山崎マキコ
ためらいもイエス
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ためらいもイエス
「つまり、簡単にいえば栄養失調ですね」
にわかには信じられなかった。
「栄養失調?」
世界がグルグルまわるようなふらつきとだるさと微熱に苦しめられて数週間、
(これは体力をつけないといかん。ウナギでカツだ!)
と心に決めて、毎日毎日ウナギを食べ続けた自分が、何故に倒れて病院に運ばれ、栄養失調の診断を受けているのか。
「先生、お言葉ですが。そのう、わたし、ここ一ヶ月ぐらい一日も欠かさずに、うな重を食べていました。それもたまには並でなく上。それでも栄養失調なんでしょうか」
「ウナギを一ヶ月!」
医者は一瞬絶句した。そしてややあってから続けた。
「もう完全に栄養失調です。現代人はね、カロリーは足りていても栄養素の不足で栄養失調になるの。現代型栄養失調と言ってね。あなた、一人暮らしのOLさん? 親元を離れて暮らしている? やっぱりね。まともな生活をしていないからそうなる」
先生は嬉々《きき》として叱りつけると、カルテに何か書き込みながら、
「はい、じゃあもういいですよ。隣で点滴受けてってください。くれぐれも食事には注意して、しばらく点滴に通ってくださいね。説明は看護師のほうからありますから」
と、追い立てるように言った。
それからふっと、何のためにとったのかわからないレントゲン写真に目をとめ、
「それにしても……あなた、骨太だなあ」
と、つぶやいたのだった。
いつか勝負を申し込む、この医者に。
戦う、たとえば埠頭《ふとう》かどこかで。
腹をたてながら立ち上がると、クラクラと立ちくらみがした。
とりあえず勝負は、栄養失調が治るまでおあずけだ。
「それでは三田村さん、こちらのベッドへ寝てください」
「あ、ちょっと待ってください。会社に一本電話を。すぐ戻ってきますから」
処置室から出て、携帯がかけられそうな場所を探す。院内ではかけない。マナーを守る大人でいたい。
通用口から病院の中庭に出て、電話する。
「もしもし、三田村です。ご迷惑おかけしました。まだ病院なんです。あと二時間ほどかかるみたいなんですが、なにかわたし宛てに連絡入ってますか」
電話のむこうでは、上司のキタさんが心配そうに声をひそめた。
「大丈夫? 身体のほうは、その……」
「たいしたことないです。点滴を打ったら社に戻ります。ただの栄養失調らしいんで」
するとキタさんは疑わしそうに言った。
「栄養失調って、それ本当? まあいいや。細かいことは帰ってきてから話しましょう。大丈夫、何があっても応援していくつもりだから、僕らは。遠慮なく相談してね。連絡とかはこちらで適当に処理しておくから身体を大切にね」
首をひねりながら処置室へと戻る。
なんだか微妙な言い回しが気にかかる。なにか連絡が入っているんだったら言って欲しい。かえって心配だ。
「血管がとっても太いのね。刺すのが楽だわ。女の人だから一応細い針も用意してきたんだけど、これなら大丈夫そうね」
看護師さんはそう喜ぶと、有無も言わさずブスッと畳針のような極太のヤツを刺した。
はうわ!
叫びそうになるのをグッとこらえる。
「痛い? でもこれだと点滴が早く終わりますから」
「……大丈夫です」
無理して笑顔を作ったが、本当は痛かった。針を刺されたその瞬間に連想したのは、ウナギだ。目釘を打たれて、激しく身をくねらせていた、イキのいいウナギたち。これで精がつかなかったら嘘だろうと信じて食っていたのに。
医者の理屈は理性では理解できても、気分的には納得できない。呪いなのか? ウナギの。これからはスッポンの粉末でも飲むしかないのか?
畳針をテープでとめると、看護師さんは処置室から出て行った。放置してきた仕事が気になる。
勤務している会社は、母体となるコンピュータメーカーが台湾のネットワーク機器開発の大手と業務提携したときに設立されたベンチャー企業で、全体的に年齢層が若い。役員でもせいぜい四十歳を出るか出ないかだ。
そして、わたしが所属しているのは、社内で開発した技術を主にアメリカにむけて特許出願するための部署で、日本語のテキストを英語に翻訳する仕事を任されている。この部署に配属されてもうすぐ四年。自分で言うのもなんだけど、仕事はけっこうこなしているほうじゃないかと思う。最近、そろそろ役職手当のある身分になりませんかって話があるんだけど、正直まあ、どうしたもんかなって感じだ。
ちなみにわたしは一度転職を経験している。新卒で入った会社はわりと名の通ったところで、そこは、高齢化が進んでいるというか、頭が堅いのを通り越して化石化していたというか、とにかくわたし的には納得のいかない部分が多々あったのだ。で、ベンチャー企業だったらどうだろうと考えて転職したら、思ったとおり柔軟性があり、女性に対しても道が開かれていた。この転職に関しては、自分を絶賛してやりたいほどだ。
で、昇進の話だが、あと半年もすれば二十九歳になるので、うちの会社ではそう珍しい話でもない。ただし、これは男性に限っての話で、わたしの場合はひょっとすると嫌な目立ち方をする可能性がある。それとなにより、雑務と、人の面倒を見る仕事が増えそうだってのが個人的に嫌なのだった。
自分の部署にいろんな備品、果ては鉛筆が何本もらえるように交渉してくるとか、手の空いている女の子に適当な仕事を振るとか、しかもその仕事はできればロールプレイングゲームのように徐々に難しくなるように心を砕いてあげるとか、そういうのを考えなくちゃならなくなりそうなのが激しくウザい。わたしゃ翻訳だけを、日々機械のようにこなしていたいのだ。そこに人生の喜びを見出しているのだ。
──とは思うのだけど。
なんとなく、いま、気弱である。
病院に運ばれ点滴まで打たれてしまえば、気弱にならないヤツはいないと思わないでもないが、横たわっていると忘れていたい、もうひとつの心配事もよみがえってくるのだった。
マンションのリビングの床のうえに置きっぱなしにされている釣り書き。もうすぐ二十九歳になろうとする娘の身辺に、いっこうに色気のある話がない様子なのを不安に思った母親が、なにがなんでも見合いせよと半ば命令のように送りつけてきたものだ。
昨日までは徹底無視の気持ちで固まっていた。
けれど今日は揺れている。ウナギのおかげで揺れている。
わたしの人生、このまんまでいいんだろうか。
会計を済ませて外に出ると、はや夕暮れだった。無為のうちに半日をつぶしてしまった。失われた時間を取り戻さなくてはと、会社に急ぐ。
地下鉄の出口から通りに出ると、街路樹のむこうに自分の会社が入っているビルが見えてきた。周辺のオフィスビルより立派だ。しかも超高層だ。
このビルを見上げるたびに、
(……俺の城)
と、つぶやきたくなるような満足感がこみ上げてくる。
このビル、そして会社の近くで食べる小諸《こもろ》そばの丼モノとのセットメニュー。最近はウナギにグレードアップしたためにすっかりご無沙汰しているが、あれこそがわたしの自由の象徴である。子供のころにずっと感じていた窮屈さは、仕事がぜんぶ解放してくれた。仕事はお金をくれた。仕事は住居と食事もくれた。そしてなにより、仕事はわたしに自由をくれた。いまは昇進という件で悩んだり困ったりしてるけど、悩みといってもそんなものは娯楽のうちだ。毎日を彩る車窓の景色ってほどのもんだ。
わたしは夕暮れの空に目をとめた。一日のうちでこの時間帯が苦手だ。会社に居れば目にせずに済む。
夕暮れの空の色を眺めていると、いつも思い出してしまう出来事があるからだ。
あの日、わたしはひとつの使命を背負って、ごちゃごちゃと古い建物が軒を並べる路地裏の、安普請のアパートに向かってひとり歩いていた。道には白いロウ石で描かれた、ヘタクソなドラえもんの絵があった。家々の軒先に勢いよく咲く白粉花《おしろいばな》やしぼんだ朝顔の花。どこからか夕飯の支度をしている匂いが漂ってきた。つつましいけどささやかな幸せに満ちた夏の夕暮れの光景──どの屋根のしたにも人々の生活があって、そこでは家族が肩を寄せ合って生きているのだろう。けれどわたしはそんななかで途方にくれて、電柱のかげでアパートを見上げながら佇《たたず》んでいた。
わたしに託された使命は、スナックで働いている女のアパートに転がり込んで、すっかり家から足が遠ざかってしまった父を呼び戻すという仕事だった。
(奈津美、あの人を説得して。あんた娘なんだからできるでしょう? お父さん、家に帰ってきてくださいってお願いして)
母の声が、いまでも耳にこびりついている。傷つけられた自尊心を、三姉妹のなかでは比較的父に気に入られていたわたしを邪険に扱うことで癒そうとしたのか、母はわたしに当たり散らすように命じたのだ。
あのとき、それまでずっと父と母の無言の醜い闘争のなかで感じていたことがわたしのなかで確信へと変った。人間は嫌いだ。
(ニンゲンは嫌いだ)
(家族はもう、たくさんだ)
今日のような空の色を見るたびに、あの夕暮れがよみがえる。
会社のフロアがある三十二階までエレベーターが昇ると、耳がキンとした。
入り口でIDカードを使い、セキュリティチェックして入る。するとオフィスの、ブラインドを開けたままの窓からは、夜になりかかった東京の街が見渡せた。
電話で話す人の声、カチャカチャとキーボードを叩く音、その他もろもろ人の働く雑多な音が、にわかにわたしを元気にする。
わたしはあの町にもういない。そして今、ここにいる。
自分のシマに戻り、まずは上司の北川さんに詫びた。そして席に戻り、メールをチェックする。三件のメールが届いていた。一件は隣のシマの青ちゃんで、あとの二件は社内のメーリングリストから流れてきたものだった。青ちゃんこと青木真美子は後輩の女の子だ。わたしの唯一の昼飯の友で、もう三年来の仲良しだ。
まずはメーリングリストのほうからさっと目を通す。たいした内容ではない。続いて青ちゃんのメールを開く。わたしは瞬時に逆上した。
メルヘンが騒いでましたよ。
「三田村さん、微熱が続いていたっていうし、妊娠じゃないかしら」って。
ここぞとばかりに。ったくもう。あの女。どうしてくれましょう。
メルヘン≠ヘ特許事務のシマにいる女性で、年はわたしより七つほど上だ。それなりに良い大学の英文科を出ていて、本当は自分こそが翻訳の仕事をしているべきだと思っているらしい。
仕事の線引は微妙にあいまいだ。特許事務の人でも翻訳のほうが忙しくなってきて、その人にそれなりに能力があれば、翻訳のシマの仕事を手伝ったりする。
わたしも最初この部に配属されたときは、特許事務のシマにいた。あるとき声をかけられて、たまに翻訳を手伝っているあいだにキタさんに目をかけてもらうようになり、こちらに異動してきたという経緯がある。メルヘンが去年、特許出願部に異動になってきたときも、部長から、忙しいときは翻訳のほうも手伝ってくださいと、言われたりしたのだ。ところが翻訳の仕事がやりたくてたまらなかったメルヘンはこれを拡大解釈、
「わたしは翻訳の仕事を任された」
と周囲にふれてまわり、事務のほうの仕事はそっちのけで翻訳にばかり手を出そうとする困り者になったのだった。
青ちゃんからWindows Liveメッセンジャーで、インスタントメッセージが送られてくる。
〈姐《ねえ》さん、身体大丈夫っスか?〉
速攻で返信する。
〈平気。ぶっとい針で点滴一発決めてもらった。もう超元気。あ、そうそう、なんの病気だったかというと、なんと栄養失調だったんだよ。ウナギばかり食べていたせいでカロリーは足りていても必要な栄養素が足りてなかったんだって〉
〈栄養失調! だから言ったんですよ、ばっかり食いはやめろって。ラーメン食えって〉
そうだったのだ。じつは今日は青ちゃんとウナギを食う食わないで言い争いになり、わたしはひとりでウナギを食いに行ったのだ。そして倒れた。自業自得だ。
〈俺様は望み通りニンニクがっちょりラーメン食って、自分がとっても臭いです。姐さんのウナギにつきあわなくてほんっとうによかった。もう当分ウナギは見たくないって感じ〉
〈……ていうかさ、言いたいのはそれ?〉
あまり話を長引かせても、キーボードが交互に鳴る音から周囲にチャットがバレてしまうので、それとなく先を促す。すると青ちゃんは、ふと正気に戻ってくれたようでメッセージを送ってきた。
〈あ、そうだった。メルヘンですよ〉
〈うん、妊娠だって噂を流したって? あいかわらず愉快な人だねえ〉
余裕のあるところを装ってみせたが、青ちゃんはそれでは収まらないらしかった。
〈たくもう、この隙に乗じて姐さんの位置を乗っ取ろうとしやがって、あのクズ〉
〈まあまあ、抑えて、抑えて。わたしは気にしちゃいないから。こちらの仕事を手伝ってくれようとする気持ちはありがたいですから。ただ彼女の場合、もう少し翻訳のレベルをあげてもらわないと、こちらの仕事を任せられても苦しいかもしれないなあ。いまの段階では、結局もう一度こちらで翻訳しなおすようなレベルなんだよね〉
〈なんだ。やっぱアイツ、翻訳のほうでもまるで使い物にならねえんですね? どうしようもねえな、それ。こちらの仕事もひでえもんですわ。ウチのシマだってメルヘンがいても何の足しにもならないので、どこでもいいから引き受けて欲しいって感じ。なんなら粗品つけるし。アイツはですね、来客、しかも男の客に色気をふりまきながら茶を出すのが自分の仕事で、我々の本来の業務である特許事務の仕事は、下々の者であるあっしらがやるべきだと信じきってますからね〉
あまりに猛烈な勢いでタイプしてくる青ちゃんの勢いに押されて、ぼう然とディスプレイをながめる。たまってるなあ。気持ちはわかるがちょっと呆れる。
社内は年齢的にメルヘンより下の男性が多い。キタさんでさえメルヘンより年下だ。そんなこともあって、皆なんとなく扱いに困って、メルヘンの要求するままに翻訳の仕事をちょこちょこやらせるようになってしまった。しかし特許事務の仕事も、メルヘンが異動でくる前と同じだけあるので、人手が少なくなって大変なことになっている。
わたしも特許事務の人間だったわけだけど、まずは事務の仕事をきっちりこなし、その上で自分に余力があり、なおかつ翻訳のほうが忙しそうならお手伝いする。そのようにしていたと思う。していたんじゃないかな。微妙に弱気になるのは、メルヘンを見ていると、もしかして自分にも、自分が気付いていないだけで世間の見る目と大きなズレがあるのではと思えてくるからだ。
メルヘンをまだ本名の伊部《いべ》という苗字で呼んでいたころ、そんな不安を青ちゃんに打ち明けたところ、
「姐さんはおかしくなんかありません。おかしいのはあの女です。決まってます。あの女の頭のなかにはメルヘンの世界が広がってるんですよ。すごく身勝手なメルヘン。そういう人間に接していると、傾きのある床に立っているようなもので、こちらの感覚がおかしくなってくるもんですよ。だいたいね、あの服装を見てくださいよ。なんですか、あのピンクのワンピースは。三十路も後半に入って、膝上十センチですよ? わたしゃ服装で電波を見分けられる嗅覚が働きますけどね、あれは立派な電波服ですわ」
そのとき青ちゃんのメルヘンの世界≠ニいう言葉がやけに強く印象に残ってしまったので、青ちゃんとふたりで飲みに行ったときにうっかり伊部を、
「あのメルヘンさんが」
と呼んでしまい、それが青ちゃんに大受けしたのだ。
「なんだ、やっぱりそう思ってたんじゃないですか。姐さんも正直じゃないんだから」
以来、わたしたちのあいだでは伊部はメルヘン≠ニ呼ばれるようになった。
で、メルヘンの、翻訳に手を出そうとする問題行動についてである。
彼女は翻訳の仕事がやりたいという熱意があるわりには、目もあてられないほど翻訳がヘタなのだ。まえに上司のキタさんから、
「これ、どう思う?」
と、メルヘンが訳したものをプリントアウトして、読ませてもらったことがある。おもわず絶句した。そして尋ねた。
「もしかしてこれをこのまま通すんですか?」
「まさか。僕がいまから直すけどさ、まいっちゃうよね」
正直、そのとき確信したのだ。
メルヘンは、翻訳の仕事がやりたいんじゃない。翻訳の仕事をしているアタシ≠ェ好きなだけだと。
──それにしても、妊娠なのだった。
腕を組みながら考える。(電波は、こちらの弱り目をじつに巧妙に狙って、嬉々として攻撃をしかけてくるよな)本当は午後いっぱいを潰してしまったんだからこんなことしている場合じゃないのに、どうにも気がそがれる。
だいたい、よりにもよって、わたしが妊娠って何よ、それは。よりにもよって。
じつはわたしには秘密がある。
大きな声では決して言えない、秘密がある。それは……。
妊娠なんて、キリストのおっかさんじゃないんだから。
一体、なんの奇跡ですか。
そうなのだ。
もうすぐ二十九歳になろうというのに、わたしは、わたしはその……。
バージンなんですっ。
うわあ、言ってしまった! もうおしまいだ。
って何がお終いなんだ。よくわからないけれど、なんか全体的にお終いって気がする。けれど誰かに、そんなことないよって否定して欲しい気持ちでいっぱいだ。
じつをいえば、わたしは仕事上での男性との付き合いは嫌いじゃない。とってもビジネスライクに話が進むからだ。ただ、プライベートな部分でのお付き合いとなると、頭のなかが真っ白になる。ちなみにわたしは女子高から共学の大学に進学したのだが、ここでも一度挫折している。というのも、最初のクラスコンパの翌日に、男の子から電話がかかってきて、
「僕とつきあってくれませんか?」
と言われて激しく動揺し、次の日から不登校になってしまったせいだ。寒気がするほど気色が悪かった。おかげで翌年、女子大を受験しなおさなくてはならなくなった。しかし男の人を避けていられるのも学生までだ。そこでわたしは決意した。
男とは、ビジネスでしか付き合わない。
妙なオーラを発して近づいてくる奴はみんなまとめて突っぱねる!
あの日から、仕事のことだけを考えて生きていこうと決めていた。そしてあらゆる誘いを突っぱねて、なんの問題もなく生きてきた。
それなのに、どうしていま、自分のスタンスに自信がもてなくなっているのか。
先々週の日曜日、わたしは夜中にふいに目を覚ました。お姉ちゃんの部屋に遊びに行って、なんとなくご飯を作って食べて、帰って来た日のことだった。
カーテン越しの、ほんのりとした明るさを見ているうちに、ふいにある感情がわきあがってきた。
寂しい。
どうして突然、そんな状態に陥ったのか、自分でもわからない。わたしは自分の乾いた暮らし、仕事以外になにもない、さっぱりとした日常を、いたく気に入っていたはずだった。
妊娠騒ぎもようやく収まった週末、わたしはまた姉の借りている家を訪ねた。窓を開けると、お寺の境内が見える。さらにそのむこうには墓地もある。
風で原稿がめくれ上がって、姉がチラリとわたしのほうを見た。あわてて窓を閉める。
「あっ、ごめん、ごめん」
「かまわないよ。でもいまトーンを貼ってるから。窓をあけるのはその後にしてくれる?」
お姉ちゃんはそう言うと、また黙々とカッターを手にして作業に取り掛かった。
わたしは漆喰《しつくい》の壁に背をもたれさせながら、畳のうえに足を投げ出して姉の作業を眺めた。姉は東京の下町にある一軒家を、姉と同じぐらいの年齢の、同業の友人三人でシェアしている。家賃の節約のためかというと、そうでもないらしい。姉が言うには、
「一軒家はアパートと違って風通しがよかったり台所が広かったり、なにかと暮らしやすくできているから」
なんだそうだ。わたしだったら他人と暮らす息苦しさを選ぶよりは、住環境の快適さを捨てたほうがマシだと思うんだが、どうなんだろう。姉が女三人で暮らす理由が、わたしたちが三人姉妹だからそれを擬似的に再現しているように思えるのは、考えすぎというもんだろうか。
わたしは三人姉妹の真ん中だ。親戚のあいだでは、
「三田村家の富士・鷹・ナスビ」
と、陰口を叩かれていたそうだ。ちなみに、その鷹がわたしである。
どうして富士、鷹、ナスビかといえば、単純な理由で、学校の成績がそんなもんだったからってだけの話だ。
それで、輝ける富士であったお姉ちゃんであるが、彼女はいま、同人誌の原稿をせっせと作成しているところなのだった。『月光の姫』というPCゲームのアンソロジー用の原稿を、同人ショップから依頼されて描いているらしい。
同人誌市場というのはかなり大規模なもののようで、その収入だけで都内に三LDKのマンションを借りている作家さんもけっこう存在するのだそうだ。もちろん、姉がいま描いている漫画にも、同人ショップからそれなりの原稿料が支払われる。
三田村家の輝ける富士であった長女は、受験した大学をすべて合格し、日本でもっとも難関とされる大学の学生となった。わたしの育ったところは田舎なので、大学合格者は地方紙に掲載されるんだけど、お姉ちゃんの名前も、勿論でかでかと掲載された。
あの日ほど晴れがましい顔をしていた母を、わたしは知らない。
近所に住まいを構えて、我が家に合鍵を使って我が物顔で侵入してくる姑に、そして、男を産めなかった出来そこないの長男の嫁としてつねに虚勢を張っていた親戚に対して、わたしの産んだ娘はどうよ、あなたたちの産んだ男の子が地元の商業高校を出てチンケな仕事に就いているあいだに、日本で一番難しい大学に入学し、望めばどんな一流企業にも就職でき、キャリアの官僚にでもなれる場所までたどり着いたのよ。
察するに、母の内心はこんなものだったろうと思う。
親戚からの電話を受けるたび、小鼻を膨らませて自慢していた母親の顔がいまも忘れられない。
「あの子は小さいころから身体が弱かったものですから。ええ、アトピーがそれはひどくて。けっして無理をするなと言い聞かせたので、それほど勉強もしていなかったはずなんですけどねえ。ええ、でも、おかげさまで」
そして卒業後、姉は太陽総研のシンクタンクに入社して、三田村家の富士として、高く美しき峰でありつづけた。
おとぎ話なら、ここでめでたしめでたしで終わるところだが、現実はそうはいかなかった。姉に劇的な転機が訪れたのである。入社二年目にしてなぜか突然シンクタンクを退社。二ヶ月ほどただ実家でうつらうつらと寝て過ごす日々を送って母親をノイローゼ寸前まで追い込んだかと思うと、ある日突然起き上がり、宣言したのだ。
「わたしはこれから黒木夜羽《くろきよはね》先生のアシスタントになる」
そして実際にそうなってしまったのだ。黒木夜羽は、二十年ちかく漫画界の第一線で活躍している有名少女漫画家だ。
もともと姉は絵を描くのが好きだった。
それなのに高校に入ってすぐの日、美術部に入部してきたと告げた姉に、母はしつこく退部を迫ったのだ。
「そんなことをして大丈夫なのかしら? ただでさえ身体の弱いおまえが、勉強も頑張りながら絵まで描いていたら、身体を壊してしまうんじゃないかと思って、お母さんとっても心配」
まるで姉の身体の心配をしているような口ぶりだったけれど、姉が勉強以外に目をむけるのを母は許さなかった。ただそれだけだ。姉はそれを理解していたのか、それとも理解していても戦う気力がなかったのか、一言だけ答えた。
「わかった」
姉は家族に背をむけると、しずかに自分の勉強部屋へと入り、ふすまを閉めた。そして翌日、美術部を退部してきたと告げた。美術部の先輩から入部のお祝いに貰ったという真新しい木炭だけが、いつまでも姉の机のうえに飾りのように置かれていた。
富士、鷹、ナスビの富士が富士としての生き方を降りたと知ったときの、母の反応にはすさまじいものがあった。なんと、突発性難聴をお患《わずら》いになってしまったのである。
よっぽど聞きたくなかったのであろう。わたしは不謹慎ながらひそかにひとり笑ってしまった。本気で母を心配していたのは、ナスビのため母からまるでいない子どものように扱われていた末の妹だけだった。
一方、当事者であるお姉ちゃんのほうはといえば、母の病気を知っても顔色ひとつ変えるでもなく、そっけなく言い放った。
「あ、そう」
母親と姉のあいだに立って仲をとりもとうとしてわざわざ上京した妹は、姉に頼んだ。
「なにかお母さんに言ってあげてよ、お姉ちゃん。お見舞いの言葉ひとつでも、だいぶ違うと思うんだ」
けれど姉はそれを冷たく突き放した。
「わたしは医学に関しては素人だから。治すのは医者と薬とお母さんの力であって、わたしにできることは何もないから」
姉妹三人で待ち合わせた喫茶店で、泣きそうに震えている妹を前にしても、姉はメガネの奥の表情をまるで変えなかった。そして支払い伝票をさっと手にすると、こう告げた。
「わたしこれから仕事があるから。先に帰らせてもらう」
姉のとった行動に、末の妹は、ぽたぽたと涙をこぼした。
「どうしてウチはこうなんだろう。もう少し、お姉ちゃんがもう少しでいいからお母さんに優しくしてくれたら、お母さんも変われるかもしれないのに」
しかしわたしはそれに同意しなかった。
喫茶店を出ていく姉の背中に、かつて家のなかで争いごとがあったときに、あるいは母に傷つけられるような言葉を浴びせられたりしたときに、そっとその場を離れ、静かに勉強部屋のふすまを閉めていた彼女の姿を重ね合わせていた。
あの日もそうだった。
姉が中学一年の秋だ。姉が、ひどく困ったような顔で学校から帰ってきた。そして母に何事かをひそひそと打ち明けた。
すると母は難しい顔で洗面所へとむかったと思うと、高い棚のなかから生理用ナプキンを取り出して、ほとんど無言で姉にそれを押し付けた。
「はい、これ」
そして母は、なんともいえない嫌な顔つきで姉を見ると、さっさと台所へと戻ってしまった。少しませたところのあったわたしは、すべての事情を察した。けれども何も言えなかった。かえって姉を傷つけそうな気がしていた。だって母の顔に浮かんでいたのは、あきらかに嫌悪感だったからだ。
姉はしばらくナプキンを手にしたまま、黙ってその場に立っていた。
姉の顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。あのときの姉とよく似た顔を、後年、わたしは東京の地下道でしばしば目撃した。どろどろに汚れた服を身につけ、紙袋を手にして、焦点の定まらない目で人の流れのなかで佇んでいるあの人たちだ。
やがて姉は一人勉強部屋へとむかい、静かにふすまを閉めてしまった。
トーンを貼り終えた姉は、今度ははみ出した線を丁寧に修正液で消し始めた。作業場にしているコタツの上に積み上げられた『月光の姫』に関する資料を手にして、パラパラとめくりながら姉に尋ねる。
「──面白い?」
すると姉は作業の手をとめ、ちらりとわたしを見てからつぶやいた。
「あんまり。わたし、ギャルゲー自体あまりやらないし、興味ないから。ただ……編集するメッセヨンオーの店長さんは、いつもイベントに顔を出してくれるし、何かとお世話になっているからね。断われない」
本当は別のことが聞きたくて尋ねたように思うのだが、はぐらかしたのか、それともわたしの質問の意味が本当に届かなかったのか。そのあたりはよくわからないが、自分が欲しがっていた答えとはずれているのだけは確かだった。
結局、いつもこうなのだ。
わたしは持ってきたバッグを引き寄せた。
そしてやっぱり、取り出さなかった。
お姉ちゃん、わたし、お見合いをしようかどうか考えていてね。お母さんが相手の身上書を送ってきたの。写真も。このなかにそれが入ってるんだ。お姉ちゃんと順序は逆になってしまうけど、わたしが見合いをするよう言われてる。どう思う?
ねえ、お姉ちゃん……話がしたいよ。
心のなかでだけ、姉に語りかける。
いつもそうだ。いつもわたしは、ただ姉のそばに物理的な距離として寄り添う以外、なんにもできない。
描き上げた姉の原稿をそっと手にとり、眺めてみた。カラーページは貰えていない。その理由がなんとなくわかる。そろそろ三十三に手が届こうとしている姉の絵柄は、微妙に時代遅れになっている。残酷だけれど、それは事実だ。
漫画の業界に足を踏み入れてから、体重が増えて、それに年齢が追い討ちをかけて、かつての美少女の面影がはかなく消えていく姉の横顔をつくづくと眺める。姉は淡々と、そして真剣に作業をしている。わたしと違って、典型的な美少女の顔立ちだったかつての姉。見合いで父の容姿に一目惚れしてあまり多くを考えずに結婚を決めてしまったらしい母は、自分の容姿にコンプレックスがあったようで、父に似た姉の容貌もいたく気に入っていた。それを感じ取ったわたしは、どれだけ姉にひそかな憧れを抱いたことだろう。
それを思い出して、こっそり悲しくなる。
自分が姉のような容姿に生まれなかったことよりも、姉の年齢がただ重ねられていくことが悲しかった。たぶん姉自身は、自分の容姿が日々衰えていくのも気にもとめず、自分が綺麗なことも気付かないまま、ただ今日のことだけを考えて生きているのだろう。当人が満足しているなら、それはそれでいいのだろう。
けれど、でも……。
姉の描いたラフを手に取り、目を通す。
今度もいつもと同じように、ひそかに好きあっていた登場人物同士が互いの気持ちに気付いて打ち明けあい、ハッピーエンドという話だった。読んでいて空しくなる。姉の物語には他人がいない。読むたびに、まるでままごと遊びのように、姉の人形が姉の人形に語りかけ、姉の人形が姉の人形にうなずいているような、そんな錯覚をおぼえて、わたしは途方に暮れた。
ラフをそっとコタツの上に戻し、元気なふりをして立ち上がり、慌てたように告げる。
「そうだ、忘れてたんだけど、今日ちょっと用事があるんだった」
本当は別に用事はなかった。居たたまれなくなっただけだ。
姉は顔をあげ、遠い世界からようやくわたしの存在を思い出して現実に戻ってきた人のような目で見た。
「──帰る?」
「うん、ごめんね。夕飯はお姉ちゃんと食べたかったんだけど、また今度」
姉は理由を問わなかった。ただ一緒に狭い階段を降りてわたしを玄関まで送ると、ぼんやりとした顔で一言口にした。
「じゃ、またね」
「うん、それじゃ。ごめんね、お姉ちゃん。──また連絡するよ」
門の外に出てみると、空は夕焼けに染まっていた。
下町の狭い路地の両側には、小さな古い民家が立ち並んでいる。いつかの夕暮れを思い出させる風景、どの家にもそこに人が暮らしていて、どの屋根の下にも家族の物語があることを思い出させる夕暮れ──。どこからかカレーの匂いが漂ってきて、わたしはふいに、悲しくてたまらなくなった。
思い出から目をそらすように空を見上げると、夕焼けの空にうろこ雲が赤く輝いていた。まるで涙を誘うように。
わたしはなにかを振り切るように、バス停への道を急いだ。
「痛い。痛すぎるーッ」
おもわず絶叫すると李《り》さんは、パッと顔をあげ、怒ったような声でわたしに言った。
「痛いはヨイです。痛いのはイイ証拠。痛くない、ワタシが楽なだけ。ちっともよくならない」
この人にやってもらうと激しく痛いのはよく知っているのだが、また受付で指名してしまった。
「えーと、李|福良《ふくりよう》さんでお願いします」
自分で望んでやってもらって、痛い痛いと悲鳴をあげているのだから世話はない。
薄暗く照明を落とした店内では、あちこちからうめき声が聞こえている。簡易ベッドに横たわりながらじんわりと後悔する。
ああ、今日もまた寄ってしまったこの店に。失敗だ!
軽い自己嫌悪に襲われる。頭のなかで計算する。ここ一ヶ月でこの店にどれだけ注ぎこんだだろう。給与が振り込まれたその日に一万八千円のスペシャルコースを頼んでいるから、もうかれこれ八万ちかく使ったと思う。けっこうどころかかなりの出費だ。
ここは台湾式足裏マッサージの店、「太仁健康中心」である。帰宅途中の地下鉄の乗り換えで、いったん地上に出るのだけど、その道の途中にこの店がある。
それが魔窟に誘われる最大の理由である。
そのままおとなしく地下鉄を乗り換えて借りてる部屋に帰ればいいのに、ついつい寄り道してしまう。そんなに足の裏を押してもらいたいのかというと、そうでもないように思う。たしかに押してもらえば気持ちいいけど、だからといって八万も使うなんて、一体全体どういうわけだ。
「三田村さん、今週、お酒いっぱい飲んだね?」
「うん、わかります? ちょっと付き合いが多くてね」
「わかるわかる。足のここ、凝《こ》ってる。触るとわかる。お酒、少しはいい。いっぱいはダメ。ここ痛いの、ここ肝臓のツボね。あなたの肝臓、疲れてる。日本語にあるね、肝腎かなめ。肝臓と腎臓は、人間の内臓のなかで一番重要ね。大事にしない、いけない」
たどたどしい日本語で叱られたあとに、いつもちょっと嬉しくなっている。継続して指名してしまうのは、このお小言の多さのせいかもしれなかった。他のマッサージ師たちは、日本語ができないこともあるのかもしれないけど、ただ黙々と押すだけだからだ。李さんに説教されて、痛い目にあわされて、ようやく部屋に帰る気持ちになれるのだ。
いっぺん、青ちゃんがわたしの部屋に遊びにくるという話になったとき、途中で青ちゃんを誘って付き合わせた。
「ちょっと寄ってかない? この近くにいいリフレクソロジーの店があるんだけどさ」
そのときにわたしと李さんのやり取りから、わたしがこの店の顔と化しているのを知った青ちゃんは、店から出るなりいきなりこう断言した。
「姐さんはあれっスね。男だったらぜってー、風俗にハマるタイプ」
そっち方面にはたいへんに無知なので、すごく不安になって、ついつい尋ねてしまった。
「えっ、わたしって……もしや、好色そうなの?」
すると青ちゃんは首をひねりながら、ひとつひとつ慎重に言葉を選ぶようにして言った。
「そうじゃないっスよ。……なんてんですかねえ、こりゃおいら個人の思い込みかもしんないけど、風俗にハマる男の人って、とどのつまりは、スケベというよりは優しさを求めてるんだと思うんですわ。なんていうか、母性っつーんスかね」
「エディプスコンプレックス?」
「そうじゃなくて……。うーん、説明が難しいな、姐さんはこの手の話だけは、いつもかなり勘が鈍いっていうか、とんちんかんだから」
そのときはさっぱり意味不明で「風俗オヤジ」と呼ばれたような不快さと、どうせわたしはバージンだから頓珍漢だよと、秘密のコンプレックスを刺激されて内心すねたりもしてたんだけど、その後いつまでも青ちゃんの発言にこだわっているのは、そこになんらかの真実が含まれているからなのだろうか。
とはいえ、腕の筋肉がムキムキと発達した男性に求める母性なんて、どうも納得しがたい。
コースの最後で、李さんは熱々の蒸しタオルを絞り、手の上で転がして軽く湯気をたたせながら広げると、揉《も》み解《ほぐ》したわたしの足をくるりと包んだ。
(──至福)
その場でうたた寝しそうになる。すると李さんは、言い聞かせるように言った。
「三田村さん、いつもお疲れね。ゆっくり休む。人間、働く働く働くだけじゃダメ。ゆっくり休む。するとまた働ける。働く働く働くでは身体ダメになる。働く、休む、働く、休む。これが大事。そうしないと働くこともできなくなる。わかる?」
眠りに落ちそうになりながら、その言葉に何度も小さくうなずいた。
満面の笑みを浮かべた李さんに、エレベーターまで見送られる。
「三田村さん、今度は足ツボだけじゃなく、全身コースも受けるといいよ。身体の凝り、ぜんぶ取れる。疲れためるよくない」
内心苦笑する。
商売上手だね。こりゃあ、昇進してお手当がつくようになっても、ここに通う回数が増えるだけかもしれない。
この癖さえなければもうちょっと貯金もできて、長期で留学するのも夢じゃないのだが。英語圏で暮らしたことのない語学コンプレックスを解消するのは、わたしのひそかな野望であるのだ。自分の人生設計としては、五十歳までにこの語学力を完璧に磨き上げるのが目標だ。しかしそれを思うと悲しくなるのは、五十で完璧になったとしても、定年から逆算すると、あと働けるのは十年しかないじゃないかって事実である。最近は六十五歳定年制度が検討されちゃいるが、それでもまだまだ満ちたりない。完璧になってから、少なくとも三十年は働きたい。
店を出ると、街はもう完全に夜だった。地下鉄の構内へとむかう。バッグから定期を取り出そうとした瞬間、四角い紙の角が手に触れた。わたしは釣り書きの存在を、ようやく思い出した。忘れていたかったけど。
姉のところにも持っていって結局開かなかった釣り書きと写真の入った封筒は、あれから二日たった今も開けずに放置していた。けれどそろそろ腹を決めねばなるまい。
しかし、生まれてはじめての、お見合いの、相手である。
すこし胸が高鳴る。
わたしとて、王子様があらわれると思うほどには乙女ではないが、ちょっとくらいは期待がある。ホームに滑り込んできた地下鉄に乗り込み、座席に座り、封を切る。
あんまり格好良すぎる人でも困る。釣り合いがとれないしね。
ドキドキしながら写真を取り出して見た。その瞬間、わたしは仰天した。
こっ、これは!
──魚?
そこに写っていた男の人は、黒いフレームのメガネをかけていて、ギンポ≠ニいう、天ぷらダネによく使われるお魚を連想させる風貌だったのだ。
こんな、こんな──魚のような風貌の男の人がわたしの初めての、お見合いの相手。
お見合いの相手はギンポ!
激しくショックを受けている自分を別の自分が観察しながら、改めて知った。どうやらわたしにも、それなりに乙女の夢があったらしいと。
小さな胸の奥に秘めた花のつぼみが散らされた。そんな気分だ。
ギンポで落ち込んだ夜も、眠れば朝はやってくる。今日も仕事だ、頑張るぞ。
部屋の窓を開けると、六車線の道路の全部に、ごうごうと音をたてながらトラックが引きも切らず走っているのが見えた。なんという排ガスだ。ひどいエアポリューションだ。一息吸っただけで肺は真っ黒、またたくまに喘息《ぜんそく》を発症しそうだ。
その光景に、日本の経済は、まだ立ち直る見込みがあるに違いないと確信する。頑張ろう、労働者諸君。わたしも頑張る。しかし許すな、不正軽油の使用。
今日から二週間ほど、仕事が忙しくなる。うちの会社は平気で女子にも泊まりこみをさせる。ネットワークエンジニアなんていつ家庭に帰っているのかって問いただしたいくらいだし、会社の近くにプリズン≠ニ呼ばれる仮眠室用のマンションも借り上げてあるぐらいなので、女子でも椅子で仮眠をとって徹夜で仕事をするぐらいどうってことない。それを聞くとかつての同級生たちは、口々に哀れんでくれるが、正直なんで哀れまれるのか、ちっともピンとこない。わたしはおおむね今の会社を気に入っている。おおむねどころか、かなり気に入っているのかもしれない。会社に寝て、会社で顔を洗って、会社でピザをとって、会社から一歩も出ないで一日が過ぎていくこともあるからこそ、気に入っているのかもしれなかった。
デリバリーの冷えかかったピザを分け合って、コーラで流し込んでいると、こう思う。
おなじ釜の飯を食う。──俺たちは家族だ!
会社のなかでベタベタした関係を作るのはあまり好むところではないが、おなじ目標を持った人同士が、肩をならべて、目標にむかって頑張っている──そんな気分を共有しているようなつもりになって、勝手に喜んでいるのだ。わたしにとっての人間関係など、その程度で十分だ。
「来た、来た。ようやっと来た」
ザーッと水音をさせてトイレから出てくるなり、青ちゃんは満面の笑顔でそう言った。
「136番台さん、大当たり。ラッキースタート、おめでとうございます! いやー、いつまで待っても来ないから。おいら心配しちゃったよ」
意気揚々と喋《しやべ》りながらバシャバシャ手を洗っている青ちゃんの、晴ればれとした顔つきを見て考える。一体、なんの話をしているのだろう。
「ったくもう、避妊具を使わない避妊は避妊じゃないって学校で習っただろって言ってんのに、ウチの馬鹿っ相方は。まあいいんですけどね、妊娠したらしたで。そんときは年貢の納め時ってことでウチら結婚しますけど。とはいえ、順序は逆じゃないほうがどっちかっていうと嬉しいかなっと。ねえ姐さん、そう思いません?」
「あー、うん。そうかな。うん、うん、そうかもしれない」
じつをいえば、青ちゃんにでさえ、わたしは正直に告白してない。自分が、その、バージンだってことをだ。さも経験のあるような顔をして話をあわせてはいるけど、けっこう無理がある。一度、酔ってこの手の話になったとき、いまのように適当な返事を続けていたら、青ちゃんに正面きって尋ねられて焦った。
「ねえ姐さんってば、前々から一度聞いてみたかったんですけどね。そりゃわざと外してるんですか? それとも本当に純情なの?」
そのとき思い切って自白してしまおうかという衝動にかられたんだけど、その一歩が踏み出せなかった。
情けないぞ、三田村。友達にも隠しごとをするようになったら人間お終いだぞ。そうは思うのだけど勇気が出ない。
「さあ、どっちだろうねえ。どっちだと思う?」
青ちゃんはちょっとふてくされた顔で、鍋をつつきまわした。
「あーあ、つまんねえの。大人の女になると秘密主義になるんですかね? おいら別に、姐さんの相手がたとえば不倫で、それがキタさんだったとしたって気にしやしませんよ。誰にも言ったりしないしさ。そのへん、信頼してもらってないってのが悲しいよね」
ここでちょっとドキリとした。わたしが諸事情により秘密主義なために、キタさんとの間柄を疑われてしまうのだろうか。あわててきっぱり否定した。
「いや、キタさんとは全然無関係だよ。あの人は子煩悩な家庭人なのだから、そんなふうに考えるのはキタさんに対して失礼だ」
すると青ちゃんはがばりと身を乗り出した。
「いま、キタさんとは無関係、と言い切りましたね? とは≠チてことは、やっぱり他に相手がいるんだ。おいらにさえ言えないような」
青ちゃんの期待いっぱいの顔がずんずん近づいてくるようで、その圧迫感に降参して、本格的にすべてを自白してしまおうかと迷った。
しかし喉《のど》まで出かかった言葉は、結局、飲み込んだままになってしまった。わたしは友情よりも面子《メンツ》をとった。
「いずれ時期が来たら、青ちゃんにだけは話すかもしれない。でもまだ言えない。青ちゃんを信用してない訳じゃないんだけど、できれば墓場までこの話は持っていったほうがいいんじゃないかと思う日も多くて」
嘘をついてはいないけど、相手の誤解をわざと誘導するようなものの言い方をしている自分に、かなり嫌気がさした。しかし青ちゃんはそれでだいぶ納得してくれたようで、真剣な目でうなずいた。
「わかりやした。姐さんがそう言うからには、よほど複雑な関係の相手なんですね。大人の恋ですね? でもいつかは、この青にだけは話してくださいよ。おいら、これでも仁義はあるつもり。人にふれてまわったりは決していたしやせんから」
積み重ねた嘘が、どんどん自分の首を絞めていくのだった。
さてその「大人の恋に悩む女」の横でじゃばじゃばと手を洗った青ちゃんは、すがすがしい顔つきでメイクの直しに取りかかる。
「うーん。本日もお肌の調子が絶好調! 思い切って全部アユーラに替えてよかったですわ。ラインでそろえたらニキビもピタッと収まったし。おっと、ちょっとパンダ目になってるな」
話題が逸《そ》れてくれたのにひそかにホッとしながら、青ちゃんの横でわたしもメイク直しを始める。といっても、鼻の頭にファンデーションを叩くだけだ。すると青ちゃんがふと手をとめ、鏡のなかのわたしを眺めて言った。
「ところで姐さん、前から言おうか言うまいか迷っていたんですが、メイクが手抜きすぎじゃあねえですか」
「あ、そう? まあいいじゃん。どう作ったって所詮《しよせん》はこの顔だしね。人間あきらめが肝心でしょ」
かつてはここまで開き直れなかった。どうやったら姉と同じような顔になれるのだろうと、わざと口元が小さく見えるように輪郭をとってみたりした。他人が見たら、あなたは舞妓はんどすかと問いたくなるような奇妙な化粧をしていた時期もあったと思う。
いまはただ、適当にファンデーションを塗って、適当に眉を描いて、適当に口紅を塗ったくっているだけだ。
すると青ちゃんは数本のマスカラをポーチから取り出し、どれにしようかと選びながら勝手にまくしたてた。
「見よ、おいらのこのマスカラコレクションを。マスカラオタクと呼んでくれてもいいですぜ。ここまでやれとは言いませんが、ちっとは顔をいじりましょうよ」
「いや、いい。わたしは自分のいまのやり方が気に入っている」
「なんでそうなのかなあ。それとね、姐さんのそのスーツ姿も悪くないですけどさ、なんでいっつも上下揃えたスーツなんです?」
「スーツは働く女の戦闘服だ! グレーのスーツの上下。なにか文句ある?」
「いや、その服装はたしかに格を感じさせますけど、やっぱ堅すぎますよ。リクルートスーツの延長みたい。だいたいここは自由な社風なんだから、もっとこういろいろコーディネイトしてですね、派手めに、肌の露出とかして」
「いや、わたしはこれで行く。これならどんな場であろうとも相手に対して失礼にあたらない!」
「じゃあせめて黒だの紺だの、グレーだの、ダークトーンのスーツにするのはヤメってことにしましょうよ」
「黒と紺とグレーのスーツは基本中の基本だ! ピンクのスーツじゃお水の服だ」
「いやだからそうじゃなくて……。まあいいや。しょうがないっスね。姐さんはもうじき役職のある人になっちゃうらしいし。キタさんが抜けたあとのポストを埋めるのは姐さんでほぼ内定だって話だし。所詮おいらとは立場が違うか」
「青ちゃん、ちょっと待て。その話は……」
すると青ちゃんは声をひそめ、嬉しそうな顔をしてわたしを肘《ひじ》でつつき、ささやいた。
「わかってますって。確定するまでは誰にも喋りませんよ。なんかもう公然の秘密になりつつあるみたいだけど。──姐さん、どんどん上に昇ってくださいよ。おいら応援しちゃいます。おいらはこの会社でずっと特許事務をやってるだけだろうし、それに不満はないんだけどさ。姐さんが上に昇ると思うと、なーんかワクワクしちゃうんです。どこまでも行ってくださいよ、どんどん上に。行け、昇竜、三田村奈津美!」
昇竜ってなんだよ。なんかすごく勘違いされてる気がする。しかし友の言葉。気持ちだけは受け取っておこう。わたしはあいまいな笑みを浮かべて応援にこたえた。
「お母さん、例のお見合いの話なんだけど」
翌日の夜になって、母親に電話をかけてみた。
「奈津美なの? まったくもうこの子は、いつまで待っても返事は来ないし、電話をしてもつながらないから困ってたわよ」
母親はひとしきり文句を言うと、わたしに尋ねた。
「釣り書きとお写真のほうはもう目を通したの」
じつは釣り書きのほうには目は通していない。お魚のような顔立ちに驚いて、それっきりになっているのだ。
「うん、ええとあの、ギンポ……」
すると母親は大きな声で人の話を遮った。
「ギンポじゃなくて神保さんよ、ジンボ! どうやったらそんな読み間違いができるのよ。立派な大学出ているくせに」
そして話を勝手にすすめた。
「そうそう、それで相手のかたの大学だけど、奈津美はそれでかまわないかしらね。やっぱり気になるわよね」
「大学? えーと……どこだっけ」
すると母親は電話のむこうでじれったそうに言いつのった。
「もう、肝心なところをちゃんと見てないんだから。明和大なのよ、明和大。奈津美の出た大学の格からいったら、ねえ……。お母さん、てっきり奈津美がそれで返事を渋っているのかと思ったわ。でもね、奈津美も悪いのよ。女ももう三十近くなると、なかなか適当な相手が見つけられなくなるんだから。だからあれほど早くお見合いをって言ったのに」
いつまでも続きそうな母親の愚痴を遮断して、一言返事する。
「するよ。見合い」
すると母親はちょっと驚いたように黙り込んだかと思うと、にわかに心配そうな口調になって言った。
「かまわないの? 大学の件は」
「いいんじゃない、別に」
「まあ……そう。奈津美がそう言うなら、お母さんもいいけど……」
見合いを勧めていたくせに、むしろ不満げな感じさえする母親の言いぶりにうんざりする。
「とにかく話を進めてよ。ちなみにこちらのスケジュールで空いているのは、今週なら土曜、日曜両方ともOK。ちょっと仕事が詰まっているからどちらかの日を休日出勤に使いたいけど、お見合いって一日で済むもんだよね。それならどちらの日に決めてもらってもかまわない。こちらで調整する。で、その次の週だと──ちょっとまだ仕事の関係でスケジュールが見えないなあ」
すると母親はあわてたように、わたしの話を押し止めた。
「お見合いってそんなにあわててするものじゃないのよ。まるで焦って安売りしようとしているみたいに見えるじゃないの」
そしてこう続けた。
「とにかくおまえの気持ちはわかったから。まあ、別に一人目で決めなくてもいいのよ。何人かと会って、いずれ釣り合いのとれた良い人と巡り合って、半年ほどお付き合いして結婚すればいいと思うわ。できれば三十になる前にね。そして結婚したらすぐに子供を作ればいいのよ」
電話を切ったあと、どっと疲れを感じて床のうえに転がった。
勝手にわたしの人生のスケジュールを仕切ってくれてありがとうございますって感じだ。
そう思ったとき、ふいに青ちゃんの言葉がよみがえった。
(姐さん、どんどん上に昇ってくださいよ。おいら応援しちゃいます)
青ちゃんにしても母親にしても、わたしの未来にある種の期待をかけているわけだけど、どうしてこうも受ける感じが違うのだろう。応援されたわたしの戸惑いは別として、他人であるはずの青ちゃんの言葉からは素朴な温かさが伝わってくる。それなのに身内であるはずの母の言葉からは、ひどく身勝手な冷たさしか伝わってこないのだ。
家族ってなんなのだろう。
家庭を作るってどういうことなんだろう。
どうして人は家庭を持とうと思うのだろう。
「それを知るためにお見合いするんじゃないか」
自分で自分に言い聞かせたが、いきなりどこかで何かがくじけているのを感じていた。
「ああ、なにもかも面倒! やっぱ仕事だけをしていたいーっ。ギンポとのお見合いなんてもうどうでもいい!」
虚空にむかって叫んでみたら、本当にそんな気分になってきた。
明日は、早朝から出勤しよう。
固く心に決めたわたしは、身体に休息を与えるため、ベッドにもぐりこんだ。すべては、明日の仕事のために。
「申し訳ねえっス、姐さん。姐さんのほうだって仕事が詰まってるのに」
青ちゃんは、すまなそうに首を縮めた。
親会社のほうから特許の出願をせっつかれている忙しい時期にもかかわらず、例のメルヘン嬢がなぜか休暇を取ってフィジーのなんとかレブ島とかいうところに旅立ってしまったのだ。その穴を埋めるため、わたしは一時的に特許事務の仕事を手伝っている。
「いいって。懐かしいよ、特許事務の仕事。翻訳も好きだけどね、この手の仕事をいかに効率的にこなすか挑むってのも、嫌いじゃないっていうか、かなり好きだ」
ジャケットをぬいで七分袖のインナーをたくし上げる。さあこい、事務処理! いくらでもこなしてやる。闘魂が燃え上がってくる。
「そうですか? そう言ってもらえると気は楽になるけど。まあ、今回は姐さんが仕事マニアなのを素直に喜んでおすがりしますわ。本当、すまねえっス。それにしてもあの馬鹿、なにがバカンスだ。おいらが王様だったら、そんなに島が好きならば一生遠い島に流刑《るけい》にしてやるって言いたいですわ」
「まあいいじゃないの。メルへ……いや伊部さん、身体が弱いんでしょ?」
「ハア? 身体が弱いってどこが弱いんだか。賭けてもいいけど、我々のなかで一番長生きするのはあの女ですぜ、絶対」
周囲に聞こえるって。わたしはちょっと苦笑してこの場を押さえた。
「ま、とにかく、かえってまったく手付かずの状態から引き継げたからよかったかな。中途半端なところだと、相手がどういうふうに仕事を進めていたのか推察するのも、それはそれで大変だからね」
夜の八時過ぎ、残業しているのはやはり男の人のほうが多い。女子社員がだんだんと少なくなって、男女比が昼間とは微妙に変わる時間帯、わたしと青ちゃんはディスプレイにむかって真剣に特許事務の仕事に取りかかった。
熱中して仕事をこなしていたら、ポンと肩を叩かれた。
「姐さん、そろそろ十一時ですけど。終電、大丈夫ですか?」
青ちゃんに心配そうに問われて、夢から覚めたように時計を見る。
「本当だ。全然気がつかなかった」
仕事の残りの量を見る。
「これは今日一日頑張ったところでどうにかなる量じゃないね」
「そうっスね」
「明日からしばらく泊まりこみも覚悟でやるしかないね」
「申し訳ないっス」
「だからいいんだって。なんの準備もしていないから今日のところは帰るけど、明日からは泊まりこみの覚悟で来るよ」
「なんとお礼を言ってよいやら。姐さんにまで手伝ってもらうからには、おいら、本物のラスタマンに見まごうほど汚れきる覚悟で仕事に挑みますよ」
脳裏に「戦友」という言葉が浮かんできて、わたしはなんともいえず良い気分になった。
「姐さん、ヨレてますねー」
「お互いねー」
メルヘンの尻拭いを始めてから六日目の夜中である。
青ちゃんの一服に付き合って喫煙ルームにいる。わたしのほうはタバコを嗜《たしな》まないのだけど、寝不足のときにタバコを吸ってる人の横で、煙の匂いを嗅ぐのは好きだったりする。普段はあまり好きでないタバコの煙が、脳の血管をキュッと引き締めてくれるような感じがして、わりと気持ちがいい。目が覚める。
お互い、だらんと弛緩《しかん》しきって椅子に身体を投げ出している。
紙コップからすする自販機のコーヒーは、あいかわらず酸っぱくて、まずい。
昼間は翻訳のほうの仕事にあて、夜になるとこちらの特許事務の仕事を手伝うといった毎日が繰り返されるうちに、わたしはだんだん、女性である慎みも失いつつある。「スーツはいつでも皺《しわ》ひとつない状態で」という自分だけの心の掟《おきて》も守れなくなりつつある。青ちゃんも同様のようだ。マスカラがにじんでいても、あまり気にも留めなくなっている。
心のなかでは仕事への闘志を燃やしながら、けれど疲労には勝てずにぐったりしていると、青ちゃんが投げやりな調子で話をふった。
「姐さん、最近なんか面白い話はありませんか? 頭がこう、冴えてくるような」
憮然《ぶぜん》としてわたしが答える。
「あるわけないの知ってんじゃん。お互い、こうして仕事づくしの日々なんだから」
「そうっスよねえ。そりゃわかっちゃいるんですがねえ。ああ、安らぎたい。どこかでのんびり温泉にでも浸かって、うまいものをたらふく食って、思うぞんぶん眠りたい。それにしても思うんですけどねえ、どうして安らぎが無用なはずの働いてない人間がバカンスなんぞに行きくさって、安らぎが必要なはずの我々が会社にいるんですかね」
疲れているので適当に返事をする。
「さあなんでだろうねえ。前世の行ないが悪かったのかもね」
青ちゃんは、うおーっと叫びながら背伸びをすると、大声で叫んだ。
「ちっきしょー! なんか面白いイベントでも起こりやがれ。誰かのヅラが目の前で風に飛ばされるとか、なんでもいい、一瞬でも笑えるような予期せぬ出来事を希望っ」
その一言にふと、魔が差す。
「あるかもしれない。面白い話……」
ぽつりとつぶやいてみる。すると青ちゃんはくるりと振り返って、目を輝かせた。
「え、なんスか。もしかして、誰かと誰かがデキてるとか、その手の話っスか? 恋話《コイバナ》、恋話《コイバナ》?」
「その勘、近いような、遠いような」
「聞きましょう。じっくりと聞かせていただきやしょう」
青ちゃんは椅子に座りなおして、期待いっぱいの顔を近づけてきた。
「──誰にもバラさないって誓う?」
「誓いましょう。秘密は守ります」
「じつはわたし、来週の水曜日にお見合いする予定だったりするんだよね」
青ちゃんは一瞬ぽかんと口をあけたあと、大声で叫んだ。
「えっ、えー。マジですかっ。来週のあのお休みは、法事のために取ったんじゃなかったんですか?」
無言でうなずく。
「姐さん、なんでまた……」
「そうだねえ、どうして水曜日なんだろう。なんだかむこうの都合らしいんだけど、休みを取らなくちゃならないから面倒臭いね」
「そうじゃなくて、どうして見合いなんかする気になったのかって聞いてるんですよ」
「理由は親がうるさいから。それだけ」
すると青ちゃんはふいに心配そうな表情になった。
「そうなんですか? 本当にそれだけの理由で? もしかして投げやりになっていたりとかするんじゃないでしょうね」
「投げやり、ねえ。見合いするっていうのは投げやりなのか。そうかもしんない」
なにもかも面倒くさい気分で返事をしていると、青ちゃんはいきなり物分りのよさそうな顔になってうなずいた。
「姐さん……わかりやした」
「なにが?」
「今の恋に、疲れたんですね」
驚くと同時に、激しくうろたえる。どうして話がそうなるのか。
「いや、その、そういうわけでは全然ないんだけど」
けれど青ちゃんはひとりで納得して、勝手に詠嘆した。
「そうかあ。姐さん、そこまで辛い恋をしていたのか。ていうか、こりゃ参っちまいましたね。来週の水曜っていったら、もうあと一週間と一日、いやもう日付が変わったから、ちょうど一週間後の今日じゃないですか」
「いや大丈夫だよ。仕事の件なら休日出勤して水曜までには必ず片付けるつもりだから」
「仕事の話なんかじゃないですよ。なんていうかその、おいらの心の準備がまだ……」
「青ちゃんの心の準備?」
すると青ちゃんはなぜか頬を赤らめ、頭をかきむしって叫んだ。
「別に見合いするのは姐さんであって自分じゃないのはわかってるんですがね。なんていうかこう……ああっ、どう表現していいのかわからない、おいらの今のこの気持ち。姐さんが恋に疲れて親の言いなりに結婚するなんて、おいらは嫌だあ! 姐さんには、姐さんには、幸せになって欲しいんだよう」
お互い疲れているので、ちょっとしたことで感情が高ぶりやすくなっているのかもしれない。冷静になろうじゃないか、な、青ちゃん、ここは冷静に。
「いや、そのだね、青ちゃん。お見合いしたからといって、すぐに結婚を決めなくてもいいんだから」
そんな言葉を口にしてから、そういえばこれは母親の台詞《せりふ》と同じだったなと、苦笑した。すると青ちゃんはまたしてもこの笑いを別の解釈で受け取り、じれったそうにこう言った。
「また余裕のあるふりをして、姐さん。そんなに追い詰められていたんなら、どうしておいらに相談してくれなかったんです」
そして何を思ったのか、ふいにわたしの手を固く握り、誓った。
「わかりやした。姐さんにはそうと決めた相手がいそうだからお誘いしませんでしたけど、いくらでも合コンの話とかあるんですよ。断定しちゃいけないかもしれないけど、親の言いなりになって見合いの席に出てくるような奴にロクな男が転がってるとは思えないっス! 姐さんが他の男に目をむけてもいいって気持ちがあるんだったら、いくらでもいろんな席に引っ張っていきますよ。おいらの力の及ぶ限り」
唖然とする。
「あ、いや、その、ええと……」
もはや何をどう答えればいいのか、見当もつかない。なにかがわたしを怒濤《どとう》のように、思ってもみなかった方向へ押し流している。
これまでの人生の大半を、自分で計画して自分でその予定通りに動かしてきたつもりだったけれども、流れに身を任せてみるというのも、あるいは面白いのかもしれない。そう考えてから、「面白い」という言葉に引っかかりをおぼえた。
面白い≠ゥ。
これはわたしのなかに今までなかった価値基準かもしれないぞ。
正体不明のなにかの蓋が、ひとつ開いたような気がした。しかし当座の面子の問題があるので、わたしは恋に疲れた女なるものを演じてみようと思うに至った。
「ありがとう、心配してくれて。わたしもうまく言えないけれど、青ちゃんの気持ちが、なんだかとても温かく感じるよ。……そうだね。そういうのも、いいのかもしれない」
すると途端に青ちゃんの顔が、まぶしいくらい明るくなったのだった。
「そうっスよ、姐さん! この世に男はごまんといます。いまのお相手だけが男じゃないですよ。姐さんにふさわしい男はどこかにきっといるはずです。さあ、おいらと一緒にこれからどんどん合コンに出ましょう。ついでにおいらも相方よりかいい男に出会ったら乗り換えちまおっかな。うはははは」
そして青ちゃんは勢いよくタバコをもみ消すと、立ち上がってわたしの肩を叩いた。
「さあ、もう一仕事しちゃいましょうか! それが片付いたら合コンです」
いいのか? これで。
コアタイムに出勤してくる人たちのざわめきで目が覚めた。
机から顔をあげ、時計を見ればもう十時だった。
しまった。多数の人に安らいだ寝顔を見せてしまった。三田村、一生の不覚!
慌てていると、ネットワークの部署の男性社員が、通りすがりに声をかけてきた。
「三田村さん、今日もまた泊まりですか。大丈夫ですか、身体」
「ええ。おかげさまでなんとか。もうすぐ山場は越えますから。それにネットワークの部署の人と違って、そうそう寝泊まりしてませんし。体力的には余力が残ってます」
「僕たちはまあ、泊まるのも仕事のうちだと最初から覚悟してるから、かまわないんですけどね。それより三田村さんも青木さんも、ちゃんと横になって寝てないみたいだから心配だな。身体って水平のところで寝るのと椅子で斜めになって寝るのとじゃ、疲れの取れ方が違いますよ。プリズン=Aかまわないから使ってくださいよ。大丈夫ですよ、内側から鍵をかければ、いくら三田村さんが魅力的でも襲ったりはできませんから」
笑いながら軽くわたしの肩を叩いて、その人は去っていった。肩を叩かれた瞬間、少し硬直してしまった。スキンシップは苦手だ。相手が男の人ならなおさらだ。
それにしてもあの人、顔はよく見かけるから知ってるんだけど、名前を知らないんだよなあ。むこうは知ってるというのに、それって失礼だよ。あとで青ちゃんに聞こう。
とりあえず喫煙スペースと区切られたリラックスルームにむかい、再び自販機のコーヒーを飲んで身体に活を入れる。
しっかりしろ、自分! 素早く目を覚ますんだ。
前回のウナギの教訓を活かすため、各種ビタミン剤、カルシウム剤、その他もろもろのサプリメントを口のなかに放り込み、それをコーヒーで流し込む。
それにしても、人に寝姿を見られたのが恥ずかしい。不覚だ、かなりの不覚だ。ここしばらくの仕事のおかげでだいぶ人間を捨てつつあるけど、それでもやっぱり恥ずかしい。こんなに寝入ってしまったのも、体力がなくなっているシグナルだろう。たしかに一度ぐらいは横になって寝ないと身体が持たないかも。
来週の水曜日の予定をぼんやりと思い、よろよろと自分の机に戻って今度は翻訳のほうの仕事にとりかかる。
駄目だ。冴えない。
英語がこなれてないのがぼんやりとした頭でもわかるし、よく寝ているときの脳の活性化した状況でなら浮かんでくるようなひらめきがないので、歯痒《はがゆ》くてならない。
それでも匍匐《ほふく》前進するようにじりじりと仕事を進めていると、電話の鳴る音がして、キタさんがそれを取っているのに気がついた。
失敗。上司に電話を取らせちゃった。
内心反省していたら、キタさんがあらぬ方向にむかってぺこぺことお辞儀しながら、電話口にむかってトンデモびっくりの挨拶を始めたのである。
「あっ、はい。三田村さんのお母様ですか。いつもお嬢様には大変お世話になっております。はい、はい、大丈夫です。こちらにいらっしゃいます。ただいまお電話のほう替わりますので」
驚いて振りむくと、キタさんがわたしに目配せして、電話を保留にしてまわしてくれた。この会社のなかでは、いま使っている携帯の電波が届かないのだ。
肉親から会社に電話って、なんかすごく恥ずかしいっ。
焦って電話を取る。
「もしもし、お母さん? どうしたの」
会社に電話がかかってくるなんて、何事だろうか。ふと不安になる。
すると母はわたしが電話に出るなり、わめいた。
「奈津美、いまからすぐに帝都ホテルのラウンジに向かって!」
思ってもみなかった言葉に別の意味で驚いた。
「帝都ホテルって、あの、例の……」
お見合いの場所の、という言葉を飲み込む。
「仲人の人と話が食い違っていたのよ。わたしは来週の水曜日と聞いていたはずなのに、今週の水曜日だったって言うのよ。それで十一時半からむこうはずっとロビーで奈津美を待ってて、予約の時間が来たから、しかたなくラウンジに移ったって連絡を寄越したのよ。お見合いの日取りを改めましょうとお願いしたんだけど、先方はとにかくラウンジでこのまま待っているから、今日中にお嬢さんに一目お会いしたいって言ってるらしいのよ。ああ、どうしてこんなことになったのかしら」
母親が興奮してあまりに大きな声で話すので、電話口からだいぶ声が外に漏れているのがわかる。部内は静まり返っていた。なんだか一斉に聞き耳をたてられているような感じだ。
「わかった。とにかくいまから行くから。ここからだと地下鉄を使って三十分ぐらいだと思う。先方にそう伝えて」
「本当にどうしてこんなことになったのかしら。来週は美容院の予約も入れておいたし、着物の用意だってしておいたのに」
「お母さん、細かいことはまたあとで」
手短かに答えて電話を切る。そしてキタさんの机の側まで近づいて、頭を下げる。
「急な話で大変申し訳ないのですが、今日の午後にお休みをいただけますでしょうか。たぶん三時ごろには戻ってこられるとは思うんですが……申し訳ございません」
するとキタさんはなんだか頬を赤らめながら、しきりとうなずいた。
「だ、大丈夫ですよ。早く行ってらっしゃい」
それからあわてて付け足すように言ったのだった。
「そんなに急いで帰ってくる必要はないですからね」
その言葉ですべてを悟る。これは……全部聞かれていたな。最悪だ。
地下鉄の改札を抜けると、帝都ホテルまでの道順を地図で確認した。
ヒールの音を鳴らしながら小走りに急ぐ。寝不足の身体が重い。心臓に悪影響を与えている感じだ。また倒れて病院に運ばれたらどうしよう。
大丈夫だ。今度はサプリメント飲んでるから。
自分で自分に言い聞かせる。しかしあまり気休めにはならない。
苛立ちながら歩く。帝都ホテルまでの地下道の距離は長い。表示を見ると、まだ三百メートルほどもあるようだ。
見合いなんか、しようと思うんじゃなかったと、いまさらながら後悔する。
地下道がようやく終わって帝都ホテルの地下の入り口にたどり着く。エレベーターを探したけれどもすぐには見当たらないので、近くにあった階段を駆け上る。無事にロビーに出た。着物で着飾ったお嬢さんと母親の組み合わせが二組ほど目についた。
帝都ホテルって縁がなかったけど、お見合いに使われるホテルなんだと知り、ひとつ学習した気分になる。
ラウンジはたしか十七階。
磨き上げられた金色のエレベーターの扉に、自分の姿が映った。鼻がテカっている。吹き出物が目立っている。眉のラインが半分消えかかっている。口紅は落ちている。髪は脂ぎってペタッとしている。そしてなにより……スーツがヨレてる。
見たくなかった。というか、見せたくなかった。誰に対しても。
ギンポ君とのお見合いの成り行きよりも、いま自分が人からどう見られているかのほうが気にかかった。仕事での泊まりこみで多少ヨレた姿になっているのは、社内では勲章でもあるけれど、このホテルという場所ではただの敗北だ。おなじエレベーターに乗り合わせてきた着物姿のお嬢さんと自分の対比に、なんともいえない複雑な心境に陥る。
ま、いいや。お見合いがどんなものか、雰囲気を知るだけでも社会勉強にはなるだろう。今日はそれなりに価値のある一日なのだと無理やり自分を納得させていると、十七階にエレベーターが到着した。
トイレに立ち寄ってメイクだけでも直そうかなと迷ったのだが、時間のほうを優先させようと決める。相手は長いこと待っているわけだし、いまさらメイクを直したからといってどうだというのだ。初手からケチがついている。
それに──どうせたいした顔じゃないしな。
多少ふてくされた気分でそう思う。
青ちゃんはわたしをよくこう慰めてくれる。
(姐さん、一度でいいからおいらに顔をいじらせてくださいよ。おいらこれでも学生のころ、メイクアップアーティストになるためのスクールにも通っていたの。だからおいらに任せてくれたら、もっと姐さん本来の魅力を引き出せますよ。姐さん、けっこう南国系の顔立ちの美人さんですぜ。派手めにメイクすれば別人になれますよ)
けれどわたしは冷静に自分の容姿を受け止めている。わたしはブスだ。しかも地黒だ。
姉とは何から何までまるで違う。
ラウンジの受付で、母親から伝え聞いていた仲人の名前を告げると、予約されていた席に案内された。日比谷方面が見渡せる窓際の席には、おばさんがなぜか三人、そしてギンポ顔の男の人が一人という構成で談笑していた。テーブルの上の食べ物はもうほとんど食べ散らかされている。
かるくギンポ君を観察してみる。
中肉中背。顔はギンポ似ってことを抜かせば、ま、どこにでもいるビジネスマンって感じかな。服装のほうは可もなく不可もなくのスーツ姿。とくに上質でもない。かといって安物でもない。特徴のない人だなあ。ギンポっぽい顔以外は。
瞬時にそんな感想を持つ。
「お客様をご案内いたしました」
ウェイターがそう告げると、視線がわたしに集まった。
相手は相手で、わたしを観察して、瞬時になんらかの感想を抱いたのがわかった。多分、あまり良いものではないだろう。けれどかまうものか。まずは頭を下げる。
「せっかく貴重なお時間を割いていただきましたのに、遅刻しまして大変申し訳ございません。三田村奈津美です。こちらの不手際で一週間ほど日取りを間違えてしまいました。とんだご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。わたしがお母様に伝え間違えたんだと思うの。ごめんなさいね。それよりどうぞ、お座りになって」
仲人役らしい太めのおば様に席をすすめられて、かるく会釈して着席する。
「ご紹介するわね。こちらが神保英一郎さん。そのお隣が神保さんのお母様で、神保紀子さん。わたしたちとは、フラワーアレンジメントのお教室がご縁で知り合いましたの」
「はじめまして」
ひとりひとりに会釈しながら挨拶する。
太めの二人がオブザーバーで、やや痩せた一人が相手のお母さんか。なるほど、お母さんのほうはたしかに顔立ちがギンポっぽい。ギンポ君は母譲りの顔なんだな。相手の話に軽く相槌を打ちながら、ウェイターにコーヒーだけ注文する。
「お食事はもう済ませていらっしゃったの?」
仲人役の一人に尋ねられて首を横にふる。
「いいえ」
「あら、じゃあいけないわ。なにか召し上がらないと」
ほとんど無理やりメニューを受け取らされる。
いま食事をするのは拷問に等しい。腹が満ちたら居眠りしそうだ。困惑してると、仲人役のもう一人から助け船が入った。
「あまり無理に勧めてもかえってご迷惑かもしれないわよ。これから若い人たちだけで、また別の場所でお食事かお茶でもなさるんでしょうし」
するとおば様たちはここでなぜかオホホホと声をあわせて笑った。
「それもそうね。あまりわたしたちがでしゃばるものじゃないわね。それじゃ本当にコーヒーだけでよろしいのね。でもケーキぐらい召し上がったら?」
「はい、ではそうさせていただきます。お気遣いありがとうございます」
ウェイターが温めたカップを運んできた。目の前で銀のポットからコーヒーがなみなみと注がれた。コーヒーに口をつけ、一口すする。
う、うまい!
さすがに会社の自販機コーヒーとは違う。この瞬間、うっかりほっと一息ついてしまった。状況が状況なのに、ソファの座り心地の良さとうまいコーヒーは、修羅場からやってきた自分には快適すぎる。この緊張の緩和に、不用意に口を滑らせてしまった。
「ひさしぶりに美味しいコーヒーを飲みました。ここのところ会社に泊まりこんでいたので、自販機のコーヒーばかりだったんですよね」
その場に衝撃が走ったのがわかった。しまった。いまの発言で、おば様たちが引いた。あきらかに。
するとそれまで黙りこんで上目遣いにこちらを観察している風情だったギンポ君が、口を開いた。
「会社に泊まりこんで働いてるんですか?」
「ええ、まあ……。いまちょっと諸事情により修羅場なので」
「大変なお仕事なんですね」
ギンポ君もとい神保さんは、妙に納得したような顔でうなずいてニヤリと笑った。その笑い方に、ふと、妙なひっかかりをおぼえる。
しかしこの些細な違和感について深く追及する間はなかった。なぜならおば様たちがほとんど同時に口を開いたからだ。
「ひどい会社ねえ。女の子をそんな泊まりこみさせてまで働かせるなんて」
「わたしの家の娘も銀行で働いていて、だいぶ帰りは遅いんですけどね。泊まりこみなんてことは絶対させませんわよ」
「それでだいぶお疲れなご様子なのね。なんだかいただいたお写真とまるで雰囲気が違うから、どうしたのかしらと思っておりましたのよ」
会話のすべてにげんなりする。
(そういえば忘れていたよ、こういう雰囲気)
わたしが最初に就職した大企業は、みんなが保身にだけ熱心だった。つまりお役所的なノリがある古い体質の企業だったのだけれど、あの、できる限りひとりひとりの責任を分散させ、あいまいにしようとする体質が鼻について辞めてしまったのだ。どうしてなのかはよくわからないが、この女性たちの言葉のひとつひとつが、当時のなんともいえない不愉快さを思い起こさせた。
わたしは自分の仕事に全プライドをかけて働いているんだ! ほっといてくれ。
立ち上がってそう叫びたくなる。もちろん顔には心とはうらはらに柔和な笑顔を浮かべてはいるつもりだ。
「会社ではどんなお仕事をしてらっしゃるの?」
「主には米国向けに特許出願する文書の英翻訳ですね」
「英翻訳というと、日本語を英語に訳すのかしら」
「そうです」
「難しそうなお仕事ねえ。わたくしも主人の転勤で二年ほどアメリカで暮らしたことがあるんですけどね、結局英語はさっぱり上達しないまま。未だに日常会話もままならないわ」
身辺調査的な、退屈な質問に答える。そのわたしの横顔を、まったく会話に加わろうとしないギンポ君が面白そうに観察しているのをひしひしと感じる。
なんなのだ、この人は。
微妙に居心地の悪い思いをしながら、質問をさばいていく。やがて二十分ほどで質問の種も尽きたころ、三人のおば様たちは、目配せしあった。
「それじゃわたしたちはそろそろ……」
「そうね、お若いかただけにして差し上げないと」
おば様の一人がウェイターを呼び寄せ、テーブルで会計を済ませた。するとおば様たちは、軽く会釈をして、わたしたちを残して去っていった。
二人だけになってしまった。
内心とても焦る。
こういう場合、どうすればいいんだろう。ていうか、早くこの場を去りたい。間が持たないし、なにより時間がもったいない! 仕事仕事仕事仕事ォ!
考えれば考えるほど、いまが時間の浪費に思えて耐えがたくなる。しかしギンポ君はゆったりとした動作でタバコを取り出し、のんびりわたしの許可をもとめた。
「吸ってもかまいませんか?」
なかば投げやりに返事する。
「ええ、どうぞ」
「やっと行ってくれた。やれやれって感じですね」
ギンポ君はソファに深々と身体を沈めると、ぷはーっとタバコの煙を吐き出した。そしてわたしにこう告げた。
「そろそろ場所を移しましょうか」
内心、絶叫したいような思いにかられる。
まだお付き合いしなくちゃならないのかーっ。
はやく終わりにしてくれ! わたしは帰って仕事がしたいんです。
しかしわたしの心の叫びは、当然、相手に伝わらなかった。わたしはぎこちなく笑顔をつくると、正直な気持ちとはまったく正反対の相槌を打った。
「そうですね、そういたしましょう。神保さんはこのあたりでどこか適当なお店をご存じですか?」
「僕も詳しくはないけど。たしかこのホテルの地下にお茶できるところがありましたよ。そちらのほうに移りましょうか」
残してきた仕事を思いながら、泣きたい気分でこの言葉に従った。
エレベーターに乗って地下へと降《くだ》っていると、ふいに嫌な気分に襲われた。思い当たる理由がない。謎の感情に悩まされているうちに、地下一階のフロアに到着した。ギンポ君は妙に慣れた様子でわたしに尋ねた。
「ここでいいですか?」
「はい」
カジュアルフレンチのお店は安っぽい白い籐の椅子にガラスのテーブルで、壁にはこれまた安っぽい白い額縁のリトグラフが飾ってあった。カジュアルを通り越して単に安っぽいだけの店だったけど、メニューを見たら値段だけは一丁前に高かった。馬鹿らしいとは思いつつも、八百円もするブレンドのコーヒーを注文する。するとそこでまたギンポ君に尋ねられた。
「吸ってもいいですか?」
「どうぞ」
よくタバコを吸う人だ。ギンポ君はタバコに火をつけると、のんびり煙をくゆらせた。なんの話題を出すでもなく、ただ煙越しにわたしを観察しているようだった。こちらも疲れているので無理に話題を盛り上げる気力もでない。黙ってコーヒーが運ばれてくるのを待った。
このレストランのなかには他にも「お若いかただけ」にされたらしい二人連れが何組か席に着いていた。女性のほうが着物姿なのでそうと知れる。
その時、ふっと、ある歌が脳裏に浮かび上がった。
(わたしたちこれから、いいところ)
そうだ、この歌は、お姉ちゃんとわたしがねだって、お父さんが買ってくれたレコードに入っていた曲だ!
レコードのジャケットには、ミニスカートをはいたお色気たっぷりの人気アイドル二人が写っていた。あのレコードを厳格な母が買ってくれるはずもない。
妹はまだ生まれて間もないころだったと思う。どういう流れでかは忘れたが、父について姉とパチンコ屋に行って駐車場で遊んでいたら、しばらくして機嫌のいい父が店から出てきた。そしてわたしたちにこう言ったのだ。
「何か欲しいものがあったら買ってやるぞ」
それでねだったのがあのレコードだった。
家に帰ってさっそくレコードに針を落とし、振りをつけて歌って踊った。当時、子供のあいだで、その二人組の歌手の振り付けで歌うのがとても流行していたのだ。
「わたしたちこれから、いいところー」
姉は小学生で、わたしはまだ保育園に入ったばかりの時期のように記憶している。するとそこへ血相を変えた母がやってきて、いきなり針を持ち上げてレコードを止め、怒鳴った。
「なんです、この歌は! 淫《みだ》らがましいっ」
姉とわたしは、あっけにとられて母の顔を見上げていた。
淫らがましい。
その言葉がどんな意味を持つのか正確には知らなかったが、母の形相から何かを感じ取った。なんだか自分たちが咎《とが》められるような存在になった気がした。
父がヘラヘラと笑って母を制した。
「別にいいじゃないか、そういうご時世なんだから」
すると母がいどむような目つきで父を睨《にら》んだ。
「たまに家に帰ってきたと思えば、子供にこんなレコードを買い与えて。あなたって人は父親としての自覚がないの?」
父は黙って肩をすくめて、縁側に座って背をむけ、ただタバコに火をつけた。
それまでの楽しい気分はいっぺんで吹き飛んでしまった。
わたしと姉は母の剣幕に押されて、父母をオーディオセットのある居間に残してそっと子供部屋へと逃げた。そのあとはよく憶えていないが、たぶん父は、例によって夕方になるのを待って、どこかのスナックへでも消えてしまい、おそろしく機嫌の悪い母と、わたしたち姉妹だけで気まずい食卓を囲んだのだろうと思う。
そうだ。エレベーターで二人っきりにされたとき、あのときのあの母の声がふいに意識の底でよみがえったのだ。
(淫らがましい)
また猛烈に気分が悪くなった。
駄目、こんなところにいちゃ。……はやく帰って、仕事をしなくちゃ。
運ばれてきたコーヒーを、無意識のうちに一気に飲み干す。
するとギンポ君がようやく声をかけてきた。
「大丈夫? 本当はおなか空いてるんじゃないんですか」
ハッと我に返った。ギンポ君のコーヒーはカップになみなみと注がれたまま、手付かずで残っていた。自分の思念にかまけるあまり、相手の飲み食いと歩調をあわせるという常識を忘れていた自分を恥じる。
「いえ、食欲は本当にないんですけど」
「じゃあコーヒー一気飲みの理由は、仕事で疲れて、僕と話していても寝そうだから?」
正直に答える。
「……すいません、そうなんです。ちょっと寝不足で。もう一杯おかわり貰います」
手をあげてウェイターを呼ぼうとすると、ギンポ君がそれを制した。
「いいですよ、そんなに無理しなくて。三田村さんは本当に疲れてるみたいだ。僕としては今日のところはお会いできただけで十分なので。今度ゆっくり飲みにでも行きましょう。忙しいところお呼び立てしてしまって申し訳なかったですね」
「いえ、そんな。こちらこそ遅刻するやらなにやらでご迷惑かけてしまって」
ギンポ君は謝るわたしにニヤリと笑いかけながら、同じようにコーヒーを一気に飲み干した。そして請求書を手に席を立った。
「じゃ、行きましょうか」
慌ててその後を追う。時間が短くて済んだことにホッとしながらも、ギンポ君の「ゆっくり飲みにでも行きましょう」発言に、ぼんやりした頭のどこかがひどく焦っている。そしてもうひとつ焦っているのは、目先の件についてだった。
こんなとき会計はどうすればいいんだ。
仕事のヤマを越えたらお見合いのマニュアルを読もうと思い「すぐに役立つ冠婚葬祭」とかいう本だけは買っておいたけど、まだ目は通していない。会社に領収書を廻せるのならおごらされてもさしつかえないと思うわけだが、こういうプライベートな飲食代はどうするのが一般的なのだろうか。
「神保さん、あの……」
お財布を取り出そうとするとギンポ君はそれも制して言った。
「ここは僕が持つものですよ。外で待っていてください」
相手のほうが場数を踏んでいるようなので、言われるままにレストランの外に出る。
ギンポ君が出てきたので、ペコリとお辞儀をする。
「ごちそうさまです」
「いえ、どういたしまして。ところで携帯の番号を聞いておいてもいいですか?」
一瞬なにを言われたのか理解できなくて混乱する。
「あっ、ええ。はい」
言われるままに自分の番号を教えると、ギンポ君はその番号をプッシュして、わたしの携帯を一度だけ鳴らした。
「ここ、地下だけど電波届きますね。僕の番号はそれですから」
妙な押しの強さに負けて、あやつられるように番号を登録する。そしてこう提案された。
「三田村さんは地下鉄ですか? でしたらここから駅までご一緒しましょう」
地下鉄へと続く道を歩きながら、ギンポ君に尋ねられた。
「お見合いは僕で何人目です?」
なぜそんなことを聞くのだろうといぶかしみながらも正直に答える。
「これが初めてのお見合いです」
「そうじゃないかなとは思ったけど、そうでしたか。じゃあ、このお見合いのシステムって知ってます?」
「システムというと」
「どうしてあのお見合い婆さん連中が我々の世話を焼くのかについてですよ」
言われてみれば不思議である。そういえばそれについてはまったく考えてもみなかった。なんとなく、世間にはそういう世話焼きが好きな人たちがいるんだろうぐらいに思って済ませていた。なにか謎があるのだろうか。率直に尋ねてみる。
「どうしてなんですか?」
「双方の親からね、同席していたあの婆さん連中に、お礼として一人一万円ぐらいずつ支払われているんですよ。あの人たちは都内でそういうネットワークを組んで、適当な相手同士を紹介しあって小遣い稼ぎをやってるわけです。ですからあの婆さん連中は、昼に身支度して出てきて、帝都ホテルで飲み食いして、適当に談話して、最低で二万円からの収入を得たわけですよ。ね、なかなかおいしい商売でしょう? 僕レベルの男だと一万円だけど、医者なんかの紹介となると、もうちょっと相場は上がる」
これまた素直に感心する。
「なるほど! いいお話を聞かせてもらいました。そんなビジネスもあったんですね」
「やっぱりご存じなかったですか」
その声にはちょっとわたしをからかうような響きがあった。けれど疲れもあったし、別に笑われても気にするようなことでもないので、素直にうなずいた。
「とても勉強になりました。ありがとうございます」
今度はギンポ君の目が眼鏡の奥で三日月のように細く笑った。
「地下鉄は日比谷線ですか? それとも有楽町線?」
「あ、有楽町線です」
「ではここでお別れだ。また連絡しますよ。今度会ったときには、どうしてあなたがこんな人身売買の市場に出てきたのかをじっくりと聞かせてもらいますから」
ギンポ君はそう言うと、改札のむこうへと消えていった。
*
思ったよりもはやく見合いは終わってしまった。ある意味、とってもありがたい。しかし冷静に考えてみると、これから会社に戻る勇気もない。好奇の視線に晒《さら》されるのは目に見えている。仕方がない。こうなったら一度マンションに帰ってシャワーを浴びて軽く仮眠をとって、終電ぐらいで会社にむかおう。疲れをとっておくいい機会だ。だとするとここから一番乗り継ぎがいいのは──。
てきぱきと事務的に物を考える。だんだん自分が元気になって、調子を取り戻していくのがわかる。昼過ぎの地下鉄は空いていて、座っているうちに眠くなった。
それにしてもあの人、なにか妙な感じだったよなあ。
顔が妙なのはそれはそれとして、雰囲気が妙っていうか。
コーヒーで活を入れたにもかかわらず、あっという間に眠りこけてしまって、あやうく乗り換えの駅を逃すところだった。部屋についてからさっそく会社に一本連絡を入れ、今日は夜になってから出社する旨を伝える。微妙に動転しているようなキタさんの声に、明日からが思いやられた。しかしそれもしかたあるまい。とにかくいま必要なのは、風呂、そして睡眠である。
手早く髪や身体を洗い、時計を夜の十時半に合わせてベッドに転がる。ひさしぶりのまともな寝具に寝つきは悪かったけれど、それでも目を閉じているうちに、いつの間にか眠りに落ちた。次に目を覚ましたのは、時計の音ではなくて、けたたましく鳴る電話の音によってだった。
もうちょっと眠らせてくれ。すまん、身体がしびれて、起きられない。
そう思った瞬間、ハッとして身体を起こした。
なにか重大なトラブルが発覚して連絡を必要としているのかもしれない。しつこく鳴る電話をあわてて取ると、
「奈津美? どうして連絡を寄越さないの」
という第一声が聞こえてきた。おもわず不機嫌になる。
「なんだお母さんか」
「なんだじゃないわよ。お見合いの首尾はどうだったのか一言も連絡してこないで、この子は。いままで神保さんとご一緒してたの? もしかしてそちらに神保さんがいらっしゃるの?」
ムッとして声を荒らげる。
「いるわけないじゃない。いま仮眠をとってたとこだよ。これから会社に戻って仕事しなくちゃならないんだから」
時計を見ると、八時半だった。ますますムカつく。母の電話さえなければ、あと二時間はきっちり身体を休められたのに。
「これから仕事ですって? 奈津美の職場は水商売なの? だいたいどうしてあんな名も知れない企業に転職したのよ。お母さんに何の相談もなく、いつだってあなたって子は勝手に物事を決める。それがそもそもの間違いの元なのよ」
母の言葉のなにかが猛烈にわたしの怒りを誘った。
「うるさいなあ。そういうふうだからお姉ちゃんがああなっちゃったんだ! みんなお母さんのせいだ」
口にしてから、ヒヤリとした。
わたしは家族みんなが無言のうちに取り決めていた、決して触れてはいけない部分、そのどこかに抵触した。そんな気がした。
母が尋ねた。声は低く、怒りを孕《はら》んでいるのがうかがえた。
「それはどういう意味なの」
わたしは電話のこちら側で無言になった。
この際、本音を吐いてやろうか。ふとそう思う。
いつだって姉を抑圧してきたのはあなたじゃないか。あんな綺麗な人が、ただ年をとってしまったのはお母さんがいつも性にまつわるすべてを汚らわしいかのように叩き込んできたからだ。それがいまになって、世間並みに生きろという。世間並みに恋のひとつもすることを許さなかったのは、あなただ! そして、妹のなずな。姑の手前、男の子が欲しくて妊娠したんだろうけど、女だとわかった途端に無関心になって。可哀相じゃないか! おまけに、あれだけ夫婦仲が悪かったのに、セックスだけはしてたっていうのが、気持ち悪いんだよ!
考えているうちにだんだん凶暴な気分になってきた。戦闘モードに入ろうとした瞬間、受話器のむこうから聞こえてきたのは嗚咽《おえつ》だった。
「そうやって、なにもかもわたしのせいにすればいいのよ。ええ、どうせ悪いのはみんなわたしよ。不都合なことはみんなわたしのせいにすれば気が済むんでしょう? 奈津美の部屋にあった本を見たわよ。『母親は首に巻きつく蛇』ですって? なんでもそうやって親のせいにしているからひとり立ちできずに家庭のひとつも作れないのよ!」
見たんだ、段ボールに入れて実家に隠しておいた本を。ガムテープを引きちぎって梱包《こんぽう》を解き、中をのぞき見したんだ。
汚れた下着を見られたような恥辱感にまみれ、言葉が出てこなかった。受話器のむこうからは、勝ち誇ったような母の声が聞こえてきた。
「お母さんは奈津美の年にはもう結婚して、お姉ちゃんを育てていたわ。大きな口を叩くのなら、女としてそれくらいの仕事をしてからにして欲しいものね」
無言で電話を叩き切った。
追いすがるように電話がまた鳴り始めたが、モジュラージャックを根元から引き抜いて放置した。携帯の電源も切った。わたしは会社へとむかう支度を始めた。
怒りはカフェインよりも眠気に効くなーと、苦笑する。
会社へとむかう地下鉄は、帰宅する人の群れとは逆方向なので空いている。車中でも少しは睡眠をとりたいのに、高ぶった気持ちの処理ができない。あの場でとっさに言い返せなかった自分が悔しい。
幾度も頭のなかでシミュレーションして次に備えようと思うのだが、思い出すたびに、ただふつふつと怒りが湧きあがるばかりで駄目だ。感情の抑制が利かない。わたしは以前からこんなに感情の起伏が激しい人間だったろうか。
ふっと笑いがこみあげてきた。馬鹿みたいだ。
寝不足の身体で息を切らしながら地下鉄の階段を上ると、不夜城のようにいくつかのフロアに明かりを残した高層ビルが見えた。
わたしの会社。
頭を切り替え、息を整えながら歩く。フロアにはまだ人が残っているから好奇の目を向けられるだろうが、かまうものか。IDカードでセキュリティシステムを解除してドアをあけ、自分の席へとむかう。すると残業していた青ちゃんが振り返り、パッと笑顔になり一声叫んだ。
「姐さん、お帰りなさーい」
その一言に、ふいに胸を衝《つ》かれる。
不覚にも涙が出そうになる。馬鹿、こんなところで泣くな。自分に言い聞かせ、笑顔をつくる。
「ただいま。どう、進んでる?」
「はいっ、こちらの仕事のほうは粛々《しゆくしゆく》と進めておりますです」
「わたしへの連絡とかあるかな」
「んー、とくに何もなかったみたいですけど」
「わかった。ちょっとメールだけチェックしたらそっちに合流するから待ってて」
「了解。お待ちしております」
マシンを立ち上げ、パスワードを入力する。認証してデスクトップにアイコンが並ぶあいだ、パーティションの陰でそっと涙を拭う。
青ちゃんの、『お帰りなさい』の一言を、思い出すとなぜかまた泣きそうになる。自分を笑わせようと何かネタを考える。
外に出れば男には七人の敵がいると、昔の人は言ったけど、あれは嘘だな。会社ほど居心地のいい場所はないから、みんな過労死したんだ。家庭なんかいらない。それでも結婚した男の人はたぶん、雑用をこなしてくれる家政婦が必要だっただけなんだ。
ここでちょっと溜まっている洗濯物を思い出す。
よし、そうだ。次のボーナスでは乾燥機と一体型の全自動洗濯機を買おう。
だんだん元気がでてきた。メールをチェックしたら、届いていたのはメーリングリストで流されてきたどうでもいい業務連絡が数件と、青ちゃんからのメールだけだった。
姐さん、お見合いのほう首尾はどうでした? キタさんがなんか落ち着かなげだったスよ。あと、ネットワークの桑田さんから喫煙室でだいぶしつこく今回の件について尋ねられちゃった。相手どんな人だか知ってるかって。このー、男泣かせさんっ
ここで首を傾《かし》げる。
ネットワークの桑田? 誰だろう、思い出せない。もしかして忘れっぽいのも涙もろくなったのも、老化か?
不安になったので立ち上がり、青ちゃんに声をかける。
「青ちゃん、仕事のまえに一服どう?」
「ういっス」
待ってましたとばかり、青ちゃんが立ち上がる。なんだかやけに嬉しそうだ。
「わたしはコーヒーだけど青ちゃんは?」
喫煙室の自販機のまえで尋ねる。
「あれ、姐さんのおごりっスか? なんでまた」
「いや、まあ。なんとなく」
「じゃあせっかくなんで八十円じゃなくて百円のほうのスペシャルコーヒーをミルク入りで。ゴチになります」
「スペシャルコーヒーね。はい。ミルク増量?」
「ええ、そいじゃ増量で頼みます。それで姐さんの気が落ち着くなら」
増量のボタンを押しながら振り返ると、顔じゅうでニターッと笑っている青ちゃんが立っていた。ちょっと引く。
「何? その笑顔は」
「いや。首尾はどうだったのかなあと思って」
幸い周囲に人はいない。コーヒーを手渡しながら尋ねる。
「お見合いは反対してたように思ったんだが、違うの?」
「いえ、もちろんいまでもその気持ちに変わりはないですよ。でもね、この一件で、けっこう先輩が社内の男どもに人気があったんだってのがわかっておいら誇らしいな」
「社内の男どもっていっても、たんに噂好きな人がいたってだけの話でしょ。ところでさ、その問題の桑田って人だけど、誰だっけ?」
「あっ、ひでえ。相手の名前も覚えておいてやらないなんて、これだから男泣かせは。あそこに座ってまだ仕事してる、筋肉質の、ブルーのワイシャツのイイ男」
青ちゃんの指差す先を見て、ようやく記憶と名前が一致する。
「ああ、あの人か!」
そこに座ってマシンにむかっていたのは、今日の午前中寝起きのわたしに声をかけてくれた彼だった。
たしかに青ちゃんの言うとおり、ワイシャツごしにも、筋肉質な、均整のとれた身体が見て取れる。腹筋、背筋ともによく鍛えてあるのだろう。背筋がしゃんとしている。
記憶の底を探る。
しかしどこで接点があっただろう? 飲み会で同席していたとか、あったっけ?
困惑してると、青ちゃんにバンと肩を叩かれた。
「ねえ姐さんってば。だからはやく教えてくださいよ、お見合いの首尾!」
「首尾といわれても、なにもないよ。それよりもその男泣かせっていうのは一体何?」
そう言ってから、不満げな青ちゃんの顔にサービス精神が出てしまい、つい付け足す。
「ま、携帯の番号を尋ねられたくらいかな」
すると青ちゃんは大いに満足げに笑った。
「やっぱりなあ。こうでなくちゃあ」
「なにがやっぱりこうでなくちゃなのかな。青ちゃん、さっきから言動が不気味だよ」
「いや、ですからね、姐さん──この際、不誠実な男なんて忘れちゃいましょう。見合いの男は適当にあしらって。報告ですが、まずは合コン第一弾決まりましたんで。ネットワークの部署の男の子たちと飲みに行くの決定しましたから。来週の金曜日、夜七時から。おいらと飲みに行こうと約束してた日だから大丈夫ですよね」
驚愕《きようがく》する。
「ご、合コンー?」
「まあウチの社内の男どもなんでショボいっちゃショボいですがね。手始めにこのあたりから行くのが妥当じゃないかと。しかし自分としては今日は大満足ですわ! この青が見込んだ姐さんは、男どもも一目置いていたと。こうでなくちゃ」
満足げな青ちゃんはタバコを取り出し火をつけて、スパーッと吹かした。
「ジャグジーに使うフレグランスのほうはいかがなさいますか?」
「えーと、よくわからないので、適当に」
「では柑橘《かんきつ》系などいかがですか?」
「じゃあそれで」
お見合いする予定だった水曜日、わたしと青ちゃんはフォーシーズンズホテル椿山荘《ちんざんそう》のゲランのエステにいた。日曜の深夜というか月曜の早朝、仕事が終わった昂揚感のなか、がっちり互いの手を握り締めあったわたしと青ちゃんは、例によって喫煙ルームでお喋りを楽しんだ。興奮がわたしたちをなかなか寝付かせなかった。疲労のあまりナチュラルハイになっていた。メルヘンの悪口を連打するように言い合った。なにを見てもなにを言っても二人で笑えた。そのとき青ちゃんに、聞かれたのだ。
「休暇をとったままになっている水曜日はどうするつもりなんですか、姐さん」
「あんま考えてない。まあ、寝てるかなんかするかな」
「そんなのつまんねえっスよ。そうだ、こうしませんか、なんとあのおゲランのエステがですねっ、いまの期間なら半額ぐらいで施術してもらえるらしいんですよ。たしかボディのコースが一万六千円ぐらいでした。予約入れて一緒に行きません?」
「エステって足裏より気持ちいい? 気持ちよくないなら足裏のほうがいいんだが」
「あーっ、なんでそうなるかな。姐さん、女を磨きましょうよ、女を!」
べつに磨きたくなかったが、押し切られて青ちゃんの言葉に従う結果になった。
「ご用意のほうはよろしいでしょうか」
ジャグジーで身体を温めてから、少し照明を落とした部屋に案内され、施術用のベッドに横たわった。するとエステティシャンがわたしの身体にバスタオルをかけながら、するするとその下のバスローブを脱がせていった。オイルを塗ったエステティシャンの柔らかい手がわたしの足の先からマッサージを始めたら、あっという間にうっとりしてきた。
おお、こりゃあ良い! この世にこんな気持ちいいものがあったとは。
まるで催眠術でもかけられたかのように、わたしは速攻で寝入ってしまった。そしてエステティシャンの声で起こされるまで、ひたすら眠ってばかりいた。
「お客様、以上でコースのほうは終了させていただきました」
「あ? はい」
ぼおっとしながら着替えてメイクルームにむかい、そのへんにあるゲランの化粧水や美容液を適当につけて例によって例のごとく雑にメイクを済ませたあと、受付のソファに戻った。するとそこには青ちゃんが先に座って紅茶を楽しんでいた。
「お待たせー」
声をかけると青ちゃんは雑誌から目を離し、尋ねた。
「お、姐さん。今日はいい色艶じゃないですか。ファンデーションどれ使いました?」
「わからない。なんか適当に」
「駄目じゃないスか、型番を控えておかなくちゃ」
「型番を控える……なんのために?」
「なんのためにって、女として美を追求しようとか思わないんですか?」
「いや全然。でも安心してくれ、青ちゃん。エステには通うよ。足裏より気持ちいかったから。こりゃあ極楽だわ」
「そうじゃなーい!」
ブツブツ言ってる青ちゃんを従えながら、ゲランを後にする。
「で、青ちゃん、このあとどうする? おなか空いたよね。まずはどこかで美味しいものを食べたいなあ。このホテルのランチなんかどうよ」
すると青ちゃんは腕を組んで、じーっと一点を凝視して考え込んだ。そしていきなりこう告げた。
「姐さん、ひとつお願いがあるんですが、いいですか」
「うん? よくわからないけど、青ちゃんの願いならどんな申し出でも従おう。なんでも言っていいよ」
多少の不安は感じつつもそう返事をする。すると青ちゃんは凄んでみせた。
「その言葉に嘘はないですね」
「あー、うん。ないかな。うん、ないと思う」
「じゃあ決まりだ。今度の金曜日、合コンの日は、おいらが指定する服を着て、おいらに顔をいじらせてください」
「ちょ、ちょっと待った!」
青ちゃんが、鬼のような形相になって迫ってきた。
「なんです、姐さん。女に二言《にごん》はないと常々言ってましたよね。どんな申し出でも従うといったさっきの言葉、まだ耳に残ってますよ。もう決まりです。決定、決定。それでは昼食のあと、服をそろえに、いざ銀座!」
「ええーっ」
見合いの件といい、合コンの件といい、なにかの流れに身をまかせている自分を感じ続けていたが、もはやそれは流れというような生易しいものではなく、うず潮に巻き込まれている感じだった。
助けてくれ、だれか。
そう思いつつも、わたしは青ちゃんのあとに従った。女に二言はないと常々口にしてきた自分を激しく後悔した。
鏡のなかに映っていたのは、肩のあたりまでの長さの茶色がかった髪にゆるくふわっとしたパーマをかけた、フェミニンな印象の女だった。
青ちゃんはサロンで仕上がった髪型を見て、
「最高っスよ、姐さん」
と絶賛してくれたのだが、わたしの背中は丸まりっぱなしである。いままでいつも髪を後でひとつに束ねていた。おまけにカラーリングをするのは、生まれて初めてなのだ。
明日、オフィスに行くのが恐ろしい。
そしてさらに明後日は合コンの日である。そこにはもうふたつほど恐怖の事態が待っている。それは、服装とメイクである。
青ちゃんがわたしともみ合いになりながら、
「もういいからこれで会計してください!」
と、店員に突き出した服というのが、胸元の肌みせが多いVネックのニットで、しかも身体にフィットして、胸のラインを強調するという、じつに恐ろしい代物なのだ。それにあわせて選ばれたスカートもまたビックリである。紫を基調としたスカートだ。当日はこれに黒のブーツを履いてこいと指示が出ている。自分で服を選びに行ったら、決して手にとることもないであろうアイテムばかりだ。とくに紫という色、これには生涯縁がないだろうと思っていたのに、それを青ちゃんは合コンの日に身につけろというんである。青ちゃんは服が決まると、今度は意気揚々とアクセサリー売り場へとむかった。
「あとは胸元にボリュームのあるアクセサリーがくればバッチリですわ。男どもの視線は姐さんのゆっさゆさの胸元に釘付けっス」
すべて青ちゃんに押し切られた形となった。おまけに明後日の合コンの前には、青ちゃんは顔もいじるといきごんでいた。一体、どんな雰囲気に仕上がるのか、いまから漠然と想像がつくから恐ろしい。
鏡のまえで悶《もだ》え苦しんでいると、携帯の着信音が鳴った。
こんな時間に誰よ?
母親からの着信音だけは変えてあるので、他の人であるのはわかる。
いぶかしみながら携帯を開いて画面を見ると、そこには「神保」と表示されていたのだった。驚いて電話に出る。
「も、もしもし」
携帯のむこうから低くて渋い声が聞こえた。
「神保です。夜分、恐れ入ります。いまいいですか?」
ギンポ君の声にちょっとだけ感心する。お魚のような顔ばかり見ていて気付かなかったが、この人、声は渋くて悪くない。
「はい。大丈夫です」
「突然なんですけど、明後日の夜、お時間ありますか?」
「明後日ですか? ないです」
大型の菜切り包丁で大根でもスパッと切るように答えてから、ちょっと失礼だったかなと思い、焦る。もう少し柔らかいものの言い方をすべきだった。
電話の向こうからは苦笑が聞こえた。
「ない、ですか。また週末も仕事が忙しいんだろうか。食事でもご一緒できないかと思ったのだけど」
「そうではないんですけど。その……」
「その?」
合コンがあるからなのだと言いかけて、とっさに嘘をついてしまった。軟弱なうえに嘘つき。サイテーである。
「あの、課のプロジェクト終了の打ち上げがあるんで」
「そうですか。じゃあ、またの機会ということで」
そう言うと、さっさとギンポ君は携帯を切った。
ちょっと心拍数が上がっている自分に気付く。
なんだったんだろう。なんの目的があってわたしを食事に?
切れた携帯を手にしたまま、しばしドキドキしていると、また手のなかの携帯が鳴り始めた。とっさに通話ボタンを押してしまい、すぐに後悔する。着信音は、母親からのものだった。しかたないので腹を決めて携帯を耳に近づける。
「はい、奈津美です。なあに」
初手から母親は怒っていた。
「なあに、じゃないわよ! いつまでも見合いの返事を寄越さないで。娘と連絡が取れなくてと言い訳するの、どれだけ恥ずかしかったか」
母親は一度遅い時間帯、追いすがるように会社にも電話をかけてきたが、ミーティング中につきこの場にいないと嘘を伝えるように、青ちゃんに頼んでしまったのだ。部屋の電話はモジュラージャックが抜きっぱなしになっているし、携帯の電話は母親からだけ着信音を別にして、無視していたから、相当ご立腹なはずである。
しかし叱られてはたと気付いた。そういえば見合いの返事を放置しておいたのだった。あれから一週間経過している。たしかにこれは相手に対して失礼だろう。社会人として失格である。
母親は電話のむこうでがなりたて続けていた。
「おまけに奈津美、おまえどんな格好でお見合いの席に行ったの? 『お嬢さんは山から降りてきたような様子でいらっしゃいました』って仲人の人から言われたわ。どういう意味なのよ」
我がことながら、思わず吹き出してしまう。そうか、客観的に見るとあの日のわたしは「山から降りてきたような女」に映っていたわけか。なんとなく相手の女性が言いたいことがわからないでもない。
「なにを笑ってるの。親に恥ばかりかかせて!」
親に恥をかかせたことが、逆にわたしに爽快感を与えた。あのとき、周囲の人間にはそう見えていたというのはちょっと屈辱ではあるが、山ごもりでもして武者修行というか、それに近い状態で仕事をしていたのだから、そう見えるのも当然だ。
「そうだね、お見合いの返事のほうだけど、とりあえずしばらくは様子見というか、たまに会ってお食事をご一緒する程度には、って感じかな。前向きなお付き合いっていうの? 適当に伝えておいて」
母は不満げに念を押した。
「じゃあ、その、お付き合いを承諾ってことでいいのね。本当にいいのね。先方のかたはたいそう奈津美を気に入ったと仰っているみたいだけど……いいのね?」
その言葉のなかに、自分の娘を自慢したいような母の気分と、だからといってすんなりこれで結婚が決まってしまったとしたらかなり不満だ、という響きを聞き取って、また不愉快になったので、ちょっと母親をからかってみたくなる。
「とにかく、わたしたちもう携帯でお互い連絡を取り合ったりしているから。さっきも神保さんから電話をもらったところなんだよね。お食事の誘い」
すると案の定、母はわたしを叱り飛ばした。
「親の知らないところで勝手に話を進めるんじゃありません!」
腹のなかで笑いながら告げる。
「お母さん、わたしもうすぐ二十九だよ? 悪いけど、いちいち親の承諾を取るような年齢じゃないよ。じゃ、まあ、そういうことで」
携帯を切って、今度は声に出して笑う。母親に一矢報いて、少しだけわたしは爽やかだった。
「今日はなんだか雰囲気がずいぶんと違いますね。髪型もかえましたよね」
すっと横に割り込んできたのは、例のプリズン#ュ言の、桑田というネットワークオペレーターの男の人だった。ただいま、合コンの真っ最中である。なにせこうした催しに参加するのは初めてなので、受け答えというか、言い訳に苦労する。
「そんなに変わりましたか? いや、修羅場明けなんで、ちょっと気分を変えようかと思っただけなんですが」
すると桑田という男の人は軽く笑って、すこし声を低めて言った。
「でもあんなふうになりふり構わず仕事に必死になっている三田村さんも僕は好きだな。今日みたいな雰囲気は、もっと素敵だけど」
男の人にこんなにあからさまに褒められるのは初めてだ。酒もたいして飲んでないのに目がまわりそうである。振り返れば自分の人生、勉強、そして仕事一筋であった。しかしいまは、うず潮のなか。当座の問題は、この場をどうやって取り繕って過ごすかである。
わたしと青ちゃんを含む計六名の面子は、六本木のベトナム料理のお店で、ワインで乾杯して食事を始めたところだ。
いまからほんの数時間前、青ちゃんは張り切ってわたしをトイレに呼び出し、メイクボックスを広げ、叫んだ。筆がずらっと並んでいた。
「勝負だ、井川成子」
意味はよくわからないが、どうやら闘魂に燃えているらしいとだけは伝わってきた。青ちゃんはふき取りシートでわたしのメイクを全部取ってしまい、下地から丹念に作り直していった。リキッドファンデーションを叩き込んで、極細の筆でニキビ痕《あと》などを隠し、手で顔に影を作ったり光を当てたりしながら、まるで細密画でも描くような筆遣いでわたしの顔を塗り上げた。時間にしておよそ一時間が費やされた。とくに目の周辺は念には念を入れてアイラインの太さとアイシャドウの幅を決めた。何度も目を開けろの閉じろのと指示された。
「はい、斜め下をむいて」
ビューラーでばっちり巻き上げた睫毛《まつげ》は、マスカラを数本使い分けて仕上げられた。下睫毛にもマスカラの先端を使って丹念に繊維をつけていく。なんだか自分が一枚のキャンバスになったような気分だった。
最初は青ちゃんの筆が走るたびに、もう勘弁して欲しいと困惑していたわたしだが、青ちゃんの顔の真剣さにいつしか圧倒されてしまった。
そうして出来上がったのが今日のわたし、である。
鏡のなかの自分は、まるきり別人にしか見えない。パーマをかけた段階ですでに崩壊しそうだった自分のイメージが、完全に壊れた。
(なんだかすごく……人目を引く女に見えるんだけど)
遠くのほうで、母親の声が聞こえたような気がした。あばずれみたい、と。
しかし一昨日の喧嘩《けんか》の成果か、その声は小さくて恐怖感を与えない。
「どうです、姐さん。ね、美人に仕上がったでしょ?」
青ちゃんに感想を求められて、しばらく違和感のある自分の姿を眺めていたが、やがて腹が決まった。
(いいさ。人にどう思われても、今日はこの顔で行こう)
鏡のなかの青ちゃんにではなく、正面から目を見て、礼を言う。
「ありがとうね、青ちゃん。人の合コンのことなのにこんなに力を貸してくれて。普段は照れくさくて言えないけど、今日は言うよ。青ちゃん、いつもありがとう。青ちゃんのおかげで何度助けられたかわからないよ。仕事の上でも、気持ちの上でも」
今回の合コンをかなり迷惑だと思っていたわたしだが、よくよく考えてみれば、こんなに他人の合コンの成否に必死になってくれる友人がいるというのはなんとありがたいことであろうか。大事なのは感謝の気持ちだ。迷惑と思っていてごめん。反省しながら深くお辞儀をすると、青ちゃんは焦ったように照れながら、あわててとめた。
「いやいや、そんなそんな。お礼を言われるほどのもんじゃあないっスよ」
そして上から下までわたしを見て、嬉しそうに言った。
「しかし今日の姐さん、本当に素敵です。おいらが男だったらむしゃぶりついちゃいたいぐらい。どうです、この陶器のような肌! 寝不足でちょっと肌が荒れ気味だったのも、見事に隠れてるでしょ? アイシャドウも今日の服装にあわせて色を調合してみました」
もしも青ちゃんがわたしの母親だったら、わたしはいまどうしていたのだろう。
青ちゃんの無私の言葉に触れているうちに、ふと思った。
「僕、以前からずっと三田村さんにいろいろ聞いてみたいと思ってたんですよ」
あいかわらず桑田という男の人が横に座って、わたしに話をふっている。彼の隣には、さっきから一言も口をきかずに黙々と、運ばれてきた生春巻きを食べている中野さんという男の人がいた。三十五歳で独身らしい。いつもわたしが翻訳しているドキュメントを最終的にテクニカルチェックしている男の人はこの人だと聞いている。彼自身は特許に出すドキュメント程度なら最初から英語で自力で書いてしまう力があるため、わたしのところには彼からのドキュメントは流れてこない。
ネットワークの部署に、いい仕事をする人がいるな。
顔はよく知らなかったが、仕事上ではずっと認識していた。話し掛けてきてくれている桑田さんには申し訳ないのだけど、なぜかわたしにはその隣に座っている「中野」と名乗った男の人のほうが、やけに気になる。
「聞いてみたいって、何をですか?」
意識の半分ぐらいで桑田さんの相手をして、もう半分の意識では中野さんの動きを追っていた。今度は青パパイヤのサラダに手を伸ばしている。ただ黙々と、食べては飲んでいる。
「そうですね、たとえば休日はどんなことをして過ごしているんだろう、とかね。僕みたいな専門学校出から見ると、三田村さんみたいな女の人の日常って本当に謎だから」
「そんな、普通ですよ、普通。人のことを珍獣みたいに言わないでください」
桑田さんにみつめられて身の置き所のないような気分を味わい、あわててワインを流し込みながら、目のはしでは中野さんの動きを追っていた。
「三田村さんの普通って、どういうのを普通っていうんですか? 彼氏と映画を見に行ったりとか、そういうの?」
「彼氏ですか? そんな人いないですよ」
「また嘘ばっかり。ま、ここで尋ねても、本当のことなんて一切明かしそうにないですよね、三田村さんって。でもあくまでそう言い張るなら、どうです、土日とか僕らのチームに加わって一緒に潜りに行ったりしません?」
「チーム?」
「チームっていうか、まあ、たんにダイビングに行くのやトライアスロンのレースを言い訳に飲み会してるだけの集まりですけど。社内でヒマな遊び好きを集めて七、八人ほど男女とりあわせて作ってるんです。トライアスロンのバイクの練習をしたり。休みの日に伊豆にダイビングに行ったり」
そう言われて、休日の自分の行動を検証する。
そうだなあ、自分の土日って出勤してるか、寝てるかだよね。あとは掃除洗濯と、語学の勉強をして。おもえば趣味ってものがないなあ、わたしには。
自分の考えのなかに沈んでいると、桑田さんがあわてて付け加えた。
「まあ、チームに入ってもなにかを強制してやらせるようなことはありませんから。大学のサークルなんかよりいい加減なものですよ」
そのとき、ふと思った。
それもまた面白いかもしれないなあ。
最近、新規に登場した「面白い」という発想がまた顔を出して、わたしはうなずいた。
「──面白そうですね」
「じゃあ、参加します?」
「ええ、初心者なんでご迷惑かけると思いますが、どうぞお手柔らかに」
「よし、じゃあ決まりだ! 中野さん、チーム、ひとり参加者が増えましたよ。三田村さんが新人になるそうです。当然、青木さんも入りますよね?」
「えっ、おいらも?」
いきなり話を振られてあわてる青ちゃんの横で、わたしは胸がどきんとするのを感じた。
(あの中野さんって人も、チームの人なのか)
名前を呼ばれた中野さんは夢から覚めた人のようにゆっくりこちらに顔をむけ、まるで機械が話しているような口調でいった。
「そう。どうぞよろしく」
ダイビングのせいか、色の抜けた茶色の髪が彼を年より若く見せていた。彼はあっさりとした挨拶だけ済ませると、またぼんやりとした顔つきで食べるのに没入しはじめてしまった。
「こちら、鮮魚の香草蒸し、レモングラスとパイマックルーの香りでございます」
新しい料理が運ばれてきた。ベトナム料理なのに盛り付けがフレンチっぽくて、いちいち凝っている。たぶんシェフがフレンチ出身なのだろう。
ふと自分の財布の中身が気になる。そういえばあまり考えずにここにやって来てしまったのだが、一人当たりの予算はどんなものなのだろう。思い返すと、今日はあまり手持ちの現金がないかもしれない。いざというときはカードで払えばいいかとも思うのだが、こうした場合、女子が会計を担当して他の人から金銭を徴収するというのも、なんとなく違う気がする。この年まで「合コン」なるものを体験しておかなかった自分を悔やむ。
割り勘だったらどうしよう。その場で金がなかったら、まるで相手の支払いを期待していたかのようで格好悪すぎる。女三田村、それだけは避けたい。
入り口のところの大きな壺に投げ生けられていたのは生花だったし、使われているテーブルや照明のインテリアから察するに、コースで出される料理の値段はお安くは済まないと見た。それから最初に頼んだワインがボトルでどのぐらいだったのか想像すると……けっこうな金額になりそうな予感がする。金の不安で落ち着かなくなり、食事も喉を通らなくなる。
悶々と悩んでいると、それまで無口だった中野さんがボソリとつぶやいた。
「このワイン、いまひとつだね。もう少し良いのは置いてないの」
するとその一言で、わたしの横に座っていた桑田さんともう一人の出席者の男の人がすばやく反応して、競うように手をあげて店の人を呼び止めた。
「ワインのリストを持ってきて」
「あと、このお店でワインに詳しい人は?」
これにはちょっと驚く。二人の時間差攻撃というか、行動は、訓練されたかのような動きだった。しかもつぶやいたご当人の中野さんは、いまひとつだと評したワインの注がれているグラスを手のなかで転がしてぼんやりしているだけで、ごく当然のように他の男子二人が良きに計らうのを眺めている。
中野さんは運ばれてきた分厚いリストをこれまた当然のように受け取ると、いくつか推薦されたワインのうち後ろのほうにあるページのものを、かなり投げやりな感じで指差した。
銘柄はわからないが、リストが後ろになるほど価格が高くなるってことだけは、わたしでも見当がつく。不安が高じてきた。可能ならば、ここで一本何万のワインを注文したのか尋ねたいくらいだ。
頭のなかが完全にうず潮である。今度のワインは赤だった。テイスティングをした中野さんは澱《おり》を眺め、匂いを嗅ぎ、一口含んだ。
「うん、まあまあかな。最初からこちらにすればよかったね」
すると桑田さんでないほうの男の人で名前を忘れてしまった人が、まるでお愛想を言うように相槌を打った。
「そうですね。良い酒は酔う前に飲んでおくものですよね」
ここで奇妙な印象を受ける。なんか上下関係が存在するっていうか、体育会系っぽい雰囲気を感じるんだが、気のせいだろうか。
赤ワイン用のグラスが運ばれてきた。
「いままでのワインはいかがいたしましょうか」
尋ねられた中野さんがぼんやりとした顔のまま答えた。
「僕のは下げて」
「かしこまりました」
するとそれに追従するように、わたしに名前を忘れられた男の人が言い出した。
「女性陣もそんなに量は飲めないでしょ? だったらさっさと美味《おい》しいワインに替えちゃいましょう」
こうしてわけがわからないうちに前のワインは下げられて、新しいグラスに赤のワインが注がれた。一口味わってみる。ワインには詳しくないのでよくわからないが、たしかに美味《うま》い、ような気はする。だがしかし! このボトル一本で値段はどう跳ね上がったんだ。まるでヤミ金融に追われている負債者のように金のことばかり考えていると、桑田さんがまた話し掛けてきた。
「三田村さん、Cカードは持ってます? ダイビングのライセンスだけど」
「ないです。免許のたぐいで持ってるのは運転免許だけですね」
「じゃあ、まずはCカードを取りましょうよ」
脳の九八パーセントは金のことでいっぱいになっていたので、残り二パーセントぐらいで相槌を打つ。そうこうしていたら、いつの間にかわたしはダイビングを始めるためCカードを取るのを了承させられていた。いいのか、自分。うず潮に巻き込まれたうえ離岸流に乗って、沖合いへと流されていくような不安が襲う。ここで青ちゃんがガハハと笑いながら席を立った。
待った! わたしも行く。
会話の途中にもかかわらず、桑田さんを置き去りにして、あわてて青ちゃんに続く。
「すいません。ちょっと、失礼します」
店内を小走りに青ちゃんの後を追う。化粧室のなかでやっと追いつくと、青ちゃんはやけにご機嫌な顔でわたしの肩をバンと叩いた。
「もう、姐さんったら。さっそく2ショット状態になっちゃって。この男泣かせがー」
「なにそれ。ていうか、お金だよ、お金! ここの会計はどうなるって話をしたいんだよ。不覚にも、わたしあんまり手持ちがないんだよ! カードならあるけど」
すると青ちゃんはすっかり酔っ払った顔で答えた。
「会計だあ? ンなもなぁ、男どもに任せておけばいいんじゃないですか。なんか勝手に高げなワイン注文してたし。奢《おご》る気でいるってことでしょ」
「本当? でもさ、もしもってこともあったらわたしの面目まるつぶれだ!」
すると青ちゃんはまた酔って据わった目のままわたしの肩をどついて、言った。
「なんスか、不覚だの面目だのって。姐さんの前世は武士ですか? いいから早く席に戻って男に口説かれてなさいって。シッシッ」
青ちゃんに相談しても無駄なのを悟る。
恥をかく覚悟を固めて席に戻ると、桑田さんが笑みを浮かべて待っていた。ふと気付いたようにわたしのグラスを見る。
「なんだ、もう空いてるじゃないですか。ダメだなあ、ここのウェイター」
手をあげてグラスに注ぐように命じている。一本どれぐらいするワインなのか知らないが、また金が湯水のごとく使われているのは間違いない。肩にずしりと重荷がかかる。飲んでも酔いが醒める感じだ。
会計は全部、中野さんが持ってくれるという。
合コンが終わるころには、彼は立っているのも大変そうなほど酔っていた。あれから数本のワインが開けられて、その半分近くを自分で飲んだから当たり前だろう。しかしだからといって、全額を彼が負担するというのは、当たり前の話ではない。
それなのに中野さんは当然のような顔でカードを差し出し、サインをして店を出た。他の男子二名も、簡単なお礼の言葉を述べるだけで、この成り行きをごく自然に受け止めている様子だ。お金のことは心配だったのでホッとする反面、ひどく釈然としない思いが残った。
「中野さん、ひとりでタクシーで帰れますか」
桑田さんにきかれ、中野さんはふわふわと浮いたような足取りで振りむき、答えた。
「らい、じょうぶ」
まったく呂律《ろれつ》がまわっていない。おまけにまるで小さな子どものような口調である。おもわず不安になって割って入る。
「お住まいはどちら方面なんですか?」
すると中野さんは、方角を指でさして言った。
「あっち」
「あっち≠チてどこです?」
他の人に視線を送って尋ねる。すると、合コンで最後までわたしと会話を交わさなかった男の人が代わりに答えた。
「中央線で国分寺方面ですよ」
わたしとは方向がだいぶ違う。送っていくわけにもいかない。どうしよう。
迷っていると、桑田さんが手早くタクシーを呼びとめ、中野さんを押し込めてしまった。そして行き先を運転手に告げると、そのまま自分はドアの外でタクシーを見送ってしまった。この展開にはあっけにとられる。
「いいんですか、誰か付き添わなくて」
すると男性陣は二人とも平気な顔で答えた。
「大丈夫でしょう。ま、いつものことですから。それよりも二次会どうします?」
と言い出したのだった。
(合コンって経験ないからよくわからないけど、これって、なんか変!)
青ちゃんともうひとりの女の子、そして先ほど「国分寺方面」と教えてくれた男の人はすっかり盛り上がっていて、
「よーし。じゃあ、これからカラオケに突撃だー」
と威勢がよかったけれど、わたしはどうにも釈然としない。
するとまるでそれを見透かすような目で桑田さんがわたしを見て、そして尋ねた。
「どうします? 僕はどっちでもかまわないけど」
「すいません、今日は帰ります」
何かがひどく混乱していた。これは単に初の合コンの体験によりもたらされたものではない。それを整理したい思いでこの場から早く去りたくなっていた。
「そうですか。僕は一応、付き合いに行ってきますよ。また来週、会社でお会いしましょう」
地下鉄に乗ったあとも、中野さんのその後が気になってなんだか落ち着かなかった。
会話に加わるわけでもなく、ひとりで食べて足元もあやういほど酔っ払って、全部自分で支払って。かといって他の人に面倒見てもらうわけでもなく。それって、楽しいのか?
なんとなく自分たちが、たかり≠ノ行って帰ってきたような、苦い澱《おり》のようなものが心のなかに残っている。
世間一般の合コンも、みんなこんなものなのだろうか。
緊張のあまり杯を重ねすぎたので、わたしも相当酔っている。考えがまとまらない。
それにしても桑田さんって、押しの強い人だったよなあと思い返す。なんだか話していて、かなり疲れたっていうか、相当疲れた。だれかに相談したいような衝動が生まれたけど、適当な相手が思い浮かばない。青ちゃんに話しても、たぶん今のわたしの微妙な気持ちはわかってもらえそうにない。
地下鉄にゆられていたら、どうしてか、ギンポ君の顔が思い浮かんだ。
(ではここでお別れだ。また連絡しますよ。今度会ったときには、どうしてあなたがこんな人身売買の市場に出てきたのかをじっくりと聞かせてもらいますから)
別れ際のギンポ君の台詞がよみがえる。
そういえばギンポ君というのも不思議な人である。なんだか妙にわたしの性格を知り尽くしているような口調だった。あの日は疲れていたのもあって、あまりそれについて深く考えなかったけれど、こちらの考えをまるで前もって知っていたかのような発言が目立ったような気もする。たかが一時間ちょっとわたしという人間を観察して、そんなにすぐに人となりがわかってしまうものだろうか。
携帯を取り出して時刻を見る。ワインも数本あけたことだし、かなり遅い時間帯になっているだろうと思っていたら、まだ夜の十時台だった。携帯を操作し、着信履歴を眺めてみる。水曜日のところに、ギンポ君からの電話の履歴が残っていた。
地下鉄を降りたら……かけてみようかな。
そんな思いつきに浸っている自分に気付いて驚く。どうしてそんなことを思いついたのか、自分が理解できずに戸惑う。
駅の階段を上り、電波の棒が三本きっちり立ったところでギンポ君に電話してしまった。幾度かの呼び出し音のあと、携帯のむこうから声が聞こえた。
「もしもし、神保です」
人の笑い声や、食器がガチャガチャ鳴る音が聞こえる。どこか飲み屋のような場所にいるようだ。
「も、もしもし。三田村です。先日はどうも、せっかくお誘いいただいたのに、お断わりしてしまって」
すると電話のむこうから、少し酔った声が聞こえてきた。
「ええ。三田村さんに振られたので、今日はこうしてひとりで飲みに来ています」
「おひとりで、ですか?」
「そう。変ですか? 僕はこうしてひとりで飲みながら本を読んだりするの、好きなんですがね。二時間も飲みながら本を読むと、薄い本ならだいたい一冊読み終えてしまう。効率がいいですよ。──いま、外からですか?」
「そうです」
「トラックの走る音が聞こえる。例の打ち上げの帰りなんですね」
小さな嘘にチクリと胸を痛めながらうなずく。
「ええ」
「そう。じゃ、いつお会いしましょうか」
突然の話の展開に、飛び上がらんばかりに驚きあわてる。
「ええっ」
もしかしてそれは、デートっていうヤツだろうか。そうなのか? 嘘だろう。するとギンポ君はあいかわらずのんびりした声でこう言った。
「どうしてそんなに驚くんです? だってこうして電話をしてきたってことは、三田村さんは僕の誘いを断わったフォローをするつもりだったってことでしょう。違いますか」
微妙に違うが、別にそう解釈されても問題はない気もしてきた。
「そう、かもしれません……」
「じゃあ、会わないと。いつにします? 明日は僕、仕事があるから休日出勤しなくちゃならないけど。日曜なら空いてますよ。どこかに出かけてみますか?」
携帯を手にしたまま悩む。
日曜か。お姉ちゃんの家に遊びに行く約束をしていた日だな。
瞬間的に判断して、腹を決めた。
「そうですね。どこか行きましょう、ええ」
「どこに行きたいですか」
「どこでもいいです」
「そんなことを言うととんでもないところに連れて行きますよ。というのは冗談だけど、リクエストがなければ僕もちょっと考えてみないといけないな」
考える負担を押し付けたように思えて、気がとがめる。するとそのとき、稲妻に打たれたかのようにデート先が思い浮かび、言葉がぱっと口をついて出た。
「じゃあ、水族館に!」
そう言ってから、焦った。
しまった! ギンポと思っているのが見破られる。
しかしその心配はまったく無用だった。電話のむこうの声はごく普通に笑っていた。
「水族館ですか。学生のころ以来だな。なんだか若返ったような気分だけど。いいですよ。行きましょう。場所は葛西あたりでかまわないですか」
「ええ、水族館ならどこででも。すっごい好きなんですよ、水族館」
「へえ、そんなに好きなんですか。じゃあ詳細は追ってまた」
通話が終わるころには、マンションのそばのコンビニの前までやってきていた。「初デート」のプレッシャーで、コンビニに入り、手当たり次第に雑誌やジャンクフードなどを買いまくってしまった。
明けて土曜日は小雨だった。
昨日はだいぶワインを空けた酔いも手伝って、帰ってきてメイクを落として服を手当たり次第に脱ぎ散らかすと、コンビニで買ってきた袋の中身も始末せずにそのまま寝入ってしまった。しかし昼過ぎに目覚めると、現実的な問題がわたしに迫っているのに気付いた。
それにしてもだ。デート≠チて一体、どんな服を着ていけばいいんだろうか。
オフィスに行くときの服装とも違う気がするし、お姉ちゃんの家に遊びにいったりするときの服装とも違うような気がする。この世には、デート服≠ニ呼ばれるようなカテゴリに属する衣類が存在するような気がしてならない。何事もまず形から入るタイプであるのは前々から自覚してはいたが、まさかこういうところですらも、その気質のせいで悩まされるとは思ってもみなかった。人生、一寸先は闇である。
しかし無意識が働いていたのか、昨夜買ってきたコンビニの袋には、ファッション誌が入っていた。意外と準備いいぞ、自分。そこでさっそく「1ヶ月コーデ」の「今日は念願の彼とデート」の日のコーディネイトを穴が開くほど見つめる。いっそのこと、ここに掲載されているコーディネイトとまったく同じ服装になるようショップを巡って買い漁《あさ》りたいぐらいだ。しかし雑誌は一ヶ月先の服装を先取りしているので、いまの季節には合ってない。
頭をかかえて悩む。そして雑誌を視線で穴を開けられるほど眺める。
そうしているうちに傾向と対策はなんとなくつかめてきた。少しカジュアルに、それでいてフェミニンにすればいいみたいだ。
ためしにクローゼットを開けると、そのようなたぐいの服がまったくない。青ちゃんに「リクルートスーツ」と貶《けな》されたスーツと、合コンのために買った服、そして部屋着にしているGAPの色気も素っ気もない服ばっかりだ。買い物に行くか行かないかで悩んでいるうちに、我慢の限界がきた。
なんでわたしがこんな非生産的なことで頭を悩ませなくちゃならないんだよ。こんなことなら休日出勤していたほうがマシだ。
昨日の自分の決断を、思いきり後悔する。どうしてあんな約束をしてしまったのだろうか。酔っていたせいだとしか思えない。悩んだ結果、すばらしい結論に達した。
ギンポ君には「先約があったのを忘れていました」と電話してドタキャンだ。社会人としてはかなり最低の部類だが、方便、たって必要悪だ。
考えがまとまりかけた瞬間、いきなり携帯が鳴った。
バッグのなかからあわてて携帯を探し出し、蓋をあけてギョッとした。なんと相手はギンポ君だった。携帯を耳にあてる。
「も、もしもし」
「どうも、神保です。もしかしてまだ寝てました?」
「いえ、さっき起きたところです」
「ああ、よかった。ところでさっきから地図を眺めているんですがね、三田村さんのマンションのそばって何か目標物になるようなものはありますか? 晴海通りを抜けていけばいいのはわかるんだけど、そのへん、地図から見る限りだと倉庫街で」
「え、もしかしてここまで迎えに来てくれるつもりですか? いいですよ、そんな」
迎えに来てくれるのを断わる以前に、デート自体を断わりたい。どうしたらそれを切り出せるのか、タイミングがわからない。するとギンポ君は先を続けた。
「別にかまいませんよ。というか、僕、車で迎えに行きますから。駅とかで待ち合わせると、かえって拾いにくい。晴海通りからどう行けばいいのか教えてください」
すると道順の説明という現実的な問題に、仕事モードの自分が出てきて、てきぱきと道順を説明してしまった。
「わかりました。じゃあ明日、十時ごろにお迎えにあがりますよ。近くまで行ったら携帯に電話入れますから、マンションの前に出てください。そこで拾いますから。あとは車で葛西まで流して、軽く水族館をまわって、そのへんで昼食でも取りましょうか」
そのときに初めて、自分が完全に後戻りできなくなっている状況に気が付いた。
しまった! こちらから電話して断わろうと思っていたのに、道順までとってもわかりやすく説明してしまった。これじゃドタキャンできないじゃん。
自分の大失敗に肩を落しながら、力なく答える。
「い、いいですね。では明日、お会いできるのを楽しみにいたしております」
「ええ、では明日に」
携帯を切ってから、自分の頬を叩く。
これが仕事だとしたら、圧倒的に不利な契約を相手に誘導されるままに結んでしまったようなものである。どうしてこの手のことになると、自分の思うように物事を動かせないのだ。情けなくて落ちこんでくる。
ソファに転がったまま、何もしたくなくなっている自分をもてあました。デート服なるものを買いに行く気にはなれないし、休日にやると決めている部屋の大掃除に取り掛かる気にもなれない。しかたなくテレビをつけると、土曜の午後ならではの、チープな製作費で作られたとおぼしき温泉紹介番組が放映されていた。むなしくなってテレビを消した。
「あ、海だ!」
おもわず小声で叫んだ。
車を降りて水族館に向かうと、建物のむこうに水平線まで海が見えた。
結局、持ち合わせの服装で済ませてしまった。足元はスニーカーだ。ただの普段着だが、もうどうでもいいかって感じである。迎えにきてくれた車にヤケクソで乗り込み、これからの長い一日を思い、のっけから疲労を感じつつ水族館までやってきた。だけど海を見たとたん、その気分が一瞬で変わってしまった。
風はすこし冷たいけど、海の青さは目に心地いい。海を見たのはだいぶ久しぶりだ。何年か前に社員旅行で伊豆に行ったけど、あれ以来じゃないだろうか。
いいなあ、海は!
頭のなかの、まったく使っていなかった部分が活性化するような気がする。そのうちにギンポ君がチケットを買ってきてくれた。財布を取り出すと、ギンポ君が押しとどめた。
「いいですよ、これくらい。それよりはやく行きましょう。なにより水族館が好きなんでしょう?」
自分のついた嘘にひそかに後ろめたくなりつつ、お礼を述べる。
「そうですか? じゃあ、その……申し訳ないです」
ぺこりと頭をさげながら思う。
このごろ男の人にお金を使わせる機会が増えたなあ。助かるけれど、男女不平等かも。キタさんからご馳走になるときは上司と部下という関係だからさほど気にならないのだけれど、同年代の男の人相手だとどうも落ち着かない。
エスカレーターを降りると、海に潜っていくような水音がスピーカーから聞こえる。海底に沈んでいくような感覚だ。地下のフロアに到着すると、目の前に突然、巨大な青い水槽が現れた。そしてそのなかでは銀色の大きな魚が数十匹回遊していた。
「うわ! 綺麗」
思わずうっとりと眺め入る。薄暗い館内で青く照らされた水槽に、銀色の魚が群れをなして泳いでいる。けっこう幻想的だ。ギンポ君に尋ねられる。
「ここの水族館は初めてなんですか?」
「ええ。水族館は大好きなんですが、ここは初めてです」
みとれているうちに、ふと思いついたことを口にしてしまった。
「わたし、ここに住みたい。夜のあいだだけでいいから。水槽の横にベッドを置いて、ひとりで寝泊まりしたい。夜中に目が覚めて青い水槽のなかに魚が泳いでいるのが見えたら最高じゃないかなあ」
するとギンポ君は奇妙な笑顔を浮かべて尋ねた。
「ひとりで寝泊まりするんですか? こんな薄暗くてだだっ広い館内で」
「そう。眠れない夜はずっと魚が回遊しているのを眺めるんですよ。よくないですか?」
「たったひとりで?」
「ええ、たったひとりで」
休日ということもあって、館内は親子連れで混雑していた。大きな魚が回遊する水槽の前を離れると、ギンポ君は混雑を避けるように、あまり人気のない水槽の前で立ち止まって、興味なさそうにそれを眺めながらすたすた歩いた。口が災いの元でやってきた水族館だが、青い水槽で魅了されてしまったので、本当はじっくり見たい。チビっ子たちを掻き分けて見たい。けれど大人である手前、そうは出来ないのが悔しい。
するとギンポ君がふいにつぶやいた。
「それじゃ寂しいでしょう」
さっきの話の続きだというのに気付かず、一瞬戸惑った。
「──水族館に住むのがですか? 寂しいってことですか?」
「と、僕は思いますけどね。昼間は子どもたちで騒がしいぐらいだから別にいいけど、夜中にここでひとりになったら寂しいでしょう。感じ方は人それぞれだから別にかまいやしませんが」
ギンポ君はそう言うと、ふいに表情を変え、ニヤリと笑って指をさした。
「ところでこれ、ここの水族館のレストランのメニュー。海鮮丼ってのがとっても気になりますね。なんの魚を使ってるんでしょうね。見て楽しみ、味わって二度楽しむって感じですかね。入ってみます?」
いきなり気分をぶち壊しにされて、腹を立てる。
多分、顔に出たのだろう。ギンポ君はあわてて訂正した。
「まあ食事は別のところに行きましょう。お台場方向は混雑していそうだから避けて、幕張のほうまで行ってみようと思うんですが、どうですか?」
道が思っていたより混んでいたのでギンポ君は幕張に向かうのをあきらめ、舞浜のホテルの駐車場に車を停めた。ここで初めて今日のギンポ君の服装に目が止まった。黒のジップアップのカーディガンに同じく黒のタートルネック、少し色落ちさせたブラックデニムというスタイルだった。
わりと趣味が、いい……ような気がする。
休日の男の人の服装ってあんまりじっくり観察したことないからわからないけど。
ギンポ君が振り返って尋ねた。
「なにかリクエストあります? 和食とか、中華とか」
「とくにないですね」
「じゃあここでいいですか。ビュッフェって、たいてい何を食っても旨くはないですけどね」
そう言いつつもギンポ君は、内部がアトリウムになったレストランにわたしを案内した。高い天井から床まで届くガラス越しに、海とホテルの庭園が一望できる。開放感があって、とても心地いい空間だ。
席に案内されながら、海と庭園を眺める。
「よくこちらには来られるんですか?」
ギンポ君に尋ねてみる。
「それはどういう質問だろう。見合いの相手とってことですか」
「いやそういう意味じゃないんですけど、なんとなく。慣れてるみたいだったから」
「研修会でね、このホテルを使ったことがある」
「ああ、そうだったんですか」
「ま、とりあえず食べ物を取ってきてしまいましょうか」
促されて、料理を取りに行く。正体不明の食べ物をちょっとずつ皿に盛って戻ってくると、あとから戻ってきたギンポ君が人の皿を覗きこんで、尋ねた。
「それだけ? まだお腹空いてなかったんですか」
「いや、そういうわけじゃないんですけど。これくらいでまずは十分です」
「まあ、何度でも取りに行けますからね。──そんなことはどうでもいいんだ。それよりも聞かなくちゃならないことがある。ああ、いいですよ、食べながらで」
なにを聞かれるのだろう。もしかして水族館好きでないのがバレたのか? だがギンポ君の質問は、拍子抜けするようなものだった。
「どういう思いつきであなたが見合いなんてしようと思い立ったのか。僕はそこのところにとても興味がある」
なんでそんなのに興味があるんだ。どうでもいいじゃないかと思いつつ答える。
「逆に質問してもいいですか? どうしてそういう質問が出てくるんだろう。三十を目前に控えた女が見合いするって、そんなに特殊な事情がありそうにみえますか」
まあ結婚に焦ってると思われるのがせいぜいだとは思うが、所詮ギンポ君は赤の他人、それで評価が下がろうが上がろうがどうってことはない。するとふいにギンポ君が手を伸ばして、いきなり人の鼻をギュッとつまんだのである。驚愕していると、ギンポ君は怒ったような声で告げた。
「いまの質問は、可愛くもなければ面白くもない。自分の個性をその他大勢のなかに埋没させて誤魔化そうとした。よくない」
鼻をつままれたうえ叱られたので、頭が一瞬真っ白になる。
デートってこういうもんなのか? わからない。全然理解できない!
しかし、この人のいまの言葉には、真実が含まれている、ような気がする。
道はふたつあった。このまま世間の常識の皮を被ったまま社会人的なむなしい会話を続けるか、それとも可能な限り真実に近い自分の心情をこの人に打ち明けるかだ。
「わたしは──」
口を開きかけたとき、ギンポ君の真剣な視線が刺さった。その瞬間、打ち明けるほうに心が傾いた。自分の無意識を掘り起こし、思い浮かんだところから口にしてみる。
「三十を過ぎた姉がいるんですよ。ある著名な女性の漫画家さんのアシスタントをしてるんですけど、いまだに独身で……その……」
言いよどんでいると促された。
「続けて」
「その……姉は、やっぱり同じようにアシスタント業をやってる女の人たちと三人で一軒家をシェアして暮らしてるんです。わたしはときどき休日とかその家に遊びに行って、姉と料理をして食事をしたりして帰ってくるんですけど……ある日の夕方、帰り道にたまらなく──」
初対面に近い人にこれ以上心を打ち明けるのが怖くなり、わたしはひどく困った。
「帰り道に?」
ギンポ君の顔を正視できなくてうつむき加減になっていた顔をあげたら、そこには、優しいといってもいいほどのまなざしでわたしを見ているギンポ君がいた。その目がなぜかわたしの鎧《よろい》を脱がせてしまった。
「寂しくなったんです」
話していて、初めて気づかされた、あの日の感情に。
「なるほど。それはお姉さんの生き方が寂しいと思ったのか、自分自身の生き方が寂しかったのか、どっちです」
一瞬考えて、そして襟《えり》を正す思いで答えた。
「わかりません。けれど姉の生き方を見て、それをたとえ姉妹とはいえ他者が『寂しい生き方だ』と判断するのは傲慢でしょうね」
ギンポ君は静かにうなずいた。
「その通りですね」
ギンポ君は再び皿の上の食べ物を口に運び始めた。そして言った。
「いまの話は、面白かったですよ」
どうやらわたしは何かの試験を受けて、そしてそれに合格したらしかった。なんだか鼻をつままれた衝撃でとても恥ずかしい部分を見せてしまったような気もしたけど、いまはそれについては考えまいと思った。
「どうします、これから。僕には時間があるからお付き合いできますよ。なんなら憧れの夜の水族館でも眺めてみますか?」
ギンポ君がわたしに尋ねた。そのときにギンポ君に鼻をつままれた理由を悟った。
そりゃまあ変か。つい直前まで「水族館のなかでたったひとりで寝起きしたい」と言っていた女がお見合いしてるんだもの。
苦笑しながらその申し出は断わった。
「いえ、そろそろ帰ります」
「例によって仕事がたまってるんですか?」
「仕事のほうはあいかわらずなんですけど、部屋のなかを片付けておきたくて。週に一度、徹底的に大掃除をするよう自分で決めてるんです。平日はどうしても適当に済ませてしまいがちですから。本当は昨日やろうと思っていたのに、どうも気がのらなくてできなかったんですよ」
「なるほど。じゃあ送りましょう」
あっさり納得されて、その言葉にちょっぴり寂しくなっている自分に気付いてまた驚く。今日は本当によく驚く一日だ。たとえ引きとめられたとしても自分は自分で決めていた計画を遂行する方向に話をもっていったと思う。けれどわたしをあっさり帰すギンポ君に対し、恨みがましいような気分を抱いているのだ。一体どういうわけだ。
もしかして自分って、かなり素直じゃない人間なのか?
ふとそう思ったが、別の自分が頑固に否定する。
いやそんなことはない。素直だけれど、自分がこうと決めたことは必ず守るように努力する、ただの頑張り屋さんだ。
千葉から都内へとむかう湾岸線は思ったよりも渋滞していた。荒川の河口、海と川の混じりあう長い橋のあたりは空が夕焼けに染まっていて、もうちょっとだけ車のなかからこの風景を眺めているのも悪くないなとこっそり思った。
車を降りるともうあたりは暗かった。秋の日は短い。
「また電話しますよ。ああ、そうだ。あとメールのアドレス」
ギンポ君はそう言うと、名刺を取り出してわたしに渡した。
「あとでそのアドレスにメール送っといてください。携帯よりも、連絡がとりやすいでしょう」
「あ、はい。今日はありがとうございました」
「いえいえこちらこそ」
ギンポ君はそう言うとシートベルトの位置を直しながら、
「それにしてもまあ安心しました。いいんですよ、それで。なんでもイエスです。ほら、だいぶ以前に流行った歌にもあったでしょう。寂しさもYes、ためらいもYes、だったかな」
その言葉にまた引っかかるものを感じて、思わず呼び止める。
「神保さん」
「なんです」
呼び止めておいて、自分でなぜギンポ君を呼び止めたのかがわからないのに気付いた。
「ええとその、あとでメールします。必ず」
「ええ。お待ちしてますよ。それじゃ」
ギンポ君の車のテールランプが信号で左折して見えなくなった。
「一千五百万!」
おもわず大声を出す。すると青ちゃんはあわてて辺りを見渡してから、シーッと唇に指をあてた。
「姐さん、声が大きい。ま、噂ですよ、噂。あくまでも噂ですから。でもかなり確実性の高い情報だと思いますね。経理にちょっと親しくしてる子がいて、そこからの情報ですから。手取りでそれだから、額面だと二千万超えるって話です」
ギンポ君とデートをした週明けの月曜日である。昼休みにわたしと青ちゃんは会社の近くのイタリアンレストランでランチメニューのパスタを食べながら話をしている。このごろは外食もちゃんと巡回するというか、いろいろと変えるよう努力しているのだ、偉いぞ自分。それはさておき、話題の焦点はというと、中野さんのことだ。わたしはあの日の彼の態度すべてが、心をざわつかせてならないのだ。昨日も部屋に戻って掃除をしながら、ギンポ君の謎々の意味を考えたり、鼻をつままれたことを思い出したり、そしてときどきふと中野さんのことを気にしたりした。ギンポ君の件は、寂しさもイエス、ためらいもイエスって、どういう意味なのと首をひねる程度の思案だが、中野さんのほうは思い出すと重苦しいような、そんな気分にさせられる。理由はよくわからない。とりあえず、その理由を考えてはみた。
ほとんど見ず知らずの他人様に、食事代を全部払わせてしまったことを気に病んでいるのだろうか。
そして青ちゃんにメッセンジャーで、そう話してみた。すると青ちゃんは、さっそくリサーチに行ってくれたらしく、返ってきた答えが、
〈気にすることないっスよ。なんでも中野って人、年収が一千五百万はあるらしいから〉
というものだったのだ。
出来る人だとは薄々わかってはいたけど、そこまで評価されていたのか。じゃあまあ、あの程度のお金の使い方をしても、別にどうってことないか。
一応そう思って、全額中野さん支払いの件に関しては納得したのだけれど、どういうわけか胸のざわつきは、かえって増す一方だった。すると青ちゃんが鋭く切り込んできた。
「ははあ。姐さん、あの年下の桑田って男より、中野さんのほうに気があるんですね?」
気があるってどういう状態を指すのだ? 首をひねりながら答える。
「うまくいえないけど、なんかなんか引っかかるんだよねえ」
すると青ちゃんはニヤリと笑って、いきなり宣言した。
「わかりやした。じゃあ、もうちょっと中野って人のことを聞き込み調査してきましょう。姐さんが気に入ったのは、桑田じゃなくて中野、と。メモメモ」
「いやいや、ちょっと待った。別におつきあいしたいとか思うような気になりかたじゃないんだよ。なんていうか、自分でもうまくこの気持ちのわだかまりというか引っかかりを解明できなくて困ってるんだけど」
「まあまあ、そう照れずに。いいじゃないですか、三十五歳、年収一千五百万。姐さんは自分でも稼ぐ人だから、相手が金持ってるか持ってないかは気にもとめないだろうけど。こりゃ世間的には『玉の輿《こし》』と言ってもおかしくない年収ですね。よく考えてみたら年齢的にも姐さんとピッタリだ。よし、それじゃその線で行きましょう」
「いや、だからね、青ちゃん。もうちょっとここはゆっくり」
必死に押しとどめようとすると、青ちゃんは威圧するように問いただした。
「姐さん、まさかいまだに前の男に忠義立てしてるんじゃないでしょうねえ。妻子もあって愛人も欲しいなんて男に、ロクなヤツはいないですよ。とっとと忘れてください」
どうやら青ちゃんの脳内では、わたしはすっかり妻子持ちの男にもてあそばれている、可哀想な日陰の女というストーリーが出来上がってしまっているようだ。そんな感じに誤解されるようにしてしまったのがおのれなのは、わかってる。けれどまるで、ちゃちな詐欺事件を犯したために、なんとか別人になりすまして、脅えながら平凡な人生を送っている逃亡者になったような気分である。
昼休みが終わって会社に戻りメールチェックをすると、受信トレイに知らない人からのメールが届いていた。ウイルスメールか何かかと思いつつ、ビクビクしながら開けてみたら、それは旅行の誘いだった。
桑田です。先日はどうも。無事にご自宅まで帰れたでしょうか。
ところでいきなりですが、来月の末に沖縄の伊是名《いぜな》というところでトライアスロンのレースがあるんです。僕たちチームのメンバーが何名か出場するんですが、その旅行にご一緒しませんか。
有給を使って三泊四日の予定です。初日に午前便で行って翌日はダイビングに使い、三日目にレースに出ようという計画です。カードがなくても、体験ダイビングという手があるので、安心してくださいね。もしよろしければ青木さんも誘っていただいて。彼女、ノリがよくて楽しい女性ですね。あの後、だいぶカラオケで盛り上がってしまいました。
メールを一読してようやく気付く。
(ああ、これってあのプリズンの人だ。あれだけ喋っていたのに、名前すら憶えていないとは社会人として失格だ)心のなかで桑田さんに詫びながら、どうしたものか考える。
沖縄かあ。行ったことないんだよね。しかもこの会社に入ってからは長期の休暇ってまったく取ってないし。有給なんて余りまくりだよ。……南の島かあ。しかも青ちゃんと。それって、いいかも。
なんだか楽しくなってきて、青ちゃんに短い文面をつけてメールを転送する。すると速攻でメッセンジャーに青ちゃんからのメッセージが届いた。
〈姐さーん〉
〈はいよー〉
〈いいっスねえ、だいぶ熱烈に接近されてるじゃないですか。いよ、この男泣かせ〉
〈男泣かせはもういいから、旅行のほうはどうよ。わたしはわりと乗り気なんだけど〉
〈沖縄かあ。行ったことないっスわ。ダイビングもしたことないし〉
〈わたしもだよ〉
〈一回ぐらいやってみるのも悪くないっスね。そのレースの応援の日とやらは、姐さんと海で遊んでてもいいし。って、沖縄の海ってこの季節泳げるんですかね〉
〈どうなんだろう。でも、『沖縄には海開きがない』って聞いたことがある〉
〈それじゃ一年中泳げるってことですね〉
〈たぶん、おそらく〉
〈じゃ、旅行の金額を確認してから返事って感じにしましょうか〉
〈おっけー。ではでは〉
チャットを終えて、速攻で桑田さんにその旨、返事を書く。するとむこうからもすぐに返事が戻ってきた。
旅行の代金は確定していません。人数が決まっていないのと、あと、女性陣がどのくらいのホテルに泊まりたいかをうかがってないので(笑)。僕ら男だけならどんなボロ宿でもかまいませんが、女性が混じるとそうはいきませんからね。ご希望とかあればなんなりとリクエストしてください。
メールに目を通し、また返事をタイプする。
そうですね、やはりわたしたちも女性ですので(笑)、ホテルはほどほどの料金でそれなりに綺麗なところを希望します。せっかくなので、静かに波の音を聞きながらのんびりしたいものですね。
これにもまたすぐに返事が届いた。
承知しました(笑)。ご希望にかなうようなところを探して、どのくらいの料金になるかを後日お知らせします。是非ご一緒したいですね。楽しい旅行になると思います。その前に一度また飲み会でもやりましょう。今度はカラオケまでお付き合い願えると嬉しいです。
メールを読み終えて、なんだか楽しくなってくる。
いいなあ、沖縄かあ。ふーん、なんか知らんが面白そう。
それにしても桑田さんってマメな人だよな。男の人にこういう好意をむけられるのってわりと快適かも。
機嫌よく仕事にとりかかる。事務のほうの仕事にかまけていたあいだ効率が落ちていた翻訳の仕事だけれど、午後はだいぶ進めることができた。
ようやく頭が完全に翻訳モードに入ってきた感じで、なかなか調子がよろしい。こういう日はとても気分がいい。
しかし肩がすこし疲れてきたので、一休みすることにする。青ちゃんを誘おうかと思ったけれど、帰ってきたメルヘンの横でマシンにむかっている青ちゃんの顔は真剣そのものだったので、声をかけずにリラックスルームにむかった。
今日は青ちゃんと一緒じゃないので禁煙の部屋のほうだ。するとしゃがんで自販機の紙コップを取り出していた男の人が、こちらを見てビクッとした。その反応はリスか兎のような小動物を連想させた。それは中野さんだった。中野さんはコップを手にしてかがんだまま、ペコリとお辞儀をした。
「あ、どうも」
だいぶ酔っていて、しかもわたしには無関心な様子だったけど、こちらの顔は憶えていてくれたらしい。リラックスルームには、他に人がいなかった。
「すいません、おひとりでお休みのところを。お邪魔してもよろしいですか」
「ええ、どうぞどうぞ」
中野さんはおびえたように、慌ててわたしを促した。まずはお礼の言葉を述べる。
「先日はご馳走になりましてありがとうございました。ワインも料理もとても美味しくて、おかげで楽しい時間を過ごさせていただきました」
すると中野さんは困ったような、泣きたいのをこらえているような顔つきで、逆に頭を下げてきた。
「いえ、こちらこそ。僕、だいぶ酔ってしまって後半記憶がないんです。皆さんにご迷惑をおかけしてしまったみたいで申し訳ないです」
この反応にけっこう驚く。あの日、あんなに悠然としていた彼とはまるで別人である。
「いえいえ、とんでもない。迷惑だなんて、まったく」
それよりもタクシーに放り込んでそのまま帰してしまったので、こちらの良心が痛むくらいだ。それなのに中野さんはビクビクしながら、
「すいません、すいません」
と繰り返した。
「あの、本当にお気になさらないでください。どうぞお座りになってください」
「あ、はい。それじゃ失礼して……」
相手のあまりの低姿勢に驚くと同時に、これから数分間交わされるであろう『無難な会話』をどうしたものか、頭を悩ませる。
わたしと中野さんはコーヒーの入った紙コップを手にしたまま、並んだ椅子に腰をかけてひたすら沈黙を守った。まるで無言の行のようだ。ときおりコーヒーをすする音だけが室内に響く。リラックスルームにいるはずなのに、逆に緊張が高まる。
中野さんから話し掛けてくる気配はみえない。わたしは酒を飲んで記憶をなくしたことがないのでわからないが、それほどバツの悪いものなのだろうか。
そうだ。こういうときは天気の話だ。大人の定番、天気の話。
リラックスルームから外を眺めると、ややどんよりした秋の空だった。
「昨日はいいお天気でしたけど、今日はいまひとつですね」
すると中野さんはまたもビクッとして、あわてて外を眺め、
「そ、そうですね」
と、つかえながら相槌を打った。そこからなにか話を膨らませてくるかなと待ってみたが、相槌以上のものが出てこないようなので、さらにもう一歩踏み込む。
「日曜は良いお天気でしたけど、どこかにお出かけになられました?」
すると中野さんはまたびくついた様子で首を横に振り、
「いえ。……どこにも」
と答えたきり、また沈黙に戻ってしまった。かなり気まずい。もう少しリラックスした感じに持っていきたい、できるなら。
「あのベトナム料理のお店、とても美味しくていいお店でしたね。とくに中野さんが選んだワインはとても美味しくて。中野さんはあのお店、よく行かれるんですか?」
「あ、はい。いえ……二度目です」
ここでまた話は途切れた。だんだん苛立ってくる。とにかくこの場でわかるのは、わたしはここでリラックスできない、それだけだ。
立ち上がり、会釈をする。
「それではお先に」
すると中野さんは、いきなりコーヒーを一気飲みした。
「僕も行きます」
そして後ろからついてきた。この謎の展開に、頭のなかが疑問符でいっぱいになる。
まるで……子分をひとり引き連れて歩いている筋者になった気分なんだが。
ネットワークの部署のところまで来ると、中野さんは深く一礼した。
「それでは失礼します」
あの場では両脇の男たちを、まるで下っ端をアゴで使う王様状態だった傲慢さはどこに消えたのだろう。
リラックスできないまま自分の席に戻り、仕事を再開する。なぜか集中できなかった。静かに座したまま、集中力が高まってくるのを待った。中野さんのことを頭の外に追い出すようにひたすら努めた。
コンビニの袋を提げて部屋に戻る。
空腹なはずなのにお弁当類にまったく食欲がわかなくて、しかたがないからウィダーインゼリーを買って帰ってきたのだ。おもいっきり温度を高く設定して暖房を入れ、急速に部屋が暖かくなるのを待つ。三LDKのこの部屋は、年収が六百万を超えたときの記念に借りた部屋だ。夜の水族館にはかないっこないが、サイザル麻を敷いたベッドルームもあるし、リビングも広いし、とても気に入っている。埋立地の倉庫街の中にあるので、ここを借りると決めたときは会社の人たちから、口々に言われた。
「あんな場所じゃ不便でしょう」
けれどわたしは全然気にならない。地下鉄ですぐ都心まで出られるし、外食がほとんどなので、バスに乗って行かなくてはたどり着けないほどスーパーが遠くても、どうでもいい。コンビニが近くにあるから十分だ。なにより住宅街特有の家族臭が漂ってこないところが気に入っている。
やがて部屋の温度が熱帯ぐらいに高まってきた。
ソファの上に服を脱ぎ捨てて、下着姿のままでノートマシンに電源を入れる。マシンが立ち上がるのを待ちながら、ウィダーインゼリーのキャップを外し、中身をすする。
チェックしてみるとメールが二件届いていた。一件はうっかり顧客名簿にメールアドレスを書き込んでしまったショップからのメールだった。そしてもう一件は、ギンポ君からのメールだ。メールをチェックした瞬間、「神保」の苗字が見えたのでちょっと焦った。水族館から送ってもらったその日のうちに貰ったのだと、タイムスタンプが記していた。
三田村奈津美様
前略 今日はなかなか有意義な一日でした。
奈津美さんとお話ししたおかげで、子どものころなにを考えていたのか、思い出させてもらえました。このごろは、なかなか、そういうことを考える時間を作れずにいるので、奈津美さんといろいろ話をする機会を持て、とても良かった。
[#地付き]神保英一郎拝
まずメールに「前略」と「拝」が付いているのにも驚いたが、内容のほうもわけがわからなかった。
子どものころを思い出すような話なんてしただろうか。ていうか、前略≠ニか拝≠チて何よ。わたしだって公式のお手紙には使用するけど、メールではそういうの使わなくていいというお約束では? それともわたしの常識ってIT業界だけの特殊事情?
それより問題は内容だ。子どものころを思い出すって一体なに。
ややこしい一日である。まるで緩いウェーブにしてからすっかり扱い難くなってしまったわたしのいまの髪型のようだ。そこでまたどんよりと暗くなる。
そういえば服……髪型を変えたら、いままでの手持ちの服装がなんか浮くんだ。
青ちゃんが選んでくれたような服じゃないと、いまひとつ合わないというか、まるっきり浮くというか。おまけに問題はメイクだよ、メイク! 髪型が派手になっただけで、メイクが雑なのが、引き立ってしまうんだよっ。
服のことは後回しにするとしても、メールのほうはとにかく返事だけは出さなくてはなるまい。一瞬悩んだのち、どうとでも取れるような無難なメールを返すことにした。
拝復 昨日は貴重なお時間を割いて水族館にお付き合いいただきましてありがとうございます。ご馳走になったホテルのランチもとても美味しく、おかげで楽しい時間を過ごさせていただきました。またお暇なときにでもお付き合いいただければ幸いです。
取り急ぎお礼まで。
[#地付き]三田村奈津美拝
読み返してみて、とりあえず問題がないように思えたので返信アイコンをクリックした。彼からのメールの本質的な部分への返事にはなっていないが、礼儀を欠いてはいない。まあ、こんなもんでいいだろう。
そう考えたときふいに、ギンポ君に鼻をつままれたときの感覚がよみがえった。ついでにあのときのギンポ君の言葉も思い出す。
(いまの質問は、可愛くもなければ面白くもない。自分の個性をその他大勢のなかに埋没させて誤魔化そうとした。──よくない)
ソファに身体を投げ出し、顔を埋め、頭のなかのギンポ君に喧嘩を売った。
「そんなこと言ったってだな、生きていくっていうのはそういう事なんだよ! じゃあどうしろっていうんだ。内臓デロデロ出して生きていけと言うのか」
頭のなかではわたしの心の叫びに対してギンポ君が繰り返し、
(可愛くもなければ面白くもない)
と答えていた。
昼休みの直前にメッセンジャーで青ちゃんから話しかけられた。
〈姐さん、昼飯の件でちょいと〉
今日は朝からどうもうまく訳せずにモタついているセンテンスがあったので、いきなりのチャットに、救われた気分ですぐ返事をする。
〈はーい、何事? また叙々苑のカルビ焼き定食でも食べに行きたい?〉
青ちゃんは中学のときに水泳の大会で県三位に表彰されたほどの運動少女だったので、肉系の食事が大好きなのだ。メッセージを送信すると、すぐにレスが来た。
〈あ、肉っスか。いいっスねえ。いや、場所の相談も兼ねてなんですけど、さっき桑田さんのほうから誘いがありまして。みんなで昼飯に行こうと〉
そのメッセージを見たとたんはっとする。桑田さんが来るということは、中野さんも来るということだろうか。とりあえず短く返事を打つ。
〈あ、他の人も来るんだ。別にいいよ〉
〈そうスか。じゃあ早めに出ましょう。ランチタイムの叙々苑は混みますからね。では待ち合わせはエレベーターホールで〉
とりあえず、いままでタイプした分だけ保存して、すぐに席を立つ用意をする。
エレベーターホールの前に集まっていたのは、桑田さんと中野さんと、あとこのあいだの合コンに来ていた男の人が一人と、顔だけ知っている別の部署の女の子が二人。そこに青ちゃんと二人で合流する。叙々苑はこのビルの四十四階に入っている。昼休みはオヤジ系リーマンでいつも混み混みだ。
「七人席、取れますかねえ」
「まあ取れないときは四と三で分かれて。できるだけ近くの席で」
桑田さんともう一人の男の人がそんな相談をしているあいだも、またしても中野さんは良きに計らえといわんばかりに、ぼおっとした顔のまま立っていた。そしてエレベーターが到着すると、桑田さんが「開」のボタンを押してまるでホテルのベルボーイのように振舞うのを当然のような顔をして、のんびりとエレベーターに乗りこんだ。
またしても気持ちがざわざわと落ち着かなくなる。
なんなのだ、この人は。
このあいだはおどおどとした小動物のようなそぶりだったのに。
エレベーターが昇っていくあいだに、青ちゃんとわたしを除く人たちが、知らない人の噂話を始めた。どうやらここに集まっている人たちは例のダイビングやトライアスロンのサークルの面子らしいと察する。中野さんは、会話には加わっていないが、なんとなく話のツボで微笑んだりして、リラックスしているように見えた。
叙々苑は、案の定すでに混み始めていて、わたしたちは四人と三人に分かれて隣同士の席に陣取ることになった。中野さんはウェイターに席に案内されると、何食わぬ顔で一番上座に腰を下ろした。その隣にぴたりと桑田さんがつく。わたしはとっさに中野さんの目の前の席にむかった。すると青ちゃんがわたしに続いた。
そっと中野さんを盗み見する。
うちの会社は基本的に服装の規定は緩いのだけれど、その日の中野さんはチャコールグレーのスーツを着ていた。細身のシルエットもよく体型に合っている。シャツには薄いブルーのチェックが入っていて、タイは濃紺で、グラデーションになっていて良い感じだ。男の人のスーツについて詳しくないのでよくわからないが、彼のスーツがそのへんのノーブランドスーツではないだろうってことくらいは、生地や仕立て具合で察しがついた。
切れ長の綺麗な目だ。おまけに睫毛が長い。お姉ちゃんにちょっと似てるかも。
まぶしそうに目を細めて窓から街を見渡している中野さんの横顔をそっと盗み見ていたら、いきなり青ちゃんに話し掛けられた。
「姐さんもカルビ定食でいいっスか?」
「あっ。う、うん!」
「じゃあカルビ定食四人前で」
ウェイターに乱暴に注文する青ちゃんに視線を移して、ひそかに肝を冷やす。
中野さんの顔を見てたの、バレてないだろうか。それにしても、どうしてこの人のことがこんなに気にかかるんだろう。謎だ。
自分でも自分がおかしい事を自覚しつつ、カルビ定食が運ばれてくるまでの話題を何か探さなくちゃなと考える。すると桑田さんが先に話を切り出した。
「で、例の沖縄行きの件なんですけど。僕も伊是名の大会に出るのは初めてだったのでよく知らなかったんですが、かなり不便な島のようなんですよ。最初は朝一の便でむこうに渡ればレースを終えて夕方の便で本島に帰ってこられるぐらいの場所だろうと勝手に想像してたんですが」
青ちゃんが口をはさむ。
「じゃあその、イゼナ島ってとこに泊まりましょうよ」
すると桑田さんが渋い顔で言った。
「そう。問題はそこなんです」
「というと?」
「伊是名はまったく観光化されていない素朴な島で……」
「お、いいじゃないですか。沖縄の離島ってヤツですね? 海も綺麗なんだろうなあ」
「たしかにそれはそうなんです。レースのあいだのスイムでも魚が沢山見られるという……自然にあふれたいい場所らしいんですが」
「泳いで熱帯魚! それだ。姐さん、おもいっきり楽しみましょうね。泊まりこみの苦労もこれで報われるってもんです」
すると桑田さんはすごく言いにくそうに告げた。
「ただその……観光化されていないだけに、泊まるところが民宿しかないんです。ご希望のリゾートホテルとかに泊まるのが日程的に難しくなってしまうんですよ。僕もはじめは本島の西海岸の、日航アリビラあたりを想定していたんですけど。伊是名の民宿を使うしかないんです」
青ちゃんと顔を見合わせる。
「どう思う? 青ちゃん」
「いや。おいらは飲めばそれだけで楽しくなれるほうだから」
同意する。
「わたしもです」
それでも桑田さんは本気で済まなそうな顔をして、謝った。
「いや、本当に申し訳ない。伊是名にもダイビングショップはあるみたいなんで、体験ダイビングのほうは問題なくできると思いますけど」
なんだかずいぶん悩んでいるようなので、力づけようとほがらかに答える。
「いえいえ、大丈夫ですよ。むしろかえって楽しみになってきました。ね、青ちゃん」
「そうっスね。沖縄の人の生活も覗《のぞ》けるし、面白そうですわ。そして夜は民宿で飲んでパーッと騒いで」
そこへ四人分のカルビ定食が運ばれてきた。
「さあさあ、それじゃあ食いましょう」
青ちゃんは嬉しそうに箸《はし》を割ると、網の上に次々と肉をのせた。話の成り行きをただ静かに見守っていただけの中野さんも、自分で肉をのせて焼き始めた。今度はさすがに桑田さんに焼かせるような真似はしていないので、どこかでホッとしている自分がいた。しかし話の流れを振り返って、ふと気になったので、尋ねた。
「そういえば……」
「なんですか?」
即座に反応したのは桑田さんだった。
「中野さんもレースに出られるんですか?」
すると中野さんはコクリとうなずき、
「ええ、出ますよ」
とだけ答えた。すると……この旅行に関しても桑田さんのほうがいろいろ調べていたみたいだから、結局はまた『良きに計らえ』だったわけか。
なんとなく釈然としない思いが残る。
わたしが中野さんに話を振ったとたんに会話は途切れてしまった。するとそこへ桑田さんがフォローを入れた。
「中野さんは毎回すごい記録を出しますよ。前回の宮古のときもすごかったですから」
するとめずらしく中野さんが笑いながら話に交じった。
「それを言ったら、桑田君、自画自賛じゃない。だって君のほうが僕よりずっとタイムは良かったんだから」
「まあそこはそれ、僕は筋肉人間ですから。中野さんみたいに技術者として、この分野なら誰にも負けないというのもないですもの」
「僕のしてることなんて大したことないよ」
「その『大したこと』も、できないのが僕ですから」
この会話を聞いて、すこしだけ気が楽になる。
そうか。まあ、いい先輩と後輩って感じの関係なわけね。ちょっと上下関係が体育会系っていうか厳しすぎて、いびつな印象を受けたけど。
食後のコーヒーが運ばれてくるころにはすっかりくつろいで、わたしは窓の外に目をやった。はるか遠くまで東京の街を見渡す。
(それにしても沖縄の離島に旅行かあ。自分ひとりじゃ絶対思いつかなかったよ、たぶん一生)
なんだかまるで、杉林のなかの林道を歩いていたらふいに見晴らしのよい場所に出たときのような、あるいは、生活のパレットの色数が急に増えたような、そんな気がした。
食事を終えると中野さんは伝票を持って、さっと支払いを始めた。またベトナム料理のときを思い出して驚いたのだが、いまは昼休みで混んでるし、個別に会計していたら迷惑だ。しかしわたしたちのテーブルの分と隣のテーブルの分の会計を終えた中野さんは、別にわたしや青ちゃんに食事代を請求するわけでもなく、当然のような顔でエレベーターホールへと向かいだした。
「ちょっと待ってください」
あわててその背中を呼び止める。
「カルビ定食、たしか千二百円でしたよね」
財布を開けて千円札と小銭を取り出し、中野さんに手渡す。
「消費税分はこんなもんだと思います。足りなかったら許してください」
すると中野さんは不思議そうな顔をしてわたしを見て、お金を押し返してきた。
「いいですよ、別に」
「いえ、中野さんがよくても、わたしがよくないですよ。このあいだもご馳走になったことですし、これ以上ご馳走になるのは心苦しいし、その理由もないですよ」
青ちゃんも今度ばかりはわたしと同じように感じたらしく、財布からお金を取り出している。すると途端に、中野さんは表情を硬くしてつぶやいた。
「僕、なにか三田村さんの気に障《さわ》るようなことをしただろうか」
この言葉には心底驚く。意図がまるでつかめない。
「いえ、まったく。まったく気分を害してはいないですが、わたしにも遠慮というものはありますから。そこまでしていただくと困ってしまいます」
「僕は困らないのだけど」
トライアスロンのチームの人たちが、遠巻きに、わたしたちを観察しているのがわかった。
ここでわたしが無理やり支払ったら、他の人も支払うことになるのか。
それに気付いたとき、わたしは宙に浮いたお金を財布のなかに戻すことに決めた。
「わかりました。今日はご馳走になります。──ありがとうございます」
すると青ちゃんも困惑したような表情を浮かべながら、わたしに続いて頭を下げた。
「毎度すまないっス。でも、いつかはおいらたちにもお礼をさせてくださいね」
するとようやく中野さんはホッとしたような表情になって、桑田さんがまたもやベルボーイのように先回りしてエレベーターのボタンを押すのを『良きに計らえ』とばかり、眺めていた。
叙々苑の焼肉を食べたせいか胃が重たくて、午後にはすこし眠気を感じた。
頭のどこかでぼんやりと、いま訳しているセンテンスを思い浮かべながらリラックスルームの手前まで来ると、喫煙部屋のほうからガラス越しに青ちゃんが手を振っているのが見えた。
「ういっス、姐さん」
「青ちゃんも焼肉で胃もたれした?」
「とんでもない。あれくらいの肉、屁でもないですわ。それにしてもおいらたち、またタダ飯を食っちゃいましたね」
「……そうだね」
アイスコーヒーが抽出されるのを待ちながら、また昼休みのときの中野さんとのやり取りを思い出す。幸い、リラックスルームにはわたしたち以外の人はいない。噂話をするにはもってこいだ。
「昼食代が自腹でなかったから、どうも落ち着かないんだけど、青ちゃんはどう?」
「うーん。……まあいいんじゃないスか? 奢りたいヤツには奢らせておけば。ただ困るのは、結婚後の姐さんだな。それは思いましたね」
「結婚後?」
驚いて声が大きくなる。すると青ちゃんはとんでもない事を言い出した。
「だって姐さん、そうでしょう。いくら稼いでいるとはいえ、あんなふうに毎度毎度、お大尽のように金を撒き散らしていたら、家に入れるお金がどうなることやらですわ」
「ちょっと待った! いつわたしと中野さんが結婚することになったの」
「とりあえず視野に入れて。そうそう、こないだ姐さんのとこのボス、キタさんとも話したんですがね。『ネットワークの部署と合コンやったら姐さんと中野さんがわりといい雰囲気だった』っておいらが言ったら、キタさんも喜んでましたよ。『それはとても釣り合いのとれた良い組み合わせだね。中野君も三田村さんも、そろそろ身を固めてもいい年頃だし』って」
「青ちゃん、わたしはあのとき、中野さんとほとんど口もきかなかったよ。っていうか、あの人、まるで喋らなかったじゃない」
「細かいことは気にしないでください。とりあえずアレですよ、周囲の人間から見ると、姐さんと中野さんが連れそうのは良縁なんですよ」
「周囲の人間っていっても、それは青ちゃんとキタさんだけでしょうが」
「大丈夫。将を射んと欲すればまず馬を射よ、でしたっけ。こういうのはまず周りからじわじわと攻め落としていくのが一番です」
「どうしてそんな話になるのよ!」
すると青ちゃんはタバコをもみ消し、ポンポンとわたしの肩を叩いて言った。
「大丈夫、中野さんのことは知っちゃいませんが、おいら姐さんの気持ちはよっくとわかってますよ。今日だってなにげに中野さんの前の席をキープしてるし」
そう言い当てられて無言になる。青ちゃんは大雑把なように見えてわりと人の行動を見ている。
「でも姐さんは恋愛に関しては古風なほどおしとやかなタイプだってのもわかってきましたからね。まあ強引なら日陰の花で耐えてませんか。とにかくここは任せて。うまく盛り上げてあげますって」
力なく笑う。
「まあそういうことです。じゃあそろそろ労働に戻りますわ。それじゃお先に」
わたしは紙コップを手にしたまま、呆然と窓越しに空を眺めた。
(一体全体、どうしてこういう話になるんだ? あ、自分がバージンじゃないふりをしているからか。また自業自得か。嘘に嘘を重ねて生きていくこの辛さ)
けれども、どこか胸を躍らせている自分がいた。釣り合いのとれた良い組み合わせ、か。はたから見ると、そうなのかな。
妙にふわふわと浮ついた気分だった。
たっぷりとギャザーを寄せた花柄プリントのスカートだ。リボンのついたブラウスを合せる。足元は転ぶために作られたような、細いヒールのブーツだ。全部身につけてから鏡の前に立つ。かちっとしたスーツばかり身につけていたわたしには、どのアイテムも冒険である。
試着室でも自分で自分を見て驚いたのだが、またしても驚いてしまう。
髪型を変えてから、いままで持っていた手持ちの服がどれも髪型に負ける感じがしたので、今日は思い切ってボーナス払いで、冬服や靴を三十万ほど購入してきたのだ。これまでのようにきちんと感を強調したデザインとはまったく逆の方向の服、青ちゃんが合コンのときに選んでくれたようなタイプの服ばかりだ。迷い始めるといつまでも迷ってしまうので、ショップの人に薦められるまま、かなり大胆なデザインのものを購入してきてしまった。
(人が見たらどう思うかなあ?)
そのときに真っ先に浮かび上がったのが中野さんの顔だったので、ひとりで焦る。室内で靴を試し履きするために敷いておいた、紙袋の上でじたばたする。
これは青ちゃんの暗示にかけられてるよ。だいたい、ろくに話をしたこともない人と、なんで結婚の話にまで飛躍するんだ。
そのときふいに、携帯が鳴った。とっさに靴のまま部屋を移動して、充電器から手にとる。「神保」と表示された番号からだった。
携帯のむこうから、ギンポ君の低くて渋い声が聞こえた。
「神保です。いま大丈夫ですか?」
「あ、ええ、はい」
「ちょうど車で三田村さんのマンションの近所まで来ているんですが、夕食でもどうですか」
いきなりの誘いだったが、とくに断わる理由も思い浮かばなかったので承諾する。
「いいですよ」
「じゃあ、十分後ぐらいにマンションの前で。支度に時間がかかるようなら、車を停めて待っていますから」
それだけ言い残すと、ギンポ君はあっさり携帯を切ってしまった。
やや遅れて驚きが来たけれど、別の考えが浮かんでこの誘いを歓迎してしまった。
そうだ。明日の出勤前に、人の目にはこの服装がどう映るかのテストができる。ギンポ君で実験しよう! そうだ、それがいい。
とりあえず靴を脱ぐと玄関に置いて、ふたたび鏡にむかった。雑誌とにらめっこしながらメイクに取り掛かる。コンシーラーだのホワイトパウダーだのを使いこなし、ノウハウ通りに顔をつくる。ベースは整った。眉もかけた。バッチリだ。今日の買い物のひとつであるホットビューラーで睫毛をはね上げると、青ちゃんがしてくれたように、たっぷりとマスカラを重ね塗りした。
マンションの前にはこのあいだと同じ、ギンポ君のメタリックな色合いの小さな車が停まっていた。ルーフにあたる部分だけペイントの色が黒い。こないだは気付かなかったけど、ちょっとクラシカルなデザインでいい感じだ。おまけに左ハンドルだった。
今ごろになって外車なのに気付いた。
車に乗り込むとギンポ君は、すこし目を細めてまぶしそうな顔をした。
「いいじゃないですか」
「なにがですか」
「今日の服装。なかなか似合ってますよ」
その反応にちょっと驚く。じつは自分からギンポ君に勇気をふるって、尋ねるつもりだったのだ。まさか誘導なしに、服装の感想を述べてくれるとは思わなかった。
「そうですか? 似合ってますか」
「うん、いい。そう、このあいだちょっと言おうかどうしようか迷っていたんだけど、三田村さんの顔立ちは、くっきりとして南国系だから、そういう服装、とても似合いますよ。そうそう、民間から皇室に嫁がれた、あのやんごとなきお方。公式行事に顔を出すようになってから服装がやたらと大人しくて、野暮と上品の紙一重のようなフォーマルになってしまったでしょう? あのときの違和感みたいなのを三田村さんの服装からは感じていたんですよ。今日の服装はとてもいい。あなたに似合っている」
嬉しいような、照れるような、それでいて悲しいような、複雑な気分を味わう。
わたしは姉のように純和風の、清楚な感じの服装が似合う顔立ちや髪質になりたかったのだ。
褒められたお返しというわけでもないのだが、ギンポ君の車について話をふる。
「ところでこの車、小さいけどとっても可愛いですね」
「車にはあまり詳しくないですか」
「ええ。すいません。車種とかまったくといっていいほど知らないんです」
「謝ることはないですよ。僕はあまり女性が車に詳しいのは好きじゃない。これはミニっていう車ですよ」
「もしかして小型だからミニですか? まんまですね」
「そう。小さいからミニ。まんまです。壊れやすい面倒な車ですよ」
ギンポ君はそう言うと、ゆっくりと路肩から車線へ、車を走らせた。
「どこに行きましょうかね。といっても、日曜だからたいした店は開いてないけど。何かリクエストはありますか」
ギンポ君の横顔を見つめているうちに、ふいに口をついて出た。
「マクドナルドのテイクアウトが」
そう口にしてからまたしても、しまったと後悔する。ギンポ君の横顔を眺めているうちにフィレオフィッシュが思い浮かんだのだ。するとギンポ君はさすがにあきれたようにわたしに尋ねた。
「本気ですか?」
半分やけになって肯定する。
「ええ、好きなんです。マックのフィレオフィッシュ。テイクアウトして、どこか海の見えるところで食べたいです」
言っているうちに実際そうしたいような気分になってきた。
「もしかして家で食事をするよりも外食が好きですか?」
「ええ、そうですね。会社の近くの小諸そばの天丼もりセットがわたしの常食です。あとは大戸屋の豚肉の生姜焼き定食。家庭の食卓なんて糞喰《くそく》らえ、ですね」
すると赤信号で車を停車させながら、ギンポ君は笑いをこらえきれず吹きだしてハンドルに額をつけた。そして小声でこう言った。
「やっぱりなあ」
なにが『やっぱり』なのかわからず、小刻みに身体を震わせながら笑い続けるギンポ君の肩を見る。
「なにが『やっぱり』なんですか」
「いや、いいです。こっちの話。それにしても安上がりな人だ。いいですよ、マクドナルドのテイクアウトにしましょう。お台場でいいですか? ここからも近いし。海浜公園でレインボーブリッジと屋形船でも眺めながらマクドナルドのフィレオフィッシュを食べましょう。それと──ついでだからもうひとつ世間の知恵というものを教えておいてあげましょう。僕以外の男と見合いするときはそれは禁句ですよ。料理が得意ってことにしておけば、見合いに出てくるような大半の男は釣れます」
ギンポ君は中央分離帯で車をUターンさせると、お台場へと車を走らせた。
わたしたちは、海浜公園のデッキに腰を下ろして海を眺めながらハンバーガーをパクついた。まわりは目を覆いたくなるような行動に及んでいるカップルばかりである。
わたしはそれを視界に入れないよう注意しながら、ひたすらまっすぐ海を見据えてハンバーガーを食べた。ときどき湾のなかに浮かんだ屋形船からカラオケの声が響いてくる。酔ったオジサンが演歌を熱唱している。カオスとしか表現しようのないこの状況のなかで、よくもあんなことやこんなことができるものだとカップルたちにある意味、畏敬《いけい》の念すら抱く。熱唱しているうちにオジサンの歌声はどんどんと調子っぱずれになっていった。
「──下手ですね」
ぼそりとつぶやいたらギンポ君が同意した。
「ええ、さっきから音程を外しまくっていますね。せっかくだから少し歩きますか?」
即座に却下する。
「いえ、いいです。このあたりは風紀が乱れすぎてます」
するとギンポ君は、また吹きだして笑った。なにがおかしいのだろう。
「じゃあこの近辺を少しドライブして帰りますか」
わたしは憮然《ぶぜん》として同意した。
「そうですね」
駐車場の車に戻っても、ギンポ君は何がおかしいのか、ときどき思い出し笑いをして、わたしをさらに憮然とさせた。
腰のラインを強調するクラシカルなタイトスカート、パープルのニットを差し色に使う。
「よし、合格だ」
すこしずつ大胆になっている自分を感じる。
服装をがらりと変えてからの評判は、なぜか上々だった。青ちゃんなどはこちらが恥ずかしくなるほど大絶賛してくれた。
「イイっス! 姐さん最高っス! 良い恋をすると女は変わるって本当ですね。後ろからむしゃぶりつきたいような色っぽいケツですわ。これからどんどん男を泣かせてください」
上司のキタさんも、打ち合わせがてらの食事に行ったときに、照れながら服装を褒めてくれた。
「このごろ三田村さんは、なんだか綺麗になったような気がしますよ。あ、いや、以前から綺麗でしたけどね」
すなおに嬉しいですと答えた。あれほど嫌ってきた自分の顔も、最近は悪くないと思えるようになってきている。ただ寂しい気持ちもあった。
結局、似合う服装を選べるようになるのって、自己肯定のひとつなんだと思う。
たぶん、普通の女の子だったら、十八とか十九のころにこういうのを経験するんだろう。
それにしても問題は沖縄、伊是名への旅なのだった。あれからもときおり中野さんや桑田さんとは昼食を共にしているのだけれど、とくになんの話もない。ついでに言えば、中野さんが面子に入ってるときはいつもご馳走になってしまって、いつのまにか、
(中野さんと食事に行くときはご馳走になるとき)
と、刷り込まれてしまったほどなのだけど、伊是名についての具体的な話は出ない。もう出発日まで三週間を切ったのに、連続して休暇をとるからには仕事の調整もしなくてはならないし、ずっと気になっていた。青ちゃんも気にしてた。
「沖縄の件ってどうなったんでしょうねえ? 日程も金額のことも全然知らせがないし。おいら姐さんと違って薄給だから、あらかじめ教えてもらわないと困りますワ」
今日は出社したら、まず幹事役であるらしい桑田さんにメールを送ろうと思いながら、バックストラップのミュールに足を通した。
このごろではもう、派手な網タイツにも慣れてしまった。
できあがった案件をプリントアウトしているうちに、ふと気付いた。
この案件、テクニカルチェックは中野さんにやってもらうのだった。
仕事を通じてだけど、わたしは中野さんとつながっているんだ。
そう思ったとたんにまたふわっと浮いたような気分になって、それから気付いた。
まずい。桑田さんにメールする件、忘れていた。
伊是名も、中野さんと行くんだ。三週間もしないうちに。
そう考えると、どうも落ち着かなくなる。メールを出して桑田さんに伊是名の件を尋ねるのも、なぜか躊躇《ためら》われる。
メールを送るだけのことなのに、中野さんへの、この奇妙な、落ち着きのない気分を見抜かれるのではと、もじもじしてしまうのだ。こんなの初めてだ。
とりあえず刷り上がった書類をまとめて、キタさんのところに報告に行く。
「これ、一応完成しました。ファイルのほうはあとで転送します」
キタさんはキーボードを打っていた手を休めて書類を受け取り、言った。
「速いですね。もうちょっとかかるかと思っていましたよ」
「一応、自分では手は抜いていないつもりなんですけど」
正直なところ、先月の泊まりこみ事務の仕事での遅れを取り戻すためと伊是名行きのために、ターボをかけて仕事をしていたのは事実だ。でも手は抜いていない。それに自信があった。するとキタさんがあわてて否定した。
「そんなつもりで言ったわけじゃないですよ。三田村さんが仕事に手を抜くような人じゃないのはもちろんわかってますよ」
「ありがとうございます。ただ、ちょっとご相談が。今月末あたり、お休みをいただくことになりそうなんです」
キタさんは卓上のカレンダーをちらりと見ると、すぐに笑顔で答えた。
「この進行ならスケジュール的にはまったく問題ないですよ。どこか旅行ですか?」
「ええ、そうなんです。ネットワークの部署の人たちと沖縄のほうに旅行にいこうという計画がありまして」
そう打ち明けるとキタさんはすこし目をみはり、それから意味ありげに笑った。
「行ってらっしゃい。若い人たちでたっぷり楽しんでくるといいですよ」
自分の頬が赤らんでしまうのがわかった。キタさんは青ちゃんからあれこれ聞かされ、中野さんとわたしの間柄について憶測したのだろう。身の置き場がないような気分で席にもどると、新着のメールが届いていた。それは桑田さんからのメールで、件名は「沖縄の旅行の件で」となっていた。こちらからメールを出さずに済んだようなので、これにはひそかにホッとした。
ところがメールに目を通してみると、そこには驚くべき内容が記されていたのだ。
このメールはBCCで伊是名に行く女子の皆様にお送りしています。
エア代と伊是名までの移動費は中野さんが負担してくれることになりました。皆様にお願いしたいのは三泊分の民宿代だけです。これは二食付きで、一泊五千円となります。
あんまりにも驚いたので、あわててメッセンジャーで青ちゃんを呼び出した。
〈青ちゃん!〉
すぐに応答があった。
〈はいはい、姐さん。メールの件ですね。いや驚きましたね〉
〈驚くどころの騒ぎじゃないよ。なに、この話〉
〈うーん。正直おいらにはありがたい話ではあるんですが……なんかさすがにここまで来ると、ちょいと変なカンジですねぃ。飯ぐらいだったら、そう気になんないけど〉
〈そこまでしてもらう理由がないよ。こちらだって好きでついていくんだから〉
〈うーん、うーん、たしかにそれはそうなんですがね。……やっぱりおいらは、ありがたいかなあ。悩むところだ〉
ここでひとつ気付く。わたしが中野さんの好意を断わったら、他の女子にも影響が及ぶのだ。
特許事務のシマに居たときは、わたしも薄給とは言わないまでも、他の女子社員と大差ない給与だった。かなり隔たりが出たのは翻訳のシマに異動してからだ。ここでわたしだけエア代を強引に出すといったら、まるでそれを誇示しているようにも受け取られかねない。考えているうちに、青ちゃんから続けてメッセージが送られてきた。
〈それにしてもアレですね。太っ腹というかなんというか。姐さん、結婚後もそのへんで苦労するかもしれないけど頑張ってください〉
〈だからまだそんな関係じゃないって! それよりさ、わたし、だんだんわかってきたよ。どうしてみんながあんなに中野さんを立てるのか。金だよ、金。これだけお金を使われたら、立てざるを得ないよ〉
〈同感ですね。おいら、金の力をこれでもかというくらい見た気分〉
〈まあいいか。エア代、もってもらおうか〉
〈そおっスね。沖縄へのエア代ってどんくらいかかるかわからないけど、お願いしちゃいましょう。というわけで、ではでは〉
〈うん、ではでは〉
青ちゃんとのチャットを終えてから、気分を変えるためリラックスルームにむかった。メールへの返事をタイプするのは後にしようと考える。ネットワークの部署の横を通りかかるとき、中野さんの後ろ姿が見えた。そしたら、なぜか急に悲しいような、泣きたいような衝動に襲われた。
どうして、どうしてなんだろう。
中野さんはわたしたちに接する機会が増えるたびに、少しずつあのおどおどとした雰囲気が消えてきていた。わたしや青ちゃんという新顔の前でもたまに話に加わって、談笑したりするようにもなった。でもそれはわたしたちという知らない人間に打ち解けたからというより、たんにお金を負担する機会が増えたからのように感じられた。
──寂しい。
会社のなかで、こんな気分に陥るのは初めてだった。涙ぐみそうになった瞬間、誰かがリラックスルームに入ってきたので、あわてて気持ちを切り替える。するとそれは中野さん当人だった。心底驚いた。
中野さんは微笑しながらわたしに声をかけた。
「あ、どうも。お疲れ様です。休憩ですか?」
目がうるんでいるのに気付かれないように祈りながら、笑顔を作って答える。
「ええ、仕事が一区切りついたもので。ところで飛行機の代金、代わりにお支払いいただけるとかで、どうもありがとうございます」
頭を下げると中野さんはちょっと嬉しそうな顔になって言った。
「いえ、どういたしまして」
「でもなんだか申し訳ないような」
「いえいえ、僕らの予定にあわせて伊是名まで来てくださるんだから、このぐらいのことは」
中野さんは自販機でコーヒーを抽出すると、紙コップを手にして、初めてわたしの横にくつろいだ様子で座った。微妙な距離の近さに、どきどきしていた。
「中野さん、伊是名ってどんなところなんですか?」
「僕も伊是名は初めてなんですよ。宮古のレースには出たことがあるんですが」
「トライアスロンの?」
「ええ。そのときはいつも宮古島東急リゾートに泊まるんですよ。レースもすぐその前の浜から始まりますし。白砂のビーチで、とても綺麗ですよ。ホテルのほうも、ベランダにブーゲンビリアの花が咲いていて、窓越しに海が見えます。でも今度の伊是名行きは民宿に泊まるしかないから、心配してたな、桑田君が」
「わたし、民宿も楽しみです。沖縄の文化にも触れることができそうですし。リゾートホテルよりも面白そうじゃないですか」
「そう言われると僕も楽しみになってきたな」
中野さんは顔をくしゃっとさせて笑った。子どものような笑顔が胸を打った。休憩を終えて席に戻ると、またメールが届いていた。青ちゃんからだった。
見ましたよ、見ましたよ。姐さんってば〜。おいら喫煙のほうにいたけど、お邪魔になりそうだから声をかけませんでした。楽しそうに喋っちゃって、この男泣かせさん!
(そんなんじゃないけど、まあいいか)
苦笑してメーラーを閉じた。
いつの間にか、さっき感じていた寂しさが消えていた。その代わりに、ちょっとだけふわふわとした、中野さんと会うたびに感じるあの妙に浮ついた気分になった。
*
「うみ、うみ、うみー! 姐さん、青いです。海がとっても青いです」
那覇空港が近づいてきて、機体は沖縄の青い海の上空を旋回していた。窓際の席に座った青ちゃんは、はしゃいで大声になった。わたしも身を乗り出して海を見る。
「本当だ、むちゃくちゃ綺麗」
「民宿代だけでこの海で遊べるなんて。おいらたちって、とってもラッキー。ありがとう、中野さん」
前の席の中野さんにむかって青ちゃんが叫ぶ。素直な青ちゃんの感謝の言葉に、すこし照れたように中野さんが答えた。
「どういたしまして」
着地寸前の、身体が浮くような感覚のなかで期待がどんどん膨らんでいく。わたしと青ちゃんを含めて総勢八人の空の旅だ。桑田さんと中野さん、あとはランチで顔見知りになっていた井伊さんと神田さんという男性社員。あとは鹿野さんと緑川さんという女性が二人だ。青ちゃんとわたし以外はみんなトライアスロンのレースに参加するらしい。聞けば今回のトライアスロンのレースは、二キロ泳いだあと自転車を六十六キロ漕いで、最後に二十キロ走るのだという。まさに鉄人の挑むレースだ。緑川さんのほうはここで初めて知り合ったけど、鹿野さんのほうは名前だけ知っていた。年はたしかわたしより少し上だったと思う。広報担当の女性で、なかなかのやり手だという噂だ。仕事もできて、しかも身体もそれだけ鍛え上げるなんて、かなり根性のある女性なのだろう。青ちゃんはいつもの気さくさを発揮して、さっそくこの女性陣とも打ちとけていた。
そして──これから三泊四日の間、中野さんと一緒の旅。
前の座席に座っているのが中野さんだというのも、ひそかに嬉しかったりした。だからといってそれ以上のことは何もないけど。桑田さんはレースのあいだ、青木さんと浜辺で遊んでいてくださいと言っていた。けれどわたしは中野さんの出るというレースも、ちょっと見てみたい。
ここから伊是名行きの便に乗り換えれば、昼過ぎにはわたしたちは青いビーチに囲まれた離島にたどり着く。
あれから桑田さんは伊是名に最近になって空港ができたことまで調べ上げた。もっともこれも一日一便しか動いてないそうで、レースの日程の都合上、伊是名で民宿に泊まることだけは避けられなかったようだ。どうしてそこまで民宿に泊まるのを避けたがるのか、わからない。
やがてズンと振動が来て、機体は無事、那覇空港に着地した。飛行機から空港内に入るなり、サウナのような熱気に包まれた。空港内に飾られた蘭の花がわたしたちを出迎えている。東京から着てきたカーディガンを脱いで、半そでのカットソーになった。
「エントリーの前に、民宿にチェックインしちゃいましょう」
伊是名につくと、あいかわらず曇った表情のまま桑田さんがそう言った。わたしと青ちゃんを除く六人はレースに参加する。しかも聞いたところによると、夕方までにはエントリーを済ませなくてはならないという。気を遣われているのかなと思い、一言添える。
「あの、チェックインは先に御用事のほうを済ませてくださってからでも、別に」
すると桑田さんは頭を掻いて、
「いや、その、ちょっと気になることがあるんで」
と言って、レンタカーに乗るよう促した。運転席には桑田さんが乗り、助手席には中野さんが乗って、ナビをした。後ろの座席は青ちゃんとわたしだ。あとから他のメンバーの乗った車がついてくる。青いサトウキビ畑のなかを疾走していく。見るものすべてがまばゆい。自分では一生来ようとも思わなかっただろうこの島の風景に、心の窓が開いて、新鮮な空気が流れ込んでくるような心地よさを感じていた。
「民宿南風荘。桑田君、そろそろ近いよ。このあたりみたい」
中野さんがそう告げると、桑田さんはスピードを落としてゆるゆると辺りを見回しながら車を走らせた。そして小声で、
「あーっ」
と叫ぶと、車のブレーキを踏んだ。
「やっぱり……。嫌な予感はしていたんだ」
桑田さんはそうつぶやいて、ハンドルに頭をぶつけた。そこには地震がきたら崩落しそうな、四角くて古く、薄汚れたコンクリートの建物が立っていた。さらにインパクトを強めているのは、赤いペンキで素人が手書きしたようなひょろひょろの書体で記された「民宿南風荘」の文字だ。実家の近くの国道沿いに、潰れたまま放置されていたドライブインがあったのだが、その荒れ果てた建物と、ここはとてもよく似ている。漠然とイメージしていた沖縄の民家らしさもなければ、リゾートという雰囲気からも遠くかけ離れていた。
桑田さんは振り向くと、わたしと青ちゃんにこう告げた。
「申し訳ないが皆さん、覚悟してください。今夜はとても、怖い目に遭うかもしれない。いや、今夜だけでなく明日も明後日も。一応、そのための対策として持参したものがありますが……。正直、勝てる自信がありません」
「勝てる自信って、何に対してですか?」
「入ればわかります。そうでないことを祈りますが、たぶん、おそらく……」
「とにかく桑田君、なかに入ろうよ」
中野さんの一言で、全員車を降りて荷物を出した。青ちゃんはポカンとした顔をして桑田さんに尋ねる。
「怖い目ってなんスかね? 桑田さん霊感でもあるんですか」
「霊感? ないですよ。そういうんじゃなくて、その……」
「民宿が古いってことなら、おいら全然平気だけどなあ。だってこのあたりの建物、赤い瓦屋根のお家もあったけど、他はみんなこんな感じの平たいコンクリートの家だったし。沖縄ってこういうもんなんだなあって、窓から見てて思っていたもの」
雑談をしていると、がらりと民宿のアルミサッシの引き戸があいて、顔をくしゃくしゃにして笑っているおばさんが現れた。
「あなたたち、今日のお泊まりのお客さんだね? ウチは部屋数が少ないからね、三日間はお客さんたちの貸切ですよ。泡盛でも飲んで楽しくやるといいさー。いっくら騒いでもかまわないからね」
茶色に日焼けした小柄なおばさんは、エプロン姿でそう歓迎してくれた。そして嬉しそうに建物横の外階段から、わたしたちを部屋へと案内した。
「こっちが外鍵で、これが部屋の鍵。このあたりには泥棒に入る人なんていないけどさ、一応念のために使ってくださいねー」
微妙にイントネーションの違う言葉の響きに、また旅情を感じる。
「ここで靴を脱いでくださいねー」
「はーい」
狭いコンクリートのたたきの上で靴を脱ぎ、一歩足を踏み入れると、サッとわたしの足元を駆け抜けて行く何かがいた。
……虫か? なんか、茶色かったような……。
虫のようなものに気を取られているうちに、おばさんは陽気に部屋へと案内した。
「ここがシャワー室で、ここがトイレね。そんで他はみんなお客さんたちの部屋だから。皆さんでそれぞれ部屋割りをして使ってください。夕飯は六時ぐらいで大丈夫ですか? お客さんたちも、大会に出るために来たんでしょ。会場には泡盛も用意してあるらしいからね。遅くなるようなら、一時間ぐらい食事の時間後にしてもかまわないから」
その問いに桑田さんが答える。
「それでは七時からでお願いします」
そのあいだ、わたしはひとつの流れに目が釘付けになっていた。
それはどこからどう見ても、巨大な蟻《あり》の列だった。蟻が、我が物顔で廊下や壁面を渡り歩いている。
「食堂はさっきわたしが出てきた一階だから。それじゃあとでまた食事のときに。何かわからないこととかあったら来てくださいねー」
おばさんはそう言うと、とっても人の好さそうな笑顔を浮かべて出て行った。
その瞬間、悲鳴があがった。
「ギャーッ!」
叫び声をあげたのは青ちゃんだった。
「姐さん、ゴキです、ゴキがいまおいらの足元を」
遅れて入ってきた鹿野さんや緑川さんからも叫び声が起こった。
「嘘、これゴキブリ? いやあー。あっちにもこっちにもいる」
男性陣からも声があがる。
「部屋のドアノブにもゴキブリがへばりついてるぞ」
すると桑田さんがどんよりとした顔でつぶやくように言った。
「僕、このチームを作る前、ひとりで宮古の大会に参加してこことそっくりの民宿に泊まったんです。そのときもこうだった。沖縄の人たちって、虫を気にしないみたい」
さすがの青ちゃんもこの状況を楽しむ気にはなれないようで、青ざめて桑田さんに問いかける。
「なんでですか? いわゆるそのエコロジー思想ってヤツですか? あっちにもこっちにも虫がいますよ。虫との共生を望んでるんですかっ」
すると桑田さんが哀愁漂う顔で答えた。
「僕にはわかりません。ただ、調べてわかったんですが、どうやら明後日のトライアスロン大会は、年に一度の島をあげてのイベントの日らしいんですよ。普段はわざわざ本島からここまで来て民宿に泊まるマニアはいないんでしょう。だからたぶん、ここは年間通してほとんど泊まり客もなく、虫の天下になっていたのではないかと……。僕らトライアスロン目的で来た仲間はさておいて、青木さん、そして三田村さん、本当に申し訳ない。リゾート気分なんて味わえない旅になってしまって申し訳ない。とりあえずバルサンを沢山持参しましたので、これを各部屋に焚《た》きしめて外に出ましょう」
そして桑田さんはわたしたちに深く頭を下げると、荷物からバルサンを取り出し、果敢にゴキブリが走るなかを抜けて、各部屋にバルサンを設置しはじめた。
「荷物を置いたら皆さん外で待っていてください。これは僕が責任を持って行ないますので」
「すいません。ではよろしくお願いします」
わたしたちは荷物を廊下に放置すると、そろりそろりとつま先立ちで、さきほど入ってきた玄関に逆戻りした。そして一気に外階段を駆け降りた。
「僕たちこれから選手登録に向かいますけど、青木さんと三田村さんはどうされます?」
任務を果たして戻ってきた桑田さんに訊かれて青ちゃんと思案する。このまま民宿にとどまるのは願い下げだし、かといってどうするあてもない。
青ちゃんが尋ねた。
「一緒についていっちゃダメですかね?」
「いいえ、一向に構いませんが。ではお二人とも僕たちに同行していただくということで。選手登録のあとたぶん説明会があると思うので、そのあいだよければ車でドライブでもなさっていてください。免許はお持ちでしたよね」
「ええ、ペーパーですけど、一応」
「競技説明会が終わったら、携帯で連絡を入れますから」
打ち合わせが終わると、わたしたちはそそくさと車に乗り込んだ。巨大な茶羽根ゴキブリみたいなやつから早く遠ざかりたい一心だった。
青ちゃんとドライブしてみると、伊是名は本当になにもない島だった。桑田さんが用意していてくれた観光マップには、展望台、漁港、伊是名ビーチ、そして牧場ぐらいしかなく、村役場とダムと小中学校まで観光名所として記されている。しかたないので伊是名ビーチで時間を潰して、競技説明会の場所に乗りつけた。
すると建物の前で桑田さんが待っていた。
「すいません、みんなまだ飲んでるんです。競技説明のあいだにビールや泡盛が振舞われたもので。いま呼んで来ますから」
「あ、それじゃ飲酒運転ですか? じゃあわたしがこのままドライバーになりますね」
「すいませんがお願いします。もう一台のほうは僕が運転しますから。僕はシラフなんで」
車のなかで待っていると、やがて赤い顔をした中野さんたちがどやどやと体育館から出てきた。わたしがハンドルを持つ車のほうには、鹿野さんと緑川さんが乗り込んだ。
上機嫌でお喋りをしている。
「それにしても桑田さんって、本当にマメだね。ちゃんとバルサンを持参してくるなんて、ゴキブリにも驚いたけどその気の使い方にも驚いちゃった」
「外面《そとづら》がいいだけよ。わたしの前では本当にただの駄々っ子」
助手席に座っている青ちゃんが、一瞬、固まったのがわかった。そして青ちゃんは知らないそぶりで、明るい声を作って尋ねた。
「あれ、鹿野さんって、桑田さんと付き合ってるんですかあ?」
「やだ。緑川が変なこと言うから」
「いいじゃん、だってもう公認だし。桑田君が入社してすぐ鹿野さん鹿野さんとおいかけまわして、もう四年越しのお付き合いだもん。鹿野ももう三十だし、そろそろ結婚の話が出てもいいころじゃないの」
まんざらでもなさそうに鹿野さんが言った。
「結婚ねえ。あんな子供とやっていけるかが問題かな」
「それをハンドリングするのが鹿野の役目でしょ。仕切るの上手じゃん」
再び青ちゃんが明るい声を作って尋ねる。
「じゃあ、鹿野さんと桑田さんはラブラブなんですね? うひゃー、おいらもうらやましいっ。あてられちゃうなあ」
「そんな感じじゃないの。もう。長く暮してるとお互い生活の一部って感じで」
緑川さんがからかうように言う。
「もしかして早くも倦怠期ってわけ? 結婚前なのに」
「結婚ねえ。それもする気があるんだかないんだかわからないよ。とにかく桑田はひたすらトライアスロンに夢中のお子様よ」
宿の前に車が着くと、後部座席のふたりはため息をついた。
「それにしても参っちゃうわ、あのゴキブリ」
「本当ねえ。バルサンが退治してくれているといいけど。正直、憂鬱《ゆううつ》。わたし虫は本気で苦手だから。悪いけど、来年からは伊是名はつきあわない」
外階段を上りおそるおそる宿に入ると、廊下のあちこちに点々とゴキブリの死骸が落ちていた。わたしと青ちゃんに割り当てられた部屋からとりあえず蟻の行列は消えていて、いくつかのゴキブリの死骸が落ちている。それをティッシュでつまんでゴミ箱の中に捨て、窓を開け放ち、空気を入れ換えた。すると背後から青ちゃんが低い声で言った。
「姐さん、あの桑田って男はダメですね」
「なにが?」
「四年越しの女がいるのに、姐さんにあんなに接近してくるなんて。言語道断です。年上の仕切り上手な女がタイプなら、姐さんは猫にマタタビでしょうけど。もし乗り換えるつもりでも、きっちりケジメをつけてからにして欲しいですわ」
苦笑して振り返る。
「接近っていっても、飲み会や食事のときにちょっと多く話をしただけじゃん」
「いいや、おいらにはわかります。この伊是名行きにしたって、姐さんに接近したくて組んだ旅行ですよ。おいらは添え物。別にそれは気にしないけど」
「青ちゃん、とりあえずその話はまた後にしよう。ここ、壁が薄いし」
「そうっスね。でもおいらがお願いしておきたいのは、安易に桑田って男に引っかからないでくださいってことです。まあ、姐さんの眼中にはないのかもしれないけれど。おいらはいまのところ中野さんがイチオシです。年齢的にも年収も申し分ないです」
なんと答えていいのかわからず、わたしは苦笑した。
翌朝はからりと晴れた空だった。
昨夜は結局、大自然の脅威に勝てず、共同トイレのドアノブに張り付いていたゴキブリを握ってしまった青ちゃんが絶叫してみんなをたたき起こすというハプニングはあったけれど、本日、むかうは体験ダイビングである。
桑田さんはみんなの自転車を組み立てる手伝いを終えると、わたしたちを車に乗せ、島に一軒だけあるというダイビングショップにむかった。中野さんはわたしたちのことなど忘れたかのように、他の四人と連れだってさっさと自転車でコースの下見に出て行ってしまった。その後ろ姿を見てふと思った。
青ちゃんはああ言っていたけれど、きっと桑田さんのような人と結婚したほうが幸せにはなれるんだろうなと。
中野さんのわたしへの無関心さに少し傷ついている自分がいる。
やがて車は目的地に着いて、わたしたちはさっそくショップの人から耳抜きのやり方と肺呼吸を止めてはならないことなどを教えてもらうと、免責事項を書き連ねた書類にサインした。けれどちょっと不安だ。溺れて死んだりしないだろうか。だけどここまで来たら引き返せない。
わたしは腹を決めるとウェットスーツに着替え、重たいタンクを背負った。そしてインストラクターのお兄さんのあとに続いて、入水自殺のような気分でずるずると砂浜を海にむかって歩いた。
それにしてもボンベからの空気が吸いにくい! これって壊れてないか。
不安でたまらなかったが、水に入ったとたん、楽に呼吸できるようになった。なるほど、水圧がかかると吸いやすくなるようにできているのか。感心する。水深が深くなるにつれ、耳が痛くなってきたので、教えられたとおり耳抜きをしてみた。成功。少し自信がついてくる。だんだんまわりを見る余裕も出てきた。
あっ、魚!
青い小魚の群れが目の前を通り過ぎていく。テレビの番組で水中の映像は何度も見たことはあるけれど、ライブで見るのはまるで感覚が違う。
やがて砂底のむこうに、岩のようなものが見えてきた。珊瑚礁《さんごしよう》だ。そのあたりには背が赤くて腹が蛍光色のオレンジの魚や、真っ青な地に黄色い斑点のある魚、黄色と黒の筋状に色分けされた魚が泳いでいた。驚嘆する。
興奮して、マウスピースをくわえたまま叫ぶ。
(楽しい!)
でも言葉はただ泡になって漏れるだけで、声にはならない。
振り向くと桑田さんはゆっくりとわたしたちの後方から、見守るようについてきている。嬉しかった。なにもかもに感謝したい気分だった。
宿の夕食で、コースの下見をしてきた面子と合流した。
「桑田君、スイムのコースでね、流れがすっごくキツいところがあったよ。もう、斜めに泳がなくちゃいけない感じ」
「じゃあ明日のオープンウォーターは覚悟しておかなくちゃいけないですね」
「バイクコースはゆるやかなアップダウンで、急な傾斜はない」
「頑張ってくださいね。わたしたち応援しますから」
青ちゃんと口々にみんなを励ます。本当は青ちゃんは明日もダイビングがやりたかったのだが、わたしが応援させてくれと無理を言って頼んだのだ。
昨日と同じように、わたしたち八名はふたつのテーブルに分かれて座った。わたしの目の前には中野さんと桑田さんがいて、隣には青ちゃんが座っている。桑田さんと交際しているという鹿野さんは、隣のテーブルで他の面子と明日のトライアスロンの話で盛り上がっている。チームのなかで付き合っているという色をあまり濃く出したくないのだろうか。皆の前ではあえて距離を置いているようにみえた。しかし問題は中野さんだ。明日はいよいよレースを迎えるので他の人はお酒を控えめにしているのに、中野さんだけはまた舌がまわらないほど酔っていた。
今日も潰れるまで飲むつもりのようだ。いつも難しい顔をして仕事をしている中野さんと違って、お酒の入った中野さんはリラックスして子供に返ったかのように気の緩んだ顔をする。それを可愛いと思うと同時に、なぜか可哀想にも思う。
どうしてこの人は、わたしの心をこんなにも揺らすのかなあ。
切ないような気分を吹き飛ばそうと、わたしもグッと泡盛を空けた。すると嬉しそうに中野さんがコップにお酒を注いでくれた。
結局、この夜も中野さんは潰れるまで飲んで、桑田さんに抱え上げられるようにして民宿の外階段を上った。その後ろ姿に、宿のおばさんが、ぽつりと漏らした。
「昨日も見ていて思ったけど、あの人の飲み方はダメねー。お酒を飲んで美味しい、楽しい、そういう飲み方はいい。でも酔って潰れるのが目的で飲むのはダメさー」
その言葉がわたしの胸を貫いた。
そうだ。いつも中野さんを見ていてふわふわする気分と同時に味わう、ざわつく気持ち、それは痛む心だ。この人は、少しも幸せそうに見えない。
わたしは青ちゃんの情報収集力のおかげで、中野さんが国分寺に豪華な単身者用のマンションを即金で買って、そこで優雅に一人暮らしをしているという話も耳にしていた。そこにはグランドピアノが置かれていて、中野さんの部屋で飲み会になるときはプロ並みの腕前を披露することもあるのだという。
年収が千五百万もあって、持ち家もあって、仕事では高く評価されていて、そしてトライアスロンやピアノという趣味もあって、いつもチームの仲間に囲まれ忠実な家臣にかしずかれる王子様のように振舞って……なにもかも持っているはずなのに。
男女関係のことには疎《うと》いわたしだが、なぜかこのときは確信を持って感じた。中野さんと付き合っている女性はいない。いまだけでなく、わたしと知り合うそれ以前もきっと。そのときふいに姉の顔が思い浮かんだ。
──お姉ちゃん!
姉の面影が、中野さんと重なった。心のなかで姉にむかって激しく問いかけた。
お姉ちゃん、あなたは、いま、幸せですか。
部屋に戻ると、ベッドに座ったわたしの腕を青ちゃんがいきなりつかんで小声で、でも凄みのある声で言った。
「姐さん、いまから尋ねることに、正直に答えてください。姐さんが明日、応援したい相手は誰ですか。桑田ですか、中野ですか、二股野郎の桑田だったら許しませんよ!」
「待って、青ちゃん。いま混乱しててうまく話せない」
「混乱してるっていうのはどういうことです。誰を応援したいのかわからないってことですか」
「お願い、ちょっと待っ……」
いきなり涙がこぼれ落ちた。他人の前であからさまに涙をこぼしたのは初めての経験だった。なぜ自分が泣いているのかも、自分にすら説明がつけられなかった。泣き顔を見られたくなくてベッドに突っ伏した。こみあげてくる嗚咽に耐えている自分が信じられなかった。
あの人のなかには夕暮れがある。行き暮れてひとり、帰り道をなくしたあの日の夕暮れがある。誰も気付かなくてもわたしにはわかる。あの人の、孤独が。
いままでわたしが封印していたもの、それは喜怒哀楽だった。わたしは自分で自分をコントロールしたくて、感情を心の箱に入れ、封印していたのだ。だから愛や恋とも無縁の世界にだけ、身を置いた。
そうだ。わたしは、こうなりたくなかったから仕事に依存していたんだ。
どうしてわたしは封印を解いたのだろう。嗚咽を飲み込んだあと、わたしはベッドから起き上がって泣き顔をさらしたまま青ちゃんに言った。
「青ちゃん、わたしは自分のいまのこの気持ちがなんなのかはわからない。でも青ちゃんにだけは正直に伝えられるだけ言う。わたしは中野さんのことが気になってしかたないんだ。合コンしたあの日から、ずっとあの人のことが頭を離れない。いまも酔い潰れた中野さんの背中を見て、悲しくてたまらない。どうしてだかわからない。だってこんなふうになったの初めてなんだよ!」
青ちゃんは無言で、けれど真剣な目でわたしをみつめていた。
「それからもうひとつ白状する。本当はわたし、いままで男の人と付き合ったことがない。変な女でしょ? いい年して気持ち悪いでしょ? 嫌いになってもいいよ」
青ちゃんはしゃがんでわたしの手を握って言った。
「姐さん、どうしてそんなことでおいらが姐さんを嫌いになりますか? 今日はおいら、とても嬉しいです。ずっと一緒にいて、初めて姐さんに打ち解けてもらった、そんな気がする。本当のことを言うと、おいら、なんとなく気付いていたかもしれない。最初はなかなか本心を見せないガードの堅い人だなと思っていたけど、ひょっとするとこれは違うんじゃないかって。──姐さん、おいらの願いはひとつなんですよ。姐さんに幸せになってもらいたい。ただそれだけなんです。姐さんに笑ってほしい。姐さんに喜んでほしい。おいらはチンケな存在だからなんにもしてあげられないけど、ただそう願っているんです」
青ちゃんの誠意に何か言葉を返したかったけれど、ますます涙が溢れ出て言葉にできなかった。感情の抑制が利かなくなったわたしはただ泣き続けた。それは中野さんからあの夕暮れの路地へと続く悲しみのための涙のようでもあったし、青ちゃんから受け取った愛情への喜びの涙のようでもあったし、ついに他人に心の内を打ち明けてしまった気持ちの高ぶりからくる涙のようでもあった。青ちゃんは聖母のように優しい笑顔でわたしの手をさすりながら、子守唄のように繰り返した。
「姐さん、幸せになりましょうね。いつかきっと幸せになりましょうね」
わたしは涙をぬぐいながら、ただ何度もうなずいた。
翌朝は、ほんのりとした薄曇だった。けれど予報によれば、昼から晴天になるという。
「暑いレースになりそうだね」
民宿のまえでバイクにまたがりながら、中野さんが空を仰ぐ。
その横顔を眺めながら昨日の青ちゃんとのやり取りを思い出す。わたしたちは結局、深夜までお喋りをして寝付いたのだ。
(姐さん、色恋のことに関してはおいらのほうが場数踏んでるみたいだから教えてあげますよ。そういう気持ちを世間じゃ恋っていうんです)
(こんなに悲しい気分が? もっと楽しいものかと想像してたんだけど)
(相手を見て切なくなる気分、それは恋です。この青木が保証します)
(そうなんだ。知らなかったよ。それじゃわたしは中野さんに恋してるのか)
(そうっス。恋してるんですよ。素晴らしいじゃないですか)
(全然面白くないし、素晴らしくもないよ。むしろ出会う以前の状態に戻りたいよ)
(何の波乱もない人生の、なにが面白いっていうんですか。心が浮き立ったり、沈んだり。季節に春夏秋冬があるように、変化があるから面白いんじゃないですか)
(面白がる余裕なんてないよ。なんだか悲しくなるばっかりだ)
(そうかあ。おいら、姐さんの初恋に立ち会っているんだ。なんか姐さんの人生の神聖な瞬間に居合わせている感じで嬉しいなあ)
(わたしさ、みんなが十代とか二十代前半に通ってきた道を、ちゃんと通ってこなかったんだよね。いい年して本当に間が抜けてる)
(そんなことないっスよ。人生はひとりひとりが自分のペースで進めていけばいいものなんですよ。いくつが初恋でもちっともかまわないんです。それこそ五十で初恋だって、全然オッケーですよ)
そんな話をしながら眠りについた昨日の夜を思い出しながら、レースにむけて顔がひきしまっていく中野さんの横顔をそっと眺める。
(わたしはこの人に恋しているんだ)
そう思うだけで胸が高鳴っていく。
中野さんはさすがにトライアスリートだけあって、細いけど引き締まった筋肉質の体つきだった。両肩にはマジックでゼッケンナンバーが書かれている。その鍛え上げられた肩に思わず見とれる。
(ゼッケンナンバー、124)
心のなかで番号をつぶやいてみる。わたしの恋する人の番号。ふいに中野さんと目があった。中野さんはかるく目礼すると、こう言った。
「今日はわざわざ僕たちの応援をしてくれるそうで、どうもありがとうございます」
おもわず赤面してしまうのがわかる。下心が見抜かれないように祈る。
「いいえ、エア代も出していただいたし、これくらいのことは……」
「とんでもない。僕らの日程ばかり優先してしまって、本当に申し訳ない。このお礼は、またいずれ」
その言葉にまた胸が高鳴る。
バイクでスイムの会場へとむかう中野さんたちの後を追って、わたしと青ちゃんは車で伊是名ビーチへとむかった。ここがスタート地点なのだ。
「ごめんね、青ちゃん。付き合わせちゃって」
「いや全然いいっスよ。ていうか、なんか姐さんを通して高校のころに好きだった男の子の野球の試合を応援したのを思い出しちゃったりして、とっても甘酸っぱい気分。いいなあ、姐さん。いま青春真っ盛り、って感じで。おいらと相方なんて、もうマンネリもいいところ。おいらも久々に恋のひとつもしたくなってきたぞー」
車を駐車させて会場へとむかうと、砂浜はもう大勢のアスリートで芋洗い状態になっていた。どこに中野さんがいるか、見分けがつかない。
(茶髪のゼッケン124はどこ?)
きょろきょろしてると、遠くから大声で呼ぶ声があった。
「青木さん、三田村さん、ここです、ここ」
それは桑田さんだった。中野さんをはじめとするほかの面子もいる。砂浜を走って、集団に合流する。
「皆さん、頑張ってください」
励ますと桑田さんがにっこり笑った。
「青木さんも三田村さんも応援ありがとう。そうだ、よかったらこの使い捨てカメラで僕らの勇姿を激写してくださいよ。記念にしたいから」
青ちゃんが桑田さんからカメラを受け取り、敬礼をした。
「了解っス。たしかに受け取りました。いいショットが撮れるよう頑張ります。皆さんの完走をお祈りいたしております。皆さん、ゼッケンは連番なんですね。了解、見逃さないように、しっかりと激写しますよお」
スタート前の集合写真を一枚撮った。みんなVサインを作ったりして、楽しそうだ。
選手たちの邪魔にならないよう、防波堤のあたりまで下がってレースが始まるのを待つ。やがてスタートの合図があって、選手たちがじゃばじゃばと海に突進していった。遠ざかっていく選手たちを見届けると、青ちゃんがわたしの手を引いた。
「さあ姐さん、バイクのコースのほうに先回りしましょう」
「うん!」
車にむかって駆け出した。
「それでは、全員の完走を祝して乾杯! 青木さん、三田村さん、応援ありがとう。おふたりにも乾杯!」
全員が声を揃えて、杯をあわせる。
「乾杯!」
一日炎天下にいたので、氷水で割った泡盛がとてもおいしく感じられる。蜃気楼《しんきろう》がゆらゆら揺れていたサトウキビ畑の風景やスイムの会場の海の青さを思い出しながら、泡盛を一気にあけた。自分が走ったわけでもないのにみんなとの一体感がこみあげてきて、楽しくなる。おまけにこれからは花火大会で打ち上げだという。我が家の夜といえば、いつも父親がいなくて、家族そろって花火で遊ぶなんてことはまずなかった。子供のころにやりたかったことをまとめていま全部やっている。そんな気分だ。
「ああ旨い! もう一杯」
桑田さんがテーブルに勢いよくコップを置く。つづいて中野さんもテーブルにコップを置く。青ちゃんとホステス役をつとめ、空いたコップに泡盛と氷を入れ、水をそそぐ。
「さあどんどんいっちゃってください」
全員がぐでんぐでんに酔ったころ、宴会は果てて、打ち上げ花火に移ることになった。
月の下、砂浜の上にパチパチと火花が散る。みんなの顔が赤や緑に照らされる。すると井伊さんが花火の火を桑田さんのお尻にむけて、追いかけ始めた。
いきなりの攻撃に、逃げながら桑田さんが叫ぶ。
「熱い、熱いって、井伊! なにをするんだよっ」
「うははははは、俺様より先にゴールインした罰だ。こうしてくれる」
いつもよりは酒量も少なく、いい感じに酔った中野さんもこの遊びに加わる。
「そうだ、ずるいよ、桑田君。また僕より良いタイムを出して」
「そうだそうだ、ずるい。桑田はずるい」
なぜか全員で桑田さんのお尻めがけて花火をむけ、笑いながら砂浜を走り回ることになった。
やがてその遊びにも飽きたころ、井伊さんがロケット弾の準備に取り掛かった。砂にしっかりとロケット弾を埋め込み、導火線に火をつけた。
「みんな離れて!」
高く打ち上げられたロケット弾に、一瞬、みんなが照らされる。
楽しかった。とても生きてるって感じがする。自分はこういうことがしたかったんだ。いままで気付きもしなかった。たぶん、他の人より十年以上遅れての青春だ。
昨日の青ちゃんの言葉がよみがえる。
(人生はひとりひとりが自分のペースで進めていけばいいものなんですよ)
だけど、けれど、やっぱり思う。
もっと早く、こういう経験がしたかった。
そのときふいに、ジーンズのポケットに入れておいた携帯が鳴った。
ふたつにたたんだ携帯を開いてみる。するとそこには、「神保」の文字が光っていた。ドキリとしながらあたりを見渡し、こそこそと通話ボタンを押す。
「もしもし。三田村です」
すると携帯のむこうから、のんびりした口調のギンポ君の声が聞こえた。
「神保です。いま大丈夫ですか」
「ええ、まあ」
「いま、車で三田村さんのマンションの近くまで来ている。夕食はもうお済みですか」
花火で騒いでいるみんなの輪からはずれ、防波堤のほうに砂浜を歩きながら答える。
「は、はい」
「そうですか。それはちょっと残念。では夜のドライブだけでもどうです?」
「すいません、わたしいま、沖縄にいるんです」
「沖縄? それはめずらしい。ご旅行ですか、出張ですか」
「旅行です。本島の近くの伊是名という島にいます」
「うーん。それはちょっと遠いなあ。さすがにそこまでは迎えに行けないなあ」
「すいません、せっかく誘っていただいたのに」
「いいえ、かまいませんよ。またの機会を待つとしますか。では」
「はい、またいずれ」
通話が終わって振り向くと、桑田さんがわたしのほうをじっとみつめていた。
みんなの輪からすこし離れたところで桑田さんに尋ねられる。
「いまの電話は三田村さんの彼氏からですか」
驚いて否定する。
「いえ、そんな仲の人ではないんです。知人です」
「では例の見合いの相手ですか」
単刀直入に訊かれてまた驚く。
そういえば青ちゃんが言ってたな。ネットワークの桑田という人に見合いの相手はどんな人か教えろと迫られたって。
どう答えたものか一瞬迷ったすえ、ここで否定するのもおかしい気がしてうなずく。
「そうです」
「付き合ってるんですか、その人と」
「いいえ、とんでもない。たまに会って食事をしたり。その程度です」
「──そうですか」
桑田さんは一瞬怒ったような顔になった気がした。けれどもくるりと振り向くと、すぐに皆の輪のなかへ戻っていき、叫んだ。
「もっとデカい花火を上げよう!」
「よし、じゃあ打ち上げ花火といくか」
わたしは中野さんの顔をちらりとのぞき見ながら、動悸《どうき》が治まるのを待った。
中野さんはなんにも気にしてないみたいだった。
桑田さんと対照的な、中野さんの無関心さにまた傷ついている自分がいた。すこし悲しい気分でわたしは次の花火が上がるのを待った。
*
「今日も元気だ。タバコがうまいっ」
青ちゃんはそう言うと、タバコの煙をスパーッと吐きだして見せた。
あっという間の四日間を過ごして東京に戻れば、翌日からはいつものように仕事が待っていた。少しだけ日焼けしたわたしと青ちゃんの顔が、かろうじて沖縄行きの名残りをとどめている。いつものように仕事のあいまに喫煙室で青ちゃんとコーヒーを飲みながらお喋りしていた。
「それにしても、沖縄まで電話をしてきた見合いの相手って、どんなヤツなんです?」
「どんなヤツ。……そうねえ、妙な人、かな」
「ミョーな人、ですか。そう言われてもイメージがわかないんですけど、どんなふうに妙なんです」
「わたしもつかみどころがなくて困ってるんだけどさ。相手の人は、いつだっておまえの思ってることなんて全部わかってるんだぞって感じなんだよ。あれが謎なの。あと、顔は魚みたい。ギンポって知ってる? 天麩羅《てんぷら》ダネによく使われる魚なんだけど」
「ギンポ、知らねえ。全然イメージわかないなあ。うーん、じゃあ、すこし具体的に。どんな仕事してるヤツなんです」
「そういえば何してんだろう。釣り書きに書いてあったんだろうけど、見てないや」
「姐さんも大概いい加減ですねえ。まあいいや。それより問題は中野さんでしたね」
「……中野さん。そうだね」
つい照れてうつむく。喫煙室とフロアは強化ガラスで区切られていて防音もよく、ほかの人に聞こえる心配はないけど、なんとなく小声になる。
「おいらの経験からアドバイスしますけどね、あの手の男はこちらから動かない限り、なんの進展もないと思いますよ」
「進展……。こちらから動くって、何をすればいいのかな」
「告《コク》るんですよ、姐さんのほうから。四日間いっしょにいてしみじみ感じましたけどね、あの男はかなり鈍感です」
「もしやコクるってのは、告白するってこと? それは無理!」
「無理でもなんでも、やらなきゃ物事が動かないですよ」
そのとき他の人が喫煙室に入ってきたので、目配せして席を立つ。
「じゃ、姐さん、その話はまた後で」
「あ、うん、またね」
ぎくしゃくしながら席に戻る。
メールの着信があったのがわかった。
それは、上司のキタさんからのメールだった。
三田村さん、休暇はいかがでしたか。ところで今日、ちょっと話し合いたい件があります。夕食でもご一緒できませんか。
話し合いたいことって何だろうと首をひねりながら、速攻で返事を送信する。
休暇中はご迷惑おかけしました。おかげさまで大変楽しい旅行となりました。夕食のお誘い、ありがとうございます。喜んでご一緒させていただきます。
それにしてもキタさんはわたしに何を言いたいのだろう、外にまで呼び出して。
まあいいか。行ってみればわかることだ。
わたしはディスプレイにむかうと、仕事に集中するよう努めた。
指定された小料理屋の引き戸をあけると、キタさんは、カウンターですでに一杯やっていた。
「三田村さん、ここです」
手招きされて横に座る。
すぐに熱いおしぼりとグラスビールにお通しが運ばれてきて、わたしとキタさんは、かるく乾杯した。
「──それで、お話というのはなんでしょう」
「うん。まずは本題から話してしまおうか。僕が本社からこの会社の立ち上げのために派遣されているというのはご承知の通りだと思うけど、むこうからそろそろ戻ってくるようにという話がきた。で、だ。問題は僕のあとを誰が継いでくれるかだな」
グラスを握る手におもわず力がこもる。
「僕はできるなら三田村さんにお願いしたいと思っているんだが、どうだろう」
ビールをぐっとあけ、返事をする。
「わたし以外に他のかたは考えられないでしょうか」
そう言いながら、腹の底で思う。
ついに、来るものが来た。
キタさんはわたしの目をしっかりと見つめながら言った。
「うん。いまのところ安心して任せられるのは三田村さんだけだ。他にはいない」
唇をかみしめる。
「──わかりました。そのお話、少し考えさせてください」
店を出るころにはだいぶ酔ってしまった。ひとり地下鉄に揺られながら考える。
自分のなかではすでに引き受ける腹は、ほぼ決まっている。けれどなんとなく、誰かに相談したいような欲求がある。
降車する駅に着いて、地下鉄の階段を上っていると、ふとギンポ君の顔が思い浮かんだ。のろのろと携帯を取り出し、電話帳のボタンを押して「神保」の名前を探す。酔った頭のどこかでかすかに、どうしてギンポ君に電話するのだと自分でも不思議に思っているのだが、わたしの指は勝手にギンポ君へ電話していた。
幾度目かのコールで、低くて渋い声が聞こえた。
「もしもし、神保です」
「三田村です、夜分に失礼します。いま、大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ。そちらはいま沖縄からですか」
「いいえ、都内です。もう帰ってきました」
「そうですか。じゃあ、いつ会います?」
なぜいきなりそういう話になるのだ。
「僕のほうは週末でしたら空いていますよ」
「あの、ギ、じゃなくて神保さん──」
「僕に会いたいんでしょう? 会いたいから連絡してきたんでしょう?」
違うと思うのだが、否定できない。だいたいどうして自分がギンポ君に電話しているのかすら、理由がみえない。
「そう、なんでしょうかね?」
「そうなんでしょうかねって、そうでしょう。ほかに理由がありますか?」
「ないような、気もしてきました」
「じゃあ会わないと。土曜にしますか、日曜にしますか」
「では、土曜日に」
「このあいだのように十時ごろに迎えに行けばいいですね。どこか行きたい場所の希望とかありますか」
「とくにないです」
「それならすこし遠出して、三浦半島あたりまで行きましょうか。どうやら三田村さんは海辺が好きなようだから」
「あ、はい。それでお願いします」
「それじゃ土曜の十時にお迎えにあがりましょう。では」
切れた携帯を眺めながら、あっけにとられる。わたしは一体、何をやっているのだろう。
翌日は小雨がちらついていた。日ごとに寒さが増してきている。会社へ着いたら、桑田さんからのメールが届いていた。
先日の沖縄ツアーに参加された皆様へ
今週の金曜19:00から、沖縄旅行の打ち上げコンパを行ないたいと思います。参加ご希望のかたは桑田までメールを返信してください。
なお場所は、西麻布のフレンチレストランを予定しています。
メールを一読して思う。
またコンパか。しかも予算とか記されてないし。どうせこれも中野さんのお財布から支払われることになるんだろうな。まあいいけど。
速攻で簡潔に返事を打つ。とりあえず参加希望だ。ついでに他にも届いているメールをざっと一読し、返事が必要なものだけ事務的に返信を出し、仕事に取り掛かった。
キタさんから打診された件についても、なんとなく結論を出せないまま金曜を迎えた。べつに急ぎの仕事があるわけではなかったけど、このところの浮ついた気持ちを切り替えるため仕事に没頭していたら、コンパに遅刻しそうな時間になっていた。こんなときにはいつも一声かけてくれそうな青ちゃんの姿も、フロアに見えない。仕事に没頭していたわたしを気遣ってか、すでにコンパの会場にむかったようだ。
しまったっ、不覚!
バッグに携帯を放り込み、エレベーターホールへダッシュする。するとそこで偶然、桑田さんと遭遇した。桑田さんは、かなりラフなタウン着、カーゴパンツにスウェットパーカーにキャンバススニーカーという格好で、エレベーターの到着を待っていた。その姿に一瞬、首をかしげる。
というのも、この会社はわりと服装に関して規則がルーズなのだけれど、いつも桑田さんは社内ではワイシャツにネクタイ、スーツという服装だったように思ったからだ。
桑田さんはわたしに気付くと、明るい笑顔で声をかけてきた。
「三田村さんもいまから出発ですか?」
「ええ、すっかり遅くなってしまって。これじゃ遅刻ですよね」
「そうですね、地下鉄を使ったら永田町での乗り換えもけっこうな距離があるし、広尾の駅からだいぶ歩かなくちゃならないですからね」
エレベーターが到着した。いそいで乗り込む。大人の飲み会なのだから、多少遅刻してもかまわないとは思うのだけど、わりと律儀な性格なもので、気がせいた。
「皆さん、わたしたちが到着するまで乾杯を待っていたりしないでしょうか」
心配して桑田さんに話しかけると、桑田さんはふいににっこり笑って言った。
「遅刻がそんなに心配ですか? それでしたら遅刻しない方法もありますよ」
そして桑田さんはわたしの、足底がフラットなブーツに目をとめると、
「いいですね。その足元ならなんの問題もない」
と言って、エレベーターが一階に到着するなりわたしを歩道へといざなった。するとそこには、一台のロードレーサーが停めてあった。
「二人乗りで行きましょう。こいつは速いですよ、僕が漕いだら、あっという間に現地につけます。地下鉄のように乗り換えもいらないし、タクシーと違って渋滞にも巻きこまれないし。僕はちょくちょく通勤にこれを使ってるんです。スーツはロッカーに入れておいてね。さ、乗ってください、三田村さん」
そう言われて焦る。
「乗るって、わたしがこの自転車を漕ぐってことですか」
「違いますよ」
桑田さんはサドルにまたがると、自転車の後ろを指差した。
「後輪のところの両方に棒が出ているでしょ? それに足をかけて、僕の肩につかまってください」
「あの、それって、よく高校生の子たちがやってるような立ち乗り、ですか?」
「そう。あれです」
内心、焦りながらも、桑田さんの指示に従う。そろそろと棒に足をかけて後輪にまたがり、桑田さんの肩につかまる。手のひらから、桑田さんの体温が伝わってくる。
「準備オーケーですか?」
「は、はいっ」
「では行きますよ」
桑田さんはわたしに一声かけると、自転車を路上に進め、信号待ちの車を抜いて、いきなり歩道脇の道路をものすごいスピードで走り出した。ぎゅっと肩につかまる。風がびゅうびゅうとわたしの髪をなびかせているのがわかる。
たしかにこれは、地下鉄を利用するよりもずっと速い、かもしれない。
だけど、かなり怖い。
時速はどれくらい出ているんだろう。自分の感覚では四十から五十キロぐらいに感じるんだけど、気のせいか。
そうこうしているうちに、大きな交差点にさしかかり、桑田さんは自転車を止めた。そして後ろのわたしにむかって声をかけた。
「どうです、速いでしょう?」
「はい、た、たしかに、速いですね。本当に、とっても」
自分の心臓がバクバクしているのがわかる。
高校生の男の子や女の子が、よくこうやって自転車に乗っているのを見かけたけど、こんなにスリルのあるものだとは知らなかった。あの子たち度胸あるなあ。
信号が青に変わった。
「行きますよ」
桑田さんは一声かけると、また猛烈なスピードで漕ぎ始めた。怖くてぎゅっと目をつぶる。けれども慣れてくるにしたがって、まわりの風景を見る余裕も出てきた。たなびく髪もスカートも、心地よく感じてくる。なんだかジェットコースターに乗ってるみたいだ。
渋滞でのろのろと走る車を、桑田さんの漕ぐロードレーサーがびゅんびゅんと追い越していく。かなり気分がよくなってきた。おもわず声をあげる。
「楽しい!」
すると桑田さんが聞き返した。
「え、なんですか?」
「た、の、し、い。楽しいです、桑田さん!」
「そうですか。じゃあもっとスピードをあげちゃいましょう」
桑田さんは車の騒音やクラクションに負けないよう大声でそう叫ぶと、言葉通り、さらにスピードをあげてバイクを漕いだ。
目的地に着いたときは、なぜか知らないけど笑いがこみ上げてとまらなかった。
「ありがとう、桑田さん。とっても……とっても楽しかった!」
桑田さんも笑っていた。ふいに桑田さんは嬉しそうにわたしの前髪に優しく触れると、
「ちょっと髪が乱れちゃいましたね。でも可愛いですよ、三田村さんは。本当に可愛い。こんなことで、こんなに無邪気に喜んでくれる人だなんて、僕は知らなかった」
と言った。
「あの、その、わたし……ありがとうございます」
あわてて飛びのいて、桑田さんと目を合わせないようにしながら店のなかに入る。かなり動転してしまった。
「二分遅刻。遅いぞ、桑田」
このあいだ浜辺で桑田さんのお尻めがけて花火を燃やした井伊さんが声をあげる。それに桑田さんが応じる。
「まだ三人だけ?」
「うん、緑川さんも中野さんも遅刻」
青ちゃんはすでに到着していた。わたしを手招きしている。
「姐さん、こっちこっちー」
そのときふいに、わたしは鋭い視線を感じた。それは、桑田さんと付き合っているという鹿野さんだった。はっと気付いて店内を見る。窓際のその席からは、外の様子が見えるのだ。
さっきの自転車の二人乗り、見られた。
探るような視線になぜか罪悪感をおぼえて、うつむきがちになる。
自問自答する。別にわたし、悪いことしてないよね? だって、ただ自転車の後ろに乗せてもらっただけだし。
けれどわたしは鹿野さんと目が合わせられなかった。わたしは鹿野さんの視線を避けるようにしながら青ちゃんの横に座り、ようやく顔をあげた。
ほどなくしてタクシーで乗り付けた中野さんたちがやってきた。結局、欠席者はなく、沖縄に行ったメンバー八人全員がそろった。
そして例によって中野さんがワインリストを受け取ると、ぱらぱらとめくって、ウェイターに指をさしてみせた。
「まずはこのシャンパンから行こうか」
つづいて食事のメニューを受け取った桑田さんが中野さんに尋ねる。
「食べ物のほうはどうしましょう」
すると中野さんは平然と答えた。
「僕はなんでもいいよ。桑田君たちで適当に頼んで」
「じゃあコースにしちゃいましょうか。この八千円のコースで」
頭のなかでまた電卓を叩いてしまう。
(はっぱ六十四で、これですでに六万四千円か。別にいいけど。もう慣れちゃったし)
細身のグラスにシャンパンが注がれると、桑田さんが乾杯の音頭をとった。
「それでは僕たちの沖縄での健闘を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
シャンパンを半分ぐらい飲み干すと、ようやくさきほどの緊張がとれてきた。すると料理が運ばれてくるまえに桑田さんが小型のリュックのなかから封筒のようなものを取り出し、みんなに手渡した。
「はい、これ。沖縄のときの写真。青木さんはこれ、中野さんはこれ、井伊君はこれ。三田村さんのはこれ」
青ちゃんがはしゃいで声をあげる。
「現像してくれたんスね。桑田さんありがと。わあ、おいらが写ってらあ。すっげえ、ひでえ顔。姐さん見てくださいよ、これ」
「写真を撮られるたびに妙なパフォーマンスをするからだよ。普通に写されていたらいいのに」
「だってカメラをむけられたら、やっぱりなにか芸をしないと」
「芸人じゃないんだから、そんなにサービスしなくていいんだって」
わたしも渡された封筒をあけて、写真をとりだして眺める。するとそこには、花火で無邪気にはしゃいでいるわたしが写し出されていた。
こんなに素直に笑っていたのか。いつも写真では笑いが引きつってるのに。
じっと眺め入る。
そうか、わたしはずっとこういうのを望んでたんだな、本当は。みんなで砂浜で花火をあげたりとか、さっきのように自転車の二人乗りをしたりとか。たぶんほかの人たちは、高校生のころに通り過ぎていた季節。
なぜか泣きたいような衝動に駆られ、それを抑えるためにグラスに手をやった。ここのところのわたしは、どうも情緒が不安定だ。
「桑田君、これで会計してもらって」
中野さんは呂律《ろれつ》のまわらない舌でそう言うと、桑田さんにカードを差し出した。今日はいつにも増して、中野さんは酔っていた。
「大丈夫ですか? 中野さん」
声をかけると、中野さんはふらふらと立ち上がりながら答えた。
「だい、じょうぶ」
トイレへむかう足取りが、かなり怪しい。心配して見守っていると、中野さんはフロアの段差に足をとられ、近くのテーブルの脚におもいきり後頭部を打ち付けた。頭を打ったゴチンという音が、わたしたちの耳にも届いたほどだった。この店の食卓と椅子は重厚なチーク材で作られているので、かなり硬い。
「中野さん!」
おもわず立ち上がり、中野さんのもとへ駆けつける。
「頭、大丈夫ですか」
「痛……」
中野さんは頭に手をやり、ただうなずいてみせた。そして両脇から男性陣に抱えられるようにしながらトイレに行って、そして出てきた。
井伊さんが難しい顔で言った。
「吐かせたからアルコールのほうは大丈夫だとは思うけど。頭のほうが心配だな」
桑田さんが同意した。
「脳内出血とかしてないといいけど」
その一言に、とっさに言葉が口をついて出てしまった。
「わたし、送っていきます。中野さんのご自宅まで、タクシーで」
すると桑田さんが驚いたような顔をして言った。
「中野さんのマンションって、三田村さんのお住まいの方角とはまったく逆方向ですよ。それに、送ったあと終電に間に合うかどうか」
「大丈夫です。わたし、タクシー代ぐらい持ってますから」
タクシーが来たのと同時に、自分の肩で中野さんを抱えあげた。
「国分寺までお願いします。中野さん、国分寺のどのあたりですか」
「えとね……」
中野さんは半分死んだようにタクシーのシートに身体を沈めたまま、小声で住所を告げた。わたしはそれを素早くメモし、復唱してタクシーの運転手にお願いした。
「いまの番地まで行ってください」
運転手は無言でカーナビに入力し、車を発進させた。
中野さんは目を閉じたままネクタイを緩め、ワイシャツの第一ボタンをはずすと、ちいさな声でつぶやいた。
「きもち、悪い」
「吐きそうですか? 中野さん」
「うん。吐く、かも」
「すいません、ビニール袋はありますか」
すると運転手はまたも無言でスーパーの袋を後部座席に差しだした。それを受け取って、中野さんの口元にあてる。
しばらくすると、中野さんは袋のなかに吐瀉《としや》した。二度、三度と続けて吐いている。その姿に不安が高じる。まさかとは思うけど、ひょっとしてこれは脳から来る吐き気だったりするのか? タクシーのメーターが深夜料金に変わった。どうしよう。このまま家に送り返しただけで済ませてもいいんだろうか。
吐いたあとぐったりとシートにもたれている中野さんの顔色の悪さに、ますます不安が高まっていく。
やがてタクシーはマンションの前に到着した。中野さんを抱えながらタクシーから降ろし、肩を貸し、左手に吐瀉物の入ったビニール袋とバッグを持ってよたよたとマンションの入り口へむかう。
セキュリティのため、マンション入り口の自動ドアが開かない。
「中野さん、鍵は?」
「……ポケットのなか」
「探りますよ、いいですか」
「うん」
空いている右手で中野さんのトレンチコートのなかを探る。鍵ホルダーらしきものを指が探り当てた。
鍵ホルダーには三つの鍵がついていた。その鍵を試す。ひとつめで施錠が解けた。
「中野さん、お部屋は何号室ですか」
「一〇六号室」
「一階ですか」
「うん」
ひきずるように中野さんを一〇六号室まで運び、広い専用ポーチにたどり着く。さきほどの鍵でドアを開け、室内へと連れ込む。
この体勢だとブーツが脱げない。一瞬迷ったけれど、ブーツを履いたまま部屋に上がりこんだ。アスリートだけあってかなり引きしまった体格なのだけれど、男の人の体重は重い。中野さんも靴を脱がないままマンションの廊下に上がりこんだ。細長い廊下の左手に洗面所とバスルームらしき引き戸が見え、右手にドア、廊下の奥にもうひとつドアがあった。
たぶん、ベッドルームは手前。リビングは奥だ。
右手のドアを開けてみる。案の定、暗がりのなかに、ベッドがあった。当たりだ。セミダブルのベッドに中野さんを背負い投げするようにして寝かせる。中野さんは、ずしりとマットに沈むと、そのまま動かなかった。
小声で呼んでみる。
「中野さん」
「……水」
意識はあるようだ。
「水ですね。ちょっと待ってください」
人の家ではあるが、遠慮している場合ではない。水を探して奥の部屋のドアをあける。明かりをつけると、広々としたリビングに、ソファとテレビに観葉植物、そして噂のグランドピアノが置いてあった。そっけないほど無機質で、綺麗に片付いている部屋だ。キッチンとダイニングスペースはリビングと床続きになっている。キャビネットを探り、グラスを見つけ、それに水道水を満たしてベッドルームに戻る。
「中野さん、さあ、水です」
上半身を少し起こして、水を飲ませる。すると中野さんはまたつぶやいた。
「気持ち悪い。それに頭が痛いよ、割れるようだ。吐きそう」
その言葉にあわてて部屋を出て、洗面所らしきドアをあける。洗面器を探したかったのだが、中野さんの部屋のバスルームは、まるで高級ホテルのエグゼクティブルームのように、ガラス張りのシャワーブースとバスルームとが別々になっていて、洗面器はどこにも見当たらなかった。
まったくもう! どうしてこの部屋はショールームみたいに生活臭がないんだ。
人のことを言えた義理ではないが、おもわず憤ってまたダイニングキッチンに戻り、吐くのに適当そうな食器を探す。
スープ皿を持ってベッドルームに戻る。すると時すでに遅し。中野さんはベッドの上に吐いて、大の字に寝そべっていた。その姿に青ざめる。
気管が詰まっていたらどうしよう。
中野さんに顔を近づけ、息があるかどうか確かめてみる。
呼吸はしているようだった。
初めてホッと息をつき、ベッドルームの床に座り込んだ。けれどそれも束の間だった。中野さんは奇妙ないびきをかきだしたのだ。
「……中野さん?」
声をかけてみる。けれど反応がない。いびきの音が不安をかきたてる。もしや脳内出血では。
もう一度大きな声で名前を呼び、かなりの強さで太腿を叩く。
「中野さん!」
けれど依然として反応はなかった。
決断を下す。迷っている暇はない。携帯を取り出し、一一九番にかけてみる。するとすぐに応答があった。
「はい、一一九番です。消防ですか、救急ですか?」
「救急です」
「患者さんご本人ですか?」
「違います」
この場合、なんと名乗ればよいのだろうと迷ったすえ、
「婚約者です」
と答えた。
「患者の男性はどんな状態ですか?」
「はい、数時間ほど前、後頭部を激しく打撲しました。そのあと吐き気を訴えて、いまは、かなりのいびきをかいて意識不明の状態です」
「場所はどちらですか」
さっき書き取った住所のメモを取り出し、読み上げる。
「わかりました。五分少々でそちらに到着できると思います」
「よろしくお願いします」
わたしはそのとき、室内なのにブーツのままでいるのに今さら気付いた。
夜間診療を受け付けてくれる救急病院がなかなか見つからず、同乗していたわたしは、かなり切迫した気分になった。
自分を責める声が頭にうずまく。
国分寺の自宅に帰る暇があったら、あの場で救急車を呼び、搬送してしまえばよかったんじゃないんだろうか。どうしてもっと早く決断できなかったんだ。
ようやくたどり着いたのはかなり都心に近い病院で、救急車が到着してからなんだかんだで四十分ぐらいかかってしまった。中野さんは意識不明のまま担架で運ばれると、MRIの検査室に送り込まれた。
照明を落とした、薄暗い病院の待合室でひたすら待つ。携帯を取り出して時間をみたら、夜中の三時をまわっていた。待合室の時計の、秒針の音だけがやけに響く。
やがてMRIの検査室から中野さんが運び出されてきた。担架に乗せられたまま救急処置室に移動されていく。とっさに立ち上がり、看護師に声をかける。
「あの、検査の結果は」
「まだ出ません。もう少しお待ちになってください」
落胆する。待つ時間がとにかく長く感じられる。待ちくたびれて泣きたいような気分になってきたとき、ようやく看護師がわたしを招いた。
「ご家族のかた、先生からご説明がありますのでどうぞ」
立ち上がり、診療室に入る。すると四十過ぎぐらいの白衣を着た先生が、中野さんの脳の断面写真を明るいスライドビューアーのようなものに、一枚、一枚、貼り付けて、それを眺めながら言った。
「ここのところ、すこし水がたまっていますね。でもこれはたぶん生まれつきのもので、心配はいらないでしょう。もし一ヶ月ぐらいして頭痛を訴えるようでしたら水を抜く処置をしなくちゃなりませんが、とりあえず頭蓋骨内の出血はなさそうです。吐き気の原因は急性アルコール中毒、つまり飲みすぎでしょうね。あちらの処置室で点滴でも受けて、お帰りになってください」
わたしは処置室に入ると点滴が終わるのを、中野さんのそばで見守り続けた。液がちとちとと落ちて、管を通って中野さんの血管に送りこまれるのを眺め続ける。
生きていてくれたことに感謝した。そして中野さんの髪にそっとふれた。吐いたもので汚れている。
わたしは病院内のトイレを探すと、ハンカチを水で湿らせて戻り、それで中野さんの髪の汚れを拭き取った。そのとき、中野さんが目を覚ました。そして不思議そうにわたしの顔を見て、あたりを見渡した。
「ここはどこ?」
「病院です。勝手な判断で申し訳なかったんですけど、中野さんが転んで頭にだいぶ激しい打撲を受けたから、救急病院に搬送してもらったんです。一応、脳には異常はないそうですが、急性アルコール中毒ということで、点滴を打ってもらっているんですよ」
中野さんはまじまじとわたしの顔をみつめた。
「ほかの人は?」
「付き添いはわたし一人だけなんです」
すると中野さんは泣きそうな顔になって、消え入りそうな声でわたしに詫びた。
「僕、また迷惑をかけたんですね。ごめんなさい」
「気にしなくていいですよ。とにかく中野さんが無事ならそれで」
点滴の液がなくなりかけていた。看護師に一声かける。
「点滴、終わりそうです」
するとさきほどの看護師が戻ってきて、中野さんの血管から針をはずし、綿とテープで出血を止めた。
「はい、これでお帰りになっても大丈夫ですよ」
中野さんはのろのろと立ちあがると、わたしに一言断わった。
「ごめんなさい、ちょっとお手洗いを借りてきます」
だいぶ足取りもしっかりしている。点滴で体液が入れかわったからだろう。心から安堵《あんど》した。そしてふと時計を見たら、もう始発が動いていそうな時間帯だった。
このまま部屋に帰って、今日はゆっくりと惰眠をむさぼろう。そう思った瞬間、わたしは大変な事態に気づいた。ギンポ君とのドライブの約束である。あと数時間で彼が迎えに来てしまう。予定を変えてもらおうかとも思ったが、携帯で連絡するのに適切な時間帯でもない。
悩んでいると中野さんがトイレから出てきて尋ねた。
「会計はどこですればいいんだろう」
「ああ、それでしたら大丈夫ですよ。わたしが先ほど済ませておきましたから」
すると中野さんはまたバツの悪そうな顔になって謝った。
「そこまでご迷惑をかけてしまったんですね。本当に申し訳ない。おいくらでしたか」
「こちらに領収書が」
「すいません、僕、たぶんいまこんなに手持ちがないと思う」
そしてお財布を取り出すと、わたしに一万円札を握らせた。
「月曜日には必ず精算します。とりあえず今日はこれだけ受け取ってください。タクシー代の足しにでもしてください。これでは足りませんか」
「いえ、そんな、結構です。それにわたし地下鉄を使いますし。始発もそろそろ動いている時間帯だと思うし」
「いいえ、お願いだから受け取ってください。そうでないと僕が困るんです」
どうしても譲らなさそうな中野さんの真剣な表情に、しかたなく一万円札を受け取る。
「すいません、こんなにしていただいて。わたしが早とちりで救急車で搬送して、かえってご迷惑をおかけしたのに」
「いえ、いいんです。とにかくいまタクシーを呼びますから」
中野さんはそう言うと、院内の公衆電話で無線タクシーを二台呼び寄せた。やがてタクシーが一台やってくると、
「どうぞ、三田村さんが先に」
と、わたしを強引にタクシーに押し込んだ。
わたしは後部座席から中野さんに一礼すると、シートに身体を沈めた。そして思った。
まあいいか。ギンポ君とのドライブが今日でも。徹夜には慣れっこだもの。
マンションに到着したわたしは、ブーツだけ玄関先に脱ぎ捨てると、携帯を枕もとに置いて、化粧も落とさないままベッドにもぐりこんだ。
しばらくベッドに転がっていても、頭のなかのどこかが異様に興奮していて、眠気がまったく訪れなかった。とっさにあのとき、
「婚約者です」
と名乗ったのが、いまごろになってわたしの気を高ぶらせているのかもしれなかった。目を閉じると、中野さんが買ったというマンションの様子が浮かんでは消えた。あのマンションの間取りは、一生独りで生きていこうとする人の部屋だった。それが、いまになってわたしの心に暗い影をおとす。
トライアスロンのチームのメンバーには囲まれている。けれど中野さん、あなたは本質的にはたった独りだ。お金で彼らとの交流を買っているだけだ。
どうして独りなんだ。どうしてあなたのそばには誰ひとりいないんだ。
毛布にくるまれて、あのモデルルームのような部屋を思い出していると悲しくなった。このごろのわたしはいつも情緒不安定だ。まったくもって困ったものだ。
寂しい。なんだかとても、寂しくて悲しい。
眠れそうになかったので、シャワーでも浴びることにした。身体と髪を洗い、バスローブに身体を包んでドライヤーで髪を乾かす。そして自分なりにデート服≠ニ判断した服装に着替え、あらためてメイクも済ませてギンポ君の到着を待った。ソファの上で膝を抱える。機械的に自分を動かし、落ち着いてくるにしたがって、わたしはますます悲しくて寂しくなった。
どうしていいかわからないほど、悲しいんだ!
心のなかでそう叫んだ瞬間、ふいにギンポ君の顔が浮かんだ。リビングの時計をみると七時半だった。携帯を手にしてギンポ君に電話した。数度のコールでギンポ君の低くて渋い声が聞こえた。
「はい、神保です」
「三田村です。約束の時間は十時でしたけど、もっとはやく来ていただけませんか」
すると電話のむこうから含み笑いのような声が聞こえた。
「いいですよ、それでは急いで出るとしますか。近くまでおうかがいしたら携帯に電話しますので。では」
通話が切れてから自分で自分の行動に、唖然《あぜん》とした。
どうして電話しちゃったんだろう。
このごろのわたしはおかしい。自分で理解できない行動ばかりとる。
マンションから出ると、黒いルーフのギンポ君の車が見えた。ギンポ君は車のなかでのんびりタバコを吹かしていた。
「お迎えにあがりましたよ、姫。都内を飛ばして約束の時間より一時間前。多少は納得していただけたでしょうか」
「ありがとうございます。無理を言って申し訳ございませんでした」
よほどわがままな要求だったのだろう。ギンポ君に「姫」とまで言われてしまった。
照れてギンポ君の顔がまともに見られない。それと同時に、どこかでとてもほっとして、くつろいだ気分になっている自分に気付いた。
「では三浦半島のほうにむかいますが、よろしいでしょうか」
「はい、お任せします」
ギンポ君が車を走らせはじめると、いきなり眠気を感じた。ここで寝入ったら失礼にあたると思うのに抗い難い睡魔に襲われる。ふと気がつくと、一瞬気絶したように眠っていた自分がいた。ギンポ君は無言で車を走らせている。
「あっ、申し訳ない。わたし──」
「いいですよ、眠っていて」
「いや、そんな」
そう言ったにもかかわらず、わたしはいつの間にかまた深い眠りに落ちていた。つぎに目を覚ましたときは、雑草に囲まれたちいさな駐車場に停められた、ギンポ君の車のなかにいた。運転席にギンポ君の姿はない。エンジンはかけっぱなしで、暖房で車中が暖められていた。風邪をひかないようにと気遣ってくれたのだろう。
またもや不覚だ。人に運転させておいて、自分は高いびきなんて。最低である。
運転席に手を伸ばし、エンジンを切ってキーを手に車の外に出る。駐車場を見渡すと、アイスを売りながら駐車場の管理をしているとおぼしき掘っ立て小屋のような売店と、草むらのあいだの細い一本の道が見えた。駐車場には、わたしたちの車以外は停車していない。
ここは一体どこなんだろう。で、ギンポ君はどこ?
あたりを見渡しながら、腰ぐらいの高さの雑草に覆われている、土の道を踏み歩きはじめた。どうやら海の近くにいるらしい。潮の匂いが漂ってくる。
「神保さん、どこですか」
おおきな声を出して呼んでみる。返事は聞こえてこない。それでもそのまま草をかきわけるようにして道を歩き続けると、緑の山の断崖のあいだに広がる、真っ青な海と白い波しぶきが現れた。空も抜けるように青い。
その風景にみとれて足をとめた。
確信はなかったけれど、この道の先にギンポ君がいるような気がした。ふたたび、ひたすら坂道を登り続ける。するとその先に、白い灯台が見えてきた。
わかった。きっとあそこだ。
息を切らして登りきると、案の定、ギンポ君は灯台のまわりを囲んだ柵にもたれて、タバコをくゆらせていた。灯台の敷地にはわたしとギンポ君しかいなかった。ギンポ君はわたしと目が合うと、遠くを指差した。
「きょうは良い天気だ。ほら、海のむこう、房総半島が見える」
目を細めると、断崖の下に広がる海のむこうに、かすかに青く山並みが見えた。
「ここはなんという場所なんですか」
「剱埼《つるぎさき》灯台といいます」
「つるぎさき、灯台」
「そう。同じ三浦半島の観音崎灯台と違って観光化されてないから、ひとけがなくて僕は好きな場所ですよ。とくに考え事するときなんかにはね」
海風に吹かれながら、灯台のむこうに広がる光景を眺める。たしかにここは、ひとりで来て、考え事するには良い場所のように思えた。
しばらく無言で海を眺め続けた。だいぶ経ってから眠ってしまったお詫びを言うのを忘れていたのに気付いた。おまけにギンポ君はわたしが到着を急《せ》かしたことも、眠ってしまったことの訳も、尋ねなかったのに気付いた。けれどそれはもうどうでもよいと思えた。
「お腹はすいてますか? さほどでもなければ葉山のほうまで行きますけど」
畑のあいだをカーブしては上り下りする細い道を運転しながら、ギンポ君はわたしに尋ねた。今度は舗装されてる道だ。けれど対向車がきたら百メートルぐらいバックしないと行き来できないような幅の道だ。
「大丈夫です、お腹はすいてません」
「そうですか」
ギンポ君はふたたび無言で運転しつづけた。わたしはあたりの風景を眺めた。ゆるやかな勾配で広がる畑と電信柱、無人で売られている大根の販売小屋、そしてT字路のガソリンスタンド、それ以外はなにもない飄々《ひようひよう》とした光景だ。
三浦半島ってこんなところなんだとあたりを見渡す。一応は首都圏に入っているはずなのに、こんなにのんびりした田舎だなんて知らなかった。見ていると心がおだやかになる。
ここも自分では一生来なかった場所かもしれない。
暖かな車のなかでぼんやりとシートに身体を沈めていると、いきなりギンポ君が切り出した。
「で、僕に相談したいのは何ですか」
一瞬、あっけにとられた。相談事があるなんて言っただろうか。あのときだいぶ酔ってはいたけれど、記憶はしっかりしている。ないはずだ。
「相談したいことがあるから電話してきたんでしょう? 違いますか」
「……図星です」
「では相談してください」
頭のなかが白くなった。鼻をつままれたときのように、この人はときどきわたしをひどく驚かせる。
「あの、くだらない相談なんですけど」
「前置きはいいから、はやく」
「その、わたし、いまの部署でですね、昇進しないかという打診がありまして。それを引き受けるかどうかで悩んでいるんです」
「ふむ。それで?」
「引き受ければやってやれないことはない気はします。でもそうすると雑用が増えて、翻訳の仕事、あ、わたしの仕事はおもに日本語で書かれた特許申請の書類を英翻訳することなんですけど──そうだ、これってお見合いの席でも説明しましたよね。それでわたし、昇進すると翻訳のほうに打ち込めなくなりそうで、返事ができずにいるんです。わたしは翻訳の仕事を、もっと極めたいんです」
一応の事情説明を終える。するとギンポ君はいきなり断言した。
「言い訳でしょう、それ。あなたは引き受ける気もあるし、それにひそかに自分の能力に自信を持っている。けれど臆病さが三田村さんを躊躇《ちゆうちよ》させてる。違いますか?」
いきなり的を射られた感触があった。あっけにとられ、しかもずばりと言い当てられて、わたしはなぜか悔しくなった。それで無言になっていると、ギンポ君はそのさきを言った。
「見てきなさいよ、飛びこんでみないと見えない世界を」
ギンポ君の言葉を繰り返してみる。
「飛びこんでみないと、見えない世界」
「そうです、見てくるんですよ。なにも起こらない人生の、どこに面白みがあるっていうんですか。なんでも見てきなさい。そしてなぜ、このいまに自分が試されたのかを考えなさい。大丈夫、三田村さん。あなたなら大丈夫なんだから。怖がらなくていいんですよ。そのまま躊躇せずに道を進みなさい」
その言葉に、さっきの灯台への道を思い出した。高みに広がる光景。わたしは草むらのなかの道を探したどって、いつかあの絶景を見ることができるのだろうか。
かるい興奮がわたしを襲った。膝の上で、こぶしを握り締める。
「わかりました。ありがとうございます、神保さん。わたし、やってみます」
するとギンポ君は満足そうにニヤリと笑った。そして言った。
「ついでだから教えておいてあげましょう。三田村さんの欠点はね、ここで物を考えすぎるとこですよ」
いきなりパチンと額を指ではじかれた。
「イタっ」
驚いてギンポ君の顔を見た。
「憶えておくことですね」
また驚かされた。
葉山の海沿いのイタリアンレストランで昼食をとって、日本経済の話なんかを適当に交わしながら、わたしたちは都心へと戻る道路を走った。わたしは穏やかな気持ちになっていた。それを不思議に思う。
なんだろう、この感じは。まるで地面にふんわり着地したような、とても安心して落ち着いた気分だ。ちょっと青ちゃんと一緒にいるときの感じに似てる。
都心に戻ってきたころにはもう夜の七時をまわっていた。
「どうします、夕飯でも一緒にとりますか?」
「いいえ、今日はもう十分です。ながいことお付き合いいただいて申し訳ありませんでした。ありがとうございます、神保さん」
「ではマンションまで送るとしますか」
ギンポ君はこのあいだと同じようにマンションの前に車を停めると、
「それではまた」
と言って、走り去っていった。車のテールランプが左折して見えなくなるまで、わたしはその場を離れなかった。
その日、夢を見た。子供の頃に、よく遊びに行った、ポプラの林の中の秘密基地。わたしはそこでよく童話を読んで時を過した。その時に、だれかが基地に入ってきた。わたしは彼を見て微笑した。──あなただったのか。そう思ったところで目が覚めた。その夢は不思議と後々まで頭に残った。
週明けに出勤すると、エレベーターホールでキタさんと鉢合わせした。他には人がいない。ちょうど良い機会だと思い、単刀直入に話を切り出す。
「北川さん、先日のお話、受けさせていただきます」
するとキタさんの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当? よかった。いやあ、これで僕も安心だ。どうしても三田村さん以外に思い浮かぶ人がいなくてね。二月に入ったら仕事の引き継ぎに入りましょう。ちょうど仕事も一段落つくころだと思うし、こういうことは、早ければ早いほどいい」
「よろしくご指導お願いします」
ふかく頭を下げる。
決まった。決めてしまった。あとはやるしかない。
かるい興奮のなかで気持ちを引き締め、自分の席についてマシンを立ち上げる。まずは軽くメールのチェックをする。いつもの業務連絡のメーリングリストと、中野さんからのメールが届いていた。なんとなく周囲に気遣いながら、こっそりメールを開ける。
先日はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。支払っていただいた治療代のほう、お返ししたいと思います。今日の昼に食事をご一緒していただけませんか。ご迷惑をおかけしたお詫びをしたいと思います。よろしくお願いします。
ごく簡潔に承諾のメールを送る。すると折り返し中野さんからこのビルに入っている飲食店ではなく、ここから少し離れたホテルのなかにある店に行こうというメールが返信されてきた。
お金のやり取りをしているところを会社の人に見られたくないのだと察すると同時に、すこし寂しくもなる。
あのときわたしはおもわず婚約者と名乗ってしまったけど、婚約者どころかお付き合いもしてない。
かるく午前中の仕事をこなしながら、途中でリラックスルームにむかう。ちょうど運良く、青ちゃんが喫煙ルームのほうで一人タバコを吹かしていた。他に邪魔者はいない。さっそく喫煙ルームのほうに入る。青ちゃんはわたしの顔を見るなり尋ねた。
「姐さん、どうでしたか。金曜日の首尾は」
「どうもこうも。大変だったとしかいいようがないよ。部屋まで送っても吐き気が止まらないみたいだから、脳のほうに障害が起きたんじゃないかと思って救急車を呼んで、病院まで搬送してもらった。結局、ただの飲みすぎで、なんでもなかったんだけどね」
「え、姐さん、てことは中野さんの部屋に入ったんですか?」
「うん、噂のグランドピアノも見たし、ベッドルームもバスルームも入ったよ」
「マジっスか?」
「うん、マジ。でね、青ちゃん。わたし決めたよ」
「なんスか」
「青ちゃんに言われたとおり、中野さんに告《コク》ってみようと思う」
青ちゃんはぴょんと立ち上がって、大声で叫んだ。
「マジっスか?」
「うん。今日さ、中野さんとこの近くのホテルの和食のお店で昼食をとる約束をしたんだ。だからそのとき、告白してみようと思う」
「それめちゃくちゃおいら的にはビッグニュース! 姐さん、腹を決めたんですね」
「うん。いまならやれそうな気がする。なんでも体当たりでぶつかって、知らない世界に飛びこんでみたいと思うんだ。そうそう、あとさ、やぶれかぶれのついでに、キタさんの後を引き継ぐのも、引き受けちゃった。このあいだ打診があって返事を延ばしていたんだけど、今朝、引き受けるって言っちゃったよ」
「マジっスか。やりましたね、姐さん。それでこそです。いや、もう、なんて言っていいのかわからないけど、姐さん、頑張れ! 姐さんならなんだってできる」
その言葉にふと、一昨日のギンポ君の言葉を思い出す。
(大丈夫、あなたなら大丈夫なんだから)
改めて青ちゃんとギンポ君の相似点を感じる。
そのときに喫煙ルームに他の人が入ってきてしまった。青ちゃんはわたしにだけわかるような言葉で励ましてくれた。
「姐さん、頑張って行ってきてください! とにかく姐さんは大丈夫ですから」
おもいきり両肩を叩かれた。わたしはニヤッと笑って親指をたて、応じた。
中野さんはメニューを見て、おどおどしながらわたしに尋ねた。
「これでいいですか?」
三千八百円のランチコースだった。一言、断わる。
「割り勘にしていただけるならそれでかまいませんけど」
「いや、それでは僕の気持ちが済まない。僕が持ちます。これでいきましょう」
中野さんはそう言うと、和服姿の女性店員を呼び寄せ、注文を済ませた。そして切り出した。
「さっそくですけど、支払っていただいたお金のほうを精算させてください」
お札の束を中野さんから受け取る。
「申し訳ございません。わたしの勝手な判断で無駄なお金を使わせてしまって。治療代はあとで保険証を持っていけばその分返金してもらえるそうなので、お手数ですがお願いします」
「いえ、そんなのは全然。それより三田村さんにご迷惑をおかけして、僕こそ本当に申し訳ないと思ってます」
平身低頭に謝る中野さんを見ていて、青ちゃんの言葉を思い出す。
(大丈夫、姐さんなら大丈夫です)
最初の一品目が運ばれてきた。前菜の盛り合わせだ。
「三田村さん、どうぞ召し上がってください」
焦ったように料理を勧める中野さんに、顔をあげて目を見据え、告げた。
「おわびはもう結構です。それよりわたしからお願いしたいことがあります」
「なんでしょうか」
「中野さん、わたしとお付き合いしてください」
中野さんは驚いたように目を見開いた。わたしは箸を割って、料理を口に運んだ。
「美味しいですね」
平静を装っていたけど、自分がかすかに震えているのがわかる。中野さんはしばらく黙り込んでわたしの顔を呆然と眺めていたが、やがて機械が喋るような調子で言った。
「その、僕……嬉しい、です。僕なんかを、好いてくれて、ありがとう、ございます」
「それは承諾ということですか。そう受け取っていいんですか」
中野さんの視線が宙をさまよった。
「いや、その……答えるまでにすこし時間をいただけないだろうか」
「わかりました。よいお返事をお待ちしてます。では食べましょうよ、中野さん。あまり時間もないことですし」
「そうですね、はい」
中野さんはうつろな目をして、あやつられるように箸を割って前菜に手をつけた。心のなかで強く思った。
わたし必ず、必ずあなたを幸せにするから。二人で孤独な部屋から飛び出そう。
わたしは興奮のなかにいた。
「どうでしたか、姐さん」
昼食を終えて戻ってくるなり、メッセンジャーで青ちゃんに喫煙室に呼びだされた。
「うん。告白した」
「それで、相手の返事は?」
「すこし考えさせて欲しいって」
「うーん、そうかあ。まあしかたないっスね。姐さんも中野さんも今から付き合うとなると、結婚が前提の年齢ですもんね。そりゃあ慎重にならざるを得ないでしょう」
「あ、そっか。わたしたちはそういう年齢に差しかかっているんだ。そうなのか。青ちゃんと話していると勉強になるよ」
「まあでも、大丈夫ですよ。姐さんのような女がふられるなんてまずありえないっス。おいらが男だったら、絶対、姐さんを女房にしますもん」
「ありがと。わたしも男だったら、青ちゃんを奥さんにするよ。きっと毎日が楽しくてたまらないだろうね」
「いいっスね、それ。来世あたりでやりましょう」
笑いながら喫煙室を後にした。
リビングのソファに座り、しみじみロードレーサーを眺める。フォルムがとっても綺麗だ。
先週、桑田さんが、
「三田村さんもトライアスロンのレースに出ましょうよ」
というので、その話に乗ることにしたのだ。そして今日は一緒にロードレーサーを買いに付き合ってもらい、ウェアからシューズまでそろえてしまった。ついでにスイムとランの練習のためにフィットネスクラブにも入会した。青ちゃんには、
「よーそこまでやりますわ。おいら、鉄人レースは見るだけで十分。ダイビングはやってもいいけど、レースに出るなんて考えただけで息が苦しくなる。よっぽど姐さんは中野さんが好きなんですねえ」
と呆れられたけど、中野さんのことはさておいて、鉄人レースに挑む自分を見てみたいという欲求もあるのだ。自分はどこまで行けるのだろう。そしてどう変わるのだろう。
中野さんに告白してから三週間が過ぎた。わたしはふわふわと雲に乗ったような気分で過ごしている。ときに不安になることもあるけど、青ちゃんの、姐さんたちは結婚適齢期だからという言葉を信じて心を落ち着かせるように努めた。このごろではしょっちゅうトライアスロンのチームの人たちと昼食をとったり、飲み会に呼び出されたりして過ごしている。ギンポ君からのふいのデートの誘いもある。そんなときはちょっと、こういうのってもしかして二股かけてるっていうのかな。と思わなくもないのだが、なんとなく誘いに乗って、楽しく過ごしてしまう。
自分の生活の急激な変化に、驚くと同時に嬉しくなる。
ソファにもたれているうちに、わたしは眠りについていた。そして幸せな夢をみた。あの、ポプラの林のなかで、だれかと出会うという懐しい夢を。
「ところで青ちゃん、告白してその返事を待つって、どれくらいの期間を待つのが普通なんだろう」
ひさびさに青ちゃんと居酒屋で飲んでいた。暖房の効いた店内でビールを飲みながら、相談する。トライアスロンも初心者だけど、恋愛はもっともっと初心者である。たよりになるのは青ちゃんだけだ。
「そうっスねえ。時と場合によるとは思いますが」
「もう一ヶ月以上、なんだかんだと放置されてるんだよね。これってどういう事なんだろ。わたしさあ、もしかして嫌われてんのかな」
「姐さんを嫌うような男がどこにいますか! そんなこと絶対ありえませんよ。この青、誓っていいますけど、いまの姐さんはすっごく綺麗でしかも魅力的ですよ。大丈夫。ただねえ、中野さんって、かなりの優柔不断野郎って感じだし。問題はそこかな。そうだ、姐さん側からもうちょっとプッシュしてみたらどうですか?」
「プッシュって、具体的にはどうすればいいものなのだろうか」
「まあ、だから、返事はどうなったかと尋ねるとかですね」
「そっか。じゃあ今度、ふたりきりになる機会があったらそうしよう。それにしてもさあ、青ちゃん」
「なんスか?」
「中野さんってチームの皆と一緒にいるときはわたしにとってもフレンドリーだし、よく喋るんだけど、わたしだけしか人がいなくなる機会がくると、とっても緊張してるっぽい。なんでだろう」
青ちゃんは腕を組み、うなった。
「うーん、そいつぁ……照れてるんじゃないスか?」
「そうかなあ? だったらいいけど。まあいいや。とにかく今度、機会があったら中野さんに直接たずねてみるよ」
「そうっスね、そうしたほうがいいでしょう」
フィットネスクラブで泳いだ帰りに、クラブのフロントでスーツ姿の中野さんと出くわした。中野さんはわたしを見ると、驚いたように目を見張った。
体を動かしたあとの昂揚感のなかで、気軽に中野さんに話しかける。
「中野さん、いまお帰りですか? それともこれからチェックイン?」
「チェックアウトしたところです」
誘いの言葉がさらりと口から流れ出た。
「よかったらこの後、少し飲みにいきませんか。わたし、夕食まだなんです。中野さんはもう召し上がりましたか」
自分に驚く。わたしもだいぶ恋愛方面もレベルアップしてるんじゃないだろうか。
「僕もまだです。そうですね、行きましょうか」
フィットネスクラブを出て、路上にとめておいたロードレーサーの鍵を外した。
「最近、桑田さんに見習ってロードレーサーで通勤してるんです。よろしければお店まで二人乗りしませんか。後輪に二人乗り用のポールも取り付けてあるんですよ」
わたしがロードレーサーにまたがり、中野さんに後部に乗るよう促すと、中野さんは少し困ったような顔をしたが、うなずいた。
「それでは、ご好意に甘えて」
中野さんはわたしの肩に手をそっと置き、自転車のポールに足をかけた。わたしの体温よりも高い、手のひらの温度が伝わってくる。
「それじゃあ行きますよ」
桑田さんのように走り出そうとしたが、初手から思い切りふらついてしまった。しまった、男の人の体重って、かなり重い! ハンドルがとれなくてグラグラする。
あわてて中野さんはわたしの自転車から飛び降りた。
「無理みたいですね。僕が代わりましょう」
「すいません。まだ鍛え方が足りないみたいです」
自転車の運転を代わってもらう。今度はわたしが後ろにまたがる。振り返りながら中野さんが尋ねる。
「そういえば行き先を決めてなかった。どこへ行きましょうか」
「どこへでも。中野さんの気が向いたお店へ」
「そうですか。じゃあ適当に走らせて、良さそうな店があったら入りましょう」
コートの布越しにも、鍛えあげられた筋肉の動きが伝わってくる。中野さんはわたしを乗せると、颯爽《さつそう》と車道を走り始めた。口笛でも吹きたい気分になってきた。爽快だ。
しばらく走らせていると、中野さんがまた小声で叫んだ。
「あっ、いまちょっといい感じの店が。和食系の店みたいだったけど」
「引き返します?」
「そうですね」
わたしたちは自転車を降りて、お店の前まで引き返した。
「はい、ではまず乾杯」
ジョッキをあわせ、ビールをぐっと飲み干した。店の雰囲気はちょっと民芸風で、個室である。いい感じだ。すると中野さんは、はあーっとため息をついた。
「ああ、おいしい。運動のあとのビールのうまさは格別ですね」
「たしかにそうですね。でもね、中野さん、今日は飲みすぎたら注意させてもらいますからね。わたしは桑田さんたちみたいに優しくないですよ。覚悟してください」
するとなぜか中野さんは肩をすくめながら微笑んだ。
「たしかに厳しそうですね、三田村さんは。仕事のやり方を見ていてもわかる。わかりました、今日は覚悟しましょう」
かるく驚く。わたしの仕事のやり方とか、見ていてくれてたとは思わなかった。
やがて注文したお造りやら生麩《なまふ》の田楽やらが運ばれてきて、わたしたちは飲み物を日本酒に切り換えた。枡《ます》にまでなみなみと注がれた田酒を、中野さんがぐっと飲む。
「あー、ダメダメ。中野さんってば、どうしてそうやって一気に飲むんですか。お酒だって可哀想ですよ。ちゃんと味わって飲んであげないと」
「はい、ごめんなさい。気をつけます」
子供のように素直に謝る中野さんに愛情がつのる。
「もう、中野さんったら。またペースが上がってますよ。すいません、お水をください」
そんなわたしを見ている中野さんはとても嬉しそうだった。
あれやこれやと世話を焼きながら食事を済ませ、例によってご馳走になって外に出ると、雨だった。
「失敗。降ってきちゃったか」
「三田村さんはニュースを見てなかったんですか。今日は夜半から雨だといってましたよ」
「最近忙しくて。新聞も、目を通す暇がないんです」
これはずぶ濡れになってマンションまで漕がなくてはならないなと思っていたところ、中野さんが無邪気な笑顔でわたしに突然こう言った。
「じゃあタクシーで僕の家まで帰りましょうよ。自転車はここに放置しておいて。盗まれたらもっといいのを僕が買ってあげますから」
驚愕した。
まさかこんな展開になるとは思ってもみなかった。震えながら答える。
「……では喜んで」
すると中野さんはタクシーを呼びとめ、わたしを先に乗せて、今日はしっかりとした口調で運転手に告げた。
「国分寺まで」
心臓が破裂しそうに鼓動を打っているのがわかる。膝が震えるほど動揺しているわたしと、気持ちよさそうに酔っている中野さんを乗せて、タクシーは走り出した。やがて目的地に到着し、わたしは動転したままタクシーを降りた。ついせんだって中野さんを引きずるようにして歩いたマンションの内廊下を、中野さんが踊るような足取りで先を行く。
この期に及んでも、まだ震えがとまらない。
この場から逃げだしたいほど緊張しながら、誘われるままに部屋にあがる。
「ほら入って、三田村さん。はい、スリッパ」
「あ、どうもありがとうございます」
攻守が逆転しているのがわかる。このあいだ見たリビングダイニングの部屋に通される。中野さんは部屋に入ると、ソファに身を投げ出した。そして嬉しそうにこう言った。
「ああ、気持ちいい。今日は三田村さんのおかげで、いいお酒だったな」
「それは……よかったです」
所在ないままにグランドピアノの蓋をあける。軽く音を鳴らしてみる。
「あれ、三田村さんってピアノ弾けるの?」
「まあ少し」
「いまの、ショパンの『雨だれ』だよね」
「ええ、まあ。雨の日にちなんで」
「じゃあ連弾でもする?」
中野さんはソファから起き上がると、わたしに近づいてきた。
「楽譜出そうか?」
「いえ大丈夫です。暗譜してます。たぶん」
中野さんはいそいそとダイニングチェアを運んでくると、ピアノの前にどさりと置いた。そして尋ねた。
「どうする? 一緒に弾く? それとも僕が低音のパートをやって、三田村さんが高音のパートをやる?」
「そうですね。わたしが高音のパートをやりましょうか」
運ばれてきた椅子に腰掛け、鍵盤に指を置く。指が震えているのを、中野さんに気付かれないよう祈る。
「ところで中野さん、こんな夜中にピアノを弾いたら近所迷惑じゃないでしょうか」
「大丈夫。このマンションはかなり遮音性がいいし、念には念を入れて、防音のリフォームをしておいたから」
中野さんが子供のような笑顔を浮かべて鍵盤に指を置く。
「それじゃ行こうか」
「はい」
中野さんと肩を並べて弾き始める。そしてすぐに後悔した。
わたしの右手についてくる中野さんの左手は、おそろしく繊細にピアニシモを、そして力強くフォルテシモを奏でた。
しまった。これは、太刀打ちできない。
曲の途中でわたしは右手の動きをとめて、両手をあげた。
「降参! 降参です、中野さん」
「降参ってなに。いままで僕と勝負していたの?」
左手の動きをとめないまま、楽しそうに中野さんが尋ねる。
「そうです。わたしは闘う女なんです。仕事でも、ほかのいろんなことでも。だから降参。潔《いさぎよ》く負けを認めます」
今度は中野さんに代わって、わたしがどさりとソファに身を沈めた。すると中野さんは声を上げて笑った。
「三田村さんって面白い人だね。僕、好きになっちゃいそうだな」
そして今度は最初から、両手で『雨だれ』を弾き始めた。ソファに身を投げ出したまま拝聴する。
「三田村さん、そこのカウンターに飾ってあるお酒、よければ飲んで」
「お酒はもう十分です」
「そう。けっこう良い銘柄をそろえてあるのに、残念だな」
中野さんは『雨だれ』を弾き終わると、またわたしに声をかけた。
「シャワー浴びる?」
「シャワーは結構です。もう浴びてきましたから」
「そうだったね。じゃあもう寝ようか。明日も仕事だしね」
寝ようと言われて、またギクリとする。
わたしが動揺しているのに、中野さんは平然と言った。
「ルームウェアどうする? 僕のでよければ貸そうか」
「あ、お願いします」
「じゃあ待っててね」
中野さんはいそいそと部屋から出て行くと、男物のパジャマを手にして戻ってきた。
「洗面所で着替えるといいよ。僕、のぞかないから。大丈夫、安心して」
「はい。ではお言葉に甘えて」
中野さんに言われたとおりに洗面所で着替える。さすがに男物のパジャマなので、ぶかぶかだ。袖と裾を折って、たくしあげる。
しかしどうしてこうなったんだろう。ていうか、これからどうなっちゃうんだろう。
洗面所から出ると、パジャマに着替えた中野さんが待っていた。
「着替えた? じゃあ寝ようよ、三田村さん」
中野さんはそう言うと、わたしの手を握って、ベッドルームへいざなった。
「セミダブルだからちょっと狭いけど、ならんで寝られるよ。もし狭いのが嫌なら、僕がソファのほうに寝るけど、どうする?」
「……ならんで寝ましょうか」
「だよね。あのソファも寝心地は悪くないけどね、このベッドにはかなわないよ。有明にある大塚家具のショールームでだいぶ寝心地を試してから買ったんだ。きっと気に入ってもらえると思うな。さ、寝よう、寝よう」
中野さんは子どものように無邪気な笑顔を浮かべてそう言うと、先にベッドのなかにもぐりこんで、わたしを促した。
「はやく入りなよ。暖かいよ」
「はい。それでは失礼して……」
おそるおそるベッドにもぐりこむ。心臓が爆発しそうだ。
もっとスローな展開を予想していたんだが、違うのか? これが大人の男女の付き合いってものなのか?
ならんでベッドに横たわると、中野さんは毛布のなかでわたしの手を握った。
「三田村さん、手が冷たいね」
「わりと冷え性なんですよ」
中野さんは毛布のなかでごそごそと足を動かした。
「あ、足も冷たい。僕が温めてあげるね」
中野さんはリモコンで電気を消すと、わたしの右足の裏に自分の左足の甲をぴたりとつけた。
完全にパニックになったその瞬間、中野さんはこう言った。
「おやすみ、三田村さん。人とならんで寝るのって気持ちがいいね」
そして間もなく、すやすやと寝息を立て始めた。わたしは目が冴えに冴えたまま、取り残されていた。
まったく眠れなかった。
ベッドのきしみで目が覚めた。いつしかわたしは軽く眠っていたらしい。まぶたを開くと、中野さんが呆然とした顔をして、わたしを見下ろしていた。
「三田村さんがどうしてここに?」
「どうしてってその……どうしてなんでしょうね?」
中野さんは緊張した顔で尋ねた。
「僕、あの、三田村さんにその、狼藉《ろうぜき》を働いたり、したんだろうか」
狼藉≠ニいう言葉の古めかしさに、吹き出しそうになって、からかいたくなる。
「狼藉ですか。そうですねえ、働かれたかもしれませんねえ」
中野さんの顔面が硬直した。
「なんて、嘘ですよ」
こらえきれず大笑いしていると、中野さんが床にバッと座り、土下座した。
「ごめんなさい、僕、昨日の夜のこと、ほとんど憶えていないんです。だからその……申し訳ございません! 僕、酔っ払っちゃうと本当に駄目なんです、ごめんなさい」
あまりの切実なあやまり方にあっけにとられた。
「中野さん、土下座される必要はまったくないんですが」
「いや、それじゃ僕の気が済まない。本当に申し訳ない」
「いいですってば。とにかく顔をあげてください。わたしが困ります」
素直に顔をあげた中野さんの目には、涙がいっぱいたまっていて、しかも見ているうちにその涙が頬をつたって流れ出した。
本当になんなのだろう、この人は。
パジャマのまま、ベッドに座って途方にくれる。このあと、どうしたものか。
「中野さん、とにかく会社に行きましょうか。フレックスとはいえ、ちょっと遅くなっちゃいましたよね」
「許してくれるんですか? 僕のことを」
「許すもなにも。とにかく涙を拭いて、立ってください」
そう促されて立ち上がった中野さんは、子供のようにしゃくりあげて泣いている。これが立場が逆だったらわからないでもない。つまり酔っ払って男の部屋に上がりこんでしまい、ついつい身体を許してしまった女の涙というのなら、そんな経験はないわたしだが、なんとなくは理解できる。これではまるで、わたしが強姦魔のようではないか。
「とにかく会社に行きましょうよ。洗面所をお借りしてもいいですか」
「あ、はい。どうぞ」
泣いている中野さんの横顔を眺めておもわずため息をつく。訳がわからない。
着替えて洗面所から出ると、スーツ姿になった中野さんと出くわした。すると中野さんはまたバツの悪そうな顔をして、言った。
「三田村さんの服装、昨日と同じですね」
「そうですね。まあいいんじゃないですか? 別に」
「三田村さんがその、たとえば彼氏の家に外泊したとか、疑われないだろうか」
心配そうにおろおろしている中野さんに、呆れるのを通り越して疲れさえおぼえた。
「そんなにこの服装が気になるなら、今日は午前中をお休みにして、部屋に帰って着替えてきますよ。仕事もそんなに詰まっていませんし、半休ぐらい大丈夫でしょう」
「すいません、僕のせいで。本当にごめんなさい」
だんだんうるさくなってきた。
「もうお詫びは結構です。それ以上わたしに詫びたら、切れますよ」
「そうですか……。ではもうお詫びは言いません」
「ま、とにかく外で食事でもしましょうか」
部屋の外に出て、中野さんの部屋の近所にある牛丼屋にむかった。ならんで朝定を食べる。
「中野さん、お見受けしたところによると、だいぶ生活が不健康ですよ。添加物がいっぱい入ってるかもしれないけど、お漬物はちゃんと食べてください」
すると中野さんはせっせと漬物を口に運んだ。そんな姿を見て、また愛情がわいた。
可愛いなあ。この人、本当に可愛い。守ってあげたくなる。いつも憎たらしいギンポ君とは大違い。
桑田さんともまったく違う。あの人は健康で溌剌《はつらつ》としていて、わたしに守ってもらう必要なんてまるで感じさせないもの。
わたしは混んだ中央線で国分寺から新宿まで出たところで、しきりに電車にむかってお辞儀を繰り返す中野さんを見送った。
午後に出社すると、中野さんと目が合った。中野さんはおどおどとした様子で伏し目がちになった。その態度に、心ひそかに嬉しく思う。
秘密ができちゃったな。わたしたちだけの。
でも少しだけ悩む。
やっぱりわたしには、性的対象としての魅力が欠けてるのだろうか。
席についてまずメールをチェックし、仕事に取り掛かる。昨夜の短時間睡眠のせいで、ときおり眠気が襲ってきたが、それに耐えて仕事を進める。ちょっと一段落してきたなと思ったころに、メッセンジャーで青ちゃんから話しかけられた。
〈姐さん、ちょいと喫煙室まで来ません? いま二人きりになれるっぽいです〉
〈了解。こちらもコーヒーを飲みたいと思っていたところ〉
同時に席を立ち、喫煙ルームへとむかう。部屋に入るなり青ちゃんに尋ねられた。
「姐さん、昨夜なにかあったでしょう? 仕事に厳しい姐さんが午後出社なんて、これはかなり疑わしいですよ」
笑って答える。
「青ちゃんは、なんでもお見通しだね。じつは昨日、中野さんの部屋に泊まった」
青ちゃんが手にしていたタバコを落としそうになりながら、驚愕する。
「ま、マジですか?」
「うん。マジもマジ。本当にマジ」
「あぢぢ、しまった。タバコの灰で服に穴が……。まあいいや。そんでどうしたんです、ついに、ヤっちまったわけですかっ」
「ううん、ヤってないよ。ならんでベッドで眠っただけ」
すると青ちゃんはあきれた顔をした。
「なんスか、その話は? わけがわからねえですよ。なんで男女がそろって、ベッドに入ってなにもないんですか。あ、そーか。もしかして中野さんが酔っ払いすぎて、勃《た》たなかったんですか?」
「……青ちゃん、一応女なんだからさ、もうちょっとはマイルドな表現を使おうよ」
「あっ、スマンです。善処します。で、どういう成り行きでそうなったのかを教えてくださいよ」
その瞬間、他の人が喫煙ルームに入ってきた。
「青ちゃん、この話の続きはまたってことで」
「そうっスね。そうだ、姐さん、ひさしぶりに飲みに行きましょうよ」
「いいよ。大歓迎。仕事の区切りがいいときに声をかけて」
わたしたちはそろって喫煙ルームを出て、仕事に戻った。
「それでは乾杯」
「はーい、それでは姐さんの一歩前進を祝して、カンパーイ!」
安い居酒屋のざわついた店内で乾杯する。念のため、会社からはちょっと場所を遠ざけておいた。ついでに昨日の自転車も拾ってきた。自転車は雨で濡れていたけど、盗まれていなかった。
「さあ聞かせていただきやしょうか。姐さんの武勇伝を。で、どういう成り行きでそんなことになったんです」
「ええとねえ」
わたしは昨日の成り行きを、ざっと青ちゃんに説明した。すると青ちゃんはあっけに取られたような顔をして、言った。
「なんじゃそりゃあ? わけわかんねえですよ。なんなんスか? 中野って人は」
「さあねえ。わたしもわからないよ。でもいいんだ、わたしたち、精神的なつながりができたんだなと思うので」
「精神的なつながりができたら、即、肉体的なつながりでしょうが! いい年こいた男女がそろって何やってんスか、中学生の恋愛じゃないんだから」
「まあいいじゃないの、まったりと行けば」
「わかんねえ、理解不能。もしかしてインポですか、中野って人は」
「だからさー、ちょっとはマイルドな表現を使おうや。ま、性的に不能ってことはないと思うけど。だってわたしにこう謝ったんだよ。『昨夜、僕は三田村さんに狼藉を働いたのでしょうか』って」
「ろ、狼藉……。江戸時代のお殿様ですか、中野さんは」
「わたしも思った。いつの時代の人間だよアンタは、と突っ込みを入れたくなったね。でもさ、とりあえず助かったんだよ」
「なにが助かったんですか、姐さん、中野さんとヤリたくなかったんですか」
「別にそういうわけじゃないけど、あのさあ、わたし、昨日はグンゼの白い綿パンをはいていたんだよ。それってダメじゃん。これからは下着には気を配ろうと決意したよ」
「……はあ、そうスか。わかりました、もういいです。お二人の関係は、単純なおいらには理解不能ですわ。中野さんもそれだけ変わり者だったら、綿パンも喜ぶかもしれないっスね。まあ好きなだけ下着に気を配ってください。おいらはもうこの件からは手を引きますよ。変態っスよ、どっちも変態。ぜってー変態」
と言いながら、がむしゃらに酒をあけた。わたしは勝手に思い出し笑いをした。
それからさらに半月ほどが過ぎた。社内ではわたしがキタさんの後を継ぐのが公然の秘密となり、仕事の引き継ぎは順調に、粛々と進んでいた。
それにしても問題は中野さんなのだった。トライアスロンの練習や昼食のときに顔を合わせる機会は多かったが、いつも二人になるとまたおどおどとした表情になり、避けるようにうつむきがちになってしまう。それがとても気にかかる。
もしかしてやっぱりわたしは嫌われているんじゃないのか。
そんな考えが浮かんでは消え、憂鬱になる。このあいだ中野さんの部屋に泊めてもらったときの喜びは遠ざかって、沈みがちな日々を送っていた。
今日はたまたま青ちゃんと帰宅時間が重なったので、飲みに誘う。青ちゃんはすぐに乗ってきた。携帯で彼氏に連絡を入れ、
「今日は遅くなるから独りで食事を済ましやがれ」
というと、このあいだの居酒屋に向かった。
「うー、今日もまた寒いっスねえ。会社のなかにいるぶんにはいいけど、行き帰りの道が寒いんだ、これが。まずは焼酎のお湯割りからいこうっと」
「じゃあわたしもそれにする。すいません、注文いいですか」
注文をすませると、わたしはさっそく本題に入った。
「あのさあ、青ちゃん。ところで中野さんの件なんだけど」
「へいへい、たぶんその件だろうなと思ってましたよ。どうしましたか」
「このあいだわたし、中野さんの家に一泊したじゃない。でもさ、あいかわらず告白した件に関しては、なんの返事もない。これってどう解釈すればいいんだろう。しかもなんか避けられているみたいだし。嫌われているなら、はっきり言ってもらったほうがいい。待つのも限界だよ」
すると青ちゃんは腕を組み、難しい顔をして一瞬黙りこんだ。そしておもむろに口を開いた。
「あのですねえ、これ、姐さんに伝えるべきかだいぶ迷ったことなんですけど」
「あ、もしや遠距離の女でもいるわけ? それなら別にいいんだよ」
「そうじゃないんですがね、まあ聞いてください。じつはおいら、姐さんと中野さんがうまく行くようにと思って、あの後もいろいろ噂話を耳にいれるように努めてたんですよ。それで小耳にはさんじゃったんですけど、あの、うちら特許事務の部署に小池さんっているじゃないですか」
「ああ、あの真面目な既婚者の小池さんね。はいはい。それがどうかしたの?」
「彼女や中野さんがまだ本社にいたころの話らしいんですけどね、彼女、中野さんのことを好きになって、告《コク》ったらしいんですわ。したらですね」
おもわず身を乗り出す。
「中野さんは『僕みたいな男を好きになってくれてありがとう』と言ったらしいんですよ。小池さんはそれを承諾と受けとって舞い上がって、スーパーでいろいろ食材を買って、中野さんのマンションに遊びにいったらしいんですよ。そしたら中野さんがすごく困ったような顔をして出迎えて、小池さんの作った料理も食べたんだけど──そのあと、なんにもなかったんだっていうんですよね。そして中野さんは自宅からタクシーを呼んで、小池さんにお金を握らせて、『これでご自宅まで帰ってください』と言ったらしいんですわ。追い払うみたいに」
驚いて目を見張る。
同じだ! わたしのパターンと、ほとんど同じだ。
グラスを握る手に力がこもる。青ちゃんはわたしの顔をあまり見ないようにしながら、先を続けた。
「彼女、それにすっかりショックを受けて、そのあとすぐに見合いして、いまの旦那さんと結婚して現在に至るらしいんです。一部には、中野さんホモ説まで出てましたよ」
愕然とする。
それからじわじわと怒りがわいてきた。グラスを持った手に力がこもる。わたしが思い出していたのは、父の背中だった。家で母ともめるたび、パチンコ屋へ逃げていく父の背中。おなじ逃げる背中でも、姉の悲しい背中とは違う、ずるくて卑怯なだけの背中。あのあと、残されたわたしたち三人姉妹が、どれだけ母の怒りを恐れて、顔色を窺っていたか。物事に立ち向かわず、曖昧な態度でまわりの人間を傷つけてきたという、父と同じ彼の態度に腹が立ってならない。
(自分の人生は、自分でケツを拭け! 決着をつけろ。それが大人としての誠実さってものじゃないのか)
わたしは焼酎を飲み干して、決断した。
「わかった、青ちゃん。中野の馬鹿野郎には、もうわたしとのお付き合いで悩まなくて結構ですと、明日伝える。本当ならいますぐにでもしたいくらいだね」
すると青ちゃんがあわてたように取り成した。
「その、それは小池さんの身に起った出来事ですから。かならずしも姐さんと一緒の結末になるとは限らないですから」
「ううん、もういい。そんな人、こちらから願い下げだ」
「姐さん、落ち着いて、落ち着いて」
必死になだめる青ちゃんを尻目に、居酒屋のバイトの子を呼び止めた。
「焼酎、ロックで一杯!」
腹が立って収まらなかった。
店を出るころには足がもつれるほど酔っていた。
「大丈夫スか? 姐さん」
「平気。タクシー使って帰る」
「じゃあ、おいら地下鉄で行きますんで、ここでお別れしますけど。ホント、気にしないでくださいね、さっきの話は」
「ううん、おおいに気にする」
うしろを振り返り、わたしに気遣いながら地下鉄の構内へと下りていく青ちゃんの背中を見送りながら、酔った頭でふと思いつく。
これからギンポ君の部屋に行ってやろう。バージンなんて捨ててやる!
携帯を取り出し、ギンポ君に電話する。数度のコールでつながった。
「神保です。どうしましたか」
「夜分遅く失礼します。三田村です。いまから神保さんのお部屋に遊びに行きたいんですけど、いいでしょうか」
「かまいませんよ。なんなら迎えに行きますか?」
「結構です。いまからタクシーでむかいますから。それよりお住まいの住所を教えてください」
「はいはい、いいですか?」
住所をメモする。
「わかりました。ではこれからタクシーでむかいますので。よ、ろ、し、く」
通話を切って通りに出て、タクシーを呼び止めた。
またあの夢をみた。ポプラ林の夢だ。そしてふと目を覚ました。右腕のあたりがとても暖かい。
ふと横をむくと、今度は右隣に、ギンポ君の寝顔があった。すやすやと寝息をたてている。おもわず大声で叫ぶ。
その声でギンポ君はしかめっ面をして、目を覚ました。そしてパイプベッドのそばのサイドテーブルからメガネをとって、顔にかけた。
「お目覚めですか? 姫」
「神保さん、これは一体何事ですか」
だんだんと記憶がよみがえってくる。
そうだ、昨日、わたしは酔ってギンポ君のアパートまでやってきたんだ。
それからどうしたんだっけ?
まるで思い出せない。冷や汗が流れる。これではまるで中野さんだ。
わたしは昨日出社したときと同じ格好で、シングルベッドで寝ていたらしかった。しかもいままで、ギンポ君と一緒に。
「それでは朝食でも用意するとしますかね。姫、食欲はありますか?」
「あんまりないです。あと、ちょこっと頭痛がします」
「ではセデスの用意と食事の用意を、ごく簡単に」
ギンポ君はわたしにセデスの箱を投げてよこすと、グラスに水を注いでもってきてくれた。そしてパジャマ姿のままキッチンにむかうと、手馴れた様子で、卵を割ってスクランブルエッグを作った。わたしは、その成り行きを、ぼう然と眺め続けた。
おそるおそる部屋のなかも見渡してみる。ギンポ君の部屋は、六畳ほどのフローリングの床にシングルベッドとサイドテーブル、サイドテーブルの上には読みかけの文庫本、システムデスクの上にはフルタワーのパソコンに液晶ディスプレイ、使い古されたようなハードディスクが置かれ、そして壁面全部、はめ込みのクローゼットがある部分以外はほとんど本棚で埋め尽くされていた。インテリアにまるで統一感がなかったけれど、シンプルで適度に片付いた部屋だ。けれど中野さんの部屋とは違って、どこか人の住んでいる匂いのする、温かみのある部屋だった。
「すいませんけど、この部屋は狭いんで。姫にはそのベッドを椅子にして、そしてサイドテーブルで食事をしてもらいます。僕はこちらの机で食べますんで」
コーヒーを運んできたギンポ君に申し渡されてペコリとお辞儀をする。
「すいません、ありがとうございます」
続いてトーストとスクランブルエッグが載った皿が運ばれてきた。
「マーガリンを使いたかったらどうぞ」
「あ、恐れ入ります」
しばらく無言でパンをむしゃむしゃと食べる。やがてギンポ君がニヤリと笑って話し出した。
「それにしても昨日の三田村さんは激しかったですねえ」
ぎくりとする。
激しいって、なにが激しいんだろう。どういう意味での激しいだろう。
真実を聞くのがかなり怖い。恐怖に近い。けれどそれもまた自分の仕出かしたことだ。腹をすえて聞くよりほかにないだろう。覚悟をさだめて尋ねる。
「なにが激しかったんでしょう。教えてください」
「チャイムを何度も鳴らして飛びこんできたかと思えば、『中野のバカ野郎、バカ野郎』と大声で何度も叫んで、いきなりベッドに大の字になって寝転がって。ここは壁の薄いアパートですからね、とんだ近所迷惑でしたよ」
「……申し訳ございません」
「このチャンスですから、ついでに脱がせてヤっちゃおうかと思いましたけど、踏みとどまってあげましたよ。あなた、僕に感謝しなさい」
コーヒーを噴き出しそうになる。
「ヤっちゃうって、何をですか」
「そりゃ決まってるでしょう。男と女がいたら、することはひとつ。まあとにかく今回は温情で許してあげますけど、次は保証しませんからね」
ベッドの上で、身の置き場のないような気分を味わう。最初の心配はまあ大丈夫だったようだが、今度はまた別の意味で驚愕している自分がいた。
そんな、わたしが──男の人から性的対象として見られるなんて、そんなバカな!
だんだん記憶がよみがえってくる。そうだ、昨日はバージンなんか捨ててやると思ってここに来たのだった。なのにどこかで妙な安心感があったのも確かだ。そう、わたしは自分が性的対象として見られるはずはないと、頑固に信じ込んでいたのだ。
おろおろしているうちにギンポ君はさっさと食事を済ませ、食器を手に立ち上がった。
「コーヒーのお代わりはいりますか?」
「いえ、これで十分です。ご馳走さまでした」
「では僕はこれから会社に行くのでシャワーを浴びて着替えますけど。見たいですか? 僕の裸」
ニヤリと笑うギンポ君に必死になって頭を横にふり、立ち上がった。
「本当に昨日はご迷惑かけて申し訳ございませんでした。このお詫びはいずれ。わたし、帰らせていただきます」
「はい、ではまた。連絡しますよ」
またしてもニヤリと笑うギンポ君に見送られながら、じたばたとウエスタンブーツに足を通した。
ユニットバスの壁面に頭を打ちつけながら、激しく後悔する。
バカ、バカ、わたしのバカッ。中野さんを振るとか振らないとかの前に、やるべきことがあるだろうが。これじゃ女としてだけじゃなく、社会人としても失格だよ!
バスルームから出て、とにかく身じまいを手早く済ませる。
会社に行かなきゃ。ランチタイムが終わる前に。
小走りで会社のフロアに到着する。するとキタさんが声をかけてきた。
「大丈夫? 三田村さん。体調が悪いと聞いたけど」
「申し訳ございません、ご迷惑おかけしました。体調のほうは、もう万全です」
「このごろは悪い風邪が流行っているからね。あんまり無理しなくていいですよ」
「ありがとうございます」
お辞儀をして自分の席につく。二日酔いで半休を取ったなんて口が裂けても言えない。わたしの沽券《こけん》にかかわるわ。
マシンを立ち上げ、さっそくメールをチェックする。すると桑田さんからメールが届いていた。
三田村奈津美様
体調が悪くて午前中はお休みしたと聞きましたけど、大丈夫ですか? お仕事に熱心なのはよいけれど、あまり無理はしないでくださいね。ところで今度の金曜日、僕と飲みに行きませんか? 場所は六本木あたりを考えてるんですが、どうでしょう。
ちょっと悩んでから返事を返す。不思議といえば、この桑田という人もかなり謎だ。なにが楽しくてわたしなんぞを追い掛け回しているのだろう。
桑田隆様
ご心配をおかけして申し訳ございません。体調のほうはもう万全です。
金曜日の件、お誘いいただきましてありがとうございます。ご一緒させていただきたいと思います。楽しみにしています。
ついでなので、もう一件メールを出す。
中野浩二様
先日の件でお話ししたいことがあります。明日の昼、また例のホテルの和食処にご一緒していただけないでしょうか。よろしくお願いします。
わたしは頭を切り替え、目の前の仕事に打ち込んだ。
ホテルにむかう道すがら、中野さんはいつものようにおどおどした様子だった。昼前から冷たい冬の小雨が降り出して、かなり寒さも増していたけど、わたしは中野さんを自分の傘に入れてあげなかった。中野さんは濡れながら道を歩いた。ひどく意地悪な気持ちが、わたしのなかに渦巻いていた。
このあいだと同じ席に案内されると、わたしは即座に中野さんに指令を下すように言った。
「このあいだと同じ会席弁当でかまいませんか」
「あ、ええ。はい」
「お代はわたしが支払わせていただきます」
「いや、それはその……」
「こちらがお誘いしたのですから、当然です」
中野さんは、ひどく困ったような、身の置き場のないような風情で椅子の上に縮こまっていた。おまけに冬の雨に打たれて寒いのか、軽く震えているようだ。
「ところで、本題から入らせていただきます」
「はい、なんでしょう」
「このあいだお話しした件、もう結構です」
「と、いいますと……その」
「ええ。ですから今日を限りにわたしに煩わされる必要はないってことです。お付き合いしていただきたいとお願いしましたが、それについてはもうけっこうです」
すると中野さんは目を見開いて、まるで捨てられた段ボールのなかの子犬のような目で、すがるようにわたしを見た。
どうしてそんな目をするんだ。
やがて会席弁当が運ばれてきた。わたしは中野さんの視線を無視して箸を割ると、食事に手をつけた。
「どうぞ、中野さんも召し上がってください」
「……はい」
わたしたちは無言のまま食事をとった。そして熱い番茶が運ばれてきてそれを啜《すす》ると、わたしは伝票を手に立ち上がった。
「行きましょうか」
「……はい」
中野さんはほとんど泣きそうな目で、すごすごとわたしの後ろをついてきた。ホテルを出ると、あいかわらず雨だった。中野さんがぼそりとつぶやいた。
「僕、三田村さんを怒らせるようなことをしたんですね? 申し訳ありません」
「いいえ。なにも怒らせるようなことはしていませんよ。ただわたしの気持ちが変わっただけですから、どうぞおかまいなく。わたし、この先の本屋に立ち寄りたいので、申し訳ないですが、こちらでお別れさせていただきます」
傘を差して歩きだし、ちらりと後ろを振り返ると、両手をぶらんと垂らして途方に暮れたような顔の中野さんが、ホテルのまえで、ただ立ちすくんでいるのが見えた。
けれどその顔を二度と見ないように、雨のなか、まっすぐまえを見据えて歩いた。
「今日は三田村さんについて、たくさん聞きたいことがあるんです。嬉しいな、僕の誘いに乗ってくれて」
「わたしの事なんかでよろしければいくらでも」
金曜の夜、わたしは桑田さんと六本木のイタリアンレストランで食事をとっていた。すこし薄暗い客席からは厨房が見渡せて、コックがきびきびと立ち働く姿が楽しいパフォーマンスのように観賞できた。しかもテーブル間がゆったりとした配置になっている。陽気なオレンジ色に重ねたオフホワイトのテーブルクロスも上質だ。
「いいお店ですね」
わたしが感想を述べると、桑田さんは満面に笑みを浮かべて言った。
「よかった、大切な人と差しむかいで話がしたかったから、けっこう調べて選んだんです。気に入ってもらえたんですね?」
桑田さんの『大切な人』という言葉に一瞬、緊張しながら、かるく流す。
「ええ、とても気に入りました。素敵なお店です」
前菜が運ばれてきた。ホタテとウニのカルパッチョ仕立てだ。白いワインによく合う。
中野さんを振って、というか消極的に振られてから、数日が経った。わたしはときに怒り、ときに沈みがちな気分で鬱々と日々を過ごしていた。そんなときに桑田さんの健康的な笑顔を見たら、すこしだけ救われたような気分になれた。
「それではまず最初の質問です。三田村さんの趣味はなんですか?」
「趣味ですか。そうですねえ、最近は桑田さんのおかげでトライアスロンの練習になってきちゃいましたけど、以前はおもに読書でしたね」
「どんな本を読まれるんです?」
身を乗り出すようにして尋ねられて、少し恥ずかしくなる。
「そうですね、たとえばこれです。一応、話題になってたから、目を通しておこうかと思って」
ペーパーバックスを取り出してみせる。
「あっ、英語で書いてある本だ! すごいなあ、これ、原書で読めちゃうんですか」
あまりにも単純に驚いてくれるので、恥ずかしくなる。
「それ、ただの娯楽小説ですから、そんなに難しい単語は出てきませんよ」
「すごいなあ。そうかあ、原書で小説とか読めちゃうんだ。尊敬しちゃうな。……僕、ネットワークオペレータじゃないですか。ネットワークエンジニアになろうと思ったら、本当は英語に強くなくちゃならないんですけど。CiscoとかOracleとかSolarisもですけど、本来はみな英語で解説書が書いてあるわけで。でもね、ダメなんです。いつもエンジニアの人が翻訳してくれた解説書に頼ってばかりで。山本さんに、あっ、三田村さんは知らないか。会社の先輩なんですけどね、『英語なんて気合ひとつでどうにでもなる!』って叱られたんだけど、駄目なんだなあ」
「よろしければ僭越《せんえつ》ながら、わたしがお教えしましょうか? いつもトライアスロンの練習でコーチをやっていただいているお礼に。この程度なら、すぐに読めるようになりますよ」
「本当ですか? それって、すごく嬉しいです!」
「でもね、わたしの教え方は厳しいですよ、桑田さんのコーチと違って。かなりスパルタです。泣きますよ、本気でわたしが教えようとしたら」
「怖い、怖い。三田村さんならホントにやりそうで怖い。いつもすごく厳しい顔つきで仕事してますもんね。僕としては三田村さんと過ごす時間が増えるのはとっても大歓迎なんだけど、やっぱりトライアスロン関連だけにとどめておいたほうが、無難かな」
顔を見合わせて笑う。
「じゃあ三田村さんのプライベートな時間は、こういう本を読んで費やされるんですね?」
「基本的にそうですね。あとはヒアリングとスピーチの訓練を。わたしね、高校が田舎だったもので、あまり良い教師に恵まれてなくて。まあ教師のせいばかりにしてはいけませんけど、文字でのやり取りには自信があるんですが、聞くのと喋るのはあまり得意じゃないんですよ。わたしの行った大学は女子大で、とくに英語教育には力を入れているところなんですけど帰国子女の女の子たちのスピーチを耳にすると、とてもコンプレックスを刺激されましたね」
すると桑田さんは得意げに言った。
「知ってます、三田村さんの出た大学。津田池大学ですよね、超難関の」
言い当てられて、驚く。
「どうして知ってるんですか」
「そりゃ知ってますよ、だって三田村さんは僕の憧れの人だもの。いろいろと聞いてまわりましたよ。出身地だって知ってます。言いましょうか?」
「いえ、いいです。恥ずかしいくらい田舎ですから」
一皿目が下げられて、つぎの料理が運ばれてきた。会話が一時中断されてひそかに一息つく。なんだか桑田さんに、無理やり距離を縮められているようで、圧迫感がある。最初は気が晴れる思いだったが、だんだん居心地が悪くなってきた。料理が運ばれてくると、桑田さんは、嬉しそうに言った。
「さあ、食べましょう、三田村さん。なかなか美味そうじゃないですか」
「健啖《けんたん》ですねえ、桑田さんは」
「これでもアスリートのつもりですからね。食事はがっちり摂《と》りますよ。いくらカロリーを摂っても、ちっとも太れない」
「みんな筋肉に変わっちゃうんですね」
「三田村さんもトライアスロンの練習をもっと真面目にこなしたら、絶対健啖になりますよ。僕が保証します。お腹が空いてたまらなくなると思うな。ところで次の質問です。いいですか?」
「はい、なんでもどうぞ」
「いま、お付き合いしている人はいますか」
どこかでこの質問が来るのを予期していた気もする。覚悟を固めて返事をする。
「いません」
「本当ですか? 例のお見合いの相手ともですか」
「連絡はときどき取り合っていますけど、良き友人といった感じですね」
桑田さんは一瞬押し黙って、そして意を決したように尋ねた。
「では、中野さんとはどうなんです。僕、気付いてました。最終的にトライアスロンのチームに入ってくれたのも、中野さんがいたからでしょう? 三田村さんが中野さんを見ている目は、ほかの誰に対する目とも違っている。とても……なんていったらいいのかな、慈愛に満ちた目で彼を見ている」
冷や水を浴びせられたような気分になった。わたしの気持ちは、はたから見れば丸わかりだったわけだ。
事の顛末《てんまつ》を明かそうか。
いや、やっぱりやめておこう。それをやったら中野さんにも累が及ぶ。
きっぱり視線を合わせて、答えた。
「中野さんとはお付き合いしていません。本当です」
「本当ですか」
桑田さんの真剣な目をしっかりと見据えながら、言った。
「ええ、本当です。嘘は申しません」
「そうか、中野さんと三田村さんのあいだには、なんにもないんですね。だったら僕にもチャンスがあるってことだ。嬉しい、すごく嬉しい。今日はおおいに飲みます」
その言葉に、ちょっと待ってくれよと思う。だいたいあなたには長年付き合っている鹿野さんって女性がいるじゃないか。店に入ったときは救われたような気分だったのに、出てきたときは疲れを感じていた。
「三田村さん、またこうやって会っていただけますか?」
心のどこかで迷惑だと思いながらも、これも社会人としての礼儀だと思い渋々答える。
「わたしなどでよければいつでも」
「本当ですか? 嬉しいな。それではまた来週、会社でお会いしましょう」
わたしはタクシーの座席に乗り込むと、シートにぐったり身をゆだねた。全然わからない、大人の恋愛って。
わたしは明日からの土日を、徹底して英語学習に使う決意を固めた。仕事だけがわたしを救う。恋愛沙汰なんかもうこりごりだ。
*
過酷な土日を過ごして月曜を迎えれば、春を思わせるような天候だった。
さあ、今日からまた会社だ。
そう思うと救われるような気がする。中野さんも桑田さんも視野に入れず、ひたすら仕事に打ち込もうと誓う。土日ともほとんど寝食とらずに勉強したので、身体が衰弱している。けれど自分に鞭打ちたい気分だ。会社に着くなりマシンを立ち上げると、業務連絡のメールや社内のメーリングリストに混じって、青ちゃんからのメールが届いていた。
姐さん、金曜の夜は桑田の野郎と出かけるって言ってましたけど、その後、どうしたんですか。携帯に電話しても自宅に電話しても出ないし。おいらけっこう心配。あとで喫煙室で事情を話してくださいよ。
返信する。
了解。適当に人のいない時間を見計らってメッセンジャーでわたしを呼び出して。あるいは昼食の時にでもこっそりと。
他のメールも処理して、仕事に取り掛かる。朝食も抜いてきたので、身体に力が入らない。けれどかまうもんか。もっと自分をしごいてやる。
仕事に集中してくるにしたがって、気持ちが安定してきた。
うまいタイミングで喫煙ルームに集うことはできなくて、わたしたちは結局、昼休みに会社から離れたパスタの店で落ちあった。青ちゃんが心配そうな顔で尋ねる。
「姐さん、説明してくださいよ。この週末はどうやって過ごしていたんですか。おまけになんかやつれてるし」
「その前にオーダーだけ通しちゃおう」
店員を呼び寄せ、注文を済ませる。
「で、どうしていたんです、姐さん。金曜の夜に桑田と会ったあと」
「ん。ヤリまくっていた」
青ちゃんがのけぞる。
「だれとですかっ。まさか桑田なんていうんじゃないでしょうね。だったらおいら姐さんのことを、おもいきり叱りつけますよ!」
「ごめんごめん、ちょっと青ちゃんの反応が見たかっただけ。願いどおりに驚いてくれてありがとう。ヤリまくっていたっていうのは、その、あっちのほうじゃなくてね、英語のヒアリングとスピーチの特訓。ほとんど寝ないで食べないで週末を過ごした」
青ちゃんは唖然とした顔をした。
「はあ、そうですか。まあとりあえずは一安心、といったところですが。それにしても一体どうしてそんな週末を過ごしたんです?」
「うーん、なんていったらいいのかな、厳しく修行したい気分だったというか」
「なんでまた」
「青ちゃんにはまだ言ってなかったね。わたしさ、中野さんにフラれたの」
「マジですかっ」
青ちゃんはおもいきり立ち上がった。反動で椅子が倒れた。店中の視線が集まる。あわてて青ちゃんはペコリペコリと周囲に頭を下げると、椅子を起こした。
「どうしてです、どうしてなんです」
「フラれたというか、こちらがフッたんだけどさ。こないだ青ちゃんが話してくれた小池さんの話で腹立っちゃってさ。そんな碌《ろく》でもない男と付き合ってられるかと思ったの。そんだけ」
すると青ちゃんはため息をついた。
「あー、やっぱあの話、姐さんの耳に入れるんじゃなかった。だいぶ迷ったんだけど。もしかしておいら、余計なことしちゃったのかなあ」
「いいんだよ、言ってくれて助かったぐらい。だってわたし、はやく結婚したほうがいい時期なんでしょ? だったらあんな優柔不断な男に時間をかけてる暇はない。わたしには付き合って欲しいって人が、他にもいるんだから」
口を滑らせてから、しまったと後悔する。青ちゃんならここで絶対、ツッコミを入れてくるはずだ。すると案の定、即座に質された。
「誰ですか、それ」
しかたなく白状する。
「……桑田さん」
「そうか、きっちり姐さんに乗り換えるつもりなんですね? それならヨシ。でも二股かけたらブッ殺す!」
「まあまあ、青ちゃん、そう興奮しないで。……それにしても青ちゃんはわたしの守護神だね。どんな辛い状況でも、青ちゃんに会うと気が晴れるよ」
するとちょっと頬を赤らめ、青ちゃんは口のなかでモソモソと言った。
「いやあ、おいら、姐さん大好きだから」
「ありがとね。わたしみたいなロクデナシでも、生きてていいんだと思えてくるよ」
「姐さん、少し心身ともに休めたほうがいいですよ。考え方が超後ろ向きっス」
「かもしんない。恋愛ってどうも苦手。この件からは手を引きたい気分かも」
「姐さん、今から枯れちゃダメです。人間五十年、嫌でも枯れる日はくるんだから」
青ちゃんにはそう励まされたが、力は湧いてこなかった。このまんま、枯れるのも悪くない。そんな気分だ。
マンションに帰り、靴を脱ぐと、ぐったりとした疲れを感じた。
少し後悔する。「太仁健康中心」に寄っておけばよかった。今日みたいな日こそ、李さんのマッサージは効くだろう。なんてことを考えてると、ジャケットのポケットに異物が収っているのを感じた。青ちゃんが喫煙室に忘れていったセブンスターとライターである。今日、渡しそこねていた。ふと、これを吸ってみたらどうだろうと思いつく。
灰皿の替わりになるような陶器の小皿を出し、まずはソファに座って一服してみる。すると、全身が痺れるような感じとともに、なんともいえない、まったりとくつろいだ気分になれた。これはダウナー系の麻薬だと知る。タバコを吸ったら、身体の疲れまで抜けるような感じがする。
「そうだ、酒でも飲もうじゃないか」
ひとり言をつぶやきながら、いそいそとキッチンへむかう。
「あったあった、ローデンバッハ・グランクリュ。二年かけて熟成させたというだけあって、これがまた旨いんだ」
いそいそとグラスにビールを注ぎ、飲みながらまたタバコをくゆらしてみる。すごくいい。とってもいい。二本吸い終わった時点で、酔っ払ってギンポ君に電話した。
「もっしもーし、三田村です。まだ起きていらっしゃいました?」
「ええ、起きてますよ。なにごとですか? 姫」
「今度の、週末、またドライブに誘ってください。三浦半島にまた行きたい」
「そうですか、そんなにお気に召しましたか。でも同じ場所というのはつまらないなあ。どうせならもっと別の場所に」
「ううん、わたし、三浦半島がいいんです、絶対、絶対、三浦半島!」
「しょうがない人だなあ。まあいいか、じゃあ三浦半島でいいですよ。なんなら土日にかけて、どこかに一泊します? ツインの部屋でもおさえて」
すこし酒が醒めた。
「ツイン? とんでもない、結構です」
「どうして。姫は僕に気があるんでしょう? そんなの最初っからわかってますよ。さあ、はやく僕の胸に飛び込んでいらっしゃい」
「あるかもしれないし、ないかもしれないけどツインはダメ」
「かたくなな人だなあ。なんですか、結婚までは純潔を守るとか、そういう宗教にでも入ってるんですか?」
「入ってませんけど、とにかくダメ!」
「しかたない、それじゃシングル二部屋にしますか。それにねえ、あの三浦半島にはロクなホテルがないんですよ。ああ、それじゃこういうのはどうです。まずは三浦半島に行ったあと、大磯まで行くんですよ。うん、大磯にしましょう、大磯プリンスホテル。あの近くにはね、地元の人しか知らない、うまい寿司屋があるんですよ。姫の肥えた舌でもご満足いただけると思うな」
「ありがとう、ギ、じゃなくて神保さん」
するとギンポ君はちょっと不審げにわたしに尋ねた。
「その、ギ≠チていうのはなんなんです? このあいだも僕の名前を呼び違えましたよね。むかしの恋人の名前かなんかですか?」
どうしようかと激しく迷った末、正直になろうと腹をくくる。
「違います。えっと、その、申し訳ない! わたし、初対面のときに神保さんがあんまりにもお魚の、その、ギンポってご存じですか? それにお顔が似ていたので、つい、心のなかでギンポ君ってあだ名をつけちゃったんですよ」
するとギンポ君はあきれたように言った。
「ギンポですか。ひどいなあ、三田村さん。僕はこのショックから立ち直れるかどうか。ああ、一週間はかかるかもしれない。姫と会って、このつぐないをしてもらわねば」
平謝りに謝る。
「ごめんなさい。なんでもします、つぐないます」
「では体ですね。体でつぐなってもらいましょう」
「体ってその……それだけはダメっ」
「どうして。なんでもつぐなうと言ったくせに」
「ダメ、ダメ、婚前交渉絶対反対! 乱脈な不純異性交遊は性病蔓延の元です」
「まるで人のことをバイ菌みたいに。自分がひどい事言ってるのわかってます? じゃあキスで許してあげましょう」
「キ……キスって」
「魚のキスじゃないですよ。接吻」
電話のむこうでギンポ君がニヤリと笑っているのが目に浮かぶようだった。
「はい、ではどうぞ」
誰もいない剱埼灯台で、わたしはギュッと目をとじた。他人様に唇を奪われるなんて初めてだ。なんでこんな成り行きになっちゃったんだ。しかし女三田村、約束は守る。ギンポ君はまず軽く頬にキスすると、ゆっくりとわたしの顎をあげ、さらに軽く、そっと唇を合わせた。その瞬間、わけのわからない陶酔感に包まれてしまった。
想像していたような不快感はなかった。むしろどっちかっていうと、気持ちいい、ような気がする。どうしたんだ、自分。おかしいぞ、自分。
ギンポ君はわたしを抱きしめ、もう一度、ゆっくりとキスした。さきほどよりももっと強い陶酔感が、わたしを包んだ。足の力が抜けるようだった。
「愛してますよ、姫」
ギンポ君が耳元で囁《ささや》いた。
車に戻っても、わたしはぽおっとしたままだった。
ギンポ君が売店でアイスを買ってきた。
「はい、姫。車内は暖房が利いているから、アイスもまたうまいでしょう?」
「あ、すいません」
素直に受け取り、アイスを食べた。アイスは甘い。フツーにうまい。味覚はおかしくなってない。しかし問題は、この唇と舌が、気持ちよさを感じてしまったことである。なんでだ、しかも相手は中野さんじゃなく、よりにもよってギンポ君だというのに。
もしかしてわたしは激しく好色な女だったりするのか?
そう思うと、頭をかきむしりたくなるほど恥ずかしい。けれどギンポ君はわたしの動揺にはまったく気付いていないようないつもの微笑を浮かべているだけだ。
「では一路、大磯にむかうとしますか!」
ギンポ君はいきおいよく車を発進させた。
「松並木が綺麗!」
「いいところでしょ。東海道の松並木をまだ保全してあるんですよ。姫はここも、初めてですか?」
「うん、初めて! 大磯がこんなに綺麗なところだなんて知らなかった」
大磯の風景に目を奪われ、さっきの動揺を忘れてしまった。ギンポ君は車を走らせながら、ゆっくりとタバコを吹かした。
「あっ、タバコ! そうだ、神保さん。タバコください。わたし忘れてきちゃった」
「あれ? いつのまに喫煙する人になったんです」
「今週の月曜日。神保さんに電話したちょっと前。タバコっていいですね、とってもまったりして、気持ちよくて」
「ははは、いくらでも吸ってくださってかまいませんが、寿命が縮みますよ。僕自身は別に自分の寿命がどうなろうが気にしないけど」
「わたしも気にしない」
するとギンポ君は、ポケットからタバコとライターを取り出して渡してくれた。
着火して一口吸いこむ。
「やっぱりおいしい! タバコって最高!」
わたしの横顔をなにがおかしいのか噴き出すのをこらえているような口元で見ていたギンポ君が、いきなり言った。
「ところでね、姫。これからはギンポ君≠チて呼んでくれてかまいませんよ。屈辱的なあだ名だが、姫のつけてくれたあだ名だ。耐え忍びましょう」
「いえ、とんでもないです! ちゃんと神保さんってお呼びしますよ」
「僕のほうはかまわないのになあ」
ホテルにチェックインすると、いつの間にかギンポ君と手をつないでいた。お互い、部屋に荷物を置くと、すぐお寿司屋さんにむかった。
「すごい、ここの焼き穴子、絶品!」
「でしょう? 姫の肥えた舌にもかなったでしょ」
「かなうもなにも、こんなにおいしい焼き穴子は、初めてですよ」
「姫はいいね。なんにでも感動してくれて」
大いに満足して店を出ることになった。わたしは当然のように財布をとりだしたのだが、ギンポ君に阻まれた。
「だーめ。男に恥をかかせるもんじゃありません。さあ行った、行った」
会計を済ませて戻ってきたギンポ君にお願いする。
「じゃあ、ホテル代はわたしが持ちますね」
「余計な心配はしなくていいの。三田村さんほど稼いでいるかどうかはわかりませんけどね、あまり見くびらないでいただきたい。あ、タクシーだ」
「拾いましょう」
サッと手をあげる。タクシーに乗り込んだ瞬間、ほとんど同時に声をあげた。
「大磯プリンスホテルまで!」
たがいに顔を見合わせて、また笑った。
「会社にね、青ちゃんって子がいるんですけど。彼女、とっても神保さんに似ているんです。顔形のことじゃないですよ。性格っていうか、雰囲気っていうか。彼女はわたしの守護神なんです。いつでもなにがあってもわたしの味方なの」
ギンポ君の部屋に入って、飲みながらまた話を続けた。
「ほほう、では我らは同志ということだ。今度お引き合わせ願いましょうか」
「あわせてもいいけど……やっぱりダメ!」
「どうして」
「だって青ちゃん、すっごい魅力的な子だもん。もしかして神保さんが青ちゃんを気に入っちゃったら嫌」
「なんだもう、僕にベタ惚れじゃないですか。嫉妬までしますか!」
「あ、なんか眠くなってきちゃった」
「じゃあ部屋に戻ります?」
「ううん、ここで寝る」
「どうして」
「だって神保さんと朝まで一緒にいたいから。ここで寝る」
「わがままな人ですねえ。だからツインかダブルの部屋にすればよかったのに」
「あ、化粧を落とす道具と寝巻きを置いてきちゃった。ちょっと部屋に戻ってきます」
自分の部屋でシャワーを浴び、寝巻き姿でギンポ君の部屋に戻った。
「おまたせ。さあ寝ましょう、寝ましょう。早寝早起きで健康に」
「なんですか、その格好は。僕に襲わせるつもりですか?」
「ううん、襲わせなーい。さっき改宗した。結婚までは、純潔を守る」
「ほとほとわがままな人だ。まったく、まいりますよ」
「そんなことはどうでもいいから、さ、はやくベッドにはいろ。ね、神保さん」
「しょうがないなあ。じゃあ姫、詰めて、詰めて」
「……狭い」
「セミダブルだもの。当たり前でしょう」
「でもいいや。男の人の体って、あったかい」
「腕枕でもしてあげましょうか?」
「うん」
わたしはそのままギンポ君の腕に抱かれて、やすらかな眠りについた。
翌朝はギンポ君より先に目が覚めた。そっとベッドを抜け出してギンポ君の寝顔を見ていたら、すごく昔から知っている人のようななつかしさがこみあげてきた。ふと子供のころを思い出した。最近、いつも夢に出てくるあのポプラ林のことだ。製紙工場が保有林として所有していたポプラの林のなかに、子供たちが集う秘密の隠れ家があったのだ。わたしはよくそこで本を読んだ。隠れ家を作ったのは小山君という男の子だった。忘れもしない。たった数ヶ月で転校していったけど、妙に気になる男の子だった。どうしてギンポ君の顔を見て彼を思い出すのか、それが不思議だ。一本タバコを失敬して、吹かしながら考える。
妙だと思うことはもうひとつある。昨夜も結局、わたしの我儘放題《わがままほうだい》だったにもかかわらず、ギンポ君はすべてを受け入れてくれた。なぜギンポ君は何かを要求するでもなく、これほど優しいのだろう。やがて、ギンポ君がむくりとベッドから起き上がった。そして大きく伸びをした。
「ああ、肩が凝った。姫を慰労するのは疲れますな。やれやれ。おや、おきぬけにタバコですか」
「すいません、一本失敬しちゃいました。あ、なんなら肩も揉みましょうか? わたしけっこう上手だって、人から言われてるんですよ」
「いえいえ、僕に奉仕する必要はないですよ。それよりタバコ、いくらでもお吸いになってください。では僕もおきぬけの一服といきますか。あれ、それにしても、なんだか難しい顔をしてますね。一体どうしたんです。あっ、僕の朝勃《あさだ》ちのせいか?」
「言われるまで気付きませんでしたよ! もう、なにを考えていたか忘れちゃったじゃないですか。神保さんのバカ」
わたしは部屋から出た。さきほどに続き、ポプラ林の思い出を反芻《はんすう》しながら、朝のシャワーに打たれた。
ギンポ君との楽しい一泊二日の小旅行が終わった月曜の朝、地下鉄のなかで、はたと気付いた。ギンポ君に対して、中野さんと同じことやっちゃったことをだ。
男女でひとつのベッドに潜り、なにもせずにただ眠る。しかも酔った勢いで。
自分にあきれた。あれほど中野さんを責めておいて、自分が同じことをするなんて、かなり最低だ。自問自答する。自分はギンポ君が好きなのかと。
あわてて心のうちで否定する。
違う、好きなんじゃない。あんなお魚みたいな顔に恋しちゃうなんてなんか違う。とにかくこれは友情だ。わたしとギンポ君はあくまで友人。
そう考えてから、ふと思った。
中野さんにとっては、わたしは友人だったのかも、と。そうかもしれない。知り合ってまだそんなに月日はたってないし。中野さんにとっては友情どまりだったとしても当然かもしれない。
友人にいきなり告白して、そして振っちゃったのか。悪かったかも。
罪悪感が生まれた。
謝ろう。中野さんに。そして言おう、ごめんなさいと。そしてこれからは良き友人としてお付き合いしてくださいと。
心のうちで、そう決めた。
機会はわりと早く訪れた。水曜日の夜、例によってフィットネスクラブを出ようとすると、またも偶然に中野さんとでくわした。
中野さんはわたしを見ると悲しげな顔をして、つぶやいた。
「あ……」
勇気を出して、誘ってみることにした。
「中野さん、いまお帰りですか?」
「あ、はい」
「お食事はもう済まされました?」
「いえ、まだ」
「それではまたご一緒しませんか」
できるかぎり明るい笑顔をつくって尋ねる。すると中野さんはちょっと驚いたような顔でわたしを見て、それから小さくうなずいた。
「いいですね」
フィットネスクラブを出ると同時に、中野さんに詫びた。
「わたし、このあいだはいきなりあんなことを言っちゃって、ごめんなさい。中野さん、とっても驚かれたでしょ? わたし意外と軽率なんですよ。恋人はあきらめますから、また親しい友人としてお付き合いいただけません?」
すると、怯《おび》えた子犬のようだった中野さんの顔が、俄然明るくなった。
「じゃあ、仲直りしてもらえるんですね。よかった。今日は僕、いっぱい飲みます」
「あっ、ダメ。それはわたしが許しません。適量を飲んでいただきます」
すると中野さんは満面に笑みを浮かべ、嬉しそうに言った。
「三田村さんには仕切られちゃうなあ」
ここでまた、ふと思い出す。
そういえば寿司屋に行くまえにギンポ君もおなじようなこと言ってたな。わたしって、仕切り屋なのか?……そうかもしれない。
わたしは中野さんにつられて笑った。そして言った。
「ええ、わたしは怖いんです。仕切りますよ、覚悟してください」
「わかりました。覚悟しましょう。ではとりあえず、このまえみたいに僕が自転車を漕ぎましょう。それで良さそうなお店を探しましょうよ。おなじところじゃつまらないですもんね」
「そうですね、そうしましょう」
わたしは中野さんにハンドルをあずけると、後部車輪にまたがり、中野さんの肩に手を置いて、コートが風にたなびくのを爽快に感じながら夜の街を見渡した。
中野さんと仲直りしてから数週間が過ぎた。仕事の引き継ぎは順調だし、どの週末も休日出勤したこともあって、ひとつ増えた案件も難なくこなせている。中野さんたちともあいかわらず楽しくやってる。
それにしてもちょっと疲れがたまってきたかな。そろそろ自分をいたわってあげないとね。今度の週末は、一日だけ、春物の服を買いにいこう。
ソファにゆったりと身体を沈めて、ファッション雑誌をながめる。かつてはまったく興味がなかったこの手の雑誌が、わたしのいまの愛読誌である。どれもこれも欲しくて困る。小声でつぶやく。
「キレイにならなきゃ。キレイにね」
その瞬間、自分が自分にツッコミを入れた。誰のために?
おもわず赤面する。その瞬間、いきなり部屋の電話が鳴った。だれだろう、いま時分に。
時計を見れば、夜の十一時をちょっと過ぎた時間帯だ。
用心深く電話を取り、耳を澄ませる。
すると受話器のむこうから聞こえてきたのは、桑田さんの声だった。
「もしもし、三田村さんのお宅ですか?」
「桑田さん、どうしたんです、こんな時間に」
「夜分遅くに申し訳ありません」
桑田さんはあきらかに酔っていた。呂律《ろれつ》がまわってない。
「何事ですか?」
「いえ、あの」
桑田さんはしばらく言いよどんで、それからいきなり意を決したように大きな声でがなった。
「このあいだ僕とまた食事をしてくれると約束してくれましたよね?」
「ええ、はい」
「では食事をしてください。三田村さん、休日も出勤しているようだから何も言えずにいましたが、お願いです。僕と、食事に行ってください」
「……桑田さん、だいぶお飲みになりましたね?」
「はい。そうでないと、ご自宅にお電話する勇気が出なかったんです」
「食事の件ですが、わたしでよろしければかまいませんが。……ただ、ちょっといま忙しくて。今週の土曜の夜とかではダメですか?」
「土曜の夜。それでかまいません、いいんですか」
「じゃあ土曜の夜は空けておきます。わたしは会社で仕事をしてますので、適当な時間に携帯にでも連絡入れてください」
「わかりました。僕も休日出勤しますから。夜の九時ぐらいならどうです」
「ええ、たぶん。大丈夫ですよ」
「すいません、夜分遅くに。ありがとうございます」
「おやすみなさい」
電話を切ってから、前回のことを思い出し、ちょっとため息をつく。桑田さんかあ。別に嫌いなわけじゃないんだけど、一対一で会うのはなんか疲れる。
肩に重い荷物を背負ったような気分になり、わたしはタバコを手にとった。
会社の人から怪しまれないような場所で落ち合うとタクシーを拾った。
こころなしか顔が紅潮している桑田さんは、シートに身体を沈めると、ホッとしたような顔になった。
「今日はどんなお店に連れて行ってくださるんです?」
「上《あが》ル下《さが》ル西|入《い》ル東|入《い》ル≠ニいうお店です」
「ああ、あそこですか」
「ご存じでしたか?」
「よく雑誌とかにも載ってますものね。京料理をベースにした『くずし割烹』でしたっけ。予約を取るの、大変だったんじゃありません?」
「ちょうどよかったんですよ。九時以降だと逆に予約が取りやすいんです。それにしても三田村さん」
「なんです?」
「このごろトライの練習、サボりがちなんじゃないですか」
「あ、そうですね。まあ会社を途中で抜けて一泳ぎしたりはしてますけど、たしかに以前ほどは頑張ってないなあ」
「ダメですよ。今年は無理でも、来年には宮古を目指しましょう! 沖縄の宮古島でトライアスロンの全国大会があるんです。日本一といってもいい難易度の高いレースになりますが、宮古の海は美しいですよ」
レース出場を強力にすすめられているうちに店に到着し、予約席に案内された。
「そう、宮古。宮古島の隣にね、伊良部島っていう島があるんですが、僕はここでダイビングにハマったんですよ。ビーチインのダイビングだったんですが、まずね、海に入ると鮮やかな珊瑚礁と熱帯魚がまばゆいように蛍光色で。ところがリーフの外に出たら、いきなり海の表情が変わった! 深い、とても暗い、しずかな海。僕はあんまり興奮したんで、息が上がっちゃって沈降できなかった」
前菜が運ばれてきた。それをお箸でつつきながら、桑田さんの話に耳を傾ける。
この人、たしかに子供みたいだ。彼女、鹿野さんが「桑田はただのお子様よ」って言っていた意味がわかるなあ。
けれどどこかで気が楽になる。今日はこのあいだみたいな面倒な話はしないでいてくれそうだ。
おかげでわたしはリラックスしながらお酒を飲めた。そして楽しく会話した。というか、一方的に桑田さんが喋るのに合わせていればよかったので楽だった。
店を出たとき、わたしはすこし酔いがまわった状態で言った。
「今日はありがとう、桑田さん。こんなに楽しい食事はひさしぶりです」
「本当ですか?」
「ええ、本当に。それにどのお料理もとても美味しかったです」
実際、楽しかった。最初は難しい話をまたされるんじゃないかと構えていたが、そんなこともなく、今日はかなり安心できた。桑田さんが一方的に喋っていたけど、彼は本当に子どものようで明るくて、ほがらかで、なんだかその元気を分けてもらえたような気分だった。
すると桑田さんはタクシーを呼び止めるためか、路肩に出て、手をあげた。酔った頭で考える。
タクシーを拾ってくれるつもりか。別に地下鉄で帰ってもいいんだけどな。
けれどそれを口にしないうちにタクシーが近づいてきた。ドアがあくと、桑田さんはわたしを押し込むようにしてタクシーに乗せた。そして堅い表情で、自分も一緒に乗り込んできた。そして運転手に告げた。
「渋谷まで」
なにが起きたのか、さっぱり理解できなかった。わたしはただ、あっけにとられたまま桑田さんの険しい横顔をながめた。
タクシーのなかで、桑田さんはわたしの内腿に手を伸ばし、撫でさすりはじめた。何が起こっているのか。現状が把握できない。
どうしてこの人は、わたしの内腿に触るのだろう。それになにゆえ渋谷なんだ。もう一軒飲みにいこうって意味なのか?
タクシーはわたしたちを乗せて、疾走していく。さっきまで饒舌《じようぜつ》だった桑田さんはまったく無口だ。
桑田さんは運転手に数枚の千円札を渡すと、お釣りも受け取らずにわたしの手を握りしめ、外に出た。ひきずられるようにしてわたしも車を降りる。自分の身に、なにがしかの危険が迫っているのはぼんやりわかる。けれど、酔いも手伝って、どうすればこの場を切り抜けられるのかが、見当もつかない。
桑田さんはずんずん坂を登り、どこからどう見てもラブホテルとしか見えない建物にわたしを連れ込んだ。そしてパネルのまえで、どうやら空き部屋とおぼしき明かりのついている部屋のボタンを押すと、フロントに行って会計を済ませ、鍵を受け取った。
へえ、これがラブホテルってものなのか。いやあ、勉強になるなあ。
おもわず感心する。そしてすぐに我に返った。これはかなりの緊急事態だ。
この年になるまでバージンでいた自分が口惜しい。きっともっと若くにバージンを失っていたら、冷静に対処できたんじゃないかと思う。それができない自分が口惜しい。
この場でバージンを失うというのならそれもまたアリかとは思う。けれど最大の不安というか、問題は、わたしがバージンだってことだ! 三田村奈津美の名誉にかけて、他人に知られたくない。いい年をしてまだバージンだなんて、絶対知られたくない。
桑田さんはわたしを部屋に連れ込むなり、いきなり抱きしめて唇を奪った。
「好きだ、好きだ、三田村さん!」
桑田さんがわたしの口に舌を押し入れる。驚愕する。
そして桑田さんは靴も脱がないままわたしをベッドに押し倒した。わたしもブーツのままだ。桑田さんはわたしに馬乗りになり、あわただしく服を脱がせようとした。
ニットのセーターをたくし上げ、スカートもついでにたくし上げた。
その瞬間、わたしは必殺の一言を思いついた。おおいかぶさろうとする桑田さんの上半身を突き飛ばし、叫ぶ。
「待って! 桑田さん、鹿野さんのことはいいの?」
すると桑田さんは、突然動きを止めた。そしてひどく気まずそうな顔でわたしから視線をそらし、うしろむきに座った。
「……知っていたんですね」
「ええ」
「誰が教えたんですか」
「彼女の口から直接ききました。このあいだ伊是名に行ったとき、その車中で」
「……そうでしたか」
わたしが着衣の乱れを直しているあいだに、桑田さんはうなだれて足元を眺め続けた。なんだか気まずいので、とりあえず詫びてみる。
「桑田さん──ごめんなさい」
すると桑田さんは無言のまま首を横にふった。
「いや、謝らなくちゃいけないのは僕のほうです。そうです、鹿野と付き合っています。最低の男ですね。がっかりされたでしょう?」
「桑田さんに対してがっかりはしませんけれど、彼女に対しては、申し訳ないと感じています」
桑田さんは背中をむけたまま話し始めた。
「入社以来の付き合いなんです。しかも結婚を前提に付き合ってくれていて、交際を申し込んだのも僕でした。でもそのうち、僕は三田村さんのほうが気になってしかたなくなってしまった。鹿野のことはいまでも好きです。けれどもっと好きなのは三田村さんなんだ。だけどいままでの経緯を考えると、どうしても彼女を切るに切れなくて」
それは男として正しい判断だと思う。
「わかります。桑田さん、どうか彼女を大切にしてあげてください」
すると桑田さんはわたしのほうに顔をむけ、尋ねた。
「三田村さんは僕を嫌いですか?」
問われて悩む。自分の心を整理し、思ったままを口にする。
「嫌ってなんかいません。自転車の二人乗りをさせてもらったこととか、とても嬉しかったです。わたし、みんなが青春として過ごす時代を受験勉強のために費やしてしまったから、そういう経験ってなくて。桑田さんのこと、とてもありがたく思ってます」
「では好きですか?」
「好きか嫌いかということなら、好きですよ、もちろん」
すると桑田さんはまた真剣な顔で無言になり、やがてぽつりと言った。
「わかりました。僕は三田村さんにふさわしい男になります」
「ふさわしい男って?」
「いずれちゃんと結論を出してから言います」
まさか鹿野さんと別れるつもりなんじゃないだろうな。
けれどそれを口にすることはできなかった。
わたしたちは互いに無言のまま、ホテルを出た。そしてわたしは逃げるようにタクシーに乗り込んだ。気まずいので、一言だけお礼を言った。
翌日は、昼過ぎに目が覚めた。ベッドに転がったまま、ぼんやりする。
李さんの店に行こうかとも思ったが、それも面倒でしたくない。
ふとギンポ君の顔が思い浮かんだ。そうだ、ギンポ君の部屋に遊びにいこう。このあいだ本棚のチェックをしなかったんだよね。どんな傾向の本を読んでいるんだろ。
そう思ったとたん、いきなり元気がでた。
携帯を発信させると、すぐにギンポ君の渋い声が聞こえた。
「もしもし、神保です」
「おはようございます、三田村です」
「いまごろおはようですか? 昼過ぎてますよ」
「そうでしたね。じゃあ、こんにちは」
「どうしましたか。またドライブのお願いですか?」
「ううん、今日はそうじゃないんです。これから神保さんのお部屋に遊びにいっちゃダメ? このあいだ本棚のチェックをするのを忘れちゃったんだ。わたし、人の本棚にどんな本が並んでいるかってすごく気になる人で。だってそれを見れば、その人の傾向と性格がわかるじゃない」
「本棚ですか。いくらでもお見せしましょう。アパートの場所はわかりますか?」
「このあいだメモした住所があるから、なんとかたどり着けるかと」
「それなら駅までむかえに行きましょう。井の頭線の、浜田山というところで降りてください」
「わかりました、浜田山ですね。それじゃあとで」
電話を切って、わたしはバスルームへむかった。
改札を抜けると駅前にはギンポ君が立っていた。
心地よい日差しのなか、ふたりで歩き始める。冬物のコートだと汗ばむような陽気だ。
「もう春ですねえ。あ、お花屋さんだ」
「この浜田山は、やたらと花屋が多いんですよ」
「住民が裕福な証拠ですね。わたしの住んでいる場所なんてね、花屋はおろか、本屋さえないんですよ! 以前は一軒だけあったらしいんだけど、万引きで潰れちゃったらしくて。民度の低い土地ですよ」
するとギンポ君はゲラゲラ笑った。
「民度、ねえ。姫にはまいっちゃうな。まあここの住人だって、民度の高さなんてたかが知れてますよ。にわか成金の多い、そのくせして妙にプライドだけは高い、ロクデナシぞろいですよ」
「そうかな。わかんないや。あ、また花屋さん!」
幅は狭いけど、溢れるばかりに花が咲き乱れる花屋の多い通りを歩く。ギンポ君はけなすけど、品のいい街並みだ。
「さ、こっちです、姫」
ぼんやりと見覚えのあるギンポ君のアパートにたどり着く。
いそいそと部屋に上がりこむ。
「あっ、『知恵の七柱』がある。『アラビアのロレンス』の映画を見ましたね?」
「ええ。もちろんビデオでだけど。ちょっとロレンス自身の著作に興味を持ったんで。でもそれは、ほとんど最初のころで挫折したかな」
「これねえ、翻訳が悪いんですよ。原書で読んだほうがずっとわかりやすいです。それに文章のリズムもいい。書き出しはロレンスがプロペラ機の振動にあわせて書いたんです。とっても心地よいリズムなんですよ。あっ、なんだあれは! ドストエフスキーの全集! どうしてハードカバーなんです? 新潮の文庫で十分じゃないですか」
「姫はお好きですか? ドストエフスキー」
「なんの興味もないですよ。念のために『カラマーゾフの兄弟』は上巻だけ読みましたけど、大、大、なんだったかな」
「『大審問官』?」
「そう、そこ。あれでもう、なんじゃこりゃあ状態で」
「ダメだなあ。あそここそ名場面なのに。僕は泣きましたよ。やられたと思ったな。それで買い揃えたんです、全集。神田の古本屋を探し回って」
「あんなののどこが面白いんです?」
「『カラマーゾフの兄弟』はねえ、キリスト教をあらゆる角度から試しているんですよ。そこが凄いんです」
「キリスト教……神学ですか。わたし神学って苦手。哲学のほうが断然好き。神保さんは神の存在を信じられるの?」
「ええ、信じてますね。ただ僕は、ちょいと異端なので、地獄はなく、ただ天国のみが存在すると思っている。だってそうでしょう? 『心の貧しき者は幸いである』ですもの。『善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや』ですよ」
「ダメ。さーっぱりわかんない。サルトルの『人間の運命は人間の手中にある』のほうがよっぽど理解できるし共感できる。神の定めし運命なんて、わたしは信じない」
するとギンポ君はニヤリと笑った。
「まだまだだな、姫はまだまだだ」
「なにが『まだまだ』なんです?」
「まあいいですよ、しばらく迷いの道を歩みなさい」
「あっ、わたしに勝負を挑みましたね? よし、受けて立つ。わたしはねえ、闘う女なんですよ、闘う女」
「いいですよ、いくらでも戦いましょう。でも僕は知ってますけどね、勝利はどちらにあるのかは」
「なんか憎たらしい。こうしてやるっ」
わたしはベッドに腰を下ろしたギンポ君におそいかかると、わき腹をくすぐった。
「うははは、これ、姫、やめなさい。うははは」
なんだかそのうちにこちらまで可笑しくなってしまって、一緒に笑った。
*
「それじゃ三田村さん、ここでお別れだ。後のことはよろしく頼みます。でもなにか問題が起こって判断に困るときは、いつでもメールなり電話なりで連絡してくれていいからね」
「はい」
三月末日、わたしはキタさんの送別会の終わりに、彼に花束を手渡した。ついにこの日を迎えてしまった。
明日から、わたしが部署のトップ。わたしを含めて四人しかいない部署だけど、それでもトップはトップだ。
どんな困難が待ち受けているかわからないけど、とにかくやってみよう。
地下鉄の階段で振り返ったキタさんにむかって、わたしはピシリと敬礼した。するとキタさんは驚いたような顔をしたけど、すぐに厳粛な顔になって、直立不動のまま敬礼を返してくれた。
(ありがとうございます、キタさん。いままでお世話になりました。部署のみんなに目を配ります。能力が高い人にだけ仕事を集中させてしまわないよう努力します。個々が快適に働ける環境を心がけます。そしてどうしても自分で問題を解決できないと思ったときだけ、あなたのお力にすがります)
心のなかで、誓いをたてる。
頑張らなくては。わたしはこの会社で初めて、役付きの女性となったのだから。
そしてこの日、わたしは二十九歳の誕生日を迎えた。
部屋に帰ると、留守電にメッセージが二件入っていた。再生してみる。最初はギンポ君からだった。
「姫、あらためてお誕生日おめでとう。今日は遅くなりそうだから、メッセージだけ残しておきますよ。お祝いは、また」
その言葉におもわず微笑む。昨夜も彼は、十二時になると同時に電話をくれたのだ。
(だれよりも先におめでとうを言いたかったもので。もしかして寝ていましたか?)
寝てはいなかった。四月からのことを思い、わたしは軽い興奮状態のなかにあったのだ。メッセージのもう一件は、母親からだった。
「奈津美、いないの? 相談したいことがあるの。電話をちょうだい」
再生された母親の声を耳にして、不審に思う。
相談だなんてなんだろう。それにしても、誕生日おめでとうの一言もなかったな。まあわたしのことなんて、どうでもいいんだろうが。
時計を見ると、もう夜中の十二時になろうとしている時間帯だった。
母親の件については考えの外におき、コートをソファのうえに脱ぎ捨てながら、感慨にふける。
ついに迎えちゃったか、バージンのままの二十九歳。去年のいまごろ、わたしはどうしていたんだろう? 仕事、仕事、仕事。それだけだったな。そして秋にウナギで栄養失調を起こして、あれで人生が変わっちゃった。
思い出して、ひとり笑いする。ルームウェアに着替えたわたしは、ソファに深く身を沈めて、自分で自分につぶやいた。
「奈津美、誕生日おめでとう」
時計の針が、ちょうど十二時を指した。
目覚ましの音で覚醒した。そしてベッドから起き上がるなり、重たい気分になった。ひとつは今日からわたしの肩にのしかかる責務のこと、そしてもうひとつは昨日の母からの留守録である。どうせ面倒な話に決まっている。
シャワーを浴びてからにしようかと思ったが、引きずっていても不愉快なだけと思い、意を決してダイヤルする。やがて何度目かのコールで母が出た。
「もしもし、三田村です」
「ああ、お母さん? わたし、奈津美」
「どうしてもっと早く電話をくれなかったの」
「しょうがないでしょう、昨日は送別会があったんだから。こちらの都合も考えてよ。とにかく用件だけ言って」
「あんたたち三人って、どうしてそう身勝手なの? 苦労して育ててやったのに」
無言でいると、母はため息をついて続けた。
「なずなが、教師を辞めちゃったのよ」
「なずなが学校を辞めた?」
なずなというのは妹の名だ。地元に残り、中学教師として実家から職場に通っていた。
「そうなのよ、昨日わかったの。学校が春休みだから家にいるのかと、はじめは思っていたんだけど、あの子、書道部の顧問だから春休みでも生徒の指導にあたっていて、家を空けることが多かったのよ。それでそのうち不安になって、尋ねてみたら『辞職した』って。理由を訊いてもなにも言わないの。奈津美はなにか聞いていないの?」
「いや、なにも」
そう答えつつ、ピンとくる。
こりゃあ、失恋だな、たぶん。
三田村三姉妹、富士、鷹、ナスビの、ナスビだったため、あまり母の関心をひかなかっただけに、三人のなかで一番被害が少なかった妹ではあるが、恋愛に関しては、わたしたちと同じく、あまり得意とはいえないだろう。
「それでどうしたの」
「わけをきこうと問い詰めたのよ、そしたら泣きじゃくって『もうお母さんなんて大っ嫌い、この家から出る。そうじゃなきゃ死ぬ!』って。まいったわよ、どうしてこんな頭の痛いことばかり続くの? わたしほど不幸な母親はいないわ」
腹のなかでは思った。なに言ってんだか。不幸なのはあなたではなく、わたしたちだよ、と。
けれどなずなのこととなれば、姉として放置しておくわけにはいかない。
「わかった。ではこうして。なずなはわたしの部屋に住まわせる。そしてこちらで就職活動をさせる」
母はしばらく無言だった。けれどため息とともに同意した。
「わかったわ、では奈津美からなずなをそう説得してくれる?」
「うん、電話を代わって」
しばらく保留音が続いた。こうしているあいだにも刻々と時間は過ぎていく。上司になった初日から遅刻はしたくない。
苛立っていると、やがて妹がおそろしく暗い声で電話に出た。
「……お姉ちゃん? わたし」
軽い調子をよそおって話す。
「なずな、学校辞めたんだって? いいんじゃない。わたしは賛成だな。なずなは大学でて教師になって、そして学校に勤めた。だから学校以外の世界を知らないよね。世間はもっと広いよ、出ておいで、東京に。部屋はわたしのところに住めばいいから」
とにかく妹の行動を肯定してやるのが肝心だと思った。
するとなずなは、あっけにとられたような声で言った。
「……本当? いいの? お姉ちゃん」
「いいよ、そんな家、はやく出ちゃえ」
正直いえば、一人暮らしに慣れたわたしには、妹を引き取るのは面倒だった。本来なら母親にむかってこう言いたいところだ。
あなたがすべての元凶なのだ。あなたが責任を取れ!
けれど母は決してわたしの言葉を理解できないだろうし、しようとも思わないだろう。ますます被害者意識を膨らませ、勝手な自己|憐憫《れんびん》に浸るばかりにちがいない。
すると電話のむこうで妹は声をたてて泣き出した。
「ありがと、ありがとう、お姉ちゃん。ごめんなさい、ごめんなさい」
「なずなは謝るようなことはなにもしてない。もっと自信を持ちなさい。あなたの選択はまったく間違っていない。とりあえずわたしはこれから出勤だから電話を切るけど、また夜に電話するから。詳しい話はそのときに」
「わかった。行ってらっしゃい、気をつけて」
電話を切る。そしてわたしはいそいでスーツを身につけ、あわただしく化粧をすませて部屋を出た。
息を切らしながら出社すると、エレベーターホールで鹿野さんと出くわした。
「おはようございます」
挨拶すると、プイと横をむかれて無視された。その反応にうんざりする。
話はもう伝わってるのか。
それにしても大人気ない態度だ。
悩み多き日々だ。こういう状態に陥ったときの的確な対処を「大人の女」なら身に付けているんじゃないかと想像するのだが、残念なことにわたしはそれを学んでいない。
まあいい。しばらくは色恋沙汰は、頭から切り離して仕事に励もう。
全社員が集められた大会議室で、わたしは正式に辞令を受けた。
一礼して受け取る。拍手が鳴り響いた。とくに大きな音で手を叩いているのは、たぶん青ちゃんだろう。
これでわたしは、会社初の役職付きの女になった。さあ行くぞ!
大会議室を出ると、さっそく青ちゃんが駆けよってきた。
「やっほう、姐さん、ついにやりましたね! おいら誇らしい。すんげえ誇らしい。今日は祝いに一杯やりましょうね」
「いいよ、そんな」
「ンなこと言わない! まったく遠慮深いんだからっ。まあそこが姐さんのよいところだけど。とにかく一杯! さあ今日は飲むぞー、徹底的に飲むっ」
「それでわたしは早々に二日酔いで午後出社? 格好悪いよ」
「うはは、まあそんときはゲロ吐きながらでも出社してください」
やがてトライアスロンのチームの人たちも近寄ってきて、口々にお祝いの言葉を述べてくれた。筆頭は桑田さんだ。元気よく彼は声を張り上げた。
「おめでとうございます、三田村さん」
つづけて井伊さんが、わたしの肩をびしりと叩いた。
「いよっ、初の女課長」
中野さんもおずおずと近寄ってきて、わたしを祝ってくれた。
「おめでとう、三田村さん」
「ありがとうございます」
顔では笑って答えながら、頭の片隅では別件について心配していた。
この感じだと、宴会は避けられないな。どうするかなあ、なずなへの電話。まあ宴会のあいだにちょっと抜け出してかけるか。
またひとつ頭の痛い問題が増えた。けど、まあいいさ、きっとなんとかなるだろう。
そうだよね? ギンポ君。
ギンポ君の顔を思い浮かべると、なぜか心が落ち着いた。
(見てきなさい、姫。新しい世界を)
彼が空からわたしを見守り、そう励ましてくれているような気がした。
結局、会社の近くの居酒屋で宴会をする運びになった。わたしの部署と、青ちゃんのいる特許事務の部署、それにトライアスロンの仲間などが集まって、総勢十八名の大宴会となった。まずは生ジョッキで乾杯する。
「それでは三田村女史の昇進を祝って、乾杯!」
音頭をとったのは井伊さんだった。中肉中背で、ちょっと垂れ目で人の良さそうな顔をした彼は、わりとお調子者であるらしい。集まってくれた人に礼を言う。
「皆さん、今日はわたしのためにお集まりいただきまして、ありがとうございます」
しかし今回の宴会ではひとつだけ安心なことがある。これだけの人数だ。さすがに中野さんが全部支払うとは言い出さないだろう。皆で割り勘になるはずだ。
「では三田村課長に今後の抱負などを語っていただきましょう」
「抱負ですか? そうですね、ひとりひとりが働きやすい環境を目指し、スケジューリングに注意を払いたいです。そして我が社にさらに貢献いたしたく思います」
すると井伊さんがチッと舌を鳴らして言った。
「お堅いなあ、三田村さんは。もっとこう、場を盛り上げるような話はないんですか。たとえば、いつ結婚しようと思っているとか」
どっと笑いがあふれる。苦笑して答える。
「それはまず相手をみつけないことには」
「またまた、そんなこと言っちゃって。まあいいですけどね、三田村さんはプライバシーを絶対語らない女だから」
多少|憮然《ぶぜん》として、正直に答える。
「秘密を明かしたくても明かせるネタがないだけですよ」
なぜかまたみんなが笑う。
チラリと青ちゃんを見る。青ちゃんだけが苦笑したような顔をしている。その横にいた桑田さんが目に入る。刺すような目線でわたしを見ていた。
自分の言葉に嘘はない。それなのになぜか後ろめたい気分になる。
やがて料理が運ばれてきて、わたしは話題の中心から離れた。
そうだ、この隙に電話をかけてこよう。立ち上がって、一言断わる。
「すいません、ちょっと電話してきます」
すると井伊さんが突っ込みを入れた。
「彼氏に連絡ですかあ? 今日は遅くなるけど待っててね、ダーリン」
「そんなんじゃないですよ」
相手にしないで席を立ち、地上に出る。電波が三本立った。幾度もコールしないうちに、母親が出た。
「もしもし、お母さん? わたし」
「奈津美! ようやく連絡が取れた。このあいだおまえに叱られたから会社には連絡できないし、携帯はいくら鳴らしても不通だし」
ふいに不安になる。
「なにかあったの?」
「あったもなにも、なずなが、もうあなたのマンションにむかっているのよ。昼の新幹線に乗ったわ! スーツケースひとつだけ提《さ》げて」
「なずなが?」
驚愕する。妹には出てこいとは言ったけど、それはこちらでなずな用ベッドの手配であるとか、そのへんを済ませてから呼び寄せるつもりだったのだ。
しかし昼の新幹線に乗ったというと、午後三時にはもうマンションに到着しているはずだ。わたしの住んでいる場所は、そう治安がいいとはいえない。
「わかった。すぐマンションに帰る」
携帯を切って、宴会の場へ駆け戻る。そして告げる。
「すいません、皆さん。せっかくお集まりいただいたところ申し訳ないんですが、肉親がいきなり上京してきて、わたしが帰るのを待っているらしいんです。今日はお先に失礼させていただきます。えっと、お金は……」
財布を取り出そうとバッグを探っていると、井伊さんがまた突っ込みを入れた。
「肉親? そうか、ついに親のガサ入れですね」
「ガサ入れ?」
何を言われているのかピンとこなくて井伊さんの顔をまじまじと見る。
「三田村さん、そうやって騙そうとしたってバレバレっスよ。まえからみんなで話していたんだ。一人暮しのはずなのに三LDK、絶対怪しいって。これは男と住んでるに決まってるって。しかも場所も辺鄙《へんぴ》ですしね。わざわざ会社の人間の目につかない場所を選んだんでしょう」
あまり顔をよく知らない人までもが加勢する。
「そうそう、おまけに奔放すぎて、親が心配して見合いに引きずりだしたんでしょ? はやく落ち着かせようとして」
なんなのだ? この展開は。唖然としているうちに、どんどん勝手に決めつけられた。
「それと三田村さん、最近、相手の男が替わったでしょ。ね、白状しちゃいなさいよ。服装の趣味がガラリと変わってまた綺麗になっちゃって。あれは絶対、男の趣味にあわせて変えているんだって噂してたんですよ。さあ白状しなさいよ」
「男の人なんていませんよ!」
あれは青ちゃんに言われるがままに変えただけだ。否定したのに、たたみかけるようにあちこちから声があがる。
「そうだ、そうだ。さあ白状しろ、どれだけ男を泣かせたか」
「この男泣かせ!」
「この会社に転職したのも、まえの会社で男をたくさん振り回して、身動きがとれなくなったから逃げてきたんでしょう」
どうしてそんな話になるのだ。世間はさっぱり理解できない。腹立ちのあまり理性をなくし、おもわずうっかり口を滑らす。
「失礼な! セクハラです。わたしは、わたしは処女です!」
口にした瞬間に、わたしは青ざめた。
しまった、ついにバラしてしまった! もうおしまいだ。
ところがその一言が、さらに場を笑いに包んだのである。
「よく言うよ、三田村さんもそろそろ三十路では? いくら男を騙そうとしても、その手口はもう使えませんよ」
そのうち誰かが歌いだした。
「わーたーしーは、ヤってないー、潔白だあー」
ほかの数人も唱和している。呆然とする。
なんて品のない会社なんだ! 最低だ。
しかしすぐに我に返った。そうだ、こんな話に付き合っている場合じゃない。はやくなずなのところに向わなくちゃ。
わたしは五千円札を一枚財布から取り出して、井伊さんに手渡した。
「とにかくわたしは帰ります。会計がどれくらいになるかわからないけど、これで支払っておいてください」
するとそれを突き返された。
「なに言ってんですか、主役から貰うわけにはいきませんよ。そんなにあわてているなら、このお金でタクシー使って帰ったらいい。首都高を飛ばして」
「いえ! とにかくお金は受け取っていただきます。わたしは失礼します」
床に五千円札を置いて、わたしは逃げるように走り出した。
うしろから運転手に声をかける。
「すいません、急いでいるんで、首都高に乗っちゃってください」
すると運転手は無言でうなずき、首都高の入り口へとむかった。
わたしの住んでいるマンションのあたりは、かつてはタクシー強盗が頻発した場所だそうで、行き先を告げると不機嫌になる運転手も多い。倉庫街ということで、人目につかない暗闇がいっぱいあるというわけだ。この話も運転手から聞いた。そのときになって初めて、けっこう物騒なところを選んでしまったんだなと思った。
内心思う。それにしても、あんな場所に住んでいるのもそう受け取られていたなんて、おどろき桃の木ですよ。
身に覚えのないスキャンダルに包まれたスターかなにかになったような気分だ。
中央分離帯をUターンしてマンションの前に横付けしてもらうと、エントランスに女の子がしゃがんでいた。痩せた身体、長い髪を無造作に垂らし、ちいさなメガネをかけている。なずなだ。
お釣りを受け取るのもそこそこに、タクシーから飛び出る。
「なずな!」
「あ……お姉ちゃん。ごめんね、来ちゃった。本当はちゃんと日を決めないと迷惑になるのはわかっていたんだけど……ごめんね、お姉ちゃん」
「それはまったくかまわないよ。はやく呼び寄せたかったんだ。それより大丈夫だった? 変な人になにかされたりとか、つけられたりとかはなかった?」
「平気。ここで大人しくお酒を飲んでいたから」
言われて気付く。なずなの足元には、発泡酒の缶が五、六本、転がっていた。
「ただね、トイレに行くのに困っちゃった。でもコンビニの人が親切で、使わせてもらったの」
「そう。まあよかった。ここが大通りに面していたのが助けになったかな。わりと物騒な場所なんだよ、ここ。じゃ、とにかくなかへ」
キーを取り出し、エントランスの自動ドアのロックを解除する。よろよろと妹が続く。
「荷物、持とう」
「大丈夫。平気」
妹はけなげに大きなスーツケースをひきずりながら、わたしのあとをついてきた。
「そうだ。合鍵。明日にもなずなに作ってやらなくちゃね。うーん、どうしよう。近所にはそれらしい場所がないからなあ」
「いいよ、鍵。いらない」
「なんで?」
「部屋から出ないから」
「………」
その一言に、おもわず無言になる。だいぶきてるなあ。するとなずなは、ふと気付いたように言った。
「あ、でも、やっぱり必要だね。明日からはお姉ちゃんのためにご飯作るからね。買い物に行かないと」
少しだけ安心する。外出の機会が増えるのは、妹の精神にとって良い影響を与えるだろう。
できるだけほがらかに振舞って、妹に話しかける。
「奥さん役をやってくれるってわけ? それはありがたい。是非お願いしよう」
快活さを装って笑いながらわたしは答えた。そして明日からの共同生活を思い、気が重たくなった。
「お姉ちゃん、このあたりに精神病院ってある?」
部屋に入るなりなずなが発した言葉が、これだった。言葉につまる。
「わたし、ここのところずっと熟睡できないの。お酒と風邪薬でなんとか眠ろうとしてるんだけれど……。夜中にちょくちょく起きちゃうんだ。本当はむこうでも通いたかったんだけど、近所の人に目撃されたら何を言われるかわからないし」
しかたなく答える。
「申し訳ないけど、それはわたしの専門外だな。でも安心して、なずな。ちゃんとタウンページは取ってある。そこで探して、良さそうな病院を選ぶといいよ。あと地図も持ってきてあげる。なずなは東京の地理には、あまり詳しくないでしょう」
「ごめんね、お姉ちゃん」
「それから、明日出かけるのなら、ついでにベッドの注文もしてきちゃいなさい。わたしのベッドは東急ハンズで買ったものだけど、もっといい物が欲しいなら大塚家具の有明の展示場に行けば手に入るらしいから。有明はここからそう遠くはないし」
「そんなに良いベッドはいらない。お姉ちゃんと同じくらいの値段のでいい」
「じゃあ東急ハンズだね。場所は渋谷か新宿。どっちがいい?」
「……どっちも人がいっぱいいそうな場所だね」
「まあね」
「あんまり人の多いところに行きたくない」
内心、ふたたびため息をつく。
(これは先が思いやられるなあ)
しかし姉としての責任がある。なんとしても妹を支えなくては。
「わかった。それならこうしなさい。さっきのコンビニに、ニッセンのカタログかベルメゾン家族の冊子が置いてあると思うから。通販で選べばいい」
妹はまったく表情を変えないまま、おとなしくうなずいた。
「うん、そうする」
「じゃあ今日はもう遅いことだし、シャワーを使って寝るとしようか。なずなはわたしのベッドで寝ればいい。わたしはソファで寝る」
「そんな、お姉ちゃん。逆でいいよ」
「寝てないんでしょう? だったらなおさら身体を休めなくちゃ。大丈夫、わたしならどこでも寝れるの。こないだだって、会社で寝袋で寝泊まりしていたんだから」
しかし妹は頑として譲らなかった。
「どうせ夜中に何度も目が覚めるからソファでいい」
しかたなく承諾する。
「わかった。じゃあ自分の好きにしなさい。ただし夜中はまだ寒いから、暖房をつけたほうがいいね。うちは残念なことに、寝具があまり揃っていないから。毛布一枚ぐらいしか貸し出しできないよ」
「うん、平気」
妹にバスルームを先に使わせ、ソファでタバコに火をつける。
こりゃあ重症だ。思っていたより重症だ。どうしたもんかなあ。その精神科の先生とやらが、助けになってくれるといいんだが。
フィルターギリギリまで吸ったのに、いつものようにリラックスできず、もう一本、わたしはタバコに火をつけた。
翌日は朝から散々だった。まず、エレベーターホールで井伊さんと出くわしたのが運の尽きとしか思えない。
「おはようございます、潔白女史。昨日のガサ入れの首尾はどうでした」
「だから、ガサ入れなんかじゃないんです。たんに妹が訪ねてきただけです」
「ほほう、妹さんを密偵に使ったわけですか。親御さんも苦労されますなあ。あ、そういえば三田村さんってご姉妹がいらっしゃるんですか」
「ええ、三姉妹です。わたしは真ん中」
「お姉さんはご結婚されてるんですか?」
「いいえ、独身ですよ」
「美人でしょう」
「自分の姉のことを褒めるのも馬鹿みたいですけど、綺麗な人ですね」
「お勤め先はどちらです」
「以前はシンクタンクで働いていましたが、いまは別の仕事です」
姉が同人誌作家であることを恥じているつもりはなかったのだけど、なんとなくややこしい話になりそうな気がしたので避けた。
「シンクタンク! そりゃすごい。さすが三田村さんのお姉さんですね。年はおいくつです」
「たしか三十三ですね」
わたしがそう答えると、なぜか井伊さんはニヤリと笑った。
「ははあ、アレですね、アレ。いろんな男が言い寄ってくるから面白くて、相手を絞れないっていうタイプ。三田村さんにもアドバイスしたいところですけど、お姉さんにもアドバイスしてあげなさいよ。そうやって遊んでいるうちに、婚期を逃すぞって」
この人の精神構造は噂好きのおばさんじゃないのか。がっくりと疲れた気分で、キタさんが使っていた椅子に座る。
しかし、わたしは事実しか述べてないというのに、どうして世間の解釈とこうもズレるのか。お姉ちゃんといい、わたしといい、なずなといい……。我が家の抱える病いは深い。
なずなについて考えると気が重くなる。とりあえず頭を切り替え、仕事に集中するように努めた。
夜九時、残っている二人の部下に声をかけ、会社を後にする。ビルを出たらさっそくなずなに携帯で連絡をとった。
「もしもし、なずな?」
「あ……お姉ちゃん」
眠たげな声だった。
「もしかして寝てた?」
「うん。ごめんね。あ……もうこんな時間だ。どうしよう、この辺であいてるスーパーってどこ?」
「食事の心配ならいらないよ。それにマンションの近くにスーパーはない。ピザでもデリバリーしてもらおう」
「ごめんね、お姉ちゃん」
「なずなはごめんね≠ェ多すぎる。そういう自責の念みたいのって、なずなにとって良くないと思うんだな。もうやめよう」
妹はちょっとのあいだ、無言でいた。そして言った。
「わかった。それじゃ、ありがとう=v
「うん、それでいいよ。じゃあ、あと三十分ぐらいで着くから、ピザの注文をしといて。ピザ屋のメニューは、冷蔵庫の横にファイルケースが磁石で張り付いてるから、そこから探して。それで適当なものを頼んでおいて」
「うん。お姉ちゃんの好みはどんな味?」
「なんでもいい。わたしより、自分の好みに合わせて選びなさい。なずなは疲れてるんだから、自分をもっといたわりなさい。そんだけ。じゃあまた」
携帯を切った。
チャイムを鳴らすと、なずなが迎えてくれた。
「おかえりなさい、お姉ちゃん。ちょうどピザが届いたところだよ」
なずなはだいぶ顔色が良くなっていた。ほんのりピンク色に染まっている。そしてどこか、ぼんやりした顔つきになっていた。
「医者には行ったの?」
「うん。あと、合鍵も作ってきたよ。これは返すね」
「どう、いい先生だった?」
「わからない。でも話はいっぱい聞いてくれて、それと処方薬も沢山だしてくれた。それを飲んだら眠くなっちゃったの。でも明日からは頑張るからね」
「いいよ、頑張らなくても。なずなはいつでも頑張り過ぎ。で、診断というか、そういうのはどうだったの?」
「わたし、軽度の鬱《うつ》病だって」
「そう。まあ、鬱は心の風邪っていうからね。誰でもかかるものだから。はやく治るといいね。それよりピザ、冷めないうちに食べちゃおう」
テーブルについてピザの箱をあける。四種類の具が載っている。
「どれがお姉ちゃんの好みに合うかわからないから、バカラ≠チていうのを選んじゃった。四つの味が楽しめるって書いてあったから」
「また人に気を遣って。自分の好みに合わせて選びなさいっていったでしょう」
「でも四つの味が楽しめるのも悪くないよ」
「そうだね。そう考えているのならいいよ」
妹とピザをパクつく。なずなはあまり食欲がないのか、ほとんど手をつけず、大半をわたしが食べてしまった。なずなの顔を見て先々のことを考えると、気が滅入ってくるので、頭を切り替えることにした。
「ところでベッドは注文した?」
「うん、お姉ちゃんのベッドとよく似た、パイン材のを選んだ。二、三日で届くって。でもね、お姉ちゃんのとは違って、下のところに引き出しがついてるの。そこのところに自分の荷物が入れられるし、いいかなと思って」
「そう。じゃあ良い買い物をしたんだね。それはよかった。ところでなずな、率直に聞くけど、手持ちはどれくらいあるの?」
「退職金を含めると、六百万ぐらいかな」
かなり驚く。
ああ、そうか。なずなは自宅通勤だったしね。おまけに学校は給食だし、車ぐらいしか使い道はないか。
しかしまあ、わたしと違ってなんと堅実な妹であることよ。自分の預貯金を思い浮かべ、足裏マッサージに使っていた費用を貯金にまわすべきだったかもしれないと反省の念を抱く。最近すっかりご無沙汰してるが、そのかわりに衣服費が増えた。まあいい、使ってしまったものは戻らない。大事なのはいまこの時である。
「それじゃ当分、お金の心配はいらないね。なずな、その年でその貯金額はね、なかなかすごいよ。まだ二十六でしょ? たしかわたしはそのころ、そこまで貯めていなかったと思う」
「うん、だからこれから、食費はわたしが持つね。居候させてもらうお礼に」
「なずながそうしてくれるなら、ご好意に甘えよう」
なずなが少しだけ微笑んだ。まだ笑顔になれるのを知り、ちょっとだけホッとした。
薬の効き目がてきめんだったようで、なずなはその夜、やすらかに眠りについた。昨日の夜は、なんだかんだで眠れなかったようで、夜中に冷蔵庫のドアを開けたり、なにかゴソゴソしたり、トイレに行ったりする音が聞こえてきたのだけれど、今夜はそれがなかった。しかし今夜は、逆にわたしが夜中に目を覚ました。そして最初に思ったのは、こうだった。
ああ、ギンポ君に会いたい。
彼のかたわらで熟睡したのを思い出した。わたしより少しだけ高い体温。あの体温が恋しくなった。
今日は荒川マラソンの日である。最近不参加の多いわたしのために、桑田さんが勝手に申し込んでおいてくれたのだ。あとになって知らされて驚いたが、五キロのマラソンだというので、まあそれくらいならなんとかなるだろう。
「なずな、それじゃ行ってくるね」
ベッドで眠っているなずなに声をかけると、ぼんやりとした顔で目を覚ました。
「あ……お姉ちゃん。もう行くの? ごめんね、また寝過ごしちゃった。朝ごはん」
「ああ、いらない、いらない。もうVAAMを飲んだから。これでバッチリ」
「応援もできなくてごめんなさい」
「いいんだよ、そんなものいらない。たかだか五キロのマラソンなんだから」
なずなは少し足をふらつかせながら、わたしを見送ろうと玄関までついてきた。
「ごめん、お姉ちゃん。わたしのせいで、ほとんど練習していないでしょう?」
「違うよ。練習をしていないのはそのせいじゃない。わたしね、なずな、今年から社として初めての役付き女性になったんだよ。だから仕事で頭がいっぱい」
すると妹は驚いたようにちょっと目を見張って、そして何かをあきらめたような寂しい笑顔でつぶやいた。
「役付き……。やっぱりお姉ちゃんはすごいや。富士、鷹、ナスビの、わたしはナスビ。やっぱりナスビだ」
少し苛立つ。
「なずな、そういうふうに自分を否定するのは昔からのあなたの悪い癖だ。いい年なんだからもう直しなさい。はっきりいえば見苦しい」
「見苦しい……。そうだね、わたしは可愛くない。お姉ちゃんみたいに美人じゃない。お姉ちゃん、すごく綺麗になったよね。あの日ね、マンションの前で会ったとき、お姉ちゃんだって一瞬わからなかった」
「意味が違うよ! そういう、自分を卑下した態度が見苦しいといってるんだって。それとなずな、あなたはブスなんかじゃないよ。わたしと違ってお姉ちゃんに良く似た、とても綺麗な女の子だ。コンタクトにしてごらん。それと髪は、そうだね、いろいろいじりようもあるけど、これだけ綺麗なストレートの黒髪だから、切っちゃうのも惜しいか。そのかわりメイクをもっと念入りにやってごらん。そうだ、わたしの会社の同僚に青ちゃんって子がいて、メイクアップアーティストの学校に行ってたこともある子だから、今度ここに来てもらって、メイクしてもらいながらノウハウを伝授してもらおう」
「その人、お姉ちゃんの友達?」
「うん。親友。初音お姉ちゃんやなずなを抜かせば、この世で一番愛してる子」
「いいな、お姉ちゃんには沢山の友達がいて。わたしにはお姉ちゃんしかいない」
「わたしもかなり気難しいから友人は少ないけどね。そうだ、じゃあなずなは、青ちゃんと友達になればいい。ね、そうしよう。おっと、そろそろ出かけるよ」
「うん、行ってらっしゃい。でも青ちゃんってお友達は呼ばなくていいよ。わたし、お姉ちゃん以外の人と会いたくない」
その言葉にまたひとつ落胆する。
難しいなあ。心の病気ってすごく難しい。まあ多少の辛抱はしないとならないか。治療が始まってまだ一週間もたってないんだしね。
気を取り直してデイパックを背負い、マラソン会場へとむかった。
「嘘! そんなの聞いてないですよ」
わたしが驚くと、桑田さんは嬉しそうに笑いながら言った。
「大丈夫。四十二・一九五キロぐらい、三田村さんなら走れますって」
必死に否定する。
「走れません。絶対、走れませんって」
「やっぱりなあ、だまし討ちになっちゃったけど、こうしておいてよかった。三田村さんは慎重な性格だから、ちょっと強引にやらないと、いつになってもフルマラソンに挑戦しないだろうと思っていたんですよ。でもね、大丈夫です。ここは制限時間も七時間と緩いですから。僕らは三時間から四時間ぐらいで走っちゃいますが、三田村さんが戻ってくるのを、のんびり待っていてあげますって」
目のまえが暗くなる。
「……途中で脱落ってアリですか?」
「膝に痛みが出たりしない限り、完走してください。なに、大丈夫ですよ。荒川沿いは平坦なコースですから、フルマラソンの初心者にはうってつけです」
仮設の更衣室で着替えを済ませたわたしを襲った衝撃の事実は、桑田さんがわたしの大会エントリーを、五キロのコースではなく、フルマラソンのほうで申し込んでいたことだった。
四十二・一九五キロ。
一口にそう言っても、そんな距離を自分の足が走り抜けられるのか、まったく自信がない。どこを探してもない。わたしは先の不安に無言になった。一方、桑田さんはといえば、とてもご機嫌である。
「さてそろそろスタートですね。それにしても天気に恵まれましたね! ちなみにこのレース、幸魂《さきたま》大橋という場所が折り返し地点になります。幸魂、なかなかいいでしょ? これからのトライアスロン人生の、幸先が良い感じがしませんか」
「わかりました、走りましょう」
やがてスタートの合図があって、ゆるゆると走り始めた。抜かされるだけ抜かされたのち、やがて二キロ目の表示が見えてきた。
たかが二キロなのに、すでに息が苦しい。一体どうしたんだといぶかしんで、はたと気付いた。タバコである。
タバコがこんなところで障害になろうとは思ってもみなかった。失敗だ。汚れた肺でのフルマラソン。しかしそれでも耐えて走り続けると、なぜか途中に太鼓の応援団がいて、太鼓を叩いて声援をおくってくれた。
太鼓はスッテケトントン、スッテケトントンとリズミカルに音を鳴らしている。なんだかそのリズムに乗って走っていたら、だんだん息が楽になり、遅ればせながら身体が走る体勢に入ってくれたらしかった。爽快な気分になってきた。流れる汗も気持ちいい。給水ポイントで水を貰って半分飲み、あとの半分を頭にかける。水の冷たさが心地良い。
気分よく先を行くランナーを次々と追い越す。
二十キロのポイントを過ぎてフルマラソンも楽勝だと思ったその頃、ふいに息が苦しくなり、そして手足が砂袋でもゆわえつけたように重くなってきたのである。
ふと気になって時計を見る。そして仰天する。なんと、毎時九キロのペースで走っていた。ランナーズハイとはこのことだったのかと今さら思うが、時すでに遅し。死にそうになりながら折り返し地点までたどり着き、ここでリタイアしようかと思案する。
(とにかくあと一歩だけ、あと一歩だけでも)
それからは精神と肉体の闘いだった。負けようとする身体と、勝とうとする心、そのふたつが戦って、そして心が勝った。
そうだ、わたしは我が社初の役付きの女! マラソンごときを完走できないようでは、これからの仕事だって背負っていけない。頑張れ三田村、走るんだ三田村。
汗が目に染みる。給水ポイントで何度も補水し、頭から水をかける。道はまだ遠い。ゴール前十キロの目印が見えてきたときは、打ちのめされそうになった。
まだ十キロもあるのか!
そのときだった。
「三田村さん、僕です!」
なんと路傍に、桑田さんがバスタオル片手に立っていたのである。激しく驚き、息を切らしながら答える。
「桑田さん、どうしてここに?」
「僕はもうゴールしました。三田村さんの様子を見にきたんです。ここからは伴走しますよ。大丈夫、初マラソンにしてはなかなか好成績じゃないですか。あと少しです。先は見えてきました。さあ走りましょう」
その一言に励まされる。
「ありがとう、桑田さん」
「頑張って、さあ、あと九キロです! もうじきゴールが見えてきます」
たぶん桑田さんは自分が走り終わるのもそこそこに、ここまで走って戻って来てくれたのだろう。その好意を無にはできない。彼がここまでわたしに付き合ってくれている以上、死ぬ気で走りぬくしかないだろう。
いくら肺に空気を送り込んでも酸素が足りない。すると桑田さんが助言してくれた。
「大丈夫、まだ制限時間には間があります。もっとペースを落としましょう。僕がペースメーカーになりますから、それにあわせて」
「はいっ」
言われた通り、スピードを落として走る。競歩程度のペースだ。だいぶ楽になった。
「あと少し、あと少しです、三田村さん。ゴールは目前です」
給水所では水を取ってくれた。ありがたく受け取り、飲みながら走る。たった一人で走っていたときよりも心強く、そして楽しくなってきた。
古い記憶が甦ってくる。中学生のころとか、よくこうやってグラウンドを走っていた子たちがいたのを思い出す。
わたしは帰宅部だったから、グラウンドとは縁がなかったけれど。なんかこういうのっていいな。仲間同士、励ましあいながら走る。──そうか、あの子たちは、こんな気分で走っていたのか。
桑田さんと一緒に走ると、流れる汗も心地よく感じた。風に抱かれて走っているようだ。やがてゴールが見えてきた。
やった、勝利だ!
ゴールになだれ込むと、わたしの身体をバスタオルで包んで、桑田さんががっしりと抱きとめてくれた。
「偉い! 五時間台だ。素晴らしいですよ、三田村さん」
「ありがとう、ございます。……桑田さん。なにもかも桑田さんの、おかげ……です」
息が切れて、ちゃんとお礼が言えない。けれどわたしは幸福感でいっぱいだった。
なんと自分の足で、四十二・一九五キロも走ってしまった。
必死に息を整えながら、桑田さんの腕のなかで酔う。
「自分の足がこんな距離を走れるなんて知らなかった。ありがとう、桑田さん、自分ひとりじゃ、絶対にやろうともしなかったマラソンです。それでこんなに幸せになれるなんて、いままで知らなかった。本当にありがとう!」
すると桑田さんは人目もはばからず、ぎゅっとわたしを抱きしめた。
「いつかは必ず宮古のトライアスロンに出ましょうね、僕と一緒に」
「はい! きっと、必ず」
そのとき、ふと鹿野さんと目が合った。ヒヤリとした。
彼女はすでにゴールインしてから時間がたっているらしく、すでに着替えも済ませ、メイクもしっかりと直し、おそろしく気合が入っていた。足元はピンヒールだ。大人の色気が漂う服装だったが、オフィスには向いていても、マラソンの会場ではかなり浮いた感じだった。その格好で、自分がどれくらい敵視されているのかを悟った。
幸福に冷や水をかけられたような気分になった。あわてて桑田さんの腕から離れる。
「ご、ごめんなさい、桑田さん」
「なにがごめんなさいなんです?」
桑田さんは不思議そうな顔をしている。わたし自身も、どうしてか、わからなかった。
なにも悪いことは、してないはずだ。けれどその思いを打ち消すような、激しい罪悪感がおそってくる。どうしてだろう。どうしてこんなに後ろめたいんだ?
やがてほかの仲間も集まってきて祝ってくれた。
「いよ! 完走おめでとうっ」
「待ちましたよー。亀、亀。練習が足らんですな。もっと鍛え上げないと」
「さて一風呂浴びに行きましょうか。ここから井伊君のアパートが近いんですよ。シャワーを使わせてもらって、それから祝杯といきましょう」
怒濤《どとう》のようにおしよせる祝いの言葉と祝杯の誘いに囲まれながら、後ろめたさを感じつづけていた。
宴会の最中に思いあたった。
そうか、わたしは桑田さんの好意を利用しているんだ、と。自分の青春の喜びを取り戻すために、適度に気を引きながら、彼を利用している。
それは最悪の気付きだった。一応、笑顔をつくり、快活を保ったつもりだったが、それは表面だけだ。わたしは落ち込んでいた。
途中で悪酔いしそうな予感がしたので、席をはずしてトイレで無理に吐いた。
うなだれて個室から出ると、狭く薄汚れた居酒屋のトイレに、鹿野さんが腕を組んで立っていた。ハッとする。
「三田村さん、このあとお時間もらえるかな。ふたりで話したいことがあるの」
なんの話かは見当がついた。おそろしく気が重かった。けれどこれはわたしの責任だ。
「わかりました。すぐにここを出ましょう。事情はもう理解しているつもりです」
「そう。察しがはやくて助かるわ。では会計を済ませて出ましょう」
挑むような鹿野さんの視線に深い疲労を感じる。けれど行くしかない。行って詫びて、そして告げるのだ。もうトライアスロンのチームからは離れますと。
それがわたしの取るべき責任だ。
唇を噛みしめた。そして席に戻ると、無理に笑顔をつくって、みんなに告げた。
「すいません、今日はお先に帰らせてもらいますね。鹿野さんと話し合いたい秘密があるの」
宴会の雰囲気を壊さないよう告げたつもりだったが、いきなり桑田さんが立ち上って真剣な表情で言った。
「その話し合い、僕も行きます」
座がしんとした。わたしは内心、桑田さんに怒った。空気を読めよと。
こ、これじゃ何が起こったのか、みんなにわかっちゃったじゃないか。
しかしすべての元凶は自分である。腹をくくるしかあるまい。
「どうします? 鹿野さん」
「いいんじゃないの。加えてあげましょうよ」
「そう。鹿野さんがそれでいいならわたしはいいですよ。それじゃ皆さん、お先に失礼。お代はどれくらい置いていけばいいですかね」
すると中野さんが挙手した。
「今日は三田村さんがフルマラソンを完走した記念すべき日だもの。僕が持ちますよ」
「いいんですか? いつもすいません。それじゃお返しに今度、中野さんのお誕生日はわたしがお祝いしましょう。たしか五月でしたよね」
「うん、五月十七日。僕、人に誕生日を祝ってもらうの大好きなの。まあるいケーキで祝ってほしいな」
「いいですよ、いくらでも。お店にあらかじめ伝えておきましょう。ホールのケーキを用意して、お名前をデコレートしてもらって、蝋燭《ろうそく》も数だけ用意して」
「蝋燭はいいよ。僕の年だと、全部ケーキが蝋燭で埋まっちゃう」
ここで皆が少し笑った。中野さんの鈍感さに救われた。
「それじゃ三本だけ立てましょう。なにもないのも寂しいから」
「そうだね、楽しみにしてる。ありがとう、三田村さん」
その笑顔にふと思う。
いや、これは鈍感なのではなくて、逆かもしれないと。
中野さんの笑顔に、なずなを思い出した。両親が緊張状態に陥るたびに、わざと変な顔を作ったり、あまり面白くもないギャグを放って、一生懸命、場をなごませようとしていた小さな妹。それを思い出した。
あるいはこの人は──すべてを察して、わたしに助け船を出してくれているのかもしれない。
なにはともあれ多少は救われた。わたしは笑顔を保ったまま店を出た。
「どこでお話ししましょうか」
すると鹿野さんが答えた。
「どこでもいいわ。静かに話し合いができるなら」
「駅のほうに歩いてみましょうか。適当な店があったら入りましょう」
「そうね」
それからは三人とも無言だった。やがて鹿野さんが、ビルの二階にイタリアンレストランがあるのを見つけた。
「あそこは?」
「いいですよ」
三人で店の片隅に席をとった。飲み物が運ばれてくるのを待って、わたしから切り出した。
「お話とはなんでしょう。だいたい察しはついていますが」
「ええ、ご承知のとおり、わたしと桑田、そしてあなたについての件よ。ここではっきりさせてもらいたいの。あなたは桑田と付き合う気持ちはあるの?」
唇を噛んだ。
さよなら、わたしの青春。
それからしずかに頭を下げた。
「おふたりの間をかき乱して申し訳ありません。わたしには、桑田さんとお付き合いする気持ちはまったくありません」
桑田さんが席を立った。
「三田村さん!」
今度は桑田さんの目を見据え、そして告げた。
「わたしが好きなのは、中野さんです」
恐ろしく勇気を要した。けれどわたしはそう告げた自分を、すこし褒めてやりたい気分になれた。人として正しくありたい。
「嘘だ。そんなの信じない。鹿野に気兼ねしているんですか? そうだったらそうと言ってください」
「いいえ、なんの気兼ねもしていません。わたしが恋人としてお付き合いしたいのは中野さんです。これが真実です、桑田さん」
すると鹿野さんが皮肉な笑みを浮かべて言った。
「ほら、言ったとおりだったでしょう? この女は、こうやって男を利用してきた女なのよ。前の会社に居辛くなったのも、きっとこれが原因よ」
言われてもしかたがないと思った。
「桑田さん、これからも鹿野さんを大切にしてあげてください」
会計のシートを持って席を立った。後ろのほうで何か言い争いをしている声が聞こえてきた。店を出て階段を降りていると、後ろから桑田さんが追いかけてきた。
「三田村さん!」
腕をつかまれた。
「本当に、本当にあなたは僕をもてあそんだんですか? あんなに嬉しそうな顔をして、そしてもてあそんだっていうんですか? 嘘だ。そんなのは嘘だ。僕はあなたの気持ちを知っている。あなたは誰に対しても気遣いをする人だ。だから嘘をついたのでしょう? 正直になりましょうよ!」
「いいえ、正直な気持ちはお話ししたとおりです。わたしは中野さんを愛しています。そしてあなたが優しいのをいいことに、あなたをもてあそびました」
「嘘だ」
階段の板塀を、彼はこぶしで叩いた。
「いいえ、本当です。あなたはわたしにもてあそばれたんです。鹿野さんが言ったことはすべて当たっています」
正確にいえば、すべてが正しいとはいえなかった。わたしは前の会社で男を利用したことはない。そんな器用じゃない。けれどそう思われてもいたしかたない。わたしは自分自身に対して正しくありたかった。桑田さんは泣いていた。そしてわたしの襟《えり》をつかんだ。
「面白かったですか? 若い男をからかうのは」
「ええ、面白かったですよ、とても」
桑田さんの震えが、襟を伝わって感じられた。
「僕はあなたを恨みます」
「ええ、お好きなだけ恨んでください。なんでしたら殴ってくださってもいいですよ」
覚悟を決めて眼を閉じていたが、やがて襟から手が離れたのがわかった。桑田さんはうなだれたまま、階段を上っていった。その背中にむかって、心のなかでつぶやいた。
ありがとう、今日までわたしに青春をくれて。
おもいきり泣きたかった。けれど涙は出てこなかった。
夜の快速電車は空いていた。線路沿いの地味な夜景を眺めながら、ぼんやりと考える。
失っちゃったな、なにもかも。
明日からはもう、トライアスロンの仲間はわたしを誘ってくれないだろう。
乗り換えの駅で、携帯を取り出した。のろのろと操作して、ギンポ君に電話する。数度のコールでギンポ君が出た。渋い、いつもの声が聞こえてくる。
「もしもし、神保です。姫ですか?」
「ええ、わたしです。夜分遅く申し訳ありませ……」
声を聞いたとたんに気持ちがゆるんで、涙が出て、声にならなかった。
「どうしたんです、姫。なにかありましたか」
「いいえ、なにも。なにもないけど……ただ神保さんの声が聞きたくて」
「すいませんね、姫。ここのところ連絡を怠っていて。どうも四月というヤツは厄介なもんで、新入社員とか入ってきたりとかで仕事がキツくて」
「ああ、いいんです。わたしもそれは同じですから」
しゃくりあげながら答えた。
「それにしても僕は姫を泣かせるほど待たせてしまったのか。それは申し訳がないな。では来週でもドライブに行きましょう」
「本当?」
「ええ、誓いますよ。いつものように迎えに行きます」
その言葉に、涙がどっと溢れてとまらなくなった。わたしは声をあげて泣いた。行き過ぎる人が驚いたようにわたしを見ているのがわかる。
「神保さん、ごめんなさい。わたし、わたし、今日──」
「ああ、わけは話さなくていいですよ。辛いことがあったんでしょう? いいんですよ、わけなんか話さなくても」
「あ……ありがと」
するとギンポ君は、すべてを見透かしたようにこう言った。
「大丈夫、なにを失っても、姫には僕がいますよ。僕が残っています」
その言葉の優しさに、また涙が溢れ出た。つけなおしたマスカラも完全にぐしょぐしょになっているだろう。けれどわたしは泣いた。涙がとまらなかった。
「またドライブしてくれる?」
「してあげますよ」
「旅行にもつれていってくれる?」
「あげますよ、いくらでも」
「また腕枕して寝てくれる?」
「してあげますよ、お安い御用だ」
ギンポ君の声に、ようやく慰められた。わたしはちょっとだけ笑った。
「ありがとう、神保さん」
「いいえ、どういたしまして。──落ち着きましたか?」
「うん。ちょっとだけ。まだ少し悲しいけど」
「そう。それはよかった」
「また電話してもいい?」
「ええ、いつだって。とにかく次の週末には、どこかにドライブに行きましょうね。一泊するのは仕事の都合で無理だけど。おやすみなさい、姫。今日はもうなにも考えないで、そして眠りなさい」
「おやすみなさい、神保さん。ありがとう」
わたしは携帯を切った。そして妹に気付かれないよう泣き顔を直すため、駅の公衆トイレを探した。
水曜日を過ぎるころには、会社の女子社員の視線がめっきり冷たくなっているのに気付いた。裏でどういう話が交わされているかは、だいたい察しがついた。昼休みに青ちゃんとランチに行って帰ってくると、受信トレイにホットメールの捨てアドで、匿名のメールが届いていた。
「会社の汚物! なにが初の女課長だ。早く消えろ」
さっくり削除して、何事もなかったような顔をして仕事を続けた。それがわたしのプライドだ。
匿名の攻撃はこのあとも幾度か続いた。どれも違う捨てアドだ。誰かが指揮をとって、裏で糸を引いているらしい。それでも毅然《きぜん》と仕事を続け、八通目のメールを削除したあとに、喫煙室にタバコを吸いに立った。
わたしがタバコをくゆらしていると、真っ赤な顔をした青ちゃんが入ってきた。
「姐さん! あの女、鹿野が姐さんの悪口をみんなに吹き込んでます。事実は全然違うのに。桑田のヤローが勝手に勘違いしただけじゃないですかっ。ぶん殴ってやる、ふたりまとめて」
わたしは苦笑してパタパタと手を振った。
「気持ちは嬉しいけどダメ。社内で暴力行為を行なったら懲戒免職になる。明日から青ちゃんと会えなくなったら、キツいよ。いまのわたしにとって、会社での防波堤は青ちゃんだけなんだからさ」
「ちきしょー! 行動に移せないってのが一番ツラい」
青ちゃんはたまった怒りを壁にぶつけた。そういえば桑田さんも壁を殴っていたなと思い、ふと笑う。それを見て青ちゃんは呆れたように言った。
「姐さん、余裕ですね」
「まあね。心配は無用。この程度のことで動揺する三田村奈津美じゃありませんよ」
正直言えば、そうでもなかった。けっこうダメージは深かった。けれどそれを見せたら一層相手につけこまれるだけだ。青ちゃんには笑ってみせたものの、内心ではかなり落ちこんでいた。
着任早々、こんな難局が待っていたなんて。これは予定外だった。
しかし落ちこんでばかりはいられない。とにかく目の前にある仕事をたんたんと片付けることが肝心だ。わたしは青ちゃんの肩を軽く叩いて、一緒に喫煙室を出た。
それから連日のように大量のメールが届いた。内容はほとんど似たようなものだ。毎朝、これを削除して、仕事用のメールと振り分けることからスタートする。嫌でも鬱になる。それにしても執念深い。ここまでやるとしたら誰だろう? 鹿野さん? それともメルヘン?
可能性としてはどちらも大だな。他の女の子も初期は混じっていただろうけど、二度も送りつければ十分満足しちゃうだろう。ここまで執念深くやれるのは、鹿野さんか、メルヘンぐらいのものに違いない。
夜な夜な、必死に匿名のメールをわたしに送りつけているメルヘンを想像すると、笑えないこともない。それにしても公私ともに疲れる一週間だった。会社に来れば匿名メール、家に帰れば妹が待っている。なずなは毎晩、わたしのために料理をして、帰りを待ち構えていた。
「お帰り! お姉ちゃん。疲れているでしょ。お風呂を先にする? それとも食事? あ、よければビールも冷えているよ。出そうか」
「うん、そうだね。じゃあ先に食事かな。ビールを貰って」
古風な奥さんをもらってしまったような気分だ。おまけになずなはいっこうに外の世界へ目をむける気配は見せない。ただ、たまにバスに乗ってスーパーでまとめ買いしてくる。まあ、まるっきり外に出ないよりはいいが、わたしの奥さんでいることにいたく満足している風情だ。やっかいである。おまけに昼間はワイドショーをしっかり見ているらしくて、そこで報道された事件やらなにやらをわたしの耳に入れる。
「怖いよね、一家殺人事件なんて」
「そうだねえ。日本も物騒になったもんだ」
これもどうやらわたしのため≠ナあるらしい。テレビを見る時間もない姉のために、世間の情報を収集してくれているというわけだ。
気持ちはありがたいけどねえ、なずな、お姉ちゃんはいま、会社中の女から嫌われて、そんな話題も不要な状態にあるのだよ。
内心そう思ってため息をつく。けれどなずなの前では笑顔を絶やさぬようにと気を配った。できるだけ大げさに反応して、いかにも興味がある風情を装って、なずなの話を喜んでいるように見せかけた。疲れる。
しかしまあ、週末に会えるギンポ君を思えば、多少は雲のあいまに青空が見えるというものだ。青ちゃん以外の、わたしの心の防波堤は、なぜか見合い相手のギンポ君だった。縁って不思議だ。
「なずな、本当に来ないの?」
「うん、行かない」
日曜日、ギンポ君とのデートの日である。わたしはなずなも外に出そうと誘ったのだが、一刀両断で断わられた。じつは昨日も映画に誘った。けれどこれも断わられた。
「わたしはここにいたい」
昨日とまったく同じセリフだ。いつまでこのやり取りを続ければいいのだろう。先が思いやられる。
「じゃあ申し訳ないけど行ってくるよ。じゃあね、なずな」
「うん、行ってらっしゃい。帰りは遅いの?」
「たぶんね。夕飯はいらないよ」
「……わかった」
なずなはいきなり顔を曇らせた。わたしは妹の唯一の仕事を奪ってしまったというわけか。
「じゃあね、なずな。行ってくるわ」
「……行ってらっしゃい」
呪いのようななずなの言葉に見送られてギンポ君の車へと向かう。
「結局、お連れは来ないんですか」
「ええ。妹は部屋を出たくないそうです」
昨晩、コンビニに行くと偽って外に出て、そこからギンポ君の携帯に電話して、少しだけ事情を話しておいたのだ。
「じゃあ僕たちだけで行くとしますか」
「ええ、そうですね」
ため息とともに、ふと気付く。珍しいことに、ギンポ君はCDを鳴らしていた。
「ん? この曲はなんか聞き覚えがあるような」
「マイ・リトル・ラバーの『白いカイト』ですよ。昔、流行ったでしょ? ほら、後部座席を見てください」
「あっ、凧《たこ》だ!」
「そう。カイトを積んで来たんです。姫と一緒に海辺でカイトでもあげようかと思って。ただわたくしこのところ仕事の疲れが溜まっていまして、行き先は近場の千葉の三番瀬海浜公園になりますが、よろしいですか?」
「ええ、どこでも。また海が見れるんだ。嬉しい」
わたしはCDのボリュームを上げた。窓も開けてみる。
「なんかヤンキーになった気分。ちょっといい感じ」
ギンポ君は軽く笑った。
「ところで姫、昨日の相談の件ですけど」
「ああ、妹。本当に頭が痛いんですよ。今日も連れ出そうとして失敗したし。このまんま引きこもりになるんじゃないかと思うと、気が気じゃなくて。あれこれと策を弄《ろう》しているつもりなんですけどね、わたしの作戦には無理があるようです。今日は神保さんにお知恵を拝借できないかと思って」
「知恵というのは、人を自分の思ったとおりに動かそうとする知恵ですか?」
ちょっと引っかかりをおぼえたけれど、同意する。
「……煎じ詰めていえば、そういうことになりますね」
「ないですよ。そんな知恵は一切持ち合わせていません。姫、あなたは何者ですか?」
「何者? 質問の意図がわかりません」
「人間でしょ」
「そうですね。それがなにか?」
「神ではない」
「当たり前です」
「だったら無理でしょう。人が人を変えられますか? 神でもないのに」
「また神ですか。神保さんって、本当に神が好きですね。苗字に神の一字が入っているから?」
ギンポ君は軽く笑った。
「それは見当違いですよ。そうか、姫は神学よりも哲学のほうがお好きでしたね。ではソクラテスの残した最も偉大な言葉は?」
「無知の知」
「はい、ご名答。それですよ。自分はなにも知らないという立場に立って物事を考えること。自分のやり方だけが正しくて、相手が間違っているとは決して思わないこと」
「でもそれだと、いつまでたってもなずなはあのまんまです。突破口が見えない」
「では降りたらどうです?」
「降りる?」
「妹さんを助けられないと降参するんですよ」
「それはなずなを、妹を見捨てろってことですか?」
「両者はとても似ているけれど、微妙に違う。愛情をもって、手を離すのですよ。『汝、己の運命を知れ』。これは親鸞《しんらん》聖人の言葉ですが。人の運命はね、神と、そしてその僕《しもべ》である個々人の手に握られているのです。けして人は他者の運命を変えられない」
「……いまはさっぱりわからない」
「いいんじゃないでしょうか。まあ焦らずに」
そうこうしているうちに、車は三番瀬海浜公園の駐車場入り口までやってきた。車を停めて、カイトを手にギンポ君と海辺へ出る。そして驚いて目を見張る。
「わ、ここの海ってとっても豊か。その証拠に、こんなに巻貝の貝殻が」
「でしょう? 良い海なんですよ。埋め立てしようとする馬鹿がいるみたいですけどね、僕は断固反対です」
カイトをあげた。カイトはどんどん上へと昇っていく。
「気持ちいい」
「でしょ? こうした遊び事は大好きなんですよ。金もかからないしね」
ひさしぶりに気が晴れた。楽しくて笑う。するとギンポ君はニヤリと笑って言った。
「あんまり無邪気な顔を見せないほうがいいですよ。ほら、狼がね、狙ってます。近くのラブホに連れ込もうかな、なんて」
「平気、そんなことする気がないの、知ってるもん」
「どうだかなあ? わかりませんよ」
カイトを上げながら笑った。一週間分の疲れが、カイトといっしょに上昇気流に乗って、どこかへ飛んで行くようだった。
五月を迎えた。なずなはどうも何ヶ所かの精神科を訪ねてみているようだった。けれど、どの医者を巡ってもダメらしい。そして社内のほうといえば、さすがに飽きたらしくて、このごろでは匿名メールの攻撃もない。その代わり、わたしはトライアスロンの仲間たちから全く誘いがかからなくなったことで、すこしばかり落ちこんでいた。
そりゃ、あんなことしちゃったんだから誘ってくれないのはわかるけど。そんなに手のひらを返したような仕打ちをしなくてもいいんじゃないだろうか。
そんなことを思っていたある日、井伊さんからのメールが届いた。
三田村奈津美様
社内では毎日顔を合わせていますけど、なんかおひさしぶりですって感じですね。井伊です。メールしたのは他でもない飲み会のことなんです。今日の飲み会には桑田と鹿野、そして緑川は来ないので、よろしければ参加しませんか? 三田村さんがせっかく面白い人だとわかりかけてきたのに、ここで付き合いが絶たれてしまうのは寂しい。なに、事の次第はわかっていますよ。桑田が暴走しただけでしょう? 僕ら、三田村さんになんの非もないことは承知してますから。
それでは色よいお返事を期待してます。
PS ついでに、青木さんも誘ってくれると嬉しいです。
[#地付き]井伊圭介
一読して、ふいに涙が出そうになってしまった。
そうか、わたしって孤独だったんだな。助けが来るまで気付かなかった。井伊さんはたぶん青ちゃん目当てなんだろうけど、それでもやっぱり嬉しいや。
さっそく青ちゃんにメールを転送して、了解を貰う。ひさしぶりの飲み会だ。久々に気が晴れてくる。なずなの事が気にはかかったけど、一日ぐらい解放してもらってもばちはあたらないだろう。
その日は一日、ひさびさにハイな気分で仕事ができた。じつをいえば、わたしの指示に従う部下たちも、なんとなく不承不承使われている雰囲気で、だいぶ気が重かったのだ。わたしとしては考えに考えて仕事の指示を出しているつもりなのに、この反応は寂しかったのだ。
夕方が待ち遠しかった。
その日の飲み会は、井伊さんと青ちゃんがまるで漫才のような会話を交わしてみんなを笑わせて、盛り上がった。化粧室で青ちゃんと喋る。
「けっこうお似合いじゃない。乗り換えちゃえば?」
すると青ちゃんはウゲッという顔になって言った。
「嫌っスよ。おいら審美眼はあるほうなんです。あんな垂れ目、受け付けませんわ」
「そういえば青ちゃんの彼氏って見たことなかった。今度写真でも持ってきて見せてよ。どれくらい良い男なのか知りたいなあ」
すると青ちゃんは一瞬黙りこみ、そして白状した。
「相方は……ただのデブです。でも情が移っちゃったんで、しょうがないんです」
つい声をたてて笑ってしまった。青ちゃんらしいと思った。そして例によって中野さんの飲みをセーブさせようとしたりして、なんだかんだと楽しく過ごし、ご機嫌でタクシーに乗って、帰宅した。
「ただいま、なずな」
返事がなかった。ちょっと不安になる。用心深くそっとベッドルームのドアをあけてみる。するとなずなは、届いたばかりのベッドにジーンズにTシャツで眠りこけていた。
ホッとしたのも束の間だった。わたしは開け放したなずなのベッドの引き出しに、大量の薬物を発見してしまったのだ。混乱する。
二週間分の処方薬ってこんなに多い? いや、そんなはずはない。どうしてこんなに貯めているんだ?
恐ろしい不安から、なずなを揺すり起こした。
「なずな! 起きて。そして説明しなさいっ」
「あ……お姉ちゃん、お帰り」
「お帰りじゃないよ。なんなの、この大量の処方薬は。説明しなさい!」
すると妹は黙り込んだまま、うつむいて何も答えなかった。
「……なずな、まさか死ぬ気なんじゃないでしょうね? そんな気持ちでここに居たのなら、もう居てもらいたくない! 出てって、いますぐ」
わたしは自分の財布を探った。七万あった。
「これでいますぐ家に帰りなさい。タクシー代でも間に合うでしょう」
すると妹は泣き始めた。
「イヤだ、帰りたくない」
「ダメ! 帰れ。帰って就職口を探しなさい。病院に行くのを同意するんじゃなかった。お姉ちゃんはいま猛烈に後悔してる。帰りなさい! いますぐに」
わたしは妹の手を強引に握ると、玄関に引きずっていき、靴と一緒に表へ放り出した。そしてすぐにチェーンをつけた。
泣きながら妹がドアを叩く音が聞こえてきたけれど、これが妹のためだと思った。
「帰れ! 顔も見たくない」
ドア越しに叫んだ。すると妹が諦めて、とぼとぼと歩き出した音が聞こえてきた。すぐに自分で自分に問う声が頭に響いた。
これでよかったのか?
自信がなかった。まったくなかった。なずなはきちんとタクシーに乗っただろうか。そして無事に家に帰れただろうか。わたしは不安な一夜を過ごすことになった。ほとんど眠れなかった。
そして翌朝、実家に電話をした。母親が電話に出た。
「もしもし、わたし。奈津美。なずなはそちらに帰っている?」
「なずな? 帰ってきていないわよ。どうしたの、なにかあったの?」
「あ、いや。帰っていないならそれでいいんだ。ごめんね、朝早く」
とっさに、親に余計な心配を与えまいという気持ちが働いた。電話を切って、今度は携帯を探した。なずなの携帯に連絡を入れてみる。けれど電源が切られているか、電波の届かない場所にあるというメッセージが流れるだけだった。不安が頭をよぎる。
つい激してしまった。そのことへの後悔の念が次々とわいてくる。
不安なまま出社して、不安なまま午前中の仕事を済ませた。そのあいだに何度かなずなの携帯に連絡を入れた。けれどあいかわらず通話のできない状態のままだった。
「姐さん、なんか浮かない顔をしてますねえ」
「うん、ちょっと心配事があってさ」
昼休み、青ちゃんに昨日の顛末を打ち明けた。すると青ちゃんも真剣な顔で話を聞いてくれた。
「そりゃマズいっスね。妙なことになっていないといいけど」
不安なままオフィスに戻ると、部下の男の子が駆け寄ってきた。
「大変です、三田村さん! さきほど警察から連絡がありました。妹さんの件で、至急、電話をして欲しいとのことです」
血の気が引いていくのがわかった。
「れ、連絡先は……」
「番号はここに控えてあります」
「ありがとう」
震えながら携帯を取り出す。
幾度かのコールで、警察は電話に出た。
「はい、もしもし」
「三田村奈津美と申します。三田村なずなの件でお電話があったとお聞きしましたが」
「ええ、そうなんですよ。妹さんはいま、都内の病院で治療を受けています。昨夜、ビジネスホテルの一室で手首を切って自殺未遂をなさいましてね。傷口が浅かったのと、発見が早かったので、命に別状はありませんが。事件性のあることなので、まずは署のほうに足を運んでいただいて事情をご説明いただけないでしょうか。そのあと病院のほうにご案内しますんで」
「承知しました」
安堵《あんど》のため息が漏れる。その場で床に座り込みたいほど力が抜けた。
電話を取り次いでくれた部下の男の子に、すこし嘘を交えて事情を説明する。
「ちょっと妹が原チャリで事故っちゃってね。病院に収容されたらしい。午後の仕事は空けることになるけど、後をよろしくお願いできる?」
「はい、大丈夫です。妹さんのお怪我、軽いといいですね」
「ありがとう、心配してくれて。わたしに似て頑丈だから、たぶん大丈夫だよ」
いつもはわたしに反感を抱いているであろう男の子だったが、さすがに心配そうにしてくれた。そのお礼に笑顔を返して会社を後にした。
警察で事の次第をかいつまんで説明して、病院にむかった。警察はこんなことは日常茶飯事といった風情で、たいして追及もされなかった。案内された病室のまえで息を整える。
この扉のむこうになずながいる。
扉をあけると、なずなが青白い顔で横たわっていた。とたんに涙がどっと溢れた。
「なずな、なずな!」
妹は目を覚ましていた。そして天井をみつめていた。
「──お姉ちゃん、ごめんね」
「ううん、悪いのはお姉ちゃんだ。なずなを見捨てたわたしだ」
「お姉ちゃんはなにも悪いことはしていないよ。したのはわたしだもの。──わたしね、今度のことで、ふんぎりがついちゃった。地元に帰って、そしてまた教師になる。まえよりもっと良い先生になれると思う。なんだかね、神様が、わたしに生きろと言っているような気がするの。担架で運ばれていたとき、なんだかそんな気がした。これからも、どんなに重荷を背負っても、生きろと神様は言っているんだって。だからわたし、生きる。どんな困難もわたしの糧《かて》だと思えるから」
妹の言葉に、また涙が溢れた。
「ありがとう、なずな。ありがとう。お姉ちゃんはおまえに何もしてやれなかったね。なのに、なずなはちゃんと考えてくれたね。ありがとう」
わたしはなずなの手を握り締めながら、ギンポ君の顔を思い浮かべた。
愛情をもって、手を離すのですよ。
その意味がすこしわかったような気がした。
退院したなずなは、吹っ切れたような顔で地元へ帰っていった。残ったのは、なずなのベッドと処方薬、そしてわたしの心のもやもやだけだ。
なずなが一命を取りとめたとき、わたしは何かを悟りかけたような気がした。けれどいま一歩のところで、その真実に手が届かない。なずなはなにかを悟ったのに、わたしだけ取り残された。そんな気分だ。
なずなが帰って最初にしたことは、ギンポ君とのデートだった。
帰りの車のなかでギンポ君に尋ねられた。
「ところで姫、今日はなにか相談事があったんじゃないんですか?」
「あ、そうだった。あのですねえ、神保さん」
妹との顛末をかいつまんで話し、そして尋ねた。
「わたしね、そのときに何かわかりかけた気がした。でもそれがなんなのか、まだ把握できずにいる」
するとギンポ君は、かるく微笑んだ。
「姫はね、本当の悲しみをまだ知らない」
「悲しみ? 知ってますよ。子供のころから、うんざりするほど」
「うん、でもね、本当の悲しみは、まだ知らない」
わたしはつぶやいた。
「……また謎々」
「なぞなぞ?」
「うん。神保さんはね、いつもわたしに会うと、謎々をひとつ残していく」
「そんなことをした憶えはないけど」
「ううん、わたしはそう感じてる。いっつもそう」
「そうですか。では悩んでください。そして解いてください」
車はやがてマンションの前に到着した。
「ありがとう、神保さん。楽しかった」
「僕もですよ。またお会いしましょう」
テールランプが消えるのを待って、わたしはマンションのなかに入った。
(本当の悲しみをまだ知らない)
その言葉がいつまでも頭を離れなかった。
五月十七日の中野さんの誕生日が近づいてきた。わたしは悩みに悩んだすえ、新宿御苑近くのフレンチレストランを予約した。そしてホールのケーキに中野さんの名前を入れてくれるように頼んだ。
「他の人は誘わなくていいんですか?」
事前に中野さんに尋ねた。すると中野さんは笑いながら言った。
「三田村さんとふたりだけのほうが嬉しいな」
ちょっと、いや、かなり嬉しかった。もしかすると中野さんの気持ちが変化しつつあるのかもしれない。そう受け取れた。ふたりだけのほうが嬉しい、という言葉を思い出すと、胸が病的なほどに高鳴る。
ギンポ君といるときのおだやかな気持ちは、やはりただの友情だと思えた。これが恋でないなら、なんだというのだろう。
わたしは前日のうちに新しい下着まで買って用意して、朝を待った。そして若干寝不足のままシャワーを浴びて、真新しい下着を身に着けた。薄い水色で、白い薔薇の刺繍が施されている下着だ。服装についてもかなり悩んだすえ、光沢のある素材の、華やかなワンピースに決めた。これにヒールの華奢なポインテッドトウのミュールを合わせてみる。
下駄箱にはめ込まれた姿見に自分を映し、何度もまわって確認する。
マスカラ、もうちょっと使ったほうがいいかな。もう少し長さがあってもいいかも。
……これは会社で付けなおそう。パンダ目になっても嫌だし。
ドアのノブに手をかけたとたん、また迷いが走る。
本当にこの格好でいいのかなあ。デコルテのあいたUネックのトップスのほうが色っぽいかな。でもそうすると、いかにも退社後、デートしますって雰囲気になっちゃうぞ。
誰もそんなことは気付かないような気もしたが、下心があるせいか、逆にいつもより堅苦しい服装になっている気がする。もうちょっと色っぽい服装にしたいが、会社の人の目も忍びたい。遅刻寸前まで迷って、結局いまの判断に身を任せる決意ができた。
行ってきます。
誰もいない部屋にむかって、心のなかでそう告げた。
仕事にもあまり集中できなかった。
もしかすると今日が、バージン喪失の日になるかもしれない。
なんとなく足元の危うい靴を履いているような気分だ。実際、今日のわたしの足元はヒールの華奢なミュールなので、危ういことは危うい。よろけたところを中野さんに助けられたりするのを想像したりすると、完全に頭が別の世界に飛んでしまい、まったく仕事にならない。
やっぱり、これが恋だ。そうに違いない。ますますその考えが確信にまで深まっていく。
なにくわぬ顔をしてマシンを落とし、部署の人たちに告げる。
「お先に失礼します」
今日のことは、青ちゃんにすら相談していない。会社から少し離れた待ち合わせの場所で中野さんと落ち合うと、ふたりでタクシーに乗った。
今日のわたしは中野さんの目にどう映っているんだろう。すこしだけでも……綺麗に見えているといいな。ああ、気持ちを落ち着かせるためにタバコを吸いたい。
けれどそれができない。禁煙車だから当然吸えないんだけど、といって喫煙できる場に案内されても中野さんの前では吸えないだろう。ギンポ君の前では遠慮会釈なく吸えるのに、どうしてわたしはこの人の目をこんなにも気にするのだろう。
やがてタクシーは店のまえに到着した。
奥まった席に案内される。中野さんのためにシャンパンを取った。気に入ってくれるかどうか、そっと窺う。お酒のリストに目を通す。
「あ、ピンクのドンペリがありますよ」
「ははは、バブリーでちょっと恥ずかしいかな。でも誕生日らしくて嬉しいな」
「じゃあそれにしましょう」
お酒が入ると、会話はけっこうはずんだ。
「あっ、またペースが速い」
「いいじゃないですか。今日は僕の誕生日。僕は祝ってもらう王子様」
「しょうがないなあ。今日だけですよ」
「では今日は無礼講ということで。ありがたくいただきます。シャンパンはコルクを抜いてすぐに空けないと意味ないですからね」
わたしも中野さんのペースに合わせて飲んだ。お酒はそう弱いほうではないと思うけど、けっこう酔った。
メインディッシュが終わると、わたしたちの席のあたりだけ照明が落とされた。そしてホールのケーキが運ばれてきた。ウェイターが慣れた手つきで三本の蝋燭に火を灯す。
「あ、僕の名前が書いてある」
「事前に注文しておいたんですよ。お気に召してくださいました?」
「とっても嬉しい。ありがとう」
中野さんは子どものような笑顔で笑うと、フッと蝋燭を吹き消した。ウェイターが一緒に拍手してくれた。
照明がまたもとの明るさに戻された。この演出は、多少恥ずかしかったけれど、中野さんの印象はそう悪くはなさそうだ。心のなかで満足する。
「しかしこんなに食べられるかなあ」
「縁起物ですから、少しだけ食べればいいんじゃないかと」
半分ばかりケーキを平らげて、わたしは化粧室に立った。Tゾーンにパウダーを叩き、すっかり落ちてしまった口紅を、ペンシルと両用して塗りなおし、グロスを載せる。これで大丈夫だろう。
席に戻ってウェイターを呼び、キャッシュカードをトレイに載せた。
「すいませんね、ご馳走になってしまって」
「いえ、とんでもない。これはわたしのためでもあるんです。中野さんとお話がしたかったんですよ」
すると中野さんはふいに真面目な顔になった。
「僕も……三田村さんに話したいことがある。店を出たら、話しましょう」
驚きに目を瞠《みは》る。
話って何だろう。まさかとは思うけど、告白なのか?
シャンパンのあともワインを一本空けたので、ふたりともかなり酔っている。階段を上りきると、案の定、中野さんは足元をふらつかせた。
「中野さん、危ない。大通りに出るまで肩をお貸ししましょう」
「そう? 申し訳ない。──ところで僕は、今日は義務を果たさなくてはならない」
「義務?」
「ええ、義務です。僕、聞きました。桑田と三田村さんの一件を。僕を好きだから桑田とは付き合えないと仰ってくださったそうですね。そのお気持ちはとてもありがたい。おまけにそのせいで、あなたは会社ですごく不都合な状況になった。申し訳ないと思っています。僕のあいまいな態度が、あなたをそこまで追い詰めたわけですから。だから僕は、僕の秘密を、あなたに打ち明けようと思う」
なにかひんやりとするものが、背筋を通ったような気がした。
中野さんは立ち止まると、わたしの肩から手をはずし、ガードレールに腰をかけて、いきなり右足の靴と靴下を脱いだ。
「見てください。わかりますよね? ヤケドの痕《あと》」
「……ヤケドの痕、ですね、たしかに」
「僕の家は代々、学者の家だったんですよ。祖父はお茶の池大学で教鞭《きようべん》をとっていて、そのとき女生徒だった祖母に目をつけたんですね。結婚にいたるまで、祖母は自分も女学校の教壇に立っていたと聞いています」
無言のまま聞き入った。中野さんは素足をぶらぶらさせながら、ぼんやりとした目付きで語り続けた。
「祖母のしつけは厳しかったですよ。僕が勉強をサボって本を読み、空想の世界に浸ったりするところを目撃された日には、平手で両頬を泣くまで叩かれ続けた。そしてこのヤケドは熱湯をかけられた痕。僕が塾を休んで公園で友達と遊んでいるのを見つかったときのお仕置きです。雪の降る日に水をかけられ、ベランダに一時間も放置されたりもしました。あのときは自分が凍死するかもしれないと思いましたね。寒さってあまりに厳しいと痛みに変わるんです。僕は泣きながら窓を叩いた。そして何度も祖母に謝りました。許してください、もう怠けませんからと」
震えながら口をはさむ。
「それって……虐待じゃないですか」
「僕にはしつけと虐待の境目はわかりません。ただ言えることは、僕はもう、祖母のような支配者を持ちたくないということだけ。だからね、三田村さん──」
「はい、なんでしょう」
「僕はあなたといると楽なんだな。あなたはなんでも仕切ってくれる。本当のことをいえば、なんだか落ち着き場所を見つけたようであなたに惹かれていた。でもね、駄目なんですよ。僕はもう、誰かの飼い犬にはなりたくない。僕の生き方は自分で決めたい。たとえそれで孤独でも、僕にはそのほうが幸せなんです」
「中野さん!」
違う、支配なんてしない。おもわず腕をつかんだ。
「わたしはあなたを愛してます。孤独でいるのなんかやめてください。わたし、きっとあなたを幸せにする! 誓います。仕切られるのがお嫌なら、今後はけっして仕切りません。わたしと一緒に幸せになりましょう、わたしをどうしても受け付けないというのなら、他の女性でもいいんです。お願い、どうか幸せになってください!」
すると中野さんはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、僕は決めたのです。生涯、独りでいるつもりです。どうかお願いです。僕の平安を乱さないでください。僕は……あなたのなかに祖母の影を見る。それはとても魅力的だけど、同時に嫌悪感を催させる。僕を思い通りに作り変え、あなたはその上に君臨する。僕は人間です。意志を持ち合わせたひとりの人間です。誰にも自分の生き方を左右されたくない。だからお願いです。どうか僕のことは忘れて、そっとしておいてください」
「あ……」
言葉が喉につまったように、声が出なかった。
では中野さん、わたしの気持ちが支配欲だと、あなたは言うのか。
中野さんの腕をつかんでいた手から力が抜けていくのがわかる。
姉の顔と中野さんの端正な顔が重なった。心の中で叫ぶ。
違う、お姉ちゃん! わたしは、わたしはあなたに、幸せになってもらいたかった。わたしは中野さんのなかにお姉ちゃんを見ていた。いつだって、いつも。だから孤独のなかから抜け出してほしかった。お姉ちゃん、そして中野さん、あなたに。それが支配欲だなんて、嘘だ!
「さよなら、三田村さん。会社ではまた顔を合わせるでしょうけど、どうか僕のことは忘れて、幸せな結婚をしてください。──見送りは、ここまでで結構です」
中野さんはふらふらと大通りの方角にむかって歩き出した。取り残されたわたしは、呆然としながら、あてどなく歩いていた。そのうちに迷った。いっそ死んでしまいたいと思った。そうしたらすべての生の苦しみから解放されるのに。
(姫は本当の悲しみを知らない)
ギンポ君の言葉がよみがえった。足のむくままに細い路地の角を曲がると、小太りの目をギラつかせた三十代ぐらいのビジネスマンらしき男性が立っていた。彼はわたしの顔をじろじろ見ると、わたしの行く手を阻んだ。
「お姉さん、ひとり?」
ぼんやりしたまま答える。
「ええ、ひとりですよ」
「それじゃさあ、僕とちょっと遊びにいかない?」
「遊びって何を? わたし、お酒ならこれ以上は飲めません」
「そうじゃなくてさ、もっと面白い遊びをしようよ」
いくら鈍感なわたしでも、男の言わんとしていることは理解できた。自分を痛めつけたいと思った。完膚《かんぷ》なきまでに叩きのめされたいと思った。
「いいですよ。では連れて行ってください」
男は軽く口笛を吹いた。
「いいねえ。そうこなくちゃ」
肩を抱かれて、新宿の雑踏のほうへとむかった。この先になにがあるかは知っている。そしてわたしたちは、あまり綺麗とはいえないラブホテルの一室にチェックインした。
そして部屋に入るなり、唇を求められた。顔をそむける。
「はじめにお断わりいたしますが、体液が混じるような行為は止めていただきたい。ですからキスもお断わりです。それから必ずコンドームを使用してください」
わたしがそう告げると、男は一瞬、白けたような顔になった。かまわずに腕を振り払う。
「それから汗臭いのも嫌いです。シャワーを浴びてください」
「……わかったよ。こりゃキツいお姉ちゃんだな」
わたしは男の目の前で着衣を脱ぎ捨て、下着姿を晒《さら》した。
「お先にシャワーを使わせてもらいます」
「……覗いてもいい?」
「どうぞ。お好きに」
わたしは男に覗かれながら、バスルームでシャワーを浴びた。
「あんた、肝っ玉の据わった女だね。恥ずかしがりもしないでさ」
「どうせアバズレですから。さ、どうぞ。あなたも使ってください」
わたしはバスタオルで身体を包むと、ベッドに座ってタバコを取り出し火をつけた。中野さんのまえでは遠慮していたタバコを、思うさま吸い込む。男は慌てたように服を脱ぐと、ニヤニヤ笑いながらわたしに下半身を見せつけた。
かなりの嫌悪感を抱いた。けれどそんなことはどうでもよかった。とにかく自分を徹底的に痛めつけたかった。そうしないと息をするのも苦しいと思った。
二本目のタバコを吸い終わるころに男は出てきて、わたしを押し倒した。そしてあれこれと行為に及んだ。
わたしは無言のまま横たわっていた。
「感じる? 感じる?」
なんだかひとりで興奮している男が馬鹿にみえた。
最低のわたしに相応《ふさわ》しい馬鹿だ。自嘲する。やがてその瞬間がきた。
「痛っ!」
おもわず声が漏れた。
痛い。唇を噛みしめて耐えた。しかしいくら我慢していても、終わる気配がない。
口に出して抗議する。
「まだ終わらないんですか? はやくしてください」
「だったらさあ、君も協力してよ」
「協力? どうやって」
「腰をふるとか、いろいろあるじゃん」
ためしに言われた通りにしてみたが、痛みが増すばかりだった。
噂には聞いていたけど、痛いし、おまけに気色悪いったらない。
気をまぎらわすためにあれこれ考えているうちに、ようやく終わってくれたらしかった。男の胸から汗が落ちてくるのが気持ち悪い。
「終わったんですか? でしたらさっさと退《ど》いてください」
さっきのバスタオルを手にバスルームへとむかう。すると男がギョッとしたような声をあげた。
「あれっ? もしかしてと思ったんだけど、君、処女だったの?」
「そうですよ。二十九歳で処女でした。それがどうかしましたか」
「あ……いや」
わたしはボディソープを大量に使用して、身体中を洗い尽くした。髪も洗った。すべての穢《けが》れをこの場で落としていきたかった。
長いことバスルームを占拠して扉をあけると、そこに男の姿はなかった。その代わり、シーツの上に一万円札が置かれていた。
一万円札を手にとったとたん、笑いが止まらなくなった。
わたしの処女は、一万円か。お安いものだ。
笑いながら札を財布にしまい、身支度を整え、ホテルのまえでタクシーをつかまえた。
可笑《おか》しかった。なにを考えても可笑しかった。ひとり笑いをするわたしを、バックミラー越しに運転手が気味悪そうに見ているのがわかった。
タクシーがマンションの前に到着し、金を支払うときも運転手は金額を告げる以外の口を利かなかった。そしてありがとうございましたの一言もなく走り去っていった。
笑いながら自分の部屋に入った。そのとたんに、今度は麻痺していた感情がよみがえってきた。絶望が怒濤のように押し寄せてくる。自責の念がわたしを殺そうとする。どうにかして感情を鈍磨させたかった。あれほど自分を汚しても、さっきの男に痛めつけられたぐらいでは、自分の気持ちをまぎらわすことさえできなかった。
そうだ、なずなの薬を使って、とにかく今日は寝よう。死んだように寝よう。
わたしはなずなのベッドの引き出しを探った。処方薬が大量に残されている。どの薬がそれに当たるのか、まったくわからなかった。けれど緑と白のカプセルが大量に残されているのに気付いた。なずなが自殺に使おうとしていたのはこれだろうか。四つほど口に含んで、キッチンに行き、蛇口に口をつけ、水道水と一緒に飲み込む。
今度は別の処方薬を口にしてみた。でたらめにどんどん口に放り込んでいく。そして飲み込む。するとややあって、眩暈《めまい》のような眠気が襲ってきた。そのとき初めて気付いた。もしかすると、今夜自分が死ぬかもしれない可能性に、だ。そう思ったとたん、いきなり恐怖が襲ってきた。
とんでもない事をやってしまった。どうしたらいいのだろう。
わたしは眠気と戦いながら、バッグから携帯を取り出し、ギンポ君の連絡先を探した。そして通話ボタンを押した。幾度かのコールで、ギンポ君の声が聞こえてきた。
「もしもし、神保です」
すこし寝ぼけたような声だった。それはそうだ。もう夜の二時近い。わたしは携帯にむかって泣きながら叫んだ。
「神保さん、わたし、死んじゃうかもしれない!」
ギンポ君の声が、打って変わって、真剣なものに変わった。
「どうしてです? 何をしたんですか」
「精神科の処方薬を大量に飲んだ。妹のだから、どれがどれかわからない。でも沢山飲んだ。死んじゃうかもしれない」
「わかりました。ではこうしなさい。飲んだ薬のシートを持って、玄関の鍵を開けたままにしておいてください。いいですね」
「わかっ……た」
「すぐに行きます」
切れた携帯を手にしたまま、床に散らばっているシートを集め、ふらつく足で玄関にむかい鍵をあけた。そしてその場で倒れこんだ。
目が覚めたとき、自分がどこにいるのかわからなかった。
ふと横を見ると、ベッドの横にギンポ君が座っていて、本を読んでいた。わたしの腕には点滴の針が刺さっていた。
「神保さん」
声をかけると、ギンポ君は微笑を浮かべた。
「よく眠れました?」
「わたし、生きてます?」
「ええ。残念なことに、ここは天国じゃないですよ。あなたに薬の知識がなかったのが幸いしましたね。姫が沢山飲んだ薬はセルベックスといって、薬から胃の粘膜を保護するための胃腸薬だったようですよ。あとはちょっとの安定剤と、抗鬱剤。むしろ問題はアルコールだったようですねえ。酒臭かったですよ」
「胃薬!」
どうりで、いくら飲んでも眠気が襲ってこないわけだ。なずなが沢山集めていたからてっきり睡眠薬なのだろうと決めつけていたが、病院を巡っても、どの医者からも胃の粘膜を保護する薬が処方されていたから残っていたのだと察した。おもわず笑った。そして笑いながら、わたしは泣いた。
「神保さん、わたしは馬鹿だ」
「そうですねえ。今日のことは、決して利口とはいえませんね」
ギンポ君はニヤリと笑った。そしてこう付け加えた。
「そうそう、会社のほうにはね、姫の携帯で青木さんって人の連絡先を探して、その人にうまく誤魔化してくれるように頼んでおきましたよ。彼女には急性アルコール中毒で≠ニ説明しておきましたが。姫の交友関係を聞いておいてよかったですよ。僕が会社に直接電話したんじゃ、何事かと思われるでしょうから」
「……ごめんなさい。神保さんのお仕事、休ませちゃった」
「かまいませんよ。たまにはこういう日があってもいいでしょう。本も読めましたし」
そのあとわたしが無言でいると、ギンポ君も無言のままだった。
「どうして理由を尋ねないの?」
「言いたかったら言えばいいし、言いたくなければ言わなくていいと思っているからですよ。言いたいんですか?」
その言葉に、涙がこぼれおちた。
「わたし……ある人を、幸せにしたかった。けれどその人は、わたしの愛を、支配欲だと指摘したんです。わたしにはそう聞こえた。悲しかった。いままで自分のしてきたことってなんだろうと思った。わたしは自分を馬鹿だと、いっそ消えてしまいたいと……」
嗚咽《おえつ》がこみ上げ、その先が言えなかった。
「でも僕に助けを求めてくれましたね。感謝しますよ。僕は姫に死なれたら困る」
「わたしなんかが?」
「ええ」
「どうして?」
「どうしても」
「こんなに最低の女なのに」
するとギンポ君はわたしの目を正面から見つめながら言った。
「姫、なにがあったのかは知りませんが、この世に許されない罪はありませんよ。大丈夫、安心して生きてください。我々は人間なのですから、間違いを犯して当たり前なのです」
その言葉にまた涙があふれた。
「ありがとう、神保さん。わたしを許してくれて」
「許すのは僕ではありませんよ。もっと大いなる存在です。以前も言いましたが『心の貧しき者は幸いである。天国は彼らのものである』ですよ。まさしく僕のことですね。どうやらイエスによれば、僕は天国行きを保証されているらしい。今回、姫はおあずけをくらいましたがね、きっと良い所ですよ」
温かい心が流れ込んできて、わたしは微笑んだ。
「それじゃわたしも天国行きです」
「こちらの言葉も憶えてますか? 『善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや』。親鸞聖人の言葉です。どちらの宗教、宗派にしても、僕は天国行き、あるいは極楽行きを保証されてるってわけです」
自殺未遂をしたなずなの、あの言葉の意味がわかった気がした。なずなもあのとき、こんな気分だったのだろう。
わたしは許されている。生きていくことを。──悪人だけれど、許されているのだ。
誰にともなく言った。
「ありがとう」
ギンポ君は微笑んでいた。
翌日はからりとした晴天だった。
軽い足取りで会社にむかうと、エレベーターホールで待ち構えていたらしい青ちゃんがものすごい形相で駆け寄ってきた。
「姐さん、てえへんですっ。チャンです、チャンがきやがりました! 急性アル中なんかになってる場合じゃないですよ、姐さんっ。何やってんですか、この大事なときに」
「チャンって、青ちゃんのお父さん?」
「違う、子連れ狼じゃないんだから。チャンといったらアレですよ、台湾のCEOの側近ナンバーワン! 首切り隊の、隊長ですっ。今日、全員に面談するって言ってやがるらしいです。給与二〇パーセントオフを受け入れるか、あるいは早期退職するかを迫るって」
「それ、本当?」
「本当です。しかも、特に狙い討ちされるのは特許関係の部署だっていうんです。外部の特許事務所に流して、それでコストダウンを図るって」
一難去ってまた一難、という言葉が頭をよぎった。
わたしは青ちゃんの肩をポンと叩いた。
「ありがと、青ちゃん。情報を早めに耳に入れてくれて」
「どうしよう、姐さん。おいら、姐さんと離れ離れになるのは嫌だあ」
「戦うまえからそんなことは言わない。大丈夫、任せて」
わたしは腹を決めた。
(戦おう)
自分の頭が高速に回転しはじめるのを感じた。
チャンはまず会社の最大の厄介者、つまり役付きの、高給取りから狙い撃ちするつもりらしかった。そのあとにゆっくりと下っ端の首を切るというわけだ。
部署のなかで最も語学が達者な、木場君に声をかけた。
「木場さん、ちょっと相談があるんだけど、いま時間貰えるかな」
「あ、はい。なんでしょう」
「わたしがチャンと話をするとき、通訳になって欲しい」
「僕がですか?」
「うん。お願いできるかな」
「いや、それはかまいませんが、三田村さんの語学力なら僕など必要ないのでは?」
わたしはちょっと微笑んだ。それから言った。
「木場さん、これはね、戦いなのよ。だから作戦を練る時間が必要。わたしはチャンのブロークンな英語がわかる。けれどチャンはわたしの日本語は理解できない。つまりあなたに間に立ってもらうことで、こちらは相手の反応をすばやく理解しながら、反撃の準備ができるというわけ」
「なるほど! わかりました」
「ありがとう。こちらの言葉の微妙なニュアンスが伝えられるのはあなたが一番と思うので、面倒だろうけどお願いね」
わたしはパソコンを立ち上げ、そして喫煙室へむかった。
三田村奈津美、最後の大勝負だ。この部署はわたしの首に代えても絶対潰させない。キタさん、あなたが守り育てた部署、今度はわたしが守る。
心のなかで、わたしを育ててくれたキタさんに誓う。
席に戻って仕事を続けていると、思ったよりも早く、わたしの順番がまわってきた。どうやら昨夜のうちに役付きのほとんどは二〇パーセントオフの覚悟を固めていたらしいと知る。
わたしは木場君を従えて、チャンの待つ部屋へとむかった。会議室の扉をあけて、チャンの目を見据える。
「はじめまして、ミスター・チャン。特許翻訳の三田村奈津美です。わたくしは読むことと書くことに関しては得手ですが、話すことと聞くことに関してはあまり得意でありませんので、通訳を同席させていただきます。──木場さん、訳して」
木場君がサラサラと訳していく。チャンがうなずいた。握手を交わして、席につく。まずはチャンが喋った。
「この会社の経営状態についてはあなたも十分ご承知のことと思うが、我々はコスト削減の必要に迫られている。そこであなたに退職金上増しで早期退職していただくか、給与の二〇パーセントオフを受け入れるかの選択をしていただかないとならないと、仰っています」
「会社の経営状態については聞き及んでおります。わたくしは社を愛する人間のひとりとして、早期退職を受け入れてもかまわないと思っております。ただしそのまえに、ミスター・チャン、あなたに一言進言させていただきたく思います」
「聞きましょう、と仰っています」
「ありがとうございます。ではまず結論から述べさせていただきますと、わたくしは翻訳特許の部署を潰すことに関しては反対させていただきます。ミスター・チャン、あなたは特許関係の部署を潰して、外部の特許事務所に仕事を委託させる考えだと聞いております。それは事実ですか?」
「検討中だが、事実だそうです」
「そうですか。それでは社を愛する者のひとりとして、意見を述べさせていただきます。日本人には愛社精神というものがございます。それが日本の繁栄を築いたものです。まずこの一点をご理解いただきたい」
「その精神は、元日本の統治国であった台湾にも受け継がれているものです。それが我が国の繁栄をもたらしました。それはよく承知しております、と仰っています」
「わたくしたちは、その愛社精神をもって五年の歳月をかけ、特許翻訳の力を蓄えました。PCソフトの翻訳ツールが使い物にならないことは、ミスター・チャン、あなたもよくご存じのことと思います。翻訳というものは、ただ言葉を置き換えればよいというものではない。その文脈の意味を正確に把握してこそ成り立つものです。翻訳には質の差というものがございます。そして我々特許翻訳の部署の人間は、そのノウハウを確立しました。これは一度失ってしまったら、再び作り直すのに大変な歳月のかかる類いのものです」
木場君が翻訳するあいだ、チャンの目が鋭くなった。手ごたえを感じる。
「お説はごもっともだ、と。けれど今日を乗り越えなくては、明日はないと。我々は遠い将来のことよりも、今日、たったいまの現実に対応しなくてはならない必要に迫られているのだ、と仰っています」
「それも十分承知しております。けれどミスター・チャン、たとえばあなたがこの先、特許関係の仕事を外部に委託したとして、それが外に漏れる可能性がないと断言できますか? 委託した先で、ライバルの会社にその情報が漏れない保証があると言い切れますでしょうか」
「それを仰るなら、現状でも外部に漏れる可能性はあるのではないですか、と」
「もちろん、これは確率論です。ですがわたしは思います。日本人には先に申しましたように愛社精神がございます。自分の所属する会社の首を自分の手で絞め、自らを失業に追い込む人間がそう多いとは思えません。外部に回してその情報が漏れる可能性よりは、低いとわたしは思います」
木場君が翻訳しても、チャンは無言のまま腕を組んでいた。わたしは続けた。
「ですので、先ほども申しました通り、わたくし自身に関しては、社の負担になるということでしたら、明日からでも退職してかまわないと思っております。ただし、その際にはわたしの元の上司であった、北川という人物を本社から呼び戻し部署のトップに置いてください。わたくしの願いはそれだけです」
「考えてみましょう、と仰ってます」
「ありがとうございます、ミスター・チャン。あなたが的確な判断を下されることを願います。我が社を愛する人間のひとりとして、どうかご一考くださるようお願い申し上げます」
わたしと木場君は席を立ってチャンと握手を交わして部屋を出た。部屋を出た瞬間に、力が抜けて、その場に座り込んでしまいそうになった。
「ありがとう、木場さん」
「いえ、とんでもないです」
わたしは部署に戻ると、タバコとライターを手に喫煙室へむかった。するとなぜか、木場君が後ろからちょこちょことついてきた。
なんだろうと思いつつ、喫煙室に入る。そしてタバコに火をつけて一服していると、木場君がぼそりと言った。
「三田村さん、会社を辞めちゃうんですか?」
「うん? ああ、まあ。ああ言った手前、辞めざるを得ないでしょうね」
「……さっきの話、撤回してきてください。僕は三田村さんに、会社を辞めて欲しくなくなった」
小さく吹き出した。
「辞めて欲しくなくなったということは、以前は、辞めて欲しいと思っていたわけ? いや、別にいいけどね。でも、撤回するのは駄目だよ。無私の気持ちから言っているのでなくては、耳を傾けないだろうから」
笑いながら言うと、木場君はちょっと赤くなって、それから言った。
「……すいません、その、いろいろと妙な噂があったので。でもそれは誤解だと確信しました。今日、あの場所で」
「それはわたしが悪い女だっていう噂? それだったら嘘じゃないよ。多分、悪人ですよ。でもね、わたしの存在、わたしが生きることは許されているの。世の中にはわたしが邪魔だって思う人もいるかもしれないけど、わたしは生きるつもり」
木場君が困惑したように尋ねた。
「意味がよくわからないんですが……。それに三田村さんは悪い女じゃないでしょう」
「ううん、悪いと思う。でもしょうがないよね、人間だし。わたしにできるのは、少しずつ変わっていこうとする努力だけ」
「僕、とにかく三田村さんには会社を辞めて欲しくなくなりました。お願いです、ここに居続けてください」
幸福な気持ちだった。
「ありがとう。最後にわたしを上司と認めてくれて。とても嬉しい」
タバコを吸い終えて喫煙室を出た。チャンがどう判断するかはわからないが、わたしは、わたしに自由をくれた職場のために力を尽くして戦った感覚が残っていた。それで十分、幸せだった。
「姐さん、必ず会社に戻って来てくださいね。一年だけは我慢するけど、そのあとは絶対に」
歓送会の日、青ちゃんに泣きながら言われた。おもわずふたりして抱き合う。
「ありがとうね、青ちゃん。そんなふうに言ってもらえて、わたしは幸せ者だよ」
特許関係の部署は存続が決定した。それがわかったのは、わたしが早期退職を前提に、イギリスへの留学を申し込んだ翌々日だった。そしてなぜか、チャンはわたしを引き止めた。一年間は無給ではあるが、休職扱いにしてくれるという。どうやらわたしはこのあいだの一戦でチャンに気に入られたようだ。台湾に遊びに来いとまで言われた。最高に美味しい台湾料理の店に案内してやると言ってくれた。まったくこの世は、明日のことすらわからないものだ。わたしはキタさんに後を託して、イギリスへと旅立つことになった。
わたしは木場君たちに花束を貰って、盛大に見送られながらタクシーに乗り込んだ。明日からはイギリスだ。
こんなに平穏な気分になるのは何年ぶりだろう。
いや──。初めて、かもしれない。
翌日、スーツケースを手に成田にむかうと、ギンポ君が見送りに来てくれていた。
「ありがとう、神保さん。また仕事を休ませちゃいましたね」
「出発は何時でしたっけ」
「あと二時間ほど先です」
「ではまだ時間がありますね。荷物を預けたら、少しお茶でもしませんか」
「ええ、喜んで」
カウンターでスーツケースを預け、ギンポ君と構内を歩いた。
「姫、今日は良い笑顔ですね」
「そうですか? 自分じゃよくわからないけど」
ギンポ君は微笑んで、そして言った。
「そうだ。せっかくだから、ちょっと面白い話を耳に入れましょうか」
「なんです?」
「歩きながら話しましょう。──むかし、むかし、あるところに男の子がおりました。その男の子は、数日かけて、一軒のバラックを建てました。……ポプラの林のなかに」
心の底から驚愕しておもわずギンポ君の顔を見る。ギンポ君はいつもの飄々《ひようひよう》とした顔付きだった。
「その秘密の隠れ家は、子供たちの憩いの場所となりました。そのなかに、いつも難しい顔で本を読んでいるひとりの女の子がおりました。ある日、不思議に思った男の子は女の子に尋ねました。『君はどうしていつもここに来るの?』。すると女の子はこう答えました。『家なんか嫌いだから。人間なんて大っ嫌いだから。家族なんてみんな勝手に死んでしまえばいいと思っているから』。男の子は、それから数ヶ月して、転校していきました」
立ち止まって震える。
「どうして神保さんがあの隠れ家を知っているの? だって、バラックの主は、そう小山君だ!」
するとギンポ君はわたしの目を見据え、言った。
「そう、僕がその小山ですよ。僕があの町にいたのは、両親が別居して、母の実家に身を寄せていたからです。そして協議離婚のあと、母に引き取られた僕は、母と再婚した人の苗字を名乗る身となったのです。小学校六年のときでした。僕はこのときに、自分の力ではどうにもならないことがあると思い知らされましたよ。釣り書きには自分にとって都合の悪い部分は削りますからね、そのことには触れていなかったでしょう? だけど僕はずっと憶えていましたよ、あの女の子のことを。わずか小学校三年の女の子が、はっきりと人間を憎悪している様子は、記憶に焼きつけられました」
やさしすぎるギンポ君。すべての謎が解けた気がした。わたしは震えがとまらず、なにも言えなかった。
「僕はずっと彼女の行く末が気になってしょうがなかった。あの女の子はどうなるのだろうと。やがて弟が生まれ、僕はいよいよ家のなかに居場所が見出せなくなった。そんなときいつもあの女の子のことを思い出した。しかし縁とは不思議なものですね。母が僕に対する負い目から、しきりと見合いを勧めるようになりました。僕は母の気持ちがそれで済むのならと、気乗りしないまま幾人かの女性と見合いしましたよ。どの女の人もピンとこなかった。けれどあるとき、あの女の子の名前を釣り書きのなかに発見したのです。運命だと思いました。そして幾度か彼女に会うたびに、ますます確信を深めた。彼女は迷いのすえに、僕のもとへと来るだろうと。そして僕の作る家は、彼女のためにあったのだと」
わたしはおもわず小山君に抱きついた。小山君も、しっかりと抱きとめてくれた。
「──ようやく、再会できましたね」
「どうして? どうしてもっと早く言ってくれなかったの? わたし、全然気付かなかった」
するとちょっと小山君が笑った。
「楽しみは後にとっておくものですよ」
「ずるい! ひとりだけ楽しんで」
「まあいいじゃないですか。まあそんなわけで、僕はいまの仕事に就くことになったんですね」
そのときふと気付いて、小山君の腕から離れる。
「仕事ってなに? そういえば小山君の仕事を知らない」
するとあきれたように小山君が言った。
「建築事務所で設計をやってるんですよ。釣り書きに書いてあったでしょう?」
「……ごめん、見てない」
「そうだったんですか! ひどいなあ」
「ごめんね、小山君。でもね、聞いて。わたしはその人の社会的な肩書きとかそういうのって、その人の本質を知るよりは重要でないと思ってる」
「うん、その通りですね。その意見はまったく正しい。とにかくまあ、僕が家を作る仕事に就いたのは、自分に居場所がないという感覚をずっと抱いていたからでしょうね。あの小屋が良い例ですよ。僕の仕事は、あの小屋を作った延長線上にあるんだな」
「それ、すごくわかる気がする。わたしもね、いまの仕事に就いたのは、ひとつ武器を持って、どこに行っても生きていける人間になりたいと思っていたからなんだ」
「わかりますよ、その感覚。最初にあなたと帝都ホテルで会ったとき、そうなんだろうなと思いましたから」
小山君はすこし改まった表情になって、立ち止まり、こう言った。
「姫、僕と結婚してください。一年待ちます。そのあいだにあなたに贈る、エンゲージリングが買えるぐらいのお金は貯めておきますから」
わたしは厳粛な気持ちで彼の言葉を受け止めた。
わたしはとうとう、帰る家を見つけたのだ。長い放浪の果てに。
すべてはいま、このときのためにあった。あらゆる試練も、不幸すらも。
わたしは左手を小山君にあずけた。
「小山君、わたしを姫でなく、お妃にしてください」
「愛してますよ、姫」
「わたしも──とても、とても愛してる」
*
イギリスのステイ先で最初にしたのは、ギンポ君への手紙を書くことだった。PCのセッティングは明日にでもするつもりだ。毎日メールを出そうと思う。
拝啓 着地のとき小雨が降り、視界が不良のためけっこう不安でしたが、無事、ロンドンに到着することができました。霧の多い街という話でしたけど、まだ雨は見ても霧は見ておりません。
ところで神保さん、いきなりですけど、こちらで二人だけの挙式なんてどうでしょうか。六月の、薔薇が綺麗なころに。でも考えると、いろいろ迷ってしまう。ブーケトスをして、受け取って欲しい友人がいるから。
青ちゃんに次の幸せを贈りたいのです。
手紙を書く手を休めて、窓を開いた。街灯が見えた。わたしは幸福だった。この先どんな試練が待ち受けていても、きっと幸福だろうと思った。不器用なわたしはこれから幾度も失敗をするだろう。そしてそのたびに、小さな死を迎えるだろう。だけどわたしはそこから学び、また新しく再生する。そして本物の死すらも恐れるに足らぬと考えた。テニスンの言葉を思い出した。
(自己が死んでしまったとしても、人はよみがえるための石段を上がることができる)
わたしは胸いっぱいに外気を吸った。
単行本 二〇〇四年四月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十九年十二月十日刊