[#表紙(表紙.jpg)]
山口 瞳
還暦老人ボケ日記 男性自身シリーズ23
目 次
絶筆 エッセイ1[#「エッセイ1」はゴシック体]
▼昭和六十一年▲[#「▼昭和六十一年▲」はゴシック体]
還暦
庭の眺め
訃報
疲労困憊
クラス会
河豚
雪催い
宴会続き
▼昭和六十二年▲[#「▼昭和六十二年▲」はゴシック体]
中途半端なり
外出せず
直木賞選考委員会
フリージア
不老こ[#「古」の変体仮名]う エッセイ2[#「エッセイ2」はゴシック体]
続・不老こ[#「古」の変体仮名]う エッセイ3[#「エッセイ3」はゴシック体]
節分
暖冬異変
冴返る
水温む
肥料をやる
叱られる
横綱相撲
ホテル西洋
国鉄最後の日
百花
春愁
皐月賞
黄金週間
幸福
梶葉忌
パドックの馬
大逆転
ショック
入梅
まいね
五月晴
浦安
夏風邪
熱帯夜
大失敗
祝賀会続き
熱闘甲子園
野球漬け
俄か雨
祖国愛 エッセイ4[#「エッセイ4」はゴシック体]
山の上ホテル
文蔵 エッセイ5[#「エッセイ5」はゴシック体]
気が短い
鍼治療
王貞治
静物
姪の結婚
巨人軍優勝
大暴落
秋暑し
強行軍
一の酉
四連投
将棋の話
身体検査
忘年会
看護婦
頑迷固陋
谷保村の夜
▼昭和六十三年▲[#「▼昭和六十三年▲」はゴシック体]
鮟鱇鍋
直木賞・山本賞
老人割引
老人の健康法
中村琢二先生
小鳥たち
文学賞 エッセイ6[#「エッセイ6」はゴシック体]
禿頭翁
寒雀
長島一茂君
[#改ページ]
[#小見出し] 絶 筆
五十歳になったら仕事をやめようと思っていた。私と同じように考えている何人かの男たちに会った。そのうちの一人は地方都市のタクシーの運転手で、裕福そうには見えなかった。彼の趣味は盆栽作りで、他人の家の盆栽の世話をしたり自分の盆栽を売ったりすれば何とか暮せるだろうと言っていた。盆栽を仕事だと考えていないのが面白かった。どの男も戦時中に軍隊経験のある人ばかりだった。言外に「あんな思いをしたんだから、少しは楽をしたって文句はあるまい」と言っているようだった。
しかし、私は、五十歳になったとき仕事がやめられなかった。自分で好んでする貧乏なのだから、自分の貧乏は仕方がないとして、借金が残っているのは困る。
その後、ずっと、仕事をやめる話を忘れていた。昭和六十一年の十一月に六十歳になったのだが、周りで還暦の会をやるとかやらないとかの話が持ちあがったとき、それを思いだした。会社員とか大学教授とかは、だいたいにおいて六十歳で定年退職する。私もこれに従うことにした。
そもそも私は懶《なま》け者である。才能もエネルギーも、とっくの昔に枯渇《こかつ》している。それに、若いときから年金生活者に憧れていた。なんとか六十五歳で年金が貰えるところまで喰いつなげるのではないかとも考えた。
六十一年の十一月の誕生日に絶筆を宣言した。しかし、連載を勝手に中止するわけにはいかない。二十四年も続いている週刊誌の仕事は残して、これを「還暦老人日記」と称して日記体で続けることにした。内証《ないしよ》を言えば、これが無いと暮せないのである。『小説新潮』の「新東京百景」は六十二年の八月頃終る予定になっている。
「仕事をやめるなんて、ずいぶん溜めこんだもんですね」と言われるが、そんなことはない。「そのうち誰かが夢枕に立って、また書くようになる」と吉行淳之介さんに言われた。「じゃ、あなた出てきてください」と頼んだのだが、一向にあらわれない。私自身は、小説が書きたくなったら、盆栽好きの運転手のように趣味で書く。「抽出《ひきだし》のなかからこんなものが出てきたんだが使ってくれますか」と言って出版社へ持って行こうと思っている。絶筆なんて言ったって、私の場合は、まことに、好《い》い加減なもんだ。
[#改ページ]
[#小見出し] 昭和六十一年
[#地付き] 還 暦[#「還 暦」はゴシック体]
十月三十日(木) 晴
八時起床。プロテイン入り牛乳、野菜ジュース。パン(バター、チーズ、ジャム)、コーヒー。
金沢深谷温泉で取ってきた苔《こけ》(金沢片町|倫敦《ロンドン》屋の戸田宏明氏が宅急便で送ってくれた)を植える。苔は移植不可能と言われているが、懲りずに苔を見ると庭に植えたくなる。虚仮《こけ》の一念だと言う人がいる。
午後二時、銀座|フジヤマツムラ《ヽヽヽヽヽヽヽ》の古谷美佐子(姪)AVONのスポーツシャツを届けにくる。これは文藝春秋からの還暦祝い。絹とカシミヤの上等で高価なもの。「お金で渡して自分で選んで買いますか?」と言われ、「とんでもない。そんな高いもの、自分じゃとても買えません」と答える経緯《いきさつ》があった。美佐子、ケラケラとよく笑う。元気になったし、銀座で働いているうちに綺麗にもなった。
男性自身、一一七九回、「秋時雨」書く。
就寝前、大正製薬パブロンで含嗽《うがい》。これは小学館「昭和文学全集」の編集の方に勧められたもの。風邪を引かぬという。いろいろ試したが、パブロンが一番具合がいい。これで、この冬、風邪を引かなかったら萬々歳だ。
十月三十一日(金) 快晴
八時起床。庭を掃き、水を撒《ま》き、落葉を燃やす。焚火を見ながら莨《たばこ》。この一服に勝る美味はない。『小説新潮』に連載中の「新東京百景」十回目、三枚書いてストップ。夜、担当の池田雅延君来。これは息子正介のほうの原稿を取りにきたもの。
十一月一日(土) 晴後曇後雨
七時起床。八時半出発で府中の東京競馬場へ。妻と一緒。僕は土曜日曜は何も考えないようにしている。第一レースから最終レースまで全部馬券を買うんだから大変だ。妻、一万円ばかり儲《もう》ける。僕、七千九百五十円のマイナス。今後は競馬で暮しをたてようと思っているのに、これでは困る。
鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》のこ[#「古」の変体仮名]うさんの百ヵ日が吉原の松葉屋《ヽヽヽ》で行われているが、昼間なので欠席。こ[#「古」の変体仮名]うさんは競馬の好きな人だったから、まあ御免なさいと心中で謝る。一の酉《とり》。大国魂《おおくにたま》神社で熊手を買う。三百円。
国立市富士見通り繁寿司《ヽヽヽ》へ行く。文藝春秋、豊田健次氏に会う。津本陽氏御嬢様の結婚式の帰りだという。
帰宅すると、吉行淳之介氏から赤いパジャマ二枚届いている。熨斗紙《のしがみ》に「還暦御祝 吉行淳之介」と書いてある。赤貧洗ウガ如キ人に心配かけて申訳なし。早速着用、宛然《さながら》、歩く唐辛子の如し。『小説新潮』編集長川野黎子女史より快気祝い。鋏《はさみ》・ペーパーナイフ・セット。手術成功の意味か。
夜、TVドラマ、向田邦子原作、深町幸男演出『父の詫び状』を見る。向田深町のコムビもこれが最後かと思うと、何か心のなかに秋風の立つ感じ。作品の出来栄えより、堪らなく向田女史に会いたくなる。
十一月二日(日) 曇後晴
府中競馬場。徳田義昭氏、妻と三人。僕、三万三千五百五十円のマイナス。いやはや。夏の新潟、九月の中山を使ってきた馬に疲れが出てきたようだ。妻は「こんなに当って気持が悪い」と言う。午前中はパーフェクトだったそうだ。夕食|繁寿司《ヽヽヽ》。
十一月三日(月・文化の日) 晴後曇
競馬のおかげでよく眠れた。
ああ、遂にこの日が来た。満六十歳の誕生日、すなわち還暦。この日を期して連載中の仕事以外は、いっさいやめるつもり。嬉しくって仕方がない。
理由はいろいろあるのだが、友人村松博雄(『町医者』の著書がある)の臨終の際の言葉の影響がもっとも大きい。
「思い残すことは何もない。ただ、たくさん集めた書物の半分も読んでいない。それだけが心残りだ。どうか、お前たち、お父さんの読めなかった書物を、できるかぎり読んでくれ」
村松が二人の息子にそう言っているとき、最後のほうでは心臓が止まっていたという。村松の無念がそれでわかる。
僕は、よく、東京新聞の「大波小波」なんかに、老人臭い、老人ぶると書かれた。四十代の終り頃から、隠居したいと言っていたのだから無理もない。還暦近い老人という言葉は、高齢化社会でも生きているはずだ。これからは大威張りで老人と言わせてもらうつもりだ。
仕事をやめて「日々是好日」もしくは「いのちの果てのうすあかり」といきたいもんだ。思春期をすっぽりと戦争に包みこまれてしまった世代の者には、こうする資格があると思われる。村松の遺志を拳々服膺《けんけんふくよう》、勉強に精出そう。どうか、御支援のほどお願い申しあげます。そうやって、何とか六十五歳の年金支給まで辿りつきたい。
植木屋の鈴木正男氏より煮染《にしめ》と赤飯が届く。これは還暦と関係なく、国立市では文化の日に天下市という一種のお祭りがあるためだ。煮染の人参|牛蒡《ごぼう》うまし。
妻、お祝いだと言って、鶴亀と松の緑の三味線を弾く。
鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》の旦那岡田千代造氏来。こ[#「古」の変体仮名]うさんの法事は盛会だったそうだ。鬱金《うこん》の風呂敷、吉原名物|二葉屋《ヽヽヽ》本店のけいらん巻、|※[#「魚+鑞のつくり」、unicode9c72]子《からすみ》を頂戴する。
千代造氏、妻と三人で天下市を歩く。雑踏のなかで矢口純氏に会う。会社の運動会があったそうだ。綱引きに参加したという。僕のようにリタイヤする者もあれば、益々元気という人もいる。
千代造さんと一緒に繁寿司《ヽヽヽ》。これで三日連続。浅酌して自らを祝う。また豊田健次氏に会う。文藝春秋は社長の上林吾郎氏をはじめ岡田《ヽヽ》を贔屓《ひいき》にする人が多いので話が弾《はず》む。千代造氏、店で知った顔の客が来るとホッとするという。僕のような客でも大いに来てくれという意味か。僕、むかし、千代造氏のことを無愛想な男だと思っていたが、どうやら、本物の人見知りらしい。この日、ときに涙ぐみ、亡母を語って倦《う》まず。
新潮社石井昂君から祝電あり。
十一月四日(火) 曇
午前二時半起床。『小説新潮』書く。七時半脱稿、十九枚。明方、妙に暖い。この「新東京百景」という読物、変りゆく東京の風景を絵と文でもって綴る企画であるが、はからずも未来都市が見えてくるという余得があった。その変化の凄まじさにやっと追随するという感じになってきた。
落葉|頻《しき》り。庭を三度掃く。焚火。午後二時池田雅延君来。僕の原稿を渡す。
友竹正則氏より花。還暦祝いというよりは前田美波里ショーという感じの派手派手しいもの。赤いパジャマで花の前でポーズを取ってみた。
大橋巨泉より来翰《らいかん》。テレビの彼からは想像のつかないような長文の良い手紙。
十一月五日(水) 小雨後曇
午後から『オール読物』の「誰にも青春があった」という連載小説の五回目を書く。これもあと一回で終り。
最後の小説だというのに、頭がボーッとしてはかどらず。何よりも|小説を書くときの気合《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が不足しているのを痛感する。夜の十二時にやっと脱稿。二十四枚。
ウイスキイを薄目に湯で割って、タンブラーに二杯。就寝一時半。
[#改ページ]
[#地付き] 庭の眺め[#「庭の眺め」はゴシック体]
十一月六日(木) 晴
庭を掃き、水を撒き、焚火。この順序でやらないといけない。そうでないと、ゴムホースを焚火に突っ込んでしまう怖れがある。焚火を見ながら一服。
日米野球4―6で一勝。野球というのは、大男のやるスポーツだ。大男で強肩で足が早くなければいけない。そうして守りが基本になる。日本チームが奇跡的に辛勝したのは、近鉄大石、阪急松永の好守によるもの。
夜、繁寿司《ヽヽヽ》から還暦祝いの刺身とベッタラ漬けが届く。刺身は、いつもより綺麗に盛ってある。臥煙君来。ゲラ直し。
十一月七日(金) 曇
金沢旅行中の古新聞を読む。内田百閧ヘ、六畳三間のうち一間が古新聞で占領されていた。百關謳カは「いつか読むつもり」だと言っていたそうだが、その気持なんとなくわかる。
朝、妻は、惚《ぼ》け防止のため、毎日新聞夕刊、加藤芳郎「マッピラ君」の昨日のストーリーを思いだそうとする。中年となった息子は、タモリ「笑っていいとも!」の昨日のゲストが誰であったかを考えるそうだ。なんともはや……。
本田靖春『警察《サツ》回り』(新潮社刊)やっと読了。読書のスピードの衰え、あきれるばかり。この本は、前半の記者クラブの描写がいい。後半は、本田さんの人の良さが前面に押しだされている感じ。小説家は、もっと意地悪い目で書く。概して言うならば、ノンフィクション・ライターや推理作家は、人間が良すぎる。
午後、妻と散歩。今年は十月に暖い日が続いたせいか、大学通りの銀杏の黄葉が遅いようだ。駅前|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》でコーヒー。マスターの伊藤接氏と、画廊|岳《がく》で行われている彫刻家の「七人展」を見に行く。最終日で、関保寿先生も江口週さんも、もう一杯やっている。彫刻家は元気だなあ。
旭通りの洋品店でポシェットを買う。これから皮ジャンを着る機会が多くなり、皮ジャンにはポケットがないのでポシェットが必要になる。三千八百円。還暦祝いだと言って妻に払わせる。妻は競馬で儲けてリッチなのだ。
十一月八日(土) 晴
府中競馬場。妻、十二レース中十レース的中。こういう勘のいい女と四十年も暮しているのだから疲れるわけだ。僕、七百九十円のマイナス。
JCが近く外人客多し。妻、便所へ行くと女の外人客で一杯だという。彼女等も緊張するのかしらん。洋式便所は二箇所しかなく、平気で日本式便所に入るという。いったい、どんな恰好で放尿するのか。エイズ騒ぎ以来、日本式便所に人気があるという話も聞いた。
大国魂神社境内の植木市で小桜大文字を買う。千五百円。
十一月九日(日) 曇夜雨
府中競馬場。東京新聞運勢欄に「老樹に新しい枝伸びる象《かたち》」とあり、これはいいぞと勇んで出かけたが二万四千三百円のマイナス。京都で行われた菊花賞では、マンノベスト(十三着)、カツタイフウオー(九着)、メジロボアール(十着)の単勝を買ったのだから仕方がない。それにしても、ダイナガリバー(二着)というのは捉《とら》えどころのない馬だ。あんな調教で好走するのだから。
なぜ、こんなに熱心に競馬場へ行くのか。一に競馬場の近くに家があるため。二に僕の運動のため。三に一人歩きできない妻を歩かせるため。四に競馬が好きなため。以下略。
十一月十日(月) 晴
落葉頻り。庭を掃くこと三度、四度。ついに右掌オヤ指内側の皮|剥《む》ける。還暦祝いに頂戴した花と花籠を燃やすのは、ちょっとした大仕事。
昼寝三十分。これも僕の健康法のひとつ。昼寝しているあいだは目を使わない。莨を吸わない。
十一月十一日(火) 晴
十二時、麹町リバースで鍼《はり》治療。これは、妻の不眠症と神経症の治療のため。息子の運転で僕のツキソイで、体質改善という根拠があれば、これくらいは我慢できるようだ。ただし、このへんが限度。妻はお灸《きゆう》も据える。僕、お相伴《しようばん》の形で鍼をやってもらうが、おかげで涙の出るような肩凝りは治った。鍼には即効性のあるのが有難い。
看護婦とか女のマッサージ師には、どうかすると大変な厚化粧の人がいるが、あれはどういうわけか。
白髪美人の中山あい子女史がカーテンの隙間から顔を覗かせる。「俺の裸を見にきたんだろう」というのが僕の挨拶。「そうだよ」というのが彼女の返辞。この治療院は、彼女の紹介によるもの。小説家に神経症の患者が多いのに驚く。豪放|磊落《らいらく》の中山女史にしてしかり。
妻、四谷の漢方医に寄り、睡眠薬を貰う。ここの桑木先生は、新潮社の石井昂君の紹介によるもの。他人が、良いと言ったものは、すべて試みてみるつもり。これは老年の心がけのひとつではあるまいか。ほかに妻は春原千秋先生から西洋医学のほうの睡眠薬も頂いている。大勢の人によって生かされている感じ。
三時、日本橋高島屋脇|壺中居《ヽヽヽ》で開かれている京都の陶芸家竹中浩氏の個展を見に行く。将棋の大内延介九段夫人正恵さん、田丸昇七段に会う。竹中氏は、違う世界の人たちにも人気がある。人徳と言うべきか。息子は「絵が上手になったね」と言う。僕も同感。
高島屋《ヽヽヽ》地下食品売場でフォーションのローシュガー・ジャム二瓶、長門《ヽヽ》で切蒸羊羹を買う。僕の母は銀座にあった長門《ヽヽ》の菓子を愛好していた。千代紙で貼った箱も大事にしていた。鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》のこ[#「古」の変体仮名]うさんも同じであったらしく、こういうものにも筋《ヽ》があるようだ。
妻、日本橋のデパートで買物をするなんて何年ぶりかしら、と言う。そうなんだ。思いきって出てしまえば、どうということもないんだ。
国立に戻り、駅前|蘭燈《ランタン》園で食事。僕焼飯、妻ワンタン。
夜、諸井薫氏『夕餉の支度の匂いがする』(講談社刊)文庫本の解説を書く。十枚。こういう仕事も、これが最後だ。大いに気をいれて、諸井さんの文体模写で書くが、あまりうまくゆかなかった。しかし、こういう試みは、あまり成功すると著者に失礼になるのではないかとも思う。
十一月十二日(水) 晴
八時起床。新聞を読むあいだも庭の落葉が気になる。新聞と言えば、昔は隅から隅まで読んだものだが、この頃は、どうでもよくなった。
乾いた落葉は、掃くとシャーシャーという音がする。裏の家の庭からもシャーシャーという音がして、しばらくして煙が立つ。秋深し隣も庭を掃く人ぞ。ぼんやりと庭を眺める。昼寝三十分。
山口百恵チャン、国立市に二百坪の土地を購入したという新聞記事あり。噂されていた一橋大学裏の空き地とは別の所だった。あれは一等地で静かな良い住宅街だった。隣近所の迷惑を考えて別の場所にしたのではないかと推測する。購入したという土地のあたりは、まだ畠が多く、郵便局も学校もある。あの桜並木の大通りにTV局がクレーン車を押っ立てて、邸内を撮影するようだったら怒ってやろうと、いまから力《りき》んでいる。……僕もミーハーだな。
[#改ページ]
[#地付き] 訃 報[#「訃 報」はゴシック体]
十一月十三日(木) 曇
島尾敏雄氏死去の報。昭和二十年代の終りに、一緒の同人雑誌にいたが、島尾さんは別格の感があった。あるとき筆記具の話になり、島尾さんが「ぼくは二百字詰のザラザラの原稿用紙でペンがひっかかる感じでないと駄目なんだ」と言ったのが妙に印象に残っている。もっとも、当時はロクな原稿用紙は無かった。三十二年頃、市川の国府台《こうのだい》のほうの精神病院に原稿料を届けに行くと(当時僕は雑誌の編集者だった)、島尾さんが夫人とともに病院で生活していることがわかった。これじゃあ夫人の病気も治らないばかりでなく島尾さんも病気になってしまうと思った。僕は、神経の病気は感染すると考えているから……。「もっと開かれた小説を書いてください」と言うと、島尾さんは明るい顔で、「開かれた小説を書きます」と言ってくれた。しかし、彼は、その後も、暗い閉ざされた小説しか書かなかった。病院で夫人と一緒に生活することがなかったら『死の棘』は書けなかったろうし、小説家というのは妙な職業だと思う。
十一月十四日(金) 晴後曇
『週刊朝日』十一月二十一日号に、横澤|彪《たけし》氏が景山民夫氏の、新人類の一種である究極クン≠ノついての説を紹介している。「非難や苦言を浴びせられても、それが自分に向けられたものとは考えない」というところで笑った。本当に言い得て妙だ。学校教師なんか思い当ることが多いんじゃないか。僕も、直接的に叱ると血圧があがるから「これだから山梨県人は嫌いだ」とか「岡山県人は困るなあ」というふうに言うのだが、決して自分のことだとは考えない。ただし究極クン≠フ大量生産に最も熱心なのは横澤彪氏自身じゃないかという思いを拭い去ることはできない。
サン・アド広内啓司氏来。還暦祝いとして CHATEAU LATOUR (1960)を頂戴する。
散歩。駅前|金文堂《ヽヽヽ》で蛍光ペン、大学通り洋品店で靴下三足買う。|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》でコーヒー。マスターの伊藤接さん「一橋大学の前に転《ころが》っている石で良いのがある」と言う。誰の見る目も同じだなと思う。妻、よく持っていかれないわねと言う。あれを持ってゆくのは大変だ。拙宅の銀杏も大学通りの銀杏も色が冴えない。チェルノブイリの事故と関係があると言う人がいる。
円地文子先生の訃報に接する。
『銀座百点』の座談会に招《よ》んでもらったとき、吉行淳之介氏、小田島雄志氏、円地先生の三人で、座談会が始ったと思ったら、次回に誰を呼ぶかという相談になる。ずいぶん失礼な話じゃないかと思ったが、吉行さんによると、次回の人選は「今晩のお菜《かず》は何にしましょうかと家人に訊《き》かれる」のと同じように鬱陶しいものなのだそうだ。そのくせ「結城昌治さんがまだですね。結城さんの食べものの話は面白い」なんて、その話に割りこんだりするのだから僕もどうかしている。
その吉兆《ヽヽ》での座談会が終り、僕は階段を歩いておりたが、他の三人はエレベーターを使用する。僕のほうが早くて、エレベーターの扉の前で待っていた。やがて洞窟が開く感じで扉があいた。当時、吉行さんは「人工水晶体」以前で、円地先生も目が悪い。これに従う小田島さんは寺の和尚のように見えた。
「やあ、これは『壺坂霊験記』だな」
と言ったら、円地先生が嬉しそうに笑った。こういうときの円地先生は、茶目ッ気のあるお嬢様のように見える。座談会の仕返しのつもりが反対に喜ばれてしまった。
十一月十五日(土) 曇
隣町の府中の東京競馬場。マイナス一万九千円。
夜、佐賀の山口良平、次男と二人であらわれる。僕の父と良平の父が従兄弟同士という関係。長男の縁談、長女の婚約、次男の就職の話。長男の嫁がなかなかきまらないという。いまや、農家では、子供たちが出ていって、老父母の二人暮しが多いそうだ。他人事じゃない。こっちもそれに近い。
良平は釣の恰好をして、
「(長男の嫁が)かかったまではよかったばってんがですよ……」
話がこわれると言う。前夜、島尾さんを思い円地先生を思い、ほとんど一睡もできなかったが、この日はよく眠る。
十一月十六日(日) 晴
よく眠ったと思ったら、遠目がきくようになった。府中の競馬場。減量で苦しんでいる小島太騎手が、ステーキを食べるとジワーッと目が見えてくると言っていたのを思いだす。ヤツメウナギの効果なんかもこれじゃないか。
ゴンドラ席に京都の陶芸家竹中浩氏あらわれる。受付で僕の名を言ったら案内してくれたそうだ。いやどうも、競馬場では顔《ヽ》になってしまった。
名手岡部幸雄騎手、前日から十四レース未勝利。これにつきあったのでヒドイことになった。マイナス六千円。行きのタクシーの運転手に馬券を頼まれ、これが全て的中。まあ、そんなもんだ。
繁寿司《ヽヽヽ》で、竹中氏と相当に飲んでしまった。還暦祝いのお返しの件。竹中氏の好意に甘えることにする。
スバル君よりネクタイ、一関北上書房|間室胖《まむろゆたか》氏より林檎一箱賜わる。芳香厨房に満つ。
十一月十七日(月) 曇
寒い。それでも庭を掃き、苔に水をやり、焚火をする。
自由が丘|チロル《ヽヽヽ》市村明氏より焚火セット(毛糸の帽子、手袋、マフラー)を賜わる。飲みすぎのためか外に出たせいか、風邪気味で頭が重い。
木村義雄十四世名人死去の報。また一人、昭和の巨人が消えた。電話取材には応じない主義なのだが、木村さんが非常なる文章家であることを言いたかったので、電話口で答えた。木村名人の『私の三十五年』(新潮社刊・昭和十四年)は名著であり、東京を知るうえでの貴重な資料だと思っているので、各社の出版部員に文庫化を薦《すす》めたが実現しなかった。
板谷進八段のお父様の会が名古屋の料亭で開かれたとき、大広間の末席に坐っている僕の妻を指さして「あの御婦人は誰方《どなた》じゃ」と言ったのを思いだす。
十一月十八日(火) 晴
早起きして『別冊文藝春秋』随筆二枚半。松成武治氏に渡す。松成氏、これも連載だと言う。言いだしたらきかない頑固な編集者である。不遇時代の円地文子先生を発掘(?)したのが松成氏である。円地先生の何かのお祝いの会のとき「松成さんは私の恩人です」と壇上で言われたのが、とても嬉しかった。円地先生は、亡くなった日も新年号の小説の口述筆記の約束があったという。わが身を顧みて忸怩《じくじ》たる思いがある。お通夜には九州での島尾敏雄氏の葬式から取ってかえして手伝いにきた人がいたそうだ。編集者は大変だ。
一時、朝日新聞川本裕司氏来。
三時、臥煙君来。「新東京百景」打合わせ。
四時、サントリー宣伝部K君来。還暦祝いセーターを賜わる。K君個人からはチョコレート。柳原良平夫人から赤いセーターと喜久屋《ヽヽヽ》の洋菓子。
本日の来客、兵庫県人二人、岡山県人二人。とても疲れる。終日風邪気味。
十一月十九日(水) 曇後晴
夕刊フジ金田氏来。散歩に出て、健康煙草 Jin jian 四箱買う。『鴎外全集』第七巻、半分ぐらい読む。
[#改ページ]
[#地付き] 疲労|困憊《こんぱい》[#「疲労困憊」はゴシック体]
十一月二十日(木) 曇
『週刊新潮』編集部西村洋三氏来。還暦祝いに何か買ってくださるというので、風邪気味なのだが、彼の運転で横浜へ行く。午後一時に家を出て、横浜まで二時間を要した。「五《ご》、十日《とうび》なので込んでいる」と西村氏は言う。西村氏、朝渡した原稿をニューグランド・ホテルからファクシミリで会社へ送る。流行作家になった気分。
元町通り松下家具店で籐の安楽椅子を買って貰う。昔から好きな店だった。老人になると楽な椅子が欲しくなるという傾向がありはしないか。
中華街|更生堂《ヽヽヽ》でアンプルの風邪薬を買って服《の》んだら、アヽラ不思議、たちまち風邪が治ってしまった。他に葛根湯、タイガーバーム(臥煙君のお母様に進呈するため)を購《もと》める。ニューグランドに戻ってローストビーフを食す。
十一月二十一日(金) 晴
午後散歩。金文堂《ヽヽヽ》でパンチャーと接着剤を買う。煙草屋で金建(中国の健康煙草)ワンカートン。
三原山大爆発。夜遅くまでTV中継を見る。こういう場合、一番大切なのは被害に遭った島民の安全である。TV局は、そのことだけを考えてもらいたい。被災者は、ラジオとTVを頼りにしている。何地区の人はどこそこへ集合せよ、救助船は何時に何港に着くということだけを繰り返し報道してもらいたい。漁船で逃れた人たちはどんなに不安だったろうか。
功名に逸《はや》る取材合戦や、安永年間から数えて二百年目だという学者の説の紹介や、犬猫をどうするといった話を聞かされると、無性《むしよう》に腹が立つ。もう一度言うが、記録的なことはどうでもいいのであって、被災者がいまどうしたらいいかということだけを考えてもらいたい。
十一月二十二日(土) 晴
府中競馬場。この日の狙いは、白樺湖特別のカシマアオイと定めて、五枠から総流し。僕が総流しをするのは、単勝と二着払いの複勝を買うという意味である。果してカシマアオイは三馬身差逃切大楽勝。しかも二着に十六番人気のカスタムボスが突っ込んで、連複配当一万三百八十円の所謂《いわゆる》万馬券。これで今年の負けをすべて取り返したと思った。
ところが、好事魔多しというべきか、ナントナント、CDという的中馬券だけが無いのである。総イレ歯で穴場のオバサンが聞きとりにくかったのかもしれない。
本田靖春氏に馬券を見せて、
「きみ、こういう経験あるか」
と訊くと、優しい本田さんは、
「ありますよ」
と言って慰めてくれる。僕は初めての経験。齢は取りたくないもんだと思った。これから気をつけようと思っても、そのコレカラが、あと何年間あるか。結果はマイナス二万五千六百五十円。
繁寿司《ヽヽヽ》に寄ったが客が一人もいない。出前の注文もない。
「みんな大島のほうへ関心がいっちまって、寿司のほうへ頭が廻らない」
主人のタカーキーが歎く。
洋品店でマジックテープを買う。万馬券を取り損ったのは、金や馬券をいれるポシェットが不備だったせいだと考え、すでに買ってあった接着剤とマジックテープでもって大改造を試る。これがまた大失敗。生来の不器用に加えて接着剤を付け過ぎるから、なんとも悲惨なことになった。
十一月二十三日(日・勤労感謝の日) 晴
八時半、スバル君来。一緒にJC(ジャパン・カップ)の競馬へ行く約束。スバル君、ジュピターアイランド(一着)の単勝的中、赤木駿介氏アレミロード(二着)の複勝的中。この日、僕は魔法のポシェットの効果あり、好調で、JCに勝つのはアレミロードだと思っていたから、同枠サクラユタカオー(六着)に敬意を表してG一点で大勝負。
有銭《ありがね》そっくり投入したと思っていたが、家へ帰って計算すると千百円のプラス。情ない。これで僕の今年の競馬は終った。中山競馬場は遠いから行かない。
高橋義孝先生は、相撲の千秋楽が終ると「遠い親類の娘が死んだような気がする」と言われるが、競馬も同じことで寔《まこと》に言い得て妙だ。
十一月二十四日(月・振替休日) 曇後小雨
昼頃、臥煙君、フミヤ君来。『小説新潮』に連載中の「新東京百景」取材のため。三人で品川のホテル・パシフィック東京へ行くと、金沢倫敦屋(酒場)の戸田宏明氏が待っている。取材協力を申しいれてきたのだ。
ハテ、遠来の客をいかに遇するか。浅草で鋤焼《すきやき》というのが面白いと考え、京浜東北線に乗って上野へ行き、雷門まで歩き、|ちんや《ヽヽヽ》に上った。徳川犬公方の時代に狆《ちん》を売っていた店だ。
腹ごなしに六区を歩いていると、浅草演芸場の前に漫才の内海桂子・好江が立っていた。桂子さんが飲もうと言いだして染太郎《ヽヽヽ》へ行く。三の酉は明日だが、もう店が出ているという。
行ってみようということになり、小雨のなか、桂子さんと腕を組んで鷲《おおとり》神社まで歩く。「フォーカスが来ないねえ」「来るわけねえよ」なんか言いながら歩いていると酔っぱらいが桂子さんに突き当った。「バッキャローッ!」その江戸前の啖呵《たんか》に迫力があり、後に従う倫敦屋が飛びあがった。
鈴福《ヽヽ》で熊手を買う。二万三千円だというから、半値に値切ると、二万三千円の半値は一万五千円だという。それが愉快だから、祝儀を三千円渡そうとすると、桂子さんが「ビキでいいんだよ」と千円札を二枚だけ引《ひ》っ手繰《たく》る。鈴福《ヽヽ》に洗濯屋の健チャンなる五十がらみの人物が手伝いに来ている。これが僕の愛読者だそうで抱きついてくる。それはいいんだが、イヤ、その酒臭いこと。そんな大きな熊手を仕舞屋《しもたや》に飾るわけにはいかないから倫敦屋《ヽヽヽ》に差しあげる。イヨウ、シャンシャンシャン。その間、約三分。倫敦屋《ヽヽヽ》にとっては目の廻るようなことばかりだったようだ。
十一月二十五日(火) 曇後晴
夜来の雨はあがったが厚い雲。しばらく東京湾を眺めていたが「ここは一番、大雨が降っていたことにしようじゃないか」と衆議一決。
このあとは書きにくいことになるが、大井競馬場へ行ったのだ。僕にはJCの余韻が残っていたが、競馬場へ着くと、さすがに食傷気味。この日、倫敦屋《ヽヽヽ》が大当り。電光掲示板に着順が発表されると「嵌《はま》った!」と叫んでアニマルばりのガッツポーズ。
大井|埠頭《ふとう》から海上バス、水上バスと乗りついで、また浅草。ビューホテルの檜《ひのき》風呂で疲れを取ろうというわけだが、番台の景山嬢に、いきなり「先生、競馬をやめてください」と、叱られてしまった。
十一月二十六日(水) 曇
寒い日だった。お台場で絵を描く仕事をすませて、銀座|鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》へ行く。小人数で忘年会をやろうということになっていたが、行ってみると、パラオ君、都鳥君、徳Q君以下総勢十人。還暦祝賀会だそうで、オーストリアのホッファーを頂戴する。嵌ったのは僕のほうだった。ヘトヘトに疲れた。
[#改ページ]
[#地付き] クラス会[#「クラス会」はゴシック体]
十一月二十七日(木) 曇時々晴
先週は三原山が爆発したが、こっちも大爆発で疲れてしまった。寒空を歩きに歩いたが、その後の酒がいけない。特に大井競馬場へ行ったのがいけない。僕はパドック党なので、競馬場でも歩き廻る。「一つは許せ敷島の道」と念じつつ歩いたが、こんなの風流でも何でもない。
昨夜遅く、臥煙君と倫敦屋にタクシーで家まで送ってもらったのだが、この二人、宿舎の帝国ホテルへ戻ってから午前三時まで夜景を描いていたという。体力気力に驚くが、二人とも昂奮が残っていたと思われる。
日記を整理してから昏々と眠る。
十一月二十八日(金) 曇
竹中浩氏より銀製スプーンを頂く。今月ほど頂戴物の多かったことはない。僕は、人様に何か差しあげるのが好きだが、それ以上に貰いものは大好きだ。
還暦祝いの会をやらなかったのは、人に迷惑をかけるのと大袈裟になるのが厭だったからだが、結果は同じことで、多大な迷惑をかけてしまった。これは、誰にも知らせないで身内の葬式をひっそりと行うと、ポツポツと弔問客があらわれて、主婦がかえって疲れてしまうのと似ている。
第四十九期麻布中学同期会。銀座ライオンビアホール四階|五合庵《ヽヽヽ》。全員ほとんど同年齢で、案内状に還暦と定年をうたったせいか、近年にない盛況。出席者五十人を超えたのは僕の記憶にはない。
「故里《ふるさと》へ廻る六部は気の弱り」の感あり。
定年となれば、役人も大学教授も一流商社マンもあったもんじゃない。みんな同列に戻ってしまった。
「定年が六十歳っていうのはよくない。五十五歳でよかったんだよ。俺、もう、へばっちまった」
なんて言うのがいる。
「官舎を出て家を建てなければいけないんだ。土地は買ってあるんだが、家のほうは金を借りるんだ。三十年ローンだ」
「九十歳まで払い続けるのか」
「いや、二世代ローンと言ってね、あとは息子が払う」
「その前に銀行のほうで生命保険に加入させられるぜ」
なんだか淋しそうで肩を寄せあうようなクラス会になった。それにしても、みんな齢を取った。当然のことだが老人ばかり。そうかと思うと童顔で髪もふさふさ、ちっとも老けないのがいる。なかに二人、晩年の小佐野賢治にそっくりというのがいる。だいたいがそんな感じだと思ってもらいたい。
僕等が別れ別れになったのは、昭和十九年三月、十七歳の時だった。僕は二十歳まではとうてい生きられないと思っていた。還暦なんて夢のまた夢。このことは一応は慶賀すべきことだ。みんながどう思っているか、特に海兵や陸士へ行った連中がどう思っているか、訊いてみたいと思ったが果たせなかった。終戦直後のクラス会は殺気立っていて、その連中の歌う軍歌には迫力があった。「必ずもう一戦交えるつもりだ」と声高に話す男もいたのに……。ああ、僕等、老いたり。
|クール《ヽヽヽ》で浅酌して早目に帰宅。
十一月二十九日(土) 晴
先週、家を留守にすることが多かったので、その間の種々の事務処理。紀行文を書くのは、楽なように見えて、案外、大変なんだ。
十一月三十日(日) 晴
NHK杯将棋トーナメント「米長邦雄十段×羽生《はぶ》善治四段」を見る。前から楽しみにしていた対局だ。なにしろ、片や世界一将棋の強い男、片や十五歳の大天才。専門家はどう思うか知らないが、僕なんかにとっては、味わいの深い、手に汗握る好局だった。格調が高い。
僕は割に新人類が好きだ。物怖《ものお》じしないところがいい。アガルとか慄えるってことがわからないんじゃないかとさえ思う。米長さんが初めて大山名人に挑戦したタイトル戦で、羽沢ガーデンに応援に行ったのだが、かなり緊張した様子だったのを懐しく思いだす。
若手が強いのは情報化時代で自由に勉強できるため、強豪連中が棋戦が多くて疲れているためだと思うが、どうも、それだけでもなさそうだ。十代の棋士は本当に強い。これは実力だ。
将棋界には谷川浩司以下、次から次へと天才が輩出してメデタイかぎりだが、他の世界でこんなことがあるだろうか。二十歳で文芸雑誌編集長なんて聞いたことがない。そう言うと、管理社会だから駄目なんですという答が返ってくる。羽生君はマンガを読まずテレビを見ず将棋一筋だというが、頑張れ、頑張れ。いや、週刊誌なんかも読まないか。
姪の貝塚|真里《まり》、千代里《ちより》、遊びにくる。妻と三人でペチャクチャ。つきあってやらねばならず、女ばかりだから時に席をはずさねばならず、身をもてあます。酒を飲んでしまったから仕事にならず、書斎で一人でぼんやりしていると変に悲しくなる。外人観光客の通訳の仕事をしている真里に、北欧では福祉が行き届き過ぎて老人の自殺がふえているという話を聞いたせいか。
十二月一日(月) 晴
庭を掃き、苔に水をやり、焚火を見ながら一服、昼寝三十分、そのあと読書となれば理想的なのだが、そうもならぬ。
『小説新潮』に連載中の「新東京百景」十一回目、昼から九時までかかって書く。二十枚。「初時雨、有明の森」と題す。有明の森というのは、お台場にできたテニスの新名所で四十八のコートがある。
ありあけの てにすのもりの はつしぐれ ふとめのぎゃるの ふとももぬらす
十二月二日(火) 晴
侘助《わびすけ》に水をやる。競馬の帰りに大国魂神社の境内で買ったもの。水をやるものかどうか植木屋に聞いてみると、
「さあね、水を呉れだしたら毎日呉れてやってください」
ということだった。その言い方が面白かったので、毎日呉れてやっている。
円地文子先生のお葬式、文藝春秋の忘年会、ともに行かなかった。まだ疲労が残っているのが最大の原因だ。しかし、義理欠く人情欠くという老後の処世方針であっても、やはり心が傷む。
『モンマルトル 青春の画家たち』(新潮社刊・とんぼの本)を読む。印刷が綺麗。
十二月三日(水) 小雨
夜来の雨で葉が重くなったせいか、落葉が激しい。これで、あと風の日があったら、拙宅の雑木林も、すべて散り尽くすのではないか。
この落葉の始末は大仕事なのだが、
「ナニ、落葉といったって、数が無限なのではない。まず、この三十センチ四方の落葉を無くそう。そうやって掃いていけば、シマイにゃなくなるぜ」
毎年、自分を励まして庭仕事をしてきた。こんな感じで若い時に勉強していれば、少しはマシな男になったのに……。
坂根進氏より赤いマフラーを賜わる。金沢|つる幸《ヽヽヽ》河田三朗氏より松葉蟹二杯。
『オール読物』に連載中の「誰にも青春があった」という小説の最終回、三時から書きはじめて、途中すこし寝て午前二時脱稿。二十五枚。これが最後の小説。なんだか、一世一代と言いながら、何度も『勧進帳』を上演し続けた七代目松本幸四郎になったような気持。
[#改ページ]
[#地付き] 河《ふ》 豚《ぐ》[#「河 豚」はゴシック体]
十二月四日(木) 曇後晴
小樽|海陽亭《ヽヽヽ》宮松重雄氏よりジャガイモを頂く。梅田晴夫未亡人よりインクスタンドを頂戴する。梅田さんは趣味のいい人だったので、何を貰っても有難い。
文藝春秋松成武治氏、『オール読物』編集長藤野健一氏来。藤野さんに小説原稿渡す。作家は処女作に還《かえ》るものだと言われるが、これも第一作と同じ戦中派小説になってしまった。松成さんは、それを書物にする話。最後の短篇集になるはずだ。
夜遅く、臥煙君、『小説新潮』のゲラ刷りを持ってきてくれる。
十二月五日(金) 晴
常盤新平氏より、万年筆(モンブラン・神田|金ペン堂《ヽヽヽヽ》)を頂戴する。常盤さんは、毎年、暮になると万年筆を一本買う習性があるが、こちらも他人事ながら気が引き緊るような思いをする。モンブランは、そのお裾分けだろう。
庭のコイマが壊れてしまった。土地の人はコイマと呼んでいるが肥間《こえま》の訛《なま》ったものではないか。丸太棒で囲って腐葉土を作る仕掛けである。ずいぶん長く楽しませてもらったが根が腐ってしまった。丸太を引き抜くときに、総イレ歯にする決意で歯医者へ行ったときのことを思いだした。歯医者は「こういうのは抜くとは言いません。はずすと言うんです」と言った。
これを燃やしたら大焚火になった。新しく造るとなると植木屋の払いだって馬鹿にならない。その勘定と園芸店で袋入りの腐葉土を買うのとどっちが高いか。この頃は、すぐに頭がそっちのほうへ向う。
日本橋|高島屋《ヽヽヽ》でスリッパを買う。使っていたスリッパがクタクタになってしまったため。僕は草臥《くたびれ》た皮のスリッパが好きなのだが、妻はこれを嫌う。そう言われると見た目に不潔感があるので、自分の分だけ残して、あとは廃棄した。銀座|フジヤマツムラ《ヽヽヽヽヽヽヽ》で歳暮を送る手続きをする。日本橋から銀座まで歩いて、銀座通りは案外に自転車に乗る人が多いのに気づく。これは暮のせいか。
築地|ふく源《ヽヽヽ》で河豚料理。これは、サントリー『リカー・ショップ』に連載中の「行きつけの店」取材のため。|ふく源《ヽヽヽ》が「行きつけの店」とは豪勢なようだが、この二十数年、年に二回か三回は欠かしたことがない。お察しの通り、ぜんぶお招《よ》ばれだが……。
十二月六日(土) 晴
ヒレ酒が少しこたえて元気なし。庭仕事。『オール読物』藤野さんより電話。原稿読んで泣いたという。「編集者がこんなことでは困るんですが」と言われるが、そうじゃない、編集者は読者代表だ。戦中派の話なので、年代的にどうかと心配していたが、やっと安心する。無風、おだやかな一日。
十二月七日(日) 晴
徳本春夫氏来。毎年やってもらうのだが、庭に大きな穴を掘ってくれる。そこで何でも燃やす。コイマの残りが片づく。
十二月八日(月) 晴
『別冊文藝春秋』新春特別号、常盤新平「世のかたすみで」を読む。文中秋子となっている女主人公は、銀座の小さなバーのママさんだった人で僕も知っている。秋子が常盤さんの家に泊って、家族で朝食をしているときに、パジャマ姿のまま起きだして、食卓に片肘をつき、一本の煙草を時間をかけて喫うという場面で涙が出そうになった。秋子は肺癌で死ぬのである。
『文学界』『新潮』『群像』の円地文子追悼特集、島尾敏雄追悼特集を読む。
何を言われてもニコニコ笑っている、何をされても優しく受けとめてしまうという人がいるが、島尾さんもその一人だった。これはミホ夫人の影響もあったと思うが、本当はこういう人が一番怖い。僕にとって島尾敏雄は怖い人だった。
十年ぐらい前になろうか、銀座松屋裏の鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》一階の小間で飲んでいると、女中が、いま二階に円地文子先生がいらっしゃると教えてくれた。出向いて挨拶するほどの間柄ではなかったので黙って飲んでいると、小一時間ほどして、小間の障子が開いて、帰り支度をされた円地先生がお顔をのぞかせた。僕は、咄嗟《とつさ》に「先生とつきあうと足を悪くするから」と言ってしまった。竹西寛子さんがアキレス腱を切り、新潮社の担当者が足を骨折した頃のことである。……失敗《しま》ったと思ったが、もう遅い。妻が、パパと一緒だとハラハラさせられると言うのは、こういう時のことだ。円地先生は、瞬時、僕の顔を睨んでおられたが「わたしだって目を悪くしましたよ」と捨《すて》台詞《ぜりふ》のように言われて障子をピシャッと閉められた。その様子は、ガキ大将を懲らしめる近所のお転婆娘のようだった。
鼻をおさえると鼻翼のあたりが痛い。面疔《めんちよう》ではないかと思った。指で鼻毛を抜く悪癖のせいだろう。面疔は怖いので、矢川駅寄りの大久保医院へ行った。
「ははあ、あなたも鼻毛を抜きますか。私は刺抜《とげぬ》きで抜きます。……あれは、二、三本まとまると痛いですな」
と老医師は言う。
庭の枯葉、あらかた散る。
今日、開戦記念日であることを夜になって思いだす。老いたり、戦中派!
十二月九日(火) 晴
横浜馬車道、鰻屋の八十八《やそはち》に頼まれていた扁額《へんがく》を書く。かねてから大きな字を書いてみたいと思っていたが、ちょっと大変だった。何が大変かといって、墨を磨るのが大変だ。墨汁なら簡単だが、それは厭だ。匂いが違う。艶が違う。これを関保寿先生に銘木を選んで彫ってもらうのだから、墨汁でもいいようなものだが、それでも厭だ。墨を磨るのに三日かかった。上等な墨だから、値段にして三千円ばかり磨ってしまった。
講談社徳島高義氏来。
「月遅れの還暦祝いですが……」
と言って、ガウンをくださる。パジャマとガウンが揃ったので、
「これで、入院することになれば万全の構えだな」
と言ってしまう。素直に有難うと言えばいいのに……。
僕が、誰某にナニを貰ったカニを貰ったと言うのを、厭らしく、また苦々しく思う人がいると思うが、僕は、自分の生活を洗いざらい書いてしまおうと思っているので許してもらいたい。洗いざらい書けば高齢化社会に生きる老人たちに何がしかの参考になるはずだと思っている。これからどんどん貧乏になるところを見てもらいたい。
今暁、ビートたけし討入り事件あり。徳島さん、出社すると大勢の人集《ひとだか》りで編集室に入ることもままならず、そのうえ、交通渋滞で書籍の見本届かず難儀をされた由。
『フライデー』にとって、ビートたけしは、大事な商品である(と僕は思う)。少々の血を流したぐらいなら「怪我人は一人もいません。ビートたけしさんは終始紳士的でした」と言ってのけるぐらいの芸当ができなかったものだろうか。結果的に国家権力に商品を売り渡すことになったのは実に残念だ。甘やかせと言うのではない。それが商人の道というものだ。
今夜もまた、|ふく源《ヽヽヽ》。言わずと知れたオヨバレの忘年会である。
十二月十日(水) 晴
サントリー成人式用広告の文章を書く。六百八十字。一日がかり。
[#改ページ]
[#地付き] |雪 催《ゆきもよ》 い[#「雪 催 い」はゴシック体]
十二月十一日(木) 晴
畳屋小坂氏来。まだ少し早いが裏返しを頼む。暮の畳屋というのは忠臣蔵を見ているようで気分がいい。
サントリーPR誌『リカー・ショップ』原稿八枚書く。
サン・アド広内啓司氏、サントリー宣伝部K君来。広内氏に来年成人式用広告文案、K君にPR誌原稿渡す。昨日からずいぶん仕事をして疲れたが、気持は晴々としている。三人で関保寿先生の所へ行く。
たちまち酒になる。関先生の家に伺ったのは、目を悪くされていると聞いたので御見舞のつもりだったが、これでは意味がない。こんどは四人になって富士見通り繁寿司《ヽヽヽ》。この店は酔っ払いを歓迎しないのでハラハラする。僕も声が大きくなっているのを自覚する。関先生の家に一歩足を踏みいれると別世界の感があり、これはもう飲まないわけにはいかなくなる。先生は他人を良い気分にしてしまう名人である。
南武線|谷保《やほ》駅裏赤|提灯《ちようちん》の文蔵《ヽヽ》へ行く。谷保村の住民多数。だいたいが顔見知り。明日から取材に出るので、九時近く、無線タクシーを呼ぶ。徳本運転手、頼んだ時間より十五分ばかり早く、ヌッと入ってきて奥の席で焼鳥を食べだした。しばらくして気がついてみると、K君と徳本運転手がいない。文蔵《ヽヽ》の証言によると、K君はその自動車に乗って、都心にある会社へ帰ったらしい。
「先生も舐《な》められたもんだねえ」
谷保村の住民たち、ここぞとばかり嘲笑する。傍《はた》から見ていたら、かなり滑稽な出来事であったに違いない。
十二月十二日(金) 曇
『小説新潮』に連載中の「新東京百景」十二回目取材のため、十一時半、臥煙君、フミヤ君と三人で家を出る。今回は麻布十番、六本木≠キなわち、僕の育った地域である。宿泊は六本木誠志堂裏のホテル・アイビス。フロントに都鳥君、スバル君、カメラマン田村氏が待っていてくれる。
スバル君は僕と同じ麻布中学の二十年後輩であるので、懐しがって参加したという。こんなに大勢になったのは、麻布十番とあるからには例の|マハラジャ《ヽヽヽヽヽ》を取材しないわけにはいかず、僕はそんな所は御免なので代りに行ってもらうため。
麻布十番通りに降りて浪花家《ヽヽヽ》で鯛焼、豆源《ヽヽ》でエンドウ豆を買う。出身校である東町小学校を経て、新堀町の旧居跡に立つ。マンションになっていた。そこから歩いて十五分で麻布学園に到着。中学生時代、十五分かかったという記憶があったが間違いではなかった。思い出深き|クローバー《ヽヽヽヽヽ》でコーヒー。詳細は『小説新潮』で読んでいただきたい。
十二時頃、フミヤ君がマハラジャから帰ってきた。臥煙君は、自宅へ自動車を取りに戻った由。
十二月十三日(土) 晴
|おつな寿司《ヽヽヽヽヽ》で早目の昼食。東洋英和(麻布中学の姉妹校)、氷川神社(焼け落ちた社務所のバラックで僕等夫婦は結婚式をあげた)を経て麻布中学校庭で水彩画を描く。晴れてはいるが、ひどく寒い。雪雲のような厚い雲が遠くに|蟠※[#「虫+居」、unicode871b]《ばんきよ》している。
五時、山の上ホテルの「島尾敏雄を追悼する会」に出席。山本健吉先生の追悼の辞で『死の棘』に触れて「嫉妬は最高の愛情表現」という意味のことを言われたが、世の女房連には聞かせられない。あの、ナニモノモサシハサマズニは強烈だったなあ。
麻布十番|永坂更科《ヽヽヽヽ》で飲む。マハラジャの前を通る。青春を謳歌する人たち。
臥煙君、ホテルでイーゼルを立て、昼間の油絵に手を加える。「炎の人ゴッホ」とは彼のことだ。
十二月十四日(日) 曇
午前五時半。踊り疲れたアヴェックたちがホテルの前をぞろぞろ歩く。
ふたたび麻布中学で絵。|銀の塔《ヽヽヽ》でビーフ・シチューを食し、早目に帰宅。
十二月十五日(月) 雨
七時起床。十一時三十分新幹線ひかり号で京都へ。これは還暦祝い御返し用の茶碗を山科竹中浩氏の窯《かま》で作製するため。もっとも、僕は染付けただけ。
新幹線では、隣に若い刈上げの美人が坐ってしまったため、早々に席を移る。僕は美人が苦手なのだ。久しぶりの一人旅。心細いようなノンビリするような。
浜松近辺で蒼空になったが、すぐに雪雲のようなものが垂れこめてきて、
遠山の竹林のみ光るなり
という状況となり、さらに、
木曽川に浮島のある寒さかな
という按配になってきた。はたして京都は小雨だった。
祇園《ぎおん》花見小路の定宿|二鶴《ヽヽ》。僕が二鶴に着いて、ひとまず落着く部屋の炬燵《こたつ》に前記K君が坐っているのを見て吃驚仰天《びつくりぎようてん》。荷物を置いて買物に出る。
知恩院前|一澤帆布店《ヽヽヽヽヽ》。麻布中学以来の友人である増岡章三氏の長男が二浪して司法試験に合格したと聞いているので御祝いの鞄を送る。
一澤の大将は相変らずの話好きで、僕の健康を問い、よく歩くので足は丈夫だと言うと、
足腰を鍛え鍛えて癌になり
なんて厭なことを言って笑う。こういうときの関西弁のアクセントは憎ったらしい。この頃、京都へ行けば先ず一澤へ寄るのが癖のようになってしまった。大将の顔を見ればホッとするし、丈夫一式の袋を買えば、そのあとの買物に便利。
一力の裏の|山ふく《ヽヽヽ》で飲んでいると、またK君があらわれる。彼は祇園の取材で来ているのだから仕方がない。
十二月十六日(火) 曇時々小雨
僕の機嫌が悪いので、K君、朝食も食べずに帰る。悪いことをしてしまったが、仕事以外のことで、いわば祇園に遊びにきているときに、仕事関係の人に顔を出されるのは、正直言って愉快ではない。まして隣の部屋に寝ていられたんでは……。
竹中窯で染付け。茶碗に差しあげる人の名前を書き、「御礼、六十翁山口瞳」と箱書きする。この翁《ヽ》が偉そうなので、竹中氏の助言もあり老《ヽ》に変える。
六十老、六十老、と百箱余りも書いていると、本当に老人になったことを実感する。これからは、老人らしく癇癪《かんしやく》も起こし、ワガママも言うぞ。
専門家が手伝ってくれるので、案外早く片づいて、二時頃|二鶴《ヽヽ》に戻って少時《しばらく》昼寝。同じ昼寝でも家で寝るのとホテルや旅館で寝るのとでは疲れの取れ方が違う。
|すいの《ヽヽヽ》で銀杏用の金網を買い、東山安井の八百伊《ヽヽヽ》で千枚漬けを買って家へ送る。五千円の樽をと思ったが、内儀《おかみ》だか娘さんだかが、それなら二度にわけて送ったほうがいいと言い、どうです気が利《き》くでしょうと威張る。本当にその通りだが、三千円の樽を二度送ることになったのは、シテヤラレタの感がなくもない。ただし、この店は昔から大好き。
祇園の寿司屋|なか一《ヽヽヽ》で竹中夫妻に御馳走にあずかる。そのあと|サンボア《ヽヽヽヽ》。
旅とホテル住まいが続き、つくづくと行商人っていうのは辛いだろうなあと思った。
水商売の人には水商売の人の顔がある。笑っていても殺気立つような一面がある。娼婦には娼婦の顔がある。行商人には行商人の顔がある。行商人の顔には生涯消すことのできない疲労が刻み込まれている。
[#改ページ]
[#地付き] 宴会続き[#「宴会続き」はゴシック体]
十二月十七日(水) 晴
祇園の旅館|二鶴《ヽヽ》で朝食。旅館の朝食は、どうしてこんなに美味《うま》いんだろう。すべて酒の肴《さかな》になるというのが池田弥三郎さんの説だった。
|サンボア《ヽヽヽヽ》の中川歓子さん、チリメンジャコを持ってくる。竹中浩氏も来る。歓子さんから人生相談を受ける。こういうとき、京都の女性は店にいるときとは違った京都弁になる。語尾が「……ン[#小さな「ン」]にゃ」といったように聞こえる。「心配することはない。きっとうまくゆくと思うよ。……だけど、松竹新喜劇みたいな話だな」と言うと、歓子さん、ぷうっと脹《ふく》れて、脹れた頬に涙が流れた。夫に死なれて相談相手がなく淋しいのだろう。
席をはずしていた竹中さんが戻ってくる。東京に用事があるので送ってくれるという。この日、快晴で温い。京都では朝寒く日中は温かで夕方になって冷えるといった気候の変化があるが、僕の住んでいる東京の西寄りでは、朝寒ければ一日中寒い。京都は山が近いせいだろうか。
新幹線。蒲郡《がまごおり》あたりの夕陽がよかった。この頃、窓の外の景色を眺める客がいなくて、眠るか本を読むかしている。富士山が見えても知らん顔である。熱海で大きな月が出た。京浜工業地帯の、いわゆる「工場の月」もよかった。竹中さん「さっきの月のほうが大きかった」と言う。当り前じゃないか。
東京駅に着き、九段下|寿司政《ヽヽヽ》へ行く。昨日、祇園の|なか一《ヽヽヽ》という寿司屋で竹中夫妻に御馳走になったとき、干瓢《かんぴよう》の海苔《のり》巻を頼んだら無かった。干瓢が無いことはないのだが、注文する客がいないので置いてないと言う。その他の海苔巻だと例の手巻にされそうなので食べなかった。|なか一《ヽヽヽ》の主人は東京で修業した人なのだそうだが、万事につけて文化圏が違うと思った。そんなことがあったので寿司政に直行したのである。
徳利が二本目になったとき、やっと気持が落ちついた。ずっと飲み続けて、どうなることかと心配していた。いや、実は私もそうなんです、新幹線のなかでは少し気分が悪かったんです、と竹中さんが言う。
竹中さんは関保寿先生の家に泊ることになっているので、土産用に寿司一折、それを含めて、勘定は祇園の寿司屋の一人分の半値以下だと言ったら、竹中さんは信じられないという顔つきになった。
家に寄ってもらって、函館の夜景を描いたパステル画を進呈する。竹中窯では、およそ百二十箇の湯呑に染付けをしたのだが、一箇十万円として千二百万円、五十年ローンで支払いますと言ったのだが、むろんそれは冗談で、こっちも値のつけられないもので対抗せざるをえない。
十二月十八日(木) 曇後雨
畳を張り替えたら部屋が寒くなったと妻が言う。なるほど、朝目覚めたら空気が冷いように感じた。
関保寿先生宅訪。竹中氏出かけたそうだ。伊豆下賀茂温泉|伊古奈ホテル《ヽヽヽヽヽヽ》大広間用扁額を書かせてもらう。大きな字は難しい。大きな字は最初の一筆ですべてが決まってしまうようなところがある。
『オール読物』二月号で、山藤章二夫人が脳内出血で倒れたのを知る。ショック。米子さんは、章ちゃん章ちゃんを連発する可愛らしい奥様である。
僕は床に入って眠りにつく前にウーンと唸《うな》る癖があるのだが、この夜、山藤夫妻のことを思い、僕の唸り声は一際大きく長く続いた。
十二月十九日(金) 雨後晴
子供の頃、御御籤《おみくじ》を引くと失《う》せ物≠ニいう項目があるのが不思議でならなかった。人は、そんなに物を失《な》くすのか。しかし、当節は妻と二人で失せ物を探してウロウロすることが多い。
モト毎日新聞主筆上田健一、桐朋短大教授波多野和夫、日本郵船常務故守谷兼義と三十年に亘《わた》って忘年会を続けているが、今日は上田夫妻、波多野夫妻に娘の|せい《ヽヽ》と|さよ《ヽヽ》、守谷夫人の和子さん、それに僕等夫婦の九人が家の近くの鰻屋の押田《ヽヽ》に集った。妻が遠くに出られないので、こんなことにしてもらっている。押田《ヽヽ》は、僕の家の前で転ぶと額が押田《ヽヽ》の看板にぶつかると思われるくらいに近い。
いつでも、ちょっとしたプレゼントを交換しあう。それが楽しい。赤いマフラーは、繋ぎ合わせればオーバーが出来るくらいに頂戴しているが、いくつ貰っても嬉しい。どうやら僕は浅野型より吉良型の男であるようだ。
波多野の娘の名前が好きで、|さよ《ヽヽ》は僕の小説の『居酒屋兆治』で拝借した。それが大きく(高校二年生)美しくなっているので驚く。|せい《ヽヽ》はメキシコの黒沼ユリ子師のところで音楽活動をしている。地震ではびっくりしたそうだ。どっちでもいいから、うちへ嫁に来てくれないかと言ったが、いい返辞を呉れなかった。第一、波多野が怖い顔をした。
旭通り|らあら《ヽヽヽ》で歌い、家で午前一時まで飲んだ。
十二月二十日(土) 晴
溜っている書物の整理。この時期、どの小説家も苦労していると思う。僕は献本が多いほうなので、迷惑をかけている犯人の一人だ。
柳橋|亀清楼《ヽヽヽ》の福島正子さん、寄せ鍋を届けてくれる。福島さんの持馬ウインドストースは金杯に出走する由。この馬、強いぞ。
十二月二十一日(日) 曇
井伏鱒二先生忘年会。荻窪|大漁苑《ヽヽヽ》。これは、本当は甲府行(幸不幸)の会の忘年会なのだが、僕は甲府の桃を見に行く会のお伴をしたことのない半端な会員である。幹事役の講談社、新潮社の両川島氏、黒沢明の名エディター野本照代嬢の感じが実に良い。テキパキとしていて、しかもユッタリとしている。見習わないといけない。
井伏先生は「日本酒は複雑な酔い方をする」と言われて、サントリー・オールドの水割ばかり召しあがる。「酒は、朝になって頭が痛くなるかどうかわからないから」と言われるのである。安岡章太郎氏病気で欠席が淋しい。井伏先生はとても御元気で、まさに「近藤勇は唯一人」の概がある。
十二月二十二日(月) 晴
報知新聞の最優秀力士選考委員会。安西浩東京ガス会長、上田英雄日本心臓財団副会長と僕の三人。選考委員会と言ったって、選ばれるのは千代の富士にきまっているも同然だ。今年は六場所中五場所に優勝、優勝しなかったのは休場したときで、しかも勝率は断然トップの第一位という驚異的な成績だ。あと二、三年は千代の富士の天下が続き、来年は小錦が大関から横綱に進むかどうかが最大の話題になるだろうと運動部長が解説してくれた。
帰って昼寝して、『小説新潮』に連載中の「新東京百景」の「麻布十番、六本木」二十枚を書く。
十二月二十三日(火) 晴
霜がおりている。寒い。
中央公論森清耕一氏来。毎年元日に万年堂《ヽヽヽ》の御目出糖を持ってきてくださるのだが、喪中で暮に御挨拶に来られた由。十月に野球観戦中にファウル・ボールを額に受けて、まだ痕跡が残っている。
「目の上の瘤《こぶ》です」
「当るのは宝籤のほうにして呉れ給え」
落合博満、中日にトレード。どう見たって読売は一本取られた感じ。
十二月二十四日(水) 晴
熊本の高千穂正史氏から竹箒《たかぼうき》届く。貰ってもっとも嬉しいもののひとつ。
十二月二十五日(木) 曇
繁寿司《ヽヽヽ》の節子さんからアルバムを頂戴する。表紙が手製刺繍になっている。
十二月二十六日(金) 晴
竹中浩氏から還暦記念の湯呑百二十箇届く。これをペリカン便で発送するのだが、差しあげる相手の名入りになっているので、宛先を間違えたら大変だ。
十二月二十七日(土) 曇
妻と二人。発送事務に忙殺される。
十二月二十八日(日) 雪
大掃除。例年のように徳本春夫氏に手伝ってもらう。四十二年に新築以来、一度も掃除していない箇所がある。高い書棚の上なんかがそうだ。どうしたって書斎は後廻しになる。今年も果たせず、あと一年、埃のなかで仕事をすることになる。
十二月二十九日(月) 晴
|紀ノ国屋《ヽヽヽヽ》(スーパー・マーケット)で正月用の買物。年始客の連れてくる幼児のために玩具も買う。
十二月三十日(火) 晴
関保寿先生来。川越|亀屋《ヽヽ》の芋羊羹を頂く。風邪が治らない。微熱程度だが咳、洟水《はなみず》、嚔《くしやみ》。なによりも根気が続かぬ。
十二月三十一日(水) 晴
浦安の醍醐準一氏来。三年ぐらい前から、正月用のナマモノ一切を持ってきてくれるようになった。有難い。浦安から自動車で、一時間足らずで来られた由。
[#改ページ]
[#小見出し] 昭和六十二年
[#地付き] 中途半端なり[#「中途半端なり」はゴシック体]
一月一日(木) 晴
なんだか様子がいつもと違う。今日が元日だという気がしない。例年なら、それなりの緊張感とか一種の清々しさといったものがあったのだが……。正月なんか早く終って普段の生活に戻りたいと思うこと頻《しき》り。これは、たぶん、還暦を期して連載以外の仕事を断ってしまったせいだと思う。正月の骨休めとかノンビリした感じとかというのは、力一杯ギリギリの仕事をしてきた人に与えられるものだ。
三時近くなって友人たちが集る。来客二十人(内、幼児五人)。食堂といえば体裁がいいが台所の続きみたいなところで飲む。ここに二十人は収容しきれないが、早く来て早く帰る人あり、遅く来て居残る人ありで、丁度いい按配だった。
それから、僕が言うのは変だが、酒がうまく、浦安の肴のほか暮からの頂戴物がすべて美味で、この点でも上出来だったと思う。
ひとつの発見。
飛切上等の酒でスタートすると、あとが万事につけてうまくゆく。
なにしろ、シャムパンは、モエ・エ・シャンドン(なんと二十年前に家が完成したとき設計士に貰ったもの)。葡萄酒は、GRAND VIN DE CHATEAU LATOUR. 1960、ウイスキイは、サントリー佐治敬三社長から頂戴した PRESIDENT'S CHOICE WHISKY(献上用で市販されていない)とくるんだから、拙宅の新年会としては物凄く豪華なものになった。いつだったか、都鳥君に貰った能登の地酒でスタートしたときも気持よく酔えた。最初に良い酒を飲むと、舌が肥えるのか、あとで封を切る酒の良し悪しの判断が適確になる。そうして、葡萄酒が御節《おせち》料理に合うというのも、もうひとつの新発見だった。これは、暮の宴会続きで弱っている胃腸や荒れている舌に、葡萄酒の酸味と渋味が快く沁みわたるせいであるかもしれない。日本酒は辛口ばかりを用意したつもりだが、それでも葡萄酒のあとは甘ったるくていけない。
フミヤ君の長男が、妻に、
「おばさんは、おばさんですか、おばあさんですか」
と質問した。
「おばさんも今年で還暦ですから、お婆さんと呼ばれても仕方がないんだけど、うちのお兄ちゃんが結婚しないから孫がいないのよ。だから、おばさんって呼んでちょうだいな」
妻は、叮嚀《ていねい》に応対していたが、頬のあたりが引攣《ひきつ》っている感じがあった。それを助けるようにして岩橋邦枝さんが叫んだ。
「あたし、山口さんが美人は嫌いだって書いているのを読んで、安心したわ」
「これで、やっと、僕が貴嬢《あなた》を避けているわけがわかったでしょう」
と、僕。大爆笑。そんなふうにして元日の夜が更けていった。
一月二日(金) 曇後小雪
宿酔。
一月三日(土) 晴
侘助が咲いた。やっと咲いた。臥煙君一家来。子供が三人。子供たちは正月疲れであるという。
「めでたさも中くらいなり」と言いたいところだが、今年の僕の正月は、なんだか中途半端だった。微熱正月か。
一月四日(日) 晴
霜がおりている。吉武力生氏来。これから近所で新年会があるそうだ。
暮から、ずっと直木賞候補作品を読んでいる。今回は、僕が選考委員に就任して以来、最高水準の力作ぞろい。これは嬉しいことなのだが、そのぶん落選した人は不運だとしか言いようがない。こういうケースも胸が痛む。
一月五日(月) 曇後雪
直木賞候補作を読み続ける。僕は読むのが遅いので難儀をする。
一月六日(火) 曇後晴
『文学界』新春特別号「芥川賞委員はこう考える」という座談会を読む。大いに参考になる。
話が若い作家の文章力に集中するが、障子がアルミサッシに変ってしまうという身の廻りの変化の影響も大きいのではないか。水上勉さんの「いや。小説はやっぱり押入で読むもんだよ」という発言があるが、その押入のない家が増えてきている。第一、押入という言葉が死語になりかかっていて、建築家は、収納庫とか収納場所とかと言っているようだ。
一月七日(水) 曇後晴
夜、向田邦子原作の『麗子の足』というTVドラマを見る。テレビのドラマ関係の人たちは、向田邦子となるとムキになって良い作品にしようとする構えが見受けられ、それがとても気持がいい。
向田邦子の有難いところは、昭和十年代を小説やドラマや随筆に書き残してくれたことだ。これは男では駄目だ。男は、その時代に、台所や地べたを見つめているわけにはいかなかったのだ。
向田さんは、亡くなる前に、ちょっとでも縁のあった人たちを片っ端から食事に招待した。僕は、ずいぶん後廻しになったが、向田さん自身は食事を楽しむというより、何かセカセカとしていて、一種騒然たる感じがあった。あれはどういう意味だったのかと、そんなことを考えた。
[#改ページ]
[#地付き] 外出せず[#「外出せず」はゴシック体]
一月八日(木) 晴
還暦の会をやらなかった。やらなかったのであるけれど、もしやるとすればどんな会にするか。そのことは、ずいぶん考えた。三年ぐらい前から考えていた。
その前に、還暦の会は自分で開くのか、それとも人様に開いてもらうのかということがある。僕は自分で開くものだと思っていた。
兄弟親類を集めて、都心の目立たないホテルの小部屋を借りるといったようなのが好ましいと思っていた。ところが、僕は、ほとんど親類づきあいをしていない。親類だけを集めるのは何かそらぞらしい。そんなところから発展して、担当編集者諸氏を甲府湯村温泉の一泊旅行に招待する、はては祇園の定宿を借りきって芸者をあげるなんてことまで考えた。
いま、昔ほど還暦のことを言わない。それは平均寿命がのびたからである。僕の同年齢の友人は、一様に「還暦なんて、この時代におかしい」と言うのであるが、よく問いただしてみると「実はねえ、娘の婿たちがうるさくて、俺、いやだったんだけれど……」といった連中が多いのである。僕は、およそ半数の男が会を開いたと睨んでいる。これが大学教授なんかになると、いろいろ仕来《しきた》りがあって面倒なことになるらしい。多くは還暦と定年退職がぶつかって、やらないわけにいかなくなる。
僕は最後の最後まで決心がつかなかった。文壇にも外部の人のわからない事情がある。最小規模のパーティーということで押しきられれば、これも浮世の義理で仕方があるまいと思っていた。しかし、僕の妻は、ちょっとでも儀式ばった会に出席するのを身震いするほどに嫌う。それなら僕一人で出ればいいようなものであるが、会を開きたいと言ってくださる文壇関係者や近くに住む友人たちは、誰でも「奥さんが出なければ意味がない」と言うのである。
最終的には、こんなことになった。家の近くの小さな鰻屋の座敷を借りる。出席者は、過去二十五年の文筆生活の主な担当編集者に限定する。会費制にする。これなら、僕がムキになって断る根拠は薄いように思われた。この際は、数人のコンパニオンの玉代と二次会の酒場は僕が負担しようと思っていた。また、何か記念品を拵《こしら》えようとも思っていた。
大手出版社の横の連絡会である六社会だか七社会だかの代表が、そういう案をもって拙宅へ乗り込んできた。これは容易ならぬことである。こうなれば妻次第である。妻に相談すると、やっぱり厭だと言う。たぶん、神経を病む妻は、パーティーに出ると異常に昂奮してしまうのだろう。このへんのことになると、僕にもわからない。
僕は、代表である某重役にわけを話し謝った。「奥さんのことを言われると弱いなあ」と、某重役は引きさがってくれた。僕は、内心では「子供の使いじゃあるまいし」と凄まれるのを覚悟していたのでホッと一安心した。
暮からずっと風邪気味で、まだ一歩も外へ出ていない。
一月九日(金) 晴
昼に餅二箇を喰う。このところ、昼は、こればかり。醤油も海苔もなく、寝小便の薬というアレだ。
一月十日(土) 晴
僕は自分が老人になる姿というものの想像がつかなかった。歩き方がギクシャクする、腰が曲るといったふうにはならないだろうと漠然と考えていた。これには何の根拠もない。
このごろ、転ぶのが怖い。山本周五郎は家の前の坂で転倒してから急に体が弱った。坂道はゆっくり歩くようにするし、家のなかにいても階段では要慎《ようじん》する。特に風呂場では細心の注意を払う。誰も見ていないからいいようなものの、へっぴり腰になっていてミットモナイと思う。ははあ、こんなふうにして老人になるのだなと思う。
直木賞候補作、やっと読了する。明日から二回目に入るつもり。
一月十一日(日) 晴
昼間、テレビをつけたら岡本太郎氏が出ていた。僕は岡本さんが大好きだ。こんなことを言うのはどうかと思うが、岡本さんは底抜けの善人だと思っている。十年ぐらい前に講演旅行で御一緒したことがあるが、そのときは病気入院中の戸板康二先生の代役を買ってでられたのである。岡本さんも入院中だったが「ぼくのほうは軽いから」と言われるのを聞いて感動した。テレビの番組では、その岡本さんを、やや嘲笑するといった気味あいでもって起用しているのがわかった。老人を馬鹿にするといった気配があった。
僕は、躁状態であるときの北杜夫を対談なんかに起用する雑誌編集部を好まない。おそらく北杜夫のほうで希望するのだろうけれど、ジャーナリズムの節度といったものが問われてしかるべきではないか。
同一には論じられないが石原真理子にも似たようなことを感ずる。あの目つきは尋常ではない。病人を晒《さら》し者にしていいのか。そんなに視聴率が大事なのか。学校でのイジメが国会でも大問題として討議されているときに、大人が公然とイジメを奨励しているかのごとき状況に誰も文句を言わないのが不思議で仕方がない。テレビ界に良識はないのか。
こういう状況がプッツンという流行語を生んだのだと思われる。プッツンというのは、脳神経の回路が切れているという意味らしいが、こういう言葉を平気で使う若者には腹が立つ。いや、大人も平然とこれを口にする。
去年の三月、浅草で倒れ、検査の結果、脳|梗塞《こうそく》の痕跡が三箇所あると指摘された僕としては、他人事ではない。医者にパナルディンという薬を服《の》めと言われたが、効能書を見たら、無気力になる副作用があると書いてあったので止めてしまった。僕がこれ以上無気力になったら廃人だ。そのほかにも副作用があるらしい。アスピリンにも同じような効果があると聞いて服用したら、ひどい下痢を伴うことがわかった。
一月十二日(月) 曇後雪
まだ家から一歩も外に出ていない。外気に当るのは、庭の苔に水をやるときだけだ。夜になって雪になる。こうなると庭へ出ることもなくなる。
四時になると、ぼんやりと初場所のテレビの前に坐る。これも毎年のことだなと思う。この数年、暮から風邪をひくのが恒例になっているのに気づく。
暮には酒を飲む機会が多く、どうしても胃腸に負担がかかり、体力が衰える。こうなると風邪のウィールスを殺す力が弱って風邪をひきやすくなるという説がある。暮時分から胃腸薬と風邪薬の広告が多くなるのはそのためだ。
TVCFといえば、新劇あがりの役者がCFに出演すると、どうしてあんなに間が抜けるのだろうか。これに反して、たとえば高倉健は、何もしていないのに堂々としている。
一月十三日(火) 晴
いい月が出た。ピカピカ光っている。一瞬、雪が残っているせいかと思った。
一月十四日(水) 晴
午前中の妻との会話が、昨晩はよく眠れたか、小便に何度起きたか、お通じはあったかどうか、ということだけのときがある。
仕事をやめたら一日が長くなった。必然、一週間が長い。
[#改ページ]
[#地付き] 直木賞選考委員会[#「直木賞選考委員会」はゴシック体]
一月十五日(木・成人の日) 晴
直木賞候補作読了。午前一時。二度読むということはとても大事だ。一度目はどうしてもストーリイだけを追ってしまって細部に目が届かない。
僕としては、早坂暁『ダウンタウン・ヒーローズ』、逢坂剛『カディスの赤い星』、常盤新平『遠いアメリカ』の三作を、この順序で残したい。落合恵子『アローン・アゲイン』は、過去四回の候補作を抜く出来栄えであって、これが受賞しても不思議はないのだが、早坂、常盤という外人選手の加入によってクリーンナップからはずされてしまったという感じだった。
僕が早坂さんを一位に評価したのは、「大衆小説はまず面白くなければ話にならない」という持論によるものだ。「十人が読んで十人が面白いというのが大衆小説だ」という誰かの説もあったように思う。僕が去年読んだ本のなかでは、早坂さんの小説と沢木耕太郎の『深夜特急』という紀行文がもっとも面白かった。
『ダウンタウン・ヒーローズ』(新潮社刊)は、おそらく百人が読んで九十七人が面白がるだろう。それどころか、こんなにゲラゲラ笑わせ、かつ泣かせる本は、めったにはない。未読の方はぜひお読みなさいと推奨する。
あれを思いこれを思い、なかなか眠れなかった。芥川賞でも直木賞でも、受賞者の人生を変えてしまうくらいの力があるので責任を考えないわけにはいかない。(受賞しなかったほうが結果的には良かったという例も多い)とても緊張する。しかし、候補者のほうはもっと眠れないだろうと思うと、なんだか申訳ないような気持になった。
一月十六日(金) 晴
眠れなかったのに早く目がさめてしまった。日本文学振興会の自動車は三時に迎えにきてくれることになっている。それまで、することがないので、常盤さんの小説をまた読み返すことにした。
ここで、ちょっとした異変が起った。
早坂さんと常盤さんの本は、雑誌掲載のときに読み、書評を書いたときに読み、候補作になって二度読み、合計四回ずつ読んでいる。
さらに、もう一度『遠いアメリカ』四章のうち三章を昼までに読みかえし、少しも鮮度が落ちていないのに驚いた。
『遠いアメリカ』は、昭和二十年代の終りから三十年代初期に喫茶店ブームというのがあって、そこで無為に過す東北出身の青年が主人公なのであるが、行きつけのユタという喫茶店にプロレスのTV中継があると必ず顔を見せる鼻の頭に大きな|ほくろ《ヽヽヽ》のある「すごい美人」がいる。ある日曜日の朝、この女性がユタで苦味走った好男子と二人でコーヒーを飲んでいる。「彼女は声もなく泣いている。さっきまで楽しそうだった顔が崩れ、大きな粒の涙が白い頬をつたってゆく。(中略)重吉はミルクコーヒーのカップを持ったまま、一瞬、彼女に見とれる。ああ、と叫びだしたい気持だ。|なんの脈絡もなく、これが東京なんだという思いが頭をかすめる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点山口)この、ストーリイと関係のない場面が実にいい。ジンとくる。僕には、こういう場面のない小説は認めたくないという気持がある。このために、僕のなかの早坂・常盤の順位が逆転した。早坂さんが薄くなってしまった。そうは言っても、早坂さんの評価が低くなったのではない。書いたものの性質が違うだけの話だ。たぶん早坂さんは、中間雑誌の読物を書くつもりで連載を続けられたのだろう。そういう性格のものを三度も四度も読まれたのでは気の毒だ。
常盤・早坂・逢坂の順で、あとは票数次第で、誰が受賞してもいい。二作受賞でもいい。落合さんに票が集れば、その場で討論してみようと心に決めて家を出た。なお、逢坂さんが三位という意味ではない。僕は冒険小説を読まないので、こっちで遠慮するといった気味あいによるものである。
銀座|米倉《ヽヽ》で散髪。洋品店の|フジヤマツムラ《ヽヽヽヽヽヽヽ》でフォンタナのポシェットを買う。チンギャーレ(いのぶたの皮)で馬鹿馬鹿しく高価なもの。浪々の身で、こんな贅沢をしていいものかと反省しきりだったが、どうやら、僕も気持が昂《たか》ぶっていたようだ。
五時半に新喜楽《ヽヽヽ》に到着。
はたせるかな、九点満点中、逢坂8、常盤7、早坂5・5という極めて異例な高得点で三作が残った。早坂さんの5・5というのは逆転できない数字ではないが、こんなふうに競《せ》っているときは、獲得票数に従うのが公平であり、また、それよりほかに方法がない。
ご承知のように、逢坂剛氏、常盤新平氏の二作が受賞した。
落合恵子さんは残念だったが、僕個人の好みで言えば、いかにエンゼル・キッスの上手なバーテンダーがいても、甘いカクテルは飲む気になれないといったようなことになろうか。
受賞作が決まれば、常盤さんは三十年来の友人だから、選考委員の立場を離れて、お祝いに駈けつけないわけにはいかない。早坂さんには『血族』のシナリオでお世話になっていて、今回はいろんな意味で気が重かったが、僕も解放されたい気分になった。
東京会館での記者会見。逢坂さんも常盤さんも立派だった。直木賞の受賞は三十代の半ばが理想とされていたが、逢坂さん四十三歳、常盤さん五十五歳、文壇も高齢化社会になりつつあるようだ。
銀座|きらら《ヽヽヽ》で祝盃。大勢のカメラマン。芥川賞選考委員の古井由吉氏、田久保英夫氏がいて相当に酔っている。三時間以上を費して該当作ナシでは疲れてしまう。講談社の人たちは笑いがとまらないといった様子だった。|きらら《ヽヽヽ》一軒だけで失礼した。
一月十七日(土) 晴
温い日。日中の最高気温は十八度もあったという。
一月十八日(日) 晴
侘助がよく咲く。椿や山茶花《さざんか》は一度に咲くが、侘助はポツポツと咲く。
テレビで女子駅伝を見る。京都を走るのがいい。戦時中、京都や鎌倉には米軍が爆弾を落とさないといった程度の情報も得られなかったのだから、ひどい時代だった。もっとも、こんな情報が流れたらパニックが起きたかもしれない。
一月十九日(月) 晴
今年になって二度目の外出。まず多摩信用金庫へ行く。去年の九月から、招き猫の貯金箱に溜めていた小銭を持ってゆく。重い重い。残高二十万円とあわせて、六十七万円ばかりになった。こんなに多額になったのは、五百円玉ができたせいだが、外出すれば硬貨の釣銭が貰えるように買いものをするし、馬券も五百円玉が手もとに増えるような買い方をする。これが僕の競馬資金だ。なんとか五月末のダービーまで保《も》ってくれればいいんだがなあ。
小銭を溜めこんでいるとき、俳号を守銭奴にしたいと思ったりする。守銭奴は悪くない。僕にピッタリだ。また、全国招き猫愛好家協会|国立《くにたち》支部長(略称全招協)というのはどうかな。駅前喫茶店|ロージナ《ヽヽヽヽ》でコーヒー。マスターの伊藤接氏に今年まだ会っていない。
夜、常盤新平氏来。先日、お祝いに何がいいかと言ったら原稿用紙がほしいという。それを取りに来られたのだ。千枚差しあげる。千枚ぐらい、アッというまになくなるだろう。
一月二十日(火) 晴
『小説新潮』連載中の「新東京百景」取材のため帝国ホテルに泊る。築地|天竹《ヽヽ》でフグを喰う。三人で御勘定は約四万円。僕だってもっと高級店でフグを喰った時代もあったんだぜ。
[#改ページ]
[#地付き] フリージア[#「フリージア」はゴシック体]
一月二十一日(水) 晴
帝国ホテル三十階の部屋で九時に目がさめる。昨夜築地|天竹《ヽヽ》で鰭酒《ひれざけ》を五杯も飲んだためか、珍しくよく眠った。それでも夜中に三度か四度は小便に起きた。ツインの部屋で、隣に眠っている臥煙君は、正座してベッドの背靠《せもた》れに寄りかかり、そのまま体を倒してサイドテーブルの電気スタンドに頭を載せている。この人は寝棺より座棺のほうがいいのではないかと思った。こういうのはお行儀がいいのか悪いのか、よくわからない。朝になると、キチンと毛布を掛けているのだから、当人は自分は寝相がいいと思っているに違いない。
明け方、あまりの寒さに目がさめた。今冬一番の冷え込みだと後になって知った。温度調整があっても、三十階となると、風当りが強くて冷えるのかな。
竹芝桟橋附近の絵を描きにきたのだが、この寒さでは屋外で描くのは無理だ。僕等の部屋から東京湾がよく見える。そこで出窓に道具をセットして描きだしたのだが、こんどは窓ガラスが曇ってしまう。窓ガラスにワイパーがついているといいのにと思った。バスルームにある手拭きで何度も拭くようになるが、窓ガラスは曇りガラスであることを止めない。「おおい、臥煙君、窓の向う側を拭いてくれないか」と頼んだが、やってくれない。ちょっと身を乗りだせば出来るのに薄情な男だ。僕は高所恐怖症で、自分でそう言っただけで気分が悪くなってしまった。
「晩飯は蕎麦屋の吉田《ヽヽ》で鴨鍋ってのを考えたんだが、どうかね」
「いいですねェ」
臥煙君は、こういう提案にはすぐに賛成する。笠信太郎先生は暮に家族連れで吉田《ヽヽ》へ来て鴨鍋で忘年会を開いたという。鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》の小泉信三先生、川口松太郎先生と較べると、いかにもそれらしい感じがする。早目に饂飩《うどん》を貰った。
「もっと食べてから饂飩をいれてよ」
滝田ゆうの漫画に出てくるような細面で髪の長い女性に注意された。蕎麦屋で働く女性は顔が長くなってしまうのかしらん。それはそうなんだが、暮以来胃腸が弱っているので、こっちは饂飩が目当《めあて》なんだ。
竹芝桟橋のハーバーライツ(カフェバー)とトーキョーベイゴーゴー(踊る所)へ取材に行った。どちらも午前五時まで営業している。行ったんだけれど入店を拒絶された。「……うちは若い人が対象ですから」ボーイの奴、ハッキリ言いやがった。前回の麻布十番マハラジャに続いて、また取材拒否に遭った。どの店にも営業方針があるのだから仕方がないのだけれど「新東京百景」というこの企画自体が僕には年齢的に無理だったんだと思うと、悲しく心細くなる。
「なに、ハーバーライツが駄目なら帝国ホテルのオールドインペリアルバーがあるさ。こっちはオールドだからね」
帝国ホテルに引返して、ただちにオールドインペリアルバーに駈けつけたが、十時閉店で店じまいしている。
「オールドインペリアルバーが駄目なら本館十七階にレインボーラウンジというのがあります」
臥煙君が造詣の深い所を示した。レインボーラウンジへ行ってみると、入口に黒服蝶タイのボーイが四人立っていて、僕等を睨みながら何か囁きあっている。どうやら辛うじて合格したらしいのだが、その内部の情景は、僕なんかには、とてもイタタマレナイという態《てい》のものであった。僕には、正直に言って覗き趣味がないわけではない。その僕が目をそむけるのである。僕が目撃した怖るべき光景については『小説新潮』で読んでいただきたい。バーボンのワンショットで、匆々《そうそう》に退散した。
「なに、レインボーラウンジが駄目なら、部屋の冷蔵庫《ミニ・バー》があるさ」
一月二十二日(木) 晴
変なものを見てしまったので、魘《うな》されて眠れなかった。
田舎のホテルに泊ると、決って最上階に展望レストランというのがある。グランドピアノなんかが置いてあって夜景と音楽を楽しめと言うが、目的は、店の終ったあとのホステスを連れ込んで、あわよくば己の獣欲を満たさんとするにある。
私見によれば、この水商売の女性が素人女(多くはOL)に取って変る時代が来ているということになる。田舎のホテルだけじゃない。都内一流ホテルしかり。新宿超高層ビル群しかり。どうやら、展望レストランに同行するということは、半分OKという意味であるらしい。いや、女性のほうがその目的でもって男を連れ込むのである。田舎のプレスリーを志す者、まず高所恐怖症を克服せよと声を大にして叫びたい。
展望レストランの入口に屯《たむろ》する黒服蝶タイの奴輩《やつばら》は、かかる獣欲の持主の保護を目的とし、僕のような紳士を追い払うために立っているのである。いったい、我国最高の伝統ある帝国ホテルの尊厳はどこへ行ったのだろうか。……しからば、どうして、臥煙君と僕が入店を許可されたのだろうか。いまにして思い当ることがある。ボーイの奴、
「窓際の席はあいていませんが」
と、変な目つきで言いやがった。この窓際の席というのが問題なのであって、昔の同伴喫茶のほうがまだしも上品だったと言えば理解が届くであろうか。そうなんだ、ボーイの奴、臥煙君と僕とをそういう目で見たんだ。ウヘッ、チモチワリイ。僕は、エイズ患者の東京に簇生《そうせい》すること松本神戸の比ではないと、いまから予言する者である。もっとも帝国ホテルは、テ・コキュ(寝とられ亭主)オテルだと言う人は昔からいたんだ。
なんだかヤケクソになって、鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》へ行って鮟鱇鍋《あんこうなべ》を食べた。河豚《ふぐ》ちり河豚雑炊、鴨鍋ときて鮟鱇鍋だ。執念深いことにおいて、臥煙君は少しも僕に劣らない。
内儀の肥子《ともこ》さんに「おめでとうございます。本年もよろしく」と言ってしまった。岡田は喪中なのである。
あとから来た同じく鮟鱇鍋の客が「今年は淋しいお正月でしたね」と挨拶するのを聞いて、参った。ハハア、こんなふうに挨拶するものか、俺なんか齢甲斐《としがい》もなく……。
肥子さんが僕の耳もとで「七十九歳なんですから、おめでとうでいいんです」と囁く。こういうフォローが嬉しい。
一月二十三日(金) 曇時々小雨
家に帰って留守中の新聞を読む。これが一仕事。
一月二十四日(土) 曇
アーウィン・ショー『夏服を着た女たち』(常盤新平訳・講談社刊)を読む。以前から、僕に似ているから読め読めと言われ続けてきた短篇集だ。出来栄えは別として、本当に気持が悪くなるほど似ている。文章の呼吸がよく似ている。イメージが飛んでしまって読み辛いことや題名のつけ方まで似ている。僕は若い頃はウイスキイのストレイトをがぶがぶ飲みながら小説を書いたものだが、アーウィン・ショーはどうだったのだろうか。どうやら僕は生まれた国と時代とを間違えてしまったようだ。
[#改ページ]
[#小見出し] 不老こ[#「古」の変体仮名]う
銀座松屋裏の「鉢巻岡田」へ入ってゆくと、否応なしに、不老こ[#「古」の変体仮名]うと書かれた川口松太郎先生の書が目につく。その岡田こ[#「古」の変体仮名]うさんが、七月二十五日に亡くなった。七十九歳。齢に不足はないが、晩年の十年間は寝たきりで、本人も家族も気の毒だった。いや、こ[#「古」の変体仮名]うさんをよく知っている客も、まるで知らなかった客も、その点では不幸だった。
なんとも可愛らしいお婆さんだった。私には、一升瓶を抱えて、汗ダクダクになりながら贔屓客の暑中見舞にやってくる待合や小料理屋の肥《ふと》ったお内儀《かみ》さん、という大好きなイメージがあるのだが、それにピッタリと当てはまるのがこ[#「古」の変体仮名]うさんだった。
私が岡田の白木の小卓につくと、こ[#「古」の変体仮名]うさんは、自分の杯を持ってきて、私の前にピタッと坐り、へっへっへ、と、首を竦《すく》めて笑う。私も笑ってしまう。これだけで御馳走は充分だ、とよく思ったものだ。
五月場所の帰りに岡田《ヽヽ》へ寄った。無いのを承知で、空豆《そらまめ》が食べたいと言った。何も食べないで酒ばかり飲んでいると、いきなり、空豆を盛った小鉢が出てきた。
「へっへっへ。| 色《いろ》| 彩 間《もようちよつと》| 苅 豆《かりまめ》 。| 累《かさね》です」
と、恥ずかしそうに笑う。近くの料亭で空豆を借りてきたらしい。
「じゃ、俺が与右衛門か」
私は、その話を日本経済新聞の随筆欄に書いた。こ[#「古」の変体仮名]うさんは、その新聞を切り抜いて、ずっと持っていたという。
座敷も小間もテーブルも満席で、三階のこ[#「古」の変体仮名]うさんの部屋に通されることがあった。こ[#「古」の変体仮名]うさんは、その六畳間に一人で住んでいて、風呂は銭湯に行っていた。こ[#「古」の変体仮名]うさんの蔵書は一種類で、茶箪笥の上に重ねられていた。それは河竹黙阿弥全集である。
不老こ[#「古」の変体仮名]うは寄せ書きであるが、そこに書いている花柳章太郎も大矢市次郎も、すべて亡くなってしまった。岡田を贔屓にしていた河上徹太郎、吉田健一、小林勇、池田弥三郎という方々も亡くなった。こ[#「古」の変体仮名]うさんの楽しみは、雑司ヶ谷に住んでいる孫に会いに行くことだけになったが、倒れてからは息子と孫との区別がつかなくなった。
「私は、子供のときは体が弱くて、よく入院したんです。立派な病院の一人部屋にいれてくれて……」
八月六日の築地善林寺の葬式のあとで、一人息子の千代造さんが言った。
「毎日、母が見舞いに来てくれるんですが、それが待ち遠しくて、待ち遠しくて」
まことに、さもありなんと思った。
[#改ページ]
[#小見出し] 続・不老こ[#「古」の変体仮名]う
銀座松屋裏の小料理屋、鉢巻岡田の先代内儀岡田こ[#「古」の変体仮名]うさんが七月二十五日に亡くなった。「不老こ[#「古」の変体仮名]う」という願いを込《こ》めて筆太の文字を書かれたのは川口松太郎先生であり、こ[#「古」の変体仮名]うさんのことは川口先生に書いてもらいたかったのだが、それも詮《せん》無いことになった。
これは別のところにも書いた話であるが、何度でも書きたい。それは、私が初めての客を岡田《ヽヽ》へ連れて行くと、こ[#「古」の変体仮名]うさんは私には見向きもせずに客と話しこんでしまうということである。私が客を接待する。その客を好《い》い気持にさせてしまうのが、私に対する最大のサーヴィスである。そのことを、こ[#「古」の変体仮名]うさんは充分過ぎるくらいに心得ていた。まったく薄情に思われるくらいに私には話しかけない。言外に「山口さんの連れてくる客はいいひとに決まってますよ。あたヒ[#小さな「ヒ」]ゃ、最初《はな》っから信用してます」と言っているかのようだった。
一人息子の千代造さん(現当主)が可愛くて可愛くて堪らないようだった。その気持が孫に移行した。それでも、千代造さんが四十代になっても、心配で仕方がないという風情《ふぜい》があった。
終戦直後に、こ[#「古」の変体仮名]うさんの夫(先代)が急死した。こ[#「古」の変体仮名]うさんも千代造さんも素人である。不器用(本人が言っている)な千代造さんが庖丁を握るのだから心配するのも無理はない。
川口松太郎原作・三益愛子主演の|母モノ《ヽヽヽ》と呼ばれる映画があった。「三倍泣けます」というのがキャッチ・フレーズだった。こ[#「古」の変体仮名]うさんは「泣かされるから厭だ」と言いながら必ず見に行った。そうして、わあわあ泣きながら帰ってきて、店へ戻ってからも泣いた。母モノというのは母と子の話である。一人息子に負い目でもあるのかと思われるくらいに夢中になっていた。ここにおいて、店を取り仕切る内儀の第一条件は人情味にあるということに私は気づくのである。
私は岡田の鮟鱇鍋を愛好するが、鍋のあとの雑炊は固目のものが好きだった。こ[#「古」の変体仮名]うさんも固いのが好きだったが、他の女中たちは水っぽく作る。私が二階座敷で一人で飲んでいると、こ[#「古」の変体仮名]うさんが女中の目を盗むように上ってきて、卵を割り、オジヤのような雑炊を作ってくれて、ヘヘッと首を竦《すく》めて笑う。
千代造さんが新婚旅行に行くと、旅行鞄のなかに一枚の写真が入っていた。それは馬の種ツケの写真だった。たぶん、こ[#「古」の変体仮名]うさんは、家にいて、心配しながらも、ヘヘッと首を竦めて笑っていたんだろうと思う。
一月二十五日(日) 曇時々晴
朝からテレビばかり見ている。日曜美術館、将棋、女子マラソン、競馬、相撲。
一月二十六日(月) 晴
妻と散歩に出る。駅前でフリージアを買う。黄。春を感じさせてくれる花だ。|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》でコーヒー。
[#改ページ]
[#地付き] 節 分[#「節 分」はゴシック体]
一月二十七日(火) 晴
静佳さん、沢庵を持ってくる。
一月二十八日(水) 晴
麻布十番マハラジャ、竹芝桟橋ハーバーライツと続けて取材拒否され、六十歳以下の方御遠慮願いますという老人向きのカフェバーを作ってみたくなった。まず、何よりも坐り心地のいい椅子を用意する。近頃、早く出ていって貰いたいという設《しつら》えの喫茶店が多くなった。反対に、酒場は、泥酔するまで帰さないぞという感じになっている。どっちも困る。昔、銀座裏に、永井荷風なんかが溜り場にしていた|きゆうぺる《ヽヽヽヽヽ》という喫茶店があった。あんなのがいいな。しかし、僕には店を出す資力・体力・気力がない。
暮から正月にかけて酒を飲む機会が多かった。夜、薬屋へ行ってノド飴なんか買っていると、中年の男が入ってきて「……ユンケル」と店員に囁く場面にたびたび遭遇した。ユンケル黄帝液というネーミングがうまい。皇帝でなく黄帝としたところがいい。八百円から二千円まで値段に段階をつけたのも巧妙だ。銀座では、ほとんどの客が二千円のものを飲む。そうして、必ず「気のせいだと思うんだけど二千円のほうが効くような気がする……」と言訳めいた独《ひと》り言《ごと》を言うのがおかしい。国立市の薬局では千五百円のものまでしか売っていない。あッ、いけない。僕も飲んでいることがバレてしまったか。
僕は還暦を迎えて仕事をやめてしまった。今年の八月に妻も還暦となる。「私は還暦になったら何をやめようかな。女には定年がないのかな」と妻が言う。女の仕事で一番大変なのは炊事だろう。僕はホカホカ弁当でもスカイラークでも一向に構わないんだがな。だけど、四十年も続けてきたことをやめたら健康によくないとも思う。
ああ、ここでまた思いだした。元日の記述に誤りがあると妻が言う。子供二人を連れて年始に来たフミヤ君の長男が「おばさんは、おばさんですか、おばあさんですか」と訊く場面がある。そのあとに、
「おばさんは六十歳だけど六十には見えないでしょう」
「ウン」
と続かなければ正確ではないそうだ。また、暮の井伏鱒二先生の忘年会のところで、野上照代さんのことを野本照代と誤記したこと、あわせてお詫びして訂正いたします。
一月二十九日(木) 晴
十一時、臥煙君来。『小説新潮』の原稿「竹芝桟橋と帝国ホテル」を渡す。
一月三十日(金) 晴
とても暖い日。妻と散歩。一橋大学構内の紅梅が満開。わずかに匂う。
一月三十一日(土) 晴
府中競馬場。第一回東京競馬初日。スバル君、妻と三人。
第六レース、サラ四歳新馬(初出走)戦にスバルスポートという馬が出ている。無印。これはもう、見る聞くなしにスバル君の買うべき馬だ。パドックで見ると、やや太目だが好馬体。勝負強い感じ。
僕等の席はゴール前二百メートルだが、大外から橙《だいだい》帽子12番の馬が躍り出てきたときは「夢ではないか」と思った。
「単複連です」とスバル君が叫んだ。単勝二千五百八十円、複勝六百十円。連勝式五千八百二十円。僕は駄目。リーデングエイト、ウメノレイホーのほうを良く見てしまったのだから仕方がない。このスバルスポート、母系がヒカルメイジだから、ダート良し重良しで中堅クラスとして活躍しそうだ。
パドックに表示される馬体重の表示が見えない。スバル君、本田靖春氏と三人で見ていて三人とも見えない。特に6と8がいけない。どの競馬場でもそうだ。去年沢辺理事長に電光掲示にしてくださいと頼んだのだが、重ねてお願いしておく。
この日、マイナス一万六千四百円。どうもおかしい。僕の競馬は、こんなもんじゃなかったはずだ。若い頃と較べて念力が薄れてきた感じだ。集中力がない。攻撃的でなくなった。妙に要慎深くなったのがいけないと反省する。「競馬で儲ける人は、馬券を買った人です」とコイズミは言うだろう。
繁寿司《ヽヽヽ》、|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》、|らあら《ヽヽヽ》、および自宅で飲んだもの。ビール、酒、ホットウイスキイ、焼酎お湯割り、ブランデー。なにが禁酒中だ。
|らあら《ヽヽヽ》は落ちついた感じの静かなピアノサロンで贔屓にしていたが、この日限りでピアノ演奏が出来なくなる。これも風営法のためだ。生演奏だとキャバレー扱いになり、文教地区だから許可がおりないといった事情があるようだ。|らあら《ヽヽヽ》は地下の酒場だから、かりに大騒ぎしたって誰に迷惑がかかるというものではない。警察は、よく実情を調査して、血の通った判断をしてもらいたい。
こういうことを聞くと黙っていられない性分の臥煙君が途中から参加した。最後のピアノ演奏で大いに歌ってもらう(この際、歌の上手下手は別問題だ。心意気を買いたい)つもりだったが、グランドピアノは、すでに運びだされている。彼は、結局は、新しく購入したカラオケセットのテストに使われてしまった。
二月一日(日) 曇
ナベプロ渡辺晋氏死去の報。心不全。五十九歳。お察しの通り、新聞の死亡記事に目が行くほうだが、有名人の死因の大半が心不全になっている。似たような年齢で心臓疾患のある人にショックを与えないかと心配になる。
府中競馬場。宿酔《ふつかよい》(当り前だ)。腓《ふくらはぎ》と腿《もも》が痛い(前日歩き廻ったため)。北風で寒い。
この日、ゴンドラの15号室は、大橋巨泉夫妻、吉田善哉氏と長男の照哉氏、関保寿先生と佐喜子ちゃんの父娘など、珍客賓客万来。
勝っても負けてもパドックで確《しつか》りと馬を見たときは気分がいいし納得もするのだが、寒くてパドックへ行けない。僕は四階食堂裏の露台《バルコニー》から馬を見るのだが、そこは北風が正面《まとも》に吹きつける。
マイナス二万五千七百五十円。僕は、どこかのカルチャーセンターで「競馬必勝法」という講座を受け持って、主婦二、三十人を引き連れて競馬場へ行くのを夢見ていたのだが、これじゃあ、とても無理だ。
二月二日(月) 雪
宮本輝『優駿』(新潮社刊)を読む。すぐ読むつもりが遅くなったのは、妻が眠る前に少しずつ楽しみにして読んでいたからだ。
生産者、馬主、調教師、騎手、厩務員、馬券師、一般の競馬ファンを、これだけ精しく正確に書いた書物は、いままでになかった。宮本さんはストーリー・テラーの名手とされているが、それは計算が確かだということだ。それに、レースの描写に迫力がある。かりに、これを僕が書いたら、オラシオンは中央未勝利で南関東北関東でも勝てず、高知から益田へ流れて行くだろうと思ったら可笑《おかし》くなって一人で笑ってしまった。
午前一時、庭に出て植木の雪落とし。
二月三日(火・節分) 晴後曇
家の前の雪|掻《か》き。妻、豆を撒く。その豆が美味いが、齢の数なんて食べられない。池波正太郎さんに妻は「節分過ぎたら運勢が変る(体が丈夫になる)」と言われていた。その妻の「オニハソト」の声を聞きつつ豆を喰う。
[#改ページ]
[#地付き] 暖冬異変[#「暖冬異変」はゴシック体]
二月四日(水) 晴
TBSブリタニカ小玉武氏、サントリー宣伝部山田耕治氏来。臥煙君『小説新潮』ゲラ持ってきてくれる。
二月五日(木) 晴
新聞では東京新聞が好きだ。第一に頁数が少いのがいい。一週間分だけ保存するのだが、その点、東京新聞は扱いやすい。第二に僕は筆洗欄の筆者のファンであるからだ。体質的に似たものを感ずる。第三に文壇の消息が他紙に較べて精しいのが有難い。宇野信夫氏の劇評もいい。第四に昔から運勢欄を愛読しているからだ。
昔、新聞は隅から隅まで読んだものだが、この頃はどうでもよくなった。東京新聞筆洗、朝日新聞天声人語、読売新聞編集手帳、毎日新聞余録は必ず読む。主なニュースはTVで見てしまう。TVのほうが早いのだから仕方がない。
新聞でもっともよく読まれるのはテレビの番組案内の頁だろう。これは疑いの余地がない。しかるに、最近はやや変化が見られるようになったが、各紙とも千篇一律、ほとんど同じだ。たとえば、スポーツ新聞ではスポーツ放送はゴチック活字で組むといった程度の親切心があってもよさそうに思う。僕はテレビで放映する映画を楽しみにしているが、再放送であることを謳《うた》わない、題名をわざと紛らわしくするなど、これは詐欺行為に近い。
昭和三十年頃、煩《うるさ》い記者をラジオ・テレビ局に左遷するという傾向があった。また無頼漢《ごろつき》のような芸能記者がいたものだ。いまでも新聞社はテレビを軽視蔑視しているとしたら、時代遅れも甚だしい。
二月六日(金) 晴
暖い日が続いている。今年は雪の日、寒い日、暖い日とあって予断が許されない。散歩に出る。金文堂《ヽヽヽ》で表札用の板を買う。頼まれている表札を失敗してしまって、もう一枚書くつもり。
表札と佐賀の親類に依頼された掛軸用の書を書く。調子が出ない。
一昨年の夏の終りに倉本聰さんから貰った南瓜《かぼちや》が見事だったので、これを二枚のパステル画にした。その額装が伸び伸びになって(額縁屋は素人の絵はどうしても後廻しになると言った)去年の暮に出来てきた。
一枚を居間に、一枚を食事室に掛けたのだが、居間のほうは、いかにもパステル画らしい淡い色調で悪くはないと思うがデッサンが狂っている。食事室のほうは、僕としては珍しくデッサンが完璧に描けた。絵としてどちらが良いかわからないのだが、実作者としてはデッサンがうまくいった絵のほうに愛着がある。見ていて飽きない。気持がいい。デッサンなんか狂っていても絵としてよければいいという考え方があるが、僕はそうはならない。
二月七日(土) 曇後晴
赤の侘助が咲いた。くすんだピンクで、これもいい。
府中競馬場。カシミヤのセーターにホッファーを重ね、そのうえにオーバーを着ていったら暑いのなんのって。矢崎泰久さんに貰ったマフラーも着用していた。そのマフラーをいただいたとき、競馬場に連れていってやってくださいという添書があったのだ。負け続けていたが最終レースが的中して少しプラス(四千五百五十円)になった。
二月八日(日) 晴
あたたかい。府中競馬場。ホッファーだけにしたら、ちょうどよかった。
府中競馬場のロビーを歩いていると故郷の実家(そんなものはないが)へ帰ってきたような気分になる。ゴンドラの15号室へ集る友人知人はみんな好きだ。
僕は、ずっと一階の四コーナー寄り一般席で競馬をやっていて、中央競馬会のほうでゴンドラ席へのお誘いがあっても断っていた。三、四年前、年齢的に見ても、もういいだろうと自分を許して特別席へ行くようになった。病弱の妻と一緒だと暖房のある部屋でないと二月競馬は無理なのだ。それに四階だと友人に会えるのが嬉しい。
鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》の千代造さん父子に肩を叩かれる。第四レースに初出走するチェスナットダイナの二十分の一馬主になったそうで、単複三百円ずつの馬券と銀座|長門《ヽヽ》の半生菓子折をプレゼントされた。なんとも可愛らしくも小粋なことをする人だ。チェスナットダイナは気が小さいようで直線ばらけてから伸びて四着。小柄だが気合よく二勝ぐらいできるのではないか。
三万七百円のマイナス。金の話はよそう。将棋指しは、こういうとき、命まで取られたんじゃないんだからと言う。
二月九日(月) 晴
昨晩はよく眠った。十時起床。これも競馬健康法の成果なり。
三ヵ月ぶりに麹町リバースへ鍼《はり》治療に行く。右肩がパンパンに張っている。
「稼ぎ疲れでしょう」
「いや、仕事はしていない。暮から正月にかけて飲む機会が多かったから」
「疲れが溜っているんです。そのかわりお金も溜ったでしょう」
「冗談じゃない。スッカラカンだ」
帰って『別冊文藝春秋』随筆二枚半書く。今日も暖い。庭の紅梅が五輪ばかり咲く。横浜三渓園でも満開だそうだ。
二月十日(火) 晴
庭にジョウビタキが来ている。四月末の陽気だそうで、国立駅の桜が咲いているという連絡があった。
吉祥寺東宝へ『マルサの女』を見に行く。平日の二回目で五分の入り。終った頃八十パーセント位の入りになっている。友人の映画だと客の入りのほうが気になる。
伊丹十三は厳格主義の人で、これが税務署を描くのだから悪かろうはずがない。画面の奥行きの深さと重量感に圧倒される。『お葬式』(これも面白かった)と較べて別人のような風格があり、彼は遂に念願のプロの大監督になった。
僕のところが査察を受けたとき、その猛烈な追及に驚かされた。国家権力は凄いと思った。こんなに頭のいい人が、安月給で、こんなに働く情熱の根拠は何かと考え込んだものだ。これは一種の趣味人、モノマニア(偏執狂)ではないかと思った。だから、僕が『マルサの女』の脚本を書いたとしたら、大滝秀治か小林桂樹か、どちらかの役を、サディストかマゾヒストにしてしまっただろう。
二月十一日(水・建国記念日) 晴
庭に出るとムッとするぐらい暖い。
二月十二日(木) 晴
直木賞贈呈式。常盤新平氏は国立市の準市民格で、繁寿司《ヽヽヽ》のタカーキーなど店を閉めてお祝いに行くという。常盤さんはタカーキーの仲人でもある。妻、珍しく私も行きたいと言う。都心のパーティーに出るのは、二十五年ぶりになろうか。
東京会館での贈呈式。タカーキーは六尺豊かの大男で、頭を剃っている。三つ揃いの紺の背広で非常に立派。まさにダライラマ十四世だが、人は彼を何と思っただろうか。カメラマンが寄ってくる。なんだかわからないが、とにかく写しておこうということか。タカーキーが僕の耳もとで言った。「いろいろ食べましたが、模擬店の寿司の握りが小さい」。
久し振りに上気した妻を見る。
[#改ページ]
[#地付き] 冴 返 る[#「冴 返 る」はゴシック体]
二月十三日(金) 曇
暖冬だと思っていたら俄《にわ》かに寒い。植木や草花はさぞ驚いていることだろう。僕は冴返るというのは、二月の月が皓々《こうこう》と照る様を言うのだと思っていた。だから『三千歳』の「冴返る春の寒さに降る雨の……」というのは矛盾していると考えていた。しかし、冴返るというのは、春になって暖くなったのに寒波が来て寒さがぶり返すという春寒の意であるそうだ。従って冴返るは春の季語である。こういう間違いをチョイチョイやってしまう。
昨夜は直木賞贈呈式があり、パーティーのあと、銀座|鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》で飲もうと親しい人たちに声を掛けた。集った人たちは、関保寿先生、岩橋邦枝さん、京都陶芸家の竹中浩氏、カメラマンの田沼武能氏、繁寿司《ヽヽヽ》の若旦那タカーキー、文藝春秋松成武治氏、新潮社臥煙君、スバル君、僕等夫婦に息子、それに主賓の常盤新平氏の十二人。なんのことはない、僕の家の元日の客とほとんど変らない。
昔、文壇関係の出版記念会なんかがあると、先輩作家が声を掛けて、いづも橋|はせ川《ヽヽヽ》か鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》の二階に大勢で集ったものだ。それで先輩作家と若手作家が顔見知りになる。編集者同士が親しくなる。誰かが音頭を取って千円か二千円の会費を徴収する。そうやって安い酒が飲めたし、仕事の面でも有益だった。あれは、いいものだった。近頃は小さな酒場に分散してしまうのか忙し過ぎるのか、これが無い。僕なんか多分古いタイプの文壇人なのだろう。
午後、関保寿先生来。僕等は岩橋さんとタカーキーを送るため(というより、この二人が妻の介添人)早く帰ったが、昨夜の先生は、あれから|ザボン《ヽヽヽ》、|パイ《ヽヽ》、|まり花《ヽヽヽ》と廻って朝帰りであったという。その元気に驚くが、流石《さすが》に目が落ち窪《くぼ》み、タイムオーバーで入線した九歳馬の感じになっている。
二月十四日(土) 晴
昨日と変ってポカポカ陽気。いったい、この冬はどうなってんだ。庭にシメ(野鳥)が来ている。
府中競馬場。穴場の姐《ねえ》さんにチョコレートを貰う。今日はヴァレンタインデーだ。まだ、いくらか脈ありと喜ぶべきか、それとも、あのお爺さん可哀相だからと同情されてのことで悲しむべきか、よくわからない。おそらくは後者だろう。
国立市の無線タクシーの運転手徳本春夫氏に頼まれた馬券がパーフェクトで的中。僕は予想屋としては自信があり、僕と同行した人は必ずプラスになる。僕自身の馬券は低調。特に徳本氏は、このところ四連勝で五万円は儲かっている。いつも出番の時は府中駅附近に迎えにきてもらうのだが、儲かった日は早く来ている。はたして、この日も、ずいぶん早く来て待ってくれていたようだ。真《ま》ッ赫《か》な顔で運転席に坐っているのが見えた。
僕はプラス九千二百五十円。この端数によって僕の投資額がいかに少いかがわかるだろう。こんなものに大金を投ずるのはお脳の弱い人だと思っている。僕は、自称零細馬券師である。競馬をやる人は身に覚えがあると思うが、儲かっていても(儲かっていない日はなおさら)最終レースで、こう来れば百万円というようなとんでもない馬券を買ってしまうからいけない。
妻、徳本氏と三人で繁寿司《ヽヽヽ》。店を出たら満月が出ている。「こりゃ冬の月じゃねえな、朧月だ」と徳本氏が言う。
二月十五日(日) 曇後晴
昨日ほどではないが、風が無いので寒くはない。府中競馬場。
マイナス三万七千八百円。零細馬券師としては痛いが命まで取られたわけじゃない。昔から競馬の収支は手帳に記入している。ミセシメのためだ。
タモリの『笑っていいとも!』という番組に「反省!」と叫ぶとションボリと首を垂れる芸をする犬が出ていたそうだ。妻も不調であったらしく、しきりに自分で反省と叫んでは首を垂れている。僕も、反省!
二月十六日(月) 晴
晴というより快晴だ。雲ひとつない。
『小説新潮』取材のため、臥煙君が迎えにきてくれて、池袋のホテル・メトロポリタンへ行く。
途中、京都の老舗が集って即売会をやっている伊勢丹へ寄った。一澤帆布店《ヽヽヽヽヽ》の長男に挨拶。よく売れたそうだ。
新宿を歩いていると外套で中折帽の若者が目につく。これが例のレトロ感覚というやつらしい。二、三年前までは洋品店ではジャムパーだけしか売ってなかったものだ。僕なんか若ぶってるつもりだが、すぐに取り残されてしまう。
ホテル・メトロポリタンは中国や韓国の客が多いようで、中国語や韓国語のパンフレットが置いてある。これは炯眼《けいがん》だ。すぐに中国と韓国の時代が来る。
ホテル名が大都会飯店、スイート・ルームが蜜月套房、バーのオリエント・エクスプレスが東方快車。
雑司ヶ谷鬼子母神の境内を描くつもりだったが、初日はロケハンだけにする。
日本橋|鳥安《ヽヽ》で会食。講談社の大村彦次郎氏、徳島高義氏、宮田昭宏氏。臥煙君と僕。主賓は常盤新平氏。常盤さんと乾盃するのは、これが六回目か七回目か。僕がサントリーの社員で直木賞を受賞したとき、上役に仕事と酒と交際を三分の一ずつ減らすように言われたが、とても無理な状況だった。常盤さんに言っても同じことになるだろう。
大村さんにホテルまで送ってもらって、東方快車で浅酌。この大村さんがO中年、宮田さんがM少年と言われた時代があったが、いまや隔世の感がある。
東方快車で働く女性の感じが実によかった。イキイキしている。東武東上線は成増あたりの農家の娘と見当をつけた。誇りを持って働いているのがいい。
二月十七日(火) 曇後雪
念のためテレビで天気予報を見ると、関東地方は五センチから十センチの大雪であるという。部屋のカーテンを引くと一面の雪雲で昨日の快晴が嘘のよう。
行かねばならぬ妙真どので画材を担いで鬼子母神境内へ。寒いなんてもんじゃなかったな。ちょいと絵を描いちゃ飛びあがって足を温める。名物のミミズク売りの安井千代さん(九十二歳)も「今日は店をあけようかどうしようか」と迷ったほど寒かった。
三時まで描いてホテルに戻ったが、すぐに小雪が降りはじめた。
夜は、巣鴨のチャンコ鍋|やまもと《ヽヽヽヽ》へ行く。以前、高橋義孝先生に連れて行ってもらった店かもしれないと思っていたが、やっぱりそうだった。
「先生、覚えていらっしゃいますか」
大男の主人が二階へあがってきた。
「あ、思いだした。我孫子《あびこ》の宿で無一文で腹を減らして困ってた取的さんかい」
「違いますよ。信濃花《ヽヽヽ》です」
腹一杯食べて、とげぬき地蔵へお参りしようと思って振り向くと、|やまもと《ヽヽヽヽ》の主人が店の前に立っている。
「あのお相撲さん、まだお辞儀してる」
モト信濃花が激しくなってきた雪のなかで何度も何度も頭をさげる。
二月十八日(水) 雪後曇
窓の外は銀世界。冴返るを身をもって実感する。稀代の雨男である臥煙君は「私の念力は衰えていません」と、岡山県人らしく変な所で威張っている。
[#改ページ]
[#地付き] 水 温《ぬる》 む[#「水 温 む」はゴシック体]
二月十九日(木) 晴
庭に雪割草が咲いている。二、三日前から咲いていたようだ。
家で僕だけ国民年金の領収証が来ていない。妻と息子の分は来ている。妻が市役所に問いあわせると、六十歳を過ぎたら国民年金は徴収されないのだという。有難いような淋しいような。
二月二十日(金) 晴
田沼武能氏来。某中間小説雑誌巻頭グラビア撮影のため。書斎で撮影のあと、いつもの散歩コース。田沼さんとは三十余年の交際。彼はカメラマンとして早く世に出たため、年齢を偽っていた。だから、ずっと、僕より年長だと思っていた。僕は編集者時代から田沼さんを贔屓にしていた。少しも勿体《もつたい》ぶるところがなく、速写に徹しているところが好きだった。写しますよ、バシャ、はい結構です、といったカメラマンを好まなかった。
それに彼は人柄がいい。一昨年、彼がカメラマンとしては珍しく菊池寛賞を受賞したとき、我が意を得たりの感を強くした。
一橋大学兼松講堂附近の林で撮影。ここにマムシが出ることを後で知った(『週刊朝日』三月六日号)。
二月二十一日(土) 晴
府中競馬場。プラス一万七千五百円。終って繁寿司《ヽヽヽ》。齢を取るとコースが決まってしまう。競馬は僕と妻の健康のためにやっているが、妻を炊事から解放させる意味もある。来年は中山競馬場改装のため府中が八開催(例年は五開催)になる。八開催というと六十四日間で、これに全部参加すると、ややオーバー気味になる。
「いいお通夜か葬式がないもんかねえ」
お通夜・葬式・引越しに寿司は欠かせないものになっている。贔屓の店が賑わうのを見るのが好きなので、そんな冗談を言った。花屋では葬式の花の大量注文があると、ゴト(大仕|事《ヽ》の略か)が入ったと言う。
「それはそうなんですが、お得意さんが死に絶えちゃうのも困るんです」
と、タカーキーが済ました顔で言う。
二月二十二日(日) 小雨後雨
府中競馬場。徳Q君が一緒。ポシェットを忘れて、途中一度引返す。
ポシェットなんて女のものだと思っていたが、齢のせいか、平気で使えるようになった。冬はジャムパー(ポケットが少い)で出かけることが多いのでポシェットが必要になる。いや、そもそも、長年に亘って使い馴れた文藝春秋の『文藝手帖』が大型になったのがいけないのだ。作家や編集者にとって、手帳は武士の刀のようなものだ。出版社の重役連中は背広を着ていて内ポケットが二つあるからいいけれど、我々はそうはいかない。そこで手帳を収納するポシェットが必要になる。
僕と一緒に競馬場へ行った人は必ず(八割方か)プラスになるという定跡通り徳Q君も大勝利。僕も狙っていた昨日のオシャレダケ、マティリアル、今日のリンドギン、マウントニゾンが勝ってくれたので少し良かった。プラス二万五千円。
競馬の騎手は、人気馬に乗って、期待通りにキッチリと勝つのを誇りとする。奇襲策戦が成功して大穴をあけても嬉しそうな顔をしない。まず人気馬に乗せてもらえるのを喜びとする。ところが、人気馬に乗るとプレッシャーがかかって、ともかく見せ場だけは作ろうとする騎手がいる。こういう騎手は一流ジョッキーとは言えない。そんなことを感じさせるレースが二つ三つあった。
最終日のためか目黒記念のためか、悪天候にもかかわらず、かなりの入場者。
二月二十三日(月) 晴
去年の秋から床に就くと体のあちこちが痒《かゆ》くなるということがあった。皮膚が老化したのだろう。悩み事があると痒い場所が移動する。
もうひとつは頻尿と残尿感で、昨夜は特にそれが甚《ひど》く、排尿後に痛みがあり、立って歩けないようになった。
これは、てっきり前立腺肥大症か前立腺癌かと思い、病院で検査してもらおうと考えたが、一日だけ様子を見ることにした。鍼治療は休んだ。
三月末刊行予定の短篇集『庭の砂場』の著者校正。
二月二十四日(火) 晴
有難いことに頻尿も残尿感も痛みも無くなった。昨日は、即入院など絶望的なことばかり考えていた。しかし、今後、こういう症状があらわれたら病院へ行かねばなるまい。先週、雪空の下で絵を描いたのがいけなかったと思っている。素人風景画家としては、早く寒い冬が終ってくれないかと願う。こういうとき、北風の吹くパドックがいけなかったとは決して考えないところに僕の一大特徴がある。
莨《たばこ》の害について。
ニューヨークでは、建物のなかではほとんど喫煙できない、喫煙すると処罰されるといったような報道があった。いよいよ莨|服《の》みの肩身が狭くなる。来年オープンの後楽園の屋根つき球場は禁煙であるそうだ。それは仕方がないが、あのセカセカイライラと莨を吸っているスポーツ記者諸君には同情を禁じ得ない。どうするつもりだろうか。
僕が莨を吸いだしたのは中学の三年か四年のときだったと思う。世の中にこんな美味いものがあるかと思った。吸いはじめてからのヘヴィスモーカー、いや、チェインスモーカーだった。
当時、極端に言えば、莨以外に楽しみはなかった。なにしろ、映画館や喫茶店へ行けば補導協会に掴《つか》まる、妹と道を歩いていても交番で咎められるという時代だった。莨は配給制度であって、ということは天下公認である。事実、配給制度によって酒と莨を覚えたという人は多いのである。
軍隊でもそうだった。夜、下士官室へ行って、勉強する振りをして一服やるのが無上の楽しみだった。あれは束の間の天国だったなあ。
八十歳を過ぎてから禁煙に成功した財界の長老が言った。
「莨は美味いからいけない。あんな美味いものはない。だから、一服やったらもう駄目です。……ぼくは莨をやめて損しちゃった。だけど、いま莨をやったら意志が弱いと思われる。それが困るんです。うちの社員に示しがつかない」
妻は莨を吸うのは野蕃人《やばんじん》だと言う。その通りだ。しかし、禁断の木の実の味を知らないからだとも思う。
朝、庭を掃除して、苔に水をやり、陶製の椅子に腰をおろして、植木や草花を眺めながら一服する。これ以上の愉快が此の世にあるだろうか。
僕は昼寝をする。寝室は中二階にある。横になる前に、布団の上に坐って、庭を眺めながら莨に火をつける。一服、大きく吸い込む。やはり、こんな美味いものはないと思う。
その他に酒を飲みながらの莨がある。これも美味いが、たいていは相手がいるので、さすがに気が咎める。そうして、僕は、朝と昼寝のとき以外の莨を決して美味いと思って吸っているのではない。むしろ気持が悪くなるときのほうが多いのである。
二月二十五日(水) 晴
片栗《かたくり》が芽を出した。風は強いが水温むという春の気配あり。庭を掃き、片栗の一枚葉を見ながら一服する。
[#改ページ]
[#地付き] 肥料をやる[#「肥料をやる」はゴシック体]
二月二十六日(木) 晴
莨好きのところで書き落としたことがある。僕は上厠《じようし》するのに、雑誌か書物を持たないと行かれないが、莨も同様だ。莨と使い捨てライターを持ってゆく。莨を切らしているか、すぐには見当らないときはライターだけを持ってゆく。上厠するのに全く不必要なライターを探している姿は我ながら実に滑稽だ。
僕は昼寝のとき以外、寝室では絶対に莨を吸わない。夜、含嗽《うがい》をした後も莨を吸わない。しかるに、喫煙道具を持たないと寝室に行かれない。僕にとって、莨は、乳幼児におけるオシャブリのようなものだ。莨は習慣性のものだということがよくわかる。
二月二十七日(金) 晴
またしても寒い。ポリバケツの水が凍っている。齢を取るということは四季の感覚が身につくことだと思っているが、こんなに寒暖の差の激しい冬を知らない。
『オール読物』編集長藤野健一氏来。執筆量が極端に少いため、いきおい、編集長が担当者になるケースが多く、申しわけないと思っている。藤野さんを送りながら駅まで散歩。彼、鎌倉に住んでいるのに国立市内の風情を褒めてくれる。
|紀ノ国屋《ヽヽヽヽ》(スーパー・マーケット)で買物。買物は苦にならないが、レジの所が行列になり、前に並んでいる人の買物がわかってしまうのが困る。「やあ、ずいぶん肉を買い込んでいるな。食べ盛りの子供が多いんだろう」とか「タタミイワシを十枚も買ってどうするんだろう」とか、ついつい余計なことを考えてしまって恥ずかしい思いをする。『東京百話(人の巻)』(種村季弘編・ちくま文庫)を読む。職人・芸人・芸術家などのゴシップ集といった書物だが、昔の人に較べて、戦後の執筆者のほうが格段に文章が巧くなっている。
二月二十八日(土) 晴
立川駅ビル地下一階|ピノキオ《ヽヽヽヽ》で妻のハンドバッグの修理を頼む。皮製品の修理専門店で、とても便利だ。僕はケチな性分で、修理しながら使うのが好きだ。妻のハンドバッグは息子が香港で買ってきたもので、グッチとなっているが偽物だろう。ただし、とても使い易いんだそうだ。
ついでに、近くの場外馬券売場で馬券を買う。僕は場外ファンではないのだが、注目している馬に勝たれるのが癪《しやく》なので、こんなこともする。プラス三千五百円。
帰って『小説新潮』八枚書く。
このごろ、エアロビクスは体に悪いという説が目につく。テレビが普及しはじめたころ、目に悪いという説があった。フラフープが大いに流行した頃、腰と膝に悪いと言う人がいた。何だって度を過ごせば体に悪いに決まっているのに。
三月一日(日) 晴後小雪
息子、谷保天満宮の梅見の会に行く。雪のなか、梅見の老人客がかなりいたという。息子のほうは参加者二名で、梅の木の下で酒を飲んでいたんだそうだ。本当に、この陽気、どうなってんだ。
プロ野球の順位予想が出てくる頃となった。専門家のなかにも「野球は選手がやるもので監督がやるもんじゃない」と言う人がいるので驚く。笑止千万だ。
これは、雑誌は編集者が作るものだと言っているのと同じだ。雑誌は、担当重役(営業担当も含めて)と編集長が作るものだ。通常、編集長はデスクを動かないでプランを練る。編集者は兵隊である。勝れた編集長は勝れた編集者を育てることに腐心する。担当重役は大筋の編集方針を決め、特に社内の適材適所を考えて異動を行う。野球だって同じことだ。大洋古葉監督が広島のスカウトマンを引き抜いたのがそれだ。有望選手を時間を掛けて育てるからチームが強くなる。西武が強いのは、清原が必要なら清原を指名し、中央では無名の秋山、伊東、辻を育て、去年は森山を指名して関係者一同をビックリさせるような首脳部の見識の高さによるものだ。近藤昭仁コーチが初めて広岡監督に接したとき(ヤクルト時代か)「ぜんぜん野球が違うんです」と昂奮して話してくれたことを思いだす。
さて、今年のプロ野球は、断然阪神が強い。去年優勝できなかったのはオカシイのである。そこへ田尾が加入した。田尾は、西武時代に三番を打たせたのが変調であって、一番、二番なら頗《すこぶ》る優秀な打者だ。さいわい、阪神ではクリーンナップを打つ余地がない。真弓、田尾、バース、掛布、岡田、柏原という打線は、戦前の猛虎、戦後のダイナマイトより遥かに強力だ。
今年のプロ野球の興味は、この阪神を阿南、古葉、星野がどう突き崩すかにかかっている。
僕の順位予想は、@広島 A阪神 B巨人 C中日 D大洋 Eヤクルト
としておく。広島の二外人は意外な働きをすると見ている。特に、衣笠が連続出場記録を達成して代打専門に廻れば(正田が贔屓なので)実に強くなる。
パ・リーグでは、西武と近鉄の争いが昨年以上に熾烈《しれつ》になるだろうが、@西武 A近鉄 Bロッテ C阪急 D日本ハム E南海 と予想する。
昨日の当り馬券を換えるために(どうも言訳がましいな)立川へ行き、また馬券を買う。プラス二万一千八百円。
帰りに園芸店で油粕(粉末と固型)を買う。
三月二日(月) 晴
愛用の黒のタートルネックのセーターが洗濯屋から戻ってきたので「中国帰国者の会」宛に宅急便で送る。中国残留孤児の方に着てもらいたいと思っていたが、後楽園スタジアムでバザールを開き、売上金を援護基金にするという式のものであることが後でわかった。中国では衣類を差しあげるのが無礼になることがあるらしい。ま、それでもいいか。以前から「中国帰国者の会」の事務所の所番地を知りたいと思っていた。会長の鈴木則子氏が国立市の住人であることも初めて知った。(〒107 東京都港区北青山三の二の一 村上ビル5F 電話03・404・4702)
『小説新潮』の原稿、あと三枚というところでダウン。以前は、こんなことはなかった。なんでも一晩で一気に書いたものだ。まして、あと三枚が書けないとは。
三月三日(火) 晴
『小説新潮』の残りを書く。低調。午前中、雑司ヶ谷鬼子母神境内の絵を描く。スケッチに行って雪に降られたので、写真を見て描いたのだが、こういうのは苦手だ。従って絵も不調。臥煙君来。原稿と絵を渡す。講談社文庫長野脩氏来。
三月四日(水) 晴
とても暖い。これでもう春になったかと思うが油断はできない。四月になっても風の冷い日がある。
庭に肥料《こやし》をやる。この肥料は、庭に甕《かめ》を埋《い》け、魚の腸《はらわた》なんかを溜めて腐らせたもので、毎年二月と八月に穴を掘って樹木に与えるのである。今年は侘助の花が終ったらと思っていたので遅くなってしまった。侘助はまだ少し咲いている。効果があるのかどうか知らないが、植木屋は葉の色が違ってくると言う。
文藝春秋の某重役氏は、僕の話を聞いて、樹の根元にナマゴミを撒き、酔っぱらって帰ると庭で小便をしていたら、四本だか五本だか大木を枯らしてしまったそうだ。
今日、某所の梅見の会に誘われていたが、とても出かけてゆく元気はない。肥料をやり、いくらか気分がよくなったので、庭で缶ビールを飲む。
[#改ページ]
[#地付き] 叱られる[#「叱られる」はゴシック体]
三月五日(木) 晴
昨日、侘助、ヤマボウシ、柿などに肥料をやったが、今日は椿、空木《うつぎ》、泰山木などに肥料をやる。樹木や草花の好きな男にとって、実はこの時が一番楽しい。どんなに成長するか、どんな花が咲くか、どんな具合に葉が繁るか、さまざまに空想する。可愛らしい姪に小遣いをやる気持といったらいいだろうか。園芸は子育てと同じだと言う人がいる。子供を苛《いじ》めては駄目、可愛がり過ぎても駄目だと言う。僕の場合は過保護だ。
大山康晴名人が東京都文化賞を受賞され、その祝賀会用パンフレットの原稿を書く。毎日新聞井口記者に電話送稿。
関保寿先生のアトリエ開き案内状を書く。これは文案を市役所の佐藤氏(愛称ガマさん)が作り、僕が巻紙に筆で書いた。昭和五十二年三月二十五日、関先生宅が全焼し、その後、母屋を建て、こんどアトリエが完成したので、その祝賀会が開かれる。あれから十年という歳月に驚かされる。「これで落ちついて仕事が出来ますね」と言ったら「いや、やっと執行猶予が取れたので、これから大いに飲みます」と関先生は笑う。こういうのを、通常、喰えない爺《じじ》いと言うのだろうが、関先生の場合、近所の人や友人たちに迷惑をかけたという思いが、この十年間、つきまとっていたのだろう。
文藝春秋豊田健次氏、松成武治氏来。
『別冊文藝春秋』の見本を持ってきてくれる。缶ビールと葡萄酒を飲む。臥煙君来。『小説新潮』著者校正。九時就寝。
三月六日(金) 晴
早く起きて庭にいる。庭に出るとき、ムッと暖いのでビックリする。この日、気温十九度に達した由。散歩。|紀ノ国屋《ヽヽヽヽ》と|ロージナ《ヽヽヽヽ》。|ロージナ《ヽヽヽヽ》の伊藤接さんに「髭を剃りなさい」と叱られた。無精髭のままでいることを忘れていた。この時期、総合雑誌、文芸雑誌、将棋専門誌が一斉に送られてくるので読むのに忙しい。目が疲れる。
三月七日(土) 曇後雪
またしても俄かに寒い。三寒四温と言うが、これでは一寒一温だ。前日が暖いから、余計に寒さが強く感じられる。
このところ、中央競馬会からお金を貰い過ぎているので、それを返すために(いろんな理屈があるものだ)立川の場外馬券売場へ行く。マイナス二千七百七十円。お金を返すというのは半分位は本気で、右廻りは走らない、芝のパンパン馬場でなければ走らないというホンマルスターの複勝を、雪のダート競馬で買ったら二着に来てしまった(配当五百三十円)。これが、府中へ来て、左廻り芝の良馬場で得意の千六百メートル、そこそこ人気もあり絶好の狙い目と思って勝負に出ると、意外にも凡走するというケースがある。競馬というのは、そこがわからないし、そこが面白いとも言える。
さかんに雪が降る。雪掻きが大変だ。僕の家の玄関は北向きで、おまけに二階が丸屋根だから、そこに雪が集中する。
夜、食事室のカーテンをあけて庭を見ると、空がボーッと明るい。雪明りというのは、空がピンク色になると知った。
三月八日(日) 晴
俄かに日射しが強い。昨日の雪が嘘のようだ。毎日毎日、雪に閉じこめられる北国の人は、さぞや鬱陶しいことだろうと思う。
北島三郎とか勝新太郎とか、暴力団関係のタレントの問題について甲論乙駁《こうろんおつばく》があった。僕は、どんなことがあろうとも、暴力団の資金源となるようなタレントは排除すべきだと思っている。暴力団の組長の誕生パーティーに出席する人が、彼等の主催するキャバレーのショーなんかと無関係であるとは思われない。
僕は暴力団が怖くて仕方がない。また、ヤクザ者ぐらい卑しい人種は無いと思っている。義理だ人情だ義侠心だなんて嘘ッ八で、彼等は金のためにしか動かない。喧嘩《でいり》というのは、すべて経済闘争である。
競馬場にも、変に突っ張ったような、その筋の人達が来ることがある。僕は、ただただ怖いので逃げ廻るようにする。流れ弾に当って怪我するなんてマッピラゴメンだ。
こんなふうに僕には幼児性があって、単細胞だと言われた。何と言われても、彼等の資金源を断ってもらいたいと願っている。エイズのことにしてもそうだ。これを機会に新宿の歌舞伎町なんてものが一掃されれば、どんなにセイセイするかと思う。
ただし、競馬は暴力団の資金源と無関係かと言われると、僕には一言もない。
三月九日(月) 晴
『週刊文春』田※[#「山/奇」]ル氏、坂元茂美氏、大海秀典氏来。同誌「行くカネ来るカネ」取材のため。こういう頁は邱永漢さんとか野末陳平さんのものだと思っていたが、そうでもないらしい。少し前に関西将棋連盟三|欠《けつ》(稽古将棋をやらないで、研究ばかりやって貧乏している三人)というのがいたが、文壇三欠という意味かと思った。試みに「文壇三欠は吉行、山口、耕治人ですか」と言ったら「耕治人さんのように本当に貧乏している人を同列にしてはいけません」と叱られてしまった。冗談とはいえ、これは、いかにも不謹慎だった。
以前、吉行さんのことを赤貧洗ウガ如シと書いた。仕事をしないで病院通いをしていたら、どんな暮しになるか心配になる。一方、僕は、ベストドレッサー賞ともパチンコ文化賞とも縁がない。僕は焚火が好きなので、若草山とか大室山とかを燃やす仕事をやりたいなあ、あれは市役所の緑地課の人なんかがやるのかなあと妻に言ったら、緑地課の人は燃やす仕事ばかりやってるわけじゃありませんと、また叱られてしまった。よく叱られる週だ。
妻は、しかし、少し経ってから、京都の大文字の送り火はやめてよ、あれは危《あぶ》なそうだから、とも言った。
テレフォン・ショッピングで注文した高枝切鋏が届く。
三月十日(火) 晴
サントリーの新入社員を対象とする新聞広告(四月一日掲載)の文案を書く。今年で、僕の考えている戦中派の会社員が、役員を除いて全て姿を消すと思ったら、ある種の感慨に襲われた。
三月十一日(水) 雪
朝から雪。もう驚かない。春の雪で、どんどん融《と》ける。「せめて淡雪融けぬまに……」なんて歌があったなと思う。雪が降ると、虫が減るとか、肥料をやったのが地中に染みこむような気がして嬉しいという一面もある。
昨夜はよく眠った。睡眠には入浴が一番だと思う。昨日は、薬用入浴剤をいれて、よくあたたまったのがよかったと思う。
前衛建築家は、自分が住んでみたいと思うような家を建てるのだという。ひとつの考え方だとは思うが、施主のことは何も考えないのだそうだ。二十代、三十代の建築家は、自分の体力に合わせた家を設計するという。たとえ老夫婦が住むことがわかっていても……。テレビを見ていたら、居間から台所へ行くのに、雨が降ったら傘をささなければ行かれない家が紹介されていた。
ある人、前衛建築家に設計を頼み、理想通りの素晴らしい家が出来た。ただし維持費に金がかかる。特に暖房に莫大な金が要《い》る。そこで、冬の間は近くにアパートを借りて、そっちで暮すことにしている。……そんな話を聞いた。
[#改ページ]
[#地付き] 横綱相撲[#「横綱相撲」はゴシック体]
三月十二日(木) 晴
頻りに洟水が出る。風邪ではない。花粉症でもない。薄汚い爺いになった。
京都竹中浩氏から饂飩、金沢戸田宏明氏から鰺が届く。饂飩に腰あり鰺新鮮。
小林山改め両国が強い。但し両国という四股名《しこな》に異和感がある。僕の知っている先代両国は筋肉質で業師《わざし》だった。同型の「両国・旭川」なんて取組があると、前日からワクワクしたものだ。そんな昔話をすると、いやいや先々代は押相撲でといったように、その方面の識者に叱られそうな気がする。
三月十三日(金) 曇後雨
朝日新聞本田嘉郎氏、小野高道氏来。千葉支局の方で、僕の書いた「浦安、橋の下の夏」という紀行文に関連して取材に来られた。山本周五郎は戦後に浦安を再訪してその変貌に驚くが、いまの浦安を見たら何と言うだろうか。ビルラッシュ、建売ラッシュで活気があるが、低い土地で、埋立地は地盤が弱く、僕は、浦安でなく浦不安だと思っている。しかし、当分、千葉県の時代が続くだろう。
一寒一温で、昨日暖く今日寒い。雪催いの空だったが雨になった。その雨がタップリと降る。
三月十四日(土) 曇
曇ってはいるが、どことなく春めいてきた。蠢動《しゆんどう》の気配あり。
明方、向田邦子の夢を見た。黒いセーターを着た向田さんがイキイキと飛び廻っている。向田さんが短篇を書き、僕が挿絵を描くことになっている。ああ、そうだ、僕は小説家ではなくなったんだと思ったとき目が覚めた。昼間、右手の中指を見たらペン胼胝《だこ》が無くなっていることを知った。
今年で大正生まれの会社員がいなくなる。東大教授なんか、三月末日で退職だというから、正確には、今月で大正生まれの月給取りが姿を消すと言ったほうがいい。僕は大正十五年の生まれだが、大正生まれは戦争で一番多く死んでいるし年代も短いから、いよいよ少数派になった感が濃い。小説家ではなく月給取りでもなく、いったい俺は何だと自問したら、隠居だという答が返ってきた。
三月十五日(日) 曇
妻のハンドバッグの修理が出来ているはずで、立川駅ビル地下一階の|ピノキオ《ヽヽヽヽ》へ受取りに行く。ついでに(どっちがついでなのか自分でもわからないのだが)場外馬券売場へ行く。プラス三万八千七百円。
益荒雄《ますらお》旋風であるという。横綱大関を倒す力士があらわれると、こっちも自然に体に力が入ってくるから妙だ。いま、益荒雄は、右四つで低く喰いついたら誰にも負けないと思っているだろう。これに対して横綱大関が益荒雄充分の相撲を取らせているのに好感を抱いた。たとえば将棋界で矢倉の新戦法を編みだして連戦連勝の若手棋士があらわれたとする。名人上手と言われる人は、振飛車なら勝てるのに、わざと矢倉に組む。これを、力を試す意味と若手の進出を歓迎する意味と二通りあると僕は解釈する。これが勝負の世界の良いところだ。昨日、相撲の上手《うま》い千代の富士が、益荒雄に右下手から肩まで入る深い右四つを許したのを見て感動した。千代の富士がバンザイするような相撲を見たことがない。(北勝海や小錦はそうはいかないと思っていたらその通りになった)。昔、双葉山が前田山に張らせるだけ張らせて、土俵中央で耐えている相撲を見たが、横網とはそういうものだ。千代の富士が初めて小錦と顔が合ったとき、一発で土俵際まで飛ばされて協会は周章狼狽したが、僕は、あれは若手の力を計ってみただけで少しも心配する必要はないと思っていた。相撲には四十八手あるのだから……。すなわち、来場所が益荒雄の正念場になる。
僕はテレビはよく見るのだが、お笑い番組には完全に食傷した。タモリの「笑っていいとも!」なんか半年前ぐらいまでは見ていたが、もう見ない。楽屋落ちばかりやっていて、本来、楽屋落ちというのは面白いものだが、そのタレントの楽屋での顔が見えてくるようになったらオシマイだ。ところが、ワイドショウもクイズ番組も、プロ野球ニュースまでお笑い仕立てになっているのが困る。ひとつにはビートたけしがいなくなって鋭い突っ込みが期待できなくなったせいではないか。僕は子供のときから寄席《よせ》の色物が好きだったが、あれだって芸とかアイディアを売っていたと思う。久米宏のニュース・ステーションを見るようにしているが、立松和平や「日本の駅」シリーズなんかに濃《こく》があるからだ。これからはシリアスなものが受けると思っているが、テレビ局はシリアスというと|難病もの《ヽヽヽヽ》とか御対面となるから参ってしまう。それにお笑いタレントは大声を出すのが厭だ。僕は、ひそかに絶叫三悪と称しているが、三悪が誰であるかを言わない。
三月十六日(月) 晴
ショウジョウバカマ(猩々袴か)が咲く。金沢の江戸村附近の山で採ってきたものだ。一寒一温のせいか、雪割草が散らずに次から次へと咲く。だいぶ花やかな庭になった。今日は暖いほうの日。朝、小一時間ばかり庭にいる。群生している射干《しやが》の一葉だけが風で弧を描いて激しく揺れる。去年もそうだった。その一枚だけが揺れるので土竜《もぐら》でもいるのではないかと思ったものだ。焦《い》れ込み癖のある馬が本馬場入場で激しく頸《くび》を上下するようにして揺れる。片栗も咲きそうになっている。それを眺めながら一服する。とてもいい気持なのだが、これじゃあ酔生夢死だなとも思う。派手になってきた庭を眺めているのに、何か寂寞《じやくまく》の感が漾《ただよ》う。
鍼治療のため麹町リバースへ行く。血圧、百六十〜八十。これを高値安定と称している。この日、セーターでなくスポーツシャツだったのに汗を掻く。急に暑くなったので血圧があがったのかもしれない。
鍼の前に|神戸ベル《ヽヽヽヽ》でコーヒーを飲むのだが、出てきたら文藝春秋の松成武治氏に会う。松成さん、二十冊ばかり書物の入った袋を持っている。それは円地文子先生の『夢うつつの記』の見本だった。「これから故人の家に行くところです」と言う。円地さんが最後まで雑誌の小説の口述筆記をされていたことを知ってはいたが、書き下ろしの小説まで完成されていたことは知らなかった。僕は松成さんのことをスリマン(映画『望郷』の刑事)と呼んでいるが、人柄は穏やかだが、仕事となると喰いついて離れない編集者だ。円地さんと松成さんとの間にどんな遣取《やりとり》があったかと思うと粛然たる思いに打たれる。重いものを持った松成さんが地下鉄の乗場に消えた。三十分後に松成さんが円地さんの仏前に『夢うつつの記』を供える情景が目に浮かぶ。それは僕にとって、甚だ刺戟的かつドラマチックな光景だった。
三月十七日(火) 曇後雨
その『夢うつつの記』を読む。円地さんという人は僕にとってどうもわからないところのある人だ。円地さんの夫である円地与四松氏は、円地さんの筆によると、女々《めめ》しくて鼻持ちならない厭な男であるが、それならどうして離婚しないのかと思う。円地さんは勝気なお嬢様で左翼運動にも加担しかけた自立する女で実家も豊かであるのに……。僕は、与四松氏にもどこか良い所があって離れられなかったと推測するが、それを書いてくれない。それが|夢うつつ《ヽヽヽヽ》であり、お嬢様の甘えであるのかもしれないが……。
[#改ページ]
[#地付き] ホテル西洋[#「ホテル西洋」はゴシック体]
三月十八日(水) 晴
暑さ寒さも彼岸までとはうまいことを言ったものだ。彼岸の入り。
三月十九日(木) 曇
ところが、今日は朝から寒い。去年は三月二十日頃に大雪が降って都内のホテルから帰れなくなったのを思いだす。
還暦、還暦と騒ぐのはおかしいと言う人がいる。自分でもそう思う。しかし、ともかく還暦というのは意味がハッキリしている。厄年とか不惑とか古稀というのは満年齢なのか数えなのか、よくわからない。還暦は生まれた年と同じ干支《えと》に返るということだから数えの六十一歳、満六十年と実に明快だ。
それに、五十五歳から五十七歳ぐらいまでで定年、六十歳までは会社に残れるという制度が多いようだから、六十歳になると、会社のほうで「お前はもう不必要だ」と言っているわけで、これは人生の一大事である。軍隊式に言えば「物の要《いよう》に立ち得べしとも思われず」というわけだ。人生五十年だと思っているが、平均寿命が伸びているので、人生六十年にお負けをしよう。このほうがわかりやすい。
僕の経験で言えば、ほとんどの人が六十代で大病をする。これとの戦いが大変だ。五十代までは「この小説を書きあげるためには死んでも仕方がない」「この小説に生命を賭けよう」と思うことがあった。疲労困憊して、明日は目が覚めないかもしれないと思いながら床に就くことがあった。いまは、生命を賭けようとするだけの気力も体力もないのである。たくさん書いているときは、中間小説雑誌三誌、新聞小説、週刊誌にそれぞれ連載を持っているという自分でも信じられないくらいの時期があって、物理的にも大変だった。こういう時期は、不思議にも酒を飲めてしまうので、体力を消耗する。「きみには死相があらわれている」と言われることさえあった。死んでも仕方がないと思っているぐらい強いことはない。しかし、六十代になると、今度は生きなければならない。考えようによっては、死ぬのは簡単だが生きることは難しい。
僕の誤算は、あれだけ働けば老後はノンビリ暮せるのではないかと思っていたことだ。たとえば、文庫本が少しずつでも増刷されるといったようなことだが、時代が変ってしまった。別荘の一軒ぐらい持てるのではないかと思っていた。実に浅果敢《あさはか》だった。白状すると、盛んに書いているときは、老後なんていう考えが無かったのである。
今年は、文壇では城山三郎氏や吉村昭氏等が還暦であるようだ。
「還暦の会は、やったほうがいいのですか、やらないほうがいいんですか」
ある会合で吉村さんに質問された。
「それはね、あなた、葬式と同じだと考えればいいんですよ。青山葬儀所でやるのは仰々《ぎようぎよう》しい感じがしますが、一遍で済んでしまいます。誰にも知らせないで自宅で密葬にすると、次から次へと弔問客があらわれて、遺族は迷惑します」
「じゃ、やりましょうかね」
吉村さんは、とてもいい顔で笑った。
三月二十日(金) 晴
臥煙君、フミヤ君来。『小説新潮』連載中の「新東京百景」取材のため。今回は、銀座一丁目にできた「ホテル西洋銀座」である。この西洋は、西武の西であり、太洋不動産興業の洋を取ったもの。
客室は八十室で、再開発にしては効率が悪い。いや効率なんか初めから無視している。そのかわり、宿泊料金は最低でも一泊三万八千円、最高級の部屋は二十五万円。臥煙君と僕の泊った部屋は十三万五千円ということだった。西武セゾングループにはマーケットの西友のイメージがある。クレジットの丸井もそうだが、こういう会社がイメージ・アップを計ると極端になる傾向がある。すなわち、僕には最初から銀座に軍艦島のような異物があらわれたという印象があった。
外国の小型高級ホテルと京都の老舗の旅館の温《ぬく》もりのあるサーヴィスを合わせ持つということらしいが、京都の旅館の客あしらいというのは、旅館と客との間で長年にわたって相互に鍛えられたものであって、それを一度に金の力で獲得しようとするのは僕には無理だと思われる。レジャーからヴァカンスへというのがセゾングループの根本思想であるらしく、それは僕は大賛成であるけれど、このお値段でゆっくりと落着いて滞在できる客の顔が浮かんでこない。外国人が相手らしいが、アメリカ政府の高官がホテル・オークラは高いと言ってホテルを移ったという話も聞いている。アメリカ人なんか渋いんじゃないかなあ。要するに、僕なんかには、こういう会社の幹部の考えていることは、わけがわからないのである。
僕にとって有難いのは、銀座へ出たら夕食はここだと決めている鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》が近いことだ。その岡田《ヽヽ》とホテル西洋の中間に場外馬券売場がある。
臥煙君、フミヤ君、スバル君、カメラのT君と五人で鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》へ行った。いつも鮟鱇鍋とカツオの中落ちの季節に行くのだが、春も品数が多いのが嬉しい。卯の花、若竹、蕗《ふき》の薹《とう》……。そもそもが、オカラなんか食べる客はホテル西洋に泊ってはいけないのだろう。
三月二十一日(土・春分の日) 曇
場外馬券売場で馬券を買う。マイナス一万三千円。同じく馬券を買いにきていた岡田《ヽヽ》の旦那に会う。去年、岡田千代造さんの母で名物|内儀《おかみ》であったこ[#「古」の変体仮名]うさんが亡くなって谷中の墓地へ墓参りに行った帰りであるという。じゃあ、明日の阪神の桜花賞トライアルは、こ[#「古」の変体仮名]うさんに因《ちな》んでコーセイの単勝を買ってくださいと言ったら、そのつもりですと千代造さんが答えた。
ビールでもということで岡田《ヽヽ》へ寄った。休日の銀座の小料理屋は、電気を点《つ》けていても、どこか薄暗い。極めて無口な千代造さんと跡を継ぐべく修業をしている長男と次男が、ひっそりと競馬中継のラジオを聞いている。次男が運転して墓参りを済ませ、父と長男とが馬券を買って休日を楽しんでいると推測した。古くから住み込みの仲居さんがオハギを持ってきた。昨日こしらえて少し固くなっていますが……と言った。
鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》と僕の関係は金で買えるもんじゃない。また、こういう情景こそが、店と客との間の温もりではないかと思った。
三月二十二日(日) 小雨
「新東京百景」は、僕が文と絵を描く。八重洲のビジネスホテル最上階の部屋からホテル西洋を描いたのだが、展覧会に出せる絵になりかかっている気配があった。もう一泊すれば完成するのだが、帰るかどうかの決心がつかない。そこで一計を案じて臥煙君に相談した。馬券で大儲けしたら明日銀座で高い土産物を買って帰る。損したら直ちに帰宅(いろんなことを思いつくもんだなあ)。ところが、皮肉にも、この日は百円のプラス。僕は、ふたたび長考したが、健康のことを考えて(ホテルでは眠れない怖れがある)帰ることにした。
三月二十三日(月) 小雨
十三万五千円の部屋に泊って気疲れしたようで、眠ってばかりいた。
白木蓮《しろもくれん》と辛夷《こぶし》が満開。よく見ると辛夷のほうがわずかに白い。三月の末になると桜の話ばかりで、木蓮や辛夷が忘れられたようになっているのが哀れである。
[#改ページ]
[#地付き] 国鉄最後の日[#「国鉄最後の日」はゴシック体]
三月二十四日(火) 雨
どうも本格的に惚《ぼ》けてきたようだ。この日記の仕事は四百字詰原稿用紙八枚であるが、九枚書いてしまったり、一枚足りなかったりしたことが何回かあった。そのたびに担当編集者に迷惑をかける。誤字脱字で校閲部から再三にわたって注意を受ける。
それは仕方がないとして、こんな間違いをやってしまった。天候のところで、なんと日偏に雪と書いてあったという。※[#「日+雪」]である。「これは晴ですか曇ですか雪ですか」という問い合わせがあった。信じられないようなミスである。自分で読み返しもしているので、僕の頭、どうにかなってしまったのではないか。これにはショックを受けた。三日ばかり鬱状態になった。臥煙君にそれを言うと「日偏に雪は風花《かざはな》と読むんじゃないですか」という新解釈を示してくれた。去年の今頃、浅草で倒れたとき、脳のなかの読・書・算に関する回線が切れたんじゃないかと思っている。
その臥煙君から筆ペンを貰った。突如見知らぬ人が訪ねてきて著書にサインして呉れなんて頼まれることがあって、その際に筆ペンは便利なんじゃないかと思っていた。僕は筆ペンというのは七百円か八百円程度のものだと思っていたが、どうしてどうして、売り出しの頃は一万円もしたそうだ。いま改良に改良を重ねて、とても良くなっているという。臥煙君の呉れたのは鳩居堂《ヽヽヽ》製、銘柄は|ふみ《ヽヽ》で、筆先は鼬《いたち》、定価三千五百円である。それにしても、臥煙君と筆ペンというのは良く似合っていると思い笑ってしまった。
庭に片栗が咲いている。花も葉も年々大きくなり勢いがいい。片栗が芳香を発することを知らないでいた。地面に顔を近づけないと匂いを嗅ぐことができない。
三月二十五日(水) 晴
関保寿先生のアトリエ開きパーティーの日。十年前の今日、関先生と伊豆の旅から帰ってきて、荷物を置くなり文蔵《ヽヽ》(谷保駅近くの赤提灯)へ酒を飲みに行った。寒い日で、部屋を煖《あたた》めておこうと思った石油ストーブが過熱して障子に燃え移って大事になった。僕が先生を文蔵《ヽヽ》に誘わなかったら全焼することがなかったわけで、谷保村の住人は、いまだに僕を犯人扱いする。
全部出席すると四百人を越す大パーティーで、母屋にもアトリエにも庭にも人が溢れている。逃げ廻ったがスピーチに掴まってしまった。口惜しいから「あんな汚ねえ家が、こんなに立派にこんなに大きくなったのは僕のお蔭です。僕は犯人ではなくて恩人です」と言ってやった。
澤田政廣先生の祝辞がとても良かった。澤田先生は、僕に「彫刻とか絵を描くのは出来るんだが、惚けてしまって人の名前なんかすぐに忘れます」と仰言《おつしや》った。たしか九十三歳になられた彫塑《ちようそ》界の大長老である。
九州からも京都からも中国筋からも客が来ていて、関先生の人気は大変なものである。
下北沢|小笹ずし《ヽヽヽヽ》の岡田さんに久し振りに会ったので、矢吹申彦さん、常盤新平さん、岩橋邦枝さんを誘って繁寿司《ヽヽヽ》へ飲みに行った。
桜が三分咲き。今年の桜は早い。
三月二十六日(木) 曇後晴
妻も私と同じに齢を取っているのを忘れてしまって、若い頃のように用事を頼んで、後で失敗《しま》ったと思うことがある。
三月二十七日(金) 晴
斜め向いの彫塑家中村博直氏が芸術院賞を受賞され、お祝いを申しあげる。
テレビドラマ、倉本聰脚本『北の国から'87初恋』を見る。田中邦衛の父がやや老けて元気がなくなった感じがとてもいい。僕は父と息子という関係に弱いので、見ていて息が詰まった。このごろ子役が上手になっているのに驚く。台詞《せりふ》憶えがいいので大人の役者より安定感がある。
三月二十八日(土) 晴
高校野球が始ると生活のリズムが崩れるのが困る。昼寝ができない。東京の帝京高校、関東一高は打力のチームだと思っていたが、投手力も守備力も格段に上達している。「男子三日会わざれば……」という感がある。
両校とも学力では一流校ではないと思っていたが、野球好きの少年に聞くと、いまや偏差値も高いのだそうだ。帝京や関東一に入学すれば甲子園に応援に行かれるというので志望者が殺到するのだろう。そう思ってテレビを見ていると、顔付きも利巧そうに見えるから妙だ。
尾上辰之助死去の報。若手では好きな役者だった。富十郎に迫れるのはこの優《ひと》だと思っていたのに……。阿哥《あに》さん、そりゃないぜ。
三月二十九日(日) 曇
息子桜見物に行く。畳屋の小坂さん自家製の草餅を持ってきてくれる。毎年、春の楽しみのひとつがこれだ。
三月三十日(月) 晴
射干《しやが》が咲いた。
三月三十一日(火) 曇
国鉄最後の日。非常に寒い日で夜になっていっときは小雪も降った。
テレビのドキュメントで、駅員が一人という駅が紹介されたことがある。その駅は、最盛期には三十五人の駅員がいたという。二十四時間勤務だから、実際は二人で交替で仕事をしているのだろうが、実に大変な仕事だなと思った。孤独に耐えるということだって容易じゃない。
三十五人もいた最盛期に、この仕事は五人あれば充分ですと進言する現場からの声はなかったのだろうか。いや、これは三人で出来る、そのかわりベースアップは任せてくれと言う組合幹部はいなかったのだろうか。僕なんか不安定な仕事(不安定であり、かつ激務)ばかりやっていたので、親方日の丸というのが羨ましくてたまらなかった。どんな業界だって、三人で出来る仕事に三十五人も掛かっていたのでは会社は潰れるという意味で、国鉄民営化は教訓的な事件だった。
それにしても、余剰人員とか清算事業団というのは、なんという無神経な呼称であろうか。余剰人員というと、すぐに国会議員、県会議員、市会議員のことが頭に浮かぶ。こっちのほうは本当の親方日の丸だから余計に腹が立つ。
北海道|湧網《ゆうもう》線の無人駅を描きに行ったことがある。絵は描いたが電車には乗らなかった。ローカル線廃止のことを別にすれば、僕は最初から国鉄民営化に賛成だった。親方日の丸の連中に会社経営の難しさを味わわせてやりたいという気持が底にあった。これは僕の僻《ひが》み根性というヤツだろう。仕事に誇りを持つのは大切だが、尊大な鉄道員というのに何人も会っている。
その反面、実に感じのいい、朴訥で正直丸出しの乗務員の世話になったこともある。それやこれやで、僕にとっても感慨深い一日だった。親子三代鉄道員一家の思い入れなんかをテレビで見たいと思っていたが、乱雑で取りとめのない特集番組ばかりだった。
四月一日(水) 晴
三球・照代の春日照代さんの死去を知る。夏でもロングドレスで、おっとりとした好きな芸人の一人だった。
[#改ページ]
[#地付き] 百 花[#「百 花」はゴシック体]
四月二日(木) 曇
昨夜『小説新潮』の原稿を書いたあと眠れなかったが、早く起きて帝京・PLの準々決勝戦を見る。前から言っていることだが、NHKは、どうして選手の出身中学を教えてくれないのだろうか。強豪チームが全国から選手を集めているのは衆知の事実であるのに……。TVKが夏の高校野球の神奈川県予選を中継するときは、テロップで出身中学を教えてくれる。ははあ、この選手は桜美林より東海大相模のほうを選んだんだなと思って見ると、興味は倍加する。なんにしても隠蔽《いんぺい》するのは、選手の喧嘩で出場辞退した東海大浦安よりも罪が重い。
四月三日(金) 曇
翁草《おきなぐさ》が咲く。その濃紫《こむらさき》がいい。碇草《いかりそう》も咲いている。雪割草が終り加減で菫《すみれ》が満開。この時期、庭に出るとソワソワする。いや、家の中にいてもソワソワとして落ち着かない。
庭に関保寿先生から頂戴した五輪ノ塔が一基、弟の関|敏《さとし》さんの造った御地蔵様が一体、植木屋の鈴木さんの造った観音様が一体置いてある。妻は、聞いたことはないが、これを水子地蔵に見立てているようで、毎朝、必ず水を供える。
そこが男と女の違いだろうが、僕はその小さな石仏のあたりを見るとき、死んだ妹と弟のことを思ってしまう。二人とも五十四歳で死んだ。
僕は親類づきあいをしないほうで、友人としてつきあえる人だけを友人として交際することにしている。だから、法事以外は、親類とは疎遠になっている。
五輪ノ塔と観音様とが並んで雨曝《あまざら》しになっている。そのあたりに、雪割草、董、碇草が密集して植えてある。翁草もそうだ。妹は、長唄の吉住小三蔵のところへ嫁に行った。吉住流の家元の家紋が翁草である。翁草を植えるとき、そんなことが頭にあった。
僕は死後の世界を信じない。しかし、五輪ノ塔と観音様の周囲に白や濃紫や薄紫やピンク色の可憐な花が一斉に咲くのを見るとき、いくらか心が和んでくるのを知る。そのあたりを、もっと明るく楽しい感じにしたいと思うことがある。まあ、それだけのことだ。
四月四日(土) 晴
空は晴れあがり、無風で暖い。今年一番の好日。
妻とともに大学通りの花見に行く。僕は、東京では、ここの桜並木が最高だと思っている。第一に桜の種類が多く、長く楽しめる。第二に柳の新緑との兼ね合いがいい。第三に周囲の環境がいい。この桜並木は、観音様を造った鈴木さんの御父様が植えたもので、実に品が良い。
妻の提案で百恵チャン|ち《ヽ》のへんまで歩いた。週刊誌によると国立《くにたち》市は百恵チャンで大騒ぎなんだそうだが、外装が八割方出来あがっているその家の前(そこも桜並木)に人が少く、ミーハーしているのは僕等夫婦ぐらいのものだった。
大学通りに戻ってベンチで一服していると、若い男の三人組がやってきて酒を飲みだした。茣蓙《ござ》もなく、なんとも貧相な一行だ。僕も持ってきた缶ビールを飲んだ。
「おい、お前等、ツマミはないのか」
柿の種ぐらい貰いたいと思った。
「はい、ぼくたち、貧乏ですから」
「よし。あとでなんか買ってきてやる」
繁寿司《ヽヽヽ》へ行って浅酌した。そのあと、タコ焼きを買って戻ってきたが、あたりは暗くなっていて三人組はどこかへ行ってしまったようだった。
今年の桜は早かった。早くて長持ちした。こんなに桜が強く匂うことを知らなかった。妻は、だけど色が悪いと言う。早く咲いて寒い日が続いたのでそうなったのかもしれない。
四月五日(日) 晴
昨日に勝る好日。無風、快晴。僕の所では、毎年第二日曜に花見の会をやっていて、それでも寒いくらいの日があった。一昨年で花見の会を止めて、庭の巨木も切ってしまった。その桜が家に寄りかかるようになって危険だったからである。今年、庭の草花がよく咲くのは桜が無くなったためだと思っている。
立川の場外馬券売場へ行って馬券を買い、その足で国立高校のグラウンドへ行って野球の試合を見た。相手は甲府一高である。ダブルヘッダーで、昼食休憩のときに、国立高校の正門附近でビニールシートを広げている息子の花見の会を見に行った。
嵐山光三郎さんに貰った紅白の幔幕《まんまく》が張ってあって、とても派手にやっている。七、八人で飲んでいたが、あとで倍ぐらいの人数になったそうだ。僕は、そこに寝ころんで、ラジオの競馬中継を聞いていた。ようやくにして息子の代になったなと思った。
野球は第一試合9―3で負け、第二試合は12―7で勝った。この得点でわかるように、まだ荒っぽいチームである。
「恥ずかしい試合をお目にかけました」
と監督の市川さんが言った。
「もっとキャッチボールをやらなくてはいけませんね」
「キャッチボールもトスバッティングも、まだまるで駄目です」
このチームを市川さんが夏の大会までにどれだけ鍛えあげるか興味が湧く。高校野球の最大の楽しみがこれだ。巨漢の二年生投手にスピードが出てくれば希望がないわけではない。
夜遅く引きあげてきた息子が「まあまあ、無事に済んだな」と言った。競馬はマイナス六千四百五十円。
四月六日(月) 曇
麹町リバースに鍼治療に行く。血圧、八十五―百四十五と良好。頭と頸筋がモヤモヤしていたので意外だった。
曇りというより花曇りといいたいような天候。遠くから見る千鳥ヶ淵の桜がまだ確《しつか》りしている。
「額に汗すること」に逆行する世の中が悲しい。新人類がそうだ。地代の高騰がそうだ。株式投資の流行、贋札事件またしかり。底地買いというのは、住んでいる家の地面を買われてしまうことのようだ。僕は、林立する高層ビルで谷底のようになっている土地を買い漁《あさ》ることだと思っていた。駄目だなあ。
四月七日(火) 小雨
三つ葉|躑躅《つつじ》が咲く。いつも桜より先きに咲くのに、今年は順番が狂っている。これから新緑が良くなる。終日、糸のような細い雨が降り続く。
四月八日(水) 晴
にわかに暑い。庭の植木や草花に関して僕は過保護だと書いた。過保護というのは自分勝手ということだ。これは子育ても同じだ。親の勝手で子供に大金を与えたりするとロクなことにならない。
麻布十番のマハラジャ、竹芝桟橋のハーバーライツというカフェバーで入場を拒否された。これは仕事のための取材だったので困ったし腹も立った。田舎者扱いされたと思ったのだが、そうではないことがわかってきた。そういうところはジャリが相手なのである。だからスポーツ選手とかタレントなんかは歓迎される。女にモテることが英雄であるような世界だ。過保護でエエ恰好した馬鹿者どもの集る所だ。それがわかって気が楽になった。「おッ洒落《しやれ》えぇ」でなくては駄目だったんだ。こういう世の中も好《い》い加減にしてくれと言いたくなる。
[#改ページ]
[#地付き] 春 愁[#「春 愁」はゴシック体]
四月九日(木) 曇
前に失《う》せ物のことを書いた。目下の失せ物、左の如し。
梶山季之に端渓の硯《すずり》を貰った。大きな硯で、眼《がん》が二つあり、少しもイヤ味がない。これを呉れるときに梶山は「ヒトミちゃん、これ、美術専門誌に登録されている硯だ。金に困ったら売ってくれ」と言った。当時すでに端渓の硯は三桁(百万円単位)だと言われていた。大きな字を書こうとするとき、この硯を探すのだが、どうしても見当らない。処分した覚えはなく、大事なものなので蔵《しま》い忘れというヤツだが気になって仕方がない。この五月十一日が梶山の十三回忌になる。
以前、地方紙に『天保水滸伝』を連載したことがあり、書き直して書物にしたいと思っているのだが、そのモトになっている講談本が、これも見つからない。講談社から拝借したものだが、返却したのか僕が無くしたのか、わからない。硯も講談本も外に持ち出す性質のものではない。このことを考えると迚《とて》も腐ってしまう。
『小説新潮』に「新東京百景」と題して変りゆく東京を絵と文で綴る読物を連載しているが、その第一回目の新宿超高層ビルを描いた水彩一点、パステル二点の絵の行方がわからない。返してもらったかどうかの記憶も曖昧になっている。そのなかのパステル一点は自分でも自信があり、知りあいの画伯に褒められて大いに気をよくしたのだが……。横幅三十センチ以上で僕の絵としては大きなものだから、保存する場所も限られており、探しようがない。
去年、地下室に泥棒が入った形跡があり、何も盗《と》られなかったが警察には届けた。もし、泥棒がこの三点を盗んだとしたら、たいした目の利く泥棒だと思っている。
失せ物はまだまだあるのだが、何を無くしたかを忘れてしまっている。
四月十日(金) 小雨
文藝春秋豊田健次氏から電話があり『向田邦子全集』の推薦文を頼まれる。こういうのは仕事ではなくて御挨拶だと思ったから引受けることにした。向田さんは八月二十二日が七回忌であるという。
庭の三つ葉躑躅と原種の桜草の花が美しい。昔は、こんなピンク色を嫌っていたのに。老人が赤いものを身に着けるようになり、派手好みになるのは、赤の良さがわかってくるためではないか。若いときは渋好みであるほうがいい。
髭が剃りにくくなった。これは髭が濃く剛《こわ》くなったためではないかと思う。それに皺も深くなった。老人が髭をたてるのは、ひとつには、そのせいではないかと思う。
桜、青葉若葉、選挙、プロ野球開幕、桜花賞|皐月《さつき》賞と血の騒ぐようなシーズンであるのに鬱状態が続いている。僕の場合は卑小感に苛《さいな》まれる。「友のみなわれより偉く見ゆる日よ」という心的状況が続く。まあ、ジタバタしてもはじまらない。春愁だと思うことにする。
中日ドラゴンズの選手の感じが変ってきた。いま成績が悪いが、星野仙一の熱血野球を支持したい。こんな感じで闘っていたら、必ず良い結果が出るはずだ。
落合博満という打者の構えは変っている。あれは何かに似ていると思って見ていたら、ハタと思い当ることがあった。あれは立小便の姿勢だ。立小便をするときに、余人は知らず僕は上体を反《そ》らし腰を突き出すようにする。僕はズボンに小便がかからないようにするためにそうなるのだが、落合は気分をリラックスさせ内外角を広く見渡すために、あんな自然体(クラウチング・スタイルの逆)になるのだろう。あるいは外角球を誘っているのかもしれない。僕には、各チームの主戦級投手に疲れが出てくる六月頃にあの構えが猛威を発揮するように思われる。僕はこれを立小便打法と名づける。
散歩に出て|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》に寄ったら家具屋の村川老人に会った。夕食を外で食べるというので「巨人・中日戦を見ないんですか」と言ったら「テレビを見てハラハラするのはつまらない。勝敗は明日の新聞でわかるんだから」と怒ったような顔で答えた。これが昨今の熱狂的巨人贔屓老人の代表的な心境だろう。九連覇当時であれば安心して見ていられたはずだ。
庭に朝食の残りのパンを撒くようにしたら、鶫《つぐみ》がよく来る。
四月十一日(土) 曇
珍しく怖い夢を見た。夢のことだから漠然としているが、閻魔《えんま》堂のような所からなかなか出られない夢だ。
タクシー運転手の徳本春夫さんが椿を持ってくる。こんど土地を担保にして家を建てることになり、植木を処分せざるをえないことになったからだ。徳本さんが穴を掘るのだが、いきなり木の柄《え》の部分が折れてしまったので新しいのを買いに行った。全部|金製《かねせい》のパイプショベルというもので千六百円。徳本さんは五人の子持ちで、皆で金を出しあえばアパートを借りるより安くローンが払えるらしい。自動車三台が入る車庫つきであるという。
長年経営不振を伝えられている某社が活気を呈しているという。それは、その会社のビルが都市再開発の真只中にあって銀行だか不動産屋だかが幾らでも融資してくれるからだそうだ。面白いと言えば面白い世の中だ。
繁寿司《ヽヽヽ》のタカーキーが鰹《かつお》の刺身を持ってきてくれる。うまい、うまい。宮本信子さんが呉れた納豆もうまい。ただし、宮本信子さんはマルサの女だから税務署からの陣中見舞いという感じになる。
四月十二日(日) 曇後小雨
毎年|筍《たけのこ》を貰い過ぎて余るようなことになるので、今年は買うのを控えていたら、どういう加減か、どこからも来ない。
桜花賞の馬券を買いに行く。マックスビューティとコーセイの@D一点だと思い、はじめ五百円買い、少し考えて千円買い足した。喫茶店でコーヒーを飲んでいるときに、こんなこっちゃいけないと思って、馬券売場に戻って五千五百円買った。僕の馬券が半端になるのは、五百円玉を溜めているからである。二、三年前なら黙って一万円買うところなのに……。なんだか「自殺者の躊躇《ためら》い傷《きず》」のような馬券だなと思った。本当を言うとコーセイの単勝のほうを一万円も買ってしまったので、あまり儲からなかった。プラス二万二千九百円。コーセイは専門家の言うところの熟《う》れ過ぎの感じ。
不動産業の井上猛博社長が、富士見通りに鳳鳴《ヽヽ》という骨董屋を開き、その開店祝いの会に出席する。
帰りに植木屋の鈴木正男さんに会う。「今年は筍がまだだね」と言ったら「そのうち持って伺います」ということだった。
四月十三日(月) 曇
短篇集『庭の砂場』の見本が出来たので、献本用サインのために文藝春秋に行く。これが最後の短篇集になるはずだ。心境を問われるならば「老樹花一輪」。
四月十四日(火) 曇
阿部昭氏『18の短篇』(福武書店刊)を読む。目端《めはし》が行届いていて、しかも文章が粒立っている。こういうものを読むから卑小感に苛まれるのだ。
四月十五日(水) 晴
スバル君来。『新潮45』の原稿依頼。とても魅力のあるテーマで大いに心動くが、絶筆宣言しているのでどうにもならず、辛い思いをする。
[#改ページ]
[#地付き] |皐 月《さつき》 賞[#「皐 月 賞」はゴシック体]
四月十六日(木) 晴
静佳さんシドケを持ってくる。奥多摩の山中で採ってきたのだそうだ。
僕は目下粗大ゴミ同様なので少しずつ家事を手伝うことを心がける。と言っても、雨戸を繰るのと食後の|お運び《ヽヽヽ》ぐらいだ。お運びだけでも簡単にはいかない。食後すぐにやるのは妻に当てつけがましいし、グズグズしていると妻に持っていかれる。ガスの元栓の在処《ありか》もわからないくらいだから何程のことも出来ない。
四月十七日(金) 晴
臥煙君来。『小説新潮』の取材打合わせ。僕は小説雑誌の編集者以上の激務は無いと思っている。執筆者は概ね我儘《わがまま》だし原稿の文字は汚いし、それでいて間違いが許されない。しかも毎月の売上げが勝負なのである。承知はしているが、打合わせに来てくれないと困る。
臥煙君を送りがてら|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》へ行く。マスターの伊藤さんと三人で近くの画廊へ行き西脇功氏の個展を見る。自画像の多い不思議な画家だ。一作に何年もかける労作ぞろいで大いに刺戟を受けるが、画家の仕事も大変だと思う。
四月十八日(土) 晴
洟水しきり。風邪ではない。花粉症でなくても春はこうなる。
鬱状態が続いている。ひとつには急に暖くなって体がダルイせいではないか。もうひとつは五十代の男の死亡記事を目にすることが多いためではないかと思う。毎朝、新聞を見て「あっ!」と叫んだり「ああ」という溜息をつく。それも肝臓病が多い。ようやくにして戦後の荒廃した生活の請求書が廻ってきたのではないかと思う。今日僕がこうやって生きているのは幸運以外のものではない。
四月十九日(日) 晴
ミヤコワスレ、エビネランが咲く。エビネは佐賀の親類が数年前に大量に送ってきてくれたもので、あまり咲かなかったが、今年は元気がいい。自分では肥料がきいてきたと思っている。
今年の皐月賞は中山へ行くつもりにしていたが、中央競馬会からの招待状が届かない。毎年頂戴していて出かけることがなかったので文句を言う筋合いのものではない。来年は中山競馬場が改装になるので、あの古臭い懐しいスタンドで最後の皐月賞を見たいと思っていたのだ。そうかといって遠くまで出かけて立ち通しでは老体にきつすぎる。
仕方がないので、立川場外馬券売場へ行く。僕が府中のパドックで見て物凄い馬だと思ったのは、マティリアル、マイネルダビテ、バナレット、ゴールドシチー(これはテレビ)の四頭だ。マティリアルが新馬でおりたときは、遅れてきてそのレースを見なかった赤木駿介さんに「遂にダービー馬が出てきた。今年も和田共弘さんですよ」と言った。サクラスターオーは僕は見損じていた。弥生賞での快勝は|大駈け《ヽヽヽ》だと思っていた。
家へ帰ってテレビで見たら、レインボーアカサカ、サクラスターオーのB枠両頭の出来が素晴らしい。失敗《しま》ったと思った。マティリアルからの@Bという馬券を買うべきだった。他ではG枠のゴールドシチー、アサクサマジックがいい。マイネルダビテとバナレットは野性味が失われて馬が萎んで見えた。
的中したのはゴールドシチーの複勝のみでマイナス九千五百円。もし、僕が中山へ行っていたら@Bで勝負して大損害になっていただろう。正しい馬券という言い方はおかしいのだが、一番人気の@Bが正しい馬券の買い方だと今でも思っている。正しい馬券だから的中するとは限らない。そこが競馬の玄妙不可思議なところだ。また@Gとは買えてもBGとは買えない。ダービーでは、あくまでもパドック次第だが、田村騎乗で大外から果敢に先行して十一着に破れたアサクサマジックの単複が面白い馬券になると思う。
腰が痛いと言っていた妻は整体術の講義を聴きに行く。会場は老人福祉会館。かくなり果つるかの思い頻り。植木屋の鈴木正男さん、約束通り筍を持ってくる。筍も新鮮であるほうが美味《うま》い。大好物のひとつ。竹の子供が美味いというのも何か不思議な気がする。
四月二十日(月) 晴
依然として鬱状態。多少は向上心が残っているせいかと思う。まだ娑婆《しやば》に未練があるのか。なかなか好々爺になれず、日々是好日までの道は遠い。考えこむとスラムプの長くなる野球の選手がいる。だから、なるべく考えないようにしよう。
息子の運転で鍼治療に行く。血圧、百五十―八十二で良好。僕のかかりつけの歯医者は鍼治療に行くと言ったら身震いした。死んだ弟は極端な先端恐怖症で、松飾りが怖いと言って松の内は大通りを歩けなかった。高見順氏もそうだった。弟や高見さんには鍼は無理だろう。僕だって、決していい気持のものではない。そのかわり、治療が終ったときの解放感は強烈だ。本当は、終ったあと五、六分は施術台に横になっていたほうがいいらしいのだが、僕は「有難うございました」と言いざま更衣室に飛んで行く。気が短いせいでもある。
帰りに、|くにたち山草園《ヽヽヽヽヽヽヽ》に寄り、菫を三十株ばかり買う。日当りの悪い庭なので、菫、雪割草、エビネランなどに入れ揚げている。くにたち山草園の隣に養魚場があり、息子は鯉に凝っているので、とても便利だ。
四月二十一日(火) 晴
朝十時、講談社長野脩氏来。講談社文庫で『婚約』という短篇集が出ることになっていて、解説を諸井薫氏に頼んだのだが、その解説のゲラ刷りを持ってきてくれた。諸井さんのような人気作家に解説を頼むのは気が引けるのだが、標題作の「婚約」は僕の好きな小説なので、大人の目を持った人に読んでもらいたかったのだ。
冬帽子を仕舞い、夏帽子を納戸《なんど》から出す。こういうとき、奇妙に一番気にいっている夏帽子が出てこない。
共同通信社伊藤文雄氏来。短篇集『庭の砂場』(文藝春秋刊)についての取材を受ける。
『小説現代』のグラビア撮影。これも同じく『庭の砂場』に関するもの。本が出ると、こういうアフター・ケアが必要になる。くにたち山草園で写真を撮ってもらうつもりだったが、行ってみると誰もいない。数十万円もするエビネランがいっぱいあるのに不要慎な話だ。そこで一橋大学へ行ったのだが、構内での撮影を断られた。
大学通りの山桜や八重桜がいい。八重桜というのは花見が終ったあとに咲くので、あまり話題にならないのが可哀相だ。顔立ちは派手だが運の悪い美女を見る思いがする。今日一日、すっかり流行作家しちゃったが、とても疲れた。
藤田|湘子《しようし》氏から新茶を頂く。西ドイツから帰国した関敏氏に木箱入りパステル一組(レンブラント)を頂戴する。
四月二十二日(水) 晴後曇
市会議員選挙の応援カーが煩い。僕は売上税には原則的には賛成なので、余計に喧しく感ずる。生産者に厳しく流通機構に甘い現行税制は改善してもらいたい。但し、売上税は@わかりにくいA差別的B公約違反というのが気にいらない。税金は、わかりやすく極めて公平に搾取してもらいたいと願っている。
こんなに晴天続きの春も珍しい。庭にタップリと水を撒く。
[#改ページ]
[#地付き] 黄金週間[#「黄金週間」はゴシック体]
四月二十三日(木) 晴
僕はよく昼寝をする。パジャマに着換え、寝室で布団のなかで眠る。これを昼寝健康法と名づけている。眠っているときは物を食べない、莨を吸わない、目を使わない。頭を使わない、血圧が下がる。食物はすべて毒物であり、生きることは緩慢なる自殺だと思っているので昼寝に勝る健康法はない。
妻は居眠りをする。食事室のテーブルの上で本を読んでいるかと思っていると実は眠っている。ソファーで横になってテレビを見ているかと思っていると眠っている。妻の育った家では昼寝の習慣がなかったそうだ。それに主婦は寝間着に着換えて昼寝することなんか出来ない。僕の母はよく眠った。昼寝が大好きで、昼寝大会なんていうのを催した。これには妻はビックリしたそうだ。特に避暑地なんかで「さあ、みんな昼寝ですよ」と母に命令されると、どうしていいかわからなかったようだ。
僕は居眠りができない。よほど疲れている時でないかぎり、電車でも自動車でも眠れない。妻は自動車に乗るとすぐに眠る。精神安定剤を服《の》むせいでもあろう。なんかお互いに不便に生きているような気がする。
先日、立川の場外馬券売場へ行って、電車で帰るときにA社のB君に会った。彼は、立ったまま熱心に冒険小説を読んでいた。B君は読書をやめ何かモジモジしていた。僕に話しかけたいようなそうでないような。
「こんなことを言っていいかどうか、さっきから考えていたんです」
B君は、なおもモジモジしている。
「何だい、なんでも言ってくれよ」
「失礼じゃないかと思って……」
「そういうの、気持悪いな」
「じゃ、思いきって言います」
「………」
「先生、ズボンの前が開《あ》いています」
そういうことは早く言ってくれないと困る。僕の前に坐っていたお嬢さんが急に目をそらせたので変だと思っていたんだ。出版社に勤める学者タイプの編集者で、こういう男がいる。一ヵ月ぐらい前、日本橋の鳥安《ヽヽ》で、常盤新平さんの受賞を祝う七人ばかりの小宴が開かれた。カメラの田沼武能さんも来てくれて記念撮影をした。その写真を送ってくれたのだが、田沼さんの写真にしては構図がおかしい。何か落ちつかない。後で訊いてみたら、僕のズボンのチャックが開いていて写真の下の三分の一ばかりを切ったのだそうだ。田沼さんも「そのとき言おうと思ったんだけれど」と言った。
今後、気をつけなければいけないことのひとつだ。
四月二十四日(金) 晴
妻、五月人形を飾る。大安だからと言った。息子の誕生のときに買ったもので、だいぶ古びて貫禄がついてきた。
昼過ぎ、臥煙君が迎えにきてくれて、飯田橋のホテル・エドモントへ行く。僕は町中の小さなホテルが好きだ。明日の朝六時四十五分新宿駅発のJR東日本パノラマエクスプレス・アルプスという展望車に乗るためだ。なぜ新宿でなく飯田橋を臥煙君が選んだかというと、昔の飯田町が甲武鉄道発祥の地であるからだそうだ。ここが起点になっていた。相変らず凝った(あるいは芝居がかった)ことをする男だ。
駿河台下|文房堂《ヽヽヽ》で画材を買い、九段下|寿司政《ヽヽヽ》で食事をする。ホテルに戻って、テレビの阪神・巨人戦を見て横になったが眠れない。初めての部屋では眠れない。
四月二十五日(土) 晴
午前五時に起床してタクシーで新宿駅に向う。JR東日本の展望車は、ゆったりとして気持がいいが、車体は蟇《がま》が蹲《うずくま》ったようなスタイルでデザイン的には感心しない。色彩も、赤・黄・白で日本ハム・ファイターズのユニフォームのようで、これも好きじゃない。乗客は団体と鉄道マニヤばかり(詳細は『小説新潮』七月号で読んでいただきたい)。
発車したと思ったら立川駅に停車した。七時十分。ナンダ、ナンダ、コレハ。立川駅なら朝のその時間なら僕の家からタクシーで十分もかからずに到着する。六時半まで家で寝ていられたんだ。僕は中央線の列車は八王子駅まで停まらないと思い込んでいた。
いま、中央線の車窓からの眺めが素晴らしい。落葉松《からまつ》の新芽がいい。山桜がいい。八重桜も満開だ。
終着松本駅で降りて、碌山《ろくさん》美術館の裏の田園風景を写生する。三時前に松本駅折り返しの展望車に乗って明るいうちに帰ってきた。こんどは立川駅で下車した。
四月二十六日(日) 曇後雨
昨日から黄金週間に入った。この時期、海外旅行に行くのは営業部門に関係のない会社員ばかりだそうだ。月初が締切になる小説雑誌の編集者はどこにも行かれない。彼等こそ、もっと見聞を広めるべきだと思っているのだが。
東京競馬(府中市)再開。競馬は@運動になるA気晴らしになるBいい空気を吸うC友人に会えるD妻を家事から解放するなどで、とても有難い。
この日、落馬事故があり斎藤仁騎手が死亡した。ひどい落ち方をしたので心配していたが、十年以上も死亡事故がなかったので、こっちも油断して見ているようなところがあった。競馬はもっとも危険なスポーツである。
昔、森繁久彌さんと並んでレースを見ていたとき、障害で落馬があった。騎手はノコノコと歩き出したので怪我はなかったらしい。森繁さんは「山口さん、馬は大丈夫かね」と言って、倒れこんでいる馬が馬運車で運ばれるまでずっと双眼鏡で見ていた。僕は自分の買った馬ばかり追っていたので恥ずかしい思いをした。同時に森繁さんはいい役者だな、いや、人間として上等だなと思った。
帰りに|むつみや《ヽヽヽヽ》で南部煎餅を買った。以前、糖尿病にいいと言われて食べたときは、何か壁土を喰っているような感じだったが、この頃は、仄《ほの》かな甘味が気に入っている。|むつみや《ヽヽヽヽ》は全国の駄菓子を集めた面白い店だ。
四月二十七日(月) 晴
高橋義孝先生著『春風秋雨』(一枚の絵刊)を読む。耳が痛いような話ばかりだ。
『向田邦子全集』推薦文を書く。三通り書いたがうまくいかない。怠けてばかりいると、こうなってしまう。
夜、常盤新平氏来。頂戴していた鰹のタタキ、京都の筍、金沢の数の子醤油漬け、徳島の澤鹿(カルカンのような菓子)、弘前|大阪屋《ヽヽヽ》の饅頭、いずれも、うまい、うまい。
四月二十八日(火) 晴
阪神タイガース六連敗。阪神のファンは、味方の選手の家に厭がらせの電話を掛けたり、自動車のタイヤをパンクさせたりするそうだ。僕は広島一位、阪神二位の予想を発表しているので頑張ってもらいたいのだが、これでは選手が腐ってしまう。
四月二十九日(水・天皇誕生日) 晴
気温高く風が冷い。風薫るというのがこれだろう。
府中競馬場。大敗を喫す。マイナス五万九千円。競馬というのは、儲かると世間様に申しわけないような空《むな》しいような気分になる。金を取られると旦那になったような、何か変に豊かな気持になるから妙だ。妻、天皇賞が失格で的中。しょんぼりしていたのが、にわかにニコニコ顔になる。
[#改ページ]
[#地付き] 幸 福[#「幸 福」はゴシック体]
四月三十日(木) 晴
暖いが風の強い日。今年の桜は早く咲いたが、柿若葉なんかも早い。
五月一日(金) 曇
東京新聞朝刊鴨下信一さんの『私のタレントファイル』という随筆が面白い。
「安奈淳さんが、宝塚を退団して、娘役として一般の演劇に出はじめたころ、どうしても舞台に登場する瞬間が、自分で納得がいかない、なんだか落ち着かないし、だいいちすごく地味なような気がする、といっていたことがある。(中略)
袖《そで》――舞台の左右にあって、俳優さんの出入りするところ――その袖から出るときに、正面を向いた姿勢で出てこない。すこし後ろぎみに背中から出てくる。これでは華やかな娘役としては地味になる。どうもこれは少女歌劇の男役の|くせ《ヽヽ》らしい。
男と女といちばん違う部分は全部体の正面にある。体の背後はほとんど同じ。その同じ部分をまず、観客に見せることから男役の芸ははじまる。男役には登場の瞬間ばかりでなく、後ろ姿で決まるポーズが多いのは、このせいなのである。」
娘役が尻から出てくるんではサマにならない。僕は男と女の違いは尻だと思っていたので驚いた。昔、橘薫(古イナア)なんかズボンの尻の部分がパンパンに張っていて、それが滑稽だったのだが、言われてみれば正面のほうが違いが多い。専門家の見る目は僕等とは異る。また、実際に舞台に立つ人の苦労がわかって、なるほどなあと思った。
四月二十四日に駿河台下の文房堂《ヽヽヽ》に行って画材を買ったと書いたが、そのとき買ったのは、ハガキにもなる五百円のスケッチブックであって、本当に欲しかったのは他にあった。ひとつは水彩用のセーブル・ヘアーの筆が箱入りになったもので一万五千円。もうひとつは、携帯用のニュートンの固型水彩絵具セットで、これはパレットにもなり小型の水筒も付いている。値段は二万円に近い。両方ともデザイン的に勝れていてスマートで、持ち運びに便利である。これが欲しくて仕方がない。五千円程度なら、すぐにも買ったと思う。三万五千円となると考えてしまう。「必ず買いに来ますから取っておいてください」と店長に言ったのだが、金策のアテはない。
しかし、こういう、いかにも便利そうな道具は、実際にはほとんど役に立たないことも知っている。僕は、店長に「こんなもの、本当は駄目なんだよね」と言ったのだが、内心は欲しくて堪《たま》らないのである。女性が使いもしない夏物のハンドバッグを衝動買いしてしまうのと同じことだ。絵を描くには、チューブの絵具、大きなパレット、たくさんの筆、大きな水筒でなくては駄目だ。それは承知しているのだが、多少は絵心のある奴の病気見舞なんかに好適だな、なんて別の根拠を考えだそうとしたりする。
前に紹介した高橋義孝先生の『春風秋雨』(一枚の絵刊)という著書のなかに、こんな一節がある。
「二、三日前、資生堂の横丁の田屋で、マッチ箱を二つ並べたほどの大きさの革の小銭|容《い》れを買った。(中略)
さて、マッチ箱を二つ並べたほどの大きさの小銭容れを買って、女房から貰った百円銀貨(むろん今の百円硬貨は銀貨ではないが、銀貨と書かなければ何となく恰好がつかないような気がする)が五枚入っている。この蝦蟇《がま》口を撫《な》でさすって私は現在一種の幸福感に浸っている。
幸福とは、そもそも|小さな《ヽヽヽ》幸福なのだ。大きな幸福などというものはあり得ない。これに反して不幸は、それがたとい外見上どんなに小さいものであろうとも、どんな不幸も例外なしに|大きな《ヽヽヽ》不幸なのである。また幸福が結局は主観的なものでしかないのに、あらゆる不幸は厳密に客観的なものである。だから人間はアー・プリオーリに不幸なのである。」
五月二日(土) 曇
府中競馬場。マイナス二万三百円。大きな不幸に見舞われた。
六十年生きてきて学んだことのひとつに「人とは浅く付き合え」ということがある。僕は友人や仕事搦みの人たちと深く踏み込んで交際する傾向があった。そのために何度も失敗したしお互いに傷つくような事件が起った。たとえば、担当編集者は何等かの意味で尊敬できる男でなければ厭だったし、先方も少しは惚れてくれないと仕事に熱が入らなかった。また、親しき仲にも礼儀ありという関係でありたかった。狎れあいを最も嫌った。ところが、これが、結果的に良くないのである。そこで、最近は水魚の交りではなく、水の如く冷く付き合うことを心がけている。これなら問題は起らないし傷つくこともないが、なんとなく淋しい。
ある仏蘭西《ふらんす》料理の有名なシェフに「粗食が一番好きだし健康にもいいようだ」と言ったところ、「でも、美食しなければ人生つまらないです」という答が返ってきた。これ、さっきの話と似たところがありはしないだろうか。
五月三日(日・憲法記念日) 晴
風の強い日。府中競馬場。プラス十二万九千六百四十円。くらやみ祭の大国魂神社境内の植木市でオダマキ(五百円)とホタルブクロ(千円)を買う。それを買っているときに、ああ、これでセーブル・ヘアーの筆もニュートンの絵具セットも買えるなと思ったら、まだ自分の手にしていないのに心が波立ってきた。高橋先生流に従えば「私は現在一種の幸福感に浸っている。」本当に「幸福とは、そもそも小さな幸福なのだ。」
五月四日(月・振替休日) 晴
今日も風が強い。何も仕事をしていないのに休日だと気持が落着くから妙だ。
五月五日(火・こどもの日) 晴
講談社エッセイ賞候補作品を読む。
僕は五月五日に歌われる「背くらべ」という歌が好きだ。
柱のきずは おととしの
五月五日の 背《せい》くらべ
粽《ちまき》たべたべ 兄さんが
計《はか》ってくれた 背《せい》のたけ
きのうくらべりゃ 何《なん》のこと
やっと羽織《はおり》の 紐《ひも》のたけ
柱の瑕《きず》という意表を突いた出だしがいい。柱に瑕をつけても叱られないのだから、あまり御大家ではないことがわかる。去年ではなく一昨年《おととし》というのもいい。子供にだって懐旧の情というものはある。一年間は怖しいくらいに長い。二年前は子供にとって大昔だ。
粽《ちまき》食べ食べというところで、この兄さんが、あまり悧口じゃないけれどお人よしで親切者という感じが出ている。一家|団欒《だんらん》の様子もわかる。さらに「羽織の紐の丈《たけ》」というのが実に具体的だ。あ、わたしはこんなに小さかったんだという驚きが表現されている。具体的ではあるが、ここには誇張がある。いくら子供だって二年間にこんなに成長することはない。その誇張しているところも好きだ。
僕は、この歌が好きなばかりでなく、文章の規範としているようなところがある。意表を突く、具体的、誇張、快い感傷。すべからく文章はこうありたいと願っている。これと較べるわけではないが、いわゆる内向の世代の人の文章は、正直、読むのが苦痛になる。内向の世代の頭目《とうもく》である古井由吉さんの小説の、読後、疲労感を伴うところの鉛の弾丸《たま》を腹に打ち込まれたような重い感触は評価しているのだが。
[#改ページ]
[#地付き] |梶 葉 忌《かじのはき》[#「梶 葉 忌」はゴシック体]
五月七日(木) 晴
妻、朝顔の種を蒔《ま》く。
金文堂《ヽヽヽ》へ行き、パイロットのボールペン赤青十本ずつ買う。BROUGHAM という銘柄で、とても書き易いが輸出用とかで品数が少い。五月三日に競馬で十二万九千六百四十円のプラス(端数の四十円というのが実にセコイ)となっているのは、メイステークスで313.4倍という超大穴馬券が的中したからである。こういうのは、打ち損いが風に乗って場外ホームランになったようなもので、金銭的には有難いが、あまり嬉しいものではない。本命サイドで七、八倍の馬券をビシッと当てたほうが気持がいい。これはゴルフのホールインワンのようなもので、お祝い(むしろ御祓《おはら》いか)をしなければいけないと思い、ゴンドラ15号室の懲《こ》りない面々にプレゼントしようと思ってボールペンを買ったのである。
ついでに増田《ヽヽ》書店に行って『新コンサイス英和辞典』を買った。英和辞典を買うのは、四、五十年ぶりのことになろうか。手持ちのものがボロボロになっているためだが、BROUGHAM の意味を早く知りたいためでもあった。|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》へ寄って調べると、二輪馬車もしくは四輪馬車であった。偶然だが競馬と縁が無くもない。
メイステークスの超大穴馬券的中も偶然の結果だが、根拠がないわけでもない。二着になったコウチテンペストは、ダート馬とされていて出遅れると走る気をなくす一種の癖馬《くせうま》であるが、好馬体で大物感があり、四歳時から僕は重賞の一つか二つは取れるはずだと思い注目していた。ずっと不調が続き、芝コースに変って更に人気を無くしていたが、パドックで見ると出来は悪くない。後で返し馬も良かったと言う人に会った。ここから総流しを試みたわけで決してデタラメ馬券ではない。
五月八日(金) 晴
TVCFで見る航空会社や化粧品会社のモデルの女性がとても綺麗だ。こういうのにも当り年があるのだろう。それに赤ン[#小さな「ン」]坊のモデルも可愛らしいのがいる。赤ン[#小さな「ン」]坊が笑うと僕も笑ってしまう。
五月九日(土) 晴
風が無く暑い。府中競馬場。マイナス二万三千百二十円。滝田ゆう夫妻に会う。「いつも一階のカレーライス屋の前で見ているんですが」と言う。
雨が降らない。15号室で、お百姓さんが田植えが出来なくて困っているだろうなあと独り言を言ったら、背後で「うちのゴルフ場も乾き過ぎて困っています」と言う人がいた。15号室には馬主さんが多く、馬主には大地主が多いから、こんなことになる。それにしても、|うちのゴルフ場《ヽヽヽヽヽヽヽ》というのが凄い。
競馬場でマスコミ関係の人に会うと「いままでどのくらい儲けたことがありますか。どのくらい儲けたら儲かったと思いますか」と訊かれる。これは大嫌いな質問だ。僕の競馬はそういうものではないのだが、面倒なので好い加減に答えている。
いま、ゴルフをやると、一般大衆の場合だが、一回に二万円から三万円の費用がかかるという。だから僕は、三万円までは負けではなくてお遊び代だと思っている。儲けのほうは昔から背広一着分だと考えていた。現在、オーダーメイドの背広一着分の代金は三十万円というところだろうか。だから、僕は、めったには損をしないし儲かることもない。
大国魂神社境内でヒメシャガ、イワシャジン、キバナギョリュウバイを買う。
土曜日はNHKTVドラマ『友だち』を見ている。内海桂子さんの弁当屋の店員がいい。台詞はなくて、客の注文を受けると「喜んで、喜んで」と言うだけだ。映画でもテレビでもチョイ役がいいとドラマが引き締まる。僕の家では「喜んで、喜んで」が流行語になっている。
五月十日(日) 晴
府中競馬場。マイナス三万七千七百五十円。すなわち負けだ。自制心に負けた。NHK杯を見たが、これでダービーはマティリアル、サクラスターオー、モガミヤシマ、ダイゴアルファの四頭に絞られたようだ。アサクサマジックが面白いと前に書いたが、一寸足りない。不良馬場の際には大穴のエイシンテンペストを買うつもりだ。
大国魂神社でホタルブクロ、くにたち山草園で源氏スミレを買う。
大相撲五月場所初日。十両の維新力、小結の益荒雄が楽しみだ。
五月十一日(月) 晴
鍼治療。血圧百五十八―九十八でやや高目。
今日は六時から新宿京王プラザで梶山季之の十三回忌。梶葉忌。これはカジノハキと訓《よ》む。珍しく妻が参列したいと言う。文壇人の参加者百五十人というその数に驚くが、顔ぶれの豪華なのにも驚く。梶山の可愛がっていた若いジャーナリストたちが、いま局長になり編集長になり第一線で活躍している姿を見せたかったとつくづくと思う。十三回忌で地もとの広島のテレビ局が取材に来ていたが、こんな男は、めったにはいない。現在でもなお人気上昇中を実感する。玄人《くろうと》受けのする作家だった。
何度も見ているのだが、祭壇に飾られた遺影の何とも魅力的であることに打たれる。美男子というだけでなく人を惹き付けて止まぬものがある。人柄であり人徳であるのだが、誠心誠意であり、かつ、破れかぶれのサーヴィス精神が風貌にクッキリとあらわれている。いやあ、惚れなおしたなあ。
献盃の音頭とスピーチを頼まれた。僕は、今日は|梶山さん《ヽヽヽヽ》で終始するつもりだったのだが、途中、梶さんになり、梶山君になり、最後は梶山になってしまった。それだけ上気していたことになるが、思い出話をしているうちに、梶山さんでは、どうにも他人行儀でソラゾラしくていけないという感じになってしまった。
乾盃とか献盃というのは日本語としてこなれていないと思い、乾盃はおめでとうございます、献盃はいただきますでやることにしているが、この日も、イタダキマスになった。
五月十二日(火) 晴
関保寿先生来。色紙数点頼まれる。
五月十三日(水) 晴後曇
近作短篇集『庭の砂場』について共同通信社からの取材を受けたが、その地方紙の掲載記事が送られてくる。
僕は、かねがね、自分のなかのマイナスの部分、恥の部分だけで小説を書いてみたいと思っていて、それを洗いざらい書いたものが『庭の砂場』である。自分ではそのつもりでいても、なかなか本当のことは書ききれないものです、と言ったつもりでいた。
ところが、送られてきた掲載紙によると「……でも本当の悪い部分は隠している。」となっている。「書こうと思っても書けない」というのと「隠している」というのとでは、まったくニュアンスが異る。言葉は難しいと思う。記者に悪意はないのだが、僕が談話取材を極力避けるようにしているのは、こういうことがあるからだ。
関保寿先生宅訪。北島《ヽヽ》で園芸用支柱棒(二百九十円)を買う。|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》でコーヒー。伊藤接さん「今年の新茶はおいしいですよ」と言う。国電がE電に。
五月十四日(木) 雨
待望の雨。……と思ったら大雨の怖れありという。
[#改ページ]
[#地付き] パドックの馬[#「パドックの馬」はゴシック体]
五月十五日(金) 曇
妻、古着の整理をする。衣更《ころもが》えの時季になった。そのキッカケは、僕がTシャツを出してくれと言ったからだ。以前、沢木耕太郎さんにTシャツ十枚を貰った。彼がロス・オリムピックに取材に行くというので、買ってきてくださいと頼んだのである。ロス・オリムピックの二年後にそれが届いた。ずいぶん気の長い人だが、約束を守ってくれたのが嬉しかった。
そのTシャツが、なかなか出てこないので、大整理になった。古着市のようになった。いやあ、出てくるわ、出てくるわ。たちまち古着の山になる。飽食の時代だと言うが、飽衣の時代でもあると思った。
二十年ぐらい前に横須賀のドブ板通りで買ったシャツが、いま流行のシャツとして通用する。夏物の綿の薄いジャムパーが欲しいと思っていたが、それなんかもチャンとあるのである。いつ、どこで買ったのか忘れてしまっている。これでは繊維業界の景気が悪いのは当然だと思った。ネクタイにしろ帽子にしろ、こんなに溜っていたのかと驚かされる。安物買いの銭失いというのは真実《ほんと》だなあと思った。昔の紳士のように、季節季節のフォーマルなものをキチンと買っていれば、こんなことにはならない。飽衣の人というのは結局は貧乏人である。
新潮社佐藤誠一郎氏来。短篇集『梔子《くちなし》の花』の見本を持ってきてくれる。
五月十六日(土) 晴
府中JRA(ジャパン・レーシング・アソシエーション。中央競馬会のこと)。第一レースから第七レースまで全部的中。第八レース以降全部はずれという変な日。プラス八千三百円。競馬場を見渡して、このくらい土地があったらいいなあと言ったら、妻、憮然たる顔で「こんなには要《い》らないわ」と答えた。大国魂神社境内植木市で二輪草(五百円)を買う。別の園芸店で鶏糞、牛糞、骨粉を買う。妻はタイ焼きを買った。
山田太一脚本、深町幸男演出『友だち』の続きを見る。前回、内海桂子の台詞が「喜んで、喜んで」しかないと書いたが、この日は大活躍。こんないい役者がこのままで済むはずがないという予感があったが、彼女の啖呵が素晴らしい。こういうドスの利いた啖呵が切れる役者は内海さん以外にはいない。
五月十七日(日) 雨
府中JRA。一番好きなレースである安田記念の行われる日であるが、あいにくの雨で馬場状態は重。競馬は千六百メートルのレースが最も激しく最も面白い。ニッポーテイオーが前走のレースぶりからして良でも重でも負けるわけがないと思っていた。
雨に打たれながらパドックで馬を見たが、ダイナフランカーの出来が素晴らしい。身のこなしが柔らかく張りがあり動きがキビキビしている。絶好の出来で惚れ込んでしまった。外枠を引いたが重馬場で追込馬だから、そのほうがいい。鞍上も追込得意の柴崎である。単勝オッズは二十八倍を示していて、手頃というか、穴党にとってはゾクゾクするような馬券である。ダイナフランカーはスクラムダイナの下で重が下手だとは思われない。単複二千円ずつぐらいに考えていたが、だんだんに確信めいたものが生じてきて(これがギャンブルの醍醐味《だいごみ》)、ニッポーテイオーからDGの連勝複式馬券と単勝の馬券を、僕としては滅多にはない金額で買った。
僕はパドック党である。パドックでの馬の状態を第一の根拠とする。なぜならば、情報の時代であるが、最新情報はパドックにありと思うからだ。
お前に馬の良し悪しがわかるかと問われるならば、|わかる《ヽヽヽ》とも答えるし、|わからない《ヽヽヽヽヽ》とも答える。しかし、|わかる《ヽヽヽ》と思っていなければ競馬が面白くないし、競馬をやる意味も値打ちもなくなってしまう。
僕は野球でも相撲でも、どんなスポーツでも同じことだと思う。中日落合選手の顔つきが良くなってきた、六月七月に猛威を発揮するぞと思って見ているのでなければ野球が面白くならない。美術でも音楽でもそうだ。お前にピカソの絵がわかるかと言われれば困る人が多いと思う。しかし、ピカソの青の時代の絵が好きだと思っている人の数も多いと思う。それはその人なりに|わかっている《ヽヽヽヽヽヽ》からだ。ヴァディム・レーピンの柔らかい伸び伸びとした体の動き、全身を楽器にぶつけるような力強い演奏を聴くとき、僕は三歳時のシンボリルドルフを重ねあわせて感じてしまう。むろん、僕なんかにヴァイオリンがわかるわけがない。しかし、あの甘く繊細な音色が柔軟で力強い体の動きから発することだけは間違いがない(と思う)。エフゲニー・キーシンの、いかにも神経質そうなピアノ演奏も同じことだ。楽譜に正確であるかどうかは僕にはわからない。自分なりに、いいなあと思って聴いていればいいのである。
僕はダイナフランカーの出来を絶好と見た。スタートすると柴崎は中団につけ外目を廻った。三角から四角にかけて手応えはいいように思われた。直線で大外に持ちだして勝てる位置にいた。そこからは全く伸びなくて、さらに大外を廻ったフレッシュボイスが柴田政人騎手の芸術的とも思われる好騎乗でニッポーテイオーを見事に差し切った。ダイナフランカーは向正面と直線の二度の坂がこたえたように僕には見えた。力不足だった。馬の出来とは別にやや闘争心に欠けるように見えた。ダイナフランカーは十九頭立ての十五着だった。
このレースは、書斎派(データや血統で馬券を検討する人)にとっては易しい馬券だった。ニッポーテイオー、フレッシュボイス、スズパレードは格上であり、スズパレードはやや左廻り不得手と考えれば一点で取れる馬券である。
ほらみろ、お前なんかに馬がわかるはずがない、パドック党は駄目だと言う人がいるかもしれない。しかし、ちょっと待ってもらいたい。ダイナフランカーのパドックでの印象は強烈だった。それを次のレースに生かすのがパドック党の真骨頂である。僕は、この馬は出世すると睨んでいる。ついでに言うと、モンテジャパンも立ち直っている。次回良馬場なら好走するだろう。
大きな不幸に見舞われた僕は、ナニ、命まで取られたわけじゃないと思った。最終レースを大塚栄三郎に托して的中。マイナス二万一千五十円と損害軽微で終った。
五月十八日(月) 晴
多摩信用金庫。競馬場で溜めた小銭を数えてもらったら三十七万五千円ばかりになった。|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》で関敏氏に会う。すっかり元気になっている。骨董屋の鳳鳴《ヽヽ》で玉杯(五千円)を買う。
三浦百恵チャンの引越で国立市は大騒ぎなんだそうだ。家にいると何もわからない。その件につき朝日新聞社から電話取材を受ける。女性週刊誌の記者やテレビのワイドショーの芸能レポーターが押しかけて、地元民の反対運動が起っているらしい。僕は、そう言っちゃ悪いが、たかが引退した一芸能人の引越じゃないですか、そんなもの、反対運動があろうがなかろうが無視してください、記事にすれば騒ぎが更に大きくなりますからと答えた。
五月十九日(火) 曇
昨日の朝日の件。社会面の三分の二ぐらいを費した特大記事になっているのを見てショックを受ける。同時に腹が立った。これはマスコミ一般の内部の問題ではないか。自分たちが自粛すれば、それで話は済むはずだ。正義面は勘弁してもらいたい。
[#改ページ]
[#地付き] 大 逆 転[#「大 逆 転」はゴシック体]
五月二十日(水) 晴
臥煙君、フミヤ君来。『小説新潮』に連載中の「新東京百景」取材のため、臥煙君の運転で家を出る。今回は荒川土堤へ行く。ここの夕陽がいいんだそうだ。よくマニラ湾の夕陽がいいなんてことを言うが、僕の場合は荒川土堤で、なんだか情ないような気がした。
ゴトー日で込んでいるので外苑で高速を降りて山の上ホテルの駐車場に自動車を置き、駿河台下の文房堂《ヽヽヽ》へ行った。文房堂《ヽヽヽ》特製の絵具、パレット、水筒が一つになった、さあ、こういうものを何と呼んだらいいのかわからないが、そういうグッズを買った。それと、セイブル・ヘアーの筆。これも、釣の継ぎ竿のようになっていて四本がセットになっている箱入りである。どうも文房具店や画材店へ行って新製品を見ると欲しくなってしまう。この二点にスケッチブックがあれば絵が描けるわけで、旅行に出るときに安心感がある。風景画を描く人は、なんとか荷物を減らそう軽いものにしようと工夫を凝らす。僕は水彩だが油の人は、もっと苦労する。画材を軽くしたいというのは、風景画家の悲願のようなものだ。ところが、たとえばパステルなんかは依然として木箱を使っている。箱自体が重いのである。また、いかにも便利そうにセットになっているものは、実際には、ほとんど役に立たない。水彩は|みづゑ《ヽヽヽ》だから、大きな水筒で水をタップリ使い、適度に太い筆で描かないと気合が入らないし迫力も出ない。まあ、セット用品は、忘れ物をしないという安心感を買うようなものだ。
後に、|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》の伊藤さんにその話をしたら、矢立てのようなもんですなと適切な評価をした。
文房堂《ヽヽヽ》でそれを買うとき、こんなもの役に立たないのはわかっているんだがとブツブツ言いながら買った。まるで『火焔太鼓』で煙管《きせる》を買う客のようだと思った。
スズラン通りで冷し中華を食べ、|ミロンガ《ヽヽヽヽ》でコーヒーを飲んだ。|ミロンガ《ヽヽヽヽ》に入ると時代が終戦直後に逆行する感じになる。たとえば「藤沢嵐子とオルケスタティピカ東京」である。とてもコーヒー・ショップとは呼べないが、そのコーヒーが美味だった。僕の口に合う。昔、ここは『近代文学』の巣窟《そうくつ》であって、梅崎春生、椎名麟三、野間宏、武田泰淳といった人たちの顔を見ることができた。東京大学の渡辺一夫先生も来られた。二階が昭森社(いまでも看板が出ている)で、社長は永田キングと呼ばれていた。トラムプのキングに顔が似ているからである。そう言えば、筑摩書房の古田さんとか早川書房の早川さんとか、名物社長というのもいなくなったなあ。
駿河台下へ行くと|ミロンガ《ヽヽヽヽ》へ寄る。暗い隅の席で原稿なんか書いている青年が必ずいるのには閉口するが……。
そこから浅草のビューホテルへ行った。このホテルは、何か老人に優しいという感じがあるので好きだ。たとえば風呂だが、西洋式バスであるのに浴槽の外で体が洗えるようになっている。こんどは和室にしてもらったので、なおさら落ち着く。
外へ出る気がなくなって、テレビの中日・巨人戦を見る。今年の中日・巨人戦は、とても面白い。特にこの日は好ゲームで、八回表、巨人が大逆転したのを、九回、落合・中尾の好打で再逆転サヨナラ・ゲームとなる凄い試合で手に汗握る。中日が下位に低迷していたとき、このチームは必ず上昇すると予言していたので、とても嬉しい。落合を獲得するために牛島以下の有力投手を放出したのは中日にとって大きなマイナスと論評していた巨人軍御用評論家は、これをどう見るのか。また、今年の阪神タイガースはありゃなんですか。野球は全選手が|一丸となって《ヽヽヽヽヽヽ》やるもんです。
以前から浅草を案内すると言っていた文藝春秋のT記者が部屋に来てくれたが、野球が熱戦で出るに出られず、冷蔵庫《ミニ・バー》のビールを四人で全部飲んでしまい、ルームサービスで五本追加する。ビールって案外酔いますね。これ、すべて星野仙一の熱血野球がいけない。
オデンの|さと《ヽヽ》へ連れて行ってもらう。目の前で茹《ゆ》でてくれる空豆《そらまめ》がうまい。客は近所の旦那衆ばかりで、いかにも浅草だ。T記者も若旦那と呼ばれている。その若旦那がいなくなったと思ったら|梅むら《ヽヽヽ》の豆カンを買ってきてくれた。文壇通なら、これを安岡章太郎氏、吉行淳之介氏が愛好しているのを知っているはずだ。|さと《ヽヽ》は風通しがよく、夏の夜にここで冷酒を飲みたいと思った。ここでも終ったばかりの野球の話。下町は巨人ファンが多いので、うっかりしたことは言えない。
すぐ近くの|かいばや《ヽヽヽヽ》へ行く。ここの旦那は中日のファンだと知っているので安心だ。昔の青年なら吉原《なか》へ繰り込むというぐらいに勢いづいてしまった。
五月二十一日(木) 晴
おそろしく暑い日だった。二十七度だったと知ったが、三十度ぐらいに感じた。荒川土堤の鹿浜《しかはま》という所で絵を描いていて、風が強いのに、八月の陽気だと思った。
気分は上々だったが、すぐに疲れてしまう。寒いのは肩が凝る感じになるが、暑いのは全身が疲れる。特に頭がボーッとなる。昨夜は酒のせいか和室のためか僕としてはよく眠ったのに……。すべて星野仙一がいけない。あのビールがいけなかった。
昼間から描きはじめて、二時間ばかりでどうにもならなくなった。落日は六時二十分頃だという。それまで鹿浜にいるのはとても無理なので引返すことにした。
五月二十二日(金) 曇後雨
一計を案ずることになった。僕が策戦をたてるとロクなことにはならないのはわかっているのだが……。
二時か二時半まで浅草で時を過す。浅草から鹿浜まで小一時間かかる。三時半から描きはじめて、いわば下絵を描いておいて、六時過ぎの落日を待つ。帰宅が七時半から八時。ちょうどいい。
まず|アンヂェラス《ヽヽヽヽヽヽ》へ行って、コーヒーとアップルパイ。これも恒例。臥煙君がスポーツ新聞で調べて『ハード・ペッティング』という|にっかつ映画《ヽヽヽヽヽヽ》を推奨してくれた。掛っている劇場《こや》まで行ってみると二時十分終了となっている。これも好都合。その時刻なら、オークスの枠順発表の出馬表も買える。
この『ハード・ペッティング』という映画が良かった。ひと眠りするつもりだったが、そんなわけにいかなくなった。小林ひとみ嬢という女優さんが素晴らしかった。好みの問題だが、僕は黒木香嬢は苦手だ。それに水谷俊之という監督さんもいい。脚本家に人を得れば相当な作品が出来るはずだ。廊下に出て臥煙君に礼を言っているとき、異様な音がした。外は豪雨|沛然《はいぜん》。「ほらみろ、お前が計画すると、いつでもこうだ」と僕は自分に言った。
五月二十三日(土) 暴風雨
府中JRA。不良馬場。これではまともには収まらないと思っていたが、果たして朝から一鞍も的中せず、マイナス六万四千円の大敗。
五月二十四日(日) 小雨後曇
府中JRA。オークス。今年の優駿牝馬はマックスビューテイ、コーセイ、クリロータリーの三頭に絞っていたが、パドックで気が変り、単勝万馬券のマイネミレー(結果は十五着)で勝負。昨日以上の大敗になったが、最終レース公営上り初戦のレインボースキーに救われて大逆転、二万八千二百五十円のプラスになった。めでたし。
[#改ページ]
[#地付き] ショック[#「ショック」はゴシック体]
五月二十五日(月) 曇
浦安に来月オープンするホテル醍醐のお祝いのための書。僕が文字を書き関保寿先生が絵を描き、マスターの醍醐準一さんを贔屓にする面々が額を寄贈するという計画。
|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》でコーヒー。伊藤接さんに春陽会島田さんという女流作家のリトグラフ(石版画)を頂戴する。豌豆豆《えんどうまめ》、トコロテンを買って帰る。
五月二十六日(火) 晴
『男性自身』文庫化のための原稿整理。二冊分を一冊に縮める作業。
五月二十七日(水) 曇後晴
新潮社田島弘氏に昨日の原稿を渡す。
五月二十八日(木) 晴
講談社エッセイ賞選考委員会。五時、紀尾井福田家。選考委員は井上ひさし、大岡信(外遊中欠席)、丸谷才一、それに僕の四人。
僕の推した作品は丸谷委員によって完膚なきまでに叩き潰された。僕は、一回表、一死も取れず十点を献上して降板した投手のようだった。丸谷さんの意見は委曲を尽くし、心に沁みいるようにして納得できるものだった。なによりも、その一作のために原稿用紙三枚にビッシリと書き込んだメモを用意されている情熱に感動した。ずいぶん勉強になった。また、僕が頭から否定した作品が丸谷さんが支持するものであることが後でわかったりもした。こうして二作品が落ち受賞作が浮かびあがった。いつでも思うのだが、文学賞というのは偶然性に左右されることが多い。なお、この賞は候補作を公表しない約束になっているし、受賞作も発表する時期に至っていない。
五月二十九日(金) 晴
講談社徳島高義氏来。新茶を持ってきてくださる。一緒に駅附近まで散歩。|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》でコーヒーを飲んでいるときにカメラの田沼武能氏が入ってくる。拙宅に写真を届けにきたのだが留守なので郵便受にいれ、駅で切符を買ってから思い直して、この店に寄ったのだという。東京人、特に下町っ子は、あらかじめ電話をいれるということをしない。訪問先の心の負担になると考えるようだ。田沼さんは浅草の生まれである。
五月三十日(土) 晴
府中JRA。禿頭翁《とくとうおう》と称して予想屋を開業した。昔『ダービー・ニュース』に白頭翁という予想屋さんがいて、将来、山口さんは禿頭翁となって外れ馬券の拾い屋になるんじゃないかと戯談《からか》われたものである。いや、その当時、半分ぐらい本気で、府中競馬場正門前で台に乗って僕の予想を売り、売上金を何かの公共施設に寄贈したいと考えたことがある。
この日の禿頭翁はサンザンの不出来で、映画監督の森田芳光氏ほかの方々に迷惑をかけた。いつかキット埋め合わせをするョと低声《こごえ》で言う。むろん僕も大敗。
繁寿司《ヽヽヽ》で食事。以前国立市にいて大阪に転勤になった日経の山坂靖雄氏夫妻が休暇で遊びに来ている。ヤマちゃんは人気者で、四十歳を過ぎて美しい夫人と結婚したときは皆で拍手喝采したものである。土産に貰った羊羹粽が美味い。関保寿先生、醍醐準一氏も来店。額装の打合わせが行われたらしい。僕の書に関先生が鯰《なまず》を描いて、二匹の鯰が入《ヽ》という形になっているそうだ。千客万来の意味だろう。現物はまだ見ていない。
五月三十一日(日) 晴
府中JRA。東京優駿《ニホン・ダービー》。
ダービーというのは、厩舎関係の人のお祭である。たとえ十着に敗れても、七千頭と言われる四歳馬のなかで、俺ン[#小さな「ン」]ところの馬が十番目に強いということは、とても嬉しいものだそうだ。入場人員十四万五千人弱。非常に暑い日で、有名な府中の欅《けやき》の大木の下に家族連れが弁当をひろげて群がっているのを見ると、僕も子供の頃の村祭を思いだしてしまう。
ではファンにとってダービーは何であるかというと、三月末の大試験である。去年の夏から三歳馬を見てきて、勉強した結果を答案用紙に書く日である。同室のK氏は、皐月賞が共通一次試験であって、共通一次で好成績でなかった馬が東大に入学できるわけがないと力説される。そのK氏、この暑いのに三ッ揃いの背広をお召しになり、ダービーネクタイをお締めになって汗だくだくになっている。わたしは六月一日にならなければ夏服は着ませんと言われるのだが、僕は、こういう昔|気質《かたぎ》の老紳士が大好きだ。
さて、僕の答案用紙だが、パドックで一番よく見えた馬はメリーナイスであって、踏み込みが確りしていた。例の証書に実印を押すという力強い歩様である。問題のマティリアルは16キロ減だが、僕には少しも細化しているようには見えなかった。
従ってトチノルーラーが逃げてメリーナイスが差すというB(約五十倍)の馬券。これをまとめて負かすとすればマティリアルでBC、追い較べの競馬になれば関西のゴールドシチー、ニホンピロマーチ、ダイゴアルファで、マティリアルからCD、CF。……B、BCが主力で、CD、CFが押さえというのが僕の答案用紙である。単勝はマティリアルを買ったが、これはスプリングSの物凄い追込みの見物料という意味だ。
だから僕は完敗だった。大試験は落第点どころか零点だった。双眼鏡のなかでマティリアル騎乗の岡部騎手が押せども叩けども動かぬのを見てショックを受けた。
隣の部屋の滝田ゆうさんが、遠くでオヤ指とヒトサシ指で丸を作って笑っているのが見えた。近寄って祝福すると、「Bがいいって言うんで、Bを買うつもりだったんだけれど、ひょろっと@B買ったら当っちゃった。ひょろっとね。ヘヘへえ」って、これ、何言ってるんだかわからない。
土・日の二日間で八万二千円のマイナス。高い答案用紙だった。
家へ帰ったら、もうひとつのショックが待っていた。前理事長武蔵川親方の死去の報。一目見て巨人とも鉄人とも感ずるのは武蔵川親方のほかには将棋の大山康晴名人だけである。また、お目に掛ったことはないが、武蔵川夫人は出羽海部屋の力士の憧れの的だった。同じ屋根の下に寝起きしていて、夫人の素顔を見た力士がいなかった。いったい何時に起床されるのだろうか。夫人が手洗いの扉に手をかけるのを見た力士もいなかった。
「俺も、あんな嬶《かか》あが貰いてえなあ」
という取的《とりてき》の声を聞いたことがある。
六月一日(月) 晴
風が強いが蒸し暑い。梅雨が近いようだ。これだけショックが続くと、風が吹いても爽やかな朝とはならない。
鍼治療の日だが、院長先生が出張だというのでマッサージに変えてもらった。僕、ほんと言うと鍼は怖いのである。痛いということはないが、ビリビリッと痛覚が走るような感じが不気味だ。マッサージは子供の時から馴れている。治療に当ったのは若い女性である。これが油断がならない。若い女性は指が細いので、とても痛いことがある。さいわい上手な人で助かった。隣で治療している屈強な男のマッサージ師が、わたしら指が太くなってボウリングの穴にオヤユビが入らないなんてことを言っている。
六月二日(火) 晴
北京に居酒屋兆治《ヽヽヽヽヽ》という店があり、兆治はツアオツとよむそうだ。
[#改ページ]
[#地付き] 入 梅[#「入 梅」はゴシック体]
六月三日(水) 曇
短篇集『梔子《くちなし》の花』献本のため、筆、墨、住所録などを持って新潮社へ行く。JRだかE電だかわからないのだが、中野駅で地下鉄に乗換えて神楽坂《かぐらざか》で下車する。何度も中野駅を通り越して新宿駅まで行ってしまっているので、とても緊張する。神楽坂駅から長い階段を昇って地上へ出るのだが、途中に改札口があって一息つけるのが有難い。
四時頃、仏人女性写真家と通訳嬢が来る。拙宅に来られるという電話があったのだが、正直に言って外国人は鬱陶しいので、迷惑を掛けることになるが新潮社に来てもらった。なぜ僕の所へ連絡があったかというと、日本の温泉の写真を撮りたいと思っていて、僕の『温泉へ行こう』(新潮社刊)という書物を通訳嬢が読んで感動したためだそうだ。僕のほうには『芸術新潮』のスタッフを紹介したいという心づもりがあった。
ここで痛感するのは日本の物価高である。遠くまで足を伸ばさないと鄙《ひな》びた温泉地がないが、そうなると交通費が高い。箱根や伊豆の高級旅館は一泊五万円だと言うと目を廻して驚く。物価高は外国人の目を通すとよくわかる。我々は馴らされてしまっているが、ステーキハウスの食事代なんか狂気の沙汰だ。そうではあるが、外国人に「お金が無い」と言われると、肉癢《こそば》ゆい感じになる。僕はまだ外国人は金持という感覚から脱しきれないでいる。
この仏人女性は、十五歳のときに故国を離れてニューヨークでアパート暮しをしているそうだがフランス語でしか話さない。話には聞いていたが、仏人の自尊心に触れる思いをした。
また、エイズに対する警戒心にも驚かされる。猿の来る温泉の話になったとき「僕は猿は嫌いだ」と言ったら、彼女は強く同感した。それは、猿がエイズを齎《もたら》したということであるらしい。「エイズに罹《かか》るような行為をしなければいいのに」と言ったが意味が通じたかどうか。
例のナカソネの知的水準云々の発言に対する黒人の反撥は強烈なものであるらしい。ハーレムで黒人の写真を撮っている女性の証言だから傾聴に価する。中曽根さん、訪米の際はハーレムへ行っちゃいけませんぜ。
その女性二人を九段下の寿司政《ヽヽヽ》に案内した。ニューヨークの寿司バーとは全然違うと狂喜する。そりゃ当り前だ。仏人女性は「私の人生の中で最も素晴らしい食事」だと言った。「オーララ」「アーララァ」とやっていたのだが、外国人、特に女性と付き合うのは、とても疲れる。その感じを一口で言うと「こっちは○なのに、むこうは□だ」ということになる。
六月四日(木) 晴
終日仕事。
六月五日(金) 晴
『小説新潮』に連載中の「新東京百景」のうち「荒川土堤の落日」の挿画を描く。雨に祟《たた》られたので写真を見て描く。こんなことは初めての経験。僕は現場で仕上げる主義なのだ。
滝田ゆう氏訪。漫画家協会大賞のお祝い。サクランボを持って行くつもりが良い品がなくて別のものになった。
六月六日(土) 晴
非常に暑い日。府中JRA。マイナス三千五百五十円。
六月七日(日) 晴
府中JRA。このところ絶不調でマイナス六万一千六百円。ギャンブルにはよくあることだが事態が悪く悪く廻転する。何かで御祓いしたいものだ。
新潮社徳Q君と一緒だったが、帰りに繁寿司《ヽヽヽ》に寄ると豊田健次氏、安倍徹郎氏が飲んでいて、僕としては大酒になる。
六月八日(月) 晴
阪神タイガース竹之内コーチの辞意表明を知る。同コーチは、こう言っている(スポーツニッポン紙)。
「ヘッド(土井)を通じていろいろ意見を出した。イッちゃん(一枝)にも時にはエンドラン、ランエンドヒット、右打ちなど、サインで選手を動かす方法をとったらどうかと相談もした。しかし村山、ブレイザー時代から、そんな習慣がついてないんだからやってもムリだ≠ニ決めつけられてしまっていたので、寂しかった」
これには驚くより呆れてしまった。無死走者一塁、打者は走者を進めるべく右を狙うだろう、投手はそれを阻止するためにインサイド低目に投げるだろうと思って固唾《かたず》を呑んで見ていたものだが、そんなものが全然なかったのである。僕等は何十年も、そんな野球を見せられていたのだ。
一昨年、阪神タイガースが快進撃を続けていたとき「タイガースが野球の常識を変えた。従来の、投手力は計算できるが打力は計算できないという考えは間違っていた」と言った評論家がいて、これにもびっくりしたが、タイガースには、そもそも野球の常識がなかったのだ。名監督三原脩がカウント2―3で待てのサインを出したのは有名な話だが、監督やコーチは、それくらいカリカリになってゲームの流れを読んでいるものだとばかり思っていた。サインひとつ出せない監督やコーチがチーム全体を掌握できるわけがない。サインがなくてもホームランを連発すれば野球は勝てる。しかし、あの無気力な戦いぶりはどうだろうか。あの強力打線、あの有望若手投手陣を広岡達朗、古葉竹識、星野仙一に持たせたいと頻りに思う。
関東地方も梅雨に入った。ドクダミ、イワタバコ、ホタルブクロが咲いている。今年はムラサキシキブの花の付きがいい。僕はドクダミの花が割に好きだ。増えすぎるのには閉口するが。
春原千秋先生来。神経科の先生で妻の主治医である。熱烈な将棋ファンで読書家だから話が弾む。味覚のわからなくなる病気で悩んでおられる由。主治医が病気になるくらい困ることはない。神経科の先生が神経を病むことは多い。
六月九日(火) 曇後雨
強風で埃が舞い、部屋のなかがザラザラする。午後になって雨が降りだした。梅雨らしいダラシのない降り方である。
朝顔を植えかえる。正月の福寿草、五月六月の朝顔の手入れは、どういうものか男の仕事だった。僕の父も、普段は何もやらないのにそれだけはやった。僕もそういう年齢になったということか。
『別冊文藝春秋』百八十記念特別号を読む。長尾宇迦氏「幽霊記―小説佐々木喜善」、中薗英助氏「上海・孤島時代のタンゴ」が面白い。むかし『別冊文藝春秋』から小説の依頼があると、勉強の場が与えられたような気がして、とても嬉しかったものだ。
六月十日(水) 雨
吉行淳之介氏『日々すれすれ』(読売新聞社刊)を読む。吉行さんの本は何でもスッキリと気持よく読めて、軽い頭痛なら治ってしまいそうな気がする。
読むのが遅くなったのは、妻が先きに読むからだ。某有名小説家夫人にも吉行さんの大ファンであるような気配がある。世の夫人達は夫の浮気には眦《まなじり》を吊り上げるが、美男子の色好みには寛大であるのが解《げ》せない。そう言ったら「アラ、吉行さんは特別よ」と応ずるに違いない。チクショウ!
[#改ページ]
[#地付き] ま い ね[#「ま い ね」はゴシック体]
六月十一日(木) 晴
家具商の村川さん来。皮製や布製の椅子の修理を頼む。
六月十二日(金) 晴
国立高校野球部監督市川忠男氏来。いよいよ高校野球のシーズンになった。僕は、あらゆるスポーツのなかで夏の高校野球予選が一番好きだ。以前国高の練習試合を見たとき、はっきり言って「これはヒドイ」と思ったものだが、かなり良くなっているという。僕の信頼する市川先生の言だから間違いはない。PLと五分だと思っている関東一や帝京が東東京(国高は西東京)であるのが有難い。
このごろの高校生は教師に渾名をつけないそうだ。カバだとかゴリラだとか、代々言い伝えでもって渾名が継承されたものだが、それが無くなっている。市川監督は、そのことを、やや淋しそうな口調で言われた。教師と生徒との間が濃密でなくなっているらしい。生徒同士でも渾名をつけないそうだ。どうも新人類とかコンピューター世代とかは人間的臭気に欠ける憾《うら》みがある。
|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》でコーヒーを飲み、|紀ノ国屋《ヽヽヽヽ》でイギリスパンを買う。
六月十三日(土) 曇
安倍徹郎氏と府中JRAへ行く。安倍さん、馬券で儲けて昔の小学校教師にワープロを贈るんだと言う。「まあ、十万円ぐらいかな」と自信無さそうに言った。
その安倍さん、中穴のオイシイところを二レース的中。最終レースで儲けた分を投入して一点で的中。「ワープロ、買えます」と晴れやかな顔になった。
午前中は「もう山口さんの予想で買うのはやめようかな」と悄然《しよんぼり》していたのだが、終ってからは「いや、あの予想、大いに参考にしました」と上機嫌になる。僕は予想屋としては、かなりのものだという自信がある。そして、安倍さんは、ついには「一年に一回ぐらい来てこんなに儲けるんじゃ中央競馬会から文句がこないかな」と胸を張るにいたった。いずれにしても友人の上機嫌は嬉しい。僕は一万五千八百円のマイナス。帰りに繁寿司《ヽヽヽ》で飲む。
六月十四日(日) 曇
府中JRA。今年の前半の最終日である。期するところがあったが、またしても、どうしてこうなるのかと信じられないくらいに事態は悪く悪く廻転した。ギャンブルの陥穽《かんせい》はこういうところにあるのだが……。
一例で言うと第九レース、エーデルワイス・ステークスのマイネミレー。これはマルゼンスキーの仔で馬体良く、前々走ダートだが勝ちっぷりが素晴らしくてオークスでも単勝を買った。ハンデ戦でハンデは51キロ。ジョッキーは贔屓の柴田善臣。十一頭立ての十番人気、単勝オッズは二十四・三倍。大穴となる条件はすべて揃っていると思った。だから、最終日でもあり単勝で大勝負。皐月賞、オークスに出走したリワードタイラント、タクノチドリを本線に総流し。僕は負けるわけがないと思っていた。余計な話だがマイネミレーという名前の響きも悪くない。
レースはマイネミレーが五、六番手でやや先行する形。マイネミレーよりも先きへ行っている馬は総潰れという理想的な展開。坂を上っても脚色は衰えず、僕の目の前(ゴール前百五十メートルあたり)では先頭に躍り出た。少し仕掛けが早いかと思ったが、充分に粘り切れると思い双眼鏡を持つ手に力がはいり、恥ずかしいが「柴田!」と絶叫した。相手馬は本線で買ったタクノチドリ(この組合わせは四十・五倍)だから、悪くても二、三十万円になると思った。
しかるに、しかるにだ。直線でも最後尾にいた一番人気のダイナバトラーが大外を廻って差し切ってしまった。この馬に騎乗した加藤騎手はレース後の談話で「まさか勝てるとは……」と言っている。マイネミレーは長い写真判定の末、ハナ差でタクノチドリにも破れ三着に終った。
こういうレースが三度も四度も続いて熱くなり、マイナス七万二千八百五十円という大敗を喫した。「まあ、いいさ、照る日曇る日だ。招き猫の貯金箱があるから首を吊らなくてすむだけ仕合わせだ」と自らを慰めた。
家へ帰って、マイネミレーのマイネは独乙語ではなくて東北弁じゃないかと思った。東條操編『全国方言辞典』(東京堂刊)を見ると|まいね《ヽヽヽ》の項はなく「まいない[#「まいない」はゴシック体] 形[#「□で囲んだ「形」] いけない。よくない。『これは模様がマイナイからほかのがいい』青森。」となっている。|まいない《ヽヽヽヽ》が|まいね《ヽヽヽ》に訛ったのかな。僕の語感だと|まいね《ヽヽヽ》は「不可《いけ》ね。駄目だ」となるのだが、概して方言辞典といったような特殊な辞書には不親切なものが多いと八ッ当りする。
最終日なので「夏は函館ですか新潟ですか?」「いや行きません。福島は行きますが」といった声が飛び交う。これはいいものだ。哀感が漂う。僕は東京競馬しかやらないから十月まで御無沙汰だ。一寸淋しいが、それだけノンビリすることができる。第一、経済的に大助りだ。
六月十五日(月) 曇
僕が顧問をしている株式会社サン・アドという広告制作会社の株主総会。JR東日本E電中央線に乗って東京駅へ。西国分寺駅の傾斜面にホタルブクロが群生しているのを見た。家ではカノコユリが咲きだした。
株主総会に出席しても僕は何の役にも立たないが、勝手なことを言わせてもらうと、終ってからの昼食会が楽しい。地価の高騰がファースト・フードの会社に影響しているのを知った。そう言えば、|すかいらーく《ヽヽヽヽヽヽ》といった店の増え方が以前ほど活溌《かつぱつ》ではないと思う。
三年ぐらい前までは、株主総会の後の雑談は病気の話が多かったが、いまは相続税の話、老人ホームの話になる。
銀座へ出て散髪し、E電で帰る。夜、『オール読物』編集長藤野健一氏来。
六月十六日(火) 晴
サントリー広報部谷浩志氏来。『サントリー・クォータリー』連載読物の打合わせ。前に『リカー・ショップ』に連載していた「行きつけの店」が事情があって中断した。その引越し再開の件。
直木賞候補作品を読む。
鶴田浩二死去の報。いいか悪いかわからないが鶴田浩二は任侠道に生きた人だと思っている。
任侠道とは何か。僕は「筋を通す」「世のため人のため」「義理と人情」「弱きを助け強きを挫《くじ》く」「陰徳」だと思っている。言っておくがヤクザ者の世界に任侠道はない。不動産屋や地揚げ屋の手先きになっている暴力団の動きを見ればよくわかる。
死んだ梶山季之は任侠道の人だった。彼の陰徳は、陰徳だから世に出ないのだが、大変なものだと思っている。現在では、実名をあげてはいけないのだが、野坂昭如氏、色川武大氏は任侠の人だと思っている。野坂さんの新潟三区立候補は義侠心以外のものではないと解釈している。僕も非常に短い一時期、任侠に生きようと思い「国立のお助け爺さん」を自称したことがある。しかし、僕のようなセコイ男には無理だったし、任侠は疲れるのである。僕は東北訛りで「まいね」と呟いて右手で自分の頭を撲《ぶ》ち「何から何まで真ッ暗闇さ」と呟いて左手を左耳に当てたのだった。
|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》でコーヒー。とても暑い日だった。硝子《ガラス》越しに若い女が日傘をさして通るのが見える。
[#改ページ]
[#地付き] 五 月 晴[#「五 月 晴」はゴシック体]
六月十七日(水) 晴
臥煙君来。『小説新潮』八月号の見本を持ってきてくれる。それと、連載中の「新東京百景」取材打合わせ。今度は代官山なのだが、宿泊を目黒の雅叙園観光ホテルに決めたという。僕、大いに喜ぶ。昔から有名な中国料理の雅叙園の庭続きに建っているホテルで、そう言っちゃ失礼なのかもしれないが、僕はこういう馬鹿馬鹿しい施設が大好きなのだ。ナニシロ、雅叙園はエレベーターの扉も内部も天井も螺鈿《らでん》の美人画で飾られているのだ。外国人、特にアメリカ人が、これをどう評価するか知りたいと思っている。臥煙君は卓抜なアイディアの持主で(卓抜すぎて閉口することもあるが)、こんなふうに執筆者を好《い》い気持にさせることにおいて天才的である。東京人には思いつかぬプランだ。雅叙園観光ホテルに決めるまで、いろいろ苦心研究があったはずだ。それを有難いことに思う。
「今日は暑いかね、涼しいかね」
「は?」
臥煙君が変な顔をした。僕の家は南側の庭が雑木林になっていて、とても涼しいのである。家の中にいると暑さを感じない。少々の雨は、台所の扉をあけて顔を出さないとわからないのである。夏でも涼しい家になったのは僕が計画したことで成功した唯一の例であるかもしれない。
「暑いです。外はとても暑いです」
意味を理解した臥煙君が、笑って答えた。僕は得意だった。冬は葉が落ちるので暖い。そのかわり掃除が大変だ。
大学通り増田《ヽヽ》書店で、山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社刊)を買う。奥付を見ると二十版となっている。急に読みたくなった。
六月十八日(木) 晴
五月晴というのは青葉繁れる五月の快晴のことだと思っていた。困ったものだ。正しくは、梅雨の晴れ間の今日のような日を指すのだそうだ。
朝、庭に水を撒く。梅雨時は水を撒かなくてすむと思っていたのに、ちっとも降らない。水を撒くと地面が黒くなる。しばらくすると乾いて苔の緑に変る。日が射すと黄金色に光る。それを眺めながら莨を一服というのが最大の愉快だ。
夕刻、国立高校の野球の練習を見に行く。バッティングがよくなった。駅前|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》で、珍しくコーヒーではなくビールの小瓶。そのように気持のいい五月晴の一日だった。蘭燈《ランタン》園で冷し中華そば。
六月十九日(金) 曇
増田《ヽヽ》書店の改築の話が進んでいる。木造一階平屋建てというのが都内では珍しくなっている。これを三階なり四階なりにすると売場面積が狭くなるそうだ。いま国立市の商店街では新築や増改築の際に自転車置場と地下に防火用プールを造らなければいけないという規制があるそうだ。市長が消防関係の出身なので特に喧しいらしい。しかし、僕の知るかぎり、自転車置場やプールが設置されている店はない。こういうことも日本の七不思議の一つだ。
いま土地さえあれば誰でも家が建つ。土地を担保にして金を借り、建築費をローンで返済すればいいからだ。こういうこともすべて建築会社で請負ってくれるらしい。日本の町並みは、日ならずして、○○ホーム、××ハウス式の建物に占領されるだろう。すると、日本の風景はどうなってしまうのだろうか。また、これだけの建築ブームで建築会社、鉄材、セメントの景気がいいという話を聞かないのも不思議だ。
僕の尊敬する増田《ヽヽ》書店の社長は何事にも一家言ある方なので、どんな本屋が出来あがるか楽しみにしている。
六月二十日(土) 雨
やっと梅雨らしい雨になった。
日本郵船の常務でロンドン支店長だった守谷兼義、毎日新聞の主筆で取締役だった上田健一、桐朋短大教授の波多野和夫、それに僕を加えた四人で、毎年暮に集って酒を飲んでいた。守谷と波多野が湘南高校で同級、上田と波多野と僕とが早稲田で同級という間柄である。戦後、四人とも湘南地方に住むという時期もあった。
僕は、郵船の社長は親友だと言って自慢したかったし、上田が選抜高校野球の開会の辞を述べるのを見たかったのだが、守谷は急死するし上田は突然辞職してしまった。上田は、あのまま新聞社に残っていたら俺も死んだかもしれないと言う。そうかもしれない。僕等戦中派は、闇雲に働き過ぎたのだ。僕が連載中のものを除いてモノを書くのをやめようと思ったのも遠因はここにある。
今日は守谷の誕生日である。生きていれば還暦になる。波多野が保存していた守谷の手紙を見せてくれるという。集ったのは守谷兼義未亡人、その次男と長男の嫁と孫、上田健一夫妻、波多野夫妻と次女、僕等夫婦の総勢十一人。場所は国立駅近くの中国料理店蘭燈園。この店は親切にしてくれるので、何かと言えば国立市在住の芸術家連中が会合に利用する。
僕の友人は外国暮しの長かったのが多いので、必ずプレゼントの交換が行われ、それも楽しみのひとつになっている。還暦になった上田が記念に『若い記者諸君へ』という著作集を自費出版した。守谷が波多野に出した手紙のなかに僕の十五、六歳頃の詩が書いてあって赤面した。僕は昔話が嫌いなのだが、この頃は齢のせいかあまり苦痛ではなくなってきている。
六月二十一日(日) 曇
矢口純氏来。自家栽培のナス、トマト、キュウリを持ってきてくれる。
寸暇を惜しむようにして直木賞候補作品を読む。僕は本を読むのが遅いので辛い仕事になるが、今回は読み易い小説が多いのが有難い。
六月二十二日(月) 晴
臥煙君とフミヤ君が迎えにきてくれて十二時頃出発で目黒雅叙園観光ホテルへ行く。小松製作所労働組合様、ソシアルダンスドリームクラブ御一行様、自衛隊技術研究所御一行様なんていう看板が出ていて嬉しくなってしまう。臥煙君に聞いたら、宿泊料金は前に泊ったホテル西洋の十分の一だそうだ。従業員は、とても叮嚀かつ親切だった。
代官山八幡通り小川軒《ヽヽヽ》を描くことにする。大きなガラスを使ってあって、僕の才能では無理だということがわかる。
僕は子供の頃、お邸町は麹町と麻布、目黒や代官山は二流だと思っていた。渋谷池袋は場末、新宿は宿場で馬糞が落ちていると思っていた。田園調布は郊外で成城は田舎町である。近頃評判の広尾はゴミゴミした汚い所だった。三鷹以西は凍土地帯だと思っていたのだからどうかしている。現在は、凍土地帯よりもさらに遠い所に住んでいる。
代官山は若い女の多い所で、黒いブルマーやモンペみたいなのを穿《は》いて歩いている。髪を金色に染めて逆立てたのがいる。若い男は汚い長髪で髭を生やし、こんなのが|シェ《ヽヽ》・|リュイ《ヽヽヽ》で菓子なんか買っているのを見ると、不意に殺意に近いものが生じ、僕の内心に秘められた凶暴性に驚くことになる。
小川軒《ヽヽヽ》で夕食。僕は仏蘭西料理が大嫌いなのだが、唯一軒許せると思っているのが小川軒《ヽヽヽ》だ。向田邦子と食事して以来だから六年目になる。向田さんともそれが最後の晩餐《ばんさん》になった。文藝春秋の豊田健次氏と二人で先きに部屋に着いて待っていると、向田さんは悪びれずサッと上席に坐ってしまった。いかにも彼女らしいと思った。
[#改ページ]
[#地付き] 浦 安[#「浦 安」はゴシック体]
六月二十三日(火) 晴
この頃、外泊(仕事のため)すると体の調子が悪くなるということになってしまった。ホテルの部屋では眠れない。胃腸が悪くなってムカムカする。気合を入れて絵を描こうと思い、喜びいさんで家を出るのだが、第一日で重病人になってしまう。たとえば京都や横浜の常宿では眠れるのだが、東京では自宅を常宿にしているので具合が悪い。
目黒の雅叙園観光ホテルで昨夜は一睡も出来ず、夜中に起きだしたら、同室の臥煙君が朝までつきあってくれた。四時半になると明るくなる。
代官山八幡通り小川軒《ヽヽヽ》を描く。内部は美麗豪壮だが、外から見ると、そう言っちゃ悪いが老朽化が目立つ。この小川軒も雅叙園も改築の話があると聞く。近くの同潤会代官山アパートにも再開発の噂がある。このようにして二十世紀の東京が二十一世紀の都市に変るのだろうが、僕は、おそらくは、完成した東京の町に住むことはないだろう。
六月二十四日(水) 晴
雅叙園観光ホテル脇の|サンスーシー《ヽヽヽヽヽヽ》という喫茶店でコーヒーとチョコレート。目黒にも代官山にも菓子屋が多い。いま、若い女性の間ではケーキに人気があるらしい。肥《ふと》るからケーキは食べないと言っていたのに、流行はすぐに変る。もっとも、ケーキが好きだという女性のほうが可愛らしくっていい。全女性がナブラチロワになっても困る。
コーヒーを運んできた女店員に、
「隣が歯科医になっていますが、タイアップしているのですか」
と訊いたら、
「いいえ。そんなことはございません。偶然です」
と真面目に答えた。この女性は臥煙君の好みのタイプであるという。長身で愁い顔。それにしても気の多い男だ。
「私の好みは佐藤友美か、そうでなかったら泉ピン子といったタイプです。ゴルフの岡本綾子も好きです」
これじゃ薩張《さつぱり》見当がつかない。一日中|混凝土《コンクリート》の上に腰かけて絵を描いていたら尻が痛くなった。
六月二十五日(木) 曇
文藝春秋出版局長豊田健次氏来。『向田邦子全集』第一巻を持ってきてくれる。僕はこれに推薦文を書いている。三通り書いたのだが、うまくいかず、忸怩《じくじ》たる思いをする。以前、向田さんの『小説新潮』巻頭カラーグラビアに附した僕の短文は、やや会心の出来に近く、向田さんに「原稿の書き方を教えますから、あれは生《なま》原稿で読んでください」と伝言してもらった。原稿の書き方を教えますというのは、原稿用紙に文字を書く書き方を教えますという程の意味だった。向田さんは、意外にも原稿用紙に書く文字がゾンザイだった。脚本家にはそういう人が多いのである。たぶん、ガリバン屋に読めればいいという神経が働くからなのだろう。僕は、せめてこの程度には叮嚀に書くものですと言ってやりたかったのだ。向田さんは海外旅行に出る直前で、空港ロビーで手渡された僕の原稿のコピーを繰り返し繰り返し読んでいたという。
『週刊新潮』編集長山田彦彌氏、同次長西村洋三氏来。一年に一度と言いたいが、二年に一度ぐらいの割で訪ねてこられる。岐阜県在住の早川謙之輔さんという方の木彫の額縁を頂戴する。黒田辰秋のような作家であるらしい。
「木曽檜|拭漆《ふきうるし》額縁とでも言うんでしょうか」
山田さんは、そう言って、アッハッハァと笑った。山田さんの印象を一口で言うならば、この人は酒場で人気があるだろうな、ということに尽きる。昔からそう思っていた。陽気で豪快な飲み方をする。すなわち、豊田さん、山田さん、西村さんと僕の四人で繁寿司《ヽヽヽ》へ飲みに行く。僕を除く三人でゴルフの話。ゴルフはスポーツだと思っていたが、勝負事の面もあって、それぞれの人間性というか癖のようなものがあらわれるという話が面白かった。文壇ゴルフにも老齢化の萌しがあるらしい。それは当然のことだが、若い作家を文壇人とは呼びにくいようなところがある。小林秀雄はジャムパー姿でゴルフ場に来る人を嫌ったという。そのへんが文壇人だ。
愉快になって、僕としては限界を越えて飲んでしまう。やはり、二年に一度というのが正解であるようだ。
六月二十六日(金) 晴
やっと庭の梔子の花が咲いた。僕の所の梔子は日当りが悪く咲くのが遅いのだ。肥料を大量に施したせいか、今年は花が大きく数も多い。梔子は芳香を放つばかりでなく、此の世に白という色があることを教えてくれる。
飲み過ぎて気分が悪いということはないが、終日ボンヤリとしてしまう。
六月二十七日(土) 曇
昭和五十四年の春、臥煙君と二人で浦安の町を歩いていた。『新潮現代文学』という全集の山本周五郎の巻の函の絵を描くためだった。たしか山藤章二さんの推挽があったと聞いている。山本さんなら浦安である。僕は東京湾の埋立地にベカ舟が放置されている光景をイメージしていた。埋立地の雑草の緑とベカ舟の焦茶色と絵具は二種類でいいくらいに思っていた。ところが、埋立地はすべて工事中で立入禁止、入って入れないことはないが、僕のイメージする光景は見られなかった。それならば、江戸川に注ぐ境川近辺を描くほかはなく、舟溜りを描くとすれば、三日か四日の大仕事になる。あらかじめ臥煙君は地図でもって旅館の所在地を調べてあった。そこへ行ってみると、客が一杯で空室はないという。そのとき初めて釣ブームというものを知った。しかし、旅館の亭主の断り方がケンもホロロというか取りつく島もないというふうであって、これは手強《てごわ》い土地だぞと思った。仕方がないので、『青べか物語』に出てくる吉野屋の千本の長さんに会って訳を話した。すると、長さんは少し離れた所にある釣宿を教えてくれた。地図で見ると、浦安草津大衆温泉旅館となっている。名称からして何か如何《いかが》わしい。
期待をしないで行ってみると、フロントのような帳場のような硝子障子の向うに、五分刈りで鼻下に鋭い一文字髭を蓄えた四十がらみの、一見して山口組系広域暴力団浦安支部長といった感じの男が坐っていて、こちらを睨みつけている。思わず浮足立って帰ろうとすると、
「泊んのヶ? 泊んなら部屋はあるッからよゥ。逃げんなてば!」
と叱声が飛んだ。これが醍醐《だいご》準一さんであって、無類の好人物であることが後でわかってくる。昔、トッカピンという精力剤があったが、そのキャラクターとよく似ているので僕は即座にトッカピンと命名した。
以来幾星霜、僕ばかりでなく僕の友人、国立市の知人連中ともすっかり親しくなった。その浦安草津大衆温泉旅館を取り壊し、一階にレストランとカフェバーを具有する善美なるホテル醍醐をオープンした。今日はその落成祝い。国立側から関保寿先生以下十五人が参加。数えてみれば僕が浦安を訪ねた日から、まだ十年も経過していない。トッカピンの人徳か国立市民が人懐こいのかわからないが、とにかく目出度《めでた》い限りだった。
ホテル醍醐は、地下鉄東西線浦安駅の東端に立てば手の届くかと思われるくらいの近くにある。ディズニーランドへ遊びに行った帰りに利用してくださいと宣伝しておく。
[#改ページ]
[#地付き] 夏 風 邪[#「夏 風 邪」はゴシック体]
六月二十八日(日) 晴
何だか気分がボーとしている。それでいて怒りっぽくなっているのを感ずる。このところ酒を飲む機会が多かったせいか。炎天下で絵を描いたのもいけない。炎天下といっても夕方になって風が吹くと急に寒くなったりする。まったく厭な気候だ。腰も痛い。
六月二十九日(月) 雨
昨夜半から俄かに大量の雨。麹町へ鍼治療に行く。早く着きすぎたので泉屋《ヽヽ》で喫茶。泉屋《ヽヽ》と和泉家《ヽヽヽ》とあり、和泉家《ヽヽヽ》は和菓子系統であるが六本木にあって家から近かったので、どちらかというと和泉家《ヽヽヽ》のほうに親近感があった。和泉家《ヽヽヽ》のスイートポテトは大好物だった。海苔に山本《ヽヽ》と山本山《ヽヽヽ》とあり、山本《ヽヽ》のほうを贔屓にするのと似ている。泉屋《ヽヽ》はクッキーが当って支店や売店を見かけるようになった。昔、泉屋《ヽヽ》のクッキーには高級イメージがあって、訪問先で日東紅茶と泉屋《ヽヽ》のクッキーを出されると、伏し拝むという感じになった。また、ひと頃、週刊誌などの電話取材の謝礼が泉屋《ヽヽ》のクッキーか松崎煎餅《ヽヽヽヽ》と決まっていて、台所の卓にこれが山のように積まれていて来客に見られると恥ずかしい思いをした。十年位前から電話取材を断っているので、いまどうなっているか知らない。
日東紅茶がリプトンになり、ホーションのアップルティーや英国王室|御用達《ごようたし》の名前も憶えられないような紅茶に変った。泉屋《ヽヽ》のクッキーは開新堂《ヽヽヽ》なんかに変ってきたようだ。何がどうだということはないのだが、こういう移り変りを見ると「好《え》え加減にさらせ」という思いに捉えられることがある。
麹町の泉屋《ヽヽ》の向いに鶴屋八幡《ヽヽヽヽ》がある。鶴屋八幡《ヽヽヽヽ》のタマゴゾーメンも伏し拝んで食べたものだ。妻は小豆《あずき》せんべいを好む。前回、目黒や代官山は菓子の町だと書いたが、こう見てくると、麹町・麻布というお邸町も菓子所であることに気付く。
鍼灸医《しんきゆうい》に血圧を計ってもらうと、上が百六十二、下が九十五。高値安定と言っていたが、これは完全に高血圧だ。
「キュートーシンをやりましょうか」
僕は怯えているので、なんでも怖いものに思ってしまうがキュートーシンは灸頭針であって、熱くも痛くもなかった。
六月三十日(火) 晴
白木蓮の下枝を息子に切ってもらう。ようやくにして、老いては子に従えを実感する。そのかわり、家で食事をしない息子は、夕方出ていって酒を飲んで帰ってくる。
七月一日(水) 雨
『小説新潮』に連載中の「新東京百景」執筆のため久しぶりに徹夜。蒸し暑くて眠れないので徹夜してしまったといったほうがいいかもしれない。
七月二日(木) 晴
庭に出るとムッとするほど暑いが家の中は涼しい。臥煙君来、原稿を渡す。
七月三日(金) 雨
情緒だけでモノを考えるのが僕の悪癖だが、もう直らないだろう。
七月四日(土) 晴
立川の高島屋へ行き、妻の夏物のレインコートを買う。一万九千五百円。臥煙君、一昨日の原稿のゲラ刷りを持ってくる。小説雑誌の編集者は超多忙だと承知しているのに、つい、いろいろと我儘を言ってしまう。昔は、原稿は出前迅速と称して自分で届けていたのに。
七月五日(日) 雨後曇
どうやら風邪を引いたらしい。葛根湯を飲み、ふうふう言いながら直木賞候補作を読む。熱はないが、咳、洟水、甚し。ヤクルトのホーナーが風邪で欠場中と聞いて、あの赤鬼ダラシがないぞと思っていたが、自分が罹ってみると夏風邪は辛い。
僕はホーナーが好きだ。ベビーフェイスで駈け方も赤ン[#小さな「ン」]坊みたいなのがいい。それにひきかえ、クロマティやサンチェの憎ったらしいこと。
七月六日(月) 曇
咳、嚔《くしやみ》、洟水、悪寒、腰痛、喉痛、不眠。僕は平熱が低くて五度二分ぐらい(それで冷血動物といわれる)だから六度五分になると辛い。それが六度九分になり七度六分まで上った。無理と不節制が続いたのだが、それより風邪をひくべき諸状況が向うから押し寄せてきたように感じた。
咳、嚔、洟水のためにルル、葛根湯。腰痛のためにサリドン。額にアイスノン、腰に発熱パット。僕は、睡眠薬とか血圧降下剤とか解熱剤なんかは不自然で副作用があるはずだと思っているので服《の》まない主義なのだが、なにしろ直木賞候補作を読まなければいけないので、そんなこと言っていられない。喉痛のため含嗽《うがい》薬のパブロン、龍角散トローチ。
早目に床に就いたが眠れない。およそ十五分おきぐらいに小便に行く。頻尿。妻もその都度起きてしまって少しずつ睡眠薬を服むらしい。済まないと思うがどうにもならぬ。トロトロと断続的に眠る。今日はサラダ記念日なので歌を詠もうと思い十首ばかり作ったのだが朝になったら全て忘れてしまった。「夏風邪と人には告げよ」なんてのがあったのだから、僕はこの方面の才能は皆無だ。また、たしか、サラダ記念日なのでトマトやレタスや余計な出費をしてしまったなんて歌もあって、僕は眠っていてもセコイのである。
七月七日(火) 晴
給水制限はだいぶ緩和されたようだが、都民が協力してくれたので、これだけ効果があったという結果の報告をすることは不可能なのだろうか。含嗽の回数を減らしたりするのだが、こんなに張合いのないものはない。女子高校生が朝シャンプーして登校するのが問題になっているが、僕はこれに大賛成だ。男子生徒も朝風呂に入って登校するといい。洗い髪でセーラー服なんて、やってくれるじゃないかと思う。
NTTがいろいろ新製品を開発してサーヴィスをしてくれるのは有難いのだが、もうこれ以上は勘弁してくれという気持のほうが強い。僕のところの電話も各室相互に掛けられるようになっているのだが、二階にいる息子に電話が掛ると、階下からオオーイと叫んでしまう。
知人某君が小さな家を建てた。インターホーンは電話機で受けるのだという。「もしもし」「はいはい」「俺だ、俺だよ」「少しお待ちください」って、相手の顔が玄関のすぐそこに見えているのは変な感じだという。
若嶋津引退。横綱大関の引退は、いくら興行であるとはいえ、切符を売ってしまってから場所中に発表するのは、あんまりじゃないかと思う。ホーナー復帰、たちまち15号二点本塁打は流石《さすが》だと思う。
七月八日(水) 晴
巨人桑田、広島を完封して十勝目。彼自身プロ入り初本塁打で初完封だそうだ。そこまではいい。「十代で二桁勝利は二十年ぶりです」「ああ、そうか。堀内が十三連勝したね」「いや江夏以来です」。誰もが記録に精しい。数字に精しいのであって野球に精しいのではない。王貞治と衣笠祥雄が国民栄誉賞である。しかし、チームに貢献したのは長島茂雄であり山本浩二である。日本一だとか世界一という数字にばかり拘ると野球からはどんどん遠くなってしまう。
[#改ページ]
[#地付き] 熱 帯 夜[#「熱 帯 夜」はゴシック体]
七月九日(木) 曇後雷雨
文藝春秋『Number』編集部白幡光明氏来。第六十九回全国高等学校野球選手権大会・西東京大会(ずいぶん長いが、つまりは甲子園の大会の予選である。国鉄がJRとなったような略称はないものか)の観戦記を書けという。僕はスポーツが好きだ。スポーツのなかでも球技が好きだ。球技では野球が好きだ。野球のなかでも高校野球の夏の甲子園大会の予選の地区大会が好きだ。その地区予選のなかでも家から近い国立《くにたち》高校の試合が好きだと日頃から言い、何度も書いているので、ついウカウカと引き受けてしまう。
夏風邪の最中だとは言った。言わなくてもアイスノンを額に縛りつけているのを見ればわかるだろう。直木賞候補作を急いで読まなくてはいけないんだとも言った。しかし、いかにもスポーツマンタイプの白幡青年に直《ひた》と凝視《みつめ》られると、もう絶筆で仕事は止めましたとは言いだせなかった。僕の腹のなかに、この程度の風邪なら試合を見に行くことは行くんだからという思いはあった。また、風邪から肺炎になって急死といった新聞記事もチラチラする。「一回戦で負けたら駄目だぜ。いくら贔屓チームでも一回戦で負けたんじゃ書きようがない」と僅かに抵抗を試みたが、こんなことを言ったら、こっちの負けだ。「一回戦で負けたとするね。その場合は市川監督の自宅へ行って話を聞いたりしなくちゃいけない。試合は見るけれど、この風邪じゃ取材をする元気はない」「はい。いいですよ」と白幡青年少しも動ずる気配がない。そのうえ「絵も描いてください」と言うのである。
タハッ! 一回戦の行われる昭島球場は屋根がない。この炎天下、夏風邪の身でスタンドに坐りっぱなしだとどうなるか。僕の絵(もしあれが絵と言えるならば)は、知る人ぞ知る、徹底糞リアリズムという態のもので、しかも現場で仕上げる主義だ。写真では描けない。ドウスル、ドウスル! 体を酷使して、そのために文章に迫力が生ずるという年齢はとっくの昔に通り過ぎているんだ。
七月十日(金) 晴
第三回講談社エッセイ賞授賞式。僕は選考委員を務めているのだが欠席した。治ったと思った風邪が治っていない。体全体に力がない。頭がボーとして岡本綾子の最終日みたいになっている。
選考委員をしている文学賞の授賞式に欠席するのは初めてのことである。取材旅行で東京を離れていたために欠席したことが二度ばかりあったが。
該当作ナシというときも出席した。なぜならば、どうしてあの作品が落選したかを記者団に報告する義務があると思っているからだ。実際、そういう質問を受けることが何度かあった。新聞記者諸君ではなく、担当編集者とか、某候補作家に肩入れをしている読者からパーティー会場で詰問されたこともあった。そういう人たちに選考経過を説明するまでがギャラ(謝礼を貰っている)のうちだと心に決めている。特に今回は僕だけが受賞作に賛成していなかったので、欠席は心苦しかった。徽章《きしよう》だか造花だかをつけて雛壇に並ぶのは苦痛なのだが。
妻も、発熱。
七月十一日(土) 晴
僕は体質的に汗を掻かない。吝嗇漢《りんしよくかん》なもので出すものは汗でも厭だと思っているらしい。サウナに入っても汗が出ない。調教師の森安弘昭に「それじゃ競馬の騎手になれねえな」と言われたことがある。彼等は汗取りが大事な仕事になっている。調整室のシャワールームに入れば、風邪なんか一発で治ると言っている。
全身に汗を掻けば風邪は治る。僕は額と頸筋にだけ汗を掻く。夜中、頸に濡れ雑巾が当っている感じで目を覚ます。なんとも気持が悪い。納戸へ行ってTシャツを着換える。この頃、夏物のパジャマは数が足りないのでTシャツで寝ている。
二年前、沢木耕太郎に、ロス・オリムピックの土産《みやげ》にTシャツを貰った。その数九枚。奇抜な柄のもの(譬《たと》えば胸に日の丸)が多いので外へは着て出られない。もっぱら室内用、寝間着用として愛用している。このTシャツが、こんなに役立つとは思っていなかった。日の丸のTシャツで額にアイスノンの鉢巻をしていると、三島由紀夫みたいな感じになるが。この日、昼間三回、夜中に六回、Tシャツを取り換えた。
折も折、洗濯機の故障。熱のある妻がTシャツを手で洗っている。
七月十二日(日) 小雨
風邪のため直木賞候補作を読むのを怠っていた。気持が焦る。苦手の冒険小説で8ポ二段組の大長編が残っている。悪戦苦闘とはこのことかと思った。
しかし、僕のように閑《ひま》な選考委員は他に誰一人としていないはずなので自らを励ます。これはボランティアだと思う。
七月十三日(月) 曇
妻、熱八度。毎年、国立高校の試合を一緒に見に行く繁寿司《ヽヽヽ》のタカーキーも同じく八度の発熱だという。
二時、昭島球場。猛暑だが風が強い。そのぶん土埃がひどい。谷保駅そば赤提灯の文蔵《ヽヽ》夫妻が来る。対戦相手は和光高等学校である。
守備練習、ピッチング練習を見て、
「これは勝てますね」
と、文蔵《ヽヽ》に言った。同時に、あ、いけね、原稿を書かなくてはいけなくなったと思った。しかし、勝てるんなら絵は次の試合(対日大二高)の時でいいやとも考えた。
国高の試合は、この春、練習試合で見ている。そのとき、これはレギュラーでない選手が半分ぐらい混ざっているなと思った。ところがメムバーが発表されるとあれがベスト・メムバーだったことがわかって落胆《がつかり》した。特徴がない。投手がいいわけではない。内野の守備が安定しているとは言えない。クリーンナップが強力だとは思われない。走塁が上手だとはお世辞にも言えない。ところが、相手の和光高校も似たようなチームである。そうなれば、伝統の力(なにしろ甲子園出場校だ)と市川忠男監督の手腕がモノを言う。僕が文蔵《ヽヽ》に「勝てる」と言ったのは、そう思ったからだ。それに、投手力がやや優位と見た。
あとは、もう、ただ無我夢中だった。立ちあがって叫ぶ。拳を突き出して「いけ、いけ!」と怒鳴る。走塁失敗でヘナヘナと坐りこむ。偉そうなことを言ったって、僕もこの程度のファンである。
六回終了まで1対1の同点のまま。七回、相手の連続失策で2点。
国高の教師らしい、いかにも善良そうな男がネット裏へやってきて、
「しかし、なかなか、どうもね……やっと点が入りましたね」
ゆっくりと言ってニヤッと笑った。
僕は、国高ベンチに向って「むこうのピッチャーはへばってる。市川さん、バントなんかいらない、引っ張れ、引っ張れ」と叫んだ。周囲の国高ファンが、引っ張れ引っ張れと唱和した。それから面白いように打ちだして、そのたびに文蔵《ヽヽ》が飛びあがった。これで風邪も治ると思ったがそうはいかなかった。息子が柴胡桂枝湯《さいこけいしとう》(こじれた風邪に効く)を買ってきた。熱帯夜が続く。
[#改ページ]
[#地付き] 大 失 敗[#「大 失 敗」はゴシック体]
七月十四日(火) 晴後雨
風邪未だ本復せず。
七月十五日(水) 晴
猛暑。この南風は台風のせいか。
七月十六日(木) 晴
直木賞選考委員会の日。二週間ぶりに入浴。四時に家を出る。中央高速自動車道、高井戸の手前で忘れ物に気づいた。候補作一篇一篇について感想文を書いたもの。近頃物忘れがひどく、候補作を読んでも片端からストーリーを忘れる。そこでメモを用意したのだが、それをそっくり忘れてしまった。高井戸で降りて甲州街道を引返すとすると、三十分ぐらいの遅刻を覚悟しなければならない。メモがなくても良いとか悪いとかの印象を語ることは出来る。僕は選考委員会は文学論を戦わす場ではなく作家としての読後感を語るだけでいいと思っている。それで、短い間にずいぶん悩んだが引返すことにした。それは、ひとつには徹夜したりして書いたものを捨てるのは勿体無い。もうひとつは、印象だけでは候補作者に失礼だと考えたからだ。高井戸の出口が込んでいるので永福町から引返した。焦る、焦る。
結果は二十五分の遅刻。「ズビバッセーン」と風邪声で叫びながら会場の大広間に駈けて行く。僕を除けば超流行作家ばかりだから原稿料に換算すると百万円以上の損害をかけたと思った。「いや、そうじゃない。文藝春秋社員の月給を加えると百万や二百万じゃ済まない」。そう思ったら汗が吹き出た。なお、少しの厭な顔もせず猛スピードで馳《はし》ってくれた帝都交通の吉田利之運転手に誌上から御礼を申しあげる。
この日、初めて女流作家が選考委員として参加した。控室での男の作家がコチコチに固くなっていたと聞いて笑った。僕が遅刻したのもそのためだ。メモなしで発言を求められてヘドモドしたら恰好悪いという考えがどこかにあったらしい。風邪なのに入浴したのもそのせいだ。女の力は怖しい。
今回の選考委員会では、僕は山田詠美さんの『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』一本。二作受賞ならば、もりたなるお氏の『無名の盾』。高橋義夫氏の『闇の葬列』も力がある。景山民夫氏の『虎口からの脱出』は陳舜臣さんに助けて貰うという考えで出席した。白石一郎さんは時代小説の大家で、票数が集まれば受賞には全く異論がない。
山田詠美さんについての僕のメモを見ると「ミニスカートは短いほうが潔い。ハイレグは切れ込みが鋭いほうが素敵《シツク》だ」と書いてある。なんだ、なんだ、こんなものを取りに帰るために大勢の人に迷惑を掛けてしまったのか。僕のアルツハイマー氏型老人性痴呆症の進行状況、かくの如し。
七月十七日(金) 晴
梅雨明け。昨年より十日早いという。
トニー谷六十九歳、石原裕次郎五十二歳、死去の報。
昭和三十一年だか三十二年だかに、日活撮影所に裕次郎を訪ねた。グラビア撮影のためである。昼間からビールを飲んでいた。流石に具合が悪いのか、物置小舎みたいな所に隠れて飲んだりもしていた。ビールをラッパ飲みする。ビールのラッパ飲みは、飲みにくいだけでうまいもんじゃない。彼はすでにスターだったが、スター臭はまるでなかった。
僕は裕次郎の映画は見ていない。あれが俺達の青春だったと言われると変な気がする。「俺《ほれ》はよう、お前《め》によう、話《なし》があるんだ」という湘南訛りには辟易《へきえき》する。アクション映画には大富豪が出てくるが、日活のアクション映画だと邸はともかくとして家具調度類がお粗末なので、それだけで駄目になってしまう。裕次郎が結婚して北原三枝が引退したのが残念だった。北原三枝は原節子を抜く女優になる可能性があると思っていたからだ。
裕次郎は北海道の小樽で育ったが、裕次郎の父も愛好していた大きな割烹旅館へ行くと、いつでも裕次郎の評判が良かった。主人も内儀も古い女中も、幼稚園時代から裕次郎を知っていて絶讃する。そこでの裕次郎の父の渾名はドンちゃんだった。宴会が好きで毎晩人を集めてドンチャン騒ぎをするからだった。裕次郎の親分肌は遺伝だと思う。
裕次郎は役者としても歌手としても映画製作者としても素人だった。素人主義《アマチユアリズム》は多くの若者に希望を抱かせたと思う。「俺だってもう少し股下が長ければ、もうちょっと声が良かったら」といったように……。僕も編集者の時代にプロの編集者になろうと思っていなかった。コピーライターになろうとは思っていなかった。
七月十八日(土) 雨後曇
国立高校の野球の試合(相手は第一シードの日大二高)。昨夜は土砂降りの雨だった。朝になっても雨が残っている。ゲームは十一時半からだったが『Number』の白幡青年が九時に迎えにくる。「試合は予定通りにやるそうです」。早く出る予定になっていたのは絵を描くためだ。しかし、この雨では絵は無理だった。
二点リードされた三回裏、国高はヒットと敵失を利して二死満塁のチャンスを掴んだ。打者は三番強打の熊谷章君である。熊谷君はカウント2―3からのカーブにタイミングが合わず、くるっと廻って三振。四回表、日大二高も二死満塁の好機を迎え、二番打者古谷圭君が強振すると、球は中堅手の頭上を襲った。僕の隣の女生徒三人が「エーッ!?」と叫んだ。それは悲鳴だった。僕は大きな中飛ぐらいに思っていたが打球はグングン伸びて、スコアボードの左脇に飛び込んでしまった。「エーッ!? そんなのアリィッ!?」。女生徒三人の声は悲鳴から涙声に変った。それがこの試合の全てであって、11―0のコールド負けを喫した。日大二高のバッティングは三番の川口泰直君を筆頭に腰が坐っている。大阪から飛行機で応援にきた山坂靖雄夫妻、肉屋のキンちゃん、文蔵夫妻が飛びあがって躍りだす場面は見られずに終った。
国高野球部三年生の夏が終った。いや、彼等の野球人生も終った。大学や社会人野球で活躍できそうな選手はいない。僕の夏も終った。日大二高応援席から「おい、受験頑張れよ」という奇妙な激励が飛んだ。
僕は高校野球の予選が好きだ。甲子園での、大きな目的を達し終えた連中の試合なんか見たって何が面白いものか。無名選手が必死の形相で球に飛びつくその瞬間こそが僕を感動させる。おい、国高野球部三年生! 必死で飛びつけ、這い上れ、抵抗しろ!
家に帰ってTVニュースを見ると、関東甲信越で梅雨明けが取消されたという。(後に九州地方も撤回された)。
「エーッ、そんなのありかよゥ」
七月十九日(日) 雨
弁護士の増岡章三の長男の結婚式。ホテル・オークラ。増岡は麻布中学での同級生で親しくしている。長男の研介君は東大法学部出身でアルトサックス奏者と聞いた時から好感を抱いていた。増岡の所の結婚式なら法務大臣、検事総長、最高裁長官、友人の西武の堤義明氏なんかが列席してもおかしくないのに、そういう人は一人も呼ばずに若い人中心であったのが気持がいい。また仲人は中学高校の恩師の晴山先生というのも嬉しい。増岡は味なことをするなと思った。
その増岡が新郎の父の挨拶で絶句した。普通《ただ》の人じゃない、弁護士なんだ。僕は鬼の目に涙か、と思った。その間、十五秒か二十秒だと思われるが、僕はジンとなって膝が慄えた。
[#改ページ]
[#地付き] 祝賀会続き[#「祝賀会続き」はゴシック体]
七月二十日(月) 曇
十二時、臥煙君、フミヤ君来。『小説新潮』に連載中の「新東京百景」取材のため、日比谷公園へ行く。これが最終回。本来、東京駅の再開発か東京湾横断道路の完成を最終回とすべき企画なのだが、そうすると六、七年先きのことになってしまう。そのとき東京がどうなっているか、全く見当がつかない。第一、僕の寿命が保《も》つかどうか、そっちのほうも問題だ。これで終りだと思うと淋しいような、しかし、これで完全な年金老人になれるので嬉しいような、変な気持だ。
最終回は日比谷映画街。日比谷映画も有楽座も無くなった。そこに東宝のビルが建築中なのだが、貸しビルになるのか映画館になるのか、それすらわからない。
だから、帝国ホテルに泊れば便利なのだが、さんざん悪口を書いているので具合が悪い。新橋第一ホテルに宿泊した。第一ホテルは銀座に近く洒落たホテルというイメージがあったが、これも老朽化している。
銀座|東興園《ヽヽヽ》で冷しそば。「帝国ホテルというのはエチケットとかマナーの総本山であってもらいたいのだが、ボーイは与太者ふうで、いやはやどうも……」と話し合っていると、奥の席にいた老人が「そうだ!」と呟いた。九州の汽船会社の社長で世界各国を飛び廻っているという。当然ホテル業界に精しい。
「小佐野賢治に代ってから、特にいかん!」
僕はホテル業者としての小佐野賢治が嫌いだということはなく、従業員は勢いがよく元気なのはいいと思っているが、いつか小佐野系のホテルのコーヒー・ショップに入ったら、ボーイが全員で「へい! いらっしゃい!」と叫んだのには驚いた。寿司屋じゃないんだ。
七月二十一日(火) 晴
日比谷公園で朝から絵を描いた。その暑いのなんのって。最終回だから少し贅沢をしようということでパレスホテルに移動した。外国人の客が多く、その外国人たちにどことなく品がある。やっぱり違うなあと思った。
銀座|鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》で食事。東京会館でコーヒーを飲んでホテルまで歩いて帰った。たぶん、山口さんと一緒に取材すると歩かされるので困ると編集者仲間で噂されていると思うが、それもこれももう終りだ。
七月二十二日(水) 晴
臥煙君の運転で中央高速自動車道で帰ったのだが、国立《くにたち》インターチェンジで気が変って府中球場へ高校野球の予選を見に行った。スポーツ雑誌『Number』の絵がまだ描けていないのだ。さいわい絵の道具は持っている。僕は敗れて泣いている選手のアップで、あとはその選手の胸中の思いを幻想的にシャガールふうに描くつもりだったが、これは難しかった。見る人は幻想ではなく描き損じだと思うだろう。試合は国学院久我山と明大中野という私鉄沿線駅名みたいな組み合わせだったが、延長戦になる好ゲーム。臥煙君、昂奮して「プロ野球より面白いって本当ですね」と言う。そうなんだ、ヤル気のない試合を見たって面白くない。そうして勝負は常に紙一重なんだ。僕は負けた明大中野のベンチの上まで駈けていって「よし! よくやった。鈴木! ナイスピッチング!」と叫んだ。
アメリカ上院で包括貿易法案可決。米が自由化になると日本はどうなるか? 自民党の陣笠諸君、派閥争いでウロウロしている場合じゃないぜ。
七月二十三日(木) 晴
八王子で三十九度という猛暑。猛暑のための大停電。日本はいつから南洋になったんだ。
関保寿先生が中野の宝仙寺に奉納する瑠璃《るり》燈籠の完成祝賀会。三回造り直して八年を要した。一対で二万五千箇の瑠璃玉と燈籠の屋根の勾配に苦心を要した。中野の宝仙寺の本堂に吊るされるが、有名な寺だから、志ある方は見に行ってください。
七月二十四日(金) 晴
『Number』の原稿と絵を仕上げる。締切の関係で絵を描く時間は三十分。
一匹の大きな蟇蛙、悠然と庭を南北に横切る。毎年出てくるが、ずいぶん大きくなった。児雷也《じらいや》が跨がるような大きな蟇蛙になったら困ると思った。
七月二十五日(土) 晴後雷雨
府中球場へ高校野球予選の準々決勝、国学院久我山対東亜学園戦を見に行く。僕は東亜の川島堅投手が贔屓なのだ。去年、彼が二年生のリリーフ投手であったとき惚れこんでしまった。高校野球では、巨人軍の鹿取のような変則投手が多いのだが、川島君は真向《まつこう》微塵に投げおろす本格派で、月並みだが糸を引くような速球が僕を魅了する。
僕の友人だったフライヤーズの黒尾重明に、撫で肩であるところも投球フォームもよく似ている。黒尾は中学三年のときに家出して年上の女と同棲していた当時の不良少年だったが、無類の純情少年でもあった。だから、川島君が打たれると切ない気持になる。
高校野球の面白さは、体力的に絶頂期の青年が懸命に戦うことだ。そうでなければ炎天下の三連投なんてやれるはずがない。国立高校監督の市川忠男さんは「試合になると信じられないようなプレイをやってくれます」と言う。そうなんだ、それなんだ。
九回表から雷鳴を伴うところの集中豪雨。あたりは暗くなって泣きだす女生徒もいた。どうにか試合が行われて、4対1で東亜が勝った。
去年は、国高が一回戦で敗れ、同じ国立市の桐朋高校の応援に行った。そのときの対戦相手が東亜だった。僕は川島君が気に入ってしまって、桐朋の応援席にいるのに、いつのまにか東亜を応援していた。西東京大会でプロへ行かれそうなのは川島君唯一人だとそのとき思った。
一時間ばかりスタンドに閉じこめられて、バスに乗って帰ってきたのだが、家の近くは下水が逆流して歩けないようになっていた。床上浸水の家があったらしく、さかんにホースで洗っている光景が見られた。
七月二十六日(日) 晴
斜め向いの彫塑家中村博直先生の芸術院賞受賞祝賀会。喫茶店の白十字《ヽヽヽ》。国立在住の名士、近隣の芸術家多数。「こういう会に百恵チャンが出られるようになるといいのになあ」と言う人がいた。
いくら著名人や芸術家が多くても、どんなに町中が美しくても、下水が完備するまで文化都市とは呼ぶまいと思う。
七月二十七日(月) 晴
南武線谷保駅そばの赤提灯|文蔵《ヽヽ》が取壊しになり、向い側のビルに移ったので新規開店祝賀会。パーティーというより店のお披露目《ひろめ》だ。来り会する者、関保寿先生、南養寺の法城さん、国立駅そばの松ちゃん=i文蔵《ヽヽ》のモツ焼キの師匠)、小沢孝造氏、植木屋の鈴木正男氏、市役所の佐藤さん、静佳さんなど八人。昔、草野心平先生が松ちゃんを愛された。松ちゃんの客であった文蔵《ヽヽ》が脱サラで松ちゃんの教えを受けた。僕は文蔵《ヽヽ》の人柄が好きで『居酒屋兆治』という小説を書き映画にもなった。
松ちゃんが「まだ言いたいことが七ツも八ツもある」と言った。モツ焼キ道も厳しいのである。僕はこういう師匠がついていることが嬉しかった。久し振りの酒だが気持よく酔った。
[#改ページ]
[#地付き] 熱闘甲子園[#「熱闘甲子園」はゴシック体]
七月二十八日(火) 晴
ブラインド(日覆い)という名が僕も妻もどうしても出てこない。夕方になって、やっと思いだした。やれやれ。
七月二十九日(水) 晴
蚊取線香というのは凄い発明だ。
七月三十日(木) 晴
歩いて三分の所に関保寿先生の甥が画廊つき喫茶店を開いた。Catfish(鯰)という。凝り過ぎにならず、冷房も程がよく、コーヒーもケーキもうまい。
七月三十一日(金) 晴
午後、雷雨あり。
八月一日(土) 曇後雨
俄かに涼しい。『小説新潮』に連載中の「新東京百景」の最終回を書き終る。嬉しい、嬉しい。小説家というのも、売れてきて五、六年はいいけれど、その後は地獄だ。その頃、何度 I'm exhausted!(スッカラカンだ)と叫んだことか。僕は最初から職業としての小説家を認めない立場を取ってきた。小説というのは、書きたい気持が体に満ちてきてから書きはじめるものだ。しかし、一方で、追いつめられて、印刷所で一晩で名作を書いてしまう小説家もいる。この双方の間を揺れ動いていたというのが実情に近い。いま、そういった過去を拭い去るのが第一の仕事だと思っている。
八月二日(日) 曇
涼しい。東京二十四度。暑いときは暑いほうがいいなんて思うんだから勝手なものだ。猛暑のときは病人同様だった。食欲が無い。テレビの料理番組を見ると、それだけで気分が悪くなる。
八月三日(月) 曇
朝二十度で梅雨型の気候。
文蔵《ヽヽ》の暖簾《のれん》の文字を書く。夏は麻、冬は木綿で紺の白抜きの二枚を作るものだそうだ。もう小説家じゃないんだから、気合を入れて書かねばならぬと思い、冷酒コップに一杯を呷《あお》る。吉野秀雄先生はブランデーを飲まれた。そうしたら動悸が激しくなり体全体が懈《だる》くなってしまった。朝酒は効くなあ。
夏用は右横書きで、文蔵と大書する。冬用は縦に書き、脇に「木枯らしにこの路地裏の煮込みかな」と添えた。どうにもヒドイものだが、引札は月並みのほうがいいと自己弁護する。
『小説新潮』編集長横山正治氏、出版部初見国興氏来。こっちは勢いがついてしまっているので、バミューダ・ショーツに下駄履きという出立《いでたち》で、文蔵《ヽヽ》、|らあら《ヽヽヽ》、|ロージナ《ヽヽヽヽ》と飲み歩く。文蔵《ヽヽ》は少し広くなって、以前は客の背後を蟹歩きしないと便所へ行かれなかったが、こんどは「ヤクザ歩きができる」と細君のカオルさんが言う。僕も肩を揺すって行ってみたら便所が水洗式に変っていた。肩身が広いとはこのことか。
八月四日(火) 曇後晴
久しぶりの宿酔。
八月五日(水) 晴
『芸術新潮』金川功氏来。北大路魯山人特集の取材を受ける。魯山人の食器を普段使いに使っている台所を初めて見たという。ナニ、こっちはダラシがないだけで、箱も箱書きも無い。魯山人の酒器や食器は使ってみないと有難味がわからない。妻が嫁に来た頃、赤貧状態で、食器は茶碗小鉢から箸置にいたるまで魯山人のものしか無かった。厭味に聞こえるだろうが、当時、魯山人は一箇の値段がせいぜい五百円どまりだった。妻は「北伯父さん」という変り者の陶芸の好きな親類が焼いてくれたものだと思っていたそうだ。
国立高校の練習試合(対明大東村山戦)を見に行く。11―6で敗れたが、今度のチームのほうが全体に力がある。左腕の一年生投手が形になりそうだ。市川監督は「やっと三振の取れる投手が出てきた」と言う。それにしても、この時期、練習試合を応援に行くとは俺も好きだなあと苦笑する。
浦安の蟹で浅酌。うまい、うまい。
八月六日(木) 晴
親しくしているタクシー運転手の徳サンの新築祝いに行く。積水ハイムというのだそうだが、とてもよく出来ている。娘も嫁も「まるで夢のようです」と可愛いらしいことを言う。
八月七日(金) 曇後雨
『新潮』九月号、野呂邦暢さんの晩年を書いた古川薫氏「突然の召喚」を読む。小説家が仲間のことを書くと途端に精彩を放つ。僕が文壇好きであるのはこのためだ。野呂邦暢は明快のようでいて一種不可解な人物だった。そのわかりにくさにこれだけ迫れるのは愛憎が深かった証拠だ。
八月八日(土) 曇
甲子園の高校野球大会開会式。「やはりあのう……」「悔いの残らぬよう」「……そうしたことが」の夏が来た。
輝子義姉の三回忌。田無の東京本願寺。徳サンの運転で行ったのだが、道中|百日紅《さるすべり》、木槿《むくげ》多し。「提《ひつさ》げし氷を置きて百日紅燃えたつかげにひた嘆くなれ」という吉野先生の絶唱がガンガンと頭に響く。
八月九日(日) 晴
東亜学園、伊野商を破る。中日の近藤真一ノーヒット・ノーラン。僕は萬歳と叫びたいのだが、巨人贔屓の妻は「もう駄目だわ」とメソメソしている。
八月十日(月) 晴
『文藝春秋』九月号を読む。
芥川賞受賞作村田喜代子氏「鍋の中」は三浦哲郎さんの選評にあるほどには文章の粗さを感じなかったが、いかにも結末が弱い。昔、河野多恵子さんが「女流作家(いまはこういう言い方はしないそうだが)は雑巾の最後の一絞りが足りない」と言っていたのを思いだす。九州在住の作家は野呂邦暢もそうだったが風景描写がうまい。それは良い小説家だということだ。九州には書くに値する海と山が残っているということであるのかもしれない。
森武雄という人の「甲子園・元審判員の告白」を読んで激怒する。関西には甲子園をよくする会≠ニいうのがあって「興国の村井をはじめ、箕島の尾藤、東洋大姫路の梅谷、PLの鶴岡、北陽の松岡といった、関西でも名だたる監督・元監督が顔を揃え、さらに小林加寿男、三宅、達磨の三氏ら、関西に住む甲子園の現役審判たちも加わって(以下略)」ゴルフをしたり飲み食いをする会が開かれているそうだ。
僕は、かねがね、関西の野球名門校の監督が甲子園球場で実にニコヤカで悠揚迫らざる態度に終始しているのに感服していたが、そりゃあ、あんた、アムパイアが|お友達《ヽヽヽ》であるのなら、こんなに心丈夫なことはない。こういう、応援団を含めた全国高校球児を喰い物にする大会は即刻中止してもらいたい。
『文藝春秋』には、この他に石原裕次郎追悼特集もあり、これで五百八十円だから雑誌ってなんて安いんだろう。
横浜商対|江《ごう》の川《かわ》戦は、Y校の楽勝かと思ったが、どうしてどうして、島根の江の川は凄いチームだった。ただし、島根県の選手は十五人中唯一人であるという。何が郷土愛であるのか。
[#改ページ]
[#地付き] 野球漬け[#「野球漬け」はゴシック体]
八月十一日(火) 晴
昨日横浜商と島根の江の川のゲームがあった。神奈川県は全国一の激戦地であり、島根県は野球に関しては過疎地帯だからY校の楽勝だと思い、一、二回見たら散歩に行こうと妻に言った。朝から野球ばかり見ていたんでは体に悪いと思った。ところが、この江の川の強いの何のって驚いてしまった。守りが固い。特に捕手の谷繁元信君の強肩には魂消《たまげ》た。聞けば江の川には島根県の選手は一人しかいなくて、あとは野球名門校に進学できなかった有望選手を拾い集めているのだという。「パパ、まだなの?」「うん、もう少し見る。Y校がやられるかもしれないぞ」「あたし、行かなくたっていいのよ」ということになり、選手集めも結構だが、こっちの夫婦仲にまで影響しないようにしてもらいたい。江の川といい常総学院といい、無名校は油断がならない。
国高《くにこう》野球部の千葉での合宿が終り、監督の市川忠男さんが挨拶に来られた。都立は年間三泊四日しか合宿が許されていなくて、去年はそのうち二日が雨だった。立派なグラウンドがあって一年中合宿しているチームと同日に論じて貰いたくないと思った。その他、試験前三週間は練習をしてはいけないとか、いろいろ制約があるのだ。
八月十二日(水) 晴
直木賞授賞式。東京会館。白石一郎さんと山田詠美さんの祝辞(応援演説)を頼まれている。白石さんと山田さんを同時に応援するのは至難の業であって「これは選考委員会当日の大遅刻に対する報復措置ではないか」と係りの人に言ったら「いや、こういうのは長老に捌《さば》いていただかないとね」と答える。藪蛇だった。長老と言われてしまった。
パーティー会場で延岡出身の酒場のママさんに会ったので「きみのところ(延岡工業)は、まず一番ピッチャー柳田という打順で驚かす。これにはビックリするな。胆を潰しているところへ、三番センター・コオロギだろう。俺、気絶しそうになった。きみン[#小さな「ン」]ところは、ああいう戦法で来るのか」と搦んでいたら、とうとうママさんが怒ってしまった。
山田詠美さんについては、こう思う。黒人に対する差別意識、嫌悪感、異和感、一種の恐怖心が全く無い日本人は極めて稀だろう。山田さんはその極めて稀な一人だ。すなわち彼女は、極めて公平な、極めて国際的な、極めて純で柔軟な心の持主である。その心の持ち方を誰もが|新しい《ヽヽヽ》と感ずるのだろう。パーティー会場にいた若い長身の黒人(スプーンではなかったようだ)は僕の目から見ても素敵だった。そういう目を山田さんから学んだと思っている。
八月十三日(木) 晴
「野球の基本はキャッチボールです」と言った監督がいた。その通りだ。選手会長である中畑清がキャンプのとき「目的意識を持ったキャッチボールをやりたい」と言ったので、今年の巨人軍は変ってくるぞと思ったものだ。
八月十四日(金) 晴
サントリーの社員教育用のTVCFに出演。於六本木|バカラ《ヽヽヽ》。小林亜星氏との対談。亜星さんは、昔、洋酒の寿屋の入社試験を受けて落ちたそうだ。「それは身体検査で落とされたんでしょう」と言ったら「いや、その頃は痩せていました」という意外な返辞。
サントリーのCF(ヴィデオだが)では必ず本当のウイスキイを飲むことにしているので酔ってしまう。とてもおさまらなくなったので文蔵《ヽヽ》に寄る。
国立高校市川監督、尾下部長、コーチの宇野君が入ってくる。市役所の佐藤さんも。当然、野球の話。ラジオで東亜―金沢戦。西東京の予選では、僕なんかも打倒川島堅を考えるのだが、甲子園では西東京代表を応援する。「親しみを感じますね」と市川さんは言う。そのヤリトリを聞いていたサン・アドの広内啓司氏(今日のCFをプロデュースした人)が、つくづくと国立住民が羨ましいと言う。僕もそう思う。だから気持よく酔う。
八月十五日(土) 晴
池田高校蔦文也監督談「狙い球を絞るなんてことはせえへん。来た球を打つだけや。カキンカキン野球や」。市川監督談「こっちは狙い球を決めてもなかなか打てない」
あれだけの選手が集ってくればカキンカキンでもいいでしょう。
八月十六日(日) 晴
朝、眩暈《めまい》あり。少し大きくて震度3の感じだった。富良野の倉本聰氏からメロンを頂戴する。蔵元《くらもと》直送と称して毎年楽しみにしている。
八月十七日(月) 晴
国立高校の練習試合を見に行く。対東京農大高校戦。13―3で勝つ。上を見ればキリがないが、下は下で際限がない。いったん家に帰って東亜学園の試合をテレビ観戦して、また国高グラウンドへ行く。第二試合は4―4の引分け。東京農大の最後に出てきた一年生投手は力がある。警戒を要す。国高の蔵多君に当りが出てきた。僕は今年のチームより、こんどのチームのほうが有望だと思っている。秋は無理だとしても来年が楽しみだ。
八月十八日(火) 曇後雨
妻の誕生日。すなわち還暦。金一封を渡して貧苦に耐えし労を犒《ねぎら》う。一千万円前後のダイヤモンドという案も僕の頭のなかにあったのだが、実現せずに終った。祝賀会は吉兆《ヽヽ》がいいと考えていたが妻が銀座や築地は厭だと言うので駅前|繁寿司《ヽヽヽ》で乾盃。ゲストは豊田健次氏。「めでたさも中くらいなり、ですか」と言う。決して一緒に食事しない息子が、さすがにこの日は繁寿司《ヽヽヽ》に早く来て待っていた。「今日は贅沢をしてもいいと思って、さっきアワビを食べた」なんて言っている。帝京の芝草、西武の清原も八月十八日生まれだそうだ。秋野卓美画伯もこの日が誕生日で、貴君の奥さんは八レースの@Gを必ず買うべきですと変なことを言う。
『オール読物』十月号を読む。僕の書いたものを除くと(卑下しているのではない)今回の直木賞選後評がとても面白い。いつもと違ってタップリと頁を取っている。作家志望の青年には参考になると思う。
八月十九日(水) 晴
以前に書いたことがあるが、四国の山の中に野球の聖地があって全国から優秀な高校生が集ってくるというのは少しも差し支えがないと思うし、面白いことだとも思う。しかし、繰り返しになるが、同県人だけで地域代表として出場するチームと池田高校のようなチームとを同日に論じて血と汗と涙式に礼讃するのはおかしいと思う。都立の高校野球部の予算は年間十万円に満たないと聞いたことがある。僕には、どうしても同じグラウンドで戦っているとは思えないのである。
そこで提案がある。全国から選手を集めてもいい。ただし、チーム名の前に|※[#○に全]《マルゼン》という標記をいれる。そうではない県なら県だけの選手で構成されるチームを|※[#○に地]《マルチ》とする。せめてそれくらいのことをやってくれてもいいのではないか。入学を四月でなく九月にするというのであれば種々の問題が生ずるだろうが、僕の提案は簡単に実現できるはずだ。そうでなければ、これは東京都の場合だが、都立だけの大会を神宮球場で開催してもらいたい。高校生が誰でも知っている不公平大会に大騒ぎするのはどうかと思う。
[#改ページ]
[#地付き] 俄 か 雨[#「俄 か 雨」はゴシック体]
八月二十日(木) 晴
七月の初めから、僕の頭の中にコンバットマーチ、鉄腕アトム、ポパイ、蒲田行進曲が鳴り響いている。高校野球ばかり見ていたからだ。予選では、スタンドの小さな球場の応援団席にまぎれこんでいたりしたんだから堪らない。床に就いても太鼓の音が耳もとでガンガン鳴る。
前回、僕の書いたものに説明不足の箇所があった。全国から選手を集めている高校を全国区、そうでない高校を地方区と呼ぶ癖がついていて、だから|※[#○に全]《マルゼン》と|※[#○に地]《マルチ》を区別せよと言いたかったのだが、わかりにくかった。また、僕の案だと人口の多い東京や神奈川が有利になってしまう。そこが悩みのタネだ。
東亜学園が遂に破れた。川島投手が常総の島田に一発喰らったのだが、川島君には無四球試合のことが頭のスミにあったのではないか。クレバーな投手は四球を怖れないと心得られたし。しかし、こんなに美しい投球フォームの投手は空前絶後であり、遂には僕の目には精緻なピッチングマシーンのように見えた。去年、二年生で救援投手であった時は、もっと荒々しい感じだった。どっちがいいのか。
[#改ページ]
[#小見出し] 祖 国 愛
今年は八月八日に甲子園高校野球大会の開会式が行われた。毎年開会式だけを見に行く人がいる。私は開会式が好きだとか嫌いだとかということはないが、TVではまず見ることになる。どうということはないのだが、国歌の斉唱と国旗の掲揚というのがちょっと困る。尻のあたりがもぞもぞする。開会式とか試合の前に国歌の斉唱が行われるのは高校野球に限ったことではない。私は、立ちあがって歌うということをしない。これも別にどうということはないのだが、体のほうが動かない。私と同じように決して「君が代」を歌わない男がいるのを知っている。彼が何かの主義者であるのではない。私とほぼ同年齢であって、戦死した友人の顔が浮かびあがってきて、とても歌えないと言うのである。
私には、愛校心、郷土愛、祖国愛というものがない。父によく「お前のような感激性のないヤツはいない」と言われたものだ。私は、父や母や同胞《きようだい》たちとの旅行に参加したことがない。留守番のほうを好んだ。私には家族愛もないのかもしれない。
敗戦後、毎年、元日は国立競技場へ行って米軍のアメリカン・フットボールの試合を見た。ゲームが終ると、陸軍と空軍とが強かったのだが、両軍選手の大乱闘が始る。観客の大部分も兵隊だったが、グラウンドに飛び降りて乱闘に加わる。MPが空に向けて発砲する。銃把で額を割ったりする。いったいどうなることかと見守っていると、頃合を見て軍楽隊が国歌を吹奏する。……すると、血を流している兵隊も、組んづ解《ほぐ》れつやっていた連中も、その場で立ち上って直立不動の姿勢を取る。あの荘重なアメリカ国歌がグラウンドに流れる。それで全てが終りになる。いいものだと言ってはおかしいが、それはいいものだった。私は、股《もも》と膝の下のあたりがジンジンとした。清々しい感動に打たれたと言ってもいい。私から、この「いいもの」を奪ったのは何なのか、誰なのかと思った。エゴイズムの一種ではあろうけれど、祖国愛に身を委《ゆだ》ねてしまうのは気持のいいものだ。
甲子園の高校野球大会が開かれるのは、いかにも時期が悪い。どうしたって八月六日のヒロシマ、八月九日のナガサキ、八月十五日の終戦記念日のほうへ頭が行ってしまう。そうして私の頭のなかに、愛校心→郷土愛→祖国愛という図式が浮かんできて、とうてい平静な気持ではいられなくなる。私は、まだ「君が代」が歌えない。
八月二十一日(金) 晴
野球ぐらい下品なスポーツはない。
第一に、選手同士、味方を賛美し相手方を罵倒する。第二に、ダッグアウトでアンダーシャツを着換えるため上半身裸になる。第三に隠し球などの卑劣なプレイがある。僕は味方を有利に導くために色々と工夫するのは結構なことで隠し球も否定しないが、確か帝京の一塁手だったと思うが、隠し球で走者をアウトにしたあと自分の頭を指で何度も叩いて、頭脳的プレイを誇示する動作があったのは見苦しかった。「お前さん、なんぼのもんじゃ」と言いたくなる。あんなクロマティのような下品なことをやってくれるな。第四に、ルールが曖昧で、すぐに審判四人が集って責任転嫁を行う。ラグビーやサッカーも曖昧だがレフリーが毅然としている。第五に、これも審判だが、審判の巧拙や癖でゲームが左右される。野球をやったことのある男なら、審判の間違った判定で涙を呑むということを何度も経験しているはずだ。第六は言葉だ。相手投手が制球を乱して二死満塁となる。チャンスだ。相手投手は四球を怖れて真中に好球を投げるだろう。ここでベンチから叫ぶのが「イッタレ! イッタレ!」。僕は「狙え、狙え」と叫ぶのだが。昔、野球は関西、中国、東海地方が強かった。だから、関西弁、広島弁、名古屋弁をミックスしたものが支配的になる。「シバキヨル」なんて僕にはまだその意味がわからない。5点リードした七回裏、エラーと四球で無死一、二塁のピンチをむかえる。自軍の投手は疲れている。相手チームの打者は送りバントの構えをする。ここは二走者が生還しても尚3点差。バントしてもらってアウトカウントを稼いだほうが得だ。この時ベンチの選手たちが一斉に叫ぶのが「ヤラセロ! ヤラセロ!」。近頃女子マネージャーが多く、ベンチ横で四人ぐらいでスコアブックをつけているので、僕なんか顔が赤くなって俯いてしまう。
この下品なところが日本人に合っているのじゃないかと思う。僕が野球好きなのは、相当に下品な男である証拠だ。
八月二十二日(土) 曇
無風。残暑が厳しい。向田邦子さんの七回忌。たしか墓地は家からそんなに遠くないはずだが一度も墓参に行っていない。御案内が来ないのは向田家のほうで遠慮されているようだ。気になっているのだが、どうにもならぬ。『寺内貫太郎』で主役を務めた小林亜星さんは毎年自宅のほうへお参りに行くそうだ。
八月二十三日(日) 雨
残暑から新涼への気配あり。今年の馬鈴薯《じやがいも》は美味いような気がする。あれだけ暑かったのだから、米や生《な》りものはいいはずだが、芋類なんかはどうなのか。
八月二十四日(月) 晴後雨
村田喜代子さんの芥川賞受賞第一作「鋼索区系界」(『文学界』九月号)を読む。取っつきにくい題名なので敬遠していたが、受賞作よりずっといい。カフカに似た味わいがあり純度が高い。ちょっと昂奮した。受賞作は結末が弱いと書いたが、この作者は、エンディングはどうでもいい、それほど重視しないという人であるようだ。同誌野坂昭如さんの「サムボディ・インサイド」では久し振りに陶酔した。
妻と散歩に出る。妻は夏物一掃バーゲン・セールの店へ行くため、僕は立川WINSで儲けた金を多摩信用金庫に預金するため。|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》で待ち合わせたのだが、妻が店に入る頃、空が暗くなり大粒の雨が落ちてきた。たいしたことはないと思っていたが、濡れ鼠になった若い男が飛び込んでくる。夕立とか驟雨とか言うのだろう。雨が止むまで一時間ばかりマスターの伊藤接さんと世間話をしていた。こういう感じも悪くないが、あと三十分も降り続いたら、僕の家のあたりは土地が低いので危いところだった。
八月二十五日(火) 曇
『芸術新潮』九月号北大路魯山人特集号を読む。京都の何必館《かひつかん》に寄り掛りすぎているが面白く読んだ。文壇では論争が無いという声が頻りだが、白樺派や小林秀雄を罵倒し、ピカソより「俺の方がよっぽど大芸術家だということがわかったよ」(同誌白崎秀雄氏『人間・魯山人』より)と嘯《うそぶ》くような怪物が出てこないと論争は起らないのかもしれない。
僕は一度だけ母に連れられて北鎌倉の家で魯山人に会ったことがある。十八歳か十九歳の時だった。かなり緊張した。魯山人には良くない噂があり、特に女性関係の噂が芳しくない。おかしなことがあったら脛《すね》にでも喰らいついてやれと思っていた。田舎家ふうの広い座敷で待っていると、二尺もあろうかという白磁の大皿を抱えた巨漢老人がノッソリとあらわれた。ナンダ、単なる料理人じゃないかと思った。
酒は濁酒《どぶろく》で、大皿には河豚《ふぐ》が盛られていた。ちょっと待ってよと言って、いったん引込んだ魯山人が同じような大皿を持ってあらわれた。それには蕗が盛られていて、荒削りの鰹節が掛っていた。
濁酒の白、白磁の白、河豚の透明、蕗の緑、鰹節の透き通る薄茶。僕は、まず、色彩に圧倒された。少年の僕が魯山人の料理を美味いとか不味《まず》いと言っちゃおかしいだろう。しかし豪快というよりは気宇壮大で気持が良かったことは記憶している。何しろ終戦直後の米ヨコセの時代である。
河豚を初めて食べた。濁酒もそんな上等なものは初めてだった。忽ちにして酔った。しかし、その酔い方が変だ。唇の端が痺れてくる。魯山人の魔術に引っ掛ったと思った。僕の様子を見て魯山人はこう言った。
「坊っちゃん、河豚はね、痺れるようでなくては駄目なんだよ」
八月二十六日(水) 晴
魯山人特集に刺戟されたせいでもあるまいが、急に絵が描きたくなって、桃を水彩で描いた。四枚。Catfish という喫茶店は画廊も経営していて、その画廊開きに出品しようと思った。
桃の絵の額装の件で|ロージナ《ヽヽヽヽ》の伊藤さんの知恵を借りることにした。帰途、一橋大学の運動場へ寄り、谷保の文蔵《ヽヽ》まで歩いて行って冷酒を飲んだ。植木屋の植繁《うえしげ》一家、市役所の佐藤さんも来て、なかなかに愉快だった。
[#改ページ]
[#地付き] 山の上ホテル[#「山の上ホテル」はゴシック体]
八月二十七日(木) 晴
『中央公論・文芸特集・秋季号』を読む。愛読していた杉森久英さんの「小説・菊池寛」が終ってしまって淋しい。僕は文壇にはボスとか大御所とかという人がいたほうがいいと思っている。芥川賞でも直木賞でも、ボスが「こんどはコレじゃないかな」と言い、大多数の作家が賛成するといった形のほうが公正が保たれると思う。あるいは中堅作家が果敢に一作を支持してボスを含む全員の説得に成功するという形でもいい。選考会は文学論の場ではない。もし文学論が必要ならば選考委員に評論家が参加しているはずだ。
そんなことを考えていたら、臥煙君がやってきて、新潮社で山本周五郎賞という文学賞が新設され、その選考委員になってくれと言う。なんだか、営業部から総務部への異動があったという感じだ。あるいは引退を表明した野球の選手がコーチに拾われるという感じだ。
臥煙君と一緒に文蔵《ヽヽ》へ行く。文春の豊田さん、市役所の佐藤さん、肉屋のキンちゃんなどがいる。少し酔っているらしい豊田さんが、いきなり「山口さん、文芸雑誌っていいですねえ」と、大真面目な顔で沁々《しみじみ》とした口調で言った。それは、たぶん『文学界』の編集員であった頃、いい小説原稿を貰ったときの喜びは何物にも換え難かったという意味だろう。
八月二十八日(金) 曇
朝、市役所の佐藤さん来。妻の年金についてレクチュアーを受ける。
『オール読物』編集長藤野健一氏来。また文蔵《ヽヽ》へ行く。これで三日連続だ。昔、三木のり平の扮する連日連夜斎という御家人だか用心棒だかの役があったのを思いだした。ちょっと早いのと腹減らしのために歩いていったのだが、あたりの田園風景が白茶けて見える。「あそこに看板が出ているでしょう。あのあたりです」と言ったのだが、その看板が読めない。おかしいなと思ったら、眼鏡を掛けないで家を出たのだ。僕は遠視と乱視、つまり老眼だ。藤野さんは直木賞選考委員会の司会者で、僕の大遅刻の一番の被害者だ。
「これで老人性痴呆症が証明されたでしょう。あのとき本当に忘れ物をしたんだ」。僕は嬉しいような悲しいような変な気分になった。妻に電話して無線タクシーの運転手に眼鏡を届けてもらった。このとき運転手はメーターを倒していいでしょうかと言ったという。痴呆症というのは余計な金がかかるんだ。
有線放送で「モン・パリ」をやっている。駅裏の赤提灯のモツ焼キ屋で「モン・パリ」を聴くってのもオツなものだ。いくらか感傷的になって昨日の豊田さんの話を持ちだした。「言葉は非常に悪いけどね、生涯一編集者ってわけにいかないかね」「だって出版局長が新人の生《なま》原稿を読むっていうのもおかしいですからね」「NHKの名アナウンサーがアナウンス部長になって画面から消えるのも淋しいぜ」「コーチ役のほうが大事ですから」「コーチかァ」
八月二十九日(土) 晴
サントリーの須磨君が迎えにきてくれて、駿河台の山の上ホテルに行く。『サントリー・クォータリー』に連載する「行きつけの店」の取材。別の雑誌に連載していたのを引越しさせたもの。僕は山の上ホテルが大好きだ。直木賞受賞第一作も『血族』も『家族』もここで仕上げた。だから特別に取材する必要はないのだが、僕はいつも401号室に泊っていて、隣の403号室というスイート・ルームに一度は泊ってみたいと思っていた。それに、仕事で泊っていたのだから、ダイニング・ルームもステーキ・ガーデンも知らずにいた。
僕が山の上ホテルを好むのは、一にも二にもフロントの人の感じがいいからだ。特に常務の秋山祐介さんが好きだ。フロントと言うより御帳場という感じだ。「山口さん、昔、綺麗な女優さんを連れてきたことがありますよ」と、ギョッとするようなことを言う。僕が『洋酒天国』というPR雑誌の編集をしていたとき、セミヌードの撮影で部屋を使わせてもらったことがあったと後でわかる。作家になる以前の話だ。そういう時のことを記憶しておられるのである。
第二に社長の吉田俊男さんの趣味がいい。全体に従業員が優しくしてくれる。優しいが、どことなく威厳がある。威あって猛からず。たとえば偶然に耳にしたのだが、結婚式の相談に来ていた新婦側の家族に「うちは有名デザイナーの華美なウエディングドレスは式場にも披露宴会場にも合わないと思います」。キッパリと言う。
そうして、僕等のような老人だけでなく、若い人たちにも人気がある。評判の天ぷら、中国料理、ダイニング・ルーム、ステーキ・ガーデン、コーヒー・ショップ、地下の酒場、どこも一杯の人だ。夏休みのせいでもあろうが家族連れが多いのも嬉しい。
第三に、場外馬券売場、後楽園球場が近いのも有難い。神田の|やぶ《ヽヽ》、洋食の松栄亭《ヽヽヽ》、鳥の|ぼたん《ヽヽヽ》、鮟鱇鍋の|いせ源《ヽヽヽ》も近い。いや、作家なら古書店街が近いことを真っ先きに言うべきだろう。
しかし、残念ながら、僕はどこへ行っても初日は眠れないのである。午前三時半、しょうがないからベッドを離れて、隣室でテレビを見た。世界陸上。長島茂雄がゲストで出ていて「眠いでしょうけれど、あと三十分頑張ってください」と言う。ちょうど一万メートルがスタートするところだった。長島さんにそう言われちゃ仕方がない。
八月三十日(日) 晴
猛暑。また台風が南洋を連れてきやがった。須磨君と後楽園WINSへ行く。プラス三万八千百五十円。
山の上ホテルは昭和二十九年一月に営業を開始した。僕は歩いて三分の河出書房に勤めていた。高級ホテルのイメージがあり、ここに泊るのは夢のまた夢だった。「その頃、この近所には帝国さんとパレスさんぐらいしかありませんでしたから」と秋山さんが言う。
家に帰り、また世界陸上を見る。ショーとかパフォーマンスとするならば、これは最高だ。特に百メートル、ベン・ジョンソンの切れのいい蟹股《がにまた》のスタートに痺れる。
八月三十一日(月) 晴
酒と天ぷら、葡萄酒とステーキだったから終日グッタリとしている。それでも4チャンネルは今夜も僕を寝かせてくれなかった。連日連夜斎。
九月一日(火) 晴
黒揚羽、悠然と来り去る。庭を掃き蚊に喰われる。この時期の蚊は獰猛だ。
国高と桐朋の練習試合。6―0で国高が勝つ。夏休み最後の試合。
入浴して富士見通り|おるたんしあ《ヽヽヽヽヽヽ》披露パーティーに出席する。これは作家の勝目梓・高瀬千図夫妻の経営する仏蘭西|卓袱《しつぽく》料理の店だ。来会者、中上健次・紀和鏡夫妻、木下忠司夫妻、嵐山光三郎、滝田ゆう夫人、大竹洋子(岩波ホール総支配人)、豊田健次、|まえだ《ヽヽヽ》の前田孝子などの強力メンバー。勝目夫妻は料理の好みとセンスがいいから面白い会になるだろうとの予感的中。いやあ、楽しかった。終って、|らあら《ヽヽヽ》でカラオケ。勝目梓は「よし中上健次と勝負する」と気負い立つ。中上健次は病気以来、体でなく心で歌うようになった。国立市というと御大層なようだけれど、ここは谷保《やぼ》村だ。僕、完全に村住まいであることを自覚する。
[#改ページ]
[#小見出し] 文 蔵
私の住んでいる東京の国立市には中央線国立駅と南武線谷保駅という二つの駅があり、谷保駅の近くに文蔵《ヽヽ》というヤキトリ屋があって大層繁昌している。
文蔵《ヽヽ》の主人は八木方敏という人であって、文蔵《ヽヽ》はなぜ文蔵《ヽヽ》なのかという疑問が生ずる。私は文蔵《ヽヽ》を主人公にして『居酒屋兆治』という小説を書いた。そのとき兆治という店の名は主人公がロッテの村田兆治のファンだからということにしておいた。
あるとき、文蔵に仙台市の亀井文蔵という人から電話が掛ってきた。この人は宮城テレビの社長であり酒問屋の経営者でもある。まあ、言ってみれば東北地方のボスである。亀井文蔵さんは、文蔵《ヽヽ》というのは貴殿の名前なのかと電話で言った。文蔵《ヽヽ》は、そうじゃありません、文蔵《ヽヽ》という名前が好きなので店の名にしましたと答えた。二度か三度か、そういうヤリトリがあって、亀井文蔵さんは、すっかり文蔵《ヽヽ》が気に入ってしまった。ある日、亀井文蔵さんが仙台から文蔵《ヽヽ》に会いに来た。私はその場に居あわせたのだけれど、亀井文蔵さんはヤキトリをたくさん食べ酒をたくさん飲み、生《き》のウイスキイで乾盃して大きなコケシを一つ置いて帰っていった。
文蔵《ヽヽ》には「みそれふるおほぬにかりのまひをりぬ」という額装した色紙が掲《かか》っている。草野心平さんの書である。
昔、六〇年安保の頃、学生だった文蔵《ヽヽ》の八木方敏さんは、新宿御苑の近くにあった草野心平さんの学校《ヽヽ》という酒場の常連客だった。当時の学生には政治の先頭を走っている感じがあった。
草野心平さんが国立市に住居を移した。草野さんと八木方敏さんとは、国立駅の近くの大学通りに屋台店を出している|松ちゃん《ヽヽヽヽ》でよく飲んだ。|松ちゃん《ヽヽヽヽ》は東北弁丸出しという男であり、草野さんは自分でもヤキトリ屋をやったことがあるくらいだから、話が弾んだことだろう。この|松ちゃん《ヽヽヽヽ》を師匠にして八木方敏さんは文蔵《ヽヽ》という店を開いたのである。
草野心平さんは、若い頃、本名のほかに北山癌蔵というペンネームを使っていた。何とも凄い名前だが、草野さんは癌という病気があるのを知らなくて字面と重い濁音が好きだったのだそうだ。また、草野さんが国立にいたとき鳶を飼っていて、その名を高蔵としていた。
草野さんと八木さんが|松ちゃん《ヽヽヽヽ》で飲んでいるとき、八木さんが、もし将来自分でヤキトリ屋の店を持つとしたら、文蔵《ヽヽ》にしようと酔った頭で思いついた。私はそんな一夜があったに違いないと勝手に推理している。
[#改ページ]
[#地付き] 気が短い[#「気が短い」はゴシック体]
九月二日(水) 晴
宿酔《ふつかよい》。涼しいのと夏の疲れが出たせいか、よく眠った。
九月三日(木) 曇後雨
京都の陶芸家竹中浩氏来。毎年秋に日本橋|壺中居《ヽヽヽ》で個展を開き、僕がパンフレットに推薦文を書くのだが、今年は十回目だ。ところが腕と腰が痛くて制作がはかどらず、作品を数えてみたら半分位しかなかった。仕方なく来年の三月か四月かに延期せざるをえなくなった。大きな壺を板に載せて窯に運ぶことが出来なくなったそうだ。原稿書きがそうだし絵もそうだし、あるいは碁将棋なんかもそうだが、同じ姿勢を長く続けるのは重労働だ。これは職業病である。その報告に来られたのだが京都の人は叮嚀なことをするものだ。
文蔵《ヽヽ》で飲む。僕、浩チャンに「腰の痛みには禁酒が一番です」と言いながら酌をしている。帰ろうとするところへ木彫の江口週氏が入ってきた。
今日も肌寒い。朝起きたときに足が冷たくなっていることが多いので、司馬遼太郎さんの「寝ェ靴下」を思いだして靴下を穿いて寝たら具合がよかった。
九月四日(金) 雨
寒い。夏場が暑くて急に寒くなったので、今年の紅葉はいいんじゃないか。
夕方、入浴中に「今年は浴衣《ゆかた》を着なかったな」と思った。夫婦を三十五年もやっていると妻も似たようなことを思うもので、風呂から出てくると「今年はカキ氷を食べなかったわ」と言った。しばらくして「西瓜も食べなかった」と言った。
もういいと思って扇風機を物置に仕舞《しま》った。妻が「まだ暑い日があるわよ」と言うのを無視した。僕は気が短い。
九月五日(土) 雨
風俗営業の女性からのエイズ感染第一号の記事を見る。以前、TV番組でレポーターが風俗営業の女性三人に「エイズが怖くないですか」と訊く場面があった。そのとき、女性たちが「私たちはこの商売に入る決心をしたとき死ぬより辛い思いをしたんです。だからエイズなんか怖くありません」と答えたのを聞いて僕は感動した。これが本当だと思う。それまで風俗営業関係のTV番組は明るく楽しくを基本方針にして|死ぬより辛い思い《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》に迫ることはなかった。
妻、足が痛いと言う。アキレス腱《けん》のそばらしい。歩行困難であるようで、たちまちにして僕の日常生活は不自由を通り越してメチャメチャになる。妻の茶の湯友達では二人が捻挫だという。
『別冊文藝春秋』一八一号、山田洋次さんと井上ひさしさんの対談「日本人と人情」が面白い。『男はつらいよ』の寅サン映画の渥美清の話が主になっているが、僕も寅サン映画はよく見る。
僕は寅サン映画は好きなのだが、車寅次郎という男は好きになれない。僕の嫌いな男の尺度は@威張る男A弱い者苛めをする人B労働者を馬鹿にする奴なのだが車寅次郎はこの全てに当てはまってしまう。寅サンは「とらや」へ帰ってくると威張り散らす。佐藤蛾次郎の寺男を苛める。印刷工場の労働者たちを頭から馬鹿にしている。僕の友人で寅次郎によく似た男がいて、外では意気地がないくせに家に帰ると両親兄弟に威張り、我儘放題で、見ていて感じのいいものではなかった。にも拘らず僕が寅サン映画をよく見るのは、観光案内的要素と山田洋次の詩情と機智にいかれてしまうためかもしれない。また、この映画はスタッフに恵まれていると感ずることがある。「とらや」の食卓風景で笑わせられるが、裏方が実に細かく気を使っているのがわかる。
「だいたい思い入れ過剰の人ですから、ちょっと親切にされたぐらいですぐ結婚へと考えが向いてしまう。その辺は、ぼくなんかよく似ているかもしれない(笑)。」という井上さんの発言がある。笑ってはいけないところだが僕は噴飯《ふきだ》してしまった。その場の雰囲気がわかるわけがないが活字でも(笑)となっている。僕が笑ったのは、井上さんに一種言いようのない親近感を感じたからだ。
僕が去年浅草のストリップ劇場で倒れたとき、井上さんが隣の席に坐っていてくれた。夫婦喧嘩の真最中とは知らなかったが、いまから思うと井上さんも憔悴しておられた。男と女で生きるか死ぬかという葛藤のあったとき、ストリップ劇場で裸の女を見ているのは、ずいぶん変なもんだったんじゃないかと推測する(本当のところはわからない)。それで救急車を手配してくれたのも井上さんだったし、劇場の従業員に心付《こころづ》けを渡してくれたのも井上さんだったことが後でわかった。勝手を言わせてもらうならば、その辺も井上さんは寅次郎に「よく似ているかもしれない。」
九月六日(日) 曇
庭に出て、あ、秋だなと思った。木の葉に勢いがない。これが黄葉し落葉すると掃くのが大変だな、しかし焚火は楽しみでもあるなと思った。そう思ったとき僕の体が自然に動くようにして物置へ行き新しい竹箒《たかぼうき》をおろすことになった。毎年、熊本の高千穂さんという方から竹箒を頂戴する。これはもう芸術品と言うほかなく、掃くときの柔かい手応え、それでいて粘り気のある腰の強さは絶品である。それにしても落葉頻りとなるのは十一月末から十二月の初めだろうから、ずいぶん短気だと思う。僕は新しい竹箒を手にして今や遅しと空を見上げているのである。
将棋雑誌を見ていると居玉の将棋が多い。若手棋士が居玉で指すので老練棋士が追随している恰好だ。若手棋士も初めは美濃だ矢倉だという形から勉強したはずだ。それを大胆に打ち壊すのが素晴らしい。老練棋士は、昔、大山名人や升田九段との対局があると、大山先生や升田先生と将棋が指せるということだけで感激したものだと言う。だから、綺麗に潔い形にして負けようと考えたそうだ。いまの若手棋士はそんなことは考えない。実利一点張りであるようだ。
ローマの世界陸上が終った。最終日のマラソンは、さすがに日本のお家芸だけあって、はたして日本ヱスビー食品の脇瓜《ワキウリ》選手が好タイムで優勝した。めでたい。
九月七日(月) 晴
新潮社の文庫本のための原稿整理。目が疲れる。目薬っていうのは本当に効くのかどうか、それが知りたい。
夜、桐朋短大教授波多野和夫夫妻来。昨日カナダから帰ってきたんだそうで、キングサーモンを頂戴する。
九月八日(火) 晴
秋晴れと言いたいところだが俄かに暑い。また扇風機を出してくるのは業腹だ。妻が「まだ暑い日があるわよ、そんなに急がなくても……」と言っていたのを思いだす。それもイマイマしい。
喫茶店 Catfish の経営するギャラリー・|エソラ《ヽヽヽ》開廊記念展(九月十五日―三十日)の案内状の宛名書き。この近くに住む画家・彫刻家・陶芸家が出品していて僕もお仲間に入れてもらった。
九月九日(水) 曇
湿度百パーセントという感じのところへ日が射すから暑い暑い。TVドラマ『ポルノ女優小夜子の冒険』が意外に面白かった。
[#改ページ]
[#地付き] 鍼 治 療[#「鍼 治 療」はゴシック体]
九月十日(木) 晴
『週刊新潮』グラビア撮影。これは実は広告頁であって、本誌に馴染の深い執筆者に新しいサントリー・リザーブを飲んでもらうという企画だ。以前にもあったのだが、こういうとき僕は困ってしまう。僕はサントリーの側の人間であり、同時に本誌に二十三年間も原稿を書き続けている。早い話、どっちに頭をさげていいのかわからない。
妻が予約制の歯科医に行っているときに撮影隊が乗り込んできた。一行七人。僕の担当者、広告部の方、電通の人、カメラマン、アートディレクターなど。サントリーの社員は来ない。僕はこういう責任の所在の判然《はつきり》しない仕事は大嫌いだ。お茶を淹《い》れるったって七人では大事《おおごと》だ。仕方がないから、サントリー烏龍茶《ウーロンちや》を持ってきて、勝手に飲んでくださいと言った。それだって冷えているのは三缶しかない。これはカメラマンが一人いれば済む仕事である。雑誌の対談でも、担当編集者がテープレコーダーを持ってきて写真も自分で撮り、一人で何もかもやってくれるのが好ましい。それを担当重役、編集者、速記者、カメラマンと助手、見習いと称するインターンのような編集者など総勢十人に囲まれた座談会なんかがあった。気が散って仕方がない。会場が築地の高級料亭なんかだと、このうち何人が席に着くのか、そんなことまで気にかかる。僕はそういう質《たち》なのだ。
対抗ページが酒場なら野外がいいかなどと考えていたが、ほとんどがアップだという。アップばかりじゃ活動写真の絵看板みたいになってしまう(こういうときはサントリーの旧《もと》宣伝部員の立場に立つ)と思ったので、文蔵《ヽヽ》で撮影してもらうことにした。
なんだか向っ腹でウイスキイを飲む。それなのに突然こんなことを言うのもどうかと思われるが、中身もラベルも変ったサントリー・リザーブが、めったやたらに美味いのだ。久し振りでストレイトでウイスキイを飲んだせいか、いや、僕は自分の舌と喉にかけて自信を持って言う、今度のリザーブは素晴らしい。サラッとしていて濃《こく》がある。重量感があって丸い。これはいけないと思ったので、左隣に酒を飲まないN氏、右隣に豪酒家のH氏に坐ってもらった。左からは遠い、右からはH氏が引き取ってくれるという戦法だったが、電通氏が手を伸ばして、グラスが空《から》になるとすぐに注《つ》ぐ。これには参った。こっちも、もともと嫌いじゃない。それに、僕を除く七人はサントリーに協力しようとする人たちだ。ついつい、遠慮があって断れない。向っ腹立てたのを忘れて愉快になってしまう。僕って単純なんだなァ。
九月十一日(金) 曇
酔っ払うと、僕は、世の中全体が騒然となるような感じになってしまう。昨夜の僕は騒然、また騒然。最悪の状態で起きたのだが、アアラ不思議、宿酔していない。リザーブは凄いとまたしても宣伝させてもらう。
九月十二日(土) 晴
今日は涼しい。よく眠った。寝てばかりいる、午前も午後も。
九月十三日(日) 曇
彼岸花が咲いた。十五本。「十四五本もありぬべし」とは子規の写実だが、同時に眺めるのに適当な数だと知る。
お向いの彫塑家今城國忠氏来。サクラタデをいただく。富良野の佐野洋氏よりジャガイモと南瓜を賜わる。松江|皆美館《ヽヽヽ》より梨一箱。貰い多き日なり。
九月十四日(月) 晴
鍼治療。麹町リバース。血圧、八十二―百六十。これは高血圧だと思う人と下が低いからいいと思う人に分れると思う。僕は前者だ。競馬が府中へ戻ってこないと(運動不足になるので)すぐこれだ。
僕は、まだ鍼治療に馴れない。だから、終ったあとの解放感が嬉しい。施術台で休んでいってくれと言われるが、すぐに着換えて表へ出てしまう。妻はピリピリッとくるのが良い気持だと言うが、僕は駄目だ。
初め、鍼を勧められた頃、僕は、鍼の治療院には、古畳にダニがいて蚤が群れ飛び、汚い毛布に煎餅布団というのをイメージしていた。しかし、ここは、どうしてどうして、明るく清潔でモダーンで、僕は驚きかつ喜び、不明を恥じた。
NTVが近いのでタレントやアイドル歌手なんかも来る。そういう人たちは、勢い込んで待合室に入ってきて、誰の顔も見ないで部屋の真中で宙を睨んでいる。目と目が合ったらサインをもとめられるのではないか、握手を強要されるのではないかと思っているようだ。気の毒な職業だ。付き人がいなければソファーに坐ることもできないらしい。
ここは鍼灸とマッサージとサウナ風呂がある。サウナに入ってマッサージを受けた初老の男が待合室に戻ってきて、僕の隣のソファーに腰かけて天井を見ていると思ったら、いきなり高鼾で眠ってしまった。そういう人がつくづくと羨ましい。脳溢血じゃないかと心配したが、そうじゃないらしい。心身ともに健康な人が、いい気持で眠っているのである。それは慶賀すべきことだが、悪い炭酸ガスを放出しているような気がして僕は離れた椅子に変った。その初老の男は十分ばかりで目を覚まし「ここはどこ……」という顔で周囲を見廻し、やっと気がついたようで、照れ臭いのか「さあ……」と叫んで出ていった。そういう人生に憧れちゃうなァ。
僕が治療を受けているとき、カーテンが開いて中山あい子さんが顔を見せてくれた。「どう? 元気?」「元気あるわけねえじゃないか」「そうかね」。白毛美人は常に元気である。僕は置針をしたまま寝ていたので、上体を起すと「あ、頭に針ささってる」とあい子さんが言った。治療の際に目を閉じているので、どこに針があるのかわからない。頭の天辺《てつぺん》と額に針があったらしい。考えてみれば、そういう恰好で挨拶しているのは滑稽だ。
国立|蘭燈《ランタン》園で食事。冷し中華そばは昨日で終ったという。
九月十五日(火・敬老の日) 晴
敬老の日だというが、老あって敬愛されることなし。
小樽海陽亭社長宮松重雄氏ナナカマドを送ってくれる。フミヤ君来。岡山産の索麪瓜《そうめんうり》というものを呉れる。レモン二十箇分ぐらいの巨大な瓜だ。実在感が凄い。食べる気はしないが画材として魅力あり。フミヤ君は、ときどき変なものを持ってくる若者だ。変なものというのは説明してもらわないとワカラナイものという意味だ。
喫茶店 Catfish 所属のギャラリー・|エソラ《ヽヽヽ》開廊記念展覧会の初日。五時からパーティー。国立在住芸術家にまざって僕も桃の絵四点を出品。会場にいる僕の気持を一言で言えば「顔から火が出る」になろうか。大変な盛況。パーティーは苦手なので匆々に退散。芸術家諸氏は各所に分散して午前二時頃まで騒いでいたらしい。
耳が遠くなってきた。久米宏のニュース・ステーションを見ていたら、地方局のアナウンサーが「出刃包丁が男を持って押し入り」という強盗事件を報道した。これは大事件だと思った。訂正がないところをみると「男が出刃包丁を持って」の聞き誤まりだったようだ。情ない。
九月十六日(水) 曇後雨
神坂次郎氏『縛られた巨人――南方熊楠の生涯』(新潮社刊)を読む。
[#改ページ]
[#地付き] 王 貞 治[#「王 貞 治」はゴシック体]
九月十七日(木) 曇
先週の日記を整理したあと、サントリー・リザーブの広告文案を書いたら疲れてしまった。九段下|寿司政《ヽヽヽ》へ行く。『小説新潮』横山正治氏、臥煙君、それに出版部都鳥君との会合。ひとつには完結した「新東京百景」の打上げ会。連載中は臥煙君の献身的サーヴィスを受けたので御礼を申しあげる。もうひとつは山本周五郎賞のこと。たとえば直木賞との同時受賞があり得るかという微妙かつ重大な問題。僕は、ずば抜けた作品があれば同時受賞も可という考えだ。
この夏、僕としては飲む機会が多く、へたばっていたので、どんなに勧められても一合限りと思って出かけた。ところが、六時からという会に五時十五分過ぎに寿司政《ヽヽヽ》に着いてしまった。一階の奥のいつもの席に坐ったが、何とも手持無沙汰の感を免れない。そこで、一本つけてもらった。どういうわけか、電車のなかで、鮑の腸《わた》が喰いたいと思いつめていた。それをサカナに自分としてはゆるゆると飲みはじめた。酒ってのはゆるゆると飲んでいても無くなるんですね。もう一本追加して、それを飲み終ったときに三人が到着。僕は鮑の腸の小鉢を持って二階へ上っていった。お招《よ》ばれのときに勝手に先きに飲みはじめるなんて無礼を働いたのは初めてのことだ。
「仕入値の高いものは、一人でこっそり食べると美味いんでね」
そう言って、惜しみつつ鮑の小鉢を皆に廻した。
「これで明日の朝、四人とも同じ色のウンコが出ることになる」
「緑便ですか?」
と横山氏が言った。横チャン、緑便っていうのは違うんじゃないか。
九月十八日(金) 晴
林檎と南瓜の絵を描く。
九月十九日(土) 晴
『週刊朝日』山本明史氏来。国立市に画廊が多いということで取材に来たが、ギャラリー・|エソラ《ヽヽヽ》で僕の絵を発見したので驚いて寄ってみたと言われる。僕の画家としての知名度はこの程度だ。
九月二十日(日) 晴
立川WINS。マイナス一万九千五百円。競馬ファンの楽しみは、夏に急成長する馬を探しだすことだ。古くはアカネテンリュウ、近年ではテュデナムキング、ギャロップダイナなど。僕は今年の夏の最大の上り馬はフォスタームサシだと決めて、この日のオールカマーでは単複と総流し。結果十一着では完敗もやむなし。僕はフォスタームサシは調教が強過ぎたと見ている。札幌記念ダート二千を二分二秒三で走った馬が芝で好走しないわけがない。
夜、TVで広島・巨人戦を見る。僕は広島優勝説だったが、こんなに打てない(有効打が出ない)チームが優勝するのは客に対して失礼だというふうに考えが変っていった。それに、北別府、大野、川口、長富、白武、津田、みんな良くない。
この広島・巨人戦、一点リードされた広島の九回裏の攻撃のとき、妻に、
「大丈夫だ、今日の江川は凄いよ。よく見てごらん。こんな顔をしている江川を初めて見た。気合充分だ」
そう言った途端に小早川の逆転サヨナラ本塁打。僕の面目丸潰れ。この日、江川は帰りのバスのなかでも激しく泣いたという。しかし、野球はこうならなければ面白くないし、こうでなければ優勝できない。不二家ネクターごっくんでは駄目なのだ。
九月二十一日(月) 晴
夏物一掃。衣更え。ただし、働いたのは妻だけ。一日一日が実に早い。
九月二十二日(火) 晴
杜鵑草《ほととぎす》に花芽がない。十年以上も前のことになろうか、木犀《もくせい》がやたらに咲いた年があった。排気ガスに弱いのか、世田谷区でもどうかと言われていたのに都心部で木犀が満開になった。あれは突然変異だと思うが、自然界のことはわからないし、そこが面白い。毎年夏の終りに庭に肥料を施すのだが、今年は怠けてしまった。僕の作る肥料は濃厚で、一滴でも衣服に附着したら一大事になるので、ついつい見送ってしまった。
丸谷才一氏編『恋文から論文まで』(『日本語で生きる・3』福武書店刊)を読む。こういう種類の書物では最高の出来栄えではないか。丸谷さん自身も「硬軟とりまぜて、まことに読みごたへのある本が出来たと自負してゐる」と書いている。こういう仕事は隠れたファインプレイと言うべきだ。
金沢|倫敦《ロンドン》屋の送ってきた鬼灯《ほおずき》、フミヤ君の呉れた索麪瓜《そうめんうり》、八百屋で買ってきた無花果《いちじく》を水彩で描く。鬼灯は苺《いちご》のように、索麪瓜は巨大な南京豆もしくは黄色の枕のように、無花果は里芋のようになった。絵も気合をいれて描かないといけない。
苺のようになった鬼灯は、何か全体にゴツゴツしてもいる。掃除の途中で通りかかった妻が言った。
「あら、鬼灯は、もっと小さく可愛らしく描いたらどうなの」
うまく描けないでムシャクシャしている僕が、腹立ちまぎれに、
「バカ。鬼灯は鬼の灯と書くんだぜ。鬼だからゴツゴツしてないといけない」
と言ったら、何を思ったか、妻は、
「あらそうだったわね」
と答えて箒《ほうき》を持って二階へ上った。
新潮社スバル君、サントリー須磨君来。スバル君は何か言いたそうで、なかなか用件を切りださない。仕方なく駅まで送っていった。
九月二十三日(水・秋分の日) 晴
NHKTVで『彼岸花』、テレビ東京で『秋刀魚の味』と小津安二郎の二作を見る。近頃の日本映画は、大勢の役者が出ているのに画面がスカスカしているが、小津さんの映画は、東野英治郎と杉村春子の二人が坐っているだけで実に多くのことを説明してしまうし密度が濃い。一緒に見ていた息子が、いま、こういう映画は企画の段階でボツになると言った。末世というべきか。勝れた雑誌編集者は、読者の読めない頁はどこかと探してその頁を消してしまうが、小津安二郎の作品には無駄なカットがない。
『秋刀魚の味』は十回以上は見ているはずだが、例の有名な軍艦マーチのシーンでいつでも泣いてしまう。僕は軍隊嫌いで、特に海軍のエリート意識は勘弁ならぬと思っているのに、ここで涙が出るのは不思議だ。
谷保天満宮の例大祭に行く。その帰り、国立高校の練習試合を見る。対京華高校。7―3で勝つ。左の岡野君、松本君、右の蔵多君、時枝君と投手の四本柱が頼もしい。
夜は、TVの巨人・中日戦。最後の山場だと思っていたが、巨人が楽勝し、広島も負ける。これで決まった。アンチ巨人ではあるが王貞治に優勝させたいと思っている人が多いと思う。
笑話を書く。長島茂雄には「巨人軍は永久に不滅です」というキャッチ・フレーズがある。王貞治にはそれが無い。関係者がさんざんに苦心して考えついたのが「ならば鹿取」だったそうだ。
それくらい今年の王貞治は固い。川上哲治よりも固い。野球評論家に叩かれ、客にウンザリされても王貞治は「ならば鹿取」の王《ワン》パターンを変えなかった。監督の「どうしても勝ちたい」という意志が選手に伝われば、それでいいのである。江川の涙がそれだったというのが僕の解釈である。
[#改ページ]
[#地付き] 静 物[#「静 物」はゴシック体]
九月二十四日(木) 曇
初めに訂正。九月十七日号で大竹洋子氏を岩波ホール総支配人としたのは総支配人|秘書《ヽヽ》の誤り。大竹さんに迷惑を掛けたことを深くお詫びします。
サントリー押田烈男宣伝部長、床波範人宣伝課長来。
九月二十五日(金) 雨後晴
朝方集中豪雨あり、かなり危険な状態だった。八時前、隣家の夫人から妻に電話があった。妻は極めて臆病なのに他人から頼りにされるところがある。
谷保天満宮宮司に貰った長十郎梨、お向いの今城國忠さんから貰った鶏頭を描く。植木屋の植繁さん来。塀の造り直しの件。今度は竹でなく鉄製にする積り。
梨に瓜を配して描く。静物画は配置自体が既に絵であり、僕はそれが下手なので敬遠していたが、ナニ、ごろんと転がせばいいとわかった。
水害見舞の電話頻り。新聞に僕の家の近くの被害が報ぜられたため。有難いのと天手古舞《てんてこまい》と。
九月二十六日(土) 曇
寄居|京亭《ヽヽ》より栗を頂戴する。ただちにその栗を写生。栗というのは描き難《にく》い。慈姑《くわい》のようにも椎茸のようにもなる。妻、「そうよ、猿蟹合戦の絵本だって蜂よりも臼よりも栗の絵がむずかしそうだったわ」と言う。夜は栗御飯。その栗が甘い。
九月二十七日(日) 曇
絵ばかり描いている。Catfish のマスターに来年の今頃「秋」というタイトルの個展を開かせてもらうと約束してしまったからだ。瓜、青|蜜柑《みかん》、栗に白の陶製ポットとアイスペールを配して描く。TVドラマを見ていても、ケーシー高峰の顔をどう描いたらいいかと考えてしまう。彼が描けないと夏蜜柑が描けない。
年内に単行本にしてもらう『新東京百景』の原稿手入れ。
九月二十八日(月) 曇後小雨
遠目が利くほうだったが、それも駄目になった。競馬場へ行ってもパドックの馬体重の数字が読めない(あれは電光掲示にすべきだ)。町を歩いていて中華料理毒薬という看板を見る。ハテ、毒薬とは妙な店名だと思って近づくと寿楽であったりする。新聞で「中学生のナンシー狂い」という見出しがあり、中学生も国際的になりナンシーという外国女優に夢中になっているのかと思ったら「シンナー狂い」の読み誤りと気づく。このほうは早呑み込みと言うべきだ。冒頭の訂正もそれであって、書いている最中に、おかしいなあ、岩波ホールには総支配人が二人いるのかなあと思った記憶がある。
鍼治療。血圧、百六十―九十五。高血圧で下が高い。いよいよ短気になり、いよいよ怒りっぽくなるのはこのせいだ。
国立駅そば金文堂《ヽヽヽ》でアルシェ(仏蘭西製水彩画用紙)、擦筆(パステルを擦りつける紙の棒)、フィクサチーフなどを買う。
九月二十九日(火) 曇
第四十九期麻布中学同期会幹事会に出席するため二時に家を出る。会場は銀座のそば屋の吉田《ヽヽ》の二階。
国立駅からJR中央線に乗り、三鷹駅で特別快速に乗り換え、四ツ谷駅で各駅停車に乗り換え市ケ谷駅下車、地下鉄有楽町線に乗って銀座一丁目で降りる。これだけで大仕事を為し遂げたような気分になる。実際、乗り換えの度に階段を昇り降りするのは大変だ。特に地下鉄有楽町線は深い所に駅があり、降りる(下車)というよりは昇るというほうが実感に近い。
有難いことに銀座一丁目で地面に顔を出すと、そこは名鉄メルサであって、その近くに用事があったのだ。
菊水《ヽヽ》という喫煙具の店で使い捨てライターを買うつもりだった。ここにギャンブルのときに持ってゆくとツキが廻ってくるライターを売っていると吉行淳之介さんが書いていた。緑色の豚の絵のライターだそうだ。近く府中JRAが開催されるので同室の懲りない面々に進呈しようと思っていたのだ。
緑色の豚のライターは無くてゴリラの絵のライターがあった。ゴリラのライターを二箇買うことにした。念の為、女店員に、そんなことを言ってライターを買いにきた客はいなかったかと訊いたが、知らないという。
「でも、二つあれば大丈夫でしょう」
と嬉しいことを言う。僕も豚よりもゴリラのほうが強いと思った。しかし、豚というのが洒落なのかな。豚があれば十箇ばかり買ったのに。二箇で三百円。いずれにしてもクダラナイ買い物だった。
伊東屋《ヽヽヽ》へ行ってアルシェの特大画用紙(タテ二十四センチ、ヨコ四十センチ)を買った。個展のときの目玉商品にするつもりだ。二十五枚綴りで重い、重い。
並木通り朝日ビル地下の米倉《ヽヽ》で散髪。係りの職人にクイーンステークスのタクノチドリの単勝を買ってくださいと言って祝儀を差しあげる。
まだ時間が余っているので千疋屋《ヽヽヽ》へ行って林檎二箇と木通《あけび》一箇を買う。画材にするので自分で選んだ。これだけで二千百五十円だと言ったら東北の人は目を廻すだろう。
幹事会は尾関、増岡、宮、小林、五十嵐、津田、松木、横山、それに僕の九人が出席。ビールで乾盃。飲まないつもりが、いつのまにか「あと酒五本追加」なんて言ってしまって、誰かが「山口は駄目だねえ」と歎いた。
この頃、ここで初物の土瓶蒸しを食べるのが恒例になった。これは全員で食べないと勘定が凸凹になる。
女子社員に注意をするときに、うっかり、「パパはねえ……」と言ってしまったという男がいて、これには笑った。
「馬鹿だねえ、お前。パパっていうのはホステスの旦那っていう意味だぞ」「旦那はハゲだろう」「俺、禿げてねえぞ」「嘘吐け。染めてるくせに」
年金を貰ってる奴いるかと言ったら、意外にも一人だけ手をあげた。年間五十二万円ぐらいだという。全員が還暦を過ぎた。それから病気の話、税金の話、遺産相続の話。
「おい、おい、議事進行!」
どうも、一億総税理士、一億総不動産屋という時代になってしまった。
飲める男だけで|クール《ヽヽヽ》へ行ってサントリーの新リザーブを賞味する。美味いと全員が言った。ママさんが、カウンターのなかにいるマスターに「みなさん、おいしいって仰言《おつしや》ってますよ」と叫び、マスターの古川緑郎さんが嬉しそうに笑った。嬉しいのはこっちのほうだ。
増岡章三に送ってもらうことになったのだが「新宿の酒場にちょっと顔を出してくれ」と言う。その店はゴールデン街の近くで、新宿としては上等な店だった。客は四十歳前後ばかりで飲み盛り。その若さと精気に圧倒される。奢ってもらってこんなこと言っちゃ申し訳ないが、いささか鬱陶しい。昔のように燥《はしや》ぐ気になれない。「おい、増岡。お前モテてるんじゃないぞ。人畜無害だと思われてるだけだぞ」「うん。そうかもしれない」
おさだまりのレーザー・カラオケがある。谷内六郎、高沢圭一、岩田専太郎、竹久夢二といった人たちの絵がバックで歌詞が流れる。その谷内さんなら谷内さんの絵が、似てるようで少し違う。あれはどうやって作製するのか。これは作者に失礼だと僕は思った。いや、怒るのは止めようと思ったとき、隣のホステスが言った。
「ねえ、先生。竹久夢二って若いんでしょ。いま幾歳《いくつ》なの?」
[#改ページ]
[#地付き] 姪の結婚[#「姪の結婚」はゴシック体]
九月三十日(水) 晴後小雨
山椒《さんしよ》の木が枯れた。筍御飯のときに重宝していたので残念だ。大きな山椒なので「擂粉木《すりこぎ》にしよう」と言ったら、妻が「擂鉢が無い」と言う。「擂鉢なんか買えばいいだろう」と言ったら「いまマーケットでツミレでも何でも買えるからいらないわ」という返辞。妻が嫁に来た頃、家に手伝いの老婦人がいて白和《しらあ》えなんか擂鉢を必要とする惣菜を得意にしていた。妻に限らず面倒な料理は避けて通る時代になった。
Catfish の展覧会の最終日なので様子を見に行った。関敏さん伊藤接さんに会う。僕の絵四点が売れていたので、買ってくれた人の氏名住所を教えてもらって礼状を書く。礼状というより「僕の詫び状」だ。
十月一日(木) 晴後曇
静物画を描き続ける。
十月二日(金) 曇
風邪気味で喉が痛い。死んだ妹の娘の結婚式に出席。五反田雉子神社。披露宴はソ連大使館裏のアメリカンクラブ。姪は日本舞踊を習っているので着物の女性が多い。姪は三十三歳。近頃結婚年齢が問題にならなくなったが、ずいぶん気を揉んだものである。しかし、新郎の年齢も彼の上司の祝辞のなかに「滑り込みセーフ」という言葉があったように釣合いが取れている。その新郎が、いかにも育ちのいい好人物であったので嬉しくなってしまう。姪の母はいないし父(長唄の吉住小三蔵)は入院中なので、もう一人の妹夫婦(夫は歌手のジェリー伊藤)が親代りを務めた。こういう席では決して歌わないジェリーが、プレスリーの『愛さずにはいられない』と『スワンダフル』を歌ったので会場の盛り上りは大変なものだった。これは、幼い時から姪を知っているジェリー伊藤の叔父さんの贈りものと言うべきものだ。そのあとで挨拶した新郎の同僚三人の「まるでディナー・ショーに招待されたようで」という言葉も印象に残った。僕も指名されたが、どんな披露宴でも祝辞は「新郎新婦は仲よく暮して下さい」としか言わない。それが実感であり、短いのが自慢といえば自慢だ。
十月三日(土) 晴
本格的な風邪となる。七月初めの夏風邪もそうだったが、季節の変り目がいけない。この今年一番の秋晴れに家のなかにいるのは大損害だ。散歩に出て秋草を写生するのを楽しみにしていたのに。
十月四日(日) 晴
今日の運動会は当りだったなと誰もが言う好天気。家に蟄居《ちつきよ》。
十月五日(月) 晴
臥煙君来。これは息子の正介の原稿(『小説新潮』)を取りにきてくれたもの。仕事をやめたのだから当然だが、この頃、僕に掛る電話は、ほとんどが財テク関係か間違い電話になった。
金沢|つる幸《ヽヽヽ》から松茸一籠。これと蜜柑、林檎、梨などを描く。素人の絵は、どうしても偶然性とか意外性に左右される。そこが面白いと思うのだが、特に柘榴《ざくろ》が難しくて振り廻される。胡桃《くるみ》の部屋という言い方があるが柘榴の部屋は不規則かつ醜悪で難渋する。しかし、絵を売る段になると松茸のほうに高値をつけてしまうだろうと思って一人で笑ってしまった。
姪の結婚披露宴では、久し振りに大勢の親戚に会い、みんな老けてしまったのにショックを受けた。娘々していたのが海原小浜のようになっていたり、三球照代の照代になっていたりする。
夜、鎌倉の従妹から電話があった。彼女は脳内出血で倒れ奇蹟的に助かった。喋れるとは思っていなかったので驚いた。「あたし、あっち(彼岸)へ行ったり、こっち(此岸)へ行ったりしたの」「脳の手術をしたら皺が無くなっちゃったの」「頭を短くしてるので坊っちゃんって呼ばれてるの」と早口で言った。彼女は僕と同年齢である。
ちょうど妻が自分で灸をすえている最中だったので「ちょっと待ってくれ。こちらから掛け直す」と言ったら「じゃ、あたし、ここで待ってるわ」と言う。ということは言葉は喋れても歩行が不自由という意味であり、僕は胸が詰った。
十月六日(火) 雨
日本郵船ロンドン支店長だった守谷兼義未亡人和子さん来。Aquascutum のジャムパーを持ってきてくれる。ロンドンに残っている友人に頼めば安く手に入る(バーゲン・セールなどで)と聞いたのでお願いしたもの。ジャムパーは斜めの浅いポケットしかついていないものが多く不安だった。僕は Burberrys よりも Aquascutum のほうが好きだ。
十月七日(水) 曇
ひどい便秘症になった。一昨日、昨日、今日と続けて排便が無い。一週間ぐらい平気だという女性がいるが、三日も続くと僕は苦痛だ。何か太い棒を呑みこんでいる感じになる。上厠《じようし》すること十数回に及ぶも戦果なし。身動きならぬ。
この身動きならぬのを利用して、さらに静物画を描き続ける。しかし、壺の位置を変えようとして立ち上るときは七転八倒する。悪寒、嘔吐感、貧血に襲われる。柳原良平氏に電話で相談すると「運動する。イモなんかの野菜を食べる。酒を飲む」ということだったが、これ何もやっていない。便が滞るのは大腸癌のもとと教えられているが、どうにもならぬ。下剤を服《の》んだら深夜に激痛があり貫通に成功したが、その痛さ苦しさといったらなかった。以前東北地方に取材旅行中に便秘になり、そのときは這って歩く感じだったが開通時に爽快感があった。今回はただ唸るだけ。これは疝痛《せんつう》と言うべきもので、馬なら当然死んでいただろう。
十月八日(木) 曇
僕に寄せられた批評で印象の強かったものが三つある。
一つは吉行淳之介さんが書いてくださった書物の帯広告で「山口は庶民的な作家ではなく庶民そのものである」という意味のものだった。そのときは嬉しかった。僕の願いもそこにあったからである。
もう一つは庄司薫さんで「山口さんの文章は言訳ばっかりだ」というもの。自分の書いたものを読み返してみると、庄司さんの指摘が的確であることがわかる。これには噴飯《ふきだ》してしまった。「まったく、その通りだ」と思った。
三つ目は沢木耕太郎さんで「山口さんの小説は、どう読んでも純文学じゃない。しかし、どう読んでも大衆小説じゃない」。これも当っていると思った。
十月五日の東京新聞の「現代人気作家リスト」という囲み記事で「そういう動きの中で日販の『新刊展望』創刊30周年五〇〇号記念増刊として『現代人気作家ブックリスト』が十月下旬に発行される」ことを報じている。「さて、収録作家についてであるが、@エンターテインメント、Aノンフィクション、Bミステリー、CSF、D歴史小説、E純文学、Fコラムの七つのジャンルにわけ、六名から十八名の作家がそれぞれふり分けられている」
この合計七十人の作家のなかに僕の名はない。仕事をやめたのだから当り前だと思っていたら、終りのほうに「山口瞳も収録する方向で検討されている」となっている。自分でもどのジャンルに属するのかわからないのだから、他人にわかるわけがないだろう。
[#改ページ]
[#地付き] 巨人軍優勝[#「巨人軍優勝」はゴシック体]
十月九日(金) 曇
自民総裁選。「正々堂々と」「生涯をかけて」等の出馬宣言。高校野球の選手宣誓と少しも変らない。政策の欠片《かけら》も無し。安竹宮(アンチック)というのは今年一番のうまい洒落だ。
広島が中日に敗れて巨人軍優勝。
僕の予想は完敗だった。巨人軍の明るい材料は吉村が更に成長するだろうということ、岡崎も良くなる、投の桑田も少し前進するというぐらいで、とても優勝は覚束無いと思っていた。第一、あの弱肩の外野守備はミットモナイ。
開幕時の西本のシュートの切れ味の良さ、松本の高打率は予測できなかった。名人篠塚のあの程度の働きは当然だが、故障持ちの原が打撃各部門で上位に顔を出すとは思えなかった。僕は原は巧打者で六番を打てば最強と評価していたが、四番に定着するとは考えられなかった。まして中畑が首位打者争いに加わると誰が予測しえたであろうか。山倉もしかり。
桑田が江川を押し退《の》けてエースの座に着くとも思えなかった。鹿取が酷使に耐えたのは人間業じゃない。加藤も要所で活躍した。投の誤算は斎藤だけだった。上体が反ったままの水野も終盤で好投した。
これだけ好材料が揃って優勝できなかったら王貞治はどうなるんだろうと気の毒に思えてならない時期があった。事実、王監督は集中砲火を浴びたが、僕は、その戦法は単純明快、たとえ間違っていても、選手に監督の考えが徹底するという効果はあったと思っている。巨人軍が楽勝(結果的に)したのは、一にかかって阪神タイガースの不甲斐無さによる。僕は、もともと、ああいう花火大会のようなものを野球だとは認めていないが、それにしても阪神が少しでも見せ場を作ってくれたら、巨人軍ナインの動揺はもっと激しくなっていたはずだ。
巨人軍贔屓の妻は「これでもう広島が全部勝っても巨人軍が優勝なの」と、今日になっても心配顔でいる。「そうだよ。ほら、見てごらん、ビールのかけっこをやっているだろう。あれが優勝したっていう意味なんだ」。これだから疲れる。もっとも、妻は、顔が良くてスタイルが良い選手を応援するというファンである。引退した近鉄の鈴木啓示は、出入りの大工に似ていると言って、これも贔屓にしていた。江夏豊はマウンドへ行くときのヤクザの親分みたいな歩き方がよかったらしい。巨人槙原は上唇と下唇を噛みしめるのがいいんだそうだ。
来年の巨人軍が欲しがるのは、守備範囲の広い強肩の中堅手、言わずと知れた大洋屋鋪だろうが、古葉さんが出すわけがないな。
日本シリーズは、巨人・西武なら巨人、巨人・阪急なら阪急だと思っていた。大試合ではヴェテランが活躍するからだ。しかし、終盤の勢いは西武にあり、わからなくなってきた。巨人軍は、なんとしても後楽園で優勝を決められなかった|ひ《ヽ》弱さがある。
十月十日(土・体育の日) 曇後晴
府中JRA。滝田ゆう夫妻が来る。滝田夫人が大当りで昼食のカレーライスを奢《おご》ってくれる。ゴンドラ席が改装され、田舎の高級キャバレーの感じになった。注文しないフルーツ盛り合わせが届くんじゃないかとヒヤヒヤした。こうなると妙なもので、穴場のオバサンが艶《いろ》っぽい感じになる。現実にやや厚化粧のように見える。
ゴリラのライターの効果なく惨敗。やはり豚でないと駄目か。マイナス二万五千二百円。しかし気分は爽快である。
赤木駿介さんに繁寿司《ヽヽヽ》まで送ってもらう。滝田さんの所からチラシ寿司の注文があった。配達に行ったタカーキーの報告によると、滝田夫妻は午前中だけで帰ったのだが、前売で買った午後の馬券も当り続けだったそうだ。
便秘が続いている。それと風邪気味。就寝前に風邪を治そうと思って、梅干に葱を刻み熱湯を注いだものを飲み続けていた。汗を掻こうと思ったのだが、不幸にして、禿頭以外に汗の出ない体質である。
「それなら梅干がいいです。一発で治ります」と赤木さん。「梅干なら毎晩飲んでます」「おかしいな」。赤木さんは下痢と間違えていたらしい。僕は反対のことをやっていたようだ。やることが全てチグハグだ。そのあたりから爽快感が吹き飛び、鬱状態となる。
家に帰ってから妻に言葉の調子が強《きつ》すぎると注意される。以前から何度も注意されていた。僕は普通に話しているつもりなのだが、他人に不快感を与えるらしい。自分で気づかないのだから罪が重い。万死に値するといったように考え込んでしまう。過去のことを思いだし、眠れなくなる。午前二時、仕方がないから、起きだして競馬新聞を読む。
午前五時、やっと頭が空白になって眠れそうになったとき、下剤が効いてきて激しい陣痛。結局一睡も出来なかった。僕の理想は好々爺になることだが、どうも、この道も程遠いようだ。
十月十一日(日) 晴
府中JRA。嵐山光三郎さんと一緒。今日も負け続け、どうなることかと思ったが、毎日王冠ダイナアクトレスの単勝と連複一点勝負が的中、やっと挽回する。プラス千九百五十円。僕は種牡馬《しゆぼば》としてのノーザンテーストに脱帽している。新馬良く古馬となって更に良く勝負強い。赤木駿介さんは、その代り走らない馬も多いという考えであるようだ。ただし、僕の連複はニッポーテイオーが相手で亀清楼《ヽヽヽ》のウインドストース(二着)は代用品だった。ゴリラのライターの御利益を疑ってはいけない。
嵐山さんは、いつ会っても気持のいい人だ。育ちがいいと僕は思っている。
十月十二日(月) 小雨
駄目だと思っていた杜鵑草《ほととぎす》が咲いた。僕のところは遅いのだ。石蕗《つわぶき》も咲いた。木犀が終り加減。
十月十三日(火) 晴
秋晴。散歩。一橋大学構内の雑草のなかで弁当をひろげている家族が二組、三組。|紀ノ国屋《ヽヽヽヽ》で葡萄、洋梨を買う。食べるのではなく画材のつもり。|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》でカフェオレ。
帰って静物画を描く。|ロージナ《ヽヽヽヽ》の伊藤さんは葡萄は描き易いですよと言っていた。なるほど、僕なんかだと梨が蜜柑になってしまうことがあるが、葡萄が蜜柑になることはない。
セザンヌは描くのが遅いので花は造花を使っていたそうだ。描くのが遅いというのは見ている時間が長いということではないだろうか。
十月十四日(水) 晴
妻がいろいろ指図するのは怪《け》しからんと思っている。「それは燃えないゴミの籠に捨ててください」といったように。しかし、僕だと燃えるゴミか燃えないゴミか考え込んでしまうようなことがある。実際に作業している者でないと判断がつかない。父親や夫の権威の失墜はこんなところから始るのではないか。
静物画を描いていると言うと、ノンビリした安穏な生活だと思われるかもしれないが、当人は焦《い》らだっているのである。気に入るのは三十枚に一枚ぐらいか。葡萄に生気が無くなった。ボロボロと落ちてしまう。「だから、四百円高いあっちのほうを買えばよかったのよ」と妻が言った。
[#改ページ]
[#地付き] 大 暴 落[#「大 暴 落」はゴシック体]
十月十五日(木) 雨
静物画を描き続けている。よくも飽きないものだ。頂戴した果実類が多いのだが、腐るから早く描かないといけない。描き難いものの双璧はキューイとアボガド。木通《あけび》も困る。キューイは断面図を示さなければ、木通は笑み割れたものでないと駄目だ、と妻が言う。
僕と妻とでは性格も体質も何から何まで正反対だ。僕は高血圧、妻は低血圧。僕は平熱が極端に低く、妻は高い。僕は電車に乗るのが好きで妻はタクシーだ。僕は高原が好きだが妻は海を好む。妻は歌やダンスが好きだが僕は苦手だ。僕は映画でもドラマでも野球でも監督で見るが、妻はスターや選手で見る。結婚当初、黒沢の映画を見に行こうと言うと妻は変な顔をした。映画は長谷川一夫やゲーリー・クーパーで見るものだと思っていたらしい。
ただし、完全に一致するものが一つだけある。それはペット嫌いだ。
死ぬから厭だというのが大きな理由だが、その他に本来野山や戸外で生きるものを家に閉じこめるのは怪しからんという考えもある。そのへんは建前であって、実際は臭いのが我慢できない。僕は臭いに敏感なところがある。郵便配達夫や御用聞きに吠えたてるシェパードなんか勘弁できない。客に噛みつく狆《ちん》なんかも大いに迷惑だ。特に嫌いなのは猫だ。あの狷介《けんかい》にして利ありとみれば媚を売るという性情はとても許せるものではない。その臭いたるや鼻がひん曲るという態のものだ。去勢すればいいというペット好きがいるが、それは人間の傲慢というものだ。
息子が動物好きで困ったが魚類だけは許可したので鯉と熱帯魚が家に棲息している。息子はいっぱしの研究家になって専門誌に原稿を書いたりしている。
近頃マーケットへ行くとペットコーナーというものがあって缶詰やなんかの食品を売っている。その売場がどんどん拡張されるのを見ると恐怖心に駆られる。
十月十六日(金) 雨
金曜日の朝はフジテレビで野坂昭如さんに会えるのが楽しみだ。
報知新聞を見て吃驚《びつくり》仰天した。その一面の見出しだけを拾ってみる。
「誕生村山阪神」
「田宮ヘッド快諾」
「田淵氏入閣へ」
「江夏氏も熱望」
「御三家藤田平氏も」
僕の感じ方は、エッ、ウソ、ホントー、信ジラレナーイであった。個人個人は別にどうということもない。しかし、この五人が集って策戦を練るという図が僕には想像がつかない。五人とも野球解説で知るかぎり歯切れのいいほうではなかった。阪神タイガースの宿痾《しゆくあ》はスター偏重主義だと言われているが、いきなり大スターを五人も集めてしまう神経が理解できない。なぜ中村勝広ではいけないのかと事情を知らないままに言う。「長島茂雄氏にもコーチしてもらう」というに及んで、遂に僕は呵々《かか》大笑するに至った。
枯葉を拾って描く。枯葉も新鮮でないといけない。すぐにチリチリになる。
十月十七日(土) 雨
台風のなか府中JRAへ行く。四階の食堂もゴンドラ席も綺麗になった。あと温泉があって芸者と按摩が呼べればいいと馬鹿なことを考える。老人が多いから仮眠室なんてのも有難い。マイナス一万二千四百五十円。夕刻、金色の夕焼けが美しかった。
十月十八日(日) 晴
府中JRA。秋晴れ。今年は芝の付きがいいせいか特別レースは全てレコードという素晴らしいスピード競馬。
スニーカーの底が破れる。レース中に落鉄したんでは勝てませんなと皆に揶揄《からか》われる。その通りに取られっぱなしだったが、誰もが帰った最終レースのコウチテンペストの単勝で一気に挽回。プラス三万二百二十円。
早大名誉教授飯島小平先生に「きみ、天長節はどうするかね」と訊かれる。「天長節じゃない、明治節でしょう」と言ったら傍の妻が「あら、文化の日よ」と応じた。飯島先生は天皇賞(十一月一日)に来るかどうかを質《たず》ねられたのだと思う。
繁寿司《ヽヽヽ》へ寄り少しだけ酒を飲む。繁寿司《ヽヽヽ》の細君は北海道の出身なので、飛行機嫌いのタカーキーに、来年は青函トンネルが貫通するので皆で新幹線で北海道へ行こうじゃないかと提案した。するとタカーキーは青函トンネルは飛行機より怖いと言う。「もし青函トンネルで前と後ろを塞がれたらどうするんですか」。どうするかって言われても返答に窮する。
十月十九日(月) 晴
鍼治療。血圧百五十八―八十八。久し振りに徳サンの運転で行く。治療の間、彼はパチンコで時間を潰すのだが、治療を終って一階の待合室へ降りてゆくと真赫《まつか》な顔で坐っている。「はじめの二百円でよう、こんだけ」。マイルドセブン六十箱を稼いだそうだ。
文蔵《ヽヽ》に寄って僕の書いた暖簾《のれん》を見た。家のなかで見て文字が大き過ぎると思っていたが戸外では可愛らしいくらいだ。烏瓜《からすうり》がカウンターに置いてあったので貰って帰った。肉屋のキンちゃんが持ってきたのだそうだ。
立川消防署から電話あり。火災予防のための色紙展を催すので何か書けという。すなわち「霜焼けというものありし烏瓜」。舌噛んで死んでしまいたいくらい稚劣だが、さいわいイレ歯をはずしてあった。それに烏瓜の絵を添える。何かに似ていると思ったらウインナソーセージだった。
夜半過ぎ自民党総裁竹下登に決定。そのあとゴルフのサントリー世界マッチ。寝不足の人が多かったんじゃないか。
十月二十日(火) 晴
裏の塀が完成。朝から土建屋の仕事を手伝う。妻は塀のことよりお三時の心配ばかりしていたが、これで解放される。以前は石垣の内側に竹を編んであったので、こんどは庭が一坪ばかり広くなった。総指揮の植繁が、五百万円ばかり稼いだじゃんと言った。まったく塀のことでゴタゴタする人たちを笑ってもいられない。
株大暴落。他人の不幸を喜ぶ気持はないのだが、ポスト・インダストリー(額に汗することを嫌う傾向)だとかマネーゲームだとか財テクブームなんてことが大嫌いなので、これもまた可なりと思ってしまう。
十月二十一日(水) 晴
肉屋のキンちゃんが烏瓜を大量に持ってきてくれたので朝から写生。なんだかニセの武者小路実篤になった気分。似非小路《えせこうじ》と名乗ろうかしらん。
画廊|岳《ヽ》へ『七人による彫刻小品展』(江口週、木内岬、関頑亭、峯孝ほか)を見に行く。そのあと旭通りの越前屋《ヽヽヽ》でタンメンを食べる。この店のタンメンは日本一だという人がいて遠くから客が来るそうだ。実は『週刊朝日』に連載中の東海林さだおさんの「あれも食いたいこれも食いたい」のなかのタンメンの話がとても面白かったので急に食べたくなったのだ。こういうものを書いたら東海林さんの右に出る人はいない。越前屋《ヽヽヽ》へ初めて行ったのだが、なるほど上等だ。国立市はまだまだ奥が深いことを知る。それに、僕の所は外《はず》れだが駅附近の町の佇《たたず》まいに格調がある。
[#改ページ]
[#地付き] 秋 暑 し[#「秋 暑 し」はゴシック体]
十月二十二日(木) 曇
スバル君来。文蔵《ヽヽ》へ行く。久し振りにゆっくりと四方山《よもやま》話ができた。二人で組んで、もう一仕事しようと言う。大いに心動くが、体力気力に自信がない。ここはまだ静観の一手だ。ひょっこりと徳Q君が暖簾をくぐってあらわれる。嬉しくなって少し余計に飲む。酒の楽しみのひとつは、会いたい人に会えるということだ。寒い日だった。十一月下旬の陽気だという。このまま冬になってしまうのではないかと思った。
十月二十三日(金) 曇
今日も絵を描いている。こんなに自然に心が絵のほうに向うのは初めてのことだ。いま、たとえばどんな僻地に流されたとしても、最低一年間は耐えることが出来ると思う。これも絵を描いている一得だ。
十月二十四日(土) 小雨
府中JRA。ずっと取られっぱなしで最終レースで取り返すというケースが続いている。僕はパドックで馬を見て馬券を買うという正統派を自認しているが、最終レースになると、これぐらいは負けてもいいというギャンブラーになってしまう。皮肉にも、これが的中する。友人たちは悪運が強いと言う。何度も書いているが僕の必勝法は「馬券を買わないこと」である。その意味は、一万円買おうと思ったとき、五千円におさえるというあたりにある。ただし、クラシックレースと天皇賞、有馬記念などは自分を解放する。その結果は大敗を喫するのだが、それでいいと思っている。この日はプラス二千四百円。
十月二十五日(日) 曇
|紀ノ国屋《ヽヽヽヽ》でラフランスを買う。金文堂《ヽヽヽ》で花梨《かりん》を頂戴する。矢口純さんが大根、蕪《かぶ》、玉蜀黍《とうもろこし》などを持ってきてくれる。これすべて画材にする。
府中JRA。徳Q君と一緒。昨日と全く同じで最終レースで挽回。プラス七百円。運動と気晴らしのための競馬だから、これでよし。
胃に鈍痛がある。荻窪病院副院長の吉川先生がお見えになったので、お願いしたら、ちょうど御自分用の胃腸薬を持っておられる由で、早速服用。
終って繁寿司《ヽヽヽ》に寄る。嵐山光三郎父子に会う。日本シリーズ第一戦の帰りであるという。巨人十六安打の快勝で息子さんが嬉しそうにしている。
この日本シリーズで、王貞治は、一週間から長くて十日間のことだから突っ走ればいいと考えているようだが、広岡達朗は一ヵ月ぐらいに感ずるものだと発言していた。この考え方の違いが妙にひっかかる。
大試合での監督は一軍のエースとの心中を決意する。かつての阪神藤本定義と村山実との関係がそれだった。チームのために腕も折れよと投げるエースの心意気に命運を托すわけだ。江川にはそれがない。桑田はクレバーな投手だがまだ若い。王貞治の悲劇(と言ってしまうのはまだ早いが)はそこにある。第一戦快勝したことよりも、桑田がノックアウトされたことを重視すべきだ。西武は戦いやすくなった。巨人軍の大黒柱は鹿取だ。鹿取に出番が廻らないと惨めになる。
十月二十六日(月) 曇
『サントリー・クォータリー』に「行きつけの店」という読物を連載しているし、この日記でも、どこそこの店で食事した、どこで飲んだと書く。おわかりのように、ここと決めたら、店を変えることがない。がいして言えば東京者にその傾向がある。そうすると、読者がその店を訪ねるということが生ずる。特に地方都市から上京した人がガイドブック代りにするらしい。ここで困るのは、あまり親切にされなかった、お前の言うような上等な店じゃないという苦情が持ち込まれることだ。
しかし、たとえば繁寿司《ヽヽヽ》と本当の意味で仲よくなるのに五、六年間を要したのである。先代も今のタカーキーも愛想のいいほうじゃない。はっきり言えば頑固者である。一見《いちげん》で心を許しあえるようになるのは無理だ。
お前は文化人だから優遇されるという投書を貰うが、繁寿司《ヽヽヽ》の当主は芸能人や有名文化人をチヤホヤする男ではない。また、銀座|鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》には僕が倒産寸前の河出書房に勤めている頃から通っていた。主人の岡田千代造さんは極めて無口で、取りつくシマもないという感じの人だった。千代造さんと僕とで、お互いの本心を打ちあけあうようになるのに二十年以上を要した。「行きつけの店」というのは、そういうもんなんじゃないか。
それにしても、僕の贔屓にする店は、どこでも頑固者が多い。僕はそれを面白がるのだが、気に障る質《たち》の方は、どうか近寄らないでいただきたい。文蔵《ヽヽ》だって頑固だぜ。曲ったことが大嫌いという人たちばかりだ。
日本シリーズ第二戦。伊東捕手の談話で、一番打者の鴻野の初球打ちが有難かったというのがあった。西武の選手の明るいのに驚く。特に石毛が明るい。スポーツは楽しくやるものだ。それも石毛は広岡に徹底的に鍛えられたから明るいのだ。
十月二十七日(火) 晴
花梨、ラフランスを描く。絵を習っていた頃、初めは円筒形や球形ばかり描かされた。その意味が、やっとわかってきた。葡萄やカボスなんて、本当に丸いぜ。画学生諸君、飽きずに頑張ってくれ。
十月二十八日(水) 晴
日本シリーズ第三戦を見に行く。プロ野球をナマで見るのは今年は初めて。後楽園球場近くの喫茶店で、文藝春秋『Number』編集部の白幡青年と待ちあわせ。
俄かに暑い。所沢は寒かったと聞いていたせいもあって、カシミヤのスポーツシャツにジャムパー着用では、どうにもならぬくらいに暑い。
むかし、日本シリーズの平日のデイゲームは、ガラガラに空いていたものだ。今日は超満員。暢気な時代だと思う。ネット裏にはパンチパーマの阿哥《あに》さんと厚化粧の姐《あね》さんが多く、宛然《さながら》場末の競輪場の如し。
暢気な時代といえば、この後楽園球場を壊してしまうというのが僕なんかにはピンと来ない。勿体無いなあと思ってしまう。何かが狂ってるんじゃないか。エアドームと聞いただけで僕なんか息苦しくなってしまう。
僕は胃の痛くなるようなゲームだけは御免だと思っていた。一点差だが西武の楽勝で助かった。巨人の八安打は単打ばかりで、これでは点にならない。
今日は僕の予想が全て的中した。森監督はブコビッチを使う。活躍するのはブーコ(先制本塁打)と安部(二安打)だと白幡青年に予言した。石毛のホームランもここで打つと予言。巨人唯一のチャンス七回裏一死一、二塁で篠塚の場面、巧打者は好機に打てない、三振しますと言ったら三振。郭は球が自然に低目に行くから巨人の左のローボール・ヒッターが怖いと言ったら、駒田、岡崎、吉村だけが強烈な当り。クロマティは二安打でも本人が不満だろう。
これで第四戦、西武は捨てゲームでいい。第五戦、東尾先発で負けても、第六戦工藤で勝てる。第七戦にはナカ五日の郭が残っている。絶対有利というのが僕の筋書だが、勝負は水物でどうなりますか。
一回表、西武石毛は2―2まで投げさせて遊葡《ゆうほ》、二番の清家に何事か囁いてベンチに戻る。当っている石毛がこれなのだ。野球はこうやるもんですヨ。
[#改ページ]
[#地付き] 強 行 軍[#「強 行 軍」はゴシック体]
十月二十九日(木) 晴
矢口純氏来。本の署名を頼まれる。字を書くのは好きだから苦痛にならない。書の稽古だと思っている。
矢口さんと一緒に家を出て、JR中央線に乗り、四ツ谷で別れて水道橋駅下車。『Number』編集部の白幡青年と後楽園場外馬券売場裏の雅《みやび》という喫茶店で待ちあわせ。十二時の約束が十一時半に到着。
日本シリーズ第四戦。先週、第一戦で桑田ノックアウトと聞いて、エースなき王貞治の悲劇と書き、第三戦郭で勝つのを見て西武絶対有利と書いてしまった。西武の勝利を確信していたが内心では気が気ではないのである。西武優勢の根拠のひとつは、東尾・工藤は二勝できる投手である。そこへ郭で一勝したのだから投手が余ってしまうというあたりにある。
僕は野球は打撃練習から見る。競馬で必ずパドック(下見所)の馬を見るのと同じことだ。西武で当っているのは安部と白幡である。誰が当っているのかがわからなければ、代打を予想する楽しみがなくなる。それを打撃練習で見るのだ。
球場に入って外野席を見ると、赤いメガホンが九割方。何かに似ていると思ったが、これは曼珠沙華《まんじゆしやげ》の咲き乱れる田舎の田圃の畦道である。いや、その喧しいこと。そもそも後楽園球場は、場内アナウンスといい流す音楽といい煩くて堪らぬ球場である。外野席だけじゃない。内野席でも、いい齢《とし》をしたオッサンが音頭《おんど》を取ってチャッチャッチャを強要する。誰だ、野球をお祭り騒ぎにしてしまったのは。野球評論家やスポーツ記者は、シーズンオフに耳の検査をする必要がある。東京ドーム・ビッグエッグで最も懸念されるのは私設応援団の騒音であるそうだ。
巨人軍に元気がない。ビクビクしている。守備練習で声が出ない。
試合が始ってみると西武にヤル気がない。いくら捨てゲームだとしても客に失礼ではないか。
たしかに槙原も山倉のリードもよかったが、槙原本来の豪速球で完封したのではない。スライダーにカーブにフォークが七割方と見た。実は西武は、これ(かわすピッチング)に弱いのだが、見る側とするなら豪速球の槙原で見たかった。第四戦は僕の知るかぎり日本シリーズ最低のゲームだった。それにしても、巨人軍はいつからこんなチームになってしまったのだろうか。僕の求めるのはキチッとした野球である。その意味では西武のほうが遥かに上だ。三割打者をズラッと揃えるなんてことは勝負の面では危険だと知るべし。野球は、投げて打って守って走るゲームである。
外へ出ると巨人軍私設応援団が集っていて、リーダーが「物足りないので少し騒ぎましょう」と叫び、またトランペットだ。球場外でも喧しい。見ると、十五、六歳の少年が中心で割に真面目そうな顔つきをしている。平日の昼間なのだから不良少年達なら納得するが、マトモな連中が騒いでいるのが情ない。末世と言うべきか。
九段下|寿司政《ヽヽヽ》で浅酌。フミヤ君の呉れた索麪瓜《そうめんうり》を料理してもらう。奇妙な味だが、冷《つめた》くて夏なんかナオシ(味醂《みりん》焼酎)で一杯やるのにいいと思った。
十月三十日(金) 曇
日本シリーズ第五戦。水道橋で下車すること三度。サラリーマン時代の感触が戻ってきたように思う。
東尾・工藤(九回一死から)と桑田・岡本(光)・加藤・西本・鹿取で3―1西武勝利。エース鹿取につなぐために加藤・西本で何とか逆転したいという王貞治の気持が涙ぐましい。もっとも怖れていた加藤を使ってしまったのが西武側としては有難い。「巨人は負け方が下手ですね」と白幡青年が言う。
この試合のハナは、勇気あるブコビッチの、思いきりのいい秋山のファインプレイ、辻の連続妙技にあった。特に辻の守備は、巨人に傾きかけた流れを止める絶大な価値があった。
野球のわからない人は守りの野球はつまらないと言うが、「攻めるは守るなり」であると同時に「守るは攻めるなり」であり、将棋界では「守るは責めるなり」とも言う。守備と走塁は練習と研究の成果であって、タレント集団は大いに恥ずべきだと思う。月並みだが「練習で泣いて試合で笑え」と言いたい。
どっちが勝ったっていいんだけど、西武絶対優勢を断言した手前、これでホッとした。第三戦で決まりだと思っていたが、これで決定的になった。
白幡青年と一緒に銀座へ祝盃をあげに行く。鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》の土瓶蒸しがメチャンコ美味い。明日があるので早目に食事にしたが、その御飯が美味い。「米が粒立っています」と東北出身の白幡さんが保証してくれた。
十月三十一日(土) 曇
府中JRA。岩橋邦枝さんが来る。ポルトガルの漁夫の使う手編みのセーターを頂戴する。不良馬場でマトモな競馬にはならないと思ったので、おとなしく遊ぶ。マイナス七千三百円。寒い日だった。
十一月一日(日) 曇
府中JRA。天皇賞。僕の狙いはレジェンドテイオーにあった。毎日王冠のとき馬体の良さでは一番だった。ただし、立派すぎる(プラス8キロ)感じがしないでもない。この一叩きで更に良化するだろう。この経緯は一昨日のカツラギエースとよく似ている。
パドックへ行くと、ニッポーテイオーの出来が素晴らしい。「これを断然の一番人気にするファンの目ってたいしたもんだね」と赤木駿介さんに言った。シリウスシンボリ、ダイナアクトレスも案じられた焦《い》れ込みが見られない。僕には、何度かの一番人気を裏切るニッポーテイオーには悲運の名馬という感じがあった。距離二千では最強であり重馬場も下手ではないことがわかっていたけれど。
迷ったが、しかし、レジェンドテイオーの単勝で勝負。他に、やや趣味的にフォスタームサシの単複を少し。
レースは好スタートのニッポーテイオーの郷原が譲らず、そのまま豪快に逃げきり圧勝。追いかけたレジェンドは二着をキープ。そんなに間違った馬券だとは思わなかった。しかし、日頃、競馬は単複と言っていながら、複勝(配当はニッポーテイオーの単と同じ二百八十円)を買わなかったのが慙愧《ざんき》に堪えない。いや拙劣だった。
大惨敗を喫したが、ニッポーテイオーとの連複BC(配当七百九十円)を千円だけおさえておいた。
最終第十一レースでは僕はギャンブラーに変身する。昨日から一鞍《ひとくら》も勝っていない岡部が、このへんで勝ちそうな予感がする。同枠のビゼンマサルは四百万からのクラスあがっての挑戦だが、馬体気合乗りとも絶好。それに、昨日からゾロ目が出ていない。(そう考えるのが賭博師的である)。有銭七千九百円をEとアサクサバリエンテのCEに投入。
レースは、オールスピリットの岡部が逃げるアサクサバリエンテを負かしにかかり、ビゼンマサルの蛯沢が突っこんでくるという絵に描いたような展開。夢ではないかと思った。配当二千百六十円。その結果、大逆転で五万七千八百五十円のプラスになる。
本田靖春さんと繁寿司《ヽヽヽ》で飲む。西武は優勝したそうだ。
十一月二日(月) 曇
野球、競馬と強行軍が続いた。楽あれば苦あり。『Number』の観戦記の仕事、二十枚を夕刻までに書かなければならない。仕事は厭ではないが、叮嚀に書くべき時間が無いのが苦痛だ。
[#改ページ]
[#地付き] 一 の 酉[#「一 の 酉」はゴシック体]
十一月三日(火・文化の日) 曇
六十一歳の誕生日。去年は還暦で何かと大変だった。ナマアタタカイ日。
十一月四日(水) 雨後晴
五ヵ月ばかり前、野球は監督がやるものだと書いて、友人知人読者から猛反撃を喰らった。しかし今度の日本シリーズを見れば僕の言う意味を理解してくれただろうと思う。
選手個々の能力を比較すれば巨人軍が圧倒的に優勢である。しかも、第一戦を敵地で戦うほうが有利という天知俊一さんの説があった。敵地で一勝一敗が普通。ホームグラウンドでは二勝一敗、再び敵地で一勝一敗。つまり四勝三敗となる。僕も巨人有利だと初めは考えた。ところが試合を見ると巨人に元気がない。ゴルフだサイン会だCM出演だと浮かれている連中に勝たせたくないという気持も強くなった。監督はそこまで管理すべきだと言うと、すぐに管理野球だと叱られる。また「じゃあ古葉大洋が優勝するんですか」と短絡してくる。古葉が広島を強豪チームに育てあげるのには長年月を要したのである。
西武工藤が一流投手になったのには驚いた。僕は名電工のゲームを甲子園で見ているのだが、小柄でやや肥満体質のカーブ投手が大成するはずがないと思っていた。近鉄小野もそうだ。西東京大会でよく見ていたのだが、ヒョロヒョロしていてプロで通用するとは思えなかった。今年のドラフトは不作だと言われるが、東亜川島、尽誠伊良部、浦和鈴木は一流選手となる素質ありと見ている。むしろ多士|済々《せいせい》ではないか。
十一月六日(金) 晴
午後、散歩に出る。|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》に寄る。伊藤接氏、今年は銀杏の黄葉が遅いと言う。一昨日の一橋祭に集ったOBがガッカリしていたそうだ。
十一月七日(土) 晴後小雨
寒い日。府中JRA。第一レースから最終レースまで全不的中の惨敗。マイナス四万六千五百円。これで一レースに四千円平均の馬券を買っていたことがわかる。あまりに寒いので一橋大学教授長島信弘氏を繁寿司《ヽヽヽ》に誘う。競馬は健康と気晴らしのためだが、必ず繁寿司《ヽヽヽ》で夕食を済ませるのは妻を土日は家事から解放するため。
十一月八日(日) 晴
昨夜は眠れなかった。菊花賞の行われる京都の馬場状態は良なりや重なりや。良と重の二通りの予想をするのだが、数字がちらついて眠れぬ。競馬健康法の唯一の弱点がこれ。
府中JRA。今秋一番の快晴なれど風強し。欅《けやき》の紅葉が美しい。
菊花賞はサニースワローの単複。サクラスターオー、レオテンザンの同居するDを中心に@D、DF、DGと流す。場内テレビで見たのだが、直線、五枠三頭が先頭に躍り出たときはシメタと思ったが末切れるゴールドシチー、ユーワジェームス、メグロアサヒに差される。
昨日、前売で映画監督の森田芳光さんがサクラスターオーの単複を買っているのを目撃している。あの年齢の頃は僕も勘が冴えていたなあと往時を懐かしむ。マイナス一万二千円。一日平均三万円のマイナスならゴルフと同じだというのが僕の基本的な考え方だ。
一の酉で大国魂《おおくにたま》神社に参詣する。今年は七五三と重って賑わっている。妻が三百円の熊手を買おうとするのを制して千円のものを買った。去年は浅草の鷲《おおとり》神社へ行って内海桂子さんに熊手を買ってもらった。お酉様は、やっぱり浅草でないと気分が出ない。
繁寿司《ヽヽヽ》で豊田健次氏御一家と擦れ違いになる。今年は不幸続きだったが、やっと落ちついたようで、こういう言い方はどうかと思われるが、ホッとした一家の様子に風情があった。
十一月九日(月) 曇
鍼治療。血圧、百五十八―八十八。妻、百―六十。
久し振りに銀座へ出て結婚祝いなどの買物をする。日比谷近辺がすっかり様変りしているので妻は驚いている。「大都会だわねェ」と言うから「これが東京だよ、おっかさん」と言ってやった。
十一月十日(火) 晴
庭の樹木に肥料をやる。この時期が良いか悪いかわからないのだが、咲こうとしている椿や侘助に力をつけてやろうと思ったのと、せっかく作ったコヤシが勿体無いという考えもあった。
貯金箱が一杯になったので、多摩信用金庫へ持っていった。三十四万三千百四十四円。
僕の競馬は五百円玉戦法であって、五百円ずつ三点買いするときに、三箇所で千円ずつ買うと三千円を要する。だから、ポケットが傷むし重いという難があるが、常に財布の中身は減り続けていて緊張感を強いられる。これを貯金箱にいれてタマシンへ持って行くのだが、年間七十万円から百万円に達する。
思うに僕は競馬が好きなのだ。資金が無くなって競馬へ行かれなくなったら大変だという考えから、こんな戦法を編みだした。しかし、言っちゃなんだが、妻から小遣いを貰ったことはない。これはサラリーマン時代から続いていて、月給袋に手をつけたことはない。麻雀と競馬と内職で賄《まかな》ってきた。ちっとも自慢にはならないが、癖のようなもので、若いときは大酒呑みの償いだと思っていた。
珍事あり。僕の貯金箱は円筒形の錻力《ブリキ》製なのだが、多摩信用金庫であけるときに缶切りであけてしまった。これでは以後使いものにならない。中身を袋にでも入れ替えて持ってゆけばよかったのだが、銀行は貯金箱なんかの専門家だと思って信用した僕がいけなかった。どんな貯金箱だって壊さずにあけられるようになっている。それとも、いま、貯金箱なんか使う人はいないのかしらん。三十五万円前後入ると見当がついて便利だったのに、と老人の愚痴を言う。
江川卓引退声明。この件につき、夢のような話を書く。
江川は、終始自分を庇《かば》ってくれた巨人軍のために、強肩俊足の外野手とのトレードに応ずる。移籍した球団で十勝以上をあげて、本心を打ち明けて華々しく引退する。これが僕の考える男の花道なのだが無理だろうな。思えば江川の出現によって、自分とは考えの違う人種があらわれたのを気付かされたのである。
シーズン半ばで引退した鈴木啓示の時も似たようなことを考えた。先発完投できなければエースのプライドが許さぬという考え方と、年間契約なのだから、その年だけは中継ぎでもワンポイントでも引き受けるという考え方と、どっちが男らしいのか。
ついでに衣笠祥雄についても言ってしまおう。この見るからに好人物という男の偉業に難癖をつける気持は毛頭無いのだが、打撃不振に喘《あえ》いでいたとき、自分の記録は無視してくれと申し出ることがあったのか無かったのか。多分あったはずだと思うが、先発して一、二打席で退くのはいかにも不自然だった。
以上、内情を知らぬままに書いたが、こう見てくると、僕にやや全体主義的な傾向があることに気付かされる。
十一月十一日(水) 晴
金沢|倫敦《ロンドン》屋からズワイガニ。病気全快された由。一関|間室胖《まむろゆたか》さんから農業高校の林檎。形はイビツだが新鮮で思わず手で撫でまわす。
[#改ページ]
[#地付き] 四 連 投[#「四 連 投」はゴシック体]
十一月十二日(木) 小雨
写真の整理をしていたら、喜多方郊外の吹雪(スバル君撮影)と小樽郊外牧場の雪景色(海陽亭社長宮松重雄氏撮影)が出てきた。写真で描くのは本意ではないが、近くの画廊|エソラ《ヽヽヽ》で国立在住画家の小品展(ハガキ大で描く)が開かれるので、これを使わせてもらう。
旧文藝春秋岡富久子さんが亡くなられたそうだ。鎌倉に住んでいた頃、川端康成先生の所に凄い美人が出入りしているという噂があり、隣に住んでいたので、それとなく見張っていると、目の大きい気の強そうなお嬢さんが先生の家の台所口に入って行くのが見えた。それが岡さんだった。ああいう女性と口がきけたらいいのにと思ったものである。
後年、木曜日に銀座の鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》へ行くと、必ず岡さんに会えた。ベロベロになった吉田健一先生と河上徹太郎先生のお世話をしていた。河上先生をタクシーに乗せて、ふうッと溜息をついて戻ってくる。岡さんも酒が好きだった。こういう方が文壇を支えてきたと思わないわけにはいかない。
十一月十三日(金) 小雨
池の鯉の動きが緩慢になってきた。冬を越すために余力を貯えているかのように見える。
十一月十四日(土) 曇
府中JRA。マイナス一万六千四百円。九レース黄菊賞までで帰宅。
柳原良平氏長男良太君の結婚式。結婚式はホテル・オークラで六時からだから、三時半に家を出れば充分に間にあう筈だった。
しかるに、この日、都内一円大渋滞であったという。新宿通過が五時、そこからが動かない。遅刻は仕方がないとして、神経に障害のある妻がどうにかならないかと、そっちのほうが気になる。
「だいじょうぶだ、間にあうよ」と励まし続ける。
そのうちに僕のほうがどうにもならぬ状態になった。僕には頻尿の傾向がある。競馬場では喉が乾くので、水、お茶、コーヒーをガブガブ飲む。下腹部(膀胱のあたり)が痛くなってきた。それが遂に限界に達したのを悟った。以前、西浦海岸から鳥羽ヘホーバークラフトで向うとき、同じようなことがあった。そのときは、ビール大ジョッキ一杯飲んで乗船したため、ひどいことになった。後部座席へ行ってオシボリ用のビニール袋に放尿したのだが、忽ちに溢れて迷惑をかけたし情ない思いをした。
運転手に事情を話すと「待避所があるといいんですが」と気乗薄な感じ。三宅坂附近はトンネルが多く待避所なんか無い。思い余ってビニール袋を持っていないかと訊くとアリマスと言う。これは酔っ払いが乗車したときのためだそうだ。まさに地獄で仏の思いで借用したのだが、僕は頻尿の癖に小便の出が悪い。運転手に負《お》ぶさるような恰好で、つまり立小便に近い形で放尿したのだが、チョロッとしか出ない。隣の自動車を運転している人は僕をどう思ったか。それでも少しは楽になった。後で聞いたのだが、こういうときのために飛行機に用意されているゲロ袋を携行するといいそうだ。
六時十五分、ホテル・オークラ到着。有難いことに大渋滞のために結婚式のほうも押せ押せになっていた。ぎりぎり間にあったのだが、控室で新郎新婦、御両親に挨拶する機会を失ったのは痛恨事だった。
オークラなので覚悟していたが、さっぱりとした気持の良い結婚披露宴だった。柳原良平夫妻は儀式や行事は好きなのだが、例のキャンドル・サービスや花束贈呈なんかは大嫌いなのである。仲人の挨拶もよかった。良太君は東大法学部から日銀というエリートコースであるのに仲人は学歴紹介なんかを省略された。
十一月十五日(日) 曇後小雨
府中JRA。マイナス三千四百円。富士ステークスでフランスの名馬トリプティク(凱旋門賞三着)が実に強い勝ち方をした。むかしの強い馬は後方から一気に抜けだしたものである。米国流はガリガリ行く。ヨーロッパは昔の日本の競馬と似ている。展開も前が詰まったもありゃしない。ベン・ジョンソンとカール・ルイスのレースと同じような感動を受けた。豪快だった。トリプティクの見物料と思えば三千四百円なんて安いものだ。JCもこの馬が勝つだろう。
十一月十六日(月) 晴
もちろん、毎朝庭を掃き焚火の火を見ながら一服する。こんなに気分のいいものはない。庭で莨を吸う男が増えているそうだ。マンション住まいの男は換気扇の所で吸うんだそうだ。「女房子供は我慢してもらうとして、孫の体に悪いと言われると弱くてね」と彼等は言う。
鍼治療。血圧百四十八―八十八。毎年JCが近づくと絶好調になる。
鍼で江川卓投手引退記者会見を思いだす。その眼目は次の通りだ。
五十七年から右肩痛に悩まされた。チームメイトにはわからないように(実は皆知っていた)鍼その他の治療を続けている。四、五日は調子がいい。しかし、次第にその間隔が短くなってきた。投手生命が終りに近づいたと思った。今年の九月、遂に一大決心をする。肩痛の患部に直接鍼を打つと一時的に全快の状態になるが、それをやると致命傷となる。完全に駄目になる。スポーツマンとしての死を意味する。つまり禁断のツボだ。ここで乾坤一擲《けんこんいつてき》、それを実行するのである。九月二十日、対広島戦のピッチングは、だから、自分としては、この数年来の最高の出来だった。(僕もそう思う)正念場の九回裏二死走者一塁打者小早川のとき、自分の最大の武器である直球で押し通す。これは禁断のツボをやらなければ投げられなかった球だ。結果は小早川のサヨナラホームラン。江川はマウンドで泣きベンチ裏で泣きバスに乗っても号泣を続けた。江川は巨人軍のために、正力オーナーのために、尊敬する王貞治のために、自分を犠牲にして死んだのである。――と、まあ、こういう話だった。
なんという美談であろうか。なんというドラマチックな話であろうか。
僕がテレビで江川の話を聞いていて、最初に頭に浮かんだのは狼少年《ヽヽヽ》である。「狼少年、またやったな」と思った。江川は大人だと言われるが、これは子供の言訳である。大人なら契約している正力オーナー、指揮官である王貞治に「あなた死んでもいいですか」と相談するのが常識というものだ。
いったい、禁断のツボなんてものがあるのだろうか。これは全国の中国鍼の先生方に教えてもらいたい。鍼で肩がズタズタになるのかどうかも、あわせて御教示ねがいたい。
十一月十七日(火) 晴
『吉例顔見世大歌舞伎』の歌舞伎座へ行く。「屋上の狂人」をやっていて、これは菊池寛生誕百年記念ということで上林吾郎社長から招待されたもの。
「石切梶原」で、昔から巧いと思っていた中村松江が一段と腕をあげているのを喜ぶ。僕がこの芝居を見た頃、囚人剣菱呑助は権十郎の持役で大いに沸かせたものだが、いま大庭三郎景親になっているのは今昔の感にたえない。
結婚式・競馬・鍼・芝居見物と妻の四連投は有史以来の出来事。
終って表へ出たら井伏鱒二先生がタクシーを待っておられる。「きみ、人間を運ぶ会社は無いのかね」「宅急便ですか?」「そう……」。先生の言動は常にウイットに富む。
[#改ページ]
[#地付き] 将棋の話[#「将棋の話」はゴシック体]
十一月十八日(水) 晴
川口浩さんがガンで死去。競馬の仕事で何度か一緒になったが、大映時代の暴れン[#小さな「ン」]坊の噂とは違って物静かな方だった。野添さんのほうが威勢がいい。芸能一家で育ったのに、よほど芸能界が嫌いだったようで「芸能人なんて……」というのが口癖だった。『おとうと』の名演技が忘れられない。
『別冊文藝春秋』の原稿二枚半。
十一月十九日(木) 晴
豊田健次氏来。昨日の原稿を渡す。出版局長に原稿を取りにきてもらうのは申訳ない気がするが家が近いのである。
将棋の河口俊彦六段、観戦記者の東《ひがし》公平氏来。こんど将棋ペンクラブが結成されて、この二人は会長と副会長であり、二人とも僕の尊敬する文章家である。
将棋界では観戦記者の地位が不当に低い。対局者が、さしたる理由もないのに一方的に観戦記者を拒否することがある。タイトル戦では前夜祭が行われるが、観戦記者は末席に坐らされて雑用を手伝ったりしている。タイトル保持者や挑戦者の近くに坐って前夜の様子を観察しなければ良い記事が書けないのにと不思議に思ったものだ。いや、何度も腹を立てた。実際に「評論家に人材のいない世界は駄目になります。筆の立つ観戦記者を育ててください。さいわいに僕の属する文壇には小林秀雄さんほか多士済々です」と将棋連盟の偉い人に迫ったことがある。将棋雑誌を購読しているが河口さんや東さんの書いている頁しか読まないという読者も多いのである。観戦記者を優遇せよ、スターを育てろというのが僕の長年の持論であって、だから将棋ペンクラブの発足は実に喜ばしい。
河口さんも東さんも、名文家ではあるが、実務の才があるとは思われない。愛棋家は、どうか資金面でも心情的にも大いに応援してあげてください。
十一月二十日(金) 晴
庭を掃き焚火をしていると気持が澄んでくる。僕も妻も息子も、こういう状態でいられるのは、まあまあ幸福なんじゃないかと思ったりする。いろいろなことを思いだしたり考えたりするが、自然に戦死した先輩・友人・知人の顔が浮かんでくる。頭をポマードでテカテカにしていた長唄の師匠が、ある日、青い坊主頭になって挨拶に来たと思ったら、それっきり帰ってこなかった。比島で戦死したと後で知った。孝行息子で評判だったが、僕には冗談ばかり言っていた野球部の先輩も帰ってこなかった。戦死は仕方がないとしても、さぞや軍隊では苛められたろうなと思うと胸が痛む。「いったい誰のお蔭なんだ」という声が天上から降ってくる。僕もまた終生こんな重荷を背負っているような気がする。
晴天が続いている。散歩に出る。空気が澄明であるぶんだけ寒い。絵を描くための枯葉を拾うという目的があるので、林のなかを歩く。目移りがするって、こんなに目移りするものはない。相手は何百万枚という数だ。
十一月二十一日(土) 晴
府中JRA。マイナス四万八千九百円の惨敗。ギャンブル好きの人にはわかるだろうが、惜しいレースが続いて熱くなるのである。単勝式で買った馬がすべて二着になった。
十一月二十二日(日) 晴
府中JRA。名物の欅の巨木が紅葉してやわらかい感じになっている。今年一番の秋晴れ。寒くない。僕が最初に勤めた会社の社長は、こんな日に「いい日だ」と言うので、十八歳の少年だった僕は「なんと語彙の乏しい男であることか」と思ったものだが、僕も今日はいい日だと思った。こんな|いい日《ヽヽヽ》は一年に一日か二日しかない。連休を利用して紅葉狩りに行った人は大当りだった。しかし、競馬場から見える中央高速自動車道は、終日大渋滞が続いた。
馬券は昨日と同じような惨敗に終るところだったが、最終レースで挽回。プラス千四百円。僕はレースが終ると部屋の後片付けをするので最終レースの払戻しには妻が並ぶ。荷物を持ってそこに近づくと一橋大学の長島先生も並んでいて「この顔を見てください。ニッコニコです」と言った。ほんとに笑っている。僕と同じ馬券を買っていたわけだ。最終レースを買うとき、残金六百円になっていたそうだが、先生にとっても今日はいい日だった。
十一月二十三日(月・勤労感謝の日) 晴
NHKTV『公開お好み将棋対局』で「将棋の日」の中村修王将と羽生《はぶ》善治四段の席上対局を録画中継している。
中村王将の極めて不出来な将棋だったが、見ているものの感じからすると天才羽生が王将をブットバシタということになる。羽生に逡巡遅滞《しゆんじゆんちたい》するところが少しもなく彼のスケールの大きさだけが目立った。
中村王将が登場したとき僕は驚いた。僕なんかの理解できない将棋だった。筋が悪いというのは将棋界ではむしろ玄人《くろうと》っぽいことになるのだが、こんなに筋の悪い将棋も珍しい。怖しく強い人じゃないのかと思った。新人類の代表のように言われたが、その中村王将が、現在ではやや古く見えるらしい。それくらい天才羽生善治を筆頭に十代の若い棋士の進出がめざましいそうだ。
これが社会現象かというと、そうでもなくて、囲碁のほうには天才少年があらわれない。文壇でも十代の天才作家はいない。ジャーナリズムでも二十代の天才編集長の名を聞かない。
僕は羽生少年しか知らないのだが、これがタイトル保持者をバッタバッタと倒すのである。
将棋界には「矢倉の将棋は純文学」という言い方がある。そのひとつの意味は、こんなに難しく純粋なものはなく俺はこれに生涯を賭けたということである。命懸けで勉強したものが、ちょっと勉強しただけの若手に簡単に負かされるのはどういうわけか。河口俊彦六段に似たような質問をしたところ、彼もわからないと言う。本当に言葉がないという感じだった。ちょっと勉強しただけという意味を補足すると、僕は最大の勉強は対局だと思っているので、キャリアが浅いということである。
棋士になることを諦めた人は、一様に「終盤が弱いことがわかった。それに将棋は難しすぎる」と言う。ちょっと勉強しただけで天下が取れるとすれば、将棋というのはそんなに難しいものではなかったのかという疑問が生じてくる。あるいは従来の勉強法に欠陥があったのではないかとも思われる。
僕は、新人類は、学校の勉強でも将棋の勉強でもゲームのように考えていて、だから明快で、遊びの精神だからアガラナイ、従って強いと考えていたが、どうしてそんなもんじゃないようだ。正直、わからない。
こんなことを書くとまた叱られそうだが、来年、中原・米長の時代が終って、谷川浩司を中心とする若手の世界になるような予感がする。すくなくとも中原・米長にとって来年は正念場になる。ヴェテランの巻き返しなるや否や。
わかっていることがひとつだけある。この若手連中を、鎧袖《がいしゆう》一触、負かしてしまう十五世名人大山康晴の将棋が一番強いということだ。
十一月二十四日(火) 晴
庭に穴を掘る。焚火の最盛期を迎えたためだ。『小説新潮』に連載した「新東京百景」の著者校正。
[#改ページ]
[#地付き] 身体検査[#「身体検査」はゴシック体]
十一月二十五日(水) 晴
晴天続きだ。冬型の気圧配置が安定してきたようだ。フミヤ君来。『新東京百景』の著者校正を渡す。焚火用の穴掘りを手伝ってもらう。
僕は多くの人が有難がるほどには豆腐が好きではない。粗食を心がけているので、もっと豆腐好きになれるといいのだが……。大の豆腐好きの友人がいる。彼も血圧が高くて減塩している。だから羨ましく思っているのだが、「しかし、ね、きみ、豆腐って奴は湯豆腐でもヒヤヤッコでも、どうしたって醤油を使うことになる」と言って歎く。これには笑った。
十一月二十六日(木) 曇
『小説現代』編集長宮田昭宏氏来。二人で文蔵《ヽヽ》で飲んでいたら、ヒョッコリ関保寿先生があらわれる。宮田さんに「へええ、ナンコツが食べられるんですか。こっちは文蔵《ヽヽ》の縄暖簾(何本か欠けていて隙間がある)です」と口を開《あ》けてみせる。鉄人も歯が弱ったようだ。いい歯医者を紹介しましょうかと言ったら、「何人もの人に同じことを言われましたが、もう決めました。……下手な医者なんですがね」と笑う。関先生が言うと、どこか滑稽味がある。天性のものだろう。一緒に帰りませんかと言ったら「もう二、三軒飲みに行かなくてはなりませんから」と強がりを言う。
ホーナーが戻ってこないので、ヤクルトファンの文蔵《ヽヽ》がガッカリしている。僕もホーナーのファンだ。ホーナーは「野球じゃなくてベースボールがやりたい」と言っているそうだ。彼はホームランをボカスカ打つのがベースボールだと言っているのではない。ピッチャーゴロを打って全力疾走しないのはベースボールじゃないと言っているのである。仕事の出来ない奴に限って恰好をつけたがるのは、どこの世界でも同じだ。
十一月二十七日(金) 晴後雨
金沢|倫敦《ロンドン》屋戸田宏明氏来。二時半頃に来て、|ロージナ《ヽヽヽヽ》、文蔵《ヽヽ》と僕の行く店を歩き廻り、国立高校野球部の練習も見たという。それなら早く連絡してくれればいいのに……。こういうのを悪遠慮と言う。東京でスバル君に会う約束があると言って、雨の中、すぐに帰っていった。夏の終りに十二指腸潰瘍で倒れ、ずいぶん心配したが、全快はメデタイ。
飯島小平先生訳、バーナード・ショオの『傷心の家』という戯曲を読む。
十一月二十八日(土) 小雨
府中JRA。マイナス一万三千四百五十円。滝田ゆう夫人がパドックを見てきたと言われるので「どうでした?」と訊くと「ええ、岡部の顔がとても良かった。肌なんか艶々《つやつや》して……」という答。こういう見方もあるんだな。
NHKTV、山田太一脚本、深町幸男演出『今朝の秋』というドラマを見る。笠智衆、杉村春子の両優は姿だけで芸術品だ。宇野重吉もそうだが仕事を持っている老人は強い。また、良いドラマには無駄なシーンがないことを知る。
十一月二十九日(日) 曇後晴
矢崎泰久氏と一緒に府中JRA。ジャパンカップでお馴染みの友人・知人の顔を見る。みんな嬉しそうにしている。しかし、すれ違いざまに「このレース、取りましたよ」と囁いたりするのはどうか。こっちの身にもなってくれ。
トリプティクは四着に破れた。距離とか展開よりも、僕は中一週で疲れが出る頃だったと見ている。ハイペースで逃げまくって五着に破れたがムーンマッドネスは怖しく強い馬だ。ゴール前差し返す勢いがあった。勝ったルグロリューは小柄だが、これぞサラブレッドという感じがあった。木彫の馬のように叩けばカンという音がするんじゃないかと思われた。同じように馬体が良く見えた英国のマウンテンキングダムとどっちの単勝を買うべきか最後まで迷ったが、CF、FにEFを少しという連勝式を買って失敗。白状するとルグロリューの単勝オッズ八・六倍、マウンテンキングダム八・九倍で、これが逆だったら前者の単勝を買っていた筈。僕の競馬のいけないところだ。僅かな数字の差に惑わされるのは卑しいと反省する。
滝田ゆう夫妻、ともに的中。八月十八日生まれの妻は自分のラッキーナムバーと信じている@G(二着、三着)の馬券を握りしめて息を潜めていた。これは三百倍である。こういう馬券が的中すると後がよくない。僕、トータルで一万五千五百五十円のマイナス。
これで今年の僕の競馬が終った。来年は中山改装のため、二月から六月半ばまで連続開催で大変なことになる。何が大変って資金が続くかどうかだ。
十一月三十日(月) 晴
妻と息子と三人で、荻窪病院で一泊の身体検査(人間ドック)。この病院の吉川院長と御子息の吉川事務次長とは競馬場で知りあいになった。吉川院長は外科手術の名人という評判が高い。お二人とも穏やかな人柄で、妻も安心している。競馬健康法の思わざる効果だ。
荻窪病院は、昭和十二年に建設されたもので、さァ何と言うか、昔の木造の小学校のような建物だ。院長も事務次長も汚い汚いと言われるが、ヨーロッパの家庭的な小さなホテル(ヨーロッパへ行ったことはないが)のような病室で僕は気に入ってしまった。
病院で一番偉いのは看護婦(それも婦長)である。荻窪病院には女医が多い。この人達がハキハキとした大きな声で指示したり命令したりする。妻は完全主義的傾向があるから、そこに幽閉《ゆうへい》されると「雌鳥時を作る」という感なきにしもあらず。
体重六十二キロ(少し太目)。身長百六十三・五センチ(少し縮んだらしい)。糖尿は良化している(糖負荷一時間後の数値が七年前の264から137に低下)。これは食欲のない妻につきあっているせいだろう。あに粗食に励まざるべけんや。いつでも言われるが白血球の数値が異常に高い(これは再検査)。心臓やや肥大。その他はほぼ正常。血圧、百四十四―八十四(僕としては良好)。
野坂昭如氏『赫奕《かくやく》たる逆光―私説・三島由紀夫』(文藝春秋刊)一気に読了。三島さんが剣道に凝っていた頃、パートナーに誘われたことがある。あんな青|瓢箪《びようたん》みたいな人に「オメン一本!」とやられたらかなわないので辞退した。僕を指名したのはどういう意味なのか全くわからない。
十二月一日(火) 雨
体全体が痒い。湿疹が出来ている。病室が乾燥しているせいではないか。皮膚科へ行って診てもらったら老人性のものでホルモンとアブラが足りないのだそうだ。あやうく「じゃあ、若い娘と寝たら治りますか」と質問しそうになった。
昼頃検査が終って帰宅。
慎重社都寿司君来。年末に出版される『巨人ファン善人説』(新潮文庫)の手直しの仕事。嵐山光三郎氏に解説をお願いしたのだが、とても面白くて上機嫌になる。
今日は麻布中学第四十九期卒業生のクラス会(赤坂|美々卯《みみう》)。いそいで家を出る。
終って幹事連中と赤坂、築地の酒場で飲む。「お前なあ、人間ドックで成績良好と言われた直後が危いんだぜ」。そうかもしれない。久しぶりの大酒で燥いでいたようだ。「八十歳まで生きられるとしても、愉快に飲めるのはあと十年だ。三百六十五掛ける十回しかない。だから夜だけは美味いもの食べて楽しくやりたい」。そりゃそうだが飲み過ぎると翌日が愉快じゃないぜ。
[#改ページ]
[#地付き] 忘 年 会[#「忘 年 会」はゴシック体]
十二月二日(水) 晴
銀座|米倉《ヽヽ》で散髪、|フジヤマツムラ《ヽヽヽヽヽヽヽ》で歳暮用品を買い、吉田《ヽヽ》でモリ一枚食べて、ホテル・オークラの文藝春秋忘年会に出席。めったにはこの種のパーティーに出席しないが、今年は文藝春秋創刊六十五周年と菊池寛生誕百年という肩書がついている。僕なんかも菊池寛の恩恵を蒙《こうむ》っていることになるので出席しないわけにはいかない。永井龍男さんのスピーチが聞かれるんじゃないかと思ったが、現社員と旧社員との懇親会のような集りだった。たくさんの懐しい顔を見た。
講談社大村彦次郎氏に誘われて鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》で夕食。忘年会シーズンで満席だったが、二人分の卓をあけてもらった。そこへ常盤新平氏があらわれて三人分の卓に移動。文春の会が終った豊田健次氏が来て四人分の小座敷へ移る。鍋物は座敷のほうがいい。その鮟鱇鍋が実に美味い。ついつい大酒になった。鍋以外は納豆と卯《う》の花で暴食になるかどうかわからない。四人で葡萄屋《ヽヽヽ》へ行く。文壇酒場がバタバタと潰れるなかで、この店の健闘は偉とするに足る。旧社員の中野修氏に会う。『オール読物』編集長時代に、僕に『世相講談』という読物を四年半も連載させてくれた大恩人だ。向田邦子や沢木耕太郎は僕の書いたもので良いのはこれだけだという言い方をする。その報告と御礼を言いたいと思っていたので、久しぶりに中野さんに会えたのが有難かった。こうなるとパーティーに出るのも悪くないと思ってしまう。
贅沢な一日だった。しかし十二月初めからの忘年会続きをどう乗りきるかが大問題だ。いや、そのあと新年会が続く。
十二月三日(木) 晴
蔵書の整理。この時期、古本屋を呼んで本を売るのだが、今年は思い切って半数以上を整理することにした。半日仕事だと思っていたが、どうしてどうして、捗《はかど》らぬ。第一に本は重い。この体力がどこまで続くか心もとない。
蔵書の整理を思い立ったのは、新潮社、文藝春秋、小学館(刊行中)の文学全集で、現代文学の代表作は概ね揃ってしまって単行本と重複するからである。『向田邦子全集』(文藝春秋刊)なんかは、活字が大きくて単行本よりも読み易い立派なものだから、その一冊一冊に思い出があるのだが、そっちは捨て去ることにした。また、飯島小平先生に頂戴した江戸時代の文献を置く棚も必要になっている。結局、書物というのは辞典・年表、もしくは辞典の役を果たすものがあれば充分だということになる。そうは言っても、若い時に読んで感動した書物なんかは、どうしても手放せない。
十二月四日(金) 晴
銀座|クール《ヽヽヽ》古川緑郎氏夫妻来。バーテンダー生活六十年記念と開店何十周年記念だかの展示会が銀座マリオン西武の一室で開かれるので挨拶に来られたのだ。店ではキビキビと動いているのでわからなかったが古川さんは腰が弱っている。職業病だそうだ。千疋屋《ヽヽヽ》の水菓子《フルーツ》を頂く。お持たせを何かと思ったが貧書生には何もない。古川夫人はセミプロ級の日本画家であるので、庭の落葉数葉を画材用に拾ってくる。前代未聞のお土産だが、僕の念力で枯葉を紙幣に変えてみせるゾ。
十二月五日(土) 曇
谷川書店《ヽヽヽヽ》(古本屋)主人、自転車で来たが部屋に積みあげた書物の山を見て、引返して自動車でやってきた。これでサッパリした。二月号締切で奮闘中の同業諸氏を思うと、痛快であるような申訳ないような。
十二月六日(日) 雪後曇
東京の十二月初旬の雪は、大正九年以来、六十七年ぶりであるそうだ。
十二月七日(月) 晴
関保寿先生来。京都へ染付に行かれた由。先生と話をしていると心が和む。
来年の「成人の日」用のサントリー広告文案を書く。|クール《ヽヽヽ》に貰ったフルーツを描く。描きながら食べたくて仕方がない。絵は割合にうまくいった。林檎がセザンヌのようになった(と自分では思っている)。
サン・アド広内啓司氏、将棋ペンクラブ河口俊彦氏、東公平氏来。四人で蘭燈《ランタン》園、|ロージナ茶房《ヽヽヽヽヽヽ》へ行く。
将棋ペンクラプの発会式は盛大で将棋ファンの熱気に驚いたそうだ。僕も何かで協力したいのだが妙案が浮かばない。
十二月八日(火) 晴
昨日の静物画を仕上げる。絵を描きながら庭の焚火の加減を見ている。これが僕の至福の時。その思いを打破るようにして将棋の芹沢博文九段危篤の報に接する。昨夜から意識不明で、親類の方が集っていて、弟|弟子《でし》の中原誠名人も駈けつけたそうだ。半月程前、テレビでインタービュウを受けている芹沢さんの顔色があまりにも悪いのを見ているので、今度は駄目なんじゃないかという予感がした。
戦前の第一早稲田高等学院の級友三人の忘年会。三十五年も続いている。いつも東大の守谷兼義が参加するのだが、一昨年急死してしまった。細君同伴だが、従って一人は未亡人。遠出の出来ない妻のために拙宅から歩いて百五十メートルの押田《ヽヽ》という鰻屋に集ってもらう。その肝焼《きもや》きの評判がいい。娘、嫁、孫も随時参加する。
二次会は、これも近くの Catfish という喫茶店。ここに所属する|エソラ《ヽヽヽ》という画廊で「はがきゑ展」が開かれていて今日は初日。上田健一が僕の烏瓜の絵を買ってくれた。こういうのを業界では|義理買い《ヽヽヽヽ》と言う。
十二月九日(水) 小雨
妻と息子と三人で荻窪病院へ行き、先日の身体検査の結果を聞く。
血圧、やや高い。食道、胃(後方にコイン様陰影あり)、十二指腸は潰瘍気味で再検査(胃カメラ)。糖尿病は正常との境界形(これは僕の怖れていたよりは良好)。血液は白血球増多。左腎臓に嚢胞《のうほう》あり(心配するようなものではないそうだ)。総コレステロール287、中性脂肪174で数値が高い。
食生活は、脂肪、糖質、塩分、酒、タバコを減らさないといけない。それと運動だ。妻は大腸の再検査、息子はコレステロールと中性脂肪を注意される。あきらかに飲み過ぎだ。僕は息子の年齢のとき浴びるように飲んでいたので、何とも叱りようがない。
芹沢九段死去。五十一歳。彼も浴びるように飲んだ一人だ。飲み続けた。これは人生観の問題であって、他人が関与すべきものではない。僕は人生観が違うから抵抗を試みるつもりだ。
芹沢さんに拝み倒されて、将棋の好きな医者のいる京都の病院を紹介したことがある。彼は三日目か四日目で病院を飛びだしてしまった。淋しがり屋の彼が誰も見舞いに来ない病院にいられるわけがないのである。芹沢さんが僕の悪口を言ったり書いたりしているという話を何度も聞かされた。しかし、どこか憎めないところがあって、あまり気にとめることがなかった。
僕が彼を宥《ゆる》すのは彼が無類の将棋好きであったからだ。僕の家に泊った芹沢さんと米長邦雄九段とが、朝、下着一枚とステテコで真剣に将棋を指していた光景など、いま思いだしても清々しい感じがする。また、芹沢さんは、将棋盤の上に誰かが茶道具を置いたりすると烈火のように怒った。将棋を覚えたいという人がいると、それが幼児であっても、まず盤に対する坐り方や礼の仕方から教えた。そういう棋士だった。
[#改ページ]
[#地付き] 看 護 婦[#「看 護 婦」はゴシック体]
十二月十日(木) 晴
また|エソラ《ヽヽヽ》「はがきゑ展」を見に行く。ほとんど売約済。
十二月十一日(金) 曇
枯葉の絵を描く。
芹沢博文九段の話の続き。
あるとき友人と将棋を指していると、遠くのほうから芹沢さんが「詰んでいるものは詰ませなくてはいけませんね」と叫んだ。その頃、僕の家の一階はワン・ルームで割に広かったのである。彼は別の仲間と麻雀を打っていた。うしろ向きのままで言った。僕の駒音で指し手がわかったのだろう。これは芹沢さんが自分の才能を誇示したのではない。彼は麻雀を打っていても、関心はもっぱら僕のヘボ将棋のほうにあったのである。それくらい、彼は将棋が好きだった。
芹沢博文には、将棋を広く世間に知らしめたという功績があったと思う。歌を歌い、テレビのクイズ番組に盛んに出演するようになった頃は、もう遊びに来なくなった。将棋界には変った人がいる、面白い人がいるというPR効果はあったと思うが、ややイメージ・ダウンの気味がなくはなかった。「あり余る才能を小出しにする」と冗談半分で豪語していたが、芸能人と対等にジョークを披露したところで真の将棋ファンは誰も喜ばない。彼は僕なんかには形勢不明と思われる局面で投了してしまうことが多かったが、自分の将棋人生をも投げてしまっているようだった。それにしても、五十一歳。「芹沢さん、あんた、投げっぷりが良すぎるぜ」と訃報に接したとき咄嗟に思った。
十二月十二日(土) 小雨
十時から荻窪病院で再検査。胃の奥に何だかわからない影があり、造影剤を射ってCTスキャンでもって調べようとするもの。胃腸のCTスキャンは何回も試みているが何程のこともないので鼻歌まじりで出掛けた。
ところが、意外にも、この造影剤の注射と点滴が、説明不可能なくらいの苦痛を与えるものだった。まず、いきなり襲う嘔吐感。次に体全体がカッと熱くなる。そうして言いようのない不快感が続く。助けて呉れェと叫びそうになった。さらに、この検査は長く続く。おそらくは十分程度だったと思うが、一時間にも二時間にも感じた。検査の間中、芹沢博文の人生観のほうが正しかったのではなかったかと何度も思った。いったい、この人生、こんな思いまでして生きるに値するものかどうか、考え込まざるをえなかった。
あるとき、老後に何を望むかが話題になった。僕が、ただ長生きがしたいと言ったところ、それは、きみ、金が溜ったからだろうと言われてしまった。そんなことはない。蓄財に興味も関心もなかったから、いまでも金銭面では不安で一杯である。ただし、若い頃に較べれば生活はずっと楽にはなった。長生きしたいのは、長生きしなければわからないことがあるということがわかったからである。たとえば、気心の知れた友人と二人でゆっくりと酒を飲むということがいかに楽しいものであるかがわかってきた。そういう時間を大切にしたいと思うようになった。戦中戦後、ずいぶん苦労したし夢中で働いてもきた。屈辱的な目にも遇ってきたし、一ヵ月ばかり大の字に寝て天井を睨んでいるしか手立てのないような、人に言えない事件にも遭遇した。僕にはノンビリした余生があっていいと思うようになった。
他人が体に良いと言うことは何でもやってやろうと思う。病院での検査もそうだ。ところが、検査を嫌う人も多い。その理由は、@病院で検査すると病気を探しだされて病人にされてしまう、A病院は黴菌の巣窟である、B検査は非常に危険だ、などである。
しかし、僕は@病人にされるのではなく、病人だったのだから治療を受けたほうがいい、A黴菌はどこにでもあるのであって、当然、病院は最も安全な場所である、B検査による死亡例もあるが、危険といえば何をやっても、電車に乗っても自動車に乗っても道を歩いていても危険は危険なのだと考えてしまう。
医療制度や病院での扱いに文句を言う文化人がいる。それを聞くと、なるほどいちいちもっともだと思うが、僕は病院へ行くと、まず看護婦に感動してしまう。病院では、あっちへ行けこっちへ行け、ああしろこうしろ、と面倒なことが多い。しかし、面倒なことは看護婦にとっても面倒なのであり、すべての患者を把握している彼女等に恐れ入ってしまう。特に高齢の看護婦には頭がさがる。医療は日進月歩であって、その変化について行くだけでも容易ではない。看護婦は早足で歩き早口で喋る。それだけ忙しいのだと門外漢の僕は解釈する。多忙を極める商社マンだって、あんなに早口ではない。それでいて看護婦が高給取りだというわけではない。患者は老人が多く、それが着たり脱いだりだから忘れ物だって多い。それを実に献身的に探し出してくれるのを見ると、文句を言ったら罰が当ると思ってしまう。
十二月十三日(日) 雪
静物画を描く。
十二月十四日(月) 晴
妻の大腸と直腸の再検査。一人歩きが出来ないから僕がツキソイ。人間はモト健康体であり検査して悪い所が発見されたら処置すればいいと考えるが、妻は、この病人特有の神経でもって大腸癌だと決めこんでいる。良くてもポリープがあるはずだ、そうでなければ再検査されるはずがないと言い張る。手術のため入院すると年末の買物はどうする、月掛け貯金のおじさんが何日に来るがその応待はどう、新年の客はどうするといろいろに考えるようだ。検査のために衣服を脱いでいる最中でも扉から顔だけ出して院長先生が通りかかったら挨拶してくれなど、はっきり言って、ウルサイウルサイ。
結果は担当女医の説明によると、大腸も直腸もとても綺麗だったということ。妻は病院を出るとき、わたし、いま、ウハウハしていると言った。
国立駅前ファッション小路ブランコの蕎麦屋で僕は鍋焼饂飩。妻はアンカケ。病院の帰りで何事もなくホッとしている妻を前にして鍋焼の半生《はんなま》の葱を噛んでいると、しみじみするなあ。ナンチャッテ。
野坂昭如さんの趣味は家事であるという(『週刊新潮』十二月十七日号)。妻は僕にもそれを要求して羨ましがる。このうえ僕が掃除、洗濯、ゴミ当番をやったら、いったい、僕って何なんだ。
|紀ノ国屋《ヽヽヽヽ》で買物。妻はアンマンなんか買っている。歩いて帰る。昨日の雪とは打って変って快晴。美しい夕焼け。一橋大学構内で画材にする枯葉を拾う。濡れた遊歩道。枯葉によって櫟《くぬぎ》にも種類があることを知る。こういう日は重い買物袋が苦にならない。
我が生きざまは、かくの如し。
十二月十五日(火) 晴
昨日拾った枯葉を描き、直木賞候補作品を読む。
十二月十六日(水) 晴
報知新聞主催、最優秀力士選考委員会に出席。東京プリンスホテル。こんなに揉めた選考会は初めて。今年一年の相撲を背負って立ったのは北勝海であり勝数勝率もトップ。対して千代の富士は九州場所での全勝優勝の印象が強烈であり、腰痛を克服した精神力を評価すべきだ。いやあ、困った困った。
[#改ページ]
[#地付き] 頑迷固陋《がんめいころう》[#「頑迷固陋」はゴシック体]
十二月十七日(木) 晴
枯葉も散り尽くした。庭を掃かないでいいようになったのが嬉しいような淋しいような。枯葉を描こうと思い立ったのは夏時分のことであるが、今年の紅葉はよくなかったそうだ。豊作の年は紅葉がよくないという。僕は血のような赤、それに黄と茶と残りの緑の入り交った枯葉が描きたいと思っていたのであるが。
国立高校野球部監督市川忠男氏来。来年度の試合日程など伺う。その最中に大きな地震があった。揺れないのが自慢の拙宅が揺れた。震度四だというが、五にも六にも感じた。
フミヤ君来。『新東京百景』という絵入り紀行文の僕の絵を撮影するためカメラマンを連れてきた。実に嬉しいことがあった。この紀行文の第一回は「新宿超高層ビル群」であったが、その時の絵の所在がわからなくなっていた。妻が連載十九回分の絵を揃えていたのだが、あ、新宿の絵、あるわよと叫んだ。なんのことはない、それは絵を仕舞っておく棚の中から出てきた。むろん、そこは何度も何度も探した。ひとつには、それは、とりわけ叮嚀に大きな封筒にいれて保管していたので目につかなかったのである。もうひとつは、もっと大きな絵だと思い込んでいたためだ。この絵は僕としては上出来であり、発表当時、プロの画家にも褒めてもらった。紛失したと思い、ずっと憂鬱だった。いつまでも心残りが続いた。だから僕は飛びあがらんばかりに喜び、踊り出したくなった。連載の時の担当者である臥煙君も心配して、会社内や印刷所を隈《くま》なく探してくれた。惚けると大勢の人に迷惑を掛ける。「まあ、こんなふうだから、きみも注意してくれ」とフミヤ君に言った。
いつでもそうなのだが、どういうわけか、絵でも書でも、最初の一枚がよく出来る。また「失せ物を探すときは、探そうと思わないで家の中を整理する心持でやれ」という森鴎外の言葉を思いだす。
何点かが府中の|村の木《ヽヽヽ》という額縁屋へ行っている。一年前に持っていったが、まだ額装が出来ていない。いったいに、額縁屋とか表具師というのは仕事が遅い。また仕事が遅い人たちのほうがいい仕事をする。あらかじめ妻が電話を掛けて府中へ行った。仕事場には額縁屋の細君が一人で働いていた。「主人は昨日から風邪で寝込んでいます」と言う。ややダウトの感なきにしもあらずだが、上機嫌でいる僕には少しも気にならない。
十二月十八日(金) 晴
臥煙君来。昨日の一件につき、平身低頭して謝る。
『週刊朝日』十二月二十五日号に恒例の似顔絵大賞と、その選考座談会が掲載されている。
横澤[#「横澤」はゴシック体] 若いタレントさん、売り出し中のタレントさんたちは、似顔絵塾に自分の顔が載ると非常に喜びますね。サンコンにしろ、ケント・デリカットにしろ、三田寛子にしろ、小堺(一機)君にしろ、非常に喜びましたよ、「やった、やった」って。
山藤[#「山藤」はゴシック体] 前に山口瞳さんにこのゲスト選考委員をお願いしたとき、似顔絵っていうのは、じいちゃんばあちゃんから子どもが見ても、「だれだ」って当てなきゃ似顔絵じゃないという説なんですね。いままでの流れからいくとそうではあったけど、このところずいぶん変わってきてる。つまり、似てないことをおもしろがる。
これは選考座談会の一節であり、横澤は横澤|彪《たけし》氏であり、山藤は山藤章二氏である。僕は物忘れがひどく、二年前のことだから、あまりよく覚えていないが、確かにそういう意味の発言をした記憶がある。ずいぶんひどいことを言ってしまったものだ。これを頑迷固陋という。顔から火が出る。冷汗を掻く。あらためて選者として不適格であったことを読者と編集部にお詫びしたい。
僕が肖像画を描くときは、まず、この顔の良い所はどこだろうかと考える。ヌードを描くときは、このモデルさんの体の美しい部分はどこだろうかと最初に考える。風景画を描くときも同じで、この風景の最大の御馳走は何だろうかと考える。肖像画と似顔絵とは違うけれど、根本にそういう考えがあるので、この頑迷にして痴呆的発言になったのだと思う。また、僕は、前衛芸術が殆んど理解できない。この色彩が美しい、この線が力強いといった程度にしかわからない。
似顔絵塾はコロンブスの卵と言いたいくらいの名企画であって、長く愛読している。絵も面白いし山藤さんの選評が実にシャープだ。
こんど大賞を受賞された倉部征治氏にも、ずっと注目していた。なかでも五島昇氏の似顔がその衝撃度において似顔絵史上に残るような傑作である。顔全体が毛だらけで、死神のような貧乏神のような妖怪のような、まことに鬼気迫る態のものだ。
僕は何人かの知人に、これは誰だかわかるかと質問してみた。そのなかの代表的な答を紹介する。
「似顔絵塾が好きで、よく見ているので知っています。だけど、はじめはわからなかった。しかし、五島さんだとわかってから、実によく似ていると思いましたね。だんだん、じわじわっと似てくるんです。これは名作ですね」
つまり、倉部さんの作品は奥が深いのである。僕も知人と同意見である。
僕は尊敬する山藤章二さんに文句を言う気持は毛ほどない。倉部征治氏の受賞に異議はない。何を描こうと、どう描こうと、どれを選ぼうと人の勝手だ。但し、これを掲載する『週刊朝日』編集部の見識を問いたいという気持を封じ込めないでいる。
十二月三日、五島昇氏は記者会見を行って病気のために日本商工会議所会頭を辞任するむね発表した。東急社長を辞任するのも既定の事実のようになっている(注=十二月二十一日になって、こちらの方も正式に発表された)。五島氏は五月に二度目の大手術を行って胃を全部摘除された。ストレス性胃潰瘍と言われているが七十一歳の老人としては容易ならぬ事態である。体重二十キロ減だそうだ。社長を辞任するのは休養に専念されるということである。作者や選者はともかく新聞社の人がこれを知らないわけがない。五島氏は社長としては稀に見るスポーツマンであり、精悍でエネルギッシュな方だった。その急激な窶《やつ》れようは、僕なんかは見るに忍びないのである。こういう際に、死神のような貧乏神のような妖怪のような似顔を発表することに、どうしたって首を傾《かし》げたくなる。僕が選者だったときに、宮沢喜一氏の似顔があまりに過激かつ醜悪だったので、これは失礼ではないかと編集部に迫った。それくらいだから、僕なら、五島氏の似顔は他の作品と差しかえようと提案したはずである。『週刊朝日』編集長殿。「編集部発」欄で見解を聞かせてください。いや、教えてください。僕には「描かれた人はみんな喜んでいる」とは思われないんだが。
十二月十九日(土) 晴
妻、高島屋でブラウスを買う。喉の皺が隠れるタイプがいいらしい。いろんな理由があるもんだ。築地|ふく源《ヽヽヽ》で慎重社N重役と会食。NHKドラマ人間模様アンコール『シャツの店』最終回。妻はクスクス笑う。鶴田浩二の頑固ぶりが僕にそっくりだと言う。僕も身につまされるのだから、いくらかは自覚症状があるらしい。大内山という人のカメラがいい。隅田川をこんな美しく表現した作は他にない。
十二月二十日(日) 晴
西国立園芸《ヽヽヽヽヽ》で福寿草を買う。ついでに郁子《むべ》も買う。
[#改ページ]
[#地付き] 谷保村の夜[#「谷保村の夜」はゴシック体]
十二月二十一日(月) 晴
快晴が続いている。講談社徳島高義氏来。毎年暮にマフラーを頂戴するのだが今年は大きなスカーフで妻大喜び。「社長が女性だとやっぱり違うわね」なんか言っている。
将棋ペンクラブ名誉会長加藤治郎先生、会長河口俊彦六段来。ペンクラブで文壇将棋を復活主催するので出席を要請される。僕は創作活動を中止し将棋界にも引退(?)宣言しているのだが、河口会長の来訪はこれで三度目、つまり三顧の礼であって困ったことになった。
将棋ペンクラブ結成の主目的は「観戦記者の地位向上」であって、これは僕の長年の主張でもあるのだから、陰ながら応援したいと思っているのではあるが……。実際、観戦記者のなかには生活保護が受けられるくらいの低収入の人もいる。僕も観戦記者の一人として何度か酷い目に遭っている。あるとき、名人戦だからと思って羽織袴で対局室に入った。そのまま控室の大広間に戻ってくると、主催社の新聞記者の一人が僕を指さして大声で笑った。そりゃあ中原名人や米長九段に較べれば僕の羽織袴は粗末だし、着なれないからサマになっていなかったのだろう。ゲストの僕でさえそうなのだから、専門の観戦記者連中は、どんなに辛い思いに耐えてきたことか。「将棋指しっていうのは、十回褒めているのに一回でも貶したら口もきいてくれませんよ」なんてことをよく聞かされた。
加藤先生と河口会長を文蔵《ヽヽ》に御案内する。加藤先生には、胃が悪いときに、|胃には胃を《ヽヽヽヽヽ》でもってガツを七十六本召しあがったという伝説がある。
「胃、目、歯、痔《じ》、人体で一字のものは全部悪い」
「毛はどうですか?」
「毛は無い」
「………」
「しかしね、七十六本って言ったって、この店のモツ焼キのように大きくはなかった。うまいね、この店は。もっと固いものが食べたいな、ナンコツなんか」
「それ、御自分の歯ですか」
「自分の歯です。自分で金を出して造ったイレ歯だから自分の歯です」
「ナンコツ、大丈夫かなあ」
「モツ焼キは固いほうが美味い。だけどナンコツ食べるのは今日が最後になるかもしれないなあ。だから、今日はナンコツ記念日です」
将棋指しとの会話は楽しい。僕が去り難い思いをするのはこのためだ。
「あんたが観戦記を書いた仙台の名人戦ね、ぼくと花村が立会人で三人とも禿げ。そこへ大山名人が来たからパイパンの暗槓《あんかん》だと言ってるときに森※[#「奚+隹」、unicode96de]二が頭を剃ってきちゃったから大笑いになった」
このようにして暮の谷保村の夜が更けていった。
十二月二十二日(火) 晴
銀座|鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》で鮟鱇鍋の忘年会。妻の還暦祝いをくださった方たちへの返礼の意味も兼ねた。来会者十一人。
十二月二十三日(水) 晴
楽あれば苦あり。荻窪病院で胃カメラの検査。治りかかっている胃潰瘍が一箇所発見された。秋口の胃の鈍痛はこれだった。胃潰瘍は職業病だ。
サン・アド広内啓司氏、『オール読物』編集長藤野健一氏来。こちらには解放気分があり、繁寿司《ヽヽヽ》、|ロージナ《ヽヽヽヽ》で痛飲。
十二月二十四日(木) 晴
葱鮪《ねぎま》にしようと思っているところへ滝田ゆう夫人がスキヤキセットを持ってこられる。夜は家で食事しない息子が食べると言い出した。葱鮪は妻と二人分しかない。そこで、半分葱鮪半分スキヤキという変な鍋になった。
十二月二十五日(金) 晴
昔、作家になったばかりの頃、書店サーヴィス用の色紙を頼まれた。さんざん考えた末「野に野犬あり」と書いたらボツになった。「野に遺賢無し」の捩《もじ》りだが、「野に野犬あり」は荒涼とした感じがあって、いまでも悪くないと思っている。
十二月二十六日(土) 晴
関保寿先生、豊田健次氏、常盤新平氏来。豊田さん今日も忘年会ありと言う。
十二月二十七日(日) 晴
暖い日が続いている。スタンド改装前最後の有馬記念だから中山へ行くつもりにしていたが気乗りせず立川WINSへ行ったら徳Q君に会った。僕は早くからカシマウイングの単複と決めている。
その根拠は、僕は本来ジリ足(2着14回)の馬を好まないのだが、カシマウイングはジリ足を脱して決め手を身につけてきたとの判断による。それに有馬記念は先行有利である。ところがカシマウイングの的場騎手は、策戦かどうか後方を進み、直線で追いあげて差のない六着に終った。マイナス二万一千五百円。
僕の馬券の駄目なところは「格」ということがわからない点にある。カシマウイングは、こんなに強い相手と戦ったことがない。従って流れに乗れなかったのかもしれない。しかし、上り三十五秒五というのは勝ったメジロデュレンに次ぐものであり、メジロデュレンの位置にいたらいい勝負だったことを慰めとする。
滝田ゆう夫人的中。すぐに妻に電話があった。消去法で検討したらC(163倍)が残ったという意見は傾聴に値する。つまり、どの馬にも消去する根拠があった。徳Q君が@(336・7倍)を買っていたのを知っている。ゴール前五十メートルまで@だった。テレビの前の昂奮思うべし。
十二月二十八日(月) 晴
大掃除。
十二月二十九日(火) 晴
|紀ノ国屋《ヽヽヽヽ》で正月用の買物。町に暮の気分あり。険悪な顔で歩いている中年男がいたりして、これも暮のものだ。サントリー稲見、小玉、谷三氏来。
十二月三十日(水) 晴
石川淳先生死去の報。昔、銀座の酒場で老人二人が飲んでいて口論になり、いきなり一人が立ちあがって相手を殴った。驚破《すわ》やと腰が浮いたが二人は何事もなかったように再び飲みだした。殴ったほうが石川先生だった。
十二月三十一日(木) 晴
凄いスピードで一年が終った。
双羽黒の「わしは(親方夫人を)殴っていない」という談話が可笑しかった。本気で殴ったら死んじまうぜ。「双羽黒の延長線上に江川がいる」という藤本義一氏のコメントが冴えていた。
[#改ページ]
[#小見出し] 昭和六十三年
[#地付き] 鮟 鱇 鍋[#「鮟 鱇 鍋」はゴシック体]
一月一日(金) 晴
来客子供四人をいれて十九人。朝から葡萄酒を飲んだのがいけなかったようで、記憶が跡切れ跡切れになっている。嵐山光三郎さんがサーヴィスに務めてくれたのだけ、うっすらと覚えている。
一月二日(土) 晴
宿酔。駅伝というのは孤独に耐えるスポーツだと思っていたが「オイチニ、オイチニ、そうそうそう」で賑やかなこと。いや、うるさい!
一月三日(日) 小雨
正月とは不健康で面倒なものだ。暮からの生活のペースが壊されてしまう。頂戴物を早く食べてしまわなければならぬという強迫観念。誰か意外な人が挨拶にあらわれるのではないかという恐怖感。こんなものが無くなって、ずうっとノッペラボーであったら、どんなにいいかと思う。
一月四日(月) 晴
文蔵《ヽヽ》夫妻(八木方敏・かおる夫人)来。玄関先きで帰る。
一月五日(火) 曇後雪
昨夜、突如として体のあちこちが痒くなった。年寄ると体が痒くなると聞いてはいた。晩年の林達夫先生は「どこも悪くないが、きみ、体が痒くてね」と言っておられた。そのとき、先生は八十歳を越えていた。だから、もう少し先きのことだろうし、痒みなんてたいしたことはあるまいと高《たか》をくくっていたが、その痒みたるや猛烈を極め、あちらこちらがカッと熱くなって眠れるもんじゃない。しかも医者は絶対に掻いてはならぬと言う。薬を塗ればいいのだが、眠いし裸になるのは寒い。真個《ほんと》に往生した。
去年医者に原因を訊いたら「老人になると脂が足りなくなるんです」と、こともなげに言って笑った。そのとき貰った角化症治療剤・ケラチナミンコーワ軟膏ともう一種類(名前がわからぬ)の薬は卓効あり、塗布すればおよそ三十分で痒みは止まる。言いたかないが入浴の際に我が裸身をつくづくと見るに、まだ老醜には至っていない。それでコレなんだから、と、前途多難、暗涙に噎《むせ》ぶ思いをする。
妻「起きて薬を塗ればいいじゃないの」と言う。「だって眠いし寒い」「そんなら寝る前に痒くなくても塗れば」。その通りだ。老人でなくても冬場は体が痒くなると言う人がいる。体質かもしれない。それと乾燥するのがいけない。今日から電気|行火《あんか》をやめた。
一月六日(水) 晴
文藝春秋出版局松成武治氏来。雑談数刻、「……ところで仕事の話ですが」となり、これが困る。僕の書下しは二作とも彼が担当で、言葉では言えないくらいに世話になった。期するところがないわけではないが、それに取り掛る頃、彼は定年を過ぎてしまうだろう。松成さんと組んで仕事をしたいという思いはふつふつとして湧き上るのだが、僕の考えている主人公は、真夏の橋のたもとに蹲踞《しやが》み込んだまま一歩も動こうとしない。
一月七日(木) 晴
週刊新潮西村洋三氏来。京都八坂神社の干支《えと》の土鈴を頂戴する。同じものを町の土産物屋で買うと半値だそうだ。
一月八日(金) 晴
庭に来る野鳥の数が少い。特に毎年やってくる四十雀《しじゆうから》の姿がない。暖冬のためか。コゲラが来るが滞留時間が短い。
「いいから、ゆっくりしてってくれ」と頼むのだが、すぐにいなくなる。せわしない奴だ。
村松友視さんと新潮社『波』の対談。僕は対談も下手だ。思っていることの半分も言えない。鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》で鮟鱇鍋。鍋料理は対談に不向きだと知った。喋りながらだから箸が鍋に伸びない。煮つまる。辛くなる。従って喉が乾く。だから酒がすすむ。酩酊してしまって、せっかくつきあってくれたミスター・ツウフィンガーに迷惑をかけた。あのサントリーのTVCFに出てくる内儀が実にいいので、どういうタレントですかと訊いたら、山代温泉の旅館(|アラヤ《ヽヽヽ》と言ったかな)の女将《おかみ》だということだった。もし、|あらや《ヽヽヽ》だとすると僕は会ったことがある。いや、二時間ばかり接待してくれたのである。つまり、僕は女性と対面していてもロクスッポ相手の顔を見ていないことになる。そのとき僕は原節子に似ていると書いたのだが、いま見ると、原節子よりもシットリとしていて艶《えん》がある。会いたいなあ。女性に関しても、僕って駄目だなあ。一方、村松さんは、この頃呑屋へ行くと必ずアイナメが出てくるとぼやく。
一月九日(土) 晴
宇野重吉死去。終戦直後、僕は夜の鎌倉の長谷通りで宇野重吉に会った。宇野さんは村山知義の家の鶏小舎《とりごや》に住んでいるという噂があった。「丑松《うしまつ》さんですね」。僕は少年《こども》だったから冷汗の出るようなキザなことを言った。『破戒』の丑松は彼の当り役だった。「はあ、いや、いえ、どうも……」暗闇のなかで宇野さんは曖昧な返辞をした。木訥で何とも感じのいい青年だと思った。スターぶるところがない。その頃から宇野さんは喋り方も風貌もあまり変っていないように思う。
それでは宇野さんは好きかというとそうでもない。少くとも大好きではない。言いにくいことだけれど、好きな人にはそこが堪らないのだろうけれど、宇野さんの演技《しばい》には泥臭いところがあったと思っている。
あんなに仕合せな死に方は類がない。有名人の死に、戦死という言葉が使われることがあるが、戦死という言葉にピッタリと当て嵌《は》まるのは宇野重吉だけだ。
一月十日(日) 晴
近頃、TVアナウンサーの訛りが耳障りでならない。会津を合図と発音する。それなら、いっそのことエイズと言ってもらいたい。
一月十一日(月) 晴
麻布中学四十九期同期会有志の新年会。またしても鉢巻岡田《ヽヽヽヽ》で鮟鱇鍋。これで六回目か。「岡田の鮟鱇鍋を食べないと冬が来ない」と言ったり書いたりしてきたが、この冬はたっぷりとやってきた。さすがに女中さんが「今日はお鍋はよしましょうか」と言うが、岡田は初めてという男もいるので、紹介したいという意味もあって「いや鮟鱇鍋だ」と言い張る。
一昨年、金沢の|つる幸《ヽヽヽ》へ行ったとき、主人の河田さんが「鮟鱇鍋って美味しいですか」と訊くので驚いた。「うん、うまいよ」「あんなもの(とは言わなかったが)、へええ、さいですか、こっちでは捨てます、肝だけ取って」。これには、ちょいとしたカルチャー・ショックを受けた。東京って貧しいんだなあと思った。河田さんは更に言う。「鰹の中落ちなんて召しあがるんですか?」「うん。食べるよ。とてもうまい」。僕は「岡田《ヽヽ》で鰹の中落ちを食べないと夏が来ない」と、これも何度か書いている。「へええ、さいですか、中落ちをねえ」。首を捻っている。むろん捨てるんだろう、あんなうまいものを。僕は、こりゃ話にならないと思った。河田さんのほうも話にならないと思っているのだろう。
僕の仲間は、だいたいが還暦という年齢。僕は商売柄で銀座の酒場は卒業したし、もう終りにしようと思っている。花柳界とは縁がなかった。ところが仲間は現役パリパリの社長業。金はいくらか自由になってきたし、そもそも当時の麻布中学には上流家庭の子弟が多かった。一般的に言えば、遊びが面白いのは六十代の初めだろう。
そこのところの調整が難しい。
一月十二日(火) 晴
終日、直木賞候補作を読む。
一月十三日(水) 晴
直木賞選考委員会。五木寛之さんに「金沢では鮟鱇鍋を食べませんか」と言ったら「太郎茶屋へ行けば出してくれますよ」ということだった。
[#改ページ]
[#地付き] 直木賞・山本賞[#「直木賞・山本賞」はゴシック体]
一月十四日(木) 晴
昨日の直木賞作家選考委員会、候補作は二度読むことにしているが、最初は読者の目で読み、二度目は選者の目で読む。今回は最初は不満が残り、該当作ナシの怖れもあると思った。しかし、二度目に、つまり全作を通読してから阿部牧郎の『それぞれの終楽章』を読むと、当然のことかもしれないが、文章の安定感が抜群で何箇所かに、巧い描写があることがわかった。これ一篇だと思って委員会に出ると、果たして阿部さんが満票に近く、こういうときはスッキリして気持がいい。
記者会見で、流行作家の受賞に問題はないのかという質問があった。僕個人の意見として、なるべくなら新しい作家の登場を希望するし、それも若い人のほうがいいと思うが、既成作家が良い作品を書いた場合は、これも大いに歓迎したいと答えた。何やら曖昧な感じがないでもないが、僕はいつでも現物主義で、良いものは良いと考えることにしている。若い作家がいきなり受賞するのは大変なことだが、マスコミの渦中で、貼られたレッテルを剥ぎ取って新境地を拓くのはもっと大変なことだと思っている。僕は以前から直木賞はその作家にとっての記念碑的な作品であってほしいと言い続けてきたが、阿部さんの受賞作がそういうものであったことが嬉しかった。
直木賞は私小説でないと受賞できないという言われ方をしているらしい。文壇用語で、腸《はらわた》を見せるという言葉があるが、私小説のほうが本音で語ってくれて、作者の資質や志がよくわかるという気味あいはある。「思いが深ければ誰にでも良い文章が書ける」とは向田邦子の名言であるが、どんなジャンルの小説でも登場人物に己を托する思いが深ければそれでいいのだ。どうしてもこれが書きたかったという思いが伝わってこなければ、そんなもの記念碑的作品になるわけがない。現に向田邦子の受賞作は私小説でも自伝でもなかった。また僕は直木賞はプロ作家の通行手形だと思っている。注文原稿に耐えられるかどうか、だ。そのためには文章が確《しつか》りしていないといけない。どうしても考えがそこに落ちつく。
こんなことを長々と考えたのは、今日が山本周五郎賞の打合わせ会であるからだ。五時半に神楽坂|うを徳《ヽヽヽ》に集合。打合わせというより顔合わせの会になった。直木賞と山本賞とはよく似ているが、全く同じものであるわけがない。山本賞は年一回であって、それだけでもずいぶん感じが違う。何か新味を出したいと考え続けるが、僕に格別な意見はない。ただし、幅広く考えたい、たとえば芥川賞受賞者(三島由紀夫賞受賞者)が山本賞を受賞することがあってもいい、とは思っている。(個人的に……)。つまり現物主義だ。そんなことを考えていたら頭が痛くなってきた。もし、直木賞の会と山本賞の会が連日交互に行われたら、間違いなく僕は発狂する。
阿部牧郎さんが上京して、銀座の酒場で待っているということなので、阿部さんと親しい野坂昭如さんを誘ってお祝いに行く。阿部さんに二十年前にお目にかかったとき、老成した印象があった。いま見ると、とても若々しい。肌の色艶が良く、髪は白いものがあるが潤沢だ。阿部さんは頭髪が薄くなったなと思った時期があったので、どうなっているんですかと訊いたら「奇蹟の復活です」という。これは勢いというものかもしれない。
一月十五日(金・成人の日) 晴
昨夜の野坂さんは泥酔に近い状態で、僕もだいぶ搦まれたが、今朝のテレビ出演(ナマ番組)がどうなるかと心配半分興味半分で見ると「青田さん(野球評論家)はいいお父さんですねえ。お嬢さんは三人とも綺麗だし……」なんてサッパリとした顔つきで喋っている。これには魂消《たまげ》た。こっちは青息吐息だっていうのに。年齢差もあるにはあるが、体の出来が違うんだろう。
一月十六日(土) 晴後曇
今日で正月を終りにしたい。正月は困る。体に良くない。今年の僕の生活目標は早寝早起だ。十時就寝六時起床にしたいと思っている、老人らしく。なぜかというと、深夜まで起きていると口淋しくなって、ビスケットや煎餅なんかを食べてしまう。これがいけない。肥満のモトだ。また目が衰えてきたのか夜は読書できない。早寝早起に限るのだが、そうなると、久米宏の「ニュース・ステーション」が見られなくなる。久米宏は自分の意見を持っているし、歯切れがよくて、見ているとこっちの頭もクリーンになるような気がする。それと、低血圧で朝が辛い妻との兼ねあいだ。ナーニ、ストーブをつけたりお茶を淹れたりするぐらい僕だって出来る。
直木賞選後評(五枚)を書く。
一月十七日(日) 曇
評判になっている中上健次・江藤淳対談「今、言葉は生きているか」(『文藝』季刊春季号)を読む。何か昔の日本浪曼派の発言に似ているような気がしてならない。クワバラ、クワバラ。
NHKTV将棋、中原名人・二上九段戦を見る。二十年ばかり前、将棋はコンピューターに負けるようになると言うアメリカ人と論争になり喧嘩になってしまったことがあった。僕は、当時、体で覚え血で受け継がれてきたものがコンピューターなんかに負けるわけがないと思っていた。
ところが、いま、コンピューター世代だと思われる羽生善治、村山聖、佐藤康光、森内俊之などの十代棋士に、内弟子修業の最後の棋士で棋界最高峰の中原・米長がコロコロと負かされてしまうのである。これはどういうことなのか、僕にはサッパリ見当がつかない。将棋は数学や物理と同じものになってしまったのか。
十代棋士の棋譜を見ると、どこか感覚が違う。勝つことを直線的に考える。終盤が強いから自信を持って指す。ところが、中原・米長の将棋を見ると、負けるにしてもスケールの大きさを感ずる。味わいがある。濃《こく》がある。言ってみれば芸術的だ。これが今後どうなるのか、興味は津々《しんしん》として尽きない。
一月十八日(月) 晴
今年になって、まだ一度も庭を掃いていない。しかし、暮に徹底的に掃除したためか、庭が実に美しい。侘助や椿が盛んに咲く。正月の良い所はこれか。
鍼治療。血圧164―95で近頃では最悪。ほらみろ。やっぱり正月は体には良くない。
息子の運転で中央高速自動車道を通って帰ってくるのだが、ずいぶんと日が長くなった。四時半頃、西日を正面《まとも》に浴びることになる。富士に向って進む。周囲の山が望遠レンズのように浮き上ってくる。強烈な夕陽だ。
僕は赤富士というものを見たことがない。夕焼けで空が赤くなるのだから、雪で覆れた富士が赤くならないわけがないと思って注意して見るのだが……。逆光だから見えないのだと言う人がいる。
国立駅前ファッションコージ・ブランコの|そば芳《ヽヽヽ》という蕎麦屋へ行く。この店の若夫婦には一種清潔感のようなものが漂っていて気持がいい。僕は|とろろめし《ヽヽヽヽヽ》、妻は天麩羅と|かけそば《ヽヽヽヽ》。それなら天麩羅蕎麦を注文すればよさそうなものだが、天麩羅はカラッと揚っていないと厭だというのが妻の主張だ。昔、カツ丼でも天丼でも何でもお菜《かず》と飯を別々にしないと気が済まない人がいて、東宝撮影所の食堂には、カツ丼のワカレ、天丼のワカレというのがあったと山本嘉次郎さんに聞いた。その人は寿司の|散らし《ヽヽヽ》もワカレで食べていたという。
[#改ページ]
[#地付き] 老人割引[#「老人割引」はゴシック体]
一月十九日(火) 晴
サントリー須磨君来。金沢取材旅行打合わせ。
一月二十日(水) 晴
『マルサの女2』を見るため、妻と吉祥寺東宝へ行く。早く着いたので町を歩いたが何か取りとめのない感じの所だ。映画館のテケツの前に立つと、入場料千五百円のところ、六十歳以上千円となっている。
「あのぅ、あたし還暦なんです。六十歳です。主人は去年還暦で六十一歳なんです」
こういうとき、女は必死の形相になる。普段は若く見られたい癖に。
「証明書かなんかありませんか」
日本文藝家協会会員証、荻窪病院診察券などを引張りだしたが生年月日は記入されていない。運転免許証はなく健康保険証は持っていない。
「でも、あたし、六十歳なんです」
妻は千円札二枚を窓口に出す。
「………」
こうなれば仕方がない。妻の背後に立っている僕は、伝家の宝刀を抜くという心持でもって帽子を脱いだ。
「あ、どうぞ」
窓口の女性がチラリと見て即座にOKを出した。禿の一得がこれである。
意気揚々として二階へ上るとモギリの所に徳Q君が待っていた。座席を確保して暫くすると約束してあった村松友視さんがあらわれる。村松さんも僕も伊丹十三の不遇時代を知っている。伊丹さんの意見は常に正しく、こっちは平伏するのだが、次に会うと彼の意見は変っていて、平伏すべきかどうか迷わされることになる。僕はもっと古く交友関係は三十五年に近い。最初に会ったとき「これは大物だ」と思ったが、こういう男が世の中に受け入れられるかどうか不安だった。伊丹さんのほうでも、村松さんや僕が小説家になるとは思ってもみなかったろう。村松さんと並んで伊丹さんの映画を見るのは、だから変な感じでもあった。
『マルサの女2』は、よく映画の予告篇に撮影快調! という大文字が出るが、まさにそんな感じで、流動感が素晴らしい。知的というのは何故か何故かと問い詰めることにあると思っているが、流動感のうしろに伊丹さんの知的な貌《かお》が浮かんでくる。僕は、また平伏した。昔から贔屓役者であった宮本信子さんに女チャップリンといった余裕と貫禄があって、これも快い。こうなると『お葬式』のギクシャクした感じが寧ろ懐しい。『お葬式』にはドイツ表現主義といった趣きがあった。
吉祥寺井の頭線ガード下の豊後《ぶんご》という店に連れていって貰った。村松さんは酒だけ頼んで料理を注文しない。村松夫人は注文の天才であって彼女が来るまで待つという。村松さんは心優しい人であるが、その夫人に対して特に優しい。新婚夫婦のようだ。聞けば昨夜は飲み明して午前九時の帰宅であったという。それじゃ優しい道理《わけ》だ。
驚くべきことに、この店に高橋義孝先生の大きな扁額が掛っていた。それを仰ぎ見ながら飲むのは「赤垣源蔵徳利の別れ」という感じだった。息子がY《あき》という店で待っているので、そっちへ廻った。Yは「吉祥寺に京都あり」という店だった。
一月二十一日(木) 小雨
スバル君来。近くの鰻の押田《ヽヽ》で飲む。
一月二十二日(金) 晴
朝日新聞夕刊に、高峰秀子さんが家財道具一切を処分して三間の家に住んでいるというインタビュウ記事が出ていた。蛸唐草《たこからくさ》なんかどうなったんだろう。齢を取ると蒐《あつ》めていたものを処分したくなることがある。
一月二十三日(土) 晴
将棋の河口俊彦六段来。繁寿司《ヽヽヽ》。
一月二十四日(日) 晴
旭富士が優勝してボーッとなっているのを見たら涙が出てきた。ああいう顔付きになる若者は昨今では珍しい。その前に出羽の花、大錦、大潮の引退を聞いて胸が詰っていた。春日野理事長も勇退した。僕は千秋楽の武蔵川と春日野の協会挨拶が好きだった。男らしいとか立派とかいうのがこれだ。来場所の二子山の挨拶も楽しみにしている。
一月二十五日(月) 晴後雪
七時に家を出て、東京駅発八時四十五分の新幹線新大阪行の列車に乗った。須磨君とカメラマンのF君と三人。『サントリー・クォータリー』に「行きつけの店」という企画があって金沢の倫敦《ロンドン》屋へ取材に行くのである。
十時頃、食堂車へ行くとトッカピン氏がいた。「あ、いた、いた」「あッ、来てる、来てる」というのが旅行の楽しみのひとつではあるまいか。金沢へ行くときは知らせてくれという申込みを受けていたのだ。トッカピン氏は、浦安草津大衆温泉旅館という釣宿のようなヘルスセンターのような店を経営していたが、建て直して、いまやホテル醍醐のオーナーであり、有限会社フォーチュン・アゲイン(網元であった彼の父の屋号|又福《ヽヽ》に由来する)の社長である。トッカピン氏が参加してくれて嬉しかったのには、もうひとつの訳がある。
僕の国立市の行きつけの店である赤提灯の文蔵《ヽヽ》の主人は店で作務衣《さむえ》を着ているのだが、これが気に入らない。以前、息子に頼まれて金沢の犀《さい》|せい《ヽヽ》というカフェバーで作務衣を買った。これがなかなか上等なので、似たものを文蔵《ヽヽ》にプレゼントしようと思っていたのである。文蔵は大男ではないが、胸に厚みがあり、ハンク・アーロンのような体型をしている。トッカピン氏は文蔵と同じ体型なので、彼に着られるようなものならばピッタリだと考えていたのだ。
洋服屋には上半身だけのトルソのようなものがあって、昔縫製職人はこれを人体《ジンタイ》と呼んでいたが、トッカピン氏に人体になってもらおうと思っていた。
米原で|しらさぎ《ヽヽヽヽ》三号に乗り換える。トッカピン氏と合流したので、彼は座席指定券を買わなければならない。雲を突くような大男の車掌が釣銭を出すときに「ちょっと待ってて頂戴ね」なんて言う。JRの俄《にわか》商人っていうのは気味が悪いね。
今日の天候を晴後雪としたのだが、金沢は蒼空と吹雪《ふぶき》と霰《あられ》と霙《みぞれ》が共存するという按配だった。北陸としては雪が少ない。
金沢ではニューグランドホテルに泊り、|つる幸《ヽヽヽ》で食事して倫敦屋《ヽヽヽ》で仕上げをすると決まっている。|つる幸《ヽヽヽ》の鰯料理が好きなのだが、鰯だけで四種類(刺身とヌタと摘入《つみれ》と焼物)出てきたのには驚いた。僕は海老と蟹は人が大騒ぎするほど好きじゃないと言ってあるので、他の人には|こうばこ《ヽヽヽヽ》蟹が出て、その代りに僕には海鼠《なまこ》だった。海老や蟹のようなものは、仕入値が高いと思うと味が半減するというケチな男なのである。その海鼠と鰯の摘入と百合根《ゆりね》の強飯《おこわ》が絶品だった。本当を言うと、ツキダシと主人の河田三朗さんの顔を見るだけで酒を飲んでいたい。
金沢でも地上げ屋の横行とディスコの跋扈《ばつこ》に吃驚《びつくり》させられる。いまにマハラジャが全国制覇するようになるのではないか。僕はマハラジャのボーイがチェックして合格とする服装を田舎臭いと思っているので、いまに日本全国田舎だらけになってしまうだろうと思う。
金沢市の目抜通りは銀行・保険会社・証券会社に占拠されている。町の黒い屋根瓦が好きだったのだが、めっきり少くなっている。こういう世の中、よくありませんね。
[#改ページ]
[#地付き] 老人の健康法[#「老人の健康法」はゴシック体]
一月二十六日(火) 曇
金沢ニューグランドホテルの一室でトッカピン氏と向い合っている。二人とも見物に行こうとする気持がない。俺はいま金沢にいるんだぞと自分に言う。そこへ倫敦屋《ヽヽヽ》が来た。トッカピン氏と倫敦屋《ヽヽヽ》は、どういうわけか、少年時代の話と雲古《うんこ》の話ばかりしている。僕は黙って聞いているだけだが、こういう虚《うつ》ろな時間に旅に出ていることを実感する。
尾張町|美味村《おいしいむら》という所へ行く。長生殿で有名な森八《ヽヽ》を中心に土産物店や喫茶室があって時間を潰すのに便利な一帯だ。一粋庵《ヽヽヽ》で軽食。ここも饂飩《うどん》あり半月弁当あり、酒あり珈琲あり甘酒あり葛切《くずきり》ありで店内小綺麗、ウエイトレスは美人揃い。全体に女臭いのを我慢すれば実に有難い店だ。僕等は出たり這入ったりして土産物を調製した。時間を潰すのが目的だから、酒を一本また一本、珈琲を一杯という具合に注文した。トッカピン氏が「治部《じぶ》ってものを喰ってみてえな」と言いだす始末。なにしろ男五人、傍目《はため》には地上げ屋が厭がらせに来ているとしか見えなかったろう。
夕刻七時東京駅着。電車はアキアキしていたが勇を鼓《こ》して混雑時間《ラツシユ・アワー》の中央線に乗る。そのまま須磨君と二人で文蔵《ヽヽ》へ行った。気が短いから金沢|犀せい《ヽヽヽ》で買った作務衣《さむえ》をすぐにでも届けたいのである。文蔵は悪びれずに直ちに着換えた。よく似合うが、文蔵が着ると寺男でなく野良着になる。それを眺めながら、モツ焼キで二級酒を飲んでいるとき、宝塚のファンがスターにグランドピアノを贈る気持がわかったような気がした。
一月二十七日(水) 晴
一輪だけ菫《すみれ》が咲く。暖冬異変。
一月二十八日(木) 晴
フジテレビ『プロ野球ニュース』をよく見るが、シーズンオフの『プロ野球ニュース』ぐらい腹立たしいものはない。大洋加藤、巨人中畑、西武石毛・工藤なんかを起用してお笑い番組にしてしまう。
キャムプ巡りも結構だが、たとえばヤクルト長島や西武鈴木健の守備が拙劣だとしたら、ノックを集中的に見せて、どこがいけないかを名人上手に解説してもらったら、本人にも僕等にもどんなに有難く有益であることか。
また、いまの高校野球は女子マネージャーがスコアブックをつけているが、ルールの解釈や微妙な判定に悩んでいる。それを選手の動きでもって教えてくれたら、とても助かるんじゃないか。全国の女子マネージャーの疑問に答えるコーナーがあっていいと思う。多摩川ギャルを追いかけるばかりが能じゃあるまい。
一月二十九日(金) 晴
腹八分で長生きする人がいる。九十歳近い老人で恐るべき健啖家がいる。どっちがいいのか。
僕は老人の健康法について、こう考える。食べることだ。三度三度、普通に食べる。病院で出てくる千八百カロリーの食事は、僕なんかには食べきれないくらい多い。これを食べることだ。そうして摂取したカロリーを消化することを考える。
僕の周辺の人(マスコミ関係者が多い)は、ほとんど胃潰瘍や肝臓障害に悩んでいる。酒を飲む機会が多いからだ。そこで何か一つ、酒を飲むよりも楽しいことを作ることだ。
ゴルフも結構だと思う。やったことはないが、宿酔でゴルフに行ったら楽しくないだろうと思う。僕は昔麻雀を断ち、最近では将棋を止めた。坐りっぱなしは運動不足になり血圧も上る。性分で、僕はジョギングやマラソンは出来ないし、散歩は運動にならない。
阿佐田哲也・嵐山光三郎・古井由吉・本田靖春氏の座談会「競馬 VS.競輪どっちが人生最高のギャンブルか」(『現代』三月号)が迚《とて》も面白い。嵐山[#「嵐山」はゴシック体]「競輪場の客って、早稲田露文みたいな顔をしてる」。阿佐田[#「阿佐田」はゴシック体]「半日だけ下品になりに行く遊びなんだね」。本田[#「本田」はゴシック体]「家の二軒ぐらいなくすとか、カミさんに黙ってやって三度くらい逃げられるとか……」。というあたりで大いに笑った。諸氏の命がけの|のめり込み《ヽヽヽヽヽ》に恥ずかしい思いをした。
僕の競馬は違う。情ないけれど、運動と気晴らしとスポーツ観戦とギャンブルを足したようなものだ。だから、パドックと本馬場入場を見るために動き廻る。僕の場合に限って言うのだが、競馬は老人の健康法として最適だと思っている。こんなことを考えたのは、明日から六月十二日まで近くの府中JRAが始るからだ。
一月三十日(土) 晴
府中JRA。僕の頂戴しているゴンドラ15号室では全員が背広にネクタイで来る。僕は動き廻るためにスニーカーで行くから、替え上着にセーターという服装が多い。K先生は明治四十四年生まれだから、喜の字のお祝いをなさいますかと訊いたら「やりません。八十八歳まで競馬をやるつもりですから米寿は祝ってもらいます。競馬にはGまでありますからね。Fなんかで祝ってもらいたくないな」ということだった。このK先生にN会長は「K君は馬券なんか買うから下品だ」と言うのである。N会長は馬券を買わない。僕にとって競馬場は「半日だけ上品になりに行く」所だ。今日は九レースまでやって帰った。マイナス一万三千五百五十円。
家に帰って赤鉛筆を扇子に変えて千駄木の将棋会館に向った。将棋ペンクラブ主催の文壇将棋会に出席するためである。
十年前まで将棋会館は親類の家ぐらいに思っていたのに、ちょっと道に迷った。四階のワンフロアが身動きがとれぬといった盛況。将棋界の偉い人が死んでも、これだけの弔問客は来ないだろうと思った。各界名士多数。各社からの寄贈品多数。北海道から来た原田康子さんが谷川浩司王位、原田泰夫九段を連破(四枚落)して、とても嬉しそうにしている。これならストレス解消に役立つ。
六時半に散会。毎日新聞井口記者に誘われて新宿へ飲みに行く。河口俊彦会長にも声を掛けたら総勢十人になってしまった。大盛況に乾盃。
一月三十一日(日) 晴
府中JRA。加賀武見騎手引退式。加賀が夫人とお嬢さんを馬車に乗せてあらわれたとき、五階のバルコニーから僕は拍手した。隣に立っていた赤木駿介さんが「加賀ッ!」と叫んだ。加賀と郷原を買っていれば間違いがないと言われた時期があった。この二人が競《せ》って共に潰れるレースもあった。格別に贔屓の騎手だったわけではないが、最も危険なスポーツを五十歳まで務めあげた労苦を思うと胸が痛くなる。加賀は天を仰ぐように頭を動かしていたが僕等を発見すると笑って手を振った。
「本日はお忙しいところを……」という加賀騎手の挨拶で噴飯《ふきだ》してしまった。本当に忙しい人は競馬場へ来ないだろう。そのように彼は緊張し上気していた。
オークスで買おうと思っているイージーリスニングは五着に敗れた。僕の家の経済のためにも馬体恢復に励んでもらいたい。マイナス千四百五十円。
二月一日(月) 晴
久しぶりに八時間熟睡。鍼治療に行く。血圧150―92で良好。競馬健康法の成果かくの如し。
中村琢二先生死去の報に接し、ショックを受ける。
[#改ページ]
[#地付き] 中村琢二先生[#「中村琢二先生」はゴシック体]
二月二日(火) 晴
中村琢二先生(九十歳)の突然の死去に驚く。僕は中村先生の絵が好きだ。中村先生の小品を買いたいと思って、銀座へ出ると日動画廊へ寄ったものだ。日動画廊へ行くと中村先生の絵が二点か三点はあった。中村先生の最初の発見者は、兄の中村研一と日動画廊の長谷川仁さんだと言ってもいいのじゃないかと思う。僕が先生の絵を買いそびれたのは、御自宅へ伺って譲って戴くのが本筋ではないかという考えが常に頭のなかにあったからだ。僕が自分で一流大家の絵を買いたいと思ったのは、イタリアの聾唖《ろうあ》の画家ボッカチと中村先生だけだった。ボッカチはギャラリー・ユニバースで譲ってもらったが、中村先生の絵は買い損った。こういう言い方は失礼になるのかもしれないが、ボッカチも中村先生の絵も部屋に飾って邪魔にならない絵だと思っていた。優しい絵である。それでいて、よく見ると構図も線も色彩も力強い。良い絵でも、こちらの神経に突き刺さってくるようなものは部屋に置く気にならない。
恩師吉野秀雄先生が寝たきりの病人になってしまったとき、中村先生は御自分の風景画を枕頭に持ってきてくださった。季節が変ると、また別の絵を持ってきた。吉野先生は居ながらにして旅をしているようなものだと言っていた。
中村先生には何度か良い手紙を戴いた。一水会の展覧会があるときは必ず招待状を下さった。中村先生には二度か三度はお目にかかっている筈なのだが、そのときの様子が、どうも判然《はつきり》とは思いだせない。もちろん、お宅へ伺ったことはない。
『中村琢二画集』(六藝書房刊)を、ときどき眺める。心が和んでくる。巻末の「私のこと」という自伝を繰り返し読む。伸び伸びとした文章で、これを範としている。とても叶わないなと思う。
中村先生の家に行ったことはないのだが、画集によって様々のことを思い描く。
鎌倉の中流の上といった家庭。生垣《いけがき》は竹。壊れかかったポーチ。応接室に古い応接セット。大きな卓。ソファーに白布のカヴァー。客が来ると、熱い紅茶にビスケット。廊下に籐椅子。庭に棕櫚《しゆろ》と芭蕉と龍舌蘭。禿げちょろけの芝。離れのアトリエに藤棚、その周囲に薔薇。幼児のための鞦韆《ブランコ》。夏になると、孫と親類の娘が泊りがけでやってくる。癇癪持ちの主人の機嫌が良い。何をされても笑っている。普段は元気のいいお婆さんがクタクタに疲れている。三時のオヤツに西瓜。だから、夜は店屋物の天丼で済ます。「ねえ、お爺ちゃんのお仕事って何?」「お絵描きですよ」「ふうん」「おい坊主、早く寝ろ」。……といった具合に思いは尽きるところがない。僕は羨望と憧憬を禁じ得ないのである。所詮、育ちが違う。
中村琢二先生と写生旅行に行く約束をしたことがある。それがいつだったかということも思い出せない。僕は丹後半島を推奨した。中村先生は伊豆を好まれた。それも早春の伊豆である。しかし、伊豆は俗化している。丹後半島の漁村こそ先生にふさわしいと力説した。「行きましょう」と先生が言った。これは不可能な約束である。先生は高齢だし丹後半島はあまりに遠い。また、僕のほうは身の程知らずである。
「……私は本来、絵というものは、どうでもいいものと思っています。下手は下手なり、上手は上手なりに人それぞれの持前に応じて描いていればよいと思います」と先生は言っておられたそうだ。僕の身の程知らずはここから来ているし、これが僕の心の支えでもあった。
先生の絵は単純でさっぱりとしていて、人物画の構図なんか、ほとんど同じものばかりだ。このことについて面白いことを言っておられる。
「どうも絵描きはその出生地によって描く絵に特徴があるように思います。北海道出の人は案外明るい絵を描く、一水会の中村善策さんなんかです。大阪の人はねっとりとしたものを持っている。例えば二科の鍋井さんとか小出楢重さんの絵なんか。私の郷里北九州、もとの黒田藩の筑前出身の人はあっさりとした絵を描く。先輩の児島善三郎さんや兄研一、山喜多二郎太さんなどもその例です」
スバル君来。文蔵《ヽヽ》で飲む。
二月三日(水) 晴
寒の入りが暖く、立春となって寒い。植木に肥料をやる。肥溜の蓋を取るときに緊張するし、穴を掘って注ぐときに細心の注意を要する。
二月四日(木) 晴
大山康晴名人、森※[#「奚+隹」、unicode96de]二九段に勝ってA級残留が決定した由。ここ一番に強い。
二月五日(金) 晴
一本だけ残っている奥歯の根が疼く。因果なことだ。ある人、電車に乗ったんじゃありませんかと言う。そう言えば先週金沢へ行った。少しずつ長く揺れるのがよくないそうだ。何だ俺の歯は!
実生《みしよう》の山椿が咲いた。赤い椿は赤いのが良く紅梅なんか深紅《しんく》でないと気が済まなかったが、このごろ変ってきた。ピンクも良しとする。咲いた椿の色あいは牛肉の霜降の如し。
二月六日(土) 曇
府中JRA。プラス二万四千五十円。K先生に『江戸東京事典』(三省堂刊)を頂く。こういうものが有難い。競馬場のコーヒーが美味い。中山と同じものを淹れているのに味が違うと店の人が言う。水が違うからだ。府中と国立は水が良い。
二月七日(日) 晴
府中JRA。マイナス三万三千四百円。繁寿司《ヽヽヽ》から Catfish。Catfish に鞄を忘れる。「仕事をしないから頭が惚けるのよ」と妻が言う。大きにそうかもしれない。
老人が椅子の上に坐ってしまうのは足が冷えるからである。老人が髭を立てるのは皺が増えて剃りにくくなるからだ。
二月八日(月) 晴
四十雀《しじゆうから》が来る。今年初めて。急に寒くなったせいじゃないかと思う。『サントリー・クォータリー』に連載中の「行きつけの店」(十枚)を書く。
二月九日(火) 晴
サントリー谷浩志氏、サン・アド広内啓司氏、慎重社徳Q君来。皆で文蔵《ヽヽ》へ飲みに行くのを楽しみにしていたら、朝、文蔵《ヽヽ》の父君が亡くなったという知らせが入る。急遽鰻の押田《ヽヽ》に変更する。画廊|エソラ《ヽヽヽ》で「彫刻家のデッサン展」を見る。今日は初午《はつうま》で、このあたりでは鰯と油揚げを食べる風習がある。今日は忘れものをしなかった。
二月十日(水) 晴
京都の陶芸家竹中浩氏来。壺中居《ヽヽヽ》で十回目の展覧会あり。推薦文の件。
文蔵《ヽヽ》の父君の通夜。西国分寺東福寺。寒い、寒い。吹きさらしの本堂で、疲れもあるだろうが、文蔵《ヽヽ》が顔面蒼白になって頭をさげている。
関保寿先生から、竹中さんと飲んでいるが出てこないかという電話があった。いつでも京都で世話になっていて申しわけがないのだが辞退する。僕は禁酒中の身なのだ。連日では体がもたぬ。
池波正太郎氏『原っぱ』(新潮社近刊)を『波』のバックナンバーで読む。とても面白くて一気に読了。時代物を書く人が現代物を書くと瑞々しい感じになるのは何故だろうか。
[#改ページ]
[#地付き] 小鳥たち[#「小鳥たち」はゴシック体]
二月十一日(木・建国記念日) 晴
朝食後、パンの耳を千切って庭に撒く。僕はパンの耳をコーヒーに浸して食べるのが好きなのだが、庭に撒いておくと綺麗に無くなっていて、小鳥がアテにしていると思うと自分では食べられなくなる。息子は脂身を吊す。妻は蜜柑を小枝に刺す。いつのまにか、こういう分担になった。パンは雀やアオジが食べているようだ。脂身は四十雀が食べる。蜜柑には目白、鶯、鵯《ひよどり》が来る。
息子が切った紫式部と銀杏《いちよう》の枝が焚火用の穴に突っ込んである。燃えない木ばかりで、これを燃やすのに長時間を要した。最後の一枝まで燃やし終ってサッパリとした気分でいるところへ、将棋の真部一男七段、河口俊彦六段、慎重社の西村洋三氏が来る。西村さんも将棋好きなので連れだって繁寿司《ヽヽヽ》へ行く。真部さんは頸が廻らないという難病に患《かか》って、もう六年になるが、まだ完治しない。頸骨に軟骨が生じたらしい。背骨と違って手術が出来ないのが辛い。将棋ペンクラブのその後の動向を聞く。真部七段は奨励会時代の可愛い坊やの頃から知っているが、いま、三十代棋士は振るわない。彼は順位戦で自力昇段という正念場を迎えている。「毎日酒を飲んでます。酒を一年間やめたら病気が治るのならやめますが、もし治らなかったら、その一年間が損ですから……」と言う。こういう将棋指しの論理が理解できないが、そこが面白くて交際しているようなものだ。
家に帰り、鰻の押田《ヽヽ》の看板を書く。
二月十二日(金) 小雪後曇
雪が降ったと思ったら小鳥多数。現金な奴等だ。
直木賞選考委員十人による「直木賞を考える」という大座談会。「直木賞は芥川賞を包含するが芥川賞は直木賞を拒絶する」という渡辺淳一さんの発言が際立っていて、結局は小説とは何かという|永遠のテーマ《ヽヽヽヽヽ》になり、僕なんか頭が痛くなる。東京会館地下の料亭で行われたが、|散らし《ヽヽヽ》のワカレというものを初めて食べた。冗談で書くことがあったが本当にあったんだ。
そのあと第九十八回芥川賞直木賞贈呈式。最近は有名人の受賞が多く、場内がザワザワしていたが、今日は地味な人ばかりで、いかにも文学賞の会に相応《ふさわ》しく気持が良かった。女性の受賞がなかったのも珍しい。「師匠の小島信夫さんに、きみの小説はわかりにくいと言われて……」という三浦清宏さんの挨拶に笑った。銀座へ出ようという誘いを「場所中ですから」と言って辞退する。場所中とは府中競馬開催中という意味である。
浜田幸一氏辞任。ああいう人を「男らしい」と言う人の神経を計りかねる。
二月十三日(土) 晴
常盤新平氏と一緒に府中JRA。早稲田の飯島小平先生とロビーで三人で懇談。常盤さんも僕も教え子である。マイナス一万五千二百円。
芹沢博文九段ジョーク集。
・「ここでは(この局面では)大山名人が|夫婦で来ても《ヽヽヽヽヽヽ》勝てない」
・「缶ビールや缶コーラはよく振ってから飲む」
・あきまヘンデルとグレーテル。
・孵《かえ》って(却《かえ》って)悪い蛇の卵。
二月十四日(日) 晴
徳Q君と府中JRA。穴場の女性にバレンタイン・チョコレートを貰う。今日の競馬はさんざんだった。僕は強い馬がキッチリと勝って単勝馬券を取るというのでなければ気持が悪い。共同通信杯サクラチヨノオー、京都きさらぎ賞のファンドリデクターはどうしたんだ。大惨敗となるところ最終レースの連勝馬券が的中して負けを取り返したが、こういうのは嬉しくない。プラス四千五十円。佐賀弁で言えば「ほんのこつゆうなかったわ」だ。
繁寿司《ヽヽヽ》の節ちゃんにもチョコレートを貰う。節ちゃん「独身者にはあげない」と言う。だから徳Q君は駄目。
二月十五日(月) 晴
妻、コーヒーで火傷《やけど》する。薬屋のおじさんに「三枚ぐらい皮が剥《む》けると治る」と言われたそうだ。妻に三枚の皮が残っているかどうか心配になる。
二月十六日(火) 晴
晴天続きで庭に水を撒こうと思っていたが、三浦清宏さんの「長男の出家」(『文藝春秋』三月号)が面白くて、なかなか庭に出られない。女の和尚さんが痛快(関保寿先生のようだ)で何度も笑った。この小説が|わかりにくい《ヽヽヽヽヽヽ》ということが僕にはわからない。もっともわかりやすい芥川賞ではないだろうか。これが直木賞候補になるかどうかについては問題があるかもしれないが、候補作になれば僕は強く推すだろう。渡辺淳一さんと同じ考えだ。『文藝春秋』三月号には他にも興味あるインタビューや読物があって充実している。
庭に出てタップリと水をやる。
近くの喫茶店 Catfish へ行く。カウンターに、なかなかの美人が坐っているのが見えた。Catfish のマスターの増雄君の紹介によるとスナック|ゆめいちもん《ヽヽヽヽヽヽ》のママさんであるという。近頃芸術家諸氏が会合のあと二次会を|ゆめいちもん《ヽヽヽヽヽヽ》にしている訳がわかった。このママさんは夏目雅子に似ている。伊集院静氏には見せられないなと思った。後で息子に聞いたら、|ゆめいちもん《ヽヽヽヽヽヽ》のママさんは国立一の美人ということで評判になっているのだそうだ。国立一の美人は百恵チャンだと思っていたが、こっちには若さがある。それに、あっちの観音様は門外不出である。さぞや近所の若い衆の血が騒いでいることだろうと思った。
|ゆめいちもん《ヽヽヽヽヽヽ》は Catfish と僕の家との中間にある。近所に喫茶店や小料理屋が開店したら一度は顔を出すことにしているが、|ゆめいちもん《ヽヽヽヽヽヽ》は薄暗い感じで敬遠していた。代替りして、このママさんになって、やや明るい感じになった。
増雄君(関保寿先生のお兄様の息子)は彼女と組んで、この近辺の活性化を計りたいと言う。大いにやってもらいたい。なにしろ僕の家の近辺は、三、四十坪の建売で一億五千万円とか二億円という土地柄で、せっかく入居しても何か楽しみがなければ気の毒だと思っている。その前に Catfish も|ゆめいちもん《ヽヽヽヽヽヽ》も、どうか店を潰さないようにしてくれと頼む。
「うちの息子はお店へ行っていますか」と訊くと「三回ぐらいお見えになりました」ということだった。それが若さだろう。また、彼女は「わたしが幼稚園に通っているとき、先生のおうちの前を通るので、変った家だなあと思った」とも言った。オイ、幼稚園だってよう、厭《いや》ン[#小さな「ン」]なっちまうなあ。とにかく国立一番の美人は一見の価値ありと言っておく。
『別冊文藝春秋』の随筆(二枚半)を書く。
[#改ページ]
[#小見出し] 文 学 賞
「すべての芸術はリアリズムである」と言ったのはチェホフであるのかドストエフスキイであるのか、それも忘れてしまったし、正確な表現も覚えていないが、私はこれを信奉している。
「芸術作品の根本にあるのは感傷主義《センチメンタリズム》である」と吉野秀雄先生が言った。誰に言ったのか思い出せないし、これも言葉の正確を期し難いが、私はそういうものだろうと思っている。
「すべての芸術は自己弁護である」と森鴎外が言った。抽象絵画でも俺にはこう見えるという言訳が用意されている、ということだろうか。
私は、現在、三種類の文学賞(直木賞は年二回)の選考委員を務めているが、リアリズムと感傷主義の信奉者であるような古臭くて単純な男が、こういう仕事に関与していいのかと悩むことがある。
先頃、直木賞を考えるという選考委員十人による大座談会(『オール読物』五月号)が開かれた。また新設の山本周五郎賞を考える会合にも出席した。当然、芥川賞、直木賞、山本賞はどういう関係にあり、どこが違うのかが問題になる。
大座談会では、渡辺淳一さんの「直木賞は芥川賞を包含するが、芥川賞は直木賞を拒絶する。こんど芥川賞を受賞した『スティル・ライフ』(池澤夏樹)と『長男の出家』(三浦清宏)は、直木賞であっても構わない」という意味の発言があり、私も同じように考える。現に山田詠美さんのケースがそれだった。
「車があるのだから車で行こうかと思ったけれども、例年の習慣をまもることにして、いい気になって傾いて走る電車にまた乗った。前の日は暖かかったのに、その日は気温も低く、電車の窓から見える空はいかにも重たそうな灰色に曇っていて、さびれたサーカスの天幕を内側から見るようだった。」(『スティル・ライフ』)
という|ぼく《ヽヽ》が雨崎へ行く場面は硬質だがかなり感傷的である。
「そこは息子が通学するのに通った道だ。剃った頭からずり落ちそうな学生帽を、ときどき片手で直しながら、自転車のペダルを踏んでゆく姿が、並木の間を出たり入ったりしながら、やがて左の坂へ折れて見えなくなった。」(『長男の出家』)
僧になって家に戻ってこない息子を夫婦がマンションのベランダに並んで立って、それぞれに思う場面で私はジンとなる。
いかに古臭いと言われようとも、こういうリアリティのある上質な感傷的場面(描写)のない小説を私は認めたくない。……というのは私の自己弁護であろうか。
二月十七日(水) 晴
庭に小綬鶏《こじゆけい》が来る。
僕の著書『新日本百景』の見本が出来たので新潮社ヘ行って献本の作業をする。フミヤ君の拵《こしら》えてくれた本は見返しが赤になっていて、署名するには都合がいいが朱印が押せない。困っていると、雑誌連載の時の担当者である臥煙君が来て、金のスタンプインクを使えばいいと教えてくれた。これが具合がいい。
いつでも献本のあとは神楽坂から地下鉄に乗って九段下へ行って寿司政《ヽヽヽ》で打ちあげをするのだが、フミヤ君、臥煙君という二人の岡山県人と一緒に行き乾盃。鯖がメチャウマであった。
[#改ページ]
[#地付き] |禿 頭 翁《とくとうおう》[#「禿 頭 翁」はゴシック体]
二月十八日(木) 晴
昨日は臥煙君に助けられた。岡山県人の機転が有難かった。
円地文子先生の『江戸文学問わず語り』(講談社刊)を読んでいたら、こんな箇所があった。
「|がえん《ヽヽヽ》と称する最下級の鳶の者は白昼、往来を歩くにも、褌ひとつしない真っ裸だったそうです。赤坂見附や市ヶ谷見附のように現在まで地名として残っている見附は当時の市民の治安と共に風儀の取締りをした所だそうで、見附を通行するには裸体では許されないことになっていたのですが、|がえん《ヽヽヽ》は素裸のままで見附の傍まで来ると、手拭いをぽんと肩にかけそれで着衣したことになって平気で通れたそうです。素っ裸の乱暴者が昼さえ横行している道を、夜の暗さのなかで若い女など歩いて行ける筈はなかったのでしょう。」
臥煙が最下級の鳶《とび》の者であることは知っていたが素っ裸で歩くとは知らなかった。僕の認識は次のようなものだった。
臥煙は鳶の者であるが道具を持っていない。跣《はだし》で歩く。火事があると取り敢えず駈けつける。多くは町内の不良少年で勘当されている。男前で娘たちに人気がある。粋《いき》な職業である。映画なら若き日の長谷川一夫の役所である。
僕のイメージはそんなところで臥煙という諢名が気に入っていた。円地先生の文章を読んで驚き、悪いことをしてしまったと思った。僕だって臥煙君が素っ裸で、自慢の大きな鞄を持って玄関にあらわれたら困るのである。
妻と散歩。金文堂《ヽヽヽ》で臥煙君に教えられた金のスタンプインクを買う。|ロージナ《ヽヽヽヽ》でコーヒー。この頃マスターに会わない。スポーツ用品店で野球のスコアブックを買う。野球の観戦記を書くとき、高校野球の練習試合を見るとき、スコアブックが必要になる。いや、野球シーズンの到来が待ち遠しくてジリジリしているのだ。
浜松の一力一家と反対派の住民とが和解したそうだ。住民側幹部の恐怖はよくわかるのだが、何か釈然としない。暴力団というのは存在自体が悪である。これと握手するのが、どうもピンとこない。近頃、ヤクザはヤッちゃんなどと呼ばれて、愛すべき者のように思う風潮があるが、とんでもない話だ。ヤクザは汚い。金のためだけにしか動かない。義侠心なんて一《ひと》欠片《かけら》も無い。
ただし、和解の内容は住民側の全面勝利であって、リーダーの水野栄市郎氏ほか全員を顕彰する方法はないものだろうかと頻りに思う。出来ない相談だろうが三年間無税にするといったような。
二月二十日(土) 晴
暖い好日。府中JRA。妻、新聞記者と間違えられる。第一レースから最終レースまでウロウロしている女性はめったにいないから、商売人だと思われるのも無理はない。「気がつけば新聞記者」なんて言っている。
僕は、昔、競馬の予想屋になりたかった時期がある。府中競馬場の正門前に立って予想紙を売る。もちろんチャリティーである。大橋巨泉氏と組めば売れるんじゃないかと思った。そのころ白頭翁という予想屋がいて、あまり当らなかったが贔屓にしていた。この日、僕は禿頭翁となって予想を前発表した。十二レース中三レースしか当らなかった。フェブラリーハンデというダート競馬の好きなレースがあり、他の番組もよく、一日楽しく遊んだ。マイナス一万九千六百円だった。
カルガリー・オリムピック。僕は日本の選手は大一番に緊張しすぎるから駄目だと思っていた。外国選手はニコニコしている。しかし、これは間違いだ。自信がないから固くなり緊張するのである。外国選手は練習量が豊富だから自信があり、従ってニコニコ笑っている。東ドイツの選手は特にそうだ。カテリーナ・ビットなんて余裕たっぷりだ。コーチ陣に問題ありという気がする。
二月二十一日(日) 晴
府中JRA。北風寒く、パドックへ行かれなかった。今日の禿頭翁は快調、十二レース中七レースが的中。これは荒れなかったせいで、予想屋になると、本命サイドに印をつけることになる。禿頭翁はよく当ったが、僕は穴狙いになって、やっと千四百五十円のプラス。本田靖春氏に今年初めて会う。府中は長丁場になるので、スロースターターでいきます、ということだった。
二月二十二日(月) 晴
鍼治療。血圧160―95。昨日の寒さがいけなかったようだ。帰りに文蔵《ヽヽ》へ行く。父君が亡くなって以後会っていないので様子を見に寄ったのだ。あと二ヵ月で八十歳だったので平均年齢はクリヤーしましたから、と言って思ったより元気にしている。三年半も看病できましたから、とも言った。
中上健次氏宅全焼のニュースを聞く。
二月二十三日(火) 曇
庭に水を撒く。雪割草が咲いている。
銀座|クール《ヽヽヽ》古川さん御一家来。
僕の『新東京百景』のロック座というストリップ劇場で倒れる話を読んだようで「私もストリップが好きで日劇のミュージックホールへよく行きました。楽屋へも行きましたが、そこで着換えるのに素っ裸になるんですね。あんなもの見るもんじゃありませんね」と古川緑郎さんは言う。同感。その頃、ヌードという言葉が目新しかったことを思いだす。
竹下登総理の「ふるさと論」は中国では全く話が通じないそうだ。あんな狭い国で|ふるさと《ヽヽヽヽ》も何もあるものかという訳だろう。アメリカのテキサス州の人にも通じないだろう。
二月二十四日(水) 曇
亀清楼《ヽヽヽ》福島正子さん来。ウインドストースのことを訊《き》いたら「お稽古中に何か固いものを踏んじゃったらしくて、こんどのレース(中山記念)には出られないそうです」ということだった。
スバル君来。名古屋の板谷進八段が蜘蛛膜下《くもまくか》出血で倒れたという話をする。知らなかったので驚き、かつショックを受ける。様子がわかったら連絡してくれと頼んだが、スバル君が帰って夕刊を見たら、もう板谷さんの死亡記事が出ていた。
板谷さんは、その名の通り直進する棋士だった。エネルギッシュで、自分でも「体で指す」と言っていた。達磨《だるま》のイメージがあって、僕は秘かに「ヒゲダル」と呼んでいたが地元では「豆タンク」であったらしい。
芹沢博文九段も将棋の好きな棋士だったが、板谷さんはそれに輪をかけたような人で、普及面にも若手の育成にも情熱を燃やしていた。
僕は名古屋へ行けば板谷さんを呼びだして栄町あたりを飲み歩いたものだ。板谷さんもひとなつこい人で、三田にあった仕事場にも国立の家にも泊りにきた。僕のことを将棋界の宣伝部長と呼び、妻のことを奨励会の母と呼んでいた。それがいかにも嬉しそうだった。板谷さんには将棋の駒を貰っている。名人宮松の虎斑《とらふ》の駒で、現在百万円以下では買えないだろう。妻は、僕が死んだら板谷さんにお返しするとよく言っていたが逆になってしまった。いい時期を見て墓参りかたがた名古屋にお返しに行こうと考えている。いま、お墓参りと言っても実感が湧かないのである。
熱烈な郷土愛の人でもあって、名古屋人を揶揄するタモリに対して、こう言っていた。「福岡の男に何を言われても構わん。東京の男にあんなこと言われたら許さん!」
[#改ページ]
[#地付き] 寒 雀[#「寒 雀」はゴシック体]
二月二十五日(木) 小雪
新著『新東京百景』に署名五十冊。遊びにくる人に差しあげるため。『新潮』に日本の名作という原稿を書く。芸のない話だが『青べか物語』。この頃、一枚とか六百字だとか千字という仕事が多くなった。
二月二十六日(金) 曇
銀座|米倉《ヽヽ》で散髪。今年初めて。耳掃除をして貰ったら大きな耳垢が取れた。耳の穴の中も固くなって自分では取るのが困難になっている。Bの大穴が取れる前兆かと馬鹿なことを考える。
加藤芳郎氏の「マッピラ君連載一万回および結婚四十周年を祝う会」に出席。於赤坂プリンスホテル。大変な盛会で、売れっ子の漫画家全員、作家、ジャーナリスト。特に雑誌編集者、新聞記者の質がいい。加藤さんの人気とキリャアの長さを示すものだが、その誰とも通り一遍のつきあいではなく、友人同士という感じが気持がいい。
僕がサントリーの社員だった頃だから、随分昔のことになるが、なんとかして加藤さんをTVCFに引っ張り出そうとしてテレビの担当者と二人でお宅へ伺ったことがある。夜遅いほうがいいということで、着いたとき十時半を廻っていた。その日が有力な漫画雑誌のギリギリの締切日であることがわかった。まだ原稿は出来ていない。漫画雑誌の担当者を交えて家中での酒盛りが始っている。加藤さんはサーヴィス精神の権化みたいな人だから、声色と仕方咄《しかたばなし》でもって面白い話を連発する。そのうちに、加藤さんが十五分とか二十分とか居間から姿を消す。後で気がついたのだが、そのとき加藤さんは仕事部屋で悪戦苦闘していたのである。僕等と話をしていて何か思いつくと仕事部屋に駈け込む。加藤さんの真剣な顔が目に見えるように思った。そういうことが何回かあって僕等はお暇《いとま》した。午前四時だったと記憶する。
半月ばかり経って、その漫画雑誌を見ると、加藤さんの連載漫画は休載になっていた。僕は驚いた。いや、感動した。僕なら締切日であれば来客を断るだろう。また、加藤さんほどの腕力をもってすれば、ちょっと思いついただけのアイディアでも充分に通用するはずである。自分で気にいらなければ休載にする。よほどの自信がなければ出来ないことだと思った。地震(自信)加藤と言われる現場を見たような気がした。
加藤さんは、ときどき『毎日新聞』のマッピラ君や『週刊朝日』のオレはオバケだぞを休載する。健康のこともあるだろうけれど、現場を知っている僕は、ああ加藤さんはまたギリギリの時間まで苦しんだんだなと思ってしまう。だから、マッピラ君の一万回の意味はズッシリと重いのである。
パーティーでは、賑やかと言えば賑やか、騒々しいといえば騒々しいという感じで加藤さんが会場を廻ってサーヴィスにつとめた。
僕の所へ来て、いきなり「文蔵《ヽヽ》! 文蔵《ヽヽ》!」と言った。この辺の呼吸が絶妙であって、文蔵《ヽヽ》へ連れて行ってくれとも、あのオヤジいいなあとも言わない。まして『週刊新潮』読んでますよなんてことは言わない。それでいて、文蔵《ヽヽ》と叫ぶだけで全てを言い尽くしているのである。
こうも言った。「山口さんの絵は図々しい絵だ」。上手いとも下手とも言わない。褒めているんだか貶《けな》しているんだかわからない。それで、すぐに「こんど一枚買いたいな」とも言う。
僕も「いくらかマシに描けたときはサインが大きくなります」と言った。「そうなんだ。中川一政なんか絵よりサインのほうが大きい」。そんなことあるはずがないんだが、周囲は爆笑の渦になる。
文藝春秋の豊田健次さんが、義理の叔父さんに当る荻原賢次さんを送ってゆくと言うのでタクシーに同乗し、遂にはお宅に上り込む仕儀となった。新聞紙に包んだ小型トランク大の荷物がゴロゴロしているので「夜逃げでもするんですか」と言ったら「家内がお雛様を飾るんでしょう」ということだった。二月が終ろうとしていることを僕は知った。
昔、漫画家と文士との仲がよかった時代があったことを思いだす。
二月二十七日(土) 雪
積雪のため府中JRA中止。府中の中止は二十年ぶりだそうだ。雪のなかの椿。蕾のうちは赤が濃いのだが、そこに降る雪がまことに美しい。
二月二十八日(日) 曇
愛読している『東京新聞』の運勢欄を見ると「とら年[#「とら年」はゴシック体] 老木の一葉寂しく舞い落ちる象《かたち》 本日勝負事不向き」となっている。府中JRAへ行くと果たしてマイナス三万二千七百円の惨敗。嶋田功騎手の引退式。彼の挨拶のなかに、よく聞こえなかったが「落ちて椿に教えられ」という文句があった。ダービーのタカツバキでスタート直後に落馬して、ゴール前のスタートだから、大観衆の前で嶋田が仁王立ちになったまま動かなかったことを思いだす。みんな消えてゆくなあ。
二月二十九日(月) 晴
二月はもう一日あったんだ。府中JRA代替競馬。
遂に資金は底をついて、朝、多摩信用金庫へ寄ってキャッシュ・カードで預金をおろす。五百円玉を溜めたもの。
名人星野忍が障害で落馬するわ、NO・1ジョッキーの岡部幸雄が断然人気のボールドビクターで出遅れたうえに自らも骨折するわで大荒れの一日。
これだと帰りにまた|たましん《ヽヽヽヽ》に寄らなければならないと思っていたら、アクアマリンSで狙いのハーバーシルビアから総流しの大穴馬券が的中。最終レース、これも引退する池上昌弘からの心情馬券が的中。大敗を免れ命からがら逃げ帰った感じ。プラス一万三千四百五十円。
|たましん《ヽヽヽヽ》裏の|そば芳《ヽヽヽ》で湯豆腐で一杯。熱燗のいつ身につきし手酌かな(万太郎)。湯豆腐ってのはしみじみするなあ。
三月一日(火) 雨
春らしい雨。庭の黒土が美しい。だから芝にする気になんかになれない。
撒いたパン屑に鵯が来る。そこへ雀が来て、鵯が食べ終るのを待っている。待っている姿勢がいい。胸を反らせている。威張って順番を待っているように見えるのが可憐だ。
文藝春秋藤野健一氏来。御要望に応えられないのが辛い。「惚けていますから」「そんなことありません」と押問答。
三月二日(水) 小雨
サントリー須磨君来。『サントリー・クォータリー』に連載中の「行きつけの店」校正。
須磨君が帰ってから、サントリー「新入社員諸君!」という四月一日掲載の広告のコピーを書く。そのあと、京都の陶芸家竹中浩氏の個展の推薦文。
僕は風呂は温湯《ぬるゆ》好きだったが、この頃そうでもなくなった。子供のとき、老人連中が熱い湯に平気で入るのを畏怖の念をもって見たものだが、ナーニ、その齢《とし》になれば平気になる。皮膚や神経が鈍感になっただけのことじゃないのか。
この頃、頭の廻転が早くて情報通である人に人気がある。お笑いタレントがそうだ。ハマコー氏がそうだ。江川卓氏しかり。荻原賢次氏宅に伺ったとき、教養があって謙虚でオットリしているその人柄に触れ、嬉しくなってそんなことを考えた。
[#改ページ]
[#地付き] 長島一茂君[#「長島一茂君」はゴシック体]
三月三日(木) 晴
昨夜、夕食後、なんだか気分が悪く、怒りっぽくなっているような気がした。悪い性格だなと思った。血圧が高くなっているのかもしれない。
今朝起きたら寒気がする。風邪かもしれない。夕食後、熱を計ったら八度四分。これは大変だ。僕の平熱は五度一分から二分というあたりで七度あったら辛い。八度以上は高熱である。薬を服《の》んですぐに就寝。風邪で寝るのは嫌いじゃない。気怠《けだる》いような感じが好きだ。九時に起きて検温。七度六分。僕は汗をかかない体質なので、スパッと治るということがない。
どうして風邪をひいたかを考えた。
一、床屋へ行って丸坊主にしたこと。僕は頭から風邪をひく。だから常に帽子をかぶっているのだが、床屋へ行ったあと、加藤芳郎さんのパーティーに出席し、そこでは帽子をかぶっていられなかった。ああ、そうだ。そこで感染したのかもしれない。
一、入浴後、皮膚病の薬を全身に塗るため、長時間裸でいたのがいけない。
一、競馬場のパドックの北風が寒かったこと。
三月四日(金) 晴
寝ていると一日が長い。起きれば寒気がする。六度四分が続く。
サン・アド広内啓司氏来。風邪について種々注意を受ける。医者へ行く。薬を服む。体力が低下しているから精力剤なんかも悪くない。明日と明後日は競馬場へ行ってはいけない。僕、内心で競馬場へ行きたいために寝てるんじゃないかと思っているが、唯々諾々《いいだくだく》とこれを聞く。
昭和五十七年から八年にかけて、僕は全国の公営競馬場を渡り歩いた。小説雑誌に連載する仕事だったが、こんなに楽しい取材旅行はなかった。仕事が終っても、ずっと余韻が残った。そのうち妙なことに気づいた。隣町に府中の競馬場がある。すぐ近くに日本一の競馬場があるのに滅多なことには出掛けない。これは変じゃないか。僕が愛したのは、もしかしたら、公営競馬の薄汚れた、やや如何《いかが》わしい雰囲気だったのかもしれないが、その仕事をやっている最中は、府中競馬場が念頭から消えていたのも事実である。
医者から運動を勧められた。散歩には出るが、これは運動にはならない。ゴルフはやる気になれない。過激な運動は年齢的に無理だ。そうやって府中通いが始った。だから、そこでは努めて動き廻る。ジッとしていない。おかげで、足腰は丈夫になったように思われる。これが内臓に悪いわけがない。
三月五日(土) 晴
今日は啓蟄《けいちつ》である。家にいるわけにはいかない。府中JRA。
妙な荒れ方をした日だった。まず第二レースで、ずっと狙っていたショウワハナミが一着失格。金額はわずかだが、単勝も連勝もパーになっていい気分のものではない。僕はどういうわけか失格にひっかかることが多い。気性の荒い馬が好きだからだろう。第九レース桃花賞一番人気のクリノジョオーがゴール前先頭に立ったと思ったら急に失速(これは骨折)。第十レース小金井特別単枠指定のチョウカイリフォが十着に破れ、第十一レース内外タイムス杯でも二番人気のアサクサマジックがレース中骨折。僕は穴狙いだから人気馬が負けるのは歓迎するくちだが、こういうのは愉快じゃない。チグハグに買い続けて、マイナス二万二千円。
それより風邪でパドックへ行かれないので興味半減。ある人「女郎買いに行って何もしないで帰ってきたようなもんだ」なんてことを言う。
三月六日(日) 晴
昭和十三年頃、麻布に住んでいたのだが、僕は小学校五年生で、古川橋から四谷塩町行きの市電に乗って神宮球場の六大学野球を見に行った。市電が往復十四銭、外野席が十五銭、カレーライスが二十銭。この金額の正確は期しがたいが、ともかく五十銭あれば野球を見に行くことができた。五十銭玉一枚のことをギザ一(周囲にギザギザがあるので)と言っていた。
あるとき早稲田の試合があって七回まで一点リードされている。八回裏早稲田の攻撃で二死一、二塁。強打のAが打席に立ち、強振したが内野フライ。わっとあがった歓声が落胆の声に変る。ところが、この打球、風に乗って三塁手の頭を越え、遊撃手と三塁手と前進してきた左翼手の中間に落ち、左翼手が後ろに逸《そ》らす間に二走者生還、早稲田の逆転勝利となった。ずいぶんツマラナイ結着だと思った。
しかし、翌日の朝刊の運動欄を見ると「A起死回生の逆転打、痛烈に左翼線を破る!」と大見出しで出ている。子供だったが僕は腹が立った。「何が痛烈だ、打ち損いじゃないか」。これが、僕が「新聞は嘘を書く」と知った最初の出来事だった。「大人は嘘を言う」とも思った。
今朝スポーツ新聞を見ると、第一面に「長島、初打席初安打!」という大見出しが踊っている。オープン戦初安打という意味らしい。僕は前夜、長島一茂君の一撃を見ている。これも打ち損じであって根元に当ったのが幸いしたような当りだった。打球は左翼手の前にポトリと落ちた。「振り切ったのがよかった」という誰かのコメントがあったように思う。しかも、このあと、長島は、すぐに牽制球で殺されている。ヒット・エンド・ランのサインが出ていたというが、これは初歩的なミスである。
僕は「新聞というのは昔から少しも変らないなあ」と思った。初安打というのは嘘じゃない。記録的には正しい。しかし、長島の将来を思うならば「走塁も勉強せよ」という見出しがあっても少しも不思議ではない。
長島一茂が長島茂雄の息子でなかったら、六大学の人気選手でなかったら、とうていドラフト第一位に指名されるような選手ではない。打撃も守備もB級の下といったところだろう。それは本人と立教大学野球部関係者が一番よく知っているはずだ。陽気な好青年という以外に選手としてアピールするものがない。
しかし、僕は長島一茂には絶大な興味を持っている。この強大なプレッシャーに押し潰されて、ときどき遠くへ飛ばすだけの選手で終るのか、プレッシャーに押しだされるようにして一流選手に成長するのか。そこが興味深い。
それにしても、「ぼくのところへ取材に来ているのかと思った」という元大リーガーのデシンセイの談話には笑った。
府中JRA。馬券の不調が続いている。マイナス二万二千七百五十円。熱はさがったが洟水《はなみず》しきり。ザマはねえや。
三月七日(月) 晴
暖い。熱はないが体に力がない。
三月八日(火) 晴
片栗が芽を出した。ようやくにして春の気配を感ずる。『新潮45』の原稿十枚書く。
三月九日(水) 晴
池波正太郎氏『原っぱ』(新潮社近刊)の書評五枚(『波』四月号)書く。去り行く二十世紀、消滅する東京の下町、失われる東京者。あからさまに書いていないが作者の狙いはそこにある。「これからは旅をするつもりで暮していこう」という主人公の感慨が胸を打つ。
本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。
〈編集部〉
この作品は平成元年七月新潮社より刊行された。