戻って、所長と警備員を殺害していた……ということらしい。
あの研究所には他にも二個の液体窒素タンクがあった。あの中にも冷凍死体が詰まってたんだろうか? 何にせよ、それはもう燃えてしまっただろう。死者が未来世界に復活できる望みは断たれたのだ。
「気にすることはないさ」
ド派手な破壊活動をしたというのに、天津さんはあっけらかんとしていた。
「あいつらはもうみんな死んでいた。死体をきちんと葬ってやっただけのことだ――ま、世紀の特ダネを自分で潰《つぶ》しちまったのは、残念と言えば残念だが」
「それにしても、天津さんがそういう人だったなんてねえ」
事実を知らされた母さんの反応ときたら、知り合いの息子さんが卓球の全国大会で準優勝した、というニュースを聞いた時と、たいして変わらなかった。いつもマイペースで、どんな状況でも決して取り乱したりしないのが、母さんという人なのだ。これでも精いっぱい、驚きを表現しているのである。
「俺《おれ》だって驚いたよ。まさか水沼さんのお嬢さんが蜘蛛女《くもおんな》とはなあ」
苦笑する天津さん。ちなみに「水沼まきほ」というのが母さんのペンネームだ。
「母はあなたのこと、心配してました。連絡がつかないから、ひょっとしたらもう殺されちゃったんじゃないかって。それであたしを……」
「いや、すまんすまん」天津さんは頭をかいた。「連絡しなかったのは、研究所がかなりヤバい雰囲気になってたんで、水沼さんを巻きこみたくなかったからだ。それが裏目に出るとは思わなかった」
そのおかげで、あたしはめったにない貴重な体験ができたわけだ。
「研究所のことが気になってたから、早いとこ戻って始末をつけたかったんだがな。今夜は大きな事件が起きていて、東京じゅうの妖怪が召集をかけられてたんだ。俺もついさっきまで、青山墓地の方に駆り出されてた。それが片付いたんで、大急ぎで戻ってきたわけさ」
あたしは目を丸くした。「妖怪って他にもたくさんいるんですか?」
「ああ、いるとも」天津さんはうなずいた。「正確な統計なんてものはないが、たぶん日本全国じゃ何千って数だろうな。そこらを歩いている人間のうち、一〇万人に一人ぐらいは、人間に化けた妖怪だ。俺みたいにな」
知らなかった。この世にはそんなにたくさんの妖怪がいたなんて――父さんに教えたら、大喜びするに違いない。
「それにしても、すごい偶然よね」母さんは感心した。「私の知り合いに二人もそんな珍しい人がいるなんてね」
珍しい人って……母さん、その言い方はないでしょ。
「いや、偶然ってわけでもないかもしれないぜ」
「というと?」
「妖怪同士は見えない力で引かれ合うって言われてる。運命というか、シンクロニシティみたいなものが働いてるらしいんだな」
「まさか!」
あたしは笑った。運命とかジンクスとかの類は、あまり信じないたちだ。
「いや、本当さ。悪い妖怪が何か事件を起こすと、なぜかその現場にたまたま別の妖怪が居合わせたり、間接的に事件と関わり合ったりすることがよくあるんだ。俺自身、よく体験してるからな」
「じゃあ、今度の事件も……?」
「ああ、俺は冷凍ミイラに引かれ、君も冷凍ミイラに引かれて、たまたま同じ場所に居合わせることになった……」
「だって、これまで別の妖怪に出会ったことなんてないのに!」
「それはまだ妖怪として目覚めて日が浅いからだろう。これからは頻繁にこういうことが起こるようになるぜ」
それが本当だとしたら、これからいろんな妖怪さんたちとお知り合いになる機会が増えるってわけか……父さんなら嬉《うれ》しがるだろうけど、あたしとしてはそれほど嬉しくない。
「でも、あたしは妖怪なんてやめたいんです!」あたしは身を乗り出した。「平凡な人間に戻りたいんです。どうにかなりませんか?」
「さてなあ。妖怪から人間になる方法か……姿だけ人間に化けるなら簡単にできるんだが……うーん」
天津さんは考えこみ、口ごもった。七〇〇年も生きてる妖怪でさえ、そんな方法に心当たりがないってことか。あたしは落胆しかけた。
「そうそう」天津さんは何か思いついたようだった。「いっぺん <うさぎの穴> を訪《たず》ねてみるといい。連中はお節介だからな。困ってることがあったら相談に乗ってくれるぜ」
「 <うさぎの穴> ?」
「道玄坂《どうげんざか》にあるバーの名前さ。関東地方じゃ有名な妖怪仲間のネットワークだ。同じようなネットワークは日本のあちこちにある――もっとも、俺は一箇所に縛られるのが嫌なんで、どこにも入らずに自由にやってるがな」
妖怪たちが集まるバー――あたしは一瞬、拒否反応を示しかけたけど、すぐに考え直した。大勢の妖怪がいるなら、そのうちの誰かは、あたしが普通の人間に戻るにはどうすればいいか、知ってるかもしれない。
そう、逃げていても問題解決にはならない。ほんの少しでも可能性があるなら、それに賭《か》けてみよう。どーんとぶち当たってみなくっちゃ。
「分かりました。そうしてみます」
あたしは力強く答えた。ほんのちょっぴりだけど、人生に希望が湧《わ》いてきた。
ちなみに、お尻にできた二つの霜焼けの跡は、それから一週間、消えなかった。
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第三話  私は緑の地獄から来た怪物と結婚した
I Married A Monster From Green Hell
1.アフリカから来たおまじない
2.妖怪《ようかい》なんてめんどくさい
3.オカルト雑誌をウオッチング
4.裸で河童《かっぱ》に巴投《ともえな》げ
5.走れ! 地獄のジャングルを
6.どうしてそれがあたしなの?
7.妖怪《ようかい》だって愛が欲しい
8.必殺技で大逆転
9.ファーストキスは魚の味
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1 アフリカから来たおまじない
「ねえねえねえ、ゆーちゃん。あたし、昨日、すっごいもの手に入れたんだけど」
烏丸詩織が小声で、こっそりと、楽しそうに、もったいぶって、今世紀最後の重大な秘密を打ち明けるかのような口調で話しかけてきたのは、二学期がはじまって二週間ほど経った、ある日の昼休みのことだった。
「何? アメリカ政府が隠してるUFOの極秘情報でも手に入れたの?」
あたしは誰《だれ》かが教室に残していったティーンズ推誌をぱらぱらとめくりながら、気のない返事をした。詩織の言う「すっごいもの」「すっごいこと」は、たいていしょーもないことだってことを、経験からよく知っていたからだ。
「そんなんじゃないって」
「じゃあ、『金田一少年』の中で殺される権利を『ハンプラ』で手に入れたとか」
「違うわよ。ほら、これこれ」
そう言いながら、詩織は机の蔭《かげ》でごそごそとソックスをずり下ろし、足首を見せた。端にグリーンの石がついた組紐《くみひも》のようなものを足首に巻いている。
「わっ!? それってひょっとして!」
そう言って興奮して身を乗り出したのは、あたしじゃない。二つ離れた席にいた河原崎亜紀だった。詩織が口に指を当ててたしなめる。
「しっ! 声が大きい」
亜紀は慌てて首をすくめ、あたりをそっと見回した。教室の中にはあたしたち以外にも何人か生徒がいたけど、こちらに注目しているのは誰もいない。それを確認して、亜紀はまた話しかけてきた。
「……チャスティティ・ストリング?」
「そう。昨日、西池袋の <銀三角> で買ったの」
「すごーい! へえー、これがそうなんだあ」
亜紀はおおげさな感嘆の声をあげた。どこか外国の民芸品のようだけど、どう見てもそんなに高そうなものじゃないし、大騒ぎするようなものとは思えない。それなのに彼女ときたら、アステカの財宝を発見したインディ・ジョーンズみたいに目をきらきらさせ、興奮してその紐を見つめている。さすがにあたしも興味をかきたてられた。
「何なの、これ?」
「チャスティティ・ストリング。アフリカ生まれのおまじない。今、池袋あたりで流行《はや》り出してるの」
またか――あたしは顔には出さなかったものの、心の中でこっそり舌打ちした。
二人とは親友ってほどでもないけど、小学校時代からなぜかちょくちょく同じクラスになる。腐れ縁ってやつかもしれない。どちらかというと流行にうといあたしと違って、二人は流行にやたらと敏感だ。亜紀はアニメやゲーム、コミック関係、詩織は芸能やオカルト関係に強い。そう言えば十三星座占いに最初に飛びついたのも詩織だった。「あんた、この前まで獅子《しし》座だったじゃない!?」って、思っちゃったりしたけど。
そりゃまあ、あたしだって(体はともかく心は)ごく普通の女子高生だから、流行は気になる。詩織たちとつき合ってる関係で、小学校、中学校、そして今と、いろんな流行に踊らされてきた。
もちろん、流行の中には、本当に便利なもの、楽しいものもたくさんある。プリクラは面白いし、キティちゃんやたまごっちやピカチュウはかわいいと思う。バジルシードのぷりぷりした舌触りはけっこう好きだったし、ポケベルはいろいろと便利だ――でも、中には「なぜ?」と疑問に感じてしまうものも少なくない。
たとえはルーズソックス。あれっていったい何? みんなが「流行ってるから」「おしゃれだから」って言うから、そういうものかと思ってやったけど、何でソックスをずるずるにしなきゃいけないのか、その根拠というか必然性というか、そこんところがどうもいまいち納得できなかった。
まあ、ファッションってのは、そういうものなのかもしれないけど。
ちょくちょく疑問に思うんだけど、ああいうのを最初に「これはおしゃれだ!」と言ってやりだすのって、いったい誰なんだろうね? 他の人がちゃんとソックスを履いてるのに、一人だけだらしなく履くのって、すごく勇気が要ると思うんだけど。
誰が発明して、どこから来るのか分からないけど、毎度のことながら、流行ってやつはいつの間にか広まっている。ふと気がつくと、周囲にいる子はみんな同じことをやっていて、一人だけやらないでいると「遅れてる!」と白い目で見られてしまう。それがこわくて、心の底ではバカバカしいと思いつつ、ついつい流行に乗ってしまう。そのうち自分でもそれが当たり前になり、楽しく思えてきて、まだやってない子を見て「遅れてる!」と思ってしまう……そんな女の子の性《さが》が、ちょっぴり悲しい。
今度の流行ってどんなのだろう――詩織が足首に巻いているチャスティティ・ストリングとやらを疑惑の目で観察しながら、あたしは思った。できるなら、あまりお金がかからないもので、手に入りやすいものであってくれるといいな。たまごっちみたいに、プレミアがついたり、品不足で足を棒にして探し回らないといけないようなものは、ちょっとつらい。
「ね、ね、いくらしたの?」
あたしの頭に浮かんだ疑問を、代わりに亜紀が口にしてくれた。
「消費税込み、三一五〇円」
「えっ、安いじゃん!  <銀三角> のパワーストーンとかオカルトグッズって、ン万円するのばっかりだよ」
「でしょ? だからほら――」
詩織はにんまりと笑い、同じ紐をさらに二本、カバンの中から取り出した。石の色が少し違うだけで、どちらもほとんど同じだ。
「ジャーン! 二人の分も買ってきてありますって」
「うわあ、手回しいい!」
「へっへえ、じきにもっと人気が出て、プレミアがつくだろうって踏んだから、亜紀とゆーちゃんの分もまとめて買っといたの。今なら三一五〇円ぽっきりでいいよ」
「わお! 買う買う!」
いそいそと財布を取り出す亜紀。でも、あたしとしては、まだ何なのかさっぱり分からない代物に対して、即座に三一五〇円を出す気にはなれない。とりあえず、詩織から手渡された一本を、じっくり観察してみる。
長さは二五センチぐらい、細くて丈夫そうな皮紐を編んで作られていた。五本の紐が途中まで組紐のように編まれているけど、半分あたりでほどけている。一本が他の四本よりやや長く、幅が広くて、その端には小さいグリーンの玉がついていた。一方、編まれている方の端には、勾玉《まがたま》のような形のきれいなブルーの石がついている。紐はその石にあいた穴に通され、端が固くダンゴ結びになっていた。
「これってアフリカ製なの?」
あたしは訊《たず》ねた。おまじないにもいろいろあるけど、足首に巻くってのは、ちょっと変わったパターンかもしれない。
「そう。ナイル河上流の何とかっていう部族に伝わる、恋愛成就のおまじない。これを寝る時もお風呂《ふろ》に入る時も、ずうっと足首に巻いとくのよ。すると、紐がすり切れる前に、愛が成就するってわけ。好きな人のいない人は好きな人ができるし、好きな人がいる人はその人と結ばれるの」
詩織が自慢げに解説する――別に自分が発明したわけでもないのにね。
「ミサンガみたいなもの?」
ナイル河がどうこうとか、由来がもったいぶってるわりに、新味が感じられない代物だった、ので、あたしはちょっとがっくりきた。
ちなみに、ミサンガは小学生の頃、詩織に勧められて、しばらく手首に巻いてたことがある――知らないうちになくしちゃったけど。
「まあ、少し似てるね。ただ、誰でも巻いていいわけじゃないの。これを巻いていいのは、特別な資格のある女の子だけなのよ」
「特別な資格?」
「つまりね……」
詩織は悪魔のような笑みを浮かべ、あたしの耳に口を近づけ、こっそりささやいた。
「……処女だけなの」
「う……」
あたしは絶句した。それは確かに「特別な資格」かもしれない。今の女子高生の中では、パーセンテージで言うと少数派だろうし。
ちなみに、あたしたちはその少数派に属している。
「……なるほど、それでチャスティティ(純潔)ね」
「そう。紐がすり切れる前に、好きな男性とそういう関係に発展するってわけよ」
「ちょっと待って。それじゃ、『私は処女です』って目印をぶら下げて歩くわけ?」
いくらなんでもそれは恥ずかしすぎる。痴漢の標的になりかねないし。
「だから足首に巻くんじゃない。ソックスで隠せるように」
「あ、なるほど」
ルーズソックスのたるみを利用すれば、これぐらいのものは充分に隠せる。季節はこれから秋。プールや海水浴なんかで素足を露出する機会の多い夏と違って、人前では常にソックスを履いてるわけだから、簡単には気づかれないだろう。さらに、男子諸君の側からすると、ソックスのたるみ具合を観察して、好きな女の子がチャスティティ・ストリングを着けてるかどうかを推測する楽しみがあるってわけだ。
「で、願いが成就して、いよいよその瞬間になったら、最後の儀式よ」
「儀式?」
「ソックスを脱いで、相手の男性にこれを見せるの。で、ハサミを渡して、ぷちっと切ってもらうわけ」
トンネルの開通式みたい――とうっかり言いかけて、あたしは寸前で言葉を飲みこんだ。その比喩《ひゆ》はちょっと生々しすぎる。
しかし……それはちょっと……いいかもしんない。あたしはそのシチュエーションを夢想し、背筋がぞくぞくするのを覚えた。舞台はどこかのホテルの一室。あたしはベッドの上に仰向けに横たわっていて、三条院さんはその足許にひざまずいている。彼はハサミを手にして、あたしの足首に巻かれた緋にそっとひっかけ、やさしくちょきんと切断する……。
おっと、危ない危ない。あたしは慌ててその夢想を振り払った。妙なことを考えたら、教室の中で蜘蛛女《くもおんな》に変身してしまう。
それにしても、うまいところに目をつけたものだ。
大人たちは「女子高生」という言葉から、すぐに「ブルセラ」とか「援助交際」といったふしだらな単語をイメージする。でも、日本中の女子高生すべて、性が乱れてるってわけじゃない。純潔(古い言葉だね、どうも)を守っている女の子だってたくさんいる。
無論、そういう女の子たち(あたしもその一人だけど)の大多数は、頑固に処女を守り通したいと思ってるわけじゃない。本当はみんなセックスに興味があるんだけど、どうせなら大好きなあの人に抱かれたいと思ってたりとか、気が弱くて今一歩のふんぎりがつかなかったりとか、チャンスがないとか、周囲にろくな男がいないとか、いろんな事情があるのだ。
チャスティティ・ストリングはその盲点をついたグッズだ。これが「私は処女を守り通します」という意思表示だったら、売れはしないだろう。でも、これはその反対。「男に抱かれたい」というサインなのだ。
ちょっぴり危険な香りもするし、これはヒットするかもね。
「どう、ゆーちゃんも? 三一五〇円」
「うーん……」
詩織がしつこく勧めるけど、あたしはためらっていた。値段がちょっと高いせいもあるけど、役に立つかどうか分からなかったからだ。
そう、あたしの深刻な悩み――エッチな気分になると蜘蛛女に変身する体質は、まだ治っていなかった。体質改善のための手がかりすらない状態。つまり、近いうちに三条院さんとそういう関係に発展できる可能性は、きわめて薄い。たぶん紐が自然に切れる方が早いだろう。そうなると、三一五〇円も払っておまじないグッズを買っても、あまり意味はない。
「あたしには、こういうの、必要ないなあ……」
「えーっ!? ゆーちゃんって、そうだったの!?」
亜紀が驚いて声をあげた。あたしの言葉を早とちりしたらしい。
「えっ? いや、違う違う」あたしは慌てて打ち消した。「まだよ、まだ」
「でしょ? だったら買おうよ。三人でやろ」亜紀は肘《ひじ》で軽くあたしを小突いた。「ほら、三条院さんとうまくいくかもしんないよ?」
「うーん、だって……」
おまじないなんてインチキ臭いし――と言いかけて、あたしは考えこんだ。
インチキ臭いと言えば、蜘蛛女だって充分すぎるほどインチキ臭い。蜘蛛女が実在するのなら、アフリカのおまじないだって実在していいはずだ。もし効果があるなら、じきに人間に戻れる方法が見つかることになる。試してみる価値はあるかもしれない。
消費税込み三一五〇円で悩みが解消するなら、安いものだ。
「分かった。買う」
「そう来なくっちゃ!」
あたしは三一五〇円を詩織に払った。今月の後半は倹約する必要がありそうだ。
「ところでこれ、どうやって結ぶの?」
「ちょっと待って。説明書があるから」
詩織は説明書を取り出した。B5サイズのコピー紙で、紐の結び方がていねいに図解されている。かなりややこしい手順が必要なようだった。あたしと亜紀は、詩織に協力してもらって、紐を足首に結びつけていった。
「えっ? ちょっと、そんなに固結びにするの?」
「だって、固く結ばないとほどけちゃうじゃない」
「そりゃそうだけど……蒸れないかなあ」
教室の隅で、女の子が三人集まって、変な紐を足首に結びっこしてるのは、はたから見たら変な光景かもしれない。
五分ぐらいかかって、ようやく紐を結び終えた。チャスティティ・ストリングはあたしの足首にしっかりと巻かれた。勾玉《まがたま》のような石のついた組紐が、かかとの上にポニーテールのようにぶら下がっている。
「ああーっ!?」
あたしは自分のドジに気づき、蒼白《そうはく》になった。
「どうしたの?」
「柔道の練習の時、どうしよう? 裸足《はだし》になるのに」
「ぎゃははは! そうだったね」
亜紀と詩織はけらけらと笑い転げた。
「笑いごとじゃない! どうすんのよ、これ!?」
「包帯でも巻いてごまかせば? ねんざしましたとか言って」
「そんなあ……」
後悔したけど、もう遅い。詩織が思いっきり固く結んでくれたもんで、はずすにはハサミで切るしかなさそうだ。それでは三一五〇円が無駄になってしまう。
「とほ〜……」
あたしはため息をついた。おまじないもけっこう面倒なものだ。
これで効果がなかったら、承知しないぞ。
2 妖怪《ようかい》なんてめんどくさい
放課後――
いつもなら家に帰って夕食の支度をしなくちゃいけないんだけど、父さんは今日は出版社の人と会うとかで、帰りが遅くなると言っていた。午後九時頃まで、あたしには自由な時間があるわけだ。
あたしはいったん家に帰って私服に着替えると、渋谷に向かった。久しぶりで <うさぎの穴> に顔を出すためだ。
バー <うさぎの穴> は、渋谷の道玄坂一丁目、井《い》の頭《かしら》線渋谷駅の南側にある。交通の便はすごくいい――でも、普通の人間はその店に行くことはできない。
店は小さな雑居ビルの五階にある。不思議なのは、このビルが外から見ると四階にしか見えないことだ。表に出ている <BAR うさぎの穴 5F> という看板にしても、普通の人間の目には見えないらしい。
たぶん、三か月前にこのビルの前を通りかかったとしても、あたしにはこの看板は見えなかったんだろう。
この店は一種の隠れ里――SF的に言うなら、次元のずれた空間に存在しているらしい。確かにそこにあるんだけど、外からは決して見えないし、触れることもできないのだ。店の常連たちや、どうしても妖怪たちに会う必要のある者だけが、出入りできる仕組みになっているんだそうだ。
妖怪好きの父さんは、その話を聞いて、「行きたい! その店に行きたい!」と悔しがっていた。残念でした。用のない人間は入れないのよ。
あたしはエレベーターに乗り、 <5> のボタンを押した。ドアが閉じると、古くて汚いエレベーターは、がたがたと振動しながら、ゆっくりと上昇を開始した。このエレベーターも、普通は四階までしか行かないんだそうだ。店に用事がある者が乗った時にしか、 <5> のボタンは現われないのだ。
エレベーターから降りると、 <うさぎの穴> というプレートが貼《は》られた赤い扉が目の前にあった。鮮やかな血の色だ。あたしは扉を押し開け、店内に足を踏み入れた。
照明はやや薄暗く、ピアノが静かな曲を奏でていた。小さいけど落ち着いた雰囲気の店だ。カウンターの他には小さなテーブルが四つあるだけだ。床は板張りで、壁にはアンティークな柱時計や小さな彫像が飾られている。
天津さんに場所を教えられ、初めてこの店に来たのは、もう一か月近くも前になる。入るのにはずいぶん勇気が必要だった。お化け屋敷のようなおどろおどろしい場所を予想して、びくびくしていたのに、中はごく普通のバーだったので、拍子抜けしたものだ。
まあ、誰《だれ》も弾いていないのにピアノが音を出してるってのが、ちょっとだけホラーではあるんだけど。
「あっ、いらっしゃい、湧ちゃん」
カウンターを拭《ふ》いていた中学生ぐらいの少女が顔を上げ、明朗快活な表情であたしを迎えた。この店のマスターの娘、かなただ。人間に見えるけど、正体は狸《たぬき》なんだそうだ。
店内には他に客の姿はなかった。
「今日はまだ誰も?」
「そうね。まだ時間が早いから。父さんも買い出しに行ってるし」
この店は東京に住む妖怪たちのネットワークの拠点のひとつで、いつも多くの妖怪が出入りしている。しぶい中年ヘビースモーカーの八環《やたまき》さんは烏天狗《からすてんぐ》。色っぽい美女の未亜子《みあこ》さんは濡《ぬ》れ女。かっこいい大学生の流《りゅう》さんは中国の龍《りゅう》と人間のハーフ。大学教授だという土屋《つちや》さんはモグラの妖怪。原宿《はらじゅく》で占い師をしている霧香《きりか》さんは雲外鏡……みんな表向きは人間そっくりで、街ですれ違っても、妖怪と気づく人は絶対にいないだろう。
妖怪たちが山奥にひっそり暮らしていたのは昔の話。現代では、妖怪たちの多くは文明社会に適応して暮らしている。それぞれの職業を持ち、家を持って、人間と同じようにお金を稼いでいるのだ。
でも、正体を隠して人間たちの中で暮らすのは、何かと気苦労が多いらしい(それはあたしも分かる)。自分の本音をさらけ出すことができないので、疎外感を覚えたりするし、ストレスもたまる(分かる分かる!)。だから、こうした息抜きの場が必要なのだ。ここでは正体を隠す必要がないので、何の気兼ねもなく、仲間と腹を割って話し合える。
それだけじゃない。この店は情報交換の場、助け合いの場でもある。あたしのような新参者は、ここに来ればいろいろとアドバイスしてもらえる。また、困ったことが起きた場合には、助けを求めることもできる。
たとえば、あたしのように人間として生まれた者は別として、ほとんどの妖怪には戸籍がない。それでは日常生活に支障をきたすので、ネットワークの助けを借りて、偽の戸籍を造る必要がある。詳しい方法は教えてくれなかったけど、たぶん、真夜中に役所にこっそり侵入して、ファイルの中に偽の書類を滑りこませるんだろう。それに、妖怪の中には電話回線を通ってコンピュータに侵入できる者もいるので、役所のコンピュータをハッキングして偽のデータを混ぜるなんて朝飯前らしい。
考えてみりゃ、ぶっそうな話なんだけど。
こうしたネットワークの拠点は、東京都内に他に何箇所もあるらしい。日本全国では一〇〇箇所近く存在するという。バーや喫茶店、スナックなどが多いようだが、お寺や神社、古道具屋、ゲームセンターといった例もあるらしい。
「そうそう、いいとこに来たね。湧ちゃんに最新の通達があるの」
「通達?」
「そう。ちょうど今、湧ちゃん家《ち》にファックスしようとしてたんだけど、留守電になってたから。えーとね……」
かなたはちょこまかとカウンターの奥に走って行くと、ファックス機の横にあった数枚の紙をひっつかみ、戻ってきた。
「まず第一に、ネネコが戻ってきたらしいんで、注意して欲しいって」
「ネネコ?」
「昔、利根《とね》川に棲《す》んでた河童《かっぱ》だって。ひどい乱暴者で、子供の尻子玉《しりこだま》を抜いたり、家畜を殺したり、いろいろ悪さしてたらしいよ。妖怪仲間からも嫌われて、五〇年ほど前にふらりとどこかに行っちゃったんだけど、噂《うわさ》では、最近また関東に戻ってきたらしいんだよね。何か事件を起こすかもしれないから、川とか水べりを注意して観察して欲しいってさ。
第二に、これは関係あるのかどうか分かんないけど、昨日、三鷹《みたか》市の銭湯で、若い女性が行方不明になるって事件があったの。状況から見て、妖怪がからんでる可能性が高いんで、関連する情報を集めてるところ。何か思い当たることがあったら、知らせてね。
第三に、石神井《しゃくじい》公園の野良コアラに関する都市伝説が、練馬区や杉並区の中高校生を中心に、かなり広まりを見せてるらしいの。湧ちゃんの学校って練馬でしょ? 何割ぐらいの人が信じてるのか、どんなバリエーションがあるのか、ぜひ調査して欲しいって。これは大樹《だいき》くんからのお願いね。
第四に――」
「ちょおおおっと、待った!」
あたしはかなたのお喋《しゃべ》りをさえぎった。かなたは紙から顔を上げ、きょとんとした目であたしを見ている。
「それはいったい何?」
「へ?」
「それは何だって訊《き》いてるのよ」
「だから、湧ちゃんへの通達だけど……」
「何が悲しゅうて、川で河童を探したり、野良コアラに関するアンケート調査なんかしなくちゃならんのよ、このあたしが!?」
「でも、これはいちおう義務だし……」
「そんなの分かってるわよ!」
あたしはいいかげん、いらいらしていた。
妖怪《ようかい》の中には、人間に悪意を抱き、危害を加える者も少なくない。彼らはいろんな妖力、妖術を持っているから、警察に捕らえられるようなことは決してない。妖怪を探し出し、捕らえ、罰することができるのは、同じ妖怪だけなのだ。だからネットワークに所属する妖怪たちは、人間に害が及ばないよう、悪い妖怪の動向を常に監視していなくてはならない――それは理解できる。
都市伝説の収集(これは民俗学、父さんの専門分野だ)も、ネットワークの重要な役目のひとつだ。妖怪は多くの人間の想いが結集し、生まれてくる。「口裂け女」や「トイレの花子さん」のような不気味な都市伝説の流行は、新しい妖怪の誕生につながる。だからいつも目を光らせていなくてはならない――それも理解できる。
そう、何かの集団に所属しているかぎり、義務がつきまとうのは当然のことだ。それを否定するつもりはない。
だけど――
「あたしにとってのメリットは何なの?」
「はあ?」
「あたしがこの店を訪《たず》ねたのは、人間に戻る方法を教えてもらうためなのよ。だのに、今のところ手がかりが何もないじゃない。それなのに、義務ばっかり押しつけられるのって、不条理だと思わない?」
かなたは困った顔をした。「まあ、湧ちゃんの悩みは分かるけど……」
「分かってない、分かってない」
「でも、あせっちゃだめだよ。気長にのんびり考えないと……」
「のんびりしてられないの!」
のんびりしてたら、チャスティティ・ストリングがすり切れて、三一五〇円が無駄になってしまう。
「そんなに深刻にならなくたって……」
「深刻になるわい! 人生の重大事なのよ!」
かなたのピントのずれた態度に、あたしはだんだん腹が立ってきた。
「だいたい、何のためのネットワークなのよ!? 何の役にも立たないなら、関わり合う意味なんてないじゃない!」
「そんなことないでしょ。カメラに映るようになったって言ってたじゃない?」
かなたの言う通り、有益な情報がまったくなかったと言えば嘘《うそ》になる。どうすればカメラに映ることができるか、という方法は教えてもらった。「写真に映りたい」と強く念じれば、妖怪でもちゃんと写真やビデオに映るというのだ。あたしは何日も家でビデオカメラを使って練習し、そのコツをつかんだ。
自信をつけたあたしは、さっそくゲーセンに直行し、プリクラでシールを作った。久しぶりに自分の顔が映った写真を目にして、感激のあまり涙が出そうになった。これで卒業アルバムにもちゃんと顔が載るし、スーパーの自動ドアの前で立往生することもない。
「確かに、その件ではあなたたちに感謝してる」あたしはしぶしぶ認めた。「でも、それって本質的な問題解決になってないと思うのよね」
「意志に関係なく変身しちゃうってこと?」
「そう」
「それも練習すればどうにかなんないかな?」
「練習って?」
「つまりさ、耐える修行をするの。エッチな気分になっても変身しないように、意志の力を振り絞ってコントロールするわけ」
「どうやって?」
「だからさあ……」
かなたはその「修行」のやり方を具体的に説明した。あたしは大きなため息をついた。軽いめまいも覚える。
「……あたし、最近、自分がどんどん変態になってく気がするんだけど」
「あっ、でもさ、ほら」かなたは懸命にフォローしようとする。「悩みを打ち明けられる仲間がいるって、いいことじゃない? それだけでもずいぶん楽になると思うよ」
「ならんならん」
「そんなことないよ。湧ちゃんはまだ、あたしたちの世界に慣れてないから。慣れればけっこう楽しいと思うんだけど――」
「いや! 絶対にいや!」
あたしはぶんぶんと頭を振った。興奮して、声がヒステリックになる。
「妖怪なんてまっぴら! こんな体に慣れたいなんて思わない! まともな体に戻って、まともな人生を送りたいのよ! 今すぐ!」
かなたがふと、悲しそうな顔をした。「……その言い方、ちょっと差別的だと思うな」
「え? 何が?」
「『妖怪なんて』って言い方……」
「あ……」
あたしはうっかり、かなたの心を傷つけていたことに気がついた。確かにああいう言い方は良くなかった。
「ごめん。謝る――でも、慣れれば楽しくなるなんて、絶対に思えないな」
「どうして?」
「なぜなら――」
あたしはかなたを指差し、きっぱりと言った。
「あなたはエッチができる。あたしはできない。これはとても大きな差だと思うのよね!」
3 オカルト雑誌をウォッチング
結局、かなたとの会話は平行線のまま、噛《か》み合わなかった。あたしは空《むな》しさを感じ、他の人たちに会わずに、さっさと家に帰ってきてしまった。とんだ無駄足だ。
午後九時、父さんが帰ってきた。出版社の人との話し合いがうまく行ったらしく、上機嫌だ。かねてから構想を練っていた、世界の妖怪伝承をまとめた図鑑のような本の出版が、ようやく実現にこぎつけたらしい。
「それ、いつ頃出るの?」
父さんの労をねぎらう意味で、あたしは冷蔵庫から缶ビールを出してきた。あたしもつき合いで一本開ける――本当は未成年だから良くないんだけどね。
「これから執筆にかかるんだ。本になるのは、まだずっと先だよ」
「書くのに時間かかるの?」
「うむ。かなりの分量になるし、資料も調べ直さにゃならんからなあ。今からじっくり原稿を書きためていって……まあ、出版されるのは、早くても来年の夏だな」
「なあんだ」
あたしはがっかりした。ということは、本の印税が入るのは、さらにその先ってことになる。当分、わが家の財政事情は好転しそうにない。
「だいたい、そんだけの労力費やして、ほんとに売れるの?」
あたしは短パンにタンクトップのラフな格好で、椅子《いす》に寄りかかってビールをすすりながら、父さんに疑いのまなざしを向けていた。
「そりゃあ売れるさ! ベストセラーも夢じゃないぞ」
その自信はどこから来るんだか。
「だって、似たような本、他にも何冊も出てるじゃない」
「いや、妖怪伝承に民俗学的見地から取り組んだ本格的な研究書は、まだ少ないんだ。子供向けの妖怪図鑑のようなものなら、たくさん出てるがな。どれもツッコミが浅いし、不正確なことを書いた本も多い。
去年出たある本なんか、ひどかったぞ。エンキドゥがギリシャ神話に出てくる怪物で、ギルガメシュという名の女の怪物と結ばれたとか、エンキドゥが女神イシュタルを倒したとか、まったくデタラメなことが書いてあるんだ」
「ほお?」
あたしにはどこがおかしいのか、よく分からない。
「ギルガメシュはバビロニア神話の有名な英雄だ。怪物じゃないし、女でもない! それにエンキドゥはイシュタルの差し向けた牡牛《おうし》を倒しただけで、イシュタル自身を倒してなんかいない。そんなのは常識だぞ!」
言うまでもなく、父さんの「常識」は、世間一般のそれとはかなり違う。クリストファー・リー主演のドラキュラ映画のタイトルを全部言えるくせに、ZARDをオーディオ製品メーカーの名前だと思ってたりするんだから。
「おまけにその著者、ギリシャでケンタウロスの骨が見つかった、なんてアメリカのタブロイド新聞に載ってたヨタ記事を真面目《まじめ》に取り上げてたり、スピルバーグ監督の『グレムリン』、なんて書いてるしな。まったく……『グレムリン』の監督はジョー・ダンテに決まってるじゃないか!」
普段は温厚な父さんだけど、妖怪《ようかい》の話になると熱くなる。特に誰《だれ》かが妖怪について間違ったことを書いてたりすると、我慢ならないのだ。少し酔いが回ってきたのか、口からビールの泡を飛ばし、興奮して喋《しゃべ》っている。
「その点、私の書く本は、真実と資料的正確さを重視するつもりだ。世間の人たちに妖怪の真実の姿を知ってもらいたいんだよ」
「まさかとは思うけど――」
あたしは口につけた缶ビールを飲みかけて、ふと手を止め、横目で父さんをにらみつけた。
「『私の娘は妖怪|蜘蛛女《くもおんな》だ』なんて、書くつもりじゃないでしょうね?」
ぶっ! 父さんは飲みかけのビールを吹いた。
「は……ははは、バカだな。そんなこと本に書くわけないじゃないか。ははははは……」
しらじらしく笑う父さん。ということは、心の底では書きたいと思ってるな……。
父さんはさらに、妖怪のことをえんえんと語り続けた。妖怪に関してどのように誤った記述が世間に氾濫《はんらん》しているかとか、某怪奇マンガ家の昔の作品は海外のホラー小説のパクリばっかりだとか……ぜんぜん興味のない話だったけど、あたしはふんふんとうなずき、適当に相槌《あいづち》を打っていた。晩酌の相手をしながら父さんの愚痴を聞いてやるのも、娘の務めだ。
「ん? 湧、そりゃ何だ?」
あたしが戸棚からおつまみを出そうと立ち上がった時、父さんがあたしの足首に巻かれているチャスティティ・ストリングに気がついた。家の中ではソックスを脱いでいたからだ。あたし自身、今日はいろんなごたごたがあったもんで、そんなもんを着けてたのをすっかり失念してたんだけど。
「ああ、これ? 新しいおまじない。詩織から貰《もら》ったの」
三一五〇円も払ったことや、処女喪失の願かけであることは言わなかった。バカにされそうな気がしたからだ。
「おまじない? 効果あるのか、そんなもん?」
「こっちが教えて欲しいわよ」
そう言ってから、ふと気がついた。そうだ、オカルト関係に詳しい父さんなら、このおまじないのことも知ってるかもしれない。
「ねえ、アフリカのどこかの部族が、こういうのを足首に巻いてるそうなんだけど、聞いたことある?」
「ん? さてなあ。アフリカといっても広いから、そんな風習もどこかにあるのかもしれんが……どこの国だ?」
「よく知らない」
「なんだ、由来もろくに知らずにやってるのか」
「だって、あたしが買ったんじゃないもの。詩織が買ってきたの。池袋にある <銀三角> とかいうお店で売ってるんだって」
「 <銀三角> ? パワーストーンとかを扱ってる店か?」
「知ってるの?」
「オカルト雑誌によく広告が載ってるからな――ちょっと待ってろ」
父さんは二階に上がり、一冊の雑誌を持ってすぐに下りてきた。オカルト雑誌『アウターワールド』最新号――資料にするためにちょくちょく買っているのだ。
「ほら、これだ」
父さんは <銀三角> の広告ページを広げた。いろんなオカルト商品の写真が並んでいる中、チャスティティ・ストリングの写真も載っていた。
そこにはすごく小さい字でこんな説明文が書かれていた。
[#ここから2字下げ]
恋愛願望成就の究極戦術兵器、ついに一万年の秘密のヴェールを脱ぐ!
アフリカ大陸から音速飛来した驚異の魔的パワー・ソースをあなたに!!
●商品名=チャスティティ・ストリング ¥3、000(消費税別)
恋愛、性欲の神でもあるナイルの河神ラウの神通力を、天然皮革製 ストリングの呪術《じゅじゅつ》的立体交差によって形成される高次元ハイパー・マトリクス内に超高密度|充填《じゅうてん》、二個のパワーストーンによって完全封印しました。宇宙を支配する絶対因果律に作用し、理想の男性との出会いの確率を高めると同時に、あなたのオーラをピンク色に染め、男性に対する霊的性的影響力を強力に増幅します。これを身に着けたあなたを見た男性は、アストラル界からのマインド・コントロールにより、あなたに対して激烈なまでの熱愛を抱くようになるでしょう。今なら驚異の低価格であなたにお届けします。
ご注意:チャスティティ・ストリングは処女専用の魔的パワー・グッズです。男性および性的経験のある女性はご使用になれません。資格のない方が使用された場合、絶大な魔的パワーの反作用によって死を招く可能性がありますが、当店では一切責任を持ちませんのでご了承ください。
[#ここで字下げ終わり]
怪しい……露骨に怪しい。「究極戦術兵器」なんて表現もすごいけど、「オーラをピンク色に染め」って、いったい何なの?
「いや、こりゃひどいな」父さんも誌面に顔を近づけ、顔をしかめていた。「ラウが恋愛の神だって? そんな話、聞いたこともないぞ」
「ラウって神様、ほんとにいるの?」
「ラウに関する伝承はナイル河上流地域に広く分布してる。だが、神様なんかじゃない。水中に棲《す》んでいて、長い触手で動物や人間を引きずりこんで、脳髄をすする恐ろしい怪物だ。ザイールのモケーレ・ムべムべの同類だとも言われてるな」
「それってUMA(未確認動物)ってやつ?」
「まあな。目撃報告もあるんだぞ。一九六〇年代に、タンザニアのヴィクトリア湖の湖畔で、巨大な蛇のような生物がパピルスの茂みの中を動いているのを、観光旅行中の夫婦が目撃してる。原住民がラウの頭を表現した木製の彫刻もある。スーダンでは、川岸の泥の上を巨大な生物が這《は》った痕《あと》が発見されたこともある……」
「それ、ワニか大蛇じゃないの?」
「まあ、巨大ニシキヘビ説や恐竜説もあるが、私は疑問だな。原住民の話によれば、ラウは頭部にカンムリヅルのような長い羽毛があって、体は長い毛で覆われているそうなんだ。明らかに爬虫類《はちゅうるい》や恐竜の特徴とは一致しない。妖怪の一種と考えた方がよさそうだな」
あたしはまたまたがっくりきた。そんな怪物じゃ、恋愛成就のおまじないとは関係ありそうにない。
「しかし、オカルト雑誌の広告なんて、あまり真剣に目を通したことがなかったが、よく見るとずいぶんいい加減なものだな」
父さんはすっかりあきれていた。無理もない。同じページに載ってる <銀三角> の商品ときたら、どれもこれも、チャスティティ・ストリングに負けず劣らず怪しいものばかりだったからだ。
たとえば「MIRV(多弾頭独立目標再突入ミサイル)」という名前の商品がある。他人を呪《のろ》いで攻撃するのに使うグッズらしい。クローン培養された人工悪霊(どういうものだかよく分かんないけど)が瓶の中に封じこめてあり、瓶の蓋《ふた》を開くと、それが放物線を描いて飛んでいって、遠くにいる憎い相手を攻撃するんだそうだ。しかも悪霊は飛行中に分裂して、複数の目標を同時に狙《ねら》うこともできる――というのがウリらしい。
「これって、学校なんかでいじめられてる子が買うのかな?」
「うーむ、どう評していいのか分からん」
あるいは「サイバーエンペラー」という商品。これはへマタイトのブレスレットで、電脳世界のゲーム神ピコ・ナノス(さすがの父さんもそんな神様は聞いたことがないそうだ)の神通力を封じこめてあるんだそうだ。これを身に着けてゲーセンに行くと、対戦格闘ゲームで勝ったり、UFOキャッチャーで欲しいぬいぐるみが取れたりするらしい。
「うわっ、これ四万円もするよ!」
「うーむ、このサイズのへマタイトで、この値段は暴利だな」
「そうなの?」
「へマタイトってのは、ただの赤鉄鉱だからな。安い石だ。加工賃を入れても、こんな値段になるわけがない」
「封じこめられてるピコ・ナノスの値段なのよ、きっと」
その他にも、 <銀三角> の扱っているオカルトグッズは、良く言えば独創的、悪く言えば荒唐無稽《こうとうむけい》なものばかりだった。オーラが美しくなる化粧水。悪い宇宙人の精神攻撃から身を守るTシャツ。飲み物を注ぐだけで不老長寿の液体になるマグカップ。目に見えない殺霊光線(だから何なのよ、それは?)を発射して、他人の守護霊を殺せる指輪……。
きわめつけは「オーディンクレスト」だ。これはプラチナ製の小さなバッジ(九万八〇〇〇円)で、北欧神話の最高神オーディンの支配力を着用者に付与し、他人を自在に操って、世界征服をも可能とする……とかいう説明があった。
「そんなことができるなら、オカルトグッズなんかちまちま売ってないで、自分たちで世界征服すりゃいいのにね」
「いや、それは真剣に考えてるらしいぞ」
「世界征服を?」
「うむ。その道では有名な話だが、この <銀三角> という店は、 <巨大皇国> という右翼がかったオカルト団体が経営してるんだ。主宰者は地球最高の霊能力者だと自称していて、オカルトパワーによる世界征服を唱えてるんだそうだ」
「……マジ?」
「恐ろしいことに、マジらしい」
世界征服を狙うオカルト団体なんて、特撮ものに出てくる悪の組織みたいだ。ちょっとかっこいいぞ。
「その団体ってどれぐらいの規模なの?」
「五〇人ぐらいだそうだが」
「……その人数で世界征服はちょっと難しいんじゃない?」
「まあな。だが、団員はみんな真剣らしいぞ。世界征服の活動の資金源にするために、オカルトグッズやパワーストーンを売ったり、ヒーリング・セミナーを開いたりしてるんだ」
「地道な努力だなあ」
そんなペースじゃ、世界征服するのに何百年かかることやら。
それにしても、どの商品の定価にも「消費税別」って表示されてるのが情けない。世界征服を企《たくら》む団体も、消費税は払わなくちゃいけないらしい。
面白くなってきたので、あたしたちは他のページの広告も見てみた。そしたらまあ、あるわあるわ、怪しい広告ばっかりだ。
やけに目立つのが、電磁波を防ぐと称する商品の数々。小さなキーホルダーやバッジのようなものを身に着けているだけで、パソコンやテレビから出る有害な電磁波がシャットアウトされるんだそうだ。
あたしの理科の知識でも、これが科学的におかしいことぐらい、すぐに分かる。電磁波は全身に降り注ぐんだもの。広い面積を覆うエプロンのようなものならまだしも、キーホルダーのような小さなもので防げるわけがない。
携帯電話に貯《は》るシール・タイプのものもある。小さなシールを貼るだけで、携帯電話から出る電磁波をみんな吸収してくれるんだそうだ――電波を吸収しちゃったら、電話がかけられないと思うんだけど。
「あっ、宇宙人のフィギュアも通販してる。これってロズウェルに落ちたUFOに載ってたってやつでしょ?」
「ふん、珍しくもない」父さんは関心を示さなかった。「グレイ・タイプの人形なんぞ、今日び、駅の土産物《みやげもの》屋でも売ってるぞ。どうせだったら、モスマンやフラットウッズ・モンスター、ミシュランマン・エイリアンとかのキットを出すべきだな」
「誰《だれ》も知らないよ、そんなの」
「そんなことはない。フラットウッズ・モンスターは、昔、大阪のメーカーがガレージキットを出したことがあるんだぞ――そう言えば、聞いた話なんだが、ガレージキットで『昭和四八年に四国の中学生が捕まえた小型UFO』を作った奴《やつ》がいるらしいぞ。ちゃんと裏にモールドがあって、ヤカンで水を注いだ穴まであるそうだ」
「だから、誰も知らないって……あっ、見て見て、この牛皮財布。『古代中国、殷《いん》王朝の時代から脈々と受け継がれてきた神秘のアリゲーター・パワー』だって。ワニの絵がプリントされてるだけなのにね」
「この会社、先月までジャガー・パワーだったし、その前はマンモス・パワーだったぞ」
「うわあ、この霊能者のおじさん、宇宙の神々から『天と地をつなぐウィンダリアの樹』って呼ばれてるんだってさ」
「藤川《ふじかわ》桂介《けいすけ》の許可取ってんのか、それは?」
「こっちの霊能者の広告もすごいよ。『九六〇色のパワー時限により、あなたの磁力線を右回りに修正します』だって」
「何のことやらさっぱり分からんな」
宇宙エネルギーとか波動パワーとかを謳《うた》った商品も多い。たとえば「ZOZコズミック・モーター」というのがある。直径七センチの水晶球が台座に載っていて、一〇万八〇〇〇円。よく分からないけど、宇宙空間に満ちている未知のエネルギーを取り入れることによって、病気が治ったり、宝くじが当たったり、お酒の味がマイルドになったり、ゴルフのスコアが上がったり、素敵な婚約者ができたり、喫茶店が繁盛したり、バレー部のレギュラーになったり、嫁と姑《しゅうとめ》の仲が良くなったりするんだそうだ。
「宇宙の未知のエネルギーねえ……ほんとにそんなもんを発見したんだったら、ノーベル賞もんだよね」
「この水晶は怪しいな」父さんは写真に顔を近づけて言った。「傷も曇りもぜんぜんないじゃないか」
「傷がないと変なの?」
「前に石に詳しい人から聞いたことがある。直径五センチ以上で無色透明の天然水晶はすごく珍しくて、市場にほとんど出回らないんだそうだ。だから大量に販売なんかできるわけがない。こりゃあ、たぶん化学的に合成した水晶だな」
念のために広告の文章を隅から隅まで読んでみると、「最新技術による特殊処理によって通常のクリスタルの純度を極限まで高めたウルティメイト・クリスタル」と書いてあるのを発見した。要するに、本物じゃないってことだ。
「これってインチキって言わない?」
「この業界にはよくあることだ。メノウなんかはほとんど人工着色だそうだし、白い石を青く着色して『トルコ石』と称して売ったり、デタラメな商売が横行してるらしい。値段だって適正価格の何倍もする。鉱物マニアなら騙《だま》されはしないんだが、こういうパワーストーンを買うようなオカルトマニアは、鉱物の知識なんかないからな」
「確かにねー」
あたしは詩織のことを思い出し、深くうなずいた。彼女ってば、理科のテストで、水晶の成分を「水」って書いてたしな(正解は二酸化ケイ素)。
「石だけじゃないぞ。そこらの水道水を瓶に詰めて、『ルルドの聖水』と称して売ってる、罰当たりな業者もいるらしい」
「それって、本物のルルドの水とどうやって見分けるの?」
「見分けられんだろうなあ。だからインチキがいつまでもバレんわけだ」
「なるほど」
「うーむ、思い出すなあ。若い頃、SF映画雑誌の広告で、『トランシルヴァニアの土』というのを通販していてな。買おうかどうしようか迷ったものだが……今から思うと、あれも本当にトランシルヴァニアの土だったのかなあ?」
「何でそんなもんを欲しがるのよ!?」
父さんは目を細めて懐かしがっていた。「マニアの性《さが》ってやつだな、うん」
「はあ……」
あたしはひときわ大きなため息をついた。この一時間で、世界観ががらがら崩れ落ちるのを感じていた。
こんな妙ちくりんな商品を売る業者が存在してるってことも不思議だけど、もっと不思議なのは、それが立派に商売として成り立ってることだ――世の中には、人工の霊を封じこめた瓶だの、世界征服できる力のあるバッジだの、お金が集まってくる財布だのを、本物だと信じて買う人間が大勢いることになる。
これって、蜘蛛女《くもおんな》よりもよっぽど奇怪な現象じゃないだろうか?
三〇分後――
「ふう……」
父さんとの酒盛りをお開きにしたあたしは、のんびりとお風呂《ふろ》に浸かり、一日の疲れを癒していた。ビールを飲みすぎたせいか、頭がちょっとぼうっとしてる。
ふと、チャスティティ・ストリングを足首に巻いたままだったことに気がついた。最初はうざったく感じたし、違和感もあったんだけど、慣れてしまうと意識しなくなるものだ。
「……どうしようかな、これ」
シンクロナイズド・スイミングのように、お湯から右脚を高く上げ、湿ってふやけた紐《ひも》を見ながら、あたしはつぶやいた。ラウの話がインチキ臭いと分かった今、おまじないの効果に期待する気持ちは薄れていた。役に立ちそうにないのに、いつまでもこんなものを着けてるのはバカバカしい気がする。
実を言えば、取るのは簡単だ。ハサミさえ必要ない。あたしは蜘株女に変身すると脚が細くなる。チャスティティ・ストリングは簡単に抜け落ちてしまうだろう。
でも、あたしはためらっていた。巻いた翌日にいきなりはずしてしまったら、詩織や亜紀に妙な誤解をされかねない。それに「インチキ臭いから捨てちゃった」なんて言ったら、せっかく買ってきてくれた詩織に悪い気もする。だいたい、大枚三一五〇円も払ったものを、あっさり捨てるのはもったいない……。
「しょうがない。もう少し巻いといてやるか」
あたしは苦笑した。実を言えば、心の底では、まだほんのちょっぴりチャスティティ・ストリングの力に期待していたりもした。もうしばらく巻いてたって、何か損するわけじゃない。そうよ、本当に効果があるかどうかなんて、試してみなきゃ分かんないんだし……。
ま、騙されたことを認めたくない負け惜しみではあるんだけど。
それにしても――あたしは未来のごとを考え、暗澹《あんたん》たる気分になった。本当に人間に戻る方法はあるんだろうか。あたしだって女の喜びってもんを味わってみたい。一生、男の人を知らないまんま終わってしまうなんて、あまりにも寂しすぎる……。
そんなことを考えていた時――
すうっ……と、バスタブの底が沈みこむような感覚があった。
「えっ?」
沈んでしまいそうになって、あたしはとっさにバスタブの縁をつかみ、体を支えた。最初、のぼせてめまいを起こしたのかと思った。やっぱ、未成年がビールを飲んじゃいけなかったのか……。
でも、それは錯覚じゃなかった。さっきまでお尻《しり》に当たっていたバスタブの底の感触が消えている。足をばたつかせてみたけど、踵《かかと》は底に当たらなかった。お風呂の底が抜けた? でも、それだったらお湯が流れ出してるはずだ……。
次の瞬間、誰《だれ》かがあたしの腰をがっしとつかんだ!
「わっ!?」
あたしはあせった。相手は背後から抱きついてきて、ものすごい怪力で真下に向かって引っ張っている。必死にバスタブの緑にしがみついたけど、かなわなかった。
指がつるっと滑ったかと思うと、あたしは深い水中に引きずりこまれていた。
4 裸で河童《かっぱ》に巴投《ともえな》げ
ごぼごぼごぼごぼ……周囲で激しい泡の音がしていた。さっきまでお湯に浸かっていたはずなのに、今は冷たい水の中にいる。あたしは姿の見えない何者かに抱きすくめられ、ひどく混乱し、もがいていた。どっちが上かもよく分からない。
目を開けると、周囲は薄暗く、水が濁っているのが分かった。五メートルぐらい前方に、白くぼんやりと光る長方形が見える。泡はそこに向かって上がってゆく。ということは、あっちが上なんだろうか……?
突然、その長方形がバスタブの水面だと気がついた。あの光はお風呂場の照明だ。あたしは後ろ向きに沈んでいってるんだ。でも、そんなことがあるはずがない。あたしの家のお風呂が何メートルもの深さがあるなんてことは……。
背後からあたしを抱いている奴《やつ》は、ものすごい力でぐいぐいとあたしを深みに引きずりこんでゆく。手足をばたつかせたけど、無駄な努力だった。白い長方形はたちまち後退し、濁った水に阻まれて見えなくなった。今や周囲は灰色一色だ。さしもの暗視能力も、濁った水の中ではあまり役に立たない。
幸い、頭が没する直前、最後の一息を呼吸する時間があった。まだ溺《おぼ》れるには間がある。あたしは両腕を後ろにねじ曲げ、見えない敵に向かって糸を放った。
水に糸の勢いを殺されただろうから、そんなに威力はなかったはずだ。でも、こんな反撃は予想外だったに違いない。相手が動揺し、腕の力をゆるめたのを感じた。あたしは腕を振りほどくと、力いっぱい相手の腹を蹴《け》り、自由の身になった。水面があると思える方に向かって必死に泳ぎだす。
突然、顔が水面に出た。
「ぷはっ!」
あたしは息を継いだ。そこはお風呂場じゃなかった。アフリカのジャングルだ――信じられないけど、植物園にある温室みたいに、どっちを向いても熱帯植物がびっしり生い茂っていて、白い霧がゆるやかに流れている。あたしはジャングルの中を流れる小さな川から顔を出しているのだ。
水中に微妙な振動を感じた。敵が足の下から迫ってくる気配がする。深く考えている余裕はない。また水中に引きずりこまれたら、今度こそ助からないかもしれない。あたしは慌てて近くにあった樹の根にしがみつき、岸に這《は》い上がった。
シダの生い茂った岸に立ち上がり、振り返った。その瞬間、水面が爆発したようにはじけたと思うと、緑色の生物が勢いよく飛び出してきた!
そいつは膨大な水しぶきをまき散らしながら、あたしに真正面から体当たりしてきた。左右に樹が立っているので、かわす余裕がない。あたしはとっさに腰を落として身構えた。
「ぐふっ!」
激突の瞬間、胸に激しい衝撃を覚え、息が詰まった。
そのまま後ろに押し倒されそうになる。あたしはすかさず蜘蛛女に変身し、八本の脚で地面に踏んばった。あたしたちは相撲《すもう》の力士のように、がっぷりと組み合った。相手の濡《ぬ》れた長い髪が顔にへばりつき、視界をさえぎる。
そいつの身長はあたしと大差なかった。でも、力が桁《けた》違いだ。長い両腕をあたしの背中に回し、締め上げようとする。
「くう……!」
あたしはうめいた。このままじゃやられる! 柔道では相手の袖《そで》や襟をつかむのが基本なんだけど、こいつは柔道着を着ていないので勝手が違う。皮膚は生魚のようなぬるぬるした感触で、つかみどころがなかった。
それでもどうにか、相手の髪の毛を右手で、胴に巻いた腰ミノらしきものを左手でつかんだ。腕のうちの一本を相手の膝《ひざ》の裏に回し、膝車をかけようと試みる。でも、相手はがっしりと地面に踏ん張っていて、びくともしない。脚が短く、重心が低いのだ。これでは普通の立技は通用しそうにない。
相手もまた、あたしに技をかけられなくてあせっているようだった。八本の脚のうちの一本か二本に足払いをかけたって、倒すことはできない。やむなく、力まかせにねじ伏せようと、ぐいぐいと押してきた。
あたしの次の行動は、ほとんど反射的なものだった。さっと人間の姿に戻り、何歩か後過したのだ。あたしを押し倒そうとしていた相手は、意表を突かれてつんのめった。あたしは右足で相手の腹を蹴り上げながら、後方に勢いよく転がった。相手の突進の勢いを運用し、転がりながら放り投げる。
「でやーっ!」
変則的な巴投げだ。こんな状況にしては、自分でも見事に決まったと思う。相手の体は宙に浮き、半回転して地面に叩《たた》きつけられた。試合ならこれで一本取って勝ちだ。
あたしはすぐに起き上がり、そいつと向かい合った。投げられた拍子に石にでもぶつけたのか、そいつは頭を押さえてうずくまり、うめいていた。あたしは初めてそいつの姿をまともに見ることができた。
ほぼ人間型をしているけど、脚がやや短かった。全身が明るい緑色で、ぬらぬらと光る鱗《うろこ》に覆われている。口は三角形に突き出していて、髪の毛は長く、頭には皿のようなものがある。背中には亀のような甲羅《こうら》を背負っていて、その下から太くて短い尻尾《しっぽ》が生えている。浦島太郎《うらしまたろう》がしているような腰ミノを着けていた……。
河童だ。
信じられないけど、絵本とかに載っている河童のイラストそのまんまだ。質感は格段にリアルだけど。
ということは、あたし、河童と相撲を取ったってわけ? そりゃまあ、河童は相撲が好きだって聞いたことはあるけど、素っ裸で河童と相撲を取った女子高生なんて、そうザラにはいないぞ。
動転したせいで、あたしには隙《すき》ができていた。一瞬、そいつが口の端を歪《ゆが》め、にやりと邪悪な笑みを浮かべるのが見えた。
そいつはあたしに背中を向けた。逃げるのかと思ったら、下半身を持ち上げ、尻尾をぴんと上げて、あたしにお尻を見せた。言い伝えによれば、河童には肛門《こうもん》が三つあるという。あいにくとあたしはそこまで観察する余裕はなかった。
次の瞬間、ブオーッというホルンのような音とともに、猛烈な悪臭を放つガスをまともに顔面に浴びせられたからだ。
「う……げほっ!」
油断していたあたしは、もろにそれを吸いこんでしまった。ほとんど激痛に近いほどのすさまじい悪臭が、鼻孔から神経を通って駆け上がり、脳天を直撃した。くさやの干物の匂いを数百倍に濃縮し、ドリアンと納豆と腐った卵をブレンドしたような感じだ。脳が麻痺《まひ》し、気が遠くなってゆく。
あたしはへなへなと地面に崩れ、そのまま気を失った。
あたしの目を覚まさせたのは、生きものたちの気配と、騒々しい話し声だった。何匹もの生きものがあたしの周囲をせわしなく歩き回りながら、あたしには分からない言葉をけたたましく喋《しゃべ》りまくっている。
「ウッ、ポー!」
「オッ、バ、プピオーッ」
「ダビオルピー!」
あたしはうっすらと目を開けた。目の前にあるのは見慣れた我が家の寝室の壁紙じゃなく、竹の棒を縦横に組み合わせて作られた柵《さく》のようなものと、ごつごつした岩の壁だった。照明はたいまつらしく、いくつもの影が壁面に踊っている。
あたしは草を敷き詰めて作られた粗末な寝床に寝かされていた。むきだしの肩やお尻《しり》に草の先が当たり、ちくちくした感触があった。季節は九月のはずなのに、熱帯夜のような蒸し暑さだ。動物園に漂っているような獣の匂いもする。あたしは目をしばたたき、混乱した記憶をたどった。ここはいったい……?
はっとして上半身を起こし、自分の姿を見下ろした。幸いなことに、素っ裸じゃなかった。眠っている間に、誰《だれ》かに衣裳《いしょう》を着せられていたのだ。
いや、これを衣裳と言っていいのかどうか――リオのカーニバルの踊り子みたいな格好なのだ。胸を覆っているのは小さな布きれ。腰には紐《ひも》を編んで作られたベルトが巻かれ、そこから紐をコイル状に巻いて作られた縄のれんのようなものが、前と後ろにエプロンのように垂れている。首には紐と玉石をつないで作った首飾りが巻かれ、腕にはブレスレットがはめられている。頭に手をやってみると、額にヘアバンドも巻かれているのが分かった。
おまけに足首にはチャスティティ・ストリング――さっき蜘蛛女《くもおんな》に変身した時にはずれて落ちたはずだから、誰かがわざわざ巻き直してくれたのかもしれない。
裸でないことに安心すべきなのかどうか、よく分からなかった。誰が着せてくれたにせよ、意識を失ってる間、そいつにあたしの裸をじっくり見られたことは間違いない――ああ、悔しい!
それに、この衣裳ってあまりにもきわどすぎる。かろうじて大事な部分だけは隠されてるけど、ノーパンだから、縄のれんの部分がちょっとめくれただけで丸見えになってしまうのだ。これじゃ、全裸よりほんの少しましって程度だ。
おまけに、周囲の状況がこれまた最悪だった。
そこは大きな洞窟《どうくつ》の中で、集会場のようになっているらしかった。あたしは竹で作られた小さな檻《おり》の中に閉じこめられている。捕虜というわけだ。
檻の周囲をうろつき回っているのは、ゴリラを小型にしたような動物だった。身長はあたしの腰のあたりまでしかなく、顔は人間に似ていて、うなじのところにライオンのたてがみのようなものが生えている。老人のように背中を丸めているものの、かなり上手に直立二足歩行していた。葉を編んで作った袋を腰にぶら下げていたり、たいまつを手に持っていたりするところを見ると、ただの猿よりも知能は高いらしい。
そいつらは全部で十数匹いた。あたしが意識を回復したというのに、あまり気に留めていない様子で、「ウッ、ポー。ウッ、ポー」などと仲間同士で話し合っている。こいつらがあたしに衣裳を着せたんだろうか?
できることなら、悪夢だと思いたいところだ――でも、この匂いや音は、あまりにもリアルすぎる。
不意に、背後からすすり泣きが聞こえた。猿ではなく、確かに人間の声だ。あたしは驚いて振り返った。
隣にもうひとつの檻があった。その中に、あたしと同じような格好をさせられた女の子が閉じこめられていた。竹に寄りかかり、めそめそと泣いている。年は一二、三歳ぐらいだろうか。長いストレートな髪が清純な印象を与えていた。
「ねえ、あなた誰?」
あたしがやさしく声をかけても、女の子はすすり泣くばかりだ。
「ねえ、ここはどこ? 何でこんなところにいるの?」
何度か根気よく呼びかけると、女の子はようやく顔を上げた。涙のあふれるつぶらな目であたしを見る。
「だめよ。助からないわ。いくらあがいても、ここからは出られないのよ! 私たちは、あいつに……あいつに……」
女の子は言葉を詰まらせた。
「あいつって?」
「ラウよ!」女の子はヒステリックに絶叫した。「私たち、ラウの花嫁にされちゃうのよ!」
5 走れ! 地獄のジャングルを
女の子の叫び声に興奮したのか、近くにいた一匹の猿人が檻の中に手を突っこんだ。彼女の髪をつかみ、乱暴に引っ張る。
「プパロオ! ギバオロ!」
「やめて! やめてーっ! 痛ーい!」
女の子が悲鳴をあげた。あたしの怒りが爆発した。弱い人がいじめられているのを見ると、放っておけないたちだ。
「やめなさい!」
そう怒鳴るなり、あたしは指から糸を放った。腕を上下左右に振り回し、竹の檻を切り裂く。竹はあっさりと寸断され、ばらばらと崩れ落ちた。
「ウッ、ポー! ウッ、ポー!」
「オパー! オパー!」
あたしが壊れた檻からすっくと立ち上がると、猿人たちは口々に驚きの声をあげた。洞窟の中は細いたいまつが三本ほどあるだけで、かなり薄暗い。細い蜘蛛の糸はおそらく彼らの目には見えなかっただろう。あたしが腕を振り回しただけで、檻が瞬時にばらばらになったのを見て、魔法か何かだと思ったのかもしれない。
「ヒャーッ、ラ、ラ、ラー!」
一匹の猿人が群れの中から飛び出し、無謀にもあたしに向かってきた。あたしはそいつに向かって糸を発射した。殺すのは嫌なので、わざと力をゆるめて使った。
それでも、かなりの威力だったようだ。飛びかかろうと跳躍した猿人は、空中で衝撃を受け、悲鳴をあげてはじき飛ばされた。肩が裂け、血液らしい液体が、ぱっと飛び散った。
牛乳のような白い液体だ。
あたしは瞬時に理解した。こいつら、普通の生物じゃない。哺乳《ほにゅう》動物の血が白いはずがない。たぶん妖怪の一種だ。
「オパー! オパー! オパー!」
傷ついた猿人は肩を押さえてのたうち回っていた。仲間がやられたのを見て、他の連中はたじろいでいる。数は多いけど、体は小さいし、そんなに強い奴《やつ》じゃなさそうだ。あたしの力をフルに使えば、全滅させることもできそうだけど、さすがにそれはためらわれた。威嚇すれば充分だろう。
「どきなさい!」
あたしは威力を弱めた糸を何回か放った。数匹にかすり傷を負わせ、手にしているたいまつを切断した。堅い糸を岩壁にぶつけて火花を散らし、岩のかけらをはじき飛ばした。何が起こっているか分からず、猿人たちは悲鳴をあげて逃げまどう。
「ウッ、ポー! ウッ、ポー!」
「ダビオルビト!」
連中が右往左往している隙《すき》に、女の子が閉じこめられている檻を切断した。茫然《ぼうぜん》となっている女の子の手を取り、立ち上がらせる。
「走れる!?」
「あ……でも、その……」
「走るのよ、とにかく!」
あたしは左手で女の子の手を引き、強引に走り出した。立ちふさがる猿人たちを蹴散《けち》らし、飛び越え、近づいてくる奴は糸を放って威嚇した。一直線に出口に向かう。
「ちょっと、ここってどこなのよ!?」
短いトンネルを走り抜け、洞窟《どうくつ》の外に飛び出したあたしは、そこに広がっている熱帯のジャングルを目にして、思わず声をあげた。
まだ夜は明けていないようだった。白い霧が漂っていて、奥の方まで見通せないので、このジャングルがどれぐらい広いのか見当がつかない。むせかえるような強烈な植物の匂《にお》いがたちこめ、熱帯鳥のけたたましい鳴き声が響いている。空にも霧がかかっていて星は見えないけど、どうやら天井はなさそうだった。熱帯植物園じゃないのは確かなようだ。
こんなジャングル、日本にあるわけがない――いや、西表島《いりおもてじま》あたりまで行けばあるかもしれないけど、少なくとも東京都練馬区にはない。
「ラウの……世界よ」
女の子が震える声でつぶやいた。
「ラウの世界?」
あたしとしては、ぜひとも詳しい説明を聞きたかった。でも、ぐずぐずしてはいられない。後ろから猿人たちが追いかけてくる声がする。
「逃げるわよ!」
あたしは女の子の手を引き、ジャングルに飛びこんだ。草をかき分け、木の根の障害を飛び越え、霧のヴェールを突き破って、走る、走る。
幸いなことに、地面を覆っている草は柔らかく、分厚い敷物のようにふわふわしていた。裸足《はだし》で走っても怪我はしない。おまけに気温も湿度も高いので、裸同然でも寒くなかった。むしろ服なんか着てたら、汗と霧でべとべとになっていただろう。
後ろからは「ウポー、ウポー」という猿人たちの声が聞こえる。猿人語で「待て!」とか言ってるんだろう。でも、脚が短いので人間ほど遠くは走れないらしい。距離はどんどん開いてゆくようだ。
「だめ!」突然、女の子が悲痛な声をあげた。「そっちには世界の果てが!」
「世界の果て?」
あたしには意味が分からなかった。今はただ、走るのに夢中で、何かを深く考えてる余裕なんかなかった。
でも、走っているうちに、その世界の果て≠ノ遭遇した。霧が急に濃くなってきて、液体のような粘りを帯びてきたのだ。手足に霧がからみつくようで、うまく走れない。それでも力まかせに前進を続けるうち、霧の密度は固体なみに高くなってきた。夢の中で走っているかのように、手足が重くなり、言うことをきかない。
ついには、まったく進むことができなくなってしまった。厚さ何メートルもあるマシュマロの壁に向かって格闘しているような感じで、ふわふわしていて粘っこく、どうしても突き破ることができない。雪に埋もれてしまったように、視界は真っ白だ。
「何なのよ、これ!?」あたしはもがきながら怒鳴った。
「果てよ……この世界の」と女の子。
「世界の?」
「ここは現実の世界じゃないの。異次元の小さな空間……せいぜい半径二キロかそこらの。ここは世界の果てで、これ以上先には進めないの!」
その説明は即座に受け入れられなかったけど、進めないのは確かなようだ。あたしはやむなく方向転換した。世界の果て≠ゥら少し離れると、嘘《うそ》のように抵抗は消滅した。霧からも粘り気が消え、自由に動けるようになる。
でも、事情はぜんぜん好転していない。猿人たちの「ウポー」「オパー」という声が、さっきより近くで聞こえる。大きく回り道をしたせいで、追いつかれてきたようだ。
立ち止まって戦うべきなんだろうか? でも、いくら正当防衛でも、知能を持つ生物を虐殺したくはない。それに、あたし一人ならまだしも、女の子が戦いの巻き添えになる危険だってある……。
走っているうち、前方からドドドドド……という轟音《ごうおん》が聞こえるのに気がついた。水が激しく流れる音のようだ。川を利用すれば追跡をかわせるかもしれない。あたしたちはその音の方向へと走った。
突然、ジャングルが途切れたかと思うと、目の前に大きな滝が出現した。高さ二〇メートルぐらいの垂直の崖《がけ》の上から、大量の水が轟音を立てて落下し、派手な水煙をあげている。岸に立っているだけで、水しぶきが雨のように降りかかってくる。
あたしは四方をぐるりと見回し、進むべき道を探した。蜘蛛女《くもおんな》に変身すれば垂直の崖を登るのもたやすいけど、それではこの女の子に正体を見られてしまう。滝壷《たきつぼ》は水が激しく渦巻いているので、泳いで渡るのは危険そうだ。もう少し下流に行けば流れはゆるやかになるかもしれないが、下流の方は茂みが密生していて、とても進めそうにない。かと言って後戻りすれば、追いかけてくる猿人たちと鉢合わせしてしまう……。
迷っている時間はない。猿人たちの声が近づいてくる。
「その樹に登って! 早く!」
あたしは女の子に指示した。岸から滝壷に向かって長い枝を張り出している樹だ。女の子は少しためらったものの、すぐによじ登りはじめた。意外に敏捷《びんしょう》な動作だ。
あたしもその後に続いて登った。樹の表面は濡《ぬ》れていたけど、ごつごつしていて足場が多いうえ、幹が斜めに傾いていたので、わりと楽に登ることができた。小学校の時によくやったジャングルジムを思い出す(あの頃から「男まさり」って言われてたんだよね……)。
五メートルぐらいの高さまで登った。そこから先は枝が細くなり、二人の体重を支えきれそうにない。足の下は渦巻く滝壷で、落ちたら命が危ない。
「あたしの首にしっかりつかまって!」あたしは滝の音に負けないように怒鳴った。「それから目を閉じるのよ!」
女の子はあたしにがむしゃらにしがみついてきた。よほど恐ろしいのか、目をぎゅっとつぶっている。それを確認して、あたしは対岸の別の樹の梢《こずえ》に向かって糸を発射した。今度は殺傷力のない粘り気のある糸だ。
糸は枝にしっかりからみついた。何度か引っ張って、強度を確認する――よし、だいじょうぶだ。
あたしは女の子を背負ったまま、枝からダイブした。大きな弧を描いて、滝壷の水煙の中に突入する。
「うぎゃあああああ〜ああああ! 死ぬううううう〜うううう!」
ジョニー・ワイズミュラーのターザンの雄叫《おたけ》びに比べると、ものすごく情けない声しか出せなかった。スリルを味わってる余裕なんかない。二人分の体重、プラス遠心力を、指から出ている糸だけで支えてるもんだから、指が引きちぎれそうに痛いのだ。ほんの数秒だけど、マジで死ぬかと思った。
一瞬、足の親指が水面をかすったのを感じたけど、ほとんどブレーキの役に立たなかった。次の瞬間、あたしたちは時速数十キロで対岸の茂みに突っこんでいた。細い枝をばりばりと派手にへし折り、木の葉の壁をいくつも突き破って、ようやく停止する。
「あつつつつ……」
あたしたちは裸同然の格好で、草むらの中にもつれ合って倒れていた。あたしがもしレズでロリコンだったら、さぞかし素敵なシチュエーションだったことだろう。でも、今のあたしはただ単に痛いだけだ。
「うー、いて……だいじょうぶ……?」
ずきずきと痛む指をひらひらさせながら、あたしは女の子に声をかけた。女の子はショックで茫然《ぼうぜん》となった表情で、人形のようにかくかくとうなずいた。髪の毛は乱れてるけど、どうやら怪我はないようだ。
「……ねえ、お姉さん、超能力者?」
「へ? どうして?」
「だって、手で触らずにカクンダカリをはじき飛ばしたし、あんな距離を飛び越えたし……すごいよ!」
あたしは苦笑した。「蜘蛛女」よりは「超能力者」の方が、言葉から受けるイメージはいいかもね。
「ま、そんなとこかな――しっ! あいつらが来る!」
あたしたちは息をひそめ、草むらの合間から対岸の様子をうかがった。猿人たちがジャングルの中から現われ、岸をうろうろしているのが見える。あたしたちの姿を見失い、困惑しているのだろう。
ひとまず追跡をまくことができたことで、あたしはほっとした――でも、さし迫った危機から逃れられただけで、依然として状況は良くなってはいない。
ここっていったいどこなのよ?
6 どうしてそれがあたしなの?
夜明けまでにはまだ間があった。あたしはまだ少し混乱している女の子をなだめすかし、時間をかけて、どうにか事情を聞き出した。言葉遣いはちょっと生意気なところもあるけど、純粋でいい子のようだ。
彼女の名前は美弥《みや》。母親が <銀三角> で経理の仕事をしていて、その影響で、オカルト関係に詳しいらしい。
美弥ちゃんの説明によれば、今回の事件の発端は、半年前、 <銀三角> がラピスラズリの原石を大量に含んだ重量一トンの石を、ウガンダから輸入したことだという。仲介業者を通さず、原石を直輸入して自分のところで加工すれば、ずっと安く上がるはずだ、という目論見《もくろみ》だったらしい。もちろん、それで定価を下げるわけじゃなく、原価を安くして利鞘《りざや》を稼ぐつもりだったんだけど。
ところが、大きな石が <銀三角> の作業場に運びこまれた日から、奇妙な現象が続発した。乾いているはずの石から、なぜかぽたぽたと水がしたたり落ちた。見たこともない種類の珍しい甲虫がどこからともなく出現して、作業場を飛び回った。さらに、夜になるとかすかに野獣の吠《ほ》える声も聞こえた。
何しろオカルトマニアばかりの会社だから、即座に「霊障では」と考えられた。社員たちはさっそく、自分たちが深く尊敬する人物に相談を持ちかけた―― <銀三角> の社長で、世界征服を目論むオカルト団体 <巨大皇国> の主宰者、自称世界最高の霊能者の魔神古寺《まかみこじ》シャロン氏(本名じゃないよ、もちろん)だ。
魔神古寺氏は、やはり霊能者である妻のヴェルレーヌさん(ちなみに日本人よ、もちろん)に石の正体を調べさせた。ヴェルレーヌさんが霊視したところ、「石の中に異次元の空間がある」と判明した。厳密に言うと、異次元の空間とこの世界との接点がその石で、そこから水や虫や音が洩《も》れてくるというのだ。その空間は、時間の流れから隔絶されたロストワールドで、原住民が河の神と崇めるジャングルの怪物に支配されているという。
ややこしいのはここからだ。魔神古寺氏は原石を作業場から自宅に運ばせ、床の間に据えつけた。そして、 <巨大皇国> の団員たちにも秘密で、妻と二人で何かをやりはじめた。美弥ちゃんのお母さんは、その態度に不審な点を感じたという。
二か月前、魔神古寺氏はナイルの神から霊感を得たと称して、チャスティティ・ストリングのデザイン開発と販売を命じた。しかも、 <銀三角> の他の商品よりも格段に安い値段(消費税込みで三一五〇円)でだ。社員たちは不思議に思ったけど、魔神古寺氏のことを深く信頼していたので、その指示に従った。
そして、チャスティティ・ストリングの販売が開始されて何日か経ったある日、魔神古寺氏の自宅を訪れた美弥ちゃんのお母さんは、見てはならないものを見て、聞いてはならないことを聞いてしまった。
魔神古寺氏は河童《かっぱ》と話していたのだ。
決定的場面を見られてしまった魔神古寺氏は、美弥ちゃんのお母さんに真相を打ち明けた。実は彼は、数年前から悪い河童と親しくしていたという。本当は霊能力などないのに、河童の妖術《ようじゅつ》をトリックに利用し、いろいろな「奇跡」を演出していたのだ。
たとえば、「魔神力」で空のコップの中に水を出現させたり、水の味を変えてみせる。実際は、魔神古寺氏は念をこめるふりをしていただけで、近くにいた河童が妖術で水を操っていたのだ。
あるいは、密閉された箱の中に入って、濁った水中に二時間以上も潜ってみせる。本当は河童に箱から助け出されて、ずっと自宅の風呂場《ふろば》でくつろいでいたのだ。
あるいは、原因不明の病欠に苦しんでいる人を、「悪霊祓い」「神秘療法」と称して治療し、金を取る。実は、眠っている間に河童がその人の尻子玉《しりこだま》を抜いて病気にし、それをまた元に戻して治してみせていたのだった……。
そう、魔神古寺氏が団員たちに語っていたことは、何もかも嘘《うそ》だったのだ――唯一、「世界征服がしたい」という願望以外は。
今回、魔神古寺氏から依頼を受けた河童は、水から水へと移動できる力(厳密に言うと、空間をねじ曲げて、水のある二点間をつないでしまうらしい)を使って、石の中に存在する異次元世界に侵入した。そこで河の怪物ラウの存在を知り、ラウを崇《あが》める猿人族カクンダカリと知り合った。
河童はカクンダカリと親しくなり、何か月もかけて彼らの言葉を学んだ。そして、ラウが棲《す》む沼の底に、大量の「光る石」が蓄えられていることを知った。カクンダカリたちの話から推測すると、どうやらダイヤモンドらしい。
それが事実なら、総額何十億、何百億の価値があるに違いない。話を聞いた魔神古寺氏は、何とかそのダイヤを手に入れられないものかと、河童を通じてカクンダカリたちと交渉した。カクンダカリはラウにおうかがいを立てた。ラウは彼らにある条件を出した。
ラウは花嫁を欲しがっていた。若く美しい人間の娘だ。人数は何人でもかまわないし、人種も問わないが、意志が強く、健康で、処女でなくてはならない。その条件に合う娘を一人つれて来るごとに、「光る石」を一個渡そう……。
魔神古寺氏は思案した。適当な娘を差し出してごまかすのは、できそうになかった。ラウは処女を見分ける力を持っているらしい。ユニコーンと同じく、処女にしか気を許さないのだ。処女でない女を捧げたりしたら、激怒することだろう。
それに、ダイヤはできるだけたくさん欲しい。そのためには、若くて健康な処女をできるだけ大勢見つけ出さなくてはならない――どうやって?
考えた末に思いついたのが、チャスティティ・ストリングを利用することだった。それはもちろん、恋愛成就のおまじないなんかじゃない。ある部族の古い風習で、神の怒りを鎮めるために若い娘を捧げる時、その足首に巻くものだ。つまり、ラウの花嫁に(もっとストレートに言えば生贄《いけにえ》に)選ばれた印なのだ。
河童はその紐《ひも》にあらかじめ念をかけておくことによって、紐を着用した人物の居場所を知ることができる。そして、人間に化けてターゲットの周囲をうろつき、容姿や健康度、言葉遣いなどを、それとなくチェックする。良さそうだと判断したら、風呂場から誘拐し、この世界につれて来る……。
美弥ちゃんのお母さんは、その話を聞いて愕然《がくぜん》となり、恐怖した。尊敬していた魔神古寺氏がエセ霊能者だったこともショックだったが、ダイヤと交換するために人間を誘拐し、怪物の生贄に捧げるなんて、いくら何でも人道に反している。
魔神古寺氏は彼女にきつく口止めをした。偉大な目的のためには、多少の犠牲はやむを得ない。世界征服の資金を稼ぐためには、この計画は絶対に成功させなくてはならないのだ。計画が終了するまで、誰《だれ》かによけいなことを喋《しゃべ》ったり、騒いだりしてはいけない。君が沈黙を守る保証として、お嬢さんをしばらく預からせてもらう……。
かくして美弥ちゃんは、河童に誘拐され、この世界につれて来られた。河童がうっかり洩らしたところによれば、計画が終われば家に帰してくれるというのは嘘で、彼女もいずれラウの花嫁にされる予定だという……。
「ふうん、なるほどねえ」
美弥ちゃんの話は荒唐無稽《こうとうむけい》で、出来の悪いおとぎ話のような代物だったけど、あたしは大筋では納得した。
世界征服を企むオカルト団体のことは、父さんから聞かされたばかりだ。ヴェルレーヌさんの霊視うんぬんの話は嘘っぽいけど、石の中に存在する異次元空間に関しては、事実と信じるしかない――げんに、あたしは今、そこに来てるんだから。
たぶん、 <うさぎの穴> と同じく、ここは妖怪《ようかい》の隠れ里なんだろう。 <うさぎの穴> と違うのは、さすがアフリカだけあって、スケールが大きいってことだ。何平方キロもあるジャングルがすっぽりと入ってるんだから。
ラピスラズリの原石は、その世界に出入りするための秘密の入口の扉―― <うさぎの穴> のエレベーターのようなものに違いない。それを掘り出して日本に持ってきてしまったので、ロストワールドもいっしょについてきたというわけだ。もちろん普通の人間は入口を通過できないけど、河童は水から水へと移動できるので、現実世界のお風呂場からロストワールドの中を流れる川へ、犠牲者を引きずりこめるわけだ。
河童の実在についても、これまた疑問の余地はない。何しろ、あたしは河童と相撲《すもう》まで取っちゃったんだから。たぶん、かなたが言っていた「ネネコ」とかいう奴《やつ》だろう。何百年も生きているなら、いろんな妖術を知っていても不思議はない。
そう、大筋では納得できる――ただ、どうしても納得できない部分が一箇所あった。
「でも、それがどうしてあたしなの?」
美弥ちゃんに向かって腹を立てるのは筋違いだとは分かっていたけど、あたしは抗議せずにはいられなかった。
「チャスティティ・ストリングを買った女の子は、他に何百人もいるはずでしょ? どうして今日買ったばかりのあたしが、真っ先に選ばれなくちゃいけないの? どうして他の誰かじゃなかったの?」
「そんなこと言われても……」美弥ちゃんは困った顔をした。「順番なんか適当だろうし、理由なんかないわよ。偶然でしょ、きっと」
「偶然ねえ……」
いや、数百分の一の偶然とは、とても思えない。よくは分からないけど、なるべくしてこうなったって気がする。
天津さんが言っていたことを思い出した。妖怪同士は見えない力で引かれ合う。シンクロニシティみたいなものが働いていて、悪い妖怪が何か事件を起こすと、なぜかそれに別の妖怪が偶然関わってしまうことがよくある――この場合、河童が起こした事件に、あたしが巻きこまれたってことなんだろう。
その考えで説明はつく――でも、理不尽なことに変わりはない。
「それに、お姉さんが最初に選ばれたわけじゃないのよ。何日か前から、試験的に何人かさらってきてたの」
そう言えば、銭湯で行方不明になった女の人がいるって、かなたが言ってたな。
「その人たちは? あの洞窟《どうくつ》にいなかったけど」
「何人かは家に帰したらしいよ」
「家に帰した?」
「うん。一人はさらわれたショックで錯乱して手がつけられなくなったし、別の人は処女じゃないのに嘘ついてストリング巻いてたりしてたのが分かったりしたもんで、家に帰しちゃった……って、河童《かっぱ》が言ってた」
「そんなことしたら、それこそ話が世間に広まって、計画がバレちゃうんじゃない?」
「どうかなあ」美弥ちゃんは首を傾げた。「 <銀三角> のグッズを買う女の子って、かなり濃いオカルトマニアばっかりでしょ。『お風呂場《ふろば》で河童にさらわれた』なんて言っても、誰にも信じてもらえないと思うのよね」
それは一理ある。あたしだって、実際に体験しなきゃ信じなかっただろう。
「その点、お姉さんは理想的だって、河童が言ってたよ」
「理想的?」
「そう。顔がいいだけじゃなくて、性格もいいって。異常な状況なのに、ぜんぜんパニクらずに、河童に立ち向かったでしょ? すごく勇気があるって誉めてた。これならラウの前に出ても、気絶したり取り乱したりしないだろうって」
河童に誉められても、ぜんぜん嬉《うれ》しくないぞ。
「それに、正真正銘、処女だってことも確認したって」
「げっ!? 眠ってる間にそんなとこまで調べられてたの!?」
「らしいよ」
うーん、ますます許せないぞ、河童の奴! 今度会ったら、恥をかかされた乙女の恨み、思い知らせてやる。
それにしても、河童はあたしの正体が蜘蛛女だってことを、見て知ってるはず。いくら「人種は問わない」って言ったって、妖怪を花嫁候補に選ぶのは、どういう神経してんだか。現代日本じゃ、処女ってそんなに不足してるもんなんだろうか。
「そう言えば、河童はどこ行ったの?」
「また次の人を探しに行ったみたいよ。条件に合う娘をできるだけたくさん見つけてつれて来い、っていうのが魔神古寺さんの指示らしいから。つれて来てもラウの気に入るかどうか分からないし、数撃《かずう》ちゃ当たるってことらしいよ」
何つーアバウトな。
「じゃあ、今ごろ、どこかで誰かさらわれてるかも……」
「うん。もう何人ぐらい誘拐されたのか、私もはっきりとは知らないの。ひょっとしたら、もう生贄にされちゃった人もいるかもしれない」
あたしの脳裏に亜紀と詩織の顔が浮かんだ。やばい! あの二人もチャスティティ・ストリングを着けてるんだ!
いや、あの二人だけじゃない。今や何百人という女の子が危険にさらされている。恐ろしい罠《わな》とも知らずに、チャスティティ・ストリングを巻いたままお風呂に入り、河童に誘拐されてしまう……。
そう、あたしたちがこのジャングルを逃げ回ってたって、ぜんぜん問題解決にならないんだ。河童はどんどん女の子をつれて来て、ラウの生贄に捧げるだろう。見過ごすわけにはいかない。何としてでもその計画は阻止しないと。
「 <うさぎの穴> に助けを求められたらなあ……」
「えっ、うさぎ?」
「いや、何でもない」
あたしは自分の甘えた考えを振り払った。この世界には携帯電話も公衆電話もありそうにない。 <うさぎの穴> に連絡する方法がないのだ。できもしないことを期待したって、時間を浪費するだけで、何の役にも立たない。外部からの助けが期待できない以上、あたしの力で解決するしかない。
とにかく、どうにかして元の世界に戻る方法を見つけることだ。
「この世界から出る方法は何かないの? 河童に頼る以外に」
「まあ、ないことはないけど……」美弥ちゃんは口ごもった。
「えっ、何かあるの?」
「……ラウよ」
「え?」
「ラウはこの世界の支配者だもの。自由に外に出ていけるはずよ。きっとラウの棲《す》む沼のどこかに出入口があるんだと思うの」
なるほど、ちょくちょく外に出てるんじゃなきゃ、父さんが言ったような目撃報告もあるわけがない。
「ということは、いっぺん偵察に行くべきね。ラウの棲む沼に」
「でも、ラウに出会ったりしたら……」
「だからって、こんなとこにじっとしてたって、何の解決にもならないじゃない。そりゃあ危険なことは分かってるけど、他に脱出ルートの手がかりはないんでしょ? だったら、沼を調べに行くしかないわ」
「だいじょうぶかなあ……?」
美弥ちゃんの不安を和らげるために、あたしは無理して笑みを作った。
「平気平気。出会ったらさっさと逃げればいいんだから」
7 妖怪《ようかい》だって愛が欲しい
夜が明けた。
とは言っても、この世界に太陽はない。霧に覆われた空が明るくなったというだけだ。それでも、ジャングルの様相は夜間とは一変していた。のっぺりした灰色一色だった世界に光がもたらされ、豊かな色彩が生まれている。樹々の合間に美しい熱帯植物が花開き、生い茂った葉は様々な色調の緑を競い合っていた。極彩色の大きな蝶《ちょう》も飛び回っている。暗く沈滞した雰囲気が一掃され、明るく騒々しくなっていた。鳥たちの鳴き声も活発になっている。
ラウが棲むという沼は、ほぼ円形をしたこの世界の中心にあるという。あたしたちは川の流れにそって下流に向かった。
しばらく歩いていると、川幅が広がり、流れもゆるやかになってきた。大きく蛇行しながら、ジャングルを縫って流れている。一度だけ、豹《ひょう》か何からしい猛獣の声も聞こえたけど、幸いなことに出くわさなかった。
お腹が空いてきたけど、まだ耐えられないほどじゃない。川の中には魚もいるし、ジャングルには果実もある。その気になれば、この世界で原始に還ってサバイバルするのは、そんなに難しくないだろう――そんな長く暮らすつもりは毛頭なかったけど。
それにしても、この世界の構造ってよく分からない。植物がこれほど茂ってるんだから、雨だって降るはずだけど、いったいどこから降るんだろう? あの滝の水はどこから流れてきて、どこに行くんだろう? エッシャーの絵みたいに、同じところをぐるぐる循環してたりするんだろうか。
どうも学校で習う理科の知識は、妖怪関係には通用しないみたいだ。
そんなことを考えながら歩いていると、不意にジャングルが途切れ、広い沼が出現した。幅は何百メートルもあって、水面にはスイレンが浮かび、岸の近くには葦《あし》が生い茂っている。霧がかかっているので対岸は見えない。
あたしたちは茂みの背後に身をひそめ、様子をうかがった。風はなく、水面にはさざ波ひとつなかった。動くものの姿はまったく見えない。霧さえも空中で止まっていて、写真の中の風景のようだった。何とも言えない不気味な雰囲気だ。
ここがラウの棲むという沼らしい。
「私……こわい」
美弥ちゃんが震えるか細い声でつぶやいた。無理もない。あたしだってこわいんだから。
「ここで待ってて。ちょっと偵察してくる」
「だいじょうぶ? 一人で……」
美弥ちゃんが心配そうに言った。気遣ってくれるのはありがたいけど、彼女がいっしょにいても、役に立ちそうにない。危なくなっても彼女の前じゃ変身できないし、足手まといになって、かえって危険なだけだ。
「平気平気――ここを動いちゃだめよ。なるべく早く戻るから」
あたしが歩み出そうとすると、美弥ちゃんがぐいっと肘《ひじ》をつかんだ。
「あの……」
「どしたの?」
「……怪物の急所って、たいてい目よ。危なくなったら目を狙《ねら》ってね」
真剣な表情でアドバイスしてくれる美弥ちゃんに、あたしの表情はほころんだ。いいなあ、健気《けなげ》だね、この子。
「ありがと。気をつける」
あたしは礼を言うと、美弥ちゃんを茂みの中に残し、ジャングルから足を踏み出した。浅瀬にばちゃばちゃと入ってゆく。
岸に沿って少し歩いてみた。水の深さは踝《くるぶし》ぐらいしかない。歩くにつれて生じる波紋が、水面全体に大きく広がってゆく。指向性聴覚のボリュームを最大にしたけど、何かが鳴く声も、何かが動く気配も、まったく感じられなかった。この沼の周辺には虫や小動物すらいないらしい。物音と言えば、あたしが立てる水音の他には、ずっと遠くから断続的に聞こえる熱帯鳥の声ぐらいだ。
いったい何千年、この静寂は続いてるんだろうか。妖怪は人の想いから生まれるという。こんな原始の世界にひっそりと棲息《せいそく》する怪物を創造したのは、もしかしたら遠い昔の原始人の心なのかもしれない。自分がひどく不作法なことをしている気がして、軽い罪の意識にかられた。あたしは神聖な領域に侵入し、数千年の静寂をかき乱しているのかもしれない。
危険の兆候は何も感じられないのに、何かの予感なのか、心臓の鼓動が速まるのを感じる。静かだ。あまりにも静かすぎる……。
異様な静寂がもたらす緊張に、あたしが耐えられなくなってきた時、それはひそやかに水音ひとつ立てずに出現した。
あたしの目の前で、水面からぬうっと黒っぽいものが浮上したかと思うと、ゆっくりと空中にせり上がっていった。白鳥のような長い首だ。頭部にはクジャクの羽根のような冠毛があり、蛇のような黄色い目が光っている。
やがて完全に浮上すると、そいつは彫像のように静止した。水面から上に長く突き出た首だけで、あたしの身長の倍はゆうにあった。体全体を覆う濡《ぬ》れた暗褐色の毛から、水滴をぽたぽたとしたたらせている。
ずっと離れたところに尻尾《しっぽ》らしきものが浮かんでいた。コンペイトウを連想させるごつごつした瘤《こぶ》があり、たぶん戦いの時には武器になるのだろう。水面下にはさらに長い胴体が隠れているらしく、全体では十数メートルはありそうだった。
そいつはおもむろに首をめぐらせ、あたしを真正面から見つめた。顔は蛇のようでもあり、鳥のようでもあり、イヌ科の動物のようでもあった。ちっとも恐ろしくはなく、むしろ深い知性と優しさを感じさせる目だった。その神秘的な視線に射すくめられると、背筋に不思議な感動が走った。
ナイル河の怪物ラウ。
あたしは身動きできなかった。何か術にかけられたのか、それとも感動のあまり動けないのか、自分でも分からない。それほどまでに、そいつは異様で、美しかった。不安や恐怖はあっさりととろけ去った。これが人を食う恐ろしい怪物だとは、とても信じられなかった。
(よく来た、花嫁よ)
頭の中に声が響いた。テレパシーというやつだろう。怪物の考えていることが直接流れこんできて、あたしの脳で日本語に翻訳されてるわけだ。そう、妖怪《ようかい》だったらそれぐらいできても不思議はない。
意志が通じることで、あたしは少しだけほっとした。英語には少し自信あるけど、アフリカの妖怪の言葉なんて分からない。
(澄んだ良い目をしている。気に入った)
「あ……あたし、花嫁じゃないわ」
あたしはかろうじて言葉を絞り出した。緊張のあまり、ひどくかすれている。
(では、なぜストリングを巻いている?)
「あ……」
あたしは蒼《あお》ざめた。そうだ、チャスティティ・ストリングを着けたままだったのを、すっかり忘れていた。
「ち……違う! これは違うの!」あたしは慌てて弁明した。「あたしは無理やりつれて来られたのよ!」
(どうやってここに来たかなど、些細《ささい》なことだ)
「些細なことじゃなーい!」
あたしは思わず大声をあげていた。
それにしても、第三者の視点になって冷静に考えてみると、これってすごくおかしな状況だ。女子高生(しかも蜘蛛女《くもおんな》)が裸でアフリカのジャングルにいて、蛇みたいな怪物と押し問答してるなんて。
「それより、他の人はどうしたの? あたしより先につれて来られた人は?」
(先の者などいない。お前が一人目の花嫁だ)
良かった。まだ犠牲者は出てないみたいだ。
「だから、あたしは花嫁じゃないんだってば。食われるのなんてまっぴらよ!」
(食ったりはしない。妻になって欲しいだけだ)
「それでも嫌よ! だいたい、どうして怪物が花嫁なんか欲しがるの?」
(寂しいからだ)
あまりにもストレートな回答に、あたしは絶句した。こんな怪物が「寂しい」って言うなんて、想像もしていなかった。
(そう、私は寂しいのだ)ラウは目を細めた。(あまりにも長く、一人でいすぎた。遠い昔、まだ愚かな獣だった頃、多くの人間の脳ミソを食らったことがあるので、人間たちは私をひどく恐れ、避けようとする。もう何百年も前に人間を食うのはやめているというのに。たまにこの里から外に出て行っても、娘たちは私の姿を見ただけで悲鳴をありて逃げてしまう。最近では、火を吹く棒で私を傷つけようとする者もいる)
「……自業自得よ。昔、そんなことしたから」
(そうかもしれない。だが、私はもう孤独に耐えるのには飽きたのだ。伴侶《はんりょ》が欲しい。常にそばにいて、数百年の孤独を癒してくれる者たちが――私を愛し、理解し、話し相手になってくれる、優しい妻たちが)
「何でそんなに大勢欲しがるのよ? 一夫一婦制を守りなさいよ!」
(イップイップ? 何だ、それは?)
う……アフリカ生まれの妖怪じゃ、一夫一婦制を知らなくても無理ないか。あっちじゃ一夫多妻制が多いらしいし。
「とにかく、ダメなものはダメなの!」あたしはラウにぴしゃりと指を突きつけた。「だいたい、あんた、身勝手よ!」
(身勝手?)
「そう! 無理やり誘拐しておいて、花嫁になってくれ、愛してくれだなんて、勝手すぎるわよ! 自分の姿も、相手の都合も、ぜんぜん考えてないじゃない!」
(この姿では、愛してくれぬと言うのか?)
「あったり前でしょ! 誰《だれ》が妖怪なんか――」
妖怪なんか、愛してくれるもんですか。、その言葉はあたしの咽喉《のど》につっかえた。そう、誰もグロテスクな毒蜘蛛の妖怪なんか愛してはくれない。あたしはこれからずっと、男の人に愛されることなく、孤独な人生を送らなければいけないんだ……。
唐突に湧《わ》き上がってきた悲しみに、頭の中がしびれるような感覚を味わった。不覚にも涙がじわっとあふれてきた。自分が哀れだったからじゃない。不意に、ラウの深い孤独が理解できたからだ。あたしはまだ妖怪になってほんの二か月と少しだけど、いろんな悲しみ、いろんな悩みを味わってきた。そんな境遇に、ラウは何百年も耐えてきたんだ……。
(お前も妖怪なのか?)
あたしの心を読んだのか、ラウが優しく語りかけてきた。
「……そうよ」
(私のために泣いてくれるのか?)
あたしは拳《こぶし》で涙をぬぐった。
「ええ――悔しいけど、そうよ」
(お前も孤独なのか……)
「……まあね」
(ならば、ともに愛し合おう)
「え?」
(お前の孤独を癒してやろう。だから、私の孤独も癒してくれ)
あたしは不吉なものを感じた。それってつまり……?
次の瞬間、何かが水中からあたしの足にからみついてきた!
8 必殺技で大逆転
「うわっぷ!?」
ものすごい力で足を引っ張られ、あたしは転倒した。浅瀬をずるずるとラウの方に引きずられてゆく。ラウも巨体をくねらせ、こちらに近づいてくる。
不覚だった。下半身が水中に隠れていたんで見えなかったけど、ラウにはタコのような四本の長い触手もあったんだ。そのうちの一本はあたしの足に巻きつき、他の三本は空中でムチのように踊っている。
さっきまでの感動は、どこかにぶっ飛んでしまっていた。
「放せーっ!」
あたしは引きずられながら、指をラウの頭部に向けた。美弥ちゃんのアドバイス通り、目を狙《ねら》いたいところなんだけど、慌ててるもんで狙いが定まらない。ぬそれでもどうにか発射した一本が、長い首の中ほどに当たった。濡れた毛がちぎれ飛び、赤い血が派手に噴出する。人間なら即死のダメージのはずだけど、何しろ巨体だから、たいしてこたえてないみたいだ。
二撃目を放とうとした時、触手の一本が右の手首にからみついてきた。続いて左の手首に別のやつが――振りほどこうにも、ものすごい力で巻きつき、締めつけてくる。
両腕がぐいぐいと左右に押し広げられた。あたしは腕の自由を奪われ、糸の攻撃を封じられた。そのまま空中に吊《つ》り上げられてゆく。
「うわーっ! きゃーっ! やめてーっ! いやーっ!」
(おびえることはない。落ち着いてくれ)
ラウは無茶なことを言う。こんな状況でおびえない女の子なんて、いるもんですか。
あたしはYの字の格好で、ラウの頭の高さまで持ち上げられた。残る一本の触手が、胸からお腹、お腹から脚にかけて、いやらしく這《は》い回る。あたしの肌の感触を確認しているかのようだった。その動きのなまめかしさに、あたしはぞっとなった。タコは触手のうちの一本が生殖器官になってるって、確か『どうぶつ奇想天外』で聞いたことがある……。
「いやあ!」
あたしは蜘蛛女に変身した。八本の細い脚をめちゃくちゃに振り回し、下半身にまとわりつくラウの触手を払いのける。
(それがお前の真の姿か?)
「へへん、そうよ! 驚いた?」
(その姿でもかまわぬ)
「え? え? わっ!?」
ラウは愛撫《あいぶ》を再開した。あたしを二本の触手で宙吊りにしたまま、他の二本で蜘蛛のお尻を撫《な》で回しはじめたのだ。
「あっ……ちょ、ちょっと、やめ……くすぐったい……あっ、か、感じる……」
そう、蜘蛛女に変身しても、お尻の感覚は元のままなのだ。女の子にとって、お尻は重要な性感帯のひとつ。おまけに、二か月前に初めて蜘蛛女に変身して以来、あたしの触覚は異常に鋭敏になっている。つまり、人より感じやすいってわけで……。
「ああっ! や、やめ……いやあ!」
あたしは必死に身をよじったけど、ラウは愛撫をやめようとしない。
(お前がどんな姿だろうと、かまいはしない。私はお前を愛する)
「こっちはかまうーっ! あああ〜っ!」
この前は冷凍ミイラ、今度は一転して熱帯の妖怪《ようかい》――あたしって、よくよく変なものに好かれるらしい。男運が悪いのかな。
いや、そんなのんきなこと考えてる場合じゃない。ラウは調子に乗って、いっそう激しくお尻を撫で回してくる。あたしは本格的にぞくぞくと感じはじめた。
「だめ……そんなに触っちゃ……ああ……」
たまらなくなって人間の姿に戻ろうとした。でも、できなかった――エッチな気分にされてしまっていたからだ。
ラウの愛し方は、多少乱暴ではあったけど、決して不快じゃなかった。肌の上を這い回る触手の感触は、ひたすら優しく、かぎりない愛がこもっていた。あまりの気持ちよさに、だんだん意識がぼんやりしてくる。
「んんん……うふう……んん」
あたしの唇から、自分のものとは思えないほど色っぽい声が洩《も》れた。生まれて初めて味わうめくるめく感覚の波に、あたしは酔った。意識がどこまでも押し流されてゆくのを感じる。このまま、行くとこまで行っちゃうんだろうか……?
それもいいかもしれない。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。そうよ、こんな気味悪い姿のあたしを本気で愛してくれる男性(?)がいるって、素敵なことじゃない。初体験をしてみたい、女の喜びを味わってみたいって、あんなに切実に願ってたじゃない。相手が人間じゃないからって、それがどうしたっていうの。あたしだって怪物なのに……。
その魅惑的な考えはどんどん膨らみ、あたしの心を真っ白に染めていった。心地よいあきらめが全身に広がるにつれ、嫌悪感は弱まり、抵抗は散漫になっていった。あたしの体は今やぐったりとなり、ラウの触手にまとわりつかれて、されるがままになっていた。目を閉じ、快楽に身をゆだねる……。
その瞬間、目蓋《まぶた》の裏に浮かんだのは、三条院さんの顔だった。
「いやーっ!」
あたしは金切り声を張り上げた。激しくかぶりを振り、意識を支配しようとしていた危険な考えを振り払う。
「やだやだやだ! 初めては三条院さんじゃなきゃやだ! 他の人なんかやだ! 死んでもやだーっ!」
そう叫んだ瞬間、咽喉《のど》の奥から何かがこみあげてきた。痰《たん》が詰まってる感じに似てるけど、痰よりずっと大きくて堅いものだ。苦しくてたまらない。
「うぐ……ぶっ!」
あたしは唾《つば》を吐き出す要領で、その堅いものを勢いよく吐き出した。
ラウが悲鳴をあげた。触手が激しく揺れるのを感じる。目を開けると、ラウは鼻面から血を流し、頭を激しく振り回して苦しんでいた。鼻の先に長さ二〇センチぐらいある銀色の針が突き刺さっているのだ。
針? ひょっとして、あれ、あたしが吐いたの?
よく分からないけど、試してみるしかない。あたしはさっきの要領を思い出した。痰を吐くような感じで、咽喉の奥から何かを吸い出し……。
ぷっと吐いた。
今度こそ、あたしは針が飛び出す瞬間を目にした。あたしの口から発射された針は、矢のように一直線に飛んで、ラウの首筋に深く突き刺さったのだ。ラウはまたも絶叫した。その苦しみ方からすると、糸の攻撃より何倍も威力があるようだ。
すごい! 自分にこんな必殺技があるなんて知らなかった。
すぐに三発目を発射した。今度はラウが激しく首を振ったので狙いがそれた。あさっての方向に飛んでゆく。
あたしは四発目をスタンバイした。今度ははずさないように、慎重に狙いを定めた。ラウの首の動きがゆるやかになった瞬間を狙う。右の目に狙いを定め……。
発射した。
ラウは首を大きくのけぞらせ、耳をつんざくすさまじい咆哮《ほうこう》をあげた。針は正確に右目の中心を貫いていた。体に巻きついていた触手がゆるみ、あたしは浅瀬に落下した。水底にしたたか尻をぶつける。
ラウの巨体が何度も激しく痙攣《けいれん》した。咆哮が弱まり、猫が咽喉を鳴らしているようなゴロゴロという音に変化する。それが途切れたかと思うと、暗褐色の巨体は大きく横に傾《かし》ぎ、激しい水しぶきをあげて倒れた。
あたしはとどめを刺そうと、すぐに五発目をスタンバイしようとした。でも、もう針は出てこなかった。どうやら弾《たま》切れらしい。
それに、とどめを刺す必要はないようだった。ラウの巨体は浅瀬に横たわったまま、ぴくりとも動かない。呼吸をしている様子もない。四本の触手も力を失い、水面にだらしなく漂っている。赤い血がゆっくりと水面を染めてゆく。
すべての動きが停止し、沼に静寂が戻ってきた。あたしは人間の姿に戻ると、警戒しながら、ゆっくりと立ち上がった。
「ねえ……?」
おそるおそるラウに声をかけるが、反応はない。
「死んじゃった……の?」
ラウの巨体は流木のように横たわったまま動かない。あたしの発した声は、沼を支配する絶対的な静寂に吸いこまれ、戻ってこなかった。
混乱していた心に落ち着きが戻ってくるにつれ、深い後悔が心を苛《さいな》んだ。殺すつもりじゃなかった。ラウは強引だし、身勝手な奴《やつ》だったけど、決して悪い奴じゃなかった。昔は人を殺していたかもしれないけど、今は違っていた。寂しがり屋で、優しい奴だった……。
あたしを本気で愛してくれた。
あたしたちに殺し合いを演じさせたのは、ほんのちょっとした心の行き違いだった。時間さえかければ、もっと話し合えば、理解し合うことはできたはずだ。姿形は奇妙でも、友達になろうと思えはなれたはずだ。
ほんの一時ではあったけど、あたしたちの心は確かに共感し合っていたんだから。
その場にどれぐらい突っ立っていただろうか。
「わあ、お姉さん、すごーい!」
明るくはしゃぐ声に、あたしははっとなった。振り返ると、ばしゃばしゃと水をはねちらかしながら、美弥ちゃんが浅瀬を駆けてくる。
「ねえねえねえ、これ、お姉さんが一人でやっつけたの?」
すぐそばまでやって来ると、美弥ちゃんは興奮してきらきら輝く目でラウの巨体を見つめた。
あたしはその無邪気そうな明るい笑顔に耐えられず、そっと視線をそらせた。気まずい思いをうつろな微笑《ほほえ》みでごまかす。
「ん……まあね」
「すごいすごおい! お姉さん、ほんとに超能力者だったんだ!」
「いや、本当にたいしたものだ」
男の声とともに、パチパチというしらじらしい拍手の音がした。あたしは驚いて振り返り、岸の方を見た。
中年の男が岸に立って拍手していた。アロハシャツにバミューダにサンダルという、思いっきり場違いな格好だ。トンボのような大きなサングラスをかけ、派手なヘアバンドを巻いて、白髪《しらが》の混じった髪は長く伸ばして肩に垂らしている。何かの番組で見た「七〇年代のヒッピー」ってのが、ちょうどこんなイメージだった。
その男の顔に見覚えはなかった――でも、こんなタイミングでこんなところに出現する男には、一人しか心当たりはない。
「魔神古寺シャロン……」
あたしは憎悪の視線をその男に向けた。こいつが黒幕、すべての元凶だ。自分の欲のためには、他人の生命や自由を踏みにじるのも厭《いと》わない男。
「いや、よくやってくれた。君のおかげで助かったよ」
魔神古寺はいやらしい笑みを浮かべながら、じゃはじゃばと水の中に入ってきた。
「助かった……?」
「そう。邪魔なラウを倒してくれたおかげで、沼の底にあるダイヤモンドを自由に回収できるようになった。奴のために花嫁なんぞ探してやる手間が省けたというものだ」
「じゃ、最初からそれを狙《ねら》って……?」
そうか、河童《かっぱ》があたしを蜘蛛女《くもおんな》と知りつつ花嫁候補に選んだのは、あたしをラウと戦わせるためだったのか。
「ああ。君のような娘を発見できたことは、大変にラッキーだった。何しろラウは心を読む。私のように心に強い欲望を持った者は、近づいただけで警戒されてしまう。騙《だま》し討ちもできない。ラウを油断させ、倒すことができるのは、悪意を持たない者――君のように純真な娘だけなんだよ」
「く……!」
「おかげで、この沼のダイヤは、みんな我々のものだ! 私の世界征服の夢は、大きく前進したわけだよ。はっはっはっはっ……」
そいつの得意げな顔を見ているうち、あたしの心にふつふつと熱い怒りがたぎってきた。目もくらむほどの強烈な憎悪というものを、あたしは生まれて初めて体験した。結局のところ、ラウもあたしも、こいつに踊らされてたんだ。こんな奴のためにラウが……。
「……そうはさせない!」
あたしはすっくと立ち、両腕を広げて、近づいてくる魔神古寺を通せんぼした。
「あんたなんかに……あんたみたいな汚い奴に、ダイヤは渡さない!」
「ほう?」
「阻止してやる! 絶対に!」
だが、奇妙なことに、魔神古寺はまったく動じる様子がない。「困ったもんだ」とでも言いたげに、笑いながら首を振る。
「威勢はいいが、あいにくと君には私を阻止できないね」
「なぜ!?」
「なぜなら――」
そう言ったのは美弥ちゃんだった。彼女はあたしの背後に立ってたんだけど、急にしゃがみこんで、あたしのお尻《しり》を下からさっと撫《な》でた。
ポン。シャンペンの栓が抜けるような音がして、お尻から何かが飛び出した。
「え……?」
そのとたん、あたしはめまいを覚えた。全身から力が失われ、手足が急にだるくなる。体重が何倍も重くなったような気がした。ビニール人形から空気が抜けるように、あたしは浅瀬にへなへなと尻餅《しりもち》をついた。
「く……」
立てない――まるで何千メートルも走った後のように、全身の筋肉が疲れきっていた。立ち上がるどころか、腕を突っ張って座っているだけで精いっぱいだ。腕の力をゆるめたら、顔が水中に突っ伏してしまい、溺《おぼ》れてしまう。
美弥ちゃんがあたしの前に回りこんだ。苦しんでいるあたしを見下ろし、愉快そうに嘲笑《ちょうしょう》を浮かべている。その手には、テニスボールよりやや小さいぐらいの、きれいなピンク色のぷよぷよした玉が握られていた。
「なぜなら、用済みのあなたはここで死んじゃうからよ、おバカさん」
9 ファースト・キスは魚の味
尻子玉《しりこだま》。
人間の肛門《こうもん》の奥にある玉で、河童にそれを抜かれた者は衰弱し、ついには死んでしまうと言われている。もちろん、昔の人が想像した架空のもので、そんなものは現実に存在するはずがない――河童や蜘蛛女が存在するはずがないのと同じように。
あたしはその存在しないはずのものを抜かれてしまったのだ。
「よくやったぞ、弥々子《ねねこ》! さすがは我が妻だ」
「ふふふ……たいしたこっちゃないわよ。女郎蜘蛛と言えど、しょせんは小娘。四〇〇年も生きてきたあたしにかかりゃ、ちょろいもんよ」
そう言って、ジャンボわらび餅のようなあたしの尻子宝を片手でもてあそびながら、美弥ちゃんは魔神古寺の方に近づいていった。歩きながらその姿が変化してゆく。ぐんぐん背が伸び、胸が大きくなり、顔が大人びてきて……ほんの数秒で、三〇歳ぐらいの妖艶《ようえん》な美女に変化してしまった。魔神古寺の胸に色っぽくしなだれかかる。
そうか、魔神古寺の妻のヴェルレーヌ=河童の弥々子=美弥ちゃんだったのか。見事に騙された……。
「あたしの言った通り、計画を変更して正解だったでしょ? たとえ妖怪《ようかい》の娘でも、ラウは処女にならでれでれとなり、油断する……女郎蜘蛛の針が急所に命中したら、ラウだってイチコロだって」
「かなり危険な賭《か》けだったがな」
「でも、うまく行ったからいいじゃない。何十人もの娘を誘拐して、世間の疑惑を招くより、ずっといいわ」弥々子はあたしに嘲笑の視線を投げかけた。「片や世間知らずの小娘、相手はこれまたアフリカの田舎《いなか》出身の純朴な妖怪……どっちも単純な思考しかできないから、手玉に取るのは簡単だったわ」
「これもお前の演技力の賜物《たまもの》だな。感謝するぞ」
「ああら、感謝の気持ちは現物で表現して欲しいわね」
「もちろんだ。ダイヤが手に入ったら、外車だろうが、シャネルの服だろうが、何でも買ってやるぞ――いや、シャネルごと買えるかもしれんな」
「素敵! 嬉《うれ》しいーっ!」
二人の会話を聞きながら、あたしは悔しさでいっぱいだった。体が動かせなくて、悪人たちに一矢《いっし》も報いることができないのも悔しいけど、こんな連中に騙され、悪事に利用されたことが、残念でならなかった。
ごめん、ラウ。あたしのせいで、こんなことに……。
(お前のせいではない。私が間違っていた)
心の中に響いた声に、あたしは驚いた。ラウがまだ生きてる!?
(そう。あいつらが言う通り、私はアフリカの田舎の妖怪だ。だが、決して純朴ではない。たまには人を欺《あざむ》くこともある……)
あたしは微妙な水の動きを感知し、自分の体の左右を走り抜けるものに気づいた。ラウの触手だ! 二本の触手が水面下を蛇のように走り、魔神古寺と弥々子に向かって伸びてゆく。有頂天になって油断している二人は、それに気づかない。
「きゃっ!?」
「うわっ!」
二人は悲鳴をあげて転倒した。触手が足首にからみついたのだ。
ざああああ……大量の水をしたたらせながら、ラウの巨体が再び起き上がった。魔神古寺たちを油断させるために、死んだふりをしていただけだったのだ。長い触手をしならせ、二人をぐいぐいとたぐり寄せる。
「た……助けて!」
水から水へ自由に移動できる弥々子の能力も、足をつかまれていては役に立たない。悲鳴をあげてもがきながら引きずられてゆく。
「うわーっ!」
二人は触手でぐるぐる巻きにされた。ラウは頭を低くし、大きく口を開いて、弥々子の頭部にかぶりつこうとしている……。
「だめ! 殺しちゃ!」
(分かっている)
ラウの口から長い舌が伸びた。それが弥々子の頭に深く突き刺さる。彼女の顔から恐怖が消え、ほけっと幸せそうな表情になったかと思うと、気を失った。舌が引き抜かれたが、血はついていなかった。頭に穴も開いていない。
「やっ、やめろーっ!」
悲鳴をあげる魔神古寺の頭にも、ラウの舌が突き刺さった。やはり幸せそうな表情を浮かべ、ぐったりとなる。
沼に再び静寂が戻ってきた。
弥々子の落とした尻子玉を、ラウが探して拾い上げてくれた。それをお尻に当てると、すうっと体内に吸いこまれた。体調が嘘《うそ》のように回復し、すっきりとなる。
魔神古寺と弥々子は岸辺に寝かされていた。あたしは二人の顔を覗《のぞ》きこんだ。二人ともまだ眠っていて、子供のように幸せそうに微笑《ほほえ》みを浮かべている。
「どうなったの、こいつら?」
(心の一部を食った)
「心を?」
(かつては人の脳をまるごとすすっていたものだが、今では心の好きな部分を選び、そこだけ食うことができる。この者たちの脳は欲望で肥大し、そのせいで心が歪《ゆが》んでいた。だから欲望だけを食ってやった。生きるのに最低限必要な食欲や所有欲は残しておいてやったが)
「へーえ」
ラウに心を食べてもらう必要のある奴《やつ》、今の日本にたくさんいそうだな。
(目が覚めたら、これまでの所業を反省しているだろう。そいつらに家に送ってもらうがいい)
あたしはラウに向き直った。
「ひどいことしてごめんね。痛かったでしょ?」
針は抜いたものの、ラウの体にはいくつもの深い傷が残っていた。特に右の目は完全に潰《つぶ》れている。
(正直言えば、痛かった)
「やっぱり……」
(私の生涯で、これほど深い傷を受けたのは初めてだ。だが、お前を恨む気持ちはない。あやまちを犯した罰と解釈することにしよう)
ラウは残った左の目で、愛《いと》しそうにあたしを見下ろした。
(お前はあの時、「他の人は嫌だ」と言ったな? 好きな人間の男がいるのか?)
「うん」
(その男と結ばれたいと思っているのだな?)
「まあね」あたしは少しもじもじした。「大それた望みだとは思ってるけど、可能性はあると信じてる――ううん、信じたいの。だからあせらず、のんびり行こうと思ってる。あせってやけくそになったら負けだもんね」
(その通りだ。性急な行動はあやまちを招く――私はそれを学んだ)
「じゃあ、もう花嫁をさらったりはしないね?」
(ああ。お前に倣《なら》って、のんびり行こうと思う)
「良かった!」
あたしは晴れ晴れとした気分だった。一時はどうなるかと思ったけど、ラウとこうして和解できて、ほんとに良かった……。
「ねえ、ちょっと頭下げて」
(何をする?)
「友情の証《あかし》よ」
ラウは長い首をゆっくりと曲げ、あたしに顔を近づけてきた。あたしは背伸びして、その鼻面に軽くキスをした。ちょっと魚臭かった。
「はい。あたしのファースト・キスだからね。大事にしてよ」
(もちろんだ)
ラウは長い首を誇らしげに高く掲げた。
(たとえ体は結ばれなくても、お前は私の大切な花嫁だ。その男に振られたら、私のところに来い。第一夫人の座は、いつでもお前のために空《あ》けておいてやる)
あたしは笑った。「考えとくよ!」
その後――
チャスティティ・ストリングはしばらく女子高生の間で流行した。もちろん、あれから河童《かっぱ》にさらわれた女の子は一人もいない。ブームはそんなに長く続かなかったけど、あれで <銀三角> はかなり儲《もう》けたんじゃないかと思う。
あたしもブームに乗り遅れないよう、しばらく巻いてはいたんだけど、人気が衰えた頃を見計って、自分でほどいてしまった。それは捨てずに、机の奥にしまってある。三条院さんとの初エッチの時にそれを巻いて、ハサミで切ってもらおうと思っているのだ。
魔神古寺シャロン氏はというと、オカルト団体 <巨大皇国> の解散を宣言し、団員たちを驚かせた。「世界征服の意欲が失せた」というのがその理由だ。霊能者も廃業し、これからは本名の鶴田《つるた》大吉《だいきち》(ギャップありすぎ!)に戻って、奥さんといっしょに <銀三角> の経営だけで食ってゆくらしい。
あこぎな商法を少しずつ改めるようになったんで、 <銀三角> のパワーストーンの値段は下がり、怪しげなグッズも姿を消した。もっとも詩織は「昔みたいなユニークな商品が少なくなった」って嘆いてる。難しいもんだね。
そうそう、この騒動にはバカバカしいオチがあったことも、触れておく必要がある。
実はラウが沼の底に貯めこんでいたのはダイヤじゃなかった。カクンダカリたちが「光る石」と言っていたのを、弥々子たちが勝手にダイヤだと思いこんでいただけで、本当は水晶の原石だったのだ。まあ確かに全部集めりゃかなりの金額になるだろうけど、世界征服はちょっと無理だろう。
別れ際、ラウほそのうちの一個をあたしにくれた。それは今、あたしの勉強机の上に置いてある。
高さ約二〇センチ、横幅約一〇センチもある直方体の天然水晶のかたまりで、重量は五・五キロ。透明度が高く、傷もひび割れもない。見れば見るほど美しい逸品だ。『開運! なんでも鑑定団』に持って行ったら、かなりの値がつくと思う。もっとも、たとえ我が家が財政危機に陥っても、あたしはこれを売るつもりはない。
だって、これはあたしの誇りだから。
婚約者に五・五キロの石をもらった女性は、世界広しといえど、あたしだけだろう。
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妖怪ファイル
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[穂月《ほづき》湧《ゆう》(女郎蜘蛛《じょろうぐも》)]
人間の姿:ショートヘアの一六歳の女の子。
本来の姿:上半身は髪の長い美女、下半身は毒蜘蛛。
特殊能力:指から糸を発射し、物体を切断したり、からめ取ったりできる。口から針を発射する。垂直の壁を歩ける。暗闇でも目が見える。聴覚と触覚が鋭敏。
職業:私立高校生。
経歴:普通の人間として誕生。遠い先祖が妖怪だったため、その形質が先祖返りによって発現した。
好きなもの:柔道。チョコパフェ。三条院先輩。
弱点:蜂の毒。エッチな気分になると変身が解ける。
[冷凍ミイラ]
人間の姿:なし。
本来の姿:全身が氷に覆われた太った死体。両手に生首を持っている。
特殊能力:冷気を放射する。体を霧に変化させて移動できる。
職業:なし。
経歴:冷凍保存されていた男の死体が、生への強い執念が残留していたため、妖怪化して動き出した。
好きなもの:冷気。美少女。
弱点:熱に弱い。定期的に冷気を補充しなくてはならない。
[天津《あまつ》真《しん》(以津真天《いつまで》)]
人間の姿:三〇歳ぐらいのハンサムな男。
本来の姿:体の前半分は鳥で、蛇のような長い尾がある。
特殊能力:空を飛ぶ。火炎を吐く。死体のありかを嗅ぎつける。
職業:フリーのルポライター。
経歴:日本古来の妖怪。放置された死体を見つけると「いつまで、いつまで」と鳴く。
好きなもの:焼肉。
弱点:特になし。
[鶴田《つるた》弥々子《ねねこ》(弥々子河童《ねねこかっぱ》)]
人間の姿:三〇歳ぐらいの色っぽい美女。少女の姿にもなれる。
本来の姿:いわゆる河童。頭に皿、背中に甲羅があり、腰ミノをつけている。
特殊能力:水中で自由に行動できる。空間を曲げて水から水へと移動する。水を動かしたり、性質を変えたりできる。念がこめられた物体の位置を感知する。人間の尻子玉を抜いて病気にする。
職業:霊能者。
経歴:利根川に古くから棲んでいた乱暴者の女河童。
好きなもの:相撲を取る。贅沢な暮らし。キュウリ。
弱点:水を補充しないと生きられない。頭の皿が割れると死ぬ。
[カクンダカリ]
人間の姿:なし。
本来の姿:直立歩行する猿。身長約八〇センチ。
特殊能力:なし。
職業:なし。
経歴:アフリカの原住民が密林に棲むと想像した猿人族。ラウを崇拝する。
好きなもの:果物。魚。
弱点:特になし。
[ラウ]
人間の姿:なし。
本来の姿:全長十数メートル。蛇のような長い胴体で、毛に覆われており、四本の長い触手がある。
特殊能力:水中で自由に行勤できる。テレパシーで会話できる。人の心の特定の部分を食う。
職業:なし。
経歴:ナイル河上流域で原住民に恐れられている河の怪物。
好きなもの:動物の脳髄。きれいな石を収集すること。
弱点:目。
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あとがき
お待たせいたしました。『妖魔夜行』シリーズの最新作をお届けします。
女郎蜘蛛《じよろうぐも》の湧《ゆう》ちゃんが主演のこのシリーズ、従来のシリアスな『妖魔夜行』とはおもむきが異なり、かなりコメディ色の強い内容です。各話のタイトルにしても、アメリカやメキシコのB級ホラー&SF映画のタイトルのパロディになっています(元ネタが全部分かったあなた、かなりの通《つう》ですね)。みなさんのご要望が多ければ、これからも続編を描いていきたいと思っています。「驚異の縮みゆく蜘蛛女」とか「私は成層圏のゾンビと歩いた」とか、タイトルだけは思いついてるんですが(笑)。
ところで、この『妖魔夜行』シリーズ、現代日本が舞台であるだけに、あちこちに事実がちょこちょこ混じっています。
たとえばお話の舞台となる場所。僕の作品で言えば、「真夜中の翼」のサンシャイン60、『悪夢ふたたび……』の井の頭公園や青山墓地、「魔獣めざめる」の新宿駅東口や松濤《しょうとう》公園など、もちろん現実に存在する場所ですし、「さようなら、地獄博士」のラストに登場したお化けマンションにもモデルがあります(実物は数年前に取り壊されたそうですが)。
この本の中では、第一話に登場するパラゴン・ハイト・タワーも、実は西新宿にモデルになったビルがあるのです。名前や構造はかなり変えてありますけどね。お暇な方は探してみてください。本当にバスルームにテレビがあるんですよ。
また、第三話の湧ちゃんとお父さんの会話も、事実と創作が入り交じっています。「ギルガメシュが女だと書いてある妖怪の本」「四国の中学生が捕まえた小型UFOのガレージキット」「トラシルヴァニアの土の通販」など、いずれも僕が考えたギャグではなく、本当にあった話です。事実は小説より奇なり、と言うべきでしょうか。
第三話に登場する妖怪ラウとカクンダカリ、これも僕の創作ではなく、ちゃんと目撃談(本当かどうかは分かりませんが)があるんです。興味がおありの方は、ジャン=ジャック・バルロワの『幻の動物たち』(ハヤカワ文庫NF)という本を読んでみてください。
僕は昔から、こういうUMA(未確認動物)の話って好きなんですよね。子供の頃、少年雑誌に載っていた「南アフリカにアンキロサウルスが生きている!?」「カメルーンの密林で翼手竜に襲われた!」といった記事を、わくわくして読んでいたものです。
今でも思い出すのが、ロジャー・ムーア主演の『セイント/天国野郎』というイギリスのTV番組(最近、映画になりましたね)にあった「ネス湖の怪獣」というエピソード。スコットランドのネス湖にやって来た主人公サイモン・テンプラーが、ネッシーのしわざと思われる連続殺人事件に遭遇する、という話でした。
実は犯人は人間で、怪獣のしわざに見せかけるため、突起のついたバットで殴って死体に歯型のようなものをつけていた……という真相に、ちょっとがっくり来たんですが、結末がいいんですね。犯人はゴムボートに乗って霧のたちこめる湖に逃げるんですが、翌朝、ずたずたに切り裂かれた死体が岸に打ち上げられているのが発見されます。報告を聞いた刑事が「たぶん観光船のスクリューに巻きこまれたんだろう」と言うと、テンプラーが一言。
「昨日は霧で、観光船は欠航していた」
いや、いいですね、こういうしゃれたオチ。
印象に残っているのは、その番組の中で、一九六〇年にティム・ディンスデールという人が撮影した映画フィルムが紹介されたことです。航跡を残して湖面をジグザグに進む何かが映っているのですが、少年雑誌で予備知識を持っていた僕は、初めて目にする実物に、「おおっ、これがかの有名なディンスデール・フィルム!」と、大興奮したものです。
面白いことに、ネッシーに限らず、世界各地の湖に、同じような怪獣の目撃談があるんですね。モラー湖のモラグ、シャンプレーン湖のシャンプ、オカナガン湖のオゴポゴ、ペイエット湖のスライミイ・スリム、フラットヘッド湖のハーキンマー、ダカタウワ湖のミゴー……日本でも、池田湖のイッシー、屈斜路《くっしゃろ》湖のクッシー、洞爺《とうや》湖のトッシー、本栖《もとす》湖のモッシー(もうちょっと名前ひねれよ……)が話題になったことがあります。
こうした湖の怪獣の正体については、プレシオサウルス説、巨大首長アシカ説、巨大ウナギ説、巨大両生類説などが唱えられてるんですが、いずれの場合も、何十頭もの巨大生物(だって一匹じゃ子孫を残せないし)が湖にひしめいているはずなのに目撃例が少なすぎるというのが弱点ですね。
これはやっぱり生身の動物ではなく、妖怪なのでは…と思ったりもするのですが。
ところで、山田和弘さんという方が、「さようなら、地獄博士」を舞台化して高校の文化祭で上演されたのだそうで、そのシナリオを送ってくださいました。どんな舞台だったかは想像するしかありませんが、シナリオを読んだかぎりでは、原作にかなり忠実な内容のようで、なかなかの熱意が感じられます。
「『妖魔夜行』を映像化するなら、アニメよりも実写ですよ」
と、つねづね友野詳が力説しているのですが、僕も同感です。ほんと、どなたか実写映像化していただけませんかねえ?(まあ、『○曜の怪談』みたいになっちゃうのは嫌だけど……)
一九九七年八月
[#地付き]山本娘はようやく一歳″O
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<初出>
第一話 私は十代の蜘蛛女《くもおんな》だった
I was a Teenage Spider Woman   「コンプRPG」95年8月号、10月号
第二話 ロックンロール蜘蛛女《くもおんな》VSハイテク・ミイラ
Rock'N'Roll Spider Woman vs. The High-tech Mummy 「ゲームクエスト」97年3月号
第三話 私は緑の地獄から来た怪物と結婚した
I Married A Monster From Green Hell   書き下ろし
なお、第一話・第二話に関しては、文庫化にあたり、加筆修正をしました。
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底本
角川スニーカー文庫
シェアード・ワールド・ノベルズ
妖魔夜行《ようまやこう》 私《わたし》は十代《じゅうだい》の蜘蛛女《くもおんな》だった
平成九年十月一日 初版発行
著者――山本《やまもと》弘《ひろし》