華麗なる一族 中巻
山崎豊子
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一 章
新橋の料亭『金田中』の庭は雨に濡《ぬ》れ、植込みの間に置かれた石燈籠《どうろう》の灯《あか》りが、けぶるような淡い光をにじませている。
万俵《まんぴよう》大介は、娘婿《むすめむこ》の美《み》馬中《まあたる》と座敷の広縁に坐《すわ》り、永田大蔵大臣が現われるのを待ちながら、運ばれて来た抹茶《まつちや》を啜《すす》り、静かな庭の風情《ふぜい》を賞《め》でていたが、胸中ではこれから永田大臣と話し合う内容について思いをめぐらせていた。
襖《ふすま》の外に足音がした。
「大臣でしょうか――」
美馬が振り向くと、結城《ゆうき》の着物をきりっと着こなした女将《おかみ》が姿を見せた。
「本日はお揃《そろ》いで有難うございます、只今《ただいま》、秘書官からお電話がございまして、大臣は今、国会が終られたところで、これからお出ましになるとのことでございます、もう一服、お持ち致しましょうか」
「いや、これで充分――、それより庭の手入れが行き届いているね、松の樹《き》の雨滴《あまだ》れのたれ方で、葉刈りの工合が解《わか》るよ」
「何よりも嬉《うれ》しいお褒《ほ》めにあずかり、有難うございます」
女将がそう云《い》い、座敷を退《さが》って行くと、万俵は、
「中君、君は第三銀行の瀬川《せがわ》副頭取と田淵《たぶち》幹事長との黒い繋《つな》がりを、ほんとうに知らなかったのかねぇ」
じっと美馬の顔色を読むように云った。庭石へ眼を遣《や》っていた美馬は、不意を衝《つ》かれたような表情で、
「そりゃあ、全く知らないことでもありませんでしたよ、しかし……」
「しかし、なんだというのかね、私が第三銀行を合併相手として狙《ねら》っているのを知っていながら、第三銀行の体質そのものにかかわる重大な情報を、どうしてもたらしてくれなかったんだね、娘婿としての君とのつき合いは随分になるのに、姻戚《いんせき》関係を結んでまだ半年にもならない安田太左衛門氏から知らされて、周章狼狽《ろうばい》するのでは、やりきれない」
「いやですねぇ、それじゃあ、まるで私が知っていながら、わざと知らない振りをしているようで――、私にしてみれば、私がおすすめした平和銀行を頭から撥《は》ねつけられ、何が何でも第三銀行をと云われた限りは、当然、瀬川副頭取のこともご承知の上だと思っていたわけで、今さらそんな風に云われては、心外ですよ」
鼻にかかった声で、抗弁した。
「君にしては、珍しく下手な云いわけじゃないか、背後に、田淵幹事長が随《つ》いているような銀行と、当行が合併することなどあり得るはずがないのは、誰よりも、君が一番、よく承知しているだろう」
「ですから、そこは瀬川副頭取を排除するような手段を、それこそ永田大臣と相談して講じられるものとばかり――」
美馬はなおも云いかけ、不意に薄い唇の端に笑いを滲《にじ》ませた。
「お舅《とう》さん、実は瀬川副頭取と田淵幹事長の癒着《ゆちやく》ぶりは、永田大臣の田淵攻略資料の中にあって、ずっと伏せられて来たもので、下手に僕なんかが喋《しやべ》れない問題なんですよ、こう申し上げれば、僕に対する妙なお疑いも解いて戴《いただ》けるだろうし、これからの永田大臣とのお話の一つのヒントになると思いますが、いかがですか」
謎《なぞ》めいた云い方をした。そんな時の美馬は、女のようにねっとりとしたもの腰の中に、はっとするような冷たさを感じさせる。
「なるほど、すると、この問題は相当、根深そうだな、それで永田大臣は――」
万俵が云いかけた時、からりと襖が開き、永田大蔵大臣が入って来た。
「これは大臣、ご多忙の中をどうも――」
万俵が威儀を正して迎えると、永田大臣は、床の間を背にして坐り、
「どうも、国会対策委員会が遅れて、失礼したようですな」
三十分ほど遅れたことわりを云い、座敷机を挟《はさ》んで万俵と向い合った。たっている時は、背が低く、痩《や》せている上に、色が黒く、一国の大蔵大臣にしては風采《ふうさい》が上らなすぎたが、坐って向い合うと、長身で銀髪端正な万俵にひけをとらない威風が備わり、三白眼《さんぱくがん》が一層、凄味《すごみ》を帯びる。その眼で永田大臣は、末座に坐っている美馬を見、
「なんだ、今日は、君も同席なのか」
「はあ、舅《おやじ》がたまには一緒に大臣にご挨拶《あいさつ》申し上げるようにと申しますので、ちょっと参上致しました次第で、九時半から深夜まで、まだ局議がありますから、すぐに失礼します」
美馬は両手を膝《ひざ》の上に置き、畏《かしこ》まった。
「しょっちゅう、顔を合わせているのに、改まってご挨拶でもないだろう」
永田がおしぼりで顔をぬぐいながら、ずけっとした云い方をすると、美馬はさらに恐縮するように姿勢を改めた。日頃の美馬とは全く別人のような畏まり方で、派閥のボスに対する仕え方は、一通りではない。
「こんばんは」
賑《にぎ》やかなお座敷の挨拶とともに、日本髪に結いあげた五人の芸者が、裾《すそ》をひいて、入って来た。座敷がぱっとあでやかに彩《いろど》られ、万俵は運ばれて来た銚子《ちようし》を取って、
「まず、ご一献《いつこん》――」
永田大臣に酌をした。永田は一気に干すと、万俵に返盃《へんぱい》し、あとは芸者たちの酌になった。
「大臣、先月、東洋経済新聞の“わが自叙伝”シリーズに、連載された半生記、大へん興味深く拝見させて戴きましたよ、特に故池山総理の経済政策に楯《たて》ついて野《や》に下り、節を押し通されたあの頃の回想部分は、当時、美馬と時たま、伺って存じ上げているだけに、感無量の思いが致しました」
万俵が感じ入るように云うと、横から美馬が、
「あの頃、僕はまだ銀行局の若輩に過ぎませんでしたが、われわれの卒業年次で、大蔵省入りを志した者は、当時、秘書課長をしておられた永田大臣の面接を受けたのですよ、同じく私たちの前年度と前々年度に永田秘書課長に面接を受けて大蔵省に入った春田局長たちと、“永田学校”を自称し、勉強会をやって大いに気を吐いていました、それだけに大臣が野に下られた時は、ほんとうに無念で、永田町界隈《かいわい》の飲屋に集まって、財政理念のない池山政策をこきおろしたものです」
懐《なつ》かしむように云ったが、万俵にとっては、あの当時は、薄氷を踏む思いであったことも確かだった。故池山総理は、永田の資金パイプをずたずたにするために、永田に献金している企業に対して、国税その他で厳しい態度を取ったからで、阪神銀行は、神戸に本店を置いてあまり目だたないとはいうものの、いつ、抜打ちの特別金融検査をかけられるかと、夜も眠られぬ時期があったのだった。
「確かあの頃だったな、君の生家の破れ寺に一時、籠《こも》っていたのは――」
永田大臣は、料理に箸《はし》をつけながら、美馬を顧みた。同じ茨城県人であったところから、一時、永田が身を隠さねばならなかった時、美馬の生家の寺に住まったのだった。
「そうでした、あの時、大臣は僅《わず》か一カ月で法《ほ》華経《けきよう》を暗記されてしまい、さすがは――と、母や兄が驚いていましたよ」
美馬が云うと、
「あら、ナーさま[#「ナーさま」に傍点]が、お経を? ほっほっほっほっ」
永田大臣が贔屓《ひいき》にしている若い美妓《びぎ》が、ころころと笑い出した。
「なにがそんなに可笑《おか》しいんだ、桃太」
まだ二十《はたち》そこそこの水蜜桃《すいみつとう》のようなみずみずしい肌をした芸者に、永田が眼を細めると、
「だって、よくお似合いだもの、いっそ大蔵大臣なんかおやめになって、お坊さんになったら――」
一座に笑い声がたった。
「相変らず、桃太は口の悪い奴《やつ》だ、そんなに云うなら、なってやらぬこともないが、そのかわり桃太、お前も尼になって随いて来るか」
永田大臣はそう云い、桃太のまるい肩を抱き寄せると、
「大臣と桃太ちゃんの出家道行きとは、これまた乙《おつ》なものね、桃太ちゃん、是非、そうなさいな」
年増《としま》の姉芸者が合の手を入れ、一しきり座が沸《わ》いた後、美馬がしお時を見はからい、
「じゃあ、私はこの辺で、失礼させて戴きます」
と席をたつと、芸者たちも、すうっと席をはずした。
広い座敷に永田大蔵大臣と万俵大介だけになると、しんとした部屋は雨の音と遠くの座敷の騒《ざわ》めきが聞えて来るだけで、密室のような静けさが、二人をおし包んだ。
万俵は、その静けさを破るように銚子を取って、永田大臣の盃《さかずき》に注《つ》ぎ、
「大臣、第三銀行と平和銀行の合併は、お認めになるおつもりですか」
直截《ちよくせつ》に、今夜の話題に入った。
「ああ、あれねぇ」
永田は至極、あっさりと応《こた》えて盃を干し、
「私のところへは、両行ともまだ正式に願い出て来てないんだが、規模もつり合っているし、本店が東京と大阪で店舗の補完性もまあまあだし、形の上では割にいい組合せじゃないかねぇ」
と云うと、ふうっと息を吐いて、脇息《きようそく》に寄りかかった。その人を食った尊大な態度に万俵はむっとし、
「しかし、大臣、そんなに簡単に認めて戴いては、困りますねぇ」
今年の春先、この同じ『金田中』で、“小が大を食う”合併の意図をほのめかし、永田大臣の協力方《がた》を頼み、永田も暗黙裡《り》に諒承《りようしよう》したことを忘れて貰《もら》っては困るというニュアンスを籠《こ》めて云うと、
「困ると云われても、双方、合意の上で合併したいと云っているのなら、仕方がないじゃあないですか」
永田は、掌《たなごころ》で空になった盃をもてあそびながら、三白眼に薄笑いをうかべた。その表情で万俵はぴんときた。永田が両行の合併に賛成でないことは、これまで美馬や芥川《あくたがわ》からもたらされた情報でほぼ明らかだが、万俵の前ではわざとそう云い、すぐに話に乗って来ないのは、この“商談”の大きさをまず万俵に悟らせ、あとの“勘定”の桁《けた》をとくと認識させるためらしい。それが解ると、万俵はかえって気持に余裕が出来た。
「大臣、合併をお認めになったあとで、両行のどちらかから、妙な問題が出て来て、揉《も》めごとが起るようなことになると、それこそ金融界全体の再編成促進ムードに水をさし、大臣もお困りになるのではありませんか」
意味ありげに云い、第三、平和銀行の合併つぶし作戦の口火をやんわりと切った。
「妙な問題――、そりゃあどっちの銀行のことなんですかねぇ」
永田大臣は、別に表情を動かすこともなく聞き返した。
「むろん、ご名門の方ですよ」
第三銀行とは云わず、名門銀行という云い方をし、
「あそこの日本橋支店で最近、いかがわしい融資が行なわれていることを耳にしたのですが、大臣はお聞き及びじゃあないですか」
「それなら、小耳に挟んだような気もするが、何しろここ最近、忙しくてねぇ、どういうことだったかなぁ」
とぼけ面《づら》で云った。自分の方に喋らせるつもりだなと、万俵は感じ取ると、
「丸橋《まるばし》某という一介の総会屋に対して、この二年間に、三億五千万にのぼる不正融資が行なわれているというのです、二年間に三億五千万といいますと、われわれの常識として、これは一支店の支店長が単独に決裁出来る額をはるかに超え、上層部の特別命令融資に属することは一目瞭然《りようぜん》です、名門の誉れ高い銀行が、どうしたことかと不思議に思っていますと、副頭取が女性問題でこの総会屋に脅され、口止料がわりに出したのが、そもそもの融資の始まりだということらしいですがねぇ」
自らは妻妾《さいしよう》同居の生活を営みながら、芥川が調べ上げたことを平然と話すと、永田大臣は、脇息から体を起し、
「瀬川の女というのは、この新橋界隈の仲居のことだろう――、芸者ならともかく、仲居とは罪深いよねぇ、万俵さん」
永田は、にやりと笑った。万俵は内心、ぎくりとしたが、相子のことなど知られようはずがなかったから、落着き払い、
「大臣はやはり、ご存知だったのですか、しかし、この不正融資は、単なる女性問題で脅されて、ずるずると今日まで続いて来たにしては、額が大きすぎるようですが――」
「うむ、零《ゼロ》が一つ多過ぎる感じかな」
「ということは、この副頭取の不正融資の背景には、もっと根深いものがあるということではないでしょうか、聞くところによれば、瀬川副頭取と田淵幹事長とは、相当、深いおつき合いがあるんだそうですねぇ」
さっき、美馬が、田淵と瀬川の癒着関係は、永田大臣の田淵攻略のための資料の中でも、まだ使わずに伏せられている問題で、大臣との話合いでこの線を押してみたらと云った言葉を思い出し、さらに一歩、踏み込んだ。
「深いつき合いというと、例えば?」
永田は軽くいなすように云ったが、万俵がどの程度、知っているかを、探るような問い返し方であった。このあたりに、いかにも官僚出身の政治家らしい狡猾《こうかつ》さがある。
「私の方がさる消息筋から聞いたところによりますと、この間の総裁選一つを例にとっても、その資金調達を受け持った田淵幹事長のもとへ、第三銀行から政治資金が流れ、幹事長は大いに点数をあげたということではないですか、それから察すると、田淵幹事長に対する献金額は相当なもので、丸橋某への疑惑融資の大半は、田淵幹事長のところへ吸い上げられているとも聞いています、もし仮に、そうしたことが事実だとすれば、これは銀行自体の体質にかかわる由々しい問題ではないでしょうかねぇ」
「結構ご存知じゃないですか、しかし、鎌倉のあの男のことまでは、まだ調査及ばずのようですね」
三白眼をちかっと光らせて、云った。万俵は、とっさにわが耳を疑い、驚愕《きようがく》で動悸《どうき》がするのを覚えた。“鎌倉のあの男”というのは、いまだかつて、その名前も顔も、国民の前には一度たりとも現わしたことがなかったが、日本の政治、経済、言論を陰で操る黒い人物のことであった。
「第三銀行には、鎌倉のあの男まで絡《から》んでいるのですか、ではもっと克明に調査すれば、三億どころの額ではすまないでしょう」
万俵は、ようやく呼吸を整えてから云った。
「そりゃあ、そうでしょうな、この間、検察庁の某幹部と会ったら、田淵―鎌倉のあの男―瀬川―第三銀行は、日本の黒い山脈の主峰とか云ってましたよ、はっ、はっ、はっ」
永田は乾涸《ひから》びた笑い方をした。“検察の永田”と云われ、検察庁を握っている永田だけに、その笑いは不気味で、この事件で政敵、田淵を叩《たた》こうとしている心中を読み取った万俵は、永田の言葉に今、乗りかかるチャンスだと見た。
「大臣、当行としては、第三と平和の合併を、何としても阻止したいのです、大臣としても、ご異存ないのではないでしょうか」
ひたと永田の顔に眼を当てた。永田は、
「三億五千万円の不正融資が、第三銀行の黒い体質と繋《つな》がる奥深いものであれば、大蔵省としては、そんな問題をはらんだ銀行の合併を不用意に推進するわけにはいかないが、かと云って、銀行を監督指導する立場にある大蔵省が、これを天下に公表するわけにはいかないからねぇ」
上眼遣いに云った。その途端、万俵は、永田がこの問題を何らかの形で表沙《おもてざ》汰《た》にすることを望んでいる意図を感じ取った。
「ごもっともです、まさか、大蔵省がこんなことを……、なんなら当行独自の判断でやらせて戴きます」
永田の意図を忖度《そんたく》するように云うと、永田は返事の代りに自ら銚子を取って、万俵の盃に注いだ。
「これは大臣、恐縮です――」
万俵は恭《うやうや》しく受けると、すぐ返盃した。万俵にとっては、第三銀行の不正融資を世間へ“表沙汰”にすることは、第三、平和の合併を阻止し、自行に有利な合併を推進させるためであり、永田にとっては、政敵、田淵に対する揺さぶりになる。いわば利害の思惑が一致した者同士の乾杯であった。
高須相子は、窓際《まどぎわ》の椅子に坐って、中庭を隔てて見える英国大使館の雨に濡《ぬ》れ、鬱蒼《うつそう》とした夜の樹立《こだち》を眺めながら、ここ一週間のことを思い返していた。
六日前の夜、赤坂のナイト・クラブで踊った時の美馬の体の感触を思いうかべると、かすかな昂《たかぶ》りさえ覚える。スロー・テンポの曲に合わせて、体をぴったりと重ね合せ、緩く揺さぶるようにステップを踏む美馬の踊り方は、万俵大介には感じられない官能的な甘さがあり、相子は思わず自分を見失いそうになる戸惑いを、抑えたのだった。美馬も同じ思いらしく、強く抱き寄せ、口づけしかけた顔をつと仰向け、手を緩めた。双方の立場と齢《とし》が、辛うじて二人を感情の溺《おぼ》れから、怜悧《れいり》な打算の方へ導いたのだった。
美馬にとって、万俵は出世のためのかけがえのない金蔓《かねづる》であり、相子にとっても、万俵大介は、齢の点を除けば、社会的地位、資産、家柄ともに、美馬より遥《はる》かに優れた第一級の人物であることが、二人をそれ以上の関係になることから救っているのだった。しかし、銀のスプーンをくわえて生れて来たような万俵家の人々の中で、自分たちだけが中流家庭に生れ、自らの力で生きて来たという共感は、相子と美馬の心の奥底に流れている。それだけに、そのあとの日曜日、五井地所の安田社長夫人から持ち込まれていた二子《つぎこ》の縁談を、角《かど》がたたぬように断わるために、茅《ち》ヶ崎《さき》へゴルフに出かける時、美馬も一緒に行ってほしいと誘うと、快く承知したのだった。しかし、それも二子の縁談の断わりというのは口実で、日曜日を一緒に過したかったせいかもしれない。
門の方でクラクションの音がし、邸内に入って来る車の音がした。万俵大介の帰邸であった。相子は急いで部屋を出、玄関へ出迎えた。二人の書生と管理人夫婦も既に出迎えている。
「お帰り遊ばしませ――」
相子は、傍《そば》にいる書生たちを意識し、女執事然とした恭しさで云った。
「うむ、ご苦労――」
万俵も女執事に対するように応え、玄関のホールへ上りながら、書生の一人に、
「どうだね、その後、君のお母さんの病気の工合は?」
「有難うございます、この間の土、日曜日に帰郷させて戴《いただ》き、その上、御見舞まで頂戴して、頭取のお気持のほどに、母は涙を流しておりました」
心から感謝するように頭を下げた。
「そりゃあよかった、姫路は今頃、紅葉できれいだろうな」
書生たちは、万俵家の郷里である姫路から東京の大学で学ぶために出て来ているのであった。そうした書生たちの眼をあざむくためにも、東京の行邸《こうてい》における万俵は、相子に対してはよそよそしい。
書生たちから、留守中の電話の連絡事項を聞き終えてから、相子に向って聞いた。
「先日来、依頼しておいた二子の縁談の件は、うまく捗《はかど》っていますか?」
「はい、ご指示通り、まず五井地所の安田社長夫人に、鄭重《ていちよう》に先日のお縁談《はなし》をご辞退申し上げ、改めて当方の希望をお願い申し上げております」
「それでは、早速とその報告を聞かしてくれますか」
どこまでも曾《かつ》て子供たちの家庭教師であった人に対する言葉遣いであった。応接室に入ると、相子は、テーブルを隔てて下座《しもざ》に着いた。
「で、当方の希望している縁談の、だいたいの心当りはつきましたか?」
「はあ、こちらの希望の線に添って、只今《ただいま》、佐橋総理のご親戚《しんせき》関係で、齢恰好《としかつこう》、その他、似つかわしい方をお願い致しております、先日、茅ヶ崎へ参りましたのもそのためで、五井地所の安田社長夫人へのお断わりの意味だけでなく、安田夫人のゴルフのグループに、総理夫人の又従姉妹《またいとこ》にあたる夫人がいらしたものですから、その方へのお近付きの意味もあって、ご一緒させて戴いたのでございます」
「なるほど、早速にことが進み、何よりです、じゃあ、このあと、さらにスムーズな進行を頼みますよ」
それだけ云うと、すぐ席をたち、
「じゃあ、もうお寝《やす》み、ご苦労だった――」
書生や管理人夫婦たちにも聞えるように云い、眼で、
「あとで――」
と相子に囁《ささや》きかけ、さっさと二階の寝室へ上って行った。
各室の灯りが消え、廊下の灯りもほの暗くなり、邸内が静まりかえると、万俵の寝室の扉《ドア》が開いた。
スーツのままの相子であった。その顔は一週間ぶりに抱かれる体の昂りに紅潮している。手早く服を脱ぎ、万俵のベッドに滑り込んで、
「いつもながら、お見事な演技ですこと、あれでは書生たちも、すっかり騙《だま》されますわ、ふ、ふ、ふぅ」
可笑《おか》しそうに笑うと、
「相子だって、たいした演技力じゃないか、二子の縁談はほんとうにさっき云った通りに運んでいるのかい」
相子の体を抱き寄せながら云った。
「ええ、もちろん、ほんとうのところは総理夫人の甥御《おいご》さまに適齢期の方がいらっしゃるそうなので、この間、総理秘書官から銀行課長になられた井床《いどこ》さんに、美馬さんから当って戴こうと思っておりますの、それだけに美馬さんにも、総理夫人の又従姉妹で、世話好きの外交官夫人と面識を持って戴く意味で、この間の茅ヶ崎にはご一緒して戴きましたのよ」
「なに、美馬が一緒だった?」
愛撫《あいぶ》している万俵の手が、止まった。
「ええ、その方が何かと心丈夫ですもの、第一、私は外ではどこまでも万俵家の女執事の域を出ることが出来ませんし、その点、美馬さんならご長女の娘婿《むすめむこ》でいらっしゃるし、ハンサムで、ご夫人たちの扱いも心得ていらっしゃるから、好都合でございましたわ」
相子はそう云いながら、瀟洒《しようしや》とした長身の美馬がきれいなポーズでクラブを振り、時々、しゃれたジョークで夫人たちを笑わせては、思わず夫人たちに溜息《ためいき》さえつかせる女扱いの巧みさを思い出していたが、万俵は、最前の『金田中』の席で、美馬が、茅ヶ崎へ行ったことを口にしなかったことにこだわった。
「なるほど、美馬なら、そうしたことにも、大いに役だつだろう、しかし、大蔵官僚ともあろうものが、いくら日曜日だといっても、ご夫人連のゴルフのお伴《とも》などとは、恰好のいいものじゃないねぇ」
「あら、どうしてそんな風におっしゃいますの? 美馬さんのおかげで、何かとことが円滑に運んでいるんじゃありませんか、しかも二子さんのためでございますよ」
「そうかい、すべて二子の縁談のために、動いているというのかねぇ、あの男が――」
万俵は、長女の一子《いちこ》が、嫁いで半年もたたぬうちに、結婚前から続いている美馬の女の問題で実家《さと》へ帰って来たことを思い出していた。そういう女たらしの美馬と、女ざかりの豊満な肢体を持った相子の取り合せが、大介の心の中で猜疑心《さいぎしん》をもって膨《ふく》れ上り、ふと亡父と妻の寧子《やすこ》に対する猜疑の思いまでが、重なり合って万俵の胸を掠《かす》めた。馬鹿《ばか》な! 万俵は、首を振り、
「一週間ぶりだな」
と云うなり、荒々しく相子の体を抱き、首筋から豊かな胸にかけて唇を捺《お》しつけた。みるみる豊満な相子の体が汗ばみ、声をおし殺して喘《あえ》いだ。そうした相子の肢体を娯《たの》しむように万俵はさらに愛撫し、自在に扱いながら、相子の耳朶《じだ》に囁いた。
「相子、二人のこういうことは……誰にも知られてはいけない秘密だ、いいね……」
相子は体をくねらせながら、
「どうしてそんなこと……今さら……」
「いや、別に……ちょっと……念を押しただけだ……」
そう云い、さらに濃厚な情事に溺れながら、万俵はさっき、永田大臣と話した第三銀行の瀬川副頭取の女のことを思い返した。そして、瀬川を、馬鹿な奴《やつ》だと思った。自分のように相子を四六時中、傍《そば》におきながら、女執事然とした構えで、周囲からいささかも疑われずに押し通している者がいる一方では、新橋の仲居などにひっかかって、総会屋に脅されて不正融資に追い込まれるような愚かな者もいる。銀行家《バンカー》には、他人の金を扱っているという自他から来る厳しい規制があり、その規制がともすれば、自然な人間の欲望を抑圧し、歪《ゆが》め、隠花植物のようなじめじめした欲求をもたらせることがあるが、それを用意周到な方法で処理し、絶対、世間に知られぬようにするのも、また銀行家《バンカー》というものだ。自分は過去十数年間、そして今後も、細心の注意を払って、いささかも私生活の疑問を感じさせない冷厳公正なる頭取で押し通して見せる。そう思うと、万俵は、開ききった相子の体を強く締めつけながら、咽喉《のど》もとに隠微な笑いを溜めた。
翌朝、車は九時十分に、馬場先濠《ぼり》に面した阪神銀行東京支店に着いた。
「頭取、お早うございます」
秘書が玄関まで出迎え、エレベーターの中でその日の日程を報告した。万俵はいちいち頷《うなず》いていたが、頭の中は、昨夜の永田大臣との話しか考えていなかった。
エレベーターを降り、奥まった頭取室へ足を向けると、芥川が待ち受けていたように頭取室へ入って来た。
「昨夜の大臣との会談は、いかがになりましたか?」
「昨夜の商談は、大きかった、第三銀行の不正融資の背後に、“鎌倉のあの男”が繋がっていたのだよ」
と云うと、芥川は一瞬、言葉を跡切《とぎ》らせた。齢の頃、六十二、三歳にもかかわらず、頭髪を染めているのか、髪はあくまで黒いオールバックで、虫も殺さぬ紳士然たる風貌《ふうぼう》でいながら、暮夜ひそかに大企業の経営者や実力政治家を思いのままに鎌倉の自宅へ呼びつけ、日本の政財界のダーク・サイドは、彼を中心として動いているといわれるほどの黒幕的人物であった。
「どうした、君の調査にも鎌倉の男のことはなかったな」
「はあ、まさか、そこまで奥深いものとは……、一介の総会屋が、女のことで第三銀行の副頭取を脅迫した、その不正融資の裏を洗って行くと、融資の大半が田淵幹事長に流れ、しかも鎌倉の男が糸をひいていたとは――」
信じられないように云うと、
「そんなことは、もはやどちらでもいい、それよりここまで来れば、出来るだけ早く第三銀行の三億五千万円の不正融資を、“表沙汰”にして、第三と平和の合併をつぶすことだ」
「と云いますと、新聞に書かすことですね」
「そうだ、新聞に一回、書かれただけでは、つぶれはしまいが、まず新聞に書かせることだ、書かれたことによって、相撲でいえば、土俵に呼び上げられたことになり、あとは勝手に動くじゃないか」
「しかし、一つ間違えば――」
芥川は、鎌倉の男の存在を怖《おそ》れるように云った。
「解《わか》っている、相手が相手だけに、下手をすれば、こちらが火の粉を浴びんとも限らない、しかしそこをいかにかすり傷程度におさえるかというのが、君の力量じゃないか、そのために、これという社の、これという記者に、普段のつき合いもしてあるんじゃないか」
そう云い、万俵はぷかりと葉巻をくゆらした。
「書かすとなると、どこの新聞という選定になるが、君の意見は?」
「それは、まず全国紙であること、次に関東系の新聞にするか、関西系にするかですが、第三銀行は、東京に本店を持つ銀行ですから、書かすとなると、関西に本社を持つ全国紙、さしあたり毎朝新聞というところでしょう、その辺にしておくと、まさか阪神銀行などとは思わず、関西の上位二行のいずれかが密告《さ》したという風に取られますでしょう」
「あとは、その持って行き方だな」
万俵は、芥川のやり口を試すように云った。
「その辺のところは、何しろ腕ききの経済記者相手ですから、さり気ない日常の情報交換の中に織り込んで、大きなやま[#「やま」に傍点]があるなと悟らせるような話の持って行き方をせねばなりませんが、それは後程《のちほど》、細かく詰めます」
芥川は成算あり気に云い、ふと声を細めた。
「こうしたことはすべて、大臣のご指示によるものなのでございましょうね」
「あの人が、ストレートにそんな指示など出すものかね、こちらが大臣の胸中をかくあらんと“忖度《そんたく》”する立場だよ」
「そうしますと、大臣のご意向は、いくら第三銀行に不正融資の事実があっても、まさか大蔵省から進んで、天下に“公表”するわけにはいかないから、そちらでうまくやれというわけですね」
「まあ、そんなところだ――」
第三銀行の不正融資を公表し、第三、平和の合併をつぶすことは、阪神銀行の有利な合併のための阻止であり、永田大蔵大臣にとっては、政敵、田淵幹事長の資金パイプに対する大きな揺さぶりになる。
もはや芥川の胸にも、万俵の意図が手に取るように解り、あとは自分の配下の忍者部隊を指揮し、マスコミを利用したつぶし作戦を成功させることであった。
「では早速、つぶし作戦の実施にかかります――」
「これまでマスコミ関係にかけておいた保険が、かけ捨てにならぬようにやって貰いたいものだね」
万俵は、釘《くぎ》をさした。
「私も、保険のかけ捨ては嫌いでございますから、今までかけた保険をこの際、一挙に回収致すつもりでございます」
東京事務所長らしい自信をもって応《こた》え、頭取室を出かかると、
「芥川君、永田大臣の意図を忖度したつぶし作戦と同時に、田淵幹事長への保険つなぎも忘れんで貰いたい」
とつけ加えることを万俵は、忘れなかった。
「もちろん、田淵幹事長へも、盆暮の挨拶《あいさつ》はぬかりなくしておりますが、近々、何か口実をもうけて、ご挨拶に参上しておきます」
芥川は、そう応え、
「頭取、永田大臣の芦《あし》ノ湖《こ》の別荘の方のお手伝いは、どの程度、なさるおつもりです?」
「そうだねぇ、庭石一つでもお手伝い、茶室一つでもお手伝いということになるが、今度の第三銀行のつぶし作戦の片棒を担《かつ》いで貰っていることを考えると、かなりの腹づもりをしなきゃあね」
と云うと、万俵はもう秘書課を呼び出すインターフォンを押し、約束の時間よりもう二十分も遅れている午前の第一番目の来客を、案内するように云った。
芥川は、頭取室を出ると、総務課へ足を向けた。
朝のミーティングが始まるところらしく、総務課長の黒井をはじめ、大蔵担当の伊佐早《いさはや》五郎、日銀担当の冠収《かんむりおさむ》、同業の金融とマスコミ担当の平松雲太郎の四人が、それぞれ収集して来た情報の整理をしていた。芥川は、そうした銀行忍者たちの動きをじっと眼で追いながら、マスコミ担当の平松雲太郎の背に、ぴたりと視線を止めた。
所長室に戻ると、芥川は昂《たかぶ》った気持を静めるために、煙草《たばこ》に火を点け、大きく煙を吐いた。
万俵の前では、成算ありげに引き受けたものの、具体的なことを進めて行く筋だてを考える段階になると、田淵幹事長のみならず、“鎌倉のあの男”まで介在している事件だけに、もし、阪神銀行が密告《さ》したことが発覚すれば、それこそ、どんな返り血を浴びるかわからない。
だとすれば――、芥川はまだ半分も喫《す》っていない煙草を灰皿に捨て、二本目に火を点けながら、考えた。万俵のもとを辞したあと、“忍者部隊”である総務課へたち寄り、マスコミと同業者を担当する平松雲太郎に、この火つけ役をやらせるべく、後で来るように命じておいたが、自分自身ですべきではないかと逡巡《しゆんじゆん》した。その心の決まらぬまま、芥川は、機密書類を入れている鍵《かぎ》のかかった机の引出しをあけ、中からタイプした書類の綴《つづ》りを取り出した。それは、第三銀行の瀬川副頭取を新橋の仲居のことでゆすり、その後、日本橋支店を通して二年間に三億五千万円の融資を引き出した総会屋、丸橋忠に関する人事興信所の調査書であった。
芥川は、戸籍抄本を貼付《てんぷ》した調査書の頁《ページ》を繰り、もう一度、拾い読みして行った。
本名 丸橋 忠
出生地 広島県
生年月日 大正十三年八月一日
最終学歴 昭和十七年、広島中学校卒業
職歴 昭和十七年、満鉄に勤める。
叔父をたよって、満州へ渡る。
昭和二十年、満州引揚げ後、五年間は、消息不詳。
昭和二十五年、東京兜町《かぶとちよう》の老舗《しにせ》大万《だいまん》証券へ入社。
営業マンとして成績を上げ、昭和三十四年法人部長に就任。
昭和三十五年、数年前より、自社の金を流用して手張りをやり、大穴をあけたのが発覚、大万証券を免職される。以後、証券会社時代の情報をもとに総会屋となる。この時期、前大蔵大臣田淵円三氏の秘書官と同窓の誼《よしみ》で、一度接触があった模様であるが、以後、田淵氏の秘書官と親しいことを盛んに吹聴《ふいちよう》、それを笠《かさ》にきた言動が目だちはじめる。
昭和四十年、株式会社太陽土地開発を設立、総会屋のかたわら、不動産業に乗り出す。
株式会社太陽土地開発の事業内容
所在地 東京都中央区日本橋通二丁目吉田ビル三階
資本金 四百五十万円
社長 丸橋 忠
株主 丸橋忠と妻さち江、及び親族
従業員数 不明
取引銀行 第三銀行日本橋支店
業態 主に那須《なす》高原の別荘地開発
現況 昭和四十年、会社設立当初、物件の売買は、数件あった模様であるが、一年を経ずして経営に失敗。その後、実際上の営業項目としてみるべきものは、皆無である。現在、日本橋の事務所には姪《めい》を事務員がわりに一人置いて、開店休業中のかたちをとっているが、太陽土地開発が、あくまで総会屋丸橋の表看板で、実体のない会社であることは疑う余地がない。
調査書から眼を上げると、芥川は三本目の煙草を口にくわえた。この調査書を受け取った後、第三銀行の日本橋支店が、こういう実体のない会社に三億五千万円の融資を行なっている事実を突きとめることが出来たのは、自分のところへ半期ごとに賛助金をせびりに来る総会屋から、それとなく丸橋の評判を聞き、太陽土地開発が警視庁の内偵をうけているらしいという情報を聞いたからだった。芥川は時を移さず、懇意にしている検察庁の幹部と会食し、内偵の内容を聞くと、それが三億五千万円の不正融資であることが解ったのだった。“東京探題”である芥川としては政、官界のみならず、検察庁、警視庁とも絶えず接触していなければ、本当の深層海流はつかめない。芥川はその方面の情報もぬかりなく入手するために、常日頃のつき合いをおこたらなかったが、さすがにその幹部も、背後に鎌倉のあの男がいることだけは、話してくれなかった。
扉《ドア》をノックする音がした。平松雲太郎であることは、ノックの仕方でわかったが、この事件の火つけ役を平松にさせるか、自分自身でするか、まだ考えがきまらぬうちに、平松雲太郎が入って来た。
長身で、ダンディな大蔵担当の伊佐早五郎とは対照的に、ずんぐりと小柄で色も黒く、蜘蛛《くも》太郎と書く方が似つかわしい容貌《ようぼう》だったが、童顔のせいか、陰湿な感じはない。しかし、びっしりと細かく情報の網を張り、一度《ひとたび》、その網にかかった獲物《えもの》は、どんなに日時をかけても、徹底的に追って行くという粘り強さは、やはり蜘蛛太郎というべきであった。
「遅くなりました」
平松は、芥川の前にたった。散髪したばかりらしく、頭髪が短く刈り込まれて、童顔が一層、若がえり、寝業《ねわざ》が特に必要とされるマスコミ、同業者担当の忍者とは、とても思えない。芥川は、そうした平松の顔を見た途端、迷うことなく平松にやらせようと、心を決めた。
「第三と平和銀行の合併問題だがね、新聞社は、まだどこも感付いていない様子かね?」
「はあ、まだどこも――」
「しかし、君たちの調査だと、両行の合併は、ますます確度の高いものになって行くようじゃないかねぇ」
「はあ、あまり乗り気でなかった平和銀行の方も、そろそろエンジンがかかりはじめたような感じでございますね」
こうした事態にも色めかず、ポーカー・フェースで応えられるのが、平松の特長であった。
「すると、第三銀行日本橋支店の三億五千万円の不正融資の件も、まだ知られていないのだね」
芥川は、机の上に拡げた丸橋忠の人事興信所の調査書を眼で指しながら云った。平松は、その芥川の視線を追い、
「では、その方を知って貰《もら》うことに致しましょうか」
確認をとるような口ぶりで云った。その方とは第三銀行の不正融資のことであったが、忍者たる者は、一々、上司に説明させないようにもって行くのが、務めであった。
「うむ、しかし、この事件は当初、考えていたより、根が深いのだ、鎌倉のあの男にも繋《つな》がっている――」
と云うと、平松は童顔を緊張させ、
「では、よほど信頼できる記者でないと話せませんね」
「毎朝新聞がいいだろう、誰にするかね?」
「浅田さんにしたいと思いますが、いかがでしょうか」
「いいだろう、だが、当行が火の粉をかぶらないよう、それだけは充分、心するように――」
いつになく、念を押した。その念押しで、一つまかり間違えばただではすまないという、事態の重大さが、平松の脳裡《のうり》に叩《たた》き込まれた。
「かしこまりました、では――」
平松は、事務所長室を出、総務課へ戻った。総務課には、大蔵担当の伊佐早五郎の姿はなく、日銀担当の冠収も、入れちがいに出かけて行って、黒井課長が電話をかけていた。
平松雲太郎は、自分の机の上の電話を取り、毎朝新聞の浅田記者直通のダイヤルを廻しかけたが、十一時近くをさしている時計を見ると、日銀の金融記者クラブのダイヤルの方を廻した。今の時間なら多分、記者クラブに詰めているはずであった。
「もしもし、浅田さん、いらっしゃいますか?」
と聞くと、電話を取った若そうな記者は、いるとも、いないとも応えず、すぐ浅田記者が電話口に出て来た。
「はい、浅田――、なんだ、クモさんか」
一週間のうちの半分は、顔を合わせている間柄であったから、もしもしというだけで、互いに相手が解《わか》った。
「ちょっと、妙な聞込みがあったんですが、今日、昼食の時間、あいていらっしゃいませんか」
平松はいきなり云った。最初から興味を引くような切出し方をしなければ、毎朝新聞のような大新聞社の記者は、日頃、いかに親しくしていても、簡単に乗り出してこない。
「なんだい、妙な聞込みって?」
「それが全くもって妙な話なのです、日本橋の例のてんぷら屋へお出かけ戴《いただ》けませんでしょうか」
切出しの口調より、ことさら丁寧な口調で云った。第一声でいかに相手の興味を引き、第二声でいかに相手をムズムズさせるか、それがマスコミ忍者の腕の見せどころであった。浅田記者はちょっと間《ま》をおいてから、
「よし、十二時過ぎに行こう」
と承知した。
平松雲太郎は、約束の時間より十分早く、日本橋の表通りから少し入ったてんぷら屋の二階へ上り、毎朝新聞の浅田記者が現われるのを待っていた。
浅田記者は、毎朝新聞の日銀記者クラブのキャップで、記者歴十五年、顔には出さないが、好き嫌いが激しい性格で、嫌いな人間は寄せつけないが、不思議に平松とは心が通い合う仲であった。浅田のように仕事が出来て、反骨精神の強い記者は、金と看板にあかして情報を集める大銀行の忍者たちより、自分の手と足で粘り強く情報を集めて分析する平松のような男に好感を持ってくれていた。そして、「どうだい、クモさんの蜘蛛の網は大分、張れたかい」と聞いてくれる浅田と、食事をしたり、飲みながら、大新聞の記者たちがたち廻らない小さな金融機関の情報を話すと、それを繋《つな》ぎ合せて、切れ味の鋭い記事に仕立てあげてしまう場合がある。その代り、阪神銀行の忍者では到底、窺《うかが》い知ることも出来ないトップ・シークレットを報《しら》せてくれる仲であった。記者と忍者の関係は、情報交換の取引だけでつき合う間柄と、人間的な信頼感を踏まえたうえで情報を研究しあう間柄とがあるが、浅田記者と平松は、どちらかと云えば、後者の部類であった。
とんとんと、階段を上って来る足音がしたかと思うと、浅田記者が姿を見せた。
「先程はお電話で失礼しました、早速に、どうも」
平松は、童顔をぺこりと下げるように云うと、
「なんだね、さっきの妙な聞込みというのは――」
新聞記者特有の気の早さと素っ気なさで、坐《すわ》るなり聞いた。平松は注文を聞きに来た女中が、階段を降りてしまうのを確かめてから、
「実は、第三銀行のことなんですがね、日本橋支店で三億五千万円の不正融資があるということを聞き込んだんですよ」
と云うと、浅田は一瞬、眼を瞬《しばたた》かせたが、ゆっくり煙草を口にくわえてから、
「いくら第三銀行の日本橋支店といっても、三億五千万とは、ちょっと桁《けた》が大き過ぎるじゃないか、融資先はどこなんだ」
「日本橋の太陽土地開発という、資本金四百五十万円の不動産会社なんですが、ちょっと聞いたところでは、主に那須高原の別荘開発と云いながら、実際上の取引では動いている様子がなく、女事務員一人だけがいて、開店休業中のような幽霊会社なんだそうですよ」
「で、一体、その経営者というのは、どんな奴《やつ》なんだ」
浅田は、運ばれて来たてんぷらに箸《はし》をつけ、先を促した。
「それが、丸橋忠弥《ちゆうや》ではなかった――、ええっと……丸橋忠という男で、本業は総会屋らしいですが、ご存知ですか?」
「知らんねぇ、どうせ小物だろう」
にべもなく云い、
「それにしても、どんな因縁か知らないけれど、そんな正体不明の男に三億五千万も貸す一方で、たとえ百万でも融資してやれば助かる中小の企業には、預金者の大切な金だからとかなんとかいって、冷酷に倒産に追い込んだりする、銀行ほど一皮めくれば、表見《おもてみ》と大違いというところはないよねぇ、クモさん」
皮肉な笑いを平松に向けた。
「こりゃあ、いつもながら手厳しいお言葉ですね、そんな風に云われると、今おっしゃった因縁というのが、話しづらくなってしまいますよ」
「僕の前で、今さら当惑してみせることもないだろう、ことの起りは、どういうことなんだね」
「それが、女のことなんですよ、第三銀行の瀬川副頭取が、総会屋の丸橋忠という男に、女の問題で脅され、口止料がわりに最初、融資したのが腐れ縁になって、ずるずると三億五千万にまで膨《ふく》れ上ったということです」
「なに、女のことで――、ますますもって舐《な》めた話じゃないか、特に瀬川副頭取と来たら、お座敷でも芸者の手ひとつ、よう握らない堅物《かたぶつ》で通っている奴なのに」
瀬川の欺瞞《ぎまん》を憤《いきどお》るように云った。
「ところが、新橋の待合『右近《うこん》』の仲居で、名前は小川美代、年齢三十三歳、色白で小柄な女というところまで解っているのです、そりゃあ銀行家《バンカー》も血が通った人間ですから、女性関係が絶無というわけには参らないでしょうが、実のところ、私もあの謹厳実直、石仏《いしぼとけ》さんのように云われている瀬川副頭取だけに、全く驚きです、しかもそのことが億の桁のつく不正融資の因《もと》になったというのですからねぇ」
巧みに浅田記者の不快感を増すように云い、
「しかし、浅田さんの感じとしては、この事件はどうなんでしょうか、われわれが今まで名前も知らなかった一介の総会屋が、第三銀行から億という金を引き出す程の大悪党とは、とても考えられないのですがねぇ」
「さあ、どうかな――」
浅田は曖昧《あいまい》に応えたが、平松には、第三銀行の持っている黒い体質を浅田が知っているらしく感じ取られた。平松はさらに、その手ごたえを確かめるために、
「聞くところによりますと、その丸橋忠というのは、田淵幹事長の秘書官とも親交があるとかいう噂《うわさ》ですが、ほんとうなんでしょうか、実は今度の三億五千万円の不正融資事件に、田淵幹事長が絡《から》んでいるとも、いないとも云われていましてねぇ」
てんぷらを頬ばりながら云うと、浅田の眼が光った。
「臭いな、これは黒い霧か……」
平松は内心、しめたと雀躍《こおど》りしたが、素知らぬ態《てい》で、
「それが黒いか、灰色程度なのか、それこそ、浅田さんに判断して戴きたいのですよ」
生真面目《きまじめ》な口調で云うと、
「あの銀行は、瀬川が副頭取になった頃から、黒い体質に染まってきたところだから、その不正融資の背後を洗って行くと、霧に包まれていたものが、現われるって感じだな」
ひとりごつように云った。
「そうしますと、浅田さんの判断では、この事件は、私が考えているような単なる不正融資でなく、もっと根が深いというわけですか」
さらに煽《あお》りたてるように云うと、
「だが、君の銀行も少し妙だな、どうして第三の事件にそうも興味があるんだい?」
ばさりと斬《き》り返すように聞いた。覚悟していた反問であった。
「そりゃあ、こんなことを小耳に挟《はさ》めば、どの銀行だって、興味を持つのが当り前じゃありませんか」
童顔のとぼけ面《づら》で云うと、浅田はにやりと笑い、
「それもあるだろうが、それだけじゃないだろう、第三銀行の件を表沙《おもてざ》汰《た》にすることによって、何か阪神銀行に影響することでもあるんじゃないか」
鋭いきっ先であった。
「とんでもありませんよ、当行としては、ただ、ことの真相を知りたい、それだけですよ」
辛うじて、鋒先《ほこさき》をかわすと、
「それにしても、何も僕に話して、新聞に書かせようとまでしなくてもいいじゃないか、要は書いてほしいということだろう」
有無《うむ》を云わさぬ口調で詰問《きつもん》した。平松は、言葉に詰りかけたが、
「なにも私の方は、新聞に出すとか、何とかではなく、一般的な情報収集ということで浅田さんにお話しし、もっと詳しいことをご存知だったら、お教え戴こうと思っただけですよ、それにもし、他《ほか》の新聞にでも出て、私がそのことについて知らなかったでは、これ[#「これ」に傍点]にかかわることですからね、そこのところを解って下さいよ」
首のところへ、手をやって、あくまでもしら[#「しら」に傍点]を切った。
「そうかい、クモさんもなかなかしぶといな、それなら、それでいいよ、その代り、今日のこの話は、ベタ一段ぐらいの扱いでいいんだな」
平松のいちばん痛いところを突くように云った。平松にしてみれば、トップ記事にはならなくとも、出来るだけ賑々しく[#「賑々しく」に傍点]扱って貰わねばならなかったから、ほとほと弱り果てた顔をつくり、最後の切札を出した。
「浅田さん、そんなにいじめないで下さいよ、実は、この件で、警視庁は太陽土地開発と第三銀行日本橋支店を、内偵しはじめている様子なんですから――」
「なに、警視庁が――」
浅田は、思わず中腰になり、
「そう聞いては、ぐずぐずしておられない、朝刊まで大車輪だ――」
と云うなり、駈《か》けるように階段を降りて行った。その足音を聞きながら、平松はほっと太い息をついた。十一月というのに、背中から腋《わき》の下まで脂汗《あぶらあせ》がにじんでいた。
羽田空港に向う車の中で、万俵と芥川が小声で話していた。万俵は全国銀行協会の会議を終えたあと、取引関係の宴席があり、芥川は、万俵頭取を空港へ送りかたがた、車中で第三銀行の件に関して、その後の状況報告をするため、同乗したのだった。
「頭取、全国銀行協会での第三銀行の日下《くさか》部《べ》頭取の様子は、いかがでございました?」
「会合の時はまだ何も知らされていなかったらしく、いつもの理論家ぶりを発揮していたが、懸案事項が終りかけの頃、本店から緊急電話が入り、会議室を出て行ったが、相当、長い電話だったし、そのあと、エレベーターで帰る時も、顔色が青ざめていたから、火の手が上ったのは、まず確実だねぇ」
と云うと、芥川は昂《たかぶ》った口調で、
「おそらく、それは毎朝新聞からの取材申入れではなかったのでしょうか、先程、マスコミ担当の平松からの電話によりますと、毎朝新聞では第三銀行はもちろん、警視庁、大蔵省、日銀などへも、社会部と経済部の記者が、他社に感付かれないよう隠密裡《り》に取材している様子だそうです」
「扱いは、どの程度になりそうかね?」
万俵は、前方を向いたまま、聞いた。
「そこが肝腎《かんじん》のところですが、平松から毎朝新聞の浅田記者と話し合った内容を聞いた感じでは、トップは無理にしても、まあ、社会面の五、六段の記事にはなると見込んでおります」
「相手は名門、第三銀行のことだ、政治資金その他で繋《つな》がっている政、官界の有力筋を通して、あらゆる術《て》を打ち、それこそ田淵幹事長をも動かして、必死のもみ消し工作を行なうだろうから、油断はできない」
そう云われると、芥川は瞬時、口を噤《つぐ》んだが、
「しかし、もはや警視庁が動き出していては、いかな田淵幹事長でも、全くもみ消してしまうことは出来ないのではないでしょうか、その上、検察庁関係なら、昨夜、頭取がお目にかかられた大臣の筋の方が、強いのですから――」
さすがに永田大蔵大臣の名前は、運転手の耳を憚《はばか》り、口にしなかった。
「だが、“鎌倉のあの男”が動き出せば……」
万俵は再び“鎌倉の男”のことを思った。虫も殺さぬ紳士然としながら、暮夜ひそかに鎌倉の自宅へ政、財界の大物を自在に呼び出し、日本の政治、経済をダーク・サイドで動かしている黒い主《ぬし》の顔と姿が、まざまざと眼にうかんだ。
「芥川君、しっぽの方は、大丈夫だろうな」
万俵は体を起し、念を押すように聞いた。新聞社に書かせるように仕向け、その工作に成功しても、火つけの張本人が阪神銀行であったことが解《わか》れば、“鎌倉のあの男”のこれまでのやり口を考えると、火の粉どころか、阪神銀行自体も大火事の憂目《うきめ》にあわされる。
「頭取、その点はご懸念《けねん》なく――、毎朝新聞の浅田記者と平松のつき合いは、昨日や今日のものではなく、また浅田記者は好き嫌いの激しく、反骨精神の強い性格で、仕事の面で、みすみす損と解っていても、反骨を通して来た人だけに、ニュースソースは、どんなことがあっても、口外する記者ではありませんから――、あとは忍者たちの言動ですが、彼らにはここ当分、騒ぎがおさまるまで、亀《かめ》のように首をすくめて、じっとしているように申しつけております」
「そうか、それならいいが、してやったつもりが、してやられる場合もあるから、当行の者にも、絶対、気付かれぬようにすることだ、私は息子の銀平にさえ、このことは話していない」
と云いながら、万俵は、こんな危ない橋を渡ってまで、第三銀行のスキャンダルの火つけ役をしたのは、第三、平和銀行の合併を阻《はば》んで、自行を有利な方向へ持って行きたいという衝動もさることながら、永田大蔵大臣の意向を忖度《そんたく》し、永田大臣と二人三脚であればこそ、踏み切れたのだと思った。
鎧戸《よろいど》を通して射《さ》し込んで来る朝の薄い光に、大介は眼を覚ました。ナイト・テーブルの上の時計を見ると、まだ六時前で、平常より一時間早い目覚めであった。今朝の毎朝新聞に、第三銀行の件が載っているか、いないか、気懸《きがか》りであったからだった。
大介は寝返りをうち、もう一眠りしようとした。まだ朝刊の来る時間ではなかったし、昨夜、東京から最終便の飛行機で帰って来たあと、なかなか寝つかれず、頭の芯《しん》がずきずきと痛む。暫《しばら》く眼をつむっていたが、緊張しているせいか、やはり寝つけず、もう一度、大きく寝返りをうった。傍らのベッドで、妻の寧子はまだ眠っている。昨夜、東京から帰って来た時も、夫の異様に緊張している様子に気付かなかったが、今もすやすやと平穏に寝入っている。相変らず、おっとりとした人形のような妻だと思ったが、こんな場合、自分の胸中の動きを鋭敏に読み取る相子より、かえって気が楽だった。
電話のベルが鳴った。受話器を取ると、東京事務所長の芥川からであった。
「お早うございます、只今《ただいま》、毎朝の朝刊が手元に参りましたが、頭取の方はいかがでございますか?」
「いや、まだだが、記事はどうだ?」
「五段ぬきの大見出しで、でかでかと出ております」
芥川は昂った声で、早口に記事の内容を読み上げた。それを聞く大介の顔にも、次第に興奮の色が漲《みなぎ》り、
「よし、私もすぐこちらの新聞を読む――」
と云い、電話をきった。眼を覚ました寧子が、白絹の夜着《よぎ》の衿元《えりもと》を整えながら、
「あのう、私がお取りして参ります」
慌《あわただ》しい夫の様子に、さすがに驚くように云った。
「いや、私が行く、その方が早い」
大介は素早くガウンを羽織り、階下へ降りて行った。新聞はいつも居間のマガジン・ラックの中に入れてあったから、ホールを横切って、しんと静まり返っている居間へ入ると、
「旦那《だんな》さま、お早うございます」
齢嵩《としかさ》の女中が朝の挨拶《あいさつ》をし、
「昨夜、遅くていらっしゃいましたのに、およろしゅうございますのですか?」
気遣うように云った。大介はそれには応《こた》えず、
「毎朝新聞は来ているかね?」
「いえ、まだでございます、他《ほか》のでしたら、来ているのもございますが――」
五種類取っているうちの、三種類の新聞をさし出した。大介はたったまま、念のために、その三種類の新聞をめくり、見出しを拾い読みして行ったが、どこにも第三銀行の記事は出ていない。ばさりと新聞の束をテーブルの上に置くと、
「毎朝新聞は、遅いのだな、銀平の家の方へ間違って二部、行っているということはないのかね」
苛《いら》だつように云った。新聞や郵便物は、正門の脇《わき》の大きな郵便受けに入り、それを庭番夫妻が大介、鉄平、銀平の邸《やしき》へ仕分けして届けるのだったが、大介と銀平の邸は隣接しているせいか、時折、間違っていることがある。
「では、念のため見て参ります」
女中は小走りに銀平の家へ行ったが、なかなか戻って来なかった。大介は、ますます苛だつ心を鎮《しず》めるように、テラスにたって、庭へ眼をやった。天王山を背景にした邸内には、さまざまの樹木が、朝陽を浴びて燃えたつように紅葉していたが、今の大介には、紅葉の美しさより、血の滴《したた》るような第三銀行の不正融資の記事の方に、生々《なまなま》しい関心があった。
「旦那さま、お待たせ申しました」
新聞を抱えて、駈け戻って来た。
「銀平若旦那さまの方にもまだでございましたので、下の郵便受けを見に参りましたら、丁度、配達されて来たところでございました」
息を切らしながら云った。大介は、すぐ新聞を開いた。社会面の中央に“不正融資”というゴチック活字が並んでいるのが、眼に飛び込んで来た。その場で読みたい衝動を抑え、もと通りに四つに畳むと、他の三紙と一緒に小脇に挟み、再び二階の寝室へ戻った。
身支度を整えていた寧子は、夫が入って来ると、言葉をかけかけたが、大介は寧子に一瞥《いちべつ》をもくれず、三台並んでいる真ん中のダブル・ベッドに腰を下ろすと、毎朝新聞の記事を読み出した。東京系の銀行のニュースであったから、神戸版では中四段の記事になっていた。
“不正融資”三億五千万円
第三銀行日本橋支店
総会屋へ無担保で
警視庁の調べによると、第三銀行日本橋支店が不動産業を表看板にしている総会屋のM氏に、無担保で、二年間に三億五千万円にのぼる不正融資を行なっていた事実が、このほど判明した。
M氏は主に金融機関筋に顔のきく総会屋で、第三銀行本店の総務部には従来から出入りし、昭和四十年、那須高原の別荘開発を行なう不動産会社を設立する際、その資金を同行本店融資部の指令で、日本橋支店から借りた。その後、日本橋支店は同社の業績不振にもかかわらず、次々と融資を続けて、総額三億五千万円に膨れ上ったが、融資の時点では、担保は全く取られていなかった模様である。
銀行側の話によると、同社が倒産すれば、融資がこげつくので、M氏振出しの手形や小切手を交換所経由の正規ルートを通さずに、銀行側の一時立替えという形で、融資の上積みをしたという。しかし、このような融資の形は、企業倒産の瀬戸際《せとぎわ》に行なう支店長決裁による一時的な歯止めであるにもかかわらず、M氏の場合は、約二年間にわたって、ずるずると融資が続き、三億五千万円もの額に達した。そして最近に至り、この問題が表面化しかけて、あわてて融資額に見合う担保として、M氏が那須高原に所有している別荘地(時価八千万円)、杉並区堀ノ内の自邸(時価二千万円)、株券など約一億三千万円相当を担保として確保したが、警視庁ではM氏の恐喝《きようかつ》による不正融資ではないかとの見方を強めている。なお、さる消息筋の話では、M氏の背後に政界の某実力者が介在し、今後の取調べいかんによっては、今回の事件が政界にまで発展する根深い問題をはらんでいるともいわれている。
第三銀行瀬川副頭取談=当行はM氏から恐喝を受けた事実はない。しかし担当者の話によると、不渡りにした場合の懸念される事態を配慮して、融資を続けたということで、現在は債権の確保に全力をあげている。
大蔵省銀行局井床銀行課長談=そういう話を聞いたので、第三銀行の担当者を呼んで、事情を詳細に聴取し、目下、調査中である。
新聞を読み終えた万俵の眼に、にんまりとした笑いが滲《にじ》んだ。ほぼ満足すべき内容であった。
これなら阪神銀行が意図した第三銀行のスキャンダルを表沙《おもてざ》汰《た》にすることによって、第三、平和銀行の合併を潰《つぶ》すという目的を果し、同時に永田大蔵大臣も、第三銀行と繋がっている政敵、田淵幹事長の資金パイプを断ち切るという目的を果す。永田大臣もさぞ満悦であろう――。そう思うと、大介はこみ上げて来る笑いを噛《か》み殺し、
「寧子、今朝は寝室で食事をするから、その用意をいいつけるように――」
と云い、自分はベッドに仰向けになって、もう一度、記事を読み直した。そして、その記事の書き方の巧みさに舌を巻いた。一般庶民には、単なる総会屋の不正融資事件ぐらいにしか受け取られないが、金融機関をはじめその筋の玄人《くろうと》には、黒い山脈の繋がりが感じ取られるような書き方であった。衰えたりとはいえ都市銀行第七位の名門第三銀行のことであるから、全力をあげて、新聞社に術《て》を打ったにちがいなく、丸橋忠の氏名や丸橋が表看板に掲げている会社名は伏せられ、瀬川副頭取が女の問題で丸橋から脅迫されたことも、丸橋の背後にある黒い山脈の繋がりも、あからさまには書かれていなかったが、それだけ逆に、金融筋には、事件の根深さを印象付けることになり、阪神銀行と永田大蔵大臣にとっては、より満足な記事であった。
ワゴンに載せて、寧子自身が朝食を運んで来ると、入れたてのコーヒーの香りが部屋の中に漂い、大介は上機嫌で、寧子と向い合った。
万俵銀平は、洗面室の大きな鏡の前で、電気剃刀《かみそり》を使っていた。バス・ルームと隣り合った洗面室は、洗面台と壁面はピンク、床は黒のタイルで、いかにも若い夫婦のための洗面室らしい雰囲気《ふんいき》が溢《あふ》れているが、鏡に映っている銀平の顔は、相変らずの二日酔いで、青白く、生気がない。
「あなた、お茶を入れますわよ、早くいらして――」
ダイニング・キッチンの方から、妻の万樹子《まきこ》の声がした。銀平はそれには応えず、髭《ひげ》を剃《そ》り終ると、アフター・シェービング・ローションを無造作にぬった。
「あなた、早くなさらないと、遅刻なさるわよ、今日も車がないのですから」
また万樹子の急《せ》かす声がした。昨夜、飲み過ぎて、マーキュリーを元町《もとまち》の駐車場へ預けたまま、タクシーで帰って来たから、今朝は電車で出勤しなければならず、急がなければならないのは解っていたが、起きる早々、あなた、あなたと急かされると、うんざりする。
「間に合わなかったら、食事はいい、オレンジ・ジュースだけにしておくよ」
「朝食抜きなんて、お体に悪いわ、それに一日のうち、朝食ぐらい、ご一緒して下さったって、いいじゃありませんか」
結婚して五カ月経《た》っていたが、銀平は仕事関係の接待だと云って、夜は毎晩のように遅く、夫婦の交わりも、たださえ淡泊だったのに、最近は殆《ほとん》どかまいつけなかったので、万樹子の声には苛だちと険しさがあった。銀平はますますうんざりしたが、だからといって万樹子の言葉をおし返すのも、さらに面倒だったから、
「じゃあ、食べて行こう、但《ただ》し、遅刻しない範囲内にね」
と応えると、万樹子は表情をぱっと明るませ、いそいそと紅茶のポットに湯を注ぎながら、
「あなた、今日はお舅《とう》さま、おかげんがお悪いみたいよ、東京でご無理なさったのじゃないかしら」
早速、邸内《やしきうち》の話をはじめた。銀平はオレンジ・ジュースを飲むと、傍《かたわ》らの朝刊に半ば眼を向け、
「風邪でもひいたのかな」
「それでしたらよろしいのですけど、さっき、梅ちゃんがあちらのお手伝いさんに用があって伺ったら、朝食をお二階で召し上られたとかいうことですわ」
三台のベッドが並んだ寝室を見てしまってからの万樹子は、舅《しゆうと》の邸の“寝室”という言葉をなるべく避けるようになっていた。
「たまには病気もいいだろう」
素っ気なく云って、次の新聞へ眼を向けかけた。万樹子はクロワッサンをパン籠《かご》から銀平の皿へとってやりながら、その新聞が毎朝新聞であることを見ると、
「でも……ご病気にしてはへんな気もするわ、今朝早く、梅ちゃんもまだ寝《やす》んでいる時に、あちらから、毎朝新聞が二部、間違ってこちらへ来てないかって、聞きに来たということですもの」
「親父《おやじ》がそう云って寄こしたのかな」
「多分、そうだと思うわ、いくら何でも相子さんじゃないでしょう」
万樹子は皮肉な表情で云った。銀平はすぐ経済面を見た。そして次に社会面を繰った。そこに第三銀行日本橋支店の三億五千万円の不正融資事件が、でかでかと報じられていた。
「あら、また銀行の不正融資事件? いやあね」
一緒にのぞき込んだ万樹子は、さして関心もなさそうに云い、食事を続けていたが、銀平はその記事を読んで行くにしたがい、はじめて眼が覚めたような表情になった。そして、記事を読み終ると、毎朝新聞のスクープ記事と、父の大介とは、何か関係がありそうだと、直感的に感じた。そう判断するような確たる証拠は何もなかったが、阪神銀行が最も親しくしているのは毎朝新聞であること、東京事務所長の芥川がどうやら頻繁《ひんぱん》に東京と大阪を往《ゆ》き来しているらしいこと、頭取秘書の速水《はやみ》と三日程前、大阪キタのバーで久し振りに一緒に飲んでいた時、速水の顔見知りの金融専門業界誌の記者と会い、速水は最近の総会屋の動きにことよせて、ある総会屋について聞き出そうとしていたことなどが思い合わされ、それからすると、父は少なくとも第三銀行日本橋支店の不正融資事件を三日前には知っており、あわせて今日の毎朝新聞の朝刊にそのことが記事になって表沙汰になるのも知っていたのだと思われる。しかし、同じ関西系のライバル銀行ならともかく、東京に本店を持つ第三銀行のことで、父が何故《なぜ》、そこまでかかわりを持つのか、それを考えると、この事件の裏には、父の別の目的があるような気がした。父の性癖として、これとマークした標的は、決してストレートに狙《ねら》わず、陰湿、複雑極まる方法で叩《たた》き落すからだった。
「あなた、いつまで新聞を読んでいらっしゃるの、もう八時十五分よ、ほんとうに遅刻してしまうわ」
万樹子の声で、銀平ははっと我に返り、急いでスーツに着替え、玄関を出た。
足早に、ロータリーの植込みを廻り、正門へ向う緩い坂道を下りかけると、背後《うしろ》から犬の鳴声がし、三頭の犬が尾を振って駈《か》け寄って来た。父の出勤時間と重なったなと思う間もなく、
「銀平、車はどうしたんだ」
父の声がした。病気どころか上機嫌な張りのある声であった。仕方なく振り返ると、父と相子が坂を下りて来た。
「例の如《ごと》く、元町の駐車場ですよ」
それだけ云い、さっさと歩きかけると、
「いつまでたっても、ちっとも変らないのだな、仕方がない、じゃあ今日は、私の車に同乗して行くことだ、頭取たる私の息子が遅刻するようでは、しめしがつかないからね」
大股《おおまた》に銀平に追いついて来た。長男の鉄平と違い、銀平を叱《しか》り、窘《たしな》める時にも、大介の眼には父親らしい慈愛が籠《こも》っている。
「じゃあ、そうさせて下さい」
ラッシュの電車に乗ることを考えると、銀平はそう応えて、歩をゆるめた。
「お早う、銀平さん」
カーディガンを羽織った相子は一言、そう声をかけただけで、三頭の犬たちと先へ行ったが、いつもとちがって、不機嫌な気配がありありと見て取れた。毎朝新聞の記事のことを知らない相子は、一昨夜、東京の行邸で、自分とあれほど濃厚な情事をしながら、帰神早々、寧子と寝室で朝食を共にし、出勤間際まで階下へおりて来なかったことを快く思っていなかったのだが、今朝の大介は、そんな相子をあやすより、まんまと成功した密告者の喜びに酔っていた。
「お父さん、今朝の毎朝新聞、ご覧になりましたか?」
肩を並べて歩いていた銀平が突然、云った。
「うむ、第三銀行、えらいことになったねぇ」
他人《ひと》ごとのように応えると、
「お父さんは、関係ないのですか?」
はっとするような冷たさで云った。
「馬鹿《ばか》な、どうして私がよその銀行のスキャンダルなどと、関係があるんだね」
大介は抑えた声で、聞き返した。
「いえ、別に、ただちょっと伺ったまでですよ」
青白んだ無表情な顔で銀平が云った時、
「あなた、お忘れものよ!」
銀平を呼ぶ万樹子の声がし、軽やかに走って来た。
「お舅さま、お早うございます、あなた、胸ポケットのハンカチーフ――」
と云い、チャコール・グレイにブルーのストライプが入った服に合わせたブルー・グレイの絹のハンカチーフを、銀平の胸ポケットにさし入れた。着ている服と同色の絹のハンカチーフを胸ポケットから目だたぬようにのぞかせるのが、銀平のおしゃれの一つであった。
「よかったわ、間に合って――、では、行ってらっしゃいまし」
万樹子は、先を行く相子の姿を見て、門まで送らず、そこで舅と夫を見送った。大介の脳裡《のうり》に、万樹子の父である大阪重工社長の安田太左衛門のことがうかんだ。今朝の新聞に載った第三銀行の不正融資の緒《いとぐち》をつかんだのも、もとはといえば、第三銀行との合併をもくろんでいた自分が、十日前に、安田太左衛門の還暦祝に行き、第三銀行の大株主である安田に、それとなく、第三銀行の幹部の考えを聞き出そうとしたところから得たものであった。
大介は、ちらっと万樹子の方を振り向いた。若く美しい息子の嫁であった。しかし、この一人の女と息子の縁組という閨閥《けいばつ》の繋がりによって得たメリットは、大介自身も予想出来なかったほど、大きかった。大介は眼に隠微な笑いをにじませ、今頃、大蔵省銀行局では、大へんな騒ぎであろうと思った。
大蔵省の正面玄関に、黒塗りの大臣の車が着くと、居列《いなら》んだ守衛が威儀を正して迎え、恭《うやうや》しく扉《とびら》を開いた。総理官邸で定例閣議を終えて来た永田大蔵大臣であった。
永田大臣が車から下りたつと、助手席に乗っていた眼つきの鋭い男が、素早くその背後に廻って、ぴたりと貼《は》り付くようにつき従ったが、玄関に出迎えていたもう一人の男も機敏に歩み寄って、左側についた。二人の男は永田大臣の身辺を常時、護衛している警視庁派遣のボディ・ガードで、後から車を下りた秘書官が、永田大臣の右脇に列ぶと、ちょうど三方を取り囲んだ形になり、ものものしい気配があたりを払った。
永田大臣の一団は、省内へ入ると、開かれていたエレベーターで二階へ上り、大臣室へ通じる廊下を歩いて行った。官房長室、事務次官室、政務次官室が続くこのあたりは、いわば大蔵省の“赤い絨毯通り《レツド・カーペツト・ストリート》”で、人の出入りの慌《あわただ》しい朝の官庁とは思えぬ静けさに包まれている。大蔵大臣の部屋は、政務次官室の奥にあったが、公式の来客がある時以外は、扉も閉ざされ、平素は隣接する秘書官室から出入りする慣《なら》わしになっている。
「十時半の記者会見の時間が少し遅れていますが、すぐ記者クラブへいらっしゃいますか?」
秘書官が、大臣の意向を聞いた。毎週、火曜日と金曜日にある定例閣議のあとは、記者クラブで大臣記者会見が行なわれることになっている。
「いや、その前に春田銀行局長に話があるから、至急、呼んでくれ」
永田大臣は、取り急いだ語調で命じた。定例記者会見を後廻しにしてまで急ぐ用件というのは、よほどの重大事だったから、秘書官はすぐ連絡を取るために、自分の部屋へ入って行き、永田大臣は、大臣室へ入った。
赤い絨毯《じゆうたん》を敷き詰めた三十坪ほどの大臣室には、執務用の机と応接ソファ、会議用の大テーブルが並べられ、正面の机の横には、日の丸の国旗が掲揚されて、一国の経済行政を司《つかさど》る最高官庁の尊厳が象徴されている。
永田大臣は、足早に執務用の大きな机の前に来ると、ふとたち止まり、三白眼《さんぱくがん》を窓の外へ向けた。すぐ向うのやや斜めの位置に、国会議事堂が見える。そこには、幹事長の田淵円三がいるはずだったが、閣議の前に開かれた国会対策委員会の間、終始、苦虫を噛《か》みつぶしたような不機嫌な田淵の表情と落着きのない態度を思い出すと、眼に薄い笑いをうかべた。今朝《けさ》の毎朝新聞にすっぱ抜かれた第三銀行の不正融資の記事は、田淵にとって、それだけ衝撃《シヨツク》であったかわり、永田自身にとっては、満足すべき扱いと書き方で、阪神銀行の万俵大介と組んだ二人三脚は、狙った効果をほぼ果した。この先は、毎朝新聞の記事を口実に、大蔵省が第三銀行の体質を問題にし、田淵が背後から糸をひく第三銀行と平和銀行との合併をいかに潰《つぶ》すかであった。
「大臣、遅くなりました」
春田銀行局長の声がした。永田大臣は、
「記者会見を待たしているので、簡単に聞いておくが――」
と云いながら、椅子に坐り、
「今朝の毎朝新聞に出ていた第三銀行の記事だが、あれはどういうことなのかね」
最初から叱責《しつせき》する口調で聞いた。
「どうも、監督不行届で申しわけございません」
春田は、頭を下げた。
「新聞に書かれる前に、もっと迅速に第三銀行に責任を取らせ、うまく始末することが出来なかったのかね」
「銀行課長が担当常務を呼んで、事情を聴取しはじめたばかりの段階だったものですから――」
日頃は、各行の幹部を震え上らせている春田も、困惑気味に応《こた》えた。
「だが、あんな記事が出て、ことが表沙《おもてざ》汰《た》になってしまった限り、今日中に第三銀行の責任者を呼んで、あの問題についての詳細な報告をさせ給《たま》え」
「承知しました、早速、瀬川副頭取を呼びます」
永田大臣の意外に厳しい態度に、春田は驚きながら頷《うなず》くと、
「もし、あの事件が新聞に書かれている通りなら、困ったことだ――、平和銀行との合併は目下、どの程度、進んでいるのかね」
「両行の常務クラスが一昨日、ホテルオークラで初の顔合せを行なったところです」
「そうか――、しかし第三銀行の体質については、最近、とかく問題になっており、今度の事件もその特異体質を考えれば、起るべくして起った事件でもあるから、この際、平和銀行との合併は少し慎重に考えてはどうかね」
永田大臣は、低い声で云った。春田はその言葉を聞いて、永田大臣が、この問題で第三銀行と平和銀行の合併を潰そうと意図していることに気付いたが、
「しかし、大臣、双方の銀行の意思は――」
“合併屋”の異名をとっている合併促進論者である春田としては、出来れば両行の合併を成立させることによって、金融再編成の火蓋《ひぶた》を切り、銀行局長としての実績をつくっておきたかったから、躊躇《ためら》いの構えを見せたが、永田は、それを黙殺し、
「ともかく、話はこれだけだ、今日の記者会見では、閣議の懸案事項より、第三銀行の不正融資の方に質問が集中するだろうが、僕は厳しいことを云っておくから、君もそのつもりで――」
有無を云わさず命じ、たち上った。その強引さは、すでに大臣レベルでことが仕組まれてしまっていることを意味したから、それ以上、躊躇《ちゆうちよ》することは悟りの悪い官僚として、評価を落すだけであった。まして春田の場合は、自分の派閥のボスであったから、
「解《わか》りました、では――」
秘書官を従えて慌しく記者会見へ行く永田大臣を見送ると、春田はすぐ大臣室を出た。
記者たちに掴《つか》まらないよう、記者クラブと反対側のエレベーターへ遠廻りして、春田は四階の銀行局長室に戻って来ると、局長付の女子職員に、緊急局議を開くから、暫《しばら》く人を入れないように命じ、直ちに審議官、総務課長、銀行課長、検査部長の四人に招集をかけた。三億五千万円の不正融資事件の対策会議にしては、いささか大げさ過ぎたが、意識的に騒ぎを大きくするための必要なお膳《ぜん》だてであった。
春田は四人の顔が揃《そろ》うと、
「緊急に集まって貰《もら》ったのは、ほかでもない、例の第三銀行の不正融資の件だが、新聞を読んで事件を知られた大臣の態度は、ことのほか厳しく、この際、金融界全般に見られる融資態度のゆるみを、糺《ただ》す意味でも、第三銀行の今回の不正融資は、徹底的に調査するように云っておられる」
永田大臣の意向を伝えると、井床銀行課長たちは、驚くように顔を見合せたが、松尾審議官だけは、顔色も変えずに聞いている。
「私としても、今回の事件が単純な不祥事でなさそうなだけに、強い態度で不明朗な銀行経営を追及すべきだと考えている、したがって井床君、君は第三銀行の瀬川副頭取に今日の二時までに、私のところへことの報告に来るよう、連絡してくれ給え」
春田はきびきびした口調で、井床銀行課長に命じ、次に鈴木検査部長に向って、
「場合によっては、特別検査を行なうかもしれないから、君はその準備をしておくように、但《ただ》し、このことは新聞記者には、感付かれないように、内密に運んでくれ給え」
と云うと、検査部長は勢いづくように頷いたが、松尾審議官の表情が微妙に変化していた。松尾審議官は田淵幹事長が大蔵大臣だった時の秘書官で、田淵の息のかかった男である。したがって、いかに内密といっても、この会議の内容が時を移さず、第三銀行へ流れてしまうことは、解りきっていた。それにもかかわらず、松尾審議官を会議に加えているのは、大蔵省の態度が極めて厳しいことを田淵側に流させるためであった。
井床銀行課長と、鈴木検査部長が手配のために席をたって行き、久米《くめ》総務課長にマスコミ対策と全体の指揮を話しはじめると、案の定、松尾審議官はすぐ戻って来るからと、いかにも急な所用を思いついた振りを装い、局長室を出て行った。それが田淵への連絡のためだろうと思うと、春田は内心、にやりとした。
第三銀行の瀬川副頭取は、不安な思いで大蔵省へ向って、車を走らせていた。昨夜来、事態の収拾策にかけ廻って、一睡もしていない顔は青黒くむくみ、眼は充血して、平素の石仏《いしぼとけ》のような柔和な風貌《ふうぼう》は微塵《みじん》も窺《うかが》えない。
ラッシュの赤坂溜池《ためいけ》をぬけ、霞《かすみ》が関《せき》の大蔵省へ近付くにつれ、瀬川は落着きをなくした。第三銀行本店がある丸の内と全く違う方向から車を走らせて来たのは、つい今しがたまで、赤坂の料亭で田淵幹事長と会い、呼出しをうけている春田銀行局長に、どう対応するかを話し合っていたからだった。
田淵幹事長の話では、大蔵省の態度は、昨日と打って変って厳しく、特別検査まで準備しているという。もし、ほんとうにそこまでやられれば、丸橋忠の太陽土地開発をトンネル会社にして、田淵―“鎌倉の男”のラインに流していた政治資金が三億五千万円どころか、実際にはその二倍以上であること、さらに他のルートを使っても流していることまで発覚し、それこそ大へんな事態を招いてしまう。田淵幹事長は、いかに永田といえども、そこまで徹底的にやれば、佐橋総理にまで波及する問題だけに、本気で指令するつもりはない、ポーズだけだろうと云ったが、瀬川は春田局長に会うまでは不安であった。
疲れた脳裡に、新橋の待合『右近』の仲居、小川美代の小柄な白い体がよぎった。芸者を囲う程の度胸はなく、仲居ぐらいならと手を出したのが、今にして思えば不覚で、それが丸橋に脅迫される因《もと》になり、思いがけない事態を招いてしまったのだった。
昨日午後、毎朝新聞の記者の取材を受けた後、慌《あわ》てて担保物件をこしらえ上げ、担当常務を直ちに銀行局へ走らせ、不正融資でないことを説明に行かせ、検察庁と警視庁の上層部へも、田淵や“鎌倉のあの男”の力を借りて、これ以上、捜査が発展しないように術《て》を打ち、新聞、週刊誌にもしかるべく術《て》を廻した。当の毎朝新聞社には、記事をさし止めることはもはや不可能だったが、極力、その書き方について交渉し、大蔵省の心証も少しはとり結んだつもりであった。
しかし、一夜明けて毎朝新聞の記事が出た途端、大蔵省の態度は一変して、特別検査を準備するところまでになっているという。さっき、田淵が「こうしつこいところをみると、第三、平和の合併を潰すために、永田に脚本を突きつけたのが、誰かいるに違いない」と云った言葉が、生々しく思いうかんで来た。
大蔵省に着くと、瀬川は足早に四階の銀行局長室へ上った。新聞記者や他行の“忍者”たちと顔を合わさないか気になったが、局長付の女子職員が、巧みに人払いをしていたらしく、あたりに人影はなかった。
局長室へ入るなり、
「この度は、世間をお騒がせし、申しわけございません」
瀬川は、深々と頭を下げた。
「まあ、われわれとしても、毎朝新聞の記事の通りとは思っていないが、どういうことなのか、副頭取じきじきにお尋ねしたいと思いましてねぇ」
と春田局長は、切り出した。瀬川は充血した眼を瞬《しばたた》かせ、
「問題の丸橋なる人物がはじめて当行本店融資部に現われましたのは、昭和四十年四月で、不動産会社設立にあたって、設立資金と当座の運転資金合わせて四千万円を融資してほしいという依頼があり、以前から総務部と顔馴染《なじ》みでもありましたし、融資申込み額に見合う担保もありましたので、日本橋支店に紹介し、それから取引がはじまったという次第です、当初一年間は業績も順調に伸び、預金も増えて来、日本橋支店では信頼して、その後は無担保で融資の申込みに応じていたようです、ところがそれから半年ほどして、業績が急速に悪化しはじめたので、その間の融資額二億五千万円の債権の取りたてに入りましたが、もう一度、チャンスをくれと泣きつかれ、ずるずると融資を続けて、三億五千万円の情実貸金になった次第です、しかし一カ月前、これ以上、もはや融資出来ないと判断し、担保を確保すべく努力している最中に、今朝の新聞に書かれてしまったわけで、当行としては、債権の保全には万全を尽すつもりでおります」
と融資の経過を説明した。春田は黙って頷いていたが、聞き終ると、
「どうしてこんな男を信用し、無担保で三億五千万もの金を貸すに至ったのですか、銀行の姿勢としては、ルーズ過ぎるんじゃないですか」
「申しわけありません――」
「誰か、この男をあなたの銀行に紹介した人物でもいるのですか」
春田の語調に、鋭さが増した。
「いえ、別に――、先程も申しましたように、以前から本店総務部と付き合いもありましたので、つい支店も信用したということでして……」
自分の女の問題や、田淵との関係は知られていることは承知していたが、自分の口から認めるわけにはいかなかったから、瀬川は言外に謹慎の意を表した。しかし春田は、
「ますますもって妙な話じゃないですか、新聞によると政界の某実力者とか、黒幕とかが介在しているとも書かれていますが、一体、それは誰のことを指しているんですか?」
容赦のない口調で聞いた。営業の許認可権を握る銀行局長にそう追及されては、もはや、架空の名前をあげつらうことは出来なかった。
「この記事を書いた記者は、どうやら田淵幹事長のつもりで書いているようです」
記事にこと寄せた云い方をすると、春田は皮肉な笑いを見せ、
「その記者は、ほかの人物も想定しているのじゃあないのですか」
暗に“鎌倉の男”のことを指した。
「さあ、どうですか、私には思い当りませんが……」
ごくりと咽《の》喉仏《どぼとけ》を動かすと、春田も将来、政界入りを狙《ねら》っている官僚であったから、それ以上は強いて聞かず、
「次に、三億五千万円の金の動きですがね、丸橋某なる男の不動産会社は、会社設立の一年後からは、開店休業も同然のところだったというのに、一体、何にそんなに使ったんですか」
「その点については、まことに恐縮ですが、もう暫くお時間を戴けませんでしょうか、目下、全力をあげて調査中でございますので」
田淵幹事長と打ち合せた通りの台詞《せりふ》を云うと、
「銀行経営として一番、肝腎《かんじん》の点が曖昧《あいまい》では、困るじゃないですか、今回のおたくの不正融資には、あなたの報告を聞いていても、実に明朗でないところがあり、ことと次第によっては、特別検査をする考えでおります」
ぐいと見据えるように云った。瀬川は慌てて、
「とりあえず、本日は急ぎご報告ということで参りましたので、説明が至りませず、後刻、資料を充分に整えた上、改めてご報告に参上しますので、それまで……」
懇願するように云ったが、春田は、
「いや、それより今の話を文書にして、至急提出して戴きましょう」
突き放すように云った。瀬川は顔を硬《こわ》ばらせて黙り込んだが、つと顔を上げ、
「局長、平和銀行との合併は、今回の当行の不祥事と、切り離して従来通り、お考え戴《いただ》けるものでございましょうか?」
一番、気懸りな点を聞いた。
「むろん、銀行局としては、本件に対して、おたくの幹部が責任をもって処理されれば、平和銀行との合併問題に、何ら影響されるものとは考えておりません」
と応え、瀬川がほっと安堵《あんど》の胸を撫《な》でおろしかけると、
「しかし、あなたがいらしたつい十五分程前に、平和銀行の専務が見え、第三銀行との合併はこの際、暫く延期させてほしいという申入れがありました、いずれ正式には、平和銀行の神田頭取から、おたくの日下部頭取にお話があると思いますがね」
瀬川は愕然《がくぜん》と顔色を失い、頬が痙攣《けいれん》した。
「――しかし、永田大臣はそのことを、ご存知なのでしょうか?」
やっとの思いで聞くと、
「報告だけは、さっき、私からしておきましたよ」
言葉短かに応えたが、それは諒承《りようしよう》したも同然のことであった。瀬川の頭に『銀行法』第十四条がうかんだ。
第十四条〔合併の認可〕 銀行ノ合併ハ主務大臣ノ認可ヲ受クルニ非《あら》ザレバ 其ノ効力ヲ生ゼズ
第三銀行と平和銀行との合併は、事実上、潰《つい》えたのであった。
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二 章
寧子《やすこ》は、この冬はじめて暖炉に薪《まき》がくべられた居間のソファに坐《すわ》り、昼過ぎからずっとフランス刺繍《ししゆう》に興じていた。相子は朝から外出していたし、二子《つぎこ》はピアノのレッスン、三子《みつこ》は大学で、ずっと一人きりだったが、退屈とも寂しいとも思わず、むしろこういう時が寧子の一番、寛《くつろ》げる時間であった。
刺繍の図案はカトレアで、寧子はこれをクッションにするつもりでいた。薄紫と薄紅の色糸を交互に刺して行きながら、淡紅紫色の花弁を丹念に刺繍し、二枚目の花弁を仕上げて、糸をぷつんと切った時、玄関に人の気配がした。女中と声を交わしながら、居間の方へ近付いて来る足音で、相子かと思い、そのまま刺繍を続けていると、扉《ドア》を開けて入って来たのは夫の実妹で、阪神特殊鋼の社長夫人である石川千鶴《ちづる》だった。
「まあ、千鶴さま、ようこそ――」
突然の来訪を驚いて迎えると、千鶴は、大介に似た端正な中にも権高《けんだか》な顔を綻《ほころ》ばせ、
「ご機嫌よう、ちょっとこのお近くまで来たので、帰り道ついでにお寄りしたの、今日は、相子女史、出かけているのですって?」
「ええ、二子の縁談をお世話願うかもしれない東京の外交官夫人が、関西へおいでになっていますので、ご親交を深めるためにお訪ねすると云《い》って、今朝早く、わざわざ奈良まで出かけて下さいましたの」
ゆっくりとしたもの云いで、心から感謝するように云うと、千鶴は、ソファに背をもたせかけ、
「外交官夫人っていうと、今度の二子ちゃんのお婿《むこ》さん候補は、どなたなの?」
「さあ、それは……、何でも相子さんのお話では、政界のお偉い方のご令息だから、今度は美馬さんにもお力添え戴《いただ》いているとかで……」
寧子には、佐橋総理夫人の甥《おい》を狙《ねら》っていることは、まだ告げられていなかったから口ごもると、千鶴は、
「肝腎《かんじん》の娘の伴侶《はんりよ》となるべき候補者の名前も知らされずにいるなんて、お嫂《ねえ》さまもよくよく、蔑《ないがし》ろにされたものだこと、母親たるあなたがそんな風だから、万俵家の閨閥《けいばつ》は、美馬や高須のような、万俵家とは元来、何のかかわりもない他人に介入されて、勝手にいじくり廻され、その挙句《あげく》、一人一人が皆、不幸になって行くのよ、私、この頃の高須のやり方を見ていると、なんだかそれが目的のような気がしてきて、空恐ろしいと思うことがあるわ」
語尾を震わせて云った。
「そんな、まさか――、でも、その相手の方を、もし二子が厭《いや》がるようでしたら、何とか今度は相子さんに頼んで、止《よ》して戴きます」
鉄平はともかく、一子に続いて銀平の結婚もうまく行っていないらしいことに心を痛めている寧子は、妻の確固たる座は既に諦《あきら》めていても、母親としての最後の一線だけは守り抜くように、必死の面持で云うと、子供のない千鶴は急に冷淡な表情になり、
「それはどうぞご随意に――、要はあなたのお腹《なか》を痛めて出来たお子さま方のことですもの、高須がどうしようと、私はとやかく云いません、でも、明後日《あさつて》のお父さまの十七回忌の法要には、高須など一切、たち入らせませんから、そのことは寧子さん、あなたもはっきりしておいて下さいよ」
曾《かつ》ての万俵家の一人娘らしい傲慢《ごうまん》さで、ぴしゃりと云った。先代万俵敬介の十七回忌の法要は、万俵家の郷里である姫路の名刹《めいさつ》、亀山《かめやま》御坊で盛大に執《と》り行なわれることになっているのだった。
「もちろん、このことは、私から兄の大介に云い、けじめをつけるよう申しますけど、そうなると、当日の法要の御回向《ごえこう》料のことや、ご焼香客のおもてなしなど、とてもあなたでは取り仕切れないでしょうから、故万俵敬介の娘である私が致しますが、ご自身のお身の廻りのことぐらいはちゃんとなさいましよ、さし当って喪服はどれになさるおつもり?」
千鶴は、一切を引っ構えるように云い、運ばれて来た紅茶に口をつけた。
「それは、お舅《とう》さまの十七回忌にそなえて、この秋、京都のゑり善に別注して仕立てておきましたから――」
「そう、お色はどんなの?」
「地紋が松皮菱《びし》で、お色は公卿《くげ》紫に致しました」
白い細面《ほそおもて》をかしげるようにして云うと、千鶴は一つ紋の喪服にも華族の位取《くらいどり》が滲《にじ》み出ている寧子の感覚に、気圧《けお》されるようにおし黙ったが、女中が暖炉の火加減を見に入って来ると、
「あら、もう五時近くなのね、じゃあ、私、これで失礼させて戴くわ、ごめん遊ばせ」
云うだけのことを云い、聞くだけのことを聞き出して、慌《あわただ》しくたち上った。寧子が後を追って玄関のポーチへ見送りに出た時は、車は既に動き出していた。
寧子はほっと吐息をつき、居間に戻ったが、刺繍にとりかかる興をすっかりそがれていた。暫《しばら》くぼんやりと暖炉の火を見詰めていたが、式服の準備を確かめておくことを思いつくと、女中に衣裳《いしよう》部屋の鍵《かぎ》を持って来させ、スペイン風の西洋館と、数寄屋《すきや》風の日本館を内側《うちら》で繋《つな》ぐ渡り廊下を伝って、衣裳部屋へ向った。日本館の方は、銀平が結婚する際、その新居を建築するために半分、取り壊してなくなったが、客間と仏間、茶室、湯殿などは、そのまま残され、衣裳部屋は渡り廊下を渡ったすぐとっつきのところにあった。
鍵をあけ、戸襖《とぶすま》を開いて中へ入ると、薄暗い部屋の中に定紋《じようもん》入りの油単《ゆたん》(掩《おお》い布《ぬの》)をかけた衣裳箪笥《だんす》がぎっしりと並び、かすかな樟脳《しようのう》の匂《にお》いが鼻をついた。寧子は、底冷えのする冷たい部屋の空気に、肩をつぼめながら、実家の嵯峨家《さがけ》の家紋である上藤丸《あがりふじのまる》の定紋入りの油単をかけた衣裳箪笥の前に歩み寄った。三棹《みさお》の総桐《そうぎり》の箪笥には、万俵家へ嫁ぐために、京都の呉服屋に別染めさせた婚礼衣裳から訪問着、散歩着が重ねられ、その横の二棹の箪笥には、結婚後に誂《あつら》えた衣裳が入っている。寧子は、舅《しゆうと》の十七回忌の法要の喪服一式をきちんと確かめるために来たのだったが、衣裳部屋に入った途端、そんなことは忘れ果てたように嫁いで来た時に持って来た箪笥の前にたちつくし、やがてゆっくりとした動作で油単をとると、ひき手の金具にまで定紋の入った箪笥の引出しをあけた。寧子が娘として成長した頃はもはや往時の威光を失い、公卿華族という血統を唯一《ゆいいつ》の財産にして娘たちを資産家に嫁《かたづ》け、その余沢で華族生活を維持していた貧乏華族だったから、こしらえの大半は、万俵家の莫大《ばくだい》な結納金によってまかなわれたものであったが、寧子はその衣裳箪笥をあけると、父をおもうさま[#「おもうさま」に傍点]、母をおたあさま[#「おたあさま」に傍点]と呼んで暮した平穏な娘時代のことが偲《しの》ばれ、心が和んだ。
畳紙《たとうがみ》に包まれた着物を一枚、一枚、取り出し、着ている着物の上から華やかな訪問着や若やいだ散歩着を次々に肩にかけているうちに、さっき千鶴と話していた時の哀《かな》しみとも苦しみともつかぬ表情は消え、着せ替え人形を楽しむ童女のような無垢《むく》な美しさが満ちた。畳紙から出した着物を寧子はたたむことを知らないように、肩にかけてはそのまま下へずり落し、また次の着物を取り出してはうち眺め、友禅や疋田《ひつた》絞りの豪奢《ごうしや》な衣裳が寧子の周囲に、花弁のように拡がって行き、なおも憑《つ》かれたように、何枚目かの着物を取り出すと、寧子は眼を輝かせて両袖に腕を通した。京都の高名な染色家の筆になった白地に紅梅模様の香気溢《あふ》れる綸子《りんず》の訪問着で、寧子の気に入りの着物の一つだったが、両袖をひろげて、うっとりと賞《め》でるように見入っているうちに、あっと小さく叫んで、息を呑《の》んだ。右脇の身八口《みやつくち》のところが鋭く裂けている。寧子はみるみる顔が青ざめ、震える手でその着物を脱ぐと、遠くへ押しやった。身八口のその無惨《むざん》な裂け口が、寧子に四十年前の身をわななかせるような出来事を思い出させたのだった。
それは、寧子が万俵家へ嫁いで初めて迎えた女節句の時のことであった。舅《しゆうと》と姑《しゆうとめ》の住まう日本館の大広間に雛壇《ひなだん》を飾ったから是非にと招待をうけ、一族の集まるという時間に、気に入りの紅梅の訪問着を着て訪れると、大広間には舅の敬介が一人、坐っているだけで、ほかに誰もいなかった。寧子は訝《いぶか》しい思いを抱いたが、飾られた雛人形が、実家の嵯峨家に代々伝わる京雛とあまりにそっくりな似方に驚いて理由《わけ》をたずねると、寧子のためにわざわざ同じものをつくらせたということだった。そして敬介は、だからこそ、誰よりも先に寧子に見せたかったのだと云い、自ら白酒を寧子に注《つ》いですすめ、寧子がほんのりと頬を染めると、いきなり体を寄せて来、「寧子はあの内裏《だいり》雛以上に美しい」と囁《ささや》くなり、逞《たくま》しい太い手を身八口からさし入れ、腋《わき》の下へ伸ばして来た。あまりのことに最初は、抗《あらが》うことさえ忘れ、呆然《ぼうぜん》とされるままになっていると、敬介は、「公卿の女の肌はましゅまろのようだ」と云うなり、さらに深く手を押し入れた。寧子は、思わず声を上げそうになりながら、かぼそい体に渾身《こんしん》の力を振りしぼって、舅の手を払いのけると、びりっと鋭く着物が裂ける音がし、さすがに敬介もひるんで手をひっこめた。無我夢中で洋館の方へ帰りついたが、夫の大介が居間の扉《とびら》のところにたって、妙に冷たい視線で自分を見詰めていたのだった。その女節句の雛祭りから一カ月も経ずして、もっと異常な出来事――、寧子の眼に、白い湯煙が籠《こも》った日本館の大きな湯殿がうかび、そして……。寧子はその時の眼も眩《くら》むような光景を払いのけるように、両手で顔を掩《おお》った。
万俵家の菩提寺《ぼだいじ》である姫路の名刹、亀山御坊の本堂で、先代万俵敬介の十七回忌が、底冷えのする初冬の日にもかかわらず、盛大に営まれていた。
堂内正面の須弥壇《しゆみだん》の前に故人の遺影が祀《まつ》られ、緋衣《ひい》の七条の袈裟《けさ》をかけた院主が大導師になり、色衣《しきえ》に五条の袈裟をかけた十四人の結衆《けつしゆう》が内陣の両側に居列《いなら》んで、大導師に和して読経《どきよう》している。その声が朗々と響きわたり、須弥壇の燈明の灯《あか》りがあかあかと堂内を照らし出している。
大導師の調声《ちようしよう》に続いて結衆の読経がはじまると、会役者《えやくしや》が遺族席に向って、
「喪主の方から、ご焼香をおはじめ願います――」
と云った。万俵大介は黒紋付に袴《はかま》をつけた喪服姿で席をたち、袴の折目を崩さないように祭壇へ進み寄り、亡父の遺影を見上げた。写真の中の故万俵敬介は、紋服姿の上半身をそらせ気味にし、大振《おおぶ》りな目鼻だちと精悍《せいかん》な眼ざしで、参列者たちを睥睨《へいげい》するように見据えている。それは亡父の生存中、大介が叱咤《しつた》されて、絶えず畏怖《いふ》し続けて来た表情であった。大介は、今も威圧を感じるような思いで恭《うやうや》しく焼香し、席へ戻ると、妻の寧子が代って席をたった。
公卿紫の喪服に、白珊瑚《さんご》の数珠《じゆず》を持ち、しずしずと祭壇に歩む寧子の姿は、公卿華族の出らしい気品に満ち、香煙と燈明の灯りの中で、臈《ろう》たけた紫の影が美しくゆらめき、人眼を奪ったが、大介は、故人の遺影の前にぬかずき、怖《おそ》れるように青白みながら焼香する寧子の姿を射るような視線で見詰めていた。
次いで鉄平が焼香にたち、祭壇の前まで進んだ時、ほうっという吐息とともに、周囲の視線が一斉に鉄平に注がれた。黒羽二重の紋付に袴をつけた鉄平が、故万俵敬介の写真と向い合うと、口髭《くちひげ》、髪の色こそ違っても、まるで万俵敬介が写真の中からぬけ出して動き出したように、そのいかつい肩、大振りな目鼻だち、精悍な眼ざしが酷似していた。そうした周囲の気配に気付いたのか気付かないのか、鉄平はまっすぐ写真を見上げ、焼香をして席へ戻った。そのあと、鉄平の妻、銀平夫妻、二子たちが次々と焼香にたったが、大介はもはや、それらの姿に眼を向けていなかった。
読経の声がさらに高まり、焼香にたつ人の流れが早くなっている中で、大介は喪主らしく威儀を正した姿勢で祭壇に向っていたが、眼だけは亡父の遺影に向って鋭く見開かれていた。
大介は、亡父のことを思い出す時、懐《なつ》かしさより重苦しい圧迫感と苦渋に満ちた思いが胸に来る。播州《ばんしゆう》の地主であった万俵家十三代目の亡父は、第一次世界大戦勃発《ぼつぱつ》と同時に、万俵船舶と万俵鉄工を興《おこ》し、それで得た巨万の富を資金にして万俵銀行を創立し、さらに群小の田舎銀行を吸収して現在の阪神銀行の基礎を創《つく》り上げた。万俵家を地方の一地主から阪神間の財閥に仕上げたその偉業は、誰しも認めるところであったが、それが絶えず、大介の両肩に重くのしかかっていた。銀行を要《かなめ》にし、鉄鋼、不動産、倉庫と、次々に手を拡げた亡父は、大介にとって、一家の父というより、事業欲と野心に満ちた怪物的な企業家であった。一人息子の大介に絶対服従を強い、自分の思い通りの型にはめようとした。大介自身は、どちらかといえば、地主の出である父よりも、近江《おうみ》で代々藩学者を勤めた素封家の出である母に似、土くさい荒ぶれた血でなく、母方の性格を受け継いでいた。企業の経営方針にしても、絶えず積極策で押しまくり、或《あ》る時は出血をも辞せずに断行する父のやり方に対して、大介は周到緻密《ちみつ》な計画のもとに、その結果を計数的に納得した上でないと行動しないという違いがあった。それだけに、大介のやり方にはまず失敗というものはなかったが、それがまた豪毅《ごうき》な性格の亡父の気に染まず、失敗がないということは、成功がないということにも通じると貶《けな》され、褒められるということがなかった。その父が、こと鉄平のこととなると、全くの自由気儘《きまま》にさせた。万俵家の長男でありながら、銀行より鉄鋼の方をやりたいから、大学は工学部に進学したいと鉄平が云えば、そうかと簡単に許し、二言目には、「鉄平は顔形から気性までわしにそっくりだから、企業家としてもわし譲りの器量に違いない」と云い、父親である大介をさしおいて、鉄平と寧子をたてることが多かった。初孫《ういまご》に対する盲愛といってしまえばそれまでであったが、それだけではすまされぬ異様さがあった。臨終の床の苦しげな息遣いの中で、敬介は「跡継ぎは鉄平だな――」と念を押し、息を引き取った。当然、大介の跡を継ぐ長男の鉄平を、ことさらに跡継ぎだなどと、臨終の床で念を押した異様さは、十六年経《た》った今日も、大介の脳裡《のうり》に明確に残っている。
木魚の音が小止《こや》みになった。亡父の遺影から眼を戻すと、親族、万俵コンツェルン関係の焼香も終って、焼香の列は残り少なくなり、地元の有志たちの一般焼香に移っている。姫路には先祖伝来の古い家と墓所が在るだけの万俵家であったが、今もって、播州一の地主であった万俵家の法要に集まって来る人たちの数は多かった。大介はそれらの人々に目礼していると、一人の焼香客が、大介の前にたち止まって、深々と一礼した。見ると、元大蔵省銀行局の金融検査官で、阪神銀行のために中位四行のマル秘資料を持ち出し、その返礼として阪神銀行の系列下にある白鷺《しらさぎ》信用金庫の理事に送り込まれた田中松夫であった。万俵大介は、はっと厳しい現実にたち返った思いで、猫背で貧相な田中の姿に眼をやりながら、阪神銀行の新たな合併相手を早く決めなければならないと思った。
法要が終ると、寺内の白書院で、万俵家の一族と親族のために供養膳《くようぜん》が整えられた。
広い書院にコの字型に並べられた供養膳の末席に、喪主の万俵大介と長男の鉄平が威儀を正して坐《すわ》り、
「本日はご多用の中を、亡父万俵敬介の十七回忌法要のためにご列席戴《いただ》き、おかげで盛儀をもって終えさせて戴きました、故人に代りまして厚く御礼申し上げ、心ばかりの供養膳を整えさせて戴きました」
大介が喪主の挨拶《あいさつ》をすると、親族を代表して、敬介の弟で一族の長老である白髪の万俵喜三郎が、
「ごりっぱなご法要を営んで戴き、その上、結構な供養膳をして貰《もろ》うて、改めて故人の冥福《めいふく》を祈らせて戴きます」
改まった口調で、供養膳に列《つら》なる礼を云った。
堅苦しい挨拶が終ると、精進酒《しようじんざけ》が酌《く》み交わされ、急に座が賑《にぎ》やかになった。正面の床の間の前に坐っている大川一郎は、
「さすがに播州一の万俵家の法要だね、人間、死んでから十六年も経つと、すっかり影が薄くなるものだが、万俵家ともなると、下手な政治家以上の法要だ」
と云い、斜め向いに坐っている美馬に、
「それにしても美馬君、十二月といえば、主計局が一番、忙しい時期だろうに、よく来れたもんだね」
と声をかけると、美馬は、
「ほかならぬ万俵家の先代の大法要ですから、そこは万障繰り合せ――ですよ、そのかわり、帰ったら数日間徹夜ですがね」
周囲の親族にも聞えよがしに応《こた》えると、大川はふんと鼻先で笑うような表情を見せたが、美馬の隣に坐っている一子は、夫のそうした恩着せがましい態度に、顔をそむけた。
「おじさま、私のお酌でいかが?」
二子が大川の前に来て、銚子《ちようし》をさし出した。藤色一つ紋を着ているせいか、いつもより大人びた女らしさが匂っている。
「ほう、二子ちゃん、今日はまた一段ときれいだな、聞くところによると、降るほどある縁談に見向きもせず、大介氏を困らせているそうだが、こういうきれいなうちに早く嫁《い》ってしまわないと、女というのはすぐとう[#「とう」に傍点]がたって、貰い手がなくなるよ」
上機嫌に盃《さかずき》を干し、云い聞かせるように云った。
「おじさまでもそんなお説教をなさるの? でも私は残念ながら、まだその気になっていませんのよ」
全く取りあわぬように云うと、阪神特殊鋼の社長である石川正治が横から、
「銀平君が結婚したら、すぐ二子ちゃんの番だという約束だったじゃないか、何なら叔父さんも、いい人を探してあげようか」
生真面目《きまじめ》な顔で聞くと、叔母の千鶴が、
「あなた、お止しなさいな、二子ちゃんの縁談は美馬さんにお心当りがあって、相子さんが例の如《ごと》く奔走しているんですって」
美馬にも当てつけるように云うと、気の弱い石川正治は、
「相子さんといえば、今日は姿が見えんな」
慌《あわ》てて、話題をそらした。
「相子さんがこの法要に列なる筋合いはないでしょう、それに父はあの人のことを嫌っていましたし――」
千鶴が底意地の悪い云い方をすると、一瞬、座が白《しら》けたが、大介は平然とした表情で、
「しかし、いずれにしても、二子の相手は万俵家及び親族一同にもご納得戴ける相手でないと、結局、最後は本人の不幸になることですから、この席をお借りして、皆さま方にもお願いしますよ」
政治家の大川一郎、官僚の美馬中、そして財界人の安田太左衛門と、閨閥の枝を巧みにめぐらせ、さらに万俵家の閨閥《けいばつ》を華麗に茂らせて、企業のメリットを生み出そうとしている野心は[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》にも出さず、父親らしく和やかに云った。
供養膳の席が終り、弔問客が車を列ねて帰ってしまうと、広い境内はひっそりと人影がなくなって、さっきまでの盛大な法要が嘘《うそ》のような静けさに返った。
万俵鉄平は、舅の大川一郎と、車が待っている山門に向って、ゆっくりと歩いていた。夕刻からクラブ関西で、後援会の在関西主要メンバーと懇談する予定の大川は、それまでの時間つぶしに、供養膳のあと、鉄平と寺の離れで話していたのだった。
「お舅《とう》さん、火の気のない離れで話し込んでしまって、お体が冷えませんでしたか?」
袴《はかま》の裾《すそ》を蹴《け》るようにして歩きながら鉄平が聞くと、大川一郎は、脂《あぶら》ぎった精力的な顔を綻《ほころ》ばせ、
「いや、久しぶりに君と話して愉快だったよ、お互いに忙しくて、こういう時でないと、なかなか話せないからな」
「しかし、あまりご無理なさらないで下さいよ、さっき、供養膳の時にお姑《かあ》さんに聞いたんですが、この間、眩暈《めまい》をおこされて、深夜、お医者さんの往診を願ったというではありませんか」
心配げに舅の横顔を見ると、
「相変らず、おしゃべりな奴《やつ》だな、別に大したことはなかったよ、この春、ソ連対外貿易省の招待でソ連へ行ってまとめた貿易協定が、いよいよ仕上げの段階に来ているので、このところ多忙を極めて疲れているのだが、そこへもって来て、これの方もやめられないので、ついついというわけさ」
大川は小指をたて、女のことを云いながら好色な笑いをうかべたが、鉄平は姑の話が耳に残っているせいか、大川の顔がどことなくむくみ、眼に張りがないように見えた。
「お舅さんのことだから、それは仕方がないにしても、かかりつけの松見先生には、以前から高血圧と動脈硬化を指摘されておられるのだから、大事にして下さいよ、何事も命あってのものだねじゃないですか」
大っぴらに妾宅《しようたく》を構え、月のうちの半分も本宅へ帰らない舅であったから、おどかすように云うと、大川は苦笑したが、眼前に聳《そび》えたっている山門の見事な甍《いらか》を仰ぎ見て、足を止めた。
「人のことを心配する暇があったら、高炉建設の方を少しでも早く進めることだ、通産省の来年度の鉄鋼業界の景気見通しは、当初の予想より悪くなるらしいからね」
曾《かつ》て通産大臣をつとめ、現在も相当の残存勢力を省内にもっている大川は、いち早くキャッチした情報を齎《もたら》してくれた。
「そりゃ僕だって、高炉は一日も早く完成させたいですよ、今、ちょうど炉体が出来上ったところですが、この山門のように高く聳えたっているんですよ」
鉄平も足を止め、山門を仰ぎ見た。
「で、どうなんだ、大ピッチで予定より早く完成させる成算はあるのかね」
「それは、資金繰りその他の面から云っても、何しろ初めての大事業だけに、予期せぬ事態がいろいろ起って、今のところ工程表通りに進めるのが精一杯ですね」
「資金繰りなら、親爺《おやじ》さんに頼めばいいじゃないか」
大川は、再び歩きながら云った。
「しかし、阪神銀行の高炉建設資金の融資比率は三〇パーセントで、それ以上はいかなる事態が発生しても出せぬと、最初に釘《くぎ》をさされていますからねぇ」
「自分の息子に対して、そこまで徹底的に冷徹になれるというのは、或る意味ではりっぱだが、あまりにも血が通わないやり方だな、親子ってそんなもんじゃないと思うがね」
大川は腹だたしげに云い、待っていた車に乗りながら、
「高炉の火入式は、いつ頃になるのかね」
「来年の六月です、火入式には是非とも出席して下さいよ」
「もちろんだとも、通産大臣だった時、一度、帝国製鉄の高炉の火入式に招かれたことがあるが、社長以下、関係者が高炉に火を入れるあの瞬間というのは、実に感動的だったよ、通産官僚どもとべったりの帝国製鉄など、虫が好かんのだが、あの時ばかりは心から拍手してやったよ、だから君んところの火入式には、何をさしおいても是非、出るさ」
まだ半年以上も先の火入式のことを熱っぽく口にし、車に乗り込むと、
「じゃあ、頑張り給《たま》え、困ったことがあったら、いつでも云って来ることだ――」
「有難うございます、お舅さんもくれぐれも、ご自愛下さい」
鉄平は、山門にたって車が見えなくなるまで見送った。
灘浜《なだはま》の阪神特殊鋼は、連日の増産体制で、工場全体に活気が漲《みなぎ》っている。なかでも全工程の要《かなめ》にあたる製鋼工場では、昼夜を分たぬ作業が続けられ、年末の追込みにかかって、今が一番、忙しい時期であった。
万俵鉄平は、朝から会議と来客の応対に追われ、なかなか現場へ出る時間が取れなかったが、昼過ぎに暇をみつけると、作業衣とヘルメットを身につけ、ジープを飛ばして、第一製鋼工場へ行った。
ターミナル駅の構内のような天井の高い建屋《たてや》の中には、高さ四メートル、直径七メートルの巨大な六十トン電気炉が据えつけられ、他《ほか》にも三十トンと十五トン電気炉がありフル操業していた。従来、十五トン電気炉の方は、特別注文の高級な特殊鋼を注文量に合わせて作る以外、使われることはなくなっていたが、十月初旬に鉄平が渡米した際、長年の得意先であるシカゴのアメリカン・ベアリング社から、二割増量の長期契約を受けてきたから、それもフルに稼動《かどう》させ、増産体制を敷いているのだった。それだけに工場の中は、電気炉で溶解された鋼《はがね》の出鋼する回数が多くなり、電気炉の出鋼時間の度に、溶鋼を受ける取鍋《とりべ》を動かすクレーンが轟音《ごうおん》を轟《とどろ》かせてひっきりなしに左右に移動していた。そして、あちらこちらの造塊場では、取鍋から鋳型《いがた》への注ぎ込みが次々に行われ、オレンジ・レッドの強烈な光と火花が、広い建屋を明るく照らし出している。
「六十トン電気炉、出鋼だ! クレーン、移動開始!」
下の方で、金田製鋼部長の張りのある声がし、同時に班長がピィーッと笛を吹いた。それを合図に、クレーンが大きな音をたてて六十トン電気炉の傍《そば》へ取鍋を動かして来て、高温のために白光を放っている溶鋼が流れ出ると、周《まわ》りにいた作業員たちは、放射される熱に顔を真っ赤にして、鋳型の注ぎ込み作業にとりかかった。
「おい、金田君!」
鉄平も、下から吹き上げて来る熱風に頬を紅《あか》らませ、大きな声で呼んだ。
「あっ、専務、いらしてたんですか」
金田と一之瀬四々彦《いちのせよしひこ》が目礼した。
「あの百トン吊《づ》りのクレーンだがね」
鉄平が云いかけると、再びクレーンが動き出して、声が消された。鉄平は大股《おおまた》な足どりで二人の傍へ寄り、
「少し横ぶれしているね、車輪が片べりしているのじゃないのかね」
「ご指摘の通りです、そろそろ取り替えねばと思っているのですが、アメリカン・ベアリング社の来年二月分までの見越し生産があと四、五日間かかりますので、何とかそれまでもたせられないかと話していたところなのです」
金田は、額の汗をぬぐいながら応えた。一之瀬四々彦も黒く煤《すす》けた顔で、
「今朝、クレーンに上って調べてみましたら、まだ車輪のゴムは十五ミリ以下には減っていませんので、四、五日なら大丈夫と思いますが」
と云った。
「十五ミリをきっていなければ、その位は多分、もつだろうが、何しろチャージ回数が多いから、念のために専門家に見せることだ、万が一、脱線でもしたら、それこそ人命にかかわる大事故になるからね」
鉄平は注意を与えると、製鋼工場を出、外に待たせていたジープの運転手に、岸壁廻りで高炉建設現場へ行くように命じた。構内の大通りをまっすぐ岸壁まで出ると、正面に灘浜の内海が拡《ひろ》がり、スモッグに掩《おお》われた冬空の間から、わずかに青い空がのぞいている。鉄平は、潮風を吸い込むように、大きく呼吸し、岸壁の倉庫に、アメリカン・ベアリング社を含めた十二月分のアメリカ向け船荷が、五日後に入港する船を待つばかりの態勢になっていることを確認すると、高炉建設現場へ向った。
着工して七カ月目の高炉建設現場近くに来ると、資材を運ぶダンプ・カーが、でこぼこの道を土煙を舞い上げて激しく往《ゆ》き交い、苛《いら》だたしげに鳴らすクラクションや人夫たちの怒声が、工事現場の騒音に混じって、戦場のような凄《すさま》じさであった。そしてその向うに、鉄皮《てつぴ》を巻き終った高炉の炉体が高々と聳えたち、三本の熱風炉と煙突、さらに鋳床《ちゆうしよう》や転炉の建屋《たてや》が、がっちりとした鉄筋の骨組を見せて建っているのが一望のもとに見渡せた。鉄平はジープの中から、その雄々しくダイナミックな景観を見詰め、メイン・バンクの阪神銀行や通産省からあんなに反対された高炉建設の計画だったが、やはり断行してよかったと思った。
高炉の傍に来ると、炉内の煉瓦《れんが》積み作業のために、人夫たちが、重さ十キロの大きな耐火煉瓦を高炉の羽口《はぐち》に通じるベルト・コンベアに、一個ずつ乗せて、炉内へ送り込んでいた。
「ご苦労さん――」
鉄平は犒《ねぎら》いの言葉をかけ、地上から三メートルほど上の高炉の羽口へ足場を伝って上って行き、炉内へ足を踏み入れた。炉頂を塞《ふさ》がれていたから、中にはサーチライトや裸電球がぶら下って、炉内を照らしていたが、上層部は暗く、巨大な筒の中に入ったような重圧感を感じる。鉄平は高さ六十メートル、直径七メートルの炉底の真ん中にたって、一個一個の煉瓦を鏝《こて》を使ってメジ材(接着セメント)で丹念に積み上げている七十人近い煉瓦工や、煉瓦工を助《す》ける手元[#「手元」に傍点]たちの作業の邪魔にならぬよう、鉄皮の内側に一メートル幅の煉瓦の内壁が少しずつ出来て行くのを見渡しながら、ふと視線を自分の足元に落した。煉瓦積みをはじめる第一日目の鏝入れ式の時、足下一メートルのところに、雄鳥の飛揚するように勢い盛んであれという思いを籠《こ》めて、「雄翔《ゆうしよう》」と書き記した礎石を、埋めたのだった。
「専務、また来てはりますな」
煉瓦工の親方が、顔を上げた。
「ああ――、作業は順調に予定通り進んでいるようだね」
「もちろんだすとも、それよりメジの工合は、もう文句、おまへんでっしゃろ」
職人気質《かたぎ》で、一徹そうに云った。煉瓦積みで一番大切なことは、メジの厚さが規定通りにおさまっているか否《いな》かで、規定より分厚いと、煉瓦より耐火性が弱いだけに、高炉の操業後に事故を起すもとになる。それだけに鉄平は、三日前に見廻りに来た時、メジの厚さの不規則な部分を見つけ、そこを全部、張り替えさせたのだった。
「結構だ、この調子で頼む」
「心得とります、この高炉が専務の片割れみたいなもんやと解《わか》った限り、二度とこの前みたいな不始末はさせしまへんわ」
ぽんと胸を叩《たた》くように請け合ったが、その時は、鉄平を若造の経営者と舐《な》めて、剥《は》がせ剥がさぬで、一悶着《ひともんちやく》を起したのだった。しかしその時のやりとりで鉄平の心意気にすっかり搏《う》たれた煉瓦工の親方は、掌《てのひら》を返すように協力的になっていた。
「万俵専務は、こちらですか!」
羽口の方から大声がした。
「いるぞ、何か用か」
大声で返事すると、作業員が入って来、
「只今《ただいま》、川畑常務から現場事務所へ電話がかかり、至急、事務本部へお戻り下さいとのことです」
と伝えた。現場へ出ている時に役員連絡が入るのは、よほどの急用に違いない。鉄平は炉底から羽口へ上り、ジープで事務本部へとって返した。
二階の専務室に戻ると、川畑常務が待ち受け、ひどく慌て、落着きを失っている。
「専務、アメリカン・ベアリング社から、つい先程、こんな電報が入りました」
と云い、英文の国際電報をさし出した。
RE OUR ORDER NO. TY501, PLEASE POSTPONE DECEMBER SHIPMENT UNTIL OUR FINAL INSTRUCTIONS
(十二月分ノ船積ミヲオ待チ乞《こ》ウ)
「なに! 船積みを待てだって?」
電文に眼を走らせるなり、鉄平は顔色を変えた。
「一体、これはどういうことなんだ、船積みを待てといっても、船は五日後に灘浜へ入るというのに――」
「私もあまりに突然のことなので――」
「しかし、理由《わけ》もなく、こんな電報が突如、来るはずがないだろう、心当りはないのかね」
「私なりに考えてみましたが、アメリカン・ベアリング社の製品の売行きが、急激に悪化したとも考えられませんし、アメリカの鉄鋼市況がダウンしたとも思われず、ましてやヨーロッパ・サイズのミルが大幅な安売りで攻撃をかけて来たという話も聞きませんし――、二カ月前に渡米され、長期増量を取って来られた専務なら、もしかしてお解りかと思いまして……」
自分の責任を逃れるような云い方をした。
「いや、あの時、そんな危惧《きぐ》を抱くような気配は、アメリカン・ベアリング社には全くなかったよ、それより商社筋へ何か情報が入っていないのかね」
「取引商社のほかにも一、二、さり気なく当ってみましたが、どこも何も知っていない様子です」
「じゃあ、シカゴにすぐ事情を聞いてみようじゃないか」
鉄平はそう云うなり、シカゴに一人、置いている駐在員の自宅へ国際電話を申し込ませた。時差の関係で向うは夜中であったが、そんなことにかまってはいられない。程なくして、電話が繋《つな》がった。
「もしもし、南君か、万俵だ、今、アメリカン・ベアリング社から、十二月分の船積みを待てという電報が入ったが、どういうことなんだ」
まくしたてるように云うと、突然、深夜の国際電話で叩き起された戸惑いの気配が感じられたが、
「私も昨夕、それを聞かされ、びっくりして、担当者に理由を尋ねたのですが、一向に要領を得ぬまま、時間切れになり、明朝、すぐ調査致します」
「要領を得ないなど、呑気《のんき》なことを云っている場合じゃないだろう、船は五日後にわが社の岸壁に入るんだ! 船積み待てというのは、たとえば製品の仕様《しよう》が変更されるとか、輸出量が増減するとか、そういうことじゃないのかね」
「それが、そうでもないようでして……」
「じゃあ、船積み待てというのは、何日ぐらい、待てということなのだ」
「ところが、暫《しばら》く待てというだけで、それも向うははっきり応《こた》えてくれないのです」
当惑しきった駐在員の声がした。
「そんな馬鹿《ばか》なことがあるものか! ともかくこんな突然の通告には応じられないから、予定通り出航出来るよう、極力、交渉してくれ給え、そして何か解り次第、連絡を入れるように」
鉄平は、強い口調で命じて、電話をきったが、平素は優秀な駐在員が今度に限って、要領を得ない返答しか出来ないことが気懸《きがか》りであった。
「専務、どうも様子がおかしいですね」
横で電話を聞いていた川畑が、ますます不安そうに云った。
「うむ、あとは暫く向うからの連絡待ちということだが、もしかすると、渡米しなければならぬかもしれない」
「それは、心づもり致しておきます」
「いや、その時は私自身が行く、だが、このことは、事態がはっきりするまでは石川社長や、経理担当の銭高《ぜにたか》常務には、伏せておくように――」
「しかし、こんな重大事を、いくら何でも」
川畑は躊躇《ためら》うように云ったが、鉄平は、
「いや、私が責任をもって処理するから、そうしてほしい」
きっぱり云い切ったが、内心はやはり動揺していた。
翌日、鉄平は慌《あわただ》しい渡米の用意に追われていた。昨日、まる一日、何回もシカゴの駐在員と電話のやりとりをして、再三再四、アメリカン・ベアリング社の意向を問い合せたが、一向に埒《らち》があかず、無駄に時間が経《た》つばかりであった。この上は、鉄平自身が急遽《きゆうきよ》、シカゴへ飛び、直接、話し合うしか方法がなかった。
腕時計のカレンダーは十二月十六日、午後三時三十二分を指している。大阪伊丹《いたみ》空港六時半発の日航機で発《た》ち、羽田で午後八時三十分発のノース・ウエスト機に乗り継ぐ予定をたてていた。数次渡航のパスポートを持ち、外国出張に馴《な》れている鉄平は、東京出張と同じような感覚で手早く書類を鞄《かばん》に詰めたが、妻の早苗《さなえ》は、あまりに急な旅だちに、慌《あわ》ててトランクに衣類と身の廻り品を詰めていた。
「昨日、電報が入って、今日、出発だなんて、いくら何でも急なことね、ワイシャツは五枚でいいの?」
「うん、それでいい、電気剃刀《かみそり》を忘れないでくれよ」
「大丈夫、あなたのお髭《ひげ》は一日に二度、剃《そ》らなくちゃならないんだから――、他《ほか》にお忘れものはなくて?」
そう云っている間にも、電話のベルが鳴った。秘書課からの連絡であった。
「専務でいらっしゃいますか、やっと今、向うの購買部長と会えるアポイントメントが取れたという返電が入りました」
「そうか、それでほっとしたよ」
そう云い、受話器を置くと、煙草《たばこ》に火を点《つ》け、一服、大きく喫《す》った。早苗は、そんな気配を待っていたかのように、
「あなた、先程、実家《さと》の母から電話があって、父がまた工合を悪くしたのですって――、あなたのことを、どういうわけか、とても気にしていて、出来たらちょっと、見舞ってやって下さらない?」
「そりゃあ、いけないな、だが、行きたくても時間的に無理だから、空港で電話するよ」
と応えながら、鉄平は先日の法要の席でのことを思い出した。祖父の法要というのに、父とは殆《ほとん》ど言葉らしい言葉も交わさず、専《もつぱ》ら舅《しゆうと》の大川一郎と話していた。その舅が、体の工合を再び悪くしながらもなお、自分の事業のことを心配してくれていることを聞くと、鉄平は父親である大介より、舅の大川の方に、父親のような温か味を感じる。
「あなた、何を考え込んでいらっしゃるの、ご用意がお出来になったら、お舅《とう》さまにご挨拶《あいさつ》なさっていらしたら――」
早苗は、トランクの蓋《ふた》を閉めながら云った。鉄平は煙草を灰皿にもみ消し、
「渡米するぐらいで、いちいち挨拶などすることもないだろう、あとでお前から一カ月先に予定していた仕事が急に早まったので飛びたちましたと云っておいてくれ」
と云いつけると、また電話のベルが鳴り、早苗が受話器を取った。
「まあ、叔父さま、ご機嫌よろしゅう、ええ、急ですけれど、もう用意が整いました、はい、すぐ代ります」
阪神特殊鋼の社長である石川正治からの電話であった。鉄平が電話口に出ると、
「あ、鉄平君、昨日の船積み待ての電報の件、聞いたが、その後、どうなりそうなんだ、詳しい説明がないから、心配ばかりが先だって、血圧に障《さわ》る、それで、鉄平君が予想し得る事態というのは、どういうことなんだ――」
蚊帳《かや》の外に置かれた不満を抑えた声で聞いた。絶えず、名ばかりのお飾り社長という思いが、石川正治をして、小心なくせに不満ばかり口にする性格につくりあげている。
「いえ、ご心配には及びません、何かの手違いで起ったとしか考えられませんよ――、いえ、昨日の電報のためだけに飛んで行くのではありませんよ、たまたま一カ月後にロスアンゼルスのカイザー・スチール社へ、高炉操業のことで調査を依頼していたこともあり、渡米する予定になっていましたから、それを早めて、この際、カイザー・スチールへも寄って来るのですよ」
鉄平がことさらに、気軽な語調で云うと、
「ああ、ロスのカイザー・スチールへも寄るのか、じゃあ、気をつけて」
石川正治は、はじめて安心したように、電話をきった。叔父にまでほんとうのことを云わないのは、父の耳に入るのを警戒したからであった。
鉄平は、つと窓の外を見た。夕陽の中に、白い塔と白亜の壁のスペイン式の館《やかた》が、美しい輪郭を際《きわ》だたせていたが、やがて夜になると、燦《きらび》やかな灯りがつき、冷厳な頭取然とした昼間の父が、妻妾同衾《さいしようどうきん》の夜の生活を営む――。そうした外と内、昼と夜を何のくるいもなく、平然と使い分ける父の体内に流れている血は、どう考えても、自分のものとは異質なように思える。しかし、隠花植物のように陰湿なそうした一面が、いささかも感情を露《あら》わにしない銀行家としての一要素を形造っているのかもしれない。そうした冷徹なる銀行家の父と、すべてを鉄に賭《か》けている自分とが対決し、闘わねばならぬ時が、いつかは来るような予感がする。その時、自分はどんなことがあっても、父には負けられないという思いが、鉄平の胸に突き上げて来たが、その父との闘いの第一歩が、今度のアメリカン・ベアリング社から来た一方的な通告に、如何《いか》に善処するかであると思った。
伊丹空港に万俵鉄平の車が着くと、川畑常務と一之瀬工場長、一之瀬四々彦、そして秘書課員が待ち受けていた。
「専務、切符とお荷物の手続きをして参りますから――」
秘書課員と若い一之瀬四々彦が、てきぱきとトランクや切符を出発便のカウンターの方へ持って行きかけると、
「四々彦君、君も来てくれてたのか」
鉄平は、充血した眼の端に笑いをうかべて声をかけた。
「はい、今日は専務の主宰される研究会が開かれる予定でしたが、それが中止になり、時間が空《あ》きましたので――」
数次渡航のパスポートや切符類の入った書類袋を手にした四々彦は、さり気なく応えたが、父から詳しい事情を聞いているらしく、眼《まな》ざしは張り詰めている。
「そうか、今日は研究会のある日だったな……」
週に一度、社内の冶金《やきん》関係の技術者たちを集めて行なっている研究会のことであった。
「専務、それよりアメリカン・ベアリング社の購買部長と会うアポイントメントは確かなんでしょうね」
横から川畑常務が、こんな時に研究会どころの話ではないといわんばかりに口を挟んだ。
「そりゃあ、あの返電が入って来た限り、間違いがないだろう」
「では、向うが会うということは、どちらかといえば、希望的観測ができるということでしょうかねぇ」
「さあ、アメリカ人はビジネスライクだから、面談すなわち希望的観測につながるということにはならないだろう、だが、何しろあと四日後に船が入って来るのだから、どんな事情が向うにあるにしろ、十二月分の輸出品は予定通り、引き取って貰うように、そこに重点をおいて、徹底的に交渉する」
強い語調で云うと、川畑常務は、
「是非ともそうお願い致します、われわれと違って、二カ月前に長期増量を受注された当の専務が足を運ばれて、交渉なされば、向うもそう一方的なことは云えないはずでしょうからねぇ」
傍《かたわ》らにいる一之瀬工場長を顧みながら云ったが、言外に、営業担当役員としての責任を躍起になって回避したがっている胸中が読み取れた。一之瀬工場長はそんな川畑常務に、いつになく厳しい表情で、
「そんなことより川畑君、アメリカン・ベアリング社向けの船積みを、万一、数日、もしくは一週間ほど遅らせねばならない場合のことを考えるのが、先だろう、年末だけに、向うの指定通りの日時にアメリカ向けの船便が好都合につかまればいいが、この点は大丈夫なんだろうね」
鉄平がアメリカへ交渉に飛んでいる間に、それに対応した処置を打っておくことを云った。
「もちろん、それは商社と打ち合せて、万端遺漏なきよう手配しておきますよ、しかし、数日間の遅れならともかく、一週間も十日も船積みをストップされるとなると、資金繰りの面で少々、痛手ですね、経理部の方から突き上げて来ますよ、きっと――」
「川畑君、そこまで心配するには及ばないよ、ただ、銭高常務に対しては、何度も云っているように、僕が交渉をまとめるまでは、あらゆる意味で慎重に頼む、いいね」
鉄平が釘《くぎ》をさすように云うと、搭乗《とうじよう》手続きを終えて、鉄平のところに戻って来ていた一之瀬四々彦と秘書課員も重苦しくおし黙った。万俵頭取の意を受けて、阪神銀行から阪神特殊鋼の経理担当常務として送り込まれ、財政面に絶えず眼を光らせながら、逐一、阪神銀行へ報告している銭高常務は、社員たちの誰からも警戒されていた。
東京行き十八時三十分発の日航の出発便案内のアナウンスが流れた。
「では、専務、そろそろ――」
羽田まで随行する秘書課員が促しかけた時、
「お兄さま!」
鉄平を呼ぶ声がした。振り返ると、スエードのコートの裾《すそ》を翻《ひるがえ》して、二子が駈《か》け寄って来た。
「なんだ、二子じゃないか、どうしたんだ」
鉄平が驚いて聞くと、
「お忘れものをお嫂《ねえ》さまからことづかって、車を飛ばして来たの、ほら、いつもお持ちになる風邪薬と抗生物質、それにビタミン剤」
息を切らせながら、薬袋を兄の手に渡した。
「ああ、有難う、すっかり忘れていたよ」
「お兄さま、シカゴはもう小雪がぱらついて、気温もかなり下っている気候よ、お嫂さまも、お風邪にはくれぐれもお気をつけ下さいって、おっしゃっていたわ、健康に自信がおありでも、ご無理なさらないでね」
二子は案じるように、長身で逞《たくま》しい兄を見上げて云った。
「うむ、解っているよ」
白い歯を見せて云うと、くるりと踵《きびす》を返した。
「じゃあ、行って来る――、そうだ、四々彦君、アメリカン・ベアリング社との交渉がまとまり次第、ロスのカイザー・スチール社へ回るから、その時は、君も同行出来るよう、大至急で渡航手続きをしておいてくれ給《たま》え」
高炉が完成すれば、高炉操業の技術を担当させる一之瀬四々彦に、カイザー・スチール社の技術を学ばせる心づもりでいるのだった。
「工場の方のことは一之瀬工場長に一任するから、よろしく頼む」
父子それぞれに云い残すと、一之瀬工場長は、
「工場の方と高炉建設のことは、しかとお引受け致しました、安心して暫《しばら》くの間、お忘れになって下さい」
緊張感を解きほぐすように云った。
鉄平が、オーバーを手にした身軽な姿で出発ゲートを出てバスに乗り込むと、一同も送迎デッキへ出た。外はすっかり陽が落ち、薄暮の空港のそこここに、淡い灯りが点滅し始めていた。
「一之瀬さん、お久しぶりですわね」
川畑常務と一之瀬工場長が列《なら》んで歩いて行く後から、二子は、四々彦に追いついて声をかけた。
「そういえば、専務が二カ月前にアメリカから帰国された時、空港でお目にかかりましたね」
鉄平の心中を考えていたらしい四々彦は、急に声をかけられて、まごつくように応えた。
「そうですわ、これから一之瀬さんにお目にかかりたいと思えば、伊丹へ来ればいいのかしら――」
冷たい外気にコートの衿《えり》をたてながら、二子は四々彦への思いを籠《こ》めるように云ったが、四々彦は送迎デッキの手すりに寄り、バスを降りて飛行機のタラップの方へ大股《おおまた》な足どりで歩いて行く鉄平のうしろ姿を、濃い眉《まゆ》の下の眼を凝らすようにして見詰めている。嫂《あによめ》の早苗から、今度の突然の渡米のおおよその事情を聞いている二子は、兄を思う四々彦の気持に搏《う》たれ、自分もデッキの手すりに近寄って、
「お兄さま、お気をつけて!」
タラップを上りかけた兄に、大声で叫んだ。鉄平はデッキの方を振り仰ぎ、ちょっと手を上げた。
やがてタラップがはずされると、機体は滑走路へゆっくりと動いて行き、インク・ブルーとオレンジ色の誘導燈が夕闇《ゆうやみ》の中に輝いている滑走路を離陸して、夜空へ吸い込まれるように消えて行った。四々彦と二子は、鉄平の乗ったジェット機の赤い点滅燈がすっかり見えなくなるまで、手すりに寄りかかって見送っていたが、気がつくと、川畑常務や一之瀬工場長たちの姿は既になかった。
「さっきの兄の話では、四々彦さんも、近々、渡米なさるのね、いつ頃ですの?」
寒さに思わず、四々彦の方へ体を寄せるようにして聞いた。四々彦も二子への風当りを自分の体で防ぐように、二子と斜めに向い合い、
「交渉がうまく行けば、一週間ほど後ということになるでしょうが、具体的には全く解《わか》りませんね」
「そうですの、会社のことを私などがたち入ってお聞きするのはよくないのだけど、私、なぜか今度は兄のことがとても気になりますの、交渉はうまく行きそうなんですの?」
「そりゃあ、専務のことですから――、しかし専務も一方では高炉建設のことや操業後の技術開発のことを絶えず考えねばならないし、そういう大事な時期に、営業面のことまで自ら足を運ばれないといけないというのは、ほんとうに大へんだと思います、それだけに僕としては、是非ともアメリカン・ベアリング社との交渉に成功してほしいと思うし、帰国された後は、高炉建設に専念出来るようにしてさし上げたい――」
感情を抑えた云い方をし、
「二子さん、あなたも案外、お兄さん思いなんですね」
自分と同じ気持を抱いている二子を見て、微笑をうかべた。四々彦が親愛の籠《こも》った笑顔を二子に向けたのは、はじめてのことであった。二子とは学生時代から顔見知りでありながら、阪神銀行のオーナー頭取の娘として、また自分の会社の専務の妹として、距離をおいて接していた四々彦の心に変化があらわれていた。二子はそうした四々彦の心の動きを掬《すく》い取るような思いで、空港に輝きを増した色とりどりの灯りに眼を遣《や》った。
*
羽田を発《た》ってから八時間半、シアトルに寄港したノース・ウエスト機は、再びシカゴに向けて飛びたった。
窓の外へ眼を遣ると、西海岸のストレート・オブ・ジョージア湾の湾内に緑の島々が見えたが、やがて機体は雲の上に出た。禁煙のサインが消えると、万俵鉄平は、煙草《たばこ》をくわえた。あと五時間ほどでシカゴだった。鉄平は、煙草の煙を大きく吐き出しながら、二カ月前、渡米した際、アメリカン・ベアリング社で、従来の二割増しの発注を受けた時のことを思い返した。購買部長のフランク・ロジャースの部屋で、高炉建設のことを話し、付帯設備のアッセルミル圧延機が導入されれば、アメリカにおけるスピードより五割増しの能率でアッセルミル機を操作し、アメリカで一時間十トンなら、阪神特殊鋼では一時間十五トンのスピードで生産できること、しかも真空脱ガス法によって、今までよりさらに不純物を取り除いた品質の鋼《はがね》を、これまでと同価格で作り得ることを話すと、ロジャースは、「それは大へんいいニュースだ」と云い、期限ぎれになっている販売契約を即座に更新し、しかも二割増量の契約をしてくれたのだった。それから僅《わず》か二カ月後に、船積み待てというのは、一体、どのような事態が発生したというのだろうか――。鉄平は羽田を発ってから十数時間余、同じことばかりを考え、堂々めぐりの思考に疲れを覚えていた。
不意に、通路から鉄平を覗《のぞ》き込む人の気配に気付いた。
「あら、万俵さん、やっぱり、万俵鉄平さんでいらっしゃいますのね」
髪を断髪に切り揃《そろ》え、眼尻《めじり》の切れ上った個性的な顔だちの女性が、鉄平を見て頬笑んでいた。とっさに誰なのか、思い出せなかった。
「お久しぶりですこと、小森章子《あきこ》です」
「あっ、あなたでしたか、どうもすっかり見違えるようになられて――」
曾《かつ》て弟の銀平と深い間柄であった小森章子であった。鉄平の記憶に残っている小森章子は、髪は今と同じように断髪に切り揃えていたが、清楚《せいそ》な顔だちの中に絵を描く女性らしい一筋の清冽《せいれつ》なものを漲《みなぎ》らせていたが、今、眼の前に見る小森章子は、僅か二年の間に、眼と唇を印象付けるようなメーキャップをし、ぎらぎらと輝くような強烈な個性を身につけている。
「あなたは、パリだったんじゃないんですか? まあ、お坐《すわ》りになって下さい」
鉄平は、やや眩《まぶ》しげな表情で、自分の横の空席をすすめた。
「ええ、つい去年までずっとパリにいたのですけれど、今はニューヨークにおりますの、シアトルの画廊で個展を開いたものですから、さっきシアトルから乗り込んだばかりですわ」
「僕は、シカゴにちょっと商用があって、昨夜、日本を発ったんですよ」
「そうですの、ほんとうに偶然ですわね、皆さま、お元気でいらっしゃいますか?」
皆さまという表現の中で、銀平の消息を聞いていた。
「おかげで銀平も、やっと今年の六月に結婚しましたよ」
と応《こた》えた途端、章子の顔に痛いような哀《かな》しみの色がかすめた。しかし、章子は額にかかった髪をさっと振り払うような仕種《しぐさ》をし、
「じゃあ、銀平さんはお倖《しあわ》せなんですのね」
何かの思いを籠めるように云ったが、鉄平は、即答出来なかった。結婚してからも、相変らず、銀平のバー遊びは止《や》まず、連日、飲んで夜遅く帰宅し、殆《ほとん》ど万樹子と夕食をともにしないことを、万樹子が自分の妻に訴えているのを、鉄平は聞き知っていた。万樹子との結婚によって、万俵家の閨閥《けいばつ》の枝をより大きく伸ばしたが、銀平自身の倖せという点からみれば、灘《なだ》のさして大きくない酒造家の娘ではあっても、小森章子と結婚していた方が倖せであったかもしれなかった。万樹子の持っている我儘《わがまま》な無神経さが、表面はニヒルな冷たさを見せながら、内心は人一倍傷つきやすい銀平の心をどれほど傷つけているかしれない。それに比べて、小森章子が、どんな場合でも相手を侵さず、自分も侵されない心の距離を保てる女性であることは、銀平と小森章子の三年間の深い間柄を傍《そば》から見ていただけの鉄平にも感じ取られていた。それにもかかわらず、銀平と章子が結婚に至らなかったのは、万俵家の結婚は、閨閥作りを旨《むね》とする厳然とした慣《なら》わしを持ち、それを強力に推し進め、実行する高須相子の存在があったからだった。鉄平は、ふと大阪の伊丹空港で、自分を見送りかたがた、一之瀬四々彦と楽しげに話していた二子の笑顔を思いうかべた。そしていつか二子が、「私、結婚するなら、鉄平兄さまのように鉄に生きる人――」と云った言葉が思い出された。あの言葉は、具体的には一之瀬四々彦のことを指していたのではないか――、もし互いに思いを寄せている同士なら、銀平と小森章子とのような不幸に終らせたくない……。
「で、アメリカでのお仕事はうまく行っているの?」
いたわるような眼《まな》ざしを小森章子に向けると、
「ええ、絵が売れるという意味では、何といってもニューヨークが中心ですから、パリからこちらへ移ってよかったと思いますわ、ニューヨークの画廊というのは、毎日、毎日が凄《すさま》じいエネルギーで動いていますもの」
気負うように云ったが、現実にはニューヨーク住まいなのに、地方都市で個展を開いている。鉄平には三十を過ぎて外国で独り暮しをしている女性の孤独な疲れが感じられた。
「Attention Please《アテンシヨン・プリーズ》」
スチュワーデスが、シカゴのオヘア・フィールド空港への着陸準備をアナウンスし、“Fasten Seat Belt”のサインが出た。小森章子は自分の席へ戻るために急いでたち上り、
「じゃあ、失礼します、もし、お暇がありましたら、一週間後から、ラ・サール街のミシガン・ギャラリーで個展を開きますから、見にお越し下さい、銀平さんにおよろしく――」
「有難う、それまでシカゴにいるかどうかわかりませんが、滞在していたら拝見しに参りましょう」
鉄平は、激励するように云った。
やがて軽いショックとともに、機体が着陸し、エンジンが停まった。時計を見ると午後四時十分であった。鉄平は急いで座席をたつと、コートを着、皮鞄《かわかばん》を持って、機外に出た。外は氷点下の寒さで、肌を刺すような風が吹いており、空港のところどころが凍りついていた。
通関をすませると、黒いコートにブーツを履《は》いた小森章子の姿が見えたが、先を急いでいる鉄平は声をかけず、出口へ足を向けた。
「専務、お疲れでございましょう」
南駐在員が出迎え、鉄平の手からトランクと鞄を取り、自分の車の方へ向い、
「ミスター・ロジャースとの用談は、一時《いつとき》も早い方がよいと思いまして、あれからさらに交渉しましたところ、五時半までなら待つということですので、直行してよろしいでしょうか?」
「それは何よりだ、すぐ行こう」
羽田から長時間、乗り続けて来た疲労が一瞬のうちに吹き飛び、鉄平は勢い込むような声で云い、車に乗り込んだ。
車は空港からすぐジョン・F・ケネディ高速道路に入った。三十分ほど走ると、シカゴ・ダウンタウンに入り、シカゴ商業取引所や十八階建てマーチャンダイズ・マート、ゴシック風摩天楼《まてんろう》のトリビューン塔などの高層建築が林立している。さらに陸橋になったスカイ・ウェイに乗り入れると、左手前方のミシガン湖の湾曲した地帯に、大工場群が望まれ、黒い煙が空に向って絶え間なく吐き出されている。そこには世界的に知られているUSスチールやインダント・スチールなどの大手の工場があり、いかにも、工業都市シカゴらしいダイナミックで活動的な光景であった。
「日本でいえば川崎か、水島の工場地帯といったところだな、公害問題はどうなんだ」
「ほんとうのところは、日本よりずっとひどいのですよ、ところが、シカゴという街は、古い建物をご覧になると解りますように、昔、安い石炭を暖房用にどんどん焚《た》いて、建物を真っ黒に煤《すす》けさせて平気な街ですから、日本ほど喧《やかま》しく云わないらしいですね」
南駐在員はそう云い、車のスピードをぐんぐん増して行った。やがて高速道路を下り、カルメット・ストリートに出て左へ曲ると、アメリカン・ベアリング社の工場と事務所の建物が見えた。
アメリカン・ベアリング社に着いたのは、五時十分であった。
冬の日暮は早く、仕事を終えた工員《ワーカー》たちが軽快な服装で、フォードやシボレーなどの古い年式の車を運転し、薄暗い夕闇の中を帰宅して行く。南駐在員は正門の守衛室の前で車を停め、守衛に声をかけると、顔見知りの守衛は、南駐在員より鉄平の方を注視して、驚くように、
「Oh! Mr.《ミスター》 Manpyo! また日本から来たのですか」
と云った。鉄平がそうだと応えると、
「You are very busy!」
と云い、すぐ門を通した。構内に入ると、五十エーカーほどの敷地に、五棟《いつむね》の工場が並び、向って左側にクリーム色の本社ビルが建っている。本社ビルの玄関に車をつけ、鉄平は、南駐在員を伴って、購買部長のフランク・ロジャースの部屋に向った。三階のロジャースの部屋の前まで来ると、中年の女性秘書が、
「どうぞ、お入り下さい、ミスター・ロジャースは、只今《ただいま》、会議中ですが、ほどなく終りますから」
鉄平と南駐在員をロジャースの部屋へ案内した。淡いグリーンの壁に囲まれた部屋の中央にデスクがあり、その上にロジャースの家族の写真が飾られ、サイド・ボードの上には、魚釣りが趣味らしく、遠洋の魚の剥製《はくせい》が置かれている。
扉《ドア》が開き、ロジャースの大きな体と鳶《とび》色の眼が、愛想よく鉄平を迎えた。
「Glad to see you! ミスター・マンピョウ、日本からの旅は疲れませんでしたか?」
四十七、八歳のロジャースは血色のいい顔で、大きな手をさしのべた。鉄平も大きな身振りで挨拶《あいさつ》し、ソファに腰を下ろすと、すぐ用件をきり出した。
「ミスター・ロジャース、突然の電報に驚きましたよ、この部屋で二カ月前に、二割増注の長期契約を受けたばかりであるのに、十二月の船積みを待てというのは、どういうことなんです?」
「それは国防総省《ペンタゴン》の航空機関係の来年度予算が、当社の期待していたより削減される模様なので、その需要の見通しがはっきりするまで、在庫調整をするために、十二月の船積みを待って貰《もら》いたいということなのです」
「ほう、国防総省《ペンタゴン》の予算変更が原因だったのですか――」
軍需に関係することなら、簡単に云えないはずだと思って、相槌《あいづち》をうちかけると、横から南駐在員が、日本語で耳うちした。
「しかし、国防総省の予算のかわり目は六月ですから、それはおかしいですよ」
「なるほど、そういえばそうだな」
鉄平は頷《うなず》いたが、ロジャースにはわざと素知らぬ体《てい》で、
「では、船積みはいつまで待てばいいのですか?」
「それは、在庫の量と需要の見通しがついてから決まることですから、販売部長が答えを出すまでは解らない」
ロジャースは、二カ月前に、購買契約をした時の積極的な態度とは、うって変った素っ気ない返答をした。
「しかし、購買部長のあなた自身の見通しは、ほぼ、いつ頃と考えられるのです?」
畳み込むように聞くと、
「それは、販売部長が考え、決めることで、that's out of my business」
アメリカ人らしく、自分の職務でないことを楯《たて》にとったが、どこかに曖昧《あいまい》な節《ふし》がある。
「国防総省の来年度の予算変更が原因だとおっしゃったが、納期を遅らせる理由は、他《ほか》にあるのではないですか?」
鉄平がひたと射るように聞くと、ロジャースは、
「実は、もう一つ理由がある、これは企業の秘密で、いまだ極秘裡《ごくひり》のことであるが、フォードが、日本の小型自動車の攻撃を受けて、各種の小型車の生産に乗り出すことになり、その部品のサイズが決まるまで現在の品種の納入を見合せたいのだ」
と云い、肩をすくめた。
「それはあなた方の会社の事情で、私の方とは何ら関係のない理由ではないですか、アメリカン・ベアリング社ともあろう会社が、そんないい加減な見込み生産で、素材を発注するのですか、日本の私の工場の岸壁には、三日後に船が入り、荷積みをすることになっている、それを一体、どうすればよいのか!」
と詰め寄ると、ロジャースは口ごもり、
「――要は、十二月の船積みを待ってほしい」
「では、もう一度聞くが、いつまで待てばいいのか」
「それは先程も云ったように、販売部長のサインが出るまで、暫《しばら》くだ――」
「暫くでは話にならない、はっきりした期限をきめて貰いたい」
「多分、一週間後にははっきりとした期限が云えるだろう」
「そんな曖昧なことでは困る、突如、ストップを通知して来た限り、具体的に今、日を決めてほしい、日本の私の会社では、私の電報を待っているのだ」
鉄平とロジャースの間に、一歩もひかぬ押し問答が繰り返され、次第に鉄平の語気が鋭くなって来た。
「ミスター・ロジャース、二カ月前にこの部屋で、契約書にサインしたのは、あなた自身であるから、納期遅れになっても、船積み分だけは責任もって引き取ることを約束してほしい」
「I understand, but……それは、ボスの指示によって契約し、またボスの指示によって十二月の船積みを待ってほしいと申し入れているのだ、したがって、今後のこともボスの指示に従わねばならない」
「じゃあ、今からボスと話し合いたいから、その連絡を取って貰いたい」
「ボスは、もう帰った」
「では、明日、必ずボスと会えるようにして貰いたい、私はアメリカン・ベアリング社との交渉のためにのみ、日本から飛んで来たのだ」
鉄平は強い口調で云い、ソファからたち上った。
アメリカン・ベアリング社を出ると、車はもと来たハイウェイを戻り、ミシガン湖畔に近いコンラッド・ヒルトン・ホテルに向った。夜のハイウェイは交通量が少なく、四車線の広い道路を時速六十五マイルで走らせながら、南駐在員は、
「どうもロジャースの様子はおかしいですね、十二月の船積みを待てと云いながら、その期間を云わないのは、事実上のキャンセルにしてしまうつもりじゃないでしょうか?」
「まさか、そこまではしないだろう、こちらには契約書があるのだから――」
重い口調で応《こた》えながら、鉄平は、アメリカン・ベアリング社への輸出が月額三億六千万円の大きなビジネスであることを考えると、何としても、明日のボスとの交渉をうまく運ばねばならなかったが、今度の船積み延期の理由には、何かほかの原因がありそうに思えてならなかった。
「南君、これから江州《ごうしゆう》商事のシカゴ事務所長に会えないだろうか?」
江州商事は、阪神特殊鋼の貿易手形と船積み業務を委託している商社だった。
「ホテルへ着きましたら、すぐ連絡してみます、彼も今度の件は非常に気にしていて、専務がおいでになったら、会いたいと云っていましたので、都合をつけてくれると思います」
「それじゃあ、ホテルで食事をしながら、話を聞き、両者で検討することにしよう」
鉄平は勢い込むように云い、ミシガン湖畔に近付いた車の窓から、夜の湖に眼を遣《や》った。湖面は闇《やみ》に包まれて定かでなく、湖から吹いて来る風が、車のフロント・ガラスを強く叩いた。
朝のミシガン湖は、凍りつくような水面に白い小波《さざなみ》がたち、底冷えのする大陸の寒さが感じられた。
ダイニング・ルームで朝食を終えて、五階の自分の部屋へ戻って来た鉄平は、外出の用意を整えると、窓際《まどぎわ》にたって、冬枯れのグラント・パークを隔てた向うに、弓形のスコープを描いて拡がる湖を見詰めていた。濃い髭《ひげ》は、ダイニング・ルームへ出る時にきれいに剃《そ》って、剃りあとは青々としていたが、疲労の色が滲《にじ》んで、眉間《みけん》に深い縦皺《たてじわ》が刻まれている。
鉄平は昨夜、江州商事のシカゴ事務所長と会食したが、アメリカン・ベアリング社の要領を得ない回答について、現地商社筋からの情報を織り込んで、夜遅くまで検討した内容を思い返していた。
江州商事のシカゴ事務所長は、ロジャース購買部長が船積みストップの理由として挙げたアメリカ国防総省の来年度予算の変更の件も、フォードが日本の小型車に対抗すべく小型車の生産に乗り出す件についても、突如、船積みをストップする理由としては、非常に不自然だと云った。というのは、アメリカ国防総省の軍需見通しについても、ベトナム戦争のエスカレートで、需要は上る一方であるから、アメリカのベアリング業界が在庫調整を迫られるような事情は全くないはずだということであった。次いでフォードの小型車生産にしても、デトロイトからそういう情報はしばしば入って来ているが、まだモデル車のテスト走行の段階で、生産開始にまで至っていないはずだということだった。強いて気になる点といえば、十月半ば過ぎから十二月初めにかけて、アメリカン・ベアリング社の株価に、多少の変動があったことだが、これも好景気に加えて、夏に発表した新製品の企業化を控えて、人気買いがあったくらいで、船積みストップの理由とは結びつかないと云った。そうした堂々めぐりの論議のあげく、鉄平が「アメリカン・ベアリング社のメイン・バンクへ行ったら、何か聞き出せないだろうか」と云うと、江州商事のシカゴ事務所長は、「さすがに銀行家の御子息らしい思いつきですが、アメリカの銀行は、日本の銀行とだいぶ事情がちがって、企業内部のことは、あまり深く知らされていない場合が多いですからねぇ」と小首をかしげたが、鉄平はともかく当ってみるからと云い、ハリス・バンクのウィルソン副頭取宛《あて》の紹介状を書いて貰ったのだった。そして今朝《けさ》、オフィスの開く九時少し前に、江州商事のシカゴ事務所長からウィルソン副頭取に会うアポイントメントを取って貰ったところ、運よく十時半に会える約束が取れたのだった。
電話のベルが鳴り、南駐在員の声がした。
「専務、只今、お迎えに上りました」
「有難う、すぐ降りて行くから――」
鉄平は、書類鞄《かばん》とオーバー・コートを手にして、足早に部屋を出、ロビーへ降りて行った。
南駐在員の運転する車は、ホテルの前のグラント・パーク沿いに、ノース・ミシガン・アヴェニューを北へ向って走った。高層建築のホテルやオフィスが公園に向って建ち並び、その間に骨董品《こつとうひん》店や、高級洋装店《オートクチユール》の店がシックな店構えをみせている。やがて車は、大通りを左折するために、信号待ちで停まったが、鉄平は角から一つ手前のビルの二階にふと眼を止めた。『ミシガン・ギャラリー』というプレートが眼についたからだった。
「なるほど、彼女はここでやるのか――」
古めかしいヨーロッパ調の画廊を見上げながら、呟《つぶや》いた。小森章子が、一週間後にミシガン・ギャラリーで個展を開くから、滞在していれば見に来てほしいと云っていた画廊であった。信号が変り、車は交叉点《こうさてん》を左折し、程なくウエスト・モンロー・ストリートのハリス・バンクに着いた。
ハリス・バンクは、シカゴの四大銀行の一つで、表通りに面した壁面が総ガラス張りの近代的な二十五階建てビルであった。鉄平は、南駐在員を車に残して、五階へ上った。
『Willson Vice President』と記されたドアをノックし、秘書に来意を告げると、すぐ中へ通された。ウィルソン副頭取は、鉄平の姿を見ると、書類にサインしている手を止め、L字型に置いた大きな机からたち上った。
「How do you do? ウィルソン副頭取《ヴアイス・プレジデント》にお目にかかれて光栄です」
鉄平は流暢《りゆうちよう》な英語で初対面の挨拶をし自己紹介し、江州商事のシカゴ事務所長から紹介状を貰って来ている旨《むね》を話すと、ウィルソン副頭取は紹介状の封を切り、眼を通した。
「ほう、ミスター・マンピョウの父上は、ハンシン・バンクのプレジデントでいらっしゃるのですか、それで、ご用向きは?」
鉄平に興味を寄せるような視線を向けたが、すぐ銀行家らしい平静な表情で、用件を聞いた。鉄平は、阪神特殊鋼とアメリカン・ベアリング社との取引関係と、今度の船積み延期の事態を直截《ちよくせつ》に話し、
「わが社としては、アメリカン・ベアリング社の説明に納得しかねる点があり、アメリカン・ベアリング社内に何か変動が起ったのではないかとも思って、ご事情に明るい御行に伺った次第です」
体を乗り出すようにして、云った。アメリカでは、企業の自己資本力が高く、借入金が少ないから、日本ほど銀行の企業に対する支配力は強くなく、それだけに取引企業の内容についてフランクに聞けるのだった。しかし、ウィルソン副頭取は、
「目下のベアリング業界の環境は非常によく、先行きの見通しについても、われわれとしては楽観的に考えていますので、ご質問の点について、そういうニュースは知らないとしか、お返事のしようがありません」
紋切型な応え方をした。
「しかし、業界全般の伸びは順調でも、アメリカン・ベアリング社の借入金が最近、増えているとか、そういう事実はないのですか?」
「それは全くありません」
「では、わが社に脅威を与えるアメリカ国内もしくは、ヨーロッパの特殊鋼メーカーが、アメリカン・ベアリング社に進出して来そうであるとか、そういう点は、いかがでしょうか」
「あなたのところのベアリング素材の価格は、どのようになっているのですか」
「それは、このリストをご覧下さい」
鉄平は書類鞄から、各種ベアリング素材の価格表を取り出して、テーブルの上に置いた。
「なるほど――、これでは欧米のメーカーが、太刀打ち出来るはずはまずないと云えるでしょう、したがって、あなたの会社にライバルが現われたということも、われわれとしては考えられないと申し上げるよりほか、ありませんね」
ウィルソン副頭取は一つ一つ、鉄平の質問に応えてくれたが、どこまで行っても、一線を画したよそよそしさがあった。鉄平は、父の万俵大介と対しているような苛《いら》だちを覚えた。
「最後に伺いますが、アメリカン・ベアリング社では、十月半ばから十二月初めにかけて、株価に変動があったそうですね、これは銀行サイドからご覧になって、どういうわけだと、お考えになりますか?」
ぶっつけるように云った途端、ウィルソン副頭取の表情が動いた。鉄平はすかさず、
「アメリカン・ベアリング社の株価が、わずかの値幅とはいえ、短期間に動くというのは、要は――」
ウィルソン副頭取の反応を探りかけると、
「そういうご質問は、われわれバンカーには、不適切であると思います――、私の方でお話し出来ることは以上ですし、次の予定がありますので、この辺で失礼したいと思います」
ウィルソン副頭取は、そう応え、慌《あわただ》しく面会を打ち切った。鉄平はウィルソン副頭取の俄《にわ》かに硬《こわ》ばった顔付を見詰めながら、アメリカン・ベアリング社の経営上に、まだ非公開だが、何らかの重大な事態が発生しているに違いないという確信を持った。
ハリス・バンクを出ると、ラ・サール・ストリートに近い江州商事のオフィスへ向った。そのオフィスの一隅に、阪神特殊鋼の駐在員のデスクがあるのだった。
オフィスに入ると、江州商事の駐在員は出かけて、部屋には、現地雇いのタイピストが一人、いるだけだった。
「専務、あまりうまいコーヒーではありませんが――」
南駐在員は、ポットのコーヒーを注《つ》いで、すすめた。鉄平はカップに口をつけながら、最前のハリス・バンクのウィルソン副頭取との話合いから、アメリカン・ベアリング社の株価の動きの背後に何かあることを感じ取ると、それを緒《いとぐち》にしてことの真相を手繰《たぐ》り出す手段を考えた。株価の動きと関係があるなら、証券会社筋を当ってみることだと思いつくと、マサチューセッツ工科大学で親交があったジェームス・コットンのことを思い出した。鉄平より一つ齢上《としうえ》で、専攻も違っていたが、猟が好きなところから、休暇にはよく一緒にカナダへ猟に出かけた仲であった。卒業後、鉄平は日本に帰って阪神特殊鋼へ入り、ジェームスはフォードのエンジニアからニューヨークのウォール街の証券会社へ転職した変り種《だね》で、二カ月前にニューヨークへ行った時も、家へ夕食に招かれた。出来ることならニューヨークへ飛んで、直接、話を聞きたかったが、アメリカン・ベアリング社のボスと会う時間は午後三時であった。鉄平はアドレス・ブックを開いて、ジェームスが勤務しているウォール街のバーナム証券会社のダイヤルを廻した。
「Hello!」
ジェームスのせっかちな声がした。
「Jimmy? こちらは鉄平だ」
「Oh! テペイ、またニューヨークへ来たのか」
友だちの声になって、懐《なつ》かしげに云った。
「いや、今、シカゴで、この電話はビジネスなんだ、急を要することで、話したいが、いいだろうか?」
四十歳で、中堅クラスの証券会社の副社長のポストにあるジェームスの多忙さを慮《おもんぱか》りながらも、是非にというニュアンスを籠《こ》めて聞くと、敏感に鉄平の切迫感を感じ取ったらしく、
「OK、で、用件というのは?」
「わが社と取引のあるアメリカン・ベアリング社のことなんだ――」
鉄平は、今度の事件を簡潔に説明し、アメリカン・ベアリング社の十月中旬から十二月初旬までの株価の変動が何を意味するのか、調査してほしいと依頼した。
「解《わか》った、ではすぐ調べてみるから、三十分ほど待ってほしい、それでいいか」
「いいとも、しかし、僕が今話した範囲内で、君が直感的に考え得ることは?」
「テペイ、君を驚かすわけではないが、アメリカン・ベアリング社は、もしかしたらどこかの企業に乗っ取られる、あるいは乗っ取られたかもしれない――」
「えっ! それはほんとうか?」
思わず、大きな声で問い返すと、
「当時のアメリカン・ベアリング社の株価の変動は、アメリカン証券取引所(第二部市場)で話題になったことがあったように記憶しているが、ともかく直ちに調べてみる」
と云うなり、電話はきれてしまった。
「何かあったんですか、専務」
南駐在員は、鉄平のただならぬ様子に気付いた。
「アメリカン・ベアリング社は、どこかに乗っ取られたかもしれないというのだ」
「まさか!」
信じられないように南駐在員が云った時、先程からオフィスへ帰って来て、日本からのテレックスを読んでいた江州商事の若い駐在員が、ローマ字で打ったテレックスの紙片を見せた。
HANSHIN TOKUSHUKO NO HUNAZUMI《ハンシン トクシユコウ ノ フナヅミ》 SOUKYUNI HENJI TORARETASHI《ソウキユウニ ヘンジ トラレタシ》
鉄平は電文を暫《しばら》く見詰めていたが、意を決するように、
「返電はこう頼む――、最後マデ交渉頑張ル、手配シテ待テ」
南駐在員は、驚くように鉄平の顔を見た。
「専務、お気持はともかく、現実問題として、つい今、あんなニュースが入り、可能性はますます……」
押し止《とど》めるように云ったが、鉄平は頑とした表情で、
「今云ったとおりに打ってくれ」
と云い、時計を見て再びニューヨークのジェームスの直通ダイヤルを廻した。
「ジミー、僕だ、調べはどうだった?」
せき込むように聞くと、
「充分ではないが、ほぼ推定は出来た、その前にテペイに聞くが、アメリカン・ベアリング社がこの夏、発表して業界に話題をまいたニードル・ベアリングだが、技術者《エンジニア》として、君はあの新製品をどう評価するかね」
「ああ、あれは二カ月前にこちらへ来た時、興味があったので、技術開発部長に直接、会って話を聞いたのだが、実に画期的な研削《けんさく》方式を開発したものだ、コロが小さく場所をとらない上、高速回転、高重量に耐え得るから、ミサイル、ジェット・エンジンなど、航空宇宙部品として、飛躍的な進出を遂げると思う、しかし、それがどうかしたのかい」
「どうやらそのニードル・ベアリングが、LSVに眼をつけられたらしいのだ」
「LSVって、なんだい、それは?」
「Ling-Smith-Vought がフル・ネームだが、最近、ぐんぐん擡頭《たいとう》して来た新興コングロマリット(複合企業)だ」
「なんだって、コングロマリット!」
鉄平は顔色を変えた。コングロマリットは、六、七年前からアメリカの企業界に突如、現われた新しい企業形態で、ミサイルから食品まで、まったく関係のない業種の企業を手当り次第に買収して、雪だるま式に成長し、わずか六、七年の間に百近い会社をかかえ、売上高が当初の二百倍、利益千倍となった凄《すさま》じい会社もある。そのほとんどは、高く吊《つ》り上げた自社株で、株価収益率の低い会社を現金を使わず、株式交換でどんどん買収していくのが手口で、小魚が鯨《くじら》を呑《の》み込むように、売上高が数倍もある巨大な名門会社を恐れ気もなく合併し、アメリカ企業界に旋風を巻き起していた。
受話器を握ったまま、鉄平が黙り込むと、ジェームスは早口に喋《しやべ》った。
「LSVは、もともと電子、航空宇宙関係が中心の二流会社だったが、二年前、アメリカ第三位の食肉メーカーであり、またゴルフ用具で有名な世界最大のスポーツ用品会社ウィルソンの株を、たった二十日間で過半数買い占め、支配権を握ってから一躍、名を上げたコングロマリットで、世界五百社の第十八位にランキングされている会社だ、したがって、アメリカン・ベアリング社など、LSVにとっては、食おうと思えば、あっという間に食ってしまえる存在というわけさ」
証券マンにとっては、さして重大でも、突発事でもなさそうだったが、鉄平には青天の霹靂《へきれき》であった。
「しかし、ジミー、LSVが乗っ取ったというのは、確かなのか?」
「確証はないが、確率は高いね、というのは、君の云ったアメリカン・ベアリング社の株価の変動を調べてみると、たしか十月初旬までは三十ドルを前後していた株価が十月十日過ぎからじりじりと上って、ピーク時には四十七ドルまで上り、一方、出来高も平素は五千株平均だったのが、株価の上昇に比例して、多い時には一万株、二万株の売買高を記録した日もあった」
「しかし、一万や二万株の出来高など、さしたることではないじゃないか」
鉄平が問い返すと、
「テペイ、ウォール街は日本のカブト町とちがって、万を超えれば非常に売買量の多い人気株なんだ、それでと――、現在の株価及び出来高をみると、またもとの状態に戻っている、ということはアメリカン・ベアリング社の買収が秘密裡《り》に完了したとみて、ほぼ間違いない」
「だが、アメリカの企業界の買収の多くのケースでは、買取り公告《テンダー・オフアー》によって、公然と株の買占めをはかり、秘密裡に株を買い占めて乗っ取るなど、絶無に近いのだろう」
「テペイの云う通りなんだが、二〇〜三〇パーセントを秘《ひそ》かに集めてしまってから、相手側と話合って買収する場合もあり、そういう時は第三者には解らない、アメリカン・ベアリング社の規模がもっと大きければ、LSVと公開買付で争ったかもしれないが、相手がLSVでは、対抗のしようがなく、例のニードル・ベアリングの企業化に資金を出すなどの条件付きで、泣く泣く折れ合ったとみるのが妥当で、そういう好機につけ込んで買収するのは、コングロマリットの常套《じようとう》手段でもあるのだ、以上が三十分間で調べた事柄だ」
「そうか、多忙の中を有難う」
心から謝意を表し、電話をきった。アメリカン・ベアリング社に何らかの事態が起っていると思っていたが、それがアメリカの企業界を震え上らせている巨大なコングロマリットであったとは――、鉄平は暗澹《あんたん》とした。
アメリカン・ベアリング社のロジャース購買部長の部屋で鉄平は、激しくロジャースに迫っていた。
「ミスター・ロジャース、日本の私の会社では、船積みを待っている、つい先程も催促のテレックスが入ったばかりで、私としては何とか予定通り、明後日、荷積みをしたいから、OKして貰《もら》いたい」
「ノー、それは昨日《きのう》も云ったように、ボスの指示を待たねば決定できないことだ」
ロジャースは、苦しそうに同じ言葉を繰り返した。
「しかし、ボスは今日もいないというじゃないか」
「そうだ、今朝《けさ》、急にワシントンへ出張し、ミスター・マンピョウには気の毒だが、三日後でなければ会えない」
「そんな馬鹿《ばか》な、昨日、ボスと会わせてくれと云った時、OKしてくれたじゃないか、それが今日になって急に――」
「しかし、たとえボスと会っても、答えは同じだ、ボスは取りあえず、十二月の船積みを待てという答えだ」
「――じゃあ、どうしても明後日、日本を発《た》つ十二月の船積みは延期しろと、いうわけか」
強い語気で念を押した。
「そう、それが当社の回答です」
鉄平はがくりと、肩を落した。阪神特殊鋼の岸壁で荷積みを待つばかりの状態でいる現場作業員の心中を思いやると、アメリカ人相手のビジネスのドライで事務的過ぎるやり方が骨身にこたえた。倉庫には荷積みを待つばかりになっている十二月分と一月分があり、二月分も半分、製品が出来上っているから、一カ月分三億六千万の商いとして、総額九億円近いビジネスであった。そのうち十二月分だけは既に貿易手形で八割の額面は先払いで受け取っているとはいえ、万一、キャンセルになれば、返済しなければならないから、たちまち資金繰りが苦しくなる。
「それでは大へん困った事態だが、明後日の船積みは、そちらの要望通り延期しよう、だがキャンセルでないことを確約して貰いたい」
唇を噛《か》む思いで云うと、ロジャースは鳶《とび》色の眼を戸惑うように瞬《しばたた》かせ、口詰った。
「ミスター・ロジャース、私はあなたの会社について、或《あ》る重大なニュースを耳にした、それはアメリカン・ベアリング社がコングロマリットのLSVに買収されたというニュースだ、それと今度の船積み延期と関連があるのではないか」
ロジャースは大きく、顔色を動かした。
「あなたは、どうしてそれを知ったのか、私自身も詳しくはまだ知らされてないことだ」
「ウォール街のさる確かな証券筋から得た情報で、間違いないと云われている、それをなぜ私に隠しているのか」
「諸情勢を考え、まだ公《おおやけ》に出来ない段階と、トップが判断したことだから致し方ないことだ」
「では、改めてお聞きするが、アメリカン・ベアリング社が、LSVの支配下に置かれても、アメリカン・ベアリング社と当社との間の契約は、契約として残るのだから、引き続いて以後も当社の製品を購入して貰えると考えていいわけですね」
ぐいと踏み込むように云うと、
「それは新しいボスが決めることだから、私の口から約束は出来ない」
言を左右にした。鉄平は、南駐在員と顔を見合せたが、気を取り直し、
「LSVは元来、航空宇宙が専門の会社と聞いているが、特殊鋼メーカーを傘下《さんか》に持っている事実はないだろうね」
「ロスに持っていると聞いている」
「それでは、当社からもうベアリング素材を購入しないかもしれないわけか?」
鉄平は、愕然《がくぜん》として聞いた。
「その可能性がないとは云えない」
ロジャースは、黙り込んでしまった。
「ミスター・ロジャース、私はあなたに是非、頼みたいことがある、それは新しいボスに紹介してほしいことだ、私は新しいボスに会って、当社が現在、特殊鋼メーカーでははじめての高炉建設を行なって、来年六月に完成し、一貫メーカーになれば、従来の五パーセントの値引《デイスカウント》が可能であることを説明し、引き続き当社の製品を購入して貰うよう話をつける」
迫るように云うと、ロジャースはさすがに鉄平の熱意に搏《う》たれたように頷《うなず》いた。
「私として出来得る限りの努力はする、しかし、トップが交替すれば、私自身の馘《くび》さえどうなるのか解らず、次にミスター・マンピョウが来た時には、私はもうこの会社にはいないかもしれないのだ、だからあまり期待しないで貰いたい」
「――解った、しかし、新しいボスに会えるようにさえしてくれれば、私は私のやり方で納得の行くビジネスをする」
あくまで強気に云ったが、眼前にたちふさがる壁が、ますます巨大で動かし難いものになって行くのを、鉄平は認めざるを得なかった。
アメリカン・ベアリング社から、コンラッド・ヒルトン・ホテルに帰った時は、既に午後五時を廻りかけていた。朝からの強行軍と心理的な疲れが一度に出、すぐ風呂《バス》を使って、休息を取りたかった。
フロントで部屋の鍵《かぎ》を受け取ると、キー・ボックスに入っているメッセージを渡された。「ロビーでお待ちしております、小森章子」としたためられていた。鉄平は、ロビーへ引き返した。天井の高いクラシックなロビーを見廻すと、奥のフロア・スタンドの傍《そば》のソファに、断髪の小森章子が黒いスーツの衿《えり》に顎《あご》を埋め、もの憂《う》げに坐っている姿が見えた。鉄平はその方へ歩み寄り、
「やあ、あなたが訪ねて下さるとは思いもかけませんでしたよ、よくこのホテルが解りましたね」
「ええ、江州商事のシカゴ事務所の中に、阪神特殊鋼の駐在員がいらっしゃるということを以前、銀平さんから伺っていたのです」
銀平の名前を口にした時、小森章子の顔にかすかな苦痛に似た色が奔《はし》った。それを感じると、鉄平は疲れていながらも、強いて闊達《かつたつ》に、
「バーで少しお酒を飲み、そのあと一緒に食事をしませんか」
と誘った。小森章子は、ぱっと明るく頬笑み、
「喜んでご一緒させて戴《いただ》きますわ、日本から来られた方とゆっくりお食事するなんて、久しぶりですわ」
と応《こた》え、鉄平とともにロビーの奥へ足を向けた。
バーにはあまり人影がなく、鉄平と小森章子は、カウンターの椅子に列《なら》んで坐り、ハイボールを注文した。室内は汗ばむほど温かかったが、窓の外には、夕闇《ゆうやみ》に包まれた湖面が、凍えるように冷たく波だち、遠くを行く船の灯《あか》りも、寒々とかすかに明滅している。
ハイボールが運ばれて来ると、鉄平は互いの健康を祝福するように乾杯し、
「個展は来週の月曜日からでしたね、今朝《けさ》、ミシガン・ギャラリーの前を通りましたよ」
「まあ、そうですの、是非、いらして下さいましな」
「もちろん、こちらにおれば伺いますよ、あなたもパリとニューヨークで二年、勉強されたのだから、きっとすばらしい作品になったでしょう、何か一点、求めて、銀平に持って帰ってやりますよ」
と云い、ふと思いつくように、
「どうです、日本へ電話をかけて、銀平と話しますか、あいつ、驚きますよ」
「でも、日本は、午前九時前ですわ、朝寝坊の銀平さんは今頃、銀行の席についたばかりで、一番ご機嫌斜めの時ですわ」
前髪を払いのけながら云った。そこには、たとえわずかな間でも一緒に過した女の心遣いと、今もなお銀平を思う切実さが溢《あふ》れていた。鉄平はまずいことを云ったと思い、黙ってハイボールを飲むと、章子もぐいとハイボールを空けた。
「強くなりましたね、お酒が――」
「だって、外国で女が独り暮しをしていると、お酒でも強くならないと淋《さび》しくて――」
自嘲《じちよう》に似た笑いを、うかべた。
「だが、あなたには仕事があるじゃないですか、仕事はどんなに辛《つら》くとも、やり甲斐《がい》があり、救われるじゃないですか」
力付けるように云った時、ボーイが足早に近付いて来た。
「ミスター・マンピョウでいらっしゃいますね、日本からお電話です、こちらへお廻しします」
バーのカウンターの横の電話を指した。すぐたち上って、受話器を取ると、会社からではなく、思いがけない妻の早苗の声が聞えた。
「どうしたのだ? 子供がどうかしたのか」
「いえ、あなた、父が倒れました……腹部動脈瘤《りゆう》とかで――」
嗚咽《おえつ》するように云った。
「なに、大川のお舅《とう》さんが! 病状は? おい、早苗! 病状はどうなんだ」
「重態です、あなたのお舅さまも神戸から駈《か》けつけて下さいます、あなた、お帰りになって!」
「よし、解《わか》った、便を取り次第、帰国する」
鉄平は、震える手で、受話器を置いた。
*
昨夕、腹部動脈瘤で慶慈《けいじ》大学付属病院に緊急入院した大川一郎は、深夜に起った多量出血で、一時、危篤《きとく》状態に陥ったが、朝になって持ち直し、昼過ぎには小康状態を保っていた。
しかし容態は一向に楽観を許さず、血の気の失《う》せた土色の顔で仰臥《ぎようが》し、酸素吸入を続けるベッドのまわりには、血管外科の権威である主治医の相馬教授の指示で、三、四名の医師と看護婦が付ききりで、脈搏《みやくはく》、呼吸、血圧、心電図などを絶えず、チェックしていた。
見舞に駈けつけた万俵大介は、ベッドから離れたソファに、大川の長男と次男、そして大川が率いている派閥の世話役である衆議院議員と列んで坐り、言葉少なに容態を見守っていた。大川の妻と長女の早苗はベッドの傍《そば》から離れず、長男と次男の嫁は、隣接した応接室で見舞客の応対を手伝っている。『面会謝絶』ではあったが、大川の突然の重態を聞きつけ、佐橋総理の代理として田淵幹事長が朝早く駈けつけたのをはじめ、自由党三役、大川派の閣僚、議員、そして財界人が続々と詰めかけていた。
病室の扉《とびら》が開き、大川のかかりつけの医師である松見日本医師会会長が入って来た。松見医師は、大川の病歴を見て来た医師として、慶慈病院の医師団に顧問格として加わっているのだった。
「どうですか、経過は――」
ぎょろりとした眼が、大川とよく似ている松見医師は、うとうとと、まどろんでいる大川を視診しながら、相馬教授に小声で聞いた。応接ソファにいる万俵たちは、思わず耳を※[#「奇+支」]《そばだ》てたが、低い声でドイツ語の医学専門用語を混じえながら交わされている医師たちの会話は、殆《ほとん》ど聞き取れない。
「ううむ……ううむ……」
不意に、まどろんでいた大川の口から、苦しげな声が洩《も》れた。医師たちはすぐ枕元《まくらもと》に寄った。
「どうしました、痛いですか?」
相馬教授が、聞いた。大川は首を振り、
「小用をしたい――」
と訴えた。大川の妻と早苗が、すぐ便器をさし入れかけると、松見医師は手馴《てな》れた看護婦に命じた。しかし、便器がさし入れられても、尿はなかなか出る様子がなかった。
「出ないじゃないか!」
思い通りにならぬ自分の体に、大川は細くなった濁声《だみごえ》で苛《いら》だつように云った。意識はかなりはっきりしているようであった。
「無理をしないで下さい、そのうち自然に出ますから――、今、力んだり、動いたりすると、せっかく塞《ふさ》がりかけた血管が、また破れかねませんよ」
相馬教授は宥《なだ》めるように云い、看護婦に前をあけさせて、胸部と腹部の聴診を行い、その後、ポータブルのエックス線撮影機で、写真を撮った。大川はその間、ぐったりと力なく眼を閉じていたが、呼吸が苦しげで、腹部は異様に大きく膨満している。
万俵は、昵懇《じつこん》な間柄の松見医師の傍へ歩み寄った。
「今朝《けさ》のお話では、容態が落ちつき次第、手術して動脈瘤を取り除き、人工血管を入れるということでしたが、いつ出来るのでしょうか?」
声をひそめて聞くと、
「それはまず無理でしょうね、相馬教授も、もはや手術《オペ》は不可能だと云っています」
「……ということは、容態がまた悪化したということでしょうか?」
「悪化したというより、大動脈全体に硬化が著しいので、もともと手術《オペ》は危険な上、今診《み》ると、左腹部にたまっていた血液が腎臓《じんぞう》にも及び、腹膜炎と同時に腎臓の機能も低下して来ているようです、尿意があっても出ないのはそのせいで、もし今度出血が起ったら、非常に危険だと考えられますから、ご親族の中で必要な方には、お知らせしておいた方がいいですよ」
医師らしく冷静な口調で云った。万俵は、松見医師のその言葉に強い衝撃を受けたが、悲しみの気持は不思議と湧《わ》いて来なかった。それより、こんな時に鉄平が日本を留守にし、まだ帰国していないことが腹だたしかった。
「早苗、ちょっと――」
万俵は、早苗を窓際《まどぎわ》へ呼んだ。
「鉄平は、何時に帰国するのだ、連絡はちゃんと取っているんだろうね」
「もちろんでございます、アラスカ経由の直行便の切符で、羽田には今日の一時半に到着する予定だと、シカゴの空港から電話がございました」
早苗は徹夜看護の疲れきった顔で応えた。
「じゃあ、もうそろそろ着く頃だな、それにしても鉄平は、発《た》つ前に舅《しゆうと》の工合の悪いことを知っていながら、私に一言も報《しら》せず、その上、自分がお見舞にたち寄ることさえしないとは、なんということだ」
苦虫を噛《か》みつぶすように云った。
「それは、今度の渡米がまったくの突然で、一刻を争うようなことらしかったものですから――」
「一刻を争うような用? そんな緊急の用件があるのに、私に隠すようにして渡米したのは、変な話じゃないか、いったい、何が起ったというのだろうかねぇ」
眼鏡の下から、探るような視線を早苗に向けると、
「会社のことは私、何にも存じません、それより予定通り飛行機が羽田に着いてくれるかどうか、もう一度、問い合せてみますわ」
と云い、足早に病室を出て行った。その時、
「う、う、う……痛い!」
再び大川の呻《うめ》き声がし、振り返ると、ベッドの上で、体を曲げ、腹部を抑え込むようにして、苦悶《くもん》している大川の姿が眼に飛び込んで来た。
「あなた! あなた!」
枕頭台《ちんとうだい》の傍にいた大川の妻が、振り搾《しぼ》るような声で、夫の体にとりすがり、息子たちもベッドに駈け寄った。
「動脈瘤からの出血が、再び起ったようですから、ご家族の方は、ベッドから離れて下さい」
相馬教授は厳しく制し、若い医師たちに、
「直ちに輸血する、静脈切開の緊急手術の用意をするよう!」
と命じた。その間にも大川の手足は急速に冷たくなり、意識が薄れて行った。
「血圧は、どうです」
松見医師が、相馬教授に聞いた。
「八〇〜六〇、それに胸部にラッセル音があります、どうやら前回を上廻る大量出血で、腹部から胸部全体に血液が及んだようです」
最高血圧が下って、脈圧が少なくなり、同時に頻脈《ひんみやく》が起るのは、出血性ショック特有の症状であった。
やがて数分を経ずして、輸血用の血液瓶《びん》が新たに十本、運び込まれた。一本二〇〇cc入りだったから、その量は人間の体に流れる全血液のほぼ半分近い量であった。次に三人の外科医によって、大川の両肘《りようひじ》、両足首の静脈が切開され、血液瓶に繋《つな》いだカテーテルが、切開された静脈に挿入《そうにゆう》されると、大量の血液がどんどん輸血されて行った。しかし、それがもはや大川の生命を取り戻すための輸血でないことは、家族や万俵の眼にも解りかけていた。
シカゴからの直行便であるノース・ウエスト機が、木更津《きさらづ》沖の上空に達すると、ベルト着用のサインが出、着陸態勢に入った。しかし、鉄平は、もうさっきからじっとしていられない気持だった。飛行機は予定より四十分も遅れているのだった。
ようやく滑走路に飛行機が停まり、タラップがかけられると、鉄平は真っ先に降りた。大川の舅《ちち》のことを考えると、少しでも先へ先へと歩かないではいられない気持であった。
税関の荷物台に出て来たトランクを受け取ると、手早く通関の手続きにかかった。
「大川一郎の親戚《しんせき》の者です、危篤《きとく》の電話をシカゴで受け取り、急遽《きゆうきよ》、帰国して来たので、荷物の検査を急いでお願い出来ませんか」
鉄平は、切迫した口調で頼み込んだ。
「ああ、大川先生の――、早くおいでになった方がいいですよ、さっき、ラジオの臨時ニュースで、大川先生は再び重態に陥ったと云っていました」
係官は、トランクの蓋《ふた》を形ばかり開けただけで、税関を通した。
「再び重態……どうも」
鉄平は、やっとの思いでそう云い、税関の外へ出た。
「専務、お帰りなさいまし、自動車はこちらでございます」
阪神特殊鋼の東京支社の秘書課員が出迎え、荷物を鉄平から受け取り、足早に歩いた。
「大川の舅の容態はどうなんだ、再び重態ということだが」
自動車が走り出すと、鉄平は秘書課員に聞いた。
「はい、一時、持ち直されたのですが、一時間前、再び大出血を起され……」
「で、助かる見込みはあるのか」
「医師団の発表によると、最善を尽して第一回目の危篤状態を乗りきったように、今回も乗りきりたいが、腹部中央の大動脈にできた動脈瘤の病根は、非常に古く、容態はきわめて憂慮されるとのことです」
「病根は古い……」
鉄平は、思わず口詰った。急遽、アメリカン・ベアリング社へ飛びたつ日、渡航準備が終るのを待ちかねるように、妻の早苗は「さっき、実家《さと》の母から電話があって、父がまた工合を悪くしたのですって――、あなたのことを、どういうわけか、とても気にしていて、出来たらちょっと、見舞ってやって下さらない?」と云った言葉が思い起され、鉄平の胸を強く締めつけた。あの時は会社の重大事で頭が一杯で、深く考えなかったが、今にして思えば、大川は、当然、知っていたであろう自分の病気の悪化を感じ取って、高炉建設のことを気にしてくれていたに違いない。生きていてほしい、ただ生きていてくれさえすればと、鉄平は祈るような気持で、車を走らせた。
高速道路を走って、芝白金《しばしろかね》の慶慈病院に着いたのは、三時二十分を過ぎていた。鉄平は、急いでエレベーターで五階の外科病棟へ上り、大川一郎の入院している特別室へ足を向けた。そこここに見舞客や報道関係者がたたずみ、異様に緊張した気配が廊下にまで漂っている。鉄平は早鐘のように打つ不吉な胸の動悸《どうき》を抑え、病室へ入った。室内の目が、一斉に鉄平に向けられ、わけても、父の万俵大介の咎《とが》めだてるような冷たい視線を感じたが、かまわず、十数人の医師と看護婦が取り巻いている大川一郎のベッドに近寄った。
「お舅《とう》さん――」
鉄平は、そう呼びかけたが、あとは言葉にならず、その場にたちすくんだ。あの精力的で脂《あぶら》ぎった大川一郎の面影は微塵《みじん》もなく、苦悶のあとを残した青白い顔が上を向いたまま、昏睡《こんすい》状態に陥っている。
やがてそれまで動いていた心電図の棘波《きよくは》が直線に変った。心停止が来たのだろう。瞳孔《どうこう》の反射も全くなくなった。
「ご臨終です――」
医師団を代表して松見医師が、家族たちに臨終を告げた。
築地《つきじ》本願寺の大門から本堂までの参道の両側に、各界から贈られた五百対《つい》に及ぶ花輪が並び、氷雨《ひさめ》降る十二月二十三日にもかかわらず、焼香を待つ参列者たちが長い列をなしていた。
本堂の正面祭壇には、菊花に囲まれた大川一郎の遺影が祀《まつ》られ、天皇陛下から贈られた大輪《たいりん》の白菊の花籠《はなかご》一対が一際、清々《すがすが》しく供えられ、従《じゆ》二位勲一等旭日大綬章《きよくじつだいじゆしよう》と副章が、故人の業績を讃《たた》えるように飾られている。祭壇の前では導師一人に二十数人の脇《わき》導師が和して経をあげ、そのうしろには遺族と親族、さらに自由党の党葬らしく、佐橋総理大臣、田淵幹事長、永田大蔵大臣をはじめとする閣僚、各党委員長、党員二百数十名の殆どが威儀を正してずらりと居列《いなら》び、政界、官界からも多彩な顔ぶれが参列していた。
読経《どきよう》が終り、司会役の自由党副幹事長が弔辞の儀を告げると、最初に佐橋総理がたち上って、役者のように整った容貌《ようぼう》と体躯《たいく》で徐《おもむ》ろに祭壇へ歩み寄り、咳《しわぶき》一つなく静まりかえった中で弔辞を読みはじめた。
「……巨星落つ、大川一郎君の突如としたご逝去《せいきよ》の悲報に接し、ただ暗澹《あんたん》たる思いであります、君の政治家としての業績は歴史に残るところであり、君の優れた着眼と迅速《じんそく》果敢なる行動は、国家にとっても、わが党にとっても……、大いなる損失であります、大衆に愛され、かつ信頼された君は、今多くの国民が悲しみ、悼《いた》むところであり……特に日ソ国交回復については、全身全霊を傾けられ……」
佐橋総理の弔辞は、故大川一郎の業績と人となりについて、最大級の表現を連ね、そこには生前、政敵であった者の片鱗《へんりん》をも見出《みいだ》せない。続いて衆参両院議長、各党委員長などの弔辞が、次々と読み上げられた。
万俵大介は、親族席に妻の寧子と列んで坐り、先刻来、皮肉な思いで、総理をはじめ、各党委員長の弔辞に耳を傾けていた。生前は実力政治家として評価されながらも、あく[#「あく」に傍点]の強い油断ならぬ政治家として財界から警戒され、そのため一度も政権の座につけなかった。しかし毀誉褒貶《きよほうへん》の多いその大川一郎が、死亡した途端、識見、人徳ともに惜しむべき政治家として褒め讃えられ、英雄視されている。万俵大介は、死を境にした人間の評価の相違に苦笑しながら、長男の鉄平が、大川一郎の長女を娶《めと》った関係によって、阪神特殊鋼が飛躍的に伸びたこと、大川一郎が通産大臣に次いで、建設大臣になった時、中国縦貫道路の計画で、姫路に広大な土地を所有する万俵不動産が巨富を得たことなどを、次々に思い返した。むろん、一方では大川一郎と閨閥《けいばつ》を結んだことで、一部の政財界から煙たがられたことも事実であったが、そうした利害得失も、大川一郎の急逝によってご破算になってしまうのだった。
弔辞が終ると、再び読経が続けられ、焼香が始まった。
まず遺族席の最前列に坐っている未亡人が静かにたち上ったが、夫を失った哀《かな》しみの面持より、ものものしい党葬の盛大さに気圧《けお》されたように祭壇へ歩み寄り、参列席に向って深々とお辞儀をして、夫の遺影に焼香した。続いて長男、次男夫妻、長女である早苗と鉄平が焼香にたったが、鉄平は危篤の報による急遽の帰国、通夜《つや》、密葬、今日の本葬と、ここ四日間、憩《やす》む暇《いとま》もなく、さすがに疲労の色を滲《にじ》ませていた。しかし精悍《せいかん》な眼《まな》ざしで、舅《しゆうと》の遺影を見上げ、どんなことがあっても阪神特殊鋼の高炉建設は完遂させることを霊前に誓った。さらに大川家の親族として万俵大介、妻の寧子、美馬中と一子も焼香にたち、それが終ると、立礼のために親族一同が焼香路の両側にたち、葬儀委員長である佐橋総理も、夫人とともに焼香にたった。
万俵大介の眼が、きらりと光った。喪服に身を包んだ佐橋総理夫人は、白狐《しろぎつね》のように色白で細く、神経質な顔つきを終始、ハンケチでおさえていた。通夜の席でも、佐橋総理とともにいち早く弔問し、人前もはばからず泣き伏し、今もまた眼を泣きはらせている。夫人の甥《おい》が二子の縁談相手であり、次なる閨閥の相手であると思うと、万俵大介は、その一挙手一投足に、注意深い視線を向けた。
やがて堂内の告別式参列者の焼香が終ると、一般焼香に移った。読経の声はさらに高まり、たちのぼる香煙の中で、一般参列者たちは、用意された一万本の菊を次々と霊前にたむけた。なかには新橋、赤坂の粋筋《いきすじ》と目される女たちの喪服姿も見られた。その間にも、要務のため告別式に間に合わなかった政官界の要人が、一般参列者に混じって菊花をたむけ、その度に、大蔵省、財界関係は、万俵大介と美馬中、通産、建設省関係は、大川一郎の長男と鉄平という風に分担して、鄭重《ていちよう》な答礼をすることを忘れなかった。
三時間半にわたる葬儀が終りかけた時、紺《こん》の役半纏《やくばんてん》に股引《ももひき》、紺足袋にさらの草鞋《わらじ》を履きしめ、江戸火消しの装いをした五十人程の行列が、氷雨の中を纏《まとい》を持って、しずしずと本堂へ入って来た。消防団の頭《かしら》と小頭《こがしら》クラスの人たちで、江戸消防記念会の名誉会長をしていた故人のために、木遣《きや》りを唄《うた》って、霊を弔おうというのであった。
※[#歌記号]ヤーレーエー エーエー イーエー エー……
※[#歌記号]ヨーイヨーイ
しんと静まりかえった中に、木遣りの音頭と唱和する声が朗々と響き渡った。
――極楽に吹き行く風が、ものいわば、日に幾度の、便り聞かせん――
五十人の木遣りの声が堂内に響き、江戸火消しの名残りをとどめる纏が、威勢よく宙に舞った。豪快で勇ましいことが好きだった大川一郎の葬儀らしいしめくくりであり、悲しみの中で、敢えて威勢よく唱和する木遣りの声は、かえって惻々《そくそく》として人の胸を搏《う》った。多くの人たちが粛然として頭を垂れた時、万俵大介の背後で、秘《ひそ》やかな人の気配がした。振り返ると、美馬中であった。
「お舅《とう》さん、勝手ですが、私は主計局の予算査定の一番忙しい時ですから、お先に失礼します――」
囁《ささや》くように云う美馬の眼には、葬儀の席に列した湿りがなかった。大川一郎に人前で、「中君、中君」と親戚《しんせき》呼ばわりされる迷惑がなくなった安堵《あんど》の色さえ見受けられるようだった。さすがの大介も憮然《ぶぜん》として頷《うなず》くと、
「おや、鉄平君は泣いていますよ――」
と眼で指した。その方を見ると、こみ上げて来る思いに耐えきれぬような鉄平の姿があった。鉄平は、胸にしみ入る木遣りを聞きながら、大きな後楯《うしろだて》を失った阪神特殊鋼の多難な将来に思いを馳《は》せて、胸を締めつけられるような不安を覚えているのだった。
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三 章
大《おお》晦日《みそか》の夜が更《ふ》けるにつれ、志摩半島のしじまは深くなる。英虞《あご》湾に面したホテルの窓際《まどぎわ》にたち、真っ暗な湾内を見下ろしながら、万俵大介は、
「いよいよ、今年も暮れるな」
呟《つぶや》くように云《い》うと、背後《うしろ》から相子が、
「今年はいろいろなことがございましたわね、銀平さんのおめでたい結婚式があったり、年末には大川一郎氏が突然、亡《な》くなられたり、その他、いろいろと――」
日夜、神経を研《と》ぎ澄まし、金融再編成の流れに対処して来た大介の胸中をも慮《おもんぱか》るように云った。そんな気配を知る由《よし》もない妻の寧子は、
「ほんとにあんなよい方が、あんな風に急にお亡くなりになるなど……」
声をくぐもらせた。三人は別々の思いで、暫《しばら》く口を噤《つぐ》み、窓の外を見詰めていたが、やがて、ルーム・メイドが年越しそばを運んで来た。
「じゃあ、温かいうちに戴《いただ》きましょうか」
相子が云い、三人はテーブルを囲んで年越しそばの箸《はし》を取った。
「例年のことながら、英虞湾を眺めながら、つごもりそばを食べるのはいいものだね」
年末の三十一日から新年にかけての四日間を志摩観光ホテルで一家揃《そろ》って過すのが、万俵家の長年の習慣であったから、年越しそばを食べることも、大介にとって大晦日の欠かせぬことの一つであった。
一年の思い出を噛《か》みしめるように、三人が手打ちそばを口に運んでいると、二子と三子が入って来た。
「ちょうどいい、お前たちもどうかね」
大介がすすめると、末娘の三子は、
「階下《した》で戴いて来ました、これ以上戴くと、肥《ふと》ってお嫁の貰《もら》い手がなくなるからご遠慮するわ」
容姿を気にするように首を振った。大介は笑い、
「お嫁に行くのは、来年は二子の番だな」
と云うと、
「私が嫁《い》きたいと思うような方がいらしたら、いつでも参りますわ」
二子はさらりと応《こた》え、
「それよりお父さま、今度のお年玉は南洋真珠を買って下さいな、ロビーのショー・ウィンドーですばらしい珠《たま》を見つけましたのよ」
お年玉のおねだりをすると、三子も、
「私は指輪、店員さんにもう押えて貰っているから、お父さま、お覚悟のほどを」
ちゃっかりと云った。扉《ドア》をノックする音がした。
「どうぞ――」
相子が応えると、ひらりと真紅《しんく》のシャンタンの裾《すそ》を翻《ひるがえ》し、万樹子が入ってきた。銀平はきちんとしたダーク・スーツ姿だった。
「お父さん、年末のご挨拶《あいさつ》に参りました、本年中は何かとお世話になりました、来年もどうかおよろしく――」
家父長制の厳しい万俵家らしく、父子といえども、改まった挨拶を交わすのだった。万樹子も銀平に倣《なら》って舅《しゆうと》と姑《しゆうとめ》、そして相子にも年末の挨拶をした。大介はにこやかな笑いをうかべ、
「揃って丁寧な挨拶を有難う、来年も万俵家の誇りと繁栄を忘れぬように――」
と頷《うなず》き返した。堅苦しい挨拶が終るのを待ち受けていたように、三子が、
「まあ、万樹子お嫂《ねえ》さまのツーピースはすてきね、お正月三日間はどんなのをお召しになるの、スーツ・ケースを三つもお車に積み込んでいらしたんですってね」
と云うと、派手好きな万樹子は忽《たちま》ち、顔を輝かせた。
「元日の朝は、真っ白なシフォン・ベルベットのドレス、夜は疋田《ひつた》の訪問着、二日は、ほら、あなたとご一緒に行ったジバンシーのファッション・ショーで買ったフォーマル・スーツ、そして――」
と並べたてたが、相子と視線が合うと、
「でも、私はこちらに嫁いではじめてのお正月ですから、お姑《かあ》さま方のお召物とお合わせするつもりですわ」
と言葉を添えた。寧子はおっとりとした口調で、
「私はまだきめかねていて、持参しているお衣裳《いしよう》の中から、相子さんと相談してきめようと思っておりますの」
「じゃあ、今から皆できめましょうよ」
二子と三子が浮きたつように云い、女たちが賑《にぎ》やかに衣裳の話をはじめると、大介は窓際のソファに銀平と列《なら》んで坐《すわ》った。
「どうだね、お前が銀行を出る時は、大分、片付いていたかね?」
今年最後の銀行業務のことを聞いた。暮の三十一日ともなれば、頭取は暇になり、正午過ぎから休暇を取ることが出来たが、貸付課長の銀平は、夕方になってから、やっと出かけて来たのだった。
「僕たちの方は三時過ぎに片付きましたが、支店の連中はまだ走り廻っているでしょう、特に三宮、元町などの商店街を受け持っている係は、除夜の鐘をいつも取引先で聞くらしいですから」
他人《ひと》ごとのように云うと、
「お前にはいつまでも貸付課長をさせておくつもりはない、もっと重要な仕事をして貰うべく考えているが、希望はあるかね?」
「別に――、どのポストでもどうせ似たりよったりですからね」
さして関心なさそうに、応えた。銀平の銀行に対する姿勢は、いつも、もう一つ熱意が感じられない。大介は、はぐらかされたような気持で、万樹子の方へ眼を遣《や》り、
「そろそろ子供があってもよさそうじゃないか」
と云った。銀平はそっぽを向いたが、万樹子はやや顔を紅《あか》らめ、
「私はそう望んでおりますけれど……」
「すると、銀平の意向で計画出産でも考えているというわけかね」
「というより、望んでいらっしゃらないようですわ、それでなければ――」
万樹子が、日頃の不満を舅に訴えるように云いかけると、
「そういうことは、一方的におっしゃるものじゃございませんことよ」
横から相子が遮《さえぎ》った。その“一方的”という言葉の裏には、相子だけが知っている万樹子の婚前にあった異性関係の秘密をほのめかすようなニュアンスが籠《こ》められている。万樹子は押し黙った。
「さてと――、僕は失礼します、お父さん、お母さま、どうかよいお正月を」
銀平がたち上ると、万樹子、二子、三子も揃って部屋を出た。
室内は再び静かになり、寧子と相子は元旦《がんたん》の衣裳を整えはじめ、明朝、雉《きじ》撃ちに行く大介は、銃を入れたケースから、愛用のホーランド・アンド・ホーランドを取り出し、鹿皮《しかがわ》で念入りに手入れをし始めた。
「お父さん、年末のご挨拶が遅くなりました」
慌《あわただ》しく、鉄平が入って来た。早苗も一緒であった。
「工場の方が多忙を極めて、つい今しがた着いたばかりです、子供たちは車の中で眠ってしまいましたが、除夜の鐘に間に合ってよかったです、どうか来年もよろしくお導き下さい」
折目正しく年末の挨拶をした。早苗も、
「お舅《とう》さま、実家《さと》の父の葬儀に際しましては、何かとお心配りのほど、ほんとうに有難うございました」
まだ悲しみを含んだ表情で、深々と一礼した。
「早苗も何かと大へんだったが、心落しのないよう――、あとの始末はうまく行っているのかね?」
「おかげさまで――」
言葉少なに頷いた。あまりに突然な死だっただけに相続税その他、大川家の今後は多難のようだった。
ゴォーン……ゴォーン……、一同が言葉を跡切《とぎ》らせた静けさの中に、鐘の音が聞えて来た。志摩の名刹《めいさつ》、国分寺で打つ除夜の鐘の音であった。
「いよいよ、年が明けるな」
大介は、感慨を籠《こ》めた声で云い、鉄平たちも荘重な音に耳を傾けた。
元日の朝である。
清澄《せいちよう》な夜明けの光が、東の空をほのかに明るませ、やがて太陽が、水平線から昇りはじめる時刻であった。
万俵大介と長男の鉄平、次男の銀平の三人は、英虞湾が一望のもとに見渡される横山の頂上近くに車を停め、初《はつ》日の出を待った。元旦は雉撃ちの前に、毎年、初日の出を見るのが慣《なら》わしで、昨年は太平洋の荒波が打ち寄せる大王崎《だいおうざき》で、その前年は緩やかな砂浜の続く阿児《あご》の松原で、水平線から巨大な炎の塊のような太陽が、ぐいぐいと昇るのを見ることが出来たのだった。しかし、今年は、空に雲が多く、東の空は薄墨色の雲が垂れ籠めている。
「この空模様では、初日の出はどうやら見られそうにないね」
大介は、鳥打帽《ハンチング》にハンター用の皮ジャケット姿で、ポケットに両手を突っ込み、英虞湾のかなたに眼を凝らした。点在する大小の島々と、無数の真珠筏《いかだ》が浮かぶ英虞湾は、透明な朝の光の中で、その輪郭を次第に際だたせはじめたが、太陽が顔を出す気配はない。
「今年は駄目じゃないですか」
愛車のマーキュリーに体をもたせ、銀平が欠伸《あくび》を噛《か》み殺すように云ったが、兄の鉄平は、
「たしかに日の出の時刻は過ぎているが、あの雲間から陽が射《さ》しはじめているから、少し待ってみよう」
分厚い雲の間から、一条の淡いオレンジ色の光が射しはじめたのを指さした。大介と銀平が、その方を見ると、周辺の薄墨色の分厚な雲が、次第にばら色に染まりかけ、みるみる赤味を増し、やがて東の空全体が、真っ赤に焼けるように燃えたった。不気味なほど鮮烈な朝焼けであった。
「縁起でもない、元旦から朝焼けとは――」
大介は憮然《ぶぜん》として云った。
「どうしてなんです? 朝焼けもなかなか美しいじゃないですか」
腕組みして見ている鉄平が、父を振り返って云うと、
「お前は知らないのか、昔から朝焼けは不吉の前兆と云われている――」
そう云われた途端、鉄平の精悍《せいかん》な表情が、はっと動いた。年末にかけて連続して起った不慮の痛手からたち直り、六月には完成予定の高炉建設を見事に成し遂げようと、心を新たにしている矢先の父の言葉だったからである。
「なんだ、鉄平らしくないじゃないか、顔色を変えたりして、何か気になることがあるのかね」
「いいえ、初めて聞く話だものですから」
「そうかな、亡《な》くなったお祖父《じい》さんがよくそう云って、朝焼けを嫌ったものだよ、正月に朝焼けすると、万俵一族に何か悪いことが起るとねぇ」
妙に粘りつくような声で云った。鉄平が反撥《はんぱつ》するように、ぐいと強い光の溜《た》まった眼を大介に向けた時、先に車に乗り込み、エンジンをふかしていた銀平が、
「もう、そろそろ行きましょう、寒さを我慢して見えもしない日の出にこだわっていたって仕方がないでしょう」
と促した。大介と鉄平が気まずい表情で、うしろの座席に乗り込むと、銀平は凍《い》てついた山道を巧みなハンドル捌《さば》きで運転して降りた。
車は山を降りると、雉撃ちをする大崎へ向った。賢島《かしこじま》に向い合うような形で、英虞湾に突き出ている半島で、伊勢志摩では今なお雉が最も多く棲息《せいそく》している場所だった。一緒に猟をする地元の猟友会のメンバーとは、そこで待ち合せることになっていた。
四十分程で志摩観光ホテルが対岸に見える高台の待合い場所に着いたが、この頃には、雲の上に昇りきった太陽が、おだやかな内海《うちうみ》を眩《まぶ》しいほどに照らし出していた。既に到着していた猟友会のメンバーたちは、銃を持って待っていた。
万俵大介も、シートのうしろに置いた銃と弾帯を手にして、車を降りた。
「頭取、新年おめでとうございます」
「皆さんお揃いで、おめでとうおます」
猟友会の四人の顔なじみが帽子をとって、口々に新年の挨拶をした。
「おめでとう、本年もよろしく」
大介は鷹揚《おうよう》に応え、猟友会の会長である東野の車から二匹のポインターが飛び出して来ると、
「よしよし、お前たちも、また一廻り逞《たくま》しくなったな」
上機嫌で犬の頭を撫《な》でた。二匹ともイギリス産のイングリッシュ・ポインターで、仔犬《こいぬ》の時から、大介が東野の家に預け、猟の訓練を任せている“預け犬”であった。それだけに逞しく張った胸郭、ぐいと引き締まった胴、そして白い艶《つや》やかな被毛に黒い斑点《はんてん》を持った二匹の犬の容《すがた》は、血統の優れた俊敏《しゆんびん》さと優美さを備え、曾《かつ》て王侯貴族の猟と云われた雉猟に相応《ふさ》わしい犬であった。
「では早速と、参りましょうか」
東野は、六十過ぎに似合わぬ軽い足どりで歩き出すと、二匹のポインターは、ジャンプするようにその横を駈《か》け抜けて行き、一同も銃を肩にかけて歩きはじめた。大介の銃はホーランド・アンド・ホーランド、鉄平はジェームス・パーディ、銀平はレミントンで、それぞれ凝りに凝った逸品だけに重量はあるが、緩やかな丘陵の一本道のせいか、さして苦にならない。
東野は、万俵たちに十一月の解禁以来の獲物《えもの》の成果を素朴《そぼく》な口調で話しながら、
「暮に寝ざめの悪いことをしでかしましてな、実はこの少し向うの池で鴨《かも》を見付けて撃ったんですわ、ところが狙《ねろ》うた鴨は逃げてしもうて、傍《そば》にいた鴛鴦《おしどり》に散弾が当ったんですな、鴛鴦は禁猟やから、いかんことしたなと思うていると、傍におった雄が、撃たれた雌の傍を何十回も廻り続けて離れませんのや、鴛鴦はいつも一対《つい》でいるものやけど、片割《かたわれ》が死んでも、離れんものらしいですな」
声を湿らせると、うしろからもう一人のハンターが、話を継いだ。
「けど、これが逆に雄が撃たれると、雌は一目散に逃げてしまうそうですわ、雌というのは、人間を含めて薄情なものですな」
胸が締めつけられるような話のあとだけに、一同は声を上げて笑った。その時、一行の数メートル先を駈けていたポインターが、たち止まって道端を頻《しき》りに嗅《か》ぎ廻ったかと思うと、しなやかに体を屈《かが》めて、灌木《かんぼく》の中へ容《すがた》を消した。東野や万俵たちは、ひたと声を殺し、犬の嗅ぎ廻っていた道端のところまで寄って周囲を見廻すと、雉の足跡がくっきりと三つ、記されている。すぐポインターのあとを追って灌木を分け入った。嗅覚《きゆうかく》の鋭いポインターは、鼻を地面にこすりつけながら、叢《くさむら》の中へ音もなく、まっしぐらに進み、ぴたりと止まった。引き締まった体躯《たいく》に緊張感が漲《みなぎ》り、尾がぴんとたっている。雉を見付け、ポイントしたのだった。銃をかまえた主人が駈けつけるまでその姿勢を崩さないから、獲物は竦《すく》み上って、その場を動けなくなっている。
「よし!」
東野の合図で、ポインターがはじめて大きく吠《ほ》えて躍《と》びかかった。同時に叢から羽搏《はばた》きの音をたてて、一羽の雉が飛びたった。その瞬間、
ターン、タターン!
万俵たちの銃声が鳴り、宙に紫の羽がぱっと飛び散ったかと思うと、彼方《かなた》の繁《しげ》みに真っ逆さまに黒い塊が落ちて行った。二匹の犬は、吠えながらその方へ疾走《しつそう》して行ったが、やがてポイントした犬が、射落した雉をくわえ、誇らしげに尾を振り、万俵たちの方へ駈け戻って来、東野の指示で大介の前へ獲物を置いた。
「ようし! よくやった!」
大介は褒めてやりながら、まだ生温かい雉を両手の掌《たなごころ》に受けて、満足げに眺めた。円《つぶ》らな眼の周囲が真紅の羽毛で縁取《ふちど》られ、首から胴、翼にかけて紫色の羽毛で掩《おお》われた見事な雄雉で、元旦の初猟らしい雅《みやび》やかな獲物であった。
次の獲物を求めて、一行は再び歩き出した。
「兄さん、今日の猟はあまり乗り気じゃないようですね」
一行の一番うしろに、鉄平と列んで歩いている銀平が云った。
「そうでもないが、僕はどちらかといえば、猪《しし》撃ちのように雄壮な猟の方が性《しよう》に合っているのかな、それに年末は、最後の最後まで、思わぬ突発事が起って、疲れているのかもしれない」
吐息をつくように応《こた》えた。
「そう云えば、最近の兄さんは疲れきっている感じですね、高炉建設や大川さんの急逝《きゆうせい》以外にも、心配事がおありなんじゃないですか、二子からちょっと聞きましたが、シカゴで何かあったんですか?」
さりげなく聞いた。鉄平は、十メートルほど前を銃を肩にして行く父のうしろ姿に眼を向けながら、
「いや、別に――、それよりシカゴといえば、行く飛行機の中で、シアトルから乗って来た小森章子さんに会ったよ」
鉄平は、シカゴ行きの真相を知られたくないために、帰国後も黙っていた小森章子のことを口にした。その途端、銀平の表情が動いた。
「シアトルから? どうしてそんなところで――、彼女はパリじゃあなかったのですか」
「いや、今はニューヨークへ移っているが、シアトルで個展を開き、続いてシカゴでも開くためその準備に行く途中だったんだ、相変らずの断髪姿で、きりっとした美しさは、少しも変っていない、君によろしくと云っていたよ」
ほんとうは三十過ぎてなお外国で独り暮しをしている女独特の疲れが見えていたが、それは口にしにくかった。
「シアトルくんだりで、個展か!」
銀平は吐き捨てるように云い、ずんずんと鉄平の先を歩いて行った。切り裂かれるような銀平の心中を思うと、鉄平は、やはり小森章子のことは口にしなければよかったと後悔した。と同時に、アメリカン・ベアリング社への十二月の船積み分ストップの通知が、日を経るにしたがって、実質的にキャンセルの色が濃くなり、膨大な損失を蒙《こうむ》るかもしれない危険性が増しつつあることが思い出され、せめて正月三日間だけは忘れようとしていた不安が、また疲労した心に重くのしかかって来た。
けたたましい犬の吠声がし、山側の方で、人の走る気配がした。鉄平は、圧《お》しつぶされそうになる重圧感を払い除《の》けるように灌木の中を小高い丘陵に向って駈け上って行った。
ふと、眼前を一羽の雉が飛びたった。反射的に引金に指がかかった。
「危ない! 頭取が!」
という叫び声がしたが、
ターン!
鉄平のジェームス・パーディは鳴っていた。その瞬間、数メートルほど先の樹《き》の茂みが大きく揺れ、何かがどさりと倒れる気配がした。
「あっ、頭取、頭取!」
「お父さん!」
東野や銀平の叫び声がした。鉄平は全身から血が引くような思いで、灌木を飛び越え、駈け上って行くと、そこに父の大介が顳※[#需+頁]《こめかみ》を押えて倒れていた。
「お父さん、どうしたのです、しっかりして下さい!」
夢中で父の体を抱き起しかけると、
「お、お前は……私を……」
大介は呻《うめ》くような声で云い、鉄平の腕を振り払った。反対側から東野が体を支え、
「頭取! 弾《たま》は鳥打帽《ハンチング》の縁をかすめただけですが、どこか痛みますか?」
「耳が痛くて、聞きとりにくい――、それから腰が……」
腰部にも鋭い痛みを感じた。
「ともかく、すぐホテルへお運びしましょう、もし鼓膜が破れていたり、腰骨に罅《ひび》が入っていたりしては大へんですから、診《み》て貰《もら》わねば――」
東野がいい、銀平はすぐマーキュリーを取りに走った。
ベッドに横たわった大介は、まだ尾を曳《ひ》いている耳鳴りを覚えながら、数時間前の出来事を思い返していた。銀平に抱きかかえられるようにホテルへ帰って来、たまたま宿泊していた耳鼻科医の診断を受けたことまで覚えている。幸い外傷は免れたが、医師の診断では弾が耳もとを通過する際の風圧で、鼓膜がショックを受けた一過性の症状で、腰部の痛みも単なる打撲《だぼく》傷であるから、暫《しばら》く安静にしているようにと云い、鎮静剤をのむ指示をしたのだった。そのため二時間ほど睡眠し、眼が醒《さ》めた今は殆《ほとん》ど気持も落ち着いていた。
大介は、ベッドのまわりに、寧子や相子、そして鉄平、銀平たちがいることに気付いていたが、眼を閉じたまま、自分が危うく、鉄平に撃たれかけた前後を、仔細《しさい》になぞって行った。
第一番目の雉を撃ち落してから、三十分ほどして、ポインターが再び鋭い嗅覚をもつ鼻を鳴らして、ずんずん丘陵を上って行き、自分も灌木の茂みの間を縫ってその後をつけると、二匹の犬はぐるぐると同じ円周を嗅《か》ぎ廻り、やがて二匹が殆ど同時に獲物を見付けたらしく、ポイントに入った。自分、銀平、東野、そして他《ほか》の猟友会のメンバー三人が位置についた。その時、鉄平の姿はなく、東野が犬に合図をしかけようとすると、下の方から人の駈け上ってくる気配がし、
「危ない! 頭取が!」
という東野の声と耳を劈《つんざ》く銃声が同時に聞え、空がぐらりと回転するように揺らいだかと思うと、倒れてしまったのだった。
思い出してみれば、それだけのことであった。しかし鉄平が駈け寄って、体を助け起そうとした時、もしや鉄平が自分を狙《ねら》い撃ったのではないかという疑念が、脳裡《のうり》を掠《かす》めたのだった。あり得ない不穏な疑惑と思いつつも、亡父の敬介が自分の身長に合わせて別注したジェームス・パーディだけに、それがぴたりと合う鉄平が、その黒光りする銃口を自分の背に向けた姿が何故《なぜ》か想像され、めらめらと憎悪《ぞうお》の念が煮えたぎって来て、つい眼を見開いた。
「お父さん、お工合はいかがですか」
ベッドの傍《そば》に随《つ》きっきりだった鉄平が、覗《のぞ》き込んだ。大介は、黙って視線を背けた。
「あら、お目覚めになりましたの」
相子が素早く歩み寄った。
「お耳の方は、少しはよくなられまして?」
「うむ……いや、先程までのようなことはないが、まだ耳鳴りがする」
殆ど止《や》んでいたが、大介は、鉄平を意識して眉《まゆ》を顰《しか》めた。
「まあ、それはいけませんわね、もう一度、お医者さまに診て戴《いただ》かなくてもおよろしいのかしら」
大げさに、相子は心配してみせた。
「あのう、冷やしたり、温めたりということは、しなくていいのでしょうか」
寧子が、おろおろと不安げに云った。
「へんにそんなことをしたら、よけいお工合が悪くなられますわ、それより、ほんとうにもう一度、さっきの先生に診て戴くなり、かかりつけの先生にお電話でお尋ねするなりしなくても、およろしゅうございますか」
相子は、取り仕切るように云った。
「うむ、もう暫く様子を見てからにしよう、元日早々、こんなことであまり人を騒がせたくないからね」
「それもそうですわね、でも、ほんとうに元日早々から、なんと縁起でもないことが起ったのでしょう、あなたがたっていらした地点から、十メートルも向うへ吹き飛んでいた鳥打帽《ハンチング》を、先程拝見して、総毛だつ思いが致しましたわ、ほら、ご覧遊ばせ、この鳥打帽の裂け目を――」
相子はそう云い、大介の眼の前に、鋭い裂け目ができている鳥打帽をさし出した。散弾の幾つかが貫通したらしく、鳥打帽の縁《へり》が鋭い裂け傷になって、千切れ飛んでいる。
「こんなもの、すぐ処分するんだ、見るだけで命が縮まる」
おぞましげに云い、大介は裂け傷のついた鳥打帽を払いのけた。
「お父さん、ほんとうに私の不注意でした、どうかお許し下さい」
鉄平は、はたきつけるような父の激しい手の動きに、自分への憤《いきどお》りの強さを感じ取った。
「許すとか、許さんとかの問題じゃないだろう、一体、この私を、何をどう勘違いして、撃ったのだ、それが不思議でしかたがない」
大介は、口もとを歪《ゆが》めた。
「あの時、犬の吠える声がして、お父さんたちがその方へ駈けて行かれた気配がしたので、私も後を追って行くと、不意に眼の前を鳥が羽搏いたので、反射的に引金を引いてしまったのです、灌木に視界を遮《さえぎ》られ、まさかお父さんがその向うにたっておられたとは、気付かず――」
「しかし、おかしな話だね、私たちの後を追って来たお前が、眼前にたとえどんな獲物が現われようと、それを撃つなど、ルール違反じゃないか、流れ弾が先を行く者に当るかもしれないことは、お前ほどの猟のベテランが、どうして、考えられなかったのかねぇ」
「おっしゃる通りです、年末来の睡眠不足でひどく疲れていたせいか、ハンターとしての冷静な判断を欠き、つい眼前を飛びたつ雉に、反射的に引金を引いてしまったのです」
鉄平が潔《いさぎよ》く自分の非を認めると、相子が口を挟《はさ》んだ。
「あら、でも私が東野さんたちのお話を伺ったところでは、背後《うしろ》で鳥の羽搏く気配がしたので振り向くと、鉄平さんが銃をお父さまの方へ向けているのが眼に入って、危ないと制止したにもかかわらず、引金を引いてしまわれたとか伺いましたけれど、まさか、そんなことはございませんのでしょう?」
大介の気持を煽《あお》りたてるような底意地の悪さが含まれている。鉄平はむっと気色《けしき》ばんだ。
「確かに、制止する声は聞きました、しかし、その時、既に引金を引いてしまっていたのです」
「お前ほどの銃の名手が、制止の声を耳にしたら、とっさに銃口を逸《そ》らすことが出来なかったのかね、それともお祖父《じい》さん譲りのジェームス・パーディが、お前の意思に反して、勝手に火を噴いたとでも云うのかねぇ」
大介は、じわりと粘りつくように云った。何かを疑い、何かをためすような響きがあった。
「お父さん、お父さんはこれ以上、僕に何を云えとおっしゃるのですか!」
鉄平は堪えに堪えていた思いを、爆発させるように云った。
「鉄平、ご病気のお父さまに向って、何ということを……」
寧子が涙ぐみながら窘《たしな》めかけると、それまで窓際《まどぎわ》で黙って煙草《たばこ》をふかしていた銀平が、
「忠臣蔵の松の廊下じゃあるまいし、吉《き》良上野介《らこうずけのすけ》と浅野内匠《たくみの》頭《かみ》もどきの芝居じみたやりとりなど、もういい加減になさったらどうですかね」
傍観者のような素っ気なさで云い、
「お母さま、お父さんはあれだけお喋《しやべ》りになれるのだから、たいしたことはないはずですよ、昼食にでも参りましょう」
そっと寧子の肩をおして、部屋を出かかると、
「鉄平、お前こそ、出て行って貰いたい」
大介が突き放すように命じた。その冷やかさに、鉄平は言葉に詰ったが、
「――僕が少し云い過ぎました、どうおっしゃられようと、僕のミスで起った事故で、お父さんをこんな目におあわせしたのですから、僕に出来ることなら、何でもお申しつけ下さい、もう一度、さっきのお医者さまに来て戴きましょうか」
「いらない、それより早く部屋を出てほしい、お前の顔を見たくない、それが今、私の一番、望むことだ」
大介は、そう冷たく拒絶した。それはどんな罵倒《ばとう》の言葉より、鉄平の胸に鋭くこたえた。鉄平は、すごすごと部屋を出た。
自分の部屋へ戻って来ると、鉄平は、そこに妻の早苗がいることも気付かぬように両手で頭を抱え、ぐるぐると室内を歩き廻った。今の父との会話を思い出すと、哀《かな》しみとも、怒りとも、空疎《くうそ》ともつかぬ思いが、胸に突き上げて来た。そして今さらのように自分と父との間にある隔絶を思い知った。
それにしても、なぜ自分と父との間に、これほどまでの隔絶が出来たのだろうか。血を分けた親子同士であり、しかも父親と長男であるというのに、眼に見えぬ帷《とばり》のようなものが二人を隔てている。自分は虚心に父に接しているにもかかわらず、父の方は、何かにこだわり、何かを意識するように自分を拒んでいる。それは何であるのか――、鉄平は何度、考えてみても解《わか》らなかった。強いていえば、阪神特殊鋼の高炉建設を時機尚早として反対した父を押しきって、建設に着工したからだろうか。以来、鉄平は父の意中に妙に冷たいものを感じ取り、そのため、年末のアメリカン・ベアリング社の船積みストップの件も隠していることが、父の不興を買っていると云えば、云えることであった。しかし、それはまだ父の知るところとなっていないはずだから、それが原因ではない。そうすると、自分と父を阻《はば》んでいるものは何だろうか――。鉄平は、何度も同じ疑問を繰り返し、見えない壁にその問いをぶっつけるようにして、さらに室内を歩き廻ると、
「あなた、いい加減にお止《よ》しになって、まるで動物園の檻《おり》の中の熊《くま》みたいに、さっきから、ぐるぐる部屋の中を歩き廻ったりなさって――」
鉄平ははっと呼び醒《さ》まされるように、妻の方を振り向いた。
「あなた、子供たちはよそのお部屋へ遊びに行かせておりますからいいものの、どうしてお舅《とう》さまは、あんなにまであなたに冷たくあたられるのかしら――」
その場の雰囲気《ふんいき》に遠慮して、鉄平より先に部屋へ帰っていた早苗であったが、恨むように云った。
「いや、何といっても、僕の不注意から起った事故だから、しようがないよ」
「それにしても、お舅さまのあなたに対する問い詰め方は、ひど過ぎるわ、いいえ、あなたに対してだけではないわ、私に対しても、口では実家《さと》の父の急死を悼《いた》み、力付けて下さってはいますけれど、父が亡《な》くなってからの私に対するお舅さまのご様子は、どことなく、今までと異なる素っ気なさがございますわ」
「そんな馬鹿《ばか》な! お前の思い過しというものだよ」
「そうじゃありませんわ、あなたのお舅さまはそういう冷たさを体質的にお持ちになっている方だと思いますわ、でも、他家《よそ》から嫁いで来た私はいいの、血を分けたあなたとお舅さまとの間で、あんな言葉のやりとりがあるなんて、まるでほんとうの父子《おやこ》でないみたい――」
早苗がさらに言葉を継ぎかけると、
「それ以上は口を慎むべきだ、暫く、僕を独りにして貰いたい」
鉄平がそう云うと、早苗は涙ぐみながらも、政治家の娘らしい気強さで、部屋を出て行った。
独りきりになると、鉄平はもう一度、今朝来のことを考えた。自分は確かに眼前の叢《くさむら》から飛びたつ獲物《えもの》を見、その方向に父がいるなどとは気付かず、反射的に引金を引いてしまったのだった。それを血を分けた親子でありながら、どうして父は、息子に狙われたなどという考えが出来るのか。これがもし弟の銀平であったら、父はやはり同じ問い詰め方をしただろうか。鉄平の耳に「お祖父《じい》さん譲りのジェームス・パーディが勝手に火を噴いたというのかねぇ」と粘りつくように云った父の声が、なまなましく甦《よみがえ》って来た。
扉《とびら》が開き、足音をたてずに入って来る人の気配がした。振り返ると、母の寧子が顔を蒼《あお》ざめさせている。
「お母さま、申しわけありません、僕の不注意のために、せっかくのお正月をこんな風にしてしまって――、銀平とお食事に行かれたのではありませんか?」
「いいえ、それよりお父さまのあまりにきついお叱《しか》りに、あなたが参っているのではないかと思うて……」
「いや、参ってはいません、ですがお父さんが、どうして僕に対して、あのようなものの取り方をなさるのか、お父さんと亡くなられたお祖父さんの間に、何かがあったのですか?」
母の寧子は一瞬、身じろぐように鉄平を見た。
「そんなこと、あるはずが――」
「しかし、お父さんが僕に対して感情的になられる時は、不思議と、何かお祖父さんに繋がっている、今日もお祖父さん譲りのジェームス・パーディの銃だった、ですから何か――」
鉄平は迫るように云った。
「――でも、何もありません……」
寧子は、白い項《うなじ》を振り、あとはいつものようにひっそりと黙り込んだが、心の中では四十年前の身をわななかせるような出来事を思い出していた。
その日、いつものように女中が入浴の時間を告げに来、その頃、浴室として使われていた日本館の檜造《ひのきづく》りの湯殿に入り、湯槽《ゆぶね》に浸《つ》かって上ると、背中から両手、両足、爪先《つまさき》から恥部まで女中が洗ってくれた。実家《さと》の嵯峨家で、幼い時から公卿《くげ》華族のお姫《ひい》さまは、自ら体など洗わず、前もおさえず、人に洗わせるものとして躾《しつ》けられて来ていたから、平気で前を拡げて洗わせ、女中が引き退《さが》った後、独りたゆたうように湯槽に体を浸《ひた》していると、湯殿の木戸が開く音がし、磨《すり》ガラスの仕切戸に浴衣《ゆかた》の着流し姿が映った。久しぶりに夫の大介と入浴する恥じらいと昂《たかぶ》りで、ほてって来る体を緩く拡げながら待っていると、白い湯煙の中から「やはり公卿の女の肌はましゅまろのようだな」と、ぬるむような声がした。思わず息を呑《の》むと、夫ではなく、舅《しゆうと》の敬介の湯気に濡《ぬ》れ、情欲に濡れた顔が近付いて来た。大声で人を呼びかけると、「大介はまだ帰っていないよ」と囁《ささや》くなり、寧子の体を湯槽から抱き上げて、幼児のように両足を拡げて洗い場に坐らせ、異様な体位で体をからませて来た。あまりの恥ずかしさと怖《おそ》ろしさに、寧子はそのまま、湯殿の中で失神してしまったのだった。
気が付いた時には、湯殿に近い座敷の蒲団《ふとん》の中に寝かされており、眼を開けると、夫と舅《しゆうと》の顔が両側から覗《のぞ》き込んでいた。
「一体、どうしたんだい? 湯殿で気を失ったりして――」
夫が心配そうに聞いた。寧子は応《こた》えられず、そっと舅の方を見ると、舅の敬介は表情を変えず、
「全く驚いたよ、ちょうど湯殿の前庭を通りかかったからよかったものの、寧子の人を呼ぶ声が聞えなかったら、あのまま湯殿でのぼせ死にしていたかもしれないな」
と云い、女中たちを呼んで座敷まで運ばせた経緯《いきさつ》を何くわぬ様子で話した。その脂《あぶら》ぎった敬介の顔を見詰めながら、寧子は自分の体が完全に敬介に犯されたものか、それとも失神したため未遂に終ったのか、解らないことがかえって空怖《そらおそ》ろしかった。そしてその夜、夫の大介はいつもより執拗に寧子の体を愛撫《あいぶ》し、濃厚な交わりを求めた。そうすることによって、湯殿でのもしやという疑惑を解くような交わりであった。したがって、もし湯殿で舅に犯されていたとしても、その夜、大介とも交わった寧子には、妊《みごも》った鉄平がどちらの子供であるか、はっきりと応えられない――。
「お母さま、どうなさったのです? お工合でもお悪いのですか」
鉄平の声がした。寧子は、ゆっくりと顔を上げ、
「お父さまのおそばにいても何も出来ないくせに、疲れていたのね、でもあなたのそばで静かに憩《やす》めて、少し気分が直ったようですよ」
寧子は、蒼白《あおじろ》い頬にかすかな笑いをうかべ、舅の敬介に似た鉄平の逞《たくま》しい顔と体をまじまじと見詰めた。
「それなら、僕も安心です、先ほどお母さまに妙なことをお聞きして、お気に障《さわ》ったらお許し下さい」
鉄平は一抹《いちまつ》の疑念を残しながらも、これ以上、母を疲れさせたくなかったから、強いて快活に云った時、電話のベルが鳴った。
「子供たちからでしょう、早くどこかへ遊びに行きたがっていましたからねぇ」
鉄平が受話器を取ると、
「もしもし、お兄さま、新年おめでとうございます、一子です、いま着いたところですの、フロントからお電話していますのよ」
美馬中とともに五年ぶりに正月を志摩観光ホテルで過す一子からで、まだ今朝《けさ》起った事故のことは知らないらしく、母に似た細く澄んだ声であった。
美馬中は、舅の万俵大介のベッドの傍《そば》に坐り、相子から今朝の誤射事件を驚き入ったように聞いていた。
「で、鉄平君の撃った弾は、お舅《とう》さんの頭のどのあたりを飛んで行ったんですって?」
正月らしく、きちっとダーク・スーツを整えていたが、興味津々《しんしん》の色を湛《たた》えて聞き返した。その露骨さに、一子は視線をそむけたが、向い側の相子は、すんなりとのびたきれいな足を組みかえ、
「それが、ところもあろうに、顳※[#需+頁]《こめかみ》の間近ですの、しかも弾は背後《うしろ》から撃たれたときてますでしょう? たっていらした地点があと五ミリでも左寄りだったら、一体、どういう事態になっていたのか、それを思うと、ぞっと致しましたわ」
まるで、自分がその現場に居合せて、じかに見ていたような云い方をした。
「危機一髪とは、まさにこのことですが、鉄平君ほどの射撃の名手が、誤射するなんぞ、よっぽどどうかしてたんですね、何かあったんですか?」
美馬は、声をひそめるように尋ねた。大介は眼鏡の下からじっと美馬を見詰め、
「それは、どういう意味なのかね」
「いえ、そう改まって聞かれますと困りますが、たとえば猟に出かける前に、お舅さんと鉄平君との間に何か気まずいことがあったとか、あるいは――」
美馬が想像を娯《たの》しむように云いかけると、それまで顔を俯《うつむ》けていた一子が、
「あなた、いくら何でもそんなおっしゃり方はお止《よ》しになって、鉄平兄さまのことですから、自分のミスでお父さまをこういう目におあわせしたということで、どんなに苦しんでいらっしゃるかしれませんわ」
いつになくきっとした口調で、遮った。
「あら、それならよろしいのですけど、現実は、お父さまに食ってかかられるような口調で弁解される始末ですの、一子さんは平素、離れてお暮しだからご存知ないのでしょうが、最近の鉄平さんは、ことごとにお父さまに反抗的なんですのよ」
相子が、一子の弁護を頭から撥《は》ね除《の》けるように云うと、大介は不機嫌に顔を顰《しか》めた。
「もうその話はしたくない、それより中君、永田大臣への新年の挨拶《あいさつ》はどうだったかね」
美馬は、志摩半島へ来る途中、永田大蔵大臣の静養先である芦《あし》ノ湖《こ》にたち寄り、年賀をすませて来たのだった。
「どうも、ご報告が遅れました、大臣は、暮には結構なものをと云っておられました」
美馬は、暮のつけ届けのことを云った。
「そりゃあよかった、大臣のご機嫌はうるわしかったわけだね」
「まあ、いつもの如《ごと》くといったところです、しかしお舅さん、今年の金融界は、また一段と情勢が厳しくなるようですよ」
「ほう、それは大臣自身の発言なのかね?」
「さあ、その辺はどうでしょうか、実はたまたま、春田銀行局長と年賀が鉢合せになり、屠蘇《とそ》を戴《いただ》きながら、ふっと出た話ですから――」
確答せず、気をもたせるような云い方をした。厭味《いやみ》なもの云いだったが、大介はつり込まれるように、
「春田銀行局長と一緒とは好都合だったねぇ、しかし、昨年、あれだけ再編成論をぶち上げておきながら、第三銀行と平和銀行の合併が途中で潰《つぶ》れてしまったから、今年あたりは“合併屋”の面子《メンツ》にかけても、銀行合併を実現させたいというのが、春田局長の本音じゃないのかね」
厳しい情勢というのは、そのことだろうというニュアンスを籠《こ》めて聞いた。
「面子というより、それが大臣から春田局長に与えられた任務でしょうからね、まあ昨年は、再編成のムードづくりということもあって、あんまり強引なことは出来なかったでしょうが、今年あたりはいよいよ、実力行使をはじめるんじゃないですか」
鼻にかかった声で、笑うように云った。
「なに、実力行使――」
大介は、はっと眼を瞬《しばたた》く思いで、その言葉を反芻《はんすう》した。この一年、“小が大を食う”合併を考えて、永田大臣に暗黙の諒承《りようしよう》を求め、春田銀行局長にアプローチを試みながら、なおかつこれという合併相手もなく、暗中模索している都市銀行第十位の阪神銀行にとって、実力行使という言葉は不気味であった。
「おや、そろそろ二子ちゃんの花婿《はなむこ》候補とご対面の時間ですね」
美馬は、ちらっと時計を見て云った。三時のお茶の時間に、階下《した》のラウンジで、佐橋総理夫人の甥《おい》に当る青年を伴って、ホテルへ来ている小泉外交官夫人と会い、それとなく双方で見合いの下見《したみ》をする約束になっているのだった。
「まあ、もう少しのところで、お時間に遅れるところでしたわね、じゃあ、美馬さんと行って参りますわ」
相子が急いでたち上ると、
「うむ、失礼のないよう、よろしく頼む」
大介は、ベッドの中から云った。
「一子、お前も一緒にどうかい」
美馬は、大介の手前《てまえ》、妻を誘ったが、
「いえ、私はお父さまのお傍にお随《つ》きしています」
一子は、固い表情で首を振った。
美馬と相子は部屋を出ると、ロイヤル・ルームから続く人気《ひとけ》のない広い廊下を、肩を並べてエレベーターに向った。年齢的にいっても、二人のもつ雰囲気からいっても、似合いの夫婦であった。
エレベーターに乗ると、
「久しぶりに、またあなたと踊りたいな――」
美馬は、“閉”のボタンを押しかけた相子の指先に、相子より白くきれいな指をさり気なく絡《から》ませながら囁いた。二カ月前、二子の縁談のことで上京した相子と赤坂のナイト・クラブで踊った時の濃艶《のうえん》さを思い起している様子であった。
「残念ながら、このホテルにはホールがございませんのよ、ふ、ふ、ふ」
相子は、指を美馬に委《ゆだ》ねたまま、低く笑った。
「ホールがなくても、踊ろうと思えば、どこでも踊れるじゃないですか」
美馬がつと、顔を近付けかけた時、エレベーターが止まり、扉《ドア》が開いた。その途端、二人の顔が離れ、絡み合った指先がほぐれた。何事もなかった表情で、二人は揃《そろ》ってカクテル・ラウンジへ足を運んだ。
「お義兄《にい》さま、こちらよ」
ラウンジの奥の方から、二子と三子の声がした。二子だけにすると、見合いの下見であることを感付かれそうであったから、妹の三子も一緒に呼んでおいたのだったが、面識のない小泉夫人たちと、先にお茶を飲んでいる。美馬は驚くように小泉夫人の傍へ寄った。
「新年おめでとうございます、昨年は何かとお世話になりました、今年もゴルフのお手ほどきをお手柔らかに――」
茅ヶ崎のクラブで一度、ゴルフをしただけであったが、十年来の知己のように愛想よく挨拶し、元駐仏大使で、現在、外務省の研修所長である小泉信之氏のことを聞いた。
「主人は総理や外務大臣へのお年賀がございますので、明日、参ることになっております」
元駐仏大使夫人らしく、洗練されたパリ・モードのスーツとアクセサリーを身につけていたが、“狆《ちん》夫人”と陰口されている彼女は、狆のように寸詰りで鼻の低い顔をつんと取りすまして応えた。
「それはそれは、ではご主人さまには、明日、ご挨拶させて戴くことに致します、二子ちゃんたちは、小泉夫人を存じ上げていたの」
夫人と向い合って坐っている二子と三子に聞くと、小泉夫人が、
「私たちこちらでブリッジをしておりましたら、お二人揃ってお見えになりましたの、この間のゴルフの時、美馬さまに万俵さまのお嬢さま方のことを伺っておりましたから、もしやとお声をかけましたら、やはりそうでしたので、早速、お誘いして、お喋《しやべ》りをはじめたという次第でございますのよ、あら、高須さま、ご機嫌よう――」
立板に水のように話し、美馬の斜めうしろにたっている相子に声をかけた。相子は、万俵家の女執事然として、美馬より一歩控えた慎しさで挨拶し、
「ご令息さまでいらっしゃいますか」
夫人の横にいる二人の青年に視線を向けた。
「ええ、こちらののんびりした顔の方が私の息子で、背が高く少しは締まった感じのする方が、細川一也《かずや》と申しまして、私どもの遠縁に当る者です、というより佐橋総理夫人の甥と申し上げた方が、よくお解《わか》り戴けますわね」
小泉夫人は、外国煙草《たばこ》をわざとらしい手つきで喫《す》いながら紹介した。
「そういえば、帝国製鉄の秘書課に佐橋総理夫人の甥御さんが勤務しておられると聞いておりましたが、あなたがその方でしたか」
美馬が、二子にそれとなく人物紹介をして聞かせるように云うと、細川一也は、
「はじめまして、お見知りおきを――」
佐橋夫人に似てやや眼尻《めじり》のつり上った顔にボストン眼鏡をかけ、サイド・ベンツのスーツを着こなし、気取った様子で挨拶した。
「こちらこそよろしく、さあ、僕たちもブリッジの仲間に入れて戴こうかな」
美馬が仲間に加わるように云うと、三子が、
「私たちは今から、小泉さんのスポーツ・カーで、ドライブに出かけるところよ、細川さんが、海苔《のり》を養殖しているのり※[#竹かんむり+洪]《ひび》のある湾を見に行こうとおっしゃっているの」
と云った。細川一也は、
「それはですね、伊勢ののり※[#竹かんむり+洪]というのは古いんですよ、平安朝時代の延喜《えんぎ》式の中に、肥後、出雲《いずも》、摂津《せつつ》、伊勢、播磨《はりま》から朝廷へ海苔を献上したことが記されていますから、伊勢ののり※[#竹かんむり+洪]は由緒《ゆいしよ》が深いわけで――」
と話し、言葉を継ぎかけたが、
「あら、お天気が悪くなって来ましてよ、そのご講義は後にして、早く参りましょうよ」
二子が急がせるように云った。若い四人はあたふたと出かけて行った。
三人になると、美馬は、
「どうも大へんおはね[#「はね」に傍点]のところをお目にかけてしまって」
義兄らしく、恐縮するように云った。
「いいえ、大へんご利発そうで、云いたいことをはっきりおっしゃり、私は大いに二子さんを気に入りましてよ、そちらさまは一也さんを、どう思《おぼ》し召して?」
「なかなか切れる方のようでいらっしゃいますわね、二子さんとは性格的に合う感じが致しますわ」
相子は心の中では、二子とは合わないタイプであることを見抜いていながら、そう応《こた》えた。
「たしかに噂《うわさ》にたがわず、しっかりした現代的な青年ですね、いい組合せだと思いますよ」
美馬も積極的に云った。
「じゃあ私、腕によりをかけて二人を組み合せてしまいますわ、私、動き出したら止まらない方でございましてよ」
小泉夫人は、狆のような顔をほほほっと綻《ほころ》ばせた。
シャンデリアの灯《あか》りに照らし出されたダイニング・ルームは、元日の夜らしい華やぎに満ちている。
新年の装いを凝らした人たちが、改まった雰囲気でそれぞれの晩餐《ばんさん》のテーブルを囲んでいたが、奥まった窓際《まどぎわ》の食卓を囲んでいる万俵一族の姿が、際だって人眼を惹《ひ》いている。一族の長である万俵大介を正面に、左側に寧子、鉄平夫妻と銀平夫妻が坐り、右側に相子、美馬夫妻、二子、三子が坐っている。女性たちは訪問着やカクテル・ドレスをまとい、男性たちはダーク・スーツに身を整えていた。総勢十一人がずらりと顔を揃えた晩餐であった。子供たちは、外国流に先に食事をすませていた。
スープの次に、伊勢海老《えび》のチーズ焼が運ばれて来ると、万俵大介は、いつものように洗練されたマナーで、ナイフとフォークを取った。それに倣《なら》い、一同もナイフとフォークを取って、伊勢海老にナイフを入れた。誰もが今朝起った雉《きじ》撃ちの事故など、[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》にも出さず、にこやかに振舞い、人眼には、どこまでも万俵一族の華麗なる晩餐会であった。
「今年は、五年ぶりに中君と一子も揃ったお正月だね、それに孫たちも、先に賑《にぎ》やかに食事をすませたらしいね」
大介が満足げにテーブルを見廻すと、さびを含んだ藤紫の訪問着を着た妻の寧子は、臈《ろう》たけた首筋をこくりと頷《うなず》かせた。美馬は、ナイフを置き、
「僕たちも久しぶりに、お舅《とう》さん方とご一緒出来て、またとないお正月です、子供たちも大喜びで、日頃、かまってやれない罪ほろぼしが出来ますよ」
と云い、同じ列《なら》びの末席にいる三子に、
「マドモアゼル、いかがでした、先程の青年たちとのドライブは?」
と問いかけた。狙《ねら》いは、二子の感想を引き出すためであったが、そんなこととは知らない三子は、サーモン・ピンクのカクテル・ドレスの胸に飾ったルビーのネックレスを輝かせ、
「素敵だわ、あの細川さんという方、――身長百八十センチ、容姿端麗、東大法学部出身、帝国製鉄秘書課勤務、明朗闊達《かつたつ》、それに伯父さまが総理大臣だなんて、まさにスーパー・ヤング・マンよ、ねぇ、お姉さま」
息を弾ませるように云った。が、ブルーのカクテル・ドレスに真珠の大粒のチョーカーをつけた二子は、形のいい口元に爽《さわ》やかな笑いをうかべ、
「随分、いいお点をつけるのね、でも私に云わせれば、あのまるで洋服屋のショー・ウィンドーから飛び出したような気障《きざ》な服装で十点減点、サイド・ベンツの裾《すそ》をひらひらさせて、何かお話しする度に、必ず“それはですね”と概論を一くさり講義しなければすまない“概論居士《こじ》”ぶりで三十点減点というところかしら」
辛辣《しんらつ》に評した。三子は心外そうに、
「だって、それは細川さんの博学多識の現われじゃないの、それにあの若さでサイド・ベンツのスーツが着こなせるのは、大へんなドレッサーだと思うわ、あのサイド・ベンツが、風にひらひらする度に、私、胸が痺《しび》れそうになったの」
ゼスチャーを交えて、甘い口調で云うと、一同は可笑《おか》しそうに笑ったが、美馬と相子は、二子が細川一也に関心を示さないことを知り、ちらっと眼を見交わした。
「次の料理は、松阪《まつざか》肉のステーキでございますが、葡萄《ぶどう》酒は、どちらになさいますか?」
賑やかなテーブルのさざめきのうしろから恭《うやうや》しい給仕長の声がし、各銘柄、各年代の葡萄酒を並べたワゴンを、大介の傍《かたわ》らに寄せた。
「そうだね、松阪肉だから、ブルゴーニュの辛口の赤がいいと思うが、どうかねぇ」
十種類近くある葡萄酒の瓶《びん》の中から選び出し、一同の好みを聞くと、美馬が、
「そうですね、年代は六五年代のところがいいですね、ブルゴーニュの赤は、十年以上を過ぎると、アルコール分が消え、風味が落ちると云いますからねぇ」
もの知り顔に云い、三子が、
「お父さま、パリのマキシムで葡萄酒を戴いた時、給仕長と別に、酒倉の主任《シエフ》が出て来て、葡萄酒の説明を一席ぶった上、どれにするかと聞かれた時は、さすがのお父さまもいささか戸惑われましたわねぇ」
と云うと、再び軽い笑いがたったが、鉄平と早苗は、笑わなかった。相子はそんな二人に気付き、
「鉄平さん、どうなさいましたの、お元気をお出し遊ばせよ、まあ、早苗さんまで――、ワインをもっと召し上れ」
昼間、さんざん、大介の気持を昂《たかぶ》らせ、鉄平と諍《いさか》うように意図的なものの云い方をしておきながら、わざとらしい気の配り方を見せた。そして今年はじめて万俵家の元日の晩餐会に出た万樹子に視線を移し、
「あら、万樹子さんは、初めてこの晩餐会にお出になったわけね、でもお衣裳《いしよう》のお好みは、お着物といい、帯、帯じめといい、さすがにお母さまが大阪の船場《せんば》のお出だけあって、お見事でございますこと――」
万樹子の母が、大阪の旧家の出であることをことさら口にし、万樹子を万俵家の新しいスターのようなもち上げ方をしたが、その言葉の裏には、実力政治家である父を失ってしまった早苗に対する疎《うと》んじがあった。万樹子は総疋田《ひつた》に雲形の縫取りのある豪奢《ごうしや》な訪問着の胸もとをときめかすように、
「そうお褒め戴きますと、父も母もどんなに喜びますかしれませんわ、正直申しますと、万俵家へ嫁いで最初のお正月だから、遺漏のないようにと、暮から何度も電話をかけて来ておりましたの」
「実家《さと》のお父さまといえば、暮の取込みで、年末のご挨拶も失礼しているが、お元気でいらっしゃるかね」
と大介は聞いた。
「はい、おかげさまで――、それより、こちらのお舅さまに大川様のことでお疲れが出ませんようにと、案じておりました矢先に――」
万樹子が今朝の出来事を口にしかけると、銀平が、
「少々、お喋りが過ぎる――」
万樹子の言葉を遮った。その気配に、美馬はすかさず話題を変えた。
「鉄平君、阪神特殊鋼の高炉建設は、たしか六月完成の予定とかおっしゃってましたね」
「ええ、その予定で大《おお》晦日《みそか》もぎりぎりまでやっていたのですよ、社運を賭《か》けてやっている仕事ですから、予定の期日に完成させたいのです、その矢先に、高炉建設の許可、その他もろもろの通産省との折衝で力を貸して下さった大川の舅《ちち》を失ったことは、手痛いことですが、今後、官庁関係のことで困った時は、美馬さんにもお願いします、その節はよろしく――」
鉄平らしい精悍《せいかん》な眼《まな》ざしを妹婿《いもうとむこ》にあたる美馬に向けた。一子も横から、
「もちろんですわ、お兄さま、美馬は出来るだけのことはさせて戴きますわ」
助《す》けるように云った時、
「鉄平、いつまでも虫のいいことを云うものじゃない」
短いが、凍りつくような冷たい大介の言葉が割って入った。一瞬、座が白けかけると、二子が、
「まあ、一子お姉さまのおのろけは、はじめてよ、力強いこと、私も今年あたり観念してお嫁に行き、そんな風に内助の功を発揮したくなって来たわ」
悪戯《いたずら》っぽく一同を見渡した。それを機に白けかけた万俵家の晩餐会のテーブルは、再び華麗な雰囲気に彩《いろど》られて行った。だが、大介と鉄平との間に横たわる眼に見えない溝《みぞ》はますます深まり、互いの胸に、今朝見た凶運の兆《きざし》という朝焼けが、それぞれの思いでひっかかっていた。
*
正月早々、大蔵省の正面アーチには相変らず、大蔵省詣《もう》でをする各銀行の高級車が絶えないが、夕方ともなると、さすがにその影もまばらになる。
春田銀行局長は、四階の局長室の回転椅子に坐り、薄暮の中を舞うように降っている窓外の雪に眼を向けていた。昼過ぎから降りはじめた雪は、霞《かすみ》が関《せき》の官庁街をすっかり銀世界に変え、なおしんしんと降っていたが、胸中を去来しているのは、昨年来の課題であり、今年こそ実現させなければならない銀行合併への強い決意であった。
春田局長は、贅肉《ぜいにく》のないにが味ばしった顔を、机の上の書類に戻した。それは永田大蔵大臣から諒承《りようしよう》のサインが出次第、都市銀行に対して送付することになっている『配当規制の緩和』に関する銀行局長通達であった。金融界を合併へ駈《か》りたてて行くための第一弾は、昨年の下《しも》半期から実施した統一経理基準で、これによって、従来、密室経営だった銀行経営がガラス張りになり、各行の収益力の格差が目だちはじめたが、さらに経営の格差を明白にすることを狙ったのが、手もとにある配当規制緩和の通達で、これまで一律であった最高限度九パーセントの配当を、一五パーセントにし、配当の自由化を打ち出そうとするねらいだが、この通達は、新年の銀行界を大きく揺すぶり、震え上らせるに違いないものであった。
机の上の電話が鳴った。
「永田大臣からお電話でございます」
大臣秘書官が、告げた。
「もしもし、春田でございます――」
「私だ、例の件、さっき総理官邸で佐橋総理の意向を打診したところ、来年三月期からでもよいという回答を得たよ」
永田大臣のやや嗄《しわが》れた声が、受話器を伝わって来た。例の件とは、春田が目の前に置いている配当自由化の実施の件であった。
「それはようございました、すると、あとは、自由化の実施を再来年《さらいねん》三月期からと主張している五菱銀行と五和銀行の説得ですが――」
「五菱銀行の鵜川《うがわ》頭取には、明日、会うことになっているが、説得には自信がある、そうなれば、富国、大友の両行はもともと異論なしだから、もうまとまったものと考えてよかろう」
機嫌のいい声で云った。銀行経営の根本にふれる行政通達は、いかに絶大なる力をもつ大蔵省といえども、上位四行の内諾は事前に取ることにしている。
「大臣のお力添えのほど、深謝致します、それから例の青写真作りの方は、これからそろそろ、大蔵大臣公邸の方へ集まりまして――」
「うむ――」
永田大臣は、電話を切った。春田も受話器を置くと、急いで局長通達の原文を机の引出しにしまい、銀行局幹部の動向が一目で解《わか》る標示ランプを見た。大蔵大臣公邸に六時半に集まるはずの審議官、総務課長、銀行課長のランプは、久米《くめ》総務課長を除いては不在になっており、もう大蔵大臣公邸へ出かけてしまっているらしい。春田は、オーバー・コートを手に取り、局長室を出た。五時の退庁時間をとっくにまわっていたから、局付きの女子職員の姿はなく、若い事務官がたって来た。
「局長、お車は西玄関の方に待たせております」
「そうか、新聞記者諸君が廻って来たら、今日は久しぶりに早く帰ったということにしておいてくれ給《たま》え」
大蔵省詰めの各社の記者を警戒するように云い、廊下へ出かかると、
「局長、お帰りですか、それとも――」
顔馴染《なじ》みの記者が、春田の手にしているコートを見、にやりと探りを入れた。
「今日は珍しく局議もないし、この雪だし、久しぶりに早く帰って、ひとり、雪見酒をやるのも、乙《おつ》なものだと思ってねぇ」
忙中閑有りを装ったのんびりとした様子で、盃《さかずき》をかたむける振りをすると、大蔵省きっての酒豪で鳴らしている春田だけに、記者も真《ま》に受け、
「羨《うらや》ましいですね、主計局の予算折衝を記事にする仕事がなかったら、うちの社の車でお送りかたがた、僕もお宅へ伺って、雪見酒をお相伴《しようばん》し、金融再編成に対する局長の新しい抱負をゆっくり拝聴致したいところですがねぇ」
「そりゃあ残念だね、といっても主計局の方は深夜までかかるんだろう、せいぜい風邪に気をつけるんだな」
人情味のあるところをみせて、記者の的《まと》をはずし、エレベーターで階下へおりると、西玄関で待っている車に乗り込んだ。
雪は小やみなく降り続け、ラジオの天気予報は、何年ぶりかの大雪になることを伝えていた。
麻布《あざぶ》二ノ橋を渡り、三田綱町の大蔵大臣公邸についたのは、定刻の六時半を過ぎていた。周囲に大使館や旧財閥の社交クラブがたち並ぶ中で、大名屋敷を思わせる長いなまこ塀《べい》をめぐらせて、鬱蒼《うつそう》たる大樹に掩《おお》われた大臣公邸は、森閑と静まりかえっている。元侯爵《こうしやく》邸であった屋敷を戦後、政府が買い上げて大蔵大臣の公邸としたのだったが、実際には、大臣が使うことは殆《ほとん》どなく、大蔵省幹部が、人目を避けて極秘の会議をするために使われることが多い。
「いらっしゃいまし、この雪では、車が大へんでございましたでしょう」
春田が車を降り、内玄関に入ると、拭《ふ》き磨かれた広い敷台の端に、髪をきりりと束髪にした中年の和服姿の女性が出迎えた。元理財局長付きの女子職員であった原田節子で、五年前から公邸の管理を任されている。
「やあ、いつも手数をかけますね、しかし、あなたがいると安心だ、みんなもう集まっていますか」
春田は靴を脱ぎながら云ったが、なんとなく、丁寧な対し方をするのは、彼女が理財局長付きの職員であった頃、何かと便宜を計って貰《もら》ったことがあるからだった。原田節子は、齢《とし》より地味目の紬《つむぎ》の衿《えり》もとを合わせながら、
「二十分ほど前に、久米総務課長から、少し遅れますというお電話がございましたが、松尾審議官と井床銀行課長は、先程からお見えになっております」
と応《こた》え、長い廊下を先にたって、春田を奥まった座敷に案内した。昔の大名屋敷らしく、外敵に備えるため、迷路のように曲りくねった薄暗い廊下を、原田節子のうしろから歩きながら、春田はかすかに匂《にお》って来る香水の香りに気付くと、女の衿あしに眼を遣《や》り、微妙な笑いをうかべたが、奥座敷の前まで来ると、笑いを消し、
「待たせたね――」
松尾審議官と井床銀行課長が着席している座敷机の上座《かみざ》についた。
「局長、例の都市銀行の配当規制緩和の通達は、どうなる見込みなんですか?」
井床銀行課長は、早速、聞いた。つい先刻《さつき》、永田大蔵大臣から諒承の電話があったばかりだったが、同席の松尾審議官が、永田の政敵である田淵幹事長の息のかかった男であったから、
「大臣のサインがまだ出ないから、もう暫《しばら》く保留にせざるを得ないだろうね、僕に云わせれば、統一経理基準の導入で、各行の経営格差が明らかになった以上、なるべく早く、配当に反映されるのは当然だと思うのだが、各行の抵抗が意外に強くてね」
わざと松尾審議官に聞かせるように云うと、井床銀行課長は、
「そうでしょうね、都市銀行で預金量は二位でも、収益力では第一位の大友銀行以外は、各行、配当の自由化には神経質すぎるほど、びくびくしていますよ、或《あ》る銀行の常務など、そもそも統一経理基準を受け入れたのが間違いのもとだと述懐してましたけれどもね」
苦笑するように云った時、襖《ふすま》が慌《あわただ》しく開き、久米総務課長が入って来た。
「どうも遅くなりました、国際投資銀行の件で、証券局へ行っていて、やっと銀行局へ戻って来たら、古顔の記者に掴《つか》まり、局長以下、銀行局の幹部がみんな姿が見えないのは、どこかで秘密会議でも開いているんじゃないかと、執拗《しつよう》に食い下られ、撒《ま》くのに一苦労でしたよ」
「で、うまく撒いて来れたのかい」
春田が、聞いた。
「まあ何とか、しかし、万一、嗅《か》ぎつけられても、原田さんがいるから、昔取った杵柄《きねづか》で、巧《うま》く捌《さば》いてくれるでしょうから――」
若い女中たちを指図して、料理を運んで来た原田節子の方を見て云うと、原田節子は心得顔に頷《うなず》き、一同にビールを注《つ》いで廻り、会議の邪魔にならぬように、部屋を退《さが》って行った。
四人揃《そろ》ってコップのビールを空けると、春田は、咽喉《のど》を潤《うるお》すようにもう一杯ぐっと飲み干してから、
「今年の仕事は、何といっても、金融再編成の段階になるような都市銀行の大型合併をやり遂げることだ、いつも云うように日本の銀行の数は多すぎる、都市銀行十二行、地方銀行六十二行、それに相互銀行七十一行まで入れると、百四十五行にもなる、その一方で、都市銀行のトップである富国銀行ですら、世界の銀行番付では、ようやく十八位に入っているに過ぎない、これは日本の金融の中枢《ちゆうすう》である都市銀行の体質が、いかに弱いものかを物語っているわけで、世界の趨勢《すうせい》が大銀行の集約化によって、スケール・メリットを発揮し、近い将来、その巨大な資金力と合理的な経営方式を持って、日本に上陸して来ることを考えると、心胆を寒からしめるものがある、永田大蔵大臣も、そうした事態を憂《うれ》い、都市銀行の大型合併が実現することを強く望んでおられる、むろん、われわれも、これまで望ましい金融再編成の構想は折にふれて討議して来たが、この際、考え方の一つの基準となる銀行合併の組合せを作っておきたい」
年来の持論を述べ、
「井床君、組合せのたたき台[#「たたき台」に傍点]は、出来ているだろうな」
と聞いた。井床銀行課長は、鞄《かばん》の中から一枚の書類を取り出し、
「これは、銀行行政のベテランである二人の課長補佐をまじえて作成したものです、理論上の望ましい将来図としては、現在の都市銀行十二行をまず六、七行に集約化し、次にさらに篩《ふるい》にかけて、三、四行に大型化したいのですが、たたき台という意味で、ひとまずこういう図式を作ってみました」
と云い、座敷机の上に拡げた。大蔵省用箋《ようせん》に鉛筆で書き記された、一見メモ風のものであったが、それが銀行合併に関する極秘の機密文書であった。
(1)富国銀行――大同銀行or阪神銀行
(2)大友銀行――(大友信託銀行or伊勢銀行)
(3)五菱銀行――第三銀行(or八洲信託銀行)
(4)五和銀行――第三銀行or阪神銀行
(5)中京銀行――大同銀行
(6)平和銀行――(北九州相互)
(7)太平銀行――北海銀行
(8)坂東銀行――(神奈川銀行or房総銀行)
春田局長がまず眼を通し、次いで松尾審議官、そして久米総務課長と、序列順に廻し読みして行った。
「全般的には、ほぼ妥当な組合せだと思うが、富国銀行と大同銀行、もしくは富国銀行と阪神銀行が合併すると、預金量はどの位になるのかね」
春田がまず、口を開いた時、襖の外に人の気配がした。一同が申し合せたように言葉を跡切《とぎ》らせると、静かに襖が開き、原田節子が新しいビールを運んで来たのだった。井床は、ほっとした表情で、
「富国・大同銀行の場合ですと、三兆六千億で、何とか世界のベスト・ファイブに滑り込みます、富国・阪神銀行ですと、三兆三千億で、ベスト・ファイブ入りが出来るか、出来ないかというところですね」
「すると、五菱銀行と第三銀行の方が、規模としては三兆八千億で、さらに大きいわけだが、可能性はどうなんだね」
久米総務課長が、井床銀行課長に聞いた。
「同じ財閥銀行として、行風が似ていること、融資先のバランスがうまく取れていることに加えて、頭取同士が個人的に親交があり、実現度はそう低くないと思います、ただ第三銀行は、昨年の秋、平和銀行との合併寸前に、瀬川副頭取のスキャンダルがマスコミにすっぱ抜かれ、そこから第三銀行の体質にまで問題が発展して行ったことを考えますとどうでしょうかねぇ、暫く時間をかけて、第三銀行の体質改善を図らなければ、いくら実質的には吸収であっても、五菱銀行の方が話に乗って来ないんじゃないですか」
永田大蔵大臣と春田銀行局長との頂上作戦で、田淵幹事長の資金パイプを太くする第三・平和銀行の合併を意図的に潰《つぶ》したにもかかわらず、田淵幹事長と繋《つな》がっている松尾審議官の手前《てまえ》、そう応えると、痩身《そうしん》をやや猫背にした松尾審議官がビールのコップを置き、
「体質云々《うんぬん》は別にして、五菱・第三銀行は、合併の最大のメリットである店舗の補完性の面で、殆どと云っていいほど、プラスがないのじゃないかね、その意味では、むしろ大友銀行と第三銀行との組合せの方が、より実現性は高いと思いますがねぇ」
第三銀行が、もはや合併される側の銀行に凋落《ちようらく》した今となっては、田淵幹事長の望ましい合併図を代弁しようにも出来なかったから、松尾審議官は、せめて永田色の強い富国銀行や五菱銀行を太らせないような発言をするのが、やっとのことであった。井床銀行課長は、そんな松尾審議官の気配を敏感に感じ取り、
「大友・第三銀行ですか、なるほど面白い組合せですが、いかな第三銀行でも、あの大友銀行に、身を任せますでしょうかねぇ、南大阪銀行を吸収した後のあの大友銀行の冷酷さを見ては、各行とてもじゃないが、随《つ》いていけないと、思っていますからねぇ」
言葉巧みに、松尾説に反論し、
「店舗の補完性を重視する意味では、このメモに書いておりますように、五和・第三銀行の合併をむしろ進めたいですね、双方の店舗網を詳細に検討すると、東西のバランスがよく取れ、ある意味では理想的なマンモス銀行になり得るわけですが、取引企業やクレジット・カードなどの業務面で、これまで全く提携がないので、一から下ごしらえをしなければなりません、したがって手っ取り早く合併というムードを作って行こうとすれば、両行に多少とも馴染みのある阪神銀行をサンドイッチの中身にする術《て》もありますがねぇ」
井床銀行課長が持っていた赤エンピツで、たたき台のメモに三銀行を繋ぐラインを太く書き入れた。春田銀行局長は、それを見ながら、
「うん、いい組合せだが、阪神銀行は、富国銀行との組合せが一番、現実的であるようだね、既に両行間では預金の相互受払いの業務提携をしているし、昔から阪神銀行は、外国為替《かわせ》の業務が多いから、都市銀行の中で海外業務に一番強い富国銀行と一緒になれば、銀行の国際化という時代の要請に添ったユニークな銀行が出来るだろう」
と云い、富国・阪神銀行の間を、ポケットから取り出した万年筆で結びつけた。久米総務課長は、
「それから去年、三雲《みぐも》頭取が就任したばかりの大同銀行の今後ですが、この表によると、富国銀行と中京銀行の二通りの案がありますが、むしろ同じ日銀天下《あまくだ》り頭取のいる中京銀行との方が、拒絶反応が少なくていいのではないでしょうかねぇ、もっともこの場合は、本店をどこに置くかが問題ですが――」
と云い、ちょっと首をかしげ、
「しかし、もし、大同・中京銀行が合併することになると、えらく強力な“日銀銀行”が出来てしまうわけだな、そうなると、頭取が大蔵省出身の太平銀行と北海銀行とを合併させて、せっかく“大蔵銀行”を作っても、見劣りすること甚《はなは》だしいね」
「そうなんですよ、埼玉県の坂東銀行を加える術《て》もあるのですが、いかにもコンマ以下のものを寄せ集めた感じでしてねぇ――」
井床が云い、“日銀銀行”に対抗し得る“大蔵銀行”の組合せが二人の間で議論され、松尾審議官は時々、皮肉な笑いを見せて口を挟んでいたが、春田は、原田節子が気をきかせて運んで来た日本酒を手酌で飲みながら、少し別のことを考えていた。
上位四行が、中下位銀行を吸収合併して巨大化することは、たしかに望むところではあったが、その反面、あまり巨大化してしまっては、大蔵省が介入する余地がなくなってしまう。したがって、そうした民間の巨大銀行を作りつつ、一方で大蔵省の行政指導を従来通り、銀行に行き渡らせるためには、民間の巨大銀行に対抗し得るいわば“お上《かみ》の銀行”を作る必要があると思った。春田の脳裡《のうり》に、独禁法第十五条がうかんだ。『会社合併の制限』についての条文であった。
現在の独禁法の範囲内で、公正取引委員会が、特定の企業の市場支配を容認するのは、ほぼ三〇パーセントといえる。しかし、金融支配が厳しくチェックされる銀行の場合、その占有率はもう少し下廻るだろうが、低く見つもって、かりに二〇パーセントまでとすると、都市銀行の総預金量二十一兆円の二〇パーセント、約四兆円の銀行が出来ても、ストップはかけられないだろうと、春田は頭の中で数字を書き並べた。そしてゆっくり盃を干しながら、日銀・大蔵を軸とした銀行を眼で拾って行き、複合合併図を描いて行った。北海、大同、太平、坂東、阪神、この五行なら四兆円銀行の規模に、優に達するはずで、太平洋ベルト地帯を背景に、財閥系銀行もたじろぐような巨大銀行が生れることになる。現実問題としてこうした五行合併が、簡単に実現する可能性はまずあり得ないが、この構想は、是非とも検討してみる価値があると思った。
「局長は、“大蔵銀行”強化策について、どうお考えですか」
井床が顔を向けた。春田は頭の中にぎらぎら渦まいている合併図など[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》にも出さず、
「そうだな、もう少し考える必要があると思うね」
曖昧《あいまい》に応えながら、さらに心の中では、太平洋ベルト地帯を背景にした銀行の想像を逞《たくま》しゅうし、これを次官の椅子を獲得するための手土産にしようと考えていた。
美馬中は、青山の小さなビルの二階にある会員制のバーのカウンターに、原田節子と並んで、ハイボールを飲んでいた。まだ七時過ぎであったから、ほかに客の姿はなく、ホステスたちは手持ち無沙汰《ぶさた》にしていたが、顔馴染《なじ》みのマダムとバーテンダーが気をきかせ、二人から離れていた。
原田節子は、昨夜、大蔵大臣公邸で地味な身装《みなり》をして控え目にたち働いていた時とは、うって変った贅沢《ぜいたく》な和服姿で濃艶《のうえん》な香水の匂《にお》いを漂わせ、目鼻だちのはっきりとした顔を酒気でほんのりと上気させていた。
「いいのかい、こんな時間に出て来て――」
美馬は、用心深く低い声で話した。
「ええ、今夜は何も会合がないのよ、誰も来ない公邸なんて、刺激がなくてつまらないわ」
退屈しきっているように云った。
「で、さっき、電話で極秘に報《しら》せることがあるっていうのは、なんだい?」
越年した予算査定のために、主計局に居残っていた美馬のところに、原田節子から至急、極秘に報せてあげたいことがあると、電話をかけて来たのだった。最初は、自分を呼び出すための口実かとも思ったが、二言、三言、話しているうちに、銀行関係、特に舅《しゆうと》の万俵大介の阪神銀行とかかわりのある情報を掴《つか》んでいるらしい様子が窺《うかが》え、電話の呼出しに応じたのだった。
原田節子は、そんな美馬の胸のうちを見すかすように、
「お久しぶりね、美馬さんと二人きりでお会いするなんて、半年ぶりじゃないかしら?」
「そうでもないさ、大臣公邸で主計局の会合を開く時は、ちょくちょく、顔を合わせているじゃないか」
「でも、こんな風に二人で、ゆっくりお会いするのは、やはりお久しぶりよ」
原田節子の眼が、意味あり気に瞬《またた》いた。四十七、八歳になっているはずであるが、曾《かつ》ての名女優の原節子と名前が一字違いであることと、よく似た容貌《ようぼう》を自慢にし、今でも“元美人”の面影が残っている。原田節子が、理財局長付きの女子職員であった頃、独身で美貌の彼女をものにしてみせようという中堅官僚は多かったが、美馬もその中の一人であった。香水好きの彼女のために、ジョイやゲランの高価な香水をプレゼントしたり、食事に誘ったりしているうちに、当時の理財局長の愛人であることを知った。間もなくその理財局長の勇退とともに、彼女も退職してしまい、誰の世話か、大臣公邸の管理人になったのだった。もともと原節子ばりの清楚《せいそ》な美貌に似合わぬ浮気っぽい性格の持主であったから、美馬とも一、二度、交渉があった。美馬の方は、浮気だけではなく、秘密の会合に使われる大臣公邸を管理している彼女と、即《つ》かず離れずの間柄を作っておくことのメリットを計算ずみであった。それだけに美馬好みの年増《としま》の色っぽさに惹《ひ》かれながらも、深みにはまり込まぬようなうまいつき合いを心がけている。何杯目かのハイボールを空けると、
「いやにじらせるじゃないか、一体、どうしたっていうんだい」
乱暴な口のきき方をすると、原田節子は、片肘《かたひじ》をカウンターにつき、崩れた姿態で、
「どうって、私この頃、つくづくいやになって来たわ、いくら若く見えるといっても、四十の半ばを過ぎて、公邸の管理役だなんて、うら哀《がな》しくって」
と云い、またぐいとハイボールを飲んだ。
「美馬さん、あなただって、昨夜、公邸であった銀行局の秘密会議の内容を知りたいから、わざわざ出て来たわけでしょう」
「そりゃあ、それもあるが、久しぶりに君と飲みたいという気もあったからだよ」
「さあ、そうかしら、まあ、どっちだっていいわ、ともかく、私、とてもいい情報を持って来てあげたわ」
原田節子の大きな眼は、酔いが廻りかけていたが、さすがに声を落し、
「よく解《わか》らないけれど、何か表《ひよう》のようなものを前にして、何々銀行がどうのこうのと、いろんな銀行の名前を口にしていたから、出さなくてもいい日本酒まで出して、耳を※[#奇+支]《そばだ》てていると、阪神銀行の名前が出て来て、どこかの銀行とサンドイッチにすればいいとか、そんなことを云っていたわよ」
「なに、サンドイッチ、阪神銀行が――」
美馬は、グラスを手から落しそうになった。昨年来、舅の意を受けて、永田大蔵大臣へのパイプ役として動いてきたが、“小が大を食う”合併すらもくろんでいる阪神銀行が、銀行局首脳部の秘密会議では、サンドイッチの中身の部類に入れられていることが事実なら、まさに由々しい重大事であった。
「今の話、ほんとうかい、まさか僕を驚かす冗談じゃないだろうね」
「だったら、笑ってすませるところだけど、残念ながらこの耳でちゃんと聞いたの、どう、驚いて?」
「うむ、いささかね、さすがに元理財局長付きの女性ならではと思ったよ」
相手の自尊心をくすぐるように云った。
「そのほか、何か話していなかったかい」
「云ってたわ、でも、私が出入りする度に、言葉を跡切《とぎ》らせたり、声を落したりするから、はっきりした内容は解らないけれど、あの人たち、集まると、必ず銀行の組合せの話ね、メンバーは春田銀行局長と松尾審議官、久米総務課長、井床銀行課長、そして時には課長補佐の小田さんも出るわ」
美馬の眼に、研ぎ澄まされた鋭い光が帯びた。元旦《がんたん》に永田大蔵大臣の静養先である芦ノ湖へ年賀に行き、偶然、春田銀行局長と出くわし、その時の大臣と春田の話しぶりから、今年あたりはいよいよ、実力行使で銀行合併を強行するのではないかと勘ぐったが、やはりそれが当っていたのかと思うと同時に、都市銀行第十位の阪神銀行が、舅の意図と相反する方向に置かれていることを、一刻も早く報せねばならぬと思った。
「まあ、いやね、肝腎なお話を聞いてしまうと、もうご用ずみってわけなの、あんたって、いつもそんな風に現金なんだから――」
原田節子は、しなだれかかるように肩を寄せた。明らかに、せっかくの据膳《すえぜん》は、美味《おい》しく戴《いただ》くものよという風情《ふぜい》であった。下手に断われば恥をかかせることになり、二度とこの種の情報は貰えなくなる。美馬は、白い手を原田節子のふくよかな膝《ひざ》の上におし当てながら囁《ささや》いた。
「だって、役所からぬけて来ているんだから仕方ないじゃないか、今、主計局が一番忙しい時なのは、君なら解ってくれるだろう」
「そんなの、知らない、要はお話の食い逃げじゃないの」
と云うなり、ハイボールのコップを取り、いくら美馬が宥《なだ》めても、体が燃えているように、がぼがぼと飲んだ。
「また香水で胡麻化《ごまか》そうとしても駄目! あんたたち、エリート官僚のやり口なんて、みんな解っているのさ!」
くだ[#「くだ」に傍点]を巻きかける原田節子の体を抱え、介抱するような振りをしながら、美馬は、やっと原田節子の体をハイヤーの中へ運び入れた。そして運転手にチップを渡し、母親と二人暮しの杉並の公務員官舎まで送るように云い、自分は通りがかりのタクシーで、大蔵省に引き返した。
九時を過ぎた大蔵省は、各局の灯りがぼつぼつ消えかかっている中で、三階の主計局だけが、あかあかと点《つ》いている。エレベーターで三階へ上ると、主計局の前の廊下には、徹夜覚悟で第三次復活予算の折衝の順番を待つ各省の課長クラスが、廊下の椅子に坐《すわ》って待っている。美馬の姿を見ると、一斉に愛想よくお辞儀をしたが、美馬は適当に頷《うなず》き返し、主計局の扉《とびら》を押した。中には、十人余りの主計官が居残り、各省の予算案を前にし、予算を獲得する側と、削る側との激しい攻防戦を展開している。入口に近い机では、農林省の課長が、農地改良工事の補助金の説明をしている。そんな局内の様子をちらっと眼にし、美馬は個室になっている局次長室に入った。
机の上に各主計官が査定した査定案が積み上げられていた。美馬は、その書類に眼を通す前に、机の上の受話器を取り、神戸の万俵邸のダイヤルを廻しかけ、ふと明日、春田銀行局長と顔を合わせる会合があることを思い出した。それなら何も今、急いでかけなくても、春田局長の意向を探って、自分が下手な役廻りにならぬやり方を確かめてから、舅に知らせればいい。美馬は手にした受話器を元に戻した。
新橋の待合『たがわ』の奥座敷で、帝国製鉄の副社長であり、日経連の常任理事である兵藤《ひようどう》正一郎招待の“兵六《ひようろく》会”が開かれていた。
メンバーは、通産省の重工業局、企業局、通商局、大蔵省は主計局、理財局、銀行局、主税局などの局長、局次長クラス十数人で、将来、次官、大臣になれそうな顔ぶれが揃《そろ》っている。
主計局次長の美馬中もメンバーの一人であった。そんな逸材揃いの集まりでありながら、ひょうろく玉の集まりという諧謔《かいぎやく》と、兵藤の兵《ひよう》から“兵六会”と名付けている。それだけに座敷も無礼講で、月の第二水曜日の午後六時からときまっていても、各自、仕事のある時は遅刻、欠席は自由、席順も先着順で、招かれる官僚たちは月一回の気のおけない遊びの会であったが、兵藤の側からいえば、帝国製鉄の政治部隊長として、官僚とのつきあいを日頃から円滑にしておくための会合であった。したがって、座談も肩の凝らない世間話で、今夜も兵藤正一郎は、八十キロの巨体を揺すりながら、座持ちするように、お得意の柔道と大脳生理学の話をしている。
「私の大脳生理学は単なる趣味じゃないのだよ、人事担当役員になった時、人事は人の一生を左右すると思ってね、それには経験と勘だけではなく、科学的な方法でその人物の能力を査定しなければと、大脳生理学に凝り出したわけで、それを兵藤式人事管理などと云われて、いささかてれたものだよ」
鉄鋼業界のみならず、財界を牛耳《ぎゆうじ》る人物であったが、こういう席での兵藤は、そんな片鱗《へんりん》さえも見せず、ざっくばらんな話し振りをしている。兵藤とは特に親しい重工業局長の石橋は、盃《さかずき》を含みながら、
「いや、大脳生理学の理論を、具体的な人事管理に応用された兵藤さんのお手並はお見事ですよ、要は科学的な方法で調査した各人の長所を効果的に掛け合せて、組織の能力を倍加しようというんですからねぇ、われわれ官庁も、十年一日の如《ごと》く、入省の年次やポストにとらわれず、そうした科学的な人事をやらねばいかんというわけですな」
いささか酔いの廻った顔で、美馬の方をちらっと見た。主計局長は欠席していたから、“主計官にあらざれば、大蔵官僚にあらず”という風潮がいまだに強い大蔵人事をあてこするような云い方であった。いつもなら、いや味の一つも返す美馬だが、今夜は相当、遅刻し、さっき来たばかりの春田銀行局長のことが気になっていた。
春田は遅れて来たのを幸いに、入口に近い末席に趺坐《あぐら》をかき、若い芸者を相手にふざけている。
「ああら、いやだわ、局長ったら、私の大脳は、悩殺《のうさつ》数が高いだなんて――、じゃあ、今晩、お試しになってみる?」
二十二、三の芸者が、色っぽい仕種《しぐさ》で春田に体を寄せた。
「いいよ、その前に、君のえらい旦那《だんな》に貸出し決裁を取っておいてくれよ、あとで不良貸出しだなんて怒鳴り込まれたりしたら、銀行局長としてしめし[#「しめし」に傍点]がつかないからな、あっはっはっはっ」
上機嫌の春田の様子を見るにつけ、美馬は、大蔵大臣公邸で開かれた春田を中心とする会議の内容が、何か具体的な動きを持って来たにちがいないと確信した。そして春田と自分は、永田大蔵大臣が冷飯を食い、きりぎりすのように痩《や》せた肩をいからせていた頃、ともに永田のもとへ訪れ、苦労を分け合った間柄であり、永田・万俵会談で阪神銀行の“小が大を食う”合併構想について暗黙の諒解《りようかい》事項が出来ているのを、春田も知っているはずであるのに、こともあろうに阪神銀行をサンドイッチの中身並に扱ったのかと思うと、今夜は春田と同じ車で帰り、その車中で、春田の真意を糺《ただ》してみようと考えた。
「美馬さん、お一つ、どうですか――」
自分を呼ぶ兵藤の声に気付いた。美馬は慌《あわ》てて盃を取った。
「どうも失礼、このところ徹夜続きだものですから、つい――」
「いや、予算編成が越年したそうですから、主計局は大へんでしょう、そんな中をよく来て下さった」
と云い、美馬の返盃《へんぱい》を干し、
「大川一郎さんの三七日《みなぬか》も過ぎましたね、通産大臣時代の大川君には、わが社は目の仇《かたき》にしていじめられたが、気骨のある政治家でしたな、で、どうです、阪神特殊鋼の高炉建設はうまく行っていますかね、生前の大川さんの話では、あそこの万俵専務は大川さんの娘婿《むすめむこ》で、社運を賭《と》して取り組んでいるらしいね」
「ええ、鉄平君というのは、何しろ冶金《やきん》科出身で、朝から晩まで鉄のことしか考えない技術者ですからねぇ」
と応《こた》えながら、美馬はふと正月の志摩観光ホテルで、二子の見合いの相手として会った帝国製鉄の秘書課勤務の細川一也のことを思い出した。
「おたくの秘書課に、細川一也君という青年がいますね、兵藤副社長の大脳生理学的人物考察からご覧になって、いかがですか」
と聞くと、兵藤はにやりと口もとを綻《ほころ》ばせた。
「縁談の口ですか、それなら早く定《き》めた方がいいですな、なんせ本人自身が、大脳生理学に基づいた判断力、理解力、思考力をはじめ二十数項目に、殆《ほとん》ど九十点をあげている上に、佐橋総理夫人の甥《おい》というので、いやはや各方面からの問い合せ殺到なんだよ」
「まあ、そんな若殿《わかとの》、一度、拝ませて下さいな、兵藤旦那がお呼びになる人って、みんな分別ざかりの中年の殿方ばかりですもの」
傍《かたわ》らの芸者が睨《にら》むように云うと、嬌声《きようせい》が上り、それを機会《しお》に宴会はお開きになった。
数台の送り車が列《なら》ぶと、美馬は素早く春田と同じ車に乗った。方向が同じ世田谷の成城と桜丘であったからだった。車が動き出すと、美馬は、
「一昨日《おととい》の公邸での雪見はどうでした?」
いきなり云うと、春田は驚いたような気配で、
「どうして解ったんだい」
「それは蛇《じや》の道、蛇《へび》の道ですよ、それよりずばり教えて下さいよ、その時の銀行合併の組合せ表とかいうのを――」
「そこまで知っているのか、これだよ」
春田は、あっさり認め、上衣《うわぎ》の内ポケットから茶色の封筒を取り出して、美馬に渡した。美馬は唾《つば》を呑《の》み込む思いで封筒の中から大蔵省用箋《ようせん》にしたためた鉛筆書きのメモを引き出し、薄暗いルーム・ライトの下で、眼を通した。そこには都市銀行十二行を組み合せた八種類の合併図が記されていた。そして万俵大介が頭取である阪神銀行は、どこにくっつけてもいい部類の銀行にされている。美馬はその組合せ表を頭の中に叩《たた》き込むようにもう一度、黙読してから、もと通り封筒に入れ、黙って春田に返した。
「それで春田局長ご自身の考えは、どうなんです?」
「僕自身は、それが最終点になるようなもっと大きな編成を考えているのだよ」
ルーム・ライトを消した暗がりの中で、春田の苦味ばしった顔が不敵に笑った。
「たとえば、たとえばだよ、北海道の北海銀行――東京の大同銀行――相互銀行から都銀に転換した太平銀行――埼玉県の坂東銀行――阪神のような、太平洋ベルト地帯を背景にしたいわゆる中下位銀行を結束させて、財閥系の銀行に対抗しうる大合併を考えているんだが、可笑《おか》しいかい」
「いいえ――、しかし驚きましたね、永田大臣もその構想はご存知なんですか」
「まあね……」
春田は微妙な応え方をした。元銀行課長であった美馬には、そんな複合合併が簡単に出来るとは思えなかったが、日銀、大蔵省系の銀行が核となっているだけに、もし結束すれば、永田大臣が政権の座を克《か》ち取るための強力な資金パイプの役割を果すであろうと思った。それなら、うっかり反対することは、永田派の官僚として出来ない。
車は世田谷の桜丘に入り、春田の家の前に停まった。二年前に新築した渋い洋館建てであった。春田が門のベルを押すと、夫人が門を開けた。
「あら、お珍しい、美馬さんとご一緒ですのね、その節はご鄭重《ていちよう》なお年賀を恐縮でございます」
日本自動車の社長の姪《めい》でお茶の水出身の賢夫人の誉れ高い夫人は、その時の挨拶を言葉短かに云い、
「少しお上りになりませんこと? 温かいお茶でもお入れしますわ」
慎しやかな中にも、きりっとした口調で云った。
「いえ、今日は遅いですから、またの機会にして、失礼します」
美馬は鄭重に云い、再び車に乗って、自宅へ帰った。
「お帰りなさいまし――」
大島の対《つい》を着、帯を締めた一子が、丁寧に頭を下げて迎えた。さっき会った春田夫人のてきぱきとしたもの腰を思い出し、あまりにも悠長と云おうか、現代の生活感覚とテンポがずれている一子に、腹だたしさを覚え、居間に入って美馬の上衣を取ろうとする一子の手を払い除《の》けると、むうっとした表情で、自分の書斎へ入った。一子がお茶を運んで来ても、美馬は振り向きもせず、受話器を取り、神戸市岡本の万俵家のダイヤルを廻した。電話に出た女中は、すぐ大介に替った。
「もしもし、お舅《とう》さんですか、その後、雉《きじ》撃ちの時のお耳の工合はいかがですか、ええ、ほう、それはよかったですね、ところで、今夜は、『兵六会』で春田銀行局長と一緒だったんですが、銀行局長というのは、けしからん見合い写真を作っておりますよ」
美馬はそこまで云い、わざと言葉を切った。万俵の反応を窺《うかが》うためであった。
「けしからんという限りは、阪神銀行にとって好ましくないカードがあったというわけだね」
万俵の声に、緊張感があった。美馬の眼に、娘婿らしからぬ優越感が滲《にじ》んだ。
「好ましくないどころか、阪神銀行はサンドイッチの中身扱いにされているんですよ」
と云い、春田にさっき見せて貰《もら》った銀行合併のたたき台のことを話した。
「それで、春田局長自身の意向はどうなんだ?」
「そこなんです、僕もその点を春田局長に問い糺したところ、彼はとてつもない構想を持っていたわけです」
一子が置いていったほうじ茶を飲みながら、太平洋ベルト地帯を背景にした大銀行の構想なるものを話し、阪神銀行がその中に組み入れられていることを云うと、万俵は長い間、沈黙していたが、
「要は、春田局長がそこまで君に話したということは、私にその話に乗れというのだろうが、それでは約束が違うだろう」
万俵は、不機嫌極まる声で、叩きつけるように電話をきった。
*
阪神銀行の役員室で、緊急役員会が開かれていた。二月一日付で大蔵省銀行局から送付されて来た『都市銀行の配当規制緩和について』という銀行局長通達が議題にされているのだった。
テーブルの正面に万俵頭取が着席し、その左右に経理担当の大亀《おおがめ》専務と総務担当の小松専務、そして融資担当の渋野常務、業務担当の荒武《あらたけ》常務、外国担当の舟山常務、事務能率担当の新井常務の各役員が坐り、緊張した面持で局長通達の複写を前にしていた。
都市銀行の配当規制緩和について
一、七〇年代において予想される急速な経済の国際化、自由化の進展に即応し、銀行にあっても、広く競争原理を導入することにより、経営の効率を一層促進すべきであり、各行の収益力、企業努力および経営政策が、より適確にその配当に反映される必要がある
二、昨年九月期から実施した統一経理基準により、各行の経理内容を同一の基準で、客観的に比較しうる体制が整備されることになった。よって、各行はその公共性を考慮に入れつつ、最高限を一五パーセントとして、次なる算式により、来年三月期の配当から従来の規制を緩和することとする……
経理担当の大亀専務は、肥満した体で局長通達を指《ゆびさ》し、
「この算式に基づいて、当行の配当能力を試算しますと、先程、経理部長を呼んで詳しく説明させましたように、九・二パーセントとなります、これを他行と比較してみますと、大友銀行が一三・五パーセント、富国銀行が一三・〇パーセント、五菱銀行が一二・七パーセント、五和銀行が一二・四パーセントで、これら上位四行の配当能力からしますと、当行は甚《はなは》だもって遜色《そんしよく》がありますが、一方、預金量において当行とほぼ同じランクにある銀行と比べますと、さして見劣りがする配当率ではありません、それに大同銀行や平和銀行の配当能力が八パーセント台であることを考えますと、逆に量より質だという自信も出て来るわけであります」
老練な専務らしく、歴然と出て来ている上位行との経営格差に、危機感を持たせるより、この際、一同を動揺させないような云い方をした。融資担当の渋野常務は、
「統一経理基準が導入されてしまえば、配当の自由化は、時間の問題と云われていましたが、それにしても、一、二期、実施の時期が早すぎる感じがします、これで大蔵省当局が自由化行政に拍車をかけはじめたことが、はっきりしましたねぇ」
と云い、渋面を硬《こわ》ばらせた。業務担当の荒武常務も、
「時期の問題もさることながら、もっと大幅な自由化を感じさせるのは、一五パーセントという最高限じゃないですか、東京事務所長の芥川常務からの先日来の情報によると、一五パーセント説を予測したのは、都市銀行の中で、富国銀行の竹中常務だけであり、他行はどこも一三パーセント説を確信していたということでしたし、銀行局サイドからの情報でも、一三パーセントが銀行の私企業性と公共性のかねあい点だということでしたからね」
深刻な口調で云った。年中、各支店を廻って、預金集めの行員の尻《しり》をひっぱたき、厳しいノルマをかけて、“荒武者隊長”という渾名《あだな》をつけられている荒武常務としては、“配当能力”という銀行の優劣をはかる端的な物差《ものさし》が世間に公表されると、預金者の心理として、配当能力の高い銀行に預金しようとするのが常識であるだけに、最高限はせいぜい一三パーセント、望むべくは一二パーセント程度に抑えて、上位行との格差を少なくしてほしいというのが、本音であった。
「荒武常務の云われるように、一五パーセントという最高限は、われわれにとって、たしかにショックで、金融再編成に対する当局の思惑がありありと読み取れますね、こんなに苛酷《かこく》にしごかれると、今年あたり脱落銀行が出て、いよいよ都市銀行の再編成が火を噴くということになりはしませんでしょうか」
事務能率担当の新井常務が、役員の中の最年少者らしく、率直な不安を洩《も》らした。その言葉に一同が重苦しく黙り込んだ時、
「諸君の心配は、もっともだ」
正面の席から、万俵頭取の声がした。
「このように金融業界が厳しい情勢に追い込まれて来ると、当行を含めた効率のよくない中下位行の経営は、ますます苦しくなることは否《いな》めない事実であり、それだけにまた、上位行の恰好《かつこう》な合併相手として、いろんな臆測《おくそく》が今まで以上にあれこれと噂《うわさ》されると思う、噂が経営不振に拍車をかけ、いや応なく吸収合併に繋《つな》がる銀行も現実に出て来るかもしれない、しかし当行に関する限り、どのような臆測が取沙汰《とりざた》されようとも、自主独立の方針を貫くつもりであり、如何《いか》にすればさらに規模拡大をはかり、揺ぎない都市銀行の基盤を確立して、諸君らに酬《むく》いることが出来るかを頭取たる私は日夜、考え続けている、したがって、諸君は今後とも覇気《はき》をもって、銀行経営に当り、九千二百人の行員に士気昂揚《こうよう》の範を示して貰いたい」
オーナー頭取らしく、“六頭だての馬車”の手綱を引き締めるように云うと、大亀専務以外の役員たちは、“小が大を食う”万俵の合併構想の胸中こそ知らされていなかったものの、その語気に奮いたつように力強く頷《うなず》いた。
緊急役員会が終り、頭取室へ戻ると、万俵は机の上のシガー・ケースから葉巻を取り出してくわえた。
「お点《つ》けしましょうか」
秘書の速水が、ライターをさし出した。
「うむ、有難う」
万俵は、大きく煙をくゆらせた。
「先程、阪神特殊鋼の万俵専務から、お電話がございました」
「なに、鉄平から? 用件は何かね」
「折入ってお話がおありだそうで、夕方、一時間ほど時間の都合がつかないかというお問合せでした」
「いつも鉄平は、その日になって、ばたばたと云って来る、計画性がないというのか、身勝手過ぎるというのか、ともかくけじめが無さすぎる、どうせ高炉建設の資金繰りの話だろうが、他《ほか》の日に廻してくれただろうね」
葉巻をふかしながら不機嫌に応える万俵の語調の冷たさに、速水は驚いたような顔をしたが、
「何とかご都合がつけばと思いまして、日程表を見てみましたが、このあと四時半に毎朝新聞の榎本記者が来訪し、六時から大阪の灘万《なだまん》でオリエント電器の岩野社長の接待がございますので、時間的に無理な旨《むね》を申し上げましたら、じゃあ電話で話したいとのことで、役員会が終られたら、こちらからご連絡することにしております、このお電話でおかけ致しましょうか」
秀《ひい》でた額の下の眼をまっすぐ万俵に向けて云った時、秘書課から、毎朝新聞の榎本記者の来訪を伝える連絡が入った。約束の面会時間より十分ほど早かったが、大介はすぐ会うと応え、鉄平への電話は拒んだ。
大阪での宴席を終え、岡本の邸《やしき》に帰って来ると、大介は、久しぶりに日本館の湯殿に入った。西洋館の配水管が故障し、西洋風呂《バス》が使えないからだった。
脱衣室には電気ヒーターが入っていたが、網代《あじろ》の天井は高く、二月の寒気を充分に温めきっていなかった。大介がガウンを脱ぎかけると、湯殿で湯加減をみて入浴の用意を整えていた齢嵩《としかさ》の女中が、
「旦那《だんな》さま、ご酒を召し上っておられますから、お湯加減は、少しぬる目に致しておきました、それから奥さまだけ、先にお入りになりましたので、只今《ただいま》、きれいに致しておきました」
と仕切戸越しに云った。今夜は取引関係の宴席があって遅くなると、秘書課から連絡させておいたのだった。
「お背中をお流し申し上げましょうか」
「いや、いらない、それより早く西洋風呂《バス》を直しておくことだ」
洋式の入浴に馴《な》れている大介はそう云いつけ、独り湯殿に入った。六坪ほどもある湯殿には、白い湯煙がたちこめ、檜《ひのき》の湯槽《ゆぶね》から湯が溢《あふ》れ出ている。大介はゴルフで鍛えた六尺豊かな巨体を、たっぷりと湯槽に浸《つ》け、快げに両足を伸ばしながら、この広々とした湯殿を造った亡父の敬介のことを思った。入浴好きの亡父は、邸内の南向きの高みに湯殿を造り、湯殿の窓から神戸港を出入りする万俵船舶の持船を眼下に眺めて、悦に入っていたのだった。それだけに生存中は、生活様式こそ洋風でハイカラであっても、入浴だけは日本式の湯殿に限ると云い、大介と寧子にも、入浴は日本風でなければ風情《ふぜい》がないと、日本館の湯殿をすすめていた。
そんな父の生前を回想しながら、大介は湯槽から上り、風呂椅子《ふろいす》に腰を下ろして、はっと視線を凝らした。白いタイルの上に、女の長い髪が一筋、黒々と濡《ぬ》れ光り、蛇のようにくねくねと貼《は》りついている。先に入った寧子の髪に違いなかった。清掃した後にもかかわらず、一筋だけタイルに残っている髪を見て、大介の眼は異様に光り、四十年前の或《あ》る日の光景を思い出した。
その日、土曜日で平素より早く帰って来た大介が、一歩、邸内に入ると、慌《あわただ》しい人の気配がし、妻の寧子が日本館の湯殿でのぼせて、失神したというのだった。急いで日本館へ行くと、池に面した風通しのいい座敷に、来客用の三枚重ねの蒲団《ふとん》が敷かれ、白地に藤丸の浴衣《ゆかた》を着た湯あがりの寧子が横たわっていた。ただでさえ血の気の薄い顔色が、池に咲く睡蓮《すいれん》のように白く透き通り、公卿《くげ》華族から嫁いで来た新妻らしい幼さと気品が漂っていた。枕《まくら》もとに坐《すわ》っている父の敬介に、ご厄介をおかけしましたと云うと、「ちょうど湯殿の前庭を通りかかったからよかったものの、寧子の人を呼ぶ声が聞えなかったら、あのまま湯殿でのぼせ死にしていたかもしれないな」と応《こた》え、寧子を風呂場から運び出して、女中に介抱させた経緯《いきさつ》を細かく話した。大介は、彼自身が聞きもしない経緯をことさら、こと細かく話す父に奇異な感を抱いたことを記憶している。
もしやあの時、父と妻の寧子が、この湯殿の洗い場で蛇のように体を絡《から》ませていたのではないかという妄想《もうそう》が、大介の胸中に拡《ひろ》がった。この“もしや”という疑惑は、四十年前から大介の心の中に、泥沼のように澱《よど》み沈んでいた思いであった。最初、その疑惑を持ったのは、寧子が嫁いで始めての雛《ひな》節句の日であった。それまで、父が寧子を可愛《かわい》がるのは、世間によくある舅《しゆうと》の嫁可愛がりに加えて、公卿華族のお姫《ひい》さま育ちというもの珍しさもあると思っていたが、雛節句の日、日本館の方から、乱れた着物の衿《えり》もとを直しながら、蒼《あお》ざめた顔で廊下を走るように帰って来る寧子の姿を目撃し、その日から、大介は、自分の父に対して、もしやという疑惑を持つようになったのだった。それでいて、父にも寧子にも問い糺《ただ》さなかったのは、大介自身の自尊心もさることながら、絶大な力を持って一族に臨んでいる父への畏怖《いふ》があったからだった。それだけにまだ青年の大介は、心の奥底でいい知れぬ猜疑《さいぎ》と嫉妬《しつと》に苦しみながらも、それを口に出来ぬ抑圧感に蝕《むしば》まれていた。
大介は、風呂桶《おけ》を取り、湯を汲《く》むと、ざっと洗い場を洗い流した。タイルに貼りついている髪の毛が、三杯目の湯で捌口《はけぐち》に吸い込まれるのを見定めると、大介は体を洗うのを止《や》めて湯槽に浸《つ》かり、湯殿を出た。
日本館から西洋館への渡り廊下の窓から、庭園燈に照らされた冬枯れの庭が見え、ぼたん雪がちらつきはじめていた。大介は、湯殿の洗い場に黒く濡れ光り、タイルの上に這《は》っていた寧子の髪を思いうかべながら、二階の寝室へ上って行った。今夜は、寧子と同衾《どうきん》する日で、相子は神戸の外人のパーティに出かけ、十時というのにまだ帰っていなかった。
寝室の扉《ドア》を押すと、香をたく香りがし、寧子が鏡台に向って、漆黒《しつこく》の髪を梳《くしけず》っている。洗い髪を梳る時、香をたきしめるのが、寧子の長年の嗜《たしな》みであった。
「いかがでございましたかしら、お湯加減は?」
白絹の夜着《よぎ》の肩に、黒髪を垂らして聞いた。
「少し熱すぎたのか、うっかり、のぼせ死にしそうだったよ」
大介は、寧子のうしろにあるベッドの端に腰を下ろし、鏡の中の寧子の顔をじっと見詰めたが、寧子の表情は動かず、髪を梳る手も止まらない。大介は、言葉を継いだ。
「ずっと前、まだお父さんが健在だった時、お前が湯殿でのぼせて気を失ったことがあったねぇ、あの時はどんな工合だったんだい?」
寧子の手が、止まった。
「どんな風って――、別に……」
「だが、あの時は大騒ぎで、お父さんのお手までお煩《わずら》わせしたのだから、覚えているんじゃないかねぇ」
大介の声が粘りを帯びた。寧子は、鏡台の前から体をずらせ、
「あの日はとても陽気のあたたかい日で、お昼から何とのう気分がすぐれなかったものですから、ついお湯殿でのぼせてしもうたのですわ」
「だが、どうしてあの日に限って一人で入浴したんだね、いつも女中に体を洗わせるのに」
「それはもう洗い終えたあとでしたから、独りで洗い場にいると、急に目眩《めくら》みがし……脱衣室にひかえている女中を呼ぶと、すぐ中へ入って来てくれ、抱きかかえられたところまで覚えていますけど……、あとは気がつくと、お湯殿の近くのお座敷に寝かされていて、あなたとお舅《とう》さまが、いて下さったのですわ」
ゆっくりと区切るような口調で云ったが、今の寧子の説明と、あの時、父に聞いた説明では、大事なところで食い違っている。
「おや、可怪《おか》しいね、あの時、お父さんは、湯殿の前庭を歩いておられ、湯殿の中から人を呼ぶお前の声を聞きつけたと、おっしゃっているから、一番先にお前の急を知ったのは、お父さんじゃないのかね」
「いいえ、女中だったと思いますわ」
いつになく、はっきりとした口調で云ったが、手から櫛《くし》が落ち、長い黒髪がはらりと顔を掩《おお》った。
「どちらでもいいことだ、さあ、髪が終ったら、こちらへおいで――」
優しく誘いながら、大介は、あの夜、自分たち夫婦のベッドで、異常なほど獣めいた交わりをしたことを思い返した。そういう交わりを求め、その反応によって、その日、父と寧子の間にあったかもしれない不倫を探りあてようとしたのだったが、公卿華族出の女性特有の性的無知というのか、羞恥《しゆうち》心《しん》のなさというのか、寧子は大介の求めるままの交わりを行なって、何の反応も得られなかったのだった。しかし、今夜、もう一度、同じことを試みることによって、あの日、父と寧子の間にあったことを探り出せるかもしれないと思った。
大介は寧子の体をベッドの中へ抱き入れると、白絹の夜着を剥《は》ぎ取り、下ばきを脱がせ、一糸まとわぬ裸体にして、その長い髪を両手に巻きつけ、淫《みだ》らな交わりを求めた。さすがに、寧子は顔を背けたが、それでもされるがままになった。そのあと、寧子の体をねじ向け、二匹の蛇が絡み合うように体を絡ませて、執拗《しつよう》に白い小柄な体を責めたが、寧子は、あの日の夜と同じように、息を喘《あえ》がすだけで、何の積極的反応も示さなかった。大介は、寧子の湿りを帯びた髪をさらに強く手に巻きつけながら、人形のように自在に操った。
ほの暗い寝室に、汗の匂《にお》いとあえかな香の匂いが綯《な》いまじって、今あった情事の濃密さがうねるようにたち籠《こ》めていた。大介は、寧子の華奢《きやしや》な体に、執拗に絡めていた手足を離し、自分の頸《くび》に巻きついていた寧子の長い洗い髪を解きほぐすと、体を起した。寧子も体を解かれると、ベッドの下に滑り落ちた白絹の夜着を肌につけ、情事でさらにじっとりと湿りを帯びた洗い髪を束ねかけた。
「こんなこと、久しぶりだったろう?」
ベッドの傍《そば》にたち、ぬるむような声をかけた。相子を交えた妻妾同衾《さいしようどうきん》の夜以外に、これほど執拗で、獣じみた交わりは夫婦の間でもう無くなっていただけに、寧子はあまりの恥ずかしさに返事も出来ず、顔を俯《うつむ》けたが、大介はそうした寧子の様子を暗い灯《あか》りを通して、じいっと見詰め、
「あの時も、今夜みたいだったね、鉄平はこうして妊《みごも》った子供なのかい」
残忍な響きがあった。寧子は体を震わせた。
「お止《よ》しになって、そんなおっしゃり方は……」
「夫婦である私とお前の間に生れた子供なら、どんな風にして生れようと、別段、恥ずかしいことなどないじゃないか、そうじゃないかね」
大介は、ナイト・テーブルの上に置いた眼鏡を取り、ゆっくりとかけながら、さらに残忍な笑いを投げつけるように云ったが、眼だけは笑っていなかった。
「あなた、お願いですから、もうこれ以上、ご自分の子供を穢《けが》すようなおっしゃりようは、お止しになって」
顔をそむけ、夫の言葉から逃れるように云うと、
「出生のことを話して穢れるようでは、もともと穢れた子供だからじゃないのかね」
大介はそう云うなり、荒々しくガウンを羽織って、寝室を出た。階段をおり、ホールを横切って、居間へ入ると、人気《ひとけ》がないのに、暖炉の薪《まき》がちろちろと燃えていた。パーティへ出かけ、まだ帰って来ていない相子のために、女中が火を残しておいたらしい。大介は暖炉の上のパイプたてから、愛用のダンヒルのストレート・グレーンのパイプを取り、煙草《たばこ》を詰めかけたが、情事のあとの咽喉《のど》の乾《かわ》きを覚え、女中を呼んだ。しかし、みな部屋へ引き取ってしまっているのか、応答がない。仕方なく、ダイニング・ルームの奥の方にあるキッチンへ行った。めったに足を運んだことなどなかったが、タイルを貼った広いキッチンには、ひんやりと冷気が漂い、青白い蛍光燈《けいこうとう》の下に、いくつもの食器棚と拭《ふ》き磨かれた流し台、天井に届きそうな大きな冷蔵庫、オーブンなどが並び、モーターの音がかすかにしている。大介は流しの蛇口の栓をひねり、コップに水を満たすと、ごくごくと咽喉を鳴らして一気に飲み干した。さらに二杯目を飲みかけると、すぐ近くの使用人たちの使う風呂場から湯桶の音が聞え、反対側の部屋からは、テレビの時代劇のドラマらしい音がする。大介は嫌悪《けんお》の表情を露《あら》わにし、居間に戻った。
冷えた体を暖炉で温め、東京事務所長の芥川へ電話をかけようとした時、ファウン・グレートデンのけたたましい吠声《ほえごえ》がし、他の二頭も一斉に吠えたてはじめた。その激しさに大介がガラス戸越しに外を見ると、門の下の方から自動車が上って来るのが見えた。大型の外車であることは夜目にもわかったが、鉄平のビュイックでも、銀平のマーキュリーでもない。犬の威嚇《いかく》するような吠声がさらに高まり、車は西洋館の玄関前に停まった。
「アイ シュア エンジョイド ツゥナイト、シー ユー ネキスト サンディ、バイ!」
玄関のポーチのところで、相子が送って来た外人と話しているのが聞えた。あまり上品な英語でないのと、互いに酔っているのか、大声で妙に馴々《なれなれ》しく話しているのが、大介には不快であった。そのまま行きかけると、
「グッド・イヴニング、ミスター・マンピョウ」
パール・ミンクのコートを着、したたか酔っている相子が、最前の続きのような調子で、大介を呼び止めた。
「なんだ、こんな時間に酔っぱらって帰って来るなんて、女中たちに今のようなところを見られたら、どうするのだ」
「あら、聞いてらしたの? いやだ、たち聞きなんて、あまりよくないご趣味ね」
コートを脱いで、大介の前にたち塞《ふさ》がるようにした。コートの下は、ネック・ラインを大きくあけたノー・スリーヴのカクテル・ドレスで、豊満な胸もとが酒気でピンク色に染まっている。
「失敬なことを云うもんじゃない、私は今からビジネスの電話をかけるところだ――」
腹だたしげに云い、書斎へ行きかけると、
「今頃からビジネス・テレフォン? あなたは、よくよく詰らなく出来てらっしゃるのね」
とろりとした眼で、笑うように云った。
「からむつもりかね、女の酔っぱらいほど醜いものはない」
「あら、悪うございましたわね、でも私、酔っぱらうほど飲んでやしません、ほんとうのことを申し上げただけじゃありませんか」
「いや、酔っている、久しぶりにアメリカ人と飲んで、騒いで、昔のことでも思い出したんだろう」
「昔のことって、離婚したアメリカ人のハズバンドのこと? それはそうかもしれないわね」
相子が艶然《えんぜん》と笑った時、書斎の電話が鳴った。
「東京事務所の芥川からだと思うが、出てみてくれ」
「オーケー」
相子は、書斎の電話を取った。
「もしもし、ああ、あなたなの、グッドイヴニング、ホワット? オー、ノーノー、ジャストアミニッツ」
相子は巻舌で云い、大介を振り返った。
「ミスター・テッペイ・マンピョウからよ」
受話器を渡しかけると、
「鉄平からか――、いないと云ってくれ」
大介は、素っ気なく首を振った。
「あら、居留守をなさるの、解《わか》ったわ」
そう云い、相子は、
「もしもし、お父さまはもうお寝《やす》みのようよ、え? 知らないわ、今夜はあなたのお母さまとですものね」
呂律《ろれつ》の廻らぬ云い方で電話を切ると、くるりと大介の方を向き、
「で、これからお寝みになるというわけ、奥方と――」
相子の眼は挑むような妖《あや》しい光を帯びた。大介はやや、戸惑い気味に、
「そうだ、だが、今から電話をしなくては――」
相子の挑発を振り切るように云い、芥川の自宅の番号《ダイヤル》を廻した。
受話器の向うに芥川の応答の声がした。
「もしもし、私だ、配当規制の緩和についての局長通達は、今朝《けさ》、送付されて来たが、そちらの各行の反応はどうだね」
「何しろ、最高限が一五パーセントもの高率なので、各行、随分、慌《あわ》てている様子で、大蔵省《モフ》は、今度の配当の自由化は各行の金融の効率化を図るのが目的と云っていますが、要はこれで昨年来の金融再編成の問題にけり[#「けり」に傍点]をつけようとしているのではないかという観測が専《もつぱ》らですよ」
芥川は、東京情報を伝えた。
「狙《ねら》いはたしかにそうだろう、それで君になるべく早い時期に、春田局長と会う約束を取りつけてほしいのだ」
「頭取が、春田局長と――、局長通達のことで何か?」
「いや、そうじゃない、美馬からの情報によると、ごく最近、大蔵省は都市銀行の新しい合併図を極秘裡《ごくひり》に作成したということだ」
「そんな極秘情報が取れるとは、さすが美馬さんですね、それには当行はどうなっていますか」
急《せ》き込むように聞いた。
「すべて吸収される側の銀行に目《もく》されているそうだ」
「え! それは、ひどいじゃありませんか、春田局長だって、当行の意図は、永田大臣から、云わず語らずに聞き知っているはずですのに――」
「それは東京探題たる君の力量不足も、一半の原因があると思い給《たま》え」
大介はびしりと云い、
「それより春田局長は、銀行局の意見とは別に、彼独自の合併構想を持っているらしい、それによると、日銀、大蔵省の天下り銀行を核に、太平洋ベルト地帯を背景とした中下位五行の合併を考え、当行もそれの一行に組み入れられているというのだ」
「五行合併? しかし、そんなものは役人の独りよがりの構想に過ぎないんじゃないでしょうか」
「そうかもしれんが、どんな話か、一つ詳しく聞きたいので、至急、春田局長を掴《つか》まえてほしいのだ」
「解りました、至急、申し入れますが、どういう風に誘い出すかが、問題です」
「それが君の役目じゃないか、必ずここ一週間以内に、夜の席へ出て貰《もら》うのだ」
「承知しました、約束が取れ次第、ご連絡致します」
「うむ、早く取ってくれ給え、いいね」
大介は念を押し、電話器を置いた。そして書斎と寝室にかかる自分専用の直通電話のスイッチを切り、鉄平から再度かかって来ないようにした。
大阪新町《しんまち》の待合『つる乃家《のや》』の前に、宴席を終えた客を送る車が列《なら》び、万俵鉄平は玄関にたって、営業担当の川畑常務とともに、鄭重《ていちよう》に見送った。高炉完成の暁《あかつき》には大幅な増産になるから、今からその販売先を拡大しておくために、大口ユーザーである東邦ベアリングの副社長をはじめ五人の幹部を招いての接待であった。
車が行ってしまうと、川畑常務は、
「専務、お疲れでございましょう、こうして専務自ら宴席へ出て、ユーザーをもてなして戴《いただ》きますと、営業は大いに助かります」
芯《しん》からほっとするように云い、
「じゃあ、私どもはお先に失礼致します」
つる乃家は、故万俵敬介の妾宅《しようたく》であったことを知っているから、川畑は大阪支社の支社長たちとともに、気をきかして、先に帰った。
鉄平はもとの座敷へは戻らず、老女将《おかみ》の部屋へ入った。拭き磨かれた大阪風の幅広の長押《なげし》、黒光りした太い柱、そして座敷の真ん中に置いた桑の長火鉢、座敷の入口にかけた屋号入りのくぐり暖簾《のれん》、どれ一つとっても、大阪の新町という古い花街の女将の部屋らしいしつらえであった。
襖《ふすま》がからりと開いた。老女将かと思うと、東京のつる乃家を取りしきっている若女将の芙佐子《ふさこ》であった。
「老女将は今夜は姿が見かけられないが、どうしたんだ?」
一向に座敷へも出て来なかった老女将のことを聞いた。
「お養母《かあ》さんは、去年の腰痛がここ四、五日来の寒さでこたえ、城崎《きのさき》温泉へ湯治に行きましたの、昨日、送って行って、私だけ夕方に帰って来たんですよ、いつものようにお茶漬召しあがる?」
「うん、佃煮《つくだに》があると有難いな」
と云い、長火鉢の前に坐ると、
「女将さん、おおきに、またどうぞよろしゅうに――」
お座敷を退《ひ》けて帰る芸者の挨拶《あいさつ》であった。
「ご苦労さま、あとは花菊ちゃんだけが残っているわけね」
芸者の花代《はなだい》を数える花代帳を書き入れながら犒《ねぎら》い、芸者が帰ると、
「この頃、東京の私の店の方へは、会社の宴会があっても、お見えになりませんのね」
「このところずっと忙しくて、自分の会社の宴会にも、よほどでない限り出ている暇がないんだよ」
と応《こた》えながら、鉄平は、阪神特殊鋼がアメリカン・ベアリング社と契約している月額三億六千万のベアリング素材の輸出が、去年の十二月の船積み分から出荷延期になって以来、二月に入っても事態は好転せず、そのため運転資金が苦しくなっている実情を思った。その資金繰りの相談のために、昼過ぎ、阪神銀行の頭取室へ電話をしたが、日程が詰っているからと電話口にも出て貰えず、先刻《さつき》、宴席の合間を見計らって、父の邸《やしき》へ電話をかけると、相子が電話口に出、したたか酩酊《めいてい》した声で「お父さまは、もうお寝みよ」と突っぱねられた。しかしその声のうしろで、たしかに父らしい男の声が聞えたような気がした。
「どうなすったの、今、お茶漬の用意をさせますけれど、佃煮はきらしているから紅鮭《べにざけ》とお海苔《のり》でよくって?」
若女将は、長火鉢の上の南部鉄の鉄瓶《てつびん》に湯を足しながら云った。
「いいよ、好物ばかりだ、遅いけど用意が出来るまで、少し清元を習《さら》えて貰おうか」
「じゃあ、この前の続きを少しだけ――」
床の間にたてかけている老女将の三味線を取って、膝《ひざ》の上にかまえた。
つばさ交はしてうらやまし(合)チリチン チチン
野辺のかげろふ春草を(合)チン ツン ツン
鉄平の声を三味線にのせるように弾いたが、去年の十一月からぷっつり稽古《けいこ》を休んでいる鉄平の節廻しは、うまく絃《いと》にのらない。
「駄目ね、小節《こぶし》がきかなくて、それじゃあ清元じゃありませんよ、さあ、もう一度――」
再び三味線を弾き、鉄平はそれに引き込まれるように唄《うた》い出しながら、体の底に澱《よど》むように溜《た》まっている疲労が少しずつ、揉《も》みほぐされて行くのを感じた。それは自分の家庭で、妻の早苗からも得られない、心の芯《しん》からの快い解放感であった。塩沢の着物をきりっと着こなし、目尻《めじり》の切れ上った涼しい眼もとで三味線を弾いている若女将の芙佐子の顔を見詰めながら、鉄平は、自分が清元の稽古に東京のつる乃家へ行くのは口実で、ほんとうは芙佐子に会うためではないかという思いがした。
「駄目、ほんとに今夜はどうかしているわね、とてもこれじゃあ、清元のさま[#「さま」に傍点]にならないから、止《よ》しましょうよ」
芙佐子は、三味線を置いた。鉄平は額に汗をにじませ、苦笑した。
「あら、汗をかいてらっしゃるのね、先にお風呂《ふろ》へ入ってさっぱりなすったら?」
芙佐子は、女中に入浴の準備をさせた。
浴室は一坪半ほどの広さで、老女将がおれば、必ず襷《たすき》がけで鉄平の背中を流し、「大旦那《だんな》さんにも、こないしてお流ししたんでおます、お背中の広さといい、背骨の太さまでよう似てはる――」と云うのが口癖であった。その老女将が、今夜は不在であったから、鉄平は、石鹸《せつけん》を泡《あわ》だて自分で背中を洗いかけると、浴室の戸が開いた。振り返ると、着物の裾《すそ》を端折《はしよ》り、襷をかけた若女将だった。
「今夜はお養母《かあ》さんに代って、私がお流ししますわ」
甲斐甲斐《かいがい》しく、洗い場へ入って来た。
「いや、いいよ、家ではいつも自分でやっているから――」
鉄平の方が狼狽《ろうばい》するように云うと、
「うちのお養母さんのように上手には流せませんけど、我慢して下さいよ」
鉄平の背中を手際《てぎわ》よくこすりながら、
「お養母さんから聞いたんですけど、お正月の雉《きじ》撃ちは大へんでしたのね、やっぱり鉄砲を持つ遊びは危ないわ、この際、おやめになって、ゴルフに凝られる方が無難ですよ」
芯から鉄平の身を案じるように云ったが、鉄平は黙り込んでいた。たしかに雉撃ちの誤射は、今思い出しても背筋が凍るような怖《おそ》ろしい事故であったが、だからと云って学生の時から猟好きの祖父に伴われて、北陸や丹波の奥へ出かけ、獲物《えもの》を撃ち留める時のあの豪快な手ごたえを、自分の手から失ってしまうことは出来なかった。
「僕から鉄砲を取り上げたら、他《ほか》に楽しみがなくなってしまう、無理な話だよ」
と応えると、鉄平の背中で芙佐子が、くすっと含み笑いした。
「実を云うと、養母《はは》も亡《な》くなった大旦那さんにそう申し上げたら、今と同じお返事だったそうよ、ほんとに何から何までそっくり――」
と云い、ざぶざぶと背中に湯をかけ、洗い終ると、さっと浴室を出て行った。
鉄平が湯殿からあがり、浴衣と丹前の合せ着を着て、もとの部屋へ戻りかけると、
「さっぱりなさいまして? お部屋は、こちらのお座敷に致しましてよ」
芙佐子が、中庭に面した奥座敷を指《ゆびさ》した。障子を開けると、二間続きの入ったところの座敷にお茶漬の用意が整えられ、奥の間の襖《ふすま》は閉ざされていたが、艶《なま》めいた気配が感じ取られた。鉄平は湯上りのほてった体で、からりと襖を開けると、そこに友禅絞りの夜具が敷かれ、男女の枕が並んでいる。
「さあ、お茶漬を召し上ったあと、ごゆるりと――、若い妓《こ》を呼んでおきましたわ」
逞《たくま》しい鉄平の体の生理を処理するように云うと、
「断わってくれ、今夜は――」
「だって、そのつもりでいらしたんでしょう、若旦那《だん》さんのようないいお体をしてらしたら、奥さまだけで持たなくてあたり前よ」
至極、当然のように云ったが、鉄平は、
「家内は今、実家《さと》へ行っているけれど、いらないよ」
「だったら、よけいのことご入用じゃないの、さっとすましてお帰りなさいよ、それとも奥さまがご不在なら、お泊りになる? 若い妓よ」
芙佐子が取り捌《さば》くように云うと、
「いらないったら、いらないんだ、さあ、早く断わってくれ!」
怒ったように両手で芙佐子の肩を押した途端、鉄平ははっと手を止めた。鉄平の大きな掌《たなごころ》の中で、芙佐子のむっちりとした肩が息づき、肌の温かさが伝わって来た。両手に力を入れ、ぐいと体を引き寄せると、
「駄目、駄目なのよ、私は――」
花街の酸《す》いも甘いも噛《か》み分けた芙佐子が、素人《しろうと》のように激しく拒んだ。鉄平が黙ってさらに強く芙佐子の体を引き寄せかけると、
「いけないのよ、あなたと私とは……」
声に涙を含んでいた。
「どうして、いけないんだ」
鉄平の精悍《せいかん》な眼が、情欲に濡《ぬ》れ光った。
「養女ということになっているけれど、ほんとうは私、今の母の実の子なんです」
「え? 実の子――、それをどうして、養女ということにしなくてはいけないんだ」
鉄平は信じられぬように聞き返した。
「それは先代が信用第一の銀行の頭取という世間体と、ご本宅への聞えを憚《はばか》って、一旦《いつたん》、祖母の子、つまり母の妹として入籍し、そこから母のもとへ養女に来た形になっているのです」
「じゃあ、あなたと僕は、二つ違いの叔母と甥《おい》……」
「それならまだしも、あなたと私は……」
と云いかけ、芙佐子は言葉を跡切《とぎ》らせた。
「まだしも、なんだと云うのだ?」
「いいえ、別に、何でもありませんわ……」
顔を青ざめさせ、堅く口を噤《つぐ》んだ。
「まさか、僕が祖父の子で、あなたと異母兄妹《きようだい》というのでは……」
鉄平は、あとの言葉を呑《の》んだ。
「何をおっしゃるのです、そんな空怖ろしいことを……、そんなことありません……」
言葉を区切るように強く打ち消したが、鉄平の心にはじめて父が他人のように思えた。そして雉撃ちの時の異様な激怒、高炉建設の時の冷たい融資の仕方、今日、銀行と家へ二度、電話をかけた時の素っ気ないあしらいの背後にあったものが、解けて来るようであった。そして、もしやと思うと、鉄平の体に、汚辱の思いが突き上げて来た。
阪神銀行東京事務所の伊佐早《いさはや》五郎は、通産省の正面玄関の構内に停めた車の中で、春田銀行局長を待っていた。万俵頭取と芥川事務所長が待っている築地《つきじ》の『吉兆』へ春田局長を連れ出すのが、大蔵担当の“忍者”である伊佐早五郎の今夜の任務であった。当の大蔵省でなく、その向い側の通産省構内で待機しているのは、他行の忍者や新聞記者の眼を避けるためであった。
しかし、春田局長は約束の六時四十分を過ぎ、既に七時になろうとしているのに、いっこう、姿を現わす気配がない。たまりかねて、つい五分ほど前、通産省の赤電話から、局長付の事務官に電話をしたのだが、局議がまだ終らないから仕方がないよと、木で鼻をくくるような返事であった。その旨《むね》は、すぐ芥川に連絡したものの、大蔵省の正面玄関を真向いに見る位置に駐車して、凍《い》てつくような冬空の下で、春田局長を今か今かと待つ気持は辛《つら》い。
「遅いなあ、全く――、伝さん、ラジオをつけてくれよ」
伊佐早五郎は、気分を紛らすように運転手に云った。
「さすがの伊佐早さんも、今日は大分、気を遣っているんですね、いつもなら、鼻唄まじりに居眠りして待つというのに――」
馴染《なじ》みの運転手が、ラジオのスイッチをつけた。
「そりゃあ、時と場合によりけりだよ」
忍者のサラブレッドをもって自他ともに任じている伊佐早五郎も苦笑しながら、芥川事務所長がここ五日間ほど、春田銀行局長を夜の席にひっぱり出すために、躍起になって動いていた様子を思い返した。
最初は、都市銀行の配当規制緩和に関する局長通達をめぐる交渉事かと思っていたが、万俵頭取がじきじき、春田局長の“ご高見を承りたい”ということだと知って、伊佐早は直観的に、昨年の第三、平和銀行合併のつぶし作戦と同じようなトップ・シークレットが交わされる席にちがいないと推測した。それだけに春田局長の誘い出しは困難を極めると思っていたが、今朝《けさ》の総務課のミーティングの後、午後六時四十分に春田銀行局長を迎えに行くようにと命じられた時は、さすがは“忍者頭《がしら》”の芥川の手並と、感じ入ったのだった。
「伊佐早さん、待っている場所を間違えられたということはないんでしょうね」
七時を十分過ぎると、運転手まで心配しはじめた。
「いや、この場所での待合せは、向うの希望でもあるのだから、その心配はないのだ」
打ち消しながらも、万俵頭取が自分と同じ気持で、否《いな》、それ以上に苛《いら》だちながら、『吉兆』の座敷で待っているだろうと思うと、じっと車の中に坐っていられなくなり、ドアを開けて外へ出た。その途端、冷たい空《から》っ風が首筋に吹き込み、伊佐早は肩をすくめて、窓から顔を出した運転手に、
「伝さん、今日の夜風は身にしみるなあ」
溜息《ためいき》混じりに云って、はっと眼を光らせた。灯《あか》りの点《つ》いた大蔵省の正面玄関から、こちらへ向って歩いて来る春田局長の姿が見えたからだった。伊佐早は足早に歩み寄り、
「局長、ご多忙の中を恐縮でございます」
一言、低い声で礼を述べ、素早く車のドアを開けて春田を乗せると、自分は前の助手席に廻った。退庁する通産省の役人たちの姿が全くなかったわけではないが、伊佐早のパントマイムのような迅速な動作は人の眼にとまる隙《いとま》も与えず、車は周囲の暗がりに紛れるように滑り出した。
車が『吉兆』の玄関に着くと、伊佐早は黙って車のドアを開けた。忍者の仕事はそこで終るのだった。玄関には芥川が出迎えており、
「お忙しい中をどうも、どうぞこちらへ、万俵もお待ち致しております」
仲居に任さず、下へもおかぬ鄭重《ていちよう》さで、春田を座敷へ案内し、床の間の前の上座《かみざ》をすすめた。
「では、お言葉に甘えて――」
春田は、万俵大介に会釈《えしやく》して坐った。万俵は、銀髪端正な顔に笑いをうかべ、
「どうもこのところ、ご無沙汰《ぶさた》しております、何かと多忙を極めておられるご様子だそうですが、その中をよくお運び下さいました」
一行の頭取とはいえ、銀行行政を司《つかさど》る銀行局長に対しては、極めて慇懃《いんぎん》にならざるを得ない。
仲居が漆塗の懐石盆にならべた前菜を運んで来ると、万俵自ら銚子《ちようし》を取った。
「まずご一献《いつこん》――」
「これは、どうも恐縮――」
春田は盃《さかずき》を干し、万俵に返盃《へんぱい》した。次いで芥川が春田に献盃しながら、
「昨日、小金井《こがねい》ゴルフ・クラブへ参りましたら、めったに人を褒めないあの村上寅七《とらしち》プロが、春田局長の勘の鋭さに舌を巻いておりましたよ」
芸者の入っていない席を和らげるように云った。昨年の秋、第三銀行と平和銀行の合併の真偽を探るため、春田を小金井ゴルフ・クラブの“朝の特訓”に誘い、プロ・ゴルファーの大御所である村上にレッスンさせるという他行では真似《まね》の出来ない便宜を提供したのだった。
「おかげであれ以来、村上プロのレッスンのよろしきを得て、二十止まりだったハンディは、念願の十台になり、大いに気をよくしている次第ですよ」
春田が村上プロのレッスンの礼を云うと、
「ところで局長、ゴルフのお手並もさることながら、美馬から聞き及んだところでは、都市銀行の再編成に大へんな構想をお持ちのようですね、今晩は一つ、その太平洋ベルト地帯を背景にした銀行の複合合併というプランについて、じっくり承りたいと存じましてねぇ」
和らいだ座敷の雰囲気《ふんいき》に乗って、万俵は直截《ちよくせつ》に本論へ入った。
「ああ、あの話ですか、さすがにおたくの情報は早いですね」
春田は、美馬と万俵の関係を指すように云った。“小が大を食う”合併をもくろんでいる万俵の心中を知らぬはずがない春田が、大蔵、日銀の天下り頭取の銀行を核とした複合合併の一端に阪神銀行を加え、その上、美馬を通じて春田の方から暗に誘い水を向けておきながら、ぬけぬけとそんな皮肉をいうとは――。万俵は、内心むっとしながら、春田が、永田大蔵大臣の冷飯時代、永田派であることを理由に、長い間、陽の当らぬポストで干されたあげく、外務省へ出向の形で、国際金融市場からはずれた国の海外勤務へ追い払われ、尾羽《おは》打ち枯らして羽田空港を発《た》って行った時のことを思い返した。しかし、それから六年経《た》って、永田が大蔵大臣として返り咲くや、春田も直ちに帰国して東京国税局長、理財局長、そして銀行局長と、大蔵官僚としての出世コースを驀進《ばくしん》している。
「太平洋ベルト地帯を背景にした都市銀行の大合併といいますと、どういった銀行が入るのでしょうか」
白けかけた空気をもとに戻すように、芥川が、春田に酌をしながら聞いた。
「まだ一私見に過ぎないのですが、北は北海道から南は神戸までということで、北海、太平、坂東、大同銀行、そしておたくの五行ぐらいが、理想的ではないかと思っているのです、といっても、現実問題として初めから五行が言葉通り合併して、たとえば太平洋銀行というような全く新しい銀行をつくるというわけにはいかないと思いますから、最初は、正確には五行連合[#「連合」に傍点]ということですがねぇ」
春田は、万俵の反応を確かめるように視線を凝らした。万俵は表情を動かさず、
「なるほど、五行連合ですか、それなら現実味のあるお話だと思いますが、やはり問題はありますね、たとえば五行が横に手を繋《つな》ぎ合っても、この場合の五行は地銀的都市銀行の性格が強いだけに、それぞれの銀行の特殊性をどうするか、つまり、北海銀行は北海道という地元企業に優先的に融資しないといけないし、当行にしても阪神地域を優先的に扱わねばなりません、それが横に繋がってしまいますと、各行それぞれに持っている独自性が維持出来るかどうか、不安が残りますね」
「確かに一番の問題はそこでしょう、しかし、それぞれの銀行が持っている地域への融資といっても、最近は融資を受ける企業の方が非常に大きくなって来ている一方、巨大なコンビナートが次々に出来て、とても一行の資金量だけではやっていけない情勢にあるようです、しかも、このまま都市化が進んで、日本の人口の八割が太平洋ベルト地帯に集中するという未来学者の予測を考え合せると、全産業の八割近くが集まることになる、そうした資金需要に対応するための太平洋ベルト銀行なんですから、互いに提携して、資金量を融通し合えばいいんじゃないかと思うのですよ、いってみれば“合併なき合併銀行”をつくろうというのが、私の案なのです」
春田は、珍しく熱っぽい口調で自分の構想を話した。芥川は神妙そうに相槌《あいづち》を打ち、万俵は、春田の構想を聞き終ると、
「つまり、そうすれば横もうまくいき、縦もうまくやれるというわけですか、じゃあ、いっそのこと、連合銀行の数をもっと増やしてはどうですか、たとえば太平洋ベルト地帯の中間にあたる名古屋の中京銀行なども入れた方が、自然な感じがしますが、それを除いておられるのは、何か格別のお考えでもおありなんですか?」
と尋ねた。万俵にしてみれば、横もうまくいき、縦もうまくいく合併なき合併銀行の話よりも、それがほんとうはどのような意図に基づいて考え出された構想であるかを知りたかった。もしこの五行連合なる構想が、単に官僚統制を強めるための連合でなく、上位の四大銀行に対抗し得る、いわば大蔵省の息のかかった大蔵銀行なるものをつくろうという狙《ねら》いなら、そんな話にうかうかと乗るわけにはいかない。
春田は、そんな万俵の胸中を知ってか知らずか、
「こういうのは、数を増やし過ぎてもまとまりが悪く、駄目なものですよ」
頭から問題にしないように云った。
「そうでしょうか、太平洋ベルト銀行の設立が目的なら、北海銀行のような、こう云ってはなんですが、ベルト地帯の端の、さして発展性が期待できない銀行より、名古屋の中京銀行の方が、心丈夫な気がしますがねぇ」
北海銀行は、大蔵省系の銀行であったから、日銀系の中京銀行を持ち上げるように云うと、
「しかし、資金量が豊富でも、中京銀行のように地元の経済圏との繋がりが格別に強い銀行が一枚噛《か》むと、図体《ずうたい》が大きいだけに、やりにくい面が出て来るのですよ」
春田は、日銀系の銀行の中で最も規模の大きい中京銀行が入り込んで、日銀勢力が連合体の中で幅をきかすことを警戒するように云った。と云うことは、五行連合の春田構想が、要は大蔵銀行設立の地ならしに他《ほか》ならない。そうと解《わか》れば、ここは一応、春田構想に乗ると見せかけて、他の四行と横に手を繋いで、提携のうま味を吸いながら、四行のうちのどこかをつまみ食いして、連合体から脱け出すことだと思った。その時は少なからぬ摩擦もあるだろうが、今、ここで断わって、他の四行がもし春田構想に乗ってしまえば、阪神銀行はバスに乗り遅れ、上位四行の餌食《えじき》になりかねない。しかし、万俵は、そんな心中は気振《けぶ》りにも出さず、
「局長のお説によりますと、五行連合は、理想的な形だということになりますねぇ、しかし、当行としては独自な合併構想を進めております矢先なので、おいそれと決心しかねます」
わざと言を左右するように云うと、
「お気持は解らないでもありませんが、必ずしも、従来の考えにこだわられることはないじゃないですか、むしろ中位行あたりとの中途半端《はんぱ》な合併より、上位四行に堂々と対抗して生き延びる道を考えるなら、五行連合という形の方が、大局的には有利だと思いますね、五行の皆さんにその気さえあれば、大いにお力添え致しますよ」
春田は、その場合の大蔵省の特別な取りはからいを暗示し、万俵を自分の構想の方へ引き入れるように云った。横から芥川が、
「それは結構なお話ですね、大蔵省のバック・アップによって出来た連合となると、上位四行といえども、魔の手を伸ばしては来にくいでしょうし、連合した側も、何かと心丈夫です、早速、他の四行に話を廻してみましょうか」
と膝《ひざ》を乗り出した。万俵は眉《まゆ》を顰《ひそ》め、
「お先っ走りなことを云うものじゃない、そういうことは局長にお任せすることだ」
予《あらかじ》め打ち合せておいた台詞《せりふ》であったが、ことさらに窘《たしな》めるように云うと、春田は、
「いや、銀行局長という立場上、私自身が四行に当るのはまずいから、芥川さんあたりから四行の常務クラスに根廻しして貰《もら》った後、万俵頭取から各行の頭取に話をもって行って戴《いただ》くと幸いですがねぇ」
「では、私から“銀行局長を囲む会”を持ってはどうでしょうかという風に持っていき、一度、皆さんとも話し合ってみましょうか」
万俵は、銀行局長から天下った北海銀行頭取、大蔵次官から天下った太平銀行頭取、副頭取は大蔵省から受け入れているが、自らは地銀時代の生《は》え抜きである坂東銀行頭取、日銀理事から天下った大同銀行頭取、それらの一人一人の顔を思い描きながら頷《うなず》いた。
麹町《こうじまち》にある阪神銀行の行邸《こうてい》の居間で、美馬中は、二子と喋《しやべ》っていた。二子は今夜、上野の文化会館で開かれたルービンシュタインのリサイタルを聴くために上京して来たのだった。行邸といっても名目だけで、実際は戦前から東京の万俵邸としてあった建物であるから、来客用の広い応接室を除くと、あとは気楽な部屋ばかりだった。
美馬は、演奏会の模様を聞き終ると、
「ほう、関西でのプログラムに入っていない曲目を聴きに出かけて来たってわけ――、ピアノのお稽古《けいこ》も大へんだな、だけど、明日、うちでもう一泊して帰ればいいじゃない?」
「ところが、明日は女学院の同窓会があるから、八時の新幹線で帰らなきゃならないの、だから東京駅に近いこちらで泊るのよ」
と云うと、美馬は姿勢をかえ、
「二子ちゃんも、こうして見ると、なかなかの美人だな、グラマーだし、若さでピチピチしてるじゃないか」
よく伸びきった二十四歳の肢体を鑑賞するように眺めた。
「お姉さまの方が、ずっと美人よ、私と違って、お母さま似で、お品があって、日本風のほんとうにきれいなお顔だち、その点、私や三子は、地主出身の父方の血が濃くて、いささか土臭い方ね」
父親似の目鼻だちのはっきりした顔で、笑った。
「いや、官僚の女房には、その方が有難いよ、何しろ、あの人と来たら、何事につけても浮世離れした悠長さだから、生活のテンポが合わなくてねぇ」
美馬は、妻の一子のことを“あの人”と呼び、話題を変えた。
「どうだい、二子ちゃん、この間の細川青年の印象は?」
正月の志摩観光ホテルで偶然、出会った振りをして見合いの下見をさせた佐橋総理夫人の甥《おい》にあたる細川一也のことを云った。
「ああ、あの方――、どうって、どういう意味なの?」
「むろん、結婚の相手としてだよ、東大法学部卒、帝国製鉄秘書課勤務のエリート社員で、その上、総理夫人の甥という恵まれた青年、この間、たまたま帝国製鉄の兵藤副社長の“兵六会”の宴席で、それとなく聞いてみると、彼には目下、方々から結婚調査の問い合せが殺到中だということだったよ」
気をひくように云うと、
「じゃあ、この間のは、お義兄《にい》さまと相子さんとが、予め仕組んでおいたお見合いだったのね、それならなおのこといやよ、私は結婚のバーゲン・セールは大嫌い」
二子は、一言、話す度に、それはですねと、概論を一くさり喋る細川一也の“概論居士《こじ》”ぶりを思い出して撥《は》ねつけた。
「バーゲン・セールだなんて、とんでもない、万俵家の次女で、家柄、資産、容姿など、すべての点で恵まれている二子ちゃんが、バーゲン・セールなんてことあるはずがないじゃないか、その証拠に去年の初めから次々と持ち込まれている良縁を、片っぱしから断わってきたのは、二子ちゃん自身だからね」
そう云いながら、美馬は、まじまじと二子の顔を見詰め、
「二子ちゃん、誰か意中の人でもあるんじゃないか」
と聞いた途端、二子は不意に何の脈絡もなく、一之瀬四々彦に会いたいという灼《や》けつくような思いに駈《か》られた。四々彦は、年末に兄の鉄平が大川一郎の急死で帰国したのと入れ替るようにアメリカへ飛び発《た》ち、年明けに帰国したことを聞いていたが、会う機会はなかった。兄の鉄平に、四々彦の消息を聞いてみたかったが、シカゴから帰国後、異様なほどの多忙さに追われている兄、そして新年の雉《きじ》撃ちの事故以来、父と兄との間にわだかまっている妙に冷たい雰囲気を思うと、四々彦のことを取りたてて、聞くのが憚《はばか》られた。
「細川君と近々、会ってみない? 彼、ピアノを弾くらしい――」
と云いかけた時、表門から玄関の車寄せに入って来る車の音がし、大介を出迎える書生や管理人たちの慌《あわただ》しい足音がした。
「やあ、中君、来てくれたのかい」
大介は、すぐ居間へ入って来た。
「ええ、今夜は新橋で宴席があったものですから、ちょっとお寄りして、お待ちしながら、二子ちゃんに、細川青年の件を口説いていたところなんですよ」
「あれは、結構な話だ、この辺で身を固めて貰いたいと思っている矢先だから、相手の都合さえつけば、明日でも中君と一緒に、夕食でもどうかね」
大介は乗り気で、顔を綻《ほころ》ばせたが、二子は、
「あら、困るわ、私にはそんな気持、全然なくってよ、それに明日は、女学院の同窓会があるから駄目よ」
と云うなり、さっさと部屋を出て行った。
「いかがでした? 春田構想なるものは――、私が橋渡ししたことだけに、どんな風な話になったか、気になっていたのです」
親切めかした言葉の裏に、恩きせがましさがあった。
「うむ、さすがに“合併屋”の異名がある春田局長だけあって、太平洋ベルト地帯を背景にし、日銀、大蔵省の天下り頭取の銀行を核にした雄大な五行合併を考えているが、日銀、大蔵ばかりでは、いかにも“お上《かみ》の銀行”という感じになるから、ここに一つ、阪神銀行も乗らないかと云ったような話だ」
「お舅《とう》さんのお考えは、どうなんです」
「それは、事と次第によるねぇ」
春田構想に乗って仲よく手をつないで五行連合に同調しながら、あわよくば、その中のこれというのをつまみ食おうと算段している大介であったが、曖昧《あいまい》に返事を濁し、書生が運んで来たお冷水《ひや》をゆっくり飲み干した。美馬はそんな大介を不満げに見つめ、
「今度は、お舅さんが、第三銀行との合併をもくろみ、つぶされた時と違って、私が、春田局長に直接、構想を聞き出してお舅さんに仲介の労を取ったのですから、その点よろしくお含み戴きたいと思いましてねぇ」
丁寧な言葉であったが、自分と春田銀行局長との繋がりを強調し、万俵の独走を牽制《けんせい》する響きがあった。
「あたり前じゃないか、私が、中君の官僚としての立場を充分に考えないようなことをすると思うのかね、君も案外と、つまらない取越し苦労をする方だな」
万俵は軽く笑い飛ばしながら、心の中では、美馬中を相変らず、官僚独特のいやらしさを持つ男だと、思った。
*
阪神特殊鋼の高炉建設は着工後九カ月目を迎えていた。外形のほぼ出来上った高炉は、ぐるりを鉄骨の足場やクレーンに囲まれながら、巨人のようにそそりたち、炉頂部の気密装置の取付け作業にかかっていた。
安全用のヘルメットと作業衣に身を固めた万俵鉄平と工場長の一之瀬は、高圧高炉に最も大切な気密装置である大ベルの取付けにたち会うため、足場を伝って炉頂に近い地上三十六メートルのデッキに上り、作業を注意深く見守っている。高炉建設には、炉に空気を送り込む羽口《はぐち》の取付けと、炉内の煉瓦《れんが》積みと、炉頂部の大ベル、小ベル取付けの三つが重要作業だったが、中でも大ベルの取付けは、炉の心臓部にあたる仕事であった。それだけに高炉建設を請負っているメーカーも細心の注意を払って取りかかり、十数人の作業員が、地上から大型デリック・ブームで吊《つ》り上げた高さ四・五メートル、重さ四十トンの釣鐘《つりがね》型の大ベルを、炉心の真上にある滑車にワイヤーで結び、洞《ほら》のようにぽっかり大きな穴をあけている炉体に向ってゆるゆると下ろしていた。指揮者が手で合図する度に、鼠色《ねずみいろ》の鈍い光を放つ釣鐘のような大ベルは、デッキにいる鉄平や作業員たちの頭上から、圧倒するように下りて来る。
鉄平は瞬《またた》きもせず、厳しい視線を大ベルに向けていた。耐摩耗鋼《たいまもうこう》で作られた大ベルの当板《あていた》の肉盛《にくもり》溶接がうまく出来ていなければ、それを受けるホッパーとのすり合せが精密に行かず、気密度を減じて一酸化炭素が洩《も》れると同時に、鉄鉱石やコークスの粉が当り面を摩耗し、損うのだった。しかし、眼の高さまで下りて来た大ベルの当板の肉盛溶接は、鉄平の期待通りに仕上っていた。
「なかなか、うまく出来てるじゃないか」
満足そうに云うと、高炉メーカーの現場監督は陽灼《ひや》けした顔を綻ばせた。
「専務は、冶金《やきん》出身でいらっしゃいますから、大いに気を遣いましたよ、もちろん、気密テストずみです」
「テストには誰がたち会ったのかね」
と聞くと、一之瀬は、
「私と工務課長がたち会い、大丈夫であることを確認致しました」
と応《こた》え、大ベルが炉内の所定の位置に下ろされると、ほっとしたような表情で、
「専務、大ベルの取付けがすめば、高炉も七分通り出来上りですね」
「うむ、いよいよだな」
そう応えながら、鉄平は、灘浜《なだはま》に臨む十万坪に及ぶ建設用地を見渡した。早春の灘浜は、真冬の海のように黒々と光り、身を切るような寒風が吹きつけていた。眼下の荒涼とした建設用地には、三本の熱風炉と給水筒、鋳床《ちゆうしよう》などが建ち、岸壁沿いには鉱石やコークスを置く原料ヤードと、原料を運ぶベルト・コンベアが出来つつあり、トラックやブルドーザーが赤土の砂煙を上げて縦横に走っている。そうした建設現場の中で、海に向って東側がぽっかり空地になっているのは、将来、第二高炉を建設する際の増設設備を考えてのことであった。視線を大きく反対方向に転じると、現在、操業中の五棟《いつむね》の工場が見え、いずれももうすっかり黝《くろ》ずんでいる。鉄平の眼は、岸壁の製品倉庫に止まった。そこには、アメリカン・ベアリング社向けの、十二月分と一月分、そして二月分の半分の製品が、船積みストップの状態で滞貨しているのだった。それを思うと、気が重くなった。
「先に降りるよ、体が冷えて来た――」
一之瀬の方を振り向いて、そう一言云うと、鉄平は足場を伝って下へ降りて行った。
事務本部の二階の専務室へ戻ると、銭高は斜め向いの常務室から窺《うかが》っていたような間《ま》のよさで入って来、
「お忙しい中をどうも――」
口髭《くちひげ》をたくわえた小作りの顔で、鉄平の前に坐った。
「いや、私も話したいことがあったから、ちょうどいい、アメリカン・ベアリング社のことだろう?」
運ばれて来た温かいお茶を飲みながら、鉄平から口をきると、
「さようでございます、いくら何でも、もういい加減、輸出が再開されてもよさそうなものなのに一体、向うの事情はどういうことになっているのでございますか、石川社長も大へんご心配になっていて、よく専務に事情を聞いてほしいと云われましたんでございますよ」
言葉は馬鹿《ばか》丁寧だが、妙にねっちりとした口調で聞いた。
「それが、まだはっきりした返事が入って来ないのだ」
「まだ――、弱りましたねぇ、実は大同銀行から一月に借りた二億五千万円の返済方をせっつかれているんです、あの時の専務のお話では、アメリカン・ベアリング社の首脳部の交替で、新しい経営方針が打ち出されるまで輸出は延期だから、その間の繋《つな》ぎ資金を都合してほしいということでございましたので、当面必要な三億二千四百万のうちの二億五千万を大同銀行に借り、残りの七千四百万を阪神銀行で調達致しましたわけですが、大同銀行では、二月末になり、三月に入っても一向、輸出が再開されないのはおかしいと、不安を持ちはじめているようです」
と云った。輸出の支払いは、通常、出荷の二カ月前に、輸出代金三億六千万円の八割、二億八千八百万が銀行から前借りでき、残り二割、七千二百万は船積み後に借り入れることになっている。したがって、現在、滞貨している十二月と一月の二カ月分の八割については、大同銀行と阪神銀行の両行から既に前借りしていたが、残金二割は、輸出ストップで入って来ていない。そのため、一月の末までに七千二百万の二カ月分、一億四千四百万と、既に見越し生産で出来上っていた二月船積分の原料・加工代一億八千万、合わせて三億二千四百万円の資金がショートし、銭高常務が大同、阪神の両行から調達してきたのだった。しかし、三月のはじめになってもアメリカン・ベアリング社の動きは好転せず、阪神特殊鋼の資金繰りは、かなり圧迫されていた。
「私としては、再三再四、シカゴの南駐在員に電話で指示したり、川畑常務に渡米して貰ったりして、絶えず向うの動向を探らせ、輸出再開の交渉を重ねさせているが、巨大な複合企業《コングロマリツト》であるLSVの傘下《さんか》に入ってしまい、なかなか、はかどらないのだ、しかし、輸出が再開されれば、アメリカン・ベアリング社は以前にも増して有力な取引先であるだけに、ここは根気よく交渉を続行し、今の事態を打開したいと思っている、そして高炉建設で気になっていた炉頂部の工事も、ここ一両日で一段落するので、私自身、再度、渡米しようと思っているのだ」
じっとしておられないように、云うと、
「しかし、専務がいらしたところで、もはやどうなる事態でもないのではございませんか」
銭高は、眼の端を皺《しわ》めた。
「それは、どういう意味なのかね」
鉄平はむっとして、聞き返した。
「いや、私は決して失礼な意味で申し上げたのではございませんのですよ、専務がお話し下さらないので、私はついこの間まで全く知らなかったのですが、アメリカン・ベアリング社を吸収したLSVは、傘下にベアリングの素材メーカーを持っているということではないですか、それなら、他社から買うことはないと思います」
じわりと、詰め寄るように云った。
「しかし、あの程度の規模と技術なら、わが社の方が、うんと優れている」
「今は会社の優劣を比較している時じゃあございません、それにアメリカン・ベアリング社の購買部長であるロジャースは、二月末に、馘《くび》になったそうですね、あれやこれや考え合せますと、これはますますキャンセル臭いんじゃございませんか」
「よく知っているね、どこでそこまで調べて来たんだ」
「調べるというような大げさなことは何も致しておりませんが、ある筋でひょんなことから聞き及びましたもので」
銭高はそう応えたが、二月半ばを過ぎても、アメリカン・ベアリング社との話合いが進展しないのに不審を抱き、阪神銀行の融資部長時代の顔を使って、江州《ごうしゆう》商事の経理部長に個人的な依頼として、現地の様子を探って貰《もら》い、情報を入手していたのだった。
「ところで専務、万一、キャンセルともなれば、輸出前金として銀行から借りている十二月分と一月分の五億七千六百万は返済しなくてはなりませんが、ただでさえ毎月、コンスタントに入って来ていた三億六千万の売上げが入らなくなり、運転資金の捻出《ねんしゆつ》にも四苦八苦しているのに、どうなさるおつもりなんでございます?」
「それは、私としても万々一の場合を考え、南君や川畑常務に、ロスアンゼルスあたりに適当な転売先がないか、それを目下、探させている」
輸出品は、国内向けの製品と仕様《しよう》が異なるから、国内に転売がきかないのだった。
「しかし、そう都合よく転売先が見付かりますでしょうか、それにしても、どうしてもっと早く、忌憚《きたん》のない実情を私にお話し下さらなかったのですか、水くさいじゃございませんか」
「そう云われると辛《つら》い――、だが高炉建設の真っ最中だけに、社内の士気に影響すると思い、何とか解決しようと日夜、苦慮していたんだ――、しかし、大同銀行が不安を持ちはじめて来ているなら、キャンセルにならぬ今のうちに、資金調達の無理を頼んで貰いたい」
鉄平が率直に頼むと、
「突然、そんな風におっしゃられても、五億からの資金を調達するなど、容易に出来ませんですよ、常日頃、資金調達は早目、早目に見通しをたてて、相談して戴《いただ》かないことには、請け合いかねますと申し上げているのは、こういう事態を案じるからでございますよ」
何事も技術優先で、いつも経理が尻拭《しりぬぐ》いをさせられている厭味《いやみ》と不満を籠《こ》めるように云うと、銭高は蒼惶《そうこう》と席をたった。この事態を、一刻も早く阪神銀行の万俵頭取に報《しら》せねばならないと、思ったからだった。
車が神戸の栄町《さかえまち》通りに入ると、銭高常務の顔に、活気が帯びる。電車通りを挟《はさ》んで両側に戦災を免れた銀行、証券会社の建物が並ぶこの辺りは戦前からの金融街で、銭高が四年前、阪神銀行本店の融資部長から阪神特殊鋼へ転出するまでの間、長年馴《な》れ親しんで来た空気が漂っているからであった。
六本の円柱が聳《そび》えたつ古めかしいバロック風建築の阪神銀行の東側玄関で車を停めると、銭高はさらに生き生きとした表情で玄関へ入った。融資部長時代からの顔馴染《なじ》みの守衛が丁寧な会釈《えしやく》で迎え、それに頷《うなず》きながら、ゆったりと通り過ぎたが、守衛はなかなか頭を上げない。奇妙な気がして、背後《うしろ》を振り向くと、貸付課長の万俵銀平が、ストライプのスーツのポケットに片手を突っ込み、すぐうしろからやって来ていた。
「これは万俵課長、お久しゅうございます、お仕事ぶりのほどは、いつもお噂《うわさ》を伺っております」
銭高は、自社の専務である鉄平に対する時以上の鄭重《ていちよう》さで挨拶《あいさつ》した。
「どうも――、ご無沙汰《ぶさた》しています」
銀平は元融資部長に対する礼を失さない程度の儀礼的な会釈を返し、営業部の方へ行きかけると、銭高は一緒に歩きながら、
「お昼はやはり、オリエンタル・ホテルのグリルでございますか」
一時を少し過ぎていたが、銀平の寛《くつろ》いだ様子から、昼食をすませて帰って来たのだろうと察した。
「まあ、そんなところですが、銭高さんもそうだったんですか」
「いいえ、私など会社の方で簡単にすませて、飛んで参りました次第で――」
「何か阪神特殊鋼のことで、急用でも?」
はじめて銀平の眼が、銭高へまともに向けられた。銭高は慌《あわ》てて、
「いえいえ、そういうことじゃあないのです、頭取へのごく事務的なご報告でして――、では、失礼致します」
営業部の前まで来たのを幸いに、そそくさと挨拶し、銀平もそれ以上は聞かず、営業部へ入って行った。銭高はほっとした顔で、三階へ上った。
頭取秘書の速水の部屋へ声をかけようとすると、頭取室から出て来る速水の姿が見えた。
「先程は電話で失敬――、一時過ぎの約束だけど、頭取のご都合はいいですかね」
口髭《くちひげ》を撫《な》でながら、先輩面に適度の愛想を混じえて聞くと、
「どうぞ、お待ちになっておられます」
速水は慇懃《いんぎん》なもの腰で応えたが、銭高はこの速水が、好きではなかった。自分がこうして時折、阪神特殊鋼の経営内容を万俵頭取に、秘《ひそ》かに報告に来るのを、速水はどうやら快く思っておらず、澄んだ眼《まな》ざしの内側から、批判的に見ていることが感じ取られるからだった。
頭取室に入ると、万俵は、机に向って決裁書に眼を通していたが、机の前の椅子を眼で示した。銭高は一礼して坐り、
「どうもご多忙のところ、お電話などさし上げまして――、本来なら融資担当の渋野常務にご相談するのが順序と存じましたが、先程、ちょっと申し上げましたように、何分、ご令息の専務にじかにかかわることでございまして、他《ほか》に洩れてもなんでございますので、僭越《せんえつ》ながら、じきじきお耳にお入れ致した方がと存じまして――」
万俵頭取から直接、阪神特殊鋼の目付《めつけ》役を任されているとはいえ、子会社の一常務が、頭取にじかに話すことの失礼を詫《わ》びると、
「前おきはそれぐらいにして、早速、本題に入って貰いたい、こちらは何かと忙しいんだからね」
気難《きむず》かしげに促した。
「実は、当社の大口輸出先であるアメリカン・ベアリング社からキャンセルされそうな事態が出て参ったのです」
「なに、キャンセル? アメリカン・ベアリング社というと、シカゴにある会社だったね」
万俵の眉《まゆ》が、ぴくっと動いた。阪神特殊鋼の非常勤役員として名を連ねていたから、海外の大口取引先もおおよそ知っていた。
「さようでございます、昨年の十二月出荷の直前に突然、船積み待ての電報が入りまして、それから今日に至るまでずっと引き延ばされっ放しですが、私は、これは事実上のキャンセルで、正式の通知が来るのは、もはや時間の問題だと判断致しております」
と云い、経緯を詳細に話した。万俵はその間、眼鏡をはずして、レンズの曇りを拭いながら黙って聞き、
「なるほど、それで鉄平は、昨年の暮にばたばたと渡米したというわけか、それにしても今頃になって、それを報告しに来るとは怠慢過ぎるじゃないか、第一、社長の石川は一体、何をしているのだ、これではお飾り社長と云われても仕方がないじゃないか」
「申しわけございません、弁解申し上げるわけではありませんが、石川社長も私も、船荷ストップに関するほんとうの事情は聞かされていなかったのです」
「なに、それでは鉄平が、故意に実情を隠しだてしたというわけかね」
万俵の眼が、険しく光った。
「いえ、故意か、どうかは存じませんが、ともかく、アメリカン・ベアリング社がLSVの傘下に吸収され、経営者が交替し、新しい経営方針が打ち出されるまで船積みは見合せるということになったから、当面、不足する運転資金の都合をするようにと、云われたのでございます、しかし、その時の専務の口振りは至極、楽観的で、事実、一カ月ぐらいの遅れはこれまでにもあることでしたから、専務のお言葉をそのまま信じて、ショートした分の三億二千四百万円の資金調達は、何とか切り抜けることが出来ました、ところが――」
銭高は上眼遣いに万俵を見、自分の手で江州商事の経理部長を通して探り出した現地の動きを説明した。
「だが、鉄平は資金繰りにかかわるそんな重大なことを、なぜ、今日まで経理担当役員の君に話さなかったのかね」
拭《ふ》き磨いた眼鏡を端正な顔にかけながら、万俵は云った。
「さあ、そこでございますが、去年の十月に、渡米して、ご自身で二割増注も取っていらしたいきさつ上、何とかご自分で解決されたかったのだと思いますし、他意はないと信じます、なにしろ、ああいう竹を割ったような、しかも責任感の人一倍強いご気性の方ですから――、ただ、そんなことよりキャンセルが正式に通知されて来れば、十二月と一月の輸出分に対する八割の輸出前借金は、十二月は大同銀行から、一月は阪神銀行から既に借りていますので、キャンセルと同時に五億七千六百万の前金の返済をしなければならず、また一方で膨大な高炉建設の資金もいる時ですから、五億七千六百万もの運転資金をどうやって賄《まかな》ったらいいか、ほとほと考えあぐねてしまいます――」
吐息をつき、困り果てるように云うと、
「その金は、当行では出せないよ」
万俵はびしりと、先手を打った。
「しかし、頭取……」
「しかしも、なにもないだろう、メイン・バンクであり、親会社である阪神銀行に、それだけの重大事を二カ月以上もひた隠しにしておいて、いよいよ困ったからと云って駈《か》け込んで来たって、それではあまり虫がよすぎるというものだ、それに当行は、運転資金としては月平均、約七、八億は貸しているのだから、これ以上は他行で借りることだ」
銭高は取りつくしまもなく、瞬時、口を噤《つぐ》んだが、
「頭取のお憤《いきどお》りはごもっともで、私も役職怠慢の責めがございますので、最大限の努力を致します、しかし、輸出キャンセルによる前借金返済のための融資とわかれば、どこの銀行も、おいそれとは貸してくれませんし、高炉建設途上の際に、こうしたことが外部に洩《も》れますと、高炉の方の融資にまでひびきかねませんので、ここは一つ、ご令息の会社ということで、格別にご融資をお願い致します」
頭を垂れ、屈《かが》み込むと、
「君までが、息子の会社云々《うんぬん》というのか、いい加減にし給《たま》え」
鋭い叱声《しつせい》が飛んだ。
「私が出せないというのは、今回のキャンセルによる損失もさることながら、もっと重大なことは、高炉が完成し、コストの安い製品を生産出来ても、今回のように大口の取引先を失い、生産しても売れないという、私が一番心配していた事態が起って来たことだ、そうした阪神特殊鋼の生産販売計画に根本的な問題があるにもかかわらず、経営陣がこの段になっても、その点に厳しく眼を向けていないことだ、とどのつまりは、何とか親もとの阪神銀行が面倒をみてくれるという安易な社風が瀰漫《びまん》しているからだろう、そう鉄平に伝え、他行で調達するように云っておき給え」
と万俵は、命じた。
その翌日、万俵鉄平は、阪神銀行の頭取室で、父の万俵大介が戻って来るのを待っていた。午後四時に銀行に来るようにという電話を受けていたのだった。
「どうも、お待たせして申しわけございません、今日は神戸財界人の一水《いつすい》会の会合がございまして、頭取はそちらへ出かけておられますが、程なくお戻りになると存じます」
頭取秘書の速水が、約束の時間より遅れていることを詫《わ》びた。
「いや、それよりこの間は、あなたにお手数をかけました」
鉄平は、先だって、父の大介に面会の時間を都合して貰うべく、速水に何度も電話したことを云った。
「とんでもございません、私の方こそせっかく時間の切れ目がございましたのに、毎朝新聞の榎本記者の方が、予定より早く来られてしまってお取り次ぎ出来ず、失礼致しました」
鉄平に電話しようと思えば、出来たのに、どうせ資金繰りのことだろうから、他日に廻せばいいと拒んだとは、云えなかった。
「いや、いつも父との連絡ではあなたにお世話をかけています、お陰《かげ》で高炉建設も七分どころまで漕《こ》ぎつけました、もし興味がおありなら、案内させますよ、何なら銀平と一緒にいかがですか」
「有難うございます、私たち銀行員の仕事は、いくら全力投球しても、それが設備なり製品なり具体的な形になって残りませんので、時折、ふっと虚《むな》しさを覚える時があります、高炉建設は是非とも見学させて戴きたいと思っておりましたので、早速、銀平君を誘ってみます」
「喜んでお待ちしますよ、銀平には友人らしい友人がなく、あなただけが心を開いて語り合える相手らしいですから、今後も誰もしてくれない忠告もして下さるようなおつき合いを、よろしく頼みます」
兄らしく云うと、速水は、
「そんな風におっしゃって戴くと恐縮です、時折、二人で一緒に飲むことはありますが、やっぱり君も解《わか》ってくれてないんだねと、云われる時があります、しかし私は私なりに、今まで通り学生時代からの交友を続けて行くつもりです」
爽《さわ》やかな眼ざしで応《こた》えた時、万俵頭取が入って来た。
「お帰りなさいまし、先程から万俵専務がお待ちでございました」
と云い、速水は頭取室を退《さが》って行った。
「このところご無沙汰しております」
鉄平が挨拶すると、
「そういえば、ここ二カ月近く会うことがなかったようだな」
同じ邸内に住まいしながら、正月の雉《きじ》撃ちの事件以来、互いに顔を合わすのを避け合う雰囲気《ふんいき》になっていたのだった。
「それでお父さん、今日、僕をお呼びになりましたのは、どういうご用件でしょうか」
「昨日《きのう》、お前のところの銭高常務が突然、私を訪ねて来た、何のためか解っているだろう」
大介はソファに坐《すわ》り、眼鏡越しに、じろりと鉄平を見た。
「では、アメリカン・ベアリング社のことを――、それなら私自身が直接、事情をご説明に参りましたのに」
銭高とは昨日の夕方も、今朝《けさ》も会社で顔を合わせているにもかかわらず、何も云わなかったことを鉄平は不快に思った。
「何が気に入らないのだ、去年の十二月に船荷ストップの電報が入ったことから、アメリカン・ベアリング社がコングロマリットのLSVに乗っ取られたこと、LSVはベアリングの素材メーカーを傘下《さんか》に持っていること、従来の購買部長がごく最近、馘《くび》になったことなど、一部始終を銭高から聞いたよ、どんな思惑があってか知らないが、私に恥をかかせてくれたね」
「思惑だの、恥をかかせるだの、そんなつもりで申し上げなかったのでは、毛頭ありません、ただ――」
「ただ、何だと云うのかね、私が阪神特殊鋼の非常勤とはいえ、役員であることを、まさか忘れてはいないだろうね」
畳みかけるように云った。
「承知しておりますが、出来うるならば、自分の力で解決し、ご心配をおかけしないようにと思ったのです、しかし、なかなか事態が好転しませんので、ご報告しなければと思い、先だって面会を申し込んだのですが、会って戴けず、お電話にも出て戴けませんでしたので、つい延び延びになっていたのです」
鉄平は、父の妙にねじ曲った誤解を解くように説明した。
「ああ、あの時の駈込み面会というのは、このことだったのかい、こんな重要な用件なら、何故《なぜ》もっと重ねて云って来なかったのか、あの日だけ、やいのやいのと、私が帰宅して既に寝《やす》んでしまってからも電話をかけて寄こしながら、翌日から梨《なし》の礫《つぶて》というのは、どういうわけなのかねぇ」
葉巻をくゆらせながら、問い返した。
「いえ、その後、もう一度おかけしました時は、東京へご出張ということでしたし、私も高炉の重要な建設工程にかかりましたので、ここ暫《しばら》く多忙を極め、やむを得なかったのです」
鉄平は、だんだん腹だたしくなって来る気持を抑えかねるように云った。
「なるほど、それにしても、自分の社の経理担当常務の銭高のみならず、社長の石川正治にまで、こういう事態を隠しだてするのは、独断も度が過ぎる、今日、一水会のあと、会合に出席していた石川に、阪神特殊鋼の社長として責務怠慢じゃないかと叱《しか》ったら、自分は船荷ストップの電報のことも、二カ月半分の製品が滞貨していることも、聞き知っているが、詳しい事情については碌《ろく》に説明を受けず、蚊帳《かや》の外に置かれている、鉄平君は万事この調子だから、父親であり、社外役員でもあるあなたから注意してほしいと、逆に不満を云われたよ」
「申しわけありません、しかし石川社長は人一倍、気に病む性格《たち》で、弱気の果てについ見さかいなく、ぽろっと口外してしまう人なので、敢《あ》えて最小限に、しかも楽観的に云っておいたのです」
「それじゃあ、本当の見通しはどうなりそうなのかね、銭高の話では、キャンセルされれば、さしあたり総計九億の損害を蒙《こうむ》るらしいが、その危険度のほどは、船荷ストップの電報が来て、アメリカン・ベアリング社へ飛んで行ったお前が一番、よく承知しているだろう」
「それは購買部長が替ってしまった今となっては、何とも云えませんが、ともかく、近々、私自身がもう一度シカゴへ飛んで、新しい購買部長に会い交渉するつもりです、わが社の品質は優秀なんですから、希望はあると思っています、しかし、銭高常務は万々一のキャンセルに備えて、今のうちにその資金調達をしておかねば、急に五億七千万もの資金は出来ないと云いますので、本日、お父さんに呼ばれたついでに申し上げるのは、無礼に過ぎますが、万一の場合はお世話戴《いただ》きたいと思い、お願いする次第です」
鉄平が深々と頭を下げかけると、
「それは昨日、銭高にも頼まれたが断わった」
葉巻の煙を天井に向けて吐き出し、にべもなく応えた。
「しかしお父さん、こんなことは他行には持って行けない話です、輸出再開に全力をあげ、お父さんのところにはご迷惑がかからないように致しますから、お願いします」
重ねて頼んだ時、机の上の電話のベルが鳴った。大介がソファからたち上って受話器を取り、
「阪神特殊鋼から鉄平に、緊急電話? よし、本人とかわるから――」
鉄平に受話器を渡した。
「もしもし、私だ、え? 早口で解らないよ、何をそんなに慌《あわ》てているんだ」
電話は、営業担当の川畑常務からだった。
「そう、父と話し中だが、緊急の用件ならいいよ、なに? 落ち着いて云い給え、――シカゴの南駐在員からテレックスが入った、内容は? えっ、キャンセル! アメリカン・ベアリング社の新しい購買部長が南君にキャンセルを通告したんだって!」
受話器を握りしめている鉄平の手が、震えた。
「――解った、父に資金繰りを諒承《りようしよう》して貰ったら、すぐ帰社する、皆が動揺しないように云っておいてくれ給え」
鉄平はそう云うと、受話器を置いた。息を整えるようにして父の方へ体を向けると、じっと自分を見詰めている大介の視線と合った。
「お聞き及びのように、只今《ただいま》、アメリカン・ベアリング社からキャンセルが通知されて来たということです、正式の文書は追って届くらしいですが、そうなれば既に阪神銀行と大同銀行の両行から輸出前借金として借りている五億七千万の返済は余儀なく迫られます、何卒《なにとぞ》、融資をお願いします」
振り搾《しぼ》るような声で云うと、大介は暫く黙っていたが、
「では、当行が輸出前借金として貸した二億八千八百万は、国内の一般貸出しに切り替えて継続融資しよう、しかし大同銀行から借りた輸出前借金の返済分までは当行で面倒みきれない」
「しかし、大同銀行には一月末に二億五千万、既に借りておりますので――」
鉄平が云いかけると、大介はおっかぶせるように、
「当行が国内融資に切り替えて貸す二億八千八百万も、輸出キャンセルによる前金返済という異常な事態だから、その分は、今月の高炉建設の設備資金の中からさっ引く」
その一言に鉄平は、息を呑《の》んだが、大介は冷やかに言葉を継いだ。
「当行もそろそろ、大蔵省銀行局の検査があるから、貸金の内容をよくしておかねばならないのだ、企業のトップ同士には、父子《おやこ》の関係などないということをお前はもう一度、改めて頭の中に叩《たた》き込んでおくことだ」
事実は、銀行局の検査は口実で、少しでも貸金内容をよくしておかねば“小が大を食う”合併に影響するからであった。
万俵二子は、ホテルのフロントのボーイたちが見ているのもかまわず、がちゃりと怒ったように受話器を置いた。
六時半から兄の鉄平と一之瀬四々彦と三人で食事をする約束になっているのを、急に父との用件でさし支えが出来たから一之瀬君と二人で食事をするようにと、云って来たのだった。前から何度も、オリエンタル・ホテルのスカイ・ルームでの晩餐《ばんさん》をおねだりし、その度に忙しい忙しいと延ばされ、つい今日の昼過ぎになって、高炉の炉頂装置の取付けも一段落ついたから今夜、一之瀬をまじえて食事をしようと、わざわざ家にいる二子に電話をかけて来たばかりであった。
二子は、ロビーで待っている一之瀬四々彦の方へ足早に戻ると、
「一之瀬さん、お兄さまったら、三十分も待たせたあげく、急用が出来て行けなくなっただなんて――」
地団太を踏むように云うと、四々彦は、腕に巻いたエンジニア用の大きな時計を見、
「よほど重要な用件が出来られたのでしょう、食事はいつでもできますよ」
こだわらない口調で云い、たち上がりかけた。
「そうじゃないの、リザーブしてあるテーブルで、二人で食事をすませるようにということなの、だからご一緒なすって――」
二子が語調を柔らげ、甘えるように云ったが、
「僕はこうしたところで、女性と食事をするのは苦手なんです」
四々彦は、阪神銀行の頭取の娘であり、自社の専務の妹である二子と二人きりで、分不相応な贅沢《ぜいたく》な食事をするのは厭《いや》だと思った。
「じゃあ、どちらならいいとおっしゃるの?」
「どこって、僕などが行くのは、南京《ナンキン》町にある安くて美味《おい》しい気楽な店ですよ」
「それじゃあ、私をそこへ案内して下さいな」
「ですが、南京町は昔ながらのチャイナ・タウンでごみごみしていますから、あなたには向きませんよ」
「いいわ、私、そんなところの方が、うんと興味があるの、それに女一人じゃあまり行けないところだから是非、連れて行って――、さあ、参りましょうよ」
と云うなり、二子はもうひらりと、ソファからたち上った。
ホテルから南京町までは歩いて二十分余りの距離だったが、タクシーを拾わず、オフィス街のビルの谷間を元町《もとまち》に向って歩いた。元町一丁目のところまで来ると、左側にメリケン波止場が見えた。夜の港の灯《あか》りは、真っ暗な海にきらきらと光の帯を流すように燦《きらめ》いている。そこから一丁程行くと、南京町の入口であった。
一歩、足を踏み入れると、店先に鶏の丸焼を吊《つ》り下げた食料品店や中華料理店、漢方薬店、爆竹店などが軒を並べ、脂《あぶら》臭い匂《にお》いと漢方薬独特の匂いが鼻をついた。時たま、戦災に焼け残ったような骨董《こつとう》を商う店があり、観光客らしいアメリカ人がもの珍しそうに店内を覗《のぞ》き込み、サリーをまとった美しいインドの女性が、二子たちの横を通りぬけて行ったが、少し入りくんだ露路のような狭い通りに来ると、外国船の水兵や船員たち相手の安バーが、毒々しいペンキを塗りたて、薄暗い灯りの下で二、三人の売春婦が淫《みだ》らな笑いを投げかけて、客を呼んでいる。四々彦と二子にも、淫らな言葉を投げつけたが、四々彦はぐいと二子の手を取って通り過ぎ、一軒の店の扉《とびら》を押し、狭い階段を上って行った。
そこは明治時代の食堂のような古びたテーブルが十卓ばかり並んでいる何の変哲もないグリルであったが、カウンター越しに中国人のコックと、古馴染《なじ》みらしい年輩の客が、珍しい料理の話を交わしていた。
「どういうお店ですの、ここは――」
「この店の親爺《おやじ》さんは、昔、外国船の厨房《ちゆうぼう》長をしていた日本人で、昭和三、四年頃からこの店を開いているから、ここへ来るお客は古馴染みの年輩の食通が多いんですよ、葡萄酒《ぶどうしゆ》に浸したビーフ・ステーキとコンソメが美味しいですよ」
と云い、スープとビーフ・ステーキを注文した。
「いいお店ね、よくいらっしゃるの?」
「ええ、時々――、僕はこうした、熱気が漲《みなぎ》っているような町が好きなんですよ、去年の暮、ロスアンゼルスのカイザー・スチール社へ出張した時も、ロスのチャイナ・タウンへ晩飯を食べに出かけたんです」
と云い、ふとさっきの電話が気になったように、
「先程の専務からのお電話の様子は、どんな工合だったんです?」
と聞いた。二子は、運ばれて来たスープを飲み、
「よく解《わか》らないけれど、何か急なご用が、お父さまとおありのご様子だったわ、頭取室からかけていらしたから――」
「それじゃあ、アメリカン・ベアリング社のことで、もしや……」
と云いかけ、口を噤《つぐ》んだ。四々彦は、昨年の末にロスアンゼルスのカイザー・スチール社へ高炉操業の技術指導を受けに渡米した時、シカゴへも寄り、南駐在員と会って、現地の事情をよく知っていたが、阪神特殊鋼の優れた技術に自信を持っていたから、最後まで事態の好転を信じているのだった。
「どうなさったの、お兄さまの会社のことで、何かご心配なことでもおありなの?」
二子は、スプーンを置いて聞いた。
「いや、別にたいしたことじゃありませんよ、ただ専務のように鉄を作ることに情熱を燃やしておられる方が、銀行へ出かけられたりして、資金面のことまでなすっておられるのかと思って――、専務には高炉建設のことだけに専念して戴きたいのです、僕たちが、こと特殊鋼に関しては、世界一品質の高いものを作る、いや作れるのだという自信を持ち得たのは、専務のエンジニアとしての優れた能力と熱意によるものなんです」
四々彦は、炉頂装置の取付けが終り、七分通り完成しつつある高炉を思いうかべ、情熱をたぎらせるように云った。話題がまたいつものように仕事に行きかけると、二子は巧みに話題を変えた。
「いやね、一之瀬さんったら、レディとお食事をしている時は、お仕事のお話はなさらないのがエチケットよ、それでよく、レディ・ファーストのアメリカ生活を二年もお出来になったのね」
軽く睨《にら》むように云うと、四々彦は、
「だから二年もいて、ガール・フレンドが出来なかったんでしょう」
からりと笑った。
「でも、一之瀬さんだって、理想の女性像がおありでしょう、聞かせて戴きたいわ」
四々彦は、困惑するような表情をし、
「そうですね、まず仕事に理解があって、聡明《そうめい》でいて、控え目で、そして何よりも温かい心の持主ですね」
「じゃあ、嫌いな女性は?」
「頭が悪くて、我儘《わがまま》で、思いやりのない女性」
「じゃあ、私はその、どちらの部類に入るのかしら?」
二子は、真剣な眼《まな》ざしを四々彦に向けた。
「そんなこと、急に答えられないじゃありませんか、それにあなたのような聡明な方なら、ご自身で一番よく解っていらっしゃるはずでしょうから、愚問愚答になりますよ」
と云い、運ばれて来たビーフ・ステーキに、ぐいとナイフを入れた。せっかくリザーブしてあるオリエンタル・ホテルのスカイ・ルームの晩餐を断わり、南京町の小さなグリルで、自分なりの食事をする四々彦と向い合っていると、二子は、そこに兄の鉄平でも、また銀平でもない、一人の強い個性を持った男性像を見る思いがした。兄たちに比べると、いささか野暮ったく、無骨であったが、飾り気のない素朴《そぼく》な男らしさと包容力に満ちている。二子の眼に、父と義兄の美馬からすすめられている佐橋総理夫人の甥《おい》の細川一也が、一層、小さく軽い存在に見えた。
二子は、つい一時間前まで一之瀬四々彦と二人で過した倖《しあわ》せを噛《か》みしめながら、ピアノに向ってショパンのノクターンを弾いていた。長いしなやかな指が鍵盤《キイ》の上を滑るように動き、静かな情感が部屋の中を包んでいる。
南京町のグリルで、四々彦と食事をしたあと、どちらからともなくトーアロードを山手に向って歩いた。九時近いトーアロードは、両側に並ぶ高級洋装店やテーラー、宝石、毛皮店などの半分以上が既にシャッターをおろして人影も少なく、ひっそりと散歩する外国人の中年夫婦の姿が眼についた。異境で肩を寄せ合うようにして生きている夫婦の姿が、なぜか今夜に限って二子の眼に灼《や》きつき、ふと涙が噴きこぼれるような思いがしたが、四々彦を振り仰ぐと、彼もまた強い眼ざしを向けて、互いの胸の中にある思いに触れ合ったのだった。
「二子さん、どうして途中でやめておしまいになるの? そこから私の好きなメロディになるのよ」
背後《うしろ》で相子の声がし、ピアノの傍《そば》に寄って来た。
「いらっしゃってるなんて、知らなかったわ、人が悪いのね」
「だって、すばらしいピアノが聞えて来るんですもの、聞き惚《ほ》れてしまって――、最近、レッスンに励んでいらっしゃるせいか、一段とお腕が上ったように感じるのですけど、今日はことのほか情感豊かよ、何かよほど素敵なことがあったようね」
ピアノに体をもたせかけ、二子の顔を覗き見るようにした。二子は視線を白い鍵盤《キイ》の上へそらし、右手で小さく続きを弾き出しながら、
「何よりも嬉《うれ》しいお褒めを有難う、常々、先生からはテクニックに走り過ぎると、批判されていますの」
と云った。
「今夜、細川一也さんからあなたの帰宅寸前にお電話があったこと、三子さんからお聞きになって?」
相子はさり気なく、聞いた。
「いいえ、何かご用なのかしら」
「あら、あなたもそういうところはお父さま似ね、電話や手紙というのは、用件を伝えるためにだけあるものじゃなくてよ」
「解っているわ、でも、あの方とはお正月に志摩観光ホテルで一度、お目にかかっただけだから、お電話なんて、あまり唐突過ぎますもの」
「ところが、細川さんは今夜、偶然、美馬さんと銀座のバーで顔を合わせ、志摩で過したお正月を懐《なつ》かしみながら飲んでいるうちに、二子さんに電話しようということになったのですって、でもあなたがいらっしゃらないから、三子さんとお喋《しやべ》りしてらしたけど、三子さんのお話では、細川さんったら、お姉さまのことばかりお聞きになって、失礼だわって、すっかり旋毛《つむじ》を曲げてしまったのよ」
相子は、可笑《おか》しそうに笑ったが、言外に二子の関心を、細川に繋《つな》ごうとする気配《きくば》りがあった。二子はさらりと聞き流すように、
「三子ちゃんは、お正月にお会いした時から、細川さんに好意を持っている様子よ、あの方なら、あなたがいつもおっしゃるように、家柄、資産、姻戚《いんせき》関係などの結婚の条件をすべて満たしていらっしゃるでしょうから、なんなら三子ちゃんと細川さんとの結婚をプロデュースなさってはいかが?」
と云い、姿勢を正して再びピアノに向った。
「二子さん、あなた、何もかも解っていらっしゃるくせに、いい加減、女学生のような我儘はおよしなさい、私はもうこれ以上、待たなくてよ」
びしっと鳴るような厳しさで云った。
「それ、どういう意味なの、私は、自分の結婚相手は自分で決めますって、前から申していますでしょう、それを母親でもないあなたが、僭越《せんえつ》過ぎると思うわ」
きっとした表情で撥《は》ねつけた。相子は動ずる様子もなく、
「出産以外、何も出来ない無能な母親じゃあ、仕方がないでしょう、ともかく私は、あなたのお父さまからお正月以来、細川さんとのご縁談を進めるように申しつかり、東京まで出かけて慎重な結婚調査をして来ましたの、その結果、万俵コンツェルンの総帥《そうすい》であるお父さまが、二子さんの結婚相手は細川一也さんだと断をお下しになり、私もあなた自身や、ご兄姉《きようだい》、姻戚関係からみて、細川さんが最もふさわしい伴侶《はんりよ》と考え、細川家の方も乗り気でいらっしゃるのですから、何とおっしゃろうと、結婚相手は、ほぼ決まったも同然のことですわよ」
云い渡すように云った。
「そんな、あんまりだわ! 戦国時代の政略結婚じゃあるまいし、この現代に、本人の意思を無視した、企業や家のための結婚なんて考えられないわ!」
二子がたち上って、叫ぶように云うと、
「どうやら二子さんの意中の人は、鉄平さんのところへ学生時代から出入りしている一之瀬四々彦さんのようね、そして、今晩、お食事をご一緒なさったのは、一之瀬さんでしょう」
「――そうよ、一之瀬さんだわ」
はっきりと二子が応《こた》えると、
「お食事にしては、時間がかかり過ぎね、六時半にオリエンタル・ホテルのロビーにいらしたのだから、お食事だけなら、もっと早くお帰りになれたんじゃない?」
何もかも見通すように相子が云った。
「どうして、そこまでご存知なの、不愉快だわ」
「そんなこと、どうだっていいじゃありませんか、でも一之瀬さんもフェアじゃないわね、よりにもよって、鉄平さんの帰宅が遅い日に、あなたを誘うなんて――」
相子は、ホテルで開かれていた宝石の展示会へ芦屋《あしや》病院長夫人たちと出かけ、帰り際《ぎわ》に、たまたま二子と四々彦の姿を見かけたのだったが、それは口にせず、四々彦を非難した。
「それは違うわ、今晩は鉄平兄さまにご馳走《ちそう》して戴《いただ》くお約束だったのが、急な用件で行けなくなったから、一之瀬君と食事をして帰るようにと云われたのだわ」
「あら、そうなの、でも鉄平さんとのお食事に、どうして一之瀬さんなどがご一緒なさるの」
阪神特殊鋼の一常務の息子に過ぎないことを、侮《あなど》るような云い方をした。二子の顔に激しい反撥《はんぱつ》の色がうかんだ。
「それは多分、日頃の私の願いをかなえてやろうという鉄平兄さまの思いやりというものでしょうね」
「すると、鉄平さんは以前からあなたと一之瀬さんの間柄を、積極的にお認めになっていたというわけなのね」
相子は、二子の言葉を押え込んだ。
「いいえ、鉄平兄さまは、そういうことには関心がない人よ、思いやりというのは、私の勝手な解釈で、お兄さまにしてみれば、案外、同じエンジニアの後輩を久々に犒《ねぎら》う意味でお招《よ》びになったのが、本当のところかもしれないわ」
兄と父との間が最近、妙によそよそしいだけに、二子は兄の立場を慮《おもんぱか》って弁解しかけたが、相子はもはや、聞く耳をもたぬように、
「鉄平さんが、お父さまや私の方針を無視して、そういう妙なことをしていらっしゃるなんて、心外ですわ、お父さまから、万俵家の縁組のルールを破り、勝手なことをなさる鉄平さんの真意を早速、糺《ただ》して戴《いただ》きます」
と云うなり、部屋を出て行ったが、相子の顔には何かを画策する表情がうかんでいた。
吠《ほ》えていたファウン・グレートデンの声が止《や》むと、邸《やしき》は森閑と静まりかえった。万俵鉄平は、十時半を過ぎた夜の邸内の道を独り歩いていた。いつもは、邸内の東側の高みにある自宅の玄関まで車を乗りつける鉄平であったが、今夜は、下の門のところで、会社の車を帰してしまい、緩い坂道を上りながら、つい先程まで討議を重ねていた阪神特殊鋼の緊急役員会の模様を重苦しく思い返していた。
アメリカン・ベアリング社の一方的なキャンセルに対する損害賠償《ペナルテイ》の件が、まず問題になり、去年の十月に鉄平自身が渡米して契約を更新した長期契約書を仔細《しさい》に検討したが、長年の大口取引先という安心感で、キャンセルの場合の損害賠償に関する細部の取りきめが記されていなかった。その上、国際間の商取引での損害賠償の訴訟が、いかに長い年月と多額の費用がかかるかを考えると、誰しも訴訟に持ち込む決断は下せなかった。それよりキャンセルになった製品を売り捌《さば》き、実質的に少しでも損害を食い止めることの方が先決問題であったから、営業担当の川畑常務自ら渡米し、ロスアンゼルスのベアリング会社へ転売する交渉を是が非でも推し進めることに決めた。輸出向けの製品は仕様《しよう》が異なり、国内ではそのまま転売出来ず、仮に売り捌けても二束三文の値打にしかならないから、ロスのベアリング会社への転売の成否が、当面、輸出キャンセルによる損害を最小限度に食い止め得るか否《いな》かの分れ目であった。それだけに鉄平は自身で渡米したかったが、一之瀬工場長は、専務は高炉建設を急ピッチで進める陣頭指揮をするべきだと、渡米を制止したのだった。その上、阪神銀行が、自行の輸出前借金以外の融資は出来ないと断わった今となっては、鉄平自身が大同銀行の三雲頭取に頼んで、資金面の打開を計らねばならなかった。
重い足どりで歩く鉄平の胸に、挫折《ざせつ》感に似た思いが拡がって来た。今度のアメリカン・ベアリング社との契約は鉄平自身が取りきめ、船積み待ての電報を受け取った後の処理も、すべて自分の判断でやって来た。それが今日の結果になったのかと思うと、経営者としての自信が大きく揺らぐのを覚えた。足を止めると、水の流れる音がした。父が毎朝、出勤する時、足を止めて、眼下に見える阪神特殊鋼の煙突を眺める石橋であった。毎日、飽きもせず、愛《め》でるように眺めているというのに、その阪神特殊鋼の急場で、なぜ融資を渋るのか、鉄平には父の心中が解《げ》せなかった。
背後から警笛が鳴り、車のヘッド・ライトが近付いて来た。
「兄さん、どうしたんです、こんなところにたってらして」
窓から、銀平が顔を出した。
「ちょっと、独り歩きしてみたかったんだよ」
「よかったら、お送りしましょう」
「じゃあ、そうして貰《もら》おうか」
鉄平は、運転席の横に坐った。石橋を渡ると、道が左右に分れ、左側の高みに鉄平の家があり、右側に入って行くと、銀平の新居になる。
「兄さん、僕のところにお寄りになりませんか、お父さんから巻き上げたエキストラのブランディがありますよ」
「うむ、久しぶりだな、お前と飲むのは」
頷《うなず》きながら、鉄平は、今夜、二子と一之瀬四々彦と三人で、食事をする約束であったことを思いうかべた。
鉄筋コンクリート二階建ての白い壁と飾窓のある南欧風の建物の前に車が停まると、いつになく和服を着た万樹子が迎えに出た。
「お帰りなさい、あら、お義兄《にい》さまもご一緒でございましたの、どうぞ――」
万樹子は、何か云おうと待ち構えていたような様子であったが、鉄平の姿を見ると、いそいそと居間へ案内した。真っ黒な絨毯《じゆうたん》を敷き詰めた部屋に、イタリア製の赤、黄、紫などのカラフルなソファが置かれている。
「お義兄さま、お茶になさいます? それとも――」
万樹子が気をきかすように云うと、
「いいよ、君は――」
銀平は素っ気なく云い、万樹子は仕方なく居間を出て行った。銀平は洋酒のワゴンからブランディを取って、注《つ》いだ。
「お父さんは、近頃、妙に苛々《いらいら》してらっしゃるようだな、何か難かしい問題でも抱え込んでおられるのかい」
鉄平が聞くと、銀平は、
「そうですかね、僕は一向に気がつきませんよ」
関心なさそうに応えた。
「この間、経済雑誌を読んでいたら、金融再編成の座談会が載っていて、阪神銀行は、富国銀行と合併する可能性大だと予測されていたが、ほんとにそんな気配でもあるのかい」
それが父の不機嫌の原因の一つかもしれぬと思って聞いた。
「まさか、富国銀行などと合併すれば、全く吸収されてしまいますよ」
「それならほっとしたよ、あんな大銀行と合併したら、両行の融資系列の合理化という美名のもとに、こっちまで大鉄鋼メーカーに呑《の》まれてしまいかねない」
と云い、鉄平はブランディを口に運んだ。
「それより兄さんこそ、どうなすったんです、邸内の夜道をしょんぼりと独り歩いたりして、いつものバリバリとしたエネルギッシュな兄さんらしくないですよ、それに昨日《きのう》は、銭高常務とうちの営業部の前で出会い、今日は、兄さんがじきじき、お父さんに会ってらしたそうで、何かあったんですか」
グラスを持っている鉄平の手が、止まった。
「実は、アメリカの大口輸出先からキャンセルがあり、高炉建設中の資金繰りと重なって、苦しいところに追い込まれ、お父さんに融資をお願いしたんだが、にべもなく断わられたんだ――」
と云い、アメリカン・ベアリング社から船積み待ての電報を受け取って以来の経緯をかいつまんで話した。その間、銀平はちらっとも表情を動かさず、聞いていたが、聞き終ると、
「それにしても、兄さんは甘いな、去年の十二月に電報を受け取ってシカゴへ出かけて行き、アメリカン・ベアリング社を乗っ取ろうとしているコングロマリットの動きまで察知しながら、どうして迅速《じんそく》な事態の収拾と同時に、もっと早く資金手当をしておかれなかったのです、そりゃあ、お父さんが立腹されるのも無理からぬことですよ」
「だが、窮地にたっている子会社に輸出前貸金として貸した二億八千八百万だけは、国内融資に切り替えて貸そう、しかし、その分だけ、今月の高炉建設の融資からさっ引くというのは、親会社の阪神銀行としてあまりに冷た過ぎる――」
「そうでしょうか、銀行家たる者は、それでいいのじゃないでしょうか、僕だって、その程度にしか、お貸ししないかも知れませんよ」
はっとするような冷たさで云った。それは今日の夕方、父が自分に向って投げつけた冷たさと酷似していた。鉄平の脳裡に、太平《たいへい》スーパーを冷酷極まりないやり方で潰《つぶ》し、流通部門を持っていない万俵商事に吸収してしまった銀平のやり口が思いうかび、眼の前のダンディな銀平が老獪《ろうかい》冷徹な銀行家の父と重なった。
「お前は、いつも銀行はいやだと云っているが、どうしてどうして、見事なものだよ」
鉄平は、自分と弟との間にある大きな距離を感じ、グラスをテーブルに置いて、たち上った。
鉄平が帰ると、すぐ、万樹子が部屋へ入って来た。
「あなたって、冷たい人ね、お兄さまに、どうして、あんな風なおっしゃり方をなさるの」
「なんだ、君は、たち聞きしていたのか」
「そうじゃないわ、おつまみをお出ししようと思って扉《ドア》のところまで来ると、中のお話が聞え、お部屋へ入るに入れずにいたのですわ」
「まあ、どちらでもいいことだ、さあ、シャワーを浴びて寝《やす》もう」
銀平がバス・ルームへ行こうとすると、
「あなた、お話があるのよ」
「また、君のお話か、明日でもいいじゃないか」
欠伸《あくび》を噛《か》み殺すように云った。
「いいえ、今日中に話さなくてはならないことですの」
「一体、どうしたというんだい?」
大儀そうに足を止めた。
「あなた、私、子供が出来たらしいの」
「なに、君が妊娠――」
万樹子は、初めての妊娠を羞《は》じらうように着物の衿《えり》もとへ顎《あご》を埋めたが、銀平は無感動な表情で、
「おかしいな、君はいつも大丈夫だと、云ってたじゃないか」
バース・コントロールについて云った。
「そうよ、でも欲しくなったの」
「じゃあ、騙《だま》したというわけか」
「騙しただなど――、私だって初めは、それほど欲しいとは思わなかったけれど、閨閥《けいばつ》を重んじる万俵家では、子供は必要欠くべからざるものだということが解《わか》ったの、だからあなただって、口では何かとおっしゃっていても、子供が出来ればお喜びになると思って……」
「喜ぶ、僕が子供を――」
無表情な顔が、おぞましげに歪《ゆが》み、
「堕《おろ》してしまうことだな」
と云った。みるみる万樹子の顔から血の気が退《ひ》き、
「どうしてなの、私たちは経済的にも、家庭的にも、健康的にも、すべての点で恵まれていて、何一つ堕さねばならない理由などないわ、それなのにあなたは、そんなことを……、あなたは、私を少しも愛していないのだわ、愛していないのに結婚し、子供をつくらせ、そして堕せという冷酷な人なんだわ……」
万樹子の声が次第に昂《たかぶ》り、ヒステリックになって来たが、銀平は、
「僕のような人間、万俵家の血をひいて背骨がいびつに歪んだような人間を、これ以上、つくりたくないからだ――」
醒《さ》めた抑揚のない声で云った。
*
大同銀行の頭取室は南側に面して明るく、天井から壁面、家具調度に至るまで、贅《ぜい》を尽した豪華さが目立ったが、どことなく野暮ったい。その中で、三雲頭取が日銀から就任した時に掲《か》け替えた岸田劉生《りゆうせい》の「麗子像」の絵が、わずかに三雲の趣味をうかがわせ、部屋の雰囲気を幾分、救っていた。
三雲頭取は、「麗子像」を背にして、阪神特殊鋼の万俵鉄平と向い合って坐り、鉄平が話すアメリカン・ベアリング社からのキャンセルの経緯とそれに伴う融資依頼を聞いていた。
「一月の末に資金ショートした二億五千万の面倒をみて戴いたばかりですのに、再度、このようなお願いに上り、心苦しい限りですが、ともかく、輸出前金の返済をしなければなりません、二カ月分の前金五億七千六百万のうち、阪神銀行から借りた一月分は何とか国内一般貸出しに切り替え、融資して貰えることになっていますが、大同銀行さんから前借りした昨年十二月分の二億八千八百万の調達がどうしても出来ませんので、もう一度、ご融資戴《いただ》きたいのです」
鉄平は、恐縮しきって深々と頭を下げ、二億八千八百万円の融資を依頼した。三雲頭取は、鼻筋の通った面長《おもなが》の顔に、厳しい色を湛《たた》え、
「こうした事態について、阪神銀行の万俵頭取はすべてご存知なんでしょうね」
確かめるように聞いた。
「むろん、私自身が説明し、承知しておりますが――」
「それなら、どうしてもっと面倒をみないのです、それでなくとも、輸出キャンセルという最悪の事態になったら、その面倒はメインがみるのが筋じゃありませんか」
メイン・バンクである限り、取引企業が順調に行っている時はもちろんのこと、企業がピンチに陥って、イレギュラーに資金需要が出来た時にこそ、親身に面倒をみるべきであったから、三雲は不快な思いを抑えかねるように云った。
「それはそうなんですが、父が申しますには、阪神銀行は地場《じば》産業の資金需要に追われて、資金ポジションが悪化しているので、このまま行くと、日銀からの次期の資金割当の枠《わく》が悪くなりそうなので、資金ポジションが改善されたら、埋め合せをする、ここは半分、大同銀行さんに融資して貰ってほしいと申しました――」
鉄平は苦しげに応《こた》えた。その阪神銀行が融資してくれる一カ月分の二億八千八百万円も、高炉の設備資金からさっ引いて貸して貰うのだとは、いくら三雲の前でも云えなかった。三雲は鉄平の太い眉《まゆ》が苦しげに眉間《みけん》に寄るのを深い眼《まな》ざしで見た。万俵大介と鉄平父子の間に、何か他人には窺《うかが》い知れない微妙な感情が介在しているのではないかという疑念は、高炉建設の設備資金を調達する当初の段階から、うすうす感じていた。阪神銀行が従来の四〇パーセントの融資比率を三〇パーセントに削ってしまい、その削減された十八億円の資金調達のために、技術者の鉄平が協調融資銀行と生命保険会社を奔走して、ようやく八億円を調達したが、残り十億の都合がつかず、自分のところへ疲労困憊《こんぱい》した顔で頼みに来たのだった。その時の鉄平は、メイン・バンクの頭取を父に持つ息子とは考えられないほど途方にくれ、思い詰めた顔であった。
そして今また輸出の大口取引先から、二カ月半もの滞貨を持ったままキャンセルされるという異常事態にもかかわらず、メイン・バンクに面倒をみて貰《もら》えず、自分の前に頭《こうべ》を垂れている。その鉄平を見ると、三雲は自分がこれまで漠然と抱いていた疑念が、単なる推測ではないことを感じた。しかし、万俵頭取ほどの銀行家《バンカー》が鉄平との間にある何らかの感情のために、阪神特殊鋼という企業に対してまで冷淡であるのは異常に過ぎた。
「鉄平君、阪神特殊鋼は高炉建設前から比べると、阪神銀行から当行への比重を随分、深めていますね、まず高炉設備資金が、最初の計画段階では阪神銀行四〇パーセント、当行三〇パーセントであったのが、結果的には三〇対三五になり、さらに船荷ストップによる資金ショートの面倒から、今またキャンセルによる輸出前金返済の資金繰りまで持ち込まれるに及んでは、メイン・バンクが後退していると考えざるを得ません、メインが手を引く限り、よくよくの事情がどちらかにあると考えるのが常識ですが、阪神特殊鋼の方にその原因はないのでしょうね」
穏やかだが、射るような視線を向けて聞くと、鉄平は暫《しばら》く黙っていたが、精悍《せいかん》な眼をぎらりと光らせ、
「強いて阪神特殊鋼に原因があるとすれば、それはメインの云い分を以前のように聞かなくなったからでしょう」
「なぜ、メイン・バンクの云い分を聞かなくなったのですか」
「父の云う通りにしておれば、高炉はいつまでたっても建てられないからです、どんなに説明しても、父には、高炉建設が身のほど知らずの危険な賭《かけ》だとしか考えられないらしいのですが、賭けることを怖《おそ》れていては、企業はいつまでたっても大きく飛躍出来ません」
鉄平は拳《こぶし》を固め、歯噛《はが》みするように云った。三雲はそうした鉄平の一本気なところを、マサチューセッツ工科大学の留学生であった頃と少しも変っていないと頬笑ましく思う一方、自分も阪神特殊鋼に賭《か》けてみたいという衝動に駈《か》られた。日銀理事から大同銀行の頭取に就任して一年になろうとしていたが、就任当初の理念とは裏腹に、何か新しいことをやりかけると、行内の貯蓄銀行時代の生抜《はえぬ》き派との間に軋轢《あつれき》を生じ、いまだに新頭取としてこれといった業績をなし遂げていなかった。そのことに対する焦《あせ》りがないといえば嘘《うそ》になるが、そうした個人的な功名心をぬきにして、三雲が今、痛切に感じていることは、産業界の傍観者ではなく、企業を育成する仕事に自分も身を以《もつ》て参加したいということであった。十幾つも齢《とし》若い鉄平が高炉建設に賭けるように、自分も日銀から市中銀行の頭取として就任して来たからには、銀行家としての足跡を残し得るような融資を行ないたかった。
むろん、阪神特殊鋼に対しては、今までも、行内生抜き派の懸念《けねん》を押し切って、阪神銀行と並ぶ平行メインとしての積極的な融資をして来たが、それは鉄平との個人的繋《つな》がりが多分に作用する心情的な平行メインであった。そこで阪神銀行が一時的とはいえ、メインの座から後退した今、メインを奪い取るような意気込みで融資に乗り出し、阪神特殊鋼を大きく育成してみたいと心ひそかに思った。それは即《すなわ》ち、図体《ずうたい》ばかりは大きいが、これという一部上場の取引企業を持たない大同銀行を充実させ、体質を改善することでもあった。
「あなたの今回の融資は、滞貨資金の手当だけに、当行の融資担当が賛成するかどうか、難かしいところですが、ともかく検討させてみます、そして私自身もあなたのお話だけでなく、お父上である万俵頭取に、メイン・バンクの頭取としてのご意向を承らせて戴きたいと思いますが、よろしいでしょうね」
と三雲が聞くと、鉄平は一瞬、躊躇《ためら》うように言葉を呑《の》んだが、
「どうぞ、それで三雲頭取のご納得がいかれるのでしたら――」
複雑な表情で頷《うなず》いた。
三雲頭取は静かに電話をきると、阪神銀行の万俵頭取と話し合ったばかりの内容を反芻《はんすう》した。
さっき、万俵鉄平から融資を依頼された阪神特殊鋼の業容について問い合せたのに対し、万俵頭取は、メイン・バンクとして阪神特殊鋼の面倒をみてやれないのは、目下、地場《じば》産業の資金需要に追われて、資金ポジションが苦しいためであることを、極めて明瞭《めいりよう》に説明した。もしやと懸念していた経営上の問題も、万俵鉄平から説明をうけた以外に窺《うかが》われず、三雲は融資の決意を固めた。あとは融資担当の綿貫《わたぬき》専務を呼んで、この融資方《がた》を話し合うことであった。
三雲は、机の上にある役員の在室標示ランプに眼を遣《や》り、役員間にある微妙な派閥を思った。三雲が日銀から大同銀行へ天下って来た時から、行内には貯蓄銀行時代からの牢固《ろうこ》とした生抜き派と、日銀天下り派と、そのどちらにもつかない中間派の三つの流れがあり、専務二人、常務五人の役員陣も、この三派に分れているが、生抜き派の長である五十九歳の綿貫専務が、他を抑えていた。
扉《ドア》をノックする音がし、咳払《せきばら》いが聞えた。専務の綿貫千太郎であった。さして高くない身長に不釣合いな大きい赭《あか》ら顔が目だち、人一倍低いもの腰で、三雲の前に坐った。新調らしい金目《かねめ》のかかった茶色のスーツを着込み、赤茶の靴を履いた様子が、いかにも大同銀行の前身である貯蓄銀行時代から叩《たた》き上げた生抜きの専務らしい野暮ったさと親しみやすさを示している。中小企業の取引先ではそれが人気になっていたが、三雲のような日銀育ちで、外国勤務もして来ている人間には、正直なところ、綿貫のような持味が、体質的に合わなかった。しかし、綿貫の持っている貯蓄銀行以来の顔の広さと実務の豊富な知識は、毎日の銀行業務に必要であった。
「頭取、何か急なご用でも――」
「ほかでもないんだが、君も知っている阪神特殊鋼の融資の件だよ、実は先程、向うの万俵専務が私に面会を求めて来たんだが、アメリカン・ベアリング社への輸出がキャンセルになり、その資金ショートを切り抜けるために、二億八千八百万を融資してほしいという申し入れだったんだ」
三雲が鉄平の依頼を説明すると、綿貫は、まるで動物的な嗅覚《きゆうかく》を働かせるように大きな鼻翼をふくらませ、用心深く聞き入った。それは百戦錬磨を経て来た人間の、容易にものごとを信じない表情であった。聞き終ると、
「なるほど、輸出キャンセルというような突発事が起ったわけでございますか、それでメインの阪神銀行も面倒が見きれないということでございますね、しかし、やはりこれは少々、おかしゅうございますよ、メインが二億八千八百万の面倒が見られず、うちにおっかぶせて来るには、何か裏がありはしませんか」
叩き上げの職業的な勘を働かせるように云った。
「いや、その点については、つい今、私が直接、阪神銀行の万俵頭取に電話をかけて問い合せたところ、阪神銀行が地場の資金需要に追われ、手詰りな状態だから、ここは半分、大同さんに面倒を見て貰いたいという打ち割った話で、君の云うような裏などない」
「そうでしょうかねぇ、で、頭取はどういうご意向なんですか?」
自分の意見は云わず、まず三雲の意見を聞いてからという風に出た。
「今回の阪神特殊鋼の資金ショートは、業績の悪化から来るものではなく、どこまでも輸出キャンセルという突発事から来る一時的な資金ショートだから、この際、融資しておいた方がいいと思っている」
率直に意見を打ち出すと、綿貫の赭ら顔が大きく動いた。
「頭取は、二億、三億と簡単におっしゃいますが、その二億なり三億を五十口、百口と小口に分けて、当行がメインになっている中小企業に融資すれば、どれほど喜ばれるか解《わか》りません、たとえば先日来、私のお話ししておりますアサヒ石鹸《せつけん》への五千万の融資にしても、阪神特殊鋼一社に二億八千八百万も貸す余裕があれば、貸すべきだと思います」
先日来の話を蒸し返すように云った。アサヒ石鹸は資本金二十億、二部上場で、大同銀行がメイン・バンクになっている石鹸、洗剤メーカーであった。
「その件については、この間も私が云ったことだが、石鹸、洗剤メーカーそのものが、一頃《ひところ》のブームも終り、薄利多売の過当競争で下向きになって来ているうえ、今後この業界には、ますます大手の石油化学会社が進出して来るだろうから、同族会社で、これという経営者がいないアサヒ石鹸は、長期的にみた場合、君の云うように将来性のある企業かどうか、考え直す必要がある」
平静な口調で云ったが、綿貫は陰に籠《こも》った表情で、黙り込んだ。それというのも、綿貫はアサヒ石鹸がまだ町工場時代の戦前からその融資を手がけて来ており、昭和二十八、九年、石鹸の過剰生産で業界が悪くなった時には、洗濯機の普及を見越して、尻込《しりご》みするアサヒ石鹸に粉石鹸工場の設備資金を融資し、ホーム・サイズで販売することまでアドバイスして、見事に業界のヒット・メーカーに仕立て上げたという実績があったからだった。以来“石鹸太郎”の異名で呼ばれるほど、こと石鹸については一見識を持っている。それだけに小堅いアサヒ石鹸への融資を固執する綿貫と、阪神特殊鋼への融資に踏み切ろうとしている三雲との間に、根本的に噛《か》み合わぬものがあった。綿貫は、細いよく光る眼で、
「私はですねぇ、やはり人間、着るものから縁がきれず、衣生活が潤沢になればなるほど、洗剤の需要は伸びる一方で、先行に不安のない業種だと思います、それにアサヒ石鹸の預金の歩止《ぶどま》りは六割方《がた》あるのに対し、阪神特殊鋼は歩止りどころか、高炉が完成して稼動《かどう》しはじめると、さらに増加運転資金を食い、さっぱり預金する余力などありませんよ」
ぱちりと算盤玉《そろばんだま》を弾《はじ》くように云った。
「君の云う採算も一理だろう、しかし、当行も今や、以前の貯蓄銀行の時代ではなく、都市銀行なんだから、当行の核となるような取引企業が必要だと思う、何のかんのと云っても、鉄鋼はここ十年、二十年は、世界的に需要増加の傾向を辿《たど》るに違いなく、君の強調する採算面からいっても、外国へ輸出する特殊鋼メーカーと取引することによって、外国為替の分《ぶ》のいい収益が入るじゃないか、扱い高の少ないわが行でも、外為《がいため》収益は全行員の五パーセントの人数で、経常利益の一〇パーセントを上げている、ここで阪神特殊鋼に融資すれば、その見返りとして、高炉完成後の原料の輸入の外為は当行に持って来るという条件になっている、外国部門の強化という面でも、阪神特殊鋼への融資は行ないたい」
静かだが、芯《しん》の強い語調で云うと、外国為替に通暁《つうぎよう》していない綿貫は、ぐうの音も出ず、
「そりゃあ、頭取のおっしゃるように、あらゆる面で国際化が急速に進んでいる折柄、外為業務の拡大が重要なことは解りますが、去年から統一経理基準が実施され、配当の自由化も促進されて、とにかく収益競争の時代なんですから、近視眼的といわれようと、私はやはり、ここのところは、巨額の設備資金や運転資金を食う鉄鋼などより、眼先の堅い利鞘《りざや》を稼《かせ》ぐことを第一に考えるべきだと思いますがねぇ」
叩き上げの専務らしい手堅い意見を述べた。
「だが、君のように云っていると、いつまでたっても、預金量は一人前だが、これという優良貸付先を持たない当行の体質の最大の欠点を改善することが出来ない、この際、基幹産業である阪神特殊鋼に貸し進んで、阪神銀行と並ぶ平行メインになっておくべきだと思う」
「ですが、阪神特殊鋼がほんとうにいい業績にあるのなら、かりにも親子関係にある万俵頭取が、平行メインになる当行を見過すはずがないと思われませんか、それでも頭取が、なおどうしてもとおっしゃるのなら、当行から誰か人を派遣すべきではないでしょうか」
綿貫は執拗《しつよう》に、疑い深く云った。
「それがいいなら、向うと相談した上で出そう、しかし、何も今、そう急ぐことはないじゃないか、業績が悪化したというわけでなく、単なる一時的な資金ショートなのだから――」
三雲が云うと、
「そこまでおっしゃるのでしたら、この件は、頭取のご決裁にお任せした方がよろしいのですかな」
綿貫千太郎は、三雲に責任を持たせるように云い、たち上った。
芸者たちの嬌声《きようせい》で、座敷は三味線がかき消されるほど賑《にぎ》わっている。大同銀行の綿貫専務が腹心の部下ばかりを集めた内輪《うちわ》の酒席であった。
「さあ、豆千代、今度お前が負けたら、見ものだな」
大きな赭ら顔を、さらに酒気でほてらせた綿貫千太郎は、二十《はたち》そこそこの鳩胸《はとむね》の芸者と、背広を脱いだシャツとすててこ姿で向い合っていた。気のおけない神楽《かぐら》坂《ざか》芸者たちを相手に、野球拳《けん》に興じ、芸者の方も既に帯を解き、座敷着も脱いで、長襦袢《じゆばん》一枚のしどけない姿になっていた。
「なにおっしゃってるの、千さまこそ、この一発でまる裸まちがいなしよ、さあ、いくわよ」
長襦袢の袖口《そでぐち》をたくし上げるようにして、豆千代が甲高いかけ声をかけると、三味線が鳴り、他《ほか》の芸者と綿貫の五人の部下たちは、再び歌いはじめた。
歌に合わせて、綿貫と豆千代はわたり合うように、派手なゼスチャーで、
「それジャンケン・ポン!」
「あいこでポン!」
じゃんけんをした途端、どっと笑い声が上った。綿貫の負けであった。
「さあ、千さま、そのラクダのシャツを脱いで貰おうじゃないですか」
豆千代が促すように云い、綿貫は頭をかいてシャツを脱ぎ、上半身、裸になった。
「あら専務、またお灸《きゆう》の跡が一つ、ふえたじゃないの、いやあね」
肉のたるんだ背中一面にある灸の跡を数えて、芸者たちは笑いころげた。
「男を裸にするなんて、豆千代も可愛《かわい》げがないね、この辺で一休みといきましょうか」
すててこ姿になってしまった専務に助け船を出すように、綿貫の股肱《ここう》の臣である業務担当の小島常務が云った。
「うん、さすがに寒くなって来た、熱いのを一杯くれ」
綿貫が云うと、芸者が左右から手早く服を着せ、神戸支店長の橋爪が熱燗《あつかん》をぐいのみに注《つ》いでさし出した。一座の中で一番、齢若い橋爪神戸支店長は、たまたま支店長会議で上京して来ているのだった。
綿貫専務を上座にして、業務担当の小島常務以下、長谷川総務部長、湊《みなと》本店営業部長、岸田浅草支店長、橋爪神戸支店長の五人が、自然と序列順にテーブルを囲み、芸者たちもその間に割って入ると、綿貫は自分の親衛隊の一人一人に盃《さかずき》を廻し、
「おい、岸田君、元気を出して飲めよ」
皆が野球拳に興じている時も、ひとり冴《さ》えない顔でいた岸田に声をかけた。
「そうだよ、今晩の会は、われわれ綿貫親衛隊の忠実なるメンバーである君の送別会も兼ねているんだから、ぱあっと飲んで憂《う》さを晴らし給《たま》え!」
小島常務も、力づけるように云い、この三月三十一日付をもって停年退職する岸田浅草支店長の盃に酒を注いだ。
「どうも、これは――、しかし私は」
岸田は盃を受けながら、表情を歪《ゆが》め、言葉を跡切《とぎ》らせた。
「解る、岸田君、君の無念な気持は」
隣にいる湊本店営業部長が、何度も頷き、
「去年の秋の取締役会で、僕は末席に列《つら》なりながら、一つ空いた取締役のポストに当然、岸田君が指名されるとばかり思っていたのに、またも日銀から発券局の部長が、油揚げをさらう鳶《とんび》みたいに天下って来たんですからねぇ、事前にもしそんな情報が耳に入っていたら、われわれは直ちに組合で問題にさせ、目にあまる日銀天下り人事をボイコットしてやったのになあ、専務はあの時、ほんとうに何も聞いておられなかったのですか」
頭取の三雲の他《ほか》に、常務一人、取締役二人が日銀から天下っていることへの憎悪《ぞうお》を剥出《むきだ》しにするように云った。綿貫は盃を置き、
「それはあの時も話したように、前日になって三雲の殿さんから、日銀の発券局部長を入れたいので、諒承《りようしよう》してほしいと頼み込まれたんだ、もちろんわしは承知しかねると突っ撥《ぱ》ねてやったが、日銀の方じゃあ、すっかり話が固めてあって、たかだか発券局の一部長の処遇に、副総裁までよろしく頼むと云っていると云われては、日銀から金を借りているわれわれとしては、どうしようもないじゃないか、このわしも、次々に日銀から天下って来る自分より齢下《としした》の頭取に仕えさせられているんだ」
ぐっと声を噛《か》み殺すように云うと、
「しかし、専務、わが行は日銀から金を借りているといったって、僅《わず》か一千億になるか、ならないかじゃないですか、それくらいの金で大きな顔をされるなら、いっそのこと、われわれ粉骨砕身、必死で働いて、叩き返してやりたいですな」
橋爪神戸支店長が、きっぱりした語調で云った。
「その通り! だいたいだな、うちが頭取を日銀から入れているといっても、月々、日銀から貰《もら》う貸金の枠《わく》は、むしろ当行より規模の小さい平和銀行や阪神銀行と、いつも同じじゃないか、何かといえば、総裁、副総裁によろしく頼んでおくと、日銀派の連中は云うけれど、私が日銀の営業部長に会って、そんな話が伝わっていたためしがないよ、そのくせ、奴《やつこ》さんたちときたら、お実家《さと》の日銀がすぐお向いにあるせいか、ちょこちょこ、よく行っているんだな、ことに外国担当の白河常務など、週のうちの三日はお向いに足を運び、半日つぶして帰って来る、一体、何の話をしているのかしらんが、そんなにお実家《さと》が恋しけりゃ、ことのついでにサラリーも、向うで半分貰って来いっていうんだ」
小島常務が、業務担当の部隊長らしい向う意気の強さで毒づくと、総務部長の長谷川も傍《かたわ》らの芸者の尻《しり》を撫《な》でながら、
「白河常務といえば、日銀の接待といっては、赤坂、新橋の料亭を、自分専用の座敷みたいに、じゃんじゃん使うので、総務部でも弱ってるんですよ」
こぼすように云った。
「へえ、そんなに使っているのかい」
湊本店営業部長が盃を止めて、聞き捨てならぬように云った。長谷川は顔をしかめ、
「店舗問題で大蔵省を相手に、日夜、頭を痛めている企画担当の角野常務の倍近くも使っているんだから、無駄金もいいところだよ、まあね、あの人は三雲頭取と同じように、お育ちがわれわれと違うんだから、新橋と赤坂しか知らないんだろうよ、神楽坂にこんないい妓《こ》がいるというのにねぇ」
芸はともかく、客の求めとあれば、気さくで大胆に振舞う神楽坂芸者を持ち上げるように云うと、
「さすがは総務部長、いいことおっしゃるわね、でも日銀出の人って、全部、そんな乙《おつ》にすましたいけすかない人ばかりなの?」
豆千代が、鳩胸を突き出すようにして聞いた。
「うむ、総じて煮えたか、饐《す》えたか解らん御殿女中みたいなのが多いな、つまり陰湿で嫉妬《しつと》深いという奴《やつ》さ、そら、専務、専務の下にいる島津融資部長なんか、その典型じゃないですか」
「そうだな、あいつはほんとうのところ、貸借対照表の右左だって、いまだに怪しいんじゃないかって、時折、次長がこぼしてるけど、やれ景気変動がどうの、国際競争力がどうのという大上段の話ばかりを長々とやって、肝腎《かんじん》の稟議書《りんぎしよ》に書いてある預金取引ぶりや担保については、全く見ていないらしい、そのくせ次長がわしの部屋へ直接、説明に来ると、やきもちをやいて、ねちねちといやがらせを云うんだそうだ」
綿貫が嘲笑《あざわら》うように云うと、小島常務は、
「融資といえば、専務、この間の融資会議で結論が持ち越されたアサヒ石鹸は、どうするつもりです?」
「その件については、実は今朝《けさ》、お殿さんと話したんだが、要はアサヒ石鹸にはこれという経営者がいない、長期的に見た場合、成長性がないから、そんなところへ融資するくらいなら、基幹産業である阪神特殊鋼へもっと貸し込むべきだというのが、殿のご意見なんだよ」
「そうすると、アサヒ石鹸を見殺しにするというわけですか、そんな馬鹿《ばか》な! アサヒ石鹸は、私も専務と一緒に、戦後の焼跡の町工場から今日の二部上場の会社にしたんじゃないですか、日銀からぽっと天下った頭取が何を云うかと云いたい!」
慷慨《こうがい》するように云うと、他の者たちも、
「全くだ! 何で鉄鋼がよくて石鹸がいかんのだ、日銀天下りの連中は、貸付先まで庶民離れのした基幹産業という格付けをせんと、おさまらんのか」
歯噛みし、座敷机を叩《たた》くように云った。そこには、大同銀行の前身である日掛けの貯蓄銀行時代から入行し、こま鼠《ねずみ》のように働き、やっと専務や常務や部長、支店長となった者たちの憤《いきどお》りと反感が籠《こ》められていた。
「それで専務、阪神特殊鋼への融資は本決まりですか、あれは輸出キャンセルによる滞貨資金の手当だとか聞いていますが、真偽のほどはどうなんです」
湊本店営業部長が、聞いた。
「そうだ、しかしお殿さんは外為《がいため》による利益率まで持ち出して、何が何でも融資する腹だ」
吐き捨てるように応《こた》えると、神戸支店長の橋爪が、
「実はその融資依頼は、阪神特殊鋼の経理担当常務から、うちの神戸支店へ出されていますが、いくら何でも、メインの阪神銀行が虫がよすぎるので、断わろうと思っていた矢先です、それをまた万俵専務は、頭取とじか取引したというわけですか――」
自分の頭越しに、トップ対トップで決められたことを不快げに云った。
「今朝のお殿さんの話では、万俵頭取にも事情を問い合せたところ、阪神銀行は地場産業に金を食われ、資金ポジションが悪化しているので、ここのところは――と頼まれたそうだが、阪神銀行は自分のところの系列会社に金を廻せないほど、そんなに資金不足をかこっているのかねぇ」
「そう云われれば、灘浜や播磨《はりま》臨海工業地帯にどんどん大企業が進出して、資金需要は高まっていますが、万俵頭取というのは、聞きしにまさる政治家であり、辣腕家《らつわんか》ですからねぇ、言葉通り信じていいか、どうか」
橋爪が警戒するような口振りで云った。
「なるほど、万俵頭取は聞きしにまさる政治家であり、辣腕家か――、今の君の言葉は心にとめておこう」
綿貫は、酔いの廻った眼をちかっと光らせ、
「さあてと、日銀野郎の話などで酒がまずくなった、おい豆千代、岸田君の送別に、大サービスのチーク・ダンスを踊ってやってくれ、わしが歌うからな」
あと十日で銀行を退職し、浅草の個人商店の重役に停年後の身柄を拾われて行く部下のために、綿貫千太郎は、大きな声を張り上げた。
三雲頭取を乗せた車が、渋谷松濤《しようとう》の邸《やしき》の前に停まり、運転手が門のベルを押すと、六十近い老婢《ろうひ》が門を開けた。
「お帰りなさいまし」
「うむ、今日はどんな風《ふう》かい」
「はい、ご気分がおよろしいそうでございます」
「そうか、それはいい」
老婢の口ぶりで、この日の娘の志保《しほ》の容態が解《わか》った。三十を過ぎて、病弱のために婚家から戻って来ている娘の様子が、九年前に妻に先だたれた三雲にとっては毎日の気懸《きがか》りであった。
古風な洋館の玄関を入り、応接室の前を通って、庭に面した娘の部屋の扉《とびら》を開けると、淡いブルーのガウンを着た志保が、ベッドの横のソファに坐《すわ》って父を迎えた。
「お父さま、お帰りなさいまし」
亡《な》き妻に似た細面の顔の中で、澄んだ眼が頬笑んだ。
「婆《ばあ》やの話では、気分がいいらしいね」
「ええ、夕方のお熱もございませんでしたのよ、それよりお父さまは少し、お疲れのご様子ね」
「いや、別にたいしたことはないんだが、今日は、万俵鉄平君が訪ねて来てねぇ」
「まあ、鉄平さんが――、それであの方《かた》のお仕事はうまく行ってらして?」
父から高炉建設のことや、鍬入式《くわいれしき》の模様などを聞いて、知っているのだった。
「それが困ったことが起って、その頼みごとだったんだ……」
三雲は曖昧《あいまい》に応えたが、志保は父の表情で察したらしく、
「あの方は、マサチューセッツ工科大学に留学していらした頃、うちへいらしてブリッジをしておいでの時でも、すぐ鉄のお話をなさり、お父さまは鉄作りの“情熱居士《こじ》”だと感心していらっしたこともありましたわね、お父さまにお出来になることなら、少しぐらい難かしくても、してさし上げたら……」
父が日銀のニューヨーク事務所の参事、志保自身はまだカレッジ時代であった頃を懐《なつ》かしむように云うと、三雲も、
「その代り、鉄平君も私のことを、アルコールが入ればすぐ若山牧水の歌を口にする“純情居士”だなどと、云い返していたね」
「ええ、そうよ、あの頃、まだお元気だったお母さまが、“情熱居士”と“純情居士”だから、うま[#「うま」に傍点]が合うのねとおっしゃっていらしたわ、それにいつだったか、あの方とお父さまとカナダへトナカイ狩りにいらしたときのこと、雌のトナカイを撃って運んでいると、雄が哀《かな》しげな声をたてて追って来たけれど、さすがに、それは撃てなかったとおっしゃってましたわ、逞《たくま》しい中に優しい心をお持ちの方ですのね」
三雲はその時の光景を思い出した。それは或《あ》る年のクリスマス・ホリデーを利用した狩猟で、見渡す限りの雪原を疾走《しつそう》する二頭のトナカイを見つけて、鉄平と同時に撃ち、雌だけを仕留め、現地で傭《やと》った人夫にそれを運び出させた時のことだった。逃げたはずの雄のトナカイが、その後を恋い慕うように追って来て、それを人夫が撃とうとすると、鉄平は、撃たれることを覚悟している奴《やつ》を撃つのは止《よ》せと制したのだった。
「そうだね、鉄平君というのは、あの精悍《せいかん》なぎらぎらした顔つきに似ぬ優しい心の持主だな、お前もそうした相手だったら――」
と云いかけ、三雲は口を噤《つぐ》んだ。志保は、戦前の法曹界を代表する学者の次男で、東京大学法学部の講師である男と見合い結婚し、一児をもうけたが、病弱が原因で離婚したのだった。志保はアメリカのカレッジを卒業して日本へ帰国し、日本の大学卒業の前年に一年休学していたから、体は丈夫でなかったが、それを承知で結婚しておきながら、結婚して二年目に女児を出産した後、右肺上葉にシューブを起し、療養生活を余儀なくされるや、夫は思いやりもなく志保をつき放したのだった。それを思うと、三雲の心は暗かった。それだけに四十八歳で、妻に先だたれ、何かと不便であったが、娘の不幸を思って、自らも独身を通して来たのだった。
「嬉《うれ》しいわ、今日は久しぶりでお父さまとお夕食をご一緒できるのですもの――」
いつもは老婢と二人きりでひっそりと食事をする志保は、透けるような白い項《うなじ》をかしげて云った。
「このところ、宴席続きだったからね、じゃあ、ちょっと着替えて来るから、待っておいで」
三雲は娘の部屋を出、廊下伝いに書斎に入った。十四、五畳ほどの部屋であったが、天井が高く、壁紙の色は褪《あ》せ、一行の頭取の書斎としては決して贅沢《ぜいたく》に整ったものではなかった。しかしよく見ると、節《ふし》一つない太い柱と梁《はり》が使われ、何十年来、拭《ふ》き磨かれて来た光沢と重みがあった。曾《かつ》ては父が使っていた書斎であるが、父は旧財閥の五井家の理事で、貴族院議員であり、母もその一族の出であったから、戦前は富裕であった。戦後の財産税で邸の半分を物納し、今は五百坪の敷地に、建坪九十坪の住まいになってしまっている。三雲は書斎机に坐って、窓の外を見た。敷地は半分になってしまっているが、庭の松と槙《まき》の樹《き》は齢毎《としごと》に年輪を増している。その年輪のように自分を顧みると、日銀へ入行して以来、秘書室、海外勤務、調査局などのいわゆるエリート・コースと呼ばれる道を歩んで理事になり、戦後はじめての国債を発行するにあたって、大蔵省と金融証券業界の双方に納得の行くような国債発行の条件をまとめたことが認められ、当時の総裁からも犒《ねぎら》いの言葉をかけられ、自他ともに将来を期していたのだが、日銀人事の序列で、大同銀行の頭取に天下ることになったのだった。そして今、十数年前に日銀マンとしてニューヨークに駐在時代、たまたま親交を結んだ万俵鉄平という一人の青年の鉄に賭《か》ける熱意に動かされ、銀行家である自分が、一つの事業に賭けようとしていることを、もう一度、反省するように思い返した。それは日銀という砦《とりで》の中にいた時には到底、考えもつかない冒険であった。銀行家たるものは、失敗の危険性が一分でもあれば、踏み切らないことであった。それに反して事業家は、成功と失敗のバランスが、たとえ七対三、或いは六対四の割合でも、賭ける場合がある。そこが事業家と銀行家の基本的な相違点だが、今の三雲は、銀行家としての基本から一歩、踏み出そうとしているのだった。
背後《うしろ》で、老婢の声がした。
「旦那《だんな》さま、お夕食のご用意が出来まして、お嬢さまがお待ちでございます」
「ああ、うっかり待たせてしまったな、じゃあ、着替えを手伝っておくれ」
老婢は書斎に続いている居間から結《ゆう》城紬《きつむぎ》の着替えを出し、三雲のうしろから羽織らせ、手早く帯を結んだ。それは、三雲の妻がまだ若く、娘の志保も幼なかった時から、三雲家にいる者の手馴《てな》れた仕種《しぐさ》であった。
食堂に出ると、志保も青磁色の和服を着て、父を待っていた。食卓の上には、淡いクリーム色の薔薇《ばら》が活《い》けられ、濃い香りが漂っていた。
「ほう、クリーム色の薔薇だな、志保が三歳ぐらいの時、お庭のクリーム色の薔薇を見つけて、クリーム色の匂《にお》いがすると云ったのを今も覚えているよ」
その頃から感受性の強い娘をなつかしむように云うと、給仕をしている老婢も、
「ほんとうにお嬢さまは、ご幼少の時から、色や香りに強い感覚をお持ちでした」
と相槌《あいづち》を打ちながら、皿にスープをつぎ分け、
「はい、お嬢さまのお好きなオニオン・スープ、お体が温まって栄養がございますが、猫舌《ねこじた》でいらっしゃるから、お気をつけて――」
まるで母親のように一つ一つかまった。
「婆やったら、いつまでもそんな風に云わないで、三十二歳にもなっているのに、人さまがいらしたら恥ずかしいわ、ねえ、お父さま」
「いいじゃないか、内輪だから――、こうして婆やがお前の面倒をみてくれているから、私だって安心しておれるんじゃないか」
と云い、スプーンを取って、スープを呑《の》みかけた時、薔薇の花弁《はなびら》が、三雲のスープ皿に落ちた。給仕をしていた老婢の袖が、開き過ぎた一茎に触れたのだった。志保はすぐ手を伸ばして、その一茎を抜き取ろうとした途端、
「あっ!」
小さく声を上げた。指に棘《とげ》が刺さり、白い指先に血が滲《にじ》んだ。三雲はすぐ白いナプキンを娘の指に当てながら、病弱な娘の手が、薔薇の棘にさえ傷つくのかと思うと、いとおしさが増した。
「お父さま、もういいの、ご免なさい、私って、こんな風に不器用なものだから、何かにつけて、いつも叱《しか》られてばかりいましたの」
離婚した婚家先のことを云った。
「いいよ、こんなこと不器用でも、少しも恥じる必要はないよ、さあ、棘を抜いてあげよう」
三雲は娘の血を拭《ぬぐ》い、指先に刺さった棘を抜き取ってやりながら、万俵父子のことを思いうかべた。いくら企業家同士に父子の関係はないとはいえ、あまりにも血が通わなさすぎる万俵父子の在り方を思うと、或《ある》いは、何か他人には測り知ることの出来ない骨肉の縺《もつ》れがあり、それが企業に絡《から》んでいるのではないかという疑念が、尾を曳《ひ》いた。
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四 章
白い帆を一杯に張ったヨットが、春霞《はるがすみ》にかすむ瀬戸内海を、ゆっくり家島《いえしま》群島に向って帆走《セーリング》していた。万俵《まんぴよう》大介の持船『ヴァイカウンツ・ドーター号』(子爵《ししやく》令嬢号)で、船体をペンキ塗りにせず、渋いニス塗りにした艇の長さ三十八フィートの大型ヨットは、その船名の如《ごと》く、優美で気品に満ちていた。
万俵大介はサン・グラスをかけ、スポーツ・シャツからスラックス、ヨット・シューズに至るまで、白ずくめの装いで、甲板のデッキ・チェアに寝そべりながら、こんなやすらいだ気持で、土曜日の午後を寛《くつろ》げるのは、何カ月ぶりだろうかと思った。傍《かたわ》らの銀平の方を見ると、銀平も白のポロ・シャツと白のバーミュダ・ショーツで、ながながと寝そべり、今年はじめての帆走《セーリング》を楽しんでいる。
姫路の的形《まとがた》ヨット・ハーバーを出て一時間半あまり、おだやかな風を受けて西南西の航路をとりながら、クルーとして乗り込んだ神戸商船大学の学生に舵輪《だりん》を任せて、春の海を帆走して行くと、やがて前方に淡い緑の島影が霞を透かして見えはじめた。播磨灘《はりまなだ》の沖合七、八キロに列《つら》なる家島群島であった。
「見えてきたな、やっと――」
大介が去年の夏以来の家島群島を懐《なつ》かしそうな眼《まな》ざしで見遣《みや》ると、銀平もデッキ・チェアから体を起し、
「去年の十月、播磨灘を直撃した颱風《たいふう》で、このあたりはずい分、手ひどくやられたようですが、うちの島は大丈夫ですかね」
懸念《けねん》するように云《い》った。家島群島の南端近くに、戦前、先代の万俵敬介が買い取った小さな無人島があり、瀬戸内海の帆走《セーリング》を楽しむ時は、島の漁民たちが『万俵島』と呼んでいるその無人島を基地にしているのだった。
「さあ、どうかな、管理を任せている向いの松島の漁師の便りでは、島へ上る桟橋《さんばし》が流されたので、颱風シーズンが過ぎたらつくっておきますということだったが――」
「あ、また石船だ、あんなのに接触されては、このヴァイカウンツ・ドーター号が可哀《かわい》そうだから、島まで僕が舵輪をとります」
銀平は、家島群島から採石した石を運ぶ石船をみると、敏捷《びんしよう》にたち上り、甲板後部に廻った。兄の鉄平が学生時代から猟が好きで、祖父の敬介に随《つ》いて、丹波の篠山《ささやま》をよく廻ったように、銀平は父の大介が持っていたヨットに関心を持ち、慶応に入ると、ヨット部に入って練習をつむかたわら、九州や奄美《あまみ》大島へ大介と一緒に遠出していた。そして大学を卒業して三年目に、大介に頼んで、それまでの古いヨットを現在のものに買い換えて貰《もら》ったのだった。
しかし、もともとヴァイカウンツ・ドーター号は神戸のイギリス領事だった人の持船で、任務を終えて帰国するに当り、将来とも絶対、ペンキ塗りにしないことを条件に譲り受けたのだった。海水に対してはニスよりペンキの方が遥《はる》かに長持ちしたから、ほとんどのヨットはペンキ塗りで、内外装ともにニス塗りというのは、何にもまさる最高の贅沢《ぜいたく》であった。当時、さすがの大介も逡巡《しゆんじゆん》すると、銀平は「お父さん、目をつぶって下さいよ」と強引に買わせ、船名も子爵令嬢、ヴァイカウンツ・ドーター号と勝手に命名してしまったのだった。それは元嵯峨《さが》子爵令嬢であった母の寧子《やすこ》のことであった。大介は相子にあてつけるようなこの船名に反対したが、銀平はどうしても聞き入れず、ニス色の船尾に自らの手で『VISCOUNT'S DAUGHTER』と記したのだった。
銀平のこの時の強引さは、後にも先にもただ一回のものであった。大学を卒業して大介が阪神銀行へ入行するように云った時も、結婚相手を選ぶ時も、青白い無表情な顔で、「お父さんのよろしいように」と、意思をもたない人間のように振舞える男が、どうしてこのヨットにだけは、ああも固執したのか、ヨットを走らせるたびに大介は不思議に思ったが、次男の銀平にねだられて買い与えてやったという気持は、父親として決して悪いものではなかった。それは長男の鉄平に一度も感じたことのない情愛であった。
風を受けて、帆を右舷《うげん》にひらきながら、ヴァイカウンツ・ドーター号は、家島群島の中で、最も大きな家島本島《ほんじま》と男鹿島《たんがじま》の間を抜け、さらに松島を目指して南下して行った。左右の島々には、潮風を防ぐために周囲に黒土塀《どべい》をめぐらせ、低い屋根の上に石をのせた家々がひっそりと並んで、鄙《ひな》びた漁村の風景が点々と見えたが、やがて右舷前方に、松島が望まれ、その手前に現われた小島が、万俵家所有の無人島であった。幅〇・五キロ、長さ一キロの大きさで、中程で少しつぼまり、偶然にも米俵のような形をしている。
大介は、デッキ・チェアからたち上ると、ヨットを島の湾内へ誘導するために、ヨット・マンのマナーを守って、艇長帽を冠《かぶ》り、舳先《へさき》に立った。勝手知った自分の持島《もちじま》であっても、岩の多い海底はよほど注意してかからなければ、危険であった。海底の岩を注意しつつ、大介は風を考慮して東へ入口をひらいた湾にヨットを入れる指示を与えた。銀平の巧みな舵輪捌《さば》きで、ヨットがやや右傾しながら湾に入ると、
「帆を下ろせ!」
艇長らしく大介が命じた。銀平と学生のクルーは、スループの一本マストの前帆《ジブ・セール》をまず下ろし、次いでメイン・セールを下ろして、ブームにシートをくくりつけた。そしてスロー・エンジンで風のない湾内へさらに進み、錨《アンカー》を下ろした。湾内の静寂を破る水音と、飛沫《しぶき》が大きく上ったが、すぐもとの静けさに包まれた。
ヴァイカウンツ・ドーター号が、繋留《けいりゆう》されると、大介は自ら下の船室《キヤビン》のバーから木桶《きおけ》のような酒器に入ったポルトガル産の地酒を持って来た。
「さあ、今年はじめての帆走を祝って、乾杯だ」
上機嫌な声で、銀平と学生クルーに酒を注《つ》ぎ、海の方へ向って高々とグラスを上げた。
「乾杯!」
銀平も、平素と全く異なる冴《さ》え冴《ざ》えとした表情で、大介に和した。乾杯がすむと、学生クルーは、積んでいた伝馬船《テンダー》を降ろして、島の周辺の点検に出かけて行き、甲板に残った大介と銀平は、キャビアとアスパラガスを肴《さかな》に、グラスをかたむけた。
「どうやら、島は湾の一部が崩れたぐらいで、思っていたより被害は少ないですね、それにしても、お祖父《じい》さんという人はやはり変った人だったんですね、今でこそ無人島を買うなんて、そう珍しいことではなくなりましたが、戦前に買うなんて――」
銀平が、若葉の噎《む》せ返るような島の緑をめでるように云うと、
「うむ、その頃は皆、粋狂だといって、驚いたものだよ、しかしお祖父さんは自分の所有する領地の拡大に並はずれた欲望と執着を持ち、この島もその一つのあらわれというわけだ」
敬介の代の地所拡大が、今日の万俵家の富裕な富を生み、企業の繁栄を齎《もたら》しているのだった。
再び沈黙が続き、大介と銀平は思い思いの方向に眼を遣りながら、グラスを重ねた。あたたかい陽だまりの下で、船縁《ふなべり》をぴたぴたと叩《たた》く波音が、快く二人を酔わせる。
「銀平、お前は不思議な奴《やつ》だな」
グラスの手をとめ、大介が云った。海中の小魚の群れに視線を向けていた銀平は、
「藪《やぶ》から棒に、僕のどこが変ですか」
「ヨットに乗ると、別人のように表情がなごみ、そのくせ凜々《りり》しいのだ、若い頃の私そっくりだ」
まじまじと銀平を見た。
「今日はどうも妙ですね、ポルトガルのこの地酒に酔われたのですか」
「酔ってなどいないよ、だが、銀平も、今年は一児の父親になるのだから、日頃の行動をもう少し考えなくちゃ、いけないよ」
万樹子《まきこ》の妊娠のことを口にすると、銀平の顔に歪《いびつ》な笑いがうかんだ。
「――父親ですか、そんな役廻りは願い下げだって、万樹子には云ってあるんですがねぇ」
万樹子からはじめて妊娠のことを告げられた時、子供はもちたくないから、堕《おろ》すように云ったことをほのめかすように云うと、
「何を云うのだ、お前には次の阪神銀行を荷負《にな》おうという気概がないのか、この辺で心機一転し、お前さえその気になってくれれば、当行の筆頭株主である安田太左衛門氏にも、お前をもりたてて貰うように頼み込むつもりでいるのだ」
「そんなこと、考えたこともありませんね、第一、いくらお父さんがオーナー頭取だといっても、これからの銀行経営に世襲だなんて、時代錯誤もいいところですよ、どうしても万俵一族でとおっしゃるなら、大蔵省主計局次長の美馬《みま》の義兄《にい》さんにでも、将来、天下って貰えばいいでしょう」
グラスを干しながら、よそごとのように云った。
「いや、美馬は信用できない、あれは自分の野心のためには、銀行を身売りすることも敢《あ》えてしかねない男だ」
と云い、腕時計を見、
「もう三時過ぎか、芥川《あくたがわ》がやって来る時間だな」
と云った。もうそろそろ、東京事務所長の芥川常務が、モーター・ボートに乗って、ヨットの上の万俵大介に、半月に一度の定例報告をしに来ることになっているのだった。
やがてかすかなエンジンの音が響いたかと思うと、一筋の白い曲線を描いて、モーター・ボートが疾走《しつそう》して来た。芥川を乗せたモーター・ボートであった。
時速八十キロで飛ばしているから、みるみる間近に迫り、ヴァイカウンツ・ドーター号の船体に、真っ赤な船体を横付けした。
「やあ、こんなところまでご苦労だね」
甲板の上から万俵が声をかけると、芥川は、
「ご静養先へこんな無粋な服装で参上致しまして、何しろ伊丹《いたみ》空港から直行して参りましたものですから――」
ダーク・スーツを気にするように云い、ヨットに乗り移ろうとして、ぐらりと上体を泳がせた。
「危ないですよ、僕に掴《つか》まって下さい」
銀平が手をさし出すと、
「これはどうも、恐縮です」
芥川は、銀平の手に掴まって、ヨットの甲板に乗り移った。銀行の中では、東京探題の常務として、本店営業部の貸付課長である万俵銀平に自然な形で対することが出来たが、静養先となると、頭取の御曹子としての遠慮が出る。
「じゃあ、僕はこのモーター・ボートを走らせて来ますから、失礼――」
銀平は、芥川を送って来た操縦者に、運転を替ってくれるように云い、さっとモーター・ボートに乗り移るなり、凄《すさま》じいスピードで、ヨットから離れて行った。
「芥川君、疲れたろう、上衣を取って、まず一杯やり給《たま》え」
万俵は、自分の横のデッキ・チェアを指し、ポルトガルの地酒をすすめた。
「ほう、珍しいお酒ですね、どうして手にお入れになったのですか?」
「一昨年、パリで開かれた国際金融懇談会に出席した帰途、ポルトガルへ寄っただろう、その時、向うの中央銀行の頭取に、ロッカ岬《みさき》へヨットで招待され、船上ですすめられた酒が美味《おい》しかったので褒《ほ》めると、これはポルトガルの船乗りが処女航海の時に、祝酒《いわいざけ》として酌《く》みかわす地酒だということで、ミスター・マンピョウはなかなかの酒通だと逆に褒められ、帰国したら船便で二ダースも送られて来たんだよ」
「なるほど、そういえば、その節、地酒のお話を伺ったのはこれでございましたか」
芥川は、珍酒を嗜《たしな》むように口をつけ、
「早速ですが、今朝《けさ》、ホテルオークラで開かれました五行連合の初の準備会の模様でございますが――」
一カ月半前に、万俵大介が呼びかけ役になって、初めて五行の頭取が春田銀行局長を囲む『朝食会』を持ち、五行連合の大まかな趣旨を確認し合ったが、その後、具体的な話合いは、五行で準備委員会をつくり、そこで取定《とりき》めが行なわれることになったのだった。
「まず準備委員会のメンバーは、当初の段階では担当常務ということでしたが、その後、役職にこだわらないということになり、大同銀行は融資担当の専務、太平銀行と坂東銀行は業務担当の専務、北海銀行と当行は、東京駐在の常務といった顔ぶれになりました」
「なるほど、それで具体的にどういう提携の話が出たのかね」
「やはり初会合ですので、互いに腹の探り合いというか、ぎこちない雰囲気《ふんいき》でした、しかし頭取会の趣旨を受けて、各行がやりやすい業務提携から具体化しようということで、真っ先に出たのは、給与の自動振込です、太平洋ベルト地帯にある企業のサラリーを五行で相互に受払い出来れば、これはかなりのメリットですからね」
グラスを手にして、芥川が云うと、
「たしかに太平洋ベルト地帯のメリットを生かした話ではあるね、その他《ほか》に出たのは、どんなことかね」
「預金の相互受払いとか、オンラインの共同利用といったことが出はしましたが、各行、いろんな家庭の事情があって、まとまりませんでした、何しろ少々突っ込んだ話になると、皆、口を噤《つぐ》んでしまうのですからね、なんだか連合、連合と、掛声ばかり大きくて、内実が整うのか、先行き心配です」
「それでいいじゃないか、五行連合の呼びかけ役をした私の狙《ねら》いは、要は手を横に握り合ってしまえば、それでいいんだ、あとは握った手と手が、じっとりと汗ばんで来るのをゆっくり、時間をかけて待つことだ」
万俵大介にとっては、五行連合によるメリットなど、さして魅力がなかった。それよりもっと大きいことは、五行が会合を重ねて行く過程で出て来る各行の“お家の事情”を嗅《か》ぎ取り、牛蒡《ごぼう》抜きするチャンスを狙うことであった。
「で、準備委員会は、どのくらいの期間で持つことにするのかね」
「一カ月に一度、ホテルオークラのいつもの部屋でということになりました」
「いいだろう、せいぜい欠伸《あくび》を噛《か》み殺して出席することだが、一つだけ注意しておいて貰いたいことがある、その席上で議題になったことに対して、イエス、ノーを即答出来ないのは、どの銀行か、マークしておいてくれ給え」
万俵が云うと、芥川はきらりと縁なし眼鏡を光らせ、
「解《わか》りました、それはつまり、内情複雑な銀行に限って、即答出来ないからですね」
「その通りだ、まさか初会合では、そこのところまでは解りはしなかったろうが――」
そう万俵が云いかけると、
「まあ、そうですが、大同銀行の綿貫《わたぬき》専務と太平銀行の野々山専務は、どうも歯切れが悪かったです、大同銀行は日銀出身の頭取が、太平銀行は大蔵省出身の頭取が、勝手にきめてしまった五行連合なんかに、銀行自体が、そう簡単に乗れるかと云った感じがありますね、もちろん、そんなことは[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》にも出しませんが――」
「なるほど大同と太平か――、たしか大同は、日掛の貯蓄銀行上りの専務、太平は相互銀行上りのはき溜《だ》め専務で、ともに叩き上げだったねぇ」
毛並の悪さを軽侮するように、笑った。
「そういうことです、これからは、彼らの行内ではぶちまけられない愚痴を、せいぜい聞いてやることに致しますよ、案外、そんなところから、思わぬ拾いものをしないとも限りませんからね」
芥川はそう云い、
「次にもう一つ、是非、ご報告しておきたいことがございます、近々、当行に大蔵省の銀行検査が行なわれるようです」
「それは間違いのない情報かね」
万俵は、デッキ・チェアから体を起して、念押しした。大蔵省の銀行検査は、ほぼ二年に一回の割で行なわれ、預金・貸金・資産内容に至るまで、一件、一件、徹底的に調査され、その結果を本省に帰ってから『講評』の形で記され、その結果如何《いかん》が、一行の浮沈にかかわる場合がある。それだけに検査は抜打ちに、銀行局検査部の金融検査官が乗り込んで来るのだが、事前にキャッチするために、二年目前後になると、各行の忍者たちの動きは熾烈《しれつ》を極める。
「当行もそろそろと思っておりましたので、大蔵省担当の伊佐早《いさはや》五郎をはじめ、総務課あげて、検査日の情報収集に当らせておりましたところ、つい三日ほど前、当行の前回の膨大な検査資料が、某係官の机の上に拡《ひろ》げられてあったという情報が入りました、彼らは検査に行く前は必ず、前回の資料を見ますから、ほぼ間違いないと判断されます」
「うむ、そこまで解ったのなら、早急《さつきゆう》に各担当役員に帳簿関係の整備をさせるが、今期の検査の問題点は、どんなところにあるか、そして主任検査官は誰になるのか、出来得る限り、手を廻して情報を取るようにし給え」
検査の問題点と、主任検査官の得手《えて》・不得手《ふえて》によって、検査の重点が違って来るのだった。
「かしこまりました、それも目下当らせておりますので、解り次第ご報告申し上げます」
芥川が云うと、万俵はデッキ・チェアにのびのびと体を伸ばし、空を見上げたが、胸中では、金融検査官に、自行の実態を見破られてはならないどころか、実態以上の『講評』をこの際、書かせるように仕向けねばならぬと考えた。
「もしもし、小池先生のお宅でいらっしゃいますか、こちらは万俵でございますが、万俵二子《つぎこ》がレッスンに伺っておりませんでしょうか、えっ、参っておりません――、どうもお邪魔申し上げました」
相子は、先程から同じ電話を何本もかけていた。二子が出かけていそうなピアノ、フランス語のレッスン先、美容院、友人の家など、心当りに電話をしたがつかまらない。時計を見ると、細川一也《かずや》が、二子を訪ねる約束の午後二時に、十分前であった。さすがの相子も、気が気ではない。相子はまたダイヤルを廻した。大介の実妹の石川千鶴《ちづる》のところであった。
「もしもし、あっ、千鶴さま、ご機嫌よろしく、そちらへ二子さん、お邪魔致しておりませんこと? いえ、別にたいした用件じゃございませんけど、ちょっと急ぎますもので、じゃあ、ご免遊ばせ」
長電話になりそうなのを慌《あわただ》しく、きった。昨日《きのう》、細川一也から、帝国製鉄大阪支社へ出張して来ているので、明日の土曜日の午前中に仕事をすませ、午後二時から一時間ほどお邪魔したいという電話があり、相子は留守中の二子に代って、喜んでお待ち致しますと応《こた》え、二子には、今日はそのつもりでと云っておいたのである。またダイヤルを廻しかけると、下の門から車が上って来る音がした。相子は仕方なく受話器を置き、玄関へ向った。
車が停まり、細川一也が降りて来た。サイド・ベンツのスーツを着こなし、ボストン眼鏡をかけた顔に微笑をうかべ、カーネーションの大きな花束を抱えている細川一也は、身長百八十センチ、容姿端麗、東大法学部出身、帝国製鉄秘書課勤務――と、すべてがあまりに整い過ぎているだけに、一種の滑稽味《こつけいみ》さえ感じられたが、相子は、
「まあ、細川さま、ご機嫌よろしゅう、よくお運び下さいました」
先にたって応接室へ案内した。寧子も帯を胸高に締めた和服姿で出迎え、
「ようお越し下さいました、まあ、きれいなカーネーション、お紅をさしたようなお色でございますこと、あのう……」
二子のことを云いかけるのを、相子は素早く遮《さえぎ》った。
「さあ、どうぞ、こちらへごゆるりと――」
スペイン風の皮椅子《いす》をすすめ、
「いかがでございます、神戸のご感想は?」
「はあ、山と海に挟《はさ》まれた緑の多い町ですね、殊《こと》に今も残っている古い異人館は珍しいですね、たしか明治五年頃、海岸通りに建った異人館が最初で、その後、北野町の山手に移り、英国人ハッサム氏が和洋折衷《せつちゆう》の面白味を生かして作った建物が、代表的な異人館だと、記憶しております」
相変らずの博学多識ぶりを披瀝《ひれき》しながら、二子が姿を現わさないのが気になるのか、落着きがなかった。相子は約束の時間を過ぎても帰って来ない二子に苛《いら》だちを覚えながらも、この場を取り繕う口実を考えていた。
「ほんとうにお待たせして申しわけございませんわ、実は二子さんは、正午から親友のご結婚披露宴がございまして、そちらの方へ参っているのでございます――」
「けど、二子は、今日、お洋服で……」
寧子が否《いな》むように云いかけると、
「ええ、今日は友人代表で祝辞を述べられるので、裲襠《うちかけ》姿の花嫁さまをお引きたてする意味で、洋装で出かけたのですが、もちろん、細川さまとのお約束の時間には遅れないよう帰宅致すことになっておりますのに、申しわけございません」
相子は恐縮しきったように云った。細川一也はやっと自尊心を保たれたように、
「そうでしたか、それなら僕の方が、出張で来て、勝手な申し出をしたようですね」
「とんでもございません、私がちゃんと今日の二子さんの予定を知っておりましたら、昨日のお電話で、ご迷惑をおかけしないようなお返事が出来ましたのに、私がついうっかり致しましたばっかりに――」
「いえ、予定の取り間違えなどということは、たまにあるものです、どうかこれ以上、お気遣いなく――」
細川一也はそう云い、気取ったポーズで足を組み直し、運ばれて来た紅茶を口にしたが、相子は、約束の時間を過ぎても、帰って来ない二子の行動が気になった。まさかすっぽかすようなことはしないと思うものの、ドレスの背中が汗ばむ思いだった。
扉《ドア》をノックする音がした。ほっとして振り返ると、二子ではなく齢嵩《としかさ》の女中であった。
「あのう、お電話でございますが――」
「あら、二子さんからなの?」
「いいえ、それが……よそさまからでございますが……」
口ごもるような気配を感じ取り、相子は、
「細川さま、ちょっと、失礼、ご免遊ばせ」
応接室を出て、廊下の受話器を取りかけると、女中は声をひそめた。
「実は只今《ただいま》、お嬢さまからお電話がございまして、どうしても帰れないから、細川さまにはおよろしくとおっしゃるなり、がちゃりとおきりになって――」
「まあ、何というへま[#「へま」に傍点]を――どこからかけて来たのです?」
「それがお聞き返しする暇《いとま》もなく、申しわけございません……」
「間抜けね、あんたに謝って貰《もら》ったって、しようがないのよ!」
吐き捨てるように云ったが、細川一也に、重ねて何と云い繕えばよいか、弁解に窮した。この縁談の橋渡し役である小泉元駐仏大使夫人の、「およろしければ私、腕によりをかけて、このカップルを成功させますわ、私、動き出したら止まらない方でしてよ」という言葉が、まざまざと思い返され、応接室へ引っ返すことが躊躇《ためら》われた。といって、総理夫人の甥《おい》であり、昨日から約束をしておいた細川一也を、このまま待ち惚《ぼう》けさせるようなことは出来ない。相子は瞬時、考えあぐねて、廊下に突ったっていたが、やがてことさらに困惑しきった表情で、応接室に戻った。
「細川さま、どう致しましょう、只今、ご婚礼先さまの方からお電話があり、大臣をはじめ知事、市長などの来賓のご祝辞が続いて、一時間以上も進行が遅れ、二子さまは二時までにご帰宅になれませんので、是非ともご諒承《りようしよう》願いますということなのです」
と云うと、細川一也は白けるように口を噤んだ。寧子が、
「他《ほか》のことと違うて、おめでたい御《ご》祝儀《しゆうぎ》のこととて、中座出来かねるのでしょうから、待ってやって戴《いただ》きとう存じます」
おろおろとした様子で云うと、
「はあ、僕もできましたら、お待ちさせて戴きたいのですが、今夜は東京で出席しなければならない会合がありますので、二子さんとは日を改めて、お目にかかりたいと存じます」
夜の会合のことは、昨日の電話の時から聞いていたことであったが、相子は内心、ほっと安堵《あんど》し、
「ほんとうに重ね重ね、私の不調法で、悪《あ》しからずお許し下さいまし、どうか小泉夫人はもとより、伯母上の佐橋総理夫人にもよしなにお願い致します」
穏便にという意味を籠《こ》めて云った。
「僕こそ、出張中に勝手に押しかけたことなど解りますと、伯母に叱《しか》られますからね」
と笑ったが、二子と会えぬことが心残りらしく、気落ちした表情で席をたった。相子は寧子と並んで、細川一也を送る車が玄関のロータリーを廻って見えなくなるまで見送りながら、むらむらと突き上げて来る二子に対する怒りを抑えていた。
車が見えなくなると、相子はすぐ邸内の池の東側にある鉄平の住まいに足を向けた。邸内には、桜が咲き乱れ、池の端まで来ると、足音を聞きつけた三十数尾の鯉《こい》が群れをなして浮かび上って来たが、相子は見向きもしなかった。
テラスにたつと、居間に小学校二年生の太郎の姿が見えた。
「おばちゃま、どうしたの」
日頃、親しみのない相子を怪訝《けげん》そうに見た。
「ちょっとね、パパはいらっしゃる?」
鉄平は土曜日でも帰宅が遅いと聞いていたが、もしやと考えて来たのだった。
「あら、気付かないで失礼しましたわ」
早苗《さなえ》が顔を出した。
「鉄平さんは、相変らず土曜日でもお仕事のご様子なのね」
「ええ、いつもこんな風なんですよ、でも今日は、先程、電話がかかって、二子さんが会社へいらしたそうで、一緒に帰宅すると云って来ましたわ」
「まあ、二子さんが――」
相子は、大きな眼をきらりと光らせた。
「二子さんは、よく鉄平さんの会社へいらっしゃるの」
「ええ、時々、お食事やお小遣いのおねだりにいらっしゃるみたいですけども、主人はそれを結構、喜んでいるみたいですわ」
と云い、お茶の用意をしかけたが、こともあろうに、細川一也を待ち惚けさせた二子が、鉄平の会社へ行っていたのかと思うと、相子は胸の中が煮えくりかえって来た。
「いえ、お茶は結構よ」
怒りを抑えた声で云った時、玄関に車の停まる音がし、
「おや、珍しいな、あなたがうちへ来るなど――」
鉄平が、居間へ入って来た。
「お帰り遊ばせ、今日は二子さんとご一緒だったんですって?」
「ええ、今、あちらの家へ降ろして来たところですよ」
上衣《うわぎ》を早苗に渡しながら云うと、
「鉄平さん、ひどいじゃありませんか」
不意に激しい言葉が、相子の口をついた。鉄平はあっけに取られた。それが相子にはわざとらしく見え、
「白っぱくれないで下さいな、昨日からのお約束で、細川一也さまが訪ねて来られたというのに、あなたと二子さんが共謀して、すっぽかすなど、あまりにひど過ぎるじゃありませんか」
さらに気色ばむと、鉄平はやっとことの成行きが解《わか》ったように、
「そういうことだったんですか、お昼過ぎに突然、二子がやって来て、社員食堂でいいから食事をしたいと云い出すから、どうしたんだと理由《わけ》を聞いても、なにも答えず、結局、社員食堂でおし黙ったまま食事したんだよ、様子がへんなので、仕事のきりがついたのを機会《しお》に、一緒に連れて帰って来ただけのことなのにいきなりひどいの、共謀のといわれては、こちらこそ迷惑千万だな」
ぎょろりとした眼を、相子に向けた。
「迷惑なのは、こちらですわ、この間だって、オリエンタル・ホテルで、二子さんと一之瀬四々彦《いちのせよしひこ》さんを混じえて、三人でお食事なさろうとなさったじゃありませんか、せっかく細川一也さまとのお縁談《はなし》が進みかけている時に、妙なことをなさらないで下さいな」
「妙なことって、あれも二子にせがまれて一之瀬君を招《よ》んだわけで、君がとやかく云うことはないだろう、この際、断わっておくが、一之瀬君に対しては、二子の方が積極的なんだ」
「まあ、積極的、二子さんの方が……」
相子は言葉を跡切《とぎ》らせ、
「それであなたは、二子さんと一之瀬さんとの間をどうお考えになっているのです」
「正直なところ、僕は、万俵家で一人ぐらい、恋愛結婚する反逆児が出てもいいんじゃないかという気持と、そのために苦労はさせたくないという気持と、半々だな」
率直に云うと、
「ご冗談はお止《よ》し遊ばせ、万俵家の結婚のルールを守って、二子さんから一之瀬さんをきっぱりと遠ざけて下さい、そうして戴けなければ、お父さまに申し上げますわ、細川家との縁組はお父さまが決められたことでございますからね」
相子は、高飛車に云った。
*
午前八時半というのに、阪神銀行の頭取室には、もう万俵大介が机の前に坐《すわ》っていた。ここ数日来、万俵の出勤は早い。大蔵省が阪神銀行に対して行なう気配が濃厚となった銀行検査に備えるためであった。
「頭取、お早うございます」
経理担当の大亀《おおがめ》専務が、肥満した体で入って来た。
「お早う、君も、このところ早いね」
「どうも家におりましても、落ち着きませんので、つい――、それより何か検査のことで解りましたことでも――」
大亀は、いつもの温和な表情をせわしなく動かした。格別、大きな不祥事件を引き起したり、あるいは巨額の不良貸付が発生した年度でなくても、大蔵省の銀行検査というのは、国税庁の査察を受けるような名状し難い不安感を伴うものであった。
「まあ、そこへ坐り給《たま》え」
万俵は、近くのソファを眼で示し、
「昨夜、芥川常務から自宅へ電話がかかって来、検査項目及び主任検査官の名が、ほぼ確定的に掴《つか》めたと報《しら》せて来たよ」
「それはよかったですね、今回の検査のポイントはどんなところです?」
大亀は、体を乗り出した。
「第一は、景気がやや翳《かげ》りをみせはじめて来たことに鑑《かんが》み、中下位行の大口貸金の査定を特に厳重にせよ、第二は、統一経理基準の実施に伴い、収益構造をよく分析せよ、第三は、役員関連の貸金、つまり情実貸金をよく洗え、第四、歩積《ぶづ》み両建《りようだて》、第五、預金の特別利子を厳しくチェックせよという五項目が眼目になるらしい」
「なるほど、その中でも特に重点的な項目は、一と二でございましょうね」
確かめるように大亀は云った。第三の情実貸金以下、歩積み両建、特別利子の項目は、銀行検査における定例的な項目だったからである。
「その通りだ、第一の中下位行の大口貸金の査定を厳しく行なうということは、大蔵省が今後、景気のかなりな落込み、中小企業の倒産、業績不振を深刻に考えている証拠だが、当行がチェックされそうな貸出先というと、どんなところだと、君は考えるかね」
「そうですね、関西車輛《しやりよう》、ワールド電気、姫路紡績、江州《ごうしゆう》商事は要注意圏内だと覚悟しております」
銀行検査近しの情報を得るや、連日連夜、全行挙げて帳簿の整備に当り、ことに貸金の洗い直しは力を入れて行なっていたから、大亀はよどみなく返答した。
「阪神特殊鋼は、大丈夫だろうね」
「現在までのところ、問題点はさしてないと存じますが、念のため、融資担当の渋野常務には、詳しくここ二年間の業績の推移を報告させ、例のアメリカン・ベアリング社のキャンセルによる輸出前金の返済に伴う融資の件以外は、ひっかからぬように説明の要領を充分、研究させてあります」
阪神銀行にとって、最も密接な関係にある企業であるだけに、万遺漏《ばんいろう》なき構えで対処するように云うと、万俵は安心しきれぬ表情で、
「次に統一経理基準実施による収益構造の手直しについては、うまく切り抜けられそうかね」
「明石《あかし》駅前の土地を処分して、利益金に組み入れた件でございますか? あれも何とか突っ撥《ぱ》ねられると存じます、その他《ほか》、注意しなければならないのは、昨年の万国博の用地買収に伴う土地代金の預金獲得で、大口預金者に行なった特別利子の優遇措置、そして先月末に西宮支店で起った五百八十万円の現金紛失事件でございますね」
声を潜《ひそ》めるようにして云った。
「あれは、まだ犯人が解らないのか」
万俵は俄《にわ》かに、不機嫌極まりない語調で聞いた。行内で現金が紛失することは決して珍しいことではなく、年に十数件、額にして数千万円を下らない。しかもそうした数字はあくまで行内監査でひっかかって明るみに出たもので、実際の件数と金額は、はるかにそれを上廻っていることは確かであった。紙幣そのものが商品である銀行にとって、一番、頭の痛い問題だが、犯人がなかなか発見できないのも、銀行内の現金紛失事件の特色であった。
「申しわけございません、本店検査部で追及中ですが、集金して金庫に入れるまでの間に関係者は三人しかおらず、犯人はその一人に違いないらしいのですが、依然として黒白がつかないようです」
「銀行検査を前に、綱紀粛正をやかましく通達した矢先というのに、全くなっていない、ともかく全力を挙げて犯人割出しに当り、穴埋めをしてしまうことだ、この際、大蔵省にたとえ一枚の始末書でもとられるのを避けなければならぬことは、大亀君、君自身が一番よく知っているだろう」
語気を強めて云った。大亀は大きく頷《うなず》き、
「それから主任検査官は、どんな人物でしょうか」
「森永俊次というキャリアの課長補佐だ」
「すると、齢《とし》はまだ若いのでしょうね、その森永課長補佐というのはどんな経歴なんですか」
若ければ与《くみ》しやすい反面、エリート官僚だけに、別の面で警戒しなければならなかった。
「芥川の話では、もともと銀行局畑の人物で、入省してすぐ銀行局総務課に入って、暫《しばら》く金融政策の勉強をしたらしい、そして五年後に山梨の税務署にいわゆる“学士署長”として転出、二年後に証券局係長として本省に戻り、すぐまたIMF事務局へ海外出向したそうで、銀行局検査部に帰って来てからは、まだ間もないということだ」
「なるほど、典型的なエリート官僚ですね、それで派閥は?」
「うむ、私もそれが気懸《きがか》りで、芥川の電話のあと、すぐ美馬に問い合せたのだ」
「じゃあ、美馬さんのよくご存知の人なんですか」
美馬がよく知っている人物なら、永田派であり、政治資金を追及される危険もなかったが、反対の田淵派となると、田淵へもぬけ目なく保険つなぎの献金をしているとはいえ、安心出来ない。
「美馬は、森永検査官をよく知っていたが、今のところ無色透明だと云っていたよ」
万俵はそう応《こた》えながら、昨夜、娘婿《むすめむこ》の美馬と交わした電話のやり取りを思い返した。美馬は、「お舅《とう》さん、昨今、三十四や五で、何々派なんてレッテルを表示する馬鹿《ばか》は大蔵官僚におりませんよ、四十過ぎて八方美人じゃあ二股膏薬《ふたまたこうやく》と軽んじられますが、三十代で八方美人というのは、マイナスどころか、それが最上の保身術です、十年先の大蔵省の派閥地図なんて、誰にも解りゃあしませんからねぇ」と、いつもの鼻にかかった声で云ったのだった。
机の上の直通電話が鳴った。万俵は、すぐ受話器を取り上げた。芥川からであった。
「もし、もし、只今、日本橋支店へ森永主任検査官と二名の検査官が現物検査に入りました」
本店検査を前に行なう支店の抜打ち検査のことで、その第一報を、芥川が緊張した声で伝えて来た。
「いよいよか――、すると、もう一カ店、やられるわけだな」
万俵も、声を引き締めた。
「はい、次席検査官の班が、次はターミナルのどこかの支店を狙《ねら》って行くと思いますが――」
「この分だと本店検査は、いつ頃になりそうだ」
「多分、一週間程、後になると思います、森永主任検査官は、昔の美馬さんのように、いわゆる若手エリート、次席の法華《ほつけ》という検査官は“鬼の法華”といわれるベテラン中のベテラン検査官ですから、万端のご用意は怠りないとは存じますが、なお一層のご準備の程をお願い致します」
芥川の声が、万俵の耳朶《じだ》を搏《う》った。
それから一週間経《た》った火曜日の朝、阪神銀行本店の東側玄関に二台の大型車が横付けされた。守衛たちはさっと威儀を正し、出迎えていた融資部長、総務部長、秘書課長も緊張した視線を車に向けた。大蔵省銀行局検査部の本店検査が、いよいよ今日から行なわれるのであった。
新大阪駅まで迎えに行っていた芥川常務の先導で、車から降りたった六人の検査官は、玄関の階段を上り、一同が恭《うやうや》しく立礼する中を、まっすぐエレベーターで三階の役員ゾーンへ向った。
奥まった頭取応接室の前まで来ると、先導役の芥川常務は、
「どうぞ、こちらで万俵頭取はじめ役員一同、お待ち申し上げております」
と云い、検査官たちの入室をすすめた。森永主任検査官ほか五名の検査官が中へ入ると、広い応接室に、万俵頭取を中心に、大亀、小松専務と、渋野、荒武《あらたけ》、舟山、新井の四常務がずらりと列《なら》んでいた。
「検査官は、どうぞこちらの方へ――」
最後から入った芥川が、検査官たちに上座をすすめ、テーブルを挟んで向い合うと、
「ご遠路を恐縮でございます、万俵でございます」
万俵は、慇懃《いんぎん》に初対面の挨拶《あいさつ》をした。六人の検査官の中で最も齢の若い、見るからに俊敏そうな顔付をした主任検査官が、
「銀行局検査部の課長補佐、森永俊次です、本日より御行本店に対し、銀行検査をさせて戴《いただ》きます、これはその検査命令書です」
きびきびとした口調で、命令書を示した。
検査命令書
今般、銀行法第二十一条(検査権)に基き貴行に対し、大蔵事務官森永俊次を主任として、検査を命じる
昭和四十四年四月十日
大蔵大臣 永田 格
阪神銀行頭取 万俵大介殿
万俵は、大蔵大臣の捺印《なついん》のある検査命令書に眼を通し、
「諒承《りようしよう》致しました」
落ち着き払った声で、応えた。先導役の芥川は、
「では、検査に先だち、当行の役員をご紹介させて戴きます」
大亀専務以下、役員を紹介すると、森永主任検査官は、自分を補佐する次席検査官はじめ、五人の検査官を紹介した。次席検査官は、三十五歳のエリート主任検査官とは対照的に、五十歳前後の、この道二十数年のベテラン検査官であった。
「法華です――」
人を食ったような横柄《おうへい》さで会釈《えしやく》した。頭が丸坊主《ぼうず》で、眼光ばかり鋭く、まるで海坊主のように異様なその容貌《ようぼう》に、万俵をはじめとする役員たちは、不気味なものを感じた。
検査官の紹介が終ると、森永主任検査官は、少しでも無駄な時間をはぶくように云った。
「早速、検査を開始させて戴きます」
「かしこまりました、別室をご用意致しておりますので、ご案内申し上げます」
芥川がたち上ると、万俵もたち、
「では、何かとよろしくお願い致します、検査期間中、円滑にお仕事が進行致しますよう、当行挙げてご協力させて戴く所存でおりますから、何なりとご遠慮なくお申しつけ下さい」
森永主任検査官と法華次席検査官の両方に向って云った。微妙なニュアンスが多分に含まれる言葉であったが、森永主任検査官は、
「ご配慮どうも――」
言葉短かに応え、検査官たちと出て行った。今日から三週間にわたり、六人の検査官によって、貸金、預金、外国為替、有価証券、不動産、資金繰りなど、阪神銀行の経営内情がつぶさに洗われるのであった。
芥川と渋野の両常務に案内されて、検査官は、三階東棟の二室続きの応接間に入った。銀行検査で一番の重要事は、なんといっても貸金の査定であったから、最初の五日間は、全検査官がこれにかかりきる。
机の上に山と積まれた貸出し調査表や関係書類の前に坐ると、検査官たちは、融資部員を傍《そば》におき、直ちに検査にかかった。予《あらかじ》め銀行側に記入させた会社別の貸出し調査表をもとに、貸金と担保の明細書、それに決算報告書をも参考につき合せ、不良貸金か否《いな》かの査定にかかる。問題のない貸金は一分類とし、問題のある貸金については、その不良度によって、二分類(長期化した貸金)、三分類(回収に疑義のある貸金)、四分類(回収不能の貸金)と細かく仕分けられ、この分類査定が、銀行経営の優劣を決める大きなきめ手となる。それだけに銀行側としても一歩も譲れず、検査官側と銀行側との間に、火花の散る攻防戦が展開されるのだ。
「君、このワールド電気の過去二年間の貸金の稟議書《りんぎしよ》の綴《つづ》りを持って来て貰《もら》いたい」
家電メーカーとしては中堅どころのワールド電気の査定をしていた法華次席検査官が、傍《かたわ》らに控えている融資部次長に云いつけた。
「はあ、何かご不審の点でも――」
ワールド電気は、カラーテレビのモデル・チェンジに失敗し、不良在庫を十数億もかかえて、経営不振に喘《あえ》いでいたが、融資部次長は何食わぬ顔で、聞き返した。
「去年、下期《しもき》からの一億六千万円の貸金は、相当不良化しておるようだな、担保もろくにないんじゃないかね」
法華検査官は、赤鉛筆で机の上を叩《たた》くようにして云った。
「いえ、そんなことはございません、坪八万円の工場敷地を三千坪、ちゃんと取っており、担保に不足はないと存じますが」
「坪八万――、たしかにこの貸出し調査表にもそう書いてあるが、考えられない評価だな」
と云い、若い融資部員が持ってきた稟議書の綴りをひったくるように取ると、馴《な》れた手つきで、ぱらぱらと綴りを繰り、またたくうちに、その裏付けとなる稟議書を探しあて、素早く要点を拾い読みした。
「ええっと……、今般一億六千万円の運転資金の申し出があるが、モデル・チェンジに失敗した在庫が少なくとも二十億を下らず、実質三十億以上の含み損は確実と思われる……一方、同社担保の評価額は過大である、したがって今般の融資については特に諒承はするが、以後、新規貸出しは厳重に避けること……」
法華検査官は、濁声《だみごえ》で読み上げ、融資部次長に稟議書の綴りを突きつけた。
「この通り融資部でも回収に疑義あることを認めておるから、三分類だ」
「そりゃあ、酷でございますよ、その時点ではともかく、最近はスーパー・マーケットとのタイアップで、経営状態はとみに改善の兆《きざし》が見られていますから、貸金長期化の二分類で勘弁して下さい、お願いします」
低姿勢で、頼み込んだ。
「国民大衆から預かっている預金の使い道にさじ加減など出来んね、三分類だ」
にべもなく突っ撥《ぱ》ね、海坊主のようなぎょろりとした眼を一段と光らせると、法華検査官の向い側に坐《すわ》っている別の検査官が、
「ほう、アメリカ向けの輸出キャンセル――、そうすると、このベアリングは、そのまま不良在庫になるわけですな」
阪神特殊鋼の貸金査定をしているのであった。説明に当っている融資部長は、
「いえ、阪神特殊鋼のベアリングは、品質と技術が優れておりますので、むしろ売手市場でして、不良在庫などとは、いささかお考え過ぎかと存じます」
アメリカン・ベアリング社向けの輸出キャンセルによる滞貨であったが、金融検査官には、ベアリングの規格が、国内と国外で全く異なることまで解《わか》らなかったから、落ち着き払って応えた。
「貸した貸金が返って来ないとは云わないが、貸金の性質としては問題があり、長期化の二分類に入りますね」
厳しくチェックし、さらに高炉建設の設備資金表を見、
「それにしても、えらく過大な設備投資ですねぇ、特殊鋼業界は、好・不況の波が非常に荒いだけに、一度、不景気風が吹くと、こんなぎりぎり一杯の背伸びをしている状態では、会社の存立基盤そのものが、危うくなりかねませんよ」
「しかし、阪神特殊鋼の高炉建設は、五年前から綿密に資金繰りを考えて計画し、通産省にもお認め戴いておりますので――」
「通産省がよく認可したものですね、だがくどいようですが、鉄鋼市況が悪くなった時には、協調融資をしている他行の動きに注意し、メインのおたく一行で背負い込むような羽目にならぬよう、くれぐれも注意することですな」
「ご忠告のほど、よく心致しておきます」
融資部長は、検査官が阪神特殊鋼の融資に対して強い警戒を持っていることに内心、忸怩《じくじ》たるものを感じたが、その時、また法華検査官の声が響いた。
「君、山田興産って、これは何をする会社かね」
濁声が異様に高いのは、よほどの不良貸付を見つけたらしい。
「不動産の斡旋《あつせん》、ビルの賃貸が主な業務です」
融資部次長は、動揺しそうになる顔色を抑えた。
「ふうむ、東京麹町《こうじまち》にある資本金三千万の不動産斡旋会社へ、貸出し金の残高が二十億とは、随分、妙じゃないか、運転資金もろくに必要のない会社に、何のためにこんな多額な金を融資したのかね」
“鬼の法華”といわれる面目躍如とした追及であった。
「それはですね、昭和二十八年に山田興産が、神田橋に延《のべ》二千坪の貸ビルを建てた時に融資したものでして――」
「で、建築資金は?」
「それが、三億七千万でした」
「じゃあ、あとの十六億三千万は、どこへ消えたのかね」
畳みかけるように、声に凄味《すごみ》を帯びていた。返答に窮した融資部次長の顔から、血の気が退《ひ》きかけた時、
「法華君、その件については僕が聞いていますよ」
背後《うしろ》から主任検査官の森永俊次が、口を挟んだ。
「ほう、主任が? そりゃあまた、どういうことなんです?」
法華は、むっとした語調で問い返した。
「いやね、つい先程、芥川常務から説明を聞いたばかりだから、あとで君に詳しく説明しますよ」
暗にこれ以上、突っつくなという意味合いが籠《こ》められていた。それは永田大蔵大臣への政治資金だった。法華検査官は、自分より一廻り以上も若くて、しかも伝票と帳簿のつき合せ方もろくに知らない森永が、エリート官僚というだけで主任検査官におさまり、銀行幹部と政治的な取引までしていることに、万年冷飯食いの下級官僚独特の陰険な反撥《はんぱつ》を示し、すぐには引き下らなかった。
有馬川沿いの高みにたった『飛雲閣』の岩風呂《ぶろ》の窓から、六甲山脈と丹波高原に挟まれた有馬温泉の街が一望のもとに見渡せた。夕方の温泉街は、そこここの旅館から白い湯煙がたち、薄暮の中で夜の灯《あか》りが点《つ》きはじめている。眼の下の川沿いの道には、どてら姿の遊び客や座敷に向う温泉芸者の姿が見え、大阪、神戸に近い温泉場らしい賑《にぎ》わいがたちはじめていた。
阪神銀行の芥川常務と大蔵省金融検査官の法華は、そんな温泉街の景色を眺めながら、広い浴場に二人きりで浸《つ》かっていたが、互いの胸の中は、一風呂などとは程遠い心境であった。芥川は、頃加減の湯に浸かりながら、むっつりと押し黙っている法華に、
「ねえ、法華さん、くどいようですが、この間の件は、いろいろといりわけがございまして、主任検査官の耳に、先に入ってしまったんですが、当行としては、この道二十数年の検査のベテランである法華さんをさしおいて云々《うんぬん》、などという意図は、毛頭ありませんよ」
湯面に頭をつけんばかりにして云った。
「いりわけねぇ、そのいりわけが、私には今もって、とんと解《げ》せませんでねぇ」
湯気で海坊主のように赭《あか》らんだ顔を横向けたまま、法華はうそぶくように云った。既にそれは万俵頭取と繋《つな》がっている永田大蔵大臣への政治献金であるらしいと感付いていたが、法華よりはるかに若輩のエリート官僚である森永主任検査官と先に話をつけたことが、法華の心証を害しているのだった。ざぶりと岩風呂から上ると、法華は石鹸《せつけん》を体にこすりつけ、
「私は夕食を食べたら、大蔵省できめられているように、公務員宿舎へ帰りますから、バスの時間を調べておいて下さいよ」
「とんでもない、せっかく有馬温泉まで気晴らしに来たのですから、今夜は一晩、この芥川に付き合って下さいよ」
「いや、銀行のそうした接待には一切、応じることを禁止されていますから、私は最終のバスででも、帰りますよ」
重ねて素っ気なく断わられると、芥川は、つと法華の傍《そば》へ寄り、
「そんなにいじめないで下さいよ、この通り――」
と云うなり、流しの上で頭を下げ、法華の手から手拭《てぬぐ》いを取り、背中を流しにかかった。さすがの法華も虚を衝《つ》かれたように、
「三助《さんすけ》の真似《まね》など、冗談じゃありませんよ、阪神銀行の常務ともあろう人が――」
首を振ったが、芥川にとっては、“鬼の法華”と云われるベテラン検査官を骨抜きにするためなら、三助でも、くも助の真似でも辞さぬ気であった。手拭いに力を籠め、
「じゃあ、ご機嫌を直して、今夜は付き合って下さいますね」
さらに下手に出ると、
「そこまで云われては、帰れませんな」
大儀そうに、芥川の接待に応ずる気配を見せた。
湯上りのどてら姿で座敷へ戻ると、既に酒肴《しゆこう》の用意が整えられ、
「ようお越しやす」
五人の芸者が、並んで待っていた。すべて芥川が、事前に女将《おかみ》に連絡し、お膳《ぜん》だてしておいたのだった。
「さあ、お一つどうぞ――、今晩は、わてらでお座敷さして戴《いただ》きまっさ」
年嵩《としかさ》の芸者が、座を取りしきるように云った。女将の気配りで、日本髪の鬘《かつら》をつけ、裾《すそ》を長くひいていたが、温泉芸者らしいうらぶれがどこかにある。その中で一人だけ、はっと眼を見張るような若い妓《こ》がいる。顔だちにはまだ野良《のら》の陽灼《ひや》けが残っているような田舎くささがあるが、十八、九歳のはち切れるような若さが眼を惹《ひ》いた。
「さあ、雛菊《ひなぎく》ちゃん、旦那《だんな》さんにお酌をさして貰いなはれ」
年増《としま》芸者が、若い妓の肩を押し、
「これでも一昨日《おととい》、二十《はたち》になったばっかしですよって、違反やおまへんでぇ」
未成年を売りものにするような云い方をすると、丸坊主の法華の眼が、卑猥《ひわい》に光った。芥川はすかさず、
「雛菊とは、似合いの名前だね、それで郷里《くに》はどこなんだい」
法華の注意をひくように、雛菊に聞いた。
「鳥取県と岡山県の境で、寒いとこやけど、ええとこです」
鳥取訛《なま》りで応《こた》え、
「さあ、旦那さん、わてのお酌で、どうぞ――」
顔に似合わぬ大人びた仕種《しぐさ》で酌をすると、法華は相好を崩し、
「ほんとに可愛《かわい》い妓だな、芸は何か出来るのかい」
盃《さかずき》を空けながら云った。横から年増芸者が、
「なんし、まだ出たばかりで、芸なし猿でっさかい、わてが代りに勤めさして貰いまっさ」
と云うなり、三味線を取って、お座敷唄《うた》の『日本一』を賑《にぎ》やかに弾き、雛菊も一緒になって唄い出した。
「旦那さんのお名前、法華やなんて、お坊《ぼん》さんみたいやこと、お寺さんですのん?」
唄の合間に雛菊が、あどけない笑顔で聞くと、法華はやに下った顔で、
「坊主《ぼうず》なら、生臭坊主というところだが、あいにくそうじゃなくて、会社勤めだよ」
「会社て、何する会社ですのん?」
法華が困った顔をすると、芥川が、
「不動産会社の社長さんだよ」
「まあ、ほんなら、うちにも安うて、ええ土地、世話してほしいわ」
「土地か、なるほど、それなら万俵不動産にでも頼んでやるか」
法華は、先日来の貸金査定で、阪神銀行と万俵不動産の間にも、巧妙な経理のからくりがあるのを調べていて、それをあてこするように云った。芥川が気詰りになりかけた時、からりと襖《ふすま》が開いた。
「よう、法華君、久しぶりだね」
元大蔵省金融検査官で、現在、阪神銀行の系列である姫路の白鷺《しらさぎ》信用金庫の常務理事におさまっている田中松夫であった。曾《かつ》てはくたぶれたぶら下りの既製服を着、角ばった顔に丸縁眼鏡をかけていた田中松夫が、いまは金縁眼鏡をかけ、服も金目のかかったダーク・スーツを着て、中小企業の重役タイプに変身している。
「田中君じゃないか、どこの会社の重役かと思ったよ、それにしても奇遇だなあ」
愕《おどろ》くように法華が云うと、芥川が、
「実は、田中さんもお招きしていたのですよ、こんな機会はめったにないと思いましてねぇ」
検査部で同僚だった二人を等分に見比べて云った。田中は、
「いや、君がこちらへ検査に来ていると常務から伺ったので、僕の方から一度、会いたい旨《むね》、申し上げたのだよ、それにしても相変らず、検査の旅がらすかい、覚えがあるよ、十年一日の如《ごと》く、殆《ほとん》ど家をあけての男やもめの旅がらすだものな、しかし、眼光紙背に徹する“鬼の法華”の令名は、ますます高まる一方らしいな」
と云いながら、趺坐《あぐら》をかくと、法華は酒気に染まった海坊主のような顔に、にやりとした笑いをうかべ、
「鬼どころか、仏の法華だよ、その証拠に検査をはじめて半月以上になるというのに、まだ臭い匂《にお》いを嗅《か》ぐだけで、獲物《えもの》を掴《つか》まえられなくてねぇ」
怪しい点は多々あっても、ずばり大きな摘発が出来ていないという意味であった。田中松夫は、法華の盃に酒を注《つ》ぎ、
「そうかい、鬼の法華といわれる君が、三日洗えば、解らんことはないだろうに――、だが法華君よ、役所にいると世間のことは解らんよ、僕も外へ出てみて、世の中というのは筋や理屈だけで動かんことが解ったよ」
「なるほど、世間ねぇ、君も変ったな」
「そうかもしれない、しかしどうせエリートという特急列車に、次々追い抜かれる三等列車並のノン・キャリアは、今のうちに、世間を勉強しておくことだな」
田中は、幾分うしろめたそうな笑いを見せ、ぽんと法華の肩を叩《たた》くと、
「さあ、今夜は一つ、芥川常務のお言葉に甘えて、楽しくやろうじゃないか」
と景気づけた。年増芸者は心得顔に、
「ほんなら、“浅い川”をやりまひょ」
「いややわ、あんなお尻《いど》まくり!」
他の芸者たちは、悲鳴をあげたが、それでも三味線が鳴り出すと、四人は揃《そろ》って次の間の敷居際《ぎわ》に並んだ。
浅い川なら 小褄《こづま》をとりて
深い川なら 帯を解く……
賑やかに囃《はや》し、唄いながら、着物の裾を端折《はしよ》って、浅い川を渡る仕種をしたが、次第に深い川へ入って行くにつれ、長襦袢《じゆばん》の裾をまくり、膝《ひざ》を出し、太股《ふともも》まで見せて、ぱっとうしろ向きに腰巻をまくり上げた。赤い腰巻の下に四つの尻《しり》が列《なら》ぶと、二つはむっちりとした尻だったが、あと二つは脂肪肥《ぶと》りの贅肉《ぜいにく》が垂れ下っていた。そして、ほい! とかけ声をかけると同時に、くるりと前向きになり、黒いおまえを見せたが、雛菊のそれだけは、河原の薄《すすき》のように可愛かった。法華はごくりと、生唾《なまつば》を呑《の》んだ。
「どうです、この辺であの妓と――」
芥川が囁《ささや》くように云った。法華が躊躇《ためら》うような様子を見せると、田中が、
「じゃあ、僕はそのお隣を戴くよ」
と云うなり、法華がたちやすいように、先に席をたった。田中が席をたつと、法華ものっそりと席をたった。雛菊と寝るためだった。やがて、雛菊も年増芸者に押し出されるように座敷を出て行った。すべて芥川が女将と打ち合せ、示し合せた通りの運びであった。
「旦那さんは、どないしはります?」
「僕かい、僕ならその踊りだけで結構だ」
芥川は温泉芸者など眼もくれぬように云い、安サラリーの中年男が小便くさい温泉芸者といちゃつき、交わる光景を思い描き、卑猥な笑いがこみ上げて来たが、大亀専務の夜の誘いを体《てい》よく断わった森永主任検査官の、役員面接と頭取面接が、近々に迫っていることを思い出して、顔から笑いが消えた。
「どうもお時間をお取りしました、これで役員面接は終りました」
主任検査官の森永が、きりっとした眼《まな》ざしで、大亀専務に向って云うと、大亀は肥満した大きな体でほっと息をつき、
「どうも、口べたなものですから、ご満足戴けるような答えが出来ましたかどうか――、私以下八人の役員たちも含めまして、よろしくお願い致します」
役員応接室の大きな机を挟んで向い合っている若い森永主任検査官に向って、深々と一礼した。役員面接は、一人一人の役員に個別に面接し、その経営理念から日常業務、或《あ》る時は私生活に至るまでを審査し、講評するのであったから、審査を行なう主任検査官の態度には、大蔵省銀行局の権威を笠《かさ》に着る尊大さがあったし、面接を受ける役員たちは、まるで入社試験を受ける学生のように緊張していた。
「では、これから頭取面接でございますね、早速、万俵がこちらへ伺います」
大亀が云うと、
「いや、私の方が伺いましょう」
さすがに一行の頭取、それもオーナー頭取として鳴っている万俵大介を呼びつけることを遠慮したのか、自分の方からたち上った。
「では、ご案内させて戴きましょう」
大亀が恐縮するように森永主任検査官を先導し、役員応接室の斜め向いの頭取室の扉《とびら》を開くと、万俵は、回転椅子《いす》からたち上って、森永を迎えた。
「これは恐縮です、ご連絡下されば私がそちらへ参りましたのに――」
と云い、ソファをすすめた。弱冠三十五歳のエリート官僚は、臆《おく》する様子もなく、
「ご多用中、恐縮ですが、頭取に二、三、お伺いしたい点があります」
やや気負うように云った。
「なんなりと、どうぞ――」
万俵は、銀髪端正な姿勢を崩さず、英国紳士然とした一分の隙《すき》もない容姿で応えた。
「現在、頭取として頭を痛めておられる問題は、どういうことでしょうか」
慇懃な語調で質問をはじめた。
「そうですね、やはり行員の教育、人材の問題です、特に近い将来、金融機関も国際競争場裡《り》にたって鎬《しのぎ》を削らねばならぬことを考えますと、国際的な知見と頭脳を持った人材を開発することが急務で、それに頭を痛めております、したがって当行では、戦後、入行した者を取締役に登用し、外国部の業務を担当させております、もう一つは、中央の情報不足に頭を痛めております、本店が神戸にある関係上、ともすれば情報のキャッチに遅れるのです、もちろん、当行東京事務所長の芥川常務はよくやってくれていますが、なかなか万遺漏なくというところまで参りませんので、これをご縁にせいぜい、面倒をみてやって下さい」
芥川はむろんのこと、娘婿《むすめむこ》の美馬中《あたる》まで使って、大蔵省の高級情報を手に入れておきながら、万俵大介はぬけぬけと云った。
「次に来年三月期から実施される配当の自由化について、どう考えられますか」
「私は、統一経理基準が実施された当初から、銀行の経理といえども、公開性の原則に従うべきだと思い、かねて覚悟をしておりました、今般の配当の自由化によって、従来以上に経営上の格差、優勝劣敗がはっきりとして来ますが、当行は、人並の配当が維持出来る自信があります、そしてここでさらに、当行の経営全般にわたって徹底的な見直しを行ない、その成果を配当率で世に問いたいと思っております」
統一経理基準が実施された当初から、いち早く、今日あることを見通していた銀行家の言葉であった。
「では金融再編成について、ご意見を承らせて戴きたい」
「金融機関の再編成が必要だということについては、私もかねがね考えております、しかし大銀行が、金融再編成の流れを悪用して、さらに巨大化するのは、日本の一般産業界にとって好ましいことではなく、かつ、世間の批判をかうことにもなると懸念《けねん》致します、したがって、いたずらに規模の巨大化を目指すより、真に経営効率の高い銀行が、体質の劣る銀行と合併することによって、銀行界全体の力をつけ、今後の国際競争に備えて行くのが、必要だと思います」
“小が大を食う”合併をもくろみ、そのために春田銀行局長を混じえた五行連合の会を作り、その中から恰好《かつこう》の相手をつまみ食おうとしていながら、そんな素振りは[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》にも出さず、一般論として意見を述べた。
「じゃあ、御行《おんこう》は金融再編成に備えて、どのような対処の仕方を考えておられますか」
「私は前々から、預金量の大小のみを競う業界の風潮にはあきたらぬものを感じており、量より質、効率の向上ということを機会あるごとに、行員たちに訴えて来ました、したがって一口に合併と云っても、これは吸収される側にとって、企業の存立にかかわる問題でありますから、そう簡単に実現するとは思えませんが、いかなる事態になっても、当行は生き延び得る銀行となるため、従来以上に体力の蓄積を心がけております」
オーナー頭取らしい自信に満ちた応え方をすると、森永は思わず、万俵の言葉に惹《ひ》き入れられるように、
「現在、何か具体的に進んでいるお話がおありじゃないのですか」
「いや、とても、とても――、いろいろと私なりに考えはありますが、何分、相手があってのことですからねぇ、ただ私の持論としているのは、いたずらに図体《ずうたい》が大きいというだけをもって、大が小を食う合併は無意味であり、たとえ図体が小さくとも、内容が整っておれば、小が大を食っても結構じゃないかという風に考えていますが、いかがでしょう」
にこやかに笑いながら、さらりと云ったが、見事な応えであった。三つの答えのどれ一つを取ってみても、銀行家としての鋭い冴《さ》えがあった。しかも、その冷厳端正なる姿勢に相応《ふさわ》しく、私生活の乱れを云々《うんぬん》されるような気配一つなかった。
「こちらがお伺い致したい点は、以上です、興味あるご意見を伺わせて戴きました」
森永が云うと、万俵はインターフォンを押して、お茶を運ばせ、寛《くつろ》いだ表情で、
「失礼ですが、森永さんのご入省は何年でいらっしゃるのです?」
「三十一年です」
「ほう、お若うございますね、不躾《ぶしつけ》な申し上げようですが、とてもお齢《とし》には見えぬお仕事ぶりでいらっしゃいますね」
相手の自尊心をくすぐるように云い、
「主計局次長をしております美馬は、私の長女の婿ですが、美馬も若い時、当行へ検査に参り、その検査ぶりの見事さを見込んで、娘を娶《めと》って貰《もら》った次第なんですよ」
大蔵官僚である相手の自尊心をさらに持ち上げるように云うと、
「美馬さんには、私も可愛《かわい》がって戴いております、何しろ頭がきれて、腹の出来た方なので、私たちの間でも信望が厚いのですよ」
森永も、美馬を持ち上げるように云い、
「失礼ですが、美馬さんの奥さまは、非常におきれいな方ですね」
「いや、それほどでもありませんよ、あの程度なら――」
娘のことだけに謙遜《けんそん》するように応じると、
「いいえ、お世辞でなく、ほんとうにおきれいな方で、この間、オーケストラを聴きに参りました時、遠くからお見受けしましたが、日本人ばなれしたエキゾチックなお顔に、洋服がぴったりお似合いでした」
万俵は思わず、口を噤《つぐ》んだ。森永のいうのは、娘の一子《いちこ》ではなく、自分の愛人の相子であった。しかし、一行の頭取の私生活をもチェックする金融検査官の前で、狼狽《ろうばい》の色は見せられない。万俵は咽喉《のど》に熱い渇きを覚えながら、
「それはまた、えらくお褒めに与《あずか》って、娘に伝えましたら、恐縮することでしょう」
やっとそう云い、
「いかがです、今日は森永さんのために、ずっと時間を取ってありますから、晩餐《ばんさん》をご一緒に――」
と誘うと、森永はもう、主任検査官の表情に戻り、
「いえ、いささか仕事に疲れておりますし、それに今夜は、神戸にいる大学時代の友人と気楽に飲む約束をしているものですから」
「それは残念です、じゃあ、東京で、美馬を混じえて、一度ゆっくりご一緒させて戴くことに致しましょう」
万俵はそう云い、ソファからたち上ると、自らエレベーターまで見送り、
「では何かと、およろしく――」
森永が書くであろう講評を頭に思いうかべながら、恭《うやうや》しいまでの鄭重《ていちよう》さで見送った。
*
万俵鉄平は、専務室の窓際に突ったち、暗い表情で工場内を見詰めていた。二十五万坪の敷地に並ぶ電気炉工場や圧延、製管工場の棟々から伝わって来る電気のアークする震動音や金属音には曾《かつ》てのような活気はなく、資材や製品を運ぶトラックの出入りも少なくなって、僅《わず》かの間に悪化した阪神特殊鋼の経営状態を反映していた。
鉄平は、机の上の書類をもう一度、手に取った。それは営業担当の川畑常務が提出した緊急の稟議書《りんぎしよ》で、阪神特殊鋼の大口取引先である日本自動車に対して、特殊鋼の納入価格を大幅に値下げした数字が並んでいる。つい二カ月程前までトン当り八万五千円で納入していた軸受鋼《じくうけこう》が七万五千円に、四万五千円だった構造用鋼が三万九千円にまで下っている。
「こんなめちゃな値引きがあるものか!」
歯ぎしりしながらも、三月下旬頃から急激に悪化した特殊鋼業界の現状を考えると、認めざるを得ない数字であった。それも、もとを糺《ただ》せば、昨年暮のアメリカン・ベアリング社の船積みストップが原因していた。その滞貨分の転売先と新規取引先を獲得するために、営業担当の川畑常務が先月も二度、渡米したが、アメリカが不況で特殊鋼の需要が停滞しているために、不成功に終ったのだった。そこで、穴のあいた全生産量の三割は、国内向けの製品に切り替え、国内で売り捌《さば》くよりほか、仕方がなかった。その時の苦しまぎれのダンピングが、折からのベアリング業界の不況ムードに火を点《つ》け、思いもかけぬスピードで、特殊鋼業界全体の値引き競争を引き起してしまったのだった。したがって、国内向けの販売が少々増えても、同業間の激しい値引き競争と、それにつけ込む取引先の徹底的な買い叩《たた》きで、その分の利益は吹っ飛び、さらに今後、不況が産業界全般を掩《おお》うことになれば、販売価格は低落し、製品を作っても、売れば売るほど赤字になる。
「鉄平君、鉄平君ったら――」
声がし、振り返ると、社長であり、叔父である石川正治がたっていた。
「どうかしたのかね、ドアをノックしても返事がなく、ぼんやり突ったって――」
鶴《つる》のような痩身《そうしん》で、怪訝《けげん》そうに聞いた。
「何でもありませんよ、それより何かご用でも――」
「ほかでもない、来月の社の創立記念行事のことだが、ロータリー・クラブで、中松宮ご夫妻が中国縦貫道路の建設状況ご視察のため、来月下旬に当地へお見えになると聞き及んでね、昨今は宮さま方も割合、気軽に民間企業の記念行事にご臨席下さるそうだから、特殊鋼業界初の高炉建設をご覧戴きかたがた、ご臨席願えれば盛大だと思ってねぇ」
お飾り餅《もち》的な社長の気がねはあったが、今からそれを楽しみにするように云った。鉄平の眉間《みけん》にぐっと太い皺《しわ》が寄った。
「せっかくですが、今、社は記念行事どころじゃありませんよ」
言下に反対すると、石川正治はその語気の強さに、驚くように口を噤んだが、
「だって、いくら不景気といっても、宮さまご夫妻をおもてなしする接待費まで不自由していないだろう、東京からわざわざお招き申し上げるのでなく、おついでにお立寄り願うのだからねぇ」
思い切れぬように云った。
「叔父さん、社長として、会社の事態の深刻さをもう少し、ご認識になって下さい」
鉄平はそう云うと、手にしていた川畑常務からの稟議書を、突きつけた。
「ご覧のように、日本自動車は一カ月前に五〜六パーセントの値引きを云って来たかと思ったら、今度は一〇〜一三パーセント引きにしろと叩いて来ているのです、部長クラスの事務ベースでいくら何でもと蹴《け》ると、東都特殊鋼が一〇パーセント引きで売り込んで来ているので、どうしても阪神特殊鋼がそこまで値下げ出来ないのなら、他《ほか》の自動車メーカーとの競争上、やむを得ぬから、安い方の東都特殊鋼から買うと高姿勢で云って来ているのです、日本自動車は当社の大口得意先だけに、向うの云い分を断わって取引を失えば、さらに下廻る価格で別の販路を捜さねばなりませんが、高炉建設で他社より固定費の負担の大きい当社の現状を考えると、それも出来ず、向うの云い値に応じるほかありません、日本自動車一社に値引きすれば、早晩、他社への価格も雪崩《なだれ》式に値崩れするでしょう」
切迫した事態を説明し、
「そんなわけで、社長の経費も節減して戴きますから、ご諒承《りようしよう》下さい」
びしりと云った。ゴルフと宴会好きの石川正治もさすがに不満そうな顔をした時、経理担当の銭高常務が、口髭《くちひげ》をたくわえたねっそりとした顔を覗《のぞ》かせた。
「只今《ただいま》、大同銀行の橋爪神戸支店長が見えられ、ちょっと専務にお会いしたいそうでございますので、ご案内したのですが――」
扉《とびら》のところにたっている橋爪支店長を顧みた。
「どうも、突然、お邪魔申し上げまして――、これは石川社長もお揃《そろ》いで――、いつもお引きたて戴いております」
橋爪支店長は、低いもの腰で挨拶《あいさつ》した。鉄平はソファをすすめ、
「お世話戴いているのは、こちらの方です、三雲《みぐも》頭取はお変りございませんか」
「はい、先日、融資会議で本店へ参りました時、顔を合わせまして、特殊鋼業界が不振な折から、御社の様子をしきりと気に致し、万俵専務によろしくとのことでございました」
石川社長が同席しているにもかかわらず、橋爪支店長は専《もつぱ》ら、鉄平の方を向いて話し、
「ところがその融資会議の席上、業界が不況に落ち込んでいる最中だけに、御社から提出されている向う四カ月間の資金計画を、もっと削減できぬかという意見が強うございまして――」
と切り出した。大同銀行に対する借入れは高炉建設のための設備資金が月平均三億、そして運転資金の借入れ増加が三億ずつ増え、今期六月〜九月の四カ月間の資金計画は計二十四億に膨《ふく》れ上っているのだった。
「そう云われますと、心苦しい限りですが、こう市況が悪くなりましては、高炉が完成して、コストの安い製品が出来るようになるまで、何とか御行《おんこう》にお力添え戴くほかありません、むろん、当社としてもその間、間接費や研究開発費を出来うる限り抑え、真剣に不況対策を考えております」
鉄平が云うと、石川正治も横から大きく頷《うなず》いたが、橋爪支店長は俄《にわ》かに改まった口調で、
「その高炉建設のことですが、景気が回復するまで、一時、中止されるおつもりはございませんか」
と云った。阪神銀行が融資比率を徐々に低め、その分、大同銀行の融資がせり上って来るにつれ、大同銀行は以前とは比較にならぬ力を阪神特殊鋼に持ちはじめているのだった。
「しかし、急にそう云われても、高炉はあと二カ月で完成するのですから……」
石川正治が戸惑うように云うと、
「それは承知しています、しかし、実際に稼動《かどう》するまでには、もう少し長くかかるんでございましょう?」
橋爪支店長は、踏みこむような聞き方をした。鉄平は、
「失礼ですが、高炉建設の一時中止は、三雲頭取のご意向なんですか」
憤《いきどお》りを抑え切れないように聞いた。
「いえ、その時の会議で、そういう意見が強く出たものですから、ご参考までに申し上げているのです、不況が特殊鋼業界のみならず、産業界全般にひろがり、しかも長期化するようなことになりますと、特殊鋼の需要はさらに減退しますから、高炉が出来て、ロウ・コストの製品がつくれたとしても、売れなければ負担はさらに大きくなるばかりで、危険ではないかと――」
橋爪支店長は、自分の派閥の長である融資担当の綿貫千太郎専務の主張を代弁するように云った。
「おっしゃる懸念《けねん》はもっともだと思いますが、もう八分どころ以上出来上った高炉建設を、今さら中止することはできません、設備資金の金利の返済一つとっても、操業が遅れれば、それだけ回収が遅くなります、それより早く高炉をつくって、コストを下げ、売値の値下りをカバーすることの方が本筋ではありませんか、もし本店融資部の方で、中止意見が強いようでしたら、融資担当の綿貫専務に直接、足を運んで、お願いしましょうか」
橋爪支店長と綿貫専務の繋《つな》がりを知らない鉄平は、体を乗り出して云うと、橋爪は急に狼狽《ろうばい》した表情で、
「いえいえ、高炉建設については、三雲頭取がご決断になり、今もその方針には何ら変更がありませんので、どうかご心配なく、私はただ、厳しくなる一方の業界の情勢にどう対処して乗り切られるおつもりか、それをお伺いしたくて、ちょっとお寄りしたまでのことですから」
俄かに言葉を濁して、蒼惶《そうこう》と席をたった。
橋爪支店長が帰ると、秘書がお茶をさげかたがた、夕刊を持って来た。鉄平は夕刊を拡《ひろ》げ、思わず、眼を見張った。
一面トップに“大蔵大臣、景気引締め政策を発表”という大きな見出しがあり、続いて、“金融引締め、鉄鋼、自動車、家電は深刻な不況に”というゴチックの見出しが並び、永田大蔵大臣の顔写真が載っている。鉄平は暗い胸騒ぎを覚えた。
乃木《のぎ》神社の緑が見下ろせる小泉元駐仏大使のマンションの客間《サロン》で、相子は先刻《さつき》から夫人と話し合っていた。
「ええ、ようござんすとも、何しろ当人の細川一也の方は、最初にお目にかかった時から乗り気で、この間、大阪へ出張した時もお訪ね申し上げた様子じゃございませんか、ですから、もうこのカップルは成功したのと同じでございますよ、私と又従姉妹《またいとこ》の佐橋総理夫人の周子《かねこ》さんも、このお縁談《はなし》を耳にして、関西のご名家の万俵さまならと、ついこの間、お噂《うわさ》していたところでございますのよ」
小泉夫人は、自分の又従姉妹のことをわざとらしく総理夫人と云うと、狆《ちん》のように寸詰りで鼻の低い顔をつんとそらせた。相子は、紺《こん》のアンサンブルの胸もとに真珠のブローチをつけ、どこまでも万俵家の家内《いえうち》を取り仕切る女執事然とした慎しさで、
「まあ、佐橋総理夫人にそんな風におっしゃって戴き、光栄でございますわ、万俵の方でも、ここまでお縁談《はなし》が煮詰って参りましたからには、正式のお見合いをさせて戴きたいと申し、今日はそのお取りきめを致したいと存じまして――」
と云うと、小泉夫人はフランス・ジョーゼットのブラウスの袖口《そでぐち》から香水の香りを撒《ま》き散らし、大きな身振りで、
「そう、そのご両家の正式のお見合いのお場所に、私も頭を痛めておりますのよ、近頃の女性週刊誌は、芸能人の結婚に食傷して、上流階級の子女の結婚に眼をつけはじめておりますでしょ、それだけに総理夫人の甥《おい》と、関西の名家の令嬢の結婚ともなれば騒がれますから、東京ではまずいですわね、高須さま、あなた何か、ご名案がなくって?」
「さようでございますね、では双方、京都あたりでお出会いして、嵯峨《さが》の吉兆ででも京料理を戴きながらというのは、いかがでございましょう」
「それはようござんすわ、それならマスコミの眼にふれないし、第一、一也の父は、京都というと眼のない人ですからねぇ」
一也の父の細川信也は、日本を代表する著名な建築家で、文化功労章を受章した人物であったし、一也の母の実家も、大手建設会社の出であった。もちろん、相子は、京都という土地柄だけではなく、そうした点も織り込んで云ったのだった。
「それから、もし失礼でございませんでしたら、一也さまの伯母さまの総理夫人も、京都見物をかねて、ご一緒にいかがでございましょう」
煙草《たばこ》を喫《す》う小泉夫人の手が止まり、まじまじと相子を見詰めた。
「あなたって、なかなかやり手でいらっしゃること、外国流にいえば、万俵家のゼネラル・マネージャーというところね、京都の嵯峨野の新緑を賞《め》でながらのお見合い、トレビアン!」
小泉夫人は、見合いもさることながら、豪奢《ごうしや》な京都見物を楽しむように表情を息づかせ、
「高須さま、遅いお茶の時間になってしまいましたけれど、私の手製のクッキーを召し上れ」
浮き浮きとした口調で云った。
「まあ、奥さまのように随筆などのご執筆でお忙しい方が、クッキーをお作り遊ばすなんて――」
パリ生活の長い女性として、新聞や婦人雑誌に海外随筆や、エチケット集などを執筆していることをさすと、
「あちらでは、お客さまをおもてなしするクッキーが上手に焼けなければ、一人前の主婦として通りませんのよ、今、さしあげますから、少々、お待ち遊ばして――」
と云うなり、キッチンへたって行った。時計を見ると、もう五時を指している。相子は見合いの日取りをきめて、早々に席をたちたかったが、夫人の自慢のクッキーを賞味せずに帰るわけには行かなかった。待たされている間、パート・タイムのメイドが持って来た夕刊を手に取って開くと、一面のトップに永田大蔵大臣の経済政策の転換を報じる記事が、大きく載っている。さらりとそれに眼を通した後、頁《ページ》を繰ると、婦人欄には、小泉夫人の“フランス人のエスプリ”という随筆が載っている。相変らず、気取りに気取った文章で、夫人が身につけているパリ・モードそのもののようであった。
「あら、すっかりお待たせしちゃって、ご免遊ばせ」
銀の器に盛ったクッキーが運ばれ、紅茶が入れられた。
「只今、ちょうど奥さまの随筆を読ませて戴いておりましたの、いつもながら、ご博学ぶりに感じ入りますわ」
感嘆するように云うと、
「私、クッキーを焼くのと同じような楽しみで、書いているだけのことでございますのよ」
とはいうものの、小泉夫人の顔に得意の表情がうかぶのを見て取りながら、
「お見合いのお日取りは、五月の二十日過ぎでいかがでしょう、京都の新緑が美しくなる頃でございますから――」
相子は、手早く正式の見合いの日取りをきめた。
小泉夫人のマンションを出ると、近くのグリルで食事をしたあと、赤坂のナイト・クラブへ足を向けた。以前、美馬と行ったことのある外人客の多いクラブで、今日もそこで美馬と落ち合う約束になっているのだった。
美馬の名前を告げると、ボーイが奥まったボックスへ案内した。先に来ていた美馬は、相子の姿を見ると、たち上って迎えた。
「どうだった、狆夫人のご機嫌は?」
「とてもよ、お見合いの場所は嵯峨の吉兆、日取りは今月の二十日過ぎで、すべてこちらのペースで決まったわ」
と云い、アンサンブルの上衣《うわぎ》を脱ぐと、下はネック・ラインを広くくったスリーブレスのワンピースで、豊かな胸が覗《のぞ》いた。美馬は娯《たの》しむような視線を相子の胸に当て、
「だが、肝腎《かんじん》の二子ちゃんは、昨夜もまた、一子に電話をかけて来て、一也君との縁談は気がすすまないから、僕にもその旨《むね》を伝えてほしいと云って来ているんだがねぇ」
と云うと、相子は運ばれて来たカクテル・グラスに口をつけ、
「それなら、なおのこと、一々、当人の意向など聞いていては閨閥《けいばつ》結婚など成りたちませんわ、万俵と私とで検討して、それで意向が定《き》まれば、どんどん進めてしまうの、それで結構、銀平さんと万樹子さんの場合だってうまく行って、万樹子さんは、今、妊娠五カ月なんですのよ」
こともなげに云い、
「それより、あなたと私とのことで、万俵がおかんむりなのよ」
「へえぇ、僕とあなたのことで? ここで会ってることが解《わか》ったのかな」
「そうじゃなくて、四月の初め、二人で上野の文化会館へオーケストラを聴きに参りましたでしょう、あれ、この間、阪神銀行へ銀行検査にいらした森永さんとかおっしゃる主任検査官の方が、ご覧になっていて、万俵に、美馬さんの奥さまはお洋服がよくお似合いになる日本人ばなれした方ですねと、褒めて下すったものだから、一子さんではなくて、私だってことが解ってしまったの」
「それで、うまく云ってくれたろうね」
「あたり前よ、あの時も、二子さんの縁談で、小泉夫人をご招待したのが、あちらさまのご都合で、急にお見えにならなかったと、うまく云い繕っておきましたわ」
「だが、京都の見合いの席で、嘘《うそ》だと解ってしまわないかな」
美馬が気懸《きがか》りそうに云うと、
「私にお任せ下さいな、私が仲に入っていますから、そんな話題にはしないわ、それより、あの頭取面接のあった日、万俵ったら、とても不機嫌だったけど、何か心配なことでもありそうなの」
相子が問い返すと、美馬の顔に嘲笑《ちようしよう》するような笑いがうかんだ。
「ほう、万俵頭取にして、今もって大蔵省の銀行検査には、緊張なさるというわけかね、そういえば、目下、銀行検査の講評が書かれている最中だな」
と云い、美馬はハイボールのグラスを置くと、
「さあ、僕たちも踊ろうじゃないか」
相子の手を取って、フロアに出た。バンドに合わせて、相子は美馬の腕に抱かれ、踊りの輪の中に入って行った。
「そんなにお舅《とう》さんの気に障《さわ》っているのなら、いっそ……」
美馬は、相子の豊満な体を締めつけながら云った。相子は応《こた》えず、黙って美馬に体をゆだねるようにぴったりと体を寄せた。バンドはさらに官能的なリズムになり、天井のミラー・ボールの灯《あか》りが暗くなった。
不意に美馬の手に力が入り、ぐっと相子の体を引き寄せ、唇を捺《お》した。湿った唇が、相子の唇を吸い、両手が腰に廻った。大胆で長いベーゼだった。
「どう、よかった……」
耳もとで美馬が囁《ささや》くと、
「でも、万俵の方がいいわ――」
相子は、美馬の酔いを逆撫《さかな》でるように云った。
芥川常務はトイレットに入ると、大きな生《なま》欠伸《あくび》をした。つい今しがたまで、このホテルオークラの奥まった一室で、朝食会をかねた五行連合の準備委員会が行なわれ、目だたぬように一人一人、別々に出て行ったばかりである。
二カ月前に第一回の準備委員会を持って、既に今朝《けさ》の会合で三回目であった。五行の提携の話合いは、給与の自動振込から、コンピューターの共同利用、預金の相互受払い、そして協調融資の問題に至るまで、いろいろ論議に上ったが、結局、五行の一致をみたのは、いまだに給与の自動振込のみで、中だるみの状態になっていた。
芥川は、もう一度、今度は声に出して思い切り大きな欠伸をし、ズボンの前を開きかけると、
「芥川さん――」
誰もいないと思っていた広いトイレットの奥から、親しみを籠《こ》めて自分を呼ぶ声が響いた。芥川は思わず尿道の縮まる思いで周囲を見廻すと、大同銀行の綿貫千太郎専務が、奥の便器の前にたっていた。芥川が、ばつ悪そうにまごつくと、綿貫専務は便器の水も流さず、音をたてながら、用を足し、
「全く、こんな朝っぱらから堅苦しい会合など、芯《しん》がつかれますねぇ」
芥川の欠伸に同情を示すように云った。
「どうもこりゃあ、とんだところを見られてしまいましたね、実は昨夜は悪友につかまって、つい遅くまで飲み歩いて――」
綿貫のように平気で音をたてて用を足す真似《まね》はできなかったから、芥川は水洗の音を高くして、弁解するように話すと、
「いや、それでいいんですよ、朝食会など、どうせ、アメリカの真似ごとでしょうが、日本人にはもう一つ、ぴたっと来ませんな、第一、意思の疎通《そつう》を欠く」
酒の入らない会合を不満げに云い、
「さっきの協調融資の問題だって、五行共通でもっている主要取引企業をぬき出して、この際、融資比率をならしにしようということだが、長年、培《つちか》った取引先との人間関係を無視して、簡単に比率を上げたり下げたりはできませんよ」
芥川がもう終っているのに、なお音をたてて放尿し、喋《しやべ》った。コンピューターの共同利用や新しい業務提携の話となると、だんまりをきめ込むくせに、担当の融資のこととなると、途端に饒舌《じようぜつ》になって論議をかきまわす綿貫に、芥川はうんざりさせられていたから、
「まあ、おっしゃるのもごもっともですが、五行連合の最大の狙いは、上位四行に対抗し得る強力な資金供給力を持つということにあるのですから、最初は困難な問題が出て参りましょうが、千里の道も一歩からと申しますし――」
やんわりかわして、先に洗面室の方へ戻った。ようやく用を足し終って、鏡の前に来た綿貫は、
「ところで、私の方もお手伝いさせて戴《いただ》いている阪神特殊鋼のことですがね」
入口の方を窺《うかが》いながら、声を低めた。
「ああ、あそこは、ほんとうに御行《おんこう》のお世話になりっぱなしです」
「いや、それはよろしいんですが、最近、メインのおたくをさしおいて、当行が少々、出すぎた恰好《かつこう》になっていやしないかと、気になりましてねぇ、阪神特殊鋼の実質上の経営者である万俵鉄平専務は、御行の万俵頭取のご長男だけに、頭取がご気分を害しておられませんか」
鏡に映っている芥川の顔をのぞき込むようにした。芥川は綿貫の言葉の意味がすぐには解らず、返答に窮したが、綿貫の語調が、奥歯にもののはさまった云い方であることに気付いた。
「そんな、気分を害するなどとは――、大同銀行さんと違って、当行は何分、慢性的な資金不足をかこっておりますので、直系の企業の面倒も充分みられず、お恥ずかしい限りですが、何かお気懸りなことでも?」
芥川も、鏡の中の綿貫の赭《あか》ら顔を見返して、次の言葉を引き出しにかかった。
「いや、ご気分を悪くしておられないのなら、万俵頭取は、阪神特殊鋼のメイン・バンクをお退《ひ》きになる考えでも、あるいはお持ちだというわけですかねぇ」
「さあ、私は東京事務所の担当で、融資の方面はくらいものですから、そのあたりの万俵の意向なり、融資部の方針となると、とんと見当がつきかねますが、おたくとうちとは、もうそんなところまで行っているのですか」
芥川にとっては初耳のことであったから、逆に驚くように聞き返すと、
「うちの三雲の、阪神特殊鋼さんに対する評価は、えらく大きいものですからねぇ」
綿貫はそう云い、鼻翼をふくらませて曖昧《あいまい》に笑ったが、その笑いにこだわりがあるのを芥川は見逃さず、一歩、踏み込むように聞きかけると、トイレットの扉《ドア》が開いて、派手な服装をした芸能人風の男が入って来た。
「どうも、こんな尾籠《びろう》なところで長話をしてしまいましたな、では、お先に――」
綿貫は、そそくさとしたもの腰で出て行った。芥川も、もう一度、鏡に向ってネクタイを直し、トイレットを出たが、何かを考えているらしい綿貫と、一度さしでゆっくり話をしてみる必要を感じた。
ホテルオークラを出ると、芥川は待たせておいた車で、霞《かすみ》が関《せき》の大蔵省へ向った。
大蔵省の正面アーチをくぐり、玄関で車を降り、まっすぐ四階の銀行局検査部へ足を運んだ。
先月の四月十日から四月三十日まで三週間に亘《わた》って、銀行検査を受け、口頭での『講評』は、検査終了の最終日に、役員一同を集めて伝達されていたが、正式文書の形で頭取宛《あて》に送付される『講評』は、検査官が大蔵省に戻って、合議の上で書かれることになっている。口頭の講評と文書の講評との間に、相当な開きがあるというのが常識である。それだけに銀行側は、その一カ月程の間に、口頭で厳しく指摘された内容をそのまま正式文書の講評にされ、マル秘資料として検査部に残されぬよう、全力を尽すのだが、それが銀行検査後の忍者の任務であった。
阪神銀行東京事務所の黒井総務課長や伊佐早五郎が、本店検査を行なった六人の検査官のところへ、目だたぬように、入れ替りたち替り“ほぐし”に日参を続けたが、あと一息というところになると、やはり東京事務所長であり、忍者部隊長である芥川自身が、直接、出向かねばならなかった。
検査部の部屋へ入ると、芥川は素早く室内にいる検査官と来客の顔ぶれを見廻した。ファイル・ボックスや書類を積んだ本棚がぎっしり並んでいる二十坪程の部屋には、銀行検査の企画的な仕事を主にする管理課と、実戦部隊である審査課の係官が十数人いる。奥まった管理課の課長補佐席は空席になっており、主任検査官を勤めた森永俊次の姿は見えなかったが、審査課の席に、眼だけをぎょろりと光らせている海坊主《ぼうず》のような法華検査官の姿が見えた。机の前に、中京銀行の総務課長を坐《すわ》らせて、人を食ったような横柄《おうへい》さでふんぞり返っていたが、芥川と視線が合うと、微妙な笑いを眼の端に滲《にじ》ませた。阪神銀行の検査で、永田大蔵大臣への政治献金ルートを嗅《か》ぎつけられた時、その懐柔策に有馬温泉へ誘い出して、水揚げ前のような若い妓《こ》をあてがい、その後も検査期間中、有馬へ連れ出して、馴染《なじ》みを重ねさせ、“鬼の法華”を“仏の法華”に骨抜きしてしまったのだった。しかし、芥川はそんな気振《けぶ》りはちらとも見せず、慇懃《いんぎん》な目礼をして法華の机の前を通りすぎかけると、中京銀行の総務課長は、芥川に姿を見られるのがまずい用件だったのか、蒼惶《そうこう》と席をたち、帰って行った。芥川は法華の机の横にたち、もう一度、鄭重《ていちよう》に一礼し、低い声で、
「どんな様子です、私どもの貸金内容は?」
不良貸金として分類された総額に、手ごころを加えて貰《もら》えたかどうかを聞いた。
「百八十億にしておいたよ」
実際は二百億程あったのを、百八十億に止《とど》めてくれたのだった。
「それで、えんま帳の方は?」
役員面接の採点のことであったが、これは銀行にも報《しら》せず、大蔵省銀行局検査部にのみ保存しておく極秘のものであった。それだけに役員たる者の一番、知りたいところであった。
「あんたとボスは、森永主任検査官のおぼえがめでたかったらしいよ」
海坊主のような顔を、にやりとさせて洩《も》らした。
「何かとご配慮戴きまして――、近々、関西へお越しの節は、是非、ご一報下さい、あの妓が忘れられんと云っておりましてねぇ」
事実は、ぞっとするほど嫌だと云っているのを札束で云いきかせておきながら、気を持たせるように云うと、法華は相好を崩しかけたが、急に顎《あご》でしゃくるような横柄な顔付で、
「さあ、あとはあちらだよ――」
と云い、管理課の課長補佐席の方を眼で指した。森永が席へ戻って来たのだった。芥川は足早に、その方へ歩み寄り、
「どうも、その節は何かと行き届きませず、失礼申し上げました」
と挨拶《あいさつ》すると、森永課長補佐は俊敏な眼《まな》ざしを上げ、
「これはどうも――、私たちの方こそ、お手数をかけました」
検査期間中、政治的に妥協すべきところは妥協するが、それ以外、銀行側につけ入る隙《すき》を一分も見せずに通したのは、さすがに将来を約束されているエリート官僚であった。芥川は机の前に坐り、
「その節、口頭でご指摘を受けました諸点の中で、是非とも当行の説明をお聞き願いたい点がございまして――」
と切り出した。阪神銀行の口頭での講評は、『経営効率の面でみるべき点はあるが、預金吸収の面で、債務者預金の歩積《ぶづ》み両建《りようだて》的な伸びが顕著であり過ぎ、今後、資金ポジションの継続的な安定を図るため、個人預金の吸収に一層の努力を要する』というのが、その大要であった。阪神銀行が県下に一行しかない都市銀行である立場を利用し、地元企業に対して歩積み両建がきつ過ぎるという講評は、合併の時、相手行の取引先に“えげつない銀行”として毛嫌いされる因《もと》であるから、阪神銀行としては、何としても手加減して貰いたい点であった。芥川は、
「ご指摘の点はごもっともで、即刻、改善に鋭意努力するつもりですが、正式文書によって講評されますことは、当行にとってまことに不名誉なことでございますので、何とかその辺のところをご勘案願いたいのですが――」
低姿勢で頼み込むと、
「困りますね、事実を正式文書にするのが主任検査を勤めた私の役目ですからね」
三十五歳のエリート官僚の尊大さがあった。芥川は顔を逆撫でされるような思いをしたが、
「二年後の検査の時には、今回のご指摘に十二分にお応えできる自信がありますので、ここのところは一つ――」
さらに拝み倒すように頭を下げた。森永は視線を逸《そ》らさず、平然と芥川のそうした様子を見詰め、
「では、御行《おんこう》の歩積み両建の整備についての改善策を、早急《さつきゆう》に書面で提出して下さい、正式文書に記述するか否《いな》かは、それを拝見した上で考えさせて戴きましょう」
と云った。芥川はしめたと、思った。阪神銀行から提出した書面を見た上で考えるということは、ちゃんとした書面さえ提出すれば、正式文書の講評は加減してもいいという意味であった。そしてそれは、大蔵省の主流中の主流である主計局次長の美馬中の存在を考慮した森永の、官僚的な巧《うま》い返答でもあった。
「ご配慮有難うございます、では早速、具体案を書面でもって提出申し上げます」
芥川はもう一度、深々と頭を下げ、席をたちながら、今朝《けさ》から上京している万俵頭取に報告する最上のニュースであると思った。
阪神銀行東京支店の頭取室で、芥川は万俵頭取に、森永課長補佐とのやり取りを詳細に報告した。万俵は整髪したばかりらしく、いつもよりさらに端正に見える表情を動かさず、黙って聞いていたが、聞き終ると、
「ご苦労だった、じゃあ荒武常務に命じて、大蔵省《モフ》の喜びそうな書面を作らせ給《たま》え」
葉巻をくゆらせながら云った。
「はあ、早急にその旨《むね》、連絡致します」
芥川が慌《あわただ》しく連絡にたちかけると、
「何も急ぐことはないよ、どうせ形式的なことだろうから、講評が書き終えられた頃に提出した方が、向うの手間がはぶけていいだろう」
こともなげに云い、
「ところで、今朝の五行連合はどうだったかね、そろそろ協調融資の事項が懸案になる頃だろう」
「それなんですが、昨日《きのう》、永田大蔵大臣の金融引締め政策が発表され、近々、日銀の公定歩合の引上げも行なわれる見込みですから、資金の配分は効率的にしなければいけないというのに、各行の頭の中は、いずれ金融が緩んだ時のことを考えて、預金がだぶつき、貸付先に困るのが不安なのか、そう簡単に融資を引き揚げられないの、従来からの人間関係がどうのと、例によって一向、話がまとまりません」
芥川は、ほとほと手を焼くように会合の模様を説明した。
「じゃあ、会合の雰囲気《ふんいき》がだれないようこの辺で銀行局の井床《いどこ》銀行課長や久米総務課長あたりを招《よ》んで、ゴルフ大会でもやり、ともかく当行がつまみ食い出来る相手を探し出すまで、長引かせることだ」
「それは考えているのですが、夜の宴会やゴルフで五行の専務や常務が一堂に会し、さらに銀行局の役人も列席となりますと、目だって、他行にことが露見しやしませんか」
「それもそうだな――」
万俵は、ぷかりと葉巻をくゆらせながら、窓外へ眼を向けた。馬場先濠《ぼり》に面した五階の頭取室からは皇居の二重橋が見え、さらに向うに新宮殿の屋根が望まれた。しかし、一度《ひとたび》、視線を金融街に転じると、建ち並ぶ建物こそ荘重であり、或《ある》いは近代的に洗練されているが、そこでは眼に見えない各行の凄《すさま》じい銀行戦争が火を噴いている。
「で、本題以外で何か変ったことは、今日はなかったかね」
「とりたてて今日は別に――、そうそう、会合のあと、大同の綿貫専務とトイレットで顔を合わせ、阪神銀行さんは、阪神特殊鋼のメインを退《ひ》くお考えでもおありですかと、いやにしつこく聞かれました」
「それで、君はどう答えたのかね」
と聞き返しながら、万俵は、特殊鋼の不況で急激に経営が悪化している阪神特殊鋼のことを考えると、市況の見通しも出来ずに高炉建設に突っ走った鉄平の甘さが、今さらのように腹だたしかった。
「ところが私は、まさか大同銀行が当行とならぶほど融資率がせり上っているとは知りませんでしたので、適当に言葉を濁しておきましたが、ほんとうにそうなんですか」
芥川は、やや信じられぬ表情で聞いた。
「まあ、そんなところだ、三雲頭取が、鉄平にえらく肩入れしてくれているからね」
万俵は、鉄平への複雑に屈折した感情を抑えて応《こた》えた。
「そういえば、綿貫専務もそんな風なことを云っていました、それにしても、当行が阪神特殊鋼のメインをおりるつもりがあるかなどとは、誇大妄想《もうそう》もいいところで、あんな手合ばかりでは、日銀育ちの三雲頭取が、いい加減、いや気がさしてノイローゼになるというのも無理からぬ話ですね」
「ほう、三雲頭取がノイローゼ? 日銀理事から天下って一年経《た》ったばかりというのに、またえらく、たおやかな絹のハンカチーフなんだな」
三雲のひ弱さを揶揄《やゆ》するように云った。
「三雲頭取も、あと二、三年たてば、競争劇甚《げきじん》の市中銀行の頭取としての抵抗力がつくでしょうが、天下って一年目ぐらいの時が一番、くたびれ果てて、脆《もろ》くなる時期なんでしょうねぇ」
「なるほど、そしてそのあと、絹の雑巾《ぞうきん》になるわけか」
万俵は、芥川の話を興味深げに聞き、
「さっきの綿貫専務の話だがね、彼自身は、阪神特殊鋼に対する融資をどう考えている様子なのかね」
「さあ、深く話し合ったわけではありませんから、確かなことは解《わか》りませんが、どうもあの遠廻しな、奥歯にものの挟《はさ》まったようなものの云い方からしますと、あまり快からず思っているのではないでしょうか、そしてメイン・バンクを退く考えがあるかと聞いたのも、今にして思えば、それほど重荷になる要素が阪神特殊鋼にあるのではないか、それなら今のうちに自分のところも逃げを打とうという思惑があってのことかもしれません」
芥川は、トイレットでたち話しした綿貫の顔と言葉を思い返すように云った。
「もし、その綿貫専務が、阪神特殊鋼に対する融資を反対した場合、三雲頭取との力関係はどうなのかね」
「そりゃあ、いくらくたぶれた絹のハンカチーフとはいえ、背後に日銀がついていますし、都市銀行の頭取としての見識という点ではかないっこありませんから、貯蓄銀行時代からの主《ぬし》のような綿貫専務といえども、正面きって反対は出来ないでしょう、しかし、綿貫専務とは、一度さしで、ゆっくり話してみようと思っていますが、いかがでしょう」
縁なし眼鏡をきらりと光らせて、万俵の意向を聞いた。
「そうだな、君に任せよう」
どちらでもいい口振りで応えると、芥川はやや拍子抜けしたような表情で、頭取室を退《さが》って行った。
万俵は独りになると、葉巻を灰皿に置き、回転椅子《いす》からたち上って、背後《うしろ》の書棚の中から、『日本紳士録』を取り出した。そして〔ワ〕の部分の頁《ページ》を繰って、綿貫の氏名を眼で追った。三人目の綿貫のところで、万俵の眼がぴたりと止まった。
綿貫千太郎《わたぬきせんたろう》 大同銀行代表取締役専務
妻 まさ 明40110生、岡芳蔵次女
長男百太郎 昭14916生、早大卒、建設省勤務
同妻 操 昭1686生、アサヒ石鹸《せつけん》社長筒井義正次女、日本女子大卒
次女淑子 昭22416生、学習院女子短大卒
明治四十二年二月三日仙台に生まる、仙台高商卒、昭和六年関東貯蓄銀行入行、昭和三十年大同銀行取締役融資部長、同三十六年取締役常務、同四十年取締役専務に就任、現在に至る
〔住所〕東京都大田区千鳥四丁目
万俵は、頭に刻み込むように二度、その項を読み返した。
三雲はさっきから、服装、話しぶり、ものの見方まで、すべて自分とあまりにもかけ離れた専務の綿貫千太郎に、生理的な厭悪《えんお》感を覚えながら対話していた。綿貫の方は、そんな三雲の気持などいささかも気付かず、大きな赭ら顔をさらに赤らませて云った。
「頭取、くどいようですが、先日来、お話ししておりますアサヒ石鹸への五千万円の融資は決裁させて戴《いただ》きますから、ご諒承《りようしよう》下さいよ、アサヒ石鹸は、当行が都市銀行になる前から付合いのあった因縁浅からぬ取引先で、一介の町工場にすぎなかった石鹸工場を、今日の資本金二十億、従業員二千人の二部上場の会社に成長させるには、そりゃあいろいろ苦労がありましてねぇ、ですから、ここのところはひとつ、融資担当の専務である私に任せておいて下さい」
言葉は丁寧であったが、開き直るような語調があった。三雲は感情を抑え、
「アサヒ石鹸と当行との長年の付合いは、充分、承知しています、それなればこそ、私もここ一年余、アサヒ石鹸の業績回復を見守って来たのだが、冷静に考えて、将来たち直るめど[#「めど」に傍点]もないところへ、みすみす赤字資金の一部と解っている融資を諒承することは出来ない」
「現在の業績不振はともかく、将来、たち直るめど[#「めど」に傍点]もないというのは、失礼ながら何をもっておっしゃるのでしょうか、アサヒ石鹸は目下、高年齢層の人員整理による合理化を進める一方、男性化粧品の分野へ進出して、経営の多角化をはかるべく体質改善に取り組んでおるではございませんか」
「しかし、石鹸、洗剤業界には大手の石油化学会社がどんどん進出し、加えて世界最大の洗剤メーカーであるアメリカのP&G社の日本上陸も間近い折から、いかに業界を代表する老舗《しにせ》メーカーとはいえ、同族会社で、大手資本や外資にたち向える優れた近代的感覚をもつ経営者もいないアサヒ石鹸は、長期的にみた場合、将来性を期待出来ないという懸念《けねん》が大いにありますね」
と云うと、綿貫千太郎は唇を歪《ゆが》めた。
「その優れた近代感覚を持つ経営者というのは、どういう意味で? まさか、前社長が丁稚《でつち》からの叩《たた》き上げ、現社長も高商出という学歴を指しておられるわけではございませんでしょうねぇ」
綿貫自身、仙台高商出で、三雲が東大法学部出身であることを含むように云った。
「むろん、学歴などを云々《うんぬん》しているのじゃないのです、アサヒ石鹸という暖簾《のれん》にだけ頼り、近代的な経営精神が乏しいということを問題にしているのですよ」
「しかし、頭取がえらく強気で貸し込んでおられる阪神特殊鋼には、万俵鉄平専務という、東大工学部出身で、マサチューセッツ工科大学にまで留学された近代経営者がおられながら、長年の取引先であるアメリカン・ベアリング社から一方的にキャンセルされ、その時の苦しまぎれのダンピングが、特殊鋼業界の不況ムードに火を点《つ》けて、今や高炉建設さえ危ぶまれるような先行《さきゆき》の暗さだというではございませんか、しかも、昨日《きのう》、五行連合の準備委員会で同席した阪神銀行の芥川常務に、それとなく親銀行と子会社の関係を探ってみますと、何となく水くさい感じさえあるのですが、そうした阪神特殊鋼に対する頭取のお考えはいかがなんです?」
既に自分の息のかかった神戸支店長に、阪神特殊鋼の現状を調べさせ、高炉建設の一時、中止を云わせておきながら、素知らぬ体《てい》で聞いた。
「たしかに阪神特殊鋼の現状はいいものではない、高炉建設という膨大な設備投資の最中だけに、他社より苦しいことも認める、しかし、特殊鋼というのは、単に売った買ったの繋《つな》がりだけではなく、需要家の要求によって培《つちか》った技術がものをいう業種だ、それだけに、常に技術革新で業界をリードしている阪神特殊鋼の力量には信頼がおける、そして特殊鋼の長期需要見通しも、通産省の調査によれば、五十年度には現在の七〇パーセント増加を予想しているから、現在の一時的な落ち込みだけで見ず、長い目で判断することだ、しかも阪神特殊鋼一つだけを取り上げず、これを取り巻く企業群をわが行の取引網の中へ組み込んで行くという、もっとマクロ的な考えで判断するのが、都市銀行の経営者たる者の眼だと思うがねぇ」
もの柔らかではあったが、綿貫の安全な融資先ばかりを選ぶ目先勘定を窘《たしな》めるように云うと、綿貫は唇に唾《つば》を溜《た》め、
「私のような叩き上げの実務家は、頭取がおっしゃるような日本経済の展望や国際金融の動向などというマクロ的な見方より、ミクロ的、つまり身近な眼先のことを信じる方なんでございますよ、鉄鋼の話一つにしましても、世界的需要の傾向を論じるより、今日、何ミリの棒鋼がトン当りいくらかという方に関心があり、さらにいえば、鉄、電力、石油などの基幹産業より、大衆の日常生活と密着した消費財メーカーへの貸付に関心がございます、その場合も、貸付先の資本金や業界の評判などでことを決めず、貸付先の勝手口まで覗《のぞ》いた上でないと納得しない性質《たち》でございましてねぇ、アサヒ石鹸もそうして今日《こんにち》あらしめた企業なんですが、一介の町工場時代から、工員と一緒になって石鹸粉にまみれて来た者の気持など、到底、お解り戴けんでしょうなあ……」
自ら詠嘆し、言葉に酔うように云った。そこには、叩き上げの人間の中小企業に対する限りない愛情と同時に、大企業に対する抜きがたい反感が見られた。
「綿貫君、融資は浪花《なにわ》節《ぶし》的な感情できめるものじゃないよ」
三雲が云うと、綿貫は大きな鼻翼をぴくりと動かした。
「浪花節はいかんが、高邁《こうまい》な理想主義の融資なら、少々、現実離れしていても通るというわけでございますか」
「そうじゃない、アサヒ石鹸に対する君の長年にわたる情実貸付を、今後は慎んで貰《もら》いたいという意味です」
三雲は云わずにすむものなら、云いたくないと思っていたことを口にした。
「おや、そういうことだったんですか、それなら、廻りくどいことをおっしゃらず、最初から、そうおっしゃって下さればよろしいのに――」
綿貫はねっちりとした云い方で抵抗した。
「そりゃあ、たまたま現社長の筒井の次女が、私の長男の嫁になっておりますが、だからと云って、私は不明朗な情実貸付は致しておりませんよ、その証拠に、先程も申しましたように、一介の町工場であったアサヒ石鹸を二部上場の会社に仕上げたじゃありませんか」
「しかし、アサヒ石鹸に対して、いつも融資部を通さず、専務の“鶴《つる》の一声”で決まる貸付については、行内の心ある者の間で非難の的となっており、中にはそれをあなた自身の将来と結びつけて考える者さえある、その辺を充分、留意して、アサヒ石鹸に対し、今後、融資部を通さないルーズな貸付は慎んで貰いたい」
三雲が云うと、綿貫は一瞬、胸中を見すかされたように表情を動かしたが、
「いやですねぇ、それじゃあ、まるで私が将来、アサヒ石鹸の社長にでもおさまろうとしているような云われ方ではありませんか、体質云々を云われていても、大同銀行は第八位の都市銀行でございますよ、その専務たる者が、アサヒ石鹸の社長に擬せられるなんて――、同じ擬せられるなら、口先だけでも次期副頭取と云って貰いたいものでございますよ、私自身のためではなく、大同銀行の自主独立を願う中堅幹部の士気昂揚《こうよう》のためにね」
取締役会を控えて、綿貫派がしきりに綿貫の副頭取昇格を画策している矢先であったから、綿貫は力むように云い、
「それにしても、頭取のお耳にそんなことを入れるのは、融資部長の島津君じゃありませんか」
と聞いた。島津融資部長は日銀発券局の一課長から、大同銀行の融資部長におさまった人物だった。
「誰が云ったの、いわないのということは問題じゃない、アサヒ石鹸への情実貸付を、以後慎んでほしいと云っているのです」
厳しい口調で云うと、綿貫は大きな赭《あか》ら顔を不意ににんまりと綻《ほころ》ばせ、
「じゃあ、今回のアサヒ石鹸への融資は、頭取にもご賛同戴くことに致しまして、以後は融資部を通しましょう、その代り、この間の融資会議でもめた阪神特殊鋼への来期六月から九月までの融資計画には反対致しませんよ」
取引するように云った。三雲は、不快な思いが咽喉《のど》もとに突き上げて来たが、阪神特殊鋼の万俵鉄平が、夕方、訪ねて来る約束になっているのを思い出して、黙った。三雲と綿貫との間に、人間的な肌合いの相違に加えて、阪神特殊鋼とアサヒ石鹸の融資問題がからみ、従来以上に目に見えぬ対立が深まった。
三雲頭取と万俵鉄平を乗せた車は、日本橋本石《ほんごく》町の大同銀行を出ると、渋谷松濤《しようとう》の三雲邸に向った。ラッシュ・アワーは過ぎていたが、日本橋から渋谷に向う高速道路三号線はまだ車が渋滞している。
「まさか、用談のあと、鉄平君に娘を見舞って戴くとはね、娘も喜ぶことでしょう」
三雲は、ついさっきまで頭取室で鉄平と対していた時とは別人のような明るい表情で云った。
「いえ、僕の方こそ、いつもお訪ねすると、無理な融資のお願いばかりですから」
鉄平は今日もまた、三雲頭取を訪ね、ダンピング競争に巻き込まれた阪神特殊鋼の苦しい経営状態をありのまま報告すると同時に、来期六月から九月までの高炉設備資金と運転資金の計二十四億は削減しないで貰いたい旨《むね》を懇請したのだった。それに対して三雲は、既に融資会議で決定していることだし、高炉建設は当然、あなたの手で完成して貰いたいと、応《こた》えたのだった。
車はやがて渋谷松濤の三雲邸の前に停まった。老婢《ろうひ》が門を開け、ポーチまで入ると、薄茶《ベージユ》に臙脂《えんじ》の縞紬《しまつむぎ》を着た志保が、玄関に出迎えていた。
「お久しゅうございます、お待ち申し上げておりました」
細面の白い顔の中で、父に似た澄んだ眼が頬笑んだ。鉄平がマサチューセッツ工科大学の学生、志保がカレッジ在学中の時以来だった。
「ほんとうにお久しぶりですね、お体が勝《すぐ》れられないそうですが、お工合はいかがですか」
「大丈夫でございますわ、先程、父から万俵さまがお越し下さると聞き、すっかり気持が明るくなりましたの、急で何もご用意できませんけれど、ごゆっくり遊ばして下さいまし」
と云い、応接室に案内した。天井の高い古風な部屋で、正面の壁に岸田劉生の『麗子像』が掲《かか》っている。麗子像は、銀行の三雲の頭取室にも掲っており、よく見ると、その可憐《かれん》で澄んだ面ざしが、少女の頃の志保に似ているようだった。
「さあ、どうぞ、食卓のお用意が出来ますまで、食前酒《アペリチフ》を召し上って下さいましな」
志保は、ワゴンから食前酒を取って父と鉄平に注《つ》ぎ、スモーク・サーモンのオードブルを出した。
「おや、懐《なつ》かしいですね、ニューヨークのお宅へブリッジをしに行って、よくご馳走《ちそう》になったのを思い出しますよ、あの頃、まだお元気だったお母さまが、カナダ産のスモーク・サーモンにレモンを添えて、よく出して下さいましたねぇ」
亡《な》くなった志保の母を懐かしむように云うと、
「母も、万俵さまがいらっしゃると、必ず喜んで下さるからと、張りきってお出ししていたようですわ、今日はそれを思い出して、私がご用意致しましたの」
「ほう、よく覚えていたね、そういえば、盛りつけまでお母さまのとそっくりだな」
三雲は、父親らしい眼《まな》ざしで娘を見た。鉄平はサーモンを一口、口にし、
「うむ、おいしい」
浅黒く引き締まった顔に、白い歯を見せて笑うと、
「そうおっしゃって戴くとうれしいですわ、たくさん召し上れ」
志保の顔が生き生きと息づいた。
「昨年の秋、父と丹波の篠山《ささやま》へ猪《しし》撃ちにいらっしゃった時のことを伺いましたけれど、三百メートルほど前から向って来る大猪《おおいのしし》に、父は一発弾を撃っただけで、二発目も、三発目も弾が出ず、もう少しで猪に襲われてしまうところを、万俵さまが横合いから飛んで来て、撃ち留めて下さったそうですわね」
「いや、あれはお父さまが、何かのはずみで銃の弾倉のバネがはずれたのを気付かれなかっただけのことで、僕が横合いから一発撃っている間《ま》に、お父さまもすぐ予備弾倉をつけて撃たれたから、お互いに助かったのですよ」
鉄平はややてれるように云ったが、志保は、
「でも、あの時、万俵さまが横合いから飛び出して撃って下さらなかったら、小牛のように大きな猪の牙《きば》にかけられていたと、父は何度も繰り返しておりましたわ、それにしても、よくそんな間近にまで迫っている猪に銃口を当て、お撃ちになれましたこと、やはり勇気がおありになるのですわ――」
頬を上気させ、いつになく饒舌《じようぜつ》に喋《しやべ》ったが、額のあたりがかすかに汗ばんで、異様に紅《あか》い。三雲は、つと志保の額に手を当てた。
「少し微熱が出ているようじゃないか、鉄平君には悪いけど、晩餐《ばんさん》まで失礼させて戴《いただ》くがいい――」
胸を患《わずら》っている娘の健康を気遣った。
「いいの、お父さま、こんな楽しいことって、めったにございませんもの、是非、ご一緒にお話を――」
「駄目だよ、暫《しばら》く安静にしていなさい」
厳しい口調で云うと、志保はやっと頷《うなず》き、
「では、少しの間、失礼させて戴きます」
三雲は娘のうしろに廻って、肩を抱《かか》えるようにして老婢を呼び、娘を託した。
志保が部屋を去ってしまうと、三雲はぐいとグラスを空け、
「娘はいつも独りの時間が多く、鉄平君との十数年ぶりの再会で、懐かしさのあまり、ついはしゃぎ過ぎたようで、失礼――」
「いえ、それより、奥さまがお亡くなりになっても変らないご家庭の温かさを感じましたよ――」
「有難う、おかげで家庭的には、体が弱くても、優しい娘がいて心憩《やす》まり、幸せですが、仕事の面ではまだまだ、私の意に任せぬことが多々あります、その点、あなたは、資金繰りには苦しんでおられるが、自分の思いのまま、全力投球の仕事が出来て羨《うらや》ましい限りだ――」
「それも三雲さんに資金面のご面倒を見て戴ければこそです、そして先刻《さつき》、銀行でもお話し申し上げましたように、確かに販売面では弱い点がありますが、高炉建設の先頭にたつ技術陣をはじめ、全社を挙げて、高炉のためには、電話一本はもとより、鉛筆一本、紙一枚も節約して、特殊鋼業界最初の高炉建設を成し遂げようとする気概に燃え、実践しております」
精悍《せいかん》な眼をぎらぎらと光らせ、自社の団結ぶりを誇らしげに話すと、三雲は、昼間の綿貫との話を思い出した。その因《もと》が自行内部に根深く潜在している天下り派と生抜《はえぬ》き派の派閥抗争にあることを考えると、家であることの安心感から、ふと誰かに話したいような気弱な思いに襲われた。
「鉄平君、あなたはいくら金に苦しんでも、それだけの全社員の熱意に支えられ、自分の理想に向って一途《いちず》に仕事が出来ることは、企業家として、何ものにも替え難い幸せだ」
「三雲さんには、行内人事の上で、何か難かしいことでもおありなんですか――」
三雲の立場を気遣うように云った。
「恥ずかしいことながら、当行は、貯蓄銀行時代からの牢固《ろうこ》とした生抜き派と、日銀天下り派と、そのどちらにもつかない中間派の三つに分れて、陰湿に暗闘している、私の仕事は、この派閥抗争をなくすことだったんだが、最近、融資方針の意見の食い違いが行内の対立をますます深め、ほとほと参っている……」
と云い、あとは言葉を跡切《とぎ》らせた。
「それでは当社への融資についても、僕の知らないところで、三雲さんにご迷惑をおかけしているんじゃないでしょうか?」
三雲は暫く、暗い夜の庭へ眼を向け、
「いや、そんな懸念《けねん》はいりませんよ、今は私もあなたも、高炉建設に賭《か》けているのです、資金面では当行として出来る限りの協力をしますから、あなたこそ、これからの不況に怯《ひる》まず、高炉建設という大事業にたち向って下さい、亡くなられた大川一郎さんもそれをどんなに楽しみにしておられたかしれない――」
静かな声であったが、自らにも云いきかせるような響きが籠《こ》められていた。
「そうでした――、舅《ちち》は高炉の火入式には何をさしおいても必ず行くからと云っておりました」
鉄平は、決意を新たにするように頷き、三雲邸を辞したら、茗荷《みようが》谷《だに》の大川家へ寄ってみたいと思った。
「あなた、鉄平さんがお詣《まい》りに来て下さいましたよ」
故大川一郎の妻は、まるで生きている人に話しかけるように、仏壇に向って云った。鉄平は鉦《かね》を鳴らし、線香をたてて合掌した。
眼を上げると、仏壇におさまっている舅《しゆうと》の顔写真を見た。元通産大臣、自由党の領袖《りようしゆう》であった大川一郎は、鋭い眼光、贅肉《ぜいにく》の盛り上った頬、分厚な唇で、仏壇に入ってもなお脂《あぶら》ぎった威圧感を湛《たた》えている。存命中は、朝七時ともなれば、もう陳情客が玄関脇《わき》の十畳の待合室に列び、二台の電話がひっきりなしに鳴って、二人の女中と四人の書生が慌《あわただ》しく取り捌《さば》いていたが、今は一人の訪問客もなく、ひっそりとしている。凝った築山《つきやま》と燈籠《とうろう》を配した自慢の庭も荒れはてている。姑《しゆうとめ》の和代が、鉄無地の地味な着物姿できちんと端坐《たんざ》し、
「いつも心にかけてお詣り下さって、恐縮です、鉄平さんに来て戴くと、主人もさぞかしご機嫌でしょう、さあ、お膝《ひざ》をお楽に――」
と云い、一人に減らした女中にお茶を運ばせ、娘婿《むすめむこ》の来訪を心《しん》から喜んだ。
「いや、お舅《とう》さんには、ご生前、いろいろとお世話になり、もっと足繁《しげ》くお詣りしなくては申しわけないのですが、このところ、どうしても手を放せないことがあり、ご無沙汰《ぶさた》致してしまいました」
「それでお仕事の方は、順調に行っていらっしゃいますか、主人は鉄平さんのこととなると、むきになって肩入れして、高炉の話になると、まるで自分が高炉を建てるかのように昂奮《こうふん》しておりましたわ」
期せずして姑も、さっき三雲が云った言葉と同じことを口にした。現在、建設しつつある高炉の許可は、通産省重工業局長が転炉ぐらいにしておく方がと難色を示したのを、大川一郎の政治力によって強引に押し切り、認可を取り付けたのだった。そして高炉の鍬入式《くわいれしき》には、多忙な時間を割いて飛んで来てくれ、重工業局長をはじめ、通産省関係の来賓に自ら挨拶《あいさつ》して廻り、去年の祖父の十七回忌の法要の席で会った時も、通産省の来年度の鉄鋼業界の景気見通しは悪いらしいから、少しでも早く進めることだと親身に励ましてくれたが、思えばそれが大川一郎との最後になったのだった。
「お舅さんの存在が、どれほど僕にとって大きな力であったか、今さらのように思い返されます、それだけに……」
気弱になりかけたが、すぐ気持を取り直し、
「それより、こちらの家内《いえうち》関係のこと、相続税その他は、うまく片付きそうですか?」
気懸《きがか》りそうに聞くと、
「それが国税庁で、主人の生前は何かと取り計らって下さった方が転任され、その後はがらりと態度が変りまして――、それで美馬さんの方から頼んで戴いているのですが、もう一つはかばかしくない様子で、息子たちも困っておりますの」
長男は、大川一郎の利権に繋《つな》がる大日本漁業の役員をし、次男も大川の息のかかった極東貿易に勤務していたが、二人とも父の威光を笠《かさ》に着るところがあったから、鉄平とはうまが合わず、どちらからともなく親しく話し合うことがなかった。特に長男の方は、大川の死後も、この邸《やしき》に移り住まず、別に暮し、四十九日、百カ日の法要の席などで鉄平と顔を合わせていたが、積極的に相談を持ちかけようとはしなかった。
「じゃあ、私からも美馬によろしく頼んでおきますが、お舅さんの息のかかった政治家で、その方面に顔がきく人がいらっしゃると、なおいいのですがねぇ」
「それがまた、何しろ主人の死が突然だったものですから、選挙をひかえて、皆さん、それどころではないようで――」
あとは言葉を濁すように云ったが、大川一郎を長として集まっていた『大山《たいさん》会』の三十五人の代議士たちは、跡目相続の仲間割れでまとまらず、ちりぢりになって他の派閥に身を寄せつつあるのだった。大川一郎が死亡してからまだ半年も経《た》っていないことを思うと、鉄平は政治家の世界の有為《うい》転変をしみじみと思い知った。沈みがちになる雰囲気《ふんいき》を和らげるように、
「お姑《かあ》さん、先日は早苗がお邪魔しましたが、お役にたちましたでしょうか?」
と聞くと、和代はほっと和んだ表情で、
「おかげさまで、あの娘《こ》が帰って何かと相談にのってくれますと、気持が晴れます、何といっても、実の娘は気がおけなくて、親身になってくれますからねぇ」
息子たち夫婦とうまく行っていないことを洩《も》らすように云い、
「早苗は、何か少し元気がなさそうに見えましたが、そちらでちゃんと致しておりますのでしょうか」
気遣うように聞いた。鉄平はとっさに返事に詰った。大川の死後、万俵家の早苗に対する態度は、掌《てのひら》を返したような冷淡さで、何かにつけて弟嫁の万樹子の方がたてられることが、早苗の心を傷つけているのだったが、
「いや、別に――、ただこのところずっと、僕の仕事が忙しくて、帰りが遅いので、疲れているのでしょう」
「まあ、そうなんですか、それなら安心ですよ、主人が元気な時から、早苗は実家《さと》帰りして参りますと、あなたが仕事第一主義で、家庭放棄だと不満を云っては、主人に、男はそれでなくてはいかん、仕事をする鋭気を養うためには、女遊びをして帰って来る亭主でも快く迎えんといかんと、手前勝手に、云い聞かせておりました」
姑は、笑顔をみせて云い、
「そうそう、この間、早苗から聞いたのですけれど、二子さんは佐橋総理夫人の甥御《おいご》さまとご縁談がおありとか……、いえ、娘の嫁ぎ先のお妹さまのご縁談のことなど、さし出がましいのですけれど、ちょっと耳に致しましたものですから……」
云いにくそうに聞きながら、仏壇の中の夫の写真を顧みた。大川一郎と佐橋総理とは、犬猿《けんえん》の間柄であったから、政治家の妻ならこだわるのが当然であった。
「実はまだ、僕は一度もその縁談《はなし》は聞いていないのですが、どうやら内々《ないない》で、進めているような様子ですね」
と応《こた》えたが、鉄平は、もし大川一郎が健在なら、この縁談は進められただろうか、大川一郎が急死したことが契機になって、この縁談が始まったのではないかという疑念がうかんだ。大川一郎の葬儀の日、湿りのない表情で焼香していた父の顔が思い出され、もしやあの時、父は焼香をしながら、次なる閨閥《けいばつ》の相手を考えていたのではないかと思うと、咽喉《のど》もとが冷たくなった。
「あら、お喋《しやべ》りしているうちに、もう十時ですわね、鉄平さん、今夜はうちで泊って下さいましな、このところ、家内《いえうち》もすっかり寂しくなってしまって――」
曾《かつ》ては、三十五人の代議士を抱えた『大山会』の長として、大川一郎は年中、料理屋のように来る人ごとに酒肴《しゆこう》を振舞い、談論風発すれば夜を徹して語り明かし、妻である和代は、料理屋の女将《おかみ》さながら、数人の女中たちを賑《にぎ》やかに指図していたことを思うと、鉄平は、俄《にわ》かに身辺がわびしくなり、齢《とし》老いた姑の気持をむげに拒みかねた。ホテルでぐっすり眠り、連日の疲労をとりたかったが、
「ようございますとも、久しぶりに泊らせて戴きますよ」
姑をいたわるように、闊達《かつたつ》に笑った。
*
午後五時を過ぎると、大蔵省の記者クラブ詰の新聞記者たちが、省内を遊泳しはじめる。阪神銀行東京事務所総務課の伊佐早五郎は、日本新聞の内藤記者を記者クラブから出る前に掴《つか》まえるべく、急ぎ足で二階の大臣室の前を通り抜け、廊下の突き当りにある記者クラブへ顔を出した。
各全国紙、通信社、日刊業界紙に、放送関係が加わった記者クラブは、五時を過ぎて既に記者たちが出払ったあとらしく、閑散としており、各社のキャップが数人、碁《ご》を打ったり、夕刊をひろげて話し合っているだけであった。
伊佐早は、一足遅かったことを悔んだが、目だたないように素早く記者クラブから踵《きびす》を返し、内藤記者が省内を廻るとすれば、主計局、銀行局、理財局のどのあたりから先に廻るか、考えをめぐらせながら、エレベーターのボタンを押した。
「あっ、これは美馬さん――」
エレベーターの中から出て来たのは、主計局次長の美馬中であった。
「ああ、君か――」
美馬は、伊佐早の会釈《えしやく》に軽く頷《うなず》き、そのまま行き過ぎかけた。時折、省内で顔を合わせることがあるが、美馬はよほどの時以外は口をきかない。舅《しゆうと》の阪神銀行の忍者との話は、周囲から色眼鏡で見られやすいからであった。伊佐早五郎にしても、その辺は充分心得て、殆《ほとん》ど言葉はかけなかったが、今は一刻も早く内藤記者を掴まえる必要があったから、辺《あた》りに人のいないのを幸い、
「日本新聞の内藤さんを主計局で見かけられませんでしたでしょうか?」
「いや、来ていなかったが、どうかしたのかい?」
切れ者の多い大蔵省廻りの記者の中でも出色の記者であったから、美馬は探るように聞き返した。
「いえ、ちょっと伝言がありまして――」
言葉を濁すと、美馬はじろりと伊佐早に一瞥《いちべつ》をくれ、そのまま行ってしまった。
伊佐早は、止めっ放しにしておいたエレベーターに乗ると、ともかく銀行局をのぞいてみようと、四階のボタンを押した。伊佐早が内藤記者を追っているのは、今日の午後、発売になった『週刊日本』の“霞《かすみ》が関《せき》スズメ”というコラムに、内藤記者が“大同銀行、三専務制の舞台裏”と題して書いている記事の根を、もう少し深く探るためであった。
記事は「空席の副頭取のポストに、かねてより昇格が噂《うわさ》されていた筆頭専務の綿貫千太郎は、今期取締役会で再び昇格を見送られた。加えて、従来二専務制であった役員定款《ていかん》が、このほど三専務制に変更され、新たに日銀天下りの外国担当常務の白河裕《ひろし》が専務に昇格、この人事をめぐって“絹のハンケチ”三雲頭取と“もめんの雑巾《ぞうきん》”綿貫専務との抗争が深刻化しそうな気配である」という書出しで、大同銀行のお家騒動的な事件が戯画化して書かれていたが、短いコラムだけに事の真相が掴みにくい。平素なら内藤記者と顔を合わせた時に探るところだが、芥川東京事務所長から、大同銀行の綿貫専務に関する情報を、細大洩らさず収集するようにと特命を受けていた矢先だけに、第三者に気付かれないように聞き出さねばならない。
エレベーターを降りると、
「あら、伊佐早さん、今日は三回目ね」
廊下の向うから、帰り支度をした顔馴染《なじ》みの女子職員が、くすりと笑って、声をかけて来た。時折、手袋や観劇券をプレゼントして、ご機嫌をとり結んでいる銀行課の女子職員であった。
「われら末輩は哀れなもんさ、そうだ、君、日本新聞の内藤さん、見かけなかった?」
「内藤さんなら、井床銀行課長のところに来てるわ、さては今日のお目当ては彼ね」
図星をさすように云った途端、伊佐早は返事のかわりにウインクを送って、脱兎《だつと》の如《ごと》く銀行課に駈《か》けつけた。
銀行課には係官の姿は殆どなかったが、井床銀行課長の机の前に、内藤のほかに数人の新聞記者が坐《すわ》り込んでいる。
「で、井床課長の方には三雲頭取から今回の人事について、コメントがあったんでしょう?」
若い記者の声がした。伊佐早はしめたと思いながら、何食わぬ顔で記者たちのうしろにたった。井床銀行課長は伊佐早の方をちらっと見たが、敢《あ》えて咎《とが》めだてもせず、
「コメントは貰《もら》っている、白河常務は日銀外国局の部長時代、外国為替に弱い大同銀行に、いわば乞《こ》われて入った常務で、この四年間、外国部門の強化につとめ、所期の成果を上げたので、この際、専務に昇格させ、外国部門の陣容をなお一層、強化したい、ということだった、だが、綿貫千太郎君の専務据置きについては、格別聞いてないよ」
記者たちの質問にひっかからぬよう、あたりさわりなく応えている様子であった。
「すると、三雲頭取はああみえて、なかなかのやり手なんですかねぇ、要は今度の人事は、三雲体制の強化を狙《ねら》った以外の何ものでもないじゃないですか」
別の記者が云うと、内藤記者が、
「そうでもないさ、三雲頭取の個人的な心情としては、長年苦労した綿貫専務をこのあたりで副頭取に昇格させ、生抜き派の宣撫《せんぶ》工作をしたかったんだが、日銀の方から横槍《よこやり》が入って、断念したというのが真相だよ」
「ほう、うがった推理だな」
井床銀行課長が半信半疑の体《てい》を装いながら、今度は逆取材にかかった。
「いや推理じゃないですよ、ニュース・ソースは云えないけど、取締役会の一週間程前、三雲さんはどうやら綿貫さんに次期副頭取への昇格を約束したらしい、ところが寸前になって、日銀の松平総裁が三雲さんを呼び出し、大同銀行の副頭取のポストは空席のまま、見送ってほしいというプレッシャーをかけたらしいんだな、松平総裁の頭の中には、市川理事がもう随分、長いことになるので、奴《やつこ》さんの転出先として、大同銀行副頭取のポストを確保しておき、いずれは三雲頭取の後継者に据えようという考えが、早くも去来しているんだと思うね」
「なるほど、考えられる筋書だね」
井床課長が頷《うなず》くと、さっきの若い記者も、
「それなら、取締役会の夜、綿貫派が一団となって、赤坂の料亭から銀座へ繰り出し、荒れたのも無理からぬことですね、たまたま僕はあの夜、銀座で飲んでて、一行をみかけたんですが、えらく昂奮してましたよ」
「副頭取就任祝いとして用意していた席が、残念会になったのだから、そりゃあ頭にも来るだろう、内藤君の『週刊日本』の記事じゃないが、あの綿貫ほていさん[#「ほていさん」に傍点]のことなら、念願の副頭取だけに、金縁《きんぶち》の分厚い名刺を手廻しよく作って、机の引出しにしまって、毎日、にたにたしながら眺めていたかもしれないな」
また一人が、まぜっ返した。
「大いにあり得る光景だな、しかしこれで綿貫さんも副頭取への道が完全に閉ざされ、哀れ一巻の終りというわけだね」
「そうかもしれんが、三雲さんはこれでぬぐい難い私怨《しえん》を買い、ますますやりにくい立場に追い込まれるだろう」
内藤記者がそう云い、たち上りかけると、伊佐早は、そこまで聞いてしまえば、それ以上、内藤記者にこと改めて聞くことはないと判断し、阪神銀行東京支店へとって返した。
東京事務所の灯《あか》りは、まだあかあかと点《つ》いている。伊佐早は総務課を素通りして、事務所長室へ直接、行った。芥川は、
「詳しい報告は、この電話のあとで聞くから、ちょっとそこで待っていてくれ給《たま》え」
と云うなり、直通電話のダイヤルを廻した。
「もしもし、綿貫専務はおられますか、私、阪神銀行の芥川でございます」
大同銀行秘書課への電話であった。綿貫の在否を待つ間、芥川は空いている左手を伸ばして、郵便入れから和紙の封筒にしゃぶしゃぶ屋の店名が印刷してあるダイレクト・メールをつまみ出した。
「もしもし、これは綿貫専務、突然、こんな時間にお電話などさし上げまして……いえいえ、こちらこそ……突然ですが、今晩、空いておられませんか」
芥川はよどみなくそこまで云い、相手の言葉を聞いていたが、
「そうですか、いえ、ほかでもありませんが、神戸の花隈《はなくま》の元芸者が、日劇の向いのビルの地階に、しゃぶしゃぶを食べさせる東京店を出し、今日がその開店披露日なんですよ、有楽町といえば、ほら、十何年前に、専務は大同銀行有楽町支店の名支店長、私は支店経験はじめての新米支店長で、何かとお引き廻し戴《いただ》いた思い出のところでございますので、久しぶりに当時を懐《なつ》かしんでご一献《いつこん》、さし上げたいと存じましてねぇ、そうです、そうです、では歌の文句ではありませんが、七時に有楽町で会いましょうと参りますか、お待ち致しておりますよ」
芥川は約束を取りつけ、電話をきると、伊佐早の方へ向いた。
「さて、出かけるまでに、君から詳しい話を聞こうか」
忍者部隊長らしい手際《てぎわ》のよさで促した。
日劇前のビルの地階に開店した『花くま』は、開店披露のせいか、満員の盛況でテーブルはふさがり、神戸肉のしゃぶしゃぶを煮る匂《にお》いと湯気が、店内にたち籠《こ》めている。
芥川は、奥に三つほどある座敷の一つに入って、綿貫を待っていた。床柱から座敷机までがっしりとした太木で作られた民芸調の内装を眺めていると、襖《ふすま》が開き、
「すんまへん、ほったらかしにしといて」
関西弁の三十五、六の女盛りの女将が、元芸者らしい色っぽい身のこなしで、茶を運んで来た。
「いや、なかなか豪勢な店開きだね、よっぽど旦那《だんな》の景気がいいとみえる」
「いややわ、旦那のことなど云いはったら、営業妨害だっせ」
軽く睨《にら》む振りをし、店開きの苦労話をしていると、綿貫千太郎がぬっと入って来た。黙っていても絶えず喋《しやべ》っているような赭《あか》ら顔が、今日にかぎって生気がないのは、さすがに『週刊日本』の記事を気にしているらしい。芥川はしいて陽気な声で、
「突然、勝手なお誘いなどしてすみません、お待ちしていましたよ」
と云うと、女将も、
「ようお越しやす、神戸肉と灘《なだ》の樽《たる》ぬきのお酒が売りものでおますので、これからはせいぜいご贔屓《ひいき》に――」
と挨拶《あいさつ》し、ぽんぽんと手を叩《たた》いて、仲居たちに酒としゃぶしゃぶ鍋《なべ》の用意を云いつけ、席をたった。
鍋の用意が出来、二人きりになると、芥川は綿貫に酌をし、
「五行連合、その他《ほか》の席で顔を合わせていても、こうして綿貫専務とさし[#「さし」に傍点]で飲むなど、有楽町の支店長時代以来のことですね、あの頃はこんなビルなどまだなくて、国電沿いの寿司屋《すしや》横丁で、よく飲んだものですね」
昔を懐かしむように云うと、綿貫も盃《さかずき》をぐい飲みに替えて飲みながら、
「旧《ふる》きよき時代というのも、あの頃までですな、今はやたらとマスコミが幅をきかせて、おちおちしてると寝首をかき切られる――」
憤懣《ふんまん》やるかたないように云った。
「いや、全く、マスコミといえば、今週の『週刊日本』を読みましたが、怪《け》しからんですな、芸能界のことを書くような感覚で、われわれ金融界の、しかもトップのことを書くなんて、記者の節度を疑いますよ」
共通の被害者めいた表情で云うと、
「やっぱり芥川さんもそう思いますか、私は何も副頭取の名刺など、作っとりゃせんのに、あんな風に書かれ、内藤とかいうあの記者を告訴してやろうかと思っている」
「まあお気持は解《わか》りますが、内藤記者は大蔵省のみならず、大物財界人や政治家にも顔の利《き》く相当な記者ですから、敵に廻すと、手強《てごわ》いですよ、それよりここは我慢して、いつか機会があったら私がお引合せ致しますから、お会いになったらいかがです?」
「なるほど、そういうものですかねぇ――、しかし、なんといっても今度の人事で、一番可哀《かわい》そうなのは、私に期待をかけていてくれた部下たちですよ、取締役会を前に、みんな今度こそは私を副頭取にして、生抜き派の頭取を実現させる足がかりをつくろうと必死でしたからねぇ」
「その気持は解りますよ、聞くところによると、今度の人事も日銀からプレッシャーがかけられたとかいうことですが、そうなんですか?」
「あたらずとも、遠からずとだけ、申しておきましょうか、一旦、日銀の色がついてしまうと、なかなかわれわれの思うようにはいかんものでしてねぇ」
薄桃色の肉を頬張りながら、吐き捨てるように云った。芥川も鍋をつつきながら、
「伺えば伺うほど、綿貫専務のお立場の難かしさが解りますよ、たしか本店営業部長の湊《みなと》さんあたりは、専務が取締役の頃から、ずっと仕えて来られた人だけに、最も尖鋭《せんえい》な綿貫親衛隊じゃあないのですか」
綿貫の愚痴から、そろそろ綿貫派の派閥のメンバーを探りかけた。
「中堅どころでは彼など、よく慕ってくれますな、しかし何分、血気盛んな男だけに、例の取締役会の夜などは、残念無念と男泣きに泣いて飲み歩き、おかげで酔いつぶれた彼を明け方近くまで、私が介抱させられる羽目になったんですよ」
苦笑すると、芥川は感じ入るように、
「ということは、それだけ専務のご信望が厚いということじゃありませんか、たしか専務を囲む行内の勉強会というのがあると聞いてますが、さぞたくさんの部下の方がお集まりになるんでしょうねぇ」
今後、部下たちをそういったメンバーにアプローチさせるために、さらに一歩、突っ込んで聞いた。
「いや、勉強会というほど大袈裟《おおげさ》なものじゃあないのですが、業務担当の小島常務や、総務企画担当の角野常務、中堅どころでは湊君や長谷川総務部長をはじめ、都内の主《おも》だった支店の支店長など、昔、一緒に苦労した連中が月に一度、神楽《かぐら》坂《ざか》あたりで気軽に集まって、飲んだり、議論したりしていますよ、今となってはこうした部下の成長だけが、私の楽しみですな」
苦いものをのみ下すように、綿貫は最後の言葉を酒とともにぐいと飲み干し、
「いやあ、芥川さん、ついあなたの聞き上手と昔の懐かしさが手伝って、つまらぬ愚痴を並べたててしまいましたが、まあお互い、これから長いのですから、大いに頑張りましょうや」
綿貫はやっと大同銀行の専務らしい節度を取り戻し、
「時に芥川さん、今日は私にご用でもあったんじゃないですか?」
と聞いた。芥川は一瞬、ぎくっとしたが、
「いえいえ、別に、たまたまここの案内状が来て、有楽町時代を思い出し、お誘いしただけのことですよ」
さして飲んでいないくせに、ほろ酔い機嫌で笑うと、
「そうですか、じゃあ、私の方でこの席を借りて、ほんの少々、用談をさせて戴いてもよろしいですか」
俄《にわ》かに改まった口調で云い、
「実は、芥川さんも既にご承知かもしれませんが、当行の取引先であるアサヒ石鹸《せつけん》が今度、ロイヤル化粧品を買収して、男性化粧品の分野にまで、経営の拡大をはかることになりましてね、そこで一つ、ロイヤル化粧品の一括販売をしている精華商事のメイン・バンクの阪神銀行さんにも、これをご縁に一つ、アサヒ石鹸とのお取引を、お願い致したいと思うのですが、いかがなもんでしょうか」
さっきまでのしょぼくれ方とは打って変った生き生きとした表情で話した。人が旧交を久々に温めるためにと誘った席で、ぬけぬけと自行の取引先の面倒をみてほしいなどと依頼するその厚かましさに、芥川はあきれながらも、
「御行《おんこう》のお取引先のお手伝いとあれば、ご協力はやぶさかではございませんが、何分、私は融資の方とは縁が薄いものですから、融資担当に早速、話しておきましょう、その上で何でしたら、アサヒ石鹸の社長とお会いしてもようございますね」
「そう云って戴くと有難いですよ、実はうちの息子の嫁が、アサヒ石鹸の社長の次女でして、なまじ親戚《しんせき》関係があると、有望な融資でも、情実貸付の何のと、へんに勘ぐられて、思い切った融資ができませんのですよ」
綿貫が云うと、芥川は、
「いえいえ、当行も阪神特殊鋼がいつもご無理ばかり申し上げているそうですから、お互いさまですよ」
「阪神特殊鋼さんといえば、このところ市況が悪化して、底なしの不景気と云われているだけに、大へんですねぇ、万俵鉄平専務もお若いだけに、ご苦労が多いことでしょうな」
綿貫はこのところ融資申込みが急な阪神特殊鋼の内情を探り出すように云ったが、芥川は、
「まあ、蛙《かえる》の子は蛙というのか、根っからの事業好きなんでしょうね、しかし、阪神特殊鋼と当行の間も、ちょうどおたくとアサヒ石鹸のように親子関係にあるだけに、かえって万俵頭取も甘い顔が出来ず、やりにくいのですよ、お互い銀行家というのは、不自由なものですな」
と巧みに綿貫の口を封じ、
「さあ、今夜は私が昔のご恩返しの意味で介抱させて戴きますから、ゆっくり飲みあかしましょうや」
と云いながら、アサヒ石鹸への融資を緒《いとぐち》に、もっと深く大同銀行の内部を覗《のぞ》き見られるかもしれないと思った。
万俵は、秘書の速水《はやみ》の言葉を苛《いら》だたしく遮《さえぎ》った。
「何度、云ったらわかるのだ、私は目下、多忙で、鉄平と会う時間などないのだ」
「ですが頭取、万俵専務が面会をお申し越しになって既に一週間になっているのです、ご多忙とおっしゃいましても、ここ数日間の予定は、平素と比べれば会合や宴会も少なく、特に今日は夜の会合もございませんから、一、二時間のやり繰りはおつきになるのではないでしょうか」
速水は、澄んだ眼《まな》ざしで云った。事実、その通りであったから、万俵は口詰ったが、机の上の予定表へ眼を逸《そ》らせ、
「そりゃあそうかもしれないが、時間に拘束されないこういう時こそ、一行の頭取としての考えごとや勉強があることを、君は心得ているだろう」
「お言葉を返すようでございますが、今、阪神特殊鋼は――」
控え目に云いかけると、
「いい加減にし給え、少しさし出がまし過ぎる」
「どうも、失礼致しました」
速水が一礼して頭取室を退《さが》って行くと、万俵はさらに苛だたしげな表情で回転椅子を左右に廻しながら、業績低下の一途で、来期六月〜九月も、膨大な資金繰りを云って来ている鉄平が、もし自分の息子でなく、しかも技術者でなければ、即刻、首をすげ替えてしまいたいほどの憤《いきどお》りを覚えた。
眼の前の直通電話が鳴った。不機嫌に受話器をとると、東京事務所長の芥川からであった。
「頭取、その節、申し上げておりました大同銀行の綿貫専務と、昨夜、さしで会って参りました」
「綿貫専務といえば、『週刊日本』の記事を読んだが、今度の人事ではえらく恥をかかされた様子だな、真相はどうなのかね」
「そのことなんですが、頭取――」
芥川は、低くしぼった声を一段と低め、部下の伊佐早五郎が大蔵省で取って来た情報と、自身で綿貫専務を有楽町のしゃぶしゃぶ屋の開店披露に誘い出し、三雲頭取に対する反感の深さと綿貫派の派閥の主要メンバーを聞き出してきたことを、こと細かに報告した。万俵は興味深げに聞いていたが、聞き終ると、
「しかしいずれにしても、綿貫専務は来春あたり、系列企業へ転出という形で、体《てい》よく追われるわけだろう?」
「そのことですが、昨夜の席で綿貫専務は、自らの手で今日《こんにち》あらしめ、姻戚《いんせき》関係も結んだアサヒ石鹸へ、当行の融資を願いたいというのですよ、ということは、綿貫さんがもはやアサヒ石鹸へ転出の覚悟をきめ、アサヒ石鹸サイドにたって、今のうちに融資ルートを拡《ひろ》げておこうという腹なのか、あるいは今度の人事で煮え湯を呑《の》まされた三雲頭取へ巻返しを図るための策なのか、実のところ、私も判断に迷っているのでございますよ」
「じゃあ、今度、渋野常務が上京した折に、大同銀行とアサヒ石鹸の双方の話を聞かせてみることだ」
「かしこまりました、それでは――」
芥川が電話をきりかけると、
「いや、ちょっと待ち給《たま》え、今、三雲頭取への巻返し策かもしれないといったが、三雲頭取はアサヒ石鹸への融資は反対なのかね」
「そうらしいですね、綿貫さんは飲むほどに昂奮《こうふん》して、三雲の殿さんは商売を知らん、融資先まで、基幹産業だから有意義だの、石鹸だからもう一つだのと、専《もつぱ》ら業種の品位と経営者の毛並ばかりを云々《うんぬん》すると息まき、あげくの果ては阪神特殊鋼がよくて、何でアサヒ石鹸が悪いんだと、延々二時間も絡《から》むのですから、閉口致しましたよ」
酒癖の悪さを辟易《へきえき》するように云った。
「よし、綿貫専務には、私自身が会おう」
「え? 頭取が、ごじきじきにですか」
「うむ、それまでに渋野常務にアサヒ石鹸の業績を充分に調査させる」
と云うなり、電話をきった。
シガー・ケースから葉巻を取り出して火を点《つ》けると、万俵は、「阪神特殊鋼がよくて、アサヒ石鹸が何で悪いのだ」という綿貫千太郎の言葉を反芻《はんすう》した。たった今、芥川に、綿貫には自身で会うと特に云ったのは、もしここで綿貫千太郎の依頼に応じて、アサヒ石鹸の融資を承諾すれば、ことによっては、大同銀行の生抜き専務である綿貫の首根っこを抑えられるかもしれぬという考えが閃《ひらめ》いたからであった。
万俵は、暫《しばら》く葉巻をくゆらせ、考えをめぐらせていたが、去年の十一月、三雲と丹波まで猪《しし》撃ちに出かけた鉄平の話から、三雲のアキレス腱《けん》は阪神特殊鋼だと直感したことが、妙に生々しく思い返され、今、聞いたばかりの綿貫の言葉と重なった。
万俵は、インターフォンで速水を呼び出した。
「すぐ鉄平に電話してくれ給え、さっきはああ云ったものの、考えてみれば、君の云うのも一理あるからね」
先刻《さつき》とは打って変った声で云い、鉄平が電話口に出ると、
「もしもし、私だ、何とか時間のやり繰りをして五時半なら会えるよ」
穏やかな声で伝えると、鉄平のほうが困惑するように、
「それが、お父さん、申しわけないのですが、先程、時間がとれないとおっしゃったもので、他《ほか》の約束をし、実はこれから大阪の新町《しんまち》のつる乃家《のや》へ行くところなのです」
「なに、つる乃家で宴会かね」
「いえ、そうではなく、老女将《おかみ》が、三年越しに病んでいる疝痛《せんつう》がだいぶ悪いらしく、床につきっきりなので、見舞う約束をしてしまったところです」
「ほう、わざわざあの老女将の見舞をねぇ」
曾《かつ》て祖父の愛妾《あいしよう》だった女将を、たかが疝痛ぐらいで見舞に行く鉄平に、厭《いや》みな云い方をした。
「ほんとうに申しわけありません、それで今夜、帰宅しましてから、お父さんの書斎の方へでも伺ってはいけませんでしょうか」
鉄平は、すまなさそうに云った。
「しかし見舞こそ、そう急ぐことはあるまい」
「そうなんですが、つい忙しさにかまけて、もう二度も約束をすっぽかしていますので、速水君からお父さんの都合がつかないと連絡があった直後、今から行くと電話してしまったのですよ」
心情が籠《こも》っているだけに、万俵はさらに不快になりながらも、
「お前は案外と義理固いのだねぇ、じゃあ、こうしよう、私も長い間、老女将に会ってないし、病気と聞いては亡《な》くなった父が最後まで面倒をみていた女だけに、見過すことも出来ない、お前と一緒につる乃家へ行こうじゃないか」
「え? お父さんが、いらして下さるんですか、そうして戴くと、さぞ老女将も喜ぶでしょう、では僕、すぐそちらへ伺います」
「うむ、あの女将の好物というと――」
「好物は若狭《わかさ》の小鯛《こだい》のささ漬《づけ》ですが、私が用意しております」
「まるで息子のように気が利《き》くじゃないか、ついでのことに私の手土産も見つくろっておいて貰《もら》いたいねぇ」
と云い、電話をきった。
名神高速を突っ走り、大阪の新町に着いたのは、七時を過ぎたばかりであったが、古い花街らしく、玄関に長い暖簾《のれん》を掛けたり、軒灯《のきあか》りを点《つ》けた昔風のお茶屋のたたずまいが、ところどころに見られた。大介はそうした風情《ふぜい》に眼を止め、
「この頃、大阪も南と北の花街が栄え、新町は取り残されて行く一方だが、やはり近松が書いた夕霧伊左衛門の時代からの花街というのは、いい風情だな、昔は、神戸では目だつからと、父に連れられて、私もよく遊びに来たものだよ」
昔を懐《なつ》かしく思い出すように云い、
「お前はつる乃家を、ちょくちょく、使うのかい」
「ええ、大阪関係の接待によく――、そうでない時もお茶漬を食べに寄ったりすると、老女将が齢《とし》のせいか、最近は殊《こと》に喜びましてねぇ」
鉄平は、大介と並んで車のシートに背をもたせ、白い歯をみせて笑った。
車がつる乃家の前に停まると、男衆《おとこし》と仲居が出迎え、
「ようお越しでございました、義母《はは》もお待ち致しております」
東京店から看病に来ている娘の芙佐子《ふさこ》も、玄関の暖簾をかき分けて出迎えた。
「やあ、暫く会わぬうちに、すっかり女将が板についたね、老女将の様子はどんな風なのかね」
大介が芙佐子に声をかけると、
「お出迎えは失礼させて戴《いただ》きましたが、奥でお待ちさせて戴いております」
と云い、奥座敷へ案内した。襖《ふすま》を開けると、敷居際《ぎわ》で、平常《ふだん》着《ぎ》に黒紋付の羽織を着た老女将が、二人を迎えた。
「なんだ、病気で臥《ふ》せっていると聞いたのに――」
鉄平が驚くように云うと、
「とんでもおまへん、先代さまのお跡を継がれておられる頭取さんがお運びやしておくれやすのに、臥せったままやなど――」
と云い、大介の方に向って居ずまいを正し、
「お久しゅうおます、日頃はご無沙汰《ぶさた》ばかり申し上げておりますが、先だってのご盛大な先代さまの十七回忌のご法要には、遠くからお詣《まい》りさせて戴きました、先代さまのおかげをもちまして、老後もこない結構に過させて戴いております、その上、本日は、私奴《め》のためにおみ足を頂戴《ちようだい》致しまして、御礼の申し上げようもござりまへん」
病人にもかかわらず、昔風に座蒲団《ざぶとん》を敷かず、三つ指をつき、作法通りの挨拶《あいさつ》をした。
「いや、いつまでも亡父に仕えて下さるその気持有難う、私もこのところやたらに忙しく、鉄平と用談する暇《ひま》も無かったところ、ぽっかり時間が空いたからと云ってやると、こちらへ見舞の約束があるというので、久しぶりにやって来たわけで、体の工合は、どんな風なんです?」
いたわるように云うと、
「おおきに有難うさんでおます、三年来の疝痛の発作が、この頃、きつうおまして――けど、こうして頭取さんとぼんぼんとがお見えやすとは夢みたいでおます、頭取さんとは何年ぶりのことでっしゃろ、お若い頃、時々先代さまとご一緒においでやして……、けど、こうして、お二方、お揃《そろ》いになりはりますと、まるで……」
と云い、言葉を跡切《とぎ》らせた。大介はちらりと眼を動かし、
「鉄平が、亡父とよく似ていて、まるで昔、そのままみたいだというのだろう」
「さよでおます、それにわては、何というてもぼんぼんのご安産を願うて、石切《いしきり》神社へお百度を踏みに行かせて戴いただけに、こないにごりっぱに大きなお仕事をしてはるお姿を拝見すると、嬉《うれ》しゅうて嬉しゅうて、その上、わてを見舞うて下さり、ほんにお心のお優しいお方……」
涙ぐむように云い、疝痛が起るのか、腰のあたりに手をやりかけると、大介は、
「無理をしないで、早く床についた方がいいよ、医者はちゃんとした先生に診《み》て貰っているんだろうね」
酒肴《しゆこう》を運んで来た芙佐子に聞いた。
「ところが、なにしろお医者嫌いで、頭取さんから叱《しか》って戴きとうございますわ」
若女将が云うと、老女将は徹底した医者嫌いらしく、
「よう効く漢方薬を煎《せん》じて飲んでますよって、大丈夫でおます、ほんならお二方のご用談の前に、おひとつお酌をさせておくれやす」
急に若やいだ声で云い、大介の傍《そば》ににじり寄って酌をはじめた。その所作《しよさ》は、疝痛で臥せっている六十近い病人とは思えぬほど、ほんのりとした艶《つや》めきがあった。そして鉄平にも酌をし、ごゆるりとと云い、気をきかせるように芙佐子を伴って、座敷を退《さが》った。
二人になると、大介は、
「さすがは曾《かつ》ての名妓《めいぎ》だけあって、ぬき衣紋《えもん》にした肌の白さは色っぽいね、老残の香りというのは、ああいうのを云うんだろうな」
盃《さかずき》を含みながら云うと、鉄平も、
「それを云うと、若女将がいつも、やきもちを焼くんですよ、口惜《くや》しい、口惜しいって」
「だが、若女将の方もなかなか色っぽくて、いい女じゃないか、お前は、お祖父《じい》さんに似て、若いのに似合わず、お座敷遊びの方が好きらしいが、ああいうタイプが、お前の好みじゃないのかい」
自らは妻妾同衾《さいしようどうきん》の生活を営みながら、子供たちの前ではあくまで謹厳な表情を崩さない大介が、いつになくくだけた口調で云った。鉄平は内心の動揺を押し隠すように、
「そんなことありませんよ、それよりお父さん、この間からお願いしている来期の融資の件、どうぞお認め下さい」
単刀直入に切り出した。
「うむ――、資金繰り表を見たが、大分、苦しそうだな」
「はい、業界のダンピング競争はますます激しくなっておりますので、この間、大手特殊鋼メーカー七社が集まって不況カルテルを結ぶ話合いが行なわれたのですが、その口のうらから、抜けがけする会社があり、なかなか足並が揃《そろ》わないのです、ここ当分はまだまだ値引き競争は止《とど》まる見込みがありません、加えてこの間の永田大蔵大臣の金融引締めの政策転換以来、全般的な不況がきて、特殊鋼の需要も下り坂の一方で、目下の業績はほんとうに苦しいです」
「しかし、それでも高炉建設は強引に推し進めるつもりらしいね」
「もちろんです、何しろもう完成寸前のところまで進んでいますので、やり遂げたいと思っています」
きっぱりとした口調で云いきった。
「しかし、お前のところの経理担当の銭高常務の話では、大同銀行の方も、高炉建設は一時、中断した方がいいのではないかと、云って来ているらしいじゃないか」
「ええ、神戸支店長はそう云っているんですが、先日、上京して三雲頭取にお目にかかった時の話では、それは融資担当の綿貫専務の考えであって、三雲頭取ご自身は、現在の不況に挫《くじ》けず、予定通り完成してほしいと思っておられ、逆にお励ましを戴きました」
父の注《つ》いでくれた盃を手にして応《こた》えると、
「そうか――、すると、いつだったか、そうそう、お前が三雲さんと丹波へ猪《しし》撃ちに行った時、三雲さんは、阪神特殊鋼が世界の特殊鋼となることに賭《か》けると云って下さったと、お前はえらく感激していたが、それに対して、私は銀行家たる者が賭けるということなどあり得ない、お前の考えは甘いよと云ったのは、どうやら私の考え違いだったらしいな、三雲頭取はほんとうに、とことん、阪神特殊鋼の面倒をみるというわけだねぇ」
万俵は、確かめるように云い、再び鉄平の盃に酒を満たした。正月の雉《きじ》撃ちの時の誤射事件以来、妙によそよそしさが増していた間柄だけに、鉄平は最初のうちは、父の胸中を測りかね、気味の悪ささえ感じていたが、久しぶりに打ち解け、自分の話に身を入れてくれる父に、次第に温かいものを覚え、返盃《へんぱい》すると、大介もぐいと空けた。
「それだけに、なんだろうね、三雲頭取は、メインで、しかも父親が頭取である阪神銀行が、いくら資金ポジションが悪いからとはいえ、このところ大同銀行にもたれかかり過ぎていることに対して、あまりいい感情をもっておられないだろうねぇ」
「その辺の事情は、よく説明してご理解戴いているつもりです――、そして来期六月〜九月の二十四億円の融資額を諒承《りようしよう》して下さる時、冗談に、もうここまで来たら、後に退《ひ》くに退けない、私はもう鉄平君と一緒に高炉に賭けてしまったから、万一の時は心中ものだねぇなどとお笑いになりましたが、僕はその言葉を聞いて、体が震えるような緊張を覚えました」
その瞬間、大介の眼が不気味に濡《ぬ》れ光った。
「お父さん、何か?」
鉄平が訝《いぶか》るように、父の顔を見た。
「どうしたのだね、私の顔が、どうかしたのかい」
大介は胸中を見取られまいと、慌《あわ》てて盃を手にし、鉄平の視線を避けた。
「いえ、今、お父さんの顔が……」
と云いかけ、鉄平は口詰った。一瞬であったが、父の眼に青い炎のような色が燃えたったのは、父の胸中を何が横切ったのか、或《ある》いは自分の眼の錯覚か――。
「おかしな奴《やつ》だな、今晩はお前、よほど疲れているのじゃないかね」
そう云われてみれば、疲れた体にたて続けに盃を重ねたせいかもしれない。鉄平は料理に箸《はし》をつけ、再び三雲の協力ぶりを熱っぽく話した。
「じゃあ、お前も、三雲さんに無理心中などさせないように、ますます頑張らなくちゃあ、いけないね」
「そりゃあ、もう――、お父さんにも何かとご無理を申し上げますが、来期二十億の融資の件は、是非ともよろしくお願い致します」
「その融資の件だがね、この間の当行の銀行検査の時、案の定、資金ポジションが悪いのに、阪神特殊鋼のみに貸込み過ぎだと指摘されたので、半分ぐらいしか出せないのだよ」
「そんな、半分だなどと……」
鉄平の顔から、血の気が引いた。
「いや、最後まで私の云うことを聞くものだよ、半分しか出せないが、今後、不況がいつまで続くか解《わか》らないとすると、高炉の資金計画一つ例にとっても、従来の計画を修正しなければならないかもしれない、そうなると、国内の金融情勢が引締めになっている時だけに、資金繰りの安定のためにも、外国銀行からのインパクト・ローンを導入してはどうかと思うのだよ」
万俵は、料理を口に運びながら云った。
「しかし、急にそんな風に云われましても――」
「それは、当行の保証で、イースト・アメリカン・バンクにでも頼んでみよう、ただ問題は、大蔵省の国際金融局の許可だが、これも、美馬の線で何とか優先的に取り計らって貰えるように頼めばいい」
「なるほど、ですが……」
そうした面に暗い鉄平が、不安な面持でなおも躊躇《ためら》いかけると、
「まあ、こういうことは頭取たる私に任せておくことだ、私だって阪神特殊鋼の将来については、お祖父さんに勝るとも、劣らぬ心配をしているのだよ、こんな打ちとけた話をお前と出来るのも、お祖父さんの妾宅だったつる乃家だからかもしれないな」
大介は、しみじみとした表情で云ったが、鉄平は、父である大介がまさか、阪神特殊鋼をトリックにして、阪神銀行の野望を遂げようと考えついたとは、夢にも考え及ばなかった。
万俵家の大門が、重々しい軋《きし》みをたてて開かれると、大介と鉄平を乗せたベンツは、そのまま本館の玄関に続く緩い坂道を上って行った。
大介は、ヘッド・ライトに照らし出された坂道の向うから、自分の帰りをききつけて疾走《しつそう》して来る三頭のファウン・グレートデンに眼を向けながら、
「今晩は久しぶりに楽しかった、それに老女将もあんなに喜んでくれると、見舞に行った甲斐《かい》がある」
上機嫌に云うと、鉄平も、
「僕もこのところ、酒を飲む相手というと、足もとをみて買い叩《たた》いて来る販売先か、平身低頭して金を借りねばならない銀行ばかりですから、今晩のようにうまい酒は、ほんとうに久々でした」
ここちよく酔いの廻った口調で応えた。
車がロータリーの植込みを廻り、本館の玄関の前で停まると、ポーチのところに、妻の寧子だけが出迎えていた。
「お帰りなさいまし――」
くせのない髪を束髪に結い、胸高にきちっと帯をしめた寧子は、深々と一礼して夫を迎えたが、車の中から鉄平が顔を覗《のぞ》かせると、
「まあ、鉄平、今晩はお父さまとご一緒でしたの」
大介は、銀平と一緒の時はあっても、鉄平と一緒のことなど、めったになかった。
「ええ、是非ともお願いしたいことがあったので、大阪のつる乃家で、今までご一緒していたのですよ」
鉄平が快活に応えると、寧子の臈《ろう》たけた雛《ひな》人形のような顔がかすかに動いたが、
「……それはおよろしかったこと、入ってお茶でも飲んでいきなさい」
優しい頬笑みをうかべた。
「ところが、明日は朝が早いので、そうもしておられないのです」
「そう、じゃあ早うお寝《やす》みなさい、随分、会社の方が忙しいそうですが、あまり無理をしないで――」
「解ってますよ、ではお父さん、今晩はいろいろと有難うございました、あのインパクト・ローンの件は、よろしくお願いします」
阪神特殊鋼に対する融資は半額に削られたが、そのかわり国内の金利より安い外国銀行の資金導入の面倒をみようと約束してくれた父に、もう一度、念をおすように云うと、
「うむ、努力してみる」
と頷《うなず》いた。
鉄平の乗った車が動き出し、大介と寧子が玄関の中へ入ると、相子が姿を見せた。
「お帰りなさいまし、お電話がかかっていましたので、お出迎え出来ませんでしたけれど、どなたかお客さまでも?」
「いや、鉄平と同じ車だったのだ」
「おや、鉄平さんと? お珍しいですこと」
皮肉っぽく大介を見上げたが、居間に入るとすぐ、
「のびのびになっていた二子さんのお見合いのお日取りが、やっと六月十日に本決まり致しましてよ、今のお電話はそのことで、小泉夫人からでしたの」
息づくような表情で、告げた。
「今度こそ動かないだろうね、いくら佐橋総理夫人の都合第一といったって、当初の五月二十日の予定が、一度ならず二度までも変更されては、こっちだってたまったものじゃあないよ」
決まりかけては、その都度、佐橋夫人の都合で変更され、既に半月ほど延びていることを不快げに云うと、
「佐橋夫人も、その点は非常に気になさっておられ、もう動きませんわ、お見合いのお場所はやはり、嵯峨の吉兆で昼食をしながらというご希望ですので、私、早速、お見合いに合わせた佐橋夫人の京都見物の予定を組みますわ」
昂《たかぶ》った語調で、さらに表情を息づかせた。
「ですけれど、肝腎《かんじん》の二子が参りますか、どうか――」
相子の昂りと反対に、寧子は案じるように顔を曇らせた。二子は、細川一也との結婚は気が進まないから断わってほしいの一点張りで、見合いの話には一切、乗って来ず、無視し続けているのだった。
「ご心配には及びませんわよ、いくら駄々をこねていても、お日取りが決まって、それに向って私たち周囲の者がどんどんことを進めていけば、観念してしまうものですよ」
「観念だなど、そんな酷《むご》い……、二子は鉄平の会社の一之瀬さんとかいう方を……」
涙声になって、寧子は言葉を跡切《とぎ》らせた。
「なんだ、二子はまだ一之瀬四々彦と交際しているのか」
パイプに刻み煙草《たばこ》を詰めていた大介の手が止まり、咎《とが》めだてるように云うと、相子が、
「私は、再三再四、注意は致しましたけれど、一之瀬さんの方もえらくご執心の様子ですの、ですから一番いい方法は鉄平さんの口から、二子さんとの交際をさし控えるように云って戴《いただ》くことですが、その鉄平さんがこの間もお話ししましたように、どんな思惑がおありになってか、二人の交際を深めるようなことばかりなさっているのですから困ってしまいますわ、私、なんとなく鉄平さんが、万俵家の時限爆弾のような気がしてなりませんわ」
女豹《めひよう》のような大きな眼に、憎悪《ぞうお》を溜《た》めて云った。大介はその言葉に、びくっと頬の肉を動かしたが、果物を運んで来た若い女中に、二子を呼ぶように云いつけた。
やがて、女中が二子さまはお風邪気味で、お寝みになっていて、今夜は失礼させてほしいとおっしゃっていますと、伝えて来た。
「まあ、この時節に風邪だなんて――、人を食った逃げ口上ね」
「けど、あの子は私に似て腺病質《せんびようしつ》で、気管支はことのほか弱うて……」
「まあ、どっちでもいい、寝む前に私自身が、見合いの本決まりのことを云っておこう、少しは考えもかわるだろう」
大介は二人の言葉を遮《さえぎ》り、ソファからたち上った。
「では私も――、寧子さま、お先に、お寝み遊ばせ」
今夜は、相子が大介と同衾《どうきん》する日であった。
二階に上ると、相子は、
「あなた、なるべく早く――」
耳もとで云い、自分たちの寝室へ遠ざかって行き、大介はそれとは反対側にある二子の部屋をノックした。
「三子ちゃんなの、開いているわよ」
風邪声とはほど遠い澄んだ応答がした。六畳二間続きの洋室に、低くしぼったステレオが鳴り、二子は、ロッキング・チェアにもたれていた。
「風邪の工合は、どうなんだい?」
大介が声をかけると、二子は、驚いてたち上った。
「ごめんなさい、風邪だなんて申し上げて」
「ま、いいだろう、さっきの用は、細川家との見合いの日取りが六月十日に本決まりになったので、それをお前に知らせておこうと思ったのだよ」
「そのお見合いのことですが、私、お父さまにお話があるのです」
「うむ、何かね」
「お断わりして下さい」
思い詰めた表情で、二子は父に躙《にじ》り寄った。
「お前の気持は、お母さまや相子から聞いて、一応、解った、だが解った上で知らせているのだよ」
「それ、どういうことですの? 少しも解って下さっていないと思うわ」
詰《なじ》るように云うと、
「二子、聡明《そうめい》なお前に万俵家の結婚のルールを、今さら云うこともないだろう、自分一人のことばかりを考えずに、少しは鉄平兄さんの立場も考えておあげ」
「鉄平兄さまは、私の気持に反対ではありませんわ」
「そうらしいねぇ、だが鉄平が、もしお前と一之瀬四々彦君とのことを表だって賛成する側に廻ったら、お父さまは、万俵家の家父長として、鉄平を許せなくなるのだ、女のお前は、一之瀬君という青年と家出でもすればすむだろうが、鉄平が、私に許されなくなれば、一社の実質的な経営者だけに、どういうことになるか、考えてみなさい」
「そんな、お父さま!」
「ひどいと云いたいのだろう、それを云われるのが私だって辛《つら》いから、今までこの縁談《はなし》は敢《あ》えてしなかったんじゃないか、ともかくこの私、鉄平兄さん、お母さま、それにこれから結婚する三子、それぞれみんなのことを考えてごらん、一之瀬君の家でも、こんな結婚は迷惑じゃあないのかね」
大介は、最後の言葉に不気味な響きを籠《こ》めて云い、部屋を出た。
ナイト・スタンドのシェードに、妖《あや》しい影が揺らいでいた。
「あなた、今日はとても……」
相子は、大介との情事のあとの余韻を娯《たの》しむように、ぴたりと大介の体に寄り添って、囁《ささや》いた。
「お前こそじゃないか、どうかしたのかい?」
大介も、寄せ合った体の間を汗が滴《したた》り落ちるのを娯しみながら聞くと、相子は含み笑いをし、
「――別に、でも強いていえば、二子ちゃんのお見合いがやっと本決まりになり、佐橋総理夫人の引出しにも成功したからかもしれないわ、あなただって、そうなんでしょう?」
互いにいつにない昂りを覚えて、激しく交わったことを云うと、
「うむ、そうかもしれないな――」
口ではそう頷いたが、大介を異様に昂奮《こうふん》させているのは、『つる乃家』で鉄平と一緒に飲みながら、鉄平の言葉によって、電光石火、閃《ひらめ》いた或《あ》る野望のせいであった。鉄平から、大同銀行の三雲頭取の阪神特殊鋼に対する融資方針が、頭取の生命を賭けるほど強いもので、それが生抜きの綿貫専務の反撥《はんぱつ》を買っていると聞いた時、大介は、もしや阪神特殊鋼をトリックに使って、阪神銀行より上位の大同銀行を呑《の》む方法がないかと、今の今まで考えだにしなかったことを思いついたのだった。それは今の段階では、現実的な可能性を伴った着想ではなかったが、そこに鉄平が介在していることに、大介はいいようのない昂りを覚えていた。
「これから寧子を呼ぼうじゃないか、そして三人で……」
ぬめるような声で云うと、
「でも、どうしてあの人をここへ誘い出すの、簡単には来ないわ」
「まあ、私に任せることだ」
大介はそう云うと、室内電話を取り、寧子の寝室のボタンを押した。
「ああ、私だ、さっき二子の部屋へ行ってよく話しておいたが、お前に至急、話しておきたいことがあるのだ、そうだ、急ぐのだ、夜着《よぎ》のままでいいから来ておくれ、すぐにだ、いいね」
否応《いやおう》なしに云い、ベッドから起き上って、素肌の上にガウンをまとった。
ほどなく寝室の扉《とびら》が開き、白絹の夜着の上に羽織を重ねた寧子が入って来た。一歩、足を踏み入れただけで、つい今しがたまでの大介と相子との濃密な情事の気配が解《わか》るのか、寧子は表情を固くして、入口のところにたたずんだ。
「悪かったね、寝んでいるところを起したりして――、二子のことなんだが、見合いの件は、やっと諒承《りようしよう》させたよ」
寧子の警戒心を和らげるように、穏やかな声で云うと、
「さようでございますか、それを伺うて安心致しました、では私は……」
寧子はほっとしたように部屋を出かかった。
「待ちなさい、肝腎《かんじん》の話をまだ云ってやしない、それにだいたい、そんな遠くからでは、話が出来ないじゃないか」
「けど、あのう……ここで……」
ベッドの向うの端に、蝉羽《せみのは》のように透けて見えるナイト・ウェアをまとって坐《すわ》っている相子の方を、ちらっと見て口ごもった。
「あら、私に対するお気遣いでしたら、結構ですわよ、どうぞお近くに――」
相子は強いて素っ気ない口調で云った。それで安心したのか、寧子は、大介のそば近くまで足を進めたが、その途端、逞《たくま》しい腕が伸び、ぐいとかぼそい寧子の体を抱《かか》え込み、ベッドの中へ引き入れた。
「お、お止《よ》しになって……また、私を騙《だま》して……」
寧子は必死に抗《あらが》ったが、いつの間にか、大介と相子の間に挟まれ、身動きが出来なくなった。
三人の蒸れるような体臭が寝室にたち籠めた。
「もう、離して――」
あまりの浅ましさと屈辱から逃れるように、寧子が叫ぶと、
「静かに! 誰か人が――」
相子が押し殺すような声で云い、大介に寝室の扉の方を目配せした。さすがに大介も体を緊張させて、耳を※[#奇+支]《そばだ》てると、憚《はばか》るようなノックの音が聞えた。
「どなた、誰なの?」
咎《とが》めだてるように相子が返答すると、
「深夜に申しわけございません、万樹子若奥さまの方から只今《ただいま》、お電話があり、急にお工合が悪いそうで――」
齢嵩《としかさ》の女中の動揺しきった声が返って来た。
万樹子は、ベッドの中で、脂汗《あぶらあせ》を浮かべ、下腹から腰へかけて突き上げて来る疼痛《とうつう》に顔を歪《ゆが》めていた。
「早く! 早く、お母さまを呼んで!」
おろおろしている若いお手伝いに叱《しか》りつけるように云った。
「はい、只今、ご本館の奥さま方にお報《しら》せ致し、すぐお越し下さいますから――」
「駄目! 芦屋の実家《さと》のお母さまを呼んで!」
癇走《かんばし》った声で云った時、身繕いした寧子と相子が、慌《あわただ》しく入って来た。
「まあ、万樹子さん、どうしはったのです?」
「お姑《かあ》さま、私、下腹がさし込んで来て、苦しくて……」
「いつからなの、それは――」
「夕食後から少し変だったんですけど、三十分程前から、急に、あっ、痛い!」
と叫び、体を海老《えび》のようにねじ曲げた。
「相子さん、芦屋病院の院長先生にすぐおいで戴くようお願いして、もしや流産かも……」
寧子が震えを帯びた声で云うと、相子はすぐ部屋を出、院長の自宅へ電話をかけて戻って来た。
「先生はすぐお越し下さるから、それまで体を温かくして、安静にしているようにとのことです」
と云い、万樹子の頭から枕《まくら》をはずして体を仰向かせ、毛布を重ねて体を温かく包んで、お手伝いに洗面器とタオルの用意を云いつけた。
「万樹子さん、院長先生はもうすぐお見えになりますから、それまでの我慢よ、銀平さんはまだなのね」
カバーがかかったままになっている銀平のベッドを見ながら云うと、万樹子は眼を潤《うる》ませて頷《うなず》いた。
「じゃあ、お出かけ先の心あたりは?」
万樹子は、首を振った。時計は十二時少し前を指している。相変らず、バー遊びをしているらしい。それにしても、こんな時、万樹子は銀平の出先の心当りさえ解らないし、その万樹子自身も、妊娠五カ月の体というのに、昼前から自分で車を運転して遊びに出かけ、夕食前に帰って来ていた。それを見ている相子は、妻が妊娠しても心の通いを取り戻していない銀平夫婦の不和を感じ取った。しかし、それでもいい、万俵家の閨閥《けいばつ》の枝を拡《ひろ》げるために、万樹子の腹に妊《みごも》っている子供だけは、流産せず、無事であってほしかった。
万樹子が、大きく呻《うめ》いた。
「痛い、苦しい、もういや!」
体をねじり、毛布を蹴《け》った。ネグリジェの裾《すそ》がまくれ上り、露《あら》わになった両股《もも》の間から、ぬるりとした鮮血が流れ出、シーツを赤く染めた。寧子は、ああっと眼をそむけ、眩暈《めまい》する体を傍《そば》の椅子《いす》で支えたが、相子はすぐお手伝いに、血で汚れたシーツの上にバス・タオルを当てさせ、
「万樹子さん、暴れては駄目、少しは我慢しなさい、今、先生が見えられますよ」
窘《たしな》めるように云った時、玄関に芦屋病院長の来診の気配がした。
院長は、部屋へ入って来るなり、用意された洗面器で手を洗った。随《つ》いて来た看護婦が手早く、妊婦の下半身を裸にし、股を汚している下りものと出血を拭《ぬぐ》った。
「さあ、ちょっと内診しますから、体を楽にして両肢《りようあし》をたてて開いて下さい、そう、もう少し拡げて――」
老練な医師らしく、患者の緊張を解きほぐすように云いながら、右手で外陰部の陰唇《いんしん》を開き、左手の指先で内診しようとした。その途端、万樹子は、
「ああっ!」
引き裂くような悲鳴を上げて、下腹部を突き上げたかと思うと、大量に出血し、拳大《こぶしだい》のビニール袋のようなものが押し出されて来た。院長は血にまみれたその袋を取り上げ、コッフェルの先で開いた。袋の中の透明な液体の中に薄桃色の肉塊が浮かんでいる。
「残念ですが、胎胞児《たいほうじ》が出てしまいました」
膿盤《のうばん》の上に、袋の中から出した胎児を置いた。肉塊のように見えたが、よく見ると、既に人間の形を備え、頭をぐにゃりと俯《うつむ》け、足を組んでいる。院長は胎児の足を拡げ、
「惜しいですが、男の子でいらっしゃいました」
と告げた。万樹子はううっと低く吠《ほ》えるような声を上げ、
「返して! 私のお腹《なか》へ坊やを返して! 坊やを!」
狂ったように眼をひきつらせ、髪を振り乱して、膿盤の方へ手を伸ばした。院長はその手を遮り、
「昂奮しては体に障《さわ》りますよ、鎮静剤をうちましょう」
錯乱状態で泣き喚《わめ》く万樹子の腕に、鎮静剤を注射した。
「お若いのですから、またすぐお出来になりますよ、そのためには、今は安静にして、静養に努められることです」
院長が云うと、寧子が、五人の子供を産んだ母の気持で、
「万樹子さん、辛《つら》いでしょうけど、これはご神仏のおさずかりものですから、次にさずかるまで我慢することですよ」
涙ぐみながら、万樹子の手を、そっと毛布の中へ入れたが、相子は、
「あなたご自身の養生も悪かったのですから、次の時は、院長先生のおっしゃることをよくお守りになることですよ」
と云い、せっかくの閨閥の枝の芽生えを失った気落ちと同時に、子供が妊らない女特有の冷やかな残忍さをもって、膿盤に入っている五カ月の胎児に眼を遣《や》った。
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五 章
京都・嵯峨《さが》の『吉兆』の座敷で、万俵二子と細川一也の見合いが行なわれていた。
嵐山《あらしやま》を一望のもとに収める席が正客の座になり、万俵大介と細川一也の父がその席に坐《すわ》り、次いで佐橋総理夫人、一也の母、寧子をはじめ、一同は席につくと、指呼《しこ》の間に見える嵐山の景観に見とれた。全山滴《したた》るばかりの緑に掩《おお》われ、座敷の中まで染まりつきそうであった。
仲人《なこうど》役の小泉元駐仏大使夫人は、満足そうな微笑をうかべ、
「本来なら、本日はお日柄もよろしくて云々《うんぬん》というご挨拶《あいさつ》から始めなくてはいけないのですけれど、私はそんなのは不得手でございますから、外国流にごく簡単なご紹介をさせて戴《いただ》きますわ」
と云《い》い、一分の隙《すき》もないサン・ローランのカクテル・スーツ姿で、
「ご当人方は既によくお見知りでいらっしゃいますから、初対面の方だけをご紹介申し上げますわ、まずご正客の席は万俵大介さまと細川信也さま、その両隣が一也さんの伯母さまでいらっしゃる佐橋総理夫人の周子《かねこ》さまと、万俵夫人の寧子さま、その向い側が細川夫人の綾子《あやこ》さま、私の隣席が万俵さまの家内《いえうち》を取り仕切り、ご子弟の教育に当って来られた高須相子さまでございます、私の主人はあいにくロンドンに出かけておりまして、失礼させて戴きます」
と紹介し終ると、うしろに控えていた仲居たちが鄭重《ていちよう》な作法で、最初の料理であるぎやまんの向付《むこうづけ》に、保津川《ほづがわ》の鮎《あゆ》のあらいを出した。珍しい古代ガラスの器に盛った鮎のあらいは六月の爽《さわ》やかさと贅《ぜい》を尽した涼感をよんだ。
総理夫人の周子は、箸《はし》を取りながら、
「私の都合のために二度もお見合いの日取りを変更して戴いて申しわけございませんわ、一度はサムソン国務長官の来日予定の変更、二度目は軽井沢へ静養に行く主人のお伴のために余儀なく――、でも今日のように、こんな新緑の美しい嵯峨野ははじめてで、万俵さまのご趣向の程、恐れ入りますわ」
顧客の万俵家ということで、座敷から食器、前庭の打水にまで心配りさせていることに感服するように云うと、細川信也は、文化功労者で気難《きむず》かしい芸術家肌の建築家であったが、
「このお座敷は見事ですね、嵐山を一望のもとに収める席を正客の座にするために、一切の無駄なものをはずし、座敷の造りは、もと四阿《あずまや》だったらしく、網代《あじろ》天井に太い松の梁《はり》を生かした風雅な造りですねぇ」
鑑賞するように見廻し、
「一也の話によりますと、万俵さんの洋館は家具調度はむろん、床《ゆか》タイル、扉《ドア》の把手《ノブ》に至るまで、ご先代が船便で向うから取り寄せられた純スペイン式建築だそうですね、是非、拝見させて戴きたいものです」
と云うと、二子と向い合っている一也は、ボストン眼鏡をかけた整った横顔を父の方へ向け、
「特に私の拝見致したところでは、応接間の壁面が、グラナダのアルハンブラ宮殿の壁面の図柄、ムーア民族の持つ幻想的な色感と模様をそのまま模しておられるようですよ」
いつもの博学多識ぶりで、父の言葉を受けた。万俵大介は銀髪端正な顔を頷《うなず》かせ、
「たいしたものじゃありませんが、日本に現存する純スペイン式の建築としては、ご覧戴けるものかもしれません、いつでもどうぞお越し下さい」
その建物の中で妻妾同衾《さいしようどうきん》という異様な生活を営んでいることなど、気振《けぶ》りにも見せぬ様子で応《こた》えると、小泉夫人は、
「そんなお邸《やしき》でお育ちになった二子さんは、近ごろのマンション住まいがお出来になりますかしら?」
もうこの縁談がきまったような口のきき方をした。若竹色のぼかし単衣《ひとえ》に白地に銀立涌《たてわく》の綴帯《つづれおび》を締めた二子は、返事をせず、黙って曖昧《あいまい》な笑いをうかべたままでいると、斜め向いの席から相子がちらっと険しい眼《まな》ざしを向けた。やがて、椀物《わんもの》が運ばれて来た。
京塗りの椀の蓋《ふた》を取った途端、誰の口からともなく、ほうと賞《め》でるような吐息が洩《も》れた。蓋の裏側に千羽鶴の金蒔絵《まきえ》が一筆、一筆、繊細な金粉で描かれ、椀の中に鱧《はも》の身が白ぼたんのようにふっくらと開き、みぞろ蓴菜《じゆんさい》と花柚《はなゆ》が添えられている。椀物がきめ手と云われる吉兆らしい趣向であった。
「本席はお見合いの御《ご》祝儀《しゆうぎ》、おめでとうさんでおます、つつがのうお整いやすよう、御祝儀のお椀をさし上げさせて戴きます」
女将《おかみ》が出て、鄭重に挨拶した。座が華やぎ、豪奢《ごうしや》な見合いの席らしい雰囲気《ふんいき》が溢《あふ》れた。
総理夫人は、やや目尻《めじり》の吊《つ》り上った色の白い、狐《きつね》のような細面を綻《ほころ》ばせ、
「ほんとうに何から何まで、お見合いの席らしい行き届き方ですこと、私にとっては可愛《かわい》い甥《おい》、妹にとっては可愛い一人息子だけに、お心入れのほど嬉《うれ》しゅう存じます」
と云うと、一也の母は、姉に似ない柔和な顔で、
「関西にはこうした御祝儀ごとらしい趣がまだ残っておりますわね、近頃の東京では、到底、うかがえない風情《ふぜい》がございますこと――」
感じ入るように寧子の方を向き、
「あなたさまのお実家《さと》の嵯峨子爵《ししやく》家は、やはり昔は、この辺《あた》りにお住まいだったのでございますか?」
と聞いた。寧子は薄紫の単衣に、金茶の帯を胸高に締め、雛《ひな》人形のように小作りの顔をかしげるようにし、
「応仁の乱以前は、この辺りに荘園を持っていたらしゅうございますが、乱以後は、御所近くの北小路室町《きたこうじむろまち》の屋敷だけになり、現在もそちらの方に住まい致しております」
「さようでございますか、伺うところによれば、お実家《さと》の兄君のご令室さまも公卿《くげ》華族からお嫁《い》きになり、嵯峨家のご一族は皆さま、公家《こうけ》同士でご婚姻遊ばしておられるとか」
万俵家の華々しい閨閥《けいばつ》より、公卿華族に対する好奇な眼が、寧子に集まった。
「はあ、私と婚家先で早く亡《な》くなりました妹だけが、外へ嫁《い》きまして――」
寧子は口ごもるように応えた。それは嵯峨家の落魄《らくはく》を物語ることだからだった。小泉夫人はそれに気付くと、
「何と申しましても、やはり公卿華族さまというのは、家格の高い、古くから天皇さまのおそば近くに仕えられたお家柄で、私どもとはとてもとても……。こちらの細川の方は、幕末までは関東の野武士でございましたが、明治以後、政界へ足を踏み入れ、先代は貴族院議員、信也さんのお兄さまの節也さまもご承知のように、現在、参議院議長を勤めておられます」
と云い、滑らかな語調で、さらに一也の姉二人の嫁ぎ先を紹介した。ともに政治家と繋《つな》がった家との婚姻であり、細川家の家系の中で、建築家の信也だけが、型破りの存在のようであった。
料理はいつの間にか、南蛮金蓋《なんばんかねぶた》に盛った鮎の塩焼に移り、蓼酢《たでず》入れに乾山《けんざん》松絵の猪口《ちよこ》が使われていた。話題は見合いの席らしく、両家の家族と縁戚《えんせき》のことや趣味の話になり、一也は終始、そつなく闊達《かつたつ》に喋《しやべ》っていたが、二子は口数が少なかった。そんな二子に対して、相子は万俵家の女執事然とした慎しさと元家庭教師としての優しさを装って、もっと話題に入るよう何度も促したが、二子はそれを無視し、一之瀬四々彦と二人きりではじめて食事した神戸の南京《ナンキン》町の小さなグリルを思い出していた。
嵯峨野を車で廻って、南禅寺にある龍村《たつむら》織物の『織宝苑《しよくほうえん》』に着いたのは、三時を廻っていた。
万俵大介と細川信也は修学院へ出かけ、女性たちと細川一也だけで来たのだった。一般に公開されていなかったが、車が玉砂利をはじいて門を入ると、総理夫人の来訪とあって、支配人をはじめ、従業員たちが玄関に出迎えていた。
一行は織場の見学からはじめた。二十坪程の広さの土間に、五台の手織機《てばた》が列《なら》び、この道三、四十年という職人たちの手で、千数百年前の古代織物の文様が織られていた。
織機《はた》に通された一万四千本の細い絹の経糸《たていと》に、色とりどりの緯糸《よこいと》を通して、文様を織り出して行くのであったが、金糸、銀糸をはじめ三十数色の色糸を駆使して、絢爛《けんらん》とした袋帯を織るときは、一日、十センチぐらいしかはかどらない。
背を屈《かが》めるように手織機に腰かけ、燦《きらび》やかな色糸を巻いた小杼《こび》や大杼を経糸に通している職人の作業を見、総理夫人は、
「大へんですわねぇ、四十年も続けておられるそうで――」
犒《ねぎら》いの言葉をかけると、小泉夫人も傍《そば》から、体をのり出し、
「外国のゴブラン織が、経糸で模様を出して行くのと、ちょうど、反対ね――でも、こんな作業を拝見すると、女の盛装って、残忍だと思うわねぇ」
相子や寧子の方を振返って、云った。
織場の見学が終ると、元三菱《みつびし》の岩崎別邸を買い取り、凝りに凝った数寄屋《すきや》造りの建物を改装したショー・ルームに足を運んだ。正倉院模様の織物をはじめ、外人向きにアレンジしたハンド・バッグやネクタイ売場のコーナーに、観光客らしいアメリカ人が数人いたが、佐橋総理夫人をまん中にした一行は、渡り廊下を渡って、奥の別室に案内された。
「まあ、こちらもまた、京ならではのお庭ですこと!」
佐橋夫人は、白狐のように吊り上った眼を細めるように云った。そこからは東山を背景にした苑内《えんない》の緑と天鵞絨《びろうど》のような苔《こけ》が眼にしみ入るように望まれ、琵琶湖《びわこ》から疏水《そすい》を流れて来た水を引いているという池に、百尾近い錦鯉《にしきごい》が群れを成しているのが、すぐ間近に見て取れた。
「さすが、元岩崎別邸でございますこと」
小泉夫人も感嘆するように云うと、自ら案内にたっている支配人は、
「終戦直後、進駐軍が接収し、その後、財産税として物納されるのを龍村が譲り受けて、織宝苑と致しましたのですが、このお部屋は、私どもの聞くところでは、岩崎さまが書斎にご使用になっておられたお座敷だそうでございます」
と説明したが、今は床《ゆか》に絨毯《じゆうたん》を敷き、洋家具を置き、大床には聖徳太子の軍旗であったといわれる『四天王獅猟《ししがり》文様錦』が壁面一杯に掛っている。
「これが法隆寺の代表的な美術品といわれる錦なのね」
総理夫人と細川夫人が、異口同音に云うと、一也は、二子を伴って母の横にたち、
「この錦は法隆寺の夢殿の秘庫から出て来たものだといいますから、千三百年ほど前のものでしょう、こうした法隆寺の錦と正倉院御物の錦を復原するために、初代龍村平蔵氏から二代がかりの歳月を費やしたらしいですね」
ここでも細川一也の博学ぶりが口をついて出、二子に頻《しき》りに話しかけたが、二子は率直な表情を返せなかった。
一同がソファに坐ると、支配人は心得顔で、ショー・ルームに展示されていない織物を奥から出して来て見せた。
「この不老長生の文様は、照宮《てるのみや》さまが、ご降嫁《こうか》になられます時、織らせて戴きましたもので、もちろん、止《と》め柄でございます」
百数十色の糸を使った典雅な綴帯を見せ、寧子の方へ向き直ると、
「奥さまが、嵯峨子爵家から万俵家へ、お輿入《こしい》れの時も、戦前でございましたから、小袿《こうちぎ》にお袴《はかま》で、その小袿をはじめ、いろいろとご調達させて戴きましたですね」
嵯峨家の格式の高さを懐《なつ》かしむように云った。寧子は眼の遣《や》り場に戸惑うように、
「ええ、そうでしたわね、あの時はまだ、先代がご健在な時で――」
と応えると、
「さようでございます、あの頃はまだ先代も健在で、腕のいい織職人がたんとおりましたが、今は先程、織場でご覧戴きましたように、六十代の職人の跡を継ぐ者のことを考えますと、保存の面で、何かと難かしいことが多うございます」
と云いながら、最近、織り上った帯を数点並べた。いずれも正倉院模様や古代裂《ぎれ》の写しを基《もと》にした逸品であった。相子はすかさず、総理夫人の方を向き、
「お気に召されたものがございましたら、どうぞお選び下さいまし――」
細川家との縁組を通して、総理と繋がる閨閥《けいばつ》をもくろんでいる相子は、総理夫人への献上物を最初から意図していたのだった。
北小路室町の嵯峨家の門の脇門《わきもん》をくぐると、寧子ははじめて、自分を取り戻すようにほっと息をついた。吉兆での豪奢《ごうしや》な見合いの席も、織宝苑での華やかな一時《ひととき》も、寧子のように日頃、人前に出ない者にとっては心労の重なりであったから、総理夫人、細川親子、小泉夫人たちを都ホテルに見送った後、自分だけ実家に寄ってから、帰宅することにしたのだった。
六時を過ぎた嵯峨家の門の内側は、いたずらに広い家屋と荒れ果てた庭が、ほの暗い夕闇《ゆうやみ》の中で森閑として静まりかえっている。
「まあ、寧子さま、どう遊ばしましたの?」
人声がし、その方を見ると、内玄関の式台を隠している目隠し立蔀《たてじとみ》のところから、嫂《あによめ》の倶子《ともこ》の白い顔が覗《のぞ》いていた。
「あ、お嫂《ねえ》さま、私、ちょっとお寄り致しとうて」
「よう、お見え遊ばしました、ちょうど静麿《しずまろ》もお勤めから、帰宅致しております」
と云ったが、父母の亡《な》き跡、嵯峨家を継いでいる六十一歳の兄の静麿は、関西洋蘭《ようらん》会の会長と京都文化財保護委員会の委員をしているだけであった。
「お久しゅうございますわ、お兄さまにお目もじ致しますのは、たしか去年の葵祭《あおいまつり》の時、御所でお出会いして以来でございますもの」
と云いながら、寧子は昔のままの高い式台を着物の裾《すそ》を端折《はしよ》るようにして上り、家の中へ入るなり、思わず足を止めた。内玄関から一番奥の曾《かつ》ての勅使対面の間まで、襖《ふすま》が開け放したままになり、庭に面した障子は破れ、まるで荒れ果てた神社の社殿のような様子で、兄の生活の苦しさが窺《うかが》え、胸が塞《ふさ》がる思いがした。
「汚のうございますでしょ、何しろ三十五室、畳数にして二百畳余りあるのですもの、人は使えないし、長男夫婦がいつも裏の棟にいるのですけど、めったに顔を合わすこともございませんし、こんな広過ぎる昔の家、どうしようもありませんわ」
同じ貧乏公卿の家から嫁いで来ている嫂は、別に気にする様子もなく云い、
「私たちは、去年からお台所に近い中の間に住んでおりますの、陽が射《さ》さなくて冬は寒いけれど、これからは涼しゅうございましてよ」
十二畳と八畳続きの中の間に案内すると、兄の静麿は、薄暗い室内に紫、淡桃《うすもも》色、黄などの洋蘭の鉢を持ち込み、ピンセットで根ぎわの無駄草を一本一本抜き取りながら、
「やっぱり寄ったのかい、この間の手紙で、今日、二子ちゃんのお見合いが、吉兆であるとは知っていたけれど、うまく行きそうかえ?」
「ええ、どうやら向うさまはお気に召して下さっているようですけれど、私はともかく、ああいうお席は気しんどうて――、けど吉兆から帰りに嵯峨野の厭離庵《えんりあん》へ寄った時だけは、ほっと一息つきましたわ」
厭離庵は、歌人藤原定家の嗣子為家《ししためいえ》が隠棲《いんせい》した山荘跡で、定家の旅塚《たびづか》があるが、現在は尼寺《あまでら》になり、嵯峨家の縁戚の者も尼僧《にそう》として入門しているのだった。
「それで向うは、どんな様子だった?」
「山門を竹の桟《さん》で閉ざして、一般に見せないのは、今も変りのうて、お庭の苔《こけ》が水を含んだようにみずみずしゅうて……、久方ぶりに嵯峨野の趣を堪能《たんのう》することが出来ました」
「それはよかった、たしかお前が、大介さんと婚約をした頃、向うは亡くなられた先代、こちらは私が一緒で、厭離庵のお茶室で御点前《てまえ》をしたことがあったねぇ」
思い出すように云うと、
「お兄さま、私はどうしたいきさつから万俵家とのご縁談がはじまったのでございましたかしら?」
不意に、四十年も経《た》った昔のことを聞くと、静麿はピンセットを使っている手を止め、
「今頃、そんな他人《ひと》ごとのようなことを聞いたりして、どうしたんだ、それは万俵家の先代が、石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》の宮司さまとお親しく、そのご縁から廻って来たお縁談《はなし》じゃないか」
笑うように云ったが、事実は、石清水八幡宮の宮司から、下鴨《しもがも》神社の宮司へ、神戸の万俵家が、貧乏華族でもいい、家格の高い公卿華族の娘を娶《めと》りたいという意向を伝えて来たのだった。寧子は神戸への輿入れをいやがったが、静麿は、亡くなった父から、万俵家からの巨額の結納金の大半を手元金として嵯峨家に残し、それで公卿華族の体面を保つしか術《すべ》のない逼迫《ひつぱく》した財政状態を打ち明けられ、妹の輿入れを詫《わ》びる思いで見送ったのだった。
「何かあったのではないか、せっかくの二子ちゃんのおめでたいお見合いの日というのに――」
静麿は面長の気品のある面ざしで、懸念《けねん》するように聞いた。
「いいえ、二子のお見合いをみていて、ふと聞きとうになっただけでございます、おたあさまでもあらしゃったら、お甘え申したいような気がしてしもうて――」
寧子は、今日一日の気疲れから、ふと涙ぐみそうな思いを抑えて応《こた》えると、
「それなら安心したよ、では四月にお上《かみ》と皇后さまが、京都の御所へ御幸《みゆき》あらしゃった時、御下賜《ごかし》下された御煙草《たばこ》と御菓子を持ってならしゃれ」
静麿も昔の公卿言葉になりながら、いたわるように妹を見詰めた。
長かった梅雨《つゆ》がようやく晴れ上った日曜日の昼下り、二子は日本館の前庭で、兄の鉄平と錦鯉に餌《えさ》をやっていた。二人の足もとには、色とりどりの鯉が数十尾も渦を巻くように群れ集まり、餌が投げられる度に、大きな水音と飛沫《しぶき》がたつ。
「私、あの細川概論居士《こじ》に、一番うんざりしたのは、吉兆でのお食事のあと、龍村の織宝苑に行って、そこのお庭を二人きりで散歩させられた時なの」
二子は、京都で行なわれた細川一也との見合いの模様を話し、一段と声に力を籠《こ》めた。
「なんだ、まだうんざりの続きがあるのか、細川君は、今頃、くしゃみの連続だろうな」
鉄平は、鯉の好物の蚕の蛹《さなぎ》を鯉の口へ入れてやりながら、苦笑した。
「お兄さま、茶化さずに真面目《まじめ》にお聞きになって――、織宝苑のお庭には、ここより一まわりほど大きい池があり、百尾近い錦鯉が、餌をやろうとすると、こんな風に群れ集まって来て、その美しさといったら、ショー・ルームに陳列してある織物に劣らぬ見事さなのよ、それを細川居士ったら、これは紅白、あれは大正三色、そっちはドイツ鯉と、品種分類の講釈から始まって、まるで鯉の品評会の審査員をしたことがあるかと思う程の詳しさで、“紅白系の鯉のよし悪《あ》しを見分ける基準は、頭部と鰭《ひれ》の部分の赤い模様の出方であって、頭部には必ず大きい赤い模様があることが欠かせぬ条件です、しかし眼や顎《あご》にかかっていてはならず、赤い模様は左右相称でなければならず云々《うんぬん》”とやるのよ、一事が万事、この調子なの」
細川一也が博学を披瀝《ひれき》する時に一オクターヴ高くなる口調も真似《まね》て云うと、鉄平は吹き出した。
「なるほど、それで二子は頭が痛くなって、見合いの後三日間、寝込んでしまったのだな」
「あら、そんなこと、お忙しいお兄さまに誰がお喋《しやべ》りして?」
「早苗から聞いたんだ、周囲の者はそんなこととは知らず、随分、心配したそうだが、いずれにしても、無事、婚約が成立してよかったよ」
安堵《あんど》するように云うと、
「私はイエスの返事などした覚えはありませんわ、小泉夫人のお電話に、相子女史が勝手におよろしく、と応えただけのことよ」
二子はきっとした語調で抗弁した。その言葉の強さに、鉄平は餌をやる手を止め、まじまじと二子の顔を見遣《みや》った。
「お兄さま、実はそのことでご相談があるの、私がもしこの縁談をはっきりお父さまにお断わりしたら、ほんとうにお兄さまはお困りになります?」
「僕が困る――、どうして僕が困るんだ」
傍《かたわ》らの庭石に腰を下ろして、聞いた。三十数尾の錦鯉は、餌が投げられなくなっても暫《しばら》く大きく口を開き、緋《ひ》や黄金の鱗《うろこ》をきらめかせていたが、やがて次々に姿を消して行った。
二子は、鉄平の問いに口籠《くちごも》るように、視線を池に向けて、黙っていた。
「やはり一之瀬四々彦君のことが好きなのか」
「ええ――」
二子の彫りの深い横顔に、ひたむきな心が溢《あふ》れていた。
「そんなに気持がはっきりしているのなら、見合いする前に、お父さんにお話しして、きっぱりとお断わりすべきだったね、正式の見合い即結婚というのは、僕たちの社会の常識じゃないか」
「お父さまが正式のお見合いの本決まりを自ら告げにいらした時、お断わりしたわ、でも一之瀬さんのことを知っていらして、気持は解《わか》るが、細川さんとの見合いを拒否したら、鉄平が困ることになるよと、おっしゃって……」
「だから、僕がどうして困るんだね」
鉄平は理解に苦しむように、重ねて聞いた。
「お父さまは、こうおっしゃったわ、多分、鉄平のことだから、お前がどうしても一之瀬君と結婚したいと云えば反対しないだろう、しかしそうなると、万俵家の家父長として、鉄平を許しておくわけには行かない、女のお前は家出でもすればこと済むかもしれないが、阪神特殊鋼の実質上の経営者である鉄平は困ることになるだろうとおっしゃるの、ということは、阪神銀行から阪神特殊鋼への貸金をストップするという意味なのでしょう? ひどいおっしゃり方だけど、そんな風に云われては、私、お見合いを拒むこと、出来なかったの」
激して来る気持を抑えるように云った。鉄平は複雑な表情で聞いていたが、
「それはお前の考え過ぎか、或《ある》いはお父さんが、細川君と見合いをさせたい一心でおっしゃった口実に過ぎないと思うね、お父さんをそんな卑劣な風に考えるのは、よくない」
窘《たしな》めるように云った。
「そりゃあ私だって、お父さまをそんな風に考えたくはないけど、私の結婚のことで、お兄さまとお父さまの間が、これ以上、まずくなっては申しわけないの」
「これ以上って、別に僕とお父さんは――」
この間、つる乃家で久し振りに父と心が通い合ったことを思いながらも、二子の言葉から、何か思いあたるようなものを感じ、口を噤《つぐ》んだ。そのとき、池の向うの高みに建っているル・コルビジェ風の鉄平の家から、若いお手伝いが、小走りに走って来た。
「旦那《だんな》さま、只今《ただいま》、一之瀬四々彦さまが、図面のことで急用があるとおっしゃって、お見えになりました」
「あっ、そうだった、僕の方から会社へ電話すると云っておいて、忘れてしまっていた、すぐ行くから」
鉄平はそう応え、二子の方へ向き、
「高炉建設の追込みで、一之瀬君は日曜日も出勤だから、そう時間はないが、僕の方の用件がすんだら、あとで来るかい」
兄らしい思いやりで、聞いた。二子はほのかに上気した顔で、迷うように思案した。
「でも私、正直云って、まだお父さまのお言葉が気になって、心が決まらないの……だからお兄さまは、一之瀬さんには何もおっしゃらず、二人だけでお話させて下さい」
と云った。鉄平は頷《うなず》き、足早に自分の家へ続く小径《こみち》を上って行った。
二子は独りになると、兄の坐《すわ》っていた庭石に腰を下ろし、数寄屋《すきや》造りの日本館の屋根をぼんやりと見詰めていたが、東隣に建っている瀟洒《しようしや》な銀平夫婦の住まいへ視線を移し、ふと万樹子のことを思った。万樹子が妊娠五カ月目を迎えながら流産したということを聞き知ったのは、昨日《きのう》、若いお手伝いが口をすべらせたからだった。それまでは相子から「万樹子さんは原因不明の微熱が続いて、神経が極度に苛《いら》だっているから、暫《しばら》くお見舞もさし控えるように」と云われ、そのまま信じていたのだった。相子が、万樹子の流産をひた隠しにしたのは、ただでさえ細川一也との結婚を厭《いや》がっている自分の心理に、動揺を与えまいとするための策らしかったが、そんな一族の不幸まで勝手に裁量する相子を許せないと思った。
「二子さん、お久しぶりです――」
背後で四々彦の声がした。二子ははじかれたようにたち上った。
「ご機嫌よう、このところ高炉建設で、以前にも増してお忙しいのですってね」
「ええ、内外の事情で、建設予定を急ピッチで早めているものですから――、いつぞやもそんなことで演奏会のお誘いを駄目にして、どうも……」
四々彦は油気のない髪をかき上げ、申しわけなさそうに云い、
「なるほど、見事な錦鯉《にしきごい》ですね、今、専務が、祖父の代からの自慢の錦鯉がいて、ちょうど妹が下の池で餌をやっているところだから、眼の保養に見て行き給《たま》えとおっしゃったんですよ」
と、池の中を覗《のぞ》き込んだ。
「手を叩《たた》くと、餌を貰えると思って集まって来ますのよ、呼びましょうか」
二子がそう云って、ぽんぽんと手を叩くと、忽《たちま》ち鯉が群れ集まって来た。
「凄《すご》いなあ、やっぱり生きている色というのは、電気炉の中でオレンジ色に燃えている鉄の色にしても、この鯉の色にしても、いいですね、専務が自慢される道理だ」
感嘆の色をうかべた。
「四々彦さん、私、この間、お見合いをしましたの」
不意に二子が云った。鯉に眼を奪われていた四々彦は、唐突な二子の言葉に戸惑い、
「――それは、どうもおめでとう」
ややあって、四々彦は感情を抑えた平静な声で云った。
「あら、どうしておめでとうなの、私、その方と京都のお庭で、今と同じようにご一緒にお池の鯉を見ましたの、でも、その方も鉄鋼会社の方なんですけど、鯉の色を見て、鉄の燃えている色などを絶対に連想出来ない人なの――」
と呟《つぶや》き、
「高炉が完成するまで、お待ちしていてもよろしくて?」
「……待つ?」
信じられぬように云うと、二子は羞《はじら》うような瞳《ひとみ》で四々彦を見上げた。四々彦の顔に、強い心の昂《たかぶ》りが満ちた。
寝室の窓からレースのカーテンを通して昼下りの陽光が射し込んでいる。万樹子は、ガウンを羽織った体をベッドの背にもたせかけ、さっきまで読んでいた服飾雑誌を羽根蒲団《ぶとん》の上に投げ出して、独りぼんやりと天井を見上げていた。
二十日前の夜、流産して、その翌日から高熱を出し、下腹の痛みと局部の出血が一週間ほど止まらず、骨盤腹膜炎を起したのだった。今では微熱が時折ある以外、下腹の痛みと出血も止まって、安静にさえしておればいい状態に回復していたが、体全体は力ない気怠《けだる》さに包まれ、神経が異様に苛だっている。まだ五カ月の胎児《たいじ》を失った悲しみも癒《い》えず、特に流産した夜の銀平の姿を思い出すと、やりきれない思いに襲われる。深夜に帰宅した銀平は、母の寧子も相子も既に引き揚げてしまった二人だけの寝室で、流産したことを告げても、表情を変えず、「それで君の体はいいの」と聞いたきりで、自分のベッドへ入ってしまったのだった。胎児を失った愕《おどろ》きも悲しみもなく、むしろ子供などいらないよと云っていた通り、さっぱりしたような表情でさえあった。そうしたいたわりのなさが、万樹子の心を傷つけ、やりきれない思いに駈《か》りたてている。
扉《とびら》が開き、セーター姿の銀平がぶらりと入って来た。ナイト・テーブルの上に置き忘れたライターを取り、煙草に火を点《つ》けると、万樹子に声もかけず、また出て行きかけた。
「あなた――」
「なんだ、用かい?」
煙草をふかしながら応えた。
「あなたって人は、流産で子供を亡《な》くしても、全然、平気でいられるのね」
詰《なじ》るように云うと、
「最初から子供はいらない、堕《おろ》した方がいいと、云っていた僕だからねぇ」
銀平は無感動に応えた。
「まあ、なんてひどいことを云うの、五カ月の子供、それも男の子だったというのに、よくもそんなことを――、私が流産したのもあなたのせいよ」
「君が流産したのが、どうして僕のせいになるんだい、勝手に養生しなかっただけのことだろう、迷惑だよ、そんな云い方は――」
突き放すように云うと、
「いいえ、あなたのせいよ、あなたが毎晩のように、宴会だ何だと、遅くまで帰らないから、淋《さび》しくて私もついパーティに出かけたり、遊びに行ったりしたんじゃないの、あなたさえ、銀行のご接待がない日は早く帰って来て、新婚家庭らしく晩餐《ばんさん》を一緒にとるといった風にして下さっていたのなら、私だって妊婦らしく、もっと自重して、おとなしくしていたわ、みんな、みんな、あなたのせいよ!」
万樹子の声がヒステリックに昂って来たが、銀平は煙草をふかしたまま、表情を動かさない。それが万樹子の神経をますます昂らせた。
「あなたは、私が流産するのを望んでいたのだわ、だから私が妊娠したと知ってから、前以上にバー遊びが激しくなったのだわ、そう、それに違いないわ、あなたが子供を死なせたのよ!」
そう云うなり、万樹子は羽根蒲団の上の雑誌を取って、投げつけた。美しいグラビアの頁《ページ》がめくれ、銀平の足もとでパリ・モードの頁が千切れた。
「ヒステリーも、いい加減にするものだ」
銀平は、万樹子の顔を見据えた。サーモン・ピンクの贅沢《ぜいたく》な絹のガウンを羽織りながら、眼を引き攣《つ》らせてヒステリックに叫んでいる万樹子の姿は、閨閥《けいばつ》結婚によって傷ついた一人の哀れな女のそれであり、対《むか》い合っている自分もまた同じ類《たぐ》いであると思うと、銀平は索漠とした思いに囚《とら》われた。
扉をノックする音がして、お手伝いが顔を覗かせた。
「芦屋の安田さまご夫妻がお見えになりました」
「まあ、お父さまとお母さまがお揃《そろ》いで、すぐこちらへご案内して――」
万樹子の顔からヒステリックな険しさが消え、みるみる表情が明るんだ。
安田太左衛門と妻の佳江は、部屋へ入って来るなり、
「どう、その後の加減は?」
娘の健康を案じるように云った。
「今日はお父さまも来て下すったのね、嬉《うれ》しいわ、この間中は、何かとお手数をおかけしました」
佳江は、娘の流産の報《しら》せを聞くなり、実家《さと》の母親らしく、一週間程の間は毎日のように様子を見に来ていたのだった。そして万俵家に嫁いだ万樹子の結婚が倖《しあわ》せでなく、その原因が夫の銀平にあることを感じ取っているようだった。それだけに銀平に気を遣い、
「まあ、日曜日でお寛《くつろ》ぎのところを、突然、主人と参上して申しわけございません」
改まった挨拶《あいさつ》をした。太左衛門の方は温厚に笑い、
「何もそんな他人行儀な挨拶をしなくてもいいじゃないか、銀平君にも何かと心配をかけたようだし、男の子だったから惜しかったねぇ」
と云った。
「こちらこそ、何かとご心配をおかけしております、今日はまたお二方お揃いで、早速、父に報せましょう」
「いや、勝手に娘を見舞に来ただけのことだから、万俵さんにはお報せ戴《いただ》かなくても結構ですよ」
と辞退したが、銀平は寝室の電話を取って、本館へ連絡した。父の大介はすぐ出向くと返事した。
「只今、父が参りますから、あちらの部屋へどうぞ――、万樹子はここで寝《やす》んでいる方がいいよ」
銀平は、安田太左衛門夫妻を庭に面したリヴィング・ルームへ案内した。
黒の絨毯《じゆうたん》を敷き詰め、イタリア製の赤、黄、紫、グリーン、ブルーなどのソファを置いた二十畳ほどの部屋は、芝生の中庭を挟《はさ》んで、万俵大介が住まっている本館と斜め向いになっていた。
間もなく、珍しく和服姿の万俵大介が芝生を横切って来るのが見え、テラスから部屋へ入って来た。
「これは安田さん、お揃いで恐縮です、家内はあいにく、洋蘭の会で出かけておりますが、お見えになることが解っておりましたら、取り止《や》めさせましたものを――」
「いや、こちらこそ、娘の見舞だけのつもりでしたから、ご都合もお聞きせずにやって来たわけで、万俵さんにお目にかかるとは恐縮です」
安田太左衛門夫妻と万俵大介、銀平は、テーブルを挟んで向い合うように坐ったが、瞬時、言葉が跡絶《とだ》えた。どちらも云わねばならぬことがありながら、切り出しかねている不自然さがあった。安田佳江はそれに気付くと、実家《さと》方の母親らしい腰の低さで、
「この度は娘の不注意から、せっかくの妊《みごも》りを、しかも男のお子を流産させてしまいまして、お詫《わ》びの申しようもございません」
深々と頭を下げた。万俵大介は端正な顔を和服の衿《えり》もとに埋め、
「その点については、こちらにも責任のあることです」
と応《こた》えた。安田太左衛門は、銀平の方を見、
「銀平君、万樹子には何かとご不満な点がおありだろうが、これからはいたわってやって戴きたい」
今回の件に関して、銀平にも一半の責任があることを指すように云った。
「それから本人は、まだ知らぬ様子ですが、昨日、芦屋病院の院長から聞いた話によりますと、骨盤腹膜炎を起したあとは、子供を産めぬ体になる場合が多いということです――」
太左衛門は重い口調で云い添えた。銀平はさすがに視線を落したが、万俵は、
「私もそれを聞いて、実のところ、がっかりしているのです、ほんとうに芦屋病院の院長が云われるように、今後、子供が産めないということなら……」
言葉が跡切れ、重苦しく沈黙した。太左衛門は、
「まだ他《ほか》の病院の医者に診《み》せる道も残されていますし、万一、不幸な場合でも、万俵家には、ご長男の鉄平さんに二人のお子さんがおありになることだし、娘のことは、今後ともよろしくお願いします」
娘の身を思う父親の気持が籠《こ》められていた。万俵は頷きながらも、
「しかし、私は、銀平の血を分けた子供、それも男の子が欲しいと、期待していたのです」
一語、一語、区切るように云った。云いながら万俵は、自分の血を分け、万俵家を継ぐのは、長男の鉄平ではなく、銀平であると思った。それだけに、血脈が断ち切られた落胆が大きく胸に迫った。しかし、そうした感情の昂りの一瞬が過ぎると、阪神特殊鋼をトリックにして、自行より上位の大同銀行を呑《の》むためには、この安田太左衛門の力を借りねばならぬと思った。そして明日の役員会の後、大亀と芥川には、或《あ》る程度、自分の意図を話し、対大同作戦を開始しようと、心に決めた。
伊丹空港午前九時半発の東京行きの飛行機は、忙しい仕事を抱《かか》えるビジネス・マンで殆《ほとん》ど埋まっていた。阪神銀行の大亀専務と芥川常務は、一番前列の三つ並んだ席が運よく一つ空席になり、聞き耳の心配はなかったが、低い声で話し合っていた。
大亀専務は、肥満した大柄な体を窮屈そうに前屈《まえかが》みにし、芥川常務はダーク・スーツの華奢《きやしや》な体をぐっと大亀の方へ寄せていた。
「大蔵省へは十一時でしたね、今日のご用は、配当自由化の件ですか」
「そうだよ、実施するにあたって、今後三カ年の収益見通しを、大所高所から見てどう予測するか、御行《おんこう》の意見を聞きたいというのが、大蔵省の呼出しの口上だが、要はお前さんのところはどれぐらいの配当が出来るのだ、それを参考にして、各行の配当率の差が大きくバラつかないように規制するというのが狙《ねら》いで、各行を順番に呼びつけているのだよ」
経理担当役員として、銀行局の松尾審議官に呼ばれていることを云い、
「それにしても、大蔵省へ出かけるというのは、鬱陶《うつとう》しい気分だね、その点、芥川君はよくやるねぇ」
「いえ、私などは御用聞きよろしく年中、お上《かみ》へ出入りして、ご意向を伺っているだけです」
謙遜《けんそん》して云ったが、若い頃から企画、総務畑が長かったから、苦にならない。
「オレンジ・ジュースでございます、どうぞ――」
スチュワーデスが、にこやかに紙コップを二人に渡した。飛行機は伊勢湾上空らしく、窓の下に緑色の縁取りを見せた真っ青な海が、きらきらと輝いている。大亀は咽喉《のど》を鳴らすようにジュースを呑み干してから、
「ところで芥川君、昨夜《ゆうべ》、頭取から話されたこと、正直云って、私は暫《しば》し我が耳を疑ったよ」
昨夜の驚愕《きようがく》をもう一度、思い返すように云った。昨日《きのう》、定例役員会のあと、大亀と芥川の二人だけが別席へ呼ばれ、万俵頭取から“小が大を食う合併”の相手として、大同銀行に眼をつけたことを、告げられたのだった。
「やはり頭取の勘どころは違いますね、大同銀行の中に、空席の副頭取の椅子《いす》をめぐって、日銀天下り派と生抜《はえぬ》き派の抗争があることをお耳に入れたのはつい最近のことですから、まさに電光石火の決断力です」
芥川が云うと、
「しかし、いくら行内の派閥抗争で、内部ががたがたしているといっても、日銀天下りの頭取がいて、背後に日銀が随《つ》いている限り、そうやすやすと呑めるだろうかねぇ」
何事にも慎重な大亀は、昨夜と同じように首をかしげ、腕を拱《こまね》いた。
「その呑めるか呑めないか、五分と五分のところを、大同銀行の業容、人事、組合などを徹底的に洗って、呑む可能性を七分どころまで見つけよというのが、昨夜の頭取のご指示だったわけじゃございませんか」
「それで、七分どころにする見込みのほどは?」
「一つは、今、云った大同銀行の副頭取人事の問題で、もし日銀が副頭取を送り込むつもりなら、現在の抗争は深刻の一途を辿《たど》るだけに、楔《くさび》が打ちやすくなります、もう一つは、生抜き派の中心人物をこちらに引っ張り込む具体的な接近方法ですが、たまたま生抜き派の長である綿貫専務が、アサヒ石鹸《せつけん》への協調融資を当行へ依頼して来ていますので、それを梃《てこ》にして、綿貫専務の首根っこを抑え込めば、呑める可能性は七分どころ出て来るのではないでしょうか――」
芥川は縁なし眼鏡を光らせて云い、
「アサヒ石鹸の業容調査は、融資担当の渋野常務の話によれば、予想していたよりよかったそうじゃありませんか、私は綿貫さんの話は、自分の息子の嫁に、アサヒ石鹸の社長の次女を貰《もら》っている手前、大分、割り引いて考えねばならないと思っていたのですよ」
と云うと、大亀は頷《うなず》き、
「私もアサヒ石鹸は本社が東京だから、詳しく知らなかったのだが、渋野常務の報告を聞くと、資産内容、収益面ともになかなか小じっかりしているので、取引に不安はない、それより私が危惧《きぐ》するのは、綿貫千太郎のような生抜きが、いくらアサヒ石鹸と姻戚《いんせき》関係があるとはいえ、アサヒ石鹸への協調融資ぐらいのことで、こちらへ引っ張り込めるかということだ」
大亀自身が、万俵大介の股肱《ここう》の臣として仕えているだけに、寝返りなど到底、考えられぬように云った。しかし綿貫と有楽町のしゃぶしゃぶ屋の座敷で一晩、ゆっくり飲みあかした芥川には、綿貫が三雲頭取に反撥《はんぱつ》しているのは、単に三雲個人が気に食わないという気持から出たものではなく、日銀天下り頭取に、来る年も来る年も仕えねばならない、生抜きの人間としての気持から出たものでまさに鬱積した怨念《おんねん》のようなものを、芥川は感じ取ったのだった。
「いや、当行のように、オーナーであり、名実ともに実力者である頭取に仕えるのではなく、営々と四十年近く、粉骨砕身働きながら、次々に日銀から天下って来る自分より齢下《としした》の頭取に仕えさせられる綿貫さんの気持は、同じ専務でも、大亀専務にはとても、ご想像つかないと思います」
と云うと、さすがに大亀も黙ったが、
「じゃあ、もう一つの私の懸念《けねん》を云おう、なるほど、大同銀行は図体《ずうたい》ばかり大きくて、内実は貯蓄銀行上りの業態で、しかも内紛があるから、大同自体は与《くみ》しやすいかもしれない、しかしさっきも云ったように、背後に控えているのが、日銀さま[#「さま」に傍点]だということは、よくよく頭に叩《たた》き込んでおかねばならない」
大亀はそう云い、言葉を切った。通路を隔てた横の席では、商社マンらしい派手なスーツを着た中年の男がアタッシェ・ケースを開け、頻《しき》りに横文字のタイプの書類を読んでいる。大亀は、再び声をひそめて言葉を継いだ。
「万一、阪神銀行が大同銀行を狙っているなどと日銀に気取られたら、忽《たちま》ち毎月、日銀から借り入れている借入金に、貸出先が悪いの、偏《かたよ》っているの、預金集めの状態がよくないのと、けちをつけられて、額を削られ、陰に陽にいびられることになるから、よほどの注意をもってかかることだ、市中銀行を“生かすも殺すも日銀次第”という言葉があるくらいだからねぇ」
不安を募らせるように云うと、芥川は、
「むろん、私だって日銀法王庁のいびり方のいやらしさは身にしみて解《わか》っていますから、細心の注意をもって、日銀と三雲頭取の繋《つな》がりの度合い、リモコン工合を調べ、対大同作戦を練りますよ」
と云いながら、窓の外へ眼を遣《や》った。飛行機は高度を下げて木更津《きさらづ》上空に達し、間もなく羽田空港着陸であった。芥川は、東京事務所へ帰って日銀担当の総務課員に与える“特命”事項を、早くも考えていた。
阪神銀行の忍者である冠収《かんむりおさむ》は、城砦《じようさい》のように聳《そび》えたっている日本銀行の建物が見えて来ると、いつになく表情を引き締めた。
中央銀行の威厳を誇示するような左右の青銅のドームも、城砦のように高い石壁も、“日銀忍者”を拝命して二年になる冠収は、さして威圧を感じなくなっていたが、今朝《けさ》、本店の役員会を終えて帰って来たばかりの芥川東京事務所長からじきじきに呼出しがかかり、“特命”事項を云い渡された後、「これは頭取に提出するレポートだと思い給《たま》え」と云い添えられたことを考えると、今回の任務の重要性を感じた。
城門のようにいかめしい門をくぐると、石畳を敷き詰めた中庭は森閑として、外界の騒音から遮断《しやだん》されている。正面の階段を上って、天井の高いホールへ一歩、足を踏み入れると、玄関脇《わき》に控えている数人の守衛たちが一斉に誰何《すいか》する視線を向けた。皇居の次に厳重を極めているといわれている警備であったが、二年間、毎日のように顔を合わせていたから、フリー・パスで通れる。守衛にいち早く顔を覚えて貰い、フリー・パスになることが、日銀忍者の第一歩であったが、冠は、格別の術《て》を弄《ろう》さずとも、背がひょろ高く、度の強い黒縁の眼鏡をかけて、飄々《ひようひよう》と歩くさまが、並いる他行の俊敏そうな忍者と対照的で、守衛たちにすぐ覚えられたのだった。
内玄関を通り、二人の警官が常時、警戒に当っている営業局の前の渡り廊下を右へ折れると、ここにも守衛がたっている。
「今日は、どちらですか」
鄭重《ていちよう》に行き先を尋ねられた。
「総務部企画課へ、伺います」
冠が応えると、守衛は重々しく、どうぞと云った。そこから奥が、頭脳と毛並を兼ね備えた名門のエリート行員たちが綺羅星《きらぼし》の如《ごと》く犇《ひしめ》いている日銀の本丸になるのだった。
午後三時の営業局の終業時間になったらしく、拍子木が打ち鳴らされた。迷路のように曲りくねった廊下をエレベーターの方へ歩いて行くと、陽の射《さ》し込まない中世の回廊のように薄暗い廊下の向うから、見覚えのある人影が近付いて来た。考査局の調査役であった。
「これは調査役、この度は叔父上様の五井商船社長ご就任、おめでとうございます」
日頃、接触の多い役職者の係累《けいるい》については、人事興信所まがいの綿密な調査をし、挨拶《あいさつ》がわりに係累の消息を話題にするのが、日銀忍者たるもののエチケットであった。曾《かつ》ての五井財閥の理事を父に持つ調査役は、色の白いちんまりと整った顔を綻《ほころ》ばせ、
「どうもご鄭重に――、来月は薫子《かおるこ》がこちらでリサイタルを開くために、パリから帰って参りますし、このところ身辺が慌《あわただ》しくなりましたよ」
調査役の実妹で、パリ在住の有名なピアニストのことを云った。
「ご令妹のリサイタルのことは、今から大へんなご評判で、切符を手に入れるのに一苦労だと、音楽ファンは皆、嘆いておりますよ」
生真面目《きまじめ》な表情で云うと、調査役は別にてれもせず、鷹揚《おうよう》な会釈《えしやく》をして行き過ぎた。
三階に上り、エレベーター・ホールの横の総務部の分厚いガラス扉《ど》を開けると、二十坪ほどの部屋に三十数人の行員が机を並べている。総務部は、金融政策を立案するいわば日銀のシンク・タンクで、毛並と才能を兼ね備えた逸材が集められている。
冠は、奥の部長室の近くにある冴木《さえき》企画課長の席へ眼をやると、冴木は電話中であったが、横の来客用の椅子に坐《すわ》った。日銀創設以来、そのまま動かさずに置いてあるかのような古めかしい丸テーブルと皮張りの椅子であった。女子職員が日銀流といわれるしずしずとしたもの腰で、お茶を運んで来た。
「どうも、恐縮です」
冠は入れたてのお茶を飲みながら、冴木企画課長の電話のやりとりに、聞き耳をたてていた。時折、総裁がとか、総裁のご意見はといった言葉が出るのは、企画課長、総務部長、総裁秘書役の三人が、概して総裁を中心にして、重要な立案に従うからであった。それだけに、総務部企画課長のポストは、海外勤務を経験して帰国した四十代前半のエリートが、一番坐りたいポストで、ここに坐るのは、同期のトップであった。事実、冴木は、東大法学部から首席の成績で入行して以来、将来の幹部候補生として刀傷のつかない部署で大切に育てられ、昨年の秋、三年間のロンドン駐在を終えて帰国するや、企画課長に就任したのだった。五代前の日銀副総裁、冴木正之助の三男として、申し分のない栄進の仕方であった。
「おや、冠君じゃないですか、今日は約束していましたかね」
電話を終えた冴木課長が、席をたちかけて、冠に気付いた。父親譲りの面長で、贅肉《ぜいにく》のない、彫刻的なマスクに一種の鋭さが漂っている。
「いえ、お約束はしていないのですが、公定歩合の引上げが最近、あちらこちらで囁《ささや》かれていますので、実際にその操作にあたられる冴木課長の忌憚《きたん》のないご意見を伺いたいと存じまして――」
「あちらこちらって、どの辺《あた》りで云われているのですか、私の方はまだ何も考えていないんですがねぇ」
冴木は、ケントに火を点《つ》けながら云った。市中銀行は、大蔵省銀行局に対しては、行政指導される立場であったから、何を聞きに行くにも腰を折り、匍匐《ほふく》前進の構えで行かなければならないが、日銀ではそれほどの構えでなくとも話せる。特に総務部企画課は、情報局的な性格を帯び、相手からの情報も得ようとするから、対々で話し合える。煙草《たばこ》をたしなまない冠は、度の強い眼鏡の下の眼を瞬《しばたた》かせ、
「巷間《こうかん》、洩《も》れ聞くところでは、総裁が経団連の先日の常任理事会へ出席し、諸般の情勢から止《や》むを得ず公定歩合を引き上げるので協力してほしいと、財界を説得されたということですし、大蔵大臣も、つい三日ほど前、引上げを早期に実施するべきだと、親しい新聞記者に語ったと、聞いています、そんな情報を聞く度に、われわれ日銀さんから資金を借りている市中銀行は、いつ、金利が引き上げられ、窓口規制が厳しくなるかと、びくびくものなんですよ」
ややオーバーな表現で云い、
「総裁が財界を説得されたというとなると、引上げの下ごしらえは、冴木課長のところで、すっかり出来ているということでしょうか?」
冴木の顔を覗《のぞ》き込むように聞くと、
「総裁が、経団連の常任理事会へ出向かれたなど、私は初耳ですね、したがって大蔵大臣が、何を根拠に早期実施を新聞記者に語られたのか、理解に苦しみますね」
煙草の煙を静かに吐きながら、あくまでしら[#「しら」に傍点]を切り通したが、日銀がきめる公定歩合を、大蔵省の方で早くも勝手に喋《しやべ》っていることに対する反撥が、ありありと見て取れた。公定歩合の上げ下げをきめるのは日銀であり、総務部企画課がその立案、企画をするのだったが、実際に最後の決断を下すのは、総理大臣と大蔵大臣の話し合いによるのが現実で、それが誇り高い日銀マンの屈辱の種らしい。
冴木の気持が白けかかったのを機会《しお》に、冠はぬるくなったお茶を飲み、
「話はかわりますが、市川理事が近々、ヨーロッパへご出張になるそうですね、今度はお長いのですか?」
いかにも用件をすませた後の軽い茶飲み話のように切り出したが、冠の今日のほんとうの目的は、大同銀行の副頭取人事を総裁側近の冴木が、どの程度、知っているかを探ることにあった。
「三週間ぐらいじゃないかな、例のマルク相場に関連した出張だから――」
「そうですか、でも市中銀行や新聞記者の間では、またぞろ話題になっていますよ」
「ほう、皆さん、どうおっしゃっているのです?」
冴木は逆に、冠に聞いた。
「マスコミからの逃避行というのが、一致した意見ですね、というのは、『週刊日本』に大同銀行の三雲頭取が、この間の役員会でも、生抜きの綿貫専務を据置きにして、副頭取のポストを依然として空席にしているのは、来春あたり市川理事を迎え入れるつもりだと書かれてから、大同銀行の派閥抗争が俄《にわ》かに表面化して来ているそうで、市川理事も新聞記者に追い廻されて、あげくの果ての逃避行という観測なんですよ」
「なるほど、あの『週刊日本』の記事以来、市川理事は、まるで“時の人”扱いで、何をするにもあらぬ噂《うわさ》が乱れ飛ぶわけですね」
冴木は笑いにまかせながらも、やんわりと否定しかかった。冠も笑い返し、
「かりに市川理事が、大同銀行に天下るとしても、それがどうしていけないんでしょうかねぇ? 世間では天下りというと、すぐ目角《めくじら》をたてて非難しますけれど、優秀な人材を活用するのですから、全部が全部、悪いとは思いませんが――」
心中では日銀天下りを手厳しく批判しながら、相手の言葉を引き出すために首をひねった。
「同感だね、ことに大同銀行の場合など、都市銀行になってから入行した中堅層は、どうにか育って来ているらしいが、三雲頭取のお話を伺っていると、貯蓄銀行時代の体質を完全に払拭《ふつしよく》するには、まだここ当分はという気がしますねぇ」
ということは、日銀首脳部は依然として、大同銀行を日銀植民地にしておくつもりのようであり、三雲もこの問題で、日銀へ相談に来ているらしい気配が窺《うかが》えた。冠はさらにもう一歩、深く突っ込むために、
「三雲頭取は、非常に理想家肌の方だけに、何かとご心労が絶えないでしょうが、かりに市川理事あたりが来春、副頭取に入られるとすると、三雲政権も安定して、長期化しそうな感じですね」
「さあ、そういうことは、私たち末輩は何とも云いかねますが、この間も総裁が三雲頭取に、潔癖すぎるあまり、生抜き派との間の摩擦をこれ以上、エスカレートさせないようにと、警告しておいででしたよ、何しろこの間の人事以後、大同銀行では生抜き派が、箸《はし》の転んだようなことまで一々、あげ足を取るというんですから」
冴木は、さすがにここぞというポイントをはずした応《こた》え方をしたが、大同銀行の内紛が悪化すれば、天下り人事が難かしくなるだけに、気を揉《も》んでいる気配が読み取れた。
「失礼なことを申し上げるようですが、総裁は、三雲頭取に随分と親身になっておいでのご様子ですね」
屈託のない口ぶりで、最後に総裁と三雲との密接度を探ると、
「総裁は、日銀出身のすべての後輩に対して、あまねく親身ですよ」
冴木は意外に素っ気なく応えた。冠はその素っ気なさに驚きながら、これは面白い材料だと思い、三雲の大同銀行へ転出したいきさつを、洗い直そうと考えた。
総務部企画課を出ると、再び迷路のように折れ曲った日銀の廊下を幾つも曲り、日銀記者クラブへ足を向けた。
日銀記者クラブは、正面玄関から離れた端にある。新聞記者が、車夫馬丁の次ぐらいの扱いしか受けていなかった明治時代の感覚そのままなのも、日銀ならではのことだった。それにしても口うるさい新聞記者たちが、よく黙っているものだと苦笑しながら、一階正面の営業局前の渡り廊下を、記者クラブの方へ曲りかけ、はっと足を停めた。正面玄関ホールにものものしい守衛たちの立礼の姿が見え、その前を三、四人の行員を引き従えた松平総裁が、鋭い眼で、辺《あた》りを睥睨《へいげい》するようにして通り過ぎ、外に待たせてある車に乗り込んだ。若い頃から日銀のプリンスとして育てられ、二代続いた輸入総裁に替って十年目に実現した“純血総裁”だけに、日銀内部の信望は厚く、日銀法王としての威令は、隅々まで行き渡っている。
冠は、三雲頭取と松平総裁の関係を考えていた矢先の偶然の光景だけに、久々に見る総裁の姿をたち止まって見詰めていたが、車が動き出すと、急ぎ足で記者クラブへ行った。
夕刊の原稿の締切もだいぶ前に終ったらしく、古めかしい木の机を並べた各社のデスクにはあまり人影がなかったが、目ざす毎朝新聞の浅田記者は、部下の記者と煙草をふかしながら話していた。冠は背後から、
「浅田さん、一昨日《おととい》はゴルフの手ほどきを有難うございました」
阪神銀行の東京事務所が、日頃、親しくつき合っている新聞社や経済誌の記者を天城《あまぎ》ゴルフ場へ招待したコンペのことを云った。浅田記者は、椅子ごとくるりと振り返り、
「いや、こちらこそ――、それにしても君の運動神経の鈍いのには、ほとほと感心したよ」
毒舌家で、云いたいことをずけずけ云う浅田記者は、半ば呆《あき》れたように笑った。冠はそう云われても仕方がないほど、運動に関しては駄目な方だった。
「役目上、励んでいるのですが、何とか見込みないでしょうか」
「まず絶望的だね」
浅田は、断言するように云い、
「そのかわり、君は近代経営学を語らせても、文学を語らせても相当なものなんだから、そこらのゴルフ忍者よりよほどいい」
冠は、照れくさそうに度の強い黒縁の眼鏡をずり上げ、
「そうお褒め戴《いただ》いたところで、少し伺いたいことがあるんですがね、鮨《すし》でもつまみながら、おつき合い下さいませんか」
「公定歩合のことかい? しかし今日は駄目なんだ、昨夜、大阪へ転勤する同僚の送別会で飲みあかし、二日酔いで頭がずきずきするんだ」
「道理でお顔色が冴《さ》えないと思いましたよ、それじゃあ固い話は後日に譲って、酔いざましにブーケへ行きませんか、あそこのミックス・ジュースは酔いざましに効果抜群なんですよ」
と誘うと、二日酔いがよほどこたえているのか、浅田記者はあとを若い部下に任せて、たち上った。
城砦のように荘重な日銀の建物を一歩出ると、外は初夏の陽ざしが輝き、白いワイシャツ姿のサラリーマンや、ミニ・スカートの女性達が闊歩《かつぽ》している。冠は眩《まぶ》しげに眼を細め、飄々とした足どりで浅田記者と中央通りの交叉点《こうさてん》の手前にある喫茶店『ブーケ』へ入った。
明るく品のいいことと、歩いて二分という近さから、ランチ・タイムになると、日銀マンが息ぬきにたむろする喫茶店だが、四時過ぎの今は、がらんとすいている。奥まったテーブルに坐り、この店独特の野菜と果物と玉子のミックス・ジュースを注文すると、
「さっき、玄関で松平総裁の姿を見かけたんですが、威風辺りを払っていますね、大同銀行の副頭取人事にちゃちゃ[#「ちゃちゃ」に傍点]を入れて、生抜きの専務の昇格を潰《つぶ》したのは、ほんとうなんですか」
浅田記者の方へ上体を寄せ、声を潜《ひそ》めるように聞いた。一昨年、浅田記者が日銀の金庫から三百万円の現金が消失したという、日銀外部の者には到底、洩れるはずのない事件をスクープして世間を驚かせたのは、この喫茶店で日銀のノン・キャリア連中が、ひそひそ話をしているのを耳にしたのがきっかけだったと聞いているだけに、周囲に人影がなくても、勢い声を潜めてしまう。浅田は運ばれて来たジュースをぐいと半分ほど一気に飲み、同じように声を落した。
「ああ、大同銀行の副頭取人事ねぇ、市中銀行は、えらく気にしているんだな」
「そりゃあ、明日《あす》はわが身とも限らないのですから、対岸の火事と見過すわけにはいきませんよ」
「僕のみるところ、権勢欲の人一倍強い松平法王のことだから、ずばり法王のリモコン人事だと思うね」
「一説には、三雲頭取は大同銀行内の生抜き派の声を容《い》れて、綿貫専務を副頭取に昇格させるつもりだったとも云われてますが、まだまだ日銀のコントロールが効いているわけですか」
「そりゃあ三雲頭取は、大同銀行の中でしっかり根を下ろしているとは云えないし、日銀の後ろ楯《だて》がないと、何かと動きがとれないからねぇ、現に大同銀行は三雲頭取のおかげで貸出しに随分、手ごころを加えて貰《もら》っていると、同じ中下位行の連中がやっかんでいるじゃないか」
浅田は皮肉っぽい笑いをうかべた。
「まあそういうことですけれど――で、その空席のポストに市川理事が天下るという噂の確率はどんなものでしょうか」
ニュアンスでしか汲《く》み取れなかった冴木企画課長の言葉の裏を取るために聞くと、
「来春、市川理事が外へ出されることはほぼ間違いないだろう、その天下り先として、はじめ大阪証券取引所所長が考えられていたそうだが、大同銀行ががたがたして来たので、急遽《きゆうきよ》そっちへということになったらしい」
浅田は、残りのジュースをのみ干しながら云った。
「ところで、今さらこんなことを聞くのも何ですが、三雲頭取はどういう経緯で大同銀行へ天下ったんですか、表面的には金融再編成の波がおしよせる困難な時期だから、内外の金融情勢に通暁《つうぎよう》した視野の広い人物をということで、日銀理事の中でも理論派の三雲さんに白羽の矢が立ったということになっていますが、三雲さんは戦後、はじめて国債を発行するに当って手腕を振るい、大きな功績を残した人だけに、われわれとしては少なくとも副総裁まではいくと思っていたのですがねぇ、松平総裁との間に、何か個人的なトラブルでもあったんじゃないですか」
冠が一段と声を低めて云うと、
「なかなかいい勘をしているね、もう時効になったんだから話してもいいだろう、実は三雲さんが奥さんを亡くして二年目頃に、当時、まだ理事だった松平さんの奥さんの妹が夫と死別して、再婚先を探していたので、たまたま三雲さんに話が持ちかけられたわけだ、ところが三雲さんは病身の娘さんのことを理由に辞退したらしい、縁のものだから普通ならどうということもないのだが、松平さんの義妹の方がえらく三雲さんに執着したばかりに妙な工合にもつれたらしい」
「なるほど、女のたたりは安珍《あんちん》清姫以来、こわいものですね」
「全くだよ、だが冠君、君のところの万俵頭取は、よくよく他行の人事、しかも中位行あたりの人事には興味があるようだね」
さんざん、冠に調子を合わせて喋っておきながら、不意打ちするように、ばさりと云った。冠は思わず顔色を変えかけたが、
「他行の人事といったって、大同銀行だけじゃないですか、それというのも阪神特殊鋼が高炉建設に乗り出してから、融資面で一方ならぬお世話になっているので、上層部の人事は気になるのですよ」
と云うと、浅田は、そんな冠の弁解は聞き流し、
「去年の秋、第三銀行の副頭取のスキャンダルについて、君んところの平松雲太郎君からたれ込みがあり、それを記事に書いて暫《しばら》くして、第三銀行には平和銀行と合併する話があったらしいことを知ったんだが、確証を取れずじまいで、残念なことをしたよ、ただ一つの収穫は、どうやら万俵頭取の眼が東の銀行で、しかも自分のところより大きい銀行に向いているらしいことが、解《わか》ったことだよ」
にやりと笑い、席をたった。冠は浅田記者の言葉で、自分に課せられている任務の輪郭をはっきりと知った。
馬場先濠《ぼり》に面した阪神銀行東京支店の五階の頭取応接室からは、鮮やかな皇居の緑が望まれた。万俵大介は、芥川の案内で部屋に入って来た大同銀行の綿貫専務を迎え、
「どうもお呼びたてしたような形になってしまって、失礼しました」
と云うと、綿貫千太郎は大きな赭《あか》ら顔を振り、
「いえ、いえ、とんでもございません、こちらこそ、本来ならば別席を設けて、お願い申し上げるべき筋合いのことでございます」
芥川を通して、綿貫と姻戚《いんせき》関係にあるアサヒ石鹸《せつけん》への協調融資を依頼していたから、恐縮して挨拶《あいさつ》した。
「さあ、どうぞ、お楽に――、いつも五行連合の準備会では何かとお世話になっております、芥川の話によれば、あなたが中心的な存在だと聞いておりますよ」
固くなりがちな雰囲気《ふんいき》をほぐすように云った。
「いやあ、私は齢《とし》の功でお世話役のようなことをしておりますが、会を重ねるだけで遅々《ちち》として進まず、ともかく手近な業務提携からと思って、やっと太平洋ベルト地帯にある企業の給与を五行で相互に受払いする件が決まったような次第で、どうもスムーズに運びません」
「そりゃあ、各行それぞれの家庭の事情や立場がありますから、そう簡単に足並は揃《そろ》わないでしょうが、五行が連合して、上位四行に抵抗し得る連合体を作ることですから、うちの芥川とともに、今後なお一層のご尽力をお願いします」
日本茶が運ばれて来ると、芥川が、
「じゃあ、私はこの辺で失礼させて戴きます」
と席をはずした。
二人きりになると、万俵は、綿貫千太郎を仔細《しさい》に観察した。背丈に似合わぬ大きな赭ら顔、動物的な嗅覚《きゆうかく》を働かせるような鼻翼の張った鼻、如才ないもの腰、どれ一つ取ってみても叩《たた》き上げた人間独特の勘のよさと油断のない狡猾《こうかつ》さがあった。綿貫は玉露《ぎよくろ》を呑《の》み干すと、
「私が、つい昔馴染《なじ》みの気やすさで芥川さんにお願いしましたアサヒ石鹸の件を、頭取じきじきにお心にかけて下さるとは意外で、全く痛み入ります」
人一倍低いもの腰で頭を下げた。万俵は銀髪端正な姿勢を崩さず、
「早速、融資担当に当らせましたところ、アサヒ石鹸の資産内容は三百億のうち百五十億が自己資本で、収益の面も年商五百億、利益率六パーセントを維持して、ここ五年間の売上げの伸びは二〇パーセント前後ということですので、安定した内容ではありますね、ただ表面に出ていない不良在庫が五億、販売店関係の不良債権が十億前後あるのはどういうことですか?」
直截《ちよくせつ》に問題点を衝《つ》くと、綿貫は鼻翼を膨《ふく》らませ、
「不良在庫の五億というのは、昨年の夏、洗滌《せんじよう》と漂白をワンタッチで出来る洗剤を開発して発売したところ、漂白が斑《まだら》な汚点《しみ》になる欠陥が出て来、在庫品になりましたが、洗剤業界ではこの程度の不良在庫はままあることで、業礎《ぎようそ》に響くというものではありません、また代理店関係の債権は、無理な販売拡張のためにこげついた分ですが、これに対しては、抜本的な建直し策を行なっていますから、間もなく解消の見込みです」
と説明しながら、さすがは阪神銀行の調査だけあって、販売店先まで手をまわして調べているのかと、油断なく身構え、今度は自分の方から口をきった。
「とかく洗剤と云いますと、外資の上陸や大手資本の進出で先行《さきゆき》に危惧《きぐ》を持たれるのが普通ですが、万俵頭取はその点、如何《いかが》お考えでございますか」
「私は、洗剤業界は外資上陸、大手資本進出ということに、神経をたて過ぎると思いますよ、要は観方《みかた》の相違で、外資、大手資本が進出して来れば、もろに食い潰されるという観方と、洗剤などの日常生活に密着したものは、昔からのイメージ・ブランドと強固な特約販売組織を持っておれば、そう簡単に潰されるものではないという二つの考え方がありますが、私は後者の方ですよ」
と応《こた》えると、綿貫は我が意を得たりとばかり膝《ひざ》を乗り出した。
「実は私もそう思うのですが、当行の三雲頭取の考えは違うのです、石鹸企業は化学工業の中でも最も脆弱《ぜいじやく》なもので、外資、大手資本の進出には一たまりもなく潰れるという考えもさることながら、日銀出身の人らしく融資先をきめる時でも、格付《かくづけ》と云いますか、日用雑貨に類する石鹸、洗剤より、鉄鋼などの基幹産業を選ばれるのです、そこで正直なところ私は、阪神特殊鋼への非常な貸込みについて、なぜ鉄がよくて石鹸がいかんのですかと、大いに渡り合ったことがあるのです」
「阪神特殊鋼については、こちらの資金供給が追いつかず、いつもおたくにご無理をお願いしています」
万俵が改まって礼を云うと、綿貫は、
「大へん失礼なことをお伺い致しますが、今、特殊鋼は底なしの不況に陥り、不況カルテルを結ぶ話合いが行なわれている状況にもかかわらず、阪神特殊鋼から当行に対する貸金の申入れは、このところ急を極めておりますが、メイン・バンクの御行《おんこう》ではどのように対処されるおつもりですか」
と云った。万俵はにこやかな表情で、
「実は特殊鋼の不況は深刻化する一方で、国内の金融情勢も引締めになっているので、外国銀行からのインパクト・ローンの導入を考え、当行の保証でイースト・アメリカン・バンクに申し入れているのです」
「ほう、さすがは外為《がいため》に強い阪神銀行さんで、実力頭取のなさることは迅速《じんそく》果敢ですねぇ」
綿貫は感心するように云ったが、万俵は、
「しかし綿貫さん、そのインパクト・ローンは、大蔵省国際金融局の許可が要《い》り、その順番待ちというところですが、主計局次長をしている私の娘婿《むすめむこ》に優先的に割り込めるように働きかけて貰っている矢先ですから、極秘のことにして下さいよ」
巧みに綿貫の口を封じ、
「こうして阪神特殊鋼の資金繰りには、インパクト・ローン導入の術《て》をうっており、御行に決してご迷惑をかけることはないわけですから、一つおたくで面倒をみてやって下さい、その代り、アサヒ石鹸の融資のお手伝いは、当行でお引き受けしますよ」
と云うと、綿貫の動物的な嗅覚を持つような鼻翼がぴくっと動いた。万俵大介の意図するところが、アサヒ石鹸と阪神特殊鋼との交換《バーター》融資であることを暗黙裡《り》に嗅《か》ぎ取ったのだった。
「時に、綿貫さん、こうしたお話、三雲頭取をぬきにしていいのですか、後から文句が出るんじゃないでしょうねぇ」
確かめるように万俵が云うと、
「あの人と相談をしていたら埒《らち》があきませんよ、何しろ理想主義者で、理想ばかり追って、現実的な運びは遅くてまずい人なんですよ」
「これは手厳しい――、しかし三雲さんのような日銀出身の頭取は、最近の金融再編成に対しても、一家言を持っておられるのでしょうね」
「一家言といえば聞えはいいですが、経営内容の転換を図らないと再編成の波に呑まれてしまうの、国際競争に敗《やぶ》れるのと、まるで明日にでも上位行に取って食われるような危機感に脅《おびや》かされていますよ、しかし、銀行がそう簡単に潰れたり、食われたりするものですか、そうでしょう、万俵頭取――」
綿貫は、三雲のことになると昂奮《こうふん》し、憎悪《ぞうお》を剥《む》き出した。万俵はその口振りから、三雲と綿貫の対立が予想以上に根の深いことを読み取り、
「すると、綿貫さんご自身の考えとしては、銀行合併はなにがなんでも反対というわけですか」
綿貫の合併に対する個人的な意見に探りを入れた。
「そりゃあ、お上《かみ》がどうこう云うからではなく、大きい上にも大きいのを望むのは企業の本能ですから、相手によっては考えも致しますよ、しかし三雲頭取の理想論をそのまま鵜呑《うの》みにすると、青い鳥を追って足もとの池に落ちるという、あの式になりかねませんよ、合併なんてきれいごとじゃ出来ませんからねぇ」
「確かにおっしゃる通りです、それで綿貫さんは、合併のきめ手となるのは、何だと思われますか」
「ずばり、ポストでしょうねぇ、いくらメリットがどうの、補完性がどうのと云ってみても、ポストを準備しない合併などあり得ないのではないですか、ポストの争奪をめぐって死闘する、これが企業合併の大前提で、合併はポスト次第ということですよ」
「なるほど、合併はポスト次第――」
万俵は、綿貫の言葉に相槌《あいづち》を打つように云いながら、綿貫千太郎はポストの持って行きようで動かせる人間であることを見抜いた。今日のアサヒ石鹸の融資の話はどこまでも口実で、万俵のほんとうの狙《ねら》いは、大同銀行を呑むために、自ら綿貫専務と会い、綿貫を通して、じかに大同銀行の体質を知ろうとしたのだった。
好物の鰻《うなぎ》のきも吸《すい》を、ちゅっと音をたてて吸うと、綿貫千太郎は舌つづみをうつように眼を細めた。昼食時間をとっくに過ぎた大同銀行の役員食堂は人影も疎《まば》らで、綿貫のテーブルの近くには、マナーにうるさい日銀天下り役員の姿がなかったから、気がねなく、毎日食べても飽きない鰻重《うなじゆう》定食をとり、好物のきも吸のお代りもすることができた。
特大の鰻重から、酢のもの、香のものに至るまで、全部きれいに平らげ、最後に吸物椀《わん》の底に残しておいたきもをつるりと咽喉《のど》に通すと、綿貫は爪楊子《つまようじ》で歯をせせりながら、万俵頭取とつい今しがたまで、アサヒ石鹸の融資の件についてじっくり話し込んで来たことを満足げに思い返した。
万俵頭取の印象は、貯蓄銀行上りの自分とは全く異質で、それでいて日銀天下りの三雲とも異なる典型的なバンカーであった。ひたすら預金集めに邁進《まいしん》し、気心の知れている中小企業に手堅く貸して行くのが貯蓄銀行員上りの自分のやり方であり、日本経済の動向や業界の趨勢《すうせい》を優先させ、公共性を重んじるのが日銀天下りの三雲頭取の考え方であったが、阪神銀行の万俵頭取は金融界の指導者としての品位を保ちながら、あくまで営利性を追求し、営利に結びつかない話には絶対にのらない。その冷徹な割切り方は、見事というほかなかった。アサヒ石鹸の融資に応じるかわり、大同銀行も阪神特殊鋼に対して融資額をそれだけ増やしてほしいという交換《バーター》融資を暗にほのめかされた時には、さすがに都市銀行頭取の中でも辣腕《らつわん》をもって鳴る人物だと、内心たじたじとなった。
綿貫は歯をせせった後、ごぼごぼと咽喉を鳴らして茶を飲み、テーブルをたったが、三雲に、自分と万俵頭取との間で暗黙裡に取り交わした交換融資のことをどう諒承《りようしよう》させたものか、思いあぐねながら食堂を出ると、
「専務、やはりこちらだったんですね」
出合いがしらに総務部次長の影山が寄って来た。
「びっくりするじゃないか、そんな大きな声で――、何か用かね」
「どうも失礼致しました、実は専務のお留守中に、ちょっとした事件がございましてね」
耳もとで囁《ささや》いた。影山は綿貫の腹心の部下で、総務部次長という職務柄、各部から入って来る情報をいち早く綿貫に耳打ちしたり、また綿貫の伝令をもって、各部の綿貫親衛隊に伝える連絡将校であった。
「事件というと? また日銀の若さま連中がチョンボをしでかしたのかね」
いち早く事件の性質を嗅ぎ取るように、鼻翼をふくらませると、
「若さま連中でなく、今日は殿《との》さま自身なのですよ、というのは、この間、製菓業界の老舗《しにせ》の大正製菓が倒産した時、何かの会合の席上で、三雲頭取は例のごとく資本自由化になると、日本の製菓業界はひとたまりもないというようなことを喋《しやべ》ったらしくて、それが今日の朝刊に出ているのですよ、おかげで当行の取引先で、全国製菓協会会長をしている山田製菓社長が、かんかんに怒って銀行へ乗り込んで来、大へんな剣幕でしたよ、幸か不幸か、三雲頭取はまた日銀へ行って留守でしたが、銀行の頭取ともなれば経済学者ではないのですから、少しは考えて発言して戴《いただ》きませんとねぇ」
影山総務部次長は、ひそひそと早口に顛末《てんまつ》を話した。
「困った殿さんだな、山田製菓社長にはあとで電話をしておくよ」
「是非ともそうお願い致します、山田社長も、綿貫専務なら自分の胸中が解《わか》って貰《もら》えると云っておられたので、随分、お探ししたのですよ」
「実はな、阪神銀行の万俵頭取と会って、アサヒ石鹸の融資を頼んで来たんだ、これだよ」
親指と人差し指をまるめて、OKのサインをした。
「えっ、ほんとですか、向うは阪神特殊鋼への融資さえも、最近――」
と言葉を継ぎかけると、
「しっ、噂《うわさ》をすれば何とやらで、向うから三雲の殿さんがやって来る、じゃあアサヒ石鹸OKの件は、みんなに伝えておいてくれ」
綿貫は、三雲頭取の姿をいち早く見つけて、影山に目くばせすると、
「それでは只今《ただいま》、専務のご指示の件は、早速、致しておきます」
影山は取り繕うように云い、三雲頭取には恭《うやうや》しい一礼をして、足早に去った。
「おや、頭取も只今からお食事で――」
綿貫は、すっとぼけた顔で聞いた。渋いグレーのスーツに、同系色のネクタイとハンカチーフをのぞかせた三雲は、綿貫と総務部次長のわざとらしい態度に気付いていたが、
「ええ、あなたは今、済ませたのですか」
口もとにぷうんと鰻の匂《にお》いをさせている綿貫に、生理的な厭悪《えんお》感を覚えながら云った。
「そうなんです、お互い昼食も時間通りに摂《と》れず、因果なことですが、もしおよろしければ、久々にお茶なりとご一緒させて戴きたいものです」
三雲は、綿貫の低姿勢ぶりに、何かあるらしいと察したが、拒む理由が見つからなかったから仕方なく頷《うなず》き、まっ白いテーブル・クロスのかかった一番奥の頭取専用テーブルにつくと、綿貫もその脇《わき》に坐り込んだ。
「私は今日は、コンソメと小海老《こえび》のコキールを戴こう」
三雲はボーイに云い、
「何かお話があるようですね、今なら廻りに人もいないことだし、先に聞いておきましょう」
拡げかけたナプキンを畳んだ。
「じゃあ、そうさせて戴きましょうか、実は昨夜、柳橋の料亭で接待客を送り出して座敷に戻る廊下の途中で、ぱったり阪神銀行の芥川常務と顔を合わせましてねぇ、いつも五行連合の会で会っているのですが、向うも接待が終り、たまたま万俵頭取も一緒だからと誘われまして、頭取ご直々にご馳走《ちそう》になったんです、そこでまたとない機会を生かして商談を一つ、まとめて参りましたよ」
商談という露骨な表現に、三雲は眉を顰《ひそ》めたが、綿貫は、
「その商談というのは他《ほか》でもありません、アサヒ石鹸《せつけん》への融資ですが、ロイヤル化粧品を居抜きで買収するに当っての多額の資金需要を、阪神銀行に半分、押しつけることに成功致したんですよ」
得意気に云った。
「阪神銀行が、この金融引締め期に、十億もの融資を――、しかもアサヒ石鹸になど、ちょっと考えられないことですね」
「失礼ですが頭取、アサヒ石鹸は、三雲頭取がお考えになっているほど、世間では低くみておりませんですよ、殊《こと》に阪神銀行の場合は、大衆消費財への進出を図りたがっていた矢先で、非常に乗り気である上、阪神特殊鋼に対する三雲頭取の誠意溢《あふ》れる融資態度に、万俵頭取がいたく感謝しておられることもあって、私自身も驚くほどスムーズに成りたったのですよ、これで長い間、懸案になっていたアサヒ石鹸の資金調達の問題もけり[#「けり」に傍点]がつきそうですので、これからは阪神特殊鋼の融資について、私も三雲頭取のご意見にご協力させて戴きますよ」
「それは結構ですが、あなたが阪神特殊鋼の融資に反対であったのは、本能的にあそこの会社は危ない勘がするからだと、ついこの間の融資会議でも、ぶち上げたばかりじゃないですか」
「いや、実はあまり行内の意見が両極端に対立するので、あれから特殊鋼業界のことを勉強してみたんですが、いち早く高炉による一貫体制を打ちたてて、コストの安い特殊鋼をつくる方向をとっている阪神特殊鋼は、先見の明があり、将来性もあることが、遅まきながら解りました、やっぱり三雲頭取の勝ちでしたね」
「融資に勝ち負けというような云い方は、おかしいですよ、要は――」
三雲が、きっとした表情で云いかけると、
「いや、言葉は悪いですが、万俵頭取と話していて、石鹸の、鉄のと云って行内で足をひっぱり合っているなど愚劣なことだと思いましたよ、共に将来性のあるものなら、これからは石鹸と特殊鋼の共存共栄で参りましょう、さしずめ目下、申込みのある阪神特殊鋼の融資は、別枠《べつわく》融資ということにして認めさせて戴きますよ」
交換融資であることを気取られぬように、狡猾《こうかつ》に云った。
*
阪神特殊鋼の役員会議は、重苦しく苛《いら》だたしい気配に包まれていた。
不況に落ち込んでいる経営の打開策を図るための会議であったが、製品の売値は、今や錐《きり》もみ状態で墜落する飛行機のような加速度で値崩れしているのだった。社長の石川正治は、ノイローゼ気味の表情で正面の椅子に坐っていたが、専務の万俵鉄平は、テーブルを囲んでいる経理担当の銭高、営業担当の川畑、設備担当兼工場長である一之瀬の三常務をぐるりと見廻し、
「たしかに現在、当社が置かれている立場は大へんだ、しかし、ここで弱気になっては完成前の高炉建設にひびくから、何とか積極的に打開する方策を打ち出すことだ」
さっきから沈滞しがちな会議の空気を盛り上げるように云った。経理担当の銭高は、口髭《くちひげ》をたくわえた小作りな顔で、
「ですが、先程来、何度もご説明しておりますように、五月中旬、トン当り八万五千円であった軸受鋼《じくうけこう》が七万五千円に、四万五千円だった構造用鋼が三万九千円に値下りし、さらにここ一カ月の間に、それぞれトン当り五、六千円も値下りしては、操短して生産を落しても人件費その他の固定費は変りませんから、その分の赤字、値下り分の赤字、さらに金利負担をふくめて、とても現状のままで切り抜ける自信はありません、銀行筋も心配しているようでして、大同銀行や長期開発銀行からは、市況が悪いこの際、膨大な設備費を食う高炉建設を一時中止されてはという話もあるぐらいです」
と云うと、営業担当の川畑も、
「もはや、いい製品を作っても売る自信がありません、こうダンピング競争が激しさを増しますと、買い手の云い値に応じるより他《ほか》ありませんが、そうなると、売れば売るほど赤字になり、しかも高炉建設で他社より固定費の負担が多い当社の現状としては、いたずらに積極策を打ち出すより、ここは一時、高炉建設を延期する方がいいように思います」
第一線にたって売りまくるべき営業が、消極的な意見を吐いた。鉄平は、
「私の見るところ、特殊鋼の不況はそう長く続くとは考えられないから、予定通り高炉を完成し、銑鉄《せんてつ》一貫生産の体制を作って、一刻も早くコスト・ダウンを図るべきだと思う、それに不況の時の方が、工費その他、何かと無理もききやすいから、一挙にやり上げるべきだ」
精悍《せいかん》な眼を光らせ、消極的な意見を蹴《け》った。工場長の一之瀬も、日頃の温和な顔を紅《あか》らませ、
「そうですとも、完成前の高炉を途中で中止したら、その設備の保全はどうするのですか、第一、既に高炉操業のための原料は船に積み込まれて、今、太平洋を渡ってこちらの岸壁に向いつつあるのではないですか、そんな時、高炉建設を中止しては現場の作業員の士気を損いますよ、それに工事を一時中止し、再開する場合の方が、かえって余分な費用が加わるじゃありませんか」
採算第一主義の銭高の考えを衝《つ》くように云うと、
「それは借金のない場合の話でしてねぇ、当社のように高炉建設のために膨大な負債を抱えている場合は、不況期に身分不相応な設備投資を続けて、必要以上に資金を固定するのは、もってのほかだと思いますよ、私はこの夏のボーナスの手当さえ頭が痛いぐらいですよ」
銭高はいや味な云い方をし、
「先刻来、私たちの意見は殆《ほとん》ど出尽しましたが、社長のご意見はいかがなものでございましょうか」
と聞いた。お飾り餅《もち》的な社長の石川正治は、鶴《つる》のような痩身《そうしん》で、
「私としては専務の云うところの気持もよく解るが、一方、経理が資金的に自信がないということにも一理があって、それを無理に押し切ってやれとは云えないしねぇ……」
ほとほと困惑するように、言葉を濁した。鉄平はむっとし、
「じゃあ、私が資金的な面まで責任を持てばいいわけでしょう、今までだって、私自身が大同銀行その他へ足を運んで資金繰りに走ったことがあるのですから――、と同時に、さっきのボーナス云々《うんぬん》の話だが、そこまで資金繰りが苦しいなら、まずわれわれ役員賞与の辞退からはじめようじゃないか、その上で社内全体にさらに徹底した諸経費の節減を実施させよう」
心を決めるように云うと、銭高は慌《あわ》てるように、
「いやいや、そこまでして戴かなくとも、経理担当たる私は、それぐらいのところは、ちゃんと致しますよ、私が云うのは、月々、何億もの高炉の設備資金のことでして――」
言葉を濁しかけた時、会議室の扉をノックし、秘書が入って来た。
「会議中、恐縮でございますが、銭高常務にお電話がございまして――」
と云い、メモをさし入れた。役員会議中はよほどの用件でない限り、みだりに電話を取り次がないことにしているから重要な用件に違いなかった。銭高はメモに眼を走らせ、
「会議が終り次第、ご連絡致しますと、申し上げておいてくれ」
と云い、鉄平の方に向き直った。
「まあ、まあ、専務のようにそう昂奮《こうふん》してしまわれてはお話になりません、私だって資金調達のめど[#「めど」に傍点]さえたてば、もちろん、高炉完成に異論があるはずはありませんが、肝腎《かんじん》のメインの阪神銀行がこれ以上貸さないと云っておるのですから、仕方がないではありませんか」
「いや、父が支援してくれることになっている、阪神銀行としてはこれ以上貸せないが、阪神銀行が保証して、インパクト・ローンを導入する手はずにして下さっている」
「ほう、いつ、そんな話が決まったんでございますか」
銭高は怪訝《けげん》そうに首をかしげた。
「先月の二十日頃だ、大蔵省の国際金融局に手を廻して貰っているから、私はむしろ当初の予定よりもっと高炉完成の期日を早めるべきだとさえ考えているんだ」
拳《こぶし》を振るように鉄平が云い放つと、一之瀬は、
「突貫工事でやれば、一カ月の工期の短縮は可能だと思います、もし突貫工事と決まれば、設備担当役員として、責任をもって高炉請負業者を説得致しますよ」
と応《こた》えた。
「しかし、突貫工事ともなれば勢い、徹夜作業が多くなり、工費が予算より上回るのではないですか」
銭高がすかさず言葉を返すと、鉄平は、
「そりゃあ、もちろんだ、しかし、一日も早い一貫生産体制によって、工費の割増分ぐらいは取り戻せる、したがって高炉建設は一時中止ではなく、突貫工事で工期を早めるというのが、私の結論ですが、社長のご決心はいかがです?」
断固とした語調で迫ると、石川社長は顔を硬《こわ》ばらせて瞬時、沈黙し、
「そこまで高炉建設本部長を兼務している専務が決意しているのなら、社長の私としても、突貫工事に踏み切らざるを得ない――」
専務の鉄平に下駄を預けるような云い方で、断を下した。鉄平と一之瀬の眼には喜びの色が漲《みなぎ》ったが、営業担当の川畑は押し黙ったまま、銭高はねっそりとした上眼遣いで、鉄平の方を見、
「しかし私としては、もはやとても一人で資金調達する自信がありませんので、先程の専務のお言葉に甘えまして、これからは大いに専務のご協力をお願いします」
と云ったが、先程の電話が気懸《きがか》りらしく、時間を気にするように会議が終るなり、そそくさと席をたった。
銭高は阪神銀行の東玄関の前で車を降りると、人眼を憚《はばか》るようにさっと中へ入り、エレベーターに乗って三階の頭取室へ足を向けた。
最前、電話をかけて来たのは頭取秘書の速水で、急用があるので五時過ぎに銀行に来るようにという万俵頭取の伝言であった。毎月の阪神特殊鋼の業績報告以外に、万俵頭取から急ぎの用があると云われる時は、専務の鉄平に内緒で来るようにというニュアンスを含んでいる。むろん、万俵頭取の口からは、内緒などという言葉は一度も出なかったが、明らかにそういう意味合いが読み取れた。
「どうも遅くなりまして――、会議が終りましてから急いで駈《か》けつけて参りました」
銭高は、阪神特殊鋼の常務というより、阪神銀行の元融資部長のもの腰で万俵の前に進み寄った。
「ご苦労――、それで今日の会議はどうだったのかね」
机の前の椅子を顎《あご》で示した。銭高は畏《かしこ》まるように腰をかけ、
「それがまことに申しわけないのでございますが、現在の不況と資金繰りの苦しさを説明して、高炉建設の一時中止を主張したのですが、専務に押し切られまして、逆に工期を早めて突貫工事という結論になってしまいました――」
と云い、万俵の厳しい叱責《しつせき》を覚悟するように深々と頭《こうべ》を垂れた。
「じゃあ、勝手にやらせるがいい、だが、当行としてはこれ以上、融資するわけにはいかないよ」
「しかし、メイン・バンクが引いたということになると、他行が――」
と云いかけると、万俵は表情を動かさず、
「他行の手前は、これまでの融資シェア分についてのみ、融資した形を取ることにすればいい」
「え? それでは見せかけ融資にしておくと、おっしゃるわけでございますか……」
銭高は、息を呑《の》むように問い返した。万俵は応えず窓の外へ顔を向けた。
先程まで明るかった陽が翳《かげ》り、窓を左側にした万俵大介の彫塑《ちようそ》のように彫りの深い顔の半面が、暗い影になっていた。銭高には、その暗い影の部分さえも、自分などには到底、窺《うかが》い知ることの出来ない複雑怪奇な生きもののように見えた。銭高は、重苦しさに耐えられぬように、
「あのう……」
口を開きかけると、万俵は葉巻を口から離し、
「要は、爾後《じご》、当行が阪神特殊鋼に行なう融資は、他行の手前、これまでの融資シェア分は貸出しをするが、実際に使うことは罷《まか》りならぬということだ――」
一語、一語、区切るように云った。ということは、月々の融資分は従来通り貸し出しても、実際には使わさないでそのまま預金に据え置かせる、いわば“見せかけ融資”をしろということであった。それは銀行として違法の行為であった。
「ですが、頭取、それは一体、どのようなお考えのもとに……」
銭高が口ごもるように問い返すと、万俵はやや苛だたしげに、
「君、解《わか》らんかねぇ、阪神特殊鋼が今置かれている立場というのは、大へんなものじゃないか、にもかかわらず、高炉建設が、中止どころか、突貫工事と決まったら、先だつものは資金繰りだろう、ところが当行《うち》としてはこれ以上出せない、といって、メイン・バンクの当行が現状以下に融資シェアを落せば、大同銀行をはじめ他行も手を引いてしまう、だから私も気が進まないが、今、云った方法で、融資の形を取り繕うより方法がないじゃないか」
「さようではありますが、先程開かれた当社の会議で、専務は父上が支援してくれている、事実、インパクト・ローンの導入を計ってくれていると、おっしゃっていましたが――」
銭高は、鉄平の口振りと万俵頭取の言葉に違いがあることに、戸惑った。
「それも、当行がもはや貸せないから、当行の保証で、インパクト・ローンの導入を計って、資金繰りの手助けをしてやろうというのじゃないか」
「では、それはいつ頃から導入されるのでございますか」
「それが君も知ってのように、大蔵省国際金融局での順番があることだし、すぐさまというようなわけにはいかない」
「それでは、阪神銀行が引く分の資金は、さしずめどう調達すればよろしいのでしょうか」
途方にくれるように、口髭に手を当てた。
「大同銀行から、もっと借り増すことだ」
「お言葉ですが、そう簡単には参りません、大同銀行では三雲頭取はともかく、融資担当の綿貫専務が、当社への融資に反対しているそうでございますよ」
「解っている、しかし綿貫専務とはもう話ができている」
一体、どういう風に、いつの間に成りたった話なのか、銭高は不審そうに口詰り、
「では万俵専務には、この見せかけ融資について、どういう風にご説明すればいいのでしょうか」
「いや、あれには話すことはない、経理に暗い上に、妙な正義感だけを主張して、ごたごたするだけだから――、それに石川社長にもこのことは伏せておくように、どうせ石川社長に話したところで、血圧が上るだけだから、経理担当常務の君だけが含んで、操作すればいい」
有無を云わさぬ口調で、申し渡し、
「今日の用件は以上だ、解ったね」
話を打ちきった。銭高はたち上りかけたが、もぞもぞと中腰のまま、
「あのう、頭取、私には今一つ、合点の行きかねる点がございますのですが……」
恐縮しきって云った。
「なに、どこが合点が行かないのかね」
「阪神銀行が貸さず、他行に貸し込ませるためとはいえ、見せかけ融資をする点がどうも……、万俵コンツェルンの中で阪神特殊鋼が重荷になって来たから、お手放しになるおつもりでもございますのでしょうか」
「そんなつもりはない、しかし、いくら鉄平一人が力み返っても、現在の鉄鋼業界の動向を見ていると、いずれどうにもならない時がやって来るかもしれないだろう」
万俵は、平静な口調で応えた。
「それでは、どこからか、具体的なお話でも、あったのでございましょうか」
と聞きながら、万一、大資本の系列下に吸収された場合の惨《みじ》めさと同時に、長男がまだ高校生であることが、銭高の脳裡《のうり》を掠《かす》めた。
「いや、具体的な話など何もないが、高炉をもたない中小鉄鋼メーカーの間で金をやたらに食う高炉を無理して建てなくても、共同でビレット・センターのようなものをつくろうという話が出て、帝国製鉄はじめ一、二の大手高炉メーカーが、ビレット・センター造りに力を貸すらしいという噂《うわさ》を、東京で耳にして来たのだ、だからといって阪神特殊鋼が今すぐどうこういう問題ではない、第一、私の息子の会社のことだから、悪く考えるはずがないよ」
と応えたが、銭高は万俵の言葉の裏に何か一筋の冷たいものが通っている感じを受けた。日頃、銭高が見ている万俵頭取と長男である万俵鉄平専務との間は、決して温かな親子の間柄ではなく、かねがねしっくりいかないものを感じていた。いかに経理に暗い技術者専務の補佐とはいえ、毎月の定期的な業績報告以外に、何かあると銭高だけを頭取室に呼びつけ、極秘に阪神特殊鋼の事情を聴取する万俵頭取のやり方は、世間の血の通った温かい親子関係といえるものではなかった。それだけに銭高は、万俵親子の間の気持の齟齬《そご》が、融資にまで響いて来ているような不吉な予感がした。しかしそんなことは口に出せるはずがなく、
「では、本日はこれで失礼致します」
深々と一礼して、退室しかけると、
「銭高君――」
と呼び止められた。
「阪神特殊鋼の株価は、このところ、大分、落ちて来ているねぇ」
「はあ、ついに七十円をきってしまいました」
「そんなことで、来春の増資は行なえるのかね、何とか七十円の株価を維持して行かないと、増資はできなくなる」
「その点については、頭の痛いところでして、大亀専務にご相談致そうと思っております」
「そうし給《たま》え、阪神銀行の持株は、阪神特殊鋼全株式の八パーセント、そして私自身は四パーセントだったね」
確かめるように聞き、
「大同銀行は目下、どの程度なのかね」
「約三パーセントでございますが、何か?」
「この際、もっと持株を増やして貰《もら》ってはどうかね」
軽く云ったが、眼はそれを強く命じていた。銭高はいつになく大同銀行に株の買い増しまで指示する万俵に、何らかの思惑があることを感じた。
銭高が帰ると、万俵大介は、秘書の速水に、渋野常務がいたらすぐ呼ぶようにと命じた。阪神特殊鋼に対する見せかけ融資を、阪神銀行側の融資担当役員にも、命じるためであった。
「頭取、至急のご用件とのことでございますが、何か――」
渋野常務が、慌《あわただ》しく入って来た。
「これから夜の会合があるので、要点のみ話しておく、阪神特殊鋼へは、来月から新規融資を行なわないことにしたので、その旨《むね》、心得ておいてほしい」
「頭取、それは一体……」
渋野は、思いもかけない万俵の言葉に絶句した。
「理由は、阪神特殊鋼がこの不況下にもかかわらず、メインの当行の勧告を聞き入れずに高炉建設を続行するばかりか、突貫工事にまで突き進むという、無謀な手段をとるに至ったからだ」
「突貫工事とはまた無茶な――、しかし頭取のおっしゃるように、メインである当行が今後、新規の融資を行なわないとなると、大同以下、協調融資をしている銀行団もストップするでしょう、そんな事態になれば、阪神特殊鋼は膨大な負債をかかえ、高炉どころか、経営そのものが危機に瀕《ひん》するではありませんか」
動揺しきった口調で云った。渋野にとって阪神特殊鋼の突貫工事も無謀なら、万俵の指示も正気の沙汰《さた》とは思えなかった。
「まあ、落ち着き給え、当行で差し引く分は、大同銀行に融資して貰うのじゃないか」
万俵は、ことさらに平静な語調で窘《たしな》めた。
「君の調査に基づき、アサヒ石鹸《せつけん》への融資を当行が諒承《りようしよう》したかわりに、メインの大同銀行は少なくともその分、今まで以上に阪神特殊鋼へ貸増ししてくれるはずだから、実質的な打撃は、何ら阪神特殊鋼に与えないではないか」
「すると、アサヒ石鹸への融資は、阪神特殊鋼との交換《バーター》融資が建前だったわけですか」
「はっきり交換《バーター》融資と文書で約束を取り交わしたわけではないが、向うの綿貫専務とは、そういう含みで最終的に話をつけたのだ」
「しかし頭取、メインの当行が全く新規貸出しを行なわないのは、他行から妙に勘ぐられますし、阪神特殊鋼だって黙ってはおりませんでしょう」
「それはもっともだ、したがって当行はまず他行の手前、融資している形をとり、実際にはこれ以上、貸増ししない操作を君に考えて貰わねばならない」
自らの口から、見せかけ融資をやれとは云わず、渋野にそのことを忖度《そんたく》させるような云い廻しをした。
「――そう致しますと、要は貸した金を使わさないという以外、術《て》がありませんね」
「うむ――、で具体的にどういう方法をとるつもりかね」
「そうですね、融資はするが、その貸金の替り金を一旦《いつたん》、預金にプールしておき、月末にその預貸《よたい》金を締後《しめご》勘定で落す、そうすれば阪神特殊鋼では融資が残っているように見えますし、当行では預貸金がないという姿をとることが出来ます」
「だが使わせない金が、毎月、阪神特殊鋼の当座預金に残っているのは、不自然じゃないのかね」
万俵は、何食わぬ顔で尋ねた。
「ですから、その貸金の替り金は、別段《べつだん》預金にプールし、月末に締後勘定で相殺《そうさい》する、これを毎月、繰り返すという形になりますでしょうねぇ」
別段預金というのは、外部から送金されて来た分の中から、どの当座宛《あて》か不明のものや、当日、すぐに事務処理出来ないものを、まとめて銀行にプールしておく預金のことで、別段預金の記帳に、毎月、阪神特殊鋼のこの勘定が出ては消え、消えては出るという仕組になるのだった。
「まあ、具体的な方法については、君に一任しよう、阪神特殊鋼の方は、銭高によく含ませてあるから、彼を呼んで、爾後の具体策を考えることだ」
「すると、石川社長や万俵専務は、この件は……」
「さっきも云ったように、阪神特殊鋼が何ら打撃を受けることではないから、ことさら波風をたてることはないと思うがねぇ」
万俵は意味深長な響きを含ませた。
「かしこまりました、では当行の方も、融資部次長、本店営業部長、そして直接の帳簿操作に当る貸付課長に関係者を限り、厳しく箝口令《かんこうれい》をしいて処理致します」
渋野は緊張した面持でたち上った。万俵は独りになると、回転椅子を半回転させ、頭上の万俵敬介の肖像写真を異様にぎらぎら光る眼で見上げた。
美馬中は、久しぶりに万俵家を訪れ、大介の帰宅を待ちながら、居間で姑《しゆうとめ》の寧子、相子、三子たちと寛《くつろ》いでいた。近畿《きんき》財務局へ出張のため来阪し、久々に万俵家にたち寄り、一泊することになったのだった。
「お義兄《にい》さま、おビール、もっと召し上れ」
三子は、はしゃぐように云い、義兄のジョッキに生ビールを注《つ》いだ。美馬は、なみなみと注がれたジョッキに口をつけ、
「二子ちゃんは、さっき二階へ上って行ったきり、下りて来ないね、どうしたんだろう」
気懸りそうに云った。二子は挨拶《あいさつ》には出て来たが、美馬が細川一也のことを口にすると、さっと二階の自室へ上って行ってしまったのだった。相子は大ジョッキのビールを見事に飲み干し、
「お気になさらなくて結構ですわ、あの人の気儘《きまま》は今に始まったことじゃありませんもの」
と云うと、三子は、
「でも、二子姉さまは細川一也さんとの結婚のこと、かなり深刻に悩んでいるようよ、ハンサムでフェミニストで、その上頭がきれて、悩むことなど何もないわと云ったら、じゃあ三子ちゃんが結婚すればいいとおすすめになるの、お姉さまが真底、そう思っていらっしゃるのなら、私、身代り結婚したいくらいやわ」
けろりとして云った。
「身代り結婚やなど、なんという不謹慎なことを――」
単衣《ひとえ》の着物の袖《そで》を膝《ひざ》の上にきちんと畳んで美馬たちの話を聞いていた寧子は、慌《あわ》てて三子を窘めた。相子も、
「ほんとうに、冗談にも程があってよ、もうお結納の日取りもきまったというのに」
「あら、いつなの、お結納は」
「お見合いから一カ月目あたりの大安吉日の日をということで七月十日に決まったの、その時は一家揃《そろ》って、お仲人《なこうど》の小泉夫人をお迎えするのですから、三子ちゃんもそのお心づもりで――」
「解《わか》ったわ、その時、婚約指輪も持っていらっしゃるわけでしょう? やはりダイヤなの」
「ええ、そうよ、でも細川家は、実業家の安田さまや万俵家とはちがい、建築家でいらっしゃるから、そういう仕儀は少し地味目になるでしょうね」
相子は母親のような表情で云った。五日前、上京し、小泉夫人を通して細川家の意向を打診したところ、結納金は三百万円、婚約指輪は一・五カラットのブルー・ダイヤ、結婚後の新居は、細川一也の父の信也が設計した南平台《なんぺいだい》のマンションということであった。昨年、銀平と大阪重工の安田太左衛門の末娘万樹子との間に婚約が整った時、万俵家が安田家に納めた結納金と婚約指輪はもっと豪奢《ごうしや》で、同じ邸内に独立した南欧風の新居を改築したことなどから比較すると、質素の感は免れず、万俵家としては決して満足の行く仕儀ではなかったが、佐橋総理夫人の甥《おい》との縁組で、総理をはじめ東京の政財界の実力者と蔓《つる》のように絡《から》まっている閨閥《けいばつ》を考えれば、取るに足らぬことであった。
「そうしますと、ご婚礼はいつごろになりそうでしょうか」
寧子が、おっとりとしたもの云いで聞くと、相子は、
「それはこの間、私が東京から帰って参った日にお話し申し上げたじゃありませんか、細川さまの方は十一月早々を望んでいらっしゃるのですけれど、こちらでは婚礼のお衣裳《いしよう》一つにしても、染めから縫取、お仕立、それに丸帯の織上りまでの期間を考えますと、どんなに早く見積っても、最低三カ月かかりますし、その他《ほか》、別誂《べつあつら》えの家具、什器《じゆうき》類のお支度を入れますと、五カ月は戴《いただ》きませんと、格式にかなったご用意は出来ませんでしょう、万俵家としては、一子さん以来、十数年ぶりに花嫁を送り出すお支度なんですから、鉄平さんや銀平さんの時のように、ぼうっとしていらっしゃっては困りましてよ」
皮肉るように云った。美馬は、
「お話を聞いているうちに、つい一子と僕の結婚の時のものものしさを思い出しましたよ、何しろ田舎寺の住職の父と、同じく宗門の家から嫁いで来た母は、冷汗《れいかん》三斗で、こんな仰々しい結婚はこりごりだと音《ね》を上げてしまいましてねぇ、僕の時にも、相子さんがこうして采配《さいはい》をふるって下さったら助かったでしょうにね」
その頃は、相子はまだ若く、銀平や二子、三子の家庭教師の域を出るか出ないかだったが、美馬は、寧子の手前にもかかわらず、ねっとりと粘りつくような視線を相子に向けて云った。
「おビールを飲み過ぎたせいかしら、私、眠くなってしまったわ、卒論を書くつもりだったけれど、今晩は駄目ねぇ、お義兄さま、お先に」
三子はそう云うと、ふらりとたち上った。
「まあ、そんなにふらついて、危のうないのかしら――」
寧子が心配げに見上げると、美馬も、
「僕があんまり飲ませ過ぎたかな、階段から転げ落ちたりされたらことですね」
と云い、三子のうしろからたち上りかけると、寧子は、
「いいえ、中さまはどうぞ、私が随《つ》いて行ってやりますから――」
長女の夫をたてるように云い、三子のあとを追った。
美馬と相子だけが居間に残ると、美馬はたち上りかけたその足で、相子の坐《すわ》っているソファに寄り、ソファの肘《ひじ》に腰を下ろして、相子の首筋に手を伸ばして来た。
「まあ、こんなところで、お戯《たわむ》れはおよしになって――」
いつ、女中たちが入って来るともしれないだけに、美馬の大胆さに相子の方が体を退《ひ》くと、美馬は面子《メンツ》を損ったように、
「えらく臆病《おくびよう》なんだな、やはり家じゃあ、万俵大介氏がこわいと見えるね」
相子は、二子の縁談のことで上京する度に美馬と会い、ナイト・クラブで踊ったり、大胆なベーゼを許したりしていたのだった。
「こわい、こわくないだけの問題じゃありませんわ」
「ほう、他にどんな問題があると云うんだい、こういう生活を平気でしている君らしくもない」
にやりと二階の寝室の方を眼で指した。妻妾同衾《さいしようどうきん》の生活を揶揄《やゆ》しているのだった。
「じゃあ、美馬さん、あなたにこういう生活がお出来になって?」
開き直るように云った。美馬が鼻白むように相子の傍《そば》から離れた時、玄関の方で車の停まる音がし、万俵大介が帰邸した。相子は慌しく迎えにたち、寧子も二階から降りて来た。
大介が居間に姿を現わすと、美馬はたった今の相子とのことなど、気振《けぶ》りにも見せず、
「お舅《とう》さん、お帰りなさい、今夜はお言葉に甘えてお邪魔させて戴いております」
娘婿《むすめむこ》らしい折目正しさで、挨拶した。
「やあ、久しぶりによく来てくれた、晩餐《ばんさん》でも一緒にしたいところだが、今日はどうしても断われない宴会があってねぇ」
万俵は、美馬と向い合うと、残念そうに云い、
「次の近畿財務局長には理財局次長の旗さんが本決まりになったそうだねぇ」
「ええ、彼はなかなかの侍ですから気をつけた方がいいですよ」
美馬は、七月に変る次期近畿財務局長の人柄、経歴、閨閥を話した。
「それでは私たちは、引き退《さが》らせて戴きますわ、美馬さま、どうか、ごゆるりと――」
相子は、女中たちを指図して、飲みものを新たに整えさせると、美馬に会釈《えしやく》し、寧子を促すように席をたった。大介と美馬が会えば、必ず重要な仕事の話が交わされることを、相子は心得ていた。
二人きりになると、美馬は、
「お舅さん、この間、ご依頼のあった阪神特殊鋼に対するインパクト・ローンの件、どうもお電話では要領を得なかったのですが、要は書類提出は今からやっておくが、国際金融局の許可の順位は、なるべく来年まわりになるように引き延ばしておけということですね」
なるべく早く導入するように計らってほしいという話ならともかく、その逆であったから、美馬は改めて念を押すように聞いた。
「そういうことだ、特殊鋼業界は今、不況のどん底の上に、金融引締め期に当っているので、阪神特殊鋼としては早く安い金利の外資導入をしたがっているのだが、当行としてはいろんな行内事情で、遅らせたいのだよ」
わけあり気に短く言葉を切ると、
「解りました、しかし、鉄平君もこんな時期に高炉建設とは大へんですね」
「うむ、一時中止を云ってみたが、聞かないから致し方がない、幸い大同銀行が随分、面倒をみてくれるので助かっているが、向うも最近のようにがたがたとお家騒動の様相を呈して来ると、安心出来なくてねぇ、大蔵省では、大同銀行の日銀天下り対生抜き派の内紛をどう見ているのかねぇ」
さり気なく大蔵省の意向を聞いた。美馬はジョッキを口に運びながら、
「さあ、どうでしょうか、大同銀行の問題は例の五行連合を通して、お舅さんの方がよくご存知じゃないのですか」
わざと、話をはぐらかすように云ってみた。
「そりゃあ、大同銀行からあの会合に出ているのは、副頭取昇格をストップさせられた綿貫専務自身だから、何かと情報は入って来るし、一方、日銀からも総裁側近筋からいろいろ流れては来るが、監督官庁の大蔵省としては、もし大同銀行が、第二の中京銀行のようなお家騒動にでも発展したら、どのような処置を取るつもりか、ちょっと聞いておきたいと思ってね」
「しかし、ほんとにそこまで発展しますかね、日銀にしてみれば、何といっても大同銀行は、中京銀行に並ぶ都市銀行の二大拠点ですから、日銀リモコンを強化してでも、生抜き派の鎮圧に当ると思いますよ」
と云った。美馬の言葉から推測すれば、大蔵省は、生抜き派の力をそれほど評価していないことが察せられた。しかし、その方が阪神銀行としては好都合であった。日銀天下り人事が失敗しそうだと観《み》ているようなら、次は大蔵省自身が天下る機会《チヤンス》を狙《ねら》いはじめるからであった。
それだけに万俵が、綿貫たち生抜き派に荷担して、日銀進駐軍を追放し、大同銀行を呑《の》むのは、早ければ早いほど成功度が高いと判断した。
「ところで、鯱《しやち》が鯨《くじら》を呑むお舅さんのお話の方は、どうなりましたか?」
美馬は、女のように鼻にかかった声で聞いた。
「五行連合なんかに入れられると、どうも動きにくくてねぇ、なんだか春田銀行局長に、まんまと枷《かせ》を嵌《は》められ、身動き出来なくなって、春田構想による大蔵省銀行なるものに吸い込まれそうな気がして来て、内心慌てているんだよ」
冗談とも、本気ともつかぬ云い方をすると、
「まさか、お舅さんに限ってそんなこと、本気でご心配とは思えませんがねぇ」
「むろんだ、だがいざという時は逃げ出すよ、五行一束なんて、真っ平だからね、そのために二子の縁談も考えて運んだのだから」
万俵は、珍しく声をたてて笑った。
万俵家の朝は、いつになく賑《にぎ》やかだった。玄関のポーチには、銀行へ出勤する万俵大介と昨夜泊った美馬中を見送るために、寧子、相子のほか二子、三子や女中たちも出揃っている。
美馬が、朝から胸高にきちっと帯を締めてたっている寧子に、
「お姑《かあ》さま、お世話になりました、ご上京の折には、一子や子供たちもお目にかかりたがっておりますから、是非、おたち寄り下さい」
娘婿らしく挨拶すると、寧子は雛《ひな》人形のように白い顔をかしげ、
「何のおもてなしも出来ませず……、あの、一子は暑気には弱うございますので、宏たちが夏休みになりましたら、静養かたがた、六甲の山荘に参るようにと、ご伝言下さいまし、その節は中さまもごゆるりと――」
と挨拶を返した。
「有難うございます、じゃあ二子ちゃん、三子ちゃん、また――」
寧子の横に並んでいる二人にも笑顔を向け、大介と並んで門の方へ歩きはじめた。車はいつものように坂道の下の正門のところで待っているのだった。
「昨夜《ゆうべ》は、よくお寝《やす》みになれまして?」
三頭のファウン・グレートデンを引き連れ、大介を車のところまで見送る慣《なら》わしになっている相子は、二人より半歩退った距離を保ちながら、美馬に声をかけた。美馬はとっさに返事に窮した。昨夜は、大介と相子が同衾したらしい気配が窺《うかが》われ、心おだやかならぬ思いで、なかなか寝つけなかったからだった。しかししいて晴れやかな表情で、
「昨夜は、出張疲れでぐっすり寝入り、今朝《けさ》は山鳩《やまばと》の鳴声で爽《さわ》やかに目ざめましたよ、お舅《とう》さんがお年よりずっとお若く見えるのは、学生時代からゴルフでお鍛えになっているだけでなく、こうした環境にお過しだからだと思いますね」
美馬は坂道を下りながら、新緑に燃えたつ一万坪の邸内を見渡して云った。言外に隠微な皮肉がこめられていたが、大介は気にする風もなく、
「成城の中君の家のあたりも、最近は建てこんで来たから、そろそろ静かなところへ引っ越してはどうかね、物件の世話なら、万俵不動産にさせればいいのだから」
と云った時、三叉路《さんさろ》になった坂道から車が徐行して来た。阪神特殊鋼へ出勤する鉄平の車で、鉄平はすぐ車から降りて、父と美馬に朝の挨拶をした。
「美馬さんにお目にかかれてよかったです、昨夜は帰宅が十二時を過ぎていましたので、心ならずも失礼しましたが、一言、お礼を申し上げたくて――」
「え? お礼というと?」
訝《いぶか》しげに美馬が問い返した。
「阪神特殊鋼の資金繰りのために、インパクト・ローンを導入したいわけですが、その件で、大蔵省国際金融局に、なるべく早期に認可がおりるようお口添え戴いていると、父から聞いています、お世話をおかけして、恐縮です」
心から感謝するように云った。美馬は昨夜、その反対のことを大介から依頼されたばかりであったから、
「いやいや、最近、認可の順位はうるさくなる一方だから、力になれるかどうか解らないけど――」
曖昧《あいまい》に応《こた》えると、鉄平は、
「美馬さんはご多忙だから、社の方へお越し下さる時間はないと思いますが、もう少し下の石橋のところまで行くと、視界が展《ひら》けて、建設中の高炉が見えるんですよ、お父さんと一緒にご覧になって下さい」
と云い、促すように大股《おおまた》で先へ歩いて行った。
裏山の谷川から引いた流れにかかっている石橋のところまで来ると、眼下に芦屋、岡本、御影《みかげ》の住宅街が一望のもとに見渡され、その先に灘浜《なだはま》臨海工業地帯が拡《ひろ》がって、工場群の煙突が林立しているのが見える。
「臨海工業地帯の東端がうちの会社ですが、海岸よりに一際《ひときわ》高く聳《そび》えたっているのが高炉です、そしてその横の円筒状の高い建造物が熱風炉、その向うが転炉の建屋《たてや》、向いは送風機の建屋――」
鉄平は、この一年余、全力を傾け、今一息というところに迫った高炉建設現場を一つ一つ、いとおしむような熱っぽさで説明した。しかし石橋からの高炉建設現場は、豆粒ほどにしか見えず、大介は不気味なほど無表情に、美馬はプラ・モデルでも見るような無感動な顔付で、鉄平の説明を聞いていた。
父の励ましも、美馬の質問も、何一つ発せられず、鉄平は気落ちしたが、気を取り直すように、
「お父さん、この前に比べると、急ピッチで工事が進んでおりますでしょう? 原料ヤードには、もうぼつぼつ鉄鉱石も入っておりますし、高炉が完成して稼動《かどう》しはじめるのは、あと一息です」
「あと一息というと、どのくらいかね?」
はじめて大介は、関心あり気に質問した。
「一週間後から突貫工事体制に入り、十月一杯で全設備を完成し、火入式は十一月一日を目標にしています」
気負い込むように応えると、
「そうか、十月中に完成するんだね」
念を押すように云い、大介は今までのゆったりした足どりとは打って変った性急さで、車が待っている正門の方へ歩き出した。美馬と鉄平、そして三頭の犬を連れている相子は、それぞれちぐはぐな思いでそのあとに従った。
三宮駅前の雑踏を、万俵二子は新聞会館に向っていた。一之瀬四々彦と会う約束だった。来る日も来る日も、高炉建設のために残業し、日曜日も休むことの少ない四々彦だったが、今日は工程の都合で、四時過ぎに仕事が終るのだった。
初夏の夕陽が眩《まぶ》しく舗道を照らす中を、グリーンのワンピースに同色のパンプスを履いて、軽やかに歩く二子の姿は、人目を惹《ひ》いた。新聞会館の前まで来ると、まだ約束の五時より十分早かった。会館の中の洋書専門店を約束の場所にしたのは、四々彦が、技術関係の専門書を注文する都合からだった。クーラーのよく効いた店内へ入り、英文学関係の売場へ足を向けかけた時、ちらっと四々彦のうしろ姿が見えた。四々彦は専門の鉄鋼関係の書棚の前で、本の頁《ページ》を繰っている。
「あら、お早かったのね、お待たせしてごめんなさい」
そっと声をかけると、四々彦は油気のない髪をかき上げ、
「ああ――、こうして見ていると、あれもこれも欲しい本ばかりで、困りますよ」
苦笑するように応えた。
「ご本は、もう注文なさったの?」
「ええ、すみましたよ、出ましょうか」
四々彦と二子は、会社帰りのサラリー・マンやオフィス・ガールの溢《あふ》れている土曜日の三宮の繁華街を肩を並べて歩いた。
「四々彦さん、異人館のあたりを散歩しませんこと? 私、お話ししたいことがありますの」
二子が云うと、四々彦も頷《うなず》き、生田《いくた》神社の横から回教寺院の方へ行く坂道を上って行った。傾きかけた夕陽の中で、回教寺院のドームと四基の尖塔《せんとう》が輝き、背後には六甲山脈が緑の濃淡を見せて連なっている。
山手に向ってさらに上って行くと、つい今しがたの三宮の街の賑《にぎ》やかさが嘘《うそ》のような静けさで、初夏の風が二子のワンピースの裾《すそ》を翻《ひるがえ》すように吹き抜けて行った。二子と四々彦は、数カ月前の夜、トーアロードをひっそりと肩を寄せ合うようにして歩いた時のように、どちらからともなく寄り添い、黙々と坂道を上って行った。
あたりは古くから外人たちが住まっている閑静な山手の住宅街で、中には明治の中頃から建っている異人館もあり、今にも朽ち落ちそうな煉瓦《れんが》積みの建物や、風雨に曝《さら》された鎧戸《よろいど》が閉ざされたまま誰も住んでいないような邸《やしき》まで残っている。その辺《あた》りまで行くと、人影も殆《ほとん》どなく、二人の歩く足音が夕暮の静けさの中で、ひそやかに響く。二子には自分たち二人のその足音が、美しい音楽のように聞え、こつこつと響く足音を一つ一つ、胸の中に掬《すく》い取るように歩を運びながら、
「四々彦さん、この間兄の家へいらした折に、私、お見合いしたことをお話ししましたでしょう、あれ、家では私の意向など聞き入れず、どんどんお縁談《はなし》を進めて、七月十日には結納を取り交わすところまで来てしまいましたのよ」
と話した。四々彦は驚いたように足を停め、
「それではやはりお決まりになったのですか」
二子をじっと見詰めた。
「周囲はそう決めてかかっていますわ、でも私は、そんな気持など全くありません、私はこの間も申し上げたように、高炉が完成するまでお待ちしていたいと思っておりますの」
二子はそう云い、四々彦の眼を見返した。しかし四々彦は視線を逸《そ》らし、黙々と先にたって坂道を上って行き、人家の絶えた崖《がけ》の上まで来ると、そこから昏《く》れなずむ神戸の街を見下ろし、さらに阪神特殊鋼のある灘浜臨海工業地帯の方へ視線を向けた。
「四々彦さん、高炉が完成するまでお待ちしていること、ご承知下さったでしょう? 鉄平兄さまも、私の気持がそんなに強いのなら待っていたらいいだろう、父には自分からよく話してあげるが、高炉が建つまでは、家の中での煩《わずら》わしいトラブルを避けたいから、それまで我慢するようにと、云ってくれましたわ」
訴えるように云うと、四々彦の濃い眉《まゆ》がぐっと寄った。
「この際、万俵専務は、僕たちのことと関係ないじゃないですか、だけど僕はあなたの家というものを考え、またあなた自身のためをも考えた場合、僕たちの結婚は無理なことのように思える――」
「何が無理なんですの、私、さっき家を出かけて来るまで、二番目の嫂《あによめ》と話していて、つくづく結婚は、自分で納得した相手でなければいやだと思いましたわ」
「二番目のお兄さんというと、阪神銀行にいらっしゃる……」
四々彦は、訝《いぶか》しげに聞いた。
「ええ、兄の家庭内のことですから、詳しくはお話しできませんけれど――」
と言葉を濁しながら、不幸な閨閥《けいばつ》結婚によって結ばれ、空疎《くうそ》な結婚生活の中で、はじめて妊《みごも》った胎児を五カ月で流産させ、生涯子供の産めない体になって、毎日、なすこともなく、無為に過している万樹子の痛ましい姿を思い出した。
「私、少なくとも、人から同情の眼で見られたり、一日何もすることなく、ドライ・フラワーのように空《むな》しい日々を送るような結婚は、絶対したくないと、心に決めておりますの、ですから私は、多少、周囲に迷惑をかけても、自分自身の納得の行く結婚、生き方をしてみたいの」
四々彦は、二子の思い詰めた言葉に、心を動かしかけたが、
「しかし、結納式が目前に迫っているというのに、どうしてそんなことが……」
四々彦は信じられぬように云った。
「取り止《や》めて戴《いただ》くわ、万一の時は私自身で相手の方へ納得の行くようにお話しし、お断わりしますわ」
二子はそう云うなり、四々彦の胸にもたれかかって行った。四々彦は思わず、二子の頬を両手に挟《はさ》みかけたが、
「二子さん、気持は嬉《うれ》しいけれど、今の僕は、高炉建設のことしか考えられない、高炉が一週間後には突貫工事に入るのだ――、その完成までは正直云って、あなたとの結婚を考えるだけの心の余裕がない――」
四々彦は、二子への思いを必死に堪《こら》えるような表情で、万俵鉄平と同じように高炉のことを口にした。
*
綿貫千太郎は、専務室の机上の受話器を握って、機嫌よく応答していた。
「これは芥川さん、ご念の入ったお電話で――、ご本人の万俵鉄平専務がご挨拶《あいさつ》においでになるというのに、わざわざ万俵頭取からもご鄭重《ていちよう》なご伝言を戴き、痛み入りますよ、いやいや、先日は私の方こそ万俵頭取じきじきにお目にかかる機会を得、お呼びたてなどと、とんでもない、当方も何かとお引きたて戴き有難うございました、ではまた近いうちに五行連合の席で――」
と云い、電話を切ると、深々とした大椅子に体をもたせかけた。部屋の壁の色は渋い落ち着いた薄茶《ベージユ》だが、飾棚の上には金箔《きんぱく》の打出《うちで》の小槌《こづち》の置物がガラス・ケースに納まり、壁には奈良の名刹《めいさつ》の管長の筆になる書と、一方にはパリの荻須高徳《おぎすたかのり》画伯の絵が掛ってアンバランスな雰囲気《ふんいき》だったが、綿貫千太郎は、金と名声で飾りつけたような部屋の中を満悦そうに眺めた。
やがて秘書が、万俵鉄平の来訪を告げに来た。
「三雲頭取は、先のお客さまとのお話が長びき、いかが致したものかと存じましたところ、万俵専務はそれなら先に綿貫専務にご挨拶したいとおっしゃいましたので、こちらへご案内申し上げました」
綿貫が扉の方へ眼を遣《や》ると、万俵鉄平の姿が見えた。
「これ、これ、失礼じゃないか、万俵専務を私の部屋へなど、すぐ役員応接室へご案内申し上げるのだ、何という気のきかん――」
大声で秘書を叱《しか》りつけ、自らたって専務室の奥にある役員応接室の扉を開けて、万俵鉄平と銭高常務を迎え入れた。鉄平は、綿貫のあまりの腰の低さに面食いながらも、
「日頃はつい、三雲頭取との旧《ふる》いおつき合いに甘えて、綿貫専務には失礼致しておりますが、この度は別枠《べつわく》融資のご配慮を戴き有難うございました」
別枠融資がアサヒ石鹸《せつけん》と阪神特殊鋼の交換《バーター》融資によって成りたった経緯《いきさつ》を知らない鉄平は、心からの謝意を述べた。銭高常務も、
「いつもご無理をお願い申し上げております上に、この度はまた格別なるお計らいを賜わり、これも融資担当の綿貫専務のなみなみならぬお力添えと、大いに感謝致し、大船に乗った心強さでございます」
秘《ひそ》かに万俵大介から、見せかけ融資の形を取って、大同銀行に今後さらに借り増しするべく働きかけるよう命じられていたから、お世辞がましいほどの大げさな礼を述べると、綿貫は、
「いやあ、改まってご挨拶にお運び戴くとは恐縮です、それについ今しがた、阪神銀行の芥川常務を通して、わざわざ万俵頭取から何かとよろしくというお電話を頂戴《ちようだい》しており、重ね重ね恐縮です」
「え? 芥川常務を通して、父から伝言が――」
父には大同銀行へ挨拶に行くとは云ってなかったので、驚くように聞くと、
「ええ、やはりご令息を思えばこその親心だと、感じ入りましたよ、それに致しましても、万俵専務のご力量はかねがね伺っておりましたが、特殊鋼業界初の高炉建設をご決断されるあたり、お父上に勝るとも劣らない経営手腕の持主でおいでですな、何といっても“企業は人なり”でございますからねぇ」
先日来、三雲に楯《たて》ついていたのとはうって変った歯の浮くような社交辞令を並べたてながら、綿貫は動物的な嗅覚《きゆうかく》をもって鉄平の才覚を嗅《か》ぎ取ろうとしていた。
「いや、私はただ特殊鋼メーカーといえども高炉を持って一貫生産体制を取り、コスト・ダウンすることが国際競争力をつけることであり、第一、企業家の社会的使命だと考えているのです」
鉄平は、若い企業家らしい理念をもって応えた。それが綿貫には、いかにも書生っぽく見えて、この御曹子と三雲頭取なら似合いであろうし、自分にとっては与《くみ》し易《やす》い相手だと思われたが、顔には出さず、
「さすがは技術畑ご出身の専務だけあって、良質低廉《ていれん》な製品を作られることに使命感を持っておられ、私たち銀行の者としても大いに共鳴させられるお心がまえですね」
と褒め上げていると、三雲頭取が現われた。
「どうも、時間をお約束しておきながら、先客の用件が長びき、失礼しました」
と云い、鉄平の前に坐った。
「この度は、金融引締めの最中《さなか》にもかかわらず、格別のお計らいを戴き、いつもながら御礼の申し上げようもございません」
感謝の眼《まな》ざしを向けると、三雲は鼻筋の通った面長《おもなが》な顔を鉄平に向け、
「今回の融資は、さすがに私も慎重に考え、行内の意見調整にも手間どりましたが、幸い綿貫専務の同意を得、当行としては、相当思いきった融資方針を打ち出したのです」
静かながら厳しい口調で云った。綿貫は大きな赭《あか》ら顔を綻《ほころ》ばせ、
「実は頭取がお見えになる前にお話ししていたのですが、阪神特殊鋼の強みは、何と云っても実質的な経営者が技術者出身であるということで、営業出身では、特殊鋼メーカーが高炉を持つなど、とても決断出来ませんですよ、高炉完成まであと一息というところで、こんな不況にぶち当り、さぞお苦しいでしょうが、景気回復と高炉稼動《かどう》のタイミングが合えば、阪神特殊鋼の地位は、国内、国外を問わず、不動のものになると信じております」
俄《にわ》か勉強で仕入れた知識を並べたてた。阪神銀行がアサヒ石鹸への融資に応じた途端、掌《てのひら》を返したように阪神特殊鋼を持ち上げる綿貫の現金さに、三雲は内心、苦笑したが、鉄平は、
「いや、そんな風に買いかぶられますと、かえって申し上げにくいのですが、実は今日は別枠融資の御礼と同時に、重ねてのお願いの筋があって参上致しました」
率直に切り出した。
「と申しますのは、当社の来春の増資の件ですが、当社株は既に御行《おんこう》にご保有戴いておりますが、増資に備えて、今少しご保有戴きたく、あわせてお願いしたいと思います」
と云うと、万俵大介から増資の件をとくと指示されている銭高も、すかさず、
「当社株は、御行には三パーセントご保有戴いておりますが、来春の増資に備えて、いま、二、三パーセントのご保有を増して戴き、株の面でも血の通った親類付合いを、是非ともお願い申し上げたいものでございます」
親類付合いという表現で頼み込んだ。
「増資環境は、どんな風なのです?」
三雲は、鉄平に聞いた。
「不況に突っ込む前までは、特殊鋼メーカー初の高炉建設ということで、百五十円台の高値をつけていましたが、目下のところは七十円台というところで、正直申しまして、増資環境はいいとは申せません」
鉄平が応《こた》えると、銭高がすぐ言葉を継いだ。
「ただし現在は七十円ですが、高炉が完成し、フル操業に入れば、二百円を突破すると証券界で評価してくれておりますので、準メインの大同銀行さんには、二百万株ぐらいを、一株五円引きの六十五円でお願いできれば――」
と云うと、綿貫は鼻翼をうごめかせ、
「二百万株ねぇ――、まさかそんなにおたくの株がだぶついているわけでもないでしょうし――」
探りを入れるように聞いた。銭高は狼狽《ろうばい》を押し隠すように口髭《くちひげ》を撫《な》で、
「実は当社株をお持ち戴いている某社が、いろんな社内事情から処分させてほしいと云って参りましたので、今ならお値ごろでもございますので、お引受け戴けたらと存じまして」
「で、その某社というのは、どちらで?」
「ここだけのお話にして戴きたいのですが、当社幹事証券会社の山川証券に保有して貰《もら》っていた株なのです、ところが近く大蔵検査が入るということで――、ご承知のように幹事証券会社が多量の株を保有しておりますと、株価操作の、何のという疑惑を持たれ、追及されますので、当社の株もこの際、手放さざるを得ないことになり、そのうちの二百万株ほどを御行に持って戴ければ、当社としても名誉なことでございます」
銀行は安定株主だけに、阿《おもね》るように云った。
「すると、今までかなり山川証券が買い支えて、七十円の株価を維持していたというわけですかねぇ」
「そういうわけでもございませんが、この不況下で、市場にぱっと売りに出されれば、七十円を下廻ることも予想され、増資環境が悪くなりますので、山川証券では心配しておりましてね」
「それで失礼ですが、メインの阪神銀行さんのご意向はいかがなんです?」
綿貫は根掘り葉掘り聞きながら、さっきの芥川常務からのよろしくという電話は、このことを含めてのことだったのかと思った。鉄平は、
「阪神銀行は既に当社株式の八パーセントを持ち、大蔵省の規定している一〇パーセントに近いこともあって、これ以上の保有は無理ですので、関連会社にお願いする一方、準メインの御行にも、この際、お願いに参った次第です」
と応えると、三雲は暫時《ざんじ》、考え込み、
「綿貫君、どうしたものかねぇ」
相談するように云った。
「それは頭取が、ご決裁になることでございます」
綿貫は急に三雲をたてる恭《うやうや》しい言葉遣いで応えた。この際、綿貫としては、イエスともノーとも云わずにいる方が、賢明な態度だと考えたのだった。
「じゃあ、一株いくらで何万株といったことは事務方《かた》で話し合うことにして、ともかく当行としては、出来る限りご要望に添った線で検討させて戴くことにしましょう、増資がうまくいかなければ、高炉操業に何かと悪影響が出て来ますからねぇ」
三雲が云うと、鉄平はみるみる顔を紅潮させ、
「重ね重ねのご厚志のほど、御礼の申し上げようもございません、これで私も何の憂《うれ》いもなく安心して、高炉建設に打ち込めます」
心の底から湧《わ》き出るような声で云った。三雲もまた自ら高炉建設を行なうような力強い眼ざしで、鉄平を見返した。綿貫千太郎は、その二人の姿を、微妙な目つきで見ていた。
麻布六本木のつる乃家の奥座敷で、三雲と鉄平は、二人きりで酒を酌《く》み交わしていた。庭は打水で湿り、ほのかな灯《あか》りが燈籠《とうろう》に入って、初夏らしい涼やかさが漂っていた。
若女将《おかみ》の芙佐子は、鉄平の大切な招待客と心得て、自ら座敷を取り仕切り、甲斐甲斐《かいがい》しく酒肴《しゆこう》を整え、
「はじめまして、つる乃家でございます、今後ともご贔屓《ひいき》にお願い申し上げます」
女将らしい挨拶をして、三雲の盃《さかずき》にお酌した。
「鉄平君もなかなか隅におけないね、こんな馴染《なじ》みの店をもっていて――」
「いえ、そうじゃないですよ、実は亡《な》くなった祖父がずっと贔屓にしていた女将の娘が、この若女将なもんですから――」
鉄平は慌《あわ》て気味に打ち消し、
「それよりお昼は失礼致しました、増資のことまでお願い致しまして――」
「いや、それが高炉建設に必要なことなら、出来るだけの協力をしなければ」
三雲は、静かに盃をふくみながら応えた。
「いつもそうおっしゃって下さるので、かえってご無理を申し上げるのが辛《つら》く、僕はそのご好意に甘え過ぎていると、反省はしているのですが、つい資金繰りが苦しくなると、三雲頭取のご親切に縋《すが》ってしまって――」
恥じ入るように云った。
「いやあ、私のようなのが、ほんとうに親切なのかわかりませんよ、不況の最中《さなか》に高炉建設の突貫工事をすることを中止するよう勧告したり、極端な場合は操短や人員整理のことまで云う方が、阪神特殊鋼にとって、或《ある》いは親切なのかもしれない……」
三雲は、ふと迷うように云った。
「とんでもありません、いつだったか、三雲さんは、企業育成は銀行の使命だとおっしゃっておられたではありませんか」
「育成といっても、或《あ》る時は消極的に止める方が企業を安全にする場合もある、にもかかわらず、私があなたと一緒に高炉建設に賭《か》けていることは、銀行家として果して正しいのかどうなのか、或いはあなたの父上の万俵頭取のように、たとえ自分の息子の企業といえども、厳しい態度をもって接しておられる方が正しいのかもしれない」
「しかし、銀行家としての父の考え方は、どこまでも冷徹な計算の上にのみ成りたったもので、父のことをとやかく申したくありませんが、今後の銀行家は単に利潤追求だけでいいものでしょうか」
鉄平は箸《はし》をとめて、三雲に問いかけるように云った。
「そりゃあ、銀行家というのは一分のリスクでもあれば踏み切らないというのが、典型でしょう、庶民の大切なお金を預かるのですから、それは当然なことで、銀行家の基本的な姿勢だと思いますよ、しかし、私はこれからの銀行家というものはそれだけではいけない、いささかのリスクが予想されたとしても、そこに企業育成の要素と可能性があれば踏み切るべきだと思うのですよ、その点、あなたのお父さまと私とは、多少、異なった考えをもっているのかもしれませんねぇ」
三雲はそう云いながら盃を置くと、
「鉄平君、たち入ったことを伺うようで失礼だけど、あなたとお父さまとの間は、うまく行っているの?」
さり気ない聞き方をしたが、眼には真摯《しんし》な問いかけがあった。鉄平はしんとした思いで、
「いつかはお聞きになることだと思っていました、いくら資金ポジションがどうとか、地場《じば》企業の資金需要に追われているのと云っても、メイン・バンクが従来の融資比率を削減したり、その後の輸出キャンセルで資金繰りが苦しい時も、積極的に融資しないとなれば、そんな疑問を持たれるのは当然です、僕自身、そうした父の態度を、銀行家としての厳しさと感じるより、冷た過ぎると感じておりますから――、それで以前、父と資金繰りのことで云い争った時、僕はつい、お父さんは高炉を建てようとしている僕を嫉妬《しつと》していると、云ってしまったことがあるのです」
三雲は、愕《おどろ》くように鉄平を見た。
「嫉妬とは、また激しい言葉ですね、私には息子がないから、親子でも、企業家同士の間に嫉妬心が芽生えるかどうか、解《わか》らないけれど、私の高等学校時代の友人に、息子ともども画家になったのがいますが、息子が前衛絵画を描いて高く評価されると、嫉妬を覚えるという言葉を一度、洩《も》らしたことがありました、あなたとお父さまとでは、同じ経営者でも、仕事の種類、場を異にしていらっしゃるから、その点、どんなもんでしょう――、お仕事以外に、お父さまとお家の中で何か気まずいことでも?」
「いいえ、家の中で父と僕とが争わねばならぬようなことは何一つありません、ただ他愛ないことですが、僕の顔つきから性格、声、ものの云い方まで、ことごとく亡くなった祖父似であることが、あまり好ましくないようなのです」
「そんなことは世間でよくあることじゃありませんか、両親に似ず、お祖父《じい》さんっ子とか、お祖母《ばあ》さんっ子などと云って――、うちの娘などは、私より亡くなった家内そっくりで、和服を着て俯《うつむ》いた時の面《おも》ざしなど、家内が生き返って来たのではないかと、はっとするような時がありますよ」
三雲は他愛なく笑った。
「ところが、父の場合はそれを異常なほど気にするのです、今年のお正月、志摩で雉《きじ》撃ちをした時、ちょうど三雲頭取と丹波へ猪《しし》撃ちに行った時のように、不意に思いがけない方向から雉が飛びたち、引金を引きましたら、その方向の樹《き》の茂みに父がいて、父の鳥打帽《ハンチング》の縁《へり》をかすり、胆の冷える思いをしたのですが、その時、父の云った言葉は、お前ほどの銃の名手がどうして私を撃ったのだ、しかもお祖父《じい》さん譲りの銃でと、云われたのです」
「ほう、お祖父さん譲りの銃で撃ったと……」
三雲は、怪訝《けげん》な面持をした。息子の誤射を、頭から自分を撃ったと考える万俵大介と万俵鉄平の間柄、或いは万俵家の中に、他人には到底、窺《うかが》い知ることの出来ない暗い澱《よど》みがあるのかもしれないと感じ取ったが、強いて明るい表情をし、
「どうも、いささか酩酊《めいてい》して、つまらぬおしゃべりをしたようですね、久しぶりに牧水の歌でも口ずさみましょうか」
ニューヨーク時代、酔えば若山牧水の歌を唄《うた》って“純情居士《こじ》”といわれただけあって、
白玉の歯にしみとほる秋の夜の
酒は静かに飲むべかりけり
鉄平の心をそれとなくいたわるように、牧水の歌を朗々と口ずさんだ。
*
午前中の会議が終り、遅い昼食を摂《と》った万俵鉄平は、受話器をとって、夏休みを六甲の山荘で過している子供に電話した。電話口にはすぐ小学校三年生の太郎の声が聞えた。
「あっ、パパ、いつ来るの、ママと京子だけじゃ、蝉《せみ》とりしたって、面白くないんだよ、それに二子叔母ちゃまも、パパはどうしているのって聞いていたよ」
口を尖《とが》らせるように云った。
「よし、よし、今日はそちらへ帰るから、夜のお食事、みんなでジンギスカンを食べようね、ママにそう云っておきなさい、じゃあ、楽しみに待っておいで」
と電話を切った。
夏になると、万俵一家は揃《そろ》って六甲の山荘へ居を移し、そこから車で四十分程で通える各自の会社へ出勤する習慣になっていた。父の万俵大介も、弟の銀平も、ずっと山荘から通っているが、鉄平は、高炉建設が突貫工事に入っている最中《さなか》で、特にここ四、五日ばかりは深夜まで仕事が続き、岡本の邸《やしき》へ帰っていた。しかし、今日は仕事も一段落つき、あと二カ月で高炉完成に漕《こ》ぎつけるめど[#「めど」に傍点]もついたから、山荘へ帰ることにしたのだった。
椅子からたち上り、窓ガラスの外を見ると、真夏の炎天下に、工場群の屋根がぎらぎらと灼《や》けるように光り、不況で一部、操短に入っているものの、操業中の棟《むね》からは、絶え間ない金属音が聞えて来る。これらの工場の東側の灘浜に臨んだ十万坪の敷地が、高炉建設用地であった。事務室からは見えなかったが、そこには九分通り出来上った八百立方米《リユーベ》の高炉と、転炉、熱風炉が建ち、岸壁沿いには鉄鉱やコークスを置く原料ヤードと、原料を運ぶ近代的なベルト・コンベアが出来つつあった。鉄平は高炉建設に着工して以来の苦しさを思い返した。
はじめての高炉建設に伴う技術上の難かしさは云うに及ばず、アメリカン・ベアリング社からの突如とした輸出キャンセル、三月以降、いまだに回復しない不況――、国内国外の悪材料と資金圧迫の中にもかかわらず、高炉建設を一時中止することもなく、逆に工期を早めるために突貫工事に踏み切れたのは、大同銀行の三雲頭取のなみなみならぬ理解と協力によるものであった。あと一息で、その好意に酬《むく》いられるのだと思うと、ルーム・クーラーのきいた静かな部屋の中で、完成への喜びが鉄平の心を豊かに満たした。煙草《たばこ》に火を点《つ》け、ゆっくりと煙を吐きながら、今夜は一之瀬父子も山荘へ誘い、二子や子供たちとともに、野外でジンギスカン料理を楽しむことを思いつき、もう一度、受話器へ手を伸ばしかけた時、突然、窓ガラスが鳴り、ドドドーンと地面が割れるような震動音が伝わって来た。鉄平は地震かと思った。しかし、震動の割に轟音《ごうおん》が異様に激しく、しかも近距離に起った感じがする。急いで窓ガラスを開けた。
「なんだ、今のもの凄《すご》い音は――」
外へ飛び出した社員に、声をかけた。
「解りませんが、何かが爆発したみたいですね」
一人が応《こた》えた途端、耳を劈《つんざ》くようなサイレンが鳴り響いた。保安用の緊急サイレンであった。
「専務、高炉建設現場で爆発事故が――」
秘書課員が、報《しら》せて来た。
「なに、爆発、何が爆発したんだ!」
「解りません、現場にある建設本部の方から報告して来たのです」
「よし、とにかく現場へ行く」
鉄平は安全用ヘルメットと作業衣を鷲掴《わしづか》みにし、玄関前に停めてあるジープに飛び乗った。工場内に備えつけている消防車が二台、けたたましいサイレンの音をたてて、すぐ横を疾走《しつそう》して行った。工場の各棟からも、工員たちが飛び出し、消防車の走り去った方向に自転車で走っている。
高炉建設現場に近付くと、高炉と熱風炉のあたりから濛々《もうもう》と土煙がたっているのが見えたが、そこで何が起っているのかは解らなかった。さらに二百メートルほど現場に近付いた時、ドドドーン! と、再度爆発音が起り、黒煙とともに、ガス臭い熱風が吹きつけて来た。顔を灼くような熱さであった。ジープを消防車の横につけると、殺気だった怒号と叫喚が飛び交うのが聞え、土煙を通して、熱風炉のあたりに焔《ほのお》が見られた。
「熱風炉が、爆発したのか!」
「そうです、専務、危ない、近寄らないで下さい! 負傷者がたくさんいるんです!」
「なに、負傷者が出た――」
はっと眼を凝らすと、薄らいだ土煙の向うに、ガス爆発を起した熱風炉が点検窓を中心に鉄皮《てつぴ》ごと裂け、内部にびっしり積んである煉瓦《れんが》が柘榴《ざくろ》のように崩れ、周囲の地面に十数人が倒れている。
「なぜ助け出さないのだ、早く救出しろ!」
大声で命じ、自ら土煙の方へ進もうとすると、
「救出できる者はしましたが、熱風炉五十メートル以内は、まだ危険です、ガス爆発が再度起れば、もろともやられてしまいますよ!」
高炉請負いの現場監督は強く鉄平を制止したが、煙の中から駈《か》け出して来た男と、二言、三言、言葉を交わすと、
「ガス爆発の危険はなくなった! 負傷者の救出と消火に当れ!」
と怒鳴った。近くで待機していた同僚や、阪神特殊鋼の作業員がすぐ、地面にのたうち廻っている負傷者の傍《そば》に駈け寄って、担架に乗せた。作業衣が吹っとんで、全身火ぶくれの大《おお》火傷《やけど》を負っている者、点検窓の扉《ドア》に叩《たた》き潰《つぶ》されている者、頭から血を流している者、生死のほどは定かでなかったが、一様に衣服をずたずたに裂かれ、血みどろになっている。
「おい、林、林、しっかりせい、死んだらあかんぞ!」
同僚らしい作業員が、担架に移した負傷者に叫んでいる。鉄平が傍へ駈け寄ると、負傷者は衣服が黒こげで、即死の状態であった。
やがて外部からの救急車、消防車、パトカーが、次々とサイレンを鳴らして駈けつけて来、負傷者の運搬と消火作業が続いた。火は付近の材木や電気溶接のコードに燃え移り、時々、火花のような激しい炎が飛び散ったが、化学消火剤で程なく完全に鎮火され、出動して来た県警によって、立入禁止の縄が張りめぐらされた。間もなく鑑識課が来て、爆風で吹っ飛んだ煉瓦や散乱した鉄屑《てつくず》、血液の付着した布片の一片まで採集して、事故原因の捜査に備えた。
鉄平が汗と砂埃《すなぼこり》にまみれた顔で、立入禁止の縄ばりの外へたつと、一之瀬工場長も、別のところで救助と消火の指揮にあたっていたらしく、作業衣を煤《すす》まみれにして近寄って来た。二人の顔は引き攣《つ》れ、歪《ゆが》んでいた。
鉄平は思わず、のめりそうになる体を支え、事故の原因を問い質《ただ》すために高炉請負いの現場監督を呼びつけた。
「なぜ、熱風炉にガス爆発が起ったのだ」
現場監督は、袖《そで》の千切れた作業衣のまま、呆然《ぼうぜん》と頭を垂れた。
「こんな大事故を起して申しわけありません、実はうちの作業員が、明日から炉内の煉瓦乾燥作業に入る準備のために、熱風炉の点検窓を開いた途端、熱風炉の上の方で給水筒へ続く水パイプの取付作業をしていた溶接の火花が落ちて引火し、あっという間に爆発を起したのです」
熱風炉は蜂《はち》の巣のように穴があいた煉瓦がびっしり積まれている。高温の燃焼ガスによってその煉瓦が熱せられ、穴を通る空気も熱せられ、その熱風が高炉に入って鉱石を溶解し、鉄を製《つく》るのだった。
「しかし、爆発が起きたということは、炉内にガスが充満して爆発限界に達していたことになるが、どうしてガスが充満したのだ」
「そこが、私にも解らないところですが、思うに炉の外側に接続しているガス・バーナーのバルブが緩んでガス洩《も》れし、爆発限界になっていた時、たまたま作業員が点検窓を大きく開けたことによって、外で溶接作業中の火花が引火したのだと思います」
「じゃあ、バーナーのバルブはなぜ緩んだのか、バルブが勝手に動くわけがあるまい」
一之瀬が、厳しい語調で糺《ただ》した。
「それはバルブそのものに故障があったのか、それとも誰かが誤ってバルブを開いたのか、そこのところは、作業にあたっていた当事者たちが負傷し、現場の器具もふっ飛んでしまった現在、解りません」
当事者たちは死亡、或《ある》いは負傷していた。鉄平は縄の張りめぐらされた無惨《むざん》な事故現場に眼を遣《や》った。この事故によって命を失った者への弔慰をどうしたらよいか、今後の再建策はどうしたらよいか――、それらが、錘《おもり》のように鉄平の体にのしかかった。
「鉄平、こんな大事故をひき起して、どうするつもりなんだ」
万俵大介は、事態の重大さに蒼《あお》ざめ、緊迫した表情で、鉄平に云った。夜の八時を廻っていたが、阪神特殊鋼の爆発事故対策のために、阪神銀行本店は、直接取引のある一階の営業部をはじめ、調査、融資、総務の各部屋とも灯《あか》りが点き、大介と鉄平が対《むか》い合っている頭取室も重苦しい。
「申しわけございません――、今はただこれ以上、死者が出ないことを祈るばかりです」
鉄平は、眼を閉じるように云った。
「死者は、その後、増えているのか」
「全身火傷で、神戸病院に運び込んだ当社の現場責任者が、夕刻、ついに息を引き取ってしまいました……、午後七時の時点で、死者四名、重傷者五名、軽傷者十三名という惨事になってしまって……」
咽喉《のど》もとからこみ上げて来る慟哭《どうこく》を堪《こら》えるように、歯を食いしばった。
「全く何ということだ! 警察当局へはすぐさま、陳謝に出向いただろうな」
「はい、遺族の家と、負傷者の入院している病院を廻ってから、行って参りました――」
と云い、鉄平は充血した眼を潤《うる》ませた。どの遺体も、その惨《むご》たらしさを隠すために白い繃帯《ほうたい》でぐるぐる巻きにされていた。その遺体に取り縋《すが》って泣き崩れた遺族の声は、まだ生々しく耳に残って離れない。
「鉄平、私の云っていることが聞えないのか、警察当局はどう云っているんだ」
苛《いら》だたしげな大介の声が飛んで来た。鉄平は、はっと我に返り、
「兵庫県警と灘《なだ》警察署の両方にお詫《わ》びに参りましたところ、四名もの死者を出した事故であるから、阪神特殊鋼事故捜査班を組んで、徹底的に事故発生の原因捜査に乗り出すが、阪神特殊鋼に於《おい》ても事故原因の究明を急ぐことと、熱風炉の周辺の建設工事は、現場の証拠物件保全のため、二カ月間、建設作業を中止するようにと申し渡されました」
「二カ月か――、しかし、肝腎《かんじん》の事故原因についての当局の心証はどうなんだ、早くも刑事たちが、現場付近に居合せた作業員に聞込みを始めているということだが、阪神特殊鋼側に問題となるような手落ちはないだろうな」
大介は、鋭く視線を光らせて聞いた。
「熱風炉の乾燥準備は、五菱重工の下請け業者が行ない、当社側はそれにたち会うだけのことですから、爆発に繋《つな》がるようなミスはおかしていないと思います」
「だが、つい今、お前は重傷を負った阪神特殊鋼の現場責任者が死亡したと云ったじゃないか、俗に昔から死人に口なしという言葉があるから、下手に五菱重工の下請けから責任転嫁をされぬように、せいぜい注意し、よく考えることだな」
「お父さん、そんな!」
あまりに酷薄な父の言葉に、鉄平は眉《まゆ》をあげた。
「そんなも何もないだろう、幾多の反対がありながら、高炉完成を急ぐあまり、突貫工事を決意し、実行したのはお前自身なのだ、したがって、ことの事実はどうあれ、警察当局から、安全対策の面で手ぬかりがあったのではないかと、初めから疑ってかかられているような様子では、困るじゃないか」
心身ともに参りきっている鉄平に対して、思いやりのない言葉を投げつけた。鉄平はやりきれぬ思いで、
「ではお父さん、大同銀行の神戸支店からも今日の事故内容の説明を求められておりますし、死者の通夜《つや》にも参らねばなりませんから、今日のところは一まず失礼致します」
と云い、部屋を出かかると、大介は、
「鉄平、まだ肝腎の話が残っている――」
と制したが、鉄平はかまわず、頭取室を出た。
長い廊下を急ぎ足でエレベーターに向いかけた時、頭取秘書の速水が近寄って来て、
「正面玄関には、新聞記者が詰めかけていますから、お車は行員通用門の横の駐車場にお廻ししておきました、あちらの階段からお降りになられた方が、ご面倒がなくてよいと存じます」
と云い、目だたぬように階段の方へ案内した。鉄平は、速水の配慮に感謝し、通用門から素早く駐車場へ行き、車に乗った。車が動き出すと、正面玄関の辺《あた》りには、社旗をつけた新聞社の車が並んでいるのが見え、阪神特殊鋼の爆発事故が、社会面の記事から、経済面の記事に移行しつつあることが見て取れた。鉄平は高炉建設が危ぶまれるような不安を覚えた。
一之瀬常務とともに、鉄平は阪神特殊鋼の高炉建設の現場担当工長だった故多田増太の通夜の席に、疲労した体を支えるようにして、坐っていた。
熱風炉のガス爆発で全身大火傷した多田増太の遺体は、警察の検視後、全身白い繃帯に巻かれて棺《かん》に納められているが、事故死の報《しら》せを受けて九州から駈《か》けつけて来る両親のために、棺の蓋《ふた》は覆《おお》わず、中学三年生を頭《かしら》に三人の子供と妻、身内の者たちに取り囲まれていた。無惨《むざん》な事故死のショックが、そこに坐っている人たちの顔を引き攣《つ》らせ、憎悪《ぞうお》の籠《こも》った険しい視線を鉄平と一之瀬に向けさせている。鉄平は、再び両手を畳についた。
「このような大事故を起し、犠牲者を出してしまって、何とお詫び申し上げてよいのか……今となってはご遺族の方に心からお詫び申し上げ、会社として出来るだけのことをさせて戴《いただ》くよりほかはありません……」
沈痛な面持で云った途端、涙も涸《か》れ尽したように、空《うつ》ろな表情で坐っていた妻が、悲鳴を上げた。
「お金なんかいらん、うちの人を返して! あんたらが殺したんや、返して!」
髪を振り乱して、鉄平の胸に掴みかかった。鉄平は胸ぐらを掴まれたまま、黙ってさらに深く頭を垂れた。夫や息子を、無惨な事故で失った遺族に対し、詫びる言葉など、あろうはずもなかった。一之瀬も、
「何と云われてもお返しする言葉がありません、こんな申しわけないことになったのは、工場長である私の責任です」
と詫びたが、棺の傍《そば》にいる故人の弟は、半袖のワイシャツの衿《えり》もとを汗に滲《にじ》ませ、鉄平の前へたちはだかった。
「さっきから黙って聞いていたら、あんたらはすまんの、申しわけないのばっかり繰り返しているが、それですむと思っているのか! 今度の事故は無茶な突貫工事のせいやないか、そんなところの現場工長に廻された兄貴は人柱や、一体、事故の原因はなんやねん!」
「それは今、警察でも調査中ですが、熱風炉の乾燥準備中に、取りつけてあったガス・バーナーのバルブが、何らかの理由で緩んでいて、ガスが炉内に充満し――」
鉄平が応《こた》えかけると、
「ほんなら、死んだ兄貴の現場の監督の仕方が悪かったとでも云うのんか、そんな云われ方をしたら、仏がうかばれんわ!」
「いや、そういう意味で云ったのでは……」
「弁解はええ加減にせえ! 警察の調査もへったくれもあるか、全部、会社の責任や、とっとと帰って、遺族が困らんだけの弔慰金と補償額を決めてから、出直して来い!」
唾《つば》を吐きかけるように云ったが、鉄平はぐっと堪《こら》え、一之瀬も遺体に向ってもう一度、深々と一礼して、席をたった。背広もズボンも、汗でびっしょりと濡《ぬ》れていた。
外へ出ると、鉄平は独りになりたかった。一之瀬の見送りを断わって車に乗ると、事故発生以来、警察への陳謝、負傷者の見舞、銀行への事故説明、遺族への弔問と、一時も体を憩《やす》めなかった疲労がどっと出て来た。そして夫や父親を失った遺族の険しく冷たい視線が、無数の棘《とげ》になって鉄平の心に鋭く突き刺さった。車はいつの間にか、犇《ひしめ》くように家が建てこむ尼崎を抜けて、阪神国道を岡本の家に向って走っていた。
門を入ると、十二時近かったが、父たちが住まっている本館に灯りが点《つ》いているのが見え、事故を知って六甲の山荘から帰って来た一族の緊張が感じ取られた。邸内の道を上って、玄関に車が停まると、扉《ドア》が開き、二子が飛び出して来た。
「お兄さま! 大丈夫? 大へんなことになったのね」
兄の気持を汲《く》みとるように迎えると、三子も背後《うしろ》から、泣き出しそうな顔で迎えた。
「心配をかけてすまない、お父さんは?」
「まだよ」
鉄平は再び暗い気持になった。阪神銀行頭取室へ詫びに行った時、大同銀行神戸支店の呼出しと、遺族弔問のために、父が「鉄平、まだ肝腎な話が残っている」と呼び止めるのもかまわず席をたったが、父はまだ銀行にいて、高炉建設途上に大事故を起した阪神特殊鋼にどう対処しようとしているのだろうか――。そう思い、今からもう一度、阪神銀行へ行こうと踵《きびす》を返しかけた時、廊下に乱れた足音が聞え、母の寧子が銀平の腕に支えられるようにして姿を現わした。
「鉄平、無事に帰って来ておくれなのね……」
「お母さま、ご心配をおかけしましたが、もう大丈夫ですよ」
鉄平はたっていることがやっとのような母の手を取り、居間へ連れて入ると、相子が待ち受けていたようにたっていた。
「鉄平さん、大へんなことをして下さったのね、今日はテレビもラジオもずっとあなたのところの大事故を報じっ放しよ、お父さまがあれほど無理だとおっしゃったことを、押しきっておやりになったからですよ、こんな大事故になって、お父さまの銀行のご迷惑はもちろん、せっかく佐橋総理夫人の甥御《おいご》さんの細川一也さまとのご結納もおさまったおめでたい時というのに――」
怒りと侮蔑《ぶべつ》を投げつけるように云った。
「何をおっしゃるの、こんな時に結納のことなど、非常識過ぎるわ」
二子が気色ばむと、
「二子さんはお黙りなさい! 鉄平さん、さっき千鶴さまからお電話があって、石川社長は事故のショックで倒れてしまわれ、その後、容態が回復しなくて不安だと、云ってらっしゃいましたわよ、高血圧症でもしものことがあったら、作業員のみならず、あなたは石川社長も――」
相子がさらに追打ちをかけるように云い募ると、寧子は、
「やめて、……あんな怖《おそ》ろしいことを、皆さまに申しわけないことになって、鉄平こそ死にたいほど参っているはずです……」
鉄平を庇《かば》うように云って、両手で顔を覆った。相子は冷やかに、
「泣きたいのは、メイン・バンクの頭取のお父さまですよ、今頃はきっと銀行で――」
と云いかけると、銀平が、
「そこまであなたが云うことはないだろう、それより兄さん、嫂《ねえ》さんが心配して待ってるから、早く行ってあげて下さい」
女ばかりが泣き喚《わめ》いている中で、兄を連れ出すように云った。
「ではお母さま、これ以上、ご心配なさらないで下さい、事故の処理はきちっと致しますから――」
鉄平は綿屑《わたくず》のように疲れ果てた体でそう云い、銀平とともに本館を出ると、池を隔てた高みにある家へ向った。
庭は夜露と八月の暑さに蒸れていたが、鉄平は汗も拭《ぬぐ》わず、黙って足を運んでいた。銀平はそんな兄の様子を見ながら、
「兄さん、今夜はこれ以上考え詰めず、ともかく早くお寝《やす》みなさい、これ、僕の使っている睡眠剤です」
ポロ・シャツの胸ポケットから錠剤を出して渡した。
「うむ、今夜はともかく寝るよ、明日から早速、高炉の再建策にとりかからねばならないからな」
「え? 早速、高炉の再建――」
銀平は、愕《おどろ》くように、兄の顔を見返した。
「当然じゃないか、事故を起した熱風炉の現場は、警察の指示で二カ月間、立入り禁止だから、新たな再建方法を考え、一刻も早く着手しようと思うのだ、それには資金繰りが必要だから、直接の担当者でなくても、同じ本店営業部の貸付課長として、今度はお前も是非、僕の力になって貰いたい」
と頼んだが、銀平は押し黙ったままだった。
「どうした? お父さんに何か別のご意向でもあるのかい」
鉄平はさらにそう聞いたが、さっき父の帰宅がまだだと知らされた時に感じた不安が、再び胸に襲って来た。
大同銀行の役員会議室で、神戸支店長の橋爪は、直立不動の姿勢で、昨日《きのう》起った阪神特殊鋼のガス爆発事故について、報告していた。
「私が爆発事故を知りましたのは、昨日の午後三時頃、支店長室で取引先の顧客と用談をしている時でした、次長が慌《あわ》てて飛び込んで来て、今、テレビのニュース速報で、阪神特殊鋼の高炉建設現場でガス爆発事故が起り、死傷者が多数出た模様と報道している、と云って来ましたので、私はすぐさま阪神特殊鋼に電話を入れました、しかし、どの電話も話し中で埒《らち》があかず、車でかけつけたところ、爆発の消火作業や負傷者の救出作業は一応、終っていましたが、破裂した熱風炉から、こなごなになった煉瓦《れんが》が腸《はらわた》のように砕け出、周辺には負傷者の千切れた衣服や血痕《けつこん》が飛び散っていて、愕然《がくぜん》とした次第です」
緊急役員会での報告を命じられて、急遽《きゆうきよ》、上京した橋爪は、まだ昂奮《こうふん》がさめやらぬ表情で話した。
コの字型のテーブルの正面に坐っている三雲頭取をはじめ、融資担当の綿貫、経理担当の夏目、外国担当の白河の三専務と、業務担当の小島、人事担当の山之内、事務能率の中原、総務企画担当の角野の四常務は、橋爪支店長の報告を緊張した表情で聞いていたが、心の中はそれぞれ微妙に食い違っていた。
「事故現場確認のあと、ただちに関係者の間を廻り、熱風炉爆発による損害額、及びそれが今後の資金面に波及する影響について調査致しましたところ、まず熱風炉自体の損害額は、爆破した炉体を取り壊し、一から建て直さねばなりませんので、約三億五千万と考えられますが、完成前の事故の損害は、通常、高炉建設の請負業者が支払うもので、阪神特殊鋼に損害が及ぶことはまずないと考えてよろしいかと存じます、次に事故による死亡者への弔慰金、負傷者への見舞金は、請負業者の作業員の場合は業者側で持ちますから、阪神特殊鋼は工事にたち会って事故に遇《あ》った現場工長に対する弔慰金だけで、ほぼおさまると思われます、しかし今回の爆発事故における最大の問題点は、高炉稼動が半年遅れることによる得べかりし利益の損失と、高炉建設借入金の金利負担が、不況で経営不振の阪神特殊鋼にどのような影響を及ぼすかであり、この点、大いに慎重に考えねばならないと考えております」
と橋爪支店長は報告した。役員たちは誰もすぐには口を開かなかったが、筆頭専務である綿貫は、
「聞けば聞くほど、えらい事故を起したものですな、阪神特殊鋼については、前々からどうも危なっかしい会社だと思っていたが、やっぱりねぇ」
大きな赭《あか》ら顔を突き出し、厭味《いやみ》な云い方をした。三雲頭取はそんな綿貫に厳しい視線を向け、
「今は、そんなことを云っている場合ではない、橋爪君、当行が阪神特殊鋼に融資している現在の残高は、いくらぐらいなのかね」
末席に畏《かしこ》まっている橋爪に聞いた。
「はい、高炉の長期設備資金が九十億五千万、短期貸付が十八億二千万でございます」
「では、半年間、高炉が稼動延期になったことによる阪神特殊鋼の不足資金はどのくらいに達する見込みなのかね」
「正確な数字につきましては、もう暫《しばら》く時間をかけて調査致しませんことには解《わか》りませんが、昨夜、阪神特殊鋼の万俵専務と銭高常務に聞いた話では、約五十億ということでございました、そのうち阪神特殊鋼が調達しうる資金は、支払い手形の期日の引き延ばしや、不要不急の不動産の売却、原料在庫の売却等をひっくるめて二十億が限界だと思います」
橋爪が説明すると、綿貫が、
「すると、三十億の不足分については銀行の追加融資でまかなうということになるね、メインの阪神銀行はどういう意向かね」
と突っこんだ。
「阪神銀行本店営業部長の話では、メインとして出来る限りの救済の手をさしのべるから、サブ・メインとしてもご協力願いたいと云っていますが、銀行間の話合いは、協調融資の銀行団による事故処理委員会というような場でなければ、なかなか打ちわったことは聞き出せませんから――」
綿貫に合わせるように言葉を濁すと、三雲は、
「だが、事故の大きさはともかく、高炉本体をはじめ、他の付帯設備は順調に完成に向っているのだから、阪神銀行がこの期《ご》に及んでどうこういうことはないはずじゃないか、重視しなければならないのは、むしろ阪神特殊鋼の経営陣の態度で、犠牲者が多かっただけに、世論を怖れて高炉建設への意欲が薄れたり、資金調達面で弱腰になったりしないかということだが、この点の橋爪君の感じはどうなんだね」
気懸《きがか》りそうに聞いた。
「経営陣に動揺がないとは申せません、石川社長は事故直後、ショックのあまり社長室で倒れてしまったと聞いていますし、在庫をかかえた営業も、この事故で販売はますますダウンする一方だろうと悲観しており、なにがなんでもという意欲をお持ちなのは、万俵専務一人のように見受けられます――」
橋爪は、三雲と万俵鉄平の間柄を知っていたから、言葉を選ぶように応えた。
「そうか、万俵専務がへこたれないで、再建の意欲を燃えたぎらせているのなら安心だ」
ほっと安堵《あんど》するような口調で云うと、綿貫はわざとらしい咳払《せきばら》いをしてから、
「ですが頭取、確か六月でしたでしょうか、万俵専務は別枠《べつわく》融資の礼と称して私のところへも挨拶《あいさつ》にみえ、暫く話をしましたが、産業界に安いコストの製品を提供するのが現代の企業家の社会的使命云々《うんぬん》と、まるで社民党の青年議員のようなことをおっしゃるんで、驚き入りましたよ、そういう経営者は、私のこれまでの経験から申して、いい時にはのぼり竜《りゆう》ですが、一旦《いつたん》、悪くなると、まっさかさまというのが、えてしての傾向でございますから、この際、あまりご信頼になるのもどうかと存じますねぇ」
万俵鉄平が別枠融資の礼に来た時はアサヒ石鹸《せつけん》との交換融資があったから、歯のうくようなお世辞で高炉建設を褒めあげたが、今は掌《てのひら》を返すように非難した。綿貫の股肱《ここう》の臣である業務担当の小島常務もそれに呼応するように、
「私も各新聞の論調を注意深く読みまして、今回の阪神特殊鋼のガス爆発事故は、過大な設備投資のために不況に耐えきれなくなり、無謀な突貫工事に突っ走ったのが原因であると思いますし、それがあらかた一致した見解でございました、阪神特殊鋼に平行メインとして巨額の融資をしている当行にとって、まことに耳の痛い批判でございますが、当行は元来、貯蓄銀行時代の特質を生かし、堅実第一主義を守って参ったのですから、この際、基本方針にたち戻って、阪神特殊鋼への融資については、直接の窓口になって内情をよく把握している橋爪支店長の云うように、大いに警戒すべきだと思います」
と云うと、日銀外国局の部長から大同銀行常務に天下り、先の六月人事で、筆頭常務の小島を飛び越えて専務に昇格した白河が、上席から瓜実顔《うりざねがお》を顰《しか》めた。
「そういう議論は、さっきも三雲頭取がおっしゃったように、高炉完成を目前にした今の段階で云々しても仕方がないじゃないですか、しかも今度の事故は、新聞ではいろいろと書きたてていますが、要は一人の現場作業員のミスによって偶発的に起った事故であり、会社の経営内容そのものの悪化という本質的な問題とは無関係なのですから、これまでの融資方針を変更する必要はないように思います、マスコミがどう騒ごうと、当行としては都市銀行の見識をもって、冷静に対処すべきでしょう」
白河は、綿貫ら生抜き派がマスコミの論調に右顧左眄《うこさべん》するのを批判し、三雲頭取に同調した。
「なるほど、冷静に対処すべきねぇ、しかし、特殊鋼業界には、景気が回復するという見通しがあるでなし、操短で赤字を出している状態なんだから、都市銀行らしく鷹揚《おうよう》に構えておりましょうでは、汗水滴《た》らして預金獲得に走り廻っている第一線の行員たち、ひいては一般預金者に対して、万が一の場合、どう申し開きするのですか」
綿貫が大きな鼻翼を膨らませて気色ばむと、白河専務は、三雲の方へ眼を配りながら、
「万が一というのは、どういう事態を指して云われるのですか、融資担当の綿貫専務をさしおいてこう申すのも何ですが、私は国内景気の回復はともかく、輸出の伸びは、この秋以降、期待できると思っております、その材料の一つは、アメリカの鉄鋼業界のストが長期化する様相を示し、USスチールをはじめアメリカの各社が、日本から備蓄買いする動きが出ていることです、そうなれば技術水準の高い阪神特殊鋼の製品は、輸出競争に強味を発揮すると見ています」
外国担当らしい意見を述べると、綿貫はとっさに返す言葉に詰り、
「夏目専務、あんたの意見は?」
と、自分の向い側に腕組みしたまま、さっきから黙っている夏目に話を向けた。銀行家として格別の識見も業績もないにもかかわらず、貯蓄銀行時代に入行した唯一《ゆいいつ》の東大出という学歴がものを云って専務に昇格している夏目は、高商出で叩《たた》き上げの綿貫とは肌合いを異にしているが、さりとて日銀天下り派とも馴染《なじ》まず、両派の確執のバランス・シートに乗りながら中間派の長として一派をなしていたが、生来の温厚な性質から、天下り派対生抜き派の潤滑剤の役目を果すことが多かった。
「そうですねぇ、私は阪神特殊鋼の融資に対しては、今暫く事態を静観して、今度の爆発事故が、経営面にどう影響を及ぼすかを見さだめて、それから決めればよいと思いますね」
落ち着いた口調で発言すると、三雲は、
「たしかに今、ここでいたずらに互いの主張をぶつけ合っていてもはじまらない、もちろん財務内容については、これまで以上に注意深く見る眼を持たなければならないが、何にしてもここまで当行がバック・アップして来た企業であり、将来性について希望もあるのだから、温かく見守るという基本的態度を変りなく持っていきたい」
と云い、会議をしめくくった。
ちょうどこの時、大阪北浜では、阪神特殊鋼の株が、七十二円から一挙に六十円に落ちていた。
(下巻に続く)