山口瞳
酔いどれ紀行
酔いどれ紀行●改札口
[#改ページ]
1番線
長崎、晴れるや
大いなる解放感
歯痛の研究
一直線に走る
神も仏も
愚かな日本人
猛虎を放つ
2番線
浦安、橋の下の夏
なぜ浦安なのか
柳橋から
小張君の意見
橋の下
3番線
倉敷、蔦《つた》しぐれ
相似形の男
倉敷名誉市民
瞑想《めいそう》広場
福山の展覧会
ゆきてかへらざる
4番線
小樽《おたる》、海陽亭の雪
パラオの呉《く》れたもの
社長の運転
毎日が雪見酒
雪の害について
黄色いハンカチ
5番線
タヒチ、短日の珊瑚礁《さんごしよう》
遠征前夜
空港まで
タヒチの虹《にじ》
ボラボラ島へ
ニューカレドニアの秋
6番線
郡上八幡《ぐじようはちまん》、山峡の憂鬱
親切すぎる
大失敗
大失策
地鳴りのように
7番線
酒田、鶴岡、冬支度
上野発の昼列車
庄内のフランス料理
赤木屋の雨
飲み役来たる
旧仮名遣いの町
8番線
横浜、一見英国紳士風
Mとの遭遇
女臭い町
大寒気団
梅に降る雪
[#改ページ]
長崎、晴れるや
[#地付き]●大いなる解放感
五月十六日。水曜日。長崎ヘ向って出発した。午前七時発の新幹線、博多行、ひかり号である。
この頃の若い作家は、「ちょっとスペインへ行ってきた」とか「この夏はニューヨークで暮すつもりである」というふうに書く。私はそうはいかない。かりに、スペインへ行くとすれば、二年ぐらい前から、梅干、醤油、粉ワサビを携行すべきか否かについて悩むことになると思う。
また、いま、東京から長崎へ行くのに、電車を乗り継いで行く人は稀《まれ》だろう。これは、飛行機で行くと決まったものである。小学校の修学旅行だって飛行機を使う学校がある。「九州一周空の旅」なんていう団体旅行もある。自動車の運転の出来る人は、カーフェリーを利用する。しかるに、私は、電車で行く。その考えの底に、ナニ、長旅とはいったって、椅子に坐っていれば着いてしまうじゃないか、往復で二日の損といったって、一年三百六十五日のうちの二日じゃないかという思いがある。
長崎に五泊、佐賀の武雄《たけお》温泉か嬉野《うれしの》温泉に一泊という予定である。
さて、旅行の楽しみとは何であろうか。
私は、旅先きで仕事をするというようなことをしない。売れないライターであるという話は別にして、仕事はすべて片づけてから出発する。そこで、いかに売れないライターであっても、六泊七日の旅であれば、かなりの量を消化しなければならない。こまごまとした仕事が多いのである。そうやって、あと二枚書けば終りということになったとき、体がふわっと浮きあがるように感ずるのである。何度もやっていて、いつでも、まったく予期できなかったような、新鮮な喜びと驚きが体のなかを走ってゆくような思いをする。あと、七日間、何もしなくていい、電話も掛ってこない、あと二枚書けばいい、そうなったとき、不意に、滅多には感ずることのない喜ばしい感情が湧《わ》きあがってくる。私において、旅行の楽しみは、これに尽きるのである。そう言いきってしまうのが大袈裟《おおげさ》であるとするならば、それが喜びの大半であるということにしよう。実際に、旅先きで、体がふわっと浮きあがるような思いをすることは、まず、ありえない。
今回は、妙なことが起った。
五月十六日、午前七時発の新幹線に乗るには、午前四時に起床して、五時に家を出るということになる。それで、私には、十五日締切の仕事があった。三十枚の小説である。本来、十五日の午前中に渡さなければならないのであるが、勝手に自分に都合のいいように解釈して、十五日は徹夜、午前五時に家を出るときに、留守番の息子に渡そうと思っていた。徹夜をするのであるから、午前四時に起床する必要がない。
その小説が書けなくて、十五日の正午になった。若干の休憩時間をいれて、一時間に二枚のスピードなら午前五時までに仕上ると思った。すなわち、まだ一枚も書けていない。テーマと、だいたいのストーリーがきまっているだけである。
午後の二時になった。私の心中に、出来うることであるならば、今回は許して貰えないだろうかという考えが、そろそろと、鎌首を持ちあげるようにして、生じはじめていた。
とにかく、逃げてはいけない、と、思った。私は、雑誌の編集長に電話を掛けた。
「へへえ。例の小説の件ですが……」
正直に、まだ一枚も書けていないと言おうと思った。
「は? えっ?」
「今日が締切の小説のことですが」
「えっ? 山口さんは今月はありませんよ」
びっくりした。
「おかしいなあ。私の予定表にもカレンダーにも、五月十五日締切、小説三十枚と書きこんであるんだけれど……」
「だってねえ、いつだって、五日前、一週間前には催促しているじゃないですか」
「それはそうだ。変だとは思っていた」
「十一月締切の記念号には頼みましたが、それだけですよ」
いろいろと問答があった。私とするならば、彼の目の前で、予定表とカレンダーに書きこんだと思っている。絶対に間違いではないと思う。また、一方で、彼のようなヴェテラン編集長が、原稿依頼のことでミスをおかすはずがないとも思う。いったい、どっちなんだ。
これは前代未聞のことだった。いままで、こういう経験はない。考えようによっては、ずいぶん変なことだった。向うは頼んだおぼえはないという。それを、こっちが書かしてくださいと売りこんでいるような形になる。
「そうですか。書かなくていいんですか」
「今月はありません」
旅行に出る前に、たいていは深夜になるが、あと二枚で解放されるというときに、体がふわっと浮きあがるように感ずると書いた。それが旅に出るときの最大の喜びであると書いた。
しかるに、もう、何もしなくてもいいと言われた。おそらくは私の思い違いによって……。それが午後の二時である。体が浮きあがるという段ではない。腹の底でズンという音が鳴り、ズンズンズンと喉元《のどもと》まで上ってきた。
「ありがとう」
私は受話器を持ったまま笑っていた。しかし、次の瞬間に、仕事が減って喜ぶ馬鹿がいるかとも思った。すなわち、私の解放感は、衝撃的であり、かつ、中途半端であった。泣き笑いのようなものであった。私は恥をかいたのである。恥をかきながら、喜び、かつは笑い、かつは泣いているのだった。
午後の二時。もう、何もしなくていい。あと七日間、何もしなくていい。
たとえば、それから午前四時まで眠り続けたって、少しも差し支えがない。そのあとは電車の座席で坐っているだけでいい、ホテルでぼんやりしているだけでいいという七日間の人生が待っているのだった。休暇を貰った兵隊のようなものだった。
ああ、しかるに、しかるにだ、私は、すっかり解放されているにもかかわらず、夕方になっても、深夜になっても、眠ろうとしないのだった。ただただ、何もせず、仕事机の前の椅子に腰をかけていた。そうして、午前二時になって、やっと、酒を飲むことを思いついたのだった。
「どうして?」
起きてきた家人が言った。
「どうして、寝ないの?」
それは私にもわからない。茫然として酒を飲むだけである。私は机の上の一升|瓶《びん》を見た。持っている茶碗を見た。私には、わからない。
ひとつには、体が徹夜をする体になってしまっていたためだろう。気持のほうもそうだった。おそろしいと思う。朝までに小説を一本書こうとする体は、容易にはモトへ戻らないのである。
私は午前三時半になって、ようやく布団にもぐりこんだ。家人が四時に起こした。三十分延長した。四時半に起きて、五時に家を出た。一時間も眠っていない。こんどの旅行は家人も同行するのである。
[#地付き]●歯痛の研究
五時に家を出た。この時刻であると、東京駅まで、約四十分で到達する。時間は充分すぎるほど余っている。
近くのドスト氏の家へ寄った。
いつもなら、五時に家を出ると言ってあるので、ドスト氏は、彼の家の前で、笑いながら立っているのである。そのドスト氏の姿がなかった。悪い予感が的中した。
この頃、ドスト氏の態度が悪い。どこかで酒を飲んできて、帰宅が午前三時、四時になることが稀ではない。そんなことが三日も続いたりしているようだ。だから、私は、出発の前日だけは、外へ飲みに行かないようにと言ってあったのである。
呼鈴を押した。二度、押した。郵便配達夫のように。
なかから、ハイというような、オオともウウとも聞こえるような声がした。ドスト氏は寝床のなかにいた。
「私です。出かけるんです、九州へ」
布団から起きでて、身づくろいするような気配が感ぜられた。
「だいじょうぶですか。わかっていますか。出発です」
「ああ、はいはい。わかっています」
家人も運転手も自動車から降りてしまった。外は靄《もや》っていた。小雨が降りそうな按配《あんばい》だった。家人と運転手が、意味なく深呼吸したりしている。
昔、と言っても、三年半ぐらい前までは、ドスト氏は、遅くも五時には起床して、観音様、地蔵様、不動様の絵を描いていたものである。元来、木彫家は、誰でも、早起きである。そのうえ、ドスト氏は、真言密教の人でもあった。何かが変ってしまった。もっとも、その間に、ドスト氏は還暦を迎えている。ただし、老人になると早起きになるという人もいる。むしろ、ドスト氏は若くなってしまったのかもしれない。
およそ十五分で、ドスト氏が出てきた。旅支度となれば実に早い人である。
「おはようございます」
いい顔で笑った。この顔には勝てない。
二階の窓があいた。
「お父さん、お金を置いていってちょうだい」
風船が言った。
ドスト氏が、いったん引き返し、すぐに、また、笑いながら出てきた。何か言訳めいたことを言っている。いつでも笑っていられる人を私はドスト氏の他に知らない。
東京駅に六時に到着した。私は、パンとコーヒーと味噌汁を買ってきた。パラオは来なかった。送りにくると言っていたが、午前七時の出発であるので、私はアテにしてはいなかったが、やはり、淋しい気がした。新幹線が発車するまで、私は、窓に額を押しつけたままでいた。
ドスト氏は、座席を深く倒して眠った。偉いと思う。私は眠れない。こんなふうに、眠ったままで長崎へ行かれるなら、どんなにいいかと思う。
こんど、家人が同行したのは、私のほうの父方の墓まいりのためである。父方の本家は、佐賀の武雄と肥前|鹿島《かしま》の中間の塩田《しおた》町という所にある。帰りにそこへ寄ることになっている。こういう機会は滅多にはない。家人には、電車に乗れない病気があった。閉所恐怖症に鉄道病が加わったものであろうか。それを、私は、新幹線に乗せて、無理矢理、京都まで連れていった。十年ばかり前のことである。それから、だんだんに馴らしていって、岡山へも行った。こんどは大延長になる。ちょっとした冒険なのであるが、こういう際に、尊敬し、かつ、無限の安心感をあたえてくれるドスト氏が一緒であることが心強い。それに、私たちは、結婚満三十周年を迎えることにもなっていた。
ドスト氏は眠り続けていた。まるで、自分の家の布団をそこへ持ちこんできたように。
私も眠らなければいけない。そこで、ビールを飲むことにした。博多行の新幹線には美少女の売り子がいるという噂《うわさ》があった。彼女の姿を見て、声を聞くと、どうしても買わずにはいられないという。しかし、どうも、私たちの乗った新幹線には彼女は乗りこんでいないようだった。私は、狸《たぬき》の顔の売り子から罐《かん》ビールを買った。
それがいけなかったようだ。罐ビールを飲みほしたときに、急に歯が痛くなってきた。顔の左半面が脹《は》れてきた。
私には、いま、上の歯が無い。イレ歯がこわれてしまった。クシャミをすると飛びだすので、置いてきた。それくらいだから、噛《か》むということでは、まったく役に立たない。
上の歯が無いのに、上の歯が痛むのである。これは、歯が無いというのは言葉のアヤであって、奥歯が一本残っているのであるが、そいつが痛むのである。何が不都合かといって、こんな不都合があるだろうか。十本のうちの一本が痛いというのならば、まだ納得がゆくのであるが、一本のうちのその一本が痛い。もっとも、家人の母は、まったく歯が無いのに、歯が痛いような気がすると言ったことがあるそうである。
上には一本の歯しか残っていないという人の数は極めて少いだろうから、説明してもわからないと思うけれど、この一本の歯は、とても大事なのである。一本の歯があると、やわらかい肉なんかは、なんとか食べられるのである。神吉拓郎《かんきたくろう》さんがそれであって、イカのテンプラを食べると、キリトリ線のようになると言っていたのを何かの座談会記事で読んだことがある。イカは無理だろうけれど、舌と歯齦《はぐき》と一本の歯を巧みにあやつれば、まあ、相当なところまで、いける。そのために消化不良で下痢をするようなことはない。子供の頃から、よく噛んで食べるようにと教えられてきたが、あれは嘘ではないかという気がする。
しかし、その残った一本の奥歯が痛いのでは、どうにもならない。流動物以外は受けつけない。せいぜい、豆腐やプレイン・オムレツがどうかという程度だろうか。
人は、誰でも、それなら、なぜ歯医者の所へ行かないのかと思うに違いない。しかし、ここにも一場の哀話が存するのである。
永年、かかりつけの歯医者が病気になってしまった。腰が痛くて、去年の秋から歯科医院を休んでいるという。イレ歯がこわれてしまって、ついに、やっと決心して、家人に電話を掛けさせたときの応答がそれだった。私は肉体的にはずいぶん不幸な人間だと思っているが、このときも慨歎《がいたん》を新たにした。私のように不幸な人間は二人といないと思った。この歯医者は、私の信頼おくあたわざる名医だったのである。だましだまし、やってくれていた。
糖尿病患者の歯齦は、一週間で形が変ってしまうという。だから、歯医者なら誰でもいいというわけにはいかないのである。それに、私は、酒と煙草のために、たえず嘔吐《おうと》感があるのであって、口を大きくあけることさえ出来ない日がある。まして、型を取るなどは、よほど調子のいい時でないと駄目だ。だましだましでないといけない。従って、新しい歯医者だと、こっちにも遠慮がある。
むろん、私は、新しい歯医者を探すべく、研究もし、調査もした。なかなか、決心がつかない。
これは九州から帰ってきた翌々日のことになるのだけれど、仕事のことで、脚本家の早坂暁さんが拙宅に来られた。
「こんな歯で、みっともなくて……」
と、私は言った。
すると、早坂さんは、
「いやあ、私も同じです」
と言って笑った。本当に似たような状況だった。その笑顔がいけない。口を開いて笑うと赤ん坊の顔になってしまう。赤ん坊ならアドケナイ顔になるのであるが、五十歳を過ぎてアドケナイというのは気味が悪いというのと同じである。
私は、團伊玖磨《だんいくま》さんの話をした。
團さんは、外国で歯医者へ行った。全身麻酔で、全部の歯を抜かれ、上も下も総イレ歯になった。一夜でそうなった。麻酔からさめると外国語の発音がよくなっていた。
早坂さんは、その話を知っていた。私は、直接、團さんから聞いたのだけれど、早坂さんは團さんの書いたもので読んだらしい。
「あれはロンドンです。ロンドンの歯医者へ行って、一晩で、ぜんぜん痛くなくて、目がさめたら、イレ歯が出来ていたんです。それで、気がついたら、英語の発音が完璧《かんぺき》になっていたんです」
それから、早坂さんは、四国の山の中の町で、歯医者の村落があって、そこへ行くと、一週間で全てを直してくれるという話をした。
「四国の山の中というのが、ちょっと、こう、あやしいんですね。多分、技工士の集まっている町なんでしょうけれど……」
やっぱり、ロンドンがいいと言った。ロンドン、ロンドンと何度も言った。
「いくら金がかかってもロンドンへ行くべきなんですね。なにしろ、一晩ですから」
こういう人はロンドンへは決して行かないのである。
このように、研究し、調査はするけれど、容易には行動しないという人種は存在するのである。私のほかにも……。
[#地付き]●一直線に走る
新幹線という乗り物は、これは、いったい、何だろうか。
時速二百キロであるという。時速は二百キロであるが飛行機ではない。翼をつければ飛ぶというけれど、こんなものが飛んだって仕方がない。空港でも始末に困る。滑走路をうんと長くしなければならない。
汽車のようで汽車ではない。汽車というのは、山麓《さんろく》を縫うようにして走るのである。あるいはまた、海辺を、波打際の湾曲に従って、まがりまがりして進むのである。だから、うしろの車輛《しやりよう》に乗っていれば、先頭を行く汽鑵車《きかんしや》が見えるのである。あるいは、擦れ違った汽車が、いままで私たちの走った進路を教えてくれるようにして、いつまでも見えることがある。
新幹線ではそんなことはない。擦れ違ったら擦れ違ったっきりである。実にどうも薄情なものだ。
電車のようで電車ではない。電車とは町中を走るものである。顔を出すとあぶないなんて言われたものである。新幹線は、第一、窓があかない。
新幹線とは、まっすぐに進む乗り物である。いまでもあるようだけれど、私の子供の頃、ただただまっすぐに歩いてゆくという、運動のようなスポーツのようなゲームのようなものがあった。学校とか少年団とかボーイ・スカウトなんかでそれをやった。何という競技だか、名前は忘れた。塀《へい》があれば塀を乗り越える。川があれば川を渡る。マラソンでそれをやって、三時間でどこまで行かれたかを競うことがあるようだ。しかし、いまだと、よほどの田舎の学校でないとやれない。
新幹線はそれだ。町中でも田舎でも、かまわずに、まっすぐに進む。山があれば穴をあけて進む。海があれば潜ってゆく。とにかく一直線である。その感じが何とも剛情というほかはない。いい海岸があるから寄り道をしようという考えがない。その町の名城を見せようという思いやりがない。ただ、まっすぐに進む。情緒は皆無で、どこまでも一本の棒のような存在である。世界に冠たるものであるそうだが、どこの国だって、こんな変なものは造らない。
一直線に進むから、やたらにトンネルが多いのである。回避しようという考えがない。景色を見せてくれない。山と海とで起伏に富む日本国に一本の鉄の棒を差し渡したようなものである。
かくして、私たちの乗車した、ひかり一号は、午後一時五十六分に博多駅に到着した。
食堂車へは行かなかった。弁当も食べない。ドスト氏は酒も飲まない。前夜は、よっぽどシッカリ飲んだのだろう。
博多駅で、出島五号長崎本線に乗り換える。二時二十五分発である。
ドスト氏がマンジュウを五箇買った。三人で五箇だから、どういうふうに分けるのかと思ったが、彼は、一箇を食べて、また眠ってしまった。私は、一箇をちいさくちぎって口の中に放りこむようにした。マンジュウの皮がうまい。家人も一箇を食べ、残りの二箇も自分で始末した。
依然として私は眠れない。どうかしている。歯が痛い。顔がどんどん脹れてくる。永年の経験で、脹れきってしまえば痛みは止まるのだと承知している。
禿頭の人は臆病になるという。積極的になれないという。アデランスでもアートネイチャーでも、そういった意味の広告をしている。
私は禿頭である。従って、積極的な人生を送ることができない。
そのうえに、いまや、歯がない。人前に出るのが、とても厭《いや》だ。顔面が曲ってしまっていて、口を結ぶとポパイの顔になる。さらに、その顔の左半面が脹れているのである。残っている歯が痛い。
吉行淳之介さんが、こんなことを書いている。
「銀座の小さなバーにいたときに、どの程度悪いのかという質問を受けた。たまたま横に山口瞳がいたから、いいほうの眼で見ると山口瞳がいるなと思うけど、悪いほうで見ると、『あ、海坊主がいる』と思う、という程度に悪いのだと答えた。その話を、山藤章二が聞きつけて、逆にいうのも面白いという。つまり、悪いほうで見ると山口瞳で、いいほうで見ると海坊主に見えるというわけで、なるほどと思った。とにかく、その程度に悪い」(随舌・メガネ。『面白半分』七月号)
これは随舌だから、談話筆記だろう。吉行さんが自分の眼が悪くなったことを言っているのであるが、これでわかるように、悪いほうの眼で見ても海坊主であり、いいほうの眼で見ても海坊主である。これは現実である。吉行さんも山藤さんも、文壇・画壇を代表する美男子であるが、金持ちが腹の中では貧乏人を軽蔑《けいべつ》しているようなものであって、これはこれで仕方のないことである。泉鏡花の芝居で、海坊主が芸者買いをするのがあったと思うが、とうとう、あれになったかと思った。誰を恨むという筋合いのものではない。
私は海坊主(海上にあらわれる、頭が丸くて毛のない、不吉なバケモノ)である。その海坊主に歯が無くなった。さらに顔の左半面が醜く脹れあがっている。これでは積極的な人生を送るわけにはいかない。人前には出られない。
この状態で、長崎本線に乗っていて、これからの七日間の人生をどう過そうと考えたか。
人は、色気よりも喰い気のほうが勝るという。色気は、もう、あきらめた。喰い気のほうも、断念するというより不可能になってしまった。喰い気よりも眠気のほうが強いという。拷問《ごうもん》には、食物をあたえないよりも眠らせないほうが効果があるそうだ。眠ってしまえばいい。
しかしながら、ここに、痛いということが加わってくる。歯が痛い。実際に、相当に痛くなってきた。眠るためには痛みを消さなければならない。眠ってしまえば痛さを感ずることはないとも言える。食欲も消える。眠るためには酒を飲むのが一番いい。歯が無くても、酒を飲むことは出来る。
酒を飲めば、さらに歯が痛くなる。充血するから、多分、そうなると思う。しかし、このへんは程度の問題であって、酒を飲んだために、決定的に、うんと歯が痛くなるというようなことはない。自慢じゃないが、そこらへんの歯痛と私の歯痛とは違うのである。私のかかりつけの歯科の名医は、酒なんて問題じゃありませんと言っていた。名医たるゆえんはここにもある。
飲んで、ぶっ倒れて眠ってしまえば、色気も喰い気も痛さも消えて飛んでしまうのである。私は、そう、決意した。その結論に達するまでには、新幹線と長崎本線とで、しかし、かなりの長時間を要したのである。言ってみれば、これは、人生観の問題である。
[#地付き]●神も仏も
五時二十二分に長崎駅に到着した。ホテルまで七、八分。家を出てからのことにすると、実に、十二時間半の長旅であった。
長崎の人にはセンスがないと言う人がいる。それは、長崎駅前の巨大複雑な歩道橋を見ればわかるという。私はそうは思わなかった。私のほうが不感症になっているのかもしれない。
家を出るときは、靄っていて小雨模様であった。家人は天候を心配していた。旅馴れない人間は、すぐにそんなことを思う。雨が降れば降ったで、少しもかまわないのである。
私は、変なもので、旅行に際しての天候には絶対の自信がある。台風シーズンに旅行して、台風を追いかけるようにして進み、あとから来る次の台風に追いかけられるようにして旅をしていって、ついに一度も雨に降られなかったということさえあった。雨男ではない。家人は、長崎が晴れているかどうか、それを何度も口にした。しかし、大阪、岡山、広島と進むに従って、雲がきれ、長崎では快晴になった。実際に、長崎でも佐賀でも快晴続きだった。
オランダ屋敷に雨が降るとか、長崎は今日も雨だったとか、雨の歌が多いが、本当は、長崎は渇水の地なのである。従って、水が悪い。それに、こんなに急な坂の多いところで、もし、長雨が続くとすれば、鉄砲水その他の被害が生ずると思う。
出発の前、佐賀県出身の女友達が、こんなことを言った。
「佐賀の男っていうのはね、親切で、優しくって、繊細で、よく気がついて、とってもいいのよ。わたし、好きだわ。それに美男子が多いの。凜々《りり》しい感じでね、眉が太くってね、男らしくて、豪快で、とっても素敵なの。東京人と似ているところもあるのよ。なにしろ、優しくって男らしいっていうのはいいでしょ。ひとつひとつ、どこを取っても、すばらしいのよ。だけどね、全体として田舎臭いの。ひとつひとつは都会的なのね。だけどもね、全体として、どことなく、田舎臭いのよねえ……」
私は、これは、九州北部の男をあらわす言葉として名言だと思う。かりに、東北人は、こうはならない。どこかが陰湿である、よくもわるくも……。優しさがストレートにあらわれない。
文壇で言っても、火野|葦平《あしへい》、檀一雄《だんかずお》など、そんな感じがする。ひとつひとつ、どこを取ってもいいのだけれど、全体として垢抜《あかぬ》けない。私は、彼女の言うところの田舎臭さが好きである。本当に、檀さんぐらい、一緒に酒を飲んでいて愉快な人はいなかった。
ホテルに着いて、二十分後に、ドスト氏の部屋をノックすると言った。それは、ちょうど、六時だった。
私は、アンノン族の愛読する『ブルーガイド パック 36 長崎・平戸・五島』を持って外へ出た。それはパラオが買ってきてくれたもので、いろいろ、親切な書きこみがあった。
はじめての土地では、どうしても、最初は、おっかなびっくりになる。それで、地図で見るのとは違って、どこもかしこも近いので、驚いたり安心したりするのである。
浜市アーケード街を歩いているうちに、六時半になった。まだ明るい。
「日が長いだけ、物価が安いはずです」
と、ドスト氏が言った。ときどき、わからないことを言う人である。電気代が節約になるということであろうか。あとでわかったことであるが、繁華街の商店でも、七時になると、どんどんシャッターをおろしてしまう。八時になれば、あらかたの店は、しまってしまう。
私は、別の案内書に出ている、狐狸庵《こりあん》先生御愛用という寿司屋へ行った。長崎なら、遠藤周作さんか、戦艦武蔵とシーボルトの吉村昭さんだろう。たしか、吉村さんが、思案橋の近辺なら、どこでもうまいと書いていたように思う。私は、遠藤さんのほうを選んだ。その店は、レストランの銀嶺《ぎんれい》の裏にあった。
「遠藤さんのお見えになる店だと聞いて来たのですが……」
私は、山口|崇《たかし》に似た男前の主人に言った。その日の客は、閉店間際に来た、品の良い老夫婦と私たちだけだった。
「へえ……」
主人は、美男子であるばかりでなく、声もよかった。私たちは、その後も、木曜日の休日以外はその店へ通うことになった。岡山に日本一の寿司屋があるということで、私も行ったことがあるが、私の好みで言うならば、こっちのほうがいい。すなわち、私にとって、日本一である。第一、静かで、店がちいさくて、落ちついていて、清潔なところがいい。
「ちょっとうかがいますが、遠藤さんの奥様もお見えになりますか」
「へえ。二度ばかり、お見えになりました」
私は、すっかり安心したし、いっぺんで信用した。遠藤さんの舌を信用しないというのではない。このへんは、私のカンだということになろうか。
私は、強《したた》かに飲み、ホテルのバーでも飲んだ。私の策戦は成功した。歯は、ますます痛むのである。しかし、眠ってしまえば、何もわからない。私は、ぶっ倒れて眠った。
出発の前、五月十一日は梶山季之《かじやまとしゆき》が死んで満四年の記念日になっていた。この日、私は、会合のあと、新宿で飲んでいて、吐いた。こんなことは滅多にあることではなくて、友人に、冗談のように、どうも気分が悪いと言って洗面所に駈けこんだ。それが三度になった。どうやら、家で食べた葛餅《くずもち》が悪かったようだ。
すでにして糖尿病がある。これが諸悪の根源であるが、肝臓だっていいわけがない。そのほか、どこもかしこも、よくない。まったく意気あがらない。どこが悪いというのではなく、全体に綻《ほころ》びてしまった。
歯にしたってそうだ。残っている一本が痛いというのは嘘のような話だし、神も仏もあるものかという気がする。それで、間もなくその一本も抜けるだろうから、ついに、やっと解放されるのだという思いが濃い。何か天国が近くなったような気がする。そうなのだ。歯痛からやっと解放され、そのあとに、もっと大きな解放がやってくるという思いがあり、そのことが少しも不自然に感ぜられない。
[#地付き]●愚かな日本人
五月十七日。この日は、諫早《いさはや》の野呂さんが長崎の町を案内してくれることになっていた。
午前十時に迎えにきてくれるということで、七階の食堂にいて、二、三分前になったので、ロビーへ降りていこうと思って、立ちあがり、ふりむくと野呂さんが立っていた。
野呂さんは、まず、十人町へ行きましょうと言った。
私たちは休み休み歩いた。そのように、坂は急だった。五十メートル歩いて休み、次の三十メートルでまた小憩止した。どうやら、山手地区と呼ばれるところがどこでもそうであるように、富める人と貧しき人とが道一本をはさんで、同居しているような隔絶されているような形で住んでいるようだった。
野呂さんが、最初にここに案内してくれたのは、私たちが絵を描くことを知っていたからだった。彼自身、スケッチブックと4Bの鉛筆を持っていた。
「階段を上から描くと、階段が見えなくなってしまう」
と、ドスト氏が言った。
そうかといって、見上げると息がつまるようになる。こちらも息がつまり、絵もそんなふうになるだろう。また、急坂に腰をおろして絵を描くと、何軒かの家のなかが見えてしまう。この日も快晴で、どの家も窓をあけはなっていた。もう、夏になっていた。気温は東京の夏と同じで、日射しはさらに強く、そこへ海からの風が吹いていた。
長崎の町の大いなる特徴は、ちょっと高い所へ登れば、ほとんど町全体が見渡せるということだろうか。そうして、海が見える。また、下から見ると、耕して天に到るという按配の家並みが上の上まで見渡せるのである。
十人町では絵が描けないというのではなかった。どの路地も描けそうな気がする。良すぎて困るということになる。それで、どこも、少しずつ何かが足りないというふうにも思われた。こういうところは、やはり、住みついてしまわないと描けない。とくに、家の混《こ》みあっている町中においては……。私は、歓迎と拒絶とを同時に感じた。それが町だという気がする。
それから海星高校のほうへ行き、活水女子短大へも行った。この建物がいい。休み休み歩いた。野呂さんは、これがオランダ坂と言うときに、照れ臭そうにした。
唐人館を経て、弁天橋を渡った。この大浦川の両岸に、外国人用の木造のホテルが建ち並んでいたという。とても良かったという。それは野呂さんの高校時代までのことである。私も、とても良かっただろうと思った。弁天橋の上で、こうもあったろうかと想像した。それは私の絵心を刺戟《しげき》するに充分過ぎるほどだった。しかし、眼前にそれがあるのではない。
十六番館へ行き、煉瓦造り三階建てのマリア園へ行った。野呂さんは、グラバー邸、リンガー邸、ウォーカー邸などのあるグラバー園(明治村のようなところ)へ案内するのを躊躇《ためら》うようなところがあった。京都の人が金閣寺や苔寺《こけでら》へは連れていってくれないのと似ていると思った。だから、大浦天主堂へは行かなかった。また、実際に、大浦天主堂の入口には、修学旅行の高校生が、うんざりするような長い列をつくっていた。
自動車に乗って諏訪《すわ》神社へ行った。「長崎くんち」で有名な神社である。これは私のほうの希望によるものだった。諏訪神社へ行きたいのではなくて、そのあたりに骨董《こつとう》屋があると聞いたからだった。私は記念にビイドロを買いたいと思っていた。安物のグラスと蓋物《ふたもの》を買った。家人は首飾りを買った。そこで「古美術長崎店案内」というパンフレットを貰った。これはとても便利に出来ていた。私たちは中心地に引き返して骨董屋を歩いた。
夜は卓袱《しつぽく》料理で有名な店で食事をした。卓袱料理というのは、一度食べればいいというような料理の代表的なものである。あるいは、吉田健一さんのように、それを眺めながら酒を飲むというようなものであろうか。
野呂さんとドスト氏とで、射撃の話をしている。野呂さんは自衛隊の出身であり、ドスト氏には外地での軍隊経験がある。私は、早稲田大学の歩兵砲研究会に所属したことがあるが、不勉強であったので、何のことか、さっぱり要領をえない。それに、目の前の酒を飲むのがいそがしい。
「キョーサ射撃というのは……」
ドスト氏が私のほうを見て言った。
「ほら、女だってそうでしょう。まず一発射ってみる。それで見当をつけるでしょう。遠いか近いか……。それで距離を縮めていって、命中させる。女の人にだって、そうするでしょう」
ホテルに戻って、バーへ行った。野呂さんは、珍しくウイスキイを一杯だけ飲んだ。彼は、自分がウイスキイを飲んだことを東京の人たちに言わないでくれと言った。秘密にしてほしいと言う。変なことを言う人だ。十時過ぎに諫早へ帰った。
斎藤茂吉は長崎時代に多くの歌を詠んでいる。大正九年のものに、こんな歌がある。
友二人もつひに帰りぬはりつめし
心ゆるみて水を飲むなり
私たちが帰ったあとの野呂さんの心境がこれではなかったかと思われる。
翌日の五月十八日。寺町を歩いた。禅林寺、深崇寺、三宝寺、興福寺、延命寺、長照寺、皓台寺《こうだいじ》、大音寺、大光寺、崇福寺の順に歩いた。新幹線に乗って、広島を過ぎるあたりから、寺の形が何か中国風になってゆくのを感ずるのであるが、長崎へ来て、ここにきわまったという思いをする。農家についても、私はそんなふうに思う。
グラバー園へ行って、ほぼ頂上のあたりから、三菱《みつびし》造船所を見下す位置で絵を描いた。
地方都市へ出かけていって絵を描くときに、ひと目で長崎とわかる風景を描くべきなのか、それとも、絵としてこちらの琴線に触れるような風景を選ぶべきなのか、いつでも迷ってしまう。こんどは、私は、前者を選んだ。
団体客が多い。それも、中国人、韓国人の観光客が多いのに驚かされる。私の絵をのぞきこんでいる人たちの囁《ささや》きが異国の言葉であるので、何度もびっくりした。顔とか服装では、私にはわからないのである。
長崎ヘ来て、もっとも強く感ずることは、人類の歴史は破壊の歴史ではないかということである。人間の仕業というのは、なんと愚かしいものであるかと思う。
たとえば寺町であるが、そこから眼下に中島川が見え、眼鏡橋ほかの石橋群が見えたはずである。むろん、そこからも海が見え、出島も見えたのであるかもしれない。思っただけでも胸が騒いでくる。いま、それが、見る影もない。どうして、こんな愚かなことをしたのかと思う。すなわち、奇怪とも何とも言いようのない、醜悪とも言えないような近代建築が眺望をさえぎってしまっているのである。大浦川の岸のホテル群にしてもそうなのだ。保存をする手立てはなかったのだろうか。
風景に関して言うならば、長崎にかぎらず、どの町も、どんどん悪くなってゆく。これは、誰でもそう思うだろう。しかし、一方で、欧米諸国は、そうはなっていない。どんどん悪くなるということはない。悪くなるにしても速度が違う。パリでもロンドンでも、そうではない。英国の郊外の風景は、依然として、英国の郊外である。
破壊の底に、人間の欲望が蹲《うずくま》っている。日本は好きだけれど日本人は嫌いだという言い方があるが、私も本当に日本人は嫌いだ。一度名所と名がつけば、たちまちにして破壊されてしまう。
石川|滋彦《しげひこ》さんに「長崎」という有名な絵があって、これは、まさに、グラバー園のあたりから、長崎の市街を見下した大作であり、活水女子短大も出島岸壁もあり、私の好きな作品であるが、この、まことにリアルに描かれた絵を見て長崎を訪れた人は、大きな失望を味わうことになる。実は、私もその一人である。
数年前から、長崎と聞けば、常にこの絵が私の心に浮かんだ。それが、いまは、見るかげもない。私は、石川さんの立ったあたりに立ってみたいと思った。そうして、現実に、そこに立ったのである。私のひとつの夢が実現し、ひとつの夢が、たちまちにして消し飛んだ。
「愚かだなあ……」
と思う。日本人は愚かだと思う。石川さんの絵は、昭和三十年代の半ばに描かれたものである。あれから、何年も経っていないじゃないかと思う。そのあいだに、戦争があったわけでもなく災害に見舞われたのでもない。実に、日本国は大いに繁栄したのである。繁栄と同時に破壊が進行し、めちゃめちゃにしてしまった。
[#地付き]●猛虎を放つ
五月十九日。この日は自由行動ということにした。午後六時になったら、部屋をノックしますから、それまでは、寝るなりなんなり、自由にすることにしましょうとドスト氏に言った。私たちは疲れていた。
午後になって、私は、眼鏡橋を描きに行った。ひと目で長崎とわかるというアレに従ってみた。
眼鏡橋は、興福寺の住職が寛永十一年に建造したものだというが、描いていて、私は、これは西洋建築だと思った。私にその方面の知識があるのではなく、外国へ行ったこともないのであるが、感覚が日本ではないと思った。また、かなり、これはぞんざいな造り方だとも思った。そこに、ひとつの味がある。シンメトリーになっていない。当時の人は、だから近代建築は困ると思ったかもしれない。
前夜も泥酔したが、気分はそれほど悪くはない。歯痛はいくらかおさまってきた。ということは、顔が脹《は》れあがっているということでもある。私は、長崎チャンポンも皿ウドンも食べなかった。|内田百※[#「門がまえ+月」]《うちだひやつけん》先生は、間口のあるものはいいが奥行のあるものは駄目だと言ったという。これは歯の悪い人にはすぐに理解がゆくと思われる。案外にメン類などが具合が悪いのである。ソバなんていうのは、奥行だけが異常に長い食物である。
長崎の太陽は常に頭上にあるというような気がする。太陽が東から出て西に落ちるという感じがない。北海道の網走《あばしり》でもそういうことを感じた。これは私が間違っているのだろうか。東西南北の感覚が掴《つか》めないのである。絵を描いていて、眼鏡橋の影は常に真下にあるように思った。
ホテルに帰り、六時にドスト氏の部屋に電話を掛けた。応答がない。これだから困ると思った。目がはなせない。
それでも、六時半を過ぎて、ドスト氏は、息せききってという感じで、私の部屋へやってきた。
「島原へ行ってきたんです」
「よく行かれましたね」
「失敗しちゃって……迷っちゃって」
「…………」
「駅前で、五番のバスに乗るようにって教えられたんです。それで五番のバスに乗ったら、どんどん変なほうへ行くんですね。ですから、三十分ぐらい乗って、タクシーで行ってきました。反対方向へ向っていたんですね」
「タクシー代が大変だったでしょう」
「それがね……」
ドスト氏は、年代物の素敵なビイドロをポケットから取りだした。
「いくらだか、当ててみてください」
私は、手に取って見た。琥珀色《こはくいろ》のその色が深い。高さは七センチぐらいで、鉄の輪がくいこんでいる。
「七万円……」
敬意を表して、高目に言ってみた。
「そう思うでしょう。七千円です。じっと見ていたら、五千円に負けてくれました。タクシー代なんて、なんでもありません」
「…………」
「島原の文化財のほうの人が困るんじゃないかなあ。こんなのを持ちだされちまって」
私たちは、いつもの寿司屋ヘ行き、骨董屋めぐりをしてホテルに帰った。時刻は九時になっていた。
電話が鳴った。ドスト氏が出た。
「少餡《しようあん》が来るっていうんです。駅からの電話です」
私たちは、あわてて、フロントへむかった。
その少餡があらわれない。彼が来たのは十時だった。
「どうしたんです」
「長崎中の骨董屋を廻ってきたんです。先生方の下調べをしておこうと思って……」
「やっていなかったでしょう」
「じぇんぶ、しまっておりました」
「この町は、しまるのが早いんですよ」
少餡は、岡山で知人の結婚式に出席して、新幹線に乗ってやってきたのである。ネクタイをしめているわけがそれでわかった。
「博多からの長崎本線の三時間が退屈で退屈で……」
翌日の五月二十日、日曜日。少餡とドスト氏と三人で、活水女子短大の脇のオランダ坂と十二番館を描きに行った。こうなれば、徹底して名所絵ハガキでゆくつもりになっていた。
この日も快晴で暑かった。自動車で行った。ドスト氏が前に乗った。そこでは、強い冷房が噴出していた。
「よう冷ゆるとですよ。子ダネがなくなるごと……」
運転手が言った。
十一時から、午後四時まで、およそ五時間、私たちは坐りっぱなしだった。少餡に木蔭《こかげ》で昼寝をするように言ったが、彼は眠らなかった。その間、彼が何をしていたかというと、猫がトカゲをとるのを観察していたのである。
このあたり、ひっきりなしに観光客が訪れる。観光タクシーが着く。そのために、活水女子短大の歴史を暗記させられてしまった。
「青山学院と姉妹校でありまして……」
関東からの客であれば、まず、そこから始まる。
それが長崎での最後の夜になるのだから、私たちは、ホテルでバスをつかい、いつもの寿司屋へ向った。家人は、見たことのない洋服を着ている。私たちが絵を描いているときに買ったものらしい。そう思ってみると、髪に鼈甲《べつこう》の櫛《くし》をさしている。結婚三十年の記念に、長崎へ行ったら、鼈甲を買うのだと言っていた。
「それから、これ……」
ビーズのハンドバッグを持っている。
「これもね……」
ネックレスを示した。どうやら、それはダイヤモンドではなくてガラスであるようだ。
「だって、記念ですもの」
九州の山持ちである少餡のような人に食事を奢《おご》るのは、まことに気持がいい。
「どんどん食べてください」
主人が特別に用意してくれていたマナガツオの味噌づけがうまかった。最後だから、盛大に飲んだ。
なんだか、悪い予感がしてきた。家人が酔ってきたようなのである。こういうことは夫婦でないとわからない。
「おそろしいことになりますよ」
私はドスト氏に言った。
五年ほど前、家人と二人で銀座の小料理屋で飲んでいた。その日、私は胃の調子がわるくて、あまり多くは飲めなかった。そのぶんだけ、家人が飲んだ。なにしろ、いちど酔いつぶれてみたいと言っているくらいに、強いことは強いのである。
胃の薬を買ってきてくれ、と、私は家人に言った。
「いいの? 虎を野に放つようなものよ」
そう言って、家人は出ていった。薬局はすぐそこの角にあるのに、なかなか帰ってこない。……帰ってきたとき、家人は、違うドレスを着ていた。それ以後、銀座で二人で飲まないことにしている。
どうも、ちょっと、上っ調子になっている。これは、例の酒癖が出そうだぞと思った。
ドスト氏と私とは、銀嶺のそばにある西洋骨董の店に用事があった。私のほうは、友人の新築祝いのために目をつけている品があった。そういうめぐりあわせになっていたのだから仕方がない。
これからあとのことを書くのは、おそろしい。しかし、書かなければ、何のことかわからなくなってしまう。
「これとこれとこれ……」
と、家人が言った。
「それから、これも……。ねえ、記念だから、いいでしょう」
毎日のように行っていた店だから、おおよその品の見当はついている。ちょうどその日、英国製の飾り棚が到着していた。中央のステンドグラスが素朴で、いいことはいい。
「運賃着払いでね……」
とか何とか言っている。
ああ、やっぱり、残余のことを書く勇気がない。これは家人が悪いのではない。酒癖が悪いのである。
「パパが銀座で飲まなければ何でもないんですよ」
「…………」
「だって、記念ですもの」
ドスト氏と家人との会話を夢うつつのようにして聞いている。あの新聞連載、やっぱり引きうけようか、などと、私は、ぼんやり考えている。……銀座で飲まなければ……。江戸の仇《かたき》を長崎で討つというのはこれだなと酔った頭で考えている。
五月二十一日。この日は塩田町へ行って墓まいりを済ませ、嬉野温泉に泊った。
五月二十二日。武雄から博多行の列車に乗った。博多で少餡と別れ、彼は大分の自宅へ帰ることになる。
この列車は佐世保からのもので、肥前山口で長崎本線と接続することになる。そこで五分停車ということになるのであるが、長崎本線が遅れているようだった。
少餡と私とが、プラットホームへ出た。このあたり、一面の麦畑である。黄色いのはビール麦である。田植えは遅くて六月二十日頃であるそうだ。快晴がまだ続いていた。
疲れているのに、体がゆらゆらと揺れているようで、いい気分である。体全体が、このまま融《と》けてしまいそうな気がする。眠いような、そうでないような。
長崎本線の列車が、麦のなかを、大きな陽炎《かげろう》を押しわけるようにして、ゆっくりと迫ってくる。列車もまた揺れている。揺れながら、ゆっくりと進んでくる。
「麦の秋で一句できないの?」
昨夜の猛虎が窓をあけて言った。
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浦安、橋の下の夏
[#地付き]●なぜ浦安なのか
浦安へ行くことになった。これは後でわかったことであるけれど、浦安とは、地下鉄東西線の快速に乗車すれば、日本橋から十八分で到着するのである。山本周五郎がこれを聞いたならば、何と言うだろうか。
昭和三年、山本周五郎は、二十五歳のとき、浦安にスケッチ旅行に出かけ、そのまま住みついてしまった。当時、彼は、蒸気河岸から船に乗り、高橋《たかばし》にあがって、市電に乗って通勤していた。交通機関はそれしかなかった。到着は昼過ぎになった。そのために、彼は馘首《くび》になってしまった。
ただし、この話を、そのままに受けとってはいけない。山本周五郎は、毎日、綿密な日記をつけ、ノートを取った。町の人の片言隻句《へんげんせつく》をこれに書きつけた。町中を歩き廻って、風物をスケッチした。他日に期するところがあったからである。この、一年有余の長い取材旅行が、昭和三十五年の『青べか物語』となって結実することを多くの人が知っている。失意の時ではなく、作家の幸福とはこれだろうと私などは思う。したたかなものを感じないわけにはいかない。
浦安は、千葉県であるが、もっとも東京寄りに位置している。旧江戸川にかかっている浦安橋は、そのほぼ中央と思われるあたりに線が引いてあって、こちら東京都、こちら千葉県と書いてある。後に、ドスト氏は、その線の上に立ち、大股《おおまた》をひろげ、右足が東京、左足が千葉と言い、それから、おもむろに、自分の股間《こかん》を眺めたのであった。
なぜ浦安へ行くのか。それは私にもわからない。日本橋から十八分、私の家からすると、国立《くにたち》駅から中央線に乗り、三鷹《みたか》駅始発の地下鉄東西線に乗りかえて、浦安まで一時間半をみればいいだろう。こういうものが旅行と言えるだろうか。しかも、八月中旬の、もっとも暑い十一日間をそこで過ごそうとするのである。海水浴にあらず、釣にあらず、貝掘りにあらず、ボート遊びにあらず、まして女遊びを目的とする者ではない。
以前、私が競馬に狂っていたころ、中山競馬場へ行くときは、主に地下鉄東西線を利用していて、葛西《かさい》、浦安、行徳《ぎようとく》のあたりを通るたびに「ああいいな……」と思ったものである。自動車で行くときは、木場のあたりも、いいな、と思った。何がいいかと言うと、このへんを絵に描いたらいいなと思った。いつでも、私は、電車や自動車の窓に額をこすりつけるようにして景色を見ていた。いいなと思う景色は、須臾《しゆゆ》にして通り過ぎていった。私は、生涯、自分がそこに降りたって、そこで絵を描くことはないと思っていた。そういう願いは叶《かな》うまいと思っていた。あたかも、それは、町ですれ違うところの美少女に似ていた。彼女と私とは、同時代に生きたという関係にとどまるのである。
じゃあ、どこがいいかというと、川があって、漁船があって、釣船があって、べか舟のあるところがいい。工場があって、その工場の高い塀《へい》が延々と続いていて、道に埃《ほこり》が舞いあがっているところがいい。古い工場と古い塀と人の通らない道。夏草の茂る土堤《どて》。その突端で一人で釣をする少年。船宿と、曲りくねった旧街道。……ああ、私には、もう書けない。私は、こういうところに住みたいと願ったものである。この町には匂いがあるはずである。山本周五郎とは関係なく。
恥ずかしながら、競馬歴三十年。中山競馬場へはずいぶん通ったものである。そのたびに、ああいいなと思い、心がそっちへ行ってしまうものだから、なんだか馬に悪いなと思ったこともあった。
日本橋から浦安まで地下鉄で十八分であるが、早朝とか深夜に、浦安から湾岸道路で自動車を飛ばせば銀座まで二十分、ゆっくり走っても二十五分ということを、私は、|わけがあって《ヽヽヽヽヽヽ》知っていた。浦安に住みついて、何喰わぬ顔で、毎夜、夏の銀座に出没するのも悪くないと思った。
わけがあってというのは、こういうことである。
この春、私は、ある文学全集の山本周五郎の巻の装画を依頼された。周五郎であれば浦安でなければならない。奇貨|居《お》くべしとはこのことか、むろん、即座に引きうけた。柳橋とか佃島《つくだじま》とかも一候補であるが、叙上のようなことがあるから、私の場合、浦安だと言った。私は浦安に五泊した。宿泊したのは、浦安温泉旅館株式会社の一室である。五泊六日のうち、最初の一日は場所探し、一日は雨、残り四日間を、私は、旧江戸川と境川とが接するところの水門附近に通った。なにしろ、私の絵は、見えるところのものは全部描くという式の絵である。遠くに小間物屋がある。そこで帚《ほうき》を売っている。その帚の目まで描いてしまう。赤や青のゴムホースがある。それも描く。魔法瓶《まほうびん》を売っている。それがタイガー魔法瓶か象印であるかを区別して描く。だから、時によって、望遠鏡を使う。あるいは、五十メートルの距離を歩いて見てくる。すべての芸術の極致はリアリズムであると信じて疑わない。リアリズムと感傷主義である。従って、雨の日を除く、四日間、午前十時から午後四時まで、描きづめに描いていた。こんなふうだから、浦安の町をほとんど知ることなしに終った。知ったのは、朝食のための喫茶店、昼食のラーメン屋の朝日会館、夕食の寿司屋、水を貰い便所を使い椅子を借りた釣宿の吉野屋(すなわち「千本」の長《ちよう》の家)だけだった。浦安温泉旅館株式会社は、つまり、素泊りにしてもらったのである。
夕食のための寿司屋で、私は、タネをどこで仕入れるのかと訊《き》いた。浦安には寿司屋が多い。それも、うまい店が多い。昔からそうだという。寿司屋の職人は、築地《つきじ》で仕入れてくると言った。私は、ちょっとガッカリした。その際に、浦安から築地まで、湾岸道路を通って二十分という話を聞いたのだった。
もうひとつ。やっぱり、『青べか物語』のことがあった。浦安へ行って『青べか物語』を読む。これがあった。多分、十回目ぐらいになるのだけれど、私は、読むたびに、頬げたを引っぱたかれるような思いをする。こうしてはいられないと思う。これが小説なんだと思う。そのことについては、これ以上のことは書かない。
それにしても……と、私は思う。浦安に十泊十一日間。これがわからない。なぜ、川と漁船と釣宿と、工場と工場の塀と、夏草の茂る土堤と、何十年間も置きっぱなしにされていたような町に惹《ひ》かれるのか。それが、わからない。
[#地付き]●柳橋から
柳橋から船に乗って行こうと言いだしたのは、臥煙《がえん》である。
彼には、何と言うか、こういう傾向のようなものがある。物事をお祭り騒ぎにしてしまうことに長《た》けていると言えばいいだろうか。そうして、よくよく考えてみると、彼の案は、悪くないのである。ついつい、乗せられてしまう。
日本橋から十八分のところへ、柳橋から一時間かけて船で行くというのは、これは酔狂というものではなかろうか。酔狂は嫌いではないが、私など、すぐに費用のことを考えてしまう。
「待てよ……」と、私は考える。「まさかボートでは行かれない。船宿で釣船を頼むとして、釣船ならちいさくても二十人乗りだ。一人分二千円としても四万円。船頭の祝儀、ビール、酒などの飲みもの、酒の肴《さかな》。こりゃあ、五万円仕事だぜ」
私は、さらに思い悩む。
「船宿でテンプラを用意するかもしれない。柳橋だから芸者を乗せようと臥煙が言いだすかもしれない。タハッ……。浦安はいくら近いからといっても、なにしろ十泊十一日だ。ドスト氏と二人で、一日一万円であげても十万円。それに、夜な夜なの銀座がある。客が来るやもしれぬ。客が来れば、こっちの奢《おご》りだ。あの寿司屋は、決して安くはない。……それに、第一、地下鉄で二百円もあれば行けるところに五万円もかけるとは……」
また一方で、銭のことを言っちゃいけないという声がある。ともかく、酔狂をやろうっていうんだから……。臥煙はそう言っているのだから……。
結局は私は臥煙の提案を呑むことになった。臥煙にかぎらず、私は、他人の意見には弱いほうのタチである。
「そのかわり……」と、私は言った。「あなた、船のなかで、梅は咲いたかの二番を歌ってください」
臥煙はそれを知らなかった。
※[#歌記号]柳橋から
小舟で急がせる
舟はゆらゆら 風次第
岸から上って 土手八丁
吉原へご案内
「……というんですがね」
「知りませんね」
「じゃあ、勉強したまえ」
臥煙が姿を消した。というのは、出発の前日で、すでに臥煙は船宿の手配を終っていて、ドスト氏との別れを惜しむ十数人で、中華料理店の二階で酒盛りをしていたのである。旅行に行くと、その第一日目に飲みすぎて、いきなり重病人になってしまうのであるが、今回は前日から重病人になった。
「いやあ、探した、探した……」戻ってきた臥煙が言った。「本屋になくて、レコード屋にあったんです。恥ずかしいのなんのって」
彼が買ってきたのは『お座敷歌謡集』という書物である。端唄・小唄・俗曲の部にそれが出ている。
「そりゃ、幇間《ほうかん》の芸だからね」
その書物には三番も出ている。これは私も知らなかった。
※[#歌記号]姉はらしゃめん
妹はなんじゃいな
親父《おやじ》ゃ女衒《ぜげん》で 金次第
兄貴ゃぐつぐつ
酒ばっかり しょんがいな
おそろしいような歌である。おそろしくデスペレートしていると思った。
翌日の正午、ドスト氏と私とは慎重社に到着した。万一ということがある。時化《しけ》であれば船は出ない。雨でも困る。慎重社は神楽坂にある。神楽坂から地下鉄に乗れば浦安まで三十分。そういう配慮があった。
慎重社の剛氏を誘った。二十人以内であれば費用は同じである。誰でもよかった。たまたま、剛氏が出てきて、ひっかかった。
「柳橋から小舟で急がせる。舟はゆらゆら風次第。岸から上って土手八丁。吉原へご案内。……という寸法です」
「へっ! 吉原!」
剛氏が椅子から飛びあがった。
「安心してください。吉原へは行きません。浦安です」
どうも、調子が狂ってしまった。私は、どちらかといえば、沈痛なものを求めて浦安へ行こうとしていたのである。殴られたいと思っていたのである。
ドスト氏と私、慎重社の剛氏と臥煙とパラオが二台の自動車に乗った。船は一時に出ることになっている。
柳橋の船宿、井筒屋の井筒屋丸は、すでに船頭が乗りこんでいた。私は、あわてて、酒とビールを頼み、同じく隣の船宿の小松屋へ走っていって佃煮《つくだに》を買った。ここの佃煮はうまい。アナゴにハゼにキャラブキにアサリ。アサリは、いまが時期であるという。私は佃煮にも旬《しゆん》があることを知った。
臥煙が井筒屋で酒の肴を注文している。彼は、駅の売店や酒屋で売っている、カキノタネとピーナッツの詰めあわせとか、品川巻とか、サキイカとか、酒の肴と言ってもそういうものなのであるけれど、そういうものを買うことにも長じている。彼の場合は、珍味アワビの燻製《くんせい》真空パック入り二百八十円とか、ノリのテンプラ塩味百七十円といった凝ったものを買う。それが、なかなかにうまいし長持ちするから妙だ。
弁当は鮭《さけ》弁当二百五十円、稲荷《いなり》寿司とノリマキの詰めあわせ二百円の二種類であったが、少考の後、私は、お稲荷さんのほうを選んだ。なにしろ、初日で五万円の出費であるから倹約しなければならない。しかし、すぐに、五万円の出費なのだから五十円の差を惜しむテはなかったとも思った。
「道中、ご無事で……」
とパラオが言った。彼は、仕事の都合で、この日は来られないのである。
「くれぐれもお気をつけになって……。ウッウッウッ……」
緊張すると咳《せき》が出る。喉《のど》の奥が鳴る。
「おい、あぶないよ、パラオは」
船は岸を離れていた。パラオは船着場の柱に、鳴神上人のように巻きついて、身をのりだして手を振っている。……かと思うと、次には川に突きでた船宿の窓から首を出す。変幻自在である。
それで思いだした。
七月の何日だったか、隅田川で川開きのあったとき、私の女友達が、彼女の知人たちと柳橋から船を出した。
「それが午後の二時ごろだったのよ。カンカン照りでねえ」
「川開きの日は高かったろう」
「五十万円なの。二十人乗りで……」
「一人二万五千円か。まあ、そんなもんじゃないか。弁当つきだろう」
「お弁当は立派なの。幕の内弁当の大きなようなもんで、なんでもかんでもギュウ詰めになっているのよ」
「それなら上等だ」
「それがねえ、二十人のつもりが、六人か七人しか集まらなかったのよ」
「ええと、五人とすると、一人十万円か」
「そうなのよ。もちろん、あたハち女性はタダよ」
「たまらないねえ。そうすると、七、八万円についたわけか」
「そうなのよ。みんなブウブウ言って怒っているのよ。蒼《あお》くなっちゃって、来なかった人の悪口ばっかり……。それで、午後の二時に柳橋を出たのよ。出たと思ったら、もう止まっちゃってね、ここですって。そうねえ、一分か二分、動いたかしら」
「柳橋なら、そうなるかな」
「午後の二時よ。それから四時間以上も動かないで、ジッとしてたのよ」
「仕方がないよ。いい場所をとるためには」
「そうじゃないのよ。あたハちの船が止まったところには何もいないのよ。あたハちの船がいるだけよ」
「それはおかしいな」
「おかしいでしょう。でも、そうなのよ。カンカン照りで、風のない日だったの。それでね、屋形船じゃないの。話が違うのよ」
「しかし、いい場所はいい場所なんだろう」
「そりゃそうよ、柳橋ですもん……。でもね、ほかの船は、五時半とか六時に来て、スイッと割りこんでくるのよ。あたハちは午後の二時よ、それから四時間以上よ」
「じゃあ、困ったろう」
「困ったわよ。汗びっしょりになっちゃって」
「あれは、どうした……」
「…………」
「ああ、そうか。いまは二十人乗りなら、便所がついているね。艫《とも》のほうにね、WCってペンキで書いたやつがね……」
「あるわよ。ありますけれど、あれ、駄目なのよ」
「なぜ?」
「あれ、首が出るのよ。首から上が出ちゃうの」
「いいじゃないか」
「よくありませんよ」
「かがめばいいじゃないか」
「駄目よ。お便所っていうのはね、もう、かがんでいるのよ。それでも首が出ちゃうの。それ以上、かがめますか」
「そうかな」
「そうよ」
「顔が見えたっていいじゃないか」
「駄目ですよ。オシッコをしているときの表情って、あたし自分でも見たことないんだから」
「考えごとをしているような……」
「それに、見るなって言ったって見るような連中なのよ、あたハちの仲間は……。余計に見るのよ」
「ロクロッ首みたいになるわけだな」
「とっても変じゃない、それ。でもね、女って、わりに我慢できるのよ。朝から水ものを控えていましたし」
「それじゃあ、なんでもなかったわけじゃないか」
「それがね、駄目なのよ。わたし、アレだったの」
「…………」
「アレはね、二時間ぐらいで取りかえないといけないの」
「知らなかったね、そんなこと。それで、どうしました」
「五時になったら、隣に屋形船が来たの。そっちのお便所は、ちゃんとしてるのよ。立派なの」
「…………」
「それで、船頭さんに渡してもらって、お隣でやってきたのよ。……それでね、隣の船はね、テンプラやっていてね、大皿にエビとかカニとか、オサシミね。ぜんぜん違うのよ、こっちとは……」
「それはね、ふだん柳橋で遊んでいる連中なんだよ。きみの仲間は実績がないんだ」
「芸者もいるのよ」
「それはいるだろう。しかし、船頭さんも大変だね」
「…………」
「カンカン照りを一緒になって待っているんじゃあ」
「違うのよ。船頭は他の船へ行っちゃうのよ。スイスイ、飛び乗ってね。他の船へ行って罐《かん》ビールなんか飲んでるの。あの人たち、川開きの日はお祭りなのね」
「他の船へ行けば、御祝儀も出るし御馳走もある。きっと顔馴染《かおなじ》みなんだろう」
「でも、心細いじゃないの」
「それも仕方がない」
「あたハちね、浴衣で行ったのよ。それが汗でびっしょりになっちゃってね。着かえたの……。着換えを持っていってよかったわ。あの、あるでしょう、お部屋で着るような、バスタオルのような」
「ムウムウみたいな……」
「そうそう。ワンピースでね、あれの薄いやつなの。あたし、また屋形船へ行って着かえてきたの」
「…………」
「そうしたら、喰いこんじゃってねえ」
「…………」
「浴衣で行ったから、パンティをはいていなかったのよ。いくら風のない日でも船の上でしょう。あっち行ったりこっち行ったりしていると、どんどん喰いこんでくるのよ。前もウシロも……」
「おかしいじゃないか」
「…………」
「血だらけになったろう」
「馬鹿ねえ、あんた。……いま、便利なのがあるのよ」
「それで、花火は、どうだった」
「そうねえ、花火ねえ……。大きな音がしたわ。でも、面白かった」
そんなことがあった。
私たちの船も柳橋を出た。
「君に聴《き》く柳橋|夜話《やわ》のなかの子はみなとりどりに美しくして」
剛氏が言った。いきなり大きな声で言うから、びっくりする。臥煙を祭礼調とするならば、剛氏は詠歎《えいたん》調なのである。
「吉井勇ですか」
「そうです。……両国《りやうごく》のくろがね橋の下をゆく夜《よ》の水泣きぬ夜ごと夜ごとに」
「…………」
「ややありてふたたびもとの闇となる花火に似たる恋とおもひぬ」
罐ビールを飲むのが億劫《おつくう》なくらいに、ドスト氏も私も弱っていた。前夜、ドスト氏は中華料理店で別れたあと、中央沿線某所で飲み、帰宅は午前六時であったという。罐ビールは一人二罐ずつ。あと酒一升。私は、飲みはじめて、すぐにビール二罐では足りなかったと思い、後悔する。
佃煮をひろげた。稲荷寿司とノリマキの弁当は、一折ずつひろげて、あとは日蔭《ひかげ》に置いた。
「ああ、東京にも空があった」
剛氏は、そういう酒である。そのように東京湾は晴れていた。
「ああ、入道雲がある。東京へ出てきて、はじめて入道雲を見た。東京にも入道雲があった」
剛氏は信州の人である。しかしながら、船板にぺったりと腰をおろしている剛氏を見ると、『船徳』の心配症のほうの客を連想させられてしまう。
「雲の峰あたり人影なかりけり」
「万太郎ですね。しかし、この入道雲には力がありませんね。信州で、子供のときに見た入道雲は、こんなんじゃなかった。もっと猛々《たけだけ》しくて、もっと真直ぐに立っていて、もっと白くって……」
剛氏は、それを、シェークスピアの台詞《せりふ》のようにして言った。私の女友達に言わせると、あの人、そういうこと平気だからね、ということになる。
東京湾のなかにも水路がある。一方通行になっている箇所がある。おそらくは水深を示すためだろうと思われる杭《くい》が立っている。その杭の一本一本にカモメがとまっているのがおかしかった。
「ホオーッ!」
剛氏が奇声を発した。それから、ふらふらと立ちあがって叫んだ。
「おおい、カモメよ……」
[#地付き]●小張君の意見
私は、船頭に、なるべくゆっくり走らせるように言ってあった。船頭は、これより遅くは進めませんと言った。柳橋から浦安の吉野屋の船着場まで、一時間で行かれるところを一時間半で到着した。すなわち、時刻は午後の二時半であった。
意外にも、無理に誘った剛氏が、もっと乗りたいと言った。そこで、今井橋まで、また、ゆっくりゆっくり進んで、三十分ばかりを費した。三時に上陸した。井筒屋丸は、四時までに船宿に戻ればいいのである。これで時間の勘定は合っている。
剛氏は吉野屋で少しやすんだだけで会社へ帰っていった。船で約二時間、それを三十分で神楽坂まで帰ってゆくのが、なんだか、とても妙な気がした。
ドスト氏と臥煙と私とは、ただちに浦安温泉旅館株式会社へ向った。以後は単に旅館と言うことにしたいと思うけれど、この旅館の正面には浦安大衆草津温泉という看板が出ている。わかりやすく言うならば、倒産した船橋ヘルスセンターをごくごく小規模にしたものだということになる。
『千葉県都市精図・市川市浦安町』という地図にも、この旅館は、ちゃんと掲載されている。そこでは浦安草津温泉となっている。
この温泉の成分は左の如きものである。
草津温泉 常水
硫黄 カゼイン
生石灰
草津温泉から水を運んでいるということであるが、私は、こういうことは頭から信じこむことにしている。あたかも、相撲に八百長なしというが如し。
また、その効能は、次のように記載されている。
神経痛 リュウマチ
冷え性 ただれ
あせも 腰痛
しもやけ うちみ
その他
なんだか、昔、豆腐屋で売っていたアカギレの薬の効能書のようであるが、私は、ただただ、これを有難いものとする。いまのところ、自覚症状としては腰痛以外にはないが、|その他《ヽヽヽ》というのが心強い。
素泊り三千円である。舞台つきの宴会場のほうの食事は、まことに安価であり、美味であり、かつ、栄養価に富む。その証拠に、入浴料二百五十円を投じて、入浴後に宴会場で食事を楽しむ老婦人たちは「ここは何を喰ったってうまいからねえ」と、口々に言うのである。私は、素泊りであるから、その都度、現金で払う。
たとえば、本日のおすすめ品であるところの、イワシ塩焼は二百円である。これは、非常に大ぶりな鰯《いわし》が二尾であって、その美味なること、優に吉兆・浜作に匹敵する。もっとうまいかもしれない。なぜならば、漁師町でまずい鰯を喰わせるわけがないからである。その他いろいろ出来ます。
入浴は正午から午後九時まで。三時までが舞踊、三時以降は歌となっていて、舞踊というのは民謡研究会舞踊部という感じ、歌は、カラオケもあるけれど、だいたいは老若いり乱れての社交ダンス会場と思ってもらいたい。その踊りを見ながら、いっぺんにビール六本、テンプラ、サシミ、柳川を注文する客がいるのに驚く。
客室は階上八室、階下八室の計十六室。船橋ヘルスセンターは倒産したと書いたが、ここは常に満室、フリの客は駄目だと思ってもらいたい。なぜならば、現今の釣ブームは、すでにご承知のことと思う。たとえば、吉野屋は、五十人乗りの船が六|艘《そう》、いままた八十人乗りを建造中であるという。そういう客が泊る。いや、いまは、釣の客よりは建築現場の客のほうが多いのである。日本橋から十八分ということを何度も書いた。総武本線がある。首都高速からつながる高速道路がある。湾岸道路がある。国鉄京葉線が工事中である。しかも、広大なる埋立地がある。不動産・建築業界が放っておくはずがない。舞浜には東京ディズニーランドが、これも工事中である。これに対して、これといったホテルがない。浦安温泉旅館がウケにいるのも故なしとしない。
旅館は、地下鉄東西線のガード下(こういう言い方はおかしいのであるが、ここでは、地下鉄は地上を通っている)というよりはガード脇、浦安駅から、行徳方面に向って、およそ百五十メートルのところに位置している。
私たちが、旅館の階下奥の芙蓉《ふよう》の間に入ったとき、旅館の内儀(専務夫人)がお茶を持ってきた。
「……どうして、まあ」
と、彼女は言った。どうして、こんなところにという意味だろう。春に五泊して、こんどは十泊の予約。前回の装画の仕事、まして、今回の私の浦安・行徳への恋情を彼女に理解させるのは、まことに困難である。怪しいヤツと思われても仕方がない。
すぐさま、私たちは寿司屋へ行き、強《したた》かに飲んでから、新橋・銀座へ行った。湾岸道路で二十五分。この湾岸道路は、東京湾を羽田方面につなぐものであるが、ドスト氏は、いくら説明しても、弾丸道路としか理解しない。新橋で一軒、銀座で三軒。二時過ぎまで銀座で飲んで就寝二時半というのが不思議。
私は、はじめ、浦安・行徳を匂いのある町と書いた。電車や自動車から見た感じがそうだった。いま、私は、これを、臭《にお》いのある町と訂正したい。
鼻がひんまがるという程ではない。決して、そうは思っていない。しかし、長く浦安に住んでいる人は、そのことに馴れてしまっているのではあるまいか。
漁港には漁港の臭いがある。石巻《いしのまき》なんかがそうだ。駅に降りたっただけで異臭が鼻をつく。銚子《ちようし》もそうだ。あれは魚の臭いだけでなく、魚による肥料のせいだろう。そこへもってきて、潮風が吹く。磯の臭いがする。
浦安にも、石巻や銚子に似た臭いがある。また、浦安には川がある。境川が町中を流れている。この境川は、昔、底が見えていて、飲料水になったし、洗濯もするし浴場にもなった。
吉野屋の長さんが言った。
「ごったく屋(小料理屋で売春宿をかねる)の女はね、そこんところで水を浴びるんですよ。水門のところでね……。それで、釣船が帰ってくるでしょう。そうすると、飛びあがるんですよ」
「デモンストレーションですか」
「そう。飛びあがって、見せるんだね。腹の下を叩いてね」
「商品見本ですね。良心的じゃないですか」
「ああ……。そうすっと、客は、たいてい、ひっかかったね。夏はむろんだが、春でも秋でも水浴びをしたもんだ」
いまでも水門がある。それは、家々で境川へ下水を流すのであるが、あげ潮のとき、水門を閉じないと、汚水が逆流するからである。すでに水浴びは出来なくなっているし、まして、それが飲めるわけがない。
こういう川が臭いを発する。さらに、浦安には溝《どぶ》が多いのである。これは一種の懐しい臭いである。戦前、東京の郊外はもとより、町中にも必ず溝があった。あれはアンモニアの臭いであろうか。溝のあるところは、いそいで渡ってしまわなければならない。これは、もう、鼻をさす悪臭になる。浦安町は、残念ながら、下水装置の面で、ひどく遅れていると言わなければならない。
さらに、私たちが宿泊しているのは、なにしろ、草津温泉である。硫黄の臭いが、次第に体に染みついてくる。
出発が金曜日で、その翌日の土曜日。
ドスト氏と私とは、朝から臥煙の来るのを待っていた。昼になっても来ない。来ないものときめて、宴会場でビールを飲みはじめた。肉豆腐とアジのからあげ。
臥煙が来たのは午後二時だった。東京は雷雨が激しく、中央線も地下鉄東西線も、一時不通になったという。
行徳に宮内庁の管理する新浜御猟場(鴨《かも》)がある。墨絵の用意のあるドスト氏のために、そのあたりを狙ったのであるが、思わしくない。
そこで、その附近の千鳥橋を描くことにした。ここも東京湾の一部であるが、湾というよりは沼、沼というよりは溝川に近いと言ったらいいだろうか。悪臭は、また、これを避けがたいのである。
そんなところでも、橋の上にも土堤にも釣をする人がいた。浅いので、子供の遊び場にもなっている。ドスト氏と私とは、くずれかけた桟橋に腰をおろした。例によって、臥煙は、酒と酒の肴を買いに行った。一口に買いものと言っても、このへんでは何百メートル歩くことになるか、わかったものではない。
子供が多い。実に多い。それも、小学校の低学年の子供ばかりである。
巾《はば》の狭い桟橋に坐っているドスト氏と私の前後を、濡れた網を持った少年が駈け抜ける。あぶなくて仕方がない。濡れるのはかまわないが、気が散るのが困る。
彼等は、網でもって、流れてくる空罐でも腐った魚でも、何でもすくいあげる。
「おい、あぶないじゃないか」
ついに、私は、そう言った。
「あぶなくないよ」
少年が答えた。
「落っこちたら、どうするんだ」
「落ちるって? オレなんか、毎日一回は落ちてるよ。落ちたって、なんでもないんだ」
私は返答に窮した。
女の匂いがするので、ふりむいた。小学一年生と思われる少女が、私の横にぺったりと坐っていた。私は、この年齢の少女が女の匂いを発することに驚いていた。それは汗のためだったと思われる。少年も少女も、汗びっしょりで、その汗がかわき、さらにまた汗をかくという状態であったと思われる。
「あした、人形劇があるの」
少女が言った。私は少女に好かれたらしい。絵を描いているので、心優しいおじさんだと思われたのかもしれない。
「絵日記、手伝ってやろうか」
私は、そんなことを言うくらいに親密になっていた。少女は、決して邪魔をしないし、絵具をいじったりしないし、余計な質問をしない。ぺたっと坐っているだけである。私は、なんだか、この汗臭い少女と所帯を持っているような気分になった。
その間にも、網を持った少年たちが、ひっきりなしに、絵の道具をまたいで通ったり、背後を走っていったりする。
「おい、仕事の邪魔をするな」
私は、真黒に日焼けしていて、シャツもパンツも茶色で、そのために一見して裸のように見える少年に言った。坊主頭で、利かぬ気の顔をしている。もっとも素ばしこい少年だった。
「仕事の邪魔をするな」
私は、彼を睨《ね》めつけて、もう一度言った。
「そんなの、仕事じゃないよ」
私は、いまでも、その言葉と、そのときの少年の表情とをハッキリと記憶している。彼は臆するところがなかった。私は、ふたたび返答に窮し、腹を立てた。
「じゃあ、きみは、絵描きの仕事を認めないのか」
嘘をついている。私は画家ではない。心中、やましいところがあった。
「そんなのはねえ……」彼は私の絵を見て言った。「仕事じゃないよ」
「じゃあ、仕事って何だ」
「仕事っていうのはねえ、大工さんとかねえ、電気屋さんとかねえ、そういうのが仕事なんだよ」
一言もなかった。もっとも得意とする球を軽々と場外ホームランされた投手の心境と言ったらいいだろうか。私は、負けたと思った。そのとき、私は、彼に詫《わ》びるべきであった。私は、そうはしなかった。一種の快い感動に包まれていたと言っては、これも弁解になるだろうか。私は、臥煙の買ってきたサントリー角瓶をストレートで飲みながら絵を描いていたのである。ずいぶん、いい加減なものだ。
「じゃあ、きみのお父さんの商売は何だ」
私は、そのあとの少年の様子も、まだ明確に思い描くことができる。彼は、頭を垂れ、そっぽを向き、ちいさな声で、こう言ったのである。
「競馬だよ……」
もし、私が彼と同年齢であったなら、それが仕事と言えるかよと反撃しただろうと思う。分別というものが私を思いとどまらせた。それより、少年との距離が、にわかにちぢまったように思った。
「馬に乗る人?」
ジョッキーという言葉を、そう言いかえた。少年は、かすかに、うなずいた。仲間に知られたくなかったのかもしれない。
「何という名前?」
走り抜けようとした別の少年が叫んだ。
「こいつ、コバリだよ」
「コバリか。どういう字? 小さい針? それとも小さいっていう字に、巨人軍の張本の張?」
私はコバリという名の騎手を知らなかった。まして、このあたりに住んでいるとすれば、中央競馬の騎手ではないだろう。少年は黙っている。私は、スケッチブックに、小針、子針、小張、小梁と書いた。少年は、小張の上に指を置いた。
「船橋競馬に、いま、出ている?」
「わからない」
船橋競馬は、水曜日から月曜日まで、六日間開催されている。
「ようし、明日、また会おうじゃないか」
潮が満ちてきていた。
「明日、何時?」
「お昼ごろ……」
「お昼ごろって、何時?」
「十二時」
少年は、それを聞いて、仲間のところへ駈けていった。どうやら、その少年も私に好意を抱きはじめたようだった。
「なかなか、いいじゃありませんか」
臥煙が言った。私たちは桟橋に置いた絵を土堤の上から見ていた。湿気の多い日で、潮風の吹く場所だから、そんなふうにしないと水彩画は乾きにくいのである。
「じゃあね、あなた、その自転車を少し動かしてみてくれませんか」
土堤に子供の自転車があった。臥煙が、それを、ずらせた。
「ほらね……」
自転車のサドルが、私の絵の水面のあたりに、とても感じのいい影を落としていたのである。そのように、夕暮が迫っていて、日脚が伸びていた。臥煙は落胆して首を振った。
「ああ、ああ、ああ……」
私は叫んだ。私を愛しているはずの少女が右足のゴム草履でもって私の絵を踏んでいるのである。ゴム草履は、たっぷりと水を含んでいるに違いない。また、少女は、そのことに気づいていない。叫び声で、こっちをむいて言った。
「明日、人形劇を見に行くのよ」
しかしながら、少女の踏んだゴム草履は、私の絵に不思議な効果をあげることになったのである。
[#地付き]●橋の下
浦安温泉旅館では、私はテレビをつけっぱなしにして寝ることにしている。百円硬貨を挿入《そうにゆう》するテレビであって、時間がくれば自然に消える。私は、音を聞きながら眠ることにしている。
テレビの光は思っているよりもずっと強い。それがドスト氏の禿頭を黄に赤に青に染めあげている。
テレビが消えて、しばらくして、窓の外で音がした。いきなり、ドスト氏が立ちあがって、
「あ、虎が来た」
と、叫び、すぐにもと通りの姿で寝た。神野寺の虎は、まだ一歳だというから、千里を走ることはないと思う。
日曜日。暑い日だった。
境川水門附近へ行き、私は旧江戸川の東京湾方面を描き、ドスト氏は水門を描いた。彼は、どうやら失敗したらしい。炎天でジッとしていると、それだけで疲れてしまう。夜、専務から刺身大皿の盛りあわせが届き、やはり冷や酒になってしまう。
月曜日。朝、パラオが来て、船橋競馬へ行くことになった。ドスト氏は、もう一度、境川に挑戦するという。
ここで、二人旅を成功させるコツを書いておく。一日は完全休日にする。もう一日、別行動の日をつくる。それだけだ。
船橋競馬の最終日。私は、競馬新聞を買い、小張騎手の名を探した。買いまくるつもりでいたのである。小張の名はなかった。別の競馬場に出ているのかもしれないし、調教助手、あるいは厩務員《きゆうむいん》であるのかもしれない。その人たちも馬に乗る人である。
競馬場で、私は、金持ちに間違えられた。ノミ屋がつきまとって離れない。うるさくって仕方がない。しかし、彼等が私を金満家もしくは相当なギャンブラーと踏んだのには根拠があるのである。
私の風体は、登山帽、Tシャツ、半ズボン、ゴム草履である。そこへもってきて、パラオは正装である。縞の背広の上下、上品なネクタイ。それでもって叮嚀《ていねい》な口をきく。
「この騎手は地方競馬ではヴェテランでございまして、はあ、なかなか、やるんでございますよ、ウッウッウッ……」
とか、
「さすがでございますね、すぐにお当てになって、ズバリ一点ざんすからねえ、エッエッエッ……」
なんてことを言いながら、もみ手をして薄汚い私につき従うようにするのだから、よほど偉い人と見られるのも無理からぬことである。
この日、私は、向日葵《ひまわり》特別というメイン・レースを的中させた。七頭立てで千二百十円という配当は中穴に属するだろう。
最終レース、2番、黒帽子のナチガラスで勝負。私は二黒の寅《とら》である。ナチも黒ならカラスも黒。これだと思って突っこんだが、追いこんで微差の四着。私は、地方自治体には金を置いてくるのを主義としている。
旅館に戻ると、ドスト氏も帰っていて酒を飲んでいた。
「あなたたちは遊び。私は仕事をしていました。ああそうだ、こういうのは仕事じゃないんだっけ……」
火曜日。地下鉄東西線に乗って原木中山《ばらきなかやま》下車。新行徳橋まで歩く。炎天下、一時間ばかり。
新行徳橋の橋の下から行徳橋を描く。失敗。影が強過ぎた。水彩は途中で修整がきかないのが辛い。
新行徳橋は有料道路であって、立派な橋である。従って、橋の下も広い。そこで、二人とも裸になって描く。
炎天下で絵を描くときに、橋の下ほど良い場所はない。もし、そこからの眺めが気にいっているのであれば……。雨が降ってきても、雷が鳴っても、さしつかえはない。
しかしながら、絶対に雨が洩らないところで、草の生えないところで、誰もが掃除をすることのない場所というのは困ることがある。埃《ほこり》とゴミである。そうかといって、二人で掃除をすると、住みつくのではないかと疑われるおそれがある。そこに一枚の夜具布団があった。ドスト氏に、お疲れのようですから少し寝《やす》みませんかと言ったら、厭《いや》だと答えた。
浦安には映画館はない。芝居小舎《しばいごや》もない。しかし、一軒の劇場がある。この劇場は地図には記載されていない。この劇場には絵看板がないし、プログラムも発売されていない。土曜日の最終回は午前四時半に終了する。
前回に一度、今回は二度、私はその劇場を訪れた。押し拡げられて、ほとんど四手網《よつであみ》のように正方形になってしまったそれを見た。
最初、私は、大いに思い悩んだ。解決のつかないものを見たように思った。この劇場の出演者たちが私に喚起するものは、まことに豊富であると言わなければならない。
職業(とは何か)。天職。罪。原罪。善。悪。宿命。貧困。恥。肉体。体力。美。醜。外国人。彼我の相違。使命観。愛。猥褻《わいせつ》(とは何か)。死。習慣。滑稽。悲惨。金銭。生殖。法律。夢。病(とは何か)。自然。希望。絶望。情熱。堕落。人道主義。崇高……。
私において、それは、いまだに解決していない。何人もの人に質問を試みるのであるが、満足な解答を得たことがない。
水曜日。完全休日。ドスト氏と銀座へ出て画廊見物。散髪。
夜、剛氏と飲む。これは本業のほうの仕事がらみ。
「かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ」
剛氏は、説明がなく、いきなり歌いだすようにして言う。これは若山牧水らしいが、私はこの歌を知らない。
木曜日。土地の人の言う船だまり、地図によれば堀江ドックへ行って写生。一枚は成功。色の具合がいい。家族づれの釣人大勢。いかにも夏休みらしい一日。
吉野屋で二人でビール一本。それだけにするつもりが、ウナギ屋へ行き、焼きあがるまで、酒二本ずつ。
旅館で、ドスト氏、寝ころんで、もの憂《う》いなあと言う。七日目である。
二度目の金曜日。浦安橋を渡り、ということは対岸の東京都に入り、土堤《どて》伝いに歩く。昼日中、人影なし。歩いている人は一人もいない。まれに見る釣人は自動車で来ている人。この日は、炎天を、およそ四里は歩いた。「苦しみつつ、なおはたらけ。安住を求めるな。この世は巡礼である」と言いながら歩いた。
湾岸道路の下をくぐり、国鉄京葉線の工事現場から東京湾を描いた。東京タワーが見える。私は、こういう風景が好きなのであるけれど、ドスト氏の場合はどうなのだろうか。工事現場の絵を買う人は少いように思う。こっちは素人だからいいけれど。
完成間際に現場の人(間組《はざまぐみ》)に見つかって、こっぴどく叱られる。
「いい齢をして……」
私たちは柵《さく》を越えて侵入していたのである。退散。
「あなたの絵を見たのがいけない」と、ドスト氏が言った。「見なければ黙って通り過ぎたんです。……いや、見たっていいんです。見て感動すれば何も言わなかったはずですよ。見ちまって、この程度の芸術家に現場を荒らされちゃ困るっていう意味なんですね、あれは」
「いい齢をして、か……」
工場街をもう一枚。これは道端の埃のなかで立って描いた。
四時半に旅館に帰る。国立のケネディ、武氏、徳氏、遊びにくる。陣中見舞か。専務を誘って寿司屋へ行く。私たちの行くのは秀寿司という店である。
ドスト氏は、トリ貝、ミル貝、バカ貝(アオヤギ)といった貝類を好む。
「トリ貝もなく、ですか」ドスト氏が酔って呟《つぶや》いている。「トリ貝もなく……。齢甲斐《としがい》もなく……」
昼間の事件にこだわっているらしい。
二度目の土曜日。専務からカニとシャコの差しいれ。それを描く。扇子にも描く。雨。浦安では、この二、三年、急に渡り蟹《がに》が獲《と》れだしたという。どういう加減のものだろうか。パラオ来る。秀寿司へ行く。また、カニが出る。シンコ(コハダ)がうまい。今日は専務の奢《おご》り。夜、境川べりを歩く。そのあたりが、浦安の旧市街である。
山本周五郎は、三十年後に浦安町を訪れて、こう書いている。
「これが広い荒地の中に、澄んだ水を湛《たた》えていたあの一つ|※[#「さんずい+入」]《いり》だろうか。藻草が静かに揺れている水の中を覗《のぞ》くと、|ひらた《ヽヽヽ》という躯《からだ》の透明な小さい川蝦《かわえび》がい、やなぎ鮠《ばえ》だの、金鮒《きんぶな》などがついついと泳ぎまわっていた。私が青|べか《ヽヽ》を繋《つな》いで鮒を釣った川やなぎの茂みはどの辺に当るだろうか、――いまでは底が浅くなり、灰色に濁って異臭を放ちそうな水が、流れるでもなくどろっと淀《よど》んでいる。日本人は自分の手で国土をぶち壊し、汚濁させ廃滅させているのだ、と私は思った。(中略)――ろくさま下水の設備もなく、汚物の溢《あふ》れている都市。川は悪臭を放つままに任せ堀は片っ端から埋め、丘を削り、木という木は伐り倒し、狭いでこぼこ道に大型バスやトラックが暴走し犇《ひしめ》き、空地にはむやみ無計画にアパートを建て並べ、公明選挙といわれるのに何十億とかの金が撒《ま》きちらされるという、――よそう、私は本当はそんなことに怒りは感じてはいない、日本人とは昔からこういう民族だったのだ。」
これが書かれたのは昭和三十六年である。いったい、今日の浦安を見たら、山本周五郎は何と言うだろうか。浦安町は、来年、市に昇格するのである。私は、周五郎は、必ずや、両手の指で輪をつくり、エンガチョと叫んで唾を吐きだすだろうと思う。
二度目の日曜日。境川をさかのぼり、今川橋まで歩いた。おそろしいまでのハゼ釣りの人の数。そこを右折して伝平橋まで歩く。この日も四里近く歩いたはずである。
伝平橋の橋の下で描く。これ以上は、もう無理だ。ドスト氏も私も疲れきっている。その絵、未完成。
ついに、ぶっ倒れた。専務が私たちの部屋に来て、飲んでいるうちに、意識不明になった。
この日、朝から、専務夫人が、おろおろしていた。
「もう、帰っちゃうんですか」
「もう帰るったって十泊目ですよ」
「明日から宿泊費はタダにしますから、もっといてください」
「それじゃあ、親類みたいになっちまう」
「だって、淋しいわ」
専務は社長の息子である。彼は、ピンと張った八字髭《はちじひげ》を生やしている。これが、実は、無精髭であるという。とても変な髭だ。ミッチー渡辺大蔵大臣が八字髭を生やした顔だと思ってもらいたい。昔、トッカピンという薬があった。いまでもあるかもしれない。その薬の広告のキャラクターに似ている。私は専務のことをトッカピンと言ったそうだ。それは記憶していない。
トッカピンは、この町にホテルを建てる計画があるという。そのときは、二人で泊りぞめに来てくれと言った。昔、明治の頃、長野にナントカという旅館ができたとき、宮様と東郷元帥と乃木《のぎ》大将が泊りぞめにやってきたという話がある。東郷さんと乃木さんなら立派なのだが、ドスト氏と私では、どうか。
かすかに記憶していることがある。私は、部屋にあった洗面道具で、トッカピンの髭を剃《そ》ってしまったのだ。八字髭だけは残しておいた。無精髭なのだから、それでいいと思う。そうすると、とても立派な顔になった。トッカピンは、されるままになっていて、どういうわけか、涙を流した。また来てくださいと言った。そのわけがわからない。トッカピンは愛想の悪い男で、一緒に飲んでいるときでも、ろくすっぽ口もきかない男であるのに……。
いま、私は、浦安から帰ってきて、まだ完全には疲れが抜けきっていない。そうして、汗をかくと私の体は臭うのである。浦安の臭いがする。溝の臭い、硫黄の臭い、少女の汗の臭い……。
私は、押し拡げられて正方形になった四手網のようなものを夢に見ることはない。しかし、小張君の夢は見る。たびたび見る。私は約束を破り、彼を裏切り、千鳥橋へは行かなかった。小張君は、鉢の開いた頭を振り、そんなもの仕事じゃないと叫ぶのである。
倉敷、蔦《つた》しぐれ
[#地付き]●相似形の男
十一月十五日、木曜日、午前十時を少し廻ったところで家を出た。ドスト氏の家へ寄った。出る前に電話を掛けておいたので、彼は、すぐに出てきた。
「もう出かけるんですか」
十二時二十四分発の新幹線に乗るのだから、少し早い。しかし、私は、東京駅の構内のデパートに用事があるので、早目に出発しなければならなかった。
ドスト氏の顔色は上等であるとは言えなかった。夜ふかしが続いているのだろう。そうなると、彼の顔は、唐金《からかね》の仏様のようになってしまう。全体に薄汚れていて、髭《ひげ》にも威厳がない。
「昨夜も、午前四時まで飲んじゃった」
はたして、ドスト氏は、憮然《ぶぜん》として言った。いったい、いつ仕事をするのか。それが、この町の人たちにとっての謎《なぞ》になっている。イヤと言うことのできない人だから困る。客が来れば酒になる。
しかし、あれで、結構、酒場では寝ているんですよ、ソファにもたれて……と言う人もいる。実に巧妙であるという。そうでなければ、体がもたない。彼は、すでに還暦を過ぎているのである。
十一時半、東京駅着。
大丸でネクタイを二本買った。京都での常宿である二鶴の次男の結婚祝いのためである。それを送ってもらった。二本という割れる数字はどうかと考えたが、二鶴だからいいやと思った。
新幹線のエスカレーターをあがってゆくとき、背後に声があり、トッカピンが立っていた。トッカピンは、浦安温泉旅館株式会社の専務取締役である。エスカレーターの前後というのは挨拶がしにくい。ホームに到達したときに、やあと言い、むこうもやあと言った。パラオに電話を掛けて、出発の時刻を聞いたのだという。
トッカピンは、寿司の折を持っていた。朝早く起きて、浦安の秀寿司に握らせたのだと言った。
十二時二十四分発、ひかり一三三号は、すでにホームに入っていて、扉が開いていた。こんなに早く準備されているのも珍しいことなのではないか。私たちは車内に入った。
そこへパラオが来た。
「やあ、みなさん、おそろいで、ウッウッウッ……。これ、どうぞ」
パラオが紙袋を差しだした。日本盛の一合|瓶《びん》、すなわちサカリカップが五本、罐《かん》入りサッポロビール三本、旅の友・ヤーレンさきいか二袋、朝日のくんさき(ソフト燻製《くんせい》さきいか)二袋、新聞二種類(『日刊ゲンダイ』と『夕刊フジ』)が入っている。このパラオの愛情は、道中、なかなか、重かった。
発車まで、まだ、十二、三分ある。そこでウイスキイを飲むことにした。私は、バランタインの十七年ものを持っていた。これは色川武大さんに貰ったものである。いつ、どういうわけで頂戴したものであったのか、もう忘れてしまっている。バランタインの十七年なんてものは自分一人で飲むわけにはいかない。また、この封を切るのにふさわしい夜もなくて、地下室で埃《ほこり》をかぶっていたのである。先日、将棋の大内延介八段に、同じくバランタインの三十年ものを貰った。このほうは、私のほうの結婚三十年記念ということで、意味がはっきりとしている。大内さんは外国旅行の好きな人で、ナニ、安く買えるんですと言っていた。大内さんに貰ったものを戦艦とするならば、こっちのほうは巡洋艦という感じになった。巡洋艦の出撃すべき時が来たと私は思ったのである。
こんなこともあるかと思い、旅行用のステンレス製四箇重ね合わせのカップを持ってきた。数もちょうどいい。これは、文藝春秋の小林正明さんに頂戴したものである。
「うまい……」
パラオとトッカピンとが同時に言った。私もそう思った。力があるのに軽いという感じがした。二杯ずつ飲んだ。私は、彼等に飲まれてしまうのは惜しいのだけれど、荷物が軽くなるのは有難いと思っていた。
私は、今回は、身辺に事件が多く、ついに、残念ながら、仕事を持って旅に出ることになった。こんなことは初めてのことである。講演旅行などで、旅先きで原稿を書いたことはある。それは、しかし、締切に充分な余裕があってのことだった。今回は、着いてすぐに原稿を書きだし、翌々日の朝までに書きあげて速達で郵送しなければまにあわない。それは『別冊文藝春秋』の三十枚の小説だった。
「……だけど、今晩はいいよ。今夜は飲んじまおう。明日の朝からやれば、なんとかなる」
これが酒の勢いというものだろう。昼間のウイスキイは廻りが早い。
「私は、絵を描きます。猛烈に描かなければならない」
ドスト氏が言った。彼は、十八日から、福山駅前のイマヰ画廊で個展を開くことになっている。十七日には飾りつけがあるので、絵のほうを、十六日、つまり、明日中に済まさなければならない。
「まあ、なんとかなるさ、おたがいに。三十枚の小説なんて、ちょろいと言えばちょろいからね」
私は、心にもないことを言っていた。本当は、顔面|蒼白《そうはく》という心持であったのである。乗客は少なかった。そんなことはないと思うけれど、私たちの声が大きくなっていて、あるいは、他の客の顰蹙《ひんしゆく》を買うという状態になっていたかもしれない。
「道中、ご無事で……。あまり飲まないように」
車掌のアナウンスがあったとき、パラオはそう言って降りていった。トッカピンもこれに従った。
驚くべきことを発見した。パラオとトッカピンの顔がよく似ているのである。それは、ほとんど相似形であると言ってよかった。後になって、パラオは、もしかしたら兄弟なのではないかと思ったと語った。この相似形が、互いの顔を寄せて、窓からこちらをのぞきこんでいるのである。まことに奇妙な光景だった。
昔、轟《とどろき》先生という漫画があった。二人とも、顔の輪郭が轟先生なのである。あるいは拉《ひしや》げた安物の達磨《だるま》であろうか。それで頬がはちきれんばかりにふくれあがっている。トッカピンは、よく食べるので、どんどん顔全体がふくれてくる。顔がふくれると歯が痛くなる。それで十日ばかり食を細くすると、いくらか痩《や》せてきて歯痛が直ると言っていた。パラオは、以前は一日に四食という人だった。私は、網にのせた餅が焼けてきて、ふくれあがってきて、色が薄くなってくるように見えるパラオの頬のことを心配したことがある。いまにも破裂するのではないかと思われた。その後、パラオは減食していると言うが、ピンク色の頬は、いまでも艶々《つやつや》としていて輝きを失っていない。また、トッカピンは、会うなり歯痛を訴えていたので、いまが最盛期なのだろう。その二人が、新幹線の広い窓で頬を寄せあっているのである。
さらに、この二人に共通するのは、髭が生えないということである。髭が生えない人は眉毛も薄い。それも同じだ。目は、ちいさくて丸い。鼻はちんまりとしている。何から何まで同じだ。
髭が生えないから、毎朝カミソリを使うことはない。しかし、二人とも、鼻の下にだけ、うっすらと髭が生えてくる。その髭は、ピンと張るような態《てい》のものである。すなわち、ピンと張った髭は、実は無精髭なのである。私がトッカピンと命名したのはそのためである。昔、トッカピンという精力剤があったが、そのキャラクターというか、シンボルに使われている漫画の中年男がこの顔だった。強いて相違を求めるとすれば、トッカピンのほうがパラオより色が黒いということになろうか。ドスト氏は、二人とも南方系ですと言った。
斜め向かいに坐っていた立派な紳士が立ちあがって、私の名を呼んだ。それは文藝春秋の社長だった。私は、動顛《どうてん》せざるをえなかった。それには訳があった。私は、咄嗟《とつさ》に、千葉源蔵|東下《あずまくだ》りという言葉が脳裡《のうり》にひらめき、あわてて、いや、京上りかと思った。雑誌広告のほうの会合があって大阪へ行かれるところであるという。
この社長は、米沢市の出身であり、その関係で、私は三度米沢市で講演をしている。温厚な方であるが酒が強い。私は、行きがかりじょう、社長にウイスキイを注ぐことになった。
「バランタインの十七年です。うまいです」
そう言って、また、シマッタと思った。
私は、第二十七回の菊池寛賞を受賞して、その授賞式が十一月九日に行われた。身辺多忙の原因のひとつがそれだった。その日は十五日だった。私からするならば、つい先日、この社長から賞金の五十万円を手渡されたばかりである。
「賞金を渡したら、ほら、すぐにこれだ。浮かれて旅に出ようとしている。しかも、グリーン車だ」
そう思われても仕方がない。昼間っから酒を飲み、その酒が、スコッチの八年ならともかく、十二年を飛びこして十七年だ。あの賞金は、参考書を買って勉強しろという意味なんだ、それをまあ……。
米沢といえば鷹山《ようざん》公、どうしたって倹約のイメージがある。この社長に三度現地で御馳走になったのであるが、三度ともオールドだったことを思いだす。まずい、まずい。しかも、私が、『別冊文藝春秋』の小説なんて、ちょろいちょろいと言っていたのも聞かれているはずである。
私は、持っていた寿司の折を差しあげることにした。十二時二十四分発。昼食の時間である。私には食欲がないし、パラオのくれた旅の友がある。
「……やあ、これは豪勢だ」
私は、社長のひろげた折詰を見て、思わず、目をおおった。それは、駅売りや車内売りや、そのへんのデパートの食品売場で売っているものとはわけが違うのである。トッカピンが早起きして秀寿司の主人の尻をひっぱたいてつくらせた極上飛びきりという折詰だった。見送り人が二人、高価なウイスキイ、あつらえの寿司弁当……。いやあ、困る、困る。
社長のひろげた折詰を、パラオとトッカピンとで、窓に鼻を押しつけるようにして見ている。
このようにして、ひかり一三三号は東京駅を離れたのである。私は、ヤケ酒を飲まざるをえなかった。そうして、私は、多分、社長がそう思っているだろうように、賞金の五十万円を懐中にしていた。
後に、パラオは、こう言った。
「いやあ、驚きました。……だって、見知らぬ紳士に酒を注ぐんですもんねえ。もう酔っぱらっているのかと思いました。お寿司もあげちまって……。へええ、あの方が文藝春秋の社長さんですか。知らないから、びっくりしました。窓の外では声が聞こえないもんですから」
三十分後に、ドスト氏は、もう眠っていた。このへん、巧妙というか、私には、狡猾《こうかつ》とも思われ、憎らしいくらいだった。こっちは眠るどころではないのである。
[#地付き]●倉敷名誉市民
午後四時三十分。日が落ちかかっていた。そろそろドスト氏を起こさなくてはいけない。あと二十三分で岡山駅に到着する。
夕焼けがどこで見られるかと思っていた。こんなふうに西に向って太陽を追いかけてゆくというのは悪くない。空に赤味が増してきた。太陽は赤い姿をあらわした。
「あ、月が出た。大きい月だ」
前方に坐っていた六十歳ぐらいの女が叫んだ。ほぼ同年輩と思われる女性が三人で旅をしている。
「本当に大きい月だわ。こんな赤い月、はじめて見たわ」
私は、こういう女性たちの心理を推し測るのに苦労する。
数年前、北海道旅行から帰るとき、千歳《ちとせ》空港を飛び立ったジェット機が急旋回して、海が盛りあがって見えることがあった。そのとき、やはり、初老の女性が叫んだ。
「あ、落ちた……」
彼女たちは、どういう心持でもって暮しているのだろうか。
岡山で出雲《いずも》へ行く特急に乗り換えた。
しかしながら、ここで私もまた自分の無智をさらけだすことになる。倉敷という町は山の中にあると思っていたのである。
私は、三度、伯備《はくび》線に乗っている。私の好きな電車である。山麓《さんろく》を縫うようにして走る。岡山から松江へ行くときに伯備線に乗る。そのときに倉敷を通過する。従って倉敷は山の中にあるということになる。
しかるに、今度、電車は、西に向って走り、倉敷駅から急に北上するのだということがわかった。倉敷は、むしろ、岡山と同様に瀬戸内海沿いの町だった。
電車が動きだしてすぐに車掌が検札に来た。グリーン車というのは、乗ると直ちに調べられる。
車掌は、私の差しだした切符を見て、怒るというのではないが、まあ、説諭にちかいことを言いだした。
「もったいない……」
と言う。岡山から倉敷まで特急なら十二分、急行なら十四分、普通なら十七分、すなわち、特急と普通との差は五分しか違わない。しかも、グリーン車とは何事か、いったい何様だと思っているんだとは言わなかったが、そんなふうな響きがあった。
私の切符はパラオが手配してくれたものである。それは東京駅からずっとつながっているものである。いまさら、遅いほうに変更するわけにもいかない。
私の友人の細君が、京都から米原《まいばら》まで、新幹線のグリーン車の切符を買おうとすると、駅員に叱られたそうである。無駄なことをするもんじゃないという意味であり、これは親切心から出たものである。私にも同様の経験がある。姫路から福山まで、乗り物に弱い女性と一緒だったのでグリーン券を購《もと》めたところ、同じようにして断られた。まったく、特急券やグリーン券は、不当に高価であることでKDDに似ている。
「それじゃあ、あなた、特急料金だけでも、いま、ここで払い戻してくれますか」
と、私は言った。
「さあ、それは……。倉敷で降りてから、駅のほうで交渉してください」
そんなことが出来るわけがない。ただし、これは、国鉄職員の、われわれに対する親切心、および彼等の愛社精神に発するものであって、私が悪い感じを受けたということではない。倉敷から京都へ戻るときもそうだった。倉敷から岡山まで、駅員は普通電車の切符しか売ってくれなかった。そのときは、目の前に特急電車が止まり、出ていった。それに乗れば、もうひとつ前の新幹線に乗れたのである。いつの場合でも、国鉄職員は、なるべく安いほうの切符を売ろうとする傾向がある。
車掌と、そんなヤリトリをしているうちに、もう倉敷へ着いてしまった。なにしろ、十二分間である。もうちょっとやりあっていたかったのに残念なことをした。
倉敷駅のタクシー乗場で自動車に乗り、アイビースクエアへ行ってくださいと言うと、運転手は厭《いや》な顔をした。近いのだから歩いたほうがいいという意味だろう。しかし、知らない土地に着いたらタクシーを利用するほかはない。こっちは大荷物を持っているのだし、あたりは暗くなっているのである。走りだしてからも運転手はぶつぶつ言っている。駅前で道路工事が行われているようで、自動車はいっこうに進まない。
アイビースクエアというのは、明治二十二年にできた倉敷紡績の工場をホテルに再開発したものである。これは、若い女性が泣いて喜ぶという式のものであるが、私は、五年ほど前にその話を聞いたとき、卓抜なアイディアだなと思った。昔、富岡の製糸工場を見たとき、これを旅館にしたらいいのになあと思ったことがある。製糸工場に限らず、古い工場を見ると、よくそんなことを思う。ただし、立地条件というものがあるのであるが……。その点、倉敷紡績は絶好の場所にある。アンアン、ノンノを避けたいという気持はあるのであるが、この場合は、むしろ、自分のほうでアイビースクエアを選んだ。
アイビースクエアは、まことに感じのいいホテルだった。第一に、フロントにいる人たちの応対が実にいい。その一例であるが、私が、そとへ飲みに行きたいのだが、どこかいい店を推薦してくれないかと言うと、さっと四、五人が集まって相談する。そうして、すぐに結論をだして自動車の手配をしてくれる。私の係りは伊藤さんという人であった。この人もいいが他の人もいい。
第二に、全体に素人っぽいところがいい。私は、本来、素人は嫌いという男である。しかし、この際は違う。サラリーマンであって腕利きの営業部員の持っている愛想のよさとでも言ったらいいだろうか。動作がテキパキとしていてヌカリがない。つまり、すれっからしのホテルマンという感じの人が一人もいない。ホテルマンで妙に陰気な男がいる。それから、どこか人を見下したような感じの男がいる。それがなかったと言えば、わかってもらえるだろうか。これは推測で言うのであるが、倉敷紡績(クラボウというのか、クラレというのか、私は知らない)のほうの出向社員がまざっているのではなかろうか。
第三に、清潔である。和食堂もコーヒー・ショップも売店も酒場も、さっぱりとしている。この酒場も、高級洋酒をそろえている割には料金が安い。
私の行った前日は、高校生が四百人泊っていたそうである。修学旅行である。それで、夜間にいたるまで、すべて自由行動であったそうだ。アイビースクエアの附近には悪所がないのである。先生方は、安心して生徒を放っておかれる。
私が自分の部屋に着いたのは、五時五十分頃だった。着がえをしているときに、電話があった。それは、驚くべし、十五世将棋名人大山|康晴《やすはる》からであった。
笠岡市が彫刻の平櫛田中《ひらぐしでんちゆう》先生の御城下であるとするならば、倉敷市は大山康晴先生の御城下である。大山先生は倉敷市の名誉市民であるのだから、倉敷市に着いて大山先生から電話があったとしても少しも不思議ではないのであるが、着いてイキナリということで、びっくりする。
大山康晴は倉敷市の名誉市民であるが、本当に倉敷市の市民《ヽヽ》であるのである。すなわち、市民税を納めている。選挙のときは倉敷へ帰る。現住所のある東京の杉並区役所では、お互いに不便だから、杉並区民になってくださいと懇願するのであるが、大山先生は頑として譲らない。なお、大山先生の家族の方は倉敷市民ではない。
また、大山先生は、京阪神の、いわゆる関西地方を西とは認めない。大山先生の言う西とは岡山以西なのである。さらに、将棋は、絶対に西のほうが強いと言い張るのである。普通、現名人の中原誠は塩釜《しおがま》の人と言われているのであるが、大山先生は、中原は鳥取の人間だと言う。中原は、生後一カ月を鳥取で過ごしている。
「六時から、麻雀《マージヤン》あるんですが、一緒にやりませんか」
いきなり、これだ。時計を見ると、五時五十五分である。
「いま着いたばかりなんです」
「私も、いま着いたんです。六時から、紅葉の間で、将棋連盟の倉敷支部の麻雀大会があります。名人戦、言ってます。やりましょうよ。すぐに降りていらっしゃい」
そうはいかない。
「ちょっと飲んでから、そのあとで、うかがいます」
フロントの人たちの教えてくれたのは、千里十里庵《ちりとりあん》という小魚料理の店だった。
さわらの刺身
いいだこ
はまぐり吸物
子たなご塩焼
めいたかれい煮付
かわがに
すなわち、強《したた》かに飲む。もっとも、電車のなかから飲み続けなのだ。
千里十里庵の主人は、永六輔《えいろくすけ》さんと親しいようだ。永さんはアイビースクエアの常連である。この頃、どこへ行っても、永さんとか小沢昭一さんのあとあとを追いかけるような感じになる。それが悪いと言うのではないが、どこへ行っても浅田飴《あさだあめ》の匂いがする。
ここの主人の大舘《おおや》さんは、なかなかの男前で、癇《かん》の強そうな人だ。絶えずマナイタと鍋《なべ》の裏表を洗い、包丁を洗う。大変な水の量だと思う。奥さんと二人でやっていて、夫婦|喧嘩《げんか》をすると料理の味が落ちるので、ずいぶん我慢をしていると言う。……どっちが我慢しているんだか。
ここでウイスキイを二本買ってホテルへ帰る。麻雀大会の賞品にするつもりである。
九時半。日本将棋連盟倉敷支部麻雀大会名人戦の出場者は三十六人であった。そこへ賞品を持って挨拶に行く。
「一等には駒が出ます。あなたの賞品は、何にしますか」
「…………」
「早くきめてください」
「…………」
「先きにきめておかないと、あとで困るから」
「じゃあ、一等に一本、二等に一本」
「はい、わかりました。二等に一本、三等に一本にします」
なんのことはない。大山先生は、私に訊《き》いたときから自分の腹づもりは出来ていたのである。
「さあ、あなたもやりなさい」
そう言われても、明日の仕事が控えているので、徹夜にでもなったらエライことになる。観戦のみ。離れたところでドスト氏も見ている。
「この名人戦というのは、将棋の会ですか」
「いえ、麻雀の会です」
「将棋は指さないのですか」
「将棋は、めったにやりません」
「変な支部ですね」
「ああ、そうだ。明日、将棋を指しませんか」
大山先生と指すのかと思っていたら、そうではなかった。
「ええと、あっこに幹事の人がいるでしょう。県代表までは行かないんですが、準決勝までは残る人です。あなたとはいい勝負です」
岡山県はレヴェルが高いのである。そんな強い人は困る。それに、仕事がある。大山先生は、自分でも絶え間なく行動するが、他の人も何かやっていないと機嫌が悪くなるのである。
「私は、明日は岡山で講演があって、夜は大阪で仕事があります」
東京の将棋会館の資金集めに歩いていたときに、大山先生は、冬でも外套《がいとう》を着なかった。社長室への出入りに外套を着たり脱いだりする時間が惜しいのだそうである。
タイトル戦の前夜祭に出席して、東京の旅館に泊り、翌朝五時に出て、飛行機で大阪へ行って対局するという人である。午前五時の、日本旅館の玄関にある下駄箱のなかの靴は冷いそうである。
三十分ばかり見て、地下の赤煉瓦というバーで少し飲み、部屋へ引きあげた。おそろしい人とつきあうわけにはいかない。
やっぱり眠れない。起きだしてバランタインの残りを飲む。千里十里庵からホテルへ帰るとき、まっ暗だから、タクシーを呼んでもらった。あいにくなことに、倉敷駅からホテルへ行ったときと同じ運転手だった。また、あんたですかと言う。実際、それは、駅からホテルまでよりも近距離だった。彼、ぶつぶつ言う。今日は輸送関係の人に叱られる日だと思った。社長に会い名人に会うというのも珍しい。
ベッドにもぐり、体をちぢめて目をつぶる。疲れているのに眠れないというのが辛い。そのうちに夢を見る。
相撲の夢。ちょうど九州場所の最中だった。十両に神幸という相撲がいる。これと大飛との取組である。時間になったが、神幸が、どうしても立たない。
「神幸も立たず大飛もひらず(沈香《じんこう》も焚《た》かず屁《へ》もひらず)」
というのは洒落《しやれ》にならないかと考えている。ずいぶん変な夢だ。洒落としては無理だと思い断念する。
そのあと文壇の夢。私が文芸雑誌の編集者になっていて、原稿の遅い小説家を電話で苛《いじ》めている。編集長の顔色をうかがいながら、それをやっている。厭な奴だなあ、己《おれ》は、と思っている。
[#地付き]●瞑想《めいそう》広場
午前八時、和食堂で朝食。豆やらカマボコやらシャケやらが、小さく小さくならんでいる。これも若い女性むきに作ってあるのだろうが、そんなことも、いい気持にさせてくれる。私にも、ちょうどいい量なのだ。それに米がうまい。ちかごろ、こんなにうまいホテルの飯を喰ったことがない。
さあ、仕事だ。私は小説を書かなくてはならないし、ドスト氏は絵を描かねばならない。ドスト氏は、アイビースクエアのまさにスクエアに腰をおろした。案内書によると、ここは瞑想にふけるのにいいと書いてあるが、この時間に、すでに瞑想にふけっている若い男が二人いた。一人は詩集をテーブルの上に置いている。快晴だが寒い。この瞑想広場の上空だけが切り取ったように晴れていて、雲ひとつない。
十一時半に、降りてゆくと、ドスト氏が一枚を描き終って戻ってくるのに会った。彼は、下水道のところからバッハの音楽が湧《わ》きあがってきたので驚いたと言った。そんなことはあるまいと思ったが、どうやら、それは本当らしかった。コーヒー・ショップで、ドスト氏はカレーライス、私は紅茶。
倉敷川の周辺、美観地区と言われるところ、よく写真に出てくる、時代劇のセットのようだと言われるところ、人によっては少し厚化粧に過ぎると言う人もいるが、そこのところを歩く。いっぱいの人。ドスト氏は、その倉敷川のまんなかあたり、中橋の考古館の側から倉敷館(無料休憩所になっている古い洋館)を描く。それを見届けてホテルへ帰る。
驚くべし(驚いてばかりいるようであるが)私は、午後三時までに二十八枚の小説を書きあげてしまった。そのときは天才じゃないかと思った。本当に驚いた。
ドスト氏を迎えにゆこうとすると、またしても、二枚目を描きあげて戻ってくるのに会ってしまった。フロントの伊藤さんに言われて、アイビースクエアにある工芸美術研究室の児玉潤吉さんに会う。ドスト氏は、そこでトンボ玉の製法を教えて貰う。そこに陶芸教室もあって、私、皿に呉須《ごす》でもって染付け。すなわち「時雨《しぐ》るゝや倉敷川の蔦の宿」。この頃は、何でも|時雨るゝや《ヽヽヽヽヽ》になってしまった。また、実際に、小雨が降ってきたのである。
五時、千里十里庵。私は、一軒を紹介されると、そこばかりになってしまう。
おこぜの刺身(これは、あと空揚げにも吸物にもなった)。ひらめの刺身。貝柱焼きもの。かれい塩焼。めばる煮付け。原稿を書き終ったときは、いくらでも飲めるし、自分を許してしまう。ドスト氏も同様。
赤煉瓦で、ママカリ、チーズ、ピザトースト。……ウイスキイ、少量ではなく。ここの勘定は安い。
フロントの伊藤さんは、夫人の出産が近いという。なんとか私の滞在中に生まれればいいと思う。名付親になってもいいと思い、ベッドのなかで名前を考える。まったく、お切匙《せつかい》な男だと思う。女の子なら野乃(ノンノと訓《よ》んでもいい)なんかはどうかしら……。
千里十里庵に抽象画のような色紙があり、ドスト氏は、この線はタダモノではないと言う。主人に聞いてみると、東山魁夷《ひがしやまかいい》が飲みにきて、たわむれに描いたものであることがわかった。
[#地付き]●福山の展覧会
十一月十七日、土曜日、午前八時。和食堂で朝食。定食なのであるが、昨日とそっくり同じものが出てきたので、また驚く。
郵便局が八時四十五分に開くというので、倉敷川のあたりを散歩。狭いところなので、これでだいたいわかってしまう。
鶴形山公園、阿智神社を歩き、十時半頃、アイビースクエアを出て、自動車で福山に向う。十一時三十五分、福山着。ドスト氏の展覧会場であるイマヰ画廊には、まだ誰も来ていない。作品も到着していない。
タクシーでグランドホテルへ行く。このときも、運転手に舌打ちされる。画廊とホテルとは、本当に近いところにあった。一時間ばかり眠る。
昼寝して、入浴したら元気になった。二時にイマヰ画廊へ行って飾り付けを手伝う。少餡、青松堂が来ている。こういうとき、ドスト氏自身は何も口出しをしない。自分のことはわからないんですと言う。彼の人気の秘密は、ここにあると思う。決してキイキイ言ったりはしない。
野沢さんという人に会う。彼は、朝早く、東京を出て、越乃寒梅《こしのかんばい》二本を会場へ届けて、それで帰るのだという。不思議な人だ。ドスト氏には、こういうファンもいる。
ホテルへ帰ってビール。この日、六時から、今城国忠氏の後援会の例会があり、出席。突然の指名があり祝辞。福山市の名士多数の前で、少しくだけすぎるかと思われる話をしてしまう。今城氏は、私の家の向いの住人。国立市住民大移動の感あり。ドスト氏の個展にあわせて例会を開いたので、こうなった。ビール、日本酒、ウイスキイ。
ドスト氏の宿舎であるホテルトーオーへ行く。ここは、駅前の、煙突のような形のビジネスホテルである。少餡が寝ている。狭い部屋で、テレビばかりが大きい。少餡、冷蔵庫をあけ、蟹《かに》を見せ、食べなさらんかと言う。
ドスト氏、少餡、青松堂、ドスト氏の弟子の吉村氏等と、バー諏訪《すわ》へ飲みに行く。今城氏ほか、後援会の人多数。そこで飲み、隣の酒場でも飲む。ホテルトーオーへ帰り、二階のスナックで飲む。だんだん人がふえてきて、ウイスキイ三本をキープする。少餡、部屋から蟹をいっぱい持ってくる。わけわからなくなってくる。こんなことをしていたら腹をこわすと思いながら、しかし、備前の蟹を食べている。ドスト氏の顔、また唐金の仏様になってしまう。十二時半、自分のホテルへ帰る。
十一月十八日、日曜日。八時半起床。入浴。また少し寝て十一時半チェック・アウト。
イマヰ画廊へ行き、少餡、多々宮、国立のケネディ、備前のフォックス、蛭田《ひるた》氏、ガンバリスト・ジュニヤ、松ちゃん・エリクソンなどに会う。
いったん、駅ビル内サントーク食品売場へ行き、府中味噌、ママカリ、呑ん兵衛マンジュウ、鯛《たい》のワタの塩辛、ワサビヅケ、ラッキョウ、梅干などを買ったり送ったりする。
二時半、パラオが来た。義理固い男だ。
ここで、私、一計を案ずることになる。なにしろ、荷物が多いのだ。パラオがいるから、福山から倉敷まではいい。そのあとが困る。そこで、翌日中に国立へ帰ればいいという多々宮を連れて行くことにした。荷物の半分を持って帰ってもらうためである。
「ねえ、多々宮さん、倉敷といえば藺草《いぐさ》の本場でしょう。多々宮が藺草の本場へ行かないという手はない。勉強のためだ、倉敷へ一緒に行きなさい」
こんどは倉敷国際ホテルへ泊るのだけれど、パラオに聞いてみると、パラオの部屋はツインであるという。万事都合よくできている。多々宮は、しぶしぶ、承諾した。
三時二十九分発の山陽線に乗り、約四十五分間で倉敷に到着した。ところが、この日、第三日曜日なので、千里十里庵をはじめとして、呑み屋はほとんどが休みである。そこで、ガイドブックで推奨している、民芸ふうのグリル鶴形へ行った。
グリル鶴形の前で、酔っぱらいが、さかんに、この店へ入ってはいけないと演説している。彼は、交通係りという緑色の腕章をつけている。地方都市へ行くと、どこでも、こういう男がいるものだ。酔っぱらいが去るのを待って店へ入り、懐石料理を食べた。むろん、その前に、酒を飲んだ。この店の徳利は小さい。いまや、私は、小さいのが有難いくらいの状態になっている。この徳利は六勺も入らないだろうと言っていると、男の人が、
「いえ、六勺は入ります」
と、遠くのほうから叫んだ。店の人は、いくら遠くにいても、悪口だけは聞こえるものである。客は一人もいなかったのだけれど、だんだんに、少しずつ入ってきた。七時閉店という店である。
ホテルへ帰り、福山から持ってきた越乃寒梅を飲んだ。ツマミ(関西ではアテと言う)はママカリ、ラッキョウ、梅干、ワサビヅケである。妙なもので、御馳走続きだと、こういうものが変に懐しくなる。ウイスキイと交互に飲んだ。
多々宮は、いけないほうの口である。越乃寒梅が、あらかた無くなった。備前のフォックスは、お流れ頂戴と言いだしたときが危険信号である。わがパラオは、ふくれている頬がさらにふくれてきて、左の眉毛が吊《つ》りあがってきて、右目は潰《つぶ》れたようになり、左の眉毛と左の目との距離が開いてきたときが、つまりは、矢でも鉄砲でも持ってこいという状態になる。私は、パラオの左の眉毛に注目し、頃あいを見て、お開きにすることにした。翌朝、多々宮に聞いてみると、パラオはベッドの上で正座して、どうなるのかと見ていると、そのまま飛びあがり、毛布にくるまって、すぐに眠ったという。
「ああいうのを、バタンキュウと言うんでしょうかね。こっちは寝そびれました」
[#地付き]●ゆきてかへらざる
十一月十九日、月曜日。六時に目がさめて、ベッドに坐って、日の出を見る。窓は東にある。星が消えて、光の矢が屋根に突きささるような感じになる。倉敷は蔵屋敷である。倉敷国際ホテルは大原美術館の裏にある。濡れている瓦が光ってくる。
私は、梅干とワサビヅケをねりあわせたものを、梅ワサと称し、酒の肴《さかな》として愛好する。あんなものを食べなければよかったと思う。何も、倉敷へ来てワサビヅケを食べることはなかったんだ。少し気分が悪い。
運が悪いときは、どこまでも悪くできているもので、昨日は第三日曜日で酒場が休みだったが、月曜日は、大原美術館をはじめとして、主なるところは休館になっている。
倉敷美術館(大理石とブロンズの多いところ)だけが開いている。そこへ入ろうとすると、パラオが、
「じゃあ、私は、ここで……」
と言って帰っていった。十時半倉敷発の電車だそうだ。
美観地区周辺をグルグルと廻った。アイビースクエアへ行き、児島虎次郎館、オリエント館、倉紡記念館を見た。私は、資本主義発達史を苦手とするところがある。どうしたって、裏に女工哀史が見えてきてしまう。
多々宮は、よし、こんどは一人で来るぞ、きっと来るぞと言った。若い女性たちの数に驚き、発奮し、私を邪魔なものに思ったのだろう。彼は独身である。申しわけがなかったのだけれど、多々宮は私の荷物の半分を持って帰った。
アイビースクエアでは、非番となって帰る伊藤さんに会った。もう産まれそうだという。家は、自転車で五分というところにあるそうだ。
千里十里庵で、サヨリ、カキ、イカ、イシガニ。
十一月二十日、火曜日。八時四十分にホテルを出て郵便局へ。短い原稿を送るため。すでに多数の人。若い女たち。修学旅行の高校生。快晴、雲なし。しかし、寒い。中学のとき、英語教師に、秋は寒い、オータムというくらいだからと言われたのを思いだす。
中橋で写真を撮る人が多い。修学旅行もしかり。太鼓橋だから、位置をきめるのがむずかしい。
「その、いちばんうしろの、いちばんキレイな人。顔が見えない。もっと右へ寄って」
写真屋が叫ぶ。前列でかがんでいる男の生徒がいっせいに振りむく。うまいことを言うものだ。また、男子生徒の反応の早いこと。
手付きの土瓶《どびん》を買う。道具屋横丁へ行って、グラス十箇。時代はわからないが、むかしカルピスが宣伝用に使っていた形のもの。これが重い。あとガラスのソース注ぎ三箇。私は、どういうわけか、食卓用のこんなものが好きだ。「むかし吉備団子《きびだんご》」というのを見つけ、友人・知人十人に発送する。
部屋の窓から絵を描く。午前中に、すでに失敗に気づく。蔵屋敷というものは、うまく描けると版画のようになってしまう。それに、白と黒のコントラストが強過ぎるのである。
大原美術館へ行く。ピカソの「鳥籠、頭蓋骨《ずがいこつ》」がいい。勇気が出てきたようで、ホテルへ飛んで帰って絵の続きを描く。やっぱり駄目。
コーヒーを飲みにゆく。有名店であるらしい。口裂け女のような人が、じっとこちらを見ているようなので逃げて帰る。ホテルで昼食。スープとビーフ・カツレツ。なかなかうまい。また、絵の続き。失敗がわかっているので、とても辛い。
七時前に、カメラマンの沼武が来る。また千里十里庵へ行く。
アジの刺身。イカの糸づくり。マイカ味噌あえ。おこぜ空揚げ。ふぐの吸物。東山魁夷の額のあったところに私の色紙が懸っているので驚く。
こんどは、歩いて、アイビースクエアへ行く。もう道はわかった。瞑想広場に一人の若い女性あり。暗いなかで写真を撮っている。自信がなさそうなので、沼武に見てもらう。
「こりゃあ駄目だと思うけれど、まあ、やってみましょう」
沼武が写真を撮る。ついで、自分も撮影。シャッター速度が違うので、彼のカメラなら薄暗がりでも撮影が可能なのである。
「寒いですねえ」
と、私は若い女に言った。
「いいえ、寒くありません。あったかいです」
「あったかい?」
「ええ、私、北海道から来たんです」
「ああそうか。北海道は、どこ?」
「北見市です。今朝早く出発したんです。もう、雪が三十センチは積っています」
団体旅行である。北海道から飛行機に乗って、伊丹《いたみ》空港へ着く。そこからバスに乗って、ここへ着いたばかりであるという。なんと、北見市→倉敷→神戸→京都→北見市という三泊四日の旅であるそうだ。飛行機以外は、すべてバス。ヤング・トリップという団体であり、コースもコース、日程も日程だから、若い人ばかりだろうと思って参加したら、これが爺さん婆さんばかりだった。彼女が一人で瞑想広場にいることがわかった。ほかの連中は、すでにへたばって寝ているのだろう。
その女性を赤煉瓦に誘う。こんな建物も見ておいたほうがいいと思った。本当にいい酒場である。彼女、すこし考えて、水割りと言った。
「期待して来たのニィ……」
一杯で赤くなっている。若い男との邂逅《かいこう》を思っていたのだろう。こっちの胸が痛くなる。『旅愁』という映画の主題歌が流れてくるような気がする。日本の現実、駄目なんだ。
「こっちも爺さん二人で、すいませんニィ……」
沼武が言った。カンパリソーダとジャックダニエル一杯ずつで歩いて帰る。沼武が、むかし雑誌の仕事で撮影に来たとき、倉敷川近辺の旅館は一軒しかなかったという。倉敷の繁栄は、新幹線が岡山まで通ずるようになってから後のことである。
十一月二十一日、水曜日。
この日、ドスト氏の個展の開かれているイマヰ画廊は休日になっている。午後になって、はたして、ドスト氏が、陶芸家の浩チャンを伴ってあらわれた。
部屋で冷酒を飲んでから、大原美術館へ行く。ドスト氏は、少年の頃、セガンティニに感動した。すなわち、彼は、セガンティニの「アルプスの真昼」に会いに行くのである。
本館、分館(日本人の作品)、陶器館(富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチ)、板画館(棟方志功《むなかたしこう》)、染色館(|芹沢※[#「金+圭」]介《せりざわけいすけ》)、東洋館と、全部を見て廻る。
「なんでこんなに倉敷にばかりエエもんが集まるんじゃろねえ」
老人の声。
ドスト氏の足がとまった。
「紅燈の巷《ちまた》にゆきてかへらざる人をまことの吾と思ふや」
吉井勇の歌を彫った棟方志功の板画である。ちょっといい気になっているような歌であるが、長く旅に出ていると、こんな気分の歌が身に沁《し》みてくる。唐金の仏様が動かない。
ホテルへ帰り、私の買物を見せた。手付き土瓶を見て、浩チャンはこう言った。
「これは駄目なんですね。お茶の葉をいれるとき、手が邪魔になるんです。それから洗うとき、また、葉っぱが出にくいんです。だから、誰も造らないようになったんです」
なるほどと思った。やっぱり専門家は違うのである。似た形で、浜田庄司の、実に姿も色あいもいいものが陶器館に出ていた。そういうものかと思った。
それで、私は、多々宮の言ったことを思いだした。
倉敷には、様々の藺草を使った土産物を売っている。そのなかで、私は、枕がほしいと思っていた。題して、草枕。私は、昼寝の人である。だいたい、午後四時から六時まで、つまり、テレビの相撲中継の時間である。だから、場所中というのは本当に困るのだ。午後の六時に起きてきて、八時頃に夕食を食べ、深夜まで起きていたり、そのまま徹夜になったりする。
枕は必要なのである。昼寝用の枕がいい。藺草の草枕は、ヒンヤリとしていて、よく眠れそうだと思っていた。しかし、それが枕であるからには、どうしたって、ある程度の容量を要求される。折りたたみというわけにはいかない。すでにして、私は、またしても大荷物になってしまっているのである。ずいぶん迷った。
すると、多々宮が、こう言った。
「藺草の枕はいけませんよ。頬っぺたに跡がつきます」
そのときも、なるほどと思い、専門家は違うと思った。餅は餅屋である。
みんなで食事に出ようとすると、ロビーにトッカピンが立っていた。この人も不思議な人である。
トッカピンの、福山へ行き、イマヰ画廊を探すのに苦労して、探しあてたと思ったら休日で、それから倉敷へ来て、また探して探して、ついに所在をつきとめるまでの長い長い話。
彼は、グレイの三《み》つ揃《ぞろ》いの背広を着ていた。こういう姿を見るのは初めてである。彼も、八年前にその洋服をこしらえて着るのは今日が初めてであるという。言っては悪いが、彼は、縞の半袖のシャツを着て、腹巻をのぞかせて潮風に吹かれているというのでなければ似あわない。
私は、ロビーに直立不動で立っているトッカピンを見て、なぜか、またしても、閃《ひら》めくものがあったのである。悪い癖だ。
五人で、またしても、千里十里庵へ行く。自動車二台で行く。大宴会。こうなると、情が移るというか、どうしたって、最初のときとは異る感情が生じてくる。これで五回目である。
異る感情のひとつを言うならば、翌日は、私は倉敷を去らなければならないのであるが、その話になると千里十里庵夫婦が不機嫌になってしまうというようなことがある。内儀《かみ》さんのほうは、終始、うつむいて皿を洗っている。
ヒラメの刺身。イシガニ。その甲羅酒。
私に閃めいたものというのは、次のようなことである。
ドスト氏は福山へ帰る。浩チャンも帰る。沼武は倉敷に一泊して、翌日、福山へ行き、展覧会を見て、東京へ帰る。トッカピンも、倉敷に泊り、展覧会へ行き、福山へ一泊して、翌々日、浦安へ帰る。私は、倉敷に泊って、それから京都へ行くことにしている。
この浩チャンと沼武とをすりかえてしまうのである。沼武が福山へ行き、浩チャンの部屋に寝る。浩チャンが倉敷の沼武の部屋に寝る。トッカピンは、倉敷に泊って、翌朝、福山へ行き、展覧会を見て、京都へ来て、私の常宿に泊る。
その結果、どうなるか。
京都まで行くときに、私は、浩チャンに荷物を持ってもらえる。彼は京都の住人である。京都の住人と京都へ行くのは、気持のうえでも非常に安心である。京都から東京へ帰るとき、トッカピンに荷物を持ってもらう。
これでどうだろうか。
「つまり、私は、東京を出て、倉敷、福山、京都と、ずっと荷物持ちを連れて歩いたことになるんです。赤帽つきの旅行です。一人の赤帽(多々宮)は、もう帰しました。こんなことは大原総一郎だってやれなかったでしょう」
「いいですよ。だいたい、ポーターとポッター(陶芸家)は似ているんです。ポッターはPOTTERですけれど」
浩チャンが学のあるところを示した。
帰ろうとすると、千里十里庵の内儀さんが飛びだしてきて、みんなに握手をもとめた。
歩いて、アイビースクエアの赤煉瓦へ行く。もう、美観地区の周辺なら、どんな裏道でもわかるようになっている。沼武のカメラで記念撮影。フロントへ行くが、伊藤さんの子供は、まだ産まれていないようだ。
また、歩いて倉敷国際ホテルへ帰る。途中、ついに、草枕を買った。これは、トッカピンの夫人に献ずるものである。千円。旅館の内儀というものも昼寝の名人でなければならない。そう思った。ただし、以後、浦安温泉旅館株式会社の専務夫人の頬には畳のあとが消えないようになるだろう。
そういうわけで、ドスト氏と沼武とが福山へ帰っていった。九時ごろの山陽線快速電車に乗れるはずである。
十一月二十二日、木曜日。
十時に倉敷駅へ行く。トッカピンは福山へ行く。浩チャンと私とは京都へむかう。ホームとホームでむかいあっている。ポーターでポッターであるところの浩チャンは、私の荷物の番をしている。
「あれ……」
私は変なことに気づいた。むかい側のホームに直立不動で立っているトッカピンは小さな荷物ひとつしか持っていないのである。それは草枕である。
「おいおい、トッカピンは、自分では何も持ってこなかったのか」
「ええ。そう言っていました」
「変な人だな」
ふつう、二泊の旅に出るときは、ボストンバッグぐらいは持って出るものである。
トッカピンは不思議な人物であるが、グレイの背広の三つ揃いで、駅のホームに直立不動で枕ひとつを抱えて立っているというのは不思議な光景ではあるまいか。その頬が、ふくれあがっている。
昼過ぎに京都へ着いた。二鶴へ行って荷物を置いて、山福へ飲みにゆく。
「この酒、すっぱいな」
そう思って、流しの脇の一升瓶を見ると、菊正宗である。山福の酒が悪かろうはずがない。私の舌と胃とがおかしくなっているのである。
「ああ、そうそう、今朝、ホテルに電話があったんです」
浩チャンが言った。
「あなたは散歩に出ていました」
「…………」
「アイビースクエアのフロントの人に子供が産まれたんだそうです。女の子だそうです」
「…………」
「名前は葉子にしたそうです」
私は、昼間っから酒を飲む理由がみつかったように思った。わざわざ電話をくれたというのが嬉しいのである。葉子というのも、アイビーのイメージだろう。
夕刻前にトッカピンがあらわれるはずである。そうしたら、祇園《ぎおん》を案内しよう。
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小樽《おたる》、海陽亭の雪
[#地付き]●パラオの呉《く》れたもの
はたして、ゲートに、パラオの姿が見えた。私たちは、全日空のスーパージャンボに乗っていた。私たちというのは、ドスト氏と国立《くにたち》のケネディと私である。ケネディが身を乗りだすようにした。私も手を振った。飛行機の窓はちいさい。こちらからは見えるのだが、向うからは見えないらしい。私たちは二階席にいた。
「正直に言って……」と、ケネディが言った。「わからないようですね、あっちからは」
ゲートには望遠鏡があったのだけれど、そのとき十円玉を持っていなかった、と、後になってパラオが言った。そこへ若い男がきた。その男は、空港で恋人と待ちあわせたのであるけれど、別れを惜しむ時間がなかった。彼は十円玉を持っていた。しかし、望遠鏡をもってしても、機内を見ることは不可能であったようだ。パラオは望遠鏡を借りた。やはり見えない。
それにしても、と、私は思う。なぜ、パラオは、いつでも、ゲートに立って見送るのだろうか。列車とか船とかはともかく、飛行機の見送りというのは、いまどき流行《はや》らないのではなかろうか。パラオは、私たちの飛行機が墜落して大惨事になるのを見届けたいと思っているのではないか。どうも、そんな気がする。道中ご無事で……ウッウッウッという、あの笑いの奥に何がひそんでいるのだろうか。
「正直に言って、私だってこわいですよ。自動車や列車の事故だと、死者何名、重軽傷者何名と出ますが、飛行機の場合は、いきなり、生存者……ですから。それで、生存者ナシです、たいていは」
と、ケネディが言った。彼はパラオを見ることをやめて、シートに深々と腰をおろしていた。
私たちが乗ったのは、二月十一日(月曜日、建国記念の日)羽田発千歳行、十三時十分発、全日空六十五便、スーパージャンボなのであるけれど、その数日前に、飛行機は何にしようかという問いあわせの電話がパラオからあった。
私は、二時か三時に千歳空港に到着する便にしてくださいと頼んだ。パラオは、A案B案C案を示して、どれかに決めてくれと言った。
「それは厭《いや》だよ。あなた、決めてください。さんざんに迷った末に落っこちるのを選んだんですから運のない方です、エッエッエッなんて言われるのは御免だから……」
それで、パラオに決めてもらったのが、その飛行機だった。十四時三十五分に到着する予定になっている。
千歳空港には、クラモトが迎えにきているはずである。彼は、富良野《ふらの》市の山中から、雪のなか、ジープを駆って、三時間半を要してやってくるのである。だから、あまり早く着く便であるのは困る。また、千歳空港から札幌《さつぽろ》へ出て、海陽亭で夕食を摂《と》る手筈になっている。従って、あまり遅い時刻に到着するのも不都合である。
二月十一日の祭日を選んだのは、前日が日曜日で、つまり、連休の終りであって、飛行機は空《す》いているだろうという魂胆からであった。札幌の雪祭りも終っている。
ところが、私は、十四日から小樽でスキー国体が開かれるということを知らなかった。皇太子殿下、妃殿下、ナントカの宮様もお越しになるという。すなわち、小樽市のホテルは、どこも一杯だった。飛行機だって、パラオの才覚によるのでなければ、搭乗券《とうじようけん》が入手できなかった。飛行機の切符は買えても、ホテルの部屋はとれない。クラモトの世話で、小樽の海陽亭(本店、発祥の地)に泊ることになった。それが、私たちに、どれだけの幸運をもたらすことになったか、はかりしれないものがある。
「小樽にお着きになって、お泊りになっても、すぐにお発《た》ちになってください。あの店は高いですから……。すぐにお発ちになって、富良野へ行って、プリンスホテルに泊ってください、エッエッエッ、そのほうが私も安心ですから」
出発の前日に往復の搭乗券を持ってきたパラオが言った。
私にも、その心配があった。
六、七年前のことになろうか、私は、北海道の東北部へ写生旅行に行き、帰りに札幌の海陽亭へ寄り、二階の小部屋で昼食を認《したた》めた。むろん、酒も飲んだ。なんだか変に上品になっている。以前、別の場所にあったときの、野趣に富む郷土料理というのと感じが変っている。器なんかも結構である。座敷も綺麗《きれい》だ。それで、料理は非常に美味《うま》い。しかも、オマカセで頼んだのであるが、北海道の名産が、すべて、少しずつ食べられる仕組になっている。なるほど、気が利いているなと思った。野趣が繊細になっている。ウム、これは札幌の吉兆じゃと思ったものである。そのときの勘定が一人一万五千円見当、三人で行って、お姐《ねえ》さん方への心付けをふくめて五万円でいくらの釣銭《おつり》もなかったという記憶がある。私は、海陽亭に難癖をつけようとする者ではない。そのお値段は、きわめてリーズナブルであった。すなわち、大変に結構であり、かつ上等であって、私たちは満悦して蝦夷《えぞ》の地を去ったのである。
しかし、こんどは、そうはいかない。小樽の海陽亭(古くは魁陽亭、もしくは開陽亭)は本店である。創業は明治以前であって、いつのことかわからぬという。伊藤博文なんかが樺太《からふと》問題を論じたところである。日本郵船、山下汽船なんかの偉いさんが毎晩のようにドンチャン騒ぎを演じた店である。札幌と小樽の間に銭函《ぜにばこ》という地名があるが、むかし、まだニシンが獲《と》れていたころ、網元たちは、銭をボール箱に押しこんでいたのである。そういうニシン御殿の住人が遊んだところである。芸者部屋というのがあって、常時二十人の芸妓《げいこ》がそこで寝ていたという。しかも、現在は料亭であるのだから、めったな人は泊めないはずである。
札幌店の昼食が一万五千円であるのだから、小樽の本店に何日も泊って朝昼晩と食事をするとなると、いったい、どのくらいの費用を要すると踏めばいいのか。パラオが心配するのは無理がない。
「なあに、平気、平気。そんなこと、こわがっちゃいけない。場合によっては、今年一杯、そこへ泊ってやるつもりだ」
本心を言うならば、私だって、心細い。正直に言って……。ナニ、命まで取られるわけではない、と、こういうのはヤケクソのココロなのだろう。
「大丈夫ですかぁ?」
パラオは下から見あげるようにして言う。悪い目つきだ。
「俺は、こういうこと、割に平気な質《たち》なんだ。いざとなれば、冬は雪掻《ゆきか》き雪おろし、夏は風呂の釜焚《かまた》き三助下足番、場合によっては宴会場を廻って幇間《ほうかん》を勤めるから……。それに旅の絵師としての席画という手もある」
「ほかはともかく、席画は無理……。エッエッエッエヘン、まあ、道中ご無事で……。そういうお店になると、芸者を折檻《せつかん》する地下牢《ちかろう》なんかもありそうですから、お気をつけになって、ウッウッウッ……」
パラオが、搭乗券のほかに持ってきたものは次のようなものである。
ハクキンカイロ。ベンジン五本。ハクキンカイロを固定させるチャンピオン・ベルトのようなもの。
発熱パット。これは、いま流行の、紙袋に入った砂だか土だか鉄だかの粉を、こすったり振ったりすると暖かくなる保温袋であって、私が貰ったのは銘柄がラクホット。後に、ドスト氏はホカロン、ケネディはミニホットを持参したことがわかった。
ヒザアテ。これは一見して、小児用腹巻もしくは小犬用|外套《がいとう》のようなもの。毛糸製。これを膝《ひざ》に巻くのである。
とにかく、パラオは、親切な男である。
これも出発以前のことになるが、帽子のデザイナーであるところのドスト氏の細君の風船女史が、われわれ三名に、防寒帽子を造ってくれた。
私のものは、内側に毛がついていて、その毛はミンクであるという。ホックをはずすと耳まで覆うことができる。風船がミンクだと言うのだから、これはイタチだろう。私は、この帽子を八甲田山死の彷徨《ほうこう》と命名した。
ドスト氏のものは、どうも赤犬の毛であるらしい。やたらに縮れている。形は、ステッセル将軍か張作霖《ちようさくりん》のかぶりそうな奴。風船の娘のサキは、これをモヒカン族の最期と名づけた。
ケネディの帽子だけが真白であって尻尾《しつぽ》がついている。兎の毛であるようだ。私は、これをデイビー・クロケットと呼んだ。ケネディは、空港では帽子をかぶらなかった。正直に言って恥ずかしいと言っていた。
私は、八甲田山死の彷徨をかぶり、息子がニューヨークで買ってきたフードつきのコートを着ていた。これは、ノーザン・グース・ダウンというもので、なかなか手に入らないものであるそうだ。息子の説明によると、北極に棲《す》む鵞鳥《がちよう》の冬の胸毛が縫いこまれているという。
心配性であり要慎家であるところの私は、家を出るときから、ハクキンカイロを装填《そうてん》したチャンピオン・ベルトのようなものを締め、ヒザアテをつけ、腹と尻のポケットに発熱パットを収めていた。靴は編上げ式の長靴《ブーツ》である。いや、その、暑いのなんのって。
羽田空港には、九州方面に旅立つところの軽装の人たちがいる。北海道へスキーに行く連中がいる。しかし、私のような重装備の人は見当らない。私は、もし、ハイジャックされるにしても、シベリヤ方面であることを切に願ったものである。
[#地付き]●社長の運転
私の隣の窓際に坐ったのは、若い肥えた男であって、坐るなり靴を脱ぎ、足を組んだ。ずいぶん旅馴れた人だなと思った。しかし、私の脇に提供されることになった靴下が、かなり臭うのには参った。
スチュワーデスが、救命用具の説明をする。私としては、海上に墜落して、この救命用具を利用して助かった例はありませんというふうに言ってもらいたいと思う。とにかく本当のことを言ってもらいたい。そうすれば、助かった(無事着陸)ときの喜びはいかばかりであろうか。そのときに、ああ、航空運賃は安いと心から思えるようになるのではなかろうか。
私は、まず、自分の住んでいる国立市から羽田空港に至るまでの時間でもって、北海道まで行ってしまうのだから、多少のことはあっても仕方がないのだと自分に言いきかせる。次に、ジェット機が空に突き刺さるようにして飛びたつのを何度も見ているが、落ちるのを見たことがないのだから、多分この飛行機も、そのようにして飛びたつことになるだろうと考える。そうして、さらに、ドスト氏のような天才であって人柄のいい人の乗っている飛行機が落ちるわけがないと考える。ケネディにしてもそうだ。こういう若くて精力的で金儲《かねもう》けの名人が航空事故に遭うわけがない……。私は別にして……。しかし、この考え方をあまり押し進めてはいけない。天才とか名人とかというのは、不慮の死をとげるのではあるまいかといった具合になってしまう。
隣の男は機内で貸してくれる週刊誌を読んでいる。私も、これにならうことにした。丸谷才一さんの文庫本の解説を頼まれていたので、鞄《かばん》から、その原本を取りだした。その題名がいけない。『低空飛行』。いいタイトルなのだけれど、この際はいけない。持ってくるんじゃなかった。
パラオの期待に反して、飛行機は無事に飛びたった。彼は、モノレールに乗り、浜松町で下車して、ふたたび国電に乗って東京駅にいたり、大手町まで歩いて地下鉄に乗り、神楽坂で降りて慎重社に帰社したのであるが、机に向って、すぐに千歳空港に電話をいれた。心配になった(彼は私にはそう言った)からだそうである。そのとき、全日空六十五便は、すでに到着していたということである。パラオは、この日、二度失望したわけだ。
飛行機は水平飛行に移った。
虫明亜呂無さんは、山口さん、飛行機というものは、飛んでいる間は落ちないんですよと言うのである。ねえ、あなたは野球をやったんでしょう、センターからバックホームをするときに、球が二塁ベース上で急に落下することはないでしょうと言う。
隣に坐っている若い男が貧乏ゆすりをはじめた。凄《すご》い勢いで週刊誌の頁を繰る。これは、とても読んでいるという状態ではない。スチュワーデスを呼びつけて、やつぎばやに、『週刊ポスト』、『週刊読売』、と叫ぶのである。そうしては、恐しいような勢いで頁をめくる。心そこにあらずというような感じだった。もしかしたら、旅馴れているのではないのかもしれない。
それはいいのだけれど、この男、たえず動くのである。貧乏ゆすりだけではなく、モゾモゾと動く。落ちつきがない。手をあげて伸びをする。そうかと思うと、背中を椅子の背にドシンとぶつける。そのたびに、こっちの椅子もゆれる。靴下が臭う。飛行機が揺れるのは仕方がないが、こういうのは困る。彼はまた、紅茶のお代りをするし、便所の在処《ありか》を質《たず》ねたりする。
落ちつきのない人がいる。ジッとしていられない。私の弟なんかもそうだった。幼いとき、一緒の布団に寝ていて(昔はそうだった)モゾモゾ動かれるので参った。風がスースーとはいってきて寒くて仕方がない。落ちつきのない男というのは、飛行機内の相客としては最悪だろう。よっぽど注意してやろうかと思ったが、こっちの恐怖感からだと思われるのが癪《しやく》なのでやめた。
将棋の中原誠名人が、塩釜や仙台は寒いですと言ったことがある。彼は塩釜の出身である。その感じはよくわかる。関東者である私も、高崎とか前橋は寒いと思う。これは北海道と比較しての話である。北海道は、気温は低くても、室内での煖房《だんぼう》が整っている。完全武装のような形で町を歩く。前橋をノーザン・グース・ダウンを着て歩いたら、ちょっと、ものものしい感じになるだろう。そうして、高崎あたりの旅館では、電気の掘炬燵《ほりごたつ》だけで背中が寒いということになる。
そんなことを考えたのは、暑くてたまらなくなっていたためである。ハクキンカイロ、発熱パット、ヒザアテ、ブーツ。これは暑い。私は、その後の数日を、暑いのと寒いのとで苦労することになる。
飛行機が内地の上空を過ぎるあたりで、私は、ある種の喜びに似た感情に包まれていた。早くクラモトに会いたいと思った。クラモトは、放送作家で、中学の十年後輩になる。彼は、一年のうちの五分の四くらいを富良野市で暮している。秋になると、ジャガイモやカボチャを送ってくれる。私は、これを蔵元直送と称している。クラモトでさえそうなのだから、もし、空港で待っているのが自分の惚《ほ》れた女であるとしたら、どんな思いになるだろうかと思った。
クラモトに会ったら、まず、
「イヤイヤイヤァ、参ったな」
と言ってやろうかと思った。『小説新潮』の読者ならば、彼の書く「北の人名録」によって、そのことの意味を承知されているはずである。
それとも、
「ウー、ワンッ」
と言うべきであろうか。これは、桃井かおりが最初にクラモトに会ったときに発した言葉(叫び声か)であるそうだ。私はあなたと同類の人間です、仲よくやりましょうというような意味であるようだ。
しかし、私は、クラモトに、ウー、ワンッと叫ぶわけにはいかないのである。なぜならば、クラモトの飼っている犬の名がヤマグチであるからだ。人間である私が犬になってしまうと、里見八犬伝みたいになってしまう。クラモトはヤマグチは山口百恵であると言うのであるが、それならばモモエと命名するはずである(ヤマグチは牝《めす》である)。クラモトは、ヤマグチをずいぶん苛《いじ》めているらしい。苛めないまでも呶鳴《どな》りつけるらしい。だいたい、犬の名に鈴木とか斎藤とか山口とかという名をつけるのがおかしいのだ。そうなのだ、私が、今回、北海道へ行くのは、ヤマグチに会いたい、彼女を見たいというのが目的のひとつになっていた。あんまりヒドイめにあっているのなら救出しなければならない。
空港の出口に、濃いサングラスをかけ、全身黒ずくめの、松方弘樹のような北島三郎のようなポール・アンカのようなクラモトが立っていた。私は、イヤイヤイヤァ、参ったなと言った。
すでにして私は八甲田山死の彷徨をかぶり、ノーザン・グース・ダウンを着用していた。寒いのか、そうでないのか、よくわからなかった。小雪が降っていた。
「これで、零度ぐらいでしょうか」
「いや、零下二、三度にはなっています」
クラモトは、やや憤然としたような口調で言った。雪が降っているのだから、そうなのだろう。いったいに、北海道の人は、寒いのを誇るようなところがある。どうだ驚いたか、という調子で話す人がいる。江戸っ児が火事を自慢するようなものだ。案外あったかいねなんて言うと不機嫌になる。
ジープで支笏湖《しこつこ》へ連れていってくれた。札幌の人は支笏湖を見せたがる傾向がある。私も三度目なのだが、むろん、極寒のときのそれを知らない。クラモトは、人っ子一人いませんと言っていたが、この日は祭日であり、氷柱《つらら》芸術という人寄せの仕掛けもあったりして、二十人ばかりの人に会った。そうして、冬の支笏湖は、やはり、なかなかに良かった。雪と雲が白く、空と湖が蒼《あお》いという区分けがはっきりとしている。その白と蒼とは、光線の具合によって、たちまちに金色に変ったりする。
私たちが札幌の海陽亭に到着したのが午後の六時だった。私は、十一時に羽田空港の食堂でカレーライスを食べただけだった。
「今夜は酒がうまいぞ」
ジープを運転しているときに、クラモトが言った。私も同じことを思っていた。酒は寒いときにかぎるのである。しかも空気は澄んでいるのである。
カウンターのなかに、小柄で上品な老人がいた。七十歳ぐらいに見えた。本当に、最初は、そんなふうに見えたのである。大正八年生まれのドスト氏を八十歳と見た人がいるのだから、どうか怒らないでいただきたい。それが海陽亭の宮松重雄社長だった。これから、自動車を運転して小樽まで連れていってくださるという。
六時に飲みはじめた。姿が見えないと思った宮松社長が、ふたたびカウンターの向うにあらわれたとき、背広でネクタイをしめていた。その前は、仕事着のようなものを着ていた。いかにもヨーロッパふう、いやドイツふうと思われる品のいい服装の好みだった。渋沢秀雄さんに似ていると思った。
「何時に出発しますか」
宮松社長が言った。短気な人らしい。育ちのいい人にこういう感じの人がいる。
「六時四十五分です」
と、時計を見ながら私は答えた。私の腕時計は六時二十分を示していた。小鉢や小皿が次々に運ばれてくる。いつかの昼食のときと同じだった。お椀の当りがいい。最初の吸いものは鱈《たら》の白子《しらこ》だった。
「こいつは、うまい。正直に言って……」
と、ケネディが言った。それは、ウニ寄せとでもいうべき小さな鍋《なべ》だった。あっさりとしているようで味は濃い。
料理は、どんどん出てくる。背後から胸を押しつけるようにして酌をする人がいる。ドスト氏は、すでに、アハアハと笑いだしている。私は、退院後、酒は一日に一合だけ、間違っても二合までときめているのであるが、今夜は大間違いでいこうと思った。
私は、そのとき、まだ宮松社長は七十歳ぐらいだろうと踏んでいた。そのように、彼の瀟灑《しようしや》なと形容したいようなビリケン頭の天辺には一毛もなく、美しい光沢を放っていたのである。鶯《うぐいす》の糞《ふん》で磨きあげたように。
せっかく、スーパージャンボは無事に到着したのに、小樽までの道で遭難するのではなかろうか。飛行機で死ぬのも、自動車事故で死ぬのも、転んで打ちどころが悪くて死ぬのも、死ぬということに関しては同じことだ。せっかく、ここまで無事にきたのに……。私は、そんなふうに考え、これは飲まずにはいられないと思った。今生の名残りに……。
出発は七時になった。雪は激しくなっていた。いそいで飲んだので、ちょうど一時間で、もう飲めないという状態になっていた。うまい具合に酔っていた。死んでもいいやと思われるくらいに。
「社長のお子様は何人ですか」
小当りに訊《き》いてみる必要がある。
「一人です。男の子が一人です」
「お孫さんは?」
「遅い子持ちでして、孫はいません。孫がいても不思議はないのですが」
社長は、鳥の羽根のついた洒落《しやれ》た帽子をかぶっていた。とりあえず、その帽子をウイリアム・テルと命名した。
「ご一緒にお住まいですか」
「東京の学校へ行っています。来年、大学を受験します」
「そうしますと……」
「ええ。まだ高校生です。残念ですが、子供は一人しかおりません」
社長は、そこで、私の狙いを察知して、年齢を言った。こういうことが何度もあったのだろう。なんのことはない。私と幾らも違わなくて、ドスト氏よりは、だいぶ若い。私は目的を達して、にわかに安心した。
ドスト氏も私も禿頭である。宮松社長とあわせて白板《パイパン》の暗刻《アンコ》であろうか。こうやって年齢を聞きだせるのも禿の一得なのである。わが国立のケネディは、若いことも若いが、頭髪は豊富である。しかしながら、彼の髪型は、アデランスの広告のモデルの男にそっくり同じなのである。ドスト氏とケネディと私とで酒場へ行って、女給にこっそりとカツラだと囁《ささや》くと、連れが連れだから疑う人がいない。引っ張ってみるような人はいなくて、お気の毒にと言って眉を顰《ひそ》めるのである。
雪の路は、かえって滑らないという。むしろ、融けて濡れている状態のほうが危険であるという。チェーンを巻かずにスノータイヤだけでスリップしないというのが実に不思議である。
道路から海陽亭の玄関までの道が、かなりの坂になっている。やってみましょうと宮松社長は言い、私は、ソレッという掛け声をかけた。ジェット機が飛びたつときの勢いでもって、社長のベンツは坂を駈け上った。
私が、これが有名な小樽の地獄坂ですかと言ったとき、社長は、フフッと笑った。私は、この人がすっかり好きになっていた。つまり、桃井かおりが、ウー、ワンッと言うときの、あの気持になっていた。
実は、札幌の海陽亭を出て、小樽の海陽亭に達し、それが八時だったのだけれど、すぐさま、また酒になり、クラモトは十一時に札幌へ帰ったのだけれど、そのあたりのことは、よく記憶していないのである。
社長の姉のヤエコが世話をしてくれて、私たちは、入浴して、十二時に寝た。私の部屋は、一階の奥の茶室である。そこは薪ストーブの部屋であって、私は、二度小便に起きたのであるが、そのたびにストーブを燃さなければならなかった。こんなふうに書いたのでは、当然、感じが掴《つか》めないと思う。たとえば、ひとつだけ言っておくけれど、この家の二階は、百畳敷の大広間と、明治年間に建ったという七十畳敷の大広間になっていて、海を見おろす崖《がけ》っぷちに建っている。私は階下の奥の茶室に寝ているのである。
寒いのなんのって!
[#地付き]●毎日が雪見酒
二月十二日、火曜日。
昨夜は、二度、小便に起きた。三度目の小便のとき、時計を見ると、八時半になっている。便所の帰りに隣の部屋をのぞくと、ドスト氏もケネディも、洋服を着て絵を描いている。驚くべし、小樽港中央|埠頭《ふとう》を見おろすところのケネディの水彩画は、ほとんど完成している。右端のカーフェリーは、新潟、敦賀《つるが》を経て舞鶴に達するもの。何が早いといって、こんなに早く絵を描く人を見たことがない。
「帰りは船にしなさいよ。舞鶴から京都へ出る。……北海道へ行って新幹線で帰ってくるなんていうのはオツですよ」
クラモトが、昨夜、そう言っていたのを思いだす。私も少し気持が動いた。しかし、北海道と京都とは、まるで違う。そんなことをすると神経が狂ってしまう。
洗面所の歯磨粉がスモカであること嬉し。数少い上等な日本旅館がそうであるように、便所にも洗面所にも風呂場にも、こまかい配慮がゆきとどいている。薪ストーブにしてもそうだ。火ばさみ、小さな箒《ほうき》、小さなシャベルなどが置かれている。こんなことが嬉しくなってしまうのは、セントラル・ヒーティングという、便利といえば便利、しかし、スイッチひとつでわけわからずに暖くなるという生活のなかにいるからだろう。少くとも、ここの火は、文字通りに、手造りなのである。薪ストーブのそばに銅の衝立《ついたて》がある。これは、火力が強くなったとき、ストーブのそばの客の顔を熱から守るためのものである。
朝食のお菜《かず》は宗八。ヤエコが、今日は寒いですと言う。実際、私たちが北海道にいるときは寒い日が続いた。
しかしながら、たとえば、こういうことをどう思われるだろうか。東京にいて、気温十度の日と十五度の日があったとする。十度の日を私たちは寒いと感ずるし、十五度の日を、いくらか暖いと思うことができる。これが零下十度と零下十五度であるとどうなるか。零下十度の日に今日は暖い、零下十五度の日に今日は寒いと言うことができるだろうか。東京者の私には、どちらも寒いのである。これが零下二度と零下五度ではどうなるか。北海道に住む人たちは、このへんの微妙な差を体で感ずることができるかのようである。また、道を歩いていて、雪がキシキシと鳴る日は寒いというようなことを言う。
社長の運転で、祝津《しゆくつ》へ行く。行けるところまで行った。雪が激しくなって、私には猛吹雪であるように思われた。カヤシマ岬《みさき》などは、なかなかに良いのであるが、自動車をおりて絵を描くわけにはいかない。
北海道の天気というものは、私には、そういう言葉があるのかどうかを知らないのであるが、いわば全天候型であるように思われる。一日のうちに、晴、曇、雪、風、吹雪など、すべてがあらわれてくるように思われる。晴れたと思うと、たちまちにして雪。風となって吹雪。吹雪がやんで曇天といった具合。これはヨーロッパ北部の天候と似ているのではあるまいか。そうして、雨は降らない。従って、どんなときでも、北海道の人は傘をささない。傘だなんて言っちゃいられないのである。
午後二時、港湾福祉センターの食堂から、保存問題で有名になった運河を描く。ここは、夏は、油絵のほうの日曜画家の聖地であるらしいが、さすがに、いま、絵を描く人はいない。ただし、この日だけでも三人のカメラマンに会った。
港湾福祉センターは月見橋の際にあるのだが、ここは宮松社長の思い出の地だった。終戦直前に、小樽港から陸軍の輸送船が出航することになった。この船に陸軍二等兵である宮松社長の兄(長男)が乗りこんでいる。兄から連絡があり、最後の面会を行うことになった。家族たちと兄とが会ったのが、この月見橋の下の倉庫の脇である。兄は、おそらく鉄砲の弾丸《たま》を一発も打たずに死ぬことになるだろうと言った。だから何もいらないと言い、宮松社長には腕時計を残していったという。
私たちは、雪の道を駅まで歩いていった。フィルムと地図とウイスキイを買った。宮松社長は、すでに札幌店へ帰っている。
雪の道が長い。小樽は坂の多い町である。北海道の原野の真中に住んでいる人は、小樽へ来ると、妙に懐しいような嬉しいような思いをするという。東京から来たらしい少女たちがドスト氏を指さして何か言っている。そんなスキー客の何組かに会った。すれちがいざまに、彼女たちが北海道の原住民の名称を言っているのを私は知った。ドスト氏は、どこの土地へ行ってもその土地の人に間違えられてしまうという不思議な人物である。
「今日も一日充実した日だった。正直に言って……」
と、ケネディが言った。しかし、夜になっても充実は続くのである。
部屋に和服の美人が待っていた。これが、花園通りベラの女主人だった。この日、ヤエコには用事があった。そこで、ホステスとして、その女主人がやってきたのである。私は、およそ、人を接待するというときの心構えを勉強させられたように思った。ここまで気を遣わなくてはいけない。本気で接待するならば……。私はヨーロッパへ行ったことがない。ヨーロッパどころか、外国へは一度も行ったことがない。しかし、ヨーロッパの、しかるべき家の主人が客をもてなすときは、こんな感じになるのではないかと思った。前に書いたように、二階は百畳敷と七十畳敷の大広間である。冬は寒くて、とても使えない。いや、ニシンの獲れていたときは、冬でも連日連夜の大宴会が行われていたという。二人に一箇の手焙《てあぶ》りだけで(昔の人は丈夫だった)。あるとき、宮松少年が二階へあがってみると、五、六人の相撲取りが寝ていた。その一人が双葉山であったという。そんなことがあった。小樽の海陽亭は港を見おろす崖っ縁に建っている。小高い岡の上と言ったほうがいいかもしれない。いったい、建坪は何百坪になるのだろうか。これは、もう、城である。江戸時代の豪族でも、こんなに大きな家に住むことはなかったろう。ヤエコと、翌々日に来ることになったヤエコの姉のチエコ。板前が三人。仲居が一人。下働きの老婦人が一人。経理関係担当兼下足番の老人が一人。そうして、むろん、泊り客は、ずっと、私たちだけである。
この日は、ドスト氏の誕生日だった。
「ええと、待てよ。今日は二月十二日でしたね。何の日だったかな。何かわけあったんですよ。昨日は紀元節でしたね。ええと、ああ、そうだ、ああわかった。今日は私の誕生日だった」
ヤエコは寄りあいを断って、こっちの座敷に来ていた。誕生日ということで、ヤエコが芸者を呼んでくれた。小樽きっての名花であり名妓《めいぎ》である。梅香と豆太郎。カシマシ娘の長女に似ている若いほうの豆太郎は六十五歳であるという。してみると梅香は古稀《こき》か。うっかりすると伊藤博文を知っているかもしれない。梅香が小唄を歌った。春日《かすが》のほうであるという。
私たちはハクキンカイロと発熱パットを見せあった。さながら、成金が金時計を自慢するが如し。豆太郎のカイロは円型だった。そう言われなければコムパクトと間違えただろう。それを豆太郎は帯の下から取りだした。臍《へそ》よりも下からだと思われたが、ドスト氏は、いや、もっと下からでしたと言った。そんなものを目の前に突きつけられても困るのである。
豆太郎が進んで自分の年齢を言ったのは、小樽の水のよさを証明したいからだった。彼女は肌の美しさを自慢した。こう見えても、私、六十五歳よ、と言ったのである。本当に小樽の水は美味《うま》かった。しかし、いかに寒中とはいえ、ハクキンカイロを持っている芸者というのは、どうもね。
ドスト氏が、アハアハと笑いだした。ある人は、お流れ頂戴と言いだしたら、もう駄目である。そこが別れ目である。また、ある人は歌いだす。さらに、また、ある人は、そこにあるお菜を箸《はし》でつまんで、他人の口にいれようとする。パラオは、右眼を閉じて、左眼を大きく見開いて、頬をふくらます。ひとそれぞれ、そこが限界点であるのだが、いまから酔うぞという宣告であるのかもしれない。
ドスト氏は、突如として笑いだす。いかに不機嫌なときであっても、飲んでいると、いつかはそうなる。笑い上戸と言うべきかもしれないが、これは、まあ、良い酒だと言ったほうがいいだろう。
勢いがあり、私たちは、花園通りのベラへ行った。宮松社長は、小樽の運転手が、日本で一番運転が上手だと言う。たしかに、細い急な雪の坂道を、私など、もう駄目だと思うようなところを突っ走ってゆく。
「看板を壊す癖のある人がいましてね……」
たしかに、ベラの女主人の言うように、花園通りの、デコボコの雪の細道にある酒場の看板は、軒なみに穴があいていた。
ケネディが、カラオケで歌った。彼は悪びれるところがない。彼の一日は常に充実している。正直に言って。また、ヤエコが強豪であることに驚く。彼女はウイスキイ党である。北海道では、昼からというより朝から酒を飲むことが少しも不思議ではない。女が飲むのも、ごくごく自然である。学校の先生が登校の前に一杯ひっかけて家を出る。自然であること嬉し。絶えず小雪が降っている。臥煙ならば、天は幽暗、地は皚々《がいがい》と叫ぶだろう。常に皚々であるところでは飲まないわけにはいかないのである。皚々であること嬉し。
海陽亭へ帰ると、東京にいるというチエコから電話が掛ってきた。
「妹はお酒が強いですからお気をつけあそばせ」
ヤエコに言わせると、チエコは、ビールなら限りなく飲むという。
[#地付き]●雪の害について
宮松社長は、自分の部屋に置いてある葡萄酒が凍ることがあると言った。ビールを頼むと、ちょっと待ってください、あっためますからと言われる。ビールは冷蔵庫ではなく、廊下に出してあるのである。ビールは廊下にあるから冷えすぎるのである。これを冷蔵庫にいれてあたためる。
その寒さというものは、ちょっと説明のしようがない。
二月十二日の夕食は、キンキンと鱈チリであった。鱈の白子をタチまたはタツという。鱈なしでタチだけのものをタチ鍋という。二月十三日の夕食は、カスベ、ぬた、ツブ、それにマトンのしゃぶしゃぶである。
この日、私は、宿から一歩も外へ出なかった。外は吹雪だった。そうして、たちまちにして晴れあがって遠くの半島が見えたかと思うと、また暗くなる。そのたびに海の色が変る。私は、目の前の港を描いていた。晴れたと思って遠くの海の色を塗っていて目をあげると猛吹雪に変っている。
夜の十一時。茶の間へ行って、ヤエコにオールドパーを御馳走になる。なるほど、強い。餅を焼いてくれる。この日の昼頃にケネディは帰っている。
私は、ドスト氏と同じ部屋に寝た。この部屋は灯油のストーブである。ハクキンカイロに発熱パットに電気毛布。その暑いの暑くないのって……。北海道では、寒いか暑いかのどちらかであって、ちょうどいいということがない。
二月十四日。ホッケの朝食。
利尻《りしり》、礼文《れぶん》島行きの船の待合室から絵を描く。雪景色というものは、音がなくて、非常に静かである。しかし、一方において、雪景色は賑《にぎ》やかである。むしろ、騒々しいといってもいいかもしれない。静かなのと騒々しいのと、私は、どちらであるのか判断がつかない。
ヤエコは雪掻きが辛いと言った。それは毎日のことである。雪掻きは、地面が見えるまで、黒い土が見えるまで掻いてはいけない。そうすると滑ってしまう。雪を少し残すのである。加減がむずかしいところがある。それで、スコップ(ジョンバと言ったかな)で雪を可能なかぎり遠くへ投げるのである。だからスコップの柄が長い。東京へ行った女たちは、雪掻きが辛いので帰ってこなくなるという。
雪掻きが辛いですと言うときのヤエコの言葉に、一種の哀調があった。私は、いっぺんで、そのことを理解した。かりに、これを雪害と言うならば、北海道の人たちの雪に要するところのエネルギーは莫大なものがある。あるとき、自動車のなかで、ニュースを聞いていて、宮松社長は、この人たち、雪がなければ死ななくてすんだんですと言った。そのとき、ラジオのニュースは、国道での自動車事故を報じていた。タンクローリーがスリップして乗用車と正面衝突。死者三名、重傷者二名。宮松社長の言葉には、ヤエコと同じ響きがあった。
二月十五日。十一時二十九分南小樽駅発、札幌で乗りかえて、十二時二十分発狩勝三号に乗って、富良野へ行った。この日、海陽亭には、ナントカという宮様がお見えになるということであった。
車掌が何度もやってきて、長い棒でもって、煖房装置をあけたりしめたりする。
「あければ暑いし、しめれば寒いし……」
と、彼は乗客に聞こえるように言った。本当に、ちょうどいいということがない。がいして言えば、暑いのである。
「暑いねえ」
と、私たちの前に坐っている初老の夫婦づれの細君のほうが言った。
「暑いなんてもんじゃねえや」
眼医者へかかりにゆくという夫のほうが、うんざりしたような口調で言った。彼は、上衣《うわぎ》もセーターも脱いでしまった。しばらくして、彼は、こう言った。
「やっぱり、暑いか」
富良野の駅にクラモトが来ていた。札幌からジープを運転してきて、さっき着いたばかりだと言った。
プリンスホテルへ行き、クラモトの家へ行った。とにかく、ヤマグチに会わなければいけない。ヤマグチは、予期に反して、猫を大きくしたような、豚をちいさくしたような犬だった。変に丸顔の犬である。それでいて獰猛《どうもう》であって、たちまち、ドスト氏の腰に噛《か》みついた。どうも、この犬は、人になつくということがないようだ。狷介《けんかい》な奴である。それでクラモトに殴られた。
ホテルへ帰って寝た。ドスト氏は絵。
ホテルで久しぶりに洋食を食べてから、また、クラモトの家へ行った。|※[#「魚+鬼」]《いとう》という怪魚の棲《す》む空知川《そらちがわ》に霧がたちこめている。
チャバがきている。それにコンノさん。菅原《すがわら》米店。この人たちのことは、倉本聰さんの「北の人名録」の領分である。人間がイキイキしている。人間は北海道にかぎるという気がしてくる。クラモトは、彼等に自信があるからでしょうと言った。
私はクラモトを描いた。ポール・アンカではなく、阪妻の長男に似てしまった。阪妻の長男は美男子であるから、これは失敗作である。
二月十六日。クラモトの運転で、東大演習林事務所へ行く。麓郷《ろくごう》という二百戸の村である。その事務所をジープのなかから描く。正面に山火事注意と大書されている。
麓郷木材株式会社の仲世古さんに会いにゆく。カボチャのダンゴというものを御馳走になる。
ホテルで夕食。若いスキー客。多くはアヴェック。若い外国人たち。私は、彼等を見ていると、自分の人生が終ってしまっていることを感ずる。強くそれを思う。私が彼等の年齢であったとき、こんな結構なホテルに泊ることなど考えられもしなかった。
また、クラモトの家へ行く。コンノさん、チャバ、仲世古さん。午前二時まで。そんなに遅くなったのは、近所に火事があって、それを見に行ったためであるが、いったいに北海道の人は夜更かしが好きであるようだ。
二月十七日、日曜日。小樽へ帰る。これで、クラモトに二度出迎えられ、二度送られたことになる。
この日の夕食を少しくわしく書くと、次のようになる。
カスベの煮凝《にこご》り。
蟹《かに》の子。
卯《う》の花《はな》。小樽に奥村という豆腐屋あり。豆腐は小樽にかぎるのである。奥村のオカラは、これが独特であって、ネットリとしている。宮松社長は、帰るとき、この店の油揚げを土産に買ってくれた。
タチ鍋。タチと豆腐と若布《わかめ》だけの鍋。この若布が、やわらかくて緑があざやかで実にうまいのであるが、北海道産ではなくて、鳴門から空輸するのだそうだ。鳴門の若布なら知っている。
吸物。鳥のツクネ。椎茸《しいたけ》。ちいさな餅。この餅がうまい。
ジャガイモ。
あるいは、なあんだと思う人がいるかもしれない。そういう人は、もう一度、よくこのメニューを見直していただきたい。いずれも少量であって、あっさりとしている。酒の肴《さかな》に絶好である。色彩がいい。少量であって、いつのまにか、うまい具合に満腹する仕掛になっている。ちょうどいい。つまり、いわゆる宴会料理、料亭の御馳走、あの御馳走責めの御馳走とは違うのである。食通ではなくて、酒飲みのほうが、そのことを理解できると思う。あっさりとしていて中身が濃いのである。自分の家ではないところで、ちょうどよく食べ、ちょうどよく酔うということは滅多にあるものではない。いま、これを書いていて、あれは夢のようであったと、そう思う。私たちは、七泊して、しかも、同じ料理に出あうことはなかった。これは、あっさりとしたほうの一例であるにすぎない。カスベならカスベ、ホッケならホッケ、同じ魚であっても、それぞれ工夫があって同じではない。だから、泊っていて、食事に飽きるということがなかった。そうして、食後には必ず同じものが出る。リンゴジュース。これがいい。
二月十八日。また大雪。部屋から港の絵。午後になって、運河の倉庫の絵。
宮松社長、札幌から帰ってくる。どういうわけか、私は、社長に会いたくてたまらないようになっていた。それを言ってドスト氏に笑われた。とにかく、話をしていて、しばらくして、フフッと笑う、その笑いがいい。
だから、夕食のとき、鳥鍋は社長にやってもらった。こういうのを贅沢《ぜいたく》と言うのだろうと思った。海猫屋の話をすると、社長は、あれ気持わるいですと言った。だから、私は行かないことにした。おそらく、小樽に七泊八日して海猫屋へ行かない観光客は珍しいということになるのではないか。その他、人に聞いた有名店のどこへも行かなかった。ベラへ先日の勘定を払いにゆく。まったく、どこへ行っても、そこと決めたらその店だけになってしまう。
二月十九日。社長のベンツで積丹《しやこたん》岬へ行く。途中に余市がある。ちょっと具合の悪いところである。しかし、余市は、ニッカウヰスキーだけを売っているのではなく、数軒のサントリーバーさえあるそうだ。
帰りに寄った忍路《おしよろ》海岸がよかった。静かな入江の夕景がすばらしい。ここを描くべきだったと、しきりに思う。宮松社長も、ここは絵になりますと言う。彼は、かなり断定的なもの言いをするほうであるが、もしかしたら、兄が戦死するのでなかったら画家になっていた人であるかもしれない。そんな気がする。
夜は湯豆腐。また、社長を呼んできてもらう。最後の贅沢。社長は豆腐好きであるようだ。豆腐の扱い方が叮嚀《ていねい》である。
この日、ドスト氏と私とは早く寝た。それにはわけがあった。
[#地付き]●黄色いハンカチ
小樽には朝市がある。朝市へ行けとクラモトが言ったのである。朝市というのは、東京で言うところの魚市場、魚河岸のことである。そこで酒が飲めるという。私は、その朝酒のほうに関心があった。とにかく、クラモトは、朝市へ行かないのなら、小樽へ来たって意味がないと言った。
朝市は午前三時から七時までであるという。いったい、クラモトは、二月の朝市へ行ったことがあるのだろうか。彼の名作『幻の町』は夏の撮影であったように思う。
二月に小樽へ行くというだけで東京の人は驚いてしまう。パラオなんか、震えあがって、とてもとても、エッエッエッと言い、そっぽを向いてしまう。その二月の小樽の午前三時とか四時とかと言えば、彼は卒倒してしまうに違いない。私に、取材精神とか作家根性なんていうものがあったわけではない。そういうものは、私においては、極めて稀薄である。野次馬根性といったものではない。私は何かにつき動かされているだけだった。何かとは何だろう。そういう時刻に、そういう場所で、酒を売っている人がいるという、ただそのことだけであったかもしれない。昔、若いとき、私は、北海道へ行くと、どの町へ行っても必ずストリップ劇場へ行ったものである。助平心はこの際は除いておいて、北海道の、こんな奥の海岸町で、こんな劇場で女が裸になって踊っていると思うと、どうしても切符を買わずにはいられなかった。本道初公演××嬢という絵看板があっても、入場してみると、私を含めて客が三人ということもあった。コンクリートの床が冷たかった。朝市へ行くというのは、それに似ているかもしれない。また、小樽行きを勧めてくれて、海陽亭を紹介してくれたクラモトに対する若干の義理立てといったような心持が働いていたのかもしれない。
午前二時二十分に、ドスト氏と私とが、同時に目をさました。まだ早い。
午前三時二十分。ドスト氏は、
「起きます。ハイ。どっこいしょ」
と言って布団の上に立ちあがった。それで起きるのかと思ったら、そうではなくて、また、ひっくり返って寝てしまった。寝呆《ねぼ》けていたらしい。
午前五時ぴったりに起床した。
私は、ハクキンカイロに、ベンジンの最後の一筒を詰めこんで点火した。八甲田山死の彷徨とノーザン・グース・ダウンとヒザアテで身を固める。ドスト氏は、モヒカン族の最期をかぶり、こちらを見て、ニヤッと笑った。ある人は、これを正気の沙汰ではないと見るだろう。
そうっとそうっと廊下を歩き、玄関の扉をあけ、地獄坂を駈けおりた。
なんぞはからん、いままでに見ることのなかった猛吹雪になっている。ドカ雪である。
私は、これを猛吹雪と書いた。そうには違いなくて、猛烈な雪なのであるが、どこか、いままでの雪とは違うなと思った。それは、いくらか、東京あたりで見ることのできる雪に似ていた。雪は大粒だった。
私は、そのとき、あろうことか、今日はあったかいなと思っていたのである。いや、そう言ってしまうと正確ではなくなってしまう。もしかしたら、今日は暖いのではないかということを肌で感じていた。それが実に不思議だった。富良野で、クラモトの家の寒暖計は零下二十度を示すことがあった。そのとき、私は、零下二十度も三十度も同じだと思っていた。単に、それは、寒いというだけのことである。十日目で、やっと、私は、北海道の寒さの度合いを自分の肌で感ずることができるようになったのだろうか。そんなふうに思う俺は少し生意気だぞとも思っていた。
雨なのではないかと思っていた。一方で、この時節で北海道に雨が降るわけがないとも思っていた。私の眼鏡は、たちまちにして曇ってくる。立ちどまってハンカチで眼鏡の玉を拭く。
雪がやわらかい。やわらかくて大粒である。そこへ風が吹く。私は、これは牡丹《ぼたん》雪ではないかと思った。北海道で牡丹雪などと言っては、これも不遜《ふそん》になるのだろうか。なにしろ、北海道の人は、寒いと言わないと機嫌が悪くなるのである。驚いてみせないといけない。
私が肌で感じていたものは的中していたのである。この日、夜が明けてから、海陽亭の廂《ひさし》の、巨大な氷柱《つらら》を持つところの雪が、いっせいに落ちたのである。それは、極めて危険なことだった。雪おろしの専門家を呼ぶことになった。
あったかいと言ったって、北海道の二月の大雪の降る午前五時である。これは、おとなしく、内地者らしく、寒いと言いなおさなくてはいけない。そうなのだ。寒いのだ。猛烈に寒いのだ。
海陽亭のある場所は、南小樽駅に近い住吉町というところである。朝市は、小樽駅の坂の下方、運河のはずれにある。つまり、たっぷりと国鉄の一駅分を歩くことになる。
道に迷ったということもあったが、私たちはそこに達するまでに一時間を要した。
その途中、まだ魚市場がどこにあるのか見当がつかないときに便意を催した。私は、午前中に三度か四度は厠《かわや》へ行くという男である。前夜は、湯豆腐で、積丹から帰ってきた空きっ腹で、たてつづけに酒を飲んだ。こういうときがいけない。
「雪っ腹ってやつですよ」
ドスト氏が言った。むろん、私は、できるだけ我慢した。がんばった。私にも市民道徳というものがある。しかし、私は、我慢の限界に達しているのを悟らないわけにはいかなかった。
「運河でウンコですか」
薄情にもドスト氏は、私から出来るだけ遠ざかるようにした。彼の言うように、私は、運河に面する倉庫と倉庫の間で尻をまくることになる。正直に言って、私は、そのとき、寒さを感じていなかった。嘘でも誇張でもない。
後になって、私の報告を受けた宮松社長が感歎《かんたん》して言った。
「し、しかし……し、しかしですよ。そ、そりゃあ、気持がよかったでしょうなあ」
私も力をこめて答えた。
「そ、そ、そりゃあ、き、気持がよかったですよ」
私はチリ紙を持っていなかった。それで、女友達に貰ったピエール・カルダンのハンカチで始末をした。振りむくと、私の作品は、すでに雪に没していた。あらためて、この大雪を認識した。
どうか、大酒飲みの下痢便だと思わないでいただきたい。三度目か四度目はそうなることがあるが、私の第一弾は、断じて立派なものであることを証言したい。それは、観賞に耐えうるものである。
立ちあがって、次の角をまがると、そこが朝市だった。そこに皎々《こうこう》にして煌々《こうこう》の世界があった。裸電球に牡丹雪が舞うのである。
目的は酒だった。私は、急に淋しくなっていた。解明のつかない寂寞《じやくまく》に打たれていた。それは、多くは、旅の疲れからくる単純なものにすぎないのであるが。
北浜町露天商組合の人に叱られるだろうけれど、どの店も、乞食小舎《こじきごや》に毛の生えた程度の店ばかりであって、その一軒に入るのには勇気を要した。
断じて行え。そう思って、飛びこんだ。向うだって驚いたろう。そのなかに老婆が一人いた。悪臭が鼻をついた。だんだんに馴れてしまったけれど。
「お酒をください」
ドスト氏が言った。そう言うよりほかにない。悪臭は、どうやら、地面においた猫の餌《えさ》の鍋《なべ》から発せられるらしい。三匹の猫がいた。
一合のチロリから半分ずつ、五勺の冷酒が私たちの前に置かれた。そうして、猫の餌のようなカスベの一片。老婆は無言でホッケのスリミをつくっている。
「あなたも飲みませんか」
「いらねえ、出るときに飲んできた」
「何時に家を出るんですか」
「三時だよ」
老婆の目が和んでくるのがわかった。
「三時に出るだからねえ、飲まなきゃ歩けねえよ。ああ、ウイスキイは駄目だ、強いから。酒、稽古しろって言われてねえ。稽古して飲めるようになったの」
スキーのストックが一本あった。それが杖《つえ》になるのだろう。老婆が私たちに好意を抱きはじめたのは、次の酒は黙って燗《かん》をつけてくれたことで知れた。
「お孫さんがいるんでしょう」
ドスト氏が言った。
「ヒコがいるよ」老婆が初めて笑った。「おら、七十五歳だよ。……うちにいると余されちまうからねえ、それで出てくるの」
「何か出来ますか?」
「酒か?」
「…………」
「酒なら何だってあるよ。ウイスキイでも日本酒でも焼酎でも葡萄酒でも……」
「葡萄酒も?」
「ああ、何だってあるよ。だけど、あれはねえよ、いまハヤリの、なんて言ったけな、ほら、振るやつよ」
老婆が両手を上下した。
「ああ、カクテルですか」
「そうそう。カクテルは、やらねえの。めんどくせえこと言うと、酢をいれてやるぞって言ってやるの」
突然、ドスト氏が笑いだした。もう駄目だ。私は、酒を飲んでいて夜が更けてゆくのはよく知っているのだけれど、飲みはじめて次第に夜が明けてゆくというのは初体験になる。外は大雪だが。
「アハアハアハ……。いま一杯、ください」
「だけんどねえ、ハリアイなくなっちまってねえ」
「どうしてですか」
「油が高くなったのよ」
ドスト氏と私とは、石油ストーブをはさんで向いあっていた。その石油ストーブの上に板が渡してあって、それが、すなわち卓袱台《ちやぶだい》である。
「油がねえ、これ、一日に四百円かかるのよ。四百円とられちゃ儲《もう》けはなくなったの。毎日赤字……」
石油問題はジェット機の航空運賃の値あげから北浜町露天商組合にまで及んでいるのである。
「おばあちゃん、内地へ行ったことある?」
「ないのよ。……おら、いまでも泳ぐことは泳ぐんだけんどねえ、船、だめなのよ。すぐに酔っちまってねえ」
「…………」
「汽車もだめ。……泳いで行くんにゃあ、ちっと遠いしねえ。それから、ほら、なんだっけ、マンションのエレベーターねえ、あれだって酔っちまうのよねえ。登るときはいいけんど、降りるときに気持わるくなっちまって」
「…………」
「ところがさあ、おらの友達でねえ、息子の団地に一緒に住んで、エレベーターが好きになっちまった人がいてねえ。一日乗ってる人がいるの」
「…………」
「ああいうのも困るねえ」
ドスト氏の哄笑《こうしよう》が続く。笑いやむと、いま一杯と言った。ホッケのスリミの味噌汁がうまい。ホッケがカマボコになっている。
「おら、札幌なんて町も厭《いや》だ。すぐに迷《ま》い児《ご》になってねえ。あんな、隣の人が誰だかわからねえような町はイヤだな」
「昔、小樽では、札幌の人が来ると田舎者だって言ったそうじゃないですか」
「どうだか知んねえけど、あんな薄情者ばっかりの町はイヤだなあ。あそこへ行くとクタクタになっちまうの」
「御主人は?」
「十四年前に死んだの。一日に三升飲む人でねえ。うちのじいさんは肝硬変で死んだの。それでも、しまいには飲まなくなってねえ。飲む人が飲まなくなったらおしまいだねえ」
「おばあちゃん、若い頃はキレイだったでしょう」
と言ったのはドスト氏である。彼は、最近、女あしらいにおいて一皮むけたようなところがある。
「そんなことはねえよ」
それでも老婆は、わずかに赤い顔になり、うしろをむいて鏡を見た。
牡丹雪が舞っている。たしかに、それは、牡丹雪に似た雪だった。大粒の雪であった。それが激しく降る。二月の末の北海道の空の奥に地の底に、少しずつ春がきていることがわかるような気がする。
もし、運河に面した倉庫と倉庫の間に、ピエール・カルダンのハンカチがあらわれてくることがあるならば、それが小樽の春だろう。もし、そこに、黄金色の冷凍物が姿を見せたら、誰でもいい、運河にむかって、思いきり蹴《け》っとばしてくれたまえ。
[#改ページ]
タヒチ、短日の珊瑚礁《さんごしよう》
[#地付き]●遠征前夜
北海道から帰って、まだ日のない頃、たぶん三月の初めであったと思うが、パラオが、血相を変えて、私の家へ飛びこんできた。
「タヒチです。タヒチ、きまりました。タヒチへ行くことになりました!」
いきなり、そう言った。彼の艶々《つやつや》とピンク色に輝いている双頬は、いまにも破裂しそうになっていた。ちょうど、『忠臣蔵』の七段目、大星由良之助が寺岡平右衛門と妹のおかるにむかって、兄は東《あずま》の供を許すぞと言っているような趣があった。従って、こっちは※[#歌記号]天へも登る心地して、勇み立ったる門出の喜び、とならなければいけないのであるが、いっこうに心は晴れない。
たしかに、私は、
「タヒチへ行きたい」
と言ったことはある。タヒチへ行ってゴーギャンとなり、南洋の海と珊瑚礁の絵を描きたい、タヒチ島の村娘を描きたいと言ったことはあるのである。しかし、それは、自分では冗談のつもりだった。第一、私は、タヒチ島がどこにあるかも知らないのである。漠然と、それは、ただ、南洋だと思っていた。
ただし、私が外国へ行くと言うとき(私は海外へは行ったことがなかった)、すぐにタヒチという名が出るのは、どういうことだろうか。私が、ドスト氏と二人で旅に出て、ドスト氏が絵を描き、私が紀行文を書くということを思いつき、それは、今回の『酔いどれ紀行』で四冊目になるのであるが、そもそもの第一回目の旅のとき、ドスト氏と私とは、タヒチへ行こうと叫び、往年の宝塚少女歌劇の名作『南の島』の主題歌を歌ったのだった。
※[#歌記号]みなみの島 わがタヒチ
照り映ゆる日
ああ 来ませや君
常夏の国 タヒチよ
そのとき、私たちは、屋久島へ行った。それも南の島だった。それでも大冒険旅行であり、実際に怖い思いをした。私は、島尾敏雄さんが奄美大島《あまみおおしま》におられたとき、奄美へ行くにはビザがいるんですかと訊《き》いて叱られたことがある。そういう男である。タヒチへ行くというのは冗談だった。
しかしながら、こういうこともあった。去年の五月、タヒチ島およびボラボラ島から帰ってきた虫明亜呂無さんが言った。
「タヒチはいいですよ」
「どこがいいんですか。何がいいんですか」
ふっふっふ……。虫明さんは、意味ありげに笑った。思いだし笑いというか含み笑いというか、ふだんでも、そういう笑い方をする人である。
「何がって、酒はうまいし、姐《ねえ》ちゃんはキレイだ」
彼は、アメリカ映画の宣伝の仕事で、二十人だか三十人だかの若い女性を引き連れて、タヒチへ行ってきたのである。
「食べものは?」
「これが、うまい」
「海は? 海は、きれいですか」
「きれいなんてもんじゃない。絵を描く人はタヒチへ行かなくちゃいけない。ふっふっふ……」
どうも、まだ他にありそうだ。やがて、虫明さんは、こう言った。
「ヌードなんです、全員が……。ヨーロッパの女もアメリカの女も、素っ裸になっちまう。平気なんですね」
これは大いにありうることだと思った。世の中は進んでいるのである。
「素っ裸?」
「そうです。一糸|纏《まと》わずです。そうすると、ふっふっふ、不思議なもんですね、日本の女も、つられて裸になっちまうんです。女ってのは不思議なもんですね。裸にならないほうが恥ずかしいくらいで」
「…………」
「間違ってもトップレスです。そうでない人は一人もいません」
「…………」
「それから、モーター・バイクが流行しているんです。バイクのうしろに女性を乗せましてね、海岸線を突っ走るんです。これがいい」
「それはタヒチですか」
「ボラボラ島です。タヒチは観光化されていて、あまり面白くない。いいのはボラボラ島です。ボラボラ島というのは、道が一本しかない。島を一周する道路です。迷うってことはないんです。もっとも、ゆっくり一周すると一日がかりになりますが……。その道をだね、彼女をうしろに乗せて突っ走る。空も海も真《ま》っ蒼《さお》。道は一直線。その道に、椰子《やし》の木、パパイヤ、マンゴー、グレープフルーツ、オレンジ。栽培しているわけじゃないから、取ること自由です。こんな愉快なことはない」
なるほど。こりゃあ、よっぽど天国に近いと思った。
「その彼女がね、火傷《やけど》をしたんです。ほら、バイクですからね。排気ガスの出るところが熱くなっているんですね。裸で乗っているから、どうしたって、ふっふっふ、内股《うちまた》に火傷をするんです。海岸にバイクを投げだして、彼女を寝かせて、内股の火傷の手当をする。ふっふっふ、これが、よかった」
これも、ありうることだと思った。
「少年にかえったようでね……」
「彼女の住所、電話番号、わかってますか」
「ふっふっふ……。名簿があります」
私の心が動いたのは、虫明さんの帰朝報告があずかって力あるためだった。しかし、そのとき、私は、自分がフランス語を喋《しやべ》れないこと、モーター・バイクの運転ができないことを失念していた。また、男が一人で、大勢の若い女性に囲まれての旅であったということも……。
行くならばタヒチだ、ボラボラ島だ。そういう考えが固まっていった。そのことをパラオに言ったかもしれない。あくまでも、冗談として、実現不可能のこととして。
また、私は、こうも思っていた。南洋へ行くとして、それが絶対にタヒチでなければならないという理由はない。最大の目的は絵を描くことである。海の絵である。そうだとすればタヒチでなくてもいい。たとえばパラオ諸島である。パラオはそこで生まれ育ったのである。彼の生家を訪れ、彼の旧友に会ったりするのは意味のあることである。何よりも案内役のいることは心強い。
「パラオへ行きませんか。何もタヒチにかぎったことではないんです。海だけのことですから……。一緒に行きましょうよ」
「私ですか? 私は、どうも、エッエッエッ、私なんか……」
当てが外れてしまった。その土地に精通しているということもそうだけれど、何しろ、パラオは東大法学部の出身である。外国へ行くには、少しは語学の出来る人と一緒でないと困る。日本国内ならドスト氏は得難い道連れなのであるが、外国となるとどうも……。
もう一人の頼りにしていた男は、ケネディだった。彼は、外国旅行には馴れているのである。ところが、彼は、意外にも、二、三日考えさせてくれと言ったうえで辞退した。その理由は、それだけの費用をかけるなら、ヨーロッパへ行ってこられるということだった。社員の手前ということもある。アメリカやヨーロッパなら、視察旅行という名目がつくが、タヒチでは具合が悪いのである。
そこで、タヒチとは、どのあたりに位置するのかという問題になってくる。ある男は、漠然と、グアム島のそばだと思っていた。また、ある男は、ハワイから遠くないところだと思っていた。私は、パラオ諸島、昔の南洋委任統治領、なんか知らん、あのへんのごちゃごちゃしたところにあるのだろうというくらいに考えていた。
ある日、地図で調べてみて驚いた。パラオ諸島なんてもんじゃない。パラオとヤップなんてのは近間《ちかま》である。ブーゲンビル、ソロモン、ガダルカナル……。まだまだ……。トンガ王国なんて、ずいぶん遠いところだと思っていたが、もっと遠い。東京からの距離で言うならば、ニュージーランドに匹敵するだろうか。イースター島なんていうのは、地の果ての果てだと思っていたが、そっちに近い。タヒチに行ったことのあるカメラマンの沼武なんかは、南極に近いよと言った。ロスアンジェルス、ハワイ、オーストラリアのシドニー、チリのサンチアゴ、荒っぽく言えば、これらの都会から等距離にあるところの絶海の孤島だった。
私は考えこんでしまった。しかし、パラオは、どんどん手続きを進めてしまっている。タヒチ観光開発局の人に会ったりもしている。この人、思いこんだら命がけというところがあり、一度きめたものは絶対に変えようとしない。あれよあれよといううちに、日本交通公社に申しこんでしまって、パスポートも手にいれてしまった。
さあ、困った。困ったけれど、私には、何事も成行き次第というところがあり、タヒチというのは、こっちの言い出しっぺに違いないのだから、ついに観念してしまった。
タヒチは仏領である。フランス語を学習しなければならない。そこで本屋へ行った。フランス語の会話の本だけで十種類以上もある。フランス語なんて、すぐに読めると思ったが、ぱらぱらっと見て、まるで読めない。そこで、カナの振ってあるのを買ってきた。『旅行用・フランス語会話(絵入り)』という書物であるが、カナが振ってあっても、とても読めない。『幸福の黄色いハンカチ』という映画で、運転のできない桃井かおりが自動車を運転する場面があり、桃井かおりが「だって出来ると思ったんだもん」と言うところで大いに笑ったが、あれみたいなもんだ。そこで、水割りウイスキイを下さいというときには「ジュ・ヴドレ・デュ・ウイスキイ・エ・ドゥ・ロ・シル・ヴ・プレ」というところを指さすことにしようと思った。私はストレート党なのだが、私の買った本には水割りしかないのだから仕方がない。パラオがドスト氏にも別の一冊を買ったが、あれはどうなったか。旅行中、ドスト氏は、最後の飛行機に乗って酔っぱらってしまったとき以外、仏語を一語も発することはなかった。メルシーとも言わない。ウイとも言わない。彼は、終始、押し黙ったままだった。
会話も会話だが、それ以前に、さまざまな書類を読まなければいけない。南太平洋およびタヒチについてのガイドブックがある。気候を調べなければならない。気候がわからなければ服装がきまらない。非常に暑いと言う人もいれば、朝晩は寒くて長袖が必要だと言う人もいる。携行品についての諸注意。薬品。円とドルとフランの関係。電卓を持ってゆけと言う人がいる。渡航書類。スーツケースの鍵《かぎ》、名札。酒を持ちこんでいいかどうか。時差の関係。入国手続き。ホテルでの諸注意。盗難について。税関申告書。検疫。免税品について。輸入禁止品。日本交通公社の責任限度。携帯品申告書。海外旅行傷害保険。
このうち、慎重社で、ドスト氏と私に、各四千万円ずつの生命保険に加入してくれたのであるが、ドスト氏の妻の風船は、ひそかに、別口の一億円の生命保険をつけたことがわかった。万一の場合、風船は一億四千万円を手にするわけであるが、その運営をケネディに托《たく》していることまで判明した。
「それがわかってから、安心して眠れません。物音がすると目がさめてしまう」
と、ドスト氏が言った。
時は容赦なく過ぎていった。フランス語会話はもとより、書類も、ろくすっぽ読んでいない。
最終的にパスポートを貰いにゆくときに、交通公社と同じ建物に、パンティ・ストッキングを山積みにしている店があった。ああいうのは、魂胆がみえすいていて厭《いや》だ。もちろん、そんなものは買わない。
百円ライターを持ってゆくと喜ばれると聞いた。そういうことも厭だ。しかし、結局は二十箇のライターを持っていった。ボールペンなども現地の人に喜ばれるという。それも厭だったけれど、結果的には十本のボールペンを鞄《かばん》にしのばせることになった。
梶山季之の未亡人から電話があり、梶山は、外国旅行に行くときは、必ず、なんとかマイシンという薬を持っていったという。私は、それは持っていかなかった。
女房のことがある。私が国内旅行で、北海道とか九州とかへ行くときに飛行機を利用すると震えあがるという女である。
「パパが、空中で椅子に腰かけていると思うだけで、もう駄目」
という心臓神経症の患者である。
そこで、女房を、息子がつきそって、東京のホテルへいれることにした。かかりつけの病院にもっとも近いホテルであり、そのあたりには私の妹も住んでいる。
出発が近づいてきたときに、女房が言った。
「あんた、お土産なんか、いらないのよ」
「…………」
「何も買ってこなくたっていいのよ」
「しかし、お餞別《せんべつ》なんか呉《く》れた人がいるから」
「それはね、その程度はいいのよ。貝殻でも石でも、海岸で拾ってくればいいじゃないの。じゃなかったら、頸飾《くびかざ》りかなんか、現地人の造った、ちょっとしたものを買ってくればいいじゃないの」
「仏領だからね、クリスタルのディキャンタでも買ってこようと思っているよ。いいのがあったらのことだけれど」
「そんなもの、東京で買えばいいじゃないの。東京で売っているわよ」
「しかし、記念だから」
「馬鹿ねえ」
「…………」
「あたしの言うのは、そういうことじゃないのよ。ウイスキイとかブランデーとか、香水とかってあるじゃないの。免税品のが……。ああいうの買うの、みっともないのよ。だから日本人は馬鹿にされるのよ。少しぐらい安いからって……」
「少しぐらいじゃないよ。とても安いんだ」
「でも、うちにいっぱいあるじゃないの、戴いたものが……。あんた、自分じゃ高いものは飲まないじゃないの、サントリー専門で。だから、いらないでしょう。安いからって買うの、厭なのよ」
「…………」
「田舎の家の応接室へ行くとあるでしょう、クールボアージェのナポレオンとか、バランタインの十七年ものとか。埃《ほこり》をかぶってね、飲みもしないで。あれ、海外旅行へ行った人のお土産なのよ。あたし、ああいうのって嫌いなのよ」
私もそうしようと思った。女房の言に一理ありと思った。
「それからね、原住民の女の人が腰に巻いている布があるでしょう。あれも、よしなさいよ。メイド・イン・ジャパンにきまっているんだから」
「そうでもないだろう」
「あんなものを現地で造っているとは思えないのよ。ボラボラ島って、人口が二千六百人でしょう。そんなところに紡績工場があると思う?」
「工場じゃなくて機織《はたお》りだろう」
「そんなもの、やってないわよ。日本かフランスで造っているのよ」
「…………」
「ですからね、お土産は、いっさいいらないのよ。何にも買ってきちゃ駄目よ。うちは、いま、それどころじゃないんだから。すぐに市民税がくるんだから。お金、ないのよ」
「…………」
「イヴ・サンローランとかシャネルとか、クリスチャン・ディオールとかゲランとか、ニナ・リッチとか、香水なんか買ってきちゃ駄目よ。あんた、香水、嫌いでしょ」
「香水を買うつもりはない」
「むかーし、梶山さんに買ってもらったのが、まだあるんだから。……それから、カルチエの時計とか、ディオールのボールペンとか、ランヴァンのスカーフとか、あんなもの買ってきたら承知しないわよ」
「…………」
「あたしねえ、たいていのものは持ってるんだから。エルメスのハンドバッグとか旅行鞄とか、モラビトのパーティー用バッグとか。そりゃ、いいことはいいけれど、もう、いらないの。買おうと思えば、なんでも東京で売っているんですから」
「…………」
「フランスへ行ったからって、そんなものを買うんじゃないのよ。香港《ホンコン》とかグアム島とか、パリの出店がならんでいてね、日本人が買《か》い漁《あさ》りに行くのよ。あれ、なんだか、あさましいでしょう」
一人では電車にも乗れないくせに、よく調べたもんだ。
「ですから、お土産は、いっさい買わないこと。わかった?」
「わかったよ」
私は、ウォーターマンの万年筆ぐらいは、フランが余れば買ってもいいぐらいに思っていた。商売用でもあるし、記念にもなるから。あるいは、デュポンでも。
「なんにも買っちゃ駄目よ。……聞いてるの?」
「聞いてるよ」
お土産ナシとなれば、私も気が楽だ。
「あたし、なんにもいらないのよ」
「…………」
「あたしのためなんて思っちゃ駄目よ。結局、損だし、無駄なんですから」
「…………」
「タヒチって、黒真珠の産地なのよ」
「………?」
「だけど、そんなものいらないのよ。高いから」
「………?」
「灰色のだって、完全な球形だと、五、六十万円するのよ」
「………?」
「買うんだったら、玉で買ってきてね」
さあ、これがわからない。
「あっちのはデザインが悪いんだからね。玉で買ってきてよ。あたし、ミキモトへ持っていくから。ミキモトのほうが、よっぽどいいんだから」
「………?」
「半円でもいいのよ。半円だって、いいものはいいんだから。それだって高いのよ」
「………?」
「ねえ、わかった? お土産なんて、いっさい、いらないのよ。なんにもいらないのよ」
私は、この件について、旅行中、ずっと悩み続けた。わからないのである、正直に言って……。お土産はいらない、買うならば玉、と省略して記憶することにした。もとより、五、六十万円なんていう金は持っていない。しかし、半円ならば買えないことはなさそうだ。それくらいの金は用意した。女房の言葉をどのように解釈したらいいのだろうか。
女房は、さらに、こうも言った。
「タヒチって、玳瑁《たいまい》がいるのよねえ。玳瑁って、鼈甲《べつこう》なのよ。でも、あたし、鼈甲なんていらないわ。高いから……」
黒真珠と重複することになるので、もう書かない。
出発の前々日が徹夜になった。そのまま眠れない。パラオが航空券を持ってきた。駅のそばの居酒屋へ行き、ドスト氏を呼びだし、昼酒になった。そこへ友人が来た。勢いがついて、この町の酒場を経巡《へめぐ》ることになる。それでも十二時前には家に帰った。さすがに熟睡した。
[#地付き]●空港まで
私がタヒチへ行くことを知った若い女性たちは、みんな羨《うらや》ましがった。本気で羨ましがった。そのなかには、ミクロネシアだかポリネシアだかへ一度行ったことのある人がいる。どういうわけだろうか。中年以上の男たちは、タヒチと聞いて怖気《おぞけ》をふるうのに。
どうやら、若い女性は、飛行機に乗るという、そのことだけでも嬉しいらしい。こっちは、こんなに怖がっているのに……。どうも、このことに関して言うと、女性と男性とは決定的に違うようだ。たとえば、東北新幹線が出来て、青函《せいかん》トンネルが完成しても、女性は飛行機に乗って北海道へ行くと思う。そこのところが違う。
タヒチへ行く人たちは、その七割が新婚旅行であるという。残りの半分ずつが若者と老人に別れるそうだ。そのことをタヒチ観光開発局の人に聞いた。これは、新婚旅行以外に七、八日という長期の休暇が取れないためだろう。若者というのは、夏休み冬休みの学生だろうと思う。老人というのは、私たちのような自由業者のことであろうと思われる。
私たちの一行は、パラオの調査によって、私たち以外は、すべて新婚旅行者であることがわかっていた。三組の新婚旅行、ドスト氏と私、添乗員、すなわち、総勢九人である。
五月十四日、十二時半。岩橋邦枝さんが見送りにきた。日野市に住む岩橋さんは、高幡《たかはた》不動の交通安全のお守りを二つ持ってきてくれた。携帯用という小型のものを胸のポケットにいれ、もうひとつを鞄におさめた。岩橋さんは、実は、女房のほうの面倒を見てくれることになっている。たびたび海外旅行に出ている岩橋さんの話を聞くだけで、いくらか心がやすまるようだ。
約束通り、二時に迎えにきてくれたパラオは、いきなり、
「鹿島立ち、おめでとうございます」
と言った。そこが、いつもとは違っている。
二時に出て、三時には箱崎に着いてしまった。箱崎で搭乗《とうじよう》の手続きを済ませ、荷物を托し、リムジンバスに乗って成田空港に向うのである。パラオと私の心づもりは、早目に成田へ行って、寿司ぐらいはあるだろうから、そこで一杯やりながら出発を待つということだった。
しかし、箱崎に着いてみると、タヒチ行きの受けつけは六時であるという。三時間も待たなければならない。私たち以外に、三時間も待つ客はいなかった。しかし、私は、新幹線でも、一時間前にホームに入るのだから、自分では普通のことだと思っていた。
三時半頃から二階の食堂にいると言ってあったのだが、すでに臥煙が来ていた。ビールとサンドイッチ。私は、まだ読んでいない書類に目を通すことにした。このぶんでは、とうてい、フランス語会話には届きそうもない。
福チャンが来た。向田邦子さんと一緒だった。向田さんは、虎の門の金毘羅《こんぴら》様のお守りを持ってきた。それも胸のポケットにいれた。女流作家の考えは、こうなるらしい。
浦安温泉のトッカピンが来た。知らない人と一緒だった。慎重社の徳氏が来た。見送りは合計七人。いまどき、こんなに多いのは珍しいだろう。代議士の洋行みたいだ。これは、私たちが偉いのではなくて、心配でしようがないからである。また、向田さんはドスト氏のファンであって、彼に会いにきたのである。
六時の受けつけと聞いて、みんな惘《あき》れてしまった。私は、ビールを何杯もお代りした。
「疲れているんでしょう。そうよ。酔っぱらっちまえば眠れるわよ。目がさめたらヌメアに着いているわ」
向田さんが言った。そうなればいいのだけれど。……その三時間の間に何があったのか記憶していない。私は、たいそう緊張していた。円とドル、ドルとフラン、その換算のことだけでさえ覚束ない。
「ああ、向田さんがだんだん綺麗《きれい》に見えてきた。酔っぱらってきたらしい」
しかし、私は泥酔したいとは思っていなかった。それはモラルに反することである。また、泥酔のあげくに眠ることができても、眠ったというだけで疲労が残ることに変りがない。私は、午前中の宿酔状態を保つにとどめた。だから、ウイスキイは飲まなかった。
南半球では、春夏秋冬が反対になるという。だから、タヒチは、いま秋である。そんなことも、ずいぶん不都合だと思う。なにも、こんな思いまでして……。自分の季節感を、そっくりひっくりかえすようなことまでして行くことはないじゃないか。
どうやら、話題は、ドスト氏が、国内同様に女性にモテルかどうかに集中していたようだ。彼は、平生、女性のための整理券を発行するとすれば、八十六枚必要になると言っているのである。
六時になり、搭乗手続きと荷物の検査が終り、私たちは、ふたたび、交通公社の待合室に集合した。こんなことなら、VIP特別待合室を借りておくのだった。
だんだんに、搭乗者が集まってきた。UTAフランス航空機に乗るのは、ニューカレドニアまで一緒のAコース、Bコース(ミクロネシア組だろう)、それに私たちのタヒチ・コースである。むろん、数人のフランス人を主とした外国人組もいる。驚くなかれ、Aコース、Bコース、タヒチ・コースのすべては、私たちを除いて、新婚さんばかりだったのである。
つまり、ミクロネシアやポリネシアへ行くということは、いまでは、日本人の新婚旅行の団体に紛れこむということなのである。彼等の、いかにも新婚旅行にふさわしい日程に組みこまれてしまうということなのである。これは決して冒険旅行ではない。私たちのように、もっぱら絵画を通じて異境の自然に接するという旅の人はいない。こっちは余計者である。
それならば、パックとか、なんとかツアーでなく、個人で単独で参加すればいいと思う人がいるだろう。交通公社の係りの人の言によると、費用が倍になるという。タヒチまで五十万円とすれば、百万円になる。そのほかに、私たちであれば、通訳や案内人を雇わなければならない。また、ホテルの予約など、煩瑣《はんさ》な手続きが必要になってくる。大衆社会状況というものが、ここにもあると思わざるをえない。
待合室の人たちの服装は、避暑地で海岸へ散歩に行く恰好と言えばいいだろうか。半数がジーパンである。半袖シャツに登山帽である。なかには素足でゴム草履という男がいる。それが、実に、どうも、ナウいのである。
スーツを着た夫婦も、いることはいる。二人とも、上下純白という組がいる。
「ああいう、真っ白の洋服って着られませんわね」
と、向田さん。汚れるのが怖いというか、心理的に抵抗があるというか、私にもそれがある。
「ああいうのは、だいたい、東北人ね」
隣で、福チャンが、エヘンと言った。
「ああ、失敬。あなたのはベージュだ。いや、アイボリーか」
福チャンも、なかなかにキマッテイルのである。
ところで、私はどうかというと、いろいろ考えた末に、ジャポネ紳士で押し通すことにした。後に、タヒチの日本人三世の女性に、こう言われた。
「わたしの、お父さんのお父さん、そういう帽子かぶっていました」
六時五十分にリムジンバスが出発した。
「道中、ご無事で……」
「一路平安!」
「空路つつがなく……」
いっせいに叫んでくれた。
そのバスは、一時間で成田に到着した。パラオと徳氏はバスに乗っていた。トッカピンと、私の知らない彼の友人は、自動車でもって追いかけてきた。
これも後になってわかったことだけれど、私たちと同行する三組の新婚旅行者は、次のような人たちである。
第一は宮城県の作並《さくなみ》にちかい豆腐製造業者。彼等は、ちかごろ有名になった、私の友人も関係しているホテル・グリーングリーンで結婚式をあげ、そこで一泊してから横浜へ行き、さらに一泊して成田空港に駈けつけたのである。ご主人は苦《にが》りの利いた美男子であって、温厚篤実であり、かつ、なかなかのユーモリストである。あの、なんというか、すぐに雑《ま》ぜっ返《かえ》すという式の、東北人特有の冗談を飛ばす。囲炉裏の粗朶《そだ》の燃える匂いがする。夫人は、これも東北人に多い、大柄で色白の肉体美人である。はなはだ積極的であり陽気であり、活力に富む。ご主人の批評に、好奇心|旺盛《おうせい》というのがあった。以後、東北氏、東北夫人と呼ぶことにする。どうも、東北人は、内向的になるのと積極的になるのと、極端に二種類にわかれてしまうように思われてならない。
第二は、東京の寿司屋さんである。というより、吉祥寺、下北沢、大塚の三軒のチェーン店の経営者である。どうやら、ずっと以前に百円寿司と言われていた店のようであるらしい。こちらは、鯔背《いなせ》な、ワサビの利いたスマートな好男子である。ちょっと坊ちゃんふうで、根は真面目。心やさしい人と見た。夫人は、まことに純情|可憐《かれん》な美少女タイプ。とても可愛らしいが捌《さば》けたところもあり如才がない。旅行を楽しんでいるのはこの人だと思った。可憐だが、確《しつか》り者である。以後、この人たちを吉祥寺氏、吉祥寺夫人と呼ぶことにする。
第三は、横浜在住の造船会社勤務の人である。典型的な技術者タイプであり、かつサラリーマン・タイプ。実は、二人とも長崎の出身。見合結婚。親戚《しんせき》の経営する雲仙の旅館で見合をして、そこで結婚式をあげた。まことに堅実で、どう転んでも間違いがない。しかし、ご主人の芯《しん》は強いと見た。この夫人は、吉祥寺夫人を純情とすれば純真。この二人が話しこんでいる時間が長いのは知りあって間がないためか。以後、長崎氏、長崎夫人と呼ぶことにする。
日本交通公社の添乗員は、島野さんという人だった。なによりも、仕事熱心であるのと有能なのに感心した。少しも出しゃばることはなく、頼んだことはきちんとやってくれる。
添乗員は、国内ではコンダクター、海外ではツアー・リーダーと呼ばれるらしい。
「みなさん、生命《いのち》より二番目に大切なものは何だか知っていますか。お金じゃありません。それは、パスポートです」
最初にそんなことを言った。
「私は、ツアー・リーダーです。ガイドではありません。ですから、アイスクリームを買ってきてくれ、そんな要求には応じられません。私の勤務時間は朝の八時から夜の八時までです。その時間内でしたら、どんな相談にも乗りますから、なんでも、言いにくいことでもおっしゃってください。ホテルの部屋の番号は必ずお教えします。私は、いつでも、その部屋にいます」
さらに、こうも言った。
「集合時刻に遅れる人がいたら、五分まで待ちます。五分待って来なかったら出発します。なぜならば、みなさん、一分いくらという大金を払って参加しているんです。一人のわがままは許されません。……それから、みなさんは、中学以上を卒業されているはずです。英語なら出来るはずです。英語で出来る範囲のことは自分でやってください。できるだけお手伝いはいたしますが……」
そう言われると弱い。それに、ドスト氏は中学へも行っていないのだ。蒙古《もうこ》語は話せるし、梵字《ぼんじ》の読み書きはできるのであるけれど。
私たちの乗るUTA532機は、定刻二十一時三十分に成田空港を飛び立った。
ちょうどそのころ、トッカピン、その友人、パラオ、徳氏の一行は、浦安の秀寿司で酒を飲んでいた。しばらくテレビの画面を眺めていたトッカピンが言った。
「ああ、でえじょうぶだ、テロップが流れねえや」
不幸な臨時ニュースが報ぜられることはなかったそうだ。
「今日は仏滅なんだよ。そんなこと言っちゃなんねえと思ってねえ。先生がたに、そんなこと言っちゃいけねえと思って……。だから言わなかったよ。でもねえ、いまごろ、うちのおっかあは水垢離《みずごり》とってるだよ」
そう言って、トッカピンは、眼鏡をはずし、ゆっくりと眼鏡の玉を拭いていたそうである。
「だけどねえ、帰ってくる日は大安なんだ」
[#地付き]●タヒチの虹《にじ》
ドスト氏と私とは、ツーリストとファースト・クラスとの中間の席にいた。これはパラオと島野さんの配慮だろう。三十組だか四十組だかの新婚の間にいたんでは生臭くっていけない。
フランス語のアナウンスがあった。たちまち、フランス映画の登場人物になったような気がした。若い女性が憧《あこが》れるのは、これだなと思った。自由、解放。死んでもいい。これではあるまいか。向田さんは、TVCFの影響もあると言っていた。
水平飛行になり、食事になった。チキン、平目のデュグレレ風、バターライス、チーズ、菓子、コーヒーまたは緑茶となっている。
水が出ている。これが果たして、飲むものなのか、フィンガーボールなのか、すぐにはわからない。赤《あか》毛布《ゲツト》だなと思った。ドスト氏は、かまわずに飲んだ。サービスするのは、中国人のような男である。グリーンティーと言うと、しばらくしてから、瀬戸物の茶碗にいれたお茶を持ってきた。
眠れない。眠れるわけがない。私は駄目なのだ、乗りものでは……。絶対に駄目だ。
上半身が裸にちかいフランス人の女がいる。この女性が、やはり、そんなふうであるようで、書物を読んでいる。実に、どうも、しぶとい女だ。そうかと思うと、毛皮をまとった女がいる。外国人のすることはわからない。
私は、ちかごろでは、目をとじてじっとしていれば、それだけでも体がやすまるはずだと思いこむことにしている。家で布団で寝ているときでもそうだ。それで駄目ならば駄目。駄目でも仕方がない。
私は、こう思った。
「俺は、いま、椅子に縛られたままピストルで撃たれて死んでしまった男なのだ」
そう思って、頭をがっくりと垂れた。しばらく、そうしていた。しかし、やっぱり、駄目だ。
後部の座席にいるドスト氏に言った。
「ウイスキイをくれませんか」
パラオから、サントリー・リザーブの小瓶《こびん》二本、サントリー・ブランデー・VSOPの小瓶二本を貰っていた。どうも、日本から持ってきた酒を機上で飲むのは違反らしいのだが、そのときは知らなかった。
がさごそ、という音がして、後部座席の隙間からドスト氏の手がのびてきた。
「これ、やっぱり、パラオです」
株式会社天童ハム製わんぱく太郎(ドライ・ソーセージ)と印刷されている。サラミのようでサラミじゃない。それに、甘辛く味つけした裂きイカ。敷島コンブ。フランス航空機の機上で敷島コンブをねぶるのは不思議ではあるまいか。
「梅干があるんですが……」
「パラオですか」
「違います。荻窪《おぎくぼ》のアヤちゃんです」
「結構です」
ひそひそ話が続いている。
「ラッキョウもあります」
「ずいぶん持ってきたんですね」
「ちがいます。むりやり、押しつけられたんです。千人針もありますが、ナプキンがわりに使いますか」
「いらないです」
「寅年《とらどし》の人に集まってもらって……」
「…………」
「山うどの白ゴマミソあえ瓶詰なんてのもありますよ」
「シーッ。結構です。帰ったら、温泉へ行きましょう。ひどい芸者と海坊主みたいな按摩《あんま》を呼んで……」
私は、ウイスキイの小瓶を片手に、ふたたび、椅子に縛られたまま死んでいる男の姿勢をとった。
いろいろなことを考える。悪いことばかり。パイロットが心臓発作を起こすとか、ネジがゆるむとか、正面衝突するとか、ありとあらゆることを考える。高度一万五百メートル。速度、時速九百キロ。気温、零下四十二度。こんなことは、ありうべからざることだ。こんなことを天が許すわけがない。いまは飛んでいるけれど、地上に降りられるわけがない。
私がタヒチへ行くのは、絵を描くためである。海を描くためである。その一点に尽きる。そうでないと、私の持っているブルーの絵具に申しわけないような気がしていた。日本の国内には、ブルー系統の絵具をそのまま使えるような海がない。
また、こういうこともあった。ちかごろ、五十歳代になってから、特に今年になってから、体の不調が続いている。まったく信じられないくらいに、あるいは年齢相応に正確に、体の各器官が駄目になってきている。特にいけないのが神経だ。毎晩、私は、
「ボロボロ、ズタズタ、メロメロ……」
と呟《つぶや》きながら床に入るのである。
そこで、海外旅行に行って健康が恢復《かいふく》するなんていうことは考えられないけれど、もしかしたら、神経のほうに良い作用が働くのではないかという考えがあった。つまり気分転換である。あるいは神経に揺さぶりをかけるということだろうか。
もうひとつ、出かける前に、野呂邦暢《のろくにのぶ》さんが急死したということがある。第一回目に長崎へ行ったとき、野呂さんが町を案内してくれた。これは最高のガイドだった。それが一年前のことである。
野呂さんのことがあるまで、私は、まだキャンセルできるといったように考えていた。そこで考えがきまったと言ってもいいだろう。
「四十二歳で死んじゃ駄目だわ。どんなことがあったって」
箱崎で向田さんが言った。
野呂さんに較べれば、私は十年以上も長く生きている。死んだっていいやという気持が、かすかにあった。死にに行くというのはあまりにも大袈裟《おおげさ》であるけれど、死んでも仕方のない年齢になっているという実感があった。一時間の飛行機だって怖いのである。飛んでいる間は、生きた心持がしない。タヒチまでは十五時間である。そういうことがなければ決心がつかなかったというのは嘘ではない。
気分転換と死にに行く心と……。椅子に縛られたまま死んでいる男は、そんなことを考えている。
上半身が裸のままのフランス女性は、書物を読み終り、書きものをはじめた。不眠症の女であるらしい。あるいは、生活習慣がそうなっているのか。
午前二時、ついに彼女は頭上の電気を消した。そうして、毛布にくるまって床に寝てしまった。
概して言うならば、私は日本人が嫌いで外国人が好きだ。外国人をフランス人に限って言うと、彼等には、どこか毅然《きぜん》たるところがある。確乎《かつこ》たるものがある。彼にあって吾にないものがこれだ。フランス人は三歳の幼女でも一個の人格者であるが、日本人では、七、八歳の少女でも甘ったれであるにすぎない。日本人は、勤勉で嘘つきで確乎たるものがない。
そうして、外国人は、ひどく動物的である。椅子にではなく、裸の肩を露《あら》わにして床に横たわっている眼下の女を見ながらそう思う。
午前四時十分。左側の窓に血の色を見た。朝焼けである。十分後にアナウンスがあり、朝食が運ばれてきた。時計を二時間進めろと言う。すなわち六時二十分である。二時間損をしたような、到着が早くなるので得をしたような、どっちともわからない気分。
島が見えてきた。南太平洋というのは、要するに無人島の集まりなのではないか。島に人がいない。家がない。道路がない。
「冒険ダン吉だ」
と、ドスト氏が言った。
五月十五日、午前七時。ニューカレドニアのヌメア空港に到着した。七時二十分、トントゥーテル・ホテルに着いた。新婚組は市内観光に出かけた。私たちは別行動にしてもらっている。
ウイスキイを飲み、三十分ばかり眠った。郊外のモーテルのようなホテルである。赤い花、白い花、黄色い花がプールの周囲に咲いている。クチナシのような、芙蓉《ふよう》のような花が芳香を放つ。むし暑い。それに、虫。網戸があっても駄目なのだ。目に見えぬような小さな虫が刺す。
仏領へ来て閉口するのは香水である。飛行機のなかが、すでにそうだった。びしゃびしゃのオシボリ。オシボリにしみこませた香水はシャネルだかゲランだか知らないが、香料に関してフランス人は非常に低級だと思う。ほのかなるもの、あえかなるものを知らない。
十二時、食堂で昼食。ステーキ、フライドポテト、パン、バター、ワイン。ワインは赤にかぎる。ためしにヴァンロゼを飲んだが、これは駄目。この昼食、私が英語で注文し、空港で換えたフランで支払ったんだ。信ずるかね、おい。デザートをなかなか持ってこない。フランス人のウエイトレス(混血か)に、私が、|英語で《ヽヽヽ》、バナーナと叫ぶと、彼女、ヒューと息を吸いこんで肩をすくめた。こんなことでも酒の勢いがないとやれない。酒の効用のひとつがこれだ。
ホテルの売店に黒真珠あり。仁丹の大きさ。あれ何に使うのだろう。値段わからず。
絵を描く元気がない。それに海がない。二時から六時まで眠った。夜、何も見えないときに起きていて、昼間寝ているのは、ずいぶん損だと思った。何をしにきたのかわからない。その間に、ドスト氏は、スケッチブックを持って外へ出ていった。原住民が金属の球を放《ほう》って遊んでいる。ドスト氏にも一緒にやらないかと誘った。ルールがわからないので断った。惜しいことをした。それはペタンクである。ペタンクは、南仏の漁師の遊びであって、伊丹十三に教えられて、私はそれを得意としている。国威発揚の機会を逸した。
七時に夕食。スープと仔牛《こうし》の肉。ワイン。
吉祥寺氏は伸びてしまったようで、食堂へ出てこない。夫人のみ。私は、朝早く起きなければならないときは東北氏(豆腐屋)に頼み、夜遅くまで飲むときは吉祥寺氏(寿司屋)を頼りにしようと思った。新婚組は向いあって坐った。どうしたって、私たちは、新婚旅行についてきてしまった仲人という恰好になる。
私は、タヒチまで新婚旅行に来るのは、ブルジョワの家庭の子女だと思いこんでいた。なにしろ、私の新婚旅行は、熱海《あたみ》一泊、所持金七千円、それも夕方に着いて翌朝早く帰ってしまったのである。豆腐屋、寿司屋、入社六年のサラリーマンということに驚かざるをえない。これが現代である。もっとも、こういう人たちが日本の有産階級であると考える人もいるのである。
これは決して差別で言うのではない。東北の山の中の豆腐屋さんが、ニューカレドニアのホテルの食堂でヴァンロゼをオーダーするというのは、やはり驚くべきことなのではあるまいか。良いか悪いかは別にして、日本の底力のようなものを感じないわけにはいかない。
八時半にバスで空港へ行く。もう、AコースもBコースもなく、私たちだけになっている。空港で、ジン・トニックを飲んだ。ドスト氏もこれにならった。
十時発。こんどはファースト・クラスである。廻りは外国人ばかり。シャンパンが出る。ワインはボルドーを頼んだ。このシャンパンがうまい。私の顔つきで察して、給仕係りが遠くからラベルを見せた。読めない。
十一時に夕食。さっきホテルで食べ終ってから、まだ三時間しか経っていない。そのメニューは左の如し。
Foie Gras Truff・du P屍igord
Langouste en Bellevue
Carr・d'Agneau
Brocoli au Beurre
Brochettes de Boeuf et de Poulet
Riz Pilaf
Plateau de Fromages de France
P液isserie
Corbeille de Fruits
Cafe
これが馬鹿|美味《うま》なのである。私はフランス料理の悪口ばかり言ってきたが、恥としなければならない。
「飲みつけないものを飲んじまって……」
と、ドスト氏が言った。そうなのだ。空港でのジンの味がまだ口中に残っていた。そこへシャンパンと葡萄酒。
アメリカ人でもイギリス人でもフランス人でもそうなのだが、彼等は、話をするときに、顔をこちらに近寄せてくる。そうして目と目をあわせる。面に真率があらわれている。これが困る。こちらは伏目になる。むこうは、なおも迫ってくる。気持が悪くってしようがない。特に若い男が厭《いや》だ。こっちに気があるんじゃないかと思われてくる。
私の前に坐っていたのは、東山千栄子さんを、さらに大柄に、さらに色白に、さらに上品にしたような立派な老婦人(服装の趣味がいい)であったが、化粧室に立つとき、帰ってくるとき、私にむかってニターッと笑うのである。いい表情をする。メイク・ア・フェイスというところだろうか。決して悪い感じではない。悪い感じではないのだけれど、こっちはどういう顔をしていいのかわからない。
夕食が終ったのは十二時過ぎだった。しかるに、午前二時に朝食のアナウンスがあり、本当にそれが運ばれてきた。しかも、持ってきたフランス女にしては骨盤の発達しすぎたような、ちょっと意地の悪いような顔をした給仕係りは、それを少しもあやしまぬのである。びっくりするでしょうけれど、なんてことは言わない。毅然たるものがある。
そうして、フランス語と英語でもってアナウンスがあり、時計を三時間進めろと言う。こんな不都合なことはない。さらに、あろうことか、昨日は五月十五日の大安であったけれど、今日も五月十五日の大安だと言うのである。
「ドスト氏よ。こうなったら仕方がない。嫁に行った晩だ。何でも向う様の言うようにしようじゃありませんか」
「郷に入ったら郷に従えというのがこれですね」
「そうです」
「今日は五月十五日。時刻は午前五時」
「そう信ずるよりほかにありません。私は、もう、そう思いこみました」
「しかし、無茶なことを言うねえ、フランス人は」
朝食のキャビアがうまかった。とろっとしているような、さっぱりとしているような。食べられるという状態ではなかったが、これだけは残すまいと思った。廻りを見たら、なに、フランス人諸氏も同じようにしている。
「これ、一|瓶《びん》、いくらぐらいするでしょうか」
瓶のまま出ている。
「さあ、一粒百円として……」
私は、ホテルの売店で見た仁丹のような黒真珠を思いださないわけにはいかなかった。
六時半に、タヒチ島パペーテのファアア空港に到着した。この空港が気にいってしまった。さまざまな人種がいる。
さまざまな顔がある。さまざまな服装がある。何よりも、混血児のすらっと伸びた肢体がいい。見ていて飽きることがない。これは気持のいいもののひとつではあるまいか。そこへ『外人部隊』のマリー・ベルみたいな気取ったような権高いような女が通りかかる。見ると、薄物の肩から足まで、激しく横割れ(スリット)している。横割れしたものが、腰のところで、あやうくとめられている。右から見れば貴婦人であるが、左半身は全裸である。そういうのが、青年と連れだって、すっと通りすぎてゆく。どうしたって、彼女は意識しなくても目立つ。日本の若い女は、目立ちたいと思っているのに目立たない。
空港からタハラ・ホテルまでのバスは大型であり、乗るのは私たち九人だけであるのに、新婚組は並んで坐る。
「きみたち、そんなに、いつでもくっついていたいのかね」
と、私が言った。
「山口さんだって若いときがあったでしょう」
吉祥寺氏がきりかえした。
そうなのだ。私にも若いときがあった。しかし、新婚旅行に南太平洋なんていうことはなかった。私の時代の結婚は、親もとをはなれて六畳一間のアパートを借りるということだった。風呂も便所も台所もなかった。
タヒチ島では、椰子《やし》の木より高い建物を建ててはいけないという法律があると聞いていた。特殊な建物(空港など)を除いて、すべて二階建てまでである。だから、道路からは見えない家が多い。船でタヒチ島に近づくときは無人島のように見えるという。これを空から見ると、かなり観光の進んでしまっている都会になる。タヒチ島はもう駄目になったと言う人もいる。だから、ボラボラ島なのである。
タハラ・ホテルは、空港、海水浴場、ヨットハーバー、さらにはモーレア島(映画『南太平洋』の舞台)を望む崖地《がけち》にへばりつくようにして建てられている。十階建てであるが、地面からすると、すべて一階建てになっている。
私たち以外の人は、タヒチ島の観光(ゴーギャン博物館、ビーナス岬《みさき》など)に出かけた。
「さあ……」
ドスト氏と私とは、モーレア島をとりいれた海を描くことになった。ベランダへ出た。
「これ、値打ちありますねえ」
私は初めて海を見たように思った。これが海だとすると、日本の沿岸の海は海ではない。その海の色は、刻々に変化した。
雨催《あめもよ》いの日だった。雨雲と蒼空《あおぞら》とが、交互に通り過ぎ、流れてゆき、雨になった。雨になっても室内から充分に描くことができる。むこうの海は晴れていた。
雨は、ものの十五分ばかり、ベランダを強く叩いて去っていった。海と岬に濃い影の縞模様が生じ、その縞も動いていて海の色を変えた。
虹《にじ》が出た。足下の海から虹の橋がかかった。その虹のほかにもう一本の虹が生じ、虹の反り橋は二重橋になった。ヨットハーバーのあたりに、蹲《うずくま》る虹色の塊があり、それも立ちあがろうとしていた。私は先刻と同じことを、また言った。
「値打ちありまんなあ……」
[#地付き]●ボラボラ島へ
部屋でビールを飲んだ。それは地下の酒場で買ってきて、自分で持ってきたものである。それだけのことがやれた。何と言ったかは内緒だ。
フロントでタクシーを頼んだ。空港へ行って新婚組と合流しなければならない。私たちは荷物を持って外へ出た。空車が待っていた。私の頼んだタクシーはそれではない。私はナンバーの書かれた紙片を持っていた。
私は、そのことを運転手に告げた。通じない。どこへ行くのかと言った。空港までだと言った。それじゃ乗れと言う。乗るわけにはいかない。
ボーイが来た。現地人である。
「貴下はフランス語が話せるか」
と、ボーイが言った。
「否《ノン》!」
「では、英語が話せるか」
「否《ノー》! ほんの少ししか話せない」
「ドイツ語は?」
「否《ナイン》!」
「では、いったい、貴下は何語を話す人間なりや?」
ボーイは訝《いぶか》しげな表情になった。私たち二人がどうやってこの地へ来たのか、まったく理解できないようだった。私にもわからない。
「何をしにきたのか? 何の目的で?」
答えられない。私たちの服装では、とても観光客とは受けとりにくいのだろう。明治大正ジャポネ紳士スタイルである。
ボーイは黙って私たちを見ていた。私も黙っていた。ドスト氏はそっぽを向いていた。そこへ、持っている紙片のナンバーと符合するタクシーが来た。それに乗りこんで、エア・ポートと言った。タクシーは走りだした。ボーイは、世にも不思議なものを見るといった目つきで私たちの自動車を見送っていた。空港まで、百十フランだった。
四時発のプロペラ機でボラボラ島へ向った。島野さんが船暈《ふなよい》の薬をくれた。体調の悪いときは自分でも酔うと言った。
オシボリがくばられ、オレンジ・ジュースが運ばれたときに、飛行機が大きく揺れた。というより、大きく落下した。こういうとき、手は、自然に、上にむかってあがるものである。嬌声《きようせい》にちかい悲鳴が聞かれた。私のジュースは半分飲み終っていた。だから助かったと言える。後部にいるドスト氏のジュースは運ばれたばかりのものだった。彼も手をあげた。しかし、彼の紙コップのなかの液体は、帯状に天井に達した。それはコップに戻ることはなくて、ドスト氏は、頭から貰ったばかりのジュースを浴びることになった。禿頭に氷が当って音を立てた。
飛行機はファヒネ島に寄った。ここは有数のヴァニラの産地である。何人かの大男大女が降り、同じような男女が乗ってきた。彼等一人が歩いても飛行機は揺れる。また、プロペラ機の座席では、足が窮屈になっている。はじめっからシート・ベルトをつけるのをあきらめている男がいる。ベルトは胴体を廻りきることができない。
五時半に、ボラボラの空港に着いた。あたりは暗くなっている。何が常夏の島かと思った。秋じゃないか。短日じゃないか。
ボラボラの空港は珊瑚礁《さんごしよう》である。珊瑚礁をうまく利用していた。一本の長い長い滑走路がある。その両側は椰子の木と海である。ここから船に乗ってホテルへ行くのである。海外は初めてであるが、世界一の美しい空港ではないかと思った。そのことを島野さんに言った。彼は、そうだと言った。
たちまち、夜になった。夜の海に、バンガローが見える。はなはだ日本的な風景。海辺に、海上に、椰子の葉で葺《ふ》いたバンガローが建っている。半分が民家で、半分がホテルもしくは別荘なのではあるまいか。
約五十分で、ホテル・ボラボラに着いた。やっと目的地に到達したのである。ここは、バンガロー形式、全館離れ式、入浴随意、扇風機(天井にプロペラのようなものあり)完備、客はすべてアヴェックで、稀《まれ》に赤ん坊を連れたカップルがいた。ことによると、ドスト氏と私もそういう目で見られているのかもしれない。
七時半に、ホテル利用についての説明会。続いて夕食。全員で食事をするのはこれが最後になるというので、飲みものは私の奢《おご》りにさせてもらった。乾盃《かんぱい》。
自動車。リムジンバス。ジェット機。バス。またバス。ジェット機。バス。タクシー。プロペラ機。船。そうやって、乗りものづくしのようにして最終目的地まで来た。
食事のとき、私の隣に坐ったのは東北夫人であった。ドレスアップしている。そう言えば、夫人たち全員がそうである。そのために、あの海外旅行用の巨大なスーツケースが必要だったことに気づいた。
「ずいぶん、いろいろな乗りものに乗りましたね。疲れませんか」
「平気だわ」
「われわれ、結婚式をあげて、そのまま家に帰らずに、この旅行に参加したのです」
そう言ったのは東北氏である。ボラボラ島で聞く、カ行に微妙な湿りっ気のある発音が身に沁《し》みる。特にKuの音が優しい。
他の二組は直行ではなかったようで、感嘆の声があがった。
「結婚式の前の晩、彼女、二時間しか寝なかったんです。クッキー造りは自分でやったもんですから……」
「嫁は東北にかぎるね」
「それで、横浜へ行って、ドリームランドへ行って、ジェット・コースターに乗ったんです」
「乗りものが好きなんだ」
「そうです。あれ、降りていって、一回転するときは、そんなに怖くないんです。覚悟してますから……。そうじゃなくて、うしろ向きに引っぱりあげられていって、急に落とされるやつ、あれ怖いです」
「…………」
「女は、ちびるって言うけど、彼女、そんなことなかったようです。下着、売ってましたけど。下着が濡れるんだって」
「あなたは?」
「私は、一回で気持が悪くなって、やめました。一回だけです」
「一回だけ?」
「ええ。彼女は五回乗りました」
「本当に好きなんだなあ。……じゃあ、明日は、あなた、ガラス底船に乗りますね」
東北夫人に言った。
「もちろん」
「VIPクルーズにも乗りますね」
「もちろん」
「カヌーにも乗りますね」
「もちろん。そのために来たんですもの」
「カヌーにお尻が入るといいんだけれど」
東北夫人は自転車にも乗った。なんでも試みてみるという積極性に感心しないではいられなかった。
夜になって豪雨。
ドスト氏と二人で洗濯をした。パンツ、靴下、シャツ、ステテコ、スポーツシャツ、ハンカチなど、使ったものはすべて洗った。ドスト氏は洗濯用の綱を持っていた。それと洗濯バサミ。ケネディの提案であったという。その綱は部屋いっぱいに張りめぐらされた。
ドスト氏は九時に寝た。翌朝の九時まで、彼は眠りっぱなしだった。十二時間。羨《うらや》ましい。
ウイスキイは無くなっていて、私は二本目のブランデーに取りかかっていた。
「ああ、ああ……」
糖尿病患者は、虫に刺されやすく膿《う》みやすいのである。目に見えないような小さな虫がいけない。痒《かゆ》いと思ったら、もうそこから血がふきだしている。網戸があっても駄目だ。頭がボーッとしている。ボラボラでボリボリ掻《か》くや虫の秋。蚊喰金魚印の香港製蚊取線香をつけた。そのころ、東京のホテルにいる女房に、梶山夫人から電話があったという。わたし、ごめんなさい、なんとかマイシンの話だけして、虫ササレの薬を持ってゆくことを言わなかったのね、梶山は、虫ヨケ、虫ササレの薬、絶対に必要だって言っていたのよ、ごめんなさい……。
十一時。私はともかくベッドに横になることにした。横になって目を閉じていれば、眠れなくても休息になるに違いない。
「ボラボラ、ボロボロ、ズタズタ、メロメロ、ボリボリ……」
眠れない。駄目だ。まだ緊張しているのだろう。……それでも、私は濡れ雑巾で顔を撫《な》でられる夢を見たのだから、少しは眠ったのだろう。この濡れ雑巾は香水の匂いがないからいいなどと考えている。目がさめた。ドスト氏の猿股《さるまた》が私の口をふさいでいた。洗濯用の綱が落ちたのである。
午前三時になっていた。綱を張りかえた。あとから洗濯した私のシャツが重すぎて釘《くぎ》が抜けたらしい。雨は止《や》まない。またブランデーを飲む。暑いんだか寒いんだか……。とにかく、あまり気候のいいところだとは言えない。東京から来るよりパリから来るほうが遠いのだという。こういうところへ遊びにくるフランス人なんて洒落《しやれ》てるなあと思う。このホテルはフランス人優先になっている。
五月十六日、赤口《しやつこう》、朝。いや、とにかく、今日は十六日だと思いこむことにしていた。酒飲みの常として、午前中に三度か四度は上厠《じようし》しないといけない。いったい、この雲古は何月何日の雲古なりやと思うと変な気分になる。考えだすと気が狂いそうになる。
小雨が降ったり止んだりする。ポーチから海上のバンガローを描く。実にすらりとした背恰好の、三十代半ばと思われるフランス女性が、見てもいいですかと言って、ドスト氏の絵をのぞきこんだ。フランス語が話せますかと彼女が言った。ドスト氏、無言。私は、ノーと言った。英語が話せますか? 私、ノー。私は、悪漢を追い払う目つきになっていたと思う。私の目つきがいけない。これでは物語《ロマンス》は生じない。六十代女性が来て、私にも描けたらいいのに、と言った。イフ・アイ・クッドだかシュッドだかと言った。これも追っ払った(結果的に)。私の心は歓迎であるのに。通りかかる人は、みな、のぞきこむ。ビューリフルと言う。連れがいると、ピクチュアー、ピクチュアーと叫ぶ。あまり教養のある人はいないのかもしれない。ウォーター・カラーとかパステルとか言ってもらいたいのに。
虫明さんの言ったことが嘘だとは思わないが、ヌード女性はいなかった。トップレスもいなかった。これは、むしろ意外だった。そのために持ってきた双眼鏡が無駄になった。もっとも、あどけないようなフランス人若妻の下腹部全体が毛むくじゃらなんていうのを見たら幻滅してしまうだろう。私は『ペントハウス』は嫌いなのだ。
ボラボラ島というのは巨大な五色沼だと思えばいい。珊瑚礁に囲まれているので、サメが入ってこない。だから小さな魚の天国になる。砂は純白にちかいから、空の色をそのままに映す。それが刻々に変化する。水温は気温より二度低いだけだ。夜になっても海はあたたかい。
「あ、熱帯魚がいる!」
最初にドスト氏はそう叫んだ。十センチに満たない透明な魚が、数百匹、一度に跳ねることがある。海面にシャーッという音が立つ。飛魚もいるようなのだ。やたらに熱帯魚がいる。
沖の珊瑚礁に白波が立つ。その前にウルトラ・マリーンの帯がある。晴れてきた。浅葱幕《あさぎまく》がある。晒《さら》し木綿がある。私は初めて紫色の絵具も使った。椰子の葉を映した緑色の扱《しご》き帯がある。どういう加減か、ピンク色の半襟《はんえり》が流れる。値打ちありまんなあ、と、ふたたび私は言った。虫さえいなければ……。
サッカーのボール大の青い実が地上に垂れている。絶えず花が落ちてくる。黄色の葉が落ちる。クチナシが匂う。
ゴミというものがない。フランス国民に脱帽する。私がボラボラ島で見たゴミは、海上に浮いていた一本の煙草のフィルターの部分だけだった。むろん、空き罐《かん》なんかはなかった。
昼食。ハイネッケン。どうも、残念ながら、タヒチ産のビールはうまくない。
午後、島野さんが交渉してくれて、食堂で働いている現地人の娘にモデルになってもらった。モデル料、千フラン。これはこっちで決めたものだ。その他、百円ライター数箇、ボールペン数本、ティッシュ・ペーパー。
「ハウ・オールド?」
「………(無言)」
「ウァット・ユア・ネーム?」
「………(無言)」
彼女は英語を話さない。十四、五歳だろうか。恥ずかしがりであると食堂の女支配人は言っていた。
桟橋からパステルで珊瑚礁の海を描く。ついで、椰子の林とバンガローを水彩で……。芸術の鬼だな。ブランデーを飲みながら。……室内とかビーチ・バー以外で酒を飲むのは違反であったらしいのだが。
「こういう景色だと、絵の上手な人はより上手に描けますね」
と、ドスト氏が言った。
「下手な人はそれなりに……」
それから、歌を口ずさんでいた。ヌメア発の夜行列車降りた時から……。ボラボラの人の群はみんな無口でェ……。
七時夕食。ハイネッケン。
原住民のウエイトレスにドスト氏は空手の先生と間違えられた。もっとも、日本人と見れば空手だと思うのは世界的な傾向であるらしい。一人の女性。この人、必ずドスト氏の背後に廻り、胸を押しつけて、髭《ひげ》にさわる。ドスト氏が自転車に乗って散歩に出たとき、モーター・バイクで追いかけてきて、家へ寄っていけと言ったという。子供が五人いると言った。四十歳ぐらい。
八時半にバンガローへ戻った。ドスト氏、すぐに眠る。まったく腹が立つ。仕方がないので食堂で買ってきたワインを飲む。この島に一カ月もいたら、間違いなくアルコール中毒になるだろう。
また、雨。海上から太鼓の音しきり。明け方、怪鳥の叫び。ときおり、爆発音がある。椰子の実が落ちるのか、落ちた椰子の実がはじけるのか。未明に火事があった。郵便局が焼けた。この島の人は火事があっても驚かない。バンガローはよく燃えるらしい。一睡もできない。喉《のど》から血が出る。
五月十七日、先勝。夜に雨が降って昼間は晴れるのが有難い。朝からワイン。ワインは水代りなんていうのがいけない。昼食にハイネッケン。ビーチ・バーで、またハイネッケン。水彩とパステル。絵だけは充分に描いた。合計九点。
夕焼けを描く。私は、夕日なんてものは、日本でもインド洋でも南太平洋でも同じだと思っていた。それが違うのだ。空も海も真っ赤になる。そうして海が黄金色に輝く。「ケンバンワアー(もしくはキョンバンワアー。今晩はの意)」
吉祥寺夫妻がグレープフルーツとオレンジを持ってきてくれる。グレープフルーツは琴風の頭ぐらいの大きさ。多汁《ジユーシー》である。それにしても、キョンバンワアーという甘い声からずいぶん遠くなってしまった。
夕食でもハイネッケン。そのあとタヒチアン・ショー。
「で私、主人《たく》と相談致しました結果、何より一番にまずあのダンスを撲滅することだと、そう決心致しました。なにしろ土人と申しますと、あなたもうダンス気違いなんでございますからねえ」(サマセット・モーム『雨』、中野好夫氏訳)
という原住民の踊りである。撲滅されないでよかった。
五月十八日、友引。朝から豪雨。雷鳴。これは嵐である。これでは船も出ないし飛行機も飛ばないのではないかと思ったが、昼近く小降りになる。昼食はヴァイキング。東北夫人、西瓜《すいか》をたくさん食べる。
午後一時、バスに乗って港へ着いたときは晴れていた。東北夫人、船の出発を待つ間、そこにあった自転車に乗る。実に活溌で陽気で屈托《くつたく》がない。それを東北氏が8ミリカメラにおさめる。まるで石坂洋次郎の『青い山脈』の世界である。
ところが、その自転車の持主であったらしい十歳ぐらいの女の子が怒った。事情はわからないが、その女の子にとって、自転車は触ってもいけないような宝物であったのではなかろうか。女の子は自転車にまたがり、こちらを振りむく形で、瞋恚《しんに》の目でもって睨《にら》みつけている。その周囲に七、八人の子供たちが群がっている。困ったことになった。言葉が通じない。
私は、島野さんに頼んで、残っている七本のボールペンを子供たちに渡してもらった。いくらか機嫌が直ったようだ。私は近づいていって、胸にさしてあった自分用のボールペンもさしだした。
ところが、そのあとがいけない。ボールペンの使用法を教えにいった吉祥寺氏が、紙がないので、自転車にまたがっている女の子の腕にハート型を描いた。また怒りだした。
港での寸劇みたいなことがあって、船はボラボラ島を離れた。
[#地付き]●ニューカレドニアの秋
タヒチ島パペーテのファアア空港に着いたのが午後の三時半である。私たちの乗ったバスはホテルを通り越して土産物屋へ寄った。日曜日で、営業している店が少いようだ。大勢の日本人。黒真珠はなかった。やはり専門店へ行かなければいけなかったようだ。
タハラ・ホテルで七時半から夕食。仔牛の肉|串焼《くしや》き。サラダがうまい。ふたたびタヒチアン・ショー。東北夫人、踊る。喝采《かつさい》。まったく元気な人だけれど、踊りも上手だ。
五月十九日、先負、月曜日。午前三時半にモーニング・コールがある。四時半に空港へ行く。
免税店に日本人の大群。行列。残っているフランのありったけを出してウイスキイを飲む。
六時発。ファースト・クラス。七時に朝食。それはいいけれど、十時に昼食が出る。メモ用紙に、はなはだ迷惑と書いた。
シャンパン。上等である。ボルドー赤葡萄酒。メニューは左の如し。
Foie Gras Truff・du P屍igord
Saumon Fume Norvegien
Filet de Boeuf Ruti
Gratin Dauphinois
Pigeon Farci
Laitue Braisee
Plateau de Fromages de France
Patisserie
Corbeille de Fruits
Cafe
こんどの旅の収穫は、まず第一にボラボラ島の海の色であったが、次に指を屈すべきは、このフランス航空機ファースト・クラスでの食事であった。帰りの飛行機のスチュワーデスは往路と違って美人だった。ひっきりなしにワインをサービスしてくれる。いや、こっちのほうで合図を送るから来るのだ。
ドスト氏の様子が、ちょっとおかしい。私は彼の食事のことで心配していたのだけれど、よく食べるのである。嫌いなはずのパンのお代りをするし、バターライスなんかは、かえって手をつけない。
ドスト氏は酔ってしまったらしい。馴れない酒を飲んだこと(彼はワインに弱い)。緊張感と気づまり。ハードなスケジュール。そうして、いま帰路についているという解放感。
口のなかで、なにか、ごちゃごちゃ言っている。
「ええ、おい。こんなに御馳走《ごち》になっていいのかね」
そう言っているのだということがわかった。ここから、いつもは高笑いになるのであるが、さすがに遠慮をしているらしい。
「これ、全部、タダかね。酒のお代り、タダかね。何杯飲んでもいいのかね。……こんなに御馳走《ごち》になって、かまわないのかね。……支払いのほうはだいじょうぶかね」
「…………」
「このフォアグラてえものを腹一杯喰ってみたいと思ったことがあるんだ。これはね、そんじょそこらの銀座あたりのフランス料理店のフォアグラとはわけが違うんだ。……ええッ? あんた、飲《や》りませんか。私一人で飲《や》るってのは、どうも、いけません。マドモアゼル! パルドン! シル・ヴゥ・プレ!」
ドスト氏が初めてフランス語を話した。このフランス語が通じたのだ。あとは手真似で酌をしてくれる。
「酒はうまいし、姐《ねえ》ちゃんは綺麗《きれい》だ。……ああ、きゅうっとね、このボルドーてえものが、実に、どうも……ああ、うまい」
「…………」
「あなたの最初に描いた絵ね。ああ、タヒチ島から描いたやつ。……ええ、モーレア島を望むってえやつ。あれはですね、タヒチ湯っていう銭湯があってね、その、お風呂屋の絵ね、あれになっちゃった。ヨットを描かなければよかったんですよ。ヨットがね、帆掛船になっちゃった。はっはっはあ、パルドン!」
「…………」
「フォアグラにサーモンにローストビーフときたね。悪くないね」
スチュワーデスが料理をさげにくる。そのたびに、
「フィニ?」
と、訊《き》く。こっちはノンと言ったつもりだけれど、さげられてしまう。しかし、若い女性に、終ったか終ったかと訊かれていると、次第に妙な気分になってくる。乙《おつ》な気分と言うべきか。
「この鳩の肉ってものがね、大好きでね、あんた食《や》らないんですか、こんなうまいもんを。この肉もいいが、ルーと言うかソースと言うか、これが、結構な、味なんだね」
「…………」
「チーズはね、ブルーチーズにかぎるの。なんでも強いのがいいの」
実際に、そのブルーチーズは、はじめに辛いと思ったのが、口中で甘くなるという絶妙な味わいを示した。癖があるようで、決してそうではない。
二人でずいぶん飲み、大いに国威を発揚した。
「こんどの旅、葡萄酒とパンとバターがうまかったと思いませんか」
「よかった」
「バターはどうですか。このバターは?」
「外国のバターは、バタ臭くっていけない」
私はフルーツはリンゴを選んだ。タヒチ島のリンゴが悪くないのを知っていた。赤くて小粒で甘味がある。
「リンゴってものは、北国のものだと思っていたんですが、そうでもないんですね。このリンゴ、うまいですね。しかし、本当に、これ、リンゴでしょうか」
「あなた知らないんですか。これ、インドリンゴって言うんです」
飛行機は、ニュージーランドのオークランドを経由して、ニューカレドニアのヌメア空港に到着した。五月二十日の午後一時半。
そこから、バスに乗って、約五十分。イル・ド・フランスというホテルで休憩することになった。
眠るつもりが、やはり眠れない。このホテルは新しいホテルで、全体に日本製の建材が多く使われているように思われた。ベッドも外国のホテルとしては小さくて、私でも足がつかえてしまう。
もう、絵を描く元気がない。散歩に出る。やはり五時半で暗くなってしまって、その頃になると寒いのである。風が強い。それでもプールで泳いでいる人がいる。
七時に夕食。最後の夕食である。全員でともに食事をするのはボラボラ島の第一日目までと聞いていたが、この日も、みんなが集まった。ただし、東北夫人は、ついに、ダウンしてしまった。疲労が重なったためだろう。私は気がつかなかったが、吉祥寺夫人や長崎夫人が介抱する場面があったらしい。出発まで、東北夫人は、自分の部屋のベッドで寝ていることになった。
「みなさんに心配をかけてすみません。おわびのしるしに今晩の飲みものは、私にもたせてください。まだフランが残っていますから」
と、東北氏が言った。彼の態度は実に立派だった。好感のもてるものだった。吉祥寺氏も長崎氏も、持っている紙幣をテーブルの上に置いた。吉祥寺氏は、一番陽気な人がいなくて淋しいと言った。
「こんなに貰っちゃ悪いですね。じゃあ、葡萄酒を二本頼みましょう。本当に、ご迷惑をかけました。それから、山口さん、ボールペン、すみませんでした」
「なに?」
「ボラボラ島の港で、自転車のことで……」
「ああ、あれか」
「すみませんでした」
私は胸がつまった。なかなかヤルナアと思った。
「きみ、その夫婦愛だ。それでいこうじゃないか。おとうさんは、胸が一杯になって何も言えない」
「それを小説に書いちゃったりしてね」
と、吉祥寺氏が雑《ま》ぜっかえす。
「それが返本の山だったりしてね」
東北氏も笑ってきりかえす。
その夜の十一時五十九分。UTAフランス航空機は東京にむかって飛び立った。AコースBコースも加わって、日本人ばかりで満席になった。翌日の朝の六時半には成田空港に到着するはずである。
眠れるとは思われない。もう眠れなくてもいい。若妻たちは、白く脂の浮いた横顔を見せて、もう眠りはじめている。
ニューカレドニアのホテルでは、私はベッドに横になるにはなったのである。あれは変に丈の短いベッドだった。あれは日本製ではなかったのか。そんなことを考えながら目をとじた。
「あれは、フランス・ベッドではなかったろうか」
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郡上八幡《ぐじようはちまん》、山峡の憂鬱
[#地付き]●親切すぎる
この夏に郡上八幡へ行くことは、ずいぶんまえからきまっていた。去年のうちに予定していた。それは、私の尊敬する年長の友人に何度もすすめられていたからだった。
「いいところですよ。ぜひ一度は行くべきところです。歌がいい、情緒があって」
彼は、そんなふうに言った。その友人は民謡の好きな人であって、全国各地の民謡を採収するためにテープレコーダーを持って旅をするような人である。
私には敬愛する人の言葉は頭から信用してしまうようなところがある。だから、この夏は郡上八幡ときめてあったのである。
七月の半ばから九月の初めまで、毎日盆踊りがあるという。八月の十三日から十六日までの盂蘭盆会《うらぼんえ》は徹夜で踊るのである。十三日、十四日は愛宕《あたご》公園であるが、十五日と十六日は町中《まちなか》の本町通りで踊る。これはいいと思った。毎日踊り暮していようと思った。
パラオが来た。東北方面ほどではないにしても、旧盆のとき、列車の切符を買ったり、旅館の手配をするのは容易ではない。
「ウッウッウッ(と唾を呑みこんで)。なにしろ大変です。四人部屋へ泊っていただくようになるかもしれません」
「それは四人分の料金を払うということですか」
「そうです」
「それは困るなあ。予算からいって、ちょっと無理だよ。しかし、まあいいや。誰かを呼ぼう。助けてもらおう。相客は困るよ。なにしろ、ご承知のようなイビキだから」
「それから、いろいろ交渉しているんですが、いまのところ、旅館が四軒になります」
「そうすると、毎日引越しをするようなことになるね」
「そうなんです。いろいろ手を尽くしているんですが、どうもうまくいきません。有難いことに現地に谷沢さんという親切な方がおられまして、この方は『郡上』という郷土誌を発行していらっしゃるんですが、いろいろやってくださっているんです。ですから、もうちょっと待ってみてください。なるべくご希望にそえるように……」
「申しわけない」
私は、旅行に出たら一箇所を動かない、名所見物をしない、酒を飲む店も一軒にかぎってしまうという主義である。旅館や小料理屋の内儀と親しくなってしまうというほうが、何かと収穫が多いと信じこんでいる。しかし、お盆のときの郡上八幡は、一年前から旅館を予約する人がいるという。遅くとも半年前に申しこむのだそうだ。それくらい人気があり、踊りの愛好家が多いのである。郡上八幡へ行くのは去年から決まっていたのであるが、パラオが行動を開始したのは一カ月前ぐらいからである。
「それから、十五日と十六日は、お城のそばの積翠園にきめました。この旅館は山寄りで静かなところだそうです」
「パラオさん、ちょっと待ってくださいよ。私は踊りを見に行くんですよ。山のほうへ行ったって仕方がないじゃないですか」
「それはわかっています。でも、十五、十六は徹夜だそうです」
「だからね、それを見に行くんですよ。そういうリオのカーニバルみたいな馬鹿騒ぎを」
そのへんから何かを掴《つか》みたいと思っていたのは事実である。
「でも、やかましくって寝られないそうですよ」
パラオは、もっぱら私の体を案じてくれているのである。それはわかっている。それは有難い。しかし、私の狙いは、四日間も徹夜で踊るという、いわば、そういう奇妙かつ壮烈なものを取材するところにあった。齟齬《そご》をきたすというほどではないにしても、パラオと私の間には微妙な喰い違いがあった。体なんかどうでもいいとは思わないが、行くからには郡上踊りの芯《しん》なるものに触れてみたいという思いがあった。
思えば、これが躓《つまず》きの初めだった。引越しは苦にならない。絵を描くためには場所が変るほうが好都合だと言ってもいい。しかし、肝腎《かんじん》なものから遠くなるのは困る。いまにして考えるならば、パラオが、こういう善意の人ではなく、あの野郎、三味線《しやみせん》と笛と太鼓でもって、四日間眠らせないようにしてやろう、どうするか憶《おぼ》えていろ、というぐらいの悪意を抱いていてくれたほうが良かったのである。せめて、報告文を書くのはあなたです、他人様のことは知りません、取材に出かけるにはそれくらいの覚悟がなければ……というふうに、冷酷に突っ放してくれればよかったと思う。
「とにかく、町中《まちなか》、町中。特に十五日と十六日は……」
「ええ、やってはみますが……」
なんだか、パラオの言葉に力がない。やっぱり、宿探しは大変なことだったのだろう。
ある会合で、郡上八幡へ行けとすすめた友人に会った。
「十二日から行くことになったんです」
「おや、そうですか。私は、昨日郡上八幡から帰ってきたところです」
「どうでした?」
「いやあ、駄目、駄目。狭くって田舎臭いところで……」
これには驚いた。
「食べものはどうでした」
「材料はいいんですが、味つけが駄目です。やっぱり田舎ですねえ。何を食べても同じ味です」
「鮎《あゆ》ですか」
「鮎ばっかり」
「どこへお泊りになったんですか」
「備前屋です」
備前屋は、パラオが集中的に攻撃した旅館である。内儀の応対が実に親切であったという。一軒で七日も泊られては困るというときの旅館側の言いぶんは、食べものに変化がつけられないということである。レパートリーが少いのである。
「お内儀《かみ》さんの感じがとてもいいと聞いていますが」
「さあ、どうでしょうか。私は、どこへ行っても備前屋という名前の旅館に泊るんです」
友人は備前の生まれである。
友人の気持はよくわかる。自分が推薦した土地であるけれど、あまり期待されては困るということだろうか。私にも経験のあることである。しかし、なんだか不安になってきた。
パラオは交渉を重ねてくれたようであるが、結局は、四軒の旅館、十五、十六日は山の中腹の積翠園という第一案が動くことはなかった。私が、もっと駄々をこねればよかったのである。
今年の夏は悪い夏だ。そう思っている人が多いのではなかろうか。
だいたい冷夏とは何事ですか。人を馬鹿にしている。夏は暑いほうがいい。カッと照りつけてくれなくてはいけない。そうでないと健康に悪い。調子が狂っちゃう。
いつもだと旅行に出る前は、いくらか浮き浮きした感じになり、新幹線の指定された席に坐ったときの解放感はいいものなのであるが、今回はそうはならなかった。
気持がひどく落ちこんでいた。滅入《めい》っていた。その落ちこみを分析すると、第一に体力に自信が持てなくなった。第二に才能の限界が見えてしまったということになる。これは完全に鬱状態である。しかし、鬱状態であっても、私が鬱病にならないのは、自分の落ちこみの馬鹿馬鹿しさを承知しているからである。
体力は、たしかに、どうにもならないくらいに衰えているが、私よりも具合の悪い人は何人もいる。贅沢《ぜいたく》を言っちゃいけない。齢を取って体力が衰えるのは、これも自然のこととしなくてはならない。第二の才能であるが、私は自分の小説家としての才能にほとんど絶望しているけれど、才能が無いなんて言うのは不遜《ふそん》であり、あるいはキザである。誰にだって才能があるという言い方が出来るし、誰にも才能がないという考え方も成立する。ただ有るのは積み重ねだけである。たとえば富士山ばかりを描いている有名画家がいるとする。彼は自分に才能があると思っているだろうか。おそらくは否である。才能があると思っていれば、一枚の富士の絵を描いて、それで事足りるのである。駄目だと思うから、ぶらさがっているだけである。問題は、その積み重ねにあると思う。
[#地付き]●大失敗
わかっているけれど、私は落ちこんでいた。富士山に登れば落石に遭う。地下街を歩けばガス爆発に遭う。バスに乗ればガソリンをぶっかけられる。私の気持はそんなふうだった。何をしても駄目だと思ってしまう。これもまた、誰にでも経験のある思いだろう。いや、そうではない。ドスト氏は違う。
八月十二日。私たちは、十二時発ひかり二十五号に乗りこんでいた。パラオとトッカピンが東京駅にいた。例によってパラオに紙袋を手渡された。その中身は、罐《かん》ビール七罐、イナリ寿司、スポーツ新聞である。
「くれぐれもお気をつけになって……」
そう言って二人は出ていった。二人とも、その豊頬を寄せあって、新幹線の大きな窓から、こちらをのぞきこんでいる。よく似ているなあと思う。
私は頗《すこぶ》る機嫌が悪かったから、罐ビール七罐というのは、いきなり重いものを持たせてしまう悪意だと受けとった。イナリ寿司は、食堂車へ行く楽しみを奪わんとする企みである。ドスト氏は日本食堂のカレーライスの愛好者なのだ。ツマミは、日本ハム製のミニ・サラミだった。これは、私に歯痛を起こさせようとする魂胆ではあるまいか。
「ドスト氏よ。あなたは気持が落ちこんでしまうことがありますか」
「ありません」
その答はわかっていた。いつでも笑っている人である。それが有難い。
旅をするときは、テーマがなければならない。前回タヒチへ行ったときは、南の蒼《あお》い海を描くことだった。今回は何か。いろいろに考えてみる。
毎晩踊り狂う。鮎を食べる。渓谷を描く。いっそのこと禁酒にする。めちゃめちゃに飲む。私の考えは、だんだんに最後のものに近づいていった。危険であるが、体のことさえ考えなければ出来ることである。
新幹線は帰省客で混《こ》みあっていた。当然のことながら子供が多い。
二時間で名古屋に着いた。そこから岐阜《ぎふ》まで、列車で約二十分である。岐阜からはタクシーに乗った。ちょうど、高校野球の美濃加茂高校がゲームをやっている最中で、思ったより道が混雑していないのはそのせいかもしれない。ラジオをつけてもらうと美濃加茂がリードしていて勝てそうな形勢だった。およそ感激性のない運転手で、うんでもなければすんでもない。長距離の客を拾って、気持がうわずっていたのかもしれない。しかし汚いタクシーだった。どこをさわってもベトベトする。
四時に中島屋に着いた。町中《まちなか》の商人宿のような旅館である。休憩していると谷沢さんが来られた。どこかへ連れていってくださるというので、私は墨染の桜が見たいと言った。
「えっ? 墨染の桜? そんなのありましたかな」
「ありますよ。有名ですよ」
「どこにあるんですか」
「愛宕公園です」
私は観光ガイドブックの地図を示した。これが大失敗だった。すべては私の無学とオッチョコチョイのせいである。墨染の桜、これは大木であるに違いない。むろん、いまは葉桜である。桜を描くのはむずかしい。特に葉桜であって、ある種の情緒を描きだすのは至難のわざである。しかし、これに取り組むことにきめていた。ドスト氏も同意見だった。
谷沢さんの自動車に乗って愛宕公園へ行った。途中、仲間がいますからと言って谷沢さんが自動車をとめた。屈強な感じのする中年の人が乗りこんできた。高校教師の高田さんだった。
「墨染の桜? ああ知っていますよ。だけど、探さないとわからないような桜ですよ。古くて小さくて……」
なんだか変だなと思った。あの有名な桜を知らないのだろうか。ガイドブックにも掲載されているのに。
その桜は、愛宕神社の境内にあった。見栄えのしない老木だった。虚《うろ》になっていて、皮だけで立っていた。徳川家康が、八幡の城主に贈ったものであるという。古いことは古い。
「おかしいなあ。宇野千代さんが書いていたんだけれど」
そのとき私は自分の思い違いに気づいた。宇野さんが書いていたのは薄墨の桜だった。
「宇野先生がお書きになっているのは、これとは違います」
谷沢さんが間髪をいれず、笑いながら言った。
「そうです。薄墨の桜でしたっけ」
ドスト氏も誤りを悟ったようだ。
「薄墨の桜はどこにあるんでしたっけ」
「岐阜県本巣郡根尾村です」
高田先生が答えた。
「あれは、見ていて気持が悪くなるくらいに大きな樹です」
いきなり大恥をかいてしまった。恥をかくのは平気だけれど、明日からどうしよう。取り組むものがなくなってしまった。
愛宕公園の石段に、異様な男たちが、総理大臣の就任の記念写真の形で立っていた。こういうのは、私には一目でわかる。的屋《てきや》がショバ割りの相談をやっているのである。してみると、盆踊りに夜店がならぶのだろう。
「テキ屋はよその土地の人間です。この町には金が落ちないんです」
谷沢さんが言った。
「コーヒーのうまい店があったら教えてください」
「門ですね。門へ行きましょう」
それは、吉田川を渡った肴町《さかなまち》のあたりにあった。私は、この町はどこかに似ていると思った。地形はまるで違うのだけれど、感触が津和野や松本に似ている。城下町であると、その町の知識人が集まる喫茶店というものが必ずあるものだ。
平甚《ひらじん》の主人がそこにいた。郡上八幡を訪れる人は、みなこの平甚(そばや)に寄ると案内書に書いてあった。
色紙をもとめられた。
平甚が甚平を着る暑さかな
と書こうとしたが、初対面の人には、いかにも失礼である。
「甚平の語源はあなたですか」
「いえ違います。私は平野甚助ですが」
いやに甚平の似あう人である。
「あなたは何代目ですか」
「九代目です」
「創業何年ですか」
「ええと……」
平甚が頭のなかで計算をはじめた。
「三百年ではいけませんか」
「それは困りますね。ソバ屋が出来たのが三百年前ですから」
私は、久保田万太郎の真似で、
時雨《しぐ》るゝや平甚創業三百年
と書こうとしていたのである。このごろは、こればっかりだ。言葉数が五七五にあわないといけない。
「二百年でどうでしょうか」
私は、三百年のところを二百年に変えた。いい加減なものだ。
もう一枚。丸を描いて、そのうえに、
酒で禿《は》げたるあたま成覧
と書いた。
「お客さんで、やっぱり禿頭を描いた人がいます」
「滝沢修でしょう。あの人の禿頭は立派だ。歌舞伎の人が鬘下地《かつらしたじ》がいらないって羨《うらや》ましがっていた」
「その通りです。でも、ああいう名優より、民芸のなんとかっていう、コマーシャルに出る若い役者の色紙のほうをお客さんは喜ぶんですねえ」
「あのう、甚助さん。こんなところで遊んでいてお店のほうはいいんですか」
「店はもう終りです」
もうすぐ六時になる。
「夜は、やらないんですか」
「売りきれてしまうんです。お客は立って待っていますからね。職人がソバを打つ数はかぎられていますから……。ああ、明日、店へ来られるんなら十一時に来てください。お昼になると、もう行列になってますから」
民芸館のあるおもだか屋へ行った。主人の水野隆さんは詩人である。七時ちかくに中島屋へ帰った。
郡上八幡は水の町である。サントリー・ミネラルウォーターは、すなわち郡上の水である。いたるところに湧水《わきみず》がある。糖尿病患者である私は、いつでも水が飲みたいと思っている。まことに都合がいい。その水は、喉《のど》ごしのときにいい味がする。当りがやわらかい。
中島屋の食膳に、鮎の刺身、塩焼き、田楽(鮎の上に味噌)、フライがならんだ。食べ終ったころ、廊下に音があって、
「谷沢です」
という声が聞こえた。資料を持ってきてくださった。
大八へ案内してくださった。この店の造りがいい。解体した農家の材木を使っているのだろう。内儀が美人である。色が白くて、ふっくらとしている。がいして言うならば、郡上八幡には美人が多い。水が良いせいだろうか。こんどの収穫は、水と美人だった。
なぜ美人が多いかというと、盆休みで娘たちが帰ってきているからである。名古屋に働きに出ている娘が多いという。
また、地酒がいい。積翠、元文、母情である。東京では三千盛が有名であるが、土地の人は知らない人が多い。ドスト氏は母情の原酒を好んだ。
「この酒は、母親のオッパイを思いださせますね」
「まだオッパイの味を憶えているんですか」
ドスト氏の母上は九十歳である。
「母親のオッパイの饐《す》えたような」
「名前が、なんか凄《すご》いですね。怖いような。母情というのは」
大八には、高田先生、紙切虫の水野政雄さん(水野隆さんを隆ちゃん、この人をマアちゃんと呼んでいる)がいた。そこへ、多分、ここだろうと思ったと言いながら平甚が入ってきた。
肴は、ミタタキとアジメである。ミタタキは、ツグミを頭ごと叩いて味噌とあえたものである。アジメは、泥鰌《どじよう》のようで泥鰌ではないとしか言いようがない。もっとさっぱりしている。
「おい、お酒……」
高田先生が叫んだ。声の大きい人である。ずいぶん飲んだ。
[#地付き]●大失策
翌日は、十一時に平甚へ行った。黙っていると酒が出てきた。ソバ屋で酒を飲むのが好きだと言ったのだから仕方がない。その積翠が結構である。郡上八幡ではぬる目の燗《かん》のことをドンカンと言う。平甚の徳利には、ぬるいほうがうまいのだから文句を言うなという意味のことが焼きつけてある。私なんかもこれには賛成で、土地の人は、それだけ地酒に自信を持っているのだろう。しかし、高田先生に、おいドンカンと叫ばれると、坐っていても一尺ぐらい飛びあがりそうになる。
平甚のソバは、東京の更科《さらしな》ふうで白いと聞いていたが、出てきたのは、田舎ふうの黒いソバっぽいソバであった。私はこれが苦手である。つまりソバ好きではないのである。東京の麻布で育ったので、更科の白いやわらかな御前ソバに馴染《なじ》んでしまったせいであるかもしれない。黒いソバが駄目というのではないが、こうなると、酒を飲んだほうがいい。
ソバ粉だけのソバを珍重する人が多いけれど、それは果して本当にそうなのか。私は、浅草並木の藪《やぶ》あたりのソバがちょうどいい。
谷沢さんとマアちゃんがあらわれる。いや、十一時に平甚という約束をしていたような気もする。
谷沢呉服店は、平甚の、ほんネキにある。ここにも具合の悪いことがあった。「たにざわ」は高級店であり、郡上|紬《つむぎ》の店である。
家を出るときに、
「郡上紬を買ってきちゃ駄目よ。絶対に駄目よ」
と、女房が言った。これは、前回の黒真珠と同じことかと思われるかもしれないが、そうではない。私には女房の言うことがよくわかる。恥ずかしながら、世間で言うところの箪笥《たんす》のコヤシというのが何枚か出来てしまっている。仕立てたけれど袖を通していない、着る機会がないという着物があるのである。そう沢山はないけれど。こういうことは、無駄でもあるし、考えると鬱陶しくなるという種類に属する。ついふらふらと買ってしまったものもあるし、義理で押しつけられた着物もある。
「もう、春夏秋冬、一応のものは持っているんですからね。何もいらないのよ。絶対に買っちゃ駄目よ」
これは警告というべきものだろう。女房の考え方は正しいし健全である。これは喜ばしいことである。
しかしながら、旅に出るときの楽しみのひとつは、こんな土産物を買って帰ったら、女房が飛びあがって天井に頭をぶつけるぐらいに喜ぶのではなかろうかと期待することにあるのではなかろうか。私のこの考え方も健全であると思う。
そう思って無理をして買って帰ったことがある。しかし、女房が喜ぶということはなかった。むしろ、叱られることのほうが多かった。こんな地味なものは着られない。嫌いな柄だ。東京で買ったほうが安い。思いかえすと涙の連続であったような気がする。こちらは遊びたいのを我慢して買って帰ったのである。しまいには、マゾヒスティックな気分になって、どうせ喜ぶことはない、叱られるにきまっている、しかし買わずにはいられない、そんな気分になっていった。箪笥のコヤシがふえたのは、そういうことからでもあった。
郡上紬は、見たところ、もっと高いものがあるのかもしれないが、一反が二十万円から三十万円の間という値段だった。とてもそれを買うだけの余裕はないのであるが、どうしても手が届かないという額ではない。サラリーマンが、ボーナスを貰ったときに、ちょっと無理をして女房の機嫌をとるというぐらいの金額であるのではなかろうか。谷沢さんに頼めば、そのくらいは貸してもらえると思われた。それに、女房が、絶対に買ってきちゃ駄目と強調すると、かえってその逆を読むようになる。従って、谷沢呉服店に寄るのは怖いような気になる。女房は、実は、私の見立てを信用していないだけなのではあるまいか。女房は大きな柄のものを好む。私は細かい無地にちかいもののほうが好きだ。女房の言うのは、黒っぽい着物で白の献上の帯なんかをキュッとしめて似あうのは若いうちのことだということになる。従って、私がその着物を着せたいと思い描いているのは、若くって細身の別の女だということになってくる。痛くもない腹を探られるとはこのことか。罪もないのに叱られるのは厭《いや》だ。
谷沢さんの店へ寄って、ついふらふらと、ということにならないという保証はない。銀座で民芸専門の呉服店を経営している白洲《しらす》正子さんが、郡上紬の宗広力三さんに出会う話は感動的である。そんな話を思いだすと、ついふらふらの可能性が濃くなってくる。だから怖い。それに、こんなに世話になって、こんなに近いところにお店があるのに、ご挨拶に出ないという法はない。谷沢さんに会うと、どうしても、つい、顔をそらすような感じになる。失敬な奴だと思われたことだろう。
しかしながら、これを買って帰ったら女房が飛びあがって喜ぶということが、もう無くなってしまったという思いは、それも私を鬱陶しくさせていることのひとつだった。私は一時、トンボ玉に凝っていた。骨董《こつとう》屋へ入ると、必ず、トンボ玉はないか、ガラス玉はないかとたずねたものである。女房は、その玉を集めてネックレスを造った。こっちのほうも、もう要らないと言う。完封されてしまっているような気がする。
郡上八幡には湖があると聞いてきた。御《み》母衣《ぼろ》ダムではないですかと言うと、ドスト氏は、そうではないと言った。それで二人ともパステルを持ってきたのである。
「湖はありませんか」
と、マアちゃんに言った。
「湖?」
「ええ。じめじめぬるぬるしていて毛の生えているところが好きなんです」
「オンダニかな」
それで、ガイドブックに出ている鬼谷湖をオンダニと読むことがわかった。
マアちゃんが自動車を出してくれた。愛宕公園を過ぎて、そこから山へ入っていった。飛騨《ひだ》高山へ通ずる道である。「木曾路はすべて山の中」とはよく言ったもので、たちまち高いところへ連れていかれる。
「馴れていますからね。こういう道は平気なんです。私は高速道路のほうが怖い」
マアちゃんの言うように、細い急な坂道が続く。十分ほど走ると、郡上八幡は谷底の町になってしまった。
「郡上八幡で花火をあげますとね、このへんの人は、花火がさがると言いますね」
まさにそうだと思った。線香花火にしか見えないだろう。そのへんから歩いて通学する生徒がいたという。私には信じられないような話だ。自動車に乗っていても息がきれるような気がする。
「その子はゴハンを七杯食べましたね。凄い体になってね。自然に鍛えられるんですね。いまでは、どこでもスクールバスが迎えにきますから」
マアちゃんは、郡上八幡は魚の形をしている町だと言った。お城から見下すと、本当に魚の形に見えますとも言った。彼は、童画を描く人である。また、紙と鋏《はさみ》があると、どこであっても、一日中遊んでいられるという人物である。
マアちゃんが自動車をとめて、鍬《くわ》をもった老人に、オンダニはどこですかと訊いた。老人は地面を指さして、オンダニはここだと言った。もう鬼谷の集落に入っていた。マアちゃんは、そうではなくて池はどこにあるか教えてくださいと言った。老人が前方を指さして、橋を渡って左にまがればいいと言った。私は、老人の手のオヤ指がないことに気づいた。若いときに製材所で働いていたのだろう。鬼谷には、びっくりするような大きな家がある。山持ちの家だろう。それにしても、いくら金があっても、こんな山の中で暮す気分はどんなものなのだろうかと考えた。
ガイドブックによると、鬼谷湖は「神秘的な雰囲気《ふんいき》をもち、湖畔林のたたずまいは童話の世界を歩む心地である。湖岸には売店・休憩所・バンガロー村がある」となっているが、売店などはなく、人っ子一人いないところで、バンガロー村はあるにはあったが、娘さんはもとより、若い男でも怖くて住めないような怖しいところだった。私は、シーズン中であるので、若い男女が群れていると思っていたが、むろん、バンガロー村にも誰もいない。童話の世界というよりは、横溝正史《よこみぞせいし》の世界だと思われた。絵にならないということはないのだけれど、私はもっと明るい湖を予想していたので、気落ちしてしまった。蛇はもとより猪《いのしし》も出てきそうに思われた。それに何だか変に疲れている。申しわけない話だけれど、すぐに引返してもらうことにした。
それから町中《まちなか》を歩いた。ほとんどすべて歩き尽くしたと言ってもいいと思う。目の前を今夜のお菜《かず》が泳いでいるという言い方に接することがあるが、郡上八幡は本当にそういう町だ。町の中心を流れる吉田川を宮ヶ瀬橋から見おろすと、鮎や鯉やハヤが群れているのが鮮やかに見える。これは宮ヶ瀬橋にかぎらず、どこへ行ってもそうなのだ。ただし、この今夜のお菜が簡単に手に入るかというと、そうはいかない。釣人は多いが、実際に釣れるところを見るチャンスは限られることになる。
「昨日、長良《ながら》川で釣りをやったんですが」
「ほう、釣れましたか」
「朝から晩までで十三匹です」
マアちゃんは器用そうに見えるが、それでもそんなものだ。
「笠をかぶって、頬かぶりをして、腰までの長靴をはいてやっているんですが、それでも誰かが見ているもんで、昨日は釣れたかねなんて言われちゃうんです。ちょっとした動作とか腰つきなんかでわかっちゃうんですね。せまい町ですから。町で絵を描いているでしょう。すると話しかけられるんですね。むこうは話しかけるのは一人だと思っているんでしょうが、誰でも声をかけてくるんですね。どこへ発表するんだとかなんとか。こっちは皆を相手にしなきゃならない。それで、町中《まちなか》を描きたいと思うことはあるんですが、とても無理なんですね」
それも鬱陶しいことだろう。山の中の、小さな、古い由緒のある町に住みつくということの意味が少し見えてきた。役場の裏の古い町並みに疎水が流れていて、そこは描けそうに思われた。ドスト氏は、小駄良《こだら》川(吉田川に合して、長良川にそそぐ)の上流の大乗寺のあたりの民家が気に入ったようだ。
八幡城に登った。風が涼しい。山の冷気と川風でもって、都会の風とは異るものを感ずる。
ここから見ると、郡上八幡は本当に魚の形に見える。吉田川が長良川に合する郡上大橋から郡上八幡駅までが尾であって、役場附近の白い大きな建物が目であるという。
「そう見えませんか」
「見えますよ」
「目はどこにしてもいいんですが、あそこが鰓《えら》で、あのへんが背鰭《せびれ》でもって……」
川魚の町が魚の形をしていることは、考えようによっては、これも鬱陶しい。マアちゃんは、魚の形であることを証明するためにここから、一軒一軒を描いていったという。
「あそこに大きなお寺があるでしょう(願蓮寺か)。まずあれを描いて役場とか工場を描いて、その間を埋めていったんです」
私も描くとすればそうするだろうと思った。
「どうなりましたか」
「家が大きくなりましてね。埋まらなくなっちまったんです」
童画家のこういうエピソードを聞くのは嬉しい。だからこそ彼は童画家なのだという気がする。
宮ヶ瀬橋のたもとの骨董屋の前で、大きな男に肩を叩かれ、大声で挨拶された。大垣の骨董屋の馬淵《まぶち》さんだった。来るのはわかっていたが、いきなりだったので驚いた。
「ない、ない。良いものはなんにもない」
大声でそんなことを言われたんでは営業妨害になる。
馬淵さんは一庵という茶室を建てた。その文字を私が書き、ドスト氏が彫って扁額《へんがく》をこしらえた。その他に歌を書いてくれと頼まれていた。掛軸にするのだという。こういうことは照れ臭くもあり、気合が乗らないと書けないので、延ばし延ばしにしていた。郡上八幡に行くことがきまっていたので、そこで私がとっつかまることになってしまった。そのためにドスト氏は、筆、墨、硯《すずり》に大きな紙を用意してきた。
宿に帰って食事。例によって鮎づくしに鯉の洗い。
いよいよ、踊りを見に行くことになった。この日は愛宕公園である。町の人は、公園で踊るのは面白くない、埃《ほこり》っぽい、やっぱり町中《まちなか》で踊るのでなければ郡上踊りとは言えないと誰もが言う。また、徹夜で踊ると書いてきたが、それは昔の話であって、いまは午前四時までである。徹夜で踊って、宮ヶ瀬橋あたりで夜が明けてくるのがいいというのも誰もが言っていた。私もそうだと思う。踊り抜いたという満足感、連帯感があるだろう。快い疲労があるだろう。そこへ、涼しいというより寒いくらいの川風が吹く。午前六時ぐらいが一番寒いのである。それはいいにきまっている。
ぽっちゃり型で色白の美しい仲居が、こんなことを言った。
「郡上踊りで好きな人ができることが多いんです。私の友達で結婚した人は、みんなそれです。都会から来た男の人に踊りを教えるでしょう。そうすると、氷水でも飲みましょうかっていうことになるんですよ」
「ははあ。氷水でも飲みましょうって」
「そうそう。それで明日また会いましょうって。そのうち、家へ遊びにいらっしゃいって。そうなるんですよ。そんなもんじゃないですか」
「はあ。男女の仲ってそんなもんですか」
郡上踊りが本格的にはじまるのは八時半である。盆踊りとしては遅いスタートである。それを知らないから、七時に着いてしまって、待っているうちに虫に喰われた。ドスト氏はそれを絵に描くという。手許《てもと》さえ明るければ描けるという。踊っている人を百五十人描くとして、一人十円として、出来あがったら千五百円で売ってくださいと言ったら諾《うん》とは言わなかった。
「百五十人なんてもんじゃないですよ」
「全部描くんですか。そうですねえ、一目六百人ですか」
「いや、千人以上でしょう」
それくらいに人が集まっていた。中央に櫓《やぐら》が出来ている。
郡上踊りで、もっとも有名な「かわさき」が流れてきた。
※[#歌記号]郡上のナー
八幡出ていくときは
雨も降らぬに袖しぼる
小雨が降っている。埃は立たないが、すでに水たまりができていて、踊りの輪は、そこを避けるようにしている。団体で来て、自分たちだけで小さな輪をつくっている人たちもいる。
この歌いだしは、とてもいい。軽くっていいと思う。しかし、いきなり別れの歌になっているのはどういうわけだろうか。聞きようによっては、早く出ていけという感じに受けとられるのである。
ところで、私は、この「郡上のナー」という歌いだしを聞いたときに、オーバーに言えば冷水を浴びせられたように感じた。
野球でトリプル・エラーという失策がある。センター前にライナー性の打球が飛ぶ。中堅手が突っ込んで後逸する。球は塀《へい》に当ってはねかえってくる。中堅手はそれをトンネルする。それを見た打者走者は、ランニング・ホームランにすべく本塁に突入する。中堅手は、それを刺すべく捕手に送球するが、これが大暴投。こういうのが一人で三失策、すなわちトリプル・エラーであるが、私の気持は、まさに、この中堅手のものだった。
よく考えてみると、いや、考えるまでもなく、私は民謡というものが大嫌いなのである。そのことを思いだした。どうか郡上八幡の人は気を悪くしないでいただきたい。ひとえに私の失策なのだから。世の中には、クラシックの好きな人もいればポピュラーの好きな人もいる。従って、私と同じように民謡が嫌いな人もいるに違いない。私の場合、民謡のどこが嫌いかというと、押しつけがましいところが嫌いだ。阿波踊りにしてもエライヤッチャエライヤッチャということがまずわからない。踊らにゃ損々というのが、いかにも押しつけがましい(そう思う人はいませんか)。津軽じょんがら節でも、どうだ驚いたか、恐れいったか、これでもかというメロディーではあるまいか。あの三味線弾きは、どうもそういう顔つきをしている。民謡の歌手というのは、どうですこの声、凄いでしょうという歌い方をする。民謡というと、情緒|纏綿《てんめん》というふうに受けとられがちであるが、現実は、三味線の曲弾きに近いものが、つまり、客に拍手を強要する感じのものが多いのではあるまいか。これは、もとより善悪の話ではなくて、好みの問題である。
私は、敬愛する民謡の好きな友人に、郡上八幡へ行ってらっしゃい、ぜひ行きなさいと言われていた。それが、ずっと先入観となって頭に残っていた。私は、よく、お前には待テシバシがないと言われる。友人の生き方を尊敬するのと、その人の趣味とは別のことに属する。そのことをすっかり忘れていた。
第二の失策は、私が踊りなんかを踊れる人間ではないというのを失念していたことである。音感が悪い。無器用である。まあ、そういう人は多いだろうし、一種の喰わず嫌いということもあるだろう。しかし、私の場合は、妹が二人とも日本舞踊の師匠であり、これはお嬢さん芸ではなくて、花柳《はなやぎ》の家元の内弟子だったのである。そういう家庭に育ったのだから、私でも、ふざけ半分に「松の緑」なんかを習ったことがあるのだが、これがまるで駄目なのだ。一歩さがって首を振ってなどということがすでに出来ない。体が動かない。
盆踊りがはじまったところで、それを思いだしたのだから、どうかしている。盆踊りなんて気軽に手足を動かせばいいのだと言う人がいる。それはその通りである。しかし、その、一線を越えることがむずかしい。なまじ変な家に育ったことも災いしている。そもそも、私の性情は盆踊りには不向きにできている。ではドスト氏はどうかというと、これも徹底的にダメの人であるのだ。この際は相棒もわるかった。
「気が滅入《めい》るなあ。どうしてなんでしょうか。みんな浮かれて騒いでいるのに」
「お盆というのは宗教的なものです。ですから決して陽気なもんじゃないんです」
郡上踊りの歌は、鼻につまるような、よだれをためて歌っているような、どこか引《ひ》き摺《ず》るような感じで延々と単調なメロディーでもって続くのである。厭だと思ったら、どうにもならない。郡上八幡に嫁にきた女で、姑《しゆうとめ》と仲が悪く、夫ともうまくいっていない人がいるかもしれない。その嫁は民謡が嫌いで踊りも上手ではないということも考えられる。するとどうなるだろうか。……私の考えは、そんなふうに、どんどん落ちこんでゆく。だんだんに苦情八万になってゆく。
第三の失策は、私は食物の好き嫌いはないほうの男であるのだが、川魚はあまり好きなほうではないということである。特に鮎《あゆ》は、多くの人が珍重するほどには美味ではないと思っている。こういうことは育った環境に影響される。川で育った人は川魚を賞味するだろう。私の好きなのは近海魚である。アジ、イワシ、サバ、コハダといったものが好物である。私の母は絶対に川魚を食べなかった。食べないばかりでなく、川魚にふれた箸《はし》は捨ててしまうほどに嫌っていた。
そんなことは最初からわかっていたのである。私は鮎を食べる。うまいと思って食べたこともある。しかし旅館で出る鮎の塩焼きは冷たく固くなっているのである。これは、もう、食べろと言うほうが無理だと思われる。
門へ行ってコーヒーを飲む。私は一日に一杯は飲まないと気分が悪くなるほうの男であるが、ドスト氏はこれが大嫌いである。ずいぶん迷惑をかけてしまっている。
門の女主人は踊りの好きな人(ここでは踊り助兵衛という)であるが、こういう人は宵のうちは踊らないで、深夜とか朝方ちかくに出かけてゆくのである。おそらく、その頃に名手が集まるのだろう。
郡上八幡から嫁を貰うと、嫁のほかに別荘を一軒貰うようなもんだと言われている。盆で帰ってくると婿さんは大事にされて御馳走が出る。冬はスキー場がある。
「ういろう二本で鰻《うなぎ》を食べて帰られちゃかなわないけどねえ」
苦情ついでに、もうひとつ言うと、私は、民芸は好きだけれど民芸調を好まない。郡上八幡は、町全体が民芸調になってゆくようなおそれがある。行ったことはないが、飛騨高山がそうだという。
旅館で寝ていると、朝方になって馬鹿に騒がしい。誰もが酔っていて声が大きい。女の声もする。踊りに行った連中が帰ってきたのである。そんなふうにすれば楽しかったのだろうけれど。
[#地付き]●地鳴りのように
翌日は、吉田川に面した三富久旅館に引越した。馬淵さんと一緒に骨董屋へ行って、お盆を買った。こういう人がいると心強い。郡上八幡の骨董屋の値段は京都あたりの半値以下、三分の一ぐらいに思われた。
馬淵さんは、まず名刺を出して同業者であることを示し、主人の坐る座敷へあがりこんでしまう。こんなふうにするものかと思ったが、素人に出来ることではない。
それで、かりに、私が一万三千五百円の買いものをしたとすると、馬淵さんの顔で千円ぐらい負けてもらうのかと思っていると、馬淵さんは、
「一万三千五百円だね」
と言って、さあどうするという感じで主人を睨《にら》むのである。すると、驚いたことに、骨董屋の主人は、
「い、一万円です」
と言ってしまうのである。どうも、仲間同士は二割引という黙約のようなものがあるようだ。お盆を五枚、丼《どんぶり》を一箇、片口を一箇買ってしまった。
「お盆に来たからお盆を買うんですか」
とドスト氏に言われたが、踊らないのだから何か買いものでもしないとおさまりがつかない気持であったのは確かだ。
雨が降っている。吉田川の向いの食堂から役場を描きだしたのであるが、自分で思ったよりも役場の建物が大きくて、収まりが悪く、どうにも気が乗らない。そこで、ドスト氏が描いている大乗寺のほうへ行ってみた。
ドスト氏は、眉を寄せて、おそろしく難しい顔で写生している。
橋の向うに、くずれ落ちそうな古い民家がある。その家の主人が出てきて、ドスト氏に話しかけた。民家を描くときは、どうしても、その古さとか、みすぼらしさを強調するような按配《あんばい》になってしまう。狙いは古さにあるのだ。ちょうど、くずれ落ちそうな土の壁を描きこんでいるときに話しかけられたので、ドスト氏は困ってしまった。また、その家の主人というのが、朝、旅館の前で投網を打っていた漁師であることもわかった。そんなふうに郡上八幡は狭いのである。
夕食の前に、トッカピンとパラオが来た。朝の九時半に出たというのだから、東名高速は混《こ》んでいたのだろう。トッカピンの自動車は、前の運転席の隣に坐った人は、扉をおさえていないといけない。そこは半ドアにしかならないのである。それでもって百六、七十キロは出す人であるので、パラオが憔悴《しようすい》しているのは無理もない。
「東名を走っているときに、ちょうど習志野高校と東北高校が試合をやっていたんですよ。ご承知のようにボロ負けですよね。なんだかみっともなくてね。人が習志野ナンバーを見ているような気がして」
「そういうことってありますね」
「必死になってドアを内側に引っぱっているでしょう。それで、あの自動車、冷房がないんですよ。暑さは暑し、力はいるし、恥ずかしいし、いやはやどうも、死ぬ思いでした」
パラオは腑《ふ》に落ちぬという顔で室内を見廻した。
「ここは八人部屋だって聞いていたんですが、なんだ、これは八畳じゃないか」
「いや、パラオさん、そうじゃない。この部屋に八人寝かせるんですよ。修学旅行みたいにね。踊りだけを楽しみにしている人は、それでいいんですよ」
パラオは、入口のところの二畳に自分の布団を持っていった。
「イビキがひどいですから、私はここで」
「靴脱ぎのほうを頭にしないでくださいよ。便所へ行くときに蹴《け》とばすといけないから」
「ええ、わかっています」
パラオは、掃きだし口になっている障子をあけた。
「こりゃ涼しくっていいや」
彼は、廊下を通る仲居の股倉《またぐら》を見あげる形になって寝た。彼のイビキは、体全体が楽器になっている態《てい》の痛快なものだった。
私は体が痒《かゆ》くて仕方がない。肩のあたり、蚊に喰われたのと違う脹《ふく》れ方をしている。
「ダニじゃないかな」
「農家の人が来ると虫を持ってきちゃうことがあるから。ノミじゃあんめえかな」
と、トッカピンが言った。体が痒いのも、私を不機嫌にしていることのひとつである。
「ここは美濃ですからノミじゃありません」
ドスト氏の発想は凡人では理解がゆかない。トッカピンが向うむきになった。巨大な臀部《でんぶ》がむきだしになる。そうやって、考えこんでいる伊勢エビのお化けのような形で彼は眠りに落ちた。
馬淵さんが帰り、残った四人で大八へ行った。トッカピンとパラオに、ミタタキとアジメを食べてもらわないといけない。それに、トッカピンは、鮎雑炊を食べたいと言った。
「この前に来たときに喰わなかったから」
ビールを飲んだ。十五日になっていて、お盆の最中だから、若い男女で混みあっている。私たちはカウンターで飲んでいたのであるが、うしろの座敷に、若い女の二人づれがあがってきた。彼女たちは鮎定食を注文した。
「フルコースでいきましょうよ」
一人の女が叫んだ。刺身、塩焼き、田楽、フライ、鮎雑炊とメニューに書いてある。私は、とうてい、背後を振りかえる気にはなれなかった。
「お姐《ねえ》さん、誰かに似ていますね」
パラオが若いお内儀さんに言った。この人は典型的な郡上美人である。パラオが変なことを言いだすのではないかと思って彼のほうを見たが、まだ酔ってはいないようだ。
「さっきから、誰かに似ていると思っていたんだけれど、ああ、そうだ、竹下さん、竹下景子に似ている」
内儀の顔が赤くなり、私はほっとした。これはパラオとしては上出来である。言い得て妙だと思った。
名古屋の女性は、それが非常にうまくいった場合のことであるが、竹下景子の顔になる。郡上の女性は、それがふっくらとしてきて、悪く言えばずんぐりむっくり、良く言えばふっくらとして安定がいいということになる。名古屋美人は竹下景子だと言うと、わかる人は、ああ、わかったわかったということになると思うが、なんとなく、感じがセコイのである。大阪の女性のエゲツナイという感じとも違う。竹下景子の顔は、私からすると、絶えず計算している顔ということになる。しっかり者と言ったほうがいいだろうか。だから荒船《あらふね》清十郎が伜《せがれ》の嫁にほしいと言ったのである。間違いがない。たとえば、どんな女優を持ってきてもいいが、どんな女優でも、どこか抜けているところがあるものである。竹下さんにはそれがない。隙がない。パラオの直感はすばらしいと思った。郡上八幡の女性がセコイかどうか知らないが、どこかセコイ感じがあって、それが眉根のあたりにあらわれているように思う。
その日は町中《まちなか》の踊りを見た。東西南北から中心地である宮ヶ瀬橋のあたりをめざして、踊りながら集まってくる。美人が多い。そのあたりを歩いていて、どうかして若い娘と体が触れたりして、氷水でもどうですかと言われることにならないかと思っていたのであるが、ぶつかってくるのは婆さんばかりである。尻でもって突きとばされそうになる。娘たちは、鮎のように、すらっと体をかわす。まことにセコイものである。そこから積翠園まで歩いて帰った。これは登って帰ったというほうが正確で、八幡城のある城山公園の中腹にあり、私は完全にへたばってしまった。
盆の十六日。
この日は踊りを見に行かなかった。こんなことでは取材の意味がないと思うのだが、帰りのことを思うと、体が動かない。
この日は早く床についたが眠れない。郡上踊りの歌が、山の下から、地虫の鳴き声のように湧《わ》きあがってくる。窓をあけると、手拍子がさざ波が寄せるように聞こえてくる。
とうとう何もしなかったと思う。何もしないのは疲れるんですよとドスト氏が言ったが、その通りだった。私は状態がわるかった。条件もわるかった。大八かすぎ本(山菜料理の店)で飲みあかすのであれば、もう少し収穫があったのではないかと思う。なまじ体を労《いたわ》ろうとする心があったのがいけない。そんなことを考えたら何もできない。
私には言わなくてもいいことを言ってしまうという悪癖もしくは幼児性があるが、この度もそれをやってしまった。私は、谷沢さんに、この町を出ていきたいと思うことがありませんかと言ってしまったのである。
「思ったことはあります。若いときは映画監督か新聞記者になりたいと思っていましたから。……でも、いまは違います。いまは、そんなことは思いません」
谷沢さんの答は私を充分に満足させた。そうして、私にそんな質問をさせたのは、郡上八幡という町に、それだけ濃密なものがあったからだということになりはしないだろうか。
決して排他的なのではない。酒はうまいし姐ちゃんはきれいだ。水が良いというのが一番の御馳走である。町の人たちは谷沢さんをはじめ皆親切である。私は、しかし、そこに何か説明の困難な濃密なものがあって、その濃密なものにアテラレタのだと思っている。
不思議なことに、私は、いま、祭ではないときに、たとえば雪の降り積むような日に、もう一度、郡上八幡を訪れてみたいという気になっている。いったい、これは何故《なぜ》だろう。
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酒田、鶴岡、冬支度
[#地付き]●上野発の昼列車
例によってと言うべきか、上野駅に二時間も早く着いてしまった。十一月二十四日の月曜日、前日の日曜日が勤労感謝の日の祭日で、この日が振り替え休日になっていて、道路が空いていたので、そういうことになってしまった。月曜日で何もない日であるのに休日になっていることをドスト氏に説明するのが厄介だった。
「そうすると、今日が勤労感謝の日なんですか。じゃあ、私の日だ」
「そうじゃないんです。勤労感謝の日は昨日です」
「だって昨日は日曜日でしょう」
「そうです。日曜日と祭日がダブると、月曜日が休日になるんです」
「なんだか変ですね」
「変でも仕方がない。これは田中内閣の遺産です。人気とりです」
「今日が勤労感謝の日だと考えてもいいわけですか」
「それは先生の勝手です」
「じゃあ勤労感謝の日だ。私の日だ。こういう日は朝から飲まなくてはいけない」
「毎日飲んでいるくせに」
上野駅附近は勝手が悪い。知っている店がない。ろくな喫茶店もない。そこで、いつも立ち寄る構内食堂へ行った。どうという特徴のない店であるが、ギネスがあることを知っている。私はギネスはビールの傑作だと思っている。ビールだけでなく、飲みものとして酒として傑作だと思っている。吉田健一先生は、亡くなる日もギネスをお飲みになったそうだ。私たちは酒田へ行くのであるが、酒田は吉田先生の愛された土地である。吉田先生は酒のうまいところ、肴《さかな》のうまいところを求めて酒田から新潟へよく旅をされたという。
上野駅の構内食堂は、さあ、何と言うか、すでにして東北だという感じがある。変にわびしいのである。ねんねこ半纏《ばんてん》で赤ん坊を負った女性がいる。そのねんねこ半纏が新式で新品であるのが妙にわびしい。
ドスト氏がギネスを二本、自分のためにカレーライス、私のためにポテトチップスの食券を買ってきてくれた。
ベレー帽をかぶった老人がゆっくりと入ってきて、あたりを見廻して、何をするでもなく、また、悠然と出ていった。
「どういう人なんでしょうか、あれは」
「さあ」
「何をしているんでしょうか」
「さあ、わかりませんが、山形県の人はベレー帽を好むようですね」
スリッパをはいて歩いている学生がいる。青森まで行くのだろう。電車のなかではスリッパのほうが疲れないと聞いてデパートで買ってきたのだろう。穿《は》き味を試しているところかもしれない。
ベレー帽の老人が戻ってきて、こんどはまっすぐに食券売場へ向った。ルネ・クレールの映画を見ているような気がする。ここはパリだと思えばいい。
「法螺貝《ほらがい》を持ってきましたか」
ドスト氏が羽黒山へ登りたいと言いだすかと思って質問した。
「持ってきませんでした。でも、大法螺なら吹けます」
私たちはゆっくりとギネスを飲んだ。十一時十九分、上野駅発、いなほ三号青森行に乗るのである。十一時になる前に食堂を出た。構内でウイスキイを買おうと思ったが、パラオが持ってくるかもしれない。
「やあ、やあ、やあ」
ホームに入ると、ピンク色の頬をふくらませたパラオが駈けよってきた。私は自然に笑ってしまう。パラオに会っただけで愉快になる。パラオは珍しく酒類を持ってこなかった。
「おい、追いかけてくるなよ」
そう言って私は売店へ駈けていった。そうでないと俊敏なるパラオに金を払われるおそれがある。そうやってウイスキイを買った。
パラオは、いつでも数種類のスポーツ新聞を持っている。この日も例外ではなかった。
彼は競馬の達人である。いや、馬券の名人、天才である。競馬では必ず儲《もう》けますと豪語していたが、この秋の府中の競馬で、それが嘘ではないことをイヤというほど知らされた。二人で三度行って、三度ともパラオは大勝した。どのときも納得のゆく買い方だった。知識があって度胸がある。私が五百円買って一万三千五百円の配当を得るときに、彼は同じ馬券を一万円買っている。すなわち配当は二十七万円である。これには驚いた。しかも、いやあ失敗しました、二万円買うべきでしたと反省したりしている。彼が数種類のスポーツ新聞を持っていることが、やっとわかった。勉強、勉強、勉強、勉強のみ奇蹟《きせき》を生む≠ニ武者小路実篤先生も言っておられるではないか。
「人間、何かひとつぐらいは取得があるもんです」
と、ドスト氏は言うのであるが。
「調べたんですが、酒田近辺にはローカル競馬はないそうです。ウッウッウッ。残念ですが。では、道中、くれぐれもお気をつけになって。悪いものを召しあがりませんように。私は二十六日の夕方にうかがいます」
私たちは車中からパラオに最敬礼をして、いなほ三号は、ゆっくりと動きだした。
ねんねこ半纏もスリッパの学生も同じ車輛《しやりよう》にいた。動きだすと同時にトレイニングパンツに穿きかえる中年の男がいる。大いにリラックスしようとしているのだろう。たしかにトレイニングパンツのほうが楽だと思う。しかし、穿きかえるためには、いったんズボンを脱がなくてはならない。ズボンの下に真《ま》っ新《さら》な白の股引《ももひき》を穿いていた。まさか、それを誇示するつもりではなかったのだろうが、私は、呆気《あつけ》にとられた。こういうあたりが新幹線とは大いに違う。彼は、あたりを見廻して悠々と穿きかえた。焦茶のストライプの入った、なかなかに小粋《こいき》なトレイニングパンツだった。
私はすぐにウイスキイになる。食欲がない。私は、昨日、十一月二十三日の日曜日のことを思いだしていた。
お向いに住んでいるイマちゃんの一人娘の仲人を頼まれた。青梅《おうめ》の料亭で、その結納が行われたのが昨日である。
「おめでとうございます。本日はお日柄もよろしいので結納の品を持ってまいりました。幾久しくお納めください」
と言うのであるが、ずっと天候が悪く、雨でも降ったらどうしようかと思っていた。さいわい、私が結納の品を渡す頃に薄陽が射してきた。はじめに新郎に渡す。次に新婦に渡す。これは同じものであって、若い二人がデパートで買ってきたものである。なんだかおかしな感じがする。
それから料理になり昼酒になった。私は結婚式が好きだ。みんなニコニコしているのがいい。結納も同じことだ。ついつい大酒になる。仲人としては差された盃《さかずき》は受けなければならない。新郎の両親、新婦の両親、それに新郎新婦、やすむ間がない。こっちは笑って盃を飲みほすことになる。いい加減、酔っぱらってしまった。
家へ帰って少し寝た。原稿を書かなければならない。頭が痛くて、とても書けない。深夜になって、勇気をふるいおこして週刊誌の一回分を書いた。それから眠るためにウイスキイを飲んだ。そうやって出てきたのである。
ドスト氏は眠っている。高崎を過ぎ水上を過ぎた。
「トンネルを出ると雪ですよ」
ぱっちりと眼を開いたドスト氏がそう言い、私もそう思ったが、トンネルの向うは寒そうな風が吹いているだけだった。
食堂車へ行った。上越線の食堂はオデンにかぎるのである。オデンとカキフライ。それに燗酒《かんざけ》。
私は、食堂車や駅の売店で売っている××と×××という酒が苦手である。甘くっていけない。持込は禁止されている。これは暴力、もしくは文化的犯罪なのではなかろうか。むりやりにベストセラーの小説を読まされるようなものだ。
酔っぱらって、赤い顔で、声が大きくなっている一行がいる。中年の三人で胸にバッジをつけている。離れた席に仲間が一人いて声をかけあっている。ビールが五本。これくらいの酒で酔っているのが情ない。食堂車には、必ず、こういう一行が乗りこんでいるのが不思議だ。
私たちの前に坐っている青年はおとなしい。幕の内弁当を食べている。半月形でなく四角い弁当である。その青年が流行のウォークマンを聞いていることがわかった。ときどきニタッと笑ったりする。左手で音量を調節している。ウォークマンというのは、個人主義的な甘ったれのためのものであって、こういう青年が、何かのことで金属バットで親を殴り殺すのではないかと思った。怖しい。
ウォークマンを聞いている男の顔は、交尾している犬の顔だと、かねがね思っていた。または、床屋で耳掃除をやってもらっている男の顔である。食事のときぐらいやめたらどうかと思う。
××が三本になり四本になった。甘い甘い。ウォークマンがメニューを仔細《しさい》に検討した結果、コーヒーを注文した。その青年が出ていって、その席に坐った中年の男は、
「ビールとチーズ」
と力の入った声でボーイに言った。確乎《かつこ》たる声音で、厳粛な感じがあった。おそらく、家を出るときから食堂車ではビールとチーズと思い定めていたのだろう。迷うところがなかった。彼はビールが来る前から楊子《ようじ》を使い、つまらなそうな顔で窓外を見ていた。実に堂々たるものであって尊敬しないわけにはいかなかった。
その中年の男が出てゆくまで私たちはそこにいたのだから、ずいぶん飲んだことになる。
「お酒、熱燗にしてください」
こういう酒は熱燗でないと飲めないという言葉を口の中に呑みこんだ。場所柄というものがある。
村上を過ぎ温海《あつみ》温泉を過ぎた。左手に大きな島が見えた。
「佐渡です」
と、ドスト氏が言った。
「佐渡が見えますか。飛島でしょう」
私はそう言ったが自信はない。いまでもわからないし、どうでもいい。
島が見えなくなると何もない海が続いた。
[#地付き]●庄内のフランス料理
定時の五時三十五分に酒田駅に到着した。変哲もない駅である。思っていたより寒くない。私はセーターに毛糸のチョッキ、オーバーという身支度である。マフラーも持っている。これでは暑いくらいだ。
宿舎の東急インで休憩してル・ポットフーに行くにはちょうどいい時刻である。この有名なフランス料理店は東急インの三階にある。それを楽しみにしてここまで来たのである。ル・ポットフーの佐藤常務に電話をしておくようにパラオに頼んであった。佐藤さんは、庄内の銘酒初孫の長男であり、すなわち初孫である。
六時になったのでエレベーターで降りていって、三階の扉が開くと、目の前に、白髪の佐藤さんと色白で上品な美人であるところのニーナ・スズキが立っていた。
特別室に案内された。多分、ドスト氏は、こういうのが苦手だろう。
「いざとなれば、このあいだ、フランスで食べたときは……と言ってみるつもりです」
ドスト氏の言うのはタヒチ島のことである。フランス領には違いない。
初孫が冷やしてあった。二級酒の小瓶《こびん》というのは、市販されていない酒であることを意味している。暑いので上衣《うわぎ》を脱いだ。
「上衣を脱いで、腕まくりをして、手掴《てづか》みで食べるのがうちのフランス料理です」
佐藤さんが言った。彼は、こうも言った。
「料理というのは男が生命《いのち》をかけてもいいようなものです」
その言葉は、おそらく、私が紀行文を書くことを知っていて、そのためのサービスだったのだろう。
ここで、公正を期するために、また、嘘を書くのが厭《いや》なので言っておく。
初孫は私の口に合わない。ノド越しのときの味が、私の好かない味である。総じて庄内の酒は私には合わない。葡萄には葡萄酒用の葡萄と生食用の葡萄とがあるが、日本酒も同じであって庄内米はコメとしてはうまいが酒用としてはどうだろうかというのが私の率直な感想である。後にお目にかかることになった杜氏《とうじ》も、庄内米では酸味が出ないと言っておられた。
さらに公正を期するために『四季の味』編集長の森須滋郎《もりすじろう》さんの文章を紹介しておこう。
「一と口、舌の上で転がしてみると、昨夜の越乃寒梅≠謔閧焉Aさらに淡泊だ。冷たいのが快くて、一と息にグーッと飲むと、まるで谷清水でも飲んだような清冽《せいれつ》さだった。食前酒らしくない飲み方だが、食欲は大いにそそられる」(新潮社刊『食べてびっくり』のうち「感激! 庄内のフランス料理」より)
これは間違いなく私の飲んだのと同じ酒であり、私もそう思うのだけれど、問題はノド越しのあたりのことになる。
そうは言っても、私は、かなり早いピッチで初孫を飲んだようだ。
・真鯛《まだい》とホッキ貝の刺身、フランス風
あまく舌に媚《こ》びるような味。
・ガサエビ
小ぶりであるが、頭のところが香ばしい。
・松葉蟹《まつばがに》(このあたりではヨシガニと言う)
ニーナ・スズキが実にいいタイミングで酌をしてくれる。グラスはスニフターで、むろんカリカリの冷《ひ》や。どうやら、調理室から特別室の内部が見えているようで、料理のほうも食べ終ると次の皿が即座に出てくる。
「こんなところにこんなフランス料理の店があるのは不思議でしょう。私も不思議に思っているんです」
と佐藤常務が言ったのは、これもサービス用か。たしかに、本当に不思議だ。生命をかけてもいいというのは、この土地に、この店にという意味だったと気づかされる。相当に頑固な人だ。
「蟹は、ご滞在中に三種類全部食べていただきます」
すると、あとは毛蟹と渡り蟹だ。
・野鴨《のがも》の焙《あぶ》り肉、オレンジソース
私の料理についての記述は、あやふやである。知識もなければ関心もない。その都度、佐藤さんに質問するのだけれど、正確には答えてくださらない。言ったってわからないだろうというところか。それはその通りである。
佐藤さんの料理は独学であるという。
「うちのコックがね、ル・ポットフーの料理は年々に退歩していると言うんです。それは、朝、私が市場へ行くでしょう。そうすると、材料に惚《ほ》れちまうんです。新鮮なものを新鮮なままに、材料そのものの味をひきだそうとするでしょう。そうなるとフランス料理から離れていってしまうんです。コックたちはそのことを言っているんですね」
料理はうまければいい。食べる者にとっては、それがフランス料理≠ナある必要はないのであって、料理は料理であればいい。
・シャーベット
野葡萄のような味だった。
・コーヒー
酒もそうだけれど、オシボリもいいタイミングで運ばれてくる。香水臭くないのがいい。これで手掴みのフランス料理という意味を理解していただけると思う。
部屋へ戻ってマッサージを頼んだ。その男のマッサージ師に、酒田市の最新酒場事情を聞いた。夜の町には活気がないようだ。そう言えば、酒田の料理店には、どこでも学生割引の標示があった。駅の食堂のメニューにも、学生ラーメン、学生カレーライスというのがあった。百円ばかり安くて量が多いようだ。駅前に暴力追放宣言都市という大きな看板のようなものが建っていた。数年前まで市長が共産党員であったことが思いだされてくる。ストリップ劇場もトルコ風呂もないという。
ドスト氏と私とは、マッサージ師に教えられたゲランという店へ行ってみた。美人のママさんがいるという。
「まあ、あそこあたりが高級だねえ」
とマッサージ師が言ったのである。そのゲランは時刻が遅かったせいか閉店になっていた。総じて酒田市の夜の町は終るのが早いようだ。
「なまけ者が多いんですよ。商店は五時半か六時になるとしめてしまいますから」
本当にその通りだった。道はすぐに暗くなる。私は、なまけ者が多いのではなく、おっとりとしているのだと解釈することにした。
この東急インの一階と二階にも小料理屋やスナックがあるのだが、客は少くて、借り手のつかない部屋もあるようだ。寂《さび》れていると言っては失礼だと思うので、静かな町だということにしておこう。
私たちは白馬というスナックに入った。客は一人もいなくて、一昔前ならセシール・カットと呼ぶべき髪の若い女性がカウンターのなかにいた。
「あれ、おかしいな。さっきはお客で一杯だったでしょう」
「いいえ」
「だって歌声が聞こえていたよ。それで敬遠したんだ」
「ああ、私、一人でカラオケで練習していたんです」
「一人で歌うよりお客の前で歌ったほうがいいでしょう。歌ってみてください」
「それはそうですけれど」
白馬嬢は、ちょっと躊躇《ちゆうちよ》していたが、わるびれずにカラオケをセットして歌いだした。思っていたようにハスキー・ヴォイスだった。石原裕次郎のナントカという知らない歌だった。
ドスト氏の前頭部が一点赤く光っている。彼の頭の上に赤外線のようなスポットライトがあった。私たちは一つずつ席をずらせることにした。
「この店の家賃は幾ら?」
「十二万円です」
その家賃払ってあげようかと言いそうになって、あわわわ、私は口をおさえた。どう胸算用したって月十二万円の余裕はない。それに、いったい、私は何ということを考えているのだろうか。しかし、この店に客がなだれこんできて大いに繁昌するとはとても思えなかったというのも事実である。
白馬嬢が赤い蕪《かぶ》を切った。冷たくて甘酸っぱくって濃厚なフランス料理に馴染《なじ》んだ舌に快い。
「アツミカブって言うんです」
私はその漬物を送るべき誰彼の顔を頭に思い描いた。山形の名産のナスの辛子漬と詰めあわせにすればいい。松江の津田蕪に似た味で、もっと甘い。
[#地付き]●赤木屋の雨
ベッドに入ってから腹が痛くなってきた。わずかながら嘔吐《おうと》感もあって、バターを煮つめたような味がノドにこみあげてくる。私は蟹に当ったと思った。このときだけ、三島由紀夫の気持がわかるように思った。実際、気味が悪いと思いこんだら、蟹の形態ぐらい気味の悪いものはない。蟹というのは淡泊なようでいて脂が強いことは、蟹鍋にしてみればよくわかる。朝までに上厠《じようし》すること十数回。それほど激烈なものではない。第一、ドスト氏はなんともないのだから安心である。以前、宮城県を旅行したときドスト氏はニタリ貝に当ったのであるが、そのときは、もっとひどかった。
ドスト氏は、ベッドの上に坐って酒田市の市街を描いている。曇っているが雨にはなりそうもない。
「二、三百軒は描かなくちゃならないでしょう」
「いやいや、三千軒です」
えらいことをはじめてしまったと思ったが、最近は、ドスト氏と私の絵が逆転してしまって、彼のほうが細密画を試みるようになった。
「困ったなあ」
「どうしました?」
「腹の具合がおかしいんです。蟹に中毒《あた》ったんじゃないでしょうか」
「そんなことはありませんよ」
「だけどね、佐藤さんは今夜も御馳走を用意しているでしょう。まずいことになっちまった」
「なんでもありませんよ。食べ役を用意すればいいんです」
「食べ役?」
私は問いかえしたがドスト氏の言う意味をすぐに理解した。競馬の内部、つまり厩舎《きゆうしや》関係の人たちは騎手のことを乗り役と呼ぶ。調教師はテキである。以前、ドスト氏は乗り役という言葉を大層面白がったことがあった。
「白馬嬢ですよ。どうせ宵のくちは客が来ないでしょうし……」
これもまた一石二鳥だと思った。昨夜は、うまい酒があり、うまい料理があって、何かが足りないと感じていた。ニーナ・スズキは高嶺《たかね》の花であり、席に着いてくれないことがわかっている。
私は、こういうドスト氏の気転というか、頓智《とんち》に近いものを大いに喜び評価する者である。その知恵に感心しないわけにはいかない。窮すれば通ずとはこのことか。
「明日になれば飲み役が来ますし」
飲み役とはパラオのことである。私は腹が痛くなるくらいに笑った。もともと腹が痛いのであるが。
一人で町へ出た。知らない町をあてずっぽうに歩くのは気持のいいものである。梨屋(漬物屋の老舗《しにせ》)の前へ出たので、土産物を送ってもらうことにした。若い女主人の感じがいい。総じて酒田の人は善人であるように思う。育ちがいいという気がする。アツミカブは、これから漬けて詰めあわせてくれるという。
降りそうにもないと思っていたのに雨になった。いっとき雨宿りをして、あとは傘がいらない程度の小降りになったので、そのまま歩いた。港は、私の思っていたよりもずっと遠くのほうにあった。
部屋へ戻ると、ドスト氏は、まだ一心不乱に市街図を描いていた。
「ちょっと降られましてね」
「そうですか。降られたとすると、このへんじゃないですか」
彼は自分の絵のなかの高い建物を鉛筆で示した。
「そうです。ちょうど、そこを曲ろうとするときに降ってきました。どうしてわかるんですか」
「それはわかりますよ。これが赤木屋です。赤木屋の雨に打たれて……」
「このまま死んでしまいたい。冗談じゃない。こんなところで死んでたまるもんですか」
ドスト氏は、このごろカラオケ酒場に凝っていて、八代亜紀のことをヤッチロアキなんていうから始末が悪い。もっとも、九州の人は八代《やつしろ》のことをヤッチロと言うようだ。
そのあと、二人で自動車に乗って港のほうへ行った。
酒田には古くからある港と酒田新港とがある。はじめ酒田新港へ行った。そこに火力発電所があり、そのあたりから見る鳥海山が美しい。酒田には砂丘があるという。それで大きなスケッチブックを持って行った。絵というものは、出かける前に半分は出来あがっているものである。ゴルフの好きな人は、出かける前の夜に、だいたいの自分のスコアがわかっているのではあるまいか。多くはそれは夢に終るだろうけれど……。釣なんかも同じことだと思う。
私は、大きな砂丘があって、その横に船溜《ふなだま》りがあり、だから、その船溜りを小さく綿密に描いて、海と砂丘とをボワーッと省略して描くことを予定していた。しかし、酒田の砂丘というのは松林であった。私には松林は描けない。酒田新港にはソ連の船が停泊していて、主に木材を輸入しているもののように思われた。その港と木材の山とは絶好の画材であったのだが、予定が外れたことと腹の調子が悪いのとで、すぐに描くという気にはなれなかった。それに、ドスト氏は、こういう幾何学的な構図を好まないようにも思った。
本間様の倉庫を見て、浜中へ向った。こっちのほうが情緒があるという。出羽大橋を渡り、赤川を過ぎたけれど松林が続くばかりである。国道沿いに何軒ものモーテルがある。夕陽というモーテルのあたりで自動車を降り海岸まで歩いたが、絵を描く気にはなれない。夕陽には、夕焼、夕映、夕風、夕汐《ゆうしお》、夕霧といった部屋の名前が見えている。
「使用中というランプがついていますね」
と、ドスト氏が言った。使用中とは何事であるか。あれは使用するものなのか。たぶん、このあたりは夕焼の名所なのだろう。勝手に焼けていろ。どなりこんでやろうと思ったが、夕焼のガレージに入っているのは大型トラックなので思いとどまった。
最上《もがみ》川の出羽大橋まで引き返すことにした。白鳥と野鴨の群れ。私はパステルで河口附近を描き、ドスト氏は反対の川上に向って描きだした。
四時にタクシーが迎えにきた。そのときは、すでに暗くなり寒くなっていた。雲が多く夕焼は見られない。
ホテルに帰ってからカメラを紛失していることに気づいた。このごろは、どうもいけない。二カ月ばかり前には、ダンヒルの洋傘を失くした。出かけるときはパラオの揃《そろ》えてくれた資料をごっそり全部家に置き忘れてきた。電車ではライターを失くした。
惚《ぼ》けたとは思いたくない。また実際に惚けているのではないと思う。断じて惚けてはいない。しかし、惚けていない惚けていないと思いながら確実に惚けてゆくという筋道は見えてきている。
タクシーに乗って出羽大橋まで引き返した。私は、そこの、ゴミ捨てるべからずかなんかの標識にカメラをぶらさげておいたのである。しかし、十中八、九まではそこにはないことを承知している。たしかに絵の道具をいれたバッグとカメラとを持ってタクシーに乗りこんだのである。
私はそのカメラが惜しいとは思っていなかった。安物であり、それなりの愛著《あいじやく》はあるのであるが、もはや寿命がきていて、ストロボの接触が悪くなっている。息子は、インスタント・カメラなんかは三、四年で買いかえるものだと言っていた。
私の考えはこうだ。
最上川の河原に遊びにでた子供がカメラが置き忘れられているらしいのを発見する。あたりに人かげがない。さしたる悪気はなくて失敬する。そういうことに味をしめる。すると、泥棒の卵を一人こしらえてしまうことになる。それは非常に悪いことだ。
出羽大橋附近の標識にカメラはぶらさがってはいなかった。私はそのことにやや満足した。タクシーの運転手は、それは別のタクシー会社であったのだけれど、無線でいろいろに連絡をとってくれた。彼は、きびきびとしていて気働きのある男だった。そのことにも充分に満足した。
六時になった。私たちは食べ役であるところの白馬嬢を迎えに行った。白馬は締っていた。彼女が来るのを待ってもいいのだけれど、六時夕食という佐藤常務との約束がある。それに私は面倒にもなっていた。こんな恰好では高級フランス料理店へ行かれないと彼女が言いだすかもしれない。
私は、佐藤さんに、腹の具合が悪いことを率直に報告した。しかし、ドスト氏は元気であるのだから、決して、おたくの料理がわるかったのではないとも言った。
初孫を赤葡萄酒にかえてもらった。こういう場合、ふつうは腹の具合が悪いのなら酒はやめなさいと言うものである。しかし、フランス料理店の人は、そもそも、酒のないフランス料理というものは考えられないという態度を示す。それが有難い。料理は男が生命をかけてもいいものですと佐藤さんは言うが、私は、その料理を酒にかえてもいいような気がしていた。本当は食べ役を用意して酒だけを飲んでいるつもりだったのだけれど。
・ナマコとホタテ貝、フランス風刺身
ごく薄く調理されていて柔かい。フランス風というのはオリーブを使っているという意味だろうか。
「昨日、山口さんは疲れきっていました。顔色がわるかったですよ」
「結納がありましてね。昼酒をうんと飲んで、そのあと、ほとんど徹夜。列車では飲み続けで……」
「そうでしょう。今日は飲みっぷりがわるいですね。昨日はもっと勢いがあった」
「そんなにガブガブ飲みましたか」
「ええ、まあ、ガブガブ。もっとピッチが早かったですね。そうやっていると、あなたらしくない」
「いつもフランス料理の悪口ばかり言ったり書いたりするもんですから罰が当ったんですよ」
座談会とか会合とかで、会場を訊《き》かれると、××××と×××以外ならどこでも結構ですと答えることがある。××××、×××は銀座の高級有名フランス料理店である。私は殊更にフランス料理を嫌悪するのではなくて、一品ならばいいのである。濃厚な味で、魚でも肉でもバターを利かせた同じ味というのが困る。また、フランス料理が不味《まず》いと思ったこともない。美味《うま》いから困るのである。
・ホタテ貝、オリーブ炒《いた》め
・トマトスープ
佐藤さんはサービス精神の権化のような人である。私と永年にわたってコンビで仕事をしている柳原良平の渾名《あだな》はサービス魔である。サービス魔というのは、他人に奉仕することに無上の情熱を抱く人という意味である。私の友人にもう一人のサービス魔がいる。この男は、他人に奉仕するのが結果的に常に裏目に出てしまう≠ニ言われている。
佐藤常務は、いくらかサービス魔の傾向があるのではないか。そうでなければ、この低料金(ル・ポットフーの勘定は非常に安かった)で、この材料、この味で、これだけの店構え(ル・ポットフーの調度はとても立派で、かつ瀟洒《しようしや》である)で、しかも、言っちゃわるいがこういう土地でフランス料理に生命をかけるわけがない。
・鱸《すずき》とホタテ貝の叩き
・鯛と鱸のかぶとむし
うまい。ああ、苦しい。うまい。ヒヤー。フーッ。うまい。苦しい。
ハタハタの素焼き、レモン絞り
ついにハタハタが出た。さっぱりとしていて歯ごたえがある。当地の出身の丸谷才一さんに、ハタハタはレモンを絞らないほうがいいと教えられてきたが、出たものは使うという主義である。
・毛蟹、わかめ包みむし焼き
うまい。苦しい。ああ、うまい。蟹は昨日のヨシガニのほうがよかった。うまい。苦しい。フューッ。うまい。苦しい。うまい、苦しいの繰り返しで、いまでは苦しい。
・シャーベット
・コーヒー
「市場で魚を見ますと、だんだんに細工がしたくなくなるんですよ」
それ、正解です、とは言い難い。なにしろフランス料理店なのだから。
「フューッ。そうですかね」
「四月の末から五月一杯までに来てくださるといいんですが」
「フューッ。どうしてですか」
「材料が豊富なんです。品数がもっとふえます」
「フューッ」
「渡り蟹には仔《こ》がいっぱいついています。それと鱒《ます》。天然のカキ。クルマエビ、これも天然です」
「フューッ」
ニーナ・スズキは嫣然《えんぜん》と笑っている。赤味を帯びたグレイの簡素なワンピースがよく似あう。
酒田へ行く人は、いや、新潟や秋田へ行く人も足をのばして、ぜひ、酒田東急インのル・ポットフーで食事をしていただきたい。フランス料理の苦手な私が推奨し保証する。絶対に間違いがない。ニーナは美人だ。もしそれ若い女性であるならば、狂喜し、欷歔《ききよ》するであろう。アヴェックならば、そのまま泊ればいい。東急インの宿泊料はモーテルよりも安い。
後日、佐藤常務は当地の音楽振興のために私財をなげうって惜しまぬ人であるという話を聞いた。
白馬へ行った。
「ごめんなさい。今日は遅くなってしまって。明日ならいいんだけど」
「明日は駄目。明日は東京から食べ役が来るんです。その人は飲み役でもあるんです」
赤外線の当らぬ席に坐った。私は水ばかり飲んでいた。アツミカブも駄目。
[#地付き]●飲み役来たる
翌朝は雨だった。遠くは煙っていてドスト氏の市街図も描けない。
二人で本間美術館へ行った。それから、時間|潰《つぶ》しと健康のために映画館へ行った。映画館に入れば煙草は吸わないし、ガラガラだから空気がいい。『神様のくれた赤ん坊』と『復讐《ふくしゆう》するは我にあり』の二本立て。
前者は母が女郎という話で身につまされる。後者では、倍賞美津子が野天風呂に入るときにお尻のタボの下の肉がブルンと震えるところがよかった。
私は、いま、三人の人妻に凝っているのである。いわく、井上ひさし夫人。いわく、和田誠夫人。いわく、アントニオ猪木夫人。同業井上さんの夫人の新聞雑誌などでの発言には、いつでも同感する。和田誠夫人は天衣無縫、これぞ女性という感があるし、アントニオ猪木夫人は、言いにくいけれど育ちが悪いという感じが実にいい。この場合の育ちが悪いというのは褒め言葉である。極悪犯人の純情な妻を演ずるのはこの女優《ひと》以外にはいない。いま私が惚れこんでいるのは、この三人の人妻とアブドーラ・ザ・ブッチャーである。
外は暗くなっていた。
「ポルノ映画のほうがよかったかな」
勝手にドスト氏を引っぱり廻して悪かったと思っていた。
「えっ? いまのはポルノ映画じゃなかったんですか」
刺戟《しげき》が強すぎたようだ。
「でも、佐木隆三さんとか石堂|淑朗《としろう》さんとか、ゴールデン街の仲間に会えて嬉しかった」
パラオを駅へ迎えに行くことにした。寒くなっていて、初めてオーバーとマフラーが役に立った。
いなほ三号は三、四十分の遅れであるという。駅の食堂で初孫一級酒の熱燗、それと鍋焼ウドン。高校生が学生ラーメンを食べている。
鍋焼ウドンは、アルミニュームの柄のついた鍋で出てくる。見てくれはわるいが、いや、そのうまいこと。フランス料理は駅の食堂の鍋焼ウドンの味をひきたててくれるもののように思われた。
「パラオはだいじょうぶかな」
「いや、もう、べろべろですよ。手擦りを伝わって降りてきますよ。階段から転げ落ちるかもしれない」
「食堂車で飲みっぱなしでしょうからね」
しかし、パラオは、新鮮なタラバガニのようにピンク色にふくれあがった頬っぺたをして元気に改札口に向ってきた。彼のごときは、天才にして、かつ異能と言うべきか。絶対に宿酔《ふつかよい》しないという。宿酔以前はちょっとヒドイが。
「やあやあ、ご無事なようで、ウッウッウッ、なによりです。寒いところですねえ。列車は遅れるし退屈するし、いや、もう、エッエッエッ、つまらんところですねえ。何もありゃしない」
「あんまりご無事でもないんだがね。それより、うまいフランス料理を喰わせるよ。これがね、ごくごくの上等だ。佐藤常務がね、あなたのために、朝早く起きて蟹を仕入れてきたそうだ」
パラオの好物が蟹である。今年の私の家での新年会で、彼は渡り蟹を三ばい食べた。
私たちは、いきなり、ル・ポットフーのある三階へ降りた。降りたところに佐藤さんとニーナ・スズキがいるのは例の通り。特別室。
「ひやあ、これは凄《すご》い。個室ですね。この時計、変っていますね。この時計の振子を取ったらどうなりますかね。やっぱり動きますかね」
「そんなことはしないほうがいい」
ドスト氏とパラオは初孫の冷や。私は赤葡萄酒。初孫を飲める状態にはなっているのであるが、自家製で十八度はあるというので敬遠する。
佐藤さんの音楽愛好家仲間である書店主の門崎さんが私のためにお粥《かゆ》を用意してくれている。それと自家製の梅干。そのお粥のうまいのなんのって。庄内米の有難さがこれ。お粥というのは病人用の食べものであるばかりでなく薬用効果があるような気がした。
・帆立貝殻焼き
・コタマ貝のタイム風味
・ゆずり葉(柳)かれい、したびらめフライ
・あわびグリエ
パラオは、もくもくと食べ黙々と飲む。
「ひやあ、うまい」
「まだまだ」
・野鴨のサラダ
「もう駄目です。勘弁してください」
「泣かなくってもいいじゃないか」
・越前蟹(巨大)
「このパンがうまい」
「そう。かりかりしてね」
「この蟹、私が食べるんですか」
「そうだよ。佐藤さんがパラオのために特別に仕入れてきたんだ。こっちは拝見するだけだ」
「こんなに大きな蟹は見たことがない」
「うまいだろう」
「おいしいですねえ。おいしいことはおいしいんですが、フューッ……」
「そうなんだ、俺も昨日はそういう声を出したんだ」
・シャーベット
・コーヒー
三人で白馬嬢に会いに行った。私は飲めない。
「この人、無限に飲むから、そっちの相手をしてください」
ドスト氏もパラオも、よく水割りなんてものを飲むね。
「齢、わかっちゃったでしょう」
「わからない」
「こんなお店の名前つけるからいけないのよ。午《うま》年の二十六歳です」
「二十六歳か。しかし、あっというまに三十六歳になるよ。そのあとは急転直下だ」
「明日、ル・ポットフーに連れていってください」
「明日は駄目。明日は鶴岡へ行くから駄目」
「つまんない」
[#地付き]●旧仮名遣いの町
「悪天候や、身を切るような寒さや、それに東京からの交通が不便であることが、冬のあいだから早春にかけて北陸の港町を護っている。そしてそれ以外の季節には、たとえ少数派が訪れても酬いられるものがない。雪の降りかたは非常に激しく、連続的で、ときどき急行列車が駅と駅の中間の、人家からも遠く離れた一面の雪のなかに何日も立ち往生してしまうことがあるほどである。そんな天候では、ヘリコプターもあえて危険を冒して乗客や乗務員の救助に向かうことができず、だから、もし吹雪があまり長く続けば、みんな死んでしまうということも考えられる。たとえ列車が無事に着いても、厳寒の季節には太陽が照ることもめったになく、ただときおり、白一色の燦然《さんぜん》とした光景に、それ以外の喜びをすべて忘れてしまうようなつかのまの例外があるにすぎない。そんなわけで、この地方の町の冬といえばすぐ思い浮かぶのは、一面の灰色の空とその下にどこまでも続く屋根の眺めで、その灰色の空から雪が降っているにせよ、いないにせよ、何十年か前には東京にもそんな屋根の眺めがあったことを、ぼんやりとでも覚えている人間もいるはずである。それから、水面に空の灰色を映してすぐ近くに見えているために、落ちたらさぞ冷たいだろうと思わないでいられないような川の眺めも浮かんでくる。(この、川という是非なくてはならないものも、今日の東京ではめずらしくなってしまったもののひとつである。)そのほか、頭に浮かぶのは灰色のもの、じめじめしたもの、冷たいもの、またはそれらが全部一緒くたになったものなら何でもである。ここでおまけとしてもうひとつ、つけくわえておいてもいいかもしれないのは、列車が立ち往生すれば、足止めされるのは乗客だけでなく食糧その他の物資も同じだということで、これはすなわち、その状態が或る程度以上続けば住民も滞在客も餓死に見舞われ、日ざしを受けて輝く雪のみごとな眺めを嘆賞しようにも、誰もいなくなってしまうということである」(吉田健一『まろやかな日本』新潮社刊「裏日本のどこかに」より)
これは、吉田先生が金沢や新潟や酒田について書かれたものの一部である。このなかで吉田先生は、酒田の酒(初孫)について「朝から深夜まで、またはもっと遅くまででも飲み続けていられる」と怖しい言葉で絶賛しておられる。その他、蟹、鮑《あわび》、栄螺《さざえ》、粕漬《かすづ》けについても愛情をこめた讃辞《さんじ》が続く。
吹雪が続けばみんな死んでしまうというのは、ちょっと大袈裟《おおげさ》であるが、酒田の雪は、快晴のときでも吹雪になるそうで、それは風が強いからであって、酒田の雪は横から下から吹きあがってくるそうだ。空は蒼空《あおぞら》、夜ならば満天の星であって、地は一寸先きが見えぬことがあるという。酒田に大火が多いのもこの風のためである。
釣に行って、ならんで突堤を歩いていて、振りむいたら友人がいなかったということがあるそうだ。それくらい風が強く波が高い。
私たちが行っている間は、そういう日はなくて、こちらで言えばおだやかな、冬支度をしなさいという天の声でもあるような静かな日が続いていた。
三人で鶴岡へ行った。浜中を過ぎて庄内平野が広がっていった。真っ平で実に豊かな感じがする。私たちが訪ねたのは栄光冨士の冨士酒造株式会社である。
酒蔵を案内していただいて屋上にあがった。冨士酒造の隣が芭蕉《ばしよう》が泊ったという丸谷味噌であって、これは丸谷才一さんの本家である。
何百年か前に建てられたという奥座敷でキキ酒になった。吟醸酒、純米酒、特級、一級、二級。
「庄内の空は曇ろう曇ろうとしているんです。東京は晴れよう晴れようとしています」
当主の加藤清正の子孫であるという加藤有倫さんの言は、まことに言い得て妙というほかはない。
「静かなところですね」
「ええ、酒田は活気がありますが、ここは静かは静かです」
酒田に活気があると言われて驚いた。私は寂れていると思っていたのに。この町は、何か秩序整然と沈んでいるという印象があった。これでは旧仮名遣いで通すより仕方がない。
「税務署長の話によりますと、この町くらい密告の多いところはないそうです。陰湿なんです」
静かに密告の策を練るというのもいいじゃないか。
いな舟という店へ行った。もとは魚屋であったという。
平目のえんがわ、鯛《たい》、まぐろ(近海もの)、あまえび、鱸の盛りあわせ。
鯛のかぶと煮。この鯛は五キロあったという。鮭《さけ》の子(イクラ)。
栄螺の塩辛(これは飛島だけで出来るもの)、むきそば。
酒はむろん栄光冨士。
「もう絵はやめようや」
鶴岡で一枚と思って画材は持ってきたのであるけれど。肴《さかな》はいずれも新しく、新鮮すぎて口のなかで躍るようだ。特にやりいかのうまいこと。
「もう駄目だ。飲む一手だ。だいたいパラオはね、キキ酒をガブガブ飲むんだもの。キキ酒のお替りをする人なんて初めて見たな」
「そんなに飲みませんよ。味を見ただけ」
「俺、恥ずかしかったな」
「あんただって酔っぱらって、加藤清正は梅毒で死んだなんて言ったじゃないですか」
「そんなこと言った?」
「言いましたよ。あれ、気を悪くしますよ。子孫なんですから」
どんどん飲めてしまう。ドスト氏と色紙の共同製作。いな舟主人の似顔まで描いた。色紙がなくなって経木にまで描いた。
青菜に包んだ弁慶めし。これもいい。
その夜は白馬嬢を連れて飲み廻った。ある酒場で、私の隣に坐っていた白馬嬢が、すっと体をずらせるようにした。私は、ははあ、この店の経営者か支配人が愛人だなと察知することになった。
その翌日、パラオと二人で酒田新港へ行き、鳥海山を描いた。二十分ぐらいで終りにして海岸を歩いた。その砂浜が広くて長い。鳥海山に向って歩いてゆき、ふりむくと、パラオの姿が小さくなっている。海岸にはパラオ以外に人がいない。こういうところで、たった一人で小魚を探しているパラオを遠望するというのが実に不思議な気がした。
夜のル・ポットフー。私の全快祝いということでシャンパンを抜いてくださる。モエテシャンドン。お勘定、俺、知らないよ。
・そいの刺身
・真鯛と帆立貝の叩き、サラダ菜ぞえ
・ガサエビのマリニエール
・渡り蟹わかめ包み焼き
・ローストビーフ、蕪ぞえ
このビーフは米沢産のひれ肉であるという。
・シャーベット、コーヒー
ドスト氏のみ番茶。
「明日の出発は何時ですか」
と、佐藤さんが言った。
「十二時十一分発です」
「では昼御飯を用意しましょう。十一時にここへいらしてください」
奉仕の精神は最後まで衰えなかった。
最後の白馬。
「来たと思ったらもう帰っちまうんだからねえ」
驚くべし。白馬嬢が涙ぐんでいる。
「明日、駅まで送りにいきますから」
「ああ、頼む。俺、そういうの大好きなんだ」
「鮭の子、昨日から醤油に漬けてあるから、それ持っていきます。汽車のなかで食べるのにちょうどいいですよ」
「ありがとう」
「それから色紙書いていただけませんか。買ってあるんです」
「お安いご用だ。商売繁昌するよ」
二枚の色紙がカウンターに置かれた。
「あ、ちょっと待ってください。書く文句、いま、わたしが書きますから」
こういうことは珍しい。私は文章を書くのを商売とする男である。白馬嬢は、シンクの脇で、メモ用紙に何か書いている。何事ならんという期待感があった。白馬嬢のメモ用紙は次のように書かれていた。
☆ボトルキープ
ホワイトホース 七千円
リザーブ 六千円
オールド 五千円
※女性客の特典
九時までの方、千円引きしています。
「お正月から値上げしようと思って。これ、お願いします」
ドスト氏が赤い顔でカウンターに頬をつけて、クックッと笑っている。
「じゃあ、部屋へ帰って書いてくるよ。ついでにメニューも書いてあげるよ」
私は自室へ帰って、いな舟で貰ってきた経木にボトルキープ以下の文字を書いた。それと、メニュー。
えいのひれ
あじの開き
いかのバター焼き
ハタハタ
厚揚げ
めざし
ぎんなん
フライドチキン
フライドポテト
なんだか白馬嬢の亭主かヒモになったような気がした。
その翌朝。パラオの提案で魚市場へ行き、鮭を一尾ずつ買った。これはいい考えだった。鮭の子もビニール袋にいれてもらった。
「あの娘さんにイクラを見せちゃいけませんよ。せっかく持ってきてくれるというんですから」
ドスト氏が女性に人気があるのは、こういう心づかいによるものである。
ル・ポットフーの昼食。
・タラバエビ
・したびらめムニエル
「荷背負いを用意しますから」
佐藤さんは若者二人をつけてくれた。そのように大荷物になっていた。鮭と栄光冨士の二本が重い。
白馬嬢が駅で待っていた。約束通り、酒と醤油に漬けた鮭の子。
「また来ますよ」
「遠いからねえ……」
白馬嬢は、どういうものかソッポばかり向いている。
「ああ、まにあった。ずっと駈けてきた」
一昨日飲み廻ったうちの一軒の酒場でドスト氏の敵娼《あいかた》だった中年の女性があらわれた。ドスト氏はヤッチロアキに似ていると言うのだが、私はアキ竹城に似ていると思った。
「自動車が混《こ》んずまってねえ。駈け通しだった」
彼女は菓子折を持っていた。特急列車の扉が締り、ガラス越しに顔を見るだけになった。
「あれ、酢を振るんだそうです」
パラオが、上眼づかいで網棚に載せた鮭の箱を見た。
「塩、だろう」
「いいえ、酢だって言ってました。魚市場のおばさん」
東北|訛《なま》りで塩《スオ》振ってくださいと言ったのに違いない。そう言おうと思ったが、パラオはもう眠っていた。
「いまから引き返しましょうか」
ドスト氏が言った。
「アキ竹城のところへ?」
「ヤッチロアキです」
「驚くでしょうねえ」
「びっくりしますよ。若かったらそうするんですが」
「若かったらねえ……」
上りいなほ四号は、容赦なく前進を続けている。
[#改ページ]
横浜、一見英国紳士風
[#地付き]●Mとの遭遇
この紀行文の最後は京都にきめていた。ずいぶん前から、そう思っていた。京都市の外延部、観光地図にある神社でも寺でも、外側外側と歩いてみようと思っていた。夜は祇園で飲む。双六《すごろく》のアガリは京都ときまっている。そのつもりになっていた。
しかし、その考えが次第に揺らいできた。祇園で飲むといったって、私の場合、花見小路の二鶴に泊まり、山福で酒を飲み、サンボアでウイスキイを飲むということにきまっていて、行動範囲は、せいぜい百五十メートルである。それはそれで面白いのであるけれど、なんだか曲がないような気がする。そうかといって、祇園の一流料亭で芸妓《げいぎ》を揚げてドンチャン騒ぎをするという度胸はない。度胸というより人間のスケールの問題かもしれない。
そのうちに、横浜という考えがひらめいた。ホテル・ニューグランドに宿泊する。毎日、港の絵を描く。夜は八十八《やそはち》で鰻《うなぎ》を食べる。倫敦《ロンドン》という酒場で飲む。これは悪くない。
「ひやあ、横浜ですか」
と、パラオが悲鳴をあげた。彼には、一度決めたことを変更したがらないという性質がある。
「横浜じゃ悪いか」
「横浜っていうのは、どうもね」
「東京から近すぎるっていうんだろう。東京からは近いが、関西方面からすれば遠い」
「それはそうですが」
考えこむ顔になった。パラオの家は湘南《しようなん》地方にある。彼は横浜で遊ぶ。横浜はホーム・グラウンドである。私のような男と一緒に横浜で遊ぶときに身にふりかかるであろうところの大迷惑を計算したのに違いない。
しかし、私は強引に押しきった。
朝、ホテル・ニューグランドの五階の港を見おろす食堂で朝食を摂《と》る。オートミールなんかも、ちゃんと食べる。前回、酒田のル・ポットフーにおいて、ドスト氏もフランス料理にはかなり馴れているはずだ。もちろん、ドスト氏にもネクタイを着用してもらう。あくまでも英国紳士風で通してもらう。御行儀をよくする。
横浜には、三十年来の盟友であるところの柳原良平が住んでいる。船の模型や絵のほうの大家である。彼を案内役とする。たとえば、プロの将棋指しと将棋を指すのは、とても楽しい。同様にして、プロの絵描きと一緒に絵を描くのは非常に愉快だ。先方は苦労するし、退屈でもあろうけれど。
「きめた、きめた、横浜にきめた」
そんな具合で、二月二十三日の月曜日、十一時過ぎに自動車で家を出た。二十八日の土曜日まで、五泊六日の予定である。前に郡上八幡へ行ったときは、六泊七日だった。
ドスト氏が道で御母堂に会ったとき、そのことを話すと、
「おや、七日旅かえ」
と言われたそうだ。七日旅は縁起が悪いという。なにしろ九十何歳かの媼《おうな》の言うことである。これを尊重しないわけにはいかない。むろん、面白ければ、これを延長することが可能だ。なにしろ近いんだから。
十二時に中野の宝仙寺に着いた。ここでドスト氏が御前様と雑誌用の対談を行っているのである。テーマは甲冑《かつちゆう》だと聞いている。この宝仙寺の仁王像は若き日のドスト氏の作であるが、私は初めて見ることになる。ちょっと怖いような仁王様である。
雨が降っている。白のワイシャツで紺地のネクタイをしめたドスト氏が事務所から出てきた。赤い顔をしている。対談に熱がこもっていたのだろう。いわば飲み友達でもあるところのドスト氏が、昼日中、正装して傘をさしてこちらへ歩いてくるのを見るのは悪くない。
ところで、私の肉体的条件は劣悪を極めていた。一月十七日、私の所属するデッサン会の新年会が高尾の奥にある竹亭で行われた。そのとき、一行とは別に、早く起きて高尾山に登った。そこで深い風邪をひきこんでしまったのである。これが治らない。タン、咳《せき》、微熱。体に力がない。なにしろ、二月の初めに雪が降るまで、今年になっての東京の降雨量は〇・三ミリであったという。これではノドをやられてしまう。太平洋側と日本海側をひっくりかえしてもらいたいと思うことが何度もあった。あっちは大雪で難儀をしているというのだから。
そのうえ、イレ歯がこわれてしまった。正確に書くと、上顎《うわあご》のイレ歯を二本の歯でもってハリガネをバネとして支えていたのであるが、その一本が折れてしまった。残りの一本にハリガネが巻きついているわけであるが、これはもう梃子《てこ》のようなものであって、ハリガネから遠いところで噛《か》めば、たちまちにしてイレ歯ははずれてしまう。いやもう、そんな段階ではなく、大きな口をあいたり喋《しやべ》ったりすれば、すぐにイレ歯は落ちてしまうようになっていた。私のイレ歯は、拳闘のマウスピースのようになっていた。これでもって横浜へ飲みに行こうっていうんだから、自分でも惘《あき》れてしまう。
ただし、雨は有難いのである。二日か三日降り続ければ、風邪も治るし、それでもって春がくると信じこんでいた。
一時に横浜へ着いた。ホテルのクロークに荷物をあずけ、中華街の謝甜記《しやてんき》でカユを食べた。記のつく店でカユを作っているようだ。ドスト氏とパラオがレバーのカユ。私はレバーでさえ噛みきれなくて卵のカユ。それでもイレ歯が落ちてきてしまう。
良平の家へ行った。良平に、港の見える丘公園、大佛《おさらぎ》次郎記念館など山手地区一帯、新港桟橋の赤煉瓦倉庫などを案内してもらう。
少し早目に八十八へ行った。いつものように、山本周五郎先生御愛用の二階の小間に通された。
「先生は、いつも、朝、ずかずかっとあがってきて、おい、お酒、だったんですよ」
と、富子さんが言った。朝というのは午前十一時のことである。定子さん、茂子さん、峰代さん、それに内儀の万佐子さん、この店の女性は、ちっとも変らない。
私は八十八へ行くと、厳粛な気分になってしまう。山本周五郎のためである。こわい先生だった。やはり、あんなに真摯《しんし》に小説を書いた人はいなかったと思う。それは真摯に人生を考えたということである。ある文芸評論家が言った。
「山本周五郎は、小説家として、兵隊の位で言えば少将ですよ。それはね、説教癖があるからですよ」
私もそうだと思い、巧《うま》い言い廻しだと思うのであるが、私には、山本さんに説教してもらいたいという気持が、常にあるのである。甘ったれているということになるだろうか。私が横浜へ行けば、必ず八十八に寄るのもそのためである。
富子さんは貴《たか》ノ花《はな》によく似ている。そっくりである。また、私は、鰻屋で働く女性で、富子さんに似ている女性を何人か知っている。私は、そういうヌルッとした顔つきの女性は鰻に似ているとも思っている。鰻屋で働いていると、似たもの夫婦と同じように鰻に似てしまうのだろうか。諸君! 貴ノ花の顔というのは鰻の顔ではあるまいか。私は、かねがね、そう思っているのである。
シラヤキ、キモスイ、ウナドン。鰻はウナドンにかぎる。私の歯でもって、辛うじて食べられるのが鰻である。それでも、悲しいかな、ウナドンをそっくり食べてしまうということはできなかった。
倫敦へ行った。
「どうせ、毎晩、このコースで飲むんでしょうから、道をおぼえるために、一人で先きに立って歩いてみてください」
と、パラオが言った。雨のなか、そうやって歩きだした。近くにあるのだが、もとより、私には自信がない。ところが、
「ああら、先生……」
むこうから歩いてきたビアズレーの絵のような女性に声をかけられた。それがT嬢だった。私の顔を覚えていてくれた。T嬢と書くのは、いささか気が引けるが、横浜では、美空ひばりでもお嬢と言うのだ。
倫敦は関内随一の酒場であるという。私は他の店を知らないのだけれど、そういうことにしておく。改装以前の店の雰囲気《ふんいき》はとてもよかった。英国紳士としては倫敦へ行かないわけにはいかない。近くに英国屋という古い店もあるけれど。
倫敦で飲んで、いい加減酔っぱらってしまったと思ったとき、二人の美形が入ってきた。二人とも着物を着ている。
「あれgay barの人よ。Pっていう店」
T嬢が囁《ささや》いた。年嵩《としかさ》のほうの人には記憶があった。倫敦で会ったことがある。小月冴子《おづきさえこ》に似ている。
「あれが、チイママ。本当のママさんは、博多淡海みたいな人」
「ヤットン婆さんか」
「そう」
「もう一人の若いほうの人、まだ十八歳ですよ」
「…………」
「綺麗《きれい》でしょう。玉三郎に似ているでしょう」
言われるまでもなく、私は目を奪われていた。それがMとの運命的な出逢いだった。そのときのMは若衆姿のようであった。私はそっちの席ばかり見ていた。
「おい、俺は、玉三郎が舞台に出てきて、細い体でもってツツツッと歩くとゾクゾクッとくるんだ」
私は歌舞伎の好きな良平に言った。
「そういうこと、ないかい?」
「ないね」
「玉三郎が娘役でもって、花道でニコッと笑うだろう。ああいう歌舞伎は邪道だと思うんだけれどね、だけど駄目なんだ。胸のほうがモヤモヤッとなって、下腹にズキンとくる」
「そういうことないね。ぼくは、むしろ沢田研二のほうに感じるね」
「ジュリーか。ジュリーは俺は駄目だね、もっと若い頃、タイガースにいたときは、ちょっと良かったけれど」
そう言いながら、ずっとMのほうを見ていた。なんとも美しい。
中学の下級生だったとき、私は同級生の一人に惚《ほ》れていた。笹の形の眉が垂れさがっていて、目が大きく、色白で唇が赤かった。あるとき、その少年と相撲を取ることになった。私は厭《いや》だったのだけれど、勝抜き戦でもって、彼とぶつかってしまったのである。その少年に意外に力があって、私は土俵際に追いこまれた。こんなはずではないと思い、打《う》っ遣《ちや》ろうと思って、反り身になり、下腹が擦れあっているうちに変な気分になってしまった。頭がボーッとなり、下腹部のほうに甘美なる感触が湧《わ》きあがってきた。
私は、どうやら、少しそのケがあるらしい。Mはその少年に似ていた。しかし、もっと細身であって、キリッとした顔立ちをしている。
「あとでPへ行きましょうよ」
隣に坐っているY嬢が言った。
「だけど高いんだろう。ショーがあるんだろう」
「それはそうだけど、いいじゃないの」
「今日は駄目だ。いつか行くよ」
私は、もとより、その気になっていた。しかし、今回の旅行の初日である。初日からすっからかんになってしまうと、絵を描きに行くこともできない。
良平が踊り、パラオも踊った。私はパラオの踊りに一驚を喫せざるをえなかった。さすがに、昔、横浜のクリフサイドで鍛えただけのことはある。女性の体をクルクルッと三回も廻したりする。
パラオのステップはフレッド・アステアに似ている。動きが軽い。額のあたりもアステアに似ている。しかし、同時に、海坊主のカッポレにも似たところがある。あとで、その踊りはジルバというものだと教えられた。
気がついたとき、二人のgay boyの姿は無かった。
私たちは、倫敦の近くのジョリーへ行った。ジョリーのママは奈良岡|朋子《ともこ》をぐんと良くしたような顔をしている。カウンターのなかの雅子《まさこ》さんは、昔いた相撲の広川を小型にしたような感じ。和服の似あう満《みつる》さんは、池波志乃のような感じで、星野知子にも似ている。しかし、Mに魂を奪われている私は、彼女たちの誘惑に屈することはなかった。
強《したた》かに酔った。それで宿酔にならなかったのは八十八の鰻で胃壁を防備していたせいだとドスト氏が言った。それでも十二時過ぎにはホテルへ帰った。
[#地付き]●女臭い町
八時に目がさめると、ドスト氏が窓際で絵を描いているのが見えた。大桟橋を狙っているらしい。後になって、そこに停泊しているのが日本郵船の能登丸だということがわかった。私は、また少し眠った。
昨日のことで書き残したことがあった。あのビアズレーの絵から抜け出したようなT嬢がポリグリップSという薬を買ってきてくれたのである。箱に総入れ歯安定剤と印刷されている。私は、薬局は深夜まで営業しているものと思いこんでいたが、横浜ではそうではなかった。T嬢は、仲間の女に訊《き》き、バーテンダーに訊き、雨のなかを二度出ていって手ぶらで帰ってきた。そうして、ついに、三度目に目的物を入手して戻ってきたのである。
「……強力よ」
彼女の声は弾んでいた。私は、総入れ歯で、そのイレ歯が落ちかかっている男などは、酒場では見向きもされないだろうと思っていたが、案外にそうでもない。考えてみれば、彼女たちは老人扱いには馴れているのである。前途にバラ色に近い光が射しこんでくるのを感じた。私が倫敦にのめりこんでいったのは、そういう恩義もあったからだった。
ただし、ポリグリップSというのは接着剤ではない。言ってみればチューインガムのようなものである。イレ歯と歯茎との間の間隙《かんげき》を埋める物質である。だから、話をすることはできても、食べるときは落ちてしまう。
ドスト氏と私とは、ネクタイをしめて、五階の食堂へ行った。トマトジュース、オートミール、プレインオムレツ、フレンチトースト、コーヒーといったものを食べる。お行儀よく。
ホテル・ニューグランドは私の好きなホテルである。日本中で一番好きだといってもいい。第一に、その佇《たたず》まいが良い。西部劇に出てくる上等なホテルに似ている。ゆったりとしている。
大佛次郎が、昭和六年から約十年間、その一室を借りっぱなしであったといえば、事情はもっとはっきりするだろう。いま、その部屋は鞍馬天狗《くらまてんぐ》の部屋として保存されている。原稿を書きあげると、階下のバーへおりていって、そこでコリントゲームで何時間も遊んでいたという話なども好きだ。なんという洒落《しやれ》者であろうか。
昔、このホテルで朝食を摂っていると、品の良い老人がやってきて、客の一人一人に挨拶をしたものである。一人一人に握手した。それが、ミスター・シェークハンドと言われた先代社長の野村洋三さんである。ホテルにかぎらず、接客業はこうありたいといつでも思う。
いま、朝食の客は、ほとんどが新婚旅行のカップルである。男は、きまって目が充血している。女のほうは、脹《ふく》れっ面《つら》で機嫌が悪い。昨夜は大事なものを貸してやったのだからというような顔で威張っている。前途多難。私の感懐はその一語に尽きる。
ホテル・ニューグランドの前の通り、山下公園通りとでも言うのだろうか、そこは銀杏《いちよう》並木になっていて、その銀杏は巨木であり、四階の私たちの部屋よりも高くなっている。
五十数年前の創業当時、この銀杏並木は、当り前の話であるが、細々とした苗木であるに過ぎなかった。この銀杏の新芽は、白紫に煙るような感じになるという。まだそうなってはいないが、昨日の雨で、いくらか粒立ってきたように思われた。断っておくが、全国各地にあるグランドホテルと、ホテル・ニューグランドは別物である。このホテルと銀杏並木を大事にしたいと横浜市民の誰もが思っているのではなかろうか。
いま、海運業は御案内のように景気がわるい。客船も日本には一隻もない。ホテルも東京に大きなのがどんどん建った。横浜市内でも同じことだ。ホテル・ニューグランドのようなホテルを大事にして、大いに利用していただきたいと宣伝しておく。
私も、窓際に坐って山下桟橋の倉庫と船を描いた。雨だから、こうするよりほかはない。その船が実に汚い。良平の説によると、いま、ペンキを塗りかえるのに莫大な費用を要するという。十年なら十年、そのままに使って、発展途上国に売りとばしたほうが効率がいいのだそうだ。汚い船を汚いなりに描いて、私としては、まあ、上の部の絵に仕上ったと思っている。
昼前に良平が来た。とにかく傘を買いにゆくことにした。元町は「春のチャーミング・セール」で賑《にぎ》わっている。いや、賑わっているなんてもんじゃない。石川町の駅のほうから、交通信号が変るたびに、人がどっと押し寄せてくるのである。ほとんどが若い女性である。春の雨で、温気《うんき》ということもあろうが、いや、その女臭いことといったら……。
たぶん、ふだんは元町通りを歩くだけで、これといったものに目をつけておいて、割引期間を狙って攻めてくるのだろう。その人数からすると、関東近県はもとより、もっと遠くからも来ているのだろう。東京の原宿通りとか、横浜の元町には洒落たものを売っていると錯覚しているのだろう。たいして変りはないと思われるのだが。
むかし、元町通りも中華街(南京《ナンキン》町と言った)も、ひっそりとしていた。それが魅力だったのだけれど、もう駄目だ。中心地にある喜久屋なんか、客がいなくてシットリとしていたものであるが、いまは菓子折を買うのにも押しあいへしあいの騒ぎになっている。中華街の海員閣なんかも、雨のなか店の外まで延々長蛇の列になっている。この海員閣は、戦前は、ちょっとした好き者の行く店だった。いまは一億総好き者の時代なのだろうか。つまりは情報に弱いのである。自分で探そうとしない。
傘はポピーで上物を張りこむつもりだったが、まだ二日目なので自重した。なんでもいい、路上に店をひろげているところで買った。一本二千円。そのワン・タッチをさすと、大袈裟《おおげさ》でなく、もう歩けない。それほどに混雑している。しかし、その混雑は婦人物洋装店に集中しているのであって、骨董《こつとう》屋へでも飛びこめば、ひっそりとしている。ドスト氏は書画に目がきく。彼が感心したように書画を見ていて、しまいには住いのほうにあがりこんで見たりしているので、どうですかと訊くと、いやあ、ほとんどニセ物ですという答がかえってきた。横浜の骨董屋は、外国人が帰国の際に手放す品に面白いものがある。
それから、中華街の更生堂薬局へ行った。これが有難い薬屋さんである。風邪だと言えば、ハイ、葛根湯《かつこんとう》、小青竜湯《しようせいりゆうとう》。糖尿病だと言えば、ハイ、蕃果《ばんか》。水虫に効く薬はと問えば、名前はないが家伝の妙薬。即座に取りだしてくれる。必ず治りますと言ってくれる。病は気からと言うではないか。薬も気のものであって、治ると言ってくれれば治るような気がするものである。咳、声、喉《のど》と言えば、ハイ、アベシデリンD(漢薬エキス配合)。ふつうの薬局ではこうはいかない。
「なに? 水虫? 水虫が治ればノーベル賞ものですよ。そんな薬があるわけがない」
そう言われるのがオチだ。
「目がギラギラする薬はありませんか?」
ドスト氏が、勢いを得て主人に言った。だいたいが中国系統の人物である。ドスト氏は眼鏡を使用していない。目は丈夫なのである。しかし、最近、細かい絵を描くと疲れるし、目が霞んでくることがあるという。それはそうなのだが、そこがドスト氏の老獪《ろうかい》なところであって、目がギラギラする薬ということで精力剤を要求しているのかもしれない。主人はドスト氏に強力ポリグロンを手渡した。
私は、この店がすっかり気にいってしまった。主人をはじめ女店員たちも自信を持っているのが良い。
ホテル・ニューグランド、八十八、倫敦、ジョリーという毎日のコースに更生堂薬局が加わることになった。
ホテルへ帰ってカレーライス。ここのカレーライスには薬味がおよそ二十種類ぐらいついてくるので有名。ただし、好物のラッキョウも、マウスピースでは食べられない。
また、部屋から港を描くことになる。良平は正面から氷川《ひかわ》丸を描く。私には、そういう描き方は出来ない。良平、このごろ、船の絵を描くのが少し苦痛になってきたという。船の権威であるので、いい加減には描けないからだろう。
日が暮れた。八十八へ行く。卵焼き。アジの酢のもの。ウナ丼《どん》。私のためにやわらかいものばかり。アジは細かくきざんである。この店の卵焼きも良い。板前の腕は確かだ。倫敦はカウンターで飲む。ジョリー。節子さん、満さん、雅子さん。入ってゆくと、いまお噂《うわさ》をしていたところですと節子さんが言った。ロクな噂じゃないにきまっている。早目に帰って入浴。マッサージ。マッサージ師に、香辛料のとりすぎです、それがフクラハギに出ていますと言われた。
[#地付き]●大寒気団
雨は昨日の夜にあがっていた。快晴。万事好都合である。ドスト氏と良平の三人で大桟橋へ行く。快晴であるが小雪が舞うという変な天気。寒い。なんぞはからん、そのとき日本の上空を大寒気団が襲っていたのだ。
通船乗場(沖に停泊している船に乗組員を運ぶための小舟の溜《たま》り場になっていて、待合室があり、日用雑貨などを売っている。ソ連の人、中国人、韓国人、東南アジアの人が多い)から二人の女性が飛びだしてきて、こっちに声を掛けた。誰だかわからない。よくよく見ると、倫敦のT嬢とY嬢だった。眉も睫《まつげ》もない、剥《む》き卵のようなという形容があるが、ピータンのような顔になっている。
「こういう顔を見せるのは愛している証拠よ」
なんてことを言う。
「目がさめたら雪が降ってるじゃん。ホテルへ電話したら、お出かけですって言うじゃん。きっと大桟橋で描いていると思って……」
Y嬢は狸《たぬき》の毛皮のコート。ギャバジンのリバーシブルで、裏が一面の狸。これは温いけれど重いのが難。T嬢はミンク。ジーパンにトンボ眼鏡。
「なかなかナウいじゃん。きみたち、気立てだけはいいね。それから勘も良い」
T嬢は、良平が持ってきた、熱いお茶の入っているアラジンの魔法瓶《まほうびん》を蹴《け》とばしてこわしてしまった。
「気にしない。気にしない。ぼくは、ここでカメラを落としたし、望遠レンズも落とした。ほら、見てごらん。海の底に見えるんだ。海水に漬ったレンズはもう駄目だって言われたんで拾わないんだ。帽子なんて何箇飛ばしたか」
良平が、しきりに気を使う。
「いいよ、俺がこわしたことにするから。あとで元町へ買いにいこう。奥さんに俺がこわしたって言っとくから」
と私が言った。良平は、よく考えてから答えた。
「それでいいけれど、あんまり精《くわ》しく説明しないほうがいいよ」
良平と私とは船溜りを描いた。ドスト氏は、主に遠くの山下公園やホテルを描きこんでいる。
「三人とも、みんな絵が違うから、おっかしいね」
Y嬢が言った。T嬢は、ハゲが来る日だからと言って退散している。
良平は、上衣《うわぎ》を肩にかけ、繋留《けいりゆう》用の杭《くい》に片足をあげ、マドロス・パイプを手にした形で、
「汽笛が呼んでるぜ」
などと言っている。これが、赤木圭一郎に見えるか三波伸介に見えるか、見る人の判断にまかせるよりほかはない。ただし、がいして言うならば、船員というのは、陰気な感じで、うつむいて歩いていて、フトッチョが多いのも事実である。
沖のほうに女房の顔が見え、Y嬢を指さして、
「あんた、この娘《こ》の何なのさ」
と言った。何でもありゃしない。良平は陽性の男であり、私はそうではないから、それで長いあいだコンビを組んでこられたのだと思う。酒を飲むと騒々しくなる。私も調子をあわせる。まったく、寒い大桟橋では飲まずにはいられない。
「アハハハハ。あんたたち、気むずかしい人たちだと思っていたのに、そうじゃないのね。面白いのね」
「おい。それ以上さがると落っこちるぜ」
こういうところにいると、声まで石原裕次郎になってしまう。日活の全盛時代のアクションドラマの舞台は横浜が多かったのを思いだす。
元町へ魔法瓶を買いに行った。むろん、更生堂薬局へも寄った。ドスト氏は、強力ポリグロンを買いたすつもりなのに、とりあえず水虫の薬を買ったりしている。私は骨董屋で、白磁のグイノミを買った。本来は煎茶《せんちや》の茶碗だろう。呉須《ごす》の一本引が美しい。日本郵船の煙突は、二本の線が引かれていて、これをニビキと言う。そればかり見ていたので、そんなものを買う気になったのかもしれない。
良平は、めったには横浜では写生をすることがないという。それはそうだろう。一人で描いていたら人集《ひとだか》りがしてしまう。それで三枚も仕上げたので上機嫌になっている。Y嬢は使い捨てカイロのホカロンを買ってくれた。そんなふうに、そのあたりまでは、うまくいっていた。
ホテルへ、ドスト氏の二人のガールフレンドが訪ねてきた。夫人A、夫人Bということにする。目がギラギラする薬を探していたのは、そのせいかもしれない。
パラオも来た。みんなで八十八へ行った。この日は私のために、板前がムギトロを用意してくれることになっていた。噛まずに食べられる。そのほか、デンガクなど豆腐主体の料理。鰻屋でムギトロを食べるのも変な話だ。山本周五郎先生は、どうごらんになるか。ジョリー、倫敦、英国屋。夫人ABの酒の強いのには驚嘆するほかはない。子供が大学を卒業して就職しているという年代の女性が、いまの日本では一番強いのではあるまいか。酒にかぎらず。
十二時になったので、パラオと二人でホテルへ帰った。あとの連中がどうなったか、それは知らない。
ドスト氏が戻ってきた。私を起こすのに、ドアの外のスイッチを点滅すること五回に及んだという。時計を見ると午前四時。だんだんに紳士ではなくなってきた。
「こんなに遅くなるなら、泊ってらっしゃればよかったのに」
女房みたいなことを言ってしまう。女たちばかりとつきあっていると、自分も女っぽくなってしまう。
その翌日も快晴。謝甜記でカユ。ここも繁昌していて、立って待っている客が多い。とるものもとりあえずという感じで更生堂薬局へ行く。宿酔の薬を貰うためだ。
「これ、すぐ効きますよ」
女店員が笑って言った。二日酔即効薬と書かれたアンプルである。予備の分も買った。
ドスト氏、良平とで新港桟橋の赤煉瓦倉庫を描きに行く。思っていたように、油絵の大作を描く画家がいた。読売アンデパンダン展なんかで多く見られる図柄である。四日目だと言っていた。私たちが行ったのが少し早かったのであるが、どうやら、その画家は、ドスト氏が描いていた場所で描いていたようだ。よくあることである。
Y嬢とT嬢が来た。T嬢は熱燗《あつかん》をいれたポットを持っている。それと柿のタネ。風の強い寒い日だった。
「ねえ、きみ。あの魔法瓶のことは、もう忘れてくれよ。誰でもよくやることなんだから。気にしないでくれよ。魔法瓶ってやつは、こわれやすいんだから」
「忘れたわよ」
「だけどねえ、あの魔法瓶、アラジンか、二十四時間もつような保温性の良いやつでねえ」
「忘れた、忘れた」
「ちょっと惜しかった」
「忘れたって言ってるじゃないの」
「それでいいんだ。実は、昨日、元町で、最新式のを買ったんだ。セールでねえ。サーモスっていうんだ」
「いいから、これ飲みなさいよ」
「こんなもんじゃないよ。英国製だ」
「あんた、そんなにシツコければ、まだ大丈夫よ。旦那にならない?」
「ああ、あッ。俺のサーモスに近寄らないでくれ」
あんまり寒いので、Y嬢T嬢はすぐに帰った。震災でも倒れなかったという赤煉瓦倉庫の脇を、毛皮ジーパンの女性二人が歩いてゆく後姿は、ちょっと風情があった。メリケン波止場の霧笛が噎《むせ》び泣くようだぜ。
産業貿易センタービル二階のカフェ・テ・ド・イン・ラペでコーヒーとチーズケーキ。このごろの流行《はやり》もののひとつが、このチーズケーキ。
そのまま歩いて良平の家へ行った。ちょっと、もう、わけがわからなくなってきている。連日の酒で、そのうえ昼間っから熱燗をやっているので……。
それまで良平の家で飲まなかったのは、彼の次男の高校入試があったからである。
湯豆腐。良平夫人は京都の出身で、こういう人の湯豆腐なら間違いがない。八十八といい良平宅といい、南禅寺か根岸の笹乃雪《ささのゆき》へ行ったみたい。また強かに飲む。
たしか長田秀雄さんに聞いた話だと思うけれど、祇園で吉井勇なんかと流連《いつづけ》して、七日もそれを続けると足腰が立たなくなるという。流連というのは命がけなのである。今日で四日目。そこへ大寒気団だから、血圧なんかどうなっているのかしら。
パラオが来る。倫敦、ジョリー。律義なもんだなと思う。午前二時、ホテルに帰る。もう、フロントの人もいい顔をしない。
[#地付き]●梅に降る雪
三渓園へ梅を見に行くことにした。部屋に電話があって、Y嬢T嬢が二階のロビーで待っているという。そこへ良平も来た。
ホテルの前で自動車を待っていると、
「せんせえい!」
俵星玄蕃《たわらぼしげんば》を呼びとめるソバ屋のオヤジのような大音声。個人タクシーの運転手とも顔見知りになってしまった。
「いまから、チャプチャプ?」
「チャプチャプって何だ」
「食事だよ」
「ソバを食べに行くんだ」
「三渓園のソバ、うまくないよ」
「そんなことはない」
三渓ソバというのは、食通の原随園《はらずいえん》の考案によるもので、ラーメンの液《つゆ》抜きといったようなもの。悪くない。
快晴だけれど小雪が降るという例の天気が続いている。この日、鹿児島で零下六度を記録したという。
女連れで昼間から公園を歩いているのは、自分でも、いい気なもんだと思う。宿酔でふらふら。横浜銀蠅《よこはまぎんばえ》とは俺のことかと思った。
梅は、満開であるような、咲こうとしたところへ雪が降ってちぢんでしまったような、どっちともつかない感じで咲いていた。ドスト氏に訊くと、
「満開です」
と言うので、満開だと思うことにした。
三渓ソバを売っている待春軒に酒がなければいいと思い、いや、あったほうがいいと思い、どっちでもいいやと思って入ってゆくと、日本酒という木札がぶらさがっていた。困ったなと思い、有難いと思い、めぐりめぐって有難いという気分になった。茶店で好きな友人と三人、あまり好きでもないが気のいい酒場の女性二人、梅が満開でもって、そこへ雪が降っていて、白鷺《しらさぎ》が舞い降りたりする。これで飲まなければ後生が悪いと思った。酒は、ワンカップなんとかという甘いやつ。
「うんと熱くしてください。とりあえず、五本。あとでむこうで手をあげたら、三本ぐらいずつ追加してください」
国定忠治は通せんぼ、無理に通ればまた罪が益々深くなるばかり。ままよ草鞋《わらじ》の切れるまで、地獄に向うも生れ星、行けるとこまで行こうじゃないか。そんな気分である。
酒場で酔っぱらいの声をテープに取ったことがある。およそ笑声ばかりで話らしい話はない。あったとしても無内容だ。箸《はし》がころんでもおかしいというのは娘さんのことだけれども、そんな状態になっていった。バカバカしい。いい齢をして。店に迷惑をかけると思ったが、三渓園でも日曜日には歌ったり踊ったりする梅見客がいるという。青梅なんかは盛んなものだ。
いい加減酔っぱらって、もういい加減にしようと思ったとき、
「あ、あ、あ……」
夫人ABが橋を渡って、こっちへやってくるのが見えた。この二人、一方が洋服なら、一方が着物。一方がダイヤなら一方がカメオと、示しあわせたように別々の服装でやってくる。洋服のほうは貂《てん》のコートで、これは高そうだ。
ウイスキイが二本。ブランデーは小瓶だが、これも二本。魔法瓶は、ホットコーヒー。
ちょうど日本酒に飽きたところで、ウイスキイが有難い。茶碗と熱湯をもらってホットにする。腹のなかは温いが、吹きっさらしの茶店だから足が冷たい。何度も便所へ行く。
『酔いどれ紀行』の最終回だと思ったせいでもあるが、まあ、よくも飲んだものだ。
展望台まで大名竹の林のなかを歩いていって、ホットコーヒーにウイスキイをいれたやつを飲む。
ここで、ちょっと別の話。
ずっと以前に、野口冨士男さんの『かくてありけり』という自伝小説を読んでいたら、オカイチョ臭イという言葉が出てきて驚いた。私は、その言葉を知らなかった。野口さんは、東京生まれの東京育ちで、誰でも知っているはずだという感じでオカイチョ臭イという言葉を使っておられた。
野口さんは芸者置屋で育ったという特殊な方である。野口さんが、朝起きて学校へ行くとき、芸者達が眠っている部屋を通ることになる。しかし、そのときは、ちっとも臭くなかったという。野口さんは、慶応の幼稚舎から普通部(中等部)へ進学する。男ばかりの学校である。そうして、事情があって文化学院に転校することになる。文化学院には戦前にも女生徒がいた。文化学院に行ってみて、臭いので閉口したと言われるのである。
島尾敏雄さんは、昔、女子高校の教師をしていたが、階段の踊り場を通るとき、そこにある種の匂いが立ちこめていて、クラクラッとしたという。
私は滅びゆく銭湯というテーマで戯文を書いたことがある。そのとき風呂屋の親爺《おやじ》が、玄人の女は洗うけれど、素人の女は洗わないからねえと言った。これと野口さんの芸者置屋と文化学院との比較をつきあわせると、オカイチョ臭イという言葉の意味が判然とすると思う。ある学者は、オカイチョは御開帳ではないかと言った。私も東京育ちのワルガキであったが、その言葉を使ったことはなかった。
女の髪は枯草の匂いがする。それは決して悪いものではない。満員電車のなかなどで、鼻孔が若い女の髪の毛に触れることがある。これはオカイチョ臭イのと違うが、クラクラッとする。
脂粉の香という言葉がある。一般に紅と白粉《おしろい》の匂いということになっているが、私の語感からすると、そうはならない。それだけではない。化粧料と女の体臭とが混じりあったものである。
何が言いたいのかというと、毎日毎日、女性とつきあっていて、私は、いささか、うんざりしてしまっていたのである。Y嬢、T嬢、夫人AB、私は好きでもなければ嫌いでもない。しかし、匂いだけのことではない。女らしい心づかい、その性情、こっちの配慮。そういったものに倦《う》み疲れてしまうような気配があった。女特有の慎み深さ、それは尊重すべきものであるが、どんな女性にもあるところの一種の鈍感さ、本人の自覚することのない一種の甘えをともなうところの厚かましさ、この慎み深さと図々しさは、どんな女性にも同居していると思われるが、そういったものに疲れてしまったと言っていい。正直言って、うるさくなってくる。どうも、私は、本質的に女嫌いであるようだ。女あしらいが上手ではない。すぐに疲れてしまうし、女を怒らせてしまう。これは女性一般について言っているのであって、特に前記四人の女性についての発言ではない。そう思わないか、諸君!
だんだんに、私は、鬱陶しくなっていった。これは男の我儘《わがまま》だろう。そう思って酒の力を借りることにした。つとめて陽気にふるまわないといけない。
最後の夜だということで、八十八の板前が腕をふるい、内儀は大サービスをしてくれた。富子さんが歌った。内儀の万佐子さんも小唄を歌った。富子さんの歌は軍国歌謡調の悲しい歌だった。
「あんたたちねえ、早く帰ってよ」
と、Y嬢が言った。
「あんたたちに横浜にいられたら、私、商売あがったりになっちゃうわ」
「どうして?」
「だって昼間は旦那がくるのよ。そっちが私の本職なのよ」
「…………」
「三人いるのよ。三人から五百万円ずつ出させてスナックやろうと思っているのよ。これじゃあ、縮尻《しくじ》っちゃうじゃないの。あんたたちが面白いからいけないのよ。明日帰るんでしょう。せいせいするわ。明日っから、商売に身をいれるわ」
富子さんが黒田節を歌ったとき、良平が踊った。
「箸が鎗《やり》に見えるから、たいしたもんだ」
と、ドスト氏が言った。
倫敦へ行き、ジョリーへ行く。倫敦にはピアノが置いてあり、ほとんどの客が歌う。声がいいとか、節廻しがいいとかという人は一人もいない。こんど福チャンとか臥煙とかを連れていって驚かせてやろうと思う。せめて顔のいいのがいればと思うが、これもいない。
「駄目よ、あんた、あれは××海運の偉いさんなのよ」
私は誰にでも拍手することにしている。すると、芸人ふうに深々とお辞儀をしたりする。
ついに、gay barのPへ行くことになった。Pは羽衣町にある。
Pの店内の様子を一言で言うならば、西部劇に出てくる娼婦の館である。その感じは、とてもいい。女(?)たちは、そういう服装をしているのである。もしくは「ベルサイユのばら」である。
Pの大きさは、およそ三十坪であろうか。奥に舞台があり、中央が椅子席、その両側が畳敷になっている。私たちは舞台に向って右側の座敷に案内された。
どのgay barへ行っても、共通して出てくるもの。塩味の濃い味噌汁。握り飯。お新香。
私の隣に空席があり、そこに座布団が敷いてあった。そのあたりをMが片づけはじめた。驚くべし、私が店に入ったとき、いきなりMが飛びついてきたのである。
「きみ、そこへ坐ったらいいじゃないか」
「いいえ、私たち、駄目なんです」
そこで、まず、ゾクッときた。芸者なら、座布団を敷かないのが常識である。しかし、十八歳の少年が、座布団やら脇息やらを片づけているのを見るのは傷々《いたいた》しい。不憫《ふびん》である。Mが私の隣に坐った。その目は大きく潤んでいて、少し離れて見ると、意外にも愁い顔である。私は、もっと突っ張っている少年を予測していたのに。
誰が見たって、Mが一番美しいと思うだろう。女が見たって……。玉三郎よりも綺麗《きれい》だ。すくなくとも、ずっと若い。そのMが、私の隣にぴったりと坐るとは、どういうことだろうか。私は、いまは、こう思う。こういう世界では、年功序列がうるさいのではないか。いかに美貌であるとはいえ、十八歳のMは下っ端である。従って、Mは、いかにも金のなさそうな一行の、そのなかで隊長然と振舞っている私の隣についたのである。禿《は》げ頭《あたま》でもマウスピースでも我慢しよう。そう思ったのではあるまいか。
男でも女でも、綺麗なものはいい。綺麗なものは、評価され、尊重されてしかるべきではあるまいか。昔、私は、Mと同年齢であった頃の美輪明宏もカルーセル麻紀も本当に綺麗だと思ったものである。
「Mちゃん、綺麗だねえ」
私はそう言った。これが、女であると、あら、お上手ねえとかなんとか言って顔をそらすか、自信があっても赤い顔になったりするものである。
しかるに、わがMちゃんは、いささかも動ずるところなく、ヌッとばかりに、私の顔に接するばかりに己の顔を近寄せてきた。ここが違う。
思うに、年齢で言えば高校生、その男の高校生で綺麗なやつほどに綺麗なものはないのではなかろうか。目の輝き、肌艶《はだつや》。とても女は適《かな》わない。第一、オカイチョ臭クない。
ショータイムになった。宝塚のラインダンスのようなことをやる。ここには二十数人のboyがいる。私は裸踊りを見せられるのではないかと思ったが、そういう下品なショーではなかった。清く正しく美しく。
gay barとしてのPは宝塚調なのである。手術してオッパイをふくらましたとか、前をちょんぎったというような女性《ヽヽ》は採用しない。そうして、宝塚調の歌と踊りであるのだから、当然、男役の女性《ヽヽ》がいる。その男役の女性《ヽヽ》が実に男らしい。凜々《りり》しいのである。倒錯をもうひとつ倒錯させたわけで、まことに妙な気分だ。しかりしこうして、耳を擘《つんざ》くばかりのロック・ミュージック。
「右から二番目がMちゃんよ」
と夫人Aが教えてくれた。同じような化粧なので、すぐにはわからない。
「Mちゃん!」
私は拍手した。
「Mちゃん、可愛い!」
ここにおいて、私は、旅芸人に入れ揚げるお婆さんの心持を自分のものとして理解することになった。Mの踊りは実に下手だ。そんなことはどうでもいいのである。旅芸人だけでなく、杉良太郎は、花道で、婆さん連中に握らせるという話を聞いた。私はそんなことはしないが……。Mの踊りは体操のようであったが、下手だから良い、下手だから可愛いということもあるのではないか。
「Mちゃん、いいよ」
ソロのとき、私の拍手は、いっそう高くなった。酔った勢いというものである。それからが、おそろしいことになった。
気がついたとき、私は、女《ヽ》たちにとり囲まれていた。柳眉《りゆうび》を逆立てるというが、そもそもが、そういう化粧なのである。それでもって瞋恚《しんに》の炎《ほむら》めらめらっと、という感じで迫ってくる。二人や三人じゃないのだ。見上げるような大女もいる。
「Mなんて、わたし、大っ嫌いよ」
さあ、どうしてくれる? 凄《すご》んでくる。これは、こわい。
私は理解した。こういうところで、一人だけに拍手したりしてはいけないのである。まして、Mちゃん、可愛い、なんて。
「さっき、何て言った?」
「だから、Mちゃん、可愛い! って」
蚊の鳴くような声になる。
「そうじゃない。おれのとき、ゲイって言っただろう」
「あれはね、芸の力って言ったんだよ。私はね、よく、月謝の力とか事務所の力っていう声をかけるんだよ。それが癖になっちまって。すまない。ごめんなさい」
「Mなんて大っ嫌いだよ。あんた、このまま帰れると思っているのかね」
ここでMの服装を紹介しよう。彼女は、おそらくはサテンと思われる純白のワンピースを着ている。そこに同じ布地のケープのようなものがついていて、簡単に言えば、ベビー服を大きくしたようなものである。それがカワユイのだ。それでもって怯《おび》えて私にしがみついてくる。
どうなることかと思ったとき、私の左隣にいた女(これは本当の女だ)が、いきなり、私に抱きついてきて接吻した。わけがわからない。私の唇に絵具を舐《な》めたときのような味が残った。その女は、
「これでいいでしょう」
と言って、あたりの女たちを見廻した。私は、その女の咄嗟《とつさ》の機転で救われたのである。私は得をしたような、そうでないような、変な気分になった。
その女の行為は、いまでも、私には、よくわからないのである。無理に解釈すれば、この人は、本当は、本当の女に興味があるのだということを廻りの女たちに示したということになるのだろうか。私は女あしらいの下手な男である。まして、そういう女《ひと》たちをどう扱っていいのか、皆目、見当がつかない。
ついに私は踊ったのである。Mと踊った。この私が……。私は踊れないのである。だから、舞台の中央で抱きあって腰を動かすだけである。そのときにMが大きな人であることがわかった。私より頭ひとつ大きい。百八十センチはあるだろうか。従って、チークダンスは出来ないのである。私の額に固いものがぶつかった。あとでわかったのであるが、Mはブラジャーを二箇重ねてつけていたのである。
私はMの腰に手を廻したつもりなのであるが、触れたのは臀部《でんぶ》である。よく少年のように縦に盛りあがった臀部と言うではないか。Mは少年なのである。坐っていれば私と同じ高さなのだから、Mの足がおそろしく長いということになる。しかもスリムである。Mのお尻は、サテン地を通してツルツルしているのがわかった。だいたい、それくらいで、その前後の記憶はアイマイである。
危《やば》いなあと思う。何か斬ったはったの事件になるのではないかという厭《いや》な予感がした。
私は、かねがね、粋の粋なるものは男と男の関係だと思っていて、そのことを書いたこともあった。平行線でもって交わることのない関係、決着のつかない関係が粋だと思っている。だから、着物の縞柄が粋だというのはそのためであるということを書物で読んだ。縞模様は平行線でもって交わることがない。
俺《おい》ら厭だぜ、横浜心中なんていうのは。
むろん、私は、Mとの翌日の再会を約した。しかるに、五泊六日のその最後の日、ホテル・ニューグランドのベッドから起きあがるのがやっとのことだった。謝甜記へも更生堂へも寄らず、八十八の勘定だけを支払って帰った。
良平は、このとき、国立《くにたち》台風が去ったと思ったという。
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酔いどれ紀行●出口
昭和五十九年八月新潮文庫版が刊行された。