道化的世界
山口昌男
[#表紙(img/表紙.jpg、横90×縦130)]
目 次
T
黒い「月見座頭」
道化と詩的言語
U
大衆文化と偏見
キートンの「娘道成寺」
バスター・キートンの宇宙誌《コスモロジー》
――「キートン将軍」をめぐって
*
〈見世物〉と映像文化
――文化史の中に映画をときはなつためのひとつの試み
ピカソと見世物芸
アンソールのカーニヴァル的世界
エリック・サティとその世界
――二〇年代のアルケオロジー
*
人形劇の宇宙的活力
能の神話的古層
鍛冶師と俳優
――〈始原的な行為〉を鍛える
*
ハーポ・マルクスとブレヒト
――あるいは「特権的身振り」
演劇と道化
――タイーロフの場合
V
道化的世界
W
民俗と周辺的現実
王子の受難
――王権論の一課題
歴史と身体的記憶
ミシュレあるいは歴史の宴
初稿掲載紙誌覚書
著者略歴
[#改ページ]
T
[#改ページ]
黒い「月見座頭」
一
かつて西アフリカの神話・昔話の世界きっての「いたずら者」の野兎について紹介した時(『アフリカの神話的世界』岩波新書)、どうも反復になるおそれがあるということから割愛したジュクン族の野兎噺がある。そういった、調査者の個人的判断で、採集した説話の紹介を怠るのは、決して好ましいことではないのだが、紙数が限られ、説話のテキスト集として刊行されたわけではない前著において、これはやむを得ない制限であった。
以下紹介する説話は、その後、基本的タイプとしては、前著の理論的枠組の中に入るけれど、何か、それでは語り尽された気がしないまま今日まで、特に言及しないで来たものである。ただ、少し前、戸井田道三氏の近著『狂言――落魄した神々の変貌』(平凡社)を読んだ時、狂言の曲目の中で、私がかねてから疑問としていた部分との瞬間的接合が生じたような気がした。私が何らかの素材に興味を抱くのは大抵こういった偶発的な事情を媒介としてである。
ジュクン族の野兎噺の一つである話は定形に従って、「私の話がほら、ほら走り出して、今度は(Asom ta ta ya p・agb・zo ba agye)〈めくら〉と野兎をつかまえて来た」で始まる。
盲人の一党が原野の中に居を構えていた。丁度飢饉の時であった。或る時、例の野兎が王様のところへまぐさを刈りに行くといって出かけた。途中道が二股になっている場所にやって来た。彼はその一つを「ままよどこまでも行きやがれ」と言い進んでいった。道は盲人の家に通じていた。盲人達は丁度食事の最中であって、「フフ」(ソバ粉を練ったような食物。肉入りスープにひたして食べる)を食べていた。野兎は気付かれぬように彼らの中に加わって、スープの中の肉を片端から食べてしまった。その後最年長の盲人が「フフ」を頒とうとしているのを見て、彼を撲りつけ、つぎに最年少の盲人を撲って逃げ去った。盲人達はたがいに責めながら撲り合いをはじめていた。その間、あいての野兎は家の外で、一部始終を見まもっていた。
或る日、野兎は雄鶏を盲人達の家へ連れて来た。この時は、正式に訪れたので歓迎を受けた。盲人達は野兎に、少し前に来たことがあるかとたずねた。野兎は「いやそうではない」と答えた。
野兎は雄鶏に「お前は女好きだが、私と行くと美女が見られるよ」と誘った。二人は連れだって盲人の家に出かけた。例のごとく二人は食物をこっそりと食べた。又しても野兎は最年長と最年少の盲人を撲った。盲人達は撲り合いをはじめ、各々が他人の着物をはがしはじめた。女たちの着物も剥がされた。野兎は雄鶏に、「見ろ」と言った。雄鶏は「おー、女のあそこを見るのは生まれてはじめてだ」と、つい声を挙げてしまった。盲人たちはたちまち彼をとり抑え、めった打ちにして、柱に縛りつけた。野兎はすでに逃げ出していた。
朝になると野兎は改めて盲人達の家へやって来た。彼らは野兎を歓迎して、あなたは誰か、と訊ねた。野兎は「地の果てまで駆ける者」(fye ke・tswe・ と名乗った。彼は「盲人の眼を治癒するのが仕事だ」と言った。彼らは、「おー」と叫び、「とうとう眼を治してくれる人が来た」と神に対する感謝の言葉を口にした。彼らは口々に「自分達の眼はいいが、子供達の眼は見えるようにしてやり度い」と言った。野兎は途中で集めた木の葉や根を、盲人達が連れて来た子供の頭や眼にすりつけて撲った。子供の眼が開いた。野兎は子供に何が見えるか言うようにといった。子供は「雄鶏」と言った。盲人達は「とうとう眼を治してくれる人に出会った」と喜んだ。野兎は家へ戻ってもう少し薬を持って来ると言った。盲人達はお礼にお金を受けとってくれるよう彼に頼んだ。野兎は「では柱につないだ山羊をいただきましょう。又戻って来て皆の眼を治してあげましょう」と言った。盲人達は山羊と間違えて雄鶏の縄を解いて野兎に渡した。野兎は雄鶏を連れて二股の道のところへ来た時、「見ろ、俺は友達をとり戻したぞ。あばよ」と言って、彼は逃げ去った。
盲人達は手に手に杖を持って野兎達を追いかけはじめた。二股の道へ差しかかると、彼らは野兎の行った道と反対の、町へ通じる道を走って町へやって来た。町の人達は「どうして自分達の家を捨てて町へやって来たのか」と盲人達に訊ねた。盲人達は「お祭りの犠牲用に山羊を棒に縛っておいたのを、野兎がだましとったばかりか、子供の眼をもっと悪くしてしまったのです。野兎がいたら、出て来るようにいって下さい」と言った。王は、彼らに気を鎮めるようにと言って、この盲人達に住む家を与えた。昔は、この町に盲人が居なかったものだ。彼らは原野に住むのを常としていたのだ。(整合性の点からいって疑問の部分はあるが、そのままにしておいた)
いわゆるヒューマニズム的観点に立てば、この話は、大変グロテスクで悪趣味な仕立てになっているととられるかも知れない。簡単に言えば、いたずら者の兎が、この話では犠牲者として盲人たちを選び、盲人たちがおたおたする様が語られ愉しまれているということになるのだから。ただ、ここで、この話が二つの次元で語られているということを確かめておく必要があるだろう。私が前著で述べたように、ジュクン族の野兎噺の中でも最も好まれてしばしば語られるのが、野兎が原野を彷徨して、不思議な(見馴れぬ)者に遭遇し、これを、持ち帰って来るというタイプである。この事実を知るならば、盲人の説話も、実は、必ずしも盲人が対象でなくてもよいということが了解されるだろう。
この種の説話で野兎が演じている役割というのは、単なる盲人いびりというだけでなく、「シテ」を喚び出す「ワキ」の役割とでも言えるものである。野兎はまず、原野に出ることによって、日常のあたり前の世界から身を引いて、この世ならぬものに対して、反応しやすい状態に身を置く。この世ならぬ者(盲人・精霊・原野の霊・鍛冶師であるライオン等)が現われた時に彼が、その存在に対して対応する行為の「かたち」が時には呪文、時には歌、時には詐術、時には「食べる」という、つまり、日常生活に入り切らないか、入っても磁気を帯びすぎている行為である。こういった行為の「かたち」を通して、彼は、この世ならぬものに対する透視力を保証されているとも言えるだろう。
二
では、盲人が野兎によって愚弄の対象になっている点は、説話論的に問題にならないのかというと、決してそのようなことはない。或る意味で、盲人は、その特異な「身振り」によって日常生活の中でも、極だった、人目を惹く存在である。盲人には、何か、日常生活の世界をはみ出しているような感じがつきまとう。盲人は語る立場においても、語られる立場においても、そういった演戯性を持っている。この盲人の演戯性を惹き出す役どころは常人のものである筈はない。野兎は、前述の説話でこの難しい役どころを演じているのである。「いたずら者」であることによって、彼自身がすでに常人の世界をはみだす存在であり、道化的役どころを演じることによって、道徳的非難を避け、ひたすらに盲人の神的演戯性の挑発に専念することができるからである。
こういった事実は直ちに、我々に狂言の中の「月見座頭」をはじめとする一連の座頭ものの曲を想い起させずにおかない。この曲の概要は古典大系本によると次のごとくである。
先ず座頭が出て、月見の独白を述べる。そこへ上京のいたずら者が現われて、座頭をみとめて声をかける。気があって二人で月見の酒を飲む。別れて後、
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上京の者[#「上京の者」はゴシック体] (橋がかりへ行き、一ノ松で独白)「さてもさても面白いことであった。座頭と月見を致いた。まず急いで戻ろう。(幕の方へ行きかけて、とまり)が、いまひとしおの慰みに、作り声を致いて、きゃつに喧嘩をしかけてみょう。」(舞台へ引き返す)
座頭[#「座頭」はゴシック体] (上京の者の独白している一方、脇座で独白)「さてもさてもいずくの人かは知らねども、思いも寄らぬお振舞に合うた。さらばこの機嫌で、宿へ戻ろう……」(常座の方へ歩く)
上京の者[#「上京の者」はゴシック体] (中央のあたりで、座頭に突きあたり)「ヤイ、おのれ憎いやつの、なぜに人に行き当った、退《の》きおれ。」
座頭[#「座頭」はゴシック体] 「ヤアラここな人は。そちは目明きそうなが、目の見えぬ者に行き当るということがあるものか。」
上京の者[#「上京の者」はゴシック体] 「まだ、そのつれなことを言う。おのれ憎いやつの。おのれがように往来の妨げをするものは、打ちたおいてのきょう。(座頭を引き廻して突きたおし)よいなりのよいなりの。」(退場する)
座頭[#「座頭」はゴシック体] (引き廻されながら)「これは何とする。ゆるいて下されい。誰《た》そ出会うて下されい。(突きたおされて)アア痛ア痛ア痛。ヤイヤイヤイ、(片膝をつき)卑怯者卑怯者。(幕の方を見る)さてさてあらき目に会わせおった。(正面を向いて安座し)あまり振り廻されて、方角を失うた。杖はどれにあるか知らぬ。(杖を見つけ)オオ、これにあるこれにある。杖をたよりに戻りましょう。アア、思えば思えば、今のやつは最前の人には引き代え、情もないやつでござる。世には非道な者もあるものじゃさて。オオそれよ……」
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[#地付き](日本古典文学大系『狂言集』下)
「月見座頭」は歌舞伎狂言にも入っているので、座頭物の中では最もよく知られたものの一つである。この他に能狂言の中の座頭狂言に属するものとしては次のような曲が挙げられる。猿をけしかける「猿座頭」、茶の替りに胡椒の粉をかがせる「茶碗座頭」、鈴のついた蹴鞠をしている座頭たちの中に入って、鞠を横取りして大混乱におとしいれる「鞠座頭」などがあるが、中でも「丼礑《どぶかつちり》」という曲は、ジュクン族の野兎噺と趣向において殆んど一致するといえる。
二人の座頭が川を渡るのを見て、目あきの通行人がいたずらを仕掛ける。二人が酒を飲み交わすと、それを横取りする。
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アド[#「アド」はゴシック体] 「おまへの無い無いと仰せらるるが。合点の行かぬ。」
シテ[#「シテ」はゴシック体] 「一つ飲まねばならぬ。早う注げ。」
アド[#「アド」はゴシック体] 「注ぎまするぞや。どぶどぶ。びしょびしょ。わあわあ。皆になった。」
シテ[#「シテ」はゴシック体] 「飲まぬうちから皆になったか。」
アド[#「アド」はゴシック体] 「身共も一つ飲まうと思ふたに。」
シテ[#「シテ」はゴシック体] 「やいそこなやつ。こりゃまた無い。」
アド[#「アド」はゴシック体] 「何ぢゃまた無い。」
シテ[#「シテ」はゴシック体] 「さては最前から注ぐ注ぐと云ふて。こりゃおのれが飲むな。」
アド[#「アド」はゴシック体] 「はあ扨は最前から無い無いと云ふて。飲み隠しをさっしゃるか。」
シテ[#「シテ」はゴシック体] 「勾当ともあらう者が。そのやうな事をするものか」
となった時に、通行人は、竹篦で両座頭の鼻を弾く。二人はつかみ合いの喧嘩をはじめる。こういった座頭者における小アドの演劇的役割について戸井田氏は次のように述べている。
不具者を笑う社会的必要から転じて、笑うこと自体の悪魔性を上京の人のなかに発見しているのだ。……だがこういう人物が偶然的に形象化されるためには、核のようなものがさきになければならぬ。それは根っからの悪としてのすり・すっぱに変化した小さな反逆神が、ちがったあらわれかたをしたとみることができる。……
小さな神々とそれを演じるものとがかさなりあい、神々がおちぶれるとともに、演じるものたちは仮面をぬがされてくる。現実の溢れ者、すりやすっぱが反逆をこととした小さな神たちの本性を外部からおしつけられ、自らもその性格を内部に保存して、狂言の世界に転生してくる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](戸井田、前掲書)
ここまで来ると、私が、何故戸井田氏の考察をきっかけとして、ジュクン族の野兎の盲人いびりの話を改めて紹介する気になったかが、ほぼ明らかになってくる筈である。つまり、狂言の世界の核ともいうべき心のすぐにない者、すっぱは、まさに、アフリカや他のアーカイックな文化の説話の世界に棲息する神話的「|いたずら者《トリツクスター》」に対応するのであり、アフリカ世界の説話をモデルとすることによって、日本の芸能の基底の神話性が一そう明らかになると共に、逆の関係(つまり、説話の演劇論的構造を明らかにすること)も成り立つと思うからである。この点での対応は、柳田国男も、豊後の吉右衛門咄《きつちよむばなし》の中にいたずら者吉右が按摩をからかった例をあげて指摘している。
(「米倉法師」、「桃太郎の誕生」、『定本柳田国男集』第八巻)
三
人情の機微を細かに反映している狂言を、野蛮人のたわけ話と比較するなど、とんでもない事だという反論が出て来るかも知れない。つまり、これまで、我々が、比較論的に様々の文化をとりあげる時に、規準としてとりあげられていたのは、日常生活の中での基準、それも肯定的な、つまり、西洋近代の価値観の基準に入りやすい側面を中心としていたといえる。しかし、今日我々にとって次第に明らかになりつつあるのは、これまで否定的に考えられて来た文化・人間の側面を媒介として考えると、文化の比較は一そう容易になるということである。つまり、文化比較の匿された鍵は、ネガティヴと考えられて来た側面を軸にして考えてみるという点に次第に我々の視点が移行しつつあるといい換えることができる。未開と文明、日本とアフリカが意外と近いといった視点を可能にしているのが、構造論及び現象学又は実存主義を媒介とした周辺的な現実に対する視野の急速な拡大であることは、言うまでもないが、日常生活世界の外延に拡がる宇宙論的現実のレヴェルに対する開眼であることも否定はできないであろう。コスモロジカルな深みと拡がりを獲得することによってのみ、我々の知的営みは、人間の底知れぬ深淵に対する透視力を獲得することができるのだ。
こういった構えが満更、無用で気取った道草でないことは盲人の「かたわ」性を取りあげることによって確かめることができる筈である。この視点に立つとき、我々は「お祭りと乞食」と題する別役実氏のエッセイが、我々に極めて近いところに立っていることを知るのである。
別役氏は、昔、お祭りにおいてレプラ・梅毒・不具者などがお祭りの最も華かな部分を背負っていたとして、乞食の居なくなった世界を我々は創り出したことを指摘する。というのは、これは生活水準の向上や、不具者の消えたことを意味するものでもない。我々の住んでいる世界の寛容さの欠如がそうさせているのであり、人間がトータルに人間を見る技術を失って来ていることに由来していると説く。不幸な人々を乞食として許容し、そこに参加する人々がそれに同情し、金を与えることに何の疑いをも持たないのは健康な世界の徴しであるとする。ここには人間のトータルな在り方を許容して、そのトータルな在り方を前提として成り立つ交感の上で、金を介するコミュニケーションが成り立ったというのが氏の論理を延長したところにある世界・宇宙感覚であろう。我々の世界では、不具者を、人目から遠ざけ、より狭い空間に押し籠め、その欠けた部分で、宇宙の欠けた部分を補う機会を奪っているともいえるだろう。そこで氏は述べる。
[#この行1字下げ] かつての被害者はその傷を天から受けた[#「傷を天から受けた」に傍点]のであるが、現在の被害者にはおおむね加害者が居る。従って、かつての被害者はその傷によってもたらされる不幸を、全宇宙的な問題[#「全宇宙的な問題」に傍点]と対応させ得たのだが、現在の被害者は、それを加害者のほんの一寸した過失と言った様な、極くつまらないものにしか対応させようがない。全て人間の受けた傷は、全宇宙的な問題であるにもかかわらず、彼等には、その手がかりが最初から断ち切られているのである。向けどころのない忿懣だからではない、その向けるべきところが、あまりにもつまらない事からくる不幸である。
[#地付き](別役実「お祭りと乞食」、「zinta」第二号)
別役氏はここで、不具性のかつて持ったコスモロジカルな積極性について論じているのである。こういった立論に対する浅薄な同情、不具でないことから来る罪悪感から安っぽく逃れたいという、感傷的な|「人間」中心主義《ヒユーマニズム》(それは、刻印を負わせられていないことに対する安心感と優越感に裏うちされているもんあのであるが)を簡単に乗り越えるきっかけが含まれている。公害病患者に同情的言辞を弄して「怨」という言葉に増幅作用を湖上させるのは、罪障逃てとしては手っとり早い方法であるとしても、この立場には、状況に対する即効薬としての安手なヒューマニズムのもたらした公害というべき、我々の世界の脆弱さが集中的に現れている。「知」を武器としる者の立場は、このような本来宇宙論的拡りに向かって解放されるべき問題の、矮小化とは無縁の筈である。この立場を別の言い方で現わせば「奇異なるもの」から眼をそむけないで、「奇異なるもの」を凝視することによって、「奇異なるもの」を更に広い宇宙にむけて解き放つ、強靭な感受性の恢復という我々の世界が負わされている課題ということになる。この点に関連して小川国夫氏は、「よろずの行為《わざ》には 時あり 裁きあり」(「毎日新聞」夕刊、一九七四年一月九日)と題するエッセイで、次のように述べている。
[#この行1字下げ] 少なくもこの世においては、どうしてもとりかえしのつかない犠牲者がいる。奇形にされた人には癒《い》える保証はない。その人への連帯感をバネとして、私たちは、自分の属する現代社会を裁かなければならない。いかに裁いたらいいか……。
これにつづいて小川氏は、編集部の依頼にそってか「終末論はこの衝動に応えて、筋道を示唆するにちがいない」と遠目の利かない小賢しい処方箋を提出しているのは百の説法屁一つ的蛇足の印象を与えずにいない。とはいえ更に続いて「……私は、有効なことは行われるべきだという強者の声を、常にくじかなければならないと考えるが、その同じ声は私の内部にもある」と反省しているのは流石、科学技術文化を生きぬいて来た作家のしたたかさを感じさせるものである。自らの傷を示し、毒をいち早く摘出して、これを薬に転じる途を示すのは芸術に携るものの使命である筈だからである。だが、このさい、はっきり言えば、小川氏は「その人への連帯感」などと中途半端な甘い言葉をささやかずに、せめて「負の連帯感」とでも言うべき表現を使うべきではなかったのかと思われる。尠くとも「負の連帯感」という言葉には、「連帯感」の持つ同情ヒューマニズム的ヒステリー性は含まれていない。その事によってより拡がった響きを帯びているはずである。この語感には差別・軽蔑・嘲笑を含めたよりトータルな人間関係が示唆するものがある筈である。眼をそむける事によって無視し、宇宙論的に抹殺する立場に較べて、遙かに人間的な輝きを帯びていると言えないだろうか。これは別役氏が「健康な差別」と言っているものにほぼ匹敵する。これを更に別役氏自身の言葉で敷衍すれば次のようになる。
[#ここから1字下げ]
現在、原爆症の人々だけではなく、交通事故に遇ったり、合理化の犠牲者であったり、公害による被害者などが続出している。彼等は差別されて乞食になる事ではなく、加害者にその傷を補償させる事で救われようとしている。それはそれでいいと思う。しかしここには、近代化された我々共同体の奇妙なカラクリが潜んでおり、そうする事で彼等は、知らず知らずのうちに、自らの身の受けた傷の尊厳を、損わされているのである。……
……かつて乞食達が、祭りの日に神社に現れ、それぞれの傷を見せる事でものごいをしたとすれば、そして、それを見せられた人々が、それに対して支払ったとすれば、その支払われたものは、そこに乞食が居て傷を受けながらも生きているという事に対する人間的な共感だった筈であり、五体満足ならばその生涯に於て稼ぎ得るであろう所得から利息を差引いた&竢梛烽ニは、その性格を全く異にしている。
我々は昔、乞食を見ると石をぶつけた。しかし現在我々は、原爆症の人々や、ムチウチ病の人々や、水俣病の人々に、決して石は投げない。そうしてはならない事を知っているからである。しかしそのかわりにそれらの人々は何を得たのだろうか。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](前掲エッセイ)
別役氏の現代社会に対する裁きは不具者に対する正の「連帯感」ではなく、「乞食の居ない街は、お祭りを失った」という「負の連帯感」に集中している。
奇しくも別役氏が、ここで指摘しているのは、不具の祝祭性の問題なのであり、不具性を凝視することによって、人間の不幸を、日常生活のフラストレーションを裏返すだけの事によって成り立っている偽善的告発ヒューマニズムの卑小さとは質を異にする強靱なヒューマニズムである。ここで、脇き道にそれるわけにはいかないが、柳田国男の指摘する盲人と文芸のかかわりあいをはじめとして、シェークスピアの『リチャード三世』から、つつましやかな形であるがトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』に至る「不具性の文学史」を見渡せば、不具性の聖性という問題の立て方が決して我々の思いつきでないことが明らかになる筈である。
こうした視点を通して蘇って来るのはピーター・ブリューゲル(父)の「盲人の寓話」という作品である。この絵も、六人の盲人が、互いに手を曳きあって、池の中に向って進んでいく滑稽さを描いた残酷なリアリズム的作品だと思われている。そういった意味ではまさしく我々が問題として来た、野兎の盲人嘲笑、「月見座頭」の世界と直ちに繋っていることが知れる。マタイ伝に主題をとるこの作品の中で、ブリューゲルは、六人の盲人を、盲目の原因の違いによる相違に至るまで克明に描きわけ、盲目のみに由来する動き、時間性を描き出している。盲人達は、ここでは、我々の眼をそむけない残酷な視線を通して、この世界に欠けたものの逆照射の鏡となり、神話的次元を獲得する。つまり、盲人の潜在的に持つ祝祭性がここでは照し出されているのである。この光をジュクン説話あるいは「月見座頭」の世界に反射させると、そこに立ち現われるのが「何物かを欠くことによって、世界に決定的な何物かをつけ加える」(筆者との対話におけるレヴィ=ストロースによる「道化」の定義)「シテ」的存在と、自から何物か(知性・慎み深さ・道徳性)を欠くことによって、こういった存在の秘める濃い影を曳き出す力を帯びた「ワキ」的存在としてのトリックスター、ジュクン族では野兎、狂言では「わっぱ・心のすぐにない者」なのである。こういった位相において「シテ」と「ワキ」とは共犯関係にあるのであり、犯行は、我々を強靱なヒューマニズムに向って鍛え直すべく遂行されるのであり、演劇的舞台・神話が語られる場は、こういった祝祭が成立する特権的な場所なのである。
私が、この数年来、多少厭きられながらも、しつこく説いた、道化的な「知」とは、こういった、平板化し、通俗化したヒューマニズムの鍛えなおしのための方法論なのであり、既成の感性、あるいは叙述のスタイルの持ち主の顰蹙を買うような大胆な「知」の組みかえのためのモデルの提示なのであった。
本稿では「ヒューマニズム」という言葉は何となく坐りの悪い表現であった。この言葉自体、本来のルネッサンス以後の「人文学」の伝統とは切り離され遊離されて、恣意的に使われて来た。一方「人間」の概念は、技術的知性の時代のネガティヴな影響の許に益々零落し、人間を取りまく、様々な(特に宇宙論的)環境から疎外された我々の生のあり方をそのまま容認した形でこの言葉が使われてきた。我々は、「人間」という言葉をもう一度可及的に拡大する途を探らなければならない。この探求を援ける「こだま」はアフリカの説話の世界からも送られて来ているのである。残された課題は、それを捉える探知機としての精神の技術を、どのように開発するかという点にかかっているのではないだろうか。
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道化と詩的言語
一
我々が世界を、固定した定式に還元して理解している間は、世界は少しも驚くべきものでも新鮮な輝きを帯びるものでもない。そのような定式的世界に生きる人間は、自分が定式を通して理解している現実と、自分の感覚が受けとめている現実との間の乖離を、意識せずに経験している。この乖離は、表現の方法を与えられず蓄積されていくと、排け口のない不快の念として意識される。人はこの不快の念を、スケープゴート(犠牲の羊)を見出して、これを精神的・肉体的に破壊することで回避しようとする。それができない人間は、権威主義のとりこになるか、政治的支配のヒエラルキーに自らを固定し、機構的弱者に支配を及ぼすことによって回避する他はなかろう。しかしカフカが『城』などの作品で示したように(粉川哲夫「カフカの世界」、「ほるぷ新聞」一九七二年十月二十日参照)、そこではそういった定型化された日常生活的現実は、グロテスクでばかばかしさに満ちたものになる。
こうしたばかばかしく驚きに満ちた世界では、驚きに対して瞬間的にそして完璧に反応を示し、記憶の彼方にある極端に古いものと予想外の極端に新しいもの――それは、非現実と現実でもある――を絶えず結合させる道化が最も頼りになるモデルを提供する。黙劇役者の例は、丁度、生理学的有機体説がたえず社会学及び人類学にモデルを提供したように、今日、我々の生きる世界を流動的かつ柔軟に捉えようとする者に確かな手懸りを提供する筈である。このモデルは、一つの文化、社会全体、集団、機構、そして勿論個人的アイデンティティについても適応しうる筈である。
「道化の饗宴」又はカーニヴァルに示された、無秩序への中世西欧の許容度の高さは、今日の我々を覆っている一元的時間の支配から顧みるならば驚くべきことであるように思われる。この秩序の覆滅の正当化は、文化についての深い省察に導かれていた。それは、秩序というものは相対的なものであるということを想い起させる、制度的工夫であるようにも我々には思われる。秩序が自らの存続の根拠を確かならしめようとするならば、秩序の範疇に容認し得ない行為及び意識に対して、期間を限って表現の機会を与える必要があること、又このように、秩序にとって異質な要素に排け口を与えることによって秩序そのものを浄化することができることを西欧の中世的世界が知っていたかの如くである。
秩序の相対的性格を生活世界の中に知らせる機会は様々な形で制度化され得る。それは、時間(暦)の中では、カーニヴァル的制度を介して、空間的には、常に饗宴が行われる場としての城、あるいは遊興の場としての都市を介して、又、人間の範疇でいえば道化を介してということになる。時間、空間を越えた秩序の相対性の証しとしての道化は、それ故、絶えず、秩序の内側で眠りこける常人を挑発し、彼の住む秩序が相対的なものにすぎないことを思い知らせることによって、秩序に対する醒めた信頼を取り戻させるよう期待される。
勿論、秩序が弾力性を失う時に、それは先ず道化的な時間、空間、行為を敵視して、これらを絶滅しようとはかる。中世末期の西欧に起ったことがそれであった。この時、カーニヴァル的表現が、革命的エネルギーに転化されることは歴史の示すところである。ただ今日の歴史学には、こういった祝祭的時間、空間に対する許容度が低いために、この祝祭と秩序の弁証法的関係は歴史学の中で充分に解明されているとはいい難い。
秩序は、社会集団が、自らの潜在的自我の無限の拡大を抑えて、共存をはかるための拠り所である。この存続と共存のために、集団又は個人は、各々の役割と役割に応じた行為の規範を、時間、空間、文脈に応じてつくりあげる。各々の範疇に応じて、行為の許容度には弾力性がある。服装、言葉づかい、身振りなどによって、秩序のうちと外の人間が類別される。というより、秩序の外にいる者を強調することによって、秩序が明確に視覚化される。それ故、どのような社会でも、一定量の異邦人、賤民、アウトカストを必要としている。この秩序は、人がその中で安住できる社会構造として現われる。勿論、この構造は象徴的中心と外延を持つ。この中心と外延は、時間的、空間的、社会的に表現されて、生活空間の中に階層秩序をもたらす。秩序とは、その中に生きる人間が殆んど意識せずに従っているシナリオの束であるといってよかろう。
二
ところで、道化は、それが実生活においてであれ、神話の世界においてであれ、このような日常生活の世界の秩序に対立することをその身上とする。生活世界の秩序と道化は、或る意味では持ちつ持たれつの関係にある。道化がその本来の力を充分に発揮するためには、確固たる生活世界の論理が確立していることが望まれる。私が調査した西アフリカのジュクン族では、説話世界の道化(トリックスター)である野兎は王権に対する挑戦者であった。同じくナイジェリアのヨルバ族の神話的道化エシュも、王権の支配する秩序の擾乱者であった。(拙著『アフリカの神話的世界』岩波新書参照)西欧中世に伝播したソロモン王をからかうマルコフ、オイレンシュピーゲル、シェークスピアのフォールスタッフ等の大道化には、絶えず悪徳漢の雰囲気が立ち込める。『阿呆物語』のジンプリチスムスも、シュヴィクも、盗みという行為を少しも躊躇することなく行う。道化は決して殺人を犯さないが、人倫の道は平気で犯す。道化にはこのように絶えず義賊的側面がつきまとう。ジュクン族の野兎も絶えず何かしら盗んでいる。隣りの勤勉な老婆の食物を盗み、他人の畑作物を盗み、借金はふみ倒し、しまいには、女性の性《セツクス》まで盗む。ヨルバ族のエシュは、放火しておいて避難を手伝うようなふりをして火事泥棒をする。西欧の文学的伝統の安定した一部を形成するピカロは、ラサリヨ・デ・トルメスからフェリックス・クルルに至るまで道化のこの側面の拡大の上になり立った文学的ジャンルと言える。
シェークスピア学者として知られるロバート・ハイルマン(ヘイルマン)は、フェリックス・クルルをピカロの神話的伝統の中に位置づけながら道化的悪漢を次のように捉えている。「悪漢は、共同体的善悪の感覚によって創られた良心、超自我、又は禁制を欠いている。それは彼が、我々が彼を判断するのにあてはめる期待される水準を欠いたり敵対したりするためではなく、他の世界に住んでいるからなのだ。彼は共同体の通念の外側に住んでいるのである。」(Robert Heilman, Variations on Picaresque (Felix Krull), in Thomas Mann, 'A Collection of Critical Essays,' ed. by H. Hatfield, 1964)
三
道化はその限界を知らぬ放恣な性格の故に、定住の世界に安住することを許されない。あらゆる慾において彼は限度というものを知らない。それは多分、ジョルジュ・バタイユ的表現を用いれば彼が「過剰の生」の表現である故なのであろう。彼が一身に具現するのは、一つの社会が蓋をしたがる「臭いもの」である。それ故、彼には、一つの社会で好ましくないと思われている価値が、相次いで負わされる。それでは、彼は全く悪魔と同じではないかという指摘に対しては、彼と遊戯性の結びつきを確信することによって答えることができる。しかしこの点については、少し後にもう一度立ち還ってみることにしよう。
一昨年、フェデリコ・フェリーニが「フェリーニの道化師」という映画を作った。この作品は、クラウン (clown) という英語起源の言葉が、少なくとも仏、伊の両国に定着してしまっていることを改めて認めさせる機会を造った。W・M・ザッカーは、このクラウンという言葉は、のろま (clod)、無器用 (clums)、棒 (club)、かたまり (cluster) といった言葉と同一起源であろうと推定している。シェークスピアの『あらし』においてプロスペロの半人的召使はカリバン (caliban) と呼ばれているところから同じくザッカーは、神話化された道化と解すべきであろうと説く。(W. M. Zucker, The Clown as the Lord of Disorder, 'Theology Today,' Vol. 24, No. 2, 1 Oct., 1967) いずれにせよ道化でもカリバンでも、役者は恥を忘れて、気どりを無くした方がすぐれた演技と賞讃される。彼らの芸は、いかにして観客の笑いに混った敵意を一身に集めるか、という技術にかかっていた。
とにもかくにも、彼らの不躾けは、彼らが社会的秩序の外に留る限り許されるものであった。それ故、定住社会は、一定期間彼らを受け入れて、日常生活を構成する諸要素、ヒエラルキーをすべて、疑わせ揚棄させて、新しい秩序に置き換えるのを援けさせる。しかし、その期間が終ると、彼は元の位置に戻らなければならない。所詮彼は、秩序の内側、「文化」の中心に棲息すべき人種でなく、周辺部、あるいは境界の外に住むか、絶えず、この世界の周辺を放浪しなければならない種族に属する。境界性(マージナリティ)こそ彼が、本来帯びている刻印である。
もう一度繰り返すと、道化は秩序に対する脅威を絶えず構成する。このことは、道化が常に従属的立場であることにより、可能になる。彼は絶えず、中心的存在の分身として、あるいは影の部分として、演技の負の部分を担当する。能狂言の太郎冠者においても、サーカスの天幕の中でも、坂上二郎の演ずるすっぽんの次郎吉においても、道化は来臨した神に従いながらたてつく役を演ずることによって、それに相応する罰を受ける。彼は普通人には不可能な涜聖的行為を演じることによって、人が当り前のものと受けとっている価値――それが宗教的イデオロギーであろうとも――を瞬間的につき崩す。人は自らが従わなければならない秩序が崩れるのを見る。秩序の担い手のアイデンティティが、彼が嘲笑され、言い負かされ、盗まれることによって剥ぎとられるのを見る。いわば道化は人がそれぞれ己れの中に潜めている自分でないものに対する攻撃を代行する。ところが、一度つき崩された秩序はかえって新鮮に見える筈である。しかし、同時に、道化は打擲され、人間以下のもの、つまり動物、白痴に近いものとして扱われることによって、相応の罰を受ける。能狂言のとめの型の一つが「やるまいぞ」の追い込みであることは誰でも知っている。どういう変遷をたどって、狂言がこのように固定するに至ったかはよく知られていないが、追儺の鬼の追い込みの型をあわせて考えて見るならば、これがシテに対するワキの涜聖の心理的バランスを持った形態的処理であることはほぼ推定がつきそうである。異形の者を舞台に導き入れて、活力を導入した後にこれを舞台的世界の外に追いやるというのは、舞台が村落という空間に置き換えられる時、それがそのまま日本の民俗の基底に据えられている構造であることを人は知る筈である。
道化が世界の騒擾屋として、混乱を導入し、そのために彼自身スケープゴートとして世界の穢れを一身に引き受けて去っていくというのは、ギリシャ悲劇のアラブンから、ローマのサトゥルナリアの道化、カーニヴァルの阿呆王、シェークスピアの演劇的世界のフォールスタッフに至るまで、様々の文化的、歴史的文脈において、たしかめられて来たことなのである。
こういった視点を貫き、我々が義賊的道化に抱く親近感は、持てる他人に対する羨望と、その所有物の奪取あるいは破壊行為のもたらす浄化作用と、その行為を代行する者と自らを同一視する必要のないことによる――義賊道化が制外者であるという理由により――安心感から成っている、という屈折した説明をH・スパイアーは与えている。(Hans Speier, 'Force and Folly,' 1969, p. 207) これは一応社会学的、表層意識の心理学的説明にはなっているが、決して充分な説明とは言えないであろう。道化の悪徳行為は、文化がその基本的道徳の核を維持し秩序を保持するために形成した様々の分類体系という構築物をがらがらと突き崩すという、子供の積木遊びのような快感を人にもたらすという点を忘れてはいけないであろう。日本の民俗的伝統において、「アマノジャク」はこういった普遍的なレヴェルでの道化感覚が、我々の裡で脈搏って来たことを示す最もよい素材であると言うことができるだろう。
四
私は北海道の生れ育ちであるから、ふつう言う意味での日本の民俗とは余り縁がないと自分も考え、人も考えているらしい。故柳田国男氏に最初にして最後の機会にお会いした時に、出身は何処かねと訊ねられて「北海道」と言うと、「東京と北海道はどうも民俗に縁が薄くてね」と宣告されてしまっている。私の母も北海道生れであるから、どうみても、民俗とのつながりは少しも濃いようではない。私も通り一遍の国民童話以上に、特に多くの昔話を聴かされて育ったという記憶はない。とはいえ、全くそういった民俗的世界に無縁であるかといえば、必ずしもそうとのみは言い切れないようでもある。
幼少時から、大して多くない母の昔話のレパートリーの中で、殆んど物心つくかつかぬ時から、私の記憶の中に、鮮烈な印象を与えた話が一つあった。それは山鳩の哭き声の起源に関する話であった。
むかし母親の言う事を少しも聴かない子供があった。何事も母の言いつけの反対しかしなかった。ある時大水がやって来た。母と子は、濁流の中で孤立してしまった。母は、援けを求めに出た。出る際に息子に、決して現在いる場所を動いてはならぬと言いつけた。息子は、しかし、言いつけを守ることは、出来なかった。母が出て行くと、すぐその場を動きたくなって、歩き出した。母が戻ってみると息子はいない。息子を探し廻っているうちに母は、濁流に落ちてしまった。救出された母は、「死んだら川へ流してくれろ」と言いつつ息をひきとった。母は山へ埋められたかったのだが、そう言うと息子は川へ流すと慮って、川へ流すように言ったのだが、此の度は息子は、はじめて母の遺骸を川に流した。だが、雨が降るたびに気になって、とうとう嘆き悲しむ余り、山鳩になってしまった。それ故、雨が降って川の水量が増す度にこの不孝息子のなれの果てである山鳩は「母が流れるデデッポッポ」と鳴くのである。
私が、この息子に秘かな共感を覚えたのは、殆んど物心がつくかつかぬ頃のことからと記憶している。母を失って親不孝者の汚名を着るのはつらい、しかし、親のいうことをきかないという状態には言いしれぬ魅惑がつきまとっているように思われた。何故であるか、そのようなことは知るよしもなかった。もう少し成長して、小学生になっても、話自体は馬鹿馬鹿しいと思いつつも、何でも命じられたことの反対を、たとえそれが親の死を招くにせよ、貫く心意気に感じるという点には少しの変化もなかった。この二十数年、様々の機会に、数多くの昔話に接する機会を私は得た。しかしながら、昔話体験の核(コア)にどのような説話を汝は持っているかと問い質されると、矢張り、今でも、この説話をとりあげる用意を心秘かに整えるであろうと、私には思われる。
ところで、私が幼少時から親しんだこの昔話が、アマノジャク系統の説話に属することを知ったのは、ずっと後のことである。藤沢衛彦氏が挙げた茨城、千葉方面の雨蛙型アマノジャク説話というのがそれである。
一生を反対気ですごした雨蛙(あまのじゃく)が母蛙の遺言、「わたしの墓は河口の方に築いておくれ」と、わが子の反対性を見こして、あべこべのことを遺言したのを、せめて遺言だけは実行してやろうと、とうとう最後まで自然とアマノジャクの反対性を通してしまい、母蛙の墓を山辺に築かなかったおかげで、出水のたびに流されようとするのを心配し、雨蛙(あまのじゃく)は雨降り前に鳴き騒ぐ、という。(「民話が示すアマノジャクの系類」、「文学」一九五六年十一月号 )
この系統の説話は、能登では鳩、他の地方では、例えば美作では鳶、又は梟と謂っているという。加賀と上総と九州以南の村里では、それを雨蛙の前生譚として伝えているという。越後の高田の町では、不孝なる娘が、たった一度だけ母の言うことを聴いて、墓を川の中に作って大水で流してしまった。それからある日八幡様へ詣る道で、天から降って来た石の為に押潰されて、死んで自分も石に化したと謂って、鳥居の傍なる石燈籠の下にあたかも子供が押されたような形をした平たい石が今もあるということである。柳田国男は、この石は、毘沙門や青面金剛の、足に踏まえられているアマノジャクと同系統の説話である、としている。(「桃太郎の誕生」、『定本柳田国男集』第八巻、一一六頁)
こういう具合にたどってみると、佐渡の出身である祖母を親に持った母の語る昔話の出所はいくらか明らかになる。同時に、この説話の主人公のアマノジャクたることも殆んど動かしがたいということになる。
いうまでもなくアマノジャクは、どちらかというと瓜子姫子や弘法大師との関係で語られている。話を単純化するために、先ず最もよく知られている瓜子織姫の梗概を、関敬吾氏の要約によってたどってみよう。
(1)婆が川で瓜を拾う。それから女児が生れる。巧みに機を織る。(2)爺婆が嫁入仕度に行った間に、天の邪鬼が来て、(一)瓜子姫をあざむいて殺し、または(二)柿にしばりつけ自ら姫に化ける。(3)姫に化けた天の邪鬼が嫁入する。(4)偽の花嫁であることを(一)小鳥が鳴いて知らせる、または(二)木にくくりつけられた姫が知らせる。(5)姫が嫁入する。(6)天の邪鬼は(一)追われる、または(二)]殺される。(『日本昔話の型』八五〇頁)
この話が今のところアマノジャクについて最も博く知られるものである。この他にいくつか知られる系統を挙げてみると、
(1)神の工事を邪魔だてする話――佐渡で役の行者と飛騨の匠とが、一夜の工事を争っていた際に、アマノジャクの鶏の声に騙されて工事を未完成のまま残してしまった。
(2)弘法大師にからむ話――例えば、ずっと昔、虹の染粉を持ったアマノジャクが、風の吹きまわしで、ふらふらと天から降りてきて、折から通りかかった、まだ年はもゆかない少女の巡礼(お遍路さん)の菅笠の上に、ポトンと、虹の染粉の包を落した。巡礼は「おや、何だろう。小鳥かな」と頸を動かしてみたけれど、飛び去る様子がないので、一たん歩みをとめて、こんどは、杖で掏ってみようかと思ったが「いやいや、この杖は、いつもやさしくお手引きくださる、お大師さまの御手同様、大切な杖だ」と思いとどまる様子を、天から見ていたアマノジャクは、自分の真下に、例の尽十方の菅笠が来て、とまったので、菅笠に書いてある文字が眼にとまり、「三界の城、十方空、これは何の意味かな」と大地に向って下りてきながら、誰にたずねるともなくいうと、少女は、アマノジャクを少しもおそれることなく、問答を始めた。……とうとういらだったアマノジャクは、しゃくにさわって、持っていた、虹の染粉を解かす特別の水をいいつめられたくやしさに少女に投げつけた。丁度日が差しはじめ、少女の菅笠の上に美しい虹を現出させた。(藤沢、前掲論文)
(3)曾ては茎一面に附いていた五穀の実、しごいて穂先だけにちょっぴりと残したのも、田畠には雑草の種、野山には人の困る茨の種を、播いてあるいたのも彼であった。
この他、アマノジャクの気まぐれと、悪戯のせいで、偶然の事情から、様々の事物が、この世に作り出されたとする話が多い。こういったアマノジャクの事蹟を総合して柳田国男は、次のような特色を抽出している。
[#この行1字下げ] 其アマノジャクの特色ともいふべきものを、私は三つほども指点することが出来る。一つには彼の所行といふものが、いつの場合にもぶち壊しであり、又は文字通りの邪魔であつて、未だ曾てシテの役にまはつたことは無く、相手無しには何事をも企てて居ないことである。次には彼の存在がたゞ興味ある語りごとの中にのみ伝はつて居ることと、それからもう一つは其事蹟が、憎らしいとは言ひながらも常に幾分の滑稽を帯びて居たことである。
[#地付き](『定本柳田国男集』第八巻、一一四頁)
こうして観察されたアマノジャクには、まがうかたもなく、悪戯者というイメージを定着することが出来る。彼は、その気まぐれと、定型化された行為に対する反逆によって、常に、偶然性と関連づけられる。その例を我々は、牛方と山姥系の説話に見ることができる。アマノジャクは、山姥と多くの説話において入れ替え可能であることはよく知られている。例えば阿波では杣が小屋の中で焚火をして居る処へ、夜分に眼一つの山父が来て火にあたる。怖ろしいなと思うと怖ろしいと思っているなといい、殺してやろうかと思うと殺してやろうと思っているなといい、お前のような手に合う者ではないという。仕方が無いので何事も思うまいとすると、又その思っていることを言われるので弱っていたが、丁度その時火に炙って撓《たわ》めていた木の端が、はねかえって山父を弾《はじ》いたので、びっくりした山父はやはり人間の心のうちは測り難いと急いで退散したとある。この話は様々の地方で、よく知られているが、この山父又は山姥は、アマノジャクと同一視せられることも又改めて説く必要はない。この説話の表面上の筋では、人間の心の谺としての山父姥アマノジャクが擬せられているが、説話の構造的連関から言えば、アマノジャクは偶然と関連づけられうる。主人公の杣は、単にアマノジャクと撓めた木の枝との仲介役としての狂言廻しの役を演じているにすぎない。従ってこのような、気まぐれと、反秩序と、偶然、そして、偶然性の使徒としてのアマノジャクが民俗及び昔話の中で占めた役割について、柳田国男は殆んど構造論に近接した観点から次のように述べる。
[#ここから1字下げ]
前に例に引いた瓜子姫の昔話に於て、姫を苦しめ又殺しに来たとさへ語らるゝ害敵を、或土地に於ては山姥山母とし、他の多くの地域では天之探女と謂つて居るのも、彼女たちには迷惑な濡衣かも知れぬが、理由のあつたことらしく私には考へられる。この両者はともに記録文字に現はれたときには、もう前代の信奉せられざる霊物になつて居た。さうして時と共に益々気味の悪い、憎むべく怖るべきものとなつて行くことも相似て居る。中でもアマノジャクは一つ古いだけに、悪戯が烈しく意地が悪く、何か人間の願ひ望むところと、逆な事ばかりするやうにも言はれて居るが、しかも其の所行を見ると、常に人を相手とし、社会の関心を引付けようとするに専らなのは、やはり亦この世を追はれて去る者の未練の姿かと思ふ。……彼のさういふ数々の不成功談の間にも、なほ二枚目型の滑稽味が含まれて居るのは、注意すべきことのやうに思ふ。是を光暗両神の対立と同視するのは考へ過ぎで、多分は亦一種のもどき役、即ち主神の功績を鮮明に反映する為に、後々利用せられるやうになつたのであらう。しかし人間にとつてはなほ超越した力であつた故に、それを尋常の隣の爺のやうに笑つてしまふことも出来ず、永くその悪意ある揶揄に対して、若干の不安を感じて居たことが、多くの昔話の素地になつた点も、どうやら山姥と似通うて居る。
(「耳の文学」(1)]『定本柳田国男集』第十一巻、二六四―五頁)
[#ここで字下げ終わり]
つまり、アマノジャクは、主人公の美徳を強調するために創り出された反主人公であるという訳である。私もかつて考察したことがある。(「蘇えるアメリカ・インディアンと道化の伝統」、「辺境」2、一九七〇年九月、『道化の民俗学』所収)つまり、物語の時間的展開のために、主人公を行為に追い込むために、主人公の属性、又は美徳を危機にさらす反主人公の登場が必要とされる。私は、これを山伏神楽の三番叟あるいはシテにからむ道化に始って、ファウスト―メフィストフェレス、ドン・ジョヴァンニ―レポレロ、ドン・キホーテ―サンチョ・パンザ、義経―弁慶という系譜を中心に対比の表を構成したことがある。これを部分的に修正して再現すれば次頁のごとくになる。
事のついでに、私の言おうとしたことを殆んど図示してしまったが、アマノジャクは、様々の意味でシェークスピアの『真夏の夜の夢』のパックを人に想起させる点、間違いのないところである。よく知られる通り、パックは、主人の命令も、自らの気まぐれによって、愉快な偶然にすりかえてしまういたずら者である。
[#挿絵(img/fig1.jpg、横224×縦399)]
こうして、道化=トリックスターは、よどみなく流れて人々の意識を眠らせる現実の記号の組み合わせに異議申し立てを行う。そして、現実を「理解」(往々にして従属するという言葉の同義語)するために必要不可欠と思われた言葉及び行為を意味のないものに還元してしまい、ふつうそれが通用する文脈から切り離してしまう。詩人が「あまのじゃく」と精神の何らかの部分を共有するとすればまさにそういった点においてなのである。こういった点を「詩的言語」の発生の問題に即して考えるとしたら、ロマン・ヤコブソンの「最も新しいロシアの詩――素描一」(水野忠夫他訳『ロシア・フォルマリスム論集』1、せりか書房)にまさる手掛りはないように思われる。ヤコブソンは、日常言語の眠りこけた意識の流れに揺さぶりをかけて、より深い現実に我々を目醒めさせる媒体としての詩的言語の効用性及び作用についてあますところなく論ずる。この論文において彼は、フレーブニコフの詩的世界がどのように習慣的語法の破壊と詩的宇宙の形式にかかっていたかを示す。
五
ヤコブソンはフレーブニコフの次のような言葉を引いて、フレーブニコフ自身が詩的言語の方法を意識的に採用していたことを示す。
[#この行1字下げ] あらゆるスラブ語の言葉を互いに変える[#「互いに変える」に傍点]ことのできる魔法の石[#「魔法の石」に傍点]を、語根の環を壊すことなしに見出すこと、及び、スラブ語の言葉を自由に溶け合わすこと、ここに、言葉に対する私の第一の態度がある。そのようにしてできる言葉は、|[#キリル文字(img/word.jpg)]《サマビータエ・スローヴア》(それ自体で価値をもつ言葉)であり、これは日常生活の慣習や効用の外にある……
[#地付き](前掲書)
それ自体で価値を持つ言葉とは何よりも、日常生活の規範から独立した言葉である。これを行為に置き換えてみるとき、目的を持たない行為、つまり、かつてアンドレ・ジッドが「無償の行為」と呼んだものにそれは対応する。詩的行為という言葉がありうるとすれば、道化の行為はまさに、そのためにあるようなものである。
詩的言語は、それ故、当然、日常言語に対して、破壊的性格を帯びざるをえない。この場合の破壊、それは、意図的に、日常言語を正しくなく使うということになる。日常言語は、その因襲的な結びつき方によって、特定の現実を、それを使う者に押しつける。この時起る現象は、そういった日常言語が、より深いレヴェルの現実の顕在化を阻止するという現象である。詩的言語は、こういった日常生活の表層部分をモデルとした現実の押しつけの拒否である。ヤコブソンは詩的言語の破壊的性格を次のように説く。
[#ここから1字下げ]
同じように、マラルメが述べている。私は、ブルジョワが新聞で日々読んで熟知している言葉を、かれらに贈呈する。ただし、かれらが唖然とするように結び合わせて贈呈する、と。
既知のものを土台にしてのみ、未知のものが了解され、衝撃を与える。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、六一頁)
未知のものが了解され、つまり現出すること自体が衝撃を与えるということは、逆に、衝撃は、未知のものの出現に外ならない。未知のものの現出とは、慣例化した行為と言葉の時間的、日常生活的因果論の断ち切りである。キートンの映画におけるキートンの失敗には、絶えず、日常生活の因果論と訣別することによる、各瞬間の身振りの独立宣言への意志が含まれている。失敗は、行為あるいは言葉を、それが通常属する文脈から取り出す効果を帯びる。キートンが俄かバーテンの役を演じて行う数々の失敗は、その卓越した演技によって、行為が日常生活において効用性に蔽われているために潜在的にしか感得されない了解のレヴェルを、表面に押し出す。この副次的なレヴェルの表面化は、最初は、日常言語の意味論的コンテキストの無視乃至は破壊として人の眼に映る。そういった状態を人は混沌と名づける。
日常言語と詩的言語のこうした弁証法的関係についてヤコブソンは、次のように説く。
[#この行1字下げ] 形式が素材を捉え、素材はその隅々まで形式に被われる。形式は紋切型となり、やがて死ぬ。不条理の詩的構成が再び新たに喜びを与え、新たに怯えさせ、新たに衝撃を与えるためには、新たな素材の流入、日常言語の清新な諸要素の流入が、不可欠になる。
[#地付き](同書、六二頁)
[#ここで字下げ終わり]
驚くべきことに、一九一九年に書かれたこの論文において、ヤコブソンは、後に、人々が不条理性の哲学であるとか、ベケット及びイヨネスコにあやかって不条理性の演劇と呼んだ世界に対する一つの二十世紀的選択を先取りしているのである。
今日、我々の学問の言葉、政治の言葉、評論の言葉、更に文学の言葉に至るまで、通りのよいものとして受け容れられている多くの部分は、たいていの場合紋切型であることを、人は認めている。他人を非難する言葉までが、紋切型の支配を脱していないという、知的な停滞を我々は生きている。勿論、何時の時代にも支配的傾向と呼ばれるものがあり、そういう紋切型を通して得られる日常生活的現実の保障は、知的通貨としての怠惰な言葉の流通のために不可欠の要求として受けとられて来た。〈清新な諸要素〉とは、まさに、そういう紋切型の連鎖の中へ、障害物をどんどん仕掛けることに他ならない。それは物事及び言葉の配列が、本来の筋からそれて、物事及び言葉の配列を押し進めて行く行為に外ならない。「不条理の詩的構成」とは、そういった行為であり、そういった行為が、「再び新たに喜びを与え、新たに怯えさせ、新たに衝撃を与える」のは、日常生活の中では眠りこけた、より深い現実への視線を恢復させるためであるといって過言ではない。
こういった状況を実現させる直接の手段は≪耳なれぬ語≫とヤコブソンが名付けるものである。あるいは、耳なれた語の耳なれぬ使い方という表現を使うことが許されるかも知れない。いずれにせよ、それは、語の紋切型の拒否の最も効果的な形式の一つであろう。ここで、語を行為という言葉におきかえるならば、直ちに、子供の身振り、異人の身振り、狂人の身振り、阿呆の身振り、道化の身振りという連想に我々は導かれる。いずれにせよ、詩的言語の一方の極で我々は必ず道化に出遭うのである。
言葉及び行為の機械的接合に対して詩的言語が、異議申し立てを行うことについて、ヤコブソンは次のように述べる。
[#ここから1字下げ]
音韻と意味との機械的な接近連合は、習慣化すればするほど、ますます速かに成立するようになる。ここから、日常のパロールの保守性が産れる。かくて、語の形式は急速に死滅する。
詩に於ては、機械的な連合 (association) の役割が極度に抑えられる。その反面、語の構成要素を分離すること (dissociation) が排他的に関心を惹く。分離されたものの断片は容易に組み合わされて新しい結合体となる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、四九七頁)
二〇年代ロシアの最も華々しい知的実験の合言葉であった「形式」への関心をこれほど生々と描いている言葉は少ない。形式は、その形式の中で組み合わせうる語の体系が日常生活の論理に吸収されて完全に理解可能になる時、それは透明なものとなり、日常言語の意味論では了解することの出来ない現実の他のレヴェルの反映能力を急速に失う。ヤコブソンが「日常のパロールの保守性」と呼ぶ状態がそれである。生々とした「形式《フオルム》」について語らなくてはならないのは、日常生活の文脈の中で習慣化されてしまった語の統合形態としての「形式」が死滅し易いからである。人間は異質の体験を長い期間、異質なままで放置しておくことができない。それを己れのアイデンティティの中に吸収するか、己れのアイデンティティ――つまり平衡を保つために一人の人間、あるいは社会が容認しうる現実の範囲――を解体するか、どちらかしか撰択の余地はない。人が、本源的な生との距たりを少しでも縮めようとすれば、選ぶ道は後者にしかない。そこで、現実の解体による――詩的現実、つまり可能形態における現実の導入による――他に、真のアイデンティティの保証は求められない。そこで、語あるいは行為の機械的な連合の役割が極度に押えられる必然性が成立して来る。
メイエルホリドが、身体演技をその構成単位に分解し、これを、各部分の行為及びその「かたち」の必然性に基づいた演技の全体性に切り換え、紋切型に陥入り易い大脳の中枢神経の支配から脱する方向に向かって再編成したのは、そのせいであった。「分離されたものの断片は容易に組み合わされて新しい結合体となる」という表現が理解されるのはそういう文脈の上においてであろう。エイゼンシュタインのモンタージュの手法も、現実を再現する場面《シーン》の断片を、因果論的拘束から解放して、図像が本来持っている力学的可能性、その潜在力《ポテンシヤリテイ》を生かそうとする、深層の現実の反映の技法であった。この二人が、コンメーディア・デラルテ(イタリア喜劇)の道化の演技、及び特にサーカスの演技の可能性に眼を開いていたことは、我々の関心をそそってやまない。つまり、コンメーディア・デラルテの道化においては、徹底した肉体訓練によって、俳優は、頸、手、腕、足、胴、各々の部分の演技的可能性を充分に展開する。必要とあらば、右腕と左腕を夫々独立のものとして、両手に掴み合いの喧嘩を始めさせる。足をふつうの人間なら二歩動かすような場合に四歩、又は五歩動かすことによって日常生活における身体のリズムとは別のパターンを作り出す。逆に二歩のところを一歩ということもある。その増幅又は省略による齟齬感は、日常生活の慣習化した身体のリズムの組織化と異なるために、「笑い」を引き起す。しかし、その「笑い」によって、効用性の体系から離脱する権利を認められる。こうして道化に認められる自由は、同時に、彼を人間の範疇から押し出す働きもする。その自由を逆手に使って道化は、新しい綜合《トータリテイ》への道を示す。その際、笑いは、常に二面性をもって、人々の生活に介入して来る。笑いは、事物、行為を、それらが日常生活で属している文脈から切り離してしまう。人は自らが、日常生活の文脈の内側に属していると思うから、その文脈から離脱、又は脱落した人、事物を笑うことが可能である。しかし、それらの人、事物が、離脱の自由を駆使して、それらが本来持っていた運動の可能性を発揮したら如何であろうか。次の瞬間に、日常生活の文脈から誘い出されるのは、笑った側であることに気づかざるを得ない筈である。笑いは、事物を日常的文脈から切り離して、宇宙的リズムに置き換える最も身近で有効な手段である。
笑いの効果のうちで最も目につきやすいものは、事物・言語と日常生活的文脈の間に剥離状態を起させ、それらの事物・言語を、「見なれぬもの」に転化させるという働きである。多分それはヤコブソンが「意味の異形化《デフオルメイシヨン》」と呼んだものに近い筈である。ヤコブソンはこのような効果の具体的な例として、(一)リズムによる語の分断、(二)ある語を他の語の中間へ割込ませる方法、といった語及び音韻上の「異形化」の例をあげているが、同じことは、北軍を機関車で追究して行くうちに、薪を投げ込む作業そのものの美学に熱中し、南軍地域を遙かに飛び出した「将軍」におけるキートンの廻り道そのものの正当化の論理につながるものでもあろう。
日常の因果論の体系の一切に疑問を投げかけ、これらを見慣れぬものにしてしまうというのはシェークスピアの芝居の中で道化達が、絶えず演じている役である。
こういった文脈からの切り離し作業、そしてそういった作業を通じて事物を本来それらが属していた本源的な体系の中に連れ戻し、それらが本来帯びていた輝きを取り戻させる作業は、同時にそれらの事物、行為、及び語を組織する、新しいリズムを組織するという行為に連って行く。こうして日常言語の破壊を通じて得られたエントロピーは、そのまま、もう一つの現実への飛躍の発芽となるのである。ヴィクトル・エールリッヒの引用する別の或る文章でヤコブソンが次のように述べる時、この転換点はほぼ説明されていると言ってよいのだ。
[#ここから1字下げ]
詩の際立った特徴は、一つの語が語そのものとして認知され、それとわかる物の単なる代行的指示の手段として考えられないという点にある。同時に、語、及びそれらの配列、意味、それらの外的および内的なかたちが、それ自体の重みと価値を獲得するという点にある。
(Victor Erlich, 'Russian Formalism,' Mouton, The Hague, 1969, p. 183)
[#ここで字下げ終わり]
勿論、シクロフスキーがトルストイの初期の作品の分析において提唱した「見慣れないものにする」(プリエム・オストラネニーヤ)技術は、のちにブレヒトの〈異化〉の技法に展開していくのであるが、ブレヒト自身、サーカス道化カール・ヴァレンティンと親密な関係にあった事は意味深長である。彼の初期の『バール』は、そういったブレヒトの、道化的アウトローによる社会の関節外しの作用がはっきりと前面に押し出された作品である。
六
ブレヒトのみならず、二十世紀の初頭から二〇年代までの時期には、西欧の知的世界において、運動の当事者が意識すると否とにかかわらず、道化的としか言いようのない、世界に対する新しい感受性が表面化しつつあった。ヤコブソン等によって構造言語学が移植されたプラーハにおいても例外でなかったことは、最近平井正氏が「錬金術師の町――プラーハ」(「歴史と人物」一九七三年三月号)において明らかにされているところである。今世紀初頭のメイエルホリドあるいはワフタンゴフによるロシアの演劇ルネッサンスにおいて、コンメーディア・デラルテの道化研究が最も深い原動力の一つとなったことは今日人のよく知るところである。事実このロシア世界から「ペトルーシュカ」あるいは「狐」などの作品をひっさげて西欧世界に殴り込みをかけたイゴール・ストラヴィンスキー、そして彼の作品を造型化したセルゲイ・ディアギレフはまさに、十八世紀イタリアの道化的世界の探究者であった。ストラヴィンスキーが新古典主義に転ずるきっかけになった組曲「プルチネルラ」ですら、ディアギレフの示唆に基づいて、ストラヴィンスキーがイタリアのアルビーヴから発掘して来たジャン・バティスタ・ペルゴレージの「フラーテ・ンアモラート」(恋する兄弟)というナポリ風道化芝居に基づく作品であった。ディアギレフに協力した舞台デザイナー、レオン・バクストも十八世紀イタリア、特にヴェネチアの祝祭世界の道化の仮装に魅了されていた一人であった。彼の残した数々のコスチューム・デザインは、これらの人々がどのように道化的世界を取り戻そうと努めたかを偲ばしめる。ディアギレフ舞踊団の精髄ニジンスキーに与えられた「神の道化」という表現は、彼らの真のテーマがどのようなものであったかを知らしめる。これを受け容れたパリの都市的伝統は、十九世紀初頭のモーリス・サンド(ジョルジュの息子)の人形劇からイタリア喜劇道化への猛烈な関心をきっかけとして、「フュナンビュル」座(マルセル・カルネの「天井桟敷の人々」の舞台)のドビュローの道化ピエロ、更にオッフェンバッハのイタリア喜劇とモーツァルトとの二つの世界の融合によって、十八世紀の祝祭世界の残滓がパリ・コミューンの残照と混りあって、世紀末の都市的世界像を醸成しつつあった。事実イタリアの道化的世界への渇望は、挿絵画家ジュール・シェレやウィレット、又はアンリ・リヴィエールやルイ・モランといった石畳の中で呼吸する芸術家を駆り立てた主題であった。一方、アルフレッド・ジャリから音楽家のエリック・サティに受け継がれた道化精神は、ダダの運動と様々の側面でからみあって第一次大戦後の精神の再生運動の基調をなしていた。今日ジッドが再評価されるとすれば、そういった道化世界をも呼吸していた彼であり、ロマン・ロランに我々が親近感を抱くとすれば、『リリュ』に道化プルチネルラを登場させて、戦争という人間の危険きわまりない玩具を横取りして、無に回帰した純粋の遊戯精神のありようを彼が描きえたからである。ゴーチエもゴンクールも、シャルル・ノディエもネルヴァルすらもこういった世界の再生に彼らの知的回心のかなりの部分を捧げていたし、ユイスマンスが、トゥールーズ=ロートレックを道化とポスターの世界に開眼させた道化世界の挿絵画家シェレの讃美者であったということも決して無視できる事実ではない。こういった基調音は、同時代の日本の西欧体験の中に、不思議なことに少しも入ったらしい痕跡が残っていない。
コクトーがディアギレフ舞踊団の道化的世界を受け入れ『雄鶏とアルルカン』のようなアフォリズム集を刊行し、エリック・サティやピカソをかたらって、『パラード』のような作品を舞台にのぼせたのも、こういった前提を理解して、はじめて納得の行く事実であろう。『パラード』、それは、田舎の見世物小屋の呼び込みショーである。この音楽をサティは、サーカスや田舎の市の日本的言い方をすればジンタ的音楽と目されている素材を使って表現した。更に、サイレンの音とかタイプ・ライターの音といった、それまでの音楽的感受性の伝統では決して音として認知されなかった単位まで、あっさりと持ち込むことに成功した。サティの生涯それ自体が道化的逸話に満ち満ちているが、今日の音楽的世界の道化術の使徒ジョン・ケージがサティ頌をいくつも書いているのは決して理由のないことではない。サティの作品は簡明な構造と偶然という非連続を同時に表現することに成功しているからである。
見世物小屋の道化は二十世紀初頭のロシアでもコミッサルジェフスカヤ劇場でメイエルホリドが演出し演じたアレクサンドル・ブロークの道化(アルレッキーノ、ピエロ及びコロンビーヌ)たちを通して、底知れぬ現実の深淵をのぞかせていた。この舞台に触発されたエイゼンシュタイン及びユーリ・アンネンコフはまたサーカス的世界の熱烈な信奉者であった。
七
アンネンコフが記録にとどめているように、当時の観客のコミッサルジェフスカヤ劇場の「見世物小屋」に対する熱狂はすさまじいものであったが、それでも、時には静かに、時には激しく拡がったコンメーディア・デラルテの道化的世界に対する熱は、ニコライ・エヴレイノフ、メイエルホリド、ワフタンゴフ、エイゼンシュタイン、ラドロフなどの才能あふれるラディカルな演劇人たちを捉えた。これらの天才的演劇人達は、今日まで少しもその価値を減じていないコンメーディア・デラルテの古典的研究の著者コンスタン・ミクラシェフスキー(通称K・ミック)に導かれてコンメーディア・デラルテの世界の徹底した探究を行った。
メイエルホリドやエイゼンシュタインらがコンメーディア・デラルテの道化役者に熱中していた頃画家ユーリ・アンネンコフは、サーカスの舞台空間としての可能性に目をつけていた。一九一九年にメイエルホリドと提携して冬宮にエルミタージュ模範劇場を組織して、好きな作品を演出して見ないかという申し出を受けたアンネンコフは、レフ・トルストイのあまりよく知られていない喜劇『最初の酒づくり――あるいは、いかにして小悪魔がパン片の償いをしたか』をとりあげることにした。この作品はイワンの馬鹿の中の一挿話のエピソードに関係していると思われるのだが、アンネンコフは、既成俳優たちの舞台における俳優への変身ぶりに疑問を持った。アンネンコフが自ら語るところによると「悪魔とは自由に空中を飛び廻り、そもそも引力の支配を受けない存在である。」(青山太郎訳『同時代人の肖像』中、現代思潮社、二二九―三〇頁)つまり、悪魔を演ずる俳優は、アクロバットの名人であり、身振りによって舞台をアニメートしなければならないという中世宗教劇の課題にアンネンコフはつき当ったのである。
そこで、アンネンコフは、劇場俳優とサーカスの芸人を使うことにした。当時ペテルブルグのチニゼリ・サーカスに「四匹の悪魔」と称する四人組のアクロバットが出演していた。彼はこの四人組をそのまま舞台の地獄へ配置したのであった。彼は、その結果を次のように説明している。
[#この行1字下げ] 舞台装置を構成するものは、色とりどりの交差する竿と太綱、僅かに偽装された大ブランコ、空中に吊された大小さまざまの揺れ動く足場、その他のサーカス道具であった。背景には抽象画風の色彩の斑点――主として赤の階調から成り、具体的な形態を何ら暗示しないもの――を用いた。悪魔どもは飛びまわり、宇宙返りをうった。太綱・竿・ブランコ・足場などは瞬時も止ることなく揺れ動き、所作は舞台と観客席とで同時に進行した。
[#地付き](同書、二三〇頁)
この記述を読む人が直ちに想い浮べるのは、今夏来日公演予定のロイヤル・シェークスピアのサーカス的舞台構成と演出による『真夏の夜の夢』であり、エイゼンシュタインの「ストライキ」である筈である。特に後者は、演劇を映画に持ち込みすぎたという批判があるにしても、アンネンコフの『最初の酒づくり』の舞台についての描写をそのまま想わせる、工場のストライキのための相談の場面、俳優の曲芸師的演技、悪漢役の挑発者たちの道化的表現は、多様な空間の交錯した処理と共に深く印象に残る作品である。事実、アンネンコフの引くN・A・ゴルチャコフの『ソヴィエト演劇史』(一九五五年、ニューヨーク)には次のような記述が見られる。
[#この行1字下げ] 劇場とサーカスを融合させようとするこのはじめての試みは、おそらくマリネッティの未来派宣言に示唆されたものであろう。これは劇場のミュージック・ホール化への第一歩であり、セルゲイ・エイゼンシュタインのような偉大な実験をも含めたソヴィエト演劇の革新者たちは、以後これに従事することとなる。
[#地付き](二三二頁)
この奇矯《エキセントリツク》なスタイルは様々の方向に深い影響を及ぼした。『メイエルホリド演劇論集』の英訳者エドワード・ブローンは、メイエルホリドがドクトル・ダッペルトウトという名前で書いた演劇についてのエッセイの影響を指摘しつつ、このスタイルが映画「新バビロニア」の監督グリゴリー・コジンツェフなどの実験にも影響を与えたと述べている。(ブローン編『メイエルホリド演劇論集』一八七頁)パリ・コミューンを題材にとった「新バビロニア」の中でミュージック・ホールの場面における狂燥のカーニヴァル的情景の道化的表現が「ストライキ」の火事場の中で踊り狂う道化役者を想い起させたのは何故であったか、アンネンコフの回想を介して始めて知られるのである。
『最初の酒づくり』は、非常な成功を博したが、四日間の舞台を許されただけで、劇場が閉鎖されたために公演は打ち切りになった。アンネンコフは、この作品の上演の数日後に「芸術生活」という雑誌に「陽気なサナトリウム」というサーカスを讃える文章を書いて、この作品について、次のように主張した。
[#この行1字下げ] これぞセンセーション! 豪華絢爛の出しもの! 骨なし人間! 音楽曲芸! 空中ブランコ学者像! 山ほどのトリック! 道化ビム・ビミ! 呵々大笑!……
翌一九二〇年、タイーロフはカーメルヌイ劇場におけるE・T・A・ホフマンの『ブランビラ姫』上演に際し、サーカスのアクロバットの手法を使用した。何故ホフマン? 人は知るか? メイエルホリドが演劇論の未踏の地を開墾するために創始した雑誌「三つのオレンジの恋」の題名は、コンメーディア・デラルテの十八世紀の傑出した作者カルロ・ゴッツイの作品名であることを。この雑誌こそメイエルホリドが演劇の道化空間への放出を目ざしてアジテーションを展開するための武器であったことを。ペンネームのドクトル・ダッペルトウトはホフマンの物語に依拠して十九世紀の道化オペラ作曲家のジャック・オッフェンバッハが作曲した「ホフマン物語」の登場人物なることを。何故ならば、ホフマンこそ、十八世紀のイタリア道化オペラの熱狂的追随者ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトをしたって、己れの名のE・T・ホフマンにアマデウスを加えてE・T・Aとした男であり、同時にコンメーディア・デラルテの道化芝居の熱狂的なファンであったことを。タイーロフ自身は、彼らがホフマンに向かった理由を次の如くに説明する。
[#この行1字下げ] 我々が非劇的文学、特に、E・T・A・ホフマンのそれに向かった理由も、以上のことを(心理主義的十九世紀劇文学頼りとするに足らず――引用者)考え合わせれば自ら了解されるであろう。……彼の戯曲においては、既に生命を失った、我々にとって狭く感ぜられる舞台形式にうちあたらないからであった。……(トータル・シアターの目的にホフマン空想の質がかなうことを述べつつ――引用者)……かかるが故に我々は自身で脚本を創り、そしてその為に暫定的にホフマンを利用するのである。何故ならばホフマンの奔放な空想世界の中には、我々の舞台的目的によく適う豊富な材料があるからである。かくして我々はホフマンを「歪曲」しつつ、即ち舞台に適うように変形しつつ、創造可能なる多くの新しいものを発見し、我々の終極目的たる芝居全体の独力的作成に近づくのである。かかる原因からして我々は『ブランビラ姫』の上演をカーメルヌイ劇場の幻想楽と呼んだ。
ホフマンの作品は、そのグロテスク、様々の造型性に向かって開かれている可塑性の故に、道化が世界の中心における己れの本源的な権利を身振りによって主張することのできる素材であることを、タイーロフが知悉していたことを疑うことはできないであろう。更に、ホフマンが『カロー風の幻想曲集』という短篇集の題に使ったジャック・カローは、コンメーディア・デラルテの道化的身振りの世界に、動物のそれと人間の身振りを混淆したところに成立したグロテスクな線の乱舞に、本源的な世界をとり込むことを知っていた画家であったことを、タイーロフも知らない訳はなかったことを。ここで再現するわけにはいかないが、カロー及びホフマンの二十世紀初頭の前衛芸術に与えた刺戟には目を瞠るものがある。注目すべきことは、それらの刺戟の源泉はコンメーディア・デラルテの道化の世界に対する彼らの熱狂に発しているという事実である。
上演は禁止されたが、アンネンコフの試みは、すぐれた理解者へと拡がっていった。この過程はアンネンコフ自身によると次のように再構成される。
一九二〇年のA・タイーロフの演出になるホフマンの『ブランビラ姫』。
一九二一年、マヤコフスキーの「ミステリア・ブッファ」のサーカス的構成は人の知るところである。
一九二二年、モスクワのプロレトクリト劇場で働いていたS・エイゼンシュタインが、サーカスにおける高度の曲芸演技の修得が俳優養成に不可欠であると宣言した。
同じ一九二二年に、メイエルホリドが表明した「ビオメハニカ理論」も、この理論に基づいて彼が製作した「堂々たるコキュー」も、サーカスの技術に基づいていた。二四年にメイエルホリド劇場で上演されたオストロフスキーの『森林』は、道化役の名優イーゴリ・イリンスキーを得て、サーカス的空間と道化術の絢爛たる身振りの饗宴となった。アンネンコフは述べる。
[#この行1字下げ] 産業的《インダストリアル》・サーカス的フォルムの力動的装置は、その後長年にわたり、舞台やスクリーンで繰り返し使用された。一九二七年パリで上演されたプロコフィエフのバレー『はがねの踊り』にG・ヤクーロフがつけた装置のことは、すでに述べた。また一九三六年に製作されたチャーリー・チャップリンの有名な映画「モダン・タイムス」のことも。
つまり、今日スクリーンに蘇って人を魅了しつつある「モダン・タイムス」の幾分構成派的、幾分サーカス的空間における道化的マイムの、尠くとも劇的空間処理の起点は、実験的な意味では、明らかに一九二〇年代のはじめのロシア、とりわけアンネンコフらの試みであったことは疑えない事実である。
私が乏しい知識を掻き集めて明らかにしようとしたのは単なる演劇史の忘れ去られた一齣ではない。言語学や文学批判の理論において今日の知性を魅了しているフォルマリスムが二十世紀初頭のロシアで華開いたと同じ時期に、同じ世界で同じサークルに属する人間たちによって、今日ピーター・ブルックやフェデリコ・フェリーニが熱狂的に追っている道化的空間が開示されていたという事実である。
従って今日、これらの事実を再構成することは、約半世紀の間も舞台において干乾びた政治的感受性と結びついた通俗的リアリズムの横行を許して来た演劇的世界に対しては、極めてアクチュアルな課題であると思うからである。ジャリについて語るのも、ベケットについて語るのも、あるいは、この課題の重さに較べると、二次的な行為に属するのではあるまいかという想いがよぎるからである。
八
こうして説いて来たサーカス・見世物的身振りの演技とは何であろうという問を今更発するのは、いささか欺瞞的であるかもしれない。しかし、これ程までに一九二〇年代の輝かしい精神を捲き込んだ、方法論的な混沌への情熱は、今日、我々が、絶望的に必要としているものなのかもしれない。我々がバスター・キートンの霊を喚び戻そうとたそがれの夕陽に向かって扇をかざすのも、全くそのたそがれの一瞬に宇宙のリズムとの交感を求めるからに外ならないのかもしれない。
この特権的瞬間への省察は、プラーハ学派の指導的理論家ヤン・ムカジョフスキーによって受け継がれた。「標準化された言語と詩的言語」(Jan Mukarovskyォ, Standard Language and Poetic Language, in P. L. Garvin (ed.), 'A Prague School Reader on Esthetics, Literary Structure, and Style,' Georgetown Univ. Pr. 1964, pp. 17―30) と題する論文においてムカジョフスキーは、詩的言語を支える「生気づけ」(actualizace) という考え方を前面に押し出す。この生気づけは標準、又は日常言語の侵犯によって可能になると彼は説く。ムカジョフスキーの説くところに耳を傾けてみよう。
[#この行1字下げ] 標準の規範の侵犯、その戦略的な侵犯によって、はじめて言語の詩的な利用というものが可能になる。こういった可能を想定しなければ詩というものは成り立たない。或る言語において標準化された言葉の規範が安定したものであればあるほど、その侵犯の様式は多様であり、その言語における詩的表現への可能性は開けるのである。
我々はすでにヤコブソンの論文において詩的言語について語られていることが、そのまま、身体言語について語られ、それが道化の詩的創造の位相にそのまま翻案しうることを知った。そこで、詩的言語のとり出しの作業としての「生気づけ」についてのムカジョフスキーの表現を受け容れる準備は充分に出来ていると言い得るかもしれない。
[#この行1字下げ] 詩的言語の機能は言表の生気づけを最大限に発揮するところに求められる。生気づけは、慣習化の対極にあるものである。つまり、それは行為の脱慣習化とも言う可きものである。……慣習化は事件を順序よく並べるが、生気づけは順序の擾乱である。……標準化された言語は、その純粋な形では、「生気づけ」を排したところに成立する。
[#地付き]('ibid.,' pp. 18―19)
ムカジョフスキーは、こういった「生気づけられた」詩的言語と慣習化した日常言語についての考え方はボフスラフ・ハブラーネックの「標準言語の機能論的分化について」という論文(Bohuslav Havranek, The Functional Differentiation of the Standard Language, in Garvin (ed.), 'ibid.,'pp. 3―16) に負うところが大であったと述べている。ハブラーネックの論文は、「生気づけ」について次のように説く。
[#この行1字下げ] 「生気づけ」という言葉をつかって、我々が言おうとするのは、言語をその使い方自体によって注目を惹き、生き生きした詩的修辞(辞典に分類された、つまり機械化されたものの対極にある)のように、見慣れない、脱機械化された、反慣習化されたものとして映る。
[#地付き](Garvin (ed.), 'ibid.,' p.10)
ハブラーネックは更に、機械化された言葉と「生気づけられた」言葉の対比を会話の場において説明しようとする。
[#この行1字下げ] 会話において機械化されたものと生気づけるものの違いを具体的に説明することができる。会話における常套文句のすべては慣習化されたものといってよい。しかし、談話を生々としたものにし驚きを持ち込むために生気づけの単位が使われる。それはいわば、日常生活の発話では聴き馴れない、又は常軌を逸した意味に使われるか、ふつう使われない文脈で使われるといったふうな言語学的用法を指すものと言える。
[#地付き](Garvin (ed.),'ibid.,' p. 10)
この「生気づけ」が、身体的表現、又は付随的にではあるが、道化の演技に重ねられるとき、全く、ここで言われている詩的言語の役割に外ならないことが明らかである。この点はハブラーネックも意識していたと見えて、言表のレヴェルの上であるが、彼は次のような機械化された用語法の再生化の位置づけを試みる。
[#この行1字下げ] ところで、規格化された表現は、勿論、慣例化した意味を帯びる。だが、若しそれが、全く異質の環境に持ち込まれると、それは直ちに生き生きとしたものになる……。このような、特定の場において自動化したものを全く異った環境の中に転移させる努力は、言葉による冗談の根底にあるものである。この言葉による冗談こそ「生気づける」行為の例に他ならないのだが。
[#地付き](Garvin (ed.), ibid.)
我々にとって最早明らかなのは、サーカス的な演技に何故我々が熱中しうるかという理由である。サーカスにおいて、すべての肉体を駆使した演技は、日常生活の効用性に基づく因果関係から自由になる。人は、肉体の可塑性を、そのものの持つ、身体的空間の造型として観る。その時、造型化された空間は、演技の質如何によって、宇宙的リズムを組織することすら出来る。道化的行為の根底にある志向は、絶えず、日常生活の中において可塑性の高い、言語及び肉体表現を、想像力を媒介にして、異質の次元に置き換えて、宇宙的リズムをこの世界に導入するきっかけをつくることにある。道化が一見、破壊的に見えるのはそのせいである。道化は、何ものもそれがある位置においては認めない。つねに少しずらして見る。そうすることによって彼は、それらの事物が本来帯びていた輝きを取り戻す援けをする。詩的言語が道化の身振りと切り離すことの出来ない所以である。
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大衆文化と偏見
三月末の夕刊各紙は、「ゴッドファーザー」や「ラスト・タンゴ・イン・パリ」の好演で当るべからざる勢いのマーロン・ブランドが、アメリカ映画におけるインディアンの取扱いに抗議して、アカデミー賞主演男優賞の受賞を拒否したというニュースを伝えている。マーロン・ブランドがアカデミー賞授賞式という劇的な瞬間をねらったために、このちょっとした事件はニュースになったが、もちろん、西部劇におけるインディアンの取扱いに批判的な意見それ自体は決して珍しいものではない。
今日のごとく、ヒステリックに叫ぶ人の方がよく通る時代には、冷静に事実の外延を見極めよう、などと提案しても、果たしてどのくらい耳を傾ける人を得ることが出来るのか。時の勢いに乗る方が、単純明快な論理を操作することができるから、大衆の同情をより効果的に組織することができる。歯切れの悪い言い方をすれば、私にはマーロン・ブランドのような意思表示は、映画人として当を得ているのかどうか判然としないところがある。
マーロン・ブランドがアメリカ社会におけるインディアンの抑圧に抗議することに少しの反対もない。ただし、マーロン・ブランドが、二十年前に同じ意思表示をしたのならば、それは、知的に勇気のある行為であったということが出来よう。しかし今日、インディアンを悪者に仕立てた映画を作って、観客を動員できると考えている映画製作者はどれ程いるだろうか。と疑うとき、マーロン・ブランドの抗議は、何か、的を少し外しているのではないかというような気がしないでもない。
むしろ、私にはインディアンの問題は、今日、悪者を抜きにして娯楽映画というものが果たして作られるのだろうか、という一般的命題に解消するように思われる。映画のように画面に対する吸引力の高い芸術作品では、緊張感を昂めて、観客を日常生活のなまぬるいテンポから解放して、そのような生活の中では眠っている愛憎の感情をひきだすために、登場人物の類型化が単純であればある程、より大きな効果を画面から得ることができる。
これは当り前のようであるけれど、実は、あまり当り前すぎるので深く考えられることが少ないのであろう。大衆の脳裏には常に、この世の秩序を脅かす悪役のイメージが巣食っている。娯楽映画にとって、この大衆の意識の裡なる悪役を使う程、容易に、観客を捉える方法はない。こうして、悪役こそ、娯楽映画の不可欠の重要人物であるというおかしな事情が存在する。
娯楽という言葉をこれまで使って来たが、高度に芸術的である映画にも、この原則は貫かれる。そしてそのような事情は成立期の映画芸術にも深く滲透していた。その最もよく知られた例が、グリフィスの「国家の誕生」(邦題「国民の創生」)である。
グリフィスが、アメリカ映画史上の最も偉大な監督の一人であり、「戦艦ポチョムキン」などの不朽の名作の回顧上映によって、最近再びその真価を示したエイゼンシュタインに決定的な影響を及ぼしたこともよく知られている。「国家の誕生」は、南部に素材をとって、南北戦争後の雰囲気を描いた作品である。少し注意していれば、古典として、フィルム・ライブラリーなどで見るのに難しい作品ではない。
しかし、内容は、今日の観客にとって、不快感をもよおさずにはおかないものである。一貫して、それは、黒人への偏見によって貫かれている。黒人の暴力性、獣欲、白人の処女の暴行、白人の血の純潔の擁護、そういったものが、クー・クラックス・クランの英雄的抵抗を惹き起こさせ、こうしたアナキーな黒人を支持する北部への反撥が、独立戦争へ南部の人間を方向づけたとする映画である。
少し視野の広い人なら、こういう黒人観は、アメリカ人が、特にドイツから東欧におけるユダヤ人観をそのまま引継いだものであることを見抜くのは、容易なことであろう。
日本で公開になったかどうか知らないが、私はエチオピアのアジス・アベバで、四年程前にシェーラーのベスト・セラーズをもとにした「第三帝国の興亡」という映画を見たことがある。この時すでに古い作品であったから、十年前くらいの映画であろうか。この作品は、いわば、同時代のドイツ記録映画を中心に、シェーラーの記述にそって、ヒトラーの興亡を描いた作品であった。
中でも印象的だったのは、ナチス・ドイツが当時宣伝のために作った劇映画が、引用のごとくに使われていた場面であった。一つは「ポーランドの状態」といった内容のもので、ポーランドで、ユダヤ人が、キリスト教徒の処女を襲って、首にかかっている十字架の鎖を荒々しく引きちぎり、あわや落花狼藉……といった場面で、キリスト教徒の処女を救え、そのためにポーランド進攻を! という世論を喚起するために作られたものである。もう一つの映画は、中世に場面を取ったもので、キリスト教徒の少女を誘惑したユダヤ人が、キリスト教徒の血を穢したというかどで死刑を宣告され、公衆の面前で、大きな鳥籠の中に首を縛られたまま底を開けることによって吊されるというものである。
いずれにしても、基本的テーマは一つであり、この世の楽園を犯す悪者を画面に生き生きと示すことによって、映像の世界の緊張感を昂めようというわけである。そこで、よく考えてみると、インディアンを悪役として登場させる映画と、抑圧されていたインディアンを居留地に押込めた社会との間には、二つの関係が成立つようである。
一つは因果論的贖罪の押しつけである。つまり、今日インディアンが置かれている状況は、こういった悪業の所産に他ならないとする考え方。もう一つは、全く二つの間に関係はないとする考え方であり、これによると、インディアンは、ユダヤ人、黒人、ギャング等々といった一般的悪役として、記号論的役割しか果たしておらず、観客にとって悪役が存在することが必要なだけなのであるという考え方である。
この考え方に立てば、マーロン・ブランドは、悪役を必要とする映画の構造、ひいては大衆文化そのものを批判しさることが必要であった。つまり、観客大衆に宣戦布告することが必要であったという、おかしな結果になりかねないのである。
ところで、ここに、大衆文化の感傷性をあっさり、飛越えた役者が、それも五十年前にいたのだということを確認するのは、いささか驚くべき事実であるともいえるかもしれない。近々再公開されるはずのバスター・キートンの全作品の中に「ザ・ペールフェース」(邦題「白人酋長」)という、キートンの自作自演の作品がある。
この作品は、それが一九二一年のものであるということを思い起こすならば、驚くべき内容を持っている。これはグリフィスの「国家の誕生」の六年後、表現主義の代表的作品である「カリガリ博士」の製作された一年後、チャップリンの「ザ・キッド」および私の専門とする人類学ゆかりのエスキモーについての記録映画の古典「極北のナヌーク」(邦題「北極の怪異」)の製作されたのと同じ年の作品である。もちろん、この作品は二巻ものの短編であるから、映画年表にのることのなさそうなものである。しかし、ここでキートンの演じた役柄は、今日、マーロン・ブランドの抗議内容に照らし合わせて読みとるとき、驚くべき事実であるように思われる。筋は、およそ次のごとくである。
インディアンの居留地に、石油が出るかどうかで利権がからんできた。保護局から土地の権利書を持帰るインディアンの帰途を襲った白人の土地の利権屋は、権利書を奪ってふところに銅貨か何かを一つしのばせておく。(何やらもっと洗練された形で今日も、それ程遠くない場所で起こっていることのようである。)
この白人の仕打ちに激怒した居留地のインディアンは、白人を見つけ次第、殺すことを決議する。そこへ何も知らない昆虫採集家のキートンがまぎれ込んで来る。すっかり頭にきたインディアンの中を、無心なキートンは踊るがごとく泳ぎまわる。突如として走り出すが、それはインディアンの存在に気がついたために逃げ出したのではなく、一匹のチョウを見つけたためである。結局、キートンはインディアンにとらえられるが、奇抜なギャグを使って逃げ出す。再び捕えられる前に、山小屋の中に残されていた石綿で服をこしらえて、それを着用する。捕えられて火あぶりにされるが、石綿の服で身をかためているために少しもこたえない。縛っていたナワが焼け切れると彼は、周りをとりかこむ火で葉巻をつける。これに驚いたインディアンは、彼を同胞として迎え入れることになる。
そこで、インディアンの怒りの原因を知ったキートンは、彼らを先導して、利権会社に乗込んで、権利書を取戻そうとする。ただ一人逃げ出した社長を追いかけたキートンは、逆に待ちぶせされて、ホールド・アップをかけられ、社長に服を取りかえさせられる。そのために、今度はキートンが追われる羽目におちいる。しかし、社長の服の中に、キートンは権利書を発見して、インディアンに大歓迎され、見染めていた酋長の娘との恋が認められる。三年後、キートンは、同じ姿で、娘を抱擁している……。
キートン映画の終りは、相当にこっているものが多い。たとえば、アナキストの投げた爆弾を、知らずに受けとったキートンが、導火線の火で煙草に火をつけて、再び、知らずに警官のパレードの中に投込んで、そのために警官に町中追いかけられる「警官騒動」(一九二二年)は、墓石の上にキートン特有の帽子を載せただけのとめで終っている。
「ザ・ペールフェース」の中のキートンは、今日の言葉でいうなら、まさしくインディアンの要求を支持し、インディアンの世界にコミットしたことになる。もちろん彼のギャグには、インディアンへの偏見を利用したところがあるといえば、いえないことはない。しかし、キートンの利用するのは、インディアンならこうするであろうと白人が考えるインディアンの行動の、プログラムの裏をかくことであり、彼が相対化したのは、白人の側の偏見であるといえないことはない。
よく繰返される論議に、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、非ヨーロッパ世界の現地人とともに住んで、世界を共有しようとした人類学者や宣教師とか(必ずしも、すべての人間にその自覚があったわけではないが)、ジョイス・ケアリーやエルスペス・ハックスリーのような行政官、入植者あがりの作家などと、植民地経済に支えられたアカデミーの中で、安楽イスに腰をおろして変革をとなえた歴史学者たちと比べるとき、どちらが、より帝国主義的でなかったかという比較論がある。この論点は、どちらが、より安易な立場を選んでいたのかというところに落ちつきそうであるが、キートンとチャップリンを比べるときに、私は常に、この選択の安易さの問題を思い浮かべずにはいられない。
二人は、ともに身振り芸を中心とした大芸術家であった。中でも、チャップリンは「モダン・タイムス」などの作品における下層労働者や浮浪者への同情から始まり「独裁者」や「殺人狂時代」などの作品によって、二十世紀の大ヒューマニストと考えられており、キートンは、そうは考えられていない。
ところが、二〇年代以前のチャップリン作品は、常に、大衆文化と偏見の構造に乗っている作品が極めて多いことを、今日知る人は少ない。「パン屋」においてストライキをする労働者は、不安をもたらす悪魔であり、徹底的にやっつけられなければならず、「俳優修業」においても同断である。チャップリンは、常に大衆の通俗的偏見の上に巧みに、おのれの卓抜した技芸と、主人公の弱さを売物にした筋を展開した。もちろん、白人の移民浮浪者的世界を一歩も出たことはない。彼はこの世界において、善悪の役柄などというものは、文脈如何においては、いくらでも入替えが可能なものであるから、その双方を意識して演じ分ける遊戯性の中にこそ、大衆文化の毒を吸収して、これを爽快に乗越える方法があることを、ついに示しはしなかった。キートンの作品には「ザ・ペールフェース」でみられるように、その距離を置きつつ、楽しむ方法が示されている。かつて、ガルシャ・ロルカやサミュエル・ベケットを熱中させたキートン的な世界のとらえ方が、今日再びフランスをはじめとする世界の若者たちによって、静かに、激しく、求められはじめているのは、このあたりに由来するのであろう。
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キートンの「娘道成寺」
一
嘗て、バスター・キートンの映画がまだ余り再封切されていないころに、「キートン将軍」という作品を中心に、キートンの作品世界の構築する内的宇宙に探りを入れてみたことがある。そのころ徹底してキートンを見ていたのは他にフランス文学者の蓮實重彦氏くらいのものであったので、作品が紹介されていないのに、作品について語るもどかしさを感じないわけにはいかなかった。尤も「キートン将軍」は、一九七〇年に京橋の近代美術館のフィルムライブラリーで見たのだから、決して団菊爺いというわけではなかったと考えてはいる。昨年来、国内でもキートンの作品が連続して上映されるようになり、キートンについて触れた文章の数も、私が半年留守にしている間に、相当の数にのぼるに至ったらしい。従って、今更改めてキートンの作品について論ずるのは、聊か時機を失していると疑われなくもなさそうである。それに、興行成績は別にして、キートン対チャップリンは、前者にどうも歩があるようになってきたので、嘗て私がキートンを敢えて論じようとした判官びいきの立ち場も次第に拠り所を失いつつあるようである。にもかかわらず、キートンには、何度論じてもこぼれ落ちる痛痒感がつきまとうことは否定できない。特に、我々が、今日、人間のイメージを鍛えなおそうとするとき、キートンの世界は、無数の手引きを提供しているといって言いすぎではなさそうである。
何故であろうか。それはキートンの作品が、どんな小さいものにも、日常生活の意味論では捉えられない無限の意味が籠められ、一見どんな巨大なものでも、笑いを誘う活力のまえではたちまち脱臼作用を起し、得体の知れないものに拵えなおされてしまうような場を用意し、この世界の極大のものと極小のものの間に交感作用を起させるからであろうか。それが本当だとしたら、そういう作用はどういった磁力が働くことによって起るのだろうか。
昨年最初に封切された「セブン・チャンス」には、そういった磁場に照明を当てられるような手懸りが与えられているようである。それまでのキートンの長編、例えば、「キートンの恋愛三代記」「荒武者キートン」(一九二三年)、「キートンの探偵学入門」「海底王キートン」(一九二四年)と異って、この作品の筋立ては、キートンの考案になるものではなく、或る小説(R・C・メグルーの三文小説)をもとにして仕立てられたので、何から何までキートンの作というわけではない。しかし、あくまでキートンのイメージに合わされて選ばれ、製作の過程で、徹底的なギャグの挿入という手続きを経、勿論キートンが主演するという事実によって、この作品はキートン的宇宙に組み込まれるに至ったという事実は誰も否定することができないだろう。
筋をかいつまんで紹介すれば次のごとくである。
話は、キートン扮するところのジミー・シャノンが女友達メリー・ブラウンの家を訪ねる場面から始まる。行儀正しく、気の弱いキートンは、春、夏、秋、冬、そして歳月を経ても、胸のうちを口にすることができない。何時も、柵のところで名残り惜しそうに、じっと見つめるだけである。傍らの仔犬が老犬になって歳月の経過を示す。勿論メリーちゃんもジミーの一言をいらいらしながら待っている。これは、チャップリンにおいても、ハリー・ランドンにおいても、ドタバタ喜劇のコミック・フール(喜劇的道化)の持つ、ピエロ的属性である。ただ、初期チャップリンにおいては、例えば、「街の灯」におけるように、片想いに終ることが多いのに対して、キートンにおいては、「セブン・チャンス」もそうであるように、ハッピー・エンドに間違いなく到達する。前者が、浮浪性・非定住性を身上としているのに対して、後者が、求心性と遠心性の張力の上に、その演戯を展開させることから当然導き出される筋である。つまり、キートンにあっては、放浪は遠心力の作用に外ならないのであって、定着は、遠心力の大きさを示す起点にすぎないのである。そして愛人は、求心的な点に過ぎないのである。
ところで、ジミーは、友人と手を組んで、不動産仲介業を経営しているが、実は、この会社成績が悪く、今や破産寸前の状態にある。ここに、一人の弁護士が、不思議な条件付きの遺産譲渡の書類を渡そうとして現われる。しかし、ジミーは債権者と誤解して、必死に彼から逃げまわる。このあたりのすれちがいのギャグには捨てがたいシーンが連続して現われる。ジミーが莫大な遺産を継承するために与えられた条件とは、「この七〇〇万ドルの遺産を継承するために、彼は二十七歳の誕生日の夕刻七時までに結婚しなければならない」というものであった。その誕生日は今日なのだ! そうでなくても、常識のルールに乗って生きて行くことのできない道化的主人公に難題を与えることによって、日常生活のルールの上では曳き出すことのできない潜在的活力を、この世界に導入するというのは勿論、道化芝居の定石である。
この課題は、ジミーがさっそく飛んでいって、メリーにプロポーズするついでに、その理由を説明することで難題に転化される。事の表面的な安易さ(待ちに待った一声がこのような形でしか表われてこないこと)に対する憤りから、メリーは、ジミーの申し出を蹴る。実は、プロポーズが出来ないというのは、日常生活のレールに乗ることのできないというジミー(=キートン)の自己主張であり、たとえ失敗しようとも、偶然を媒介としなければ、行動の跳躍台に乗ることができないという形で、キートンは、「非連続性の司祭」又は「偶然性の狩人」という己れだけに属する道化的世界のための舞台を設《しつら》えつつあるのだが。
とはいえ、メリーは、ジミーが、それだけの理由で求婚したわけではないことを重々知りつくしているから、思いなおして電話をかけなおすが、交換手が恋愛小説に読みふけっているために通じない。そればかりかしょげたジミーは行き当りばったりに、クラブの中の女の子たちに声をかけるが誰も相手にしない。クロークの女の子とのやりとりは絶妙であるが、これは一見をすすめる外はない。
一方周囲の人間はジミーに、大急ぎで新聞広告を出すことをすすめる。曰く、「花嫁を求む、当方百万長者、夕刻七時までに教会に来られたし」と。さて、夕刻迫り、キートンは、花婿衣裳に身を固めて、教会内の最前列の椅子に端然と腰を降している。何時ものことながらキートンの衣裳は、それが「海底王」の冒頭のシーンにおけるごとくパロディーのためである場合でも、「将軍」や「蒸気船」におけるようにだぶだぶの衣裳を身に纏っても、まるで彼の身体の一部のように見える。キートンには立っても(「キートンの蒸気船」における差入れの場)、坐っても(「ゴー・ウェスト!」の無賃乗車直前の場)、歩いても(「探偵学入門」における泥棒尾行の場)、走っても、効用性を離れた肉体の構えが、日常生活では全く現われない形で、その本来の姿かたちとして現われる。これは、キートンの世界の神話性を考える場合には見落してはならない事実であり、近代劇、あるいは写実劇、心理劇の伝統の中で長く見失われていたものである。着ている場合ばかりでなく、「カレッジ・ライフ」におけるように脱いで、ランニング・シャツに身を固めても、少しも見ばえしなくなることはない。これは、彼が痩せた小男である事実を想い合わせると驚くべきことであるように思われる。この点は川本三郎氏も「しかし、キートンは疲れ切ることなく、どの映画を見ても、姿勢よく背中をピンとたてて、走り続けている」と指摘している。(「帰ってきたヒーローたち」、「映画批評」一九七三年六月号)
小野田元少尉が「帰還」した時、人々が示した驚きには、あるいは、人々がキートンの何気ない仕草に感じる鮮度の高さと共通するものがあると言えば唐突すぎるであろうか。小野田元少尉の身振りも、いずれ鮮度を失うのであろうが、同じことは、幼児の仕草についても言いうるのかもしれない。
我々の世界あるいは事物についての本源的イメージは、効用性、あるいは、我々の世界の中でしか通用しない説明体系が堆積した層(現象学者シュッツはこれを「セディメンテーション」と言う)の中に埋れてしまっている場合が多い。小野田氏の身振りには、俳優の如き、肉体訓練と、無駄なものは一切、己れの肉そのものにおいても身につけないという構えから来た均衡状態があった。その均衡状態には、肉体の各部分という意味も含まれているが、周囲の自然との均衡という意味も加算される。キートンにおけるごとく、狩猟で生きた我らの祖先はかくやと思われる無駄のなさがそこにはある。チャップリンはあくまでも、大都市の貧民窟をその詩の栄養源としているが、キートンは「恋愛三代記」において示したように、石器時代のシーンに現われても少しも遜色のない構えを見せているのである。この構えに加えて、日常生活の「自動化」(オートマティズム)に乗っていけない、ドジさ加減が、キートンの肉体の日常生活の現実からの離脱、あるいは責任解除を助けるのである。
さて、こうした長々とした説明を聴かされているうちに、当の教会内のキートンは待ちくたびれて、椅子の上に横になって寝てしまう。すると一人、二人と結婚衣裳に身を固めた女性が、いずれも世界各地の屈強の剛の女性を選び抜いたと思われる女丈夫が、教会を目がけておし寄せる。こうした「増殖」のイメージは、イヨネスコの『犀』や、それがモデルとしたマルクス兄弟の「オペラは踊る」の船室のキャビンのシーンにおけるように、時代、文化、ジャンルを越えた黒いユーモア、つまり、何ものか名づけられぬものたちの急速な出現、といった効果をうみ出す。
こういったキートンにおける「増殖」のイメージの恐怖症をイヨネスコとの関連で言い当てた批評家がいないわけではない。
[#この行1字下げ] そういう意味でキートン映画の笑いは、イヨネスコの『義務の犠牲』の、アパート住いをしている主人公(小説家)の隣りの部屋の死体がだんだん大きくなって行き、彼の部屋にまで侵して来て彼をおびやかすというこっけいさと同質であり、……こうした作品群が誘発するのはふえるものにおびやかされる人間のそれに抗う仕草(キートンのギャグも含め)に対してでなく、ふえつづけるもの自体に向けられている黒い笑いである。
[#地付き](寺林淳「笑わぬキートンのこんな見方」)
能狂言の「くさびら」の侵犯的ユーモアも、そういった状況の創出に支えられているのであろう。筋は改めて紹介することもないかと思われるが、一人の男、庭に次々に時ならぬきのこが生えるので気持悪くて仕様がない。山伏にたのんで退治してもらおうと、たのみに行く。山伏、大袈裟な身振りで加持祈祷に取りかかる。初めの一つは消えるが、二つ、二つと切戸から現われ出す。
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山伏[#「山伏」はゴシック体] 「いかに悪心深きくさびらなりとも、茄子の印を結んでかけ、あらめの文にて祈るならば、などか奇特のなかるべき。また数珠をすりながら ボロンボロ ボロンボロ。」また切戸より、茸が二つ出る
くさびら[#「くさびら」はゴシック体] 「ホイホイホイホイ。」前の二つとともに動きまわる
男[#「男」はゴシック体] 「南無三、くさびらがものを言いおった。のう、恐ろしや 恐ろしや 恐ろしや 恐ろしや。」橋がかりより退場
山伏[#「山伏」はゴシック体] 茸が寄って来るのを避けながら「ボロンボロ ボロンボロ、ボロンボロ ボロンボロ。」と祈る。また二つ切戸より出る
くさびら[#「くさびら」はゴシック体] 「ホイホイホイホイ。」
山伏[#「山伏」はゴシック体] 「いろはにほへと、ボロンボロ ボロンボロ、ちりぬるをわか、ボロンボロ ボロンボロ、ボロンボロ ボロンボロ。と懸命に祈った後
これはおびただしいことじゃ、このような所に長居は無用じゃ、ただ退け ただ退け、ただ退け ただ退け。」橋がかりへ逃げる。橋がかりからも茸が五つ出る
くさびら[#「くさびら」はゴシック体] 「ホイホイホイホイ……」
山伏、棒で薙ぎ倒そうとするが少しも減らず増えるばかりである。とうとう「ゆるいてくれい、ゆるいてくれい」と逃げ出す。
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[#地付き](日本古典文学大系『狂言集』下)
この曲においては、山伏のまずく、いかがわしい呪言が、却って茸を増殖させるという恐怖感が、ドタバタ劇風に描き出されている。数年前のパリ巡業では大当りに当ったというのは、イヨネスコの耕した土壌が物を言ったのであろうことは推察に難くはない。
さて目を醒したジミーが見出した己れの状況は、まさしく山伏のそれであった。山伏がまずい呪文で、くさびらたちを喚び出したように、自らのドジの結果が新聞広告を介してとんでもない形で現われたことを知って、あわてて窓から飛び出して逃げ出す。キートンが引き起す混乱は、祝祭における奇妙な精神の高揚にほぼ等しい。
この花嫁たちが、道路を埋めつくし、手に手に煉瓦を振りかざしてジミーを追い廻す。完全に何物かが解き放たれたのだ。あるいはパンドラの匣の蓋をジミーが開けてしまったとも言いうる。勿論町を何物かの大群が埋めつくすという情景はそのまま、「ゴー・ウェスト!」でキートンが、盗まれて駅の車輌に押し込められていた牛の大群を町に放ち、奔流の如く街路を埋めつくすさまを想い起させる。花嫁の大群の赴くところ、すべてが廃墟と化す。煉瓦塀は踏みつぶされてきれいに消えてしまうし、ラグビー場を彼女らが通過したあとは、全身打撲傷の選手が救護されなければならなくなる。ついには電車を占領し、運転手と車掌を投げ出した花嫁電車にキートンはなおも軌道の上を追いかけられる。警官の列の最先頭に「歩いて」行くと、後ろから来る大群に怖れをなして警官達は逃げさってしまう。彼らが路地に曲ったのに気づかずジミーは「歩き」つづける。七時というデッドラインを気にして時計屋に飛び込んだジミーは、どの時計もまちまちで、まるで時間が存在しないことに気づく。主人に訊ねると、耳もとにかざして、動いていないことを知った主人は、分解掃除をはじめる。このノンセンスぶりは、まるで、ジミーがアリスの世界にまぎれ込んだかと我々をして想わせる。「蒸気船」の颱風シーンのような、すべて空間という支えを取り払ったあとに現出する無重力空間に我々を連れ込む。恐怖の逃走はまだ続く。河に飛び込んだジミーを追って、花嫁の大群はなおも続く。とうとうジミーは丘陵地帯に逃げ込むことにする。
「逃走」のシーンは、キートンにおいて最も根源的な場で、すべての場面は、この迅速な動きと、身振りの拡がりにおける静止が一致する局面に向って進行する。「将軍」の機関車による逃走、「ゴー・ウェスト!」の逃走、「カレッジ・ライフ」のボート・レース、「探偵学入門」におけるオートバイの荷物台に乗って、運転する爺さんを置き忘れたままの逃走、これらはすべて、世界の様々の文化の神話の逃走モチーフの延長線上にあるといって差支えない。そういう断定を可能にするのが、キートンの演戯における、静と動、無限大と無限小を同時に表現する遠心力なのである。最も深い睡眠状態の夢と同様に、キートンの逃走は、身体を日常生活の規範という重力から切り離し浮遊力を与える。丁度その状態が、日常生活の現実と、名づけられぬ別の現実の境界であるかのように。そして、そこでは、あらゆる事物が、日常生活のコンテキストから離脱し、被膜(セディメンテーション)をかなぐり捨てて出遭う可能性を与えられるような場へ観客を導く。このような状況は、空間的には逃走という形でも導き出されるが、緊張度の高い離脱作用の中にも求めることが出来る。その例を日本古典に求めるのは難しい作業ではない。「セブン・チャンス」における女からの「逃走」は、例えば「娘道成寺」を想い起させずにはいないのである。
二
勿論、主人公が悪魔に追われて、様々の呪物を投げながら逃走するというモチーフは、大林太良氏が様々のところで論じている神話の最も普遍的なパターンの一つである。西アフリカのマリ共和国のマンディンゴ族にもこの種の説話は、次のような形で展開される。すなわち、
[#この行1字下げ] 二人の兄弟が首長の妹である龍に占拠された地方を奪回すべく遠征する。だが、彼らは、龍に追いかけられ、次々に石を投げつけた。すると石は大きな岩となって龍の追跡を妨げた。次に彼らは卵を投げた。すると卵は巨大な沼となったので、龍はその沼に足をとられて身動きできなくなった。その間に兄弟は脱出に成功した。
[#地付き](L・フロベニウス『アフリカの声』一九七二年版、第二巻)
こうした追跡逃走譚は、私が調査したジュクン族においても採集されている。この説話は西アフリカの建国神話につきまとう旅の説話の一部をなしている。
[#この行1字下げ] ジュクン族の第一王朝(コロロファ王朝)の最後の王は死期が近づくと、カタクパという王子を呼んで彼に神器と共に秘儀の知識を授け、他の兄弟の嫉妬を憂慮して、遠国に逃れるよう指示した。カタクパ王子は、伴の者を連れて都コロロファを引き払った。夕方狩から帰って来た他の双児の王子は激昂して彼らを追跡しはじめた。カタクパ王子がドンガ河という河の中流に達した時、双児の王子が岸に追いついた。彼らは渡し守に河を渡ることを命じたが、残念ながらこの渡し守はつんぼであった。彼らは石を投げつけたが、それらは岩になったり、丘になったりして今日まで残っている。
投げつけるのが追跡する側であるという点で、この説話は、一般の呪的逃走のパターンとはそのまま重ならない。しかし、この逃走という神話的行為と双児の王子をへだてた河が、ジュクン族の神話的第一王朝と今日の第二王朝の時間的境界を形成していることもたしかである。同じジュクン族では、様々な逃走譚(例えば、他のところで紹介した、野兎が叢林の精霊に追いかけられて、街に逃げ込み、心ならずも新しい祭祀の導入の機縁を作った、等)が語られるが、子を食べる母からの逃走譚では、
[#この行1字下げ] 昔、一人の妖女がいた。彼女は、生れて来る子供を次々に食べてしまった。十番目の子供だけが、母親の許からの逃亡に成功して、叢林の中に町を拓いて首長になったが、息子を追い求めて町を探しあてた母親のために住民及び家畜のすべてを呑み込まれてしまった。雄山羊の助けで首長は、母親を斃し、その死体の中から、様々な人をとり出した。様々な人種がこうして、この世の中に改めて出現した。
この説話は創世神話的性格を示しており、古代バビロニアの叙事詩(「神々の戦争」)におけるティアマト女神、又は、息子達を襲うギリシャ神話の大地母神ガイアを想起させるものを含んでいる。
キートンの本来の意図に反して、「セブン・チャンス」の逃走譚はこうした、アーカイックな世界の様々な神話的状況に対応するのである。勿論そういった神話的深みを獲得するために、キートンは筋を必要としていたのではなく、「走る」という演戯におけるだけでもすでに彼はそういったレヴェルに到達することが可能だったのである。
日本神話において、こうした設定から、ただちにイザナギの黄泉国からの逃走を想起するのは容易なことである。神話のみならず、逃走譚は昔話の中でも種類及び数の多い方に属する。関敬吾氏の分類からとり出してみると次の如くである。
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三枚の護符[#「三枚の護符」はゴシック体] 子供(小僧)が山姥の家に泊る、または追われる。……
耳切団一[#「耳切団一」はゴシック体] 小僧(男)が鬼(山姥)に追われる。……
牛方山姥[#「牛方山姥」はゴシック体] 馬方(牛方)が馬(牛)に塩(魚・木など)をつんで運ぶ。途中で山姥(山男・鬼)に会って、塩、馬を食われる。又、馬方は、(1)舟の下、(2)萱の中、(3)木にのぼって、舟大工、菅刈り、樵夫に助けられて逃げる。……
食わず女房[#「食わず女房」はゴシック体] 1、ある男が飯を食わぬ女房をほしがる。飯を食わぬ女が訪ねて来たので女房にする。2、飯をくわないのでのぞくと、頭の穴に飯を入れている。3、追い出そうとすると、彼を桶の中に入れて山にかついで行くので途中でのがれて、菖蒲、蓬(譲葉)の中にかくれる。4、山姥になって追いかけて来る。……
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[#地付き](関敬吾『日本昔話集成』第六巻より)
安永寿延氏は「聟逃げ」や「聟逃し」、「聟の喰い逃げ」などの習俗に触れながら、「逃走と追跡のモチーフは、起源的には、この母子信仰と聖婚儀礼にともなう失踪と探索の演劇的行為から転化したものであったのだ」(『伝承の論理』)としている。我々の問うているのは、コンテキスト的な意味に対する判断を一時停止して、逃げる者、とめようとする者というドタバタ的「身振り」の関係構造そのものを捉えようということなのである。それは一方では、逃げる側に重点を置くと呪的逃走として、バシュラール=エリアーデの飛翔の象徴的モチーフに対応するかもしれない、肉体による想像力の媒体たりうるのである。
「追跡、逃走」という二つで一組の神話的身振りは、空間的拡がりを抜きとると「放せ、放さぬ」という行為の束に還元される。こういった組み合わせは、儀礼・演劇的状況の中に容易に見出されるものである。例えば私が嘗て紹介した例であるが(「蘇るアメリカ・インディアンと道化の伝統」、「辺境」2、一九七〇年、『道化の民俗学』所収)、クロー・インディアンの道化の演戯がそれに当る。
クロー・インディアンの道化は、春の最も重要な儀礼である、煙草の交換の儀式に集団的闖入者の群として立ち現われる。彼らは破れ太鼓を鳴らし、女装し、妊婦を装うなど、様々の形姿で道行きを繰り展げる。そのうちの一組の男「女」(女装した男)の道化は、足が曲り、膝がふくれ上った上に、耳を紐で結えて下向きにし、顔に泥を塗ったり面を被せたりして外見をくずした醜い老朽馬を曳き出す。馬上の道化たちは、しばらく踊り狂う。そのうち男の道化は降りたいと言い出す。「女」の道化はしがみついて離れない。馬上で「放せ、放さない」のドタバタがしばらくの間演じられる。クロー・インディアンの儀礼における男道化と「女」道化の馬上における「放せ、放さない」は、「身振り」言語における「追いつ、追われつ」と開きは余りない筈である。
特に破れ太鼓がカーニヴァル的世界における世界の音楽的「中心」たりうるのと同工異曲で、滑稽に仮装された駄馬は、そのまま祭りの「中心」としてのパロディー化された宇宙的舞台たり得るのである。そこで本来「からみ」役たる道化が、これまた祭りのパロディーの原理たる「顛倒」の化身たる女装した「女」にからまれるというのは、祭りにおける宇宙的活力が、日常的世界の顛倒されたイメージを媒体として放出される(M・バフチーン)ことを考えると、上狛村の聖霊踊りにおける「追われる山伏」と同様な視覚的体験を観客のうちに喚び起すはずである。いずれにもせよ強い筈で、日常世界では、自己主張を少しも認められないようなクロー・インディアンの「女」が、男を苦しめるという演戯は、まさに日常世界の「身振り」によるコミュニケーションの体系の逆転である。その逆転の中に生じた異和感は、そのままカーニヴァルの自由な空間において、新しい回路の形成(想像力の体系の組みかえ)のための原動力となるのである。道化が祭り、劇において宇宙的活力の導入口であるというのは、ほぼそのような位相空間においてなのである。
三
何者かに追跡されるか、すがられるかして、「放せ、放さない」のドタバタを演ずるのは、道化の普遍的な芸の一つであろう。ドタバタ劇的要素を大幅に失ってしまっている現行の能狂言においても、たとえば「業平餅」でも、色好みの業平が、旅の途中で茶屋のおやじに「別の事でもござりませぬ。独りの娘を持ってござるが、田舎の住居を致させまするも不憫にござるによって、都へ御同道なされて宮仕へになされて下されうならば、有難う存じまする」と頼まれて鼻の下を長くして、同道して旅をつづける。娘は被衣《かつぎ》を着ているので顔は見えない。
[#ここから1字下げ]
シテ[#「シテ」はゴシック体] 「まんまと皆を遣《や》いてござる。さらば対面致さう。ほっそりすはりの柳腰、立ち姿の様子、都にも珍らしい取りなりでおりゃる。なう/\不思議な縁で都へ同道致すが、まづここ許で対面致さう程に、その被衣《かつぎ》を取らしませ。嫌ぢゃ〔?〕(笑)。定めて恥づかしさのままであらうが、外に人も無い程に、まづ取らしませ(笑)。はてさて奥深い人ぢゃ。さうおしゃっても取らねばならぬ。是非ともに取らしませと言へば。」業平無理に女の被衣を取り、姫の醜い顔(おかめの仮面)を見て、目附柱の方へ逃げ、袖をかざして坐る
姫[#「姫」はゴシック体] 「申し/\業平様。都へ御同道なされて下さるるやうな、嬉しい事はござりませぬ。向後《きやうこう》はわらはが殿御でござりまする。可愛がって下されませい。」
シテ[#「シテ」はゴシック体] 「何がさて同道致す程の事ぢゃによって、如在には思はぬ。先へいて待ってゐる程に、わごりょは後からおりゃれ。」
姫[#「姫」はゴシック体] 「申し/\、こなたには曲《くせ》も無い。わらはを独り置いてどちへ行かせらるる。是非ともお供致さねばなりませぬ。」
シテ[#「シテ」はゴシック体] 「少しも如在には思はぬが、一寸いて参る程に、そなたはそれに待ってゐさしませ。」
姫[#「姫」はゴシック体] 「はてさて異な事を仰せらるる。子仲をないて万万年も添ひませうと思うてゐまするに、そのやうな情無い事を仰せらるる。どちへなりとも、お供致いて参らねばなりませぬ。」
シテ[#「シテ」はゴシック体] 「ああ、うるさい。わごりょは後からおりゃれと言へば。なう/\うるさやの/\。」
姫 「申し/\業平様。わらはを捨ててどちへ逃げさせらるる。是非ともにお供致いて参らねばなりませぬ。申し/\。どちへござるぞ。まづ待たせられませい/\。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](鷺賢通本、日本古典全書『狂言集』下)
既に述べたように、「放せ、放さない」のドタバタは、「待て、待たない」のドタバタと殆んど身振りにおいて相接しているものであり、象徴的イメージの凝集度の高い劇的空間(状況の集合によるか、役者の演戯によるか、あるいはその両者によってもたらされる)におかれると、笑いの中に神話的相貌をちらつかせるのである。
イザナミに追われるイザナギの呪的逃走をミルチャ・エリアーデはシャーマンの呪的飛翔にたとえているが、この呪的飛翔は劇的イメージでは、神話空間を媒介として、道成寺説話に谺《こだま》している。「男がある女の家へ宿をとる。女が男に求婚する。男は女を避けて逃走し、女は男を追跡する。女は川を渡る際に蛇体と化し、遂に追いついて男をとり殺す。男は復活して女と結ばれる。」この逃走説話について、高野辰之『日本歌謡集成』に収録されている山城国相楽郡上狛村で歌われた聖霊踊りの中の「日高踊り」でみるならば、むしろ逃走感覚に重点が置かれているとみてよいだろう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
京山伏が熊野へ参る ヤア
しはたか山の女茶屋で宿とりて
三つになる姫抱き上げて ヤア
妻にしようと申された
十三なる年またとまられて
その時姫が申さるる様は ヤア
妻になろうと申された
それから山伏肝打潰し
あなべたなべをはや打越えて
京松原へ逃げられた
あとより姫が追いかけするよ
あなべたなべをはや打越えて
京松原へ追いかけた
それから山伏や日高川へ逃げられた
あとから姫が追いかけするよ
渡してたもるな船頭どの
あとより姫が追いかけするよ
あの船いやこの船いや
渡さにゃはいる 渡さにゃはいる
はいたる草履を手にもちて
はいろとおもたら蛇になりた
それから山伏や鐘巻寺へ逃げられた ヤア
同宿たちを頼まれて ヤア
鐘をおろしかくされた
あとより姫が追いかけするよ
御門の脇にしばらく立ちて
あの鐘々と念を入れ
一巻まこよ二巻まこよ ヤア
三巻まいたら湯になりた
にほんうちに姫多けれど ヤア
庄司が娘が蛇になりた
[#ここで字下げ終わり]
この山伏祭文調たっぷりの曲で、この聖霊踊りが雨乞踊りであったらしいというのは蛇が水のシンボリズムと結びつくという点を考慮に入れると興味ある問題がでて来る。すなわち、この「追いつ、追われつ」の状景は、安珍ならぬ山伏が死ぬ(湯になりた)という結末に力点を置いて考えれば悲劇的結末ということになるのだろうが、「追いつ、追われつ」という演戯性に力点を移してみると、それが殆んどドタバタ的要素を内包していることに気づく筈である。大仰に驚きあわてて逃げる。女がそれを追うという演戯の設定においては「業平餅」と殆んど重なっているといっても過言ではない。いうまでもなく「追いつ、追われつ」は道化の基本芸の一つで、それは、マック・セネットのサイレント映画のドタバタ喜劇の殆んど変らぬテーマであった。俳優の即興的演戯のための訓練は、いかに「巧く」逃げる(追う)かという点にかかっていた。(D・ロビンソン『ザ・グレート・ファニー――フィルム・コメディの歴史』一九六九年)チャップリンは言うに及ばず、「キートン将軍」は「追いつ、追われつ」に関するドタバタ劇で、その演戯的宇宙の中にキートンは当時の文明の象徴とも言うべき機関車も捲き込んで、これを完全に飼いならしてしまうのである。(拙稿「バスター・キートンの宇宙誌」参照、本書所収)これは正面攻撃では不可能な「もの」との闘いである。
上狛村の聖霊踊りについてみても、山伏は、能狂言における山伏の如くおこのわざ的要素を、踊りはじめると共に示した筈である。中世における山伏は、熊野三山や出羽の羽黒山の御師として農村共同体の世界の「境界」に周期的に出没する存在であった。山伏に対する定着農耕民のイメージは、強烈な呪力を背景とした祝福をもたらすと共に、その同じ力で災いをもたらすことが出来る存在で、祝福と脅威を同時に構成していた。この二面性は言うまでもなく「聖なるもの」の一般的な受けとられ方である。狂言から察するところでは現実の山伏は、乱暴者で無理を通す厄介者という像が立ち現われる。しかし、同時に、この能狂言の山伏ですら、「聖なるもの=災いをなすもの」(女=蛇=水神)という二重のイメージに発しているかもしれないので額面通り受けとるわけにはいかないだろう。いずれにしても、霊能者と共に暴れ者というイメージを背負う山伏がロリータ的少女に追われて逃げる芸は、それだけでも顛倒のおかしさを撒き散らす。特に民俗的イメージにおいては「暴れ者」は「いたずら者」に極めて近い。『義経記』の中の弁慶が熊野の御子の子と言われ、弁慶の「おこ」の演戯性が山伏姿において強調され、溺れる演戯により、水辺の笑いを誘発していることは示唆的である。
ここで余り長く立ちどまることが許されないから、私の見透しをかいつまんで開陳すれば、山伏=いたずら者が水の象徴性を背負う女性の潜在的呪力を演戯によっておびき出して逃走する、いわば笑いによる宇宙的活力の曳き出し、そしてそれがそのまま雨の誘発につらなる演戯である、と見る観点にそう無理はないように思われる。単に走ることが独立した芸を構成していたことは、平安末の「呪師走り」によっても推定できるし、我々の考察から呪師走りが如何なる象徴性を帯びていたかが逆に推測可能になるのである。
道成寺説話はふつう、鐘楼の場面に重点がおかれて理解されるが、(1)山伏の挑発→(2)清姫の思慕→(3)山伏の逃走→(4)山伏の鐘楼入り、というスケルトンで捉えてみると、この説話は勿論「業平餅」のそれに、(1)―(3)において対応するばかりでなく、「セブン・チャンス」のそれにも全く対応することを人は知るであろう。もっとも、単なる筋の対応を言いたいのではない。キートンの身体を媒介として神話的状況が意識の内側に蘇ってくることが重要なのだ。この原因を探るのは牽強付会に終るきらいがないではないが、基本的主題とその担い手を、再びシテ(清姫―花嫁の大群)とワキ(山伏―ジミー)という構造に収斂する。勿論象徴的意味の広がりと、役割の強調の度合は、文化及びジャンル・作品の要請によって異る。にもかかわらず、特異な資格を帯びたワキが、シテの眠っている潜在的な活力(日常生活に納まりきらないためにネガティヴな扱いを受けているが世界の宇宙論的蘇りに欠くことの出来ないそれ)を蘇らせるという対応は貫かれている。(4)に焦点を合わせれば、吾が子愛護の若に恋慕して、逃れる愛護の若が滝に身を投げて死んで後も、十六丈の蛇身に化して、これを追って妄執をとげる義母雲井の前の説経節の説話に対応すると言える。「セブン・チャンス」もキートンの神話的レヴェルの演戯によって、こういった世界に、接近するきっかけをいたるところに包み込んでいるが、これは他のところで述べたように象徴的入れ子の構造に属するので、示唆するのみにとどめて、「逃走」神話の骨格のみを強調しておこう。
四
さて、「逃走」はキートンを神話的主題に乗せる根源的モチーフであるが、逃走のモチーフは、この作品において二重三重の入れ子式構造を取っていることを忘れてはいけない。この場合、入れ子とは、神話的状況の中に設えられた象徴的記号である。この第一の記号は、混沌の様々なかたちである。この混沌の諸力はこの作品においては、女性の大群という姿をとって現われる。今日、この作品は、ウーマン・リブの脅威を皮相な観客に想起させ、日常生活で女に追いまくられている戦後の日本男性は、この作品でささやかなカタルシス作用を味わうこともできるかも知れない。また、その事自体が、ウーマン・リブの闘士の怒りを誘発するかも知れない。つまり、チャップリン型の通俗的感傷性ヒューマニズムにかぶれた者にとって、女性の大群に追われて、野を越え山を越えするうちに、その女性の大群がふとしたはずみに足をすべらせて誘発した岩石の大群にすりかわり、挙句の果ては、毒を以て毒を制するごとく、女性の大群を蹴散らす方向に外らしてしまう筋立ての非人間性には赦しがたき憤りを覚えるかも知れない。
しかし、どちらの立場からも効果的にキートンを批判することはできないであろう。キートンの疾走のかたちの誘発する遠心力は、同時に、こういった、弾力性を欠いた日常生活の皮相な部分の現実のみに見あう反応を吹き払う効力を持っている。ここに繰り展げられるのは、女性=岩石という形姿をとって出現した混沌の諸力と、この諸力を喚起し、それを日常生活において失われがちな、想像力の弾力性(様々な現実を往還する力)の恢復のための原動力に切り換えようとして、立ちむかう神話的主人公との構造論的均衡なのである。ここにおいて、出発的、あるいは、動機づけとして使われる善玉・悪玉という(あくまでも日常生活の現実のみに作用しうる薄手な情動性を基準にして立てられた)分類は、あっさり揚棄されてしまう。チャップリンにおいては、悪玉はあくまでも悪玉である。何処まで行っても救済されるのはチャーリーとその恋人だけであって、悪玉が宇宙論的位相の中に置き換えられて、神話的に救済されることはない。
ところが、キートンにおいては、廻りの自然物ばかりでなく、混沌の諸力までも、活性化(アニメート)され、真に意味あるものに転化されるのである。混沌の諸力は、キートンの演戯、ドジの積み重ねが噴出させたものであるという点で、実はキートンの内側に蓄積された活力の投射されたものであるかもしれないのである。如何に、見馴れない異形の諸力が出現しても、それが難題という形のディレンマで現われても、キートンは、その柔軟で可塑性に富んだ演戯でそれらを、自らが創出した、彼だけに属する優雅な身振りの小宇宙に取り込んでしまう。このような状況は、それが機械であっても少しの変りもない。キートンと彼が喚起する対象物の一致は、偶然の事なのだろうが、すでにそのバスターという芸名(キートンは本名)に現われていることを、私は、小林泰彦氏の文章で知った。小林氏によるとアメリカの俗語辞典に、バスターとは「巨大な物、すばらしい物、底抜け騒ぎ、破壊する人、烈風」とあるそうだ。(「南日本新聞」夕刊、一九七三年五月二十八日のコラム「ヤングカスタム」)
チャップリンが、あらゆる廻りの事物・人を彼の演戯、役まわりに従属させるのに対して、キートンは如何なる事物・人をも、それらの習性を注意深く観察し、彼の身体との対話によって日常的文脈から離脱させ、塵をとりのけ本来の輝きをとり戻す助けをすることを、私も何度か説いて来た。こういったキートンの技術をJ・P・レベルは「事物の詩的利用」と呼んで次のように注記している。
[#この行1字下げ] キートンの喜劇はたしかに詩的な奥行きを持っている。……詩は(言うまでもないことだが)世界を見る特定の方法の所産なのである。
[#地付き](『バスター・キートン』一九六七年)
キートンの詩的言語をフォルマリスムの伝統にそって論じるのは魅惑的な課題ではあるが、本稿はそれを果す場ではない。
これまで、キートンについて最も鋭い発言をした一人であるジェラード・マストは、「大宇宙に立ちむかう小男――これがキートンの主題だ」と言い切っている。(『喜劇的精神』一九七三年)チャップリン的ヒューマニズムだけでは、我々は、我々の周辺に、喚起されもしないのに濃厚に立ち込めて来た混沌に立ち向かうことはむずかしくなってきている。多少の衒学調を嘲笑されるのを承知の上で言えば、キートンの作品の一つを、普遍的な神話的コンテキストに置き換えて、我々が、手に入れようとしたもの、それは人間のイメージを日常生活の塵の中から取り出して、広大な宇宙に置き換える知的技術としての神話的想像力であると言ってよいだろう。
構造理論の衝撃で、人類学をはじめとする人間の科学が急激な再編成の時期を迎えていることは次第に知られるところとなっている。この再編の課題の中で最も顕著に現われている傾向は、人間及び世界を捉えるのに、これまでの社会科学が身上として来た「因果論的モデル」から、「演劇論的モデル」へ、直線的思考からメタファー的思考への移行という点に集約することが出来る。この思考は日常生活における周縁的な要素に、中心的な要素と相併ぶ位置を占めることを許す。さしずめ、キートンの世界には、本稿で我々がその一端をかいまみたように、こういった思考のモデルが数限りなく埋蔵されているのである。ただし我々の問題としているのは、単なる無原則的な演劇論的モデルではない。そのモデルに照射することによって、日常生活の自動化の層に埋れた「原身振り」を立ち現われしめるような演劇論的モデルが問われているのである。人間がより広い象徴的空間の中で生きなおすために、こういったモデルが救出されなければならない。その上で我々ははじめて、様々な行為と事物の、様々な現実のレヴェルにおける真の位置と意味を発見することができるであろう。そのためにも、キートンにはもっと「歩き」「走り」、「立ちどまって」もらわなければならないのである。
[#改ページ]
バスター・キートンの宇宙誌《コスモロジー》
――「キートン将軍」をめぐって
一
A[#「A」はゴシック体] さて、どうですか、帰ってきたチャップリン。
B[#「B」はゴシック体] 帰ってきたのですか、ほんとに。なにか、新しくやってきたという感じがないでもないと思うのですけどね。
A[#「A」はゴシック体] どうして、そんな嫌味ったらしいことをまた……
B[#「B」はゴシック体] 無声映画のチャップリンがどんどん再発掘されるのならその気にもなりましょう。それに、フランス経由再封切りというのも気になりますね。
A[#「A」はゴシック体] チャップリンは、長編フィルムの上映を差しとめていたのを解禁したそうですね。
B[#「B」はゴシック体] そこ、そこ。その間合いのとり方のうまさも、無声喜劇の名優がトーキーの出現とともにどんどん消えていった中で、見事に、新しい状況に適応していった点と思い合わせて気になるのですがね。
A[#「A」はゴシック体] 生き残ってはいけませんか?
B[#「B」はゴシック体] いや、そういった倫理的截断ではなく、身振りだけの表現の世界という、特権的な表現方法を奪われても特に決定的に失うものを持っていなかったというのが、何とも……
A[#「A」はゴシック体] いささか山口さんにしては歯切れの悪い煮え切らない態度を見せていますが、チャップリンについては、いずれ改めて、歯に衣をきせない本来のスタイルで語っていただきましょう。
B[#「B」はゴシック体] そうですね、「ゴヤ――情熱の生涯」などといった愚にもつかない紙芝居映画とともに予告編として見せられる限りでは、清涼剤として大変いいのですが……
A[#「A」はゴシック体] なるほど、テレビ映画の間にはさまるコマーシャルの部分をチャップリン作品の断片が占めるとよいという意見ですね。
B[#「B」はゴシック体] 声ぬき、身振り芸で見せるか、声つきの筋で見せるかという点になりますと、前者は今日コマーシャルに生き残っている部分で、後者は商業映画の本流をなしている部分ということになりはしませんか。
A[#「A」はゴシック体] すると、今日コマーシャルの声を消すと、ドラマより映像的効率は高いということになりますね。
B[#「B」はゴシック体] それはそうでしょう。コマーシャルは筋を売る必要はなく、短い時間にあらゆる媒体を駆使してできるだけ多くのことを言わなくてはならない。とすると、音声言語を越えてまで、つまり、身振りから最大の表現上の効率を引き出してこざるを得ないでしょう。ただし、コマーシャルの持つそういった特権的な位置は十分に利用されているとは思いませんが。
A[#「A」はゴシック体] なるほど。そうすると、そのうち新発売テレビの売り方のポイントは、コマーシャルになると自動的に音の消える……なんて。とにかく、コマーシャルになると急に音を大きくするテレビ局というのは、そういう意味でも、コマーシャル憎悪に拍車をかけている愚かものということになりますね。
B[#「B」はゴシック体] 音を出しさえすれば、コーヒーの味はどうでもよいという我が国の喫茶店文化も、太り過ぎを抑えるために砂糖を抜く人間が次第に増加しつつある今日、行きづまりを見せはじめているのですから、早晩、映像趣味にも似たような現象は波及してくるのではないですか。とにかく、仮りに、コマーシャルにそういう機運が生まれるとする。その時、現存の劇映画のフィルムは音ぬき筋ぬきではほとんど使えない。すると、浮かびあがるのが無声喜劇のチャップリン……
A[#「A」はゴシック体] 要するに、「ゴヤ――情熱の生涯」の映画を見に劇場に行って、そういうことを考えて帰ってきたわけですか。
B[#「B」はゴシック体] いや、必ずしもそうではありません。一九七〇年の歳越しをフランス国営テレビの歳末番組を見ながら過ごしました。インディオのバンドであるとか、ヴィヴァルディ専門の小室内楽団とか、ジルベール・ベコーであるとか、次々歌うわけですが、その三時間か四時間の間、ときどき、演奏の途中に、バスター・キートンの「キートン将軍」(二七年)(以下キートン作品のタイトル邦題は児玉数夫氏の真情あふるる『無声喜劇映画史』東京書房刊による)のフィルムを流していくのです。バック・ミュージックというのは聞きますが、バック・スクリーンというのは予想外でした。メカニカルなヴィヴァルディの合奏協奏曲と、キートンが北へ向かう機関車の上で、南軍の退却するのを知らずに、夢中で薪割りをしている情景が流れるというのは大変いいですね。
A[#「A」はゴシック体] 意味と解説過剰のベタベタ世界で、特に無意味な音芸術と画像芸術が平行して流れるというのは悪くないですね。このところフランスは大した映画を作らないくせに、そういったカンは依然として抜群によく働くのですね。それが普通ですか。
B[#「B」はゴシック体] 残念ながらフランスのテレビは、全体として、現在のフランスの小市民の通俗性をそのまま反映して一般にたいへん調子は低いとは思いますから、これなどは例外でしょう。そういう試みをどこでやったかということがここで問題なのではなく、バック・スクリーン(つまり、筋ぬき、声ぬき、コンテクストぬき)として、しかも人が登場しつつも、深く心像に滲み通る映像という点になると、果たして、キートンに太刀打ちできる俳優はどのくらいいますかね。
A[#「A」はゴシック体] それを強調しすぎると団菊爺いになるおそれがありますから、そのお歳ではまだお控えなすったほうが身のためであるとは思いますが、たしかに、副次的にして説明的な表現手段を殺すことによって、逆に、表現の届く空間を飛躍的に拡げるという、本来の俳優術の基本原理を貫くことのできた稀有な俳優のひとりであるということになりますね、キートンは。
B[#「B」はゴシック体] 世間では、声の汚いキートンが、トーキーの時代に、ファンを失望させたと没落の理由を説明しますが、逆ではないでしょうか。キートンのような雄弁な役者が生き残れないような二次的要素(音)に目を奪われたことによって、逆に衰退の道を歩みはじめたのが映画産業のほうなのであって……
A[#「A」はゴシック体] わかりました、衰退の道づれとして、生きのびたチャーリーと言いたいのでしょう。「モダン・タイムス」にはその緊張感がまだありますね。
B[#「B」はゴシック体] ところで、キートンとは何ものであったか? 言葉にならないものを、雄弁に、沈黙を武器として語った存在を、言葉にしようというディレンマに追いこまれつつあるのですよ、我々は。まず、魔除けのまじないに、どの顔をとってもよい、キートンの晩年の写真をひとつ。サミュエル・ベケットのシナリオで一九六四年に作られた、ひと声だけ叫ぶ無声映画「フィルム」という作品の撮影の合い間にとった写真です。
A[#「A」はゴシック体] チャップリンについては、ずいぶん多くの人たちが口を出していますが、メイエルホリドやエイゼンシュタインをはじめキートンについて語られているのは余り多くないようですね。
B[#「B」はゴシック体] そうです。いくつかの概説的なものを除くと余り多いとは言えないと思いますが、我々が、あるいは、本当にキートンを必要とする時代をはじめて生きはじめているのかもしれない、という感じはしないでもないのですがね。
A[#「A」はゴシック体] そう、キートンでもマルクス兄弟でも、ベン・ターピンでも、生まれるのが早すぎたか、遅すぎたかという感じがありますがね。キートンを新しい知的感受性で評価することをすすめた先駆者は、どういったところにいるのでしょうかね。
B[#「B」はゴシック体] アメリカの知られざる大作家、大民族誌学者ジェームズ・エイジーは別として、それは面白いことに、自分たちはルネ・クレールの幾つかの作品を除いては碌な喜劇を作っておらず、真にアナキーで喜劇的な作品を作ることのできたジャン・ヴィゴのような人間にはほとんど映画を作らせず、野たれ死にさせてしまったフランス人なのですね。アメリカ人たちがキートンを捨て、マルクス兄弟につまらぬメロドラマのつき合いをさせた挙句に映画の世界から追い出したあとも、フランス人たちはマレックと呼びならわしたキートンを愛することを忘れなかったらしいのです。
A[#「A」はゴシック体] じゃ、そのマレックを呼んで映画を作らせればよかったのではないですか?
B[#「B」はゴシック体] 銭金のことは別というのは、フランス的愛情の妙味ですから、野暮なことは言わぬことにしておきましょう。とは言え、キートンのフィルムが本来の形でフランスに全部残っているわけではなく、「荒武者キートン」(二三年)などは字幕がハンガリー語のものがシネマテークでは上映されています。とにかく、今でも、必ずしもスノッブでない眼利きの間には、チャーリー・ファンよりも、マレック・ファンのほうが多いのではないですか。
A[#「A」はゴシック体] その理由はどこにありますか。
B[#「B」はゴシック体] 私も、どちらかと言えば後者に属すると考えるので、こうなったら、誤解を恐れずに言ってしまいますが、チャップリンは、偉大なる芸人であるけれど、神話作者ではない。キートンは、自分で作ったものなら、余り冴えない作品においてもコスモグラフィ(宇宙の像)を作ることができた真の神話作者《ミス・メーカー》であり得たという点にあるのだろうと思いますよ。
二
A[#「A」はゴシック体] しかし、どういった点で、キートン神話論的、チャップリン・ノーということが言えるのですか。
B[#「B」はゴシック体] 今回は、ちょっと時間的余裕がありませんので、「キートン将軍」を例にとって考えてみましょう。私の考えを述べる前に(あるいは、とともに)、ウィリアム・ウィルフォードという精神分析学者が、『道化とその錫杖』という一九六九年に刊行された本の中でこの作品について一章をあてて示した分析をちょっと御紹介しておきましょう。(邦訳『道化と笏杖』晶文社)
A[#「A」はゴシック体] 一九六九年というと、「道化の民俗学」を八回、雑誌「文学」に連載をなさった年ですね。
B[#「B」はゴシック体] そうです、あの年を境として、道化の持つ神話論的意味の発掘が急速に進んだように思われます。ジャン・スタロビ(バ)ンスキーが一九七〇年に出した「軽業の芸術家の肖像」という大変すぐれた道化論も、「クリティーク」誌の六九年十二月号に掲載されています。日本語訳が出ても全然反応がなかったというハーヴェー・コックスの『道化の饗宴』(邦題『愚者の饗宴』新教出版社刊)も六九年です。「フェリーニの道化師」も七〇年封切で、六九年に作られています。
A[#「A」はゴシック体] 大げさに言えば六九年は、まさに映画・思想史・美術史・キリスト教神学・精神分析学そして人類学の立場から言って、神話論的道化キートンの復活の知的舞台が基礎を据えられた年ですね。
B[#「B」はゴシック体] そうですね、日本で『共同幻想論』などという本が売れていた年です。ついでながら、七〇年にリチャード・ピアースという文学史家が、アルレッキーノ・コンプレックスで現代文学の基調音を鮮かに示した「道化の舞台」という批評研究が現われています。
A[#「A」はゴシック体] ところで、ウィルフォードはどのようなことを言っているのですか。
B[#「B」はゴシック体] 彼はまず、この映画がふたつの境界の分割の上に成り立っていると規定します。
A[#「A」はゴシック体] つまり、南軍と北軍ですね。そしてキートンは劣勢の南部に属していますね。
B[#「B」はゴシック体] もちろんこの場合、南北はフィルムの進行に応じて、具体的な地理性を消去されます。従って、それは、天国と地獄、天と地、川上と川下でもいいようなふたつの神話的な空間性を獲得します。
A[#「A」はゴシック体] もちろん、それを可能にするのはキートンの演技をおいて外にない、ということですね。するとお好きな図式で言えば、キートンはその両世界を往還するもの、つまりふたつの極の間に介在する仲介者ということになりますね。
B[#「B」はゴシック体] そうです、ウィルフォードは、このようなキートンを道化=英雄と名づけています。
A[#「A」はゴシック体] どうして英雄なのですか?
B[#「B」はゴシック体] 英雄と言えば、我々は、武技に秀でた眉目秀麗という言葉を思い出しがちですが、英雄の本来の条件は、神と人間との双方の特徴を兼備している、つまり、神と人間を繋ぐことにあります。ですから、大衆小説のヒーローという言葉にそういった前提を与えて考えたほうが語感としてはより本来の姿に近いと言えるでしょう。ふつうとは異なる特徴と運命を持つ人間を通して、この世ならぬものの意志と姿が現われるというのがヒーローの設定される理由でしょう。
A[#「A」はゴシック体] そうすると、ヒーローを通してふつうはつながらないものがつながるということになりますね。
B[#「B」はゴシック体] そうですね、はじめていいことを言ってくれましたね。
A[#「A」はゴシック体] なるほど、真面目なものと不真面目なもの、高いものと低いものといった対極にあるものを同時に表現できる媒体というのは、そういった可塑性のあるヒーローを通してはじめて可能になるということになりますね。
B[#「B」はゴシック体] そこです。そこでウィルフォードは、この作品をシェークスピアの王権劇と対応しうるような意味での王権劇であると規定するのです。
A[#「A」はゴシック体] しかし、将軍はいるけれど王はいませんよ。
B[#「B」はゴシック体] そこです、我々の構造論的想像力が要求されるのは。あの作品の中で、世俗権威の頂点にあるものとして将軍は王と同格のものと考えることがまずできるでしょう。キートンは冒頭からアウト・カーストとして、本来の戦争集団から放り出されてしまいます。
A[#「A」はゴシック体] 例の志願兵受け付けで、機関士という理由から応募を拒否されるところですね。でも、それは賤民ということではないでしょう。
B[#「B」はゴシック体] 制外者《にんがいもの》という点で、外にあることに変りはありません。そうして、彼は、日常世界の規範を外れて行動する資格を帯びます。
A[#「A」はゴシック体] だんだん〈|道化=英雄《フールヒーロー》〉という規定の何を意味するかがわかって来ました。
B[#「B」はゴシック体] そうでしょう。王=英雄はこの世界外とこの世界を、ヒエラルヒーの頂点で結びつけているのですが、道化=英雄は、ヒエラルヒーの底辺(あるいは一歩外)でふたつの世界を結びつけています。従って、この両者は、上・下という正負の記号を消去すると、対応することになります。
A[#「A」はゴシック体] なるほど。そこで、王の傍らに道化が座りし時には、王座に道化が座っても王は怒らないという情景が歴史的にありえたように、キートンが、将軍と自己同化をなしとげるというシーンが、この映画の山場におかれる根拠があるのですね。
B[#「B」はゴシック体] そればかりではなく、ジョニー・グレー(キートン)が自己同化を遂げるべき対象は他にふたつあります。愛車〈将軍〉と恋人アナベル(マリアン・マック)であるわけですが、機関士ジョニーは、このいずれからもはじめは排除されます。
A[#「A」はゴシック体] つまり、志願を拒否されることによって南軍(=将軍)から、軍に入らなかったと誤解されることによって恋人から、北軍に恋人を乗せたまま盗まれることによって機関車〈将軍〉からということですね。
B[#「B」はゴシック体] そうです。しかし、これらをきっかけにして、ジョニーは、ふたつの世界をつなぐ役割をむりやり背負わされるわけです。背負わされたとは言っても、まさにキートン的演技の世界が、この役割の不可欠な前提になっているのですが……
A[#「A」はゴシック体] それはどういうことですか?
B[#「B」はゴシック体] つまり、キートン映画における主人公の失敗――船のりとして(「海底王キートン」〔二四年〕)、スポーツ選手として(「キートンの大学生」〔二七年〕)――が、事物とそれが日常生活において属している秩序の間に混乱を惹き起こし、事物の秩序剥離状態を惹き起こす効果をもたらします。失敗のパントマイムは、それ自体の連続が指向する〈肉体の技術〉(「鍛冶師と俳優」参照、本書所収)の体系性の故に、ひとつの独得の〈混沌〉の上に樹てられる自律的な空間をつくりあげます。
A[#「A」はゴシック体] その〈混沌〉空間をつくりあげるために、キートンの無表情、大きなギョロッとした眼、整った顔だち、少し短い足、人を酔わせる独得のリズム効果を持った手の動き、歩き方、ポーカー・フェースにたけた表情、少し大きすぎるか小さすぎるかする衣服、表現はするが演技しすぎない顔は欠くことができないのですね。
B[#「B」はゴシック体] そうですね。それらすべてが、そもそも何となく日常生活の秩序に属していないものが、同じくその秩序では考えられないような形で寄せ集められています。ですから、表情、手、足、眼がすでに偶然性を基礎として集まっています。肉体性そのものが〈混沌性〉を帯びていると言えましょう。
A[#「A」はゴシック体] すると例の帽子などは、その象徴的な表現ですね。
B[#「B」はゴシック体] そうです。あの帽子がどうしてああいった形に定着したかということについては、いずれ何らかの説明はなされているのでしょうが、形態論的に言えば、つまるところ、それは、サーカスの道化の伝統に属するものであろうと思います。
A[#「A」はゴシック体] あのサーカス道化の小さい帽子ですね。
B[#「B」はゴシック体] そうです。プロポーションを無視していることによって、日常生活の秩序から離脱していってしまう効果を持っています。例の「海底王キートン」のちっちゃな大砲もそうですね。それにしても、キートンは帽子にこだわりますね。「将軍」には例の帽子は出てきませんが、それでも帽子の演技をやらせていますね。恋人のところへ行っても子供たちに付きまとわれる。キートンがじっと帽子を見つめる。子供の注意が帽子に向く。帽子をかぶる。ここでは、≪失礼して外へ出る≫という日常生活の習性が必然的に付きまとうと思い、立ちあがって戸のほうへ向いて歩き出す子供たちをそらして、外へ出し、扉をうちから閉じてしまう。
A[#「A」はゴシック体] あのタイミングはいいですね。どこかたとえばチャップリンの喜劇的シチュエーションに見る、相手のふりあげた拳をジェスチュアたっぷりにそらすというだけのやり方とは違った詩的な効果があると思ったら、そういった帽子をして演技せしめるというところにもその源泉があったのですね。
B[#「B」はゴシック体] つまり、それは日常生活の力学の細かな計算と、帽子の記号学的な役割の的確な測定のうえに設定された現実原則の〈関節はずし〉なのです。これが詩的でないわけはありません。キートンのなしとげたことは、まさに、身体を文字とした〈詩的言語〉の創出ということにあります。
A[#「A」はゴシック体] ただ、フレブニコフにはローマン・ヤコブソンがいたけれども、キートンにはそういった存在はいなかったという決定的な不幸がキートンにあったわけですね。
B[#「B」はゴシック体] とはいえ、キートンはそれ故に、芸人としての生涯を全うすることができたという強味を後世の人間に感じさせますがね。
三
A[#「A」はゴシック体] ところで、帽子へのこだわりは、拾いあげるときりがない(たとえば、「荒武者キートン」の田舎汽車のシーンなど)と思いますが、「キートンの船長」(二八年)の洋服屋のシーンも印象に残りますね。キートンの父の大男船長が、高校を卒業して帰ってくる息子を汽車の中で待っていたら、大変チグハグなモボ・スタイルで現われました。船長、怒り心頭に発して、直ちに洋服屋に連れていって、船乗りの服装に変えさせます。この際、眼のかたきにしているのが、へん・へん・へんてこりんな帽子です。頭からひったくっても、ひったくっても、元へ戻っています。通りに投げ捨てて、通りがかりの自動車にひかれても、その帽子はキートンの頭に戻っています。
B[#「B」はゴシック体] つまり、帽子は、キートンが世界から離脱する――もっと広い宇宙へ飛び出すための戸口なのです。チャップリンであれば、帽子は被っているか脱いでいるか、せいぜいステッキの先にのせてくるくる回す、つまり、アクセサリーにすぎませんが、キートンの場合は、独自な宇宙《コスモス》の指標なのですから、必需品であるわけです。そこでキートンは、こだわるのです。こだわり方が偏執狂的に徹底してきます。偏愛的と言ってもいいほどになってきます。世の人がアクセサリーとしか認めないものに、必要以上こだわるというのは、日常生活世界から降りるための最も身近な方法であるのですが、キートンは、これを事物をアニメート――たとえば、帽子と身体の対話という形で――するわけなのです。
A[#「A」はゴシック体] 帽子を投げると言えば、今のお話で想い出しましたが、最近テレビで放映された「バスター・キートン物語」(五七年)というつまらないメロドラマで、クルト・バーグナー監督が、落ちぶれて端役で登場するキートンの手から帽子をもぎとって、放り投げるという場面がありましたね。
B[#「B」はゴシック体] ひどいと聞いていましたが、聞きしにまさる映画ですね。盲蛇におじずという言葉がそのまま、製作者と主演のドナルド・オコンナー、これをつくらせた時代の雰囲気の貧しさに当てはまりますね。それはともかくとして、このひどい作品の中で唯ひとつ、怪我の功名とも言うべきシーンは、あのクルトが投げるところです。つまり、メロドラマ映画の監督に具現される日常世界のキートンに対する復讐――この世界からの離脱に成功した人間に対する――がこの場面で完成しています。このシーンが船長ジムの例のシーンのパロディーであるとも考えられますが、三つの理由からそれは成り立たない推論でしょう。
A[#「A」はゴシック体] つまり、あんなくだらない映画を作る人間に、たとえバスターが技術指導として参画していたとしても、こんな場面を意図的に設定することはできない。それから、キートンの作品は、劇中劇として、噴飯物のドナルド・オコンナーの〈キートン映画〉の中にしか出てこないから、ストーリーそのものへの転移は考えられない。ただ、キートンの帽子へのこだわりがよく知られているから、監督にそれをもぎとらせることによって、キートンから権利剥奪したということを言いたかったのでしょうが、映画自体がその行為の意図せざる貧しいパロディーだったということに当事者は気づかなかったのでしょうね。
B[#「B」はゴシック体] わかるでしょう。『犀』にみられるようなイヨネスコの劇の日常生活のプロポーションを無視した無限増殖の感覚はすでにキートンの世界にいくらでも見出されるものです。
A[#「A」はゴシック体] キートンにおいては、一見何でもないように見える部分が、彼の演技によって如何にコスモロジカルな意味を帯びるかが何やらわかってきたような気がします。そこでウィルフォードから少し離れたような気がしますが、戻りましょうか。もう戻らなくてもよいような気もするのですがね。
B[#「B」はゴシック体] いや、やりましょう。この国には、こちらが多少役に立つことを言っても、それが毛の色の薄い人たちの焼き直しでなければ信用せず、種本をかくしていると憎悪する人がうようよしていますから、私も王様つきの道化の立場をとったほうが演技がしやすいとも言えます。
A[#「A」はゴシック体] なかなかいい線ですよ。
B[#「B」はゴシック体] それで、ウィルフォードはですね、筋書きを紹介したうえで、キートンの役割を、〈境界線上の道化〉と規定を深めるのです。
A[#「A」はゴシック体] 肩をいからせなければ物を言えない例の官製社会学者がマージナル・マンと言うときに夢想だにしないラディカルな境界的人間ということになりますね、キートンは。
B[#「B」はゴシック体] そうです。ここで問題になるのはアイデンティティのはぐらかしということになります。機関士ジョニーは、盗まれた機関車と恋人に誘われて〈戸口のそと〉に飛び出します。ヴィスコンティの「ヴェニスに死す」の作曲家エッシェンバッハは両性(界)具有のヘルメス的少年タージォに誘われるままに、戸口の外へ出ていきますが戻ってきません。ジョニーはふたつの世界を往還します。アイデンティティのはぐらかしはその必然的な属性なのです。
A[#「A」はゴシック体] 敵か味方かわからない、帰属不明。まるで誰かさんみたいですね。
B[#「B」はゴシック体] そうおだてないでください。ところで、ジョニーは、世界の境界を認めません。意識的にそうしないのでなく、己れの世界に埋没するため、そういった分類が意味を持つ現実の領域を踏み抜いてしまうのです。これは帽子の例と同じことですが、機関車の薪割りに熱中している間に、退却する南軍の前線をそれと気づかずに、通り抜けて北軍地帯に入り込んでしまう。
A[#「A」はゴシック体] あの薪割りに熱中するキートンと退却する南軍を重ね合わせた構成は、アブサーディティ(荒唐無稽)芸術の精髄とも言うべき情景ですね。これを称して〈狂気〉と言います。
B[#「B」はゴシック体] 同じような情景は、後半の、北軍の世界を擾乱し去って、北軍の将軍を捕虜にして南軍地帯に戻ってくる際に、偽装のために着た北軍の軍服を着がえるのを忘れて、手を振って狙撃されるシーンにも反復されていますね。軍装に表象された日常世界の秩序のばかばかしさが、ここでは明らかにされます。
A[#「A」はゴシック体] そういえば、道化の服装には、着がえることを忘れて、この世界に戻ってきた〈異邦人〉の感覚がつねにつきまとっていますね。それでいて、新しいモードというのは常に道化効果をねらうことによって成立している、つまりそういった効果によってしかこの世界はアニメートされないという関係が道化とこの世界の間にありますね。
B[#「B」はゴシック体] アルレッキーノの服装が、つぎはぎだらけのまだら模様、それが今日のモードのトップのひとつというところから思いついたのですね。ところで、非合法というのは、キートンの世界にたえずつきまとう特性でしょう。敵の後方擾乱は、彼が南軍に属しない限り、筋書きにのっていない行動ということになりますが?
A[#「A」はゴシック体] なるほど。でも、それは、サーカスにおいて、スターとしての軽業師の傍らで、パロディー的演技をするサーカス道化や、山伏神楽などで、主役の傍らで、筋に関係なくからんだりする道化の演技に固有の特徴ではないですか。コンメーディア・デラルテでも、アルレッキーノの役は、たとえばゴルドーニの「ふたりの主持ちのアルレッキーノ」に現われたように、美男・美女を主人公とするこの世のものなるメロドラマの舞台を筋と関係なく歩きまわって、筋をパロディー化し、筋を越えた筋を作るという役割を果たしていますよね。「将軍」におけるジョニーの位置もそういったところにあったのですね。任官もされないのに、将軍の傍らに副官として立って、将軍の身振りを反復する。
B[#「B」はゴシック体] キートンの宇宙誌(コスモロジー)を特徴づけるのはクールな熱狂なのです。クールな熱狂の対象となるのは、メロドラマ的筋、日常世界の秩序に属した至高の理念なのです。この場合ジョニーが描く、求愛――フィアンセ――結婚という筋書きです。ところが、このテーマに熱中する余り、彼はこのテーマに破産を宣告してしまうことになります。いまおっしゃった、将軍の傍らに立つキートンも、そのような例のひとつです。もっとも、ここには王と道化という構図が典型的に見られますが、サーベルを抜いたら刀身が飛んでいってしまうという、将軍のポーズの完全なパロディーになっています。つまり、将軍のポーズから〈かたち〉だけを抜きとってしまって、ポーズを本来それが属している秩序から取り外してしまう、つまり、彼のものなる宇宙の秩序の中に移し変えるのです。かつて、中世およびルネッサンスの王が、道化が似たようなポーズをとることをたいへんに好んだという歴史的状況のうちには、このような理解が暗黙のうちに含まれていた筈です。王は、期待される至高の人間として、たいへん窮屈なエチケットの世界を生きています、彼自身がそういった状況に厭き厭きしていようがいまいが。従って、道化が、そういった状態をパロディー的に再現して、日常世界が賦与する意味性を抜きとってしまうことによる解放感は、王たちに何よりもよく理解できた筈なのです。
A[#「A」はゴシック体] ウィンダム・ルイスがそのシェークスピア劇におけるマキャヴェリズムの研究『狐とライオン』の中で言っていますね。祭りあげられた果てに人間世界から疎外された王と、祭り下げられた結果、疎外された道化では余りに共通点が多すぎるのだ、と。
B[#「B」はゴシック体] そうです。その点ですが、この作品の中ばかりでなく、キートンの世界で見逃してはいけないのは、祭り下げの側面です。つまり、王と道化の間に如何にメタフィジカルな親近性があろうとも、道化は王にとっては、この世のカテゴリーでは愛玩動物であり、肉体的・精神的に撲ろうが蹴ろうが、別に心の痛みを覚えないという対象にしかすぎないという基本的な位相には少しも変りはありません。ただ、道化が負の状況を一身に引き受けて、彼の裡なる宇宙の中で、瞬間なりとも正に転位させるという職能によって王権文化の中にじっくりと腰を据えることができたという点を忘れないならばの話です。
A[#「A」はゴシック体] そうすると、キートンもやはり嘲りの対象なのでしょうか?
B[#「B」はゴシック体] 〈笑い〉のプロフェッショナルとして、当然そういうことになるのではないでしょうか。バタイユがミシュレ論の中で笑いについて次のように定義しています。道化の笑いの暴力性をこれほど的確に表現した言葉は、他にお目にかかっていないので紹介いたします。つまり「笑いとは、遠ざけられなければならないものを[#「遠ざけられなければならないものを」に傍点]――荒々しく[#「荒々しく」に傍点]――導入しながら[#「導入しながら」に傍点]、死と接触して燃え上がり、また死の空無性 vide を表象するさまざまの徴候から、倍加された存在[#「倍加された存在」に傍点]腎re についての意識をひき出してくることによって[#「についての意識をひき出してくることによって」に傍点]、生を保存することしか知らないひとたちが生をとじこめてしまった袋小路から[#「生をとじこめてしまった袋小路から」に傍点]、いっとき[#「いっとき」に傍点]、わたしたちを解放してくれるものなのである[#「わたしたちを解放してくれるものなのである」に傍点]」(山本功訳『文学と悪』紀伊国屋書店、七〇頁、傍点引用者)というくだりです。
A[#「A」はゴシック体] 何やら難しいことになってきましたが。
B[#「B」はゴシック体] いや、サルトルほどもって回った言い回しを、人類学をよく知っているだけあってバタイユはしませんから、傍点の部分を押さえれば、別に文脈としては、理解しがたいほどのことではないでしょう。つまり、嘲笑の対象とは、暴力の示現の最初の徴候なのです。人はそれがフィジカルな強制力を持っている場合、畏怖の眼差しを向け、フィジカルに無力な時は、これを嘲笑の対象とします。しかし、いずれにしても、人は、そういった媒介によって、己れの救済を、この世界からの一時なりともの解放を求めていることに変りはありません。嘲笑しつつ、思わず曳きずりこまれる、それがキートンの身振りの世界です。その時、観客としての人は、作品の他の登場人物や事物と同様に、己れの属する秩序から引き離されて、キートン的宇宙の構成要素として組み込まれてしまうのです。
A[#「A」はゴシック体] なるほど。「将軍」の構図が見えてきました。まず、戦争(人間)世界から疎外されたキートンがあり、次に、偶然または独自のスタイルで真只中に放り込まれるキートンがあり、この過程でのキートンは、チグハグの肉体性と行為――追跡の場面――で笑い(嘲笑)の対象となりながら次第に、これらの人や事物を日常世界の秩序から切り離し、彼が、その怪獣《キメラ》的な異貌性と、彼の持ち込んだ混沌の中から立ち現われる宇宙的リズムに支配された演技によって次第次第に築きあげていくコスモスに、万物を曳き込んでいく、そういった見取図はいかがですか?
B[#「B」はゴシック体] ほとんど同じことは、他の主な作品についても言えることでしょう。「海底王キートン」の中で、彼が偶然まぎれ込んだまま出航してしまった船の中には、キャスリン・マッガイアーの扮する少女とふたりしかいない。初めは、船のメカニズムも少女も、全く彼に敵意をしか示さない。キートンは失敗ばかりする。しかし、猛烈な好奇心で、彼は、船のメカニズムを己れのものとしてしまう。メカニズムといっても、ふつう言う、物理学的原理より、〈なぜ動くのか〉という根底的にして視覚的な反応を喚起する世界そのものです。料理の場面に見られるように、彼はメカニズムを抑えることによって敵対する世界を己れの中に組み込んでしまう。混沌は敵対的な事物や人と彼が身体を通して対話するための不可欠なシンタックスです。
A[#「A」はゴシック体] メカニズムと言えば、キートンが事物の原理に寄せた観察力にはただならぬものがありましたね。たとえば「将軍」の中では、汽車の連結装置、あれに足をとられて身動きとれなくなったところを、自分のしかけた大砲が、振動で彼自身をねらい撃ちしそうになる。ところが、ちょうどカーヴに差しかかったために、発射された砲弾は、キートンが追って行く北軍の奪った列車に命中するというのはまさにトリプル・プレーの感がありますね。
B[#「B」はゴシック体] そうです。そのひとつひとつは、事物に対して、チャップリンなどは引き立て役(演技上のアクセサリー)としてしか考えなかったのに較べて、キートンは、研究・観察を通じて、アニメートするという意欲の結果でありますが、キートンは、同じようなギャグを異なったフィルムに使って、絶えず新鮮な効果をあげていますね。例の大砲のギャグは、「海底王キートン」の中で、陸上の蕃人を砲撃するために仕掛けた玩具大の大きさの――プロポーションを外して生活的現実感覚を失わしめる――大砲の鎖が足にひっかかって追いまわされるというギャグとしても使われています。また、給水装置によって頭から水をあびる(または敵にあびさせる)ギャグは、「忍術キートン」(二四年)でも悪漢に追い回されるシーンで使われています。
A[#「A」はゴシック体] レールと連結器のギャグへの利用も、よほど鉄道について綿密な観察をしていなければ不可能なくふうですね。
B[#「B」はゴシック体] たしかにそうです。メカニカルな必然を綿密に計算することによって、状況における偶然をひきたたせるというのは、キートンならではの芸であると思います。
A[#「A」はゴシック体] そういえば、キートンの作品で、偶然的な要素の演ずる喜劇的な役割または効果は大へん重要な問題であるように思いますが。
B[#「B」はゴシック体] よいところを御指摘くださいました。彼の作品は、一言で言えば偶然(=荒唐無稽)によって宇宙の巨大なエネルギーを解放するという一点をめぐって創成されています。「キートンの西部成金」(二五年)の牛の大群を町の中に導入する結び、「セブン・チャンス」(二五年)のキートンの花嫁募集に応じて集まってきた花嫁候補の女性の大群に追っかけられて、野を越え山越え逃走するキートンは、深い現実を垣間みて、混沌という形をとったその潜底的活力(エネルギー)を曳き出したために、魔性の者に追いかけられる日本昔話の山姥に対する小僧、神話のイザナミノミコトあるいはオルペウスなどの如く、呪的逃走という、最も根源的な神話のパターンに合致します。
A[#「A」はゴシック体] どうもたいへんなことになってきましたね。必然の積み重ねより、偶然の積み重ねのほうが、遙かに大きな宇宙的活力を曳き出さしめるというのは、神話や昔話の主人公(ヒーロー=英雄)の荒唐無稽のほぼ完全な説明になりますね。
B[#「B」はゴシック体] だから、アーカイックな社会では、神話は、むやみやたらに語られてはならないのです。
A[#「A」はゴシック体] 偶然は「将軍」の中でも、キートンが閉じ込められた――またはみずから閉じ込めた――ディレンマから、キートンを脱却せしめる第一義的な要素ですね。
B[#「B」はゴシック体] わたしの用語法に引き込まれて、少し回りくどい表現をするようになりましたね。
A[#「A」はゴシック体] これもキートン映画の作法に従っているだけです。例の深追い追跡、大砲、線路、北軍領内での上下の交差線のシーン、逃走に移って、捕虜にした北軍の将軍が目覚めるところを薪に使う材木でそれとは知らずに撲って再び悶絶させるシーン、これらはいずれも、偶然性を重ねてキートン的宇宙を構築するのに欠くことのできないものですが、その頂点は、何といっても、川をはさんでの南北両軍の対峙の場ですね。
B[#「B」はゴシック体] 将軍の自称副官のキートンが、剣を抜くと、刀身が飛んでいってしまって、キートンを狙っていた敵の狙撃兵の背中にぐさりと突き立ち、キートンの指示で発射された大砲の弾がキートンの頭上に飛び上がり、逃げまどうキートンをそれて、川をせきとめていたダムの堤防に命中して決壊させ、流れ出た水が、渡河中の北軍を押し流してしまう。この偶然が偶然を呼ぶ連鎖反応には、演技的に蓄積された狂燥の世界の華麗さが一度に華開きます。そしてその中心に立っているのが、軍旗を手にしたキートン、足をのせたその相手は外ならぬ現実の将軍、ここに開示されたのは〈さかしま〉なるカーニヴァルの世界に他なりません。世界がここでは、キートンの宇宙に完全に従属しています。
A[#「A」はゴシック体] そして、キートンはめでたく、アナベルも、だぶだぶではある軍服に象徴される現世も、己れのものなる天体の調べのメロディに組み込んでしまうということになりますね。
B[#「B」はゴシック体] そういうことになりましょうか。この作品のキートン的宇宙の心臓は何といっても、機関車であるわけなのですが、愉快なシーンは、逃走の途中、アナベルが、キートンの缶焚きを手伝うことによって、キートンのリズムに曳き込まれるところですね。走る機関車の掃除をはじめたり、ひとつかみの木片を缶の中に投げ入れたりする。それを見ていたキートンが、床に落ちているマッチ棒程度の木片を仰々しく缶の中に収めることによって、彼の〈狂気〉の世界に曳き込み、勝利の宣言をする。アナベルふくれる。キートンは笑わないと言われていますが、このシーンでもわかるとおり、彼は状況で笑い、手を通して笑い、足の動きを通して笑うのです。こうして、表情としての笑いを殺すことによって、彼の笑いは、より高度の包括的な現実の次元を獲得します。そして、最後のシーンが来るわけですね。アナベルと将校に任ぜられたキートンが、機関車のピストンの軸に座って、愛の囁きを交わそうとしている。野営のテントから起き上がった兵が、ひとりまたひとり、小便に行くためにふたりの前を敬礼しながら通りすぎる。そのたびにキートンは、アナベルから身を引き離して答礼しているが、そのうち、ピストンの動きの如く、機械的に手を動かしてアナベルとの囁きに熱中する。機関車が動き出して、軸にのったまま、キートンとアナベルは機関車に連れ去られていく。キートン的狂躁の宇宙の完成ということですね。
A[#「A」はゴシック体] やっと完結編ですね。いささかほっとしました。ところでウィルフォード先生をどこかに置き忘れてきたようですが?
B[#「B」はゴシック体] そうですね。缶焚きの部分は、読みなおしてみるとウィルフォードも言っていることですね。こういった事実の上に立って、ウィルフォードは「将軍」をハムレット王子の狂気と比較していますが、これは、今回は省略しておきましょう。もっとも、ウィルフォード先生は指摘しておられないが、「成功成功」(二二年)という一巻物の短編の中でキートンは一カットだけハムレットを演じたことになっているから、これは愉快な符合ですよね。ウィルフォードは、結局、「ジョニーはヘルメス的で彼に降りかかる滅茶苦茶な出来事によって惹き起こされた混乱の中から明確な線を創り出すのに十分なだけの行動性を備えている。……ハムレットは精神においてヘルメス的でありながら行動においてそうでない」という対比を行なっています。
A[#「A」はゴシック体] 「将軍」一作だけで、これだけお喋りができるのだからキートンは愉しい。今回はキートンにおけるシュールレアリスムといった口当りのいいお話にはならなかったのですけれど、また機会を改めてやりましょう。
B[#「B」はゴシック体] そうですね。マルクス兄弟、フィールズなども出番を待っているようですけど、キートンには特権的な位置を常に残しておかなければならないという切実な義務感がないでもないですね。世界についての我々の最も切実に求めている感受性がそこにはあるのですからね。残念ながらキートンの傍らでは、どんなトーキー喜劇も色あせずにはいないでしょう。
A[#「A」はゴシック体] 今回は、どちらが将軍で、どちらがキートンだったか、いささかわかり難くなりましたが、何とか〈キートンの神話的世界〉を垣間見ることができてたいへん愉しゅうございました。この上は三十六計逃げるにしかず、早く逃げたほうがキートン的ヒーローに一歩近づけるような気がしますので。ではまた。
[#改ページ]
〈見世物〉と映像文化
――文化史の中に映画をときはなつためのひとつの試み
A[#「A」はゴシック体] 率直にお尋ねしたいのですが、フランスの人類学者は映画について敏感ですか? 構造分析が今日のセミオロジー理論に与えている影響から言えば、火元のひとつである人類学者が、当然、映像文化に関心を寄せていいはずだと思われるのですが……
B[#「B」はゴシック体] 一般に、既成の人類学者は余り敏感ではないようですね。これはフランスの第二次大戦後の映像文化の貧しさにも由来しているのでしょう。これはちょっと説明するのが難しいのですが、我々の青少年時代、つまり一九五〇年代のいわゆる名画の神話では、ジャック・フェデー、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ルネ・クレール、クリスチャン・ジャックといった、いわゆるリリシズムとエキゾティズムの混淆の巨匠の影にかくれて気がつかなかったのですが、その後、表現主義の伝統を知るに及んで、文学過剰の伝統は映像文化のなかではむしろ二次的な部分に位置づけられるべきものであることを知りました。フランスの一般の観客の映画に対する姿勢は、極めて反動的であるように思われます。彼らの日常生活を脅かさないノスタルジー的神話の投影を求めていると言っても過言ではないでしょう。過去三十年のフランス映画は、こういった観客の好みに応じることによって、風俗的抒情詩としては大成功を収めてきましたが、もちろんいくらかの例外は認めるとしても、ドイツのサイレント映画、アメリカのドタバタ喜劇の伝統の側に置くと、みるみる色あせるという結果を、今日もたらしていると思います。実を言うと人類学者たちも、こういった二十世紀中期の地方化しつつあるフランス文化を一歩も脱け出さないところで映像に接しているように思われるのです。
A[#「A」はゴシック体] しかし、人類学者のなかにはジャン・ルーシュのような映像作家もいるではありませんか?
B[#「B」はゴシック体] それはたしかです。しかし、ルーシュは、おのれの世界を護るために、パリの人間像を描く姿勢と、アフリカの民族誌を描くときの姿勢を使いわけていますし、今日のアフリカ人を描いても、それがイメージを通して、人類学者の考える現実世界(リアリティ)を突き崩す作用を果たしていないので、人類学者はルーシュを単なるすぐれた記録作家としかみなしていないという結果をもたらしています。
A[#「A」はゴシック体] 私の知る限りでは、レヴィ=ストロースは映画に対する関心をいくらか示している筈だと思いますが……
B[#「B」はゴシック体] そうですね。私はそのあたりはよく知りませんが、リュミエール兄弟とメリエスとを比較しながら、メリエスのほうが月世界旅行などの空想的素材を扱ったので神話的な素材をこなしたと考えられがちであるが、実は、日常生活的現実を截断して独自のリアリティ(実在世界)を再構築するという点では、リュミエール兄弟のほうが、素材は神話的でも、継ぎ合わせ方が日常世界の論理により近かったメリエスよりも神話的であったというようなことを『野生の思考』のなかで言っていたような気もしますし、グリフィスが好きであるというようなことを言っていると何かに書かれてありましたが、それ以上のことは何とも言えません。一般にレヴィ=ストロースは、映画・音楽・絵画などの分野について一九三〇年以後の前衛的試みはあまり好きではないように見うけられます。しかし、それでも人類学者の間では抜群と言えるようです。
A[#「A」はゴシック体] ちょっとフランスに点が辛いようですが、何故ですか?
B[#「B」はゴシック体] 別に含むところはありません。ただ、シュールレアリスム革命を経たにしては、フランス人の世界感覚は妙に保守的なところがあり、そのマイナス面がどうも映画芸術の面に集中的に現われているようです。こちらへ来る前に、私は、どうしてフランスに表現主義に対応するような映画が現われなかったのかと不思議に思っておりました。その疑問の一部は、ジャン・ヴィゴの映画を観て解けたような気がします。日本では、小生の知る限りヴィゴの映画は、ほとんど知られていないのではないですか?
A[#「A」はゴシック体] 一九六六年の「世界前衛映画祭」や近代美術館で紹介されただけですから、少数の人しか見ていないわけです。
B[#「B」はゴシック体] 御存知のように、ジャン・ヴィゴは「操行ゼロ」(三三年)という今では古典的名作になっている映画を作りました。ところが、当時、この映画に対して良識者たちが非難を浴びせ、当局に圧力をかけて、この映画を上映禁止処分にしてしまいました。この上映禁止は十二年続きました。その後ヴィゴは、不自由な条件で「アタラント号」(三四年)という作品を作りましたが、孤立させられ、窮乏に追いやられ、翌年二十九歳で夭折しました。献身的に彼を助けた妻も三九年に死ぬといった如く、この天才的な映画作家の生涯は痛ましいものでした。「操行ゼロ」は、リセ(フランスの中学・高校を併せたような学校)の生徒の反乱を扱ったものです。反乱といっても、名士を招待しての学校の記念日をぶちこわしにする程度のものですが、この映画全体は、カーニヴァル的祝祭の精神に満ち満ちて、生徒の中心的メンバーの遊戯精神は、冒頭の休暇明けの夜汽車の個室のシーンによくあらわれ、ここですでに彼らは道化的存在として描かれています。教授たちは当然生徒の目を通して、たぶん生徒間のイメージとして存在しうる形象にデフォルメされています。おそろしく背が低いが、第三帝政期に発するフランス行政官の気取りをグロテスクなまでに体現する校長、気味の悪い薄笑いを浮かべているが、どこへでもいつでも立ち現われて、スパイをしたり、生徒のオヤツを盗んだりするおかしな教頭、独裁者の縮図である舎監等々の教師群像が、ドーミエのカリカチュアを映像の世界に持ち込んできたような神話的怪獣として描かれます。これだけで十分にシュールレアリスム的ですが、それに加えて、イメージそのもののデフォルメ、コマ落しなどの手法によって、現実の一部を極度に拡大したり、時間軸を自由にずらせたりして、リセの中のおかしな世界が浮き彫りにされます。ある意味でリセは道化あり、怪獣あり、小人ありのサーカスの天幕のなかとみなされているわけです。生徒の道化ぶりに対応するように、新任の若い教師はほとんど職業的道化として描かれています。ジャン・ヴィゴはチャップリンが好きだったので、この教師の歩き方は意識的にチャップリンを真似ています。彼は、その道化的演技によって生徒の醸成しつつあるカーニヴァル的雰囲気に微妙に反応していきます。教壇の上に逆立ちして口にペンをくわえて、教頭のカリカチュアを描くという風に、遊戯精神に満ちたふたつの世界の繋ぎ役です。三三年の作品ですから、トーキー初頭のものですが、この教師はほとんど喋らず、肉体によって、ふたつの世界を調整していきます。ケネス・バークが同じ年(三三年)に書いた『よりよい生活に向かって』という小説のなかに「間違った思考方法の訂正法が正しい思考方法であるといった意味において、あらゆる思考の訂正方法は肉体そのものである」という言葉があるそうですが、ヴィゴはこういった群像を描くことによって、今日我々が世界を見る視角をほとんど先取りしていたと言えるように思います。
A[#「A」はゴシック体] しかし、それにしても、どうして上映禁止処分になったのでしょうね。内容から言って信じられませんね。
B[#「B」はゴシック体] それは何と言っても、最後のシーンにおける学校祭の最中に、生徒が屋根の上で運びあげたガラクタを教師や来賓を目がけて投げつけたのち、自由の歌を高唱しながら屋根の彼方に消えていくといったものや、その前夜祭に、同じ大部屋にカーテンで仕切って起居を共にする舎監を襲って枕の羽毛を空中に散乱させ、喧騒のうちにカーニヴァル的行列をくり広げるあたりが、本来カーニヴァルの行列がそうであるように、カトリックの式典行事のパロディーであるというわけで、中世カトリックの持っていたカーニヴァルに対する理解力を失った当時のカトリックを怒らせたのでしょう。しかしこの場面の映像の美しさは、ちょっと想像を絶するものがあります。
A[#「A」はゴシック体] ヴィゴは、カーニヴァルという点を意識していたのでしょうか?
B[#「B」はゴシック体] 彼はその前に「ニースについて」(二九年)というドキュメンタリーを作っています。これはニースのカーニヴァルを極度に分断して、人間の足の動きとか手の動き、建物をパンニングによって撮ったりするという風なカメラ遊びによって再現したものです。従って、この両者の対応を考え、カーニヴァルの伝統についてヴィゴが十分に理解していたと見るのは困難なことではありませんね。
A[#「A」はゴシック体] お話を伺っていると、カンヌ映画祭で賞をとったイギリス映画「if(もしも……)」(リンゼイ・アンダースン監督、六九年)が「操行ゼロ」に極めて近いような気がしますが、あの映画も、イギリスのリセであるパブリック・スクールの学生の反乱を扱っていましたね。あの映画は六七年に構想がねられたもので、六八年を先取りしたと騒がれたものですが……
B[#「B」はゴシック体] それはたしかにそう言えるでしょう。しかし私には、「if」が六八年を先取りしているという意味において、「操行ゼロ」は「if」を先取りしていると言えると思います。これは、監督自身もジャン・ヴィゴを意識したと言っていますが、両者を較べると「if」程度の映画を騒がなくてはならないほど我々の映像文化の世界は、そのあらゆる映画技術の二次的進歩にもかかわらず、零落した地点に立ち至っていると感じられますね。
A[#「A」はゴシック体] それにしても、ヴィゴに対するほれ込みようは大変なものですね。「if」に否定的な理由は?
B[#「B」はゴシック体] 第一に、イメージがそのカラーの美しさに反し(あるいは比例して)ひどく陳腐なこと。これはアイルランド独立戦争をばかばかしく矮小化したデヴィッド・リーンの「ライアンの娘」(七一年)という映画についても言える最近のイギリス映画の傾向ですね。次に「if」のいけないところは、教師を気取った悪玉に仕立てるだけで、ヴィゴの示したようなある種の世界を背景に持つ形象としてのデフォルメがなされていないという点です。学生たちに機関銃を持たせ屋根の上から乱射させるという血なまぐさいシーンでクライマックスを構成しながら、〈仮構〉という但し書きで終らせるしまりのなさ。この〈イフ〉は、ドラマの必然性をガタガタにしてしまう失点だと思います。全体をリアリスティックに構成したならば、〈イフ〉などというみっともない検閲逃れのためとも、駄洒落とも言いようのない誤魔化しで終らせず、リアリスティックに終るべきだと思います。≪夢でありました≫というやり口に、我々はあきあきしているのではないですか。クラカウアーの指摘するように「カリガリ博士」の大失点は、原作者の意図をすりかえて、主人公(ロベルト)が実は精神病院患者だったという≪精神病患者の夢でありました≫という構成にしてしまったところにあるとすれば、この「if」は若者の反乱という筋を追うのに急で、日常生活の側からは不可視の現実を描くという使命を帯びていない通俗性があります。そのため「if」のカメラの眼は、日常生活の論理で動いていて、そこには映像を通してしか立ち現われることのない世界はついに浮かび上ってこない。あるいは、≪夢でもありませんでした≫ということになりかねません。
A[#「A」はゴシック体] 話を少し分かりやすくするために、もう一度、「操行ゼロ」と対比してみていただけませんか。
B[#「B」はゴシック体] この種の話は受けとり手に、現実の多様性についての感受性が欠けていたら、いくらくだいて言っても、わかりやすくはならないという難点がありますが、「操行ゼロ」では、今日の映像を通してのみ現われうる神話的世界が立ち現われています。〈エロス〉(生、動)の遊戯性を形象化した〈いたずら者〉の生徒たち、〈タナトス〉(死、固定)の具象化である怪獣的教師群像、それに加えてミクサー役の道化的教師、これらが二十世紀に残された数少ない、真の祝祭精神に満ちた場であるサーカス的世界で混淆され、日常生活を超えた神話的な場で、密度の濃い現実(または超現実)を作りあげています。こういった意味での形象の昇華作用に、この作品は成功しています。ところが「if」の登場人物たちは、ケチな己れにこだわり、閉ざされた小宇宙に生きています。ひとりひとりの背後には、教師の側のアナクロニズム、若者の側の風俗(風俗としてのチェ・ゲバラの写真等)を超えた、より密度の高い世界が全然立ち現われてきません。現代の若者があの映画を好むとしたら、それはケチなナルシシズムの現われにすぎないと私は見ます。結局「if」では、肉体的に成熟したのに大人として扱われていない不満が爆発したという他愛のない話に落ちつきそうです。その程度のことなら話を映像の世界に持ち込むまでもなく、ハムレットがオフィリアに「尼僧院に行け」と言うごとく「港湾労働者になれ」と示唆すればよいだけの話です。「操行ゼロ」では、作者、登場人物におけるユーモアと対象化の精神と映像化の技術が、カーニヴァルおよびサーカスといった日常生活に近い神話的枠組みを媒介として、ひとつの現実が溶解し別の現実の立ち現われるのを助けています。これはまさに、エイゼンシュタインがデクパージュの方法で、特に「ストライキ」(二四年)で試みた方法です。従って私は「if」はその外貌にもかかわらず全然ラディカルでないし、カーニヴァルまたは道化的世界像といった民衆的ラディカリズムの伝統にも根ざしていないと思います。ヴィゴの驚異的な作品が権力に扼殺されるのをフランスの映画界が黙認したという事実は驚くべきものです。我々がフランス映画として与えられたイメージが、このヴィゴの犠牲において築かれたということを知るのは鼻白む思いがしますが、決して無駄なことではない筈です。ヴィゴを見殺しにすることによって、フランスの映画は決定的なものを失った筈です。ヴィゴにおいては、ドタバタ喜劇の世界が、そのヴァイタリティを失うことなく神話的な次元に引き揚げられました。ヴィゴ自身はチャップリンが好きだったと申しましたが、私には「操行ゼロ」はむしろキートンの世界に近いような気がします。
A[#「A」はゴシック体] とうとうバスター・キートンが出てきましたね。山口さんがバスター・キートンに入れあげているということは私たちの耳にも入ってきていましたが、それは本当だったのですね。
B[#「B」はゴシック体] そうですね。サイレント時代の長編十二本の他、短編九本を見ています。
A[#「A」はゴシック体] どのような意味で「操行ゼロ」がキートンの世界に近いと言われるのですか?
B[#「B」はゴシック体] どちらにおいても、口や表情よりも身体のほうが雄弁であるというケネス・バーク的な意味です。次に、同じことですが、人間が日常生活でアイデンティティを保つために駆使する技術、つまり表情、スマートな服装、理屈をたいして重要視しないこと。第三に、身振り、手振り、足振り、歩く、走る、逃げるという行為が、日常生活の効用性を離脱して、本源的な意味を獲得するような空間(カーニヴァル、逃走神話)と媒体(登場人物)を創出するのに両者は成功しているといった点においてです。
A[#「A」はゴシック体] つまり、「操行ゼロ」――〈行為の原点〉――という題も、考えようによっては〈始原的行為〉ということになるのですね。
B[#「B」はゴシック体] いささか手前味噌になりますが、そういうことになると思います。
A[#「A」はゴシック体] なるほど、この両者についてのお話を伺ってみると、フェリーニが大道芸人の世界を追求したあげく、「サチュリコン」(七〇年)で見世物的世界を描き、セミ・ドキュメンタリー「フェリーニの道化師」(七一年)では、サーカスの世界に立ちかえった理由がわかるような気がします。
B[#「B」はゴシック体] あの映画を単なるノスタルジーの産物と見たてて一言で「フェリーニは衰弱している」などと愚かなことを言う衰弱した精神の持主に、行為=思考という現在我々の知的課題の中心になりつつあるテーマのなかで、映画の果たしうる可能性はわからないのではないかと残念に思いますね。
A[#「A」はゴシック体] 矛先がこちらへ向かってきましたね。危いので話を少し戻して、「操行ゼロ」も還元作用を試みればサーカス的要素の組み合わせ、「ストライキ」もしかりということになれば、フェリーニの試みは決して新しいものでも珍奇なものでもないということになりますね。
B[#「B」はゴシック体] もちろんそういうことになります。しかし、この三つの作品を同じ地平で捉える思考が映画の世界で失われているかぎり、フェリーニの試みはオリジナリティを獲得します。それも、いま述べたような文化史的コンテクストのなかでは相対的なものではありますが。
A[#「A」はゴシック体] 映画とサーカスの結びつきは、そうしてみると、思ったより深いのですね。ふつうは〈サーカス〉と言えば、バート・ランカスターとトニー・カーティスの「空中ぶらんこ」(キャロル・リード監督、五七年)などを想い浮かべてしまうわけですが……
B[#「B」はゴシック体] 深いとは思いますが、それは題材を提供するという皮相な意味においてではなく、もっと本質的な両者の成立の根拠が問われる次元においてでしょうね。「空中ぶらんこ」ではサーカスそのものよりも、綱渡り芸人の生活、つまり世代対立といった人情話が中心になっているが、話はスリルを除けばサーカスでなくてはならないという理由はないと思います。マルクス兄弟の「珍サーカス」(三九年)、近くはマックス・オフュールスの「歴史は女で作られる」(五六年)がありますね。マルクス兄弟の「珍サーカス」は、せっかくのサーカスをアクセサリーにしか使っていないという意味で駄作であると思います。この他、W・C・フィールズにサーカスの貧乏興行師の話があり、それからローレル/ハーディにもあります。サーカスの場面はフィールズに関する限りは、まだいくつかあったと思います。
A[#「A」はゴシック体] チャップリンの「サーカス」(二八年)は少々截断が難しいですね。
B[#「B」はゴシック体] どうも私には、チャップリンの失敗、ディレンマ、恋物語を立体化するためにサーカスが使われたので、サーカスの持つ象徴性が十分に生かされてはいないように思われますね。これは常にチャップリンの示す傾向ですが、チャップリンの作品には表情を介した人と人との対話はあるが、人と物との対話がなく、物は常に背景にすぎず、作品のなかで事物の世界がアニメートされることはほとんどないですね。キートンには常にそれがあります。たとえば、同じ拳闘にかかわる場面でも、チャップリンの「拳闘」(一四年)ではリングは闘う場でしかないが、キートンは「拳闘屋キートン」(二六年)でリングのロープと身体的対話を始めてしまう。キートンにとってロープは生き物になる。もちろん、これはキートンがリングのロープのメカニズムを綿密に計算しての話であるわけですが……。チャップリンにとって、物は常に彼の演技的世界の延長でしかない。キートンの世界は事物に向かって開かれていて、事物との身体を介した対話によって、常に日常生活の実在感覚を超えた、そこでは身体がより雄弁であるという世界が伐り拓かれています。この集大成が、もちろん「キートン将軍」(二六年)であることは言うまでもありません。キートンがサーカス映画を作らなかったのは残念なことです。
A[#「A」はゴシック体] いずれ〈キートン論〉を小誌にお寄せ下さるそうですが、そういった論点を十分に展開してくださるのでしょうね。楽しみにしています。
B[#「B」はゴシック体] ちょっと見世物小屋の呼び込みか、映画の予告編じみますがね。
A[#「A」はゴシック体] 呼び込みと言えば、「歴史は女で作られる」のなかでピーター・ユスティノフの調教師の狂言回しはなかなか印象的でしたね。
B[#「B」はゴシック体] 「歴史は女で作られる」はサーカスの空間的造型を非常によく生かした映画だと思いました。もっともテーマがテーマだから仕方がないが、笑いの欠如という点は、せっかくのテーマと場を得ながら……と少々惜しいような気もしないでもなかったのですが。
A[#「A」はゴシック体] しかし、終りのほうに出てきた仮装踊りのパレードは、なかなかこっていましたね。
B[#「B」はゴシック体] サーカス空間の異様な相貌を垣間見させるという効果はありましたね。
A[#「A」はゴシック体] この映画の話は、七〇年に行なわれた草月シネマテークの表現主義映画の連続上映の時のプログラムに加わった「パッション」(E・ルビッチ監督、一九年)と似ていると思いませんか?
B[#「B」はゴシック体] そうですね。市井の美女が機会を得てバヴァリア公の寵妃となり、それがもとで革命を誘発し没落するという人生縮図のメロドラマ性において、よく似ていますね。オフュールスの「歴史は女で作られる」の後半はもちろん仮構の物語で、その後のローラ・モンテスが落ちぶれて旅興行のサーカスに加わって、結核に犯されながらみずからの一代記を演じるといった洋の東西を問わず、古くはバッファロー・ビル、近くは阿部お定といった見世物の定型を踏んでいますね。しかし話は、サーカスの舞台での進行、ローラ・モンテスの演じる一代記、過去へのフラッシュ・バック、舞台の背後での彼女の病気をめぐる人々の動きといったさまざまのレヴェルでの現実が交錯して進行します。サーカス空間のカメラ的構図がこういった多層の現実の同時再現という他のメディアでは大そう難しい構成を可能にしていますね。それに、歴史的人物の運命の筋の運び方を分析してみると、比喩的にはサーカスの空間の構成要素とぴったりと重なるという点が巧みに示されています。つまり、政治的世界を身体の動きとして見た時の盛装、行列、目まぐるしい動き、中心点への接近、曲芸、上昇、下降(堕落)等々といった基本的カテゴリーが、サーカスの見世物空間のなかで繰りひろげられうるものだということです。それにサーカスの円環のなかには、野獣、危険な曲芸という死と背中合わせの行為が、政治的世界の中心部の見取図と二重映しになるように仕掛けられています。「歴史は女で作られる」では、ともすれば平板なカラー絵本に終ってしまうような題材が、こういった見世物性に発する多元的な時間・空間の利用の伝統によって、極めて密度の高い映像空間に仕立てられましたが、こういった点、いささか考えさせられますね。
A[#「A」はゴシック体] と申しますと……
B[#「B」はゴシック体] 日本にもサーカスは存在し、尾崎宏次氏などのようにサーカスに関心を示した批評家はいないでもないけれど、サーカスの持つ象徴的世界を飼い馴らし、みずからのものとした作品は少ないですね。伝統に帰れといえばすぐ近松……という安易さを捨てて、日本の映画がいかなる見世物的世界のうちにみずからの伝統を見出しうるか、という点の論議や実験はもう少し必要ではないかと思われます。西欧の映画の伝統においては、サーカスや市の見世物的世界と常に隣接していました。これは対比として言っているのであって、無いものねだりをしているわけではありません。
A[#「A」はゴシック体] それはわかります。しかし、こういった対比が成り立つのは何故でしょうか?
B[#「B」はゴシック体] 第一に、メリエスの映画自体が見世物の芸として出発していますし、本誌前号の映画宣言集にあったメリエスの言葉のなかで、映画の領域としてあげてあるなかに「コメディ、田舎芝居、探偵もの、道化芝居、サーカス」と並べられたさまざまな世界の近さにも由来しているでしょう。未来派がこの立場を受けつぎましたね。それに何といっても、見世物の世界は、日常生活世界のなかでは飼いならしえないようなイメージの吹きだまりであるという点にも関係があるでしょう。
A[#「A」はゴシック体] 見世物の世界が、大男、矮人、大女、野獣、曲芸、トリック等の組み合わせによって非日常的世界を垣間見せるとしたら、映画もそれと違ったことをやっているわけではないということになるのですね。
B[#「B」はゴシック体] もっと積極的な意味で、源泉をそういった世界に仰いでいると言ってよいのではないですか。早い話が、星の数ほどある西部劇が、トム・ミックスあたりを接点とした伝統サーカスの、インディアン・ショー、早撃ちショー、つまり野生の西部の神話の延長線上にあり、見世物小屋の超現実的構築は「カリガリ博士」においてよく生かされたばかりか、キートンの短編「気球乗り」(二三年)の冒頭の化物屋敷の部分やオースン・ウェルズの「上海から来た女」(四七年)のラストのお化け屋敷の錯乱的シーンのなかで見事に生かされていましたね。
A[#「A」はゴシック体] そうしてみると、〈歴史〉物などはたいていこの見世物のカテゴリーに入るわけですね。蝋人形の見世物に時間性を与えるといった……
B[#「B」はゴシック体] そうそう、それで思い出しましたが、そういった関係を端的に示しているのが一九四七年にテレンス・ヤングがフランス[#「フランス」に傍点]で作った長編第一作「奇妙な逢引き」という作品ですね。
A[#「A」はゴシック体] すると、テレンス・ヤングが〈ジェームズ・ボンド〉シリーズで男をあげる前ということになりますね。
B[#「B」はゴシック体] そうです。それまで彼は、イギリスで記録映画を作っていたそうです。この作品には、映画の見世物性が特によく現われていますね。筋は、ロンドンのある女性がパーティで会ったルネッサンス貴族の末裔に誘われてそのルネッサンス風の邸宅へ行き、その豪華な衣装、宝石のルネッサンス的世界に心を奪われる。男は、十六世紀のヴェネチアに生きたという女性の肖像画にこの女性が生き写しであることから、転生を信じ、共に十六世紀の世界を生き直そうと誘う。事実、十六世紀ヴェネチアを再現するガーデン・パーティを催し、仮装、ゴンドラ、コンメーディア・デラルテなどの舞台を再現する。しかしこの試みは女主人公が別の恋人の折目正しい平凡な日常生活ぶりに心をひかれていたために破綻に終わり、男は、肖像画の主が冷酷な女性であったという伝説の筋にまさに適合することから、このパーティの終りに仕掛けられた殺人事件の罪を背負って処刑される。濡れぎぬを着せたのは、この邸で下女として使われていた、男がヴェネチアから連れて来た女性。事件が落ち着いて数年後、女主人公は田舎に住んでいるが、男のかつての執事に招かれてマダム・トゥッサンの蝋人形の博物館へ来る。そして、男の人形が殺人鬼として置いてあるところに現われたイタリア女の背後から、夕闇の薄暗がりのなかで女を糾弾する。イタリア女は錯乱状態に陥って博物館の外へ飛び出し、車にはねられて死ぬ。女は田舎へ戻って、平凡で心やさしい夫に、面白い蝋人形を見てきたというような話をする。
A[#「A」はゴシック体] われわれが飢えていたころ作られたにしては、筋だけでもロマネスクで、なかなかこっていますね。
B[#「B」はゴシック体] この作品も、ルネッサンスに生きようとする男の時間と、平凡な今日を生きることを選ぶ女の求める時間が交錯して描かれます。しかし、もうひとつの見る者を考慮に入れたレヴェルでは、ルネッサンス風の邸宅の内部、室内装飾、装飾品、きらびやかな衣裳の織りなす光と影の乱舞の見世物としても、独自の視覚的世界が提示されています。特に迷路的な回廊には数多くの鏡がちりばめられて、登場人物の緊迫した動きに対応して表現主義映画のデフォルメされた室内空間の効果をそっくり再現しています。それに加えて蝋人形館のアイディアは、陳腐だと言えば陳腐なわけですが、映画の持つ見世物性とは少しも背反しないという結果を生んでいます。しかしそれとても、パウル・レニの「裏町の怪老窟」(二四年)という表現主義の古典で試みられているわけですから、サイレント映画恐るべしということになりますね。
A[#「A」はゴシック体] お話を伺っていると、大蔵貢理論もバカにならないということになりますね。バカバカしいと言われた大映の「怪談」(小林正樹監督、六四年)が西欧の観客に意外と受けたのは、こういった見世物性を切りすてていないという理由によるのでしょうかね。
B[#「B」はゴシック体] あれはあれで、祭りの見世物の〈地獄・極楽〉を映像化したものですからね。しかし、問題はエイゼンシュタインのサーカス的演技や道化の使い方が示しているように、いかなる世界をいかに描くかということにあるのですから、見世物的媒体が、映像の描く世界で高度の象徴表現能力を帯びることは事実であるとしても、見世物なんでも結構ということにはならないわけです。
A[#「A」はゴシック体] どうでしょう、意地悪い質問ととられるかもしれませんが、ドキュメンタリー映画の見世物性という点については?
B[#「B」はゴシック体] 意地悪いどころか大歓迎です。「フェリーニの道化師」もドキュメンタリーですよ。それにこのところ見た新しい作品では、ドキュメンタリーのほうが心に残るものがあったので、このあたりで整理しておく必要があると思うからです。ドキュメンタリーのジャンル的性格について、いまここで改めて私が中途半端な知識を披瀝しなければならない理由はないでしょう。文化史と見世物との関係で言えば、私の心に浮かぶのは十八世紀イタリアの画家ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロのヴェネチアのカーニヴァルの街頭風景で、「新世界」と題した絵です。これは祭りの市の一角で見世物興行師が、アメリカの新大陸風景を見せるための呼び込みをしている様子が描かれています。この絵などは、いわば我々の日常生活のなかでは眼の届かない〈外〉の現実風景を垣間見せることによって、我々を日常生活の流れから連れだすという、本来リアリスティックな記録である筈のドキュメンタリーの祝祭性、神話性がよく現われています。我々の生活を写したところで、我々の時間意識を断ち切った次元でデクパージュとモンタージュが行なわれたら、我々の生活ですら遙か彼方の〈新世界〉の図柄に変貌を遂げるというシネマ・ヴェリテ的な意味で、ドキュメンタリーは、日常生活のなかから、のぞき穴を通して外を見たいという我々の祝祭的世界を求める希求に対応するかぎり、見世物性を帯びるわけです。我々は写真によって、我々の視線を飼いならしてしまったのだから、その点はっきりしなくなっていますが、我々が見ていると感じている風景と写された風景には、視線の飼いならされ方によって大きな違いがある筈で、この距離感がリュミエールの記録映画に見世物性を与えたのだと思います。十八世紀絵画からもうひとつの例を挙げましょう。ピエトロ・ロンギというこれも十八世紀ヴェネチアの画家のカーニヴァル風景に、室内にしつらえられた桟敷から仮面仮装をしたヴェネチアの市民たちが〈犀〉を眺めている風景があります。これなども、祝祭という日常生活の外へ出る機会に、視線によって飼いならされていない事物を視るという興奮を、〈犀〉という南方的イマジネーションを背負った動物が与えているということになり、ドキュメンタリー映画の前史になっていると思います。もちろん同じことは十八世紀日本の、例えば江戸の見世物についても言えるでしょう。
A[#「A」はゴシック体] やさしく言えば、我々の好奇心を満たすかぎり、ドキュメンタリーは見世物性を帯びているというわけですね。
B[#「B」はゴシック体] 〈好奇心〉を簡単に見過ごさないで、日常生活の意識との関係で〈好奇心〉とは何かという点を現象学的に考えぬいてみるしつこさが、ドキュメンタリー映画の理論的再構築のために必要なことだと思います。
A[#「A」はゴシック体] どう逃げ回っても少し難しくなりますね。
B[#「B」はゴシック体] それは我々が栄養食に馴れすぎて、栄養食以外は食事ではないと思い込んでいるからです。
A[#「A」はゴシック体] アクチュアルなドキュメンタリーはいかがですか?
B[#「B」はゴシック体] 映像化しなくてもコミュニケートできることを、フィルムに仕込んだ俗流記録映画は、ここでは考えないことにしましょう。最近見たなかで最も見ごたえがあったのはマルセル・オフュールスのテレビ・ドキュメンタリー「悲哀と憐憫」という、占領下のフランス人を描いた四時間の長尺映画です。これはフランス国営テレビの依頼で制作したのですが、フランス人にとってショッキングであるという理由からだと思いますが、放映とりやめになったという作品です。自主規制の問題は日本だけではなさそうです。言うまでもなく戦後フランスでは比較的数多くの抵抗映画が作られ、フランス人のナルシシズムは満足させられてきました。抵抗神話を助長し美化することによって、戦後フランス人は、九〇パーセントのフランス人がドイツ占領下において、全く違った形で情けなく生きていたのだという事実を忘れようとしたのだということを、この映画は――今日の世界において、いかに神話的美化作用なしに生きることが難しいかという点を――明確に描き出しました。ある地方の町に焦点をあて、マンデス=フランスをはじめ農民、薬屋、ジャック・デュクロ、反共産党の元抵抗戦士、元右翼の紳士など、ドイツ側からも元占領軍将校・兵士を多様に登場させてインタヴューを行ないます。その間、身振り表情に克明な注意がそそがれ、過去の記録フィルムが交錯し、インタヴューのプロセスにおいて、不透明な部分に焦点が据えられて、質問、イメージがそそがれ、フランス人がかつて生き、忘れさろうとした世界が再現されてきます。この映画は、カメラを通して、我々の日常生活では押しかくしてしまった現実をいかに再現して、我々の生きている世界の虚妄性を描き出すかというドキュメンタリーの最も困難な課題にとりくんで成功していると思いますね。
A[#「A」はゴシック体] フランス人にとっては重苦しい、ショッキングな体験ですね。
B[#「B」はゴシック体] そうです。観る過程でみずからの依拠している世界の武装解除を迫られるからです。しかし、つまるところ映像を通しての衝撃というのは、直接的には不愉快でも、おのれの世界の対象化という点では他に得られない体験ですから、これはドキュメンタリーの持つ力と言えるでしょう。みずからを見世物の対象としてさらすというのは大変なことであると思います。しかし、手垢のついた筋、手垢のついた手法、スコラ学的なセミオロジー論議にあきあきしているフランス人(限られていますが)には歓迎された筈です。熱狂的にこの映画を迎えた友人を私も何人か持っています。
A[#「A」はゴシック体] 白黒ですか?
B[#「B」はゴシック体] もちろんそうてす。カラーでないということが今日かえって、時間と意識の相対化の効果を生んでいます。皮肉なことですね。それに声が、インタヴューにおいて、まさに証言という意味で、過去の意識を再現する担い手として、映像と対等の立場を得ているという点でトーキーの贖罪的機能を果たしています。
A[#「A」はゴシック体] それはどういう意味ですか。
B[#「B」はゴシック体] トーキーは、映像の音響的拡がりを助けながらも、話し言葉の説明性という映像言語に異質な要素を持ち込んで、映像から身振り表現の雄弁性という重大な要素を奪いとった。特にフランスでは、フランス人の間にフランス語ナルシシズムが根強く存在するために、話し言葉のムードが逆に映像の世界を馴れ合い的に制約するに至ったような気がします。もちろんこの過程で、言葉は隠されたリアリティを暴くという機能を失って、逆にそういった次元をかくすという作用を果たしてきましたし、映像までがそういった話し言葉ナルシシズムに従属させられてきました。ところが「悲哀と憐憫」では、言葉は何かを暴く、立ち現わしめる媒体として、ナルシシズムを断ち切って映像の真の協力者としての立場を獲得している、という点においてもこの映画は極めてユニークな作品であると思います。
A[#「A」はゴシック体] 反トーキー論者である山口さんのそういう意見は面白いですね。
B[#「B」はゴシック体] イギリスのテレビ映画を作っている「グラナダ」という会社があり、その映画社の制作した「チェ・ゲバラの死」「ラオスの秘密戦争」「南米のインディアン虐殺」、題は正確ではありませんが、おのおの一時間ものをまとめて見る機会がありました。なかでも、特にラオスに関する記録映画では、CIAの過去十年の活動が巧みなインタヴューによって露出され、それに対比して捲き込まれた側の生活と崩壊した世界が描かれているわけですが、この作品においても、単なる画面の補助的説明のためではなく、隠された現実を可視のものとするための生の声の強さを感じました。この場合もやはり現場の声であれば何でもよいという問題ではなく、例えば、米機の爆撃によって知人・家族を失ったラオス人の絵と対比して体験が語られ、それと前後して、自信たっぷりのCIA部員の世界観が語られ、ふたつの世界が対比されるといった具合に、注意深く再構成された映像の全体が、声にその真の機能をとりもどすことを可能にしていると思います。
A[#「A」はゴシック体] 考えようによっては、我々がいかに感情移入を試みたところで、他人の悲惨さは、もうひとつのノゾキ[#「ノゾキ」に傍点]カラクリの〈地獄・極楽〉でしかないという制約を帯びている気もしますが……
B[#「B」はゴシック体] ただし、それ故にこういった作品は、我々の政治世界の異化を助けるのではないでしょうか。それに、すぐれた映像芸術を通して世界を違った眼で見つめることを学ぶのは、弾力性を失った感受性を断ち切ることを可能にしますから、そういった意味で、すぐれたドキュメンタリーの作品は、独立した眼のフェティシズムを可能にする見世物性を失ってはいけないと思います。
A[#「A」はゴシック体] 最後の表現はちょっとアクロバティックで気にならないでもないのですが、極めて積極的な立場で映画を見ておられる山口さんの姿勢が〈具体性〉のなかにうかがわれて、某氏の言う〈自己顕示〉もまんざら捨てたものではないとの感を新たにしました。
B[#「B」はゴシック体] アクロバット、それは見世物的世界の中核にあるものです。
[#改ページ]
ピカソと見世物芸
比較的最近、ある建築関係の出版社から、建築家についての本の執筆の依頼を受けた。どうしてまた非専門家にそういう依頼をすることを考えついたのかとたずねると、今日、建築にたずさわる者は、建築の関係者が、建築及び建築家についてどのようなことを言えるのか、言いそうであるのかという見当が、お互いについてしまった。そこでふだん建築関係の仕事にたずさわってはいないが、建築をより広い文化的文脈の中で捉えなおすことにたけている人類学者を起用して、建築家の気づかない建築空間について指摘させてみようという趣旨であるという説明がかえってきた。なるほどと私は感心した。この意見、後半については、個人差が人類学者の中でも大きすぎるから何ともいえないが、前半の部分は、たしかにありそうなことであると感じられた。どの領域でも、そういった現象が起こりつつあるようである。
視角と用語が固定してしまったために、語り、書く前に手のうちが大体わかってしまうという現象は、何も専門領域ばかりでなく、総合雑誌、論壇誌的性格を持った週刊誌にも一般化しているようである。
建築の例を聞いて思い出したのは、絵画批評の例である。絵画批評の低調が叫ばれてから久しい。ひところは、詩人が加わることによって、活気を帯びたように見えたこの世界も、詩人の手のうちがわかり、語彙が消化されると再び、不毛の領域に立ち戻ったかのようである。このような状況がはっきりと顕在化したのがピカソの死後に、さまざまの美術雑誌に現れた追悼文であった。その多くのものは多かれ少なかれ、もはや使い古された概念と語彙を反復的に使って草したものであることは歴然たるものがあった。にもかかわらず、予想されたようなピカソの評価の死後の下落は起こりそうになく、ピカソの作品は、陳腐な批評的言辞をこえて、我々に働きかけることをやめていない。文学者に起こりがちの、例えば、ジッドやコクトーに見られたような、死後における反転的な評価の地殻変動はピカソに起こらないのであろうか。安井曾太郎に起こったような現象と、ピカソは、その評価の国際的スケールは別としても、無関係なのであろうか。
死後の株の下落は、よく考えてみると、評価する側の視点、語彙の涸渇から来るのであって人気芸術家の死の直後、そういった現象が起こりがちなのは、芸術家そのものより、評価の側の問題である場合が多いようである。物故した芸術家には、死という事実及びそれにまつわる二次的な事象をこえた「事件」は起こりにくいという点も関係あるのかも知れない。
いずれにしても、ピカソの作品についての批評の言葉の低調さにもかかわらず、また読むものはその同義ならぬ同語反復にあきあきしているにもかかわらず、その作品そのものの鮮度が落ちていないという事実と対比してみる時、興味が持たれるのは、チャップリンやキートンといった一九二〇年代に盛期を迎えたサイレントのマイム喜劇の大芸術家の再来、少し事情通の人間になら、死後その盛名が著しく落ちていたジャン・コクトーの復権といった一連の知的現象である。この四人を並べて何と解くという判じものが、今日、単なる知的余興をこえて、我々の関心をそぞろひき立てるのはどういうわけであろうか。この判じものに対する鍵をひめているのが、このところ、各地で催されている「ピカソ・エロチカ(三四七)」展であるように思われる。
この展示を見た人は、壁を覆うのぞき見における芸術家の生涯といったテーマの中で、サーカスの曲芸と道化のテーマが著しく重要な位置を占めているらしいのに気づいたはずである。この作品の多くは一九七一年に開催された版画集成による「ピカソ―女性たち」展にも展示されているので親しんでいる人もすくなくないはずである。もちろんサーカスの中心は、馬の背に曲乗りをする美女である。このテーマは、スーラーやロートレックが作品化しているので二十世紀初頭の絵画世界では決して異質のものではない。サーカスのリングが観客の顔と共に明確に描きこまれている作品も数点ある。こうしてみると、ピカソの世界は、上記の諸芸術家ばかりでなく、フェリーニや、「第七の封印」「道化師の夜」のベルイマンに近接したところにあるような気がして来る。私がフランスにいるころ、断片的にラジオのインタヴューで聞いたことであるが、ピカソは幼少のころから見世物の世界に大へんひかれていたばかりでなく、十七歳のころ半年ばかりサーカスに加わっていたこともあるそうである。そればかりか、彼は毎日、三人の人間を相手に三つの球でピンポンをする訓練もしていたと対談者の一人(残念ながら名前は忘れた)は語っていた。
つまり、ピカソは、一貫して、肉体という宇宙との交感の媒体を大へん大切にしていたという事実をここに提示するのは唐突にすぎるかも知れない。しかし、アクロバット、曲乗り、乱舞、道化芸、ブランコ曲芸、力技、さか立ち等々、サーカスにおいて人間が、日常生活の肉体的限界をこえて示す姿態の中と外には、強度の磁気が発生するとピカソは考えていたようである。この連作のエッチングばかりでなく、ピカソは『ピカソ劇場』という大冊の画集が編まれるほどに、見世物的演劇の世界に深く埋没して来たというのは、最近やっと認められて来た側面である。
同じような磁気がチャップリンやキートンに働き、コクトーが一〇年代から二〇年代にかけて、ピカソその人や作曲家サティ及びディアギレフ舞踊団を誘って築いたバレエの世界が、ほかならぬこういった祝祭的な空間であった。今日我々は、自らの身体、その身振りを介して、世界を、宇宙を統一的に捉える試みに失敗すれば、いかなる論理的構築物も瓦礫の山に帰するという文明の状況に追いこまれている。ピカソの新鮮さはあるいは、今日我々の置かれたこういった状況そのものにも由来しているのかも知れない。
ピカソの作品を介して、我々が身体の芸能・祝祭的な場について語る言語を回復するとき、ピカソ批評は、その失語症的状態からいくらか抜け出る道を見出すだろう。あるいはその時こそこの「高貴な野蛮人」も死後の死を迎えることができるのかもしれない。
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アンソールのカーニヴァル的世界
日本ではまだ紹介されていないが、フェデリコ・フェリーニの一九七〇年度の作品に、「フェリーニの道化師」というセミ・ドキュメンタリー映画がある。一見したところ西欧のサーカスの道化を次々に撮り歩く、フェリーニとそのチームの話である。ところが、見すすむにつれて、ここで再現されている世界は、日常の生活では不可視なものとなっているが、人間の精神をその原郷において深い統一感覚の中で把える営みとなっている。一見ばかばかしい道化の演技は、効用性の中に埋没した人間の行為を、それが従属することを余儀なくされているタナトス(死)原理としての日常生活の表層から剥がして、人間の行為が本来属しているコンテキストとしての深層部分に再び繋ぎとめるための仕掛けである。この仕掛けの中で重要な役割を演じるのは〈引き剥がし〉装置としての仮面である。仮面が我々に呈示するのは、〈平俗なものの拒絶〉いわば存在への不安感を武器につかって、人を日常生活から誘い出すといった方向である。人は仮面といえば〈面〉(おもて)をしか考えないが、サーカスの道化の奇矯な服装全体が一つの面と考えられることは、仮面をもって上述の機能に注意してみると少しも不思議なことではない。考えてみれば、〈聖なる白痴〉仮面をつけた女道化ジェルソミーナを中心に据えた「道」にはじまって「フェリーニの道化師」に至るフェリーニの道程はまさに、仮面と道化とサーカスという三つの主題を通して、世界を擾乱し、人々を不安に陥し入れることによって、本来日常生活の厚い地層に蔽われているため、我々に見失われている〈本源的世界〉を提出させようという試みである。
現在、鎌倉で展示されているジェームズ・アンソール(一八六〇―一九四九、ベルギー生れ)が生涯(前半生と人はいう)を通じて、開示した世界も、フェリーニのこういった世界と通じていることはどちらかの世界を凝視したことのある人なら否定はしないであろう。アンソールについては、もう随分多くの人が、様々な角度から発言して来た。そういった数々の解釈の集約的な表現の一つが「アンソールの仮面の面白さはカーニヴァルのドラマティックな背景とこれにまとわりつく暗い思想を認識させる点にあるのかもしれない。風変りなものと不合理なものが劇的に共鳴しながら秘密を作りだし、仮面を捲き込む無意味な行動が実存主義的な無≠喚起するのである。したがって仮面は、論理が非論理に、道理が道理を失った世界では、非合法的な市民となる」(『幻想絵画』坂崎訳、紀伊国屋書店、三四二頁)といったマルセル・ブリヨンのそれである。
アンソールは極めてつつましやかな生涯を送った芸術家として知られている。しかし、彼の作品世界には、ボッシュやブリューゲル、さらに同時代的なクレーやアルフレート・クービンの世界が技法や、表象を通じて直接・間接に反映している。しかし、絵画芸術ばかりでなく、表現主義の映画、特に「カリガリ博士」や「ノスフェラトウ」が描き出した視点を、少しずらせば、さらさらと指の間からこぼれ落ちるような不定形な世界を十九世紀末のうつろな市民社会の≪死の踊り≫を通して描いたアンソールのこの世界は〈幻想芸術〉の十字路といっていいすぎではないはずである。
今回の作品展示には、「キリスト・ブリュッセルに入る」のような質・量ともに、最大の作品は、(運送の都合で)加わっていない。船ででも、時間をかけても運べばよいのではないかとブツブツ言うのは素人の愚痴であろうか。もちろん「不真面目な仮面」(一八八三)「花飾りをつけた帽子をかぶっている自画像」(一八八三)「仮面ワウスの驚き」(一八八九)「陰謀」(一八九〇)「首をくくられた男の死体を奪いあう骸骨たち」(一八九一)「仮面たちにかこまれた自画像」(一八九九)といった、我々が複製や写真版を通じて馴れ親しんでいる作品が集められているから、今更、「キリスト・ブリュッセルに入る」を求めるのも望蜀の言と化するくらいの充実した展示であることに間違いはない。
ただし、アンソールのような多面的な作家はその主題からいっても、技術の点をとっても、様々の方向からの参入を可能にしている。例えば今回の作品展示ではデッサン、版画作品が極めて豊富に集められている。それらを、丹念に見ていくと、線条の刻み方にティエポロ父子とレンブラントといった一見対蹠的な伝統が、主題に応じて使いわけられついにはアンソール独自の影の地帯で総合されていることに人は驚くであろう。また、官憲によるスト参加者の虐殺を描く「憲兵たち」(一八八八)のような作品にドーミエ的カリカチュアの中にゴヤ的な悪夢の現実を描き出した作品もある。(ほとんど同じ構図の作品は一八九二年にタブロー化されている。)
展覧会カタログに収録されたいく人かの日本側の執筆者の中に、アンソールの世界に真摯な姿勢で立ち向かった様子が見られないのは残念である。いずれも似たような事実と観かた、きまり文句の羅列に終っている。
アンソールの作品の仮面の視線に射すくめられないのが不思議なくらいである。おそらく、これらの人々にはアンソールとの真の出遭いは存在しないのであろう。
一般にアンソールにおける静なる仮面を支える動としての背景を論じるのに使われる説明はカーニヴァルのグロテスクな世界である。しかし、カーニヴァルの風景の中に、見えがくれしながら出没するサーカスの道化とイタリア喜劇の形象を見落してはならない。後者は「仮面劇」(一八八九)のような作品や「異様な舞踏会」(一九一八)に定着している。前者は「ホップ=フロックの復讐」(一八九八)の見物衆の多く、「キリスト・ブリュッセルに入る」(版画、一八九八)さらに、今回の展示作品中には含まれていない「仮面の洗礼」(一八九一)といった作品に集中的に姿を現わしている。
何故に、この期におよんで、評者がこういった一見些末な事実にこだわるか。それは、この視点を欠落させると、大多数の専門家がそうするようにカーニヴァル――グロテスク――仮面――死といった一線的なシニシズムでアンソールの世界を中途半端に把えてよしとする結果に終る恐れが充分にあるからである。
アンソールの世界において死と見られるものは日常生活的現実に衝撃を与えて亀裂を惹き起す「聖なる腐蝕」に外ならない。それは、本来カーニヴァルにおける骸骨や死の表象がそうであるように本源的生(エロス)の復活の予兆であるのだ。こうしてサーカスの道化は常に死と生を一身に具現することによって、人間にたしかな手応えのある生を約束するのである。こういった視角は「首をくくられた男の死体を奪いあう骸骨たち」の一見マリオネットの撲りあいといった「皮を剥ぎとられた」日常生活的現実を露悪的に描いたと見える作品も、これまたアンソールの繰り返して描出した〈練り歩き〉といったカーニヴァル的世界に位置させてみると(事実ゲーテがイタリア紀行で描出し、ゴヤやソラナがスペインのカーニヴァルに表現したように)、蘇えりのための死という公理を秘めているのである。
フェリーニは、「フェリーニの道化師」の冒頭の部分を、幼少期のフェリーニが夜半の寝ざめに窓の外を見ると、暗闇の中に、巨大な夜鳥のごとく、頭をもたげたサーカスの天幕、さらに翌朝から始まる見世物が、少年の心象世界に惹き起した死と恐怖のパニック状態から、描き始めている。こういったフェリーニの「体験」を、次のごときアンソールの回想と対比するとき、我々はアンソールの世界に出遭うために人は選ばれていなければならない、またはアンソールの作品世界を通過することによって、人は選ばれる稀な機会に恵まれるとエキセントリックに結ぶ誘惑に抗うことができないのである。
「ある晩のこと、私が明りのついた部屋の、海に面した窓のそばでゆりかごにやすんでいると、光に誘われたのだろうか、一羽の海鳥が羽ばたきながら部屋に入ってきてゆりかごに突き当った。忘れることの出来ない衝撃的な出来事だった。今でも私はまざまざとあの怖ろしい鳥の飛来を眼前に彷彿できるし、光を求める暗く幻想的な鳥の衝突を、心に感じられるだろう。」(マルセル・ブリヨン、前掲書)
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エリック・サティとその世界
――二〇年代のアルケオロジー
一
どういう訳で、今日改めてサティを論じなくてはならないのであろうか。いくつかの理由が即座に挙げられよう。中でもサティが音楽の中に詩的言語を、その様式、テーマ性、世界観もろ共に持ち込み、他のスタイルでは引き出すことのできない感受性を我々に託しているからである。かけがえのない宇宙感覚がそこにはある。我々は長い間、こういった世界を掴み解読する技術を見失っていた。今日、サティを我々の眼前に連れ戻す、知的モデルを再構築することは、二十世紀が伐り拓いた最も豊饒な知的宇宙及び感性にかろうじて我々を繋ぎとめるための、最低の了解事項になりつつある。
とはいえ、サティの伝記をここで繰り返すつもりは、我々には毛頭ない。シュトッケンシュミットの『現代音楽の創造者たち』(新潮社)か、市販のサティのレコードの三浦淳史氏の手になる解説の中にそれは一とおり語られている。さて、サティ、それは何者であったのか?
エリック・サティは一八八〇年代から九〇年代にかけて、ギリシア舞踏の優雅で単純な旋回運動を想わせるような舞曲を作曲して、ワグナー熱に沸き立っている音楽の世界の中で奇妙な位置を確立していた。しかし一八九八年に彼はこうした過去を葬り、パリを去って近郊のアルクイユに住みつき、公衆の面前から姿を消してしまった。彼がやっていたのは、それまで顧客として毎日通っていたキャバレー「ル・シャ・ノワール(黒猫)」でピアノを弾いたり、ヴァンサン・イプサという女歌手のために歌を作曲することであった。一方、彼は、スコラ・カントルムに入ってヴァンサン・ダンディの許で対位法を勉強し直し、事実、優等生として卒業した。
サティを後にディアギレフに引き合わせたのは、コクトーであったけれども、その前にサティをコクトーに引き合わせたヴァレンティン・グロスという奇妙な女性について知っておかなければならない。一〇、二〇年代のパリには、様々の世界の人間を奇妙な仕方で結び合わせる役をした女性がいた。その中には書店主のアドリエンヌ・モニエー、その友のアメリカ人シルヴィア・ビーチらがいるが、このグロスも出遭いの奇蹟を演出し、嘗ての貴族のサロンにかわる市井のサロンを組織した女性の一人であった。ヴァレンティン・グロスはアルサスの生れで、一九〇九年ディアギレフがロシア・バレーを率いてパリに現われた年に、美学校で学ぶべくパリに現われた。ロシア・バレーに魅せられた彼女はその公演をつぶさに観るばかりでなく克明にスケッチを取った。後に許されてリハーサルに立ち合いながらスケッチを続け、一九一三年にロシア・バレーが、シャン・ゼリゼのアストリュック劇場に本居を構えた時には、ロビーに彼女の作品が展示されるにいたった。こうして、彼女の仕事はジャック・コポーの認めるところとなり、彼はヴィユー・コロンビエ座の舞台及び衣裳を彼女に依頼した。この間彼女はジッド、ガストン・ガリマール、ヴァレリー・ラルボー及びレオン=ポール・ファルグと知り合う。注意すべきは、このすべてが「シェークスピア商会」の常連の名前と重なる事実である。ビーチの回想の中にグロスの名は見当らない。しかしもう一つの注意すべき側面は、グロスが毎水曜日に催したサロンには、上記の人々をはじめとするエヌ・エル・エフの同人ばかりではなく、多くの音楽家が加わっていたことである。その中にはベルリンから無調性の音楽を携えて戻ったばかりのエドガー・ヴァーレーズ、スペインの名ピアニスト、リカルド・ヴィニエス、当時十五歳のジョルジュ・オーリックが混っていた。サティも、彼女とは友人の作曲家ローラン・マニュエルのアパートで一九一四年に会って以来親交を続けていたから、当然このサロンの常連であった。
この年にグロスはサティを楽譜出版に携わるヴォーゲル出版社に紹介した。出版社はシャルル・マルタンというアール・ヌーヴォーの画家の絵に合わせて出版するための小曲集をサティに依頼した。こうして生みだされたサティの傑作小曲集――音楽の世界の「ショート・ショート」とも言うべき――『スポーツと嬉遊曲』(一九一四年)は次のようなサティに全くふさわしい題からなっていた。
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食欲をそそらぬコラール[#「食欲をそそらぬコラール」はゴシック体](これには「嫌味たらしくつきあいにくく」と指示され「私を毛嫌いする人達に捧ぐ」とある)
[#ここからゴシック体]
ブランコ
イタリア喜劇
花嫁の目覚め
鬼ごっこ
つり
ヨット
海水浴
謝肉祭
ゴルフ、蛸、競馬、すみとり遊び
ピクニック
ウォーター・シュート
タンゴ
それ
いちゃつき
花火
テニス
[#ここで字下げ終わり]
[#ここでゴシック体終わり]
この各々の曲についての楽理的な解明は勿論私の手に負えるものではない、しかし曲想も題名も、全く遊戯性に満ちた作品であることは、今日これを聴く者の等しく抱く感懐である。音楽の世界の俗物根性の隠れ家として使われて来たメガロマニアの正反対の極に、サティは遊戯空間を築きあげた。一連の余暇――「糞まじめ」の支配から解放されて、純粋に身体の「かたち」を撓めていくことの出来る特権的な瞬間を、サティはこの小品集の中で捕えたと言える。たしかに虚をつくというのはサティの最も得意とするところであった。サティにあっては虚をつくというのは、決して奇を衒うことではなく、偶然的要素を予想されない部分に持ち込むことによって、意識の中に外の方法では穿つことの出来ない空間を伐り拓く技術である。極端な短かさと共に、極端な緩かさによって陳腐でない「退屈」へ人を誘うのもサティの技術の一つであった。
「大衆は退屈を欲している」、「何故ならば退屈には秘匿性と深さがあるからである」「聴衆は退屈に対して無防備である。退屈は彼の虚を衝く。……」とサティは覚え書き風に記している。
サティの音楽のユーモアの質を論じながらシャトックは、適切にも、それが人形劇の醸し出す底知れぬ機械化された身振りの美学に支えられていることを指摘する。
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サティ音楽の喜劇的な調べは、人形劇が共感とサディズムを混ぜ合わせたような形で笑いを喚起するように、我々の情感を取り込んで行く。『スポーツと嬉遊曲』及び他のよくできた諧謔的な小品は人形《ギニヨール》の演技のちっぽけな広さと広大な迫力を併せ持っている。
(『祝宴の歳月』ヴィンテージ版、一九五五年、六八年、一五一頁)
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我々のような短詩形の詩的伝統に育った人間にとっては、サティは、ドイツ・オペラの物々しい雰囲気、タキシードを着た指揮者が尻を振り振り、大仰に終止のバトンを振り降す演奏会にしか音楽がないと躾けられた世界の人間より、遙かに身近に思えるかも知れない。サティの笑いは禅の高僧の笑いに通じている。サティの小品は様々の論者によって俳諧の形式に近いと言われた。たしかに彼の作品は、その短かさと、あらゆる面から言って異化の鋭さという点で、公案のスタイルを想わせるところがあるといって過言ではなかろう。
『スポーツと嬉遊曲』に典型的に現われた極端な短かさは、音楽会形式に対する異化の作用を含んでいる。聴衆はもはや、どこで息を殺し、どこで咳をし、どこで拍手をするかという、彼らが飼馴らし、彼ら自身が飼馴らされた音楽会の因習的時間の外へはみ出さなければならなくなる。ここにはすでに記号体系としての音楽会の否定すら仕掛けられている。サティの側に立つのは、ケージの指摘するのとは別の意味でのアントン・ウェーベルンである。(『オーケストラのための五つの小品』op. 10、一九一一―一三年)シャトックは、サティのこの極端な短小形は、ラベルの『ボレロ』の無限とも思える繰り返し(レヴィ=ストロースの如くこれを額面通り受けとって、音のコードの漸増的追加としての神話的思考のコード変換による繰り返しと読み解く方法もあるが)、又はマーラーやドビッシーの限度を越えた拡張に、逆方向で対応すると言う。(前掲書、一四二頁)極端な長さは極端な短かさ同様、芸術の因習的様式の外側にあるものといえる。サティの場合は音楽的時間の節度を越えた短小化によって、全世界を一瞬の中に取り込む技術を開発しているのである。マーラーが膨張指数の破壊によって宇宙的な音響空間を開拓したとすれば、サティは、短かさの多彩な可能性を発掘することによって、異化と共に、新しい詩的感受性に達する途を我々に示している。それはあたかも、人形が崩れる身振りそのものが、重力と張力の均衡とその破壊の弁証法の上に演じられる時、その時間が如何に短かくとも、それは充実した祝祭的時間性に転化するきっかけとなるという事情に通じている。今日我々の周辺で、こうした美学を達成しつつあるのは瀧口氏の瞬間詩であると言ってよかろう。遊戯性が表面に現われる時に、テーマ性は「内容」の拘束を受けないとはいうものの、「コンメーディア・デラルテ」と「カーニヴァル」がタイトルの中にその位置を占めているのは、サティの世界の解読《デユーダージユ》を試みる者にとって何よりも心強い限りである。というのは、日常生活の事物を効用性の支配から切り離して、事物の持つ秘められた世界への手懸りを表面化させる時空がこの遊戯的宇宙だったからである。
彼が示したラブレーへの関心は、こうした遊戯空間への彼の関心を直截的に表わしたものであろう。彼は一九一九年に『三つの組み立てられた小品』と題する小管絃楽編成用とピアノ四手用の曲を作曲した。これは『パンタグリュエルの幼年時代(夢)』、『コカイニュの行進曲(歩き方)』、『ガルガンチュアの遊び(ポルカ調)』からなっている。『パラード』や『メルキュール』で使われたような縁日や見世物のスタイルが原型をとどめないほど転移されて、つまり「かたち」において純化されて、曲の基調となる。同じ頃作曲された『ダフエネオ』、『青銅像』(一九一九年)、『帽子製造人』などと共に、そこにはユーモアの最も磨かれた表現があり、あらゆる感情移入を拒絶し、常に何らかの驚きを伴わずにはいない、新鮮な単純さと透明さが作品の形を決定していた。ロジャー・シャトックは「部分の合成よりも、切断の、分離のスタイルに近づいていた」と述べる。サティはそういった意味でも今日的感性の起点にあるといえる。この頃のサティについてダリウス・ミヨーは次のように書き遺している。
[#この行1字下げ] あらゆる外国の影響(主としてワグナーのそれを指す――引用者)を脱れたフランスの音楽に属する声調をそのまま、新鮮な形で再発見し、新しい単純さと飾り気のなさで聴かせたのはエリック・サティであった。エリック・サティの芸術は真のルネッサンスであった。
[#地付き](『エチュード』)
更にミヨーは『スポーツと嬉遊曲』を右のような意味でのフランス楽派の最も典型的な作品と考えた。
こうしたサティの世界を知的に深く規定しているゲームの規則を手繰り出してみると、浮び上って来るのは一八九九年に作曲された『びっくり箱』である。この『びっくり箱』は、前奏曲―間奏曲―終曲からなっている。今日パリの映画館でチャップリンの初期の短編映画が上映される時殆ど必ずといってよいくらい伴奏音楽に使われているのはこの前奏曲である。チャップリン初期短編の展開する絶妙な身振りの世界が、サティ本来の、身振りとしての音楽を創出するという意図に、ピタリと合っているという点で、両者の意識しない歩調の合わせ方に驚嘆せざるを得ない。『スポーツと嬉遊曲』においてコンメーディア・デラルテを登場させたサティは、この曲について「このおいぼれ道化(パンタローネ)は私をちょっぴり慰めてくれる。この世の中で暮している悪い人間共にむかって、しかめっつらをしてみせる、わたしなりのやり方だろうから」と言っている。
二
サティとコクトーが始めて出遭ったのは、コクトーがサーカスの様式を採用して、『真夏の夜の夢』を上演しようとしている時であった。今日ローヤル・シェークスピア劇団が採用しているこの見世物小屋様式をコクトーが発見しつつある時に――この演出ではオベロンは当時流行したテイペラリー節の歌にのって現われる、後に凋落期のキートンもメドラノ・サーカスのリングに現われる筈であった――、キャバレー「黒猫」でピアノを弾いていた経験によって見世物的世界に通じていたサティと出遭った事実の中に、二人の芸術的出遭いは決定づけられていたと言ってよかろう。コクトーはサティに間奏曲を作曲するよう依頼した。しかしこの計画は実現には到らなかった。その後サティの『梨の形をした三つの小品』を聴いたコクトーは、サティと手を組まなくてはならないと痛感した。この頃コクトーは、更にピカソ、ブラック、ホアン・グリ、モジリアニなどと出遭い親交を結んでいた。彼自身の仲間、アポリネール、サンドラール、マックス・ジャコブといった人達は真に祝祭精神に溢れた詩人たちであった。
この頃ディアギレフに出遭ったコクトーは直ちにピカソとサティをディアギレフに引き合わせた。唯我独尊のディアギレフと変り者のサティは直ちに互いを理解しあった。ここで、コクトーという一〇、二〇年代の知的世界の演出家・仕掛人を通じて、ロシア・バレーの燦らかで、異郷性に富む祝祭世界と、パリの洗練されているが民俗性あふれた祝祭感覚が、スペインの真に独創的な造型感覚を介して手を握ったのである。ガートルード・スタインは、友人ピカソのこの頃の様子を次のように伝えている。
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或る日ピカソが、一人の痩身の若者を肩にもたれかからせながらやって来た。これはジャン・コクトーだ。我々はイタリーに向って出発するといった。
ピカソは、サティの音楽とジャン・コクトーの筋書きで、ロシア・バレーのための舞台装置を担当するという考えに全く熱中していた。
[#ここで字下げ終わり]
とはいっても上演の準備は順調に行われたわけではなかった。コクトーは台詞をつけようと思い、事実そうしたが、サティはこれに反対して、このバレーは、見世物市の小屋掛け芝居の前で演じられるような、言葉なしの「呼び込み(パラード)」でなくてはならないと主張した。コクトーは妥協した。ピカソとコクトーはディアギレフに合流してローマからナポリへと仕事をすすめながら移動した。サティの曲が出来た時にコクトーは「目くらまし」をもじって、これを「耳くらまし」と呼んだ。
一九一六年の冬彼らはパリに戻ってサティと打ち合わせ準備を完了した。振り付けは、ニジンスキーに替ってディアギレフの信頼を集めていたレオニード・マシーンが担当することになった。
この組み合わせについてセルジュ・リファールは次のように述べている。
[#この行1字下げ] マシーンの「新発見」は、その文学性及びサーカス的様式化がそうであるように、コクトーに由来している。絵画や音楽にその番が廻って来たように、文学もバレーに発言すべき時が来たようである。上演は公衆の「ドイツの豚野郎!」という叫び声で迎えられた。コクトーは、前線から帰って来たアポリネールの繃帯を巻いた頭が護ってくれなければ、彼らは公演第一日目に私刑にされたであろうと述べている。
この公演のプログラムにアポリネールは次のような歴史的文章を寄せた。
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ディアギレフ舞踊団『パラード』公演プログラム1917[#「ディアギレフ舞踊団『パラード』公演プログラム1917」はゴシック体] より
アポリネール
[#ここから1字下げ]
『パラード』の定義をしようと思えば、それは春も名残りのライラックの枝のごとく、あらゆる方面に言及することになろう……。
『パラード』は新風溢れる音楽家エリック・サティの手をへて途方もなく表現性に富んだ音楽に移し変えられた情景詩である。音楽は極めて明快で単純なので、人はこの中にフランスのものの何とも言えず澄明な心性を読みとるであろう。
これを作ったのは、キュービストであるパブロ・ピカソと振り付け師の中で最も大胆なレオニード・マシーンである。彼らは絵画と舞踊、造型的なものと身振りとの、はじめての出遭いの可能性を探求し尽した。これは明らかに殆んど完璧な芸術の到来の徴しである。
逆説的だ! などと叫ばないようにしよう。頭の古い連中の生活の中ではたしかに音楽は大変重要な位置を占めてはいるが、彼らは現代音楽の殆んど総てと言ってよいハーモニーについて殆んど何も知らない。
今日に至るまで、一方にあっては、道具立てと衣裳、他方では口先だけの結びつきを持っていたにすぎない。ところが『パラード』におけるこの両者の新鮮な出遭いによって、その中に「新しい理念」の前進の第一歩を見ることができる一種のシュールレアリスム(註)がつくり出された。これは本日姿を現わす最初の機会を得るこの「新精神(エスプリ・ヌーヴォー)」がこれから展開する一連の示威運動の第一歩であろう。この「新精神」は疑いなく芸術愛好家を魅惑するであろうし、この理念は普遍的な陽気さの中で芸術をも生活をも全く変貌させることを約束するものである。良識の認めるところでは、芸術も人生も科学と産業の進歩と歩調を合わせなければならないのだ。
ロシアにおいて、少し以前、奇妙にも「バレー狂」と呼ばれた人達には馴染み深い伝統と、訣別したとはいえ、マシーンは単なるパントマイムに取り込まれないように細心の注意を払う。マシーンは、やるに値するならばデューラーの「メランコリア」の怖るべき暗黒の太陽に光をあてることすらできるほど、極めて抒情的で、人間くさく、悦びに溢れ、この全く新しく、とてつもなく人の心に訴える作品を創出した。ジャン・コクトーはこれを、レアリスティックな舞踊と呼んでいる。ピカソの立体派的装置と衣装は、彼の芸術のレアリスムを裏付けるものである。
このレアリスム――お望みならばキュビスム――はこの十年間芸術の分野を最も深く刺戟したものである。
『パラード』の装置と衣装は、ピカソがいかに事物のもたらす美学的な感性を最大限に引き出すことに腐心しているかを如実に示している。芸術家たちはしばしば絵画を、その基本的な要素に換えようと努めてきた。オランダ派やシャルダンや印象派の殆んどの作品には「絵」と呼ばれるもの以上のレヴェルに達するものは殆んどなかった。
ピカソはこれらのレヴェルを越えていく。貴方はこの事実を『パラード』の中に驚きをもって見出すであろうし、この驚きはまたたく間に讃嘆の声に変るであろう。第一の問題は現実というものを作品の上に移し変える作業である。ところで、ここでは、主題はもはや再現されることはない。それは演じられるだけである。あるいは演じられるというよりも、それは、現実の可視的な要素を包みこんで分解し統合する作業のようなものによって、更に、それ以上のもの、若し可能であれば、直接的に感覚に触れる事物の表面を表出する試みを時には自発的に抛棄することによって一見矛盾した事物を和解させようと試みる統合的な構図によって示唆されるのである。マシーンはこのピカソの路線に全くといってよいほど驚くべきやり方で呼吸を合わせた。彼はこの路線に自らを一致させ、かくして芸術は魅力溢れる創意工夫によって豊かなものになる。例えば一人の踊り手が馬の前足を演じ、他の一人が後足を演ずることによって達成された『パラード』の馬のレアリスティックな陽気さといったものにそれは現れた。
これら巨大な、途方もない登場人物であるマネジャーたちを表わす奇妙な仕掛けは、マシーンの想像力の邪魔になるどころか、それこそいやがうえにも引き立てる働きをした。つまり、これらの仕掛けは、マシーンにいっそうこの洒脱さを許したのである。
一言で言えば、『パラード』は客席の殆んどの人たちを仰天させるであろう。彼らはきっと驚かされる、しかも最も爽快な方法で。魅了されたうえで、彼らは、夢想だにしなかった今日の芸術運動のすべての魅惑を知るにいたるだろう。
絢爛豪華な支那の寄席芸人は、観客の想像力を開花させるであろうし、「アメリカ娘」は空想の自動車の警笛を鳴らすとき観客の日常生活の呪法を表現するであろう。青と白のタイツに身を包んだアクロバットは、彼らの無言の儀礼をえもいわれぬ、思わず息をのませるような敏捷さで祝福するのである。
[#ここから1字下げ]
註 明らかにこれが、この言葉が使われた最初のケースであるとL・C・ブリューニグは言う。「芸術日誌 1902―1918」(ガリマール、一九六〇年)
[#ここで字下げ終わり]
驚くべきことに、アポリネールは、『パラード』が、ピカソを中心としたチームの、神話的思考についての本質的理解の上に組み立てられたことを殆んど直感的に見抜いていたのである。この文章は今日でも神話的感受性についてのアンソロジーの中でも重要な位置を占めることができるであろう。
コクトーの鬼面人を驚かす台本、サティの新しい「騒音」、ピカソの奇抜極まる立体派的装置と衣裳によって、人々は世界が脱臼作用を惹き起したと感じた。タイプライターの音、自動車のサイレンといった、嘗ては音楽の中に全く分類されたことのない「物」としての「騒音」が、音の記号体系の中に割り込んで来たのである。勿論これはミュージック・コンクレートに耳馴らされた今日の聴衆には、特に驚くべき新しさとして映らないかも知れない。しかし、ブルジョアの通俗的な優雅さに馴らされ、第一次大戦中の愛国主義の昂揚に乗じて芸術の嗜好を決定していた俗悪な感傷性の支配する世界では、見世物の世界の身振りと構築物を、芸術のディスクールに投げ込む新鮮さと大胆さは公衆の好むところでなかった。それは芸術と事物との馴れ合いを断ち切らせる強硬な示威運動であった。今日なら、我々はさしずめ「異化」という言葉をそのまま適用できるような戦慄と恐怖感をそれは公衆に与えた。未だ形をとらざるものの出現を可能にするのが芸術における真に新しい実験だとするならば、この実験は大成功であった。
この公演のあとアポリネールは前線に戻って休戦の日に戦死した。『パラード』の上演は第一次大戦中の出来事であったが、それはむしろ、大戦後の世界、二〇年代の世界の幕開きであった。一〇年代の最も祝祭的で実験的精神に富んだ詩人であったアポリネールは、こうして一〇年代の最良の感受性を二〇年代に伝え、二〇年代の出現に立会い「シュールレアリスム」という言葉をこの世に遺して、忽然として世を去ったのであった。
三
サティの祝祭及び遊戯空間に対するのめりこみ方は、その後彼の回りに集った六人組の作曲家達も感染せずにはいなかった。
そういった意味での感染を用意する場はいくつもあった。その一つは、ユイガンス通り六番地のピアニスト、ルジュンヌのアトリエであった。一九一七年にサティの外にオーリック、ルイ・デュレィ及びアルチュール・オネゲルなどの曲をプログラムに組んだ演奏会が催された。「新精神」を標榜する作曲家達を中心に集ることを発案したのは詩人のブレーズ・サンドラールであった。サンドラールは後年『黒人詞華集』を編んで、ミヨーに「天地創造」の題材を提供することになるアフリカ狂の詩人であった。ミヨーは「サンドラールと音楽家達」という文章(『ブレーズ・サンドラール、一八八七―一九六一年』メルキュール・ド・フランス社、一九六二年)の中で、次のようにサンドラールの位置をたしかめる。
[#この行1字下げ] たしかにサンドラールと私はサティの事について大いに語りあった。だが彼こそサティが関心を抱く筈の人であった。……とはいえ「六人組」の誕生の時期を画するユイガンス・ホールの演奏会にサンドラールの姿を見掛けた。そこでは詩は音楽と同じ位置を占めていた。
[#地付き](前掲書、一六七頁)
このグループの強みは、全く自由な雰囲気であった。「我々には座長は居なかったし、書記も、マネジャーも、会計も居なかった。事実財政は問題にならなかったのだが。そんなわけですべてが伸びのびとしてい」た。この集りの最年長としてサティは、いつも素晴らしいスピーチをやっていた。これをきっかけに六人の若い作曲家達が彼の回りに集った。ミヨーはこの頃彼らを捉えていた願望を次のような言葉で語る。「ポスト・ドビッシー的印象派に対する反動として、音楽家達は、人間的で肌ざわりはよいけれど何かもっとごつごつした、更に澄明で、もっと簡明な芸術を求めていた。……もやもやとした印象派が風靡した後に、スカルラッティやモーツァルトの伝統に立ち還るこの単純で澄明な芸術は我々の音楽の来るべき姿を示すものではなかったか?」と。(ミヨー前掲書、一〇〇頁)
この頃既に述べたように知的出遭いと祝祭の有力な中心がオデオン通りのアドリエンヌ・モニエーの書店(愛書家協会)と、シルビア・ビーチの「シェークスピア書店」であった。ここでミヨーはエイゼンシュタインと出遭い、エイゼンシュタインはコクトーと出遭い、更にジェームズ・ジョイスと出遭っている。サンドラール及びレオン・ポール・ファルグもヴァレリーと共にこれらの書店の常連であった。
このオデオン通りは、私にとっても、地の精霊が棲息するのではないかと思えるくらい奇妙な出遭いのあった場所である。
私がオデオン通りに始めて姿を現わしたのは一九六八年の春、ようやく学生の反乱の気配濃厚な頃のことである。通りの一つのショーウィンドウに、数多くの人類学の本が並べてあるのに目をとめた私は、幾分手狭な書店の中に入っていった。この書店は「パンセ・ソーヴァージュ」という店名からも察せられる通り、構造主義の興隆期にタイミングを合わせたらしく、人類学の本を中心に、言語学、哲学、マルクス主義の本を配して商いをしていることが読みとれた。或る意味ではシュールレアリスムを中心として、オッカルティズムを配したジョゼ・コルティ書店、あるいはオッカルティズムとシュールレアリスムを両立させたプーベール書店と平行する性格を持っているのではないかと思った私は、書店の主プレー氏とそんな事、英語の人類学の本の在庫の選択は中々よろしいがどうして選んでいるのかなどと話しあっていた。その時痩身の青年が一人ぶらりと入って来た。この人が、私が相談している当の人達のうちの一人だと、プレー氏はダン・スペルベルというこの若い人類学者を私に紹介した。私たちは、二人で向いの店に入ってコーヒーをすすりながら話しはじめた。二時間程も話しあった後に、同じ書店で二日後に再会する約束をして別れた。二日後彼は、昼食に私を招待して、もう一人の人類学者を紹介した。そんな事が何回か重なって、アフリカ調査の帰途の一週間のフランス滞在の予定が四〇日に及んで、私がフランスを去る頃には、当時のパリ大学ナンテール分校で人類学を教えていた若い人類学者達七、八人と知り合うことになった。落ち合うのは、いつも、当時彼らのたまり場であったこの書店であった。こうして、彼らの誘いで、後年私もナンテールに教えに行ったり、彼らと、現在進行中のインドネシアの国際的共同調査のチームを組むことになった。百メートルもないオデオン通りは、そういった意味で、私にとっては、日本を越えた地点で人類学者の群に参入するきっかけを与えた場所、そこで何かがはじまった場所であるということができる。
後にナンテールで教えるためにもう少し長期に亘ってパリに滞在する機会を得た私のパリ地図は本屋を媒介にしてもう少し拡って来る。そんな或る時、オデオン通りからかなり離れたセーヌの左岸の通りをへだて少し奥まった場所に「シェークスピア・アンド・カンパニー」という看板をかかげた書店のあるのが目に入って来た。ああ、これが例の……とここで書くと幾分格好がつくのかも知れないが、私の話はそんなに格好はよくない。この書店はヨーロッパ大陸最大の英語の在庫を誇っていると店の何処かに書いてあったが、入ったところはペーパー・バックばかり、奥の方に英語の古本が相当あるが殆んど雑書で、ただ一隅に、鍵のかかったショー・ケースに二十世紀作家の初版本がそろえてあるのが目にとまったが、もとより私には殆んど無縁の書である。店員が、立入り禁止と貼り紙のしてある階段をつたって二階に上ってもいいというので、二階に上ったら、休めるように書庫の真中にソファベッドなどが置いてあったが、やはり、これといった本はなかった。折角見せてくれたのに、手ぶらは悪いという、遣わないでもよい気の遣い方を表わそうと少々無理して購ったのが『マルクス兄弟は一心同体か』という連載の載った「カイエ・ド・シネマ」の十数年前のバックナンバーを数冊という次第であった。同じ名前の書店が、オデオン通りにあったことを知ったのは、その後シルビア・ビーチの『シェイクスピア書店』という本を英・仏版で一九七二年の春に買って後のことである。この本は最近和訳された。(中山末喜訳『シェイクスピア・アンド・カンパニー書店』河出書房新社)たしかにオデオン通りは、何事かの起る場所だったのである。それは我々のこなれの悪い言葉で言えば知的祝祭が組織された場ということになる。さて、シルビア・ビーチはもう一人の出遭いの女司祭レイモンド・リノシェについて語る。
[#ここから1字下げ]
私が最も興味を抱いたフランスの友人の一人はレイモンド・リノシェでした。彼女は、既に話したように、私たちが『ユリシーズ』のタイプに掛かっている時、魔女の挿話を手伝いに来ました。その直ぐ後でジョイスは、「僕はレイモンドを『ユリシーズ』のなかに描き入れた」と話していました。……七番地では、彼女はアドリエンヌ・モニエーの文学家族の優秀な会員であったし、詩人レオン=ポール・ファルグの正真正銘の「ガリ勉有志」でした。一方シェイクスピア・アンド・カンパニー書店では主人を助け、励まし、時には主人の代行さえしておりました。……
レイモンドの最良の友人は、フランシス・プーランクでした。……彼女は自分の時間を、オデオン通りで彼女の詩人たちと過す時間と、「ザ・シックス」として知られるグループの彼女の音楽の友人たちと過す時間とに分けていました。ダリウス・ミヨー夫妻が、彼女のとりわけ親しい友人でした。
音楽の上で、レイモンドの親友で私の友人でもあったのはサティでした。サティは、おそらく彼の家系の片方にイギリス人の血が流れていたせいでしょうか、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店が気に入っているようでした。彼は私のことを"|mees《ミース》"(miss の意)と呼んでいましたが、これが彼の知っている唯一の英語だったと思います。彼は定期的に姿を見せ、晴雨にかかわりなく、いつも洋傘を持ち歩いていました。洋傘を持たない彼を見た者はいませんでした。……
私がなにか書いているのを見て、サティは、私が著作するかどうかを尋ねました。そう、仕事の手紙を書きます、と私は答えました。すると彼は、それが一番良い著作ですよ、と言ってくれました。仕事のために良い手紙を書くことには決定的な意味があります。つまりあなたは言うべきことがあって、それを言うのですから、と彼は話していました。私も彼に、そのように書いております、と答えました。
サティはアドリエンヌとは良い友だちでした。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、二一〇―三頁)
この文章は、サティの姿を全くサティ的な率直な筆致で描いている。彼が生活を常に幼児の眼で新鮮に捉えていたということがこの短い文章で見てとれるではないか。これに続く部分は少し残念な誤訳になっている。「彼女の書店で彼の書いた『ソクラテス』という本のことを初めて耳にしました」とあるが、これは訳者の知識の欠如に由来するミスで、「……彼の作曲した『ソクラテス』という曲は彼女の店ではじめて演奏された」となる筈である。モニエーの書店、これが当時のもう一つの知的祝祭の磁場であった。ミヨーは、この界隈について次のように述べている。
[#この行1字下げ] アドリエンヌ・モニエーとシルビア・ビーチの書店にもシェークスピアと同時代の作家達を保護者とする大へん刺戟的な知的活動のセンターがあった。彼女らはオデオン通りに近接して書店を経営し、ここではジョイスをはじめとする他のフランスや外国の作家や詩人達にしばしば会うことができた。ヴァレリーやファルグは此処で詩を朗読し、バルギュエリーはサティの伴奏で『ソクラテス』の最初のリハーサルをやった。
[#地付き](ミヨー前掲書、一〇一頁)
[#この行1字下げ] ここに集った顔ぶれは、クローデル、ジッド、フランシス・ジャム、シルビア・ビーチ、ミヨー、コクトーらであった。
[#地付き](シャトック前掲書、一六〇頁)
サティを敬愛するミヨー等六人組は勿論自分達の知的祝祭の場をミヨーの家に持った。彼らは二年間、毎土曜日の夕方ミヨーの家に集った。ポール・モランがカクテルを作り、次にブランシュ街の頂にある小さいレストランに行った。この≪プチ・ブソノー≫食堂は余りに小さかったので、土曜日の常連で一杯になってしまった。彼らはそこで鱈腹たべた。作曲家ばかりでなくマルセル・メイエル、ジュリエット・メーロヴィッチ、アンドレ・ヴォーラヴールといった演奏家たち、ロシアの歌手クーヴィッキー、マリー・ローランサン、イレーネ・ラギュー、ヴァレンティン[#「ヴァレンティン」に傍点]・グロス[#「グロス」に傍点]といった画家、それにコクトーが連れて来たラディゲであった。
夕食が終ると、メリゴーラウンド、お化け屋敷、「父星の娘」、射的、富籤、動物の見世物や、ミュージック・ホールやレヴューのすべての流行歌を次々に奏でる自動式手風琴などに魅かれて、彼らはモンマルトルの縁日へでかけたり、道化フラテルリーニ兄弟の寸劇を見るためにメドラノ・サーカスに押しかけたりした。「フラテルリーニ兄弟の芸はコンメーディア・デラルテを思わせる想像力と詩に満ち溢れていた」とミヨーは言う。(『音符なき音楽』パリ、一九四九年、一〇三頁)彼らは自ら祝祭を組織するだけで気がすまず、更に巷の祝祭的世界に飛び出していったのである。それから彼らはミヨーの家に戻って詩人は詩を読み、作曲家達は近作を披露した。こうした祝祭的雰囲気は、サティがその世界において、そうして作品の様式の決定において若い作曲家達と共有し、若い作曲家達が、詩人や画家達と共有したものであった。ミヨーの言葉で表現すれば、「陽気さと無頓着さが唯一の環境であったこの集りから、多くの稔りのある共同作業が生れた。更に、それはミュージック・ホールの美学から流出したいくつもの作品の性格を決定した。」(同書、一〇四頁)既に外の場所で論じたことがあるが、ミヨーの『屋根の上の牡牛』も、こうした祝祭の歳月の一つの決算報告であった。
一九二一年にサティは八年前に作曲したオペレッタ『メドゥーサの罠』を改作した。これは、テアトル・ブッフで、オーリックがラディゲの詩に付けた『ペリカン』や、ミヨーがグラタンという黒人歌手のために作曲した『柔らかいキャラメル』と同時に、当時の人気バリトン歌手ピエール・ベルタンによって初演された。ミヨーはこの上演について、次のように述べる。
[#この行1字下げ] 当夜の当り狂言は疑いもなくサティのすばらしい劇『メドゥーサの罠』であった。この曲のどこをとってもサティの精神が溢れていた。途方もない空想のおかげで、この作品は荒唐無稽すれすれのところまでいっていた。メドゥーサ男爵を演じたピエール・ベルタンはサティに酷似するよう扮装していた。彼は全くサティ氏と合体したように見えた。ドジな猿が一匹銅像の台座に立って時々劇を中断しては小曲を踊った。
[#地付き](前掲書、一二五―六頁)
この曲の多くの部分はすばらしいドタバタ劇であった。こうした点でサティは同時代の無声映画の最良の部分と、十九世紀のオペレッタ(オッフェンバッハから、彼の愛惜おくあたわざる曲であった『ヴェロニック』の作曲者アンドレ・メッサジェに至る)の生き生きとしたパロディー精神の継承者たることを示したのである。制度を身に纏った召使いポリカルプは男爵を尊大な馴れ馴れしさで扱う。男爵は当時まだ珍らしかった電話で長々と痴話を繰り展げてそれを更にかいつまんで話す。彼の将来の婿がやって来ると彼はこの男を仔細に点検するために巨きな鼻眼鏡をかざす……。
サティはこうした芸術的冒険について、「こういった種類の見世物は、無限の幅を持っていたから我々を歓喜させた。こういった形式のおかげで我々はあらゆる技法を実験し、絶えず新しい表現の形式を探ることができた」(前掲書、一二六頁)と述べる。
四
『パラード』において追求された見世物的世界の音楽の再生は、更に『メルキュール』においては神話的な世界と見世物的世界の統合において宇宙的拡がりを獲得する。ギリシア神話のヘルメスは、典型的なトリックスター=道化神で、サティが題材として選択するのに決して不自然ではない存在である。トリックスターであることによってヘルメスは、混乱を随所に、それも思いがけないところに導入する。それによってヘルメスは、世界に脱臼作用を起させ、意識の層に地殻変動を起させる。私もかつて示したことがあるが(「道化の民俗学」(1)―(3))、ヘルメスの伝統は十七―十八世紀イタリアのコンメーディア・デラルテの演劇祝祭の世界において蘇り、二十世紀にはサーカス及びどたばた喜劇の世界を通じて伝えられた。我々にはサティがこうした神話的想像力を介して祝祭の非時間的世界を一挙に回復する敏捷さを身につけていたのは驚くべきことのように思われる。しかし、ピカソが一九〇五年以来アルルカンを主題にした絵を製作し、この作品に刺戟されたアポリネールが『アルコール』の中で「アルルカン・トリスメギスト」という表現を使ってアルルカンとヘルメスの変換可能性を探りあて、ディアギレフの示唆で十八世紀ナポリを舞台として作曲されたストラヴィンスキーの舞踊組曲『プルチネルラ』が、神話的感受性を、祝祭的な場、音楽、形象(アルルカン、ピエロ、コロンビーヌ等)を介して回復しようという試みであったことを想うならば、サティがヘルメスを、見世物的世界の音楽的イディオムを使って、一挙に回復したという事実は充分に納得がいく筈である。第二次大戦後の音楽運動の根本的欠陥の一つは、宇宙的拡がりを回復できるような神話的テーマ性を欠落させていることであり、この事実から来る貧しさを覆いかくすために、作曲家達は音楽の技法に耽溺したり、イデオロギーの救済に身をゆだねたりした。それを想い合わせると、サティが同時代の芸術家と共に如何に豊かで具体的なイメージの世界に生きていたかは、思い半ばに過ぎるものがあろう。サティを理解するモデルは、当時でさえも、サティ自身の目くらましの作用もあって得られなかったが、サティの死と共に、ますます得がたくなった。今日サティを単に取るにたらない音楽家と片づけることの出来る人は、まさに、その宇宙感覚喪失の故に、真に特権的な祝祭的時空への入口を自ら閉していることになる筈である。コクトーがサティを支持して言った言葉「サティの小さな作品は鍵穴のように小さい。しかし、眼を近づけるとすべてが変る」という表現は、今日その説得性を増している。宇宙論的に正確無比な小ささ、この美学をサティは知悉していたのである。
こうした一見小さなもの、取るに足らないものに潜むダイナミックで宇宙論的主題を読み落したという点では、美術史家も、少くとも西欧風をモデルとした画家達も同罪である。抽象とか具象といった分類は、こういった宇宙論的視点の欠落からみると譫言のようなものである。何故、人は、アポリネールが一九〇五年に「ピカソ・画家・素描」という文章でピカソの作品について述べた次の言葉を軸にしてピカソ芸術の見世物的宇宙の世界に探りを入れなかったのであろうか。
[#ここから1字下げ]
ピカソについて、彼の作品は彼の早熟な覚醒を裏づけていると言われて来た。
私は真実は反対側にあると思う。
すべては彼を魅する。彼の比類なき才能は、歓ばしきものを身の毛のよだつもの、卑小なもの、磨き抜かれたものと混ぜあわすことに専念する幻想のために使われる。彼の自然主義は、その正確無比さに対する嗜好と共に、スペインでは最も無宗教的な人間にも宿る神秘主義と抱き合わせになっている。……
ローマではカーニヴァルの季節に、(アルルカンとか、コロンバンとかクオカ・フランチェーゼといった)仮面仮装が登場するが、これらの仮面を被る者は、時には人殺しにまで至る喧騒の一夜が明けると聖ペテロ寺院に行って使徒の公子の像のすり切れた親指に唇を寄せる。
彼らこそピカソを魅了する人間たちだ。
彼の痩身の道化の安物で飾られた服の下には、気まぐれで、すばしこくて、賢く、貧しく、人を瞞すのが好きな本当の民衆的な青年がいることを我々は感じる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「芸術日誌」二八頁)
こういった混ぜあわされ合成された世界こそ、そこを通して、もう一つの世界――混りっけなしで、より純化された宇宙――が見えて来る手懸りを我々に提供するのだ。
『メルキュール』の開示するのはこういった見世物市の雑踏を透かして浮び上って来る彼方の光景なのだ。P=D・タンプリエは「この作品は単純で明快で、ジョークの下の隠れ家から美しい事物を不意に跳び出させる以外の意図を持たない」(『エリック・サティ』、原著は一九三二年刊、英訳、M―Tプレス、一九六九年、一〇五頁)と言う。続けて彼はサティ、ピカソ、マシーンの誰もが神話的世界を再現しようとはしなかったという。そしてサティの次のような新聞記者に対するインタヴューを引用する。
[#この行1字下げ] ここに登場するのは単に道化的な人物達です。それ故音楽も田舎の縁日の音楽です。……私はこの種の音楽は可成り正確に我々の表現したいものを伝えると思っています。私はこの音楽がミュージック・ホールのハーモニーとは違うよう、そして旅芸人に極めて特異なリズムで構成するよう努力しました。
[#地付き](「コメーディア」紙)
しかしながら、これだけの理由でサティに神話的なレヴェルに関係が無かったとは言えない。既に挙げたような理由で、このスタイルこそ、今日神話的世界の遠くまで達する最も有効な方法なのだということを人は気づきはじめている。とはいえ楽想のすべてをここで説明することはできない。この舞踏組曲は次のような見出しを持っている。
1序曲、2夜、3優美な踊り、4黄道十二宮、5メルキュールの入場と踊り、6三麗人の踊り、7三麗人の水浴び、8メルキュールの逃走、9ケルベルスの怒り、10文字のポルカ、11新しい踊り、12混沌、13終曲となっている。残念ながら『メルキュール(ヘルメス)』は今日演奏会の曲目に加えられること極めて少く、『パラード』と違って国内盤のレコードでは発売もされていない。私の手許にあるのはピエール・デルヴォー指揮パリ管絃楽団(エンゼル・S―三六八四八)のものである。逃走、混沌、(道化の)入場といった見出しからも察せられるように、音楽自体も1と5と8、9、10においてはチューバを使う陽気で軽快なサーカス的|嬉遊曲《デイヴエルテイスマン》風の趣きで彩られている。その粋で爽快なリズムは、『三文オペラ』におけるクルト・ワイルの音楽を想い起させるものがあるといえる。
サティについて最も早くに書かれた、特に好意的とはいえない文章「エリック・サティと家具音楽」の中でコンスタント・ロンバートは、サティの音楽の中で「収りのわるさ」の持つ効果について次のように述べている。
[#ここから1字下げ]
時には、この「収りのわるさ」は『メルキュール』の冒険の中の「混沌」の楽節が雄弁に示しているように絵画的に嵌めこまれている。この楽節では、ハーモニックで管絃楽的噴出や、印象派の作曲家が主題に課するような線構成を避けて、サティは、明快な二つのパターン、つまり前の楽節で提示されたものの巧妙な混淆を示す。パターンの一つは、快い抑制の利いた「新しい踊り」であり、もう一つは、粗削りで活気のある「文字のポルカ」である。この二つの調べは、その気分において全く異るので、心情的に言えば、殆んど完璧な混沌の効果が得られる。それでもそれは、バレー全体の「かたち」の上での一貫性を保証するような細心の、音楽的でアカデミックでさえある手段でなしとげられている。
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(『おお、音楽――落日の音楽研究』、一九三四年、フェーヴァ一九六六年版、一二一頁)
[#ここで字下げ終わり]
サティは意識していたかどうかは知らないが、こうして混沌と狂気の感情を持ち込む技術は、モーツァルトが『ドン・ジョヴァンニ』第二十場で三つの全く異った踊りのリズムを持ち込むことによって得た効果と対応する。ヘルメスの神話的生気が混沌を糧としているという点を想い合わせるならば、サティの混沌の醒めた組織は、この作品の神話的次元が極めて鞏固な基盤の上に築かれていることを示すものである。
サティは、二十世紀の最も多産な歳月である二〇年代に属し、二〇年代はサティに属していた。この歳月との契約をサティは最も恵まれた人間関係においてなしとげたのは事実である。サティは祝祭感覚を通じて宇宙的感性に達する道を確実に、そしてさりげなく示した。余りにさりげなく示したので、人は容易にこの「創造の小径」を見失ってしまった。
しかし、この小径は、同時代のロシアにおいては、メイエルホリドが、ワフタンゴフが、同じく「イタリア喜劇」をモデルにたどり、マヤコフスキーやブロークが、あるいはエイゼンシュタインが、バウハウスではオスカー・シュレンマーが見世物的世界の感性を介してたどっていた道であり、今日から振返ってみると大道であったといえる通路であった。我々が今日、二十世紀の最良の達成の遺産の相続人であることを主張するための|手引き《マニユエル》の殆んどすべては、サティの生活と作品の中に秘め匿されていたといってよい。未曾有の混沌に直面している七〇年代は、知的感受性を介してか、詩的感受性を介してか、彼の手引きが示す神話的、祝祭的世界を開示するための手懸りを掴む第二の、そして最後の機会であるのかも知れない。
[#改ページ]
人形劇の宇宙的活力
一
南江治郎著『ファウストとパンチ』(いかだ社)は、いくつかの序文と「ドクトル・ファウスト」台本および台本考、「パンチとジュディ」および「パンチの系譜」と題する論考からなっている。
人形劇といえば、常に私の脳裏をかすめる情景がいくつかある。
一九六五年、ナイジェリア東北部のペロ族の占い師の老人の芸。この老人は私が止宿していた小学校の校長先生(二十三歳)の父親で、裸族であるから、腰に毛皮をまとっているだけ。(それでも覆っている面積は褌より多い。)この老人の占いの道具は一つの木の椀と、とかげとも、我々のイメージでは龍ともつかない奇妙な動物の人形である。この老人は、椀に水を入れて、動物人形を椀のふちにもたれかけさせてバランスをとって首をふる、水を呑ませる、椀のふちを移動させるといった動きを伝えさせる。その動きによって、顧客の依頼に答える。ところが、その演技の行われる間、回りの者も老人もほとんどこの動物人形の動きに魅せられる。老人も自分が動かしているとは全然考えない。人形が勝手に動いているのだと考える。彼が与える説明は、当然人形の中に精霊が入魂して、それが人形を動かしているのだというものである。しかし、人形の動きとして現われるものは、物理的には老人の手の操作に他ならない。だがその老人の肉体的動きを支配するのは、表層の意識ではない。はっきりいえば隠れた意識である。人形はそれが立ち現われる指標にすぎないし、操作の技術および肉体は、隠れた深層の意識の立ち現われるのを妨げないための訓練の集積のもたらしたものである。
人間は、心の深い層での感受性が受けとった世界についての像を表わす技術を太古の時代から身につけていたと見える。人形劇こそその最も古くかつ常に新しいものの一つである。棒一本でも手の上に立てられるならば、その動きに人は魅了されることを古くから知っていたはずである。そういった事実の上に立てば、民俗的占いのこっくりさん、杖占い、奥州のいたこの操作する「おしら様」人形などが、単に系譜論的意味においてでなく、人間の「原身振り論」的な意味で、人形劇の中核を占めることが理解されるであろう。これらの「原身振り」は、最も単純な身づくろいで、日常生活の身振りが表現できないような動きを示現する。能や山伏神楽の「翁」が、ただ単に足をことことと動かしているだけなのに、全宇宙のエネルギーがその一点に凝縮するように感じられるのも、それが「原身振り」にかかわっているからである。
一本の棒ないし人形は、かくして、支配されることによって、逆に人間を支配するという関係に立つ。つまり、人間が始動力を与えたはずなのに、イメージに反映される動きの意味作用の総和は、人間の与えたものより常に大きいという関係が生じる。その距離は、生身の肉体と演技の総和の関係にもありうるが、(能や舞踊を除けば)人形における方が、はるかに大きい。すでに述べたように、精神の深い層における振動を伝えた場合、人形の動きは、人間が世界について意識的に説明し、道徳的に説明するための体系の軌跡を越えるからである。その事実を最も雄弁に説明するのが人形劇における道化の存在である。道化は、本来、パウロ風にいえば、人間における狂い(風狂)を通して、神の叡智を表すともいえるのだが、人形の動きからして、生身よりもはるかに効果的にこの期待を果すことができる。神の叡智という言葉が気に入らなければ、多層的な現実の底知れぬ深淵といい換えてもよい。これは、一見混沌とも見えるがそこには、未だ発掘されない叡智、汲みあげられたことのないエネルギーが秘められているような部分の謂いである。その地点への橋渡しを求めて、数世紀の芸術運動は先行芸術の破産を宣告しつつ、自らの形式の異常性(軌道から外れたこと)を手がかりとして、試掘を行って来た。しかし意識を直接の与件とするこれらの試みは、たえず形骸化という風化作用にさらされつづけてきた。ところが人形劇における道化は、この作用をいとも容易になしとげる。そればかりでなく、「原身振り」の一見単純な性格は、状況(場)と照合されることによって、無限のヴァリエーションに転化できるという、「身振り」だけが享受できる特権に支えられ、風化作用から防護されている。
こういう人形劇の魅力を充分に引き出すために民俗人形劇「ファウスト」は、またとない台本である。南江氏はテキストの解題(それ以上のものをここに求める必要はない)ともいうべき台本考の中で、ゲーテの戯曲の中には登場しない道化カスペル(カスパー)に重点を置いて説いている。その理由は、我々が縷々と述べてきた、また南江氏の言葉では「人形芝居の始原的本質特性」という点にかかわるものであることは明らかである。ただし、「ファウスト」伝説が、人形=道化=悪魔=学者という民衆の世界観に基いて成立していると見れば、そして、こういった形代《かたしろ》を通して、日常生活には噴出しない様々な魑魅魍魎のばっこする「境界線上の現実」(ふだんは片隅に追いやられているが、人間の深い統一のために欠くことのできない現実のレヴェル)を現出させることがこの芝居の眼目であると見れば、道化が直接出現しないことは決定的な負い目にならないはずである。なぜならば、この伝説においては上述の図式からいってすべての登場人物が本来道化的な刻印を頒ち持っているからである。
この人形劇台本は「境界線上の現実」への近接性の故に、道化抜きであるが、ハイネの舞踊劇の素材となり、二十世紀において、マーラー及びスクリァビンに続いてその復権が目前に迫っているブゾーニ(生前ファウストの諸版本及び研究書の最大のコレクターの一人であった)のオペラ『ファウスト』の原典になった。それは、グノー・ベルリオーズのゲーテ系台本の通俗的展開とは異なる地下水脈に属するものである。
ブゾーニの台本(ドイツ・グラモフォン発売の『ファウスト』による)は、次のような詩人の前口上で始まる。
[#この行1字下げ] 遙かなる幼き日に私は観て、魅惑された、悪魔がばっこする劇に。私の幼い心が恐れおののいたものを、大人になった私は改めて求め始めた。私の目覚めた想いは昔の戦慄を蘇えらせ、記憶をたぐっての再構成が始まりました。種子の中に人の世の宝石はつまっているのです。幼少時の幻想から創造的な芸術は始まるのです。
このような詩人の回想で始まるプロローグは、「見せかけのまやかしで真実を照らし出す鏡」としての演劇の創出の必要性を説く。「人形劇ファウスト」を除いて、彼の神話体験を音楽を介して再現する術はないと知る。しかしフランクフルトの街の門のかたわらで、この人形劇を見た大詩人がすでに、このモチーフに完璧な息吹きを吹き込んだ。そこで詩人は再び人形劇に立ち戻った。
[#ここから1字下げ]
その奇妙な古臭い群像を深い想いをこめて私は凝視しました。長い歳月がこれらの人物にたぐいまれで見なれない美しさを与えていました。これらの人形の色を私はやさしく塗りなおしました。時はそれが浸蝕できるすべてを滅し尽すわけでありません。いくらかのより浮き出た輪廓づけ、背景に沈めた方が良い部分、と私は考えをめぐらしました。古い織物に新しい針をすべり込ませるように縫い合わせもしました。半ば忘却の淵に投げ込まれた話は未だに新鮮な驚きをもたらしてくれますし、さなぎの中から夜の蛾が飛び立ちます。
とはいえ、私は同じ話を新しい装いの許に語ろうとは思いますが、かくれなきは、その、傀儡《くぐつ》出自。
[#ここで字下げ終わり]
徹底した反(素朴)現実論者であったブゾーニは、その草稿の中に次のような言葉も遺している。
[#この行1字下げ] オペラは超自然と自然でないものを、オペラ的経験の唯一の領域でオペラに適合した感受性として組み込むべきである。そして、このような基礎に立って、日常生活には見出されない何物かを意図的に表出しつつ、人生を呪術的にか喜劇的に像をゆがめる鏡を通して反映する〈見せかけの世界〉を創造すべきである。
この引用を紹介しているK・H・ルッペル(前述レコード台本中の「≪ドクトル・ファウスト≫へのブゾーニの歩み」)は「そうなると、個人より型が登場し、現実性を欠き、反幻影的劇作品ともいうべきコンメーディア・デラルテの他にこのような期待に応える形式があったろうか」と述べる。コンメーディア・デラルテ精神こそブゾーニの生涯の作品を貫いた活力源であった。ブゾーニの親友マックス・ラインハルトがシラー訳のカルロ・ゴッツイのコンメーディア・デラルテ作品『トゥランドット』を演出した時使ったのはブゾーニの舞踊組曲であった。ブゾーニはまた、コンメーディア・デラルテの中心人物「アルレッキーノ」を主人公とする組曲を作った。ブゾーニが最も愛好した作家E・T・A・ホフマンは、イタリア喜劇の大の愛好者であった。そのコンメーディア・デラルテこそ、人間の身振りの人形劇的可能性を吸収しつくして成立した民衆演劇の至高の達成であり、従って、人形劇と常に置換可能な世界を築いていた稀有の芸術である。今年の三月「第一回国際民族学映画祭」に出席するために数日ヴェニスに滞在する機会を持った私は、十八世紀ヴェニスの祝祭的世界を室内に再現しているといわれる小さい博物館「パラッツオ・チェンターニ」の最上階(七階)の一隅を占めるコンメーディア・デラルテの人形群に遭遇して息をのんだ。コンメーディア・デラルテの非現実的で、軽快で、柔軟で、しかもアイロニカルな精神がそのまま、十八世紀につくられたこれらの人形の上に反映していたからである。
想うに、ブゾーニが「オペラ的」といっていた世界は、イタリア喜劇に、民俗劇の世界に通じない訳にはいかなかった世界なのであった。ブゾーニは、そういった世界を民俗劇「ファウスト」によってしか表現できなかったはずである。構造論的人類学の唱導者レヴィ=ストロースは、近代における神話的思考の真の担い手は、オペラを措いては見出せないと近著『神話大系4・≪裸の人間≫』で述べながらワグネルの「神々の黄昏」に言及している。しかし、評者をしていわしめると、神話的思考の真の継承者はイタリア喜劇と人形劇なのであり、そのような世界の理想的な結晶は、神話的・民俗的・イタリア喜劇的・人形劇的世界を統一したブゾーニのオペラ『ドクトル・ファウスト』なのである。私の生涯の願いの一つは、ブゾーニのこのオペラを人形劇の舞台で観ることである。
ところでこのようなイタリア喜劇の世界から飛び出して来たのが本書の構成のもう一つの軸であるパンチである。
二
人形劇について想いをこらす時に、浮び上って来る姿がもう一つある。それは『魏志倭人伝』の中にある持衰《じさい》という記述である。この習俗は今日社会心理学の小集団の理論から言っても興味のある慣習であろう。魏の国へ卑弥呼が遣した時、航海の安全をはかって、一人の選ばれた人間が同行した。この人間は、航海中、諸人の穢れを代って引き受けるために、髪は切らず、結わず、爪は切らず、人々が何かの理由で気に入らないことがあると彼のところへ来て、つばきをはきかけることも出来た。しかるに船が難破したり災難が起きたりすると、彼は殺されるが、もし順調に帰りつくと、たいへんなほうびを貰う。ある意味でこれは大変近代的な慣習であると言えるかもしれない。
日本の人形劇の民俗的伝統の中で、この「持衰」的性格が直接・間接的にうかがわれるのは興味深いことである。その最も集中的な表現が雛人形である。折口信夫は「雛祭りのおこり」(『折口信夫全集』第一七巻、中央公論社)と題する文章の中で、雛人形が毎年川の中に捨てられたということを、千葉県の木更津あたりの習俗を手がかりに説いている。つまり雛のひな≠ヘ「人間の穢れをとるために祓いをする、その時に自分の着てる着物なり、人間の形をしたもの(人間のひながた)に自分の穢れた魂をうつしてそれに祓いをしてきよめる」という意味があったと説いている。
江戸時代に流行った淡島願人坊主の持ち歩いた人形も明らかに、お産の穢れを持ち去るという意味を含んでいた。同じことは、東北地方のいたこの操った「おしら」人形についても言いうるのであろうが、それらのすべては、民俗の中で季節毎の祭りのために作られて祭りが終ると、うち壊されるか捨てられるか、村境で焼かれるかするつくり物(大人弥五郎や実盛人形はその代表的なものであろう)に対応して行く。この点では日本、ヨーロッパを問わずカーニヴァルの狂躁に結びついた民俗的祭儀の共通した表現になっている。シェークスピア研究者のC・L・バーバーなどはファルスタッフはそういった祭りの伝統から作り出された本来は祝祭世界の穢れの引き受け手であるとすら言っている。
人形の伝統には、このように精神的にか、物理的にか共同体の災厄を引きうけるという面が、ほとんど固有の部分としてくみこまれている。つまり、それは、人が日常生活において可能でないことを代行するということでもある。その最も原型的表現は、理由なしに撲ったり、撲られたりすることであろう。この無動機の暴力は、あらゆる効用性と因果関係の世界に一撃を加える喜劇的効果を常に持つ。極端にいえば、すべての創造的芸術に付随する、当り前のものを当り前でなくすることによって、世界を源初的感情で見なおすことを助けるための効果を,人形劇は舞台演劇よりも本質的部分として持っているのである。この点をたしかめるための最も雄弁な例が、「パンチとジュディ」劇である。
パンチとジュディの物語といえば、人がすぐに想いうかべる姿は、パンチが棒を持ってジュディを撲りつけている人形劇の舞台であろうし、また週刊諷刺誌「パンチ」の名に移されたからかいの精神、明治末年に来日して、横浜で「ポンチ」誌を刊行した漫画家ジョン・ヴィゴー等であろう。パンチがイタリア喜劇のプルチネルラから出たように「ポンチ」絵という言葉はパンチから出ているのであるから、パンチの足跡はその全盛期の十八世紀のうちに日本にまで及んだということになる。
「パンチとジュディ」劇の全盛期を画したのが、ここに南江氏が訳出したジョン・ペイン・コリャアの台本の刊行である。コリャアは、イタリアから来た大道人形遣いのピッチーニから得たテキストに、詳細な人形劇史研究からなる序文と注と、本書にも三葉再録されたジョージ・クルーシャンの絶妙なエッチングを二十四葉添えて刊行した。ジョージ・スピーエイトによれば(『英国人形劇史』一九五五年、一八八頁)、博学を以て一世を驚倒せしめたこの序文と注は、まっかな贋物で、その記述はコリャアが捏造した架空の文献に満ち満ちていて、当世学者風に対する諷刺としてのパロディーとして読めば読めないことはないが、研究論文としては使用に耐える代物ではないということである。しかしテキストの挿絵の高度の達成のためこの書の価値は不朽のものであることはまちがいない。
さて、粗筋は、(1)パンチ登場、自らをお人好しと呼ぶ口上の歌を唱う。(2)続いてほえかかって来た犬のトビーの横面を撲りとばして鼻先を噛られる。(3)飼主のスカラマウス(イタリア喜劇のスカラムッチャの反映)棍棒を持って登場。棍棒をバイオリンと称して撲り始める。パンチ逆にとり上げて、所かまわずスカラマウスを打ちのめす。スカラマウスほうほうのていで逃げる。(4)ジュディ登場、赤ん坊をあずけて外出。初めのうちはパンチ神妙にあやすが泣きやまないので、「うるさいこの三文人形」とばかり外へ投げ捨ててしまう。そこへジュディが帰って、これをみて棒でパンチを打ちのめす。パンチも負けてはいず、棒を奪い返し、続けさまにお礼を見舞う。ジュディがあんぐりと口をあけて気絶すると、その口に棒を突っ込んで、ぐるぐるこねまわしてから、棒の先でジュディのからだを吊し上げて、ぽいと舞台の袖へ投げ出してしまう。(5)パンチの恋人ポリー、父が殺されたと嘆きつつ登場。パンチなぐさめようとするが、実は父を殺したのはパンチである(ドンナ・アンナとドン・ジョヴァンニのごとし)とののしる。(6)パンチが馬(ヘクター)に乗って登場。(あるいはパンチ同様イギリスで長く人気のあった聖ジョージと龍のパロディーかも知れない。)馬のヘクター棒立ちになり、パンチ落馬して瀕死の重傷。ドクターを呼ぶ。(7)医者の登場。(医者はイタリア喜劇のイル・ドットーレを想わせる。もっとも後者は法学博士だが。)診療しようとして近づくとパンチ眼を蹴上げる。医者一度退場、棍棒を持って再び登場。パンチをめった打ちにする。パンチ治療代を払うと称して、棒をとりあげて殴り倒す。(8)役人と巡査登場。パンチ殴りかかるが結局は一発くらわされてぐにゃりとなる。(9)獄中のパンチ。絞首刑に処せられることになる。刑吏に首に縄のかけ方を教えろと頼んで逆に刑吏を吊ってしまう。(10)パンチと悪魔。悪魔が地獄からパンチを迎えに来る。パンチは悪魔と大乱闘の末、これをたたき伏せて棒のさきにひっかけて、たかだかと吊し上げる。
筋だけ追っていると機動隊と学生、挙句の果ては赤軍派を想い浮べさせられるかも知れない。しかし、これが練達の士の指つかい人形で演ぜられると、逆に優雅さすら獲得するというから不思議である。
パンチは、イタリア喜劇の英国への土着化の所産というけれど、スピーエイトもいうごとく(前掲書、一六八頁)、むしろシェークスピア劇の舞台を暴れまわって世界を擾乱したエリザベス朝の舞台道化の直系の後継者という方が早いかも知れない。そのエリザベス朝道化は中世の秘蹟劇の悪魔の後継者である。この悪魔は、その役柄にもかかわらず、飛んだり跳ねたりサーカス道化のごとき、身体の表現性を必要としたために、舞台の事実上の創造的活力源として旅回りの最もすぐれた軽業役者によって演ぜられた。スターリンに扼殺された今日最大の演出家メイエルホリドはその演劇論の中で、こういった活力の復活の必要性を説いている。
このようにパンチはイタリア喜劇の道化とエリザベス朝演劇の道化という演劇史上最も豊かな伝統と土壌の上に育まれた舞台形象であった。二十世紀におけるその後継者といえば、マルクス兄弟のドタバタ映画とイヨネスコやベケットの不条理の演劇にとどめをさすであろう。
パンチとジュディ劇は、マック・セネットのサイレント・ドタバタ喜劇の出現以前一世紀以上にわたって、そのスピーディな筋の運び、単純にして優雅なドタバタ性、クールな喜劇性及びその活力の故に、街頭の箱式舞台のまわりに蝟集する人達を大人・子供を問わず魅了していたのだ。だがパンチは始めから一方的な暴力行使の権化であったわけではない。本来は、イタリア喜劇のプルチネルラがそうであるように、臆病なくせに、人がいなくなると空威張りする。だが空っきしいくじがなくて女子供にも嘲弄される喜劇的人物であった。したがって撲り役であるより、むしろ、撲られ役であった。(スピーエイト前掲書、一七〇頁)
つまり、彼は、あらゆる意味で「持衰」的穢れの引き受け手であった。そのような意味でカーニヴァルの期間だけ偽王に選ばれて放らつの限りを認められ、祭りが終ると追われた道化の後継者でもあったのである。カーニヴァルが日常生活では不可能な自由な身振りのコミュニケーションを全面的に解禁することによって、固定化した世界に死を与えて、人間の本源的生を蘇えらせようとする文化的智慧の所産であるとすれば、パンチとジュディは、まさにそういった祝祭と道化の異化作用の伝統の上に、宇宙的活力をこの世界に再び導入するための装置であったのである。装置とはいえ、その効果は小沢愛圀氏がかつて抄訳によって紹介したブランダー・マシウスの次の言葉(『演劇に関する覚書』一九一七年、所収の「パンチとジュディの悲劇」、小沢著『世界各国の人形劇』慶応出版社、一九四三年に収録)に帰一するのである。「つまり、人形芝居を見て我々が非常に愉快に思うのは、それに特有な芸であって、人間に困難なことを容易く成し遂げるからである。小さな人形が堅い木の頭をコツンコツンと打つけ合って、棍棒や木刀を振り上げて相手を殴る。その有様がいかにも面白いのである。」
こういった人形劇固有の身振りの純粋運動としての洗練された冷酷さといった側面から、可能な限りの演劇的ダイナミズムを曳き出したのがシュールレアリスムの先駆的作品の一つであるアルフレッド・ジャリの『ユビュ王』(現代思潮社)である。はじめは人形劇のために書かれたこの作品の主人公ユビュは、結局卑しい、下劣な、信じがたいほど残忍な怪物で、ポーランド王となり、さまざまな人々を殺し、国を追われることになる。この作品はマルティン・エスリンによれば「神話的人物とグロテスクで原型的なイメージの世界」を人形劇の純粋運動に仮託して創り出した。(小田島雄志訳『不条理の演劇』晶文社、二八四頁)
こういった世界についての感受性の表現は、アントナン・アルトーが、人間の心のもっとも深い葛藤を非情に摘発するための演劇論的方法としての「残酷劇」を提唱した時に彼が目ざしていたものに極めて近いと言える。アルトーは『演劇とその分身』の中で次のように述べている。「行動するものはすべて残酷である。このあらゆる制限を突き破った極端な行動観の上に、演劇は再建されなければならない」と。
「パンチとジュディ」の人形こそは、土俗劇「ドクトル・ファウスト」と共に世人にとっては災いの種であるような、世界に対するかかわりあい方を一身に具現し、一般世界から自らを排除することによって、コミュニケーションの深い地層に人々を導く媒体であったのだ。幾分ナイーブな形で刊行された南江著『ファウストとパンチ』は、本来なら人形劇人及び愛書家の間を一回りして書架の片すみに落ちつくはずのものかも知れないが、演劇ばかりでなく、手垢によごれた陳腐な表現方法に満ち満ちた我々の政治世界に、真に解放的な感受性を蘇えらせるための「身振り」によるバイブルになりうるといって決して言いすぎにはならないはずである。
[#改ページ]
能の神話的古層
最近の人類学研究の領域で次第に顕著になりつつあるのは、一つの文化あるいは社会に関して、その文化の中に生きている人間の世界についてのイメージ(これを「宇宙観」あるいは、通常使われるよりも幾分より多くの具体性をこめて「世界観」と呼ぶ)を再構築しようという試みである。そういった観点からみると、政治組織(例えば王権)であるとか社会構造(異なった範疇に属す人間間の上・下、優・劣、緊張・弛緩等の関係の総体的表現)、経済行為も、そういう世界についてのイメージのそれぞれ特殊な表現であることが多くの地域(インドネシア・南アメリカ・オセアニア)において明らかになってきつつある。こういった視点の故に、人類学者は、対象とする文化の様々な現象(政治・経済・家族等)をその構成要素に分解し、その各部分が、当該文化の観念(特定の習俗の起源など住民による説明体系)及び行為の中でどのように構築されているかを明らかにしようとする。
こういった構築の媒体は当然のことながら時間及び空間である。具体的あるいはイメージ化されたいかなる〈物〉も、限定性を持つ時間あるいは空間の中に配置されなければそれらが本来志向する〈意味性〉を獲得することが出来ない。ところで、曲者はこの時間・空間というやつである。というのは、人間は自分と周囲との関係に応じて様々の異なった時間または空間を生きているからである。その中で最も皮相的なものは日常生活の時間・空間である。ここでは世界についてのイメージを構成する各部分は、便利さ、効率・快適さといった日常生活を構成する原理の上に組み合わされて(例えば橋は川を泳いだり、跳び越えたりする手間を省くための行為の代替物である)、必要以上の意味性を獲得しない。ところが、橋・道・山・川・水・火・穴・母・父――こういったイメージで結ばれる要素は、日常生活の効率の必要性を越えた多義的な意味作用を行ない、人間の意識の薄明の部分に沈澱され続ける。ここに蓄積された、あるいは過度に充蓄され日常生活世界でその捌《は》け口を持たないこれらのイメージの余剰部分を、人はいつまでも抑制することはできない。何故ならば人間の意識の裡で、これらの余剰部分が勝手に関係し合い、増殖するからである。その結果、生起する現象は、これら意識下のイメージの余剰部分の充実した実在感に較べて、日常生活のイメージ間の関係は全く緊張を欠いたものに感じられ、それらをつなぎ配置する時間・空間もまるで古びて澱んでしまうという停滞感の表面化である。(詩人をはじめとする芸術家は、この両者の境界を永住の棲家と定めているのであるが、通常の生活人はそのような緊張と不定形の世界に絶えず身を置くことはできない。)
そこで、これらの事物を日常生活のそれとは異なる、より濃密な時間・空間に置き換えて、日常生活を構成する事物を、それが本来占める位置に戻し流動的な関係を可能にし、時間・空間の量的・質的区分を無に帰せしめる混沌(本源的自然)の近くに置くという試みが必要になる。
こういったコンテキストにおいて達成されるのは、宇宙の諸要素中から抽出され、残りの部分を表象しうると認められる限られた諸事物(樹・石・水・火――山・川・道・橋――天・地・地下――王・王子・臣下――生・死・愛・憎・和・争――その他動・植物等)の間に確立される関係なのであるが、この時間・空間を生きることによって人は世界が蘇えるのを自覚する。こうして蘇えった事物・時間・空間、及びそれらを実現する人間の行為との関係で、日常世界の事物・行為も再び晴れやかな鮮度を獲得する。(革命すらもそういった密度の高い時間・空間を可能にする状況であるということは、エイゼンシュタインが「十月」という作品の中で白馬・橋・階段・様々なアクセサリー・広場等のモンタージュによる構築によって鮮かに示したところである。)
こうしてみると世界のイメージを構築するといってもその媒体としての現実は一元的ではなく、多層的なものとして文化の中に制度化されているということが明らかになるはずである。人々はその各々のレヴェルに対応しうるように〈己れ〉(アイデンティティ)の定義をしなおすことによってこの錯綜した世界を生きている。
各々の文化は既に述べたとおり神話・儀礼演劇等の制度を通じて宇宙及び世界についての最も凝縮した体験を世代を通じて伝達する。この秘儀を通して描き出され、意識の深い層を曲折して提示される神話=象徴論的原世界及び人間行為の原像は、ドラマとして、日常生活により近い現実に生きる人間の行為の原型あるいは原体験となる。
日本文化の中でこういったコスモロジーを発掘するとしたら人はどこに視線を向ける必要があるのであろうか。人は躊躇することなく民俗芸能を前身として古典的達成を遂げた演劇、中でも能、と天皇制を挙げるはずである。ところが能研究においては、能の形式美の完成度が高い故か、能の持つ、神話=宇宙論的考察はほとんど皆無に等しかった。狂言研究の場合もそうであるが、能の研究も、国文学の文献研究の傍らに位置を占めていた故に、詞章の研究・演出の歴史的研究、芸術論研究を中心に進められて来た。そこで、能という時間・空間芸術が、人間の意識の深層の部分と谺しあって繰り展げる「コスモス」(宇宙)についての問は、戦前のクローデルの発言を例外とすれば(渡辺守章「クローデルと能」、「能楽思潮」第二十七―二十九号、昭和三十八年十一月―三十九年三月、参照)絶無に等しかったし、ましてや、能の象徴世界が持つ普遍的な可能性についての問はほとんど期待しうべくもなかった。
しかし、我々の期待が決して根も葉もない空論ではないという楽観的観測を抱かしめる著書が二冊、刊行された。戸井田道三氏の『能――神と乞食の芸術』(せりか書房)とT・インモース氏の『変らざる民族』(南窓社)である。
戸井田氏は一九四八年に刊行した『能芸論』(一九六五年再刊、勁草書房)以来一貫して、常に民俗学を補助学として、演劇的形態を通して現われた日本人の意識構造を追求して来た人である。今回一九六四年の毎日新聞社版に「はじまりへの旅」という一章をつけ加えて刊行された本書と『能芸論』とを比較してみると、さすが氏の能論において二十五年の歳月は無駄に流れていないという事実を感じさせられる。このことは戸井田氏自らが、他の機会に率直に述懐して居られるところであるので、氏の言うところに耳を傾けてみよう。「太平洋戦争が終ってまもなく、私は『能芸論』という本を書いた。能面のもっている表現と隠蔽との矛盾した性格を端初にして能全体の中にある矛盾の論理を追求してみようとしたのであった。能面・衣裳・扇・型・物まねではどうやらまがりなりにも追求といえる筋道をたどれた。しかし、そのさきへきて、能を論理的に再構成しなければならない段階で、いかにもうまくいかなかった。……書きながら、どこかでちがっているぞ、という感じがしていた。」(「続・狂言について・2」、「悲劇喜劇」一九六九年三月号、一七頁)
『能芸論』は戦後の解放感と封建的支配の残滓を一掃するための強力な武器として社会経済史観が文化のすべての現象を説明しうると確信していた時代に書かれた数多くの名著の一冊であった。氏のみならず、今読みかえす者には、あの時期特有のいささか主情的な歴史観にもとづく判断とモデルとしての西欧近代劇作法への必要以上のこだわりが目につくかも知れない。この異和感は氏自身がすでに抱いていたものなのであり、それが氏を日文協的(歴史社会学的)文芸学と一線を画せしめたものであった。氏の読者たる者は、能の舞台及び演出の微細な動きにいたるまで通暁した氏の能体験と、この体験に裏うちされ、かつ能の「かたち」をとぎすまされた美意識によって語る氏の論のはこびに魅せられるという事実は、両著を通じて変らない。
この二十数年間に氏は、東西の映画批評にコミットすることにより、演技の〈かたち〉を、可塑的な時間・空間との象徴を通してのダイナミックな交感の場において読み解く武器を身につけた。「劇場をイレコ構造のもっともそとがわの世界と考えるなら、橋懸りは道であり舞台は広場であろう。その劇場そのものが広場に存在するように、舞台は祭りの庭であった。村の広場へ能役者がやってくるためには広場のほうから見て、はるかにかすんでぼうばくとしている外界からの道をやってこなければならなかった」(『能――神と乞食の芸術』二九五頁)という表現は、氏がフェリーニの映画「道」に対して示した象徴論的批判の先駆的文章を経て可能なものであるが、それにしてからが、すでに『能芸論』の末尾に近い次の部分にすでに示されている。「端にあるから橋だといえばゴロあわせのようでおかしいが、たいていの橋は町や村落のはずれにあって、正月の年神様がやって来るのもこの橋を渡ってなら、おぼんの精霊を流すのもまたこの橋のところからであった。箸・橋・柱・端・梯子のハシはみんな語源を同じくして、異質の世界を仲介する意味があったようである。村人達にとって橋の外はすなわちよその世界であって、橋はそれへのはし渡しであった。」(『能芸論』二一〇頁)
『能――神と乞食の芸術』の中でも旧版に収録された「能への招待」「世阿弥元清」「演劇の東西と能の位置」と新たにつけ加えられた「はじまりへの旅」の間には論の進め方に――とくに後者の能の時間構造についての考察において――相異がある。このギャップを埋めるものは、氏が一九六六年から六九年にかけて「悲劇喜劇」に連載した「狂言について」である。ここで氏は、失礼な言い方を許されるなら、能の持つコスモロジカルな可能性に対して豁然と目をひらいたという印象を人に与えた。その結論が「はじまりへの旅」において自由に展開されているのである。「能への招待」はその跳躍のためのウォーミング・アップであるという言い方をお許しねがいたい。
戸井田氏とインモース神父の立場は、両者がたがいに他を意識することなく論を進めているにもかかわらず、おどろく程よく似ている。それは両者共に能を構成する特異な時間・空間体系をとりだすために、能という演劇体験を「母胎回帰」の神話という「死と再生」の秘儀のうちに見ようと志向する点である。
「能の深層心理学」と題する末尾の章で、インモース氏は能のエッセンスを先ず、「『混沌』(カオス)に立ち向かおうとする努力」とし、「闇の力を封ずるには強烈な形式意志が必要である。この意志のひとつのあらわれが能である」として、「舞台の形而上学」の章で能舞台の象徴構造について次のように述べる。「鏡の間はただの楽屋あるいは控えの間ではない。神仏・鬼神・亡霊のいます聖所である。深淵の過去・まぼろしと影の国、常闇がここに開くのである。」これに対して戸井田氏は「鏡の間全体が舞台の山と同様ひとつのとじられた世界なのであって、シテは一度そこへはいって変身して再生する」母胎としてとらえる。この説明はまたほとんどインモース神父のそれに重なる。インモース神父は、鏡の間、橋掛および舞台について次のようなユング的説明を加える。「三方が開かれた、一切かくすもののない舞台は意識の世界である。しかし鏡の間は無意識の原型(アーキタイプ)の世界、暗黒の胎内である。そしてふたつの世界のあいだの敷居が橋掛である。聖なる間でおこなわれた降神術は、人間が無意識と交わり、これを意識(舞台)の上に浮かびあがらせようとする努力であった。その意味で神懸は、この胎内から、原型によって支配されたあるものがあらわれることである。」(インモース前掲書、一七五頁)と能芸の神話学的位相を見事に要約する。
面について戸井田氏は『能芸論』においてすでに展開した耳の有無を指標にした分類(タイポロジー)についての考察をすすめるが、インモース神父は能面による変身の神話学的側面に注意を向ける。面は「演者にその肉体性をこえさせるとともに、別ものと合一させることによって演者を別ものに変える。この変化合一によって遠い過去が呼び出され、こうして超自然が現出するのであるが、同時に原人間の半陰陽性=雌雄一体性もとりもどされるのである。……面は二重存在の魔術によって、それをつけた者を、男(いざなぎ)でもあるし女(いざなみ)でもあるもの、人間でもあるし神でもあるもの、生者でもあるし亡者でもあるものにする。」(インモース前掲書、一七七頁)能のこの両性具有の神話的可能性を神性の至高の表現として神父は示す。「卒都婆小町」のごとき劇の頂点において女が恋人の衣と冠をつけるモチーフに注目する。「つまり能は太古からの人類の叡智によって、自分と反対の原理を自分のものにすることによって人格を完成させる奥義を知っていたのではないか」と推定する。「井筒」の中の、僧の夢の中に業平の過去の女性が、業平形見の冠と直衣をつけてあらわれ、薄をかきわけて井戸の中をのぞくと、女が水鏡の中に男業平の影をみる情景(「さながら見みえし昔男の、冠直衣は女とも見えず、男なりけり業平の面影」)を戸井田氏は、この井筒を単なる物としてはとらえず、高度に象徴的な〈深み〉を帯びた距離(そこでは時間と空間の区分は消えさる)ととらえ、井筒をのぞき込む型及び間《ま》が我々の裡に喚起するものを「それは身体の内部に存在する暗黒な深淵からくる一種の波動のようなものであろう。それがひびきあい、静かにゆらめくところに能の世界が形成されるのだ」と説く。長く長く無言で見ているというその間は、そのままはかりしれぬ深淵である。ここでは極小の時間が無限大の時間と重なりあう磁場が形成される。この磁場にあってはシテは我々の心の裡なる深淵に垂らされた測深鉛であり、井筒も水も、のぞくという行為も、それにつれて能舞台に圧縮された全宇宙も、効用性にとらわれた日常生活のそれから解放され、事物が本来属した(「はじまり」の)世界に立ち還るのだ。戸井田氏がこのように、時間における対立の解消を見るのに対しインモース氏は、水鏡を介して女の面影がそのまま、業平という男と二重写しになるところに、両性という対立の解消、つまり両性具有の神話の出現をみる。
結びの前に、神父は、世阿弥伝書の「九住注」にある「新羅・夜半・日頭明なり」という能の至高の境地の表現に我々の注意を促す。「真夜中に太陽が輝く――これはエレウシス密儀のような秘教的・錬金術的古代密儀に連綿と伝えられている表現であり、またキリスト教の復活祭の夜に唱われる歓喜の歌にそのひびきをつたえ、世の光の誕生を祝う降誕祭の夜の気分に通ずる表現である。……新羅は……ここではあきらかに地理的な地名を指しているのではない。それは、両極のあいだの緊張が止揚され、楽園的合体性が達成される理想的状態、すなわち西洋の概念でいえば『対立物の一致』(コインシデンティア・オポジトルム――引用者)のことであろう」と述べる。
日本の神話・象徴論的伝統の中での母胎回帰と、両性具有のイメージの連続性については、評者もかつて「失われた世界の復権」と題するエッセイで論じたので(『新編人類学的思考』筑摩書房、所収)、改めてここで論じることは避けよう。それにしても両者のおどろくべき一致である。インモース氏が「山伏神楽における再生密儀」において、岩手の権現舞の獅子と子供の間に執り行なわれる「胎内くぐり」と「着衣式」を、西欧の「死と再生」のヨナ神話と対比し、岩手県大償の山伏神楽の神楽能「年寿」にみられる「死と再生」の母胎回帰の神話として論じ、「神話からマルクスへ」と題する文で、ブレヒトが教育劇に翻案した能の「谷行」に死と再生の密儀的パターンを見れば、戸井田氏も「死んで復活する行事」と題する一節の中で同じく「谷行」を論じる。
さきにジークフリート・メルヒンガーのブリリアントな現代演劇論(『現代の演劇』白水社)のすぐれた訳により読者を大いに喜ばせた尾崎賢治氏のあとがきによると、インモース氏は一九一八年スイスに生れ、ロンドン大学東洋学部(SOAS)で中国古典文学を学び一九五二年から五年間岩手県を中心にしてすごした後、五八年以後上智大学で教鞭をとっている詩人である。これまで紹介して来たのは『変らざる民族』の末尾の部分をしめる三章で、本書にはこの他、比較文化、または文化交流史に関心のある人なら跳びあがって喜ぶ「第二のルネッサンス」「スイスのバロック演劇にあらわれる、日本のテーマ」「高山右近と(ミヒャエル)ハイドン――宝さがし奇譚」などといった興趣尽きざる論考が収録されている。
インモース氏と戸井田氏の出遭いは、正反対の方向(インモース氏の本の副題「演劇・東と西」そのもの)から出発しているが、或る意味では当然といって良い理由がある。絶えず豊富な民俗学的事実をモデルとして出発し、映画批評を通して西方の映像の世界を己れのものとしたのは戸井田氏である。これに対し、インモース氏はスイスのほぼまんなかにあるシュヴィーツという町で育った。この町は、古ゲルマンの習俗が色濃く残って居り「特に謝肉祭の仮装行列や、太鼓にあわせて道化が踊る豊年踊りにあらわれる」ということである。こうしてみると氏が最初に赴任したのが民俗芸能の宝庫である岩手県であることは偶然であるとは思われない。
ともあれ能の象徴論的宇宙は、或る意味で、この両者の視点・体験を重ね合わせることによって可能になったアルケオロジーを通して、はじめて、人類の知的体験の共通の財産となる途を見出したようである。
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鍛冶師と俳優
――〈始原的な行為〉を鍛える
A[#「A」はゴシック体] あなたは〈身振り〉の象徴性について日常生活のレヴェルにおけるものから、さらに現実のさまざまの深まりの中で追求する構えを見せていますが、俳優の演技が我々をどのような地点に導いていくかという点についてどういう意見を持っていますか。
B[#「B」はゴシック体] 素人に向かってかなりズバリそのものの質問を発しますね。その点、グリフィスからエイゼンシュタインにいたるサイレント映画のマイム俳優に学んだゴダールは、次のように、私の言いたいことをぴたりと言い当てていますね。
A[#「A」はゴシック体] どういうふうにですか?
B[#「B」はゴシック体] 「政治映画のために」という文章(蓮實・保苅共訳『ゴダール全集』4、竹内書店)の中で「彼らの所作はそれらがどの程度始原的な行為と反復するかに応じて初めて意味を獲得する。……政治映画はつねに反復という場の上に置かれている。すなわち、芸術創造はひたすら宇宙生成の創造行為を反復しつづける……」という表現を使っています。これなぞは、私のようにエリアーデばりの祖型と反復という表現に酔うきらいのある人類学者にとっては、何とも言えぬ、嬉しい表現ですね。われわれの日常生活の索漠たる光景は、世界が、真の統一を失ったところから来ているのではないでしょうか。ゴダールが「始原的な行為」というとき、彼が言うのは、選びぬかれた状況では、選びぬかれた行為は、全宇宙を包括するような広大な意味作用を獲得するということであろうと思われます。他の文章で、彼は「白粉のパフの香りをかぎ、毛皮をそっと愛撫する彼のごくささいな仕草も、あらゆる有効性をもったひとつの演劇的な意味に基づいているのである」と述べています。どんなささいな仕草も状況自身が、映画的な情景の中で、時間・空間的にそれが選びぬかれており、そういった座標軸の中に、どんなささいな仕草でも、訓練された俳優が、あらゆる可能な仕草から、彼自身の演技のリズムの中でそれ以外ではありえないといった仕草を選ぶとき、その行為が、観る者の想像力を日常生活的現実から引き離して、失われた世界の断片へと観客を結びつけます。
A[#「A」はゴシック体] そのあたりは、何となくわかったような、わからないような。例を挙げて説明していただけますか。
B[#「B」はゴシック体] そうですね。たとえば、草月会館でムルナウの「ファウスト」とウェゲナーの「ゴーレム」を見た時のこと、特に気になったのは、同席した若い観客たちが、「ゴーレム」のラビ(司祭)がゴーレムに〈息〉(ラオフ)を吹き込む呪文を唱える場に来るとゲラゲラ笑い出したことです。ところが、あの部分は、〈|だんまり《マイム》〉として見たら、最も、全身的な演技として迫真力のある部分であったように私には思われます。そうでなくても、ユダヤ教の教会堂におけるラビの唱え言とそれに伴う身振りは、カトリックのそれに較べても、遙かに身体的演技として洗練されていたはずのものであります。中世以来、占星術をはじめとするカバラの秘教の中で、磨き上げられた〈気〉を造型することによって大宇宙(天体)と小宇宙(人間)の合一をはかるというのは、ある意味ではヨガの如く、あらゆる演技術の中で最も醇化された伝統の一部であると言えるのではないでしょうかね。「ゴーレム」の中で、呪言の部分は、その身振りによって、あの中世的な建築のひしめきあった中で、領主の使いの若い騎士、ラビの助手、ラビ、ラビの娘、そのコーラスとしてのゲットーの中の集団、外的世界としての領主の城塞、等々に分割されて積み重ねられる、運動感覚の総体としての映像の集積全体が、一挙に別の世界へ連れ去られるといった、いわばあの結節点とも言うべき〈身振り〉によって、統一を与えられた、映像的現実が、次の次元へと展開し飛翔するバネを仕込まれたという感じがしたのです。
A[#「A」はゴシック体] そこをゲラゲラという訳ですね。
B[#「B」はゴシック体] というのはちょっと淋しかったのですがね。どうして、あの呪文の〈身振り〉の造型性だけでも愉しむ眼をもたないのだろうか、と。
A[#「A」はゴシック体] それは我々の時代の歴史主義、進化主義のひとつの結果ではないのでしょうかね。我々の身振り、それも若者の身振りだけがカッコいいものと信じている〈現代〉に関する信仰、そういったものが、いろいろな面で映像を通して捉えなおされたものをかたちそのものとしてとらえる視角を奪っているのではないでしょうか。
B[#「B」はゴシック体] ある意味では、過去は、我々の失った〈構築物〉で一杯である筈なのに、過去は一応我々の価値に従属するといったオプティミズムとでも言いましょうか。
A[#「A」はゴシック体] そう言えば、最近「黙示録の四騎士」を見ていた時、四騎士の現われる場で、龍の頭が煙を出して現われたら、ゲラゲラ。
B[#「B」はゴシック体] 笑おうが何しようが勝手なのでしょうが、ああいう日常現実を黙示録的|現実《リアリテイ》でとり込もうとする作品で、空間のつなぎめをああいう龍で表現するのが約束事になっている世界では、ああいったトリックに物としての抵抗を感じなくてすむのでしょうけどね。
A[#「A」はゴシック体] 約束事というと?
B[#「B」はゴシック体] ヨーロッパ中世の舞台では、地上界と地獄の境界、つまり入口は、龍の口になっていた。それは時にはアンコウの如き魚の表情を示していた。魚をひとつの現実の総体として捉えるイメージは、旧約のヨナが魚の胎内で過ごす、またはピノッキオの話に反映していますよね。
A[#「A」はゴシック体] つまり、ああいった龍頭は、日常生活的現実を擾乱して、グロテスクなものを媒介して、別の現実へと精神の主軸を転位させる仕掛けみたいなものだということが、絵画その他の媒体によって知られているという状態のことではないでしょうかね。それを、トリックの幼稚さという形でしか捉えられないのは、技術文明の造型の貧しさについての自覚を欠く行為と言われても仕方がありませんね。
B[#「B」はゴシック体] そういえば、ムルナウの「ファウスト」について、ゴダールは「役者が自己の限界をこえ、その感覚を駆使し、逆まく欲望の流れに捉われるというこの不断の変貌ぶりが、明らかに指摘できた」(前掲書、二八頁)と述べていますね。
A[#「A」はゴシック体] それをファウストが十字路に立って呪文とともに円を描きながら、炎を路上に噴出させて、小悪魔カスペルレでなくメフィストを喚び出す場に見るというわけですか。
B[#「B」はゴシック体] 愛のいちゃつきの場でもよいと思いますよ。しかし十字路の場面のほうが説明し易いのではないでしょうかね。寓意的にも。というのは、ああいった精霊を喚び出すという呪術的行為は、星辰の運行の特に定められた特別な時間の一点に、選びぬかれた、そして危険である故に日常生活においては使われない言葉の組み合わせによって、現実の容量を拡大して、非日常的な諸力を導入する条件を造り出すということになりますかね。呪術は結局、意味作用《シニフイカシオン》を日常生活におけるより遙かに煮つめるという行為なのだと思います。ああいった時を選び、場所も、世界のあらゆる磁力が交流すると象徴的なレヴェルで考えられる十字路において、言葉・身振りをつけ加えていくというのはそのまま劇的な行為でありうるわけです。その条件の整ったところに芸が成立するとき、再びゴダールの言葉を使えば、画面には「驚くほどの現実感がみなぎり、快い錯乱が深められ、そのふたつがひとつのものになってゆくこの美しい場面を見ると、わたしは、何か神聖なものを涜すような甘美な香りを感じとらずにはいられない」(前掲書、二六頁)といった表現が、そのまま適用されるドラマの状況が作りだされるのではないでしょうかね。
A[#「A」はゴシック体] するとそういった状況において、観客は全く受身の立場におかれるわけですね。すると、映像的世界において、観客が役者の肉体に没入するという、演劇的コミュニケーションの渦は捲き起こらないわけですが、そこで、映像コミュニケーションは、どういった限界にぶつかるのでしょうかね。
B[#「B」はゴシック体] 余り大げさな設問はしていただきたくないですね。こちらは、こと映画に関する限り、あなたよりも他愛のない観客であることをお忘れなく。だがこの点、ロジェ・ヴァイヤンの語るスペインのキャバレーとか平土間劇場は、たしかに、俳優の肉体を通した、演ずるものと観る者との対話、さらに対話(熱気、野次、囃し、等々を通して)による観客の参加、集合的思考として、劇場空間が統一することによって、参加するものが、遙か、遠くの現実に赴くことが可能であるという点で有利な立場にあるのではないでしょうかね。これは、民俗芸能の祭りの庭で、かつていともたやすく実現していた世界ですね。完結したストーリー、スクリーンによって観客と距てられていた映画は、現実を自由に截断し再構成する技術的優位性にもかかわらず、この点で決定的に不利な立場にあったと思いますね。「観客自身にわたしたちと一緒に演じさせることは必要だ。いいかえれば、観客と交感することが必要で、それがなければ成功した劇的瞬間というものはありえない」(渡辺淳訳『俳優の仕事について』未来社、六〇頁)とシャルル・デュランが言うような関係は、どうしても舞台のものですね。
A[#「A」はゴシック体] その不利な点は、何とか克服できないものだったのでしょうかね。
B[#「B」はゴシック体] 私には、そんなことを答える権利はありません。ですが、「ウィークエンド」から「中国女」をへて「東風」にいたる過程で、ゴダールが試みたのが、その辺の限界の克服であったのではないでしょうかね。
A[#「A」はゴシック体] それはどういうこと……?
B[#「B」はゴシック体] 観客の解体ということ。映画館に入って来た観客は、席についただけで、イメージとストーリーによって、一方的に受身の状況で、スクリーンの彼方に運びさられる期待に、払った額に応じて胸をはずませます。そこで、ある意味では、映画がはじまる前に、その重要な部分は終っているとも言えます。ゴダールは、まずそういった観客の期待の体系をばらばらに截断してしまう。まず、アンティプロットで、筋はある瞬間の総体が次の展開を決定する。筋が直線的でなく、アメーバの運動の如く、展開する。まず筋と、観客のなれ合いを、断ち截る。
A[#「A」はゴシック体] それはどういうことかな。
B[#「B」はゴシック体] 言いかえれば、筋というのは、嵌めこみのパズルの如きもので、ある種の登場人物の質(A+B+C+D……という属性の組み合わせ)が、展開される場面を決定すると、ちょうどパズルでどんどん空白の部分を嵌めこむようなものです。全部嵌め込み終ったときに、≪おしまい≫。
A[#「A」はゴシック体] そういった意味では、完結しているわけですね。
B[#「B」はゴシック体] 最も凡庸な映画を頭におくとそういうことになるのではないでしょうかね。
ゴダールは、まず、さまざまな人物や、事件を投入することで、または、日常生活的現実、演劇青年的現実、詩的現実、政治的次元に抽象化された現実等、さまざまの次元の異なる現実をつきあてることで、筋によって代表される現実の次元の一貫性への信仰をぶち破る。
A[#「A」はゴシック体] しかし、それは、ゴダールでなくても、グリフィスの「イントレランス」において、バビロニア、古代イスラエル、聖バルトロメオ祭虐殺前夜のフランス、現代アメリカが、交錯して描かれた時に示されていたものじゃないですか。
B[#「B」はゴシック体] たしかにそうです。この場合、異なった時間的現実がつなぎ合わされた結果生ずる、映像の谺《こだま》しあいが、あの中で、現在アメリカのストライキをめぐる状況を、多層な次元で画くことを可能にしたと思うのです。
A[#「A」はゴシック体] ところで、観客の解体のほうはどうなっているのですか。
B[#「B」はゴシック体] たとえば、観客の持つ筈の批評とか、野次とか、傍白といったものを、政治的集会におけるさまざまな人物の反応といったものに導き入れてしまって、そういった部分も、そのあらゆるハプニング性も含めて、すべて舞台装置として、ドラマの進行の中にどんどん組み込んで行く。と同時に、さまざまな機会を通じて、劇的仕立ての小屋掛け性を強調しているでしょう。「ウィークエンド」においては、屋外をどんどん移行することによって、移動小屋掛け芝居的性格を、自然の中にあることの有利さを羊の大群によって示したりしながら、強調していましたね。「中国女」の最後は、舞台になった家が友人の両親のヴァカンスの間だけ借りたという、小屋の見世じまい的シーンをもって、小屋を〈たたむ〉というスタイルをとっている。見世物小屋としての世界の舞台に常設ということはありえないという、登場人物のアイデンティティの足もとをすくうという設定になっていますね。そういった形で、観客の感性の解体作業、あとは、運動《ムーヴマン》、すなわちフォルムと政治に参加する可能性を拡大するが、映画そのものには最終的解決は与えられていない。
A[#「A」はゴシック体] あなたの話しっぷりにも移動見世物、小屋掛け見世物的要素があって目まぐるしく回転していきますね。ところで、ゴダールのそういったスタイルは彼固有の世界の映像化運動の中で、必然的に出て来たものだろうか、それとも……
B[#「B」はゴシック体] 基本的にブレヒトでしょう。「中国女」で壁に書かれた名前でギヨームが最後まで残すものにブレヒトがある。さき程からくどいくらい言った観客の解体は、ブレヒトの表現で言うと〈異化〉ということになるのではないですか。この点は、「中国女」の中で、ピッコロ・テアトロ・ディ・ミラノの演出家ジョルジョ・ストレーレルについて言及させる時、ストレーレルのメイエルホリドおよびブレヒトにあやかった異化がはっきりとゴダールに意識されているということが言えると思いますね。
A[#「A」はゴシック体] ところで、メイエルホリドと言えば、彼のヴィオメハニカの演出こそ、俳優の解体だったのではないですか。
B[#「B」はゴシック体] そうですね。ひとりの人間が、日常生活の中で自足しているような心理的な一貫性に基づいた、演技の可能性を断ちきり、人間を、動くオブジェの寄せ集め、従って顔と、手と足が異なったアイデンティティに属してもよいという演出法において、メイエルホリドは、心理的俳優術のイメージに基づいた俳優を解体したと言えると思いますね。
A[#「A」はゴシック体] その立場は、むしろ映画において、たとえば、マック・セネットの喜劇集団が試みていたことに非常に近いと思うのですが、メイエルホリドは映画に対して否定的であった。何故でしょうかね。
B[#「B」はゴシック体] 否定的であるといっても、彼のチャップリンの評価をみてもわかるように、彼の発言の時期に合わせて検討してみる必要はあるのでしょうけれど、むしろ、それは、先ほど言ったような見世物小屋的コミュニケーションが彼の上演の理想的概念に近かったという点に関係あるのではないでしょうかね。それはたとえば彼が、モリエールの「ドン・ジュアン」の上演に際して強調した|張り出し舞台《プロセニウム》についての考え方にもよく現われていると思います。彼は次のように言っていますよ。「世界中の偉大な時代のどの劇場でも、どのような見せ場もプロセニウムと呼ばれる呪術的な空間で演じられた。だが、プロセニウムのどこがそんなに効果的なのだろうか。四辺を見物の輪で囲まれたサーカスの平土間のように、プロセニウムは観客の真只中に突き出している。そうすることによって、俳優のどんな些細な身振りも、ほんのちょっとした動きも、どんなしかめつらも、埃の中で見失われるということが防がれる。そこで、プロセニウム専門の役者というもののすべての身振り、動き、ポーズ、そして表情の変化における巧妙さを。全くのところそうなんだ! ごてごてした気取った演技と神経の通ってない運動しか出来ない俳優なんてものは、中世のイギリス、スペイン、イタリア、日本の劇場のプロセニウムのように観客にあれほど近い舞台では決して長続きしない」(E・ブローン編『メイエルホリド演劇論集』六九年、一〇〇頁)といった表現の中には、メイエルホリドの映画に対する偏見はすでに出ているような感じがありますね。
A[#「A」はゴシック体] 映画の中の演技は生《なま》の芸ではないという点においてでしょうかね。
B[#「B」はゴシック体] それと同時に、やはり、先程から話にのぼっているように、観客の反応が、呼吸を通してでも直接にはねかえってくるような至近距離で演技というものはなされるべきだという点、すなわち相互コミュニケーションによる、役者の芸と観客の視線の弁証法のようなものが、舞台の重要な推進力のひとつであるという点についての強調があるのでしょうね。
A[#「A」はゴシック体] この場合、否定的に語られているのは映画の俳優ということになるのでしょうか。
B[#「B」はゴシック体] そんなことはないでしょう。しかし、そうである可能性は十分大でしょうね。カメラの介入が、そういった考え方を可能にしている筈です。
A[#「A」はゴシック体] というと……?
B[#「B」はゴシック体] カメラが可成りの部分、演技をカバーしてしまう。
A[#「A」はゴシック体] ばかりでなく、演技してしまう。
B[#「B」はゴシック体] 静物をも、カメラが動くことによって動きのあるものに変えてしまう技術がカメラのものですね。部屋の真中にカメラを据えつけて、ぐるっとパンニング・ショットで一回転しただけで、部屋は時によって猛烈に動き出す。
A[#「A」はゴシック体] そうですね。昔、バッハの『マタイ受難曲』に合わせて、宗教画を組み合わせて撮った映画を見たとき、カメラ・アイの威力をまざまざと感じましたね。ちょうどサイレント映画における対象が動くけど音がないという前提と逆で、画像は固定したものだが、音は動く。音の動き、カメラの活性化作用が、静的な画面を全く動的なものに変えてしまった。
B[#「B」はゴシック体] そういうことになると、カメラ自体を俳優と対等なものとして考察の対象としなければならなくなる。しかし、それは技術についての分類で可成り出来ることでしょう。たとえば、デヴィッド・リーンの「大いなる遺産」で、ピプが少年の時にはミス・ハビシャムの部屋は広大に見えた。だが、成人して見た同じ部屋は、カビ臭い小さなものにすぎなかった。これはレンズを変えるという技術に還元することができる。舞台であると、役者は、自分の身体の全体的表現によって、関係をうちたてる。そのことによって、同じ部屋が大きくもなれば小さくもなる。あくまでも〈身振り〉に属するわけです。そこで、映画の場合は、ジョン・ミルズの演技が、まわりの世界と彼個人の関係を現わす前に、カメラがそれをなしとげる。たしかに関係は表現された。しかし、俳優に焦点をあてて考えると、結果において欠けるものがどうしても出て来る。それは関係の表現と平行して演ぜられる身振りそのものの空間造型であるということになる。レンズはそこまで、演技を補うことができない。メイエルホリドの映画の過小評価はこのようなカメラのおせっかいということによる、俳優の身振り表現の技術の貧困化という点にかかっていたということは言いうるかも知れませんね。
A[#「A」はゴシック体] 大変な熱演ですね。そこで想い出したのですが、マック・セネットのドタバタ劇では、そういった身振り言語の可能性は徹底して追究されましたね。
B[#「B」はゴシック体] それは、何といっても、あのころは、街頭の芸と映画スタジオは直通だったといえましょうからね。街頭の芸といっても、その多くは小編成の旅回り劇団で、顔つきよりも、身振りで観衆の関心をつなぎとめなくてはならないといった人たちであるわけですから、必然的に、没意味的な身振り言語すなわちドタバタでスクリーン造りに参加することができたわけです。そういった大道芸的要素はメイエルホリドでもむしろ大歓迎するくらいで、彼はしばしば、ヨーロッパの演劇が中世の秘蹟劇から抜け出して、コンメーディア・デラルテへと展開していく過程で、曲芸師の手をかりなくてはならなかったという点を強調していましたからね。それは、歌舞伎が、舞踊から、所作演劇へと展開して行く過程で当時身体訓練の最もよく出来ていた南都の狂言師の参加を得なければならなかったというのと事情はよく似ていますよね。
A[#「A」はゴシック体] 歌舞伎の誇張し様式化された歩き方に狂言的な歩き方を想わせるものがあると思ったら、果たしてそうだったのですね。
B[#「B」はゴシック体] といっても、六方衆の練り歩きとかさまざまな参入があったので一概には言えないと思いますが、身振り言語の芸の伝承は演劇の伝統の血液の部分に当ると言えるかも知れません。
A[#「A」はゴシック体] そういうことになると、話は少々古典的になって来ますが、トーキーと、カメラ技術の発展によって、全身体的な表現としての俳優術は衰退の道へ向かったと言えますね。
B[#「B」はゴシック体] 映画ばかりを責めるわけにもいかないので、つまり、せりふが芝居の中心、心理的葛藤が劇的展開の中心になったときに、俳優が、みずからの身体を媒体として表現できる宇宙はぐっと縮小されたということは言えるかも知れませんね。
A[#「A」はゴシック体] それが、この「フィルム」誌の第1号の印象ぶかいインタヴューでゴダールがぼやいているところではないんですか。俳優が碌すっぽ歩くこともしなくなったといって。
B[#「B」はゴシック体] そうですね。表情と声色だけで、可成り演技ができる芝居が十九世紀に書かれすぎた。従って、街頭芸をのぞく、劇場芸が二十世紀初頭に、弾力性という点でぐっと低くなっていたとは言えるのでしょうね。そしてこれは、トーキーに先がけて起こった事象ですしね。
A[#「A」はゴシック体] してみると、そのような〈表情を伴うスピーカー〉といった俳優術が前提としてあったから、トーキーの導入以後、そちらのほうへなだれていったと言えるわけですね。
B[#「B」はゴシック体] サイレント映画は、そういった心理科白の従僕としての演技という観念のなだれこみを、阻止するとともに、ほとんど大道芸であったマイムの芸の保護区域となったと言えましょう。
A[#「A」はゴシック体] すると表情と口が中心の演技術に対する反対物としては?
B[#「B」はゴシック体] それは、何といっても、仮面劇ではないのでしょうかね。仮面は、表情の動きを封ずる。表情は、日常生活のコミュニケーションの道具になりすぎているから、それが示す反応の対象は、極めて皮相な日常生活的現実にしかすぎない。早い話が、怒りや、悲しみの激しいコントロールの限界を越えた表情は、だらりとして、怒った顔、泣いた顔といった言語的表現を越えたものになります。そこで、仮面は、表現の可能性の一部を殺すことによって、他の部分の、じつは、より雄弁な表現の可能性を拡大する。この点は舞踊における表現とは何かということを考えると、いっそうはっきりするでしょう。ヴァレリーは「魂と舞踊」の中で、ソクラテスに語らしめています。「ああ、あざやかな踊り子たち!……完璧無類な思考の、何といきいきした、優雅な登場だ!……手は語り、足は文字を書いているように見える。柔軟な力をあれほどみごとに使いこなそうとつとめている彼女らのなかに、何という正確さがあることか!……」(『ヴァレリー全集』3、九一頁、伊吹武彦訳、筑摩書房)しかしこのことは、ほとんど日本の古典劇にあてはまることであるから、今さら私がくだくだしく論ずるまでのことはないでしょう。能論にならない形で、話を展開してみると、表情を殺した全身の身振りによる(時にはアクロバットを加えた)演技は、より多元的な現実《リアリテイ》に対応することができます。表情の演技は、日常生活的な心理の表現、対人関係の浅い表現たりうるけれど、同時に何ものか別の意味作用を果たすことができないということになります。身体はこれに対して、より多岐的な演技の展開の媒体になります。そこで、表情ではひとつの顔つきはひとつのパーソナリティの媒体でしかありえないけれども、表情としての身体は、そこを中継所として〈思想〉が変貌を遂げることの出来るドックであるということになります。
A[#「A」はゴシック体] 何だか抽象的になって来たような気もいたしますが、映画のばあい、バスター・キートンの顔筋を全然動かさない無表情の表情は、一種の仮面ですかね。
B[#「B」はゴシック体] まさにそうだと思いますね。能で言うひた面《おもて》というやつでしょう。同じくベン・ターピンのやぶにらみ。キートンの場合は、表情を殺すゆえに、ギョロ眼の視線がかえって雄弁になっているということは否定できませんね。
A[#「A」はゴシック体] でも何故、表情に対するものとしての身振り演技にこだわらなくてはならないのでしょうか。
B[#「B」はゴシック体] それは、まさに俳優の職業の根元的な成立にかかわる設問になるのではないでしょうかね。というのは、俳優の職能のほとんどすべては、我々観客の触覚の延長したようなものだという点にかかっているのではないでしょうか。
A[#「A」はゴシック体] マクルーハン的に言えば、|拡張された《エクステンデイド》メディアということになるわけですね。
B[#「B」はゴシック体] そうも言えます。いわば、観客の知覚の先端となって、世界の事物との間についには不動の根元的な関係を樹立すること、これはその職能の基本にあるものでしょう。そこで、関係を設定するということは、事物に対応した形を反復する。そして事物をかたちのうえで吸収してしまう。〈身振り〉が強いのはそのためではないでしょうか。対応し、再現することでかたち表現のエッセンスを対象からぬきとってしまう。そのうえでそれを自由に造型してそれを削岩機と化してさらに事物の深い根拠である現実《リアリテイ》の中に侵入していく。事物を人間に置きかえてもかまわないわけですが。日常の我々の身振り触覚では、不可能なコミュニケーションの回路を事物または人々との間に創り出していく、そしてゴダール的表現によれば「事物の奥底まで降りてゆく」ことによって、事物を内側から照射し、「ものがみずから語りはじめるこの究極の点に到達する」ための触媒であるということになりますね。
A[#「A」はゴシック体] ちょっと、身近な例を挙げていただきたいのですが。
B[#「B」はゴシック体] キートンの「キートン将軍」を例にとってみましょうか。あの中で、キートンがダンマリ劇において実現しているのが、すべて関係です。恋人と、恋人の父と、徴兵官と、敵北軍のスパイと、将軍と、そして究極的には、〈将軍〉という名の機関車と、線路と、自然のあらゆる事物とキートンは関係をつけます。はじめキートンは、それらすべてに従属しているようにみえます。それは、キートンのほうが対象に合わせてみずからを身体的に造型しなおすからです。しかし〈かたち〉において対応すると同時に、逆流的にキートンは、対象の固有のメカニズムにみずからをアイデンティファイします。それが典型的に現われるのが将軍に対する関係と、機関車に対するそれです。そして、その演技の深まりとともに対象のエッセンスをみずからのものとしてしまいます。こうして彼は、対象を内側から飼いならし、それらの間に統一を与えて、互いに緊密に繋ぎとめられた生世界を構築するのです。この可塑性こそ表現を殺して〈身振り〉で演技するものの優越性のあかしであると思います。
A[#「A」はゴシック体] すると、それは深海魚アンコウの提灯みたいに意識の深海を測定する錘《おもり》みたいなものですね。
B[#「B」はゴシック体] いろいろな言い方はできると思います。民俗学で言う形代《かたしろ》の如きものとも言うこともできましょう。
A[#「A」はゴシック体] それはまたどういう意味ですか。
B[#「B」はゴシック体] 形代というのは、そこに神が訪れる媒体のようなものと考えられました。別の言い方をすると、それは人間が日常的ならぬ何ものかとコミュニケートする媒体だったのです。このような俳優への期待をイヴ・ロレルは「忘我と演劇」という文章の中で「我々は俳優に、喪われたものへの償いのはしわたしとなり、たまった膿をぬぐいとり、実現されなかったさまざまな生の代行者となること、そしてまた、使われぬまま眠っているさまざまな力の燃し手となることなどの役割を与える。俳優は、社会の意識下の願望を一手にになっているのだ」と言っています。
A[#「A」はゴシック体] それでは、キリストなどは、ある意味では最大の俳優だったかも知れませんね。精神のアクロバット俳優としてキリストを見る視点はハーヴェイ・コックスの「キリスト・ハーレキン」などにおいて、道化俳優という面を強調して語っていますね。
B[#「B」はゴシック体] とにかく、深海におろされる測深錘と言うこともでき、犠牲山羊と言うこともできる。その条件のひとつは、深海の重圧に耐えることができるということでしょう。言いかえれば、日常世界を越えた地点に我々の手をとって導く者として、彼は、これを如何なる現実の相貌にも合わせて、これを解体し、より深いレヴェルでの統合を与えることのできる〈身体〉の持主でなくてはならない。人をして「おのれ[#「おのれ」に傍点]という恐ろしい世界から脱出する。……感覚と超越したものの知覚、見えないもののヴィジョンに到達する」(ロレル)ことを援けることこそ我々は俳優に期待しているのですからね。宇宙生成の創造行為に我々を参与せしめるために俳優はあるのです。そういった意味で、俳優は、我々の社会に生きのびた〈原社会〉の豊饒儀礼の司祭であるとも言えるのではないでしょうかね。多くのアーカイックな文化では司祭=鍛冶師であったといいます。俳優というのは、〈始原的な行為を鍛える鍛冶師《デミウルゴス》である〉と言っても差し支えないでしょう。
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ハーポ・マルクスとブレヒト
――あるいは「特権的身振り」
マルクス兄弟の映画は、三〇年代のはじめに突如として、姿を現わし、当時のファンを魅了し去った。元来、ユダヤ芸人兄弟の呼吸のあった舞台芸としてブロードウェーで好評を博していたマルクス兄弟が、トーキー初期の作品で登場したことは、キートンやランドンらが次々に消えていったわびしさの中にあって、確かに救いであったと言えるだろう。勿論マルクス兄弟にも幸・不幸はある。絶妙なドタバタ芸とならんで、彼らの音楽についての強さも、三人一組となれば鬼に金棒的に働いた。グルーチョの歌、チコのピアノ、ハーポのハープというのは確かに喜劇トリオにとっては得がたい組み合わせであった。
中でもハーポは、神話学のモデルで言えば、始原児とでも言うべき存在であった。彼は「話しことば」によって代表される日常生活の意識が世界を説明する公用語になる以前の人間である。彼はそれ故「話しことば」なるものに全然信頼を託さない。信ずるものは「身振り」と状況だけである。状況に対しても、彼はそれが持つ潜在的可能性をだんまりの芸を介して探りあてていくのである。それらは、引用されるために、日常生活から抜きとられ掏りとられて来るのである。これは「キートンの海底王」において、キートンが、潜水服を着用して船体の修復を行なったのちに、水中でバケツで手を洗い、その後水を投げる、よく知られた仕草の中に最も典型的に現われている。この仕草などは、身振りの自動的部分をその日常生活の効用性に規定された文脈から引き離してキートン的身振りの世界――表情を顔の筋肉に限定せず全身に向かって解放する――に組み入れることによって、神話的次元においてより緊密に組織化された肉体言語に、転化していく。これは、とりもなおさず日常の肉体言語に対する異化作用でもあり、「身振り」を詩学的に再編成する行為に外ならない。キートンあるいは、ハーポの自動化した身振り――たとえば食べるという「身振り」の中にインク壺を含めてしまう――に、それが日常生活の効用性の体系に埋没する以前に属した「原コンテキスト」の中に戻る助けをするという役割りを、この「引用」という行為は引きうける。そういった磁場において見られた身振りは、特権的な位置を獲得し、通常の状況へはもはや同じ姿で立ち還らない。今度は状況の方が浸蝕作用を受ける。
ヴァルター・ベンヤミンがブレヒトの異化を説明するために使った表現は、こういった特権的身振りの意味を充分に説き明している。「第一に必要なことは、まず状況を発見することだ。(状況を異化する〈verfremden〉こと、といってもよい。)この状況の発見(異化)を実現する手段が、劇の流れの中断である。」(「叙事演劇とはなにか」、『ヴァルター・ベンヤミン著作集』9、晶文社、一三頁)
たとえば、メロドラマを例にとろう。日常生活の道徳と運命観をそのまま劇場の中に持ち込む観客が心に描くテキストは、極めて弾力性に乏しく、不確定性を排除した筋の流れから成り立っている。これに対して、「異化」を目ざす「特権的身振り」は、観客の持つ、平板化した現実の像に挑戦する。「その基本形式は、互いに判然と異なるシチュエーションとシチュエーションとの衝突によるショックという形式である。……その結果として、公衆のイリュージョンをどちらかといえばそこなうようなインターヴァルが生まれ、感情移入しようとする公衆の気がまえをだいなしにする。」(同書、一七頁)こうしたインターヴァルを発生させ、同時に組織するのが「特権的身振り」と我々が名付けようとするものである。
ハーポは、絶えず手に何か持っている。自動車のホーンつきの棒が、一番我々には見なれた持物である。これでハーポは、相手が深刻ぶって話をしているときに「ブ・ブー」と、ショック作用を起こさせる。これはアルフレッド・ジャリの唱導した「形而下《パタフイジツク》」棒の働きに等しい効果を状況の「異化」の作用において発揮する。道化と棒の関係に言及して、私はかつて、「棒の現象学」的研究の必要性を説いた事がある。
棒は身振りの「特権化」、状況の「引用可能化」のための装備であるという点に焦点をあてることによって、この論点を今日、更に前へ押し進めることができそうである。扇などのような時間空間を延長させる装備と対比した時に、棒は状況の中断のために働くと言える。「行動するひとをしばしば中断すればするほど、ますます多くの身振りが得られる。」(ベンヤミン)
パンチとジュディの人形劇のパンチは、棍棒といつも結びつく。犬でも、その飼主でも、ジュディでも、巡査でも次々に撲りかかる。この暴力性と不見不可能さが、人形の演技と結びつくとき、それは、見る者に軽い脳震盪を起こさせ日常生活から遠い意識の境域に人を導いていく。マルクス兄弟の「いんちき商売」の中で大西洋を渡る客船に密航客として乗ったハーポが、船員に追われて子供向きの「パンチとジュディ・ショウ」にもぐり込んで、パンチと競演をしたのは見る者をわかせる場面であった。
パンチの原型はコンメーディア・デラルテのプルチネルラ役であることを人はおおかた知っている。プルチネルラ役は、多少愚鈍であるが、欲にたけていて、人間とも猛禽類ともつかないような仮面を被っており、背中に瘤がついている。アルレッキーノのような徹底した両義性の持ち主ではないが、それでも優雅さと醜さ、強さと弱さ、無欲と強欲、両者を兼ねそなえた人物である。彼は何よりも背中の瘤という肉体にビルト・インされた「棒」によって識別される。十八世紀イタリアのバロック画家のティエポロ父子は、プルチネルラに魅了されて、百枚以上のエッチングの作品を残した。(これらの作品は、今日、散逸してしまって、その三分の一くらいしか見ることができないが)遊びのプルチネルラ、ブランコに乗るプルチネルラ、ラクダに乗って北アフリカを旅するプルチネルラ、等々の場面をまじえて、プルチネルラの生誕から死に至るまでの生涯が描かれている。我々を今日、この連作が魅了するのは、この瘤つきの道化服を纏い、面を被った群像が、我々が毎日の生活で知らずに過している意識の下の部分を表面に転じた形象であるからに違いない。面とダブダブな道化服は、コミュニケーションに限定されたつつましやかさから「身振り」を解放する。コンメーディア・デラルテの道化のすべてがそうであるように、彼もまた「カーニヴァル的世界」が、効用性の砂漠と化しつつある醒めた日々に遺した身体的陶酔の使者であったのだ。日常生活の約束事の体系におさまり切らぬその身振りによってプルチネルラを描いたティエポロは、今日の精神分析学や神話学の父祖の系譜に組み入れられる資格を充分に持っている。ゴダールが、プルチネルラにひかれ、その映画を作りたいといっているのも故なしとしない。
プロポーションを欠くと言えば、ハーポもまたそのもじゃもじゃの赤毛の髪――実はかつらと、よれよれのレイン・コートによって、サーカス道化の末裔たる資格を充分に示している。サーカス道化は、ダブダブズボン、ミニ帽子、途方もなく大きいドタ靴によって、通常人の世界に寸法を合わせることができないことを示す。通常人の服のポケットにはだいたい何が納っているかということは、大きさ、重さ、生活の文法の軌範などから考えてみても知れ渡っているところである。ところがサーカスの道化のズボンからは、次々に色々な予期しないものが飛び出して来る。ハーポのレイン・コートの内側からも、「オペラは踊る」のハーポの飢餓線上の座員のための食糧補給――実は悪徳商人の倉庫から盗んだのだが――の場面に見られるように、次から次へと色々な食糧が飛び出す。しまいには仔牛一頭とり出しかねまじきいきおいになる。つまり、ここには、「取り出す」という身振りをはじめたら、それに魅せられてやめることができない身体の自動機械的働きと結託して、機械的「身振り」の原動力が人間の内側にあるとき、それがかい間見せる途方もないポテンシャリティが示される。ポケットまたはズボンは、そのまま、引用のためのカッコになるのである。取り出しという身体を介した現象学的還元作用によって、衣裳から取り出される事物は、「はじまり」の新鮮さを取り戻す。オルテガ・イ・ガセーは『傍観者』の中で、道化のポケットについて次のような人の目を瞠らせるようなことを言っている。
[#この行1字下げ] 「道化師」のポケットは正に宇宙の無尽蔵の「内懐」で、そこから一つまた一つと響きのたかいのや愉しいの、甘美なのや憂愁を帯びたのと、新たな楽器が出て来たのである。
[#地付き](西沢龍生訳、筑摩書房、三一六頁)
つまり、この日常の身振りの体系の中では、何らの共鳴板も持たない「行為」を、宇宙に遍在する無数の共鳴板に響かせることによって、ハーポは、「身振り」を、この世界の真只中でどこかはかり知れない場所への通路に切り換えてしまうのである。
特権的身振りは、すぐれて原型的である。我々の日常生活の身振りは、日常生活を円滑に遂行させるための道具になってしまっている。それ故、我々の身振りの多くの可能性は脇におしやられ、身振りは、コミュニケーションに最小限必要なだけしか活用されない。コミュニケーション言語としての身振りは、なるべく抵抗を少なくすることを目的としているから、それは線的であり、面的なものの含む多次元性を持たない。
これに対して特権的身振りは、日常生活から様々の烙印を押されて排除されたものの持つ特権的な構えである。この烙印とは、乞食のボロでもよいし、道化のマダラ服でもよい。または日本の芸能で狂女が手にする採り物としての笹作であってもよい。あるいは西欧中世の道化が手に抱いていた錫杖であってもよかった。王が王錫によってそうであるように、これらの採り物は洋の東西を問わず、見馴れた世界から観客を引き離す働きをする。乞食が占める特権的位置はそうした磁力とは無関係ではないであろう。
かつて、或る文章の中で、乞食の異装についての印象を記述しようとしたとき、乞食を語る思考及び語彙の貧しさに我ながらあきれて戸惑いを感じたことがある。乞食について人が感ずる、汚ならしさと共に或る種のショックを伴った驚きの感情は何に由来するのであろうかとその時は考えていた。その後少し省察の甲斐があって、気味悪さの方は、記号論的に言うと、我々が一度身体の一部とし、その後捨てたものに感ずる感情であろうということを、おぼろ気ながら感じとることが出来るようになった。ぼろきれに人間が抱く嫌悪感は、それがかつて人間の身体の一部に付着していたという事実とは無関係ではない。同じような感情を人間は、捨てられた爪、髪に抱く。人間は、自分に全く関係のない事物に対してはそれ程強く好き嫌いの感情を示すことが出来ない。それは、そういった無縁の対象が、そのままでとどまっているかぎり、その他大勢として記号論的に、我々を脅かすことができないからである。そうしてみると乞食のぼろきれは、まさに、我々の身体を覆っていた断片の寄せ集めである。再びオルテガ・イ・ガセーを引こう。
[#この行1字下げ] 真に永久不変なる唯一の民俗衣裳とは、襤褸《ぼろ》なのである。レンブラントが再々好んで描く乞食は、ゴヤのそれと全く同一であり、また両者とも中世の乞食と異なるものではない。因みに――このことは、襤褸と、襤褸の象徴している仕事が、人間の永久不変のあり方、人間のそれ以外のあり方が結局のところ一時的でうつろい易くて挿話的であるのと較べて、変わることなくこうときまった根本的なあり方なのだということを、鋭くわれわれに暗示するのだ。乞食とは、ひょっとすると、アダムが歴史を通じて維持して来た最も純粋な形式なのかも知れない。
[#地付き](「民俗衣裳学のために」前掲書、三四五頁)
襤褸の混沌をたたえた始原性と対比されて、はじめて、衣裳の記号論がなりたつという、今日最も尖鋭であると考えられるロラン・バルト的公理をオルテガ・イ・ガセーは敏《さと》くも見抜いていた。屡々舞台に乞食を、魂がうかれ歩く純粋身振りとして登場させて来た能以来の日本の演劇は、こうした乞食の記号論的位置に対して極めて近い位置にありつづけたのだ。
別に気どるわけでもなく、奇を衒うわけでもなく、次のような衣裳を日常生活の中に持ち込んでいたブレヒトは、多分衣裳を「形而下棒」に転化させることを知悉していたといえるだろう。築地小劇場の昔なつかしきレパートリー「吼えろ、支那」の原作者セルゲイ・トレチャコフは次のようにブレヒトを描写している。
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ところでくしゃくしゃのシャツのえりからいつも人間のうでより細いくびをつきだしているブレヒトが、ドイツ人といえるだろうか?――以前にはこのえりくびに革のネクタイがまきついていたことがあるが、あるときそれをわたしにほんとうにグルジヤふうの仕草で贈ってくれてからというもの、ずっとネクタイなしである。……ブレヒトも帽子を頭にのせている。しかしあれが帽子だろうか! ひさしはボロボロ。ふちがめくれあがっているので、まるでブレヒトの頭蓋から突風が吹き出ているようだ。
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(「ベルトルト・ブレヒト」一九三四年、W・ベンヤミン他、中村他訳『ブレヒトの思い出』七〇頁、晶文社)
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奇しくも、よれよれのえりくびはハーポのものであり、帽子はチコ及びハーポあるいはバスター・キートンのものである。このブレヒト自身は、ミュンヘンのサーカス道化カール・ヴァレンティン、二〇年代ロシアの道化芝居の演出家ワフタンゴフ、更に、アジアの演劇から「異化」を基礎とする叙事演劇の理念を掴みとったと何度か公言している。
ブレヒトと道化ヴァレンティンの関係は一般にエピソード的にしか捉えられていない。例外はマーティン・エスリンの『ブレヒト』(「アンカー文庫」)である。この中でブレヒトがいかにヴァレンティンに負うところが多かったかをエスリンは強調している。(一〇七―八頁)ブレヒトが学んだもの、それは何でもない「身振り」の傍らに立ちどまらせて、「身振り」にその特権的地位を回復させる、活力を発揮させる技術だったのである。
ブレヒトは或る文章(「今日への大演劇に至る道 3・≪アジア的≫モデル」『演劇論集1』仏訳、一九七二年、二〇一頁)の中で、これらヴァレンティンやワフタンゴフが演劇の≪アジア的≫身振りを保持したと述べている。してみると、「文化」の中に引用された「自然」に他ならないハーポも、西欧の中に引用された「アジア」であるという特権的位置をブレヒトによって与えられてしかるべきかも知れない。
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演劇と道化
――タイーロフの場合
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舞台の創造者である私は目に見える現象の内奥に突き進んで、世界創造と云う不可思議な出来事の中から最も根源的な結晶体を取って来る。実にこの世界創造的調和の中にこそ、私の芸術の明朗性と力が有つ神秘さは隠されているのである。
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(タイーロフ、千賀彰訳『解放された演劇――演出者の手記』一九三六年、一八四頁)
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我々のロシア演劇についての知識は、特に第二次大戦後、モスクワ芸術座と、その創始者、スタニスラフスキーの教えによって覆われて来た。この事実は、同時にリアリズム演劇が大劇団の演劇理念と分ち難く結びついて来たために、日常生活の中に埋没した感受性の仮眠状態から、人を連れ出して、世界を全く違った角度から見ることを可能にするという、演劇の真の魅惑的な部分がどこかに消えてしまうという時期が続いた。
日常生活の平板な再現ではなく、その奥に潜む、隠された真実を表わす身体あるいは言葉の律動を捉えて組織化しようとする試みをアレキサンドル・タイーロフはネオリアリズムと呼び、次のように敷衍した。
[#この行1字下げ] 写実性という観点から見れば、この装置は偽脳《フイクテイヴ》と見えるかも判らない。併しほんとうの意味からすればこれこそ真実《リアル》である。劇場芸術の観点から見ればこの装置こそ真実なのである。何故なればそれは俳優に対して真の演技の場を与え、俳優の材料の有つ現実性と美しい共鳴を保つからである。
[#地付き](同書、一八三―四頁)
この表現は、今日我々が必要としている現実《リアリテイ》の多様性あるいは多層性という視点と共に、深層の現実に対する、舞台空間と俳優のかかわりあい方を的確に言い当てている。俳優が、深層の現実を蘇らせうるような、|揺ぎのない《オータンテイツク》空間を創出することこそ演出家の務めであるという考え方は、今日極めて魅惑的であり説得的である。
各々の時代に、深層の現実を蘇らせるべく、劇の空間に立ち還ろうとした時に人が、最も身近に見出したのが道化役者であった。道化は、社会の中心的価値の世界からは遠ざけられているから、舞台が、茶の間の現実によって占拠されるような時代には、舞台から追放されるかあるいは下足番か呼び込みくらいの位置しか与えられない。しかし、茶の間の現実の輪廓が不確かなものになり、何らの意味をも持ち得ないような時代に、現実世界の他のレヴェルに目を転じる努力の可能なことを、我々に告げ知らせ、そうした行為を援けるべく舞台に立ち現われる役柄がある。それが、道化に外ならない。演劇雑誌が道化についての特集を企てるなどというのは、まさにそういった時代の徴しであるのだろう。
しかしながら同じ課題を抱いて演劇が蘇った時代が、すぐ前にあったなら、その時代を覆う霧がいかに厚くとも、霧の彼方にかすむ世界を透視する努力を怠るわけにいかないであろう。そういった時代の最も手応えのある証言を残した一人がアレクサンドル・タイーロフであった。
タイーロフは、舞台空間の可塑性《エラステイシテイー》について論じる過程で、次の如く、短い言葉で道化の本質を衝く。
[#この行1字下げ] 道化芝居の如きものに於ては、我々の課題は俳優の姿の大きさと力とを火花と発する運動に於て示し、凡ての周囲の遊星をその軌道から振り動かす程の豪胆さに於て示すようになる……
[#地付き](同書、一八一頁)
つまり、道化芝居を身振りと機智と状況の火花と発する運動の中に周囲の日常生活世界を捲き込むものとすれば、この運動の結果は、あらゆる事物、人を、それらが日常生活において本来属している秩序から、軌道から離脱させるという形である。道化は、或る意味では「鎌鼬《かまいたち》」の如き存在である。彼が通過しても、人にはそれが気づかれない場合がある。彼は或る意味では、現象学的社会学者のいう「|存在しない人間《ノン・パーソン》」である。又は別の言い方をすれば歌舞伎舞台の黒子といってよいだろう。イタリア喜劇において道化の役は殆んど即興的機智(ラッツィ)に依存しているので、筋の中に書き込まれない場合が多かった。つまり、ヒーロー、ヒロインを中心として、日常生活の秩序にそって筋が進行していく中で、道化は、筋の内側に組み込まれてしまうことがなく、筋によって組織化されている日常生活世界の周囲を徘徊する。『十二夜』におけるフェステ、『リア王』の無名の道化を想い起せばこの間の、道化と日常生活の関係は明らかである筈であり、場合によっては日常生活という言葉は適当でないだろう。むしろ、筋書きの内と外というくらいの表現の方がよさそうである。何故ならば、山伏神楽に登場する道化は、同じように中心的現実に対して周辺的現実の担い手として、主役に悪巫山戯の限りを尽してからむ。そうでない場合も、道化は、日本の民俗芸能や西欧のサーカスにおけるごとく主役の芸のパロディーとしての「もどき」によって劇の進行に参加する。こういった道化の位相は、メロドラマ劇の脇役として、劇に参加して、観客の目には舞台を席捲すると映るマルクス三兄弟の場合にも反復される。
これらの道化達は多くの場合、主役にその存在すら認められていない透明体の如き存在である。しかしながら、道化が通り過ぎた後は、すべては元の儘ではない。道化は、日常生活の約束の中で、人が当り前と認めている者の正当性《オータンテイシテ》についての疑いを持ち込む。ある時、ある場所で、人が出遭う人、言葉、事物が、より深層の現実の光にあててみると、大して根拠のあるものではないことであるということを示す。道化の巫山戯、機智、物わかりの良さの拒否の中には、この事業のための毒素が、笑いという宇宙的律動に包まれて、仕込まれている。この毒素に、一たび触れた者は、本人は、その事実に気づかず、従前通り役割りを演じつづけるが、筋書き自体の色あいが変化しているから、もはや、元の儘ではあり得ないのである。道化が彼を「その軌道から振り動か」してしまっているからである。そういった意味で、道化ははぐらかしの達人でなければならない。人の己れに対する期待をはぐらかし、人、事物に対するありふれた期待をはぐらかす。彼に触れた人、事物、時には筋立てすらも、無重力空間におけるように、本来のコンテキストから離れて浮遊を開始する。ベケットは『ゴドーを待ちながら』において、登場人物のみならず、筋書きという劇における時間軸すらも浮遊させてしまった。
浮遊を開始した事物は、本来の筋立ての中では、二次的、三次的な側面あるいはもっと奥深く匿いこまれていたので、本来の筋の中では殆んど気づかれることのない相貌を顕わにする。道化との関りあいの中で、王権の底に潜む狂気というテーマを顕在化させるリア王は、まさにこのような関係の典型的な例である。こうしてみると道化の技術は、平凡な日常生活の中に、見馴れぬ事物の姿を立ち顕わさせたり、何でもない人、事物の中に見馴れぬ相貌を重ねていくという技術であるということになりそうである。見馴れぬというのは、いうまでもなくふつうグロテスクという言葉で言い現わされている現象である。日常生活の現実が輪廓を失いはじめたら、次第に透けて見えて来るのは道化がその中で生きている第二の現実である。一たび登場人物たちが軌道から外れたら、どこまでもそれに対応できるだけの相貌の弾力性というやつを身につけているのが道化である。
このように、糸をたぐるようにゆっくり考えて来ると判然としてくるのが、道化の外見が、何故グロテスクであるのかという理由である。グロテスクでありうるあり方の様々の違いはあれ、それは道化が纏う衣裳の最も一般的な形態である。彼は時にはせむしの小人であり、時には大きなファロスをぶらさげており、時には黒い仮面を被っており、まだらの服を着る、又、鳥類の中でも狂躁の象徴と考えられる雄鶏の鶏冠《とさか》を帽子につけたり、阿呆の装飾のろばの耳を突き出したり、垂らしたりしている。身体的な欠陥と同じような意味で頭脳の欠陥も彼の貴重な装いである。更に、社会的アイデンティティを一切剥ぎとられているというのも、彼には捨てがたい自由の代償として甘受されている。彼はどのようなアウトカーストよりも外にいるのである。道化のグロテスクのレパートリーは、更に言葉の破壊、ばかばかしいと普通は退けられている身振りの導入と限りなく続く。それらは、しかし、日常生活の中では、ばかばかしいもの、無意味なものであるが、我々の内的な世界の深い部分(層)を満足させる何ものかを潜めているという事実に人は気づく筈である。道化が第二の現実を組織するのは、そういった層においてなのである。この層を、特定の時空の中で表面に浮び上らせるために、道化は、日常生活の事物が意味を構成している表層の現実を溶解させなければならないのである。人間の感情の生活は、浅い喜怒哀楽の情感と、深層の情動作用から成り立っている。我々の日常生活の体系は、こういった怒り、喜びといった表層の感情によってつなぎとめられている。従って行為の正当づけも、いかにもっともらしい論理で武装されていても、実は、時代、地域、歴史状況、習俗などによって限定されている表層の情感作用によって支えられている場合が多い。ふつうこういった表層の情感作用は「真面目」といった言葉で擁護されている。この言葉は、権力を含めて、時代の公認の価値体系の、多くの場合は、空虚さを蔽いかくすために使われることが多い。道化の技術は、人をそうした、公認の、表層感情しか満たし得ない効用性と、偽善と、真の根を失いがちな生活世界から人を一時的にも解放することにあるのだから、当然「真面目」とは真向から対立することになる。彼はこの世界の中では、勝利を得ることはできない。この世界で勝利を得ることはその世界を支える原理を補強することになるのだから、原理をくずす方向に向う彼は当然この世界の中では敗者の装いを纏う。しかし、この世界を全く違ったものにしてしまう権利を彼は決して捨てることはない。彼が「異化」の司祭であるゆえんであり、この姿勢の故に、彼は、演劇的世界を根柢において、四天王に踏みくだかれる天邪鬼のごとく、卑しめられながら、イコン的に基底を形成しつつ、演劇が彼を必要とする時至るのを待っているのである。演劇が道化を必要とする時、それは、心理的必然性の体系が破れて、偶然性が作劇術にとって代わる時である。
必然性というのは、自然観察の結果人間が得た、因果律に基づいて世界の像を造りあげるための原理である。この原理に組織されえない、つまり、偶然的な要因は、中心的な価値を構成するものたりえないとして、日常生活世界の中心から排除される。しかし、必然性のみで人間は、自らが生きる内的宇宙をも含めて、世界との全体的な繋りを、本源的な結びつきを確保することができない。つまるところ、偶然を必然から排除するのも、文化の中心と周辺を区別するのも、真面目と不真面目の区別も、人間のたてるあらゆる区別、分類は、それが男と女、右と左、上と下であれそれが人工的である限り、時間の腐蝕性に耐えることが出来ない。陳腐になり、人間の生の本源性を抑圧する装置に転ずる危険性を孕んでいる。そこで、偶然性の大気の中に呼吸する道化の出現が要求されて来る。ここで道化といわれるものは、本来、道化の装いを纏っているかいないかが問われることなく、人為的な境界を、巧みに乗り越えることのできる範疇に属する人間を指す。従ってトーマス・マンの『詐欺師フェリックス・クルル』や、フランク・ヴェデキントの『カイト公爵』の主人公達のごとく、いかさま師でも少しも構うことはない。いかさま師こそ、職業から職業へ、階層から階層へ、都市から都市へと流れ歩いて、その各々の場で通用するアイデンティティを巧みに己れのものとして逆手にとって、そのばかばかしさを示す道化術の達人と言えそうである。
道化の一枚噛むのは祝祭世界でも学問の世界でも必ず人為的な区別を取り払う運動が起っている場である。それは演劇運動においても言いうる事実である。タイーロフは彼らが提唱した「トータル・シアター」の理念について次のように説明する。
[#この行1字下げ] 綜合的と呼ばれ得る劇場は、凡ゆる種類の舞台芸術を有機的に統一し、従って同一の芝居に於て従来人工的に引き離されていた凡ゆる要素――例えば言葉、歌、黙劇、踊、あるいはサーカス等の要素でさえも――が調和的に縫い合わされて、遂に一つの統一ある劇場芸術品を創り出しているもののことである。……
[#地付き](同書、五九頁)
[#この行1字下げ] 我々の云う綜合舞台構成とは、今日は未だ分離している道化芝居、悲劇、オペレッタ、黙劇、サーカスのような諸要素を今日の俳優の魂とその創造的律動とによって統一するものである。
[#地付き](同書、一五四頁)
道化が喚び返されるのはこういった舞台においてなのである。道化が、このような舞台の中で特に重要な位置を占めるのは、その可塑性の高い、黙劇《マイム》の身振りによるものであることは改めて指摘するまでもないことであろう。日常生活のルールに服していないことによって、彼は、互いに唐突に見える複数の場面でも人でも、言葉でも、身振りでも、又言葉と身振りでも、饒舌と沈黙、人間の動きと機械の動きでも、いとも易々と結びあわせることができる。この際、彼が、日常生活のルールから遊離した身振り、言葉の断片を織りなすのは、新しい現実であり、この現実は深い笑いをたたえることによって、宇宙的律動の中に人を解放するための仮構の所産である。「正しい演劇的所作は常に二つの極――秘蹟劇《ミステリウム》と道化芝居《ハーレキネード》――の間を動くものである」と言うタイーロフは、一九一三年秋「自由劇場」で演出したドホナーニの道化のオペラ『ソロチンチイの歳市』について次のように語る。
[#ここから1字下げ]
我々は探り探り前進した。併し数時間に渉ってドホナーニの音楽に聴き入った時や、無限の幻のような遠き彼方にピエロの黙った姿が消え去った時、あるいは又結婚のヴェールをなくしたピエレットが、烈しい、嵐のような諧音の中に狂気してピエロの後を追ったときには、我々は無智であるということが却っていかに輝かしく感ぜられたことであろう。
又ブリキの楽器の力強い音をたて、全世界を濶歩するハルレキンや、彼の力と空想の奴隷的双生児であるその同伴者達は、鳴り響く竪琴の音につれて再びコロンビーナが現われた時には、いかに突如として石の如くに体を硬化せしめたことであろう。荒々しく鳴り渡る急調なポルカは復讐を逞しくして、一時勝利を得たハルレキンを讃美し、そして震える笛の音につれて、理性の光はピエレットの無力な体から飛び去るのである。
実にこれら凡ては我々の日常生活に於けるとは全く異なった世界に位するものであった。
ここに躍動していたものは永遠の姿であり、人間の本源的な面貌である。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、五四頁)
こういった文章を通して知られることは、二十世紀初頭のロシア演劇は、舞台において道化がどのような演技空間を伐り拓くことが出来るのかという点を知悉していたということである。言葉の彼方の闇に拡がる混沌の世界から活力を曳き出して来ることができるのはマイムのみであり、マイムの最もよき伝統が道化に保たれていたということも。勿論、混沌に直面することによってのみ世界はその本源的な輝きをとり戻すということも。
[#改ページ]
エイゼンシュタインの知的小宇宙
一
映画と本というと、何か、本来は繋らないものを無理矢理につなげる強弁ととられないこともなさそうである。勿論、映画についての本は数多く刊行され、その中には回想、伝記、技法、作品研究が含まれている。また、文学作品を映画の世界に移し変える行為にしてから、書物が介入することは当り前のことである。今日我が国の映像作家にも随分よく本を読んでいると人を感心させる人もいる。しかしながらエイゼンシュタインのように、書物の世界と内密な関係を結んでいる人間は、そうざらにいるものではない。本の虫という言葉があるが、極端に言えば、この人は生涯を通じて本と映像の世界の間だけを通行していた。エイゼンシュタインの作品論、技法論については多くの人が発言して来たし、またこれからもそうすることが必要である。しかし、それは竟には彼が本の世界に通じることによって得た隠れた現実とのかかわりへの理解をぬきにして、果たして彼の核にふれる手段になるかどうかは疑わしい。最近、都内のあるデパートで催されたエイゼンシュタインに関する展示は、その構成の杜撰さにもかかわらず、エイゼンシュタインのそういった本へのかかわりを垣間みせてくれたという点だけでも大変愉しい催しであった。写真によって紹介された彼のアパートは、部屋から部屋へ、壁および棚という棚は本で埋っている。展示物の一部の、彼が藁半紙の上に走り書きしたフランス語の本の注文の手紙の中には、神話をはじめとするさまざまの本のリストがぎっしりと書き込まれている。
[#ここから1字下げ]
本は宿命的にわたしをかかえこんでしまう。
かつては本に囲まれて物思いに沈んでいた部屋は一つでこと足りた。
ところが、だんだんと部屋から部屋へ広がって行って、身体が本のたがに締めつけられたようになってくる。
家のなかの「図書室」からはみ出て、つぎは書斎がとらえられ、書斎のつぎは――寝室の壁……
[#ここで字下げ終わり]
という言葉は殆んど、エイゼンシュタインの実感であり、我々のものであると言ったら、少し悪のりしすぎることになるのかも知れない。この文章は邦訳全集第一巻の「書物との出会い(註1)」という、書物の国のエイゼンシュタイン≠ニもいうべき、書痴をしびれさせるエッセイから引いたものであるが、このエッセイは次の如き書き出しをもって始まる。
[#ここから1字下げ]
ある聖人たちのところへは鳥が飛び集まってくる。(アッシジへ)(原註の訳として、フランシスコ・アッシスキーとあるが、われわれの知っているのはアッシジの聖フランシス(コ)であり、アッシスキーという言い方は、クーザ出身のニコラス枢機卿をニコラウス・クザーヌスと言うようなものであって、ロシア語のコンテキストの中では特に間違いと言うべきではないのかも知れないのだが、やはり気になる表現である。)
ある伝説的な人物たちのところへは獣らが走り寄ってくる。(オルペウス)
ヴェニスのサン・マルコ広場では、老人たちのところに鳩がつきまとってくる。
アンドロクレスには――ライオンが寄ってきた。
わたしには書物が押しかけてくる。
書物はわたしのところへ飛び集まり、走り寄り、つきまとうのだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、三〇二―三頁)
手前味噌のようにとられるおそれがあるが、私は時々「どうしてああタイミングよく、いろいろな本が見つかるのですか」という質問を受ける。私は「世の中に、わたしには女性が押しかけてくる。女性はわたしのところに飛び集まり、走り寄り、つきまとうのだ≠ニいった言葉を吐く人間がいるでしょう。私には、書物が向こうからやって来るという感じがするのです」と答えるときがある。そこで、一度はエイゼンシュタインのような文章を綴ってみたいとは心秘かに思っていないことはなかった。本を、その開示する世界の豊饒さの故に溺愛する人間は、ある時点から、魔法使いの使う杖のごときものを手にしはじめる。これは「黒い罠」のオースン・ウェルズの扮する刑事の足の痛みにあたる。この刑事は、足が痛み出すと犯人が近くにいるという予示を取り外れることはない。単に商売道具として本を需める場合には、殆んど冒険が伴うことはない。確実な著者による確実な本の文献目録に挙げられた本を蒐めていればよいのだから、殆んど問題はなさそうである。ところが本を蒐める行為を、自らの世界を拡大するための手段とする者にとっては、本の選択は、時には、何の保障もなく行なわれなければならない、リスクを伴った行為である。この魔法の杖は、本のあらゆる部分を通じて、本とそれに出遭う人間の、時には自ら感知していない部分との繋ぎ目の役割りを果たす。いわく言い難い神秘的な紐帯が本の世界と、その世界を逍遙するオデッセイの間に成立する。限られた時間の中で厖大な書物の中から、己れの秘められたテーマに光を当てるような本を探し出すという、ある意味では知の曲技に属することが多く、こういった出遭いは「わたしには書物が押しかけてくる」という表現でしか言い表わしようのないものである場合が多い。
本に関する限りエイゼンシュタインは、全く、カラハリ砂漠のブッシュマン同様のアニミストである。エイゼンシュタインはまるで本が生き物であるかの如くに語る。
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わたしは、書物をたいへん大事にしたので、ついには彼らのほうもお返しにわたしを愛するようになった。
書物は熟しきった果実のようにわたしの手のなかではじけ、あるいは、魔法の花のように花びらをひろげて行く。そして創造力をあたえる思想をもたらし、言葉をあたえ、引用を供給し、物事を実証してくれる。
エイゼンシュタインのアニミズムは彼をして次のような表現をとらしめる。
書物の「アウラ」(霊気)や、その放射の粘性(あるいは霧状の放出なのか?)は対象人物のまわりを徘徊しており(わたしにとっては、その徘徊のほうが結果として創られたものより貴重だ)、蜘蛛の巣に似たものに具象化して行くとさえ言えるのである。
この「アウラ」との対話は、次のような具体的なイメージを彼に提供する。
電流のようなものが灰色の脳の細胞から頭蓋を通り抜けて本棚へ、本棚の扉を通り抜けて書物の髄へと流れて行く。……それで、本は思考の電流に返事をしに頭へ向かって飛んでくる。
ときには彼らにたいする放射の執着のほうが強いこともある。また、ときには彼らの背表紙を通してくる伝染力がより強くなることもある。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、三〇三頁)
断わっておくが、エイゼンシュタインの書物の世界は、勿論母国語だけで構成されているのではない。様々の国語の書物が雑然と積み重ねられた空間が、「霊気」を放射するのである。ニュアンスの異なる様々の書物の偶然的組み合わせが、彼の思考を生気づける。従って本の世界に秘められている独自の色合いを持つ偶然の作用に彼は魅せられるのだ。「まったく他の問題にさかれている行間に埋もれていた独立の数行などが、偶然にもたらす結果において貴重なのである」と言う時、この章句はパリの町を散策するヴァルター・ベンヤミンの表現を想起させる。ベンヤミンは、パリの舗道が、散策する人間の前に、思いがけない展望を与えることによって快い刺激を与えることをある文章の中で強調している(註2)。
このベンヤミンの引用文への執着はよく知られているところであるがエイゼンシュタインも、ベンヤミンに劣らぬ引用への愛着を持っている。そして、引用だけからなる本を書きたいと言ったベンヤミンのことをひと事でないと、私は秘かに思ったことがある。
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あまり引用を使いすぎることにたいするいいがかりもまた同様である。
引用! 引用! 引用!
〔だれかが〕言っていた。「自分は一生涯引用に出されることがないのではないかと恐れている者のみが、自分から引用をさける」。
引用! 引用! 引用!
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、三〇四頁)
引用は、たしかに誤解を招きやすい知的技術である。エイゼンシュタインも言うように「引用は、なまはんかな物識りにとって、自分の無知をかくし、権威ある引用のかげに安泰を守る盾となる。引用は生命のない焼きなおしにもなり得る」ことは多い。エイゼンシュタインの同時代のロシアにも、我々の廻りにも、「マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの生気を欠いた引用によって自分の無知をかくし」、「安泰を守った」人間の多かったことか。そしてエイゼンシュタインをいびり抜いたのはこれらの連中であるということも、読者として、忘れることはできない事実であろう。
引用のほんとうの面白さは、引用することによって箔をつけたり、素人を脅かしたりする行為にいっさい関係なく、ある文章が、ある書物のある文脈から取り出されることによって、時には別の輝きを帯び、時には、元の文脈においては潜在的にしか言い現わしていなかったものを、表面化させることにある。そこで引用は一種の解釈の行為であるということができる。一人の人間が広い眼くばりをもって思考を推しすすめる場合、引用文による接木は、時には論証の手続きを省くと共に、引用を介して、原本の文脈と新しい文脈との間に軽い、しかし快い摩擦を引き起し、思考に、他の方法によっては得られない弾力性を与える。ゴダールの映画に本の引用が、さまざまの形でなされることの意味を考えるがよい。何気なく壁に貼られた本の表紙、朗読、哲学者の登場等、まるで引用は映画の世界の原点でもあるかのようにゴダールは引用する。もっともフラッシュ・バックという時間の遡源は、すでに一つのライフ・ヒストリーにおける引用であると言えないことはないのであるが。
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わたしは引用というものを、疾走する三頭立ての中央の馬を左右から助ける副え馬だと理解している。
彼らは、ときには脇にそれてしまうこともある。しかし横いっぱいに広がって分岐を作り、平行疾走を補強するものとして、思考を走らせる助けになって行くのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、三〇五頁)
なんという的確な比喩であろう。「思考を走らせる助け」という以外に引用という言葉の本来の機能をうまく言い当てた言葉があるであろうか。
引用に関する文章は三行を置いて突如として「わたしは素晴らしい本屋を一軒知っている。わたしはその店へときたまにしか通わない」という、夢の中の本屋についてのシュールレアリスム風の幻想的な叙述に変わる。
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ペスキト広場の中間あたりのところを横手に折れ、パリ風の曲りくねった小路に入ると、典型的な古いロンドン・スタイルの店の表に出る。
わたしはベルリン風ということで、店のウインドウをおぼえている。
そのなかには、類のない絶品のドーミエを石版印刷したものや、フランスのエピナル地方の粗末な木版画を集めた素晴らしいコレクションが並べてある。それに、わたしがずっと以前から探している珍しい本がたくさんある。
店はよくしまっていることがある。(中略)
なぜかお金の問題も存在しない。
この店でどんな本をえらび出しても――お金はいつも足りる。とっつきの部屋は坑道みたいな作りで、下から上までぎっしりと――本が。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、三〇六頁)
この最後の部分は、随分前には私もよく見た夢である。何とはなしに、西欧の古本屋の地下室で本に押しつぶされそうになって漁っている夢である。不思議なことに一九六五年にアフリカからの帰途、ヨーロッパで古本屋廻りをすることができそうになった時に、見出したのは日本の古本屋の夢であった。
どんなつまらない古本屋でも、予想しない場所で出遭うとき、夢幻の世界を垣間みせるから愉快である。一九五五年頃、はじめて東京にやって来て、一年間浪人生活を送りながらあてどもなく、あちらこちらを歩き廻ったのは、その愉しみを追究していたからなのであるかも知れない、ということに思い至ったのはずっと後のことである。すでに、一九五二年頃、中学三年の身でありながら、北海道は網走の近くの小さな町から、札幌まで、夏休みになると古本を買い出しに行ったのも、そういった古本屋の、そこから何がでて来るかわからないという眩惑感に惹かれたせいであろう。今日、東京に住んでいてこんな愉しみを味わうことは殆んどなくなった。アフリカでは、しかしながら一度味わっている。
アフリカと言っても、私が最初に知ったのは西アフリカである。大学のある町にいたのだが、ついに古本屋というものには一度もお目にかかったことはない。愉しみは、この時は、大学内の書店の棚ざらい大廉売りであった。この大学に奉職していた私は、毎朝一時間、この書店で時間をつぶすのを常としていた。ある時、このだだっ広い書店の片隅に見なれぬ台が現われた。ちょうどデパートのバーゲンの置き台のごとき台で、本が一山置いてあった。何気なく近寄って、それが廉売りであることを知った。書店の人の説明では、第一日目・教育関係、第二日目・英語・英文学、第三日目・社会科学……と台を追加していく筈であるという。この廉売りについては、何も貼り紙が出されていないので、はじめの三、四日は殆んど無競争であった。私もこと本のこととなると意地悪くできているから、殆んど誰にも知らせなかった。従って、毎朝、コーヒー・ブレークで顔を見合わせる社会科学のスタッフも、殆んど知らないように見えた。私は毎日、無競争の状態で――つまり、デパートのバーゲンのお得意様招待日のその前日、独りで、下着の山をかきまわすように、夢中で漁っては買った。手許にある本で、その時入手したものの一冊を抜きとってみる。M・ポーリーヌ・パーカー『仙女王≠フアレゴリー』(オックスフォード、一九六〇年)値段は三五旧シリング(一、七五〇円)とある。日本や東アフリカの諸国におけるように二〇パーセント増しということはない。これが七シリング六ペンス(三七五円)となり、更に五シリング(二五〇円)と書いてある。如何に廉売りでも七分の一とは安すぎると思って、副支配人に、どうしてこんなに安くできるのかと聞くと、そこがさすが新興国、大学の資金で、学生・教員に潤沢に本を提供すべく出来た直営の書店なので、採算は基本的に度外視されている。新本は売れ行きを心配しないでどんどん輸入できる。売れ残りを倉庫の中に眠らせておいても仕様がないし、買い取り制であるから、時々放出してしまったほうがよいので、こうして廉売りするのですという。では倉庫の中の分はどうなっているのかと言うと、翌日以後に台に出そうという本を入れてある倉庫の中に入って持ち出して来ていいよ、というので小躍りして、鍵を借りて入っていった。夢中で、抜き出して来た本に副支配人は、途方もない安い値を片端からつけていったが、ディラン・トマス研究に関する本が一冊あるのに目をとめて、「あなたは人類学をやっているのに、どうしてディラン・トマスを?」と言うから、「あなたはどうしてそれを気にするか?」と訊き返すと「私はウェールズ出身でね。日本の人がディラン・トマスなどというのは嬉しいね」という訳でこれは五〇円という価をつけた。九〇〇円の本であったのだが。
このようにして、ふつうの新刊本の書店の中に突如として出現する大廉売りのコーナーは、本屋の中の本屋という感じで何とも人を夢中にさせるものである。東アフリカのナイロビで出遭ったのは、インド人経営の古道具屋の中の本屋である。これは、前に述べたようないきさつで、アフリカでは古本屋というのは存在しないのではないかと思っていただけに、砂漠に水の湧き出たような驚きであった。何気なく、奥深い古道具屋に入って行くと、第三室目くらいが、本のセクションであった。どうでもいいような小説本が圧倒的に多かったが、独立の時にケニアを去った白人が二束三文で売り払っていったものとかで、安いことはたしかで、こうした店を探ると二、三軒、町の中にあったのは拾いものであった。アイルランド系入植者が多かったらしく、アイルランドおよび、ダブリンに関する本を少なからず、思いがけなく入手できたのはこの町でのことである。そのお返しといってはおかしいが、アイルランドへ行った折に、古書店で買い集めたものの中にケニア出身の白人作家エルスペス・ハックスリーの本が多かったのは、あるいはこの記憶が作用していたせいかも知れない。しかし、エイゼンシュタインは、退去する外国人の本について、私のナイロビ体験などとは桁の違ういい想いを味わっている。
[#ここから1字下げ]
一九四一年の九月、外人疎開に従ってまるで軍艦から逃げるねずみのように、外国人たちは自発的にモスクワを去りはじめた。
急いで出発する彼らのあわただしいテンポが、クズネッキー通りの小さな本屋のなかにも脈打っていた。
戦争前には、すべての外国書籍の売買はこの店で行なわれていたのだ。
一九四一年の九月には、店の奥の部屋は去って行く外国人たちが売った書物でひしめいていた。
それらの本は束になってつぎからつぎへとわたしの本棚へ移された。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、三一七頁)
この中で、私が東アフリカの入植者の本の中にアイルランドについての本を多く見出したようにエイゼンシュタインは、アルゼンチンやペルーについての本を見出した。それは彼の「メキシコを思う」心にぴったりとかなったのである。そして話は、この中にあったジョン・ゴールズワージーの戯曲の舞台回想へと展開する。そしてさらに、『偉大なるコキュー』のクロムリンクの作品『ズラトプーズ』の舞台へと……。
エイゼンシュタインの回想は白日夢から現実へ、現実から夜の夢へと駈けまわる。
[#ここから1字下げ]
……わたし自身も目がさめた。
わたしの素晴らしい本屋は――夢であった。
年とともに少なくはなっていくが、相も変わらずわたしを訪れてくる夢である。お金が足りなかった残念さや、本を買う決断力の不足が夢になってあらわれ、不注意から取り逃した大型豪華本や、かつて(ずっと、ずっとむかし)だれかに先取りされてしまった本などを夢のなかに見つけるのだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、三〇七頁)
エイゼンシュタインの夢は、こと本に関する限りは、滅多矢鱈に現実と交錯もする。驚くべきことに、つい昨年の暮れに私が欲しいと思いながらだれかに先取りされてしまった本のことが触れられているのだ。
[#この行1字下げ] そこでは、十八世紀の文庫の体裁を整えたイタリアの脚本集のフランス語版が、幻の完全なセットに揃って、本棚からほほえみかける。一九一八年、前線からペトログラードへの行軍のさい――貧乏学生だった――わたしはそれを買うことができなかった。だがそれ以前すでに、アルレーキンや、カピタン、ブリゲーラなどにはひどく熱をあげていた。値段の点ではいつもわたしのふところの限度をこしていたバクストは、夢のなかでは常にわたしの思い通りになる。
[#地付き](同書、三〇七頁)
この十八世紀の文庫本の体裁を整えたイタリアの脚本集のフランス語版というのはゲラルディの『イタリア劇』のことであろう。フランス語版で文庫本の体裁といえば、まずこの訳であろう。私が入手したのは、一九六六年の新版で、勿論、木版刷りではないし文庫本でもない。それに文庫本の中に挿入されていた十七世紀の舞台図の代わりに、ワットーの師ジローのエッチングによってとって替えられていた。私が文庫版にお目にかかったのは、E・H・ゴンブリッチ(ク)所長に案内されて一巡りしたロンドン大学のヴァールブルク(ウォーバーグ)文庫の書庫の中においてであった。この本はコンメーディア・デラルテの脚本集として大変貴重なものであった。アルレッキーノや、カピターノやブリゲーラはコンメーディア・デラルテを代表する道化役で、この本に随所に散りばめられているエイゼンシュタインの道化的世界への憧憬をストレートに満たす群像である。今回の展示会には「エイゼンシュタインが、戦線へもっていったレオナルド・ダ・ヴィンチについての本」という大冊の書物がある。展示の説明にはこれ以上何も付け加えられていないが、著者はアキム・ウォルインスキーである。ウォルインスキーは、他に邦訳のあるドストエフスキー研究や、バレーの記号論のはしりとも言うべき研究に手をつけた思索家で、エイゼンシュタインが一方でイタリア喜劇(コンメーディア・デラルテ)をにらみながら、他方ではウォルインスキーのダ・ヴィンチ研究を通してルネッサンスのイタリア世界に想いを馳せつつ、内戦を戦っていたというのは、「トラクトウス」の草稿を背嚢に負いながら第一次大戦に従軍していたヴィットゲンシュタインを想起させるエピソードである。同じように無視できないのはバクストである。このバクストの画集を昨年暮に神田の一誠堂で目にした私は、九〇〇〇円という値にしりごみして、第一回目は退いたが、一週間後にどうにも我慢ができなくなってもう一度行ってみた。しかし誰かが買っていった後であった。レオン・バクストは、原註によれば「〈芸術世界〉グループに参加していたソヴェトの画家。主として舞台美術を専門とし、書物の挿絵にも関心をもっていた。彼の作品の入った出版物は書籍市場でたいへん珍重された」とある。この原註には更にいくらかの追加が必要であろう。「芸術世界」というのはディアギレフが始めた雑誌で、二十世紀初頭の西欧の美術のロシアへの紹介という点において「白樺」的役割りを果たしたが、特に、アール・ヌーヴォーや、ユーゲントシュティールを紹介するのに与って大きな足跡を遺している。バクストはまさにこのような雰囲気の中から出て来たような画家で、クリムト的夢幻と装飾性を、舞台美術および挿絵の世界に華麗に繰り展げた。ディアギレフが、十八世紀イタリアに惹かれており、ナポリのコンメーディア・デラルテの世界と直結したペルゴレージなどのオペラを発掘してストラヴィンスキーの『プルチネルラ』を刺激したことはよく知られている。バクストはその舞台装置に与っていたし、彼自身、スカルラッティの曲の構成によるバレーのための十八世紀ヴェニスのカーニヴァルの祝祭的世界に題材を取った数多くのデッサンあるいは衣装の下絵を遺している。エイゼンシュタインの惹かれたのは、まさにバクストのこういった面であることは殆んど疑う必要はなかろう。
バクストの次に登場するのはピラネージである。ピラネージの版画集は常に高価である。私の手もとにあるのも、そういうわけで一九六七、八年にイタリアで催された展覧会の目録にすぎない。エイゼンシュタインは、「たったの三枚の版画」であると言う。このフランス・ロマン派の冥界下降の想像力を、牢獄の螺旋階段で刺激したピラネージの地下世界の建築学的幻想は、イワン雷帝の地下洞窟を想わせる地下室の部屋から部屋へ移るくぐり口の構成の中にはっきり刻印を残しているといえよう。マニヤスコの牢獄の人物がチェルカーソフのイワン雷帝のイメージ形成に決定的な役割りを果たしたとすれば、この作品の中で、宮廷を無意識の古層に引き戻す役割りを果たしたのはピラネージの版画であったにちがいない。
「マニヤスコとの出会い」の中でエイゼンシュタインは述べている。
[#ここから1字下げ]
いまのところ、マニヤスコはわたし自身をとりこにさせる。
それも無理ないことだ。
グレコの肖像人物が、さらにやせ細った感じだ。
その肖像人物たちの恍惚としている身体の屈折がいっそう鋭角になった感じだ。(中略)
わたしにとってマニヤスコが興味深いのは多分、エル・グレコに負けずおとらず、修道僧のアレッサンドロ・マニヤスコが、わたしのイワン雷帝――すなわち、チェルカーソフの風貌や動きを様式の点で決定したからなのだろう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、三〇〇頁)
もっとも、エイゼンシュタインが一九二〇年にジャック・ロンドンの『メキシコ』のために描いた登場人物のスケッチの中にすでに、チェルカーソフ風の表情とメイクアップは現われているし、歌舞伎に通じていた彼が、俊寛≠ノよってすでに、そのような構想を抱いたことは考えられなくもない。しかし、本の世界が、さまざまな形で彼の映像の性格決定に介入するさまは、この例でも知られるであろう。ついでながら、ピラネージの世界のもう一つの側面を表わす宮殿の版画は、「十月」の印象的なカメラ・アングル決定に重要な役割りを果たしているようである。この点はいずれ誰か篤実な研究者がたしかめることであろう。
二
ダリウス・ミヨーとエイゼンシュタインがパリで親しくつきあっていたことを私は知らなかったのだが、この『屋根上の牡牛』という十九世紀初頭のフュナンビュル座で道化役者ドビュローが演じた作品に基いたバレー組曲の作曲家とエイゼンシュタインが意気投合したことを理解するのは難しいことではない。ドビュローは、「天井桟敷の人々」の中でジャン・ルイ・バローがピエロ役に扮したので人々の記憶に残っている役者で『自伝』にも「『屋根上の牡牛』(ドビュローのパントマイムのひとつからとった)」と言及されている。エイゼンシュタインはまた「フュナンビュル座」についてのペリコーの本を夢中になって探したことに触れている。
[#ここから1字下げ]
わたしはビアースとロシュフォールがたいへん好きだ。
ロシュフォールの『ともしび』(初期の作品二十編を入れたもの)は、わたしがパリの古本屋の地下をまわって探し歩いた最初の本であった。かの有名な「ケ」(河岸)――すなわちセーヌ河畔である。(「すべてをほうり出しておしまいなさい。一ヶ月パリへおいでなさい。いまは春です。セーヌ河畔でいっしょに本をかきまわして歩こうじゃありませんか……」――これはそれから何年もたってから愛書家で古本好きのゴードン・クレイグがイタリアからわたしによこした手紙の言葉だ。)
二冊目の本は、今日ではまったく珍しいペリコー(フランスの芸術学者)の研究書だった。「フュナンビュル」劇場とあの素晴らしいデビュロのことが書いてあった。
本に関してはわたしは時々とても運がよい! そのとき、わたしが持っていたお金が、きっかりこの二冊の本代にあてはまったことを言っておかねばならぬ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、三一四頁)
セーヌ河畔では今日たいした本は手に入らないというのが通り相場である。エイゼンシュタインのいう「河岸の古本屋の地下」というのは、どういう意味かわからない。よく知られるように河岸の古本屋は、セーヌに面した河岸の屋台を指すからである。しかし道をへだてた向かいにあるミシェル書店であろうか。そういうわけで私が河岸の書店をはじめて漁ったのは、パリに住んで半年以上も経ってからであった。たしかに、「本に関してはわたしも時々とても運がよい!」このときに見出したのはフィリップ・モニエの『十八世紀のヴェニス』(一九〇八年)であった。この本は、今日、ヴェニスの祝祭的世界を再現するための最も基本的な文献であり、コンメーディア・デラルテとその世界を生々と理解するのに欠くことのできない本である。その後、類書は多く刊行されているが、眼くばりの良さにおいて「スカラムーシュとアルルカンのラッチ(即興的機智)!」という言葉ではじまるこの本を凌ぐものは現われていない。わが友ダニエル・ド・コッペは、モニエは、無味乾燥の実証主義に毒される以前のミシュレの祝祭的・神話的世界感覚を受け継いだ最後の歴史家だったのではないかと言う。この本の値段は一二フラン(七〇〇円)とついていた。最低料理でふつうのレストランで一回食事する程度の出費であった。あるいは、今にして想えば、これには、エイゼンシュタインの導きがあったのかも知れない。彼をイタリアから河岸に誘ったゴードン・クレイグも、当時フィレンツェに住み、「マスク」誌を刊行して、十八世紀イタリアの道化的世界をせっせと掘り起こしていた。
ところでペリコーの『フュナンビュル劇場』であるが、この本はセーヌ通りの「ガルニエ・アルヌール」という演劇専門の古本屋の一九七一年のカタログに載っていた。当時一万二〇〇〇円くらいだったが、スタロビンスキが『軽業師の肖像』という本(スキラ)で、テオフィル・ゴーチエ達が夢中になった道化芝居のメッカとして印象的に描いているので、この本は高価を呼び、あっという間に手に入らなくなってしまった。そんなわけで私の入手できたのは『フュナンビュル劇場』ならぬジュール・ジャナンの『ドビュロー伝』(一八八一年)とトリスタン・レミーの『ジャン=ガスパール・ドビュロー伝』(一九五四年)にとどまっている。一般に今日パリで、道化関係の本の値上りはすさまじい。三年前、ジョルジュ・サンドの息子の挿絵画家、人形劇場の演出家であったモーリス・サンドのイタリア喜劇(コンメーディア・デラルテ)研究書『仮面と道化』二巻(一八六二年版)は三年前に七〇〇フランだったものが、現在パリに在住する我が書友、田之倉稔氏が送ってくれた「ボナパルト書店」の最新目録では一〇〇〇フランになっている。これでは、最早、私の如き半専門家の手の及ぶところではない。この調子ではメイエルホリドやワフタンゴフや、タイーロフ、そしてエイゼンシュタイン自身のコンメーディア・デラルテに対する目を開いたコンスタン・ミクラシェフスキーの『イタリア喜劇』のフランス語訳はどのくらいの値になっているか想像もつかない。この本はガルニエ・アルヌール書店で、「仏訳本を探しているのだが」と言うと、若い髭面の店主は、とても手に入る値段ではないから、自分の持っているのを見るだけなら見せてやろうと言って、五階の彼の居室まで駆け上って、取って来たのを見せてもらっただけであった。一体このミクラシェフスキーについてマルク・スローニムはその『ロシア演劇』(オハイオ、一九六一年)の中で、演出家、ニコライ・エヴレイノフとの関係で次のように述べている。
[#この行1字下げ] 同じ年に、エヴレイノフは十八世紀イタリア喜劇のもう一人の熱狂的な讃美者K・ミクラシェフスキーと共にコンメーディア・デラルテの実験に従事した。エヴレイノフは即興を愛し、それを「一人だけのための演劇(モノドラマ)」の最も満足すべきかたちと呼び、役者にはプロットの筋だけが与えられるような演技に魅了されていた。こんな場合、役者は対話や演出の中で自らの即興的機智や想像力に頼らざるを得なかったからである。ドクトル・ダペルトウット(ホフマンの『ホフマン物語』の中のイタリア喜劇を範として創られた人物――引用者)と称し主としてコンメーディア・デラルテの演技法や主な登場人物にひかれていたメイエルホリドとは異なり、エヴレイノフは、専らそのユーモア及び創造的自由を愉しんだ。一般論的に言えば、殆んどの演出家がうんざりするような生まじめさや独断的な調子で新しい形式に立ち向かっていた中で、エヴレイノフは、彼独得のアルレッキーノ・スタイルで、陽気さや愉しさを立ち現すことに専念していたのだ。
[#地付き](『ロシア演劇』二一五頁)
この「古代劇場」を開設して、コンメーディア・デラルテを二十世紀ロシアに持ち込む最初のキッカケを作ったエヴレイノフについて、エイゼンシュタインは他の文章(「このことをわたしの子どもたちに、どう話したらいいだろう」『そして』)の中で触れている。
[#ここから1字下げ]
暗闇が見世物をさえぎる……
第三の「わたし」はだれよりもじりじりする。
潜在意識の「わたし」は。
この第三の「わたし」はエヴレイノフの『心の舞台裏』という戯曲に出てくる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](エイゼンシュタイン前掲書、九七頁)
明らかにエイゼンシュタインはエヴレイノフのイタリア喜劇風の軽やかな想像力の翼と柔軟な身体的演技を結合させて、舞台を潜在意識の拡大と見る演出のスタイルに対して否定的ではなかったようである。「わたしはなぜ映画監督にならなければならなかったか?」というこの自伝の中でも極めて重要な意味を持つ文章の中でエイゼンシュタインは、エヴレイノフについて次のように述べる。
[#ここから1字下げ]
わたしがまだこの仕事に入って間もなくのころ、わたしは四冊のアルバムに「ひっかかった」。それはペトログラードのエヌ・エヌ・エヴレイノフの書庫にあって、灰色の粗布で製本され、彼の演出や仕事に関する切り抜きや批評などが入った四冊のアルバムだった。
わたしは、自分に関する切り抜きの分量があの四冊のアルバムを超えないうちは安心できなかった。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、三四頁)
しかるに、原註には、「エヌ・エヌ・エヴレイノフ――ニコライ・ニコラエヴィッチ・エヴレイノフ(一八七九―一九五五)は舞台演出家・劇作家・芸術理論家、ブルジョワ的・デカダン的演劇の典型的代表者」と事もなげに記している。この原註をもってしても、原註をつけた連中がいかに、薄馬鹿であるかが推し量られようと言うものである。まさに、エイゼンシュタインの華麗な知の饗宴に参加する資格を欠く者のみ、こういった、スターリン主義的――つまり自らの理解できないものに、片端から、ブルジョア的・デカダン的というレッテル貼りが出来るのだ。こうした知的感受性の低い連中に、エイゼンシュタインは今日管理されている事実を我々は決して忘れてはいけない。つまらない前書きを書いたり、訳註を加えたりする日本側の管理人名代達も、この事実に対して少しの抵抗をも示していない。当のエヴレイノフは一九四七年パリで刊行した『ロシア演劇史』の中で彼があれ程かつて軽蔑したモスクワ芸術座を理解しようと努力しているのである。この中でエヴレイノフは、エイゼンシュタインについて次のように評価する。
[#この行1字下げ] この原則(革命的演劇)のもとに、演劇は、この一般的な反抗の時期に、舞台的な幻覚空間の破壊、この幻覚をつくり出すに与って力のあったすべてのものの軽蔑、幕の無視、力づよい演技を劇場に持ち込むこと、劇場の場景をサーカスのリングに化すことに専念していた。サーカスのリングこそ、同志スミチュライエフ、エイゼンシュタイン、メイエルホリド及びフォレジエルが、「情感」とか「再現」とかいった時代おくれの原則に決然と拮抗して、それが俳優であれ単なる道化であれ、役者の新しい遊戯性を積極的に押し出そうと試みたところのものだったのである。オストロフスキーの『どんな賢人にもぬかりはある』という作品の演出にあたって、エイゼンシュタインは、フットライト、舞台、舞台裏の区別を無視した。この将来の大シネアストは言う。「情景の処理において装飾的な要素は全く無価値になって、体操場の設備を使って役者が作り出すような表現と共に、遊戯性がアクロバット的な場を作り出していくといった効果を伴う機械装置に転化してしまった。」
[#地付き](『ロシア演劇史』四一三頁)
[#ここで字下げ終わり]
いずれにもせよ、エヴレイノフの良い部分と切り離してエイゼンシュタインを理解できるわけはないし、二〇年代初期というより、時代を切り捨ててエイゼンシュタインの知的小宇宙を再現できるわけはない。好むと好まざるとにかかわらずエヴレイノフはエイゼンシュタインの決定的な前提のひとつなのである。
ところで、我々はエヴレイノフとの関係でミクラシェフスキーについて語っていたのであった。ふつうミックと呼ばれているこの人物についてエイゼンシュタインはロートレックがよく描いた大シャンソン歌手イヴェット・ギルベールについての「黒い手袋をした夫人」という文章の中で、突如として次のように思い出している。
[#この行1字下げ] いつかミクラシェフスキー(彼はその後イタリアで「ネブロパスト」(あやつり人形使い――引用者)になったらしい)が、トロイツキー劇場の舞台で(トロイツキー通りはモスクワにある)、仮面の演技についての講演をした。そして、斜面机の下から仮面を取り出して、それを自分の顔につけ、演技によってその表情を変化させた。
[#地付き](エイゼンシュタイン前掲書、二二五頁)
勿論ここで言う仮面の演技とはコンメーディア・デラルテの演技のことである。勿論この部分は、ギルベールが白い半仮面で、さまざまの演技をしているところから導き出されているのだが、すでに、ギルベールとミクラシェフスキーの間には、前者のイタリア喜劇の流れを汲んで、世紀末パリのミュージック・ホールの象徴的歌手という連想が働いたことは確かであろう。このミクラシェフスキーの語り演じる舞台奥には――幹部会の机。
[#ここから1字下げ]
しかしわたしは、そのメンバーのなかのひとりだけを見、そしておぼえている。
他の者たちは……
記憶の底に、かくれてしまった。
そのただひとりの人――……
神のような人。比類のない人。
メイ エル ホリド。
わたしは、彼をはじめて見る。
そして、一生涯彼を崇拝するだろう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、二二五―六頁)
このメイエルホリドについての描写が実際にあった場面によるものなのか、連想によるものかは判然としないけれど、それはどちらでもよさそうである。コンメーディア・デラルテと言えば次に、メイエルホリドを想起するところが肝要なのである。これはまさしく、エイゼンシュタイン的連想作用と言うべきであろう。そのメイエルホリドはコンメーディア・デラルテの仮面について次のような記述を遺している。
[#ここから1字下げ]
アルレッキーノはベルガモ出身で、けちんぼ医者の召使である。彼は主人のけちのゆえに、色とりどりのつぎのあたった服を着るよう強要されている。アルレッキーノは愚かな道化である。いつも陽気にみえるずる賢い召使である。
だが、よく見てみたまえ、仮面の下に何が隠されているかを。
アルレッキーノは、全能の妖術師、幻術者、魔法使い、アルレッキーノは地獄の使者なのだ。
仮面はその下に相反する二つ以上のタイプを隠すことができる。
アルレッキーノの二つの顔――それは二つの極である。二つの極のあいだにはさまざまな変種、さまざまな色あいが無限にある。役柄のこのような途方もない多様をどうやって観客に示すのか? 仮面によってである。
身振りと動きの芸(彼の力はここに宿っているのだ!)を身につけた俳優は、観客に、いま見ているのが何であるか、ベルガモ出身の愚かな道化なのか悪魔なのかが、いつでもはっきりとわかるように巧みに仮面を扱う。
喜劇役者の無表情な顔の下に隠されているこのカメレオン的な力こそが、演劇に光と影の魔術を与えているのである。……
仮面は観客に、いま見ているアルレッキーノだけでなく、観客の記憶のなかに眠っているすべてのアルレッキーノをよびさます。……
自分の身振りと動きの芸で、観客を、青い鳥が飛びかい、けものが話し、地獄からやってきた風来坊にして悪漢であるアルレッキーノが驚異的なおどけを行なう道化に変身するふしぎな世界へ連れ去るのは俳優なのだ。……
俳優が顔につけているのは死んだ仮面であるが、俳優は芸の力で仮面に生気を与え、死んだ仮面が生きかえるようにおのれの身体を折りまげることができるのだ。
[#ここから1字下げ]
(V・メイエルホリド、福島紀幸訳「見世物小屋――人形・仮面・道化」、「ユリイカ」七三年六月号)
エイゼンシュタインがイヴェット・ギルベールの記憶からメイエルホリドのコンメーディア・デラルテのアルレッキーノの仮面まで想い起こしたとしても決して、それは奔放にすぎる想念というわけではなく、彼にとってはまことに当然で自然な時空を超えた親近性の然らしむるところのものであった。エイゼンシュタインの知と想像力の世界を探る者が当然馴れておかなければならない、独自の想像力の語法である。
もっとも、ミヨーは、『屋根上の牡牛』を一九二〇年に、彼のブラジル滞在の想い出として作曲している。ミヨーがコクトーと知り合った直後のことである。コクトーは、当代随一の音楽的ダダにして道化のエリック・サティをディアギレフに引き合わせ『パラード』のようなサーカスと見世物の道化的・祝祭的世界を、二十世紀的音楽の創成のために総合して行く過程に立ち合っていた。この当時ディアギレフ――ストラヴィンスキー――レオン・バクスト――アレクサンドル・ブノア――エリック・サティ――といった磁場が祝祭性と道化性の生気に満ちた芸術空間をパリの周辺に醸していた。ミヨーは、そういった世界の常連の一人だったのである。パリでアンドレ・ブルトンの気取り、トリスタン・ツァラのプチ・ブル性をかぎとって、全然彼らを受けつけなかったエイゼンシュタインは、コクトーに対しては全く暖かく対応していた。「コクトー――『フランスを許してくれ』」という文章の中でエイゼンシュタインは次の如く述べる。
[#ここから1字下げ]
中心リーダーであるアンドレ・ブルトンの周囲にたむろしているこのシュールレアリストのグループにたいして、わたしはかなり冷たい見方を持っている。
わたしの見るところ、とてもぶざまに「マルクス主義者」(!)を気取っているこのブルトンは、わたしがパリ到着後、彼をお訪ね申してお世辞をならべることは不必要だと判断したことを少し根に持っているようだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](エイゼンシュタイン前掲書、二〇七頁)
少し前のコクトー忘却期であれば、このブルトンに対する冷たさと対比されるコクトーとの気の合い方は少し異様に見えたかも知れない。すわ、ホモかと疑うむきもあったかも知れない。しかし、コクトーの十八世紀イタリアの祝祭世界への憧憬を人が知る今日、エイゼンシュタインとの出遭いにおいて、二人を結びつけたのが何であったか明らかであろう。さきに引いた『屋根上の牡牛』についての文章も「コクトー……」に現われたものである。
[#ここから1字下げ]
コクトーはいろんなレストランの名前を考えて売ったり――彼独得のあいもかわらぬ騒々しい書物の名(一九三〇年までをふくめて最近数年間!)、とくに、ときによってはわざと誇張した本の名前を売ったりしていた。
あの悪名高い居酒屋の客もそうだ――『屋根上の牡牛』……
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、二一一頁)
このコクトーの影響をミヨーはもろに被っていた。一九一六年に出たコクトーの新音楽宣言『雄鶏とアルルカン』の音楽における陽気な爽快さのミヨーは真向うからの信徒であった。従って『屋根上の牡牛』の上演に際して、ミヨーは、メドラーノ・サーカスの道化や、当時最上のサーカス道化のグループ、フラテルリーニ兄弟にさまざまな役を依頼し、彼らのアクロバット演技の的確さに心から讃辞を惜しまなかった。演出にあたってジャン・コクトーは、軽快な音楽に対比して、アクロバットの身振りをゆっくりと演じさせるよう配慮してスロー・モーション映画の効果を舞台の上に移した。(ダリウス・ミヨー『音楽抜きの音符』一九四九年、パリ、一〇六―七頁)
こうしたミヨーにコクトーを介して(他の可能性もあるのだがこれは後廻し)会ったらしいエイゼンシュタインがたちまち意気投合したのも全く無理からぬことであり、二人がパリの町中を懇意の如く歩き廻るさまを想像するのは愉しく、決して難しいことではない。
[#ここから1字下げ]
……わたしはダリウス・ミヨーといっしょに裾広がりの外套に深々と身をくるんで、「ギャラリー・ローゼンバーグ」(?)へ出かけて行った。
――ピカソとブラックだけをあきなっている「家」だった。……
わたしたちは肩をすぼめたりしながら、作品の前でつぶやきかわす――
店員はわたしたちを少し観察してから、もっとよいものをごらんになりませんかと丁重にお伺いをたててくる。そして階上にあるいくつかの小さい部屋へ案内して行く。
それからついには小さなサロンへ連れて行き、美術館や個人のコレクションで有名なものを除く、ピカソの全時代の作品をつぎからつぎへと際限なく持ち出してくる。
このお客さんたちの好みはむずかしい。
店員が先まわりして行き届いた配慮をすればするほどむずかしくなる。
だが間もなく、この「アメリカ人たち」は、とうとう首を縦に振らずに、前夜どこかで見せてもらったレンブラントやジェリコのほうが書斎の壁紙に調和しそうだとかなんとか、相談し合いながら店を出て行ってしまう……
こうして、わたしはパブロ・ピカソのオリジナルにのっとった実地の研究課程を終了した。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](エイゼンシュタイン前掲書、三〇八頁)
ミヨーとエイゼンシュタインの二人のいたずら者的雰囲気濃厚な画廊アタックは、まさにこの二人がパリで生きていた世界を彷彿とさせるものがある。
この後、突然として「書物との出会い」は広場の情景描写に移る。またしても読者は何処に連れて行かれるかわからないという不安に襲われる。この部分は、私自身も何処に拡大していくかわからない不安に襲われるので素通りしておこう。話しはオデオン座裏のオデオン通りのシェークスピア商会という古書店に及ぶのであるが、ミヨーがここでエイゼンシュタインに出会っているという可能性は大きい。
書店の話はつづく。シェークスピア商会体験につづいて、エイゼンシュタインは、
[#この行1字下げ] わたしはどこへ住んでも一ヶ月ばかりたつと、必ずそんなふうな小さな本屋を、そんなふうな店の奥の小さな溜り部屋を、そんなふうな書物の崇拝者を見つけたものだ。
[#地付き](同書、三一一頁)
と述べる。これは決して誇張ではない。マリー・シートンは、そのようなエイゼンシュタインの姿を次のように描写する。
[#ここから1字下げ]
いっしょに多くの時をすごしたジャック・アイザックスの案内で、エイゼンシュタインはロンドンの鼓動を感じた。露店市や街頭でその動悸を、ホジソン・オークション・ルームで競売人たちの声のさまざまな抑揚を。そこに行ったとき、彼らは一包みの版画を五ポンドで買い、中味をふたりで山わけをした。それらの版画が数枚あったので、エイゼンシュタインは大へん喜んだ。
……しばしば、彼らはチャーリング・クロス・ロードにある本屋で、美術や英文学を論じながら、本の頁をくって何時間もすごした。
[#ここから1字下げ]
(マリー・シートン、小林・佐々木訳『エイゼンシュタイン』上巻、一五四頁)
[#ここで字下げ終わり]
どういうわけか、今日、チャーリング・クロス通りには大した本屋はない。六、七軒程度であるが、その中で、美術の本を比較的多く置いている古書店といえばA・ズウェンマ書店くらいかと思われるが、たしかめるすべはない。
エイゼンシュタインの本屋の回想は、メキシコ・シティに飛ぶ。ギリシア人のミスラキの書店について彼は言及して、彼の店のレッテルの貼られた本がたくさんわたしの本棚にあると述べつつ、アグリッパ・ネフテスハイム伝、パラケルスス研究……と書名を挙げる。この二冊の書名で、エイゼンシュタインは、ルネッサンスとその秘教学に深い関心を抱いていたことが直ちに読みとれる。それは一方では彼がかつて内戦に持ち歩いたウォルインスキーの『ダヴィンチ伝』以来続いているレオナルドへの知的な敬愛に、他方ではルネッサンスの精神の時期のずれた発現形態であるコンメーディア・デラルテの世界への共感につながるものである。
彼はここの書店で『メキシコの迷路』および独裁時代のキューバ島の政治犯地獄を扱った本『キューバの犯罪』の著者カールトン・ビアースとの出会いを描く。この本屋の「奥には満足げなセニョール・ミスラキが立っている」と、本屋の店の奥を浮き彫りにする。店の奥といえば、パリのルクサンブルグ公園に面するジョゼ・コルティ書店の店の奥もそういった感じがある。コルティ書店のウィンドーには占星術とかルネッサンス関係とか、民俗学とか人類学の本とかが並べてある。出版社としてのコルティのシュールレアリスムは、象徴主義への埋没を知らない人には、何のことやらわからないが、中に入って奥に行くに従って、シュールレアリスム運動にコミットしたコルティの姿が現われる。瀧口修造氏と話す機会があった時、訊ねてみたところ、コルティがシュールレアリスム運動に与えた支持は大へんなものである。そのコルティ老は、店の奥に端然として坐っている。その姿を知る人は尠ない筈である。
メキシコ・シティのミスラキの書店についで「居心地のよい」本屋としてエイゼンシュタインが挙げるのは、ハリウッドの小さい本屋「ハリウッド・ブック・ストア」である。
[#ここから1字下げ]
この店を持っている主人は、好ましく静かな人物――シュテードだ。
彼はハンガリー出身のスイス人か、チロル出のボヘミア人らしい。彼のところの本はみんな珍本ばかりである。発禁になった出版物はなんでもある。
一ドル廉価本に改版されたワンダークックのハイチ王アンリ・クリストファーを扱った『黒人陛下』も、ほかならぬ彼のところで買った。あの作品の映画化の可否については、ずいぶん長いあいだわたしは心をひきつけられたものだった。……
物静かな愛書家のシュテードは、色あざやかな表紙の新刊書や、古書や珍本の静かな本の世界に埋もれているけれど、その過ぎし日にはかなり波乱の過去を持っている人である。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](エイゼンシュタイン前掲書、三一二頁)
私の手もとには、ジョン・W・ヴァンダークックの『黒人陛下』の一ドル本ならぬ一九二八年の初版本がある。エイゼンシュタインと書を語ることは、数日の徹夜を覚悟することである。我々は、ここで、少し憩いの時を持つことによって、更に豊饒なる知のノーマンズ・ランドを垣間みるための、活力を蓄えてみたい。
[#ここから2字下げ]
(註1[#「1」はゴシック体]) それにしても、間違いの多い訳本である。間違いは、原註および訳註に集中している。読みにくい手稿も含めて、原文を、限られた期間に日本語に移す苦労は並大抵のものではなかったであろうが、後世をして誤らしめることのないために、私の気づいたものを挙げておこう。
三〇七、三二八頁 アルレーキン→アルレッキーノあるいはアルルカン
三〇七、三二八頁 レフ・サモイロヴィッチ・バクスト→ふつうレオンとして知られる。
三一一、三二九頁 アグリップ・ネッテスハイム→アグリッパ
三一一、三二九頁 パラツェリス→パラケルスス
三一五、三二九頁 『金枝篇』――アメリカの作家ジェームズ・ジョージ・フレーザー(一八五四―一九三一)の一八九〇年の作品→フレーザーはイギリスの人類学者、『金枝篇』は十二巻からなる大著で、完成までに随分長い歳月を要している筈である。
三一七、三二九頁 シンクレア・リュイス→ルイス
これまでは「書物との出会い」の中のものであるが、この巻を通観すれば次のようなものがある。
二七、三六頁 ジャック・カルロ→カロー(三〇〇頁ではカロとなっている。)
三七頁 エルンスト・テオドール・アマデウ・ホフマン→アマデウス
六六、七二頁 『妻に裏切られた寛大な男』(エフ・クロメリンカ)→『偉大なるコキュー』として我々に知られる作品の作者はクロムリンク。一〇二頁には、エフ・クローメリンク『寛容なる寝取られ亭主』とある。統一が望まれる。
八九頁 マルセル・グラン→グラネ(原註、訳註とも註なし)
八九、九二頁 ニコライ・クザンスキー→ニクラウス・クザーヌス
一三九、一四〇頁 トリストラム・シエンデイ→シャンデイ
一五三、一六二頁 イエロニムス・ボッシュ→ヒエロニムス
一六〇、一六二頁 コンスタンス・オルルク夫人の本『アメリカのユーモア』→ルアーク、本そのものは『アメリカの国民性』(北星堂)という題で邦訳がある。
二〇〇、二〇二頁 ジェラール・デ・ネルヴァル→ド(ゥ)
二一六頁 『還り行く道』→『凱旋門』
二二一、二二六頁 カフエー・コンセールイ→コンセール
二二六頁 イタリアの仮面劇→間違いではないが、コンメーディア・デラルテ(イタリア即興喜劇)としたほうが親切である。
二九九頁 ベヌア→ブノア
三〇〇、三〇一頁 ロンギ――ジュゼッペ・ロンギ(一七六六―一八三一)イタリアの版画家→文意から推してピエトロ・ロンギ(一七〇二―八五)イタリアの画家。
重箱の隅をつつくような結果になったが、エイゼンシュタインのような、本の世界のあらゆる片隅とも対話していた人間の文章を生々と再現しながら読むために、何故一定の文脈で、特定の人名がでて来るかを理解する態度は必要であろう。
(註2[#「2」はゴシック体]) ヴァルター・ベンヤミン『ボードレール』(晶文社刊)ハンナ・アレント『暗い時代の人々』(河出書房新社刊)
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
V
[#改ページ]
道化的世界
第一部 さまざまな道化たち
アフリカの道化的世界[#「アフリカの道化的世界」はゴシック体]
昨年の春、私は、四年ぶりに、西アフリカの嘗ての調査地(ナイジェリアの東北部)に短期間戻る機会を得たが、この機会を利用して試みた小旅行の間に、バチャマ族という部族の昔話を採集することができた。バチャマ族というのは、私が直接の調査対象としているジュクン族の近く(主に東方)に定住する農耕民であり、私もこの部族の居住地は何度か前に通過したことがある。しかし、この部族についての私の関心は限られており、常にバチャマ族は通り過ぎゆく者の風景の一部にしか過ぎなかった。ところがこの度は、この部族出身のポリカープ・ムボジョングという四十歳前後の盲人と知り合ったことから私のバチャマ族との関係は、様々の形で微妙に変化した。しかし、その間のいきさつをここに再現することは出来ない。このポリカープ・ムボジョングは、バチャマ族の伝承の大変豊かな保管者であった。二週間彼と寝起きを共にした合間に、彼は私の飛びあがって喜ぶような説話を数多く話してくれた。中でも私を夢中にさせたのはムブルムという音楽道化の説話のシリーズであった。
太郎冠者といえば、能狂言の観客に或るイメージが結ばれるように、バチャマ族の間ではムブルムといえば、一定のタイプが浮び上ってくる。ムブルムはいわば、抑制装置を外した人間の謂いである。従って彼は、貪欲で、お喋りで、出しゃばりで、自惚れで、気どり屋で、それに実力は伴わない、色々なことに首を突っ込むのだけれど大抵は失敗に終る。実社会の人間のネガティブな要素を一身に集めているが、にもかかわらず彼は住民に心から愛されているのである。色々な意味で、彼に最も似た形象をあげろといわれると、私が挙げるのは多分イタリア喜劇のプルチネルラであろうと思われる(註1)。彼には妻がいる。この妻はムブルムと対をなして、従順で、まともで、ムブルムを威張らせておくが、結局は彼女に常に理があるという具合に話を収める。次にあげるのは、そういった道化ムブルムの説話の一つである。
ムブルムは義兄のンズイジェンに頭があがらなかった。実際ンズイジェンは、何をやっても器用にやってのけた。ある時ンズイジェンがムブルムを呼んで、食用の野鼠をとりに行くからついて来いといった。原野に行くとンズイジェンは、野鼠のいそうな穴を探せと命じた。とはいってもムブルムはどうしてよいかわからなかった。するとンズイジェンは、それこの穴、と一つの穴を示して手斧で叩いた。ムブルムがその穴を掘ると、ぞくぞくと野鼠が穴から出て来た。それを見て、ムブルムは手にしていた手斧を捨て、代りに棒きれを拾って鼠を追いまわしたが、やっと二匹を捕えたにすぎなかったけれど、ンズイジェンが、「放っておけ」といって、ビング・フリット・テテテと呪文を唱えるとたちまち野鼠はばたばたと斃れた。ムブルムはあわてて拾い集めた。次にンズイジェンはムブルムに乾いた草を持って来いと命じた。草を集めさせるとンズイジェンは再び呪文を唱えてこれに火をつけた。この火で彼らは野鼠をローストした。ンズイジェンは自分は一匹だけとって他をムブルムに与えた。ンズイジェンはカヌー造りの人達のところへ仕事の手伝いに出かけた。その留守にムブルムはたちまち自分の分を平らげてしまって、ンズイジェンの野鼠にこっそり手を出そうとして、野鼠の眼にさわるとその眼は「こらさわるな」と怒鳴ったのであわてて手をひっこめた。ところがそれはンズイジェンが見張りのためにとり出して置いてあった自分の眼であった。ンズイジェンが呪法を仕掛けていたのである。ンズイジェンは巧みに眼球を自分の眼に戻した。酒を飲もうということになった。ンズイジェンはカヌー造りの手伝いのお礼に貰って来た南京豆の殻に入った酒をムブルムに渡した。ムブルムは「こんな少し」と言った。ンズイジェンは「では飲みほせるか」と言った。ムブルムがいくら飲んでも酒はなくならなかった。こうして、ムブルムは義兄の術に仰天させられた。
翌日ムブルムは妻に野鼠を捕りに行くからついてこいと言った。妻のマカラはそれでは犬を連れて行きましょうと言った。ムブルムは「そんなもの必要ない」と言い切った。だがマカラは小犬を布に包んで持って出た。原野へ行くと、ムブルムは早速手斧で穴の一つを叩いた。野鼠は全然出て来なかった。いくつかの穴を試しているうちに、野鼠が出て来た。マカラが捕えようとするとムブルムは「その儘にしておけ」と言いつつ、「ビング……」と言ったがそのあとがわからず絶句してしまった。その間に野鼠は逃げ去ってしまった。そこでムブルムは「犬はいないか」と訊ねたので妻のマカラが犬をとり出して野鼠を捕獲させた。そこでムブルムは草を集めさせ、火をつけようと思って呪文を唱えたがこれも中途半端で、物にならなかったので妻をかえりみて「燧石は無いか」と言った。マカラは、「そんなもの持っていません」と言うと、ムブルムは「どうして持って来なかったのか」と言ってマカラを責めた。マカラは何とか工夫して火をつけた。そこで二人はローストした野鼠を頒ち合ったが、ムブルムは手許に一匹余計に二匹残した。ムブルムは、野鼠の眼に喋らせようとしたが無言であった。それで彼は、うろたえて自分の眼を抜き出したので血が止まらなくなってしまった。マカラが血をみて「どうかしたの」と言うと、ムブルムは怒って「昨日は誰も質問なんかしなかったぞ」と怒鳴った。それからムブルムはカヌー造りの人達のところへ行って南京豆の殻に酒を貰って来た。彼は義兄のように手伝わず、樹の蔭に匿れていた。カヌー造りの一人が木片を投げると、それに当ったようなふりをして這いでて来た。ムブルムは頭を抑えて、「やられた、木片が当った」と言って出て来たので人々は同情して彼に酒を呉れた。彼らは大きな瓢箪の器に入れてよこしたのだけれど、ムブルムは「いや南京豆の殻に入れてくれ」と言ってそれを持ち帰った。帰って妻のマカラに「お前これを飲みほせるか」と言って得意になって渡したところ、マカラは何事もなかったようにあっさり飲みほしてしまった。ムブルムは「欲深女め」と言うだけだった。彼はとり出して野鼠のところにおいてあった眼をンズイジェンの如く巧みに元に戻そうとして探したけど見当らなかった。そこで眼はなかったかと訊ねると妻は「そういえば、さき程小さい鼠が何か運んでいったようだ」と言ったので、そのあたりを駆けずり廻ってやっと眼をとり戻して、恰好よく元の所へ収めようとしたけれど、どうしたわけか全然戻らなかった。マカラが「家へ戻って兄さんに頼んでみましょうよ」と言うと、ムブルムは「何を言うか」と虚勢をはっていたが、結局は家へ戻って義兄に頼み込む他に手はなかったということだ。
どうであろうか。筋にかえしてしまうと話がどうしても平板にならざるを得ないが、語られる時は身振りが伴うから、何ともいえずおかしくなる。このムブルムはどこかプルチネルラを想わせないであろうか。欲が深く、何にでも首をつっこみたがるが、何一つ満足に出来ず、失敗を重ねる。ムブルムはバチャマ族の昔話の最も人気のある主人公である。彼は、時に敏捷であり、人を瞞着する点にかけては天才であるが、義兄のンズイジェンの真似をする時には大抵失敗する。しかし、にもかかわらず、彼は妻の前では、恰好つけようとして二重の愚かさをさらけ出す。しかしその愚かさが、身振り手振りをまじえて語られるとき、人は笑いころげて娯しむと同時にこの人物に限りない共感を覚えるのである。彼は日常の生活のパターンから外れ、その外れ方の愉快さに人は曳きずり込まれ、生活の規則正しい恒常性から解放される。人は、自らが意識的には理想としているンズイジェンよりも、笑いながらも、心の底ではムブルムのような人物に親しみ馴れはじめている自分に気づくのである。ムブルムが、愚かさと笑いとトリックで独特の世界に曳きずり込むことを、バチャマ族の人達は認め、ムブルムをあらゆる音楽師の祖先であると語る。嘗てムブルムはバチャマ族の王の一人であった。ところが、彼はとどまるところを知らない大食漢であった。他の部族におけると同様バチャマ族の間では、王は決して人前で物を食べるなどということは許されなかった。ところが、このムブルム王は王座に坐っていながら、衣の蔭に干し魚をかくして、時々衣を被ってボリボリ食べていた。傍らにいた召使いがおかしな音がするなと思って声をかけたところ、オペラ『ドン・ジョバンニ』の招宴の場(第二幕第五場)におけるレポレロの如く、口をもぐもぐさせるだけで応答できなかったので何か食べていることがばれてしまった。このためにムブルムは王座を追われてしまったのだが、幸い彼はすぐれたドラムの鼓ち手だったので最初の楽師となって生計を立てた。
大食漢というのは、多くの文化で道化の基本的特性の一つである。イタリア喜劇道化アルレッキーノの最もしばしば舞台図として残されているのも物を食べる形姿である。(拙稿「道化の民俗学」(2)、「文学」一九六九年二月号参照、筑摩叢書)つまり、大食という行為は、つつましやかな限度を知らない、抑制という美徳を持ち合わせないという特性の最も手近な表現になるのだ。大食の故に王座を逐われるなどというのは、アルフレッド・ジャリの『ユビュ王』のユビュおやじをそのまま想起させて愉快ではないか。ともあれ、バチャマ族では現在でも大太鼓の楽師たちは、自らをムブルムと同一視する。彼らは様々の祭りの踊りの鼓手として、踊り手の周りをぐるぐる廻りながら、リズムと共に野次と囃子を入れ、おどけた振舞いによって、踊り手と見物衆の間をとり持つ。ポリカープ・ムボジョングは、楽師たちが、説話におけるムブルムの性格づけに積極的に参与し、又、彼ら自身が実生活の上で、ムブルム的な諧謔の行為を指標として、人を大いに笑わせる人物であることが多いという。
私の観察したところでは、十八話、ポリカープが語った説話のうち、可成りの部分の筋が、近隣の他の諸部族の説話と重なる。ところが、他の部族では、大抵類話の主人公は動物で、性格づけは殆んどなされていないのに対し、ムブルム説話では、妻のマカラとのやりとりに見られるような、性格づけのレヴェルが同一のモチーフにつけ加わって来るのである。
ムブルムの役割は常に利口な人間の近くにいて、間抜けた振舞いによって人を笑わせるところにある。たしかに説話構造論的に言っても、道化的主人公の役柄は、肯定的人物の傍らにあって、その下手な真似をする、そして失敗することによって、パロディーとして完成するところにあるようである。つまり、欠けることによって、却って、何かつけ加えるという立場を選ぶものと言えるようである。負けるが勝ちという日本の格言の意味を最も深く理解したものが、如何なる文化においても道化的な存在であったかもしれないということを立証するのはそう難かしいことではない。つまり、効用性の世界から、自発的に、身を退くことによって、却って、その世界を超えたレヴェルでのより大きい自由を獲得するタイプの人間の存在を人は道化と名づけてよい筈である。この自由は、日常生活の規準から見ると破壊性に直結するが、見方によっては、創造的な行為につながることが多い。道化の破壊とは、人が、厳かに、意味あり気に演じている行為を滑稽に演じて、その意味性を抜きとってしまい、行為に対する人の感傷的な感情移入の可能性を絶ち切って、笑いを混淆した形で、行為を対象化、つまり、その本来の「かたち」において見なおすパースペクティブを与えるということに通じる。ムブルムばかりでなく、アフリカをはじめとするアーカイックな文化は、こういった道化的主人公に事欠かない。特にアフリカの神話・説話の世界の道化については私は、嘗て考察の対象としたことがある。(『アフリカの神話的世界』岩波新書)互いに親近性を持つアフリカ的道化(又はその神話的対応ともいうべき「いたずら者」)の中でも、一きわ魅惑に富み曲者であると稿を進めながら感じ入ったのが、ナイジェリアのヨルバ族の「エシュ」というアマノジャクを想わせる神話的道化《トリツクスター》であった。
ヨルバ族の神話においてエシュは、男とも女とも言われ、幼児とも老人とも言われ、創造的文化英雄とも破壊的悪魔とも言われている。しかし、占いの神(イファ)の守護神であることからも察せられるように彼は無類のいたずら者である。彼には、日・月の運行を妨害することも、王をからかうことも朝飯前である。夢の中で男と女を媾合させるように、或る意味では無方向のエロスの象徴とも言えるところから、彼が無意識の或る局面の反映と解することも正当化されるのかも知れない。同時にこれらの事実は、彼が生活の中の「偶然的要素」の担い手であることをも示している。この点においてエシュは、道化の普遍的な表現である「偶然」の狩人であるという資格を少しも失ってはいないのである。偶然、それは調和を掻き乱すすべてのものの謂いに他ならない。我々の日常の生活において調和とは、すべての事物が――予定される秩序、たとえそれが時間的・空間的配列の違いこそあるにしても――人の期待する序列の中に見出されるという事象の状況に外ならない。問題は、我々の表面的な意識は絶えず、この調和と協調する心構えが出来ているとしても、潜在的意識に、その用意が全然ないところから起るのである。
アフリカ社会の道化=トリックスターは、生活の中の法と道徳(必然)の世界の侵犯者・擾乱者であるが、そのような行為によって、法と道徳の中に汲みあげられることのない、人間の意識の組織者としての役割を果している(註2)。アーカイックな文化の中におけるこのような道化の形姿は、西欧の伝統社会の中でどのような精神史的相貌をもって対応するであろうか。偶然が文化の中で大きな位置を占めている一つの例はユダヤの世界である。
ユダヤの道化的世界[#「ユダヤの道化的世界」はゴシック体]
その置かれた歴史的・文化的位置の故にユダヤ人達は、長い間、自らを戯画化する技術を身につけて来た。彼らが置かれた社会におけるマージナルな位置と酷薄な生活の故に、彼らはいやがおうでも自らの生活を距離をもって見つめる知慧又は技術を身につけざるをえなかった。この現実を仮構のものと見なし、歴史的現実の中で思わず本気になって身をのり出す人間の姿態を誇張して相対化するのは、この現実を克服する手段として最も頼りになる方法であった。フロイトの「機智の精神分析」の素材が殆んどユダヤ世界のウイットに限られているのはよく知られている事実である。ライクにならって文学を「社会が自らに向って自らを語る方法である」と定義するならば、ユダヤ世界は、莫大な口頭伝承文学において道化文学の富を蓄積したと言える。我々にはエリ・ヴィーゼルの小説、あるいはアイザック・シンガー又はショーレム・アレイヘムの作品、そして後者の作品にもとづいて映画化されたミュージカル映画「屋根の上のバイオリン弾き」などで今日垣間みることのできるユダヤ的世界は、自らの日常生活を対象化するための技術を可能な限り押し進めた文化ということができる。
このような根を持つユダヤ世界のジョークは、時には破壊性を帯びることすらある。カルロ・シュミートの研究に依拠しながらテオドール・ライクはユダヤ人のジョークの越境性を次のように説く。
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そのうちのあるものは喜劇的シチュエーションや人間の愚かさについての陽気な嘲笑に基づいているが、特殊な風変りなものもある。これらのジョークは、他の民族のジョークがそれ以上先へ行かない境域に足を踏み入れる。シュミートは法と実生活の対比をその必然性と不可避性において、更に実生活は、それが必ずしもその見かけとも、我々が確立する軌範とも合致する必要がないというそれ自身の可能性を持つという考察を示す。これらのジョークは思考の力への信仰を承認すると共に嘲弄し、すべての事象は簡単に反対側に転化するということを主張する。
(T・ライク『ユダヤ人の機智』Theodor Reik, Jewish Wit, New York, 1962. 四六頁)
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このようにして、ユダヤ人の冗談は、人をして、意識の影の部分に導く力を持つ。意識の堅い殻を破って、意識のレヴェルで時間や空間の軸を媒介として人間が記憶として整理していないような人間の姿を示す力を持つ。
こうしたユダヤ的ジョークの分析に始まって、フロイトもライクも機智が、意識の境域からの喜劇への贈り物であることを強調する。更にライクはこの贈り物は、生活の必然的な規則性を媒介とせずに、全くの偶然性を媒介として立ち現われることを強調する。
[#この行1字下げ] 格言は突如として自らを再現してみせて我々を驚かす。我々は屡々それらを脇へ押しのけようと試みる。しかしそれらの殆んどは、実は姿を現わす文脈では理由があって現われるのである。それらが再び立ち現われる時に、それらを認知するために、妨害せずに耳を藉すことが大切なのだ。……格言ばかりでなく、長く忘れていたジョークや可笑しみのある、あるいは風変りな語句がこのようにして立ち現われる。あたかも、それらが遠い地峡からの使信として来たように思われるかも知れないが、それは「遠隔」(alien) から来たのではなく、疎外 (alienated) されたところからやって来るのである。それは我々の思考のバック・ミュージックを形成している。
[#地付き](同書、一七五頁)
突如としてやって来る異貌を帯びた機智が、必然性で塗りかためられた我々の日常生活的現実と、偶然性の支配する無意識の境域を媒介する。こういった両義性は、今日、我々の生活では、失われつつある感覚の一つであることは間違いない(註3)。
ところで、無意識の世界が道化的行為を媒介として生活の中に姿を現わす方法は、文化によって様々の形態をとるが(註4)、ユダヤ的世界においては身振り的表現の占める位置は特に大きい。この点に注目してライクは、ユダヤ的世界がすぐれた道化役者を産み出す文化的背景を説明する。
スペインやイタリアの如き身振りの大きい南欧に住みついたユダヤ人は気づかないかも知れないが、北欧、中欧に住むユダヤ人は、それがはっきりと嘲笑の対象になるために、彼らの身振りの大きさについて思い知らされる、とライクは言う。論理的言語の発達とともに、それを第二義的な位置に払い下げてしまった西欧の他文化と異なりユダヤ的世界において身振りは独自の言語を形成し、大きな表現力を持つ。こういったユダヤ世界の中の身振りの占める位置をライクはチャップリンを例にとって次のように説明する。ロンドンのイースト・エンドのユダヤのスラム街から出て来たチャーリー・チャップリンはこの身体言語をイースト・エンドで改めて学んだのでなく、彼の民族にとって極く自然だった身振りを最高級の芸術にまでたかめたにすぎない。「身振りを使いながら、彼は情感の全音階を掻き立てて、絶望から歓喜へと移行する。同時に彼は、手の一振りで目に見えない事物をも描くことができる。」(同書、一三四頁)
フロイト自身、トゥルーズ=ロートレックが度々ポスターやカンバスの上に描き出した今世紀初頭の大シャンソン歌手イヴェット・ギルベールを大喜劇女優として尊敬していたが、その夫マックス・シラー博士とも大変親しかった。彼にあてた手紙の中で、チャップリンの芸について触れている。基本的には、チャップリンは絶えず同じ役、つまり貧乏で、弱く、無器用者の役を演じる。「ところで」、書簡の中でフロイトは相手に訊ねる。「貴方は、この役を演じるために、彼自身の自我を忘れなければならないとお思いですか。決してそのようなことは無いでしょう」(同書、一八三頁)と。チャップリンの芸人としての自我とは、ライク的コンテキストで読むと身振りを含めたユダヤの文化的伝統の中に蓄積されて来たものと言えそうである。
このようなユダヤの道化的伝統は夙くから外的世界でも認められていた。ウェルスフォードは、中世末に有名だったスココラという道化はキリスト教に改宗したユダヤ人であったと述べる。彼はイタリアのフェララ市のボルソ・デステ(エステ公)の宮廷に仕えた。(E・ウェルスフォード『道化』Enid Welsford, 'The Fool――His Social and Literary History,' Anchor Books. 一三一頁、邦訳、晶文社)一五七八年にギリシャの婚礼にユダヤ人の道化芸人が招かれたという記録もある。十八世紀のポーランドの結婚式にユダヤ人の幇間道化《ビユフーン》がつきものであり、彼らは芸と冗談で宴に興を添えた。ティーゼ=コンラートは、今日でもイースタンブールでは子供の割礼の後の饗宴に伝統的なユダヤの「ホッカブーツ」と呼ばれる道化が似たような役割を演ずるとして次のような例を紹介する。棒を持った一人の道化芸人《ジエスター》が、助手達を伴って、割礼をうけた子供の娯楽のための簡単な道化劇を見せる。この劇文学の書きとめられたものは、相当の数にのぼり、時期的には十七世紀まで遡ることができる。このユダヤ的道化劇の一つ、「割礼」と題する作品はトルコ風影絵道化劇(カラギョーズ)の舞台にも載せられた。(ティーゼ=コンラートE. Tietze-Conrat, 'Dwarf and Jesters in Art,' London, 1957. 五二頁)シャガールの作品や「屋根の上のバイオリン弾き」に出て来るユダヤ人のバイオリン弾きはまさにそういった道化芸人であろう。「ドン・ジョバンニ」の前述の場面で、ドン・ジョバンニは己れの道化レポレロを「マラーノ」(marrano ――ユダヤ人)と呼んでいる。十九世紀前半のパリを、コンメーディア・デラルテの系譜を引く、道化歌劇《オペラ・フツフア》で魅了し去ったオッフェンバッハは、そうしたユダヤ人の楽師の息子であった。(S・クラカウアー『ジャック・オッフェンバッハ』S. Kracauer, 'Jacques Offenbach ou le secret de Second Empire, traduit de l’allemand,' Paris, 1937. 二九頁、邦訳、せりか書房)オッフェンバッハがイタリアの道化劇の伝統を、喜歌劇の世界に、本来の道化劇のドタバタ的要素を損うことなく移し変えることの出来たのは、チャップリンがそうであったように彼も又、道化的ユーモアと身振りの世界から出て来たユダヤ的道化芸人の根を失うことがなかったからであろう。
ところで真人間と対比した時に、道化を特徴づける基本的な要素の一つは、彼が何ものか、真人間に重要なものを一つ決定的に欠いているということである。ユダヤ人の場合それは、社会的地位である。社会に根を持たないということは、彼の行為・財産・地位に何らの保障も与えられていないということである。この面についてのユダヤ人の自己認識は「シュレミール」型という戯画によって育まれた。シュレミールという名前は、アダルベルト・フォン・シャミッソーが『影を失った男――ペーター・シュレミール』という作品で使ったから比較的人に知られている筈である。ライクはこのシュレミールを「状況を最も拙劣な方法で生きるか、あるいは本人の馬鹿げた言動により、不運につきまとわれる男」と定義する。なんだそれなら今日、アメリカのユダヤ人文学の主人公が多かれ少なかれ頒ち持つ性格ではないかという反応が期待されるが、実際に、それは跡づけられる事実なのである(註5)。シュレミールは、檜舞台を演じ切ることの出来ない男である。自らの阿呆ぶりか間抜けぶりのために、自らを犠牲に仕立てる人間のことである。この言葉の起源は旧約時代にまで遡ることが出来ると言い、他の説では、一年を村の外で過し帰ってみたら丁度妻が出産しているところに出逢い、ラビに説得されて己れの子であると認めた男の名であるともいう。これは典型的なピエロ型の道化の役柄である。いずれにしても、社会の中のスケープゴート的人間の典型であるといって差支えなかろう。彼は、自らの性格の故にこの役柄を免れることが出来ないばかりか、自ら進んで、自らが犠牲になるようなシチュエーションに、あたかもそのような役柄に魅せられるかのように引き寄せられていくのである。精神分析学者としてのライクは、シュレミールが、精神分析学的にはっきり指摘できるマゾヒズムの型であるという。これは、失敗し、己れに廻って来たチャンスをつぶそうとする強烈な無意識の現われに外ならない。つまるところそれは、必然に支配される外的な生活の法則性に従うことを拒絶する衝動であり、そうすることによって裡なる下意識の世界の均衡(インテグリティ)を保とうとする衝動であるということができるだろう。サンフォード・ピンスカーは、イサック・シンガーからマラムード及びベローに至るユダヤ文学におけるシュレミール型の研究において、フロイト及びライクのマゾヒズム論から来る解釈に異をとなえて次のように述べる。
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シュレミール型は、彼を取り捲く共同体に対する批判の支点なのだ。公認の「道化」として、シュレミールは「諸現実」から利益を受ける人には出来ないようなやり方で自由に批判する。
(『隠喩としてのシュレミール』Sanford Pinsker, 'The Schlemiel as Metaphor, Studies in the Yiddish and American Jewish Novel,' London, 1971. 一九頁)
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我々にとってシュレミール型は、日常生活的現実から身を引くための一つの偽装のスタイルであることは明らかであるから、それがマゾヒスティクであるかどうかの決定は焦眉の急を要する問題ではない。というのは「現実」のレヴェルをどこにおくかで受身と攻撃はその位相を反転させるからである。
さてライクは、シュレミール型というのはユダヤ人の性向の観察から導き出されるタイプであるが、非ユダヤ人にも充分通用する型であると言う。(ライク前掲書、三九―四一頁)我々に思いあたるのは、バチャマ族のムブルムはまさに、ライクの言うシュレミール型を代表する一方の(陽性の)人物であった。彼の王権の剥奪のいきさつといい、何をやっても失敗するという間抜けぶり、しかも、無能な訳でなく、太鼓の名手であり、神として祀られているという事情から察して彼の失敗は、殆んどシュレミール的動機と重なる部分を持っている筈である。注目すべきことは、バチャマ族の世界のみならずアフリカ世界において、太鼓は、生活世界のリズムとは異なる、意識下の現実のリズム感覚を組織化して鼓き出す媒体である。彼がその名手であるという事実は、まさにユダヤ的世界の道化楽師をそのまま、アフリカ的状況に移しかえたような示唆的な事実である。因みにバチャマ族の諸神の中で、ムブルムの社だけは、外地である南のチャンバ族の居住地に置かれている。この点については何の説明もなされないが、ムブルムが、遠い地点、外地という感覚と結びついていることの証左になるかも知れない。
シュレミール型は、このように、普遍的に存在しうる、内的な自我の防禦装置として、「道化」の普遍的なタイプの一つの表現形態といえるだろう。この型はアメリカ二〇年代のチャーリー・チャップリンやベン・ターピンを通して映画の世界の最も魅惑的な主人公のタイプとして定着した。この傾向は今日、アメリカの若者のドロップ・アウトの傾向の一般化と共に、純粋な「つまずき」の祭祀として知的な主流の一部となりつつある。つまり、力の信仰の喪失と共に、「シュレミール」型のユダヤ道化的タイプが文学的世界を覆うにいたった。ナサナエル・ウエストの『蝗の日々』や『ミス・ロンリー・ハート』が、彼の生き且つ死んだ三〇年代よりも、今日において、より深い親近感をもって迎えられるのは、そういった模範的タイプの変化、つまり、世界の道化化のなせるわざと言えるのかも知れない。勿論、西欧における道化的世界のモデルはユダヤ的な土壌からのみ出て来たわけではない。この点を少し概説に亘るが、説明しておこう。
道化キリストの再来[#「道化キリストの再来」はゴシック体]
ユダヤ的世界が培養したこのような道化的知の形式に対して古代地中海及びキリスト教世界は如何なる道化的知の形式を知っていたのだろうか(註6)。本稿においてこの点の歴史的スケッチを試みることは、この問題についての理解に寄与することがいくらかあるかも知れないと思われるが、決して本質的な寄与になり得ないであろう。そこで、視点をキリスト教世界の中心的象徴としてのキリストの像にあてて、キリスト教世界の道化感覚に対する潜在的感受性を探ってみよう。
キリストを道化として捉えようとする試みは、すでに中世的な課題として存在したし、十字架の場面も考えようによってはカーニヴァルの阿呆王の選出と追放の感覚と重なることに人は気づいていた。パウロ神学の中にも、エラスムスの『痴愚神礼讃』の中でもキリスト及びキリストに帰依することの狂気=道化性は好意的に語られている。今日、このテーマを最も大胆に提出したのがアメリカの急進神学をリードするハーヴェー・コックスである。『愚者の饗宴』(志茂訳、新教出版社)という題で訳されている、キリスト教における祝祭と遊戯に基づく世界観の研究の中で、コックスは、「道化キリスト」という章においてこのテーマを展開した。
コックスはサーカスの道化とキリストの像を重ねたジョルジュ・ルオーから話を説き起し、一九六六年のニューヨーク万国博のプロテスタント館のために製作された「寓話《パラブル》」でキリストがサーカス道化として現われたことを神学的に重大な事件としてとりあげる。
彼は、こういった、キリストが再び道化の相貌において現われることの背景として、同時代的現象としての「現代世俗社会の想像性の中に、道化のきわ立った再現」を指摘する。彼がこの例としてあげるのは、チャップリン、キートン、マルクス兄弟、ピカソの道化、フェリーニの映画に絶えず現われる手品師とアクロバット、ジュネの「黒人たち」、ベケットの作品の中のカーニヴァル的無頼漢であり、更に『ブリキの太鼓』のオスカー・マゼラスのみならず、ビートルズなどである(註7)。
キリストと道化を結ぶ歴史的根拠として、コックスは、初期キリスト教絵画のキリストの最初の表現として描かれるのが十字架につけられた驢馬であることを挙げる。これは地下墓地に潜ったキリスト教徒が、キリストを、滑稽な愚者を通しての神の叡智の化現とみたことを示すものであると述べる。
聖書においてもキリストは慣習の世界を皮肉ったり(「どうして人々は、イエスの中に喜劇役者である大皮肉屋を見ないのだろうか」(ローレンス・ダレル『クレア』))、旅芸人のように、食事やパーティに顔を出し、最後にローマ兵たちによって、王の衣裳を着せられ阿呆王として嘲けられたという事実に、絶えず、道化キリストの姿は顔をのぞかせている。
教会的教権の確立と共に、道化キリストのイメージは公的な世界から消えた。
ここでコックスは、道化のアイデンティティの多面性においてキリストを見なおそうとする。道化は異なった人々に異なった物事を現わす。道化の多様性をコックスは次の三つの点に圧縮する。
(1) ある人々には、道化は我々自身の恐怖と不安の手近な標的である。つまり、道化をスケープゴートとして見る。ユダヤ世界のシュレミールはこの機能を意識した表現であるといえよう。
(2) ある人々には、道化は人間が本当は不合理な土くれであることを示す媒体である。
(3) 他の人々には、道化は、我々が物理的な法則と社会的礼節の檻の中に永遠に閉じこめられるのを、かたくなに人間らしく御免こうむることを、明らかにする。
このコックスに便乗して、我々が問題にして来た諸点をつけ加えるなら更に次の如き項目が成り立つであろう。
(4) 道化は、無意識の世界の使者である。
(5) 道化は、混沌の淵の断崖に導くことで我々に、本源的な生の感情を蘇らせる。
(6) 道化は意識の境界に立つ。彼は、意識が一つの領域から他の領域に切り換ることを助ける媒介者的存在である。
(7) 道化を通して人は、捨てられ、忘れられ、無価値とされて来たものに意味を見出す術を学ぶ。
(8) 道化は人を効用性、時間の支配する世界の奴隷状態からの離脱を助ける。
(9) 道化は純粋遊戯の精神の化身である。
(10) 道化は生の多様性へ人を開眼させる。
(11) 道化は、否定的要素を再統合することを助け、最大の否定である死に立ち向って、これを手馴ずける術を人に示す。
(12) 死に直面して、日常生活の厳格にみえる価値、矛盾を拒否する思考が無力なことを自覚させ、笑い、遊戯、肉体を通じて、生の世界の根本的矛盾を克服する道を示す。
(13) 道化は、理性を相対化し、武装解除し、より超越的な理性に至る道を示す。
道化のこのような多様性は、現実の多様性そのものであるし、道化はその忠実な鏡に過ぎない。道化は、現実の多様性、多層性に対応すべく、文化がつくり出した最も柔軟性に富んだ装置である。道化の強味はその共時性《シンクロニズム》にある。道化は人間の考えうる最も遙かな未来と、時間の彼方に去った太古の記憶を同時に蘇らせることができる。殆んどの文化は、最も貴重な精神的遺産を、一見無視されるが、最も可塑性に富んだ形式に托して隠匿する。道化の技術は、このような目的に最適の形式の一つなのである。それは二流の哲学や三流の宗教のごとく、時代の主人に媚を売ろうとはしない。
再びコックスに戻れば、彼は道化のしたたかさを次のように説く。「道化は絶えず負かされ、欺かれ、馬鹿にされ、踏みにじられる……。彼は限りなく痛めつけられるが、最後には決して敗北しない。」(前掲書、二一七頁)
道化は多様な現実の中に同時に生きているから、一つのレヴェルの現実の中で敗れることによって他のレヴェルで勝つのである。道化のこの多元的現実を同時に生きる能力は何処から来るのであろうか。それは、宇宙的リズムと秩序の織り糸である遊戯性と笑いに由来するものである。コックスは、続く「遊戯としての信仰」の章において、キリスト教会における踊り、照明、陽気な音楽、道化、儀式的饗宴の喪失を嘆く。その結果、宗教は、喜劇的宇宙感覚を導入するための不可欠の要素である見世物的演劇性を、そしてそれが担ったダイナミックな性格をも喪ってしまった。
この喪われた喜劇的宇宙感覚についてコックスは、「一つの状況は、もしそれが二つの独立した出来事の連続であり、同時に、二つの全く異った意味に解釈されることができるならば、全く喜劇的である」という「笑い」についてのベルグソンの命題を手がかりにして述べる。つまり、人間が意味についての複数の世界の渦巻の中に生きているかぎり、喜劇は可能であるとする。これはとりもなおさず、多層の現実を同時に生きることに喜劇の生命がかかっているということを意味するであろう。しかし生活世界の限界は、それが、原則として多次元の現実の存在を許容しないということによってその存続を自ら保証しているというところにある。コックスは「閉ざされた、単層の宇宙においてのみ喜劇は排除される」と言う。しかし喜劇的要素の排除されていない公的な世界は我々の周りには殆んど存在しない。宗教のみならず、政治、学問の世界においても、「公的」に定められた単一次元の現実のみで黒白を決するということが、「生真面目」な態度として容認されるための最低の条件になっているのである。そして「生真面目」というのは、公的社会におけるコミュニケーションの基本的ルートとしての位置を確立してしまった。これは保守、急進の区別なく適用される。
笑いを伴うために、道化の行為が諷刺と混同されることが多いが、道化の笑いには本質的に諷刺の笑いの卑しさはない。諷刺の笑いはあくまでも「閉ざされた、単層の宇宙」において中心に回帰する志を持つ者の武器にすぎない。道化は「開かれた、多層の宇宙」に同時に生きることを信条とするから、諷刺的笑いにとどまっていることは決して出来ないのだ。単層の宇宙の恐怖について、コックスは「そのような生真面目な世界は審問的な宗教によって、全体的国家によって、あるいはなめらかで効果的な技術支配《テクノクラシー》によって創造される」と言う。彼はこの三つの「生真面目」体制の中で、想像力を根こそぎ奪ってしまうという点でテクノクラシーの恐怖を最も徹底したものとして挙げる。「不同意はもっと巧みな方法で抑えられ、喜劇的批判は親切さによって圧殺される。確かに、技術的穏かさは僧侶支配や国家的恐怖よりも恐ろしい今日の我々の危険である。」(前掲書、二三七―八頁)
このような想像力を涸渇に導く「生真面目」支配の恐怖は、今日至るところで我々のまわりを取りまいているのである。道化キリストの像を再現することは、世界と人間の間に存在した筈の親密さを取り戻すために、不可避の途であるようである。
科学・技術世界の中の道化――道化と進歩の幻想[#「科学・技術世界の中の道化――道化と進歩の幻想」はゴシック体]
近代科学の人間性についてのオプティミズムが道化の棲息を不可能にして、道化の息の根をとめたといわれる。少くとも十八世紀以後文学・芸術・思想の檜舞台から道化は姿を消したように思われる。これはミシェル・フーコーが『精神疾患と心理学』(神谷訳、みすず書房)において示したように、デカルト的合理主義及び啓蒙主義的理性万能思想に裏うちされた世界が、狂人に非寛容の立場を打ち出したという精神史的状況と併行するものであろう。
十八世紀以後、近代科学及び啓蒙思想が人間性の将来に対して限りない楽天的な見透しを持ったのに対して、道化は人間の未来をバラ色に描くという趣味を毛頭持ち合わせなかった。十八世紀以後の滔々たる環境の技術論的改良の流れと、道化の、人間は愚かな者、利口ぶれば利口ぶる程愚かさをさらけ出さざるを得ない存在という省察は相容れなかった。近代社会の科学信仰は、科学はついには人間が、自然を全く克服して秩序ある世界を築くことを可能にする、という確信を抱かせるに至った。人間は自然を、世界をできるだけ、計量可能な単位に還元しようとつとめ、この傾向は、本来人間を丸ごと対象とする学問になる筈であった歴史学をも覆うに至った。法則性の抽出を可能にする自然のみが人間性の向上に貢献し、これを拒否する自然は人間性の敵という世界において道化が生きのびるのは大変むつかしい。自然概念を物理学的自然と精神空間における人間以前のものとしての自然という二つの方向性があるとすれば、近代的自然観は後者の黙殺の上に初めて成り立ち得たといえる。勿論道化は後者の代弁者であるから益々分が悪い。宇宙(コスモス)が、規範(ノモス)と肉体(フィジス)に分裂し、前者が後者を圧するに至った世界で、後者に加担する道化的思考は、人間進歩の不倶戴天の敵として、反進歩、反知性、反人間性、反秩序といったあらゆる負のレッテルを貼られて退場する外はない。ノモスの側に立つ思考は、戦争の揚棄、物質的ユートピア、人間関係の改善、社会改良といった未来幻想でフィジスに沈黙を強いることができる。勿論その額面の破綻は今日我々の痛切に知るところである。ノモスの恒常性は「真面目」という道徳感情に裏うちされ、フィジスの偶然性は笑いという、過度のノモスへの防禦反応として現われたためにそれは、「不真面目」という反秩序の範疇に組み入れられてしまった。
ところが、技術的環境の向上による人間性の向上とか、社会進歩といった考え方はどの世界でも道化が人間的愚かさの一覧表に掲げる項目である。トルコの演劇又は影絵劇で最も大衆的人気を博したカラギョーズという道化の馴染みのレパートリーは、西欧近代をちらつかせる人間の愚かさを発くところにあった。どんな自然科学的技術も人間の裡なる自然を征服できると道化は信じなかった。そこで近代的知性は、進歩と真面目主義の名において道化の頑迷さを愚劣なナンセンスとして極めつけることで道化的叡智を葬り去ったと信じた。このあたりのいきさつは、科白劇のフランス喜劇が道化的肉体劇としてのイタリア喜劇を圧するに至ったいきさつ、更に具体的にはモリエールの転向の過程をたどることによっても明らかにすることができる(註8)。
ただし、アメリカの社会学者ハンス・スパイアー(註6参照)の「我々は今でも狂気とか道化を口にする。しかし、日常的話し言葉におけると同様文学においても≪道化≫といった言葉は意味を薄められ、深い意味を奪われている。チャップリンを含む、極く少数の例外を除いて、道化は今日優れたものを知らない(人間の――引用者)趣味を満足させているにすぎない」('Force and Folly' 二一九頁)という言葉はいささか悲観的にすぎるようである。人間が絶えず現実の新しい次元を伐り拓いている限り、道化的知の形式はどんなに姿を変えようと存在せざるを得ない筈である。この伝統に立つために、道化について語ったり、世に知られる道化のスタイルで行動することが必要なのではない。現実を、日常生活のヒエラルキー、組み合わせをモデルとして固定しようとする拘束性に対して、絶えず匿れた現実を背後に背負って、まだ使い古されない知的探求の様式――それは真面目といわれるスタイルよりも、ふざけているといわれる領野に見出される場合が多い――を武器として立ち向かう構えを捨てないことが必要なのである。
使い古された知的様式――例えばテーマの選定、論文の書き方、用字法、特定のメディアのイメージ、肩書き、本、章節の構成、権威ある名前、洋書文献の羅列などによく見られる――は、日常生活を構成する秩序の内側に安住する人間には限りない安定感を与える。それは支配・被支配のヒエラルキーによって、順応的な人間が、己れの場を簡単に見つけることを可能にする。勿論、既存の伝達様式に従うことは、コミュニケーションの手段として、これを省略することはできない。しかし、新しい現実は使い古されていない様式を通じてしか伝えられる訳はない。とするならば、残された道は、既存の手段と、新しい現実の緊張感を通しての伝達の方式の絶えざる開発ということになる。それは、中世の道化が如何に、現実生活の虚構を相対化しようとも、金銭というコミュニケーション、つまり交換の原理の拘束性を脱却することは、そこから人間のあらゆる愚かさが生じていることを痛切に知りつつも、不可能であったという状態に通じるところがあるだろう。そういう前提に立つならば、道化が生命と金銭との危険な戯れの上に自らの芸を実現させたのと同じような意味で、今日の知的探究においても、既存の形式と、未知の現実との中間領域においてのみ、学問的知性の探究様式は求められなければならない筈であるし、その緊張感を介してのみ、隠れたる現実はその姿を現わすことが可能になる筈である。厳密な手続きを必要とする古典学から、最も大胆でありうる芸術的表現の間のさまざまの知的探究の様式の間には、こういった志向の実現の方法についての様々に異なった困難が介在するとしても、所謂、知的探究は、それが、その名に値するものであるならば、現実にたちむかう生き生きとした精神の証しを形式の上で持たなければならないであろう。
ここ数年間の精神史の研究における十九世紀以降の文学、精神史についての|掘り起し《アルケオロジー》(渡辺守章氏の訳語)は、ドストエフスキーに、アポリネールに、ソール・ベローに、ジッドに、ウィリアム・バローズに、ジェームズ・ジョイスに、ウラジミール・ナボコフに、メルヴィルに道化の精神が生き生きと脈搏っていることを示した。この作業は現在も進行中であり、ここ数年後に道化の系譜の精神史的目録は飛躍的に増大する筈である(註9)。マルクシスト好みの言い方をすれば、自然科学的理性万能の時代に、ウクラードとしてより包括的な知のあり方は秘かに二十世紀的感受性の中に息づいていたのである。
第二部 知的挑発者としての道化
ダダと道化の伝統の復活[#「ダダと道化の伝統の復活」はゴシック体]
ダダの運動に道化精神の二十世紀的発現の形態を見ようとする試みは、決して新しいものではない。それは、すでに運動の当事者が認めていることでもある。例えばトリスタン・ツアラは、自分は「不吉な道化役者」、「白痴で、道化で、ぺてん師」だと宣告する。彼は「ダダは、行為のまえに、一切のうえに、疑いを置く。ダダは一切の疑いである」と言う。その否定の意志の激しさにおいて一九一六年に、スイスのチューリッヒで誕生したダダ運動は、本来的な意味で、知的道化の伝統の精髄を吸収したといっても差しつかえなかろう。
長い間、ダダの運動はどちらかというとシュールレアリスムの先駆けをなす予備的運動、いわばブルトン等を介してシュールレアリスムに吸収されることで完成した予備段階、未完の、中途半端な運動と目されて来た。しかしここ四、五年の間にダダに対する視点は大きく変りつつある。ダダの与えた強烈な印象のために、ダダを無視しようとする動きは、シュールレアリスムの支持者の間でも暗黙の前提になっていた。六八年に学生たちがブルトンを再び知的関心の焦点に連れ戻したということは一般に知られている。しかし学生の支持する筈だったのは、どちらかといえばトリスタン・ツアラであったのではないか、という疑問を捨てることのできない人も今日少くなかろう。
ダダが他の知的運動と自らを峻別するのは、彼らにあっては、思考が、文字の中のみに閉じ込められず、肉体によって、周囲の慣習の世界との緊張感を保つことによって自らが存在する空間を伐り拓いたという点にある。一九一六年に、チューリッヒで≪キャバレー・ヴォルテール≫の仲間と共にダダの運動を起したトリスタン・ツアラは「詩はたんに書かれた産物、イマージュと音韻の連続であるばかりでなく、≪ひとつの生き方≫でもある」と言っている。(浜田明訳『ダダ・シュルレアリスム――変革の伝統と現代』思潮社、一六頁)
こういった意味での「生き方」をダダに先駆けて創始した一人が、『ユビュ王』における、不条理演劇の真の始祖アルフレッド・ジャリである。「ジャリについて語られる逸話は数知れず、すばらしい」といわれている。
ジャリには、赤塚不二夫の作品の駐在の如く、何につけても、それも殆んど理由なく突如として発砲する癖があった。勿論この発砲は、すべてのものが真の根拠を欠いた秩序に順序よく収まり、何の抵抗もなく進行するこの世界に対して、不意の衝撃を与えて関節を外させようとする彼の「異化」の行為に他ならなかった。
或る時、彼はシャンパンを短銃の弾で撃ち抜いてたのしんでいた。すると、近くの気どったブルジョア夫人が、ジャリの時ならぬ発砲で子供を殺されそうになったと怒鳴り込んで来た。ジャリは連発ピストルを手にしながら応対した。
「考えてもごらん下さいまし、おくさま。この方は私のこどもをひとり殺しかねなかったのですよ」と件の夫人はとりつぎの女性に言った。
ジャリは少しも動ずる風もなく言い返した。「いや、お・く・さ・ま、もしもそうした不幸が起りましたら、余が貴女に他のをつくって進ぜましょう!」
この夫人はすばやく踵を返して再びジャリ達の前に姿を現わさなかった。
またジュール・ルナールはその『日記』の中に次のように書き誌している。
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一九〇六年一月十八日
相変らずの厩住まいのジャリ。
「わたしはわらじ虫が大好きですが、甲殻をむくのが面倒でしてね」と彼は言った。通りかかるとパン! パン! パン! と音がする。ジャリが拳銃を撃って蜘蛛を殺しているのだ。だが彼は蜘蛛の巣はとっておく。飾りになるから。
それはよく訪問客の上に落ちる……。
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ブルトンは、ジャリの拳銃は「外界と内界を逆説的にむすぶ絆だ。その小さな平行四辺形の、挿弾子と呼ばれる箱の中には、いつでも発射可能な無数の解、無数の和合が眠っている」(ブルトン編『黒いユーモア選集』下、国文社)と述べている。つまり拳銃は、偶然の因子を導入するきっかけにすぎないというわけである。亡くなった年彼は「寝室で射撃ができるというのは大きなよろこびです。家を持つ者の大きなよろこび……」と言った。
その彼の家とはアポリネールによると……
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「アルフレッド・ジャリさんの部屋は?」
「四階半です」
門衛のこの答は私を仰天させた。私はアルフレッド・ジャリの部屋へのぼっていったが、実際彼は四階半に住んでいたのである。その家の各階の天井は高すぎると考えた家主が、各々の階を二階ずつに区切ったのだった……。
要するに、アルフレッド・ジャリの住居は縮めたものに満ち満ちていたのだ。四階半とはいうものの、階を縮めたものに過ぎなかったから、立っている時には、この部屋の主人は楽々としていたが、彼よりも大きい私の方は、身をかがめていなければならなかった。ベッドもベッドを縮めたもの、つまりお粗末なやつで、ジャリが言うには低いベッドが流行だからということだった。書き物机も机を縮めたものだったが、それはジャリが床に腹ばいになってものを書くからなのだった。……蔵書も蔵書を縮めたものだったが、これは傑作だった。ラブレーの普及版一冊と二、三冊の「桃色文庫」から成っていたのである。暖炉の上にはフェリシアン・ロップスの贈り物である日本製の石の大きな男根が立っていたが、ジャリはこの実物より大きいペニスにいつも紫色のビロードの僧侶の帽子をかぶせておくのだった。それはこの異国の石柱がある女流文学者の肝をつぶさせて以来のことである。彼女は四階半までのぼって来てすっかり息を切らせ、この家具のないがらんとした「大法衣製造所」で、外国にでも来たような心地になったわけで、
「これは型取りですの?」と彼女はたずねた。
「いや、縮めたものです」とジャリが答えた。
(レヴェスク、宮川訳『アルフレッド・ジャリ』思潮社、七二頁)
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縮尺に固執するジャリの中に、人は徹底して、平俗なブルジョア社会の日常生活から降りること、そしてそれを「縮めた」規範に固執することによって日常生活を異なものにすることを使命とする伝統的な道化の技術を見るのである。
道化の技術の最も中心的な部分は、人為的な区別を解消してしまうことにある。勿論「真面目」と「不真面目」という区別も、究極のところ道化は認めない。「上品」と「下品」という基準も全く相対的にしか成り立たないことを道化は示す。つまり、文化の様々な基準が全く相対的なものに過ぎないことを道化は機に応じて示すのである(註10)。ジャリがサーカスと自転車の愛好家だったことはよく知られている。
[#この行1字下げ] 自転車は殆んどジャリから離れることがない。マラルメの葬儀に、彼は自転車でやって来た。彼のフロック・コートは立派だった。それに比して、ズボンは……ミルボーはジャリに大いに好意を示していたが、大変なダンディだったから、厳しい目でこのズボンをみた。ジャリはこの非難の眼差をかぎとった。そして言い訳してこう言った、「いや! もっと汚いのも持っておりますぞ」……
服装の|奇矯さ《エキセントリシテイ》で、生活世界の遊戯の規則に衝撃の一撃を与えて、規則は所詮人の作ったものであることを思い知らしめ、人々を瞬間的にでも規則の世界から引き離すというのは、道化のよくなしうるところである。道化がまだら服を着たように、ジャリは、服装を衝撃を与える手段として使った。従って人が彼に風変りのスタイルを期待すれば彼は、全く何の変哲もないいで立ちをして、人々のスノビズムに一撃を加える。
[#この行1字下げ] ベルギーで非常にユビュ的な講演を行なうと、その弁士の風変りなこと、話の辛辣さに感激した一人の女性の崇拝者が、彼に今一度まみえようとわざわざパリへやって来て、彼と一緒の食事に招いてもらった。彼女は気狂い沙汰が続発すると予想して、始まる前から興奮していた……ジャリはそれを知っていた。彼が現われる、黒い服を着て、頭のてっぺんから足の先まで非の打ちどころのない、そしてその言葉は上品な会食者然として、味もそっけもなく控え目にされていた。
こういった奇矯な行為は、日常生活は、真の現実から遊離した停滞的規則のうえを流れているという自覚に由来する。それは、この平板な日常生活の現実の殻を破って、宇宙的な全体性を恢復しようとする試みであった。少し持って廻った言い方をすればジャック=アンリ・レヴェスクの次のような表現に行きつく行為なのである。
[#この行1字下げ] ……この時点において、世界の古い外見は崩れはじめ、その時代遅れの価値は、生きた現実のどこにもあてはまらなくなって、またしばらくは存続可能のように見えはしても、もはやこの先有効になることは決してないままに、姿を消しはじめた。人が従来通りの承認済みの見方を変えて、その人固有の見方をもつに至るとき、この新しい見方からすべてが正当な権利をもって出てくるのだ。もはや問題とされるのは……その多少はあれ、真の現実という、みかけの下にあって本質的にかたちをもたぬもの、をとらえる能力であり、またその現実に必要なかたちをつくり出す創造の力によって、真の現実というものを明らかにすることのできる能力以外のなにものでもないのだ。
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[#地付き](前掲書、三六頁)
つまりみせかけの現実の下にあって本質的にかたちをもたぬ真の現実に「かたち」を与えて立ち現わしめるために、必然の流れにくまなく組織されてしまっている日常生活の現実に楔を打ち込んで、この現実に割け目を作り出さなければならない。ということは、この現実の中に「偶然」を持ち込んで来ることに他ならない。生活の中で人が、特定の時間空間において期待しないものを持ち込んで来る最も手っとりばやい技術は道化の即興術であった。ジャリの仮借ないユーモアに触れると、「世界は解離して全く別の光の下に構成されるのだ。」(レヴェスク)ジャリのこうした嘲笑術についてガブリエル・ブリュネの次の言葉は適切に言いあてる。
[#この行1字下げ] この人間の子供っぽさに注意する必要がある。彼の突飛さ、彼の賭け、ユビュおやじはそれらが模範的であるようにねがい、それらにヒロイックな価値を与えた。ジャリの生涯はひとつの哲学的な思想に導かれたもののようだ。ジャリはこの世の嘲弄と不条理への生贄として自分を捧げた。その一生はユーモアと皮肉にみちた一種の叙事詩であり、その叙事詩は自ら望んで滑稽で細心な自己破壊にまで押し進められたのである。……
[#地付き](同書、七二頁)
一連のジャリのはみ出し行為のエピソードを追うに従って我々は、禅の高僧伝を読んでいるような錯覚に陥る。ブリュネの言う「子供っぽさ」は、道化的な精神の常にまとう衣裳なのである。そのもっともよい例を我々は多分ヴィトルド・ゴンブロヴィッチの作品の主人公の中に見る筈である。
戦後、わが国ではアブサーディティ又はアブシュルディテという言葉が不条理という訳語で輸入されたために話がすっかりややこしくなってしまったけれど、この言葉は「ばかばかしさ」、「つじつまのあわなさ」と訳した方が話はすっきりするであろう。トリスタン・ツアラは世界とこの「不条理《ばかばかしさ》」の関係について次のように説く。「世界のこの不条理を深化させることによってはじめて、新しい条理が、つまり厳しい批判に耐ええないあの最初に与えられた条理にくらべれば無限に輝かしい条理が出現するのである」(ツアラ前掲書、一七頁)と。
つまり、人間の魂の奥底の調和の感覚からいえば少しも、秩序ではない、たんに計量と強制と互恵性のうえにのみ打ちたてられた現実は、それ自体が、魂の真の調和という観点からみた時に、あるいは、別のレヴェルの、より深い統一感覚をもたらしうる現実を通してみた時、それはばかばかしいものとなる。このばかばかしい現実の行為の軌範を、効用性から解放して、衝動性という本来の自由な行為の形態により近い要素を導入して、表面的現実の秩序から切り離し、日常生活における全体のバランスをくずさせる。こうして、人間精神と宇宙の現象の間により包括的な関係を打ち樹てることこそ、ジャリがその生活を通じて(「自己の存在の深みで」(ツアラ))、作品の世界を創造することによって、追究した途なのであった。
ジャリに導かれて道化術の魅力にとりつかれた一人にアンドレ・ジッドがある。ジッドはジャン・コクトーやロマン・ロラン同様、生前の栄光に比して、死後の薄明から、抜け出せそうで、出来ていない作家であることを人はよく知っている。ジッドは彼の接したジャリを一九四六年に次のように回想する。
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この想像もつかない人物に、私はマルセル・シュオップの所でもまた他処でも会っていたが、彼がまだ恐ろしいアルコール中毒(震頭譫妄)の発作で駄目になる前で、いつも最高の気晴らしをたずさえて歩いていた。この鬼は、お白粉を塗りたくった顔でサーカスの道化の衣裳を着ており、風変りで、つくられた、思いきって人工的な人物を演じて、彼の内にある人間的なものはもうなにもみえなかったが、メルキュール社(当時の)で一種の奇妙な魅惑をふるっていた。……
彼は礼儀などは全く軽蔑して、はばかるところなく自己を主張した。シュルレアリストたちは彼の後に来て、彼のやった以上のことは何も発明しなかった。彼らが彼を先駆者と認めて敬意を表するのもゆえあることである(註11)。
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[#地付き](『私の断想』、レヴェスク前掲書に引用)
ジャリにおいて、ダダはその基本的な要素、つまり、日常生活に埋没している意識の挑発、言語、及び行為の日常生活からの引き剥がし、意識的な混沌の導入、作品における無意識的要素の顕在化、偶然的要素の積極的導入と、偶然の間に、未知の秩序と現実を透視する技術等々が先取りされていることを少しも悔むものではないだろう。こうした混沌の導入による世界の再活生化の技術は、我々にとっては道化術としかいいようのない行為であるが、ジャリは、この総体をパタフィジック(形而下学)と呼び次のように説明する。
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パタフィジックは例外を支配する法則を検討し、この宇宙(現実――引用者)を補う宇宙(現実)を説明する。あるいは、もう少し穏かに言うならば、これまで考えられて来た伝統的な宇宙(現実)の代りに考えられた――多分そうであるべき――宇宙を描く。というのは伝統的宇宙において見出されて来たと考えられて来た法則は例外――尤もより頻繁なものであるが――の組み合わせであったが、とにもかくにも例外的でない例外の位置に堕落してしまったために、オリジナリティという利点すら持たなくなった寄せ集め的資料にすぎないのである。
(M・L・グロスマン『ダダ』、ニューヨーク、一九七一年、二五頁)
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この偶然を投げこむことによって、新しい現実を曳き出すパタフィジックという考え方から、彼は形而下棒という言葉を編み出した。ブルトンの引く或る文章の中でジャリは次のように書く。
[#この行1字下げ] プラスとマイナスの記号の争いから、イエスの従者、ポーランド元国王のユビュおやじ元閣下は近く、『にせキリスト大帝』と題する偉大な書を著すであろう。そこでは、形而下棒とよばれる機械仕掛けの道具によって、相反するものの同一が実証される。
[#地付き](ブルトン編前掲書、五五頁)
実際ジャリが形而下棒といったとき、彼が中世西欧の道化が手にしていた棒、コンメーディア・デラルテの中心的道化アルレッキーノの持っていた錫杖を想い描いていたかどうかはわからない。しかしこのジャリの形而下棒の中には、彼の行為の基準、つまりあらゆる人為の境界を破壊するという、現実生活で、拳銃の無差別な使用をはじめとする彼のあらゆる奇矯な振舞い、言葉の源泉が含まれているのだ。特にジャリが自ら言及する「相反するものの一致」は、ツアラなどの後継者によっても、「秩序=無秩序、自我=非自我、肯定=否定」(小海・鈴村訳『ダダ宣言』竹内書店、一三頁)というように受け継がれたダダの道化術の核とも言うべき理念であった(註12)。
ダダイストに対するごとく、道化にも、人のものと己れのものという人為的な区別は通用しない。彼は社会を構成する根元的原理にすら無頓着なのである。(拙稿「道化の民俗学」参照)現世対来世、天国対地獄、上と下、上品なことと下品なこと、国内と国外、善と悪、男と女、右と左、文化と自然、優と劣、知と愚……等々、あらゆる文化は、その根柢において、こういった人為的な分類基準の上に成り立っている。しかしながら、世界に生起するあらゆる事象を、この究極的には二元的な分類の中に押しこめてしまうことは不可能である。かくして、分類されて整理され尽した世界と、分類を拒否する事象の対立は殆んど不可避のものとなる。多くの文化は、こういう分類不可能な部分を、野卑、低俗、暗黒、穢れ、ばかばかしいもの、騒音、無価値なもの、未開、野蛮なものとして、そういった事象に直面することを避けるよう構造的防禦装置を具有している。ところが、こういった部分こそ、道化にとって最も有難い兵器廠《アルスナル》である。ダダの如く道化は、自由にこういった事象――それは事物、人、行為、言葉、地理性等々様々な形で表現される――の間を自由に遊泳し、それらの中に、日々立ち現われる現実を表現するのに最もふさわしいモデルを見つけ出して来る。日々立ち現われる現実は、人々は気づかぬにしても、人間の意識の深い層により的確に対応する性質を帯びている。道化が、世界を理解するのに好ましからぬ要素を、思考の中に導入することによって、知の基準の全体的組み換えを要求して、世界を理解する新しい枠組みを構成する事実は、道化の知的位相を捉えるために最も重要な部分であると言えよう。社会学者ロジェ・バスティードは西アフリカの前述の神話的道化エシュに、神話学者ジョルジュ・デュメジルは北欧神話のいたずら者ロキ神にこの立場を認めた。(『ロキ神』George Dumezil, 'Loki,' Paris, 1948. 特に二六八―九頁)我々に親しまれている民話的道化のティル・オイレンシュピーゲルにこの立場を見出すのは今日、大変容易な事である。
こういった矛盾に対する道化の関係は、そのままダダの課題であった。従ってダダのプログラムとは、芸術が道化の世界に置き忘れて来た、人の世界に対するかかわりあいかたの最も根源的な形態の一つを回復することであったといっても過言ではない筈である。
ツアラ及びハンス・リヒターと共に「相反するものの一致」の唱導者であったアルプが「偶然の法則」という観念に思い至った、今日では殆んど神話的ともいうべき一つの挿話がある。これをリヒターの伝えるところで再現しよう。
[#この行1字下げ] アルプは長いことひとつの素描にとりかかっていた。いらだったかれはついに紙をひき裂き、その紙片を床にまきちらした。しばらくして、かれの眼が偶然もういちど、床にちらばる紙片の上におちたとき、それらの配列がかれをおどろかせた。それらはいままで何時間も、かれが求めて得られなかった表現をもっていたのである。……かれがこれまであらゆる努力をもってしても成功しなかったもの、つまり表現を、偶然、手の動きと紙片の動きが生み出したのである。かれはこの偶然の挑発を〈摂理〉と名づけて、紙片を〈偶然〉によってさだめられた秩序にしたがって、慎重に貼りこんだ。
[#地付き](針生訳『ダダ――芸術と反芸術』美術出版社、八四頁)
こうして、ダダは偶然を芸術創造の新しい刺戟として認めるに至った。偶然は、ダダを他の諸運動から区別する中心的な体験となった。もう少しリヒターに耳を傾けよう。
[#この行1字下げ] ……わたしたちは、何か他のもののなかに入りこむのを感じた。それらはいきいきとわたしたちをとりまき、わたしたちの一部となり、わたしたちがそれのなかに流れこむように、わたしたちの内部に侵入してくるのだった。
[#地付き](同書)
この偶然についての感受性は、ユダヤ世界の中での諺及びジョークに対するライクの叙述を想起させて興味深い(註13)。
「一見関連のないものを突然関連づけて照らし出す」技術としての偶然性の祭祀はダダの方向の決定に作用し、ダダに本来彼らの運動に固有のものであった命題の発見を助けた。「偶然は芸術の領域では、連想による対応、思想の飛躍的な結びつけ、言葉と音の思いがけないつながりといった技術によって、重要な次元を獲得した。」(同書)
この偶然という因子は知的・情緒的な現象として、リヒター達を魅了した。アルプは「偶然の法則は、あらゆる法則を自己のうちにふくみ、そこから生命があらわれる根拠と同様につかみにくいが、無意識への完全な帰依によってのみ体験されうる。わたしは、この法則を追求するものこそ、純粋生命をつくり出すと主張する」と述べて無意識というきっかけの重要さを強調するが、逆に偶然というきっかけを通じて無意識に迫る知的・芸術的技術をダダは開発したともいえるのである。リヒターは、C・G・ユンクがこういった「偶然の符合」を「因果関係をはみだした秩序をつくりだす状態の名称」と呼んだことに力を得て、偶然を通じて得られる秩序の意識について述べる。
[#この行1字下げ] ……偶然はわたしたちには、因果関係や意識された意志表現の棚をとりのぞき、内的な耳と眼をとぎすまして、新しい思想と体験のつながりをうかび上らせる、魔術的な方法のようにみえた。
[#地付き](同書、九二頁)
……わたしたちに必要だったのは〈天国と地獄のあいだの均衡〉、無意識と意識のあいだの均衡、偶然と計画との双方が結びつく新しい統一であった。
思考の合理的な直線性に抗議しながら、人びとが無意識を愛情深くとらえ、あるいは無意識によってとらえられる、意志と用意をもっていたとすれば、わたしたちは偶然、無意識の声、魂を生けどりにしたのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、九四頁)
こうして、偶然という生活世界の因果関係からの飛躍のバネ(発条)を手に入れたダダイスト達は、偶然を媒介として明らかになる「対立物」の統合の原理に迫っていくのである。「関係の原理が大切だった。形態はその反対の部分によってのみ脈絡をあたえられ、対立物の内的関係によってはじめていきいきとなるのだった」とリヒターが回想するとき、後に構造分析が目ざした関係の原理・対立の束としての構造概念はほぼ言い当てられているのである。この短い文章を使って何と多くの文学作品、劇、神話の分析が可能であることか!
相反するものの一致のダダ的展開について、ウイリアム・セイツは次のように説く。
[#ここから1字下げ]
とうとう確かな拠り所をもって、そして西欧の思想ではじめて、ダダは価値の理性的なヒエラルキーを相反するものの非理性的形而上学で置き換えた。その結果、不確かなもの、偶然的なもの、混乱、非統一、非連続的なものに、それまでは、ふつうこういったものの道徳的反対物と考えられてきたもの(確実性、必然性、整序、統一、連続――引用者)のみに示されていた注意を喚起して肉体的・知的エネルギーの星座を解放した。このおかげで一人の芸術家は、少くとも西欧においては、それまでは不可能であったような形で仕事をすることができるようになったのである。
(William Seitz, 'The Art of Assemblage,' New York, 1961, p. 77, Cited in Grossman, op. cit.)
[#ここで字下げ終わり]
事実、「相反するものの一致」は既に述べたようにネオ・プラトニズムの伝統の中に見出されたものであったし、ダダが解放した知的・肉体的エネルギーは、ルネッサンス以後は、サーカスや市の見世物、寄席の道化芸として生きながらえて来たものである。(拙稿「道化の民俗学」(1)(2)を参照)そこでダダがチャップリンを始めとする道化及び寄席芸に示した関心には、こういった形而上学的近似値が媒体になっていたことは無理なく理解されうる筈である。セイツの挙げたダダの規定的要素は殆んどそのまま道化の芸を分解して記述したものだからである。
道化としての二十世紀芸術家[#「道化としての二十世紀芸術家」はゴシック体]
ダダの時代に傍観者としてパリに住み、ダダの影響を深く自らに滲透させた作家の一人がヘンリー・ミラーである。「あらゆる場所のシュールレアリストへの公開状」と題する『宇宙論的眼』という作品の一部をなす文章の中でダダとシュールレアリスム双方の影響を自らの上に認めているが、後者の気取りに対して、前者の率直さに好意を寄せている。ダダイスト達が道化の芸からインスピレーションを汲み上げたようにヘンリー・ミラーも道化に折に触れて鋭い一瞥を投げかける。例えば『セクサス』の中の次の文章がそうである。
[#この行1字下げ] マーセルもモナも、いままで一度もバーレスクへきたことがなかった。二人は、はじめから終りまで非常に注意して見ていた。道化役者が二人の興味をひいたが、そのきたならしいせりふは二人とも覚悟していなかったようだ。道化役者どもが演じたのは従者の役であった。彼らに必要なのは、だぶだぶのズボン、尿壜、電話や帽子掛けなど、「無意識」が支配する世界の幻想を創造するための、ものであった。バーレスクの道化役者というやつは、もし給料だけの芸をもっているなら、どれ一人をとっても、なにかしら英雄的なものを持っているものである。一つ一つの演技で、彼は、潜在的自我の閾の上に幽霊のごとく立っている検閲者を虐殺するのだ。観客のために生きたまま自分自身を殺すだけでなく、おのれに小便をひっかけ、肉体を腐らせるのである。
[#地付き](大久保訳『薔薇色の十字架(1)セクサス』全集3、新潮社)
これは道化が無意識との間に芸を通じて打ち樹てる関係と観客の心の憂さの捨てどころ(スケープゴート)としての道化芸について短い行間に無駄なく描き出した文章といえる。
ヘンリー・ミラーのこの道化術への省察の深さは、彼が、自らを道化と擬したという事実と対応するのであろう。『梯子の下の微笑』というサーカス道化オーギュストの職業への目ざめとその死を扱った短篇へのあとがきの中でヘンリー・ミラーは道化としての己れを次のように語る。
[#ここから1字下げ]
私は、私自身にも強い影響をあたえたルオーの生涯と作品について考えているうちに、現在もそうであり、過去においてもつねにそうであった道化師としての私自身について考えはじめた。……
私はハイ・スクールを卒業するとき、将来なんになるつもりかときかれて、「道化師になります」と答えたことも思い出した。また、私の旧友のなかにも道化師に似た動作をするものがたくさんいたことも思い出した――しかも、私がもっとも好きだったのは、そういう友人たちだった。ところが、あとで知って驚いたのだが、私のもっとも親しい友人たちも、この私を道化師とみなしていたのだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](大久保訳、全集6、新潮社、二八頁)
ここには、道化を、負の価値でしかとらえない通念とは異なる、積極的な姿勢がみられる。彼が「道化は行動の詩人だ」というとき、詩が、純粋身振り、原身振りに他ならず、道化の行為が、日常生活のありふれた交換の記号とは異なり、あらゆる行動の源泉から直接発していることが言い表わされている。
人が自らを道化と規定する立場には様々な動機がある。ヘンリー・ミラーの場合には、それは、目的に向って真すぐに歩かずに、幾分ジグザグに、目的に達することよりも、そのように歩くこと自体に歓びを見出そうとする気質そのものに由来しているといっても良いであろう。自らを道化と見做して意識的にそういった立場を演じたことで知られるもう一方のタイプの知性にセルゲイ・M・エイゼンシュタインがいる。エイゼンシュタイン自身にも、ヘンリー・ミラー的に自ら選択したという傾向を読みとることは充分に可能である。しかし同時に、エイゼンシュタインには、道化のもう一つの規定性である社会的疎外といった強制的な状況が強く働いている、ということを指摘したのはマリー・シートンである。道化に魅せられる多くの人同様に、エイゼンシュタインの道化との出遭いもサーカスの世界を通してであった。まだ子供のころ、彼の乳母がある日、彼をサンクト・ペテルブルグのサーカスに連れていった。大ていの子供と同様、彼はたちまちこの新しい世界の虜になってしまった。サーカスの中で特に彼を魅了したのは道化であった。マリー・シートンは、彼をとらえたサーカス道化の魅力を次のように再現する。
[#ここから1字下げ]
つぎに場内にころがりこんできたのは一群の道化師たち、セルゲイがこれまで目にしたことのない生きものたちであった。彼らは猿のように折れ重なったりごろごろころげまわったりしたかと思うと、おどけた仕ぐさで腕を突きだして観客をどっとわかせた。たがいに相手の頭をぽかぽか叩きあっては、どの道化師も相手を陽気に笑いとばした。
(佐々木・小林訳『エイゼンシュタイン、上 、一八九八―一九三二』美術出版社、二二頁)
[#ここで字下げ終わり]
サーカス道化のこういった演戯は、殆んどの人が一度は見聞きしている筈である。この記述は道化の三つの要素を的確に言い当てている。つまり、(1)招かれざる客、(2)身振りの原始性、動物性、及び、(3)叩き合いに現われた「攻撃性」の引き受け、といった要素である。ところで、エイゼンシュタインの関心を特に惹いた一人の小人の道化がいた。
[#この行1字下げ] その奇をこらした衣裳[#「奇をこらした衣裳」に傍点]から切り離すことのできない、この一風かわった小人のおどけた仕ぐさをみているうちに、セルゲイは自分もこの道化師と同じものをもっていると感じたのであった。
[#地付き](同書、二二頁)
この後、彼はペトログラードにサーカスが来るたびに出かけていってみた。彼を限りなく魅了したのは道化師たちであった。彼はこれらの道化師たちを自分の「分身」であるかのように感じていた。事実、彼らはすべて道化の芸を愛する者の分身であったことは確かである。道化がその芸で演じ出し描く世界は、観客の精神の深層に触れるといえるだけでなく、深層の自我の表現としての分身であると言うことができるのである。人が、認定したがらず、むしろ隠したがり、蔑むが、しかし、それに触れることによって、奇妙に心が和むといった意味でのもう一つの自我を道化は表現することができる。エイゼンシュタインは、こうした道化に対して単に観客であることに満足せず、更にもっと積極的に道化と己れの間の距離を縮めようと努力した。
[#ここから1字下げ]
彼は実生活において道化の役を地で演じねばならぬので、自分の肉体的な特徴にあわせてひとつの性格をこしらえはじめた。
歳月がたつにつれて、彼は、自分にとってはすべてがうきうきした笑いの種でしかないような、ふてぶてしい奴だという印象を与えようとして、慎重に工夫された言葉、身振り、また場合によっては衣裳でそれらしい役をこしらえあげた。まもなく、この役は彼の支えになった。というのも、この役に身をやつすと、世間の人びととみかけは気軽につきあうことができたからである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、二五頁)
エイゼンシュタインの道化の仮面への心理的共感は、ヘンリー・ミラーの道化への親近感に相通ずるものがある。これには、ユダヤ人としてのシュレミール意識が強く働いたことも否定できないが、彼を道化へ導いたのはただそれだけのきっかけではなかった。
サーカス道化のアクロバットに魅せられたエイゼンシュタインは、後にコンメーディア・デラルテの道化的世界に魅了されるに至る。
一九一四年十六歳のエイゼンシュタインは大学の土木工学専門部に入学させられるが、サーカス、ヴォードヴィル、コメディアン、寄席芸の世界に対する関心はおとろえることがなかった。
一九一六年にエイゼンシュタインはイタリア・ルネッサンスの研究に取り組みコンメーディア・デラルテの世界を知った。一九二〇年彼はプロレトクリト劇場に参加し演劇の世界に足を踏み入れる。最初の仕事はジャック・ロンドンの『メキシコ人』をもとにした≪アジ・ビラ劇≫の衣裳と装置であった。この装置も衣裳もサーカスの世界を反映しており、登場人物の多くは道化の装いをつけていた。この後彼の仕事にはサーカスとコンメーディア・デラルテの世界のイメージが、道化を介して絶えず刻印されていく。これはオストロフスキーの芝居「利口者――どんな利口者にもぬかりはある」の演出、最初の映画「ストライキ」(一九二四年)にもはっきりと現われた。身体演戯の流れの非連続と偶然性に基礎を置く道化のマイム演戯の型は、エイゼンシュタインの「モンタージュ」理論の形成に尠からず寄与しているように思われる。更に、グロスマンはツアラの詩法とエイゼンシュタインの「モンタージュ」理論との間に対応があると説く。
[#この行1字下げ] エイゼンシュタインが「モンタージュ」と呼んだものと、ツアラの無関係な単語の対置、言葉のコラージュ、自由連想、及び「虚ろな音響」といったものから生ずる諸要素のダイナミックな衝突の間には著しい親近性がある。フイルムにおいて行った≪内的言葉≫の同時性を捉えようとする試みや理論的な文章において、エイゼンシュタインはイメージの衝突に基づくモンタージュの理念を探究した。彼のモンタージュの形式が作用する方法についての次の記述は、ツアラの詩の爆発性の雰囲気を生々と想起させる。「若しモンタージュを何か他のものと比較しなければならないならば、『ショット』つまりモンタージュの断片の方陣は内燃機関の一連の爆発にたとえられなければならないだろう。この一連の爆発はモンタージュ的力動性を獲得しながら加増し、突進する自動車やトラクターまで駆動させる≪原動力≫となる。」……
[#地付き](グロスマン前掲書 、一二二―三頁)
こうした、言葉を断片に分解して、日常語的コンテキスト(意味論)から切り離し、日常語では可能でない結びつきによって、新しい効果を得る方法をツアラが寄席芸の笑いから得たとすれば、エイゼンシュタインのイメージを日常生活の時間から切り離して、一見前後の脈絡のなさそうな関係に置きかえるというモンタージュ技術も、歌舞伎の型や漢字の分解という、彼自らも語り(S. M. Eisenstein, The Cinematographic Principle and the Ideogram, in 'Film Form,' London, 1949)、他人によっても語られているいきさつの前に、道化のマイム芸からえた現実のモザイク的な構成についての理論が先行しているとみても少しも不思議はなかろう。(註14参照)道化のマイム芸は現実に対する二十世紀的なかかわりあい方を理解するための極めて有効なモデルを、我々に提供する。
マイム芸と世界のつくりかえ[#「マイム芸と世界のつくりかえ」はゴシック体]
理想的なマイムの舞台で事物や人物は純粋な空間から造られる。この純粋な空間を造り出すために、現に日常生活に存在する秩序は破壊されなければならない。これがダダが絶えず目ざしたところである。「ダダはその気まぐれを、原初の、だが相対的な単純さへ導いていく。ダダはその気まぐれを、創造の渾沌たる風に、また、猛々しい蛮族の野蛮な踊りに混ぜあわせる。」(『ダダ宣言』一三三頁)ダダの系譜を曳くサミュエル・ベケットがその作中人物から言葉もアイデンティティも剥ぎとるのは、このような混沌に満ちた純粋空間を築きあげるためである。混沌の空間で最も雄弁なのは黙劇(マイム)である。黙劇役者において、諸事物は、それらが本来持っていた相互の関係を取り戻す。
サミュエル・ベケットの『モロイ』を道化論の観点から分析しつつ、リチャード・ピアースは、道化と殆んど同義語である黙劇役者(マイム)が、人間の重心の入れ換えを行う方法を次のように再現する。(以下リチャード・ピアース前掲書、一五三―五頁参照)
長い苦労に満ちた熱の籠った訓練の過程で、黙劇役者は彼の身体をその構成部分に分析することを学ぶ。それから彼はバランスの中心を身体内部の「聴覚」から移し、ついには、彼のオリエンテーションの中心を頭脳から転位させることを学ぶ。その結果身体の各部分は、外界からの身体的又は感情的な影響をそれぞれの部分の法則性に従ってうけとめることができる。頭の指示を仰がないという訳である。最後に黙劇役者は身体の各部分と運動全体の新しい綜合に達する。我々がサイレント映画のドタバタ喜劇に新鮮さを感じるのはそのせいである。サイレント映画では、頭脳の指令を他の頭脳に伝える話し言葉は字幕という最小限のメディアに限定される。そのため身体の各部分が積極的な、自立した表現機能を獲得する。今日我々が例えばバスター・キートンに見出す、奇妙な不均衡の均衡感と充足感はまさにこういった黙劇的身体の再統合に由来するものなのである。同じことは、ギリシャ彫刻の完全な不完全にいらだちを覚える人が、アフリカの彫刻や白鳳期の金銅仏に調和を見出す時に言い得ることができるだろう。マルソーのような黙劇役者が重い亜鈴を持ちあげる時に、頭、首、肩、腕、背中、脚、足という各部分に重さが別々に及ぼす影響が示される(註14)。つまり、黙劇役者が亜鈴をあげるとき人が見るのは、重量挙げという目的にしばりつけられた一人の抽象的な人間ではない。人がそこに見るのは、活力を与えられた数多くの別々であるが互いに相反しさえする諸要素から合成された一個の人間である。
アルフレッド・ジャリが無意識の深淵から、人間のばかばかしさを極端にまで押しすすめるべく創造したグロテスク劇『ユビュ王』が人形劇として構想されたことは決して意味ないことではない。人形劇においては、一個の抽象的な人格を、身体の部分に分解して、各々の部分に自律を持たせて、新しく合成された人間を造りあげることが一そう容易だからである。黙劇役者あるいは道化の演戯の多くは、日常生活の道徳的規制から逃れるため、自らを人形に変えて、脳髄を抜きとってしまうという技術に依存していると言える。自発的に自らを無数のてんでんばらばらの部分からなる人形に変えることによって、黙劇役者又は道化は彼の置かれた外的環境により全体的に対応することができる。進んで自分の重心とオリエンテーションの中核を頭から除去することによって黙劇役者は、合理的な目的論の支配から自らを解放して、自らの外的環境を創造し定義しなおす自由を手に入れるのだ。こうして彼は頭の支配を脱して、より広大な交流を周りの環境との間に確立するのである。
バスター・キートンは喜怒哀楽を表情に現わさない、特に笑わないことで人に知られている俳優である。しかし、これは決して、彼の表情が乏しいということでなく、むしろ、彼の自己表現は他の表情を顔に限定する役者より遙かに大きいことはキートンの演戯に魅せられた人ならば誰でも知っているところである。表情というのは身体の部分の中で筋肉の動きが最も微細で、頭脳の支配の最も受け易い部分である。ところが、頭脳とは或る意味で、現実を概念に分析して、因果関係の束に置き換えたあとでなければ指令を発することが出来ないから、二重の弱点を帯びている筈である。第一に、外界に立ち現われる現実は絶えず、概念と因果関係の束の中に収まり切らないものとして姿を現わす。概念的な思考は、この瞬間毎に立ち現われる現実に自らが持つモデルを介してしか対応できない。第二に、この回路は同時的なものではない。それ故、顔に限定された表情は、周りの現実に還元した形でしか対応しえない。顔の表情を殺すことは、それ故顔を仮面に変えてしまうことである。限定された理性を時には非理性にまで対応しうる媒体に置き換えることである。キートンにあっては、それ故、眼、口、首、特に足が、他の場合とは比較にならない自律性を帯びる。彼は、これらの部分を、どんな環境にでも即座に対応する人形の機械的手足に変える。従って、手または足が示す反応は、「分別」ある人間なら犯さない間違いをどんどん犯す。制禦装置が停止しているからである。しかし、人は、これらの部分が、頭脳の部品である場合には持っていない自由、魅力を帯びていることを知る。
ピアースは、サミュエル・ベケットの『モロイ』の中で主人公のモロイが、自動的に、意味もなく、前後の脈絡もないところで、帽子を弧の形に廻して、服の折り返しの動くのを見て、まだ生きていると結論する場に、こういった黙劇機能を見てとっている。彼はこういった黙劇機能は、ラルフ・エリソンの『見えない人間』や、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』のオスカー、ベケットの作品の様々の主人公に再現されるという。これらの道化的主人公は、状況的に追いつめられれば、追いつめられる程奇妙な自由を得るとともに活力を帯びる。これらの主人公を特徴づけるのは即興性、あるいは出たとこ勝負の精神である。出たとこ勝負の精神は、既存の安定した如何なるモデルにも頼らないという構えであると見ることができる。即興は、ハッとさせるような一突きに、全く同時的に完全に反応する全人的な能力に依存する。人は、可能な限り最も大きな驚きに直面した時に最も生き生きとして自由である機会に恵まれる。頭脳の介入なしに反応することができるからである。即興は記憶に瞬間的創作のつけ加わったものであるとピアースは言う。道化の示す誇張された驚きは、彼が日常生活の中で記憶している自我とは全く異なった自我の自覚に基づくものなのである。即興の中には、絶えず、極端に新しいものと極端に古いものが結びついている。こういった点はジャズの即興性の中に最も顕著に示されている筈である。そしてそれは又、何故ダダの運動が即興性と無意識的要素を重要視したかを示すものである。
ダダの産み出した知的探求の様式は、一時期シュールレアリスムに吸収されることによって発展的解消をとげたかに思われたが、「私は新しいダダだ」と名乗りを挙げたサルトルの影響下の実存主義の運動も、少くとも行為の面に限れば、確かにダダの系譜を曳くものであったし、理念においても、偶然性と〈不条理〉(ばかばかしさ)の感覚においてもダダの延長と言える。ジョイスがチューリッヒ・ダダの発祥の地キャバレー・ヴォルテールの常連であったことは知られている。グロスマンはベケット、バローズ、ジョン・バルト等の現代作家のダダ的性格を指摘しているが(前掲書、一五七頁)、これらの作家の中心的主題が世界の道化化にあることは既に触れたところである。(註9参照)第二次大戦後の抽象的表現主義、ポップ・アート、オブジェ芸術、ミュージック・コンクレート等、様々な領域に拡ったダダ的感覚は、視聴覚芸術の殆んどの領域で今日二十世紀的感受性を決定している。(K・クーツ=スミス『ダダ』Kenneth Coutts-Smith, 'Dada,' London, 1970, 参照)ここにみられる非連続の理念は、明らかにダダ的な精神活動の所産である。この非連続のもたらす奇矯性(エキセントリシティ)は、ダダを転回点として遡れば当然普遍的な道化の伝統に行きつくわけであるし、時間を下れば、世界の道化化現象の示顕形態であると言い切ることも不可能ではない。
二十世紀の知的スタイルに対するダダの華々しい貢献の一つは、専門領域の観念の克服であった。各領野のきまりきった表現のスタイルを越えるような深層の現実との接触が彼らの基本的な方法論になった時に、ダダイスト達は、理性と反理性、意味と無意味、計画と偶然、意識と無意識の境界をとり払ったように、極く自然に、芸術表現のジャンルに乗り越え難い垣根は存在しないことを発見した。こうして二〇年代ロシアのマヤコフスキーが詩人であり画家であり俳優であったように、二十世紀最初の越境型知性となった。彼らは絵画から彫刻へ、画像からタイポグラフィへ、コラージュへ、写真やフォト・モンタージュへ、抽象形態から巻物絵画へ、巻物絵画から映画へ、浮彫りへ、発見されたオブジェへ、レディ・メイドへと越境した。「芸術間の限界消失とともに、画家が詩に転じ、詩人が絵に転じた。いたるところに新しい無限界性が反映していた。……そして道はあらゆる方面に通じていた?!」(リヒター前掲書、九三頁)
こうしてダダは、今日、知的探求の他の分野に起りつつあることの最初の「かたち」を示したのである。それはあたかもジャリと共にダダの直接の先駆者の一人アルチュール・クラヴァンが、国境について行い、ジャック・ヴァシェが軍服について行ったことでもあるのだ。オスカー・ワイルドの甥を自称し、ヘビー級世界チャンピオン、ジャック・ジョンソンに挑戦し一撃でノック・ダウンされたクラヴァンは、嘲笑術の大家であった。一九一五年から一六年にかけて彼はヨーロッパ中を放浪していたが、彼は、パスポートというものを一切所持しなかった。従って彼は常に指名手配されていたのであるが、どういう風にか、うまく逃げ廻って全然逮捕されることがなかった。彼は知的領域でそうであったように境界というものを認めていなかったのである。ブルトンによれば、ヴァシェは全く新しい文学・芸術の概念を主張した。その概念とは「美しい見世物として、すなわち、旅まわりの大道芸人、あるいは猛獣使いの概念に通ずるものである。」(ブルトン編前掲書、一二〇頁)彼が既成のコミュニケーションの形式を否定したやり方は、今日、出版という行為が切実に直面している問題の解決でもあったのだ。
彼は、「現在」という雑誌を五号まで独力で刊行したが、書店嫌いで、「現在」のバック・ナンバーを、大道八百屋の運搬車におしこみ、街中にたたき売りにいった。このエピソードは、マルクス兄弟の「マルクス一番乗り」という作品で、チコがやはりアイスクリーム売りの大八車に、使い古しの電話帳を押し込んで、予想の暗号解読のための付録といっては大金をとって押しつける情景を想い起させる。つまり、物事が陳腐な形で経過することの拒否の姿勢と言えるだろう。
ヴァシェの軍服についてのからかいぶりはブルトンのよく伝えるところである。彼は軍服を着て戦争に参加する。しかし彼がどんな軍務に従事していたかは誰も知らない。彼は「何事にも役立とうとせず、……積極的に害を加える[#「害を加える」に傍点]ことに心をくだかなかった。」(ブルトン)映画「ストロングマン」の道化ハリー・ランドンは、機銃兵として第一次大戦の前線にいる。彼の行方が知れない。彼は独りで畑の外れで、機関銃を傍らにおいて、パチンコで作物を荒らすスズメを追っている。
ヴァシェは仕立ての立派な軍服を得々と着こんでいる。ところが、その軍服たるや、片方は≪連合≫軍、もう一方は≪敵≫軍という工合に合成されていた。この服装を使ってアイデンティティの破壊は、舞台道化が半ば男、他の半分の服を女という風に着るという伝統に全く合致する。
一つのアイデンティティをさらりと捨てるというのは、王位を捨てて放浪の音楽家になったバチャマ族の道化ムブルムにはじまって、トーマス・マンの詐欺師フェリックス・クルルに至るピカロ小説の反主人公達の常套手段であった。ダダ達は、こういったアイデンティティに距離を置くか破壊するかといった技術を日常の生活に持ち込んだのである。
このように、クラヴァンやヴァシェ達の行為はそのまま道化が演じてきた役割りを継承したものである。道化は一つの文化の中で最も中心的と思われている部分にさえ、あるいはそこにこそ疑問を提出する。その最もよい例が、シェークスピア劇の道化たちである。道化の前では王すらも一片の無価値な記号と飾りの寄せ集めにすぎなくなる。シェークスピアの道化についてはオーウェル、エンプソン、オーデンといった、鋭い筆致をもって鳴る分析家たちが、それぞれ、道化の正当性を証言している。しかし、混沌の中に潜む、量り知れぬ人間のエネルギーの曳き出し役として道化を指名した一人がヤン・コットである。
リア王――おれをばかな道化と呼ぶのか、小僧。(第一幕第四場)
という部分に焦点をあてて、王権すら、人間の迷妄の所産にすぎぬことを指摘し、道化は、仮構を装って世界の秩序を崩壊させ混沌を導入する劇的きっかけであるとヤン・コットは、コラコフスキーに託して説く。「万物を崩壊させるのが彼らの仕事だ。彼らは、神のおおいを剥がれ、イリュージョンを伴わぬ知識だけを残された、むき出しの世界に住んでいるのである。」(ヤン・コット、蜂谷・喜志訳『シェークスピアはわれらの同時代人』白水社、二七七頁)混沌の意識は、時によっては、主役の主題を明確に浮び上らせる作用をなす。サーカスの道化の芸の最も普通のタイプは、綱渡りや、他の曲芸を下手に真似て、主役の気取りを台無しにすると共に、主役が、形に嵌まった芸では表現することのできない空間、つまり、混沌のエネルギーの満ちた空間との接触を、道化は主役の演戯のパロディーによって可能にする。
道化のもたらす混沌の意識は、彼がもたらすどたばた劇的な混乱によって簡単に、しかも充分に実現することができる。つまり、人が簡単にできることがどうしてもできないことを示す演戯の巧みさによって、目的を達するより失敗する方に[#「失敗する方に」に傍点]、より大きい魅力があることを示したり、人が簡単に理解することを、痴愚を媒介として、意味のとり違え、駄洒落、モジリ、によって、語の意味作用を擾乱する。
確立されたエチケットという形をとった儀礼は、道化の好餌である。道化は、日常生活のシンタックスを意識的に擾乱する。あるべき時・所に、あるべきものがない、逆に無い筈のところに、無い筈のものを現出させるという工夫は、道化の最も好むところのものである。混沌を持ち込むことによって、道化はあらゆる事物、人、記号を混乱に捲き込み、それらを、最も身近な因果的関係、効果性を伴う連鎖の中からとり出し、それらの関係の中で失われている、遠い関係を顕在化させ、人、事物が本源的な輝きを取り戻す援けをする。道化の持ち込む混乱は、絶えず、事物の再生のための象徴的死という意味あいを兼ねている。
知のモデルの変革――社会科学から人間科学へ[#「知のモデルの変革――社会科学から人間科学へ」はゴシック体]
今日社会科学と人が呼ぶ知識の体系は、蓋然性の高い事象を中心に組み立てられた世界についての像である。この方法は、明確な定義を伴った概念と、この概念を中心に組み立てられた仮説と、この仮説を証明することの「信憑性」の高いデータの集積という手続きを持っている。この知識の体系は、その権威の源泉を客観性という超越論的基準に仰ぐ。この「主神」を強化するために、この知識体系は、人間の内的意識を直接の媒介とした世界の像を極力排除しようと試みた。真先に排除されたのは、肉体を媒介とした思考と、詩的現実であった。この点でそれは、経験的合理主義として、啓蒙主義の哲学と実証主義的自然科学を祖とし、「没価値性」つまり主観性を排除することによって成長したのである。これらすべての前提は、それぞれ精神史的根拠を持つものであるし、ここで一括して独断的に排除すべき性質のものではない。「没価値性」が持ち出された時の政治的環境において、この立場にそれ相応の理由を認めることはたしかに可能であったろう。
しかし、今日我々は、この知識の集積の方法論が、その儘の形では成り立って行かないことを知りつつある。何故であろうか。理由は色々挙げられよう。社会科学の約束した人間社会の技術論的ユートピアが崩れ去って行くのを我々は眼前に目撃しているのがその一例である。公認の知的形式としての社会科学は、大学のヒエラルキーと密着して、日常生活の秩序の中に組み入れられてしまった。そのために、日々生起する現象に対する鋭い感受性と柔軟性を喪失してしまった。その限りにおいて、計量可能な部分に現実を限定する社会科学の方法によって捉えられる現実は、極めて限られたものであることは次第に明らかになりつつある。この体系の柔軟性の欠如は、それが自らの方法に距離を置く術を殆んど備えていないという点に見ることができる。その結果、今日、昨日の安定した形式――それは大学という管理機構と結びついて人に安らぎを与える――として社会科学に依拠する人達を別にすれば、人は、世界を把握する方法としての社会科学に背を向けつつあるのは否定できない事実である。人は、社会科学が築いた「必然の帝国」に疑いの目を向け始めている。「必然の帝国」もその度はずれた過信によって、スコラ化し、ドグマ的となり、挙句の果て、人間的愚かさの一方の表現形態になりつつあることにうすうす気付きはじめている。
人間的愚かさを人が捨て切れないなら、逆に人間的愚かさを逆手にとってトータルに世界を把握する方法は、すでに道化的世界が開発しているところである。それは「必然の帝国」の中に偶然の橋頭堡を築いていく方法である(註15)。「偶然の橋頭堡」を通して必然の帝国を相対化していく方法、これが今日、探られている知的様式ではなかろうか(註16)。「知的越境《イクス・テリトリアル》」(スタイナー、由良君美氏の訳語)といった模索は様々の、嘗ては直ちに社会科学と結んで不思議ではなかった領域における探求の様式になりつつある。このように情報が過密になり、検索が容易になった世界において、情報と方法の独占による専門領域観に基づく、必然の帝国の番人、番人の組合としての学会、及び番人の縄張り調整にすぎない学際協力といった知的形式に頼っていたのでは、学問を通して、ダイナミックに現実を把握することができない、ということが痛感される時期に我々はさしかかっているのかも知れない。こういった時期においては、あるいは渡り職的な要素に向って学問という知的探求の型式が開かれることが必要である。渡り職とは、研究領域についても研究の場――アカデミーと非アカデミー――についても、国家的背景――国内と外――においても言いうることである。人の棲息する一つの場、一つの現実のレヴェルは、それに伴う、情感のヒエラルキーを発生させずにはおかない。歴史的現実と呼ばれるものが、情感のヒエラルキーに支えられた意味論的構造を持ち、その構造が、情感的排泄物の投棄の対象として負の価値を絶えず再生せずにはおかないという世界の構造について私は最近他の場所で論じてみた。(「歴史・祝祭・神話」、「歴史と人物」一九七三年四月号。単行本、中央公論社、一九七四年)こういった限定された場と現実の支配を脱して、多層な現実をダイナミックに捉えて行く方法論及び感受性を鍛えるためのモデルとして、道化の技術をもはや人は無視することができない。
嘗て、「文化の中の知識人像」(「思想」一九六六年三月号。『新編人類学的思考』筑摩書房)に収録と題する小文の中で、私は、知識人の原型が、アーカイックな文化における神話的トリックスターに対応するものであると説いた。本稿において幾度か強調してきたように神話的トリックスターは変幻自在性、境界(特に自然と文化という範疇)を取り払う能力を持つ。多くの場合、知識の新しい組み合わせに対応する故に、トリックスターは文化英雄(文化の新しい要素神を導入する)に擬せられる。この役柄は、まさに近代社会で、発生の時期の自然科学が演じたものであり、ユークリッド空間から相対性の時空の理論の導入への転機においても科学が果した役割に対応する。つまり、科学の中には常に、或る一定の時期まで秩序と考えられている自然についての知識の体系を覆して、導入された混沌の中から新しい秩序を再構成するという志向性の働くことを思いあわせると、真に創造的な科学者の中には常にアーカイックな神話のトリックスター=文化英雄の像に対応する部分のあることが知られる。
尤も、私は、道化型の他に司祭型と呪術師型という二つのタイプを想定したのだが、後にポーランドの哲学者L・コラコフスキーが「司祭と道化師――現代における神学的遺産」と題する文章で道化的知性と司祭的知性の対比を行っていることを知った。(小森・古田訳『責任と歴史――知識人とマルクス主義』勁草書房、一九六七年)この論文の後半の部分で、コラコフスキーは真に創造的な知性者を守旧的な知性に対比して道化的と規定している。この二つのタイプの対立、つまりラディカリズムと保守主義のそれは、人間生活のあらゆる分野で殆んど不治であるように見えるとコラコフスキーは説く。彼によれば、殆んどすべての歴史的時代において、司祭の哲学と道化師の哲学とは、知的分化の二つのもっとも普遍的な形式であった。
[#この行1字下げ] 司祭は絶対的なるものの管理人であって、伝統に根ざした最終妥当的で明白なことへの礼拝を擁護する。道化師とは、良き社会の常連ではあるが、この社会の成員ではなく、この社会を彼の無遠慮なせん索の対象にする人で――自明と見えることを疑う人である。……道化師はアウトサイダーであり続けねばならぬ。……道化師の哲学は、疑問の余地なく見えるものを、いつの時代でも、疑わしいと告発する哲学である。それは、明白で論議のないように見えるものの中に、矛盾を指摘する。それは常識をからかい、愚劣の中に意味を読む……。
[#地付き](同書、二九六頁)
あるいは、コラコフスキーの言う道化師の知的文化の伝統は、ソクラテスにはじまって、フッサールの現象学の「かっこに入れる」思惟の中に生きていると言えるかも知れない。事実、戦後日本の思想状況の中では、どうひいきめに見ても、道化的知性の占める比率は問題にならないくらい低かったということは否定できない。権威あるアカデミーの学問は、それがタカ派を標榜しようと、進歩・良心的であることを標榜しようと、圧倒的に「絶対的なるもの」の管理人の側に立って発想されて来た。そして「伝統に根ざした最終妥当的で明白な」手続きへの忠誠は、日本の知性の「真面目」主義と共に、思考を自由の空間へ向けて放射するよりも、固定したものへ結びつける機能をより大きく果して来た。従って、自ら批判的、あるいはラディカルという立場を掲げる知性も、実は、多くの場合は、司祭的知性のオールタナティブである場合が多く、本人の意図するとしないとにかかわりなく、外在的な権威への跪従を大衆に要求し、自らの立場のあかしを「真面目」さに置くという点で、こういった人達の批判の対象と殆んど異ならない場合が多い。
この安定した形式性に賭けるか、生き生きした想像力に賭けるかという点で、大多数の知性は、前者を選んだようである。作家の田中英光とか、坂口安吾といった人達は、後者の道を選び、自滅の方向をたどっていった。勿論、彼らに対する前者及び、ジャーナリズムの反応は全く冷淡であった。というのは、両者ともに、安定した世界に自らの存立の根拠を置いていたからという他に言いようがない。「反対の考えの中に、種々の正当な論拠がないかと反省する、限りない試み」が道化の基本的な態度であると明言するコラコフスキーは、この点を衝く。「道化師がからかうのは、安定した世界を信用しないからである。起るべきことはすべてすでに起ってしまったと思い込まれている一世界の中で、道化師の貢献は、それが克服せねばならぬ抵抗のお蔭で繁茂する生き生きとした想像力である」と。
「安定した世界」を疑ったという意味で、六八年の学生の運動は、一見道化作用を含んでいるかのような幻想を抱かしめた。しかし、多くのエネルギーは無駄に費消されてしまったかのようである。これらの批判的知性の多くは、真のオールタナティブを創り出すよりも、いくらかの見すぼらしい「|犠牲の山羊《スケープゴート》」を生み出すことに浪費され、自らを司祭の位置にすえたいという政治空間の生み出す毒気から免れることを得なかった。従って、六八年に学生によって、鋭く、彼らが充分に意識することのないうちに提起されたかのように見えた知識人と道化の問題は、殆んど解決されることなく放置されることになった。道化は、精神的に他人を殺す術に長けているが、肉体的に他人を殺す権力とは一切無関係の知の位相の謂いに他ならない。一人の人間が、様々な正当化される理由で人を殺すことはあり得ても、それは、如何なる場合においても道化作用と両立はしない。そういった意味で、道化は永劫未来に亘って呪われた存在である。しかし、そのことによって、知識人としての道化は、世界を対象化し、自らを対象化し、世界に深い意味での統一をもたらすことができるのである限り、知識人は、この立場を抛棄することはできないであろう。
[#ここから2字下げ]
(註1[#「1」はゴシック体]) 典型的なナポリ気質を反映した仮面道化。イギリスの人形劇パンチの祖形とも言う。白いだぶだぶな服、長く白いとんがり帽、高い鼻の仮面、背中の瘤が特徴。うすのろで利口、白痴をよそおったり、利発をよそおったりする。物わかりがよいが迷信深く、臆病で向うみず、すぐ他人を撲るが何時も撲られ役という二重の矛盾した性質の持ち主として描かれる。
(註2[#「2」はゴシック体]) この点に関しては、ラディン、ケレニー、ユンクの共著『トリックスター』の中の次の論文を参照されたい。C. G. Jung, On the Psychology of the Trickster Figure, in Radin, Kerenyi, and Jung, 'The Trickster,' New York, 1956 & 1969.(皆川・高橋・河合訳、晶文社)
(註3[#「3」はゴシック体]) 禅の公案があるいはこういったユダヤ的機智に対応するものを持っているといえるかも知れない。詩人瀧口修造氏が近年試みている詩作の方法の一つとして、生活の流れの中で、突如として、湧いて来る短い語句を、整除せずに記述する方法がある。この方法は、ダダやシュールレアリスムの自動筆記法の原型とも言うべきものだが、瀧口氏の試みは、むしろ、ライクが認めたような偶然の必然を捉えようとする方法に近いと言えよう。「曖昧な諺」(「本の手帖」一九六九年四月号)と題する短文と諺の語録の中で瀧口氏が「柳田国男は諺のはじめは相手を攻撃する武器だったのかも知れぬと書いていたと思うが、これは挑発的異説とすらいまは聞える」と述べているのは我々の文脈では興味深い。
(註4[#「4」はゴシック体]) アフリカあるいはアメリカ・インディアン、ポリネシアを始めとする多くの世界では、社会構造の中に、ジョークの関係という形で、ふつうは日常生活から排除されている、悪ふざけ、冗談、いちゃつき、盗み、悪罵といった行為が、制度的に容認されたチャネルの中で、表現されうることは社会人類学の領域では、その象徴的意義は別として、よく知られている事実である。(拙稿「道化の民俗学」(6)参照)
(註5[#「5」はゴシック体]) レオ・ロステンの「イディッシュの娯しみ」(Leo Rosten, 'The Joys of Yid-dish,' Penguin Books, 三五二頁)の「シュレミール」の項には凡そ次のような定義が与えられている。
1、馬鹿な人間、阿呆。2、一貫して不運で不幸な人間。3、みじめで、指にバターを塗った、すべてが親指の、ガウチョ型の人間。4、社会的不適応、生れながらの適性欠如型の人間。5、うぶで、信じやすく、のろまな者。6、値切るのが下手な人、負けると明らかにわかっている分の悪い賭をする人。
(註6[#「6」はゴシック体]) この点を通観するのに、外形的な道化に限れば、E・ウェルスフォードの、近年の道化への各々の知的領野での関心の昂まりによって古典的名著の地位を獲得しつつある『道化』の右に出るものはないであろう。
もっとも、ウェルスフォードの射程はヨーロッパを超えて中近東アジアにも及んでいる。このほかヨーロッパ的世界での道化について比較的広い(文化史的)視点からなされたものに、次のようなものがある。
ウィルフォード『道化とその錫杖』(W. Willford, 'The Fool and his Septer,' Evanston, 1969) 精神分析学とシェークスピア研究をふまえて、神話・象徴的立場からウェルスフォードの立場を押し進めた。
W・カイザー『狂気の賞揚者達』(Walter Kaiser, 'Praisers of Folly――Erasmus, Rabelais, Shakespeare,' Cambridge, Mass., 1963) ユマニスムにおける狂気と道化についての比較文学論的研究。似たような立場に立つものとして、
ジョエル・ルフェーブル『狂人と狂気』(Joel Lefebvre, 'Les fols et la folie, Etude sur les genres du comique et la cretion littaire en Allemagne pendant la Renaissance,' Paris, 1968)カーニヴァル演劇、『愚者の船』のブラント・ムルナー、エラスムス、ティル・オイレンシュピーゲルについての博学と詩的感受性の均衡のとれた研究。外国文学研究の理想的な形がみられる。
その他勿論ミハイル・バフチーンの『フランソワ・ラブレーと中世・ルネッサンスの民衆文化』(川端香男里訳 、せりか書房)は『ドストエフスキー論』(新谷敬三郎訳、冬樹社)と共に、カーニヴァルの伝統の中での道化のメタフィジカル・パタフィジカル(ジャリ)な考察のために欠くことはできない。
社会科学の領域ではドイツの社会学者ラルフ・ダーレンドルフの短いエッセイ「知識人と社会」とアメリカの社会学者(ドイツ系)ハンス・スパイアーの博学な研究論文「道化と社会秩序」がある。Ralf Dahrendorf, The Intellectual and Society : The Social Function of the "Fool" in the Twentieth Century, 'On Intellectuals,' ed. by Philip Rieff, Anchor Books.(徳永殉訳、「ユリイカ」一九七三年六月号)Hans Speier, The Fool and Social Order, in 'Force and Folly,' Massachusetts, 1969.
人類学的資料を中心に考察したものでは、私が様々の機会に試みた考察でほぼ輪廓がつかめる筈である。
(註7[#「7」はゴシック体]) 事実、ジョン・レノンはローリング・ストーンズ誌のインタヴューでビートルズの演奏旅行をフェリーニの「サチュリコン」の探求に譬える。彼自身最も尊敬する映画作者としてフェリーニを挙げる。(『レノンの回想』'Lenon Remembers,' Popular Library, New York, 1971. 八四、一六七頁)レノンの詩の一つ「丘の上の道化」(「丘の上の馬鹿者」)は次のようにキリストを唱う。
来る日も来る日も ただひとり丘のうえにいて
馬鹿のような薄笑いを浮べた男が じっと動かずにいる
かれは ほかのひとたちに耳をかさない
ほかのひとたちこそ馬鹿者なのだ ということを知っている
みんなは その男が嫌いだ
だが丘のうえの馬鹿者は沈む陽を見る
頭の中にある眼で 世界がまわるのを見る(三木・片岡訳「ユリイカ」一九七三年一月、一五〇頁)
(註8[#「8」はゴシック体]) この点を説いて説得力のある研究は少し古いが、俳優あがりのカール・マンツィウスの『モリエール、劇場、観客及び同時代の俳優達』(Mantzius (K.), 'Moli屍e, les th脂tres, le public, et les com仕iens de son temps. Trad. du Danois.' Paris, 1908)である。
(註9[#「9」はゴシック体]) ここで、改めて、サーカス及び映画における道化の鞏固な残存は問わないことにしよう。道化の中世的伝統から説き起しているが、特にゴーチエをはじめとするフランスロマン主義の作家詩人からアポリネールに至る道化的感受性と、十九世紀以降の絵画的世界における道化的世界観を精神史的見取図の上に定着した研究として、ジャン・スタロビンスキー『曲芸場の芸術家の肖像』(J. Starobinski, 'Portrait de lユartiste en Saltinbanque,' Gen思e, 1970)がある。一九二〇年代の革命ロシアにおける道化的モデルの蘇生については、手に入り易いものを挙げるならば、次のものがある。
A・M・リッペリーノ『マヤコフスキーとロシア・アヴァンギャルド演劇』(小平武訳、河出書房)
革命後ロシア演劇における道化について、私は『歴史・祝祭・神話』「演劇と道化」で論じた。
近代文学における道化の復権を最も早く指摘したのは流石、ヒュー・ケンナーである。彼は『禁欲的喜劇役者達』(Hugh Kenner, 'Flaubert, Joyce and Beckett――The Stoic Comedians,' London, 1964) でジョイス及びサミュエル・ベケットの作品を道化文学という観点から分析した。ベケットについては今日この観点は殆んど常識にすらなりつつあるが(高橋康也『ベケット』研究社、参照)、ジョイスについては『フィネガンズ・ウェイク』がクリスマン・パントマイムの道化劇の延長にあるとする研究(James Atherton, ヌFinnegans Wake : the Gist of the Pantomimeネ 'Accent,' XV, winter, 1956, p. 14―26)、『ユリシーズ』にドタバタ劇を読みとろうとするデヴィッド・ハイマンの研究(David Hayman, Forms of Folly in Joyce, A Study of Clowning in Ulysses, 'English Literary History,' XXXIV, 1967, winter) 及び同じ研究者の神話論的分析(Clowns et farce chez Joyce, 'Poetique,' 6. 1971, pp. 173―199) などがある。
ドストエフスキー(『白痴』)、カフカ(『変身』、『審判』)、ディケンズ(『大いなる遺産』)、フォークナー(『八月の光』)、フラナリー・オーコンナー(全作品)、ウイリアム・バロウズ(『裸のランチ』)、ナボコフ(『ロリータ』)、ソール・ベロー(『雨の王ヘンダーソン』)、ジョン・ホークス(『|第二の皮《セカンド・スキン》』)、サミュエル・ベケット(三部作)、ラルフ・エリソン(『見えない人間』)、ギュンター・グラス(『ブリキの太鼓』)等に焦点をあてて(我々はこのリストにナサナエル・ウエスト及び坂口安吾を加えることができる)、道化的手法による世界の解体と再構築が現代西欧文学の最も顕著な底流であることを見極めたのがリチャード・ピアースの『道化の舞台』(Richard Pearce, 'Stages of the Clown, Perspectives on Modern Fiction from Dostoyevsky to Beckett,' London, 1970) である。
非条理演劇が或る意味では道化の伝統の復活であるという事実を慧眼にも見抜いたのは、マーティン・エスリンであった。『不条理の演劇』(小田島他訳、晶文社)は二十世紀の西欧演劇における道化的主題に関する最も行き届いた考察である。特に第六章「不条理の伝統」は道化の精神史として最も簡にして要を得た叙述といえる。
(註10[#「10」はゴシック体]) とすれば道化の術は殆んど人類学の姿勢に連なることを知る。ただ人類学は様々の異なるモデルを他の文化から取り出して示すことは出来るが、自分の属する文化の中で積極的にオールタナティブを示すことは出来ない。しかし前段階では、人類学者といえども短銃の所持者でありうるのである。
(註11[#「11」はゴシック体]) ところで、このアンドレ・ジッドの作品、特に初期の一連の作品『法王庁の抜け穴』、『プロメテ』、『ラフカディオの冒険』、『贋金造り』、『パリュード』等を、ディドロの『運命論者ジャック』や『不謹慎な宝石』、『ラモーの甥』、『ダランベールの夢』、『修道女』等と対比して道化文学として分析し、中世の道化劇《ソテイ》の伝統にてらして分析した研究者がいる。C・N・ライドロー『エリシア的出遭い――ディドロとジッド』(C. N. Raidlow, 'Elysian Encounter――Diderot and Gide,' New York, 1963) 特に第四章「道化達とその演劇」。
(註12[#「12」はゴシック体]) この相反するものの一致は、ダダのみならず、西欧思想史の伝統の中ではニコラス・クザーヌスからさらにフィロンの新プラトニズム及びヘルメティズムに遙かに連綿と連なる弁証法的伝統の一端にすぎないこと、そして道化の芸は、思弁的な言葉を介しないでこの豊饒な知の伝統に環帰する手段であったことを、私は様々な機会を得て論じて来た。
しかしこの思考は宗教史学者エリアーデの指摘をまつまでもなく、殆んど普遍的に何れの文化にも見出されるものである。それは禅を媒介とした日本中世の思想にもその反映をみることができる。たとえば世阿弥の伝書には、この原理に対応する思考が散見する。世阿弥十六部集の一「遊楽芸風妙感意見五声位云」(能勢朝次『世阿弥十六部集評釈』上、岩波書店、七〇三頁)では、
妙者、離二有無一亙二有無、一無体顕二見風。一然者、非レ所レ可レ及二褒美。一(妙とは有無を離れて有無に亙る。無の体、見風に顕はる。然れば、褒美の及ぶべき所にあらず。)
多分この表現は、近松の「虚実皮膜の間」に対応するものであろうが、結局帰一するところは、至高の現実性を、日常生活において反応している二つの原理(究極的にはプラス・マイナス記号で表現されるもの)の一致という理念であろう。世阿弥が二つの理念を意識していたことは、更に妙について触れている他の表現、たとえば『拾玉得花』の「妙とはたへなり。妙なると云ふは、形なき姿なり」でも明らかである。又『九品次第』では、
妙花風、新羅、夜半日頭明なり。
妙と云は、言語道断、心行所滅なり。夜半の日頭、是又言語の及ぶべき処か。
とある。故能勢朝次氏は「新羅夜半日頭明」という表現の出典として五山版の禅書「注心経」の「無明」の条と、世阿弥の一時代前の夢窓国師の語録の下巻の中の偈文に同じ表現を見出している。この件りの能勢氏の語釈には次の如くある。
[#この行1字下げ] 能楽に於ける妙花風といふのも、言語に絶したすばらしさを示すものであるから、(禅の表現と――引用者)一脈相通ずるもののあることが思はれる。……「夜半日頭明」とは、頗る矛盾した語であつて、夜半であれば太陽の照らす筈はなく、太陽が照らしてゐるならば、夜半ではないわけで、所謂禅的見地に立たなくては、透過し得られないものである。ただ我々は、かうした矛盾が些の矛盾もなく存立し得る別天地――禅の見方に於ては、これが矛盾ではなくなつて来る筈である――の存在を想像して、その無礙の世界、言語に絶し思念を越えた世界の風光を想ひみるのである。(前掲書、五四九―五〇頁)
能勢氏の「別天地」と呼ぶところを、我々は「現実」の最も深層のレヴェルという表現に置きかえることによって禅=世阿弥=能の開示する究極現実の相を、普遍的な思念の伝統において読み解くことができるかも知れない。
『マクベス』第一幕第一場の三人の魔女の「きれいはきたない、きたないはきれい」(小津次郎訳、『シェイクスピア全集』7、筑摩書房)という表現は、この伝統に無関係ではあるまい。リルケ『ドゥイノの悲歌』(「第五の悲劇」)に唱われる「そこでは純粋な寡少が解しがたく変容して――あの空無の夥多《かた》へと急転する」という「|どこでも《ニルゲンツ》ない場所」(手塚訳、「世界文学大系53」筑摩書房)も又そういった普遍的な伝統の表出に外ならない。
(註13[#「13」はゴシック体]) あるいは偶然に対する感受性がユダヤ人をして、一方では深層心理学の領域を開拓せしめ、他方では伝統的な道化、二十世紀アメリカにおいてはマルクス兄弟、チャップリン、ゼロ・モステル、サム・レーヴェンソン、カール・レーナー、マイロン・コーヘン、ミルト・ケーメン、ジョージ・ジェッセル等々といった即興性の高いすぐれた道化役者を輩出せしめたのかも知れない。
(註14[#「14」はゴシック体]) マルソーでは縁が遠すぎると思えば能狂言「木六駄」のシテの演戯を想起してもよい。身体の分解による再統合の演戯をエイゼンシュタインは歌舞伎役者の中に見た。モンタージュという現実の像の分解と再統合の技法は、まさに同じ意味あいを持っている。あるいはエイゼンシュタインは、歌舞伎以前に、彼が大いに没入したコンメーディア・デラルテやサーカスの道化役者の演戯に見出していたのかも知れない。モンタージュの説明の文章の一つで、彼は、二つの矛盾する演戯を重ね合わせることから来る喜劇的効果が「モンタージュ」に外ならないと言っている。(S. M. Eisenstein, Word and Image, in 'The Film Sense,' London, 1942, pp. 15―16) エイゼンシュタインがジェームズ・ジョイスと親しく、その『フィネガンズ・ウェイク』を特に好んでいたのは偶然のことではなさそうである。
(註15[#「15」はゴシック体]) 最近のフランス社会学の、社会事象の中の「事件」的要素への関心は、「必然の帝国」に支配されて来た社会科学の中に「偶然」を通して現われる潜在的現実の探究への方向転換の徴しと見てよいかも知れない。(「コミュニカシオン」誌、一九七二年、≪事件≫特集号、第18号及びエドガール・モラン、杉山訳『オルレアンのうわさ』みすず書房、参照)少くとも、表面的には、この関心は、ダダの知的探究のスタイルがついに社会科学の領域へ入って来たことを示すものであると言ってよいかも知れない。
(註16[#「16」はゴシック体]) 社会人類学の領域では――人類学自体が非西欧社会をモデルとした偶然の組織のための学問分野であるということを別にすれば――w・ターナーの南ローデシアのンデンブー社会のウィッチクラフト研究が早くからそのような、危機を通して噴出する例外的要素(偶然)の法則性の研究に先鞭をつけていたと言える。(W. Turner, 'Schism and Continuity in an African Village,' Manchester, 1956. 特に序文)
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民俗と周辺的現実
この数年来、人文科学又は社会科学という言葉が使用される頻度はやや減少し、それに代って人間科学≠ニいう言葉の使われる頻度はいくらか大きくなって来たということに気づいている人は少くないであろう。このような言葉も乱用されるとたちまち風化作用をとげるのであろうが、少くとも今日まだ、或る程度の積極性をもって使われてはいるようである。人間科学という言葉が好んで使われているのはフランスとアメリカであろうが、この言葉にはどのような学問についての考えが含まれているのであろうか。勿論フランスとアメリカにおいては、いくらかのニュアンスの違いがあるが、ざっと整理してみると次の如き概要になるであろう。
(1)人間を、単なる外的刺戟に対する反応の束とみなすことにおいて成立している行動主義(ビヘービアリズム)の単純な因果論に基づく行動科学に対する反撥。
(2)新しい人間学の確立をめざすための、人間についての形而上学的考察を含む。
(3)人間の行為の象徴論的次元をとらえるのに有効である記号学(セミオロジー)的アプローチを中心とした、既成諸科学の隣接領域の再編成又は個別科学の閉鎖性からの脱却。
(4)西欧の啓蒙主義哲学のネガティブな遺産である、経験論的合理主義の概念構成から、これまではどちらかというと排除されがちであった領域の重視。つまり、行動主義よりも精神分析学的心理学の重視、文学作品の神話論的分析、人類学・民俗学の重視。
(5)人間経験の質を、人間の生きる主観的世界を排除することなく、根元的に問いなおす学際的運動であるために、この中で現象学の果す役割りは大きいと考えられている。
多少手前味噌的な整理を試みすぎたきらいもないでもないが、アメリカ及びフランスの民俗学研究は、たしかに、こういった転回点を基軸にして、一つのルネッサンス期を迎えつつあるように思われる。アメリカの民俗学においては、メルヴィル・ジェイコブスやアラン・ダンデスなどの記号論的方法は定着化しつつあるように思われる。そのよい例はアメリコ・パレデスとリチャード・バウマン編になる『民俗学の新たなる視角』(一九七一)に寄せられた諸編が示している。フランスにおいては、アルノルド・ヴァン・ジェネップ(『通過儀礼』の著者)が民俗学と民族学の相接する領域に、民間学者として孤軍奮闘しつつも、ついにモースを中心とするアカデミーに拠る民族学者の容れるところとならず世を去ってから、民俗学は、イギリスにおけると同様に、地方の好事家の手にゆだねられる傾向があった。ところが、ここ数年の間に、人類学者レヴィ=ストロースの影響の許に若い研究者が続々と、フランス及びスイスの農村の民俗学的研究を開始しだした。こういった傾向の上に立ってジャン・キュゼニエは昨年春に「フランス民俗誌学」という雑誌を新装なった民間伝承博物館を中心に創刊し、民俗学の記号論的方向の開拓の立場を推しすすめはじめている。これらの傾向に立つ研究者は、時には料理の記号論、踊りの記号=象徴論的分析を試みる他、民俗的事実のレヴェルにおけるコミュニケーションの体系に関心を寄せている。同時に、記号学の探究誌「コミュニカシオン」に依る記号学者クロード・ブルモンは、フランスの昔話の形態分析を積極的に進めている。これらのアメリカ及びフランスの民俗学研究の方法論的にラディカルな研究者に特徴的な立場は、民俗学的事実を、それに当事者が与える説明を中心にではなく、それらが表現される形態(フォルム)そのものにおいて捉えようという点にある。つまり、基本的には、我々の判断、彼らの判断を共に一時カッコに入れて、彼らの生きている生活世界の構造を媒介として対象にせまる態度である。これは、当事者の判断、調査者のナイーヴな判断を無視するということを意味するものでなく、その両者の判断をすら主観性の形態として対象化するという立場を含むものである。ここから、対象に対する過度の思い入れは排除され、感情的もたれ合いの上に成り立つ表層的な理解――無方向な蒐集趣味という方法論的貧しさを隠すためによく使われる手段――を越えた場において民俗学的事実における人間経験の質を明らかにしようとする立場が形成されてくる筈である。
私がこのような方向について言及しているのは、決して、新しがり屋の衒学趣味からではなく、人間科学の運動の中で柳田・折口学の遺産を摂取するために、現に起りつつあることについてこの程度の理解は必要であると思うからである。ところで、人間科学の中で民俗学を再考するにあたって、柳田・折口の中でどうしてもこの辺で訣別しなければならない部分がある。それは、柳田が唱導し、折口がそれに従ったと見られる学問におけるショーヴィスム(排外性)である。一九二〇年から三〇年代に、当時土俗学と称した学問の、いささか粗っぽい直輸入の概念の民俗学的事実に対する適用に基づく解釈論の横行に対して、柳田についで、折口が学問上の鎖国≠断行したのは、在野の学問として当然の措置であったと今日言うことができる筈である。しかし、それは学問の血肉の純度を保つのに大きな貢献をなしとげたが、普遍性という点から今日見ると、相当大きい負い目も背負わせることになっている。故石田英一郎氏がこの点を批判して以後このような問題があるということはよく知られて来た。ここで、再びこの問題をとりあげるのは単純な比較方法論という観点からではない。
柳田が西欧直輸入の学に対する嫌悪の情を明らさまに示し始めたのはいつ頃のことなのであろうか。この点に関して、形成期の柳田学について書かれた「民俗の思想」(「現代日本思想大系30」筑摩書房)、一九六四年の巻頭解説における益田勝実氏の論点の整理は、様々の点で示唆的である。
益田氏は先ず今世紀初頭の〈土俗学〉の人間についての手触りの感触を強調する。つまり土俗学には次の二つの面が混在していたとする。(1)「そこいらの町村で働いて食らい、着たり脱いだり、寝たり起きたり、思いごとをしたりする、体臭の抜けていない人間を相手どる。」(2)「妄想と執念、欲望と悪あがきの人間に関心を寄せる。」この二つを切り離すことに益田氏が同意するかどうかはわからないが、氏がつづけて、このすべての傾向性を日本民俗学が受け継がなかったと指摘していること及び南方書翰の次の部分を引いている点からみて、(2)の部分が脱離したことを指すと考えて益田氏の真意を誤ることはなかろう。「……この『郷土研究』は貴族院書記官長柳田国男氏(小生面識なき人なりしが、一昨々年末、尋ね来たり、対面せし)が編纂にて、ずいぶんよく編み居るが、氏は在官者なる故、やゝ猥雑のきらいある諸話はことごとく載せず、これドイツなどとかわり、わが邦上下虚偽外飾をたつとぶの弊に候。小学児童を相手にするとかわり、成年以上分別学識あるものの学問のために土俗里話の事を書くに、かようの慎みははなはだ学問の増進に害ありと存じ候。」(大正五年月日不明、六鵜保宛書翰、益田氏の引用による)
南方の柳田批判の立場は、ここでは、過度の慎しみ、猥雑さの切り捨てという点に集約されているが、これは、皮相な言い方をすれば、柳田民俗学に絶えずつきまとっている或る種の道徳性への執着について発せられた言葉の最も早いものの一つであろうと思われる。益田氏は南方と柳田の間に存在した違いを、前者の〈怪奇性〉への執着、学問の外来的性格、後者の〈日常性〉への還帰、学問の土着化という二つの側面として捉え、それらを日本民俗学の経た継起的な歩みとして跡づける。
たしかに今日、柳田学をふりかえってみると、そこには、民俗生活において、たとえば性の占めた部分への知的配慮は、若者集団及びその習俗について語られるときを除いて比較的薄かったということは否定できないであろう。つまり問題の展開が日常生活の道徳をそう距てないところで行われていたというべきであろうか。この点は、柳田が、今日めざましい再評価の機運に遭いつつある精神分析学的民俗学・人類学者ゲザ・ローハイムの著書を読んでいたという事実を考え併せていささか口惜しい気がしないでもない。『笑の本願』に収められた「笑の文学の起源」という文章の中で柳田はローハイムについて次のように触れている。「未開人の笑を研究しようとした人の中に、洪牙利の学者ゲザ・ロハイムがある。彼の説に依れば濠洲の黒人などは、独り力闘の勝利を得た場合のみならず、色慾食慾の満足、それから下体の張切つて居るものを、排泄し得た場合にも笑ふとある。さうして彼等の神霊も亦之と同様なる状態に於て、快げに大いに笑ふものと信じて居るとある」と。ローハイムには、笑いを標題にとった本はないので、ここで柳田がどの研究について言及したかは定かでないが、柳田の言うように、彼はハンガリー出身でその多彩な学問的キャリアを東欧民俗学ではじめた学者である。ライヒ、ローハイム、マルクーゼというフロイトの系譜を曳く知的にラディカルな精神分析学者の思想を検討した著作の中でポール・A・ロビンソンは次のようにローハイムを素描する。「ローハイムはライヒと同様に多産な著作家だった。……その学殖はけたはずれで、いりくんだ精神分析学説でも一家をなしていたのはもとより、人類学の基礎文献に精通し、あわせて古代史と神話学の研究者でもあった。前代西欧の文学的伝統を広範にわたって渉猟し、聖書原典批評の領域でも博覧強記の愛好家でとおっていた。……三〇冊の著作と数百編にもおよぶ学術論文は、ハンガリー語、ドイツ語、英語のいずれかで、だいたい平均しておなじ分量ずつ書いている。……けたはずれな学殖があるにもかかわらず、それをひけらかすような俗物ではなかった。……その筆致は無尽蔵とも思われる神話、民間信仰、儀式などの詳細な記述にみちていて読む者を圧倒せずにはおかない。……かれには複雑な理論分析をぎりぎりまで追求する才があって、著作中にみうけられる論理のおおくは綿密に組みたてられており、フロイトの著作にくらべてみても遜色がない。かれは精神分析の歴史のうえでも最重要人物のひとりであるばかりでなく、おそらく二十世紀精神史をみわたしてみても異彩をはなつ巨人だったにちがいない。」(平田武靖訳『フロイト左派』せりか書房、八七―九頁)
ローハイムの資料源の幅は極めて広汎であったが、就中、東欧の民俗学は『鏡の呪法』(一九一七)や『アニミズム・呪術・神聖王権』(一九三〇)をはじめとする彼の著作の中で際だった重要な位置を占めている。彼の立場を短い言葉で尽すことは殆ど不可能であるが、それでも、フロイト学派の言う幼児の性体験が、人間の世界感覚の原体験に拡大される、人間文化の諸制度はまさにこの原体験に対応することによって成り立っていることを彼はあらゆる機会を通じて力説したと言いえよう。彼は特に、他の研究者が象徴作用を見出さない民俗的次元に象徴を摘出・分析する力に秀でていた。そのため、こういった象徴作用のこだましあいの中に、文化的宇宙の構築物を読みとることに長じていたと言いえよう。ローハイムの理論は、特に政治世界の分析に、その持ち味を遺憾なく発揮した。そこで柳田がローハイムの理論の一端に接しながら、特に、彼の文化の中の性的象徴作用に感銘を受けることなく、これを看過してしまったらしいのは、やはりその後の日本の民俗学、ひいては、精神分析学と象徴分析において出遭うことによって、人間科学の形成に大きな比重を占めることができる筈の民俗学の日本的展開という点から考えて惜しまずにいられない。同じことは、南方についても言いえよう。南方が当時博物学の一大中心であった大英博物館に席をおいたことは、彼の途方もない知識欲を満たす上に好運であったと言う可きであったろうが、彼の猥雑さと怪奇への学術的期待に格好の理論的方向づけを与え得たのは、むしろウイーンであったのかも知れない。ローハイムの精神分析学的民俗学は、南方が似たような知的環境におかれたならば展開したと想像される可能性を示している。
尤も民俗学と精神分析学に同じ程度の知的情熱を傾けた世代の出現は、彼の帰国後であるから、やはり、南方はあらゆる意味で少し早く生れて来すぎたと言うべきであろうか。しかし、そのローハイムも渡米後全くの無理解に囲繞されて生涯を了えたのは偶然の一致とは思えない。
益田氏の南方=怪奇、柳田=日常性という図式を単純化してしまうと身もふたもなくなってしまうし、益田氏もこの二つが両者の相容れない相違であるとは言って居らず、一九一四年の「郷土研究」をめぐる両者の論争を見ると、両者の対立が一筋縄では扱えぬ性質の問題を含んでいることが看てとれる。つまり、南方がこの雑誌にもっと経済の民俗的行為についての論考を掲載せよと主張したのに対し、柳田は、自分達の用いたルーラル・エコノミーは農村生活誌の意であって地方経済学の意に解してはならないとし、ついでに「南方一流の記事ばかりたくさん載せ得ぬことを」告げた。この論争の争点は、益田氏の整理によれば、南方が、「日本の民俗の学の行く手に、かれのいう〈民俗学〉や〈説話学〉を越えた、地方の生活を貫く不文法を考えているのに、柳田は、南方とともに問題にしてきた〈奇怪な伝承・習俗〉でなく〈平凡な日常の伝承・習俗の全体〉をめざしはじめた」ゆえの喰い違いということになる。この対立にしても、南方の普遍志向と柳田のローカルな記述に解消しえないことはないのかもしれないが、この揚棄は当時としては殆ど不可能だったのであろうか。ローカルと普遍というのは絶えず弁証法的緊張を膨んではじめて、一つの研究分野に、未踏の現実の次元についての展望を伐り拓くものであろう。柳田にそくして言えば、彼が彼一流の皮肉で外国直輸入の学理の適用をいましめるときに、この緊張関係の重要さを説くことをおろそかにすべきではなかった。南方にそくして言えば、彼が〈説話学〉的現象の特異性を通して普遍に至ろうとするとき、絶えず彼の目ざす普遍の体系を明示すべきであった。南方の知識の普遍的拡がりはこれを可能にしなかったわけではあるまい。彼の不幸は、このような展望を可能にする――ローハイムがフロイトと出遭ったごとき――知的環境に出遭わなかったという点にあった。
とは言え益田氏の整理したような対立は、今日決して無意味ではないように思われる。ただ、柳田ばかりではなく、折口においても絶えず豊富な材料と共に提示されながら、決して理論的に整理されたとは言い難い問題にそれは直接つながっている。すなわち民俗的世界における〈奇異なるもの〉と〈日常的なもの〉の関係である。益田氏の指摘するように、柳田は巨人伝説、一つ目小僧、田螺聟入譚などで、南方が先鞭をつけた問題を継承し展開している。尤も益田氏の力説するのは、その過程で南方のゴシック趣味は脱け落ちてしまうという点にあるのだが、今はこの点についての私見を述べる紙数はない。〈奇異なるもの〉については、折口はその〈まれびと論〉で繰り返し説き去ったことは周知の事実である。
今日私達はアルフレート・シュッツやピーター・バーガーの現象学的社会学の援けをかりて、〈生活世界〉において〈日常的なもの〉と〈奇異なもの〉とが、同じ次元の現実に属するものではないことを知りつつある。それは〈中心的〉現実と〈周辺的〉現実という現実の二つの次元の問題として捉えることができる。前者は〈生活世界〉において至高の位置を占めるとはいえ、後者による――一定の秩序の中での――衝撃又は活生化作用を前提せずにはその全体性を獲得することはできないという関係にある。前者は生活世界の秩序の側に、後者は生活世界の秩序の外のもう一つの秩序、つまり生活世界の側からみて、それは奇異なもの、恐怖に満ちたもの、不可思議なもの、猥雑なもの、嘲《わら》うべきもの、つまり〈混沌〉により近いもの、つまるところ〈異質のもの=奇異なもの〉になる。特定文化の中の人間集団は生活世界の側では、意識の表層の作用により、多様化の方向をたどる。その点において、柳田の記述的〈生活誌〉は絶えず正当性を失わない。しかし、多様であるとふつう考えられている〈周辺的現実〉は、意識下の体験を前提とするために、その表面的な多様性にもかかわらず、それが必然的に伴う象徴構造についての精神分析、構造論的分析、記号学的分析等の様々の還元的分析を経ると、予想外の普遍性を示すことは、最近のこれらの分野の研究の進展によっても明らかになりつつある。そういった意味で、南方が〈怪異なもの〉に執着しつつ普遍の道をたどろうとしたことも正当化される。ただ論争の時点で、両者に総合的視点を確立しうる強靱な認識論的構えが惜しむらくは欠けていた。
〈民俗学的現実〉という言葉を敢えて使うことが許されるならば、それは、今日我々にとって、殆んど〈日常生活的〉ではない体験の総体を指す言葉になりつつある。柳田・折口学は、そういった現実のレヴェルに達するために必要な知的感受性がまさに失われようとした時代に、この〈感受性〉を恢復し、その感受性が伴う知的衝撃力を、媒介として、我々の日常生活を異化させる(見なれないものにする)ことを目ざした運動であった。今日我々がこれらの学から汲みとれるはかり知れぬ知的エネルギーの源泉はこの一点に発している。
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王子の受難
――王権論の一課題
一 王権における歴史と神話[#「一 王権における歴史と神話」はゴシック体]
「ネグリ・センビランの王朝神話」と題する論文の中で、P・E・デ・ジョセリン・デ・ヨンクは、ミナンカバウの植民地的存在であったネグリ・センビランの史書に定着した歴史に一定の叙述の型があり、更に、この叙述の型を周辺の神話・儀式のパターンと比較すると、そこには構造と言ってもよいような定型の存在することが明らかになると説く。(以下ミナンカバウとネグリ・センビランに関する記述は断わっていない場合は次の論文による。P. E. de Josselin de Jong, The Dynastic Myth of Negri Sembilan (Malaya), Texte de ref屍始ce pour les conf屍ences faites au d姿artement dユethnologie de lユUniversit・de Paris X, 1970)
P・E・デ・ジョセリン・デ・ヨンクは先ずミナンカバウの十九世紀前半で消滅した王朝についての短いスケッチを試みた後に marantau と称される外地入植がミナンカバウ文化の極だった特色の一つをなしているとし、マレー半島のネグリ・センビランの文化的・歴史的前提を説く。すなわち、ミナンカバウ同様に、ネグリ・センビランの住民も、マレー半島の他の住民と異なって、母系制の基層文化の上に、父系的継承原理に基づく王朝を戴いていた。次に、十五世紀から十九世紀に至るマレー半島西海岸地帯のオランダ、ポルトガル、及びセレベスのブギ、マレーのサルタン等の諸勢力に分断されたネグリ・センビランの歴史についての客観的スケッチを試みた後に、ジョセリン・デ・ヨンクは王朝の始祖伝説について次のように述べる。
ネグリ・センビランの始祖伝説は、様々な形で採集されているけれど、多くのものは、「無秩序の状態に、無力で、近辺の諸勢力のなすがままの状態に厭き厭きした住民達が故地ミナンカバウの Pagarruyung 王朝に王子の一人を派遣するよう依頼した。この状態に便乗した一人の簒奪者が自ら王子と名乗ってやって来るが、後にミナンカバウの真の代表であるラジャ・マレワル(Raja Mal指ar) によってその虚偽性を発かれて退治される。後者はネグリ・センビランの最初の支配者にして、現在まで続いている王朝の始祖となった」という語り口において基本的な共通点を持っている。これが十八世紀のこととされる。
この点について、「土地の伝承によれば」と断わりつつ述べたM・リスターの「ネグリ・センビラン」と称する論文(M. Lister, The Negri Sembilan, 'Journal of Royal Asiatic Society, Straits Branch,' 19, 1887) が最初のものであり、一九三〇年代から四〇年代の数多くの論文、著書が「土地の伝承」、「口頭の伝承」、「伝説」として類似の史実≠伝えているとしつつ、ジョセリン・デ・ヨンクは、一九五〇年に自らが、現地で伝承を採集した経験についても触れながら、この史実≠めぐる「歴史」と「神話」の微妙な交錯点に及ぶ。彼は、ウインステッド、ガリック、ライアンといった西欧の研究者が、彼らの諸論文、著書において(R. O. Winstedt, History of Negri Sembilan, 'Journal of Royal Asiatic Society Malayan Branch,' 12 1934. J. M. Gulick, "Sungai Uiog", 'J(MB)RAS' 22, 1949. N.J.Ryan, 'The Making of Modern Malaysia,' Kuala Lumpur, 1967)、まさに住民の伝承者同様、このマレワル神話を正確な史実として扱い、マレワルを一七七三年から九五年までの、あるいは一七八九年前後の支配者と比定しているとし、同時にこの史実≠ェ建国神話の役割りを果している事を忘れてはならないとする。「神話」はその内容が歴史的に正しくても構わないが、同時に歴史的に言って事実≠ナある必要もないとジョセリン・デ・ヨンクは述べる。史実に則しないとすれば、該当する神話の内容がどのような事実の組み合わせとして語られているかという点を知ることが重要であろうと力説する。
この接点を明らかにするため必要な事実として挙げられているのは、(1)マレワル(Mal指ar) というのは全然ミナンカバウ風の名称ではなく、どこからみてもブギ・マカッサル的な名前であるという点と、(2)マラッカのオランダ東印度会社の記録は、マラッカがネグリ・センビラン地方に隣接しているために、この地方の事情について比較的精しく述べているが、ミナンカバウの王子が招聘されて統一国家の基礎をつくったということを示唆するような事実についての記載は全然見当らないという点である。実際の状態は、ネグリ・センビラン、その中でも特に重要な地方であるレンバウはクランの長老の会議によって統べられていたが、この頃マレー半島に進出したブギ勢力が、ネグリ・センビランに定着し、最初の総督が一七二二年から一七二八年まで在職したダエン・マレワ(Da始g Mar指a) であるということであった。
このようにして明らかになるのは、マレワル建国神話が史実≠ニは重ならないということである。しかしながら、この神話が歴史的事実に全然無関係かと言うと、必ずしも、そうではなく、マレワルの名前に反映されたものは、ブギとネグリ・センビランの住民の深い歴史的関係であるし、一六七七年、つまりブギ勢力進出以前に、ミナンカバウの王子がレンバウと近接する二地方の支配者を称して定着したが二年後に、住民達によって「簒奪者」として追い払われたという事実、ブギ勢力の定着後の一八二六年に、ミナンカバウの王子がやって来て追い払われたという事実がある。前者の場合原住民の候補者を支持した住民が外来の「簒奪者」を追放し、この現地の候補者がネグリ・センビランの最初の中心的℃x配者になったとジョセリン・デ・ヨンクは述べている。
こうして、神話と史実の関係を明快に説き明した後に、ジョセリン・デ・ヨンクは、彼自身の採集した説話を例に、神話のデテールが歴史意識≠介して政治組織と対応することを示す。彼の採集した説話によれば……マレワルをマレー半島で最初に迎え入れたのは、ナニング (Naning) の土侯であった。彼はここにしばらくの間滞在した。或る時、レンバウの土豪が彼に会見すべくやって来た。ラジャ・マレワルはミナンカバウから持参した王朝からの真の出自を示す神器を示したので、レンバウの土侯は、彼をパガルルユング家の真正の王子と認め、ネグリ・センビランの支配者 (Yangdipertuan Besar) に任じた。こうして形成された連合軍は、ナニングを発してスリ・メナンティ (Sri Menanti) に拠る簒奪者ラジャ・カティブ (Raja Khatib) 征討の軍を進めた。途中、ラジャ・マレワルの超自然力を示すいくつかの事象が起きた。例えば、バトウ・ガジャにおいて、簒奪者の無軌道な振舞についての報せを受けて激怒したラジャ・マレワルが、石塊を取りあげて、岩の表面に、まるで研ぎ石で、ナイフを研ぐような仕草で、押しつけながら、「あのカティブをこのように擦りつぶしてやる」と叫んだ。彼の力が余りに強くかかりすぎたので、彼は石を岩の中に擦り込んでしまった。それは今日でも見ることができる、といった具合にである。
レンバウを経て中央部に進出したラジャ・マレワルの軍は最後にはラジャ・カティブをスリ・メナンティの近傍の戦闘で撃破した。この戦闘で、簒奪者の首級が斬り落されたが、首級が落ちた地点は現在、「しゃれこうべ峠」(Bukit Tempurung) として知られている。現在でもレンバウの土侯が公式的に、国家的行事に参加するために、スリ・メナンティに赴く時には、街道を通らずにこの「しゃれこうべ峠」越しに行かなければならない。又、レンバウの土豪が公的な資格で王宮に逗留するとき、彼の滞在する場所はこの「しゃれこうべ峠」ときまっている。
この伝承は、王権が否定的原理を如何に吸収するかという点を考察するうえで極めて示唆的である。つまり、ラジャ・カティブによって象徴されているのは悪の原理、秩序の外にあって秩序に敵対する力である。このような形象に加えて、首を斬られるという凄惨な情景が重なると、それは、すぐれて、日常生活では顕現しえないものの表現になる。否定的な原理は、王権の中心的存在に対して、一定の儀礼的チャネルを通して関係づけられると、逆に権威のイメージの不可欠の部分を構成することになる。特にネグリ・センビランの場合に、建国神話において、その祖先が王権賦与者(キング・メーカー)の役割りを果しているレンバウの土豪が、媒介となって否定的形象・原理が王権の一部に儀礼的に組み入れられているという点は我々の注意を喚起するに充分である。
ジョセリン・デ・ヨンクは、この儀礼的迂回は、ネグリ・センビランとミナンカバウの文化伝統の対応を示すものの一つであるとして、ミナンカバウにおける対応例を挙げる。ミナンカバウにまだ王朝が存在していたとき、王は、一、二年毎に、領内を巡回するのが習わしであった。この時彼は一定のルートを経て進むきまりであった。この際通るルートは今でも知られているが、各々の地点の持つ儀礼的な意味は今では明らかにする由はない。しかし、王の巡回行幸は、王権と諸地方との間に一定の秩序を建てなおす機会であり、これはネグリ・センビランにおいては土豪の儀礼的首都訪問によって逆の形で実現されるとジョセリン・デ・ヨンクは説く。
我々がレンバウの土豪を介してネグリ・センビランの王権が否定的原理の間に確立する関係に注目するのは、少々別の観点からであるけれども、行幸・巡回・歴程(歴遊)といった半ば又は全的儀礼行為が、歴史的伝承に対して持つ意味を考えるために、ジョセリン・デ・ヨンクの指摘はそれなりに有効な射程を帯びている。例えば、ピーター・ロイドが西アフリカ・ナイジェリアのヨルバ族の王権について論じたところでは(P. C. Lloyd, Yuruba Myths : A Sociologist's Interpretation, 'Odu' No.2,1955) 、即位式の一部としてヨルバの各都市の王(オバ)は、領内を巡幸するが、この際王のたどる行程は、各都市の王朝の始祖が、全ヨルバ族の聖都イフェを、王子間の政争に敗れて、退き、各地を放浪した末に、現領内に入ってからたどったと伝えられる行程を儀礼的に再現するものである。こうして再現される儀礼的空間はそのまま「はじまりの時」なる神話空間の実現になる。王権はこのように、時間・空間を蘇らせる媒体であることは、E・E・エヴァンス=プリチャードがスーダンのシリュック族の王権の即位式が、始祖ニイカングの旅程の再現であることを論じた分析によって明らかにされていたところである。(E. E. Evans Pritchard, The Divine Kingship of the Nilotic Sudan, in 'Social Anthropology and Other Essays,' London, 1962) ただし、その存在論的意味は、これまで充分に明らかにされていたとは言い難い。我々が、アフリカの事例を、東南アジアの対応事例とつき合わす時にめざすのは、比較宗教史の無媒介な再現ではなく、時間・空間の意識と人間の行為の根元的函数のかかわり合いを探る、つまり文化の存在論的次元を明らかにせんがために外ならない。
ジョセリン・デ・ヨンクは、こうしたネグリ・センビランとミナンカバウとの間の対応の他に、ミナンカバウの文化内部での対応をも説く。すなわち、ミナンカバウでは一般住民≠フ間でも、起源の故地を訪ねる習慣があり、この時、たどる行程には一定の様式があったとする。ミナンカバウの住民は、これを伝説時代における英雄の起源伝説における行程を再現するものとして説明する。
王権の次元においても、個人の次元においても「巡礼」という行為が「はじまり」という時間・空間の「中心」に対して持つ意味はこうして明らかになった。従って、これらの事例から、多くの文化において旅・長征といった人間行為の基本的様態が重要な位置を占める理由も明らかになる筈である。つまり最短距離を経ずに、迂回して歩くという行為には、日常生活では、あまり体験しない時間体験(従って空間体験も含まれる。何故ならば時間・空間の峻別は日常生活に属するものだからである)を実現するという意図性が含まれている。王権と巡幸の儀礼・神話が結びつきやすいのは、上述の如く、始源的な旅は時間を創成する行為であり、「はじまり」「おわり」「順序」「手続き」「蘇り」という言葉が示すように時間体験は秩序の基礎を形成するものである。王権を不可欠の一部として組み込む文化においては、王権は、こうした王及び神話的英雄が、儀礼的行為によって時間=秩序を創成する。王権を含まない文化においても、その基礎に等価的様式を組み込んでいるが、この点に立ち入って論ずることは本稿の課題には属しない。
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二 王権と二元的世界像[#「二 王権と二元的世界像」はゴシック体]
ネグリ・センビランの建国神話における、ミナンカバウ的要素を説くために、ジョセリン・デ・ヨンクは更に、ミナンカバウの神話的始祖伝説におけるカトゥマンググンガン (Katumanggungan) とパラパティ (Parapathih) という母系制起源と結びついた神話的形象について説く。
この異母兄弟の神話的エピソードの中で、ジョセリン・デ・ヨンクが注意を促すのは、次の説話である。「或る時、二人は、共に剣を抜いて、傍らの岩に突き立ててこうして奴を差し貫いてやる≠ニ叫んだ」と伝えられ、事実、丸く貫通した岩石が、ミナンカバウにもネグリ・センビランにも残っている。こうしてこの神話とネグリ・センビランの神話における対応説話が、異質のものでないことは、明らかであるとされる。
この二人は、在世中に、ことごとに対立していた。彼らの関係は、したがって、ジョセリン・デ・ヨンクによれば、「敵対的友情」(我々の言い方では「非敵対的矛盾」と言うことも不可能ではない)という関係にあった。彼らは、共にミナンカバウに一定の文化をもたらした文化英雄であった。しかし、彼らはあからさまに争い、時には武器をとって闘いさえした。こういった、「神話的双生児」の形象は、極めて広くみられ、特に「象徴的二元論」に基づく世界観と結びついて語られるといった顕著な傾向が、これらの形象にはみられる。(C. L思i-Strauss, 'Les structures elementaires de la parent・' Leiden, 1967, P. 80. Cf. aussi M. Eliare, Remarques sur le dualisme religieux : dyades et polarit・ dans 'La nostalgie des origines,' Paris, 1971)
この二人の神話的始祖についてのより精しい記述は同じジョセリン・デ・ヨンクの『ミナンカバウとネグリ・センビラン』(P. E. de Josselin de Jong, 'Minangkabau and Negri Sembilan, socio-political structure in Indonesia,' Leiden, 1951, pp. 71-82) に見られる。二人の長幼については様々の異伝があり、この曖昧さは、この二人を夫々祖とするコト=ピリアング (Koto-Piliang) とボディ=トジャニアゴ (Bodi-Tjaniago) と呼ばれる二つの胞族間の関係を反映していると述べられている。すでに述べたように、生涯の終りに近づいた時、事毎に対立をつづけて来た二人は和解したと語りつたえられる。カトゥマンググンガンの最後の言葉として伝えられるのは「コト=ピリアングとボディ=トジャニアゴは絶えず団結しなければならない。……ボディ=トジャニアゴは我々の租税を払い、我々の統一の基礎をなす。コト=ピリアングの傘を建てるのはボディ=トジャニアゴだけである」という言葉である。この言葉の意味するところは次のよく使われる表現によって明らかになる。「カトゥマンググンガンは王権の所有者であり、パラパティは王室専用の傘の所有者である。」(P. E. de Josselin de Jong,'ibid.,' p. 73)
この二人に現われるのは、胞族間によく見られる関係の反映である。両者は屡々激しい対立関係にあるが、両者の間には統一感情、つまり一方は他方なしに存在しえず、全共同体を構成するために両者の協力が不可欠であるといった感情が存在していた。この両胞族の対立は、両者の間に顕著に見られる二元的世界像の支点になる。二つの胞族が、こういった関係で結合されている時には、各胞族の世界観の中では、万物が二元的対立の中に分類されている。従ってここでは天―地、男―女、光―闇等々といった事物の二元的対立が世界の基礎を形成していると考えられる。この二つの胞族はミナンカバウの各地域で混交した形で分散しているが、両者の関係が最も顕著に表現される機会が結婚式である。この機会に聘財の交換という形で両者の競合関係が表現される。こういったポトラッチと結婚式の結びつきはネグリ・センビランでも観察されるところであるが、ミナンカバウにおいては特に闘鶏と結びついている。対立関係は更に「模擬戦」の形でも表現される。('ibid.,' p. 76)
このような社会構造の二元論的基礎に対応する、対《つい》の神性についてのミナンカバウの例が孤立したものでないことは、フローレス島東部、ソロール及びアロール諸島の事例も示すところである。この地域ではデーモンとパジ (Padji) という集団が常に相剋・対立して来たと伝えられる。この対立は神話に反映されている。デーモンとパジは最初の人間の二人息子であったが、姉妹との結婚を二人共に熱望して対立し、これがもとで両者は別離して住むことになった。両集団の境界争いは、この神話的祖先の相剋の継続であると。(W. St喇r et P. Zoetmulder, 'Les religions dユIndon市ie,' tr. fran溝ise, Paris, 1965, p. 163)
この点に関連して我々の関心を惹くのは、G・J・ヘルトがマハーバーラタの分析で示した、胞族間の「敵対的友情」に必然的に伴う悪の神話的形象化の問題である。ヘルトは胞族間に敵対的友情が存在する時、結婚式を伴う成年式は、この関係の最も公然と表現される機会であったとし、成年式の成人戒を与える役割りが、母方のオジ又は、交叉イトコの占めるところであったと述べる。ヘルトがマハーバーラタの中に叙述された悪王カンサとカンサによって迫害され放浪を余儀なくされるが、後にはカンサに挑戦してこれを斃したクリシュナの関係が双分的な集団の存在を示すことに言及しながら次のように述べる。「我々がこれらの二色(カンサは赤、クリシュナは黒で象徴される)が、二元的組織の指標だと考えるのは、決してそれが、我々の出来あいの理論と一致するからという理由からでなく、カンサとクリシュナが明らかに二つの胞族の代表であると考えられるからなのである。両者の関係が二つの集団の儀礼的対立として表現されるとするなら、カンサはクリシュナにとって母方のオジであるか、母方の交叉イトコであるかのどちらかなのである。二つの胞族間の儀礼的対立の劇的表現においては、一方は母の兄弟で他方は前者の姉妹の息子(初めは迫害される側)であるという事実は、当然、母の兄弟が、成年式においては授戒者であるという(多くの社会、特にインドネシアに於て報告されている)儀礼的習俗を想起させるものである。」(G. J. Held, 'The Mahabharata, An Ethnological Study,' Amsterdam, 1935, p. 178) この場合注意すべきは、成年式が死と再生の過程を儀礼・神話的に再現するとすれば、候補者を象徴的に呑み込むか寸断するかして死に至らして、後に退治されるのが授戒者の役割りであり、当然授戒者は候補者を死と苦難に至らしめる悪霊であるということになる。それはまさに神話において悪を演ずる双生児の片われの儀礼的表現である。成年式に示されるように個人の生は死を含んで完全なものになる。集団の全体性は、対立集団の参加をまって完成される。二元的世界像を基礎に持つ社会においては、神話の双生児の片われ、成年式の授戒者はそれらが常に明確に観察されるかどうかは別の問題として、常に個人・集団の再生、時間の区切りの指標として不可欠な部分として前提的に存在する。
こういった考察が我々にもたらす視点は、ホカートの指摘するような王権の儀礼の本来的な成年式的性格の外に、王権の儀礼又はその儀礼と対応する簒奪―王子の放浪―復権のテーマには、特に二元的世界像が一般化している地域においては、王権の神話・儀礼が、そういった世界観の一部として表現の媒介となっているという、王権にとって極めて根源的な性格を認めることができるのである。ホカートが『王と評議員達』(A. M. Hocart, 'Kings and Councillors,' Cairo, 1936) において、王権と二元的世界観の親近性を説いたのは、まさに我々の視点と、ホカートの視点の近さを示している。
三 王権神話と成年式[#「三 王権神話と成年式」はゴシック体]
しかしながら、こうした事実にもまして、重要な根本的モチーフは、次のような命題であるとジョセリン・デ・ヨンクは力説する。
「故地ミナンカバウの王家の分枝であり、正統の支配者であるラジャ・マレワルが非正統的(又は二次的)な僭王によって、彼のものなる王位を奪われたために、正統な継承者であることを示し王位に就くためには、この僭王を斃さなければならない」という、ハムレット的テーマが根幹をなしている。ジョセリン・デ・ヨンクは、このような事象の継起は、インドネシア世界における王権観念の不可欠の部分を構成しているとして、数ある対応例の中から、Sejarah Melayu(マレー年代記)に記載された次の如き事例を挙げる。
「マラッカのスルタン・ムハマッドには、宰相の娘との間にもうけたラジャ・カシムという長男と、東スマトラのロカン国の王女である他の妻との間にもうけたラジャ・イブラヒムという息子がいた。スルタン・ムハマッドの死後、次男のラジャ・イブラヒムが王位を簒奪した。長幼の順から言えば正統の継承者であるラジャ・カシムは宮廷から逐われて、漁師の間で暮し、日々漁撈に携っていた。その間、ラジャ・イブラヒムは母の故地なるスマトラのロカン国の言いなりになって、マラッカの重臣達も、我々の主人が誰なのかわからないと嘆き暮す始末であった。一年後の或る日、他の漁師達と魚を売りに来たカシムを或る聖者が正統な継承者と認め、彼を促して蜂起させ、ついに簒奪者と外国の支配者を破ってスルタン・ムザファルと称し王位を奪回した。」
ここで更に、C・フーイカスの説(C. Hooykaas, 'Over Maleise Literature,' Leiden, 1947, p. 271) に基づいてジョセリン・デ・ヨンクの述べるところでは、このスルタン・ムザファルは、マラッカ王朝の歴代の王の中で、ちょうど崇神天皇がそうであるように、歴史的にたしかめられる最初の王である。つまり、或る意味では「建国の父」ということになる。事実、年代記では彼がはじめて法制を整えたとして語られている。正統の王子の流謫伝説が、建国の始祖に結びつきやすいと言うわけである。
以上の事例の他に二つの対応例を示しつつ、ジョセリン・デ・ヨンクの強調するのは、人間が到達することのできる至高の威厳を実現した王権は、それを卑賤の極として対置される低い位置によって正統化され、均衡を保たれなければならない。特に例外的な王達(例えば特に英雄的な王、王朝の創始者、極だって正統な王)は、最低の位置からはじまるか、そういった場を通過することによって、有資格者であることを示さなければならない。
すでに紹介した諸点にふれた後、ジョセリン・デ・ヨンクはジャワの歴史的素材の取り扱いは慎重な上に、慎重であることが必要だと説きながら、十一世紀のジャワの王エイルランガ (Airlangga) についての伝承が、これまで述べ来たった始祖伝説のパターンに一致するとして次のごとく述べる。
セデスが同時代の三大王侯の一人に数えるエイルランガが、十一世紀のはじめにジャワ王の養子になった直後のこと、ジャワ国の主権は、その所在は、スマトラと関係があったという以外のことは知られないウラワリ (Wurawari) によって覆えされた。一〇〇六―七年のこととされる。我々に興味深いのは、その後のエイルランガの宿命である。彼は森林の中に逃避して、数年の間、隠者達と共に樹皮の衣服を身に纏って過した。一〇一〇年ブラーマンや豪族の代表が、彼を迎えたため、この逃避は終止符を打った。彼は東ジャワを先ず従え、中央部に進出し、遂には、セデスの言うように十一世紀東南アジアの最大の王侯となった。
エイルランガは、死期がせまると、その王国を二分した。そのうちの一方のカディリ (Kadiri) が十二世紀の間他方も統べた。この独占はアングロック (Angrok) が一二二二年に出現するに及んで終止符を打った。アングロックは、潜伏の時期に浮浪者であり、追剥ぎであったとされているが、十五世紀のジャワの伝説的史書パララトン (Pararaton) の語るところでは、彼は肥床の中に身を潜めていたが、バータラ・グウルウ神が他の神々に「諸神よ、私にはジャワを強大にする息子がある」と告げたのちに、アングロック王は肥床から出て、従者を募り、最後にはジャワ王となり、カディリの旧王朝を覆えし新王朝を樹立した。「パララトン」に記載されたこのアングロック王の史伝の神話的性格についての諸史家の見解は殆んど一致しているとジョセリン・デ・ヨンクは述べる。
似たようなパターンの存在することを示すために、ジョセリン・デ・ヨンクは、第三の例として以下の例を挙げる。一二九二年シンガサリ (Singasari) 王朝の最後の王がジャヤカトゥワング (Jayakatwang) によって王位を逐われた。ジャヤカトゥワングは事実上は、カディリの王朝の中興者であったのだが、ジャワの正史では、彼は簒奪者であったということになっている。正史では王子ウィジャヤ (Wijaya) が放浪の旅に出たが、名もなき卑賤の村民に策を授けられ、後に最後のヒンドゥ=ジャワ系のマジャパヒト (Majapahit) 王朝を樹立した。
このように提示された諸例の語るのは、特異な王、特に王朝の始祖が放浪の苦節の末に大事業を達成するというテーマである。
ここでジョセリン・デ・ヨンクは、このような王権の伝説・神話のパターンは、王権を持たない社会にも、他の制度を介して語られるとして、集権化しない社会における通過儀礼における、同様なパターンの存在について述べる。特に首狩りの習俗に表わされる旅にその対応の形がみられるとする。たとえば中央セレベスのトラジャ族の通過儀礼において、候補者は儀礼的に殺され、冥界―死者の世界に赴くか眠るという行為を経たのちに、醒めて、又は蘇生して、敵を斃す。その後彼は敵の首と新妻を伴って村へ戻る。西ボルネオの内陸ダヤク族の昔話にも、主人公の強敵との闘い、首狩り戦士としての事蹟、村への凱旋が語られている。
これらの対応のすべてから、ジョセリン・デ・ヨンクが最終的に曳き出す結論は、残念乍ら、それ程強いものではない。王権と成年式における受難の旅を、「正統性」の理念、正統の王権、一人前の男性の資格の両者のレヴェルにおける共通の前提として説くにとどまっている。我々に理解の行かないのは、ジョセリン・デ・ヨンクが何故、A・M・ホカートの『王権』(A. M. Hocart, Kingship, Oxford, 1927, 1969 (2 nd. ed.)) における王権の即位式と、成年式における死と再生のテーマの対応関係の指摘に言及しなかったのであろうかという点である。たしかに、ホカートが挙げるのは儀式としての王の即位式における死と再生のテーマであって、インドネシアの王権において、このテーマに該当する儀式は存在しないから、ホカートへの言及は適切ではなかろうという反論も成り立つかも知れない。しかし、ジョセリン・デ・ヨンクが非国家社会の成人の社会的認知における首狩行の事例を挙げる時、挙げる事例は儀礼的なレヴェルのそれであり、王権の場合には神話=歴史のレヴェルである。ジョセリン・デ・ヨンクが両者を対応するものとして論ずるとき、神話(言表を媒体とする行為)と儀礼(身振り言語を媒体とする行為)とが同じ次元で論じられることが可能な場が示されているのである。我々にジョセリン・デ・ヨンクの指摘が貴重であると思われるのは、その論旨の中で一見飛躍するかの如くみえて、実は、艱難・苦行の旅、潜伏のテーマが、インドネシアの王権において、即位式における王の「死と再生」儀礼の欠如を補い、代替作用をなしているという点を示したことにある。一見飛躍しているというのは歴史=神話と儀礼のレヴェルを同一のものととらえたことにある。しかしそのことによって彼は王権の簒奪、潜伏、旅、出現、秩序の回復、という王朝の始祖にまつわる神話が、実は個人のレヴェルでは死と再生の成年式として現われるものであることを示したのである。つまり、王権の神話として語られる王子の苦難・放浪・復興は、個人の生と死、死と再生の体験を介して、世界の死と再生、宇宙の覆滅と再創造の神話的次元において捉えなおされるのである。これは単なる推論ではなく王権の即位式に死と再生の成年式のパターンがはっきり見られる場合、特に古代近東・エジプト及びアフリカの王権(H. S. Versnel, 'Triumphus, An inquiry into the origin, development and meaning of the Roman triumph,' Leiden, 1970. cf. esp. chap. VI) について充分に確かめられているところである。
四 王権の存在論的次元[#「四 王権の存在論的次元」はゴシック体]
こういったジョセリン・デ・ヨンクのネグリ・センビランの始祖神話についての結論は、古事記の意祁《おけ》・袁祁《おーけ》王の兄弟の説話を、又は日本武尊の流謫の説話を想起させることにおいて、我々に深い興味をそそらずにおかない。しかし、そういった点について、考察を加える前に、見失ってはならないのは、文化により深い統一感情を与えるコミュニケーションのチャネルとして、制度そのものが殆んど神話的思考に他ならない王権には、日常生活において対立し、両極化される傾向のある価値、又は概念を再び統一するといった作用が備わるという視点がある。従って、王権神話における至高と最低の結合も、こういった視点からすれば、高←→低、上←→下といった両極の統一と考えることもできる。又、このような視点を執ることによって、僭王の形象も善に対置するに不可欠の悪としてとらえられるし、何故に簒奪者についての史蹟が、王権に関連する儀礼の重要な部分として組みこまれなくてはならないかという理由を示すことができる筈である。更に日本武尊の説話を想起しつつ述べるならば、流謫のテーマは「中心」に対する「周辺」(「辺境」)という空間的対置関係を現わすことになる。又流謫のテーマを、肉体的苦痛として捉えるなら、そこには「安逸」に対置される「受難」の形象化があると見ることができる。事実、日本武尊の説話を折口学的に「小さ神(王子)の苦難と贖罪」の神話として捉える視点は、我々の王権論では正当の位置を与えられることが可能である。この「中心」と「辺境」の対置は、精神の位相に置き換えれば、「正常」に対する「異常」に対応し、日本武尊の粗暴、更に姉アマテラスオオミカミに対する弟スサノオノミコトの粗暴をも構造論的に説明することになる。特に後者の組み合わせは、これまで充分に注目されているとは言われ難いが、「神話的双生児」のモデルに属することを知ることによって、一そう王権神話の必然的な部分として分析することができる筈である。(M. Yamaguchi, Royaut・comme system du mythe, 'Diog熟e,' No. 77, 1972)
こういった対極的概念・価値を担う制度的部分としての英雄=王子のイメージが王権に対して占める位置に注目したのは、神話学者ではなく文学史家であるW・ウィルフォードである。
その著書の王権の象徴的中心としての意味を論じた章の中で、ウィルフォードは、英雄が王国の秩序の維持のために果す根本的な課題は混沌とデーモン的なものとの積極的なかかわり合いである、英雄は、世界の一般構造の中での知られず忘れさられている部分を明らかにし、確認するために彼の能力を実効の面に移す、彼は成功しなければならない、勿論その成功は求められた形でもたらされる必要はない。彼は闘いに敗れても構わない、しかし高貴に死ぬことによって、彼のそうした行為が存在しなければ人間世界は活力を失うということを示すことができる筈である、と主張する。(William Willeford, 'The Fool and his Scepter,' 1969, pp. 164-5) こうした王子=英雄が王と対をなし、王が中心の価値を実現するとすれば王子=英雄は周辺の、中心に対する対立的価値にかかわるという視点は、王権の様々の部分において実現されている対立的要素がどういった神話論的根拠の上にたっているかという点を明確にするために極めて有効である。
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このような王権と王子の関係は、王権の持つ二元論的指向性を考え併せるならば、多くの文化の神話・儀礼における王と反逆者、王と道化という関連に置き換えることができる。事実、王権がそういった神話論的可能性を持つことを示したのは『リア王』、『マクベス』、『リチャード二世』、『リチャード三世』、『ヘンリー四世』第一部・第二部、におけるシェークスピアである。特に『ヘンリー四世』第一部・第二部、において、このような相反関係の上に作品構造が成り立っていることを示したのは、ワルター・カイザーである。(Walter Kaiser, 'Praiser of Folly,' Cambridge (Maiss), 1963, pp. 252-66) ジョセリン・デ・ヨンクがネグリ・センビランの歴史(史実)と神話との関係について述べたことは、或る意味ではシェークスピアの「歴史劇」についても言い得る。シェークスピアの「歴史劇」特に「王権劇」について言えば、それらは実在の王から出発し、素材の持つ指向的可能性に劇的展開を与えることによって、史実からは離れるが、逆に歴史・王権の神話論的次元において、より深い存在論的根拠において登場人物及びこれらの人物の活動する世界を再構築しているのである。その世界の構図がどのようなものであるかということは、『ヘンリー四世』第一部・第二部、について図示したごとくである。結果においては、ミソグラファーとしてのシェークスピアが示した王権神話と、我々が、アーカイックな文化で観察される王権を神話論的次元に還元して得る見取図は極めて近いという事実である。これは偶然の一致でも、符合でもなく、政治権力が日常生活の世界からはみ出した部分をその本質的な基礎として持たざるをえないところから来る必然的な帰結であると言うことができよう。
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歴史と身体的記憶
一 「碑文」的歴史と「口碑」的歴史[#「一 「碑文」的歴史と「口碑」的歴史」はゴシック体]
歴史研究の対象となるような社会について、人が今日何らかの綜合的考察を加えようとする場合、もはやアフリカのような社会を除外することができないというのは確かな事実である。(川田順造「無文字社会の歴史」・一―・四、「思想」五六三・五六五・五六七・五六九号、一九七一年、参照、単行本、岩波書店)しかし、ここで通常持ち込まれる区分がある。比喩的に言えば、それは「碑文(文字)」を介した歴史と、「碑文」を介しないで「口碑」Oral Tradition を介した歴史という区分である。この区分に重なるのが「客観的」歴史と「主観的」歴史という区分である。前者のモデルを西欧的史学が扱ってきた地域の歴史研究に求め、後者のモデルを人類学者が対象とするような社会における歴史――両者の間にはレヴェルの相違がある――に求めるのは、決して後者に偏見を持つ立場からなされる区分ではない。例えば、人類学者の中でも理論的に比較的ソフィスティケートされた立場を示していたS・F・ナーデルは次のように述べている。これはすくなくとも三十年前に、西欧史学的歴史家が所謂未開社会に「歴史」が存在したなどと夢想だにしなかった時期のコメントである。
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歴史を問題とする前に我々はこれから使おうとする「歴史」の概念を明確にしておかなければならない。というのは人類学者が「歴史」という言葉を使う場合にはいくらかの曖昧さがあるからである。歴史は二つの事を意味することが出来る。先ず、我々が、客観的歴史と呼ぶもの、つまり、我々、すなわち研究者が、結合と継続の普遍的な基準でもある特定の「客観性」といったものに合わせて記述し確立していく事象のシリーズがそれである。第二に挙げられるのは、我々が研究する社会に存在して、過去に起ったことや展開したことについて、一定の伝統に添って、事象を記述し配分するといった「イデオロギー的」歴史である。(近代史におけるように)この二つの歴史が合一することもあるし、第二の歴史がすくなくとも第一の歴史に対して情報源になることもある。しかしながら第二の歴史がただ単に集団内の社会行動を左右する公認の信念や伝統の体系としての、社会学的データとして意味を持つにすぎないのかも知れない。そのようなものとして、それはしばしば神話とも、マリノフスキーが慣習や現に存在する文化的慣行の「神話的憲章」と意味深く呼んだものとも区別し難いものなのである。
各々の社会は、その社会が過去の物語として受容する事象を、神話・超自然的側面か、理性的・一見科学的性格のどちらかを、様々の異なったやり方で強調するのである。
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[#地付き](S. F. Nadel, 'A Black Byzantium,' London, 1942, p. 72)
もちろんナーデルのこういった意見は、人類学者の対象とする社会の文献資料の寡少さを逆手にとった懐疑的視点であったといえなくもない。三十年を経た今日、所謂「実証的」文献中心の歴史学の客観性に対する人類学者のシニカルな視線はいっそう強くなっているといってよい。それは、ナーデルが「客観的歴史」と「イデオロギー的歴史」と対置したものを、「歴史」と「神話」という対比において論ずるE・R・リーチの次の表現に特徴的に示されている。
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「理論的には」歴史と神話は相反するものである。歴史は「実際に起ったこと」であり、神話は特定の現在の信念を正当化するために教義的につくりあげられた過去に関する仮構である。しかしながら歴史書に現われる歴史は「実際に起ったこと」ではなく歴史家が想像した限りで実際に起ったことについての考えに過ぎない。……(「歴史的」)データのそれぞれの一群は激しい選択の対象であった。……同時代の一等資料といえども事件を「それが実際に起ったように」伝えはしない。それらは報告者の見た事実についての見解を伝えるだけである。神話の内容は確かに全く荒唐無稽であるが、それ以上の事も以下の事をもするわけではないのである。
(E. Leach, unpublished note, cited in Marguerite S. Robinson, The House of the Mighty Hero, in : E. Leach (ed.), 'Dialectic in Practical Religion,' Cambridge, 1968)
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こういったリーチのような立場を人類学者の反歴史学的偏見として必要以上に忌避するには及ばない。何故ならば、大半の人類学者は依然として西欧的世界における「客観的」歴史の存在を疑わず、そのような「歴史像」をモデルとして、半世紀前には全く「歴史」を欠いていた社会に「歴史」を見付けてやるのがヒューマニズムであるというくらいに誤解しているからである。
所謂文献資料の中から年代誌的性格を帯びた資料を精選した結果得られる「客観史」観から真先に除外されるのは、年代誌的性格を稀薄にしか帯びていない口碑である。しかしながら、大多数の住民の立場にたって、彼らが過去を意識の中にどのように摂り込んでいるかという点を知るのが、「歴史像」論の焦点であるとするならば、年代誌的価値を核に据えた史料批判の等級は、当然「客観史」観のそれとは異なったものにならざるを得ないだろう。所謂「第三世界」の歴史像を確かめようとすれば、この点については疑問の余地は無いはずであるが、西欧社会の歴史観についても、経験の領域の一部として歴史を論じようとすれば、執られるべき立場はそれ程異なるものではないはずである。
イワン雷帝は、ロシアの民族的英雄として、プーシキンの叙事詩劇やエイゼンシュタインの映画において芸術形式の表面に浮び上る前にも、常にロシアの民衆の歴史像の中で中心的な位置を占めていた一人であることは誰しもが知るところである。このイワンが民衆的な歴史像と結ぶ過程を示すために言語学者ロマン・ヤコブソンは、十七世紀にロシアに滞在したオックスフォード出身の医師サミュエル・コリンズの採集した昔話の中の次の記述に注意を促している。
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ジュアン(イワン)が行進して行くと、数多くの平民や郷士が彼に素敵な贈り物を持って来た。善良で正直者のバスク型の靴職人――この男は一足のバスク靴を一コペクでこしらえていたのだが――が妻に、皇帝に何を献上したらよいか相談した。彼女はきれいなロプキェス(しなの木の内皮で作った農民用の靴)かバスク靴がよいのではないかと助言した。彼は、それは珍しいものとはいうことが出来ないが、自分達の菜園に巨大な蕪《かぶら》がある。それと一緒に靴《ロプキエス》を献上しようといった。彼はそうした。皇帝は贈り物をたいそう喜んで受納したばかりか、彼の配下の貴族全員に、この男のこしらえた靴《ロプキエス》を一足五コペクで買うよう命じ、自分も一足着用に及んだ。このためにこの男にも蓄えが出来、それでこの男は商いを始め、時と共に商いは順調に伸びたので、彼が死んだ時はかなりの家財を遺すことが出来た。彼の子孫は現在では名家に数えられ、ロポツキー一族と呼ばれている。彼の屋敷跡の近くには一本の樹が立って居り、この成功者の記念に、通りがかりの人がこの樹に使い古しの靴《ロプキエス》を捨てるのが習わしとなっている。
一人の貴紳がこの成功者が一つの蕪のためにそのように報いられたのを見て、もし一頭の素晴らしい馬を献上したら比率の法則からいってもどれ程多くのものを貰えるだろうと胸算用して馬を献上した。ところが皇帝はこの男の意図を見抜いて、例の大きな蕪を与えただけでその他に何も報いなかったので、彼は赤恥をかいたばかりか皆に散々笑いものにされたということである。
(R. Jakobson, On Russian Fairy Tales, in : M. Lane (ed.), 'Structuralism,' London, 1970)
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この説話は一読しただけで、「貧者の一灯」のモチーフに分類される昔話の型に対応し、さらに善い男・悪い男と正負の反覆は昔話の常套的な語り口であることを見抜くことは容易なはずである。ロマン・ヤコブソンは、「コリンズが有名な皇帝《ツアー》に関する歴史的素材を蒐集していたのでこの話を書きとめたのは確かであるが、この説話を歴史的素材として使うことが出来るであろうか」と設問しながら次のように説く。すなわち、ヴェッセロフスキーが示したように、こういったプロットはハドリアヌス帝、タマレーン、オーソン公とウォラーシタインなどの説話にも現われている。さらにこの話は、中世イタリアの笑話集ばかりでなく、ユダヤ教の『タルムード』にもトルコの『ナスル−エディンの冒険』という民俗譚にも現われる。つまり、善良で正直者の靴屋の真似をしようとして失敗する男の役割りは形のうえからいえば、普遍的な民俗譚の中での数多くの阿呆、やっかみ屋さんの役割りと似ているのである。「にもかかわらず、この伝播性の高いプロットをイワン雷帝に使うというのは単なる思いつきなどでは全然ないのである。それは、ロシアの民衆の記憶がこのツァーと彼の平民と貴紳に対する態度をどのように位置づけていたかということを示している」(Ibid., P. 198) とヤコブソンは説明する。つまり、ここには、十七世紀スペインの劇作家ロープ・ド・ヴェーガが『上なき判官これ天子』で示したように、民衆がどういったイメージを介して、如何なる「語り」の形式(思考の様式)を介して、過去という時間軸を通して語りかけて来る価値の源泉に繋ろうとしたかが、明確に示されている。ここでは神話的「イワン」が問題なのであって、政治学的概念としての皇帝が問題になっているのではないのである。またヤコブソンは次のような例についても言及する。
十世紀末にロシアをキリスト教化した大公で、ロシアの英雄詩で親しまれているウラジミールはブリニー(英雄叙事詩)の領域から昔話の領域に移行した歴史上の人物の一人である。昔話の領域では、彼の家臣団の中にはロシア的で勇敢な騎士(ボガティルと呼ばれるが、これはタタール人を通してロシアにやって来たペルシア系の外来語バガドゥルbagadur「力士」の意味があった)とか、百姓の息子のイリア・ムロメクとか、法王の息子で、もう一人の人気のある英雄アレッサAl壮a などが含まれてくる。アレッサの原型であるアレクサンドル・ポポヴィッチは、ロシア年代記ではタタール人に殺された騎士の一人として一二二三年の項に現われて来る。英雄叙事詩は伝統的にアレッサがトゥガリンという龍を退治したことになっているが、この龍はポロヴグ侯トゥゴル−カンの詩的反映であり、昔話もこの説話を繰り返して語っている。('Ibid.,' P. 197) こういった例を積み重ねることによって、我々は、民衆的なレヴェルで、過去が民衆の世界の一部に組み込まれる形式としての「歴史」において、事象と説話の間に明確な境界はなく、歴史的な事象の像は常に流動的で高い可遡性を示して居り、或る事象が民衆の歴史像の中に定着するために経過しなければならない民俗的認識論《フオーク・エピステモロジー》が、神話・説話・叙事詩という形式《フオーム》で表現されているという具体的な過程を再現することが出来るのである。
二 歴史と身体的記憶――祝祭としての歴史――[#「二 歴史と身体的記憶――祝祭としての歴史――」はゴシック体]
いわゆる「第三世界」の如き、口碑的世界を基調に据えて成立している歴史的構成体においては、歴史的空間としての過去は、すくなくとも音響空間(説話・叙事詩・歌謡・劇・踊り)において第一次的に成立しているのである。従って、過去と現在を統合するのは、還元された抽象的記号としての文字言語ではなく、どのような形にせよ、意識を日常生活を越えた場へ容易に拡大させうるような、そして肉体の持つ感受性をいっそう大きい振幅で喚び起しうるような音響的・律動的な媒体なのである。
歴史的記憶が、容易に、昔話あるいは伝説的な形式に溶解するのは、口碑における型が意識の流れに一定の枠を与えるリズムのような役割りを果すからである。我々が今日、こういった「非文字」的領域にまで、経験の記憶としての歴史に対する視野を拡大しなければならないのは、例えばカリブ海のアフリカ系住民の「歴史=過去との繋り」は、まさに、そういった媒体を介してしか行われていないという事実によるものでもある。この世界では、黒人系住民は、植民地体制の中で文字としての歴史を所有する権利を長い間奪われて来た。カリブ海出身のフランツ・ファノンはこの間の事情をよく知っていた。「彼(入植者)が書く歴史なぞと言うものは、そもそも彼が収奪した土地の歴史でもないばかりか、その植民地を根こそぎさらい出し、凌辱して、住民を飢餓に追いやって来た彼自身の国家の歴史にすぎないのだ」(F. Fanon, 'Les damn市 de la terre,' Paris, 1961, p. 5) とファノンは所謂「歴史」への呪詛を投げつける。
所謂「歴史」というのは、カリブ海やアメリカ大陸のアフリカからの奴隷の子孫にとってはむしろ忌わしいものでしかない。そういった意味では彼らにとっては、所謂「歴史」を所有するということはすでに、抑圧装置の中に組み込まれた御旦那衆の特権を示すにすぎないということになる。奴隷経済の実態についていかに実証的に立証しようとも、その資料および操作の方法が、抑圧者の抑圧機構の延長にあることへの省察を欠くならば、その「客観性」は、支配の一形態の表現に過ぎないことになる。事実カリブ海のような、支配機構が奴隷支配を直接的手段としていた地域(この程度の言表のために「文献資料」は最低必要であるが)では、黒人系住民が、積極的に過去を自己の世界および行為の中に統合的に組み込む手段は殆んど奪われていた。文字を介した過去は存在しない。住民に残された過去とは、ヴォードゥの如き宗教的行為か、「カーニヴァル」の祝祭における、「肉体的記憶」を介した過去との合一による全体性の恢復か(もちろんこの両者にあっては、音楽による生のリズムの組織が「碑文」に対応する役割りを占める)、さらに昔話における笑いを介したアイデンティティ(自己表現)の拡大などが、彼らの拠って立つ原理であった。もっとも、西欧中世の民衆的世界像が、殆んど同じような原理に基づいて構成されていたことは近時ロシアの文学史家ミハイル・バフチーンがそのダイナミックな研究において示したところであるが(M. Bakhtin, 'Rabelais and His World,' Massachusetts, 1968、邦訳、せりか書房)、ユーベール・ジェルボーは「一年の中でも例外的な瞬間であり、仮面の下で、すべての人がその秘められたデーモンを解き放つことができるカーニヴァルは、リオやトリニダッドでは制度的な高みに達した。マルチニックでは、それは一月に亙る踊りと数日に亙る昂奮の絶頂の期間である。多分、こういった極彩色のきらめきの下に、屈従の時期から継承されて来た夢や抗議の内容を読みとらなければならないであろう」と述べ(H. Gerbeau, 'Les esclaves noirs―pour une histoire du silence,' Paris, 1970, p. 147)、さらに「カーニヴァルは、単に色彩の豊かさや陽気なざわめきで構成されているものではない。それは、この土地の気分の、内的な関心事の、その複合的性格の、希求の、怨念の、又は願望の自発的な証人である。それは、マルチニック島の歴史のヴェールが揚げられる束の間の出来事でもあるのだ」(A. Bertrand, Le Carnival martiniquais, 'Horizons cara秒es,' n。 sp残ial, Fort-de-France, 1955, p. 4, cited in : Gerbeau, 'op. cit.,' p. 147) というアンカ・ベルトランの表現を引いている。
このような文字を介した過去を剥奪されていた社会では、「ことば」を介して価値ある過去に繋がる唯一の方法は昔話であった。その昔話の主人公は、殆んど野兎(ティ−マリス)とハイエナ(ブギ)の組み合わせであった。私が別のところで示したように(『アフリカの神話的世界』岩波新書、一九七一年、第七章)、この野兎とハイエナのコンビはアフリカの神話からカリブ海に持ち込まれたものである。しかし、カリブ海では、この唯一の過去との紐帯すら、長い間白人による抑圧の儀式の中に組み込まれていた。
例えば、いたずら野兎と亀の話がある。昔大きなプールを持っていて、毎日そこで泳ぐのをたのしみにしていた王があった。或る時、王が泳ごうと思って水面を見ると水は濁っていた。見張りを立ててみたが毎夜曲者は忍び込んで水を濁らせるのだった。見張りは王に罰せられたので森の中へ逃げ込んでしまった。曲者は野兎でこれを見てたいそう喜んで、いたずらを続けていた。亀が見張り役を買って出た。亀は友達に背中に鳥黐《とりもち》を塗ってもらって、野兎の来そうな場所で兎を待った。亀の背を石と取り違えて坐った兎は王のところへ連行されて、王の剣で首を落されてしまった。(C. Baissac, 'Le folklore de L e-Maurice,' Paris, 1887, pp. 1-13) この説話は西アフリカでは最もよく知られているものの一つであり、私もナイジェリアのジュクン族で鳥黐を塗った人形に固着して捕えられた野兎の説話を採集している。(前掲書、九七―八頁)しかし本来は、この説話の系統に限れば、プールを所有する王(明らかに白人)、密告者としての亀、斬首の刑を受ける兎というのは西アフリカ的コンテキストには無い。H・ジェルボーはこの説話は、カリブ海の植民地的状況を正確に反映しているとして次の如く述べる。「反逆者は罰せられる。彼は禁を犯した。浮浪者で、無頼漢で、黒人である『野兎』は、権力の浄い水の中で泳いだ。そのために彼は死ななければならなかったのだ。」(Gerbeau, 'op.cit.,' p. 154) 前世紀にこの説話を採集したバィサックは、律儀な植民地行政官らしく、「利口で徳性の高い亀」と違って、この臆病者で「いじけて、密告者や鉄杭などの身の毛のよだつ悪夢に日夜追い廻されて、身を休めるひまも無く逃げ廻って、その悪意の故に肉は黒くて[#「黒くて」に傍点]食べられない」といった野兎が、どうして説話の人気者になったか理解に苦しむと述べている。(Baissac, 'op. cit.,' p. xi) つまり、本来アフリカの民俗的想像の中では、陽気な説話であったものが、ここでは、植民地的状況の中で変貌をとげ、反抗奴隷のための見せしめ(抑圧の儀式)のための道徳的物語になっているのである。しかし同じバィサックは、同じ系統の別の話では、野兎は最後に逃亡に成功して、罰せられたのは密告者の亀であったという結果が語られていると注記している。('Ibid.,' p. 15) ジェルボーは、これも黒人の抵抗の意識の一形態と見る。西アフリカの説話でも野兎が逃げ出す例を知る我々は、必ずしも結末の意図性についてその解釈に従えないが、確実にいえることは、ここで植民地的状況という与件としての過去を受けとめる媒体が、西アフリカから伝承されて来た「世界の解釈」のスタイルとしての昔話であるという点である。こういった「解釈のスタイル」を介して、カリブ海の黒人は彼らの過去としてのアフリカ文化に意識せずとも立ち還っていたのである。同時に、こういった「世界の攪乱者」としての野兎の如きトリックスター性を帯びた主人公は日常的道徳からの逸脱という基本的特性の故に、語りという形式を通して実現される、「祝祭的《カーニヴアル》」精神の象徴でもある。
三 歴史と集合的記憶[#「三 歴史と集合的記憶」はゴシック体]
『アフリカ的権力』(J. Zi使ler, 'Le pouvoir Africain,' Paris, 1971) というアフリカの政治構造論の中で社会学者J・ズィエグレルは、過去との繋りが、単に文字言語的記憶のみを介して確立されているのではなく、「身体を介した記憶」によって行われているのであることを力説している。ズィエグレルはこういった視点を確かならしめるために、社会学者ロジェ・カイオアが『人間と聖なるもの』(小刈米※[#「日+見」、unicode665B]訳、せりか書房)で示した「聖なるもの」の日常世界への侵犯としての祝祭についての視点、あるいはジャック・ベルクが「歴史とダンス」というエッセイで示したような視点を支えとする。(J. Berque, L'histoire et la danse, 'Dossession du monde,' Paris, 1964, pp. 9-21) つまり祝祭は、集団の配置の総動員を促すというのが彼の視点の出発点である。その上で、このような変換された配置を通して見られ、関係を打ち立てられる過去というのは、日常生活的秩序と記憶を通して見られる過去とは同一ではないとする。しかし、日常生活と同様に、祝祭的世界も、一種の厳格な行為の規準を前提として成り立っている。「別の言い方をすれば、肉体的記憶に基づく行動によって、人は彼らの現在の状態を、遙かなる淵源にして本源的状況から距てている数世紀、照射されている歳月を一挙に飛び越える。(殆んど字義通りの意味でそう言えるだろう、というのは儀式的舞踏は始原的変貌[#「始原的変貌」に傍点]という役割を担っているからだ。)一とびで、人は、可視の現象の、『意味するもの』の次元から、『意味される』、束の間の、存在論的真に基づく世界へと移行するのだ」(Zi使ler, 'op. cit.,' p. 197) と述べている。こういった「身体を介した記憶」なぞというたわ言じみた表現は、少し前なら真正の歴史家によって一笑に付されたものであるが、今日事情はいくらか異なって来ているようである。例えば、アンリ・ルフェーブルの影響によって、本来狭義の現象学的用語であった「日常」と「非日常」といった生の二つのあり方の区別――日本語では本来「け」と「はれ」という表現だったもの――が狭義の歴史家の表現の中に見出されるようになったことなどは(例えば、喜安朗・木下賢一「対談 十九世紀民衆運動の論理」、「中央公論」一九七一年七月号、二三五頁)、その証拠であろう。本来狭義の歴史家の表現の中には、「非日常」という概念は極めて入り込みにくいものである。何故ならば、「非日常=はれ」なるものは、どの文化にあっても意識の恒常的な、本源的なあり方(ユダヤ=キリスト教的世界観でいえばクロノスに対するカイロスに相当するもの)を反映しており、その非時間的・神話的性格の故に、狭義の歴史研究の対象から真先に外されるはずのものである。しかしながら、そういった意識空間が、人間を行為に導く、もう一つの大きな原動力であるということを歴史家が認め出して来たことは、所謂「歴史的」世界と「非歴史的」世界といった、植民地的歴史観の克服のためには歓迎すべきであるといわなければならないだろう。つまり、今日、「歴史を持たない」社会にも歴史が存在したなどと、狭義の西欧の史観に基づく「過去」の概念を、恩着せがましく「第三世界」に拡大する試みより、我々にとっていっそう必要なのは、「歴史」を持っていたと考えられる世界における、文献の中だけの整合性に基づく「歴史」についての理解の方法だけでは、必ずしもその文化の中の「生活空間」に生きる人間の過去との繋りのすべてを再現することができないのであるという点を、改めて確認することである。その上で、後者のような意味での過去との繋りという点では「第三世界」と言われる世界の方が遙かにダイナミックな過去とのかかわり合いの形態を保持していたということを知るべきである。西欧的世界の中での、「文字的記憶」を越えた過去との対話の可能性をとりだすためのモデルとしても、「第三世界」の歴史意識のあり方は積極的な位置を占めることができるのである。
先に触れた歴史意識の存在形態の一つとしての祭式についての考察の中で、ジャン・ズィエグレルは周期的にして回帰的、そして「肉体的記憶」を媒介とする「祝祭」と「口碑」との相補的なかかわり合いについて述べている。彼は口碑は、祭式を構成する肉体言語である儀式を、音声的記憶を媒介として、保持し、伝達し、厳格な再現のお目付役となると言う。つまり、両者の間に、構造論的対応があるということを彼は言いたいわけである。祝祭は平日の普通の経過の中に、アンチテーゼとして割り込んで来る。それは生きとし生ける者の生活の中に原動力的リズムをもたらす。「祝祭は、信条の不易の喚起の媒体であり、存在の無限の大海の只中で、活力に満ちた周期性を介して、人間を鍛えなおす」(Zi使ler, 'op. cit.,' p. 198) と述べる。こういった表現は、今日、必ずしも存在論的傾向を表面におしだすズィエグレルの如き社会学者ばかりでなく、パリ・コミューンの研究者の間で比較的高い評価をうけているアンドレ・ドクフレなどの視点に色濃く見られるところである。例えばドクフレが「革命的状況の如く、宗教的選択は、記憶回復であると同時に出直し、つまり歴史的時間を踏み越えたところでの(アイデンティティの)解体と再生による自己の再獲得である」(A. Decoufl・ 'Sociologie des R思olutions,' Paris, 1968, p. 56) という時、彼は存在論的時間(即空間)をモデルとしているのである。もちろん、彼は、革命的状況での所謂神話の如き永遠の形象を範型として持たず、最も身近な存在が、その時々の範型を提供していると両者を弁別している。にもかかわらず、ここで彼が問題とするのは「具体性を帯びた集合的記憶」が、範型の選択の規準になるという点である。「集合的記憶」は、ドクフレの表現においても具体性を媒介として使われている概念であるが、ドクフレ自体も「ドクフレがいっている集団的記憶《メモワール・コレクテイブ》をもつ意味を検討する必要がある」と言いつつ喜安朗氏が挙げる例の如く比較的短い間隔における共通の体験だけが問題になる概念ではないのである。むしろ、重要なのは、そういった記憶の原型とでもいうべきものが「内在化(律動化)された歴史」として、行為の原動力になったり範型を提供したりするという点である。従って意識のより深い層において人々を把握している記憶は、それだけ、神話論的普遍性を強く帯びているはずであり、時々に応じて、その記憶を具体化する形象は、たとえそれがいわゆる古典神話の大人物・大事件でなく身近な人間や事件の形をとっていても、より深く意識に食い込んでいるのである。こういった聊か抽象的な点に縷々としてこだわるのは、集合意識が「集合」的であり意識の深層において人を捉えるのは、それが「肉体的記憶」を媒介として、特定の空間のゲシュタルトやその空間に属するイコンとのかかわりにおいて形成されるからである。(M. Halbwachs, 'Les cadres sociaux de la m士oire,' Paris, 1925, 2e 仕. 1952, p. 139) ジャック・ベルクが「歴史とダンス」において強調するのも、こういった歴史意識の形態なのである。
こういった集合意識は、時として祭式の構造を介して、また時には、口碑を介して、さらに、革命といった反日常生活的状況を介して恢復される、意識の「もう一つの」形態である(註)。「歴史」という、過去を媒介として、自己の再統合をはかるための媒体も、そのような思考の窮極的動機を、日常生活の内側に収まりきらない意識の態様を深い源泉として持っているからには、本稿で論じたような形で姿を現わす集合意識によって組織された過去(それが日常生活の時間的記憶の外延にあることが多いにしても)と交差するはずである。
「第三世界」の歴史像を論ずる際に、今日欠くことの出来ないのは、むしろ、こうした「身体的行為」を直接の媒体として再現される過去についてのイメージに対する感受性であろう。
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(註) 革命の持つ祝祭空間の恢復という機能については、次の書を参照せられたい。Agn市 Villadary, 'F腎e et vie quotidienne,' Paris, 1968, pp. 81-90. パリ・コミューンの祝祭的性格に注目している分析としては、下記の研究がある。S. Edwards, 'The Paris Commune 1871,' London, 1971.
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ミシュレあるいは歴史の宴
一 解放された幽閉者[#「一 解放された幽閉者」はゴシック体]
半世紀にわたる幽閉の後に忘却の彼方から立ち還って来たミシュレの現代性は、どういうところに求められるのであろうか。ジャック・ル・ゴフの表現によれば、彼が「深層の歴史学」の創立者であり、「歴史自身の彼方の歴史」の創始者であったというところにある。(「ラルク」52・ミシュレ特集号、序)彼は現在まだその全貌を現わしてはいないもう一つの歴史学の起点を示したといっても過言ではない。再びル・ゴフの表現を用いれば、彼ミシュレはもう一つの学派、大通りのそれでなく草叢《ビユイソニエール》の中の学校を予告したのである。それは想像力によって武装されたもう一つの政治であり、もう一つの知的感受性であり、もう一つの歴史の学派なのである。ここ十数年の間に、ミシュレは、歴史学ばかりでなく社会学(E・モラン)、文学(G・バタイユ)、哲学(R・バルト)、人類学(ジャンヌ・ファブレ)の様々の領域において、「量化された歴史の抽象化された歌を唱うつもりのない」歴史的感受性の持主に、再び輝ける古典になった。彼は文献《テキスト》を踏み外すとしばしば非難される。しかし彼は、フランス史を書くにあたって原史料を博捜し、史料批判を行って叙述した最初の歴史家であるということは意外に知られていない。彼の踏み外しは「戦略的」な意味での知的技術だったのである。こうすることによって彼は「文献の彼方へ」、「鏡の裏側の歴史」に探りを入れたのである。この技術によって彼は、ついには文献史料のディスクールの中に直接参加する手段を持たなかった「民衆」の声を吸い上げたのである。こうした深層の歴史についてのミシュレの自覚は、ミシュレ自身による次の言葉によっても知ることが出来る。
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かつて一度も語られたことのない言葉、人びとの心の奥底にとどまっていた言葉(あなた自身の心の奥を探って見たまえ、それらの言葉はそこにあるのだ)に耳を傾けなければならないのである。
(ロラン・バルト、藤本治訳『ミシュレ』みすず書房、一三〇頁)
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二 女・始発の場[#「二 女・始発の場」はゴシック体]
ユダヤ人、モール人(トルコ人)とともに、女性はミシュレにとって、「絶対の他者」としてはほとんど宇宙論的存在であったことを、ロラン・バルトは明らかにする。
ミシュレは、女の本質は、女が社会的存在としてもっとも衰弱した瞬間、≪月毎に女の時を刻むかの神聖な律動[#「月毎に女の時を刻むかの神聖な律動」に傍点]≫に捉えられる瞬間に表面化すると考えた。
女がその他性を発顕させて、その魔的な支配力を固めるのは、まさしくその弱さのきわまった瞬間においてなのである。
[#地付き](バルト前掲書、一九一頁)
女は月毎の生理痛によって、「自然」に合一する。ここでミシュレのいう「自然」は、一方ではもう一つの秩序を意味し、他方では(レヴィ=ストロースに従って)我々が今日、「文化」に対置する「自然」の概念に重なるといってよかろう。「歴史」がパラダイム的対立項を直線的に時間軸によって、一定の文の形式、物語性の形式に従って、配列する作業であるとするならば、女は、そういった歴史の叙述性を越えたところに自らの安住の地を確立している。それゆえに、「歴史」の内側に棲息する男は、女を抑圧し迫害する。ミシュレを使いながらバルトはいう。
[#この行1字下げ] 女は歴史を越えたところにいる。女は時の鍵を握っている。女は神巫《シビラ》であり、妖精であり、信仰《ルリジヨン》そのものである。≪中世が侮辱を加え貶しめ不浄と呼んでいたもの、それはまさしく女の聖なる生理痛である。それこそ女をこの上なく詩的な信仰の対象たらしめるものである≫
[#地付き](同書、一八一―二頁)
男が地上の秩序に縛りつけられているとしたら、女は宇宙の秩序に属している。「女は宇宙の一要素……初源的であると同時に……究極的でもあるところの、物質の一種至高の状態を成しているのである。」さらに「『女』は人間に隣接していながら、しかも同時にその埒の外にある一要素、いわば男を囲繞する全き環のごときもの、一言にしてつくすなら環境なのである」(同書、一九〇頁)
そういう意味で、女とは、「内」と「外」に同時に属している存在であるといえる。内なる論理の前提としての「秩序」に属するとともに、「外なる」論理の前提としての「反秩序」に本質的に属している。女性的論理の飛躍とは、ほとんど、女の属する「外」の論理、(身体の宇宙的リズムによって支配された)もう一つの秩序に由来しているといっても過言ではない。こうした宇宙論的混沌は、バルトが引用するミシュレの次の文章中の「女」ということばを「混沌」と置き換えることによって、いっそう明確に示すことができるだろう。
[#この行1字下げ]≪女には地にとっての天のごときところがある[#「女には地にとっての天のごときところがある」に傍点]。下にもあり[#「下にもあり」に傍点]、上にもあり[#「上にもあり」に傍点]、まわり一帯に遍在しているのだ[#「まわり一帯に遍在しているのだ」に傍点]。われわれは女のなかに生まれた[#「われわれは女のなかに生まれた」に傍点]。われわれは女によって生きている[#「われわれは女によって生きている」に傍点]。われわれは女につつまれている[#「われわれは女につつまれている」に傍点]。われわれは女を呼吸している[#「われわれは女を呼吸している」に傍点]。女は大気であり[#「女は大気であり」に傍点]、われわれの心臓の原質なのである[#「われわれの心臓の原質なのである」に傍点]≫
この置き換えの可能性は、あらゆる文化における「女」の神話的位置の拠って来るところを明らかにする。メソポタミアの創始神話「エヌマ・エリシュ」において始原的混沌を体現して英雄マルドウクによって退治されるのは母神ティアマトであり、ギリシア神話においては大地母神ガイアとして現われる。女性に対する宇宙論的畏怖感、それがすべての事物のはじまりに形象化されるのだ。こういった女性像は、神話から演劇の世界へ移行して同時代的始原の絶えざる再生の地点となる。クリタイムネストラからメディアに至るギリシア的系譜、カーリ女神に見られるインド的系譜、「安達原」に結集する日本的系譜は、それぞれ、始原的混沌を湛えた女性に対する畏怖感の造型以外の何ものでもないであろう。女性の影にウィッチクラフトの姿を見るのは、女性の持つ普遍的な象徴性の局所的現われにすぎない。そこでバルトは、ミシュレによる「女」の歴史的位置を次のように敷衍する。
[#この行1字下げ]「歴史」のはじめは、「正義」の種を受けとる準備のできた、ぼんやりした「夜」によって占められている。この陰の境域、それが「世界=女」である。
ミシュレの史観において、女性は、そういった宇宙論的な混沌を人間社会に媒介する媒体であるということになる。女は「≪『自然[#「自然」に傍点]』と男との仲をとりもつ優しきもの[#「と男との仲をとりもつ優しきもの」に傍点]≫であり、鍵であり、戸を開くものである。」(同書、一九二頁)こうした女の位置は、西アフリカ(ヨルバ族)の神話的世界において、神々の意志を人間に伝えるための手段である占いの守護神に寄託される役割りである。この守護神はブラジルに伝えられヴォードゥ教の「戸を開くもの」としてのトリックスター神エシュ=レグバに外ならない。この神は、単線的ではなく、複線的な論理の神である。彼は、人をして一対一の論理の整合性から逸脱せしめ、人間行為をより広い結合・連関の中へ解き放つ神である。歴史の中でこの仲介者の役割りを演じて来たのは女たちであった。バルトは言う。
[#この行1字下げ] 普通は、こわばった、不幸な運命を背負ったような顔をして、だんまりやの男である。ところがただ一つの力が彼の緊張を解き、彼にその言葉と天分と社交性をとり戻してやったではないか。それは「女たち」だ。「女たち」が彼を強引につき動かし彼の天分を開け放ち彼の創造活動を促したのだ。
[#地付き](同書、一九二頁)
歴史は、ミシュレにとっては、男の論理による女の論理の排除の過程として捉えられる。男の論理とは、分割(分類)、そして序列づけとそれに基づく権利・義務・行為・言語の様式化の過程である。それは絶えず一切の分割及び固定化へ向う途である。女の論理は、絶えず枠を越え、本来対立すべきものを結びつけ、想像力を介して世界を生気づける働きに基づいて構築されている。歴史は、ある意味では、こうした二つの「ディスクール」の交錯する場である。あるいは、前者が後者を絶えず排除する過程を「歴史」と言うことができるのかも知れない。そうした「歴史」の基底的構造が表面化する磁場が歴史の中に嵌め込まれている。西欧中世について言えば、次のようになる。
[#この行1字下げ] 中世を見よ。中世はそれこそ閉ざされた時代であった。自然についての恵み多き知識の大きな流れを維持したのは、「魔女」と呼ばれていた「女」である。
[#地付き](同書、一九二頁)
極端な言い方をすれば「女」こそは歴史的意味論の始発の場である。つまり、歴史は、ついには、「秩序」と「力」とこの世の権利・義務の体現である「正義」が「混沌」を圧する舞台として描かれたものであるとするならば、このパラダイム的対立において「正義」の項に加わる描写は究極的には男の属性の抽象化したものであり、「混沌」の側に分割されるのは「女」の側に分類される属性である。ところがパラダイム的対立項は、たがいに半身を他の欄に求めなければならない。歴史の意味論とは、こうした対立項を組織する過程において成り立つと言うことができる。忌むべき「血」をふんだんに流し得る存在としての女は潜在的にマイナス項の担い手であった。
三 血のディスクール[#「三 血のディスクール」はゴシック体]
ミシュレの華麗な文体は、修辞過剰という名目で、これまでミシュレ非難の重要な項目であった。バルトの表現によるとそれは「意味するものの過剰」ということになる。(前掲「ラルク」、二一頁)しかしながら、バルトはこの修飾の中に、ミシュレの象徴言語を読み込むことに成功した。ミシュレの歴史的宇宙のディスクールの一面は、血の象徴言語のパラダイムで截断することができる。「ミシュレにとって『血』が『歴史』の基本的実質である」とバルトは断言する。(バルト前掲書、一四七頁)この血によるパラダイム的対立はロベスピエールの死という歴史的事件の叙述の中に姿を現わす。それは二つの血の対立である。
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貧弱―乾燥―欠乏……「司祭=猫」―ロベスピエール
対
多血質の諸性格―熱―紅《くれない》―裸―栄養過多……「女=血」―熱月《テルミドール》
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こうした対立のどちらかの項が、その各々に属する暗喩の変換作用を利用したミシュレの歴史的修辞によって、宇宙的な対立にまで昂揚していくのである。イギリス、ドイツ、ロシア、その各々の歴史的展開はこうした血のディスクールの中で繰り展げられる。
最も理想的な血の修辞、それは「定期的に瀉血を行って≪血を吐き出≫」し、自然の循環に逆らわない状態である。ミシュレの中で完成した女性は彼が≪百合と薔薇[#「百合と薔薇」に傍点]≫と呼ぶ一群の女性である。「これら花開いた女たちは、血に対して完全に従順であり、彼女らの身体は、彼女ら自身の血に寄生しつつそれを包んでいる入れ物にすぎない。」(同書、一五五頁)これに対して血を惜しむ多血症の、豊満な、勝ち誇った貴族の女は、ミシュレにとって根元的な嫌悪の対象である。「律動《リトム》というその贖いの本質的なあり方に与らない一切のものは、ふたたびいかがわしい歴史に陥ってしまうのだ。」(同書、一五一頁)このように、ミシュレは、平板な、事件の記述の文体の中では浮び上っては来ない、律動と、その律動を抑えようとする動きとして歴史的宇宙を捉える。そして血のディスクールは、その最も有効な手法の一つなのである。「血は、分割するのではなく包み込むところの、原始的なもの、未開のものに栄光を授けるのである。」(同書、一五四頁)
四 歴史の道化師サタン[#「四 歴史の道化師サタン」はゴシック体]
ミシュレの歴史的ディスクールの中の最も重要な対立項の組み合せは女性的「恩寵」と男性的「正義」との性的構造のそれである。とはいえ、この対立は、最も好ましい歴史を作るためのものであって、互いに排除し合うものではなく相補う対立であることは、明らかである。バルトは、こうした性的構造の対立が、ミシュレ的歴史の全体に有機的構造を与えていると説く。ある意味でこの二つの性的対立にはユンクの言う、アニムスとアニマのそれを想起させるものがあるが、今は、それを論じている余裕はない。
[#この行1字下げ] ミシュレ的な意味での「正義」とは、その第一形態とは、それは、≪はじめは戦闘的でのちに否定的ともなり創造的にもなるが[#「はじめは戦闘的でのちに否定的ともなり創造的にもなるが」に傍点]、いずれにしろますます豊饒多産となりまさっていく[#「いずれにしろますます豊饒多産となりまさっていく」に傍点]、まだ若い自由の[#「まだ若い自由の」に傍点]、奇態な名前[#「奇態な名前」に傍点]≫であるところのサタンと、それに一体をなすところの「魔女」である。
[#地付き](同書、六九頁)
こうして「魔女」と対になるサタン、歴史の推進力の一つの顕現としてのサタンは、無目的の創造的エネルギーという意味で、エロスを、ファリックな象徴性をわれわれに想起させる。そればかりでなく、この始原的サタンは、神話的始原児としてのトリックスターを想わせる要素を含んでいるとさえ言うことが出来そうである。こうした言い方が決してこじつけでないことは『魔女』におけるミシュレの次の記述からも明らかである。
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ただひとりで、彼女は受胎し、子供を生んだ。がだれを生んだのか。うっかりすると思いちがいをしてしまうほど彼女に似た、しかしもうひとり別の彼女自身なのである。……
この子供がどうやってこの世に登場するか、あなたは知っておいでだろうか。それは、恐ろしい爆笑である。生まれながらの自由な草原にいるのだから……この子が陽気でも当然のことではないか。彼の地下牢とは広い世界そのものなのだ。彼は行く、来る、散歩する。果しない深い森が彼のものだ! 遠い地平線を望む荒野が彼のものだ。……この子はどこかに|木の繁み《ビユインフン》を見かけると、たちまち道草(エコール・ビュイソニエール)をし始める。
サタンをどれほどこわがったところで、はっきり言って、もしサタンがいなければ、ひとは単調な生活のため死ぬ思いをすることになろう。……
……この手におえぬ者・魔女の息子は、言うべきときに否《ノン》と言うことができる。彼はイエスに抗議する。わたしの確信するところ、彼はイエスを倦怠から救い出してやるのだ、というのも、じっさいイエスはおのれをとり巻く聖人たちの味けなさにやりきれない思いをしているのだから。
……彼は何かを探し求めにゆき、けっして休息したりしない。彼は、天と地とを股にかけて動き回る。彼はまったく好奇心にあふれている、発掘する、入りこむ、深みをさぐる、いたるところに鼻先を突っこむ。「|ワガコトオワレリ《コンスマトウム・エスト》」などは笑いとばし、嘲り笑う。彼はいつも言う、「もっと遠くへ!」――また、「前進!」と。
それに、彼はもったいぶっていない。彼は屑だろうと何だろうととり上げる。天が投げ捨てたもの、彼はそれを拾い集めるのだ。たとえば、ローマ教会は「自然」を不純で疑わしいものとして投げ捨てた。サタンはそれをつかまえ、そのなかからさまざまの技芸を産みださせた。
(篠田訳『魔女』上、古典文庫、現代思潮社、二二―五頁、岩波文庫)
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ここで引用を終るのが惜しいくらい、ミシュレのサタンの描写は神話学的に完璧である。この描写は、そのまま、神話的トリックスターのディスクールに重なり合うものである。そればかりではない、この形象は、そのまま道化ハーレキンのそれにも転用できる。西欧中世の宗教劇の舞台で、サタンの役は道化的芸人によって演じられたという事実は、創造的な次元において歴史を透視しようとする場合決して軽々しく見過される部分ではなくなる。こうして、歴史の中の創造的破壊の部分は、サタン=トリックスター的原理によって捉えられることができるということになる。ミシュレは、ルネッサンス的技芸はほとんどこうした道草教室(エコール・ビュイソニエール)において根元的には始動していると言う。(同書、二六頁)
今日、ウイリアム・アーウィン・トンプソンのような魅惑的な歴史家が、文明史の一角は道化的知識人によって担われて来たという大胆な文明史観を提起する時(『歴史の瀬戸際にて』、一九七一年、一〇四―一〇五頁)、そこで前面に出されている視点は、まさにミシュレのサタン描写に対応するのである。
とはいえ、これが読込み過ぎでないことは、ミシュレが、大の親友であったヴィクトル・ユゴーの、今日シュールレアリスムの先駆者といわれる部分から学んだことからいっても確かめられる事実である。ある時彼はユゴーの道化を主人公とした劇『笑う男』を読みおわって、「笑い死に」と題する絶妙な滑稽趣味に満ち溢れた要約を作った。「これが歴史のもう一つの側面だ」と彼は書き記した。(ジャン・マリ・カレ『ミシュレとその時代』パリ、一九二六年)
五 性の弁証法[#「五 性の弁証法」はゴシック体]
バルトに戻ろう。彼によれば、ミシュレは、こうした女性的「恩寵」を宿す「魔女」を両性具有的な存在と見做した。「魔女」とは、精神の技術の延長である浸透洞察の術である医療を、中世にあって委託されていた人間と規定される。しかも「魔女」は、男性的原理の特徴をことごとくそなえている。つまり、「魔女」が女性であるということは、それほど重要なのではない。「魔女」は女以上のもの、産婆である。「すなわち男性の力と女性の力を兼備した、最高級の、欠けたところのない性である。」(バルト前掲書、七〇頁)こうしてミシュレ=バルトにおいて「魔女」はほとんど自生神的性格を帯びる。魔女は歴史の中の種々の対立の中を浸透していく精神の原技術者として、すでに性の対立を揚棄した存在である。
このサタン=魔女複合に、ミシュレは「男性」原理の側から出発した形象を、ミシュレ的「英雄」を対置する。ミシュレ的「英雄」とは「正義」を「歴史」のなかにおろす男たち(ルーテル、ラブレー、コシチューシュコ、オシュ、ライプニッツ)、ミシュレ的な意味で「欠けたところのない」、すなわち二つの性質を備えた男たちを指す。この英雄は、超人的な指導力を保持すると共に、「固有の意味で叙事詩的な武器、すなわち『笑い』を持っている。」こうして「笑い」は男性的な力であるとされる。バルトは「笑い」の神話=歴史的な作用を、「破壊し、爆発させ、そして受胎させる」力を認める。つまり、笑いの中に、真に世界を根柢から組み換える作用を認めるのである。いいかえればミシュレ的英雄とは、神話的次元で、サタンが占める位置を、「叙事性」を介して歴史の中に実現する者であり、それはまた歴史の深層を表層に仲介する者の謂に外ならない。
ミシュレの歴史は、究極的には、対立が解消するような状態へ向う運動である。従って性にも上位の性と下位の性があり、観念だけの世界で増殖する知性をミシュレは下位の性と規定した。こうした性の持主とは、知識人たちの大家族、法律家たち、ジェズイットたち、抽象家たち、学者ぶる先生たち、才子たち、皮肉屋のゲーテ、スピノザとヘーゲル、運命論者たちを指す。「これらの理性の闘士はみな一つの性《セツクス》、観念の性しかもっていないのだ。」(同書、二二六頁)
これに対し、既に見たようにミシュレ的英雄とは、「女」から借りた一種の超自然的な直観の下に知力を孵す、雌雄両性を具えた存在である。ラブレー、ルーテル、フランス革命の英雄オシュがそういった存在である。ミシュレ的英雄の別名である天才とは、「男でありかつ女であること、質朴と呼び得る状態のこと、すなわち科学と、科学の後に来る無知、パスカルの言う第二の無知との組み合わせ」である。つまり、それはニコラス・クザーヌスの言う、「知ある無知」にほとんど重なるものである。こうして、性を超越する力の最も純粋な現われを、ミシュレは「民衆」の中に見ようとする。ミシュレの民衆はある意味で柳田学で言う「常民」ときわめて似た意味で濾化された概念である。知恵と本能の組み合わせという点からみて、「民衆」は「善」の子宮を形作る精神の二つの性《セツクス》のあの結合を理想的な状態において具有していると定義づけられる。(同書、二三二頁)
こうして、「民衆」は、ミシュレ的歴史において、すべてのパラダイム的対立が融合する媒体になるのである。そういった意味で、ミシュレは「民衆」の持つ時間を超越する資質の中に、今日の言葉でいえば「歴史」と「構造」という根元的対立を解消する仲介者的性格を見出そうとする。
[#この行1字下げ] ……「民衆」は「歴史」を越えた地点に達し、「自然」を開放し、融和した天国的な人類という超自然的な究極目標に近づくことを可能にするのである。対立する二つの性の、第三にして完全なる超《ウルトラ》セックスのなかでの合一は、すべての対立関係の廃絶、敵対的な争訟代理行為のあいだに、もはや引き裂かれることのないなめらかな世界の霊妙不可思議な回復を象徴的にあらわしかつ成立させるのである。
[#地付き](同書、二三二―三頁)
このような、神話と歴史を仲介する存在として、ミシュレは、範疇的には子供・ギリシア・農民・ドイツ(彼の嫌いなゲーテを除外した)、「民衆」といった両義性の担い手を脳裏に描く。個人名を付け加えるならば、ゴドフロワ・ド・ブイヨン(童貞のままエルサレムの聖墓で不運な死をとげた)、トマス・ベケット、聖王ルイ、百姓ジャック、ジャンヌ・ダルク、といった各時代の敗者が挙げられる。
超セックスと下位の性との弁証法的対立として歴史を捉え、その各々のディスクールの相剋として「歴史」を再現していく方法は今日再び斬新な視角になりつつある。バルトはミシュレの根源的主題を浮彫りにすることによって、ミシュレが対象化し、今日、構造批評の方法で再確認できる神話的モデルと歴史のディスクールの出遭う地点を確実に示した。
ミシュレの、歴史の中の一見脆弱な部分の深層を探ることによって、そこに象徴的な意義の多義的な重なり合いを掴み出して行く方法は、今日社会人類学においてヴィクター・ターナーの象徴研究に展開されている文化=社会の二元的把握に対応するところがある。ターナーは、社会が「構造」と「コミュニタス」という二つの構成部分を持つことを強調した。この構造は、構造人類学の言う深層のパラダイム的対立を必ずしも意味せず、意識の表層で捉えられている権利義務の体系であると理解することが出来る。この構造の枠の中で人は各々のアイデンティティの制度的な保証を得る。しかし、それは人および事物を分類し距てる体系であり、抑圧的機構として働きがちである。これに対し「コミュニタス」の方は、権利義務の体系から洩れた文脈で人と人が繋るような紐帯を指す。構造の抑圧性に対して「コミュニタス」は、反構造のための足がかりを提供するとされる。こうした方法を説明するために、ターナーは、ミシュレも愛惜おくあたわざるところの「トマス・ベケット」の分析を試みる。当然両者の視点には驚くべき親近性が見られるのである。
六 来たるべき全体史のために[#「六 来たるべき全体史のために」はゴシック体]
このところ刊行されたミシュレ関係の書物で、バルトを除いて、どれを推すかと問われるならば、躊躇せずに私が挙げるのは、クロード・メトラの編集した「ジェ・リュ」版の『フランス史』縮刷版である。この縮刷版は、その選択眼の良さにおいて抜群である。もともと、バルトの『ミシュレ』を含む「永遠の作家叢書」をはじめ、セゲール版の「大学者」など、フランスでは、アンソロジーによって作家・思想家の思想を浮彫りにする知的技術は進んでいる。その中にあってもメトラの『フランス史』編集は、ミシュレの神話詩人としての知的感受性を喚起するという点で、バルトの『ミシュレ』に劣らない成果をあげている。テキストは、どの部分を抜きとるかという選択一つで生かされも殺されもする。メトラは、『フランス史』を通じて、来たるべき歴史学の父としてミシュレを蘇らせることに成功した。ルソーは、幾分原家父長的なところのあるレヴィ=ストロースによって「人類学の父」という称号を与えられたのであるが、バルト的に言えばミシュレは 「父=母」(両性具有)になるのかも知れない。さらに、テキストの部分部分には、惜しみなく編者の言葉が挿入されており、ミシュレ史学の神話詩的地層への導きとなっている。たとえば一七九八年に続く「新しい宗教」の中には、次のような解読《デコダージユ》のための手引きが挿入されている。
[#この行1字下げ] 歴史は行動だけから成りたっているわけではない。それは単なる叙事詩ではない。歴史は、妊婦が胎内の子供で重くなるように、自らが妊む夢のために、民衆の深い生を形作っているすべての夢魔のために、重い。ミシュレは疑いなく、数世紀にわたって混濁とした夢想――これがしばしば時の歩みを促したのだ――が演じた根本的な役割りを明らかにした最初の人である。
[#地付き](『フランス史』四三八―九頁)
夢魔ないしは夢想は、ターナーのいうコミュニタスにあたることはほぼ知られよう。つまり、コミュニタスは、我々のいい方では、象徴論的な一時的退行現象であるといえる。多くの歴史記述はこの「一時的退行現象」が宇宙的拡りへの回帰であるという事実を見落して来た。歴史の中で我々が偉大な構築物と見做しているものは、こうした夢想の抑圧の記念碑である。この構築物は、ミシュレの中では「不妊」という神話的主題として回帰的に現われるとメトラは述べる。
[#この行1字下げ] 不妊は、ミシュレのすべての神話学の中で最も豊かな主題である。不妊の世界は、閉じて、凝固された世界である。不妊の歴史は、鉱物的で生の豊饒な流れの中でも不動の要素である。不妊は補助的な装飾で飾られている。倦怠・虚栄心などがそうであり、こうした場では肉感だけが愛にとって替わり、一方的なおしゃべりが対話にとって替わる。……
[#地付き](同書、三〇九―一〇頁)
こうした不妊性の主題《テイマテイク》に対置されるのは、もちろんすでにバルトにおいて展開されているように、血と豊饒、つまり民衆と大地と女性が渾然と入り混るような昂揚した瞬間である。メトラは指摘する。
[#この行1字下げ] 女性の昂揚、血の循環的法則への従属、習俗の女性化は文明の上昇期の現象である。完全な女性(両性的――引用者)の象徴は、肉、血そして気質が相寄って血と精液の入り混った環界である乳液を喚び起す鯨骨《バレーヌ》のようなものである。
[#地付き](同書、一八頁)
不妊と豊饒の対立は、政治の表面では、宿命の支配と反抗という二つの副主題として展開する。しかしそれは多分貧血と過剰という図式的対立に置き換えることも出来るはずである。過剰は、必然的に、日常生活の秩序による断罪のためのレッテルとして、悪の刻印を押される。それは、歴史の中で間歇的に、祝祭として立ち現われる。それはまた内乱-戦国という形でも表面化しうる。従って、ミシュレ=メトラ的図式では、歴史の相対的安定期と過渡期は、不妊と豊饒、日常性と祝祭という対立の組み合わせと変換の可能性を秘めている。さきに紹介したヴィクター・ターナーも、過渡的儀礼・儀礼的過渡期に見られる反秩序性は、歴史の弁証法の一方の項として立てることが出来ると考えているようである。そればかりではない、歴史の経過の中に、そうした周縁性が表面化する時期があると説く。メトラは、もう少し徹底していて、歴史とは、豊饒性の噴出の連鎖であると説く。
[#ここから1字下げ]
生は、それが真実以上の何ものかであるように理性以上の何ものかである。そしてしばしば狂気自体が、生との間に、明晰性が樹てるより深い豊饒な関係を持つ。というのは若し狂気が疎外であるとしたなら、それは幻視でもあり、しばしば基本的な事物の透視でもあるのだから。多分我々の歴史は、我々の主人達または民衆の連続的狂気の長い連鎖なのであろう。メロヴィンガ朝の女王達の血に、大審問または苦行僧の神秘的な錯乱に、我々の多くの支配者達の近親相姦的な狂気の中に、イエルサレムへ向う中世の大衆の途方もない夢に、革命の首謀者達の律法的狂気、ヨーロッパを血にひたらせ、到来した自由を一世紀も後戻りさせたボナパルトの用心深い狂気の中にそれは現われた。ミシェル・フーコーは『狂気の歴史』の中で、十五世紀以来、文明の発達は、それが錯乱との間に打ち樹てる関係によって記述することが出来るようになったと述べる。ミシュレにとってそれは、光と闇、死と復活といった二元性の諸形態の一つであり、(その)廻りを運命の軌道が変貌を遂げつつ廻転する、時に大きく、時には小さい両義的な主題の一つである……。
狂気は多分、余り負荷し過ぎた歴史的横糸の終曲、後遺症のようなものである。歴史がそれを通してその毒素を浄化する、最終的にはよい運勢をもたらす腫瘍のようなものである。だがそれだけではない。その人間性の部分的または全体的な存在にまで上昇した疎外は、同時に歴史をある種の動物性で――仮面はその分身である――荷電する。何故ならばもしこの存在がこうして人間であることをやめたならば、彼は次に基本的意味作用の結果として自然か、それにより近い存在になる機会に恵まれる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、八五頁)
こうしてメトラは、歴史の縦糸をつづる二つの糸を、不妊と血=豊饒の象徴的主題とそれが無限に変換された「歴史的事実」の間の弁証法的展開と見る。それは、フロイトに従ってノーマン・ブラウンがタナトスとエロスの二つの極性のうちに歴史を解読しようとする時示す姿勢に近いともいえるし、ケネス・バークが秩序と贖罪の均衡の中に歴史の記号論の基礎を置こうとする時に提示する見取図とそう距たってはいないはずである。しかし、それは同時にアントナン・アルトーの、幻視を歴史理論の中で転生させようとする試みでもあるのだ。メトラは続ける。
[#ここから1字下げ]
ふつう書きおろされるような歴史は概念の表皮の下に狂気を秘めている。だが人間の叙事詩の表層に狂気が姿を現わす時、歴史の仮面はぼろぼろと崩れ落ちてアントナン・アルトーの記すごとく次のような相貌が姿を現わす。
ここで、メトラはアルトーの『演劇とその分身』から次の部分を引用する。
繊条と革紐に満ちた裸の世界。いらだつような力が内的虚空を引裂く。知性の分裂。はじまりの諸力の拡大。名づけることの出来ない状態が最も確かな表現力(現実の合金の中で最も混り気の少いもの)を持って立ち現われるそうした世界。
こうした世界について、日常世界の内側にある〈民衆〉は自覚があるわけではない。……
(しかし彼らは、)無自覚的にこの世界、恐怖に迫り、時には狂気そのものの中に、泥の中に金を求めるごとく希望を見出す。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同書、八五頁)
ミシュレを通じてメトラが曳き出すこの総体史(イストワール・トータル)の考え方は、歴史の中の、通常否定的刻印を押される要素をも積極的に、歴史的宇宙の全体性の中に生きなおす権利を与える。民衆が一見身近に引きよせる混沌はそうした、歴史の裏側を宇宙論的に補填する「残酷性」への架橋作業なのだ。
アルトーは、そうした日常生活の秩序に対する演劇の侵犯性を「ペスト」という表現を使って言いあてた。メトラは「ダイナミックで危険な力として、ペストは完全な象徴性を帯びている」と言う。アルトーはペストと演劇の対応について次の如く述べる。
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ペストの如く、演劇は悪の時であり、もっと深く潜航する一つの力が、その消滅時に至るまで涵養する黒い諸力の勝利である。
ペストの中におけるように、演劇の中には一種奇妙な太陽が輝いている。この光は、ただならぬ凝固の力を帯びた光で、ここでは至難のこと不可能なことが一瞬のうちに我々の当り前の状態となり変る。
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[#地付き](『演劇とその分身』ガリマール版、「イデー」叢書)
ペスト・演劇と同様に歴史の中の演劇的瞬間は、我々の裡なる潜在的な活力に力を与えて、歴史の深層から表層への道を開鑿する。それは混沌の諸力に、人間の行為が働きかける特権的な瞬間である。
こうした混沌は、民衆に、根源的な矛盾をつきつける。それは日常生活の外にあって、日常生活の秩序を保証する。民衆の混沌に対する関係は両義的である。彼が深層において培養する混沌に呑み込まれた時、そこには破壊しか現われない。しかし、彼がこの力を組織した時、彼は精神の奥底での深い分裂症から恢復する。『魔女』におけるように、ミシュレが、中世社会におけるユダヤ人とオットマン・トルコについて描くとき、彼は、こうした歴史における「侵犯性」の象徴と歴史の記号論的前提というものを完全に理解していた。
[#この行1字下げ] トルコ人、ユダヤ人、この恐怖と憎悪の的、ヨーロッパに向って進撃するオットマンの軍勢の肩章、スペインやポルトガルからイタリー、ドイツおよび北欧になだれ込むユダヤ人の洪水、まず精神を犯し、すべての道徳的・政治的権益を支配する者、というのが十六世紀の第一の関心事であった。この二つの異なる相貌の下にかくれて抗い難い力で西欧を侵略するのは東洋、アジアである。
[#地付き](ミシュレ『フランス史』)
こういった表現でミシュレは「異人」としてのユダヤ、トルコ人の侵犯性を根元的象徴に転化する民衆の想像力に触れ、これらは、当時の人間にとって、文化の彼方の「自然」であったと述べる。
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トルコ人の侵寇は大嵐のようなものであった。彼らの侵入のあとには何も残らなかった。障害は彼らをよろこばせ、彼らをいっそう強力にした。侯国、大公国、王国、少しでも根づいているものは、藁の如く略奪され踏み砕かれ、盗み去られた。……
こうしたトルコ人や、ユダヤ人は神の許から来たのか悪魔の許から来たのか。彼らの出現は天誅なのか、地獄の噴出なのであろうか。……
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[#地付き](同書)
ミシュレの『フランス史』の中でもユダヤ人とトルコ人に関する章は圧巻である。ついでながら、女性→両性的象徴に入れあげすぎたきらいのあるバルトは、こうした部分は、見過しているようである。記号・象徴・神話という三つの互いに入り組んだ次元が、ミシュレ史学を今日解読するための最も稔り豊かな接近の仕方だとするならば、バルトは、記号にすぐれ、後の二者に少し手薄なところがあるようである。すでに明らかなように、メトラは、バタイユ=アルトー的感受性の継承者としてミシュレに近づくために、象徴・神話の次元で、より徹底した読込みが可能になっているようである。特に、メトラは、歴史の中の劇的瞬間、歴史そのものの演劇的構造を、そのメタファーとともに自らの視角に組み入れる方法を知っている。
劇的瞬間、それは言うまでもなく日常の時間に対して「出来事」として立ち現われる「異質な時間」に外ならない。歴史の中の過剰性は、スタティックな構造に収まり切らない事物の組み合わせとして立ち現われる。この事実は、視線をミシュレから、我々の過去へ転じることを可能にする。「出来事」、それは、我々の民俗の中に「御霊」、祟り、不意に訪れる神として現われた。歴史学は、「出来事」を組み入れる知的技術を未だ開発していない。民衆は、絶えず表層の歴史における「出来事」を「御霊」信仰を介して、象徴的宇宙の中に組み込んで来た。日本的伝統における芸能は、そうした「出来事」の貯蔵庫であった。したがって、今日、我々の過去に、「全体史」の視点を確立するために、表層の歴史は、芸能・演劇の中の人間精神の深層の中に根づかしめられなければならない。それがなしとげられない間は、歴史記述の分野は、学と名乗るものであれ文学と名乗るものであれ、同じ陳腐なディスクールの平凡な繰返しをシジフォス的に続ける外はないであろう。
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初稿掲載紙誌覚書[#「初稿掲載紙誌覚書」はゴシック体]
T
黒い「月見座頭」 「展望」一九七四年四月号
道化と詩的言語 「ユリイカ」一九七三年六月号
U
大衆文化と偏見 「毎日新聞」夕刊一九七三年六月十四、十五日
キートンの「娘道成寺」 「展望」一九七四年五月号
バスター・キートンの宇宙誌 「フィルム」No.13 一九七二年十二月
*
〈見世物〉と映像文化 「フィルム」No.11 一九七二年四月
ピカソと見世物芸 共同通信文化部配信一九七三年六月
アンソールのカーニヴァル的世界 「ほるぷ新聞」一九七二年九月二十五日
エリック・サティとその世界 「ユリイカ」一九七四年五月号
*
人形劇の宇宙的活力(原題 本の民俗誌1、2 人形劇) 「ほるぷ新聞」一九七二年十一月五日、十二月五日
能の神話的古層(原題 本の民俗誌3 能の神話学) 「ほるぷ新聞」一九七三年二月二十五日
鍛冶師と俳優 「フィルム」No.7 一九七〇年十月
*
ハーポ・マルクスとブレヒト 「グラフィケーション」一九七四年五月号
演劇と道化(原題 タイーロフと道化) 「悲劇喜劇」一九七三年五月号
エイゼンシュタインの知的小宇宙 「芸術倶楽部」一九七三年七、八月号
V
道化的世界 「展望」一九七三年五月号
W
民俗と周辺的現実(原題 柳田・折口における周辺的現実) 「國文學」一九七三年一月号
王子の受難 古野清人教授古稀記念論文集『現代諸民族の宗教と文化』社会思想社、一九七二年所収
歴史と身体的記憶(原題 「第三世界」における歴史像) 『世界歴史』第30巻、岩波書店、一九七一年
ミシュレあるいは歴史の宴 「歴史と人物」一九七四年九月号
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註1 本書は、著者が一九七〇年から七四年にかけて執筆した「道化」に関連する論文・エッセイを編集したものです。収録にあたって、著者が若干補筆修正したものもあります。
註2 本書に収録したもの以外に、「道化」に関する主要な論文としては次のものがあります。
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様々のアルレッキーノ 「芸術生活」一九七三年四月号
挑発的な祝祭世界 「芸術生活」一九七三年五月号
フォニィ礼讃 「中央公論」一九七四年八月号
今日のトリックスター論 ラディン、ケレーニイ、ユンク『トリックスター』晶文社、一九七四年(いずれも『知の祝祭』所収)
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著者略歴[#「著者略歴」はゴシック体]
1931年8月20日北海道網走郡美幌町で九人兄弟姉妹の次男として生れる。生家は菓子屋を営んでいた。幼少の頃は泣き虫で家に閉じこもって流行歌や浪曲のレコードを聴いてばかりいた。1938年美幌尋常小学校入学。勉強で頭角を現すが、いつまでも洟垂れ小僧であったという。戦争中で学校の図書室は閉鎖され町の本屋からも本が消えてゆき、本に対する飢餓感が重なる。義兄に漫画やデッサンを教わる。1944年網走中学校入学。一年の時、知的に大きな影響を受けた義兄を発疹チフスで失う。援農に行った農家で「家の光」「キング」を読破して視力を落とし、眼鏡をかけ始める。メエちゃんと綽名される。中学二年で敗戦を迎え、解禁になった図書室の部員となって英文学の評伝叢書を片端から読み、本格的な本狂いに突入。中学・高校ともに授業はサボリがちで学校内独学の生活を続けた。1950年網走高等学校卒業。一浪の後、東京大学文学部入学。浪人中に渡辺一夫、林達夫の著作を読みフランス文学に傾くが、400人中350番の成績と石母田正の史学に出会ったために国史専攻に転向。国民的歴史学だけでなく保田與重郎もゾッキも読み漁る。この頃フリュート演奏を学ぶ。トムソン、コードウェル等の開かれたマルクス主義や花田清輝にも影響を受ける。デモにも一番最後尾で何回かついて行った。雑食的な読書欲を発揮し、多岐にわたる分野・人物のものを読みまくる。なるべく人の読まないものを読もうと志し、次第に国史から人類学へと逸脱。1955年国史学科卒業。卒論「大江匡房──平安朝末期一貴族の意識」。卒業後、麻布学園中学講師となり日本史を漫画に描いて教える(61年まで)。1956年坂上ふさ子と結婚。1957年東京都立大学大学院社会科学研究科入学、社会人類学を専攻。岡正雄、馬渕東一らに師事。1960年修士論文「アフリカ王権研究序説」を提出、博士課程に進む。1963年長男類児誕生。同年国際基督教大学非常勤助手の後、英語をよく喋れぬまま、妻子を連れナイジェリアのイバダン大学社会学講師として赴任。長男を乳母車にのせ現地調査にも携わる。1965年帰国、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所講師。1966年「文化の中の知識人像」発表。同年次男拓夢誕生。67年再びナイジェリア調査に赴く。1968年アジア・アフリカ言語文化研究所助教授。この頃からパリにしばしば滞在。1969年「道化の民俗学」の連載をはじめる。『未開と文明』(現代人の思想15)を編纂し、「失われた世界の復権」を発表。父を失う。同年エチオピア調査に携わる。1970年パリ大学ナンテール校人類学科客員教授。1971年『アフリカの神話的世界』『人類学的思考』『本の神話学』刊。1973年アジア・アフリカ言語文化研究所教授。1974年『道化の民俗学』『歴史・祝祭・神話』刊。同年東インドネシア調査に赴く。1975年『文化と両義性』『道化的世界』刊。1977年『黒い大陸の栄光と悲惨』『知の祝祭』刊。同年メキシコ大学大学院客員教授。1978年『知の遠近法』刊。1979年『新編人類学的思考』『石田英一郎』刊。1976〜79年中南米の大学で学問の出前生活を送る。1980年『仕掛けとしての文化』『道化の宇宙』『挑発としての芸術』刊。1981年叢書「文化の現在」の編集に携わる。1982年『文化人類学への招待』刊。1983年『文化の詩学T・U』刊。同年カリブ海調査に赴く。1984年『笑いと逸脱』『文化と仕掛け』『演ずる観客』『祝祭都市』刊。同年日本民族学会会長に就任(86年まで)。「季刊へるめす」の創刊同人となる。1986年『スクリーンの中の文化英雄たち』『冥界遊び』『文化人類学の視角』刊。1987年『身体の想像力』刊。1988年『学校という舞台』『モーツァルト好きを怒らせよう』刊。1989年『中古日記・物語の文芸構造』『天皇制の文化人類学』『「知」の錬金術』『オペラの世紀』『知の即興空間』刊。同年アジア・アフリカ言語文化研究所所長に就任(92年まで)。フランス国文学芸術オフィシエ賞受賞。1990年『のらくろはわれらの同時代人』『気配の時代』『宇宙の孤児』『病いの宇宙誌』刊。1991年『トロツキーの神話学』刊。1992年静岡大学教養学部兼任講師。1993年『自然と文明の想像力』刊。同年早稲田大学第一文学部兼任講師。1994年アジア・アフリカ言語文化研究所を定年退職。同年静岡県立大学大学院国際関係学研究科教授。フランス国パルム・アカデミック賞受賞。1995年『「挫折」の昭和史』『「敗者」の精神史』刊。1996年『周縁からの文化』刊。同年『「敗者」の精神史』で第二三回大佛次郎賞受賞。1997年『周縁からの文化』刊。同年札幌大学文化学部開設と同時に同学部長に就任。1998年『知の自由人たち』刊。1999年『踊る大地球』刊。同年札幌大学・札幌大学女子短期大学部に就任(2003年まで)。1999年『踊る大地球』刊。2000年『敗者学のすすめ』『独断的大学論』刊。2001年『内田魯庵山脈』『はみ出しの文法』刊。2002〜03年『山口昌男著作集 全五巻』刊行。2004年『経営者の精神史』刊。東京外国語大学名誉教授。縦横無尽の行動力と旺盛な知的好奇心で世界の各地と人々と書物の中を駆けめぐりつつ現在に至る。
本作品は一九七五年六月、筑摩書房より刊行され、一九八六年一月、ちくま文庫に収録された。