妖魔夜行 悪夢ふたたび……
山本弘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)涙に濡《ぬ》れる頬《ほお》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)外国人|排斥《はいせき》
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(例)[#改ページ]
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目 次
1 月下に舞うもの
2 消える猫・消える少女
3 妖怪ネットワーク
4 思わぬ出会い
5 <妖精の目>
6 井の頭公園の死闘
7 いじん
8 摩耶《まや》の決意
9 六本木の少女たち
10 包囲網
11 殺戮《さつりく》の夜
12 この街のどこかで……
妖怪ファイル
あとがき
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1 月下に舞うもの
渋谷区《しぶやく》代々木《よよぎ》公園・深夜――
総面積五四万七〇〇〇平方メートル。サイクリング・コースやバード・サンクチュアリもある森林公園は、メガロポリス東京のオアシスである。代々木・原宿《はらじゅく》・渋谷という賑《にぎ》やかな街《まち》に囲まれて、人工の自然とはいえ、青々とした森と芝生《しばふ》に覆《おお》われた広い土地が存在するという事実は、東京を鉄とガラスとコンクリートの街だと思いこんでいる地方の人間には、ちょっとした驚《おどろ》きであろう。
一方で大規模に自然を破壊《はかい》しながら、日常生活では街の中の小さな自然を愛する――そんな身勝手な人の心さえ、この公園は温《あたた》かく許容してくれているかのようだ。だからこそ、この公図は、多くの人々に親しまれ、愛されているのだろう。
早朝は老人たちの散策やジョギングのコースに、昼休みには会社員や予備校生たちの娯楽《ごらく》の場に、夕方には若者のデートコースに、休日には家族連れのピクニックの場に……陽《ひ》が昇ってから沈むまでの間、ここには人の姿が絶えることはない。現代の東京に聖域《せいいき》≠ニいうものがあるとしたら、ここがそうなのかもしれない。
だが夜は――早々に門が閉められ、人々はネオンの街に追い出される。以前からそうだったのだが、渋谷や原宿周辺の治安が悪くなってからは、いっそう夜の警戒《けいかい》がきびしくなった。浮浪者や不法就労外国人、それに犯罪に走る若者たちの溜《た》まり場になりつつあることを、当局が懸念《けねん》したからである。
それでも、高い柵《さく》を乗り越えて公園内にこっそり忍《しの》びこむ者は跡を絶たない。彼らは森の暗闇《くらやみ》に身を沈め、声をひそめて、巡回する警官をやり過ごす。そして自分たちの小さな平穏《へいおん》を確保するのだ。
真夜中でも大勢の人間がたむろし、街頭《がいとう》ライブやら喧嘩《けんか》やらで騒々《そうぞう》しい代々木公園周辺とは正反対に、公園内はすべての生命が死に絶えたかのように静まりかえっている。その闇の奥で何が行なわれているのか、知る者は少ない。
昼は聖域――だが、夜は魔域《まいき》であった。
「ホマムじゃないのか?」
遠い南の国から来た若者は、ぎょっとして立ち止まった。身の回りの品一式を詰《つ》めこんだバッグを背負い、新聞を片手に樹々《きぎ》の合間をぶらつきながら、今夜の寝場所を探《さが》していたら、暗がりからいきなり母国語で呼びかけられたのだ。
彼がこの公園で寝泊《ねと》まりするのは、これが初めてではない。二年前、日本に来たばかりの頃《ころ》、宿泊費がもったいなくてここに侵入したことがある。その時は警官に見つかり、懐中電灯《かいちゅうでんとう》の光を浴びせられて詰問《きつもん》されたが、何とかごまかすことができた……。
公園内には照明が少なく、暗い場所が多い。ホマムは不安な思いで闇の奥に目をこらした。がさごそと草を鳴らして、一本の太い樹の蔭《かげ》から、人影がのっそりと立ち上がり、月明かりの下に姿を現わした。がっしりした体格の大きい中年男で、肌《はだ》が浅黒く、明らかに同国人だった。口の上に髭《ひげ》を生やしており、人なつこい笑《え》みを浮かべている。
薄暗がりの下で、男の顔を確認するのに数秒かかった。
「ああ……カーフさん」
ホマムは胸を撫《な》でおろした。カーフとは日本に来たばかりの頃、職を探している時に顔見知りになったのだ。彼らは日本での生活と収入源を確保するために、日曜日には代々木公園周辺に集まって、仕事や住まいの情報を交換《こうかん》し合っていた。
もっとも、それも今年の春までのことだ。休日のたびに関東一円から集まってくる大量の外国人の姿が、周辺の住民に不安を与えたのだ。当局は植えこみ工事の名目で公園から彼らを締《し》め出した。それ以来、彼らの情報交換の場は東京の各所に分散するようになり、何千人もがおおっぴらに集まることはなくなった。ホマムがカーフと顔を合わせる機会がなくなったのも、そのためだった。
「久しぶりだな……どうしたんだ? ヨコハマの方で建設現場の職が見つかったって言ってたじゃないか?」
「ひどい職場でしたよ」ホマムは悲しげに首を振った。「うまい話にだまされました。社長がヤクザだったんです。宿代と食費はタダだったけど、給料をちっとも払ってくれないし、一日に十何時間も働かされる。怪我《けが》をしても何の補償《ほしょう》もない。約束とぜんぜん違う。たまりかねてみんなで談判《だんぱん》に行ったら、逆に脅《おど》されました。警察に通報してやるって……」
「よくある話だな」
「だから逃げ出しました。だって他《ほか》にどうしようもないでしょう? もうとっくにビザは切れてるし……」
警察《けいさつ》に訴え出ても無駄《むだ》どころか逆効果であることを、ホマムはよく知っていた。日本の警察は、ヤクザよりも不法就労外国人を危険《きけん》視している。ヤクザは古くから日本の土地に根づいた存在だが、外国人はそうではないからだ。
げんにある県では、「社長が雲隠《くもがく》れして給料を払ってもらえない」と外国人労働者が交番に助けを求めたため、警官隊が総動員されて大量検挙が行なわれた、というケースもある――犯人の社長をではなく、被害者である労働者たちの方をだ。ビザなしでの滞在は入国管理法違反であり、違反者は強制送還と決まっている。
「しかし、ヤクザはこわいぞ。連中にはネットワークがあるから、逃げてもじきに見つかる。捕《つか》まったら、ひどい目に遭《あ》わされるって話だ」
「ええ。だからトーキョーに戻ってきたんです。ヨコハマは奴《やつ》らの縄張《なわば》りですから、少しでも離れようと思って」
「パスポートはどうした?」
「最初の日に、だまされて取り上げられました。どこに隠してあるか分からないから、取り返す方法もない……」
「そいつはまずいな。どこの職場でも、外国人はまず『パスポートを見せろ』と言われるぞ。パスポートがないと、どこかのヤクザから逃げてきたことが分かるから、どこも雇《やと》ってくれないんだ」
「ええ、知ってます」
ホマムは肩を落とし、ため息をついた。これからの身の振り方を考えると、絶望的になってくる。雀《すずめ》の涙の賃金の中からこつこつと貯《た》めた金は、この国の一か月の生活費にも満たなかった。それを使い果たしたら、どうすればいいのか……。
今の彼の境遇を最も的確に表現する言葉があるとしたら、「逃亡|奴隷《どれい》」だろう。日本のヤクザは、不法滞在外国人が法的に弱い立場にいるのをいいことに、逃げられないようにパスポートを取り上げ、ひどい環境《かんきょう》と安い賃金で徹底的に搾取《さくしゅ》する。そのやりくちは、まさに奴隷制そのものであった。
言語の壁《かべ》と法律の壁が、ホマムたちを救済から阻《はば》んでいた。どんなにひどい待遇《たいぐう》であろうと、泣き寝入りするしかないのだ。男性の場合も苛酷《かこく》だが、女性の場合にはいっそう悲惨《ひさん》な境遇が待っている……。
自由と民主主義を旗印《はたじるし》に掲《かか》げる先進大国・日本――その現代の日本に、なかば公然と奴隷制度が存在するのだ。
「まあ、明日のことは明日考えればいいさ。今日はここで寝よう」
カーフは不自然に陽気な口調で言った。せめてホマムを元気づけてやろうという配慮《はいりょ》である。
「ここはまずいですよ。警官《けいかん》が巡回するコースみたいですから」
「ん? そうなのか?」
「ええ。前に見つかったことがあります……もっと向こうの方に行きましょう」
ホマムは林の奥を指さした。樹々の作り出す濃密《のうみつ》な闇《やみ》が、彼らに格好の避難《ひなん》所を提供しているように見えた。二人はそちらの方にぶらぶらと歩き出した。
故国の気候を思わせる、蒸《む》し暑い夏の夜だった。しかし、故国の森にいるのだと思いこむことは難しかった。闇《やみ》の中で樹の形は見えなくても、日本の松のツンとした匂《にお》いは、嗅《か》ぎ慣《な》れた熱帯の森の匂いとはまるで違う。虫や鳥の声もせず、耳に入ってくるのは、公園の外から聞こえる自動車のクラクションや排気《はいき》音ばかりだった。樹々の合間から見える夜空に明滅《めいめつ》しているのは、南十字星ではなく、新宿《しんじゅく》の超高層ビル群の明かりである。
(故郷はあまりにも遠い)
とホマムは思った。匂いも、音も、夜空さえも、故郷の夜とはまるで違う……。
「そう言えば、カーフさんはどうしてこんなところに? とてもいい職場が見つかったって、喜んでたじゃないですか」
「ああ。いい職場だったよ」カーフの声には悲しげな響《ひび》きがあった。「プラスチックを加工して容器を造る小さな工場だった。ヤクザとはぜんぜん関係がなかった。俺《おれ》の他《ほか》に八人の外国人が働いてたよ。社長さんは視切な人で、給料もちゃんと払ってくれた。いっしょに働いてる日本のおばさんたちや、近所の人たちも、みんないい人ばかりだった……」
「だったら……」
「役人が来たんだ」一瞬、カーフの声が緊張した。「何の予告もなかった。前から目をつけられてたらしい」
「それじゃあ……?」
「強制送還さ。みんな灰色《はいいろ》のバスに乗せられて連れて行かれた。俺だけはたまたまタバコを買いに外に出ていたんで、捕《つか》まらずに済んだがね。俺は通りの角《かど》に隠《かく》れて、みんながバスに黙って乗せられるところを見ていた。パートのおばさんたちはみんな、バスにすがりついて泣いていたよ。最初のうちこそ多少ぎくしゃくしてたが、何か月もいっしょに働いていて、すっかり仲良くなっていたのにな……もう、あそこには戻《もど》れない」
「……工場はどうなるんです?」
「さあなあ。ビザの切れた外国人と知ってて雇《やと》っていたんだから、社長も罪《つみ》に問われるかもしれん。そうでなくても、小さい工場で、経営は苦しかったみたいだし、何よりも人手不足だった。いっぺんに九人もいなくなったら、仕事を予定通りにこなすのは無理だ。潰《つぶ》れるかもしれんな……」
「……ちくしょう!」
突然、ホマムは激しい怒りにかられ、近くの樹《き》の幹《みき》に拳《こぶし》を打ちつけた。カーフは驚《おどろ》いて立ち止まった。
「どうして……どうしてこの国は僕《ぼく》たちにこんなに冷たいんだ!」
ホマムは樹に額《ひたい》をこすりつけ、悔《くや》し涙がこぼれるのを懸命《けんめい》にこらえていた。
「確かに僕たちは日本の法律を破ってるかもしれない。ビザの期限が過ぎてるのに国に帰らない……でも、それがどれだけ悪いことだって言うんだ!? 僕たちは真面目《まじめ》に働きたいだけなんだ! 真面目に働いて、この国の豊《ゆた》かさをほんの少し分けてもらいたいだけなんだ! 誰《だれ》にも迷惑《めいわく》なんかかけたくないんだ! それなのに……」
カーフは沈黙していた。公園の外から喧騒《けんそう》が聞こえてくる。日本の若者たちのかき鳴らす陽気な音楽や、車の派手《はで》なクラクション、楽しそうな笑い声――それらはあまりにも彼らから遠く、まるで別世界から聞こえてくるようだった。
ホマムは声を押し殺して泣いた――日本での暮らしはつらい。だが、母国に帰ることもできない。長らく続いた戦争のために、彼の国の経済はすっかりすさんでおり、両親や兄弟たちの暮らしは苦しくなる一方だった。日本に渡る費用を工面《くめん》するのにも、苦労して多額の借金をしなくてはならなかったのだ。無一文同然で国に帰っても、前よりいっそう貧乏な暮らしが待っているだけだ……。
ピピビピピ。
闇《やみ》の中に響《ひび》く奇妙な電子音に、ホマムは振り返った。カーフが月明かりの下に立って、銀色のカードのようなものを両手で包みこむように持ち、微笑《ほほえ》んでいた。
「……何ですか、それ?」
「日本のおもちゃだ。いっしょに働いていたおばさんがくれた。国で待ってる息子たちのお土産《みやげ》にするといいって言ってな」
ホマムは近寄って、カーフの手の中を覗《のぞ》きこんだ。日本ではとっくに時代遅れのカード型電子ゲームだった。カーフがボタンを押すのに合わせて、二頭身のキャラクターが液晶《えきしょう》画面のあちこちに現われたり消えたりして、別のキャラクターの投げる果物《くだもの》を受け止めている。まるで踊《おど》っているようなユーモラスな動きだった。
ホマムは思わず微笑んだ。「……日本にもいい人がいるんですね」
「ああ」カーフはうなずいた。「日本にもいい人はいる……」
ほんの数分、二人は周囲を取り巻く暗闇も、自分たちの悲惨《ひさん》な境遇《きょうぐう》も忘れ、暖かい気分にひたっていた。
(……だれか……)
突然、森の奥の暗闇から、隙間《すきま》風にも似たかぼそい声が聞こえた。ホマムはぎょっとして顔を上げた。
「何だ、あれは?」
「何って?」
(……か……たすけ……)
女の声のようだが、判然《はっきり》としなかった。まるで土の壁《かべ》を通して聞こえてくるようで、奇妙にくぐもっている。公園の外からの騒音《そうおん》にまぎれて、かき消えそうだった――だが、方角からすると公園の外ではなく、中から聞こえてくるようだ。
「どうかしたのか?」
ホマムの真剣な表情を、カーフは不審《ふしん》そうに眺《なが》めている。
「しっ!」ホマムは制した。「聞こえませんか? ほら、あれ……」
ホマムにはまた声が聞こえた。ひどく弱々しく、今にも死にそうに思える。
(……おねがい……たすけ……て……)
カーフはあたりを見回し、不思議そうに首をかしげた。「何も聞こえんが……?」
「誰か、助けを求めてますよ! 怪我《けが》をしているのかもしれない!」
ホマムは首をめぐらせて声の方向を探《さぐ》ると、暗い森の奥をぴたりと指さした。
「あっちです!」
彼はためらうことなく、その声の方向に歩きはじめた。何歩か行ってから、気がついて振り返ると、カーフはぽかんとした表情で、月明かりの下に突っ立っている。
「どうしたんです?」
「いや……そっちの方には行かん方がいいと思うんだが……」
「どうして? 何かあるんですか?」
「いや、そうじゃないんだが……」
カーフは口ごもった。自分でもどう説明していいか分からないようだ。
「そのう……何となくそっちに行ってはいかんような気がするんだ……」
ホマムには理解できなかった。誰かが怪我をしているなら、一刻《いっこく》を争う。カーフの言葉を無視して、早足で歩きはじめた。カーフもしぶしぶついてくる。
森の中は真っ暗で、目を閉じて歩いているのとたいして変わらなかった。ホマムは何度も木の根につまずきかけた。目印《めじるし》になるのは、闇のあちこちにぼんやりと見える白い斑点《はんてん》――木の葉の合間から差しこむ月光のスポットだけだ。
ずっと前方に、とりわけ大きなスポットが見えた。森の中の小さな空き地らしい。今夜は満月だ。天頂から降り注ぐ白い月の光は、枝の合間からオーロラのように垂《た》れ下がり、闇《やみ》に慣れた目にはまばゆく映った。
その幻想《げんそう》的な月光のステージで、何者かが音もなく踊《おど》っていた。
ホマムは目を凝《こ》らした。中央に立っているのは、体にぴったり合った赤いドレスを着た女だった。両手を頭上高く差し上げ、体をゆるやかにくねらせて、ベリーダンスを踊っている。ドレスは濡《ぬ》れているらしく、月の光を浴びてなまめかしく光っていた。距離が離れているので、顔はよく分からない。
女の周囲を十数体の黒い影が跳《は》ね回っていた。黒いマントとフードに身を包んでおり、背中を丸めているので、顔はまったく見えない。彼らは女を中心として二重の輪を作り、愉快そうにスキップしながら、反対方向に回っていた。大きくジャンプするたびに、マントの裾《すそ》が黒い炎《ほのお》のようにはためく。時おり、女と影の間に、はっきりと肉眼で捉《とら》えられない銀色の稲妻《いなずま》のよぅなものがひらめいた。そのたびに女は声をあげ、激しく体をのけぞらせる――女のうめき声以外、すべてが無音で進行しているために、映画を見ているように現実感が希薄《きはく》だった。
(何だ、あいつらは?)
警戒《けいかい》心や恐怖《きょうふ》よりも好奇心が先に立ち、ホマムはそろそろと足音を忍《しの》ばせ、その奇怪な踊りの輪に近づいていった。
またも黒い影と女の間に銀色の閃光が走った。女は体をびくんと震《ふる》わせた。乱れた黒髪《くろかみ》の張りついた顔が、まっすぐにホマムを見た。日本人の若い娘だった。
「……たすけて……だれか……」
娘はなおも身をくねらせながら、弱々しくつぶやくように言った。その表情はうつろで、すでに正気も希望も失っている。
突然、ホマムはあることに気がつき、戦慄《せんりつ》とともに立ち止まった。慌《あわ》てて近くの茂みに身を隠《かく》す。息苦しさを覚え、はあはあと犬のように息をした。恐怖のために心臓が縮《ちぢ》み上がり、背筋を悪寒《おかん》が走るのを感じた。自分の目にしたものが信じられなかった。
娘は赤いドレスなど着ていなかった。全裸《ぜんら》だった――濡れた赤い服と見えたものは、胸から脚《あし》までをべっとりと覆《おお》った鮮血《せんけつ》だった。
ホマムは恐怖のあまり絶叫したくなるのを必死にこらえながら、茂みの合間からそっと様子をうかがった。娘は腕を上げて踊っているのではなく、両手首を縄《なわ》で縛《しば》られて樹《き》の枝から吊《つ》るされ、血まみれになって、苦痛と絶望にもがいているのだった。
またも娘と黒い影の間に銀色の光が走った。今度はホマムにもその正体が見えた。黒い影たちはマントの下に円月刀を隠《かく》しており、代わる代わる娘に斬《き》りつけているのだ。マントがめくれあがるたびに、鋼鉄の刃が月光を反射して、ぎらりと光る。
彼らが娘を即座に殺すつもりがないのは、すぐに分かった。円月刀はどれも皮膚《ひふ》の表面を軽くかすめているだけだ。全身に何百という浅い傷を負わせることによって、血を流させ、じわじわと死に追いやってゆくつもりなのだ――犠牲《ぎせい》者の苦痛をなるべく長引かせるために。
ホマムをいっそうに不快にし、おびえさせたのは、黒い影たちがこの忌《い》まわしい儀式を明らかに楽しんでいる[#「楽しんでいる」に傍点]ということだった。彼らはひと言も発しなかったし、表情も見えなかったが、その愉快そうなスキップ、陽気なジャンプは、このうえない喜びを全身で表現していた……。
「おおい、ホマム、どこ行ったんだあ?」
すぐそばで緊張感の欠ける声がした。はっとして振り返ると、ホマムの姿を見失ったカーフが、彼の隠れている茂みの横を通り過ぎ、おぞましい踊りの輪の方へぶらぶらと近寄って行こうとしていた。
黒い影たちは人の気配に気づいた。いきなり凍《こお》りついたように踊るのをやめ、カーフの様子をじっと見つめている。しかし、カーフはまったく気楽そうで、身に迫る危機にはまるで気がついていない。まっすぐ彼らの方に歩いてゆく……。
「おおい、ホマム?」
唐突《とうとつ》にホマムは悟った。カーフにはあいつらの姿が見えていないのだ[#「あいつらの姿が見えていないのだ」に傍点]!
声を出して警告《けいこく》するべきだった。あるいは茂みから飛び出して、カーフを力ずくで引っ張って逃げるべきだった――数秒のうちに決断を下していたら、もしかしたらカーフは逃げ切れたかもしれない。
だが、ホマムはどちらもできなかった。恐怖のあまり声が出せず、体は石と化したかのように動かなかった。カーフが破滅《はめつ》に向かって進んでゆくのを、黙って見ているしかなかった。
もう遅い。
カーフが二〇歩ぐらいの距離まで近づいた時、黒い影たちはいっせいにマントをばっと広げ、銀色に輝く十数本の円月刀を頭上高く差し上げた。奇声を発しながら、一団となって黒い津波のように突進してくる。その時ようやく呪縛《じゅばく》が破れ、カーフには彼らの姿が目に入ったらしかった。しかし、驚《おどろ》きのあまり立ちすくみ、何の行動を起こす間もなく、影たちに飛びかかられてしまった。
ホマムはたまらずに顔を覆《おお》った。最後に目にしたものは、カーフを押し倒して覆いかぶさる影たちと、振り下ろされる銀色の刃《やいば》の輝きだった。くぐもった悲鳴が聞こえたが、何かが断《た》ち切られる不快な音とともに、不自然に途切れた……。
どのぐらい時間が過ぎたか分からない。ホマムは茂みの後ろで胎児《たいじ》のように体を丸め、がたがたと震《ふる》えていた。しっかり目を閉じ、決して開こうとはしなかった。まるで、自分が相手を見なければ、相手にも自分が見えないと思っているかのように。
誰《だれ》かがぽんと肩を叩《たた》いた。ホマムは心臓が止まるかと思った。
その手はホマムの肩をぎゅっとつかみ、ものすごい力で強引に振り返らせた。ホマムは観念して、おそるおそる目を開けた。
黒い男たちが彼を取り囲んでいた。すぐ近くにいるというのに、その顔は依然としてフードの影になっており、はっきりと見えない。ただ、二つの目だけが闇《やみ》の中で不吉な赤い星のように光っており、哀《あわ》れなおびえる若者を愉快そうに見下ろしていた。
「……オマエ、見殺シニシタネ?」
彼の肩をつかんでいる男が、たどたどしい日本語で言った。喋《しゃべ》るたびにしゅうしゅうと息が洩《も》れる。地獄《じごく》の底から吹いてくる風の音にも似た、おぞましい声だった。
「……え……?」
「仲間ガ殺サレルノ、黙ッテ見テタネ? 助ケナカッタネ……?」
黒い男の表情は見えなかったが、この状況を楽しんでいる口調だった。回りにいる他《ほか》の連中はくすくすと笑っている。
ホマムは横目でちらっと凶行《きょうこう》のあった場所を見た。数分前までカーフであったものは、ボロ布のようにずたずたにされていた。
「ぼ、僕は……」ホマムは懸命《けんめい》に弁解しようとした。だが、舌《した》が凍《こお》りつき、言葉が何も出てこない。「僕は……」
「コイツ、仲間、見捨テタネ」別の黒い男が言った。「何モシナカッタネ」
人間としての最後の誇《ほこ》りを打ち砕かれ、ホマムは全身から力が抜けるのを感じた。彼の肩をつかんでいる黒い男は、ひゅっひゅっと息を吸いこむようにして下品に笑い、とどめのひと言を吐《は》いた。
「オ前[#「オ前」に傍点]、卑怯者ネ[#「卑怯者ネ」に傍点]」
ホマムはすすり泣いた。悲しかったからではない、恐ろしいからでもない。自分自身に絶望したからだ。
確かに僕は何もしなかった。友達が殺されるのを黙って見ていただけだ。助けることができたはずなのに、恐怖《きょうふ》のために動けなかった。僕は卑怯者《ひきょうもの》だ……。
「オ前、卑怯者ネ」
別の黒い男が意地悪く繰り返した。それがきっかけであったかのように、他の男たちも順番に発言した。まるで歌うような、あるいは劇の台詞《せりふ》のような、奇妙にリアリティに欠ける喋《しゃべ》り方だった。
「私タチ、日本人ノ娘、好キネ……」
「赤イぴあすノ娘、好キネ……」
「……ダカラ、アノ娘、殺シタネ」
黒い男たちの一人は、ピンク色の小さなものを指でつまみ、ひらひらとホマムに見せびらかした。その端には鮮《あざ》やかな赤い石が光っている。ピアスだ、とホマムは直感した。ということは、そのピンク色のものは……。
ホマムはおそるおそる振り返った。樹《き》から吊《つ》るされていた娘は、地面にぐったりと倒れ、もう動いてはいない――だが、縄《なわ》がほどかれたわけではない。
娘の白い二本の腕は、まだ縛《しば》られたまま、縄の先端にぶら下がっている。ゆっくりと時計の振り子のように揺《ゆ》れながら、断面からぼたぼたと血をしたたらせ、地面に倒れている娘の体をなおも濡《ぬ》らし続けている。
「私タチ、邪魔《じゃま》スル者、嫌《きら》イネ……」
「日本人デナクテモ、嫌イネ……」
「……ダカラ、アノ男、殺シタネ」
「オ前、日本人、ナイネ……」
「オ前、邪魔シナイネ……」
「……ダカラ、オ前、殺サナイネ」
「……オ前、卑怯者ダカラ、殺サナイネ」
肩をつかんでいた黒い男が、キスでもするかのように、ホマムの顔を自分の顔に近寄せた。
ホマムはおびえた。ほんの数センチの距離だというのに、やはり男の顔は見えなかった。フードの中は完全な闇《やみ》で、まるで底なしの穴を覗《のぞ》きこんでいるようだった。魚の腐《くさ》ったような異臭《いしゅう》がする。
「オ前、誰ニモ喋ラナイネ……?」男はいやらしい口調でささやきかけた。「……オ前、卑怯者ダカラネ」
ホマムは茫然《ぼうぜん》として、あやつり人形のようにこっくりとうなずいた。もう反抗心はひとかけらも残っていなかった。黒い男も満足そうにうなずき返した。
「コレ、約束ネ……オ前、見タコト、誰ニモ喋ラナイネ……喋ッタラ、私タチ、オ前、殺スネ。イイネ?」
ホマムはもう一度うなずいた。
男はホマムを乱暴に立ち上がらせると、公園の出口の方向に向かせ、肩をつかんでいた手を離した。背中を強く突かれ、ホマムはよろめいて何歩か前に出た。
「行クネ、卑怯者!」男は命じた。「ドコカ行ッテ泣クネ! オ前ガ死ナセタ友達ノタメニ泣クネ!」
解放されたホマムは、足をもつれさせながら、恐ろしい悪夢から走り去った。背後では黒い男たちがげらげらと嘲笑《ちょうしょう》していた。
ホマムは泣いた。走りながら子供のようにすすり泣いていた。脳裏《のうり》に浮かぶのは、ほんの数分前、子供のお土産《みやげ》の電子ゲームで遊んでいたカーフの、無邪気《むじゃき》で嬉《うれ》しそうな表情だった……。
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2 消える猫・消える少女
はっは、はっは、はっは。
リズミカルに息をはずませ、早朝の坂道を少女が駆《か》けてくる。中学生ぐらいだろうか。アミューズメント・パークで買ったロゴ入りのキャップをかぶり、ちょっと見ると男の子のようだ。
半ズボンからすらりと伸《の》びた白い脚《あし》は、まだ色気のかけらも感じられないが、元気だけはあふれるほどだ。
ここは渋谷区|神南《じんなん》一丁目――公園《こうえん》通りと神宮《じんぐう》通りにはさまれた、南北に長いくさび形の一画である。
渋谷は映画のセットのような街《まち》だ。表通りはファッション・ビルや「○○会館」と名のついた派手《はで》な建物が立ち並び、毎日が祭りのように賑《にぎ》やかだが、ひとつ裏の通りに入ると、まるで雰囲気が変わる。この神南一丁目も、まだ公園通りが渋谷の中心になる以前の、のどかな住宅街の雰囲気《ふんいき》を残していた。公園通りや神宮通りの賑わいに比べると、嘘《うそ》のように人通りが少ない。さしずめ渋谷の舞台裏といったところか。
ましてや今のような早朝の時間帯では、すれ違う者はほとんどいない。郊外から通っている勤め人たちが、駅から吐《は》き出され、表通りのビルにどっとなだれこんでゆくのは、まだ何時間も先のことだ。だから、天気のいい朝には、少女がこの道をジョギングするのを知っている者は、ほとんどいない。
少女の名は、かなた。人間の姿をしているが、人間ではない。
だが、どんな人間にも負けないぐらい、かなたはこの街《まち》が好きだった。生まれ育った土地であり、どの通りも自分の庭のようなものだった。こうして走り回りながら、道路の感触《かんしょく》を、空気の味を、風景の色彩《しきさい》を、五感のすべてで味わうと、ささやかな幸せを感じるのだ。
ジョギング・コースの途中には小さな児童公園があった。児童公園と言っても、猫《ねこ》の額《ひたい》のような狭《せま》さで、たいした遊具もなく、子供が遊んでいる光景はあまり見かけない。深夜には表通りから流れてきた若者たちのたまり場になる。彼らはここで酔《よ》いを覚ましたり、他愛もない雑談で時間を潰《つぶ》すのだ。
だが、この時刻にたむろしているのは猫とカラスたちだけだ。渋谷中の野良猫が、夜中に若者たちの落としたハンバーガーのかけらや、住民の出した生ゴミの袋を狙《ねら》って、このあたりに集まってくる。そのおこぼれをちょうだいしようと、カラスも舞い降りてくる。人の姿は見えない……。
いや違う。一人だけいる。猫たちに餌《えさ》をやっている初老の紳士《しんし》だ。
「おじさん♪」
かなたは紳士に呼びかけた。猫たちに取り巻かれてしゃがみこんでいた男は、のんびりと顔を上げ、「やあ」とにこやかに答えた。かなたは猫たちの輪に近づいていった。
黒、白、茶色、虎縞《とらじま》、まだら……色とりどりの野良猫たちは、男が地面に広げた新聞紙の上に撒《ま》いたマグロのフレークを、一心不乱に食べている。かなたが近づいてくるのに気づいても、一匹《いっぴき》も逃げようとしない。
かなたは男の名前を知らなかった。このあたりに住んでいて、小説だか映画の脚本だかを書いているという話は聞いたことがあったが、その程度だ。名前なんて気にしたこともない。男の方でもかなたの名を知らなかったし、訊《たず》ねようともしなかった。
「へえ、おはなの赤ちゃんたち、ずいぶん大きくなったんだ」
かなたはそう言って、猫たちの食事風景を覗《のぞ》きこんだ。おはな≠ニいうのは、スペイン坂のあたりをねぐらにしている上品な三毛猫である。乳離れしたばかりの四匹の仔猫《こねこ》は、みんな色が違う。まだ足の遅い彼らが、母親に先導《せんどう》されて、交通量の多い公園通りを安全に渡って来られるのは、今のような早朝の時間帯だけだ。
仔猫たちは早々に食事を終え、母親の周囲でもつれ合ってじゃれている。その様子は、生きている毛玉、といった感じだ。
「この子らのお父さんは、やっぱり虎吉だねえ」男はのんびりした口調で言った。「ほら、この虎縞なんて、頭のあたりの模様がよく似てきただろ?」
「ほんとだ」かなたはくすりと笑った。「大きくなったら人相が悪くなりそうね」
「虎吉の子供だから、虎助ってところだな」
「虎太郎にしようよ♪ その方がかっこいいし」
「ほう? じゃあ他《ほか》の三匹は?」
「もう決めてあるんだ」
かなたは仔猫たちを順番に抱き上げた。普通、母猫は子供の安全には敏感《びんかん》になっているものだが、おはなは完全にかなたを信頼しており、無関心である。
「この白くておとなしいのが蛍《ほたる》、黒くてやんちゃそうなのが大介、茶色くてツンとしてるのがビビアン……」
「ビビアンか。うん、いいな。ビビアン・リーみたいな貴婦人になりそうだ」
かなたは「ビビアン・リーって誰《だれ》?」とは訊《き》かなかった。猫の話以外では、共通の話題がまったくないことは、よく分かっていたからだ。
「それにしても……」紳士はちょっと眉《まゆ》をひそめた。「ここ四、五日、虎吉の姿を見ないねえ――見たかい?」
かなたは首を振った。「ううん」
「そうか……」
あまり表情には出さなかったが、男は心配そうだった。虎吉は貫禄《かんろく》のある虎縞の猫で、二年前から公園通りの野良猫のボスだった。こうした猫たちの集まる場所には必ず顔を見せ、喧嘩《けんか》をいさめたり、新入りの猫たちに礼儀を教えこんだりしていた。
実のところ、かなたも虎吉の消息が心配なのだった。人間に見られていないところで、こっそり何匹かの猫に訊ねてみたことはあるが、誰も虎吉を見かけていないらしい。
「だいじょうぶだよ」かなたは努《つと》めて陽気に言った。「虎吉は車に轢《ひ》かれたりするほどドジじゃないから。ほら、前にもふらっとどこかに旅に出たこと、あったじゃない?」
「そうならいいんだが……」
男は黙りこんで、朝食をがっついている野良猫たちに視線を移した。ボスがいなくなったことは、今のところ彼らの社会には大きな影響《えいきょう》は与えていないらしい。このまま虎吉が帰って来なければ、次に実力のある猫――マルチェロか長兵衛――が新たなボスになるだろう。
しばしの沈黙の後、男はまた口を開き、ひとり言のようにつぶやいた。
「……先週はライザがいなくなった」
かなたはドキッとした。
「その前は男爵《だんしゃく》、その前はフラン……」
男は悲しそうに首を振った。
「私はもう二〇年も渋谷の猫たちを見てきたよ。仔猫たちが生まれ、成長して、また新しい仔猫たちの親になる。年老いたボスが去って、新しいボスと交替する……そんな移り変わりを、もう何世代も見てきたんだ。古い生命が去って、新しい生命に道を譲《ゆず》るのは、こりゃあ自然の摂理《せつり》ってもんだ……。
車に撥《は》ねられて死ぬ猫も、毎年何匹も見ているよ。この街《まち》はこいつらにとって、猛獣《もうじゅう》だらけのジャングルみたいなものだ。生存競争に負けて死んでゆく者がいるのは、しかたのないことなんだろう……。
だが、こんなことは初めてだ――こんな短期間に何匹もの猫が続けていなくなるなんてことは……何か悪いことが起こってるんじゃないといいんだがねえ」
かなたは何も答えなかった。男もそれ以上は何も言わなかった。野良猫たちの朝食の時間は終わりに近づいている。広げられた新聞紙の上には、もうわずかばかりのフレークが散乱しているだけだ。
少女の腕の中では、まだこの世界のきびしさを知らない仔猫たちが、無邪気《むじゃき》にじゃれあっている。彼らの父親に何が起こったのか、誰も知る者はいなかった。
「納得《なっとく》できませんね!」
網野刑事は興奮《こうふん》した口調で、デスクの上に身を乗り出した。唾《つば》が飛んで、二〇歳も年上の上司の、白髪《しらが》の目立つ頭にかかった。部屋《へや》の反対側の端にいる同僚たちは、訝《いぶか》しげに二人の対決を眺《なが》めている。
ワープロで報告書を打っていた山辺《やまのべ》警部《けいぶ》は、ちらっと目を上げ、眼鏡《めがね》越しに冷ややかな視線を返した。このデスクは彼のちっぽけな聖域《せいいき》である。乱雑に並べられたファイルと、ワープロの周囲に積み上げられた書類の山が、今にも飛びかからんばかりに激昂《げっこう》した網野から、聖域を守る砦《とりで》の役目を果たしていた。
「納得してもらわなくては困るんだよ」
「しかし……!」
「網野くん、スタンドプレーもほどほどにしたまえ。自分を刑事ドラマの主人公と混同《こんどう》してるんじゃないかね?」山辺は皮肉《ひにく》っぽく言った。「いいかね、現実はドラマとは違うんだ」
「そんなことは分かってます」網野はぶすっと言った。
「いいや、まだ分かってないね。警察は組織だ。企業や政府や野球チームと同じ、大勢の人間の協力によって動く組織なんだ。個人の勝手な独走は許されん。考えてみたまえ。企業の一社員がだよ、上司の命令た逆らって、勝手に商談をまとめるなんてことがあるかね? そんなことをしたらクビだよ」
網野は上司をにらみつけた。「それは脅《おど》しですか?」
「おいおい……」山辺は苦笑した。「たとえだよ、たとえ。君は何でも悪い方に解釈《かいしゃく》するんだねえ」
血気盛んな網野には、上司のやる気のない態度ががまんならなかった。刑事になってこの課に配属されて三年目、新米の頃《ころ》の遠慮《えんりょ》深い態度が薄《うす》れ、このところ生来の反骨精神がしばしば顔を覗《のぞ》かせるようになっていた。こんな風に山辺と衝突《しょうとつ》するのもしょっちゅうである――言ってみれば「反抗期」だ。
「お言葉ですが、僕《ぼく》は警察は企業とは違うと思います」
「ほう?」
「企業が追及するのは利潤《りじゅん》ですが、警察が追及するのは犯罪です。事件を捜査《そうさ》し、真相を解明するのが、僕たち警察官の使命なんじゃないですか!?」
若い刑事の口から使命≠ネどという青臭《あおくさ》い言葉が飛び出したので、山辺はつい失笑した。彼自身はそんな言葉を使わなくなって、もう何年にもなる。
「ああ、もちろんだとも。だからこうして、日夜働いてるんじゃないか。女房に『いつも帰りが遅い』ってぼやかれながらな……この報告書もそうだよ。今日中に書き上げなくちゃならんのだ」
そう言って山辺はディスプレイに視線を戻《もど》し、報告書を打つ作業に戻った。新しいワープロで、JIS配列にまだ慣《な》れていないので、右手の中指だけでぽつりぽつりとキーを打っている。
網野の怒りは爆発寸前だった。
「だったら! どうして例の事件を捜査しないんですか?」
キーを叩《たた》きながら、山辺はそっけなく答えた。「事件じゃないからだ」
「この二か月間に連続して七人もの娘が行方不明になってるんですよ? それがどうして事件じゃないって言うんですか!?」
「君の思いこみだろ? そりゃ確かに捜索《そうさく》願いは七件出てるがね。関連性は何もないよ。今の季節、若い娘の家出なんて、珍しくもないことだ」
「そうでしょうか? 僕が調べたかぎりじゃ、そうじゃありません」
網野は手帳をめくり、そこにメモしたことを読み上げた。
「奥羽恵美。一九歳、短大生。七月三一日の深夜、渋谷のライブハウスで友人五人とライブを見た後、センター街にあるパブ <春草> で飲んでる最中、気分が悪くなってトイレに立つ。そのまま帰らず……」
「男友達とどこかにしけこんだんだろう? よくあることだ……」
「違います。当日は男はいっしょじゃありませんでした。それに奥羽恵美の男関係は全部当たりましたが、シロでした」
「そのパブで新しい男をひっかけたんだろう。今ごろはどこかのアパートでそいつと同棲《どうせい》してるさ……」
「違います!」網野は苛立《いらだ》った。「だいたい、無事でいるなら、友人に電話で知らせるぐらいはするでしょう? そんな様子はまったくないんですよ――僕は明らかに何者かに拉致《らち》されたと思いますね」
山辺は関心なさそうに「ふん」と鼻を鳴らした。
「これ一件だけならまだしも、他《ほか》に六件も同様の事件があるんです。いずれも土曜日の深夜。姿を消したのは、一六歳から二二歳までの若い娘。場所は新宿、渋谷、六本木《ろっぽんぎ》……失踪《しっそう》の状況はほとんど同じです」
「いいかね、網野くん……」
「それだけじゃありません!」網野は上司の言葉をさえぎった。「そのうちの四件には重大な共通点があるんです。失踪の直前、彼女たちを挙動の不審《ふしん》な外国人がつけ回していたんです。友人が目撃してるんですよ!」
「いい加減にしたまえ!」
山辺は怒りを爆発させた。
「『不審な外国人』だと? 一〇年前ならまだしも、今の東京には、外国人なんて何万人もいるんだ! だいたい、その娘たちが誘拐《ゆうかい》されたという証拠《しょうこ》はどこにあるんだね? 身代金の要求が一件でもあったのかね?」
「身代金が目的とはかぎりません」
「若い娘を拉致して香港《ホンコン》に売り飛ばすか? そんな大昔の小林旭の映画みたいなことが、現代にあるわけないだろう? 常識で判断したまえ、常識で!」
「しかし――!」
「何でもかんでも外国人のせいにするのは偏見《へんけん》だよ。何年か前に埼玉や千葉で広がったデマを忘れたわけじゃないだろう?」
網野もその話は知っていた。東京周辺に東南アジア系の外国人のレイプ魔《ま》が出没し、日本人の女性を襲《おそ》っているという噂《うわさ》だ。被害者は人妻だとか、高校生、中学生だという話もあり、襲われた場所や状況も様々だった。高は警察《けいさつ》に問い合わせの電話が殺到したのだが、実際にはそんな事実はまったくなかったのである。
「これはデマじゃありません! 実際に若い娘が誘拐されてるんです!」
「誘拐されてるという証拠はあるのか? 誘拐される現場を、誰《だれ》か見たのか?」
「それは……」
網野は返答に窮《きゅう》した。失踪《しっそう》の状況はどれも不可解だった。奥羽恵美の場合、鍵《かぎ》のかかったトイレから消え失《う》せているのだ。まるで古臭《ふるくさ》い推理小説のように……。
「ほら見ろ!」山辺は勝ち誇ったように言った。「ただの妄想《もうそう》だ! 証拠なしには警察は動かんのだ!」
おかしい、と網野は思った。なぜ山辺はこんなにもむきになって、事件を否定しようとするのだろうか。あまりにも態度が不自然だった。もしかして、どこかから圧力がかかっているのか……?
「分かりました」網野はすねたような口調で言った。「証拠があればいいんですね? これから証拠を探《さが》してきます!」
「おい、待ちたまえ!」
山辺が慌《あわ》てて呼び止めても、網野は振り返りもせず、急ぎ足で刑事部屋を出て行った。バタン! アルミの扉《とびら》が大きな音を立てて閉じた。遠くから二人の論争を眺《なが》めていた他の刑事たちは、思わぬ成り行きに、ひそひそと何かをささやき合っている。
「やれやれ……」
山辺は椅子《いす》にもたれかかり、疲《つか》れたようにため息をついた。経験豊富な警部として、これまで何人もの新人刑事を育ててきた。中には手のかかる者もいたことはいたが、網野ほど扱いづらい男は初めてだ。
しばらく何か考えてから、山辺はおもむろに内ポケットから手帳を取り出し、あるページを広げた。傍《かたわ》らの電話に手を伸ばし、受話器を取り上げて、手帳を見ながらある番号をプッシュする。
相手はすぐに出た。
「もしもし? 私だよ、山辺だよ……ああ、久しぶりだね」
部下たちに見られていることを意識して、山辺はなるべく世間話のようなさりげない口調で喋《しゃべ》った。しかし、他の者には会話の内容が断片的にしか分からないよう、わずかに声を落としている。
「例の何なんだが……うん、そうだよ……そうか、やっぱりそっちでもチェックしてるのか。だと思ったよ。
実はうちの若い者が一人、この件に首を突っこんでるんだ……そうなんだ。好奇心の強い奴《やつ》でね。困ったもんだよ。大変な暴《あば》れ馬でね、思いこんだら突っ走るタイプだ……ははは、その通りさ。情けないことだが、私では抑えがきかんのだ。もしかしたら、君たちに迷惑《めいわく》をかけるかもしれんが……。
うん、そうだ。そうしてくれ。対処は君たちにまかせた。よろしく頼む。この件の借りは、また何かで返させてもらうから……。
ところで娘さんは元気? ずいぶん大きくなったんじゃないの? しばらく会ってないね。今度また、遊びに行くよ。うん、楽しみにしてるから……」
「だからさあ、どうしていいか分かんないんだよね」
水晶球の置かれたテーブルにだらしなく肘《ひじ》をついた少女は、テーブルの向こうにいる美しい女占《おんなうらな》い師に、くだけた口調で話しかけていた。
「言ったっけ? うちのチームってさ、男はご法度《はっと》ってことになってるの。規則があるわけじゃないけど、アンモクのリョーカイってやつでさ。だって、男にケツ持ちされるのって、何となくメンツ立たないじゃない? お前ら男に頼らないと何もできないのかあ、みたいな意地があってさ。
で、あたしって、うちのチームのいちおうサブリーダーじゃない? だからタカシとつき合ってるのって、やっぱし下の連中に示しがつかないんだよね。だから、休日に時間見つけて、こそこそ会ってんだけど――」
霧香《きりか》は口をはさんだ。「タカシって、ライブハウスで働いてる男の子?」
真理亜はピンクのルージュを塗《ぬ》った口を大きく開け、けたけたと陽気に笑った。
「それはアツシよ。あんな野暮《やぼ》ったいの、とっくに振ってやったってば」
真理亜は東京郊外にあるミッション系の学校に通っており、普段はしおらしく「お嬢様」をやっているのだが、休日になると窮屈《きゅうくつ》な制服を脱ぎ捨て、蝶《ちょう》のように変身する。今は夏休みなので、毎日遊びほうだいだ。派手《はで》な原色のファッションに身を包み、年齢を実際より三つ以上高く見せているが、本当は一六歳であることを霧香は知っていた。この占いの店 <ミラーメイズ> の常連だ。
店と言っても、働いているのはもっぱら霧香だけで、時おり加藤という青年が助手をやっているぐらいだ。雑居ビルの地下にある小さなスペースで、カーテンで仕切られたこの小部屋《こべや》の外には、五人も入ると満員になってしまう待合室があるだけだ。雑誌などで紹介されることは決してないが、原宿の裏通りという恵まれた条件と、「よく当たる」という評判がもっぱら口コミで広まるおかげで、そこそこ繁盛《はんじょう》している。土曜や日曜には、一日に一〇〇人近い客が訪れる。ほとんどは一〇代の少女である。
室内の装飾《そうしょく》は、この手の店にありがちな黒いカーテンだの曼陀羅《まんだら》だのインド音楽だの、ゴテゴテしたものを極力|排《はい》し、クリーム色の壁《かべ》に風景画がかかっているだけの、きわめて質素なものである。霧香の服装も平凡で、ごく普通のキャリアウーマンにしか見えない。喋《しゃべ》り方にしても、テレビによく出てくる占い師のような芝居《しばい》がかったところはなく、ビジネスライクな感じさえ受ける。
本物の占い師には、ことさらに神秘性を強調する必要などないのだ。
そうした飾《かざ》り気のなさが、かえって親しみを感じさせるのだろう。一度訪れた少女は、その後、何度もやってくる。この店の常連を自称する女の子は、原宿周辺にゆうに百数十人はいるだろう。
店を訪れる少女たちの大半は、表情に深刻さは微塵《みじん》もない。未来や運命を知りたいとか、不幸を避《さ》けたいとか、真剣に願っているわけではない。ただ単に、目標もなく漠然《ばくぜん》と生きているのが何となく不安なので、占いを指針にしたいだけなのだ。あるいは、日常生活で感じた疑問やわだかまりや苛立《いらだ》ちを、霧香に聴《き》いて欲しいだけなのだ。
占い師という仕事は、カウンセラーや精神分析医のそれに近い。思春期の少女たちの些細《ささい》な悩みの相談に乗ってやり、彼女たちのやり場のない焦燥《しょうそう》感の源《みなもと》を探《さぐ》り当てて、簡単《かんたん》なアドバイスを与えるのだ。実際、占いをしてもらわずに帰る少女も少なくない。
この真理亜というチーマーの少女にしてもそうだった。チームや男関係のことで相談に来たらしいが、実際にはそれほど悩んでいるわけではない。心の中の迷いを誰《だれ》かにぶつけて、決断の手助けをしてほしいだけなのだ。占いなど必要ない。
「つまり、男の子とつき合ってることを友達に隠《かく》してるから苦しいわけね? 裏切ってるような気がして?」
真理亜は肩をすくめた。「まあね」
「じゃあ、思いきってみんなに話してみたらどう?」
「でも、みんなが納得《なっとく》するかなあ?」
「男の子に寄りかかると、女だけのチームのメンツが立たない、って言うんでしょ? でも、男と対等につき合ってるならいいじゃない。男に頼ろうとか、いざという時に助けてもらおうなんて思うから、トラブルが起きるんじゃない?」
「そりゃそうだけど……まずくすると、チームの結束|崩《くず》れるし……」
「みんながしっかりしてれば、だいじょうぶなんじゃない? それとも、あなたたちの友情って、そんな程度のことで結束が崩れるほどもろいものなわけ?」
「そんなことないよ!」真理亜はむきになって言った。
「だったら相談してみなさいよ。自分一人で迷ってないで。ね?」
「……うん。そうする」
真理亜はしぶしぶ承知した。結香はにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「じゃあ、今日はこれまでね。占いしなかったから、二〇〇〇円にまけといたげるわ」
「わっ、ほんと? ラッキー」
真理亜は急にはしゃぎだし、いそいそと財布《さいふ》を取り出した。まじめ霧香が少女たちに人気のあるもうひとつの理由は、「不良はやめて真面目に勉強なさい」とか「男遊びはほどほどにしなさい」とか、野暮ったい説教をしないことだった。そんなのは若い頃に経験するハシカみたいなもので、親や教師が心配しなくても、一八歳を過ぎれば自然に治ってしまうものだ、と霧香には分かっている。不良を卒業できずに堕落《だらく》してしまう少女は、ごく一部にすぎない。
だが霧香は、少女たちの未来に対して、まったく楽天的であるわけではなかった。たいていのものは許容できるが、どうしても許せないものがあった。
「それから、ヤクはやめなさいよね」
財布から札を取り出しかけていた少女は、びっくりして手を止めた。
「ええっ!? 占いでそんなことまで分かるのお?」
「あのねえ……」
霧香は少女の前に左腕をかざし、肘《ひじ》の内側のあたりを、右手の人差し指でとんとんと叩《たた》いてみせた。
「こんなとこに注射の跡《あと》があったら、誰だって気づくわよ」
「あ、そうか」
真理亜は自分の左腕を見下ろし、肘の内側にある赤い点に、まるで今初めて気がついたかのようだった。
「先生やご両親には何も言われないの?」
「ぜーんぜん! これに気がついたの、霧香さんが初めてよ」
「何回やったの?」
「うーん、まだ一回だけ」
「ほんと?」
霧香の鋭い視線に追及され、真理亜はいたずらっぽく肩をすくめた。
「……三回」
「前にも言ったはずよ。覚醒《かくせい》剤はこわいんだから、絶対に手を出しちゃだめだって」
「でも、ジョーチュー(静脈注射)の後のラッシュってたまんないんだよお。それに、何年もやってる人の話|聴《き》いたけど、たいしたことないって……」
「それは本当のこわさを知らないからよ。いつでもやめられるなんて、甘い気持ちでいちゃだめよ。いったん中毒になっちゃったら、後はずるずる堕《お》ちるだけなんだからね」
「分かっちゃいるんだけど……」
「それに、同じ針で回し打ちしたりしたら、エイズに感染《かんせん》する危険だってあるのよ」
「ええーっ!? どうしよう。あたし、やっちゃったよ」
真理亜は急に不安そうな表情になった。覚醒剤のこわさは理解していないが、エイズがこわいということは知っているらしい――もっとも、男友達との間でエイズ予防策をちゃんと実行しているかは、はなはだ疑問であるが。
「もしかして、うつっちゃったかな――ねえ、エイズにかかってるかどうか、占いで分からない?」
「そういうのは保健所に行きなさい」
霧香はそっけなく言った。
真理亜のような少女の無知にはあきれてしまう。本人は軽い遊びのつもりだろうが、まるで目隠《めかく》しして崖《がけ》っぷちを歩いているようなもので、自分がどれだけ危険な状態にいるのか、まったく自覚していないのだ。
人間のこういう性質は、何も最近の風潮ではない。はるかな昔から、人間はどうしようもなく無知で迷信深く、自分に都合の悪い真実は見ようとしない動物だった。危険なほどに楽天的であると同時に、愚《おろ》かしいほどに宿命論的である。文明が高度に進歩し、社会体制が大きく変化しても、そうした人間の本性は、基本的には原始時代から何も変わってはいないのだ。
何百年も生きてきて、時代の移り変わりを見てきた霧香は、それをよく知っていた。
だが、そのことで人間を嫌《きら》ったりはしなかった。かよわい生き物だからこそ、無知な生き物だからこそ、愛《いと》しく感じられるのだ。守ってやり、導《みちび》いてやりたくなるのだ。
人間の愚かさは数え切れないほど見てきたが、絶望したことはなかった。人間が自分たちの力でその愚かさを乗り越えるのを、何度も見てきたからだ。
「じゃ、五〇〇〇円ね」
「ええっ!? だって、さっき二〇〇〇円でいいって……」
「私の言いつけを守らなかった罰《ばつ》、プラス、警告《けいこく》よ。今度来る時までに、その傷が消えてなかったら、一万円もらうわよ」
「ふえーん。ぐすん」
真理亜は泣きまねをしながら、一〇〇〇円札五枚を差し出した。それを受け取った霧香は、札を数える時の癖《くせ》で、耳にかかった髪《かみ》を無意識にかき上げた。
「あれ?」
真理亜がすっとんきょうな声をあげた。札をテーブルの下の金庫にしまおうとしていた霧香は、驚《おどろ》いて顔を上げた。
「ん? どうしたの?」
「霧香さん、赤いピアスしてんだ」
「してるけど……それがどうかしたの?」
「知らないのお? 赤いピアスって危ないんだよお」
霧香は興味《きょうみ》を抱いた。「何がどう危ないわけ?」
「赤いピアスしてる子が誘拐《ゆうかい》されてるの。外国人に。悪魔《あくま》を崇拝《すうはい》してる連中でね、さらわれた女の子はどこかに連れこまれて、悪魔の儀式の生贄《いけにえ》にされちゃうんだって。手足切られてバラバラにされちゃうの。だから最近じゃ、あたしの周りの子はみんな、ピアスははずしてるもん。つける時でも、縁とか青にしてるの。
あいつらってこわいよお。野良猫捕まえて食べちゃうんだもんね[#「野良猫捕まえて食べちゃうんだもんね」に傍点]」
霧香は椅子《いす》に座り直した。
「その話、もうちょっと詳しく聴かせてくれる?」
[#改ページ]
3 妖怪ネットワーク
「赤いピアス……ですか?」
その夜、マンションに帰った霧香は、助手の加藤を呼び出した。長めの髪《かみ》を乱雑に垂《た》らした長身で痩《や》せ形の青年で、ちょっと見にはぼんやりとして、頼りなさそうに見える。だが霧香にとって心強い味方だし、有力な情報源でもあった。これまでの事件でも、何度か彼に助けられている。
「うちの大学じゃ、そんな話はぜんぜん耳にしませんでしたが……夏休みになってから生まれた新パターンですかね?」
「そうでもないらしいわ。真理亜ちゃんの話だと、最初に聞いたのは夏休みのちょっと前だって。吉祥寺《きちじょうじ》あたりの中高校生の間じゃ、もうかなり広まってるらしいの。知らない女の子はいないそうよ」
「吉祥寺っつーと、文子さんのお膝元《ひざもと》ですか……ああ、もっとも、あの人は昔の情報には詳《くわ》しくても、最近のニュースにはうといからなあ」
「範囲《はんい》はもっと広いかもしれないわ。ただ、比較《ひかく》的低い年齢層の女の子を中心に広まってるから、今まで私たちの網《あみ》にかからなかっただけでね」
「摩耶《まや》ちゃんはどうです? ほら、かなたちゃんの友達の。あの子の家も吉祥寺ですよ」
「もちろん、妙な噂《うわさ》を耳にしたら教えてくれるように言ってあるわよ――でも、あの子ってほら、内気でしょ? 学校じゃ話をする友達があまりいないから、夏休み前の何週間かの間に、噂が耳に入る機会がなかったとしても、不思議じゃないわね」
「でも、そんな噂がいつの間にかそんなに広まってたなんて……」
「噂の伝播《でんぱ》する速さを甘く見ちゃだめよ。消える猫《ねこ》≠フ話だってそうでしょ。私たちの網にかかったの、つい半月はど前じゃない?」
「 <うさぎの穴> に連絡《れんらく》は?」
「昼間送ったわ……そうね、そろそろ何か反応があるかもね」
霧香は愛用のノート型パソコンを引っ張り出した。モデムをつなぎ、スイッチを入れ、通信ソフトを起動する。
「加藤くん、パソ通は?」
FENICS―ROAD2に接続するのを待つ間、霧香は訊《たず》ねた。真夜中前なので、まだ回線が混んでおり、つながるのにやや時間がかかるのだ。
加藤はきまり悪そうに頭をかいた。「こないだ、やっとこモデムは買いましたけどね。まだ慣《な》れてないから、アップロードはやってません。そこいらのフォーラムを見て回ってるだけで……貧乏だから、あまり長くログインしてられませんしね」
接続。IDとパスワードが自動的に送信されると、液晶画面にトップメニューが現われた。
霧香はキーボードに <GO HP> と打ちこんだ。
「あれ? メールじゃないんで?」
「こないだから、 <うさぎの穴> がホームパーティを開いてるのよ」
「ほお?」
電子メールが基本的に送信者と受信者の一対一のメディアであるのに対し、ホームパーティは不特定多数のメンバーが共通のエリアに文章を書きこむ、一種のグループ内通信機能である。電子的な掲示板と考えれば間違いないが、誰《だれ》でも自由に参加できるフォーラムと違って、主宰《しゅさい》者のIDとパスワードを打ちこまないと入れないので、情報の秘密はいちおう保たれている。料金が月五〇〇円と安いのも魅力《みりょく》だ。
「この件に関する情報はすべてそこに送ることになってるわ。メールと違って、集まってくる情報をみんなで閲覧《えつらん》できるから、とても便利なの。大樹《だいき》くんのIDで、パスワードはU・S・A・G・Tよ」
「覚えときます」
ほどなく霧香は <うさぎの穴HP> に接続した。 <READ NEW> とコマンドを打ちこむと、画面にメッセージが現われた。
「さすがねえ。早くもレスが来てるわ。大変な盛況《せいきょう》ね」
真っ先に返答してきたのは、ホストの大樹だった。霧香や文子と同じく、肉体的にはたいした能力を持たないが、情報収集能力にすぐれている妖怪《ようかい》だ。
[#ここから3字下げ]
131 [08/09 20:41] GAA002412
DAIKI 赤いピアスについて
霧香さんへ。
貴重な情報、ありがとうございます。確かにこれは盲点《もうてん》でした。連中の動きを知る重要な手がかりになると思います。現実問題として、赤いピアスの女の子を全部見張るのは、ちょっと骨だと思いますが……。
僕の考えでは、「赤」という色がキーポイントだと思います。赤はもちろん血のイメージですよね。
記録によれば、明治初期の文明開化の時代には、どっと流入してきた外国文化と、血のイメージが結びついて、いくつもの不気味な都市伝説が生まれました。ワインは処女の生血だとか、電信用の電線には処女の生血を塗《ぬ》らないといけないとか、チョコレートは牛の血を固めたものだとか……。
おっと、霧香さんならこんなことはご存じなんでしたよね? (^_^)
[#地付き]DAIKI
[#ここで字下げ終わり]
「余計なことを……」
霧香はぼやいた。妖怪でも女は女、年齢のことを話題にされては不機嫌になる。
彼女が乱暴にリターン・キーを叩《たた》くと、画面がスクロールした。次に現われたメッセージは、秋葉原《あきはばら》周辺を縄張《なわば》りにしている蛇娘《へびむすめ》からだった。
[#ここから3字下げ]
132 [08/09 21:08] JAR3516142 魅夜 消える猫について
はいはい、魅夜《みや》です。台東《たいとう》区・墨田《すみだ》区・荒川《あらかわ》区方面でも「消える猫」の噂《うわさ》は着実に広まってます。陽子ちゃんも猫仲間に当たってみてくれてるけど、猫の行方はまったくの謎《なぞ》。これからも調査続行しますね。
それにしても、何で「消える猫」を外国人と結びつけるのか分かりません。いくら外国人が貧しいからって、野良猫を捕まえて食べるなんてするわけないじゃない?
こんなアホな噂をマジで信じられるなんて、人間って不思議!
[#地付き]魅夜
133 [08/09 21:20] BGH1156295 留吉 魅夜ちゃんに同感!
そう言えば、十何年か前、大手チェーンのハンバーガーに猫の肉が入ってるってデマが流れたことがあったよな。ハンバーガーってのも戦後になってアメリカから来た新しい食いもんだから、DAIKIくんの説に従えば、やっぱり「血のイメージ」から逃れられないってことなのかな?
まったく日本人ってのはバカだよなー。技術大国だの何だの言ってても、この百何十年、頭の中は何の進歩もないんだもんな。
[#地付き]留吉
134 [08/09 22:05] AAC9600521 一番星 留吉さんへ
日本人がバカなんじゃない。人間はみんなバカなのさ! (^_^)
[#地付き]一番星
[#ここで字下げ終わり]
「一番星さん、相変わらずですね」
加藤は苦笑した。「一番星」のハンドルを名乗っているのは、千葉の流山《ながれやま》に住むしょうけら≠セった。ずいぶん前から人間界に適応して暮らしているものの、人間を蔑《さげす》む態度を改める気配はない。
「ゴミをアップするなっつーに……もう」
霧香は苛立ちながらリターン・キーを叩いた。次に画面に現われたメッセージは、赤坂《あかさか》で水商売をやっているひえんま≠ゥらのものだった。
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135 [08/09 22:11] BMM2563331 のりこ 調査報告です
遅れてすみません08月7日、六本木で起きた事件の報告です。失踪したのは川瀬あおいさん(17歳)。事件現場はディスコ『ダイナ』。失踪《しっそう》した時刻は9時半|頃《ごろ》。荷物はロッカーに預けっぱなしです。いっしょに踊《おど》ってた友人は、彼女がトイレに行ったのは覚えてますが、出てくるところは誰《だれ》も見てません。心配になって探《さが》しに行ったけど、トイレには誰もいなかったそうです。この前の奥羽恵美さんの事件とそっくりですね。
店内にはやはり数人の中東系外国人がいたとのこと。彼らもあおいさんの失踪と時を同じくして姿を消してます。
残念ですが、これ以上|詳《くわ》しいことは分かりません。7日の晩は私たちも街《まち》に出て網《あみ》を張ってたんですけど、防ぐことができず、残念です。風間さんは事件現場から200メートル以内にいたはずなんだけど、何も感知できなかったって言ってます。
パターンから行くと、次の事件が起こるのは8月14日。何とかしなくちゃいけませんね。
それにしても、調べれば調べるほど、典型的な都市伝説のパターンにはまっているのを感じます。「オルレアンのブティック」でしたっけ? ブティックとディスコじゃちょっと違うけど、外国人が若い娘を連れ去るっていうのは似てますね。
[#地付き]のりこ
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「風間さんでも感知できなかったか……」
加藤はうなった。風間というのは赤坂・六本木周辺をねぐらにしている浮浪者で、実はむじな≠ナある。妖気《ようき》を感知する能力も持っているはずなのだ。
霧香にとっては、さほど意外なことではなかった。妖怪を感知する能力に関しては、関東一円で、彼女の右に出る者はいない。その霧香でさえ、今回の敵の動きがまったくつかめないのだ。この数週間、裏をかかれてばかりいる。どうやら連中は、霧香たちの感知能力を完璧《かんぺき》に打ち消す力があるようだった。
その次のメッセージは、「信州のお尚」からだった。
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136 [08/09 22:20] MNN2645150 信州のお尚 今週号の雑誌より(長文注意)
都の方じゃあ外国人の問題で騒々しいらしいけど、長野の田舎《いなか》に住んでる身じゃあ今ひとつぴんと来ない。だもんで、現状はどうなってるのか、日本人が今一体どんなことを考えてるのか、私もちょっと興味を持って調べてみようと思い立った次第。折も折、今週号の『PASSION』で「激増する外国人犯罪!」てな刺激的な題の特集が組まれていたので、買って読んでみた。
感心したねえ。いや、記事の内容にじゃない。記事の書き方にさ。この編集者、どうやれば嘘《うそ》をつくことなく、読者の不安と好奇心を効果的に煽《あお》れるか、実によく知ってやがる。さすがはプロだ。
たとえば、ばらばらとページをめくると、「○○人は殺しがうまい」なんてショッキングな文章が目に飛びこんでくる。読んでみると、これ、新宿の街《まち》でインタビューした、どこの誰《だれ》とも分からない男の発言なんだな。なぜ目立つかというと、この部分だけゴシック文字になって強調されてるからだ。同じページに載《の》ってる警察署長《けいさつしょちょう》の発言は、普通の字体なのに。
根拠? 戦争が長く続いた国の人間は、殺しに慣《な》れてるってことらしい。おいおいそりゃ変だぞ。アメリカ人だってベトナムで長いこと戦ったけど、「アメリカ人は殺しがうまい」なんて言う奴《やつ》はいないじゃないか。
しかもこの記事、嘘は書いてないんだ。「○○人は殺しがうまい」と発言した奴が実際にいたことは事実だろうし、その後にはちゃあんと「真偽《しんぎ》のほどは定かでない」なんてフォローが入れてある。しかし、ゴシック体の直後の普通の字体なんて、誰もまともに読むわけがない。「○○人は殺しがうまい」というショッキングな発言だけが読者の印象に残る仕掛けになってるのさ。
別のページには、「首都圏を狙う外国人犯罪ネットワーク!」なんて見出しが踊《おど》っている。読んでみると、何のことはない、外国人は職探《しょくさが》しのために独自の情報網を持っている「かもしれない」、それがそのうち犯罪に利用される「恐れがある」って内容なんだ。まったく羊頭狗肉《ようとうくにく》とはこのことだ。
おっと、「外国人犯罪の急増によって、今や新宿《しんじゅく》・池袋《いけぶくろ》はニューヨーク並みの犯罪都市になってしまった」なんて文章があるぞ。「ニューヨーク並み」って表現の根拠は何だ? 私はここ90年ばかり新宿には行ったことないが、最近の新宿じゃあ、拳銃《けんじゅう》強盗が毎日多発してたりするわけか? この文章を書いた奴は、きっと『刑事コジャック』を見たことないに違いない。
そのすぐ後には、外国人による犯罪件数がこの10年間で5倍に増えたと解説したうえで、「増加率の点では日本人による犯罪のそれを大きく上回っている」なんて書いている。そりゃあそうだろうさ。日本を訪れる外国人は何倍にも増えたが、日本人の人口はこの10年で1割も増えちゃいないんだから。母集団の増加を無視して、単純に「増加率」を比較《ひかく》して論じるなんて、このライター、統計ってものを全然理解してないな。いや、それとも理解したうえで書いてるのか? これもまた、文章の上では嘘をついてないんだ。
もちろん外国人犯罪を軽視しろと言うつもりはない。実際、これは深刻な問題だ。日本人だろうが外国人だろうが、犯罪を犯す奴は悪い奴だ。とっ捕《つか》まえて懲《こ》らしめるのは当然だ。
問題は、こういう記事を読んだ日本人たちが、記事の裏を読もうともせず、「外国人はこわい」と単純に思いこむことだ。
この記事によれば、昨年1年だけで、来日外国人による刑事犯罪は7457件、検挙者は5961人。こりゃ確かに無視できない大きな数字だ。だが同時に、日本への入国者が昨年1年で325万人だったってことも忘れちゃいけない。つまり日本を訪れる外国人の中で、実際に犯罪を犯す者は数百人に1人ってことだ。犯罪者を罰するのは正しいことだが、外国人の大半を占めるまっとうな人たちまで敵視《てきし》するような風潮は、こりゃ困りもんだな。何だが明治大正の頃に逆戻《ぎゃくもど》りしたみたいで、いい気分はしないね。
[#地付き]信州のお尚
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「なかなかいいこと言うじゃないですか」加藤は感心した。「これ誰《だれ》です? ハンドルからすると地方のネットワーカーみたいだけど……」
「知らないの? 長野県の古寺に棲《す》んでるはくそうず≠諱v
「ああ、名前は聞いてます。妖狐《ようこ》一族の大物だとか?」
「ええ。私も実際に顔を合わせたことはないけど、彼が主宰《しゅさい》している地方ネットは中部一帯に大きな影響《えいきょう》力を持ってるわ。関東のネットともちょくちょく情報を交換《こうかん》してるの」
生まれたばかりのメディアであるパソコン通信は、妖怪たちの世界にも変革をもたらした。日本各地に散らばる、まったく顔を合わせたことのないもの同士が、手紙よりはるかに速い手段で文章をやり取りしたり、通信回線上で会議したりできるのだ。
妖怪たちのネットワークは、もちろんパソコン通信だけではない。口コミ、電話、手紙、アマチュア無線などによっても連絡《れんらく》を取り合っている。どこにどんな新妖怪が誕生《たんじょう》したか、妖怪がらみと思われる怪しい事件の通報、人間の世界で暮らすうえで必要な様々な知恵……そこに流れる情報は多彩《たさい》であり、有益である。複雑な現代社会に生きる妖怪たちにとって、そうした情報網の存在は必要不可欠なものなのだ。日本|全域《ぜんいき》を覆《おお》う単一のネットワークは存在しないが、各地方ごとに小規模だが緊密《きんみつ》なグループがある。 <うさぎの穴> はそうしたネットのひとつにすぎない。
日本を覆う単一のネットワークが生まれないのは、こうしたネットがもともと自然発生的に誕生したものであることと、妖怪たちは自主独立の性格が強く、組織の一員であることを望まないことに原因がある。数十人の単位ならまだ「仲間」という感覚でつき合えるが、数百人、数千人の規模では、もはや「組織」となってしまう。実際、十何年か前に、大規模なネットワークを作ろうという熱心な動きがあったのだが、賛同が得られず、湿《しめ》った花火のように不発に終わっている。
もっとも、地方ネット同士は常に友好的な雰囲気《ふんいき》で接触《せっしょく》し、情報を交わしており、大きな事件となれば様々な協力を得られる。おそらくこうした形態が妖怪たちにとってはもっとも自然で、無理のないものなのだろう。
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137 [08/09 22:35] BES5214510 KAZU ハンバーガーと言えば……
> そう言えば、十何年か前、大手チェーンのハンバーガーに猫の肉が入ってるってデマが流れたことがあったよな。
留吉さん、その都市伝説、何年か前からまた流行《はや》ってるの、知ってます? ただし今度は猫《ねこ》じゃなく、カピバラだそうです。南米産のでっかいネズミですね。
確かにばかばかしい話です。日本中で1日に何十万食も食べられてるハンバーガー。その肉をまかなおうとしたら、いったい何万匹のカピバラを殺さなくちゃならないんでしょうか? そんなたくさんのカピバラを育ててる牧場がどこにあるって言うんでしょう?
だいたい、常識で考えたって、カピバラみたいな珍しい動物の肉って、牛肉より高くつくんじゃないでしょうかねえ?
本当に、何でこんな話を信じられるのか、不思議でなりません。
[#地付き]KAZU
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「この話、僕も聞いたことありますよ」と加藤。「けっこう信じてる奴《やつ》、多いみたいです――連中の活動と関係ありますかね?」
「さあ、分からないわね。食べ物に関する非科学的な伝説は、それこそ山のようにあって、次から次に新しいものが現われるから。コーラを飲むと骨が溶《と》けるとか、はじけるキャンディをいっぺんに食べると胃《い》が破裂《はれつ》して死ぬとか……知ってる? 化学調味料が初めて日本で発売された頃《ころ》は、蛇《へび》の粉が使われてるって言われて、みんなひどく気味悪がってたのよ」
「へえ」
霧香はさらにキーを叩《たた》いた。
「あら、文ちゃんから来てるわ」
文子は古本の妖怪《ようかい》、文車妖妃《ふぐるまようき》である。吉祥寺の裏通りにある古本屋に居を構えており、普段は無口だが手紙では雄弁になるという不思議な娘だ。
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138 [08/09 23:21] AIK9613212 FUMI 猫入りバーガー・その他
やほ〜、どーもども文子でしゅ。猫入りバーガーの件について、わたひもちょっぴり調べてみやしたんで、聞いてくださいませませ。
ご存じのように、この手の都市伝説って、「消えるヒッチハイカー」みたいにアメリカから渡ってきたものが多いんだよね。「猫入りハンバーガー」もそのひとつ。本家アメリカでは「ミミズ入りハンバーガー」だったんですって。グロゲロ。あっ、でも、教授だったら喜んで食べるかもね。(^0^)
それが日本に渡って「猫」になったのは、KAZUさんのご指摘《してき》の通り、「外国人は犬や猫を食べる」という偏見《へんけん》が、微妙に関係してるんじゃないか……ってえのが民俗学者のご意見でございます、はい。
アメリカでは1980年代初頭、「東南アジア系の難民がペットの犬や猫を捕《とら》えて食べている」ってデマが、カリフォルニアを中心として広まったそうです。もっちろん、当局が調査しても、そんな事実は、まったく・ぜんぜん・かけらも、なかったんだけど。
言うまでもないけど、70年代にベトナム戦争が終わって、ベトナム難民がどっとアメリカに流れこんできたわけ。とーぜん白人社会の間では、それに対する反発もあった……デマの発生の背景には、そーゆー社会情勢があったんですねえ。
う〜ん、今の日本と状況が似てるみたい。
ちなみに、日本人も噂《うわさ》の標的にされてます。1977年頃、タイで「日本企業が野ネズミの肉を食用に買い取ってる」っていうデマが広まって、野ネズミ捕《と》りが大流行したそうです。ぎゃはは。日本人ってネズミを食べるって思われてたのね。(^^;)
つまり、「外国人は気味の悪いものを食べる」って伝説は、(地域によって形は微妙に違うけど)世界的にポピュラーなものなんですねー。だから今回の「消える猫」の話も、出るべくして出たって感じです。
その「気味の悪いもの」の究極《きゅうきょく》は、言うまでもなく人肉であり、生血であるわけ。異教徒や異人種が「人肉を食べる」「生血を飲む」というフォークロアは、それこそ世界中いたるところにあって、その起源は少なくとも数千年(あたしの生まれる前だよ、ひぇーっ)はさかのぼると言われてます。
当然、そのヴァリエーションとして、「外国人は我々に気味の悪いものを食べさせようとする」って話が出てくるわけ。猫入りバーガーとか、牛の血のチョコレートとかね。この種の伝説も、これまた昔から世界各地にあります。この噂が行き着くとこまで行くと、「外国人は我々に毒《どく》を盛って殺そうとする」という話になるわけ。
14世紀フランスでは、「ユダヤ人とハンセン病|患者《かんじゃ》がイスラム教徒と結託《けったく》して、井戸に毒を投げこんでキリスト教徒をみな殺しにしようと計画している」というデマが流れ、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられたユダヤ人が大勢処刑されました。言うまでもなく、当時はヨーロッパでペストが大流行していた時期で、今みたいに伝染病《でんせんびょう》は病原菌《ぎょうげんきん》によって起きることが分かってなくて、「病気にかかるのは毒の水を飲んだせいだ」と思われていたんですね。
日本でもそっくり同じ例があります。1858年(安政《あんせい》5年)、コレラが大流行して何万人もの人が亡くなった時、「疫病《えきびょう》の流行は英国人が井戸に毒を流したからだ」という噂《うわさ》が流れました。勝《かつ》海舟《かいしゅう》も『海軍歴史』の中でこのエピソードに触《ふ》れています。さすがにこの時はイギリス人が殺されることはありませんでしたが、この噂が当時の外国人|排斥《はいせき》の風潮に拍車をかけたことは事実。
アメリカでは1950年代から、虫歯予防のために水道水に微量のフッ素が混《ま》ぜられるようになったんだけど、「これは水を汚染《おせん》してアメリカ人の健康を蝕《むしば》もうとする共産主義者の陰謀《いんぼう》だ」って説が流れました。(これ、確かキューブリックの『博士の異常な愛情』にも出てきたはず)
うーむ、ワンパターンだよねえ。こうして並べてみると、人間はこの何千年、ぜーんぜん賢くなんかなってないってことが一目瞭然《いちもくりょうぜん》だよね。
ま、そこが人間のかわいいとこでもあるんだけど。
また何か情報発見したらアップしま〜す。今夜はここまで。ほな、さいなら!
[#地付き]FUMI
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「……なるほど。やっぱり人間たちの偏見《へんけん》が根底にあるわけですね」
加藤の心境は複雑だった。人間の女性を恋人に持つ彼としては、人間が異人種に対して向ける偏見が普遍的で克服《こくふく》不可能なものであるとは信じたくない。それではあまりにも希望がなさすぎる……。
「そうね。人間は見慣れないもの、奇妙なもの、未知のものに対して、反射的に恐怖《きょうふ》や敵意《てきい》を抱《いだ》くわ。それがいろいろな悲劇の原因になる……」霧香の言葉はどこか寂《さび》しそうな響《ひび》きがあった。「そして、それが私たちのような存在を生みだす……」
「そう言えは、エイズ・メアリーはどうしたんでしょうね? ここ二年ほど、ぜんぜん|噂《うわさ》を聞きませんが」
「そうね。アメリカに帰ったんじゃない?」
エイズ・メアリーはアメリカで八〇年代の半ばに生まれたばかりの新しい妖怪《ようかい》だ。素晴らしい美女で、男性を誘惑《ゆうわく》して一夜をともにした後、バスルームの鏡に口紅《くちべに》で「エイズの世界にようこそ」というメッセージを残し、姿を消すのである。数年前には日本にもやって来て、しばらく活動していた時期がある。
エイズ患者に対する一般人の偏見と恐れと無理解――それが具象化したのがエイズ・メアリーなのだ。
「そう言えば、口紅の色も赤≠謔ヒ。やっぱり血のイメージなのかしら?」
「まったく困った人でしたよね。あんな人が横行したら、ますますエイズ患者が世間から悪く見られる。帰ってもらってほっとしますよ」
「そんな風に言うもんじゃないわ。彼女自身には何の責任もない。ああいう風に生まれてしまっただけだもの」
「はあ……」
霧香はキーを叩《たた》いた。最新のメッセージは、またもや大樹のものだった。
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139 [08/09 23:44] GAA002412 DAIKI のりこさんへ
のりこさんへ。八環《やたまき》さんが「被害者が赤いピアスをしていたかどうか知りたい」と言ってます。お手数ですけど、確認してもらえませんか? こっちも7月31日の奥羽恵美の事件をもう一度調査しますので。
「オルレアンのブティック」も日本版がありますよね。東南アジアにツアーで旅行に行った女性が、ブティックの試着室で消えるって話が、10年ぐらい前に女子大生の間で流行しました。犠牲《ぎせい》者は手足を切り取られて、フリークショーの見世物にされるのです。
あと、トイレとの関連で言うなら、ショッピング・センターのトイレで子供が誘拐《ゆうかい》されたり、体の一部を切り取られたりするって伝説が、60年代アメリカで爆発的に流行しました。これはその後も繰り返し形を変えて、アメリカ各地に発生しています。
「オルレアンのブティック」の場合、試着室で女性を誘拐する(と思われている)のはユダヤ人だったわけですが、アメリカの例では、犯人はたいていの場合、黒人、外国人、またはホモだとされていました。
[#地付き]DAIKI
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「ふーん、こうして見ると、新しい伝説なんてものはないんですね」加藤は感心した。「消える猫≠ノしても、新しく見えるけど、ちゃんとルーツがあるんだ……」
「そうね」と霧香。「ただ、今回の消える猫≠フ話は、これまでの伝説とは違うわ」
「?」
「今回は本当に[#「本当に」に傍点]猫が消えてるのよ」
霧香の表情が険《けわ》しくなった。
「何かが猫を食べてるんだわ――そしてたぶん、女の子たちもね」
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4 思わぬ出会い
「いやー、面白い映画だったよね!」
マスタードのたっぷり効いたほかほかのジャーマンドッグをぱくつきながら、かなたはご満悦だった。
渋谷区|宇田川《うだがわ》町――センター街を見下ろすファーストフード店の二階である。
平日の夕方だが、夏休み中とあって、路上には若者の姿が多い。この街に特に珍しいものがあるわけではない。みんな、ただ何となく、この街《まち》に来たいから来ているだけだ。街の中の何かではなく、おそらく街そのものに、人を惹《ひ》きつける何かがあるのだろう。
「うん……」
かなたと向かい合って座っている少女は、目の前に置かれたチースバーガーに口をつけてもいない。食欲がない様子だ。
見た目にはかなたより二、三歳年長で、少し背が高い。他人の目には姉妹と映るかもしれない。少し内気そうだが、とびきりの美少女でもなければ不細工でもない、どこといって目立つところのない女の子だ。
難を言うなら、「目立つところがない」ことで、かえって目立ってしまっている。一七歳の女の子が渋谷に来るなら、もうちょっと派手《はで》な服装をした方がいい。本人に言わせると、「派出なお洋服なんか着る勇気ない」からだそうだが。
「どしたの、摩耶ちゃん?」
かなたは心配そうに声をかけた。摩耶は慌《あわ》ててかぶりを振る。
「いえ、何でもない……」
「アクションものって嫌《きら》い?」
「そんなことない。すごく面白かった。けど……」摩耶はちょっと口ごもった。「ただ、あんまり楽しんじゃいけないんじゃないかなって気がして……」
「どうして?」
「だって、たくさん人が死んだから……」
かなたはテーブルに突っ伏した。
「あのねえ! 映画よ映画! あれは俳優さんがやってるの! 本当に誰《だれ》も死んでるわけじゃないんだから!」
「それは分かってるけど……でも、今も世界のどこかでは本当に戦争やってて、たくさん人が死んでるわけでしょ?」
「だから映画の中の戦争見て笑うのはよくないって? それは考えすぎよ!」
「そうかなあ……」
「そうよ! そりゃもちろん、本物の戦争は良くないことだけど、そんなこと言い出したら映画なんて見れないじゃない! 摩耶ちゃん、真面目《まじめ》すぎるよ」
「うん……」
「ねえ?」かなたはふと、あることに思い当たった。「ひょっとして、映画にのめりこめなかった理由、他《ほか》にあるんじゃない?」
「え?」摩耶はぎくりとした。
かなたはにんまりと笑った。「図星だね。映画見る前から、様子が変だったもんね」
「そんなことない……」
「そんなことある! 隠《かく》したってだめだよ。全身から『気がついて欲しい』ってシグナル、発してるじゃない」
摩耶はびっくりした。「そんなことまで分かるの?」
「たとえだよ、たとえ。別にそんな能力があるわけじゃないよ――でもね、テレパシーなんかなくたって、それぐらい分かるよ。何かで悩んでて、誰かに相談したいって思ってることぐらいはさ」
「……」
「ねえ、何なの? 相談に乗るよ」
少しためらってから、摩耶はおずおずと口を開いた。
「夕べ……また、あいつが出たの……」
「ナイトくんが?」
摩耶は恥ずかしそうにうなずいた。
ナイトくん――かなたはその生き物をそう呼んでいた。古くから「夢魔《むま》」とか「夜怪」とか呼ばれている存在だ。コウモリの翼を持つ真っ黒で顔のない魔物――かつてアメリカの怪奇小説家ラヴクラフトは、子供の頃《ころ》に悪夢で見たその生き物を「ナイトガーント」と名付けた。
一年前、摩耶がかなたたちと知り合ったのも、きっかけは夢魔の出現だった。毎夜、テレビの中に夢魔が現われ、淫《みだ》らな映像を見せて摩耶を誘惑《ゆうわく》したのだ。たまりかねた彼女は、霧香に紹介されて <うさぎの穴> を訪れ、かなたたちに助けを求めた。
しかし、夢魔は彼女に悪意を抱いてるわけではなかった。そもそも夢魔には自分自身の意志などないのだ。
夢魔は厳密には妖怪《ようかい》ではない。妖怪に進化する前の、あてもなく空間を漂《ただよ》う、形を持たないエネルギーだけの存在なのだ。人間の意識下に潜《ひそ》む欲望や妄想《もうそう》に反応し、それを叶《かな》えるために実体化する。摩耶を脅《おど》かしていた夢魔の行動はすべて、思春期の少女の抑圧された欲望が反映されたものだった。
事実を知らされた時は激しいパニックに陥《おちい》ったが、かなたの助けもあって、摩耶はどうにかその衝撃《しょうげき》から立ち直った。同時に、夢魔の脅威《きょうい》を避《さ》ける方法を覚えた。摩耶の潜在意識が生み出した存在である以上、彼女自身が心の底から強く望めば、夢魔は退散するはずである。
しかし、それで恐怖《きょうふ》が消えたわけではなかった。夢魔は今でも摩耶にとり憑《つ》いているのだ。見えないエネルギーの形で彼女につきまとい、眠っている最中など、意志の抑制が弱くなった時に、しばしば実体化する。それから逃れる方法はない。意識下の欲望を消し去ることなど、誰にもできないのだ。
「夜中に急に苦しくなって……目を開けたら……あいつがのしかかってて……」
「この前出たのは梅雨《つゆ》時だったから――」かなたは指を折って数えた。「ざっと二か月ぶりだね。何かされた?」
摩耶は真っ赤になってうつむいた。消え入りそうな声でつぶやく。
「……触《さわ》ってきたの……」
かなたは身を乗り出した。「どこどこ?」
「……どこって!」
摩耶に上目使いににらみつけられ、かなたは苦笑した。
「ごめんごめん……でも、『消えて』って念じたんでしょ?」
「もちろん念じたわ。でも、消えてくれないの。何度も何度も……七回目か八回目で、やっと消えたの……」
「ふむふむ……」
かなたは深刻そうに相槌《あいづち》を打ちながらバニラシェイクをすすった。
「分かってるのよ。何で一回で消えてくれないか……私が心の底で望んでるんだもん。もっと触って欲しいって……」
摩耶は顔を上げ、すがるような視線でかなたを見つめた。
「こわいのよ。これから一生、あいつにおびえながら生きるのかと思うと……いつか抑えがきかなくなるんじゃないか、『消えて』って念じても消えなくなるんじゃないかって。それを考えると気が変になりそうで……」
「何とかして逃げたい?」
「……ええ」
「厳密に言うと――」かなたはシェイクのストローを摩耶につきつけた。「あいつがこわいんじゃなくて、自分がこわいわけね? 自分が信用できない?」
摩耶はしぶしぶうなずいた。「……ええ」
「だったら無理だよ。自分から逃げるなんて誰にもできないもん」
「分かってるけど――」
「いーや、まだ分かってないね」かなたはわざと突き放した言い方をした。「摩耶ちゃん、現実から逃げようとしてるんだもん。もっと自分と向かい合わなくちゃだめだよ。それこそ、あいつと一生つき合わなくちゃいけないんだからさ。もっと気楽に考えないと、押し潰《つぶ》されちゃぅよ」
「気楽になんてなれない……」
「ほらほら、すぐそう深刻になる。もっと自分をぱあっとさらけださなくちゃ。恥ずかしがることないって。そんなふうに自分の心を隠《かく》そう隠そうとするから、ナイトくんが現われちゃうんだよ」
摩耶は顔をそむけ、不機嫌《ふきげん》そうにぼそっとつぶやいた。「かなたにそんなこと言われる筋合いない……」
「へ? 何か言った?」
摩耶は向き直り、真正面からかなたをにらんだ――怒りのこもったきつい視線で。
「かなたにそんなこと言われる筋合いない!」
「ど、どうしたの、急に?」かなたは目を丸くした。
「だってそうでしょ?」摩耶は急に雄弁になった。「何かっていうと、『自分を隠すな』『もっとさらけだせ』って、私のことばっかり……自分はどうなのよ!?」
「あたし?」一瞬、かなたの笑みがこわばった。「あたしはいつだって自分に正直――」
「嘘《うそ》! かなただって隠してる!」
「隠してなんていないよ!}
「だって私、かなたの本当の姿、一度も見たことないもん!」
「あ……」かなたはどぎまぎとなり、笑ってごまかそうとした。「そ、それはさ、大っぴらに見せびらかすようなもんじゃないし……」
「じゃあ、蔭《かげ》でこっそり見せてくれる?」
「それは……」
「ほら、やっぱり隠してる!」
「だって、摩耶ちゃん、気分悪くするかもしれないし――」
「そんなの建前よ! 本当の姿を見られて、私に嫌われるのがこわいんでしょ!? 自分がこわいんでしょ[#「自分がこわいんでしょ」に傍点]!? だったら他人のこと、気楽にとやかく言わないでよ!」
「……」
「ああ、そうよね! どうせあなたは気楽よね! 私みたいに、学校や家族や将来のことや、いろんなことで悩まなくてもいいんだもんね。だって、人間と違って――」
そこまで言って、摩耶ははっと気がついた――自分が何を言おうとしているかに。
かなたはうつむいて、小さなこぶしをぎゅっと握《にぎ》り締《し》め、無言で何かに耐《た》えているようだった。摩耶はそれに気がついて愕然《がくぜん》となった。冷静さが戻《もど》ってくると、激しい後悔《こうかい》の念が押し寄せてきた。たった一人の大切な友達を傷つけてしまった――。
「……ごめん。私……そんなこと言うつもりじゃなかったのに……ごめんなさい」
「……ううん、いいよ」かなたは顔を上げ、無理に笑顔を作った。「摩耶ちゃん、自分をさらけだしてくれたんだもんね」
「かなた……」
「それにさ、当たってるところもあるよ。あたしも確かに自分を隠してる……誰だってそうなんだよね。自分をさらけだすのって、勇気がいるもん。それに気がつかずに余計なこと言っちゃった。そういうの、無理|強《じ》いするのって、よくないよね?」
「え、ええ……」
「いつかさ、勇気ができたら、本当のあたし、見せたげるから……」
そう言うと、かなたはジャーマンドッグの包みをくしゃくしゃに丸め、空《から》っぽになったシェイクのカップに押しこんだ。
「出よ」
「……うん」
店の外に出た二人を事件が待っていた。
「何、あれ?」
「さあ……?」
ゴミが路上に散乱する、お世辞にも美しいとは言えないセンター街。その一角に人だかりができていた。もめごとが起きているらしい。数人の男の怒鳴《どな》り声がする。
「目障《めざわ》りなんだよ、お前らはよ!」
「とっとと自分の国に帰れ!」
「でかい面して歩いてんじゃねえよ! 猫食ってるくせによ!」
かなたは声の方向に駆《か》け出した。「あ、待って……」摩耶も慌《あわ》てて後を追う。
人だかりの合間をくぐり抜けた二人の見たものは、四人の若い男が一人の浅黒い肌《はだ》の外国人を取り囲み、口々に罵声《ばせい》を浴びせながら、蹴《け》り回している姿だった。ドスの利《き》いた声からすると、かたぎではないようだ。見すぼらしい身なりの若い外国人は、いくら蹴られても抵抗せず、頭を抱えてうずくまり、「やめてください」「ごめんなさい」と繰り返すばかりだった。
それを取り巻いている数十人の通行人は、誰《だれ》も手出しをしようとしない。小声でささやきを交わしながら、おびえたような表情で眺《なが》めているだけだった。
ヤクザの一人の放った蹴りが、若者の腹にもろに命中した。若者はひっくり返り、腹を押さえてうめいた。
「やめなさいよ!」
かなたが勢いよく飛び出して行った。腕を広げてヤクザの前に立ちはだかり、若者を守る壁《かべ》になる。小さな体に秘められた大胆《だいたん》な行動力に、摩耶は唖然《あぜん》となった。
「何だあ、このガキ?」ヤクザたちは思わぬ展開に驚《おどろ》いている。
「やめろって言ってんのよ!」
四人の凶暴《きょうぼう》な男たちの視線を、かなたは毅然《きぜん》とした表情ではね返した。「それでもこの街《まち》の人間? こんなまねして恥ずかしくないの?」
「ひっこんでろ! 事情も分からねえくせしやがって!」
「事情なんて関係ないわよ!」かなたは言い返した。「卑怯《ひきょう》者が四人がかりで一人をいじめてるのが許せないだけよ!」
「あんだとォ!?」
侮辱《ぶじょく》された男たちほ、いっせいに表情を歪《ゆが》め、ぬうっとかなたに詰《つ》め寄った。摩耶は息を飲んだ。明らかに喧嘩《けんか》慣れしている四人の屈強な男たちと、まだ幼さの残る小柄な少女の対比は、あまりにもアンバランスだ。
「かなた……」
そんな人たちに関わり合いにならなくても――と言いかけて、摩耶は言葉を飲みこんだ。急に自分が恥ずかしくなったのだ。体を張って弱い者を守ろうとするかなたの姿は、崇高《すうこう》ですらあった。それに比べて私は、人ごみに隠《かく》れて震《ふる》えてるだけ……。
「ははあん、分かったぞ」グループのリーダー格らしい一人が、何か下劣《げれつ》なことを思いついたらしく、唇《くちびる》を歪めて笑った。
「何よ?」
「その野郎をかばう理由がさ」男はかなたに向かって小指を立てた。「おめえ、そいつのコレだな?」
「はあ?」
「最近の子供は進んでるからな。おおかた、夕べも――」
そこから先、その男が喋《しゃべ》ったのは、活字にするのをはばかられる内容だった。ただ、聞いていた摩耶を赤面させ、かなたを一瞬《いっしゅん》で激怒させるのに充分な内容だった、とだけ言っておこう。
「このお!」
かなたはそいつの股間《こかん》を思いきり蹴り上げた。男は顔を真っ赤にしてうずくまる。当然の報《むく》いと言えよう。
「兄貴に何しやがる!」
サングラスをかけた若いヤクザが激昂《げっこう》し、かなたに殴《なぐ》りかかってこようとした――しかし、振り上げられたその拳《こぶし》を、何者かが横からつかんだ。
「何!?」
振り返ると、そこに立っているのは、長身のスポーツマン・タイプの青年だった。かなたの表情が、ばっと明るくなった。
「流《りゅう》くん!」
「へへ、いっぺんこういう時代劇みたいな登場のしかた、やってみたかったんだよな」
流はそう言ってキザっぽく笑った。軽く手を握《にぎ》ってるだけのように見えるのに、拳をつかまれた男は、まるで万力《まんりき》で締《し》めつけられているように動けない。
「て、てめえ……!」サングラスの男は痛みをこらえながら言った。「何でこんな薄《うす》ぎたねえ野郎の味方を……」
「そうかい? 俺《おれ》にはお前らの方が、よっぽど薄ぎたねえ野郎に見えるがな?」
「この!」
別の男が殴りかかってきた。流はサングラスの男の腕を両手でつかむと、バットのように振り回した。振り回された男は突進してきた男と激突し、二人はもつれ合ってアスファルトの上に転がった。
三人目の男が流に飛びかかってきた。パンチが顔面に命中したが、流はまったくこたえているように見えない。反対に、殴りかかってきた男の襟《えり》をつかんで、近くにあった喫茶店の看板に頭から叩《たた》きつけた。バコンという鈍《にぶ》い音がしてアクリル板が割れ、その割れ目に男の首がはさまった。
先に転がっていた二人の男が、うめきながら起き上がってきた。流は右手で一人の腹を殴り、左|肘《ひじ》でもう一人の顎《あご》を打った。それほど力がこもっているように見えなかったのに、二人はまたもひっくり返った。
リーダー格の男は、股間の痛みをこらえながら、懐《ふところ》からごそごそと何かを取り出そうとしていた。しかし、それを構えるよりも早く、かなたの手刀が男の手首に炸裂《さくれつ》した。チーンという澄《す》んだ音を立てて、ジャックナイフが路上に落ちた。
流はナイフを靴《くつ》の爪先《つまさき》で踏《ふ》みつけた。
「まだやるかい?」と流。「今ならまだ、ちょっと恥かいたってだけで済むぜ――それとも、徹底的に恥かいてみたいか?」
リーダー格の男は悔《くや》しそうに周囲を見回した。手下の一人はアクリルの看板に頭を突っこみ、割れた蛍光燈《けいこうとう》で顔を切って血を流していた。看板から首が抜けずに、うんうんうめいている。あとの二人は路上に転がり、鼻《はな》と唇から血を流していた。
野次馬たちも茫然《ぼうぜん》となっている。まるで魔法《まほう》のようだった。四人の屈強な男たちが、ほんの数秒でのされてしまったのだから。
「お……覚えてやがれ!」
敗北を悟《さと》ったヤクザは、カビの生えた捨て台詞《ぜりふ》を残して、未練がましく振り返りながら走り去った。路上に倒れていた二人もよろよろと起き上がり、看板に首を突っこんでいた仲間をどうにか助け出して、三人で肩を組んで逃げてゆく。
「へえ……あんなのでも、いちおう仲間同士はいたわり合ってるものなんだな」流は妙なことに感心した。
「ねえ、だいじょうぶ?」
かなたは倒れしていた外国人青年に駆《か》け寄った。青年はまだ腹を押さえて苦しそうだったが、自力で立ち上がるぐらいの気力はあるようだった。
「だいじょうぶ……だいじょうぶです……ありがとう」
摩耶は拍手した。それぐらいしかできることがなかったからだ。それにつられて、見物人の間からも自然に拍手が起こる。
「いやあ……どうもどうも」
流はとまどい、頭をかいた。妖怪《ようかい》は人間にまぎれてひっそり暮らしているものである。こんなに目立った経験は、あまりない。
「この分なら、病院に行かなくてもよさそうだね」青年の傷の具合を調べて、かなたは安心した。「そんじゃ、あたしらはこれで――元気でね」
「待って!」
立ち去ろうとするかなたを、青年が腕をつかんで引き止めた。
「待って! 助けが……助けが要ります!」
「へ?」
「あなたのような人、探《さが》してました! あなたたちでないとだめ!」
「いや、あの……?」
とまどうかなたに、青年は顔を近づけ、ささやいた。
「あなた、人間ではありませんね[#「人間ではありませんね」に傍点]」
かなたは驚《おどろ》きのあまり硬直《こうちょく》した。その言葉は近くにいた流にも聞こえた。青年は流にも視線を向けた。
「それに、そっちの人も――」
「どうして……?」
「私、分かります。あなたたちの本当の姿、見えます……あなたたちの助けが要ります」
「いったい何のことだ?」流は警戒《けいかい》しながら訊《たず》ねた。
「大変なことです」と青年。「あいつら[#「あいつら」に傍点]が女の人を殺してます。私、見ました。あいつら、人間でない。防げるの、あなたたちだけ」
「……何なんだ、あいつら?」
一人の若者と二人の少女が、助けた外国人青年をつれて道玄坂《どうげんざか》の方へ去ってゆくのを、網野刑事は怪訝《けげん》な顔で見送っていた。
彼は偶然近くに居合わせ、騒動の一部始終を目撃していた。外国人に因縁《いんねん》をつけたヤクザたちを止めるべきか迷っていたところへ、奇妙な少女と若者が現われ、連中を撃退してしまったのだ。
しかし――どうもおかしな関係だ。中学生にしか見えない少女と、その連れらしい高校生らしい少女、それにやたらに喧嘩《けんか》の強い若者……あの三人と外国人青年は、どう見てもアンバランスだ。
そかに、ちらっと聞こえた外国人青年の言葉も気にかかる――「あいつらが女の人を殺しています」
不自然なものには何か秘密があるはずだ、というのが網野の信念だった。
「よし――」
網野は吸いかけのタバコを投げ捨て、四人の後をつけはじめた。
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5 <妖精の目>
BAR <うさぎの穴> ――
道玄坂一丁目の雑居ビルの五階にあるこの店は、渋谷方面を活動|範囲《はんい》としている妖怪たちのたまり場だった。
緊急の召集を受けて、八環《やたまき》・未亜子《みあこ》・大樹《だいき》ら、常連客のほとんどが集まっていた。原宿からは霧香《きりか》も駆《か》けつけている。頻発《ひんぱつ》する誘拐《ゆうかい》事件に関して、ようやく有力な手がかりが手に入ったのだ。
惨劇《さんげき》の唯一《ゆいいつ》の目撃者である外国人青年――ホマムは、たどたどしい日本語で、しかし熱意をこめて、自分の見たものを語った。月夜の代々木公園で踊《おど》っていた黒い男たちのこと、血まみれで苦しんでいた娘のこと、無残な殺され方をしたカーフのこと、自分がまったくの無力であったこと……。
「――なるほど」話を聞き終わった八環は、腕組みをして考えこんだ。「誘拐された娘たちの末路は、まあそんなところだろうとは思っていたが……」
「代々木公園は一週間前に調べたわ」未亜子が言う。「死体はなかったけど、確かに林の中に大量の血の跡《あと》があった――この人の言うことは信じられるわ」
「ちくしょう!」流は歯ぎしりした。「俺《おれ》たちの縄張《なわば》りのど真ん中で、そんなことやってやがったのか!」
「代々木公園がアジトってわけじゃないだろう」と大樹。「それならとっくに僕《ぼく》たちの網《あみ》にかかってるはずだ。それに新宿|御苑《ぎょえん》や青山|霊園《れいえん》でも、同じような儀式≠フ跡らしいものが発見されてる。おそらく連中は決まったアジトは持ってないんだろう。誘拐した場所からいちばん近い場所を使ってるだけさ」
「連中は人払いの結界《けっかい》を張れる」八環はうなった。「殺されたカーフが『そっちに行かない方がいい』と言ったのも、そのせいだ。儀式が行なわれている間、人間は誰《だれ》もその場所に近寄りたがらない……」
「人間だけじゃなく、私たちだって近づけないわ」未亜子がぼやいた。「結界の存在そのものを気づかせないんだもの。まったくたいした能力よ!」
「ああ――おまけに空間のポケットを作り出して、他人の目からまったく見えなくしてしまうことができる。すぐ目の前で儀式が行なわれてても、人間は気づきもしないだろうな――カーフさんのように」
「あの……でも、どうしてホマムさんにだけそれが見えたんですか?」摩耶が素朴《そぼく》な疑問を口にする。
「グラムサイトね」と霧香。
「グラムサイト?」
「そう。 <妖精《ようせい》の目> とでも訳せばいいのかしらね?――ケルト人は月の光の下で遊ぶ魅惑《みわく》的な妖精をグラム≠ニ呼んでいたの。英語のグラマー≠フ語源ね。グラムは気に入った人間に、見えないものを見たり、真実を見通すことのできる、不思議な視力を授けることができた。それがグラムサイトよ。でも、グラムサイトは妖精が授《さず》けるものとは限らないの。何百万人かに一人、グラムサイトを生まれながらに持っている人間もいる……ホマムさんはたぶん、そういう特殊な能力の持ち主なのね」
「はい、子供の頃《ころ》から、時々、人と違うもの見ました」ホマムは故国を懐かしんでいるようだった。「床《ゆか》の下に住んでる小さなもの、夜の空を飛んでる大きなもの、川の中にいるもの……他《ほか》の人には見えなかった。でも、私は見えました」
「単なる霊視《れいし》の能力なら珍しくもないさ」と八環。「しかし、君の能力はとてつもなく強力だ。人払いの結界をあっさり突破できたうえに、我々にさえ見えない連中の姿が見えたんだからな」
「それにしても分からないのは、赤いピアスの意味だわ」霧香は首をかしげた。「ねえ大樹くん、ピアスにまつわる都市伝説って、何かあったかしら?」
「ありますよ、有名なのが」大樹はうなずいた。「自分で耳にピアスの穴を開けようとした女の子の話です」
「ああ、あれね……」
その話は霧香も知っていた。若者たちの間でずいぶん前から広まっている話だ。
その女の子は穴を開ける位置を少し間違えてしまう。すると穴の中から血にまみれた白い糸のようなものが出てくる。実はそれは視神経で、知らずにぶちんと引っこ抜いたとたん、女の子は失明してしまう。彼女は驚《おどろ》いて叫ぶ――「誰、電気消したの!?」と。
「あ、あの……」摩耶《まや》はおずおずと口を出した。「あの話って、本当の話じゃなかったんですか?」
流は露骨《ろこつ》にあきれた顔をした。「あのねえ、摩耶ちゃん。人間の耳たぶに視神経が通ってると思う?」
「でも……テレビで鍼《はり》の先生が言ってましたけど。耳にはツボがあるから、へたに穴を開けると目が見えなくなるって……」
「その先生は実際に見たわけ? 耳に穴開けて失明した女の子を?」
「……いいえ」
「ほらね。テレビで言ってることをまともに信じちゃいけないよ。テレビに出てる人間が賢《かしこ》いとは限らないんだから」
「その調子じゃ、他にもいろいろ信じてんじゃない?」大樹は意地悪く微笑《ほほえ》んだ。「『全身に金粉を塗《ぬ》ると皮膚《ひふ》呼吸ができなくなって死ぬ』とか、『レミングは集団自殺する』とか、『水洗トイレの渦《うず》は南半球では逆回りになる』とか、『しゃっくりはびっくりさせると止まる』とか、『ナメクジは塩をかけると溶けてなくなる』とか……」
摩耶は恥ずかしくなって首をすくめた。みんな信じていた。
「でも、今度の事件との関連はあまりなさそうねえ」と霧香。「ピアスの穴じゃなく、ピアスそのものが問題なんだから」
その時、それまで黙ってグラスを磨《みが》いていた初老のマスターが、のんびりとした口調で話しはじめた。
「大樹くん、忘れてるんじゃないかね? もっと大事な話を……」
「え? ありましたっけ?」
「ほら、あれだよ。 <赤い靴《くつ》> ……」
あっ、と大樹は声をあげた。「そうか! その通りだ! 何で気がつかなかったんだろ? 靴がピアスに変化したんだ!」
「なるほど、伝説の現代風ヴァリエーションってわけだな」八環がうなずく。「それでつじつまが合う……」
聞いていた摩耶には、何のことやら理解できなかった。
「でも、どうしてホマムさんは殺されなかったのかな?」とかなた。「決定的な瞬間《しゅんかん》を見ちゃったわけでしょ?」
「決まってるだろ。彼を苦しめたかったからだよ!」流が吐き捨てるように言う。
未亜子がうなずいた。「ええ――連中は心底から邪悪《じゃあく》な奴《やつ》らよ。人間をただ殺すだけじゃなく、苦しむのを見て愉《たの》しみたいの。だからわざと彼を生かしておいた――」
「はい。私、苦しかった……」ホマムの声は震《ふる》えていた。「若い娘さん、殺されるの見ました。友達、殺されるの見ました。でも、何もできなかった……こわかった……警察《けいさつ》に言えない。誰にも言えない。言っても信じてもらえない……苦しかったけど、悲しかったけど、何もできなかった……」ホマムはきつく握《にぎ》った拳《こぶし》を目に当て、涙をぬぐった。「あいつら、私に言いました。私、卑怯《ひきょう》者だと……」
「そんなことはないよ!」かなたがなぐさめる。「卑怯者じゃないよ。こうして勇気を出して、私たちに打ち明けてくれたじゃない」
「そうそう」と流。
「だいたい、そいつらに刃向かってたら、あっさり殺されてたよ。手を出さなくて正解さ」
「ありがとう……」涙ぐむホマムの顔にわずかに笑《え》みが戻ってきた。「こんな親切な言葉、日本に来て初めて……」
「おい、よせよ」流は苦笑した。「浪花節《なにわぶし》は苦手《にがて》だよ、俺」
「本当です。日本に来てから、ひどいことばかりでした。ヤクザに脅《おど》かされて、安いお金で働かされて……」
「ヤクザって、さっきの連中?」
「いいえ。違います。あの人たち、別のヤクザです。道歩いてたら、急に怒って、殴《なぐ》ってきました。『肩が触《さわ》った』と言って……」
「最近、そういうのが多いんですよ」大樹が口をはさんだ。「上野《うえの》でも、新宿《しんじゅく》でも、池袋《いけぶくろ》でも、外国人が襲《おそ》われる事件が続発してます。相手はヤクザとは限りませんけどね。酔っ払いの集団とか、普通の学生とかが、面白半分に外国人を袋叩《ふくろだた》きにするんです。マスコミはぜんぜん取り上げてませんが――」
「やっぱり、噂《うわさ》の影響《えいきょう》かしら?」と霧香。
「たぶんね。ここ二か月ほどで急増してるみたいですから――これ、危ない傾向ですよ。大きな災害とかがあったら、それをきっかけに、いっきに爆発するかもしれない」
「関東大震災の時のように?」
「ええ」
「いやだねえ……」マスターがしんみりとつぶやいた。「もう二度とあんな時代は見たくないねえ……」
「何かあったんですか、大震災の時?」摩耶は好奇心から訊《たず》ねた。
「学校で習わなかったかね?」
「確か一九二三年……でしたよね? 地震で大勢の人が死んだのは知ってますけど……」
「うむ……」マスターは話すべきかどうか少しためらってから、また口を開いた。「地震の被害もひどかったが、その直後に起きたことはもっとひどかった……」
「お父さん……!」
かなたはなぜか父の話をさえぎろうとした。しかし、八環はかなたの肩に手を置き、思い止まらせた。
「この際だ、摩耶ちゃんも知っておいた方がいい。過去に何があったかをね――」
八環にうながされ、マスターは思い出話を続けた。
「廃墟になった東京にデマが流れたんだ。朝鮮人が井戸に毒《どく》を投げこんでいる。日本人をみな殺しにしようとしてる……ってね。もちろん、根も葉もない話だったんだが、みんなはそれを信じこんでしまった。当時の朝鮮半島は日本に占領されていてね、日本に働きに来ていた朝鮮人がたくさんいたんだ。差別や迫害もひどかったよ。日本人もたぶん心の底では、朝鮮人に対する仕打ちにうしろめたさを感じてたんじゃないかな? だからこそ、『朝鮮人が日本人に復讐《ふくしゅう》する』っていうデマを耳にして、恐怖《きょうふ》にかられたんだと思うよ。おまけにみんな地震のために家族や財産や家を失って、すっかり混乱《こんらん》してたんだ。普段なら信じないような話でも、あっさり信じてしまったのさ。
人々は自警《じけい》団を作って、罪もない朝鮮人たちを狩り立てた。関東一帯で殺された朝鮮人の数は六〇〇〇人とも言われている。朝鮮人だけじゃない。朝鮮人に間違えられて、中国人も何百人も殺されたんだ……。
その頃《ころ》、私は南|葛飾《かつしか》に住んでいた。今の江東《こうとう》区の大島《おおじま》町のあたりだ。その頃は機械工場が建ち並んでいて、大勢の中国人の労働者が石炭運びなんかの力仕事をしていた。家は今みたいに多くなかった。東の方の荒川《あらかわ》沿いには牧草地や蓮池《はすいけ》なんかもあって、のどかな風情《ふぜい》が残っていたもんだよ……。
そんな平和な町が、あの日は地獄《じごく》になった。大正一二年九月三日――大震災の翌々日だ。
何百人もの群衆が、手に手に竹槍《たけやり》や鉄棒や薪割《まきわ》りを持って、中国人労働者の宿舎を襲《おそ》ったんだ。兵隊や警官の姿も混《ま》じっていた。中国人たちは泣き叫びながら表に引きずり出されて、めった打ちにされた。その日、その町だけで、三〇〇人以上殺されたんだ。ボロ雑巾《ぞうきん》みたいになった死体は空き地に運ばれて、山のように積み上げられた。ゴミでも捨てるようにね――死体の山は、後で灯油をかけられて燃《も》やされた……」
「信じられない……」摩耶はひどいショックを受けた。「そんなのちっとも学校で習わなかった……」
「だが、事実なんだよ。ほんの七〇年前に、この東京で起きたことなんだ」
「教科書には載《の》ってないかもしれないな」八環は肩をすくめた。「この国の政治家どもは、自分たちに都合の悪い歴史は子供に教えたくないだろうからな……」
「……ねえ、摩耶ちゃん。私がそれを見ていて、何がいちばん悲しかったか、分かるかい?」
摩耶は首を振った。見当もつかなかった。
「それはね、虐殺《ぎゃくさつ》に加わった人たちが、特別な人たちじゃなかったってことだよ。みんな平凡ないい人たち[#「いい人たち」に傍点]だったんだ。私の親しくしていた人も何人も混ざっていた。きっぷのいい大工の棟梁《とうりょう》や、いつもにこやかな魚屋のおじさんや、貧しいけども陽気な工員や、人情の厚いお巡《まわ》りさんや……普段はみんな、本当にいい人たちばかりだったんだよ。それがあの日だけは、みんな鬼になってしまった……」
マスターは大きなため息をつき、悲しそうに首を振った。
「私は人間たちのあんな姿は二度と見たくないんだ――あんな時代は来て欲しくない……」
「来させないよ[#「来させないよ」に傍点]!」かなたは興奮して、どんとテーブルを叩《たた》いた。「そんな時代、絶対に来させない! 来させてたまるもんですか!」
「その通りね」未亜子もうなずいた。「そのためにはまず、あの連中をどうにかしないと――これ以上、外国人への敵意をかきたてる噂《うわさ》を広めさせるわけにはいかないわ」
彼女はホマムに向き直った。
「ホマムさん、あなた、殺された友達の仇《かたき》を討ちたいって気、ある?」
「あります! もちろん!」ホマムは勢いこんで言った。「私、もう卑怯者《ひきょうもの》はいや! 逃げたくない! 戦いたい! だから、あなたたちのような人、探していました!」
「連中を探すのにあなたの能力が必要なの。協力してくれる?」
「はい! 喜んで!」
「とりあえずは……と」八環は考えをめぐらせた。「パターンで行くと、次に連中が行動を起こすのは、今週の土曜日だ。それまで彼をどっか安全な場所に隠《かく》しておくべきだな。貴重な切札だからな」
「この店は?」とかなた。
「いや、連中に嗅《か》ぎ当てられる危険がある。おそらくは向こうも強力な感知能力を持ってるだろうからな。そうでなければ、こっちの動きをこんなに読まれるはずがない」
「その……彼らにもこの店が見えるんでしょうか?」
摩耶が当然の疑問を発した。この <うさぎの穴> は渋谷の繁華《はんか》街にありながら、不思議な力で隠されているので、無関係な人間には決して発見できないようになっているのだ。この店に入ることができる人間は、どうしてもこの店を必要としている人間だけである。摩耶も初めてこの店を訪れた時、霧香から地図を渡されたにもかかわらず、店の看板を発見するまでずいぶん迷ったのを覚えている。
酒をどこから仕入れているのか、光熱費や所得税がどう処理されているのか、摩耶はいつも不思議だった。
「残念ながら、この店の結界《けっかい》はそれほど強力じゃないんだ」マスターが説明する。「人間の目からは隠せるが、妖怪《ようかい》の目は騙《だま》せない。連中の結界と違ってね」
「この店を敵に知られるのはまずいわねえ」未亜子は考えこんだ。「こっちの出方が監視《かんし》されたら、ますますやりにくくなるわ」
「連中の行動|範囲《はんい》は、新宿区・渋谷区・港区に限られてます」大樹が口をはさむ。「どっか郊外に移したらどうでしょう? 強そうな人に預かってもらうっていうのは?」
「そうね、それが無難だわ」と霧香。「誰《だれ》がいい?」
「井《い》の頭《かしら》池の赤舌《あかじた》は?」とかなた。「あの人なら充分に強いよ。ここらあたりであの人にかなう人、いないもの」
「そうねえ――でも、気難しいわよ。OKしてくれるかしら?」
「まっかせて! あたしが行けばだいじょうぶ。あの人、ロリコンの気があるもん」
かなたはひょいとスツールから飛び降りると、ホマムの腕を取った。
「あたしが連れてくよ。摩耶ちゃんを家に送るついでがあるもの」
「あ、ほんとだ……」
摩耶は時計を見て驚《おどろ》いた。いつの間にか九時を回っている。ホマムの話を聞くのに夢中で、時間が経《た》つのを忘れていたのだ。早く帰らなくてはいけない。
「送って行こうか?」流が声をかける。
「いいよ。対策会議の方、やっといて」
「しかし、連中に襲《おそ》われたら――」
「だーいじょうぶ」かなたは手をひらひらさせた。「ホマムさん、これまで一週間以上も無事だったんだから、今さら狙《ねら》われるわけないって」
「そりゃそうだが……」
「んじゃ、そういうことで。あとはよろしくね」
「……失礼します」
摩耶は出口のところで振り返り、礼儀正しく一礼した。
かなた・摩耶・ホマムの三人は、エレベーターに乗りこみ、夜の街《まち》に降りて行った。
「ああっ、大変!」
三人が <うさぎの穴> を出て行って十数分後、どうやって見えない敵を追い詰めるかを協議していた時、突然、霧香が声をあげた。一同は驚いて彼女の方を見る。
「どうしたの?」と未亜子。
「何てマヌケなの! ものすごく大事なことを見落としてたわ!」
「?」
「さっきのホマムの話よ!」きょとんとしている一同に、霧香は説明した。「連中は彼を解放する時にこう言ったのよ。『これ、約束ね。見たこと、誰にも喋《しゃべ》らないね』……」
「そうか、約束か!」
霧香が言わんとしていることに、八環も気がついた。妖怪《ようかい》は様々な妖術を持っているが、その中には限られた条件が満たされた場合にしか発動しないものがある。相手に対して何かを呼びかけ、相手がそれに返事をした時にのみ発動する、といったものだ。
そうした条件のひとつが約束を破る≠セ。人間と何らかの約束――たいていは「見たことを喋るな」というものだ――を交わし、それが破られた時、妖怪にはそれが感知できる。そして約束を破った者に報復するべくやって来る……。
「ホマムは術をかけられてたのよ! 見たことを喋ったら、ただちに居場所が感知されるように。そうでなきゃ、連中が目撃者をあっさり解放するわけないわ!」
「だとすると……」
「かなたちゃんたちが危ない!」
京王《けいおう》電鉄井の頭線――
「ねえねえ、ホマムさんって、日本語とってもうまいね?」
知り合ってまだ数時間にしかならないのに、かなたたちはすっかりホマムと打ち解けていた。電車の中で話がはずんでいる。
「はい。もう二年、日本にいますから」
「来る前に日本語、勉強したの?」
「日本語学校に少し通いました。でも、日本に来たら、ぜんぜん役に立ちません。嘘《うそ》ばかり教えられた……」
「嘘を?」
「はい。日本では、あいさつは『こんにちわ』だと教えられました」
「?」
「でも、日本で『こんにちわ』と言う人いません。日本のあいさつは『どーも』です」
かなたはけらけらと笑った。摩耶も思わず吹き出す。
「そうだよね。『こんにちわ』なんてあいさつする人、いないよね」
「別れる時もそう。『じゃーね』『それではこれで』『お先に』『失礼します』……誰も絶対に『さようなら』とは言いません」
「うーん、言えてるなあ――でも、日本の学校で教えてる外国語だって、同じようなものなんじゃない? よく知らないけど」
「そうね……」
摩耶はうなずいた。学校で教えている受験英語が、生きた英語とはかけ離れたものだということは、彼女もよく知っていた。それでも学生たちは必死になって、役に立たない英語を覚えなくてはならない。受験でいい成績を取らないと、いい学校に入れないからだ。
学校って何なんだろう、と摩耶は思った。さっき聞かされた関東大震災の話が、まだ頭にこびりついていた。学校は役に立たない知識は教えてくれるけど、大切なことは何ひとつ教えてくれない……。
これまで学校で一〇年間学んだことよりも、かなたたちと知り合って一年の間に学んだことの方が、よっぽど大切だし、人生の役に立つことばかりだった。
(こいつら、どこに行くんだ?)
吊《つ》り皮につかまって揺《ゆ》られながら、網野は疑惑《ぎわく》をふくらませていた。スポーツ新聞を読んでいるふりをしながら、離れたところに座っている二人の少女と一人の外国人青年に、ちらちらと視線を走らせる。三人は何か歓談《かんだん》しているが、会話の内容までは分からない。読唇《どくしん》術を習っておけば、と網野は悔《くや》んだ。
夕方の尾行では、道玄坂一丁目の入り組んだ通りで見失ってしまった。ある角《かど》を曲がったところで、まるで煙のように消え失《う》せてしまったのだ。
しかし数時間後、あきらめきれずにその近くで聴《き》きこみをしていると、京王線の階段を昇ってゆく三人の姿を偶然に目撃したのだ。今度こそ逃がすわけにはいかない! 網野は三人を追いかけ、同じ電車に乗りこんだ。
これからどうすべきか? セオリーからすれば、このまま尾行を続けて、どこに行くのか確認するべきだろう。しかし、夕方に一度まかれた苦い経験があるし、一刻も早く真相を知りたいというあせりもあった。
幸い、例の腕っぷしの強い若者は、いっしょではないようだ。チャンスかもしれない。電車を降りたら、きっかけを見つけて声をかけてみよう……。
やがて電車は井の頭公園駅に到着した。
かなたたちも網野刑事も気づかなかったが、彼らを尾行している別の一団があった。
そいつらは人間の姿を取り、電車の別の車輌《しゃりょう》に乗りこんで、渋谷からずっとつけて来たのだ。井の頭公園駅でかなたたちが降りると、そいつらも少し遅れて改札口を抜けた。
(妙ナ奴《やつ》ガツイテイル……)
尾行を続けながら、彼らは小声で話し合った。網野の存在に気づいたのだ。
(ジャマナ奴ダ……目ザワリダ)
(ドウスル……離レルノヲ待ツカ……?)
(ダメダ。逃ガスワケニイカナイ……)
(アイツラハ公園ニ向カッテル。場所ガイイ。人ガ少ナイ。アソコデ襲ウ……)
(アノ男モ結界ニ引キズリコムノカ……?)
(ソウダ。イッショニ殺ス……)
くすくすという冷酷《れいこく》な笑い声が、夜の闇《やみ》を震《ふる》わせた。
彼らは角を曲がり、人気《ひとけ》のない裏道に入ると、そこで仮の姿を解いた。人の形の風船がしぼむように、すうっと平たくなって、影に溶《と》けこむ。
六つの影は素早く散開し、闇にまぎれて滑《すべ》るように移動した。公園に向かうかなたたちに先回りして、罠《わな》を張るために……。
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6 井の頭公園の死闘
井の頭|恩賜《おんし》公園――
面積三三万八〇〇〇平方メートル。交通量の多い吉祥寺通りによって南北に二分され、南側にはY字形をした井の頭池があった。池は林に囲まれて住宅街から隔《へだ》てられており、ちょっとした別世界を構成している。
街灯の数が少ないので、夜にはちょっと気味の悪い雰囲気《ふんいき》になる。闇《やみ》の中でいちゃつくカップルたちにとっては、その方が好都合なのだが。
「知らなかった。うちのすぐ近くに妖怪《ようかい》が住んでるところがあったなんて……」
摩耶《まや》はしきりに感心していた。彼女の家はこの公園のすぐ北にあるのだ。
「赤舌《あかじた》って言ってね、この池に住んでて、徳川家光の時代からずっと、神田上水《かんだじょうすい》の水源を守ってきたんだって」かなたが解説する。
「でも、こんなちっぽけな池なのに……」
「父さんが言ってたよ。昔はこの公園ももう少し広かったんだって。でも、戦争中に古い杉の樹《き》を一万五〇〇〇本も伐採《ばっさい》しちゃって、狭くなったの」
「……どうしてそんなに樹を伐《き》ったの?」
かなたの表情が暗くなった。「空襲《くうしゅう》で死んだ人たちのお棺《かん》を作るために……」
「あ……」
摩耶は絶句した。一万五〇〇〇本の大木からどれだけの数の棺が作られたのか、計算するのも恐ろしかった。
普段、何気なく歩いている場所にも、過去の悲惨《ひさん》な歴史――教科書に載《の》らない歴史――が隠《かく》されているのだ。
「赤舌はもうちょっと向こうだよ」
Y字形の池の分岐《ぶんき》点のところまで来た時、気分を変えるために、かなたは無理して明るい声を出した。
「池のいちばん奥。弁財天《べんざいてん》様のあたり。いつも池の底で眠ってるんだけど――」
「待って!」
不意にホマムが呼び止めた。二人はびっくりして立ち止まる。
「どしたの?」
「変な……変な感じがします」ホマムは不安げにあたりを見回した。「嫌《いや》な感じ……この前の晩の時のような……」
かなたたちは彼に習って、きょろきょろと周囲に視線を走らせた。公園は闇の中に沈み、完全な静寂《せいじゃく》に包まれている。
「そう言えば……」
「人がいない!?」
摩耶はようやく異変に気がついた。この公園は若者たちのデートスポットなのだ。夏休みともなれば、深夜まで人の姿が絶えることはないはずだ。
それなのに――見渡す限り、池のこちら側にも、対岸の野外ステージの方にも、人影がまったく見えないのだ。道沿いに並んでいるベンチも、どれも空《から》っぽだ。前方にある小さな派出所には、煌々《こうこう》と明かりがついているが、警官《けいかん》の姿はない。
「人払いの結界《けっかい》!?」
かなたは蒼《あお》ざめた。
「来ますよ……」
ホマムの声には絶望的な響《ひび》きがあった。振り返ったかなたは、公園の出口の方で、黒い影がちらっと動くのを見た。
「隠れて! 早く!」
かなたはそう言って、茫然《ぼうぜん》と突っ立っている摩耶とホマムを、近くの樹の背後にある暗闇《くらやみ》に押しこんだ。
「いい! ここを動かないで!」
「どうするの、かなた?」
「連中の狙《ねら》いはホマムさんよ。あたしが注意を引きつける。連中があたしを追って来たら、その間に公園の外に逃げて」
「でも――」
「口答えしない! いいね?」
そう言ってかなたは、気丈《きじょう》にウインクしてみせた。摩耶が引き止める間もなく、くるりと背を向けて駆《か》け出してゆく。
走りながら、その後ろ姿が変貌《へんぼう》した。背が高くなり、肌《はだ》が黒くなって、服装も男物に変化する。ほんの数秒のうちに、縮《ちぢ》れた髪の外国人になっていた。ちらっと振り返ったその顔はホマムそっくりだ。
摩耶は大木の背後で身をすくめ、息を飲んで見守っていた。ホマムに化けたかなたが弁財天の方向に走ってゆくと、ざざざっと音を立てて、黒い影が三つ、マントをひるがえして駆け抜けていった。
摩耶の小さな心臓は恐怖《きょうふ》のあまり破裂《はれつ》しそうだった。かなたのことも心配だが、今は自分の身の安全を確保する方が先決だ。
(かなたならだいじょうぶよ)彼女は懸命《けんめい》に自分を納得《なっとく》させようとしていた。(あの子が簡単《かんたん》に捕《つか》まるはずないわ……)
「こっち!」
摩耶はホマムの手を引いて、隠れ場所から飛び出した。少し戻《もど》ったところに、住宅街に抜ける裏道があったはずだ――
しかし、何歩も行かないうちに、背広を着た若い男が二人の前に立ちはだかった。
「待った!」
網野はポケットから警察《けいさつ》手帳を取り出し、二人に示した。突然の事態に、摩耶は顔から血の気が引くのを覚えた。
「君たちに少し訊《き》きたいことが――」
「後にしてください!」
「そうはいかんな。説明して欲しいんだ。君たちは何者なのか。さっき駆けていった、妙ちきりんな黒マントの連中は何なのか……」
「そんな場合じゃないんです!」摩耶は泣き出したくなった。「逃げないと、あいつらが追いかけてくる……!」
「だから、あいつらはいったい何なんだ?」
「後で説明します! お願い! 行かせて!」
「摩耶さん! 来ました!」
ホマムの恐怖の叫びを耳にして、摩耶は振り返った。
黒いマントに身を包んだ男が二人、不気味なほどに自信たっぷりな足取りで、こっちに歩いてくる。その顔はフードの影になっていてまったく見えない。目だけがルビーのように赤く光っていた。
網野は目を丸くした。「いったい何だ、あいつらは!?」
「早く! 逃げて!」
摩耶は網野を押しのけ、公園の外に向かって駆け出そうとした。
その動作が途中で凍《こお》りついた。網野は振り返った。彼の背後にも、いつの間にか別の一体が忍《しの》び寄っていたのだ。
逃げ道は完全に絶たれた。三人は追い詰《つ》められ、背中を寄せ合った。
三体の黒い影は彼らを包囲すると、マントの下に隠していた円月刀を抜き放った。獲物《えもの》を狙《ねら》う猫《ねこ》のような足取りで、じりじりと近づいてくる。犠牲《ぎせい》者の味わう恐怖の時間を長引かせるために……。
網野刑事は背広を跳《は》ね上げ、脇《わき》に吊《つ》るしていたホルスターから、コルト・ディテクティブ・スペシャルを抜き放った。両手でしっかりグリップを支え、近づいてくる敵の一人に銃口を向ける。
「武器を捨てろ! 捨てないと撃つぞ!」
警察学校で教わった通りの台詞《せりふ》が、反射的に口をついて出た。本当に人間を撃ったことはまだない。これまで何度か、ドスを持ったチンピラや、バットを振り回す往生際の悪い犯人を威嚇《いかく》するのに使っただけである。アルコールや覚醒《かくせい》剤で意識が混乱《こんらん》していないかぎり、たいていの犯人は銃を目にしただけで戦意をなくす。TVドテマの中の刑事と違い、本物の刑事は銃撃戦などめったに経験することはないのだ。
今回は状況が違った。黒い人影は網野の警告など聞こえていないかのように、ひるむ様子を見せない。やむなく、トリガーにはまった暴発防止用の安全ゴムをはずし、威嚇のために空に向けて一発撃った。
パーンという大きな音が夜の公園に響《ひび》き渡る。摩耶はびっくりして耳をふさいだ。黒い人影は一瞬だけ立ち止まったものの、また近づいてきた。じわじわと包囲の輪を縮《ちぢ》めてくる。
状況が不利なのは明白だった。相手は三人、まるで分度器で計ったように、正確に一二〇度ずつ離れた方向から近づいてくる。たとえ最初の一発で正面の奴《やつ》を倒せても、あとの二人に左右から円月刀で斬《き》りかかられたら、よけようがない。おまけにこっちには、足手まといが二人もいるのだ。
少女の小さな肩が背中に当たるのを感じた。心の底に渦巻《うずま》く恐怖に気づかないふりをしながら、網野は必死に策を考えた。民間人を守るのが最優先だ。どうやってこの連中の包囲を破ればいいのか……。
打開策を考えるのに懸命《けんめい》で、そいつらの奇妙な風体《ふうてい》や行動について、疑問に感じている余裕はなかった。
「……僕《ぼく》が注意をひく」
油断なく銃を構え、前方の敵を見すえたまま、網野は背後で震《ふる》えている少女にささやいた。
「僕が飛び出したら、左右に分かれて逃げろ。いいな?」
摩耶はうなずいたが、網野には見えなかった。二人が自分の思惑《おもわく》通りに動いてくれることを祈るしかない。三体の敵は、もう五メートルの距離まで近づいてきている。
今だ!
地面を蹴《け》って、網野は飛び出した。二つの人影の間に、頭から転がりこむ。人影は向き直って折りかかろうとしたが、タイミングが合わなかった。
芝生《しばふ》の上で一回転して起き上がった網野は、膝《ひざ》をついた姿勢で、右側の敵に向かって発砲した。セオリー通りに脚《あし》を狙《ねら》っている余裕はない。殺すつもりで撃った。
二発命中した。人影のまとっているマントのようなものに穴が開くのが、はっきり見えた。
人影は胸を押さえてよろめく。
もう一体が斬りかかってきた。飛びのいてよけながら、そいつの見えない顔面めがけて発砲する。ほとんどゼロ距離なので、はずれるはずがない。フードの奥から液体《えきたい》が飛び散り、人影は獣《けもの》のような悲鳴をあげて、顔を押さえた。
そいつの顔面からほとばしった液体が草を濡《ぬ》らすのを見て、網野は戦慄《せんりつ》した。それは血ではなかった――血がインクのように黒いはずがない!
ほとんど同時に、残った一体が摩耶とホマムめがけて斬《き》りかかっていた。二人がとっさに左右に分かれたので、円月刀は勢い余って地面に突き刺さった。網野の指示を守ったからではなく、死にたくなければよけるしかなかったからだ。
人影は摩耶の方に向き直り、今度は横一文字に斬りつけてきた。摩耶は反射的にポーチを前に突き出し、顔をかばった。雑誌の読者プレゼントで当たったピンクのポーチは、真っ二つに切り裂《さ》かれ、硬貨が飛び散ってばらばらと彼女の顔に当たった。
人影はくすくすと笑いながら、再び円月刀を頭上高く振り上げた。ポーチの残骸《ざんがい》を意味もなく握《にぎ》り締《し》めながら、次はよけられない、と摩耶は思った。今度の一撃で確実に殺される……。
少女の苦境を目にした網野は、駆《か》け寄って助けようとした。この距離で撃つと、少女に当たる危険があったからだ。
しかし、黒い人影が横から飛び出し、彼をブロックした。最初に撃った奴《やつ》だ。二発当たっているはずなのに、動きが鈍《にぶ》ったように見えない。網野は再び発砲した。
まだ動く! 網野は驚愕《きょうがく》のあまり立ちすくんだ。なおも向かってくる敵に対し、残りの全弾を叩《たた》きこんだが、そいつは少しよろめいただけだった。至近距離で何発も撃たれているのに、たいしてダメージを受けていないようだ。
いきなり背後から抱きすくめられた。振り向いた網野が肩越しに見たものは、フードに隠《かく》されて影になった顔だった。フードの奥からは、びちゃびちゃという音を立てて、インクのような液体がまだ流れ出し続けており、憎しみに燃《も》えるルビーのような目が彼を見上げていた。
「死ヌネ……!」
顔面を撃たれたそいつは、苦しげに息をしながら、怒りと嘲《あざけ》りをこめた声で言った。魚|臭《くさ》い息が顔にかかる。
「オ前モ死ヌネ……ジワジワト死ヌネ!」
網野はもがいたが、そいつの力は強かった。まるで万力《まんりき》にはさみこまれたように、身動きが取れない。そいつが網野の胸に回した腕を閉じてゆくにつれて、圧迫された肋骨《ろっこつ》が悲鳴をあげた。
池に向かってよろよろと後ずさりする摩耶に、円月刀を振り上げた人影が肉迫してゆく。彼女を助けようと、側面からホマムが飛びかかった。そいつの胴《どう》に組みついたものの、人間離れした力で、あっさり振りほどかれてしまう。ホマムは近くの樹《き》に叩《たた》きつけられ、気を失った。
「摩耶ちゃん!」
絶望に麻痺《まひ》した摩耶を正気づかせたのは、耳慣《みみな》れたかなたの声だった。はっとして目をやると、池のほとりの遊歩道を、元の姿に戻《もど》ったかなたが駆け戻ってくるのが見えた。
「だめ! 来ちゃだめ!」摩耶は叫んだ。
しかし、その叫びがまだ夜空に消えないうちに、かなたは最後の十数歩の距離をジャンプしていた。その輪郭が空中で流れるように変化する――彗星《すいせい》のような太い尾を持ち、街灯の光を浴びて銀色にきらめく毛皮に覆《おお》われた、犬に似た野獣《やじゅう》に。
摩耶に迫っていた人影に、小さな野獣はうなりをあげて飛びかかった。肩にのしかかり、首筋に後ろから噛《か》みつく。鋭い犬歯がフードを食い破った。普通の人間ならその一撃で死んでいたかもしれない。
そいつは怒りの声をあげた。腕を背中に回して、野獣をもぎ離そうとする。野獣はさっと飛び離れた。
もう一体の人影――最初に網野刑事に撃たれた奴――が駆け寄ってきた。二人がかりで野獣を追い回しはじめる。右に左にジャンプして、円月刀の絶え間ない攻撃をかわしながら、野獣が少女の声で叫ぶ。
「摩耶ちゃん、逃げて!」
しかし、摩耶は凍《こお》りついたように立ちすくんでいた。原始的な自己防衛の本能は、逃げろとささやいていたが、人間としての高貴な部分は、かなたやホマムを置いて逃げることを許さなかった。彼女は矛盾する強烈な衝動《しょうどう》のはざまで、身動きできなくなっていた。
何度目かのジャンプの瞬間《しゅんかん》、野獣の軌跡《きせき》と円月刀の軌跡が空中で交差した。摩耶は小さな悲鳴を聞いた。着地した野獣は、そのまま地面に崩《くず》れ落ちた。
時間が止まったように感じられた。摩耶は悲鳴をあげることすら忘れ、その恐ろしい光景を茫然《ぼうぜん》と見つめていた。恐怖《きょうふ》が限界を超《こ》えたために、かえって感情が麻痺《まひ》してしまった。まるで映画でも見ているように、現実性が感じられなかった。
地面に這《は》いつくばった野獣の腹の下からは、小さな体に不釣り合いなほどの大量の血が、どくどくと流れ出している。懸命《けんめい》にもがいているが、起き上がることができない様子だ。そのガラス玉のような黒い目は、悲しそうに摩耶を見つめ、開いたその口からは、くぐもった小さな声が洩《も》れた。
「ま……や……ちゃん……」
黒い人影は、いつの間にか六体に増えていた。さっきかなたを追いかけていった三体が戻ってきたのだ。網野刑事を押さえつけている奴を除《のぞ》き、他の五体が、倒れた野獣の周囲に集まってきていた。
一人が野獣の首をつかみ、空中高く持ち上げた。長く太い尾を伝って、血がだらだらと流れ落ちている。
「やめて……」
摩耶は茫然とつぶやいた。しかし、誰《だれ》も聞いてはいなかった。すでに気を失っているらしく、ぐったりとなった野獣を、黒い人影は乱暴に振り回している。くすくすという下品な笑い声が聞こえた。
「やめて……!」
誰も摩耶の方を見ようとはしない。黒い人影たちは、円陣を組んでしゃがみこみ、何か邪悪《じゃあく》な相談をしている様子だ。
彼女によく見えるように、一体が位置を変えたので、彼らが何をしようとしているのかが分かった。傷ついた野獣の頭を、大きな平たい石の上に載《の》せ、位置を定めている。その隣にあった同じぐらいの大きさの石を、一体がおもむろに持ち上げ、振りかざした――彼らの意図に気づいた時、摩耶の感情の高ぶりは頂点に達した。
「やめてええええっ[#「やめてええええっ」に傍点]!!」
摩耶は夜空に向かって絶叫した。圧力を加え続けられたガラス容器が砕けるように、耐《た》えに耐えぬいていた何かが、彼女の中ではじけた。
網野は見た。少女の悲鳴と同時に、水銀灯を背景に立った彼女の影が、生命《いのち》を持ったようにするすると伸《の》びたのを――次の瞬間、シャチが水面に躍《おど》り上がるように、その影を割って、黒い巨大《きょだい》なものが出現した。
自分が目にしているものを、網野は信じられなかった。少女を守る黒い壁《かべ》のように、すっくと仁王《におう》立ちになったそれは、悪夢の中でしか見たことのない怪物《かいぶつ》だった。黒い人影たちも、その突然の出現に驚《おどろ》き、凍りついている。
そいつは裸《はだか》で、たくましい全身はレザーのような光沢のある黒い表皮に覆《おお》われていた。身長は二メートルはあるだろうか。プロポーションは人間に近いが、爬虫類《はちゅうるい》のような長い尾があり、巨大なコウモリの翼《つばさ》が背中からヨットの帆《ほ》のように張り出している。頭には鬼のような角が生えており、顔は目も鼻《はな》もないのっべらぼうで、耳まで裂《さ》けた真っ赤な口があるだけだった。
もちろん、それが「夢魔《むま》」であることを、網野が知るはずもなかった。
「やめろって言ってんだよ! このくそったれどもが!」
夢魔は怒鳴った。その雷鳴のような声に、黒い人影たちは、ライオンの前の鼠《ねずみ》のように震《ふる》え上がった。
「コ……殺セ!」
一体が狼狽《ろうばい》して叫んだ。彼らはさっと散開し、円月刀を構えて、新しく出現した敵を半円状に包囲した。
「……やるってのかよ」
夢魔は口の端を歪《ゆが》めい残忍《ざんにん》な笑《え》みを浮かべた。
一体が奇声を発して折りかかった。最初に摩耶を殺そうとした奴《やつ》だ。夢魔はよけようとせず、左腕の肘《ひじ》で攻撃を受け止める。
網野はまたも信じられない光景を見た。普通の生物なら、円月刀の一撃で腕を切断されるか、少なくとも深い傷を負うはずだ。しかし、怪物の腕は鋼鉄でできているかのように、円月刀を止めたのだ。
怪物の背後にいる少女の口から、苦痛の声が洩《も》れた。見ると、左腕を押さえて顔をしかめている――怪物が攻撃を受けたのと同じ箇所だ。
人影はうろたえて飛びすさろうとした。だが、一瞬早く、夢魔の黒い右手が伸びた。円月刀を持った腕をがっしり握《にぎ》り、すさまじい力で引きずり戻《もど》す。人影は悲鳴をあげ、脚《あし》をじたばたさせて逃れようとしたが、夢魔の力の方がはるかにまさっていた。まるで、だだをこねる子供のようだ。
網野は少女の表情の変化に気づいた。苦痛に眉《まゆ》をしかめながらも、口許《くちもと》は笑っている[#「笑っている」に傍点]のだ。まるで仮面が剥《は》がれ落ちたかのように、十数秒前のおびえた少女とは、表情がまるで違っている。
ぞっとするような残忍な笑み――顔のない怪物の浮かべている笑みと同じだった。
「おもしれえじゃねえか……」
顔のない怪物がそうつぶやいた時、網野は確かに、少女の唇《くちびる》がまったく同じように動いたのを見た。
摩耶は何かを掲《かか》げるかのように、ゆっくりと両手を天に伸ばした。夢魔もまた、もがき続ける黒い人影をおもむろに抱き上げ、高く持ち上げてゆく。その動きは正確に摩耶の動きをトレースしていた。
「くたばりやがれえ!」
夢魔の下品な声と摩耶の美しい声が、正確に唱和する。摩耶が腕を振り下ろすと、夢魔は人影を地面に叩《たた》きつけた。
べちゃっ。
不気味な音とともに、黒い粘液《ねんえき》が飛び散った。怪力による一撃で、そいつは水の詰《つ》まった風船のように破裂《はれつ》し、ボロ布と粘液の寄せ集めと化した。
夢魔はのっそりと上体を起こした。その全身は粘液を浴び、いっそう黒く光っていた。爪《つめ》には汚《よご》れた布の切れ端が海草のようにひっかかっている。
網野は束縛《そくばく》が解かれたのを感じた。黒い人影たちは、奇声をあげ、いっせいに逃げ出しはじめている。
「逃がすかあ!」夢魔と摩耶が同時に叫ぶ。
夢魔は黒い翼《つばさ》をひと振りして、ふわりと浮き上がった。一直線に突進し、逃げてゆく人影のひとつに背後から体当たりして、草の上にひきずり倒す。鋭いかぎ爪が何度かひらめき、そいつをずたずたに引き裂いた。
まだ生き残っている四体は、地面に吸いこまれるように姿を消した。体を影に変じたのだ。黒い水たまりのような影が、アメーバのようにうごめきながら地表を滑《すべ》り、樹々の影にまぎれて逃げようとする。
しかし、夢魔はそれを見逃さなかった。ジャンプして影のひとつに追いつき、踏《ふ》みつける。夢魔もまた影と同化する能力があり、影に変じた敵に影響《えいきょう》を及ぼすことができることを、彼らは知らなかったのだ。
夢魔は地面に拳《こぶし》を叩きつけた。ずぶり。腕か肘のあたりまて影にめりこむ。
おもむろに腕を引き抜くと、首筋をつかまれてもがき苦しむ黒い妖怪《ようかい》が、影の中から引きずり出されてきた。
「あーはっはっはっはあっ!」
夢魔は豪快《ごうかい》に笑いながら、そいつの右腕をひきちぎった。悲鳴とともに、黒い液体が噴水《ふんすい》のように噴出する。続いて左腕を。その次には脚を……。
瞬時《しゅんじ》に燃《も》え上がった激情は、しぼむのも早い。すべてを飲みこむ強烈な怒りと憎悪《ぞうお》が、潮が引くようにおさまってゆくにつれ、心を満たしていた赤い霧《きり》が晴れ、正常な判断力が少しずつ戻ってきた。摩耶はようやく自分が何を見ているのかに――自分が何をやっているのかに気づいた。
下品な笑い声をあげながら、バナナを房《ふさ》からもぐように、圧倒的な力で敵の手足をひきちぎっている夢魔――その残酷《ざんこく》な行動を、なかは愉悦《ゆえつ》を感じながら眺《なが》めている自分に気づいた時、摩耶は戦慄《せんりつ》と動揺《どうよう》を覚えた。
夢魔は彼女の分身であり、彼女の意識下の願望を叶《かな》えるために出現する。その行動は彼女の殺戮《さつりく》本能の具現に他《ほか》ならない。
「やめて!」
摩耶は叫んだ。しかし、夢魔は子供じみた残虐《ざんぎゃく》行為をやめようとはしない。すでに相手が息絶えているというのに、手足を細かくばらばらにする作業に熱中している。もうすでに原形をとどめていない。
「やめて! もういいのよ!」
摩耶はもう一度叫んだ。夢魔はようやく手を止めた。振り返って、目も鼻もない顔で、不思議そうに摩耶を見る。
「お願い……もうやめて……お願い」
摩耶の目から涙があふれ、震《ふる》えながら頬《ほお》を伝い落ちた。
夢魔の黒いシルエットが薄《うす》れ、カーテンが風にはためくように、大きくゆらいだ。次の瞬間、闇《やみ》の中に吸いこまれるように、すうっと姿が消えた。
後に残ったのは、三つの黒いしみ――殺戮行為を物語る、汚《きたな》らしい布と粘液の混合物だけだった。
一部始終を茫然《ぼうぜん》と眺めていた網野は、緊張の糸が切れた少女が倒れるのを見て、慌《あわ》てて駆け寄った。
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7 いじん
生き残った三体の影たちは必死だった。突然現われた恐ろしい敵の追跡をかわすため、公園の外に逃げ出そうとしていた。
しかし、公園の東出口まで来た時、彼らはぴたりと動きを止めた。
そこに別の敵が待ちかまえていた。水鍛灯の光の下に立つ、人間の姿をした三体のもの――しかし、それが人間ではないことを、彼らはその鋭敏《えいびん》な感覚で感じ取った。
「ようやく見つけたわよ、いじん[#「いじん」に傍点]」
地面にうごめく影を見下ろし、霧香は冷たい口調で言った。
「姿を見せなさい」
あらゆるものの真実の姿をあばく霧香の力に、逆らえる者はいない。彼女が指差すと、影たちはぶるぶるっと震《ふる》え、次々に地面から飛び出してきた。身を寄せ合い、赤い目で恨《うら》みがましく霧香たちをにらむ。
「ふん、あい変わらず、隠《かく》れる能力だけが取り柄か」八環がせせら笑う。「何十年ぶりかで現われたにしちゃあ、たいして進歩していないな」
「摩耶ちゃんたちをどうした!?」流が激しく詰《つ》め寄る。「こととしだいによっちゃあ……あっ、ちょっと待て!」
流の言葉を最後まで聞かずに、黒い人影は逃げ出していた。それまでと反対方向――公園の奥へと。
「流くん!」霧香が呼びかける。
「分かってますって!」
流は親指を立てると、逃げ去る人影を追って走り出した。
三体の人影は、再び夢魔《むま》と出会うのを避《さ》けて、井の頭池の北側の林の中を走っていた。そのまま公園を突っ切って、北側の入口から住宅街へと出るつもりだった。
しかし、野外音楽堂の前を横切ろうとした時、異変が起きた。
池の水が大きく盛り上がったかと思うと、滝《たき》のように水をしたたらせながら、巨大《きょだい》な妖怪《ようかい》が顔を出したのだ。直径二メートルはある頭部は、やや横長で、熊《くま》のような黒い毛に覆《おお》われているが、どこか人間味のあるユーモラスな表情をしている。口は人間を一度に何人も飲みこめる大きさで、ギザギザの歯が生えており、布団《ふとん》数枚分の大きさがある赤い舌をだらりと垂らしていた。頭部に比べ、肩から下は不釣《ふつ》り合いに小さかったが、それでも水面下に隠れている部分は人間の身長の数倍はあると思われた。
井の頭公園の主《ぬし》、赤舌《あかじた》だった。
「……やえやえ、ゆっくえとねとやあへん」
赤舌はそうぼやきながら、大きな目でぎょろりと侵入者たちをにらみつけた。舌がじゃまなので口調は不明瞭で、のんびりとしていたが、ひどく不機嫌《ふきげん》なのは明白だった。
「おまえあ、わせのなあばえでさあげおこすたあ、ええどこうざなあ?」
そう言うと、赤舌は大きな恐ろしい口を開いた。黒い人影たちは震え上がり、音楽堂のステージを横切って逃げようとした。だが、一瞬《いっしゅん》早く、赤舌の口から吐《は》き出された熱風が、真夜中の陽炎《かげろう》となって彼らを襲《おそ》った。
野外ステージは高熱に包まれ、ペンキがばりばりとめくれ上がり、剥《は》がれ落ちた。数百度の熱風を全身に浴び、三体の影はすさまじい悲鳴をあげ、苦痛に身もだえした。まるでステージの上で異国のダンスを踊《おど》っているようだった。街灯の光が屈折して激しくゆらめき、まるで水底の光景のようだった。
ほんの数秒で、彼らは縮《ちぢ》んでしまい、乾燥《かんそう》した黒い炭の柱と化した。ステージの周辺でも、赤舌の息が当たったところでは、草の葉がちりちりに縮んで枯《か》れていた。
「ちいっ!」
追いついてきた流は、おいしい見せ場を取られ、舌打ちした。
「赤吉の爺《じい》さん、困るよ。こいつらは生《い》け捕《ど》りにして訊《き》きたいことがあったんだぜ!」
流はやけになって、黒い柱のひとつを蹴飛《けと》ばした。完全に炭化した妖怪の死体は、倒れた拍子にぼろっと崩れて、細かい炭の粒子《りゅうし》になった。
後片付けで悩む必要はない。妖怪の死体は自然に消滅するものだからだ。もともと妖怪というのはこの世界の法則を無視した存在であり、それ自身の生命力によって、かりそめの形を与えられているにすぎないのだ。妖怪の肉体の特異な分子構造は、その死と同時に、この世の法則に支配されるようになり、急速に分解をはじめる。この妖怪たちの死体も、朝までには完全に炭の粒子になり、消えてなくなってしまうだろう。
「えやあ、るうのわかぞうかえ。こえつあすまん」
赤舌は猫《ねこ》のような手で、ぼりぼりと頭をかいた。
「象《ぞう》……か?」
気絶した摩耶を抱きかかえ、池の対岸からその光景を眺《なが》めながら、網野は茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。
「熊《くま》にしちゃあ大きいよな」
もちろんそれが象や熊などでないことは明白だった。心の底では自分でも、マヌケな台詞《せりふ》だ、と思っている。
だが、自分が目にしているものを、何とかして自分の世界観に合わせたかったのだ。何かの見間違いか、夢か、さもなければドッキリカメラだと思いこみたいところだ。
「熊はないだろ。いくら動物園が近いからって」背後で男の声がした。「そんなことが聞こえたら、赤舌が気を悪くするぜ」
網野は驚《おどろ》いて振り返った。鋭《するど》い目つきをした中年の男が、いつの間にかすぐ後ろに立っている。もう一人、三〇代くらいに見える女がいて、傷ついた野獣《やじゅう》のそばにしゃがみこんで応急手当てをしていた。
「その子を返してくれ。家に送って行く」
「あ……あんたらは何者だ?」
網野は震える声で訊ねた。八環はにんまりと笑った。
「知りたいか、刑事さん?」
三〇分後――
人払いの結界《けっかい》が消えた公園内には、またちらほらと人が見受けられるようになった。公園を横切って家路を急ぐサラリーマンの姿もあるが、大半はカップルだ。ベンチに座って楽しげにいちゃついている姿も、あちこちで見られる。
そんな中、深刻そうな顔をした男が二人、池のほとりに突っ立っている姿は、あまり絵になるものではなかった。
「信じられん……」網野刑事はかぶりを振った。長い眠りから醒《さ》めたばかりのように、うつろな目をしている。「信じられん……」
「だが、事実だ」
八環はきっぱりと言った。これ以上面倒なことになっては困ると判断し、網野にすべてを話したのだ。
「あんたがこの事件に首を突っ込んでることは、何日も前から分かっていた。俺《おれ》たちの仲間が嗅《か》ぎ回っている先に、必ずあんたがいたからな。だからいずれは真実に気がつくかもしれないとは思っていた――こんな形だとは予想もしなかったが」
「しかし……」
「事実だと思いたくなければ、そう思えばいいさ。実際、忘れてしまう方が幸せだ。使い古された言葉だが、世の中には知らない方が幸福なこともあるんだ」
「……あんなことが忘れられるもんか」
「夢だったと思えばいい――」
「そんな……」
網野は助けを求める心境で、周囲を見回した。だが、そこにあるのは、どこの都市にもある日常的な夜の公園の風景だった。視界の中のどこにも、あんな突拍子もない事件が起こったことを示す痕跡《こんせき》はない。
あれからすぐ、摩耶は意識を取り戻《もど》した。かなたの安否を心配してひどく興奮《こうふん》しているのを、霧香たちがなだめすかして、家に帰らせた。
かなたは重傷だったが、生命は助かりそうだった。流と霧香がフォルクスワーゲンに乗せて、安全な場所に運び去った。
ホマムは気を失っていたが、軽傷だった。彼は当初の予定通り、赤舌に預かってもらうことにした。他人との接触《せっしょく》を嫌《きら》う赤舌は、井の頭池の底に特殊な空間を作って棲《す》んでおり、大半の時間を眠って暮らしている。そこはいわゆる隠《かく》れ里≠フ一種で、その中にいるものは外界から探知されない。これまで慎重な行動を重ねてきた黒い妖怪《ようかい》たちが、不用意にも井の頭公園で襲撃《しゅうげき》を仕掛けたのも、池の底の赤舌の存在に気づかなかったからだ。
殺された黒い妖怪たちの残骸《ざんがい》は、すでにかなり風化が進行していた。地面に飛び散った大量の黒い粘液《ねんえき》は、急速にかすれていっており、布の切れ端も糸屑《いとくず》に分解して、少しずつ夜風に吹き散らされてゆく。時おり、地面に散らばった黒っぽいゴミに気がついた通行人が、気味悪そうに避《さ》けて通るが、わざわざ立ち止まって調べようとする者はいない。
よく観察して見れば、その黒いしみのなかに、他より少し分解の遅い部分があるのが分かる。ボロボロに腐食《ふしょく》した円月刀である。その刀は金属でできているのではなく、妖怪の体の一部であり、この世のものではない分子で構成されているのだ。妖怪が死ねば、持っていた刀もいっしょに消える。
八環が言うように、すべて夢だったと思えば、そう思いこむこともできたかもしれない。しかし、「真実」を重視する網野の性格は、そんな現実|逃避《とうひ》を許さなかった。
「違う! あれは夢じゃない!」網野は激しくかぶりを振った。「あれは……あれは確かに現実に起きたんだ!」
「だったら何が信じられないんだ?」
「あんたの話がだ。妖怪だって? この二〇世紀も終わろうかという時代にか? からかうのはよしてくれ」
「ほう?」八環は微笑した。「だったら、俺たちの正体が何だったら、信じられるっていうんだ? 二〇世紀の終わりにふさわしいものってのは、いったい何だ?」
「そう、たとえば……」網野は少し口ごもった。「……宇宙人だ」
八環は声をあげて笑った。網野は顔が火照るのを感じた。
「やれやれ……あんたら人間は、何百年|経《た》っても進歩しないな。妖怪は不合理だが、宇宙人は合理的か?」
網野は憤然《ふんぜん》として言った。「少なくとも妖怪なんかより科学的だぞ」
「ほう? 慣性を無視したUFOのあの動きが、物理学で説明がつくっていうのか? 空気力学を知っている者が造った飛行物体なら、当然、飛行機型やロケット型になるはずだろう? 円盤《えんばん》型にしなきゃいけない科学的合理性がどこにあるっていうんだ?」
「それは……」
網野は返答に詰《つ》まった。妖怪に、「科学的合理性」を追及されるとは、思いもよらなかった。
「分かっただろう? あんたの言う『科学的』なんてものは、『科学っぽく見える』ってだけなんだ。ちっとも科学的なんかじゃない。まともな科学知識のある人間なら、TVのスペシャル番組に出てくる宇宙人≠ェ本物の地球外知的生命体だなんて信じやしないさ。だいたい、進歩した星から来た知的生命の行動が、何であんなに支離滅裂《しりめつれつ》なんだ?」
「……宇宙人なんかいないって言うのか?」
「とんでもない。宇宙人はいる[#「宇宙人はいる」に傍点]。厳密に言えは宇宙人≠ニいう名の妖怪《ようかい》がな」
網野は目を丸くした。「妖怪だって?」
「そう。最近じゃグレイ≠ニかイーバ≠ニか呼ばれてるな。人間たちが宇宙に対して抱いている夢や恐れが実体化して、ああした妖怪になって現われるんだ」
「……冗談だろ?」
「いや、マジな話だ。興味があるなら、本屋に並んでるその手の本を何冊か読んでみるといい。宇宙人とのコンタクト事件が、昔からある妖精や妖怪の目撃談と共通点が多いことに、すぐ気がつくはずだ」
「……あんたらの知り合いなのか?」
八環はかぶりを振った。「連中は俺たちとめったに接触《せっしょく》しない。手の届《とど》かない成層圏に棲《す》んでるし、たかだか四〇年前に現われたばかりの新参者だという理由もあるが、本質的に俺たちと性格が合わないんだ。
もっとも、昔はそうじゃなかった。初めて現われた頃《ころ》は友好的な連中だったさ。姿もたいてい人間そっくりで、天使みたいに美しかった。ちょくちょく人間を誘《さそ》って円盤に同乗させては、デタラメな宇宙哲学≠ネるものを教えたり、大異変が来るとかホラを吹いて、純真な人間をからかったり……まあ、その程度の罪のない悪ふざけしかしなかった。のんびりした時代だったし、宇宙には夢があったからな。
だが、アポロ計画が終わって、人類が宇宙への夢をなくすにつれて、連中の姿はどんどん醜《みにく》くなり、行動も陰湿《いんしつ》になっていった。人間を誘拐《ゆうかい》して生体実験をしたり、家畜を虐殺《ぎゃくさつ》したり、黒服の男に姿を変えて目撃者を脅迫《きょうはく》したり……」
「……人間が宇宙人を創《つく》り出したっていうのか?」
「宇宙人だけじゃない。すべての妖怪がそうだ」
「あんたは何なんだ? 狐《きつね》か? 河童《かっぱ》か?」
ランクの低い妖怪と間違えられ、八環は少しむっとした。「鴉天狗《からすてんぐ》だ」
「はあ……」
笑っていいものかどうか、網野には分からなかった。
「じゃあ、あの女の子は? 彼女も妖怪か?」
「摩耶ちゃんか? 彼女は普通の人間だ。夢魔《むま》を操ることができるだけだ」
それだけで充分に普通の人間ではない、と網野は思う。
「信じられない――そんなことが現実であるわけがない」
「あんたらが現実≠ニ呼ぶものはな、刑事さん、実際はそんなに確固としたものじゃないんだ。現実≠ニ夢≠フ境界なんて曖昧《あいまい》なもんだ。夢の圧力がちょっと高まれば、その境界は容易に破れ、現実世界に悪夢がなだれこんでくる……俺たちは言うならば、あんたらの悪夢の産物ってわけだな」
信じたくはなかった――しかし、一部始終を見てしまった以上、八環の説明を受け入れるしかなかった。網野はしぶしぶ、自分の合理的な世界観を修正し、妖怪の存在を認めた。まさにコペルニクス的転回だ。衝撃《しょうげき》が大きすぎて、その本当の意味を理解するには時間がかかりそうだった。
「ということはつまり、今度の件は妖怪同士の抗争なんだな?」
「抗争だなんて、言葉が悪いな。暴力団みたいに聞こえるじゃないか」
「すまん――しかし、そうだろ? あんたら日本の妖怪が、外国から来た妖怪と戦ってるんだろ?」
「外国から来た?」八環はぴくりと眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。「何でそう思うんだ?」
「だって……そうじゃないか。あいつらはどう見ても外国生まれだ。あの変な格好といい、へたな日本語といい……」
「違うな」八環は首を振った。「連中は純粋にこの日本で生まれた妖怪だ」
「日本で……?」
「奴《やつ》らの名前はいじん[#「いじん」に傍点]だ」
「いじん……?」
「『赤い靴《くつ》』の童謡は知ってるだろう? いじんさんに連れられて行っちゃった……あのいじん≠セ」
「でも……それは外国人のことだろ?」
「そうじゃない。日本人の外国人に対する不安と無理解と偏見《へんけん》が生み出した存在――ありえるはずのない架空の外国人だ[#「ありえるはずのない架空の外国人だ」に傍点]。
連中が初めて現われたのは、一〇〇年以上前のことだ。開国によって、外国人がどっと日本に流れこんできて、それまで外国人と接触のなかった日本人の間に、様々なデマが乱れ飛んだ。異人には足の指がないとか、処女の生血を飲むとか……。
やがて、いじんの定番とも言えるイメージが完成された。マントに身を隠《かく》して夜の闇《やみ》を徘徊《はいかい》し、子供や若い娘をさらってゆく。さらわれた娘は外国に売り飛ばされたり、手足を切り取られたり、殺されて生血をすすられる――そうしたイメージが確固なものになった時、彼らは出現した」
「……若い娘をさらいにか?」
「そうだ。最も頻繁《ひんぱん》に活動していたのは、明治の後半から昭和初期にかけてだ。標的になったのは赤い靴を履《は》いていた女の子だった。赤は奴らの好きな色なんだ。野口雨情はその噂《うわさ》をヒントに、『赤い靴』の歌を作詞した……もっとも、最近じゃ、連れて行かれるのは赤い靴じゃなく、赤いピアスをした女の子だがな」
「……証拠《しょうこ》はあるのか? そんな事件が本当にあったという記録は?」
「いかにも刑事らしい言いぐさだな」八環は笑った。「もちろん、連中が警察《けいさつ》に逮捕《たいほ》されたなんて記録はないさ。人間に奴らを捕まえることなんてできっこない――しかし、昔の資料を当たってみれば、たとえば昭和四年だけでも、日本全国で四三件五二人の誘拐《ゆうかい》事件があって、そのほとんどが未解決だってことが分かる。その何割かは、確実に奴らのしわざだ。興味があるなら、民俗学関係の資料を調べてみてもいいだろう。あの当時、子取り≠ニか人さらい≠フフォークロアがどれだけ広範囲に流布《るふ》していたか、分かるだろう。警察もその存在を真剣に信じていた。さらわれた子供はサーカスに売られ、酢《す》を飲まされて体を柔らかくされて、芸をしこまれると思われていた……」
「そんなのは架空の話だ――第一、時代が違う」
「いいや、違わない。どんなに科学が進歩しても、世の中が変わっても、人間の本質には何の変わりもない。いつまで経《た》っても迷信深く、視野の狭い生きものだ。自分たちと異なるものを恐れ、避《さ》けようとする。真実の姿を見ようとはせず、自分たちが勝手にでっちあげた不気味なイメージにおびえる……」
「じゃあ……あいつらは日本人の恐れが生み出したっていうのか?」
「ああ。今の日本の状況は戦前によく似ている。外国人労働者が大量に流れこんできて、それを排斥《はいせき》しようとする有形無形の圧力が高まっている。いじんがまた現われるのは、必然だったんだ。日本だけの話じゃない。アメリカ、フランス、ドイツ……いじんは世界各地にいる。異民族が大量に流入している場所にならどこでも、いじんは生まれる。最近はドイツの方にもよく出没してるって話だ」
「……どうすればいい?」
「何?」
「どうすればいいんだ、僕たちは!?」
網野の声は興奮《こうふん》してうわずっていた。通りかかったカップルが、不思議そうにちらっと視線を向けたが、そのまま通り過ぎた。
「教えてくれ。僕たち人間は、いったい何をすればいいんだ?」
「何もしなくていい」
「そんな……」
「見ただろう? 連中は人間がかなうような相手じゃない」
「しかし――」
「俺たちが片をつける。前の時もそうした。今度もそうする」
そう言うと、八環は背を向け、歩み去ろうとした。
「ちょ、ちょっと待てよ、おい!」網野は慌《あわ》てて呼び止めた。「話すだけ話して行っちまうのか? そりゃないだろう! 僕《ぼく》にも何かできることがあるはずだ!」
「何もない」八環はそっけなく言った。「じゃまになるだけだ」
「教えてもらったって何もできないなら、何の意味もないじゃないか。だったら何で僕にそんなことを教えたんだ?」
八環は立ち止まり、広い肩をひょいとすくめて、ため息をついた。
「ぼやき……かな」
「ぼやき?」
「ああ、たまには俺たちも、誰《だれ》かにぼやきたくなることがあるのさ」
そう言って、八環はまた歩きはじめた。その言葉の意味を、網野は考えあぐねていた。
「おい、空飛んで行かないのか?」
網野が声をかけると、八環は振り返りもせず、手をひらひらさせて答えた。
「電車の方がいい――疲れなくて済む」
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8 摩耶《まや》の決意
渋谷区|神泉《しんせん》町――
現代的なしゃれた白いマンションと道ひとつ隔《へだ》てて、古い渋谷のたたずまいを残す黒板張りの家が建っている。築後三〇年は経《た》っているだろう。次々と改築してゆく周囲の家との違和感は深まるはかりで、さながら時代に忘れられた|墓標《ぼひょう》のようだった。古ぼけた表札に <井神> という字がかろうじて読める。
午前九時半――摩耶《まや》は複雑な心境で、その家の玄関の前に立った。
昨夜は霧香たちになだめられて家に帰ったものの、ひどく心が高ぶって、ほとんど眠れなかった。黒い妖怪《ようかい》たちに襲《おそ》われて殺されかけたこと、かなたが重傷を負ったこと、自分の心の奥に眠る殺戮《さつりく》衝動のすさまじさを見せつけられたこと……ひと晩の間に、あまりに多くのことが起こりすぎた。
今朝、短い眠りから目覚めた摩耶は、電話をかけてかなたの容体を確かめた。そして彼女の意識が回復したことを知ると、朝食もそこそこに家を飛び出し、電車に乗ってここにやって来たのだ。
この家を訪れるのは初めてではない。以前にかなたに招かれ、遊びに来たことがある。しかし、今の心境は、あの時のうきうきした気分とはかけ離れていた。
チャイムを押すのがためらわれた。かなたの容体を一刻も早く知りたいという思いと裏腹に、心のどこかで彼女と会うのを恐れる気持ちがあった。
だが、決断をいつまでも先送りにするわけにいかないことも、よく分かっていた。ここで帰ることは簡単《かんたん》だが、そうなったらもう二度とかなたに顔を合わせる勇気がなくなってしまうような気がした。かなたに会うのは今しかないのだ。
摩耶は思いきってチャイムを押した。
がらがらとガラス戸を開けて顔を出したのは、 <うさぎの穴> のマスター――かなたの父だった。
「……ああ、摩耶ちゃんかい」
ひと晩中、娘の枕元《まくらもと》につきっきりだったのだろう。顔にはさすがに憔悴《しょうすい》の色が浮かんでいる。
摩耶はぺこりと頭を下げた。「朝早くすみません。かなたは……?」
「だいぶ良くなってるよ。意識もはっきりしてる。さっき、少しだがおかゆを食べた」
「そうですか……」摩耶はほっと胸を撫《な》で下ろした。
「なあに、心配はいらん。私らはあんたたちと違って、あのぐらいの怪我《けが》で死んだりはしないんだよ。まあ、腹の傷がすっかりふさがるまで、何週間か寝てなくちゃならないだろうが……」
「会わせていただけます?」
「それが……」マスターは口ごもった。
「何か?」
「かなたは摩耶ちゃんに会いたくないと言ってるんだ。電話でも話したと思うが、傷が良くなるまで、しばらくは力≠ェ使えそうにないからね」
「会わせてください」
「今はだめだ。元気になってからにしてくれ。いいね?」
そう言って、マスターは戸を閉めようとした。だが、摩耶はすかさず戸に手をかけて押しとどめた。
「だめです」摩耶はきっぱりと言った。「後じゃだめなんです。どうしても、今、会いたいんです」
マスターを見つめる摩耶の目は真剣だった。汚《けが》れのない真摯《しんし》な思いと、何者にもさまたげることのできない固い決意がこもっていた。マスターはため息をつき、折れた。
「分かった――入りなさい。かなたは奥の間で寝てる」
摩耶は家に上がった。古い家に特有の暗い雰囲気《ふんいき》がある。玄関を入ってすぐのところに六畳の間があり、さらにその奥に四畳半の部屋があることを、摩耶は覚えていた。
いま、四畳半に通じる襖《ふすま》は閉ざされていた。摩耶は足音を立てないように六畳間を横切り、襖の前に立った。
「かなた……?」驚《おどろ》かさないよう、摩耶はそっと呼びかけた。「入るわよ……」
「だめ……」
襖の向こうから、かばそい声がした。おびえたような口調だった。
「いや……開けないで……!」
その嘆願にかまわず、摩耶はひと呼吸すると、ゆっくりと襖を開いた。
四畳半の和室の中央に布団《ふとん》が敷かれていた。その上にうつ伏せに横たわっているのは、毛皮に覆《おお》われた奇妙な生き物だ。昨夜の混乱《こんらん》の中で目撃した時には、細部ははっきり分からなかったのだが、今は間近でありありと観察できる。摩耶はしっかりと目を見開き、それを見た。
大きめの犬ぐらいのサイズがあった。毛皮は水銀灯の下では銀色に光っていたが、今はくすんだ茶色だ。体長の半分近くを占めているのは、しゃもじの形をした大きな平たい尻尾《しっぽ》である。胴体のラインは犬よりもふっくらしていて、愛らしいと言えないこともなかったが、今は腹部にぐるぐるに巻かれた包帯が痛々しい。
頭部は大きくて丸く、犬に少し似ているが、鼻《はな》は短く、耳も小さい。衰弱《すいじゃく》して生気のない目は黒いガラス玉のようだった。目の周囲だけ毛が黒くなっており、アイマスクを付けているように見える。
動物園で見たことのある本物の狸《たぬき》とは、あまり似ていなかった。むしろマンガに出てくる狸のイメージに近いかもしれない。
昔の人間の心が生み出した、想像上の狸なのだ。
「かなた……」
摩耶は布団に歩み寄り、かなたのそばに静かに座りこんだ。そっと手を伸《の》ばし、毛皮に触《ふ》れる。さらさらとした感触《かんしょく》だった。
「あまり……見ないで」かなたは恥ずかしそうに言った。「これでもコンプレックス、あるんだから……」
「そんな……!」
摩耶は絶句した。天真爛漫《てんしんらんまん》に振る舞いながら、かなたがこれまでどれほど大きな重荷を背負って生きてきたか、ようやく理解できたからだ。
と同時に、自分がひどく恥ずかしくなった。苛酷《かこく》な運命を押しつけられ、悩み苦しんでいるのは、この世で自分だけだと思っていた。かなたには悩みなんてないんだと勝手に思いこんでいた。だから、かなたに寄りかかっていられた。被害者意識を万能の免罪符《めんざいふ》にして甘えていた。かなたが二人分の重荷を背負っていることにも気づかずに……。
「かっこ悪いよね、狸だなんてさ」かなたは自嘲《じちょう》ぎみに笑った。「みっともないよね。笑っちゃうよね……?」
「そんなことない……」摩耶はかぶりを振った。「そんなこと……ない」
こらえきれず、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「摩耶ちゃん……?」
「みっともなくなんかない。笑ったりなんかしない……どんな姿でも、かなたはかなただもの……私の友達だもの」
そう言って摩耶は、かなたの上にかがみこんだ。かなたの頭をそっと抱き、涙に濡《ぬ》れる頬《ほお》を首筋にこすりつけた。
「いつまでも友達よ……」摩耶はすすり泣いた。「私たち、友達よ……」
二日後――
いつもは夕方から活気づく <うさぎの穴> が、今日は昼頃から出入りが激しくなり、緊張した雰囲気《ふんいき》に包まれていた。
八月一四日・土曜日。
いじんたちがこれまでの行動パターンを崩《くず》さないとしたら、今夜また東京のどこかで若い娘がさらわれ、なぶり殺されるはずだ。これ以上の犠牲《ぎせい》者を出すわけにはいかない。何としてでも今夜のうちに、いじんたちを殲滅《せんめつ》しなくてはならない――それが東京中の妖怪《ようかい》たちの一致した意志だった。
そのため、これまで以上に強固な警戒網《けいかいもう》と連絡網《れんらくもう》が東京中に張りめぐらされていた。人間に化けた妖怪たちや、姿を消すことのできる妖怪たちが、いじんの現われそうな盛り場をパトロールする一方、電話、ファックス、無線、パソコン通信、精神感応など、可能なあらゆる手段によって、各地の情報が絶えず交換《こうかん》されている。 <うさぎの穴> はそのための作戦|指揮《しき》室と化していた。
秋葉原の方面で活動している、電気関係に強い妖怪たちの協力で、店内には無線の機材やパソコンが何台も持ちこまれていた。電話回線は一本しかなく、これは通常の電話として使用するので、モデムはすべて携帯《けいたい》電話に接続されている。
マスターはかなたの看病につきっきりで、店に姿を見せていないが、たいして支障はなかった。準備に忙しくて、酒を飲む者はほとんどいなかったからだ。
ただ一体、電波妖怪のうわべり≠セけが、カウンターのスツールにちょこんと腰掛け、好物のビールをすすっている。身長一メートルぐらいで、丸っこい全身はヤマアラシのような銀色の針に覆《おお》われ、目は大きな複眼が一個あるだけだった。普段はテレビ電波の中に棲《す》むうわべりは、電波を探知する能力を買われて、今回の作戦に召集されたのだ。
ビールに夢中のうわべりを無視して、他のメンバーはテーブルの周囲に集まり、対策を検討していた。
「これまでのパターンだと、連中の出現箇所は.三点に限定されています。新宿、渋谷、六本木……いずれも赤いピアスを付けた女の子がよくいる場所です」
テーブルに広げられた東京の地図を指さし、大樹が解説していた。
「でも、おととい仲間が殺されたばかりだから、連中も慎重になっているでしょう。こっちの網《あみ》にのこのこ飛びこんでくるとは思えない。もっと離れた場所で行動することも、充分考えられます」
未亜子が首をかしげる。「それって言い換えれば、何ひとつ手がかりがない、ってことじゃなくて?」
大樹は決まり悪そうにうつむいた。「まあ、それはそうなんですけど……」
「それに」と八環。「連中が、毎週土曜日だとか、赤いピアスだとか、これまでのパターンを律義《りちぎ》に守る保証もないしな」
「おいおい、頼りねえ話だなあ」聴《き》いていたうわべりが口をはさんだ。「野球にたとえりゃ、どこを飛んでくるか分からないボールを目隠《めかく》しで打つようなもんじゃねえか。空振《からぶ》りに終わりそうな気がするぜ」
「かもしれんが、バットを振らなきゃヒットが出ないのも確かだ」と八環。
「それに、連中がパターンを変えないということも考えられるわ」霧香が言った。「どんなことがあろうと、パターンを守り続けようとするかも……」
「強迫行動か?」
「ええ」霧香はうなずいた。
強迫行動――人を驚《おどろ》かせたり襲《おそ》ったりする時、妖怪《ようかい》はしばしば、決まったパターンで行動する。人間の場合でも、連続殺人鬼は同じ手口で犯行を繰り返すことが多いが、妖怪も同様の傾向があるのである。その行動には何の意味もないのだが、どうしてもパターン通りに行動しなければならないという強い衝動《しょうどう》にかられるのだ。
生まれてから日の浅い妖怪ほど、そうした傾向が強い。人間の創造した鋳型《いがた》から完全に抜け出しておらず、真の意味での自由意志が芽生えていないからである。「私、きれい?」と訊《たず》ねる口裂《くちさ》け女や、「エイズの世界にようこそ」と鏡に書き残すエイズ・メアリーが、その例だ。八環や霧香たちのように、誕生《たんじょう》してから長い年月を経た妖怪は、完全な自由意志を持っており、そうした衝動とは無縁である。
「いじんは比較《ひかく》的新しい妖怪だから、強迫行動に支配されているかもしれないわ」霧香が説明する。「前の出現から半世紀以上過ぎてるのに、赤い靴を赤いピアスに変えた程度の些細《ささい》な変化しかないのが、その証拠《しょうこ》ね。身にしみついたパターンは、そう簡単《かんたん》に変えられないのよ」
「だとすると、かなり範囲《はんい》を絞《しぼ》れるんですけどねえ……」大樹が頭をかく。
「連中の数は?」とうわべり。
「井の頭公園で六体倒した」と八環。「ホマムの話によれば、十数体だったらしいから、残りは一〇体ぐらいだと踏《ふ》んでいる」
「正確な数も分からねえのかよ? 厄介《やっかい》な話だなあ」
「その通りだ。たとえ発見しても、一体ずつ仕留めるのはまずい。残りの連中を取り逃がしてしまうからな。奴《やつ》らが集まったところを狙《ねら》って、一網打尽《いちもうだじん》にするしかない」
「というこたあ、女の子をさらって生贄《いけにえ》にしようとする瞬間《しゅんかん》を狙うわけだな?」
「そうだ。できれば今夜、片をつけたいところだな。盆休《ぼんやす》みで東京から人が少なくなってる。被害が少なくて済む」
「けど、うまくいくかねえ? 連中の結界は強力なんだろ?」
「だからこそ、ホマムが役に立つんだ。彼の誘導《ゆうどう》があれば、人払いの結界が張られている場所を探《さぐ》り当てることができる」
「そのホマムって男、術をかけられてるんだろ? 逆に連中にこっちの動きを探り当てられるってことは?」
「ホマムに術をかけた奴は一体だけで、おそらく井の頭公園で死んだはずだ。だから彼はもうマークされていないと思う」
「そう祈ることにするか――そいつは今どこに?」
「今、流が井の頭公園まで迎えに行ってる。もうじき戻《もど》ってくるはずだ」
噂《うわさ》をすれば影。流がホマムを連れて戻ってきた。
その後ろには摩耶もいる。
「流!」
全員の非難の視線が流に集中する。彼は笑ってごまかそうとした。
「あはは……いやあ、参っちゃった。公園のところでバッタリ会っちゃって――」
「私がお願いしたんです」摩耶が流を押しのけて前に出た。「どうしても連れて行ってほしいって。みなさんががんばってるんだから、私もお役に立ちたいと思って……」
「それに、俺《おれ》が連れて来なくたっていっしょでしょ? ほら、彼女はこの店の場所、知ってるんだし」流は懸命《けんめい》に弁明した。「だったら車に乗せてきた方が電車代が節約できるかな、って思ったりして……」
「せっかくだけどね、摩耶ちゃん」霧香が優《やさ》しく言う。「来てもらっても、あなたにできることは何もないのよ――」
「いいえ、あります」
そう言って摩耶は、髪《かみ》をさっとかき上げ、耳を見せた。
全員が息を飲んだ――その耳たぶには鮮《あざ》やかな赤いピアスが光っている。
「昨日、自分で穴開けました」摩耶は少し恥ずかしそうに言った。「白い糸が出るんじゃないかって、ちょっとこわかったけど……」
「……それって校則違反にならないの?」
見当違いなことを言った大樹に、未亜子が肘鉄《ひじてつ》をくらわす。
「つまり、連中をおびき寄せる囮《おとり》になりたいってわけね?」
「はい……おととい、流さんに家まで送ってもらった時、聞きました。あいつらが――いじんがどうして生まれてきたかを」
「流!」
またも全員の視線が流に集中する。流は恐縮《きょうしゅく》した。
「あいつらが赤いピアスをした女の子だけを襲《おそ》うなら、私が誘い出せるんじゃないかと思うんです」
「あいにくだが、お断わりだな」八環が冷たく言う。「囮を使う作戦をやるなら、こっちにだって人材はいる――」
「そうでしょうか? あいつらは妖気《ようき》を敏感《びんかん》に感知して、警戒《けいかい》してるんでしょう? いくらみなさんが人間の姿をしていても、だませないと思うんです。その点、私は人間ですから――」
「そんな安直な考えがうまく行くとは思えんな。だいたい、東京に若い女の子は何万人もいるんだ。連中がたまたま君をターゲットにする確率が、どれぐらいだと思う?」
「それも考えました。でも、例の噂《うわさ》がかなり広まっていて、赤いピアスをしている女の子はすごく少なくなってるんです。げんに、このピアスを買いに行った時も、お店の人がびっくりしてました。『最近、赤いピアスを買う女の子なんていないよ』って……それに今日はお盆《ぼん》でしょ? 帰省したり、旅行に行ってる人が多いから、赤いピアスをつけて東京を歩き回っている人も、それだけいつもより少ないと思うんです」
「それでも何百人って数だ……」
「場所を限定したらどうでしょう? たとえば六本木あたりに場所を絞って、それ以外の盛り場のパトロールをわざと強化するんです。そうなったら連中は、パトロールの手薄《てうす》な地域《ちいき》を狙《ねら》ってくるでしょうから……」
ふだん無口な摩耶が、いつになく饒舌《じょうぜつ》なので、一同は驚《おどろ》いていた。
「でも……危険だわ」と霧香。
「俺《おれ》もそう言ったんですけどね……」流が口をはさむ。
「私ならだいじょうぶです。いざとなったら自分で身を守れます。この前の晩のことで、それが分かりました」
摩耶の態度は自信に満ちているように見えた――少なくとも表面上は。
「お願いです! 私を使ってください! この役ができるのは、私しかいないんです」
「でもねえ、摩耶ちゃん……」
霧香はどうにか摩耶の決心をひるがえさせられる言葉はないかと探《さが》していた。
「かなたちゃんがあんなことになって、ショックを受けてるのは分かるけど、あなたの責任ってわけじゃないのよ。あなたは偶然に巻きこまれただけなんだから。この事件はあなたには関係ないことなのよ――」
「違う! 関係なくない!」
摩耶は激しくかぶりを振り、霧香の言葉をさえぎった。
「摩耶ちゃん……」
「私、道に寝転がってる外国の人を見て、気持ちが悪いって思ったことが、何度もある……」
彼女は振り返り、涙でうるんだ目でホマムを見上げた。
「ホマムさんと初めて出会った時もそう。かなたが飛び出して行った時、何であんな人を助けるんだろう、ほっとけばいいのに、って心の中で思ってた。あの時、かなたと流さん以外の誰《だれ》も、ホマムさんを助けようとしなかった。みんな何もせずに取り巻いて見てただけ。私もその一人だった……」
「そんなことありません」ホマムがなぐさめる。「あの時、摩耶さん、拍手してくれました。みんな、拍手してくれました。みんな、心の底では応援していた……」
「ありがとう――でも、ホマムさんに許してもらってもだめなの。私は自分で自分が許せない……誰のためでもない、自分のためにやりたいの。責任を取りたいの」
「責任だなんて……」
「いいえ、私にも責任がある。あいつらが日本人みんなの醜《みにく》い心が生み出したものなら、あいつらの血のひとしずくぐらいは、私の心でできてるはずだもの……」
店内を重い沈黙が支配した。摩耶の固い決意を変えさせることはできないことは、誰の目にも明白だった。
「そうね――」最初に口を聞いたのは未亜子だった。「この役ができるのは、摩耶ちゃんしかいないものね」
彼女は摩耶に歩み寄り、上から下までじっくりと検分した。
「でも、この服装じゃだめね。ピアスとぜんぜん合ってないわ。土曜の夜の六本木あたりを歩くなら、もっとそれなりの格好をしないと――」
「おいおい、未亜子……」八環が形だけ止めるふりをする。
「私は摩耶ちゃんみたいな子が好きよ」未亜子は振り返って、八環を見返した。「確かに人間は愚《おろ》かな連中ばかりだわ。でも、いつの時代にも必ず摩耶ちゃんみたいな子がいる。だから私は人間を見捨てない」
「しかし――」
「考えてみて。私たちが人間に味方するのは、それがあるからなんじゃない? だからこの子の気持ちを無にしたくないわ。役に立つかどうか分からないけど、やりたいと思うことをやらせてみたいの」
八環は肩をすくめた。「やれやれ。よくもまあそんな恥ずかしい台詞《せりふ》を、顔を赤らめもせずに言えるもんだ」
「恥ずかしい台詞は嫌《きら》い?」
「いや、実のところ、自分が言うのが恥ずかしいだけだ」八環は苦笑した。「他人が俺の言いたいことを代わりに言ってくれるのは、いっこうにかまわん」
「じゃあ……!」摩耶の表情が、ぱっと輝いた。
「ああ、やらせてあげるよ――もちろん、きちんと安全性は確保して、だけどな」
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9 六本木の少女たち
港区|六本木《ろっぽんぎ》――
昼間は排気ガスで薄汚れていて、たいして魅力のないこの街は、夜になるときらびやかな光に彩《いろど》られ、巨大《きょだい》な遊園地に変貌《へんぼう》する。街を縦断する外苑《がいえん》東通りの左右には、英語やフランス語の名前の店が建ち並び、イルミネーションの華《はな》やかさを競《きそ》っている。
通りのずっと奥、ビルの谷間から見える真っ暗な夜空には、オレンジ色のライトに照らし出された東京タワーが、今にも空に飛び立とうとしているかのように、天を目指してそそり立っている。まるでクロマキー合成ではめこまれたような現実感の薄い光景で、まさに東京の虚構《きょこう》の繁栄《はんえい》を象徴《しょうちょう》していた。
盆休《ぼんやす》みなので、さすがに人出はふだんに比べて少ないが、それでも何千という男女が、安らぎと歓楽《かんらく》を求めて歩き回っていた。渋谷とはやや異なる雰囲気に、摩耶は少しとまどっていた。自分が場違いなところに来ているという違和感が、形のない不安となって、ひしひしと胸を締《し》めつけている。
摩耶を緊張させているのは、街のはなやかな雰囲気《ふんいき》のせいばかりではなかった。服装もいつもと違うのだ。未亜子が見立ててくれたのは、極端に丈が短い、派手《はで》な原色を使ったワンピースだった。「これぐらいでないと六本木ギャルに見えないわよ」というのが未亜子の主張だったが、いつものスカートに比べると、脚《あし》がまったく無防備なので、まるで裸《はだか》で歩いているような感じがする。
化粧《けしょう》も未亜子にしてもらった。真っ赤な口紅《くちべに》、濃《こ》いアイシャドウ、つけまつげ、紫《むらさき》のマニキュア――すべては初めての体験だった。でき上がった時、鏡に映った顔が、一瞬《いっしゅん》、自分だとは信じられなかった。年齢が五歳は上がったように見える。
もちろん、髪《かみ》は後ろに流して、赤いピアスがよく見えるようにしてある。
歩きながら観察したのだが、やはり赤いピアスをしている女性は見かけない。例の噂が《うわさ》よほど広まっているのだろうか。
バッグに入れていた携帯《けいたい》電話が鳴った。流からの通信だ。街路樹の蔭《かげ》に入って、バッグから電話を取り出す。
「はい、摩耶です」
<定時|連絡《れんらく》。現在、六本木プリンス前を通過中。何か異状ない?>
「ありません――あの、私からの電波、ちゃんと届《とど》いてます?」
万一の事態に備えて、摩耶は襟《えり》にワイヤレス・マイクを、服の下に小型の送信機を隠《かく》していた。有効距離は八〇〇メートルで、バッテリーは六時間は保つ。
受信機を積みこんだフォルクスワーゲンで、彼女の位置を絶えずフォローするのが、流の役目だった。あまり近づいて尾行すると、いじんたちを警戒させてしまうので、彼女から五〇〇メートル以内を、つかず離れず移動しながら、電波をワッチしているのだ。
<クリヤーに聞こえてるよ。君のかわいい心臓の音まで――いや、これは冗談《じょうだん》。それより、疲《つか》れてない?>
正直なところ、疲れていた。慣《な》れないヒールの高い靴《くつ》で、もう何時間も歩き回っているのだ。足が痛くなってくると、近くの喫茶店に入って紅茶かジュースを飲み、しばらくして痛みがひいたら、また歩き出す――その繰り返しだ。
歩いていると、数十分ごとに違う男にナンパされる。それをいちいち断わるのも、精神力を消耗《しょうもう》するものだった。徒労《とろう》ではないかという思いも、ひしひしとしている。意気込んで囮《おとり》の役を買って出たのが、甘っちょろい自己満足のヒロイズムのように思えて、自分に嫌気《いやけ》がさしてきた。
もちろん、今さらそんなことを口に出せるわけがない。
「だいじょうぶです。まだやれます」
<無理しないで、疲れたらいつでもそう言っていいんだよ>
「はい」
<あまり帰りが遅くなると、家の人も心配するだろうし……>
「いいんです。明日、謝りますから」
両親に心配をかけることなど、今や彼女の中では些細《ささい》な問題でしかなかった。一回や二回、無断外泊したところで、天地がひっくり返るわけでもない――ほんの一年前の摩耶には、とうていできない考え方だった。
「じゃ、また後で」
電話をバッグにしまって、また歩きだそうとした摩耶は、つまずいて倒れそうになった。びっくりして下を見る。街路樹の横に女がしゃがみこんでいたのだ。
「だいじょうぶですか?」
慌《あわ》てて女の腕を取って、起き上がらせる。摩耶と同年代で、やはりけばけばしい服に身を包んだ娘だ。
「あ、ありがと……」
娘はうつむいて、苦しそうだった。酔って樹《き》の根元に吐《は》いていたのだ。摩耶はハンカチを取り出した。
「いい、いい……自分の持ってるから」
そう言って娘は、自分のバッグからハンカチを取り出し、口をぬぐった。ほっとして顔を上げたその視線が、摩耶の視線とばったりぶつかった。
「あれ?」
「え?」
「あんた、守崎《もりさき》じゃん!?」
「永野《ながの》……さん?」
お互いに濃《こ》い化粧《けしょう》をしていたので、気がつくのが遅れたのだった。永野真理亜――学校の同級生だ。
慌てて逃げだそうとする摩耶を、真理亜は腕をつかんで引き止めた。
「ちょ、ちょっと待ちなよ。逃げなくたっていいじゃない!」
摩耶は観念した。今さら「人違いです」と言い逃れるのは無理がある。
真理亜とは学校で言葉を交わしたことはほとんどない。住む世界がぜんぜん違うと思っていたのだ。不良仲間と週末ごとに遊び歩いていて、教師に目をつけられているのは、小耳にはさんでいたが、こんな場所で出会うとは予想していなかった。
「へえ〜、知らなかったなあ!」
とまどう摩耶の顔を、真理亜は嬉《うれ》しそうにしげしげと覗《のぞ》きこんだ。酔いのために、目がとろんとなっている。
「守崎がこんな子だったなんてなあ。無口でガリ勉で、面白味のない奴《やつ》かと思ってたんだけど。意外な一面ってやつだなあ」
「あ……あの、これ、学校には……」
「言うわけないじゃん! バッカだなあ。仲間じゃないか」
「仲間?」
「そうだよ――あっ、こんなところで立話もなんだよな。そのへんの茶店に入ろ。もっといろいろ話したいから。な? な?」
「あ、あの……」
摩耶のとまどいを無視して、真理亜は彼女の腕をつかみ、強引に引っ張って行った。
「……そいでタカシの奴、何てぬかしたと思う? 言うに事欠いて、『俺《おれ》が無駄《むだ》にした時間を返してくれ』だってさ。バカ言ってんじゃないっつーのよ! あたしが言いたいわよ、その台詞《せりふ》!」
終夜営業の喫茶店に入って約三〇分、摩耶は真理亜の愚痴《ぐち》をえんえん聞かされ続けていた。
摩耶のどこが気に入ったのか、真理亜はまるで十年来の親友のように慣《な》れ慣れしく、一方的に喋《しゃべ》りまくる。それにちょくちょく相槌《あいづち》を打つだけでいいので、摩耶としては楽ではあったが。
酔っているため、真理亜の話は支離滅裂《しりめつれつ》で、最初のうちは理解するのに骨が折れた。要するにボーイフレンドと別れたばかりであるらしい。相手の男がひどい女たらしで、これまで何人もの女を妊娠させては、中絶費用も出さずに逃げていたことを、騙《だま》された女の一人から聞かされたのだ。
「あの占《うらな》い師の言う通りにさ、チームのみんなにタカシのこと話したら、みんな祝福してくれたんだぜ。びっくりするぐらい寛大《かんだい》でさ、拍子抜けしちゃったよ。本当は今日だって週末だから、渋谷でみんなで一晩中ダべってるはずだったんだ。タカシがバイトの都合でどうしても今日しか空いてないって言うからさ、わざわざ許可とって、抜けさせてもらったんだ。いくら許可もらったって言ったって、一人でチームの規律乱してるみたいでさ、罪悪《ざいあく》感ひしひしだったんだぜ。それなのに、どう!? 見事なぐらいカンペキに喧嘩《けんか》別れ! タカシがどんなに素敵な男かって、みんなにさんざん自慢《じまん》したばっかりだってのに、みっともないったらありゃしない。これじゃ完全にギャグだよ」
「……それでお酒飲んでたの?」
「そうだよ! だって渋谷に戻《もど》れないもん。祝福してもらって送り出されたのに、『あいつは女たらしでした。別れました』って戻って言えるか? 迷惑《めいわく》かけたみんなに会わせる顔ないよ。だから六本木で酒かっくらって時間|潰《つぶ》すしかないじゃん」
「そうね……」
最初は別世界の話のようでピンとこなかった摩耶も、聞いているうち、だんだん彼女に同情してきた。機械的に相槌《あいづち》を打っているのがつらくなってきて、何か慰《なぐさ》めの言葉をかけたくなった。自分の乏《とぼ》しい経験では役に立たないので、たくさん読んだティーンズ小説の中から、この場面に使えそうな台詞を思い出そうとする。
「ええと……でも、考えようによっては、早く別れて良かったんじゃないかな……」
「何だって?」真理亜がぎろりと上目づかいににらむ。
「だってはら、もっと長くつき合ってから、そんなひどい人だって分かったら、もっとひどく傷ついてたかもしれないわけでしょ? いずれ別れることになるなら、深入りする前に別れて良かったのかも――」
「生意気言うな!」
真理亜が激しくテーブルを叩《たた》いたので、一瞬、コーヒーカップが飛び上がった。摩耶はびっくりして硬直《こうちょく》した。
「あんたにあたしの心がどんだけ分かるっつーのよ!?」
「ごめんなさい。でも……」
「そりゃあ、つき合いはじめた時は、あたしも遊びだと思ってたよ。今までの男と同じように、飽《あ》きたらいつでも気軽にさよならできるって思ってた……。
でも、違った――別れて初めて分かった。あたし、本気だった。本気であいつのこと、好きだったんだ……そうでなかったら、こんなに胸が苦しいはずないもん」
真理亜の声は涙でくぐもっていた。
「分かんないよ、どっちが良かったかなんて。もしかしたら、あのままずっと騙《だま》されてた方が幸せだったかもしれない。騙されて騙されて騙され続けて、そのうち突然、あいつが事故か何かでポックリ往《い》っちゃったりなんかしてさ。あたしはあいつの正体を知らないままに、きれいな思い出だけ抱いて生きていってたかもしれない……。
でも、それって嘘《うそ》なんだ。あたし、あいつの正体、知っちゃったんだもん……これ以上、騙され続けるわけにいかなかったんだ……裏切られてるのを知ってて、恋人のふり、続けるなんてできなかった……」
真理亜はテーブルに突っ伏し、静かにすすり泣きはじめた。
(ああ、ここにも……)
と摩耶は思った。他人には分からない重荷を背負って生きている人がいる。「不良」という二文字だけで真理亜を分類し、嫌悪《けんお》していた自分が恥ずかしくなった。一人の人間の背負っているものすべてが、二文字で表わされるはずがないというのに。
熱烈な恋の経験がまだない摩耶には、今の真理亜の苦しみはよく理解できなかった――そして、理解できないことが悔《くや》しくてならなかった。できることならいっしょに苦しみ、いっしょに泣いてあげたかった。
「……なあ、守崎ィ」
ひとしきり泣いた後、真理亜ほ顔を伏せたままで言った。
「あたしらって、いったい何なんだろうなあ……?」
「何なんだろうって……?」
「何のためにこんなとこにいて、何してるんだろうなあ?……何のために生まれてきたんだろうなあ?」
「ええと……」
「たとえばさあ、幼稚園の頃に、将来の夢とか、何かなりたいものとか、先生に訊《き》かれたじゃない? あるだろ?」
「私は……」摩耶は少し考えて答えた。「よく分からない……平凡な結婚ができて、平凡な人生が送れれは……」
「そうかあ。やっぱりそうだよなあ。きっとどこにでもいる誰《だれ》か≠フ一人になっちゃうんだよなあ……」
真理亜は顔を上げた。涙でマスカラが流れてぐしゃぐしゃになった顔で、無理に笑おうとしている。
「あたしさあ、キュリー夫人になりたかったんだよな………」
「キュリー夫人?」
「笑うなよ。でも、小学生の頃は本気だったんだよ。子供向けの伝記読んでマジで感動しちゃってさあ、科学者になって、人類のためになるすごい発見して、ノーベル賞取るんだって思ってたんだよ。
でも、大きくなると、そんなこと無理だって分かってきた――あたしバカだから、科学者になんかなれっこない。結局は平凡な結婚して、どこにでもいる誰か≠フ一人になるしかないんだって……。考えてみりゃ、グレちまったのもそのせいかもしれないな。親や学校や世間があたしを型にはめて、どこにでもいる誰か≠フ一人にしようとしてるのが、すごく嫌《いや》だった。何とかして型から抜け出したかった……。
でも、グレても結局、いっしょなんだよな。パターンなんかにハマってたまるかって思ってたのに、女たらしに騙《だま》されて泣く女≠チていう、臭《くさ》いぐらい典型的なパターンに、見事にハマっちゃったもんな」
「…………」
「気をつけろよ、守崎ィ……本当の自由なんて、この世の中にないんだぞお。いくらあがいたって、結局は大きな力に捕《つか》まっちゃうんだぞ。タイ焼きみたいに型に入れられて、みんな同じ形にされちゃうんだぞお……」
急に真理亜は口を押さえた。顔色が真っ青だ。
「永野さん……?」
「気分……悪い……」
酒の影響が《えいきょう》残っていたらしい。摩耶は彼女を支えて、トイレに連れて行った。
ピンク色の便器にひとしきり吐《は》いた。とは言っても、胃《い》の中身はさっき飲んだコーヒーだけだ。夕食も抜きで酒ばかり飲んでいたのだろう。
真理亜にはもう自分で歩く気力もないらしかった。顔を洗わせるために、はがい締めのようにして洗面台に連れてゆくのが、またひと苦労だった。
「お酒はあまり飲まない方が……」
「分かってるよ……でも、心がこんなに苦しいんだから、体も同じぐらい苦しめなきゃ、バランス取れないだろ……?」
そう言って真理亜は、濡《ぬ》れた顔をペーパータオルで拭《ぬぐ》いはじめた。
突然、その手が止まった。洗面台の鏡を見つめ、茫然《ぼうぜん》としている。
「守崎ィ……」
「え?」
真理亜の視線を追って、鏡を見た摩耶は、はっとなった。
二人の背後に闇《やみ》が広がりつつあった。
床からアメーバのように這《は》い上がってきた真っ黒な影が、みるみるうちに壁《かべ》を覆《おお》いつくし、二人を包みこむように広がってゆく。まるで底なしの洞窟《どうくつ》のように、その中を見通すことは不可能だった。少女たちは金縛《かなしば》りに遭《あ》ったように、鏡の中の自分たちに降りかかろうとしている恐ろしい災厄《さいやく》を、なすすべもなく見つめていた。
摩耶は声をあげようとしたが、遅かった。影の中から何本もの腕が伸《の》びてきたかと思うと、背後から二人の口を押さえ、もがく暇《ひま》さえ与えず、あっという間に闇の中に引きずりこんでしまったのだ……。
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10 包囲網
緊急事態を知らせる電話が <うさぎの穴> にかかってきたのは、午前〇時を少し回った頃《ころ》だった。
<こちら流! ヒットです!>
流の興奮《こうふん》した声が、オンフックにしていた電話器から流れた。店内に待機していたメンバーの間に、さっと緊張が走る。
「摩耶ちゃんか?」八環が訊《たず》ねる。
<ええ。何かあったようです。四〇分ほど前にクラスメートの女の子とばったり会って、喫茶店で話をしてたんですが、気分が悪くなった彼女を介抱《かいほう》してトイレに入ったところで、声が不自然に途切れました>
「電波は入ってるのか?」
<はい。ボリュームを最大にすると、ごそごそという音が聞こえます>
急に店内が慌《あわ》ただしくなった。霧香たちはパソコンや携帯《けいたい》電話を使って、東京中の妖怪《ようかい》たちに、緊急事態の発生を告げている。
「そっちの現在位置は!?」
港区の地図をテーブルに広げながら、大樹が電話に向かって怒鳴《どな》った。
<外苑東通りを北上中。今、AXISの前を通過した>
「うわべりは何と言ってる?」
こういう事態に備《そな》えて、うわべりに毛布をかぶせて、ワーゲンの後ろに載《の》せていた。生きた電波探知機だ。
<発信源はゆっくり北西へ移動してるぜ> うわべりの声がした。 <方角は……この位置からだと、東京タワーとちょうど正反対だ>
「北西か。やっぱりな……」
大樹は地図にボールペンで印《しるし》をつけ、定規を当てがってうなずいている。彼はこの数日、地図上で検討を重ね、誘拐《ゆうかい》された女性がどこに連れて行かれて殺されるかを予想していたのだ。
いくら結界《けっかい》があるとはいえ、生贄《いけにえ》の儀式はどこでも行なえるわけではない。誘拐地点から一キロ以内で、充分な広さがあり、人が近づきにくく、なおかつ明かりの少ない場所――東京にそんな都合のいい場所はそう多くない。六本木で誘拐された場合、連れて行かれる可能性が最も高いのは……。
<援軍をお願いします!> 流の声にはあせりが感じられた。
「落ち着け」八環は冷静に言った。「連中はさらった犠牲者をすぐには殺さない。下手な行動をとって、彼女が囮《おとり》だとバレたら、かえって危険にさらすことになる。連中がどこまで彼女を連れてゆくつもりなのか、確認するのが先だ」
<でも、結界の中に連れこまれたら……>
「結界は妖気《ようき》をさえぎったり、接近する人間や妖怪の感覚をごまかす作用しかない。電波まではさえぎれないさ」
<だといいんですがねえ……>
「おそらく奴《やつ》らは、犠牲者を影の中に引きずりこんでさらってゆくんだ」大樹は地図を眺《なが》めて言った。「移動速度はあまり速くないはずだ。気持ちは分かるが、急いで追いかけるんじゃないぞ。近づきすぎると気づかれる」
<了解……> 流はしぶしぶ了承した。
それからの一五分間は、流にとって拷問《ごうもん》にも似た時間だった。一刻も早く摩耶を救出に行きたいのに、近づくことが許されないのだ。外苑東通りを北上しながら、車を一〇〇メートルごとに動かしては止め、動かしては止めを繰り返し、電波の方向を探《さぐ》らなくてはならない。
「ちくしょう……摩耶ちゃんに何かあったら、かなたに何て言い訳すりゃいいんだよ……」
ハンドルを握《にぎ》りながら、流はいらだちのあまり歯ぎしりしていた。
「止めろ!」
うわべりがそう叫んだのは、乃木坂《のぎざか》交差点を過ぎた直後だった。流がびっくりして急ブレーキをかけたので、後続車があやうく追突しかけた。
「どうした?」
「移動が止まった。着いたらしいぜ」
「方位は?」
「ここから真西だ。距離は……そうさな、この強さなら四〇〇か五〇〇ってとこか」
「青山墓地《あおやまぼち》か!」
しばらく失神状態だったらしい。意識を回復した時、摩耶は体の自由を奪《うば》われていることに気づいた。
両手を頭上で縛《しば》られ、肉屋の倉庫の冷凍肉のように、樹《き》の枝から吊《つ》るされていた。爪先がかろうじて地面に届《とど》くぐらいの高さだ。ロープが手首に食いこんで痛かった。
暗すぎて最初は状況がよく分からなかったが、目が慣《な》れてくるにつれ、周囲にあるものが何なのか、しだいに識別できるようになってきた。インクのしみを思わせる真っ黒な樹の枝が頭上に覆《おお》いかぶさり、都会の蒼《あお》い夜空を侵蝕《しんしょく》していた。遠くにそびえる東京タワーのオレンジ色の照明の他《ほか》には、明かりらしきものは何も見えない。そして、あたりに林立する灰色《はいいろ》の直方体群……。
ここが墓地だと気づいた時のショックは大きかった。だが、それよりも摩耶をおびえさせたのは、墓石の間にうごめく人型の影を見たことだった。
いじんだ――マントに身を包んだ一〇体あまりのいじんが、闇《やみ》のそこかしこにたむろしている。地面にしゃがみこんだり、墓石にもたれかかったりして、何かをがつがつと頬張《ほおば》っているようだ。今はまだ犠牲《ぎせい》者に興味《きょうみ》はないらしく、摩耶が意識を回復したことに気がついた様子はない。
勇気をふるって観察を続けるうちに、摩耶は突然、あることに気づいて、恐怖《きょうふ》のあまり悲鳴をあげそうになった。彼らが何を食べているのか、見てしまったからだ。
猫《ねこ》だ。
殺した野良猫の皮を剥《は》ぎ、円月刀で肉を薄《うす》くスライスしては、口に運んでいる。あいかわらずフードの中は真っ暗で、どうやって食べているのか分からなかったが、ぺちゃぺちゃとうまそうに舌を打つ音が、闇の中に不気味に響《ひび》いている。
「何だよ! どうなってんだよ、これ!」
ヒステリックな叫びがすぐそばで聞こえた。摩耶はようやく真理亜の存在を思い出した。彼女は摩耶の隣の枝に、同じように縛られて吊るされていた。パニックに陥《おちい》り、足をじたばたさせているが、体がぐるぐると回転するばかりだ。
摩耶は後悔《こうかい》した。囮《おとり》になる覚悟はできていたが、真理亜が巻きこまれることは計算外だった。彼女は赤いピアスをつけていない。いじんたちの目標はあくまで赤いピアスの娘であり、摩耶をさらう時、ついでにさらっただけなのだろう。
冷静にならなければ、と摩耶は必死に自分に言い聞かせた。二人分の生命が自分の行動にかかっているのだ。対応を誤《あやま》れば、二人とも死んでしまう。
八環に与えられた指示を思い出す――もし捕《つか》まったらなるべく時間を稼《かせ》げ。その間に東京中の妖怪《ようかい》たちが包囲網を完成する。囮であることを気づかせてはいけない。包囲網が完成する前に連中が逃げ出したら、すべてが水の泡《あわ》だ。ただし、どうしても自分の身が危なくなったら、夢魔《むま》を使って逃げろ……。
「何なんだよ、あんたら!? 助けて! ほどいてよ! 誰《だれ》か助けて!」
真理亜は叫び続けているが、いじんたちは気にしている様子はない。いくら大声で叫ぼうと、結界《けっかい》の外には声は届《とど》かないことを知っているのだ。むしろ真理亜の狼狽《ろうばい》ぶりを見て楽しんでいる様子だ。
「落ち着いて、永野さん! 慌《あわ》てないで!」
そう言いながら摩耶は、襟《えり》の裏に仕掛けられたマイクのことを気にしていた。発信機はまだ生きているだろうか? この声は流たちに届いているのだろうか? そうであることを祈るしかない。
「だいじょうぶよ、きっと……警察《けいさつ》が来てくれるから」
「だめ! 殺される! こいつらに殺されて食われちゃうんだ!」
摩耶のなだめも効果なく、真理亜は半狂乱になって叫び続けた。
まずい――摩耶はあせった。マイクがまだ生きているなら、真理亜の声も流たちに聞こえているだろう。摩耶たちがすぐにも殺されると誤解したら、包囲網が完成する前に突入してくるかもしれない。それではせっかくのチャンスが台無しだ。
「だいじょうぶよ。落ち着いて。すぐには殺されないわ。きっと誰か助けに来るわ」
その言葉は真理亜をなだめるためであると同時に、通信を傍受《ぼうじゅ》しているはずの流に向けたものだった。
「お前、何でそんなに冷静なんだよ!? この状況で!」
「何でって……」
摩耶は答えに窮《きゅう》した。まさか「妖怪《ようかい》に襲《おそ》われるのはこれで三度目だから」とは言えない。
「だってほら、ドラマとかマンガなんかだと必ず、ぎりぎりの危機一髪《ききいっぱつ》のところで助けが来るじゃない? だからきっと……」
混乱《こんらん》していた真理亜も、さすがに唖然《あぜん》となった。摩耶の見当はずれの台詞《せりふ》が、パニックを鎮《しず》める役目をしたのだ。
「お前……変な奴《やつ》だな」
「……かもしれない」
その会話の一部始終は、乃木神社の前に止まっているフォルクスワーゲンの中の流たちにも聞こえていた。
「くーっ! けなげだねえ。泣けっちまうじゃねえか」
うわべりの言葉に、流はうなずいた。
「まったくだ。こうなったら、何がなんでも摩耶ちゃんの努力を無にできないぞ」
その時、携帯《けいたい》電話が鳴った。
「はい、流です」
<こちら八環。連絡《れんらく》は完了した。東京中の仲間が集まってくる。三〇分で青山墓地を包囲するが、敷地から二〇〇メートル以内に近づかないよう、指示してある。俺《おれ》たちもこれから店を引き払って、そちらに移動する。青山一丁目の……そうだな、アンナミラーズの前で落ち合おう。動いてる間も電波のワッチは続けろよ>
「了解」
流は電話を切り、フォルクスワーゲンをスタートさせようとした。
突然、ヘッドライトの光輪の中に男が飛び出してきた。大きく腕を広げて、通せんぼをしている。走り出しかけていた車は、つんのめるように止まった。
「ばっきゃろー!」流はサイドウィンドウから首を突き出して怒鳴《どな》った。「タクシーじゃねえんだぞ!……ありゃ?」
流はびっくりして目を細めた。立っていたのは網野刑事だった。
「何であんたがこんなとこにいるの?」
「それはこっちの台詞だ」網野は歩み寄ってきて、車の窓に手をかけた。「六本木を張ってたら、何時間も前から目立つワーゲンが同じところを何往復もしていて、よく見りゃ見覚えのある顔が乗ってるじゃないか。どういうことなんだ?」
「どこを走ろうと、俺の勝手だろ? 急いでるんだからどいてくれ」
「そうはいかん。これが事件なら、警察官の職務として、放っておけない」
「事件なんかじゃないったら!」
「ごまかしてもだめだ。さっき、麻布《あざぶ》署に通報があってな。また若い娘が行方《ゆくえ》不明になったそうだ。それを追ってるんだろ?」
流は舌打ちし、肩をすくめた。一刻を争う状況なのに、こんなところで押し問答などしていられない。
「ああ、そうだよ。さらわれたのは摩耶ちゃんと、そのクラスメートの子だ」
「あの女の子か!?」
「そうだ。さらわれた場所は分かってるから、これから助けに行く」
「だったら、俺も乗せろ」
流は目を丸くした。
「何であんたを乗せなくちゃなんないんだよ!?」
「乗せてくれないなら、タクシーをつかまえて尾行するまでだ。ついでにこの車のナンバーを全署に通報して非常線を――」
「ああ、分かった分かった。乗れよ」
流は助手席のドアを開けた。乗りこんできた網野は、後部座席にうずくまっているうわべりを見て「うわっ!?」と声をあげた。
「何だ、こいつは!?」
「よろしくぅ」うわべりは大きな口でにたりと笑った。「感激だねえ。ドラマじゃよく見るが、ほんもんの刑事さんを間近で見るのは初めてだぜ」
「うわべりっていうんだ」と流。「口は悪いけどいい奴だから、気にするな」
「あ……ああ」
網野は助手席に座ったものの、気にするなと言われて気にできずにいられるほど、冷静な性格ではなかった。二匹の妖怪《ようかい》といっしょに車に乗るというのは、めったにできる体験ではない。
ワーゲンは発進し、再び外苑東通りを北上しはじめた。
「しかし――」流はふと感じた疑問を口にした。「起きてから二〇分も経《た》ってない事件なのに、もう警察に通報されてるのか?」
「そんな通報はなかった」と網野。「さっきのはカマだ」
「くそっ、やられた!」
新宿西口――
高層ビルが林立する夜空を、黒いものが飛んでいた。鳥のように翼《つばさ》をははたかせ、星空をよぎっていた。こんな真夜中に飛ぶ鳥がいるはずがない。だが、駅前に群れる人々は地上の営みに忙しく、自分たちの頭上を飛び過ぎたものに気づいた者はいなかった。それは新宿駅の真上を通過し、まっすぐに南西――青山方面へ向かっていた。
品川区の住宅街――
ファミコンに疲れ、何気なく窓から外を眺《なが》めていた少年が、偶然にも夜空を低く横切って飛んでゆく光体を目撃した。それは青い炎《ほのお》の尾を引いていた。「UFOだ!」少年は興奮《こうふん》し、慌《あわ》ててカメラを引っ張り出したが、フィルムが無いのを思い出した。悔《くや》しい思いで窓から身を乗り出すと、すでに光体は北の空に消えようとしていた。新学期になったら絶対に友達に自慢《じまん》してやる、と少年は決心した。
上野――
不忍《しのばず》通りを流していた一台のタクシーが、四人の客を乗せた。少年から老婆《ろうば》まで、性別も年齢層も顔立ちもばらばらな奇妙な集団で、一様に緊張した表情をしている。不審《ふしん》に思っている運転手に、老婆が行き先を告げた。
「青山墓地」
都心環状線――
皇居を大きく迂回《うかい》し、内堀通りの地下を抜けて六本木・青山方面に向かうトンネルの中で、女性ライダーの乗る真っ黒なバイクが、深夜便の大型トラックを追い抜いていった。「無茶なことしやがる……」と舌打ちしたトラックの運転手は、ふと妙なことに気づいて首をかしげた。そのバイクには前輪がなかったように見えたのだ。
地下鉄千代田線・赤坂《あかさか》駅――
飲み過ぎて気分が悪くなり、ホームの縁にしゃがみこんで終電車を待っていた青年は、ふと、目の前を黒い影が横切るのを見た。それは人ぐらいの大きさがある野獣《やじゅう》の形をしており、線路上を風のように駆け抜けて、乃木坂方面に通じるトンネルに飛びこんで姿を消した。目の錯覚《さっかく》だな、と青年は思った。
新宿|御苑《ぎょえん》――
庭園内で深夜の巡回をしていた警備《けいび》員が、睡蓮《すいれん》の池の方で大きな水音を耳にした。駆けつけてみると、池のすぐそばの地面が濡《ぬ》れており、何かが池から這《は》い上がった形跡があった。その濡れた足跡は森の中を抜け、千駄《せんだ》ヶ|谷《や》駅の方に向かっていた。
青山一丁目――
交差点に近いアンナミラーズの前で、流たちは渋谷からタクシーで駆けつけてきた八環たちと合流した。
「流! まったくお前って奴は!」
案の定、網野を連れてきてしまったことで、流は八環から大目玉を食らってしまった。流は首をすくめて恐縮《きょうしゅく》する。
「待ってくれ。僕《ぼく》が無理に頼んで連れてきてもらったんだ」網野が弁護した。「この事件をあんたたちにだけまかせておきたくなかった。どうしても来たかったんだ」
「前にも言ったはずだぞ。あんたにできることは何もない。帰ってくれ」
「嫌《いや》だ!」網野はきっぱりと言った。「これは僕の事件だ。途中で放り出したくない。決着がつくまで見届《みとど》ける義務がある!」
八環は鼻《はな》で笑った。「そんなのはただの自己満足だ」
「そうかもしれない。だが、すべてをあんたたちにまかせきって、知らないふりをするなんてことは、僕にはできないんだ。事実から目をそむけたくない。聞けば、あの摩耶という女の子は、自分で志願して囮《おとり》になったそうじゃないか。普通の女の子が自分の身を危険にさらしてがんばってるっていうのに、刑事の僕がのほほんとしてられるか!?」
「彼女は君とは違う。いざとなったら夢魔《むま》を使える」
「だが、僕にだってできることが何かあるはずだ。お願いだから何かやらせてくれ! 日本人として……いや、人間として、僕にも責任の一端があるんだ!」
「おやおや」未亜子は微笑《ほほえ》んだ。「摩耶ちゃんと同じようなこと言ってるわ」
「うーっ!」八環はうなり声をあげ、髪《かみ》をかきむしった。「人間ってやつは、どいつもこいつも……」
「元はと言えば、あんたのぼやきを聞かされたからだぞ」網野は八環に詰《つ》め寄った。「あんなことを言われて、人間として、じっとしていられるわけがないだろう!?」
「そうね――」
議論に加わらずに何か考えこんでいた霧香が、初めて口を開いた。
「刑事さんにもできる仕事がひとつだけあるわ――それもとびっきり重要なやつが」
全員が振り返って霧香を見た。
「連中が青山墓地のどこかに結界《けっかい》を張ってるのは分かってる。でも、青山墓地も広いから、正確にどのあたりか分からない。電波での方向探知にも誤差《ごさ》がある。包囲網を完璧《かんぺき》にするためには、結界の中心を――つまり摩耶ちゃんたちが捕《つか》まっている位置を、あらかじめ明確にしておく必要があるわ」
「そのためにホマムを連れてきたんだろ?」
「ええ――でも、彼を一人で墓地に入れるのは不安だわ。地理もよく分からないだろうし。かと言って、私たちが同行するわけにもいかない。妖気《ようき》で感づかれてしまうから」
「なるほど、ホマムのガード役か……」
八環は少し考えてから、振り返って網野を見た。
「聞いた通りだ。やれるか?」
「要するに敵陣の偵察《ていさつ》だろ? それならまかせてくれ!」
「無理しなくていいんだぞ。相手に見つかったらすぐに逃げろ。いいな?」
「バカにするなよ、人間を!」網野は不敵に笑った。「あんたらほど強くはないかもしれんが、それでもできることがあるってことを見せてやる!」
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11 殺戮《さつりく》の夜
青山|霊園《れいえん》――
面積二七万平方メートル。球場がいくつも入ってしまうこの巨大《きょだい》な墓地には、大小様々な墓石が数万基も林立している。中央を縦断する車道以外、照明はまったくないので、夜には完全な暗闇《くらやみ》になる。夜の青山を空から見下ろせば、賑《にぎ》やかな光のモザイクの中で、ここだけがぽっかりと穴が空いたように黒く見えることだろう。
そんな中に、懐中電灯《かいちゅうでんとう》も持たずに侵入するのは、大の男といえども、やはり不安なものである。腰を低くして歩きながら、網野は小学生の頃《ころ》に故郷の裏山でやった肝試《きもだめ》しを思い出していた。子供たちのうちの何人かはお化けの役になり、紙|粘土《ねんど》で自作したお面をかぶって、道の脇《わき》の闇の中にひそんでいた。偽物《にせもの》のお化けだと知っていても、ひどくこわかったのを鮮明《せんめい》に覚えている……。
あの時と違うのは、闇の中にいるのが本物のお化けだということだ。
「おい、何か感じるか?」
網野は不安を押し殺しながら、かたわらのホマムに訊《たず》ねた。
「はい、感じます」ホマムは震《ふる》える声でささやいた。「あっちにもこっちにも、形のない人の想いが――」
「バカ! そんなこと訊《き》いてるんじゃない。結界《けっかい》とやらのことだよ」
「分かりません――もう少し、前、進みましょう」
二人は砂利を踏《ふ》んで足音を立てないように注意しながら、なおも墓地の中を進み続けた。このあたりには有名人の墓もいくつかあるはずなのだが、暗すぎて文字が読めないので、どれがそうなのか分からない。歴史に名を残す人々も、この闇の中では無名の一般人と変わりはないのだ。あらゆるものが色彩《しきさい》を失い、モノクロの世界と化している。
いじんがこわいのではない、と網野は気づいた。いじんの恐ろしさは、殺されるかもしれないという危険、肉体に及ぶ危害に対する恐怖《きょうふ》心だ。それは凶悪犯《きょうあくはん》と格闘《かくとう》する時の危険と本質的に同じものであり、克服《こくふく》しようと思えばできる。
だが、この間に対する恐怖は――形のない不合理な恐怖、何が恐ろしいのかさえも分からないという漠然《ばくぜん》とした恐怖は、理性では決して乗り越えられない。それはおそらく人間の最も根源的な恐怖、理由のない純粋の恐怖であるからだ。
現実と悪夢の境界線は曖昧《あいまい》だ、という八環の言葉が思い出された。こうして深海のような闇の中を歩いていると、悪夢の圧力が重くのしかかり、現実との壁《かべ》を突き破ろうとしているのをひしひしと感じる。今にもその壁が破れ、闇の奥から黒い悪夢が実体化して襲《おそ》いかかってくるように思える……。
いじんもきっと、そうして生まれたに違いない。
「……お前、こわくないか?」
網野はささやいた。ホマムがささやき返す。
「はい、こわいです」
「そうだよな。人間だもんな……」
妖怪《ようかい》たちも恐怖を感じることがあるのだろうか、と網野はぼんやりと考えていた。闇から生まれた彼らは、たぶん闇の感じ方も我々とは違うんだろう。彼らが遊園地のお化け屋敷でこわがってたりしたら、それこそギャグだ……。
「……刑事さん」ホマムが声をかけた。「どこ行くんですか?」
網野は振り返った。「どこって……まっすぐ行くんだよ」
「でも、曲がってます」
言われてはじめて、網野は気がついた。それまで東京タワーが左|斜《なな》め前に見える方向に歩いていたはずなのに、いつの問にか東京タワーが右斜め前にある。このまま進めば墓地の外に出てしまう。
「そう言えばそうだな。何となくこっちに行きたくなったんだ――」
細野ははっとした。
「これが……人払いの結界か?」
「そうです。きっと。カーフも同じこと、言ってました」
「ということは……」網野は右に向き直り、東京タワーの方向を指さした。「こっちの方角なんだ」
あらためて東京タワー目指して歩きはじめる。今度はホマムが前に出て、網野がそれに続いた。そちらへ行ってはいけない、曲がらなくてはいけないという衝動《しょうどう》が、漠然とした不安感となって胸を締めつける。だが、抵抗できないほどではなかった。
アニメに出てくるバリヤーのようなものを想像していた網野は拍子抜《ひょうしぬ》けした。人払いの結界はあくまで心理的なものであって、物理的には何ひとつ阻止《そし》する力はないのだ。いったんそこに結界があることにさえ気づけば、通り抜けるのはたやすい。
ほどなく、目的の場所が近づいた。二人は大きな墓石の背後に身を隠《かく》し、前方の暗がりをうかがった。ホマムの目には、二つの白いものが樹《き》から吊《つ》るされて揺《ゆ》れており、その周囲を多くの黒い影が動き回っているのが見えた。
「あそこです――」ホマムは声をひそめた。
網野は目を凝《こ》らしたが、闇と墓石と黒い樹以外、何も見えなかった。
「本当に見えてるのか……?」
「はい。女の人が二人。たぶん片方が摩耶さん……」
これもおそらく心理的な作用なのだろう。だが、確かにそこに存在するはずのものが目に見えないというのは、常識人である網野にとって、ひどく不安をかきたてるものだった。
「よし、お前を信じよう」
網野たちは気配を悟《さと》られないよう、ゆっくりと中央の車道まで後退した。街灯の下で表示板に記された区画の番号を読み、携帯《けいたい》電話で八環たちに報告する。それからまた、いじんたちを監視《かんし》するために、暗闇の中に戻っていった。
「連中の位置はここです」
網野からの報告を基《もと》に、大樹は地図に×印《じるし》をつけた。さらに。コンパスで円を描く。
「霊園《れいえん》の東北の区画の中央。葬儀《そうぎ》場と都立|赤坂《あかさか》高校を結ぶ直線の、ほぼ中間ですね。結界の半径は一〇〇メートルぐらいだと推測されます」
「ということは、墓地の周辺までなら接近してもだいじょうぶだな」
八環は地図をにらんで、しばし作戦を考えこんだ。東京中から集まってきた妖怪《ようかい》たちは、青山墓地を大きく囲む四つの拠点《きょてん》に集結している。八環たちA班《はん》は墓地の北側、青山一丁目の交差点付近。B班は東側、乃木神社のあたり、C班は南側、六本木《ろっぽんぎ》通りの西麻布《にしあざぶ》の交差点、D班は西側、根津《ねず》美術館の前だ。しかし、今のままでは包囲網は穴だらけで、容易《ようい》に逃げられてしまう。もっと輪を縮《ちぢ》めなくてはならない。
「よし、D班は青山陸橋まで、C班は東大の研究所の前まで前進させよう。B班には少し迂回《うかい》してもらって、赤坂保健所前で待機。俺《おれ》たちも消防署前まで移動だ」
「B班もD班も、まだ半分以下しか集まってませんよ」と流。
「しかたないだろう。この短い時間じゃ、遠くの連中は間に合うまい。いくらか手薄《てうす》にはなるが、やむをえない」
「そうですね……」
「摩耶ちゃんのことが心配だからな。とにかく、今集まってる全員に、配置の変更を伝えてくれ。包囲が完了しだい、いっきに突入する」
真夜中の食事を終えたいじんたちは、いよいよ犠牲《ぎせい》者をいたぶる儀式に取りかかった。
三体のいじんが、円月刀をぶらぶらさせながら近寄ってきた。摩耶はホマムから聞かされた話を思い出し、恐怖《きょうふ》に身をすくめた。連中は捕《とら》えた娘をすぐに殺すのではなく、無数の傷を負わせ、じわじわと切り刻《きざ》んでゆくのだ……。
すぐにでも夢魔《むま》を呼び出したかったが、かろうじて自制していた。まだ包囲網が完成したかどうか分からないのだ。しかし、流たちがきっと助けに来てくれることは信じて疑わなかった。彼らからの合図があるまで、可能なかぎり耐《た》えるつもりだった。
いじんたちは円月刀の先端で、身動きできない摩耶の体を、値踏《ねぶ》みするようにちょんちょんとつつき回しはじめた。ごく軽く突かれているだけなので、痛みはあっても血は出ない。やがて、円月刀の先がワンピースの裾《すそ》をひっかけた。
びびっ! 不快な音がして、スカートが縦に裂《さ》けた。
摩耶の体内で何かが破裂《はれつ》しそうになった。形のない強烈な衝動が外に出ようとしてあがいてるのが、ほとんど物質のような確かさで感じられる。
(だめ! まだ早い!)
摩耶は歯を食いしばり、懸命《けんめい》に踏みとどまった。外から迫る死の恐怖と、内から爆発しようとしている衝動――二つの残酷《ざんこく》な力にはさまれ、少女は気が狂いそうだった。
「やめろお! やめろよお!」真理亜が泣きながら叫ぶ。「そいつに触《さわ》るな! そいつはあたしのダチなんだぞお! やめろお!」
ダチ――その二文字が、苦しみあえいでいる摩耶には、妙に嬉《うれ》しく感じられた。たった一時間のつき合いでしかないのに、友達と思ってくれる人がいる……その事実だけで、まだまだこの試練に耐えられそうな気がした。
びっ! 今度はワンピースの胸元が切り裂かれた。
青山霊園の北側入口――そこに建っている消防署の前で、八環たちは各|班《はん》からの報告が入るのを待っていた。
トランシーバーから次々に報告が入る。
<D班、青山陸橋に到着。外苑《がいえん》西通り沿いに展開してます>
<こちらB班。待機中>
「C班どうしたんだ? 遅いぞ!」
いつもは冷静な八環も、他のチームがなかなか思い通りに動いてくれず、いらいらしている様子だった。
<すまん。C班、今着いた>
「よし。そこからすぐに半数を青山陸橋の方向に、半数を北に展開させてくれ。B班とD班の数が少ないから、カバーしてやってほしいんだ。合図と同時に霊園内に突入だ」
<まかせとき!>
八環はうなずき、全員に最後の指示を与えた。
「結界《けっかい》の位置は教えた通りだ。その手前まで来たら、術破り≠フ力を持っている者全員で、結界破りをかける。そしたら一気に突っこむ。一体も逃がすな」
三分後、C班から展開完了の報告が届いた。これで完全に包囲網が完成したわけだ。
「よし、ただちに前進開始――流、あの刑事に伝えろ。摩耶ちゃんに合図を送れってな」
「摩耶ちゃん!」
激しい精神的|苦闘《くとう》の中で、なかばもうろうとなっていた摩耶は、聞き覚えのある声を耳にして、はっと我にかえった。
「もういいぞ! やっちまえ!」
その言葉の意味が理解できると同時に、抑えに抑えていた圧力が、どっと解放された。念《ねん》じる必要さえなかった。精神の枷《かせ》がはずされたことによって、実体化しようとうずうずしていたものが、ごく自然に形となった。
まるで闇《やみ》が爆発したかのように、摩耶の前に真っ黒な夢魔が出現した。
「てめえらあっ!!」
夢魔《むま》が吠《ほ》えた。いじんたちはたじろぎ、ほんの一瞬《いっしゅん》、反撃することさえ忘れて立ちつくしていた。
夢魔の力強い腕がバットのように振り回され、いちばん近くにいたいじんを強打した。耐えに耐えていた摩耶の怒りが、すさまじい力となって炸裂《さくれつ》したのだ。いじんは紙のように吹き飛び、墓石にぶつかって潰《つぶ》れた。
摩耶を取り巻いていたいじんたちは、悲鳴をあげ、蜘蛛《くも》の子を散らすように逃げ出した。夢魔は振り返ると、摩耶を吊《つ》るしているロープをつかみ、あっさりと引きちぎった。ずたずたに裂かれたワンピースの残骸《ざんがい》をまとって、摩耶はすっくと地面に立った。
「彼女も助けて!」
わざわざ口に出して指示するまでもなかった。夢魔は真理亜に顔を向け、腕を伸《の》ばした。
「うわあ! 何だこいつ!? 来るな、来るなあ!」
真理亜はまたパニックに陥《おちい》り、夢魔から逃れようとして身をよじっている。それにかまわず、夢魔はロープを引きちぎった。真理亜がバランスを崩《くず》して倒れそうになるのを、右腕で受け止めて抱《かか》え上げる。
「うわあ! 離せえ! うわあ!」
真理亜は夢魔の腕の中で、捕《とら》えられた蝶《ちょう》のようにじたばたしている。
戦いがはじまったら巻きこまれないようにすぐ逃げろ、という八環の指示が思い出された。妖怪《ようかい》たちの使う術のとばっちりを受けるかもしれないからだ。摩耶は夢魔に駆け寄り、空いている左腕に飛びこんだ。
「飛んで!」
巨大なコウモリの翼《つばさ》がはためき、地上に旋風《せんぷう》を巻き起こした。風で卒塔婆《そとば》が倒れ、花が吹き飛ばされる。二人の少女を軽々と抱え、夢魔は夜空高く舞い上がった。
霊園《れいえん》の外に逃げようとしたいじんたちを待ち受けていたのは、何十体という妖怪たちの包囲の列だった。
「悔《く》い改めるなら命だけは助ける……と言っても無理でしょうね」霧香は悲しそうにつぶやいた。「そういう風に生まれついてしまったんだものね」
殺戮《さつりく》がはじまった。
人の姿をしたものが、獣《けもの》の姿をしたものが、鳥や蛇《へび》や草木の姿をしたものが、石でできたものや水でできたものが、ゆらめく炎《ほのお》のように形のないものが、いっせいにいじんたちに襲《おそ》いかかった。爪《つめ》がひらめき、翼《つばさ》がはばたき、ムチのような触手《しょくしゅ》が空を切った。炎の柱が踊《おど》り、氷の嵐《あらし》が吹き荒れた。轟音《ごうおん》が大気を震《ふる》わせ、まばゆい電光が闇《やみ》を切り裂《さ》いた。大地が揺《ゆ》れ、風が舞い、立ち並んだ墓石を押し倒した。地表は飛び散る黒い粘液《ねんえき》で汚《けが》され、夜空は人でないものの悲鳴で満たされた。
一体がうろちょろ逃げまどううち、網野とホマムの隠《かく》れている墓石に近づいてきた。人質《ひとじち》にしようとでも考えたのか、奇声を発しながら彼らにつかみかかってくる。網野は夢中で発砲した。たいして傷は与えられなかったものの、足を止める役には立った。八環の発した風がそいつを捕《つかま》え、瞬時《しゅんじ》にボロ布に変えた。
一体のいじんが墓石の合間をすり抜けて逃げようとしているのを、金色の龍《りゅう》の姿に変身して空を飛んでいた流が見つけた。彼の口から放たれた紫色《むらさきいろ》の電光が地上をなぎ払い、次々と墓石を打ち砕く。だが、いじんは常にその一歩先にいて、墓石の破片を背中に浴びながらも、かろうじて直撃をかわしていた。そいつはどうにか墓地の西端のフェンスまでたどり着き、そこから車道に飛び降りようとした。
だが、そいつの運もそこまでだった。未亜子が先回りしていたのだ。彼女の髪《かみ》が長く伸《の》び、フェンスからジャンプしたいじんを空中でからめとる。髪がぎゅっと締まると、いじんは雑巾《ぞうきん》のように絞《しぼ》られ、醜《みにく》く潰《つぶ》れた。
それは一方的な殺戮だった。いじんたちは身を隠す能力には長《た》けているが、それ以外の能力はほとんどないのだ。数もあまりに違いすぎた。
何体かのいじんは、影に身を変じて逃げようとした。しかし、霧香のような探知能力に長けた妖怪に見破られ、たちまち術を破られた。地表に飛び出したところを、爪や牙《きば》で切り裂かれ、あるいは炎で焼かれた。
十数体いたいじんは、ほんの一分足らずで、その大半が殺されていた。
その地獄《じごく》のような殺戮のすべてを、摩耶は空から見下ろしていた。邪悪な生き物たちが滅《ほろ》ぼされているというのに、カタルシスなどはなかった。それどころか、マスターから聞かされた関東|大震災《だいしんさい》の時の惨劇《さんげき》を連想《れんそう》し、ひどく不快だった。
不快なのは妖怪《ようかい》たちも同じに違いない、と摩耶は思った。いじんがどれほど邪悪で危険な存在であろうと、やはりこれは殺戮なのだ。かつてナチスドイツがユダヤ人に、キリスト教徒が魔女《まじょ》と呼ばれる人々に、日本人が朝鮮《ちょうせん》人や中国人に対して行なってきた行為と、本質的に差はない。妖怪たちはもちろんそれを自覚している。人間たちが生み出した悪夢の後始末を、彼らがやっているのだ。人間たちの目につかないところで、人間たちの代わりに手を汚《よご》してくれているのだ。
どんな理由であれ、自分たちの意志、自分たちの手で同族を殺さなくてはならない彼らの心境は、どんなものなのだろうか。
悲惨《ひさん》な光景ではあったが、決して目をそらすまいと思った。いくつになっても忘れないよう、記憶に焼きつけておこうと思った。この夜のことを忘れないことが、自分の人間としての責任だと思った。
「おい、冗談《じょうだん》だろ? これ飛んでるぜ?」
真理亜は夢魔《むま》の腕にしがみつき、おどおどと地表を見下ろしている。声にビブラートがかかっているのは、風のせいばかりではないだろう。
「いったいどうなってんだ、おい!?」
「心配しないでいいのよ」
彼女を安心させるため、摩耶は無理して笑顔を作り、明るい声を出した。
「これは危害はくわえないから。姿はちょっと恐ろしいけど」
「こ……こいつ、お前の知り合いか?」
「うーん……」
どう克明していいのか、摩耶は頭をひねった。夢魔がどうこうと言っても、かえって混乱《こんらん》させるだけだろう。
「まあ、ペットみたいなものかな。私の言うことなら何でも聞くわ」
「信じられねえ……マンガみたいなことって、ほんとにあるんだな……」
真理亜は驚《おどろ》きや衝撃《しょうげき》を通り越し、しきりに感心していた。
「あっ、おい、あれ見ろ!」
突然、真理亜が下を指差して叫んだ。
「え?」
「一匹《いっぴき》逃げるぞ!」
真理亜が指差したものを、摩耶も見た。青山墓地の東側の通りを、北に走っているトラックがある。深夜のコンビニに商品を配送する車だろう。その大きな箱型の保冷庫の上に、一体のいじんがしがみついているのだ。そいつだけが包囲網を抜けたのだろう。
どうしよう――一瞬《いっしゅん》、摩耶は迷った。八環たちに知らせて追いかけてもらうべきだろうか。
だが、ぐずぐずしていては見失う危険がある。こうして迷っている間にも、トラックはどんどん遠ざかってゆくのだ……。
摩耶は決心した。
「追うわよ!」
彼女がそう叫ぶと同時に、夢魔はひときわ大きく翼《つばさ》をはばたかせ、すみやかに水平飛行に移った。
トラックを追跡《ついせき》するのは造作もないことだった。かつて夢魔は摩耶を抱えて時速一八〇キロで飛行したことがある。少女二人を抱えている今、最高速度はかなり落ちているだろうが、それでも路上をとろとろ走るトラックに負けるわけがない。夜空を飛ぶ黒い夢魔の姿は目立ちにくいのか、いじんはまだこちらに気づいた様子はない。
問題はいじんを捕《とら》えるタイミングにある。今しも、トラックは青山一丁目――深夜でも人通りの多い街《まち》に差しかかっている。こんなところで夢魔を暴《あば》れさせるわけにはいかない。人の少ない場所を選ばなくては……。
トラックは信号に捕《つか》まることもなく、青山一丁目の交差点を横切った。屋根にいじんを載《の》せたまま、外苑《がいえん》東通りを北上してゆく。右側は赤坂離宮の森、左側は青山中学と都営住宅だ。このまま進めばじきにJRの信濃《しなの》町駅に出る。その向こうはもう新宿区だ。
摩耶は焦《あせ》った。いじんとしても、いつまでもトラックにしがみついているわけにはいかないだろうから、飛び降りる場所を探しているはずだ。新宿区の住宅街にでもまぎれこまれたら、探《さが》し出すのは困難だ。何としてでもその前に捕えなければ……。
左側の都営住宅が途切れ、神宮外苑に差しかかった。道の両側から人家がなくなったわけである。もう歩行者の姿はほとんどない。
今だ!
夢魔が翼をすぼめ、急降下に転じた。ほとんど自由落下に近い。真理亜が悲鳴をあげる。道路がぐんぐん近づいてくる。
道路に激突する寸前、夢魔は巨大な翼をハングライダーのように広げ、瞬時に水平飛行に転じた。トラックの後ろを走っていた黄色いタクシーの屋根をかすめ、低空から一気にトラックに迫ってゆく。いじんはようやく追跡に気がつき、慌《あわ》てふためいて屋根から飛び降りようとしている。
夢魔の両手はふさがっている。自分の手で捕えるしかない。摩耶は風の中に身を乗り出し、か細い腕を精いっぱいに伸《の》ばした。
いじんがトラックの屋根からジャンプするのと、夢魔がトラックの上を通過するのは、まったく同時だった。二つの黒い影が空中で交差する。その瞬間、少女の白い手はいじんのまとっているマントの端をしっかりつかんだ。
摩耶の肩に衝撃が走った。重い! だが彼女は手を放さなかった。夢魔が急上昇すると、いじんは悲鳴をあげながら空中に吊《つ》り上げられた。後ろを走っていたタクシーの運転手はそれを目撃したが、一瞬の出来事だったので、夢魔やいじんの姿を網膜《もうまく》に焼きつけることはできなかった。何か黒くて大きなものが空を横切ったのが見えただけだ。
三人分の体重をぶら下げて飛ぶのは、さすがに夢魔にとっても重荷だ。たちまち上昇の勢いが鈍《にぶ》る。いじんはキーキーとわめき、手足をばたつかせてもがいたが、逃れることはできない。
摩耶は苦痛に耐《た》えながら、夢魔を大きく左に旋回《せんかい》させた。神宮外苑の広大な敷地が、黒々と眼下に広がる。あそこならいいだろう。
腕がちぎれそうな重みにぎりぎりまで耐えてから、摩耶は手を放した。いじんは悲鳴をあげながら、くるくると空を舞った。マントをはためかせ、きれいな放物線を描いて、明かりの消えた神宮球場に落下してゆく。
夢魔はその後を追って降下し、内野にふわりと着地した。腕を広げ、二人の少女をそっと地上に下ろす。ナイターは何時間も前に終わっているので、広い球場内には、彼らの他に人影はまったくない。
「すっげえ……」真理亜が茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。
ピッチャー・マウンドに叩《たた》きつけられたいじんは、重傷を負い、黒い血を流していた。地面に這《は》いつくばり、弱々しくもがいているが、立ち上がれない様子だ。苦しそうに土をひっかき、懇願《こんがん》ともすすり泣きともつかない哀《あわ》れなうめき声をあげている。
摩耶は夢魔を従えてそいつに歩み寄り、暗い表情で見下ろした。死の恐怖《きょうふ》と耐えがたい苦しみを味わわされたいじんではあったが、今はもう憎しみも恐れもなく、むしろ憐憫《れんびん》の情しか湧《わ》いてこなかった。彼らに罪があるわけではない。彼らは人間をおびやかし、傷つけ、殺すために生まれてきた。一切の愛を知らず、どす黒い憎悪《ぞうお》のみで構成されていた――人間が彼らをそのように生まれさせてしまったのだ。
だが、いくら哀れな存在であっても、許すわけにはいかない。この生き物は自分も含めたすべての人間たちの、心の中の醜《みにく》い部分の象徴《しょうちょう》なのだ。こいつを見逃すことは、自分自身の中の醜さを肯定《こうてい》することになるからだ。
摩耶はそいつから目をそらさなかった。元はと言えば、人間たちが自分の本質を見つめようとしなかったのがいけないのだ。自分の中に外国人に対する醜い偏見《へんけん》が存在することを認めたくなかったから、自分の誤《あやま》った信念を正当化するために、架空のいじんをでっちあげ、その存在を信じこまなくてはならなかったのだ。
だから、どんなに醜かろうと、見つめなくてはならない。このおぞましい生き物が自分の一部であることを認めなくてはならない。
彼女の決意とともに、夢魔が前に進み出た。太い指でいじんの首筋をつかみ、空中に持ち上げる。いじんは悲痛な叫びをあげた。
一瞬《いっしゅん》、摩耶の決意が鈍《にぶ》り、夢魔の動きが止まった。何も私が殺すことはないんだ。連れて帰って八環さんたちに代わりにやってもらえば……。
彼女はすぐに迷いを振り払った。妖怪《ようかい》たちにだけ手を汚させ、安全|圏《けん》にいるわけにはいかない。自分だけ清らかなふりをすることはできない。これは人間がやらなければならないことなのだ。二度と同じ悪夢を生み出さないためにも、今ここで、私の手で、悪夢は終わらせなくてはならないのだ。
「ごめんなさい……」
摩耶がそうつぶやくと同時に、夢魔の手が動いた。
一瞬、すさまじい悲鳴があがったかと思うと、すぐに途切れた。気味の悪い音とともに、いじんの体は紙のように裂《さ》けた。真っ二つになったそれを、夢魔は無雑作《むぞうさ》に地面に放り出し、踏《ふ》みにじった。何度も、何度も。
ぐちゃぐちゃに潰《つぶ》れたいじんの死体が、グラウンドに染みこんだただの黒いしみになってしまったのを見届《みとど》け、ようやく摩耶は夢魔を下がらせた。
「さあ――帰りましょ」
摩耶が悲しみを振り払うようにそう言うと、夢魔は再び左腕で摩耶を抱き上げた。茫然《ぼうぜん》と立ちつくしていた真理亜を同じように抱き上げると、夢魔は大きな翼をはばたかせ、深夜のグラウンドに土埃《つちぼこり》を舞い上げながら、空中に飛び上がった。
夢魔に対する恐れがいつの間にか消えていることに、摩耶は気づいた。かなたの言う通り、自分の醜い本質から逃げようとしていたから、いつまでたっても夢魔が恐ろしかったのだ。しかし今、その恐怖は去った。おぞましい姿をした夢魔を、自分の一部として受け入れることができるようになった。
人間はどうしようもなく醜く、愚《おろ》かで、残酷《ざんこく》な生き物だ――だが同時に、自分の醜さを素直に見つめる勇気がある。自分の愚かさから抜け出そうとあがく崇高《すうこう》さがある。自分の残酷さを悲しむ優《やさ》しさがある。
それこそが人間の持つ最も素晴らしいもの――可能性だ。
もう逃げない、と摩耶は誓《ちか》った。挑戦《ちょうせん》しなければ可能性もない。自分の醜さや愚かさから目をそむけ続けている限り、本当の勇気も優しさも手にすることはできないのだ。自分の醜さを克服《こくふく》するためには、それをしっかり直視しなくてはならないのだ。
「守崎ィ、お前って、すっげえ奴《やつ》だったんだな!」
夜空を飛びながら、真理亜が驚《おどろ》きと畏怖《いふ》をこめて言った。
「教えろよ。お前って宇宙人? それとも異次元のお姫様か何か?」
摩耶は苦笑して首を振った。「違うわ。私はただの日本人――ただの人間よ」
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12 この街のどこかで……
バー <うさぎの穴> ・早朝――
作戦を終えた一同は、店に戻《もど》り、ジュースとブランデーで乾杯《かんぱい》した。摩耶とホマムがいるのはもちろんだが、網野と真理亜も特別に招かれていた。
みんなあまり口をきかなかった。祝宴《しゅくえん》と呼ぶには淋《さび》しい雰囲気《ふんいき》だ、と網野は感じた。いじんたちを全滅《ぜんめつ》させたことを、妖怪《ようかい》たちは決して喜んではいないのだ。どんな事情があったにせよ、自分たちの同類を手にかけなくてはならなかったのだから。
この酒は祝いの酒ではなく、いじんたちへの弔《とむら》いの酒なのだろう。
真理亜だけはまだ興奮《こうふん》が冷めておらず、とまどう摩耶を相手に、やたらに元気良く喋《しゃべ》りまくっている。この少女にとって、今夜の想像を絶する冒険《ぼうけん》は、失恋の痛手を吹き飛ばすショック療法になったようだ。今夜知ったこと、体験したことの衝撃《しょうげき》に比べれば、男と喧嘩《けんか》別れしたことなど、すでに過去の小さな傷にすぎまい。
もっとも、網野がさんざん悩んだのに比べ、真理亜があっさり現実を受け入れることができたのは、飲み過ぎた酒のせいで思考力が鈍《にぶ》っていたせいかもしれない。げんに今も、この場の中で自分が浮きまくっていることに、まったく気がついていない。
「守崎ィ、お前、嘘《うそ》つきだよなあ」
真理亜は意地悪そうに目を細め、摩耶の肩をつついた。摩耶はジュースを飲みかけていた手を止め、きょとんとした顔をした。
「……嘘つき?」
「そうだよ! あの喫茶店で、お前、何つった? 覚えてるぞ! なあにが『平凡な結婚ができて、平凡な人生が送れれば』だよ!」
非難するというより、からかっている口調だったが、摩耶はひどく恐縮《きょうしゅく》してしまった。
「だって……本当にそう思ってるんだから……」
「やめろよ! お前はそうじゃねえよ!」
「?」
「お前はそんな人生歩んじゃいけねえよ! お前は特別な人間なんだから」
摩耶は驚《おどろ》いた。「そんな……私は何も特別じゃ……」
「いーや、特別だ」真理亜はきっぱりと言った。「あの怪物――ムマだっけ? あれを自由に操れるんだろ? おまけに妖怪といっぱい知り合いなんだろ? そんな奴《やつ》が特別な人間じゃないとでも言うつもりか、え?」
「それは……そうだけど」
いきなり、真理亜は両手を伸ばし、摩耶の肩をがっしりつかんだ。摩耶は困惑《こんわく》した。自分を見つめる真理亜の目が、涙でうるんでいたからだ。
「あたしさ、すげえ嬉《うれ》しいんだよ」
「嬉しい……?」
「そうさ――言っただろ? あたしは結局どこにでもいる誰か≠フ一人になっちまうんだ。どうあがこうが、どんなにグレようが、それこそ平凡な結婚して、誰かのコピーみたいな平凡な人生歩んじまうんだよ。それが悔《くや》しかった。悲しくてしょうがなかったんだ。世間にいる女の子はみんなそうだと思ってたんだ……。
でも違った! お前は違うんだよ、守崎! お前はどこにでもいる誰か≠カゃない、特別なお前なんだよ。誰かのコピーじゃない、この世にたった一人しかいないオリジナルのお前なんだよ! あたし、それが嬉しいんだよ。この世にそんな奴がいるってことが、そんな奴と知り合えたってことがさ……」
「でも……」いくら力説されても、摩耶にはまだ実感が湧《わ》かなかった。「私、特別な人間になんかなりたくない。どこにでもいる誰か≠ナかまわないのに……」
と、急に真理亜がこわい顔になった。「……守崎、お前、それ贅沢《ぜいたく》だぞ」
「贅沢?」
「だってそうだろ? この世の中には、あたしみたいに、いくら努力しようと特別な人間になれない奴がいっぱいいるんだ。見えない鋳型《いがた》にはめられて、大量生産のタイ焼きにされちまう奴らがさ。
それなのに――特別な人間になれるくせに、なりたくないだってぇ? それが贅沢じゃなくて何だってんだ!? 大金持ちのボンボンが『貧乏人になってみたい』って言ってるようにしか聞こえないぞ!」
「……ごめんなさい」摩耶は首をすくめた。
真理亜はまた急に優《やさ》しい顔に戻《もど》った。
「お前はな、守崎、特別な人間になるギムがあるんだぞ」
「義務?」
「そうさ、あたしらがなれない分、お前には特別な人間になって欲しいんだ――いや、ならなくちゃいけないんだ。お前みたいな奴がいなきゃ、この世はタイ焼き人間ばっかりになっちまう。そうなったら、それこそ夢も希望も何もないじゃないか。分かるか? お前はあたしらの希望なんだよ」
「でも、特別な人間って、いったい何をすれば……?」
「うーん」真理亜は頭をかいた。「実はそのへん、あたしにもよく分かんない……でも、お前には特別なことができるのは確かだろ? それを腐《くさ》らせる手はないよ。特別なことができるんなら、やらなくっちゃ」
「うん……」
「どうかな。あたし、無理な注文してるかな?」
「ううん、そんなことない」
摩耶は笑ってかぶりを振った。真理亜の主張は舌足らずだったが、何を言いたいのかは理解できる。これまでさんざん悩み続けてきたのは、現実を直視していなかったからだ。自分が夢魔《むま》を操れる特別な人間だと認める勇気がなかったからだ。
だが――今はもう悩みはない。自分から逃げないと誓ったからだ。自分の本当の姿から目をそむけないと|誓《ちか》ったからだ。
「特別な生き方か……」
摩耶はつぶやいた。それがどんな生き方なのか、もちろん彼女にも分からない。きっと苦しい道なのだろう。様々なトラブルもあるに違いない。
だが、やらなければならないのだ。この特別な能力が何かの形で人々の役に立てるなら、そうしなくてはならない。真理亜の言う通り、それは義務なのだ。
「分かった」摩耶は恥ずかしそうに微笑《ほほえ》んだ。「自信ないけど、やってみる」
「そう来なくちゃ!」
「でもね、永野さん、あなたもやってみるべきだと思うの」
真理亜は目を丸くした。「はあ? あたしが?」
「ええ。あきらめるべきじゃないと思う。『どんなにあがいてもどこにでもいる誰か≠ノなってしまう』なんて、悲しいこと言うべきじゃないと思う。もっともっとあがいてみるべきだと思うの」
「そうかなあ……」
「そうよ――そりゃあキュリー夫人は無理かもしれないけど、ほんのちょっとだけ人とは違う生き方って、できると思うの」
真理亜は頭をかいた。「いろいろやってみたんだけどね……」
「あきらめるのが早すぎるわ。私たち、まだ若いんだし、これから先、可能性はいくらでもあると思うの」
「可能性か……」真理亜は苦笑した。「恥ずかしいなあ。昔の青春ドラマみたい」
摩耶は頬《ほお》を赤らめた。「でも、本当のことよ。私だって、ほんの一年前まで、自分がこんな風になるなんて思ってなかったもの」
「そりゃあ、あたしも同じだぜ。ほんの何時間か前まで、お前と知り合って、あんな目に遭《あ》うなんて思ってなかったもん」
「でしょ? だったら――」
「うん、考えてみりゃ、そうなんだ。お前と知り合ったってだけで、あたしも充分、タイ焼きの型からはみ出してるんだよな……はは、人生面白くなってきた」
真理亜は笑いながら、摩耶の肩を抱き寄せた。
「あたし、幸せだよ。お前みたいな面白いダチが持ててさ!」
私も同じ、と摩耶は思った。心の中に温《あたた》かいものが広がる。
「そうね、深刻になってちゃだめなのね……」
「はあ?」
「もっと気楽に生きないと、自分に押し潰《つぶ》されちゃうものね……」
「へえ、いいこというじゃん!」
摩耶はかぶりを振った。「私が言ったんじゃない。友達が言ったの」
「他にもダチがいんのか? やっぱり妖怪《ようかい》?」
「ええ」
摩耶は大きくうなずき、口許《くちもと》をほころはせた。
「元気になったら、紹介してあげる――きっと仲良くなれると思うわ」
未亜子はホマムをさりげなく店の隅《すみ》に呼び寄せ、「はい」と言って、薄《うす》っぺらな手帳のようなものを差し出した。
「これは……!?」
ホマムは驚《おどろ》いて目を見開いた。ページをめくり、名前を確認する。それは確かに、ヤクザに取り上げられたはずの自分のパスポートだった。
「偽造《ぎぞう》じゃないわ。昨日のうちに取り返しておいたの」
「でも、どうやって……?」
ホマムの追及を、未亜子は意味ありげな笑《え》みでかわした。
「深くは考えないことね。ま、非合法な手段だとだけ言っておくわ」
「はい……」
「あなたはよくがんばってくれた。その働きに対する、私たちからの感謝の気持ちだと思ってちょうだい」
「でも……」
ホマムはまだ納得《なっとく》できないようだ。手にしたパスポートを見つめたまま、それをポケットに入れるのをためらっている。
「どうしたの? それはあなたのものなのよ」
「はい――でも、私だけがこんな良くしてもらっていいんでしょうか?」
「というと?」
ホマムは顔を上げ、切実な表情で未亜子を見つめた。
「パスポートを取られた仲間、たくさんいます。それなのに、私だけ、パスポートを返してもらっていいんでしょうか? 不公平です」
未亜子は苦笑した。
「全部のパスポートを取り返せって? だとすると、日本中のヤクザ組織を片っ端からぶっ潰《つぶ》さなくちゃいけないわね」
「……だめでしょうか?」
「無理じゃないわ。私たちの力を使えばね。でも、そこまで干渉は《かんしょう》したくないのよ」
「カンショウ?」
「そうよ。考えてもみて。もし私たちが、日本中のヤクザや悪い政治家どもを一掃《いっそう》してしまったら……その後はどうなるのかしら? 今度は私たちが連中に代わって日本を支配することになってしまうのよ」
「…………」
「これは人間の問題よ。だから人間の力で解決して欲しいの。この世界の問題を、私たちの力でみんな解決してしまったら、それこそ人間のためにはならないわ」
「はい……」
「それにね」未亜子は微笑《ほほえ》んだ。「私は信じてるの。人間には自分で問題を解決する力があるってね。いつの時代にも、いい人間は必ずいるんだから」
そう言って彼女は、カウンターで談笑している摩耶と真理亜に、ちらっと目をやった。
「はい、分かります」ホマムはうなずいた。「いい日本人はいっぱいいます。摩耶さんや、あの刑事さんのように……」
「でしょ? だから彼らを信じてあげて。苦しいのは分かるけど、今はもう少しがまんして欲しいの。人の心や、世の中の仕組みは、そんなに急には変わらない。変化はものすごくゆっくりと、でも着実にやって来る。
何年、何十年かかるか分からないけれど――でも、きっと変わるわ。摩耶ちゃんみたいな子がいるかぎり」
「はい……私も信じます」ホマムは小声で、しかし自信をこめて言った。
夜明けとともに、パーティは解散となった。一同は <うさぎの穴> を出て、自然に散らばっていった。
「ひとつだけ、どうしても分からないことがあるんだが」
別れ際、網野は八環に訊《たず》ねた。
「何だ?」
「あんたらはどうして人類征服とか考えないんだ? そんなすごい力があるんなら、簡単《かんたん》じゃないのか?」
八環は微笑した。「あんた、銃を持ってるだろ?」
「ああ。それが?」
「その銃で簡単に人が殺せるよな?」
「ああ」
「じゃあ、その銃でそこらの通行人を撃ってみたいと思うか?」
網野は首を振った。「いや」
「だったら」八環はうなずいた「それと同じ理由だろうよ」
複雑な気持ちを胸に抱いて、網野は雑居ビルの建ち並ぶ道玄坂《どうげんざか》一丁目をとぼとぼと歩きはじめた。陽《ひ》が昇ったばかりの渋谷は閑散としていて、人や車はほとんど見かけず、まるで世界が滅《ほろ》びた後のような寂しさだ。
車のクラクションが彼を呼び止めた。振り返ると、見覚えのある中古のクラウンが止まっていた。山辺|警部《けいぶ》が一〇年以上も使っている車だ。
「やあ、昨夜《ゆうべ》はご苦労だったね」山辺が窓から顔を出した。「乗りたまえ。私も夜勤明けなんだ。寮《りょう》まで送って行くよ」
「はあ……どうも」
酔いと眠気のために思考力が落ちていた網野は、深く考えることなく、上司の車に乗りこんだ。
何かがおかしいと気がついたのは、車が発車してから数秒してからだった。
「警部!?」
「ん? 何だね?」
「どうして僕《ぼく》があそこにいると分かったんですか? それに、昨夜のことって……」
「ああ、そりゃもちろん、連絡《れんらく》があったからだよ。八環くんからね」
そう言って山辺はいたずらっぽく微笑《ほほえ》んだ。網野は衝撃《しょうげき》を受けた。
「彼を……知ってるんですか?」
「何度か顔を合わせたことがあるだけで、詳《くわ》しいことは知らない。だが、 <うさぎの穴> のマスターとは古いつき合いだよ。
あれは大阪で万博をやった年だったな。私がまだ駆《か》け出しで……そう、ちょうど君と同じぐらいの年の頃だ。あるおかしな事件がきっかけで、彼らと知り合ったんだ。もっとも、最近はあまりあの店に行く機会はない。あそこは用のない人間があまり出入りしてはいけない場所だからね」
網野は茫然《ぼうぜん》となった。「じゃ……最初から知ってた?」
「ああ。この事件が妖怪《ようかい》がらみだと分かってたから、手を出さずに、彼らにまかせることに決めたんだ。だが、君がなかなか手を引いてくれないんで困ったよ」
「どうして言ってくれなかったんですか!」
「話したら信じたかね?」
網野は首をすくめた。「……いいえ」
「だろ? 君に真実を教えたかったが、口で言っても無理だ。だからその目でじかに見せてやることにしたんだ」
「これまでもこういうことは……?」
「ああ、ちょくちょくあった。こっちは彼らに必要な情報を提供する。向こうはその情報を使って事件を解決してくれる……」
「上層部もこのことを知ってるんですか?」
「さあてねえ。上の方の世界のことは、私にもよく分からん。少なくとも、うちの署で知っているのは、君と私だけなのは確かだ。他の署のことはよく知らん。ただ、あちこちから流れてくる噂《うわさ》を注意していると、事実が新聞報道と違ってたり、変な事件が中途半端な解決をすることがよくある。他の署にも私のような火消し役≠ェいるのかもしれんな。
今度の事件もそうだ。おそらく新聞の見出しはこんなとこだろう。『青山墓地で暴走族暴れる。墓石数十基倒壊』……」
網野は不満そうにつぶやいた。「……それでいいんですか?」
「何?」
「本当にそれでいいんですか? 一般大衆にこのことを知らせなくて? 真実を教えなくていいんですか?」
「教えてどうなる? 人間の間に妖怪が隠《かく》れ棲《す》んでるなんて分かったら、それこそ大|混乱《こんらん》だよ。秘密にしておくのがいちばん平和だ。彼らだってそれを望んでるんだから」
「はあ……」
「我々は人間の犯罪だけを追ってればいい。彼らの世界のことを裁くのは、彼らの仕事だ。その代わり、彼らは人間の世界には干渉《かんしょう》しない――ま、理想的な共生関係だな」
網野にはそんなに単純に割り切れそうになかった。心の中に様々な疑問や不満がわだかまっている。
邪悪な妖怪たちが起こす残虐《ざんぎゃく》な犯罪――本当にそれを彼らの世界のこと≠ニ片付けていいのだろうか? すべては人間の心が原因だというのに。
車窓から早朝の東京の静かな風景を眺めながら、網野は思った。何百万もの人の想いが渦巻《うずま》くこの大都会のどこかで、今も新しい妖怪が生まれ続けているのだろうか。そいつらはいったいどんな連中なのだろう……?
彼は身震《みぶる》いした。人の心が変わらないかぎり、いじんたちがまた現われないという保証は、どこにもないのだ……。
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この小説を書くにあたって、次のような資料を参考もしくはヒントにしました。(作者)
J・H・ブルンヴァン『消えるヒッチハイカー』(新宿書房)
同 『チョーキング・ドーベルマン』(新宿書房)
同 『メキシコから来たペット』(新宿書房)
同 『くそっ! なんてこった』(新宿書房)
J・N・カプフェレ『うわさ――もっとも古いメディア』(法政大学出版局)
松山巌『うわさの遠近法』(青土社)
青木国夫・他『思い違いの科学史』(朝日選書184)
ユーモア人間倶楽部・編『噂のうわさ――ウソのような本当の話』(青春出版社)
別冊宝島92『うわさの本』(JICC)
別冊宝島158『あぶない少女たち』(JICC)
『SAPIO』93年9月23日号「外国人犯罪黒書」(小学館)
アジア人労働者問題懇談会・編『侵される人権・外国人労働者』(第三書館)
仁木ふみ子『関東大震災中国人大虐殺』(岩波ブックレット No.21-7)
梓澤和幸『外国人が裁かれる時』(岩波ブックレット No.28-3)
稲生平太郎『何かが空を飛んでいる』(新人物往来社)
唐沢商会『脳天気教養図鑑』(青林堂)
ゲリー・ジェニングス『エピソード 魔法の歴史』(現代教養文庫)
スタン・グーチ『夢魔――内部空間からの来訪者』(未来社)
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妖怪ファイル
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妖怪ファイル10
[九鬼《くき》未亜子《みあこ》(濡《ぬ》れ女《おんな》)]
人間の姿:三〇歳ぐらいの髪の長い美女。
本来の姿:上半身は女性、下半身は大蛇。黒く長い髪。
特殊能力:水中で呼吸できる。人間の血を吸って生命力を回復できる。髪を長く伸ばして敵を縛り上げる。ダウジング。
職業:クラブの歌手。
経歴:年齢数百歳。かつては海や沼に棲み、若い男を襲って血をすする危険な妖怪だった。ある事件がきっかけで改心し、人間に味方するようになったらしい。詳しい経歴は謎に包まれている。人間に対しては優しいが、戦う時には徹底的に冷酷になる。
好きな物:生血。
弱点:特になし。
妖怪ファイル11
[高徳《たかとく》大樹《だいき》(算盤坊主《そろばんぼうず》)
人間の姿:メガネをかけた小太りの大学生風の男。
本来の姿:大きな算盤を抱えた汚らしい子供。
特殊能力:計算能力。コンピュータ操作。
職業:プログラマー。
経歴:元は丹波の山奥で算盤をジャラジャラ鳴らしていただけの無害な妖怪。一〇年前、人間の世界にはコンピュータというものがあると知り、興味を抱いて山を降りてきて、ある夫妻の養子となった。パソコンを扱うのが何よりも好きで、主にパソコン通信による情報収集で <うさぎの穴> の活動に貢献している。妖力はほとんどないが、趣味が広く、日常生活で役に立たない雑学にはとにかく詳しい。
好きな物:パソコン・ゲーム(主にシミュレーションと美少女ゲーム)。ボード・ゲーム。アニメ。特撮。プラモデル。読書。その他多数。
弱点:戦闘能力はほとんどない。
妖怪ファイル12
[井神《いかみ》松五郎《まつごろう》(化《ば》け狸《たぬき》)
人間の姿:メガネをかけた初老の男。
本来の姿:体長1メートルぐらいの野獣。現実のタヌキにはあまり似ていない。
特殊能力:いろいろな人間に変身できる。動物や鳥と会話できる。動物(犬以外)を操れる。驚異的な跳躍力。鋭い臭覚。
職業:バー <うさぎの穴> のマスター。
経歴:江戸に古くから棲む化け狸。太平洋戦争後、渋谷に <うさぎの穴> を開き、東京各所に棲む妖怪たちの連絡場所を提供する。妻との間にかなたをもうけるが、妻は現在、ある事情で行方不明。
性格はきわめて温厚。どんな時でも取り乱さない。
好きな物:クラシック音楽。ウィスキー。
弱点:犬が大嫌い。犬に噛まれると大怪我をする。
妖怪ファイル13
[いじん]
人間の姿:中東系の色の黒い外国人。
本来の姿:黒いマントをまとって円月刀を持った影のような姿。
特殊能力:影に変身する。結界を張って姿を隠し、あらゆる妖術による探知をさえぎる。
職業:なし。
経歴:日本人の外国人に対する恐怖心が生み出した妖怪。土曜の夜に若い女をさらってなぶり殺しにすることに喜びを覚える。明治時代にも出現した。
好きな物:猫の肉。赤いピアスの女。
弱点:特になし。
妖怪ファイル14
[赤舌《あかじた》]
人間の姿:なし。
本来の姿:毛むくじゃらで大きな頭部と長い舌を持つ巨大な妖怪。
特殊能力:数百度の熱風を吐く。長い舌で相手をからめ取る。『隠れ里』に人間を引きずりこむ。カップルに呪いをかけて別れさせる。
職業:なし。
経歴:本来の出身地は津軽地方。江戸時代から井の頭池に棲みつき、神田上水の水源を守ってきた。
好きな物:かわいい女の子
弱点:特になし。
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聞き書き妖魔夜行・番外編――僕の周囲の妖怪
妖怪は日常生活のどこにでも潜んでいます。この小説に出てくるように、人間の姿をしておおっぴらに街を歩いている連中もいますが、たいていの妖怪はごく小さくて、いつも物蔭に隠れており、人の目にふれにくいようです。
げんに僕の周囲にも一匹います。
僕はそいつをないない≠ニ呼んでいます。こいつの得意技は、人が目を離している隙に、何かをさっと持ち去ってしまうことです。まだ姿を目にしたことはありませんが、持ち去るのが小さなものばかりだということと、気配をまったく感じさせない点から考えて、かなり小さい妖怪なのでしょう。
たとえば、こんなことがありました。
昨年の夏、大阪でSF大会が開かれました。僕は朝一番の企画に出演するため、早く家を出なくてはなりませんでした。余裕を持って朝七時に起き、服を着替え、必要なものを紙袋に詰めこんで、いざ出発――という時になって、腕時計がないのに気がつきました。
不思議です。確かに朝起きた時、枕元に時計はありました。「ああ、出かける時にこれをはめて行かないとな」と考えたことまで覚えています。それがどうして見当たらないのでしょう。ないない≠フしわざとしか考えられません。
部屋中を三〇分ぐらい探しても、腕時計は出てきませんでした。僕はあきらめて時計なしで家を出ましたが、おかげで危うく遅刻するところでした。その後、帰宅してからもう一度徹底的に探しても、ついに腕時計は出てきませんでした。
僕の部屋の中で消えた腕時計は、これで三個目です。
時計だけではありません。シャープペンシル、消しゴム、本……共通しているのは、「なくなってもたいして実害はないけど、ちょっとだけ困る」というものばかりだということです。財布やカードや鍵のような大事なものは、なくなっても後でひょっこり戻ってきます(それも必ず、確かに一度探したはずの場所に戻ってくるのです! ああ、悔しい)。健康保険証は戻ってきませんでしたが、この時は引越しの直前で、どっちみち古い保険証を返して、引越し先の市役所で新しく申請する必要があったので、たいして困りませんでした。
ただ、某誌の連載の原稿を収めたフロッピーが一枚消えた時には、大騒ぎになりました。この時は編集の方に大変なご迷惑をかけてしまいました。ないない≠ノしてみれば、フロッピーの価値なんて分からなかったのかもしれませんが。
消えた品物は、いったいどこに行ってしまったのでしょう? もし本棚の裏などに隠してあるなら、引越しの時に発見できるはず……と、たかをくくっていたのですが、家具をすべて撤去した後にも、何も見つかりませんでした。
三個の腕時計、何本ものシャープペン、健康保険証、フロッピー……これらはとうとう戻ってきませんでした。
新居に引越してもないない≠フ攻撃は続いています、先日は干しておいたシャツが二枚、ハンガーごと消えました。三階建てのテラスハウスの屋上なので、人間のしわざとは思えませんし(だいたい男物のシャツを盗む奴なんていませんよね)、風が強い日でもなかったので、飛ばされたとも思えません。その他にも、ホットカーペットのコード(どうやってこ人なものが家の外に出て行けるのでしょう?)が消え、大変に迷惑しています。
おいないない=Aシャープペンやシャツはどうでもいいけど、あの腕時計だけは返せよな。あれは彼女からのプレゼントだったんだぞ!
ガス栓のコックを動かなくしたり、水洗トイレの水を止まらなくしたり、テレビのリモコンが反応しないようにしたり、CDの針を飛ばしたり(ほんと! 針が飛ぶんだから!)、確かに録音したはずのテープを消してしまったりするのが、ないない≠フしわざなのか、それとも別の妖怪のしわざなのか、まだ分かっていません。
[#地付き]山本 弘
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<初出>
カドカワムック「コンプRPG」Vol.6
一九九三・二・二八刊
カドカワムック「コンプRPG」Vol.7
一九九三・五・三一刊
なお文庫化にあたり、加筆修正を加えました。
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底本
角川スニーカー文庫
シェアード・ワールド・ノベルズ
妖魔夜行《ようまやこう》 悪夢《あくむ》ふたたび……
平成六年一月一日 初版発行
著者――山本《やまもと》弘《ひろし》