サーラの冒険6 やっぱりヒーローになりたい!
山本 弘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)「この泥棒猫《どろぼうねこ》!」
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|闇の庭《ガーデン・オブ・ダークネス》
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目次
1 空白《くうはく》の日々
2 忘《わす》れたい記憶《きおく》
3 運命の図案《ずあん》
4 悪徳《あくとく》の都《みやこ》
5 魔法《まほう》のお茶
6 「この街みたい」
7 急襲《きゅうしゅう》
8 ジェノアの野望
9 運命の分岐点《ぶんきてん》
10 英雄降臨《えいゆうこうりん》
11 明日に続く道
あとがき
キャラクター・データ
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1 空白《くうはく》の日々
迷宮《めいきゅう》は暗く、寒々としていて、空《うつ》ろだった。
ランタンと|光の精霊《ウィル・オー・ウィスプ》のゆらめく光に照らし出された通路は、何の装飾《そうしょく》もなく、血の気の失《う》せた死者の肌《はだ》のような、ざらざらした灰色《はいいろ》の石の壁《かべ》と床《ゆか》がどこまでも続いていた。ドワーフでも精霊使《せいれいつか》いでもない少年の目には、奥《おく》の方は闇《やみ》に沈《しず》んでいて見通せなかった。一行は罠《わな》を警戒《けいかい》しつつ、慎重《しんちょう》に歩を進めていた。足音や息の音、金属鎧《きんぞくよろい》がこすれ合う音、剣《けん》の鞘《さや》が腰《こし》に当たるかすかな音が、静寂《せいじゃく》の中でやけに大きく反響《はんきょう》する。空気は重くよどんでいて、埃《ほこり》っぽい匂《にお》いしかせず、生命の気配のかけらも感じられない。いるとしたらゴーレムかアンデッドの類《たぐい》ぐらいだろう。実際《じっさい》、ここまで進む間に遭遇《そうぐう》した怪物《かいぶつ》はスケルトンが四体だけで、あっさり撃退《げきたい》することができた。
迷宮に潜《もぐ》ったことは何度かある。古代王国の遺物《いぶつ》であるこうした地下迷宮は、アレクラスト大陸では珍《めずら》しくもないもので、財宝《ざいほう》を見つけて一攫《いっかく》千金を夢《ゆめ》見る冒険者《ぼうけんしゃ》たちの絶好《ぜっこう》の標的なのだ。だが、探索《たんさく》は命を代価《だいか》にした宝《たから》くじのようなもので、期待ばかり大きくて、大当たりを引くことはめったにない。夢|破《やぶ》れて悪党に身を落とす者や、迷宮に巣食う怪物の牙《きば》にかかって命を落とす者も多い。死後もゾンビとなって地下をさまよい続ける哀《あわ》れな冒険者を、サーラは見たことがある。
それでも無謀《むぼう》な冒険に挑《いど》む者が跡《あと》を絶《た》たないのは、財宝そのものよりも、罠を切り抜《ぬ》け、怪物と戦い、死の危険《きけん》と隣《とな》り合わせで未知の領域《りょういき》を探索するスリルに魅了《みりょう》されているからだ。サーラもかつてはそうだった。田舎《いなか》の村の退屈《たいくつ》な日常に飽《あ》き、危険を求め、冒険者にあこがれた。パーティの仲間たちとともに洞窟《どうくつ》や地下迷宮に入る時には、不安な反面、いつも胸《むね》がわくわくしたものだ。
だが、今のサーラには、この迷宮が以前に見たものとまったく違《ちが》うように感じられた。魅力を感じない。高揚《こうよう》感もない――無論《むろん》、これ自体はどこにでもあるありきたりの迷宮だ。変わったのは自分の方だ。
ここは僕《ぼく》の心のようだ、とサーラは思った。
暗くて先が見えない。死に絶えていて、空っぽで、陰鬱《いんうつ》で、冷えきっている。希望の輝《かがや》きも、生命の躍動《やくどう》もない。まだ十三|歳《さい》だというのに、未来が閉ざされてしまったように思える。これまで生きてきたからという、ただそれだけの理由で、惰性《だせい》で存在《そんざい》しているだけだ。深い闇の奥にひそんでいるのは、生命や希望とは対照的な、暗く破滅《はめつ》的な衝動《しょうどう》だ。それは牙を研《と》ぎ、隙《すき》あらば暴《あば》れ出そうと狙《ねら》っている……そんなイメージが浮かぶ。自分の頭を切り開いたら、この迷宮のミニチュアが見つかるのではないかと思える。
あるいは、ここは僕の頭の中なのかも。僕は自分の頭の中に迷いこんでいて、長い悪夢《あくむ》に囚《とら》われているのかも。ああ、もしそうだったらどんなにいいか。これが悪夢だったら、どんなに長くとも、いつかは覚めることができるのだから。
そう、どんな悪夢だって、この現実《げんじつ》よりはましだ。
「待て」
別の通路と合流するところで、並《なら》んで先頭を歩いていたミスリルが急に立ち止まり、左手でサーラを制《せい》した。ダークエルフの血が混《ま》じったその黒い肌《はだ》は、迷宮の闇に似合《にあ》っている。先頭に立って落とし穴《あな》や毒矢などの罠を警戒するのが、盗賊である彼の役目だ。右肩《みぎかた》の少し上の空中には、青くぼうっと光る球体――ウィル・オー・ウィスプが浮かび、周囲に柔《やわ》らかい光を投げかけている。今、彼は不審《ふしん》そうに顔を歪《ゆが》め、猛禽類《もうきんるい》のように鋭《するど》い眼《め》で通路の奥をにらみつけていた。
「どうした?」
二番手を歩いていたデインが、小声で訊《たず》ねた。彼はこのパーティのリーダー格《かく》だ。堅《かた》い革鎧《かわよろい》を着てレイピアを手にした若《わか》い戦士で、チャ=ザの司祭《プリースト》でもある。
ミスリルは犬のように鼻をひくつかせた。
「……匂いがする」
「匂い?」
他の者も匂いを嗅《か》いだ。なるほど、さっきまではただ埃の匂いしかしなかったのに、今はかすかに別の匂いが混じっている。
「……獣《けもの》だな」
そう言ったのは、デインの妻《つま》で女戦士のレグディアナである。金属鎧に身を囲め、男でも扱《あつか》いに困《こま》るような重いフレイルを愛用している。男のように短く切った銀髪《ぎんぱつ》、顔には傷跡《きずあと》。外見は恐《おそ》ろしそうだし、口調も乱暴《らんぼう》だが、けっこう女らしい部分もある。
「確《たし》かか?」妻ほど嗅覚《きゅうかく》が鋭敏《えいびん》でないデインが確認《かくにん》する。
「ああ。ほんのちょっぴりだけど、毛皮とか小便の匂いがする」レグは不思議がった。「でも、ここまでこんな匂いはなかったのに」
「入口の方まで行くことがめったにないからだろうな」デインはすぐに得意の推理《すいり》を展開《てんかい》した。「それで匂いがほとんど残ってなかったんだ。入口から出てきたところをあの女の子が目にしたのは、たぶん、すごい偶然《ぐうぜん》だったんだろう」
「つまり、ここから先が、そいつの縄張《なわば》りってことね」
楽器を兼《か》ねた魔法《まほう》の杖《つえ》を握《にぎ》りしめ、フェニックスが緊張《きんちょう》した声で言う。長い赤髪《あかがみ》で、ハーフエルフ特有のほっそりした体格《たいかく》。愛らしい外見に似合わず、多くの攻撃《こうげき》魔法を使いこなすベテランの魔術師《まじゅつし》である。スケルトンぐらいなら、彼女の呪文《じゅもん》ひとつで吹《ふ》き飛ばすことも可能《かのう》だ。だが、ここから先に待ち受けている敵は、そう簡単《かんたん》に片《かた》づけられそうにない。気を引き締《し》めてかかる必要がある。
魔獣《まじゅう》――自然界の動物とは異質《いしつ》な種族で、なおかつ人間に害をなすものがこう呼ばれる。その多くは、人間と蛇《へび》、ライオンと黒山羊《くろやぎ》と蛇、鳥とトカゲなど、まったく異なる動物を合体させた奇怪《きかい》な姿《すがた》をしている。他の動物と同じく、この世の初めに生み出されたものもいるが、古代王国時代の魔法実験によって創造《そうぞう》されたものも多いと言われている。
自然界の動物の性質《せいしつ》は、魔獣には当てはまらない。たとえば魔獣の中には、地下|迷宮《めいきゅう》の中に番人として配置され、餌《えさ》がないはずの環境《かんきょう》で何百年も生きているものがいる。侵入者《しんにゅうしゃ》が現《あら》われるまで仮死状態《かしじょうたい》で待ち続けているのだという説もあるが、仮死状態の魔獣なるものを見た者が誰《だれ》もいないので、はっきりとは分からない。大きな謎《なぞ》なのである。魔獣自身に訊ねてみようにも、言葉を喋《しゃべ》れないものが多いし、たいていの場合、遭遇《そうぐう》すると同時に戦闘《せんとう》になり、話し合う余地《よち》などない。
ひとつだけ確かなのは、魔獣はゴーレムと違《ちが》い、彫像《ちょうぞう》のようにじっと動かずに待ち続けているわけではない、ということだ。魔獣はしばしば迷宮内を徘徊《はいかい》するし、時には外に出て人に危害《きがい》を加えることもある。仮死状態になることがあるにしても、おそらく何年かに一度の周期で目覚めるのだろう。
今、この迷宮には獣の匂《にお》いがする――ということは、今まさに活動している魔獣がいるということだ。
山麓《さんろく》の村にはまだ何の被害《ひがい》も出ていない。山歩きの好きな少女が、たまたま崖崩《がけくず》れで露出《ろしゅつ》した迷宮の入口を発見し、そこから出てきた魔獣をちらりと目撃《もくげき》したという、頼《たよ》りない情報《じょうほう》があるだけだ。だが、自分たちの村の近くに危険《きけん》な魔獣が棲《す》んでいるかもしれないというのは、村人たちにしてみれば気持ちのいいものではない。それで村長が用事でザーンに出てきたついでに、念のために調べてもらえないかと、冒険者《ぼうけんしゃ》の店「月の坂道」亭《てい》に依頼《いらい》を持ちこんできたのだ。
その不安をデインたちは利用した。人の良さそうな村長に、多少の誇張《こちょう》を交えて魔獣の恐《おそ》ろしさを説き、「今のうちに退治《たいじ》しておかないと、被害が出てからでは手遅《ておく》れですよ」と力説して、不安をさらに煽《あお》りたてた。ひとたびこちらのペースに巻きこめば、後は難《むずか》しくなかった。お決まりの根気強い金額《きんがく》の交渉《こうしょう》があったものの、どうにか村長に四五〇〇ガメルを約束させた。そこそこ脚《あし》の速い馬が買える額である。
もちろん成功|報酬《ほうしゅう》だ。実際《じっさい》に魔獣を倒《たお》して、その首なり尻尾《しっぽ》なりを持ち帰らないと、金にはならない。世の中には、作り物の首を用意しておき、やってもいない怪物退治で報酬をせしめる悪徳《あくとく》冒険者もいるらしいが、その点ではデインたちはきわめて誠実《せいじつ》で、冒険者としての仁義《じんぎ》を守ることを身上にしている。
「足跡《あしあと》は分からんな」
しゃがみこんで床《ゆか》を調べていたミスリルが、悔《くや》しそうに言った。床にうっすら土埃《つちぼこり》が積もっているが、足跡が残るほどの量ではないのだ。
「ライオンの足跡があれば、マンティコアだって決め手になるんだが」
「あの子の証言《しょうげん》だけで充分《じゅうぶん》じゃないのか?」レグが不満げに言った。「コウモリの翼《つばさ》でサソリの尻尾なんて怪物、他《ほか》にいないんだろ?」
「いや、素人《しろうと》の話を鵜呑《うの》みにするのはなあ……」
そこがミスリルのこだわっている点だった。敵がマンティコアだと判断《はんだん》して作戦を立ててきたが、もし目撃者の少女の観察が間違っていたのなら、すべて台無しになる。実のところ、ここに来るまで、少女のホラ話かもしれないという疑《うたが》いもあったのだ。
「私はあのリゼットっていう子、信用できると思うけど」フェニックスが擁護《ようご》する。「あなただって、彼女を信頼《しんらい》して素顔《すがお》を見せたんでしょ?」
ミスリルの黒い肌《はだ》は、事情を知らない者には誤解《ごかい》を受けやすい。そのため、旅先ではなるべくフードを深くかぶり、顔を隠すようにしていた。素顔を見せるのは、親しくなった相手、信頼できると判断した相手だけだ。
だが、ミスリルは懐疑《かいぎ》的な態度《たいど》を崩さない。
「いい子だとは思うが、人間的に信頼できるかどうかと、観察眼《かんさつがん》が信頼できるかどうかは別だからな」
「疑《うたぐ》り深いのね」
「俺《おれ》の流儀《りゅうぎ》だからな。他人を信用しすぎると、痛《いた》い目に遭《あ》う」
「そうだね……」サーラがぼそりと言った。「あまり人を信じちゃいけないね……」
その言葉が、パーティの温度を一挙に下げた。忘《わす》れかけていた――いや、忘れたくてたまらなかった記憶《きおく》が、また彼らの胸《むね》の中でうずいた。ほんの半年前、彼らは信頼していた仲間のひどい裏切《うらぎ》りに遭ったうえ、おとなしそうな女の子が人を殺したことを知ったばかりだった……。
そう言ってから、サーラ自身も暗くなった。どうして僕はこうなんだ。言ってもしかたのないことを口にしてしまう。みんなにも自分にも嫌《いや》なことを思い出させるだけで、何ひとついいことなんてないのに。
だが、口にせずにいられない。つい、心の中にある暗い想《おも》いを吐《は》き出したくなってしまう――自分だけで抱《かか》えこむには、あまりにも重すぎて。
「えへん……ま、とにかくだ」場の雰囲気《ふんいき》を変えようと、デインはわざとらしく咳払《せきばら》いをした。「とりあえずはリゼットの言葉を信じて、例の手で行こう。フェニックス、ミスリル、要《かなめ》は君たちだからな」
「ええ」
「分かってるって」
二人はうなずいた。マンティコアは暗黒|魔法《まほう》を使う。それに対抗《たいこう》するために、まずミスリルが精霊《せいれい》魔法の「消音《ミュート》」で相手が呪文《じゅもん》を唱えるのを封《ふう》じる。普通《ふつう》ならこうした迷宮内《めいきゅうない》では|風の精霊《シルフ》の力が働いていないので、「消音《ミュート》」は使えないのだが、ミスリルはこのためにシルフを召喚《しょうかん》し、小さな笛の中に封じて持ち歩いていた。魔法がかからなかった場合には、フェニックスが仲間全員に「魔法対抗《カウンター・マジック》」の呪文をかけ、暗黒魔法に対する抵抗力《ていこうりょく》を上げる手はずになっている。
一行は迷宮の奥《おく》と思われる方向に歩を進めた。強い怪物《かいぶつ》は出現《しゅつげん》しないし、罠《わな》もないようだ。いくつか部屋を調べてみたが、テーブルや椅子《いす》や戸棚《とだな》など、ありきたりの家具があるだけで、めぼしい財宝《ざいほう》もない。
「こりゃあ、誰かに荒《あ》らされた後かもな」
ミスリルが渋《しぶ》い顔で言った。珍《めずら》しいことではない。迷宮の多くは他の冒険者《ぼうけんしゃ》に調べつくされ、財宝など残っていないものだ。
彼らが村人の不安をあおりたててまでわざわざ魔獣退治《まじゅうたいじ》を引き受けたのは、これまで存在《そんざい》を知られていなかった迷宮であるうえ、魔獣が棲《す》んでいるなら、まだ荒らされていない可能性《かのうせい》が高いとにらんだからだ。財宝と魔獣退治の報酬、両方とも手に入れるのが理想だ。だが、すでに荒らされた迷宮なら、冒険者にとっての価値《かち》はほとんどない。
「けど、崖崩《がけくず》れで入口ができたのって、つい最近だろ」レグが首をひねった。「村の長老だって、こんなところに迷宮があるなんて知らなかったんだぜ。他の奴《やつ》らが先に来てたなんてことがあるか?」
「入口が他《ほか》にもあるのかしら」フェニックスが自信なさそうに言う。
「あるいは、荒らされたのは何百年も前だとも考えられるな」デインも眉《まゆ》を寄《よ》せて考えこんでいた。「まだ入口が土に埋《う》もれていなかった頃《ころ》だ。あの村ができたのはその後なのかも。それなら誰も覚えてなくて当然だ」
「だったら何でマンティコアがいるのさ?」とレグ。「とっくに退治されてなきゃおかしいじゃないか」
「つい最近、どこかよそから来て、空っぽの迷宮に棲みついたのかもしれない。マンティコアは邪悪《じゃあく》な知識《ちしき》の守護者《しゅごしゃ》だと言われてるが、この迷宮にはそんな雰囲気《ふんいき》が感じられない。魔獣が元から棲んでたとは思えないんだ」
「確かに……」
サーラは通路を見回して納得《なっとく》する。つい半年前、彼らは邪悪な魔術師《まじゅつし》ギャラントゥスの造《つく》った迷宮を探索《たんさく》した。そこには不気味な骨《ほね》の怪物《かいぶつ》が配置され、陰険《いんけん》な罠《わな》が随所《ずいしょ》に仕掛《しか》けられていたうえ、壁《かべ》には悪魔の顔の|浮き彫り《レリーフ》がこれ見よがしに飾《かざ》られていて、主《あるじ》の趣味《しゅみ》や性格《せいかく》を如実《にょじつ》に表現《ひょうげん》していた。何世紀も前に死んだ男の歪《ゆが》んだ執念《しゅうねん》が息づいているのが感じられたものだ。それに比べて、ここは飾り気がなく、強い個性《こせい》も感じられない。
もっとも、この迷宮にギャラントゥスの迷宮を連想させる雰囲気があったなら、それはそれで、サーラにとって苦しいものになったはずだ。あの迷宮にはあまりにも悲惨《ひさん》な思い出があった……。
「じゃあ、お宝《たから》はなしか?」レグがつまらなそうに言う。
「まだそうと決まったわけじゃないさ」デインは努めて明るい口調で返した。「奥の方にまだ何か残ってるかもしれないし、何もなくても、マンティコアを仕留《しと》めればとりあえず元は取れる。とにかく、先に進もう」
長い通路の突《つ》き当たりには、ものものしい両開きの鋼鉄《こうてつ》の扉《とびら》があった。やはり装飾はなく、表面にはうっすらと錆《さび》が浮《う》いている。何世紀も前のものなら、とっくにぼろぼろになっていても不思議はないが、ここは乾燥《かんそう》しているので腐食《ふしょく》も錆もさほど進行しなかったのだろう。
「矢が飛び出してくる罠があるな」ミスリルが鍵穴《かぎあな》の周辺を調べて言った。「よくあるやつだ。それに、もう解除《かいじょ》されてる。鍵もかかってない。やっぱり誰かに先を越《こ》されたんだろう」
「骨折り損《ぞん》かよ」レグは肩《かた》を落とした。「やる気、削《そ》がれるなあ」
「報酬《ほうしゅう》が少ないからって気を緩《ゆる》めるなよ」デインはいつになくきつい表情《ひょうじょう》で注意した。「マンティコアはけっこう強い。油断《ゆだん》したらやられる」
「分かってるよ」レグは表情を引き締め、あらためてフレイルを握《にぎ》りしめた。「シイムを孤児《こじ》にしたくはないからな」
彼女は七か月前、男の子を出産したばかりだ。さすがに赤ん坊《ぼう》を冒険に同行させるわけにいかないので、信頼《しんらい》できる女性《じょせい》に預《あす》けてある。無論《むろん》、ただというわけではなく、旅に出ている間の養育費は払わねばならないのだが。
「行くぞ、サーラ」
ミスリルに言われ、サーラは無言でうなずく。二人は扉に肩を当て、慎重《しんちょう》に押《お》した。錆びついた蝶番《ちょうつがい》が嫌《いや》な音を立てる。頭ひとつ分ほどの隙間ができたところで、ミスリルがウィル・オー・ウィスプを入れ、室内を照らし出した。サーラも手にしたカンテラを掲《かか》げる。
「広い部屋だな」ミスリルが覗《のぞ》きこんで言った。「天井《てんじょう》が高い。礼拝堂《れいはいどう》みたいな感じだ。動いているものはないが――正面にあるあれはゴーレムかな?」
「見せて」
フェニックスが進み出た。ミスリルはさらに扉を大きく開けると、彼女の視線《しせん》をさえぎらないよう、かがみこんだ。フェニックスは彼の肩越しに室内を覗きこんだ。
何かの儀式《ぎしき》を行なうための部屋なのだろうか。天井はアーチ形で、二階建てぐらいの高さがある。部屋の奥《おく》には台座《だいざ》があって、裾《すそ》の長いドレスを看て腕《うで》を広げた女性の石像《せきぞう》が立っていた。邪悪そうな感じはまったくしないが、油断は禁物《きんもつ》だ。
迷宮内《めいきゅうない》で彫像《ちょうぞう》を目にしたら、ガーゴイルかゴーレムの可能性《かのうせい》を疑《うたが》うのが、冒険者の常識である。特に石や金属《きんぞく》でできたゴーレムは、剣《けん》では歯が立たないので、可能な限《かぎ》り戦闘《せんとう》を避《さ》けなくてはならない。フェニックスは「魔法感知《センス・マジック》」の呪文《じゅもん》を唱えた。石像が魔法のかかったものだったり、室内に魔法による罠が仕掛けてあれば、そのオーラが見えるはずだ。
「魔法はかかってないわね」
「床《ゆか》にも罠はなさそうだ」
念のためにしゃがみこんで床を調べていたミスリルが言う。安全が確認《かくにん》されたので、一同はなかば拍子抜《ひょうしぬ》けしながら、ぞろぞろと室内に足を踏《ふ》み入れた。
「確かに礼拝堂のような感じだけど」フェニックスが像を眺《なが》めて考えこむ。「あれはマーファか何かの像かしら」
「案外、奥さんか恋人《こいびと》かもな」レグは笑った。
「だとしたら」フェニックスが像に向かってぶらぶらと歩き出した。「この迷宮の主は、そんなに邪悪な人じゃ――」
彼女の声は不意に途切《とぎ》れた。
サーラは見た。裾の長い服の上から革《かわ》のベストを着た、フェニックスの見慣《みな》れた後ろ姿《すがた》。その衣服の肩から脇腹《わきばら》にかけての部分が、内側から爆発《ばくはつ》したかのようにふくらんだかと思うと、一瞬《いっしゅん》で赤く染《そ》まるのを。見えない刃《やいば》が衣服には傷《きず》ひとつつけず、肉体だけを斬《き》り裂《さ》いたのだ。彼女は衝撃《しょうげき》で身をよじり、激《はげ》しく踊《おど》るような動作をすると、振り回した腕の袖口《そでぐち》から扇状《おうぎじょう》に血しぶきをまき散らしながら、ふわりと床に崩《くず》れ落ちた。
サーラの頭の中も衝撃で真っ赤に染まった。こんな光景は前にも見たことがある。
暗黒|魔法《まほう》だ。
「フェニックス!」
「後ろだ!」
「ちくしょう!」
ミスリル、デイン、レグが口々に叫ぶ。振り返ったサーラはぞっとなった。前方の像にばかり気を取られていたが、入口の上部は壁《かべ》ではなく、大きくくぼんでテラスのようになっていたのだ。その手すりから老人が醜《みくい》い顔を突《つ》き出し、こちらを見下ろしてにたにた笑っている。人間の頭よりひと回り大きく、そのため、遠近感が混乱《こんらん》した。髪《かみ》はざんばらで、大きく裂けた口には長い牙《きば》が光っていた。
混乱したサーラの耳に、ミスリルが早口で精霊《せいれい》魔法を唱えるのが聞こえた。目には見えないが、|風の精霊《シルフ》の魔法が老人に向かって飛んだはずだ。老人が首をよじり、口を開けて苦悶《くもん》するのが見えた。何か叫んでいるようだが、声は聞こえない。
その間に、デインは倒《たお》れたフェニックスに駆《か》け寄《よ》り、抱《だ》き起こしていた。彼女は瀕死《ひんし》の重傷《じゅうしょう》で、気を失っていた。デインが治癒《ちゆ》呪文を唱えている間に、レグは二人を守る位置に移動《いどう》し、フレイルを身構《みがま》える。
サーラが老人に気を取られていたのは、ほんの数秒のことだった。すぐに自分が何をすべきかを思い出した。仲間の足手まといにならないこと――とりわけ、敵とレグの間に立たないことだ。体に染《し》みついた動作で、横に何歩か飛びのき、場所を空ける。レグは戦闘《せんとう》になると、力いっぱいフレイルを振り回す。ぼうっと突っ立っていたら、空振りしたフレイルに頭を砕《くだ》かれかねない。
魔法を封《ふう》じられた老人は、手すりを乗り越え、風のように飛び降《お》りてきた。思いがけず素早《すばや》い動作に、サーラは動揺《どうよう》し、一瞬、その全体像を把握《はあく》できなかった。老人の首から後ろには、人間のものではありえないシルエットが続いていた。マントを思わせるコウモリの翼《つばさ》が、音もなくはためいた。
フェニックスが攻撃《こうげき》を受けてから、まだ一〇秒も経《た》ってはいない。
怪物《かいぶつ》はレグにのしかかるように襲《おそ》いかかった。彼女はかわしきれず、太い前足で金属鎧《きんぞくよろい》の胸《むね》をはたかれ、押し倒された。倒れながらフレイルを振り回すが、バランスが崩れていて当たらない。転倒《てんとう》した拍子《ひょうし》に石の床に後頭部を強打し、うめく。
レグを押さえこんだ瞬間、そいつの動きが数分の一秒だけ止まり、サーラの視界《しかい》に異形《いぎょう》の怪物の姿が鮮明《せんめい》に焼きついた。事前にデインから説明と警告《けいこく》を受けていたとはいえ、やはり実物を目にした衝撃は大きかった。
魔獣《まじゅう》マンティコア。
そいつはちっぽけな人間を威圧《いあつ》するかのように、黒く巨大《きょだい》な翼を広げ、四本の脚《あし》ですっくと立っていた。頭は残忍《ざんにん》な性格《せいかく》と邪悪《じゃあく》な知恵《ちえ》を秘《ひ》めた老人。胴体《どうたい》はしなやかさと屈強《くっきょう》さを併《あわ》せ持つ獰猛《どうもう》なライオン。赤い紋様《もんよう》の入った黒光りするサソリの尻尾《しっぽ》は、空中でうねうねと踊っており、先端部《せんたんぶ》の鉤状《かぎじょう》に湾曲《わんきょく》した棘《とげ》からは猛毒の液体《えきたい》がしたたっている。これが古代の魔術《まじゅつ》実験の成果だというなら、いったいどんな歪《ゆが》んだ精神《せいしん》がこんな異常《いじょう》な組み合わせを思いついたのか。その姿はまさに創造者《そうぞうしゃ》の狂気の具象化であり、あまりのおぞましさに見る者を恐怖《きょうふ》に陥《おとしい》れた。
だが、サーラを混乱させたのは、魔獣に対する恐怖ではなかった。そいつの姿が二つのものを同時に連想させたことだった。ライオンの体はキマイラを。そしてコウモリに似《に》た黒い翼は……。
怪物はレグの両肩《りょうかた》を押さえつけると、大きく口を開け、咽喉笛《のどぶえ》に食《く》らいつこうとした。間一髪《かんいっぱつ》、ミスリルがウィル・オー・ウィスプを怪物の顔面に叩《たた》きつける。精霊はぱっと火花を発して消滅《しょうめつ》し、室内は暗くなった。額《ひたい》が焦《こ》げた程度《ていど》で、たいしたダメージではなかったものの、マンティコアは一瞬《いっしゅん》ひるんだ。前足の力がゆるんだ隙《すき》をついて、レグが強引《ごういん》にはねのけながら、フレイルを振り回す。怪物はそれをかわすために、彼女から飛び離《はな》れなくてはならなかった。
フェニックスは意識《いしき》を取り戻《もど》した。まだ脇腹《わきばら》から血を流しているにもかかわらず、気丈《きじょう》にも立ち上がろうとしている。デインはさらに治癒呪文《ちゆじゅもん》を唱えた。これで傷《きず》は完全に回復《かいふく》するはずだ。
サーラは今や唯一《ゆいいつ》の照明となったランタンを左手で高く掲《かか》げつつ、右手で腰のダガーを抜《ぬ》いた。怪物の背後《はいご》に回りこんだものの、空中にうごめくサソリの尻尾を目の前にして、戦闘《せんとう》に参加すべきか迷っていた。こんなやつにちっぽけなダガーが通用するか、自信がなかったせいもある。だが、もっと大きな理由は、忌《い》まわしい過去《かこ》の記憶《きおく》が脳裏《のうり》にちらついていたことだ――以前、キマイラの蛇《へび》の尾《お》にからみつかれ、呪《のろ》いをかけられたこと。その呪いを解《と》くために、愛する少女が選んだおぞましい手段《しゅだん》……。
マンティコアはすでに呪文を封《ふう》じられているが、そんなことはサーラには関係なかった。キマイラのように暗黒魔法を使う魔獣が目の前にいる。その事実が、怒り、恐怖、後悔《こうかい》、憎悪《ぞうお》がからみ合った複雑《ふくざつ》な感情で少年を縛《しば》り、麻痺《まひ》させているのだ。飛びかかっていいのか逃げ出していいのか、泣き出すべきなのか怒りの雄叫《おたけ》びをあげるべきなのか、サーラには分からなかった。
ミスリルはさっきの「消音《ミュート》」に全力を注いだので、もう魔法を使う気力はあまり残っていない。やむなくダガーで突《つ》きかかる。翼に命中したものの、軽くはじかれ、まったく傷を負わせられない。
フェニックスはデインの手を借りてどうにか立ち上がった。杖《つえ》を構《かま》え、古代語魔法を唱えようとする。だが、これほど敵《てき》に肉薄《にくはく》されてしまっては、火球や電撃のような強力な攻撃魔法は、仲間を巻きこんでしまうので使えない。それに、いきなり殺されかけたことが彼女を怖気《おじけ》づかせ、攻撃《こうげき》的な呪文の使用をためらわせていた。やむなく、全員に「防御《プロテクション》」をかける。目に見えない魔法の膜《まく》で肉体を保護《ほご》するという初級の呪文だ。完全に防《ふせ》げるわけでなく、怪物の牙《きば》や棘の勢《いきお》いをわずかに削《そ》ぐという程度の気休めに近い効果《こうか》しかないが、何もしないよりはましだ。
治癒《ちゆ》を終えたデインは、振《ふ》り向きざま、マンティコアにレイピアで斬《き》りつけた。肩のあたりに当たったものの、傷は浅く、効《き》いているように見えない。レグは「このお!」と叫《さけ》びながら、フレイルをぶんぶんとがむしゃらに振り回す。マンティコアの脇腹に当たるが、やはり決定打ではない。サーラもおそるおそるダガーを突き出したが、サソリの尾の硬《かた》い表皮にあっさりはじかれてしまった。
マンティコアは攻撃目標をデインに変えた。さっきの治癒を見て、彼が司祭《プリースト》であることを知り、その神聖《しんせい》魔法を封《ふう》じないことには勝てないと判断《はんだん》したのだろう。牙で腕《うで》に噛《か》みつきながら、サソリの棘で顔面を狙《ねら》う。デインは顔面への致命《ちめい》的な攻撃はどうにかかわしたものの、右腕の肉をごっそりかじり取られ、激痛《げきつう》にうめいた。
「くたばれ!」
ミスリルが思いきって踏《ふ》みこんだ。ダガーがマンティコアの右の肋骨《ろっこつ》の間に深くめりこむ。声の出せない怪物《かいぶつ》は無言で苦悶《くもん》した。しかし、やはりダガーでは短すぎて、心臓《しんぞう》にまで達しない。怪物が大きく身を震《ふる》わせたので、ミスリルは慌《あわ》てて飛び離れた。
フェニックスは「麻痺《パラライズ》」の呪文《じゅもん》を唱えた。動きを封じようというのだ。しかし、マンティコアは魔獣とはいえ、並《なみ》の人間を上回る頭脳《すのう》の持ち主だ。意志《いし》の力で呪文を払《はら》いのける。
魔法への抵抗《ていこう》に注意がそれた隙《すき》を突《つ》いて、レグが再《ふたた》び飛びかかる。今度は怪物の左後ろ脚《あし》を強打。痛《いた》みに驚《おど》いたのか、マンティコアは急に振り向いた。長い尻尾が旋回し、レグは慌てて頭を下げる。デインは後ずさりしようとして、フェニックスと衝突《しょうとつ》した。その混乱《こんらん》の隙に、怪物の巨体は方向|転換《てんかん》を完了《かんりょう》していた。
サーラは瞬時《しゅんじ》に怪物の意図を理解《りかい》した。こいつは逃げようとしている。さすがにこれ以上戦い続けるのは不利と踏んだのだろう。この部屋の出入り口は、彼らが入ってきた扉《とびら》しかない。そこを強引《ごういん》に突破《とっぱ》する気だ。
その進行方向に、サーラは立っていた。
「危《あぶ》ない!」
ミスリルが叫ぶ。当然、サーラは飛びのくものと、彼は思っていた。マンティコアは逃亡《とうぼう》のための助走を開始している。突っ立っていたらまともに体当たりを食らう。よほどの馬鹿《ばか》でない限《かぎ》り、よけようとするはずだ。
サーラはよけなかった。
「ぐっ!」
頭部の直撃は受けなかったものの、コウモリの翼《つばさ》の根元で腹《はら》を強打し、サーラはうめいた。しかし、まだ突進の勢いがついていなかったうえ、衝撃を覚悟《かくご》して身がまえていたので、耐《た》えられないほどの痛みではない。そのまま翼にしがみつく。
通路に飛び出したマンティコアは、ただちに全力|疾走《しっそう》を開始した。フェニックスが再度《さいど》の「麻痺《パラライズ》」を放とうとしたが、できなかった。衝突と同時に、サーラが持っていたランタンが吹《ふ》っ飛んで明かりが消え、室内が真っ暗になったからだ。フェニックスは目標を見失った。
彼女が「|明かり《ライト》」の呪文《じゅもん》を唱えた時には、マンティコアはサーラをひきずったまま、すでに魔法《まほう》の射程《しゃてい》の外に走り出てしまっていた。
怪物は真っ暗な通路を駆《か》け抜《ぬ》けた。右の翼にサーラをひっかけているのと、後ろ脚に傷《きず》を負っているせいで、普段《ふだん》より脚力《きゃくりょく》は落ちているものの、それでも並の人間を上回る速さで駆けることができた。暗視能力《あんしのうりょく》を持っているうえ、この迷宮《めいきゅう》の構造《こうぞう》は知りつくしているので、明かりがなくても壁《かべ》にぶつかることはない。
走りながら翼をばたつかせ、邪魔《じゃま》な少年を振り落とそうとする。だが、サーラは翼を股《また》ではさみこんだうえ、ダガーを翼の根元に突《つ》き立て、しっかりとしがみついていた。さしものマンティコアも、全力で走りながらではサソリの尾《お》で攻撃することはできない。かといって、わざわざ少年を殺すために停止することもできない。今は他の冒険者《ぼうけんしゃ》を引き離《はな》すことが最優先《さいゆうせん》だからだ。
真っ暗な中、サーラは激《はげ》しく上下動する翼に必死にしがみついていた。ズボンの尻が石の床《ゆか》に激しくこすれ、熱くなる。さっきぶつけた腹も痛む。魔獣《まじゅう》が曲がり角でカーブするたびに、遠心力で振り落とされそうになる。それでも突き立てたダガーにしがみつき、離そうとしなかった。
悪夢《あくむ》の中のような体験だった。何も見えない。どこをどう走っているのかも分からない。マンティコアにはまだ「消音《ミュート》」がかかっているので、暴走《ぼうそう》しているにもかかわらず、足音も息の音も聞こえない。だが、魔獣の力強い筋肉《きんにく》の動きは伝わってくるし、ひどい体臭《たいしゅう》も間近で嗅《か》ぎ取れる。
不思議に恐怖《きょうふ》は感じなかった。魔獣に対する憎《にく》しみ、こいつを逃《に》がしてはならないという執念《しゅうねん》が、他のすべてを忘《わす》れさせていた。
(お前は絶対《せったい》に逃がさない!)
サーラは錯乱《さくらん》していた。このマンティコアは二年前に出会ったキマイラとはまったく別の存在《そんざい》なのだと、頭では分かっているはずなのに、心はその事実を認《みと》めようとしなかった。両者を混同《こんどう》し、歪《ゆが》んだ復讐心《ふくしゅうしん》をぶつけていた。この魔獣させ倒《たお》せば、呪《のろ》いにかけられたという過去《かこ》が帳消しになる――呪いが発動することもなく、愛するデルがあんなことをしでかすこともなくなるのだという、理屈《りくつ》に合わない考えに支配《しはい》されていた。
同時にサーラは、デルのイメージをも重ね合わせていた。翼のはばたきの音とともに、闇《やみ》の彼方《かなた》へ去っていった少女。その翼をじかに目にしたわけではない。しかし、サーラのイメージの中では、それは黒く巨大《きょだい》なコウモリの翼なのだ。マンティコアの醜《みくい》い顔はデルにまったく似《に》ていなかったが、この翼にしがみついていると、デルを抱《だ》き締《し》めているような錯覚《さっかく》を覚えた。ダガーを突《つ》き立てていると、デルを殺そうとしているような感覚に苛《さいな》まれた。まるであの忌《い》まわしい夜のように。
愛するデルを取り戻《もど》したいという想《おも》いと、同じぐらい強烈《きょうれつ》な、デルを殺したいという想い――その狭間《はざま》で、サーラは理性《りせい》を失い、狂《くる》いかけていた。
急速にあたりが明るくなってきたかと思うと、魔法の火球が爆発《ばくはつ》したかのように光が満ちあふれた。走り続けたマンティコアが、迷宮《めいきゅう》の外に飛び出したのだ。闇に慣《な》れていたサーラの視野《しや》は、すぐには明るさに順応《じゅんのう》できなかった。マンティコアも同様で、飛び出したとたんにまぶしさで目がくらみ、足を滑《すべ》らせた。
迷宮の入口は低い崖《がけ》の中ほどに位置していて、崖崩《がけくず》れで滑落《かつらく》した土が、入口の下に半円錐形《はんえんすいけい》に堆積《たいせき》していた。マンティコアはつんのめって派手《はで》に転倒《てんとう》し、その傾斜《けいしゃ》を転がり落ちた。サーラは魔獣の下敷《したじ》きにはならなかったものの、突き刺《さ》していたダガーがすっぽ抜《ぬ》け、振《ふ》り飛ばされた。宙《ちゅう》を舞《ま》い、傾斜の下の地面に叩《たた》きつけられる。
柔《やわ》らかい草地だったうえ、フェニックスのかけた「防御《プロテクション》」がまだ持続していたものの、落下の衝撃《しょうげき》は強烈だった。サーラは腰《こし》と背中《せなか》を強打し、激痛《げきつう》で息が止まりそうになった。気が遠くなりかけるが、意志《いし》の力で必死に意識《いしき》を保《たも》つ。だが、背中が痛《いた》くて起き上がれない。大の字に横たわったまま、眼《め》だけを動かしてマンティコアを追う。
涙《なみだ》と苦痛《くつう》でぼやけた視野の端《はし》で、倒れた魔獣が身震《みぶる》いして土を払《はら》い、起き上がるのが見えた。近づいてくる。逃げようにも、体が動かない。それどころか意識を保つので精《せい》いっぱいだ。頭がどんどんぼんやりしてくる。今にも気を失いそうだ。
マンティコアは傍《かたわ》らまでやって来ると、おもむろに長い尻尾《しっぽ》を振り上げた。少年の顔に不吉《ふきつ》な影《かげ》が落ちる。
サーラが最後に見たのは、まばゆい太陽を背景《はいけい》に、死をもたらす棘《とげ》が黒いシルエットとなってちらついている光景だった。ああ、ここで死ぬのか、とぼんやりと思った。観念して目を閉じる。
「サーラ! サーラ! しっかりして、サーラ!」
誰《だれ》かが呼《よ》んでいる。女の子のようだ。デルだろうか? 違《ちが》うような気もする。もうどうでもいい。僕の苦しみはここで終わるんだ……。
サーラは気を失った。
「サーラ! しっかりしろ、サーラ!」
デインの腕《うで》に激《はげ》しく揺《ゆ》さぶられ、サーラはのろのろと目蓋《まぶた》を開けた。まだ生きていることを知って、呆然《ぼうぜん》となる。すでに治癒呪文《ちゆじゅもん》がかけられていたらしく、痛みは嘘のように軽くなっていた。
「デイン……?」
「立てるか?」
サーラは手を借りて、よろめきながら起き上がった。今までのことは夢《ゆめ》だったのかと思う。だが、夢ではなかった。近くの草地にはマンティコアが倒《たお》れている。まだ血のついたフレイルを握《にぎ》ったままのレグが、その胴体《どうたい》の上に腰を下ろし、ぜいぜいと息をしていた。
ミスリルやフェニックスもいる。迷宮の入口まで道案内をしてくれたリゼットという少女も、青い顔で立ちすくんでいた。さっき名を呼んだのは彼女だったのか……。
「てめえ!」
ミスリルが興奮《こうふん》して駆《か》け寄《よ》ってきた。デインが「よせ!」と止めようとしたが、それを振り払い、サーラの胸《むな》ぐらをつかむ。
「どういうつもりだ!? あんな馬鹿《ばか》なことをやって! 死にたいのか!?」
サーラは何も答えず、気まずそうに目をそらせた。
ミスリルははっとなった。少年をつかんでいた手がゆるむ。思わず口にした言葉が、真実を言い当てていたことに気づいたのだ。
サーラは死にたいのだ。
「……倒せたんだから、いいじゃない」
感情《かんじょう》のこもっていない声でそう言うと、サーラは落ちていたダガーを大儀《たいぎ》そうに拾い上げた。半年前まで愛用していた魔法のダガーではない。あれはデルが持っていってしまった。
何の罪《つみ》もない女の子を惨殺《ざんさつ》するために。
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2 忘《わす》れたい記憶《きおく》
「眠《ねむ》ったみたいね」
フェニックスは赤ん坊《ぼう》の寝顔《ねがお》を覗《のぞ》きこみ、優《やさ》しくささやいた。
「ああ。あんなにうるさかったのが嘘《うそ》みたいだ」
赤ん坊をあやしていたレグも、ようやくひと息ついて微笑《ほほえ》んだ。
ここは「月の坂道」亭《てい》。巨大《きょだい》な岩山をくりぬいて作られたザーンの街の東側、第二|階層《かいそう》から第四階層まで続くだらだらした坂道を登りきったところにある酒場|兼《けん》宿屋だ。いわゆる「冒険者《ぼうけんしゃ》の店」というやつで、冒険者たちの宿泊施設《しゅくはくしせつ》であり、憩《いこ》いの場であり、情報交換《じょうほうこうかん》の場でもある。夜ともなると十数人の冒険者が酒場にたむろして、酒を酌《く》み交《か》わして馬鹿騒《ばかさわ》ぎを繰《く》り広げたり、互《たが》いの武勇伝《ぶゆうでん》を誇張《こちょう》を交えて披露《ひろう》し合ったりする。どこそこに財宝《ざいほう》が眠っているらしいとか、どこそこにこんな怪物《かいぶつ》が出るとかいった、怪《あや》しげな噂《うわさ》が飛び交うことも多い。
だが、今は昼間。二人の他《ほか》に客はいない。夜の「月の坂道」と別の店であるかのように、酒場はひどく静かで、がらんとしている。夕食時が近づいているので、主人も使用人も店の奥《おく》で料理の下ごしらえに忙《いそが》しい。
「ほんと、男の子のくせに泣き虫で困っちまう」レグは笑いながらぼやいた。「夜中に何度、叩《たた》き起こされたことか」
「赤ちゃんは泣くものよ」
「そりゃそうだけどさ。お乳《ちち》やっても、おしめ替《か》えてやっても泣くんだぜ? いったい何が不満なのやら」
「大変ね」
「そりゃもう。怪物と戦うより、よっぽど大変だ」レグは眠っている我《わ》が子の頬《ほお》を、ふざけて指で軽くつついた。「こら、お前は小さな怪物だ」
「ほんと、あなたも変わったわねえ、レグ」
フェニックスはしみじみと言った。外見も性格《せいかく》も出自もまるで異なる二人だが、何年もいっしょに冒険を重ねてきて、友情で結ばれている。他人には話せないようなことも気兼《きが》ねなしに話し合える仲だ。
そのフェニックスでさえ、赤ん坊を楽しそうにあやしているレグを見ていると、長くつき合ってきた彼女にこんな側面があったのかと驚《おどろ》かされる。
「ああ、自分でもそう思うな。何かジンセーカンとかいうやつが、根本的に変わっちまった気がする」
「どんな風に?」
「ちょっと前まで、いつ死んでもいいって思ってた。冒険者なんて、どっかの迷宮《めいきゅう》で野垂《のた》れ死にするのが定めなんだ。自分で選んだ道だし、それが当たり前だと思ってた。でも、こいつの顔を見てるとな……」レグは優しい目で子供《こども》を見下ろして言った。「死ねないな、と思ってくる。少なくとも、この子が大きくなるまでは」
「分かるわ」
「いや、分からないね。お前さんは知識としてそう言ってるだけだろ? 本で読んだ知識と同じで、親は子供を愛するものだって知ってるだけだろ? でも、実際《じっさい》に母親にならなきゃ、この感覚は分からないぜ」
「かもしれない」
「なる気はないか?」
フェニックスは苦笑した。
「やめとくわ。それこそ怪物|退治《たいじ》より大変そうだし」
「まったくだ!」
レグは大口を開けて笑いかけたが、せっかく寝た子供を起こしてしまうと気づき、慌《あわ》てて声をひそめた。
「……実際、大変なんだ。この前の仕事もあまり金にならなかったしさ。デインも儲《もう》け話を探《さが》してはいるんだけど。今日もミスリルといっしょに盗賊《とうぞく》ギルドに出かけてるし」
「盗賊ギルドに?」
フェニックスはちょっと驚いた。盗賊ギルドはその性格上、秘密《ひみつ》主義を貫《つらぬ》いていて、容易に外部の人間を入れたりしない。何かよほど特別の用件《ようけん》なのだろうか。
「ああ。何かギルドがらみの秘密の仕事らしいんだけどね」
フェニックスは眉《まゆ》をひそめた。
「そういう仕事って、たいてい危険《きけん》よ」
「しかたないだろ。金が要《い》るんだから」
ザーンの大司祭の息子《むすこ》であったデインだが、レグとの結婚《けっこん》を反対されて勘当《かんどう》された身で、今は経済《けいざい》的に困窮《こんきゅう》している。おまけに最近、キャラバンの護衛《ごえい》などのちまちました仕事ばかりで、大きな儲け仕事もめぐってこないので、ジリ貧《ひん》に陥《おちい》っていた。それで、舞《ま》いこんできたマンティコア退治の仕事に飛びついたのだ。
結局、迷宮の中に財宝は見つからなかった。マンティコアを倒《たお》した報酬《ほうしゅう》のうち、デインとレグの取り分は二〇〇〇ガメル。預《あす》けていた女性《じょせい》に払《はら》った金や、旅の間の諸経費《しょけいひ》を差し引けば、残りは一五〇〇ガメルといったところ。生活費を切り詰めたとしても、親子三人で二か月ももたない額《がく》だ。命をかけるには、ちょっと安い。
子供には安楽な暮《く》らしをさせてやりたい。そのためには金が要る。手っ取り早く金を稼《かせ》ぐには、危険な仕事を引き受けなくてはならない。しかし、報酬が大きければ大きいほど危険度も増《ま》し、我が子を孤児《こじ》にしてしまう可能性《かのうせい》も高くなる――それは子持ちの冒険者《ぼうけんしゃ》が必ず抱《かか》えるジレンマだ。
「まあ私も、儲け仕事があれば受けたいっていうのが本音だけどね。この前の冒険では赤字だったし」
「ああ、魔晶石《ましょうせき》?」
「そう」
フェニックスはうなずいた。あの時、逃走したマンティコアに追いつくために、全員に「肉体強化《フィジカル・エンチャント》」の呪文《じゅもん》をかけて、足を速くしなくてはならなかったのだ。ようやく迷宮の入口で追いついて、まさにサーラを殺そうとしていたマンティコアに全力で「麻痺《パラテイズ》」をかけて動きを封《ふう》じ、ミスリル、デイン、レグが取り囲んでとどめを刺した。だが、そのためには彼女の持っていた魔力だけでは足りず、魔晶石の力を借りなければならなかった。
魔晶石は青白い光を放つトパーズに似た石で、遺跡《いせき》や迷宮でよく見つかる代表的な古代王国の遺物《いぶつ》である。内部には魔力《まりょく》が蓄《たくわ》えられており、それを消費《しょうひ》することで、魔術師《まじゅつし》や精霊使《せいれいつか》いは本来なら不可能な回数の魔法を行使することができる。だが、消費した魔力を再充填《さいじゅうてん》する方法は知られていない。一度使ったらおしまいなのだ。そのため魔晶石は高価《こうか》で、一個何千ガメルという価格《かかく》で取り引きされている。フェニックスは自分の持っていた貴重な魔晶石のうち一個を使い切ったのだ。
「惜《お》しかったと思ってる?」
「まさか。ああしなければサーラは救えなかったもの。でも……」
「ああ、問題だよな」
二人は顔を曇《くも》らせた。
少し前まで、サーラはパーティの士気を盛《も》り上げてくれる存在《そんざい》だった。まだ未熟《みじゅく》で、戦闘《せんとう》ではたいして役に立たなくても、その明るさ、無邪気《むじゃき》さ、若《わか》さ、元気の良さで、すさみがちな気分をなごませてくれた。サーラがそこにいるだけで気分が高揚《こうよう》して、力が一|割増《わりま》しぐらいになる気がした。
だが、今は違《ちが》う。サーラはもう明るくも無邪気でもない。口数も極端《きょくたん》に減《へ》った。何か口にするたびに、パーティの雰囲気《ふんいき》は暗くなる。逆《ぎゃく》にみんなを気遣《きづか》って、笑顔《えがお》を見せることもたまにあるが、無理して笑っているのが見え見えで、痛々《いたいた》しい。
それだけならまだいい。先日の戦闘で、サーラに破滅《はめつ》願望があることが明らかになった。さすがに自殺は望まないものの、無謀《むぼう》な戦い方をして死ぬことを望んでいる――苦しみから逃《のが》れるために。
「ハドリー村から帰って、もう半年になるのになあ……」
レグは重苦しいため息をついた。彼女自身、その場に立ち会ったわけではない。子供《こども》が生まれたばかりだったので、冒険には同行できなかったのだ。だが、その衝撃《しょうげき》的な話は、帰ってきたデインたちから聞かされた。
デルが――サーラの愛した少女が、人を殺したという事実を。
悲劇《ひげき》が起きたのは半年前、彼らが古代王国の秘宝《ひほう》が隠《かく》された迷宮《めいきゅう》を探索《たんさく》するために、サーラの故郷のハドリー村に行った時のことだった。
信じていた仲間の裏切《うらぎ》りと破滅を目にした一行が、重苦しい心境《しんきょう》で村はずれの迷宮から帰還《きかん》した夜、サーラとデルは二人きりで山に入っていった。翌朝《よくあさ》、サーラの幼《おさな》なじみのフレイヤという少女が自室で惨殺《ざんさつ》されているのが発見され、村が大騒《おおさわ》ぎになっている時に、サーラだけが帰ってきたのだ。
話を聞かされても、デインたちは最初、信じられなかった。彼らはデルを、おとなしくて口数の少ない、内気な少女だと思っていたからだ。人殺しなどできるはずがないと。彼女がサーラと二人きりになると、どれほど多弁《たべん》で大胆《だいたん》になるか、彼らは知らなかった――ましてや、ファラリスの闇司寮《ターク・プリースト》だったなんて。
殺人者や略奪者《りゃくだつしゃ》の中には、「欲望《よくぼう》に忠実《ちゅうじつ》に生きよ」というファラリスの教えを信奉《しんぽう》する者が多い。だが、ファラリス信者がすべて邪悪《じゃあく》というわけではない。そうした反社会的な欲望とは無縁《むえん》なファラリス信者もいる。デルもそうだった。彼女は破壊《はかい》や殺戮《さつりく》に喜びを覚えないし、金にも興味《きょうみ》がない。彼女の望みはただ、サーラを愛し、彼を守りたいということ。それが邪悪なはずはない、とサーラは信じていた。だからその事実を、デインたちにさえ話さなかった。
サーラは彼女を深く愛していた。その夜、森の中で、デルと初めて愛し合おうとしたのだ。その瞬間《しゅんかん》、強烈《きょうれつ》な殺戮|衝動《しょうどう》に襲《おそ》われ、思わず少女の首を絞《し》めた。それこそ、かつて魔獣《まじゅう》キマイラが死の寸前《すんぜん》に放った暗黒魔法――何年も潜伏《せんぷく》し続け、愛する人を抱《だ》こうとした瞬間に発動する、最悪の呪《のろ》いだったのだ。
すぐにデルによって気絶《ぎぜつ》させられたので、その後に何が起きたのか、サーラは知らない。気がつくと呪いは解《と》けていた。デルは闇《やみ》の奥《おく》から少年に別れを告げ、大きな羽音とともに去っていった。どういうことなのか理解《りかい》できたのは、村に帰って、フレイヤが殺されていたのを知らされた時だった。
デルは魔獣になった――彼らが迷宮から持ち帰った、古代王国時代の邪悪な魔術師《まじゅつし》が創造《そうぞう》した「悪魔のエッセンス」と呼《よ》ばれる宝珠《オーブ》。その内部に封じこめられていた悪魔と合体したのだ。キマイラの呪いを解くには、キマイラ以上の魔力を有する魔物にならねばならなかったから。そしてオーブの力を解放《かいほう》するには、処女《しょじょ》の生き血が必要だった。フレイヤはそのための生贄《いけにえ》にされたのだ。
説明を聞いて、デインたちも呆然《ぼうぜん》となった。そして理解した。それが純粋《じゅんすい》な愛から生じた行動であることを。デルは心の底からサーラを愛し、呪いを解いて苦悶《くもん》から解放したいと強く願ったのだ。そのためには罪《つみ》もない女の子を殺し、自らの身を悪魔に変えることも厭《いと》わなかったのだ――なんという激《はげ》しく、献身《けんしん》的で、邪悪な愛であることか。
かつてなかった凄惨《せいさん》な事件《じけん》に、ハドリー村は騒然《そうぜん》となった。当然、デインたちに疑《うたが》いの目が向けられた。事件は彼らが迷宮から帰還した直後に起きたのだ。関連があると考えない方がおかしい。とりわけ、いつもフードをかぶって顔を隠《かく》しているミスリルは、怪《あや》しまれて当然だった。彼らを吊《つ》るし上げ、真相を吐《は》かせようという動きも見られた。
しかし、デルが同時に行方《ゆくえ》不明になったことや、とても演技《えんぎ》とは思えないサーラの悲嘆《ひたん》と混乱《こんらん》を目にして、村人たちの疑念《ぎねん》は薄《うす》れた。デルはフレイヤを殺したのと同じ犯人《はんにん》によって殺されたのだろうと勘違《かんちが》いされたのだ。デインはそれを利用した。フレイヤを殺したのは迷宮から解き放たれた邪悪な怪物《かいぶつ》だという仮説《かせつ》(ある意味、それは真実にきわめて近いのだが)を披露《ひろう》し、自分たちにその責任《せきにん》があると謝罪《しゃざい》したうえで、一生をかけてもその怪物の足取りを追い、復讐《ふくしゅう》を果たすと誓《ちか》ったのだ。デインお得意の舌先三寸《したさきさんずん》が、これほど役に立ったことはない。村人たちは完全に疑念を捨《す》てきれなかったものの、彼らが村を離《はな》れてザーンに帰るのをしぶしぶ許《ゆる》した。
だが、パーティにとっての真の問題は、その後だった。事件からしばらく、サーラはショックのあまり、魂《たましい》が抜《ぬ》けたようになっていた。快活《かいかつ》だった瞳《ひとみ》からは輝《かがやき》きが失われた。機械的に食事は口にしたし、日常《にちじょう》的な雑事《ざつじ》もこなし、話しかけられたら返答もしたが、自分から喋《しゃべ》ることはなくなった。昼間は感情《かんじょう》を表に出さなかったが、夜になってベッドにはいると、静かに嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。
デルが心底《しんそこ》から邪悪な魔女で、快楽のために何の罪もない女の子を殺したのなら、これほど深い衝撃は受けなかっただろう。サーラを苦しめたのは、デルのおぞましい行為《こうい》が自分への愛ゆえだという事実だった。きっと彼女は、フレイアを殺す際《さい》にも苦悩《くのう》したに違いない、と彼は思う。
デルを愛さなければ、彼女に愛されなければ、あんなことは起きなかったはずなのに。
陰鬱《いんうつ》な日々が続いた。精神《せいしん》的にいちばん参ったのは、同室のミスリルだった。サーラを年の離れた弟のようにかわいがり、誰《だれ》よりも親身になっていた彼だが、夜毎《よごと》すすり泣きを聞かされ、さすがに「いっしょにいると俺《おれ》まで死にたくなる」と音《ね》を上げた。
剣《けん》を振《ふ》るい、魔法を使い、恐《おそ》ろしい怪物に勇敢《ゆうかん》に立ち向かう冒険者《ぼうけんしゃ》たちも、少年の心にのしかかった重荷ばかりはどうしようもなかった。どんな重傷《じゅうしょう》も治してしまうデインの治癒呪文《ちゆじゅもん》も、心の傷《きず》までは癒《いや》せない。ミスリルの鍵開《かぎあ》けの腕《うで》をもってしても、少年の閉ざされた心まで開くことはできない。
サーラを立ち直らせたい――そう思った彼らは、少年を再《ふたた》び冒険に連れ出すことにした。部屋に閉じこもっていては鬱になるばかりだと考えたのだ。新しい体験をすれば気分|転換《てんかん》になるだろうと。
それに、冒険者にできることと言ったら、冒険以外にないではないか。
「やっぱり間違ってたのかしら」フェニックスは悲しげにつぶやいた。「あの子に冒険者を続けさせちゃいけなかったのかも」
「でも、あの時、みんなでそう決めただろ? つらい思い出を忘《わす》れさせるには、他《ほか》に方法がないって」
「ええ、あの時はね――でも、今となっては正しかったのかどうか、よく分からない」
一度受けた心の傷は、決して消えることはない。フェニックスは自分の体験から、それをよく知っていた。できるのはただ、記憶《きおく》を積み重ねること。できるだけ多くの様々な体験をして、つらい記憶にたくさんの新しい記憶を覆《おお》いかぶせ、心の地層《ちそう》深くに埋《う》めてしまうこと。そうすれば、痛《いた》みは消え去らないまでも、かなり軽くなる。やがて笑える日も来る。サーラにもその方法が有効《ゆうこう》だと思った。
だが、少年の多感な心が受けた傷は、彼らが思っていたよりずっと深かったのだ。
「またあんなことがあったらどうする? 今度こそ、あの子、死ぬかもしれないわ」
「ああ。そうなったら寝覚《ねざ》めが悪いよな……」
最初の頃はお荷物でしかなかったサーラだが、盗賊《とうぞく》ギルドでの修業《しゅぎょう》の成果もあって、一年ほど前からめきめき腕を上げてきていた。魔獣《まじゅう》は無理でも、スケルトンやコボルドなどの弱い怪物との戦闘《せんとう》になら参加できるようになっていた。少年を危険《さけん》な冒険に連れ回して殺してしまう危険が減《へ》ったことで、みんなは喜んでいた――その矢先だったのだ。
「でも、冒険者をやめさせて、それでどうするんだ? 代わりに何をやらせる? 冒険に出なくなったって、怪物に殺される危険が減るってだけで、苦しいのは変わらないだろ」
「そんなの分かってる」
「じゃあ……」
「分かってるのよ」フェニックスは悔《くや》しそうに顔を歪《ゆが》めた。「あの子を魔法みたいに立ち直らせる手段《しゅだん》なんかないってことは。だから悩《なや》んでるんじゃない。せめて、あれかこれか、選択肢《せんたくし》でもあればいいのに、ひとつもない」
「まあな」
「そもそも、あの子を仲間にしたのが間違《まちが》いだったかもしれない。冒険者《ぼうけんしゃ》になんかならなければ、あの村でずっと幸せだったのかも……」
「そんなの、今さら言ってもしかたないことだろ? 起きちまったことは変えられない」
「そうだけど……」
「いいことばっかりじゃない。苦しいこともいっぱいある。いつか後悔《こうかい》する日が来るかもしれない――それを承知したうえでなるのが冒険者ってもんだろ? あの子だって、それは覚悟《かくご》してたはずさ。苦しい思いもすることを知ってて、自分でこの道を選んだんだ」舌打ちして、「まあ、こんな結果になるとは、予想しなかっただろうけど」
フェニックスにだって分かっている。いくら後悔したって、現状《げんじょう》が少しも良くなるわけではないということは。それでも、自分に向かって愚痴《ぐち》をこぼしたい気分なのだ。どうして子供《こども》を仲間にするなんて、愚《おろ》かな選択をしてしまったのか。「英雄《えいゆう》になりたい」という少年の無邪気《むじゃき》な夢《ゆめ》を叶《かな》えてあげようなんて、それこそ夢みたいなことを思い描《えが》いてしまったのか、と。
私たちには責任《せきにん》がある、と彼女は痛感《つうかん》した。サーラにこんな苦しい道を歩ませてしまった責任。田舎《いなか》の牧場の少年としてのささやかだが幸福な人生を奪《うば》ってしまった責任。
「サーラは上?」
「ああ。また部屋にひきこもってるみたいだな」
「ちょっと様子見てくるわ」
「頼《たの》む。あたしゃ家に帰って、夕飯《ゆうはん》のしたくしなきゃ」
赤ん坊《ぼう》を抱《だ》いて立ち上がり、レグはふと、苦笑する。
「昨日もデインに文句《もんく》言われた。『結婚《けっこん》して一年になるのに、料理がぜんぜんうまくならないな』って。でも無理だよな。ちっちゃい頃から戦いひと筋《すじ》で生きてきた女に、料理の腕を期待されてもなあ」
「私が手ほどきしてあげられればいいんだけど」
「いいよ。お互《たが》い様だろ」
レグが屈託《くったく》なく笑ったもので、フェニックスはかえって恐縮《きょうしゅく》した。彼女も若い頃から魔法の修業と冒険の旅の連続で、いわゆる花嫁《はなよめ》修業などしたことがない。だから料理にも自信がない。冒険者は野宿が多いので、肉も魚もたいてい丸焼きで、塩で味付けする程度《ていど》だ。鍋《なべ》があれば、ありったけの食材をぶちこんで煮る。乾燥肉《かんそうにく》や硬《かた》いパンをかじるだけで食事を済ますことも多い。
服装《ふくそう》にしても、普通《ふつう》の女性《じょせい》のように着飾《きかざ》るのは街にいる時だけで、冒険の旅に出ている間は、動きやすい実用的な服しか着られない。時には何日も風呂《ふろ》に入れずに、同じ服を着続けることも多く、ひどい体臭《たいしゅう》に自分で閉口《へいこう》することがある。破《やぶ》れた服は自分で繕《つくろ》わなくてはならないので、裁縫《さいほう》の腕《うで》だけは上がったのだが。
当然、男にはもてない。デインとレグのように、冒険者同士で結ばれる例はあるが、女性冒険者と普通の男が恋《こい》に落ちることは、あまりない。そもそも冒険者というのは、一般《いっぱん》人からうさん臭い目で見られることが多い。剣《けん》を振《ふ》り回したり魔法を使ったりするおっかない女、暗い洞窟《どうくつ》や迷宮《めいきゅう》に潜《もぐ》り、血と泥《どろ》と汗《あせ》の染《し》みこんだぼろぼろの服で帰ってくる女に惚《ほ》れるような男は、かなり珍《めずら》しい部類だろう。たまに恋が芽生えても、「冒険者なんて商売はやめろ」と説得されて、喧嘩別《けんかわか》れになるのがオチだ。
冒険者になるということは、他の多くのことを切り捨《す》てることなのだ。
「ま、自分でどうにかするさ――じゃあな」
「じゃあね」
レグが立ち去り、フェニックスは広い店内に一人で残された。
「……さてと」
ゆっくりと立ち上がって二階を振り仰《あお》ぐと、彼女はこれからやらねばならないことを思い、ため息をついた。この酒場は二階まで吹《ふ》き抜《ぬ》けになっていて、回廊《かいろう》が酒場を見下ろす形で取り巻いている。回廊に沿って九つの部屋が並《なら》んでおり、この店の常連《じょうれん》の冒険者が利用している。部屋のうち三つは、店の前の通路をまたぐ格好《かっこう》で配置されており、そのうちの一つがサーラとミスリルの寝泊《ねとま》りしている部屋なのだ。
鎖《くさり》をひきずっているような重い足取りで、ゆっくりと階段《かいだん》を上がる。本音を言えば、サーラとあまり顔を合わせたくはない。特に二人きりでは気詰《きづ》まりになる。会話がはずまないうえ、少年の周囲のよどんだ空気が、こちらの気分まで暗くしてしまうのだ。
だが、放《ほう》っておくわけにもいかない。長いこと姿《すがた》が見えないと、それこそ自殺でもしてるんじゃないかと心配になる。保護者《ほごしゃ》としての義務《ぎむ》感が、彼女を動かしていた。
木の扉《とびら》の前に立ち、「サーラ、私よ。入っていい?」と声をかける。返事はない。かまわず、扉を開けて中に入る。
部屋は静かだった。かちゃかちゃという小さな音だけが響《ひび》いている。奥《おく》の壁《かべ》にある小さな窓《まど》から外の光が差しこんでいて、灯火《とうか》がなくてもそこそこ明るかった。
サーラは窓の下のベッドに腰《こし》かけており、その姿は逆光《ぎゃっこう》で暗く見えた。うつむいて、左手に持った箱型の金属《きんぞく》の塊《かたまり》を、針金《はりがね》のような細い工具でいじり回している。盗賊《とうぞく》ギルドの訓練用に渡《わた》される錠前《じょうまえ》の模型《もけい》で、これで鍵開《かぎあ》けの練習をするのだ。
フェニックスが近づいてきて、そっと横に座《すわ》っても、サーラは顔を上げなかった。耳かき≠ニ呼ばれる工具で鍵穴《かきあな》を探《さぐ》る作業に没頭《ぼっとう》している。最初の頃《ころ》は何十分かかっても開けられなくて苛立《いらだ》ったものだが、今ではこの程度の錠前なら、二、三分もあれば開けられる。開けたらまた鍵をかけ、それをまたこじ開ける。それをくり返している。
熱中している? いや違《ちが》う。指は惰性《だせい》で動いているが、視線《しせん》は床《ゆか》の上をさまよっている。表情《ひょうじょう》は空《うつ》ろで、心はここにないようだ。
フェニックスの胸《むぬ》は痛《いた》んだ。
「……ねえ、サーラ」
思いきって声をかけたが、少年は反応《はんのう》しない。それでも彼女は、不自然にならない程度の明るい口調で続けた。
「大きくなったわね。初めて会った時、頭が私の肩《かた》に届《とど》いてなかったのに、もう肩より高くなってる。あれから一年半以上も経《た》ってるんだものね。あと二年もすれば、追い越されちゃうわね。いつまでも子供《こども》のままでいるような錯覚《さっかく》を覚えてたけど、違うのね。あなたも『男の子』から『男』に変わってゆくのよね」
「…………」
「初めて会った時のこと、覚えてる?」
自分でもなぜこんな話をするのか分からない。とにかく何か話をしなくては、という思いだけで、口が動いていた。何の目的もなしに話をしたって空回りするだけだと分かってはいるが、それでも沈黙《ちんもく》よりはましだ。
「牧場の柵《さく》のところで私が歌ってたら、あなたが近づいてきたのよね。すごく緊張《きんちょう》してるように見えたわ。それが何だかおかしかった。私が名前を訊《たず》ねたら、あなたは……そう、確《たし》か『グレン』って名乗ったわね。『サーラ』って名前が恥《は》ずかしかったから。私、あの時、あなたが好きになった。なんていじらしい男の子だろうって」
彼女は思い出し笑いをした。
「そう、あの頃のあなたは、とてもいじらしかった。純真《じゅんしん》で、無邪気《むじゃき》で……子供の頃の自分を思い出した。きっと、レグも、デインも、ミスリルも、みんなそうよ。あなたの中に小さかった頃の自分を見てるんだと思う。夢《ゆめ》や希望にあふれていた頃の自分――まだ穢《けが》れてなかった頃の自分を」
あてもなしに喋《しゃべ》っているうちに、フェニックスは不意に、自分の感情に気がついた。なぜサーラを好きになったのか、危険《きけん》に満ちた冒険者《ぼうけんしゃ》の道を歩ませたいと思ったのか、それが理解《りかい》できた気がした。
「そうよ、だからあなたに期待したのよ。あなたなら自分に代わって、人生をやり直してくれるんじゃないか。自分の犯《おか》した失敗を避《さ》けて通って、輝《かがや》かしい人生を、成功を勝ち取ってくれるんじゃないか。愛する人を最後まで守り通して、英雄《えいゆう》になってくれるんじゃないか――そんな気がしたのよ」
かつて自分が苦境《くきょう》に陥《おちい》った時、捨《す》てて逃《に》げていった男のことを思い出す。もう今では恨《うら》んではいない。だが、恋人《こいびと》が最後まで自分を守ってくれなかったという事実は、彼女の心に深いしこりを残していた。もう自分は二度と男なんか愛せないと思っていた。
だからガドシュ砦《とりで》で首手巨人《ヘカトンケイレス》に捕《つか》まった時、サーラが逃げ出さず、危険を冒《おか》して助けに来てくれたのは、驚《おどろ》きであり、喜びだった。女を最後まで見捨てない男がいるのを知って、フェニックスの心に希望が芽生えた。少年に愛されているデルに、軽い嫉妬《しっと》さえ覚えたものだ。そして、幼《おさな》い恋人たちの愛を見守り、それが成就《じょうじゅ》することに期待した。二人が理想的な結末を迎《むか》えた時、自分の過去のわだかまりも洗い流されるのではないか――そう思っていたのだ。
そうした期待の大きさが、今となってはサーラを苦しめている一因《いちいん》なのかもしれない。そうフェニックスは思った。少年に自分たちの勝手なイメージを押《お》しつげ、理想の英雄像《えいゆうぞう》を演《えん》じさせようとしたことが。デルが闇《やみ》に落ちるのを防《ふせ》げなかった時、理想を演じきれなくなったサーラは、深い挫折《ざせつ》を味わったのだ。
「メイガスが……」サーラが初めて口を開いた。
「え?」
「メイガスが言ってた。自分も若《わか》い頃、英雄になりたかったんだって……」
「…………」
フェニックスは何と答えていいか分からなかった。ドワーフのメイガスは、一時期、彼らの仲間だった男だ。口調は乱暴《らんぼう》だが、強く、誠実《せいじつ》で、信頼《しんらい》できる人物だと思っていた。だが、彼は裏切《うちぎ》った。夢|破《やぶ》れた反動で悪に走り、「悪魔《あくま》のエッセンス」を悪用して破壊《はかい》と殺戮《さつりく》を繰《く》り広げようと企《たくら》み――そして、その愚《おろ》かな行動ゆえに死んだのだ。
「僕《ぼく》と同じように、英雄になりたかったんだって。でも、なれなかった。自分は英雄の役じゃなかったんだって。英雄になれるのは、生まれた時から運命で定められたごく一部の人間だけなんだって。だとしたら、それ以外の人間が何をやったって……」
サーラの指が止まった。
「……必ず失敗する」
「そんなことは――」
急にサーラは顔を上げ、真剣《しんけん》な顔でフェニックスを見つめた。
「じゃあどうして、デルはああなったの?」
「それは……」
「あれからずっと考えてたんだ。どうしてああなっちゃったのかを」少年は一転し饒舌《じょうぜつ》になった。「オーブがなかったら、彼女はあんなことしなかった。呪《のろ》いを解《と》く方法がなくて、ただ僕に殺されてた。少なくとも罪《つみ》を犯さずに死んでた。でも、オーブが必要になった時に、あれは彼女の手の届《とど》くところにあった。彼女に罪を犯させるために――まるで運命みたいに」
「…………」
「僕が彼女を殺してた方が、まだましだった。それでも苦しかっただろうけど、少なくともフレイヤまで巻きこまなかった。でも、デルはそう考えなかった。僕に罪を背負《せお》わせるぐらいなら、自分が罪を背負う。そう考えた……」サーラはちょっと言葉を切ると、吐《は》き捨てるようにつけ加えた。「邪悪《じゃあく》な考え方だ」
その暗い口調に含《ふく》まれた憎悪《ぞうお》に、フェニックスはどきっとした。サーラはデルを憎《にく》みはじめている……?
「ねえ、もしまたデルと出会ったら、僕、どうしたらいいのかな?」サーラは涙目《なみだめ》で嘆願《たんがん》するように言った。「殺すべきなの? だって……だって、彼女は悪いことをしたんだ。もう人間じゃない。キマイラやマンティコアみたいな邪悪な魔獣《まじゅう》なんだ。だったら殺すべきなの? ねえ?」
フェニックスはしばらく悩《なや》んだ。さっきまでは存在《そんざい》しなかった選択肢《せんたくし》がふたつ、提示《ていじ》された。「ええ」と答えるべきか、「いいえ」と答えるべきか。彼女は迷った。この際《さい》、倫理《りんり》だの良心だのはどうでもいい。考えるのはただひとつ、どちらの選択がサーラのためになるかということ……。
やがて彼女は答えた。
「それであなたが楽になるなら、そうしなさい。憎みたいのなら、憎みなさい。憎んでいいのよ、いくらでも」
そう、サーラが苦しんでいるのは、今でもデルを愛しているからだ。憎むようになれば、楽になれる。
それもまた悪魔的な考え方だ。愛する人を憎むこと、殺すことをそそのかすなんて、まさに邪悪だ。フェニックスはそれを自覚している。だが彼女はあえてデルと同じ選択をした。サーラを愛するがゆえに、彼を苦しみから救うために、自らが邪悪になってやろうと思った。
そう決意したとたん、無性《むしょう》にサーラが愛《いと》しくなった。デルが自分に乗り移《うつ》ったように感じられた。少年の肩《かた》に腕《うで》を回し、静かに抱《だ》き寄《よ》せる。サーラは抵抗《ていこう》せず、彼女の胸《むね》にもたれかかった。
「それで忘《わす》れられる?」サーラは消え入りそうな声でつぶやいた。「彼女のことを……忘れられる?」
「すぐには無理」フェニックスは優《やさ》しくささやく。「でも、忘れる手助けぐらいはしてあげる」
「フェニックス……」
彼女の胸に顔を埋《うず》め、サーラはすすり泣いた。
「忘れさせて……デルのこと……忘れさせてよ」
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3 運命の図案《ずあん》
その夜、サーラは盗賊《とうぞく》ギルドに呼び出された。
夕食の直後、使いの者がやって来て、ただちにギルドに出頭するよう命じたのだ。「授業料《じゅぎょうりょう》の返済《へんさい》が滞《とどこお》っている件《けん》に関して」だという。どういうことなのか分からず、サーラは首をひねった。この街に来てしばらく盗賊ギルドに入門し、格闘《かくとう》、鍵開《かぎあ》け、侵入《しんにゅう》、変装《へんそう》、登攀《とうはん》、罠《わな》の設置《せっち》や解除《かいじょ》の技術《ぎじゅつ》を学んだのは事実だが、その授業料は少ない収入《しゅうにゅう》の中からきちんと返済している。今月分もすでに返したはずなのだが。
何かの間違《まちが》いだろうと思いつつ、ギルドに足を運んだサーラは、ある一室で待つように言われた。これまで入ったことのない部屋だ。しばらくして、現《あら》われたのが幹部《かんぶ》の一人で新人教育係のアルド・シータだったので、さらに困惑《こんわく》した。
いちばん会いたくなかった人物だ。
「あ、あの……」
とっさに言葉が出てこなかった。アルドには半年前、ハドリー村から戻《もど》った時に、事件を報告《ほうこく》している。デルを知っている街の者には、彼女は行方《ゆくえ》不明になったとごまかしたのだが、さすがにアルドにだけは、いきさつを包み隠《かく》さず話さないわけにはいかなかったのだ――デルの父なのだから。
もっとも、その頃はまだサーラは放心|状態《じょうたい》が続いていて、うまく喋《しゃべ》れなかったので、ほとんどミスリルが代わりに説明してくれたのだが。
アルドの受けた衝撃《しょうげき》は、ある意味、サーラのそれより深かったかもしれない。|人食い鬼《オーガー》のようながっしりした体格《たいかく》が衝撃でゆらぎ、恐《おそ》ろしげな印象を受ける顔が驚《おどろ》きで蒼《あお》ざめ、雷《かみなり》のような声が悲嘆《ひたん》で震《ふる》えるのを、サーラは目にし、耳にした。デルはアルドの本当の娘《むすめ》ではなく、妻《つま》エレナの連れ子である。しかし、本当の娘のように愛し、その幸せを願っていた。娘がサーラとつき合うのを許《ゆる》したのは、この少年なら誠実《せいじつ》で信頼《しんらい》できる、娘を幸せにしてくれると信じたからだ。
その信頼を、サーラは裏切《うらぎ》ってしまった。
エレナもショックを受け、しばらく寝《ね》こんだと聞いている。フレイヤの家族だけではなく、デルの家族まで不幸にしてしまったことで、サーラはますます責任を感じ、気が重くなったものだ。
それ以来、街の中で何度か顔を合わせたことはあるものの、彼とはほとんど話をしていない。サーラの方は、アルドの顔を目にするのがつらくて、こそこそと逃《に》げる。アルドの方でも、少年を避《さ》けているようだった。
無理もない、とサーラは思った。僕はこの人に憎まれてもしかたがないことをやってしまったのだから。デルがファラリスの闇司祭《ダーク・プリースト》になったことを秘密《ひみつ》にしていた。まだ十三|歳《さい》の彼女を抱《だ》こうとした。その結果、恐ろしい罪《つみ》を犯《おか》させてしまった……。
「ああ、もう気にしちゃいない」
サーラの心を読んだかのように、彼は顔に似合《にあ》わぬ静かな口調で言った。しかし、声の端《はし》にはかすかなトゲが感じられたし、その表情《ひょうじょう》には今でも暗い影《かげ》が焼きついている――サーラの顔に焼きついているのと、同じ影が。
「あの頃はお前を憎《にく》んだものだがな」アルドは恐ろしい顔で苦笑した。「近づいたら、かっとなって首を絞《し》めそうで、それで避けていた」
「……ごめんなさい」
「許《ゆる》しはしない。たぶん一生、お前とは仲良くやれんだろうな。だが、少なくとも憎むのはやめた。お前の首を絞めても、デルは帰らん」
「…………」
「まあいい。済《す》んだことは忘《わす》れろ」
気分を変えようとしたのか、アルドは不自然に大きな声を出した――そんなことは一生忘れられるはずがないと、自分でも知っているだろうに。
「今日はそんな用件《ようけん》で呼んだんじゃない。お前に会いたいという人がいる。それで呼び出した」
「誰《だれ》ですか?」
「『虎《とら》の涙《なみだ》』ダルシュ」
その名はサーラも知っていた。知らないはずがあろうか。ザーンの盗賊《とうぞく》ギルドのギルドマスター。三〇年の長きにわたり、ザーンの闇《やみ》の世界に君臨《くんりん》している男。腑抜《ふぬ》けの王族に代わって国策《こくさく》を裏《うら》から牛耳《ぎゅうじ》る、この国の実質上《じっしつじょう》の最高|権力者《けんりょくしゃ》。六〇歳《さい》を超《こ》えているのに、なお精力《せいりょく》的。その二つ名にふさわしく、野獣《やじゅう》の冷酷《れいこく》さと厚《あつ》い人情を併《あわ》せ持ち、多くのギルドメンバーに慕《した》われている人物……。
サーラはますます困惑《こんわく》した。そんな偉《えら》い人が、なぜ僕なんかに?
「理由は訊《き》くな」アルドは先回りして言った。「俺《おれ》も知らん。お前を呼べと言われただけだ。極秘《ごくひ》にな。お前と二人きりで内密《ないみつ》の話がしたいとおっしゃる。きわめて大事な用件のようだから、心するように」
脅《おど》すようなことを口にしてから、アルドは呆然《ぼうぜん》と突《つ》っ立っているサーラを尻目《しりめ》に、部屋の一方の壁《かべ》にあった戸棚《とだな》に手をかけた。見えないところにあるレバーか何かを操作したようだった。たいして力をかけたように見えなかったのに、重そうな戸棚がずるずると音を立てて水平に半回転し、その後ろから大きな暗い四角形が出現《しゅつげん》した。サーラは驚《おどろ》いた。それは岩の壁にぽっかりと開いた横穴《よこあな》だった。覗《のぞ》きこむと、直線の通路がかなり奥《おく》まで続いているようだ。
盗鹿ギルドの中枢部《ちゅうすうぶ》には、秘密を守り、侵入者《しんにゅうしゃ》を阻止《そし》するための仕掛《しか》けが随所《ずいしょ》にあると耳にしてはいたが、実際《じっさい》に目にするのは初めてだ。普通《ふつう》、子供《こども》にこんなものを見せはしない。よほど重大な用件《ようけん》であることは確《たし》かだ。
「奥の扉《とびら》まで進んだらノックするんだ」アルドは教えた。「虎の顔の形のノッカーを使え。まず三回、次に一回、最後に二回|叩《たた》く。それが合図になってる。間違《まちが》えると厄介《やっかい》なことになるぞ。分かったか?」
サーラはぼうっとした表情で、かくかくとうなずいた。その様子が頼《たよ》りなげに見えたのだろう。アルドは念を押《お》した。
「覚えたか? 何回ノックする?」
「……最初に三回、次に一回、それから二回」
「よし、行ってこい」
臆《おく》して立ちすくんでいる少年を、アルドは促《うなが》した。サーラはごくりと唾《つば》を飲み、緊張《きんちょう》のあまりこわばった脚《あし》をぎくしゃくと動かして、通路に向かって前進した。
中に足を踏み入れるとすぐに、背後《はいご》でアルドが戸棚を動かし、入口を閉ざした。サーラは真っ暗な通路の中に取り残された。不安を覚えたものの、前方に赤っぽい明かりが見えたので、進むべき方向は分かった。床《ゆか》は平らで、つまずく危険《きけん》はないようだ。壁に手をつき、そろそろと前進した。
それにしても、なぜギルドマスターなんて偉い人が僕なんかに?――いくら考えても答の出ないその疑問《ぎもん》は、形のない不安を呼び、胃のあたりに重くのしかかってきた。これまでにサーラが出会った「偉い人」は、村長とか役人とかギルドの幹部とかのレベルだ。姿《すがた》を見たこともない王族やギルドマスターなど、まさに雲の上の存在《そんざい》で、自分の人生と交差する機会などないと思っていた。緊張するのは当然だ。
通路の突き当たりには、大きな窓《まど》の付いた鉄の扉があった。窓にはめこまれているのは厚くて歪《ゆが》んだ色ガラスで、覗きこんでも室内の様子がよく分からないようになっている。窓の下には虎の顔の飾《かざ》りがあり、その口はノッカーをくわえていた。
いかにも怪《あや》しそうな扉だ。サーラは一歩|離《はな》れて、扉全体を見渡《みわた》した。きっとどこかに侵入者よけの陰険《いんけん》な罠《わな》があるはずだ。毒矢が飛んでくるのか、床が抜《ぬ》けるのか、それとも火でも噴《ふ》き出すのか――でも、その仕掛けはきっと自分に見破《みやぶ》れるようなちゃちなものではないだろうな、とサーラはあきらめに近い心情を覚えた。
罠が解除《かいじょ》されていることを信じるしかない。サーラは深く息を吸《す》うと、覚悟《かくご》を決め、おそるおそるノッカーを手に取り、扉に打ちつけた。三回、一回、二回。すぐに老人の声が返ってきた。
「入れ」
サーラは再《ふたた》び唾を飲むと、ノブに手をかけて押した。重そうな扉は、驚《おどろ》くほど抵抗《ていこう》なく開いた。
すぐには中に入らず、戸口のところで立ちつくし、心臓《しんぞう》の高鳴りを覚えながら室内を観察した。こんなに立派《りっぱ》な部屋は見たことがなかった。サーラの宿泊《しゅくはく》している部屋の五倍ぐらいの広さがあり、天井《てんじょう》も高い。ランタンは三つもあるが、天井の隅《すみ》の方までは照らしきれず、薄暗《うすぐら》かった。床には異国《いこく》のものらしい高価《こうか》そうな絨毯《じゅうたん》が敷《し》かれ、踏むのがためらわれる。左の壁には小さな暖炉《だんろ》。右の壁には大きな戸棚と書棚(これも仕掛けがあるのだろうか?)。奥の壁には複雑《ふくざつ》な図案《ずあん》が織《お》りこまれた巨大《きょだい》なタペストリーがかかっていて、その手前には重量感のある黒檀《こくたん》のデスクが置かれている。
そのデスクの向こうに、白髪《はくはつ》の男が座《すわ》っていた。背中《せなか》をやや丸め、デスクに肘《ひじ》をついて、両手の指を組み合わせ、こちらを見つめている。
「よく来たな」孫に向かって語りかけるような軽い口調で、老人は言った。「まあ、立ってないで座るがいい」
最初、サーラはちょっと拍子抜《ひょうしぬ》けした。もっと恐《おそ》ろしげな男を想像《そうぞう》していたのだが、ダルシュはまったくどこにでもいそうな老人だった。人相は悪くないし、体格《たいかく》もアルドほど大きくはない。茶色い地味なガウンは、ちっとも高価《こうか》そうではなく、周囲の家具と釣《つ》り合いが取れていないように思えた。
だが、その眼光《がんこう》に気がついた時、背筋《せすじ》がぞくっとなった。視線《しせん》で人を石に変えると言われるバジリスクを思わせる、脳《のう》の中心まで射《い》ぬくような鋭《するど》く冷たい視線――その奥に、人間の心理や世間の裏側《うらがわ》を見通す深い洞察力《どうさつりょく》の存在《そんざい》を、サーラは本能《ほんのう》的に感じた。それこそがこの男を、危険《きけん》な闇《やみ》の世界で今まで生き残らせてきたのだろう。
サーラは扉を閉めると、息苦しさを覚えながら進み出た。一歩進むごとに足が沈《しず》み、高価な絨毯を汚《よご》すことに抵抗《ていこう》を覚えた。部屋の中央には大きな椅子《いす》があった。湾曲《わんきょく》した肘掛けがあり、座面《ざめん》にはこれまた高価そうな布《ぬの》が張《は》られている。座ろうと体重をかけた瞬間《しゅんかん》、尻がふうっと沈みこむ感覚に驚いた。こんなに柔《やわ》らかい椅子は初めてだ。
椅子は明らかに少年の体格に合っていなかった。サーラは落ち着きなく尻をもぞもぞ動かしながら、あらためて室内を見渡した。警戒《けいかい》の厳重《けんじゅう》さからすると、きっとこの秘密《ひみつ》の部屋には、ギルドマスターの他には数名の幹部《かんぶ》しか入れないに違《ちが》いない。子供《こども》が招《まね》き入れられることなど、空前|絶後《ぜつご》ではなかろうか。それならいったい誰が部屋を掃除《そうじ》するんだろうな、とサーラは素朴《そぼく》な疑問《ぎもん》を覚えた。
「そんなに緊張せんでいい」
視線の鋭さとは裏腹《うらはら》に、ダルシュの口調はあくまで優《やさ》しかった。サーラはあいさつがまだだったのを思い出し、慌《あわ》てて「は、初めまして」と頭を下げた。
ダルシュは苦笑した。「初めて、というわけでもないのだがな……」
「えっ?」
「まあ、そんなことはどうでもいい」ダルシュは笑《え》みを振《ふ》るい落とすと、表情《ひょうじょう》を引き締《し》め、端的《たんてぎ》に切り出した。「例の一件《いっけん》については、余計《よけい》な説明は必要ない。アルドを通じて詳《くわ》しい報告《ほうこく》を受けている。お前を招いたのは、訊《たず》ねたいことがいくつかあったからだ。お前はただ、わしの質問《しつもん》に答えればいい」
「はい……」
サーラはどんな厄介《やっかい》な質問が来るかと身がまえた。だが、次に老人の口から出た言葉は、少年の意表を突くものだった。
「お前は運命を信じるか?」
「…………」
「どうだ? 運命というものが存在すると信じるか?」
サーラは答えられなかった。ほんの半年前までなら――あんなことが起きる前なら、「信じません」と即答していた。未来なんて決まっていない、未来は自分の手でつかむものだと、少年らしい純粋《じゅんすい》さで信じていた。
だが今は――そう断言《だんけん》できる自信がない。
「分かりません」サーラは正直に答えた。「僕《ぼく》には……分かりません」
「そうか」
ダルシュはその答えに満足はしなかったが、不満でもなさそうだった。少し考えて、別の話題を切り出した。
「これからわしの話すことだが、誰にも秘密だ」
「はい」
「ずっとわしの胸《むね》にだけしまってきて、親しい者にも打ち明けていない。つまり、わしとお前だけの秘密だ――守れるか?」
サーラは少しためらってからうなずいた。
「はい――守れます」
少年のその誓《ちか》いが信用できると感じたのだろうか、ダルシュは安心したように眼《め》を細め、椅子に寄りかかって静かに語り出した。
「一年以上前、一昨年の大晦日《おおみそか》のことだが、わしは夢《ゆめ》を見た。いや、夢と呼んでいいかどうか分からん。現実《げんじつ》にその場に居合《いあ》わせたような鮮明《せんめい》なビジョンだった――未来が見えたのだ」
「啓示《けいじ》ですか?」
サーラは素朴《そぼく》にそう考えた。神に仕える司祭《プリースト》には、しばしば神から啓示が与《あた》えられると聞いている。その多くは、何を意味しているのか解釈《かいしゃく》に窮《きゅう》する暗示的なメッセージや、きわめて抽象《ちゅうしょう》的なビジョンだが、未来が鮮明に予告されることもまれにあるらしい。ダルシュが何かの神の信者だという話は聞かないが、ひとつの国の命運を握《にぎ》っているような人物なら、天から啓示があっても不思議ではない、と思った。
「神からではないが、啓示と言えるかもしれんな。わしは未来のザーンを目にしたのだ。およそ一〇年後――今からだと、八年八か月後ということになるが」
ダルシュは眼を閉じ、沈痛《ちんつう》な声で語り出した。
「信じられない変わりようだった――街は荒《あ》れ、人の心もすさんでいた。麻薬《まやく》の売買や暗黒神の崇拝《すうはい》が堂々と横行していた。ドレックノールよりもひどい悪の都《みやこ》と化していたのだ。人々は弾圧《だんあつ》され、重い税《ぜい》にあえぎ、生活は困窮《こんきゅう》し、笑顔を失っていた。それというのも、この国の権力者《けんりよくしゃ》が代わったからだ。
その時代、今のギャスク五世は追放され、一人の女がこの国の権力を握っていた。まだ二〇代前半の若《わか》さだが、恐《おそ》ろしい力と才能《さいのう》、そして残忍《ざんにん》な心を持った女だ。彼女はわしに代わって盗賊《とうぞく》ギルドを牛耳《ぎゅうじ》ると、この国を恐怖《きょうふ》で支配《しはい》したのだ。民衆《みんしゅう》から金を搾《しぼ》り取り、逆《さか》らう者を力で弾圧した。暗黒神の信仰《しんこう》を広め、密告や裏切りを奨励《しょうれい》し、道徳《どうとく》を荒廃《こうはい》させた。魔獣《まじゅう》を生み出し、異界《いかい》からデーモンを召喚《しょうかん》した。その身すらも魔界の存在《そんざい》と合体し、おぞましい姿《すがた》となり果てていた。まさに悪の限《かぎ》りをつくしたのだ。
その支配に対して抵抗《ていこう》の火の手が上がった。内乱《ないらん》が起こり、この街は戦場と化した。わしはその一部|始終《しじゅう》を見た。戦いの中で多くの者が死に、街が破壊《はかい》されてゆくのを。最後には反乱軍は屋上の庭園にまで攻《せ》め入り、女王とその一党《いっとう》は倒《たお》された。しかし、戦いは双方《そうほう》に多大な犠牲《ぎせい》を出し、ザーンは滅《ほろ》びた……。
わしはザーンを破滅《はめつ》に導《みちび》くその女の顔を見た。名前も聞いた。背《せ》が伸《の》び、輝《かがや》くばかりの美しさになっていたが、その顔には面影《おもかげ》があった。間違えようがない」
ダルシュは一拍《いっぱく》置いて、その名を口にした。
「あの女は、デル・シータだ」
サーラは衝撃《しょうげき》を受けなかった。話を途中《とちゅう》まで聞いた時点で、もうその名が出てくることは予期していたからだ。
ダルシュの話は常軌《じょうき》を逸《いっ》していた。半年前に聞いたなら信じなかっただろう。ただの夢だと笑い飛ばしただろう。だが、今となっては否定《ひてい》したくてもできない。その未来図はきわめて現実味のある話に思えた。
わずか十三|歳《さい》にして発揮《はっき》した、あの残虐性《ざんぎゃくせい》と行動力――暗黒魔法に加え、悪魔の力を手に入れたデルが、これから数年の間にどれほどのことをやってのけるか、想像《そうぞう》もつかない。それこそ国のひとつを乗っ取るぐらい朝飯前なのではないか。
「無論《むろん》、すべてはただの夢だと考えることもできる。だが、わしはそうではないと思っている。その証拠がこれだ」
ダルシュは引き出しから一|枚《まい》の紙を取り出し、猫《ねこ》の死体でも持ち上げるかのような不愉快《ふゆかい》そうな顔でつまみ上げ、サーラに向かって掲《かか》げて見せた。ひどく古いものらしく、全体が茶色く変色し、縁《ふち》は欠けている。そこには読み取りにくい殴《なぐ》り書きとともに、お世辞《せじ》にも上手とは言えないスケッチが描《えが》かれていた。
直立した人間の絵である。顔は描かれておらず、体形も大雑把《おおざっぱ》で、男か女かも分からない。サーラの視線《しせん》は人間そのものではなく、その肩《かた》のあたりから突《つ》き出した四枚の大きな翼《つばさ》に吸《す》い寄せられた。輪郭《りんかく》しか描かれておらず、色や細部の構造《こうぞう》は不明だが、鳥やコウモリの翼とは似ていないし、昆虫《こんちゅう》とも違《ちが》うようだ。剣《けん》のように細長く、それが四方向に広がっている様は、開いた花弁《かべん》のようにも見えた。上の二枚は縁《ふち》が鋸《のこぎり》のようにぎざぎざで、下の二枚は先端《せんたん》が鋭《するど》く尖《とが》っていた。
「これは魔術師《まじゅつし》ギルドの者が発掘《はっくつ》した資料だ」ダルシュはいまいましげに言った。「魔術師ギャラントゥスの構想を弟子《でし》が絵にしたものだそうだ。ギャラントゥスは人間と悪魔を合体させ、こういう魔獣を創造《そうぞう》しようと目論《もくろ》んでいた……」
彼は紙を机《つくえ》の上に置き、絵を見下ろして、ため息をついた。
「……わしが夢で見たデルは、まさにこんな翼を持っていた」
サーラの脳裏《のうり》に、あの夜の森で聞いたはばたきの音がよみがえった。
蒼《あお》ざめた顔で硬直《こうちょく》している少年を無視《むし》して、ダルシュは話を続けた。
「ザーンの未来がそうなったのには、わしにも責任《せきにん》の一端があったようだった。詳《くわ》しいことは分からんが、わしが極秘《ごくひ》に進めていたある改革案《かいかくあん》が、ザーンの国政《こくせい》を変え、めぐりめぐって、そんな結果を生むらしいのだ。悪の女王が君臨するおぞましい未来をな。わしはその未来を変えようとした。計画を一時|凍結《とうけつ》し、様子を見ることにしたのだ。わしが改革案を実行しなければ、デルが魔獣になることはなく、ザーンが破滅することもない――そう思ったのだ」
彼は振《ふ》り返り、背後《はいご》にかかっているタペストリーを指し示《しめ》した。それはフォーセリア世界の歴史を図案化《ずあんか》したものだ。始原の巨人《きょじん》の死、神々の誕生《たんじょう》、世界の創造、神々の戦争、古代王国の滅亡《めつぼう》などが、びっしりと織《お》りこまれている。
「タペストリーはどうやって織るか、知っているか?」
サーラは無言でうなずく。前に機織職人《はたおりしょくにん》の仕事場を見たことがある。木製《もくせい》の機械にぴんと掛られた何十本もの縦糸《たていと》が、がたんがたんと音を立てて上下し、その隙間《すきま》に職人が色とりどりの横糸を巻いた杼《ひ》を滑《すべ》らせる。縦糸が上下し、杼が左右に何百回も往復《おうふく》するうちに、ただの糸の集まりだったものが見る見る美しい模様に変化してゆく。まるで魔法のように感じられたものだ。
「ある女が教えてくれた。時とはタペストリーのようなものだと。この世で起きることはすべて、タペストリーに織りこまれた図案のようなものなのだと。過去《かこ》はすでに織られていて変えようがない。だが、未来はまだ織られていない。人の選択《せんたく》によって、未来の図案は変わる。わしの選択によって、未来は変わるはずだった」
ダルシュは悲しげにかぶりを振る。
「だが、違っていた――わしが違う道を選んだにもかかわらず、デルは魔獣《まじゅう》になった」
「……どうして?」サーラはようやく声を出せた。「どうしてですか?」
「時というのは、人間が考えるほど単純《たんじゅん》なものではない、ということだろうな。未来の図案はまだ織られてはいないが、すでに織るための糸は用意されている。糸を断《た》ち切るのは難《むずか》しいのだろう。少しばかり行動を変えても、一部分が変化するだけで、やはり全体としては同じ図案が織られる……。
こういうたとえはどうだ。ここから『自由人たちの街道《かいどう》』を西に歩いてゆくと、ドレックノールの向こう、パルマーという小さな村にたどり着く。そこが街道の終着点だ。そこに行く道筋《みちすじ》を思い浮かべてみるといい。もちろん、普通《ふつう》は『自由人たちの街道』を通る。しかし、それ以外にも道はある。山の中を突っ切る、馬車の通れないけわしい道もある。あるいは辺境《へんきょう》の村を経由《けいゆ》する回り道もある。海岸沿いに歩いていってもいい。どの道を通っても最後はパルマー村に着く。
人生だってそうだ。人は必ず死ぬ。それは誰《だれ》にでもあるゴール、避けられない結末だ。そこに着くまでにかかる時間が、長いか短いかだけの違いだ。だが、死以外にも、人生の途中《とちゅう》に重大な通過点《つうかてん》があるとしたら? そこに行き着くことが、生まれた時から決定している点。一直線に歩もうと、回り道をしようと、必ずそこに着いてしまうように定められている点――それがいわゆる『運命』というものではないか?」
「……別の道を選んでも」サーラは考えこんだ。「結局は同じことになる……そういうことですか? 人間がいくら努力しても?」
「すべてではない。人の力で変えられるものもあれば、決して変えられないものもある。わしはそう思う」
「デルがああなったのは、最初から決まっていたっていうんですか? あなたや僕が何をしようと、ああなっていた?」
「ああ」
ダルシュはあきらめの表情《ひょうじょう》にも似《に》た微笑《びしょう》を浮かべ、うなずいた。
「お前たちがデルを連れてギャラントゥスの迷宮《めいきゅう》に向かうと知ったなら、わしは止めただろう。デルを『悪魔《あくま》のエッセンス』に近づける危険《きけん》は冒《おか》さなかっただろう。だが、その情報《じょうほう》はわしにまで届《とど》かなかった。お前たちのパーティの魔術師――フェニックスという女だけは、問題の迷宮がギャラントゥスのものかもしれないと気がついていたが、『悪魔のエッセンス』の件《けん》は魔術師ギルドから厳重《げんじゅう》に口止めされていて、仲間にも話さなかった。そして魔術師ギルドは、魔獣創造の技術《ぎじゅつ》の独占《どくせん》を狙《ねら》っていて、重要な情報を盗賊《とうぞく》ギルドに流さなかった……。
不幸な偶然《ぐうぜん》が重なった――だが、本当に偶然か? すべてはそうなるように決まっていたのではないのか?
元の歴史――わしが見た未来に通じる道で、デルがどうやって魔獣になったのかは分からん。もしかしたらその道では、ギャラントゥスの迷宮を探索《たんさく》に向かったお前たちに、デルは同行しなかったのかもしれん。その場合、オーブはザーンに無事に持ち帰られ、盗賊ギルドに保管《ほかん》されていただろう。デルは何年も経《た》ってから、それを持ち出したのかもしれん。つまり、我々《われわれ》が今歩んでいるこの歴史の中では、本来の歴史より何年も早く、起こるべきことが起きた――そう考えることもできるのだ」
「でも――」
なぜそんなことが分かるのですか、と言おうとしたサーラを、ダルシュはさえぎった。
「もちろんこれはわしの想像《そうぞう》だ。起こらなかった歴史がどうだったかなど、我々には永遠《えいえん》に分からんことだからな。だが、ひとつだけ言えることがある」
「何ですか?」
「あれが運命だったとしたら、この先に起きることもまた、運命だということだ」
「この先?」
ダルシュは深くうなずいた。
「わしの見た未来では、ある若者《わかもの》が一対一の決闘《けっとう》で、闇《やみ》の女王デルを倒《たお》した。金髪《きんぱつ》の若者だった」
電撃《でんげき》にも似《に》た不意討《ふいう》ちに、サーラは息を呑《の》んだ。
「つまり……?」
「ああ、お前だった」
サーラはぽかんと口を開け、凍《い》てついた。麻痺《まひ》した頭の中で、数時間前にフェニックスに話した内容《ないよう》が、こだまのようにリフレインする。デルを憎《にく》むべきなのか、殺すべきなのかと言った、あの言葉が――あれもまた、運命の一部だったのだろうか?
(僕《ぼく》がデルを殺す。僕がデルを殺す。僕がデルを……)
考えれば考えるほど、それは決定事項のように思われてきた。断片《だんぺん》が組み合わさって形になるように、すべてがしっくりと、収《おさ》まるべきところに収まる気がする。そう、すべては決まっていたのだ。元の歴史で自分がデルを殺したというなら、この歴史でも同じことが起きねばならない……。
それによって運命は完結する。
サーラが呆然《ぼうぜん》となっている間に、ダルシュは立ち上がり、戸棚《とだな》に歩み寄っていた。壷《つぼ》が並《なら》んでいる棚の奥《おく》に腕《うで》を深く突《つ》っこみ、何かを操作する。かたん、という小さな音がした。おもむろに抜《ぬ》き出したダルシュの手には、握《にぎ》りこぶし二つ分ほどの大きさの革袋《かわぶくろ》が握られていた。
「これをやろう」
ダルシュは少年に歩み寄り、革袋を手渡《てわた》した。サーラは困惑《こんわく》しつつもそれを受け取った。ずっしりと重い。
「開けてみろ」
言われるままに袋の紐《ひも》をほどいて中を覗《のぞ》き、さらに驚《おどろ》いた。小さな球状《きゅうじょう》の水晶《すいしょう》が十数個、入っていたのだ。水晶はどれも、内側から白や薔薇色《ばらいろ》や黄色の光を放っていた。
「魔晶石《ましょうせき》……?」
サーラはつぶやいた。前にフェニックスに見せてもらった魔晶石と、色こそ違《ちが》うが、似た雰囲気《ふんいき》があったからだ。
「そう、魔晶石の一種だ。、薔薇色のは炎晶石《えんしょうせき》。相手に向かって投げつけると、激《はげ》しい炎《ほのお》を伴《ともな》う爆発《ばくはつ》が起きる。魔術師が使う「火球《ファイアボール》」の呪文《じゅもん》と同じ効果《こうか》がある。黄色は雷晶石《らいしょうせき》。これは投げた方向に稲妻《いなずま》を発生させる。白いのは氷晶石。これはぶつけた場所を中心に、氷の嵐《あらし》を発生させる。どれも一回使うと壊《こわ》れてしまう。くれぐれも無駄遣《むだづか》いはするな」
「これ、高いものなんじゃ……?」
ダルシュはにやりと実った。
「ああ、高いぞ。それだけで軽く四万ガメルはする」
サーラは驚いて、袋を落としそうになった。
「気をつけろ。ここでそれがすべて爆発したら、わしもお前も灰《はい》しか残らん」
慌《あわ》てて袋を抱《かか》えこんだ少年を見下ろし、ダルシュは実った。
「心配するな。投げつけるか、強く叩《たた》きつけないかぎり、魔法は発動せん。しかし、確《たし》かにそのまま持ち歩くのは不用心だな。これもやろう」
彼が手渡《てわた》したのは銀色のメダルだった。一方の面に古代文字が、もう一方の面には扉《とびら》の絵が刻《きざ》まれている。
「それは『富豪《ふごう》のメダル』というものだ。その扉の絵のところに袋を近づけて、『イン・ドゥ』と言ってみろ」
言われた通りにしたサーラは、またも目を丸くした。口にしたとたん、袋がきゅっとしぼむように縮《ちぢ》んだかと思うと、一瞬《いっしゅん》でメダルの中に吸《す》いこまれたのだ。
「取り出す時は、もう一度、『イン・ドゥ』と言えばいい」
サーラはおそるおそる、左手でメダルの扉の絵が下を向くように持ち、その下に右手を差し出して、「イン・ドゥ」と唱えた。メダルから袋が出現《しゅつげん》し、右手の中に落ちた。古代王国の魔法|技術《ぎじゅつ》の驚異《きょうい》は何度も目にしていたが、こんな道具は初めてだ。
「一度に一個だけ、それも小さいものしか入らないが、役には立つはずだ。その中に袋を入れて持ち歩けば、衝撃《しょうげき》で爆発することはあるまい」
「……これも高いんでしょ?」
「値段《ねだん》を聞くと卒倒《そっとう》するぞ」
決して値段は聞くまい、とサーラは思った。
「でも、どうしてこんなものを僕に?」
「お前に必要になるはずだからだ」
「必要に?」
「未来のお前は、炎晶石や雷晶石を使ってデルにとどめを刺していた」
「…………」
「この歴史においても同じ運命が待ち受けているなら、それが必要になるはずだ」
理屈《りくつ》に合った考えだ、とサーラは思った。魔獣《まじゅう》と化した今のデルは、人間を上回る力を持っているだろう。駆け出しの冒険者《ぼうけんしゃ》である自分が、まともに戦って勝てるはずがない。
「でも、デルがどこにいるのか、僕は知りません」
「いや、分かっている」
「ええっ!?」サーラは椅子《いす》から腰を浮かせた。「分かってる?」
「デルはドレックノールにいる」
「ドレックノール!?」
盗賊《とうぞく》都市ドレックノール。悪徳《あくとく》と腐敗《ふはい》がはびこる街――サーラは一度も行ったことはないが、評判《ひょうばん》ぐらいは耳にしている。ザーンの人間がその名を口にする時、必ずと言っていいほど、露骨《ろこつ》な軽蔑《けいべつ》の表情《ひょうじょう》を浮かべるのも。
「五か月ほど前のことだが、ドレックノールに立ち寄《よ》った行商人が、デルを目にしたそうだ。その男はザーンにも何度か来たことがあって、彼女のことを覚えていた。あの通り、特徴のある娘《むすめ》だからな。デルの方では、その男のことを覚えていなかったらしいが」
「でも、あの……翼《つばさ》が……」
「行商人の話では、普通《ふつう》の人間のように見えたそうだ。不思議なことではない。悪魔の中には様々な姿《すがた》に化けられる者もいるからな。わしが夢《ゆめ》で見たデルも、普段《ふだん》は人間の姿で、翼は隠していた」
「そうですか……」
デルがずっとおぞましい怪物《かいぶつ》の姿でいるわけではないと知って、サーラは少しだけ安堵《あんど》した――もっとも、その身が魔獣であるという事実だけは変えようがないのだが。
「その行商人は西部|諸国《しょこく》を巡《めぐ》っていて、ザーンに戻《もど》ったのはほんの一月半前のことだ。それで、その話がわしの耳に入った。わしはその男に金をやって口止めするとともに、一〇年以上も前からドレックノールに潜入《せんにゅう》させている部下に連絡《れんらく》して、話の裏《うら》を取らせた。そうしたら、どうやら事実らしいと分かった。その部下はデルの顔は知らなかったが、明らかに特徴が一致《いっち》する娘が、五か月前にドレックノールの市内で目撃されていたのだ」
「でも、なぜドレックノールなんかに……?」
「部下の話では、彼女は街の人間に尋《たず》ね歩いていたそうだ。『どこに行けばジェノアに会えるのか』と……」
「ジェノア!?」
サーラは飛び上がりそうになった。「闇《やみ》の王子」ジェノア。彼には以前、会ったことがある。ドレックノール盗賊ギルドの幹部《かんぶ》の一人。知力と美貌《びぼう》を兼《か》ね備《そな》え、常《つね》に冷酷《れいこく》な計算で行動する人物。国外|諜報《ちょうほう》活動と謀略《ぼうりゃく》を担当し、多くの暗殺|事件《じけん》や騒乱《そうらん》事件の影《かげ》で暗躍《あんやく》しているとささやかれる「西部諸国で最も危険《きけん》な男」。
「どうして気がつかなかった……」
サーラは自分の頭の悪さを呪《のろ》った。予想すべきだった。そもそもデルを暗黒神|信仰《しんこう》にひきずりこんだのはジェノアではないか。彼やその部下の誘惑《ゆうわく》によって、デルはファラリスの教義《きょうぎ》を信じるようになった。言ってみれば、デルにとってジェノアは師に当たる人物なのだ。サーラが妨害《ぼうがい》しなければ、彼女はジェノアの手下として働いていただろう。
彼女は一度はジェノアと袂《たもと》を分かった。しかし、魔獣《まじゅう》だってひもじくはなるだろう。十三|歳《さい》の娘が生きてゆくのに、誰《だれ》かの庇護《ひご》は必要だ。ザーンに帰れない以上、彼女がドレックノールのジェノアを頼《たよ》ることを思いつくのは、充分《じゅうぶん》に考えられるではないか。
あるいは、彼女はすでに体ばかりか心まで悪魔に蝕《むしば》まれているのかも――その邪悪《じゃあく》な力でジェノアのために奉仕《ほうし》することを、自分の意思で選択《せんたく》したのかもしれない。
「その後、デルがドレックノールやその周辺で目撃《もくげき》されたという報告《ほうこく》はない」ダルシュは続けた。「我々《われわれ》は彼女が『|闇の庭《ガーデン・オブ・ダークネス》』に保護されていると考えている」
「『闇の庭』?」
「ドレックノールの郊外《こうがい》にあるという秘密《ひみつ》機関だ。十数年前から存在《そんざい》していて、最初はギルドマスターのドルコンの直轄《ちょっかつ》だったが、今ではジェノアに管理されているらしい。優秀《ゆうしゅう》な賢者《けんじゃ》や魔術師《まじゅつし》を集め、薬品や魔法で人間を改造《かいぞう》し、人間を上回る能力《のうりょく》を持つ存在を創造《そうでう》しようと、極秘《ごくひ》に研究を続けている」
「……つまり魔獣?」
ダルシュはうなずく。「魔獣の研究もしている。それも人間の姿をした魔獣だ。すでに成功例がいくつもあると噂《うわさ》されている。魔獣の能力を持つ子供《こども》が、何人も生み出されているらしい」
「…………」
「まだお前と同年代か、もっと幼《おさな》い子供たちだ。ジェノアは彼らを育て上げ、優秀な密偵《みってい》や暗殺者として、各地に送り出すつもりらしい。そうなれば恐《おそ》ろしいことになる。想像してみろ。見かけは人間と変わらないから、やすやすと街に潜入《せんにゅう》できるだろう。子供の姿なので怪《あや》しまれることなく行動でき、破壊《はかい》や暗殺を実行する。西部諸国が――いや、下手《へた》をするとアレクラスト全土が、ジェノアの手に落ちるかもしれん」
サーラは唇《くちびる》を噛《か》んだ。人間と魔獣を合体させるという発想には、強いむかつきを覚える。ジェノアというのはそこまで邪悪《じゃあく》な男だったのか。ガドシュ砦《とりで》のヴァルダニアや、「悪魔《あくま》のエッセンス」を創造したギャラントゥスのように、自らの目的のためには、生命の尊厳《そんげん》を平気で踏《ふ》みにじる男だったのか。
デルが「闇の庭」のことを耳にしていて、ジェノアに接近《せっきん》したのかどうかは分からない。しかし、彼女が「闇の庭」にいるというのは、ありそうなことのように思えた。悪魔と合体し、魔獣となった彼女を、仲間として温かく迎《むか》え入れてくれるような場所は、世界にそこだけしかないはずだ。
「さて、そこでだ」
ダルシュは椅子《いす》に座《すわ》り直し、鋭《するど》い眼《め》で正面からサーラを見つめた。
「これが本題だが、お前にこれからある任務《にんむ》を与《あた》えたい。言っておくが、危険《きけん》な任務だ。命を落とす可能性《かのうせい》がかなり高い。だから、受けるかどうかはお前しだいだ。ただし、任務の内容を聞く前に返答してほしい。聞いた後で拒否《きょひ》するのは許《ゆる》さん。というのも、この任務は極秘《ごくひ》だから、部外者には絶対《ぜったい》に洩《も》らすわけにはいかんのだ。ギルド内部の人間でさえ、知らされている者はごくわずかだ。敵に通じている者がどこにいるか分からんからな――どうだ、受けるか?」
「それはデルに関係ある任務ですか?」
「そうだ」
「受けます」サーラは即答した。「やらせてください」
「よかろう」
ダルシュは微笑《ほほえ》むと、乾《かわ》いた唇を舌《した》で舐《な》めて湿《しめ》らせ、おもむろに語り出した。
「半月前、海賊《かいぞく》ギルドの幹部《かんぶ》の一人、『ルビーアイ』キースから極秘の申し出があった。協力して『闇の庭』を潰《つぶ》そうというのだ」
「海賊ギルドから?」
コリア湾《わん》海賊ギルドは、単なる海賊の集団《しゅうだん》ではない。コリア湾に点在する島々を根拠地《こんきょち》に、数千の人口を擁《よう》する、ちょっとした独立《どくりつ》国家だ。しばしば商船や海岸沿いの町を襲撃《しゅうげき》して略奪《りゃくだつ》を繰《く》り広げる彼らは、当然、ザーンにとっては敵である。
「まあ、この場合は、敵の敵は味方ということだ。連中にとっても『闇の庭』は心配の種だ。それで我々《われわれ》と同様、何年も前からドレックノールに密偵を送りこんで、『闇の庭』の場所を探《さぐ》らせていたらしい。その密偵がついに場所を探り当てた。しかし、子供とはいえ、何匹《なんびき》もの魔獣が巣食っている場所だ。自分たちだけで襲撃するには力が足りない。それで協力を持ちかけてきた……」
ダルシュは苦笑《くしょう》した。
「まあ、見え透《す》いた話だがな。『闇の庭』を潰すのはいいが、自分たちだけが損害《そんがい》を被《こうむ》るのは面白《おもしろ》くない。後でドレックノールから報復《ほうふく》を受けることも考えられる。それで、我々ザーンの盗賊ギルドにも手を汚《よご》させ、危険を分散させようと考えたわけだ。もっとも、それは我々にとっても同じことだ。ドレックノールと一対一でやり合うより、同盟者《どうめいしゃ》がいてくれた方が、負担《ふたん》は少なくて済《す》む。だからわしは、この話に乗ることにした。もちろん、この作戦にかぎっての、一時的な同盟関係だがな。
幸い、今は絶好の機会だ。知っての通り、つい先日、リファールがドレックノールに対して行なっていた禁輸《きんゆ》が解除《かいじょ》された。今、ドレックノール市内はリファールからの商人であふれかえっている。つまり、市内には見慣《みな》れぬよそ者の数がいつもより多い。まとまった人数をもぐりこませるのに都合がいい。
双方《そうほう》から二五名ずつ、合わせて五〇名を出すことになった。これだけの数で襲撃すれば、まず勝てるだろう。問題は誰を送るかだ。盗賊《とうぞく》だけでは手に負えまい。優秀な戦士、魔術師《まじゅつし》、司祭《しさい》、精霊使《せいれいつか》いも必要だ。それも信頼《しんらい》できる者がな」
「……冒険者《ぼうけんしゃ》?」
「そういうことだ」
サーラは思い出した。昼間、ミスリルとデインが盗賊ギルドに出かけていったことを。帰ってきてから、いったいどんな用件《ようけん》だったのかと訊《たず》ねても、なぜか言葉を濁《にご》して答えなかったっけ……。
「もしかして、ミスリルやデインにも……?」
「ああ、話をつけた。お前たちのパーティは実績《じっせき》があり、信用できる。口の堅《かた》い者も揃《そろ》っているからな。報酬《ほうしゅう》も破格《はかく》の金額《きんがく》を約束した。二人とも承諾《しょうだく》した」
「でも、フェニックスたちは……」
「レグとフェニックスは、デインたちが説得することになっている。十中八九、受けてくれるだろう。お前たちは結束も固いしバランスの取れた良いパーティだと聞いている。できれば全員で参加してほしい。ただ、お前に関しては、わしの口からじかに話したかった――どうだ、事情《じじょう》は理解《りかい》できたか?」
サーラは無言でうなずいた。すべて納得《なっとく》できた。「闇の庭」襲撃計画に参加すれば、デルに再会《さいかい》できる可能性が高い。いや、きっと再会できるのだろう。そして、自分はデルを殺すことになるのだ。
それが運命ならば。
「……分かりました」サーラはこわばった舌で機械的に言葉をつむぎ出した。「ご期待に添《そ》うように、がんばります」
「信頼しておるよ」ダルシュは優《やさ》しく言った。
さらにいくつか注意|事項《じこう》の説明を受けた後、サーラは退出《たいしゅつ》した。
一人になったダルシュは長い息を吐《は》き、椅子に深く沈《しず》みこんだ。少年と話している間、重大なことを隠《かく》し通したことで、精神《せいしん》的に疲《つか》れていた。ここ数年、老いを自覚してきてはいたが、今夜だけでいっぺんに何年も年を取ったような気がした。
「やむをえない犠牲《ぎせい》……か」
これまでの人生で、その言葉を何度使っただろう。いつ聞いても嫌《いや》な言葉だ。敵を殺すのにためらいはない。しかし、大局のために味方を犠牲にするのは、たとえザーンの未来を守るためとはいえ、いい気持ちのものではない。まして今回、犠牲にするのは、まだ十三|歳《さい》の少年だ。
だが、今ここで、どうしてもデルを倒《たお》さなくてはならないのだ。将来《しょうらい》、彼女が成長して、ザーンに仇《あだ》なすような事態《じたい》は、何としてでも避《さ》けなくてはならない。それができるのはサーラだけだと、彼は確信《かくしん》していた。
ダルシュは言わなかった――自分の見た夢《ゆめ》の中で、サーラはデルと相討《あいう》ちになって死んだのだということを。
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4 悪徳《あくとく》の都《みやこ》
二日後、サーラたちはドレックノールに向かう交易商《こうえきしょう》のキャラバンの護衛《ごえい》という名目で、ザーンを旅立った。
キャラバンは全部で一〇人。全員が商人に扮《ふん》した盗賊《とうぞく》ギルドのメンバーである。本物の商人として通用するよう、商売に必要な算術《さんじゅつ》や、交易品に関する知識《ちしき》を叩《たた》きこまれており、実際《じっさい》に何度もドレックノールに出かけて商売をやっている。いざという時に備《そな》え、いわゆる「表の顔」を何年もかけて創《つく》り上げてきたのだ。
リーダーのメリンという男は、盗賊《シーフ》であると同時に、盗賊の神ガネードの司祭《プリースト》でもある。禿《は》げ上がった頭、にこやかな顔、糸のように細い優《やさ》しそうな眼《め》をしていた。忍《しの》びこみも壁《かべ》登《のぼ》りも苦手そうな太った体形は、とても盗賊には見えない。食事の際《さい》には他の人間の倍も食べ、食事の合間にも干《ほ》したイカの足を噛《か》んでいることが多い。少し話した感じでは、喋《しゃべ》り方はおっとりしていて温和そうだ。サーラはすぐに彼が好きになった。
キャラバンの他のメンバーにしても、歌の好きな陽気な青年とか、気っぶのいいおかみさんとか、鈍重《どんじゅう》そうな中年男とか、謀略《ぼうりゃく》にも戦闘《せんとう》にも縁《えん》のなさそうな者ばかりだ。こんな人たちが人を殺したりするのだろうか、とサーラは疑問《ぎもん》に思った。ミスリルは笑って、「いかにも密偵《みってい》に見える奴《やつ》が密偵になれるわけがないだろう」と説明した。真の能力《のうりょく》を隠《かく》し、いかにも自分を無害な存在《そんざい》のように見せかけることこそ、彼らに課せられた使命であり、修業《しゅぎょう》の成果なのだと。
他《ほか》にもダルシュの極秘《ごくひ》の指令を受けた冒険者《ぼうけんしゃ》が二組、別ルートでドレックノールに入りこんでいるという。かねてからドレックノールに潜入《せんにゅう》していた者も合わせると、総勢《そうぜい》二七名。当然、海賊ギルドも同じぐらいの人数をすでに送りこんでいるはずだ。
問題はサーラである。彼はジェノアに顔を知られている。街中をうろついていてジェノアとばったり出会うという可能性《かのうせい》は低そうだが、用心するに越《こ》したことはない。そこで女の子に変装《へんそう》し、メリンの娘《むすめ》に扮することになった。
旅の途中《とちゅう》、特に問題はなく、一行は国境《こっきょう》を越え、ドレックノールの領内《りょうない》に入った。ドレックノールの都に到着《とうちゃく》する日の朝、野営地《やえいち》に停《と》まっている幌馬車《ほろばしゃ》の中で、フェニックスに手伝ってもらってサーラは変装を済《す》ませた。
もともと少女のような柔和《にゅうわ》な顔つきで細身のサーラは、長い黒髪《くろかみ》のかつらをかぶってスカートを穿《は》き、胸《むね》に少し詰《つ》め物を入れれば、誰《だれ》が見ても本物の女の子にしか見えない。女装は前にもやったことがあり、さほど抵抗《ていこう》はなかった。重大な任務《にんむ》のためなら、ちょっとぐらいの恥《は》ずかしさなど我慢《がまん》できる。
「ほんと、こうして見ると、完璧《かんぺき》なまでに女の子よね」
最後の仕上げに少年の唇《くちびる》に薄《うす》く紅《べに》を塗《ぬ》りながら、フェニックスは自分の手際《てぎわ》に惚《ほ》れ惚《ぼ》れしていた。
「私よりもきれいかも。嫉妬《しっと》しちゃいそう」
「そういう言い方、やめてよ」サーラはふくれた。「別に好きでやってるわけじゃないんだからさ」
「分かってるわよ」フェニックスはくすっと笑うと、少年の耳に口を寄せ、いたずらっぽくささやいた。「あなたが男の子だってことは知ってるから」
サーラは顔を赤らめた。何か言い返そうと口を開いた時、幌をめくり上げてデインが入ってきた。
「ほう、サーラ、こうして見ると――」
「それは今、フェニックスに言われた」サーラは口をとんがらせた。「何か用?」
「ああ、今のうちに少し話をしておこうと思ってな」
デインは織物《おりもの》を詰めた袋《ふくろ》の上に腰を下ろした。なぜか切り出しにくそうにしていて、意味もなく咳払《せきばら》いをしたり、袋の上で尻をもぞもぞ動かしたりしている。デインがこんな態度《たいど》を見せるのは珍《めずら》しい。都合の悪い話だな、とサーラはピンときた。
「お前、記憶力《きおくりょく》は良かったな?」
「うん」
「街に入ったら、お前には連絡係《れんらくがかり》をやってもらおうと思う」
「連絡係?」
「五〇人もの人間が一|箇所《かしょ》に集まったら怪《あや》しまれる。だから決行前の打ち合わせは、いくつかのグループに分かれて、別々の場所でやる。まず、メリンと僕《ぼく》たちが海賊ギルドの代表と会い、決行の時刻《じこく》や場所、手はずを決める。それを他のグループに伝える。ただし、取り決めた内容《ないよう》を紙に書いたりはしない。万一、それがドレックノール側の手に渡《わた》ったら、計画が露見《ろけん》するからな」
「うん」
サーラは緊張《きんちょう》して聞いていた。今度の作戦は大がかりであるため、秘密《ひみつ》の漏洩《ろうえい》を防《ふせ》ぐことが最も重要となる。用心に用心を重ねなくてはならない。
「取り決めた内容はすべて記憶して、口頭で他の者に伝える。そのためには、記憶力がいい者が何人か必要になる。一人だけだと、何か大事なことを伝え忘《わす》れる危険《きけん》があるが、二人以上で同じことを暗記すれば危険は減《へ》る」
「その役を僕が?」
「そうだ」
「分かった、やるよ。それだけ?」
「ああ、それから、メリンとも相談したんだが……」
デインはまた咳払いをした。ばつが悪そうにサーラから視線《しせん》をそらせる。
「……決行の際《さい》には、お前は外で待機していろ」
「ええ!?」サーラは驚《おどろ》いた。「それって、攻撃《こうげき》に参加するなってこと?」
「そうだ」
「ひどいよ! 僕は足手まといってことなの?」
デインは苦しそうに顔をしかめた。「早い話が、そうだ」
「だって……」
「お前の気持ちは分かる。デルを見つけたいというのはな」
デインたちも、デルが「|闇の庭《ガーデン・オブ・ダークネス》」にいる可能性《かのうせい》が高いという情報《じょうほう》は聞かされていた。だが、それ以上の深い事情は知らない。サーラが約束を守って、ダルシュとの会話の内容を仲間にも秘密にしていたからだ。
「だが、僕たちが乗りこむ場所は、いわば魔獣《まじゅう》の巣だ。警戒《けいかい》もきびしいだろう。激戦《げきせん》になることは間違《まちが》いない。幸い、こっちの総勢《そうぜい》は二七名。海賊《かいぞく》側と取り決めた人数より多い。一人か二人、欠けたって間違ない」
「だったら僕は何のために……!」
「サーラ!」
興奮《こうふん》してデインに突《つ》っかかろうとしたサーラの肩《かた》を、フェニックスが押《お》さえた。デインは少年をにらみつける。
「はっきり言って、お前では魔獣には勝てない。むざむざ殺されに行くだけだ」
「でも……」
僕には魔晶石《ましょうせき》がある――と言おうとして、サーラは口ごもった。ダルシュから魔法のアイテムをもらったことは、デインたちにさえ話してはならないのだ。なぜそんなものをもらったのかを説明しようとしたら、ダルシュが見た夢《ゆめ》の話や、運命がどうこうといった話もしなくてはならなくなる。
「分かってくれ。お前が無謀《むぼう》に飛び出して行って、殺されるのを見るのは、僕たちとしても嫌《いや》なんだ」
「無謀なことなんてしないよ!」
「信じろって言うのか? この前、あんなことがあったのに?」
サーラは黙《だま》りこんだ。
「心配するな。デルが無事なら、きっと助け出してやる」そう言ってデインは、ふと表情を曇《くも》らせた。「ただ問題は、彼女がすでにジェノアに魂《たましい》を売ってしまっている場合だ。ジェノアは言葉で人の心を操《あやつ》るのに長《た》けているらしいからな。ましてや、今のデルは悪魔と合体している。もしかしたら、すでに心まで……」
「分かってる」サーラはうるさそうにさえぎった。「そんなこと、僕だって考えてるよ」
「だったら、承知《しょうち》しておいてくれ。もしデルが僕たちの前に敵《てき》として立ちはだかったなら、殺さなくちゃならない。かわいそうだが、それしか方法はない。全力で立ち向かわなくては、こっちが殺されるだろうからな」
「ああ。分かってる……」
サーラは不満そうにつぶやき、顔を伏《ふ》せた。しかし、心の底では、デインたちがデルを殺すことはないだろうと思っていた。
デルを殺す運命にあるのは自分なのだから。
正午を過《す》ぎた頃《ころ》、キャラバンはシエント河《がわ》のほとりに到着《とうちゃく》した。
西部|諸国《しょこく》を南北に貫《つらぬ》くこの大河《たいが》は、はるか北の山岳《さんがく》地帯にある「階段《かいだん》都市」ゴーバ、中流にある「夢見る都」リファールを経《へ》て、このドレックノールでコリア湾《わん》に流れこむ。そのため、昔から三国を結ぶ交通路として利用されてきた。ゴーバからは鉱石《こうせき》や毛皮や木材が、リファールからは織物《おりもの》や陶器《とうき》や金属《きんぞく》細工が下流に向かい、港街であるドレックノールからは、干《ほ》し魚や海藻《かいそう》などの海産物や、遠い東の国から海路で輸入《ゆにゅう》された品々が上流に向かう。そのため、河には常《つね》に多くの船や筏《いかだ》が行き来していた。
つい先日まで、リファールの王女リュキアンの暗殺|未遂事件《みすいじけん》がきっかけで、リファールとドレックノールとの関係は極端《きょくたん》に悪化していた。リファールが行なった全面|禁輸《きんゆ》による経済制裁《けいざいせいさい》は三か月に及《およ》び、物資《ぶっし》の不足による価格《かかく》の高騰《こうとう》はドレックノールの経済に少なからぬ打撃《だげき》を与《あた》え、多くの庶民《しょみん》を苦しめた。だが今、禁輸は解《と》かれ、河には再《ふたた》び船があふれていた。
ドレックノールの市街は対岸にある。河には橋はないので、渡《わた》し舟《ぶね》を利用しなくてはならない。馬車を何台も載《の》せられる大きな筏が何艘《なんそう》も、河を往復《おうふく》しているのだ。あれこれ理由をつけて余分《よぶん》の渡し賃《ちん》をせびろうとする渡し守に手を焼いたものの、どうにかメリンは二艘の筏を確保《かくほ》した。一行はそれに分乗し、ドレックノールへと向かった。
サーラは筏の舳先《へさき》近くに立ち、しだいに近づいてくる都市を眺《なが》めていた。海から吹《ふ》いてくる潮《しお》の香《かお》りの混《ま》じった風に、レモン色のスカートがひるがえる。衝突《しょうとつ》を避《さ》けるために船頭たちが呼び合うのどかな声や、海鳥の鳴き声が、広い川面《かわも》に響《ひび》いている。一見すると平和で、活気に満ちた光景だ。
だが、遠く離《はな》れた対岸に広がる「盗賊《とうぞく》都市」ドレックノールを初めて目にして、サーラの胸《むね》には形のない不安が渦巻《うずま》いていた。晴れ渡った春の空の下にあるというのに、都市はどんよりと沈《しず》んでいるように見えた。煙突《えんとつ》から立ちのぼる無数の煙《けむり》。家々の灰色《はいいろ》の壁《かべ》。樹々《きぎ》の緑は少なく、街全体が黒と灰色のモザイクで構成《こうせい》されているようだ。西の端《はし》にある城《しろ》の他《ほか》には、高い建物はほとんどない。白く芸術《げいじゅつ》的な建築物《けんちくぶつ》が建ち並《なら》ぶベルダインや、巨大《きょだい》な女王の像《ぞう》を壁面に刻《きざ》みこんだザーンと比べて、外観ではおおいに見劣《みおと》りがする。
街が実際《じっさい》以上に黒ずんで不気味に見えるのは、その下に何が潜《ひそ》んでいるかを見る者が知っているからだろう。西部諸国で最も評判《ひょうばん》の悪い国。国王は名ばかりの存在《そんざい》で、実際には盗賊ギルドに牛耳《ぎゅうじ》られている。治安が悪く、スリや窃盗《せっとう》や暴力沙汰《ぼうりょくざた》は日常茶飯事《にちじょうさはんじ》。売春、麻薬密売《まやくみつばい》、人身売買、暗黒神|崇拝《すうはい》など、ありとあらゆる悪徳《あくとく》がはびこっている。人口の一|割《わり》は盗賊で、その他の住民の多くも、何らかの形で犯罪《はんざい》もしくは不道徳な行為《こうい》に関与《かんよ》していると噂《うわさ》されている。まさに「悪の巣窟《そうくつ》」と形容《けいよう》するにふさわしい街……。
筏はのろのろと、しかし確実《かくじつ》に対岸に近づいてゆく。街はしだいに大きくなり、視野《しや》いっぱいに広がっていった。河岸《かわぎし》の道路を行き交《か》う馬車や、船着場で働く労働者の姿《すがた》も、はっきりと見えるようになってきた。これからそこに乗りこむのだと思うと、どうしても緊張《きんちょう》してしまう。少年の硬《かた》くなった表情《ひょうじょう》をほぐそうとしてか、キャラバンの一人が「お嬢《じょう》ちゃん、美人だから、悪い奴《やつ》らにさらわれないように気をつけなきゃね」とおどけて言ったが、サーラには冗談《じょうだん》のように聞こえなかった。
筏が桟橋《さんばし》に接岸《せつがん》して、もやい綱《づな》が結ばれると、待ち構《かま》えていた役人がさっそく乗りこんできて、荷物を検分《けんぶん》しはじめた。もちろん怪しまれそうな武器《ぶき》の類《たぐい》は最小限《さいしょうげん》で、積荷の奥《おく》に慎重《しんちょう》に隠《かく》してある。通行|許可証《きょかしょう》も本物だ。問題はないはずなのに、役人はねちねちと難癖《なんくせ》をつける。賄賂《わいろ》を要求しているのが、あまりにも露骨《ろこつ》だった。こうしたことに慣《な》れているメリンは、苛立《いらだ》つ様子もなく、笑顔《えがお》で役人にすり寄《よ》り、その手に香料《こうりょう》が入った小瓶《こびん》を握《にぎ》らせた。売ればちょっとした小遣《こづか》いになる代物だ。役人は顔をほころばせ、ようやく上陸を許可した。
まず向かったのは、港にある倉庫街だ。積荷の一部はこの街の商人に引き渡し、一部は路頭で売る。何にしても、ここでいったん馬車を預《あず》けなくてはならない。馬車の列を引き連れて街の中をやたらに移動《いどう》できないからだ。
もちろんここでも、窃盗から守ってもらうために、盗賊ギルドの手先である倉庫番に賄賂を渡さなくてはならない。一方、念のために見張《みは》りも立てる。油断《ゆだん》していたよそ者が荷物をごっそり盗《ぬす》まれるのも、この街ではよくあることだ。
「お恵《めぐ》みを」
荷をほどいていると、薄汚《うすぎたな》いボロをまとった男がどこからともなく現《あら》われ、かすれた声でメリンにつきまとった。ひどい猫背《ねこぜ》で、何かの病気に冒《おか》されているのか、顔はあばただらけだ。
「お優《やさ》しいお金持ちの旦那《だんな》様、どうかお恵みを。銀貨一|枚《まい》でいいんです。もう腹《はら》ペコなんでさあ」
「ええい、うるさいな。忙《いそが》しいんだ。あっちに行け」
作業を指揮《しき》していたメリンがすげなく追い払《はち》おうとすると、男は手をすり合わせ、不気味なにやにや笑いを浮かべながら、さらに哀《あわ》れな声を出した。
「そんな殺生《せっしょう》な。魚の頭や犬の骨《ほね》でもかじってろって言うんですかい?」
メリンははっとなった。それは海賊ギルドと事前に取り決めた符牒《ふちょう》――打ち合わせをするから予定の場所に来い、という通知だ。
彼は男に銀貨を投げ与《あた》え、「それで豚《ぶた》の骨でも食ってろ」と吐《は》き捨《す》てるように言った。通知を受諾《じゅだく》したという符牒だ。男は銀貨を拾い上げ、何度もぺこぺこおじぎしながら去っていった。
「じゃあ、わしはこれから織物《おりもの》商人のところに交渉《こうしょう》に行ってくるからな」
メリンは積荷を整理している部下たちに言った。無論《むろん》、近くに倉庫番が立っているのを意識《いしき》しての演技《えんぎ》だ。
ドレックノールの市内には、盗賊ギルドの下部|組織《そしき》のひとつして、「|早耳ネズミ《クイックイヤード・ラット》」と呼《よ》ばれる情報網《じょうほうもう》が存在《そんざい》している。その構成員《こうせいいん》はみな表向きの職業《しょくぎょう》を持ち、正体を隠《かく》して行動している。市民による犯罪行為《はんざいこうい》を取り締《し》まる一方、外国から侵入《しんにゅう》してくる密偵《みってい》に対して目を光らせているという。衛視《えいし》が存在せず、軍隊も形骸化《けいがいか》しているこの街で、一種の警察機構《けいさつきこう》として機能《きのう》しているのだ。この倉庫番にしても、その一員という可能性《かのうせい》は充分《じゅうぶん》にある。何にせよ、街の中ではいついかなる時も「善良《ぜんりょう》な商人一行とその護衛《ごえい》」という役柄《やくがら》を演じなければならない。どこに監視《かんし》の目があるか、分かったものではない。
「アーシャ、ついておいで」
メリンは呼びかけられ、サーラはしとやかに「はあい」と返事すると、折り畳《たた》んだテーブルクロスを抱《かか》えて駆《か》け寄《よ》った。アーシャというのは女の子の格好《かっこう》をしている時の偽名《ぎめい》である。将来《しょうらい》は父の仕事を手伝うことになる一人娘《ひとりむすめ》が、腕利《うでき》きの商人である父から実地に商売のコツを教わるため、交渉の場に同行する――という設定《せってい》だ。
「あんたとあんた、すまんが護衛を頼《たの》む。この街はぶっそうでな」
メリンは手はずどおり、デインとフェニックスに声をかけた。四人は港から離《はな》れ、街の中心部に足を踏《ふ》み入れた。
メリンについて街路を歩きながら、サーラはさらに不安になった。ザーンは巨大《きょだい》な岩山の中に縦横《じゅうおう》に通路が走り、街全体が迷路《めいろ》のようだったが、このドレックノールも複雑《ふくざつ》さでは負けていない。ベルダインの新市街のように計画的に作られた都市ではなく、半世紀前からの爆発《ばくはつ》的な人口|増加《ぞうか》に伴《ともな》い、家屋が無秩序《むちつじょ》に建設《けんせつ》された結果、街並《まちな》みはひどく混乱《こんらん》した状態になってしまっている。住民たちが互《たが》いに隣《となり》の敷地《しきち》ぎりぎりにまで建て増《ま》しを行なったため、複数《ふくすう》の家屋がくっつき合い、城のような巨大な住宅《じゅうたく》と化しているところが多い。ここには庭のある家などほとんどない。道路にまではみ出して増築《ぞうちく》された建物も多く、道路をまたいでアーチのように建てられた建物さえあった。
そのため、道路はどれもジグザグに折れ曲がっており、どんなに広いところでも、馬車二台がかろうじてすれ違《ちが》えるほどの幅《はば》しかなかった。おまけに果実や魚や野菜を売る露天《ろてん》商も多く、道をさらに狭《せま》くしていた。道路はねじくれているばかりか、あらゆる方向に好き勝手につながっていて、ちょっと歩いただけで方向感覚が混乱した。人一人しか通れないような狭い路地も無数にある。いったいこんな街で迷わずに歩けるのだろうか、とサーラは疑問《ぎもん》に思った。
何よりも閉口《へいこう》したのは、その汚さだった。新しい白い壁《かべ》の家などほとんどなく、大半が煤《すす》で灰色《はいいろ》に染《そ》まり、あるいは風雨で浸食《しんしょく》され、いつ崩《くず》れてもおかしくないように見える。おそらく住民の多くが貧《まず》しい暮《く》らしを強《し》いられているのだろう。いちおう街の地下には下水網《げすいもう》が存在し、道路の脇《わき》には汚水《おすい》を下水口まで導《みちび》く細いドブがあるのだが、それも手入れされておらず、あちこちで詰《つ》まってあふれていた。ゴミも路上に平然と捨《す》てられている。
夕食が近づいていることもあって、各家庭の煙突《えんとつ》からは煙《けむり》があふれ出し、シチューを煮《に》る匂《にお》いが漂《ただよ》っている。それがゴミや汚物の悪臭《あくしゅう》と混《ま》じり合い、何とも不快《ふかい》なハーモニーを奏《かな》でていた。
意外な点もあった。サーラはここに来るまでてっきり、「盗賊《とうぞく》都市」の住民はみんな怪《あや》しい目つきをしているのだろうと、何となく思いこんでいた。しかし、そんなことはなかった。忙《せわ》しげに行き交《か》う通行人、荷を運んでいる労働者、街角で談笑《だんしょう》している主婦《しゅふ》、「買っていっとくれよお〜」と歌うように声を上げる露天商の老婆《ろうば》……みんなザーンで見かける顔と大差ない。確《たし》かに、見るからに怪しげな風体《ふうてい》の連中も目立つが、住民の多くは普通《ふつう》の人のようだ。その皺《しわ》には生活の苦労が刻《きざ》まれ、その足取りには生命の力強さが宿り、その笑い声には人生のささやかな喜びが感じられた。
転がるボールを追いかけて、小さな子供《こども》たちの一団《いちだん》がきゃっきゃっと騒《さわ》ぎながら、サーラたちを追い越《こ》していった。(この街にも子供がいるんだ)と、サーラは当たり前の事実にあらためて気づき、軽い衝撃《しょうげき》を受けた。
「おお、ここだここだ」
メリンは一|軒《けん》の織物商の店にずかずかと入っていった。店いっぱいに吊《つ》るされた色とりどりの毛織物を太った体でかき分け、奥《おく》に入ってゆく。
「交易商《こうえきしょう》を営むメリンという者ですが、バントレスさんはいらっしゃるかな」
声をかけられた店員は、メリンの風体を上から下まですかさず観察した。
「どのようなご用件《ようけん》で?」
「買っていただきたいものがありましてな――アーシャ」
サーラは抱えていたテーブルクロスを胸《むね》の前に広げてみせた。
「見本です。ご覧《らん》の通り、ベルダイン産の逸品《いっぴん》でしてな。赤と緑と黄色の糸がふんだんにあしらわれております」
「ははあ」店員の目が光った。「主人はどちらかと言えば赤が好みでしてね。しかし、最近のお客様は青|系統《けいとろ》が趣味《しゅみ》の方が多いようで」
「青がお好みなら、馬車にたくさん積んでありますよ。海のような青も、空のような青も」
それが合言葉だった。店員は深くうなずくと、「どうぞこちらへ」と一同を店の奥に案内した。
階段《かいだん》を下りると、煉瓦《れんが》壁に囲まれた地下の小さな一室で、主人のバントレスがテーブルについていた。「よく来た」と素っ気ない口調であいさつする。中年のハーフエルフで、メリンとは正反対の、ひどく痩《や》せた男だった。縮《ちぢ》れ毛で、眼《め》は落ちくぼみ、頬《ほお》も病気かと思えるほど異常《いじょう》にこけていて、ドクロの上に皮膚《ひふ》がじかに貼《は》りついているという印象だった。サーラたちをぎょろりとにらみつける眼球《がんきゅう》は、やけに大きく見える。肌《はだ》は浅黒いが、ミスリルほど濃《こ》くはない。
その斜《なな》め後ろの壁際《かべぎわ》には、美しい若《わか》い女性《じょせい》が座《すわ》っていた。挑戦《ちょうせん》的な微笑《びしょう》を浮《う》かべ、腕組《うでぐ》みをして椅子《いす》にふんぞり返り、スリットの入ったスカートから露出《ろしゅつ》したすらりとした長い脚《あし》を大胆《だいたん》に組《く》んでいる。健康的な小麦色の肌と、黒く長い艶《つや》やかな髪《かみ》が印象的だ。ガルガライスの出身だな、とサーラは思った。レグもそうだが、ガルガライス人は自分の肉体を誇《ほこ》り、露出するのを好むのだ。
女はサーラたちに無言で笑顔《えがお》を投げかけてきた。その神秘《しんぴ》的な瞳《ひとみ》で見つめられ、サーラはどきっとした。フェニックスも美人だが、この女性の美しさもそれに負けていない。フェニックスと違《ちが》うのは、その明るい表情《ひょうじょう》には翳《かげ》りが見られず、子供っぽい無邪気《むじゃき》ささえ感じさせることだ。
メリンは握手《あくしゅ》も礼も省略《しょうりゃく》し、バントレスと対面する席についた。顔は平静を装《よそお》っているが、さすがに緊張《きんちょう》しているのが分かる。サーラたち三人はその背後《はいご》に立ち、着席しない。何と言っても、相手は宿敵《しゅくてき》の海賊《かいぞく》ギルドだ。万一、決裂《けつれつ》した場合の用心に、いつでも戦える態勢《たいせい》でいなくてはならない。
「尾行《びこう》されてないだろうな?」とバントレス。
「もちろんだ」
「信じよう――さっそくだが、新しい符牒《ふちょう》を決めておく」
バントレスは頬に手をやり、眼の下あたりで、人差し指で小さく8の字を描《えが》いた。
「このしぐさを、あんたたちの側にも徹底《てってい》させてくれ。街の中でそれらしい人物に接触《せっしょく》した場合、このしぐさで味方かどうか識別《しきべつ》する。今後は作戦開始まで、言葉による符牒は一切《いっさい》使わない。言葉の符牒を使う奴《やつ》は、探りを入れてきた『|早耳ネズミ《クイックイヤード・ラット》』だと思え」
「まさか、符牒が洩《も》れたのか?」
「そうじゃないが、念のためだ」
「分かった」
「それと、作戦開始後はこうだ」
バントレスは、チチッと舌《した》を二回鳴らした。
「メンバーの多くは、作戦中に初めて顔を合わせることになる。この舌打ちの音で識別する。こっちの符牒は作戦開始まで一切使わない」
「なるほど、慎重《しんちょう》だな」メリンは感心した。
「慎重にもなろうってもんさ。俺《おれ》は海賊ギルドの命《めい》を受けて、『|闇の庭《ガーデン・オブ・ダークネス》』の秘密《ひみつ》を探るために、何年も前からこの街に潜入《せんにゅう》してる。ドレックノール流の商法も身につけて、立派《りっぱ》に成功した。言うならば、この時のためにすべてを捧《ささ》げてきたんだ。くだらんミスで水の泡《あわ》にしたくない」
「同感だ。わしも表向きの顔を作り上げてきた男だからな」
「あんたはいいさ。この街で面が割《わ》れても、別の土地で商売が続けられるだろう。俺はこの作戦|終了《しゅうりょう》と同時に表の商売を畳《たた》んで、街からずらからなきゃいけない。せっかく順調に行ってる店を投げ出してな」
「お互い、つらいな」
メリンはそう言ってから、あらためてバントレスの背後の女性に目をやった。
「はてさて、そっちの美人は……」彼は細い眼をさらに細くした。「間違えてたら失礼。もしや『マーメイド』メイマーでは?」
「ご明察」と、女性はにんまり笑う。
「それはそれは!」メリンはおおげさに顔をほころばせた。「七|英雄《えいゆう》の一人、『波頭《はとう》の雄《ゆう》』がじきじきにおでましとは! 今度の件《けん》、確《たし》かに海賊ギルドは本気と見えるな」
「誤解《ごかい》しないで。あたしは戦闘《せんとう》には加わらない。この交渉《こうしょう》の場に立ち会うだけ。あたしの専門《せんもん》は戦いじゃなく交渉だから。あなたたちの真意を見極《みきわ》め、話をまとめるのが、あたしの役目」
「あんたの手練手管《てれんてくだ》の噂《うわさ》は聞いてる。確かに適任《てきにん》だな」
メイマーは笑って肩《かた》をすくめた。「本当は責任者《せきにんしゃ》である『ルビーアイ』キースが出張《でば》ってくるべきなんだけどね。彼ってジェノアと同じで、前に出たがらないから」
「あんたとキースは仲が悪いと聞いたが?」
「ええ。あたしは穏健派《おんけんは》だから、こういう血生臭《ちなまぐさ》いのは本当は嫌い。でも今回ばかりはアルジャフィンの命令だからしかたない」
「ということは、今回の件は海賊ギルド全体の総意《そうい》と考えていいんだな? キースの独断《どくだん》じゃなく?」
「そういうことね。あたしたちとしても、『闇の庭』は放置できないから」
サーラはそうした会話を少しも聞き漏《も》らすまいと、全神経《ぜんしんけい》を集中させていた。海賊王アルジャフィンの名ぐらいは聞いたことがある。海賊ギルドを牛耳《ぎゅうじ》り、コリア湾《わん》一帯に悪名を馳《は》せている男だ。メイマーの名を耳にするのは初めてだが、海賊ギルドの大物だということは見当がつく。後で何か重要な意味を持つかもしれないと、発言のひとつひとつを記憶《きおく》に刻《きざ》みこんだ。
「ちょっと気になるんだが」それまで黙《だま》っていたデインが口をはさんだ。「さっきからやけに手の内をさらすじゃないか。正直すぎて気味が悪いんだが」
「あら、それは当然でしょ」
メイマーは右手を顔の前に持ってきて、中指にはめた大きな銀色の指輪を見せた。魔法《まほう》の発動体だな、とサーラはピンときた。フェニックスの持つ枚《つえ》と同じく、古代語魔法をかけるのに必要な特別の道具で、上級の呪文《じゅもん》で作られる。多くの魔術師《まじゅつし》は杖を使うが、中には指輪などを使用する者もいる。
「そちらのハーフエルフの魔術師さんも、同じ呪文、かけてると思うけど?」
「ええ」
フェニックスは不機嫌《ふきげん》そうにうなずく。彼女はここに来る前、「嘘感知《センス・ライ》」を唱えていた。去年、習得したばかりの新しい呪文で、唱えてしばらくの間、耳に入ってくる言葉が嘘《うそ》かどうか判別《はんベつ》できるというものだ。この交渉の場に彼女が立ち会う意味はそこにあった。海賊《かいぞく》ギルド側が何か策略《さくりゃく》を用いてこちらを騙《だま》そうとしても、容易《ようい》に見破《みやぶ》れるはずだ。
だが、メイマーも同じ呪文を用いているということは、こちらも相手を欺《あざむ》けないことを意味する。
「というわけだ」バントレスはにやにや笑った。「どうやら、この場ではお互《たが》い、本音をさらけ出すしかないようだな」
「そのようだな」メリンは皮肉な笑いを返した。「じゃあ、わしも本音を言っておこう。海賊ギルドは気に食わん。ずっと前に部下を殺された恨《うら》みがある。機会があれば叩《たた》き潰《つぶ》したいと思ってる」
メイマーはうなずいた。
「確かに本音ね」
「だが今は、共通の敵であるジェノアを叩くのが目的だ。そのためには、この作戦が終わるまで、お互い、積年の遺恨《いこん》は棚上《たなあ》げにするべきだと思う。つまらん諍《いさか》いで作戦が失敗するのは避《さ》けたいからな」
「それはこっちも同じだ」バントレスは片手《かたて》を挙げて誓《ちか》った。「この作戦が終了《しゅうりょう》するまで、あんたらザーンの盗賊ギルドとは決してやり合わない――これでいいか?」
メリンはちらっと後ろを振《ふ》り返り、フェニックスを見た。彼女は小さくうなずく。「嘘はついていない」という合図だ。メリンはいちおう満足し、警戒《けいかい》をゆるめた。
「よかろう。じゃあさっそくだが……」
「待て待て」バントレスは話を進めようとするメリンを止めた。「実はもう一人、同席する人間がいる」
「誰《だれ》だ?」
「今回の計画の要《かなめ》さ。若いが優秀《ゆうしゅう》な奴《やつ》だ。ジェノアの懐《ふところ》に首尾《しゅび》よくもぐりこんで、『闇の庭』の秘密《ひみつ》を嗅《か》ぎ出した張本人《ちょうほんにん》……」
彼が説明しようとした時、壁《かべ》についた小さなベルが断続《だんぞく》的に鳴った。二回、二回、三回。
「おっと、噂をすれば、だな」
バントレスは立ち上がって、壁から煉瓦《れんが》の一|個《こ》を抜《ね》き出した。そこにできた穴《あな》に目を当て、向こう側を確認《かくにん》する。それから燭台《しょくだい》に見せかけたレバーを引き、秘密の仕掛《しか》けを作動させた。壁の一画がずるずると音を立てて回転しはじめる。
「この街ではよくある仕掛けさ」バントレスは解説《かいせつ》した。「下水道に通じててな。地下を通って、街のどこへでも目立たずに移動《いどう》できる」
秘密の扉《とびら》が開くと、一人の少年が音もなく滑《すべ》りこんできた。盗賊《とうぞく》特有の身のこなしだ。半袖《はんそで》で灰色《はいいろ》の革の服と、灰色のズボン。レグのような短い銀髪《ぎんぱつ》で、サーラより二|歳《さい》ぐらい年上のように見えた。サーラたちの姿《すがた》を目にして、ぎょっとして立ちすくみ、逃《に》げようとする様子を見せる。
「心配いちん、カミート」バントレスが慌《あわ》てて少年の腕《うで》をつかんで止めた。「彼らはザーンの盗賊ギルドの連中だ」
少年は事情《じじょう》を理解した様子だったが、それでも緊張《きんちょう》した態度《たいど》を崩《くず》さない。上目づかいにサーラたちを見つめ、不安そうにしながらも、しぶしぶと着席した。メイマーと同様、肌《はだ》がよく陽《ひ》に焼けている。半袖の服から伸《の》びた腕は、細いけれどもしっかり筋肉《きんにく》がついていて、格闘《かくとう》が得意だろうと思えた。顔は美形だが、きつくて冷たそうで、吊《つ》り上がった眼《め》は鷹《たか》のように鋭《するど》い視線《しせん》を放っていた。にもかかわらず、どこか内気でおどおどしている感じがするのは不思議だ。初めて会った時のデルもこんな感じだったっけ、とサーラはぼんやりと思った。
「カミートは――ああ、もちろん本名じゃないが――二年前からこの街に潜入《せんにゅう》してる」バントレスが得意げに紹介《しょうかい》した。「苦労してジェノアに近づいて、奴《やつ》の親衛隊《しんえいたい》『|人形たち《ドールズ》』にもぐりこんだ。そしてこの前、とうとう『闇の庭』を探《さぐ》り当てたんだ」
「早くしてくれないかな」少年は苛立《いらだ》たしげに言った。「あまり長くいたくないんだ」
「そうだったな。ジェノアに怪《あや》しまれるとまずい――じゃあ、例のものを」
カミートはうなずくと、懐《ふところ》から数枚《すうまい》の紙を取り出し、テーブルに広げた。いちばん上の一枚は地図で、ドレックノールの周辺が描《えが》かれていた。
「これは俺が自分で描《か》いた」少年はぼそぼそと喋《しゃべ》った。「『闇の庭』はこの街の郊外《こうがい》、歩いて一時間弱の距離にあって、農場に偽装《ぎそう》してる……」
少年は地図の左上|隅《すみ》にある四角い印を指さした。それから紙を一枚めくる。下からは農場の見取り図が現《あら》われた。中央にはL字形をした家屋といくつかの小屋。その東側に農場が広がり、南側には小川、西側には小さな山がある。
「出入り口は二|箇所《かしょ》、この小屋と、裏山《うらやま》にある秘密《ひみつ》の抜け穴《あな》だ。しかし、警戒《けいかい》はきびしい。この点線は草むらに糸が掛ってあるところだ。ひっかかると鳴子《なるこ》が鳴って気づかれる。こっちの川の中にも罠《わな》がある。歩哨《ほしょう》はこことここ、それにここ。みんな精霊使《せいれいつか》いかドワーフだから、闇《やみ》にまぎれて潜入するのは難《むずか》しい……」
カミートは手短に、しかし的確に、農場周辺の警備体制《けいびたいせい》を説明していった。おそらく何度も練習をしたのだろう。言葉がよどみなく出てくる。
描き写すことはできないので、サーラたちはテーブルを囲み、その図を頭に叩きこんだ。後で全員の記憶《きおく》を照合して絵を描き直し、記憶|違《ちが》いがないか確認したうえで、その絵も燃《も》やすことになっていた。
カミートは次の図を見せる。
「これが地下だ。先月、ジェノアのお供《とも》で二度ほど入った時の記憶を元に描いた。全部の部屋を見たわけじゃないから、分からない部分も多い。特に魔獣創造《まじゅうそうぞう》実験をやっている区画は、極秘《ごくひ》なので立ち入り禁止《きんし》だ」
彼の言葉通り、地下の図面にはかなり大きな空白があった。
「罠は?」とデイン。
「俺が見た範囲《はんい》では、見当たらなかった。もちろん、無いとは断言《だんげん》できないが」
「魔獣がうようよいるそうだが」メリンが訊《たず》ねた。「やっぱり厄介《やっかい》な連中か?」
カミートはうなずく。「危険《きけん》なのは年長の五人だ」
彼は「闇の庭」が生み出した魔獣たちの容姿《ようし》や能力、弱点をも、こと細かに説明した。
イエローアイは一〇歳ぐらいの少年。バグベアードの能力《のうりょく》を組みこまれており、手の平に黄色い眼球《がんきゅう》がある。その眼球から放たれる光線は、一瞬《いっしゅん》で人間を眠《ねむ》らせたり凍《こお》らせたりできるし、金属《きんぞく》を分解する力もある。倒《たお》すならば、まぶしい光で眼をくらませたうえ、魔法で離《はな》れた場所から攻撃《こうげき》するか、一度に数人で斬《き》りかかるべきだろう。
ムーンダンサーは六本の腕《うで》を持つ少女。西の未開地に棲息《せいそく》するヒュプノ・オクトパスの能力を組みこまれており、踊りながら全身を発光させ、見る者を催眠《さいみん》にかけて、眠らせたり操《あやつ》ったりできる。しかし、イエローアイと違って一瞬で相手を眠らせることはできない。催眠にかかる前に、視線《しせん》をそらせながら攻撃すれば、簡単《かんたん》に倒せるはずだ。
グレイネイルは手の爪《つめ》にコカトリスの毒を持つ少女。爪は自由に出し入れでき、普段《ふだん》は目立たないが、いざとなると長く伸び、相手を突《つ》き刺《さ》して石に変える。不意討《ふいう》ちによる暗殺を目的として創造されたので、戦闘《せんとう》は苦手だろう。
ナイトシンガーはマンドレイクの根に人狼《ウーウルフ》の血を与《あた》えて育てられた、アルラウネの少女。精霊《せいれい》魔法を用いるばかりか、強烈《きょうれつ》な声で敵をひるませることもできる。できれば先制攻撃《せんせいこうげき》で「消音《ミュート》」をかけて能力を封《ふう》じるべきだ。
リトルロックは巨人《きょじん》スプリガンの能力を持つ。普段は八歳ぐらいの少年だが、いざとなると身長が倍に伸び、長い鉤爪《かぎづめ》を持った巨人に変身し、暗黒魔法も使う。できれば変身する前に倒すのが良い……サーラは耳をそばだてていたが、期待していた名は出てこなかった。
「他《ほか》にも、まだ能力を開花させていない子供《こども》が十数人いる。年端《としは》もいかない子供だ。生まれたばかりの赤ん坊もいる……」
そこまで喋《しゃべ》ったところで、カミートはふと、言葉を切った。青い瞳《ひとみ》が悲しみに曇《くも》ったように見えた。
「できれば殺さないでやってくれ……というのは無理な願いだろうな」
「キースはできることなら生きた魔獣の見本を確保《かくほ》したいと言ってたわ」とメイマー。「でも、アルジャフィンが許可《きょか》しなかった。二|兎《と》を追う者はしくじる。今回の作戦は『闇の庭』の殲滅《せんめつ》という目標だけに絞《しぼ》るべきだって」
「もっともだな」メリンはうなずいた。「ただでさえ難しい今回の作戦に、余計《よけい》な目的までつけ加えたら、成功率《せいこうりつ》はがた落ちになる」
彼らの話を聞きながら、デインは深刻《しんこく》そうに眉根《まゆね》を寄《よ》せていた。
「それがこの作戦の最大の障害《しょうがい》かもしれないな」
メリンは振《ふ》り返った。「何がだ?」
「子供を殺すことだ。あんたたちはどうかは知らないが、僕《ぼく》たちは子供を殺すのに抵抗《ていこう》がある」
「子供じゃない、魔獣だ」とバントレス。
「危険な力を持つ魔獣だ」とカミートがつけ加える。
「ああ、理性《りせい》では理解《りかい》してるさ。そんなおぞましい存在《そんざい》を野放しにはできないってこともね。しかし、実際《じっさい》に子供の姿《すがた》をした魔獣を目の前にしたら、剣先《けんさき》が鈍《にぶ》る者も出るかもしれない。かく言う僕も、つい最近、子供の親になったばかりでね。殺そうとした瞬間、ためらいが生じるんじゃないかって思う。ザーンで待ってる我《わ》が子の顔が、そいつの顔に重なって見えるんじゃないかって……」
同じことはサーラも感じていた。ここに来るまで、具体的に「闇の庭」をイメージできなかった。だから「子供の姿をした魔獣を殺す」という行為《こうい》にも実感が湧《わ》かなかった。しかし、カミートの詳細《しょうさい》な説明を聞いているうち、あたかも実際に「闇の庭」の子供たちを目にしているように、ありありと想像《そうぞう》できるようになってきた。内面はともかく、彼らの外見はきっと、ちっとも邪悪《じゃあく》そうでも危険そうでもないに違《ちが》いない。ボールを追って通りを駆《か》けていたあの子供たちのように。あるいはデルのように……。
「だったらどうして引き受けた?」
バントレスが嘲笑《ちょうしょう》した。デインは不機嫌《ふきげん》そうに顔を赤らめる。
「しかたがないだろう。引き受けた後で任務《にんむ》の内容《ないよう》を知らされたんだ。今さら断われない。正直言って、ダルシュの人選は間違ってたんじゃないかと思う」
もちろんそうではないことを、サーラは知っている。ダルシュは最初からサーラをこの作戦に参加させるつもりだったのだ。少年だけを選抜《せんばつ》するのは不自然に見えるから、先にデインたちに話を持ちかけたのだ。
「おまけに破格《はかく》の報酬《ほうしゅう》だ。もう半分は前金として受け取ってしまったし……」
「なら、黙《だま》って遂行《すいこう》しろよ! それが冒険者《ぼうけんしゃ》の仁義《じんぎ》ってもんだろ?」
「あたしも同感」メイマーが身を乗り出し、デインを見つめた。「あなた、名前は?」
「デインだ」
「デイン、あなたの気持ちは分かるわ。あたしだってこんな仕事、虫唾《むしず》が走る。でも、誰かが手を汚《よご》さなきゃならないのよ。ジェノアの野望を阻止《そし》するためにね」
「しかし……」
「生きて子供のところに帰りたけりゃ、それこそ憐《あわ》れみだの人情《にんじょう》だのは忘《わす》れることだ」バントレスが言い放った。「殺すのをためらったら、殺されるのはあんたなんだぞ」
「それこそがジェノアの目論見《もくろみ》なのよ。子供だと思って油断《ゆだん》させておいて、目指す相手を殺す。子供を魔獣《まじゅう》に改造《かいぞう》したり、暗殺や謀略《ぼうりゃく》の道具に利用することを、何とも思っていない」メイマーは美しい顔を憎々《にくにく》しげに歪《ゆが》めた。「そういう卑劣《ひれつ》な野郎《やろう》なのよ、ジェノアって奴《やつ》は」
「でも、彼を慕《した》っている者も多いって聞くわ」フェニックスが発言した。
「ええ、言葉で人を丸めこむのだけはうまいらしいわね。いっぺん、会ってみたいもんだわ。あたしの舌先三寸《したさきさんずん》とどっちが上か、勝負してみたい」
「それで思い出したんだが……」メリンがカミートを見つめた。「念のために、そっちの少年に確認《かくにん》しておきたいことがある」
「何だ?」とバントレス。
「情報源《じょうほうげん》の信頼性《しんらいせい》さ。ジェノアにうまく接近《せっきん》して、これだけの情報を集めたって言うんだな? 『闇の庭』の中を見せてもらえるほど信頼された?」
「ああ……」
カミートは次の質問《しつもん》の内容《ないよう》が予測《よそく》できたのか、居心地《いごこち》悪そうに身じろぎした。
「ジェノアは男色家として有名だが?」
「ああ……」
「ということは……」
「そうだ――ジェノアと寝《ね》た」
カミートは眼《め》を伏《ふ》せ、後ろ暗そうにささやいた。声も表情も懸命《けんめい》に平静《へいせい》を装《よそお》っているが、顔は恥辱《ちじょく》で赤らんでいた。
「他《ほか》にしかたがなかった。彼の信頼を得るには……」
「それで奴に心を奪《うば》われたか?」
メリンは笑った。カミートは唇《くちびる》を噛《か》んだ。今にも爆発《ばくはつ》しそうだった。
「おい!」たまりかねて、バントレスが割《わ》って入った。「それ以上、侮辱《ぶじょく》するのはよせ。こいつは信用できる」
「なぜだ?」
「こいつはアルジャフィンの息子《むすこ》なんだ」
デインたちはぽかんとカミートを見つめた。少年はぷいと視線《しせん》をそむけた。
「本当よ」とメイマー。「アルジャフィンには何人も子供《こども》がいてね。修業《しゅぎょう》のために、密偵《みってい》として世界の各地に飛んでいるの。彼もその一人。アルジャフィンにも信頼されてるわ」
「だからと言って、信用できるとは限《かぎ》らないぞ」メリンは食い下がった。「子供が親を裏切《うらぎ》る例はあるからな。ましてアルジャフィンは、『クラーケンの』ファイガに反乱《はんらん》を起こして現在《げんざい》の地位に就《つ》いた男だ。その血を引いているなら――」
ドン!
いきなりカミートがテーブルに拳《こぶし》を叩《たた》きつけたので、サーラたちはびっくりした。
「そんなこと……今度の作戦に関係ない」カミートは震《ふる》える声で言った。「確《たし》かに親父《おやじ》を恨んだ時期もある。だが、今はそんな感情《かんじょう》はない。親父は偉大《いだい》な人物だと思ってる……」
それから彼は、デインをにらみつけた。
「デインと言ったな?」
「ああ?」
「お前らの存在《そんざい》が、俺《おれ》の心をかき乱《みだ》す――お前らは善良《ぜんりょう》すぎる」
「善良なのは悪くないと思うが」
「善良なだけじゃ、世界は良くならない。世界を良くするには、時には悪が必要だ。盗賊《とうぞく》ギルドや海賊ギルドが存在するから、犯罪《はんざい》や略奪《りゃくだつ》が無秩序《むちつじょ》に横行するのが防《ふせ》がれている。それと同じだ。今度の作戦がまさにそうだ。これは正義なんかじゃない――悪だ」
カミートはそこでちょっと言葉を切った。言うべき言葉を探《さが》しているようだ。やがて口を開いた。
「俺はこの作戦を成功させたい」
「僕らだってそうさ」
「俺はお前らとは違《ちが》う。悪に徹《てっ》することができる。必要とあらば、罪《つみ》もない子供だって平然と殺せる……」
「嘘《うそ》ね」
フェニックスの指摘《してき》にカミートはたじろいだが、すぐに言い直した。
「平然とじゃないが、子供だって殺せる。これでどうだ?」
フェニックスはうなずいた。「ええ、本当のようね」
「あんたらに言っておく」カミートはデインたちに指を突《つ》きつけた。「この作戦で、全員が生きて帰れるという保証《ほしょう》は、俺にはできない。何割《なんわり》かは確実《かくじつ》に死ぬだろう。だから、やめるなら今のうちだ。これは汚《きたな》い作戦だ。お前らのようなまっとうな人間が足を突っこむのは間違ってる」
「そんなにまっとうってわけでもないんだがな」デインは苦笑した。「それに、今さら抜《ぬ》けるのは無理だ。僕らが抜けると、こっちの勢力《せいりょく》が二五人を割《わ》りこむ。海賊側との協定に反する」
「それは困るわね」とメイマ−。「こっちは協定通り、二五人を出すつもりでいるんだもの」
「ああ。だからその点は守る」
「分かった」カミートはあきらめたように言った。「だったら、せめて死なないようにしてくれ」
「努力するよ」
「じゃあ、俺はこれで。あまり長居《ながい》するとまずいから」
言うべきことを言い終えたカミートは立ち上がり、例の秘密《ひみつ》の出入り口から退去《たいきょ》しようとした。サーラは慌《あわ》てて呼《よ》び止めた。
「待って」
カミートは立ち止まった。「何だ?」
「あの……ひとつだけ教えて。デルって女の子のことを知らない?」
カミートはちょっとだけ考えこんだ。「その女の子は、お前の何なんだ?」
「彼女は……」
サーラは適当《てきとう》にごまかそうとした。しかし、メイマーにすぐに見破《みやぶ》られることに気づいた。この場で何か嘘を言うのは、海賊側の不信を買いかねない。
「……よく分からない」サーラは正直に言った。「ちょっと前まで親しかったけど、今はそうじゃない。たぶん、今は……殺さなきゃいけない相手……かもしれない」
「そうか――」カミートはその説明ですべてを了解《りょうかい》したようだった。「確《たし》かにその名はジェノアの口から何度も耳にした。危険《きけん》な能力《のうりょく》を持っていることも知っている。だが、本人とじかに顔を合わせたことはないな。ジェノアの庇護下《ひごか》にいるのは確かだが、少なくとも今は『闇の庭』にはいない」
「そう……」
ということは、「闇の庭」で彼女を見つけることはできないわけだ。デルの存在が確認《かくにん》できたものの、出会える可能性《かのうせい》が遠のいたことで、サーラは落胆《らくたん》した。
「じゃあ」
カミートはそそくさと退出した。
会談はさらに半時間ほども続き、カミートの持ってきた図を元に、襲撃《しゅうげき》計画が綿密《めんみつ》に打ち合わされた。海賊側は裏山《うちやま》の入口から、ザーン側は農場の方から侵入《しんにゅう》する。闇《やみ》の中でも侵入者を視認《しにん》できる精霊使《せいれいつか》いやドワーフが歩哨《ほしょう》に立っている以上、真っ暗闇での襲撃はかえって不利になる。月の明るい夜が最適《さいてき》だろう……。
かくして、決行は三日後、満月の夜と決まった。
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5 魔法《まほう》のお茶
その夜、海賊《かいぞく》側と取り決めた事項《じこう》は、カミートの見せた「闇の庭」の図面とともに、記憶《きおく》して持ち帰られ、レグとミスリル、それにキャラバンのメンバー全員に伝えられた。以後は決行の直前まで、その内容《ないよう》については、仲間同士でもうかつに口に出してはいけないのだ。
翌日《よくじつ》もサーラたちは大忙《おおいそが》しだった。メリンのお供でドレックノールの街中を歩き、織物《おりもの》や工芸品や香料の店を回って、交易品《こうえきひん》の見本を見せて売りこむのだ。今回の護衛役《ごえいやく》はミスリルとレグである。
そうした活動の九|割《わり》ほどは、実際《じっさい》の商売である。商品にあれこれけちをつけ、どうにか仕入れ値《ね》を値切ろうとする商人相手に、根気の要《い》る交渉《こうしょう》を繰《く》り広げるのだ。もし「|早耳ネズミ《クイックイヤード・ラット》」が尾行《びこう》していたとしても(その気配はなかったが)、何も怪《あや》しい様子は発見できないはずだ。
絶対《ぜったい》にへまをするな、とサーラは脅《おど》されていた。「早耳ネズミ」に捕《つか》まった密偵《みってい》には、死よりもおぞましい運命が待ち受けている。街の地下にある「奈落《アビス》」と呼《よ》ばれる場所に送られ、訊問《じんもん》を受けるのだ。そこにはありとあらゆる凶悪《きょうあく》な拷問《ごうもん》道具が揃《そろ》っていて、どんなに意志《いし》強固な者も半日もあれば自白すると言われている。管理人である狂気《きょうき》のドワーフは天才的なからくり師でもあり、日夜、画期的な拷問機械の製作《せいさく》に熱中していて、新たな犠牲者《きせいしゃ》が来るのをてぐすね引いて待っているという。「奈落」から生還《せいかん》した者は数少なく、噂《うわさ》がどこまで真実なのかは分からない。何にせよ、捕《とら》えられるぐらいなら死を選ぶのが賢明《けんめい》な選択《せんたく》であるようだ。
途中《とちゅう》、ある宿屋の二階の食堂で昼食を摂《と》っていると、「おう、メリンじゃないか!?」と親しげに声をかけてきた男がいた。金属鎧《きんぞくよろい》を着た長身の中年の戦士だ。
「ええっと……おお、ケビンか!? 懐《なつ》かしいなあ。何年ぶりだ?」
「一五年ぐらいになるんじゃないか? いや、奇遇《きぐう》だなあ」
「この宿に泊《と》まってるのか?」
「そうさ。ちょっと寄《よ》っていかないか? 仲間に紹介《しょうかい》したいんだ。積もる話もあるしな」
もっともらしい会話をしているが、実際《じっさい》には二人はつい半月前、ザーンで会ったばかりである。ダルシュの命《めい》を受け、別々のルートでドレックノールに潜入《せんにゅう》し、この日にここで落ち合うよう示《しめ》し合わせていたのだ。
一行は部屋に入った。ケビンは腕利《うでき》きの冒険者《ぼうけんしゃ》で、仲間が四人いた。窓《まど》の外や廊下《ろうか》を確認《かくにん》し、誰《だれ》にも盗《ぬす》み聞きされていないと確信できたところで、メリンが襲撃《しゅうげき》の手はずを説明する。サーラはその場で概に図を描《えが》く。間違《まちが》いがないよう、二人は互《たが》いに記憶《きおく》を補《おぎな》い合い、説明の足りない点を指摘《してき》し合った。サーラの方が記憶力が良く、あの時の打ち合わせの細部まで覚えていた。
デインとフェニックスも、今頃《いまごろ》は街の別の場所で別のグループに接触《せっしょく》し、同様の内容《ないよう》を伝達しているはずである。
用件《ようけん》を終えて宿屋を出た。さらに何軒《なんけん》かの店を回り、商談を行なう。陽《ひ》が西に傾《かたむ》く頃《ころ》には、街の反対側まで来ていた。もうサーラには帰りの道順が分からない。何度もこの街に来ているメリンやミスリルの方向感覚が頼《たよ》りだ。
港の方に戻《もど》るため、通りを歩いていると、不意にミスリルがささやいた。
「尾《つ》けられてるぞ」
びっくりして振《ふ》り返ろうとするサーラを、ミスリルは自然な動作で制《せい》した。メリンは前を向いて歩きながら言った。
「どんな奴《やつ》だ?」
「少年だ。一五|歳《さい》ぐらい。銀髪《ぎんぱつ》の」
「カミートかな?」
サーラは気になった。振り返って確認したいが、こちらが尾行《びこう》に気づいたことを相手に気づかれるのもまずい。
「いつからだ?」
「宿屋を出た時にはいなかったと思う。たぶんさっきの店からだろう。近くの露店《ろてん》の前を意味もなくうろうろしてて、俺たちが店を出たら追ってきた」
「確認してみよう」
角を曲がる際《さい》、メリンはごく自然な動作で、一瞬《いっしゅん》だけ後方に視線《しせん》を向けた。そのまま何事もなかったように歩き続ける。
「確《たし》かにカミートだ」
「海賊《かいぞく》ギルドの?」
うっかりその単語を洩らしてしまったレグを、ミスリルが「しっ!」とたしなめた。レグは首をすくめる。人通りの多い道を歩きながら密談《みつだん》するのは、精霊魔法《せいれいまほう》の「風の声《ウインド・ボイス》」による盗聴《とうちょう》を防止《ぼうし》するのに有効《ゆうこう》だが、それでも通行人に話の断片《だんペん》でも聞かれるのは好ましくない。
「……でも、どうしてあたしらを尾行するのさ?」
「こっちの手の内を知っておきたいのかもな」
考えられることだった。この作戦が終われば、ザーンと海賊ギルドはまた敵対《てきたい》関係になる。相手側の密偵《みってい》の顔をなるべく多く知っておけば、将来《しょうらい》、役立つかもしれない。
まずいことに、メリンにはこの後まだ、この街に潜伏《せんぷく》しているザーンの密偵と接触《せっしょく》するという任務《にんむ》が残っている。決行の直前、怪《あや》しまれずに「闇の庭」に接近するため、現地《げんち》にいる者の情報《じょうほう》と支援《しえん》がどうしても必要なのだ。
「どうする? 撒《ま》くか?」
「それも面白《おもしろ》くないな」
メリンは考えこんだ。ここで撤こうとすれば、この先で会う人物こそが密偵だと、相手に教えているようなものだ。かと言って、尾行者をこのまま密偵のところまで連れてゆくのはまずい……彼はふと、何かいたずらを考えたらしく、顔をほころぼせた。
「ちょっと混乱《こんらん》させてやろう。二手に分かれて、一方はどこか別のところに寄って行くんだ。うまくすれば、そっちが本命だと勘違《かんちが》いしてくれるかもしれん――誰か心当たりはないか? いかにも怪《あや》しそうに見えるが、わしらとつながりのない奴《やつ》は?」
ミスリルはうなった。「一人だけいる」
「誰だ?」
「俺《おれ》のおふくろ。この近くに住んでるんだ」
サーラは思い出した。そう言えばずっと以前、ミスリルの母親がドレックノールで暮らしていると聞いたことがある。
メリンは怪訝《けげん》そうな顔をした。「お前の母親は怪しそうに見えるのか?」
「そりゃもう」ミスリルは苦笑した。「俺の肌《はだ》の色は母親|譲《ゆず》りだ」
「なるほど」
メリンは納得《なっとく》した。いにしえの神々の戦いで暗黒神の側に与《くみ》したと言われるダークエルフは、アレクラストのどこの土地でも蔑視《ベっし》されており、たいていは人里|離《はな》れた土地に隠《かく》れ住んでいる。このドレックノールだけは例外で、街中でもダークエルフをしばしば見かける。この街では暗黒神|崇拝《すうはい》など珍《めずら》しくもないし、彼らの邪悪《じゃあく》な知識《ちしき》や技《わざ》が重宝《ちょうほう》されることが多いからだ。
「商売をやってるのか?」
「薬草師《やくそうし》と占《うらな》い師で生計を立ててる。『ノアの店』って言えば、下町じゃそこそこ名を知られてる」
「占い師か。街の情報を集めるのにうってつけの職業《しょくぎょう》だな」メリンはほくそ笑《え》んだ。「密偵と誤解《ごかい》されても不思議じゃない」
「だが、おふくろをこの件《けん》に巻《ま》きこむのは気が進まん」
「無関係なら心配あるまい。調べればじきに疑《うたが》いは晴れるさ。ちょっとの間だけ、連中を惑《まど》わせればいいだけなんだから。それに、ここまで来ておふくろさんに会って行かないのも、かえって不自然じゃないか?」
「それもそうだが、疑われすぎるのも困る。俺だけが私用で護衛《ごえい》を離れるってのは、怪しすぎるだろ」
ミスリルは歩きながら考えていたが、やがて決心した。
「なあ、アーシャ?」
「はい?」急に偽名《ぎめい》で呼ばれて、サーラはまごついた。
「女の子なら、占いに興味《きょうみ》あるよな?」
サーラはすぐに、即興《そっきょう》のシナリオを理解《りかい》した。思春期の少女が、ミスリルの母親が占い師だと聞いて、会ってみたいとせがんだ――という設定《せってい》だ。
「ええ」
「決まったな。二手に分かれよう。俺はアーシャを護衛して、後から帰る。レグ、お前はメリンを護衛しろ」
「分かった――気をつけなよ」
「そっちこそ」
ミスリルはサーラの手を引き、すっと細い路地《ろじ》に入った。尾行者《びこうしゃ》から見れば、いかにも不審《ふしん》な行動だろう。追ってくる公算は高い。
二人は曲がりくねった路地を抜《ぬ》け、細いどぶ川に沿って長屋が建ち並《なら》んでいる裏通《うらどお》りに出た。表通りよりもさらに狭《せま》く、荷車さえも通れそうにない。両側に間口《まぐち》の狭い家がびっしりと建ち並んでいる様は、整理の苦手な賢者《けんじゃ》の本棚《ほんだな》といった雰囲気《ふんいき》だった。どぶ川が近いため、悪臭《あくしゅう》はいっそうひどかった。ドレックノールの中でもさらに貧《まず》しい者たちが住む地区らしく、行き交う住民たちの服装《ふくそう》もみすぼらしい。サーラの上等なレモン色のスカートは、明らかに場違《ばちが》いだった。
カミートは尾《つ》けてきているだろうか、とサーラは思った。こんなに見通しの悪い道では、尾行してさても見失う可能性《かのうせい》が高そうだ。もっともサーラたちの側でも、尾行者の存在《そんざい》を確認《かくにん》しづらいのだったが。
「盗賊《とうぞく》、盗賊、取って食うぞ!」
「グール、グール、盗ってやるぞ!」
近くに空き地があるのだろう。子供《こども》たちの遊ぶ声が聞こえてきて、サーラははっとなった。この街の子供たちも盗賊とグール≠ナ遊ぶのか――自分もハドリー村で同じ遊びをしていたのが、まるで遠い昔のようだ。
「ミスリルのお母さんってどんな人?」
サーラは予備《よび》知識を得ておこうと思って訊《たず》ねた。
「わがままな女さ」
「わがまま?」
「他人の都合なんか考えやしない。自分がやりたいようにやるって主義《しゅぎ》さ。俺もさんざん振《ふ》り回されたもんだ。まあ、そんな性格《せいかく》だからこそ、古い因習《いんしゅう》なんかぶち破《やぶ》って、親父《おやじ》と結ばれたんだろうがな――ああ、ここだ」
十字路の角に建つ一|軒《けん》の家の前で、ミスリルは立ち止まった。二階建てで、他の家と同様、間口はひどく狭い。庭は無く、窓《まど》には木の格子《こうし》がはまっている。白く塗《ぬ》られた入口のドアには、「ノアの店」「占いと薬草」「怪我《けが》、病気の際《さい》にはお気軽に」「金銭運《きんせんうん》、仕事、恋《こい》の悩《なや》み」「ハーブティーで一服」「安くします」などと書かれた板が、ごてごてと打ちつけられている。店の主人の性格が出ているようで、サーラには微笑《ほほえ》ましかった。
ミスリルはそのドアを押《お》し開けた。チリンチリンと、かわいらしいベルが鳴る。
「おう、おふくろ! 今帰っ……」
元気よく言いかけて、ミスリルは凍《こお》りついた。ドアノブを握《にぎ》り、入口の敷居《しきい》をまたいだ格好《かっこう》で立ちすくんで、店内をぽかんと見つめる。サーラは彼の背中《せなか》が邪魔《じゃま》で、中がよく見えない。体を傾《かたむ》け、ミスリルの脇《わき》から覗《のぞ》きこむ。
もともとさほど広くない部屋だが、四面の壁《かべ》を占拠《せんきょ》している棚と、天井《てんじょう》から吊《つ》るされている薬草の束のせいで、さらに狭苦しく感じられる。何種類ものハーブの香《かお》りが混《ま》ざり合い、なんとも不思議で異国《いこく》的な匂《にお》いが室内を満たしていた。樹には、ポプリを詰《つ》めた大きなガラス瓶《びん》、大小様々な陶器《とうき》の壷《つぼ》、色とりどりのガラスの小瓶、怪《あや》しげな木彫《きぼ》りの人形、蛮族《ばんぞく》の儀式《ぎしき》用の仮面《かめん》などがごてごてと並《なら》んでいる。入口に対して対角線上にある奥《おく》の扉《とびら》には、古ぼけた占星図《せんせいず》が貼《は》られていた。部屋の中央には小さな丸テーブルがあり、四つの椅子《いす》が囲んでいる。
その椅子のひとつに女が座《すわ》っていた。振《ふ》り返ってミスリルを見つめ、やはりぽかんとなっている。頬《ほお》のこけた少しきつそうな顔で、ライオンのたてがみのような豊《ゆた》かな黒髪《くるかみ》を、赤いヘアバンドでまとめている。首には赤い宝石《ほうせき》のついた銀のネックレス。腰《こし》にはショート・ソード。黒いレザーのスカートはやけに短く、ふっくらとした肉感的な脚《あし》が露出《ろしゅつ》していた。
サーラはミスリルと同様、驚《おどろ》きのあまり凍りついた。その女の顔は忘《わす》れられない。
マローダだ。
たっぷり一〇秒近く見つめ合ってから、ミスリルはようやく口を開いた。
「……何でお前がここにいる?」
マローダはばつが悪そうだった。
「……それはこっちが訊《き》きたいわね」
サーラは息を呑《の》んだ。二人の口調は不気味なほど静かだったが、その間の空中ではすでに、目に見えない剣《けん》が打ち合わされているように思われた。
彼らは昔、恋人《こいびと》同士だった。いっしょに冒険《ぼうけん》をしたこともあると聞いている。しかし、その関係は破局《はきょく》を迎《むか》えた。
世の中には人を鋳型《いがた》にはめようとする見えない力がある、とミスリルは言った。男は男らしく、女は女らしく、王族は王族らしく、悪党《あくとう》は悪党らしく――その力はあまりにも強く、鋳型からはみ出すのは並大抵《なみたいてい》のことではない。多くの者は、社会が暗黙《あんもく》のうちに定めた鋳型通りの自分になるしかない。ミスリルはそれに抵抗《ていこう》した。「ダークエルフの血」という言葉から連想される鋳型に当てはめようとする世間の偏見《へんけん》と戦い、悪の道には決して足を踏《ふ》み入れないことを信条《しんじょう》に、今日まで生きてきた。
マローダは違《ちが》った。ミスリルとともに、社会の底辺から這《は》い上がろうとあがいた彼女だったが、ついに誘惑《ゆうわく》に負け、悪の道に走った。ミスリルに言わせれば「世間が思っているようなマローダ」になったのだ。それで二人は袂《たもと》を分かった。
一年半前、ザーンで最後に再会《さいかい》した時は、殺し合う寸前《すんぜん》まで行った。
今もまた、二人は熱く見つめ合いながら、腰《こし》の武器《ぶき》に手をやっていた。マローダは椅子から腰を浮《う》かしかけているし、ミスリルはいつでも飛びかかれる体勢《たいせい》だ。狭《せま》い室内の空気に、触《ふ》れれば切れそうなほどの強烈《きょうれつ》な殺気が張《は》り詰《つ》めていた。次の瞬間《しゅんかん》にも激《はげ》しい決闘《けっとう》がはじまるのではないかと思い、サーラははらはらした。
しかし――
「おや、ミスリル、帰ったの!?」
陽気でハスキーな声が、殺気をあっさり中和した。奥の扉を肩《かた》で押し開け、盆《ぼん》を持って出てきたのは、美しいダークエルフの女性《じょせい》だ。肌《はだ》はミスリルよりもさらに黒く、磨《みが》き上げた黒檀《こくたん》のように艶《つや》がある。エルフは老化するのが遅《おそ》いと聞いていたが、せいぜいミスリルの姉ぐらいの年齢《ねんれい》にしか見えないことに、サーラは驚《おどろ》いた。髪《かみ》には白髪《しらが》の一本もない。魔術師《まじゅつし》のような黒いローブは商売用の衣装だろうか。上から下まで見事に真っ黒だ。盆には湯気の出ているティーポットとカップを載《の》せている。
「ご無沙汰《ぶさた》じゃない。この前帰ったの、去年の夏でしょ? 妙《みょう》に間が開いてるし、手紙もよこさないから、どこかでおっ死《ち》んでるのかと思った」
早口でそう言いながら、マローダの前にカップを置き、ハーブティーを注ぐ。軽い刺激《しげき》のある爽《さわ》やかな香《かお》りが、さあっとあふれ出した。
「いや、いろいろあったもんで……」ミスリルは警戒《けいかい》しながらも、ダガーの柄《つか》からそろそろと手を離《はな》した。「それより、何でこいつがここに?」
「街で偶然《ぐうぜん》会ったから、お茶でもいかがって誘《さそ》ったのよ」ノアの口調には、まったく屈託《くったく》がない。「久《ひさ》しぶりだったし、積もる話もあったからさ」
「でも、こいつは……!」
「ああ、あんたらが喧嘩《けんか》別れしたのは知ってるよ。でも、あたしとマローダが喧嘩したわけじゃないし。もうちょっとで義理《ぎり》の娘《むすめ》になるところの人だったんだから、親しくしたって悪いことはないでしょ?――えっと、そっちのかわいいお嬢さんは?」
「あ……アーシャです」サーラは慌《あわ》てて自己紹介《じこしょうかい》した。
「俺の護衛《ごえい》してるキャラバンの娘なんだ」ミスリルも急いで取り繕《つくろ》う。「占《うらな》いに興味《きょうみ》があるって言うから、連れてきた」
「ああ、そう。ミスリルの友達なら、料金は安くしとくわ。ゆっくりしていって。ミスリル、あんたも突《つ》っ立ってないで座《すわ》んなさい。カップもう二つ、用意するから」
畳《たた》みかけるようにまくしたてると、ノアはさっさと奥《おく》にひっこんだ。ミスリルはしかたなく、マローダと対面する席に着いた。サーラもおそるおそる、二人の間に座る。
「……ほんとだよ」マローダはカップを手にすると、ささやき声で弁明《べんめい》した。「偶然《ぐうぜん》に会って、声かけられただけさ。あんたが来るなんて、思ってもみなかった」
それはおそらく事実だろう。ミスリルがこの店に来るのを決めたのは、ついさっきだ。それを予期して待ち伏《ぶ》せできるわけがない。
「断わりゃよかっただろう」
「そんなこと言ったって、あんたのおふくろさん、あの調子だから逆《さか》らえないんだよ。それに――」
「それに?」
マローダはハーブティーをひと口すすり、すねるようにつぶやいた。
「……おふくろさんのハーブティー、また飲んでみたかったし」
ミスリルはすっかり気勢《きせい》を削《そ》がれてしまった。
「だが、この街に居合《いあ》わせたのは偶然《ぐうぜん》とは思えんな。もしかして……?」
彼は額《ひたい》を掻《か》くようなふりをして、手を頬《ほお》にまで持っていき、眼《め》の下に指で小さく8の字を描《えが》いた。
「ああ」
マローダは口を大きく開け、納得《なっとく》した。自分も同じサインを返す。
「やっぱりそうか。ということは、あっちの方面か?」
ミスリルはそう言いながら、どぶ川の下流、海の方向を指さした。「海賊《かいぞく》ギルドに雇《やと》われたのか?」という意味だ。
「そうよ。あんたはザーン?」
「ああ」ミスリルはなかば悔《くや》しそうに、なかばほっとしたようにため息をついた。「参ったな。てことは、仕事が終わるまで休戦か?」
「そうらしいね」
ザーンと海賊ギルドは、この作戦が終結するまで争わないと申し合わせている。ここで二人が殺し合えば、どちらが勝とうと、作戦全体を危険《きけん》にさらすことになる。マローダはルールなど守らない悪人だが、さすがにそこまで愚《おろ》かな行動はしない。
「こっちの娘さんも?」
マローダがハーブティーをすすりながら訊《たず》ねた。サーラは慌《あわ》てて、眼の下で8の字を描いた。
「へえ、その若《わか》さでねえ。たいしたもんだ」
マローダは感心していたが、ふと、不審《ふしん》そうに眉根《まゆね》を寄《よ》せ、サーラの顔をあらためて見つめた。
「あんた、どっかで会ったことない?」
サーラは内心、どきっとした。会ったも何も、彼はザーンに来たその日に、マローダに誘拐《ゆうかい》され、どこかに売り飛ばされるところだったのだ。しかも彼女とその仲間は、逃亡《とうぼう》する際《さい》、邪魔《じゃま》になったサーラを殺そうとまでした……。
しかし、変装《へんそう》のおかげで、マローダは気づいた様子はない。サーラは平静を装《よそお》い、「さあ」ととぼけた。
「それよりも」ミスリルが割って入った。「背景《はいけい》が気になるな。この前の一件《いっけん》も、同じ雇《やと》い主だったのか?」
「まあね。雇い主のそのまた雇い主さ。あの時はあたしも知らなかったけど、後で分かった」
マローダはネックレスの赤い宝石《ほうせき》を指さし、次に眼を指さした――「ルビーアイ」キースか。
「あれ以来、連中といろいろ関《かか》わってね。それで今回もお呼びがかかったってわけ」
「ちょっと待て」
ミスリルは念のためにいったん席を立ち、窓《まど》から店の外の様子をうかがって、誰《だれ》も立ち聞きしていないのを確認《かくにん》してから、また戻《もど》ってきた。
「奴《やつ》もアレを創《つく》ってるってのは本当か?」
「アレって言うと、アレ?」
マローダは小さく「がお」と吠えてみせた。
「そう、アレだ」
「ああ、そうらしいね。あたしも噂《うわさ》だけで、詳《くわ》しくは知らないけど。ただ、誰かさんと違《ちが》って、あんまり進んでないって話だけどね。手をつけたばっかだから」
「じゃあ、例の一件も、それに必要だったから……?」
「だったみたい」
「……それを知ってたら引き受けなかったか?」
「さあ、どうだろうね」マローダは笑った。「あたしは性根《しょうね》が腐《くさ》ってるからね。知ってても引き受けてたかも」
サーラは「あっ」と小さく声を洩《も》らした。二人の隠語《いんご》だらけの会話を通して、それまでばらばらだった断片《だんぺん》が、不意にひとつに合わさったからだ。
メイマーはキースが魔獣《まじゅう》の見本を欲《ほ》しがってると言っていた。キースも「アレ」、つまり魔獣を創造《そうぞう》しようとしている。ガドシュ砦《とりで》の魔術師《まじゅつし》ヴァルゲニアが開発した、魔獣創造の忌《い》まわしい技術《ぎじゅつ》。それがキースの手に渡《わた》ったのだとしたら、彼が次に必要とするのは、その材料だ……。
サーラは身震《みぶる》いした。もう少しで海賊ギルドに売り飛ばされ、魔獣の素材《そざい》にされるところだったとは!
「お待たせ」
ノアが戻ってきたので、二人は会話をやめた。サーラとミスリルの前にカップが置かれ、ハーブティーが注がれる。
「飲んでみな。ぎすぎすした気分なんか吹《ふ》っ飛ぶから」
そう勧《すす》められて、サーラはおそるおそるカップを手に取った。口に近づけ、大きく息を吸《す》うと、刺激《しげき》的な香《かお》りが鼻孔《びこう》いっぱいに広がった。匂《にお》いだけでもいい気分になる。息を吹いて少し冷まし、試《ため》しにひと口すすった。
「おいしい!」
思わず顔がほころんだ。薬草茶なら前にも飲んだことがあるが、薬臭いうえに苦くて、好きになれなかった。だが、数種類のハープをブレンドしてシロップを混ぜたノアのお茶は、匂いは強いのに味はまろやかだ。口の中がすっとする。
「ほんとにほっとします」
ノアはさも当然というように微笑《ほほえ》んだ。「あたしのお茶は魔法のお茶だからね」
「魔法?」
「魔法みたいに効《き》くってことさ」ミスリルもハーブティーをすすりながら、嬉《うれ》しそうに解説《かいせつ》する。「心がなごむ」
「まったくだ」マローダは素直《すなお》に同意した。「あたしは世界で一番、ノアさんのお茶が好き」
二人とも、さっきまで殺し合いかけていたとは思えないほどなごやかだった。なるほど、魔法のようだ、とサーラは感心した。
「本物の魔法じゃないんですか?」
「あら、本当の魔法も知ってるよ」ノアは胸《むね》を張《は》った。「水をきれいにしたり、怪我《けが》を治したり、毒を消したり……魔法の薬だって、ちょっとした程度《ていど》のものなら作れるんだから。評判《ひょうばん》を聞いて、よく『惚《ほ》れ薬を作ってくれ』って頼《たの》みに来る客がいるけどね」
「作れるんですか?」
「いやあ、さすがにそれは――古代王国時代には魔法の惚れ薬ってのがあったらしいけど、今じゃ作り方は忘《わす》れられてるんだよね。だいたい、愛だの恋《こい》だのを薬に頼ろうってのは間違《まちが》ってるよ」
「そうですね」
サーラはうなずいてから、ふと気になって訊《たず》ねた。
「もしかして、毒薬の注文とかも?」
「ああ、あるね」ノアはあっけらかんと笑う。「『ネズミを殺したいから』なんて言ってさ。本当に殺したいのがネズミかどうか、態度《たいど》を見りゃ分かるんだけどね。もっと率直《そっちょく》に、『病気に見せかけて殺せる毒はないか』とか『人間を思い通りに操《あやつ》れる薬はないか』って言ってくる奴《やつ》もいるよ。ダークエルフならそういうもんを扱《あつか》っていそうだって思われてるんだろうね」
「扱ってないんですか?」
「そりゃ、作ろうと思えば作れるさ。でも、こんな街の真ん中で店やってる以上、悪い評判が立ったらおしまいだからね。そういうヤバい話は丁重《ていちょう》にお断《こと》わり申し上げてるよ」
「何が『丁重に』だ!」ミスリルが笑った。「おふくろが気に食わない客に闇の精霊《シェイド》をぶつけて追い出すところ、俺《おれ》は三回は見てるぜ」
「だから丁重に追い出してるんだよ。殺すような魔法なんて使っちゃいないだろ?」
「よく言う」
つぶやく息子《むすこ》を無視《むし》して、ノアはサーラに話しかけた。
「お茶、気に入ったかい?」
「ええ」
「特製《とくせい》の酒もあるんだけど……あんたにゃまだ早いか」
「お酒はいいです」ちらっとマローダの方を見て、「ずっと前、ビールを飲まされて、ひどい目に遭《あ》いましたから」
それがヒントになったのだろう。マローダはようやく気がつき、驚《おどろ》いて口をあんぐりと開けた。
「あんた、ひょっとして、サ……」
「アーシャです」サーラはすました顔で、マローダの言葉をさえぎった。「私の名前はアーシャ」
「あ、ああ、そうだったね。アーシャか……ははは」
マローダは決まり悪そうに笑って、かいてもいない汗《あせ》をぬぐうしぐさをした。
「何だ、知り合いかい?」とノア。
「ええ。私にビールを飲ませて酔《よ》い潰《つぶ》れさせた張本人《ちょうほんにん》です」
「子供《こども》にかい? そりゃひどいことするね」
「でしょう?」
マローダは意味もなく店内をきょろきょろ見回し、二人の視線《しせん》から逃《に》げた。ミスリルは笑いをこらえるのに懸命《けんめい》だ。
サーラはハーブティーを飲み終えた。
「もう一|杯《ぱい》、いる?」
「ええ」
「おかわりならあるよ。ゆっくりしてお行き――そうだ」ノアはぽんと手を叩《たた》いた。「せっかくだから、特製のお菓子《かし》でも出そうかね」
お菓子と聞いて、サーラの子供心が刺激《しげき》された。
「あるんですか?」
「これから焼くんだよ。なあに、一時間もかからないから」
「あたしはそろそろ失礼を……」
マローダは腰を浮かしかけたが、ノアに「あんたも食べてお行き! 命令だよ!」と言われ、やむなく腰を下ろした。ノアはいそいそと奥《おく》に入っていった。
「な?」ミスリルはサーラにウインクした。「ああいうおふくろなんだよ」
「いい人だね」
「いい人なもんか!」マローダはテーブルに爪《つめ》を立てた。「こりゃ嫌《いや》がらせだよ」
「嫌がらせ?」
「ああ」ミスリルをにらみつけて、「何がお菓子だ。あたしとこいつを二人きりにして、仲直りさせようって算段《さんだん》さ。見え透《す》いてるよ」
「仲直りするのは嫌なの?」
「あったり前だろ!」
ミスリルはぶすっとした顔で腕組《うでく》みをした。「俺だって、今さら元の鞘《さや》に収《おさ》まるつもりはないがな……」
「あたしはあんたの鞘かよ!?」
マローダの狼狽《ろうばい》ぶりがあまりにおかしかったので、サーラはいたずら心を起こした。立ち上がり、マローダの背後《はいご》を通って、奥《おく》のドアに向かう。
「おい、どこ行く!?」
「ノアさんを手伝ってくる。二人で話してて」
「あんたまで嫌がらせに加担《かたん》する気かい!?」
ドアのところでサーラは振《ふ》り返り、「当たり前じゃない」と微笑《ほほえ》みかけた。
「あんな目に遭わされたんだもの。これぐらいの仕返しはさせてよ」
そう言うと、店の奥に姿《すがた》を消した。
マローダはしばらく呆然《ぼうぜん》となっていたが、やがて、くすくすと笑いはじめた。
「あの子、やるようになったね」口に手を当てて、笑いを押《お》し殺す。「しっかしまあ……『アーシャ』とはね!」
「お前の知ってる名前は――」
「ああ、分かってる。言わない言わない」マローダはひらひらと手を振った。「でも、あれから成長したみたいじゃない」
「まあ、いろいろあったんだがな」ミスリルは言葉を濁《にご》した。「あんな風に笑顔《えがお》を見せてくれたのは久《ひさ》しぶりだ……」
「何かあったの?」
「まあな」
「言えないようなこと?」
「ああ」
ミスリルの暗い口調から、マローダはそれが深入りしてはいけない話題だと悟った。
「それよりもお前だ」ミスリルは身を乗り出し、敵意《てきい》をこめた視線を向けた。「今度の一件《いっけん》、失敗しそうな気がしてきた」
「どうして?」
「お前は金のためなら平気で何でもやる女だからな……」
「向こう側に寝返《ねがえ》るかもしれないって? よしてよ! いくら悪党でも、仁義《じんぎ》ぐらいは心得てるさ。それにね……」彼女は顔を近づけ、声をひそめた。「ここだけの話、あたし、呪《のろ》いをかけられてるんだ」
「呪い?」
「ああ。雇《やと》い主を裏切《うらぎ》ろうとすると激痛《げきつう》が襲《おそ》うってやつ。だから裏切ろうとしてもできないんだよ」
ミスリルは唇《くちびる》の端《はし》を歪《ゆが》めた。「雇い主に信頼《しんらい》されてないんだな」
「そりゃそうさ。忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》ったわけじゃない。金で雇われただけだから。あたしだけじゃなく、雇われた奴《やつ》、みんなさ」
それから、ちょっと言葉を切って、
「あんた、気がついてる?」
「何を?」
「うちのとこ、直属《ちょくぞく》の人間を多く出してないよ。あたしらみたいな雇われ者が半数以上だ。あんたのとこもそうじゃないの? おおかた、お友達のデインとか、ハーフエルフの女とか、あたしが傷《きず》を負わせた女戦士とかも来てるんじゃない?」
「ああ」
「それってつまり――」
「分かってる」ミスリルは制《せい》した。「身内の被害《ひがい》を最小限《さいしょうげん》にしたいからだ。全滅《ぜんめつ》の危険《きけん》もある。それで外部の人間をなるべく多く使ってる」
「あたしらは捨《す》て駒《ごま》ってわけだ……」
「駒かもしれないが、捨てられるつもりはないな」
「雇う側からすれば、たいして違《ちが》いはないさ。それだけ危険な仕事ってことだ」
「怖気《おじけ》づいたか?」
「まさか!」マローダは笑った。「何を今さら。長いこと悪党《あくとう》やってきて、さんざん危《あぶ》ない橋を渡《わた》ってきたんだ。いずれどこかで足を踏《ふ》みはずして死ぬのは覚悟《かくご》してるよ――まあ、そう簡単《かんたん》に死ぬつもりもないけどね」
「生き残ったら、俺が殺してやる」
「そうかね? あんたの方が長生きできそうにないけど」
「ほう?」
「前にも言ったかもしれないけど、あんたは甘《あま》すぎるんだよ、ミスリル。優《やさ》しすぎる。それがいずれ、命取りになるよ。もっと卑劣《ひれつ》に、冷酷《れいこく》にならなきゃ」
ミスリルは苦笑した。「悪党に説教されたくはないな」
「悪覚と冒険者《ぼうけんしゃ》って、どう違うんだよ? ヤバくて、血みどろで、まともな人生を送れない仕事だって点は同じだろ? 堅気《かたぎ》の連中みたいに長生きできやしない。いずれみじめな死に方をする運命だ。その場所が迷宮《めいきゅう》の中か、処刑台《しょけいだい》の上かって違いだけでさ」
「人様に迷惑《めいわく》をかけるかどうかは、大きな違いだと思うがな」
「だからさ、そんなのにこだわる理由は何なんだよ? 他人を食い物にして、何がいけない? 言っちゃなんだけど、ミスリル、あんたの生き方なんて面白《おもしろ》くないよ。地道に冒険者やってたって、大金持ちになることも、英雄《えいゆう》になって名を残すなんてことも、よほどの幸運がないとありゃしない。おふくろさんだってそうだろ? あんなこと言ってたけど、あの人の知識《ちしき》と才能《さいのう》をヤバい方面に使えば、どんだけ儲《もう》かることか。こんな下町のボロ家に暮《く》らしてる必要なんかないんだよ」
「おふくろのことは言うな」ミスリルが鋭《するど》い目つきでたしなめた。
「ああ、ごめんよ。でも、あたしはそんなのは嫌《いや》だね。どうせ短い人生なら、派手《はで》に生きたい。地味に正しく生きるより、たとえ悪党でもいいから、盛大《せいだい》に暴《あば》れて――」
「よせ!」
ミスリルが急に怒《おこ》り出したので、マローダはきょとんとなった。
「何さ?」
「つい最近、そういうことを言って、死んだ奴《やつ》がいる」
「友達?」
「友達だと思ってた奴だ」
「裏切《うらぎ》られたってわけ?」
「そんなところだ」
「ふうん」マローダは面白がった。「そういう忠告《ちゅうこく》をするってことは、やっぱ、あたしに生きてて欲《ほ》しいわけ?」
「いや、早く死んで欲しい」
「あいにくだね! 簡単《かんたん》にゃ死なないよ。あんたと違って情に流されることなんてないからね。どんな卑劣なことでもやって、生き残ってやるから」
「勝手にしろ」
そう言ったものの、ミスリルの心境は複雑《ふくざつ》だった。
今でもマローダに未練はある。本気で殺したいとは思わない。だが、彼女に早く死んで欲しいというのも本音だ。かつて愛した女が、長く生き続け、忌《い》まわしい罪《つみ》を重ね続けるのを見るのはつらい。できれば、もっと大きな悪に手を染《そ》める前に、自分以外の誰《だれ》かの手にかかって死んでくれるのが理想だ。それも、自分の知らないところでひっそりと――それなら心は痛《いた》まなくて済《す》む。
それも身勝手で卑劣な考えであることは、自分でもよく分かっているのだが。
そしてふと、思った――サーラもまさに今、同じ思いに苛《さいな》まれているのだろうな、と。
[#改ページ]
6 「この街みたい」
「何かお手伝いしましょうか?」
サーラは短い廊下《ろうか》を抜《ぬ》け、店の奥《おく》にある台所に入った。たくさんある鍋《なベ》はどれも使いこまれて真っ黒。天井《てんじょう》にも煤《すす》がたまっている。ノアはオーブンに炭《すみ》を入れ、火をおこしているところだった。
「あんた、料理の経験《けいけん》は?」
「ジャガイモの皮を剥《む》いたことはあります。それと、魚のはらわたを取ったり……」
「それだけ? そんなんじゃ、お嫁《よめ》に行く時に困るよ。ちょうどいい。秘伝《ひでん》のハーブクッキーの作り方、教えたげるから」
「ほんとですか? うわあ、お願いします」
「そこの桶《おけ》にきれいな水が入ってるから、まずそれで手を洗《あら》いな。ああ、その上等な服が汚《よご》れるとまずいね。そっちにあるエプロン、貸《か》したげるから」
「はあい」
サーラは素直《すなお》に指示《しじ》に従《したが》った。変装《へんそう》のコツは化ける対象に心までなりきることだ、と盗賊《とうぞく》ギルドで教えられた。うわべだけうまく変装しても、内面が元のままなら、ちょっとしたしぐさに違和《いわ》感が出てしまい、すぐにばれる。女なら女に、老人なら老人になったつもりで演技《えんぎ》すれば、自然な物腰《ものごし》になり、見破《みやぶ》られにくい。サーラはこの二日、そうしてきた。
自分が本当に女の子だと思いこむようにして、女の子ならどんな風に振《ふ》る舞《ま》うかを常《つね》に考えて行動してきたのだ。慣《な》れというのはたいしたもので、いちいち考えなくても「おいしいクッキーの作り方を教えてもらえることになって、うきうきしている女の子」を自然に演じられるようになっていた。
「卵《たまご》、買っといて良かったよ」籠《かご》から二個の卵を取り出して、ノアは笑った。「今朝、何か役に立ちそうな予感があったんだよね」
「卵を使うんですね」
サーラは嬉《うれ》しくなった。田舎《いなか》と違《ちが》って、街では卵は高価な食材である。二個もあれば下町の子供《こども》の一食分の食費ぐらいにはなる。だから街の子供たちにとって、卵を使ったお菓子《かし》は、お祭りかお祝いの時ぐらいしか食べられないとびきりのごちそうなのだ。
ノアはサーラに、自家製《じかせい》バターから生地を作るやり方を教えた。最初にへらでこねてよく潰《つぶ》し、ひとつまみの塩を加えてすりこぎで混ぜ、クリーム状にする。シロップを何回かに分けて混ぜ、さらに卵黄《らんおう》と粉、刻《きざ》んだハーブの葉を混ぜる……。
手順を指示しながら、ノアはその隣《となり》で卵白を泡立《あわだ》ててメレンゲを作っていた。別のクッキーの生地を作るのだ。
「あんた、好きな男の子は?」
「今はいません」
「好きな男の子がいるなら、その子の顔を思い浮《う》かべながら作るんだよ。いないなら、将来《しょうらい》現《あら》われる男の子を思い描《えが》きながら作る。それがクッキーをおいしくするコツさ」
「魔法ですか?」
「似たようなものかもね。心の力を形にするのさ。好きな男の子に食べて喜んでもらいたいって思ったら、自然とカが入るだろ? それだけ上達もするってわけさ」
「ノアさんの経験?」
「まあね」
ノアは子供っぽい笑《え》みを浮かべた。それからしばらく、無言でメレンゲをかき混ぜていたが、やがて、何気ない口調で言った。
「あんたは気にしないんだね、あたしの肌《はだ》の色」
「え? ああ、ミスリルで慣《な》れてますから」
「あの子はよくやってる?」
「ええ。とてもいい人です。好きですよ」
「そうか」ノアは満足そうにうなずいた。「それならいい」
サーラの方が少しもたついたものの、二種類の生地は無事に完成した。それを小さなかたまりに分けて、油を引いた鉄板に並《なら》べる。すでにオーブンは充分《じゅうぶん》に熱くなっている。ノアは厚《あつ》い手袋《てぶくろ》をして鉄板を持ち、オーブンの中に入れて、扉《とびら》を閉《し》めた。
「ゆっくり八〇〇ぐらい数えたら、焼き上がるよ」
「楽しみですね」
ひと仕事を終えたサーラは、ふと、白いカーテンのかかった小窓《こまど》の外を眺《なが》めた。この台所は建物の裏側《うらがわ》にあって、どぶ川に面している。窓からは川にかかる小さな橋が見えた。たいしていい景色というわけでもない……。
サーラははっとした。橋の欄干《らんかん》に少年が寄《よ》りかかっているのが見えたのだ。
(カミート!?)
相手に気づかれないよう、すぐに首をひっこめたが、必要な観察は一瞬《いっしゅん》で終えていた。カミートは向こう側の欄干に両肘《りょうひじ》をついてもたれかかり、顔を上げていた。ぼんやりと雲を眺めて時間を潰《つぶ》してる風情《ふぜい》だったが、もちろんそんなはずはあるまい。あの橋は店の前の十字路につながっていて、店に出入りする者を見張《みは》るのに適《てき》した位置にある。やはり海賊《かいぞく》ギルドがこちらの動きを監視《かんし》しているのだろうか?
別の可能性《かのうせい》もある、とサーラは思い当たった。カミートは表向き、ジェノアの部下だ。もしジェノアがこちらの計画に気がつきかけていて、不審《ふしん》なよそ者を見張るようカミートに命じたのだとしたら……?
確《たし》かめてみる必要がある。
「ノアさん、ここって裏口《うらぐち》あります?」
「裏口?」
「ええ」窓の外を示《しめ》して、「あの男の子に気づかれないように外に出たいんです。こっそり近づいて、驚《おどろ》かせたいんです」
ノアは外を見て、カミートの姿《すがた》を認《みと》め、にやっと笑った。
「何かわけあり?」
「ええ」
「分かった」
ノアは台所の隅《すみ》に置いてあった野菜の箱をずらし、その下の床板《ゆかいた》を持ち上げた。地下に通じる小さな抜《ぬ》け穴《あな》が現われる。むっとする悪臭《あくしゅう》が立ちのぼってきた。
「ゴミを捨《す》てるのに使う穴だけどね。人も通れるよ」
折り畳《たた》んで壁《かべ》に立てかけていたはしごを広げ、穴の中に下ろしながら、ノアは説明した。サーラもその作業を手伝う。
「こういうのがどこにでもあるんですね、この街には」
「相談者を逃《に》がさなきゃいけない時とか、自分が逃げなきゃならない時とか、いろいろあるからね。用心さ」
はしごは穴の底に着いた。
「橋のすぐ下に出る。あの子のいる場所からは死角になってる。服がちょっと汚《よご》れるかもしれないけど」
「かまいません。使わせてもらいます」
サーラははしごを半分ほど降《お》りてから、ノアを見上げて言った。
「クッキーが焼き上がる頃《ころ》には戻《もど》りますから」
穴の底は思った通り、下水道だった。本管ではないらしく、頭を下げないと歩けないほど小さい。幸い、水量は多くなく、靴《くつ》が滞《ぬ》れる程度《ていど》だった。出口はすぐそこに見えている。
サーラはスカートをつまみ上げ、息を止めて悪臭をこらえながら進んだ。足許《あしもと》がぬるぬるしているので、滑《すべ》って転ばないように注意した。
ノアの言った通り、下水道の出口は橋のすぐ下にあった。汚水《おすい》は目の前のどぶ川にちょろちょろと流れ落ちている。川は流れが遅《おそ》いうえ、黒っぽい水の表面に油が浮いていて、煮《に》こごりのような印象だった。藻《も》にまみれた木製《もくせい》の橋脚《きょうきゃく》には、野菜の屑《くす》や猫《ねこ》の死骸《しがい》、ロープの切れ端《はし》などがひっかかっていた。
どぶ川に沿《そ》って、水面すれすれに狭《せま》い道が作られている。片側《かたがわ》は石垣《いしがき》で、人一人が立てるほどの幅《はば》しかなく、川が増水《ぞうすい》したら水浸《みすびた》しになってしまうだろう。サーラはそこを歩いて橋の反対側に出た。
振《ふ》り向いて上を見ると、ほんのりとオレンジ色に染まりかけてきた空を背景《はいけい》に、欄干に寄りかかっているカミートの背中《せなか》が見えた。十字路の方に注意を奪《うば》われていて、こちらに気づいていない。近くに階段《かいがん》があったので、サーラは気配を殺してそこを上がり、橋のたもとに出た。
「カミート」
静かに声をかける。いきなり間近に出現《しゅつけん》したサーラに、少年は仰天《ぎょうてん》した。だが、逃《に》げ出すのも不自然だ。相手がどうしていいか分からずに立ちすくんでいる間に、サーラはすたすたと歩み寄り、少年の横に並《なら》んで欄干にもたれかかった。
「どうして尾《つ》けてきたの?」
なるべく問い詰《つ》めている印象を受けないように、とびきり優《やさ》しい声で言った。
「尾けてたわけじゃ……」
「げんに尾けてたでしょ?」
カミートは口ごもる。
「誰《だれ》かの指示《しじ》? 任務《にんむ》なの?」
「誰の指示でもない……」
「じゃあ、どうして?」
カミートはしばらく口をもごもごさせていたが、やがて観念したように言った。
「お前の……」
「え?」
「お前のことが気になったからだ。さっき、通りでたまたま見かけて、それで……」
サーラは驚《おどろ》いて、まじまじと少年の横顔を見つめた。少年はそっぽを向き、ずっと西の方、城《しろ》の尖塔《せんとう》の向こうに沈《しず》みかけている夕陽《ゆうひ》に目をやっていた。その頬《はお》が赤く染まっているのは、夕焼けのせいだけではない。
サーラは思わず笑いを洩《も》らした。
「笑うなよ……」
「ごめんなさい」
謝《あやま》ってから、サーラは自分が笑っていたことに気づいて驚いた。笑ったのは、ずいぶん久《ひさ》しぶりだ――「おかしい」という感情《かんじょう》なんて、すっかり忘《わす》れていた。
この少年が嘘をついているわけではないのは、「嘘感知《センス・ライ》」に頼《たよ》るまでもなく分かった。気になってつけ回していたというのは間違《まちが》いなさそうだ。あの地下室の出会いで一目惚《ひとめぼ》れしたんだな、とサーラは納得《なっとく》した。
少年の心を傷《きず》つけたくはなかった。サーラは正体を明かすまいと決心し、彼の前では女の子を演《えん》じきることにした。どうせこの任務が終わったら、二度と会うこともないだろうし。
「座《すわ》らない?」
サーラは欄干に腰を下ろすと、脚《あし》を持ち上げてするりと体を半回転させ、川の方につま先を垂《た》らした。カミートはとまどっていたものの、サーラが手で誘《さそ》ったので、ためらいながらも欄干を乗り越え、隣《となり》に腰を下ろした。
「ザーンでね、仲のいい女の子と、よくこうやって並んで座ったの」とサーラ。「見晴らしのいい場所でね」
「この街は景色なんか良くない」
「そうね」
彼らの前に広がるのは、どぶ川と薄汚《うすよご》れた街並《まちな》みばかりだ。
「自己紹介《じこしょうかい》してなかったっけ? 私はアーシャ。それから、いっしょにいた肌《はだ》の黒いエルフはミスリル。あの家はミスリルのお母さんのノアさんのお店なの」
「そうか」カミートの反応《はんのう》は素《そ》っ気ない。
「ノアさんに会ったことある?」
「いや、評判《ひょうばん》を聞いたことがあるだけだ」
「いい人よ。好きになっちゃった」微笑《ほほえ》みかけて、「あなたもいい人ね」
「俺《おれ》は悪党だ」
「そうは見えないわ」
「人を殺したこともある」
「私だって」
「…………」
「驚かないのね?」
カミートは肩《かた》をすくめた。「よくあることさ。こんな生き方をしていたら」
「汚《きたな》い生き方ってこと?」
「騙《だま》したり、傷《きず》つけたり、殺したりする生き方だ。そんなのが、きれいな生き方のはずがない」
「そうね……」
サーラは考えこんだ。冒険者《ぼうけんしゃ》だって似《に》たようなものだ。前に殺したことのある山賊《さんぞく》のことを思い出す。悪人を殺すのは正義《せいぎ》だと割《わ》り切ろうとしたが、どうしてもできなかった。たとえ悪人でも、誰《だれ》かの命を絶《た》つのは嫌《いや》な気分だ。その不快《ふかい》感から逃《のが》れたいと思う反面、人殺しに慣《な》れることも嫌悪《けんお》していた。
それを嫌だと感じられなくなったら、自分が自分でなくなる気がするから。
「でも、それは必要なんだ」カミートは感情《かんじょう》を押《お》し殺した声で言う。「きれいなものだけじゃ、世の中は成り立たない。このどぶ川と同じだ。この世の汚いものを一手に引き受ける仕事だ……でも、どぶ川がなければ……世の中はもっとひどくなる……」
カミートの声はしだいに小さくなっていった。自分の言葉を心底から信じていないように感じられた。サーラは何も言わず、彼の言葉の意味を噛《か》みしめていた。明後日、殺されることになる、多くの子供《こども》たちのことを思った。正義というのは汚いものなのか。多くの罪《つみ》もない人たちの血が流れるのを防《ふせ》ぐために、自らの手を血で汚すことなのか……?
だとしたら、正義と悪は、いったい何がどう違うのか。
「俺とお前だって、今回はたまたま協力し合うってだけだ。次に会う時には、殺し合うことになるかもしれない」
「それはすごく嫌ね」
二人はしばらく無言で、どぶ川の流れを見つめていた。やがて、カミートがわざとらしく咳払《せきばら》いして、話題を変えてきた。
「昨日、言ってたな、デルっていう娘《むすめ》のこと」
「知ってるの?」
「いや、所在《しょざい》は知らない。この街にいるかどうかもよく分からない」
「ジェノアは? 彼女のこと、どう扱《あつか》ってるの?」
「ずいぶん目をかけてるようなことを言っていたな。だいぶ前から彼女を手に入れたいって願ってたみたいで、ようやく念願《ぬんがん》が叶《かな》ったとかどうとか」
「デルの方は?」
「ジェノアの様子からすると、彼の庇護《ひご》を受ける見返りに忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》ったみたいだ」
「そう……」
予想していたこととはいえ、サーラは落胆《らくたん》した。デルはやはり、悪の道に走ったらしい。もう後戻《あともど》りはできないのか……。
「殺さなきゃいけない、とか言ってたな」
「ええ」
「恨みでもあるのか?」
「恨み……か」サーラはすぐに返答できなかった。「あるかもしれないし、ないかもしれない。本当は仲が良かった。でも、彼女と仲良くならなかったら、つらい思いもしなくて済《す》んだ。そういう意味では、恨みかもしれない――分かる?」
「ああ、分かるな。何となく」
「でも、殺さなくちゃいけないのは、そういう理由じゃないの。それが運命だからなの」
「運命?」
「彼女は恐《おそ》ろしい悪魔《あくま》なの。重い罪を犯《おか》した。放《ほう》っておいたら、これからもっと多くの人を苦しめる。だから殺さなくちゃいけない。それができるのは、たぶん私だけ。それが運命。彼女は悪で、それを滅《ほろ》ぼすのが正義で……」
そこまで喋《しゃべ》ったところで、いきなり胸《むね》が苦しくなり、熱い涙《なみだ》が湧《わ》き上がってきた。止めようもなく、ぼろぼろとこぼれ落ちる。
「でも、違《ちが》うの。彼女は、ほんとはいい子で、かわいくて、優《やさ》しくて……あんな……あんなことさえなかったら……」
そこから先は言葉にならなかった。サーラはスカートの上でこぶしを握《にぎ》りしめ、本物の女の子になったようにすすり泣き続けた。カミートは無言でそっぽを向いており、表情《ひょうじょう》は分からない。
「泣くな、みっともない」少年は静かに言った。「誤解《ごかい》されるだろ」
「……ごめんなさい」
サーラは涙をぬぐい、顔を上げた。
不意に、世界がそれまでと意味を変えた。ぼんやりと眺《なが》めていただけの街の景色が、網膜《もうまく》という物理的な壁《かべ》を超《こ》え、心の奥《おく》に飛びこんできたように感じられた。城《しろ》の尖塔《せんとう》の向こうにゆらめき消えてゆく、黄金色の夕陽《ゆうひ》の残照。オレンジ色の空に立ちのぼる、いく筋《すじ》もの煙突《えんとつ》の煙《けむり》。シルエットになった街並み。夕焼けを映《うつ》して赤く染まっているどぶ川。どこからか聞こえる子供たちのはしゃぎ声、もの売りの声、荷車の音――人々が力強く生きている証《あかし》。その瞬間《しゅんかん》、啓示《けいじ》が訪《おとず》れた。神からの啓示ではなかったが、サーラの心に、確《たし》かに新しい認識《にんしき》が生まれた。
「この街みたい……」
「え?」
「デルの心はこの街みたい。悪と呼ばれていて、汚《きたな》いものが流れていて……でも、いい人もいて、子供《こども》たちも住んでいて……」
きっと人の心はみんなそうなのだ、とサーラは気がついた。頭蓋骨《ずがいこつ》は小さいものだけれど、その中に詰《つ》まっているものは、ひとつの街のように大きくて複雑《ふくざつ》なのだ。迷路《めいろ》のように入り組んだ思考。どぶ川の泥《どろ》のように堆積《たいせき》した暗い記憶《きおく》。赤ん坊《ぼう》のあどけなさ、英雄《えいゆう》の勇気、こそ泥の卑劣《ひれつ》さ、母の優しさ、暴漢《ぼうかん》の狂気《きょうき》、賢者《けんじゃ》の知恵《ちえ》、ちんぴらの愚《おろ》かさ。それらの声が渾然《こんぜん》となって、常《つぬ》にせめぎ合っている。単純《たんじゅん》な悪人も、単純な正義《せいぎ》の英雄もいはしない。みんな複雑だ。
これまでに出会った悪人を思い出した。マローダ、メイガス、ガドシュ砦《とりで》の百手巨人《ヘカトンケイレス》……みんな生まれついての悪ではなかった。小さい頃《ころ》は純真《じゅんしん》だったが、やがて世界の不条理《ふじょうり》にぶつかり、戦い、敗北し、悪に染まっていったのだ。だが、どれほど黒く染まろうと、魂《たましい》の核《かく》にあるものは失われはしない。メイガスを見るがいい。悪魔の力を手に入れて大勢《おおぜい》の人間を殺戮《さつりく》しようと企《たくら》んだ大悪人だったが、その悪が頂点《ちょうてん》に達した時でさえ、涙を流す人間らしい心があったではないか。
「ジェノアもそうなのかな? 彼にもいいところがあるの?」
カミートはうなずく。「彼は敵《てき》には冷酷《れいこく》だが、部下には優しい。だから、あれだけの悪名を轟《とどろ》かせているのに、多くの者に慕《した》われてる」
「ダルシュと似《に》てるのかな」
「かもしれない。ジェノアに言わせれば、自分の究極の目的は、世界に平和をもたらすことだそうだ」
「世界の平和?」
あまりにもジェノアにそぐわない言葉だったので、サーラは驚《おどろ》いた。
「西部|諸国《しょこく》を統一《とういつ》して、ひとつの大きな国にする。そうなれば、国同士の争いはもちろん、東の強国が攻《せ》めこんでくる危険《きけん》も小さくなる。でも、武力《ぶりょく》でそれをやろうとすれば戦争になる。だから自分は、武力じゃなく謀略《ぼうりゃく》でそれをやるんだって。表からじゃなく裏から支配《しはい》する。戦争で何万という人間が死ぬのに比べれば、何十人か暗殺するぐらいで平和が買えるなら、安いものだって」
その論理《ろんり》のどこが間違《まちが》っているのか、サーラには指摘《してき》できなかった。ある意味、その考え方は「正義」と呼べるのではないか。
「どこまで本気かは分からない。たぶん本音は違うと思う。ジェノアにとっては、すべてゲームだ。本気で平和なんか望んじゃいない。楽しいからやってるだけだ」
「そうね」
前に会った時のジェノアの言動を思い出し、サーラはその推測《すいそく》に同意した。
「彼の部下はみんな、彼の言葉を信じてるの?」
「どうだかな。大義名分なんかどうでもよくて、単にジェノアを愛して、従《したが》ってるだけのように見えるし」
「でも、あなたは彼の誘惑《ゆうわく》に負けなかったのね?」
「まあね」
「どうして?」
「俺は他の連中とは違う。ジェノアを愛せない。いや――」自嘲《じちょう》の笑《え》みを浮かべて、「誰《だれ》も愛せない」
「なぜ?」
「愛しても苦しい思いをするだけだ。それが分かってる。だからもう、決して誰も愛さないと決めた……」
ああ、彼も――と、サーラは思った。誰かを愛して、つらい経験《けい什ん》をしたことがあるのだろう。その傷《きず》には触《ふ》れるべきではなさそうだ。
「そう決めたはずだった。でも、お前を見て、心が動いた……」
そう言いながらカミートは、サーラの手に、そっと手を重ねてきた。
「次には敵同士になるかもしれない。でも、今はせめて……」
その瞬間《しゅんかん》、サーラの中に奇妙《きみょう》な感情《かんじょう》が生まれた。少年の言葉を耳にし、体温を手に感じて、心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》が速くなり、頬《はお》がほんのりと熱くなる。その意味に気がついて、サーラは激《はげ》しく狼狽《ろうばい》した。
(おいおいおい! 僕《ぼく》は何を考えてるんだ!?)
だが、自分の中の「アーシャ」の部分が、カミートの誘惑に反応《はんのう》してしまうのを抑《おさ》えられない。この二日間、演《えん》じ続けてきた仮想《かそう》の人格《じんかく》が、それ自体の独立《どくりつ》した意志《いし》を持ってしまったかのようだ。サーラ自身が男に言い寄《よ》られることに本能《ほんのう》的な嫌悪《けんお》感を抱《いだ》いているのに反して、思春期の夢《ゆめ》多き乙女《おとめ》「アーシャ」はどうしようもなくときめいている。
(違う、違う、違う)サーラは眼《め》を閉《と》じ、心の中で呪文《じゅもん》のように必死に唱えた。(僕はアーシャじゃない、アーシャじゃない、アーシャじゃない……)
たまらなくなって手をひっこめ、カミートの手から逃《のが》れた。暑くもないのに、額《ひたい》から汗《あせ》が出ていた。
「ご、ごめんなさい。私、他に好きな人がいるの……」
とっさにそう言ってしまってから、サーラはそれが真実だと気がついた。そうだ、僕はまだデルを愛している。憎《にく》むべき悪魔《あくま》だし、殺さなければならない宿敵だけど、それでも愛している……。
「その人は遠くにいるし、また会えるかどうかも分からない。でも、その人をまだ忘《わす》れられないの……」
「そうか」
カミートは意外にあっさりと引いた。ちっとも残念そうな様子ではない。心の中の「アーシャ」もおとなしくなり、サーラはほっとした。
「すまなかった。困《こま》らせちまったな」
そう言うと、カミートはさっと体を反転させ、橋の上に立った。
「楽しかったぜ」と、サーラに背《せ》を向けて言う。「機会があったらまた会おう」
「ええ」
「死ぬなよ」
カミートは軽く手を振ると、なかば走るような足取りで、振り返りもせずに立ち去った。サーラはその姿《すがた》が見えなくなるまで見送った。あんなに泣いたというのに、なぜか胸《むね》の中は温かい気分だった。
「さてと……」
サーラはひと息つき、欄干《らんかん》から降《お》りた。
そろそろクッキーが焼き上がっている頃だ。
予想通り、クッキーはおいしかった。フェニックスたちにも食べさせてあげようと、サーラは三|枚《まい》だけ袋《ふくろ》に入れてもらった。
食べ終わると、マローダは別れの言葉もそこそこに、逃げるように店から去った。よほどミスリルと二人きりの時間が苦しかったのだろう。ミスリルも緊張《きんちょう》から解放《かいほう》されてほっとしていた。
今度会うとしたら、明後日の夜、作戦の最中ということになるだろう。
そろそろ暗くなってきたので、宿に帰らなくてはならない。サーラたちはノアの店を辞去すると、帰途《きと》についた。
「あっ、しまった」
港の近くにある宿の前まで来て、サーラは声を上げた。
「どうした?」
「占《うらな》ってもらうの、忘れてた」
ミスリルは苦笑した。「お前、そこまで役になりきることはないぞ」
「そうじゃなくて、本当に占ってもらいたかったんだよ」
「……お前、占いなんかに興味《きょうみ》あったっけ?」
「最近はちょっとね」
運命というものに興味があるのだ――とまでは、サーラは説明しなかった。
その日の深夜――
波止場《はとば》に並《なら》ぶ倉庫の間の狭《せま》い路地《ろじ》、月の光も届かない暗がりを、小さなランタンの灯《ひ》を頼《たよ》りに、二つの影《かげ》がひっそりと歩んでいた。
「本当に最後まで見届けなくてよろしいのですか?」
先導《せんどう》するバントレスがささやく。メイマーは誰《だれ》にも見られていないのを幸い、露骨《ろこつ》に顔を歪《ゆが》めた。
「言ったでしょ、血生臭《ちなまぐさ》いのは嫌いだって」
彼女は心底《しんそこ》からこの作戦を嫌悪《けんお》していた。「犯《おか》さず、殺さず、沈《しす》めず」を信条とする「サルガッソー」レイチェルに育てられたせいもあるが、商売上の駆《か》け引きや、交渉によるトラブル解決《かいけつ》を誇《ほこ》りとする彼女にとって、暴力《ぼうりょく》による解決はスマートさに欠け、野蛮《やばん》なものに思える。だいたい今度の任務《にんむ》は畑違《はたけちが》いとしか思えない。提案者《ていあんしゃ》であるキースが前に出たがらないうえ、レイチェルも「キース的」なやり口を嫌悪していたので、本来は破壊《はかい》活動になど縁《えん》のないメイマーに汚《きたな》い仕事が押《お》しつけられた格好《かっこう》だ。
何よりも心が重いのは、アルジャフィンの決定に対し、反対する根拠《こんきょ》が見当たらないことだった。「|闇の庭《ガーデン・オブ・ダークネス》」が海賊《かいぞく》ギルドにとって、いや、この世界にとって脅威《きょうい》であるのは明白だ。今のうちに叩《たた》き漬《つぶ》さねばならないことは理解できる――だが、そのために子供《こども》を殺すというのは、納得《なっとく》できるものではない。
無論《むろん》、ギルドの総意《そうい》を彼女|個人《こじん》の判断《はんだん》で覆《くつがえ》すことはできない。作戦をバントレスに一任《いちにん》して帰還《きかん》するのは、「自分の任務は交渉だけ」と割り切ることにしたからである。せめて惨劇《さんげき》が発生しているその瞬間《しゅんかん》に、できるだけ離《はな》れた場所にいたかった――それで罪《つみ》が薄《うす》れるわけでもないと、分かってはいるのだが。
路地を抜《ぬ》け、波止場に出た。バントレスは倉庫の蔭《かげ》から頭を出し、様子をうかがう。さすがにこの時刻では、働いている者はいない。十三夜の月の光を浴びて、船が何隻《なんせき》か、静かに波に揺《ゆ》れているだけだ。振り返り、メイマーにうなずく。
「誰もおりません」
「じゃ」
メイマーは泳ぐのに邪魔《じゃま》な長いスカートをさっと脱《ぬ》ぐと、バントレスに押しつけた。「ここの海って汚くて嫌《いや》なのよね」とぼやく。海賊島の蒼《あお》く澄《す》んだ海が懐《なつ》かしかった。
「では、みなさまによろしく」
「伝えとくわ。成功を期待してる」
それは本音である。こんな仕事はこれっきりにしたかった。失敗して何度も繰《く》り返すなんて、ご免蒙《めんこうむ》る。
メイマーはバントレスの脇《わき》をすり抜けて走り出した。岸壁《がんぺき》までの十数歩を駆け抜け、海へ身を投じる。同時に「変身《シェイプチェインジ》」の呪文《じゅもん》を解除《かいじょ》し、本来の姿《すがた》に戻《もど》った。
一瞬、銀色の魚の尾《お》が月光にきらめいたかと思うと、水しぶきとともに水中に没《ぼっ》した。船の甲板《かんぱん》で眠《ねむ》っていた船員が、水音に驚《おどろ》いて目を覚ました。目をこすって船縁《ふなべり》から首を突き出したものの、すでに水面にできた輪は消えかけていた。
青い月明かりがゆらめく夜の海中を、メイマーは驚くべき速さで突き進み、沖へと向かった。海賊島への帰還を妨《さまた》げるものは、何もありはしなかった。
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7 急襲《きゅうしゅう》
作戦決行の当日。
キャラバンは午後には北側の門から市の外に出る予定になっていた。表向きは、この街での商売を終え、次はリファールに向かうという筋書《すじが》きだ。実際《じっさい》には、街から少し離れた森の中に馬車を隠《かく》し、夜になるのを待って問題の農場に接近《せっきん》、深夜に襲撃《しゅうげき》を開始するという手筈《てはず》だった。
出発には少し間がある。サーラはミスリルに頼《たの》みこみ、少し回り道してノアの店を再訪《さいほう》することにした。前回、占《うらな》ってもらえなかったのが気になっていた。ドレックノールを離れる前にもう一度会って、運命を見てもらおうと思ったのだ。メリンたちとは後で北門の前で落ち合う約束をした。
店に向かう途中《とちゅう》、ちょっとした騒《さわ》ぎに遭遇《そうぐう》した。数人の屈強《くっきょう》な男が、嫌《いや》がる若《わか》い娘《むすめ》の腕《うで》をつかんで、家からひきずり出している光景だ。娘は「お父さん! お母さん!」と泣きわめいているが、戸口に立ちつくしている両親らしい男女は、黙《だま》って暗い顔つきでうなだれているだけだ。それを囲んでいる近所の人々も、複雑《ふくざつ》な表情《ひょうじょう》で見物しているだけで、誰も助けの手を差し伸《の》べようとはしない。
「来い」
ミスリルは騒ぎを無視《むし》して、サーラの手を引き、その場をすり抜《ぬ》けた。
「あれって……?」
「借金の形《かた》に奴隷《どれい》に売られるんだろう。よくあることさ」
ミスリルは感情を押し殺した声で言った。サーラは驚いた。噂《うわさ》には聞いていたが、人間を家畜《かちく》みたいに売り買いする行為《こうい》が、こんなにもおおっぴらに行なわれているとは。
「助けられないの?」
気になって何度も振《ふ》り返りながら、サーラは訊《たず》ねた。離《はな》れるにつれ、娘の叫び声はだんだん小さくなっていったが、胸《むね》には強く焼きついていた。
「どうやって?」ミスリルは少し苛立《いらだ》っているようだった。「あんなのはこの国じゃ当たり前なんだ。社会の仕組みがそうなってる」
「だって……!」
「忘《わす》れろ。どうしようもないことだ」
サーラは唇《くちびる》を噛《か》んだ。あれが正しくないことであるのは分かる。あの家族はいかにも善良《ぜんりょう》そうに見えた。罪《つみ》もない人が泣くのが、正しいことであるはずがない。それを「どうしようもないこと」と見て見ぬふりをするのも、正しいとは思えない。
だったら、どうすればいい? あの娘だけを助けても、問題|解決《かいけつ》にはならない。他《ほか》にも泣いている人は大勢《おおぜい》いるに違《ちが》いないのだ。この街が、いや、この国全体がそんな仕組みでできているなら、個人《こじん》の力で変えることなどできるはずがない。
そう、「どうしようもない」のだ。
そんな当然の結論《けつろん》に帰着するしかないことが、サーラには侮《くや》しかった。きっと人は、人生の中でたくさんの「どうしようもない」にぶつかり、そのたびに少しずつ理想や純粋《じゅんすい》さがすり減《へ》ってゆくのだろう。それが限界《げんかい》を超《こ》えてすり切れた時、マローダのように悪の道に走るのだろう。
そう考えると、自分とマローダの距離は、そんなに遠くない気がした。
ノアは快《こころよ》く占いを引き受けてくれた。それも相場の半額《はんがく》の料金でだ。
「ミスリル、ちょっと外に出てな」
母に言われ、ミスリルは店の前で待つことになった。ノアは念のために窓《まど》に厚《あつ》いカーテンを引いて、部屋を暗くした。占いは客の秘密《ひみつ》に触《ふ》れることの多い行為《こうい》だ。だから彼女は、占《うらな》いを行なう際《さい》には、依頼人《いらいにん》以外の者を決して立ち会わせず、外からも覗《のぞ》かれないようにしていた。無論《むろん》、部屋を暗くするのは、神秘《しんぴ》的な雰囲気《ふんいき》を盛《も》り上げる意味もあるのだが。
ロウソクの明かりの下で、ノアはテーブルの上に占い用のカードを広げた。サーラが初めて目にするものだった。ずっと東の国で作られたものだそうで、美しい版画《はんが》が印刷されている。多くの色を使い、神々や怪物《かいぶつ》、精霊《せいれい》、太陽や月などが描《えが》かれているが、サーラには意味がさっぱり分からない。ノアはそれを裏返《うらがえ》しにしてよく混ぜ、中から九|枚《まい》を抜《ぬ》き出して十字形に並《なら》べる。それを一枚ずつめくってゆくのだ。
「あんた、恋愛運《れんあいうん》はいいね」
いきなりノアがそう言ったので、サーラは苦笑した。自分が恋愛運がいいなんて、とても思えない。
「マーファの逆位置《ぎゃくいち》。少なくとも三人の異性《いせい》に愛されるよ。そしてハーピィの正位置。熱烈《ねつれつ》な恋《こい》をすると出てる。ただし、ちょっとした波乱《はらん》がありそうだ……」
カードをめくりながら解説《かいせつ》するノア。最初は陽気だったその表情が、カードを開けてゆくにつれ、しだいに変わってきた。
「ノアさん?」
サーラは心配になって声をかけた。ノアは最後の一枚をめくる直前で手を止め、複雑《ふくざつ》な表情で考えこんでいる。
「悪いんですか?」
「いや、そうじゃない。必ずしも悪いとは言えないよ。ただ、この配置を見るのは久《ひさ》しぶりだったもんで……」
「久しぶり?」
「ああ。ずっと昔、クロムの運を占った時以来だ……」
クロム・ヴェネスは彼女の死んだ夫――エルフでありながらダークエルフの女を妻《つま》にした変わり者だ。
二人の結婚《けっこん》には大変な苦労があったと、ミスリルから聞かされている。天地|開闢《かいびゃく》以来の敵同士であるエルフとダークエルフが結ばれるなどというのは、あってはならないことであり、クロムは同族のエルフたちから激《はげ》しく罵《ののし》られ、白眼視《はくがんし》されていたらしい。彼は村を襲《おそ》ってきたダークエルフと勇敢《ゆうかん》に戦って戦死し、残されたノアとミスリルは迫害《はくがい》を受け、村を出て長いこと放浪《ほうろう》生活を送ったという。
「バジリスクの正位置」ノアはカードの一枚を指さした。「逆境《ぎゃっきょう》、災難《さいなん》、破綻《はたん》の暗示《あんじ》だ。恋は幸福の絶頂《ぜっちょう》で悲劇《ひげき》に変わる……」
サーラはどきっとした。
「カードがまったく同じに並《なら》ぶなんて、めったにないことなんだ。これでもし、最後のカードがバルキリーの逆位置《ぎゃくいち》なら……」
そう言って、ノアはためらいながらもカードを開けた。白い鎧《よろい》をまとって槍《やり》を持ち、空を駆《か》けている乙女《おとめ》――バルキリーだ。
だが、ノアはほっとしていた。
「正位置だ。クロムと同じ運命じゃない」
「いいってことですか?」
「それはあんたしだいだろうね」
彼女はバルキリーのカードをこつこつと指で叩《たた》いた。
「バルキリーが暗示するのは、決断《けつだん》、最終的な勝利、困難《こんなん》の克服《こくふく》、名誉《めいよ》。逆位置だと、迷い、悪戦|苦闘《くとう》、挫折《ざせつ》、不名誉――まあ確《たし》かに、クロムは名誉に縁《えん》はなかったね。あたしとミスリルを幸せにするって誓《ちか》いも果たさずに死んじまったから、挫折ってのも当たってるかも。でも、カードが逆向きだからって、運命が逆になるってもんでもない。カードはあくまで運命を暗示するだけで、決定するわけじゃない」
「運命の暗示って、どういうことなんです?」
「あたしはこんなたとえをよく使う。ぼろぼろになって、今にも落ちそうに見える橋がある。それを渡《わた》るかどうか。この場合、『落ちそうに見える』ってのが暗示だよね。危険《きけん》を避《さ》けるために渡らないのが賢《かしこ》い選択《せんたく》だろうけど、どうしても向こう岸に行かなくちゃならない場合もある。だったら思い切って渡るしかない。実際に落ちるかどうかは、渡ってみなきゃ分からない」
「落ちるのが運命?」
「落ちないのが運命かも」
「占いで運命が分かるんじゃないんですか?」
「そんなことを言ってる奴《やつ》がいるとしたら、間違《まちが》いだね。カードはあくまで現実《げんじつ》になりそうなことを暗示するだけで、必ず現実になると決まってるわけじゃない。たとえば、商売をやって成功するという暗示が出たって、本人に真面目に商売をする意志《いし》がなけりゃ、現実にはならないよね」
サーラは考えこんだ。「つまり、本人の行動しだい?」
「そういうことになるかね。崩《くず》れそうに見える橋だって、思い切って渡れば、渡れたりするもんだからね」
「じゃあ、占いって何のためにあるんですか?」
「道しるべさ」
「道しるべ?」
「ああ」ノアは優《やさ》しい表情《ひょうじょう》でうなずいた。「迷ってる人に、進むべき道を示《しめ》す。もっと正確《せいかく》に言うと、道の先に何が待っているのか示すことで、どの道に進むのが自分にとって正しい選択なのか、本人に考えさせる手がかりをあげる。『橋が崩れかけている』と聞いて、渡るのをやめるか、それとも勇気を出して渡るか。それは向こう岸にあるものがどれぐらい大切かによるよね。つまり、橋を渡るかどうかの決断で、自分にとって何が大切か分かってくるわけだ。よく『あれをするな』『こうしろ』って偉そうに客に命令する占い師がいるけど、あたしに言わせりゃ不遜《ふそん》だね。自分が運命を司《つかさど》ってるとでも思ってんのかね。客のために助言するのは大切だけど、進む道を強制《きょうせい》するのはやりすぎだ。何が自分にとって正しい選択なのか、分かるのは本人だけなのに」
「そうか……」
サーラの胸《むね》に、「自分にとって正しい選択」という言葉が静かに浸透《しんとう》した。崩れかけている橋を渡るなんて、他人から見れば愚《おろ》かな選択だろう。だが、どうしても手に入れなくてはならないものが向こう岸にあるなら、たとえ危険でも、愚かでも、橋を渡るのが「自分にとって正しい選択」ではないだろうか。
考えてみれば、自分はずっとそうしてきたのではないか。冒険者《ぼうけんしゃ》になろうと決めたのは、愚かな選択だった。ガドシュ砦《とりで》で、危険を承知《しょうち》でフェニックスを助けに戻《もど》ったのも、愚かな選択だった。デルを愛したのだってそうだ。後から客観的に考えれば間違った選択もしたかもしれない。だが少なくとも、どの瞬間《しゅんかん》でも、自分は「自分にとって正しい選択」をしてきたのではなかったか。
それを選ばなければ、自分が自分でなくなってしまっていただろうから。
「訊《き》いていいですか?」
「何?」
「ノアさんがこんな生き方をしてるのも、『自分にとって正しい選択』なんですか?」
「難《むずか》しいことを訊くね」ノアは苦笑した。「まあ、あたしの場合は呪《のろ》いかな」
「呪い?」
「死んだクロムの呪いさ」彼女は遠い目で懐《なつ》かしんだ。「あいつはあたしとミスリルを守るために、誰《だれ》よりも無謀《むぼう》に戦って死んだ。あたしがミスリルを立派《りっぱ》に育てることを信じて。もしあたしが悪の道に舞《ま》い戻ったら、あいつを裏切《うらぎ》ることになる。あいつを裏切るってことは、あたしにとって恐怖《きょうふ》なんだ。耐《た》え難《がた》い恐怖――それこそ、あたしがあたしでなくなっちまうような……分かる?」
「何となく……」
「あたしはずっと、その恐怖に突《つ》き動かされて生きてきた。何度、悪の道に戻ろうかって思ったか知れない。そりゃあ悪で生きる方が楽だからね。でも、あたしにとってクロムはあまりにも大きすぎて、しっかりあたしの一部になっていた。クロムの信頼《しんらい》を裏切ることは、自分の一部を殺すことだ。それが恐《おそ》ろしかったから、悪を避《さ》けて生きてきた。死んでからもずっと、あいつはあたしの人生を縛《しば》ってるんだ。これは呪いさ」
「今でも愛してるんですね、ご主人のこと」
「今でも生きてりゃ、喧嘩《けんか》もしただろうさ」ノアは笑って肩《かた》をすくめた。「ずっと暮《く》らしてりゃ、それこそ愛も冷めてきて、別れてたかもね。ミスリルとマローダみたいに。でも、あいつはよりにもよって、あたしの想《おも》いがいちばん熱かった時期、その頂点《ちょうてん》で死んじまった。だからいい思い出しか残ってないんだ。死んだ男相手に喧嘩もできないしね。愛し続けるしかないんだよ」
「再婚《さいこん》しようとは思わなかったんですか?」
「ダークエルフに惚《ほ》れるような酔狂《すいきょう》な男は、クロムぐらいしかいやしないよ。同族からは裏切り者って思われてるしね。それに――」と、ちょっと恥ずかしそうに微笑《ほほえ》んで、「あの激しい思い出に比べりゃ、どんな恋《こい》も色褪《いろあ》せちまうね。とびきりのごちそうを食べた後じゃ、どんな料理もまずく感じられるようなもんでさ。不幸だよ」
ノアはしばらく追憶《ついおく》にふけっていたが、やがて思い出したように「参考になった?」と訊《たず》ねた。
「ええ、参考になりました」サーラは頭を下げた。「ありがとうございます」
「終わったのか?」
店から出てきたサーラに、ミスリルが声をかけた。
「うん」サーラは手にした包みを掲《かか》げて、にっこり微笑んだ。「またクッキー、もらっちゃった。お土産《みやげ》だって」
「そうか――じゃあ、行くぞ」
ミスリルはさっさと歩き出した。サーラは慌《あわ》てて後を追いながら、その素っ気ない態度《たいど》に疑問《ぎもん》を抱《いだ》いた。
「どうしたの?」
「変な感じがする。見張《みは》られてるような」
サーラは緊張《きんちょう》した。早足で歩きながら、さりげなく後ろを振《ふ》り返るが、誰かが尾行《びこう》してくる様子はない。
「お前が出てくるのを待っている間、近くの家の蔭《かげ》に誰かいて、こっちをうかがってる感じがした。俺《おれ》がそっちを見るたびに頭をひっこめるらしいんで、はっきりとは見えなかったが」
「またカミートかな?」
「分からん。俺の気の回しすぎかもしれんが」ミスリルは不機嫌《ふきげん》そうにうなった。「予定が近づいて、神経《しんけい》が昂《たか》ぶってるからな」
「まさか、計画が洩《も》れてるなんてこと……」
「無いとは思うが、警戒《けいかい》は必要だな――で、役に立ったのか、占い?」
「うん」
「そうか」
それ以上深くは訊ねなかったが、何かがふっきれたようなサーラの上機嫌《じょうきけん》な返答に、ミスリルは安心した。
「お前のためになったんだったら、おふくろに会わせたのは正解《せいかい》だったんだろうな」
「うん、会えて良かったと思うよ」
二人は長屋の密集《みっしゅう》した地区を抜け、人通りの多い道に出た。行き交う荷馬車や通行人をよけながら、北門の方向へ歩く。
「ねえ、ミスリル?」
「何だ?」
「ミスリルのお父さんって、立派《りっぱ》な人だったんだね」
「何を今さら」ミスリルは自慢《じまん》げに笑った。「親父《おやじ》は最高の男だった」
「うん、そう思う。ノアさんやミスリルが悪の道に走らなかったのは、お父さんがいたからこそなんだなって。お父さんが信じてくれたから――」
雑踏《さっとう》の中を話しながら歩いていた二人は、後ろから歩調を速めて近づいてくる足音に気がつかなかった。気配を察知した時には、サーラの手にしていた包みが激《はげ》しい衝撃《しょうげき》とともにひったくられていた。「へへん!」みすぼらしい身なりの一〇歳《さい》ぐらいの少年が、獲物《ぇもの》を胸《むね》に抱《かか》えて駆《か》け去ってゆく。
サーラは一瞬《いっしゅん》、あっけに取られたものの、すぐにかっと頭が熱くなった。ノアさんがくれた大切なクッキーを!
「待て!」
スカートをなびかせて走り出したサーラを、ミスリルが「おい、アーシャ!」と慌《あわ》てて追いかける。大事な作戦を前に、往来《おうらい》で人目を惹《ひ》くような行動はまずい。クッキーぐらい不良少年にくれてやればいい、と思う。
だが今のサーラにとって、そんな選択《せんたく》はない。小さな悪でも見て見ぬふりをしないのが、自分が自分であるための行動だと思ったのだ。
「あいつめ!」
全速力で走るサーラの背中《せなか》を見て、ミスリルは舌打ちした。すれ違《ちが》う通行人がみんな振り返っていた。すでに充分《じゅうぶん》に人目を惹いてしまっている。騒《さわ》ぎが長引くと厄介《やっかい》だ。こうなったら、さっさと少年に追いついて、クッキーを取り返すしかなさそうだ。
少年は狭《せま》い路地《ろじ》に飛びこんだ。人一人が通れる幅《はば》しかなく、走ると肩《かた》が壁《かべ》にこすれそうだった。少年は身軽にすり抜《ぬ》けてゆく。サーラもぴったりと後を追ったが、ミスリルは体を横にしないと走り抜けられず、少し遅れた。
路地の途中《とちゅう》には、二人の小さな子供《こども》がうずくまり、地面をひっかいて絵を描いていた。 少年はそれを跳《と》び越《こ》える。「待て!」サーラも跳んだ。
路地の突《つ》き当たりは、小さな空き地になっていた。四方を二階建ての建物に囲まれた狭い空間で、陽《ひ》が射《さ》さないので昼間でも薄暗《うすぐら》い。古い木箱や樽《たる》の残骸《ざんがい》が積み上がっているところを見ると、がらくた置き場のようである。少年は行き場を失い、壁を前にして立ちすくんでいるようだった。窓《まど》にも板が打ちつけられており、壁はのっぺりとしていて、箱の底にいるような印象だ。裏口《うらぐち》の扉《とびら》はいくつもあったが、どれも向こう側から鍵《かぎ》がかかっているに違いない。
サーラより数秒|遅《おく》れて、ミスリルも空き地に足を踏《ふ》み入れた。
「さあ、追い詰《つ》めたぞ。いたずら坊主《ぼうず》め」
「追い詰めたあ?」少年はゆっくりと振《ふ》り返る。「どっちが?」
その余裕《よゆう》のある不敵《ふてき》な笑《え》みに、ミスリルとサーラは不審《ふしん》なものを感じ、身がまえた。少年は少しも恐《おそ》れている様子はなく、片足《かたあし》に重心をかけてくつろいだポーズで、腰に手を当て、歌うような口調でつぶやいた。
「盗賊《とうぞく》、盗賊、取って食うぞ……」
すると、二人の背後《はいご》の路地から、それに唱和する声があった。
「盗賊、盗賊、取って食うぞ……」
「盗賊、盗賊、取って食うぞ……」
サーラたちは驚《おどろ》いて振り返った。路地の途中で絵を描いていた八|歳《さい》ぐらいの子供が二人――一人は黒髪《くろかみ》の男の子、一人は赤髪の女の子――が、楽しそうに歌いながら、こっちにやって来る。男の子はズボンのポケットに手をつっこんでぶらぶらと歩き、女の子は軽々とスキップしていた。
「盗賊、盗賊、取って食うぞ……」
四人目の澄《す》んだ声は上から降《ふ》ってきた。黒いマントをまとった十二歳ぐらいの少女が、無邪気《むじゃき》に笑いながらこちらを見下ろしている。透《す》き通った長い金髪《きんぱつ》。マントの下から覗《のぞ》くほっそりした素足《すあし》。まるで体重など存在《そんざい》しないかのように、屋根の端《はし》にちょこんと爪先《つまさき》で立ち、見事にバランスを保《たも》っている。
「盗賊、盗賊、取って食うぞ……」
五人目の低い声は足許《あしもと》からした。サーラはびっくりして飛びのいた。土が盛り上がったかと思うと、少女がゆるりと上体を起こした。十三歳ぐらいで、黒く短い髪、耳はエルフみたいに尖《とが》っている。犬のように地面に這《は》いつくばったまま、軽く身震《みぶる》いして土を払《はら》い落とすと、泥《どろ》で汚《よご》れた顔に光る緑色の眼《め》で、サーラを見上げて妖《あや》しく微笑《ほほえ》みかける。
「盗賊、盗賊、取って食うぞ……」
「盗賊、盗賊、取って食うぞ……」
子供たちは陽気に歌いながら、包囲の輪を狭《せば》めてくる。その無邪気な笑みの背後にひそむ邪悪さに、サーラは強烈《きょうれつ》な悪寒を覚えた。
罠《わな》だ。
「突破《とっぱ》するぞ!」
そう言うなり、ミスリルは路地から現《あら》われた二人の子供に向かって動いた。そちらの方にしか逃げ道がないのだから当然だ。同時に、精霊魔法《せいれいまはう》の「|眠り《スリープ》」を唱えはじめる。男の子の方さえ眠《ねむ》らせることができれば、女の子をよけるなり殴《なぐ》り倒《たお》すなりして突破できると踏んだのだ。
だが、地中から現われた少女の精霊魔法が、わずかに早く発動した。地面がわずかに隆起《りゅうき》し、ミスリルはそれにつまずいて転倒《てんとう》する。
すかさず黒髪の男の子が歓声《かんせい》を上げて飛びかかった。倒れたミスリルの背中《せなか》に馬乗りになると同時に、その体が爆発《ばくはつ》したように膨張《ぼうちょう》する。ほんの一瞬《いっしゅん》で、鋭《するど》い牙《きば》と爪《つめ》を持つ醜《みにく》い岩のような巨人《きょじん》に変身し、ミスリルを完全に押《お》さえこんだ。
「ミスリル!」
サーラは叫《さけ》んだ。隠《かく》していたダガーを抜《ぬ》き放つ。だが、攻撃《こうげき》をためらった。巨人の身長は自分の倍以上はある。斬《き》りかかっても歯が立つかどうか。
「がううっ!」
泥まみれの少女が犬のようにうなりながら、サーラの背中に飛びかかり、押し倒した。衝撃《しょうげき》でかつらが吹《ふ》き飛び、金髪があらわになる。少女は右肩を押さえこんでダガーの動きを封《ふう》じると同時に、左腕《ひだりうで》を蛇《へび》のように首に巻きつけてきた。見かけによらず力が強く、サーラは振りほどけない。
「イエロー! 今よ!」少女が顔をそむけながら怒鳴《どな》る。
二人をここまで誘いこんだ少年――イエローアイが、おもむろに左腕を上げた。こちらに向かって突《つ》き出された手の平に埋めこまれた黄色い眼球《がんきゅう》が、ぎょろりと不気味に動くのを、サーラは見た。次の瞬間、眼球がまばゆく光ったかと思うと、サーラは意識《いしき》を失っていた。
泥まみれの野獣《やじゅう》じみた少女は、ぐったりとなったサーラから、満足して体を離《はな》した。しかし、立ち上がりはしない。獣《けもの》のように地面を這《は》って歩くのが好きなのだ。少女――ナイトシンガーは、ただのアルラウネではなく、人狼《ワーウルフ》の血で育てられ、野獣の性質《せいしつ》を賦与《ふよ》されているのだ。
ミスリルはもがいているが、巨人――リトルロックに口を押さえられているので声が出せない。
「あーん、私の出番が無い」
赤髪《あかがみ》の少女――グレイネイルが口を尖《とが》らせてすねる。
「また後であるさ」ナイトシンガーは顔を上げた。「ムーン、出番よ」
黒いマントの少女はうなずくと、マントをさっと広げた。その下から六本の腕《うで》が現われる。
異形《いぎょう》の少女――ムーンダンサーは、六本の腕を巧《たく》みに操《あやつ》り、蜘蛛《くも》のように壁《かべ》を這い降《お》りてきた。地面まであと少しというところで、壁を蹴《け》り、空中で軽く一回転して優雅《ゆうが》に着地する。
リトルロックは怪力《かいりき》でミスリルの首をねじ曲げ、ムーンダンサーの方に向けた。少女はマントをはらりと脱《ぬ》ぎ捨《す》て、小さな下着を身に着けただけの、ほとんど全裸《せんら》に近い姿《すがた》になる。色黒のナイトシンガーとは対照的に、肌《はだ》は雪のように白い。
少女は笑いながら優雅にポーズを取った。六本の腕のうち、一対《いっつい》は頭上に掲《かか》げて円を作り、一対は左右にぴんと伸《の》ばし、一対は胸《むね》の前で交差させる。異様《いよう》な姿ではあったが、そこには特異な美があることは否定《ひてい》できない。人間のものではない、毒花の美しさにも似《に》た、危険《きけん》で邪悪《じゃあく》な美。
その肌がリズミカルに発光しはじめ、六本の腕がしなやかにくねりはじめると、ミスリルはもう目をそらすことができなくなっていた。
「あなたがここで出会ったのは」ムーンダンサーは歌うように言った。「一〇人ぐらいの子供《こども》たち……」
「サーラとはぐれただと!?」
デインは|驚《おどろ》きのあまり、「アーシャ」と偽名《ぎめい》で呼《よ》ぶのさえ忘《わす》れていた。
「すまん」ミスリルは素直《すなお》に頭《こうべ》を垂《た》れた。「かっぱらいの子供を追いかけていったら、袋小路に入ったんだ。奥の空き地に一〇人ぐらいの子供がたむろしてた。スリやかっぱらいの常習犯《じょうしゅうはん》どもだろうな。包みを取り返そうと押し問答をやってたら、今度は大人たちが踏《ふ》みこんできて――」
「『|早耳ネズミ《クイックイヤード・ラット》』か?」とメリン。
「たぶん。俺たちも一味の仲間だと思われたらしい。逃げるしかなかった。夢中《むちゅう》で走ってるうちに、サーラを見失って……」
「捕《つか》まったのか?」
「分からん。ただ道に迷ってるだけかも。この街は迷路《めいろ》だからな」
「まずいな……」
メリンは舌打ちした。馬車の幌《ほろ》の端《はし》をちらっとめくり、外の様子をうかがう。今、キャラバンは北門の手前で止まっていて、歩哨《ほしょう》による出入りの審査の順番を待っている。審査と言っても、入る時と同じようなもので、通行|許可証《きょかしょう》と少しの賄賂《わいろ》さえあれば、軽く荷を調べるだけで通してもらえる。
「もうじき順番が回ってくる。まさか父親が娘《むすめ》を盗賊《とうぞく》都市に置き去りにして出発するわけにもいかんだろう」
「捜《さが》しに戻ろう!」レグが興奮《こうふん》して言った。
「待て。それもまずい。夕方には門は閉《し》まって、出られなくなる。予定の時間までにわしらが配置につけなかったら、作戦全体に大きな影響《えいきょう》が出る」
「作戦の中止は?」
「今さらできない」
すでに作戦に参加するメンバーの多くが街を出て、農場付近でばらばらに身をひそめているはずである。人目を惹《ひ》くのを避《さ》けるため、作戦開始まで一|箇所《かしょ》に集まらないことになっている。今から連絡《れんらく》を取るのは不可能《ふかのう》だ。
「じゃあ、どうするんだよ!?」
「それを悩《なや》んでるんじゃないか」
一同が小声で言い争っているところへ――
「ごめん! 遅《おそ》くなって!」
黒いかつらをかぶった少年が、息を切らせて飛びこんできた。
「サーラ、どうしたの!? 泥《どろ》だらけじゃない」
フェニックスが目を丸くした。少年の上着もスカートも、ひどく汚《よご》れていた。
「……逃げる途中《とちゅう》……転んだんだ」少年はぜいぜいと息をしながら、途切れ途切れに言った。「あちこち……走り回って……」
「追っ手は? 撒《ま》いたか?」
とミスリル。少年はまだまともに喋《しゃべ》れず、こくこくとうなずくだけだ。
「ふうー!」デインはおおげさにため息をついた。「心配させてくれるなよ」
「ごめんなさい……」
「まあ、無事で何よりだった」
それは全員の共通した感想だった。誰《だれ》もサーラを責《せ》めようとは思わない。大事な作戦を前にして、予想外のトラブルをどうにか切り抜《ぬ》けたことで安堵《あんど》していた。
真相は目に見えるものとはまるで違《ちが》っていることに、気がつきもしなかった。
「よし」メリンは腰を上げた「街の外に出るぞ」
サーラは身動きできなかった。
目が覚めた時、すでに四肢《しし》は拘束《こうそく》されていた。服を剥《は》ぎ取られ、両腕《りょううで》両脚《りょうあし》を開いて立った状態《じょうたい》で、金属《きんぞく》の枠組《わくぐ》みのようなものに、手首足首と額《ひたい》を革《かわ》ベルトで固定されていたのだ。
さらに両手の一〇本の指、両足の親指も、刃物《はもの》や万力を備《そな》えた奇妙《きみょう》な機械にはさみこまれていた。機械は顔面と胸《むね》を除《のぞ》くほぼ全身を取り巻いている。釣《つ》り針《ばり》のようなもの、錐《きり》のようなもの、ヤスリのようなもの、鋸《のこぎり》のようなもの、歯車のようなもの、包丁のようなもの、ハサミのようなものなど、様々な形状《けいじょう》の凶悪《きょうあく》な工具類が皮膚《ひふ》に迫《せま》っていた。それらはバネや鋼線や歯車やテコで複雑《ふくざつ》に連結しており、全体として巨大《きょだい》な生物の内臓《ないぞう》器官のように見えた。サーラは金属でできた怪物《かいぶつ》に飲みこまれかけている格好《かっこう》だった。
そこは広くて薄暗《うすぐら》い地下室だった。ひとつしかないランタンの明かりに照らされて、石作りの壁《かべ》に沿《そ》って、様々な拷問《ごうもん》道具が並《なら》べられているのが分かる。棺《ひつぎ》ぐらいの大きさの箱や、金属でできたベッド、複雑な機械|仕掛《じか》けの椅子《いす》、頭がすっぽり入る大きさの鐘《かね》のようなもの、不格好な彫像《ちょうぞう》、絞首台《うこうしゅだい》を小型にしたようなもの……暗くてはっきりと形状が確認《かくにん》できないのが、かえって幸いだった。
サーラの目の前にも、大きくて不気味な機械があった。馬車の車輪をひと回り大きくしたような輪が、別の大きな輪の内側にはめこまれている。内側の総の縁《ふち》は何十もの桝目《ますめ》に分割《ぶんかつ》され、それぞれに「右眼《みぎめ》」「左足親指」「右手人差し指」「右腋《みぎわき》の下」「へそ」「左|脇腹《わきばら》」など、体の部分の名称《めいしょう》が書かれていた。外側の輪の上郡には、大きな赤い矢印が下向きに取りつけられている。機械の背後《はいご》からは何十本もの鋼線が蜘蛛《くも》の巣《す》のように放射状《ほうしゃじょう》に伸《の》び、それらは天井《てんじょう》にある多数の滑車《かっしゃ》を経由《けいゆ》して、サーラを拘束している機械につながっているのだった。
「お目覚めかい?」
機械の背後から、ナイトシンガーがひょいと顔を出した。犬のように床《ゆか》を這《は》い、全身を現《あら》わすと、囚《とら》われの少年を上目づかいに見て、にたっと下品に笑う。そのいたずらっぽい笑顔《えがお》にひそむ残忍《ざんにん》さに、サーラは震《ふる》え上がった。
その隣《となり》に、ムーンダンサーがふわりと舞《ま》い降《お》りた。今まで天井に掛りついていたのだ。六本の腕《うで》を優雅《ゆうが》に振《ふ》り、「お客様、ようこそ『奈落《アビス》』へ」と、芝居《しばい》がかったしぐさで一礼する。他の三人の子供《こども》も、拷問機械の蔭《かげ》からこそこそと姿《すがた》を現わした。
「……ミスリルはどうした?」
恐怖《きょうふ》を押し殺しながら、サーラは訊《たず》ねた。ムーンダンサーは口に手を当て、くすっと上品に笑う。
「あの黒い肌《はだ》のエルフ? 心配いらないわ。解放《かいほう》してあげた。ちょっとだけ記憶《きおく》を書き換《か》えて」
「記憶を?」
「ムーンは人の記憶を変えられるんだよ」ナイトシンガーが自慢《じまん》げに解説《かいせつ》する。「せいぜい数時間分の記憶だけだし、意志《いし》や性格《せいかく》までは変えられないから、思い通りには操《あやつ》れないけどね。でも、現実《げんじつ》に起こってないことを起きたように信じさせたり、その逆《ぎゃく》もできるんだ」
「あのエルフは私たちのことを覚えてない。あなたと道ではぐれたと思ってる」ムーンダンサーはまたくすくす笑った。「面白《おもしろ》いでしょ?」
サーラはちっとも笑う気にはなれない。
「仲間のことより、自分のことを心配しなよ」
そう言ってナイトシンガーは、不気味な車輪に愛《いと》しそうに頬《ほお》ずりした。
「この機械が気になってるのかい? そうだろそうだろ、『地下の道化師《どうけし》』フィゼラーが二年かけて作り上げた傑作《けっさく》だからねえ」
「フィゼラーはこれをすごく自慢にしてるんだぜ」
そう言ったのはイエローアイである。自分のお気に入りのおもちゃを見せびらかすような口調だった。
「ねじで調整して大きさを変えられるから、グラスランナーから大柄《おおがら》な戦士まで、どんな体形の奴《やつ》にでも合わせられるんだって。やり方を説明してくれたよ」
「フィゼラーはドワーフで、からくり職人《しょくにん》なんだ」とナイトシンガー。「この『奈落』の管理人。からくり作りの腕は西部諸国一! ううん、アレクラスト一かも。でも、拷問用の機械しか作らないんだよね。自分の作った機械で犠牲者《ぎせいしゃ》が悲鳴を上げるのを見るのが大好きで、ただそれだけのために、こつこつと機械をいじってんだって。これが何か知りたい? 教えてやるよ。これはルーレットさ。カジノに行ったことはある? あのルーレット。もっとも、賭《か》けるのは金じゃなく、あんたの体だけどね。今は安全|装置《そうち》がかかってるけど」
車輪の横にある太いレバーを指し示《しめ》す。
「このレバーを下げてから、ルーレットを回す。止まると針金の一本がひっぱられて、歯止めがはずれるのさ。バネ仕掛《じか》けが働いて、矢印が指した場所を痛《いた》めつけるってわけ。たとえば『右耳』に止まると、右の耳の穴に錐がぶすっと突《つ》き刺《さ》さる。鼓膜《こまく》を破《やぶ》るんだよ。『左耳』だと、左の耳をぎっくり切り落とす。両方とも鼓膜を破っちゃったら、訊問《じんもん》できなくなるもんね」
サーラはちらっと左に目をやった。頭は固定されて動かせないが、それでも視野《しや》の隅《すみ》に、肉切り包丁のような形をしたおぞましい刃物《はもの》の一部が見えた。鋼鉄《こうてつ》の刃は鏡のように磨《みが》き上げられている。
「『右眼』だと、右眼に向かって釘《くぎ》が発射される。脳《のう》まで貫《つらぬ》くほどの長い釘じゃないから、即死はしないけどね。かなり痛いよ。『左足親指』だと、万力が作動して親指をゆっくり押し潰《つぶ》す。『右脚脛《みぎあしすね》』だと、ハンマーが脛を連打する。『右脇腹』だと、歯車が皮膚をはさんでむしり取る。『左手中指』、これもかなり痛いよ。爪《つめ》の間に針が刺さるのさ……」
ナイトシンガーはとても楽しげに、三六の桝目《ますめ》すべてを説明していった。犠牲者《ぎせいしゃ》を殺すのではなく、全身を少しずつ傷《きず》つけてゆくことで、最大限《さいだいげん》の恐怖《きょうふ》と苦痛《くつう》を与《あた》える仕掛《しか》けなのだ。とりわけサーラが震《ふる》え上がったのは、「ペニス」の桝目に止まったら何が起きるかを聞かされた時だった。
「どの仕掛けが作動するか、回してみないと分かんない。だからこそ楽しみが――あんたにとっては恐怖が盛《も》り上がるって寸法《すんぽう》だ」
「……耐《た》えてみせる」
サーラの強がりを、子供《こども》たちは「偉《えら》そうに!」と笑った。
「この前のお兄ちゃんも、似《に》たようなこと言ってたよね?」とグレイネイル。「ほら、ふた月ほど前の」
「ああ、あれな」イエローアイがにやにや笑う。「最初はちょっと骨《ほね》がありそうに見えたのにな」
「フィゼラーがルーレットを四回まわしただけで泣き出したよね」とリトルロック。
「一〇回もやったら、もう血まみれでさ」ナイトシンガーが思い出し笑いをする。「赤ちゃんみたいにわんわん泣くから、うるさくって」
「みっともなかったわ」ムーンダンサーがぼやく。「黙《だま》ってるとかっこよかったのに。もう幻滅《げんめつ》」
「でも、けっこう耐えたよね」
「さすが密偵《みってい》」
「一八回目でべらべら吐《は》いちゃって」
「一九回目よ」
「そうだっけ?」
「もっと早く吐けば良かったのにね。血を流しすぎて、結局、治癒魔法《ちゆまほう》が間に合わなくて死んじゃった」
子供たちは遊びのことを話すように、楽しそうに話している。サーラは心底から戦慄《せんりつ》した。拷問《ごうもん》や殺人を楽しむこの子たちの心理に。そして子供に拷問を見学させ、こんな風に育て上げたジェノアの神経《しんけい》に。
デルの邪悪《じゃあく》さにも恐《おそ》れおののいたものだが、彼らの邪悪さはそれとは質が違《ちが》う。人を傷つけ、殺すことに、何のためらいも持っていない。罪《つみ》を犯《おか》すことに胸《むね》の痛みを覚えないから、いくらでも罪を犯せる。
デルは違うはずだ。罪の重さに苦しんでいるはずだ――そう信じたかった。
「じゃあ、そろそろ回してみる?」
ナイトシンガーが提案《ていあん》すると、子供たちは「うわーい!」とはしゃいだ。
「どこに当たると思う? 最初はどこ?」
「僕《ぼく》は『右手親指』!」
「俺《おれ》は『左大腿《ひだりふともも》』に賭ける」
「あたしは『右眼《みぎめ》』が見たいなあ」
「この字は? ねえ、ムーン。この字、何て読むんだっけ?」
「それは『肛門《こうもん》』って読むのよ」
子供たちが選び終えたところで、ナイトシンガーはレバーに寄りかかり、体重をかけて強く引いた。がしゃんという音がする。続いて「そうれ!」と楽しそうに言いながら、勢《いきお》いよくルーレットを回した。
「行けーっ!」
子供たちはわいわいと騒《さわ》ぎ、飛び跳《は》ねた。
「こら、ガキども!」
怒声《どせい》とともに、階段《かいだん》を駆《か》け降《お》り、ぴょんぴょん跳ねるような動作で現《あら》われたのは、醜《みにく》い顔のドワーフだった。ひどい猫背《ねこぜ》で、ドワーフなのに髭《ひげ》は無く、頭には奇妙《きみょう》な形の赤い頭巾《ずきん》をかぶっている。その服装《ふくそう》はさらに奇妙だった。右半身が真っ赤、左半身が真っ黒なのだ。その二つ名の通り、まるで道化師《どうけし》だ。
子供たちはさっと散らばり、それぞれ拷問《ごうもん》機械の背後《はいご》に隠《かく》れた。フィゼラーは憤然《ふんぜん》とした様子で、ルーレットに近づき、レバーを元の位置に戻《もど》した。
「ここはお前らの遊び場じゃないぞ!」フィゼラーはがらがら声で怒鳴《どな》り散らした。「わしの大事な仕事道具を勝手にいじりおって! もう我慢《がまん》ならん! お仕置きしてやる!」
「まあ待て」
フィゼラーの後から階段を降りてきた男が、落ち着いた声で制《せい》した。サーラはどきっとした。その美声には聞き覚えがあった。
ランタンの明かりの下に、黒いマントをまとった長身の男が姿《すがた》を現わした。予想はしていたものの、サーラは背筋《せすじ》に快感《かいかん》にも似た震えが走るのを抑《おさ》えられなかった。類《たぐい》まれな美形。女のように長く伸《の》ばした黒髪《くろかみ》。その悪評《あくひょう》にもかかわらず、性別《せいべつ》を超越《ちょうえつ》した容貌《ようぼう》と、鋭《するど》い刃物《はもの》にも似た危険《きけん》に満ちた魅力《みりょく》によって、多くの者から慕《した》われている。
ドレックノール盗賊《とうぞく》ギルドの六|幹部《かんぶ》の一人、「闇《やみ》の王子」ジェノア。
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8 ジェノアの野望
「……これはどういうことだ?」
ジェノアは拷問《ごうもん》機械に囚《とら》われているサーラを一瞥《いちべつ》すると、近くにあった棺型《ひつぎがた》の機械の蔭《かげ》から顔を覗《のぞ》かせていたイエローアイに、冷たい視線《しせん》を向けた。イエローアイはびくっと震《ふる》え上がる。
「お、俺じゃないよ。ナイトがやろうって言い出して……」
「お前たちもそれに同調したんだな?」
イエローアイは気まずそうに口をつぐんだ。
「ナイトシンガー」
ジェノアに呼ばれ、少女は金属《きんぞく》のベッドの下から恐《おそ》る恐る這《は》い出した。こわい顔で見下ろされ、縮《ちぢ》こまる。恐ろしい力を持つ魔獣《まじゅう》たちも、ジェノアの前ではただの子供《こども》だ。
「説明を聞こうか」
彼の口調は気味悪いほど平静だった。
「だ、だってジェノア様、この子を手に入れたいって言ってたじゃない!」少女は何とか笑ってごまかそうとするが、その表情《ひょうじょう》はひきつっていた。「明日はジェノア様の誕生日《たんじょうび》だし、こっそりと、とびきりのプレゼントを用意して、驚《おどろ》かそうと思って、それで……」
「じゃあ、なぜ『奈落《アビス》』なんかに連れてきた?」
「ほ、他《ほか》に人を隠《かく》せる場所、なかったんだよ! それに新入りをからかうのも面白《おもしろ》いかなと思って」ナイトシンガーは早口でまくしたてる。「傷《きず》つけるつもりなんかなかったよ。ちょっとびびらせようと思っただけだよ。大事なプレゼントなんだもん。レバーはルーレットが止まる直前に戻《もど》すつもりだったんだよ。ほんとだよ」
「ナイトシンガー」ジェノアは平静な口調を崩《くず》さない。室内をゆっくり見渡《みわた》して、「それに他の者にも言っておく。お前たちに人を殺す手段《しゅだん》を学ばせたのは、あくまで任務《にんむ》のためだ。殺しに歓《よろこ》びを覚えるのはかまわん。だが、歓びだけを理由に殺しはするなとも教えたはずだ。欲望《よくぼう》や衝動《しょうどう》にかられて行動するような者は、私の配下に必要ない。フィゼラーに弟子《でし》入りしろ」
フィゼラーは「ひひっ」と小さく笑った。
「殺すつもりじゃ……」
ナイトシンガーは弁明《べんめい》しようとしたが、ジェノアににらまれて沈黙《ちんもく》した。
「サーラはことが終わってからでも手に入れられた。周到《しゅうとう》に準備《じゅんび》した大事な計画を目の前にして、それを危《あや》うくするようなまねが、愚《おろ》かな行為《こうい》でなくて何だ? 敵《てき》に警戒《けいかい》されて計画が破綻《はたん》したら、どうするつもりだった? おかげで余計《よけい》な偽装《ぎそう》工作までやらねばならなかったぞ」不機嫌《ふきげん》そうに眉《まゆ》をひそめ、「私にお前たちの尻《しり》ぬぐいをさせるな」
子供たちはみんなしょんぼりとなっていた。この手に負えない子供たちの心を、ジェノアが見事に掌握《しょうあく》していることに、サーラは自分の境遇《きょうぐう》も忘《わす》れて感心した。ジェノアは決して怒鳴《どな》り散らしはしない。暴力もふるわない。だが、その静かで冷たい口調の叱責《しっせき》は、どんな罵声《ばせい》よりも強く、どんな平手よりも痛《いた》く、胸《むね》に突《つ》き刺《さ》さるのだ。
「まあいい。どうにか敵の目をごまかせたようだし、計画は順調だ。今回ばかりはお前たちの好意に配慮《はいりょ》して、大目に見よう」かすかに笑《え》みを浮《う》かべて、「プレゼントは受け取っておく。ありがとう」
彼が「ありがとう」などと言う人間であったことに、サーラは少し驚いた。
ナイトシンガーは目を輝《かがや》かせた。「じゃあ……?」
「ただし」ジェノアはすかさず釘《くぎ》を刺す。「こんな勝手なことは二度とするな。たとえ好意からであろうと、私に迷惑《めいわく》をかけるようなまねは、私への裏切《うらぎ》りとみなす。あまり目に余《あま》るようだと、次にこの機械にかけられるのはお前たちだぞ」
「しない! しないよ! 絶対《ぜったい》にしない!」
ナイトシンガーはひざまずいてジェノアの手を握《にぎ》り締《し》め、力強く誓《ちか》った。他の子供《こども》たちもうなずく。
「その言葉を忘《わす》れるな」ジェノアの口調は、すっかり父親か教師のそれだった。「じゃあ、行っていい。時刻《じこく》が迫《せま》ってる。今のうちに配置につけ」
子供たちは安堵《あんど》した様子で、ぞろぞろと出て行った。ジェノアはそれを見送ってから、サーラに向き直り、苦笑《くしょう》した。
「やれやれ、子育ては苦労する」
「…………」
「久《ひさ》しぶりだな。前に会った時より背《せ》が伸《の》びたな」楽しそうに裸《はだか》の胸に目をやって、「いい具合に筋肉《きんにく》もついてきた。さぞかし腕《うで》も上がったか?」
「……お前なんかに負けないぐらいに」
サーラの強烈《きょうれつ》な憎悪《ぞうお》と敵意の視線《しせん》を、ジェノアは笑って受け流した。
「威勢《いせい》はいいな。虚勢《きょせい》であっても、私を前にしても臆《おく》さないその性根《しょうね》、それが気に入っている。私のために働いてくれたら、さぞ――」
「お前のためになんか働くもんか!」
「デルも最初はそう言っていたがな」
サーラははっとした。「……デルはどこだ?」
「言う必要はあるまい。彼女に会いたければ、私の配下になることだ。そうすれば二人で仲良く働ける……」
「誰《だれ》が汚《きたな》い仕事なんかするもんか!」
「汚い仕事?」ジェノアは軽く首をかしげた。「おかしなことを言う。だったらザーンや海賊《かいぞく》ギルドのやろうとしていることは何だ? 子供を皆殺《みなごろ》しにするのがきれいな仕事か?」
サーラは驚愕《きょうがく》し、息を呑《の》んだ。作戦が洩《も》れている!?
「どうやって知ったのか――と訊《き》きたいんだろう?」ジェノアは愉快《ゆかい》そうに、先回りして言った。「単純《たんじゅん》なことだ。今度の件《けん》はすべて、私が計画したことだからだ」
「お前が……計画!?」
「そうだ。『|闇の庭《ガーデン・オブ・ダークネス》』は裏《うら》の世界で有名になりすぎた。情報《じょうほう》が洩れ、他の国々や海賊ギルドが警戒している。本来、子供の姿《すがた》なら疑《うたが》われずに目標に接近《せっきん》できるというのがメリットだったのに、あの子らの存在《そんざい》が知れ渡《わた》ってしまったのはまずい。今後の活動がやりにくくなる。そこで『闇の庭』を潰《つぶ》すことにした」
「潰す……」
「『闇の庭』は壊滅《かいめつ》した。施設《しせつ》は完全に破壊《はかい》され、子供たちもみんな殺された――そう思わせることにした。ちょうど海賊ギルドの密偵《みってい》が潜入《せんにゅう》していたので、渡《わた》りに船だった。海戚ギルドに『闇の庭』の情報を流し、攻撃《こうげき》させるように仕向けた。ザーンの盗賊ギルドまで相乗りしてくるとは予想外だったが、おかげで『闇の庭』壊滅の情報がより広まる。嬉《うれ》しい誤算《ごさん》というところだな」
「そんなので騙《だま》せるわけが……」
「できるとも。私は勝算の薄《うす》い賭《か》けなどしない。襲撃《しゅうげき》の日時も手筈《てはず》も分かっているから、襲《おそ》ってきた者たちを罠《わな》にかけて捕えるのはたやすい。彼らに偽《にせ》の記憶《きおく》を与《あた》えて送り返す。激《はげ》しい戦いの末に子供たちを全員殺し、『闇の庭』を破壊したという記憶をな。報告を受けた連中は信じざるを得ないだろう。無論《むろん》、全員を生きて帰しては不自然だから、何割《なんわり》かは殺すことになるが」
サーラの頭の中で疑問《ぎもん》が渦巻《うずま》いた。「じゃあ……じゃあ、カミートは……?」
「ああ、彼は本当のことを言っていた。さもないと『嘘感知《センス・ライ》』にひっかかるからな。『闇の庭』のある場所も、その地図も、正確《せいかく》なものだ。実際《じっさい》に『闇の庭』の一部を見せたうえで描《えが》かせたんだからな。彼が言わなかったのは、彼の見ていない場所に新たな罠が仕掛《しか》けられたことと、施設はすでに別の場所に移転《いてん》が決定していて、資料や実験機材の多くが運び出されていることだ。重要性《じゅうようせい》の薄い書類だけを証拠《しょうこ》として襲撃者に持たせて帰し、後はきれいさっぱり炎上《えんじょう》させる」
サーラは歯噛《はが》みした。ジェノアの野望を潰すべく、細心の注意を払《はら》って行動していたつもりだったのに、すべて茶番だったとは。何から何までジェノアの筋書《すじが》き通りに踊《おど》らされていただけとは!
「言うまでもないだろうが、こうしたことを説明するのは、お前を帰す意思がないからだ。お前は一生、私のそばにいることになる」
「………お前のためになんか働かない」
「そうだな」ジェノアはちょっと眉《まゆ》を上げ、少年を興味《きょうみ》深げに見下ろした。「お前は初めて――いや、カミートに次いで二人目か、私の寵愛《ちょうあい》を受けても転向しない少年になるかもしれんな。それでもいい。ペットとして飼《か》っておく価値《から》はある。だが、できれば私の親衛隊《しんえいたい》に入ってほしい。私の理想に共感し、ともに……」
「何が理想だ!?」サーラは猛然《もうぜん》と反駁《はんぱく》した。「お前は楽しくてやってるだけじゃないか!」
ジェノアはくすっと笑う。「その通りだ。陰謀《いんぼう》をめぐらすのは楽しい。難《むずか》しいからこそ頭を使う。それが面白《おもしろ》い。私が最も嫌悪《けんお》するのは破壊と混乱《こんらん》だ。そんなのはたやすい。大量|殺戮《さつりく》など、力さえあれば誰にでもできる。悪の大魔王《だいまおう》になりたいとか、世界を混沌《こんとん》に陥《おとしい》れたいなどというのは、暴《あば》れるしか能《のう》のない愚《おろ》か者の見る夢《ゆめ》だ」
サーラの脳裏《のうり》にちらっと、メイガスの顔が浮かんだ。
「それに対し、平和と秩序《ちつじょ》を生み出すには、高い知力が必要だ。だからこそ挑戦《ちょうせん》しがいがある。それに人のためにもなる」
「人のため? ふざけるな! お前がやってることは人殺しじゃないか!」
「だが、無意味な殺しなどしたことはない。結果が良ければいいじゃないか? 想像《そうぞう》してみろ。海賊ギルドが我々《われわれ》の支配下《しはいか》に入ればどうなるか。もうコリア湾岸《わんがん》は海賊に悩《なや》まされることはなくなる。つい先日、ドレックノールとリファールは戦争の一歩手前まで行った。戦争になっていれば、何千、何万という人間が死んだだろう。リファールが支配されれば、そんな危険《きけん》は去る。ザーンだってそうだ」
彼は息がかかりそうなほどサーラに顔を近づけ、自信に満ちた口調でささやいた。
「私はザーンやリファール、その他の国々を手に入れたい。だが、それは決して征服欲《せいふくよく》からではない。平和と秩序を生み出すためだ。それがこのゲームの勝利条件だ。まだまだ道のりは長いが、一生を費《つい》やすのにふさわしい、楽しいゲームだと思っている」
「……人はお前のゲームの駒じゃない」
「最終的には彼らの幸福にもつながるのだよ。確《たし》かに私は大勢《おおぜい》の人間を殺してきたし、これからも殺すだろう。だが、戦争になれば必ず、その何百倍もの犠牲者《ぎせいしゃ》が出る――どちらがいい? 多数の犠牲か少数の犠牲か。混乱か秩序か」
サーラは答えられなかった。何を言っても即座《そくざ》に論破《ろんぱ》される気がした。反論すればするほど、自らの論拠《ろんきょ》を叩《たた》き潰《つぶ》され、ジェノアの主張《しゅちょう》の正しさを納得《なっとく》するしかない状況《じょうきょう》に追い詰《つ》められてゆくに違《ちが》いなかった。だから反論すまいと決意した。もしかしたらジェノアの主張は正しいのかもしれない。それでも決して同意したくなかった。
そんな選択《せんたく》をしたら、自分が自分でなくなってしまうから。
「強情《ごうじょう》だな」
サーラが黙《だま》ったままなので、ジェノアは笑って顔を離《はな》した。
「まあいい。そう簡単《かんたん》に落ちるようなら、私もがっかりしたろう。せいぜい長く耐《た》えて、私を楽しませてくれ」
彼はフィゼラーに指示《しじ》した。
「あれから出してやれ。服を着せて、しばらく隣《となり》の牢《ろう》にでも入れておけ。今日は忙《いそが》しいから、明日にでも引き取りに来る」
「拷間《ごうもん》はなしで?」フィゼラーはつまらなそうだ。
「なしだ」
「左手の小指だけでも、いけませんか?」
「いかん。傷《きず》ひとつつけるな」
「はあ……」
地下室を出て行こうとしたジェノアは、振り返って言った。
「それと、くれぐれも注意しろ。その少年は見かけによらないぞ。油断《ゆだん》したら痛《いた》い目に遭《あ》う。牢には見張《みは》りをつけておけ」
「はあ、気をつけます」
フィゼラーは深く頭を下げた。ジェノアはマントをひるがえし、立ち去った。
ドレックノール市街から少し離れた場所にある森の中。
キャラバンは発見されることを警戒《けいかい》して火も焚《た》かず、暗がりの中で息をひそめて時間が過ぎるのを待っていた。夕食は堅《かた》いパンと干《ほ》し肉をかじって済《す》ませた。あまり早い時刻から農場に接近《せっきん》すると、見つかる危険が高い。日没《にちぼつ》から少なくとも五時間後の真夜中近く、月が天頂《てんちょう》近くに達した頃に行動を開始することになっていた。
「サーラ、何か考えごと?」
フェニックスが声をかけた。彼らがサーラと信じている少年は、馬車の車輪に寄《よ》りかかって腰《こし》を下ろしていた。浮《う》かない顔で「うん……」とあいまいな返事をする。
「ちょっとね」
「デルのこと?」
「それもある……」
昼間、迷子《まいご》になって以来、「サーラ」が妙《みょう》に無口になっていることが、フェニックスは気になっていた。だが、作戦が近づいたせいで緊張《きんちょう》しているのと、デルのことが気になっているせいだろうと思っていた。
フェニックスは少年の隣《となり》に腰を下ろした。
「まだ忘《わす》れるのには時間がかかりそうね――しかたないけど」
「…………」
「苦しくなったら、またいつでも言ってね」彼女は優《やさ》しくささやいた。「忘れさせる手助けをしてあげるから」
「うん……」
心ここにあらずという感じの少年の反応《はんのう》に、フェニックスは少しがっかりした。
茂《しげ》みの間から空を眺《なが》め、小型の六分儀《ろくぶんぎ》を使って月の高度を測《はか》っていたメリンが、「そろそろだな」とつぶやいた。
「みんなを集めろ。出発だ」
ほどなく、森の中に散らばって見張りをしていた者や、馬車の中で仮眠《かみん》を取っていた者たちが、ぞろぞろと婆《すがた》を現《あら》わした。レグは金属鎧《きんぞくよろい》のベルトを締《し》め直しているし、デインは愛用のレイピアを抜《ぬ》いて月光にかざし、刀身に曇《くも》りがないか確認《かくにん》している。他の者たちもブーツの紐《ひも》を結び直したり、剣《けん》の素振《すぶ》りをしたり、筋肉《きんにく》をほぐす体操《たいそう》をしたりしていた。
みんな必要以上に神経質《しんけいしつ》になっている。
「ああ、デイン」
メリンが近づいてきて、デインの手に何かを握《にぎ》らせた。
「あんたにこれを渡《わた》しておく」
手を開いたデインは驚《おどろ》いた。魔晶石《ましょうせき》が三個もある。
「こんなに……!?」
「どれだけ魔法《まほう》が必要になるか分からん。特にあんたやわしのような司祭《プリースト》は、他の者を治療《ちりょう》したり援護《えんご》したりするのにおおわらわになると患う。わしも三個持ってる。あんたも余分《よぶん》に持っておけ」
「使っていいのか?」
「余《あま》ったら返してくれ。だが、使い惜《お》しみはするな。金を惜しんで命を失ったら何にもならんからな」
「あんたはもっと金を大事にする人間かと思ってた」
「商人が板についてたからか?」メリンは笑った。「確《たし》かに商売は好きさ。だが、死んじまったら金儲《かねもう》けもできんからな」
「違いない」
デインは魔晶石を大事にしまいこんだ。
「よし、行くぞ」
メリンの合図で、全員が移動《いどう》を開始した。少年もついて行こうとする。
「サーラ! お前はここで待機だ!」
デインに叱《しか》られ、少年はびっくりして立ち止まった。
「でも……」
「言ったはずだぞ。お前はついて来るなと」
「あ……うん」
うなだれている少年の肩《かた》を、ミスリルがぽんと叩《たた》いた。
「待つのもつらい仕事だぞ」
「うん……」
少年は動揺《どうよう》が顔に出たのを悟《さと》られまいと、さらに深く頭を下げた。
「いいか、ここを動くなよ」メリンが念のために、きつい調子で警告《けいこく》する。「様子がおかしいようなら、すぐに逃《に》げろ。万が一、失敗した場合でも、ザーンに戻《もど》ってそれを報告《ほうこく》する人間が必要だからな」
「間違っても助けに来ようなんて考えないで」フェニックスも優しく注意した。「前の時みたいにね」
「心配しなくても、無事に帰るさ!」レグが無理して陽気な口調で言う。「じゃあな!」
一同は少年だけをその場に残し、農場に向かって歩き出した。
その頃、サーラは盗賊《とうぞく》ギルドの地下の別の場所に移《うつ》され、牢《ろう》に監禁《かんきん》されていた。
服は与《あた》えられたもの、もちろん武器《ぶき》も道具もない。鍵《かぎ》のかかった頑丈《がんじょう》な鉄格子《てつごうし》は、少年の力ではびくともしそうになかった。おまけにこの牢は、通路に沿ってずらりと並《なら》んだ牢の最も手前、見張《みは》りの詰《つ》め所のすぐ近くにある。ここからだと、通路をはさんで斜《なな》め向かいにある詰め所の様子がよく見えた。
見張りをしているのは、まだ若《わか》い男だった。盗賊ギルドの下っ端《ぱ》だろう。最初はあれこれ話しかけてきたが、サーラが何も返事をしないので機嫌《きげん》を損《そこ》ねた。今はコップにサイコロを投げ入れては激《はげ》しく振《ふ》り、テーブルに伏《ふ》せる行為《こうい》を繰《く》り返している。退屈《たいくつ》しのぎに、イカサマ賭博《とばく》の腕《うで》を磨《みが》いているらしい。
当然、男からもサーラが見えるし、物音を立てればすぐに気づかれるだろう。デインたちのことが心配でたまらないが、これでは何も行動を起こせない。サーラは男が部屋から出てゆくか、退屈してうたた寝《ね》するのに期待して、じっとチャンスを待った。
考える時間はたっぷりあった。サーラはジェノアに聞かされた話を元に、ドレックノールに着いてからの出来事を反芻《はんすう》し、再構成《さいこうせい》していった。
ひっかかったのは、ナイトシンガーたちがこちらの正体を知っていたことだ。自分が「アーシャ」ではなくサーラだという情報《じょうほう》は、いつ、どこから洩《も》れたのだろうか。仮《かり》に鋭《するど》い観察力を持つ者が女装《じょそう》を見破《みやぶ》ったとしても、名前まで分かるはずがない。この街で自分の顔と名前を知っているのは、ジェノアとマローダぐらいのはずなのだ。もしかして、キャラバンの誰《だれ》かがジェノアに内通していたのか?
もうひとつ、分からないのがカミートの役割《やくわり》だ。彼はずっと自分たちを欺《あざむ》いてきたのだろうか。街で尾行《びこう》してきたのも、やはりジェノアの指示《しじ》だったのか――いや、それはおかしい。ジェノアは、彼が転向しなかったと言ったではないか。ということは、何も知らずに利用されていただけだったのか?
サーラは懸命《けんめい》に思い出そうとした。初めてあの地下室で出会った時のことを。フェニックスとメイマーの「嘘感知《センス・ライ》」にひっかからなかったのだから、カミートが真実だけを語っていたのは明白だ。彼はあの時、どんなことを言っていたっけ……。
カミートの発言のひとつひとつを思い出し、検討《けんとう》してゆくうち、突然《とつぜん》、ある可能性《かのうせい》がひらめいた。あまりにも突拍子《とっぴょうし》もない考えだったので、最初は否定《ひてい》しようとした。だが、記憶《きおく》の断片《だんぺん》をつなぎ合わせてゆくうち、それらはしだいにひとつの明確《めいかく》な形になっていった。矛盾《むじゅん》は見当たらなかった。小さな石でも積み上げていけば城になるように、個々《ここ》の証拠《しょうこ》は些細《ささい》なものだったが、それらが集まることで推論《すいろん》は補強《ほきょう》され、疑惑《ぎわく》は確信《かくしん》に変わった。
「……そうだったのか」サーラは歯ぎしりした。
その時、「ふわあ」という声がした。サーラははっとなった。見張りの男が大きなあくびをしていた。いかにも眠《ねむ》そうに、何度も目をこすっている。
サーラの胸に希望が芽生えた。(寝《ね》ろ! 早く寝ろ!)と強く念じる。自分が魔法《まほう》を使えないことを、これほど悔《くや》しく思ったことはなかった。
デインたちは農場の周囲の林の中にひそんでいた。
眼前《がんぜん》に広がる麦畑は白い月明かりに照らされ、静まり返っている。すでに真夜中で、農場の建物からは明かりが消えていた。風が吹《ふ》くたびに、まだ穂《ほ》の出ていない麦畑がざわざわと音を立て、ため池のさざ波が月光にきらめく。風が吹いているのは都合が良かった。麦をかき分ける音に気づかれずに接近《せっきん》できるからだ。
だが、まだうかつに近づけない。情報によれば、建物の周囲には夜でも歩哨《ほしょう》がいるはずである。突入《とつにゅう》は海賊ギルド側とタイミングを合わせなくてはならない。
先行して畑の周囲の草むらを這《は》い進んでいたミスリルが戻《もど》ってきた。草むらに張りめぐらされた糸を切断《せつだん》してきたのだ。メリンに指で合図を送る。メリンは無言でうなずいた。
「あれ……」
フェニックスがささやき、遠くを指さした。農場の背後《はいご》の山から、星のようにも見える青白い光点がふわふわと上がってきたのだ。海賊側の精霊使《せいれいつか》いが使ったウィル・オー・ウイスプだ。
突入の合図である。
「行くぞ」
一同は農場に向かって静かに前進を開始した。
期待して待ち続けるうち、ついに男は椅子《いす》に寄《よ》りかかり、テーブルに足を乗せて、ぐうぐうと寝息を立てはじめた。サーラは慎重《しんちょう》を期して、心の中で五〇〇数え、男の眠りが深まるのを待った。それから牢《ろう》の奥《おく》まで後退《こうたい》し、頭に手をやった。
ダルシュからもらった魔法《まほう》のメダルをどこに隠《かく》すか、ずいぶん悩《なや》んだ。財布《さいふ》に入れておくだけでは、盗賊《とうぞく》都市では盗《ぬす》まれる危険《きけん》がある。かと言って、靴《くつ》の底に隠したり、腹《はら》に巻《ま》いておいたりしたら、とっさの時に使いづらい。考えた末にサーラが考案したのは、髪《かみ》の毛の中に隠す方法だった。強力なにかわを使って頭頂部の皮膚《ひふ》にメダルを貼《は》りつけたうえ、髪をかぶせて油で固めたのだ。もともと明るく艶《つ中》のあるサーラの金髪《きんぱつ》は、少しぐらい油で光っていても目立たない。あの子供《こども》たちはもちろん、観察力の鋭《するど》いジェノアでさえも、あの暗い拷問《ごうもん》部屋の中では気づかなかった。
しっかり頭にくっついたメダルを剥《は》がすには、髪の毛を何十本かむしり取る必要があった。サーラは苦痛《くつう》に耐《た》えてそれをやり遂《と》げると、小声で「イン・ドゥ」と唱えた。袋《ふくろ》が手の中に現《あら》われる。
袋の中には、ダルシュからもらった魔晶石《ましょうせき》の他《ほか》にも、いざという時に必要かもしれないと考えて用意した道具がいくつか入っていた。小さな投げ矢《ダーツ》もそのひとつだ。先端《せんたん》に木のキャップがかぶせられている。それを取り去ると、背くぬらぬらと光る針先《はりさき》が露出《ろしゅつ》した。ブルー・ネイルという麻痺《まひ》毒が塗《ぬ》られているのだ。獣《けもの》などを殺さずに捕獲《ほかく》するのに用いるもので、この矢に刺さった者は半日の間、身動きできなくなる。
サーラは鉄格子《てつごうし》の間から腕《うで》を突《つ》き出し、慎重に狙《ねら》いを定めた。目標は眠っている男の首筋《くびすじ》だ。間違《まちが》って服に当たれば矢は貫通《かんつう》せず、男は目を覚まして厄介《やっかい》なことになる……。
思い切って投げた。
矢は男の頬《ほお》に刺さった。男はびっくりして飛び起きる。だが次の瞬間《しゅんかん》、椅子から床《ゆか》に転げ落ち、動かなくなった。
サーラはほっとして、次に耳かき=\―開錠用《かいじょうよう》の工具を取り出した。それを鉄格子の鍵穴《かぎあな》に挿《さ》しこむ。幸い、錠前の構造《こうぞう》は基本《きほん》的なものだった。少し苦労したものの、二分ほどで扉《とびら》は開いた。
並《なら》んでいる他の牢には、収容《しゅうよう》されている者はいないようだったが、それでも用心して足音を立てないように忍《しの》び出た。男の体を探《さぐ》り、鍵束とダガーを奪《うば》い取って、地下牢を後にする。
隣《となり》にある拷問部屋から明かりが洩《も》れていた。フィゼラーの楽しそうな鼻歌と、金属《きんぞく》を叩《たた》く音が聞こえる。こんな真夜中まで熱心に仕事をしているのだろうか。サーラは最初、無視《むし》しようと思ったが、気が変わった。
入口からそっと覗《のぞ》きこむと、フィゼラーはこちらに背《せ》を向けて作業台にかがみこみ、ランタンの明かりの下で、何か新しいからくりの製作《せいさく》に熱中していた。小型のハンマーとたがねで金属を叩き、精巧《せいこう》な歯車を作っているのだ。
サーラは思い切って突進《とっしん》し、その後頭部に蹴《け》りを食らわせた。不意打ちを受けたフィゼラーはつんのめり、作業台に顔面を激《はげ》しくぶつけた。一時的に意識《いしき》がもうろうとなる。サーラはすかさず、ドワーフの両腕《りょううで》をつかんで背中に回し、近くにあった針金《はりがね》で何重にも縛《しば》り上げた。
フィゼラーは鼻血を出していた。ようやく意識が戻ってきたが、腕は縛り上げられて動かない。怒《おこ》って抗議《こうぎ》の声を上げようとする。サーラは背後からその右手の人差し指と中指を握《にぎ》り締《し》め、指のつけねにダガーの刃《やいば》を当てた。
「騒《さわ》ぐな。大声を上げたら指を切り落とすぞ」
フィゼラーはびくっとなって硬直《こうちょく》した。
「僕《ぼく》は本気だ」
サーラは精《せい》いっぱい、ドスを効《き》かせた声を出した。自分にこんな喋《しゃべ》り方ができたのかと、自分で驚いていた。
「や、やめてくれ」フィゼラーは泣きそうな声で懇願《こんがん》した。「指がなくなったら機械いじりができなくなるじゃないか」
「知ったことか」
「もう芸術《げいじゅつ》作品が作れなくなるんだぞ? わしの指を切るなんて、アレクラストの文化にとって重大な損失《そんしつ》だ」
サーラは一瞬《いっしゅん》、このまま指を切り落としてしまいたい衝動《しょうどう》にかられた。こいつが拷問《ごうもん》機械を作れなくなるのは、世の中にとっていいことではないか――だが、その考えは間違いだと気づいた。フィゼラーがいなくなっても、拷問の手段《しゅだん》などいっぱいあるのだ。犠牲者《ぎせいしゃ》は少しも減《へ》りはしない。
罪《つみ》があるのはこの男だけではない。この街の、この国の仕組みすべてだ。拷問や人身売買といった悪《あ》しき慣習《かんしゅう》から利益《りえき》を得る者、維持《いじ》する者、黙認《もくにん》する者すべてだ。その全員の指を切ることなんてできない。
「まだ機械を作り続けたいなら」サーラは嫌悪《けんお》感を押《お》し殺しながら言った。「言うことを聞け。道案内をしろ」
「道案内?」
「こっそり街の外に出る抜《ぬ》け道だ。どうせあるんだろう?」
「あ、ある……」
「なら案内しろ。少しでも変なそぶりをしたら、指を切るぞ」
「わ、分かった……分かったよ……」
フィゼラーはすっかりおびえきっていた。サーラは背後からしっかり指をつかんだまま、男を起き上がらせた。ダガーを持った右手を、作業台の上のランタンの持ち手に通し、肘《ひじ》のあたりにひっかけてぶら下げる。
「さあ、歩け」
ドワーフはしぶしぶ歩きはじめた。
「食らえ!」
すでにかなり傷ついてふらふらになっていた竜牙兵《スケルトン・ウォリアー》は、レグの振《ふ》り下ろしたフレイルの一撃《いちげき》をまともに頭頂部《とうちょうぶ》に受け、床《ゆか》に叩《たた》き伏《ふ》せられた。頭蓋骨《ずがいこつ》にフレイルがめりこんでいる。竜牙兵はそれっきり、動かなくなった。
室内では、まだ二体残っている竜牙兵と、ザーン盗賊《とうぞく》ギルドに雇《やと》われた戦士たちの乱戦《らんせん》が続いていた。しかし、最初にフェニックスともう一人の魔術師《まじゅつし》が撃《う》ちこんだ「|氷の嵐《ブリザード》」のおかげで、戦局はかなり有利に運んでいた。二体の竜牙兵は三倍の数の戦士に包囲され、壁際《かべぎわ》に追い詰《つ》められている。じきに決着がつきそうだった。
メリンとミスリルが奥《おく》の扉に駆《か》け寄《よ》った。鍵がかかっているかどうかや、罠《わな》の有無《うむ》を調べる。
「罠はなさそうだ」とミスリル。
「鍵もかかってないな」とメリン。
調べ終えた頃《ころ》には、戦闘《せんとう》は終了《しゅうりょう》していた。何人かが軽傷《けいしょう》を負っていたが、襲撃《しゅうけき》グループの中の司祭《プリースト》の治癒魔法《ちりょうまほう》によって、すぐに全快《ぜんかい》した。
「何か変じゃない?」
戦闘の終わった室内を見回し、フェニックスがさっきから感じていた不安を口にした。デインも「ああ」とうなずく。突入時には、小屋の周囲で見張《みは》りをしていた精霊使《せいれいつか》い二人とドワーフ一人、それに数匹《すうひき》の番犬を倒《たお》さなくてはならなかったが、中に入り、地下に足を踏《ふ》み入れてからは、意外なほど抵抗《ていこう》が少ない。通路に配置されたボーン・サーバントや、ドアに化けたイミテーターは、ほとんど一撃と言っていいほどあっさり倒せた。今のところ、最も厄介《やっかい》だった敵《てき》は、この部屋の五体の竜牙兵だが、それも片《かた》づいた。
まだ魔獣《まじゅう》が現《あら》われない。子供《こども》の姿《すがた》をした魔獣との壮絶《そうぜつ》な戦いを覚悟《かくご》していた彼らは、拍子抜《ひょうしぬ》けすると同時に、不吉《ふきつ》なものを感じていた。
「待ち受けているとしたら、この奥だな」
扉《とびら》をにらみ、メリンが緊張《きんちょう》した声で言った。カミートの描《えが》いた地図では、このあたりはすでに空白、つまり魔獣|創造《そうぞう》実験をやっている極秘《ごくひ》の区画のはずだ。
「襲撃に気がついてないはずがない。出てきて各個撃破《かっこげきは》されるのを避《さ》けて、一|箇所《かしょ》に集まってるんだろう」
「一気に行こうぜ」あの金属鎧《きんぞくよろい》を着たケビンという戦士が言った。「どうせやらなきゃならないなら、さっさと済《す》ませちまおう」
それは全員が同意見だった。どんな危険《きけん》が待ち受けているか分からないが、ここまで来たら引き返せない。
ケビンともう一人、屈強《くっきょう》な体格《たいかく》の戦士がうなずき合った。二人は助走をつけ、同時に扉に体当たりして、中に転がりこんだ。他の者も後に続く。
「これは!?」
デインたちは立ちすくんだ。そこは小さな劇場《げきじょう》ほどもある部屋だった。地下一階と地下二階が吹《ふ》き抜けになっている。彼らが立っているのは、壁から張り出した広い桟敷席《さじきせき》のような場所で、部屋全体を見下ろすことができた。
真っ先に目を惹《ひ》いたのは天井《てんじょう》だった。広い天窓《てんまど》があって、鉄格子《てつごうし》が張り渡《わた》され、大きなガラスが何枚《なんまい》もはめこまれているのだ。その上から、ちらちらと揺《ゆ》れる青い月光が射《さ》しこんでくる。そのため、部屋全体がゆらめく神秘《しんぴ》的な青い光に照らされ、深海の底にいるような印象を受けた。
「水だわ……」
フェニックスが呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。彼らが見上げているのは、小屋の近くにある小さなため池の底だった。池の底をガラスにすることで、外の光を地下に取り入れているのだ。水は少し濁《にご》っているうえ、遠くからでは水面の反射《はんしゃ》しか見えないので、よほど池に近づいて覗《のぞ》きこまないと分からないようになっている。
桟敷席の両側から、下の階に降《お》りる階段《かいだん》が続いていた。侵入者《しんにゅうしゃ》たちは三|班《ぱん》に分かれた。二つの班はミスリルとメリンを先頭に、慎重《しんちょう》に階段を下りてゆく。第三の班は階上で待機し、後方を警戒《けいかい》している。
月光がゆらめいているため、室内は光と闇《やみ》が絶《た》えず入れ替《か》わり、見る者を幻惑《げんわく》した。壁際《かべぎわ》には、使いこまれた釜《かま》や炉《ろ》、薬品棚《やくひんだな》、作業台などが並《なら》んでいるが、中央はがらんとしていた。生きている者の気配はなく、不気味に静まりかえっている。
彼らが室内を見回していた時、奥の扉の向こうでどたどたという足音がしたかと思うと、扉が勢《いきお》いよく開け放たれ、武装《ぶそう》した一団《いちだん》がなだれこんできた。デインたちは身がまえる。次の瞬間《しゅんかん》には乱戦《らんせん》に突入《とつにゅう》しそうだった。
と、メリンがチチッと舌《した》を鳴らした。相手側の集団の先頭に立っていた戦士は、ちょっととまどったものの、チチッと鳴らし返した。
「待て、こいつら海賊《かいぞく》側だ!」
「その通りだよ!」
武装集団をかき分け、マローダが姿《すがた》を現《あら》わす。
「お前!」
以前、マローダに重傷《じゅうしょう》を負わされたレグが、フレイルを振《ふ》り上げて殴《なぐ》りかかろうとする。
「待て、レグ!」デインが慌《あわ》てて止める。「今は味方だ」
「そうさ、かっかすんな」マローダが嘲笑《ちょうしょう》する。
「裏口《うらぐち》からここまで来たのか?」とミスリル。「途中《とちゅう》で魔獣に出会ったか?」
「いいや。いたのはゾンビとスケルトン。それにやけに弱っちいゴーレムだ」
「やっぱりか……」
「どういうことだ?」戦士の一人が困惑《こんわく》した顔で言った。「ここには生きてる奴《やつ》が一人もいないぞ」
それをきっかけに、みんながざわめきだした。
「どこか秘密《ひみつ》の通路から逃《に》げたか?」
「くまなく探《さが》したぞ。ここが最後の部屋だ」
「じゃあ、情報《じょうほう》が間違《まちが》ってたのか?」
「それならまだいい」マローダは悪い予感に襲《おそ》われ、あたりを見回した。「もしかしたら、あたしら、はめられたのかも……」
「何だって!?」
まるでその言葉が合図であったかのように、異変《いへん》が発生した。しゅーという音とともに、壁《かべ》の隙間《すきま》から白い煙《けむり》が噴出《ふんしゅつ》しはじめたのだ。
「罠《わな》だ! 逃げろ!」
たちまち侵入者たちは混乱《こんらん》に陥《おちい》り、通路に殺到《さっとう》した。しかし、通路でもすでに白煙《はくえん》が噴出しはじめていた。それを吸《す》いこんでしまった者は、急に動きが鈍《にぶ》くなってくる。
「ちっ!」
マローダは舌を鳴らした。息を止めて出口まで駆《か》け戻《もど》るのは論外《ろんがい》だ。たどり着く前に確実《かくじつ》にガスにやられる。脱出路《だっしゅつろ》はひとつしかない。
彼女は頭上に向けて魔法《まほう》の電光を放った。まばゆい光が炸裂《さくれつ》し、天窓のガラスが何枚《なんまい》も砕《くだ》けた。無数のガラス片《へん》とともに、水がどっと流れ落ちてくる。室内はたちまち水浸《みすびた》しになった。
「マローダ!」
ミスリルが振り返って叫《さけ》んだ。彼はガスを吸って咳《せ》きこんでいるフェニックスを支えていた。
「悪いね!」
マローダはにやっと笑うと、「変身《シェイプチェンジ》」の呪文《じゅもん》を唱えた。体が縮《ちぢ》み、服がするりと脱《ぬ》げ落ちたかと思うと、その姿は大型のコウモリに変わっていた。幾本《いくほん》もの滝《たき》となって流れ落ちてくる水を器用にくぐり抜《ぬ》け、天窓《てんまど》に向かう。
(昔の恋人《こいびと》を見捨《みす》てるとは)彼女は自分の行為《こうい》に酔《よ》っていた。(あたしもけっこう非情《ひじょう》じゃないか)
これまで何度、こんな危機《きき》を経験《けいけん》したことか。彼女にとって、危険《きけん》こそが生きがいであり、危機を間一髪《かんいっぱつ》で切り抜けた際《さい、》に味わう安堵《あんど》感こそ、無上の喜びだった。割《わ》れた窓をくぐつて外に飛び出した瞬間、彼女はまたも生きのびた喜びを味わっていた。
だが、それは一瞬しか続かなかった。ため池のそばに積み上げられた藁《わら》の山に身をひそめていた狙撃手《そげきしゅ》が、飛び出してきたコウモリにクロスボウを発射《はっしゃ》したのだ。
激痛《げきつう》に見舞《みま》われたマローダの口から、かん高い悲鳴が発せられた。矢は左の翼《つばさ》のつけねを貫《つらぬ》いていた。人間の姿であってもかなりの深手だったはずだが、人間よりずっと小さいコウモリの姿では、ダメージも大きかった。それでも強い意志力《いしりょく》で苦痛と戦い、どうにかはばたいて、墜落《ついらく》を食い止めようとする。
だが、林の上まで来たところで、ついに苦痛に耐《た》えられなくなった。もう飛ぶのは限界《げんかい》だ。林の中に突入《とつにゅう》すると同時に術《じゅつ》を解《と》いた。本来の姿に戻った彼女は、「落下制御《フォーリング・コントロール》」の呪文を唱える暇《ひま》もなく、木の葉の積もった柔《やわ》らかい土の上にどさりと落下した。
「う……くう……」
マローダはうめいた。腋《わき》の下に刺《さ》さっていた矢をどうにか引き抜く。その下半身は今や太い蛇《へび》に変わっており、茂《しげ》みの中でのたうっていた。
彼女の正体は幻獣《げんじゅう》ラミアなのだ。
「ちくしょう、こんなところで……」彼女は歯を食いしばった。「まだ……こんなところで死んでたまるか……」
死と隣《とな》り合わせのスリルと同じぐらい、生への執着《しゅうちゃく》も、マローダを強く突《つ》き動かしていた。幻獣でありながら人間の世界で育ったため、好奇《こうき》や嫌悪《けんお》や侮蔑《ぶべつ》の目で見られ、多くの迫害《はくがい》に遭《あ》ってきた。それでも幼《おさな》い頃《ころ》はまだ純真《じゅんしん》で、正しく生きたいと願っていた。なぜこんな苦しみを味わわなければならないのかと、小さな胸《むね》を痛《いた》めた。つらさのあまり真剣《しんけん》に自殺を考えたこともある。成長して、この世はすべて敵《てき》だという概念《がいねん》が育《はぐく》まれるにつれ、そんなことは考えなくなった。死を選ぶのは、自分を苦しめてきたこの世界に敗北することを意味する。いつまでも悪あがきをして、どんな卑劣《ひれつ》な手でも使って生き続けることこそ、世界に対する最大の復讐《ふくしゅう》だと思うようになった。
つらいのは正しく生きようとするからだ。悪の道を生きれば、理想と現実《げんじつ》の落差に苦しむこともなくなる。
無論《むろん》、それはすでに現実に敗北していること――ミスリルが言うところの「鋳型《いがた》」にはまってしまったことを意味するのは、うすうす自覚している。だが、彼女はそれに気づかないふりをして、自分を欺《あざむ》いて生きてきた。
自分が悪人だと信じようとしてきた。
茂みががさごそと鳴る音に驚《おどろ》き、顔を上げた。茂みをかき分けて、小さな人影《ひとかげ》が現《あら》われた。倒《たお》れているマローダに気づき、立ち止まる。マローダはというと、血を流し裸《はだか》で地面に這《は》いつくばったまま、呆然《ぼうぜん》と相手の婆《すがた》を見上げていた。
夢《ゆめ》の中の一場面のように、木の葉の合間から射《さ》しこむ清らかな月光を浴びて、八|歳《さい》ぐらいの女の子が立っていた。三つ編《あ》みにした赤髪《あかがみ》。エプロンのついたかわいらしいドレスを着ている。その表情《ひょうじょう》には敵意も恐怖《きょうふ》も感じられない。子供《こども》らしいあどけなさで、不思議そうにきょとんとマローダを見つめている。
「お姉ちゃん、だいじょうぶ?」
少女はまるで警戒《けいかい》している様子もなく、落ち葉を踏《ふ》みしめ、無防備《むぼうび》で近づいてきた。
「お怪我《けが》してるの? 痛いの?」
マローダは近づいてくる死の足音に恐怖した。こんな真夜中、こんな場所に子供がいるはずがない。普通《ふつう》の子供が幻獣を目にしておびえないはずもない。殺すべきだった。さもなければ自分が殺される。今すぐ「電光《ライトニング》」か「火球《ファイアボール》」をぶつけ、焼き殺すべきだ。こんな小さな子供なら一撃《いちげき》で倒《たお》せるはずだ……。
だが。
彼女はためらってしまった。月の光の中を近づいてくる少女は、あまりにも純真で、清らかに見えた。それがうわべだけの清らかさにすぎないと知っていたにもかかわらず、一瞬《いっしゅん》、マローダに忘《わす》れていた何かを思い出させ、胸が苦しくなった。心の一部は殺すべきだと叫《さけ》んでいたのに、別の一部が強くそれに反発した。
この子に向かって攻撃《こうげき》呪文を放ったら、自分が自分でなくなってしまう気がした。
その数秒のためらいが、彼女の運命を決めた。少女は最後の数歩を、さっと風のように加速して肉薄《にくはく》すると、長く伸《の》びた爪《つめ》をマローダの首筋《くびすじ》に突き立てた。マローダはとっさに腕《うで》を振《ふ》り回し、突き飛ばした。少女は「きゃっ」と叫んで尻餅《しりもち》をつく。
だが、もう遅《おそ》い。マローダは魔法《まほう》の毒の効果《こうか》が恐《おそ》ろしい速さで全身をかけめぐるのを感じた。筋肉《きんにく》が硬直《こうちょく》し、皮膚《ひふ》の感覚が失われ、冷たく硬《かた》いものに変わってゆく。
「そんな……このあたしが……」
それ以上は喋《しゃべ》れなかった。舌が動かなくなってきたのだ。彼女は地面に手をつき、うなだれて、避《さ》けられない死を待ち受けた。
最後の数秒間、彼女の頭の中で、様々な感情《かんじょう》が渦巻《うずま》いた。絶望《ぜつぼう》、後悔《こうかい》、恐怖、怒り、悲しみ、未練……だが、脳《のう》の機能《きのう》が麻痺《まひ》してゆくにつれ、それらは勢《いきお》いを失っていった。絶望があきらめに変わると、恐怖や悲しみも薄《うす》れ、おだやかな諦観《ていかん》だけが最後に残った。自分が少女を殺せなかったことに、かすかな満足を覚えた。
(まあ、これもいいか……)
それが彼女がこの世で考えた最後のことだった。
「だめじゃないか、グレイ」
駆《か》けつけてきたイエローアイが叱《しか》りつけた。
「一人で行動するなって言われただろ。お前はまだ弱いんだから」
「そんなことないよお」
少女――グレイネイルは、長く伸《の》びた爪《つめ》をひっこめると、服についた土を払《はら》いながら立ち上がった。
「ほら見て。、私が一人で仕留めたのよ。誉《ほ》めてくれたっていいじゃない」
「おい、こいつ、幻獣《げんじゅう》だぜ」イエローアイは顔をしかめた。「生け捕《ど》りにすりゃ、素材《そざい》として使えたかもしれないのに。もったいない」
「だってえ」グレイネイルは頬《はお》をふくらませた。「逃《に》げる奴《やつ》はみんな殺せって、ジェノア様に言われたじゃない」
「そりゃそうだけどさあ……」
「私の獲物《えもの》よ! 初めての実戦! 初めての獲物!」
グレイネイルは嬉《うれ》しそうにスキップで歩み寄ると、ぴょこんと飛び乗った――地面に手をついてうなだれている、灰色《はいいろ》のラミアの石像《せさぞう》に。
「ねえ」少女は素敵《すてき》な思いつきに、顔を輝《かがや》かせた。
「これさ、新しい『闇の庭』の飾《かざ》りにいいと思わない?」
[#改ページ]
9 運命の分岐点《ぶんきてん》
「逃亡《とうぼう》を試みた者は全員、捕獲《ほかく》もしくは殺害しました」
ジェノアの信頼《しんらい》している部下の一人、「|狂える人形《マッド・ドール》」メルティが、確信《かくしん》に満ちた口調で報告《ほうこく》した。見かけは一六|歳《さい》ぐらいの金髪《きんぱつ》の美少女だが、実際《じっさい》は男性《だんせい》である。
「網《あみ》を逃《のが》れた者は一人もおりません」
その報告に、ジェノアは満足した。無論《むろん》、どんな作戦も失敗する可能性《かのうせい》は常《つね》にあるわけだが、今回はかなりの確率《かくりつ》で成功すると予想していた。農場を包囲していた襲撃者《しゅうげきしゃ》たちは、実は自分たちが背後《はいご》から包囲されていたとは夢《ゆめ》にも思わなかったはずだ。彼らの退路《たいろ》は完全に断《た》たれていたのである。
「地下の様子は?」
「解毒剤《げどくざい》を飲ませた使い魔を送りこんで調べさせましたが、動いている者はいないようです。ご指示がありしだい、ホワイト・マーブルの中和にかかります」
ジェノアは遠くに見える農場の小屋に目をやった。今回の作戦では、侵入者《しんにゅうしゃ》を無傷《むきず》で捕獲するため、白い毒ガス――ホワイト・マーブルを大量に使用した。地下に充満《じゅうまん》したそれを中和して排出《はいしゅつ》する作業には、機械|仕掛《じか》けと精霊《せいれい》魔法を併用《へいよう》しても、約一時間ばかかる見通しだった。完全に空気中から毒性が失われるまで、中には入れない。
「ただちに取りかかれ。夜が明けるまでにすべて終わらせたい」
「はい」
サーラは夜の道を駆《か》けていた。
予想通り、ドレックノールの地下には、盗賊《とうぞく》ギルドの一部の者だけが知っている秘密《ひみつ》の抜《ぬ》け道があり、門を通らずに外に出ることができた。用済《ようず》みになったフィゼラーは殴《なぐ》って気絶《きぜつ》させ、猿ぐつわを噛《か》ませたうえで、草むらに放置しておいた。明日の朝には発見されるだろう。
頭に入れていた地図を頼《たよ》りに、農場のある方角へと走った。ランタンは油が切れかかっていたので、途中《とちゅう》で捨《す》てた。月明かりのおかげで、つまずくことはなかった。むしろ苦しかったのは、走ること自体だ。徒歩で行ける距離とはいえ、走るには少し遠い。デインたちのことが心配で、一刻《いっこく》も早くたどり着きたかったのだが、だんだん息が切れてきて、足がもつれてきた。これではたどり着く前に疲労困憊《ひろうこんぱい》して倒《たお》れてしまうと気づき、やむなくペースを落とした。
幸い、あまり迷うことなく、待機地点に選んだ林にたどり着いた。樹々《きぎ》の間に、キャラバンの馬車のシルエットが見える。かすかな希望の光に導《みちび》かれ、サーラは疲《つか》れた体に鞭打《むちう》って、最後の数十歩を走った。
だが、その希望はすぐに砕《くだ》かれた。キャラバンには人影《ひとかげ》はなく、眠《ねむ》っている馬がいるだけだったのだ。
「ミスリル! フェニックス!」サーラは暗がりの中で名を呼んで回った。「デイン! レグ! メリンさん!」
返答はなかった。返ってくるのは、眠りを妨《さまた》げられた馬のいななきだけだ。落胆《らくたん》のあまり、疲労がどっと襲《おそ》ってくる。サーラはへなへなと地面に座《すわ》りこみ、顔を手で覆《おお》った。
遅《おそ》すぎた――みんな農場に襲撃に行ってしまった。罠《わな》があるとも知らずに。
どうするべきか。今から追いかけても間に合うまい。ここで待っていれば、彼らは帰ってくるだろう。ジェノアの話が本当なら、「|闇の庭《ガーデン・オブ・ダークネス》」を壊滅《かいめつ》させたという偽《にせ》の記憶《きおく》を植えつけられて。それがせめてもの救いだ。生きてさえいれば希望はある。自分が生きのびて真実を伝えれば、ジェノアの計画は水の泡《あわ》に帰《き》す……。
サーラはすぐにその考えが甘《あま》いことに気がついた。ジェノアは「何割《なんわり》かは殺す」と言っていたではないか。全員が生きて帰っては不自然だからと。五〇人あまりの襲撃者のうち、仮《かり》に二割だとしても、一〇人が殺されることになる。
サーラは考えた。犠牲者《ぎせいしゃ》の中にデインたちは含《ふく》まれるだろうか? 分からない。ジェノアが自分を味方に引き入れるつもりなら、恨《うら》まれることのないよう、親しい人間をリストからはずすかもしれない。だが、それは希望的|観測《かんそく》にすぎない。ミスリルやデインやレグやフェニックスが自分と親しいことを、ジェノアは知らないかもしれない。それに、たとえ彼らが無事であっても、今夜、多くの人間が死ぬという事実は変わらない。
自分はそれを無視《むし》できるのか? 人が殺されるのを「どうしようもない」とあきらめて、見て見ぬふりができるのか?
「……いや」サーラは闇《やみ》の中でつぶやいた。「できない」
これはきっと、堕落《だらく》の第一歩なのだ。臆病風《おくびょうかぜ》に吹《ふ》かれ、まだ助けられる人間を見殺しにすれば、それが決定的な先例となってしまう。これからも同じような状況《じょうきょう》に遭遇《そうぐう》するたびに、胸《むね》を痛《いた》めながらも「どうしようもない」で済《す》ませてしまうようになるだろう。魂《たましい》の中の高潔《こうけつ》な部分が少しずつ汚《よご》れ、すり切れて、ついにはメイガスやマローダのようになってしまうだろう。
そんなの、がまんできない。
「あきらめるなんて嫌《いや》だ」サーラは自分に言い聞かせるために、声に出していった。「これが僕《ぼく》なんだ。僕の生き方だ。愚《おろ》かでもかまわない。こう生きるって決めたんだ。変えたくない……変えるもんか」
ずっと前、デルにも同じことを言った記憶がある。自分の性格《せいかく》は変えたくない、変えてしまったら自分でなくなるからと――今こそ、あの時の言葉を実践《じっせん》すべき時なのだ。
崩《くず》れかけている危険《きけん》な橋を渡《わた》るべきなのだ。
サーラは立ち上がった。休んだおかげで、疲労は少し回復《かいふく》していた。どうやって囚《とら》われているデインたちを助けるのか、算段《さんだん》は何もない。うまくいかないかもしれない。それどころか、自分は死ぬかもしれない。だが、やるだけのことはやるつもりだった。
「待ってて、みんな」
サーラはそうささやくと、農場の方に向かって走り出そうとした。
だが、その足は数歩も進まないうちに止まった。前方の樹の蔭《かげ》から、人影《ひとかげ》がゆらりと現《あら》われたのだ。サーラは反射《はんしゃ》的に、腰に下げていた袋《ふくろ》に手をやった。
「行くな」
夜の静寂《せいじゃく》の中で、カミートはぼそりとつぶやいた。
前に会った時と服装《ふくそう》が違《ちが》う。馬車の中にあった誰《だれ》かの予備《よび》の服を拝借《はいしゃく》したのだろう。その顔を目にしたとたん、サーラは胸が強く締《し》めつけられる思いがした。涙《なみだ》が出そうになる。それをこらえて、相手をにらみつけた。
「そこをどけ……」
「どかない」カミートの表情《ひょうじょう》はどこか悲しげだった。「行かせるわけにはいかない」
「みんなを助けなきゃいけないんだ」
「そんなのは無理だ。一人で何ができる?」
「やってみなきゃ分からないだろう!」
「殺されるかもしれないぞ」
「それでも行かなきゃいけないんだ! デインやミスリルやレグやフェニックスが……僕の好きな人たちが殺されるかもしれないんだ!」
「そんなの、知ったことか」
「……!」
「忘《わす》れろ、そんなことは」
カミートは感情を押し殺した声で言うと、ゆっくりとサーラに手を差し伸《の》べた。
「俺《おれ》といっしょに来い、サーラ。いっしょにジェノア様のために働こう。ジェノア様もそれを望んでおられる」
予想していたとはいえ、サーラは息が詰《つ》まるのを覚えた。
「……それが君の意思か」
「ああ」
「どうしても通さないのか?」
「ああ。力ずくでも止める」
「分かった……」
サーラは唇《くちびる》を噛《か》んだ。まるで呪《のろ》いが発動したあの夜のように、胸の中で渦巻《うずま》いていた感情が急激《きゅうげき》に膨張《ぼうちょう》するのを感じた。決定的なその言葉を口にするのはためらわれた。あまりにも悲しかったから。だが、言わなければならなかった。
「なら、どけ!」
サーラは思い切ってぶちまけた。
「そこをどけ、デル!!」
一瞬《いっしゅん》、カミートの顔が驚愕《きょうがく》で歪《ゆが》んだ。だが、すぐに気を取り直し、苦笑いで動揺《どうよう》を取り繕《つくろ》おうとした。
「何を……馬鹿《ばか》なことを……」
「ああ、すっかり騙《だま》されてたよ」サーラは堰《せき》を切ったように喋《しゃべ》りだした。「ジェノアがヒントをくれたんだ。あの地下室で、君は何も嘘《うそ》をついていなかったって。それで地下室であったことをいろいろ思い返しているうちに、気がついたんだ。初めて君を見た時、『まるでデルみたいだな』って感じたことを。それでダルシュさんから聞いた話を思い出した。悪魔《あくま》の中にはいろんな姿《すがた》に化けられる者がいるって話を」
「……ただの思いつきだ」
「君がデルでないって言うなら、どうしてさっき、僕を『サーラ』と呼んだ!? 僕と会ったことがないなら、なぜ僕の名前を知ってる!?」
少年は答えられない。
「あの時、君は僕たちの姿を見て、びっくりして逃《に》げようとした。君は一目で僕に気がついたんだ。たとえ女装《じょそう》していても、僕だって分かったんだ。横にデインとフェニックスもいたしね。まさか僕があの場に現われるとは思わなかったから動揺したんだ」
「そんなことは……」
「本物のカミートはもう死んでるんだ。たぶん、あの拷問《ごうもん》部屋でフィゼラーの機械にかけられて。死ぬ前に自分の素性《すじょう》を自白したんだろう。それでジェノアは、君をカミートの替《か》え玉にすることを思いついた。海賊《かいぞく》ギルドを騙すために」
「俺は……」少年は必死に平静を保《たも》とうとしていたが、それも限界《げんかい》だった。「デルなんか知らないと言ったはずだ……」
「違《ちが》う! 君はそんなことは言わなかった。デルとは『顔を合わせたことはない』と言ったんだ。もちろん嘘じゃないさ。自分自身と顔を合わせるなんてできやしないんだから」
「でたらめを……」
少年は耐《た》え切れなくなり、サーラに背《せ》を向けた。その背中に向かって、サーラは一気にまくしたてた。
「まだあるぞ! 君は『これは汚《きたな》い作戦だ』と言っていた。あれは僕たちの作戦のことじゃなく、ジェノアの作戦のことだった。『罪《つみ》もない子供《こども》だって殺せる』と言った。それも本当だ。実際《じっさい》にやったことなんだから。それから君の父親のこと。お父さんを恨んだこともあるけど、今は尊敬《そんけい》してると言った。あれはアルジャフィンのことじゃなくて――」
「もういい!」
少年は満月に向かって絶叫《ぜっきょう》した。精《せい》いっぱいの強がりから解放《かいほう》された肩《かた》が、がく。と落ちる。
「……もういいわよ」
その姿が変わりはじめた。背がすうっと縮《ちぢ》み、腕《うで》が細くなっていった。サイズの合わなくなったズボンがずり落ち、すらり止した素足があらわになった。銀髪《ぎんぱつ》が長く伸《の》びて肩にかかったかと思うと、墨《すみ》を流したように、根元から黒く染まっていった――闇《やみ》のように暗い黒に。
やがて髪《かみ》がすっかり元の色に戻《もど》ると、少女はゆっくりと振《ふ》り返り、悲しみに満ちた暗い横顔を見せた。
「デル――」
サーラは喜んで駆《か》け寄《よ》ろうとした。だが――
「来ないで!」
デルは飛び離《はな》れると、いつの間にか手にしていたダガーを構《かま》え、戦闘体勢《せんとうたいせい》を取った。サーラはぎょっとして立ちすくむ。デルが憎悪《ぞうお》の表情《ひょうじょう》で自分をにらみつけていたからだ。
「デル……」
「何で今さら気がついたの!?」デルは冷たい声で非難《ひなん》した。「私の正体に気がつかなければ、許《ゆる》してあげるつもりだった。お互《たが》いに『カミート』と『アーシャ』のままで、他人としてすれ違ったことにしてあげるつもりだったのに。でも、そうはいかなくなった。あなたが気がついてしまったから……」
「何を言ってるんだ、デル?」
サーラは混乱した。よく知っている少女のはずなのに、考えていることがまるで理解《りかい》できない。
「私はね、苦しんだのよ。あの夜からずっと」
「僕だって――」
「あなたの苦しみなんて!」デルは憤怒《ふんぬ》の表情《ひょうじょう》で叫《さけ》んだ。「私よりずっと小さい!」
サーラはショックのあまり、縛《しば》られたように動けなくなった。
デルは急に静かになり、すすり泣きはじめた。
「……私、フレイヤが好きだった……あの子、すごくいい子だった。私に親切にしてくれて……その子を私は手にかけたの。この手で、心臓《しんぞう》を刺《さ》して」自分の手を見下ろして、熱に浮かされたようにつぶやく。「あの子、信じられないって顔をしてた……。温かい血があふれ出して……私はそれを全身に浴びて……自分も苦しかったですって? 違うわ。あの子を殺したのはあなたじゃない、私よ」
「…………」
「私、悩《なや》んだ。苦しんだ。あちこちさまよった。苦しんで、苦しんで、苦しんで……何度も死のうと思った。ジェノアが拾ってくれなかったら、本当に死んでたかも。彼は私のことを、親身になっていたわってくれたわ。もちろん利用しようという下心もあったんだけど。それでも私は救われた。彼には恩《おん》がある。だから彼のために働くことにした……。
でも、あの夜の記憶《きおく》は私を苦しめ続けた。ムーンダンサーの能力《のうりょく》で記憶を消すことも試《ため》してみた。でも、だめだった。あの記憶はあまりにも強烈《きょうれつ》すぎて、強く焼きついているから、魔法《まほう》のカでも消しようがないの。すぐに思い出してしまう。
考えたわ。ずうっと考えてた。どうしてこんなに苦しいのか。何でこんなに苦しい思いをしなくちゃいけないのか……それで気がついた」
彼女は涙《なみだ》を流しながら、ぞっとするような笑みを浮かべた。
「あなたを愛したことが間違いだったんだって」
「デル……」
「そうよ、あなたを愛するからこんなに苦しいの!」デルは狂ったように笑いながら早口でまくしたてた。「フレイヤを殺したのもあなたのせい。みんなあなたのせいなの。あなたが悪いの。どうして気がつかなかったのかしら。あなたを憎《にく》めばよかったの。あなたを殺せばよかったの。あなたがこの世からいなくなれば、この苦しみから解放されるの!」
サーラは棒《ぼう》のように立ちすくんだまま、頭がしびれるような感覚を味わっていた。
反論《はんろん》できない――それはまさに、自分が考えていたことと同じではないか。デルを憎めばいい。殺せばいい。そうすれば楽になれる……。
「通り過ぎるだけなら、見て見ぬふりしてあげた。でも、だめ。あなたは私に気がついてしまった。もう、だめ。あなたをこの世から消す以外にない……」
サーラはおぴえ、とまどいながらも、腰に吊《つ》るした袋にそろそろと手をやり、魔晶石《ましょうせき》を何個《なんこ》か握《にぎ》っていた。では、これを使う時なのか。ダルシュが夢《ゆめ》で見た対決を現実《げんじつ》にする時なのか。
これが運命なのか。
それでも彼は、最後の希望をかけて説得しようとした。
「デル、君の気持ちは分かる……」
「分かるですって!?」デルは嘲笑《ちょうしょう》した。「あなたに何が分かるの!? 私の苦しみの一〇分の一でも分かるって言うの!?」
「君を愛してるんだ!」
「これでも!?」
その言葉とともに、少女の服の背中《せなか》を突《つ》き破《やぶ》って、四つの黒い影《かげ》が四方向に伸びた。見る見る成長し、三日月形に反《そ》り返ってゆく。一|枚《まい》一枚は彼女の背よりも長い。
それを目にすることは覚悟《かくご》していたはずだったのに、サーラは激《はげ》しい衝撃《しょうげき》を受け、見えない何かに殴《なぐ》られたようによろめいた。ダルシュに見せられた絵よりも、実物ははるかに異様《いよう》でおぞましい。この世のどんな生物のそれとも似ていない、異形《いぎょう》の翼《つばさ》だった。刃物《はもの》のように薄《うす》く、黒い表面にはぬめぬめした光沢《こうたく》がある。上の一対《いっつい》は縁《ふち》がぎざぎざで、下の一対は先端《せんたん》がねじれて槍《やり》のように尖《とが》っていた。それが飛翔《ひしょう》するためだけのものではなく、殺傷《さっしょう》にも使えることは明らかだった。それはまさに少女の心の奥《おく》に秘《ひ》められた邪悪《じゃあく》――底知れぬ闇《やみ》と冷酷《れいこく》な殺意を具象化したもののように思えた。
月明かりを浴びて、デルはすっくと立っていた。その背中では、波にもまれる海藻のように、四枚の黒い翼がゆっくりと波打っていた。
「これでも私を愛せるっていうの?」
衝撃のあまり、サーラの思考は麻痺《まひ》してしまった。つかのま、彼女への熱い愛さえも吹《ふ》き飛んだ。大きく息を呑《の》んだが、声帯がこわばり、声も出なかった。この冒涜《ぼうとく》的な光景の前に、どんな言葉も無力だった。
「……愛せないでしょう」
彼女は勝ち誇《ほこ》ったような――しかし、どこか悲しげな笑みをサーラに投げかけた。
「そうよ、私たちの間にはもう愛なんかない! 憎しみしかない! 殺し合うしかないのよ!――それが運命なのよ!」
そう叫《さけ》ぶと、彼女は突進《とっしん》してきた。四枚の罪を左右に広げる。上の一対はサーラの首を斬《き》ろうと振《ふ》りかぶられ、下の一対は脇腹《わきばら》を貫《つらぬ》こうと狙《ねら》っていた。サーラは恐怖《きょうふ》した。デルの姿《すがた》は視野《しや》の中でぐんぐん大きくなってくる。その姿はまさに殺戮《さつりく》のために創造《そうぞう》された機械。交差した瞬間《しゅんかん》、自分はずたずたに引き裂《さ》かれるだろうと予感した。
「死になさい、サーラ!」
一瞬、少女の強烈《きょうれつ》な殺意の視線が、ほとんど物質《ぶっしつ》的な鋭《するど》さでサーラの脳《のう》を射《い》ぬいた。麻痺から覚めたサーラは、意志《いし》ではなく本能《ほんのう》で行動した。振りしめた二個の魔晶石を、向かってくるデルの顔面めがけて投げつけていた。
至近距離《しきんきょり》なので避《さ》けようがなかった。オレンジ色の火球と青白い電光が同時に炸裂《さくれつ》し、あたりを昼間のように照らし出す。デルは悲鳴を上げ、衝撃で吹き飛ばされた。サーラはとっさに腕《うで》で顔をかばい、目がくらむのを防《ふせ》いだものの、爆発《ばくはつ》が近すぎたため、火球の熱波が襲《おそ》いかかってきた。内臓《ないぞう》にずんと響《ひび》く衝撃とともに、髪《かみ》が熱風でかき乱《みだ》され、真夏の陽射《ひざ》しを長く浴びたように肌《はだ》が焼けるのを感じた。
サーラは腕を下ろした。爆発の炎《はのお》が消えると、後には草が円形に焼け焦《こ》げ、煙《けむり》を上げていた。その大きな黒い円の向こうに、黒い翼を広げてデルが倒《たお》れていた。ひどく傷《きず》ついたらしく、苦しげに弱々しくのたうっている。
「うわああああああっ!」
サーラは雄叫《おたけ》びとも号泣ともつかない声を上げて突進した。走りながら袋から新たな魔晶石を取り出す。デルに飛びかかり、馬乗りになった。デルは顔や肩《かた》にひどい火傷《やけど》を負い、髪や服も焦《こ》げて、無残な有様だった。苦痛《くつう》のあまり抵抗《ていこう》もできないらしい。サーラは左手で彼女の首を押《お》さえつけ、右手を大きく振りかぶった。
右手に握られているのは、炎晶石《えんしょうせき》が一個と雷晶石《らいしょうせき》が二個。それをデルの顔面に叩きつければ、爆発が二人を包みこみ、さらに袋の中の石も誘爆《ゆうばく》を起こして、すべてを焼きつくすはずだった。
デルは全身を苛《さいな》む苦痛に耐《た》えながら、死を待ち受けた。こうなることは覚悟《かくご》していた。自分で望んだ結末だった。
彼女のサーラへの想《おも》いは矛盾《むじゅん》に満ちたものだった。あの地下室で思いがけず再会《さいかい》した時、激《はげ》しく動揺《どうよう》し、正体を見破られるのではないかとおびえた。フレイヤを殺した罪《つみ》を非難《ひなん》されるのではないかと恐れたし、ジェノアの配下となって卑劣《ひれつ》な工作に手を染《そ》めている自分を恥《は》じた。だが、どうにか機転で切り抜けて、ジェノアの元に帰還《きかん》して報告《ほうこく》を終えた後、サーラが見破ってくれなかったことを残念に思っている自分に気がついた。自分は一目で変装《へんそう》を見抜いたのに、彼が見抜けなかったことに不満を覚えた。少年に変身しているとはいえ、愛があるなら見抜けるはずではないかと。
街中で見つけて後を尾《つ》けたのも、サーラたちの動向が気になったこともあるが、気づいてほしいという心理がどこかにあったからだ。別の人間に化けることもできたのに、わざわざカミートの姿のままで尾行《びこう》したのも、そのためだ。
橋の上でいきなり彼が近くに出現《しゅつげん》した時、てっきりばれたのだと思った。だが、彼女は落胆《らくたん》した。正体を示すヒントをいくつか口にしたにもかかわらず、サーラはまったく気づかなかったのだ。それどころか、自分を殺すのが運命だと口にした。デルの気持ちはその時、動いた。
あの夜とは違《ちが》う。呪《のろ》いが発動した時、サーラは自分を殺すことを望んではいなかった。でも今、彼はそれを望んでいる。
彼に殺されよう――そんな結末を彼が望むなら、そうしたっていいではないか。私はまだサーラを愛している。彼のためなら何でもする。命も惜《お》しまない。それで彼が苦しみから解放《かいほう》されるのなら……。
無論《むろん》、それは自分の正体が露見《ろけん》しなければの話だ。最後の一歩を自分から踏《ふ》み出すことを、彼女はためらった。あのまま「カミート」と「アーシャ」として、別々の道を歩む選択《せんたく》もあった。あるいはムーンダンサーに頼《たの》んで、自分が死んだという記憶《きおく》を彼に植えつけてもらうという手もあった。このまま二度と顔を合わさず、サーラの記憶からしだいに自分の思い出が薄れてゆくのを待つのもいいと思った。
だが、土壇場《どたんば》でサーラは気がついてしまった。もはやデルには他の選択肢《せんたくし》はなかった。サーラに殺されるしかなくなった。彼が腰《こし》の袋《ふくろ》に手をやったのを見て、何かを隠《かく》し持っているのに気がついていた。自分が襲《おそ》いかかれば、彼はそれを使うだろう。それで運命は完結する。この長かった苦しみも終わる……。
だが。
破滅《はめつ》はいっこうに訪《おとず》れなかった。恐《おそ》る恐る薄目を開けて見たげる。サーラは右手を振り上げたまま、次の行動を決めかねていた。荒々《あらあら》しく呼吸《こきゅう》しながら、じっとこちらを見下ろしている。その瞳《ひとみ》は、憤《いきどお》り、悲しみ、愛《いと》しさの間で、複雑《ふくざつ》に揺《ゆ》れていた。
「……自分で治せ」サーラはようやくささやいた。「こんな傷《きず》ぐらい治せるだろう、暗黒|魔法《まほう》で」
そう言ってから、自分の言葉がヒントになって気がついた。
「どうして暗黒魔法を使わなかった? 今の君なら、手を触《ふ》れずに僕《ぼく》を殺せたはずなのに。どうしてそうしなかった? なぜ飛びかかってきた?」
「うう……」
「できなかったんじゃないのか?」サーラは静かに問い詰《つ》めた。「僕を攻撃《こうげき》するように祈《いの》っても、ファラリスは聞き届《とど》けないって思ったんじゃないのか? だって、『自分の欲望《よくぼう》に忠実《ちゅうじつ》であれ』っていうのがファラリスの教義《きょうぎ》だから。僕を傷つけようとするのは、教義に反してるから。君の本当の欲望じゃないから……」
デルは顔をそむけ、すすり泣いた。見抜《みぬ》かれてしまった――彼に殺されるために、精《せい》いっぱいの演技《えんぎ》をしたつもりなのに。
サーラはゆっくりと右手を下ろし、魔晶石《ましょうせき》を地面にばらまいた。少女の胸《むな》ぐらをつかんで揺さぶる。
「早く治せ」
その口調は静かだったが、切迫《せっぱく》していた。爆発《ばくはつ》が与《あた》えたダメージはかなり大きく、広範囲《こうはんい》の火傷《やけど》が激痛《げきつう》で少女を苛《さいな》んでいるのが分かる。傷口からは血が流れ出し続け、地面に吸《す》いこまれてゆく。デルはじわじわと衰弱《すいじゃく》しつつあった。いくら魔獣《まじゅう》でも、このまま何もしなければ……。
「死ぬぞ、デル。早く治せ」
「いいのよ……」
「どうして!?」
「私は罪《つみ》を犯《おか》したの……」
デルは静かに眼《め》を伏《ふ》せた。痛《いた》みをこらえながら、途切《とぎ》れ途切れに話す。
「フレイヤを殺した……今夜も私のせいで大勢《おおぜい》の人が死ぬ……だから罰《ばつ》を受けるの……死んで当然なのよ……」
サーラは愕然《がくぜん》となった。これでは治癒《ちゆ》魔法も発動しない。彼女が望むのが死ならば、ファラリスはそれを叶《かな》えるに違《ちが》いない。
それに気がついたとたん、頭がかっと熱くなっていた。まだ生きられるのに死ぬなんて、そんな馬鹿《ばか》な話があってたまるか!
「卑怯者《ひきょうもの》!」
怒《いか》りを爆発させ、少女の胸《むね》を激《はげ》しく揺さぶる。
「このまま死ぬのか!? 何の償《つぐな》いもせずに死ぬのか!? 自分が苦しいからって、この世から逃《に》げ出すなんて――そんなの卑怯だぞ! 許《ゆる》さない! 絶対《ぜったい》に許さない! 償え! 生きて償え!」
「どうやって……?」デルは弱々しく反論《はんろん》した。「何をしたって、私の重い罪……消えっこない……」
「ああ、そうさ。君の罪は消えない。でも、償うことはできるだろ? 君のその力を、いいことにだって使えるだろ?」
その時、サーラの脳裏《のうり》にひらめいたのは、ドレックノールの下町で目撃《もくげき》した光景――泣き叫《さけ》びながら連行される娘《むすめ》の姿《すがた》だった。
「そうだ、この世には苦しんでる人が大勢《おおぜい》いる。力を持たなくて、強い者に虐《しいた》げられて泣いている人たちが――その人たちのために戦おう。君は人を殺した。だから今度は人を救おう。一〇〇人でも、二〇〇人でも、三〇〇人でも……」
サーラは涙《なみだ》を流しながら、必死になって呼びかけた。
「君にだけやらせない。僕も協力する。君を支《ささ》えてあげる。君に負けないぐらい強くなる。二人で償おう! 一生をかけて償い続けよう!」
「償う……?」デルは不思議そうにささやく。
「そうだよ!」
「二人で……?」
「そうだよ、二人でだよ!」
衰弱したデルの瞳《ひとみ》に、希望の灯《ひ》がよみがえりかけた――だがそれはすぐに衰《おとろ》え、消えていった。悲しげに顔をそむける。
「……だめよ」
「どうして!?」
「私、あなたと生きられない……」
「だから、どうして!?」
「あなたを裏切《うらぎ》ったの……」彼女は顔を歪《ゆが》めた。「言ったでしょ?……ジェノアに抱《だ》かれたの……あれは嘘《うそ》じゃないのよ」
「…………」
「彼に信頼《しんらい》されるには……そうするしかなかった……それに、あなたを忘《わす》れたかった……他の男の人に抱かれたら、あなたの思い出が薄《うす》れるんじゃないかって思って、それで……自分から……」
デルはしゃくり上げた。
「だからあなたに愛される資格《しかく》なんてないの……!」
すべてを吐き出すと、デルは静かに眼《め》を閉《と》じた。サーラは決して許さないだろうと思った。一生愛し続けるという誓《ちか》いを破《やぶ》ったのだから。彼は泣き出すだろう。それとも怒り出すだろうか。あるいは絶望《ぜつぼう》のあまり絶叫《ぜっきょう》するだろうか……?
だが、サーラの反応《はんのう》は彼女の予想に反していた。
彼は笑い出したのだ。
「サーラ……?」
デルは不思議に思って見上げた。サーラは涙を流しながら、肩《かた》を震《ふる》わせ、くすくすと笑っていた。
「ごめん。でも、おかしくて……僕たち、考えること同じだなって」
「え……?」
「ごめん。僕もフェニックスと寝《ね》た」
「……!」
「君と同じだ。忘れたかったんだ。他の女の人を愛したら、忘れられるんじゃないかと思った。彼女はきれいだし、優《やさ》しかったし……ああ、心配しなくても、呪《のろ》いはすっかり解《と》けてたよ」
サーラは笑うのをやめ、かぶりを振《ふ》った。
「でも、違《ちが》うんだ。彼女は君じゃない。いくらきれいでも、君じゃない。他の女の子を愛そうと思ったこともある。でも、だめなんだ。はっきり分かった。君の代わりなんていない。この世で僕が愛せるのは、デル、君だけなんだ!
君だってそうだろ? 他の男と寝て、僕が忘れられたか? 僕以外の男を愛せるか? できやしないだろ! 自分に正直になれ! ファラリスなら自分の欲望《よくぼう》のままに生きてみろ! 僕と生きるのが君の欲望だろ!? 違うのか!?」
デルはとまどっていた。サーラの言葉はあまりに嬉《うれ》しすぎて、素直《すなお》に受け止めていいか分からない。
「でも……でも、私は邪悪《じゃあく》な魔獣《まじゅう》で……」
「それがどうした!? 君は君じゃないか。僕は君が暗黒司祭だって知ってて好きになったんだ。君の何もかもひっくるめて好きになったんだ。もし君が改心して、ファラリスでなくなったら――それはもう、君じゃないよ」
サーラは少女の手を取り、堅《かた》く握《にぎ》り締《し》めた。想《おも》いのすべてをこめ、力説する。
「僕は誓う。君以外の女の子は絶対《ぜったい》に愛さない。何があろうと絶対に見捨《みす》てない。僕は君を支える。悪の道に走りそうになったら、全力で食い止めてみせる。だから二人で生きよう。二人で生き続けて、償おう」
「でも……でも……」
デルはそれでも、拒否《きょひ》する口実を探《さが》していた。サーラは苛立《いらだ》った。握った手を揺《ゆ》さぶり、追い撃ちをかける。
「まだ不服なのか!? まだ何が必要なんだ!? 僕が君を好きで、君が僕を好きで……それ以外にいったい何が要《い》るんだよ! え! 言ってみろ!」
その言葉で、デルは屈服《くっぷく》した。
「いいえ、要らない」すすり泣きながら、歓喜《かんき》の声でささやく。「あなたがいっしょなら、他《ほか》に何も要らない……」
そして、静かな声で暗黒魔法を唱えた。
「偉大《いだい》なるファラリスよ、私に加護《かご》を……」
サーラは見た。醜《みにく》く焼けただれていたデルの顔が、見る見る元のなめらかな肌《はだ》に戻《もど》ってゆくのを。傷口《きずぐち》がふさがり、血の流出が止まるのを――絶望《ぜつぼう》し、死にかけていた少女の肉体に再《ふたた》び生きる意志《いし》がみなぎってゆくのを。
やがて彼女は全快した。サーラはその手を取って起き上がらせた。その頬《ほお》に流れる涙を、指でそっとぬぐってやる。デルも少年の涙をぬぐった。二人はどちらからともなく顔を近づけ、半年ぶりのくちづけを交わした。サーラはそっと愛する少女の背中《せなか》に腕《うで》を回し、黒い翼《つばさ》を優しく愛撫《あいぶ》する。翼は歓喜に打ち震《ふる》えた。
長い長いキスだった。
ようやく口を離《はな》した時、サーラは言った。
「あの橋の上で、僕をからかったな!」
「面白《おもしろ》かったわ」デルはにやっと妖《あや》しく笑った。「私に迫《せま》られてとまどってるあなた、おかしかった」
その意地の悪い笑みを目にして、サーラはあらためて実感した。デルはやっぱり邪悪《じゃあく》だ。きっと自分は一生、彼女に振り回されるのだろう、と。
でも、そんな邪悪な部分も含《ふく》めて、デルはデルなのだ。
「さあ、みんなを助けに行くぞ!」
「ええ!」
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10 英雄降臨《えいゆうこうりん》
農場の地下では、異様《いよう》な光景が展開《てんかい》していた。
「ねえ、まだあ〜?」
ムーンダンサーは広い室内を見下ろす桟敷席《さじきせき》の手すりの上に綱渡《つなわた》りのように立ち、照明代わりに皮膚《ひふ》を発光させながら、行ったり来たりしていた。すでに邪魔《じゃま》なマントを脱《ぬ》ぎ捨《す》てて身軽になり、いつでも催眠術《さいみんじゅつ》をかけられる態勢《たいせい》だったが、なかなか指示が出ないので退屈《たいくつ》している。他の子供《こども》たちも手すりに寄《よ》りかかったり階段《かいだん》に座《すわ》りこんだりして、準備《じゅんび》が終わるのを待っている。
「そうあせるな、ムーン」とジェノア。「もうすぐだ」
眼下《がんか》では、彼の部下たちが作業にいそしんでいた。地下の各所で倒《たお》れたり突《つ》っ立っていたりした襲撃者《しゅうげきしゃ》たちをこの部屋に運んできて、きちんと整列させるのだ。秘密《ひみつ》が洩《も》れないように少人数で行なっているうえ、池の水がすべて流れ落ちたために床《ゆか》は水浸《みずびた》しで、滑《すべ》りやすくなっていて、いっそう作業が面倒《めんどう》になっていた。
ホワイト・マーブルは古代語|魔法《まほう》の技術《ぎじゅつ》を利用して作られる毒ガスで、吸《す》いこんだ者は全身が硬直《こうちょく》する。魔法の効果《こうか》によって動きを封《ふう》じられるだけで、生命活動には何の影響《えいきょう》も出ない。意識はあるし、目も見えて耳も聞こえるのに、指一本動かせなくなるのだ。通常の催眠ガス――サンドマンズ・サンドやドリーム・ランナー――を使うと、いちいち縛《しば》り上げてから意識を回復《かいふく》させねばならず、そのうえ顔をそむけようとする者に無理やりムーンダンサーの踊《おど》りを見せなくてはならない。ホワイト・マーブルを使えば縛り上げる手間もなく拘束《こうそく》できるし、顔を桟敷席の方に向かせることで、嫌《いや》でも踊りを目にせざるを得なくなる。
まず全員をまとめて催眠術にかけ、「|闇の庭《ガーデン・オブ・ダークネス》」を壊滅《かいめつ》したというおおまかな記憶《きおく》を与《あた》える。それから一人ずつ毒を消し、術が確《たし》かにかかっていることを確認《かくにん》したうえで、個別《こべつ》に細部の記憶を植えつけてゆく。子供たちをどのように殺したか、仲間が戦いの中でどのように死んでいったか――所要時間は一人につき三分かそこら、全部で三時間もあれば終了《しゅうりょう》すると見こまれていた。
偽《にせ》の記憶を植えつけたら捕虜《ほりょ》たちは解放《かいほう》し、この施設《しせつ》には火を放つ。火が早く燃え広がるよう、油の樽《たる》がいくつも用意されていた。
やがて準備は完了した。広い部屋の中央には、容姿《ようし》も体形も服装《ふくそう》も種族もまちまちの男女が、横六人、縦《たて》八人の列になって、様々なポーズでぎっしりと立ち並《なら》んでいる。演説《えんぜつ》を聴《き》くために集まった群衆《ぐんしゅう》、といった感じだった。ある者は剣《けん》を振《ふ》り上げ、ある者はガスを吸いこむまいと口を押《お》さえ、ある者は走っている途中《とちゅう》のボーズで、ある者は何かに驚《おどろ》いたようにのけぞった姿勢《しせい》で、時間が止まったように静止していた。倒れていた者は箱やつっかえ棒《ぼう》で支《ささ》えられて立たされ、まぶたを閉じていた者は強引《どういん》にこじ開けさせられて、ムーンダンサーの方を向かされている。その顔も、恐怖《きょうふ》や怒《いか》りや無念の表情《ひょうじょう》を浮《う》かべたまま、仮面《かめん》のようにこわばっていた。
全部で四六人。最前列だけが四人だ。ミスリル、フェニックス、デイン、レグである。ミスリルは倒れかかったフェニックスを支える姿勢で、デインとレグは互《たが》いをかばい合うように抱《だ》き合った格好《かっこう》で、立ちすくんでいる。
(くそっ、こんな罠《わな》にかかるなんて!)
レグは悔《くや》しがった。口が動かせたら、罵倒《ばとう》の言葉がよどみなくあふれ出ていたことだろう。歴戦の勇者を自任《じにん》する自分が、こんなみっともない姿をさらすのは屈辱《くつじょく》だった。毒の効果など、デインが神聖《しんせい》魔法の「解毒《キュアー・ポイズン》」を使えればすぐに治せるはずだが、うめき声ひとつ出せない今の状態《じょうたい》ではそれもできない。
横にいる夫のことが心配だった。さらに気がかりなのは、ザーンに残してきた幼《おさな》い我《わ》が子のことだ。自分たちはこのまま殺されてしまうのか? シイムは孤児《こじ》になってしまうのか? それを考えると涙《なみだ》が出そうだった。
デインはもう少し冷静だった。すぐに殺すこともできたのにそうしなかったのは、自分たちを利用するつもりだからに違《ちが》いない。だとすれば、もう少し生きていられるだろうし、無事にザーンに帰れるかもしれない――だが、その希望を横にいる妻に伝える方法がなかった。
ミスリルは別のことが気がかりだった。初めて目にするはずのムーンダンサーなのに、なぜか会ったことがある気がしてならないのだ。六本|腕《うで》の少女など、見たら忘《わす》れられるはずがないのに――自分の記憶が信頼《しんらい》できなくなり、彼は不安に苛《さいな》まれた。
フェニックスが考えていたのはサーラのことだった。彼も捕《つか》まったのだろうか? この列の後ろの方に立っているのだろうか? 振り向けないので、確認しようにもできない。どうか逃《に》げ延《の》びていてほしいと切実《せつじつ》に願っていた。
「さて、諸君《しょくん》」
ジェノアが桟敷席に立ち、パーティの主催者《しゅさいしゃ》のように、全員に呼びかけた。
「君たちにはこれからムーンダンサーの催眠術にかかってもらう。偽の記憶を持って帰ってもらうためだ。抵抗《ていこう》するのは勧《すす》められない。術にかかったふりをしても、すぐに分かる。術《じゅつ》にかからなかった者は殺す。素直《すなお》に術にかかった者は、生かして帰すことを保証《ほしょう》する。生きて故郷に帰りたいなら、抵抗するな」
催眠術を確実《かくじつ》にかけるための手段《しゅだん》だった。意志《いし》の強い者は術に抵抗するかもしれないからだ。あの路地裏《ろじうら》でミスリルを術にかけたのも、実のところ、可能性《かのうせい》は五分五分といったところだったのだ。
こう言っておどしておけば、抵抗しようという勇気のある者はいまい。たとえいたとしても、後で殺せばいいことだ。
「では、開始する。他の者は下がれ」
ジェノアの指示を受け、作業を終了した部下たちが、後方の出口からぞろぞろと通路に出ていった。室内に立っていると、何かの拍子《ひょうし》にムーンダンサーの踊《おど》りを見てしまい、術にかかってしまう危険があるからだ。ジェノアたちも桟敷席《さじきせき》の後ろに下がり、顔をそむけていなくてはならない。
「何人ぐらい殺します?」
他の者に聞こえないよう、メルティが小声でジェノアに訊《たず》ねる。商人が仕入れる品物の数を確認するような、事務《じむ》的な口調だ。術がかかろうとかかるまいと、襲撃者《しゅうげきしゃ》の何割《なんわり》かは殺すというのが、最初からの計画なのだ。
「あの三分の一――一五人、というところかな」とジェノア。「ただし、最前列に集めたあの四人は除《のぞ》け。ハーフエルフの女魔術師《おんなまじゅつし》、黒い肌《はだ》のエルフ、レイピアを持った神官戦士、それに銀髪《ぎんぱつ》の女戦士だ」
「お知り合いですか?」
「友人の友人だ」にやっと笑って、「なるべくなら友人の恨《うら》みを買いたくないのでな」
「でも、抵抗したら?」
「その場合はしかたない。殺せ」
ジェノアの言葉に迷いはない。デルから、彼女のかつての冒険者《ぼうけんしゃ》仲間がドレックノールに来ていることを知らされた時、場合によってはそいつらの命を奪《うば》うことになるかもしれないと言い含《ふく》めてある。問題はサーラだ。仲間を殺されたと知れば、自分を憎《にく》み、絶対《ぜったい》に部下にはならないと決意するだろう。だが、計画のためにはやむを得ない。たとえ部下にならなくても、サーラは愛玩用《あいがんよう》として価値《かち》がある。
ムーンダンサーはいたずらっぽい笑《え》みを浮《う》かべながら、動けない観客たちにおもむろに一礼した。それから腕を六方向に伸《の》ばす。その皮膚《ひふ》はいったん暗くなり、それから部分的に明るくなって、妖《あや》しげに明滅《めいめつ》を開始する……。
その時、彼女はくぐもった悲鳴を耳にし、はっとして顔を上げた。
後ろを向いていたジェノアにも、その悲鳴は聞こえた。だが、ムーンダンサーの踊りを目にしてしまうのをためらって、振《ふ》り返るのが遅《おく》れた。それが池のそばで見張《みは》りをしていた狙撃手《そげきしゅ》の悲鳴であることに気づいた時には、もう遅かった。
大きなはばたきの音がしたかと思うと、破《やぶ》れた天窓《てんまど》から黒い影《かげ》が舞《ま》い降《お》りてきた。月の光を背後《はいご》から浴びて、大きな四つの翼《つばさ》の下に、二つの人影がぶら下がっているのを、ムーンダンサーは目にした。
サーラはデルに背後から抱《だ》きかかえられていた。デルの翼は二人分の体重を持ち上げるのは苦しかったが、落下速度をゆるめるのには充分《じゅうぶん》だった。ムーンダンサーはこの不意打ちにぽかんとなっている。ジェノアたちはようやく振り返ったところだ。サーラはまだ空中にいる状態《じょうたい》がら、容赦《ようしゃ》なく魔晶石《ましょうせき》を放った。
炎晶石《えんしょうせき》と雷晶石《らいしょうせき》と水晶石が桟敷席に投げこまれた。オレンジの炎《ほのお》の爆発《ばくはつ》、青白い閃光《せんこう》、真っ白な氷の嵐が《あらし》、いっせいに荒れ狂《くる》い、ジェノアとその部下たちを見舞《みま》う。爆発音、雷鳴、風の轟音《ごうおん》、男たちの叫《さけ》び声が、すさまじい不協和音となって地下室に響《ひび》き渡《わた》った。ムーンダンサーは至近距離《しきんきょり》で火球の爆発をくらい、かわいらしい悲鳴を上げて後方に吹《ふ》き飛んだ。
デルは空中にいるうちにサーラを放した。サーラはデインたちの前の床《ゆか》に水しぶきを上げて着地、デルはその背後に影のように降り立つ。サーラはすぐに、左手に握《にぎ》っていた魔晶石の第二波を右手に持ち替《か》え、次の目標を探《さが》した。
第一波は目標をほとんど確認《かくにん》する間もなくでたらめに投げつけたので、期待していたほどの結果が得られなかった。ムーンダンサー以外の四人の子供《こども》は、両側の階段《かいだん》のあたりに固まっていたのだ。そのため、彼らは爆発や氷の嵐の範囲《はんい》からはずれ、ほとんどダメージを受けていなかった。
「ちくしょう!」
「やっちゃえ!」
グレイネイルが右の階段から、リトルロックが左の階段から駆《か》け降りてくる。イエローアイは階段の手すりから上半身を乗り出し、手から冷凍《れいとう》光線を放った。サーラを狙《ねら》ったなら氷漬《こおりづ》けにできたかもしれない。だが、彼が撃《う》ったのはデルだった。魔法に対して高い抵抗力《こうりょく》を持つ魔獣《まじゅう》であるデルは、その攻撃《こうげき》をあっさりはじき返す。ほとんど同時に、サーラが雷晶石を投げていた。まばゆい電光が空中を走り、イエローアイの手の平にある眼《め》を直撃する。彼は左手を押さえ、悲鳴を上げた。
ナイトシンガーだけはジェノアの身を案じ、桟敷席の方に目を奪《うば》われていたので、行動が遅れた。爆発と風の渦《うず》が収《おさ》まった時、そこに展開《てんかい》していたのは目を覆《おお》う惨状《さんじょう》だった。ムーンダンサーは全身にひどい火傷《やけど》を負い、床《ゆか》に倒《たお》れて苦痛《くつう》にのたうっていた。寄《よ》り添《そ》うように立っていたジェノアとメルティも、電撃を浴びて深い傷《きず》を負っていた。他の者も多かれ少なかれ、この奇襲《きしゅう》で負傷《ふしょう》していた。おまけに爆風で飛ばされた男が油の樽《たる》をひっくり返し、油が彼らの足許《あしもと》にどっと流れ出していた。
ジェノアが傷ついているものの生きているのを目にしたナイトシンガーは、怒《いか》りにかられ、すぐに身をひるがえして手すりを飛び越《こ》えた。空中で変身する。水しぶきを上げてサーラの眼前《がんぜん》に降り立った時、その姿《すがた》は奇怪《きかい》な獣《けもの》に変わっていた。体毛の代わりに茶色の根に覆《おお》われ、首のまわりにたてがみのような葉が生えた狼だ。ナイトシンガーは人狼《ワーウルフ》の性質《せいしつ》を持ちながら、アルラウネでもあるために、満月の夜でも理性《りせい》を保《たも》ち、自分の意志《いし》で変身できるのだ。
リトルロックとグレイネイルも一階にたどり着いていた。すでにリトルロックも変身を完了《かんりょう》していた。二人は両側からサーラに迫《せま》る。
今やサーラは三体の魔獣――醜《みにく》い巨人《きょじん》と人狼とコカトリスの爪《つめ》を持つ少女――に囲まれた格好《かっこう》だった。口に含《ふく》んでいた炎晶石を右手に吐《は》き出し、次の攻撃に備《そな》える。しかし、こんなに接近《せっきん》された状況《じょうきょう》では、炎晶石の爆発は自分や仲間を巻きこむかもしれず、うかつに使えない。さらに後方の扉《とびら》からは、通路で待機していたジェノアの部下たちが、騒《さわ》ぎに気がついてなだれこんできていた。
絶体《ぜったい》絶命? だが、サーラの心にひとかけらの怖気《おじけ》もない。それどころか、気分がひどく高揚《こうよう》し、不敵《ふてき》な笑《え》みさえ浮《う》かべていた。デルがいっしょにいてくれるなら、何も恐《おそ》れることなどあるものか。命を粗末《そまつ》にする無謀《むぼう》な行動も、後悔《こうかい》するどころか誇《ほこ》りに思った。自分はこの瞬間《しゅんかん》のために生きているのだと感じた。
これが自分の生き方だ。
「石になっちゃえ!」
かわいい声を上げながら、右側からグレイネイルが突進《とっしん》してくる。サーラは体をひねり、毒爪の攻撃をぎりぎりでかわした。行き過《す》ぎてたたらを踏《ふ》むグレイネイル。サーラはその背中《せなか》に回し蹴りを放つ。少女は吹《ふ》っ飛ばされ、リトルロックの脚《あし》に激《はげ》しくぶつかった。サーラに飛びかかろうとしていたリトルロックは、びっくりして立ち止まり、慌《あわ》ててグレイネイルを抱《かか》え起こした。頭を打った少女はわんわん泣き出す。
「がう!」
ナイトシンガーが牙《きば》を剥《む》いて飛びかかってくる。サーラはよけない。最初の一撃ぐらいは耐《た》えられるし、傷ついてもデルが暗黒魔法で回復《かいふく》させてくれると信じて、逆《ぎゃく》にぶつかってゆく方向に動く。その予期せぬ動作に、ナイトシンガーは間合いを読みそこねた。激突《げきとつ》する! サーラは足をしっかり踏《ふ》ん張《ば》り、衝撃《しょうげき》に耐えた。ナイトシンガーは牙を少年の左腕《ひだりうで》に食いこませるが、傷は浅い。
次の瞬間《しゅんかん》、ナイトシンガーは強烈《きょうれつ》な力で後方に吹き飛ばされていた。デルが衝撃波を放ったのだ。桟敷席《さじきせき》の下の壁《かべ》に叩《たた》きつけられ、のたうつナイトシンガー。すかさず、サーラは炎晶石《えんしょうせき》を投げつける。炎《ほのお》の爆発《ばくはつ》に包まれ、狼《おおかみ》は全身を激しく痙攣《けいれん》させて絶叫《ぜっきょう》した。
「よくも!」
怒《いか》りに燃《も》えたリトルロックが、どしんどしんと床を揺《ゆ》らし、大股《おおまた》でサーラに向かってくる。身長がサーラの倍はありそうな巨体だが、動作は速い。その牙と鉤爪《かぎづめ》は脅威《きょうい》である。捕《とら》えられたらたちまち引き裂《さ》かれてしまうだろう。
だが、その鉤爪がサーラに届《とど》くより早く、真っ白に輝《かがや》く光の槍《やり》がその右脇腹《みぎわきばら》に突《つ》き刺《さ》さり、爆発した。続いて同じ場所に電撃が命中する。精霊《せいれい》魔法の「|戦乙女の槍《バルキリー・ジャベリン》」と、古代語魔法の「電撃《ライトニング》」である。腹の肉を大きくえぐられ、さしもの巨人スプリガンも苦痛に絶叫した。信じられない思いで、攻撃が飛んできた方向を見る。
「サーラには触《さわ》らせないぜ!」
魔法《まほう》を放ったポーズのまま、ミスリルは怒鳴《どな》った。その隣《となり》では、フェニックスも杖《つえ》を掲《かか》げ、次の呪文《じゅもん》の詠唱を開始していた。デインは治癒《ちゆ》魔法を放って、サーラの傷を治している。レグはフレイルを振《ふ》り上げ、攻撃《こうげき》にかかろうという体勢《たいせい》だ。
「みんな!」サーラが喜びの声を上げる。
「お、お前ら!?」
ナイトシンガーが目を剥《む》いた。リトルロックも動揺《どうよう》している。彼らは頭に血が上っていて気がつかなかったのだ。サーラが囮《おとり》になって攻撃を引き受けている間に、その背後に着地したデルがフェニックスに触《ふ》れて「解毒《キュアー・ポイズン》」をかけていたことを。体の自由を取り戻《もど》したフェニックスは、大きく開いたデルの翼《つばさ》の背後に隠《かく》れ、自分を中心として全力の「魔法解除《ディスペル・マジック》」を放ったのだ。その効果範囲内《こうかはんいない》ではあらゆる魔法が打ち消される。ホワイト・マーブルは魔法の効果を持つ毒なので、彼女の周囲にいるミスリルたちも体内の毒が消えたのだ。
たじろいでるリトルロックに、デルが黒い風のように襲《おそ》いかかった。巨人の足許で締《おど》り子のように体を回転させる。四|枚《まい》の翼が目にも止まらぬスピードで襲いかかり、続けざまに巨人の脚や腹を切り裂き、突き刺した。水しぶきと血しぶきが派手《はで》に舞《ま》い散る。個々のダメージは軽いものだったが、すでに重傷を負って痛《いた》みに苦しんでいるリトルロックには、充分《じゅうぶん》すぎるほどの恐怖《きょうふ》だった。彼はこれで完全に戦意を喪失《そうしつ》した。
「やめて! やめて!」
グレイネイルは泣きながら、リトルロックを守ろうと、デルに駆《か》け寄《よ》ってぶんぶんと爪《つめ》を振り回す。だが、デルはそれを軽くかわした。
加勢《かせい》しようとレグが駆け寄ってきたが、さすがに小さな女の子にフレイルを振り下ろす気になれない。やむなくリトルロックの側面に回りこむ。リトルロックは小さなグレイネイルをかばいつつ、じりじりと後退《こうたい》する。
桟敷席にいたジェノアが、自分やムーンダンサーの傷《きず》を暗黒|魔法《まほう》で癒《いや》し、ようやく手すりに駆け寄った時には、もう取り返しのつかない状況《じょうきょう》になっていた。四六人の捕虜《ほりょ》のうち、前半分にいた二〇人ほどが動き出している。後ろの列にいた者はまだ状況が飲みこめないようだったが、前列の者たちは武器《ぶき》を手に、魔獣《まじゅう》たちに詰《つ》め寄ってきていた。
まずいことに、動き出した者たちの中にも古代語|魔術師《まじゅつし》がいて、「魔法解除《ディスペル・マジック》」をかけていた。これによって捕虜のほとんどが束縛《そくばく》を解《と》かれた。彼らは後方から駆け寄ってきたジェノアの部下たちに向き合い、猛然《もうぜん》と反撃を開始した。人数では倍以上の差がある。
完全に形勢は逆転していた。
さらに悪いことに、桟敷席に流れ出した油が床板《ゆかいた》の隙間《すきま》から階下にしたたり落ち、それにサーラの投げた炎晶石で火がついていた。水面に浮かぶ油の上を、炎がゆっくりと舐《な》めるように広がってゆく。桟敷席の床はすでに油まみれなので、下から炙《あぶ》られたら火の海になる。
「私が――」
と手すりを乗り越えて飛び出そうとするムーンダンサーを、ジェノアは制《せい》した。こんな状況で戦っても勝ち目は薄《うす》い。
ジェノアは暗黒魔法を唱えた。レグやデインを含《ふく》めた一〇人ほどが、いっせいに血を噴《ふ》き出した。膨大《ぼうだい》な量の血の雨が襲撃者《しゅうげきしゃ》たちに降《ふ》りかかる。激昂《げっこう》して魔獣に近づこうとしていた者たちも、この壮絶《そうぜつ》な光景にさすがにたじろいだ。無論《むろん》、ジェノアはこんな攻撃《こうげき》で勝てるとは思っていない。敵《てき》を混乱《こんらん》させ、逃《に》げる機会を作るためだ。
「撤退《てったい》だ!」ジェノアは階下のナイトシンガーたちに向かって|叫《さけ》んだ。
ナイトシンガーは一瞬《いっしゅん》、迷《まよ》った。怒りと苦痛《くつう》に目がくらんでいても、ここは逃げなくてはならない状況であることは分かる。アルラウネの能力《のうりょく》である、敵を麻痺《まひ》させる悲鳴を使うべきか? だが、悲鳴の効果《こうか》は全方位に広がり、対象を選べない。すぐ近くにいるリトルロックやグレイネイルを巻きこむ危険《きけん》が高い。
苦痛でぼやけた視界《しかい》に、デルたちの猛攻《もうこう》に危機に陥《おちい》っているリトルロックの姿《すがた》が映《うつ》った。彼はグレイネイルを守りつつ、暗黒魔法で自分を治癒《ちゆ》するので手いっぱいだ。やむなく彼の前に飛び出し、デルの次の攻撃を牽制《けんせい》する。
その隙にリトルロックは、足許《あしもと》で泣いているグレイネイルを拾い上げ、ひょいと桟敷席《さじきせき》に投げ上げた。それをムーンダンサーが六本の腕《うで》でキャッチする。
「つかまれ!」
イエローアイが階上の手すりから身を乗り出し、無傷の右手を差し伸《の》べた。リトルロックはその手をつかむ。だが、ナイトシンガーが気がかりで逃げ出せない。
「逃がすかあ!」
血まみれのレグが、傷ついたナイトシンガーに殴《なぐ》りかかろうとする。だが、サーラが「待って!」と割《わ》って入った。
サーラは次の魔晶石《ましょうせき》をいつでも投げつけられる体勢で身がまえながら、狼《おおかみ》の姿《すがた》で這《は》いつくばっているナイトシンガーを見下ろした。その強烈《きょうれつ》な視線《しせん》に射《い》すくめられ、彼女は震《ふる》え上がった。牙《きば》を剥《む》き出して精《せい》いっぱい威嚇《いかく》してはいるが、その瞳《ひとみ》には恐怖《きょうふ》と絶望《ぜつぼう》の色が浮かんでいた。すでにかなりの深手を負っていて、動作が鈍《にぶ》っている。逃げ出そうにも、背《せ》を向けた瞬間《しゅんかん》に魔晶石を投げつけられるに違《ちが》いない。
あと一撃をくらったら、確実《かくじつ》に死ぬ。
(あたし、死ぬの!? こいつに殺されるの!?)
そう認識《にんしき》した瞬間、ナイトシンガーは全身が冷たい戦慄《せんりつ》に襲《おそ》われるのを覚えた。他人を殺すことだけを教わってきた少女が、初めて味わう死の恐怖だった。つかのま、彼女は自分が魔獣であることを忘《わす》れ、一人の女の子として恐《おそ》れおののいた。
(死ぬ、死ぬ、死ぬ……あたし、死んじゃう……死んじゃう……)
火は彼女の背後《はいご》で急速に燃え広がっている。
「殺さないでおいてやる」
サーラは静かに宣言《せんげん》した。レグが「おいっ!?」と抗議《こうぎ》するのを無視《むし》する。
「今感じてる、その恐怖を忘れるな。そして、いつか考えろ。僕《ぼく》が殺さないでおいた意味を」
「早くしろ!」
イエローアイが怒鳴《どな》った。リトルロックは暗黒魔法でナイトシンガーの傷を癒す。痛《いた》みの引いたナイトシンガーは、とまどいながらも、身をひるがえしてリトルロックの背中に飛びついた。肩《かた》まで駆け上がり、桟敷席へジャンプする。ほとんど同時に、リトルロックの巨体《きょたい》が急速に縮《ちぢ》み、小さな子供《こども》の姿に戻った。今やイエローアイの手からぶら下がっている格好《かっこう》だ。それをイエローアイが引き上げる。
「逃がすな!」
襲撃者の中の魔術師《まじゅつし》や精霊使《せいれいつか》いたちが、魔法で狙撃《そげき》しようとした。だが、彼らの前の空中に真っ黒い巨大な球体が現《あら》われ、視線をさえぎった。精霊使いでもあるムーンダンサーが、|闇の精霊《シェイド》を呼《よ》び出したのだ。
精霊使いがウィル・オー・ウィスプを召喚《しょうかん》し、シェイドを打ち消した時には、子供たちは桟敷席の奥《おく》へと撤退《てったい》していた。すでに桟敷席にも火が回り、激《はげ》しい勢《いきお》いで炎上《えんじょう》しはじめている。これでは追いかけるのは無理だ。
部屋の後方でも、多勢《たぜい》に無勢と見たジェノアの部下たちが、慌《あわ》てて奥の扉《とびら》から逃《に》げ出しはじめていた。一人が逃げ遅《おく》れ、戦士と盗賊《とうぞく》に取り囲まれた。四方から剣《けん》で貫《つらぬ》かれ、絶命《ぜつめい》する。勢《いきお》いづいた襲撃者側は、逃げる敵《てき》を追って、わっと通路に飛び出していった。
「おい、そいつも魔獣《まじゅう》じゃないのか!?」
憎《にく》しみのこもった声に、サーラははっとして振《ふ》り返った。数人の戦士が怒《いか》りに燃《も》えて、デルに詰《つ》め寄《よ》ってきていた。その大きな黒い翼《つばさ》はあまりにも目立ち、言い逃《のが》れようがない。
どうするべきか分からず、デルはおびえた。暗黒魔法で反撃することは可能《かのう》だが、そんなことをすればよけい厄介《やっかい》な事態《じたい》になる。
「よせ!」
そう言って男たちの前に立ちはだかったのは、デインたちだった。腕を広げてデルをかばう。
「この子は味方よ!」とフェニックス。
「見てなかったのか? 俺《おれ》たちを助けただろ!」とミスリル。
「しかし――」
戦士の一人が何か言いかけたのを、デインが制《せい》した。
「言い争ってる場合か! 見ろ!」
彼は背後で炎上している桟敷席を指さした。黒煙《こくえ人》がもうもうと湧《わ》き上がって、部屋の天井《てんじょう》を急速に覆《おお》ってゆく。月光がさえぎられ、暗くなりはじめていた。おまけに階下に流れ落ちた油が、火の海となってゆっくりと水面に広がりつつある。
「もたもたしてたら、みんな煙《けむり》に巻《ま》かれるぞ!」
「そうだ! 撤退だ!」
そう怒鳴ったのはメリンだった。戦士たちはしぶしぶ、デルから離《はな》れ、部屋の後方にある出口に向かった。サーラたちはほっとした。
「どうなってんだ? よく分かんないぞ」レグがぼやく。
「説明は後」とサーラ。「今は逃げなきゃ」
「デル、いっしょに来い!」
デインの言葉に、デルは「え?」ととまどった。
「僕たちにくっついてれば攻撃《こうげき》されない」
「そうだよ、デル」
サーラにうながされ、デルはその言葉に従《したが》った。走りやすいように黒い翼《つばさ》を縮める。その周囲を、サーラ、ミスリル、フェニックス、レグが囲む。しんがりはデインだ。すでに室内には煙が充満《じゅうまん》しかけており、フェニックスは咳《せ》きこんでいる。彼らは急いで出口に向かった。
途中《とちゅう》で一度だけ、サーラは振り返った。
炎上する桟敷席《さじきせき》。その炎《ほのお》の合間に、黒い人影《ひとかげ》が立っているのが見えた。その顔は明々と照らし出されている。
ジェノアだった。
距離《きょり》を隔《へだ》てて、二人はにらみ合った。一瞬《いっしゅん》、二つの正反対の想いが交錯《こうさく》した。サーラの囲い決意の表情《ひょうじょう》、強い敵意《てきい》を秘《ひ》めた視線《しせん》を、ジェノアはしっかり受け止めた。ジェノアのどこか面白《おもしろ》がっているような表情、人をゲームの駒《こま》としか見ない冷たい視線を、サーラは記憶《きおく》に焼きつけた。
それは時間にすれば三秒にも満たない出来事だった。ジェノアは不敵《ふてき》に微笑《ほほえ》みながら、マントをひるがえし、炎の向こうに消えた。サーラも炎に背《せ》を向けて走り出した。
一同が口を押さえながら通路に飛び出し、十数歩も走った時、背後《はいご》で激《はげ》しい爆発《ばくはつ》が起きた。振り返ると、さっきまでいた室内で、五色のまばゆい光が激しくはじけ回っているのが見えた。
「レインボー・クラッカーか!?」
博識《はくしき》なデインが叫ぶ。タラント地方で採《と》れるキノコの胞子《ほうし》から精製《せいせい》される爆発性《ばくはつせい》の液体《えきたい》である。施設《しせつ》を完全に破壊《はかい》するために、ジェノアたちが用意しておいたものに、火事の炎が引火したのだろう。火花はすぐに消えたが、室内の火勢《かせい》はその爆発で一気に強まった。煙と熱気がどっと通路に流れ出してくる。
「まずい! 走れ!」
デインが怒鳴《どな》った。言われるまでもなく、サーラたちは走り出していた。
いくつもの部屋と通路を突《つ》っ切り、サーラたちは先に逃げていた集団に追いついた。なぜか一室で立ち往生《おうじょう》し、押《も》し合いへし合いしている。
「どうなってるんだ!?」
「出口のところで待ち伏《ぶ》せされてる!」前の方にいる誰《だれ》かが怒鳴り返してきた。「バリケードを作って、毒矢と魔法《まほう》を撃《う》ちこんできゃがるんだ!」
「通してくれ!」
デインとミスリルが人垣《ひとがき》を分け、前に出た。傷《きず》ついた数人の盗賊《とうぞく》を、メリンが治療しているところだった。全員がひどい火傷《やけど》を負い、一人は胸《むね》を太い矢で刺《さ》し貫《つらぬ》かれて死にかけていた。
部屋の奥《おく》には閉《と》じた鉄の扉《とびら》があった。ミスリルたちはそっと開け、隙間《すきま》から向こうを覗《のぞ》いてみた。
たちまち扉にかんかんと矢が命中した。慌《あわ》てて扉を閉じる。一瞬《いっしゅん》遅れて、扉の向こうで魔法の爆発が起き、扉が激《はげ》しく震《ふる》えた。
短い時間ではあったが、状況《じょうきょう》は観察できた。この先には地上に通じる長い斜路《しゃろ》があり、その出口のところに、横倒《よこだお》しにした荷車か何かを即席《そくせき》のバリケードにして、ジェノアの部下が陣取《じんど》っているのだ。見たところ、クロスボウを持った男が三人と、魔術師《まじゅつし》らしい男が一人。こちらが部屋から顔を出したら、即座《そくざ》に攻撃《こうげき》してくる。
厄介《やっかい》なのは、斜路がけっこう急なうえ、幅《はば》が狭《せま》いことだ。せいぜい二人が並《なら》んで走れる幅《はば》しかなく、駆《か》け上がるのに時間がかかる。その間、先頭に立つ二人は、敵の魔法と矢の攻撃をまともに浴びることになる。とても生きて出口までたどり着けまい。
「|風の精霊《シルフ》で防《ふせ》げるか?」
デインの質問《しつもん》に、ミスリルは「難《むすか》しいな」と顔をしかめた。彼が「|戦乙女の槍《バルキリー・ジャベリン》」と同時に習得した精霊魔法「|飛び道具防御《ミサイル・プロテクション》」は、風の精霊の力で矢をそらせるというものだ。しかし、そらせることができるのは細い矢だけ。クロスボウのような勢《いきお》いのある太い矢は、風の精霊の力も及《およ》ばないかもしれない。
「強行|突破《とっぱ》は困難《こんなん》か……」
デインは考えこんだ。背後《はいご》の通路の奥からは、断続《だんぞく》的に爆発音が響《ひび》いてくる。ジェノアの部下は、地下|施設《しせつ》のあちこちにレインボー・クラッカーを仕掛《しか》けたうえ、通路に油を撒《ま》いていたのだ。火は奥の部屋から広がり、爆発を惹《ひ》き起こしながら、じわじわと近づいてくる。
「ちくしょう、俺たちを蒸《む》し焼きにする気か!?」
あせった四〇人以上の男女は、口々に意見をぶつけ合いはじめた。
「精霊魔法でトンネルを作れないか? 別の出口から出るんだ」
「だめよ。地上まで距離がありすぎるもの。それより後戻《あともど》りした方が……」
「焼け死にたいのか!?」
「魔法で姿《すがた》を隠《かく》して接近《せっきん》したら? 不意打ちをかけるんだ」
「それだと精霊使いと魔術師しか出られない。かえって危険《きけん》だろ」
「ここで火が消えるのを待つってのは? 後ろの扉を閉じれば、火はさえぎれる」
「煙《けむり》に巻《ま》かれて死ぬぞ」
「それにあの連中だってのんびり待ってやしまい。別の毒ガスか何か流しこんできたらどうする?」
「ええい、面倒《めんどう》だ! 一気に打って出ようぜ!」
「無茶《むちゃ》な!」
「誰が先頭に立つんだよ!?」
「まあ、待て!」
デインが一喝《いっかつ》した。
「時間がない。魔法で一気に吹《ふ》き飛ばそう。見たところ、四人までなら射線《しゃせん》が通る。前列二人と後列二人、同時に四人で攻撃をかければ、どうにかなる」
「敵《てき》も黙《だま》って見てないぞ」
「魔法で可能《かのう》な限り防御《ぼうぎょ》する。司祭《プリースト》は後方から治癒《ちゆ》に専念《せんねん》する。最初の一撃さえ切り抜《ぬ》ければ、勝機はある」
「確かにそれが良さそうだな」メリンがうなずいた。「で、誰が出るんだ?」
それが一番の問題だった。敵の猛烈《もうれつ》な攻撃の矢面《やおもて》に立つのは、歴戦の冒険者《ぼうけんしゃ》といえども勇気が要《い》る。
「言い出しっぺだ。僕たちが立とう」デインは言った。「ミスリル、フェニックス、手伝ってくれ」
もちろん二人にも異存《いぞん》があるはずはない。
「もう一人は――そうだ」デインは指さした。「デル、来てくれ」
全員の視線《しせん》が少女に集中した。デルはとまどった。すでに翼《つばさ》はひっこめているものの、ここにいる者の半数ぐらいは、彼女の真の姿を目にしている。当然、不信の員を向ける者も少なくない。
「行ってきて」サーラがささやいた。「頼《たの》む。君の力が必要な時だ。みんなを助けるために」
その言葉がデルを後押しした。そうだ、みんなを助けなくてはならない。それが私にできる償《つぐな》いだ。
私の生きる道だ。
デルは勇気をふるって、前に進み出た。デインたちは彼女を迎《むか》え入れる。
「僕とミスリルが前に出る」デインが指示《しじ》する。「フェニックスとデルは後列――」
「いいえ、私が前に出る」
デルの思いがけない発言に、三人は驚《おどろ》いた。だが、彼らをさらに困惑《こんわく》させたのは、次に彼女が自信たっぷりに言った言葉だった。
「私はみんなよりも強いから」
「あ、ああ、そうかもしれんな……」
デインは少し迷ったものの、その提案《ていあん》を受け入れた。
「じゃあ、前列は僕とデル。ミスリルとフェニックスは後列を頼む」
「分かった」
「まかせて」
扉《とびら》を開ける前、ありったけの防御呪文《ぼうぎよじゅもん》が四人にかけられた。魔法に対する抵抗力《ていこうりょく》を上げる「魔法対抗《カウンター・マジック》」や「肉体強化《フィジカル・エンチャント》」、ダメージを軽減する「防御《プロテクション》」。さらに扉が開けられると同時に、後方にいる精霊使《せいれいつか》いが、四人の周囲に「|飛び道具防御《ミサイル・プロテクション》」を張《は》ることになっていた。
「死なないで」
レグが駆《か》け寄《よ》り、夫にキスをした。デインは顔を赤らめる。
「死なないよ。いっしょにシイムのところに帰ろう」
「ええ」
サーラもデルにキスをし、「がんばって」とささやく。それを後ろから見て、フェニックスは誰にも聞かれないような小声で「うらやましい……」とつぶやいた。
戦いに備《そな》え、デルは翼《つばさ》を広げ、それをマントのように体に巻きつけた。見守っていた者たちの間にどよめきが起きた。騒《さわ》ぎが起きそうになるのを、レグが「うるさい!」と大声で一喝する。
「この子は体を張ってあたしらを助けてくれるんだ! 文句《もんく》あんのか、てめえら!」
何か言おうとしていた者たちは、女戦士の勢《いきお》いに呑《の》まれ、沈黙《ちんもく》した。デルは胸《むね》が温かくなるのを覚えた。
準備《じゅんび》は整った。デインは最後に「熱防御円《ヒート・プロテクティブサークル》」を唱えた。術者とその周囲にいる者を、炎《ほのお》や熱から守る呪文だ。
「行くぞ! みんな離《はな》れてろ!」
デインが怒鳴《どな》る。レグとサーラは魔法の爆発《ばくはつ》に巻きこまれないよう後退《こうたい》する。他の者たちも扉から遠ざかり、固唾《かたず》を呑んで見守っていた。
デインが思い切って扉を引き開けた。四人は飛び出してゆく。
ただちに斜路《しゃろ》の上から三本の矢が飛んでくる。一本は|風の精霊《シルフ》の力で進路をそれ、壁《かべ》に当たったが、残りの一本がデルめがけて直進してきた。彼女は全身に巻いた翼でそれを受け止める。痛《いた》みが走ったが、たいしたことはない。
続いて火球《ファイアボール》が飛んできた。灼熱《しゃくねつ》の爆発が四人を包みこむ。魔法《まほう》の効果《こうか》で守られているとはいえ、すさまじい熱さだ。肌《はだ》が焼け、髪《かみ》がちりちりと焦《こ》げる。だが、四人は足を踏《ふ》ん張《ば》り、苦痛《くつう》に耐《た》えながら呪文を詠唱《えいしょう》した。
「偉大《いだい》なるチャ=ザよ……」
「偉大なるファラリスよ……」
「ブラスト・プレイズ・ブラスト……」
「アーム・ド・クラージュ、精神《せいしん》の精霊よ……」
炎が晴れた時、呪文が完成した。
「バス!」
「バーニ!」
「トゥルエ!」
神聖《しんせい》魔法、暗黒魔法、古代語魔法、精霊魔法が、ほとんど同時に発動した。目に見えない二|筋《すじ》の衝撃波《しょうげきは》と火球と光の槍《やり》が、渾然《こんぜん》一体となって斜路を駆《か》け上がり、バリケードを直撃《ちょくげき》する。
木製《もくせい》の急ごしらえのバリケードは、すさまじい爆発《ばくはつ》で砕《くだ》け散った。その背後《はいご》にいた者たちも吹《ふ》き飛ばされる。
すかさず、後方で待機していたメリンが、傷《きす》ついたデインたちに治癒《ちゆ》呪文を唱える。
「あっ、おい、待て!」
デインが慌《あわ》てて叫《さけ》んだ。デルが翼をはばたかせ、突風《とっぷう》を巻《ま》き起こしながら前方に飛び出したからだ。一気に加速し、斜路をくぐり抜《ぬ》ける。その速さときたら、とても人間の足で追いつけるものではない。入口から外に飛び出した。爆発から立ち直った一人の男がクロスボウを投げ捨《す》て、ダガーを手にして向かってくる。デルはその場でスピンした。四|枚《まい》の翼の連打が、男の手からダガーをはじき飛ばし、革鎧《かわよろい》の胸《むね》を切り裂き、腕《うで》と頬《ほお》に傷をつける。男は「ひいっ!?」と情《なさ》けない声を上げて飛びすさった。デルは着地し、膝《ひざ》をついて背中《せなか》を丸め、次の攻撃《こうげき》に備えて身がまえた。四枚の危険《きけん》な翼は、背中から四方向に広がっている。
他の三人はデルを取り巻いていたものの、どうしていいか分からなかった。彼らはデルのことをジェノアから詳《くわ》しく教えられていない。悪魔の能力《のうりょく》を持つ恐《おそ》ろしい魔物であるという程度しか。その戦闘《せんとう》能力は未知数だ。はたして戦って勝てるのか……?
「やめなさい」デルはうつむいて、低い声で言った。「私はあなたたち全員を一瞬《いっしゅん》で殺すことができる」
少女の確信《かくしん》に満ちた口調は、男たちをぞっとさせた。
「でも殺さない――殺す意味がないから。あなたたちも同じはず。ジェノアはもう逃《に》げたわ。ここを死守する意味は、もうない」
男たちは顔を見合わせた。一人が背を向けて逃げ出すと、他の者もそれに続いた。
ようやく斜路を駆け上がってきたデインたちが見たのは、森の中を敗走してゆく男たちの後ろ姿《すがた》だった。
「……なんとまあ」デインは驚《おどろ》き、あきれていた。「たいしたもんだな、デル」
「ええ」
月光の下、デルは誇《ほこ》らしげに翼を立て、笑った。
「私は悪魔だもの」
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11 明日に続く道
長い夜が明けた。
夜明け前まで炎上《えんじょう》と爆発《ばくはつ》を続けていた旧《きゅう》「|闇の庭《ガーデン・オブ・ダークネス》」施設《しせつ》は、陽《ひ》が昇《のぼ》る頃《ころ》にはほぼ鎮火《ちんか》していた。今は破《やぶ》れた天窓《てんまど》や出入り口から、うっすらと黒い煙《けむり》を吐《は》いているだけだ。
「どうして!? どうしてあいつらを追いかけちゃいけないのさ!」
ナイトシンガーはジェノアに食ってかかった。
「このまま逃がしちゃっていいの!? 一人でも二人でもいいから殺して――」
「ナイトシンガー」ジェノアは優《やさ》しく言い聞かせた。「教えただろう? 無益《むえき》な人殺しは必要ないと」
「だって――」
「作戦は失敗した。今さらあいつらを何人か殺したところで、何の益がある? それどころか、返り討《う》ちに遭《あ》って、さらに損害《そんがい》が広がる危険《きけん》もある」
「でも、悔《くや》しいじゃない!」
「プライドになどこだわっては、長生きできんぞ。今回の負けは、別のところで取り返せばいいことだ。お前たちにはまだまだこれから、やってもらう仕事があるからな。こんなところで死なれては困るのだ。分かるな?」
ジェノアの優しい言葉に、ナイトシンガーはしぶしぶ納得《なっとく》した。しょぼんとなって、その場を立ち去る。
胸《むね》がもやもやしていた。あの戦いの結果はひどく不本意だ。とりわけ、死にかけていたのに情《なさ》けをかけられたことが納得いかなかった。このもやもやは、今すぐサーラに復讐《ふくしゅう》しないと晴れないのではないかと思った。だが、ジェノアは復讐を禁《きん》じた。ということは当分、このもやもやを抱《かか》えたまま生きなくてはならないのか。
その概念《がいねん》がいったい何なのか、彼女には理解《りかい》できない。昨夜まで知らなかった感情《かんじょう》であることは確《たし》かだ。怒りではなく、悔しさとも違う。なぜかは分からないが、ひどく苛立《いらだ》たせるのだ。
彼女の脳裏《のうり》には、殺されかけた時に覚えた恐怖《きょうふ》が鮮烈《せんれつ》に焼きついていた。サーラのあの言葉――「そして、いつか考えろ。僕《ぼく》が殺さないでおいた意味を」という言葉も。
(何なんだよ、あいつ!? 何のつもり? 敵は殺すもんじゃないか。殺さないでおく意味って何?)
急に感情が昂《たか》ぶってきた。理由も分からず、涙《なみだ》がこみ上げてくる。彼女はそれを敗北した悔し涙だと、無理に解釈《かいしゃく》した。
(分かんないよ、サーラ。あんたの言いたいことなんて……分かるわけないじゃん)
「やれやれ」
ジェノアは去ってゆくナイトシンガーの後ろ姿《すがた》を見て苦笑《くしょう》した。
「あの子らに必要なのは経験《けいけん》だな。いい勉強になっただろう。敗北もまた経験のうちだ」
「しかし、ドルコン様にはどのように報告《ほうこく》を?」
メルティが心配して訊《たず》ねる。ジェノアは肩《かた》をすくめた。
「父上にか? まあ、ありのまま話すさ。作戦をしくじり、部下を何人か死なせたと。他《ほか》にどう言いようがある? それに失敗といってもたいしたことはない。もともと廃棄《はいき》する予定だった施設を炎上させただけだ。デルは失ったが、我々《われわれ》が育てた子供《こども》たちはみんな無事だ。『闇の庭』は健在《けんざい》だ」
「しかし、この機にリージャやストルーンが増長《ぞうちょう》するかも」
「させておけ。父上は『闇の庭』の価値《かち》を理解している。私にこれからも続けさせてくれるさ。あの子らをまとめられるのは私だけなのだからな」
「はあ……」
メルティは納得していったんは黙《だま》りこんだものの、どうにも気になることがあって、また口を開いた。
「ジェノア様?」
「何だ?」
「あの……どうして失敗したというのに、そんなに楽しそうなのです?」
「楽しんでいる? 私が?」
そう問い返してから、ジェノアは気がついた。さっきからずっと、自分が微笑《ほほえ》んでいたことに。
あの炎《ほのお》の中で、最後ににらみ合った時、彼は予感した。この少年は必ずまた自分の前に現《あら》われる――いつか成長し、もっと強くなって、自分の野望を阻止《そし》するために立ちはだかるだろうと。
サーラもきっと、同じことを予感したはずだ。
「ああ、そうだな。私は楽しいよ」
ジェノアは夜明けの空を見上げて、上機嫌《じょうきげん》で言った。来るべき未来を想像《そうぞう》すると、心がうきうきした。
ゲームは好敵手《こうてきしゅ》がいてこそ楽しくなるものだ。
ここはドレックノールとリファールを結ぶ街道《かいどう》の途中《とちゅう》。
「行くのか……」
デインが言った。ミスリル、フェニックス、レグもその横にいて、旅立つ決意を固めたサーラとデルを見つめていた。
「うん。さすがにザーンに戻《もど》るのはまずいと思うし……」
「だろうな」
ザーンには、デルが魔獣《まじゅう》になったことを知っている者が何人もいる。彼らが帰ってきたデルをどんな目で見るか。とりわけダルシュのことが心配だ。彼はまだ運命が変わったとは信じていないかもしれない。破滅《はめつ》の未来が訪《おとず》れるのを阻止するために、デルを殺そうとするかもしれない。
サーラだって、運命がすっかり変わったと断言《だんげん》できる自信はない。未来は決まっていない。デルが悪の女王になる可能性《かのうせい》は、常《つね》にあるのだ。だからいつもそばにいて、彼女を守ってやらねばならない。
「ごめんなさい」デルは暗い顔で頭を下げた。「お父さんには伝えておいて。悲しませてごめんなさい。いつか手紙を書くからって……」
「お前さんが『お父さん』と呼んだって事実だけで、アルドは嬉《うれ》しいと思うぜ」
ミスリルの言葉に、デルははにかんだ。
その表情《ひょうじょう》はデインたちを安堵《あんど》させた。魔獣になったからと言って、人の心まで失ったわけではないことは、その顔で分かる。
無論《むろん》、罪《つみ》は消えない。昨夜、何人もの人間が死んだのも、ジェノアの手先となったデルに責任《せきにん》の一端《いったん》がある。だからこそ、罪は償《つぐな》わねばならない。フレイヤだけでなく、昨夜死んだ者たちの分も、人を救い続けなくてはならない。
それは苦しい人生に違《ちが》いない。だが、それを誰《だれ》の助けも借りず、二人だけでやり遂《と》げることを、サーラたちは決意していた。
「とりあえずリファールの方に行ってみようと思うんだ」とサーラ。「それからラバンとか、タイデルとかオーファンとか……とにかく、僕らのことを誰も知らないところに。しばらくこっちには戻れないと思う」
「お金は?」フェニックスが訊ねる。
「けっこうあるよ」
サーラは使い残した魔晶石《ましょうせき》を入れた袋《ふくろ》を掲《かか》げた。
「これを売ればしばらく生活できるし、足りなくなったら、何か仕事見つける――人助けのできる仕事を」
「そう……」
フェニックスはサーラが自立できるほど立派《りっぱ》になったことを喜ぶ反面、もう自分には彼を助けてやれないことが、妙《みょう》に寂《さび》しかった。
それはミスリルたちも同じである。小さくて頼《たよ》りなかったサーラ、時にはパーティのお荷物だったサーラ、自分たちが育て上げたサーラが、今、巣立って行こうとしている。いつの間にか自分たちを追い越《こ》し、自分たち以上の高みを目指している。
真の英雄《えいゆう》を。
これが自分たちの役目だったのではないかとさえ思う。サーラが高みに登るための踏《ふ》み台だったのではないか――無論、最後にどん底から這《は》い上がってきたのは、サーラ自身の力なのだが。
「これまでいろいろありがとう。僕のために……」
「いいよ、気にすんなって」レグが笑って手を振《ふ》る。
「いろいろ莱しかったよ」デインは静かに微笑《ほほえ》みかけた。
「俺《おれ》みたいな大人になるんじゃないぞ」ミスリルがおどけた口調で忠告《ちゅうこく》する。
「元気でね」フェニックスも涙《なみだ》をぬぐいながら言った。
「じゃ、そろそろ行くから」
サーラは名残《なごり》を惜《お》しみながらも、デルと並《なら》んで街道を歩き出した。ミスリルたちは手を振って見送る。
二〇歩ほど歩いたところで、デルがふと立ち止まり、振り返った。
「ああ、そうだ、フェニックス……」
「何?」
デルは口の中で小さく暗黒|魔法《まほう》をつぶやき、手をフェニックスに向かって突《つ》き出した。衝撃波《しょうげきは》がフェニックスの胸《むね》を直撃《ちょくげき》する。負傷《ふしょう》しないように威力《いりょく》を抑《おさ》えていたが、それでも充分《じゅうぶん》すぎるほど強烈《きょうれつ》で、思わず尻餅《しりもち》をついた。
「この泥棒猫《どろぼうねこ》!」
激《はげ》しい憎悪《ぞうお》をこめた顔でそう怒鳴《どな》りつけてから、デルは一転して、さっぱりした表情《ひょうじょう》になった。「さ、行きましょ」と言って、おろおろしているサーラの手を引き、さっさと歩き出す。
「ご、ごめん、フェニックス!」
サーラはデルにひきずられるように歩きながら、何度も振り返って、デルに代わって謝《あやま》った。
「……何だ、あれ?」
事情の理解《りかい》できないデインやレグは、ぽかんとした表情で、遠ざかってゆく二人を見送っている。
「しょうがないわよ。私、泥棒猫だもの……」
ミスリルに助け起こされながら、フェニックスはため息をつき、苦笑した。
「また失恋《しつれん》しちゃった……」
サーラは歩いてゆく。デルとしっかり手を握《にぎ》り合って。
未来に不安がないわけではない。いや、これからも苦難《くなん》のほうが多いかもしれない。だが、それを乗り切ってみせると決意していた。もう絶望《ぜつぼう》なんかしない。なぜなら、人生に目的ができたから。進むべき道が見えたから。
英雄になりたい。
それは幼《おさな》い頃《ころ》からの夢《ゆめ》だった。だが、英雄とは何なのか、真剣に考えたことはなかった。とても強い人、怪物《かいぶつ》や悪人を退治《たいじ》する人だと、漠然《ばくぜん》と思っていた。
そうではない。力が強いだけでは英雄にはなれない。必要なのは心の資質《ししつ》だ。他人のために崩《くず》れかけた橋を渡《わた》れる勇気だ。そして何より、自分が自分でなくなることを恐《おそ》れ、世界に妥協《だきょう》することを断固《だんこ》として拒否《きょひ》する心の強さだ。
いつかデルの実の父、バルティスが言った言葉を思い出す。「誰かみたいな者になってはいかん。君は君みたいな者になるのだ」――その意味が、ようやく理解できた。
(待ってろ、ジェノア)
サーラは心の中でつぶやいた。いつかきっとこの国に戻ってくると、自分自身に誓《ちか》う。
そう、いつか戻ってくる。
本物の英雄になって。
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あとがき
終わりました。
本をあとがきから読むという方のために、結末《けつまつ》には触《ふ》れません。しかし、一年間お待たせしたファンのみなさんには必ずや満足していただける内容であると、自信をもって断言《だんげん》できます。
五巻もかなり難渋《なんじゅう》しましたが、今回も冒頭の部分で、サーラの鬱《うつ》な心理《しんり》がこっちにも伝染《でんせん》してしまって、書くのが嫌《いや》で嫌で、かなり苦労しました。
「作品が、作者の人格《じんかく》に反映する!!」
「一番、影響《えいきょう》を受けるのは――作者だからな!!」
というのは島本《しまもと》和彦《かずひこ》「吠《ほ》えろペン」(小学館)に出てくる名|台詞《せりふ》のひとつですが、創作をやってると実感しますね。書いている間、場面の雰囲気《ふんいき》や登場人物の心理状態に影響されるのです。主人公が鬱な場面では鬱になるし、ハッピーな場面ではハッピーな気分になります。主人公から生き方を教えられることもしばしば。
今回も中盤《ちゅうばん》の嬉《うれ》し恥《は》ずかしなラブコメ展開はくすくす笑いながら書きましたし、クライマックスのバトルは書きながらおおいにエキサイトしました。書きたかったことはすべて書きつくした、という感じです。
今後、番外編の短編を書く予定はありますが、サーラのその後の人生については書こうとは思いません。この巻《かん》のラストシーンを元に、あなたが自由に想像していただければ、それが正解《せいかい》です。
ここから先は、『サーラ』と関係のないことを少し書かせてもらいます。
高校一年の頃、文芸部に短期間だけ所属《しょぞく》していました。そこで先輩《せんぱい》の書いたエッセイの原稿《げんこう》を読んでいたら、「不確定性原理《ふかくていせいげんり》がラプラスの悪魔《あくま》を否定《ひてい》したように」という表現が出てきました。意味が分からなかったので先輩に訊《たず》ねたら、「学校の図書室に『不確定性原理』という本がある。それを読めば分かる」と言われました。
さっそく図番室に行って、都筑《つづき》卓司《たくじ》『不確定性原理』(講談社ブルーパックス)という本を見つけた僕《ぼく》は、たちまちその面白《おもしろ》さに夢中《むちゅう》になりました。
二〇〇二年に新装版《しんそうばん》が出て、今でも入手可能なので、興味《きょうみ》がおありの方は読んでみてください。プロローグからして、『巨人の星』の大リーグボール二号の原理を量子論的《りょうしろんてき》に解釈《かいしゃく》する(!)という、今なら誰《だれ》かが考えつきそうですが、当時としては大変《たいへん》に斬新《ざんしん》な手法。ラプラスの悪魔や不確定性原理の解説も、実にやさしくて初心者にも分かりやすい。入門書として最適《さいてき》です。
古典《こてん》物理学の世界では、これから起きることはすべて決まっている。粒子《りゅうし》の位置と、どの方向にどれぐらいの速度で飛んでいるか分かれば、どこに命中するかを正確に予言できる。仮に、無限の計算能力を持ち、宇宙を構成するすべての粒子の状態を把握《はあく》している悪魔がいれば、未来に何が起きるかをすべて見通せることになる――というのが「ラプラスの悪魔」の概念《がいねん》。
現代物理学はそれを否定します。不確定性原理によれば、粒子は存在可能なあらゆる空間に広がり、確率的に存在している。正確にどこに命中するか分からない。未来は不確定であり、どんな悪魔も(あるいは神も)未来を見通すことはできない。
未来は決まっていない。定められた運命などというものはない――そのビジョンは僕の人生に大きな影響を与えました。何かがうまく行かなかった時、「これが運命だ」などという逃げ口上で自分をごまかすことがなくなりました。未来が決まっていないのなら、努力しだいで成功する可能性は常にあるのですから。
ずっと後になって、僕の書いた最初の長編のタイトルが『ラプラスの魔』だったのは、奇妙《きみょう》な因縁《いんねん》と言えるでしょう。
今回、書きながら考えてしまったのは、「 <ソード・ワールド> における運命って何だろう?」ということ。
フィクションの世界の物理法則は現実と違います。読者からすれば、まだ読んではいなくても、小説の結末はすでに決定|済《ず》み。これから結末が変わるなんてことはありえない。つまり古典物理学的世界なのですね。
しかし、ご存知《ぞんじ》のように <ソード・ワールド> はもともとテーブルトークRPGです。フォーセリア世界には魔法やモンスターが存在します。現実世界の物理法則が通用しない反面、ルールに反する魔法は使えない。ルールとはいわばフォーセリア世界における物理法則であり、ルールブックは物理の教科書と言えるでしょう。
ゲームマスターはシナリオを作り、おおまかなストーリーを決めます。いわばキャラクターの運命を司《つかさど》る神様です。しかし、神様の思惑《おもわく》通りに進むとはかぎらない。キャラクターの思わぬ行動がシナリオをぶち壊《こわ》しにすることもあります。サイコロの目によっては、主役級のキャラクターがあっさり死んでしまうこともある。
そう考えると、 <ソード・ワールド> においては、現実世界とは異なり、運命は確かに存在するものの、古典物理学ほどに厳密《げんみつ》なものではない――と言えそうです。たとえ神によって定められたシナリオであっても、人間の行動や偶然《ぐうぜん》の要素によってひっくり返ることがあるのではないかと。
今回、三章でダルシュが、七章でノアが語る運命観は、そうした考えを念頭に置いたものです。
あと、小説のストーリーが古典物理学的だというのは、実は読者から見た場合だけであって、作者にとってはけっこう不確定だったりするんですよね。さすがに結末まで変わることはあまりないものの、登場人物が作者も予想してなかったアドリブを言ったり、書いてるうちにプロットが変わってきて、執筆《しっぴつ》に入る前には計算していなかった展開になったりすることは、よくあります。
今回の場合だと、たとえば三章でアルドと顔を合わせるシーン。最初は「もう気にするな」とか「デルがああなったのは君のせいじゃない」とか何とか、もの分かりのいいことを言わせるつもりだったのに、いざその場面にさしかかって、アルドの心理になってみると――だめですね。やはり女の子を持つ父親として、彼の立場になったと想像すると、絶対にそんなこと言えませんわ。皮肉《ひにく》のひとつも言わないと気が済まない。
完全に計算外だったのは、新キャラのナイトシンガー。単なる使い捨ての敵役のつもりで、内面まで踏《ふ》みこむ予定じゃなかったんですが、最後に思いがけずキャラが立っちゃったのは、ちょっとびっくり。
こういうことがあるから小説はやめられません。
ニャートさんという方が、これまでのシリーズの記述《きじゅつ》を分析《ぶんせき》して、「サーラの冒険事件年表」(http://www.geocities.jp/ateliersweet/sahra/c-table.html)というページを作ってくださいました。
うーん、細かく見ていくと、いろいろミスってますね(苦笑)。作者も前に書いたことをすべて把握してるわけではないし(昔の作品を読み返していて、意外な記述を発見し「こんなこと書いてたんだ!?」と驚《おどろ》くことはよくあります)、最初に考えた設定を途中で修正することもあるんで、こういう矛盾《むじゅん》が発生することがちょくちょくあるんですよね。今回も書きながら、「あれ? ミスリルのお母さんの名前ってまだ一度も出てきてなかったっけ?」と慌《あわ》てて調べ直したり、ルールブックを読み直していて解釈の間違いに気がついたので訂正《ていせい》したり、前回の事件から五か月後という設定だったのを途中で六か月後に変えたり(「鏡《かがみ》の国の戦争」と整合性《せいごうせい》を取るため)しました。もしかしたらどこかに矛盾が出てるかもしれませんが……えー、見つけても笑って許《ゆる》してください(笑)。
最後に。
原稿を遅らせてご迷惑《めいわく》をおかけした富士見書房の長谷川《はせがわ》高史《たかし》さん、今回も力の入った素晴《すば》らしいイラストを描いてくださった幻《まぼろし》超二《ちょうじ》さん、ありがとうございます。そして、長い中断にもかかわらず、『サーラ』を覚えていてくださった読者のみなさん、本当にありがとうございます。
また別のシリーズでお会いしましょう。
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キャラクター・データ
サーラ・パル(人間、男、12歳《さい》)
器用度《きようど》14(+2) 敏捷度《びんしょうど》13(+2) 知力13(+1) 筋力《きんりょく》10(+1)
生命力12(+1) 精神《せいしん》力11(+1)
冒険者《ぼうけんしゃ》技能 シーフ4
冒険者レベル 4
生命力抵抗力6 精神力抵抗力5
武器《ぶき》:ダガー(必要筋力4) 攻撃力《こうげきりょく》6 打撃力4 追加ダメージ5
盾《たて》:なし 回避《かいひ》力6
鎧《よろい》:ハード・レザー(必要筋力5)防御《ぼうぎょ》力5 ダメージ減少4
言語:(会話)共通語、西方語
(読解)共通語
デル(ナイトフライヤー、女、13歳)
モンスター・レベル=7 知名度=一 敏捷度=18 移動《いどう》速度18/33(空中)
出現数《しゅつげんすう》=単独《たんどく》 出現|頻度《ひんど》=きわめてまれ 知能=人間なみ 反応《はんのう》=中立
攻撃点=翼《つばさ》×2:13(6)/翼×2:12(5) 打撃点=10×2/12×2
攻撃点=翼×2:13(6)/締《し》め×2:12(5) 打撃点=10×2/12×2
回避点=14(7) 防御点=10
生命点/抵抗|値《ち》=14/16(9) 精神点/抵抗値=16/16(9)
特殊《とくしゅ》能力=暗黒|魔法《まほう》7レベル(魔法強度/魔力=16/9)
変身
棲息地《せいそくち》=さまざま
言語=共通語 西方語
知覚=五感(暗視《あんし》)
人間の肉体にデーモンの能力を移植して誕生《たんじょう》した存在《そんざい》で、背中《せなか》に翼長《よくちょう》2メートルに達する黒い翼が4枚《まい》あり、空を飛ぶことができます。
4枚の翼のうち、上の一対《いっつい》は縁《ふち》がノコギリのようになっており、下の一対は先端《せんたん》がドリルのようになっています。接近戦《せっきんせん》の際《さい》には、これらを使って1ラウンドに4回の攻撃ができます。上の一対の翼をラージシールドとして使えば回避点に+2されます。下の一対の翼は相手にからみつけて締めつけることができます。また、4枚の翼でマントのように全身を覆《おお》うと防御点に+5されます。
ただし、一回のラウンドには、翼はどれかひとつの使い方しか選択《せんたく》できません。翼を戦闘《せんとう》や防御に使用しているラウンドには飛行できません。
ナイトフライヤーは一度でも会ったことのある人物なら、そっくりに変身することができます。ただし、まねられるのは姿《すがた》や声だけで、記憶《きおく》や能力まではコピーできません。
人間に変身している際のデータは次の通り。
器用度15(+2) 敏捷度18(+3) 知力13(+2) 筋力10(+1)
生命力14(+2) 精神力16(+2)
冒険者技能 シーフ4 ダークプリースト(ファラリス)7
冒険者レベル 7
生命力抵抗力9 精神力抵抗力9
武器:ダガー(必要筋力4) 攻撃力6 打撃力4 追加ダメージ5
盾:なし 回避力7
鎧:ソフト・レザー(必要筋力3) 防御力3 ダメージ減少7
魔法:暗黒魔法(ファラリス)7レベル 魔力8
言語:(会話)共通語、西方語
(読解)共通語、西方語
デイン・ザニミチュア(人間、男、27歳)
器用度15(+2) 敏捷度17(+2) 知力17(+2) 筋力12(+2)
生命力13(+2) 精神力19(+3)
冒険者技能 ファイター5、プリースト4(チャ=ザ)、セージ4
冒険者レベル 5
生命力抵抗力7 精神力抵抗力8
武器:レイピア(必要筋力12) 攻撃力7 打撃力12 追加ダメージ7
盾:バックラー(必要筋力1) 回避力8
鎧:ハード・レザー(必要筋力12)防御力12 ダメージ減少5
魔法《まほう》:神聖《しんせい》魔法(チャ=ザ)4レベル 魔力6
言語:(会話)共通語、西方語、下位《かい》古代《こだい》語、エルフ語、ゴブリン語
(読解)共通語、西方語、下位古代語
フェニックス(ハーフエルフ、女、?歳)
器用度18(+3) 敏捷度20(+3) 知力20(+3) 筋力12(+2)
生命力13(+2) 精神力15(+2)
冒険者技能 ソーサラー5、バード1、セージ2
冒険者レベル 5
生命力抵抗力7 精神力抵抗力7
武器:メイジ・スタッフ(必要筋力10)攻撃力1 打撃力15 追加ダメージ0
盾:なし 回避力0
鎧:ソフト・レザー(必要筋力7) 防御力7 ダメージ減少5
魔法:古代語魔法5レベル 魔力8
言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語、エルフ語
(読解)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語
ミスリル(エルフ、男、35歳)
器用度19(+3) 敏捷度21(+3) 知力18(+3) 筋力8(+1)
生命力9(+1) 精神力16(+2)
冒険者技能 シャーマン5 シーフ5
冒険者レベル 5
生命力抵抗力6 精神力抵抗力7
武器:ダガー(必要筋力4) 攻撃力8 打撃力4 追加ダメージ6
盾:なし 回避力8
鎧:ソフト・レザー(必要筋力4)防御力4 ダメージ減少5
魔法:精霊魔法4レベル 魔力7
言語:(会話)共通語、西方語、エルフ語、精霊語
(読解)共通語、西方語、エルフ語
レグディアナ(人間、女、20歳)
器用度19(+3) 敏捷度13(+2) 知力12(+2) 筋力21(+3)
生命力19(+3) 精神力14(+2)
冒険者技能 ファイター5 レンジャー5
冒険者レベル 5
生命力抵抗力8 精神力抵抗力7
武器:ヘビー・フレイル(必要筋力21)攻撃力7 打撃力31 追加ダメージ8
盾:なし 回避力7
鎧:プレート・メイル(必要筋力21)防御力26 ダメージ減少5
言語:(会話)共通語、西方語
(読解)共通語、西方語
ダルシュ(人間、男、60歳)
器用度12(+2) 敏捷度18(+3) 知力18(+3) 筋力10(+1)
生命力11(+1) 精神力15(+2)
冒険者技能 シーフ6 セージ6
冒険者レベル 6
生命力抵抗力8 精神力抵抗力8
武器:ダガー(必要筋力5) 攻撃力5 打撃力5 追加ダメージ7
盾:なし 回避力8
鎧:クロース(必要筋力3) 防御力3 ダメージ減少6
言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、東方語、エルフ語、ゴブリン語
(読解)共通語、西方語、下位古代語、東方語
メリン(人間、男、41歳)
器用度12(+2) 敏捷度12(+2) 知力17(+2) 筋力18(+3)
生命力15(+2) 精神力13(+3)
冒険者技能 シーフ3、プリースト(ガネード)5、セージ4
一般技能 マーチャント(商人)5
冒険者レベル 5
生命力抵抗力7 精神力抵抗力7
武器:ダガー(必要筋力5) 攻撃力5 打撃力5 追加ダメージ6
盾:なし 回避力5
鎧:クロース(必要筋力3) 防御力3 ダメージ減少5
魔法:神聖魔法(ガネード)5レベル 魔力7
言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、東方語
(読解)共通語、西方語、下位古代語、東方語
メイマー(マーメイド・ソーサラー、女、?歳)
モンスター・レベル=5 知名度=18 敏捷度=14 移動速度=14/20(水中)
出現数=単独 出現頻度=きわめてまれ 知能=人間なみ 反応=中立
攻撃点=武器:12(5) 打撃点=9
攻撃点(水中)=武器:12(5) 打撃点=9
回避点=14(7) 防御点=8
回避点(水中)=15(8) 防御点=8
生命点/抵抗値=15/14(7) 精神点/抵抗値=20/15(8)
特殊能力=古代語魔法5レベル(魔法強度/魔力=15/8)
水中|適応《てきおう》
棲息地=さまざま
言語=共通語 西方語 東方語 マーマン語
知覚=五感(増光《ぞうこう》)
メイマーは人間に育てられて古代語魔法を習得し、「シェイプ・チェンジ」の魔法で人間に変身したマーメイドです。移動速度、攻撃点、回避点の「水中」と書かれていない数値は、人間に変身している時のものです。水中ではマーメイドの姿に戻《もど》ることにより、ペナルティなしで行動できます。
マローダ(ラミア、女、?歳)
ラミアとしてのデータは『ソード・ワールドRPG完全|版《ばん》』207ページ参照。
人間としてのデータは次の通り。
器用度14(+2) 敏捷度12(+2) 知力16(+2) 筋力17(+2)
生命力20(+3) 精神力16(+2)
冒険者技能 シーフ4、ソーサラー4、セージ5
冒険者レベル 5
生命力抵抗力8 精神力抵抗力7
武器:ショート・ソード(必要筋力8)攻撃力6 打撃力8 追加ダメージ6
盾:なし 回避力6
鎧:ソフト・レザー(必要筋力3) 防御力3 ダメージ減少5
魔法:古代語魔法4レベル 魔力6
言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語、ゴブリン語
(読解)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語
ノア(ダークエルフ、女、?歳)
器用度18(+3) 敏捷度19(+3) 知力19(+3) 筋力6(+1)
生命力10(+1) 精神力18(+3)
冒険者技能 シーフ4、シャーマン5、ダークプリースト(ファラリス)1、セージ6
一般技能 ヒーラー5、フォーチュンテラー(占い師《し》)5
冒険者レベル 6
生命力抵抗力8 精神力抵抗力7
武器:ダガー(必要筋力3) 攻撃力7 打撃力3 追加ダメージ5
盾:なし 回避力6
鎧:クロース(必要筋力1) 防御力1 ダメージ減少6
魔法:精霊魔法5レベル 魔力8
暗黒魔法(ファラリス)1レベル 魔力4
言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、東方語、ゴブリン語、インプ語
(読解)共通語、西方語、下位古代語、東方語
イエローアイ(バグベアード・ハイブリッド、男、10歳)
モンスター・レベル=4 知名度=一 敏捷度=14 移動速度=14
出現数=単独 出現頻度=きわめてまれ 知能=人間なみ 反応=中立
攻撃点=ダガー:13(6) 打撃点=7
回避点=13(6) 防御点=6
生命点/抵抗値=10/12(5) 精神点/抵抗値=14/13(6)
特殊能力=光線(目標値13、催眠《さいみん》/冷凍《れいとう》/金属《きんぞく》分解光線のいずれか)
毒、病気に冒《おか》されない
棲息地=さまざま
言語=共通語 西方語
知覚=五感(暗視)
バグベアードの能力を移植された少年です。左の手の平にある目玉から3種類の光線を放つことができます。
催眠光線は相手を眠《ねむ》らせてしまいます。抵抗の目標値は13です。
冷凍光線は相手を氷漬《こおりづ》けにすることができます。これは精霊魔法の「アイス・コフィン」と同様に処理《しょり》します。抵抗の目標値は13です。
金属分解光線は金属|製品《せいひん》を瞬時《しゅんじ》にボロボロにしてしまいます。ただしミスリル銀や魔法のかかった製品には効果《こうか》ありません。武装《ぶそう》した相手に使用した場合、武器や金属鎧を破壊《はかい》します。この光線には抵抗できません。
これらの光線は使用するたびに精神点を2点消費します。
リトルロック(スプリガン、男、8歳)
スプリガンのデータは『ソード・ワールドRPG完全版』200ページ参照。
グレイネイル(コカトリス・ハイブリッド、女、8歳)
モンスター・レベル=4 知名度=一 敏捷度=14 移動速度=14
出現数=単独 出現頻度=きわめてまれ 知能=人間なみ 反応=中立
攻撃点=爪《つめ》:12(5) 打撃点=9+石化
回避点=13(6) 防御点=5
生命点/抵抗値=8/12(5) 精神点/抵抗値=9/12(5)
特殊能力=暗黒魔法(ファラリス)2レベル(魔法強度/魔力=10/3)
石化(抵抗の目標値=13)
毒、病気に冒されない
棲息地=さまざま
言語=西方語
知覚=五感
コカトリスの能力を与《あた》えられた少女です。戦闘時には爪《つめ》が長く伸《の》び、武器になります。この爪には石化能力があり、攻撃が命中した者は、目標値13の生命力による抵抗ロールを行ない、失敗すると即座《そくざ》に石になってしまいます。精霊やアンデッド、魔法生物など、自然の生命を持たないものには効果ありません。また、コカトリスの魔力と同様、この効果は薬草へンルーダによって防《ふせ》ぐことができます。
ムーンダンサー(ヒュプノ・オクトパス・ハイブリッド、女、12歳)
モンスター・レベル=4 知名度=一 敏捷度=24 移動速度=24
出現数=単独 出現頻度=きわめてまれ 知能=人間なみ 反応=中立
攻撃点=ダガー×3:14(7) 打撃点=8
回避点=15(8) 防御点=5
生命点/抵抗値=12/13(6) 精神点/抵抗値=20/14(7)
特殊能力=精霊魔法3レベル(魔法強度/魔力=13/6)
催眠|術《じゅつ》(目標値14)
棲息地=さまざま
言語=共通語 西方語
知覚=五感
ヒュプノ・オクトパスの能力を組みこまれた少女です。腕《うで》が6本あり、普段《ふだん》はそれを隠《かく》すためにだぶだぶの服を着ています。戦闘の際には6本の手すべてにダガーを握《にぎ》り、1ラウンドに同じ目標に3回攻撃することができます。
ムーンダンサーは皮膚《ひふ》を自由に発光させる能力があり、暗がりで全身を発光させながら踊《おど》ることにより、見る者を催眠術にかけることができます。催眠術をかけるには陽《ひ》の当たらない暗い場所でなくてはならず、裸《はだか》に近い格好《かっこう》にならなくてはなりません。その踊りを見た者は、目標値14の抵抗ロールを行ない、失敗すると催眠術にかかってしまいます。
ムーンダンサーは催眠術にかかった相手に暗示《あんじ》を与え、操《あやつ》ることができます。本人の意思に反した行動を取らせることはできませんが、記憶《きおく》を操作《そうさ》したり、存在しないものを見せたり、逆に存在しているものを見えなくさせることによって、思い通りの行動に誘導するのです。操作できる記憶はせいぜい数時間分で、長期にわたる記憶を書き換《か》えることはできません。
ナイトシンガー(ワー・ウルフ・アルラウネ、女、12歳)
モンスター・レベル=6 知名度=一 敏捷度=16 移動速度=16/24(変身)
出現数=単独 出現頻度=きわめてまれ 知能=人間なみ 反応=中立
攻撃点=素手《すで》:13(6) 打撃点=8
攻撃点(変身時)=牙《きば》:13(6) 打撃点=12
回避点=14(7) 防御点=8
生命点/抵抗値=14/14(7) 精神点/抵抗値=4/15(8)
特殊能力=精霊魔法4レベル(魔法強度/魔力=12/5)、ノーム、ドライアードのみ
悲鳴(目標値13)1日に1回
精神的な攻撃は無効
変身後は通常《つうじょう》武器無効
棲息地=さまざま
言語=共通語 西方語
知覚=五感(赤外視)
ワー・ウルフの血で育てられたアルラウネです。普段《ふだん》は少女の姿ですが、草のような緑色のたてがみに覆《おお》われた狼《おおかみ》に変身できます。通常のワー・ウルフと異《こと》なり、変身は月齢《げつれい》に左右されることなく、自分の意志で行なえます。
アルラウネの能力である精霊魔法と悲鳴については、『ソード・ワールドRPG完全版』224ページ参照。
フィゼラー(ドワーフ、男、55歳)
器用度18(+3) 敏捷度11(+1) 知力16(+2) 筋力16(+2)
生命力20(+3) 精神力20(+3)
冒険者技能 シーフ1、セージ5
一般技能 クラフトマン10
冒険者レベル 5
生命力抵抗力8 精神力抵抗力8
武器:ハンマー(必要筋力6) 攻撃力3 打撃力11 追加ダメージ3
盾:なし 回避力2
鎧:クロース(必要筋力7) 防御力3 ダメージ減少5
言語:(会話)共通語、ドワーフ語、西方語、東方語
(読解)共通語、ドワーフ語、西方語、東方語、下位古代語
ジェノア(人間、男、30歳)
器用度18(+3) 敏捷度17(+2) 知力19(+3) 筋力16(+2)
生命力17(+2) 精神力20(+3)
冒険者技能 シーフ8、ダークプリースト(ファラリス)5、セージ6
冒険者レベル 8
生命力抵抗力10 精神力抵抗力11
武器:ショート・ソード(必要筋力8)攻撃力11 打撃力8 追加ダメージ10
盾:なし 回避力10
鎧:ソフト・レザー(必要筋力7) 防御力7 ダメージ減少8
魔法:暗黒魔法(ファラリス)5レベル 魔力8
言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、東方語、ゴブリン語、インプ語
(読解)共通語、西方語、下位古代語、東方語
[#改ページ]
マジックアイテム
富豪《ふごう》のメダル
知名度=18
魔力|付与者《ふよしゃ》=不明
形状=扉《とびら》の絵が刻《きざ》まれた直径3センチの銀色のメダル
基本《きほん》取引|価格《かかく》=12万ガメル
魔力=物体を吸《す》いこむ
説明=このアイテムの作用は「物入れの腕輪」によく似《ほ》ています。扉の絵に物体を近づけ、合言葉を唱えると、物体はメダルに吸いこまれます。もう一度合言葉を唱えると、しまいこんだ物体を取り出せます。
このメダルは同時に二つ以上の物体を吸いこむことはできません(複数《ふくすう》の小さなものを袋《ふくろ》に入れた場合、袋全体を一個の物体とみなします)。また、大きさが50センチを超える物体も吸いこめません。
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
ソードワールドノベル やっぱりヒーローになりたい! サーラの冒険E
平成17年7月25日 初版発行
著者――山本《やまもと》 弘《ひろし》