サーラの冒険4 愛を信じたい!
山本 弘
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)甘美《かんび》な絶望
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(例)板金|鎧《よろい》
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目次
1 幻獣《げんじゅう》狩り
2 亀裂《きれつ》
3 消えたレグ
4 吊《つ》り橋の危機
5 廃墟《はいきょ》の巨人
6 フクロウの翼
7 巨人との戦い
8 男と女のプライド
あとがき
キャラクター・データ
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1 幻獣《げんじゅう》狩り
水平線の彼方《かなた》から嵐が近づいていた。
季節は春の初め。南の海とはいえ、岩だらけの海岸に吹きすさぶ潮風《しおかぜ》は冷たい。人の背丈ほどもある波が猛然《もうぜん》と岩に挑《いど》みかかり、炸裂《さくれつ》して白いしぶきをまき散らす。吹き抜ける風の音と、砕ける波の音で、海岸は騒然《そうぜん》となっていた。雨はまだ降りはじめていないが、太陽は薄い雲に覆《おお》われ、その光は弱々しい。
サーラは海を背にし、大きな岩にしがみつくような格好《かっこう》で身を隠していた。右手にダガーを握り締めて、戦いがはじまるのを緊張して待つ。金髪がしぶきを浴びて濡《ぬ》れている。防寒用の重いマントは戦いの邪魔《じゃま》になるので脱ぎ捨てており、冷たい風が服の布地を貫《つらぬ》いて肌を刺す。だが、少年の全身は緊張のあまりかちかちになっており、寒さはあまり感じなかった。
戦いが早くはじまって欲しい、と心から願っていた。戦いは恐ろしいが、あっという間に済んでしまう。その前の不安と緊張感に満ちた長い時間の方が、たまらなく、耐えられなかった。
少年の目の前には、さながら海の軍勢をはばむ城壁《じょうへき》のように、大きな崖《がけ》が垂直にそそり立っていた。角ばった岩が層状に積み重なっているため、人の手で築かれたような錯覚《さっかく》を覚えるのだが、あくまで自然の造形物である。崖の下端は波に侵蝕《しんしょく》されたのか、まるで巨人のあくびのように、ぽっかりと口を開《あ》けていた。その口から吐き出された砂が、洞窟《どうくつ》の前から海岸に向かって扇状に広がっており、適度に湿気《しっけ》を含んで固く、戦いに適した場を提供していた。
洞窟の奥から怒り狂った野獣の咆哮《ほうこう》が轟《とどろ》いた。重々しい足音が近づいてくる。
「用意しろ!」
サーラの前方、洞窟の入口の脇に身をひそめていたデインが、波の音にかき消されないように大声で注意した。サーラはこくりとうなずく。
デインは愛用のレイピア(細身の片手用剣)とバックラー(小型の盾《たて》)を構え、いつでも飛び出せる用意をしていた。いつもは上品で陽気な顔立ちも、この時ばかりはきりりと引き締まる。何と言っても、彼はこのパーティのリーダー格なのだ。怖《お》じ気《け》づいた態度は見せられない。
青年の隣《となり》では、女戦士レグディアナも戦闘体勢を固めていた。子供の腕ほどの太さがあるフレイルを手に持ち、重そうなプレート・メイル(板金|鎧《よろい》)の下からは、ガルガライス人特有の色黒の肌が見えている。銀色の髪は戦闘の邪魔になるので短く切っており、化粧気《けしょうけ》はまるでない。その女性離れしたごつい体格と、長い刀傷のある顔は、たいていの男をたじろがせるほどの凄味《すごみ》がある。
魔術師のフェニックスも杖《つえ》を掲《かか》げ、呪文《じゅもん》を唱《とな》える用意をしていた。レグとは対照的に、赤い髪を長く伸ばし、スカートを風にひるがえらせている。エルフの血が混《ま》じっていることを示す長い両耳には、涙滴形《ティアドロップ》の赤いイヤリングをしていた。それは彼女のお気に入りらしく、寝る時以外はほとんどはずすことがない。
足音と咆哮はますます大きくなってくる。すごく大きい――彼らの背後にいたサーラは、緊張のあまり、ごくりと唾《つば》を飲みこんだ。怪物との戦いを目撃するのはこれが初めてというわけではないが、今度のはかなりの大物と聞いている。戦いはこれまでとは様相の違うものになるに違いない……。
洞窟の奥にランタンの光がちらついた。それが急速に近づいてきたかと思うと、闇《やみ》の一部が切り取られたかのように、ほっそりした黒い人影が駆け出してきた。
「来たぞ!」
洞窟の入口に張られたロープをすり抜けながら、盗賊《とうぞく》で精霊《せいれい》使いのミスリルは、用済みのランタンを投げ捨てた。エルフ特有の素早《すばや》い身のこなしに加え、ダークエルフの血が混じっている黒い肌、闇の中でもおぼろげに見える精霊使いの目は、暗い洞窟の中での活動にうってつけだ。今回の作戦では、一人で洞窟の中に乗りこみ、敵を怒らせて入口まで誘い出す危険な任務を、自《みずか》ら買って出たのである。
ミスリルの後方、洞窟の奥から、黒く大きな影が近づいてきた。またもや恐ろしい咆哮が響き、さながら巨大な管楽器のように、洞窟周辺の空気をびりびり震わせた。サーラの緊張は極致《きょくち》に達した。
いきなり、闇のカーテンを突き破るようにして、途方《とほう》もなく大きな生物が光の下に姿を現わした。ぬうっと空中に突き出された長い首は、サーラの背丈の三倍はあるだろう。その背中にはコウモリのような構造の巨大な翼があるが、今はくしゃくしゃに折り畳まれている。さらにその背後には長い尻尾《しっぽ》が続き、闇の奥に消えていた。爬虫類《はちゅうるい》のような鱗《うろこ》に覆われたその姿は、ドラゴンによく似ているが前脚はなく、人間の数百倍はあろうと思われる体重は、後脚と尻尾で支えられている。初めて目にするその怪物に、サーラは戦慄《せんりつ》を覚え、思わず首をすくませた。
幻獣ワイバーン。
そいつは怒っていた。海岸にあるこの洞窟は、長い放浪の末にようやく見つけた、居心地《いごごち》のいいねぐらである。そこに恐れ知らずにも、ちっぽけな連中がずけずけと踏みこんできた。絶対に生きては帰さない! 人間をひと呑《の》みにできる巨大な口が開き、ミスリルに向けて怒りの咆哮をあげる。火のように真っ赤な舌と、唾液《だえき》に濡れた尖《とが》った歯の列が、サーラの記憶に鮮明に焼きついた。
だが、洞窟から三歩も踏み出さないうちに、ワイバーンの突進ははばまれた。洞窟の入口に縦横《じゅうおう》に張り渡された四本のロープにひっかかったのだ。怪物は長い巨体をくねらせ、うるさそうにそれを振り払おうとした。
崖の上には、付近の住民の協力を得て、昨夜のうちに太い材木が不安定に積み上げられてあった。ロープの端はそれに結びつけられている。ワイバーンがもがくと、ロープが強い力で引っ張られ、材木は崩《くず》れ落ちた。
雷《かみなり》のような音を立てて崖を転げ落ちてくる十数本の材木。音に気づいて長い首をめぐらせたワイバーンは、その瞬間、自分が罠《わな》にかかったことを悟《さと》ったかもしれない。だが、遅すぎる。
転げ落ちてくるうちにロープがちぎれて、材木はばらばらになった。大半はワイバーンの周囲に落下したが、三本が背中を直撃した。激しい衝撃を受け、ワイバーンはどうっと砂地に打ち倒された。
目標をそれた材木の一本が、岩に当たって大きく跳《は》ね返り、サーラのすぐ近くに落下した。少年は慌《あわ》ててそれをよけた。材木の一本一本は大人の胴ほどの太さがある。直撃していたら命はなかっただろう。
洞窟から半分体を出した状態で、ワイバーンは倒れていた。
「やったか!」
デインが歓声をあげた。彼らは冒険者《ぼうけんしゃ》であって、騎士《きし》ではない。怪物と真正面から戦うことにはこだわらない。毒を用いることだけは不名誉とされているが、それ以外の方法を用いることはかまわない。知恵をめぐらせた詭計《きけい》で強敵を倒したなら、冒険者にとってそれは名誉であり、立派《りっぱ》な武勇伝《ぶゆうでん》となる。
「まだだ!」ミスリルが警告した。「まだ死んでないぞ!」
何という生命力、何という頑強《がんきょう》さであろうか。太い材木の直撃を受けながらも、ワイバーンはなおも砂の上で首をよじり、巨大な口をぱくぱくと開閉させている。後脚を踏ん張って起き上がろうとするものの、右側の翼を突き破った材木によって、地面に縫《ぬ》い止められた格好だ。
「サーラ!」デインがいつでも飛び出せる体勢で叫《さけ》ぶ。
「はっ、はい!」
サーラは気を取り直すと、柄《つか》に紋様が刻まれたダガーを振りかざした。女友達のデルから送られたものだ。念をこめながらキーワードを唱える。
「刃よ、デインとレグに助力を!」
デインのレイピアとレグのプレイルに、白い魔法の輝きが宿る。二人は待ってましたとばかりに飛び出していった。
ダガーに血を吸い取られたかのように、体から力が失われ、サーラは深い疲労を覚えてよろめいた。ダガーにこめられた共通語魔法は、魔法の心得《こころえ》がない者でも使いこなせるようになっているが、強い精神力の消耗《しょうもう》をともなうのだ。ささやかではあるが魔法を使えることで、最初は有頂点《うちょうてん》になっていたサーラも、やたらに連発できるものではないと知って、最近は少し嫌気《いやけ》がさしていた。
その間にミスリルも精霊魔法を唱え、地の精を呼び出していた。地面から何十本ものごつごつした腕が生《は》え出し、ワイバーンの脚をがっしりとつかむ。これでワイバーンの動きはほとんど封じられた。
フェニックスはデインとレグに別の呪文《じゅもん》をかけていた。身のこなしが軽くなり、敵の攻撃をよけやすくなる魔法だ。傷ついて動きがにぶっているとはいえ、ワイバーンは巨体で怪力である。一撃でも食らえば重傷を負う。それを警戒してのことである。
「でやああああ〜っ!」
レグがワイバーンの頭部にフレイルを振り下ろした。ぽこんという鈍《にぶ》い音がして、ワイバーンの頭蓋骨《ずがいこつ》がわずかにへこんだ。だが皮が厚く、致命傷《ちめいしょう》には至らない。デインもレイピアで左の脇腹を突いたものの、角度が悪く、固い鱗にはじかれてしまった。
ワイバーンは首をめぐらせ、レグから逃《のが》れようとすると同時に、まだ自由のきく翼をばたつかせて、デインをはたこうとした。だが、デインは素早く身をかわす。ワイバーンの最大の武器は尻尾の先端にある毒針だが、尻尾はまだ洞窟の中にあるので、自由に動かせなかった。
「ブラスティート!」
フェニックスがワイバーンの右側に回りこみ、電撃を放つ。右の翼のつけねが焼かれ、ワイバーンは悲鳴《ひめい》をあげる。ミスリルはデインたちの背後にいて、二人のどちらかが負傷したなら、すぐにカバーに入れる体勢だ。
デインとレグが積極的に前に出て戦い、フェニックスとミスリルが後方から魔法で支援する――これが彼らのいつもの戦法である。この見事なチームワークで、これまで数多くの怪物や山賊《さんぞく》どもと戦い、打ち破ってきたのだ。
サーラは傍観《ぼうかん》するだけだった。
デインたちの勇敢な戦いぶりを眺《なが》めながら、サーラは唇《くちびる》を噛《か》みしめていた。彼が飛びこめる余地はどこにもなかった。厚い鱗に覆われた巨獣との戦いに、小さなダガーしか持たない十二歳の少年が、何の役に立つだろう?……いや、足手まといになるだけだ。
もちろんデインは誉《ほ》めてくれている。お前が魔法のダガーで支援してくれるのは助かる。その間にフェニックスが別の魔法をかけられるわけだから、敵に対して先手《せんて》を打つことができるんだ――と。
だが、やはりそれは空《むな》しい慰《なぐさ》めだった。ダガーを持ってキーワードを唱えるだけなら誰にでもできる。彼は戦いに参加したいのだった。
デインたちと行動をともにするようになって三か月以上が過ぎていた。その間、何度も戦いがあった。キャラバンを襲う山賊との戦い、家畜を食い荒す狼《おおかみ》との戦い、墓場をうろつくゾンビとの戦い――だが、サーラは一度も怪物を倒したことはなかった。いや、まともに戦ったことすらなかった。傍観しているだけでは戦闘に参加したとは言えない。一度でいいから、この手で怪物を倒したいのだった……。
ワイバーンが最後の力を振り絞《しぼ》って長い首をもたげ、レグに向かって挑戦的な咆哮をあげた。
サーラはちょっと違和感《いわかん》を覚えた。いつものレグなら嬉《うれ》しそうに叫び、敵の正面から積極的に突っこんでゆくところである。だが、今日は違う。ワイバーンから少し距離を置き、飛びかかるタイミングを慎重に見計らっているように見える。さすがに相手が強敵なので警戒しているのだろうか。
デインのレイピアが鱗の間に突き刺さった。引き抜くと鮮血がほとばしったが、デインは素早くそれをかわした。ワイバーンは悲鳴をあげ、左の翼を激しくはばたかせた。強烈な風圧をまともに浴び、デインは転倒する。岩場に付着した水しぶきが舞い上がり、一瞬、空中に白いカーテンがはためいて、デインの姿を覆い隠す。
即座にミスリルが援護《えんご》に入った。水しぶきのカーテンを突き破って、サラマンダーの炎《ほのお》が一直線に飛び、ワイバーンの首を焼く。フェニックスも電光を放った。それは大きく開いた口の中を真正面から直撃したので、あたかもワイバーンが口から電光を吐いたように見えた。レグも前に飛び出して、硬《かた》い顎《あご》にフレイルを叩《たた》きつけた。ぐきっ、という音がして、怪獣の顎がずれる。
その隙《すき》にデインは起き上がった。ずぶ濡れだが、怪我《けが》はしていないようだ。慌《あわ》てて後退して、ワイバーンの翼の攻撃範囲から逃れる。
ワイバーンは怒りと苦痛の咆哮をあげ、激しく身をよじった。串《くし》刺しになった右の翼をひきちぎり、からみついたロープをひきずって、必死に前進しようとする。その勢いに押されてレグは後退した。だが、なおも地の精ががっしりと脚をつかんでいるので、ワイバーンは前につんのめった。長い首が蛇《ヘび》のように地表をのたうつ。
もがいた拍子《ひょうし》に、尻尾が洞窟の中から抜け出た。先端に剣のような太い毒針のついた尻尾が、大きくそり返り、鞭《むち》のように空中に踊る。
同時にワイバーンは長い首をS字形に曲げ、身を縮《ちぢ》めるしぐさをした。翼と脚がなければ、とぐろを巻いている蛇のようだ。レグを尻尾の攻撃範囲に引きこみ、突き刺そうというのだろう。だが、レグは警戒して前進しない。ワイバーンの力は明らかに限界に達しており、尻尾は頼りなくふらついていた。
「あと二、三発だ!」デインが叫ぶ。「決めるぞ!」
ミスリルの炎とフェニックスの電光が、左右からワイバーンの首を焼いた。レグも前進し、頭部をフレイルで攻撃しようとしたが、踏みこみが甘かったせいか、かすめただけに終わった。
最後の力を振り絞って、ワイバーンは尻尾を前に振り下ろした。剣ほどの大きさがある毒針が、二階の高さから重力による勢いを利用して落下し、レグを串刺しにしようと迫る。が、彼女はとっさにフレイルを振り回し、それをはじいた。毒針は目標をそれ、空しく砂地に突き刺さった。
デインが飛びかかり、ワイバーンの左胸に、斜め後方からレイピアを突き立てた。レイピアはうまく鱗の合間《あいま》に突き刺さり、柄の部分まで体内に潜《もぐ》りこんだ。噴き出た血がデインの右腕を濡らす。
それがとどめの一撃になったらしい。ワイバーンは寒気《さむけ》に襲われたようにぶるっと巨体を震わせると、ぐったりと動かなくなった。長い尻尾だけは、独立した生命体であるかのように、しばらく空中でベリーダンスを踊っていたが、やがて力つき、どすーんという大きな音を立てて地面に落下した。
戦いは終わった。
念のために、デインたちはワイバーンの体のあちこちを突き刺して回った。死んだように見えても、気絶しているだけという場合がよくあるので、用心してのことである。
「ようし、サーラ、もう来ていいぞ」
ワイバーンの背中に立ち、完全に死んでいるのを確認して、デインはサーラを呼び寄せた。少年は勇んで駆けてゆく。
大きかった――全長は少年の身長の一〇倍近く、体重は数百倍はあるに違いない。こんなものにのしかかられたら、とても生きていられない。
この一頭のために、近隣の村の家畜数十頭が被害を受け、二人の牧童《ぼくどう》の生命が奪われたのだ。村人たちが高額の報酬《ほうしゅう》を約束して、冒険者たちにワイバーン退治《たいじ》を依頼したのも、無理からぬことである。
ミスリルとレグは頭部をはさむようにしゃがみこんで、首を切り落とす作業を開始していた。獲物《えもの》を仕留《しと》めた時は、その証拠になるよう、首を持ち帰るのが慣例だ。そうしないと報酬を払ってもらえない場合もある。だが、ワイバーンは頭部だけでもレグの胴ほどもあり、切り落とすのはかなり厄介《やっかい》な作業になりそうだった。
幻獣の巨体に触れてみた。鱗は思ったより薄かったが、鉄のように硬く、ざらざらしている。魚の鱗のように重なり合っていて、引っ張ると四五度ぐらいまで開くことも分かった。なるほど、これで柔軟《じゅうなん》な動きができるんだな、とサーラは納得《なっとく》した。
「サーラ、来てみろ」
背中に登っていたデインが呼びかけた。サーラは鱗の縁で手を切らないように注意しながら、ワイバーンの巨体をよじ登り、デインの横に腰を下《お》ろした。
「ほら、これを見ろ」
デインが指差したのは、翼のつけねの部分だった。ここだけは硬い鱗がなく、柔《やわ》らかな肉質の部分がむきだしになっていた。遠くからでは分からなかったが、大人の胴体ほどもある太い筋肉で構成されているのが分かる。フェニックスの放った電撃で無残《むざん》に焼け焦げていた。
「すごいだろ? この大きな体で空を飛ぶためには、大きな翼が必要だ。そして、この大きな翼をはばたかせるには、これだけ太い筋肉がいるんだ」
「うん――でも、ここだけ弱点だね。鱗がないもの」
少年の単純な発想に、デインは微笑《ほほえ》んだ。「どうかな。ワイバーンの背中を狙《ねら》うのは難《むずか》しい。それに、ここから内臓まではかなりの距離がある。たとえ命中させられても、かなり長い槍《やり》で強く突かないと、筋肉の壁を貫通するのは難しいだろうな」
「ねえ、何でワイバーンには前脚がないの? ドラゴンにはあるのに」
子供らしい素朴《そぼく》だが鋭《するど》い質問に、デインは面食《めんく》らった。
「うーむ……それはかなり高尚《こうしょう》な疑問だな」
「コウショウ?」
「ああ。たとえばフェザーフォルクという種族がいる。人間そっくりだが、背中に翼があるんだ」
「知ってる。見たことはないけど」
「前にフェザーフォルクの青年に会ったことがある。彼は僕にこう言った。『何で人間には翼がないんだ?』」
サーラはくすくすと笑った。「なぞなぞみたいだね。何て答えた?」
「ちょっと考えてからこう言った。『それならまず、ハーピィに向かって、何で腕がないのか訊《たず》ねてみるべきじゃないのか?』」
「それってぜんぜん答えになってないよ」
「当然だろう。答えの出ない質問なんだから」デインは肩をすくめた。「この世界には翼の生《は》えた馬もいる。ペガサスだ。ドラゴンの一種だが、蛇のように脚のないワームという種族もいる――だが、なぜそうなってるのか、誰にも分からない」
「ふうん」
「ひとつだけ言えるのは、どの生き物も、何の支障もなく生きてるってことだ。人間には翼がないが、空を飛べなくたってたいして不便じゃないだろ?」
「そうかな?」サーラは疑問を感じた。「僕は空を飛んでみたいけど。翼があったらいいなって思ったこともあるよ」
「だが、翼があると不便なことも多い。そのフェザーフォルクの青年を観察していてよく分かったよ。大きな翼は地上ではじゃまになる。翼を畳んだ状態では、重い荷物を背負って歩いてるようなもんだからな。扉《とびら》をくぐるたびに翼をぶつける。背もたれのある椅子《いす》に座《すわ》ることができない。重くなると飛べなくなるなら、毛皮や厚い鎧も着ることができない。おまけに服の背中が大きく開いているから、冬は寒そうだ――」
「ああ、そうか……」
サーラの心の中で、フェザーフォルクに対する憧《あこが》れが急速にしぼんでいった。
「たぶんワイバーンだって同じことだろう。飛ぶ時に前脚の重さがじゃまになる。前脚がなければ、それだけ速く飛べるはずだ。よくは知らないが、おそらく空を飛ぶ速さは、ドラゴンよりワイバーンの方が速いんじゃないかな? その逆に、地上ではよたよたとしか歩けないけどね」
「だから地上にいるうちに倒したわけだね?」
「その通り。空はワイバーンの天下だ。空を飛んでいるワイバーンを倒すことは、ほとんど不可能だな」
そう言ってデインは、死んだワイバーンの背中をぴしゃりと叩いた。
「要するに、何が良くて何が悪いことなのか、簡単には言えないってことだ。空を飛ぶ能力はワイバーンの最大の長所だが、同時に最大の弱点でもある。フェザーフォルクもワイバーンも、空を飛ぶことの有利さを選んだために、地上での活動を犠牲にしてしまっている。それをうまく利用すれば、倒すこともできるってわけだ――もっとも」
デインは恥ずかしそうに苦笑する。
「こんな偉《えら》そうなことが言えるのも、うまく倒せたからこそだ。失敗してたら、こんなにのんきに話なんかしていられない。正直言って、僕もワイバーンと戦うのは初めてだし、これほどうまく行くとは思わなかったよ……」
「おおい、デイン!」
ワイバーンの首を切り落とす作業をしていたミスリルが、ついに音《ね》を上げた。
「ん? どうした?」
ミスリルは大げさに顔をしかめ、作業に使っていた血まみれのダガーを掲げた。あちこち刃が欠けている。
「俺のダガーじゃ、とても切れん。肉が硬いし、大きすぎる」
「うーん、やっぱりそうか……」
「それに重そうだ。これを持って崖を上がるのは大変だよ」レグがぼやく。
「鱗を何枚か切り取って、持って帰ったらどうかしら」作業を見物していたフェニックスが提案する。「こんな大きな鱗を持った生き物なんてめったにいないんだし、信じてくれるわよ。それでも疑うようなら、ここまで来て死体を確認してもらえばいいんだし」
「僕もそれは考えたよ」とデイン。「いつもならそれでいいだろうさ。だが、嵐が近づいてる。ここに死体を放っておいたら、波にさらわれる危険がある」
いつもながら、デインの頭の良さにサーラは感心した。
「じゃあ、どうするの?」
「しかたあるまい。とにかく鱗だけはとっておいて、体は岩場にくくりつけておこう。流されないことを祈るしかないな」
それから四人は、ロープの切れ端を使って、ワイバーンの死骸《しがい》を岩場に固定する作業にとりかかった。
サーラは作業の邪魔《じゃま》をしないよう、周囲を歩き回り、ワイバーンの体の構造をじっくりと観察した。口には歯がどのように並んでいるか、翼はどのように折り畳まれているのか、脚の関節はどうなっているか、毒針はどんな形をしているか……。
新しいものを見たら観察を怠《おこた》るな、というのがデインの口癖《くちぐせ》だった。なるべく多くの知識を吸収するのだ。その知識がいつか何かの役に立つかもしれないのだから――再びワイバーンと戦う機会があるかどうか分からなかったが、サーラはデインの言いつけに忠実に従っていた。
それに、知識を得るのは楽しいことだった。知識が増《ふ》えれば増えるほど、自分が大人に近づいているような気がするのだ。
作業が終了した頃、ぽつりぽつりと雨が降りはじめた。波もいっそう激しくなってきている。一行は急いでその場を離れ、村に戻った。
嵐が過ぎ去った後も、幸いなことにワイバーンの死骸はそのままだった。一行は約束の報酬《ほうしゅう》を受け取り、村人の感謝の言葉を背に受けて、村を後にした。
サーラはちょっぴりいい気分だった。自分がワイバーンを倒したわけでもないのに、何だか英雄になったような気がした。
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2 亀《き》 裂《れつ》
岩の街ザーン――
空に向かってそそり立つこの鉄錆《てつさび》色の巨大な岩山は、それ自体が一個の都市である。その内部はトンネルが縦横《じゅうおう》にくり抜かれ、何十もの階層に分かれていて、四千人以上の市民が生活しているのだ。最上部には貯水池があり、上流階級の人間だけが足を踏み入れられる庭園もある。南側の壁には初代女王ナイアフェスの像が刻まれている。
他の国の人間は、しばしばザーン人の暮らしを「モグラのようだ」と嘲笑《ちょうしょう》するが、それは実際のザーンを訪れたことがないからである。通路はどこも広いので、ちっとも狭苦しい感じはしないし、外からの光を巧妙《こうみょう》に取り入れているうえ、随所《ずいしょ》に魔法の光も用いているので、内部は充分《じゅうぶん》に明るい。慣れてしまうと、自分が岩の中で暮らしていることを忘れてしまうほどだ。
外部の垂直に近い岩壁《がんペき》にも、あちこちに階段が刻まれている。ザーンの建設当初に作業用に使われたものの名残《なごり》らしいが、何しろ二百年以上前のものであり、風化が進んでいて危険なので、利用する者はほとんどいなかった。住民の中には、そんな階段の存在すら知らない者もいる。
逆に言えば、そうした忘れられた階段は、人目を避ける場所としてうってつけなのだった。
ザーンに帰還《きかん》したサーラが真っ先に向かったのも、そうした使われていない外部階段のひとつだった。岩山の頂上近くにあり、そこに行くには迷路のような岩山の内部をぐるぐる回って登らなくてはならない。外に出る通路にはわざわざロープが張られ、『危険につき通行禁止』の札がかかっているが、そんなものは無視する。
出口から顔を出し、あたりを見回す。風はなく、よく晴れていた。はるか眼下《がんか》に広がる森林はすっかり冬景色を脱ぎ捨て、みずみずしい緑に染まっている。冬の間はかすんで元気がなさそうに見えた遠くの山々も、今日ははっきり見えた。外に出て日なたぼっこするには絶好の日和《ひより》だ。
階段の傾斜はゆるやかで、長年の風雨で摩滅《まめつ》して、角が丸みを帯びていた。少年の身長ぐらいの横幅しかなく、手すりもない。転落したらまず助からないだろう。最初に来た時は足がすくんだが、今ではすっかり慣れっこになっていた。期待に胸をふくらませ、軽快な足取りで駆け上がる。
階段の途中にあるいつもの踊り場で、彼女は待っていた。
少女は空に突き出した踊り場の縁に腰掛け、足を空中にぶらつかせて、流れる雲を眺《なが》めていた。女らしい体形はようやく形成されはじめたばかりで、まだ少年と見分けがつきにくい。いつもと同じ黒いズボン、黒い上着という、色気《いろけ》のない格好《かっこう》だ。
「デル!」
サーラが声をかけると、少女は振り返り、恥ずかしそうに微笑《ほほえ》んだ。
その微笑みが、サーラにはたまらなく嬉しかった。幼児期につらい体験をして、心に深い傷を負っているデルは、まだ他の人間に笑みを見せようとはしない。育ての親である盗賊《とうぞく》ギルドの教育係、アルド・シータにさえもだ。
そんな彼女が、二人きりでいる時は、自分にだけこっそり微笑んでくれる――そんな些細《ささい》なことが、サーラには冒険《ぼうけん》の勲章《くんしょう》のようで、誇らしかった。
四か月前、彼はデルを大きな陰謀《いんぼう》から救い出した。隣国ドレックノールの盗賊ギルド幹部、闇《やみ》の王子<Wェノアが、彼女を自分の仲間に引き入れようと企《たくら》んだのだ。彼女の死んだ父は、英雄≠ニ呼ばれた天才盗賊バルティスである。デルがいずれ父親ゆずりの才能を発揮《はっき》し、ザーンの盗賊ギルドの中で頭角《とうかく》を現わすと、ジェノアは予測していた。
サーラは決死の活躍で、彼女をジェノアの誘惑の魔の手から守りぬいた。それ以来、二人の仲は親密なものになっていた。
「帰ったよ!」
サーラは元気良くそう言うと、デルの横にやって来て、腰を下ろした。まねをして空中に足を垂《た》らす。落下に対する本能的恐怖が、ひやっとした感覚となって足を撫《な》で、それがかえって心地いい。
「お帰りなさい……」
デルは消え入りそうな声でつぶやいた。何だか夫婦みたいな会話だな、とサーラはおかしく思った。
ここのところ、サーラはデインたちと冒険の旅に出ることが多いし、デルは盗賊ギルドで修行の身なので、二人がこうして会えるのは、ひと月のうち数日だった。今回も、サーラがベルダインとの国境近くの海岸地帯までワイバーン退治《たいじ》に出かけていたので、一週間ぶりの再会である。
「ここだと思ったよ。ギルドの練習はお休みだし、こんな天気のいい日だしさ」
「…………」
「デルは空を見るのが好きだもんね」
「…………」
「ねえねえ、すごかったんだよ、ワイバーン退治! 聴《き》いてくれる?」
それから三〇分ほど、サーラはほとんど一方的に喋《しゃべ》りまくった。どんな旅だったか、デインたちがどんな作戦でワイバーンを倒したか、ワイバーンとはどんな恐ろしい生き物だったか……デルは空を眺めたまま、時たま「ふうん」「そう」と相槌《あいづち》を打つだけで、口をはさまなかった。
世間では「お喋りな男はみっともない」と言われていることは、サーラもよく知っている。自分でもそう思う。しかし、いつもデルの口数が少ないので、自分の方が積極的に喋らないと、間《ま》が保たないのだ。
案の定、ワイバーン退治の詳細《しょうさい》を話し終えると、会話が途切《とぎ》れてしまった。
「君の方は何か変わったことなかった?」
「別に……」
「そう……」
デルはちょっと考えてから、振り向いて言った。
「……ねえ、ひとつだけ変わったことがあるんだけど……」
「え? 何?」
サーラは少女の顔をまじまじと見つめる。表情の変化に乏《とぼ》しいデルの心理は読みにくいが、その訴えるような視線は、どうやら何かに気がついて欲しい様子《ようす》だ――だが、それが何なのか、サーラには見当もつかない。
「ごめん。何のことかよく分からない」
「そう……」
「何なのさ。ヒント出してよ」
「いいの……きっとまだ無理ね」
デルは少し寂《さび》しそうな様子で、また空に視線を向ける。彼女がかけた謎《なぞ》が解けなかったことで、サーラはちょっと悔《くや》しい想いをした。
二人の間を沈黙が支配する。
その気まずい時間が、サーラにはたまらなかった。二人の間に横たわる沈黙が、二人の心を隔《へだ》てる見えない壁のように感じられるのだ。何でもいいから喋ろうとあせって、懸命に話題を探す。
女の子とどんな話をしたらいいのか――恋をはじめたばかりの少年にとって、それは単純だが奥の深い問題である。自分だけで考えても埒《らち》が明かないので、デインたちに相談してみたこともある。
デインは冒険の経験は豊富だが、恋愛問題は苦手《にがて》らしく、慌《あわ》てて「そういうことはミスリルに訊《き》いてくれ」と言って逃げてしまった。
ミスリルは自分の体験を基《もと》に、「女をものにする方法」「女を(ベッドの上で)喜ばせる方法」について、こっそり教授してくれた。思春期のサーラにとって、それも非常に興味をそそられる話題ではあったのだが、現在悩んでいる問題には役に立たなかった――いくら何でも、この年でそこまで進むのは早すぎる。
フェニックスは「女の子にはロマンチックな言葉が一番よ」と、ありきたりなアドバイスをした。少し試してみたが、サーラはすぐに、自分には向かないと思い知った。使い慣れない言葉を使うと、歯が浮いてしまう。それに、飾った言葉を使えば使うほど、自分の本心から離れてしまうようで嫌《いや》だった。
レグはまったく問題外だ。
結局、サーラが学んだのは、冒険者は怪物退治には慣れているが、恋愛の専門家ではない、という単純な事実だった。
何分も考えあぐねた末、かえって混乱してしまって、サーラはつい、くだらないことを口にしてしまった。
「……恋ってさ、こういうものだったのかな?」
「え?」
デルが怪訝《けげん》な顔で振り返る。自分でも馬鹿《ばか》なことを言ってしまったと思うが、今さら取り消せない。
「つまりさ、歌とか物語に出てくる恋って、もっとこう……にぎやかっていうか、熱いっていうか……つまり、その……何て言ったらいいのか……」
「……情熱的?」
「そう、それ! もっと派手《はで》なもんだと思ってたんだ――こんな風に、ただ並んで、じっと座《すわ》ってるだけのものとは思わなかった」
デルは不安そうな顔を見せた。「じっと座ってるのは嫌?」
「いや、そんなことはないけど……」
「これは本当の恋じゃないって思う?」
「あ、いや、そういう意味で言ったんじゃないよ」
サーラは慌てて、失態《しったい》を笑いでごまかした。デルとつき合うのは、まるで繊細《せんさい》なガラスの器を扱うようで、神経を使う。
「ただ、僕も恋なんて初めてだしさ――いや、そもそも自分が女の子を好きになることがあるなんて、想像もしてなかったんだよね。だから準備がなくて……」
「私だってそうよ」デルはうなずく。「私だって、男の子を好きになるなんて、思ってなかった……」
デルは口数は少ないが、口に出す時は実にストレートだ。サーラは照れて、わざとらしく咳払《せきばら》いをする。
「よく分からないけど、きっと本当の恋って、たいていはこうやって何もしないで、ぼんやりしてるものなんじゃないかな。物語の中みたいに、かっこいい王子様が悪い魔法使いからお姫様を助けるなんてことは、めったにないんだよ」
「……そんなことないわ」
「?」
「少なくとも私にとって、あなたは王子様だもの……」
サーラは耳まで真っ赤になった。恥ずかしさのあまり、そこらじゅうを走り回りたい心境だ。ミスリルがこの場にいたら、「この果報者《かほうもの》!」とか言われて、後頭部を張り飛ばされていただろう。
恥ずかしいが、悪い気分ではなかった。
再び沈黙が訪れた。デルはそっと体を傾《かたむ》け、愛する少年の肩に体重を預けてきた。その重みは幸福の重みだった。サーラは少女の体の柔《やわ》らかい感触にどぎまぎしながらも、何もせずにぼんやりしてるのもいいものかな、と思っていた。
ちらっと視線を動かし、デルの横顔を覗《のぞ》きこむ。少女は目を閉じ、眠っているように見えた。黒い遅れ髪が頬《ほお》にかかっていて、それが妙《みょう》になまめかしさを感じさせる。ジェノアは彼女が五年もすればとびきり美しくなると予言していたが、それは本当だろうと感じた。その萌芽《ほうが》はすでに現われている。これに気がつかない他の男どもは馬鹿だ、とサーラは思った。
沈黙のうちに、さらに数十分が過ぎ去った。
薄い雲が太陽を隠した。少し風も出てきたようだ。春は浅く、風はまだ冬の冷たさを残している。
「……そろそろ中に入ろうか」サーラは言った。「あまり長くいると風邪《かぜ》ひきそうだし」
「もう少し」とデル。
「だって――」
「お願い、もう少し……!」
少女の手がサーラの膝《ひざ》をぎゅっとつかんだ。
「デル!?」
サーラは驚いた。デルの声が涙声であるのに気づいたのだ。慌てて両肩をつかみ、正面を向かせる。
少女の頬に涙が流れていた。
「ど……どうしたの、いったい!?」サーラはすっかり狼狽《ろうばい》した。「ぼ、僕、何か悪いことした!?」
「違う……違うの」デルはすすり泣きながら、何度もかぶりを振る。「あなたのせいじゃない……」
「じゃあ――」
「寂しかったの」
「え?」
「あなたがいない間、寂しかったの……」
サーラは苦笑した。「だって、たった七日間――」
「永遠のように長い七日だった」
「あ……」サーラの笑みが凍りついた。
「あなたが冒険に出るたびに、不安でたまらなくなるの。胸が張り裂けそう。もう二度と帰って来ないんじゃないかって……」
サーラは衝撃を受けた。自分とデルでは、心理的な時間の流れが違うことに、ようやく気がついたのだ。
自分にとって、デルと七日ぐらい会えないことは、それほど苦ではない。新しい土地に行くのは面白《おもしろ》いし、毎日のように変わったことが起きるので、彼女のことを気にかける時間は少ないのだ。それにザーンにいてアルドに保護されているかぎり、デルの身に何か起こる心配はない。
だが、デルにとってはそうではないのだ。かつて愛した父を失った彼女は、今また、愛する人を失いはしないかと、ひどく恐れているのだ。
「だったら、何でもっと早く言わなかったのさ? もう何回も旅に出てるのに……」
「『もう旅に出ないで』って? そんなこと言えない……」
「どうして?」
「だって、あなたはデインたちと冒険に出るのが楽しいんでしょ? 立派《りっぱ》な冒険者になるのが夢なんでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
「だから言えなかった。わがままだって分かってたから あなたを引き止めたら、あなたの重荷になるって知ってたから……」
「…………」
「でも、もう限界なの。強がりが続かない。気が狂いそう。もう離れていたくないの。ずっといっしょにいたいの」
「デル……」
「ごめんなさい、わがまま言って――でも、あなたに知って欲しかったの。私がどんな想いで待ってるのか、分かって欲しかったの。そうでないと……」
デルは少年の胸に寄りかかり、泣き崩《くず》れた。
「そうでないと――このままだと、あなたを憎んでしまいそうだから……」
サーラはひどく後悔《こうかい》し、自分の間抜《まぬ》けさを責めた。彼女をいつまでも守ってやると、彼女をきっと幸せにしてみせると誓《ちか》った、そのはずなのに――彼女がこれほど苦しんでいることに気がつかず、幸福な気分に浮かれていたなんて……。
「ごめん。気がつかなくてごめん……」サーラは強く彼女を抱きしめた。「君がそんな風に思ってたなんて……」
「謝《あやま》らなくていいの。私がわがままなだけだから……」
「違うよ。僕の方が馬鹿だったんだ」
高揚《こうよう》していた気分が一気に消沈《しょうちん》してしまい、サーラは大きなため息をついた。
「こんな大事なことに気がつかなかったなんて……恋人失格かな」
「そんなことない。あなたはとてもいい人よ。いい人すぎて、私なんかと釣り合わないぐらい……」
「自分を卑下《ひげ》するもんじゃないよ」
「だってそうだもの。私は変な女の子。自分で分かってる。男の子に好かれるような子じゃないもの……」
「そんなことない。僕は好きだよ」
「だって、私は昔――」
「昔のことなんてどうでもいい!」サーラはぴしゃりと言った。「僕は今の君が好きなんだから!」
デルが何にこだわっているのかは分かっていた。彼女は八歳の時、悪人たちから暴行《ぼうこう》を受けたことがある。体の傷は癒《い》えたが、心に生じた深い亀裂は、おそらく永遠に癒《いや》しようがない。それが彼女を女の子らしい生き方から遠ざけてきたのだ――サーラはその秘密を知る唯一《ゆいいつ》の人間だった。
「だからあなたはいい人だっていうの」デルは泣きながら微笑んだ。「いい人すぎて不安になるの。あなたを失ってしまったら、もう代わりはない――あなたが死んだら、私もおしまいなの」
胸にもたれかかってすすり泣く少女の体重が、ずっしりと重く感じられた。さっきまでのが幸福の重みなら、今度のは責任の重みだ。デルの魂《たましい》、デルの生命を、自分が支えているという事実を再認識した。彼女を幸せにできるかどうか、彼女の悲しみを止められるかどうかは、他の誰でもない、自分にかかっているのだ……。
胸にのしかかっているのは、単なる少女の体重ではない――肉体も心も人生もひっくるめた、一人の人間の全存在なのだ。
「ごめんなさい――私って迷惑でしょ?」
「そんなことないよ」
「だって、あなたの自由を縛ってる気がする……」
「そんなことないって」
とりあえず今は、彼女の涙を止めてやらねばならない――そのための方法を、サーラはひとつしか知らなかった。
「キスしていいかな……?」
「…………」
「キスするよ」
少女の返事を待たず、サーラは彼女の小さな顎《あご》に手をやり、そっと持ち上げた。涙でうるむ黒い瞳《ひとみ》が少年を見上げる。サーラは目を閉じ、優《やさ》しく唇《くちびる》を重ねた。
大人たちがなぜキスをするのか、ようやく理解できた気がした――「これ以上、言葉なんて必要ない」「君へのこの想いは言葉では表わせない」……それを表現するために、お互いの唇をふさぐのだ。
たっぷり一分ほどして、二人はどちらからともなく唇を離した。デルの表情はまだ悲しそうだったが、どうやら涙は止まっており、いくらか生気《せいき》が戻っていた。サーラはほっとした。
「……ねえ、いつかいっしょに冒険に出ようよ」
「え?」
「コンビを組んで冒険するんだよ。危険も二人でくぐり抜けるんだ。死ぬのも生きるのもいっしょでさ――それなら寂しくないだろ?」
口が勝手に動いて、言葉が出てくるようだった。デルの表情から悲しみが消え、見る見る輝きを取り戻す。
だが、サーラの中にわずかに残っていた理性の部分が、暴走にブレーキをかけた――おい、ちょっと早すぎるぞ。これじゃまるっきりプロポーズじゃないか。
「ああ、もちろん今すぐじゃないよ」サーラは慌てて言い直す。「僕はまだ一人前にほど遠いし、君を守れる自信がないんだ。だからもっと冒険を重ねて、修行を積まなくちゃいけないんだ。君を守るために――分かる?」
「……ええ」デルは素直にうなずく。
「だからさ、今は寂しいだろうけど、もう少しがまんしてよ。君のために、できるだけ早く、強くなるから」
「私のために……?」
「そう、君のために」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「じゃあ、約束して」
「ああ」
幼い恋人たちは再び唇を重ね、誓いを確かなものにした。
「……中に入ろうか」
「……ええ」
二人は立ち上がり、肩を組んで、ゆっくりと階段を下りはじめた。ほんの一時間ほどの会話で、ずいぶん大人になった気がした。
突然、サーラは無性《むしょう》におかしくなって、くすくす笑い出した。
「どうしたの?」
「いや、ふっと思ったんだよ。僕たちってきっと、世界でいちばんキスに慣れてる十二歳だなって」
デルもつられて、小さな声で短く笑った――サーラが初めて耳にする、彼女の笑い声だった。
デルと別れ、冒険者の店「月の坂道」亭に戻ったサーラを迎えたのは、思いがけない怒鳴《どな》り合いの声だった。
「はっきり言いなよ! あたしの下品なところが気に入らないならさ!」
「そんなこと言ってないだろ!」
「言ってなくたって態度に出てるよ! あんたのそういう奥歯にもののはさまったような言い方が大嫌いなんだ!」
「そっちこそ、さっきから何だよ! 突っかかってばかり!」
言い合っているのは、レグとデインだった。テーブルをはさみ、今にも殴《なぐ》り合いをはじめそうな雰囲気《ふんいき》だ。他の客や店の主人は、その勢いに押されたのか、あっけにとられて眺めているだけだ。
「いったいどうしたの……」
口をはさもうとしたサーラを、入口の脇にいたフェニックスが引き止め、小声で「しっ」と制止した。
「だめよ。口を出しちゃ……」
「でも、どうして……?」
「いつもと雰囲気が違うわ」
フェニックスが深刻そうにつぶやく。言われるまでもなく、サーラもそれには気がついていた。デインたちのチームワークも、完全に一枚岩というわけではない。意見の対立で怒鳴り合う光景も、何度か見たことがある――だが、今回はかなり様子が違う。こんなにも激しい対立は見たことがない。
「さあ、言ってみなよ! お坊っちゃまの本心をさ! あたしのことを粗野《そや》で馬鹿な女だと思ってんだろ!?」
レグの度重《たびかさ》なる挑発《ちょうはつ》に、ついにおとなしいデインの堪忍袋《かんにんぶくろ》も切れた。
「ああ、そうとも! 下品で礼儀を知らない、嫌な女だよ、お前は!」
「はっ! とうとう言ったね!」レグは勝ち誇ったように笑った。「それがあんたの本音《ほんね》かよ! 今までずっとそういう目で見てたんだね!」
「僕はだな――」
「もういい! 何も言うな!」
ばん! レグは力いっぱいテーブルをぶっ叩いた。
「あんたなんかとはやってられない! 今日かぎり、抜けさせてもらうよ!」
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3 消えたレグ
「……で、結局、口論《こうろん》の原因は何だったんだよ?」
その夜遅く、閉店して明かりを落とした店内で、サーラ、ミスリル、フェニックス、それに店の主人のジムズが、カウンターをはさんでひそひそ話をしていた。ミスリルだけは店に帰るのが遅かったため、レグとデインの口論を目撃していない。デインは憤慨《ふんがい》して家に帰り、レグは自室にこもったままだ。
「さあ、分からんねえ」
初老のジムズは、慣れた手つきでカウンターに銀貨を積み上げ、売り上げを計算しながら、しかめっ面《つら》で首をひねった。
「最初の方は聞いてなかったからな。ここじゃ口論なんてしょっちゅうだし、いちいち気にしてなんかいられないよ。気がついたら、大げさなことになってた……」
ミスリルは苛立《いらだ》った。「しかしなあ、話題の中心みたいなものはあっただろ?」
「デインがレグのことを悪く言ったんだ」サーラは耳にした口論の内容を何とか要約しようとした。
「下品だとか、何とか……」
「あいつが? そりゃ変だな。そんな奴《やつ》じゃないはずだが」
ミスリルが弁護するのは当然である。デインは上流階級の出身でありながら、ダークエルフの血が混《ま》じったミスリルと対等につき合ってくれる、数少ない人間の一人なのだ。
「僕もそう思うんだけど……」
「第一、レグの品の悪いのは、今にはじまった話じゃないぞ。何でそんなことで喧嘩《けんか》しなきゃならねえんだ?」
「突っかかっていったのはレグの方だったな」とジムズ。「何だか分からんが、すごく腹を立ててた。デインの方がとまどってた様子《ようす》だったよ――あんた何か知らないかい、フェニックス?」
それまで何も言わずにカウンターに寄りかかり、心配そうに考えこんでいたフェニックスは、急に名前を呼ばれてまごついた。
「え、私?」
「そう。レグと同室だし、よく話してるだろ? 彼女が腹を立てた原因、思い当たるふしはないかな?」
「さ……さあ。特に思いつかないわ」
「そうか……」
「でも、口にはしなくても、だいぶ前から反感はあったのかもしれない。何と言っても、生まれも育ちも性格も正反対の二人なんだし……」
デインはこの街のチャ=ザ神殿の司祭長の一人息子である。冒険者《ぼうけんしゃ》の多くはまともな家庭を持たず、金儲《かねもう》けのために危険な仕事をしているのだが、デインは違う。何不自由ない恵まれた家庭がありながら、父親の許しを得て、司祭の修行の一環として冒険者をやっているのだ。世界を渡り歩いて見聞《けんぶん》を広めると同時に、邪悪《じゃあく》な存在を滅《ほろ》ぼし、体を張って稼ぐ金のありがたみを知る――一石三鳥《いっせきさんちょう》の修行というわけだ。
一方のレグは、ガルガライス出身の傭兵《ようへい》の夫婦の娘だ。初めてゴブリンを殺したのは十歳の時。十二歳で家を飛び出して以来、世間の底辺を這《は》い、腕だけを頼りに生きてきた。戦うことしか知らず、女らしさとか行儀作法《ぎょうぎさほう》にはまったく無縁だ。
「反感、ね」ミスリルは意味ありげににやにや笑った。「本気でそう思ってんなら、フェニックス、お前さんの観察眼を疑うね」
彼女はミスリルをにらみつけた。「どういうこと?」
「三年以上もいっしょにやって来たのに、今さら生まれの違いがどうのこうので喧嘩になるかね? 俺の見るところ、原因はまったく逆だな」
「逆?」
「ああ。あの二人が喧嘩するとしたら、そりゃ夫婦喧嘩ってやつだ」
サーラは目を丸くする。「夫婦喧嘩?」
「ああ。お前にゃ分からんかもしれんが、あの二人、見た目よりかずっと親密なんだぜ」
「そんな風に見えないけどなあ……」
「そりゃそうだ。冒険の間はそんな様子は見せないのが、冒険者の不文律《ふぶんりつ》ってもんだ」
「不文律?」
「ああ。俺たちみたいに男女の混合したパーティはたくさんある。血の気《け》のあふれた男と女が何週間も、時には何か月もいっしょに旅して、生死をともにしてれば、恋のひとつやふたつ、生まれない方がおかしい。だろ?」
「まあ、そう思うけど……」
「だがな、いくら愛し合ってるからって、二人が旅の間ずっといちゃいちゃしててみろ。たちまちバランスが崩《くず》れちまう」
「バランス?」
「人間関係のバランスさ。二人がいちゃつく様子を見せつけられたら、他のメンバーも平静じゃいられない。悪影響が出るんだ。冷やかしとか、やっかみとか……挙《あ》げ句の果てに、横恋慕《よこれんぼ》だの三角関係だのが発生して、パーティはがたがたになる」
「ほんとに?」
「まあ、必ずそうなるとは断言できないがな」ジムズが口をはさむ。「そうなる可能性が高いのは確かだ。色恋沙汰《いろこいざた》が原因で崩壊《ほうかい》したパーティは、いくつも見てる」
「特にまずいのは、戦いにそれが影響することだ」とミスリル。「お前ももう知っての通り、戦いにはチームワークが大事だ。チームワークってのは、言ってみれば信頼関係だな。自分が前に出て攻撃する時、誰かが後ろから援護《えんご》してくれる。自分が呪文《じゅもん》を唱《とな》えている間、誰かが敵の注意を引きつけてくれている――それが信じられるからこそ、安心して戦えるってもんだ」
「それは分かるけど……」
「嫉妬《しっと》だの恨《うら》みだので、お互いが信じられなくなったらどうなる? 安心して戦うことなんかできなくなる。へっびり腰になっちまって、思い通りに力を出しきれない。チームワークはがたがただ」
「そうか……」
「俺たち四人のチームワークだって、一朝一夕《いっちょういっせき》に出来上がったもんじゃないぜ――そうだろ、フェニックス?」
「ええ、そうね」フェニックスは目を閉じ、懐《なつ》かしそうに回想する「最初のうちはお互いに信頼しきれなくて、ぎくしゃくしてたわ。しくじって喧嘩もした――今みたいに息の合った戦いができるようになるまで、ずいぶんかかったわ」
「そう言えば……」サーラは思い当たることがあった。「ワイバーンとの戦いの時、レグの動きがいつもと違ってたよ。何だか踏みこむのをためらってるような感じだった。ひょっとして、関係あるのかな?」
「さあ……どうかしら」
あれが信頼関係の崩れる前兆《ぜんちょう》だったのかもしれない、とサーラは思った。デインとの仲が悪くなっていたので、彼が信頼できなくなり、思いきってワイバーンに攻撃をかけられなかったのかも……。
「でも、嫌《いや》だな。せっかく仲良くやってきたのに、こんな些細なことでばらばらになるなんて……」サーラはフェニックスに向き直った。「ねえ、レグを説得してよ。デインと仲直りするようにさ」
フェニックスは困ったような表情を見せた。「いいえ。口出ししない方がいいわ。しばらく見守りましょう」
サーラには彼女の言い方が妙に冷淡なように思えた。仮にもレグと同じ部屋で寝起きを共にしているのだから、もっと心配していいはずなのに……。
「どうして? レグと友達なんでしょ?」
「ええ……友達よ」
「だったら」
「友達だからこそ、言いたくないのよ」フェニックスはきっぱりと言った。「これはデインとレグの問題よ。私たちが何を言おうと関係ないわ」
「そうかな? チームワークはみんなの問題だと思うけど……」
「かもしれない。でも、結局はあの二人の考えしだいだもの」
「だって……」
「それに、レグは説得して素直に聞くような性格じゃないわ」フェニックスは畳みこむように言った。「下手《へた》に口出しして、ややこしいことになるより、放っておいて、怒りが醒《さ》めるのを待つ方がいいと思うの」
サーラは言い返そうと思ったが、できなかった。確かにフェニックスの言うことにも一理ある。何と言っても、彼女の方がレグとのつき合いが長いのだし、性格もよく分かっているはずだ。
しかし、どこか割りきれなかった――何かひっかかる。
「ま、お前さんがそう言うならな……」
ミスリルも割りきれない様子だった。
その夜、サーラはなかなか眠れなかった。ベッドに横たわって天井《てんじょう》を見上げたまま、小さな胸の中に高まる不安を抑《おさ》えきれず、頭を悩ませていた。
いっぺんに多くのことが起きた一日だった。デルのことも心配ではあるが、レグとデインのいさかいも気がかりだ。四人の結束《けっそく》はもっと固いものと思っていたので、ショックも大きかった。このまま二人の仲が元に戻らず、パーティがばらばらになったりしたらどうしよう?――いろいろ考えてはみるものの、十二歳の少年には複雑すぎる問題で、結論は出そうにない。
「ねえ……」
サーラは隣《となり》のベッドに寝ているミスリルに呼びかけた。
「ん……?」
「ほんとにだいじょうぶかな、あの二人……? このまま喧嘩別れしちゃったりしないよね……?」
「さあ……どうかな」ミスリルは眠そうに答える。
「心配じゃないの?」
「そりゃまあ、心配してないと言えば嘘《うそ》になるが……フェニックスの言う通り、なるようにしかならないってのも確かだ」
「余計な口出しするなってこと?」
「ああ……歌にもあるじゃないか。『人の恋路《こいじ》を邪魔《じゃま》する奴は、ドラゴンの尻尾《しっぽ》にはたかれる』って」
「レグはデインが好きなんだと思う?」
「たぶんな」
「だったら何で喧嘩するのさ!」
「デルと喧嘩したことはないのか?」
「ない……」
「デルとのつき合いが長くなれば、分かってくるさ――人の性格や考え方はみんな違う。深くつき合えばつき合うほど、相手と自分の違いが見えてくる。そしてついに、それが許せない瞬間がやって来る……」
「……マローダと別れた時もそうだった?」
「まあな」
「僕は許すよ」サーラは断言した。「デルがどんなに僕と違っていても、みんな許す」
ミスリルは闇の中で苦笑した。「そう言いきれるお前は幸せ者だな――いや、デルの方が幸せと言うべきか」
サーラは闇の中で頬《ほお》を赤らめた。
「でも、信じられないよ――デインとレグが喧嘩するなんて」
「ああ、俺も実のところ、意外に思ってるんだ」
「それにフェニックスのあの態度――変だと思わない?」
「お前も変だと思うか?」
「うん」
「そうか……」ミスリルはうなった。「やっぱりな――フェニックスは二人の問題だとか言ってたが、どうも怪《あや》しい。彼女もこの一件に何か噛《か》んでるぜ」
「どういうこと?」
「分からん。だが、何か追及されるとまずい事情があるのは確かだ」
「事情を知らないのは僕たちだけ?」
「そういうことだ――くそ! まったく水臭《みずくさ》い! 俺たちがそんなに信用できないってのかよ?」
ミスリルの憤慨《ふんがい》はサーラにも理解できた。
「こんなことは初めて?」
「ああ――こんなんじゃ、チームワークも期待できんな」
「そんな……」
信頼で結ばれたデインたちのチームワークが崩壊する――それは彼らを崇拝《すうはい》しているサーラにとって、ひどいショックだった。
「ま、取越《とりこし》苦労だと思うがな」サーラを安心させようとしてか、ミスリルはわざとらしく気楽な口調で言った。「絶交するほどの深刻な喧嘩なんて、めったにないもんさ。ただの痴話《ちわ》喧嘩なら、それこそ二、三日もすれば元の鞘《さや》に収《おさ》まるだろ」
「だといいけど……」
「長く続くようなら、俺たちでさりげなく、仲直りするように仕向けてみるさ――何にせよ、あせるような問題じゃない。明日になってから考えればいいんだ」
「そうだね……」
サーラはようやく少し気が楽になり、まもなく眠りについた。
だが翌朝、ミスリルの楽観的な予想はあっさりはずれた。
「出て行ったあ!?」
サーラとミスリルは声を合わせて叫《さけ》んだ。
「ああ――まだ朝早いうちにな」ジムズが面目《めんもく》なさそうに言う。「預けてた金を全部返せって言って……」
いつ帰れるか分からない長期の旅行は別として、冒険者が冒険に出る間、貯《た》めこんだ財産を全額持って歩くことはめったにない。重くなるし、荷物を盗《ぬす》まれでもしたら大変だからだ。だから信頼できる店の主人に手数料を払って預かってもらうのが一般的だし、デインたちもそうしていた。これまでに冒険で得た報酬《ほうしゅう》は、すべて均等に分配し、それぞれの名前で「月の坂道」の金庫に保管してもらっていたのである。
「それで、レグに全部返したのかよ?」
ジムズは不機嫌そうに肩をすくめる。「返さんわけにいかんだろう? しぶったら殺されそうな勢いだったしな」
「いくらだよ?」
「ざっと四万ガメル――持ち運びやすいように、宝石に替《か》えていった」
つつましい生活をしていれば、数年は働かずに暮らせる額である。
「そんなに? レグの奴、いつの間にそんなに貯めこんでたんだ……?」
「お前さんと違って、あの娘はギャンブルにうつつは抜かさんからな」
「うるせい! そんなことより、何で無理にでも足止めしなかったんだよ!?」
「言っただろう、殺されそうな勢いだったって! それに、お前さんらはグースカ寝てて、起きて来んかったし……」
ミスリルは苛立《いらだ》ち、サーラは恐縮《きょうしゅく》した。確かに、昨夜は眠るのが遅かったので、二人が起きた時にはもう昼近かったのだ。
「フェニックス! お前は同じ部屋にいて、出て行ったのに気がつかなかったのかよ!?」
ミスリルは振り返って、怒りの矛先《ほこさき》をフェニックスに向けた。彼女は恐縮して、子供のように首をすくめる。
「ごめんなさい……私もよく寝てたから……」
「ちっ!」
ミスリルは露骨《ろこつ》に疑惑の視線を投げかけた。レグだって部屋を出る前に、荷物をまとめることぐらいはしたはずだ。その気配《けはい》にフェニックスがまったく気がつかなかったとは信じがたい。
だが、ここでフェニックスを追及してもしかたがない。
「あんたもあんただぜ、親父《おやじ》さん! 起こしてくれれば、すぐ追いかけられたのに……・」
「釘《くぎ》を刺されたんだよ。お前らを起こすな、ってな」
「いくらそう言われたからって、馬鹿正直《ばかしょうじき》に従うこたあないだろう!?」
ジムズは顔をしかめた。
「お前さんは『冒険者の店』というものを、まだよく分かっとらんようだな、ミスリル」
「何?」
「わしはな、この商売を何十年もやってきとるんだぞ。仲の良かったパーティが、くだらんきっかけで別れるのが、お前さんらが初めてだと思うのか? とんでもない! そんな連中は何十組も見てきたんだ」
「しかし――」
「お前さんたち冒険者のために、ベッドと酒を提供し、仕事を紹介する――それが『冒険者の店』というもんだ。それ以上でも、以下でもない。どんな仕事を選ぶかはお前さんたちの自由だし、仲間と出会うのも、別れるのも、お前さんたちの勝手だ。あいつとくっつけとか、あいつとは別れろとか、そんなことに口出しする権利は、わしにはない。分かるか? レグがお前さんたちと別れたいと言うなら、わしには何も言えんのだ――悲しいことだがな」
そこまできっぱり言われては、ミスリルにも反論できなかった。
「……どこへ行ったか分からないのか?」
「さあな」ジムズは投げやりな口調で言う。「だが、きちんと旅支度《たびじたく》をしていて、すぐに街を出る様子《ようす》だったぞ」
「うーむ、朝一番に街を出たとすると、今頃はかなり先に行ってるな……」ミスリルは腕組みをして考えこんだ。「問題はどっちへ行ったかだ。東か、西か――ベルダインか、ドレックノールか……?」
「……西、だと思うわ」フェニックスがおずおずと口にする。
「ん? 何でだ?」
「ええと、その……彼女、ドレックノールに行くようなこと、言ってたから……」
「ほう、ドレックノールにね」ミスリルはにやりと笑った。「それではっきりした。レグが向かったのはベルダインだ」
「え?」
「当然だろ? この慌《あわ》ただしい出発から見て、あいつは俺たちに後を尾《つ》けて欲しくないらしい。となると、自分の行き先を正直にお前さんに教えるはずがない。あいつもそれぐらいの頭はあるさ。つまり、本当の行き先は東だ――違うか?」
「…………」
フェニックスは答えなかった。その気まずい沈黙が、何よりも雄弁に、ミスリルの推理の正しさを物語っていた。
「ようし、サーラ、急いでデインを呼んで来い!」
サーラは身を乗り出した。「レグを追いかけるんだね?」
「もちろんさ」
「だったら、ちょっとデルに断わってきていいかな?」
「あん?」
「だって、レグをつれ戻すのに何日かかるか分からないんだし、僕が急に姿を消したら、彼女、心配するだろうし……」
「お前も来る気か?」
「あったり前じゃない!」サーラは口をとがらせた。「僕だってパーティの一員だよ! こんな一大事に、僕だけ残るなんて――」
「ああ、分かった分かった」ミスリルは面倒臭そうに手を振った。「だったら、お前、デルのとこに行って来い。デインは俺が呼びに行くから」
「分かった!」
サーラは元気よく飛び出してゆく。ミスリルもその後を追って店を出ようとした。
「ミスリル――」
フェニックスが不安そうな様子で呼び止めた。
「ん? 何だよ?」
「どうしてもレグをつれ戻すの?……なぜ放っておいてあげないの?」
ミスリルは振り返り、フェニックスをにらみつけた。彼女の表情は固く、何かひどく思い詰めている様子だ。
「……放っちゃおけねえな」
「どうして?」
「レグをとっ捕《つか》まえて、本音《ほんね》を吐かせたいからさ。お前らがいったい何を隠してるのか、はっきりさせたいんだ」
「…………」
「どうしてもそれが言えないっていうなら俺たちはもうおしまいだ」
吐き捨てるようにそう言うと、ミスリルは店を飛び出していった。
知らせを受けたデインは、大急ぎで旅支度を整え、父親の質問を振りきって家を飛び出した。レグを追いかけて、何としてでも本音を問い質《ただ》したいという点では、彼の想《おも》いはミスリルと同じだった。
むしろ準備が遅れたのはサーラの方だった。デルに一時の別れを告げるのに、思いがけず時間がかかってしまったのだ。昨日、旅から戻ったばかりだというのに、また慌ただしく出発しなくてはならない、その事情を説明するのがひと苦労だった。
「心配しなくていいよ。今回は危険な冒険じゃないんだ。レグをつれ戻したら、すぐに帰るから。約束するよ」
それでも不安そうな様子のデルをなだめるのに、サーラは自分の知っているありったけの言葉を使わなくてはならなかった。
その間にミスリルは、念のために心当たりを回って、レグの行方《ゆくえ》の手がかりを探した。ザーンの正門で人の出入りを監視している衛視《えいし》に訊《たず》ねてみると、確かに今朝《けさ》早く、顔に傷のあるごつい体格の女戦士が、馬に乗って出発したことが分かった。馬は朝市で商人から買ったものらしい。
徒歩では馬に追いつけない。デインはぽんと一万ガメルを投げ出し、二頭の馬を手に入れた。デインとサーラ、ミスリルとフェニックスがそれに分乗し、西の空に傾《かたむ》く太陽を背に、隣国ベルダインへと出発した。
フェニックスを同行させるのについては、デインとミスリルの間に意見の対立があった。ミスリルは彼女を信頼していなかった。どうも彼女は、レグとデインの不和を裏で助長しているように見える――しかし、どうしてもいっしょに行かせてくれと頼むので、デインもそれを断わる理由はなかった。
デインは数時間|交替《こうたい》でサーラにも手綱《たづな》を握らせた。サーラは牧場で育ったので、少しだが乗馬の経験があった。全力疾走《ぜんりょくしっそう》する馬から振り落とされない自信はないが、だく足で走らせるぐらいならできる。これほど切迫した事情でなかったら、きっと楽しい旅だったに違いない。
彼らは「自由人の街道」を東に向かったが、馬を疲れさせない程度に歩調を上げたにもかかわらず、半日の遅れはなかなか取り戻せなかった。街道沿いにある村を通過するたびに、宿屋や酒場で訊ねてみると、レグらしい女戦士が通過したことは確かなのだが、夕方に訊ねると「今朝出発した」と言い、夜に訊ねると「昼間通り過ぎた」という返事が返ってくるのだ。
半日前の差を挽回《ばんかい》できないまま、彼らはベルダインに着いてしまった。
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4 吊《つ》り橋の危機
芸術の都《みやこ》として有名なベルダインは、海岸沿いにある旧市街と、丘の上にある新市街に分かれている。
九〇年前に造られたばかりの新市街は、六角形のベルダイン城を中心として、天才建築家ラフォニールの設計した優美な建造物が立ち並び、住民も貴族や金持ちが多い。下水道も完備していて、石畳《いしだたみ》で舗装された街路《がいろ》にはゴミひとつ見当たらない。さながら街全体が一個の芸術作品である。
一方の旧市街は、港湾施設、倉庫、作業場、低所得者層のごみごみした住宅が密集し、怪しげな酒場やカジノも繁盛《はんじょう》している。建物は全体に薄汚れ、通行人の服装も一見して新市街とは異なる。新市街が徹底《てってい》して排除した醜《みにく》い部分の一切《いっさい》を、旧市街が背負いこんでいるような印象を受ける。
「やっぱりガルガライスに向かったらしいな」
ベルダインの旧市街にある宿屋「牢獄亭《ろうごくてい》」の一室で、彼らは街で集めた情報を持ち寄り、検討していた。
テーブルの上にはベルダイン周辺の地図が広げられている。ガルガライスはここからさらに南、馬なら一〇日の距離にある港湾都市だ。途中の道はほぼ海岸線に沿っており、曲がりくねっている。
「今朝《けさ》、ごつい女が馬で南に向かったのを、果物売りが覚えてた」とミスリル。「特徴からして、レグに間違《まちが》いない」
「ガルガライスって、レグの故郷だよね」サーラが地図を覗《のぞ》きこんで言う。
「そうだ」デインが深刻な顔でうなずく。「八年前に家出して以来、近づくのを嫌っていたんだがな。何か大きな心境の変化があったらしい」
「心境の変化ねえ」ミスリルは探《さぐ》りを入れた。「さて、原因はいったい何かねえ?」
「知るか。僕の方こそ知りたいぐらいだ」
「ほう?」
デインはいつになくきつい顔つきで、ミスリルをにらみつけた。「本当だ。なぜレグが急にあんな態度を示したのか、見当もつかん」
「心当たりもないってのか?」
「当たり前だ! 僕に何か落度があったなら、素直《すなお》に謝《あやま》ってるさ! だが、いくら考えても思いつかなんだ。そもそもあの喧嘩《けんか》だって彼女の方から――」
「ちょ、ちょっと待ってよ」サーラが慌《あわ》てて割って入った。「喧嘩の原因を考えることなんて、後でいいじゃない。今はレグに追いつく方法を考えるのが先決でしょ?」
「まあ、そうなんだが……」
「ねえ、フェニックス、何かいい案はない?」
サーラは振り返って訊《たず》ねた。しかし、フェニックスは答えない。三人の肩越しにぼんやりと地図を眺め、沈黙したままだ。
旅の間、彼女はずっとこうだった。名前を呼んでも、まともに返事すらしようとしない。何か大きな秘密を抱《いだ》いていて、その重荷に苦しんでいるらしいことは分かるのだが、それが何なのか、どうしても話そうとしないのだ。ミスリルはますます彼女に対する疑惑を深め、デインはますます苛立《いらだ》ち――一行は一触《いっしょく》即発《そくはつ》の状態だった。
日に日に苛立ちが増しているのはサーラも同じだ。レグの消息《しょうそく》や、フェニックスの奇妙な態度も気になるが、残してきたデルのことも心配である。レグに追いついてつれ戻すという簡単なことに、こんなに手間取るとは思わなかった。なるべく早く決着をつけて、ザーンに帰りたい。
「ねえ、夜も馬を走らせて追いかけたらどうかな? 半日の遅れなら、半日余分に走れば、取り戻せそうに思うんだけど」
「いや、それはだめだ」デインは一蹴《いっしゅう》する。「ただでさえ、二人も乗せて走るのは、馬にはかなりの負担なんだ。夜も走らせたら、たちまち潰《つぶ》れてしまう。そうなったら、もう追うこともできない」
「そうか……」せっかくの名案をあっさり否定され、サーラは唇を噛《くちびるか》んだ。
「しかし、このまま追いかけっこを続けるのか?」とミスリル。「今までは街道沿いに進んでたから、簡単に足取りが追えたが、ガルガライスに入ったら、そこからどこに行くか分からん。見失っちまうかもしれんぜ」
「ああ――こうなったら方法はひとつしかない。彼女がガルガライスに着く前に、近道をして、先回りするんだ」
そう言ってデインが指差したのは、地図の下の方、ベルダインとガルガライスのちょうど中間のあたりだった。マデラという村の手前に、ガドシュという名の小さな半島がある。半島はちょっとした山岳地帯になっており、街道はそれを避けて、海岸線に沿って大きく迂回《うかい》していた。
「この地図には載《の》ってないが、半島を突っ切る山道があるんだ。細いし整備されていないから馬車は通れないが、馬なら何とか行ける。そこを通れば、確実に半日は早くマデラ村に着けるから、そこで彼女を捕《つか》まえられる」
「道は知ってるのか?」
「ああ。七、八年前に通ったことがある」
「何でそんなとこに?」
「ガドシュ砦《とりで》の探索《たんさく》さ。山の中に古い砦の遺跡があってね、古代王国の秘宝が眠っているという噂《うわさ》を聞いて、五人の仲間と出かけて行ったんだ。まだ駆けだしの冒険者だった頃さ。結局、秘宝は他の連中がひと足先に持ち去っていて、骨折り損だったがね」
「山道だろ? 危険はないのか?」
デインは肩をすくめた。「砦にはコボルドの群れが棲《す》みついてたな。簡単に蹴散《けち》らしたが。あとはグレムリンや大トカゲ、狼《おおかみ》……それに毒蛇《どくへび》ってところか」
「たいしたことはないな」
「ああ――あと、途中で吊り橋を渡らないといけない箇所があるんだ。馬に吊り橋を渡らせるのに、ちょっと苦労したな」
「しかし、レグもこのへんの地理には詳《くわ》しいだろう? 近道だって知ってるはずだ。俺たちを引き離すつもりなら、彼女もここを通るんじゃないか?」
「まあ、その可能性もあるがな」デインはしぶしぶ認めた。「しかし、いくらたいした怪物が出ないからって、女の一人旅で山道を行くのは、やはり危険だ。迂回するんじゃないかと思うんだ」
「あのレグがか?」ミスリルは疑わしそうだった。「狼やコボルドが出るからって、こわがって回り道するかね?」
「……するわ」
それまで黙っていたフェニックスがいきなり発言したので、デインたちは驚いた。
「どういうことだ?」
「彼女はきっと迂回するわ」フェニックスは感情を抑《おさ》えた声で繰り返した。「危険を避けようとすると思うの」
「だから、どうして?」
彼女は悲しそうにかぶりを振った。
「理由は言えない――でも、これだけは確かよ。レグはきっと回り道をするわ」
かくして一行は、レグに追いつくために、街道を南へ向かった。
南に下るにつれて、気温は急速に上がっていった。三月とは思えない暖かさだ。サーラはたまらなくなってマントと上着を脱ぎ、アンダーシャツの上から軽いソフト・レザーの鎧《よろい》を身につけた。デインたちもそれぞれに薄着になる。フェニックスはいつもの長いスカートをやめ、短めの薄いスカートにはき替えていた。
フォーセリア世界の気象は精霊力《せいれいりょく》に支配されている。ガルガライスのあたりは火の精霊力が強いので、一年じゅう夏に近い気候で、住民は冬でも薄着や半裸《はんら》で暮らしている。ガルガライスの出身者が人前で肌をさらすのを好むのも、そうした習慣が身にしみついているからだ。彼らにとって、美しい肉体を必要以上の布きれで覆《おお》い隠すのは、大きな罪悪なのである。
ガドシュ半島の根元に差しかかったところで、街道を離れて、左に分岐《ぶんき》した道に入りこむ。道端《みちばた》には小さな道標《どうひょう》が立てられているが、すっかり風化して文字も読めなくなっており、この道が何世紀も前に造られたものであることを、無言のうちに語っていた。
道は曲がりくねりながら、緑に覆われた山の中に分け入っていった。植物相も気候に適応しており、熱帯性の大きな葉を持つ樹々《きぎ》や、派手《はで》な色の花が目立つ。むっとする熱気と、強烈な花の香り。猿の騒々《そうぞう》しいわめき声と、鳥のはばたき――幸いにも厄介《やっかい》な猛獣《もうじゅう》や怪物に出くわすことはなかったが、ザーン周辺の静かな森とはまったく異質で、本当に見知らぬ土地に来たのだという感じがひしひしとする。
だく足で数時間進むと、峠《とうげ》を越えた。不意に森が切れて、素晴《すば》らしい渓谷《けいこく》の景観が眼下《がんか》に広がり、サーラは思わず「うわあ……」と驚きの声をあげた。
渓谷はあたかも巨人の斧《おの》で大地を断ち割ったかのように、深く一直線に、南の海岸近くまで続いていた。もしも天の高みから見下ろしたなら、この半島が根元から引きちぎれそうになっているように見えることだろう。深い谷の底には渓流が銀色の糸のように流れているが、斜面が急なので降りられそうにない。
道はその渓谷の縁に沿って造られており、右側は数十歩先も見通せない深い密林、左側は目もくらむばかりの断崖絶壁《だんがいぜっぺき》だ。馬を走らせると危《あぶ》ないので、歩調を落として進む。あせらなくても、このまま谷に沿って下っていけば、陽が沈む前にはマデラ村に着けるはずだった。
しばらく進むと、谷の対岸に、密林に埋もれた小さな遺跡《いせき》が見えた。樹々の合間《あいま》に灰色の石壁があり、その向こうには円筒形の塔が建っている。
「ガドシュの砦だ」デインが指差して言った。「昔、探索したことがある」
「あれが?」
サーラは目をこらした。砦は崖っぷちぎりぎりに建てられていた。距離が離れているので細部は分からないが、石壁も塔も緑色の蔦《つた》に覆われていて、密林との見分けがつきにくい。塔も崩《くず》れているらしく、非対称の奇妙なシルエットをしていた。かなり長いこと放置されているらしい。
「宝物はなかったの?」
「ああ――地下にはヘカトンケイレス(百手巨人)がいて、古代王国の財宝を守っているっていう話だったんだが、僕たちが行った時には、宝物庫《ほうもつこ》の扉《とびら》は開《あ》けっぱなしになっていて、巨人の姿もなかった。後になって、どこかの魔術師が巨人のかける謎《なぞ》を解いて、財宝を持ち去ったっていう話を聞いた」
「巨人はどこへ行ったの?」
「さあ、分からんね」
デインの口調はそっけなく、心ここにあらずという感じだった。いつもならもっと生き生きと体験談を話してくれるはずなのに――やはりレグのことが心配なのだろうか?
一行は吊り橋に差しかかった。ここでいったん対岸に渡らないと、マデラ村には着けない。この先、渓谷の東側は道が細くなっていて、馬では通れないからだ。
巨大な谷に渡された吊り橋は、サーラの目には一本の糸のように細く、頼りなさそうに感じられた。いちおうは馬の重量も支えられる堅固《けんご》な構造にはなっているようだが、谷を渡る風にゆらゆら揺れており、見る者の不安をあおる。
「フェニックス、サーラといっしょに先に渡れ」デインは指示した。「僕たちは馬を渡さなくちゃいけない」
二人はその指示に従い、吊り橋を渡った。数年前に補修されたばかりらしく、橋を支えるロープはしっかりしていたし、床板も新しくて頑丈《がんじょう》だった。だが、板の隙間《すきま》から見える谷底の渓流は、まるで箱庭のように小さい。一歩進むごとに足許《あしもと》がぐらぐら揺れるのも嫌《いや》な感じだ。ザーンの岩壁をよじ登るのに慣れたサーラでさえ、恐怖のために足から血が退《ひ》くのを覚えた。
二人が渡り終えると、次は馬に橋を渡らせるという難問が待っていた。デインが前から手綱を持って引き、ミスリルが後ろから押して、馬を一頭ずつ渡らせるのである。もちろん馬も高いところは恐ろしいので、なかなか動こうとしない。それをなだめすかして、なんとか前進させなくてはならないのだ。
「くそ! 前の時の馬は、こんなに強情《ごうじょう》じゃなかったぞ!」
橋を前にして、地面に根が生《は》えたように動こうとしない馬に手を焼き、デインはぼやいた。対岸からその光景を見守っているサーラにも、その焦りは伝わってきた。太陽はじわじわと西の地平線に近づきつつある。
奮闘《ふんとう》すること数十分。ようやく馬は根負《こんま》けして、橋を渡りはじめた。橋は馬の巨体がぎりぎり通れる幅しかない。デインは蹄《ひづめ》が床板を踏みはずさないように注意しつつ、手綱を優《やさ》しく引っ張って、慎重に馬を導いた。どうにかうまく行きそうだ。サーラが胸を撫《な》で下ろしたその時――
背後でがさがさと草の揺れる音がした。
サーラとフェニックスははっとして振り返った。二人の背後には暗い密林が広がっている。最初は何も見えなかったが、懸命《けんめい》に目をこらすと、密林のあちこちに、隠し絵のようにひそんでいるものに気がついた。
敵だ! いつの間に接近していたのか、犬のような顔をした小型の妖魔《ようま》が多数、樹々の蔭《かげ》からこちらをうかがっている。
「コボルドだ!」
サーラは叫《さけ》ぶ。フェニックスはとっさに「眠りの雲」の呪文《じゅもん》を唱《とな》えた。これはコボルドのような弱い怪物にはよく効《き》く。目に見えない魔法の雲に包まれて、たちまち十数匹のコボルドが倒れた。
「どうした!?」
デインが驚いて振り返る。その動揺が馬に伝わり、馬は恐怖のいななきをあげて暴《あば》れた。デインは慌《あわ》ててそれを抑えようとする。
ほとんど同時に、呪文の効果範囲から逃《のが》れた他のコボルドたちが、隠れ場所からいっせいに飛び出してきた。手斧を振り上げ、奇声を発しながら、サーラたちに襲いかかってくる。全部で二〇匹はいるだろうか。フェニックスの呪文でも、これだけの数はいっぺんに倒せない。サーラたちは急いで吊り橋に後退《こうたい》した。
暴れた拍子《ひょうし》に、馬が前足を踏みはずした。前に激しくつんのめり、デインはその首の下敷きになって倒れた。怪我《けが》はしなかったものの、馬の体重がのしかかってきて、身動きできない。
「何やってんだ! どけ!」
ミスリルが馬の尻《しり》を押して怒鳴《どな》る。サーラたちを助けに行こうにも、馬の体が橋をふさいでしまっていて、前に進めないのだ。
逃げるサーラたちを追って、コボルドも吊り橋を渡りはじめた。フェニックスは橋の途中で立ち止まり、振り返って呪文を唱えた。まばゆい電撃が一直線に飛び、先頭の四匹のコボルドを串《くし》刺しにして、一撃で打ち倒した。焼け焦げた死体が防壁となって、他のコボルドたちの突進がはばまれる。
だが、フェニックスの攻撃はそこまでだった。橋の揺れが急に激しくなったのだ。足を踏みはずした馬がパニックに陥り、暴れはじめたのである。こうなっては手のつけようがない。揺れはどんどん大きくなり、まるで嵐に翻弄《ほんろう》される船のようだった。すでに橋の真ん中あたりまで逃げてきていたサーラとフェニックスは、振り落とされないようにロープにしがみつかねばならなくなった。この状態では古代語魔法の詠唱《えいしょう》に必要な複雑な身振りができない。
コボルドが橋に近づけない代わり、四人も橋の上のそれぞれの位置で、身動きが取れなくなってしまった。
「くそっ! 最悪の事態だな!」
馬を落ち着かせようと悪戦苦闘しながら、ミスリルは毒づいた。
彼は間違《まちが》っていた――その後にやって来たものこそ、本当の「最悪の事態」だった。
「うわあ!?」
ロープにしがみついていたサーラは、突然、何かに頭をかきむしられ、情けない悲鳴《ひめい》をあげた。いつの間にか黒い生き物が少年の頭上に来ていて、蜂蜜《はちみつ》色の髪に爪《つめ》でちょっかいをかけたのだ。サーラが慌てて振り払うと、そいつはけたけたと意地悪く笑い、大きな羽音とともに飛び離れた。
コウモリかと思ったが、違っていた。背中から生えた翼はコウモリのようだが、その下にある胴体はゴブリンに似ている。中型の犬ぐらいの大きさで、体毛はなく、皮膚は暗褐色だった。サーラは驚いたが、すぐにそいつの名に思い当たった。
空の小鬼<Oレムリン――コボルドと同じく妖魔の一種で、小さくて弱いが、陰険な性格で知られる厄介なやつだ。
グレムリンはもう一匹いた。二匹は今度はフェニックスに襲いかかり、身動きできない彼女の全身をくすぐり回しはじめた。身もだえするフェニックス。
「こんちくしょう!」
最後の手段、ミスリルは馬の頭に闇《やみ》の精霊シェイドをぶつけ、失神させた。ぐったりとなった馬の体を乗り越え、フェニックスの救援に向かおうとする。デインもようやく馬の首を押しのけ、立ち上がった。だが、橋の揺れはまだ収まらず、二人とも思うように前に進めない。
ミスリルは左手でロープをつかんで体を支え、右手を空中高く掲《かか》げた。
「アーム・ド・リュミエール、光の精霊よ……」
精霊語の呪文を唱えると、ぼんやりと光る球体が二つ、空中に出現する。光の精霊ウィル・オー・ウィスプだ。
「行けえ!」
ミスリルが命じると、ウィル・オー・ウィスプは二匹のグレムリンめがけて飛んだ。命中すればおそらく一撃で倒せたはずだった。
だが、グレムリンはその攻撃を読んでいた。こちらもとっさに精霊魔法を唱え、二個のシェイドを空中に出現させ、盾《たて》にする。光と闇の精霊がぶつかり合い、しゅっという小さな音とともに打ち消し合った。
シェイドが消滅した後、橋の上にグレムリンの姿はなかった。サーラとフェニックスがしがみついているだけだ。
「消えた!?」
続けて攻撃しようとしたミスリルは、新たに出現させた二個のウィル・オー・ウィスプを空中に待機《たいき》させたまま、驚いてあたりを見回す。
「ミスリル、下だ!」サーラが警告する。
「何!?」
慌てて足許を見下ろすミスリル。敷き詰められた床板の隙間から、黒いものが通過するのがちらっと見えた。グレムリンはシェイドで身を隠し、その際に橋の裏側にもぐりこんだのだ。予想外に狡猾《こうかつ》な連中だ。
「この野郎!」
ミスリルは腕を振り回した。二個のウィル・オー・ウィスプは左右に分かれ、大きな半円を描いて橋の下に飛びこみ、交差する。何度も、何度も――だが、目標がよく見えないので、なかなか当たらない。
「うっ……!」
ミスリルは意識がぼやけるのを感じ、頭を押さえてよろめいた。グレムリンが得意の精神を混乱させる魔法をかけてきたのだ。意志の力で払いのけたものの、ウィル・オー・ライスプは制御《せいぎょ》を失い、飛んで行ってしまった。
いきなり足首をつかまれた! バランスを失って転倒するミスリル。グレムリンどもはいつの間にか彼の真下に忍び寄っていたのだ。二匹は力を合わせて引っ張り、彼を橋から引きずり落とそうとする。ミスリルは両手で必死に橋にしがみつくが、この体勢では精霊魔法は使えない。
「バス!」
デインの声が響いた。橋から身を乗り出した彼の手から、神聖魔法の強烈《きょうれつ》な衝撃波が発せられる。グレムリンの一匹がその直撃を受け、悲鳴とともに吹き飛ばされた。そいつはコマのようにくるくる回転しながら、谷底に落ちていった。もう一匹は慌ててミスリルの足を離し、飛び去る。
「だいじょうぶか?」
デインを手を差し伸べ、落ちかけていたミスリルを引っ張り上げた。
橋が再び大きく揺れはじめた。見ると、対岸にいるコボルドたちが手斧を振り下ろし、吊り橋を支えるロープを切断しようとしている!
たちまち一方のロープが切れ、吊り橋はがくんと傾いた。サーラとフェニックスの悲鳴が谷間に響き渡った。二人は今や、大きく傾いた床板にカエルのようにへばりつき、必死に耐えていた。
ミスリルはとっさに状況《じょうきょう》を分析した。このまま走って行って、吊り橋が落ちる前に二人を助けられるだろうか?――いや、無理だ。コボルドたちがもう一方のロープも切断するには、あと一分もかかるまい。
「サーラ! 手を離せ! 跳《と》ぶんだ!」ミスリルは怒鳴った。
「だって……!」サーラはためらっている。
「早くしろ! いつまでもしがみついてたら、かえって危険だ!」
サーラは即座にミスリルの言わんとすることを理解した。コボルドがロープを完全に切断したら、吊り橋はもう一方の橋を支点として、振り子のように落下し、恐ろしい勢いで崖に叩《たた》きつけられる。それを避けるには、橋が落ちる前に飛び降りるしかない。
「フェニックス! サーラを頼むぞ!」
「わ……分かったわ!」
フェニックスはそう答えると、杖《つえ》を握り直し、落下に備えた。橋の揺れはさらに大きくなった。あと数秒で落ちるだろう。
「ようし……跳べ!」
ミスリルの合図《あいず》で、まずサーラが、続いてフェニックスが、手を離して空中に身を躍《おど》らせた。
谷底に向かって石のように落下しながら、フェニックスは杖を振り回し、素早く呪文を唱えた。かつて一度、サーラを助けたことのある「落下制御《フォーリング・コントロール》」である。今度はサーラだけではなく、同時に自分にもかける。
失敗したら命のない危険な賭《か》けだったが、フェニックスの呪文はうまく発動した。この呪文は物体の重量を軽減《けいげん》するものではないが、引力の法則を歪《ゆが》め、落下速度を極端に遅らせることができる。二人は渓谷を吹き抜ける風に流されながら、木の葉のようにふわふわと落ちていった。
その直後、吊り橋が切れた。
「よけろ!」
ミスリルはデインを突き飛ばし、自分も手すりのロープにしがみついた。橋の中央部が落ちてゆくにつれ、彼らの立っている足場が傾いてゆく。背後で気絶していた馬が、二人の間をすり抜け、転落していった。
二人は崖に叩きつけられたが、支点に近い場所にいたので、衝撃はたいしたことはなかった。今や垂直になった床板を梯子《はしご》のように登って、崖の上まで這《は》い上がる。
振り返って谷底を覗《のぞ》きこむと、首の折れた馬の死体が崖の途中にひっかかっているのが見えた。サーラとフェニックスはなおも落下を続けており、その姿はどんどん小さくなって、今や小さな点にしか見えない。風で少し上流の方に流されているようだ。
「サーラァァァ! フェニィィィックス!」デインは声のかぎりに怒鳴った。「下流へ行け! 村で落ち合おう!」
風に乗って、かすかに返事が戻ってきた。「分かった……」
「どうすんだよ、これから?」
ミスリルが息を弾《はず》ませて訊《たず》ねる。デインは肩を落とし、ため息をついた。
「聞いての通りだ。この先は徒歩で行くしかない。このまま下流に進めば、自然にマデラ村に着く」樹につないでおいたもう一頭の馬に目をやり、「あいつはここに残していくしかないな……」
「サーラたちは?」
「しょうがないだろ? この崖はとても降りられない。合流《ごうりゅう》するためには下流に行くしかない……」
「くそっ!」突然、ミスリルはあることに気がつき、歯を剥《む》き出して悔《くや》しがった。「俺たちゃ大間抜けだ!」
「ん?」
「いっしょに飛び降りりゃ良かったんだよ! そうすりゃ離れ離れになるこたあなかったんだ!」
「ああ……」
デインも後悔した。ミスリルの言う通りだ。フェニックスの腕前なら、同時に四人に魔法をかけることも容易だったはずだ。
「済《す》んだことをどうこう言ってもしかたない。それより下流に急ごう。あの二人ならだいじょうぶさ」
「ああ――たぶんそうだな」
二人はもう一頭の馬をその場に残し、崖の上の細い道を下流へと急いだ。脳裏《のうり》に去来《きょらい》する不安を懸命に打ち消す。そう、心配することはない。コボルドやグレムリンぐらい、フェニックスの魔法で蹴散らせるはずだ……。
しかし、谷底に落ちたサーラたちを待ち受けているものが何か知っていたなら、彼らもそれほど楽観的にはなれなかっただろう。
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5 廃墟《はいきょ》の巨人
深い谷底に向かってゆっくりと降下してゆきながら、鳥はいつもこんな感じなんだろうか、とサーラは思った。胃が浮き上がり、全身の血液が逆流するように感じる。風に吹かれて体が回転すると、上下感覚が混乱し、崖《がけ》が水平な地面のように見えたり、眼下《がんか》の谷底が頭上から覆《おお》いかぶさってくるように見えたりする。あまり長く続くと目が回ってしまいそうだ。支えられているのでも、吊《つ》るされているのでもない不思議な感覚――普通の人間がめったに味わう機会のない無重力の感覚だった。
フェニックスはこんな感覚には慣れていた。腕を大きく広げ、風をうまく受け止めて安定を保ち、足を下にした姿勢で降下してゆく。長く赤い髪をひるがえしながら、優雅に滑空《かっくう》してゆくその様《さま》は、さながら妖精《ようせい》のようだ。
ほどなく、二人は谷底に到達した。つま先が地面に触れると同時に、体重が戻ってきて、サーラはよろめいた。
「だいじょうぶ、サーラ?」
「あ……うん、平気だよ」少年は無邪気《むじゃき》な笑顔を見せた。「けっこう面白《おもしろ》かった」
「そう……」
フェニックスは周囲を見回し、状況《じょうきょう》を把握《はあく》した。谷底を流れる澄んだせせらぎは、充分《じゅうぶん》に歩いて渡れるほどの幅と深さしかない。太陽の光が射《さ》しこまないので、まだ昼間なのにあたりは薄暗く、下流から吹いてくる風は涼しい。暑い森の中をずっと歩いてきたので、生き返る心地がした。
予想外だったのは、河原《かわら》がひどく歩きにくそうなことだ。崖の上からは石ころのようにしか見えなかったが、実際は家ほどもある大きな岩がごろごろ点在しているのだ。おそらく洪水のたびに上流から押し流されてくるのだろう。
二人は両側にそびえる巨大な崖を見上げた。完全に垂直というわけではないが、下から見上げると実際以上に急なように見え、今にもこちらに倒れてくるような錯覚を覚える。目をこらしたが、デインたちの姿はどこにも見えない。
「ねえ、魔法であそこまで飛び上がれない?」
「無理ね」フェニックスはかぶりを振った。「私の魔法では、せいぜい三階の屋根ぐらいまでしか浮かび上がれない。あそこまではとても届かないわ」
「そうか……じゃあ、やっぱり歩いて村まで行くしかないね」
「大変そうね」
前方に横たわる長い行程《こうてい》のことを考え、フェニックスは暗澹《あんたん》たる想《おも》いでため息をついた。ハーフエルフは敏捷性《びんしょうせい》にはすぐれているが、体力に欠けている。まして彼女は魔術師で吟遊詩人《ぎんゆうしじん》であり、体を使うのは苦手《にがて》だった。
「だいじょうぶだよ。マデラ村はすぐそこだって、デインが言ってたじゃない」
体力の点ではフェニックスと大差ないサーラだったが、元気はあり余っていた。
「でも……」
「ためらってたってしょうがないじゃないか。早く出発すれば、それだけ早く着けるんだよ――さあ、行こう」
サーラに急《せ》かされ、フェニックスはしぶしぶ歩きはじめた。
二人はじきに、流れの中を歩いた方がいいということに気づいた。河原の石は大きくてごつごつしたものが多いが、水底の石はすり減っていて、つまずかずに歩ける。水は膝《ひざ》までの深さしかないし、あまり冷たくもなくて、むしろ火照《ほて》った足に心地好《ここちよ》かった。何度か滑《すべ》って尻餅《しりもち》をついたが、それも笑いの種だ。
それでもやはり、平坦《へいたん》な道を歩くのに比《くら》べると、歩調は格段に遅かった。あまり進まないうちに、空には夕焼けが広がり、谷底は暗くなってきた。
「暗い中を進むのは危《あぶ》ないわ」
フェニックスの提案で、二人はその場所に野宿《のじゅく》することにした。落ちていた枯れ枝を積み上げ、魔法で火をつけて、小さなキャンプファイアを作る。サーラが渓流《けいりゅう》の中で小さなカニを捕《つか》まえ、それを火であぶって食べた。
「ねえ、フェニックス、訊《き》きたいことがあるんだけど……」
いい機会だったので、サーラはこの旅の間ずっとひっかかっていた疑問を、彼女に率直《そっちょく》にぶつけてみることにした。
「何?」
「怒《おこ》らないで欲しいんだけど……」サーラは少しためらってから、思いきってそれを口にした。「ひょっとして、デインのこと、好きなの?」
フェニックスはちょっと面食らった様子《ようす》だったが、すぐに微笑《ほほえ》みを取り戻した――どことなく憂いを含んだ笑みだった。
「ええ、好きよ。優秀なリーダーだし、頭もいいし」
「いや、そういう意味じゃなくてさ……」
「愛してるかってこと?」
「うん」
「私がレグに嫉妬《しっと》してるんじゃないかって思ってるわけね? それで二人を別れさせようと仕向けてるって?」
「うん……」
フェニックスは苦笑し、いたずらっぽく首をかしげた。
「半分は当たってるわね。レグに嫉妬してるのは確かよ。でも、それはデインが好きだからじゃない」
「好きじゃないの?」
「うーん、どうかな? 確かに『彼が恋人だったらいいかも』と思ったことはあるわ。ちらっとだけどね。でも、それ以上のものじゃなかった」
彼女は哀しげな目で焚火《たきび》の炎《ほのお》を見つめた。
「ちらっと思っただけ。そこから先には進まなかったわ。自分の気持ちを急いで打ち消した。そんなこと、思っちゃだめ。恋なんかしちゃだめ……って」
「どうして?」
「どうしても……」
「他に好きな人がいるの?」
「いないわ――昔はいたけどね」
「変だな。フェニックスみたいにきれいだったら、素敵《すてき》な恋人がいたっておかしくないのに……」
彼女は恥ずかしそうにうなずいた。「そうね。あなたが十年早く生まれてたら、好きになってたかもね」
「え?」
「私ね、デルにも嫉妬してるのよ。あの子と同じ年頃に、あなたみたいに素敵な人がいてくれたら、どんなに良かっただろうって……」
「あ、あの、その……」
サーラはたちまちパニックに陥《おちい》り、しどろもどろになった。その混乱ぶりが面白《おもしろ》く、フェニックスは愛《いと》しそうに微笑んだ。
「あなたはすごいわ、サーラ。私に恋愛のアドバイスを頼みに来たけど、あれは逆ね。私の方が、あなたから教わらなくちゃいけないわ。何でそんなにも優しくなれるのか。どうすればそんなにも人を信じられるのか……」
彼女はうつむいた。赤髪がカーテンのように垂《た》れ、表情を隠した。
「私には無理。あなたみたいに強くない……」
「でも……」
サーラはその言葉の意味を問い質《ただ》そうと身を乗り出した――その時、彼は迫り来る異変に気がついた。
「え?」
一瞬にして、少年の全身が感覚器官となった。おのれの発する気配《けはい》を消すと同時に、感覚を研《と》ぎ澄まし、どんな些細《ささい》な音、どんな些細な気配も聞き逃《のが》すな――盗賊《とうぞく》ギルドで叩《たた》きこまれた特訓の成果だった。
「サーラ……?」
「何か来る!」
サーラはとっさにダガーを抜き、闇《やみ》に向かって身構えた。焚火のはぜる音にまぎれて、何か大きなものが近づいてくる。足音を忍ばせてはいるが、足が砂利《じゃり》を踏み締める時に、石がこすれ合う音は消しようがない。
やがて、そいつの大きな影が、闇の奥からのっそりと現われた。一瞬、サーラは距離感がつかめずに混乱した。相手の大きさが常識を超えていたため、実際よりも近くにいるように錯覚してしまったのだ。そいつが大股《おおまた》で近づいてきて、焚火の炎に照らし出されると、ようやくその巨大さが把握《はあく》できた。サーラの体を驚きと戦慄《せんりつ》が駆け抜ける。
百手巨人《ヘカトンケイレス》!
身長は少年の三倍近くある。サーラがいっぱいに背伸びしても、腰にさえ届かないだろう。上半身は裸《はだか》だが、きらびやかな装飾の施《ほどこ》された布を腰に巻いており、黄金色に輝く首飾りを着けていた。それぞれの腕には太い鉄のリングが何重にもはまっており、それが防具の役目を果たすようだ。
その呼び名にも関わらず、巨人の腕は百本もなかった。たった十二本だ。人間の両肩に当たる部分から、大人の胴ほどもある太い腕が三本ずつ、それより少し細い腕が脇腹から三本ずつ、まるでカニの脚のように生《は》えていて、四方に放射状に広がっている。異様《いよう》ではあったが、決して醜《みにく》くはなかった。全体として均整美がとれており、顔も精悍《せいかん》で、神々しい雰囲気すら漂《ただよ》わせている。
サーラはダガーを突き出して威嚇《いかく》してみせたが、猫に立ち向かうカマキリになった心境だった。あの腕がいっせいに振り下ろされたら、原形をとどめないほどぐちゃぐちゃにされてしまうだろう……。
「だめよ、サーラ」フェニックスが小声でたしなめた。「武器を下ろして。ヘカトンケイレスは凶暴《きょうぼう》じゃないわ。怒らせない方がいい」
彼女の言う通りだった。へカトンケイレスは野生の巨人族とは違う。スフィンクスやマンティコアと同じく、迷宮《めいきゅう》に封じられた財宝の守護者として、古代王国人に創造された種族なのだ。当然、数はきわめて少なく、アレクラスト大陸全体で十数体しかいないだろうと推定されている。ある書物では彼らを巨人族に分類しているが、実際は巨人を基《もと》に創《つく》られた幻獣《げんじゅう》の一種と解釈すべきだろう。知能も高く、性格は温厚で、中には神に仕《つか》えている者もいると言われている。
そう、彼らは危険ではないはずだ――一般的には。
巨人は大股でゆっくりと近づいてくると、二人の数歩手前で立ち止まった。眼《め》を細めて小さな者たちを見下ろす。その表情は険《けわ》しく、感情は読みにくい。サーラは恐る恐るダガーを下ろし、敵意がないことを示した。どっちみち、こんな小さなダガーなど、役に立ちそうにない。
「私が話してみる……」
フェニックスはサーラを下がらせると、前に進み出た。下位古代語で慎重に語りかける。これは古代王国時代に一般的に使われていた言語で、ヘカトンケイレスがその時代から生きているなら、おそらく通じるはずだ。
巨人は口を開き、重々しい声で返答した。フェニックスはほっとする。
「やっぱりね。ガドシュ砦《とりで》の地下にいた巨人なのよ。何百年も財宝を守ってきたんだけど、その役目から解放されたんで、自由に歩き回ってるのね」
「僕たちに何の用か、訊《き》いてみてよ」
フェニックスが再び下位古代語で問いかけ、巨人はそれに答えた。彼女は驚いて問い返す。巨人の表情はひきつり、笑っているようだった。
何を話しているのかは分からなかったが、会話が進むにつれて、情勢が緊迫《きんぱく》してくるのがサーラにも感じられた。巨人は大声で何か宣言し、焚火に照らされたフェニックスの美しい横顔が、恐怖と緊張のあまり、見る見るこわばってくる。
ついに話し合いは決裂した。巨人は十二本の腕をぬうっと前に突き出し、一歩進み出る。フェニックスは一歩|退《の》くと、さっと杖《つえ》を構《かま》え、呪文《じゅもん》を詠唱《えいしょう》する体勢に入った。
「サーラ、逃げて!」
しかし、事情の分からないサーラは困惑《こんわく》し、立ちすくんでしまった。その間に巨人はさらに前進し、フェニックスに迫る。彼女はやむなく魔法を発動させた。
「ブラスティート!」
美しい叫《さけ》びとともに、まばゆい電光が夜を切り裂く。だが一瞬早く、巨人は十二本の腕を体の前で交差させ、上半身をかばっていた。巨人の顔面を狙《ねら》った電光は、腕にはめたリングを焼いただけに終わった。
巨人は腕をほどくと、後退しようとするフェニックスに、体を大きく傾《かたむ》けてつかみかかった。よける間もなく、丸太のように太い六本の右腕が、彼女のほっそりした体にまとわりつく。そのまま空中に抱き上げ、か細い手から強引《ごういん》に杖をむしり取った。乱暴な扱いに服が引き裂け、彼女は悲鳴をあげた。
「やめろ!」
逆上したサーラは、前後の見境もなしに飛びかかった。ダガーで巨人の脛《すね》を刺すが、厚い皮膚にはばまれ、肉まで届かない。
巨人は体をひねると、六本の左腕を振り下ろした。サーラは猫のように襟首《えりくび》をつかまれ、あっさり空中に吊《つ》り上げられて、ダガーを奪い取られた。今やへカトンケイレスは、両側に一人ずつ、小さな捕虜《ほりょ》を抱きかかえていた。
「痛い! やめて!」
「くそっ、放せ! こいつ!」
二人は懸命に身をよじるが、人間とは比《くら》べものにならない怪力で、しかも何本もの太い腕で抱きしめられては、とうてい逃《のが》れることはできない。
巨人は腕にはめていたリングのひとつをはずした。抵抗するフェニックスを後ろ手にねじり上げると、その細い手首を両側からリングに通す。ぎゅっと力をこめてリングをねじると、8の字形になったそれは、即席の手伽《てかせ》となった。さらに足首にもリングが通され、中央部を押し潰《つぶ》されて足伽にされる。
サーラも同様に手伽足伽をはめられた。少年の脳裏を絶望がよぎった。普通の手伽なら、針金さえあれば鍵《かぎ》をこじ開けられる。しかし、これには鍵も何もない。指三本分ほどの太さがある鉄製なので、力ずくで壊すことも不可能だ。
巨人は二人を肩にかつぎ上げると、ゆっくりと歩き出した。サーラの目の前に巨人の顔があった。人間の倍もあるその顔は異様な迫力があり、その大きな目玉でぎょろりとにらみつけられると、全身がしびれるような恐怖を味わった。口から発する息の匂《にお》いさえ嗅ぐことができる。その口を開ければ、少年の頭など丸呑《まるの》みにできるだろう……。
巨人は崖の前までやって来た。どうするのかと思っていると、たくさんの腕を器用に使って、急な崖をよじ登りはじめた。
その動きはまさに蜘妹《くも》のようだ。二人をかついでおくには腕が四本あれば充分なので、残りの八本は自由に使えるのだ。筋力が人間とは桁《けた》違いであるうえ、常に四本以上の腕で岩をつかんでいるので、きわめて安定している。人間の十倍以上の体重があるはずだが、まるで苦にすることなく、着実に登ってゆくのだ。二本の手、二本の足しかない人間には、とても真似《まね》できない芸当だ。
崖を登ってゆく間も、フェニックスは古代語で懸命に語りかけ、巨人の心を変えようと試みた。だが、巨人は返答はするものの、その態度は頑《かたく》なで、二人を解放するつもりはまったくないらしい。口許には満足そうな笑みさえ浮かべている。フェニックスの表情に絶望の色が濃くなる。
サーラはじっとしている以外、何もできなかった。下手《へた》にもがいて転落でもしたら、絶対に助からない。
一時間近くかけて、巨人は崖を登りきり、月に照らされた崖の上の道に出た。ひと休みすることもなく、谷の上流の方向ガドシュの砦《とりで》へと歩き出す。
その頃にはもう、フェニックスは巨人の説得をあきらめ、黙りこんでいた。
「こいついったい僕たちをどうするつもりなの?」
フェニックスは少年を安心させようとして、何とか微笑《ほほえ》もうとしたが、あまり成功してはいなかった。
「心配しないで、殺されないわ――すぐには」
「どうなってるのさ!? ヘカトンケイレスはおとなしい巨人のはずじゃないの?」
「おとなしい巨人だったのよ――かつては」フェニックスの表情は苦悩に歪《ゆが》んだ。「でも、今は狂ってしまってる。裏切られたせいでね」
「裏切られた?」
「ええ、そう――創造者が彼を裏切ったの」
その巨人――デュライオスという名だった――は、五世紀以上も前、古代王国の天才魔女ヴァルゲニアによって創造された。
当時は今よりもはるかに魔法技術が進歩しており、魔術師たちは様々《さまざま》な幻獣《げんじゅう》や魔獣、ゴーレム、イミテーターなどを創造して、腕を競っていた。ヴァルゲニアは長年の研究の末、独自の魔獣創造の秘法を編み出したが、その秘密は誰にも明かさなかった。彼女は数多くの魔獣を生み出したが、その最後の作品がこのヘカトンケイレスだった。
王国の崩壊《ほうかい》が迫った時、ヴァルゲニアは屋敷から一切《いっさい》の研究資料を運び出し、辺境のこの地に逃《のが》れた。自分が一生を捧《ささ》げた魔獣創造の秘法が失われるのを恐れたからだ。その地で彼女はデュライオスを創造した。
巨人が小さい頃から、ヴァルゲニアは自分の子供のようにかわいがって育て上げた。デュライオスもその愛情に応《こた》え、彼女に絶対的な忠誠を誓《ちか》っていた。
死期の迫った彼女は、放棄《ほうき》された砦の地下を墓所《ぼしょ》と定めた。そこに研究資料を運びこむと同時に、自《みずから》らの肉体もミイラ化して安置し、来たるべき日までいっさいの秘密を封印《ふういん》することにしたのである。デュライオスは墓所を守る任務を命じられた。幻獣の一種であるヘカトンケイレスは、他の巨人のように老化することはない。何も口にしなくても、仮死状態で何百年でも待ち続けることができるのだ。
閉ざされた厚い扉《とびら》の前で、彼は待った――何百年も、たった一人で。
ヴァルゲニアの墓には古代王国の秘宝が眠っているという噂《うわさ》を耳にして、何組もの冒険者《ぼうけんしゃ》、学者、盗賊《とうぞく》、山賊らがガドシュ砦を訪れた。侵入者の気配《けはい》を感じると、デュライオスは目覚め、訪れた者の前に立ちはだかった。彼は魔術の理論に関する高等な質問をした。質問に答えられる者、すなわち魔術に精通した者にしか扉を開けてはならないと、主人に命令されていたからだ。
誰も答えられる者はなく、みんなデュライオスに追い返された。彼を倒して秘宝を強奪《ごうだつ》しようと考えた者もいたが、あっさり返り討ちに遭《あ》った。数世紀の間、墓所の扉は開かれたことはなかった。
デュライオスにこの孤独な任務を耐えさせたものは、創造者に対する強い忠誠心と、深い尊敬の念、そして、ひとつの希望であった。ミイラになった者は自分の力でよみがえることはできない。しかし、魔術に精通した別の誰かがやって来て、墓所に残された魔獣創造の秘法を解き明かせば、ヴァルゲ二アの肉体を復活させてくれるのではないか――愛する創造者の元気な姿をまた見られると想像するだけで、デュライオスは何世紀もの孤独な時に耐えることができた。
そして八年前、ついに待ち望んでいた時が来た――ボグラムという名の魔術師の率いる一団がやって来て、彼の質問に正確に答えたのである。
しかし、期待に胸をふくらませ、墓所の扉を開けて彼らを中に入れたデュライオスは、重大な事実を知らされ、深い落胆に陥《おちい》った。ヴァルゲニアの遺体は腐っていた――地下室の天井《てんじょう》の一部がひび割れて、彼女の眠る棺《ひつぎ》に水滴がしたたり落ち、湿気《しっけ》が内部に侵入して、遺体を見る影もなく破壊してしまっていたのだ。
幸いにも、研究資料の大半は、湿気による損傷《そんしょう》をまぬがれていた。その量はきわめて多く、全部を一度に運び出すのは無理だった。ボグラムたちはその中から重要な部分だけを選び出し、持ち去った。
悲嘆《ひたん》に暮れるデュライオスは、二度と戻らない創造者を偲《しの》ぶため、地下室に残された文書を読みあさった。大半はややこしい数字や魔術用語が並んでいるだけの退屈なものだったが、中にひとつ、彼の興味を惹《ひ》くものがあった。
デュライオスが創造された時の記録である。
彼はそれまで、幻獣や魔獣がどうやって創造されるのか知らなかった。彼はヴァルゲニアの最後の作品であり、彼女はデュライオスの前で魔獣創造の実験をやってみせたことはなかったからだ。彼女はその方法について詳《くわ》しく語ったことはなかったし、デュライオス自身もたいして興味を持たなかった。ただ一度、ガラス容器に入ったどろどろした液体の中から、ホムンクルスが誕生《たんじょう》するのを目にしていたので、自分も同じような方法で合成されたのだろうと、漠然《ばくぜん》と想像していた。
だから彼は、真実を知った時、すさまじい衝撃を受けた。
その文書には、ヴァルゲニアがどのようにへカトンケイレスを創ったか、その方法が詳細《しょうさい》に書かれていた。どうやって善良なヒル・ジャイアントの夫婦を騙《だま》して殺し、赤ん坊を奪い去ったか。その赤ん坊にどのような毒液を注入し、余分の腕を生やしたか。その毒液を合成するために、どんな忌《い》まわしい材料が必要だったか……。
デュライオスは狂乱した。自分が騙されていたことを知った。彼が何世紀も守り通した魔獣創造の秘法とは、狂気と邪悪《じゃあく》の術だった。そして、彼はそのおぞましい実験の犠牲者だったのだ。
彼は残りの文書をすべて炎《ほのお》に叩《たた》きこむと、砦を後にし、山野をさまよい歩いた。彼は考えた。自分は何のために生まれてきたのか。魂《たましい》をすり減らし、孤独に耐えて過ごしたこの五世紀という年月には、いったい何の価値があったのか……。
何年も悩みぬいた末に、デュライオスは狂った。
すべてをやり直そう――彼はそう思い立った。これまでの五世紀が無価値なものであったというなら、それを価値あるものに変えればいいのだ。今度こそ価値ある財宝を、価値ある人を、五世紀の間、守り通そう。それが成し遂《と》げられた時、財宝の守護者としての自分の役割は、真に完璧《かんぺき》なものとなるのだ……。
彼はまず、守るべき財宝を探しはじめた。罪もない旅人を襲って殺し、奪い取った金銀や宝石を、地下の墓所に運びこんだ。それは他人が持つものではなく、自分が守るべきものだと感じたからだ。
彼は他にもたくさんの財宝≠集めた。河原《かわら》で見つけたきれいな石ころ、森に落ちていた木の実、枝にひっかかっていたカラスの死骸《しがい》、殺して食べた狼《おおかみ》の骨――子供が何の価値もないガラクタを大事にするように、彼が重要なものだと感じたものは、みんな墓所に貯《た》めこまれた。
充分《じゅうぶん》な量の財宝≠ヘ蓄《たくわ》えられた。後は守るべき者を――ヴァルゲニアの代わりに墓所で眠りについてくれる者を探し出せばよかった。
そこに運悪く通りかかったのが、サーラとフェニックスだった。デュライオスは美しい少年と娘を見て、これこそ五百年間守り通すにふさわしい者だと、直観的に判断したのだ……。
「五百年間守るって?」サーラは嫌《いや》な予感に襲われた。「どうやって!?」
「……墓に埋める気なのよ」
「墓!?」
「ええ……そうよ」フェニックスの顔は苦悩に歪んでいた。「私たちをミイラにして、棺に閉じこめてしまうつもりなの――他の財宝といっしょにね」
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6 フクロウの翼
やがてデュライオスはガドシュ砦《とりで》にたどり着いた。月明かりの下で見ると、荒廃《こうはい》はかなり進んでいることが分かる。高い石壁はよほど堅牢《けんろう》に造られたものらしく、まだかろうじて原形をとどめているが、びっしりと蔦《つた》に覆《おお》われ、ほとんど密林と同化しかけていた。正門は巨人の背よりもさらに高いが、何世紀もの風雨にさらされて、アーチは崩《くず》れ落ち、木でできた巨大な扉《とびら》は腐ってしまっている。
砦の中庭にはかがり火が焚《た》かれ、にぎやかそうだった。火の周囲にはたくさんの小さな影がうごめき、踊り、じゃれ合い、殴《なぐ》り合っていた。笑い声とも悲鳴《ひめい》とも判別のつかない、キーキーという耳ざわりな声が飛び交《か》っている。デュライオスが体を横にして門をくぐり抜け、中庭に姿を見せると、薄汚れた住人たちは宴《うたげ》を中断し、どっと集まってきて、彼の帰還《きかん》を喜んだ。
コボルドたちだ――おそらくは五十匹以上のコボルドが、廃墟《はいきょ》と化した砦に棲《す》みついているのだ。財宝が持ち去られたという噂《うわさ》が広まって以来、この遺跡《いせき》を訪れる冒険者《ぼうけんしゃ》はいない。人間を天敵としているコボルドにとって、ここは絶好の隠れ家《が》になっているのだろう。空中にはインプやグレムリンの姿も見える。吊《つ》り橋でサーラたちを襲ったのも、この連中に違いない。
巨人が何か獲物《えもの》を持ち帰ったのを見て、コボルドたちは彼の足許《あしもと》に群《むら》がり、もの欲しそうにキーキーとわめいた。まるで飴《あめ》をねだる子供のようだ。サーラは恐怖とおぞましさに身をすくめながらも、デュライオスが彼らのリーダー的な存在になっていることに驚いた。巨人と妖魔《ようま》が仲良くなるなど聞いたこともない。
だが、考えてみればそれほど無理な話でもない。五世紀の間、へカトンケイレスの任務は、資格のない侵入者から主人の墓所《ぼしょ》を守ることだけだった。財宝や魔法になど興味のないコボルドたちにデュライオスが危害を加えることはなかったし、コボルドの方でも巨人に無用な戦いを挑《いど》むほど愚《おろ》かではなかった。デュライオスにしてみれば、コボルドやグレムリンが砦に棲みつくことは、うるさい侵入者が近づくのを妨《さまた》げる役に立つ。そのため、いつの間にか奇妙な共生関係が形成されてしまったのだろう。
デュライオスは抱きかかえていた二人を乱暴に地上に下ろした。たちまち歓声をあげてコボルドたちが群がってくる。身動きのきかないサーラは何十本もの手でもみくちゃにされた。髪の毛をかきむしられ、服を引っ張られ、小さな手で全身をべたべた触《さわ》られる。胸の悪くなる悪臭が鼻をつき、荒海に投げこまれたように感覚が混乱した。
フェニックスが悲鳴をあげた。見ると右の耳たぶから血が流れている。コボルドの一匹が赤いイヤリングに目をつけ、強引《ごういん》に奪い取ったのだ。
ヘカトンケイレスが吠《ほ》えた。地鳴りのようなすさまじい声だ。コボルドたちは雷《かみなり》に打たれたように硬直し、黙りこんだ。巨人がぎろりと周囲をにらみつけると、彼らは恐怖にすくみ上がり、おずおずと頭を下げた。
巨人は一匹のコボルドを指差し、何か指示した。下位古代語ではなくゴブリン語――ゴブリンやコボルドなどの妖魔が用いる単純な言語だ。
言葉は分からないが、だいたいの察しはつく。「大事なものだから傷をつけるな」とでも言っているのだろう。命令を受けたコボルドは、首をかくかくと振って、恭順《きょうじゅん》の意を表わした。
デュライオスはそいつにサーラから奪い取ったダガーを与えた。見事な意匠《いしょう》の施《ほどこ》されたダガーを受け取ったコボルドは、一転して有頂点《うちょうてん》になり、それを高々と振りかざして仲間に自慢した。サーラは悔《くや》しさに唇《くちびる》を噛《か》んだ。あれはデルの父親の形見《かたみ》で、デルからもらった大事なものなのに……。
デュライオスは再び吠え、中庭の隅に建っている建物を指差した。「あそこに連れて行け」と言っているのだ。ダガーを手に入れたコボルドは、その命令を繰り返した。コボルドの群れは歓声をあげ、身動きならないサーラとフェニックスをかつぎ上げて、その建物の方に運んで行った。
二人が放りこまれたのは牢屋《ろうや》だった。通路に沿っていくつも並んだ小部屋のひとつで、おそらく捕《とら》えた敵兵を監禁《かんきん》するためのものだろう。ベッド代わりに枯草が敷き詰められただけで、中には家具も何もない。鉄の扉《とびら》は錆《さ》びてはいるが頑丈《がんじょう》そうで、おまけに通路側から鍵《かぎ》が掛けられている。西側の壁には小さな窓があり、月の光が射《さ》しこんでいたが、鉄格子《てつごうし》がはまっているので、とても脱出できそうにない。
いや、どう考えても脱出など不可能だ――二人ともまだ鉄の伽《かせ》をはめられたまま、床《ゆか》に放り出されて、起き上がることさえできないのだから。
「やれやれ……大変なことになっちゃったわね」
自由を奪われたフェニックスは、天井《てんじょう》を見上げてため息をついた。冗談めかした口調でサーラの不安をやわらげようとしているが、その声は震えており、彼女自身、恐怖と絶望に押し潰《つぶ》されそうになっているのは明らかだ。右の耳から流れている血が痛々しい。
「デインたちが助けに来てくれるよ。ね?」
サーラは唯一《ゆいいつ》の救いを求めようとしてそう言った。しかし、フェニックスは悲しそうにかぶりを振る。
「間に合うかどうか――デュライオスは明日の朝、私たちをミイラにすると言ってたわ。今はその準備をしてるのよ」
牢の外からは、コボルドの騒ぐ声や、何か作業をやっているらしい音がする。
「どうやって?」サーラは勇気を奮《ふる》って訊《たず》ねた。「どうやってミイラにするの?」
「分からないわ――古代王国の難解な秘法を彼が理解しているとは思えない。何と言っても彼は狂ってるんだし……」
彼女は不意に言葉を切った。咽喉《のど》の奥からこみ上げてきた鳴咽《おえつ》が、言葉を断ち切ったのだ。何とか抑《おさ》えようとしているが、ぼろぼろとこぼれ落ちる涙は止めようがない。
「フェニックス……?」
「ご、ごめんなさい……私……少し……」
サーラはショックを受けた――フェニックスの意志がくじけかけている!
「だいじょうぶだよ。デインとミスリルがきっと来てくれる。あんな巨人なんか、簡単にやっつけちゃえるから」
そうは言ったものの自分でも信じていたわけではない。へカトンケイレスがおそらくワイバーンに匹敵《ひってき》する強敵であることは、サーラにも分かる。デインはかつてこう言ったことがある。「力を合わせた四人は、四人分以上の力が出せる」――正しい戦術とチームワークは、四人がばらばらに戦うよりもずっと大きな戦闘力を発揮《はっき》させるというのだ。彼らの戦いぶりを何度も見てきたサーラには、その意味はよく理解できた。
逆に言えば、デインとミスリルの二人しかいない状態では、普段の半分以下の力しか出せないということだ。
もしデインたちが助けに来ても、まず勝ち目はない――だが、フェニックスを少しでも勇気づけるためには、それを認めるわけにはいかなかった。彼女がくじけようとしているというのに、支えてやれる人間は他にいないのだ。
「しっかりしてよ、フェニックス。あきらめたらおしまいだよ。最後の最後までがんばらなくちゃだめだ」
自《みずか》らも絶望に押し潰されそうになりながらも、サーラは懸命に説得した。それが自分に課せられた義務――男としての義務だと感じた。
「ええ……ええ、そうね」
フェニックスがどうにか心を落ち着け、まともに喋《しゃべ》れるようになるには、少し時間がかかった。
「決心したわ――サーラ、あなただけでも逃げて……」
「え?」
「逃げる方法があるの。最後の手段だけど――ほら、私の耳を見て」
フェニックスは体をひねり、左の耳に残っている赤い涙滴形《ティアドロップ》のイヤリングを見せた。サーラが初めて彼女と出会った時にも着けていたものだ。薄暗い月明かりの下では、固まりかけた血のようにどす黒く見える。
「ただの色ガラスみたいに見えるでしょ? 本当はとても小さな薬瓶になってるの。変身の秘薬が入ってるのよ」
「変身の秘薬……?」
「ええ、今では製法の失われた貴重な魔法薬よ。ずいぶん前に手に入れたものなの。普通、変身の薬は一種類の動物にしかなれないけど、この薬は口に含んで強く念じると、何でも好きな動物に変身できるのよ。短い間だけだけど」
サーラは驚いた。「ほんと? 何で今まで教えてくれなかったの?」
「だから言ったでしょう、最後の手段だって。冒険者は万一の時の用意も怠《おこた》らないものなのよ」
そう言ってフェニックスは笑った。不安を抑えつけての、精いっぱいの笑みだった。月明かりの下で、その顔色はぞっとするほど蒼白《そうはく》だった。
「これはとても強力な薬だけど、一回しか使えないわ。私自身は『変身』の魔法を使えるから、普段はこんなもの必要ないのよ。でも、何かの事態で魔法が使えなくなった場合に備えて、いつも用心に持ち歩いていたの――まさにこういう状況《じょうきょう》のためにね」
サーラの脳裏《のうり》にばっと希望の光が広がった。
「そうか! じゃあ、その薬を使って巨人になれば――」
「いいえ、だめ!」フェニックスが慌《あわ》てて言う。「大きくなっちゃいけないわ」
「どうして?」
「これよ」彼女は足首にはめられた伽で、こつこつと床を叩《たた》いてみせた。「変化するのは肉体だけで、身に着けたものの大きさは変わらないのよ。考えてごらんなさい。こんなものをはめたまま大きくなったら、手足がちぎれてしまうわ」
「そうか……」広がりかけた希望が急にしぼんでしまった。
「その逆よ。小さい動物になって逃げるの」
「でも……ひとつしかないよ?」
「そう」彼女の笑みに影が落ちた。「本当は両方ともあれば、二人とも逃げ出せたんだけど、そうは行かなくなったわ。だから、あなただけでも逃げて――」
「そんな! フェニックスを置いて行けないよ!」
「ここに二人とも残ってどうしようっていうの? 二人とも殺されてしまうだけよ」
「だったら、フェニックスが逃げればいい! 女を置いて自分だけ逃げるなんて、そんな卑怯《ひきょう》なことはできないよ!」
彼女はかぶりを振る。「私だって子供を置いて逃げるなんてできない――」
「僕は子供じゃない!」サーラは憤慨《ふんがい》した。「僕は男だ!」
二人の間に沈黙が落ちた。それからたっぷり一分近く、二人は月明かりの下に横たわり、きびしい目で見つめ合っていた。もはやそこには年齢の差は存在しなかった――サーラはフェニックスと完全に対等だった。
先に視線をそらしたのはフェニックスだった。深くため息をつき、哀《かな》しそうに微笑《ほほえ》む。
「やっぱり……」
「え?」
「やっぱり、あなたと昔、会っておきたかったわ」
「…………」
「でも、やっぱりあなたが逃げるべきだと思う。私には誰もいないけど、あなたにはデルがいるんだもの」
デルのことを指摘され、サーラの心は激しく揺らいだ。そう、彼女のことを忘れていた。今回は危険な冒険じゃない、すぐに帰ると約束したのに……。
「あの子はあなたに支えられてる。あなたにもしものことがあったら、彼女はどうなってしまうの? それを考えてごらんなさい」
「でも……」サーラは懸命に反論の根拠《こんきょ》を探した。「それはフェニックスだって同じじゃないの? フェニックスが死んだら、みんな悲しむもの。僕も、デインも、ミスリルも、それにレグも……」
「ええ、悲しむでしょうね――でも、その悲しみは一時《いっとき》のものよ。すぐにみんな忘れてしまう。私には、あなたにとってのデルのような人はいない……私は誰にとってもかけがえのない存在じゃないのよ」
「そんなことないよ!」
「いいえ、そうなのよ」
「何でそんなこと、自信を持って言えるのさ!?」
フェニックスは少しためらってから、再び口を開いた。
「私が前に呪《のろ》いにかけられたことがあるって話、ミスリルたちから聞いた?」
初耳だった。「ううん……」
「ずっと若い頃のことよ。故郷の村にいた頃――まだ何も知らないうぶな娘だった頃のこと……」
フェニックスは恥ずかしそうに、そして懐《なつ》かしそうに話しはじめた。
「私には将来を誓《ちか》い合った人がいたわ。ずっと年上のとても素敵《すてき》な戦士でね、私はその人を心から愛していたし、その人も私を愛していた。その時の二人は、この愛は絶対に壊れることはないと信じてたわ。
ところが、彼が暗黒神《あんこくしん》の信者の集会を襲ってめちゃめちゃにしたもんで、暗黒司祭の恨《うら》みを買ってしまったの。まともに戦っても勝てないものだから、そいつは陰険な復讐《ふくしゅう》を思いついたの……」
「復讐?」
「私に呪いをかけたのよ――私は世にも醜《みにく》い顔に変えられたの」
サーラはショックを受けた。まさかフェニックスにそんな過去があったとは――今の彼女の美しい顔からは想像もつかない。
「……それで、どうしたの?」
「彼はもちろん約束してくれたわ。『君がどんな姿になろうと、いつまでも変わらず愛し続ける』って。そして、呪いを解く方法を懸命に探してくれた――でも、いくら探しても見つからなかったわ。恐ろしく強力な呪いで、腕のいい司祭でも解けなかったの。
そのうち、彼の態度が変わってきたのに気づいたわ。何となくよそよそしくなって、私といっしょに歩くのを避けるようになってきた。まだ『愛してる』とは言ってくれるけど、その言葉が上滑《うわすべ》りしているのが感じられた。私を抱きしめる腕に力がこもらなくなってきた。はっきりとは言わなかったけれど、私の存在が重荷になってきたのが分かったわ。そしてとうとう――」
「……捨てられたの?」
「いいえ、捨てたのよ」彼女は暗い笑みを浮かべた。「もうじききっと捨てられると確信したから、先に私から別れたの。捨てられるより捨てた方が、心の痛みはずっと軽く済《す》むから――彼は口では引き止めたけど、内心ではほっとしてるようだった」
「…………」
「呪いを解くのに四年かかったわ。つらい四年だった――布で顔を隠して、土地から土地へとさまよい歩いたあげく、リファールの街で魔術師ギルドに入ったわ。そこで魔法の勉強をしながら、呪いを解く方法を探したの。実はこの変身の薬も、その途中で発見したものなのよ。一時的な効果しかないんで、役に立たなかったけどね。結局、偉《えら》いラーダの司祭に高いお金を払って、呪いを解いてもらったわ。
元の顔に戻ったとたん、男が何人も言い寄ってきたわ。真剣に愛を告白してきた人もいる――でも、私にはその言葉がどれも信じられなかったの。私の顔が醜かった時、男たちがどれほど私をうとんじて、ひどい言葉を投げつけたか、よく覚えていたから……結局、彼らが愛しているのは私の外見なんだってことが分かっていたから。
それからは誰も愛したことはないわ。愛そうとしたことはあるけど、だめなの。そのたびにこわくなるのよ。それが本当の愛なのか、ちょっとしたきっかけで壊れるもろい愛なのか、自信が持てないから……」
サーラは衝撃のあまり、まだ茫然《ぼうぜん》となっていた。フェニックスは軽い口調で話しているが、彼女が四年間に受けた苦しみは、想像を絶するものだったろう。若く多感な時期にそんな苛酷《かこく》な体験をすれば、愛が信じられなくなるのも無理はない。何があったのかは分からないが、今のように気軽に昔の体験を話せるまでに心が癒《いや》されるのには、きっとかなり長い期間が必要だったに違いない。
「これで私の話は終わり」彼女はそっけなく思い出話を断ち切った。「これで分かったでしょう? 私には本当に愛する人も、愛してくれる人もいないの」
「でも……」
「どちらか一方だけしか生き残れないなら、あなたが生きるべきだわ、サーラ。決してデルを不幸にしちゃいけない。彼女の気持ちを裏切らないであげてほしいの――私と同じ道を、彼女に歩ませちゃいけないわ」
「うん……」
サーラにはもう反論の言葉が思いつかなかった。おのれの人生のすべてをさらけ出したフェニックスの言葉の重みに、圧倒されてしまったのだ。
「そんなに悲観しないで」彼女は何とか笑おうとした。「希望はあるわ。デュライオスの気持ちが急に変わって、助かるかもしれない。それこそデインたちが助けに来るかもしれない。それこそ未来には何が起こるか分からないんだもの。私は死を選ぶんじゃない。希望に賭《か》けてみるのよ――分かってくれた?」
「うん……」
サーラは不承不承《ふしょうぶしょう》うなずいた。首を縦に振るだけのことが、これほど苦しかったことはかつてない。
「良かった――じゃあまず、どんな動物になるか決めなくちゃね」フェニックスは窓の鉄格子を眺《なが》めて考えこんだ。「あの窓から逃げるなら、鳥かコウモリがいいわね。でも、鳥は夜目が利《き》かないし……コウモリを近くで見たことはある?」
「飛んでるところはよく見るけど……」
「それじゃだめよ。変身するためには、その動物の姿形を頭の中に正確に思い描く必要があるの――じゃあ、フクロウは?」
「それならある。猟師《りょうし》の人が捕《と》ってきたフクロウを触らせてもらったことがあるよ」
まだ村にいた頃の話である。子供らしい好奇心で死体をいじってみたのだが、フクロウは太っているように見えるが、それはふかふかした羽毛《うもう》のせいで、本体は普通の鳥と同じくほっそりしていること、広げた翼が意外に大きかったことなどを、今でも鮮明に記憶していた。
「じゃあ、フクロウにしましょう――さあ」
フェニックスは身をよじり、少年にすり寄った。赤い涙滴形のイヤリングがサーラの目の前に垂《た》らされた。今まで注意して見たことはなかったが、なるほど、小さなガラス瓶の中に赤い液体が入っているのが分かる。
「さあ、それを噛《か》んで…瓶の蓋はねじこむようになってるから、舌でそれを回して、蓋を開けるのよ」
その指示に従うには、体を密着させ、ハーフエルフ特有の尖《とが》った耳に顔を近づけなくてはならなかった。薄い服を通して柔《やわ》らかい肉体の曲線が感じられ、かすかに汗の匂《にお》いも嗅《か》ぐことができた。デルの体とはまったく違う大人の女性の感触に、サーラは動揺を隠せなかった。
まず耳たぶ全体をくわえてから、少しだけ後退して、イヤリングだけを口に含んだ。前歯で口金の部分を固定し、舌で本体を回す――簡単なようでいて、微妙な舌の動きを要求される難《むずか》しい作業だった。
「慎重に……」フェニックスは小声で注意した。「あせっちゃだめよ……薬をこぼしたりしたら、取り返しがつかないから」
苦闘すること五分あまり、ようやく薬瓶の蓋がはずれた。同時に、つーんとする刺激臭が口の中に広がる。瓶からしみ出した液体が舌に触れる。何種類もの香辛料を混《ま》ぜ合わせたような、奇妙な味だった。
「さあ、念じて!」フェニックスは素早《すばや》く指示した。「フクロウの姿を正確に思い出すのよ。そして、自分がフクロウになったところを想像するの。さあ、早く!」
サーラは指示に従った。フクロウの大きさを、羽毛の感触を、翼や脚の形を、懸命に頭に思い浮かべる。そして自分がその姿になったところを想像した。
変身の過程は迅速《じんそく》だった。痛みはまったくなかったが、全身が不思議な冷気に包まれ、ぎゅっと締めつけられるような感じがした。腕が伽からするりと抜けたかと思うと、瞬時にして羽毛に覆《おお》われ、翼の形になった。脚も伽から抜け、急速に細く、小さくなっていった。内臓の配置も変化したため、腹の中に手を突っこまれてかき回されているような感じがした。
視覚も変化した。世界が大きくなると同時に、月が急に明るさを増したように感じられ、サーラは目がくらんだ。体が縮んだために、だぶだぶになったシャツが目の前に覆いかぶさった……。
気を取り直したときには、すでに変身は完了していた。サーラは新しく獲得《かくとく》した翼をはばたかせながら、自分の衣服の中から這《は》い出した。細い脚を踏ん張って床《ゆか》の上に立つと、驚きの目で自分の新たな姿を見下ろす。
変身は完璧《かんぺき》だった――薄茶色の羽毛に覆われたその姿は、どこから見ても完全なフクロウだ。、
「見事よ、サーラ」
フェニックスの声がやけに大きく耳に響いた。フクロウの聴覚は人間より鋭敏《えいびん》なのだ。サーラは声のした方向に目をやったが、そこに横たわる彼女の姿を、自分の記憶の中にあるそれと一致させるのに、少しとまどった。夜行性の烏であるフクロウの視覚は、わずかな月明かりでも驚くほど明るく、鮮明に見えるが、色彩に欠けており、視野も人間のそれとは異なっている。フェニックスの姿はやけに大きく、赤いはずの髪も黒く見えた。
「聞こえる、サーラ?」
不思議そうに首をかしげ、黒い眼球をくりくりと動かしているサーラに、フェニックスは呼びかけた。サーラは返事をしようとしたが、咽喉からは「がー」という耳ざわりな音しか出てこなかった。
「早く行きなさい。薬の効果はごく短い時間しか続かない。それまでにできるだけ遠くまで逃げるのよ――でも、高く飛んではだめ。効果が切れた時に落ちてしまうから」
変身には成功したものの、サーラはひどく不安だった。本当に飛べるだろうか? 試しに翼を広げ、何度かはばたいてみる。
体が軽くなる感じがした。飛べる! サーラは自信がついて、さらに力強くはばたいた。最初はぎこちなかったが、じきにコツをつかんだ。練習する必要はなかった。新たに獲得した肉体が飛ぶ方法を知っていた。
サーラはさっと舞い上がり、窓の縁にちょこんと止まった。思った通り、鉄格子の幅は充分に広く、簡単にすり抜けることができそうだ。だが、すぐに出て行くのはためらわれた。サーラは首をひょいと半回転させ、床に脱ぎ捨てられた自分の衣服と、その隣《となり》に横たわるフェニックスを一瞥《いちべつ》した。
「急いで!」彼女は急《せ》き立てた。「早く行くのよ!」
その表情は悲痛だった。いつまでもここに留《とど》まっては、かえって彼女を苦しめる。心残りではあったが、サーラは鉄格子をすり抜け、夜の空に飛び立った。
空を飛ぶ行為は、予想外に簡単だった。人間だった時に手足を動かしていたのと同じように、ごく自然に翼を動かすことができた。ワイバーンを倒した時にデインが言っていたことを思い出した。空を飛ぶ生き物は、地上を走るのが不得手《ふえて》な代わり、人間や野獣《やじゅう》が地上を走るのと同じように、楽々と空を飛ぶことができるのだ……。
ほんの一時《いっとき》、サーラは現在の切迫《せっぱく》した状況を忘れ、自力で飛翔《ひしょう》することの楽しさに酔っていた。ぐんぐんと高度を上げる。上空から見下ろすガドシュ砦《とりで》は、まるで箱庭のようだった。フクロウの肉食動物特有の鋭敏な視覚は、砦のあちこちで動き回るコボルドの姿もすべて明確に捉《とら》えていた。
中庭の中央にへカトンケイレスがいた。木材を集め、十二本の腕を器用に使って、やぐらのようなものを組み立てている。何だろう? サーラは観察したが、よく分からなかった――ただ、ひどく不吉な予感がした。
砦の上を何周も旋回してから、ようやくフェニックスの警告を思い出した。サーラは砦を後にして、一直線に南を目指《めざ》した。高度を下げ、密林の梢《こずえ》すれすれをかすめて飛ぶ。月の光を浴び、風を切って飛翔する感覚は爽快《そうかい》だったが、ゆっくり味わっている時間はない。薬の効果が切れる前にできるだけ砦から離れなくては。そしてデインたちと合流し、フェニックスを救い出すために戻ってくるのだ。手後れにならないうちに……。
突然、翼が重くなるのが感じられた。同時に、変身した時とは逆の感覚――全身が内側から膨張《ぼうちょう》するような感覚が襲いかかってきた。
そんな馬鹿《ばか》な!? 解けるのが早すぎる!
サーラはパニックに陥ったが、変身の過程が逆転するのを止める方法はなかった。墜落《ついらく》がはじまる前にどうにか高度を下げ、樹々《きぎ》の合間《あいま》に突っこむのが精いっぱいだった。翼が急に消滅し、腕の形に戻ってゆく――
変身が解けた。元の体重を取り戻し、飛翔力を失ったサーラは、生《お》い茂った木の葉のクッションを次々に突き破り、枝をへし折りながら、地上めがけて落下していった。
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7 巨人との戦い
しばらく気を失っていたらしい。サーラを目覚めさせたのは、密林を吹き抜ける涼《すず》しい夜の風と、騒々《そうぞう》しい猿の鳴き声だった。
意識がはっきりしてくるにつれて、全身の感覚も戻ってきた。体のあちこちをずきずきと痛みが苛《さいな》む。少年の口から思わずうめき声が洩《も》れた。その痛みに耐えながら、首をめぐらせてあたりを見回す。
サーラは自分が空中にひっかかっているのを発見した。密生した蔦《つた》と枝と葉がクッションになって、少年の体重を受け止めてくれたのだ。おそるおそる下を見ると、地上は闇《やみ》に沈んでおり、まだかなりの高さがあるようだった。最後まで落下していたら重傷を負っていたのは間違《まちが》いない。ぞっとすると同時に、幸運に感謝した。
滑《すべ》り落ちないように慎重に体を動かし、蔦にからまった腕を引き抜いて、上半身を起こす。枝の間をすり抜けて落ちる途中、派手《はで》にひっかいたので、裸《はだか》の手足は傷だらけだった。幸い大きな怪我《けが》はないようで、痛みも耐えられる。
とにかく地上に降りなくてはならない。サーラは猿のように枝を伝い、幹の方に向かった。この樹はひどくねじくれて瘤《こぶ》だらけであるうえ、蔦が何本もからまっていたので、足掛《あしか》かりを見つけるのは簡単だった。小さい頃からやっていた木登りの経験と、盗賊ギルドでの訓練が役に立ち、サーラは幹を伝って楽々と降りていった。
最後の一歩は慎重に降りた。密林の地表は厚い腐葉土《ふようど》に覆《おお》われており、柔《やわ》らかかった。落ち葉や細い枝が裸足《はだし》の裏にちくちく当たるのを我慢《がまん》すれば、歩くのにたいして支障はなさそうだ。
さて――ひと息ついたところで、サーラは改めて自分が置かれた状況《じょうきょう》を検討した。
砦《とりで》からたいして離れることができなかったのは計算外だった。彼の考えでは、一気にマデラ村の近くまで飛んで、デインたちに救援を求めるつもりだった。魔法の薬の効果があんなに短いとは思わなかったのだ。砦の上を何度も旋回して、貴重な時間を浪費してしまったのも失敗だった。
だが、悔《くや》んでいてもしかたがない。これからどうするかを考えなくては。
最も常識的な選択は、まっすぐ南に向かい、可能ならデインたちと合流することだろう。サーラもついさっきまではそうするつもりだった。それが彼女を救う唯一《ゆいいつ》の可能性だと思ったからだ。
だが、今は違う。砦の中庭でヘカトンケイレスが組み立てていた、やぐらのようなものを目にしたからだ。あれが何かは分からないが、明らかに完成に近づいていたようだった。いや、気絶していた間に、すでに完成してしまったかもしれない。あれがフェニックスの命を奪う儀式に用いるものだとしたら――今からデインたちと合流しても、彼女を救うには、とうてい間に合わないことになる。
サーラは苦しんだ。彼女を助ける方法はない、あきらめて逃げろ――心の中でそうささやく声がする。それは確かに正しい選択だろう。武器ひとつない、裸で、力もない自分が、コボルドの包囲を突破し、へカトンケイレスを出し抜いて、手足の自由を奪われたフェニックスを奪還《だっかん》するなど、どう考えても不可能なことだ。
だが同時に、それが卑劣《ひれつ》な選択であることも確かだった。どんな理由をつけようと、仲間を見殺しにすることに変わりはない。理由が合理的であることは慰《なぐさ》めにならなかった。むしろ合理的であればあるほど、その非情な選択を受け入れることは、魂《たましい》の中にある高尚《こうしょう》な部分を踏みにじる行為のように思えた。それを選択したが最後、二度と元の自分には戻れないのだ……。
「ちくしょう!」
サーラは思わず汚《きたな》い言葉を吐いた。近くの樹の幹を殴《なぐ》りつける。
「ひどいぞ、フェニックス! 何で僕にこんな苦しい思いをさせるんだよ! これじゃ死んだ方がよっぽど楽だ!」
その時、サーラははっとした。さっきのフェニックスの話を思い出したのだ。
彼女はかつて、恋人に裏切られたことがある。最後の最後まで見捨てないと誓《ちか》った男に見捨てられたのだ。哀れな男だとは思うが、薄情《はくじょう》だと非難する気持ちはサーラにはなかった。真に非情な男なら、彼女が呪《のろ》いにかけられたとたん、捨ててしまっていたはずだ。そいつは卑劣なのではなく、意志がほんの少し弱かっただけなのだろう。
きっとその男も苦しんだに違いない――今の自分がそうであるように。
今また、自分が彼女を見捨てて逃げたらどうなるだろう? フェニックスは信じた男に二度裏切られ、絶望の中で死んでゆくことになる……。
いや、違う――サーラはすぐ自分の考え違いに気がついた。彼女は最初から絶望していたのだ。その男を捨てたのも、彼女の方からではないか。その男がいずれ自分を捨てて逃げると確信したからだ。そして今、彼女は同じ確信を抱《いだ》いている。サーラが自分を捨てて逃げるだろうと信じているのだ。
なぜなら、サーラも同じ男だからだ。
「……そうは行かないぞ」
サーラの中に憤《いきどお》りに似た熱い感情がふつふつと湧《わ》き上がってきた。フェニックスの確信を現実のものにしてなるものか、と固く決意する。男がみんな同じ生き物だと思われたまま死なれてはたまらない。男はそうじゃない、少なくとも自分は違うのだということを見せつけてやりたかった。
そう、試しもせずに不可能だと決めつけるのはおかしい。どんなに小さくても可能性はあるはずだ。砦に戻って、こっそり隙《すき》をうかがおう。フェニックスを奪還《だっかん》する方法を探してみるのだ。あきらめるのはそれからでも遅くない。
そう決意した直後に、デルの顔が思い浮かんだ。もし失敗し、死んでしまったら、フェニックスを助けられないばかりか、彼が帰ることを信じて待っているデルを裏切ることになる。それを考えると、心臓が締めつけられる思いだった。自分の生命が自分だけのものではなく、二人の女性の生命をも背負っているのだということを、今さらながら痛切に実感した。それは十二歳の少年が背負うには重すぎる責任だ。
だが、サーラの決心はひるがえらなかった。どちらの道を選ぼうと、苦しいのは同じことだ。それならば、今、目の前のフェニックスを救いたかった。自分にどれだけできるか試してみたかった。
それが男として義務だと思った。
「男ってつらいな……」
サーラはそうぼやくと、月の位置で方位を確認し、北へ――砦のある方向へと歩きはじめた。
道もない夜の密林を明かりもなしに歩くのは、大人でも不安なものだろう。ましてサーラは少年である。たった一人で、それも素裸《すはだか》なのだから、なおのこと心細い。頭上で鳥が鳴いたり、夜行性の小動物が草むらをがさがさ揺らすたびに、びくりと立ち止まり、しゃがんで身をひそめた。危険がなさそうなのを確認し、また歩き出す――そんなことを何十回も繰り返した。
裸足で土を踏むのは、最初のうちは不慣れなのでとまどったが、そのうち気にならなくなってきた。時おり尖《とが》った石を踏んで痛い思いをするのさえ我慢《がまん》すれば、どうということはない。むしろ密生した茂みを通り抜けるたびに、無防備な脚や横腹が傷つけられることの方がたまらなかった。この時ほど、服のありがたさを実感したことはない。
危険には遭遇《そうぐう》しなかったが、一度だけ、ひどく驚いたことがあった。枝から蔦が垂《つたた》れ下がっていると思って払いのけようとしたら、それが手の中で不意に動いたのである。大きな蛇《へび》だったのだ。蛇は不気味《ぶきみ》に光る眼《め》でサーラをにらみつけた。恐怖のあまり腰が抜けそうになったが、幸いなことにそいつは満腹だったらしく、襲ってはこなかった。サーラは蛇を刺激しないよう、そろそろと迂回《うかい》した。
ようやく砦にたどり着いた時には、歩きはじめてから一時間近く経《た》っていた。夜明けが近づき、星空が青みを帯《お》びはじめた頃、不意に密林が途切《とぎ》れ、少年の目の前に蔦に覆われた石壁が立ちはだかったのだ。
壁の向こうから、がやがやとコボルドの騒ぐ声がする。かなりの数が中にいるようだ。正門はずっと左手の方にあるはずだが、コボルドが出入りしていることを警戒して、壁をよじ登ることにした。
垂直の壁を登るのは思ったより簡単だった。石を積み上げた壁は風化が進んでいて、手をかけやすい隙間《すきま》やくぼみがたくさんあったし、密生した蔦もロープの代わりになった。サーラは自分でも驚くほど身軽に登ってゆき、ほんの数分で頂部までたどり着いて、胸壁《きょうへき》をひょいと乗り越えた。盗賊《とうぞく》ギルドの特訓の成果だ。
そこは胸壁にはさまれた狭い通路だった。かつてこの砦が使われていた頃は、弓矢で武装した兵士がここを巡回《じゅんかい》し、外からの襲撃を警戒していたのだろう。現在の住人であるコボルドたちには、そこまでの知恵はないのか、壁の上に動くものの姿は見当たらない。
そっと内側の胸壁から首を出して、中庭の様子《ようす》をうかがう。何かの儀式が絶頂に達しているらしく、大きく燃え上がるかがり火のそばで、コボルドたちが跳《は》ね回り、お世辞《せじ》にも音楽とは呼べないおかしなリズムで、楽しそうにがなりたてていた。
ヘカトンケイレスはその中央にいて、例のやぐらのようなものの前に座《すわ》っていた。それはすでに完成していた。太い四本の脚で支えられたテーブルのようなもので、上部には格子状に枝が敷き詰められている。巨人と比《くら》べるとさほど大きく見えないが、実際には人間の背丈よりも高いだろう。その底には大量の草や木の葉が積み上げられ、火がつけられて、もうもうと白い煙をあげていた。巨人は周囲のコボルドたちの騒ぎにはまるで無頓着《むとんちゃく》な様子で、草を補充《ほじゅう》したり、火をあおいだりする作業に黙々《もくもく》と熱中している。たちのぼる煙は台全体を包みこんでいた。
サーラははっとした。煙の合間《あいま》に動くものが見えたのだ。細長い布を全体に巻きつけられた細長い芋虫《いもむし》のようなものが、やぐらの上に横たえられ、煙に巻かれて苦しそうに身をよじっている。決定的だったのは、不器用《ぶきよう》に巻かれた布の一部がほどけ、隙間《すきま》から赤髪がこぼれて見えたことだ。
フェニックスだ!
以前にデインから聞いた、古代王国のミイラの製法を思い出した。死者の内臓を抜き取って代わりに塩や香料などを詰めこみ、いくつかの面倒《めんどう》な儀式を経《へ》た末、最後は包帯で巻いて、香木《こうぼく》の煙でいぶすのだという。
狂ったへカトンケイレスは途中の過程を省略し、生きたままのフェニックスに包帯を巻いて、香木がないので木の葉の煙でいぶしているのだ。狂気が巨人の記憶を歪《ゆが》めていたのだろう。ミイラの製法の過程を完全に覚えていたなら、まず彼女の内臓を抜き取る作業からはじめたはずである。
もっとも、彼女にとってはどっちが幸運だったのか分からない。生きたまま煙でいぶされ、苦しみながら死ぬよりは、内臓を抜き取られて即死する方が、いくらかましだったかもしれない。
サーラはあせった。フェニックスの命はあと数分しか保《も》たないだろう。それまでに何か彼女を助ける方法を発見しなければならない――さもなければ、彼女が苦しみながら死んでゆく光景を、手をこまねいて見ていなくてはならないのだ。
だが、どうやって? やみくもに飛び出しても無駄《むだ》だ。いくら熱意があり余っていても、非力な少年にヘカトンケイレスを倒すことなどできはしない。その周囲のコボルドの群《む》れを突破することさえ不可能だろう……。
踊り狂うコボルドたちを絶望的な心境で眺《なが》めているうち、突然、サーラはあることに気がついた。その視線が座りこんでいる一匹のコボルドに吸い寄せられる。そいつは胸に小さなペンダントのようなものを吊《つる》るしていた それはかがり火を反射し、きらきらと赤く輝いていた。
一転して、サーラの心に希望が広がった。あれを手に入れることができれば……。
周囲を見回し、中庭に降りる方法を探した。少し離れたところに崩《くず》れかけた塔があり、壁の上の通路はそこに通じていた。ああいう塔の内部には螺旋《らせん》階段があるものだ。サーラは腰を低くして、こそこそと胸壁の後ろを走り、塔の中に入った。
塔の内部は真っ暗だった。サーラははやる心を抑《おさ》えながら、足で階段を探《さぐ》って、慎重に降りていった。こんなところで足を踏みはずして骨でも折ったりしたら、これまでの努力が何にもならない。
ようやく地上まで降り、塔の出入口から顔を覗《のぞ》かせて、様子《ようす》をうかがった。このあたりはかがり火から離れていて暗いうえ、コボルドたちは踊りに、へカトンケイレスは草を燃やすのに夢中になっていて、少年の侵入に気がつかない。
幸いなことに、壁の近くには茂みがいくつかあった。生命力の旺盛《おうせい》な密林の植物が、壁を越えて砦の内部まで侵蝕《しんしょく》してきているのだ。サーラはその背後に隠れて、コボルドたちの方に近づいていった。目標にしているコボルドは、踊り疲れたのか、さっきから地面に座りこんだまま、手拍子《てびょうし》を打っているだけだ。
ふと、やぐらの方に視線を移したサーラは、咽喉を締めつけられる思いがした。横たわっているフェニックスは、もうもがいておらず、ぐったりとなっている。早くしないと危《あぶ》ない!
サーラは茂みの背後で腰をかがめ、飛び出す体勢を固めた しかし、いざとなると勇気が鈍ってしまい、なかなか飛び出すきっかけがつかめない。このままではフェニックスが死んでしまうというのに……。
結局、サーラを突き動かしたのは、「卑怯者《ひきょうもの》になりたくない」という思いだった。ここで絶好のチャンスを見逃《みのが》し、彼女を見殺しにしたなら、たとえ生き残っても、一生|後悔《こうかい》することになるだろう。
「ごめんよ、デル……失敗したら許してよね」
そうつぶやくと、サーラは力強く地面を蹴って、隠れ場所から飛び出した。
踊りに夢中になっていたコボルドたちには、まったく予想外のことだった。暗がりから駆け出してきた裸の少年に、数匹のコボルドは気がついたものの、驚きのあまり仲間に警告するのが遅れた。サーラの突進を阻止するものは何もなかった。
目標のコボルドが振り返り、驚いて立ち上がろうとした。サーラはそいつに力いっぱい体当たりした。体力では少年の方がわずかに上回っている。そのまま地面に押し倒し、馬乗りになって、そいつが首に吊《つ》るしていたものをむしり取った。
思った通り、それはフェニックスのイヤリングの片方だった。彼女から奪ったそれを、紐《ひも》で吊るして首に提《さ》げていたのだ。
だが、勝利に酔っている余裕はない。我《われ》に返ったコボルドたちがいっせいに襲いかかってきたのだ。たちまち十匹以上にのしかかられ、押さえこまれる。下敷きになったコボルドが悲鳴をあげる。サーラは素早《すばや》くイヤリングを口に放りこんだ。
激昂《げっこう》したコボルドたちは、少年の四肢や髪の毛をつかみ、綱引きのように引っ張りはじめた。肩や股関節《こかんせつ》に激痛が走り、サーラは歯を食いしばった。このままではあと数秒でばらばらにされてしまう。
蓋を開《あ》けている時間はない。思いきって奥歯でガラスを噛《か》み潰《つぶ》した。なじみのある独特の味が舌の上に広がる。サーラは痛みに耐えながら、変身の対象を一心に念じた。今度はフクロウなどではない……。
少年の手足をつかんでいたコボルドたちは、急にその体が膨張《ぼうちょう》しはじめたのに驚き、慌《あわ》てて手を離した。その表面がみるみる鱗《うろこ》に覆《おお》われてゆく。首が伸び、腕が萎縮《いしゅく》し、長い尻尾《しっぽ》が生《は》える。帆船《はんせん》の帆を連想させる巨大な一対の翼が、夜空に向かって力強く成長してゆく。脚は太くなり、鈎爪《かぎづめ》ががっしりと大地に食いこんだ。逃げ遅れたコボルドの一匹が、その巨体の下敷きになって潰された。
前回と同じく、変身はほんの数秒で完了した。サーラは思い描いた通りの姿になった。彼が知っている最強の生物――ワイバーンに。
巨大な翼をひと振りすると、近くにいた数匹のコボルドが一撃で打ち倒された。ちっぽけなコボルドたちは悲鳴《ひめい》をあげて逃げまどう。
サーラは新たに獲得《かくとく》した膨大《ぼうだい》な体重に呻吟《しんぎん》しながらも、巨体をひねり、へカトンケイレスに向き直った。視覚には色彩が欠けており、フクロウと違って視野が広い分、真正面が見えにくいが、たいして支障はない。巨人の体がぼんやりと輝いているのは、体温が見えているからだ。
へカトンケイレスもこちらに向き直っていた。今のサーラの目には、巨人が自分と同じぐらいの大きさに見えていた。突然の敵の出現に驚いた様子《ようす》だが、すぐに気を取り直し、早くも戦う体勢を固めている。彼は生まれついての闘士《とうし》なのだ。
だが、フェニックスを救う方が先だ。サーラは翼を力強くはばたかせた。時ならぬ突風が巻き起こり、コボルドたちはひっくり返され、あるいは吹き飛ばされた。莫大《ばくだい》な揚力《ようりょく》を得て、ワイバーンの巨体がふわりと宙に浮く。ヘカトンケイレスも顔に土埃《つちぼこり》の直撃を受け、前進をはばまれていた。
やぐらも風に揺れていた。その下でくすぶっていた草や葉は、たちまち風に吹き飛ばされてしまった。やぐらを包みこんでいた白煙は一掃《いっそう》された。これでしばらくフェニックスは安全だ。
だが、まだ大きな問題が残っている――へカトンケイレスを倒さないことには、彼女を助けたことにはならないのだ。
サーラは低空に浮遊し続けながら、この強敵とどう戦うべきか考えあぐねていた。力だけならおそらく互角《ごかく》だろう。だが、こちらが腕が無いのに対し、相手の十二本の腕は格闘《かくとう》に適しているだろうから、うかつに組み打ちを仕掛けるのは不利である。一撃離脱を繰り返すことも考えたが、変身の薬の効果が長く続かないのが問題だ。戦いが長引けば確実にやられる。可能なかぎり早く倒さなくてはならないのだ。
弱点を考えろ、と自分に言い聞かせた。どんな強敵でも弱点をうまく突けば倒せる。デインはそう言っていたではないか。
だが、ヘカトンケイレスの弱点は何だろう? 屈強《くっきょう》な腕を持つ巨人には、弱点などないように見える。ワイバーンの場合、空を飛ぶ能力は最大の長所だが、同時に最大の弱点でもある。空を飛べないへカトンケイレスの場合は……。
そうか、その逆だ!
作戦を決めたサーラは、高度を上げて中庭から飛び出すと、大きく旋回に移った。間合いを取るふりをして、さりげなくヘカトンケイレスの東側に回りこむ。巨人はこちらの意図《いと》に気がついていない様子だ。もう少し、あとほんの数秒でいいから、気がつかないでいてくれ……。
充分に高度を上げてから、はばたくのをやめて、中庭めがけてダイブした。目標は巨人ではなく、その手前の地面である。
地面に激突する寸前に、翼を大きく広げ、首を力いっぱい持ち上げた。ワイバーンの巨体は下向きの弧を描き、急降下から地面すれすれの水平飛行に移る。そして急降下の勢いを維持したまま巨人にぶつかっていった。自分の格闘の技量を過信している巨人は、勝ち誇った笑みを浮かべた。腰を落とし、十二本の腕を蜘妹《くも》のように広げて、その攻撃を受け止めようとする。それこそまさにサーラの意図した反応だった。
激突した!
肉と肉がぶつかり合う、どーんというすごい音がした。さしもの巨人の力でも、ワイバーンの突進を完全に止めることはできず、踵《かかと》で土をえぐりながら、ずるずると後ずさってゆく。振り払われまいと、十二本の腕で長い首にしがみついてくる。首を強く締めつけられ、サーラは激痛を覚えた。口から悲鳴《ひめい》が洩《も》れる。それでも負けずに、翼を力強くはばたかせ、後ろ脚で地面を蹴った。
へカトンケイレスはなかば持ち上げられた状態なので、踏ん張りがきかない。ワイバーンの勢いに押されて後ろによろめいてゆき、ついに西側の壁に背中から激突した。もろくなっていた壁は、二匹の巨大な怪物にのしかかられ、その重みに耐えかねて、崩壊《ほうかい》の前兆《ぜんちょう》の不気味《ぶきみ》な音を立てはじめた。
巨人は吠《ほ》え、激しくもがき、ワイバーンを引き離そうとする。ようやくサーラの意図に気がついたのだろう。だが、もう遅い。壁は揺れはじめている。サーラは翼に力をこめ、長い尻尾で地面を叩《たた》いて、最後のひと押しをくれた。
大音響とともに壁が崩壊した。石をはじき飛ばし、蔦《つた》を引きちぎりながら、二匹の怪物は砦《とりで》の外に飛び出した。
その向こうは暗黒の深淵《しんえん》だった。
巨人は今度はワイバーンの首にしがみつこうとした。一瞬、それは成功したように見えた。だが、サーラが素早《すばや》く身をよじったので、その手はむなしくすり抜け、宙に踊った。サーラはその瞬間、巨人の顔に恐怖と驚きがよぎるのを見た。口が大きく開き、絶望の悲鳴をあげた。
そして、巨人は落ちた。
長い長い落下だった。絶壁《ぜっペき》にぶつかり、跳《は》ね返りながら、大渓谷《だいけいこく》の底に向かって巨人は転がり落ちていった。その巨体も渓谷のスケールに比《くら》べればちっぽけなものにすぎない。
やがてその姿は闇《やみ》に呑《の》まれて見えなくなった。
「サーラ……?」
顔を覆っていた包帯が解かれると、金髪の少年の顔を見上げて、フェニックスは不思議そうな顔をした。なぜ助かったのか理解できず、夢を見ているような表情だ。無理もない。包帯で目隠しされていたうえ、最後の方は気を失っていたので、何が起こったのかまったく知らないのだ。
「安心して。巨人は死んだから」
サーラは優しく語りかけた。髪はくしゃくしゃ、素裸で全身傷だらけというひどい状態だが、笑みは忘れていなかった。
少年の助けを借りて上半身を起こすと、フェニックスは周囲を見回した。夜明けが近づいており、空はすっかり白んでいた。コボルドたちは遺跡《いせき》のあちこちに隠れ、こそこそと息をひそめて、こちらの様子《ようす》をうかがっている。
一匹が隠れ場所からおそるおそる首を出した。サーラが面白《おもしろ》がって、
「がうっ!」とワイバーンの声を真似《まね》してみせると、そいつは震え上がり、慌《あわ》てて首を引っこめた。武器も持たない裸の少年ひとりに、コボルドの群れが死ぬほどおびえているのは、事情の分からないフェニックスには、何とも奇妙な光景だった。
「だいじょうぶだよ。もう襲って来ないさ。あいつら、僕をワイバーンだと思いこんでるから」
「ワイバーン?」
サーラは笑って肩をすくめた。「いろいろあったんだよ」
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8 男と女のプライド
まだ混乱から醒《さ》めないフェニックスに、サーラは事情を説明した。あれからすぐ薬の効果が切れて、彼は元の姿に戻ったのだが、その変身を目の当たりにした愚《おろ》かなコボルドたちは、彼がワイバーンの化身《けしん》だと思いこんだのだ。彼らの守り神であったへカトンケイレスが一瞬で倒されたすさまじい光景を目撃した後では、少年に楯《たて》つこうと思う者などいるはずがない。ご機嫌《きげん》を取ろうとしてか、頼みもしないのに食糧を持って来たり、奪い取った衣服やダガーを返しに来たほどだ。
陽《ひ》が昇ると同時に、サーラとフェニックスは砦《とりで》を後にした。本当は傷ついた体を休めてから出発したかったのだが、ぐずぐずしていると、コボルドの中の頭のいい奴が、何かおかしいと気がつきかねない。
装備の多くは失われてしまったが、少なくともデルからもらったダガーを取り返すことができて、サーラは満足だった。魔法の薬の助けがあったとはいえ、自分の力と機転で見事に強敵を倒したことで、彼はうきうきしていた。それまでの絶望と苦悩が深かっただけに、それを乗り切った喜びも大きかった。
だが、少年とは対照的に、フェニックスは不機嫌《ふきげん》だった。
「言ったはずよ。私を置いて逃げなさいって。どうして戻って来たりしたの?」
マデラ村に向かう道すがら、彼女はずっと小言《こごと》を言い続け、サーラの高揚《こうよう》した気分に水を差した。
「いいじゃない、そんなこと。結局、うまくいったんだし……」
「鼻にかけるのはやめなさい! 巨人を倒せたのはあなたの力じゃないわ。運よ! あなたは単に、ものすごく運が良かっただけなんだから」
サーラはむくれた。確かにいくつもの幸運が重ならなければ、あんな大それたことは不可能だったろう。それは彼自身にも分かっている。だが、命がけの努力を評価されないのは納得《なっとく》いかない。
「フェニックスはあのまま死んでた方が良かったって言うの?」
「私のことはどうでもいいのよ。デルはどうなるの? あなたが無茶をして死んだら、あの子がどれだけ悲しむか考えた?」
「そりゃ考えたけど……」
「今度のこと、彼女に話したらどう思うかしらね? あなたが私のために命を投げ出そうとしたと知ったら?」
「それは……」
「裏切られたと思うんじゃないかしら?」
サーラは返答に詰まった。弁明の言葉を探すが、見つからない。
「信じていた人に裏切られるのは苦しいことよ。デュライオスもきっとそうだったに違いないわ。殺されそうにはなったけど、彼を憎む気持ちは起きない。何百年も慕《した》い続けていた人に裏切られていたと知ったら、気が変になるのも当たり前だもの――デルにそんな気持ちを味わわせたいの?」
「彼女なら僕のこと理解してくれる……と思うんだけど、甘いかな?」
「甘いわね」フェニックスはきっぱりと言った。「女にはそんなものは理解できないわ。男の意地だの、プライドだのってものはね」
「別にプライドのためにやったんじゃないよ!」
「でも、そんな風に見えるわ。どうしても後に引けない。ここで逃げてしまったら男でなくなる――そう思ったんじゃない?」
「……うん」
「それをプライドって言うのよ。立派《りっぱ》なように見えるけど、そんなもののために命を捨てるなんて、愚《おろ》かなことだわ」
サーラはしょげた。そこまではっきり言われては立つ瀬がない。
「でも、僕はやっぱり嫌《いや》だよ。女を置いて逃げるなんて……」
フェニックスは苦笑した。
「ええ、分かるわよ。あなたはいい子だわ、サーラ。いい子すぎるぐらい――それがあなたの長所であると同時に、たぶん最大の弱点なのよ。その純粋な性格が、いずれあなたの命取りになるかもしれない。今のうちに、もうちょっと卑劣《ひれつ》になることを覚えなさい」
「…………」
「きついことを言ってごめんなさい。あなたには心から感謝してるわ。でも、あなたを好きだから忠告するのよ。あなたに死んで欲しくないし、デルも悲しませたくない。私の人生は失敗したけど、あなたたちには幸福になって欲しいのよ」
ミスリルも同じようなことを言ってたな、とサーラは思った。大人というやつは、子供に自分の失敗を繰り返させたくないらしい。
言うことはもっともだと思うが、子供にしてみれば大きなお世話だ。何もかも大人の指示通り、操《あやつ》り人形のように生きるなんてつまらない。失敗してもいい、傷ついてもいいから、自分の意志でいろいろなことを試してみたい――そう決意したからこそ、サーラは冒険者の道を選んだのだ。
「……ねえ、僕もひとつ、忠告していい?」
「忠告?」
「いや、忠告って言うより、文句なんだけどさ……」
少しためらってから、サーラは胸の中にたまっていた言葉を吐き出した。
「ゆうべ聞かせてくれた男の人のことなんだけど……どうして最後まで信じてあげなかったの?」
「え?」
「どうして別れたりしたのさ? どうして二人でもう少し力を合わせてみようとしなかったの?」
「無理だったのよ」フェニックスは悲しそうに微笑《ほほえ》む。「あの人はよく頑張《がんば》ったけど、もう限界だった。私を捨てなかったのは男のプライドだけど、その重みに押し潰《つぶ》されそうになっていたわ。私にはそれが分かったの」
「だから自分から別れたの? その人をプライドから解放するために?」
「ええ……」
「それって、女のプライドじゃないの?」
「え?」
「男を楽にするために、自分を犠牲にするって考え方がさ――違うのかな? 何だかそんな風に思えるんだけど」
「…………」
「でも、僕は嫌だな、そんなの。女を犠牲にして楽する男も、世の中にはいるかもしれないけど、少なくとも僕は嫌だよ。そんなことされたって、ちっとも嬉《うれ》しくない。幸福も不幸も二人で味わう方がいい」
サーラの言葉に胸を突かれ、フェニックスは沈黙した。何か深く考えこんでいる様子《ようす》だ。やがて彼女はぼそりと言った。
「そうね――間違《まちが》ってたのかもしれないわね」
「え?」
「レグのことよ。やっぱり彼女を行かせたのは間違いだったのかも……」
サーラがその言葉の意味を質問しようとした時――
「おーい!」
前方から懐かしい声がした。驚いて首を見たサーラは、瞳《ひとみ》を輝かせた。喜びに顔がほころぶ。密林の中の一本道を、嬉しそうに手を振りながら駆けてくるのは、デイン、ミスリル、そして――
「レグ!」
しかし、レグがデインと仲直りしたと思ったのは、サーラの早とちりだった。
サーラたちと別れた後、デインとミスリルはまっすぐにマデラ村に向かい、そこで街道を進んできたレグと出くわしたのだ。サーラたちがなかなかやって来ないので、不安を感じたデインは、いっしょに捜索《そうさく》してくれとレグを説得した。二人の危機とあっては無視できない。彼女はしぶしぶ承諾《しょうだく》し、捜索に同行した。
全員でマデラ村の酒場に戻ると、さっそくレグは、自分はガルガライスに行くからここで別れよう、と宣言した。二人が無事《ぶじ》に見つかった以上、もう行動を共にする理由はないというのだ。
「のこのこザーンに帰れってのか? それはないだろう!?」デインは思わず声を張り上げた。「高い金払って馬まで買って、はるばるこんな遠くまで追いかけて来たのは、誰のためだと思ってるんだ!」
「誰が追いかけてくれって頼んだよ?」レグの態度は相変わらずぶっきらぼうだ。「ご苦労様なこったが、あたしにゃ関係ないね」
「その態度は何だ!? お前を追いかけるために、サーラとフェニックスは危険な目に遭《あ》ったんだぞ!」
「だから、あたしにゃ関係ないって言ってるだろ! そっちが勝手に追いかけてきただけじゃないか。迷惑なんだよ!」
デインの顔が怒りのために紅潮《こうちょう》した。
「そんな薄情《はくじょう》な女だったのか、お前は!? 見損ったぞ!」
「ああ、見損ってもらって結構《けっこう》」レグはぷいと横を向く。「あんたみたいな最低野郎に誉《ほ》められたかないね」
「何だと!」
最悪だ――サーラは落胆《らくたん》した。何とかレグに追いつきさえすれば説得してつれ戻せると、安直《あんちょく》に考えていたのが間違いだった。仲直りするどころか、二人の口論は激しくなる一方で、とても見るに耐えない。口の悪さではひけを取らないはずのミスリルでさえ、二人の罵《ののし》り合いのあまりのすごさに茫然《ぼうぜん》となり、口をはさむことができないでいる。ちらっと横に目をやると、フェニックスの表情は蒼白《そうはく》だった。複雑な感情が揺れ動いているらしく、今にも泣き出しそうに見える。
「ここまで言ってるのに、まだ分からないのか!?」デインが大声で怒鳴《どな》る。「何が不満なんだ、いったい!?」
「不満!? はっ! 不満だらけだよ!」レグが怒鳴り返す。「あんたはいつもリーダー面《づら》して、偉そうにしてるだけじゃないか! その態度が気に食わないんだよ!」
「そんなに僕が嫌いなのか!?」
「ああ、嫌いだね! あんたの顔なんか見たくない! とっととザーンに帰れ!」
「嫌だね。納得《なっとく》のいく理由を聞かされるまでは帰らない!」
「理由なんかない! 帰れ!」
「帰らない!」
「帰るんだよ! さもないと――」
頑固《がんこ》なデインの態度に業《ごう》を煮やし、レグはついに実力行使に出た。彼の胸ぐらをつかみ、殴《なぐ》ろうとする――
「やめて!」
その拳《こぶし》にしがみついて止めたのはフェニックスだった。
「もうやめて、お願い!」彼女は涙にうるんだ瞳でレグを見上げた。「お願い――こんなこと、もうやめましょうよ、レグ」
「フェニックス……?」
「私、もう耐えられない。こんなこと……悲しすぎるわ。やっぱり間違ってたのよ。最初から本当のことを言った方が良かった――」
「どういうことだ?」デインはぽかんとなった。「本当のこと?」
「フェニックス、言うな!」レグが必死の形相《ぎょうそう》で叫《さけ》ぶ。「言うと殴るぞ!」
「殴ってもいいわ。それでも私は言う……」
フェニックスは涙をぽろぽろ流しながらも、決然とした表情でデインに向き直った。
「デイン、本当はレグは――」
「言うなーっ!」
「彼女は妊娠《にんしん》してるのよ」
沈黙がその場を支配した。たっぷり十秒間、誰もが口を利《き》かなかった。レグはデインの驚きの視線に耐えきれず、気まずそうに顔をそむけた。
最初に口を開いたのはデインだった。「僕の……子か?」
「ほ……他の誰だって言うんだよ」レグは後ろを向いたまま、あふれてくる涙を懸命にぬぐっていた。「あんたはあたしの……最初で、ただ一人の男じゃないのさ」
「おやまあ」ミスリルがつぶやく。
「……どうしてだ?」デインはまだ茫然となっていた。「そんな大事なこと、何で言ってくれなかったんだ……?」
「言ってどうなるっていうの? 身分が違いすぎるよ。あんたはでっかい神殿の司祭長の息子、あたしはどこの馬の骨とも分からない傭兵《ようへい》……」
「身分だって? 僕がそんなこと気にすると思ってたのか!?」
「あんたは気にしないだろうけど、あんたのお父さんは気にするよ。あんたの家に行ったことはないけど、どんなに上品で厳格なところか、だいたい見当はつく――息子がこんな下品な女と結婚するのを、許してくれるはずがない……」
「親に反対されるぐらい何だ! そんなのかまうもんか! どうしても許してもらえないなら、家を飛び出しててでもいっしょになってやる!」
レグは涙を流しながら、くすりと笑った。「やっぱりね……」
「え?」
「やっぱりそうだと思った。あんただったら絶対そう言うって――性格からしてそう言うに違いないって思ってた」
「レグ……」
「それが嫌だったんだ。あんたの人生をぶち壊しちまうのが――あんたには安楽な未来が約束されてる。裕福な家で、大勢の人に慕《した》われて、きれいで上品な嫁さんをもらって……そんな幸福な人生が、あたしと結婚したら台無しになっちまう。それが分かってたから、言えなかったんだ……」
「それでわざと喧嘩《けんか》して別れようと」デインは振り返り、しょんぼりとしているフェニックスをにらみつけた。「君は知ってたんだな、最初から?」
「ごめんなさい……」フェニックスは消え入りそうな声で言った。「彼女から相談を受けて……誰にも言うなって……」
サーラにもようやくすべての事情が飲みこめた。なぜワイバーンとの戦いの時、レグが前に出るのをためらったか。なぜ彼女は危険な山道を避けて迂回《うかい》したかお腹《なか》の子供を気遣《きづか》ってのことだったのだ。
「……しかし、一人でどうやって育てるつもりだったんだ?」とデイン。「ガルガライスに当てでもあったのか?」
「ないさ、そんなもん――両親もどこ行ったか分かんないし」
「じゃあ、どうやって……?」
「心配しなくても、あたしは強い女だよ」レグは無理に笑おうとした。「男の助けなんか要《い》らないさ。これまでに貯《た》めた金が四万ある。それで二、三年は暮らしていける……」
「その先はどうする? 子供を抱《かか》えて冒険者《ぼうけんしゃ》をするつもりだったのか?」
「あたしの両親だって、傭兵をやりながらあたしを育てたんだ。あたしだって、同じことぐらいできるさ……」
「許さないぞ!」デインは憤慨《ふんがい》した。「そんな勝手な生き方は許さない!」
「デイン……」
「君はいつも、自分の子供時代がどんなに不幸だったか、ぼやいてたじゃないか。自分の子供にも同じ思いをさせる気か? おまけに片親だなんて――そんなのは僕は絶対に許さないからな!」
「あんたには迷惑はかけないよ……」
「そういう問題じゃない!」デインは激しくかぶりを振る。「僕が許さないと言ってるんだ! 君や子供がつらい目に遭うと分かってて放っておけるもんか!」
「だからって、あんたを不幸にしてまで幸せになりたいなんて思わないよ」
「それはこっちの台詞《せりふ》だ! 僕と結婚しろ、すぐに!」
レグは耳を押さえた。「嫌だ!」
「結婚するんだ!」
「嫌だ!」
「結婚しろ!」
「嫌だ!」
「ああ、もう! いいかげんにしてよ!」
たまりかねて、サーラが割って入った。二人の押し問答《もんどう》を聞いているうち、無性《むしょう》に腹が立ってきたのだ。
「レグ、強情《ごうじょう》だぞ!」
「サーラ……」
「何で女ってみんなそうなんだよ! デルも、フェニックスも、レグも……何で男のために耐えようとするんだよ!? 犠牲になろうとするんだよ? おまけに嘘《うそ》までついて――もっと正直に本音《ほんね》をぶつければいいじゃないか!」
サーラの勢いに押され、レグはしどろもどろになった。
「あ、あたしは……デインのためを思って……」
「そんなの、ちっとも嬉しくないよ! 男がそんなこと望んでると思うの? 好きな女を不幸にしてまで、男は幸せになりたくないんだ! 女だってそうでしょ? どうしてそんな簡単なことが分かんないんだよ!?」
「それに、家を追い出されたからって、不幸になるとはかぎらないだろ?」ミスリルが発言する。「貧しくてもいい。二人でがんばればいいじゃないか」
「……そんなの、無理だ」
「やってみなくて、なぜ無理って言えるんだ? 二人の努力しだいじゃないか――信じてやりなよ、デインを」
「その通りよ、レグ」フェニックスが静かに言った。「もう少し信じるべきだったわ。男のプライドってやつの強さをね」
「だって……」
「ええ。私は一度はあなたの考えに賛成したわ。それは私が昔、似たような状況《じょうきょう》で、同じような選択をしたから――もしかしたら、嫉妬《しっと》もあったのかもしれない。私は破局したというのに、あなたとデインが結ばれるのが、ちょっぴり憎らしかった……ひどい女だわ、私って。友達の不幸を望むなんて……」
そう言ってフェニックスは大きくため息をついた。
「でも、もうそれも限界よ。嘘にまみれて生きるなんて耐えられない。こわがらずに本心をさらけ出しましょうよ。ね?」
レグは振り返り、デインを見つめた。その表情は不安と期待に揺れ動き、震える眼《め》には無数の疑問が浮かんでいるそして、見返すデインの表情には、唯一《ゆいいつ》の解答が。
「そうなの、デイン?」レグはおそるおそる訊《たず》ねた。「本当にそれを望んでるの?」
デインはうなずく。
「ああ」
「あたしのために家を捨てられる……?」
「すべて捨てられるさ」
「ああ……!」
レグは感極《かんきわ》まって絶句し、歓喜《かんき》にむせび泣きはじめた。デインは彼女の肩をやさしく抱き寄せ、耳にささやきかける。
「結婚してくれるかい?」
レグは泣きながらうなずいた――何度も、何度も。
それ以上の言葉は、二人には必要なさそうだった。見ていたサーラたちも、ほっと安堵《あんど》の息をついた。
「やれやれ!」ミスリルは大きく伸びをした。「どうやら収《おさ》まるところに収まったようだな――なあ、サーラ?」
ミスリルは少年の頭を撫《な》でた。
「さっきの台詞《せりふ》、なかなかかっこ良かったぜ」
サーラはちょっと顔をしかめた。「やめてよね、ミスリル」
「あん?」
「頭を撫でるの。僕はもう子供じゃないんだから」
「ちっ、かわいくねー!」
ザーンに戻ると、サーラにはもうひとつの大きな試練が待っていた――デルへの釈明《しゃくめい》である。
サーラは何ひとつ嘘はつかなかった。彼女が怒るであろうことを承知のうえで、ガドシュ砦《とりで》で起きたことも包み隠さず話した。必ず帰るという約束を破って、フェニックスを救うために危険に身を投じたことを――都合《つごう》の悪いことを隠しておくのは、卑怯《ひきょう》なことだと思えたからだ。
話を黙って聴《き》き終わってから、デルは無言で平手打ちをくれた。
強烈な一撃で頬《ほお》がひりひりしたが、サーラはそれを当然のことと受け止めた。ほんの数日で帰ると約束したのが、思いがけず長い旅になってしまったのだ。その間、彼女がどれほど不安な日々を過ごしていたか。それが怒りとなって爆発するのは当たり前だ。
むしろサーラは嬉《うれ》しかった。普段は感情を見せないデルが、自分に対して怒りをストレートに表わしたことに――少なくとも、レグのように好きな相手に本当の感情を隠すより、ずっといい。
「……ごめん」彼は素直に謝《あやま》った。「でも、あの時はああするしかなかったんだし、きっとこれからも、同じような状況《じょうきょう》になったら、同じようなことをすると思う――フェニックスは性格を直せ、もっと卑怯《ひきょう》になれって言うけど、僕は直したくない。意地とかプライドとかそういうんじゃなくて、これが僕だから……性格を直してしまったら、僕は僕でなくなると思うんだ。
許してくれとは言わない。ただ、分かって欲しいんだ。これからも僕とつき合うつもりなら、僕がこういう人間だってことを――いざという時に、君のことを一番に考えないかもしれないってことを……」
デルは悲しそうな顔で、長いこと黙りこんでいた。サーラもそれ以上何も言わず、判決を待った。彼女は「別れましょう」と言うだろうか? それとも……。
悩みに悩み抜いた末、デルはひとつの結論を出した。
「……そうよね」彼女は苦笑する。「冒険者に無茶なことするなって言う方が、無理だったわよね……」
「それじゃあ……」
「ええ、分かる――腹は立つけど、あなたの言いたいこと、分かる。どうしようもないわよね。あなたのその素敵《すてき》な性格もひっくるめて、私は好きなんだから……」
サーラは胸を撫で下ろした。
「良かった……!」
「……ただし」
「え?」
デルはいたずらっぽく笑った。「今度から私もいっしょに行く」
「ええ!?」
「前に言ったじゃない。コンビを組んで冒険しようって。死ぬのも生きるのもいっしょだって」
「え? でも、あれはまだ先の話で……」
「もう待てない。あなたが次に冒険に出る時、私も行く」
「だって……」
「止めたってだめ。勝手について行くから。本気よ。これからはあなたが危険な目に遭《あ》う時、私も同じ目に遭うわ。それなら安心だもの」
「…………」
「決めたの。私、わがままになる。あなたの迷惑になってやる。あなたがどこに行く時も、ぴったりとついてゆく。嫉妬《しっと》深い女になってやる。嫌われたってかまわない――いつもあなたのそばにいたいから」
「あ……ああ」
大変なことになったぞ、とサーラは内心|慌《あわ》てた。まだ十二歳なのに、人生のすべてを決定づけられてしまったような気がした――優雅な独身時代というやつは、もう自分にはないのだろうか?
反面、心の中は熱いものでいっぱいだった。これほど強烈な愛の言葉は、一生に何度も聴《き》けるものではない。一人の女の子にここまで愛される自分は幸福だと思う。固い決意を表明したデルの姿は、これまでになく美しく見えた。肩にかかるつややかな黒い髪も、何とも言えず女らしい……。
「あれ……?」サーラは首をかしげた。
「どうしたの?」
「ひょっとして、髪の毛、伸ばしてるの?」
「そうよ――やっと気がついた?」
男特有のおしゃれに対する鈍感《どんかん》さを、デルは笑って許した。この前、彼女が気がついて欲しがっていたのは、これだったのだ。
「少しずつ雰囲気を変えて行こうと思って、まず髪からはじめたの。いきなり服装を変えたりしたら、みんな驚くだろうから――でも、いずれ、すごい美人になってみせるわ」
「……ひょっとして僕のため?」
「他の誰のためだと思うの?」
「ああ……」
デルのなまめかしい微笑《ほほえ》みの直撃を受け、サーラは全身から力が抜けるのを感じた。もうだめだ。完全に罠《わな》にかかった。逃げられない――もう自分には一生自由はないのだと知り、彼は深い絶望に襲われた。
だが、それはたまらなく甘美《かんび》な絶望だった。
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あとがき
お久しぶりのあとがきです。
刊行ペースをもっと上げろ、というお叱りの声もあるんですが、そうも行かないんですよ。何しろ『サーラ』はしんどい。僕の抱えているいくつかのシリーズの中で、執筆ペースが最も遅いのが『サーラ』なんです。今回もずいぶん予定を遅らせてしまい、編集部の方にご迷惑をおかけしまた。
別にこのシリーズが嫌いってわけじゃないんですよ。ただ、すごく「重い」んです。分かるかなあ? 他のシリーズだと、作者とキャラクターは完全に別物だから、上から見下ろす感じで気楽に書けるんですが、『サーラ』の場合、自分の体験があちこちに反映されていて、僕の生の声がほとんどそのまま飛び出してしまうんで、かえってうかつなことが書けなくて苦しいんですよね。ギャグもほとんどないしなあ……。
三巻は予想通り、「あとがきが恥ずかしい!」の声が多かったのですが(いちばん恥ずかしいのは書いてる本人だい!)、今回はタイトルからしてメチャ恥ずかしいですよね。何しろ『愛を信じたい!』だから。この背表紙を見ただけで、手に取るのをためらっちゃう人もずいぶんいるかも(笑)。
でも、タイトルに偽りはありません。今回のテーマは「愛」です。
今回の執筆時期は、ほぼ新婚一年目に当たります。一年もいっしょに暮らしていると、やっぱりいろんなことが分かってきたり、考えてしまったりするわけで、今回のストーリーにもそれが反映されています。二章のサーラとデルの会話とかね(いや、実際にああいう会話をしたわけじゃないんだけど……)。
うーむ、なんかほとんど私小説と化してきてるな。
今回、嫁さんが「ミスリルが目立ちすぎるからデインをもっと活躍させて」と注文したんで、デインの出番が多くなった……というのは半分嘘で、実はシリーズ開始当初から、この話はいつかやろうと目論《もくろ》んでいたんです。
意外な展開に驚かれた方がいらっしゃるかもしれませんが、ちゃあんと伏線は張ってあったんですよ。二巻の一五八ページのデインの台詞《せりふ》とかね(二人はあの直後に……むにゃむにゃ……だったわけ)。フェニックスのイヤリングの設定にしても、一巻の一章からすでに考えてあったものです。
主人公であるサーラはというと、着実にヒーローに向けて経験点を積んでいる一方、べた惚れの恋人もできて、幸せの道をまっしぐらに進んでいます。二章なんてもう、書きながら頭をどつきたくてしかたありませんでした(笑)。
世間では「不幸な主人公」が流行しているようですが、僕はそういうの、苦手なんですよね。不幸なシーンを書いていると、こっちまで気が滅入ってくるんです。主人公はピンチにはいくらでも陥っていいけど、不幸にはしない――それが僕のポリシーです。
特にサーラは僕の分身。子供時代にやれなかったこと、勇気がなくてできなかったことを代わりにやってくれる、理想の主人公です。これはもう、絶対に不幸な人生を送らせたくはありません。
とは言うものの、ハッピーな展開ばかりじゃ物語が成立しないんで、そのへんがジレンマに苦しむところです。次巻ではちょっとばかり不幸に陥ってもらおうか……と考えていますが。
最後になりましたが、わざわざ『御成婚記念本』(苦笑)を作ってくださったうみう陣さん、絵崎笠さん、絵崎まもるさん、ありがとうございました。
あー、それから嫁さんに告ぐ。小説を結末から読むという邪道なことはやめなさい(少なくとも僕の小説に関しては!)。それと、「今度のあとがきではチャーリーやさかもっちゃんも出してね」などという、わけの分からん注文をつけんでくれ。あとがきを何だと思ってんだ?
[#地付き]一九九五年三月 山本 弘
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キャラクター・データ
サーラ・パル(人間、男、12歳)
器用度13(+2) 敏捷《びんしょう》度13(+2) 知力12(+1) 筋力《きんりょく》9(+1)
生命力11(+1) 精神《せいしん》力10(+1)
冒険者《ぼうけんしゃ》技能 シーフ2
冒険者レベル 2
生命力抵抗力3 精神力抵抗力3
武器:ダガー(必要筋力4) 攻撃力4 打撃力4 追加ダメージ3
盾《たて》:なし 回避《かいひ》力4
鎧《よろい》:クロース(必要筋力1) 防御《ぼうぎょ》力1 ダメージ減少2
言語:(会話)共通語、西方語
(読解)共通語
デイン・ザニミチュア(人間、男、26歳)
器用度15(+2) 敏捷度17(+2) 知力17(+2) 筋力12(+2)
生命力13(+2) 精神力19(+3)
冒険者技能ファイター3、プリースト3(チャ=ザ)、セージ4
冒険者レベル 4
生命力抵抗力6 精神力抵抗力7
武器:レイピア(必要筋力12) 攻撃力5 打撃力12 追加ダメージ5
盾:バックラー(必要筋力1) 回避力6
鎧:ハード・レザー(必要筋力12)防御力12 ダメージ減少4
魔法:神聖魔法(チャ=ザ)3レベル 魔力5
言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、エルフ語、ゴブリン語
(読解)共通語、西方語、下位古代語
フェニックス(ハーフエルフ、女、?歳)
器用度18(+3) 敏捷度20(+3) 知力20(+3) 筋力12(+2)
生命力13(+2) 精神力15(+2)
冒険者技能 ソーサラー4、バード1、セージ2
冒険者レベル 4
生命力抵抗力6 精神力抵抗力6
武器:メイジ・スタッフ(必要筋力10)攻撃力1 打撃力15 追加ダメージ0
盾:なし 回避力0
鎧:ソフト・レザー(必要筋力7) 防御力7 ダメージ減少4
魔法:古代語魔法4レベル 魔力7
言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語、エルフ語
(読解)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語
ミスリル(エルフ、男、34歳)
器用度19(+3) 敏捷度21(+3) 知力18(+3) 筋力8(+1)
生命力9(+1) 精神力16(+2)
冒険者技能 シャーマン4 シーフ3
冒険者レベル 4
生命力抵抗力5 精神力抵抗力6
武器:ダガー(必要筋力4) 攻撃力6 打撃力4 追加ダメージ4
盾:なし 回避力6
鎧:ソフト・レザー(必要筋力4)防御力4 ダメージ減少4
魔法:精霊魔法4レベル 魔力7
言語:(会話)共通語、西方語、エルフ語、精霊語
(読解)共通語、西方語、エルフ語
レグディアナ(人間、女、19歳)
器用度19(+3) 敏捷度13(+2) 知力12(+2) 筋力21(+3)
生命力19(+3) 精神力14(+2)
冒険者技能 ファイター5 レンジャー3
冒険者レベル 5
生命力抵抗力8 精神力抵抗力7
武器:ヘビー・フレイル(必要筋力21)攻撃力7 打撃力31 追加ダメージ8
盾:なし 回避力6
鎧:プレート・メイル(必要筋力21)防御力26 ダメージ減少5
言語:(会話)共通語、西方語
(読解)共通語、西方語
デル・シータ(人間、女、12歳)
器用度15(+2) 敏捷度15(+2) 知力12(+2) 筋力7(+1)
生命力11(+1) 精神力13(+2)
冒険者技能 シーフ2 ダークプリースト(ファラリス)1
冒険者レベル 2
生命力抵抗力3 精神力抵抗力4
武器:ダガー(必要筋力3) 攻撃力4 打撃力3 追加ダメージ3
盾:なし 回避力4
鎧:ソフト・レザー(必要筋力3) 防御力3 ダメージ減少2
魔法:暗黒魔法(ファラリス)1レベル 魔力3
言語:(会話)共通語、西方語
(読解)共通語、西方語
デュライオス(ヘカトンケイレス)
ヘカトンケイレスのデータは『ソードワールドRPGベーシック』356、383ページ、または『ソードワールドRPG完全版』201ページ参照。
アイテム・データ
変身の秘薬
名称=変身の秘薬
宝物鑑定の目標値=15
魔力付与者=不明
形状=涙滴形の小さなガラス瓶《びん》に入った赤い液体
魔力=飲むとどんな動物にでも変身できる。持続時間18ラウンド。
説明=効果は「ビースト・メイカー」に似ていますが、服用者が念じるどんな動物にでも自由に変身できるという点が違います。ただし、変身する対象の動物の特徴を細部まで正確に思い描けるほどよく知っていなくてはなりません。
基本取引価格=10万ガメル
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底本
富士見ファンタジア文庫
ソードワールドノベル 愛《あい》を信《しん》じたい! サーラの冒険C
平成7年3月25日 初版発行
平成17年7月25日 六版発行
著者――山本《やまもと》 弘《ひろし》