サーラの冒険1 ヒーローになりたい!
山本 弘
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)冒険者《ぼうけんしゃ》
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(例)|地の精《ノーム》の墓場
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目次
1 夕暮れの魔法
2 冒険者たち
3 ミスリル
4 森へ出発
5 水の洞窟《どうくつ》
6 地底にうごめくもの
7 キマイラ!
8 決断の時
9 新たな明日へ
あとがき
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1 夕暮れの魔法
ハドリー村の子供たちにとって、村から歩いて半時間のところにある半月の丘《おか》≠ヘ、ちょっとした楽園だった。
一年の四分の三はふわふわした雑草に覆《おお》われ、転んだり、取っ組み合いの喧嘩《けんか》をしても、めったに怪我《けが》をすることがない。南側のなだらかな斜面には、白い石灰岩《せっかいがん》が墓石《はかいし》のように無数に露出《ろしゅつ》していて、鬼《おに》ごっこにはうってつけだ。春には一面に花が咲き乱れ、女の子たちがつれだって花|摘《つ》みに来る。北側の斜面《しゃめん》はやや急で、ソリで滑《すべ》るのにちょうどいい角度だ。草がいちばん滑りやすくなる真夏と、雪が降り積もった真冬、子供たちはここに集まり、樽《たる》や揺《ゆ》り龍《かご》を改造した手製のソリの出来栄えを競《きそ》うのだ。
丘の頂上には、村の長老でさえ由来を知らない大昔の建物の跡《あと》がある。風雨ですっかり崩《くず》れ落ちて、今ではすり減《ヘ》った土台が残っているだけだ。子供たちはここを使って迷路遊びをしたり、砦《とりで》に見立てて戦争ごっこをしたりする。
丘の東には小川が流れていて、水遊びや魚|採《と》りが楽しめる。周囲は森だから隠《かく》れんぼができるし、夏には山イチゴも採れる。まさに理想の遊び場だった。
無邪気《むじゃき》に遊んでいた子供たちもやがて大人《おとな》になり、丘に来なくなる。その一方で、新しく生まれた子供が次々とやって来る。子供たちの顔ぶれは移り変わっても、半月の丘≠ヘずっと変わらずに、何百年も理想の遊び場であり続けたのだ。
それが突然《とつぜん》、大人たちが「危険だから行ってはならない」と宣言《せんげん》したのだから、子供たちにとっては大事件だった。
「……こっそり行ったって、分かんないんじゃないかな?」
サーラはおそるおそる発言した。村はずれの大木の根元にしゃがみこんで密談《みつだん》していた男の子たちは、けわしい表情で振《ふ》り返った。みんなの視線が突《つ》き刺《さ》さるのを感じ、サーラはびくっとなった。
「出かけて行って、怪物《かいぶつ》に食われようってのか?」年長のロブは鼻で笑った。「トリーンさんとこの牛みたいに?」
サーラは首をすくめた。「でも……必ず怪物が出るってわけじゃないだろ? 誰《だれ》も見た人はいないんだし……」
「出ないってわけでもないだろ?」ロブは突っかかった。「それとも、怪物が出たらお前が退治《たいじ》してくれるってのか? え、サーラ?」
嘲《あざけ》りの笑いが起こった。サーラはうつむいて下唇《したくちびる》を噛《か》みしめた。馬鹿《ばか》にされるのはいつものことだ。むきになって抗議《こうぎ》しても、眼の回りに痣《あざ》をこしらえるだけで、何の役にも立たないことは、経験からよく知っていた。
この金色の髪《かみ》がいけないんだ、とサーラは思った。女の子のようにさらさらした髪、女の子のような幼《おさな》い顔立ち、そして女の子のような名前――死んだ父が付けた名前で、古い伝説《でんせつ》に出てくる勇者の名前らしいが、誇《ほこ》りに思ったことは一度もない。もっと男らしい名前だったなら、これほど馬鹿にされることはなかっただろう。
このグループの中でロブの次に年長であるということも、村長の孫《まご》であるということも、たいして役に立たなかった。男の子たちの間での序列《じょれつ》は、単純に力の強さによって決まる。
サーラには誇るべきものが何もないのだった。
少年たちはサーラを無視して口々に話し合った。
「怪物は見てみたいけど、怒《おこ》られるのはやだよな」
「親父《おやじ》からきつく言われたからなあ。丘《おか》に行ったことがバレたら、尻叩《しりたた》き十回ぐらいじゃ済《す》まないぜ」
「百回だよ、百回」
「やだなあ。うちの親父、力だけは強いからなあ」
「うちなんか木の竿《さお》でぶつんだぜ」
「ひゃーっ、痛そう!」
サーラは再び口をはさんだ。「だからさあ、バレないように秘密《ひみつ》にすれば……」
「バレるよ」
ダリオが振《ふ》り向きもせずにきっぱりと言った。サーラより一つ年下だが、体格はひと回り大きかった。ダリオの背が十|歳《さい》にしては高いのは確かだが、サーラの体格が平均《へいきん》をかなり下回っているせいもある。
「俺《おれ》はやだね。行かないよ。行くなら、お前ひとりで行けよ」
嫌《いや》な奴《やつ》――サーラは心の中で舌を出した。僕が丘に出かけたら、大人たちに告《つ》げ口するつもりだろう。そういう奴なのだ。
みんなが丘に行きたがらない理由が、怪物が怖《こわ》いからであるのも分かっていた。親に叱《しか》られるからというのは、都合《つごう》のいい口実にすぎない。みんな自分が臆病《おくびょう》だと認めるのが嫌なだけだ。もちろん、それを指摘《してき》したりしたら、確実に袋叩《ふくろだた》きだろう。だからサーラは何も言わなかったが、心の底では、自分がいちばん勇気があるんだと思っていた。
「とにかく、怪物がいなくなるまではだめだな」
「いついなくなるんだよ?」
「冒険者《ぼうけんしゃ》を雇《やと》うんだってさ。怪物《かいぶつ》を退治《たいじ》してもらうんだって。村の寄り合いで決まったって、おふくろが話してた」
「そいつら、いつ来るんだ?」
「知らないよ。だいたい、怪物を退治できるかどうかも分からないし……」
「あてにならねえ話だなあ」
「冒険者なんて、みんなあてにならねえよ」
会話はいっこうに進展しなかった。
「ぐずぐず言っててもしかたねえや」ロブはのっそりと立ち上がって、麻《あさ》のズボンに付いた土を払《はら》った。「丘に行けなくたって遊べるさ。盗賊《とうぞく》とグール≠ナもやろうぜ。ちょうど八人いるしさ」
「賛成」
「さんせーい」
子供たちはしぶしぶ立ち上がり、地面をひっかくのにいい尖《とが》った石を探しはじめた。
みんなで思い思いに地面をひっかいて大きな迷路を描《えが》くところから、盗賊とグール≠ヘはじまる。迷路の形に特に決まりはないが、複雑すぎても簡単すぎてもまずいので、子供たちは頭をひねる。というのも、この時点ではまだ、自分が盗賊|側《がわ》になるのかグール側になるのか分からないからだ。
出来上がった迷路は、何の法則性も見られない唐草《からくさ》模様のような代物《しろもの》だった。入口は八|箇所《かしょ》。ところどころに、綱渡《つなわた》りのようにしないと通れない極端《きょくたん》に細い通路や、敵を追い詰《つ》めるための巧妙《こうみょう》な袋小路、抜《ぬ》けるのが厄介《やっかい》な渦巻《うずま》き型の部屋などがある。最後に、宝物を表わす色とりどりの陶器《とうき》の破片が、一人一枚ずつ配られ、迷路のあちこちにそれぞれの思惑《おもわく》を秘《ひ》めて配置される。これで準備完了だ。
次に全員が攻撃側《こうげきがわ》と防御《ぼうぎょ》側に分かれる。白い石と黒い石が同数、麻の袋の中に入れられる。目をつぶって中を見ないようにして石を取り出し、白だったなら盗賊、黒だったらグールとなる。サーラは盗賊の方が好きだったが、今回はグールだった。
ルールは単純だ。盗賊は迷路の中を走り回って宝物を拾い集め、迷路の外に持ち出そうとする。グールはそれを邪魔《じゃま》する。両者が通路の途中《とちゅう》でぶつかると取っ組み合いになり、通路から押《お》し出された者は死んだことになる。グールは死んでも二十数えると生き返れるが、盗賊は死ぬとただちに失格で、それまでに集めた宝も没収《ぼっしゅう》され、盗賊が死んだ場所に置かれる。盗賊を全員殺せばグール側の勝ち、宝物を盗賊の人数分持ち出せば盗賊側の勝ちだ。今回は盗賊は四人だから、八個の宝物のうち四個を持ち出せばいいのである。
「盗賊、盗賊、取って食うぞ!」
「グール、グール、盗《と》ってやるぞ!」
両者の掛《か》け声とともにゲームははじまった。盗賊ほどではないが、グールも常に動き回っていなくてはならない。守るべき宝物の数がグールの人数より多いので、一個の宝物のそばにいてがっちりガードするということができないのだ。一方、盗賊は走り回ってグールを混乱させ、その隙《すき》にガードの手薄《てうす》になった宝物を奪《うば》おうとする。どちらも相手の動きの裏をかこうと必死だ。
最初のうちはグール側が優勢のように見えた。四人がかりで迷路の片側に敵を追い詰めるという戦術で、盗賊のうち二人を一分足らずで殺したからだ。しかし、その間に盗賊側のダリオが包囲|網《もう》をすり抜け、巧妙《こうみょう》に走り回って、宝物を三個|盗《ぬす》み出していた。グール側はリーダーのロブの指示で包囲|陣形《じんけい》を崩《くず》し、ダリオを追ったが、間に合わなかった。
「あとひとつ! あとひとつ!」
殺された盗賊側の少年たちが、迷路の外に座《すわ》りこんではやしたてる。まだ生きているもう一人の盗賊が、宝物を二|個《こ》拾い上げ、出口にダッシュした。ロブは出口の寸前で彼に追いつき、体当りして迷路の外にはじき飛ばした。これでまたグール側が有利になった。残り五個のうちの二個が同じ場所に置かれるのだから、四人で四|箇所《かしょ》をガードすればいいことになる。しかも敵はダリオ一人だ。
一方、いったん迷路の外に出たダリオは、反対側に回りこんで別の入口から中に入った。
彼が目をつけたのは、いちばん年下のショーンという少年だった。体格の差を利用して軽く投げ飛ばし、その足許《あしもと》にあった陶片《とうへん》を奪《うば》い取る。ショーンは地面に転がったまま、大声で「一、二、三、四……」と数えはじめる。
ロブは素早く移動し、迷路の出口に通じる最短の道をふさいだ。ダリオは方向|転換《てんかん》して別の出口を目指す。サーラはそれを追ったが、かなり離《はな》されていた。もう一人、グール側のキーフという少年は、情けないことに十字路がいくつも入り組んだ場所に迷いこみ、立ち往生《おうじょう》してしまっている。
しめた! サーラは走りながらほくそ笑んだ。ダリオは途中《とちゅう》の分岐《ぶんき》点で誤《あやま》った方向に曲がったのだ。迷路のこの部分はサーラが描いたので、通路がどうつながっているかも熟知《じゅくち》している。ダリオの飛びこんだ道は、出口に通じているように見えるが、実は袋小路《ふくろこうじ》になっているのだ。
「ちくしょう!」
途中で気がついたダリオは大急ぎで後戻《あともど》りする。
「止《と》めろよ、サーラ!」
ロブが怒鳴《どな》った。彼は渦巻《うずま》き状の通路で手間取っており、間に合いそうにない。サーラは分岐点で立ち止まり、一本道を戻ってくるダリオを待ち受けた。
ダリオは獣《けもの》のように叫《さけ》びながら突進《とっしん》してきた。サーラは体格の大きいダリオに体当りではじき飛ばされないよう、腰を低くして身がまえた。激突《げきとつ》した瞬間《しゅんかん》、サーラはしっかりと相手の腰にしがみつき、振《ふ》りほどかれまいとした。
ほんの一瞬、持ちこたえたように思えた。しかし、やはりダリオの力が上回《うわまわ》っていた。サーラのほっそりした体は風車のように振り回され、地面に背中から叩《たた》きつけられた。土埃《つちぼこり》が舞《ま》い上がり、苦痛で息が詰《つ》まる。
ダリオは倒《たお》れたサーラを飛び越《こ》えて走り去った。サーラは痛みをこらえながら「一、二、三、四……」と数えはじめたが、間に合うわけがない。ダリオはゆうゆうと迷路から脱出《だっしゅつ》し、仲間の賞賛《しょうさん》を浴びた。
「サーラ! てめえ!」怒《おこ》ったロブはサーラの胸ぐらをつかんで立ち上がらせた。「何で止めなかったんだよ!?」
「無理、無理」ダリオが笑った。「サーラなんかに止められっこないだろ? 女みたいに弱っちいんだもんな」
盗賊側《とうぞくがわ》からどっと笑いが起こった。
「誰のとこにお嫁《よめ》に行くんだい、サーラ?」
「お人形遊びはもうやめかい?」
「リボンが似合うぜ、サーラー」
ロブは「ちっ」とつぶやいて、サーラを突き放した。みんなの言う通りだ。サーラの弱さに腹を立ててもしかたない。
サーラは悔《くや》しかったが、顔には出さなかった。無言で服についた土埃を払《はら》う。いつものことだ。馬鹿にされるのはもう慣れっこになってしまった――しかし、心の底では熱い想《おも》いがふつふつと煮えたぎっていた。
夕方、サーラは泥《どろ》だらけになって家路に着いた。ずいぶん遊んだのに、心はかえって沈《しず》んでいた。あれからチームを組み替《か》えてさらに五回ほどプレイしたが、盗賊側としてはついに一個も宝物を奪《うば》うことができず、グール側としては一人の盗賊も殺すことができなかったのだ。みんなサーラと同じ側になるのを嫌《いや》がった。それでもつまはじきにされなかったのは、単に頭数が合わなくなるという理由だけだった。
サーラの家は牧場だった。さほど大きくはないが、十数人の使用人を抱《かか》えており、ハドリー村の中では裕福《ゆうふく》な部類に入る。.
サーラは柵《さく》に沿った道を歩いていた。柵の内側の広い牧草地では、おりしも牧童《ぼくどう》たちが牛の群れを牧舎《ぼくしゃ》に追いたてているところだった。からんからんという鐘《かね》の音が響《ひび》き渡る。
とぼとぼと歩く牛たちの背が、真《ま》っ赤《か》な夕焼けを映して赤く染《そ》まっている様《さま》は、詩人《しじん》にとっては作品の題材になったかもしれないが、毎日見慣れているサーラには、特別に感動をそそられることのない光景だった。
しかし、その日はいつもと違《ちが》うことがあった。
耳慣れない弦《げん》の音色《ねいろ》に気づき、サーラは足を止めた。誰かが柵に腰かけて唄《うた》っている。
夕陽《ゆうひ》と同じ色をした長い髪《かみ》が、風にふわふわ揺《ゆ》れていた。サーラは幻《まぼろし》ではないかと思って、目をこらした。女の人……?
斜《なな》め後ろからなので横顔しか見えなかったが、女はまだ十代のようだった。体はほっそりしていて、裾《すそ》の長い衣《ころも》の上に、粗末《そまつ》な革《かわ》のベストを身につけている。子供がよくするように、柵にちょこんと腰掛けており、スリットの入った長いスカートからは、しなやかな両脚《りょうあし》が大きく露出《ろしゅつ》していた。
少年は不思議なときめきを覚えたが、それを表現する言葉を知らなかった。小さく息を飲《の》みこむと、ささやかな勇気を奮《ふる》い起こし、歩調をゆるめてそろそろと女に近づいていった。足音を立てたら、幻がこわれてしまいそうな気がした。
彼女《かのじょ》は奇妙《きみょう》な形の楽器を奏《かな》でていた。杖《つえ》のように長く、上の端《はし》が大きく三角形に湾曲《わんきょく》していて、そこに弦が張ってあるのだ。彼女は近づいてくる少年に気づいてもいない様子で、夕焼けの空を見上げ、白く長い指で弦を軽《かろ》やかに爪弾《つまび》きながら、聞いたこともない透《す》き通るような声で、小さくささやくように唄っていた。
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風にさすらう タンポポの綿毛《わたげ》
川を漂《ただよ》う 木の葉の小舟《こぶね》
どこから来たの どこへ行くの
どこから来たの どこへ行くの
雲は流れて 季節はめぐる
タンポポは咲き 木の葉は茂《しげ》る
昔《むかし》のことは 忘れたように
去年と同じ 一年が来る……
[#ここで字下げ終わり]
十歩の距離《きょり》まで近づいた時、不意に女は唄うのをやめ、振り向いてサーラを見た。卵形の顔で、眼の色は緑だった。サーラはどきりとして立ち止まった。
「こんにちは」
女は微笑《ほほえ》みかけた。サーラはようやく彼女が現実の存在だと知った。
「こ……こんにちは」
サーラはぎこちなく会釈《えしゃく》を返した。その時ようやく、女の赤い髪《かみ》から突き出た耳が、少し尖《とが》っているのに気づいた。エルフの血が混じっているのだろうか? どちらの耳からも、涙の形をした赤いガラスのイヤリングが垂《た》れている。
何か、平凡《へいぼん》な日常と違《ちが》う素晴《すば》らしいことが起きようとしている――サーラはふと、そんな感じを覚えた。
「この牧場《ぼくじょう》の子?」
「は、はい……」
「村長さんのお孫《まご》さんね。名前は?」
サーラは口ごもった。自分の名を名乗るのが恥《は》ずかしかったのだ。村の悪ガキに笑われるのはまだ耐《た》えられるが、こんな美しい人に笑われたら、立ち直れない。
「あら、ごめんなさい、礼儀《れいぎ》知らずで」女は少年の沈黙《ちんもく》の意味を誤解《ごかい》した。「先に名乗るべきだったわね。私のことはフェニックスって呼んで」
「あ、あの……僕……僕は……」
サーラはとっさに強そうな名前を考えた。
「グレンって言います」
「そう。グレン……」
一瞬《いっしゅん》、フェニックスは軽く唇《くちびる》を噛《か》んで、どことなく失望したような顔をしたが、それから急にくすくすと笑った。嘘《うそ》を見抜《ぬ》かれたのではないかと思って、サーラは緊張《きんちょう》した。
「えらく警戒《けいかい》してるのね?」
「いえ、そんな……」
緊張のあまり自分が直立不動《ちょくりつふどう》の姿勢でいることに、サーラは気づいていなかった。
「冒険者は珍《めずら》しい?」
「冒険者……なんですか?」
「そうよ。あなたのお爺様《じいさま》に雇《やと》われたの」
サーラは意外に思った。冒険者というのは、重い鎧《よろい》を身にまとった野性的な戦士や、黒いローブをまとった魔法使《まほうつか》いばかりだと思っていたのだ。目の前にいるこの女性は、確かに野性的ではあったが、彼の中の冒険者のイメージには合わなかった。
あらためて彼女の身なりを上から下まで見直したサーラは、杖《つえ》のような楽器に刻《きざ》まれた奇妙《きみょう》な文字の列に気がついた。そう言えば、魔法使いは魔法の杖《つえ》を持ち歩いていると聞いたことがある……。
サーラはおずおずと訊《たず》ねた。「もしかして、魔法使いですか?」
「ええ、そう」
「炎《ほのお》を出したり、宙を飛んだり、氷の嵐《あらし》を起こしたりできるんですか?」
「まあね」
フェニックスはいたずらっぽく肩をすくめた。それから、ひょいと柵《さく》から飛び降り、サーラと向かい合った。少年よりも頭ひとつ半、背が高かった。
「見せてあげようか、魔法?」
サーラは表情を輝かせた。「ほんとに!?」
「ええ――何が見たい? あまり危険なのはだめよ」
ちょっと考えてから、サーラは言った。「ドラゴンは出せますか?」
「うーん」フェニックスは苦笑した。「本物は無理だけど、小さいやつならね」
「それでもいいです」
「じゃ……」
フェニックスは少し後《あと》ずさると、柵に向かって杖を突き出した。サーラが聞いたこともない言葉で何かつぶやき、踊《おど》るようなしぐさで、杖をさっさと左右に振《ふ》る。
サーラは驚《おどろ》きに目を見張った。手の平に載《の》るような小さなドラゴンが、柵を支える杭《くい》の上に出現した。杭にちょこんと腰を降ろし、コウモリのような翼《つばさ》を畳《たた》んで、短い前足は腹のあたりに垂《た》らしていた。頭はトカゲのようで、大きな眼であたりをきょろきょろ見回している。ウロコがエメラルド色にきらめいているのが美しかった。
サーラは興奮《こうふん》を抑《おさ》えながら柵に近寄り、おそるおそるドラゴンに手を伸《の》ばした。その途端《とたん》、ドラゴンは口から小さなオレンジ色の火を吹いた。サーラはびっくりして手を引っこめたが、まったく熱くなかったのに気がついて二度驚いた。
「幻《まぼろし》だ!」
「うーん、ばれたか」
フェニックスは屈託《くったく》なく笑った。サーラはもう一度手を伸ばした。細い指はドラゴンの体を通り抜け、何の抵抗《ていこう》もなかった。
「すごい! 本物みたいだ!」
「色がちょっと不自然だったかな? この夕焼けの下だから、もう少し赤っぽい色に染《そ》めるべきだったわね」
言われてみればその通りだが、その程度の欠陥《けっかん》はサーラには気にならなかった。少年は顔を寄せていろいろな角度からドラゴンを眺《なが》め、その出来|栄《ば》えに感心した。
「すごい……いいなあ……すごい……」
サーラは振り返って女|魔術師《まじゅつし》を見た。
「本物のドラゴン、見たことある?」
「ないわ。まだね。それは私の想像よ」
「どんな幻でも創《つく》れるの?」
「たいていのものはね。ただ、まだ修行《しゅぎょう》が足りないから、音までは創れないの。完璧《かんぺき》な幻影《げんえい》を創るのは難《むずか》しいわ」
「でも、これだけでもすごいや……」
サーラはまたドラゴンに向き直った。ドラゴンも大きな眼で彼を見ている。生命のない幻とは思えなかった。本当に生きているようだ。僕もこんな風に自由に幻を創り出すことができたら……。
「おーい、お客さーん」
遠くから呼ぶ声が、サーラの夢想を中断した。使用人の一人、ロマンドだった。
「夕食の用意ができましたから、来てくだせえ」
「……だそうよ。行きましょ」
フェニックスはサーラの肩をつついてうながした。
「もう少し見ていたいのに……」
「見たければ、また出してあげるわ」
「うん……」
二人は連れ立って、ゆるやかに起伏《きふく》した柵沿いの道を、サーラの家に向かって歩きはじめた。少年は気になって振り返ったが、幻影のドラゴンはまだ柵の上にいた。
「あれは……?」
「放っておけばいいわ。じきに消えるから」
歩きながら、少年は何度も何度も振り返った。離れるにつれてしだいに小さくなってゆく緑色のドラゴンは、夕焼けの空の下で、何となく寂《さび》しそうに見えた。
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2 冒険者たち
ハドリー村では、代々、パル家の者が村長を務めている。掟《おきて》や法律で決められているわけではなく、昔からのならわしでそうなっているのだ。こんな何の変哲《へんてつ》もない村の村長の座《ざ》を奪《うば》い取ろうと考える者などいなかったし、村長が死んだり引退《いんたい》したりするたびに、選挙などで新しく決め直すのも面倒《めんどう》だったので、村人たちはパル家の当主が自動的に村長の座に就《つ》くことを、暗黙《あんもく》のうちに了解《りょうかい》していた。現在の村長は、サーラの祖父、ジェリド・パルである。
村長と言っても、小さな村のことだから、それほど大きな権力はないし、他《ほか》の農家や牧場《ぼくじょう》に比べて、ずば抜《ぬ》けて裕福《ゆうふく》なわけでもない。むしろ都《みやこ》に収《おさ》める税《ぜい》を集めたり、結婚式《けっこんしき》や葬儀《そうぎ》の世話役を務めたり、いろいろ村人の相談に乗ったりと、背負《せお》いこむ義務の方がずっと大きいと言える。
パル家の敷地《しきち》の一画には、大きな集会所があった。外見は倉庫《そうこ》のような木造の建物で、母屋《おもや》からは渡り廊下《ろうか》を通って行ける。二〇人ほどの人間が並《なら》んで食事できる長いテーブルがあって、一方の壁《かべ》には暖炉《だんろ》があった。ふだんはがらんとしているが、月に一回、村人の寄り合いが行なわれる他、年越《としこ》しの祭の晩には、主人も使用人たちもいっしょになって、夜|遅《おそ》くまでご馳走《ちそう》と酒で馬鹿騒《ばかさわ》ぎをくり広げるのだ。また、パル家の者が結婚する時に、宴《うたげ》の場として使われることもある。
今、そこに村の外から来た四人の男女が集まっていた。彼らは長いテーブルの一方の端《はし》に固まり、二人ずつ向かい合って食事をしている。
村長のジェリド・パルはテーブルの反対側の端にいて、村の代表者数人とともに、当惑《とうわく》した表情で彼らを眺めていた。というのも、凡人《ぼんじん》であるジェリドたちの目には、その四人はあまりにも奇怪《きかい》な、うさん臭《くさ》い集団として映《うつ》ったのだ。
一人目は、さきほどサーラが出会ったハーフエルフの女魔術師、フェニックスだった。楽器を兼ねた杖《つえ》をかたわらに置き、長い赤髪を左手でかきあげながら、上品な手つきでスープをすすっている。
二人目は、あらゆる点でフェニックスとは対照的な女だった。背が高くて体格はがっしりしており、南の国の生まれらしく、肌《はだ》は浅黒い。傷《きず》だらけのアーマーを脱《ぬ》いで隣《となり》の空《あ》いた椅子《いす》に投げ出していて、今は下着同然のあられもない格好である。全身に数え切れないほどの傷跡《きずあと》があり、顔にも長い刀《かたな》傷があった。男のように短く切られたシルバー・ブロンドの髪《かみ》は、手入れもされずにぼさぼさだ。椅子に片膝《かたひざ》をついた下品な格好で、指が脂《あぶら》まみれになるのもかまわず、鶏《にわとり》の肉にがつがつとかぶりついている。
三人目は、その女の向かいの席にいた。茶色い髪をしたほっそりした青年で、大きくて人なつこいブルーの眼が、陽気な性格を表わしている。やはり戦士らしかったが、隣の椅子にていねいに着せかけられたレザー・アーマーは新品らしく、ほとんど傷がない。長い旅をしてきたにしては、服もやけに白かった。ぴんと背を伸《の》ばした姿勢で、食事の前にはきちんと商売の神チャ=ザへの祈《いの》りを捧《ささ》げ、鶏肉《とりにく》を切るのにもマナー通りにナイフとフォークを使っている。
フェニックスの向かいにいる四人目の人物は、いちばん奇妙だった。室内なのにマントを取ろうともせず、灰色《はいいろ》のフードを頭からすっぽりかぶっている。背はやや低く、背中を老人のように丸めているが、顔が見えないのでさっぱり年齢の見当がつかなかった。皿の上に覆《おお》いかぶさるような格好で、革の手袋をはめた手でフォークを持ち、茹《ゆ》でたジャガイモを突《つ》き刺《さ》してはフードの中に運んでいる。
ジェリドは眉《まゆ》をひそめた。本当にこんな怪《あや》しげな連中に依頼《いらい》していいものだろうか? たまたま村の近くを通りかかった冒険者というだけで、実力も何も分からないのだ。しかし、街《まち》まで行ってまともな冒険者を探してくるには、何日もかかる……。
「で?」顔に傷のある女が、口いっぱいに鶏肉を頬張《ほおば》りながら、もごもごと言った。「報酬《ほうしゅう》はどれぐらいなの?」
「これ、不作法だよ、レグ」向かいに座《すわ》っていた白い服の青年がたしなめた。「口の中に食べ物を入れたまま話しちゃいけない」
「うっさいなー、この」レグと呼ばれた女は小声で愚痴《ぐち》った。「これだから育ちのお上品な奴《やつ》は……」
「どうも失礼を……文化の遅《おく》れた地域の出身で、礼儀を知らないものですから」
青年は村長に向かってにこやかに頭を下げた。ジェリドは思わず「はあ……」と返事をした。どう言っていいものやら分からないのだ。
「おい、デイン! あたしを田舎者《いなかもの》扱いするなって言ってるだろ!」レグが不機嫌《ふきげん》そうに大きな声を出した。頬張っていた肉きれの一部が、唾《つば》といっしょにテーブルの上に飛び散る。
「都会の人間は、肉を素手《すで》でつかんだり、膝《ひざ》をついて食事をしたりはしない」デインという青年は、レグに顔をそむけたまま、きっぱりと言った。
「何だよ。どんな風に食おうと、あたしの勝手だろ!?」レグはテーブルから身を乗り出した。「フォークを使おうが、手づかみで食べようが、味が変わるわけじゃなし」
「およしなさいよ、レグ」隣の席のフェニックスが、右手で悠然《ゆうぜん》とスープをすくいながら、左手でレグの肩を押《お》さえる。いつもの調子といった様子だ。
「味は変わらないかもしれないが」デインは言った。「外見が変わる。下品に見える」
「下品だって!?」
「ああ。オーガーだってもうちょっと礼儀はわきまえてる」
「何だとぉ!?」
興奮《こうふん》したレグはフェニックスの手を振《ふ》りきり、いきなり椅子の上に立ち上がった。片足でテーブルをどすんと踏《ふ》み締《し》める。皿《さら》がいっせいに飛び上がり、がちゃんという音をたてた。ちょうどスープをすくおうとしていたデインは、皿から飛び出たスープのしずくに白い服を汚《よご》され、露骨《ろこつ》に嫌《いや》な顔をした。
ジェリドたちはど胆《きも》を抜かれた。この村でいちばんのお転婆娘《てんばむすめ》でさえ、食事中にテーブルに足を乗せるような真似《まね》は絶対にしない――しかも下着姿で。
「レグ! やめなさい! 食事中よ!」
フェニックスが語気を荒《あら》くして言った。レグはそれを無視した。
「あたしがオーガーにも劣《おと》るってぇ!?」
デインは彼女を見上げてにらみつけた。「じゃあ、上品なのかな、その格好が?」
「うっさい! 育ちのいいのを鼻にかけるんじゃないよ! 人間の価値はね、マナーの善《よ》し悪《あ》しで決まるんじゃないんだよ!」
「レグ!」
たまりかねたフェニックスが、椅子を引いてすっくと立ち上がった。振《ふ》り返ったレグは、驚きに顔をこわばらせた。女魔術師は片手で杖《つえ》をつかみ、テーブルから一歩下がって、顔の前にかざしている。
「それ以上、面倒《めんどう》を起こすようだと……」
静まりかえった室内に、ぴんと緊張《きんちょう》が走った。ほんの数秒間、二人の女は熱い視線をぶつけ、にらみ合っていた。ジェリドたちは驚きのあまり口もきけなかった。
先に視線をそらせたのはレグだった。緊張を解《と》き、しぶしぶ肩をすくめる。
「……わあったよ」
レグはのろのろと椅子から降り、座り直した。小声でぶつぶつ言いながらも、再び鶏肉《とりにく》を囓《かじ》りはじめる。フェニックスもそれを見届《みとど》けてから、杖をテーブルに立てかけ、席に戻《もど》って食事を再開した。
灰色《はいいろ》のフードの男だけが、騒《さわ》ぎとは無関係に、黙々《もくもく》と食事を続けていた。
「どうも……お騒《さわ》がせしました」
デインが何事もなかったかのように言う。
「……で、仮《かり》この仕事をお引き受けするとして、報酬《ほうしゅう》はいかほどになるでしょう?」
「あ、ああ……おほん……そうですな」
ジェリド老人はすぐには驚きから立ち直れなかった。何度も咳払《せきばら》いをして、心の乱れをごまかしてから、おずおずと喋《しゃべ》りはじめる。
「見ての通り、裕福《ゆうふく》な村ではありませんので、あまり多くはお払《はら》いできません。とりあえず……そう、二〇〇〇ぐらいでいかがでしょう?」
「二〇〇〇……そいつはどうもねえ」デインは言葉を濁した。
「安すぎますか?」
「そうですねえ。こういうものには相場《そうば》というものがありますから。お分かりとは思いますが、怪物退治《かいぶつたいじ》というのは命掛《いのちが》けの仕事なんですよ」
「ええ、もちろん承知していますが……」
「命の代償《だいしょう》が一人当たり五〇〇では、少しばかり安すぎませんか?」
「まあ、そうかもしれませんが……」
「それに、この怪物は非常に強い。かなり危険な仕事になります」
「というと、怪物の正体が分かったんですか?」村人の一人が口をはさんだ。
「ええ」
デインはうなずいた。興味《きょうみ》をそそられた村人たちが身を乗り出す。
「さきほど、牛が襲《おそ》われたという場所を調べてみました。地面には牛や人間の他にもいくつも足跡《あしあと》が残っていましたが、中でも目立ったのは、山羊《やぎ》のような足跡と……」
「それは気がついていました」被害《ひがい》に遭《あ》った村人が言った。「でも、あんなに大きな山羊の足跡は見たことがない」
「そうです。それに、大きな肉食獣《にくしょくじゅう》――ライオンのような足跡です」
「しかし、このあたりにライオンなど……」
「そう、もちろんです。しかも、ライオンの足跡は前足だけ、山羊の足跡は後足だけしかなく、その二つが一直線に並んで森の中に消えている――となると、結論は一つしかありません」
デインはもったいをつけて言葉を切った。村人たちの興味は彼にだけ集まっていた。他の三人の冒険者は、彼に喋《しゃべ》るのをまかせて、黙々と食事をしている。
「キマイラです」
村人たちはみんな、その名を聞いたことがなかった。顔を見合わせ、ぽかんとした表情をしている。デインは注釈をつけ加えた。
「狂暴《きょうぼう》な魔獣《まじゅう》です。体の前半分がライオン、後ろ半分が山羊で、人間|並《な》みに頭が良く、魔法も使います」
「危険……なんですか?」ジェリドは恐《おそ》る恐る訊《たず》ねた。
「危険です」デインはうなずいた。「これまで人間が襲われなかったのは運がいい。しかし、放っておけば増長《ぞうちょう》して、人間を襲いはじめるかもしれません。キマイラ一匹で、この村を全滅《ぜんめつ》させることだって可能でしょう。甘《あま》く見てはいけません」
「あんたらに退治できるのですか?」
「そう、おそらくは――」デインは肩をすくめた。「私たち四人の力を合わせれば、おそらくは倒《たお》せるでしょう。もっとも、一人か二人は死ぬかもしれない。それぐらい恐ろしい相手なんです」
村の代表者たちはざわめいた。
集会所の裏の暗がりにうずくまり、サーラは窓から洩《も》れてくる大人たちの会話に耳を傾《かたむ》けていた。夕食をさっさと済《す》ませた後、自分の部屋に行くふりをして、母屋《おもや》を抜け出してきたのだ。彼は今、生まれて初めての胸の高鳴りを覚えていた。全力|疾走《しっそう》した直後のように、心臓が激《はげ》しく脈《みゃく》打《う》っていた。
本物の冒険者だ! それが本物の怪物《かいぶつ》の話をしている。伝説やおとぎ話じゃなく、今この村で実際に起きている事件なのだ。何てすごいんだろう!
デインはキマイラの危険性を村人に語っていた。邪悪《じゃあく》な暗黒《あんこく》魔法《まほう》を使って、人間に呪《のろ》いをかけたり、手を触《ふ》れずに傷《きず》つけることもできる。頭部のライオンの牙《きば》は、牛を一撃《いちげき》で噛《か》み殺す力がある。尻尾《しっぽ》は毒蛇《どくへび》で、噛まれた者は体が痺《しび》れて死んでしまう。これまでにも多くの冒険者がキマイラのために命を落としている……。
暗がりの中で聞くデインの話は、サーラを怖《こわ》がらせると同時にわくわくさせた。恐《おそ》るべき魔獣キマイラ! こんなすごい怪物が、物語の中じゃなく、この近くに本当にいるんだ。しかも、この人たちはそんな怪物と戦う人たちなんだ。その戦いはきっと、ものすごいものに違いない。
この人たちがキマイラと戦うところを見てみたい。いや、できれば自分も怪物退治に参加したい。僕がそんなすごい冒険を体験したと知ったら、みんなはきっと僕のことを見直すだろう……。
ほどなく、デインとジェリドたちとの問答は、依頼料《いらいりょう》の交渉《こうしょう》に移った。デインは巧《たく》みに粘《ねば》って、少しずつ値段を吊《つ》り上げていった。それは回りくどい駆《か》け引きだった。聞いていたサーラはたちまち退屈《たいくつ》して、もっと怪物の話をしてくれればいいのに、と思った。
一人につき一〇〇〇ガメルにまで吊り上がっても、まだデインが不服そうにしているので、さすがにジェリドたちに動揺《どうよう》が見えはじめた。これ以上払うと、村の財政を圧迫《あっぱく》することになりかねない。
「ちょっと、わしらだけで話をさせてくださらんか?」ジェリドは言った。「じっくり相談せんことには決められん問題だからな」
「どうぞ、ごゆっくり」デインは明るい口調《くちょう》で言った。「しかし、このあたりに他に冒険者はいないということをお忘れなく――少なくとも私たちよりも腕の立つ連中はね」
扉《とびら》が開き、ジェリドたちがぞろぞろと集会所から出てきた。サーラは腰を低くして、草むらに身を隠《かく》した。祖父たちは少年に気づいた様子もなく、重い足取りで母屋《おもや》の方に歩いてゆく。「四〇〇〇以上はとても……」「あんな連中が信用できるのか……?」といった声が、断片的に聞こえた。サーラは身を起こし、室内に注意を戻した。窓からそっと覗《のぞ》きこむと、デインの後ろ姿が見えた。村人たちが出て行った扉を、閉めようとしているところだった。
「……連中、行ったのか?」
一度も発言しなかった灰色のフードの男が、初めて言葉を発した。若い声だった。
「ああ」とデイン。「しばらくフードを取ってもいいぞ、ミスリル」
「やれやれ」
ミスリルと呼ばれた男は、深くかぶっていたフードをはね上げた。闇《やみ》のように黒い長い髪《かみ》が、その中から現われた。サーラは、あっと叫《さけ》びそうになり、慌《あわ》てて口をつぐんだ。その男は痩《や》せていて長い耳をしており、肌《はだ》は異常に黒かったのだ。
黒い肌のエルフ――ダークエルフ!?
「いつものことながら、苦労するわね、ミスリル」フェニックスが微笑《ほほえ》みを浮かべ、同情をこめた口調で言った。
「まったくだ。このフードをかぶったまま食事するのは、面倒《めんどう》でしかたねえ」
黒い肌のエルフはそう言って、それまでのおとなしい調子から一転して、がつがつとすごい勢いで食べはじめた。
「ちぇっ、のんびり食ってたから、スープが冷めちまったぜ――おい、奴《やつ》らが戻って来ないか見張っててくれよ、デイン」
「分かってるよ。ゆっくり食べてな」
「しかし、ちょっと気を回しすぎじゃないの?」とっくに食べ終わっていたレグが、名残《なご》り惜《お》しそうに鶏《にわとり》の骨をしゃぶりながら言った。「わざわざそんなもんで顔を隠《かく》さなくたって……」
「いやいや、用心した方がいい」とデイン。「こういう田舎《いなか》の連中は迷信深いんだ。黒い肌をしたエルフというだけで、白い目で見られる」
「そうかねえ? そのフードかぶってる方が、よっぽど怪《あや》しげに見えるけど……」
「僕たちはいつもミスリルといっしょにいるから、慣れてるだけさ。普通《ふつう》の人間は、やっぱり素顔を見ればびっくりするよ。悪者《わるもの》だと思うだろうな」
その通りだ――とサーラは思った。悪くないダークエルフなんているんだろうか?
「お前、自分のこと、棚《たな》に上げてないか?」ミスリルが意地悪い口調で言った。「俺と初めて会った時……」
「ああ、そうだっけな」デインは気まずそうに苦笑した。「悪かったよ。あの頃の僕には、人を見る目がなかった。今から思うと冷や汗《あせ》が出る」
「私も……」フェニックスは眼を伏《ふ》せた。
ミスリルは肩をすくめた。「別に怒《おこ》っちゃいないがね……」
「ああ、そうそう」デインは話題を転じた。「レグ、さっきの怒り方、なかなかうまかったよ。真に迫《せま》ってた。あれなら役者になれるんじゃないか?」
「……さっきは本当に怒ったんだよ」レグはぶすっと言った。
「あれ、そうだったのか?」
「当たり前だ! 何もあんなにはっきり『下品』て言うことないだろ!? あんたはまったく人を怒らせる名人だよ、デイン」
「言い過ぎたか。すまんすまん」
「本当に、さっきはひやひやしたわ」フェニックスは胸に手を当てて眉《まゆ》をひそめた。「段取りがぜんぜん違うんですもの。レグの私をにらむ眼の怖《こわ》いことったら」
「あたしはあんたの方が怖かったよ!」
レグの言葉に四人は大笑いした。と、その時――窓から覗《のぞ》きこんでいたサーラの視線が、ミスリルの視線とぶつかった。サーラは慌《あわ》てて首を引っこめたので、見られたのはほんの一秒足らずだったが、暗視能力を持つエルフには充分《じゅうぶん》すぎる時間だった。
「おい!」ミスリルが笑うのをやめた。
「どうしたの?」
「窓の外に誰かいたぞ!」
四人がいっせいに窓に駆《か》け寄ってきた。サーラは恐怖《きょうふ》にかられて逃げ出した。背後で窓が開く音がして、ミスリルが奇妙《きみょう》な言葉で何かつぶやくのが聞こえる。しかし、サーラは後ろも見ずに走った。
突然、サーラは転倒した。何かに足をすくわれたような感じだった。
振り返ると、レグが窓枠《まどわく》を身軽に飛び越えて、彼を追いかけてきていた。サーラは起き上がろうともがいたが、あせっていたので、かえって足がもつれてしまった。追いついてきたレグは少年の上にかがみこみ、腕《うで》をつかんで強引《ごういん》に立ち上がらせた。
少年は祖父たちに助けを求めようとした。しかし、今度もまたミスリルの精霊魔法《せいれいまほう》が早かった。風がサーラの顔にまとわりつき、目に見えないマスクのように口を覆《おお》った。絶叫《ぜっきょう》しているつもりなのに、声がまったく出てこない。釣《つ》り上げられた魚のように、口をばくばくさせているだけだ。
サーラはそのままぐいぐいと女戦士に引きずられ、集会所の中に連れこまれた。中に入ったところで、レグは少年を乱暴に突き飛ばし、後ろ手で扉《とびら》を閉めた。
「まあ、グレンじゃないの!」フェニックスが驚きの声をあげた。「レグ、子供に乱暴なことしちゃだめよ!」
「でも、そいつはあたしらを覗いてたんだぜ!」
「何者なんだ?」デインがフェニックスに訊《たす》ねた。
「村長の孫よ。さっき、外で会ったの――グレン、いったいそこで何してたの?」
「あ……あの……僕」
動転していたサーラには、室内に入ったとたんにまた口がきけるようになっていることを、不思議に思う余裕《よゆう》はなかった。音を封《ふう》じるシルフ(風の精霊)の力が、室内では作用しないことなど、理解できるはずもない。
「僕……覗いてたんです」言い訳を思いつくことができず、サーラは正直に言った。
「だから、どうして?」
フェニックスの質問には問い詰《つ》めるようなきつい調子はなかった。それがかえってサーラを心苦しくさせた。相手が悪人なら、嘘《うそ》をついてごまかすこともできるが、この人はだましたくない――見えない縄《なわ》でがんじがらめに縛《しば》られているような感じがした。
「理由なんて、どうでもいいじゃねえか」ミスリルがさえぎった。「この子は俺たちのことを覗いてた。俺の顔を見られた。話も聞かれた……」
「まずいよねえ……」とレグ。
「ああ、まずい」とデイン。
「じゃあ、どうするの?」フェニックスが顔を上げて、仲間をにらみつけた。「口封じに始末する?」
サーラはびくっと体を震《ふる》わせた。
「まさか、ねえ」ミスリルがぽりぽりと頭をかいた。「まいったよなあ……」
「この子のせいじゃないよ」とレグ。「あたしらが不注意だったんだ」
「まったくだ……どうするかな」
デインは腕組みをして、天井《てんじょう》を見上げながら、つま先でとんとんと床《ゆか》を叩《たた》いた。考えごとをする時の癖《くせ》らしい。
少し考えてから、彼はサーラに向き直った。しゃがみこんで少年と視線の高さを合わせる。にこにこと親しげに笑いながら、できるかぎり優しい声で言う。
「なあ、坊《ぼう》や……グレンって言ったっけ?」
サーラはおずおずとうなずいた。
「お兄《にい》ちゃんたちが悪者じゃないってことは、分かるよな? 悪者だったら、とっくに坊やを殺して、そこらに埋《う》めてるはずだよな?」
「うん……」
「ミスリルについちゃあ……まあ、こいつが悪い奴《やつ》じゃないってことは保証するよ。彼は普通《ふつう》のエルフなんだ。昔、ファラリスの司祭《しさい》に呪《のろ》いをかけられて、こんな肌《はだ》の色にされてしまったんだ」
サーラはびっくりしてミスリルを見た。「ほんと?」
「あ、ああ。ほんとほんと」ミスリルは慌《あわ》ててうなずいた。
「じゃあ、さっき、わざと喧嘩《けんか》したのは?」
「それはだな」とデイン。「商売には駆《か》け引きってもんがあるんだ。坊やにはまだ分からないかもしれないが……僕らは怪物退治《かいぶつたいじ》が商売だ。薬屋が薬を、肉屋が肉を売るように、僕たちは怪物退治の腕前を売ってるわけさ。命掛けで戦うわけだから、自分たちの腕をできるだけ高く買ってほしい。だから時には多少のお芝居《しばい》も必要なんだ。嘘をついてるわけじゃない。ただ、ちょっと、そのう……何と言ったらいいか……」
「演出」フェニックスが助《たす》け舟《ぶね》を出した。
「そう、演出だ。いつもにこにこ仲良くしてる優しい冒険者じゃ、怪物なんて倒《たお》せそうに見えないだろ? 冒険者っていうのは、喧嘩《けんか》っぱやい荒《あら》くれ者《もの》でなくちゃいけないんだ。世間の人はみんなそう思ってる。強く見せるためにはそう思わせなきゃならない。だから依頼人《いらいにん》の前で喧嘩のひとつもしてみせるのさ」
「嘘ついてるわけじゃないんだ」ミスリルが援護《えんご》した。「弱い人間が自分を強いように見せかけたのなら、だましたことになるだろう。でも、俺たちはほんとに強いんだ――な、そうだろ?」
他の三人はうんうんとうなずいた。
「あたしらは強い」レグは胸を張った。「マジで強い」
「でも、外見からじゃ、なかなかそれは分かってもらえないのよね」とフェニックス。
「いろいろと苦労があるんだ」とミスリル。
「……というわけで」デインは締《し》めくくった。「分かってくれたかな?」
サーラはこっくりと首を振《ふ》った。「うん……」
「よおし! じゃあ、お祖父《じい》さんたちには、今見たり聞いたりしたこと、秘密《ひみつ》にしといてくれるかな? もちろんお礼はするよ。坊やの願いごと、何でも聞いてあげるから」
サーラの脳裏に、ぴんとひらめくものがあった。
「本当に? ほんとに何でも聞いてくれる?」
「ああ、もちろん!」
デインは自信たっぷりに請《う》け合った。彼は少年の頭の回転の早さを過小評価していた。子供というのは、こういうチャンスは絶対に逃《にが》さないものだ。
「ほんとにほんとだね?」はやる心を抑《おさ》えて、サーラは念を押した。「黙《だま》ってたら、言うことを聞いてくれるんだね?」
「ほんとにほんとだ。チャ=ザに誓《ちか》って」
やった! サーラは心の中で舌を出した。
「じゃあ、僕、何も言わない。お祖父ちゃんにも、他の誰にも」
四人の冒険者は、ほっと緊張を解き、顔を見合わせて微笑《ほほえ》み合った。
「その代わり」とサーラ。「僕もキマイラ退治につれてって」
四人の笑みは凍《こお》りついた。
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3 ミスリル
「あ、あのなあ、坊《ぼう》や……」デインはぎこちなく笑った。「願いといっても、叶《かな》えられる願いと、叶えられない願いが……」
「だって、何でも聞いてくれるって言ったじゃないか! 神様に誓《ちか》って!」
うー、とうめいて、デインは頭を抱《かか》えた。それを横目で見て、ミスリルは「軽々しく約束《やくそく》なんてするから……」とつぶやく。
「つれてってくれるよね? ね?」
「わがまま言ってんじゃないよ!」レグがすごんだ。「怪物退治に子供をつれて行けるわけないだろ!」
女戦士の迫力《はくりょく》に負けまいと、サーラは背をぴんと伸《の》ばし、にらみ返した。
「つ、つれてってくれないなら喋《しゃべ》ってやる!」
「何だって!?」
「お祖父ちゃんたちに喋っちゃうよ。今の話、全部!」
「おいおい……」
その時、窓の外に注意を向けていたフェニックスが声をあげた。
「大変! 連中、戻ってきたみたいよ!」
「何ィ!?」
デインたちは窓に駆《か》け寄った。話し合いが終わったらしい。母屋《おもや》の扉《とびら》が開き、ジェリドを先頭に、村の代表者たちがぞろぞろ出てくる。
「おっと、まずいな」
ミスリルは再びフードをかぶり、顔を隠《カく》した。
「ちくしょう、こんな時に……!」
デインは歯噛《はが》みした。急いでサーラのそばに駆け戻ると、しゃがみこんで少年の両肩をぽんぽんと叩《たた》いた。
「頼《たの》むよ、グレン!」デインは泣きそうな声で言った。「何も言わないでくれ!」
サーラはにんまりと笑った。「じゃあ、つれてってくれる?」
「それは――」
デインは一瞬《いっしゅん》ためらった。だが、村人たちの足音はドアのすぐ外にまで迫《せま》っている。
「分かった! つれて行く! 約束する!」
「やった!」
サーラが歓喜《かんき》の声をあげた瞬間《しゅんかん》、ドアが開いた。
「こら、サーラ!」ジェリドが怒鳴った。「こんなところで何してる!?」
「サーラ……?」
フェニックスは不思議そうな表情で振《ふ》り返り、少年を見つめた。サーラはびくっと肩をすくめた。
「あ、ああ。実はその、この子は……」デインは軽く咳払《せきばら》いし、立ち上がって姿勢を正した。「重要な情報を持ってきてくれたんです」
「何だって? 情報?」
「そうなんです。森の中でキマイラらしいものを見たって言うんです。それをわざわざ私たちに教えに来てくれたんです」
村人たちはざわめいた。
「本当か、サーラ!?」
ジェリドは大声で問い詰《つ》めた。サーラは眼を伏《ふ》せて唇を噛み、恥《は》ずかしさに耐《た》えた。お願い、お祖父《じい》ちゃん、それ以上サーラ≠チて呼ばないで……。
「いつのことだ!?」
「今日の昼間だそうです」口ごもってしまったサーラに代わって、デインが要領よく説明した。「ちらっと見ただけで、すぐに逃げてきたんだそうですけどね。いや、実に運がいい。見つかっていたら危ないところだった」
「しかし、見たのなら、どうして黙《だま》ってたんだ!? だいたい、村を出てはいけないと、きびしく言っておいたはずだ!」
「こっそり出かけたんですよ。言いつけを破って森に行ったのがバレたら、あなたに怒《おこ》られるから、それで家族にも友達にも黙《だま》ってたんです」
「でも、勇気を出して私たちに打ち明けに来てくれたんです」フェニックスは振《ふ》り返り、少年に微笑《ほほえ》みかけた。「ね、そうよね、サーラ[#「サーラ」に傍点]?」
サーラは顔を真《ま》っ赤《か》にした。「う……うん」
「ですから、叱《しか》らないでください。この子のおかげで貴重《きちょう》な手がかりを得たんです」
「うむむ……」
フェニックスの取りなしで、ジェリドはどうにか怒《いか》りの爆発《ばくはつ》を抑《おさ》えた。
「どこでだ? いったいどこで怪物《かいぶつ》を見たんだ?」
「それは……」
「それが、森のかなり奥の方なんだそうです」デインが助《たす》け舟《ぶね》を出した。「話を聴《き》いたんですが、私たちはこのあたりの地理にうといので、よく分かりません。それでお願いがあるんですが、明日一日、この子をお貸しいただけないでしょうか? ぜひ彼に道案内をしてほしいんです」
「この子を? しかし、こんな子供でなくても、道案内なら他にいくらでも――」
「いやいや。キマイラを目撃《もくげき》したというのはサーラ君ですからね。彼に案内してもらうのが一番ですよ。ご心配なく、私たち四人がついていますからね、彼には傷《きず》ひとつつけずにお返ししますよ」
なんて嘘がうまいんだろう、とサーラは感嘆《かんたん》した。即興《そっきょう》だというのに、よくもまあ、こんなに次から次へ、もっともらしい台詞《せりふ》が出てくるものだ。
サーラには分からなかったが、デインはあくまで表面は平静を保ちながらも、内心は次の台詞を考えるので必死だった。相手をまるめこむには、一方的にまくしたてるのがコツなのだ。言葉を切って、相手に考える余裕《よゆう》を与えてはいけない。
たとえば、サーラがいつ[#「いつ」に傍点]森に行ったのだろうかとジェリドが疑問を抱《いだ》いたなら、嘘はたちまち崩壊《ほうかい》する。いっしょに遊んでいた子供たちに問い合わせたなら、森に行く時間などなかったことが、すぐに分かってしまうからだ。危ない綱渡《つなわた》りなのだった。
デインは五分あまり熱弁をふるい、とうとう、サーラをキマイラ退治《たいじ》につれて行くことをジェリドに承知させてしまった。しかしジェリドもなかなか老獪《ろうかい》だった。報酬《ほうしゅう》は要求通り四四〇〇だが、あくまで成功報酬であり、キマイラを倒して帰らないかぎり一ガメルも払わないと断言したのだ。デインは承知した。
出発は明日の朝一番だった。
その夜遅く――
サーラは明日に備えて、いつもより早めにベッドにもぐりこんだが、なかなか寝《ね》つかれなかった。
嬉《うれ》しくて興奮《こうふん》していたせいもある。同時に、不安もあった。明日の朝までに、何かのきっかけで祖父に嘘がバレたらどうしよう、という不安だ。叱《しか》られるのはちっとも苦痛ではないが、冒険者たちに同行するのを止められるのが恐《おそ》ろしかった……。
キマイラに対する恐怖《きょうふ》はなかった。それどころか、いったいどんなに恐ろしい怪物《かいぶつ》なのだろうかと、今からわくわくしていた。
コンコンと窓を叩《たた》く音がした。サーラは、はっとして窓を見た。二階の窓の外にある太い樹の枝に、黒装束《くろしょうぞく》のほっそりした人影《ひとかげ》がいて、少年に手で合図《あいず》を送っている。
サーラがおびえているのを見て、そいつは顔を覆《おお》った布をはずし、月の光の下に素顔をさらして、にっこり微笑《ほほえ》んだ――ミスリルだった。
サーラはベッドから出て、窓に駆《か》け寄った。掛《か》け金《がね》をかけ忘れていたので、窓は押しただけで簡単に開いた。
「ミスリル、どうして――」
「しーっ」ミスリルは小声でサーラを制した。「大切な話があるんだ。ここじゃまずい。中に入れてくれねえか?」
サーラが脇《わき》にどくと、ミスリルは枝を軽く蹴《け》って、ひょいと室内に入ってきた。猫《ねこ》のような身軽さだった。あの暑苦《あつくる》しそうなフードつきマントではなく、黒く染《そ》められた革《かわ》のズボンと、同じく黒くて薄《うす》い袖《そで》なしのシャツを着ていて、黒い肩と腕を露出《ろしゅつ》している。
「お前なあ、掛け金くらいかけとけよ。不用心だろ。俺が悪者だったらどうするんだ?」
「あ、ごめんなさい……」
つい反射的に、サーラは謝《あやま》ってしまった。幼《おさな》い頃から、何かまずいことがあると即座《そくざ》に謝ってしまう癖《くせ》がついている。
「謝る必要はねえよ。どっちみち、こんなちゃちな掛け金なんぞ、俺にはあろうとなかろうと関係ねえ。その気があれば、お前、今ごろブスリだぜ」
「…………」
「ま、そんなことはどうでもいいや」ミスリルはサーラのベッドに腰を下ろした。「俺は違《ちが》う話をしに来たんだ」
「違う話?」
「ああ。デインに言われてな。お前の真意を確かめて来いって言われたんだ」
「しんい……?」
「つまりだ、お前が明日、どうするつもりかってことだよ。本当に俺たちといっしょに行きたいのか? それとも、友達に『怪物退治に行ってきたぞお』って自慢《じまん》したいだけなのか? だとしたら、わざわざ危ない目をして俺たちについて来ることはねえ。森の入口のとこでこっそり隠《かく》れていて、俺たちが戻って来るのを待っててもいいんだ。話は後でどうにでも造れる……」
「そんなの嫌《いや》だよ!」
サーラが思わず大きな声を出してしまったので、ミスリルは飛び上がった。
「声が大きい!」
「ごめんなさい……」
「とにかくだ。俺たちとしてはどっちでもいいんだ。道案内ってことで、お前のお祖父《じい》さんには納得《なっとく》してもらったが、本当はお前はキマイラなんか見ちゃいないってことは、俺たちはよく知ってる。ついて来ても役に立つわけがない。いや、率直《そっちょく》に言っちまえば、足手まといでしかない……」
「…………」
「俺たちはお前をつれて行きたくはない。それでもついて来るって言うんなら、それ相当の覚悟《かくご》が必要だぞ――どうなんだ? 友達に自慢したいだけなのか?」
サーラは首を振《ふ》った。「違うよ。それもあるけど……でも、違うんだ」
「どう違うんだ?」
「僕はみんなに、僕にも勇気があるってこと、見せたいんだ」
「だから、行ったふりだけすれば……」
「だめなんだってば! 僕はそんなことしたくないんだ」
「どうしてだ? 誰にも分かりゃしないぜ」
「でも……でも、僕は分かってるよ[#「僕は分かってるよ」に傍点]。僕が嘘《うそ》つきの卑怯者《ひきょうもの》だってことを……」
「…………」
「うまく……うまく説明できないけど、それじゃだめだって気がするんだ。一生、自分に勇気があるふりをして生きるより、本当に勇気を出した方がいいって思うんだ。卑怯者になりたくないんだ」
ミスリルは苦笑した。「生意気なこと言う奴《やつ》だな!」
「ごめんなさい」
「謝るなって。お前の言いたいことはよく分かる。しかしな、勇気ってのはそんなに簡単に出せるもんじゃないぜ。お前、本物の怪物を見たことはあるか?」
サーラは首を振った。
「だろう? 話に聞くのと、本物を見るのとでは、大違いだぜ。俺だって、生まれて初めて本物のオーガーを見た時は、びびっちまったもんな」
「でも、今は平気なんでしょ?」
「そんなことはねえ。今でも怪物どもと戦いになるたびに、びびるぜ。商売だからやってるけどよ。おっかないのをがまんしてるんだ」
「それが勇気なんでしょ?」
「かもな」ミスリルは肩をすくめた。「おっかないのを乗り越えるのが勇気だ。逆に言えば、びびらない奴には勇気もないってことだ。お前はまだ本物の怪物を一度も見たことがないし、本物の恐怖《きょうふ》も知らねえ。だから、勇気があるのかどうかは、俺たちには何とも言えねえわけだ」
「それを証明したいんだよ!」
「今すぐでなくてもいいだろ? もうちょっと大人になってからじゃだめか?」
「今すぐ!」
ミスリルは暗がりの中で、白い歯を見せて微笑《ほほえ》んだ。
「その様子じゃ、お前、ずいぶんいじめられてるな?」
「え?」
「さしずめ、そのサーラって名前で馬鹿にされてんだろ? 自分の名前を変えたいって思ってんだな?」
「…………」
「俺はいい名前だと思うぜ。伝説の勇者、サーラだろ? たくさんの怪物《かいぶつ》をやっつけ、美しい娘を救い、最後には命を投げ出して故郷《こきょう》の村を守った……」
「僕は嫌《きら》いだよ!」
「どうして? たぶん親父《おやじ》さんは、お前に勇者みたいになって欲しいと思って、そんな名前をつけたんじゃないのか?」
「父さんなんて嫌いだ」
「おいおい……」
「嫌いだよ。父さんは吟遊詩人《ぎんゆうしじん》だったんだ。昔、この村にふらりとやって来て、お母さんを誘惑《ゆうわく》して駆《か》け落ちしたんだ。でも、母さんはじきに捨てられて、赤ん坊の僕を抱いて村に戻って来たんだ……」
「そいつあ、まあ……」ミスリルは気まずそうに舌打ちした。「よくある話と、言えば言えるが……」
「お祖父さんは僕の名前を変えさせたかったらしいんだけど、お母さんは頑《がん》として承知しなかったんだって。それでサーラって名前になっちゃったんだ」
「おふくろさんは?」
「三年前に死んだ。病気で……」
「はあ……」
ミスリルは黙《だま》りこんで、ぽりぽりと頭をかいた。しばらく言葉を探しているようだ。デインほどには口がうまくないのだろう。
やがて彼は言った。
「だとしてもだ、自分の名前はそう簡単に捨てられるもんじゃねえ。がまんして、つき合っていくしかねえんだ」
「どうして?」
「名前っていうのは、その人間そのものだからさ。たとえば俺のミスリルってのは本名じゃねえ。あだ名みたいもんだ。フェニックスだってそうさ。二人とも本当の名前はずっと前に捨てた――だがな、お前みたいに自分の名前が嫌いだったから捨てたわけじゃねえ。深〜い事情があって、捨てなくちゃならなかったんだ」
「事情?」
ミスリルは、ちょっとためらってから言った。「デインの奴《やつ》が、俺の肌《はだ》の色のことを言ってたろ? 呪《のろ》いにかけられたんだって」
「うん」
「ありゃ、嘘だ。俺の肌の色は生まれつきさ」
「…………!」
「俺にはダークエルフの血が半分流れてる。俺の親父はエルフだったんだが、こともあろうにダークエルフの娘に惚《ほ》れちまって、嫁さんにしちまったのさ」
サーラは頭を殴《なぐ》られたような衝撃《しょうげき》を受けた。エルフとダークエルフは天地開闢《てんちかいびゃく》以来の仇敵《きゅうてき》同士で、激《はげ》しく対立し合っていると聞いている。それが夫婦になるなんて、絶対にあり得ないはずだった。
「信じられない……」
「ところが事実なのさ。すごいだろ? 道ならぬ恋ってのはよくあるが、ここまで強烈《きょうれつ》なのは、ちょっとないぜ」
「うん……」
「そんなわけだからさ、俺も子供の頃、エルフの仲間からよくいじめられたもんだ。石投げられたり、縛《しば》られて川に突き落とされたりさ――だからまあ、お前と境遇《きょうぐう》は似てないわけじゃないんだ」
「……親を恨《うら》んだりしなかった?」
「そりゃ、したさ。特に親父はな。なんて馬鹿なことをやったんだ。おかげで息子《むすこ》がどんなに苦労するはめになったか、分かってんのか、てな」
「…………」
「でも、今は逆だ。尊敬してる。なんてすごいことをやりやがったんだ、てな。他人にゃ絶対に真似《まね》できないことだ。そうだろ?」
「お父さんは……?」
「死んだ。エルフの村を襲《おそ》ってきたダークエルフとの戦いでな。親父は村のみんなの先頭に立って戦ったのさ。俺とおふくろのためにな。戦いに出かける前に、こう言ってたよ。『もし、俺がちょっとでもこの戦いで手を抜いたら、ダークエルフが相手だから手加減《てかげん》したんだろうって言われる。そうなったら、お前たちにも肩身の狭《せま》い思いをさせる。だから俺は、他の者より二倍も無謀《むぼう》に戦うんだ』ってな……。
どうだ、すごい親父だろう? 俺は誇《ほこ》りに思ってるんだぜ!」
「でも……どうして名前を捨てたの?」
「俺の名前は親父がつけたんじゃねえ。俺の村では、子供の名前は族長《ぞくちょう》がつける風習になってたんだ。だが、親父が死んだ後、俺とおふくろはやっぱり村を追い出されることになった。親父の他にも、ダークエルフとの戦いでは大勢が死んだから、ダークエルフを憎《にく》む気持ちは分からねえでもないがな――それにしたって、いくら何でも恩知らずってもんじゃねえか。そうだろ?」
「うん」サーラはミスリルの怒《いか》りが分かる気がした。
「だから俺、村を出る時に、族長に自分の名前を叩《たた》き返したんだ。『お前らから何ひとつもらうもんか』って言ってな」
「すごいね」
「すごいだろ? 名前を捨てるには、それぐらいの覚悟《かくご》がいるってことさ」
「うん……」
「その後、おふくろといっしょに、あちこちを渡り歩いた。まともな職にはありつけねえから、浮浪者《ふろうしゃ》みたいな真似《まね》もしたし、盗賊《とうぞく》もやった。人殺しだけはやったことはねえが、それに近いことはやったことはある。やばいことはひと通り手がけてきたんだ。そうしないと生きていけなかったからな」
「……でも、悪者《わるもの》にはならなかったんだね?」
「ああ、悪者にはならなかった」ミスリルは恥《は》ずかしそうに微笑《ほほえ》んだ。「いつも、一歩手前で踏《ふ》みとどまったんだ。ここから先は絶対にやっちゃいけねえっていう一線だけは、きっちり守ってきた。なぜだか分かるか? 親父《おやじ》とおふくろのためさ! 俺が悪者になっちまったら、世間のみんなは噂《うわさ》するに違いない。『ああ、やっぱりクロム・ヴェネスの息子《むすこ》は悪《あく》の道に染《そ》まったか』『ダークエルフの子供はやっぱりダークエルフだ』『ダークエルフの娘に惚《ほ》れるような男は大馬鹿者だ』……てな。そんなことは絶対に言わせやしない!
分かるか、サーラ? お前さんは、そりゃあ、お前さんなりに、いろいろ苦労してるこったろうよ。でも、そんなもなあ、俺の苦労に比べりゃ、爪《つめ》の先っぽほどのものでもないのさ。俺から見りゃあ、お前なんか恵《めぐ》まれすぎてるぜ」
「お母さんはどうしたの?」
「まだ元気だ。ドレックノールの裏町《うらまち》で、一人で暮《くら》してる。あの街《まち》じゃあ、ダークエルフなんて珍《めずら》しくもないから、かえって迫害《はくがい》されることもないのさ。半年にいっぺん、俺は稼《かせ》いだ金を持って、そこに帰るんだ……。
なあ、サーラ、笑うなよ。俺には夢《ゆめ》があるんだ」
「夢?」
「ああ、いつか何かでっかいことをやって、世間に名を広めるんだ。とんでもない財宝を発見するとか、すごい怪物《かいぶつ》をやっつけるとかでな。それでもって、みんなにこう言わせるんだ。『クロム・ヴェネスの息子がすごいことをやった』ってな」
「すごいなあ! そうなったらいいね!」
「だろ?……で、お前の夢は何だ、サーラ?」
サーラは当惑《とうわく》した。「僕の……夢?」
「そうだよ。子供なんだから、夢ぐらいあるだろ? 何になりたいんだ?」
「よく分からない……あんまり将来のことなんて、考えたことないから」
「だったら、とりあえず、何かひとつでも夢を見つけるんだな。今だけ見て生きてるから、つらく思えるのさ。明日を見ながら生きるってのは、楽しいもんだぜ」
「でも……もし、その夢がかなわなかったら?」
「ばーか! そんなこと気にして生きてられるかよ。まず、夢を持たないことには、夢はかなわないんだぞ」
「うん」
「とりあえず、俺が言いたいのはそれだけだ」ミスリルはベッドから立ち上がった。「明日の朝までに、どうしたいか決めといてくれ。俺たちと来るか、それとも残るか」
「うん……」
ミスリルは窓に歩み寄り、外に人がいないのを確認した。また覆面《ふくめん》をしようとして、手を止め、振《ふ》り返る。
「そうそう、言い忘れてた」
「何?」
「俺、お前の味方だぜ」
そう言うとミスリルは、覆面をした。軽く愛敬《あいきょう》のあるウインクを残し、彼は窓から飛び降りると、夜の闇《やみ》の中に音もなく走り去って行った。
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4 森へ出発
翌朝。
まだ太陽が山から昇《のぼ》りきらぬうちに、冒険者一行は起き出して、そそくさとキマイラ探しに出かける準備をはじめた。彼らにしてみれば、サーラが目を覚ます前に出発してしまいたかったことだろう。だが、夕べの約束《やくそく》がある以上、置いてゆくわけにはいかない。彼らは少年が起きてくるのを待つことにしたのだ。
サーラはそんなに長く待たせはしなかった。興奮《こうふん》してなかなか寝《ね》つかれず、少しうとうとしてはすぐに目覚めるということを繰《く》り返しているうちに、気がつくと昇りはじめたばかりの朝日が窓から差しこんでいたのだ。
「うわあ、大変だ!」
サーラは転げるようにベッドから飛び出し、寝間着《ねまき》を床《ゆか》に脱《ぬ》ぎ散らかした。大急ぎで革《かわ》の半ズボンをはき、麻《あさ》の半袖《はんそで》シャツに首を通す。その上から革のジャケットをはおって、はみだしたシャツの裾《すそ》をズボンの中に乱暴に押《お》しこんだ。
ベッドの下に入れておいた麻の背負《せお》い袋《ぶくろ》を引っ張り出した。その中には冒険に必要と思える道具――ナイフ、手斧《ておの》、火打ち石、針金、水を入れる革袋、干し肉など――が入っている。夕べのうちに準備しておいたものだ。
袋を背負うと、ブーツの紐《ひも》を結ぶのももどかしく、サーラは部屋《へや》を飛び出した。階段をどたばたと駆《か》け降り、厨房《ちゅうぼう》に飛びこむ。冒険者たちが泊《と》まっているのは別棟《べつむね》で、そこには裏口からの方が近い。裏口から出て行こうと、厨房の出口の掛け金をがちゃがちゃやっていると、後ろから声をかけられた。
「サーラ」
びっくりして振《ふ》り返ると、厨房の入口に、寝間着姿の太った中年女が腰に手を当て、むっつりした表情で立っていた。ユリアナである。ずっと昔からこの館《やかた》で働いている使用人の女性で、厨房を取りしきっている。口が悪く、主人の孫《まご》であるサーラに対しても、叱《しか》る時には遠慮《えんりょ》がないので、サーラは彼女が苦手《にがて》だった。もう何年も前のことになるが、お客に出す特製のパイをつまみ食いしたのを見つかって、こっぴどく怒鳴《どな》られた時のことは、今でも忘れられない。
ユリアナは一歩も動かなかったが、その牛のようにでっぷりした体格は、サーラを威圧《いあつ》するのに充分《じゅうぶん》だった。ナイフや干し肉を厨房から持ち出したのがばれたかと思い、心臓が縮み上がる思いがした。とっさに背中を裏口の扉《とびら》に押しつけ、背負っている袋を見られないようにする。
「弁当は持ったかい?」
ユリアナはむっつりした表情を崩《くず》さずに言った。詰問《きつもん》されることを覚悟《かくご》していたので、彼女の言葉は意外だった。一瞬、どう答えていいか分からず、サーラは口ごもった。ユリアナは繰《く》り返した。
「弁当は持っているのかい?」
サーラはとっさに首を横に振《ふ》った。干し肉を持っているのがばれたら、また怒《おこ》られると思ったのだ。
「ふーん」
彼女はサーラを冷めた目で見下ろし、意味ありげに鼻を鳴らした。
「まあいいさ。そこの戸棚《とだな》に――」と、顎《あご》で戸棚を示して、「――パンが入ってるから、二つほど持って行くといい。昨日焼いたやつの残りだから、ちょっと固いがまだ食えるだろ。余った分はあの連中に分けておやり。それと、掛け金のかけ方は分かってるね?」
サーラはぴょこんとうなずいた。
「よろしい。忘れるんじゃないよ」
それだけ言うと、ユリアナはくるりと背中を向け、行ってしまった。サーラの危機はあっけなく去った。
サーラはほっと胸を撫《な》で降ろすと、さっそくそばの戸棚を開けて、言われた通りにパンを二個取り出した。大人の挙《こぶし》よりやや大きめの固いパンで、育ち盛《ざか》りのサーラの昼食としてはちょうどいい量だった。それを袋の中にしまいながら、でも干し肉もあるから余ってしまうな、とサーラは思った。余ったらフェニックスたちにあげよう――
突然、あることに気がついて、サーラは手を止めた。何でユリアナは「余った分は……」なんて言ったんだろう? 彼が昼食にどれぐらいの量を食べるか、誰よりもよく把握《はあく》しているはずなのに……? もしかして彼女は、サーラが干し肉を盗《ぬす》んだことを知っていたのかもしれない。知っていて黙認《もくにん》してくれたのかも……。
「ちぇっ、そんなはずないよ。あの頑固《がんこ》でドケチなおばさんがさ」
小声でそうつぶやいて、自分の考えを振り払うと、サーラはまた麻袋《あさぶくろ》を背負《せお》った。帰って来たらまたどやされるんだろうな、と思いながら……。
厨房《ちゅうぼう》の出口の掛け金は、本来なら内側からしか掛けられないのだが、サーラは外側からはずしたり掛けたりする方法を知っていた。先を曲げた針金を戸の隙間《すきま》に差しこみ、掛け金にひっかけるのである。この方法を使えば、家の裏で遊んでいるふりをして、外から厨房に侵入《しんにゅう》し、また出てから掛け金を元通りにすることができた。つまみ食いの形跡《けいせき》をごまかすために考えついた、子供らしい悪知恵《わるぢえ》だったが、結局ユリアナには見破られてしまい、叱《しか》られるはめになったのだった。
サーラは裏口から外に出ると、扉を閉めて掛け金を元通りにかけた。実は開けるよりも戻す時の方が簡単で、コツを知っていれば一分もかからないのだった。正面|玄関《げんかん》は太いかんぬきがかかっていて、同じ方法では開け閉めできない。サーラが厨房の扉から出ることを選んだのは、そのせいもあった。
爽《さわ》やかな朝だった。太陽はまだ低かったが、空はすっかり青くなっている。縁の牧草《ぼくそう》に覆《おお》われた地面には、まだ影《かげ》が多い。地面のすぐ上を、ミルク色の朝靄《あさもや》がうっすらとヴェールのように漂《ただよ》っており、草の葉についた水滴《すいてき》が朝日を浴びてきらめいていた。はるか遠い海から流れてきた湿気《しっけ》が、夜の間に冷えてしずくになったのだ。しかし、太陽の光は急速に朝靄を追い払いつつあり、この光景もほんのわずかの寿命《じゅみょう》しかないのだった。
「おう、サーラ、待ってたぜ」
別棟《べつむね》の前で待っていたミスリルが声をかけた。村の者に見られない用心だろう、また例のフードをかぶっている。背中に荷物を背負った上からマントをはおっているので、腰が、曲がっているように見え、ますます年齢の推測《すいそく》がつきにくくなっている。マントの合間《あいま》からちらりと見えたのだが、腰にはショート・ソードを吊《つ》るしていた。
他の三人もそれぞれ出発の準備を終えていた。フェニックスは昨日出会った時と同じ格好で、例の楽器を兼ねた杖《つえ》を持っていた。サーラを見てにこりと微笑《ほほえ》みかける。昨日と違うのは、他の者と同様、荷物の詰《つ》まった袋を背負っていることだ。彼女の荷物が四人の中でいちばん大きい気がした。
レグは胸と胴《どう》を傷《きず》だらけのプレート・メイル(板金鎧《ばんきんよろい》)で覆《おお》っていたが、長くてがっしりとした浅黒い脚《あし》を大胆《だいたん》にあらわにしており、露出度《ろしゅつど》という点では昨晩の下着姿と大差なかった。子供の腕ほどの太さがありそうなフレイルを腰にぶら下げており、荷物は少ない。まだ眠いらしく、だらしなく大きなあくびをしていた。
デインはと言えば、白い服の上から新品のハード・レザーの鎧を身に着け、レイビア(細身《ほそみ》の片手用剣)を腰に差していた。左腕に装着《そうちゃく》したバックラー(小型の盾《たて》)には、鮮《あざ》やかな赤い色で、鳥を図案化した紋章《もんしょう》が描かれている。他の三人に比べて、やけにしゃきっとした姿勢で立っており、一人だけ浮《う》いている感じがした。
村の者の姿はなかった。さすがに野良《のら》仕事に出るには早すぎる時間だし、怪物退治《かいぶつたいじ》は冒険者たちに一任することにしたので、わざわざ見送りに出ることもないと考えたのだ。デインたちの方でも、大げさな見送りはいらないと言ってあった――村人たちに総出で見送られて、さっそうと怪物退治に出かけて行ったはいいが、手ぶらで帰って来たりしたら格好がつかない。
「どうするか、決めたかい?」とデイン。
「もちろん!」サーラは元気良く答えた。「いっしょに行くよ!」
四人は、やれやれといった様子で顔を見合わせた。
「君の決意が固いのはよく分かった」
デインはサーラに向き直ると、腰を少しかがめ、顔を近づけて話しかけた。
「よろしい。つれて行こう。ただし――」
「はい?」
「この隊のリーダーは僕だ。僕たちといっしょに行動するかぎり、君も隊の一員なんだから、僕の命令には絶対に従うこと。勝手な行動をしたりしちゃいけない。これは遊びじゃ、ないんだ。ちょっとした間違《まちが》いが死につながる。そこのところ、分かってるかい?」
「はい!」
「あんまり分かってないんじゃないの?」
サーラのうきうきした表情を見て、レグは露骨《ろこつ》に眉《まゆ》をひそめた。
「特に注意しなくてはならないのは、万が一、戦いになった時だ」とデイン。「すぐに後ろに下がるんだ。もたもたしてちゃいけない。すぐに下かれ! 近くで怪物をよく見ようなんて思っちゃいけない。できるだけ遠くに隠《かく》れているんだ。さもないと、怪物の爪《つめ》で引き裂《さ》かれるか、悪くするとレグのフレイルで後ろから殴《なぐ》られる」
フェニックスたちがくすっと笑ったが、レグは仏頂面《ぶっちょうづら》をしていた。サーラも笑いかけたが、デインににらまれ、表情をひっこめた。
「冗談《じょうだん》じゃないんだぞ。乱戦の中じゃ、どんなことでも起こる。味方が味方を殴ることだってあるんだ」
「はい……」サーラは唾《つば》を飲《の》み、こくんと首を振《ふ》った。
「とにかく、絶対に忘れちゃいけないのは、君はど素人《しろうと》で、しかも子供だってことだ。僕たち熟練《じゅくれん》した大人のまねをしようなんて、決して思っちゃいけない。死にたくないなら、謙虚《けんきょ》であることだ。いいね?」
「はい……」
「よろしい」
デインは満足そうにうなずくと、腰を伸ばし、他の三人を見回した。
「じゃ、行くとするか」
デインを先頭に、一行は歩きはじめた。ぼやっとしていたレグが置いてけぼりを食いそうになり、慌《あわ》てて追いかけてくる。
「ちょっとちょっと! 行くって、どこへ?」
「もちろん、キマイラ探しさ。サーラに案内してもらってね」
「だって、この子は――」
「しっ! それは言わないの」フェニックスが肘《ひじ》でレグを小突《こづ》いた。「もう決めたことよ。でしょ?」
「そりゃそうだけどさ……」
「それに、キマイラがいるにせよ、いないにせよ、この近くを案内してくれる人間がいるのは好都合だわ」
「そうそう」ミスリルが口をはさむ。「この村の周囲を適当にぶらつきゃいいのさ。どうせ他に手がかりなんてないんだ。万一にもキマイラが見つかればめっけもんだ」
「たとえ見つからなくたって、この子の責任ってわけじゃないしね」とフェニックス。
サーラは歩きながら、自分をめぐる口論を他人事《ひとごと》のように楽しく聴《き》いていた。レグ以外の三人は、すでに少年を仲間と認めてくれている。そのことが無上《むじょう》に嬉《うれ》しかった。
サーラはデインと並んで歩いた。歩幅《ほはば》が違うので、どうしても足早になるうえ、足取りは心の浮かれを反映して、ついついスキップになってしまう。背負い袋の重みなど。まるで気にならなかった。
「はっ!」最後尾を歩きながら、レグは鼻を鳴らした。「みんな、レプラコーンにとりつかれちまったんじゃない? こんなガキにたぶらかされちゃってさ。これじゃまるで花摘《はなつ》みにでも行くみたいじゃないか!」
「この子の夢につき合ってやってるだけさ」ミスリルが楽しそうに言う。
「夢?」
「そう、夢――」
「はあん?」レグは不思議そうに首をひねった。
森の中はまだ薄暗《うすぐら》く、空気がひんやりとしていた。草の青臭《あおくさ》い匂《にお》いや、松の葉の少しつんとした匂いが、鼻孔《びこう》を刺激《しげき》して心地良《ここちよ》い。葉の隙間《すきま》から差しこむ朝日が、あちこちの樹の肌《はだ》に明るい斑点《はんてん》を落としていた。小さな鳥のチュッチュッという鳴き声がする。
樹はあまり密生《みっせい》していないので、道をはずれて歩くのはさほど困難《こんなん》ではないように見えたが、一行はいちおう獣道《けものみち》に沿って歩いていた。もともと当てもなくぶらついているだけなのだから、わざわざ森の中に深く踏《ふ》みこむ必要もないと思ったのだ。
時おり、鳥が梢《こずえ》の上を横切る羽音や、ウサギかノネズミらしい小動物が下生《したば》えの中を走り抜ける音がする以外、動物の気配はない。もちろん人間もだ。ミスリルは安心してフードを取っており、故郷《こきょう》の森みたいだ、と上機嫌《じょうきげん》だった。緊張感《きんちょうかん》はまるでなく、散歩のような雰囲気《ふんいき》だった。
「このあたりの森は、ずうっとこんなのかい?」
村を出発して二時間ばかり経《た》った頃《ころ》、デインが訊《たず》ねた。
「こんなのって?」
「樹がまばらで、あまりけわしくないじゃないか。ずっと南の方には、もっとびっしり密生した森があるんだがな」
「ほんと? でも、このあたりの森はどこもこんな感じだよ」
「これまでに猛獣《もうじゅう》が出たって話はあるかい?」
「猟師《りょうし》のティボンさんが大きな熊《くま》を仕留《しと》めたことがあるよ。僕が小さかった頃だから、よく覚えてないけど……そうそう、お祖父《じい》ちゃんが言ってたっけ。昔はこの森にコボルドの群れがいたんだってさ。畑が荒《あ》らされたり、山羊《やぎ》や鶏《にわとり》が盗《ぬす》まれたこともあったらしいけど、ある時、このあたりの村の人たちがお金を出し合って、大勢の冒険者を雇《やと》って、大がかりな狩《か》りをやったんだって。それ以来、いなくなったってさ」
「狼《おおかみ》とかはいないのか? ゴブリンは?」
「ゴブリンは見たことないなあ。狼は年に一匹か二匹、猟師の人が仕留めて帰って来るけど、ここから何日も東の方に行かないといないんだ。このあたりでは見かけないよ」
「そうか……」デインは歩きながら何か考えこんでいた。
「何か気になるの、デイン?」フェニックスが声をかける。
「ああ……キマイラがどこから現われたか考えたんだ。このへんの森は平穏《へいおん》すぎる。キマイラにかぎらず、魔獣《まじゅう》ってやつは、もっと暗い場所やけわしい場所を好むもんだ。密林《みつりん》の奥深くとか、高い山の上とか、洞窟《どうくつ》の中とか……でも、このあたりはずっとなだらかな丘《おか》や平原ばかりで、そんなものはないんだ」
「他から移ってきたんじゃない? 南の方の密林か、東のクロスノー山脈か……」
「それも考えたさ。でも、距離《きょり》がありすぎる。この周囲の村で、他にキマイラの被害《ひがい》が出たって話も聞かないし……だいたい、魔獣にかぎらず、動物ってやつは、めったなことでは棲《す》み家《か》を変えたりしないものなんだ」
「他から移ってきたんじゃないとしたら、どこから現われたって言うの?」
「さてなあ……あ?」
デインは何かを思いついたらしく、急に立ち止まり、振《ふ》り返ってサーラを見た。
「なあサーラ、このあたりに洞窟か、古代|遺跡《いせき》はないか?」
「古代遺跡?」
「そうだ。魔獣はよくそういう場所に棲みついてるものなんだ。ないかな?」
「古代遺跡……ないことはないけど」
サーラの頭に浮かんだのは、半月の丘《おか》≠フ頂上にある大昔の建物の跡《あと》だった。だが、あれを「古代遺跡」と呼ぶのにはためらいがあった。「古代遺跡」という言葉には、どこか異国的で恐《おそ》ろしげでロマンチックな印象がある。あの丘は小さい頃からずっと遊び場として親しんできたので、森や川と同様、ごく当たり前の存在という感じで、神秘的《しんぴてき》なものは何も感じないのだ。
「あれはたぶん、違うと思うなあ……」
「あるのか? あるのなら見てみたいな」
「でも……無駄足《むだあし》だと思うよ。行っても意味ないよ」
「言っただろう? 君は素人《しろうと》なんだ。意味があるかどうか、僕ら熟練者《じゅくれんしゃ》が見て判断することだ。それに――」
「それに?」
「何もなくてもともとだ、そうだろ?」
デインはいたずらっぽく微笑《ほほえ》んだ。もっともな考えだ、とサーラは思った。どっちみち確《かく》たる目的もなしに歩き回っているだけなのだから、少しばかり無駄足をしたところで、たいして違いはない。サーラ自身、ぼけっと彼らについて歩くのに、負い目を感じはじめていたところだった。案内人のまねごとをするのもいいかもしれない。
「分かった。こっちだよ」
サーラは来た道を引き返し、一行を半月の丘≠ノ案内した。
丘≠ヘデインたちを失望させた。遺跡はあるにはあったが、半分以上は土に埋《う》もれ、壁《かべ》や土台の一部が地上に出ているだけだ。しかも風化がひどく、原形をほとんどとどめていない。積み重ねられた石の隙間《すきま》からは雑草が顔を出している、カストゥール王国時代の砦《とりで》の跡かもしれない、とデインは言ったが、年代の手がかりになるものがないので、当て推量《ずいりょう》でしかなかった。念のために手分けして探してみたが、建物の由来を示す碑文《ひぶん》だの、珍《めずら》しい遺物だの、地下への秘密《ひみつ》の入口だのといったものは、まったく見つからなかった――そんなものがあったなら、子供たちがとっくに発見していただろう。
太陽はすでに青空高く昇《のぼ》っていた。やむなく彼らは、土台石に腰掛け、昼食を取ることにした。暖かい初夏の陽射《ひざ》しに優しく抱かれて、ますます緊迫感《きんぱくかん》が薄《うす》れ、ピクニックじみてきた。
「デインはいろいろなこと知ってるんだね」
並んで座《すわ》ってパンをかじりながら、サーラは話しかけた。
「まあ、ね」デインは苦笑した。「本で読んだ知識だけどね」
「司祭《しさい》ってやっぱり勉強しないといけないものなの?」
「別に司祭だから勉強してるってわけじゃない。本が好きだから読んでるんだ。旅に出ていない時は、なるべくいろんな本を読んで、知識を得るようにしている――字は読めるかい?」
サーラは首を振った。
「そうか……字は読めるようにしておいた方がいいよ。知識は多すぎて困るということはない。いろいろ役に立つ」
「本には怪物《かいぶつ》のことなんか書いてあるの?」
「ああ、そういうことを書いた本もあるさ。セルヴィン卿《きょう》の『西方遠征記《せいほうえんせいき》』や、賢者《けんじゃ》アーニンの『密林の動植物』……」
「へーえ」サーラは目を輝かせた。
「いちばん読んでみたいのは、ラムリアースのラヴェルナという女魔術師が書いた本だ。その本には、このアレクラスト大陸の東にあるいくつもの国や、いろいろな珍《めずら》しい生き物のことが、詳《くわ》しく書かれているそうだ」
「まだ読んだことはないの?」
「残念ながら、ね」デインはため息をついた。「そういう貴重《きちょう》な本は大きな城の書庫《しょこ》とかにしまいこまれて、なかなかお目にかかれないんだ。もっとも、ずっと簡単に手に入る本もいっぱいあるし、本はどれでも勉強になるけどね」
「ふうん……でも、絵を見たり、字で書いた説明を読むだけじゃ、つまんないな。本物の怪物を見てみたいよ」
「いやいや、本を読んでおくのも大切さ。本には怪物の特徴《とくちょう》が詳しく書いてあることもある。いざその怪物と出会った時に、あらかじめ性質や弱点を知っているのといないのとでは、大変な違いだからね。去年のことだけど、ここのずっと西にあるメジオンっていう大きな沼地《ぬまち》で、ちょっとした冒険をやったことがある。ある商人から依頼《いらい》を受けて、リファールからドレックノールへ向かう途中《とちゅう》で行方《ゆくえ》不明になったキャラバンを捜索《そうさく》したんだ。彼らが運んでいた宝石の箱を発見して持ち帰るのが、僕たちの任務だった」
「あれはひでえ仕事だったよなあ」そばにいたミスリルが口をはさんだ。「何日も当てもなく密林の中をうろつき回ったっけ。沼にはまって泥《どろ》だらけになるし、雨には降られるし、毒虫はうじゃうじゃ出るし……」
「まったくだ」デインはうなずいた。「でも、いちばん恐《おそ》ろしかったのは、密林の奥で真夜中にキノコの怪物に襲《おそ》われた時だった。気味悪いやつだった。人間みたいに二本の手と二本の脚《あし》があるんだが、目も鼻も口もなくて、全身がびっしりと毒々しい色をしたキノコに覆《おお》われてるんだ。そいつが脚をずるずる引きずりながら、暗がりの中から無言で近づいてくる――想像できるかい、サーラ?」
サーラは肩をびくっと震《ふる》わせ、慌《あわ》てて首を振《ふ》った。あまり想像したくなかった。
「やっつけたの?」
「ああ。だが、厄介《やっかい》な敵だった。剣で突いても、フレイルで叩《たた》いても、血なんか出やしない。傷口から黄色い粉をしゅうしゅうと吐《は》くだけで、なかなか死なないんだ。ようやくフェニックスが魔法の炎《ほのお》を浴びせて倒したんだが……問題はその後だ」
「その後って?」
「僕は賢者アーニンの本で読んで、その怪物のことを知っていた。その怪物が吹き出した黄色い粉は、毒の胞子《ほうし》――つまり、小さな種みたいなものなんだ。それを吸いこんだ人間は、何日かすると体じゅうからキノコが生えてくるという奇病にかかる。ついにはキノコの怪物に変わってしまうんだ」
「…………!」
「そう。僕たちに襲いかかってきた怪物も、何日か前までは人間だったんだ。僕たちも戦いの間にその粉を少しは吸いこんだわけだから、へたをすると同じ運命をたどっていたかもしれない。もっとも、僕がそれに気がついたから、すぐに神聖魔法《しんせいまほう》で全員の毒を消し去って、助かったけどね。怪物の死体を調べてみると、案の定、僕たちが探していた宝石が見つかった」
サーラは息を飲《の》んだ。
「じゃあ……じゃあ、行方不明になったキャラバンの人たちは、みんな怪物になっちゃったの?」
「いや、違う。彼らの死体は別の場所で見つかった。山賊《さんぞく》に襲われたのさ。キノコの怪物になったのは、山賊の一人だったらしい。山賊どもの隠《かく》れ家《が》も見つけたけど、そこには蓋《ふた》の開いた宝箱が転がっていた。鍵《かぎ》をこじ開けようとすると、毒の胞子が噴射《ふんしゃ》する仕掛けになってたんだ。あらかじめ依頼主《いらいぬし》から『絶対に箱の蓋は開けるな』と釘《くぎ》を刺《さ》されてたんだが、そういうことだったんだな。
たぶん、山賊の中で仲間割れがあって、一人だけ宝石を奪《うば》って逃げようとして、宝箱の罠《わな》に引っ掛かったんだろう。自業自得《じごうじとく》とは言え、悪質すぎる罠だ。箱にそんな罠があると教えなかったのは、僕たちを信用していなかったからだろう。取り返した宝石を依頼主に返す時に、さんざん嫌味《いやみ》を言ってやったよ」
「だから俺が言っただろ?」とミスリル。「あんな野郎に宝石を返す必要なんてなかったんだ。態度だけはでかいくせに、さんざん仕事料を値切りやがって……あのまま持って逃《に》げたって、誰にも分からなかったのによ」
「そうはいかない。冒険者としての信義に反する。どんな事情があろうと、依頼主を裏切るわけにはいかない」
「ちっ!」ミスリルは舌を鳴らした。デインの優等生ぶりが気に入らないようだ。
「それで、何の話だったっけ?…‥ああ、そうそう、本のことだったな。つまり、そういうことだ。僕がアーニンの本を読んでいたおかげで、怪物の正体を見破って、危機を逃《のが》れることができた。知識というのは時には人間の命を左右するほどに重要なものなんだ。分かったかい?」
「うん……」
サーラはぼんやりとうなずいた。話の前半がすごすぎて、後半はあまり頭に入らなかった。人間が生きたままキノコに変わる――そんな恐《おそ》ろしいことが、この世には実際にあるのだ。デインはちょっとした武勇伝のつもりだったのだろうが、少年の繊細《せんさい》な心にはそのイメージは強烈《きょうれつ》すぎた。幼《おさな》い頃から聞かされた昔話や、吟遊詩人《ぎんゆうしじん》の語るサーガなど、迫力の点では比べものにならない。何と言っても、実際に目撃《もくげき》し、その怪物と戦った人間の口から出る話なのだから。
太陽の光が急に翳《かげ》ったように思えた。人間の形をしたキノコのイメージが頭の中にこびりつき、いくら振り払っても去らない。食べかけのパンがなかなか咽喉《のど》を通ろうとしなかった。今晩は眠れないかもしれない、とサーラは思った。
と同時に、デインたちに対して、あらためて畏敬《いけい》の念が湧《わ》いてきた。何てすごい人たちなんだ! 想像するだけでも恐ろしい怪物と戦い、やっつけてきたなんて!
きっとこの人たちなら、キマイラだってあっさり倒してしまうに違いない――サーラはそう確信した。
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5 水の洞窟《どうくつ》
「さて、そろそろ出発するか――おおい、レグ、移動するぞ」
食事を終え、荷物をかついで立ち上がったデインは、少し離《はな》れたところにいるレグに声をかけた。彼女はとっくに食べ終えており、雑草の茎《くき》をつまようじ代りに口にくわえ、遺跡《いせき》の壁《かべ》にもたれかかって、丘《おか》の南側の斜面《しゃめん》をぼんやりと見下ろしている。デインの呼びかけに振《ふ》り返りもしない。
「レグ、何やってんの?」
フェニックスも不審そうに呼びかけた。レグは茎をぷっと吐《は》き出すと、振り返りもせずに言った。
「ちょっと気になるんだ……こっち来なよ」
デインたちは緊張《きんちょう》した。レグの無愛想《ぶあいそう》な顔と粗野《そや》な態度はいつものことだが、彼ら三人は長年のつき合いで、声や表情の微妙《びみょう》な変化の中に、彼女の感情の動きがいくらか読めるようになっていた。今のレグの声は妙に真剣《しんけん》で、何か悩んででもいるようだ。
「どうしたんだ?」
集まってきた三人を前にして、レグは相変わらず仏頂面《ぶっちょうづら》で、眼下に広がる風景に向かって顎《あご》をしゃくった――墓石《はかいし》のような白い石が無数に突《つ》き出た、緑の草に覆《おお》われたなだらかな斜面だ。初夏の風がさわさわとささやきながら吹き抜け、一面の草がさざ波のように揺《ゆ》れる。見るからにのどかな風景で、危険がひそんでいそうに見えない。
「何かいるの?」
サーラは大人たちの間から首を出して、おっかなびっくり眺《なが》め回したが、不審なものは目に映《うつ》らない。
「この風景……」レグはぽつりと言った。「故郷《こきょう》のガルガライスに、これに似た場所があったんだ」
「何だよ、何かと思ったら、思い出にひたってただけかあ?」
「早とちりすんな! 黙《だま》って聴《き》きな!」
レグに怒鳴《どな》られて、ミスリルは首をひっこめた。
「そこは地元じゃ有名なところでね。|地の精《ノーム》の墓場《はかば》≠チて呼ばれてた。海からかなり離れた山あいにあって、なだらかな丘《おか》がいくつも連《つら》なっていて、そこにこんな風に白い石がいっぱい突き出てたんだ。もっとずっと広かったけどね――で、底の地下には大きな洞窟《どうくつ》があった」
「洞窟?」とフェニックス。
「ああ。ものすごく広くて、入り組んだ洞窟でね。海まで続いてるって話だったけど、確かめた者はいない。あまりに広いんで、うっかり奥の方まで入ると、迷ってしまって出て来れないんだそうだ。中には怪物《かいぶつ》もいっぱい棲《す》んでるらしくて、月のない夜には、そいつらが地面のあちこちに開いた穴《あな》から地上に出てくる。夜中に墓場≠ノ近づいた人間が無残《むざん》な殺され方をしたって話は、よく耳にした――」
「そうか、石灰岩《せっかいがん》だ!」デインがぴしゃりと自分の額を叩《たた》いた。「何で思いつかなかったんだ! その通りだよ、レグ!」
「何だい、そりゃ?」ミスリルが首をかしげる。
「この岩のことさ」
デインは少し得意そうに、白い石の柱のひとつをぺたぺた叩いてみせた。
「石灰岩と言って、建築用によく使われる石だ。大理石よりは格が落ちるけどね――面白いことに、この岩がある場所には、大きな洞窟がよく見つかるんだ」
「ここもそうだって言うのか?」
「可能性はあるな。この地下に洞窟が広がってるのかもしれない――サーラ、このあたりに洞窟の入口みたいなものはないか?」
「洞窟? うーん……」サーラは考えこんだ。「見たことないなあ……」
「本当にないのか? よく考えてみてくれ」
「うん……」
四人から期待のこもった視線を向けられ、サーラは緊張した。何とか期待に答えようとするのだが、いくら考えても、それらしいものを見た覚えはない。
「コウモリはどうだい?」とレグが言った。
「コウモリ?」
「洞窟には必ずコウモリが棲んでるもんだ。|地の精《ノーム》の墓場≠ナも、夕方になるとそこらじゅうの穴からコウモリが飛び出してきて、空いっぱいに飛び回ってたよ。遠くから見てると、まるで黒い雲みたいだったね」
「確かにこのあたりでも、夕方にはコウモリをよく見かけるけど……」
「だったら、どっかにコウモリの出てくる穴もあるはずだ。よく思い出してみな」
その時、サーラの頭にひらめいたものがあった。
「あ、そうだ! 聞いたことあるよ。この丘の南の森の奥に、深い穴があるって」
「何だって! 本当か!?」
「うん。もう何十年も前だけど、子供がその穴に落ちて死んだことがあるんだって。だから南の森では遊んじゃいけないって言われてるんだ」
「あの森か? ふうむ……」
デインは首を伸《の》ばし、斜面の向こうに見える森に目をやった。なだらかに続いていた草の斜面が急に跡切《とぎ》れて、生《お》い茂《しげ》った樹々が壁となって立ちはだかっている。これまで歩いてきた森より、いくらか樹の密度《みつど》が高いようだ。
「この斜面から続いているってことは、あの森の下にも石灰岩の層があることは、ほぼ確実だな」
「洞窟もある?」とサーラ。
「あるだろう――いや、あってくれないと困る。他に手がかりがないんだから」
「あやふやな手がかりねえ」フェニックスがため息をつく。
「ないよりましだ――さあ、行こう」
そう言うとデインは、一行の先頭に立って、なだらかな斜面を下りはじめた。
問題の穴《あな》を発見するのに二時間ほどかかった。何の手がかりもなしに探しはじめたにしては、上出来すぎる成果と言えよう。森の暮《くら》しに慣れているレグの野性的な勘《かん》と、すぐれた観察力のおかげだった。
穴と言うよりは、露出《ろしゅつ》した石灰岩層の割れ目であった。事故《じこ》が起きた後、村の大人の手でふさがれたものらしく、割れ目の上には丸太《まるた》が何本も渡され、筏《いかだ》のように縄《なわ》で縛《しば》り合わされていた。丸太は数十年の歳月でかなり腐《くさ》ってきており、おまけに苔《こけ》が生《は》えたり、落ち葉がかぶさったりしていて、周囲の地面とすっかり同化している。
「危ねえなあ。もうボロボロだ」ブーツのつま先で丸太をつついて、ミスリルが顔をしかめる。「蓋《ふた》をしたつもりかしらんが、これじゃ落とし穴も同然だぜ」
「ああ。後で村の人に警告しておこう」とデイン。「とにかく、こいつをのけてみようじゃないか」
彼らは協力して、割れ目を覆《おお》った腐った丸太を取り除《のぞ》いた。割れ目はかなり狭《せま》く、左右の壁から岩がこぶのように突き出していて、大人が一人ずつ体をくねらせてようやく入れるぐらいの幅《はば》しかなかった。奥は暗くてよく見えない。
「ミスリル、光を」
デインが言った。ミスリルはうなずくと、サーラが聞いたこともない美しい言葉で、短く何かをつぶやいた。彼の手の上に、青くぼうっと光る球体が出現する。少年が驚いて見ていると、球体はエルフの手をすうっと離れ、割れ目の中に吸いこまれた。
球体は壁を照らしながらどんどんと降下してゆき、やがて底に突き当たった。かなりの深さがある。しかも、まだ横穴が続いているようだ。
「こんなに狭《せま》いんじゃ、キマイラなんて出て来れないんじゃない?」とフェニックス。
「それどころか、蓋《ふた》がしてあるからコウモリだって出て来れねえ」とミスリル。
「たぶん他にもどこかに出口があるんだろう。こんな穴が一つだけだと考える方が不自然だ。中ではつながってるんだろうがな」
「降りてみる?」
「当然だ」
ミスリルはさっそく背負い袋の中からロープを取り出し、近くの樹に結びつけた。穴の中にロープを垂《た》らし、軽業師《かるわざし》のような優美な動作で滑《すべ》り降りてゆく。|光の精霊《ウィル・オー・ウィスプ》であたりを照らしながら、横穴を少し先まで進んで様子を探った。
数分してミスリルは上がってきた。
「進めるが、途中《とちゅう》がかなり狭いな」彼は報告した。「割れ目みたいになってて、一列でないと進めそうにない。でも、その向こうは広くなってるみたいだ。奥の方からざあざあ水の音がする」
「ざあざあ?」
「ああ。地下水の流れがあるんだろう。かなり大きな洞窟《どうくつ》だぜ、こりゃ」
「ふうむ、ますます調べてみる価値がありそうだな……ありがとう、サーラ。後は僕たちがやる。帰っていいよ」
デインのそっけない言葉に、サーラはショックを受けた。
「嫌《いや》だよ! 僕もいっしょに行く!」
「ここから先はどんな危険があるか分からないんだ。君は充分《じゅうぶん》に案内の役を果たしてくれた。もうついて来る必要はないんだ」
「必要≠ナついて来たんじゃないよ! ついて来たかったから来たんだ!」
「僕たちと冒険がしたかっただけだろう? 充分に楽しんだじゃないか」
「ただ森の中を歩き回ってただけじゃない! あんなの冒険じゃないよ! これからが本当の冒険なんじゃないか!」
デインにしてみれば、こういう状況《じょうきょう》になることは予測できていた。だが、対処法までは考えていなかった。サーラが子供っぽい気まぐれで「もう飽《あ》きちゃった、家に帰る」と言い出すことに期待していたのだ。
だが、そう都合よくはいかなかった。サーラは彼らが思ったより一途《いちず》な性格だったのだ。こうなると子供は怪物《かいぶつ》より始末に悪い。怪物なら剣で斬《き》り殺せばおしまいだが、子供はそうはいかないのだから。
「いいかい」デインは辛抱強《しんぽうづよ》く説得した。「僕たちは君を無事に帰すことを、君のお祖父《じい》さんに約束したんだ。もし君に大怪我《おおけが》でもさせたら、お金を払ってもらえなくなる。それは困るんだ。僕たちはあくまでお金のために働いてるんだからね」
「そう、これは仕事なんだ」レグがつっけんどんに言う。「あたしらはあんたのお守《も》りじゃない。あんたの冒険ごっこにつき合ってられないんだよ」
「ごっこ≠ネんかじゃない! 遊びなんかじゃないんだ! 僕は本当の冒険がしたいんだ! 仲間に入れて欲しいんだよ!」
「無茶なことを言うもんじゃない」
「だって、無茶なことをするのが冒険でしょ!?」
サーラは苛立《いらだ》って大声を出した。何で僕の気持ちが分かってくれないんだろう。何で大人たちはいつも自分たちの理屈《りくつ》でしか話さないんだろう。子供の考えなんか分かろうともせず、子供の言うことは何でも馬鹿にするんだ。デインたちだけは例外だと思っていたのに……。
デインはすぐ目の前にいた。それなのにサーラは彼がずっと遠くにいて、触《ふ》れることができないような気がした。彼の前には大きな見えない壁が立ちはだかっているのだ。その壁を叩《たた》き破ろうとするかのように、サーラは小さなこぶしを握《にぎ》りしめたが、同時に自分の無力さも知っていた。この世界の巨大な不条理《ふじょうり》を前にして、子供の力はあまりにもはかない。悔《くや》しくて涙が出そうだった。
助けてくれたのはフェニックスだった。
「ねえ、考えてみれば、この子をここで帰しちゃうのも危険じゃない?」
デインがびっくりして彼女を見た。「どうして?」
「だって、キマイラが洞窟の中にいるとは限らないのよ。外をうろついてるかもしれないじゃない。この子が一人で村まで帰る途中《とちゅう》に襲《おそ》われたらどうするの?」
「じゃあ、どうしろって言うんだ? いっしょに洞窟につれて入れってのか?」
「あたしは反対だね」とレグ。「足手まといになるだけだ」
「そうか? 俺はそうは思わんがな」ミスリルがとぼけた口調《くちょう》で言った。
「ミスリル、あんた何言い出すのさ!? こんな子供、つれてったって、何の役にも立つはずないじゃないか!」
しかしミスリルはレグの抗議《こうぎ》に耳を貸さなかった。
「なあ、サーラ。お前、いくつだ?」
サーラはちょっととまどいながら答えた。「じゅ……十一だけど」
「ほう、十一歳かあ」
「もうじき、十二になるよ」
ミスリルはうんうんとうなずきながら、レグに向き直った。
「レグ、お前よく自慢《じまん》してたっけな。初めてゴブリンの頭を叩《たた》き割ったのは何歳の時だっけ?」
レグは答に詰《つ》まった。「それは……」
「何歳だったっけ?」
「十歳だよ……」レグはしぶしぶ答えた。
「じゃあ、何でこの子が役に立たないって言えるんだ?」
「おいおい、ミスリル、頭がおかしくなったんじゃないのか?」デインはすっかりあきれていた。「それとこれとは話が違うだろうが」
「俺の頭はいたってまともさ。俺はただ、この子との約束を守りたいだけだ」
「約束?」
「ああ。俺たちはこの子に『怪物退治につれて行く』と約束した。なのにまだ怪物の一匹とも出会ってやしない。これじゃ約束を果たしたことにならない。そうだろ? 誠実さに欠けるってもんだぜ」
「お前の口から誠実≠ネんて言葉が出ても、説得力がないな……」
「何とでもぬかせ。俺はこの子の味方だ」
そう言ってミスリルは、夕べと同じようにサーラにウインクをした。サーラは百万の味方を得た気がした。
「やれやれ……で、フェニックスも賛成なのか?」
フェニックスは肩をすくめた。「あたしたちの力なら、この子を守るぐらい、どうってことないでしょ。迷惑にはならないと思うわ」
四人の議論はそれからさらに何分も続いた。もともとサーラを追い返すことに後ろめたさを感じていたデインは、ミスリルの熱意にだんだん押されてゆき、ついには「しょうがないなあ」と言って微笑《ほほえ》み、少年が同行することを認めた。最後まで頑強《がんきょう》に抵抗《ていこう》していたレグも、自分だけが孤立《こりつ》したことを知って、とうとう折れた。
「分かったよ。その代わり、もしも大怪我《おおけが》したって、あたしらを恨《うら》むんじゃないよ。あんたの責任なんだからね」
「わーお!」
サーラは飛び上がって喜んだ。今日は生涯《しょうがい》でいちばん幸せな日だと思った。
問題はひとまず解決し、五人は洞窟《どうくつ》に降りることになった。いちばん身の軽いミスリルがもう一度下まで降り、危険がないのをよく確認してから、地上の者に合図《あいず》を送る。二番手はレグで、まず重い鎧《よろい》を脱《ぬ》いでロープの端《はし》にくくりつけ、先に底へ吊《つ》り降ろしてから、身軽な格好でロープを滑《すべ》り降りた。
サーラは三番手だった。隊の中央にいるのが安全だというデインの判断からだ。滑り降りるのは危ないので、腰にロープを結びつけ、デインとフェニックスに吊《つ》り降ろしてもらった。底に着いてみると、レグが再び鎧《よろい》を身に着けているところだった。
四番手にフェニックス、そして最後にデインが降りてきた。デインは火のついたランタンを持っている。穴《あな》の底は五人も立つと窮屈《きゅうくつ》だった。
「サーラ、このランタンを持ってくれ。何も仕事しないんじゃ、肩身が狭《せま》いだろ?」
言われた通りにランタンを受け取ったものの、サーラは釈然《しゃくぜん》としない感じがした。
「どうしてランタンがいるの? ミスリルの魔法の光があるのに……」
「明かりは常に二つ用意しておくんだ。どっちかが消えた時のためにね。ランタンの油にしろ、魔法にしろ、永遠に保つものじゃない。戦闘《せんとう》の最中に真っ暗になったりしたら大変だからな」
「へえ……用心深いんだね」
「優秀な冒険者は用心するものさ。用心しない冒険者は生き残れない――さて、前進するとするか」
青白く光るウィル・オー・ウィスプをかかげたミスリルを先頭に、一行は横穴に入っていった。石灰岩層《せっかいがんそう》に生じた縦の亀裂《きれつ》で、かなり幅《はば》が狭《せま》くて、体を横にしないと通れない。
岩壁《がんぺき》は湿《しめ》っていて冷たかった。地下水の浸食《しんしょく》作用だろうか、足許《あしもと》は雨どいのように丸くえぐれていた。
亀裂は少しずつ地下へ下っていた。途中には壁から岩が突き出したり、天井《てんじょう》が低くなっている箇所《かしょ》もあって、体をエビのようにそらしたり、かがんだりしないと通り抜けられない。また、足許《あしもと》が階段状になっていたり、落とし穴のように急に落ちこんでいる箇所もあり、そのたびに前進はストップした。地上を歩く数十分の一のペースでしか進めなかった。
いちばんつらいのは、体格の大きいレグだった。岩にひっかからないように、背負い袋は左手で持っているのだが、それでもつっかえることが何度もあった。一度など、両側から岩が張り出した箇所で、尻《しり》が岩の間にすっぽりはさまって動けなくなった。
「ちくしょう! だから女は嫌《いや》なんだ!」
レグは毒づいた。ミスリルは大笑いしながら彼女の手を引っ張った。サーラもくすくす笑いながら尻を押してやり、レグを苦境から救ってやった。
三〇分ほど歩いたところで、ようやく亀裂は終わり、広くなった場所に出た。地下数十メートルには達していただろう。一行はほっとして散開し、サーラを間にはさんだ二列縦隊に隊列を組み直した。ざあざあという水の音が近くなっていた。
少し進むと、別のもっと大きな洞窟とぶつかった。天井の高さは大人の身長の三倍以上ある。きれいなすべすべしたU字型にえぐれた洞窟の底には、地底の川が横たわっていた。川と言っても、脛《すね》ぐらいの深さしかない小川のようなもので、流れもゆるやかなのだが、せせらぎの音が反響《はんきょう》して、かなりうるさく聞こえる。水は驚くほどに透明《とうめい》だった。
「魚がいる!」
サーラは歓声《かんせい》をあげた。水面に浮かんだウィル・オー・ウィスプの生み出す光の輪の中を、小さく銀色に光る魚が数匹、さっと横切るのが確かに見えたのだ。
「どうやら外の川とつながってるようだな」
「地面の下にこんなところがあったなんて……!」
サーラは驚きとともに、ある種の誇《ほこ》らしさを感じていた。大地の下に隠《かく》されていた、村の誰もが知らなかった自然の神秘《しんぴ》を、自分はまさに目にしているのだ。これこそ冒険というものだ!
一行は注意深く洞窟の底に降りた。底が水平ではなく、両側がせり上がっているので、水の中に立たねばならない。
外は初夏だというのに、ここの空気はやけに冷たかった。半袖《はんそで》シャツに半ズボンのサーラは、小さな肩をぶるっと震《ふる》わせ、こんなことならもっと厚着《あつぎ》をしてくれば良かったと思った。冒険者たちはさすがに用意|周到《しゅうとう》で、さっそく背負い袋の中から毛織物《けおりもの》のマントを取り出して身にまとった。フェニックスはさらに予備の革《かわ》のスカートまで腰に巻いている。洞窟探検には慣れているのだろう。
「サーラ、これを着なさいな」
フェニックスは荷物の中から長袖のシャツを出し、少年に着せかけようとした。サーラは一瞬、彼女の気配りに感謝しそうになったが、それが女物であることに気がついて動揺《どうよう》した。胸のところに大きな花模様の刺繍《ししゅう》があるのだ。
「い、いいよ。寒くなんかないから……」
「痩《や》せ我慢《がまん》しないの。風邪《かぜ》ひくわよ」
口調は優しく、命令的な調子はまるでなかったが、サーラは逆らえなかった。しぶしぶ受け入れたものの、袖は通さず、マントのようにはおるだけにした。ロブたちが見たら何と言ってからかうだろうと思うと、気が滅入《めい》った。
「どうする、デイン? 上流に行くか、下流に行くか?」とミスリル。
「上流だな」
「根拠《こんきょ》は?」
「この川はクロスノー山脈の方向から流れて来てる。たぶん、山の中に湧《わ》き出した地下水がえんえんと流れて来て、下流のどこかで地上の川に合流してるんだ。つまり上流の方が奥ってわけだな」
「それが?」
「キマイラみたいな怪物《かいぶつ》の棲《す》み家《か》は、たいてい洞窟の奥にあるのさ。相場《そうば》が決まってる」
ミスリルはせせら笑った。「いい加減《かげん》だなあ!」
「なら、他に根拠はあるか?」
「ないよ――まあ、いいか。上流に行ってみよう」
一行は上流を目指して進んだ。川はゆるやかに蛇行《だこう》しながら、ほぼ同じ太さで、石灰岩層を貫《つらぬ》いて流れていた。水の底はぬるぬるしていて、足を滑《すべ》らせないように注意して歩くのが大変だった。先頭のミスリルはウィル・オー・ウィスプを先に飛ばして前方を照らし、常に安全を確認している。
少し進んだところで、風で吹き消されでもしたかのように、ふっとウィル・オー・ウィスプの光が消えた。サーラは驚いたが、ミスリルは落ち着いた様子で、一回の呪文《じゅもん》で精霊《せいれい》をあまり長く束縛《そくばく》しておくことはできないのだと説明した。もう一度呪文を唱《とな》えて、飛び去ったウィスプを呼び戻すことは可能だが、この先、何時間進まねばならないか分からないので、魔力は温存しておきたいところだ。
代わってフェニックスが古代語の呪文を唱えた。ミスリルが持っていたダガー(短剣)の先端に光が宿る。ウィスプの光と違って白っぽく、ランタンの炎《ほのお》のように揺《ゆ》らぐこともなかった。
ミスリルは輝くダガーを松明《たいまつ》のように頭上にかかげた。太陽のようにまばゆくはないが、かなり明るく、ずっと奥まで照らすことができる。まるで外の光を切り取って洞窟《どうくつ》の中に持ちこんだようだった。この光は半日は持続する、とフェニックスは言った。
「魔法って便利なんだね」
歩きながらサーラはフェニックスに話しかけた。、
「まあね」彼女は少しはにかんだ。「でも、こんな初歩的な魔法でも、覚えるのにはずいぶん時間がかかったわ」
「僕にも覚えられる?」
「勉強しだいね。その前にまず、字を読めるようにしなくちゃね」
サーラは顔をしかめた。魔法は使いたかったが、勉強は嫌《いや》だった。
「なあ、デイン」
さっきから左右の岩壁を不審《ふしん》そうに眺めながら歩いていたレグが、突然、振り返って言った。
「何だ?」
「あの壁のえぐれ方、変だと思わないか? あれって水の跡《あと》じゃないか?」
デインは立ち止まって、レグの指さしたものに目を近づけた。U字形に湾曲《わんきょく》しているすべすべした洞窟の床は、垂直《すいちょく》の岩壁と一体化していて、どこまでが床《ゆか》でどこからが壁か分からない。ところが、彼らの頭の高さより少し上のあたりで、なめらかな壁は急に跡切《とぎ》れ、ごつごつした岩が戸棚《とだな》のように壁から突き出しているのだった。その境界線は定規で引いたように一直線で、偶然《ぐうぜん》の産物とは思えない。境界線より下側が何者かにえぐられ、岩が磨《みが》き上げられたかのようだ。
よく見ると、線は一本ではなかった。それほど明確ではない線が他にも何本も走っていて、それらはすべて平行だった。
「うむ。確かに水で削《けす》られた跡《あと》だな……」
サーラはびっくりした。「水が岩を削るの?」
「ああ。どんなに固く見えるものでも、長い年月のうちには、雨や風でだんだん倒れてゆく。あまりにもゆっくりした過程だから、人間の目には見えないだけさ。特に石灰岩は水に削られやすいんだ。だからこんな洞窟ができるんだよ。地下水が何百年何千年もかけて、少しずつ穴《あな》を広げていったんだ……」
「ねえ、ちょっと待って」フェニックスがデインの講義をさえぎった。「水でえぐられた線があんな高いところにあるってことは、この川には昔はもっと大量の水が流れてたってこと?」
「ああ。あの線は水面のあったところさ。線が何本もあるのは、季節によって水量が変化したせいだ。でも、それほど大きな変化じゃなかったみたいだな――サーラ、ちょっと下の方を照らしてみてくれないかな」
サーラは言われた通り、ランタンを水面に近づけた。デインは腰をかがめ、ランタンの明かりの下で、水面と岩壁が接するあたりを調べた。
「妙《みょう》だ……下には線がないぞ」
「じゃあ、この川は……?」
「ああ。水量がここまで減《へ》ったのは、つい最近なんだ。何十年も前から減っていたなら、少しは跡が残ってると思う。ほんの数年前か、数か月前、あるいは数週間前……」
ミスリルが、はっと息を飲《の》んだ。「キマイラが現われはじめな頃か?」
「あり得るな」デインは力強くうなずいた。「こいつは面白いぞ」
「面白いって?」とサーラ。
「ああ。謎《なぞ》はいつでも面白いもんだ。それを解《と》くのは、もっと面白い」
デインは立ち上がり、背筋を伸ばした。
「こいつはいよいよ、上流を調べてみなくちゃならんな。謎を解くまでは帰らんぞ」
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6 地底にうごめくもの
水の流れる洞窟《どうくつ》をさらに数十分進むと、分岐《ぶんき》がいくつも目につくようになった。彼らが入って来たような地層の亀裂《きれつ》であったり、別の細い地下水脈によって削《けず》られたらしい丸い穴《あな》だったりしたが、いずれも小さくて、腰をかがめるか四つん這《ば》いにならないと進めそうになかった。彼らはそれを無視して本流を進んだ。地下水が急に涸《か》れた理由を調べるのが第一だと考えたからだ。
サーラは元気|盛《ざか》りの少年だったので、冒険者たちに歩調を合わせて歩くことは、さほど苦ではなかった。寒さに閉口したのも最初のうちだけで、それもじきに我慢《がまん》できるようになった。ただ、革《かわ》のブーツの中にしみこんでくる地下水の冷たさがつらかった。
「水が減《へ》ったのは、キマイラと関係あるのかな?」
道中の単調さをまざらわせるために、サーラはデインに話しかけた。
「さあなあ。まだよく分からない」
「キマイラはこういう洞窟に棲《す》んでるの?」
「まあね。魔獣《まじゅう》ってやつはたいてい、山奥とか洞窟とか地下|迷宮《めいきゅう》とか、人目につかないところを好むもんだ。マンティコア、ミノタウロス、ヘルハウンド……みんなそうだ」
「そいつら、何百年も前から生きてるんでしょ?」
「ああ、古代王国の時代からだ。昔の偉大《いだい》な魔法使いが、実験によって創造《そうぞう》した生物の生き残りだと言われている」
「こんな何もない真《ま》っ暗《くら》な洞窟の中で、何を食べて生きてるのかな?」
「さてねえ」単純だが核心《かくしん》をついた少年の疑問に、デインは苦笑した。「いろいろな説がある。迷いこんできたコウモリやネズミを食べてるのかもしれない。あるいは、魔獣は何も食べなくても生きていられると主張する賢者《けんじゃ》もいる。普段《ふだん》は石みたいにじっとしていて、仮死《かし》状態――生きているのでもなく死んでいるのでもない状態なんだが、侵入者《しんにゅうしゃ》が現われると、ぱっと目を覚ますというわけだ。もっとも、そんな風に仮死状態になった魔獣を見た者はいないんだけどね」
「ふうん?」
「別の賢者は、魔獣が何百年も生きていると考えるのは間違《まちが》いだと言ってる。魔獣もちゃんと子供を生むし、年を取れば死ぬ。ただ、何十年か一度、一匹ずつしか子供を生まないうえに、子供はすぐに大きくなって親から離れるんで、魔獣の親子を目撃《もくげき》した者は少ない。だから同じ一匹がずっと生き続けているように見えるってわけだ」
「……で、どの説が正しいの?」
「さあ。実はそのへんはよく分からないんだ。どの説も一長一短だからね」
「デインでも知らないことがあるの?」
「この世のことをすべて知ってる人間なんていやしないさ。世界は大きく、人の知識は有限だ。多くの賢者が世界の秘密《ひみつ》を解明しようと探求を続けているが、まだ解けていない謎《なぞ》はたくさんある。魔獣の生態は、そうした謎のひとつなんだ」
「どうして?」
「そりゃあ、出会ったとたんに殺し合いになるからさ」レグが皮肉っぽい口調で話に割りこんだ。「セータイなんてものをゆっくりカンサツしてる余裕《よゆう》なんてあるもんか」
「ま、そういうことだ」デインは肩をすくめて笑った。
「じゃあ、どんな暮《くら》しをしてるか、ぜんぜん分からないの?」
「分かってるやつもあるさ。ケンタウロスはちゃんと雌《めす》と雄《おす》がいて、人間みたいに家族を作って生活してる。サテュロスも似たようなもんだ。しかし、ハーピィには雌しかいないんで、子孫《しそん》を残すには人間の男を誘惑《ゆうわく》しなくちゃならない。ミノタウロスの場合は逆に雄しかいないから……」
「ちょっとちょっと」フェニックスが小突《こづ》いた。「子供にする話じゃないでしょ」
「おっと、そうだったな」
子供の直感で、あまり触《ふ》れてはいけないことだと気づき、サーラは話題を変えた。
「ねえ、四人とも、これまでにたくさんの怪物《かいぶつ》と戦ったんでしょ? いちばん強かったのは何?」
「いちばん強いやつ、ねえ……」
「やっぱ、サテュロスじゃないか? なあ、レグ?」
ミスリルにからかわれたレグは、彼の脛《すね》を蹴飛《けと》ばそうとした。ミスリルはひょいと身をかわし、けらけらと笑った。
「どうしたの?」
レグはぷいとそっぽを向いた。ミスリルが笑いながら説明した。
「彼女はサテュロスに踊《おど》らされたことがあるのさ」
「サテュロス?」
「ああ。知らないかな? 下半身が山羊《やぎ》で上半身が人間の、いたずら好きだけど害はない連中だ。もうずっと前のことだけど、ベルダインの近くのある森で、俺やデインが初めてレグと出会った時――」
「ミスリル!」レグは怒鳴《どな》った「それ以上|喋《しゃべ》ると殺すよ!」
「おお、こわ!」
ミスリルは大げさに首をすくめてみせた。その様子がおかしかったので、サーラもついつられて笑ってしまった。
「ま、冗談《じょうだん》抜《ぬ》きで、いちばん強かったのは、ビリアンの迷宮のミノタウロスだな」デインが笑いをこらえながら言った。「レグは大怪我《おおけが》をするし、僕もあの大きな斧《おの》に盾《たて》を割られた時は、もうだめかと思った。なあ、レグ?」
「そうかい?」とレグ。「あたしはローグ島のカニの化《ば》け物《もの》の方が厄介《やっかい》だと思ったけどね。殻《から》が固くて、攻撃《こうげき》がぜんぜん通じなくてさ」
「あれは俺の魔法でとどめを刺《さ》したんだぜ」とミスリル。「それよりもあの島じゃ、狂《くる》ったウンディーネにいきなり襲《おそ》われた時の方がびびっちまったな」
「あたしはヘルハウンドね」とフェニックス。「炎《ほのお》を吐《は》きかけられた時は、てっきりこれで死ぬんだと思ったわ」
「いろんな怪物と戦ってきたんだ!」サーラは感動して声をあげた。「すごいなあ! ほんとにみんな、強いんだね!」
「当たり前だね」
「じゃあ、キマイラもやっつけられるね?」
「もちろんさ!」
おだてられたミスリルは、ちょっと気取って、歌うような調子で言った。
「見てな!一撃でやっつけてやるさ!」
洞窟《どうくつ》の中は決して単調ではなかった。たとえば天井《てんじょう》からつららのような形の石が無数に垂《た》れ下がっている場所を通過した。石の先端《せんたん》から規則正しくしたたり落ちるしずくが、やみかけの雨のように水面を叩《たた》いている。デインはそれが鍾乳石《しょうにゅうせき》≠ニいうもので、石灰岩の洞窟の中だけに生じるのだと説明した。ずらりと並んだそれはまるで怪物《かいぶつ》の牙《きば》のようで、サーラは石が落ちてくるのではないかとびくびくしながら歩いた。
また、壁からしみだした水が階段状の岩をちょろちょろ流れ落ちている箇所にも出くわした。階段の各段ごとに、白い小さな鍾乳石が無数に垂れ下がり、魔法の光を浴びてきらきら輝いていた。凍《こお》りついた滝《たき》、といった感じだった。
ちょっとしたトラブルもあった。天井に大きな亀裂《きれつ》が開いている場所に差しかかった時、そこを巣穴《すあな》にしていたらしい十数匹のコウモリが、光に驚いて飛び出してきたのだ。レグが「ひゃあ」という悲鳴をあげた。コウモリたちはパニックに陥《おちい》ったのか、冒険者たちにやみくもに攻撃《こうげき》してきた。
「しゃがめ! 危ねえぞ!」
ミスリルの手がサーラの頭を押さえつけた。慌《あわ》てて川の中に尻餅《しりもち》をついてしまう。フェニックスもとっさにしゃがみこみ、腕で頭をかばう姿勢を取っていた。立ち上がって戦っているのは、デインとレグだけだ。
レグはコウモリが嫌《きら》いらしく、「この野郎、ちくしょう!」とわめきながら、フレイルをめちゃくちゃに振《ふ》り回している。その様子を見上げていたサーラは、ミスリルが「しゃがめ」と言った本当の理由が分かった。小さなコウモリに噛《か》まれる危険よりも、レグの振り回す重たいフレイルに当たる危険の方が大きい。デインも彼女から距離《きょり》を置いて、フレイルの攻撃|範囲《はんい》に入らないようにしている。
しかし、さすがにレグは優秀な戦士だった。でたらめにフレイルを振《ふ》り回しているように見えるが、ひと振りごとに確実にコウモリを叩《たた》き潰《つぶ》している。デインの戦い方は彼女とは対照的で、やたらにレイピアを振り回すのではなく、盾《たて》を効果的に使って身を守りながら、慎重《しんちょう》に目標《もくひょう》を定めて斬《き》りかかるというやり方だった。その優美な動作には、レグほどの命中率はなかったが、それでも一分の間に少なくとも四匹のコウモリを切り裂《さ》いていた。空中をでたらめに飛び回っている小さな目標を狙《ねら》うのだから、素人《しろうと》では一匹でも落とせるかどうか怪《あや》しいものだ。
戦いは一分ほどで終わった。数が半減したコウモリたちは、キーキーと鳴きわめきながら、洞窟の奥へと逃げ去って行った。
サーラは恐《おそ》る恐る立ち上がった。濡《ぬ》れたズボンが冷たい。レグは嫌《いや》な顔をして、フレイルを水の中でばしゃばしゃ振《ふ》り回し、付着したコウモリの血を洗い流している。彼女に殺されたコウモリの一匹は、岩壁《がんぺき》に叩きつけられて、そこにべっとりと貼りついていた。デインもレイピアを鞘《さや》に戻す前に、ハンカチで刃についた血をぬぐっている。
こちら側の被害《ひがい》は皆無《かいむ》だった。誰もかすり傷《きず》ひとつ負っていない。危険が過ぎ去ったのを知り、サーラはほっとした。あんな小さなコウモリでも、噛《か》まれると病気にかかることがあるのを知っていたからだ。
「どうだ、サーラ。冒険の気分は味わえたか?」
デインの質問に、サーラは姿勢を正し、力強く答えた。
「まだまだ! こんなのは冒険のうちに入らないよ!」
やがて洞窟《どうくつ》が左右に少し広がってきて、天井《てんじょう》が低くなってきた。それとともに、川の中に石が転がっているのが目につくようになった。最初は自然のものかと思ったが、どうも違うようだ。どれもだいたい同じ、両手で持てるぐらいの大きさだし、長く水の中にあったにしては断面がごつごつしている。つい最近、水の中に落ちたものに違いない。
さらに何分か進んだところで、彼らの前進ははばまれた。無数に積み上げられた石が、傾斜《けいしゃ》のなだらかな堤防《ていぼう》のようになって、洞窟をふさいでいたのだ。かなり巨大な構造物だった。水は石の隙間《すきま》からざあざあと湧《わ》き出している。
「これ、いったい何!?」
サーラは水の音に負けないように大声で訊《たず》ねた。デインが首をひねる。
「さあなあ……こっちが教えて欲しいぐらいだ」
自然に起きた落石《らくせき》ではないようだった。天井には崩《くず》れた形跡《けいせき》が見当たらないし、石はみんな大きさが揃《そろ》っている。さっきからしばしば見かけた石は、ここから崩れ落ちて水で流されたものだろう。
「誰かが造ったもののようだが……でも誰が?」
人間の背丈《せたけ》の倍はある堰《せき》を見上げて、デインはうなった。この堰が地底の川の流れをさえぎっているのなら、向こう側からは膨大《ぼうだい》な水圧がかかっているはずである。とすると、堰にはかなりの厚みがあると考えなくてはならない。どんな目的があるにせよ、これだけの作業を完成させるには、数十人がかりで何週間も必要なはずである。ましてやここは地の底だ。労働者が調達できるはずがない。
堰の上端《じょうたん》と天井の間には、わずかに隙間がありそうだった。ミスリルが堰に登って、通り抜けられるか調べてみることになった。
ミスリルは魔法のかかった光るダガーを口にくわえ、慎重《しんちょう》に這《は》い登っていった。傾斜はゆるやかなので転げ落ちる心配はないが、石がきわめて不安定だ。気をつけないと、石の間に足をくわえこまれて怪我《けが》をするかもしれない。
どうにか頂部に達したミスリルは、そこにトカゲのように這いつくばって、天井との隙間から向こう側をのぞき見た。
「どうなってる?」
デインの呼びかけに、なぜかミスリルは答えようとせず、左手を上げて質問を制するような動作をした。デインはすぐに彼が何かを発見したことに気づき、他の者にも静かにするように合図《あいず》した。
ミスリルはしばらくじっと動かずに何かを観察していたが、やがてまた、ゆっくりと慎重に斜面《しゃめん》を降りてきた。途中《とちゅう》で一度、不安定な積まれ方をした石に体重をかけてしまい、はずみで十数個の石ががらがらと崩《くず》れた。下で待っていた一同ははっとしたが、ミスリルはじきにバランスを取り戻し、大事にはならなかった。
「向こうはかなり広いようだ」戻ってきたミスリルは報告した。「水の流れる音が大きく反響《はんきょう》してる。滝《たき》か急流があるようだな。それに光がある」
「光?」
「ああ。外の光じゃないが、炎《ほのお》でもない。青白くてウィル・オー・ウィスプの光に似てるんだが、ちょっと違う。魔法の光かもしれん」
デインは考えこんだ。「暗闇《くらやみ》の中で光を放つ鉱物《こうぶつ》があると聞いたことがあるが、それじゃないのか?」
「かもしれんな――それに、ちらっと人影《ひとかけ》が見えた」
「人影だって?」
「ああ。一瞬《いっしゅん》だけだったが、間違いない。人間だか何だか分からないが、確かに二本足で歩く生き物だ」
「気づかれたか?」
「姿は見られてないと思うが、俺のダガーの光が向こう側に洩《も》れてないはずがない。知恵《ちえ》のある生き物なら気がつくだろう」
デインは考えこんだ。「とすると、ここを突っ切るのは無謀《むぼう》だな……」
「俺もそう思う。あのぐらぐらする石の上を這って行くのは厄介《やっかい》だし、危険だ。向こう側で待《ま》ち伏《ぶ》せでもされてたら、こっちは反撃のしようがないからな」
「しかたがない。回り道だな」
一行は石の堰《せき》を突っ切ることをあきらめ、洞窟《どうくつ》を後戻《あともど》りして、迂回《うかい》できる道を探すことにした。他に道があるなら、危険な道は避《さ》けるのが、冒険者の心得《こころえ》だった。
回り道探しは厄介だった。最初は大きそうな横穴《よこあな》を選んでもぐりこんだのだが、これは途中《とちゅう》から上向きの傾斜がどんどん急になり、ついにはとても這《は》い登れない煙突《えんとつ》のような縦穴になってしまった。いったん戻って、別の道を探すことにした。次に選んだのは大きな亀裂《きれつ》だったが、これはじきに幅《はば》が狭《せま》くなって、前進できなくなった。これで一時間近くを無駄《むだ》にしてしまった。
三番目に選んだ横穴は有望そうだった。二人が並《なら》んで歩けるぐらいの幅があって、曲がりくねってはいるが傾斜《けいしゃ》はゆるやかだった。ところどころに天井《てんじょう》の低くなっているところがあって、頭を低くして歩かねばならなかったが、たいした苦労ではなかった。
途中にいくつか道が分岐《ぶんき》している箇所《かしょ》があったが、そのたびにデインが勘《かん》で進む方向を決めた。念のため、曲り角ごとに壁にチョークで矢印をつけておく。帰りに迷わないようにするためだ。ぐねぐねと腸《ちょう》のように曲がった通路を進むうちに、彼らの方向感覚は完全に失われていた。
ざあざあという水の音が大きくなってきた。何十箇所目かの角を曲がった時、前方にほのかに青い光が見えた。さきほどミスリルが目撃《もくげき》した光と同じものだろう。そこが通路の出口のようだ。デインは全員に、明かりを消してゆっくりと進むように指示した。何が待ち受けているか分からないからだ。
ミスリルは光っているダガーを鞘《さや》に収《おさ》め、光を隠《かく》した。サーラもランタンのシャッターを閉じて、外に洩れる光を最小限に抑《おさ》えた。五人は前方に見える青い光を目指して、音を立てないよう、手探りで慎重に進んでいった。水の音がだんだん近づいてきて、いつしか大音響《だいおんきょう》になっていた。
通路の出口に立った時、彼らは思わず「ほう……」「はあ……」という感嘆《かんたん》のため息を洩《も》らした。そこには信じられないほど美しい世界が広がっていたのだ。
そこは地底の湖《みずうみ》だった――パンケーキのような形をした巨大な空洞《くうどう》の底に、膨大《ぼうだい》な量の澄《す》んだ地下水がたまっている。水底が神秘的《しんぴてき》な青い光を放っており、その光が空洞全体を黄昏時《たそがれどき》の薄明《はくめい》で満たしていた。湖は信じられないほど広くて、サーラの家がいくつも入ってしまいそうだった。奇跡《きせき》的な自然の工学技術によって支えられたドーム状の天井は、針のような無数の鍾乳石《しょうにゅうせき》に覆《おお》われており、中央には大きな亀裂が口を開いていて、そこから水が透明《とうめい》な柱となって、大音響とともに水面に流れ落ちている。
デインが予想したように、青い光の正体は水底の鉱物の放つ燐光《りんこう》らしかった。滝が生み出す同心円状の波紋《はもん》が、湖の表面を揺らし、水中の青い光をちらちらと屈折《くっせつ》させている。また、滝の水しぶきがうっすらとした霧《きり》となって湖の上を漂《ただよ》っており、それに青い光が反射してぼうっと光っている様子は、まるで死霊《しりょう》の衣《ころも》のようだった。その神秘的な光景に、心を奪《うば》われ、冒険者たちはしばらく言葉も出なかった。
生き物の姿は見えなかった。彼らは用心しながら空洞の中に足を踏《ふ》み入れた。湖の周囲には、かなり広い三日月状《みかづきじょう》の岸辺《きしべ》が広がっている。天井の鍾乳石から水がしたたり落ちでいる箇所では、細長い円錐形《えんすいけい》をした石筍《せきじゅん》が何十本も、人の背丈《せたけ》よりも高くそそり立っている。まるで大地の牙《きば》のようだった。
彼らは立ち並ぶ石筍の間をそろそろとすり抜けて進んだ。青白い薄明の中で、石筍の森は影《かげ》が多く、不気味《ぶきみ》だった。影の中から何かが襲《おそ》いかかってくるのではと、サーラはびくびくしながら歩いた。
「あれを見ろ!」
暗闇《くらやみ》に適した視覚を持つミスリルが、前方を指さし、滝の音に負けない大声で言った。そこにあったのは、大量の石を積み上げられてふさがれた横穴だった。湖の水がその頂部ぎりぎりまで押し寄せている。
彼らはただちに、それがさっき見た堰《せき》の裏側であることに気がついた。湖の水は本来はその横穴に流れこんでいたのだが、何者かが造ったこの堰によってさえぎられ、今では湖の反対側にある別の横穴から流れ出しているのだった。
「誰がこんなことを……」
「しっ、誰か来る!」
一行は素早く石筍の翳《かげ》に身を隠《かく》した。彼らの後方からよたよたと歩いて来たのは、三匹の人間型の生き物だった。湖底《こてい》の放つ青い光がその姿を照らし出し、近づいて来るにつれて、その正体が明らかになった。
コボルドだった――サーラは実際に目にするのは初めてだったが、大人たちの話で聴《き》いて姿形を知っていたので、すぐにそれと見当がついた。人間よりひと回り小さく、サーラと同じぐらいの背丈《せたけ》しかないようだ。人間型と言っても、二本の腕《うで》と二本の脚《あし》があるという以外、あまり人間には似ていない。顔は犬に似ているが、体毛の代わりに乾《かわ》いた鱗《うろこ》に覆《おお》われており、トカゲのような尻尾《しっぽ》もある。腰にボロ布をまとっており、両手に何かをかかえて運んでいた。
そのコボルドたちはどこか妙《みょう》だった。怪我《けが》でもしているかのように、歩きがぎくしゃくしている。顔も前方を向いたままで、全くよそ見をしていない。五人が隠れている石筍の森のすぐ横を通過する時も、人間の存在に気がついた様子はまったくなかった。サーラは間近《まぢか》で彼らを観察できた。先頭の一匹は光線の加減《かげん》からか、まるで顔の半分が欠けているみたいに見える……。
「あれは死体だ」
デインがサーラの耳元にささやけた。
「え?」
「ゾンビだよ。生きたコボルドじゃない」
サーラは驚いて、通り過ぎてゆくコボルドたちを見直した。すぐに分かったのは、先頭のやつは顔の半分が欠けているみたい[#「みたい」に傍点]ではなく、本当にざっくりえぐり取られているということだった。牧場で育ったので、家畜《かちく》の死体などは見慣れているが、こんな奇怪《きかい》なものは初めてだった。
ゾンビ――意志を持たない歩く死体。子供同士の幼稚《ようち》な怪談《かいだん》の題材でしかなかったものが、実際に目の前を通過しているのだ。サーラはきゅっと咽喉《のど》を締《し》めつけられるような気がした。
コボルドのゾンビたちは、堰《せき》のところまでやって来ると、持っていた石を無雑作《むぞうさ》に水中に放りこんだ。それからまた、ぎくしゃくとした動作で、元来た方向へ戻りはじめる。
何を思ったのか、デインが石筍《せきじゅん》の翳から飛び出し、レイピアを抜いてゾンビたちの前に立ちはだかった。
「おい!」ミスリルがびっくりして声をかける。だが、デインには何か考えがあるらしく、動こうとしない。レグも飛び出して、彼の横に立ち、いつでも振《ふ》り下ろせるようにフレイルを構えた。サーラはどきどきしながらも、一部始終を見届《みとど》けようと、しっかり目を見開いていた。
だが、ゾンビたちはデインとレグの存在が目に入っていないようだった。歩調をゆるめることもなく、何も異常などないかのように、二人の横を通過してゆく。石筍と同じように、単なる障害物としてしか認識していないらしい。レグは拍子抜《ひょうしぬ》けした様子でフレイルを降ろした。
「思った通りだ」
歩み去ってゆくゾンビたちを見送りながら、デインは満足そうにレイピアを収《おさ》めた。他の者もぞろぞろと隠れ場所から出てくる。
「ゾンビには知恵《ちえ》がないんだ。命令されたことを忠実に実行するだけで、それ以外のことには頭が回らない――魂《たましい》がないんだから当然だけどね」
「じゃあ、あのコボルドは誰かに命令されて堰《せき》を造ってるのね?」とフェニックス。
「ああ。どこかから石を運んできて、あの場所に投げこめと命令されてるんだ。目的は分からないがね」そう言っている間も、また別のコボルド・ゾンビが二体、横穴から石をかかえてよたよたと出てきた。さっきの三体は彼らとすれ違い、横穴の中に姿を消す。その二体はやはり、冒険者たちには目もくれず、堰のところまで無言で歩いて行って、石を投げこんだ。
レグがぽりぽりと頭をかいた。「土木工事にしちゃあ、悠長《ゆうちょう》なやり方だねえ。あんなペースじゃ何年もかかっちまうよ」
「ああ。しかし、安上がりな方法ではあるな。生きている労働者と違って、死人は決して休まないし、賃金《ちんぎん》を払う必要もない。この低い気温じゃ、死体はなかなか腐《くさ》らないだろうしな。古代王国では労働力として死人を使うのは日常|茶飯事《さはんじ》だったらしい……」
「ねえ、見て!」サーラはデインの説明をさえぎった。次に横穴《よこあな》の中から現われたのはコボルドではなく、身長一メートルほどの人間の子供のような種族――グラスランナーだった。やはり死んでいるらしく、服はぼろぼろで、革《かわ》の帽子《ぼうし》の下の顔には精気がなかった。
「あの人は……!?」
そいつが近くまで来た時、サーラは思わず声をあげた。
「知っているのか?」
「う……うん。確かハルシムとかいう名前だったよ。去年の秋、三人の仲間といっしょに、うちの村に何日か泊《と》まったんだ。どこかの街《まち》の賢者《けんじゃ》に頼《たの》まれて、このあたりに生《は》えてる珍《めずら》しい花を探してるんだとか言ってた……」
咽喉《のど》が乾《かわ》いたために、サーラの声はかすれていた。
「冒険者か?」
「そんな感じはしたけど、そうは名乗らなかったよ。ガクジツチョウサとか言ってた」
「調査ねえ……」
「紫色《むらさきいろ》の大きな花だって言ってたけど、そんなもの、このあたりじゃ誰も見たことも聞いたこともなかったんだ。大人たちは馬鹿にしてたっけ。女の子じゃあるまいし、いい年した連中が花探しに夢中《むちゅう》になってどうするって……そのうち、ふらっと姿を消したんで、それっきり忘れてたんだ」
「なるほど、この穴《あな》に迷いこんで、殺されたわけだな……」
グラスランナーのゾンビは堰《せき》に石を投げこむと、こちらに戻ってきた。デインがレイピアを抜いて、再びその前に立ちはだかる。
今度はデインはレイピアを振《ふ》るった。サーラは「あっ」と声をあげた。細い刃先《はさき》が服を貫《つらぬ》いて、グラスランナーの心臓に当たる部分に深く突《つ》き刺《さ》さる。それでもゾンビはちょっとよろめいただけで、また前進を続けようとした。デインは少し後ずさりして剣を引き抜くと、歩き続けるゾンビの体を、もう一度突き刺した。
二回目の攻撃《こうげき》で、ゾンビは膝《ひざ》を折って倒《たお》れた。それっきり動かなくなる。レイピアには赤い血ではなく、濃《こ》い茶色をした気味の悪い汚《よご》れがこびりついていた。デインはそれをていねいにぬぐって鞘《さや》に収めると、小さな死体の横にひざまずいた。
小声で短く祈《いの》りを捧《ささ》げ終えると、デインは死体を探りはじめた。
「できればどこかに埋葬《まいそう》してやりたいところだが、こんな洞窟《どうくつ》ではな。せめて遺品ぐらいは持って行ってやるか……おや、これは?」
デインが死体のポケットから発見したのは、湿《しめ》ってぼろぼろになった羊皮紙《ようひし》だった。破れないようにゆっくり引き抜き、そっと広げてみる。他の四人も集まってきて、それをのぞきこんだ。
字がびっしりと並んでいた。共通語のようだ。デインたちは熱心に目を通しているが、もちろんサーラには読めはしない。
「こりゃあ、故郷《こきょう》の家族に宛《あ》てた手紙だな」とミスリル。
「え、ええ、そうね……」フェニックスは少し動揺《どうよう》しているようだった。「かわいそうなことをしたわね……」
「ああ……まったくだ」
デインはせき払《ばら》いをすると、羊皮紙をていねいに畳《たた》んでポケットにしまいこんだ。他の者は協力して死体を湖《みずうみ》の中に沈めた。鍾乳洞《しょうにゅうどう》の中に穴を掘《ほ》れるようなところはないし、死体を外まで運び出すのも大変なので、水葬《すいそう》で済《す》ませるしかなかった。
「ひどいことをしやがる!」
澄《す》んだ水中を漂《ただよ》ってゆく死体を見送りながら、レグが怒《いか》りのこもった口調でつぶやいた。
「ひょっとしてキマイラのしわざかしら?」とフェニックス。
「考えられるな」デインはうなずいた。「キマイラは暗黒神《あんこくしん》の手先だ。強力な暗黒魔法が使える。死体をゾンビとして復活させることだってできるはずだ。きっと洞窟の中に入ってきた者を殺して、手足として働かせてるんだろう」
「でも、何のために地下水をせき止めてるの?」
「さあねえ」
「キマイラの目的が何だか知らないが」とレグ。「ひとつだけ確かなことがある」
「何だ?」
「殺されるわけにゃいかないってことさ。ただ殺されるだけなら、運が悪かったと思ってあきらめもするが、殺された後もあんな風に働かされるなんて、ごめんだね」
一同はうなずいた。
[#改ページ]
7 キマイラ!
数分後、また一体のコボルド・ゾンビが横穴《よこあな》から現われ、堰《せき》に石を投げこんで戻って行った。一行はそいつの後をつけてみることにした。ゾンビたちがどこから石を運んでくるのかを探らなくてはならない。推測《すいそく》通《どお》り、キマイラがゾンビを操《あやつ》って働かせているなら、作業場で指揮《しき》を取っている可能性が高い。
横穴は狭くて、どうにか二列で歩けるぐらいの幅《はば》しかなかった。さっきまではミスリルとレグが先頭に立っていたが、今度はミスリルに代わってデインが前に出た。途中《とちゅう》で前方から来るゾンビとぶつかる可能性が高いので、戦いの得意な者が前に出た方がいいという判断だ。
予想通り、途中で何度も、石を運んでいるコボルド・ゾンビと出くわした。レグのフレイルが容赦《ようしゃ》なくそいつらの頭を叩《たた》き潰《つぶ》し、デインのレイピアが胸を貫《つらぬ》いた。それは戦いと呼べるようなものではなかった。コボルドたちはまったくの無抵抗《むていこう》で、声ひとつあげず、まるで雑草のように刈《か》り倒《たお》されてゆく。死体を乗り越えて進む時、サーラは少し気分が悪くなった。
もちろん、道を譲《ゆず》って戦いを避《さ》けることもできただろう。だが、それでは石を投げこんで戻ってきたゾンビたちが、後ろから追いかけてくることになる。いざ本格的な戦闘《せんとう》がはじまった時に、背後からゾンビが現われては厄介《やっかい》だ。混乱の種になりそうなものは取り除いておくべきだろう。
「サーラ、さっきのグラスランナーには仲間がいたって言ったな? どんな連中だった?」
十数匹目のコボルド・ゾンビを倒した時、デインが訊《たず》ねた。
「ええっと、二人は人間で、男と女だったよ。名前は忘れた。もう一人はドワーフで、ジュラとかいう名前だったよ」
「強そうな連中だったか?」
「うん。ドワーフは戦士みたいな格好してたよ。すごく大きな斧《おの》をかついじゃってさ。傭兵《ようへい》くずれじゃないかって、大人たちは噂《うわさ》してたっけ。男も剣を持ってたって――でも、それがどうかしたの?」
「いや、ちょっと妙《みょう》だと思ったのさ……そいつらのゾンビがなぜ現われないんだ?」
「うまく逃《に》げたんじゃないの?」
「だったら、村に戻ってきて、この洞窟のことをみんなに警告してるんじゃないのか? 黙《だま》って逃げたりはしないだろう」
「それもそうだね。じゃあ……?」
「ああ、悪い予感がするんだ」
そうした会話を交わした直後、通路の幅が急に広くなり、前方に青い明かりが見えてきた。後をつけていたコボルド・ゾンビが、光の中へよたよたと入ってゆく。どうやら終着点らしい。一行はお喋《しゃべ》りをやめ、歩調をゆるめて、用心しながら近づいた。
そこは鍋《なべ》を伏《ふ》せたような形をした大きな空洞《くうどう》だった。床の片側には大量の石がうず高く積み上げられていて、ほとんど天井《てんじょう》まで届《とど》きそうだった。反対側の壁《かべ》には、例の光る石をはめこんだ柱が等間隔《とうかんかく》に並んでいて、空洞内を青く照らしている。
土手《どて》のような形に積み上げられている石は、小さなものは握《にぎ》りこぶしぐらい、大きなものは人間の背丈《せたけ》ほどもあり、形は様々だった。壁や天井が崩《くず》れた形跡《けいせき》はないので、どこかから運ばれてきたものだろう。切り出された不要な石の捨て場だったのかもしれない。床《ゆか》にもたくさんの石が散乱していて、数体のコボルド・ゾンビがその合間《あいま》をのろのろ歩き回り、手ごろな大きさの石を探している。
「行き止まりか……?」
レグが油断なくあたりを見回し、押《お》し殺した声で言った。彼らの入ってきた横穴以外に、出入口は見当たらない。
「いや、きっとあの山の向こうにあるんだ」とデイン。
「山の向こう?」
「ああ」デインは石の山の上の方を指さした。「この石は上から投げ落とされたものだ。ここからは見えないが、たぶんあの壁の上の方にもうひとつ入口が――」
デインの説明は不意に跡切《とぎ》れた。
五人はほとんど同時にそれを発見していた。堤防《ていぼう》のような形に積み上げられた石の山の頂上、ちょうどデインが指さしているあたりに、それはいた。ほんの数秒前まで、そんなものは確かにいなかったはずだった。
サーラは息を飲《の》んだ。三つの人影《ひとかげ》を付き従えたそれは、四本脚の真っ黒な野獣《やじゅう》だった。洞窟《どうくつ》の青い闇《やみ》の中で、艶《つや》のある黒い体毛がきらきらと輝き、その姿は幻想《げんそう》のようだった。ふさふさした雄々《おお》しいたてがみは、さながら怒《いか》りを具現化《ぐげんか》した黒い炎《ほのお》のようで、猫科《ねこか》の猛獣《もうじゅう》の顔をいっそう凶暴《きょうぼう》に見せている。その背後には、たてがみに隠《かく》れるようにして、長い角《つの》の生えたもうひとつの黒い頭が控《ひか》えていた。赤く燃える四つの目が、侵入者《しんにゅうしゃ》たちを冷ややかに見下ろしている。王者の余裕《よゆう》と、殺人鬼《さつじんき》の愉悦《ゆえつ》、そして戦士の闘志《とうし》が、そこには感じられた。
不思議なことに、サーラはほとんど嫌悪《けんお》を感じなかった。心臓を冷たい手でつかまれたような感覚を覚えたが、その恐怖感《きょうふかん》はゾンビを目撃《もくげき》した時とは別のものだった。逃《に》げ出したいとか視線をそらせたいという衝動《しょうどう》は、まったく起こらなかった。むしろ、ある種の感動を覚えていた。
その生き物は、想像していたように醜悪《しゅうあく》ではなかった――いや、美しいとさえ言えた。恐怖に彩《いろど》られた美しさだ。名匠《めいしょう》によって鍛《きた》えられた剣の輝きが、見る者をぞくぞくさせるように、その生き物の姿には、純粋《じゅんすい》の殺戮《さつりく》機械のみが持つ戦慄《せんりつ》に満ちた美学があった。危険だからこそ美しいのだ。
野獣の左右には、三体の人影が立っていた。チェイン・メイルを着た背の高い男が一人、破れたレザー・アーマーを着た金髪《きんぱつ》の女が一人、そしてプレート・メイルをがっちり着こんだドワーフが一人――三人ともすでに死んでいた。
デインが素早くレグに耳打ちした。すぐ後ろにいたサーラには、「おびき寄せる……」とだけ聴《き》き取れた。レグがうなずく。二人は武器をかまえながら、少し後ずさりする様子を見せた。
さらにデインは、エルフ語で何か怒鳴《どな》った。ミスリルとフェニックスへの指示である。キマイラにはエルフ語が理解できないと踏《ふ》んだのだ。ミスリルは輝くダガーをかまえ、フェニックスは杖《つえ》を捧《ささ》げ持って、すでに戦闘態勢にある。
フェニックスが呪文《じゅもん》を唱《とな》えた。サーラは体の奥から熱くなるような不思議な感覚を覚えたが、興奮《こうふん》しているせいだと思いこんだ。実際には、それはフェニックスのかけた魔法だった。体内のマナを活性化させて、魔法に対する抵抗力《ていこうりょく》を高めるもので、キマイラが暗黒《あんこく》魔法をかけてくることを予期しての対抗《たいこう》手段だ。
四人はサーラをがっちり囲みながら、一歩、また一歩と、出口に向かって後退《こうたい》した。サーラは自分も何かしなければと思い、背負い袋から武器を取り出そうとあせった。フェニックスが片手を伸ばし、少年の手を止めた。
「だめよ、サーラ。私たちにまかせて……」
サーラはやむなく背負い袋から手を離《はな》し、キマイラに視線を戻した。魔獣《まじゅう》はまだ動く気配を見せず、じっと五人を見下ろしているだけだ。その余裕《よゆう》が不気味《ぶきみ》だった。
僕たちの力を測《はか》ってるんだ――とサーラは気づいた。敵と見ればやみくもに襲《おそ》いかかるほど、この生き物は馬鹿ではない。襲いかかるべきなのか、逃げるべきなのか、じっくりと考えているのだ。
キマイラにとって、それは重大な決断だっただろう。強さをみくびって襲いかかれば、致命的な結果になりかねないし、かと言って逃がしてしまったら、もっと強い人間をつれて戻ってくるかもしれない……。
ジレンマはデインたちの側《がわ》にもあった。身の安全だけを考えるなら、危ない橋は渡らず、退却《たいきゃく》するべきかもしれない。だが、彼らの任務はキマイラ退治《たいじ》なのだ。キマイラを倒《たお》さずに戻ることはできない。
問題は、このような状況《じょうきょう》での遭遇《そうぐう》を予想していなかったことだった。キマイラは石の山の頂上に陣取《じんど》っている。こちらから攻撃《こうげき》を仕掛けるのは、どう考えても無謀《むぼう》だ。どんなに急いでも、頂上まで登るには何十秒もかかるだろうし、斜面《しゃめん》を登る途中の不安定な状態で攻撃されたらひとたまりもない。ゾンビが護衛《ごえい》についていることも計算外だ。
かと言って、この場から退却すれば状況が好転するとも思えなかった。むしろ洞窟内の地理を知りつくしているキマイラが有利だ。先回りされ、別のもっと厄介《やっかい》な場所で待《ま》ち伏《ぶ》せされないとも限らない。
主導権はキマイラの側にあるのだ。
緊張《きんちょう》に満ちた時間が過ぎて行った。サーラには何分にも感じられたが、実際には数十秒だっただろう。
キマイラの背中から生えた黒山羊《くろやぎ》の頭が、何かうなった。言葉のようである。少し遅《おく》れて、三体のゾンビがおもむろに動き出した。キマイラのそばを離れ、不器用《ぶきよう》な動作で石の山を降りてくる。下で作業していたコボルド・ゾンビたちも、石を放り出し、ゆっくりと冒険者たちに向かって来た。
「やっぱりそう来るか……」
デインが小さくつぶやいた。キマイラの作戦は読んでいた。まずゾンビたちを戦わせ、こちらの強さを測ろうというのだ。
ゾンビたちの包囲の輪が縮まってきた。五人はさらに後退し、出口の横穴を背にして立った。ミスリルが自発的に左に出る。これでデイン、レグ、ミスリルの三人が壁を作って、サーラとフェニックスをガードする格好になった。
「戦おうなんて思うなよ、サーラ」デインが振り返りもせずに言った。「攻撃をよけることだけに専念《せんねん》しろ。いざとなったら僕たちを置いて行け。君の任務は生き残ることだ。いいな?」
サーラはこくりとうなずいたが、背を向けているデインに見えるはずもなかった。慌《あわ》てて「はい……」と声に出す。その声は自分でも情けないほどかすれていた。
「もっと大きな声で」とデイン。
「はい!」
「よし、いいぞ。しっかり見てろ」
ゾンビたちはゆっくりと近づいてくる。先頭は三体のコボルド・ゾンビ。その後ろに人間とドワーフのゾンビがいる。キマイラはしばらく傍観《ぼうかん》を決めこむようだ。
フェニックスが再び呪文《じゅもん》を唱《とな》えた。デインのレイピアとレグのフレイルに、白いぼんやりとした輝きが宿る。武器の威力《いりょく》を高める魔法の光だ。
数秒後、戦闘が開始された。
三体のコボルド・ゾンビは、ミスリル、レグ、デインに一体ずつ襲《おそ》いかかってきた。
ミスリルはさっと身をかわし、ゾンビの側面に回りこんで、輝くダガーを首筋に深々と突き立てた。深手《ふかで》を受けたゾンビがぐらりとよろめく。次の瞬間《しゅんかん》、フェニックスの杖《つえ》からまばゆい光線がほとばしり、そいつの顔面に命中して、とどめを刺《さ》した。
レグの振《ふ》り下ろした重いフレイルは、向かって来たコボルド・ゾンビの頭部を一撃で陥没《かんぼつ》させた。ゾンビは地面に崩《くず》れ落ち、動きを止めた。デインもゾンビの肩にレイピアを突き立てたが、ゾンビはなおも爪《つめ》を振り回して襲ってくる。しかし、その動きはのろく、デインはやすやすとそれをかわした。
倒したコボルド・ゾンビの背後から、次の三体が向かってきた。剣を持った男のゾンビはミスリルに、巨大な斧《おの》を持ったドワーフのゾンビはレグに、ダガーを持った女のゾンビはまだコボルド・ゾンビと戦っているデインに、それぞれ襲いかかる。
ミスリルが精霊語《せいれいご》で何かを叫《さけ》んだ。鍾乳洞《しょうにゅうどう》の床《ゆか》が小さく盛《も》り上がり、人の手のような形になる。ミスリルに向かって剣を振り下ろそうとしていた男のゾンビは、それにつまずいて派手《はで》に転倒した。
鎧《よろい》で身を固めたドワーフが最大の脅威《きょうい》だと考えたフェニックスは、レグの脇《わき》から光の矢を放った。輝くエネルギーの奔流《ほんりゅう》がドワーフの顔面にまともに命中し、腐《くさ》りかけた肉が沸騰《ふっとう》したようにはじけ飛ぶ。白い頭蓋骨《ずがいこつ》が露出《ろしゅつ》したが、それでもドワーフは動くのをやめない。レグは一歩|踏《ふ》みこんで相手の肩に一撃《いちげき》を与《あた》えてから、一歩|退《しりぞ》いて、振り回される巨大な斧《おの》をかわした。
デインは傷《きず》ついたコボルド・ゾンビにとどめを刺《さ》そうとしていたが、そこに横から女ゾンビが割りこんできた。元は美しかったに違いない女の顔は、皮膚《ひふ》がただれ、片方の眼球が失われて、見る影《かげ》もない状態だ。一瞬たじろいだデインは、攻撃の手をゆるめてしまった。ぎこちなく突き出される女ゾンビのダガーを、彼は間一髪《かんいっぱつ》でかわした。
この時、初めてキマイラが攻撃をかけてきた。しかも、それは目に見えない恐《おそ》ろしい攻撃だった。
フェニックスが悲鳴をあげた。振り向いたサーラの顔に血しぶきが降りかかった。美しいハーフエルフの顔の耳から咽喉《のど》のあたりまでが、鋭《するど》い刃物《はもの》で斬《き》られたようにぱっくりと裂《さ》け、血が噴《ふ》き出しているのだ。
「フェニ……!」
「だ、だいじょうぶ……!」
彼女は気丈《きじょう》にそう言うと、崩れそうになる体を懸命《けんめい》に支えながら、次の呪文を唱えはじめた。しかし、苦痛のために言葉がつっかえている。
「やりやがったなあ!」
そう叫んだのはミスリルだった。彼はすかさず精霊魔法を唱えた。精神の精霊レプラコーンを呼んだのだ。キマイラにそれをぶつけて精神を混乱させ、呪文を使えなくするためである。
ミスリルの詠唱《えいしょう》とほとんど同時に、フェニックスの呪文が完成した。ゾンビたちの背後に、黒いカーテンのような闇《やみ》の壁《かべ》が出現し、キマイラの姿を覆《おお》い隠《かく》す。フェニックスは気力を使い果たして膝《ひざ》をついた。
「このお!」
レグの怒《いか》りのフレイルが、ドワーフ・ゾンビの頭部に命中した。すでに骨に髪《かみ》がこびりついているだけになっていたゾンビの頭部は、この一撃で完全に砕《くだ》かれた。
対応にいちばん手間取ったのはデインだった。二体のゾンビを相手にしていて、フェニックスの異変に気づくのが遅《おく》れたのである。ちらっと振《ふ》り向いた彼は、即座《そくざ》に状況《じょうきょう》を理解し、呪文を唱えた。
「自然の理を乱す存在よ、生命なき生命よ、チャ=ザの名において命ず! 死と生の法則に従い、地に還《かえ》れ!」
彼に襲《おそ》いかかろうとしていた女ゾンビが、一瞬、恐怖《きょうふ》に似た表情を浮かべたと思うと、ぐしゃりと崩《くず》れ落ちた。転倒《てんとう》していた男ゾンビは、立ち上がろうとしていた途中で凍《こお》りついた。わずかに動いているのはコボルド・ゾンビだけだったが、その動きもひどくぎこちない。
「ちくしょう、逃げようぜ!」
ミスリルは不自然なほど大声でそう怒鳴《どな》りながら、硬直《こうちょく》している男ゾンビを蹴飛《けと》ばしてひっくり返した。
「ああ、そうしよう!」
そう答えたのはレグだった。しかし彼女はまったく逃げる様子を見せず、冷静にコボルド・ゾンビにフレイルを叩《たた》きつけて、とどめを刺《さ》した。
デインは膝をついて苦しんでいるフェニックスに駆《か》けより、倒れそうになるのを抱《だ》き止めて、素早く祈《いの》りの言葉を唱えた。咽喉《のど》の傷《きず》がみるみるふさがる。他の者も心配して彼女の回りに駆け寄ってきた。
「ミスリル、今の魔法は……?」
デインの小声の問いかけに、ミスリルは首を横に振った。手ごたえがなかったということだ。キマイラはまだ正常な判断力を保っているだろう。
デインは身振りで合図《あいず》して、全員に二手に別れるように指示した。レグはとまどっているサーラを強引《ごういん》にひきずって、横穴《よこあな》の入口の左側に身を寄せる。デインとミスリルはまだふらついているフェニックスをかばいながら、入口の右側に移動した。レグは片手でサーラの口をふさいだ。
フェニックスが魔法で創《つく》り出した闇《やみ》の壁《かべ》の奥から、ドドドドッという足音が接近してきた。サーラはとっさにデインたちの作戦を悟《さと》った。闇にまざれて逃げたように思わせ、キマイラをおびき寄せようというのだ……。
闇の壁の中からキマイラが飛び出してきた。サーラの目の前だ。一瞬、ほんの一メートルほどの距離《きょり》を隔《へだ》てて、通り過ぎる黒山羊《くろやぎ》の頭部と目が合ってしまった。
キマイラは即座に罠《わな》に気がついただろう。だが、そのほんの数秒の動揺《どうよう》をついて、レグとデインが左右から襲《おそ》いかかった。
レグのフレイルが描《えが》き出す死の円弧《えんこ》を、キマイラは紙一重《かみひとえ》でかわした。しかし反対側から突《つ》いてきたデインのレイピアをかわす余裕《よゆう》はない。光る刃先《はさき》が後ろ脚《あし》のつけ根に突き刺さる。だがキマイラの毛皮は厚く、致命傷《ちめいしょう》にはほど遠い。
デインたちを振りきって逃げようとするキマイラ。だが、ミスリルが精霊語で地中にひそむ地の精に呼びかけた。たちまち地中から何本も石の手が湧《わ》き出して、キマイラの四肢《しし》をがっしりつかむ。もはや逃げることはできない。
レグとデインが再び飛びかかった。今度はデインのレイピアが毛皮の表面で滑《すベ》ってしまった。レグのフレイルはキマイラの腹を打ったが、あまり効《き》いていない。キマイラは怒って彼女に噛《か》みつこうとしたが、前足が押さえられているために牙《きば》が届《とど》かなかった。蛇《へび》の形をした尻尾《しっぽ》が空中でムチのようにしなり、毒のある牙がデインの髪をかすめた。
キマイラは吠《ほ》えた。背中から生えた黒山羊の頭が、暗黒魔法をわめき散らす。
レグとデインは目に見えない衝撃波《しょうげきは》に襲われた。デインはどうにかよろめいただけで持ちこたえたが、レグは紙のようにはじき飛ばされ、背後の岩壁に激《はげ》しく全身を叩《たた》きつけられて、獣《けもの》のようにうめいた。
「この野郎、うるせいぞ!」
ミスリルは今度は|炎の精《サラマンダー》に呼びかけた。サーラの掲《かか》げていたランタンから、ものすごい勢いで炎《ほのお》が噴《ふ》き出す。サーラはびっくりしてランタンを取り落とした。炎は小さなドラゴンのような姿になってキマイラに襲いかかり、黒山羊の頭部を焼いた。キマイラが二つの口から苦痛の悲鳴をあげる。
「みんな、目を閉じて!」
フェニックスが傷《きず》の痛みに耐《た》えながら、再度の魔法を放った。今度はさきほどのエネルギーの矢とは違い、紫色《むらさきいろ》の強烈《きょうれつ》な電光だ。目を閉じるのが遅《おく》れたサーラは、闇《やみ》を切り裂《さ》くすさまじい光に目がくらんでしまった。轟音《ごうおん》が洞窟内に轟《とどろ》く。電光はキマイラの腹部に命中し、厚い肉を焼いて、内臓まで達する深い穴《あな》を穿《うが》った。
つかのま盲目となったサーラの耳に、キマイラの恐《おそ》ろしい咆哮《ほうこう》が聞こえた。苦痛と怨念《おんねん》に満ちた呪詛《じゅそ》の絶叫《ぜっきょう》だった。レグが悲鳴をあげた。
サーラは懸命《けんめい》に目をしぼたたいて、何が起こったのか見ようとした。網膜《もうまく》に焼きついた緑色の残像を通して、レグが腹を押さえてうずくまっているのが見えた。鎧《よろい》の下から膨大《ぼうだい》な血が流れ出し、足許《あしもと》に黒い血だまりが広がってゆく。悪夢《あくむ》を見ているようだった。
サーラの位置からは見えなかったが、キマイラの腹に開いた傷は、レグの出血に反比例するようにふさがっていった。暗黒魔法のひとつ、自分の体の傷を他人に転移させるという『|生命盗み《スティール・ライフ》』だ。レグが感じている激痛《げきつう》のいくらかは、彼女自身のフレイルがキマイラに与《あた》えた傷《きず》によるものだった。
「レグ!」
彼女に駆《か》け寄ろうとするデインを、ライオンの頭部が吠《ほ》えて威嚇《いかく》した。やがてキマイラの腹の傷が完全に癒《い》えた時、レグは倒《たお》れて動かなくなった。
急にあたりが静かになった。戦いの最中に奇妙な真空状態が生まれたのだ。レグは気を失っているし、デインはさっきの衝撃波の余韻《よいん》からまだ立ち直っていない。フェニックスとミスリルは、どちらも強力な魔法を連発したために、疲《つか》れきっていた。キマイラに攻撃を仕掛けられる状態ではないのだ。
苦しい状況《じょうきょう》はキマイラの側も同じだった。どうにか腹の傷は癒《いや》したものの、黒山羊の頭部はひどい火傷《やけど》を負っているし、魔法を使う気力もあまり残っていなかった。倒れた女戦士にとどめを刺《さ》したいのだが、まだ脚を地の精につかまれているので、牙《きば》が届《とど》かない。もちろん逃げることもできなかった。
敵も味方も疲労《ひろう》し、傷ついてあえいでいた。混乱した状況の中で、無傷なのはサーラだけだった。
「偉大なるチャ=ザよ……」デインが神聖《しんせい》な祈《いの》りの言葉を詠唱《えいしょう》した。「わが友レグディアナに加護《かご》を。わが祈りを生命《いのち》に変え、かの者に分かち与《あた》えたまえ……」
倒れていたレグが身じろぎした。うめき声をあげ、血まみれのフレイルを杖代わりにして、どうにか上半身を起こす。出血はもう止まっているようだったが、やはりかなりのダメージを受けていた。サーラは慌《あわ》てて駆《か》け寄り、彼女が立ち上がるのを手助けしようとした。
その瞬間、キマイラが動いた。長い尻尾《しっぽ》が宙を踊《おど》り、壁沿いにキマイラのそばを駆け抜けようとしたサーラを襲《おそ》ったのだ。
「サーラ!」
フェニックスが叫んだが、遅《おそ》かった。毒蛇はサーラの首にするりと巻きつき、強い力で引き倒した。抵抗《ていこう》する間もなく、少年は洞窟《どうくつ》の床《ゆか》を引きずられ、キマイラの足許《あしもと》にまでたぐり寄せられた。
「このお!」
レグが痛みに耐《た》えながら立ち上がり、フレイルを振《ふ》り上げようとする。
その時、キマイラが何かを喋《しゃべ》った。古代王国時代に使われていた言葉だったが、デインやフェニックスには理解できた。
「やめろ、レグ!」デーンが慌てて怒鳴《どな》る。
「何だよ!?」
「攻撃するな! そいつは脅迫《きょうはく》してるんだ! 攻撃したらサーラに呪《のろ》いをかけると言ってる!」
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8 決断の時
膠着《こうちゃく》状態だった。
サーラはキマイラの後脚《あとあし》にもたれかかるような姿勢で、身動きできずにいた。蛇のような尻尾《しっぽ》が首に巻きついているのだ。少年の力でそれをもぎ離すのは困難だった。尻尾の先端についた毒蛇の頭部は、かっと口を開いて毒液のしたたる牙を露出《ろしゅつ》し、サーラを威嚇《いかく》している。
しかし、本当にサーラを動けなくさせているのは恐怖《きょうふ》だった。キマイラの呪《のろ》い――それがどんなものかは分からないが、その言葉の響《ひび》きだけで、多感な十一歳の少年の魂《たましい》を恐怖《きょうふ》で縛《しば》りあげ、硬直《こうちょく》させるのに充分だった。
「呪《のろ》い……だって?」とレグ。
「ああ、こいつはそう言ってる」
「どんな呪いなんだよ?」
デインが女戦士の質問を通訳した。焼け焦《こ》げた黒山羊の頭部が、唇を歪《ゆが》めて喋《しゃべ》った。サーラにはその様子は見えなかったし、言葉もちんぷんかんぷんで、嘲笑《あざわら》っているようにしか聞こえなかった。
実際、キマイラは嘲笑っていたのかもしれない。
「今は知る必要はない、とさ」デインが吐《は》き捨てるように言った。「災厄《さいやく》が降りかかってみれば、どんな呪いなのか分かるって言ってる」
「はったりかましやがって!」
「いえ、そうとも言いきれないわ」フェニックスが震《ふる》える声で言った。「こいつには確かにそれぐらいの力はあるわ……」
「おい、のんびり議論してる時間はねえぞ!」ミスリルが警告する。「|地の精《ノーム》の『呪縛《ホールド》』は長くは保たないんだ。さっきはうまくかかったが、もう一度かけ直す自信は、俺にゃあねえぞ!」
気のせいか、地中からキマイラの四肢《しし》をつかんでいる石の手は、少し力がゆるんできているように見えた。何とかその束縛《そくばく》から逃《のが》れようと、キマイラはもがいているが、うまくいかない。
「こいつ、あたしらの言葉が分かるのか?」レグが不安そうに言う。
「さあ、どうかしら」フェニックスは自信がなさそうだった。「分からないふりをしてるだけかも」
「よし、今すぐ態度を決めよう!」デインが迷いを振り払うように言った。「うだうだ悩んではいられない。僕はこいつの言ってることははったりだと思う。呪いをかけるぞ、なんて脅《おど》しは不自然だ。まず呪いをかけておいてから、呪いを解く方法を教えてやるぞと申し入れるのが普通じゃないか?」
「つまり呪いをかけるような気力は残ってないってわけか?」とミスリル。
「ああ、そう思う」
「あたしも同感……」
「待ってよ、何でそんなことが言えるの!?」フェニックスが悲鳴に近い声で言った。「間違ってたら大変なことになるのよ!」
「万一、この子に呪いなんかかけやがったら……」レグは白い歯を剥《む》き出し、激《はげ》しい怒りの表情を浮かべた。「骨のかけらも残らないほどにぐちゃぐちゃにしてやる……!」
「何言ってるの!? あなたも知らないはずないでしょ? 呪いは捧《ささ》げる代償《だいしょう》が大きいほど強力なものになるのよ。何百年も生きた魔獣が自分の命を代償にした呪いなんて、どれほど恐《おそ》ろしいか想像もつかないわ!」
「だったら、こいつをこのまま逃《に》がせって言うのか!?」とデイン。「サーラを人質に取られたままで?」
「しょうがないじゃない! この子を犠牲《ぎせい》にはできないわ!」
「早くしろ! 魔法が解ける!」
ミスリルがかすれた声で言った。石の手が地中にひっこみかけていた。
「レグ、こいつの正面に回れ!」デインは叫んだ。
「ミスリルは向こう側! フェニックスは後ろだ! 早く!」
四人は素早く散開した。四方向からキマイラを取り囲み、隙《すき》のない陣形《じんけい》を形成する。その直後に『束縛《ホールド》』が解《と》けた。地の精の手は石の中に吸いこまれ、洞窟の床は元通り平らになった。しかしキマイラは動けない。真正面にフレイルをかまえたレグが立ちはだかっているからだ。
キマイラはまた古代語でうなった。
「そこをどけ、と言ってるわ……」とフェニックス。
「だめだ! どくなよ、レグ!」とデイン。「体当たりされても動くんじゃない。こいつを逃がすわけにいかない!」
「分かってるよ、そんなこと……」
デインは古代語で「動くと殺す」と警告した。だがキマィラは、「そこをどけ」と繰《く》り返すだけだった。
「だめよ、逃がしてあげましょう!」
「フェニックス!」
「あやふやな可能性に賭《か》けるわけにはいかないわ! 私たちの命ならどうなってもいいけど、この子を犠牲《ぎせい》にはできない!」
「しかし、ここで逃がしたら……」
「また追いかければいいじゃないの!」
「サーラも人質としてつれて行かれるんだぞ! 第一、この迷路みたいな洞窟の中を追うのは無理だ!」
「いつまでも子供をひきずって逃げるわけにはいかないわ。どこかで解放するはずよ」
「それこそあやふやな可能性じゃないか! 途中で殺されたらどうする!? 逃がすのは危険すぎる……」
「じゃあ、どうするのよ!?」フェニックスは興奮《こうふん》のあまり涙を流していた。「お願いよ、デイン! この子を私の二の舞にしないで[#「この子を私の二の舞にしないで」に傍点]!」
その絶叫《ぜっきょう》はデインだけではなく、レグとミスリルも動揺《どうよう》させた。一瞬、洞窟の中に沈黙《ちんもく》が降りた。
キマイラは勝ち誇《ほこ》ったようなうなり声をあげ、一歩前に踏《ふ》み出した。レグはフレイルをかまえたまま、一歩後ずさりした。
自分の命をめぐるそのやりとりを聞きながら、サーラは一言も発しなかった。パニックに陥《おちい》って泣きわめいたりしなかったのは、恐怖があまりにも強烈《きょうれつ》だったからだ。心の中が恐怖一色に塗《ぬ》り潰《つぶ》され、思考活動が凍《こお》りついてしまったのだ。
だが、最初のショックから回復して、周囲の状況が理解できてくるにつれて、別の強烈な感情が沸《わ》き起こってきた――後悔《こうかい》と恥辱《ちじょく》である。
何て馬鹿だったんだろう。絶対に足手まといにならないと約束したのに、いちばん大切な場面でみんなの足を引っ張ってしまった。僕さえいなければ、みんなはキマイラにとどめを刺《さ》せていたはずなのに――たとえ命が助かったとしても、後でみんなからひどくののしられるに違いない……。
子供の純真な想《おも》いであるだけに、その感情は一途《いちず》であり、強烈だった。それは恐怖さえも圧倒《あっとう》した。死ぬことや呪《のろ》いをかけられることよりも、デインたちに嫌《きら》われることの方がずっと嫌《いや》だった。
何とか――何とかしなければ。このままでは、キマイラに逃げられてしまう。
サーラは懸命《けんめい》に頭を回転させた。極限《きょくげん》状態の中で、やけくその勇気が湧《わ》いてきた。このままぼうっとして、「足手まとい」の汚名《おめい》を着たまま死ぬぐらいなら、少しでもみんなの役に立つことをした方がいい。
「待って!」サーラは叫んだ。「フェニックス、僕に選ばせて!」
「え?」
少年の言葉の意味が分からず、フェニックスは目をしぼたたいた。
「こいつを攻撃するか逃がすか、僕に選ばせてよ!」サーラは早口で言った。「僕のミスでこうなったんだもの」
「サーラ……」
「僕の命だし、僕の運命だよ。他人に選んで欲しくないんだ! 僕の運命は僕が選ぶのが当然じゃないか。そうでしょ?」
「…………」
意外な展開にデインたちはとまどい、口がきけなかった。キマイラも言葉が分からないなりに、事態が変化したのを感じ取ったらしい。足を止め、黒山羊の首をひねって、サーラを不審《ふしん》そうに眺めている。
サーラはそんなことは気にしなかった。
「ねえ、デイン。呪《のろ》いをかけるのにも呪文《じゅもん》を唱《とな》えるんでしょ? こいつが呪文を唱えるのにどれぐらいかかるの?」
「そ、そうだな……」デインはとまどった。「五つ数えるぐらいか……もっと短いかもしれない」
「それだけの時間があれば、こいつにとどめを刺せるよね? 呪文を唱え終わる前に?」
「ええと……」
デインはちらっと、他の三人の表情をうかがった。レグは唇を噛《か》んで不安そうな表情をしているし、ミスリルは疲労《ひろう》の色が濃《こ》く、フェニックスは失神寸前のように見えた。
「いや、できるかどうか……」
「できるよ! だってみんな強いんでしょ!? そう言ったじゃないか! キマイラなんか一撃で倒せるって!」
「それは……」
「嘘じゃないんでしょ!? だったらやって見せてよ! 五つ数える間に、こいつを倒すんだよ! みんなならできるはずだよ!」
「…………」
「やってよ! これが僕の選んだ運命なんだから! さあ!」
デインはとまどいながらも、もう一度みんなの顔をうかがった。三人の表情には微妙《びみょう》な変化が現れていた。疲労の中に決意の色が浮かび上がっている。
「私、あと一撃ぐらいならできるわ……」とフェニックス。
「俺もやれるぜ」とミスリル。
「一撃で決めてやるさ」とレグ。
デインはうなずいた。「……よかろう」
キマイラが冒険者たちの態度の変化に気がついた。再び古代語でうなり声を発する。デインはその脅迫《きょうはく》を無視した。
「合わせるぞ!」
デインはレイピアを投げ捨てると、両手を顔の前で組み合わせた。フェニックスは杖《つえ》をかまえ、ミスリルは片手を差しのべ、それぞれの魔法の詠唱《えいしょう》を開始する。
「ブライト・ブリット・ブライト……」
「アーム・ド・リュミエール、光の精霊《せいれい》よ……」
同時にレグがフレイルを振《ふ》り上げて一歩|踏《ふ》みこむ。冒険者たちの意図を察したキマイラは、とっさに身がまえ、暗黒《あんこく》魔法の詠唱をはじめた。だが、もう遅《おそ》い。ほんの一秒だけ早く、フェニックスたちの呪文が完成した。
「バス!」
「ディストリート!」
「ブリュレ!」
三人の声が揃《そろ》った。突き出されたデインの腕からは目に見えない衝撃波《しょうげきは》が、フェニックスの杖の先からは白いエネルギーの矢が、ミスリルの指の先からは青く燃えるウィル・オー・ウィスプが、キマイラめがけてほとばしった。まったく同時に、レグが怒りの叫びをあげながら、キマイラの頭めがけてフレイルを振り下ろした。
三種類の異なる魔法の炸裂《さくれつ》と、重いフレイルがライオンの頭蓋骨《ずがいこつ》を砕《くだ》く音、そしてキマイラの断末魔《だんまつま》の悲鳴が、不協和音《ふきょうわおん》となって洞窟の空気を震《ふる》わせた。血しぶきが洞窟の壁に飛び散る。その瞬間、サーラの体内を駆《か》け抜けたのは、衝撃波の余韻《よいん》だろうか。
サーラは首を絞《し》めつけていた蛇の力がゆるむのを感じた。蛇は少年の体からするりとほどけた。同時にキマイラの四肢《しし》は体重を支える力を失い、黒い巨体から血をほとばしらせながら、どうっと床に崩《くず》れ落ちた。
次の瞬間、緊張《きんちょう》から解放されたサーラは、その反動で気が遠くなるのを覚えた。どこまでも落下してゆくような感じがする。心地《ここち》よい暗黒がせり上がってきて、少年の意識を優しく抱き止めた……。
目を覚ますと、水の音がした。青い光が揺《ゆ》れている。サーラは何度もまばたきをして、意識の底の闇から、現実の世界に這《は》い上がってきた。何か奇妙な夢を見たような気がするが、すでに覚えていない。
うめき声を聞きつけたのか、レグが顔をのぞきこんできた。
「目が覚めたかい?」
「うん……」
生返事をしながら、サーラは体を起こした。額に乗せられていた濡《ぬ》れた布が、ぽとりと胸に落ちる。体の下には誰かのマントが敷《し》かれていた。何があったのか、即座《そくざ》に思い出せない。ゆっくりと周囲を見回し、記憶《きおく》を呼び覚ます手がかりを探した。
そこはさっき通過した地底の湖《みずうみ》の岸辺《きしべ》、石筍《せきじゅん》の林立している場所だった。気絶している間に運ばれたらしい。水中の青い光には変化はなく、不思議な滝《たき》も流れ落ち続けている。記憶にあった光景と何ら変化はなかった。
「あれ?」
サーラは湖の対岸に何か動くものを発見し、驚いて身を乗り出した。錯覚《さっかく》ではない。小さな人間型の影《かげ》が、石筍の柱の合間をこそこそ走り回りながら、こちらをうかがっている様子だ。どう見ても数十体はいる。
「何かいる!?」
「ああ、ありゃコボルドだよ。ゾンビじゃなく生きてるやつだ」
サーラはびっくりして振り返った。「生きてるコボルド?」′
「ああ。さっきこのへんで出くわしたんだ。でも、あれを見せたらびっくりして逃げ出しちまった」
レグは親指を立てて頭上を指し示した。振《ふ》り仰《あお》いだサーラは、驚きのあまり「うわあ!」という情けない悲鳴をあげた。
キマイラの頭部――ぐしゃぐしゃになった血まみれの黒いライオンの顔が、恨《うら》めしそうな表情で少年を見下ろしていた。サーラは心臓が止まるかと思った。よく見ると、切断された首が石筍の先端に突き刺してあるのだった。少年の狼狽《ろうばい》ぶりを見て、レグはくっくっと笑った。
「切り取って持って来たのさ。あんたの祖父《じい》さんに、キマイラをやっつけましたって証明するものが必要だろ? 山羊の頭じゃ、説得力ないからねえ」
サーラはこくんとうなずき、唾《つば》を飲《の》みこんだ。
「こうしておけばコボルドどもはびびって寄って来ないし、ゆっくり休めるよ。あいつら、同じ洞窟の中に住んでて、よっぽどキマイラを怖がってたんだろう。仲間を何匹もゾンビにされちまったぐらいだからね。それをやっつけたあたしらは、それ以上に恐《おそ》ろしい存在ってわけさ」
「……そう言えば、他のみんなは?」
「そこにいるよ」
「!」
レグの指さした方向を見て、サーラは息を飲《の》んだ。デイン・フェニックス・ミスリルの三人が、太い石筍の翳《かげ》で、互《たが》いにもたれかかるようにして、ぐったりと倒れているのだ。
「ああ、心配いらない」レグはささやいた。「眠ってるだけだから」
「眠ってる……?」
「ああ。魔法ってやつはものすごく精神力を消耗《しょうもう》するんだそうだ。あたしにゃ分かんないけどね。今度の戦いは特に疲《つか》れたみたいだ。心の疲れを癒《いや》すには、ぐっすり眠るのがいちばんなんだと」
ようやく記憶が鮮明《せんめい》に戻ってきた。「レグ、確か怪我《けが》を……?」
「たいしたことじゃないよ」ぽんぽんと腹を叩《たた》いて、「デインが治《なお》してくれた。冒険者をやってたら、あのぐらいのことはしょっちゅうさ」
「僕のせいで……?」
「ああ、お前さんのせいさ」レグは意地悪く言った。「フェニックスなんか、最後の魔法を使ったとたんに気絶しちまったんだぜ。残ってた精神力を最後のひとかけらまで使っちまったんだろうよ――お前さんのためにな」
「…………」
「まったく、思いっきり足を引っ張ってくれたもんだ。だからお前さんをつれて来るのには反対だったんだよ」
「……ごめんなさい」
「ほんとに反省してんのか?」
「ごめんなさい……僕……僕……」
涙がこみ上げてきた。咽喉《のど》が詰《つ》まって言葉が出てこない。
「あー、馬鹿馬鹿、泣くな! 泣き虫は大嫌《だいきら》いなんだよ」
「ごめんなさい……」
「もう、しょうがねえなあ」
レグは太い腕を少年の肩に回して抱き寄せた。固い鎧《よろい》を着ているので、優しい抱擁《ほうよう》というわけにはいかない。だが、鎧の下から漂《ただよ》う女の汗《あせ》の匂《にお》いは、どこか懐《なつ》かしいような気がして、少年を落ち着かせた。
「でもまあ、かっこ良かったぜ。子供にしちゃあ勇気がある。それだけは認めてやる」
「…………」
「それに、ああなったのはお前さんだけのせいでもない。あたしらにも責任があるんだ。キマイラを近くにまでおびき寄せるために、こっちを弱く見せようと、最初のうちに魔法を出し惜《お》しみした。それが裏目に出たんだ――何にしても、結局のところうまくいったんだから、よしとしなくちゃな」
「僕、英雄になりたかったんだ……」サーラはつぶやいた。「友達に自慢《じまん》したかっただけなんだ……すごい冒険をしたって……でも――」
「でも、本物の冒険は想像してたみたいに甘《あま》くなかったか?」
「うん……」
「まあ、世の中ってのは何でもそういうもんだ。あたしだって最初の戦いの時は、がたがた震《ふる》えてたさ」
サーラは顔を上げた。「十歳の時にゴブリンを殺したって本当?」
「ああ、本当さ」
「どうして? 何でそんなことができたの?」
「そりゃあ、六歳の時から武器の訓練してたからね。両親ともに傭兵《ようへい》だったから」
「…………」
「考えてみりゃあ、ひどい親だよなあ。娘《むすめ》に女らしいこと何ひとつ教えずにさ。おかげであたしゃ、料理も裁縫《さいほう》も行儀《ぎょうぎ》作法もぜんぜんだめ。人並の人生なんて送れやしない」
そうぼやくレグの口調は、しかし、どこか楽しそうだ。
「お父さんやお母さんはどうしてるの?」
「さあてねえ。どこでどうしているやら。何しろ十二の時に派手にけんか別れして、それっきりだからねえ」
「恨《うら》んでるの?」
「恨む? うーん、どうかねえ。こんな育て方しやがってって、腹を立てたこともあったけど、今じゃこういう生き方もそんなに悪くもないなと思うようになったよ。何てったってジュージツしてるから」
「充実?」
「そうさ。いろんな土地へ旅して、いろんな人間に出会って、いろんなものを見て、でもっていろんな危険をくぐり抜けて生きてゆく……平凡《へいぼん》な娘として、ありきたりの男と結婚をして、ずっと一箇所に住んで、何もたいしたことせずに年取ってゆくより、何十倍もすごい人生だと思わないか?」
「でも……死ぬかもしれないんでしょ?」
「もちろん、こんな生き方してたら命は縮めるけどな」レグは肩をすくめた。「冒険者なんてかっこいいもんじゃない。つらいことも悲しいこともたくさんある。でも、それでもいいと思うんだ。普通の人間の何十人分もの人生を生きてるんだから、ちょっとぐらいつらくても、人より短くても、しかたないさ。大切なのは長さじゃない、中身だ。一度きりの人生なんだから、後悔《こうかい》しないように生きなくちゃな。毎日を平穏《へいおん》に当たり前に過ごすなんて、あたしにはもったいなく思えるよ」
「…………」
「もちろん、平凡な生き方を選んだ人間を蔑《さげす》むつもりはないさ。何たって、そういう平凡な連中が集まって、この世を動かしてるんだもんな。平凡な農民がいなきゃ、パンのひとつも食えやしない。戦士の持ってる武器や鎧《よろい》を造るのも、平凡な職人だ――ただ、そういう普通の人間ばかりでも世の中はうまくいかない。あたしらみたいな変な生き方を選ぶ連中だって、時には必要なのさ」
「レグはちっとも変じゃないよ」
「ははは! お世辞のつもりかい? 見え透《す》いてるよ」
「嘘じゃないよ。ほんとにそう思うもの。尊敬してるよ。すごいもの」
「よせやい、くすぐったい」
「本当だよ。僕もレグみたいに強くなりたい」
「大きくなったら強くなれるさ」
「ほんとに?」
「ああ、ほんとさ」
「ちょっと待ってよ。ええと……」サーラは指を折って計算した。「六歳から武器の訓練をはじめて、十歳でゴブリンを倒してたってことは、僕も今から訓練したら、十五歳になる頃にはゴブリンを倒せるぐらいに強くなれるわけだ……」
「……お前、何考えてんの?」
「だから、冒険者になるための訓練を――」
レグは大げさに顔をしかめた。「お前ねえ、あんなひどい目に遭《あ》って、まだ懲《こ》りてないの?」
「だって、つらいことや危険なことがあるのが冒険者だって、言ったじゃない」
「今度は死ぬかもしれないんだよ! 人生を粗末《そまつ》にするなよ」
「人生で大切なのは長さじゃなくて、中身なんでしょ?」
「う……」
自分の言葉に逆襲《ぎゃくしゅう》されて、レグは答えに詰《つ》まった。
「ねえ、冒険者になる訓練って、どこでするの?」
「別に学校があるわけじゃないよ」
「でも、みんな初めから強いわけじゃないでしょ? 少しずつ戦い方を習って、強くなっていくわけでしょ?」
「まあな」
「どうやって習えばいいの?」
「そりゃあ、他の強い冒険者について歩いて、修行《しゅぎょう》を積むのがいちばん――」
サーラの期待に満ちた視線に気がついて、レグは慌《あわ》てた。
「だ、だめだよ。これから先もずっとお前さんをつれて歩くなんて、あたしゃまっぴらだね。子供なんて足手まといになるだけだもんな」
「レグは最初は誰かの足手まといじゃなかったの?」
その言葉はかなり効果的だったようだ。
「……お前、痛いとこ突《つ》くね」
「ごめんなさい」
「ま、そういうややこしい話はまた明日、みんなが起きてからにしよう」形成が不利になってきたので、レグはごまかすことにした。「もう少しゆっくり寝てな。あたしが見張っててやるから」
「うん……」
「あたしの脚《あし》、枕《まくら》にしてもいいから」
サーラはその言葉に甘えることにした。再び横になって、レグの豊かな太腿《ふともも》に頭をもたれさせ、目を閉じる。
「ふふ……やっぱり子供はかわいいねえ。邪心《じゃしん》がなくて」
サーラはまた目を開け、レグの顔を見上げた。
「レグも笑った顔、かわいいよ」
青い薄闇《うすやみ》の中で、女戦士の頬がちょっと赤らんだような気がした。
「馬鹿! そういうとこがかわいくないんだ! 早く寝ろ!」
「はあい……」
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9 新たな明日へ
数時間後、ゆっくり眠って気力を取り戻した一行は、来た道を逆戻りして、洞窟《どうくつ》の出口に向かった。コボルドたちの動向が心配だったが、連中は依然《いぜん》として距離を置いて様子をうかがっているだけで、攻撃を仕掛けてくる気配はなかった。
あの膨大《ぼうだい》な量の石の山が、どこかから掘《ほ》り出されて捨てられたものだったならば、奥の方には人工的にくり抜かれた空洞が存在するのかもしれない。古代王国時代の地下|遺跡《いせき》だとも考えられる。もう少し奥の方を探検《たんけん》してみたいという気はあったが、一行は安全を考えて断念した。いちおう目的は果たしたことだし、キマイラの首を持ち帰り、サーラを送り届《とど》けるのが先決だと判断したのだ。
一行は水量の減《へ》った地底の川の川底を、下流に向かって歩いていた。今ではもう、水量の減った原因は分かっている。キマイラがゾンビたちを働かせてやらせたのだ――新しい出口を作るために。
最初にキマイラがどうやってこの洞窟に入ったのかは分からない。誰かにつれて来られたのか、あるいは古代王国の魔術師によってこの地底で創造《そうぞう》されたのかもしれない。いずれにせよ、彼は自分が囚《とら》われの身であることに気づいていたはずである。地上に出る抜け道はいくつもあっただろうが、いずれもコウモリやコボルドしか通れないような狭《せま》い穴《あな》だったのだろう。
何百年も地上に出ることを思い焦《こ》がれていたキマイラは、おそらく一年か二年前、ひとつの計画を思いついたのだ。それは地底の川の流れをせき止め、水量を減らすことだった。魚が遡《さかのぼ》って来ることから見て、川が下流のどこかで地上に出ているのは確実だった。しかしキマイラは泳ぐことができない。そこで川を干上がらせ、通り抜けることができるようにしようとしたわけだ。
キマイラの四肢《しし》は土木作業には適していない。そこで同じ洞窟の中にいたコボルドを何匹か殺してゾンビにし、忠実な奴隷《どれい》として働かせたのだ。運悪く地上から迷いこんできた四人組も、キマイラに殺されて同じ運命をたどった。堰《せき》を造る工事にはかなりの時間がかかったはずだが、ゾンビたちは疲《つか》れを知らなかったし、何百年も閉じこめられてきたキマイラにしてみれば、一年や二年待つことぐらい、たいしたことではなかったのだろう。
そして、つい数週間前、工事はようやく完成した。キマイラは目論見通《もくろみどお》り、涸《か》れた川をたどって地上に出ることができたのだ……。
「それにしても、こいつは哀《あわ》れなやつだねえ」
肩にかついでいる大きな袋をぽんぽんと叩《たた》いて、レグは陽気に言った。中にはキマイラの首が入っているのだ。
「何百年もこんなとこに閉じこめられてて、ようやく外に出る方法を見つけたと思ったとたん、あたしらに殺されるなんてさ」
「でも、どうしてまた洞窟に戻ってきたのかな?」サーラが首をかしげた。「そのまま逃げちゃえば良かったのに……何かここに大事なものでもあったのかな?」
「案外、外の世界が気に入らなかったのかもよ」フェニックスが冗談《じょうだん》半分に言った。「闇《やみ》の中で生まれたキマイラには、この暗い地底の方が性《しょう》に合ってたんじゃないかしら? きっと地上なんて見たこともなかったのよ。長いこと外の世界にあこがれ続けて、やっと望みがかなって出られたけど、光は強いし、人間はたくさんいるし、あまりに棲《す》みにくくてがっかりしたんじゃないかな」
「出る杭《くい》は打たれる、出る怪物《かいぶつ》は殺される」デインは歌うような口調で言った。「ずっとこの穴の中でひっそり暮《くら》してれば良かったんだ。家畜《かちく》なんか襲《おそ》わずにな。そうすりゃ誰にも存在を知られずに生き続けられたんだ」
「恨《うら》みに思うなよな、怪物さんよ」ミスリルはキマイラの首に向かって話しかけた。「俺たちゃこれが商売なんだ」
死線をくぐり抜け、無事に任務を成功させて帰る途中とあって、誰もが少し舞《ま》い上がっているようだった。
「ところで、あのコボルドたちはどうするの?」とフェニックス。
「どうするって?」
「村の人たちに連中の存在を知らせるかどうかよ。自分たちの土地の下にコボルドがうじゃうじゃ棲《す》んでると知ったら、みんな不安がるんじゃない?」
「あれ、きっとお祖父《じい》ちゃんの言ってたコボルドだね」とサーラ。「大がかりな狩《か》りをやってここいらから追っ払ったって聞いてたけど、本当は違ったんだ。どこかに抜け穴を見つけて、この大きな洞窟の中に逃げこんで、ずっと隠《かく》れてたんだよ。コウモリや魚を食べてながらさ」
「うーん」デインは頭をかいた。「何十年も何の悪さもしないで暮してきた連中を追い立てるのは、気が進まないな……」
「俺も同感」とミスリル。
「放っておいても害はないさ。基本的に気の小さい連中なんだ。キマイラの首を見た時のおびえぶりを見たろう?」
「でも不思議だなあ。そんなにキマイラが怖《こわ》いなら、どうしてこの洞窟から逃げ出さなかったんだろう? 仲間が次々に殺されてゾンビにされてるっていうのに……普通なら逃げ出すよね?」
「そりゃお前、決まってるだろ」ミスリルはサーラを肘《ひじ》で小突《こづ》いた。「人間の方がずっと怖かったからさ[#「人間の方がずっと怖かったからさ」に傍点]」
「人間の方が……怖い?」
「だってそうだろ? キマイラは一度に一匹ずつしか殺さない。キマイラにとっちゃ、コボルドは貴重な食糧源《しょくりょうげん》のひとつだったはずだから、食いつくすような愚《おろ》かなことはしなかっただろう。それに比べて、人間はコボルドを一匹残らず絶滅《ぜつめつ》させようとする――コボルドにしてみりゃ、人間のうじゃうじゃいる地上より、キマイラのいるこの洞窟の方が、よっぽど安心できたんだろうよ」
サーラはミスリルの横顔を不思議そうにのぞきこんだ。「コボルドの味方みたいなこと言うんだね?」
「俺たちは誰の味方でもないさ」ミスリルは誇《ほこ》らしげに言った。「ま、強《し》いて言うなら、悪い奴の敵[#「悪い奴の敵」に傍点]だ。何も悪さをしない連中を憎《にく》む筋合いはねえ」
「それはそうだけど……」
「そっとしといてやろうじゃねえか。恐《おそ》れていたキマイラが死んで、もうびくびく暮すこともねえ。ここは連中にとって理想の世界になったんだ。今ごろきっと、喜びの踊《おど》りでも踊ってるぜ……ん?」
ミスリルは急に立ち止まり、足許《あしもと》を見下ろした。フェニックスの『光』の魔法がかかったダガーで足許を照らし、首をひねる。
「どうしたの?」
「何か……水かさが増えてねえか?」
一同ははっとした。確かにさっきまでは足首のあたりまでしかなかったはずの水が、脛《すね》のあたりまで上がってきている。流れもいくらか速くなっているようだ。
「これって、ひょっとして……?」
「ひょっとするわよ」
茫然《ぼうぜん》と眺めているうちに、少しずつ水位が上がってきた。背後からはごうごうという水の音が聞こえてくる。
「しまったあ!」
「あのコボルドども、堰《せさ》を壊《こわ》してる!?」
コボルドは愚《おろ》かな生き物だが、堰がなくなれば人間たちは洞窟《どうくつ》に出入りできなくなる、ということを理解できるぐらいの知恵《ちえ》はあったのだ。邪魔《じゃま》なキマィラやゾンビがいなくなった今、彼らは一族総がかりで堰を崩《くず》す作業をはじめているのだろう。
「ちくしょう! 前言撤回、あいつらはやっはり敵だ!」
「走れ! 水に飲《の》まれる!」
デインに指示されるまでもなく、全員、必死に走りはじめていた。しかし急速に水位は上昇し、たちまち膝《ひざ》のあたりまで沈んでしまった。流れもどんどん速くなり、走るのが困難になってきている。彼らが地上から入ってきた穴《あな》は、まだずっと先のはずだ。このままではとてもたどり着けない。
「みんな止まれ! こうなったら覚悟《かくご》を決めろ!」
デインが絶叫する。止まれと言われなくても、彼らはすでに立ち止まっていた。水の流りれが激《はげ》しくなってきて、足をすくわれそうなのだ。ぬるぬるした壁にヤモリのように張り川っいて、押し流されそうになるのをこらえるのが精一杯《せいいっぱい》で、とても歩くことなどできない。体重の軽いサーラは、レグが腕をつかんで流されないようにしていた。
「覚悟を決めるって!?」
「水の力に逆らうのは無理だ! ミスリル、みんなに魔法をかけろ! 水の精の力を借りて、水の中でも呼吸できるようにするんだ。それでもって、このまま水の勢いに乗って、出口まで流されてゆく……!」
「途中に滝《たき》でもあったらどうすんのよ!」とレグが抗議《こうぎ》する。
「それはない!」デインは叫び返した。「思い出せ、魚が泳いでたろう! 滝や激流があったら、魚が昇って来れないはずだ!」
「でも、突き出た岩に叩《たた》きつけられることだって……」
「それもない! 何百年という間に水の流れで削《けず》られてしまってる!」
「断言できるのかよ!」
「できる! 僕の知識を信じろ!」
「やれやれ……」
長々と議論している余裕《よゆう》はなかった。水はもう腰まで上がってきている。堰を崩《くず》している途中に水に落ちたらしい一匹のコボルドが、キーキー鳴きながら押し流されてゆく。
「ミスリル、やれ!」
「よっしゃ! 失敗しても恨《うら》むなよ!」
ミスリルは壁に背中を押しつけ、左手に持った輝くダガーを壁のくぼみにひっかけて体を支えながら、精霊語で呪文《じゅもん》を唱《とな》えた。一度に五人に魔法をかけなくてはならないので、かなりの精神集中を必要とする。熟練した精霊使いでなくてはできない芸当だ。
「ベル・ヴィエルジュ・ド・クレール・リビィエール、優しき水の乙女《おとめ》たちよ……」
サーラは腰の周囲に渦《うず》巻く水の感触《かんしょく》が変化したことに気づいた。乱暴に押し流そうとする力が少し弱まり、優しくまとわりつくような感じがする。
「かかったぞ! もぐれ!」
ミスリルはそう叫んで激流に身を踊《おど》らせた。デインとフェニックスがそれに続く。レグは茫然《ぼうぜん》としているサーラの頭を水の中に押しこみ、その上からのしかかるようにして自分も飛びこんだ。
いきなり水中に沈められたサーラは、パニックを起こし、水面に顔を出そうと必死にもがいた。しかし重い鎧《よろい》を着たレグに抱《だ》きかかえられているため、どんどん沈む一方だ。水に飛びこむと同時にランタンは消えており、輝くダガーを持ったミスリルはすでにずっと先まで流されている。暗黒の世界の中で、激流《げきりゅう》の渦巻く轟音《ごうおん》があたりに充満《じゅうまん》していた。
溺《おぼ》れる! サーラは空気を求めてあえいだ。
『落ち着け! だいじょうぶだ! 苦しくないはずだ!』
レグが耳許《みみもと》で怒鳴《どな》る声が、冷静さを取り戻させた。サーラは驚いた。レグの言う通り、ちっとも苦しくないのだ! 大きく口を開けて息を吸いこんでも、水は肺の中に入ってこない。空気中にいる時と同じように呼吸できるのだ。
『苦しくない……』
『そうだろ? ミスリルの魔法なんだよ。これには何度も助けられた』
声はくぐもっているが、近くならちゃんと聞こえた。サーラはあらためて魔法の力の素晴《すば》らしさに感嘆《かんたん》した。
いつの間にかサーラが上に、レグが下になっていた。重い鎧《よろい》ががりがりと水底をこすり、流される勢いにブレーキをかけていた。サーラの軽い体は浮き上がろうとするので、しっかり抱き合っていないとひき離されてしまう。
『ミスリルたちとはぐれちゃったよ』サーラはふと、不安になった。『この魔法、どれぐらい続くの?』
『だいじょうぶ。かなり続くさ。流れに乗って、このまま外に出られれば……』
『出られなかったら……?』
レグは答えなかった。鎧が水底をこするため、流れに乗ることができないのだ。キマイラの頭を入れた袋がひっかかって、止まってしまうことも何度かあった。水位が上がるにつれて、かえって流れの勢いが落ちてきたようだ。
このままでは外に出る前に魔法が切れるかもしれない。
『サーラ。この鎧を脱《ぬ》ぐ。手伝え』
『どうするの?』
『あたしがあんたをしっかり抱いてるから、止め金をはずしてくれ。左右の脇腹《わきばら》に二つずつある……』
サーラは闇《やみ》の中で手探りした。右手の指が左脇腹の止め金を探し当てる。しかし真っ暗な中の作業であるうえ、レグにしっかり抱きかかえられていて自由がきかず、おまけに水の勢いにも邪魔《じゃま》されて、なかなかうまくいかない。
何分もかかってようやく左脇腹の止め金を二つともはずした。しかし右側がもっと厄介《やっかい》だった。いくらもがいても手が届《とど》かないのだ。
『レグ、腕を少しゆるめて! 動けないよ!』
『そんなことしたら流されちまうよ!』
『だいじょうぶ! さあ!』
レグはしぶしぶサーラを抱いていた腕の力をゆるめた。いくらか自由になったサーラは、体をずらして彼女の右側に回りこみ、右腕につかまりながら止め金をはずす。一つ目が簡単にはずれ、続いて二つ目が……。
『はずれた!……あっ!』
一瞬の気のゆるみがミスを生んだ。姿勢を急に変えようとした拍子《ひょうし》に、すさまじい水の力をまともに上半身に受ける形になり、サーラの体は上向きにねじられた。態勢を立て直す間もなく、テコの原理でレグの腕がこじ開けられ、サーラの体がすり抜けた。矢のような勢いで下流に流されてゆく。
『サーラァァァッ!!』
レグは絶叫した。だが、その声はすさまじい轟音《ごうおん》の中に飲《の》みこまれ、サーラの耳には届《とど》かなかった……。
十数分後――
地底の川は密生《みっせい》した樹々に隠《かく》された洞窟《どうくつ》から出て、地上を流れるもっと大きな川と合流した。イスター川の支流のひとつだろう。クロスノー山脈から出て平原地帯を横切り、はるか北の氷結海まで注いでいるのだ。
川幅が少し広くなって、流れがゆるやかになっているあたりで、ミスリル、デイン、フェニックスの三人は岸に這《は》い上がり、砂利《じゃり》の上に横になってぜいぜいとあえいでいた。梢《こすえ》の上から顔をのぞかせた朝の太陽が、疲《つか》れ果てた冒険者たちを包みこみ、濡《ぬ》れた体を暖めていた。洞窟に入ったのは昨日の午後だから、半日以上も地下にいたことになる。三人ともしばらく動く気になれなかった。
そこへ、浅黒い肌から水をしたたらせながら、鎧《よろい》を失ったレグが這《よ》い上がってきた。
「サーラは?」
それがレグの第一声だった。ミスリルたちは顔を見合わせた。
「いっしょじゃなかったのか?」
「あたしより先に流されて行ったんだ。とっくに流れ着いてるはずだと……」
「見てないぜ……」
「そんな……」
レグはへなへなと砂利の上にへたりこんだ。四人はしばらく口がきけなかった。鳥のさえずる声がやけにしらじらしく聞こえた。
「『水中呼吸《ウォーター・ブリージング》』がかかってるんだ。溺《おぼ》れるはずがねえ……」ミスリルがかすれた声で言った。「たぶん途中のどこかでひっかかってるんだ……」
「でも――じきに魔法が切れる頃だろ?」
「俺、捜《さが》しに行く……」
ミスリルが夢遊《むゆう》病者のようにふらふらと立ち上がる。デインが慌《あわ》てて止めた。
「よせよ、お前、魔法の使いすぎで疲れてるんだろ?」
「だって、放っとけねえじゃねえか!」
「お前は休んでろ」レグが立ちあがる。「あたしが行ってくる」
「途中で魔法が切れたらどうするんだよ!? 俺が行くしかねえだろ!」
「馬鹿言え! お前、もう魔法を使う気力なんか残ってないだろうが!? あたしの責任なんだ。あたしが行ってくる!」
「私も……」
「フェニックス、あんた、泳ぎがへたじゃないか!」
「そんなこと言ってる場合じゃないわ!」
「だいたい、あの流れに逆らって泳ぐのは無理だ!」
四人がわいわい言い争っているところへ――
「何してるのー?」
陽気なサーラの声がした。
四人はびっくりしてその声の方向を見た。下流の方から、大きな袋を引きずって、サーラが元気に歩いてくる。泳ぎやすいように途中でブーツを脱《ぬ》いだので、裸足《はだし》だった。濡《ぬ》れた金髪が朝陽《あさひ》にきらめいて美しい。
「サーラ、お前……?」
「ほら、これ、拾って来たんだよ」
サーラが得意満面《とくいまんめん》に示したのは、キマイラの首を包んだ袋だった。
「これが流されてくのが見えたから、泳いで追いかけてたんだ。だいぶ下流の方まで行っちゃったよ。岸にデインたちがいるのはちらっと見えたけど、声かける暇《ひま》がなかったんだ。これを見失うとまずいと思って――」
「お前……」
「だって、これがないとお祖父《じい》ちゃんから報酬《ほうしゅう》がもらえないじゃない。でしょ?」
サーラの天使のような微笑《ほほえ》みを前にして、四人はすっかり虚脱《きょだつ》状態だった。
かなり下流まで流されて来たので、村に帰るのは半日がかりになりそうだった。保存食糧もほとんど流されてしまったので、腹ペコである。今日の夕食はかなり盛大《せいだい》なものになりそうだった。
レグの鎧《よろい》とフレイルの他にも、デインもハード・レザーの鎧と盾《たて》をなくしていたし、フェニックスも荷物を流されていた。かなりの損害である。幸い、彼らはサーラのおかげで無一文《むいちもん》にならずに済んだ。キマイラの頭を持ち帰れば四四〇〇ガメルの収入になる。新しい鎧や武器を買い直すのに充分な額だ。
「やれやれ、最後の最後でドジを踏んだか」
山道を歩きながら、デインは悔《くや》しそうに言った。行きよりもずっと荷物は少ないのに、肩をがっくり落とし、見えない重荷に打ちひしがれているように見える。
「しょうがないわよ」とフェニックスがなぐさめる。「こうして全員無事だったんだし、収入があっただけましだと思わなくちゃ」
「うむ。しかし、あの洞窟には二度と入れそうにない。ミスリルの精霊魔法でも、あの距離を流れに逆らって泳ぐのは無理だ……」
「残念だね。財宝が手に入らなくて」
サーラの何気ない吉葉に、四人がびくっと緊張《きんちょう》するのが分かった。
「財宝って……」
「隠《かく》さなくても分かってるよ。あのキマイラ、財宝を守ってたんでしょ? 後でもういっぺん出かけてって、取ってくるつもりだったんじゃないの?」
デインはまじまじとサーラを見つめた。
「どうしてそれを……?」
「あのグラスランナーの持ってた羊皮紙《ようひし》、家族への手紙なんかじゃなくて、財宝のことが書いてあったんじゃない?」
「……お前、字が読めたのか?」
「読めないよ。でも、ピンときたんだ。あの四人組、怪《あや》しかったもの。どう見ても冒険者なのに、そうでないふりしてさ。珍《めずら》しい花を探してるなんて嘘で、本当は財宝を探しに来たんじゃないかって、子供はみんな噂《うわさ》してたよ。だいたい、花を探してて洞窟に迷いこむなんて、変じゃない?」
「う……」
「みんなだってそうだよ。こんな辺《へん》ぴな村に冒倹者がぶらっとやって来るなんてさ。最初から財宝を探しに来たんじゃないの? それを村の人に知られると、キマイラ退治《たいじ》の報酬《ほうしゅう》がもらえないかもしれないから、いろいろ嘘ついてたんだ。さっきだって、僕が『何かここに大事なものでもあったのかな』ってカマかけたら、フェニックスが冗談《じょうだん》でごまかそうとしたじゃない」
フェニックスは無言で顔を赤らめた。
「やれやれ……」デインはため息をついた。「全部お見通しだったのか……」
「だいじょうぶ、村の人には秘密《ひみつ》にしとくから――でも、がっかりしなくても、あの四人が入った入口が、どこか別にあるんじゃないかな?」
「ああ、それがだめなんだ。あのグラスランナーの手紙に書いてあった」デインは歩きながら懐《ふところ》から羊皮紙を取り出した。すでにぼろぼろになっていた紙は、広げようとすると二つにちぎれた。
「これは何かの古文書《こもんじょ》を解読したものらしい。あの洞窟に古代王国の魔法使いが財宝を隠《かく》したと書かれている。入口は岩でうまく隠されてるけど、精霊魔法を使えば通り抜けられると書いてある――」
「……で?」
「そこまでだ。かんじんの秘密の入口の場所の手がかりを記した部分が、ぼろぼろでさっぱり読めない」
デインは苦笑して、その紙を丸め、草むらに投げ捨てた。
「――というわけで、財宝への道はまた謎《なぞ》になったわけだ」
「ごめんなさい。すぐ手の届《とど》くところにあったのに、僕がいたから取りに行けなくて……」
「気にすんな。財宝なんて世界中どこにでもあるさ」ミスリルがなぐさめる。「それよりサーラ、お前、すごい才能が眠ってるってことに気がついてるか?」
「才能?」
「そうそう」レグがうなずく。「この子、頭がよく回るよ。議論させたらデインでも勝てないじゃない? 勇気もあるし、機転もきくし……」
デインがちょっと驚いた顔をした。「丸一日で評価が完全に変わったんだな」
「まあね。この子に惚《ほ》れちまったってとこかな」
レグはそう言って、片手で少年の髪を乱暴に撫《な》でた。昨日まで嫌《きら》われていた彼女に絶賛されて、サーラはいい気分だった。
「ま、ひょろひょろしてて頼《たよ》りないのだけが難点だけどね」
「そりゃあ、子供だからな」とミスリル。「これから鍛《きた》えれば、いくらでも強くなるさ。いい教師が揃《そろ》ってることだし……」
「おいおい、ミスリル――」
「私も賛成」とフェニックス。「仲間が増えれば賑《にぎ》やかになるしね」
「おい、ちょっと待ってよ!」デインはすっかり慌《あわ》てていた。「勝手に話を進めるな! だいたい、子供が足手まといになるって言ったのは、レグ、君だぞ!」
「誰だって最初は誰かの足手まといさ」レグは肩をすくめた。「足手まといになるなら、ならないように教育してやればいい。違うかい?」
サーラは目を輝かせた。「僕、冒険者になれる?」
「たぶんな」とミスリル。「条件は揃ってるぜ。あとひとつだけを除いては――」
「何?」
「お前の自身の決意さ。冒険者になりたい、という意志だ」
「なりたい!」サーラは間髪《かんぱつ》を置かずに答えた。
「おーし、じゃあ条件は全部揃ったわけだな」
「わお!」
サーラは歓声《かんせい》をあげ、デインの腰に抱きついた。
「ねえデイン、ついて行っていいでしょ? ねえ?」
「……だめだ!」
デインは立ち止まり、振《ふ》り返りもせずに、きっぱり答えた。サーラは一転して絶望に突き落とされた。全員の非難の視線が彼に集中する。
「おい、デイン……」
「村の連中を説得するのが面倒だ。とりわけ、あの頑固《がんこ》そうな村長が許すとは思えない。考えてみろ。あなたのお孫さんを冒険者にしたい、とか言って、はいそうですか、とあの爺《じい》さんが答えると思うか?」
サーラは絶句した。「それは……」
「かと言って、こっそりつれ出すのも問題がある。僕たちが人さらいだと思われるからな。お尋《たず》ね者《もの》になるのはまっぴらだ」
「…………」
「――というわけで、サーラ」
デインは振り向くと、落ちこんでいる少年の肩に両手を置き、にっこり微笑《ほほえ》んだ。
「二週間ほどしたら、家出しろ」
「え?」
「僕たちは当分、ザーンの街《まち》にいる。普段は『月の坂道』という店に出入りしてるから、訪《たず》ねて来るといい。二週間も間を空《あ》ければ、僕たちがそそのかしたとは思われないだろう。君だって身の回りを整理したり、気持ちの決着をつけたりするのに、二週間ぐらい必要なんじゃないか? 長年|暮《くら》してきた村を、慌《あわ》ただしく逃げ出したくはないだろう?」
「デイン……!」
「言っておくが、つらい毎日だぞ。今回よりももっと恐《おそ》ろしい目に遭《あ》うことだってあるだろう。命を落とすかもしれない。それでもいいのか?」
「いいよ! みんなといっしょなら!」
熱い思いが胸にこみ上げてきた。人生で初めて体験する心からの感動だった。サーラは飛び上がってデインの首にしがみついた。
「大好きだ! みんな大好きだよ!」
嬉《うれ》し涙を流しながら、サーラはおぼろげに感じていた――今この瞬間こそが、自分の子供時代への決別であることを。長かった無為《むい》な時間は終わり、大人への階段を一段ずつ昇ってゆくのだ。
もう盗賊とグール≠ナ遊ぶこともないだろう。これからは遊びではなく、本物の怪物と戦い、本物の財宝を探して生きるのだ。ロブやダリオたちが自分たちの小さな世界の中で満足し、平凡《へいぼん》な大人になってゆく間に、彼らみんなを追い抜いてゆくのだ。つらく、危険に満ちてはいるが、普通の人間の何十倍も充実した人生――
冒険者としての人生がはじまるのだ。
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あとがき
[#地付き]山本 弘
僕《ぼく》は子供の頃から、音楽というやつが苦手でした。
小学校の音楽のテストで、先生がピアノをボーンと鳴らして、「はい、これは何度の和音ですか?」とか訊《たず》ねても、さっぱり分からないのです。ピアノの鍵盤《けんばん》を見ても、一オクターブの間に白いのが七つあるのに、なぜ黒いのが五つしかないのか、とても不思議でした。一オクターブごとに周波数が二倍になるというのは理解できるけど、じゃあどうしてその間を「七」なんて半端《はんぱ》な数字で割るのか、悩《なや》んでしまいます。八や六じゃだめなんでしょうか?(これは今でも謎《なぞ》です)
そんなわけだから、ベートーベンとかハイドンとかブラームスとか、偉《えら》い音楽家と呼ばれる人たちの曲も、ただただ退屈《たいくつ》なだけでした。何でクラシックで感動する人がいるのか、不思議でなりません。
その反対のロックとかも、さっぱりダメでした。そもそも英語が理解できないので、ほとんどの英語の歌は、僕にとって「騒々《そうぞう》しいメロディの上に意味不明の歌詞が重なっているもの」でしかないのです。
しかし、そんな僕にも理解でき、感動できる音楽があります。
それはアニソン・特ソン(アニメソング・特撮《とくさつ》ソング)です。
世の中には、こういうことを公言するのは恥《は》ずかしいと思っている人が多いと思いますが、それは間違いです。感動したことを、正直に「感動した」と言うのは、決しておかしいことではありません。「クラシックは高尚《こうしょう》だ」という世間の常識を気にして、理解できないクラシックを聴《き》いて感動したふりをしている人が多いはず。そんな卑屈《ひくつ》な態度《たいど》の方が、よっぽど変だと思いませんか?
この際、僕は公言します。「アニソンはいい!」と。
考えてみれば、歌というのは感情を表現し、多くの人に感動を伝えるものです。意味不明の歌詞を並べ、何を言いたいのかさっぱり分からない現代の歌は、歌本来のあり方から逸脱《いつだつ》しているのかもしれません。それに対し、ヒーローのかっこよさを明快に唄《うた》いあげるのアニソン・特ソンは、古代で言うなら英雄|叙事詩《じょじし》のようなもの。それだけ純粋な「歌」に近いと言えないでしょうか?
その証拠に、二〇年前の歌謡曲を唄う人はめったにいませんが、二〇年前のアニソンはよく唄われるではありませんか。戦中派の人たちが酔って軍歌(これも純粋に近い歌ですよね)を唄いだすように、僕らの世代には、アニソン・特ソンが心の故郷なのです。
ロボット・アニメの主題歌も、一時期は(番組の内容とぜんぜん関係ない)意味不明の軟弱なものが多かったんですが、『獣神ライガー』あたりから本来の路線に戻ってきたようで、嬉《うれ》しいかぎりです。ささきいさおや水木一郎に代わって、女性歌手が唄っているのが時代の流れでしょうか。最近では『絶対無敵ライジンオー』の主題歌 <ドリーム・シフト> が(<最後に愛は勝つ> に似てるのが難点だけど)大好きですね。
前ふりが長くなってしまいました。
この本は『ソード・ワールドRPG』(富士見書房)のシステムに基《もと》づいたファンタジー冒険小説です。世界背景はもちろんのこと、魔法の体系、モンスターの能力など、すべて『ソード・ワールド』のデータに準拠しています。
しかし、読んでいただければお分かりのように、そんじょそこらのゲーム小説とは、ひと味違います。主人公はスーパーヒーローではなく、王族でもなく、数奇な運命を背負っているわけでもありません。何の特殊能力もない、ごく平凡な一人の少年が、失敗を繰《く》り返《かえ》しながら一人前の冒険者に成長してゆくという、地味な地味なお話なのです。
そもそも漫画やジュブナイル小説における「冒険」とは、ほんの少し前まで、ごく普通の少年たちのものでした。『宝島』や『トム・ソーヤの冒険』から綿々《めんめん》とつらなる、少年冒険小説の系譜《けいふ》というものがあったのです。
それがいつの間にか、めちゃくちゃに強い戦士や、超能力者や、よく分からない「運命の星」の下に生まれた奴や、王子様王女様など、普通じゃない連中があふれかえるようになりました。悪役もそれに比例して強くなってきたため、いわゆる「悪役のインフレ」現象が発生しています。善対悪の戦いは、もはや平凡な人間の介入する余地がない、ひたすら派手なものになる一方です。
悪の大魔王を倒すことだけが「冒険」じゃない!
特権階級の手から「冒険」を取り戻せ!
それが僕がこの小説を思いついた動機です。強いスーパーヒーローが強い敵をやっつけるのは当たり前。ただの少年が知恵と勇気(最近、聞かれなくなりましたね、この言葉)をふりしぼり、危機を切り抜けてゆくからこそ、スリリングだし、楽しいと思うのです。平凡な少年にとっては、小さな洞窟に入って、ちょっとした宝物を取ってきたり、怪物を一匹倒すだけでも、ものすごい冒険なのです。
実はこの小説を書いている間、頭の中で鳴り響いていたアニソンがありました。『NG騎士ラムネ&40』の主題歌 <めざせ!1番!!> です。曲もノリがいいし、草尾毅さんの唄いっぷりもかっこいいんですが、何と言っても最高なのは歌詞です。あんなに素晴らしいフレーズは、なかなかお目にかかれるもんじゃありません。感動です。
この番組の歌はどれも素敵なものばかりです。EDの <男と女はパピプペポ> や <シアワセになるでんna> もいいのですが、挿入歌の <闘え!!キングスカッシャー> の迫力もすごい。これを聴きながら、「もし僕が若い女の子だったら、完全に草尾さんに惚れてるな」と思ってしまいました(あぶねー……)。
でも、この小説を書くにあたって、本当に僕が影響を受けたのは、『アイドル天使ようこそようこ』でしょう。あの番組は僕の人生観、変えちゃいましたからねえ。マジで。この年になってアニメに狂わされるとは、思ってもみませんでした。
いったいどのへんが『ようこ』の影響を受けてるのか? ストーリーや設定が似ているわけではありません。でも、僕と同じようにあの番組を見ていて、挿入歌 <君はオリジナル> に感動した人なら、きっと分かってくれるはず。
そう、キーワードは「夢」。この物語は、大きな夢を抱いた平凡な少年が、その夢を一歩ずり美現してゆくプロセスを描いたものなのです。
当たり前の人生なんてつまらない。他の誰とも違う、僕だけの人生を歩みたい――僕は子供の頃からずっとそう思ってきました。そして、ご覧のようにそれを実現したのです。だからサーラ君にはとっても共感してしまいます。
負けるな、サーラ! 君の未来は明るいぞ!
夢はかないます、はい!
[#改ページ]
キャラクター・データ
サーラ・パル(人間、男、11歳)
器用度《きようど》13(+2) 敏捷度《びんしょうど》12(+2) 知力11(+1) 筋力《きんりょく》8(+1)
生命力11(+1) 精神力10(+1)
冒険者《ぼうけんしゃ》技能《ぎのう》 なし
冒険者レベル なし
生命《せいめい》力抵抗《ていこう》力0 精神力抵抗力0
武器:ダガー(必要筋力4) 攻撃《こうげき》力0 打撃《だげき》力4 追加ダメージ0
盾《たて》:なし 回避《かいひ》力0
鎧《よろい》:クロース(必要筋力1) 防御《ぼうぎょ》力1 ダメージ減少0
言語:(会話)西方《せいほう》語
(読解)
デイン・ザニミチュア(人間、男、26歳)
器用度15(+2) 敏捷度17(+2) 知力17(+2) 筋力12(+2)
生命力13(+2) 精神力19(+3)
冒険者技能 ファイター3、プリースト3(チャ=ザ)、セージ4
冒険者レベル 4
生命力抵抗力6 精神力抵抗力7
武器:レイピア(必要筋力12) 攻撃力5 打撃力12 追加ダメージ5
盾:バックラー(必要筋力1) 回避力6
鎧:ハード・レザー(必要筋力12)防御力12 ダメージ減少4
魔法:神聖《しんせい》魔法《まほう》(チャ=ザ)3レベル 魔力5
言語:(会話)共通語、西方語、下位《かい》古代語《こだいご》、エルフ語、ゴブリン語
(読解)共通語、西方語、下位古代語
フェニックス(ハーフエルフ、女、?歳)
器用度18(+3) 敏捷度20(+3) 知力20(+3) 筋力12(+2)
生命力13(+2) 精神力15(+2)
冒険者技能 ソーサラー4、バード1、セージ2
冒険者レベル 4
生命力抵抗力6 精神力抵抗力6
武器:メイジ・スタッフ(必要筋力10)攻撃力1 打撃力15 追加ダメージ0
盾:なし 回避力0
鎧:ソフト・レザー(必要筋力7) 防御力7 ダメージ減少4
魔法:古代語魔法4レベル 魔力7
言語:(会話)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語、エルフ語
(読解)共通語、西方語、下位古代語、上位古代語
ミスリル(エルフ、男、34歳)
器用度19(+3) 敏捷度21(+3) 知力18(+3) 筋力8(+1)
生命力9(+1) 精神力16(+2)
冒険者技能 シャーマン4 シーフ3
冒険者レベル 4
生命力抵抗力5 精神力抵抗力6
武器:ダガー(必要筋力4) 攻撃力6 打撃力4 追加ダメージ4
盾:なし 回避力6
鎧:ソフト・レザー(必要筋力4)防御力4 ダメージ減少4
魔法:精霊魔法4レベル 魔力7
言語:(会話)共通語、西方語、エルフ語、精霊語
(読解)共通語、西方語、エルフ語
レグディアナ(人間、女、19歳)
器用度19(+3) 敏捷度13(+2) 知力12(+2) 筋力21(+3)
生命力19(+3) 精神力14(+2)
冒険者技能 ファイター5 レンジャー3
冒険者レベル 5
生命力抵抗力8 精神力抵抗力7
武器:ヘビー・フレイル(必要筋力21)攻撃力7 打撃力31 追加ダメージ8
盾:なし 回避力6
鎧:プレート・メイル(必要筋力21)防御力21 ダメージ減少5
言語:(会話)共通語、西方語
(読解)共通語、西方語
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
ソードワールドノベル ヒーローになりたい! サーラの冒険@
平成3年12月20日 初版発行
平成6年6月30日 十一版発行
著者――山本《やまもと》 弘《ひろし》