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ドバラダ門
山下洋輔
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プロローグ
門があった。
石造りの大きな門だ。
正面のアーチには鉄格子《てつごうし》で出来た両開きの扉《とびら》がはめ込まれていて、両端には八角形の塔がそびえ立っている。西洋の中世の城が連想される姿形だった。しかし、これが造られた時には西洋は人々にとってまだ遠い夢の彼方《かなた》にあった。遥《はる》かな時間と空間を越えてこの建造物はいきなりここ、鹿児島の甲突《こうつき》川のほとりに出現したのだ。
石の門はその日の光によって様々に色を変えた。白く見える夏の日もあれば黒く見える冬の日もあった。雨の日に薄紫に塗られることもあり新緑を映して黄緑に輝くこともあった。夜中には雷光を背景にオレンジ色に燃え上がったりもした。別の夜には満月に浮かぶ八角塔の周囲を無数のコウモリが飛び交った。
石の表面は妙に触り心地がよさそうだった。手を触れたいと思う者もいた。だがそうする者は滅多にいなかった。門は別の世界から連れて来られた異形の獣のようにどことなく居心地が悪そうにそこにうずくまり続けていた。
その中には選ばれた者しか入れない。ときどき人々は入って行く者たちを見ることがある。甲突川にかかるこれも石造りの鶴尾橋を二頭立ての馬車がゆっくりと渡って行く。門の前の広場に馬車が止まると、御者がラッパを吹き鳴らす。
「ぺえええええ、ぺええ、うびしゃばどびや」
すると、石のアーチの中の大きな鉄格子の扉がギリギリと左右に開き、馬車が石の門をくぐって中に入って行くのだ。のんびりとした光景だった。しかし、これを平穏な気持ちで眺《なが》めている者はいない。中に入れなくても建物に触れられなくても人々には分かっていた。この異形の物の存在する目的は一度聞けば誰もが瞬時に理解した。
その遥かな別の世界の文明の姿を映している大きな石の門は、この国の監獄の門だったからだ。
しゃばどびうびしゃばどび、と水の流れる音が絶え間ない。
「啓次郎、何をしているのですか。早くいらっしゃい」
寿賀《すが》の低い声が闇《やみ》に響いた。
「母上、待って下さい。私はその、そちらではなくこちらの方に」
「何を言っているのです。この一刻を争う時に」
「啓次郎、どうしたのだ。早く来い」
母と兄が呼びかけた。姉と妹たちが心配そうに見守っていた。しかし、その子供には聞こえないようだった。西田《にしだ》橋を渡ると皆を追って下流に向かわずに上流へと歩いていった。
「馬鹿《ばか》、啓次郎。どこへ行くのだ」兄の雄熊《ゆうぐま》があとを追った。いつもは聞き分けのよい弟がこの時は違っていた。兄の手をふり払うようにして歩いて行く。目的地に着くまでは他のもの一切が目に入らないようだった。目的地。しかし、これから甲突川を下り鹿児島湾に出て急いでこの国を脱出する以外に、今、この家族がしなければならないことはない。
「啓次郎、どうしたのだ」みたび雄熊が声をかけた。すでに啓次郎は走りだしていた。みるみる内に闇にまぎれていく弟の姿を雄熊は追った。普段ならすぐに追いつく筈《はず》の弟との距離が少しも縮まらないのを雄熊は不思議に思った。弟はまるで物《もの》の怪《け》につかれたように走っていた。宙を飛ぶかのようだった。よく見ると本当に宙を飛んでいた。
啓次郎はようやく走るのをやめた。なぜここまで来たのかその理由は自分でも分からない。だがここが目的地だった。啓次郎が立っているのは永吉《ながよし》村という所だった。西田橋から上流に一・五キロ。折から照らしはじめた月の光に浮かび上がるのは一面の水田とその彼方の低い山並だけだった。目の前を流れる甲突川越しに啓次郎はこの景色に心を奪われていた。なぜ自分はここに来たのだろう。その答えを啓次郎は求めた。啓次郎は目をこらした。すると答えが与えられた。
何も無い筈の対岸に巨大な物の姿がぼんやりと浮かび上がった。それが何であるか一瞬の内に啓次郎は理解した。しかし次の瞬間その物の姿は消え、啓次郎は自分が何を見たのか忘れた。
「啓次郎、大丈夫か」ようやく兄が追いついた時、啓次郎はまだ呆然《ぼうぜん》と立ちすくんだままだった。雄熊は弟の両肩に手をかけてゆさぶった。
「兄上」対岸の一点に心を奪われながら、低い静かな声で啓次郎は言った。
「私は必ずまた鹿児島に帰ってまいります」
「啓次郎、まだ分からないのか。もう我々はここには住めないのだ。近々|戦《いくさ》は避けられないという父上のお知らせがあった。その戦に勝とうと負けようと同じだ。どちらにしても我々はもう鹿児島には帰れない」
「いえ、そのような意味ではなく、その、私は必ずここに、つまりこの場所に、その川の向こうに、何かその妙な物があって、それがこの私と関係があるのです」
「何をわけの分からぬことを言っているのだ。ここには何もないではないか」
「いえ、それがその、今はありませんが必ずあるようになるのです。何かその、胸のつぶれるような気持ちになる物がここに出現します。それはもう何と言ってよいか、それはもうそれはもう」
「よし分かった、啓次郎。お前はきっと神がかりとなって未来の姿を見たのだろう。何を見たのだ。何というものだ」
「それがその私の言葉にはないもので、ええと、ぷりざんとかぽりぞんとかいう音が頭には響いてまいります」
「なに、それは一体どういう意味なのだ」
「よく分かりません。そこに入らなければならぬ者がおります。中には、べすとせらあというようなものをいたす者もおります。その者たちは皆そこに一緒にいて、なぜかと言うとその、いやそんな馬鹿な、これではまるで、それをなぜ私が」
「どうした啓次郎。しっかりしろ」
「ああ、もう何が何だか分かりません」啓次郎は白目をむいて両手を左右に広げ、そのまま失神しかかった。「おーまいごっど。ほわっつふぁっきんまたーはぷにんぐひや」
「しっかりしろ。さてはキリシタン伴天連《バテレン》の物の怪につかれたか」
失神した啓次郎を雄熊が背負ったところに母親と娘たちがようやく追いついて来た。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です、母上。さあまいりましょう」母と兄と姉と二人の妹と共に、兄の背に背負われた啓次郎は甲突川を下りはじめた。やがて月が再び雲に隠れ、一家六人の姿は闇に溶けていった。
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第一章
鹿児島に行くなら是非そこにある刑務所にも行ってこいと母親に言われたら、誰だってびっくりする。新年早々鹿児島のジャズフェスティバルに呼ばれているという話を実家でしていた時だった。
「なに、刑務所だって」藪《やぶ》から棒とはこのことだ。
行けと言うなら行くが、あいにくおれにはまだ入る資格がない。誰か知り合いが入っているのか。差入れか。何を差し入れるのだ。どうやって面会して、何を言えばよいのだ。パンの中にヤスリを隠して渡すのか。それともピストルか。あいにくおれは安部譲二じゃないから、これ以上思いつかない。何なんだ。すると母親はそういうことではなくて問題はその刑務所の建物なのだと言った。
「それはあなた、綺麗《きれい》で立派なものだっていうわよ」
刑務所が綺麗で立派だという言い草もよく分からなかった。そんなものをなぜおれがわざわざ見に行かなければならないのだ。そう聞くと母親は当然という態度でこう言った。
「だって、あれを造ったのは、あなたのおじいさんなんですからね」
「え」
青天の霹靂《へきれき》とはこのことだ。
こうして「山下のおじいさん」という者が刑務所と共に歴史の霞《かすみ》の中から姿を現わした。
このじいさんは、おれの知るところによれば確か山下啓次郎という名前だった。フザケた名前だと思う奴《やつ》はチャンジイ年齢だ。かつてのロカビリースターと同発音であって、あの頃《ころ》にはこの家でも苦笑と共にそのことは取り沙汰《ざた》された。しかし、こちらのケイジロウは折角のその印象的な名前のわりには何をしたのかよく分からない人だった。
鹿児島の出身だということははっきりしていたが明治政府の役人だったとも聞かされたし警視庁に勤めていたともいわれた。じゃあオマワリなのかというとそうではなく、実は建築家だったらしいなどと言を左右にしてどこかあいまいな存在だったのだ。
父親の啓輔は啓次郎の次男であと取りとなっているのだが、この人も自分の父親が実際に何をしていたのかよく知らなかった。
これはしかし納得できないことではない。自分の仕事のことを家族に詳しく話して聞かせるということを明治の人間はしなかったかもしれないし、父子の年も離れていた。そして何よりも考えられるのは多分に薩摩《さつま》の気質と関連した家風だ。つまり、この家では父親と息子があまりべらべらと喋《しやべ》りあうことがない。もしかしたら、生涯《しようがい》に一定時間以上話をしてはいけないという掟《おきて》があるのかもしれない。たとえばおれの場合でも四十近くなるまでに父親と交わした会話の所要時間は全部で一時間以内だろう。それもあちらのお言葉はすべて「馬鹿《ばか》」と「やめろ」という二つに限られていた。こういうわけだから父親が祖父のしたことをよく知らなかったという可能性はあって当然なのだ。
それをなぜ母親が今言い出したかというと、次のような背景があった。
啓次郎の三女美代子の夫、小泉清春おじは自身も建築家だった。しかも、鹿児島第七高等学校出身という因縁があった。結婚した時にはすでに義父啓次郎は死んでいたが、建築家だったということは知っていた筈《はず》だ。しかし、実際に何をやったかよく分からなかったのは家族同様だった。ところが、近年になって、大変熱心にそのことを調べ始めた。清春おじが第七高校に学んでいたときには、数キロ離れた甲突川の上流にはすでに石造りの不思議な建物が立っていたわけだ。それは地元でもずっと外国人が造った物だと思われていた。
あれを建てたのはもしかしたら義父かもしれない、というアイディアがどのようにして清春おじの頭に生じてきたのか、詳しいことはよく分からない。あるいは、妻の実家のもろもろの言い伝えを同業者の専門的立場から裏付けようとしたということかもしれない。勿論《もちろん》そこには、自身学んだ鹿児島という土地や身内的同業者的因縁がからんだ情熱があったに違いない。晩年、調査のため何度も鹿児島に足を運び知人に会っていたといわれる。
そして、その調査の結果はどうやら有罪、じゃなかった本当と出た。そのことがしばらく前のやはり正月の集まりで披露《ひろう》された。しかし、その結果|親戚《しんせき》一同大喜びし赤飯を炊《た》いて祝いの踊りを踊ったかというとそうではなかった。
「やはりそうだったか」
「警視庁に勤めていたというのはそういうことだったのか」
ここにおいて、役人と警視庁と建築家がすべてなんの矛盾もなく合体したのだ。事実ははっきりした。が、モノがなにしろモノだ。このあと子孫たちがどういう会話を続ければよいのか知っている人は教えてもらいたい。
勿論、清春おじにはこの建物の大変な歴史的価値が理解できた。そのことを皆と共に喜びたかったに違いない。しかし、普通の人々であり普通の市民生活をまっとうしている身内たちにとっては、そのような専門的歴史的価値を愛《め》でるよりも前にまず「困った」という気持ちが先立ったことは充分考えられる。
「なぜ、迎賓館《げいひんかん》ではなかったのか」
「なぜ、鹿鳴館《ろくめいかん》ではなかったのか」
「折角、明治時代に建築家というエライものになれていたのに」
「せめて、築地ホテル館だったら」
「いやいや、ぜいたくは言わない。東京駅丸ノ内口でよい」
「なぜに、世間様に胸を張って申し上げることのできるものをつくらなかったのか」
「よりによって、か、監獄とは」
「こともあろうに、ろ、牢屋《ろうや》を」
「子孫の迷惑が分からぬか」
「じじい、そこへ直れ」
無念の叫びが皆の胸の中に響き渡っただろう。そして一同は、避けがたい宿命に直面したときにこの一族に特有の殺気立った笑顔となりつつ、全員で眼前の中空の一点を凝視し続けたにちがいなかった。
その遺跡を見て来いと言っているこの母親は、嫁に来る前はいわゆる大正のハイカラ家庭のお嬢さんだった。むしろおてんば娘と言った方が正確だった。YWCAのバレーボールチームに入ってフィリピンチームと戦ったり、職業野球ができる前から六大学野球に通って宮武、山下、三原、水原などと言って騒いでいた。だから嫁《とつ》ぎ先の宿命もなんのその、あくまでも物事をポジティブにとらえるのだ。この時も夫の父親が何かしら面白いものを作ったという一点で受けていた。非常な興味を示し自分の代わりに是非見て来いと推《すす》めるのだった。
「それはあなた、大変なものなのよ」何が大変なのかさっぱり分からない。さらに、明るい人間が大抵そうであるように同人も夫の無口を補って余りある弁舌の才能を有していて、この日も話は刑務所からおじいさんへおじいさんからおしゅうとめさんへさらにこの家の奇妙な風習にもめげず自分がいかにつくしたかの話から実家の娘時代のハイカラ生活の話へとほとんど句読点無しになだれ込んだ。遂には昔英語でやったというシェイクスピア劇の話となって得意のセリフを披露しはじめた。
「イフ・バイ・ユア・アート・マイ・ディアレスト・ファーザー」両手を広げて目をむいた。「ユー・ハブ・プット・ザ・ワイルド・ウオーターズ・イン・ディス・ロアー・アレイ・ゼム」
「分かった分かった。その建物を見て来る。人に聞いてみるよ」
こうして、じいさんとその建物への探索旅が始まった。これが思いもかけぬ展開となって行くとはその時は知るよしもない。しかし、やがて出合う石の門は、好奇心からそれに触った類人猿《るいじんえん》が、最後にはひどい目にあうあの「2001年宇宙の旅」に出てくるモノリスのような魔力を現わした。言葉でしか知らなかった「明治維新」などというものに巻き込まれた。戊辰《ぼしん》戦争は起きるわ、西南戦争は起きるわ、欧米八カ国三十カ所の監獄視察などという面妖《めんよう》なものが行なわれたことが分かるわ、遂には監獄の門前にグランドピアノを持ち出して弾くわ、古代|隼人《はやと》が門柱に座り込んで遠吠《とおぼ》えをするわ、時空を越えてありとあらゆるところにこの身が飛ばされていくことになるのだ。
たとえばその一例は、今手元にあるひと組みの設計図だった。これが何かといえば何処《どこ》あろうかの独逸《ドイツ》国の旧首都|伯林《ベルリン》にあるというプレッツェンゼー監獄のものなのだ。常識的に考えて当然門外不出絶対秘密の筈の監獄の設計図がこともあろうに日本人バンドマンの手に渡るとはどういうことだとわれながら心配になる。これも犯人じゃなかったこのじいさんの足どりを追う内にこういうことになってしまった。世間の疑惑の眼差《まなざ》しにもめげずにこの成果を挙げてくれたドイツ人マネージャーの行状などにもいずれ触れることができるだろう。
この設計図を真っ先に見てもらいたかったのは無論前出の清春おじの筈だった。しかし残念なことにおじはあの石の門についてのそれまでの調査を親戚一同への最後の贈物としたかのように他日|亡《な》くなって行った。一足早くあちらの世界で義父と初対面し、石の門について様々の会話を交わしているにちがいない。
このような背景のもとに、その年(一九八六)の正月に鹿児島にやって来た。ご先祖の地である薩摩には何度か来たことがあるが、今回は何事かの密使命を帯びてやって来たという感じが否応《いやおう》なしにする。ジャズフェスティバルの前日の打合せを兼ねた夕食会の席上でそういう話題をどのように切り出したらよいのか分かる人は教えてほしいが、ま、機を見て話してみたのだった。
「ここには、古い刑務所がありますね」
「あります」
「あれを建てたのが、家《うち》のじいさんだという話があるんですが」
大変に悪いことをした身内のことを話すときに誰でもそうなるに違いない低めの音程とならざるを得なかった。
「え、本当ですか」
世話役の南日本新聞社の馬場さんと、鹿児島テレビの有村さんが顔を見合わせた。やはり悪い奴の子孫と思われるのかと覚悟したが必ずしもそういうことだけではなかった。ちょうど今その刑務所が問題の最中《さなか》にあったのだ。
移転問題が持ち上がっているという。現在それはまだ「使用中」だが、何ぶんにも建てられた時と違ってその場所がほとんど市街地になってきている。そのど真中にこういうものがあっては色々と好ましくない。大変広い場所を占めているし夜な夜な拷問《ごうもん》される囚人たちの叫び声が街中にこだまして、いやいやそんなことはないが、まあとにかく早めによそへお引取り願おうという計画が着々と進行中らしいのだ。そのような時に身内が名乗り出たというわけで、ジャーナリストである両氏はこの成行きにやや感興をそそられたようだった。
「我々もまだ実際に見たことはないのですが」
「ちょうどいい機会だから、御案内しましょう」
「明日の昼間にお迎えに行きます」
有難くお願いをしてその日は休んだ。
ところが、翌朝目を覚ますと思いもよらぬ天変地異が起きていた。夜の間に大雪が降ったのだ。ホテルの窓から見える景色はすべて真っ白となった。頭上に迫るように屹立《きつりつ》している桜島も真っ白に雪をかぶり、まるで北極海に浮かぶ火山島というような不思議な光景となった。この南国に珍しい五十年ぶりという大雪だったのだ。すぐ近くのコンサート会場に行くのさえ吹雪の八甲田山かヒマラヤの雪男探索隊という有様だった。交通は麻痺《まひ》しタクシーも姿が見えなくなった。
「どうしますか」という有村さんの電話に「今日はよしましょう」と言うしかなかった。無理をすれば門のところまで行けたかも知れないが、この時にはどうしても今行かねばという気持ちにはなっていなかった。親に言われた親戚の用事でそれもあまり世間体《せけんてい》のよいものではないことをいやいや果たすという位の気持ちだったのだ。しかし、今考えるとどうもこのあたりから門の不思議な力が作用し始めていたに違いない。様々のメッセージをこの大雪の中に読み取ることが可能だった。
「わしに会いに来るのはまだまだ早過ぎる」とじいさんは言っていたのかもしれない。「本当に来たければ雪の中を這《は》ってでも来い。サツマアザラシと化して甲突川を渡って来い」ということだったのかもしれない。そして後になるとこの大雪によって門が知らせようとしたことがさらにはっきりと思い当った。
西南戦争だ。
その日全西郷軍が伊敷《いしき》村に集結した頃から降り始めた雪はそのまま降り続いてこの国ではまれに見る大雪となっていったという。
大雪と共に始まることになる西南戦争の予感の中でその前年に啓次郎は甲突川の西沿い、西田橋のたもとの西田町を出て上京したのだ。九歳だった。命がけの脱出行だったかもしれない。そういう事情があった。家族と共に西田橋を渡る時にそのさらに上流一・五キロの永吉という場所に三十年後に自分が大きな不思議な石の門を建てることになるということを一瞬でもその少年は予感しただろうか。
いや、少し先を急ぎすぎた。そのようなことを知るのはずっと先のことだ。
その時は、ただただ呆然《ぼうぜん》と雪を眺《なが》め、その建物よりもその晩の自分の演奏のことを気にかけていたのだった。
こうして、門との最初の対面はお流れとなった。
東京に帰ってしばらくすると、鹿児島テレビの有村さんから写真と手紙が届いた。
初めて見る門の姿だった。大きさがよく分からなかった。人の背丈くらいにも見え、はるかに巨大な大城壁にも見えた。撮られた時期が夏だったのか周りに草花が生い茂っているようなアングルだった。西洋庭園の裏門のようでもあった。これなら黙っていれば牢屋の建物だとは気づかれない。少なくとも、建物の表面には手錠をかけられた両手だの鎖でつながれた囚人を鞭《むち》で叩《たた》いている図案の彫刻だのは無さそうだった。どころかどこから見ても立派な西洋風石造建築物だった。初めて見る者にこれを何だと思うかと聞いても牢屋の門だと見破る者はまずいないだろう。たしかに綺麗《きれい》で立派だといえる建物だった。
ここに存在するものを何とかひいきしたいという身内的気持ちが写真を見た時から何の客観性も論理性もなく生じてきていた。しかし、写真の石の門がどんなに立派であろうとこれが監獄の門であるという事実は消え去るものではない。
このものは決して世間様からはちゃんと扱われる望みのない存在なのだった。誰にとっても決して近づいて来てもらいたくないものであり一生関係なく過ごしたいものなのだ。門が象徴しているのは人間が人間をつかまえておく為《ため》の装置だった。必要悪という言葉で納得をしたくなるが、これはつまり必要であるが結局悪いということだ。とするとおれの身内はやはり悪いことに荷担したというのか。ひいきをしたいという気持ちとやはりこれは悪いものなのだという無念の気持ちが入り乱れた。
「じいさん、あんたは一体何ちゅうことをしてくれたんや」思わず関西弁でつぶやいた。「何ちゅうことをしてくれはりまったっとってんや」やがて怒りが込み上げてきた。「なぜだ」山猫《やまねこ》マナコとなってしわがれ声を出した。なぜおれのじいさんなのだ。眼前の中空を約十八分三十秒間凝視した。これには何かわけがある筈だ。
「そのわけが全部知りたい」そう思わざるを得なかった。
同封の有村さんの手紙には、新刑務所が四月から実働すること、用のなくなる旧刑務所の建物は取り壊される可能性があること、鹿児島大学の研究家のグループが調査に乗り出すらしいこと、彼らが「素晴らしい」建物だから全部があるうちに是非子孫として見ておくようにと言っている、というようなことが書かれてあった。これは思いがけないことだった。初めて世間にこのものをちゃんと見ようという態度の人々がいるということを知ったのだ。学者というものが疎外者《そがいしや》に勇気を与え得る存在であることの一例だ。とは言っても、今すぐ鹿児島に飛んで行くわけにはいかなかった。以後、その研究家たちを気にしつつもなすすべなく日々が過ぎて行った。
その間、さまざまなバンド稼業《かぎよう》をいとなんだ。
岡本喜八監督の映画「ジャズ大名」の音楽をやることになり打合せが続いた。岡本脚本では筒井康隆原作と少し違って、あの小藩の大名の城を東海道の交通の要所に設定してある。明治維新前夜、そこは官軍と幕府軍両方の交通路にされてしまう。天井裏では忍者が行きかい、大広間を軍馬が走り、廊下では白兵戦が起きる。そのあいだじゅう城の者共は殿様を先頭に、ニューオリンズから流れ着いた三人の黒人ミュージシャンと一緒に地下牢で月日も忘れる大ジャムセッションを行なっていて、ある日外に出てみると世は明治元年になっていたという話だ。地下牢には最後には、ええじゃないかの連中や、ドンツクドンドンツクツクと太鼓を叩く坊主《ぼうず》の一団が乱入したりして大騒ぎとなる。
思えば、これも予言的出来事だった。明治維新といい牢屋といいジャズといい何という偶然だろう。最後の場面では出演していたミッキー・カーティスがエレキギターを弾きながら飛び込んで来る。この人が誰あろうかのロカビリーブームをもう一人のスター、ヤマシタ・ケイジロウと共に作り上げた張本人なのだ。同じ最後の場面ではこのおれもピアノ、もっともオモチャのピアノだったが、を弾きまくる。地下牢とピアノ。監獄とコンサート。明治維新。ヤマシタ・ケイジロウの存在。予知でなくて何なのだこれは。か弱いバンドマンに魔法をかけやがったか。どうなんだ。え。筒井。岡本。思わず再び半狂乱となってわめいてしまうのだ。
この映画の音|録《ど》りをした次の日にパリに飛んだ。
秋のパリジャズ祭出演交渉の為だったが、帰ってからやる東京文化会館でのピアノリサイタルの準備にもこのあたりからとりかかった。このリサイタルはジャズには絶対に貸さないという同会館でやってやろうという企《たくら》みであって、クラシックのコンサートだというタテマエが貫かれている。そのため、弦楽四重奏団とオリジナル曲を共演するという試みがあり、何とか「ピアノ五重奏曲第一番」というものを作らねばならない。この音大以来初めての作曲作業にはほとんど気を狂わされた。一日中五線紙を持って歩き回るというベートーヴェン憑依《ひようい》現象に見舞われた。サクレクール寺院に座り込み困った時の異国の神だのみをしモンマルトル界隈《かいわい》を白目になって歩き回って幾多の作曲家にアヤカろうとした。もっとも異国の神も甘くはなくこの時に書きとめたアイディアは全部使い物にならなかった。
日本に帰っても基本態度はベートーヴェンだった。夢遊病者となって葉山の海岸をさまよい歩いた。寝る時にも枕元《まくらもと》に五線紙をおいて寝た。毛布を頭からかぶって家の中を歩きまわった。各国のコインを詰め込んだ皮袋をこしらえ、時々手で重さを計っては、うひひひひひなどと言った。これがさる大公からの作曲依頼料だと思い込もうとしていたのだ。
その気になると、とことんモリツ(つもり)になる自分の性質をあらためて発見しつつさらにここに「禁酒」という最大のガイキチ沙汰《ざた》まで加わった。体の持久力とアタマの鮮明度が少しは増すかも知れないという期待によるものだが、これは妙な周期で急に元気になったりして今までの生活のサイクルがまるで狂う。ついでにアタマも少し狂う。よく眠れなくなったりもする。そういう時の逸脱アイディアがうまく利用できればよいが、これは一歩間違うと支離滅裂だ。そのような状態で本番日を目指していた。「門」のことは一応意識外にあった筈《はず》なのだが、こちらのそういう異常状態につけ込んで、この辺からいよいよ門の妖《あや》しの力がはっきりと作用しはじめた。
ある日、耳元で妙な声が聞こえてきた。
「そろそろ啓次郎たちを東京に呼ばないといかんかな」
「急にそのようなことを申されても何のことやら分かりません」
「そうか。いきなりではやはり分からぬか。わしはもう、早く出たくてうずうずしておるのだが、これを書いておる者が子孫とはいえ愚か者でなかなか気がつかんのじゃ。ほれほれ、今も五線紙とか申す紙を前において途方に暮れておる。机に座っているだけで頭脳は何の働きもしておらぬ。マナコはただのガラスとなって目の前の紙を映しているだけじゃ。おや、立ち上がって何をするかと思えば、急にかたわらの西洋大洋琴などに触っておる。面妖な音じゃのう。形も何という無粋《ぶすい》なものじゃ。あれではまるで日当山《ひなたやま》に住み、西郷どんも一度出合ったという三つ足薩摩大黒|猪《いのしし》のような姿形ではないか。おやおや又立ち上がって今度はふらふらと別の部屋へ入っていきおった。かたすみの小箱をいじって何やらそこに映し出しておるわ。はて面妖な。西洋文明の所産であろうか。さすが開明の島津|斉彬《なりあきら》公もこのようなものまではお取り上げなされなかった。あれあれ又ぼんやりと歩いてもとの部屋へ戻るのか。机の前に座ったが、相変わらず何の知的な活動の証《あかし》も見えぬわ。おやおや、頭の上に『?』このような印が飛び出して来おった。それも、ひいふうみいよう、おうおう数えきれぬ程じゃ。何? 雄熊。これは、西洋の文字において疑問質問を表す印と申すか? このように使ってもよいのじゃな? そうかそうか。あの子孫の者も身の程知らずなことを始めたお蔭《かげ》で、もはや部屋中に『?』印が充満しておるわ。馬鹿《ばか》めが。なぜ子孫なら真っ先にやらねばならぬことをせぬか。そうすれば何もかも明らかになるのじゃ。何? 決っておるじゃろう、雄熊。墓参りじゃ。墓に来ればそこにはすべてを記した文字が珠玉の第一資料として石に刻まれている。啓次郎三百一文字。この房親《ふさちか》三百五十九文字。これに気がつかぬとは、ええいじれったい」
「そうですか、それならもうあの馬鹿に構わず、どんどん話を始めてしまいましょう」
「そうか、雄熊。ではそうしてくれ。わしは本当にもう辛抱できないのだ」
「はいはい。ではすぐに始まります」
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第二章
山下房親は一八四一年つまり天保十二年に鹿児島県西田町に生れた。幼名|龍《りゆう》右衛門《えもん》。父は政右衛門|房寛《ふさひろ》、母はワカといった。生れたその日に刀を持って走り回り和歌を詠《よ》んだというがこれは嘘《うそ》だろう。
「そもそも山下家は薩摩の国、谷山郷の山下家より分家し鹿児島県西田|鷹師《たかし》馬場町に居住すれども、谷山郷|何《いず》れの山下家よりの分家なるか判明せず」と後に房親の長男の雄熊《ゆうぐま》が書いている。「家系として認むべき記録の存するものなく、ただ霊記なるもの存するも之《こ》れ明治の初め薩庁に於《お》いて仏式を廃し神式に改めし時に充分の調査もなさず認《したた》めたるものなるを以《もつ》てこれのみに依《よ》るを得ず、而《しこうし》て霊記に記載あるも墓碑なく墓碑あるも霊記に脱漏せるあり、且《か》つ霊記にも前後して記入せるものあり。茲《ここ》に於いて、口碑と霊記と墓碑とに基き正当と認むるところを認むるに外なし」
それによると、初代は山下|惣《そう》右衛門《えもん》という人だった。天文四年(一五三五)六月二十六日死亡の記録がある。室町時代の終わり頃《ごろ》だ。鹿児島の新照院というところに葬《ほうむ》られた。その後、二代目政右衛門、三代目政右衛門、四代目左五右衛門と続き、五代目で初めて山下政右衛門房義という侍らしい名前のつく者が現れる。時の藩主のもと、御前のお白州《しらす》の上で八十五コーラスの白熱のヒチリキソロを吹きまくってお目にとまり侍になったという説もあるが真偽は定かでない。
とにかくこの五代目房義の長男が房親の父親となる六代目政右衛門房寛なのだ。
山下龍右衛門房親が生れた時には父親はすでに四十一歳だった。十七歳の姉|廣《ひろ》と十三歳の兄清太郎がいた。
房親の生れた西田町は鹿児島城下の中では微妙な位置にある。城下には西寄りをほぼ南北に流れる甲突川があって、その東側一帯がいわゆる城下町となっている。西田町は川一筋でそこからは切り離されていた。といっても城下士とは身分的に一線を引かれて差別されたという郷士かというとそうではない。かろうじて身分は城下士なのだが、中央|鶴丸《つるまる》城に連なる一帯のエリートの家柄《いえがら》から見れば問題にならない場所だったのだ。
西郷隆盛や大久保利通が住んでいた加治屋《かじや》町は川の東側にあった。正確には甲突川が最初に東へ向かって曲がるその北側だが、ここもしかし最下級武士の住む所だった。つまり鶴丸城から眺《なが》めれば川に近づけば近づくほど視界はぼやけ、そこらに住む者共の姿などは朦朧《もうろう》としてくるのだ。ましてや川の向こうとなればますますで、何やらうごめいていて勝手に士族だと言っているという位のものだったに違いない。
その西田の士族たちが住む何々馬場と名づけられた一角が町人たちの住む西田町の中にあり、さらにその後ろに農村地帯が広がっていた。田んぼには鶴、鴨《かも》、雁《がん》が舞い降りた。桜の木が立ち並び小鳥がさえずった。殿様の別荘がある場所でもあったのだ。一方、参勤交代の時の交通路が通っていて鹿児島|唯一《ゆいいつ》の街道町でもあった。市《いち》が立ち商売が成り立った。西田座という芝居小屋まであった。これは島津|重豪《しげひで》が歌舞伎《かぶき》を奨励した為《ため》だと言われる。当然芸人がやって来て淫《みだ》らな空気も漂わせただろう。いわゆる薩摩の質実剛健の気風だけでなくそこに少し違うものがつけ加えられる可能性のある場所だったといえる。
房親が生れた頃、鹿児島には三十六の郷中《ごじゆう》があった。郷中とは薩摩独特の子供の教育制度で、子供だけで団体生活をしながら年長者が年少者を教えるシステムのことだ。後年イギリスが見習ってボーイスカウトを発足させたという説もある。町単位の郷中ごとに独立していて、他の郷中とは基本的には仲が悪い。競争心が激しくことごとく争う。まず他の郷中に負けない、というのが第一の目標だった。年長者は年少者を厳しくしつける。伝統の剣法の示現流はもちろん、忠孝や、死を怖《おそ》れぬ勇猛心など、理想的な薩摩武士になる為のありとあらゆる基本が叩《たた》き込まれた。
腕力だけでなく各子供は能力を発揮する方向によってそれぞれ認められていた。他の郷中に勝つ為に駈《か》けっこの勝負なら足の早い者を出し算術の勝負ならそれが得意な者を出すというように、団体として勝つ為の能力による分業制というものでもあったのだ。ただこれも、二歳衆《にせ》と言われる目上の者の資質によって変わる。腕力だけが自慢の弱い者いじめの好きな馬鹿者《ばかもの》に指導される郷中はやはりそういうものになるしかない。あるいはリンチと区別のつかない制裁なども行なわれる可能性があった。それによって息の絶えてしまった子供が戸板に乗せられてその家に届けられても両親は我慢をするしかなかったともいう。
そのような国の町と村の境の一角に山下家の次男として龍右衛門が生れた。その前年、中国でアヘン戦争が始まっている。同じ頃に、肥後の名石工岩永三五郎が鹿児島に招かれ、甲突川に五大石橋をかけはじめた。
龍右衛門はすくすくと育った。三歳の時に琉球《りゆうきゆう》の那覇《なは》にフランスの軍艦が様子を見にやって来た。薩摩藩は段々と慌《あわ》ただしくなるが、彼にとってはまだまだ遠い所での出来事だった。それよりも龍右衛門が五歳の弘化三年(一八四六)に山下家にとって一大事件が起きた。長男の清太郎が江戸で急死したのだ。
「長男清太郎|房敦《ふさあつ》弘化三年八月八日江戸に於いて死亡。江戸大円寺に埋葬。遺髪を新照院墓地に葬る。享年《きようねん》十九歳」と雄熊は書いている。
西田町の下級士族の息子が十九歳つまり満十八歳で江戸にいた。そういうことが可能な時代なのだろうか。「金ができたのでちょっと東京に遊びに行って来ます」などということはまず不可能な筈《はず》だ。ならば親にも藩にも無断で家出をして家々の牛乳をかっぱらいながらフーテン仲間を頼ってたどり着いたのか。しかしこの頃牛乳配達はまだないし勤皇の志士に脱藩が流行《はや》るのもまだ先だ。となると、これはやはり公《おおやけ》に認められた留学だったということになる。
薩摩藩の教育は、郷中で行なわれるものの他に藩校で行なわれるものがあった。二十五代藩主の島津重豪は安永二年(一七七三)に巨大かつ壮大な敷地と建物を持つ藩校を作り、これを造士館・演武館と名づけた。造士館は一貫した教育体系を持つ総合校で、生徒数は数百人、本来は城下士の子弟の為のものだが外城士や農工商の子弟も別室で聴講できた。八歳から二十一、二までの青少年が学んだが、すべての者を収容できるわけではない。しかるべく選抜された者たちへの一種のエリート教育が行なわれたのだ。成績優秀な生徒には稽古扶持《けいこぶち》というものが四|石《こく》与えられ、さらに優秀な者には藩外への遊学が定められていた。もしかしたらこれだったかもしれない。
「山下の野郎、勉強ばっかりしやがって頭にきちゃうよな」などと同級生に馬鹿にされつつも清太郎は勉強をした。勉強が好きだったのだ。「論語」「孟子《もうし》」「中庸」「近思録」など、どんどん読めてしまった。ついでに現代国語1と数3と英作と幾何と物理で満点をとり、アインシュタインと筒井康隆も読んでしまったというがこのへんは定かでない。
学校への行き帰りは各郷中は団体行動だった。よその郷中のある地域を通る時には必ず喧嘩《けんか》になった。特に西田の者たちは上町《かんまち》の者から馬鹿にされた。鶴丸城の南にある学校から甲突川へ帰る途中の道筋で何度もいさかいが起きた。
「やあい西田のイモ掘り百姓。おまえらなんかカライモ掘ってりゃいいんだ。鳥籠《とりかご》作りの箸傘《はしかさ》野郎。コエタゴに漬《つ》かって死んでしまえ。御城下なんかに這《は》い出て来るな」殴りあい掴《つか》みあいとなり、西田一派はいつも追われるようにして甲突川を渡るのだ。
ある時、西田の腕自慢の子がいないのをよいことに相手が図に乗って小さな子供まで苛《いじ》めようとした。その時、いつもは本を読みながら歩いていてどんな騒動にも一切関知しなかった清太郎が大音声《だいおんじよう》を張り上げた。
「愚邪毘《ぐじやび》、汝等《なんじら》劣悪|蛆虫《うじむし》の輩《やから》にして、頭脳高潔なる人士の将来を邪魔する者よ。低劣無脳|魯鈍《ろどん》白痴の腐腸、豚糞《とんぷん》腐臭を放ちて眼窩《がんか》何も映さず。唯々汚泥《ただただおでい》に潜りて両尻《りようしり》を出すのみ!」
裂帛《れつぱく》の気合いと共にこのような言葉を吐き捨てた。両眼はけいけいとして光を放ち、見る者皆失明せんばかりであったという。この事件以後同級生も他の郷中の者も清太郎をからかわなくなった。
「あいつ、やべえよな」「気持ち悪いんだよな」「放《ほ》っとくしかねえよ」
清太郎は益々《ますます》勉強に打ち込み、先生たちも手に負えないほど進んでしまった。
「こうなったら藩外遊学の定めを適用するしかないでしょう」
「しかし、このところあの定めはあるにはあるが実行されとらんのよ。重豪様の理想ではあったが、今の斉興《なりおき》様になってあまりねえ」
「しかし、あの子は放ってはおけませんよ。このまま伸びたら必ずアインシュタイン以上の天才になる」
「誰ですかそれは」
「いやあ、自分でも言っていることがよく分からないんですけどね」
「とにかく、ここではもう教えることはない。どこかへ出してやるのが我々教師の役目だ。そうでしょう皆さん」
「そうですね、そうするしかない。それもそこらのけちな他藩ではなく当然江戸ですよ。あの子なら全国の秀才に混ざっても決してひけは取りません」
「じゃあそういうことで上に伝えることにします」
「えと、そのちょっと。あの、推薦遊学は今回は一人ですか」
「そうです」
「えとその、折角の機会だからもう何人か一緒にやってやりませんか」
「というと」
「ほら、加治屋町の西郷とか大久保とか」
「冗談じゃないですよ。全然点数が足りないですよ。特に西郷なんて今年の進級さえ危ない。大久保はまだいいですが、それにしても推薦できるレベルまでは全然行ってません」
「そうですか。いや、あいつら、元気がよくて人気もあるんだがなあ」
「それは確かにあの二人はよいコンビです。大久保は弁が立つし、西郷は押し出しがいい。しかし、学問とは違いますよ。大久保の喋《しやべ》ることは低レベルの政治論の域を出ないし、西郷にいたっては人と知的な議論を闘わせるということがそもそもできません。唯々、相手を大きな眼玉《めだま》でにらむだけです」
「いやあ、あいつらどこか見所があると思うんだがなあ」
「そりゃあどんな子にだって見所はありますよ。ただ、彼らを見ているとどうも郷中の付き合いをそのまま学校に持ち込んでいるのが気になります。そういう田舎的団結の限界から抜け出すためにここに来ているのではないですか。学問というものの普遍性を知り、それによって何物にも束縛されない人間同士が真理を介して分かりあうということを学ばねばならぬ所がここではないですか」
「そんなことをこの時の藩校の先生が言うわけはないと思うが、まあそういうことで、今回の江戸推薦遊学は清太郎のみとするということで皆さんいいですか」
「いいでしょう。予算的にもぎりぎりだし」
「あいつら、見所があると思うがなあ」
「駄目《だめ》ですよ。あんなのが我藩の代表で江戸や京都で大きな顔をするようなことになったら、もう薩摩藩も幕府も目茶目茶になります」
「そうかなあ」
すでに房敦と名乗っていた清太郎は、こうしてその年の三月江戸へ向かった。
江戸では秀才中の秀才しか入れないといわれた八丁|堀《ぼり》の玄笑木菟塾《げんしようみみずくじゆく》にすぐに入学を許された。たちまち一番になり塾頭となった。当然|妬《ねた》む奴《やつ》が出る。中でも旗本|直参《じきさん》の子弟でその名も愚鈍沼|泥之丞《どろのじよう》という者が激しく清太郎を憎んだ。ことあるごとに挑発《ちようはつ》して刀を抜かせようとした。しかし清太郎は鹿児島の学校の行き帰りで習慣になっていた超然とした読書態度を崩さなかった。
ある日、泥之丞は清太郎の帰り道を待ち伏せた。屋根の上に潜み大きな石を投げ落として清太郎の頭を砕こうとした。一抱えもある石を持ち上げた時に、ほどけた袴《はかま》の紐《ひも》が石に絡《から》まった。投げ落とした石と共に泥之丞の体も通りに向かって落下して行った。自分の投げた石の下敷きになっている泥之丞のかたわらを何事もなかったように読書をしながら清太郎は通り過ぎた。
翌日、泥之丞は同じ場所で今度は六丁の弓矢によるわなを仕掛けた。張ってある釣《つ》り糸に触れると触れた場所に向かって六本の矢が飛ぶ仕掛けだ。清太郎がやって来てそのまま釣り糸に触れさらに歩き進んだ。しかし、糸は張りつめるばかりで矢がなかなか放たれない。放たれないままに清太郎の歩みにつれて引っ張られた六組の弓矢のきっ先が一斉《いつせい》に泥之丞の潜んでいる屋根の上を向きはじめた。びっくりした泥之丞が逃げようとした瞬間に六本の矢が放たれ泥之丞の全身に突き刺さった。針ねずみのようになった泥之丞は清太郎のすぐ目の前に転がり落ちた。その体をまたいで清太郎が読書をしながら歩き去った。
次の日には泥之丞は大きな花火の玉を土に埋めた。その上を清太郎が踏めば大爆発が起きるような細工をした。清太郎がやって来てその場所に近づいて行った丁度その時、反対側から暴れ馬が走り込んできた。暴れ馬に掘り返され蹴《け》り上げられた花火の玉は起爆装置がなぜか作動せず、屋根の上に潜む泥之丞の真上に飛んで行った。慌《あわ》てた泥之丞は思わず両手を出して花火の玉を抱えた。その時起爆装置が作動するカチリという音が聞こえた。おれの持っているものは一体何だろうという表情になって泥之丞は花火の玉をしげしげと眺めた。そしてそれが自分がよく知っている大変|懐《なつ》かしいものだったのだと分かってにっこり笑った。その瞬間大爆発が起きた。かつては泥之丞だったらしい黒焦《くろこ》げの物体がすぐ目の前に落下して来て、何事かつぶやきながらばったりと倒れたときも、清太郎の歩みは少しも乱れなかった。黒焦げの物体をまたいで読書をしながら通り過ぎた。
この出来事が伝わるともう誰ひとり清太郎に手出しをする者はいなくなった。
「あいつ、やべえよな」「気持ち悪いんだよな」「放っとくしかねえよ」
清太郎はますます勉強に打ち込んだ。やがて江戸中の学者の誰一人として清太郎と対等に話せる者がいなくなった。泥之丞は相変わらず清太郎をつけ回したがこれは命を狙《ねら》うのではなくすっかり傾倒して弟子になる為だった。
「成程。すると清太郎はその泥之丞と申す者と決闘をしたのではないのですか」
鹿児島西田町の自宅で父親の房寛が遺髪を持って事情を説明に来ていた使者に聞いた。
「違います。私も秀才の清太郎殿が愚鈍な者の挑発に遂に怒り薩摩武士の意地を見せて決闘し見事相討ちになった、というようなご報告をするつもりで参ったのですが」
「ううむ。そういうことであれば私も反応のしようがあるのだが」
「ごもっとも」
「今はまだ知恵の時代ではない、残念だが力がなければ知恵も生かされない、とこのように私がつぶやくのをかたわらで聞いていた五歳の龍右衛門がしっかりと心に刻み込んで以後ひたすら武芸に励むという展開ではなかったのか」
「事実はそうだったかも知れませんが、何しろこれを書いている者が書いている者ですから」
「そうだった。痴《し》れ者め。そもそも先祖の歴史を書くなどという大それたことが出来るような頭が自分にあると思っかかいにすなみらのちのらの、あれ何だこれは」
「白痴の上に奸物《かんぶつ》です。登場人物が自分に都合の悪いことを言いそうになると、ワープロのローマ字入力モードを勝手に平仮名モードに変えてしまうのです。喋っている我々は知らぬ間にハナモゲラになります」
「うぬ何という卑怯《ひきよう》な奴だ。このような子孫に我等の歴史を委《ゆだ》ねなければならぬとは」
「お気の毒です。さてそこで清太郎殿のそれからですが」
「おおそうだった」
清太郎は物《もの》の怪《け》につかれたように勉強をした。昼も夜もなく本を片手に歩き回り人が聞いても何のことか少しも分からない言葉をひっきりなしに口走るようになっていた。
「此世《このよ》は多元宇宙の重層を以《もつ》て成立し其間《そのかん》往来可|也《なり》。其於《そこにおいて》過去未来に通じ未来過去に通ず。天網恢恢疎而《てんもうかいかいそにして》不漏《もらさず》と言へど陽子反陽子反物質大黒穴|此有時《これあるとき》は大漏も又可也。必要数百枚下帯」
やがて風来山人という者の一派の出していた荒唐無稽な洒落《しやれ》本や黄表紙を読みあさるようになった。
「あ、それはいかん」「あのような馬鹿者共の書くものを」「えすえふはいかんと言うのに」塾の先生たちが慌てて止《や》めさせようとしたが清太郎は全然聞く耳を持たず逆に先生たちを叱《しか》りつけた。「森羅万象全《しんらばんしようすべ》て之《これ》先見の明を以て人の道世界の道を真に見通す者之SF作家の他|不有《あらず》。馬鹿にする承知しない逆上脳天|噛裂《かみさ》くべし」これは駄目《だめ》だというので皆|諦《あきら》めた。清太郎はやがてエレキテルということをうわごとのように言い、とうとう日本での電気の研究の先駆者である風来山人つまり平賀源内に会いに行くと言い出した。
「げ、源内先生は、も、もういないな。し、死んだんだな」あれ以来頭が少し弱くなってしまった泥之丞が止めた。しかし清太郎は、いや源内先生は必ず生きている、実は自ら発明したエレキ装置によって未来へ体を移しながらずうっとこの世に住み続けているなどと目茶目茶なことを言い出した。「わ、分からないな」泥之丞には何のことだか無論分からなかった。
やがて清太郎は毎晩のように麻布の一角にある古い農家に通いだした。そこに本当に平賀源内が住んでいたのだ。そして八月八日になった。
「先生、やはり決心しました。未来へ送って下さい」
「そうだろうね。君の居られる所はそっちしかないよ。この国はこれから大変なことになる。血が流れ人が死に戦争ばかりやり百年後には世界で最初の原子爆弾まで落とされるのだ。知恵のかけらも無い輩に支配されるのだよ」
「その戦争の終わった頃《ころ》に行けますか」
「行ける筈だが今日はクロノメーターが正確じゃないんだよ。豊川|稲荷《いなり》のお狐《きつね》さんとお玉が池の竜《りゆう》が喧嘩をしているせいだ」
「一九八〇年代の後半に行けますか。どうもその辺で私のことをあることないこと書いている子孫がいるらしいのです。そこへ行って色々さとしてやろうと思うのですが」
「じゃあそうしよう。たいした誤差はない筈だ。セットしたからいつでもいいよ」
清太郎が時間航行機の中に入り源内がスイッチを押した瞬間に泥之丞が飛び込んで来た。
「ぼ、ぼくも行くんだな」
「危ない。二人は駄目だ。早く一人は外に出なさい。このままだと行く先が狂ってしまうよ。それだけではない。もしかしたら」しかし最早《もはや》作動していた時間航行機はもみあう二人を乗せたまま未来に向かって姿を消した。
「というわけなのです」
「ふうむ、その一部始終を心配して跡を付けて来ていた泥之丞の母親が見ていたと言うのですね」
「その通りです」
「しかしそれですと姿が消えただけで二人が死んだとは決められないと思いますが」
「無論そうですが、その時には火花は散り黒煙は立ち込め至る所で小さな爆発が起きていたといいます。その箱にも火が燃え移りました。中で二人がもがいているのを母親が見ています」
「……」
「直後にその家に落雷があり何もかも焼けました。わずかに残されたのがこの御遺髪です」
使者は紙にくるんだものを房寛の前においた。房寛があらためてみるとそれはちりちりに焦げた髪の毛だった。それをおし頂くうちにようやく房寛にも清太郎の死が実感されて来た。目に涙を浮かべながら房寛は聞いた。
「清太郎が最後に言い残したことはありませんか」
「あります。二人が消える寸前に同時に叫ぶ声を泥之丞の母親が聞いたそうです」
「それで何と」
「それがいくら調べても意味不明でして」
「何と叫んだのです」
「なんでも『ばっくとうざふゅうちゃああ』と申されたということです」
使者が帰ってからもしばらく房寛はそこに座っていた。かけがえのない宝を無くした悲しみにしばらく耐えていた。かたわらには五歳の龍右衛門がやはりじっと耐えて座っていた。十三歳も年下のこの子が生れていてよかったと房寛は思った。清太郎ほどの者になるかどうか分からないが、とにかくもう一度自分の子供が成長して行く姿をもうしばらくは見ることが出来るのだ。
「まだまだ知恵など通用しない国だ」房寛は独りごとのように言った。「力が無くては知恵も死ぬ。それが現実だ。これを忘れるな龍右衛門。心して腕を磨《みが》け」
龍右衛門は忘れなかった。
百年後の夏、南を目指して鉄道線路の上を歩いて行く一人の男がいた。ふんどし姿でリュックサックを背負い傘《かさ》を肩からかけている。この世の真理をすべて悟り切ったような知性とまるで泥の中にいるような愚鈍な顔が交互に見えかくれする不思議な表情をしていた。しきりに独りごとを言っているのはやはり愚鈍の性《さが》だろうか。
「な、なぜ南に行くのかな」「馬鹿者《ばかもの》。私の国があるからではないか。何度言ったら分かるのだ」「でも、そ、それは昔のはなしだな。今はもう、ち、ちがうんだな。み、民しゅしゅぎだな。侍は、い、いないんだな」「そんなことは分かっている。私は私の家の者がどうなっているか知りたいのだ。父上や弟があれからどうなったのか。それには薩摩の実家に帰って調べるしかない。分かったら黙って歩け」「で、でも、お、面白いな。き、機械がこわれて行く場所が狂って、つ、ついでに、ふ、二人の脳とからだが混ざってしまったんだな。そ、尊敬する、せ、清さんとこんなに、ち、近づきになれて本当に、う、うれしいな」「うるさい。黙って歩け」
独りごとを言いながら、後に山下清という名で人に知られることになるその男は南を目指して歩き続けた。花火を見るとなぜか異常に興奮し素晴らしい絵を画《か》いたがその理由は本人も知らなかった。
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第三章
龍右衛門の兄清太郎房敦が山下清と化して山陽本線の尾道《おのみち》あたりの線路を一路西に向かって歩いている頃《ころ》、おれはようやく薩摩と連絡を取りはじめていた。有村さんの手紙に書いてあった研究家、つまり鹿児島大学建築学科の揚村固《あげむらかたむ》さんに電話をしてみたのだ。
「という話が家にあるのですが本当でしょうか」
「はい。多分山下啓次郎氏の設計になるものと思われます」
「というと祖父は建築家だったのですか」
「ええとそうですね。経歴の詳しいことが分からないので逆にお聞きしたいくらいなのですが、個人の建築家というのではなく当時の司法省営繕課という所で仕事をなさったのです」
「それはどういう所ですか」
「つまり司法関係の建築を専門にやった部署ですね」
「といいますと」
「裁判所、拘置所、刑務所、もちろん司法省そのものの建物も含むでしょうね」
「はあ。そうすると祖父はちゃんとした建築家なんでしょうか」
「勿論《もちろん》そうです」
「安心しました」
「何ですか」
「いえ何でもありません」
「こちらで分かっているだけの資料をお送りしましょう。どうかご覧になって下さい」
「有難うございます。ところであの」
「何でしょう」
「監獄を建てた者の子孫はやはり前科者になりますか」
「専門外なので分かりませんが、そういうことはまずないと見てよろしいのではないでしょうか」
「どうも済みませんでした」
そうこうしているうちにも西田町では龍右衛門が子稚子《こちご》から長稚子《おせちご》さらに二歳衆《にせ》と成長して元服も間近かになっていた。
すでに甲突川には天才石工と言われた岩永三五郎によって、新上《しんかん》橋、西田橋、高麗《こうらい》橋、武之《たけの》橋、玉江《たまえ》橋が一年ごとに完成し五大石橋として偉容を誇っていた。一つの橋から別の橋を見ようとしても見えないという戦略上の工夫もこらされていた。中でも一段と贅沢《ぜいたく》に作られ目立つのは西田橋だった。参勤交代の通る道なのだから当然だったが、その東岸西田町の反対側には大きな屋根のついた立派な門までが新築された。いやがおうでもこの場所が城下の表玄関であるということを強調しているのだ。つまりこの橋の出現によってその門の外側にある西田町という地域の特殊性がますます強調されたとも言えるのだった。
西田橋は全長四十九・六メートル。幅は江戸時代では最大の七・三メートルあった。土台のアーチは二重に作られそれが四つ横に連なって両岸にまたがり上部構造を支えている。三つの橋脚には流れの抵抗を減らす為《ため》の鼻柱《はなばしら》というものもついていた。手摺《てす》り、欄干、青銅の擬宝珠《ぎぼし》などどれも豪華にできていた。欄干は高く大人でさえも橋を渡るときには両側から包み込まれるような感じがした。
龍右衛門は四歳の頃から毎日この橋が出来上がっていくのを眺《なが》めていた。総指揮をする岩永三五郎らしき人の姿も見た。働いている石工は多くは三五郎と一緒に肥後から来た者たちだったがそれだけではなく古くから薩摩にいる石工たちも多数いた。
九州の石橋文化の歴史は古く、長崎の眼鏡橋はすでに寛永十一年(一六三四)に中国から来た如定《によじよう》という坊さんによって作られている。呪文《じゆもん》を唱えて一夜にして作り上げたとも言われる。同じ寛永年間に鹿児島でも|※[#「木+」、unicode68c8]《あべき》川に実方《さねかた》太鼓橋がかけられた。アーチ式の石橋で誰が作ったのかよく分からないというから多分眼鏡橋を作った時の呪文がこちらにも効いたのだろう。
他の土木関係では鶴丸城と城下町の建設は慶長六年(一六〇一)から始まった。それが寛永七年(一六三〇)まで続きさらに地方の小城下の建設は元禄《げんろく》十三年(一七〇〇)頃まで続いた。この時には文禄・慶長の役で島津義弘に連れて来られた朝鮮系の技術者も係《かか》わっていた。高麗町はその名残だ。享保《きようほう》八年(一七二三)には中国伝来の石橋技術を利用して水道まで作ってしまった。これは神田、玉川上水に続いて日本では三番目の快挙だ。
土木石工分野に限らずこの国は妙に国際的だった。国全体が南の海に向かって開けていて背後は険しい山々で他の国と遮《さえぎ》られている。それをよいことに早くから密貿易はするわ南洋人は流れ着くわ豚は食うわ牛も食うわデカ鼻ギョロ目がはびこるわ隼人《はやと》は吠《ほ》えるわというわけで一種の治外法権国家でもあったのだ。
龍右衛門十歳の嘉永《かえい》四年(一八五一)薩摩藩の藩主は四十二歳の島津斉彬となった。この時西郷隆盛は二十四歳大久保利通は二十一歳。同じ年に西田町の薬師町に川路正之進という十七歳になる青年が引っ越して来た。世の中には引っ越しにまつわる様々な物語があるだろうが、龍右衛門と山下家にとってこの川路家の引っ越しは大変大きな意味を後に持つようになる。
この頃からいよいよ日本はその歴史上二度と無いと言われる激動の時代へと突入して行った。
嘉永六年(一八五三)六月とうとうペリーが浦賀にやって来た。
「へい、じゃぱんの皆さん、すぐに開国しなさい。港を開けなさい。米国の鯨|虐殺《ぎやくさつ》艦隊に食料と水をいつでも出せるようにしなさい。貿易もしなさい。我々文明国寄ってたかってこの国ずたぼろにしに来ました。抵抗しても無駄《むだ》です。インドを見なさい。中国を見なさい。我々軍艦あります。大砲あります。鉄砲あります。兵隊あります。それに何より悪知恵あります。東洋のお人好《ひとよ》し共絶対にかないません。中国には強力なヤクをぶち込みました。馬鹿《ばか》な中国人喜んで吸ってヤク中毒になりました。脳天ファイラになりました。利口な中国人気づいて止《や》めろ言いました。我々止めません。なぜならばこれ正しい契約の貿易。止めたいならキャンセル料頂きます。キャンセル料払えないなら土地|貰《もら》います。あそことあそこ貰います。嫌《いや》だと言ったら大砲ぶち込みます。こうやって中国ずたぼろにして香港《ホンコン》と上海《シヤンハイ》頂きました。目茶苦茶に不平等な条約押し付けて来ました。これは皆英国のやったことですが我々毛唐は皆同じです。日本は米国が頂きます。さあ早く返事をしなさい」
口惜《くや》しがってもどうにもならない。翌年には日米和親条約を押し付けられた。
この頃から薩摩藩の西郷吉之助、のちの隆盛が国事に奔走し始めた。国事に奔走とは、単に国事国事とわめきながらそこらを走り回ることではなく、その実体は人と会って仲間になるよう説得しあるいは説得され、駄目ならいずれは殺し合うというシビアな思想が基本となっている行為らしい。
薩摩藩ではまたこの頃火薬やガス灯や地雷や水雷などの研究、実験をし、日本最初の洋式軍艦まで造ってしまった。やはりどこか妙な藩だ。
そうこうしているうちに今度はハリスが下田にやって来た。和親条約を通商条約にする為だ。
「悪知恵の毛唐の代表としてまたまた私がやって来ました。じゃぱんの皆さん覚悟しなさい。ところで先程町で見かけたあの娘さん気に入りました。すぐに差し出しなさい。それしないと大砲撃ちます。下田無くなります。次に江戸も無くなります」
関係者が慌《あわ》ててそのお吉という娘の所に走って行った。
「これこの通りだ。日本を助けると思ってあの毛唐の処《ところ》へ行ってくれ」
「おじさん、それはないんじゃないの。おれとお吉はまぶだちなんだよ。急に居なくなられたらおれが困るじゃん」
「だからお前には何でも買ってやると言っているだろう。どうだランボルギーニカウンタック500ミウラスペシャルでは」
「なんだよそれ。そんなバイク知らねえよ」
「ランボルギーニが要らないのか。馬鹿な奴《やつ》だ。では何ならよいのだ」
「ゆっくり考えさせてくれよ」
「ゆっくり考えていると日本が無くなるのだ。ではお吉は連れて行くぞよいな」
「あんたいいの。あたし行っちゃうよ」
「しょうがねえだろ。おじさんの後ろに血相変えて刀に手をかけている侍があんなに沢山いるんだ」
「じゃあ行って来るけどさ、帰って来たら又声かけるからね」
「ああ元気でな」
「うひひひひ来ましたか娘さん」
「ふざけんじゃねえよ。この馬鹿毛唐」
「ぐふぐぎげほ。す、素晴らしい膝蹴《ひざげ》りだ」
「マジかよ。この野郎」
「げへごへぐふ。見事なエルボウスマッシュ。やはり私の目に狂いはなかった」
「何言ってんだよ。こいつ」
「がぎぐげごへ。そうやっていじめて欲しいのです。私あなたを見た時からそういう人だと思いました」
「そういう奴だったのかよ。お前」
「そういう奴だったのです。ああもっといじめていじめて」
安政五年(一八五八)六月日米修好通商条約は調印された。そらあいつとうとう落ちたぞというので英仏露蘭なども一斉《いつせい》にハゲタカと化して殺到して来た。半狂乱になった幕府はそれまで幕府に逆らっていた日本人を片っ端から捕まえて死刑にし始めた。安政の大獄だ。
この騒動の最中《さなか》七月に薩摩では島津斉彬が急死する。長い間現地薩摩を知らなかった殿様だった。広い視野を持った名君と言われ西洋文明を理解していた。前年には磯邸の一室に暗室をこしらえて、現存する日本最古の写真の撮影現像焼付けをしたりしている。その現像液に何者かが指先経由で侵入する毒を入れたとも言われるし、斉彬が好んだ自分で釣《つ》った魚で自ら作る塩辛用の壺《つぼ》に毒が入れられたとも言われる。しかしこの時には斉彬はすでに日本の歴史を変える仕事の一つを成しとげていた。甲突川べりの加治屋町に生れた最下級武士の一人西郷吉之助を抜擢《ばつてき》し世の中に送り出してあったのだ。
しかしその西郷は、斉彬の死でおかしくなったのかとんでもないことをする。幕府の魔手からかばっていた月照《げつしよう》という過激僧侶をかばい切れなくなったと見るや、いきなり一緒に海に飛び込んで死んでしまうのだ。しかしすぐに生き返り島流しの身となった。月照はそのまま死んだ。落語「品川心中」はこの事件をもとに作られたとも言われるが、以後の歴史にとって何ともあぶない瞬間だった。ここで西郷が死んでいたら日本の歴史と共に山下家の有様も相当違っていた。あるいは鹿児島刑務所などは建てられず、ここでこのようなことをほざく子孫が出現しなかった可能性もある。
この年龍右衛門は十七歳。自分たち辺境の下級武士と、将来の山下家にとって大変大事な存在となりそうな予感のするこの人物の自殺未遂や島流しの顛末《てんまつ》をはらはらしながら見守っていたことだろう。
翌安政六年(一八五九)異人切りが流行《はや》りだした。開港後横浜には毛唐共がうろうろし、わけの分からぬ日本人をだましてただ飯は食うわ金貨はだまし取るわ女はさらうわの狼藉《ろうぜき》が続発した。これに怒った瘋癲《ふうてん》浪人たちが他にやることもないので暴れてうさを晴らすということになったのだ。
「づべらぼ!」
「ぎゃ、オーチンハラショ。なぜ私を切りますか。私はムソルグスキイチャイコフスキイビッチ・ドストエフスキイという由緒《ゆいしよ》正しいロシア人です」
「ロシア人か。どうせ毛唐は皆同じだ。やってしまえ」
「同じではありません。やめなさい」
「黙れ。しゃばどす!」七月横浜でロシア人士官ら三名が襲われ二人が死んだ。
「ぐじゃべら!」
「きゃ、私毛唐ない。よく見て私|清《シン》国人。フランス領事館で働いているだけ」
「何い馬鹿者。洋服を着ているのが悪い」
「悪くないよ。許して」
「許さぬ。しゃばどす!」横浜で清国人が切られた。
「どべら!」
「げ、なぜ私を切りますか」
「知れたことよ。この売国奴め」
「売国奴ではありません。通訳です」
「同じことだ」
「そんな無茶な。イギリスではこういうことは致しません。まず話し合いをします」
「その言い草がしゃらくさいというのだ」
「おフランスでも同じですよ。スエーデンではフリーセックスが当り前です」
「そういうことを言えば言うほど馬鹿にされるという事が分からんのかお前は」
「スエーデンではですね、人を切る前には一週間前に手紙を出すんですね。これが文明国の証拠ですね。日本はまだ駄目ですね」
「根っから腐り果てた奴だ。やれ」
「スエーデンではやりませんね」
「づびだば!」イギリス公使館通訳の伝吉が殺された。
「がばどす!」
「ぐ、これはえらいことですよ」
「知れたことよ。貴様をヒュースケンと知ってのことだ」
「今度こそ幕府大変困りますよ」
「だからやっているのだ。覚悟しろ」
「あんたらテロリストか」
「当り前だ。がばどす!」
万延元年(一八六〇)にはとうとう米国公使館員のヒュースケンが殺された。薩摩藩士|伊牟田尚平《いむたしようへい》と樋渡八兵衛《ひわたしはちべえ》のしわざだった。大騒ぎとなったが幕府がヒュースケンの母親に一万ドルを送ってなんとか許してもらった。
文久元年(一八六一)には水戸の浪士が東禅寺にあったイギリス公使館に乱入して大暴れをした。ここでは幕府が派遣していた警備員と乱入者が切り合うという植民地原住民仲間割れ現象が出現した。これらの異人切りの続発には幕府はほとほと困り果てた。各国公使も困り果てた。
「あんたら何ですか一体。この国の代表だと言うからそのつもりで調印して悪知恵出して国を取ろうと思ったのに、この国の者達、誰もあんたらの言うこと聞かないではないですか」
万延元年には桜田門事件も起きていてこの時にも薩摩藩士有村次左衛門が井伊大老の首を切ったといわれる。この時次左衛門が名乗りを上げようとしたが薩摩なまりで何度言っても上手《うま》く言えない。すると駕籠《かご》の中から井伊大老が「言い直すけ?」となぜか水戸なまりで聞いたという話があるが真偽は定かでない。
そして文久二年(一八六二)八月に異人切り騒動の頂点が薩摩藩によって極められた。生麦事件が起きたのだ。
「やはり今日は止めにしましょう、マーガレット」
「何を言っているのチャールス。日曜日ごとの遠乗りは私の一家の習慣なのよ。それをたかが生蛮の行列があるという位で止めるなんて」
「それが今日のはただの生蛮じゃないんですよ。サツマという所の奴らでこいつらガイキチなんです。狂暴で何するか分からないからわざわざ幕府から領事館に手紙があった程なんですよ。行列の通る時間には居留地から外に出るなって」
「居留地から外に出るなですって? わたしたちはインディアンじゃないのよ。馬鹿にしないでよ」
「あなたはねえ、香港から来たばかりでよく分からないんだろうけど本当にやばいんですよ。サムライの振り回す刀は物凄《ものすご》く切れるカミソリの刃が着いた斧《おの》だって言われているんです。それに全員生れた時から人を殺す訓練を受けていて自分が死ぬのを何とも思わないんですよ」
「ますます生蛮じゃないの。何よおじけづいて。ウッドソープやウイリアムならそんな臆病《おくびよう》なことは言わないわ」
「あの二人とも付き合っているんですか」
「ええそうよ。折角の休暇に遊び友達と遊んでどこが悪いの。今日も勿論《もちろん》誘ってあるわ。そろそろ来る頃《ころ》よ」
「あの馬鹿共が来るのですか。それはまずい」
英国商人リチャードソンは不吉な予感のするまま、上海から遊びに来ていた名門ボラデイル家の夫人マーガレットのお供で遠乗りに出かけた。ウッドソープ・C・クラーク、ウイリアム・マーシャルが一緒だった。一方その日江戸を出発して京都へ向かった薩摩藩島津久光の一行四百名の行列は午後二時頃に神奈川の生麦村にさしかかった。
「へいマーガレット、ベイビー。相変わらず綺麗《きれい》だね」
「止《よ》しなさいウイリアム。馬の上でふざけたら危ないでしょ。後ろからチャールスが見ているのよ」
「あんたのエスコート役も臆病だよな。たかが生蛮の行列が来るというだけであんなにびくびくして。こんな国の奴ら扱うの簡単だよ。怖い顔して大声で英語でわめき散らせば大抵の日本人は歯を剥《む》き出しながらぺこぺこして言うことを聞くんだ」
「チャールスは最近変なのよ。怖いくせに妙に日本やサムライのことを調べているの。昔のイギリスの騎士道や勇気がまだこの国には残っているなんて時々言ってるわ」
「け。冗談じゃねえよ。フンドシをはいた猿《さる》共にそんなものがあってたまるか。それにおれたちは商人だよ。そんなこと考えて何になるってんだ」
「ウイリアムの言う通りだよ。土民共が気がつく前に金銀財宝全部かっさらって国に帰ればナイトになって優雅な暮らしだ。これがおれたちの伝統だよ」
「そうだそうだ。こんな世界の果てまでわざわざ来てるんだ。面白おかしくやらなきゃあ。そんなことより今日もいつもの所で乱痴気パーティをやるから必ず来いよ」
「分かってるわよ。嫌らしいわねそんなに顔を寄せないで。はいよう」
「待てよ。はいよう」「はいよう」
少し遅れて考え事をしながらゆっくりと馬を歩かせていたリチャードソンは突然前方の三人が駆け出す音で我に返った。ぼんやりとその行方を目で追っていると、そのさらに前方から一団となってこちらに移動して来るサムライの大集団らしきものが見えた。不気味な低音の弦楽器の旋律と四度音程を執拗《しつよう》に繰り返すティムパニーの音がリチャードソンの耳に轟々《ごうごう》と響き渡った。
「げ。で、出た。サツマの奴らだ。危ない。そっちへ行ってはいかん。戻りなさい、マーガレット」
リチャードソンは全速力で三人を追いかけた。「待て待て止まれ止まれ」勢い余って三人を追い抜き行列の先頭に馬を乗り入れてしまった。馬首を返して三人に怒鳴った。
「早く引き返せ。危ないぞ」
「何こんな奴ら平気だよ」
「無礼者」奈良原喜左衛門が走りよって、飛び上がりざまに抜き打ちの一刀をリチャードソンに浴びせた。
「ぎゃ」背中から脇腹《わきばら》まで切られたリチャードソンが「いででいでで」と言いながら視聴覚不自由者的我武者羅滅法に馬を走らせると、今度は久木村治休が切りつけた。
「こんどら!」同じ所を脇腹から背中へ切り上げた。リチャードソンは馬から転がり落ちた。「だがらよぞうど言っだのに」といって息が絶えた。
ウイリアムとウッドソープは、「わらまたしっとふぁっくあすおぶまいまじぇすてい」などとわめきながら逃れようとしたが、やはり切られた。ウッドソープは左足と睾丸《こうがん》を切り取られた。ウイリアムは右手と左目と鼻を切り取られた。ウッドソープはそのまま片足で飛んで江戸まで逃げ、新宿二丁目に流れ着いて一本足のおかまとなった。ウイリアムは海岸まで逃げ、海に飛込み、泳いでヨーロッパまで逃げ帰り、パリにたどりついてノートルダムのセムシ男となった。マーガレットだけが無傷で逃げることが出来た。無礼打ちとはいえ女を切るのは刀の汚《けが》れだったからだ。「きゃあああああ」と言いながらマーガレットは横浜まで走り帰り、そこにいた代理公使のニールの所に駆け込んだ。
「だじげでぐだざい」
「助けて下さい」
同じ頃におれも鹿児島の揚村さんに電話していた。
「資料が届いたのは嬉《うれ》しいのですが、あのように大量でしかも難しい物とは知りませんでした」
「まだまだ探さないといけないのですが、今の所はその位なのです」
「論文まであるとは驚きました」
「ああ、迫田《さこだ》順一さんのものですね。あの刑務所についてはあれ以上のものは無いでしょう」
「あれを全部読まなければいけませんか」
「それは私どもとしては何とも言えませんが、おじい様の造った物なのですから一応は」
「そうですよねえ。でもあの大量の設計図入りの一一六ページの論文に加えて、何ですかこれは。『矯正《きようせい》の赤煉瓦《あかれんが》建築』、『刑務所建築の変遷』、『矯正建築』、『司法建築のあしあと』、『建築雑誌第九一号(明治二七年)』、『建築雑誌第一七一号(明治三四年)』、『刑政八九巻二号(昭和五三年)』、こんな出版物がこの世に存在することさえ知りませんでした」
「どれも貴重なものです。その中には入っていませんが、しばらく前に東大の村松貞次郎先生がお書きになったものもあります。あれが今回の件に関して最初に世間に発表されたものかもしれません」
「今回の件と言いますと」
「ですから、取り壊しの件ですね」
「ああ、なるほど」
「我々としては本当に残念なのです。建築物は貴重であるのに場所が場所だけに中に入って充分な調査が出来なかったわけです。移転になった今こそチャンスなのですが、すぐに壊すと言っている。そんな短期間でちゃんとした調査は出来ませんよ。設計図も残っていないのです。復原しなければなりません。もっと時間が必要です。そもそも誰にも何の相談もなしに、不必要になったから壊すなどと、役所の者たちは一体何を考えているのですか」
「…………………」
「非常な怒りをおぼえるわけです」
「するとやはりその、あれは建築学的に見て、そのなんらかの価値があるという……」
「勿論です。色々な意味で大変貴重な明治時代の遺産なんですよ。それを分からず、勝手に壊そうとしているのです。何とか止《や》めさせようと今しているところなのです」
「そうですか。あの、私も是非一度実物を見たいので、近いうちにそちらに伺います」
「是非おいで下さい。中を見学できるようにいたします。取り壊しを強行しようとしていますから、早いうちがいいかも知れません」
「えと、あの、八月ではどうでしょうか、両親も連れて行きたいと思います。それから妻子も」
「ああなるほど。啓次郎さんの子供、孫、ひ孫、とお揃《そろ》いになるわけですね」
「あ、そうですね」
「八月ならまだ大丈夫でしょう。日にちが決ったらお知らせ下さい」
「そうします」
「七月よりもいいかもしれません」
「なぜですか」
「先程の生麦事件の仕返しに、いよいよ英国の艦隊が鹿児島にやって来るそうです。それが多分七月頃になるだろうというので、今、こちらでは大騒ぎです」
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第四章
「刑務所建築の発展は、西洋近世それも宗教改革以降のことである。それを促したのは、近代的な規律および改善思想によるアムステルダム懲治場の出現である」
鹿児島に行ってあの門に対面するまでに、送られてきた資料の一部でも読もうと手当り次第にページをめくると、このようなことが書いてあった。
「アムステルダム懲治場は、男子懲治場、女子懲治場および特設少年懲治場の三施設から成っていた。男子の懲治場は、一五九五年にクラリッサ僧院の一部に造られ、染色用材の木挽《こび》き鋸《のこぎり》(ラスプ)で象徴された規律および労働教育の場として『ラスプフィス』といわれた。女子懲治場は、二年後にウルズラ尼僧院《にそういん》に造られ、同様の趣旨で繰糸場として『スピンフィス』といわれたのである。特設少年懲治場は、裕福な家庭の子弟を男子懲治場内の少年区の貧困家庭の子弟とは別に収容する趣旨で、一六〇三年にクラリッサ僧院内の男子懲治場に隣接して造られた」
どうやら、最初から男の方には懲《こ》りない面々が集まる木工作業所があり、待遇にも区別があったということらしい。「染色用材の木挽き鋸」とか「繰糸場」などという言葉が分かりにくいが、何とか見当をつけながら別の資料を開いた。
「わが国において身体刑や追放刑に代わって自由刑が刑罰の中心になったのは、明治初頭の仮刑律、懲役法などの制定をまってのことである。諸外国においても、自由刑が刑罰に中心を占めた歴史は、そう古いものではない。中世ヨーロッパにおいては、死刑あるいは手、耳などの切断といった身体刑が刑罰の主流であり、自由刑はこれらの背後に隠れてしまっていたといわれている」
身体刑、自由刑という言葉の意味はどうにか分かった。
「ヨーロッパにおける近代的自由刑は一五五七年のロンドン・ブライトウェルの施設、およびこれに影響を受けた一五九六年のアムステルダム監獄の建設に始まり、その後十七世紀前半のヨーロッパ諸都市において同種施設が相次いで建設され、これに対応して、裁判官が古い刑に代えて自由刑を言い渡すことが多くなり、ついに自由刑は刑罰制度の中心となった。そして革命後のフランス刑法では、死刑を残したものの、身体刑や追放を廃止するに到《いた》ったのである」
つまり、ヨーロッパではすでにこの頃《ころ》から、罪人とされた者をすぐに殺したり、島流しにしたり、手を切ってピアノを弾けなくしたりせずに、そのままつかまえておくという考え方になっていたということなのだ。
アムステルダムの施設について両方の記述に一年の違いがある理由はよく分からないが、懲治場が置かれたのと監獄の建設の始まりが厳密に言えば分けられるということだろうか。
「当初のアムステルダム懲治場やブライトウェル懲治場が近代的自由刑の発祥と評価されるのは、それが労働を通して『教化・改善』をはかろうとした点であり、特別予防の思想の導入にあるようである」
一六〇〇年前後のヨーロッパがどうなっていたかを年表で見ると、オランダが独立したばかりであることが分かった。このことが近代的監獄の発祥と何か関係があるのだろうが詳しいことはよく分からない。フランス、イギリス、イスパニア、ポルトガルなどの国があり、イギリスではこの頃にシェイクスピアの主要作品が完成されたとなっている。
ドイツという国を探したがこれはまだなかった。
アメリカ大陸はとうに発見されていて各国が植民地にしていた。しかしメイフラワー号はまだ出発していない。
音楽史上はルネッサンスの後期とされ、多声の歌曲やリュートの伴奏による歌や独奏や合奏の器楽などがあったというが、なにしろバッハの生れる百年近く前だから、古楽ファンでもないと実際の音はよく分からない。
分からないことだらけのまま日本史の年表と比べると、同じ頃に、日本では奇《く》しくも関ヶ原の戦いが起きていた。これに徳川方が勝ち、明治維新まで以後二百六十五年間にわたる徳川幕府の日本支配が始まるわけだ。豊臣側に着いて負けた鹿児島の島津家が以後しぶとく復讐《ふくしゆう》をねらっていたという伏線がある。
そしてその江戸の時代にも刑罰はあった。
「江戸幕府の刑罰体系は、本来武士に対する刑罰を基本とするものであったが、徳川八代将軍吉宗がこれを修正・補完して、庶民に対する刑罰体系をまとめあげた」
それらは大別して、死刑、追放刑、奴隷《どれい》刑、肉刑、自由刑、労務刑、財産刑だった。肉刑などというのは読むだけで気持ちが悪くなる。さらに死刑の種類には軽い順に、下手人(斬首《ざんしゆ》)、死罪(斬首の上|様斬《ためしぎ》り)、獄門、はりつけ、火罪(火あぶり)、鋸引きなどがあった。何も悪いことをしていなくてもどうか許してくれと言いたくなる。追放刑は、遠島、重追放、中追放、軽追放、江戸十里四方払い、江戸払い、所払い、門前払いなどで、これらはむしろほっとする程だ。門前払いというのが刑罰の言葉だったとは知らなかった。
これらは庶民に対してだが侍に対するものはこの資料には書いてなかった。しかしよく考えるとそれはつまり切腹だった。罪があるとされた侍はじたばたせずに自分で腹を切って死ぬわけだ。それが子供の時からの教育で当り前となっているのだから面倒がなくてよい。もっとも中には、いざとなってじたばたし、死ぬのは嫌《いや》だとわめいて介錯人《かいしやくにん》のスネに噛《か》みついたり、検死役人に飛び蹴《げ》りをしたりして大暴れをする奴《やつ》もいたかも知れないが、そいつはその瞬間もはや侍ではなくなったわけだから、以後どういう殺され方をしようと仕方がないということなのだろう。
こういう国で罪を問われる外国人は大変だ。
「お前が犯人か。身分は何だ。何、兵士。しからば侍でござるか。お見それいたした。ささ、すぐあちらで切腹の用意を」さぞかし怖いだろう。
この国では、明治維新以後も外国人を自分の国の法律で裁くことのできない状態が長い間続いた。外国人にとっては十分理由のあることだったのだ。
そのヨーロッパの人々が近代監獄の歴史をスタートさせた時から二百六十年後、日本の南の一角ではイギリスと薩摩《さつま》が戦争を始めようとしていた。
江戸時代があと五年で明治時代に変わる文久三年(一八六三)のことだ。
どこからともなく響き渡る半音階を多用した不安げな弦楽器の旋律と、威嚇《いかく》的に積み重なる金管楽器の五声のハーモニーを背景に、七|隻《せき》の英国軍艦が鹿児島沖に姿を現わした。六月の末で海も陸も熱気で覆《おお》われていた。
西田町の山下龍右衛門はこのときは二十二歳。父親の一字をもらって房親と名乗っていた。この日は皆と一緒に海岸に出て海をにらんでいた。
やがて水平線上に黒船が現れてゆっくりと近づいて来た。
「うぬ」「夷狄《いてき》め」「ちぇすと」などというどよめきが周りで起こった。刀の柄《つか》に手をかけるものもいた。龍右衛門も思わず刀の鞘《さや》を握りしめた。しかし、そのような陸の人々の興奮をまったく感知しない様子で黒船はのんびりと進んで来た。武器を持った人間の姿は見えず、黒い鉄のかたまりだけが意志のある生き物のように黙々と義務を果たしているようだった。
それを眺《なが》めながら龍右衛門は妙な感覚に包まれていた。異国からやって来たあのものが敵ではなく、何か大変優しく大きなものをもたらしに来た存在のように思えたのだ。そのまま見続けていると今度は自分がいつの間にか黒船の中にいて異国へ連れ去られている光景が頭に浮かんだ。大勢の異人に囲まれて自分は黒船に乗っている。しかし捕虜になっているのではない。連れ去られているのではなく、望んで行こうとしているのだった。途方もなく大きな別の世界のことを知る為《ため》に、ほとんど恐怖に近いような歓《よろこ》びを持って異国へと向かっているのだ。そしてそれはどうやら龍右衛門自身のことではないようだった。乗っているのは自分の分身らしかった。とするとこれは一体誰の。
「おう」という周りのどよめきで、龍右衛門の白昼夢が途絶えた。七隻の黒船は桜島の西端の狭い水路を少しのためらいもなく通過してそのまま湾奥深く滑り込んで来た。
「うぬ」「夷狄め」「ちぇすと」再び侍たちは興奮した。しかしその侍たちにとっても、この黒船は夢の到来だった。敵と戦って手柄《てがら》を立てるという長い間禁止されていた侍本来の行動がようやく実現されるのだ。関ヶ原以来はじめて今、その機会が訪れたのだった。或《ある》いは皆心の底では予感していたかも知れない。この日戦いに現れた七隻の黒船はこの国にとって外国の脅威と恐怖の象徴に違いなかったが、同時にそれは薩摩の侍たちに思いもよらぬ新しい運命を与えることになる異国からの贈物であったということを。
待ち構える侍たちを歯牙《しが》にもかけぬ様子で、七隻の黒船艦隊は進み続け、やがて当然という態度で岸から間近な場所に停泊した。薩摩側が配備してある十カ所の砲台の八十一門の大砲は今は静まりかえっていた。
英国艦隊の旗艦ユリアラス号の中では、ニール代理公使以下主だった連中が集まって打合せをしていた。
「ではもう一度確認する。客入れは開演一時間前。一ベルが五分前で二ベルは無し。客電落ちでピアノから出る」
「ふざけないで下さい、公使。それでなくても皆だらけているのですから」
「まったくだ。馬鹿《ばか》な商人どもが自分の不注意でサムライに切られるたびに海軍が出動してはいられない」
「兵隊の士気も最低です。日頃から商人どもとは仲が悪いですからね。あんな奴らの為に命をかけるのはまっぴらだと思っています」
「黙りなさい。君たちは英国国民の生命、財産、権利を守る為に義務を果たせばよい。何をやるかは私が決める」
「何をやるのですか」
「交渉だ。金を取る。嫌だと言ったら大砲をぶっ放せ。まあそんなことにはならないだろう」イクスキューズミーネイチャーコールズミーと言ってニールがいったん部屋を出て行くと、旗艦艦長ジョスリングは急いで提督クーパーに相談した。
「どうするのですか提督。こんな馬鹿馬鹿しいことの為に部下の命を危険にさらしたくはありません」
「ま、たいした危険はないだろう。先月アメリカ艦とフランス艦が下関海峡でチョウシュウと交戦したのは知っているな」
「はい。奴らがジョーイ≠ネどとほざいて視聴覚不自由者的我武者羅滅法大砲をぶっ放したので、本気で報復したようですね」
「敵艦二隻を撃沈、一隻を大破。さらに砲台を全部破壊し、二百五十人上陸させて敵の弾薬は全部海に投棄した。残されていたカタナ、ヨロイ、カブトなどをごっそり土産に奪い取って一人も怪我《けが》をしなかったそうだ」
「ここでもそうだとよいのですが。今回は上陸作戦はやるのですか」
「いや、やっても無駄《むだ》だろう」
「そうですね。突撃して城を奪い、キングを捕まえてサムライどもを降参させてサツマ一帯をイギリスで支配するということが出来ればよいのですが」
「それをやるとあの命知らずのクレイジー共に何をされるか分からない。先《ま》ず無理だろう。ま、公使の言うように威嚇の役目を果たせばそれでよい」
「といっても何が起きるか分かりません。一応万全の準備はしておきたいのですが」
「そうしたまえ。何とか兵隊どもの士気を整えてな」
ネイチャーウォズベリーグッドと言いながらニールが戻って来た。ジョスリングが言った。
「公使、このあいだ幕府から取った賠償金の入った千両箱が武器庫の入口に積んであります。あれをどけないといざというときに遅れをとります。どこかに移したいのですが」
「戦争になどならんと言っているだろう。そんなに心配ならこの部屋にでもどこにでも移しておけ」
ジョスリングはそのことを副官のウィルモット少佐に伝えた。ウィルモットはそれをヘミングウェイ軍曹《ぐんそう》に命じた。しかしヘミングウェイは釣《つ》りに熱中してそのことを完全に忘れた。
「では交渉を始める。誰かサトウを呼べ」
同行していた通訳のアーネスト・サトウが呼ばれた。
「こういうわけだ。うまくやってくれ。どうせ出さないだろうが、犯人も引き渡せと言え」
「分かりました」
「このあいだのコンサートで使ったJBLのスピーカーがあるだろう。あれを使って怒鳴りまくれ」
「待って下さい、ニール公使。いくらあなたが勝手な人だといっても、JBLはこの時代にはまだありません」
「かまうものか。先を急ぐのだ。早くやれ」
「私はそういう出鱈目《でたらめ》な人間としては後世の記録に残りません。終始|真面目《まじめ》な役割なんですよ。名前からしてアーネストです。日本名なら佐藤正直となります。決してこのような場面に出て来る筈《はず》はありません」
「やかましい。つべこべぬかすと海に叩《たた》き込むぞ。それにお前の日本名は佐藤愛之助だ。アーネストはオーネストではない。正直もくそもあるか。早くしろ」
やがてユリアラス号の甲板上に、大きなJBLのスピーカーが持ち出され、それを使ってやけくそになったサトウがわめきはじめた。
「サツマの皆さん。毎度おなじみの先進国民です。今日は是非とも聞いていただきたいお話があってやって参りました」
「あー、そこに停泊中の海賊|泥棒《どろぼう》諸君に告ぐ。ただちに湾外へ退去しなさい。退去しない場合、家宅不法侵入罪で逮捕されることがあります」
「大変です艦長。サツマの奴らもPAを出しました。しかも機種はターボです。強敵ですよ」
「うろたえるな。ヴォリューム最大。面舵《おもかじ》一杯。右舷《うげん》三五度。方位七―五―三で続行」
「了解。サトウ続行せよ」
「皆さん聞いて下さい。皆さんのお仲間が、去年、神奈川の生麦村で大変な罪を犯しました。何の科《とが》もない善良な先進英国民を刀で切り刻んで殺したのです。すぐに悔い改めて下さい」
「ただちに退去しなさい。こらこらそこの水夫。だらしのない恰好《かつこう》で甲板上を歩き回らないように。浮浪罪で逮捕することがあります」
「くそ。誰かあのむさ苦しい水夫を早くどこかへ連れて行け。サトウ続行せよ」
「皆さんは残念ながらキリスト教徒ではありませんから、悔い改めることが出来ません。では、どうしたらよいでしょうか。私がよい知恵をお教えしましょう。このパンフレットに書いてあります」
「あー、この湾内でみだりに物品を販売してはいけません。逮捕されることがあります」
「皆さん、ご安心下さい。パンフレットを買わなくても、今回に限り特別に神の許しを頂く方法をお教えしましょう」
「耶蘇《やそ》教の布教も禁じられています。違反すると火あぶりになりますので注意して下さい」
「金です。皆さん。金で方《かた》をつけてあげましょう。それなら神もお許しになります。それとやはり犯人を一人差し出して死刑にしてください。それでないと本国にしめしがつきません。分かりましたか」
「湾内において、物乞《ものご》い等の行為は禁じられています。違反すると獄門の刑になることがありますので注意して下さい」
「金は、本当は幕府が払ったのと同額の十万ポンド、即《すなわ》ち四十万ドルを戴《いただ》きたいのです。しかし、本日は地元直送ですのでお安くいたします。何と一気に二万五千ポンド、即ち十万ドルまで勉強させていただきましょう」
「不当なダンピングは国際貿易協定に違反します。鋸引《のこぎりび》きの刑になることがあります」
「サツマの皆さん、分かりましたね。返事は二十四時間以内です。よい返事を戴けないときは例によって大砲をぶっぱなします。それでは、よろしくお願い致します」
「よしサトウ。よくやった。休んでよし」
「こちら艦長。全員そのまま待機せよ」
薩摩側では最初から相手のいうことを聞く気などまったく無かった。それどころか、大砲を用意し、海に標的を置き、実射訓練までして待ち構えていたのだ。五年前に各国と条約を結んでいる幕府としてはそういうことをされては困るわけだが、このころには長州勢にかつぎあげられた朝廷の命令で仕方なく攘夷《じようい》令を出していた。つまり「ようこそいらっしゃいました」と言っておきながら、次の日には「手前《てめえ》出て行け。この毛唐」などと態度が変わる政府なのだから、相手も大変なのだ。
このころはとにかく、天皇と公卿《くぎよう》と幕府と薩摩と長州と浪士と新撰組《しんせんぐみ》と鞍馬天狗《くらまてんぐ》と杉作と大河内伝次郎と犬が入り乱れて毎日何かが起きているというパフォーマンス期間だった。薩摩藩はこの混乱に乗じて好き放題のことをやっていた。結局今回の賠償金も何だかんだと言って自分では払わず、幕府に払わせて踏み倒すことになる。
「犯人を出せだと。何を言うか。彼らは忠義者だ。いや忠義者とことさら言うまでもない。侍なら当り前のことをしただけだ」
「まったくです。よその国にずうずうしく入り込んで来て何をたわけたことを言っておるのですか。一刻も早く皆殺しにしましょう」
相談しているところへ浴衣《ゆかた》姿の小肥《こぶと》りの男がどこからか転がり出て来た。
「おやっとさあごぜんだっそうもして、うっかたどんこれはれはれましもそ」
「わ。何だ。お前は」
「うってんどっさなあ、かごんまいがさってもあらさてこれはらって、おごじょろからいもにてごわす」
「何を言っておるのだ。お前は」
「おそれながら申し上げます」
「何だ」
「この者の申すこと、通辞相つかまつります」
「お前のも妙な言葉だが、まあよい。言ってみろ」
「は。この者は、『この話の舞台は薩摩であるから我々の喋《しやべ》っているのは当然薩摩弁でなければならない。それなのに、ここでは皆どこのものかわけの分からぬ言葉を勝手に喋っている。どうしてもおかしいので、自分が出て来て薩摩の雰囲気《ふんいき》を伝えなければならないと思った』と、このように申しております」
「馬鹿めが。余計なことを。邪魔をしているだけだということが分からんのか。誰かすぐに手討ちにいたせ」
「あわわわわ。どんがっさあ、いれかさもしてどうかやめがさなんせ」
「『どうか止《や》めてくれ』と申しております。その代り自分に名案があると」
「何だと。では申してみよ」
「ええと、英国の責任者に上陸して話し合おうと申し入れ、やって来て言うことを聞かなかったら逮捕するなり切るなりすれば勝てる、と申しております」
「何という無謀な計画だ、役立たずめ。連れて行け」
「あわわわ。がどんえけせてへめれけって、てへてへてへ」などと泣きながらその男が連れて行かれると、皆はその計画を実行することにした。
「あー、先進国民の皆様に申し上げます。それらの件について早速御相談をしたいと思いますので代表者の方はどうか上陸して下さい」
「おい。あんなことを言っているが大丈夫か」
「大丈夫なわけがありませんよ。あいつら背中に刀を隠しています」
「ささ、どうぞどうぞ。あちらに宴の用意が出来ております。お話はそのあとでゆっくりと」
「有難いがお受けするわけには行かない。あなたがたが背中に隠し持っているものは刀でしょう。それで我々を切るつもりですね」
「あ。いやいや。これはその。ステーキの曲切りをお見せしようと思いまして」
「馬鹿め。とうにバレているのだ。おととい来やがれ」
この計画が上手《うま》く行かないと見るやすぐさま次の計画が立てられた。西瓜《すいか》売りに変装して敵の船に上り込み、機を見て敵の指揮官を切ってしまうというものだ。
とにかく近寄って切るということが好きな連中であって、大砲や鉄砲の威力を散々知りつくした後に行なわれた西南戦争においても「抜刀隊」形式の斬《き》り込み戦闘部隊が、政府軍西郷軍双方に最初に薩摩人によって出現する。
西瓜売りに変装して英国人を切りに行くという計画があるという噂《うわさ》を聞いた時には龍右衛門の血が騒いだ。生麦事件の当事者奈良原喜左衛門とリチャードソンにとどめを刺したと言われる海江田武次らが中心となって人選をしていると聞いて、無謀を承知で出かけて行った。
「私も志願します」
「お前どこの者だ」
「西田の山下龍右衛門房親です。腕には自信があります」
「西田の山下。ええと。ひょっとしてあの清太郎殿の弟か」
「そうです」
「そうかそうか。いや清太郎殿はえらく頭の良い方でな。藩校では私は年上だったが時々分からないところを教えてもらったものだ」
係の侍が懐《なつ》かしそうに言った。清太郎は生きていれば三十五歳。大久保や西郷とほぼ同じ年代だ。
このころ大久保は囲碁を習うなどあらゆる手段を用いて島津久光に近づき、すでに大きな発言力を持っていた。
西郷は去年一度島流しから許されて帰っていたが、先君の斉彬《なりあきら》以外の人間を主君と認めない体質だから、ことあるごとに久光と衝突した。久光が大軍と共に京都に意気揚々と出かけるときに、下関で待っていろという命令を無視してひとりで飛び歩いた。藩のやることなどなまぬるいとする尊攘の過激派はその西郷を勝手に主領と仰ごうとした。久光は怒り狂って、西郷を捕まえ再び島流しにした。その直後に過激派の集まっていた伏見の寺田屋に刺客を送り、自藩の侍を自藩の侍に殺させた。寺田屋事件だ。命令する奴《やつ》もする奴だが、やる奴もやる奴だ。しかしそれがサムライのオキテだった。長い間の徳川管理体制で、全国のサムライはほとんどサラリーマン化していたともいわれるが、いざとなると平気でこういうことをする。サツマは特に戦国時代以来変わらぬサムライの気風を幕末まで保っていたともいわれる。
まあとにかくそんなことで、この時期に西郷は鹿児島にいなかった。従って薩英戦争を実際には体験していない。
龍右衛門がこの頃《ころ》までに西郷と会う機会があったかどうか今の段階ではよく分からない。しかしこの係の侍のように西郷も同年代の兄のことを憶《おぼ》えていてくれるという可能性はあったかもしれない。
「清太郎殿は残念だったな」係の侍が言った。
清太郎の死の真相は家族の者しか知らない。公式には果たし合いによるものとされていた。龍右衛門もそう思っていた。幼い時に聞いた父房寛の「力がなければ知恵も死ぬ」という言葉は兄の死と結びついて龍右衛門にいつも命がけの力をもたらした。
「さぞ無念だったと思います。それで、志願の件ですが」
「おおそうだった」係の侍は済まなそうに首を振った。
「実はもう無理だ。奈良原殿と海江田殿が大方選ばれた。いち早く聞きつけた腕に覚えのある者たちが大勢押しかけて来て、最早《もはや》その数が百人を越えたそうだ。そんなに大勢で押しかける西瓜売りがいるものか。減らさねばならん。今頃来てももう遅いのだ」
「もうそんなにですか」龍右衛門はがっかりしてつぶやいた。
「我々にチャンスはないよ。龍右衛門。いつもそうだ」
どこか猫《ねこ》族を思わせる物腰の大柄《おおがら》な男がいつの間にかそばに来ていた。
「あ。川路さんですか」
川路正之進はこの時二十九歳。西田町の薬師馬場に引っ越して来て十二年になる。薬師馬場と龍右衛門の住む鷹師馬場は同じ西田|郷中《ごじゆう》に属していた。つまり龍右衛門は子供の時からずっと川路に指導される立場にあったのだ。
「尤《もつと》も川路君の幼少時代のことは山下房親君に聞いたほうが一番よく分かるだらう」(園田安賢)
「幼少時代に於《お》ける逸話の如《ごと》きは山下房親君に限る」(川路利行)
龍右衛門が西瓜売り決死隊の受付で顔なじみの川路正之進と出会っている頃、おれはおれでまた鹿児島の揚村さんに電話をしていた。
「資料は少し読みました。二週間後位にそちらに行きたいんですが」
「そうですか。実は少々問題がありまして」
「何ですか」
「薩英戦争が来月までかかるのです。作者が妙に引っかかってしまいまして」
「では少し遅らせます」
「そうしてください。それですと、こちらの用意も整います」
「何の用意ですか」
「折角、設計者の子孫の方々がおいでになるのですから、この機会に刑務所取り壊し反対のシンポジウムをやろうと思うのです」
「はあ」
「鹿児島大学の松井|宏方《ひろかた》先生と、東京大学の藤森照信先生にも講演をお願いしたいと思っております」
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第五章
やがてシンポジウムの日取りがきまったという手紙が揚村さんから届いた。同封されていたパンフレットには刑務所取り壊し反対のことはとくに声高には書いてなかった。「明治以後の近代建築を中心として、その現代都市に果たす今日的役割」というようなテーマで、「鹿児島で今話題の旧鹿児島刑務所について、映像と解説で御紹介致します」となっていた。
両親妻子と共にぞろぞろと鹿児島空港の到着ロビーに出て行くとすぐに揚村さんが見つけてくれた。
揚村さんは頬髭《ほおひげ》に眼鏡の小柄《こがら》な人で、どこか中南米の血気さかんな学者を思わせる雰囲気《ふんいき》があった。隣の大柄の人が、藤森照信さんだった。こちらはなぜか大正の香りを漂わせる学者という印象なのだが、実はこの人は「路上観察学会」などという妙なものを赤瀬川原平さんや南伸坊さんと一緒にやっている超面白好きの人でもあることをこちらは承知していた。揚村さんの手紙には「山下啓次郎氏のことは藤森先生がよく知っておられますので御期待下さい」とあった。
「薩英戦争はまだ終わっていませんから、空港内の喫茶店にでも行って少し様子を見ましょう」と揚村さんが言い、一同店に入ってがやがやと席に着いた。
「あはははは。似ていますねえ」父親とおれを見て藤森さんは喜んでいる。「我々はこれと思う建築家のご遺族とは大抵親しくさせていただいているわけですが、どういうわけか山下啓次郎さんだけが、何を調べてもその子孫の行方が分からなかったのです」
「はあ」
「それで我々の方では冗談に、柔道の泰裕《やすひろ》か、画家の清か、もしかしたらピアノの洋輔かなどと言って笑っていたのですが、実際は絶滅していると思っていました」
「絶滅」まるでカワウソのような立場にいつのまにかなっていたのだった。
「いやあ発見できてうれしいです。それでお父さんも啓次郎さんが何をやっていたかご存じなかったのですか」
「それが私もよく知らなかったのです。私が大学を卒業する前に亡《な》くなりましたからね。ただ建築家だったということは知っておりました。住んでいた家は親父《おやじ》が自分で作ったものだということでした」父親の口数は普段より多くなっていた。
「それで清春さんがお調べなすったのよね」母親が口をはさんだ。
「義弟の小泉が近年調べまして、その際に私の家にあったこのメモを参考にしていたようです」父親が用意してあったらしくポケットから小さな和綴《わと》じの手帳を取り出した。表紙に毛筆で書いたらしい「山下啓次郎」という字が見える。
「何か受け取った報酬についての記録らしいのですが」
「ちょっと拝見」藤森さんは非常な素早さでその手帳に手をのばした。受けとるとぱらぱらとめくり、たちまちにして目指す箇所を発見した。手帳を顔につけるようにして読んだ。
「ふんふんふん。ああそうか。やはりそうですか。あははははは」と一人で喜び始めた。
「どうしたのですか」
「あははははは。啓次郎さんは樺山資紀《かばやますけのり》邸を作っておられますね。今まで作者がよく分からなかったのです。これではっきりしました。報酬が記されているのですから間違いないでしょう」
「というと刑務所以外にも建てたものがあったのですか」カワウソ一家にややほっとした空気がただよった。
「そういうことになりますね」と言いながら藤森さんは手帳をどんどん自分の上着のポケットに入れてしまった。この手帳はこれからしばらくは帰って来ないことになるが、まったく学者の方々の妖《あや》しの情熱というものは凡人には計り知れぬ行動をともなうものだ。
「ではそろそろ参りましょう。刑務所の建物を見るぶんにはさしつかえないでしょうから先《ま》ずそこへ行きましょうか」揚村さんが言い、一同がやがやと席を立った。
車で空港からハイウェイを一時間足らず走ると鹿児島市内だった。大きな通りから直角に曲がると正面が川だった。そこに古い石橋がかかっていた。その向こうにやや黒っぽい石のかたまりが見え、それがぼんやりと西洋の門の姿となって浮かび上がった。
車は橋を渡って門の前の小さな広場に入って止まった。一同は車から降りて門と向かいあった。
「ほう」
「まあ」
「え」
「あら」
「なにこれ」
それを作った者の子供、その嫁、孫、その嫁、ひ孫からそれぞれ感想が発せられた。
正面から見ると門の上部は平べったい二等辺三角形になっていて、その両側から塔が突き出ている。正面のアーチ状の出入口には放射状の鉄格子《てつごうし》がはまっていた。左右の塔は門にくっついた手足や耳のようにも見え、石の表面は柔らかそうで、いつでも動き出しそうな生き物のようだった。
門の両側にはねっとりとした感じの高い塀《へい》が連なっている。その連なりは威圧的で、たしかに「わし、人間どもをしっかりつかまえているけんね。ここに入ったら誰も出られんけんね。毎晩|拷問《ごうもん》だけんね。泣いても許さんけんね。覚悟するように」と言っていた。その確固とした態度にくらべると門にはどこか落着きがなかった。人をつかまえておくという重苦しい役割はすべて塀にまかせて、自分はのんびりと遊んでいるようだった。土台を数センチ地上に浮かせて漂っているようだった。急にこの国に移された西洋の形が、自分の居所を理解できぬままに、長い時間の中をさすらい続けている姿なのかもしれなかった。
門は門で長い間待っていた。
今年の夏もいつものように桜島の灰を浴びながらうつらうつらと過ごそうとしていた。そこへとうとう自分の存在に気づいたゆかりの人々が会いにやって来たのだ。門はひとかたまりになって自分を見上げている人間たちをねぼけまなこで見下ろした。自分を作った者の意志をぼんやりと感じはじめていた。家族に何も言い残さなかったその男はいつかこういう日がくることを知っていたにちがいない。その日は門がここに立ってから七十八年、その男が死んでから五十六年たった今、ようやく実現した。
「お前らどうにかここにたどりついたな。さあ次はどうするつもりだ」と門はつぶやいた。長いあいだ分からなかった自分の役割を徐々に自覚し、高揚感を覚えた。思わず体を揺すって笑った。門の両肩についている八角形の塔から灰が舞い上がり、ゆっくりと地上に落ちていった。
「いかがですか。啓次郎さんの作られたものは」揚村さんが自分のもののような愛着を込めた口調で言った。
「いやあ。妙なものを作りましたねえ。これはお城のつもりですか。あの塔の上のぎざぎざは何ですか」
「あれは本来は兵士が隠れて弓を射る為《ため》のものです。バトルメントといいます」
「そうそうあれよね」母親が口をはさんだ。「ほらあなたあれはあの映画の『ボージェスト』ですよ。あなたも子供の頃《ころ》見たでしょう。あそこにかくれて外人部隊が鉄砲をうつんですよ。よかったわねえあの映画。へええ。おじい様はこんなものをお作りになっていたのねえ。とても素敵じゃあないの」
「たしか映画ではあそこに兵隊の死体を並べるんだったな。いや、なかなか本格的ですね」
「はあ。それが実は」揚村さんは急に残念そうな恥ずかしそうな表情をした。「あそこには実際には上がれないのです」
「というと階段がないのですか」
「いえ。階段がないというよりもそれを作るスペースがありません」
「といいますと」
「あの塔もバトルメントも飾りなのです」
「飾り。つまり装飾で実用にならないわけですか」
「そうです。本当はもっと大きくなければ実際にあの上で戦うことが出来ません」
なるほどどこか妙な感じがするのはそのせいだった。実際にヨーロッパで見る標準的なものよりもはるかに全体の寸法が縮まっているのだ。縮尺の門でありミニチュアの城だった。そのサイズの小ささが、どこか獣じみた印象をもたらすのだ。
「この鹿児島刑務所も面白いですが」と藤森さんが言った。「奈良の刑務所もお推《すす》め品ですよ」
「え。奈良にもあるんですか」
「鹿児島。奈良。長崎。金沢。千葉。これを我々の方では、明治の五大監獄といっていますが、これのすべてに啓次郎さんは関係している筈《はず》です」
「ゴダイカンゴクですか」拷問される囚人の叫び声が一瞬聴こえるような音だ。
「とにかく奈良は一度ご覧になって下さい。赤|煉瓦《れんが》造りでしてね、まず刑務所とは見えません。庁舎の建物の屋根なんかにはあちこちに色々な塔をやたらと立てていましてね、一見ディズニーランドですよ」
「ディズニーランド」ミニチュアの城の次はディズニーランドだという。一体何を考えているのだこのじいさんは。
「監獄にそんなことをしていいんですか」
「まあ今だったらとうてい考えられませんよね」
藤森さんはまだまだ色々知っているようだったが、この時はそれ以上聞く余裕がなかった。監獄とお城。監獄とディズニーランド。冗談のつもりなのだろうか。それとも単に人を驚かそうとしているのか。それともマジでそういうことになってしまったのか。あるいは実はこのじいさん、入って来る方々を喜ばせようなどという大変な芸人根性の持主だったのだろうか。
「日本に於《お》ける欧米文化の受容。その矮小化《わいしようか》とエンターテインメント化について」
などという論文のタイトルが突然頭に浮かんだ。二人の学者に影響されたらしい。
「欧米文化に限らず、およそすべての外来文化がこの国にもたらされ受入れられる時に、必ずそこには元のものの矮小化及び無反省なエンターテインメント化が見られる。それは、政治、経済、芸術、スポーツなどあらゆる分野にわたって起きるのであり、その例は枚挙にいとまがない。例えば野球である」
このようなことを考えながらぼんやりと門を眺《なが》め続けた。すると門がかすかに身じろぎをし、次の瞬間左右の塔のバトルメントから桜島の灰が舞い上がった。灰は、ゆっくりとカワウソ一家の頭の上に舞い落ちて来た。
こうして子孫が門と初めて対面して灰をかけられている頃、龍《りゆう》右衛門《えもん》と川路正之進は西瓜《すいか》売り決死隊の受付を出て海の方にぶらぶらと歩いていた。
城下近在の比志島《ひしじま》村出身の川路と龍右衛門がどうやって知りあい、やがて「川路の幼少の頃のことは山下に聞くにかぎる」などと人に言われるようになったのかは、今の段階ではよく分からない。勝手に想像するしかない。
毎日城下に通って来る川路を龍右衛門がよく見かけていて口をきくようになったのか。あるいは仲よくなるきっかけの事件があったか。
たとえば、大柄で頭のよさそうな顔だちの川路を郷士の子とみなして城下士の子弟が当然いやがらせをする。取り囲み、こづき、悪口雑言を浴びせる。ある日西田橋の上でつかまえ、抱えあげて甲突《こうつき》川に放《ほう》り込んだ。このときに川路が変身した。急に物凄《ものすご》いうなり声をあげた。「ごろにゃがにゃがにゃおおおん」などという不気味な声を発して猫《ねこ》のように空中でからだを一回転させてすっくと川の中に立ったのだ。口は耳まで裂け両眼からは青白い炎を発した。橋の上の城下士の子弟どもをはったとみすえ、両手をまねき猫のように動かした。城下士の子弟の一人が引きずられるように宙を飛んで川の中に落ちた。他の者はわれがちに逃げた。這《は》って逃げる奴《やつ》もいた。
目をまるくして見ていた龍右衛門に川から上がって来た川路が気づいてにこりと笑った。さきほどの恐ろしい姿ではなく少女のような笑顔だった。以後城下士の子弟のいやがらせはなくなり、龍右衛門は川路のあとをついてまわることになった。とか。
山下家はかろうじて城下士らしいがなにせ住んでいた西田町は甲突川によって城下からへだてられている。家系図には役職身分さえ書いてない。カライモ掘りや傘《かさ》の骨作りでシノイでいた可能性は充分にある。川路家の家格は与力だったというからむしろあちらの方が格上だ。結局、郷士だ城下士だといっても中央から見れば同じで両者の立場は下級の者ということで共通していた。だから共感も生れたのではないか。
いやいやそうではない。すれすれの身分だからこそ、かえって西田の者は一段下の郷士には中央の城下士よりも強い差別感を抱く筈だという考えもあるかもしれない。しかしそうだとしても龍右衛門には川路に引かれる理由があった。
龍右衛門は兄を小さいときになくしている。その兄は将来を属望《しよくぼう》されて江戸に行きながら、すぐに不慮の死をとげた。こういうことの後、その家は少なからぬ疎外《そがい》感をもって暮らさねばならなくなるのではないか。特にその弟となればなおさらだ。龍右衛門はひねくれることもなく文武にはげんだが、背景にはいつも早死にした秀才の兄に対する様々な気持ちがあっただろう。そこへ七歳年上で、同じように疎外感を持つ、明らかに人よりも文武に優れた青年が現れた。兄のイメージを重ねてひかれても不思議はない。川路が一人息子だったという条件もある。向こうも弟を欲しかったかもしれないのだ。疎外された者同士がなかよくなるという図式だった。
川路が龍右衛門と同じ西田|郷中《ごじゆう》に引っ越して来るのは満でいえば十七歳のときだった。龍右衛門は十歳だった。
「正之進の勉強の為にはやはり城下に住もう。といって中央の方などには住めっこない。西田ならいろいろな人々がまざっていて目だたない。のんびりしたところもあるし歌|詠《よ》みの方々の伝統によって知的雰囲気もある。正之進の尊敬する重野安繹《しげのやすつぐ》先生もあそこの出だ。あそこに引っ越しをしよう」という話が川路家でもちあがったときに「それなら三つある郷中のうちの西田郷中にして下さい」と正之進は言ったかもしれない。
「なぜだね」
「どうせなら龍右衛門と同じ郷中になりたいのです」
郷中ではいくら年上だからといっても川路は引っ越して来たばかりの郷士の息子だ。すんなりと先輩あつかいするのを嫌《いや》がる子供もいたかもしれない。川路はここでも部外者意識を持ったにちがいない。
だが龍右衛門とはうまくいったわけだ。そしてここからは少々微妙な話になるのだが、江戸時代の薩摩の郷中で七歳年の違う者同士が仲がよいということはもう一つの意味を持つ可能性がある。つまりその、本当の意味で「稚児《ちご》」なのだ。
その件について、昔から伝えられている笑い話がある。
「幼い稚児がかわいがられている。よく分からないながらも自分のからだが自然に変化するのは分かった。それを見て思わず叫んだ。『あ。大変だ。突き抜けた』」というものだ。
こういう話が特にあるというのは逆にそういうことが滅多になかったからだと言えないこともないが、この話が笑い話として伝わっているというのは、普通の子供はそんなにびっくりはしなかったということでもある。つまり普通のこととしてそういうことがあったということになる。
「いや、正確にはそういうことではありません」ここで急に鹿児島大学の歴史学教授原口泉さんに登場していただく。この方はあっと驚く美男子だ。
「薩摩の郷中教育では極端に女色を遠ざけました。道で美女に出会ってもダカツのごとく避けなければならないのです。ですからそういうことがあったことは考えられます。しかし、それは結婚までなんですね。結婚すれば普通になるわけです。ただし、結婚して初めて女体というものに触れるわけですから、そのときに天国と地獄のわかれめを経験するわけですね。皆がうまくいったかどうかは分からないわけです」
このあとの原口さんのお話は、武士階級でない人々の方がはるかに大らかで自由な恋愛をしていた可能性があるというふうに続いたわけだが、とにかくそういうことで、話はまだ江戸時代の薩摩だから、いまと同じに考えてはいけないのは当然だった。先の話になるが龍右衛門の結婚生活は幸いにも天国の方だったと思われる。戦争や仕事で家にいないとき以外はひっきりなしに仲睦《なかむつ》まじく、五男六女をもうける。その中には啓次郎と名づける次男もおり、おかげで筆者もここに存在できたわけなのだ。
モラルがどれだけ違うかという例としては「肝《きも》だめし」などという物凄いものもあった。
罪人としてためし切りにされた人間の肝《きも》を取り出すなどということを勇気の証《あかし》としてやっていたらしい。あるいは戦争で切り殺した敵の肝臓を取り出して食べてしまうなどということもあった。いやはやとんでもない話だが、やはり今とは違う世の中だったのだ。いや昔だけではなかった。一説には文壇のさる老大家が大変な長寿をまっとうされたのは、実はそのせいだったという話さえある。もちろんそれは生き肝ではなくて乾《ほ》し肝だったということだが。
川路と龍右衛門は海岸に行ってみた。
海岸には砲台があり侍たちが周りに群がっていた。皆早く戦いたくてうずうずしていたが、実際に大砲を操作するのは限られた者たちだけだった。他の者はそこらへんをうろうろしているしかない。中には興奮して「おぎゃっどさあぐじゃべらぎりこいて、えげれすがらじゃれてくそげらげたがりもそ」などというわけの分からないことをわめきながら刀を振り回す者もいた。
二人は海の上に浮かぶ黒船をながめた。
「りゅ、りゅうえもん。か、かわじくん」松の木のうしろから男がひとり飛び出してきた。
「わ。何だおまえは」このような時に浴衣《ゆかた》姿で、ずだぶくろと西洋傘を背中にしょった小肥《こぶと》りの男だった。
「何だろうな。自分でも、わ、分からないな。急に色々なところに、で、出て来るんだな」
「怪しい奴め。ちょっと職務質問をするからこっちへ来い」無口で滅多に口をきかないはずの川路がこれまた自分でもよく意味の分からない言葉を吐いた。
「そうだな。そういうことにやはり、な、なるんだな」
「何だと。どういうことだ」
「い、今のはポ、ポリスの言葉なんだな。お、おまわりさんだな。あんたのおかげで日本じゅうに、おまわりさんがたくさんできて、たびをしているぼくをいつもからかったりいじめたりするんだな。い、いけないな」
「何を言っているのだ。お前は」
「ぼ、ぼくはひらがげんない先生のじかんこうこうきにのったときから、あ、あたまがよわくなって、自分でも何をしているかよく分からなくなったんだな。でも、かごしまがこきょうだということはなんとなく、おぼえているんだな。そ、そしてあんたたちのこともだれだか、分かるんだな」
「確かに我々の名前を呼んだな」
「だんだんおもいだしたな。そ、そうだな、なぜここにきたかというと、そのあれだな、このせんそうでそのあれだな、待て待て私が話そう」同じ人間の中に急にもうひとりの人格が現れた。
「私だ。清太郎だよ。龍右衛門、川路君、久し振りだな」
「そ、そんな馬鹿《ばか》なことが」思わず龍右衛門がのけぞった。
「そんな馬鹿なことが起きるのだ。平賀源内先生の時間航行機に愚鈍沼泥之丞が無理矢理乗ってきたおかげで、機械が故障し我々の人格も体形も入り乱れてしまった。多分これはお玉が池の竜神《りゆうじん》ニュートリノと豊川|稲荷《いなり》のお狐《きつね》クォークが仙波山《せんばやま》のロバ電子と毛皮共鳴したせいだろう。その為に私の実際の生活は昭和のある時期に放浪の画家山下清として定着することになったわけだが、依然として不確定的出現性中間子のベータ崩壊作用が作者の人格崩壊をうながし続けている結果、こうしてどこにでも現れることができるというわけなのだ」
「………………………」
「驚くのも無理はないが、今後もいたるところに現れて変なことを言う役割になりそうな気がする。さよう心得られたい」
妙な言葉づかいで理解不能のことを喋《しやべ》っている男の後ろに、ばらばらと追手らしい侍たちが現れた。
「あ。あそこにいたぞ」
「ご会議の最中に急に現れてわけの分からぬことをわめいた怪しい奴め」
「今度こそ逃がすな」
いっせいに男に向かって飛びかかってきた。男は慌《あわ》てて逃げ出した。逃げながら叫んだ。
「川路君。君の経歴にはこの戦争で武勲をたてたと書いてあるものがある。だがそれがどういうものだったのか何を見てもよく分からない。それを探りに私は来たらしい。いずれまた会おう。龍右衛門、達者でな」
侍たちに追われ再び愚鈍な人格に戻って「あやがせだっそうもしてあれこれやめがさなんせ」などと叫びながら逃げて行く小肥りの男を二人は無言で見送っていた。
翌日、薩英戦争が始まった。
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第六章
西瓜《すいか》売り決死隊は結局百人近くが十六|隻《せき》の小船に乗って出撃することになった。
「おい、西瓜売りのことをエゲレス語で何というのだ」
「ウォーターメロンマンであります」
「よし皆叫べ」
「おおい。ウォーターメロンマン」
「ええい。ウォーターメロンマン」
大昔から狗吠《くばい》で鍛えられてきた薩摩|隼人《はやと》の売り声が、不気味な遠吠《とおぼ》えのように海上に響きわたった。この出来事を英国側から記録したものとして、旗艦ユリアラスに乗船していたヘミングウェイ軍曹《ぐんそう》の日記が最近発見されている。
「(前略)そしてその日も私はいつものように釣《つ》りをしながら、うつらうつらしていた。老人が巨大なカジキマグロと格闘するという変な夢を見ているときに急に船の上が騒がしくなった。目を開けるとたくさんの小船が漕《こ》ぎ寄せられていて乗っている人々が口々に何かを叫んでいた。よく聴くと西瓜売りの売り声らしく独特の節がついていた。顕著に聴き取れたものは次のような節だった。
[#画像(T-IMG SRC= DOBARADA2.PNG TARGETPLANE=TEXT)]
皆は西瓜を買おうとしたが、ウィルモット少佐に止められた。少佐の観察によれば彼らは本物の西瓜売りではなく変装したサツマの突撃隊であるというのだ。なるほどそう思って見ると、商人にしては全員目つきが鋭く、中には興奮して泡《あわ》を吹いている者もいる。相手にするなという命令は出されたものの、ほかにすることもない皆は口々にサムライたちを野次り始めた。サムライたちも正体がばれたことが分かったのか、あきらめて引き返していく者もいた。しかし中にはあくまでも執拗《しつよう》に我々の船の周りにまといつき恐ろしい形相でもはや売り声ではない何事かをわめき散らす者もいた。一人のサムライは持っていた西瓜を投げ上げそれが落ちて来るまでに腰の刀を抜いて空中で五回切って見せた。この妙技に思わず我々は『イエイイエイ』とはやしたてたが、すぐにウィルモット少佐に止められた。最後の小船が去って行ったあと、会議が開かれ、艦長と提督と代理公使がウィルモット少佐の報告を聞かれた。代理公使は交渉中に行なわれたこの卑怯《ひきよう》な闇討《やみう》ち作戦に激怒され、これ以上の交渉は無益との判断によって、ただちに戦闘行為に入るよう提督に命じられた。(後略)」(岩神六平訳「ヘミングウェイの日記」海洋資源研究会出版社。九六ページ)
採譜されている西瓜売りの節には特に興味をそそられる。
この節は一九六〇年代にハービー・ハンコックがヒットさせた「ウォーターメロンマン」の出だしにそっくりなのだ。この日記でははっきりしたことは分からないが、もしかしたらヘミングウェイ軍曹はこの後アメリカに住んだのかもしれない。そしてなにかというと昔話にこの戦争の話をした。その時に必ずこの節を歌ってみせた。覚えてしまった近所の黒人の八百屋の息子が行商の時に歌うと、たちまち同業者に広まった。ブラックコミュニティの共有財産となり、やがてハービー・ハンコックがとりあげてヒット曲に仕立て上げたのだ。
あの曲の原型は実は百年前の薩摩にあった。そう考えると音楽的にも納得のいくことが多々ある。エイトビートのリズムパターンは波に揺れる小船をあらわしていると考えられる。ピアノのハーモニーパターンは興奮したサムライたちのざわめきだ。メロディとなっている売り声はのんびりとしているように見えてよく聴くと裏に必殺の気配を隠している。終わりの方で出てくるためらいながらどこか願いを込めたような繰り返しのフレーズは、巨大な黒船の周りを空《むな》しく漕ぎ続けるサムライたちの怨念《おんねん》にちがいない。
思わぬ音楽学上の発見をしているあいだにも、事態は進んで行った。
「分かりましたニール代理公使。早速対策を考えましょう」イギリス極東艦隊総司令官クーパー海軍中将がゲーリー・クーパーそっくりの顔つきと口調で言った。ニールは軍人の階級は大佐だからはるかにクーパーには及ばない。しかも、帰国したオールコックとやがて来るパークスの間に挟《はさ》まれて損な役割ばかり演じなければならない境遇に腹を立てていた。
「無知で卑怯なジャップどもをこらしめてやれ。きゃつらが今世界でどのような立場にいるのか徹底的にぶちこき知らせてやってくれ」
クーパーは全艦の艦長を旗艦に呼び寄せた。
「交渉は決裂だ。これから軍事行動をとる」
「何をするのですか」
「説明しよう。全員甲板にあがれ。誰かヘミングウェイを呼べ」釣りをしていたヘミングウェイ軍曹が連れて来られた。
「おまえの特技を皆に見せてやれ。この望遠鏡を使ってあれをよく見ろ」相変わらず眠そうな様子で望遠鏡を受けとるとヘミングウェイは提督の指差す方向をのぞきこんだ。それから面倒臭そうな声で言った。
「島陰に三隻の汽船。元英国船イングランド。元米国船コンテスト。同じくサー・ジョージ・グレイ。トン数は、七四六。五三二。四九二。製造年は、一八五六。六一。六〇。イングランドは六一年に、他の二隻は今年の三月と四月にサツマに引き渡された」抑揚のない口調でヘミングウェイはぼそぼそとつぶやいた。
「引き渡し価格」とクーパーが言った。
「十二万八千ドル。九万五千ドル。八万五千ドル。計三十万八千ドル」即座に答えてヘミングウェイはあくびをした。
「よし行ってよろしい」ふああいなどと言いながらヘミングウェイが去って行くと、提督は自慢そうに皆を見回した。
「どうだ」
「あいつ、あの能力のおかげで遊んでいても誰も文句を言わないわけですか」
「そうだ。さて諸君、もう分かったと思うが、我々はあの三隻を拿捕《だほ》する。要求している賠償金の四倍近い価値の獲物だ。これを取ってしまえばサツマは困ってあらためて交渉に応じるしかないだろう」
提督はパール号の艦長ボーレスに、アーガス号、レースホース号、コクェット号、ハボック号を指揮してサツマの三隻を捕獲するよう命じた。残りの一隻パーシュース号は桜島の横山沖に待機させた。
その頃《ころ》から急に天気がおかしくなった。
普通の台風とはどこか違った妙な現象が続出した。大きな渦巻《うずま》きが水平線上に出現した。渦巻きの真中にケダモノの眼《め》が見えると騒ぐ者たちもいた。かと思うと急に真っ暗になった空に稲妻が走り、巨大な竜《りゆう》と狐《きつね》の姿が浮かび上がるのを見たと言う者もいた。
「時間航行機の作動に従って、通常の時空間では異常気象に酷似した現象がしばしば観察される」(堀部《ほりべ》武蔵《むさし》「時間航行の副作用」宇宙資源研究会出版社。五六ページ)
「つまり我々の存在そのものが時間航行機と一体となってしまっているのだ。ということは大変なことなのだ。瞬間移動能力も瞬間呼び寄せ能力もあるということになる。しかし困るのは何をどうしたらそういう能力を制御できるかということが私自身にも分からないということだ。ど、どういうことかな。うるさい。おまえは黙っていろ」
一つの体に二つの人格を持つ小肥《こぶと》りの人物が、もぐりこんだ蔵の中でぶつぶつ言っていた。
異常な気候のなかで夜明けと共にサツマ船拿捕作戦が実行された。
五隻の英国艦は、今は天祐《てんゆう》丸、白鳳《はくほう》丸、青鷹《あおたか》丸と名前を変えている三隻のサツマ船に近寄り、レースホースが天祐にコクェットが白鳳にアーガスが青鷹に横づけとなった。サツマ側の乗員は何も気づかなかった。英国軍団はやすやすと乗り移り、寝込みを襲ってどやどやと乱入した。
「ただいまより当艦は英国海軍の指揮下に入る。さよう心得られたい」
「なんだなんだ」
「わ。エゲレスの奴《やつ》らだぞ」
「盗人《ぬすつと》だ。出あえであえ」
「うろたえるな。艦長に知らせろ」
「艦長。大変です」
天祐丸の艦長五代友厚はこのとき青鷹丸にいたが、そこの艦長寺島宗則と共に応対に出た。
「これは明らかに戦闘行為ですね。宣戦布告はいつなされたのですか」
すでに一度外国に行っている寺島は落ちついていた。
「うるさい。つべこべぬかすと全員撃ち殺すぞ。宣戦布告はなくても両国はとうに戦闘状態に入っているのだ。おまえらがあの薄汚い奇襲攻撃に失敗したときからな」髭《ひげ》づらで獰猛《どうもう》そうな顔をした隻腕隻脚《せきわんせつきやく》の大男が手鉤《てかぎ》の義手を振りまわしながらわめいた。
「まあ待てジョン・シルバー。私が話そう」アーガス号の艦長ムーアが男をなだめながら進みでた。
「お互い言い分はあるでしょうが、貴艦及び他の二隻を我軍が捕獲します。これによってふたたび交渉が行なわれ戦争が避けられるとの提督のご判断です」
「しかし卑怯ではないですか。これは軍艦ではありません。乗っているのは戦闘用員ではないのですよ」
「知っておりますが致し方ありません。われわれは命令を受けていますので実行しなければなりません。お互い軍人ならお分かりでしょう」
「闘うのが無益なことは承知しています。仕方ありません。どうなさるおつもりですか」
「三隻の船を引き渡して下さればよい。乗組員はあなたがたも含めて全員下船して下さい」
「少しお待ち下さい」
五代と寺島は協議をした。
「だから言ったんだよな」二人は口惜《くや》しがった。英国艦隊来襲の報に接して、二人は真っ先にこの貴重な三隻の西洋船を鹿児島湾以外の場所に移しておくことを提案したのだが、上役には意味が通じなかった。「そのような卑怯なことはまかりならぬ」という理由で意見は却下されてしまったのだ。
「やっぱりこうなったな」
「仕方がない。皆を降ろそう。殿にご報告させよう」
「させようなどと、おまえ自分でそうしないのか」
「いや。おれは降りないぞ。こんなチャンスに出会える日本人は滅多にいない。洋行と同じだ。こいつらの捕虜になって全部見てやる」
「あ、おれと同じことを考えていたか」
二人は部下を降ろし自分たちは残ると申し出た。
「え、その必要はない。あんたらも降りろ」
「いいや降りない。捕虜になる。捕虜にしてくれないならここで大暴れをするぞ」
「変な奴らだ。仕方ない。好きなようにしろ。ジョン・シルバー、二人を見張れ」
二人は乗組員全員に下船を命じた。中には刀を抜いて闘おうとする者もいたがそれは許されなかった。サムライは命令に従わなければならない。死ねと言われれば死ぬ。逃げろと言われれば逃げる。
しかし天祐丸では命令が伝わるまえに逆上して暴れた者がいた。太鼓係だった。ちょうど練習中でこのときフォービートのシンコペーションで新しいパターンを発見しようとしていた。ズビダ、ズビダ、スパトトトトなどと熱中していると夷狄《いてき》が乱入した。集中を乱されて逆上した太鼓係はいきなりスティックを振り回してシャバダ、ズビダ、ドビダと三人の水夫の目玉を串刺《くしざ》しにした。下士官の一人があわててピストルを抜いて撃った。太鼓係は海に落ちて行方不明となった。そのままアメリカまで泳いで行ってエルビン・ジョーンズになったという説もあるが確かなことは分からない。
こうして、薩摩が大金を払って手に入れた三隻の汽船はやすやすと英国の手に落ちた。暁の略奪作戦は大成功だった。ニュースは旗信号で全艦隊に知らされた。千四百二十三人の兵士はどっと喜びの声をあげた。もっとも兵士の大多数は原地やといの中国人だった。
「やはり、心配することはなかったな」
「どうせジャップなんて弱虫の原住民だ。船なんか動かせっこないし、我々と戦う勇気もないさ」
「三隻を曳航《えいこう》して横浜に帰れば一件落着だ」
「よかったよかった」
クーパーもあまりのあっけなさに驚いたが作戦の的中に悪い気はしなかった。
「代理公使。作戦は成功です」ニールに報告した。
「サツマの奴らがあやまりに来たら起こしてくれ」ニールはベッドにもぐり込んだ。
午前十時頃には下船した者のもたらした第一報が千眼寺《せんげんじ》に移してあった本営に届いた。薩摩側の反応はクーパーが考えたものとは全然ちがっていた。
「うぬ。夷狄め。かさねがさねの卑怯な振舞い。もう我慢ができぬ」いきりたつばかりで、三隻の貴重な船を交渉で取り返すことなど全然考慮されなかった。英国艦の暴挙はたちまち全砲台の兵士たちにも伝わった。
「もう我慢ができぬ。早く撃たせてくれ」
皆興奮していつ誰が大砲をぶっぱなしてもおかしくない状況になっていた。
砲台は湾の奥の方から祇園之洲《ぎおんのす》、弁天波止《べんてんはと》、新波止《しんはと》、大門口、砂揚場《すなあげば》(天保山)と配置されていた。その他に桜島の横山、洗い出、更に鳥島、沖の小島にもあった。このときには英国艦隊は全艦桜島の内側に入っていたからすでに周りを薩摩の大砲で囲まれていたことになる。もっとも射程距離が問題にならぬほど短い旧式砲だったから英国側はまったく心配していなかった。相手の弾が当るはずがないのだ。
「このままではま、負けてしまうな。何とかしなければい、いけないな。そ、そうだな、馬鹿《ばか》もの。おまえの口調が移ってしまうではないか。しかし確かにこの戦いには考えられないような偶然の出来事がたくさん起きてそれが薩摩側に幸いした。それが我々の存在と何か関係があるのかもしれない」浴衣《ゆかた》を着た小肥りの人物がひそんでいる蔵の中でしきりに一人ごとを言っていた。
天保山砲台の指揮官は強まる風雨のなかで興奮する兵士たちを押さえていた。「まだ撃ってはいかん。命令があるまでは手出しをするな」
そこに浴衣姿の小肥りの男がどこからか急に現れた。
「すぐに、う、撃つんだな」とその男は言った。
「なにい。誰だおまえは」
「早く、撃つんだな。今撃つんだな。そういうことになっているんだな。そうしないと、れ、歴史が変わってしまうな。は、早くやるんだな」
「何をわけのわからぬことを。誰かこいつをつかまえろ」
かけ寄ってきた隼人塵蔵《はやとちりぞう》という兵士があっと言って立ち止まった。
「さ、西郷さんだ。いつお帰りでしたか。おい皆この人が西郷さんだぞ」
「おう。この方が噂《うわさ》の」はじめての外国との戦争に興奮して半分頭のおかしくなっている兵士たちが集まってきた。
「さすが、このような時に浴衣姿とは豪胆な」
「噂どおりのお姿だ。しかも時々馬鹿のふりをして人を安心させるというそのお顔をなされているぞ」
皆信じ込んでしまった。
「いや、どうもおかしい。あれは本当の馬鹿なのではないでしょうか」と言った者が一人いたがたちまち皆に袋だたきにされた。
「やはりいざという時には居て下さるのだ」
まわりを囲んで大騒ぎになった。
「西郷さんだ西郷さんだ」「えらいやっちゃえらいやっちゃ」「よいよいよいよい」
皆でその男を肩にかついで踊り回った。
「す、すぐに撃つんだな」人々の肩の上からその男は大砲を指さして白痴の声で言った。砲手が引き金を引いた。
轟音《ごうおん》と歓声が鳴り響いた。
かくして、隼人塵蔵の早とちりによって西郷隆盛と間違えられた山下清、実は山下|房親《ふさちか》の兄清太郎と愚鈍沼泥之丞が合体した時空をさまよう人物、の号令によって薩英戦争の火ぶたが切って落とされたのだった。
「そんな馬鹿な」
門の前ではとうとう揚村《あげむら》さんが怒りだした。
「いくら啓次郎さんのお孫さんだといってもこれはひどい。こんなでたらめを続けて一体いつになったら薩英戦争が終わるのですか。え。シンポジウムはいつできるのですか」
「申し訳ありません」おれは筆者にかわって土下座をした。
「あははははは」むこうの方では藤森さんが笑っていた。
「とにかくこれは啓次郎さんの話だったはずですね。それだから我々も協力しているのですよ。そうでないならもう出演はおことわりです」
「申し訳ありません」おれは土下座のまま土中にもぐった。
「撃ってきただと」クーパーは昼食をとりながら報告を聞いた。「何を考えているのだあいつらは。この位置まで陸から弾が届くわけがない」
「全員部署につけ」艦長室ではジョスリングが叫んでいた。しかし夜明けの作戦の大成功で兵隊たちはすっかりくつろぎ、戦いにそなえている者など一人もいなかった。
「まったくもう。こんな遊びみたいなことやっていられっかよう」のろのろと動いた。
「あの、艦長」
「なんだ」
「えとその、武器庫の扉《とびら》が開きません」
「なんだと。どうしたのだ」
「扉の前に千両箱が積んであります。これでは戦争はできませんからやめて帰りましょう。あれを山分けにしましょう」
「シット。こらウィルモット。どうしたのだ」
「ヘミングウェイに片づけておくように言いましたが」
「ファック。ヘミングウェイにそんなことをいう馬鹿がいるか」
このため旗艦ユリアラスは応戦が二時間遅れた。
桜島横山砲台の砲手は天保山からの第一発目の砲声を聞いてすぐに呼応しようとした。しかし敵艦の姿は見えるがどうしても距離が遠かった。風雨も激しく弾を当てるのは不可能だった。実は天保山ではそんなことは構わずお祭気分でただただ届かない弾を打ち上げていたのだが、桜島の部隊にはそんなことをする余裕はなかった。
「くそ。もう少し近づいてくれたら」砲手の隼狗鬱蔵《はやくうつぞう》は地団駄《じだんだ》を踏んだ。
「敵艦接近中」見張りの鵜之目鷹蔵《うのめたかぞう》がその時不思議そうな声を出した。
「なんだと」
「敵艦接近中です。投錨《とうびよう》したままこちらにすい寄せられて来ます。信じられません」
「山上に怪しい者がいるぞ」
別の見張りが大声を上げた。
皆が見上げると、山の上で浴衣姿に西洋|傘《がさ》とずだぶくろを背負った男が海に向かって両手を招き猫《ねこ》のように動かしていた。
「誰だあれは。行って調べて来い」
「敵艦なおも接近中。速度が上がりました」
沖に停泊していたパーシュース号がみるみるうちに近寄って来た。自分の意志で動いているのではなく明らかに何者かに引き寄せられていた。その証拠に錨《いかり》は降ろしたままでしかも横向きに移動して来た。
「敵艦停止」鵜之目鷹蔵がかすれ声で言った。パーシュースはすぐ目の前に大きな船体を無防備にさらしていた。隼狗鬱蔵は生唾《なまつば》を飲み込んだ。他の者も舌なめずりをした。よだれをたらす者もいた。エゲレス人の生き肝の味を思い浮かべたのかもしれない。もっとも大砲で撃てばこれは焼け肝か裂け肝になってしまうわけだが。
隼狗はやすやすと照準を合わせ裂帛《れつぱく》の気合いと共にぶっ放した。轟音と共にとび出した砲弾がパーシュース号の甲板で炸裂《さくれつ》した。
「わ。なんだなんだ」
「敵襲」
「そんな馬鹿な。ここは海の上、あ、いつのまにこんなに島に近寄っていたのだ」
「そう言えばさっきからすい寄せられていたぞ」
「あ。あれを見ろ。山の上に変な男がいてこちらを手招いている」
「オオマイゴッド。嵐《あらし》の中に立っている。男の後の稲光の中に狐《きつね》と竜《りゆう》とケダモノの眼《め》が見える」
「魔法だ。オリエンタルマジックだ。やはりこいつら呪術《じゆじゆつ》を使うのだ」
「ひえー助けてくれ」
昼食時の船内は大騒ぎになった。艦長のキングストンは応戦を指示したが誰も従わなかった。副官のチャーチルなどは恐怖のあまりフロックコートを着てマストに登りコーモリ傘を開いて飛び降りるしまつだった。
「撃て撃て撃て」横山砲台では指揮官が泡《あわ》を吹いて叫んでいた。
「撃てません」
「なぜだ」
「この大砲には発射時の反動を防ぐ足場がついていません。一発撃つたびに跳ね上がり後退します」
「全員で押さえて撃て」
二発目からはありったけの人間が大砲に取り付いて押さえた。しかし発射すると大砲は跳ね上がり人間はばらばらと宙に飛んだ。なにくそとばかりまた押さえて撃つとまた宙に飛んだ。入れかわりたちかわり押さえては撃ち押さえては撃つうちに、飛ばされた人間は全員ぼろぼろの姿となった。松葉|杖《づえ》をつき眼帯をし全身からぼろを垂れ下げた姿でそれでも地面を這《は》って大砲ににじりよりよじ登って押さえた。隼狗鬱蔵が大砲を発射すると全員が空中高く吹き飛ばさればらばらとそこらに落ちた。こうして後退をくり返した大砲はとうとう最後には山腹に激突し使用不可能となった。しかしそれまでにありったけの弾をパーシュースにぶち込んでいた。
「錨を上げろ。ここから離脱せよ」パーシュースでは艦長が絶叫していた。
「敵の大砲の射程に入っています。非常に危険です。一刻も猶予《ゆうよ》がありません」
「くそ。仕方がない錨の鎖を切れ。何ということだ。シットファッキンジャップ。サックマイアスサノバビッチ」
錨の鎖を切るという最悪の屈辱処理によってようやくパーシュースは脱出した。船体はかしぎ所々に穴が開いて煙が立ち昇っていた。松葉杖で水をかきわけながらよたよたと沖へ向かって逃げ出していった。
横山砲台でも全員がぼろぼろの姿で倒れていた。
「しかし、勝ったぞ。あいつら逃げて行った」
「そうだそうだ。勝ちどきを上げよう」
「それ。えいえいおう」
「ふぇいふぇいふぉお」
「ひいひいほう」
硝煙と泥《どろ》と雨で全身ぐちゃぐちゃの乞食《こじき》の集団のような一団が口に泥をつめたままやっとのことで勝ちどきを上げた。
「ほひ。はのひほはほうひた。やまのふへにひたあのふひひなひほは」
「なに。おうあの方のことか」
何とか歩ける者が山の上に行ってみたが、あの明らかに妖術《ようじゆつ》を使って敵艦を引き寄せた不思議な人物はすでに消えていた。
「あの方がもしかしたら噂に聞く西郷さんではないだろうか」と皆言いあったが一人だけ別のことを考えている者がいた。昔、川路正之進をとりかこんで川に投げ込んだ直後に妖《あや》しの招き猫術にかけられ宙を飛んで川に落とされた城下士の子弟、疾虎以蔵《しつこいぞう》だった。
「はて。あの術は川路のものだったはずだが」
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第七章
最高音域から半音階で急降下して来る弦楽器の旋律にブラスセクションのディミニッシュコードが叩《たた》きつけられ、その合間をぬってティムパニーが荒れ狂った。暴風雨はますます激しくなっている。
「パーシュースがやられています」
旗艦ユリアラスの見張りが叫んだ。
「なんだと」
クーパー提督はゲーリー・クーパーが一番驚いたときの表情で望遠鏡を目にあてた。
「ファック。シット。なんたるざまだ」
パーシュースは船体を大きく右にかしげ松葉|杖《づえ》で海面をかき回しながら一個所をぐるぐる回っていた。
「緊急信号。パーシュースは自力で報復攻撃を行なえ。終了後他の全艦と共に旗艦のもとに集結。単縦列を組んでジャップどもの砲台を叩きつぶしに行く」
ようやく立ち直ったパーシュースは横山砲台めがけて猛烈な砲撃を加えた。木々は裂け崖《がけ》は崩れ山は吹き飛んだ。しかしすでにサツマの兵士たちはそこにはおらず、使い物にならなくなっていた大砲を一門|粉微塵《こなみじん》にしただけだった。
「全艦集結しました」
「よし。攻撃開始」
「提督、駄目《だめ》であります」
「なんだと」
「武器庫の前の千両箱がまだ片づきません」
「馬鹿《ばか》もの。ジョスリイイイング」クーパーが怒鳴った。
「は。馬鹿もの。ウィルモオオオオオオット」艦長のジョスリングが副官を怒鳴った。
「は。ヘミングウェェェェェェイ」副官のウィルモットが部下のヘミングウェイを怒鳴った。しかし、ヘミングウェイはそこにはおらず船尾で釣《つ》りをしていた。タイミングをはずされてずっこけたウィルモットは腹立ちまぎれにそこにいた中国人クーリーを蹴飛《けと》ばした。
「なにするか。たあちゃいすうしい」ブルース・リーそっくりのクーリーは飛び上がりざまウィルモットに跳び後ろ蹴りを食らわせた。二人はもみあった。
「ええいやめんか」ジョスリングが二人をわけた。
「にゃにゃにゃんだと」パジャマ姿のニールが船室から飛び出して来た。
「ジャップどもがあやまるどころか戦争をしかけてきて、しかもわが軍が負けたというのか」
「負けたわけではありません。パーシュースが少しやられただけです」
「少しだと。錨《いかり》の鎖を切って逃げ出したというではないか。恥だ。提督。これは大英帝国極東艦隊の歴史はじまって以来の最大の恥だぞ」
「こんなわけはないのですが」提督にもパーシュースがなぜわざわざ敵の大砲のそばに近寄っていったのか分からなかった。
「けしからん。むこうがその気なら交渉などだれがするか。すぐにジャップどもをみな殺しにしろ。そうだ、分捕ってある三|隻《せき》の船を見せしめのために焼き捨ててしまえ」寝ぼけているニールは目茶目茶なことを言いはじめた。
「待って下さい代理公使。作戦を決めるのは私の役割です」と言いながらもクーパーはそうするのも仕方がないと思いはじめていた。全艦集結して出動しようにも、こともあろうに旗艦が戦闘態勢をとれない。その理由が武器庫の前に積んである千両箱のせいだなどということが分かったらますます笑いものだ。時間かせぎには絶好の作戦だった。戦利品を手放すのは損失だが、決戦にそなえて敵の手に落ちては困るものを焼き捨てるというのも戦いの常法なのだ。
「コクェット、レースホース、ハボック。三隻のサツマの捕獲船を砲撃撃沈せよ」クーパーは命令を発した。
「え。本当かよ」「もったいねえなあ」「戦争なんかやらないでこれ持って帰ればいいんだよな」兵士たちは口々に言い合った。
「しょうがねえ。こうなったら沈める前に金目のものを根こそぎいただこうぜ」
隻腕隻脚で片目に黒い眼帯をはめた大男のジョン・シルバーが大声でわめいた。
「それ、野郎ども、ついて来い」手鉤《てかぎ》の義手を振り回すと真っ先にサツマ船に飛び込んで略奪をはじめた。皆われがちに続いた。各艦の艦長も黙って見ているしかなかった。
略奪が終わると三隻の英国船は至近距離からサツマ船に砲弾を撃ち込んだ。サツマ船はたちまち炎上沈没した。
この間に旗艦ユリアラスはようやく戦闘態勢にはいった。そのもとへ全艦が集結し進撃を開始した。艦隊はいったん湾奥深く入り込んでから反転した。ユリアラスを先頭にして単縦列を組んで進行しながら右舷《うげん》側の薩摩の海岸陣地に猛烈な砲撃を加えた。最新型のアームストロング速射砲が「シャバドビウビドバシャバドバドバ」と火を噴いた。ルイ・サッチモという名の砲手の射撃が特に正確で目立った。
薩摩側の祇園之洲砲台がたちまち破壊された。本気になった時の英国の破壊力はやはり薩摩のものとは比較にならぬ強力さだった。このままでは薩摩側はなんらなすすべなくひねり潰《つぶ》されるしかなかった。
「このままではま、負けてしまうな」小肥《こぶと》りで浴衣《ゆかた》姿の男が思案をしていた。「ううむそうか。私が川路君の武勲を見とどけに来たという事実の影響でいつの間にか川路君の秘術である招き猫《ねこ》の術が私にのり移ったのにちがいない。やはり桜島ニュートリノのマグマ粒子がマグマ大使と共謀して四国連合艦隊を宇宙戦艦ヤマトにしようとしているからにちがいない。とはいえロバ電子がキリン陽子と喧嘩《けんか》をしている今こそチャンスだ。こうしてはいられない。ど、どういうことかな。うるさいお前は黙っていろ」一つの体に二つの人格を持つ男はぶつぶつ言いながらいずこへともなく消えた。
「川路君、く、来るんだな」小肥りの男が川路の前に現れた。
「あ、お前はあの怪しい奴《やつ》」と言いつつ川路は不思議な力に引かれてその人物の後についていった。
「龍右衛門、く、来るんだな」同じ人物が龍右衛門の前にも現れた。
「うぬ、兄上の名をかたる怪しい奴め」と言いつつ龍右衛門も気がつくとその人物の後に従っていた。
やがて三人の姿は小船の上にあった。船の周囲は嵐《あらし》の中でそこだけ静かだった。
「だ、大丈夫だな。この船の周りには多次元バリヤーが張られているんだな。安心していていいんだな」小肥りの男がわけの分からないことを言った。
「何をしようというのだ」川路が聞いた。
「あの一番大きな船を陸の方へおびきよせるんだな。そうすれば味方の大砲であの船をう、撃てるんだな」
「どうやっておびきよせるというのだ」
川路にはどうしてもこの人物が怪しく見えた。しきりに「逮捕したい」という気持ちが湧《わ》き上がって来るのだが、その「逮捕」という言葉の意味がよく分からないのだった。
「さ、川路君、招き猫の術をやるんだな。ぼ、ぼくも一緒にやるな」
男は船に向かって両手をぐるぐると回しはじめた。川路も思わずそれにならった。龍右衛門も見よう見真似《みまね》で同じことをした。三人は両腕をぐるぐるまわして敵国艦隊の旗艦を薩摩の砲台へとおびきよせようとした。
「進路を修正せよ。取舵《とりかじ》一杯」ユリアラスでは艦長のジョスリングが怒鳴っていた。
「取舵一杯」
「こら。なにをしているのだ。このままでは岸に近づいてしまうではないか。舵を回せと言っておるのだ。馬鹿もの」
「取舵一杯です」操舵手が悲鳴を上げた。「いくら舵を切っても引き寄せられていきます」
「なんだと。何が起きているのだ」
「艦長あれを見て下さい」副官のウィルモットも悲鳴を上げた。
指さす方向に不気味に青白くかがやくものがあった。青白い光りの中に三人の人影が見え、その者たちはこちらに向かって両腕を振り回していた。大きな戦艦はその招きに応じるように急速にその方向に移動しつつあった。
「止まれとまれ。すぐにとまれ。今とまれ」ジョスリングは狂ったように叫んだ。しかし船は止まらなかった。ますます引き寄せられていった。
「逆噴射せよ」ジョスリングはいきなり逆噴射のレバーを引いた。
「艦長何をするのですか」ウィルモットが艦長に飛びついた。
その瞬間、狙《ねら》いすました薩摩軍の砲弾が二人を直撃した。英国艦隊の全兵士が思ってもみなかった大惨劇がこうして起きた。旗艦の艦長と副艦長以下八名が直撃弾を食らって即死したのだ。
「このときなぜユリアラスが進路を外れてサツマの砲手が日頃狙い馴《な》れていた標的の内側にまでわざわざ入り込んでいったのかは艦隊史上最大の謎《なぞ》とされている。証言者である提督クーパーと代理公使ニールはこの件に関しては、あれは艦長の指示であったと繰り返すだけで決してそれ以上の証言をしようとしなかった」(ライヤー・シットマン「英国極東艦隊秘話」王立出版局。二五〇ページ)
こうしてユリアラスは負けた。怪現象と直撃弾で乗組員は全員混乱していた。戦争など起こるはずがなくまして味方に死者などでるわけがないはずの作戦が最悪の結果に終わったのだ。あまりのことに呆然《ぼうぜん》となっているクーパー提督のそばでは代理公使ニールが半狂乱になっていた。
「だからわしが申したように戦争になどならんと言ったのは誰だ」錯乱してわけの分からぬことを口走りながら中腰になってそこらを踊り回った。
「サツマ来てみりゃ心底怖い。電磁バリヤー招き猫。あれに見えるは赤信号。花は霧島たばこは国分。禁煙パイポは桜島」やがて急に直立不動になりお辞儀をした。
「申し訳ありませんでした。わざわざ海の向こうからこの東洋の島に私たちが何をしに来ているのか正直に申し上げましょう。私たちは泥棒《どろぼう》です。海賊です。血も涙も知性も礼儀も勇気も尊厳もなあんにもないケダモノです。文明の衣を着た飢えた醜い白豚です。罰を受けるのは当り前です。どうか酷《ひど》い目に会わせて下さい。おしりペンペンして下さい」
「代理公使何を言っているのですか」クーパーがようやく我にかえってニールの肩をつかんでゆすった。「この時代にそんな反省のできる西洋人は存在しません」
「いいや。我々が悪い。すぐにあやまろう。おおい誰か早く白旗を揚げろ。降参するのだ」
何が周りで起きようと関係なくこの暴風雨の中でも釣《つ》りをしていたヘミングウェイは、白旗という言葉を聞くとなぜか異常に素早い反応を示した。するするとマストに登りそのてっぺんにどこからとり出したか大きな白い布をくくりつけた。休戦を求めるしるしの白旗が英国艦隊の旗艦のマストにひるがえりサツマの応答を待ち受けた。
「敵艦が白旗を揚げました」
「どういうことだ」
「ええと、白旗は確か源氏であります」
「なに。するときゃつらは自分たちは源氏の血を引く者だと言っておるのか」
「は。御主君島津家も元は源頼朝公に発せられたと申されますから、それを知った夷狄《いてき》が自分らも同じ家柄《いえがら》であると嘘《うそ》をついて我々を油断させようとの作戦かと思われます」
「うぬ。ますますもって卑怯陋劣《ひきようろうれつ》な夷狄め。撃て撃て粉々にしてしまえ」
「或《あるい》は曰《いわ》く此《この》際英艦は、陸上砲台に向つて休戦を要望し、其《その》信号白旗を檣頭《しようとう》に掲げしといへども、薩藩将校中に於《おい》て、万国海戦信号の通規|如何《いかん》を知る者あらざりしが故《ゆえ》に、此白旗の何故に掲げられたるかを解せざりしといふ」(「薩藩海軍史」中巻。四九八ページ)
「わ。撃ってきたぞ。万国海戦信号が通じないのだ。原住民どもめ」
「ファック」クーパーはついにかんかんに怒った。
「いいか手めえら。仲間が殺されたんだぞ。こうなったら復讐《ふくしゆう》だ。ジャップどもを皆殺しにする。構うことはねえからロケット弾をぶち込め」
とうとう海賊の本性を現わした。
「船が動きます」操舵手《そうだしゆ》が叫んだ。不思議な青い光に包まれた三人の人物はどこかへ消えていた。船は再び行動の自由を取り戻した。
「よし。いったん射程外へ退避。そこから全艦でありったけの火箭《ひや》をぶち込め」
「しかし軍事施設と民家の区別がよく分かりませんが」名砲手のサッチモが聞いた。
「構わん。やれ。燃やせ。すべて叩きつぶして燃やしてしまえ。こ、この野蛮な無知な思い上がったサツマ野郎どもめ。死ね死ね死んでしまえ」
当った物を焼きつくすだけの目的で作られたロケット弾が雨あられと鹿児島の市街地に降りそそいだ。木と紙と竹の家々は面白いように燃えた。ほとんどすべての民家が焼きつくされた。住民たちはあらかじめ逃げ出していたので人的被害は思ったほどではなかったが、磯《いそ》の集成館をはじめ重要施設はことごとく破壊しつくされた。海岸|際《ぎわ》の砲台もすべて破壊された。もう薩摩側には戦うべきなんの武器も無くなった。こうなれば上陸して来る敵を待って白兵戦をするしかなかった。
折しも英艦一隻が破壊された祇園之洲砲台場沖に接近し停止した。
「止まりました。あの辺は浅いところです。上陸してくるもよう」
「いよいよ来たか」「ちぇすと」「目にもの見せてくれる」
サムライたちは目をひきつらせ刀の柄《つか》を握りしめて物陰にひそんだ。そのままの姿勢で一時間待った。一時間後英艦は他の二隻の味方艦にロープで引かれて沖へと逃げていった。実は岸に近よりすぎて単に座礁《ざしよう》していただけだったのだ。その事実を知らされたサムライたちはそのままの姿勢で、どたと前に倒れた。全員刀の柄に手をかけたまま固まっていた。
復讐の鬼と化して鹿児島の市街地を火の海にした英国艦隊はさらにそこらに停泊していた和船と琉球船を見境なく血祭りにあげてようやく湾外に引きあげた。
「ぜいぜいぜいぜい。くそ。誰だ。戦争になんかならない、すぐに相手があやまると言った奴は。あいつらは狂犬だ。目茶目茶|噛《か》まれたぞ。傷だらけだ。ぜいぜいぜいぜい」
「ぜいぜいぜいぜい。くそ。誰だ。夷狄の者共は腰抜けで何の手出しもできぬなどと言った奴は。あいつらは狂犬だ。目茶目茶噛まれたぞ。傷だらけだ。ぜいぜいぜいぜい」
「こ、これでいいんだな」
まだあちこちで火がくすぶり続けている磯の集成館の焼け跡で、浴衣姿の小肥りの人物が、川路正之進と山下龍右衛門を前にして喋《しやべ》っていた。
「こ、これで薩摩《さつま》とイギリスがかえって仲良くなるんだな。散々殴り合った男同士が仲良くなるのと、似ているな。そして薩摩はイギリスから、武器を買うな。りゅ、留学生も、送るな」
川路と龍右衛門は顔を見合わせた。この男はまだ起きてもいないことをすでにあったことのように話している。
「そ、その前にあれだな。きょ、京都でク、クーデターが起きるな。薩摩が長州を追い払うな。七|卿《きよう》落ちとなるな。それで、長州が怒って復讐に来るな。き、禁門の変だな。そのとき川路君が大活躍をして、さ、西郷吉之助に認められるんだな。これが、大変なことのは、始まりなんだな」
「西郷さんだと」二人はまた顔を見合わせた。
「あの方は今二度目の島流しの最中ではないか」
「来年、許されるんだな。それからだ、大活躍だな。薩摩が、天下を、取るんだな」
「ええ。それは本当か」二人はのけぞった。「どうしてそうなるのだ」
「それはだな、そのなんだな、長州と手を組むんだな、公卿もいるんだな、天皇をとってしまうんだな、それで徳川をだますんだな」
「……………………………………」
深い疑惑の表情が二人の顔に現れた。やがて川路が低い声でゆっくりと聞いた。
「先程、長州を、追い払うと、言わなかったか」
「そ、それはだな、そのなんだな、さ、坂本竜馬というのがいるんだな、勝海舟もいるんだな、兵隊の位では一番えらい人だな。この人を坂本がこここ、殺しに行くんだな。すると逆にすす、好きになって殺すのを忘れて好きになったから忘れて殺すのを忘れて好きになったから殺すのを忘れて好きになったから忘れてあなたもう寝ましょうよ」
「何を言っておるのだお前は」激怒した川路が刀の柄に手をかけた。
「まあまあ待ちたまえ」同じ人間の中にもう一つの人格が現れて制止した。
「分からないのも無理はない。この段階で以後の日本の歴史があのようなことになって行くと予想できた者はいないはずだ。だから詳しい説明はしないが、君たちには思いもよらない運命が待ち受けているということだけは言っておこう」
「………………………………………」
「たとえば、あれを見ろ龍右衛門」男は集成館の工場群を指さした。先代の斉彬《なりあきら》が作り上げていた反射炉、溶鉱炉、ガラス工場、機械工場などがすべて破壊され炎上していた。常時千二百人の人間が働いていた薩摩の誇る大工業地帯が今消え去ろうとしていた。
「あのあとに機械工場がすぐに再建されるはずだ。英人のウォートルスという者が建てる。わずか二年後だ。さらにそれから五十年程たつとそののっぺらぼうの石造りの工場に玄関がつけられ、やがて尚古《しようこ》集成館という名をつけられて薩摩藩七百年の歴史資料を陳列公開する建物になるのだ」
「………………………」
「ところで龍右衛門」男は急にやさしい口調になった。「おまえは来年結婚するのだったな」
「ど、どうしてそれを」龍右衛門には木佐貫《きさぬき》家の娘で寿賀《すが》という名の許嫁《いいなずけ》がいた。挙式は来年の初めの予定だった。
「お前は子宝に恵まれる。今から四年後には三人目の子供が次男として生れる。徳川の将軍が大政の奉還をした直後だ」
「将軍が大政を奉還する。そんなことが」
「信じられないだろうがそれが起きるのだ。そしてお前のその次男が」男はじっと龍右衛門を見つめた。
「五十年後に、今燃えているあの機械工場つまり後の尚古集成館に玄関をつけ足すことになるのだ」
龍右衛門は呆然とした。五十年後には自分はこの世にいないだろう。その頃《ころ》になって一体自分の息子が何を作るというのだ。玄関をつけ足すと言っていたが、では息子は大工になるのだろうか。武家に生れる息子がどうして大工になるのだろう。もっとも薩摩では大工も武家階級が多く、町人の家を修理に来て散々威張りまくるということもよく起きる。そういう家に養子に行くということなのだろうか。
今の龍右衛門には分かるはずがない。やがて江戸に徳川に代わる新政権が主に薩摩と長州の力によってでき、やがてそれに附属する「帝国大学」という学問所もでき、そこで西洋の言葉を使って西洋の家の建て方を自分の息子が学ぶことになるなどということを。そしてそのためには龍右衛門自身は思っても見なかった運命をたどり、ついには同郷の恩人の軍隊を反乱軍と見なして戦わねばならなくなるなどということも。
「龍右衛門、一目だけ見せてやろう」男が指さす焼け落ちた工場跡に、突然真新しい白い石造りの細長い建物が出現した。その横腹に明らかに西洋の形をした玄関が突き出していた。両側にシュロの木が繁《しげ》って陽光に輝いていた。「あれがおまえの息子が作るものだ」男の声が響いた。
龍右衛門の目に玄関のアーチの形がくっきりとやきついた。それは自分の子供の頃の記憶につながった。毎日出来上がっていくのを眺《なが》めていた西田橋にもこの形があったのだ。とすると、自分の息子は大工ではなく岩永三五郎のような石工になるのだろうか。
龍右衛門は西田橋のアーチが積み上げられとうとう完成するときの光景を思い出した。三五郎は自らアーチの頂上に登り、最後の一つの石をはめてその上に立つ。周りの支えがすべて取り払われるとそこに優美な石の曲線が現れ、それはしっかりと立って、頂上に立っている三五郎ともどもびくともしないのだ。
「私の子供の作るものはこれだけなのか。他にも何か作るのか」思わず龍右衛門は聞いた。
「そ、それはだな、そのなんだな」なぜか男は急に再び愚鈍な人格へと交代しながら口ごもった。「作ることは作るんだな」
「あ、あそこにいたぞ」「今度こそ逃がすな」このとき追手の一団が現れた。追手の一団はどうやら永久にこの小肥《こぶと》りの浴衣《ゆかた》姿の男を追いかけるつもりらしい。男は慌《あわ》てて逃げ出した。逃げ出しながら叫んだ。
「さ、西郷さんから目を離してはい、いけないな」
男と追手と真新しい建物がかき消すように見えなくなった後、川路と龍右衛門はまだくすぶり続ける瓦礫《がれき》の山のなかで放心していた。
「川路さん」龍右衛門がようやく口を開いた。
「あの男、どこか西郷さんに似ていませんか」
「確かに時々お見かけした吉之助さんに姿が似ていないこともない」川路がつぶやくように言った。
「あの者は私の兄だなどと言ってみたり、はっきりとした物言いをするかと思うと急に馬鹿《ばか》になったり、不思議な能力があったりするまことに怪しい奴《やつ》です。あの者が今後も出現するとなると、どこかで西郷さんと間違われるおそれもありますね」
二人はすでに天保山と横山の砲台でそういうことが起きていることは知らなかった。
「そうだな。あの者と混同されるようなことになると、後の世から見た西郷さんの行動が大変不可解なものになってしまうかもしれないな」
二人はまだくすぶりつづける瓦礫の山を見続けた。
「あ、あれでよかったのかな。大丈夫だ。すべて歴史上起きたのと同じ経過になった。でもこ、これから起きることを教えてしまってはあ、あれだな、じかん航行にお、於《お》けるか、過去へのか、干渉が引き起こす歴史的む、矛盾の混乱の目茶目茶が時空れ、連続体の乱れをう、うながして変換りゅ、粒子の変態が裸体となるからあ、ああああなたもう寝ましょうよ。馬鹿もの。無理に難しいことを言おうとしなくてもよい。我々の出現は彼らの記憶にはほとんど残らない。夢と同じだ。長くは覚えていられないはずだ。たまたま夢の記憶が残っている場合もあるだろうがそれも僅《わず》かであることは先程の青色エレジー磁場による手招き演算によって確かめてある。ただし我々がまた出現したときはそのときだけ記憶はつながるのだ。同じ夢の続きを見るのと同じでその中ではつじつまが合うようになっているのだ。そ、それならし、心配はな、ないかな。ぼ、ぼくはそろそろ八幡《やわた》学園にかえらないとし、式場せんせいにし、叱《しか》られるんだな。いちど帰りたいんだな。おまえのほうの存在欲求度が強くなっているようだな。では勝手にしろ。私は少し眠る」一つの体の中で二つの人格が喋り合っていた。
二日後英国艦隊は引きあげた。サツマの汽船三|隻《せき》、和船二隻、琉球船三隻を焼いて沈め、市街地をほとんど焼き払い、海岸沿いの砲台場を全部たたきつぶし、サツマ兵五名を砲撃で倒した。しかし生麦事件の下手人を捕まえることも賠償金を取ることもできなかった。それどころか合計十三名がサツマの砲撃で死に、五十名が負傷した。その中には「一艦隊と比べてもその価値が勝る」と後に惜しまれたジョスリング艦長の戦死を含んでいた。
一方薩摩の方は七隻の黒船を一応撃退し戦死五名、負傷十三名だった。まずは大勝利だった。しかしアームストロング砲やロケット弾の威力をはっきりと認識できる即物的な目をサムライたちは持っていた。もう一度やろうなどと考える者はいなかった。むしろ早くエゲレスからあれらの武器を買おうという反応が起きてきた。小肥りの男の言っていたとおりに薩摩とエゲレスはこの後緊張をはらんだ奇妙な友情によって結ばれて行く。
戦功の報告が行なわれた。
兵士たちの記憶からは徐々にあの浴衣姿の不思議な人物のことは薄れていった。弾を当てたと思われる砲手たちが賞せられた。しかし、多くの者が何か妙なことがありそのために敵旗艦が岸に近寄ってきたことを覚えていた。
「何があったというのだ」という係の者の質問に皆はそれぞれ覚えていることを申し述べた。
「確かお狐《きつね》さんが手招きをしました」
「いえお狐さんではありません。竜《りゆう》が火を噴きました」
「火の玉が小原節を踊っておりました」
「いやいやあれは確かに竜だ」
「いや蛇《へび》だ」
「いや馬だ」
「違うちがうあれは羊だった」
「いや猿《さる》だ」
「鳥だ」
「犬だ」
「猪《いのしし》だ」
「鼠《ねずみ》だ」
「牛だ」
「虎《とら》だ」
「兎《うさぎ》だ」
「誰だ。十二支を始めて紙面を浪費している奴は」
しまいにはチャーリー・パーカーが盆踊りを踊っていたなどと言い出す者までいてわけが分からなくなった。
「いいや。私ははっきりと知っております」と言い張る者が一人いた。桜島の横山砲台で殊勲をあげた部隊にいた疾虎以蔵《しつこいぞう》だった。
「川路正之進です。あの者以外にあの術を使える者はおりません。現に私はその、随分前のことでありますが、あの術をかけられて橋の上から川の中に放《ほう》り込まれたのであります。決して忘れないのであります。私の名前はだてではないのであります。納得されなければいつまででも言い張るのであります。しつこいのであります」
以蔵は川路の術で黒船が動くほどなのだから自分が橋の上から放り込まれるくらいは当り前だ、という考えのもとに過去の無念の体験を正当化しようとしていたからますますしつこかった。
疾虎以蔵があまりにしつこく言い張るので、皆も記憶を呼び起こされた。
「そういえば天保山のほうでも確か川路さんが船に乗って」
「そうだそうだ。嵐《あらし》の中を乗り出して敵艦をおびき寄せたのだ」
青い光や浴衣姿の男や龍右衛門のことは忘れられていたが、川路が何かしたということを皆口々に申し述べた。記録係はそれを記録した。ただし何をやったのかを具体的に書くことはできなかった。その記録もどこかにまぎれたらしく、あとには川路が薩英戦争で何か武勲をたてたという人々の記憶だけが残ることになった。
こうしてやっと薩英戦争が終わった。
薩英戦争のあいだじゅう門の前でずっとストップモーションになっていたおれたちもようやく動きだせることになった。
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第八章
「では本当にシンポジウムを始めてよろしいですね」薩英戦争後の余燼《よじん》の中で揚村さんが念をおした。
「は。あの。大丈夫です」おれが答えた。
「ではまいりましょう」
先程まで川路と龍《りゆう》右衛門《えもん》がいた磯《いそ》の集成館から少し離れた場所に市立美術館が建っている。一同はその中へ入った。階下に綺麗《きれい》なホールがありそこに椅子《いす》が並べられ大勢の人が座っていた。
司会の立川先生が現れて、前口上を述べた。
「我々はたくさんの家を建てたくさんの家を壊してきました。世界でも珍しい国かもしれません。豊かであっても失ったものも多いと思います。古いものをどうするかというのも今日の課題です。本日は鹿児島刑務所の解体ということが話のきっかけになるでしょうが、これは学会であり、その問題についてここで黒白《こくびやく》をつけようというのではありません」
続けて講師の方々が紹介された。藤森さん、揚村さんの他に、もう一人松井宏方さんがきていた。十四年間イタリアにいて設計の実務をされていたという方だ。
最後に「珍しいお客様もいる」と言われたがこれは我々のことだった。日本建築学会鹿児島支所の例会という専門的エリート集会にいつのまにかまぎれ込んでいる我々は、あのわけの分からぬ授業をやっている教室にまぎれ込むという悪夢そのままに、首をすくめて後方の席に座っていた。
やがて藤森さんの話が始まった。
「本日は刑務所の話をいたします」と言ってはじめられたその話のなかに、子孫が今までよく知らなかった祖父の姿が現れて来た。
「日本の刑務所は大体明治の末期に作られたものが現役で残っていて、おもな刑務所の骨格をなしています。それを設計したのが山下啓次郎という建築家でした。明治二十年代に東大を出ていますから日本の近代建築家としては第二世代にあたります」
うへえ。そんな時から東大か。おれは隣に座っている父親を思わず見た。父親もだ。この家には何となく大学とは東大のことをさすような決まりがあった。長生きした祖母、つまり啓次郎の嫁さんの直子は非常におれをかわいがってくれたが、東大以外にこの世に大学というものがあるということだけは生涯《しようがい》理解しようとしなかった。やがて兄とおれで無事に破ることになるその決まりはどうやら百年前から定まっていたもののようだ。
「この人のことを色々調べたのですがご遺族の行方がどうしても分からない。同級の伊東忠太さんのご遺族などとは親しくしているのですが山下さんだけはなぜか分からなかったのです」
「まあ。伊東忠太さんね」母親がつぶやいた。「よく遊びにいらしていたのよね。一緒に碁を打っている絵があってあれは忠太さんがご自分でお描《か》きになったのよ。金王《こんのう》町の家の二階ですよ。それは立派な家でおじい様がお建てになったのよ。戦争で焼けましたけどね」
「しいっ」例のごとくワンポイントメモリーによって喚起される母親のとめどないアドリブを何とかやめさせた。
「そこへ今回揚村先生から電話があって、あのジャズの人の家だというのでびっくりして飛んで来たわけです。本当は啓次郎さんご本人にお会いするのが理想なのですが、これは無理です。幕末に生れて昭和の初めに亡《な》くなっている人ですからね。しかしご遺族に会うと本人に会っているような錯覚があります。たとえて言えば、犯人には会えないが犯人の仲間に会うようなものです」
会場から笑いが起きた。
「早速、あと取りの啓輔さんから啓次郎さん自筆の履歴を見せてもらいましたら、樺山資紀《かばやますけのり》邸の問題がすぐに分かりました」
樺山邸はその筋では名高い建築物だったが作者が分からなかった。履歴を見ると明治何年に作ると明記されていた。長年の謎《なぞ》が一度に解けてしまったのだ。
「急なことでしたがこれが分かっただけでも来てよかったと思っています」と藤森さんは申され、我々もそれはよかったと胸をなでおろした。あの手帳がいましばらく藤森さんのものになってしまうのも当然だと納得した。
藤森さんはさらに、何年か前に日本中の刑務所を網走から鹿児島まで一週間で見て回った話をした。その時に感じた刑務所建築の不思議さについて触れた。
「刑務所は基本的には人間のオリであり、決して明るいものではありません」
藤森さんは一度、中野刑務所で見学中に仲間がふざけて扉《とびら》を押したおかげで独居房に閉じ込められた時の話をした。これは相当怖いものだったという。仲間は鍵《かぎ》をとって来ると言ってどこかへ行ってしまった。本当に閉じ込める陰謀ではないかなどという恐怖心さえ抱いた。その時に中の張り紙を見たが、その注意書きの第一番目に書いてあるのは、「脱走するな」ではなく、「自殺をするな」だった。二番目が「脱走するな」だった。落書きには電話番号が多かった。犯罪か女関係か何とか忘れないようにというのだろう。まことに人間のオリであって見ているうちにどうしても気持ちが暗くなった。
「ところが、困ったことにそのような暗いものであるはずの刑務所の建物が大変美しく思えてしまうということがあるのです。これは大体、山下啓次郎に責任があります。つまり、彼がやるまでは名は体を現わすというとおりで監獄は本当に人間のオリでした」
たとえば、山口刑務所があった。これは法務省もあまり見せたくないらしく、早々に壊してしまったが、一名「ギスカン」と呼ばれるものだった。つまり、キリギリスのオリだ。どういうものかというと、屋根があり左右の壁はあるが前後には格子《こうし》があるだけだった。つまり春夏秋冬吹きさらしなのだ。江戸時代からのもので奈良には建物の一部が保存されている。プライバシーも人権も無視した「牢屋《ろうや》」であって、それはそれである「安定」があるが(この冷徹な言い方はもちろん建築学的な見地による)、それとは全然違うものを山下啓次郎は作ろうとしたらしい。
「たとえば奈良刑務所です」
これは赤|煉瓦《れんが》造りで華やかで明るく、写真だけを見せると誰も刑務所だとは分からない。少年刑務所として機能中だが、看板もないので、近くにある「ドリームランド」と間違えて来てしまう人がいるそうだ。
「機能としての暗さと建物の立派さに落差があるわけですね。暗くなく合理的で環境のよいものを目指したわけですが、じつはそれには手本がありました」
藤森さんの話が専門的になってきた。
「近代の刑務所建築には世界に共通の型があります」
それが「ハビランドシステム」と言われるものだった。一点から放射状に房舎を出すという建て方なのだ。つまりその中心に立てば一個所で全体を監視できる。ジョン・ハビランドという建築家が設計し、米国はペンシルバニア州のフィラデルフィアに一八二九年に完成した。
文政十二年のことで、日本では翌年に大久保利通が生れている。その二年前には西郷隆盛が、一年前には山下家に清太郎が生れていたという時期だ。
「このシステムが始められたときにはすべて独房制にしました」
それまでは日本も外国も雑居制だった。入っている者の自治にまかせていた。そこには当然独自の制度ができていった。牢名主が現れて所長とうまくやったりする。あるいは牢名主と刑務所側で囚人の「教育権」をあらそったりする。結局はそこは犯罪学校と化しやすかった。色々な手口が伝授され、知り合いが紹介され、出たらここへ行けあそこへ行けとなるのだ。
しかし、この独房制の導入以後は一人一人が別々に閉じ込められ、毎日出てきては教育を受け労働をし、また個室に帰るということになった。これを少数の者が見張っている。
「このシステムは建築界だけでなく、近代というものを考えるときの大変重要な問題を含んでいると言われています」藤森さんは不思議なことを言い出した。
「個々の人間がお互いのコミュニティーを持たずに分断されています。それを一気に集中管理するわけで、よい意味でも悪い意味でも近代管理システムのスタートがこの方式に現れているとも言えます。刑務所のシステムが近代社会の原型を示していて、近代コントロールシステムの合理性と冷酷さはすでにここから始まっていたのではないか。これは、ミシェル・フーコーなどの思想家も論じているところです」
日本における近代管理システムの創始者である大久保利通はこの画期的な近代刑務所とほぼ同じ頃《ころ》に生れていたのだった。山下啓次郎がそれを手本に日本に同じシステムの建物を建てるのはさらにはるか後のことだが、そのあいだには必ず何らかの結びつきが生じていた筈《はず》だ。
「もっとも刑務所側では実際にそんな近代思想の反映などを考えていたわけではなく、管理のしやすさと人権問題からそのようなものを勝手にあみだしていたわけなのです」
このハビランド方式は、二、三十年の間に世界中に伝わって行った。米国からヨーロッパへ、さらにインド、シンガポールとヨーロッパの植民地にそってアジアへやって来た。そして丁度シンガポールにハビランドシステムが伝わったときに、日本が国を開いた。だから日本の刑務所関係者が最初に見に行って手本にした西洋型の刑務所はヨーロッパでもアメリカでもなく東南アジアにあった。
これを文明の手本としてすぐにその方式で刑務所を作った。ところがこれを和魂洋才で木造でやったものだから、火事の時に大変なことになった。一点でつながっている収監棟には火の回りが早く、さらに小人数の監視人ではたくさんの房を次々に開けて囚人を助けることが大変困難だった。そういう事故が実際にあり、木造ハビランドは一度廃止された。しかし、その後もう一度燃えない材料でハビランドをやろうということになり、それを啓次郎が担当したという経過になるのだ。
「このように刑務所には昔から安定したデザインがありましたが、その第一のポイントは実は脱獄の阻止ではないのです」
藤森さんはさらに妙なことを言い出した。
「刑務所側が第一に考えるのは、その人間を真人間にして二度と刑務所に戻って来ないようにすることです」
日本では特に真人間になる為《ため》に入るというのが大前提になっている。だから真人間になったという徴候さえあればどんどん出してしまう傾向もある。釈放する率が非常に高い。真人間になったと判断されれば普通の殺人で五年で出て来ることもあるし、無期の筈が十年になることもある。さらに、恩赦というものがあってこれも欧米にはあまりない考え方だ。つまり、メデタイことがあるとそれを恵まれない人々に分け与えるという施餓鬼とか喜捨の考え方で、これが刑法思想の中に入ってしまっているのだ。
一番すごいのは「大赦」で、これは天皇が亡くなったときなどに行なわれる。即位のときではない。これも仏教思想の考え方で、お葬式のときに大盤ぶるまいをするという考えに共通するものがある。たとえば、大正のお方の折には何と囚人の八割が釈放された。これは特別にひどい者以外は全部ということで、出せば出すほどよいとしているのだ。このときには、世間の噂《うわさ》に囚人たちも敏感になり、労務で外に出ている者は町の人にそれとなく「ミカドはお元気か」などといってサグリを入れた。昭和の時も同じことが起きたにちがいない。
これに比べて、欧米ではまったく考えがちがう。牢屋に入るのは一種の契約なのだ。これこれの罪を犯したからそれに対して何年間の入獄という罰金を払っているにすぎない。真人間になろうがなるまいが自分の勝手で人の知ったことではない。悔い改めたくない奴《やつ》は悔い改めない。看守側もいっさい教育的なことはしない。
なるほど。これについては思い当ることがあった。以前にニューヨークでテレビを見ていたらとんでもないショーというか討論会があったのだ。
犯罪に関するもので一般人多数に学者などがゲストにいたがそのスタジオに、「元連続|強姦《ごうかん》魔」らしい若者も招かれていて何やら堂々と話していた。さらに驚いたことに、どこかの刑務所の面会室のような所から中継で参加していたのが、希代の「幼児|虐待《ぎやくたい》殺害魔」らしいおとっつぁんだった。質問に答えて何やら詳しくそのときの模様などを話していたようだった。もちろん司会者も一般参加者もあからさまに嫌悪《けんお》の表情を表し、学者などに説明を求めたりするわけだが、あくまでもそれは立場や意見の違いのようでもあり、最後は病気の一例と言うようなことで、共通の人間としての倫理の欠落を責めるという風にはなっていないようだった。
例の日本の映画やテレビドラマの決まり文句である「おい、真人間になれよ」的押しつけは基本的にない。自分の存在が社会のきまりとは相容《あいい》れないのだから仕方がないのだ。それが罪とされたからそれに対して監禁という契約を履行しているにすぎない。あるいはそれが死刑という契約になっていてもだ。
別によい話ではないが、すっきりしていることは確かだ。これに比べると、確信犯でマリファナをやった奴をよってたかって「改心」させる日本のシステムはどうも分かりにくい。結局オマワリにあやまってお慈悲を乞《こ》わないとちゃんと法律も施行してもらえないのだ。私のやったことは何もかも間違っておりました、もうマリファナはやりません、真人間になって良識ある社会人の生活を送ります、よい父親でよい夫です、もうしませんから許して下さい、と無理矢理言わせる。変ではないか。こういうことは確信犯と法律との戦いなのだからもっとドライにやってよいのだ。とっつかまりゃあ悪法でも従うくらいは皆知っている。従いたくない場合の手法も、対システムのテロ小説から逃亡者リチャード・キンブルまで参考資料にはこと欠かないのだ。
こういう警察の体質の大もとは明治の開国期にできた。その時に「文明」と「警察」が結びついて、世界に比べるとまだ何も分からぬ日本の「愚民」どもをいちはやく文明国民となったつもりの警察官が模範となって導かなければならない、という方針が勝手に決められたのだ。その方針の残骸《ざんがい》がいまだにあちこちに残っている。
考えがあらぬ彼方《かなた》をさまよっているうちに、藤森さんの話題は実際の脱獄というものになっていた。結局、脱獄は大変特殊なことであるらしい。外国では契約だから余程のことがなければ起きないと言えるし、日本では悔い改めたふりをすれば結構早く出てこられるのだからそのような危険をあえて冒す必要はない。希《まれ》なことだからこそ、起きたときに大騒ぎになり映画やテレビの材料となるのだとも考えられる。
「にもかかわらず、やる人はいるんですね。それに脱獄をやろうとしたら基本的には防ぐことはできないそうです」
それから藤森さんはとんでもないことを言い出した。
「啓次郎さんが作った千葉刑務所で『脱獄コンクール』というものが行なわれたことがありました」
そんな馬鹿《ばか》なことがと思わずにはいられない。
「本当です。青山典獄という有名な慕われていた刑務所長がいて、『ここから脱獄してまた戻ってきた者は釈放する』と言い出したのです。啓次郎さんも自信があったのでしょうか。本当に行なわれることになりました」
今の常識では計りかねる怪挙[#「怪挙」に傍点]といえるだろう。実際にどういうやり方でやったのだろう。「ようい、始め」などといって始まったのだろうか。結果としては成功した者が一人いたという。約束どおり門の前に戻って来て約束どおり釈放されたそうだ。つまり、それほどの「正直者」だから許してやってもよいということだろうがどこか腑《ふ》に落ちない点も残る。
それから藤森さんは、例外的に何度も脱獄をしてこの世界で有名になったシラトリという人の話をした。
「この人については、吉村昭さんの『破獄』という素晴らしい小説があります」
藤森さん自身もその人について刑務官たちから実際に色々聞いたそうだ。「脱走する」と宣言して四度も成功したという。
「手口の話はまずいですが」と言いつつ様々な手法が明らかとなった。味噌汁《みそしる》の塩分で鉄を溶かす。歯ブラシの柄《え》や食器のアルマイトで床を切る。濡《ぬ》れタオルを引っかけて塀《へい》を登る。一度電柱を引き抜いて立てかけ、それをつたわって逃げたが、これはどう考えても人間|業《わざ》でできることではなかった。手錠を皆の見ている前でいきなりひきちぎってしまったこともあった。独房から姿が消えたので見張りが慌《あわ》てて飛び込むと天井に張りついてニヤニヤしていた。
「結局、脱獄は建築では防げないのです」というのが藤森さんの結論だった。府中刑務所では五千人の囚人を二千人の刑務官が見張っているがそれでもすきができるそうだ。尚《なお》、現在の刑務所は、初期のハビランド方式のように全部が個室ではなくまた雑居式が主流になっている。囚人の精神状態を考慮した結果らしい。
藤森さんの話は刑務官と薩摩の関係に移っていった。このシンポジウムが行なわれている場所が鹿児島であるというところから生じてきた話題だったかも知れない。
「代々、鹿児島の人が多いのです。初代の警視庁長官が薩摩の川路利良で、日本の刑務所は最初は警視庁に属していましたからその関係でしょう」
そして公務員なのに世襲のようにあとをつぐ場合が多いこと、なぜなら、勤務が普通の者には大変でなかなか応募しないからだ、などということが述べられた。
「サツマの気質が杓子《しやくし》定規なまでに決まりに厳格であるということもあるようです」
一例として戦後行なわれたGHQによる調査結果のことが話された。きっと囚人虐待がずいぶんあるだろうというGHQの予想に反して、戦時中の餓死者は網走刑務所で刑務官が十人以上、囚人が三、四人だった。びっくりしたGHQの「なぜだ」という質問に対して、彼らは「それが役目である」と答えた。
「いわゆる公務員の倫理意識とは明らかにちがう『お役目』の感覚なのです」
その感覚が何となく分かる気がした。
「そのかわり決まりに従わない者には大変きびしいのです」
父親にはもっとよく分かるのではないかと思った。分かるというより感覚そのものではないだろうか。約半世紀の間、数秒とちがわず家を出て数秒とちがわず帰って来たと母親は言っていた。
「まあ最近は、大阪を中心に刑務所の風紀が緩んでいるとも言いますが、全体としては世界でもまれに見るお役目意識があります。規則に従うかぎりは杓子定規に対応するというのが一種の美風としてあり、さらに温情主義も加えられて運営されているので、頻発《ひんぱつ》する脱走に対する建築的課題などというものは一応ないと思ってよいでしょう」
藤森さんは最後に鹿児島刑務所の建物と保存について簡単に触れた。
歴史的には外国との不平等条約の改正というものが背景となって建てられたこと、他の場所は囚人の職業技術の修得も兼ねて煉瓦で作ったがここだけはちがうことなどをあげた。後者についてはその理由として、九州に伝わる石の技術のことが話された。
「江戸時代に鹿児島には石の橋がありました。鹿児島出身の啓次郎さんにはきっとその意識があったでしょう。父親からも話を聞いていたかも知れません」
そうにちがいなかった。父親の房親は目の前の甲突《こうつき》川に巨大な西田橋がかけられていくのを毎日|眺《なが》めながら幼年時代を過ごしたのだ。
保存については藤森さんは次のようなことを言われた。
即《すなわ》ち、少し前までは文化財保存側と町作り側は別々だった。保存側は凍結保存というのをやってきた。法隆寺とか姫路城とかがその例で、原型を復元して博物館的に使う。あるいは一切手をつけない。つまり凍結するのだ。
一方、町作り側は文化財と関係なく新しいものを作って古いものをこわすということをやってきた。
ところが近年明治以後のものをどうするかということで問題が生じてきた。それらのものはいままでの歴史遺産とちがってたいていは町なかにある。都合よく田舎や町はずれの邪魔にならないところにあるものは少ない。
文化財側にとっては町なかでの凍結保存が難しくなった。一方作る側もそういうものをどう取り込むかを問題にしはじめた。そこで一種の歩みよりが見られはじめた。それらのものを生かしながら使えるかどうか、ほんのここ十年前頃から考えられ、五、六年前にはじまった動きだ。倉敷、京都、函館などで実験がはじまっている。
「この鹿児島刑務所についてもよい方向が見えるとよいと思います。少し長くなりましたがこのへんで終わらせていただきます」
盛大な拍手とともに藤森さんの講演が終わった。いったん休憩になった。廊下に出て顔をあわせた。
「いやあ面白かったです」
「ほんとにねえ。あのサツマのキマリのお話はそのとおりねえ。この人なんかそれこそちょっとでも物を置く場所がちがうと大変おこるんですのよ」母親が父親をゆびさしながらアドリブソロをとりはじめた。
「いやあ。あははははは」藤森さんは笑っている。それから急に思いついたように言った。
「啓次郎さんのお墓はどちらにあるのですか」
「ああ、それは青山です」と父親が答えた。
「そうですか。お墓に行きますとね、また色々なことが分かるものなんですよ」
その言葉を聞いたおれの頭の中に、三種類の音程のトップシンバルの音が同時に響きわたり、その余韻の中をオーボエの旋律が低音から高音へゆっくりとすべり上がって行った。東京へ帰ったらすぐに青山墓地に行こうとおれは思った。
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第九章
このシンポジウムが終わって東京に帰ったらすぐに青山墓地に行かねばならない。そこに何か大事なことが隠されているはずだ。そのような確信が生じてきた。
「そ、そのとおりだな。早く、い、行くんだな」
突然、目の前に小肥《こぶと》りで浴衣《ゆかた》姿の男がリュックを背負いコーモリ傘《がさ》をもって現れた。
「わ。誰だあんたは」
びっくりしながらも、おれはその男の姿形に不思議な懐《なつ》かしさをおぼえた。
「シンポ、ポポジウムが終わるまで、待っていなくてもいいんだな。すぐに行くんだな」男は言い張った。
「といっても、まだ、ぼ、ぼくは、鹿児島にいるんだな。勝手にそっちには、行けないな」思わず男の口調に影響されながら答えた。「物事には、順序というものが、あるんだな」
「ちがうな。物事には、順序というものはないな」男はわけの分からないことを言い出した。「時間軸にそって、順番に現れてくるように見える物事は、本当は、ちがうんだな。そう見えるだけだな。アナログ宇宙をデジタル解析すれば、すべては点だな。時間溶解点は見せかけ猫《ねこ》の爪縞《つめしま》毛皮だな。デジタルヘモリンドは、アナログ寿司《ずし》の、デジアナモグラの、アナ、アナ、アナ。山のアナアナアナ。アナタもうねましょうよ」
「何を言っているんだ。あんたは」
「だから、ロバ電子と山羊《やぎ》粒子がうさぎ小屋でめえめえめえのぴょんぴょんぴょん。まてまて私が話そう」同じ人間の中に別の人格が現れた。
「私は山下清太郎|房敦《ふさあつ》といって、お前の曾祖父《そうそふ》龍右衛門房親の兄だ。わけがあって二重人格の時間漂流者となってしまった」
「どういうことだ。こりゃあ」
「どういうことでもよい。説明しても分からないだろうから説明はしないが、お前のやっている調査を早く進行させるには今すぐ青山に行ったほうがよいのだ。私がそれを助けてやろう」
「といっても、ここは鹿児島で、今はシンポジウムの最中だ。どうなるのです」
「心配はない。ここはここで時間が進行し、あちらはあちらで別の時間が進行する。いつでも好きな時にここには帰ってこられるのだ」
いつのまにか、おれたち二人の周りは青白い光に包まれ、廊下にいた人たちの姿がぼんやりとしてきた。
「こっちの時間はそろそろ止まる。さあ行こう」
青白い光に包まれたまま一瞬の浮遊感があり、次の瞬間おれは青山墓地の先祖の墓の前にいた。
「さあ、よく見るんだ」男がそう言った直後に左斜め向こうにそびえる野津家の大きな石碑の蔭《かげ》から三人のサムライ姿の男たちが飛び出してきた。
「あ、あそこにいたぞ」
「今度こそ逃がすな」
ギラリと白刃《はくじん》を抜いてこちらに走ってきた。
「またいやがさって、あれこれけしましもそ」などと言いながら小肥りの男はあわてて逃げ去った。そのあとを三人のサムライたちがすごい早さで追いかけて行った。青山墓地の木立と墓石をぬって四人の姿はたちまち消え去った。
山下家の墓地は、たいして大きくない敷地に四つの普通サイズの石碑が立っている。正面に二つ。左右に一つずつだった。小さな時から何度かここで行なわれた儀式に参加しにきたことがあったが、こうやって注意して見るのは初めてのことだ。左がわのものに、山下啓次郎と直子の名前が並んで書いてあった。直子とはつまりおれのおばあさんで、この人は長生きし、非常におれをかわいがってくれた。
その墓石をよく見ると、側面に字が彫り込まれていることが分かった。
大学ノートを取り出して全部写した。カタカナ混りの漢文だった。どうしても判読できない字もいくつかあったが、全体はおれの劣悪な漢文古文知識でも大体の意味が分かるものだった。
「明治九年母ニ従ヒテ上京」という字が目に焼きついた。以後に藤森さんの言われた経歴が裏づけられるような内容が続いていた。おしまいの行に、服部漸撰《はつとりぜんせん》と書いてあった。この服部という人が文章を作ってくれたのだ。
正面にある山下房親と寿賀の墓石にも字が彫ってあった。
これは全部漢字で一度見ただけでは何が何やら分からなかった。しかし、分かる言葉もあり、それがどうやら大変な事実を示していた。今まで家では伝説のようにしか話されていなかった先祖の足跡だった。インスピレーションの極致にやってくるあの脳味噌《のうみそ》の酩酊《めいてい》状態がはっきりと感じられた。そして、百年分、三十一億五千三百六十万秒分の胸騒ぎがおそってきた。
夢中で字をノートに写し取った。どうしても読めない字もあり、光線の具合で見えない字もあった。色々と角度を変えて見ようとするうちに、いつのまにか墓地の地面すれすれに顔をつけて墓石を見上げたりしていた。
ようやく書き写し、ノートを持って青山墓地を出た。青山通りの喫茶店に入りあらためてノートを広げた。一刻も早く詳しい意味が知りたかった。羅列《られつ》されている漢字を何とか意味のある区切りに分けていった。
何度もながめているうちに次のような字句が姿を現わしてきた。
「翁諱房親初称龍右衛門」
最初は龍右衛門と称していた、というのだろう。諱はイミナと読み死後名前を呼ぶときにつける言葉だということを後に同級生で国語の先生である宮崎|専輔《せんすけ》に教えてもらうことになるが、そんなことは今は分からない。ただもう漢字を見て推測しているだけだ。
「壮年奔走国事受西郷隆盛之知遇」
とんでもない人の名前が出てきた。西郷隆盛ならおれも知っている。つまり、名前を知っているという意味だ。
この文を長い間にらんだ。漢文の読み方では確か英語のように動詞が名詞の前にくるということがあった。「奔走」と「受」がそうだ。つまり、壮年のときに国事に奔走し、西郷隆盛の知遇を受けたと言っているのだ。ただし、よく出てくるこの国事に奔走というものの実体はよく分からない。また知遇を受けたから奔走することになったのか、奔走していたから知遇を受けることができたのかその辺もよく分からない。さらに知遇といってもどの程度なのか、壮年とは何歳くらいのことをいうのかも分からない。
「戊辰之役以小隊長出戦子北越之野」という文字もあった。
戊辰《ぼしん》戦争というものが確かあった。その時に小隊長で北越に戦いに行っているらしい。北越とはどこだろう。
「明治四年依徴令又以小隊長上京」
明治四年に又上京したらしい。
「其年拝東京府下取締組組頭」
これは東京府で何かの下取りをしたのではなく、東京府下、取締組、組頭と区切るらしいことが次の文との関連で分かってきた。
「尋任大警部其後歴司法省内務省警視庁之諸職」
「任」「歴」が動詞だろう。
つまりそういうことだったのだ。大警部というものになっていたのだから、これはオマワリにちがいない。やばいことになってきた。
「十年西南之乱以警視隊参謀出征」
西南戦争というものもあった。その西南戦争に「警視隊」の「参謀」というものとなって出かけて行ったらしい。
「三月十八日進撃敵子肥後二重嶺卒兵抜刀迫敵塁」
肥後二重嶺とは地名だろうか。わざわざ日にちまで書いてある。そこで兵を率いて抜刀して敵に迫って行った。その時のおそろしい形相まで思い浮かぶようだ。何だか、えらいことになってきた。
「偶弾丸貫左脛而仆後遂截※其足」
だから言わんこっちゃない。左足を撃たれた。そしてどうやらその足を切ったらしい。
確かにそういう人が先祖にいたという話は家に伝わっていた。しかし、それが誰で、なんの戦争だったかについては、誰もはっきりとは知らせてくれなかった。だがこれが真相なのだ。
西南戦争が鹿児島人を二つに分けた戦いだったことはおぼろげに知っていた。たしか西郷隆盛が政府に対して反乱を起こしたのだ。そのときに先祖は西郷隆盛の敵になって戦った側だったのだということがようやく理解できた。何しろオマワリであり警視隊なのだ。政府側にまちがいない。
つまり啓次郎の父親|房親《ふさちか》は、知遇を受けた西郷の軍と戦い片足を失った。それは房親にとってこうしてその詳細を墓石にきざみたいほど生涯《しようがい》の重大事だったのだ。
その後、
「以戦功叙勲等」とか、
「以傷残之身益々奉公之誠」など、何とか分からぬでもない言葉が続いた。そして、いきなり次の字句が出てきた時には思わず飛び上った。
「任典獄」
げ。て、典獄。典獄とは、藤森さんの話にも出てきたが確かあの、あれではないか。
てん‐ごく〔典獄〕@監獄の事務をつかさどる職。A旧制の、刑務所の長。(広辞苑)
なんてことだ。口があんぐり開いて閉まらなくなった。「あんははひは、いっはい、はひほひはんは」これは口を開けたままで「あんたたちは、一体、何をしたんだ」と言ったのだ。
啓次郎の父親は刑務所長をしていた。しかも、碑文の少し前のところによればこの人は戦争で片足を無くしている。ということは、
彼は、片足の刑務所長だった。
ひええ。
義足だったのか松葉|杖《づえ》だったのかあるいは両方だったのか。片足の刑務所長が歩く足音が監獄に響いたのだ。その監獄は一体どこにあったのだろう。息子の建てた監獄だったのだろうか。
断続的なスネアドラムの音と共にエコーのきいたウッドブロックの音が響き、威嚇《いかく》的なトランペットの低音がそれに加わった。コツコツという足音がそれに重なった。
気がつくと青山通りは夕暮れになっていた。
「お墓に行ったら色々なことが分かったよ」実家に行って両親に伝えた。
「そうか」
「あらそう」
「啓次郎さんが牢屋《ろうや》を建てたのは多分父親の房親さんがオマワリさんだったからだよ。どうも明治維新と関係があるらしい。房親さんは西郷さんと知りあいだったとも書いてあった。これは本当なの」
「ああ。そうかもしれないな。そういえば、家には西郷さんの手紙というのがあるよ」
父親が思わぬことを言い出した。
「え。本当かい」
「本当よ」
母親が言った。「でもあれが西郷さんの手紙だっていうんだけど、誰も読めなくてねえ。本物かどうかよく分からないのよ」
「ちょっと見せて」
母親は押入れの奥から細長い古い桐《きり》の箱を二つひっぱり出してきた。中をあけると小型の掛軸状のものが現れた。そこに和紙に書かれた毛筆の手紙がきれいに貼《は》ってあった。しかし手紙の字はのたくりまくっていて何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。
「手紙のおしまいに書いてあった西郷さんの名前を、最初のところに移して貼ってあるらしいのよ」
その最初の文字が「西郷」と読めないことはなかった。しかし続いての文字は字数が多く「隆盛」とはどうしても読めない。
「やはり偽物《にせもの》かなあ」
この時には西郷は手紙には自分の名前を「隆盛」などとは書かず「吉之助」と書くのが普通だったことなど知るよしもなかった。
「でもずいぶん立派にして保存してあるね」
持主の手紙に対する誠意と敬意がはっきりと現れていた。本物であれ偽物であれ家宝のように大切にしたのだ。西郷隆盛から手紙をもらうということがその当時の人にとってどのように大事なことだったのだろう。
一方、これが偽物だった場合、何の目的で誰がそれを作り、どのようにして房親に渡り、なぜそれを大切にしたのかという興味がわく。偽物と知ってのうえで何かの目的があって持っていたのだろうか。それとも偽物と見破れずに喜んでいたのだろうか。誰が書いてどういう風に手渡したのだ。あるいは単に骨董《こつとう》屋に買わされたのだろうか。しかし、これの持主の房親はそういう門外漢ではない。西郷と同時代を生きた薩摩の戦士だ。そんなことがあったとは考えにくい。むしろ、西郷の知遇を受けていたというあの文字が本当なら本物があるほうが自然だともいえる。
どうであれ、これに何が書いてあるのかはどうしても知らねばならない。
「これを借りていっていいかな。誰か読める人がいる筈《はず》だからね。偽物か本物かも分かるにちがいない。調べてみるよ」
二本の桐箱を自宅に持ち帰った。すぐに新潮社で担当をしてくれている今田さんに相談した。今田さんはすぐに手配をしてくれた。そういうものを読んでくれる人がいるので一週間後にその方のところに連れて行ってくれるということになった。
それまでのあいだ、とにかく西郷隆盛について何でもいいから知ろうと思った。本屋に行き、手当り次第に本を買ってきた。最初は何を読んでもさっぱりわけが分からなかった。そのうちにおぼろげながら明治維新の周辺と西郷のことが少しずつ頭の中に残るようになった。そしてある日、ついに大当りにめぐりあった。
司馬遼太郎著「翔《と》ぶが如《ごと》く」を読みはじめてすぐに、いきなり次のような個所に遭遇したのだ。
「この藩人事がおわったとき、戊辰戦争に小隊長として従軍した山下房親という者が、ある日西郷をたずねて、
『川路どんが入っておりませんな』
と、奇異に思った。奇異に思われるほどにこの戊辰戦争終了の時点ではすでに川路の存在は大きかったのである。
『ああ、正《しよう》どん(川路)のこっな』
と、西郷は言い、正どんの役目については別にすでに腹案がある、といった。首都警察の指揮官にすることであった」(文春文庫版第一巻八八〜八九ページ)
藩人事とは、戊辰戦争の勝利の後、鹿児島に帰った西郷が新たに薩摩軍の再編成にとりかかったそのことを指す。そのときに「川路さんはどうなっているのですか」とわざわざ西郷に聞きに行った者がいて、それが山下房親だったというのだ。何らかの記録があるのだろう。想像で山下房親などという名前をいきなり思いつかれるような偶然があるとは思えない。
そしてこの個所から大事なことがいくつか分かった。つまり房親は戊辰戦争、すなわち明治維新戦争のときにはすでに薩摩軍の小隊長であったということと、そのようなことを西郷に聞きに行くほど、西郷とも川路とも親しかったということだ。
こうして墓碑銘の内容を裏づける最初の文章に出会った。川路というのは川路正之進、のちの利良《としよし》だ。この日本国に最初の警察制度をもたらした功労者だった。川路と房親と啓次郎というラインでたちまち謎《なぞ》がとけていくような気がした。
「ああ、これは直筆ですね」二通の手紙をちょっと調べてから、北小路健さんが言われた。それからこちらであらかじめ作って持っていったコピーを手にとり、現物と比較しながら色々チェックされた。「西郷さんの字は読みにくいのですが。ふんふん。ああ、これはなにか参議のことも言っていますね」
「というと明治四年あたりですか」
「そうなりますかな」
温厚で風格のある北小路さんは会津の出身で今は明治時代の自由民権運動に興味があるとおっしゃった。それが先祖同士の立場としては大変具合の悪いものであるということがすこしは分かるようにはなっていた。どことなく冷汗が出てくるような気もする訪問だった。
「ちゃんと読んだものを届けておきます」
「よろしくお願いします」
大変な成果に興奮しつつ、北小路家を辞して、同行の今田さん、ご紹介者のやはり新潮社の斎藤女史と共に電車に乗った。
「本物でしたね。来たかいがあった」
「よかったですね。それにしても、山下さんが北小路先生と明治維新のことを話し出すと、もう我々の知識ではついて行けませんね」
「何を言っているのですか」
喜ばせてくれている今田さんは、灘《なだ》高から東大法科という人だから余裕がある。
「翔ぶが如く」を読み続けた。そこで描かれる西郷隆盛の軌跡に、そのそばに確かに実在した先祖の姿を重ね合わせて読んでいくのは、今まで経験したことのないスリリングな読書体験だった。墓碑銘の最後にあった「享年《きようねん》七五歳」と「大正四年」からその時々の房親の年齢を思い浮かべたりもした。他にも分かる限りの事実を年表のようにまとめてそばにおいて読んだ。
とりあえず分かったことは次のようになる。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
○ 明治維新(一八六八)のとき、房親は満でいえば二十七歳だった。
○ 啓次郎のほうの墓碑銘によれば前年の十二月に啓次郎が生れていた。
○ 房親はその維新の戦争では北越に行って戦った。小隊長だった。
○ 明治四年(一八七一)に東京に来て取締組の組頭というものになった。
○ 明治九年(一八七六)啓次郎は母に伴われて上京。つまり、房親が母子を鹿児島から東京に呼んだ。翌年の戦争を予感したからだろうか。
○ 明治十年(一八七七)西南戦争に警視隊参謀として出征。場所は肥後つまり熊本で、二重嶺という言葉があるがどこなのか不明。
○ その戦争で片足を撃たれ切りおとす。
[#ここで字下げ終わり]
西郷隆盛は明治十年以後は生きていないから、房親と西郷が一緒に生きていたのはここまでだ。
最初の大当りの再現を期待して読んでいったが、その後山下房親の名は出てこなかった。しかし、全編を通じて日本に最初の警察制度を作った川路利良のことが大変くわしく扱われていて目が離せなかった。そして、その関連でとうとう二度目の大当りが飛び込んできた。
「西南戦争」と「警視隊」については文庫版では第九巻以後に扱われている。そこにとうとう「二重峠の戦い」という個所を見つけたのだ。墓碑銘にある「二重嶺」は「二重峠」のことだったのだ。「ふたえとうげ」と読むらしい。これにちがいなかった。戦闘の行なわれた月日も合致していた。
そしてその記述によれば二重峠の戦闘では、明治維新の悲劇のある側面を象徴するような出来事が起きていた。今度は名前は出てこなかったが、間違いなくそこに山下房親は立ち会っていたのだ。
もっとくわしいことが知りたかった。いてもたってもいられなくなった。鹿児島にまた行かねばならない。あそこの図書館に何かあるはずだ。やみくもにそう思った。
「西郷さんの手紙は本物だったよ」再び実家に報告した。
「ほう。そうか」
「まあ。本当。それで何が書いてあったの」
「まだよく分からない。分かったらすぐに知らせるよ。それからまだ大変なことがある」
「翔ぶが如く」の第一巻を取り出してページをひろげてみせた。
「ここに房親さんが出てくるんだ」
「ほう」
「まあ」
「本当に」隣の家から姉までとんできた。
おれはこれまでに知ったことをすべて話した。話していくうちに先祖の姿がますますはっきりとしてくるようだった。
「房親さんは川路という人と一緒に仕事をしたらしい。知っている」
「ああ。川路さんは大警視だ。警視総監だよ」
父親は当然のことのように言った。くわしいことは分からないと言いながらも、おれが今の今までその名も知らなかった川路利良の存在を「大警視」などという特殊な言葉とともにこのように当り前のこととして喋《しやべ》る。そういう家だったのだ。もしかしたら父親は何もかも知っているのではないかと一瞬思った。
「とにかく、また鹿児島に行ってくる。しばらく滞在して分かることを全部調べてくるよ」
[#改ページ]
第十章
鹿児島に出かける前に思いついてまた実家に電話をした。
「家には家系図はあるの」
「そういえば、ユウグマさんが何か書き残していたわねえ」
黙っていると分からないが、聞けば必ず何かあるというタイプの家らしい。
「ユウグマさんって誰」
「啓次郎さんのお兄さんですよ」
そうか。房親には長男もいたのだ。それにしても何という名前だろう。
「見せてくれないかな。明日取りに行くよ」
それは十枚ほどの紙に細かい字がペンとインクで書いてあるものだった。漢字とカタカナが使われていて次のように始まっていた。
「抑《そもそ》モ山下家ハ薩摩ノ国谷山郷山下家ヨリ分家シ………」
ユウグマは雄熊と書くのだった。それにしてもすごい名前だ。
家系図の一番最後のところを見ると、おれの名前が書いてあった。
「え。雄熊さんは昭和十七年まで生きていたの」
「いや、その前年に亡《な》くなった。それはおれが書き足しておいたのだ」父親が言い、さらに別の紙をとりだした。
「それをもとに、房親さんと親父《おやじ》のところはここに全部整理して書いておいた」
わざわざ作ってくれたらしい。思いがけないことだった。先祖の探索となるとやはり父親も血が騒ぐのだろうか。それとも実は何もかも知っていておれの再調査をそれとなく助けてくれているのか。
一枚の紙に山下房親の十一人の子供と、啓次郎の七人の子供の名前が系統図で書いてあった。それぞれの出生と死亡の年月日、男ならもらった嫁の名前とその父親の名前、女なら誰のところに嫁に行ったかが正確で几帳面《きちようめん》な字できちんと記されていた。
家に帰ってこの紙をじっと眺《なが》めるだけで色々なことが分かった。
房親は天保十二年だから一八四一年の三月に生れ、大正四年つまり一九一五年の同じ三月に死んでいる。満で七十四歳ということになる。十九世紀の中頃《なかごろ》から二十世紀のはじめまで生きたのだ。
啓次郎は慶応三年つまり一八六七年の十二月に生れて昭和六年というから一九三一年二月に死んでいる。これはちょうど世紀の変わり目をはさんで半分ずつの人生だったわけだ。三十三歳で二十世紀をむかえ、以後も三十一年生きたことになる。
今でたとえれば、一九六七年生れの者はちょうど啓次郎がそうしたように世紀の変わり目を三十三歳で越していくことになるのだ。そして、おれはといえばちょうど房親の百一年後一九四二年の生れだから、世紀の変わり目に生きているとすれば房親がそうであったように五十代の終わり頃ということになる。
なるほどそうか。そして一九七一年生れのおれの息子は啓次郎と百四歳ちがいだ。とすると房親、啓次郎親子もおれたちも世紀の変わり目という節目に対しては相対的に同じ条件で対していることになるのだ。
それならば、百年の時差がありつつも同じ六〇年代とか七〇年代という風な考え方はできないだろうか。
おれの歴史では六〇年代のはじめが二十代のはじまりでそのへんから色々なことが起きだした。六二年、つまりその百年前には生麦事件が起きている年に、はじめて外国に行った。グアム島の米軍空軍基地にショー一座と一緒に行ってピアノを弾いたのだ。翌年、むこうで薩英戦争がはじまった年にはインドネシアに行った。両方とも無断ででかけたから、寺小屋いや学校の先生から大変怒られた。
六〇年代後半には世の中が騒然としてきた。アメリカと幕府、じゃなかった政府との条約締結が亡国の挙であるとして、これに反対する者が周りに続出した。棒を振りまわし、石を投げ、火炎瓶《かえんびん》を投げ、武器を奪い、大勢集まって騒乱状態を起こした。新兵器を積んだ黒船に寄港を許すな開港反対といって港におしかけてあばれた。アメリカの大統領が来るはずだったがあまりに浪士たちが暴れるので中止になった。名代が来たが攘夷《じようい》派の志士たちに襲撃されヘリコプターで逃げた。
熱に浮かされたように革命と口走る奴《やつ》が大勢いた。当り前の奴は仲間に入れてもらえない雰囲気《ふんいき》があったのだ。革命家か、哲学者か、芸術家でなければ仲間とは見なされなかった。そうでない奴も昼間から酒を飲んだりラリったりすれば仲間になれた。そういうことをすれば、革命家や哲学者や芸術家に見えやすいのだ。まあたいていはただの酔っぱらいやラリパッパだったのだがそれでも構わず混ざってやっていたのだ。
色々な人物の品定めをし、議論をし自分の一派に引き入れようとした。意見がちがうときは口論になり喧嘩《けんか》になり殴りあいにもなった。国事に奔走というものの実態はこれではないか。
この中でおれはといえば歌舞音曲をやる以外のことは考えなかったが、革命の空気だけは充分に吸わせてもらったのだ。
そして、百年前の騒動では、とうとう政府が倒れた。しかし、百年後には政府はびくともしなかった。軍隊が出るまでもなく警察だけで反政府派を蹴散《けち》らしてしまった。百年をへだてて、六〇年代の後半に事件が起きやがて終わった。むこうでは政府が潰《つぶ》れ、こちらでは安泰だった。
七〇年代以後はひと騒動終わったあとの時間ということになる。七七年にむこうでは最後の内戦である西南戦争が起きた。こちらでは日本赤軍ダッカ事件が起きている。この頃にはおれは六九年にトリオというグループ演奏組織を一緒に作った相棒二人とは別れていて、新メンバーでヨーロッパに行きはじめていた。
ちなみに創立メンバーのうち、最初にテナーサックスの中村誠一がトリオを離れたのが七二年、百年前で言えば明治五年で征韓論騒動の一年前だ。ドラムの森山|威男《たけお》がやめたのが七五年、明治八年だった。このときにはすでに西郷隆盛も鹿児島に帰っている。
ということはトリオの創立とその後の存続という事実との関係で言えば、誠一が板垣退助で、森山が西郷隆盛で、おれが大久保利通だということになるのだろうか。
とめどない妄想《もうそう》的アナロジーが湧《わ》き上がる。
さらに家系図をながめると、そこには今まで気がつかなかった女の運命というものも読みとれるのだった。
房親の長女栄は、元治元年つまり一八六四年薩英戦争の翌年に生れている。十二月だった。ということは、これをあの十月十日《とつきとおか》の原則に照らし合わせると、少なくともその年の二月頃までには房親は結婚していたということになる。相手は木佐貫伊右衛門という人の三女で寿賀《すが》という名前の娘であると記されていた。
さてその二人の間に最初に生れた栄だが、この娘が十九歳で大山綱昌という人のところへ嫁にいく。この時はすでに八〇年代の明治十六年(一八八三)で啓次郎は十六歳だ。ところが家系図によるとたった三年後の明治十九年(一八八六)に次女の徳が、同じ大山綱昌の後妻として嫁《と》す、ということが書かれていた。つまり、栄は嫁にいき三年目までには亡くなってしまった。すぐに妹の徳が、計算によればたった十六歳のロリータ妻となって姉の後をついだということなのだ。
この大山綱昌という名前は房親の碑文にあった。大山綱昌|撰《せん》、山下啓次郎書となっていたのだ。つまり碑文の字句をこの人が考えそれを啓次郎が書きうつしその書体を職人が石に彫ったのだ。
「大山さんという人は誰なの」
電話で母親に聞いた。
「ああ大山さんね。あの方は将軍の落しだねだという噂《うわさ》があってね。あたしも一度お目にかかったことがあったけれど本当に御簾《みす》の中で白い着物を着てお公卿《くげ》さんのような態度でいらしたのよ」
ますますわけの分からぬ言葉が返ってきた。将軍の落しだね。どの将軍がいつどうやって落としたのだろう。
雄熊さんの書いたオリジナルの家系図を念のために調べると、何と一代前にも大山家に嫁に行っている者がいた。房親と清太郎の姉に廣《ひろ》という娘がいて、これが大山探賢という人のところに嫁に行っているのだ。探賢は綱昌の父親ではないかととっさに思った。とすると栄と綱昌は血族結婚にならないか。ええと、栄から見て廣はおばさんだから、その子供の綱昌は、あ、従兄弟《いとこ》になるのか。従兄弟同士ならこの時代めずらしくないのかもしれない。それとも、将軍の落しだねだからもともと血族結婚の心配はなかったということなのか。
啓次郎のところを眺めるとそこにはこう書いてあった。
「明治三十一年、末弘直方長女直子と結婚」
末弘直方というのがおれをかわいがってくれたあのおばあさんの父親なのだ。この人も何か房親と関係がある筈《はず》にちがいない。この名前を探しながら「翔《と》ぶが如《ごと》く」をめくった。この本はもはや今回の探索作業においての教科書的存在となっている。
その名前を見つけることができた。
文春文庫版の第七巻一三六ページ「東京獅子」の章だ。東京獅子というのは「あずまじし」と読み、鹿児島の私学校党が東京から送り込まれた同じ鹿児島出身の警視庁所属の者たちを「密偵《みつてい》」あるいは「暗殺者集団」とみなして敵愾《てきがい》心と侮蔑《ぶべつ》の感情をこめて呼んだ言い方らしい。ここにいたるまでの経過が長い。分かったことを整理してみる。
西郷隆盛と大久保利通の鹿児島コンビは長州や土佐の軍隊と手を組んで徳川幕府と戦争をはじめた。その時に天皇を味方にして自分たちは官軍、徳川一派は賊軍というブランドを作り上げた。日本中のあらゆるところで徳川に味方するものと官軍と称する新興勢力との戦いがおきた。すぐ降伏する大名もいたがあくまでも徳川と一体となって戦う大名もいた。会津や長岡は最後まで戦った。しかし、そのころには徳川家の将軍|慶喜《よしのぶ》はすでに降伏してしまっているという妙な事実もある。
そして、武器の性能の差か、攻めるものと守るものの勢いの差か天皇ブランドのせいか、それが時代の勢いというものなのか、ともかく暴れだした一味のほうが勝ち、家康以来二百六十五年間も続いた徳川幕府は無くなった。徳川家というものもあっというまに無いも同然になって静岡あたりに追っぱらわれてしまった。
薩摩、長州、土佐あたりの目立つ連中が徳川家にとって代わってこの国を支配することになった。明治政府の始まりだ。
鹿児島の西郷と大久保はそれぞれ軍事力と政治力というコンビでうまくやってきたのだが、戦争が終わると軍人たちは当然仕事がなくなる。おまけに近代国家にするのだといって大久保たちは今までのサムライつまり特権的戦争請負人という身分を廃止してしまった。廃藩置県や徴兵令でサムライの特権は全部無くなった。鹿児島は四人に一人はサムライだという極端な地域だから、特に不満が充満し、何とかしてくれといって西郷に期待した。しかし、その西郷は妙なことに廃藩置県をやった立て役者でもあるのだ。
東京で職にありついてうまくやっているものたちはうらまれた。特に明治六年に征韓論騒動というものがあって西郷が政府をやめて鹿児島に帰ってきてしまった頃から騒ぎが大きくなった。このときには兵隊や警官として東京で職を得ていた鹿児島人は二つに分かれた。西郷に従ってどんどんやめて帰ってしまうものと、そのまま東京にいると決めたものとだ。先祖の房親はこのとき居残ったということがはっきりしている。
以後明治十年まで鹿児島は西郷を中心とした不思議な独立国の観を呈した。政府の言うことなど一切聞かない反抗的過激地域となったのだ。中心にいるのが何しろサムライたちの人望を一身に集めている大英雄でこの国|唯一《ゆいいつ》の陸軍大将の資格をいまだに有している西郷隆盛だ。政府は気が気ではない。いつ武器をもって暴れだすか分からない。
私学校というのはそのころまでに西郷によって設立されていた鹿児島独特の教育機関のことだった。文武両道と共に当然そのような反政府的思想教育もほどこされていた。この時期鹿児島にいて私学校に入るのがいやだというのはむずかしかったろう。しかし、一方ではこの頃には全国に学制というものがしかれ小学校があったのだ。このへんはどうなっていたのか。
こういう状態のところで暮らさねばならなかった東京居残り組の家族の立場は容易に想像される。居づらかったにちがいない。あるいはイジメやリンチのようなことが起きる可能性もあっただろう。そして、碑文によれば啓次郎は「明治九年母ニ従ヒテ上京」している。つまり、東京の父親、山下大警部は家族をもうこれ以上鹿児島に置いておけないと判断して、何らかの方法で呼び寄せたのだ。
このような時、明治十年早々に大警視川路利良が鹿児島出身の警官たちをその郷里に送り込んだ。それが東京獅子と呼ばれた一団だった。
征韓論論争の真相と同じく、この事件の真相もよく分からないとされている。穏便な説得をめざしたという説もあれば、最初から挑発《ちようはつ》の目的だったともいう。ほっておくと西郷の不名誉になるから、暗殺した方がよいという過激な考えもあったらしいし、わざと密偵であることをばらすようにという指示があったという解釈もある。あるいは、警官の「視察」と西郷「刺殺」の間違いが騒動を起こしたということもいわれる。
とにかくそうして送り込まれたもののうち、首領格の一人がつかまり拷問《ごうもん》を受けた。私学校側の考えを裏づける自白がなされた。それで私学校党の過激派が怒り、政府所有の弾薬庫を襲撃した。西郷はこれを聞いて「しまった」と言ったというが、もはや押さえきれず、「この体、お前らにあずけた」といって、戦争が始まったのだ。
長々しい背景の説明だったが、実はこの二十三人の「密偵」の中に、末弘直方の名を見つけたのだ。
平佐郷士族
二等中警部 末広 直方
書生 柏田 盛文
元評論新聞記者 田中 直哉
[#地付き](文春文庫版第七巻一三七ページ)
派遣された者の名はそれぞれ出身地別に記されているが、平佐郷は鹿児島市の西北|川内《せんだい》市の一部になる。そして「カゴシマのセンダイ」という妙な地名は子供の時から聞かされていた祖母の出身地と一致するのだ。そして、その祖母の実家の姓が「スエヒロ」であることも何となく昔から知っていた。
家系図と一冊の本からこれだけのことがとりあえず分かった。つまり、おれをかわいがってくれたあのおばあさんは、この時の警視庁の密偵の娘だったのだ。
とんでもないことになってきた。父方に二人いる曾祖父《そうそふ》が一人は片足の刑務所長で、一人は西南戦争の引き金になった密偵の一人だったとは。
この調査は最初はじいさんが刑務所を作ったと知ってびっくりしたのが始まりだった。大変困ったがそれには理由があるはずだと思って調査を始めたのだ。どこかに冤罪《えんざい》を晴らすというような気持ちもあった。ところが出てくる事実はどうだ。その啓次郎じいさんの父親が刑務所長で、もらった嫁の親父《おやじ》が密偵警官だった。くそなんてこった。と思わず翻訳調でつぶやかざるを得ない。理由があるはずだどころの騒ぎではなかった。理由だらけだった。これでは啓次郎じいさんが別の人生を選べるチャンスはほとんどなかったのではないか。
色々なことが分かりはじめると同時にあらゆるものが入り乱れて頭の中がモーローとしてきた。そのモーロー頭のままとにかく鹿児島に飛ぶことにした。
早駕籠《はやかご》にとび乗って鹿児島に着き、そのまま鹿児島大学の原口泉先生の部屋にとび込んだ。
部屋全体が資料に埋《うず》まっていたが、その中にソファと机が奇蹟《きせき》的に存在していた。そこに座って、しかし、何から聞いてよいのか整理もつかない。
「ぜいぜい。ええと。あの。実はじいさんが刑務所を作って、それであのそのまたおやじが鹿児島の出で、西田町というところで、それから西郷さんが出てきて、おまわりさんになったら片足がなくなりました。どうしたらよいでしょう」
「まあま落ち着いて下さい」美男子の原口さんはにこにこと応対してくれた。余裕のない患者を見るお医者さんのようだ。
「少し調べておきました。これが西田町の古い地図です。山下という家がありますね」
甲突川があり西田橋があった。橋のかかっている大きな街道の下流よりに小さな用水が川と直角に西田町のほうに流れていて、それに沿った集落のうちの一軒に山下と記されていた。
原口さんは西田という場所の特殊性について話してくれた。
下級士族の住むところであり、中心に近い上町《かんまち》のよいところからは一段低く見られる。同じ下級武士の住まいであった加治屋町のあたりとも川をはさんで近いが、あちらは西郷や大久保が出て上町の上級側近クラスに対して藩内クーデターなどで対抗した。しかし、西田はそのどちらともちがう様子がある。どちらかといえば話の分かる連中がいるという感じがすると原口さんは言われた。またそこは城下で唯一|市《いち》が立った場所であり、芝居小屋があり、殿様の別荘もあり、桜が咲き、田んぼには鶴《つる》や鴨《かも》や雁《がん》も舞い降りた。八田知紀《はつたとものり》や税所敦子《さいしよあつこ》という歌人たちも輩出した。京女を薩摩隼人《さつまはやと》がさらってくるということもよくあり、税所敦子の場合もそうだった。「節婦物語」というのがあって、言われてみるとその話はおれもどこかで聞いたか読んだかで知っていた。
京都薩摩屋敷勤務の税所|篤之《とくゆき》の後妻となった二十歳の京都娘敦子は才色兼備の歌|詠《よ》みだった。しかし、夫に死別すると一度も行ったことのないその故郷の鹿児島に移り、姑《しゆうとめ》と先妻の二人の子、自分の娘、それに亡夫の弟一家の計十人と共に住んで家を切りもりした。風俗習慣も京都とは大ちがいだったし、姑はいじわるでことごとく辛《つら》くあたったがよく仕えた。しかし、姑の悪意は止《や》まずとうとうある日、「わしは鬼ばばと呼ばれている。お前は歌詠みだそうだがこの憎い鬼ばばのことを詠めるものなら詠んでみよ」といじめた。そのとき敦子は少しも騒がず即座に「仏にもまさる心を知らずして、鬼ばばなりと人のいうらん」という歌を詠んだ。結構簡単な歌のような気がするがこれに鬼ばばは感心してしまい、以後心を入れ替えて仲良く暮らした。やがて敦子は宮中に召されて明治天皇夫妻に仕えたというお話だ。
この人も西田の住人だった。
「啓次郎には房親という父親がいました。この人が戊辰《ぼしん》戦争で北越に行っているのですが実際にどこへ行ったのか分かる方法はありませんか」
「では資料室の方へ行ってみましょう」
大学の資料室に行った。そこで気鋭の専門家から戊辰戦争前後の歴史の講義を受けながら資料を次々と調べてもらうというこれ以上ないぜいたくな時間をすごした。
原口さんは何と「薩摩藩軍事力の基本的性格」という著作のある方だった。まさにお手のものなのだ。
「房親さんは小隊長だったわけですね」
「そうです。小隊というとどの位の人数ですか」
「戦闘員が八十人、医者や従卒を加えて百人位になります。実際の戦闘では伍長《ごちよう》や什長《じゆうちよう》に率いられて十人位の戦闘単位になることもありました」
「そうなると、あのテレビ映画の『コンバット』のようなものですか」
「そうそう。あれですね。北越というのは越後と庄内で戦ったわけです。西田は水が出るとすぐに漬《つ》かってしまう水びたし地区でもあったわけですが、越後の雪解け増水地帯での戦いはもっと大変だったでしょうね」
三連音符を用いた断続的なスネアドラムのリズムテーマの上に、上下に開離して行くトランペットとバスクラリネットを基調とした和音が響く。
「カービー、ついてこい。リトルジョン、掩護《えんご》しろ」
房親はそう言うと刀を抜いて走りだそうとした。
「待って下さい。小隊長。それはおれのセリフです」
独特のヨタったような姿勢で小銃を小脇《こわき》に抱えたサンダース軍曹《ぐんそう》が文句を言った。
「すまんな。書いている者が子孫とはいえでたらめな奴《やつ》だから仕方ないのだ」
房親は雪解けのぬかるみの中を刀を抜いて走った。敵塁に飛び込み、たちまち数人の敵兵を切りふせた。はずだった。しかし、そうはならなかった。塁の中には誰もいないのだ。次の塁もまたその次の塁もそうだった。
「敵はどこだ」
房親はわめいた。
「敵を出せ。敵を連れてこい。サンダース、敵をはやく出すように作者に言え。これではおれの出番がない」
「きっとあんたの子孫がまだこの戦いのくわしいことを調べていないんでしょう」
サンダース軍曹がヨタった姿勢のまま面倒くさそうに言い、横を向いた。
「山下房親という小隊長の記録はありませんか」
「はい。調べてみましょう。ほら見て下さい。あの方面には、城下七番隊、八番隊、十番隊が出撃しています」原口さんはぶ厚い本をめくりページをさし示してくれた。「十三番隊と十四番隊はあとから助けに行っています。あと、三番遊撃隊も行っています。外城隊では、外城一番隊、二番隊、三番隊、四番隊が行っていますね」
戊辰戦争は慶応四年(明治元年)一八六八年の一月の鳥羽《とば》伏見の戦いによって始まり、四月には江戸開城、さらに戦線が東北や北陸、さらに北海道と移動して行く。薩摩藩はこの戦いに四十二小隊を出動させた。戦いが終わった明治元年の暮れから二年にかけて兵士たちは次々に凱旋《がいせん》帰国してきた。このときには凱旋兵士たちは大変な興奮と勢いだった。実戦を力で戦い、関ヶ原以来の大戦争をやってとうとう仇敵《きゆうてき》の徳川をやっつけてしまったのだ。
主力の下級武士の勢いは凄《すご》く、実績を背景にのさばったのは当然だった。たとえば、保守派の上級の者を下級の者が激しくなじり、そのために上級の者が発作を起こして死んでしまったなどという話さえある。
「しかし、このすべての隊の記録に山下房親という小隊長の名前はないですね」
「そうですか」がっかりした。公式記録にないものがどうしてあのように誇らしげに墓石に刻み込まれているのだろう。
「どこにいたんでしょうね」
あの字句は嘘《うそ》だったのだろうか。
そろそろ日が暮れてきて資料室が閉まる時間になった。原口さんは色々な本の名をあげてまだ探せる可能性があることを教えてくれた。特に「大西郷全集」というものをよく読んでみることをすすめられた。
「本当にありがとうございました。ところで、よろしければお食事をご一緒にいかがですか」
まだまだ聞きたいことが山程ある。こんなチャンスはまたとないからこちらもずうずうしくまとわりつくしかない。
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第十一章
鹿児島大学の資料室を出るともはや薄暗くなっていた。
原口さんが食事もつきあってくれることになったので、揚村《あげむら》さんと落ちあって三人で鹿児島の郷土料理の店に上り込んだ。
サツマアゲやブタの角煮を食べながら聞いたこともない名前のおいしい芋焼酎《いもじようちゆう》を飲んでいると、一瞬、諸国を漫遊してその土地の傑物と交わる幕末の志士のような気分になりかけた。しかし、実際は大学ノートを持ち、ひっきりなしにボールペンでメモをとるという余裕のない態度だ。このような場所に来ても原口さんを質問責めにしている。
「明治九年に西田町にいた九歳の子供はどんな育ち方をするのですか」啓次郎の幼年時代の姿を知りたかった。
「やはり心身共に薩摩武士の基本は叩《たた》き込まれたのではないでしょうか」
「明治になっているのにですか」
「はい。特に鹿児島では昔通りのやり方を変えませんでした」
原口さんはそういって、鹿児島独特の伝統的な「郷中《ごじゆう》教育」の話をくわしくしてくれた。後年イギリスが手本にしてボーイスカウトを発足させたとまで言われる独自の青少年自治生活システムだ。それから話が自然に啓次郎本人ではなく彼が生れた薩摩の風土についてのものになっていった。薩摩武士に関する様々な面白い話を聞かせてくれた。肝《きも》だめしやお稚児《ちご》さんの話があった。
さらに犬食いと骨切りの話もあった。
維新後、東京に駐留していた薩摩の兵隊が、飯屋で「親子どんぶり」というものを食べた。すると何人かが興奮し、店の給仕女によからぬ振舞いを始めた。どの位よからぬのかはくわしくは聞かなかったが、後にこれが問題にされて以後親子どんぶりを食ってはならぬというお達しが出たというから、相当なよからぬ振舞いだったにちがいない。バンドマンが新幹線の中で売子娘のおしりをなでてしまうという程度のものではなさそうだ。まあとにかく肉食が異常な興奮を起こすのだろうということから禁止令が出された。ところが薩摩の者は肉食が平気の上に大変好きだった。公《おおやけ》には駄目《だめ》でもそれに代わる素材はそこらの路地裏をのそのそしている。その日以後、その近辺にいた犬の姿が何となく減っていった。そして、一シロ、二アカ、三クロ、四トラ、五ブチ、などという言葉がとびかった。食べてうまい順に犬の種類、毛並を言っているのだ。とんでもない奴《やつ》らなのだった。
このときに危うく難を免《まぬか》れた一匹の白イヌが、ショックのあまり人間になってしまった。これが人々に伝わって後に「元犬」という落語が作られた。
「鹿児島では肉は食べていたのですか」
「はい。昔から平気のようですね。正月にはかならずブタを食べますし、古くから牛も食べていた痕跡《こんせき》もあるようです」
そういえば思い出した。例の直子おばあさんも異常に肉が好きだった。スキヤキなどすると真っ先に肉を食べ、皆の食べないアブラまでおいしそうに平らげてしまった。そのおばあさんが寝たきりになってもうほとんど食欲も無いというときに母親が食べたいものを聞いた。すると「ブタのシオイリ」と言ったそうだ。この一族に初めて鹿児島以外から嫁に来た東京生れの母親は、何だかよく分からないままに見当をつけて、ブタ肉のアブラの無いところに薄く塩をかけてフライパンで焼いて出した。おばあさんはあまり沢山は食べられなかった。最後の時にうわごとのように言って欲しがったその食べ物は一体何だったのだろうか。
骨切りの話というのはこうだ。
薩摩出身の軍人は負傷して手術を受けるときに「麻酔をしないでくれ」という者が多いという。その方が治りやすいと思い込んでいるのか、勇気を誇示したいのか、手足を切断しなければならないような大手術でも麻酔無しでと言い張る。それで仕方なくそのまま切っていく。皮を切っても何ともない。肉を切ってもびくともしない。骨まで切り進んでも痛がるそぶりは見せない。我慢してしまうのだ。たださすがに、刃物が骨の髄に達してそれを切断するときに、かすかに全身が震えるのだそうだ。それではじめて痛がっていることが分かるというのだが、何というやせ我慢だろう。人間のできることとは思えない。いや、動物でもできない。動物は素直に痛がるはずだ。だからこれはそうと決めた人間の意志によってはじめてできる行動なのかもしれない。
原口さんはそういう話をしつつも、かならずしも質実剛健だけが薩摩武士の本質ではないとのお考えらしかった。しかし一般にはとにかくこのように、強いかもしれないが乱暴で粗野で傍若無人で単純で恥をかくよりも死ぬ方が平気だというのが、薩摩武士の典型として語られることが多い。こういう者たちにたまたま知性というものも備わり、白い歯を見せてにっこり笑ったりすると、京女などが思わず揺らめいて走り寄って行くということもあるのだろう。
などと考えつつ、先祖たちの地で彼らも飲んだに違いない同じ酒の味を体中にしみ込ませた。ノートはもうほっぽらかして飲んだ。百年の時間が消えようやく諸国漫遊の志士の気持ちになりかけた。
いつの間にか話は房親と川路利良のことになっている。
「川路どん一人では警察はやれもはん。かならず手足となって働いた者がいるはずでごわす」目の前の原口泉之丞がそう言った。
「そのとおりでごわす」
「おはんのご先祖がその役をされたかもしれもはんな」
「いかにも」
「ご存じか。川路どんは十七歳のときにわざわざ西田町に引っ越しておられるぞ」
「それは本当ですか」
思わず元に戻っておれは叫んだ。やはり最初から糸はつながっていたのだ。
「西田町の薬師馬場に移って来ていますね」やはり元に戻った原口さんが言った。
「その西田の村とか町とか馬場などの言い方はどうなっているのですか」
「つまり町人やお百姓の住む西田地区の中に、何々馬場と呼ばれる武士の住む一角があるのです。後にそのまま何々町と呼ばれるようになるわけですね」
「なるほど。山下家は鷹師《たかし》馬場にいたというのです。川路の来た薬師馬場とは先程の郷中の単位ではどうなりますか」
「西田地区には常盤《ときわ》郷中、正建寺郷中、西田郷中という三つの郷中がありましたが、鷹師馬場と薬師馬場はどちらも西田郷中に属しています」ぴったりと事実が合致してきた。
「すると川路は一八三四年生れだから、そのとき数え年で十七歳とすると一八五〇年|頃《ごろ》のことですね。すると房親が満十歳ですね」
「当然指導を受けていますね」
川路と西郷という後に宿敵のようになる二人の人物とそれぞれの縁で繋《つな》がりながら房親は生きていったのだ。
明日、図書館に行ってとにかく関係ありそうな本を片っぱしから調べまくろうと思った。
やがて、原口さんを見送り揚村さんとも別れてホテルに帰った。東京からファクシミリが届いていた。新潮社の今田さんからで、北小路さんが解読してくれた西郷の手紙だった。有難いことに今田さんがやってくれた読み下し文も添えられていた。しかし、今は読んでもよく分からない酔脳状態だ。猫《ねこ》に小判男だった。明日ゆっくり見ることにしてベッドにもぐり込んだ。
雪解けのぬかるみの中を刀を抜いて走って行く夢を見る。夢の常でいくら足を動かしても前に進めない。向こうの方に西郷隆盛がいてその西郷は浴衣《ゆかた》姿で背中にリュックとコーモリ傘《がさ》をかついでいた。道端に座って絵を描《か》いていた。巡査がやって来てそれを追い払おうとしている。その巡査は川路利良らしかった。二人はいさかいを始め、巡査がもう西郷ではなくなった小肥《こぶと》りの男をこづき回した。馬鹿《ばか》のように見えていた小肥りの男の顔がたちまち引きしまり、それは大きな戦いを決意した顔になった。おれはその戦いを止《や》めさせなければならない。そこへ早く行こうと思うがぬかるみに足をとられて動けない。その場であがき続けていた。
県立図書館は泊まっている鶴鳴館《かくめいかん》ホテルから歩いてすぐだった。
二階にあがって行った。そこにひろびろとした空間と無数の本があった。さてどこから始めたらよいのだろう。戊辰《ぼしん》戦争の頃のことは昨日あれだけ探して駄目だった。川路利良の方から探す線は勿論《もちろん》あるがどこか遠回りの感じもする。結局、墓碑銘に書かれている事実の強さに引かれて時間は先にとぶが、先《ま》ず西南戦争というものを手掛かりにすることにした。文献が一番探しやすそうな気がしたのだ。そのあたりの本から肥後や二重峠という言葉を探し、さらに、三月十八日進撃という日時によって、房親の痕跡を探していこうと思った。
索引カードをめくると案の定非常に沢山の西南戦争物があった。そういう内容の本ばかりが集まっている一角がある。そこに行き手当り次第に本を取り出しては机に運んで積み上げた。片っぱしからめくってみた。しかし、どれにも目指すものは出ていなかった。
肥後、つまり熊本の戦いではどの本でも熊本城の攻防と田原坂《たばるざか》が主だった。それをめぐって木葉《このは》とか植木《うえき》とか山鹿《やまが》とか川尻《かわしり》という地名が必ず出てくる。しかし二重峠などという地名はどこにも出てこなかった。何時間も色々な本を引っぱり出しては日時と場所を照合したが見つけることができなかった。
それもそのはずで、この三月十八日頃というのは田原坂の決着が着く寸前であり、どの本もそのことを書いていて二重峠など割り込むすきが無いようなのだ。
この二日後に田原坂で西郷軍が負ける。それまで十七日間、空中で敵味方の鉄砲の弾がぶつかるというような信じられないほどの激しい戦いが続いていたのだ。翌十九日には政府軍の海からの援軍が八代《やつしろ》の南の日奈久《ひなぐ》という所に到着している。
手当り次第に本を見るうちにも西南戦争の推移がおぼろげに分かってきた。
明治十年(一八七七)二月十四日のバレンタインデーに集結し、翌日めずらしい大雪の中を出発した西郷軍は総勢一万五千人位となって熊本に入った。応援に駆けつけた各地の反政府士族部隊と一緒に、すぐに熊本城に攻めかかった。熊本城には政府軍の軍隊が駐屯《ちゆうとん》していてこれを迎え撃った。城は加藤清正が作ったという堅牢《けんろう》無敵の名城で兵隊の持つ火器の性能もよく、旧式装備の西郷軍は攻めあぐんだ。そこへ東京の政府が送り込んだ援軍がやって来た。この政府の対応は非常に素早く、西郷軍の動きをすべて事前に知っているようだったという。プロフェッショナルのエージェントを潜入させて超小型コンピューターから衛星通信で情報が東京に送られたらしい。とにかくどんどん援軍を差し向けた。陸から海から兵隊に加えておまわり部隊の警視隊まで出てきた。川路利良は臨時の陸軍少将となって指揮をしていた。その警視隊の一員として房親も参戦していた筈《はず》なのだ。
到着した政府軍を西郷軍は迎え撃たなければならない。つまり熊本城と戦いながら外側からやって来る政府軍とも戦いに行かなければならなかった。その戦いで最も激戦だったのが田原坂の取り合いだった。十七日間、昼夜ぶっとおしで戦った。ここでついに政府軍が勝った。勝った政府軍は優勢となり約一月後には熊本城に入城することになる。以後西郷軍は敗走の旅となった。
西郷軍が熊本城にこだわらずに一気に東上していたらどうだったかということがよく言われる。途中でさらに多くの各地の不平士族からなる反乱同調軍を引き連れ、怒濤《どとう》と化して東京を襲ったかもしれない。維新戦争のときのように東京の政府軍が敗走するという展開になったかもしれない。そうなったら大久保、川路はまず生きてはいなかっただろう。そのときは房親も運命を共にしたはずだ。
熊本での戦いが岐路だったわけだが、それにしても房親と二重峠はどこにいったのだ。
さらに手当り次第に本を抜き出して見た。何となく慣れてきてそこに立ったままで必要なページをどんどんめくった。目指すものがあるかないかすぐに見当がつくようになっていた。といっても目指すものはいっこうに現れない。
しかし、とうとう「西南戦闘日注」という本を見つけた。表紙に「不許販売同盟印刷」とある。明治十七年印行と書いてあった。めくって行くとまず「凡例《はんれい》」として次のような字句が出てきたのだ。
「本書ハ旧別動第三旅団参謀部ノ編纂ニ係ルモノニシテ未タ世ニ公ニ発売セラルルモノニ非ス……」
「本書ハ西南征討ノ役東京警視官ノ戦闘ニ関スル景状及其諸報告等ヲ摘録纂輯ス……」
そして著者のところには「同盟主唱者識」と書いてあった。「識」という字には「しるす」「記録する」という意味がある。同盟主唱者という人たちが書いているわけだが「別動第三旅団」とか「東京警視官ノ戦闘ニ関スル景状」などという言葉からこれは警視隊側からの報告にちがいないと思った。別動第三旅団の司令官が川路であることは別の本で見て知っていた。これは有望ではないかと感じた。
まず目次を見た。上巻は「肥後国八代方面」となっていて、そこに「日奈久の役」以下ずらりと戦闘の行なわれた場所が並べられてあった。それらの地名を期待で目がくらみそうになりながら見ていった。随分昔に自分の受験番号を探したときと同じで頭の中が熱くなっている。しかし、全部で三十項目あったその地名の中に「二重峠」の字はなかった。下巻の「薩摩国鹿児島方面」も念のために見たが、その十四個所の地名の中にもなかった。
どういうことなのだ。またしても房親の言っていることに事実の裏づけがない。
「戊辰の役で北越に行った。小隊長だった」
「西南の役では警視隊参謀だった。肥後の二重嶺で戦って片足を無くした」
これらの碑文の内容のどちらにも今のところ客観的な資料の裏付けがないのだ。たしかに「翔《と》ぶが如《ごと》く」には「二重峠の戦い」が出てくる。どこかにそれを記した資料がある筈なのだ。しかし、もっとも頼りになるはずの警視隊側からのこの資料の目次には出てこない。戊辰戦争時の北越に関してはすでに何もなかった。どういうことなのだ。経歴|詐称《さしよう》か。生き残ったのをよいことに経歴のでっちあげをするというあの極悪パターンを房親がやったのか。
がっかりしながらそれでも本文のページをめくった。
最初の見出しが「明治十年三月十九日、日奈久ノ役アリ」と始まっていた。何だこれは。二重峠の戦いがあったという十八日はもう過ぎてしまっている。それにそれまでにも一月近く激戦が各地にあったのにその記録はどうするのだ。あ、そうか。これはあくまでも警視隊の記録だった。ということはたとえば一月前の二月二十二日に植木の戦いで政府軍の乃木少佐の部隊が軍旗を奪われたなどという正規軍隊側の大事件も報告しなくてよいわけだ。愚鈍頭がようやく理解する。
とすると警視隊が本格的な活動を開始したと自らみなしているのはこの頃からなのだろうか。それにしても二重峠の戦いは一日前に行なわれている。しかし、それもすでに正規の軍隊に比べればずいぶん遅い戦いなのだ。
しかし、よく見ると「西南戦闘日注」の最初の記述は一月からはじまっていることが分かった。なるほど、さかのぼって主なことは書いてあるということだ。それならまだ望みはある。
本文のはじまりは次のようだった。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
○ 「一月、乗輿《じようよ》京師ニ幸ス尋テ川路大警視(利良)命ヲ奉シ京阪ノ間ニ駐剳《ちゆうさつ》ス(駐剳ノ事ハ戦闘ニ関セサルヲ以テ略ス)是日更ニ陸軍少将兼大警視ニ任セラル」
[#ここで字下げ終わり]
「是日」というのは書いているその日つまり三月十九日だ。これでこの日から記述が始められている意味が分かった。乗輿とは天皇の意味だからつまり、天皇の命令で川路大警視は陸軍少将も兼任することになったと言っているのだ。何やら権威正当の裏付けから記述が始まっているということだろう。
さらに見ると警視隊の編成表があった。第一号警視隊から第四号警視隊まであり、指揮長、小隊長、半隊長の名前が出ていた。大警部で参謀のはずの房親はこれに名前が出ていなければならない。しかし、権少警視四人、大警部四人、中警部、少警部二十九人の中に山下房親の名は無かった。いったいどういうことだろう。房親はどこに行ったのだ。
それでもあきらめずにさらに本文を読んでいった。いや、読むとはおこがましい。漢字の山の中からただただ二重峠と山下房親の字を探した。すると十九日分のところで目のすみに信号がキャッチされた。その個所がクローズアップされた。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
○ 「大山二等中警部(綱昌)二俣ヨリノ報ニ長官ノ手書ヲ奉シ命ヲ諸子ニ伝フ衆皆感喜シ鋭気益振ヘリト」
[#ここで字下げ終わり]
大山綱昌というのは家系図によれば後に房親の長女、さらに次女が嫁に行く男だ。警視隊の中警部として二俣にいたのだ。何事かが納得される事実であり、何となく房親の姿が近づいてきたような気がした。するとその予感通り、隣の行できらりと光るものがあった。引かれるように見るとそこにまぎれもない二重峠という字があった。慌《あわ》てて前後の字を読んだ。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
○ 「近藤一等大警部(篤)豊後坂梨《ぶんごさかなし》駅(十七日)ノ報ニ二重峠ノ進軍期明日ニアリ土民ノ事|慮《おもんばか》ルニ足ラス且下官二三戦ノ後帰阪セントス即チ之ニ報ス帰ルヲ必スル勿レ後命ヲ俟《ま》ツヘシ」
[#ここで字下げ終わり]
やはり二重峠の戦いはあったのだ。十九日の時点で十七日の情報を書いている。二重峠は阿蘇山麓《あそさんろく》で日奈久は海岸だから連絡に時間がかかるのは当然だった。この十七日の報告に、明日進軍とあるから日時はぴったり合う。
報告者が土民と言うのはそこに住む人たちのことだろう。この戦いは、鹿児島と東京からいきなり軍隊がやって来て熊本で大暴れをはじめるというのが始まりだから、地元の人たちには大迷惑だった筈だ。それでも成行きで巻き込まれ、各所で士族、農民ともにどちらにつくかという問題が起きた。その状況を分析しているのだ。
報告者は地元民の動きは心配ないとし、戦闘はすぐに片づくと見て、終わったらそのまま大阪へ帰るなどと言っている。楽観的な人なのだ。本部では驚いて、すぐに帰るなどと考えるな命令を待て、と指示をしたのだろう。
とうとう二重峠のことが出てきた。続報が必ずあるにちがいない。目を皿のようにしてページをめくった。するとその十八日の進撃の様子は二十日になって本部に届いていることが分かった。大意は以下のようだ。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
○ 「香川という大分県令からの報告では、十八日に二重嶺(ここではこう書いてある)と黒川口というところで戦いがあった。二重嶺は未《いま》だに勝敗が分からず、黒川口はむしろ不利である」
[#ここで字下げ終わり]
もう一つさらに詳しい報告があった。その原文は以下のようだ。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
○ 「檜垣権少警視(直枝)大分ヨリノ報至ル十八日黎明兵ヲ分ツテ二重黒川両道ヨリ険ヲ冒シ一ハ潜カニ間道ヨリ出ツ午前第五時両道戦起ル間道ノ軍大ニ進ミ二重嶺ノ左翼ヲ狙撃ス賊険ニ拠リ固守頗ル苦戦ス遂ニ抜クコト能ワス是日死者佐川大警部(官兵衛)已下三十六人傷者三十人」
[#ここで字下げ終わり]
何とか句読点をつけて推測的に理解する。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
○ 「檜垣権少警視(直枝)が大分からよこした知らせでは、十八日の夜明けに兵を分けて進んだ。黒川、二重の両道に加えて間道から進んだ一隊もあった。午前五時戦いが起こり、間道を行った部隊はどんどん進み二重峠の左翼を攻撃した。しかし、賊の守りが固く大変な苦戦となった。とうとう抜くことができなかった。この日の死者は、大警部の佐川官兵衛以下三十六人。負傷者は三十人だった」
[#ここで字下げ終わり]
これは先程の楽観的な報告者の予想に反してとんでもない結果になっている。完全に負け戦だ。死者三十六負傷三十という数字が目に焼きついた。この数の中に、「兵を率い抜刀して敵塁に迫ろうとして左足を撃たれた」房親も数えられているのだ。
ようやく裏付けが取れたような気がした。田原坂のような主戦場ではないが、この山奥で戦って明らかに負けた部隊の記録がともかくもあったのだ。それにしても正規の隊区分にも入っていないこの部隊は一体何だったのか。
尚、報告中賊と書いてあるのは西郷軍のことだ。官軍である警視隊からの記述ではそうなる。また抜くという言葉もこの頃《ころ》の戦争に特有のもので、敵を倒し追い払って陣地を取るという意味らしい。その陣地の一つひとつは塁と呼ばれ、土嚢《どのう》などをつんで作ってある。
この敗戦の報に本部では二重嶺が抜けないのなら坂梨に行って応援を待てと指示している。
さらに続報を求めてページをめくっていった。しかし、日付が二十一、二十二、二十三日となるにつれて記述は氷川《ひかわ》や砂川《すながわ》という場所での警視隊の戦いの報告に大部分がさかれていて二重峠のことは載っていなかった。
ちなみに田原坂からの報告はわずか五行だった。報告者は例の大山綱昌だった。二十日の役で田原坂を抜いたという内容だ。不思議なことに田原坂の勝利を決したという警視庁巡査による有名な抜刀隊については触れていなかった。そのことは従軍記者によって新聞で宣伝され抜刀隊は一躍有名になって後には歌まで出来る。そういう巷間《こうかん》に周知の事実が抜けている。ここではそういうものはとりあげないという編集方針なのか。あるいはこれを編纂《へんさん》した別動第三旅団参謀部と抜刀隊は別の戦闘組織だったのか。このあたりはよく分からない。
この分ではもう二重嶺の続報は無いのかと思いながら二十三日分の最後まできた。すると再びその字を見つけることができた。無視されていたわけではないのだ。大意は以下のようだった。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
○ 「伊佐敷二等警部の坂梨からの報告によれば、十九日(つまり失敗に終わった進撃の次の日)の夜明けにここに着いて、すぐに檜垣警視に命令を伝えた。昨日は三面(三方面からか)で二重嶺を攻めたが、死傷者が非常に多く、とうとう抜けなかった。しかし、志気は益々《ますます》ふるっているので安心してくれ」
[#ここで字下げ終わり]
この時点での檜垣警視への命令というのが、先にあった「坂梨へ戻って援軍を待て」というものだったのかどうか、実際に起きている日時と書いた日時と命令が出され伝令が到着する日時とが錯綜《さくそう》してよく分からなくなる。とにかく、戦闘の次の日の様子が四日後に報告されて来たのだ。部隊はすでに坂梨に退却していてそこで反撃の態勢を整えようとしているのだろう。しかし、重傷を負っているはずの房親はもう戦えない。どうしているのだろうか。
その部隊からの報告がさらに届いているようにと祈りながら次の二十四日のところを見た。すると、どんな雑音の中でも自分の名前を呼ばれると聞こえるというあのパーティー効果そのままに、活字の山の中から探していたその名前が目の前一杯に広がった。
「山下三等大警部(房親)」とそこに書いてあった。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
○ 「檜垣警視坂梨ノ報ニ此地大分ト共ニ医員ニ乏シ且截断器械ナキヲ以テ傷者比々救ハレス今後事アル毎ニ必ス患フヘシ願クハ速ニ良医二員ヲ致サン山下三等大警部(房親)ノ如キハ現ニ截断ヲ須ヒサルヲ得スト」
[#ここで字下げ終わり]
あわてて前後を読もうとした。しばらくは漢字の羅列《られつ》が目に映るだけで焦点が合わなかった。やがてその字は次のように見えてきた。曾祖父《そうそふ》がそこにいた。曾祖父はそこにいて負傷に苦しんでいた。酩酊《めいてい》状態のようになった脳で何とか意味を分かろうとした。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
○ 「坂梨に退却した警視隊には負傷者が大勢いたが、医者がここにも大分にも少ない。そのうえ外科用の切断用の器械もない。そのために負傷者は度々救われない。手術をすれば助かるはずの者が何人か死んだ。今後も同じようなことが起きるたびに困ることになる。どうか、ちゃんとした医者を二名送ってくれ。たとえば山下三等大警部などは実際にどこかを切断しなければならない」
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全体の意味はとにかく早く医者を送れといっているのだ。その医者が必要な理由の駄目《だめ》押しのように、房親の名前が出てきていた。大警部であり参謀だったというから、そういう者が苦しんでいるということを知らせて本部が早く対応することを期待したのだろう。
文中の「須ヒ」は「もちい」と読み、用いるという意味だと辞典には書いてある。また待つという意味もある。撃たれた左足を包帯でぐるぐる巻きにしながら房親は他の負傷者と共に医者を待っていたのだ。
とうとう先祖の姿を見つけた。
しかし、熱い頭を冷して何度もそこを読むうちに別なことを考えた。このときにはすでに房親は足を切ってしまっていたのではないかということだ。文法上そう読めるかどうかは分からないが、撃たれたのが十八日でこの報告が届いたのが二十四日だ。これから医者を送るにしてもすでに六日たっている。銃創というものがどういう経過で体を蝕《むしば》んでいくのかは知らないがそろそろまずいのではないか。
たとえばこれが大藪春彦の主人公なら、ガーバーのクロムモリブデン製ナイフSP185で弾をえぐりだし、素手でしとめたヒグマの生肉五百キロを八リットルのコーヒーと五ガロンのオレンジジュースで胃に送り込み、ついでにボローニャソーセージを三キロ平らげて傷口にヒグマの肝臓をはりつければすぐに治る。しかし、房親は大藪小説を読んでいないだろうからそのような知恵は湧《わ》かない。第一、大分にはヒグマはいない。だから、ただじっとこらえているしかなかった。
しかし、その傷の様子から、足を切らなければならないという判断を誰かがしているのだ。一刻を争うと見たのかもしれない。そういうときにいつ来るか分からない医者を待っているものだろうか。どうやら昨日聞いた骨切りの話との関連で、ある種の予断と期待がこちらに生じている。
負傷者の収容所には少しは医学の心得のある巣具仁切蔵《すぐにきるぞう》という名の薩摩の者がいたかもしれない。
「大警部、これは切らないとまずいですよ」
「おれも痛くてかなわん。このままでは腐って毒が回る。よし切り落としてくれ」
なにしろ薩摩の連中のことだ。
「ではやりますよ」
焼酎《しようちゆう》をぶっかけて刀でゴリゴリゴリと切ってしまった。そのときに房親は言い伝え通り、皮を切られても肉を切られても骨を切られても一言も発しなかった。ただ骨の髄が切られるときに微《かす》かに身震いをした。
資料の中に先祖の名前をようやく発見して感慨にひたる間もなく、すぐに話があらぬ方面へとさまよう子孫なのだった。いやしかし、この先祖も不思議な出方をしてくれたものだ。散々待たせてようやく姿を現わしたと思ったら、思わぬ流血負傷技と共に登場した。その芸人的体質に妙な親近感を抱かざるを得ない。
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第十二章
ようやく二重峠の戦いと房親《ふさちか》の負傷のことが客観的な資料によってたしかめられた。結局二重峠の戦いは房親の属していた警視隊側の負け戦で沢山の死傷者を出した。その死者の中に佐川官兵衛という人がいたことも記されていた。そしてこの記録では単に「佐川官兵衛以下三十六名戦死」と片づけられているこの字句の実体が問題なのだった。「翔《と》ぶが如《ごと》く」のこの個所を読んだ時から気になっていたのだが、実はそこに房親も巻き込まれていたにちがいないある出来事がおきていた。
それは、総司令官の檜垣直枝と戦闘隊長格の佐川官兵衛との反目だった。実戦経験の乏しい司令官と百戦|錬磨《れんま》の名将が作戦面で意見の衝突をおこしたのだ。参謀としてそこに居たという房親はどうしていたのだろうか。またそこには出身地による複雑な様相もからんでいた。
まず佐川官兵衛だが、この人は会津の出だった。
戊辰《ぼしん》戦争では会津は最後まで薩摩と長州を中心とした官軍に対して猛烈な抵抗を続けた。戦いは激烈をきわめ白虎隊《びやつこたい》を含めて沢山の血が流された。その過程で薩長軍による残虐《ざんぎやく》行為も色々と伝えられている。戦後も会津藩は逆賊として扱われた。領地は取り上げられもとの会津藩の人々は青森県の斗南《となみ》という僻地《へきち》に追いやられた。食うにも困る過酷な環境だった。そして家老の出であり抜きんでた知将名将闘将として知られていた佐川官兵衛も切腹を許されずこの人々と一緒にいた。当然頼りにされる存在だった。
その人物に新政府で発足した警察制度の中心人物となっていた川路|利良《としよし》が協力を依頼してきた。明治七年(一八七四)のことだ。
警察はほとんど薩摩出身者でしめられていたが、旧敵の懐柔あるいは旧敵をもって反政府的動きをする新敵にあたらせようなどの思惑が入り乱れていたにちがいない。佐川官兵衛はこの依頼を受け部下を引き連れて東京にきた。得た役職が大警部だった。これは佐川官兵衛のような人にとっては大変低いものだと司馬氏は「翔ぶが如く」のなかで言っておられる。ちなみに、明治十年頃の東京府での警察組織の階級は次のようだった。
大警視。
中警視。権中警視。
少警視。権少警視。
一等大警部。二等大警部。三等大警部。
一等中警部。二等中警部。三等中警部。
一等少警部。二等少警部。三等少警部。
警部補。
一等巡査。二等巡査。三等巡査。四等巡査。
檜垣直枝が権少警視。山下房親が三等大警部であったことが判明している。
佐川官兵衛は宿敵の薩長がうちたてた政府の警察官となり西南戦争が始まると反乱を起こした薩摩人の鎮圧に部下の会津出身の警察官を引き連れて出戦したのだ。それが房親がいたのと同じ部隊だった。
政府への敵愾心《てきがいしん》は反乱の西郷軍と同じであるはずなのに政府の手先となってそれを討ちに行くという巡り合わせになった。別の隊にも会津出身の兵士は沢山いた。彼らはこれを戊辰の復讐《ふくしゆう》というコンセプトでとらえることができた。旧敵の薩摩人を今度は官軍の立場から討ちにいくのだ。事実彼らは「戊辰の復讐」と叫んでは切りまくったという。切り殺された西郷軍の兵士の多くは睾丸《こうがん》がくり抜かれていたなどという話さえある。それほど憎悪《ぞうお》が激しかったというわけだが、本来はこの「戊辰の復讐」という憎悪は政府の中枢《ちゆうすう》を占める薩長人たちに向けられていたものなのにちがいなかった。それがこのような現れ方をしたという複雑な様相があった。
佐川官兵衛が会津人の部下二百名と共に参戦した部隊の全軍は五百名だった。それをまかされていたのは檜垣直枝だった。佐川官兵衛は現在の身分上その指揮下に入らざるを得なかった。これが問題の発端だった。
その指揮官、檜垣直枝は土佐の人だった。坂本竜馬のエピソードの相手として必ず名が出てくる。そのエピソードとは次のようなものだ。
檜垣の差していた長刀を見て竜馬がもうそのような時代ではないこれで充分だと言って短刀しか持っていないことをしめした。檜垣が言われたとおり短刀を持っていると次に会ったときに竜馬はそれよりもよいのはこれだと言って懐《ふところ》からピストルを取り出して見せた。檜垣は今度はピストルを持ち歩きまた竜馬に会った。すると竜馬はそれももう時代遅れだと言って懐から万国公法の本を取り出し、これからの世の中ではこれが一番強いのだと言ったというものだ。
英雄豪傑の逸話の相手というのはいつもわりを食うものだ。この場合の檜垣も竜馬がいかに先見の明があるかということを強調するための引き立て役にすぎない。へたをするとしょせんこの程度の男かなどと思われかねない。ポジティブに評価すれば先輩の言うことを素直に聞く好青年ということにもなるのだが。
檜垣は幕末には藩の牢屋《ろうや》に入っていた。だから戊辰戦争での実戦の修羅場《しゆらば》はくぐっていない。維新後、人材|払底《ふつてい》とか土佐人の起用のバランスとか色々な「乱世の人事」の結果今のような地位についたとも考えられる。
西南の役がはじまったときに大警視川路利良はこの檜垣を総大将にして佐川官兵衛の会津隊をくっつけた警察官部隊を編成し九州に送り込んだ。そこに川路の幼|馴染《なじ》みの山下|龍《りゆう》右衛門《えもん》房親三等大警部も部下を率いて参加していたのだ。
山下房親は明治四年に上京しそのまま東京にとどまっていた。そしてこの西南戦争の前年の明治九年についに鹿児島から東京に妻子を呼びよせた。大きな出来事だった。以後この一家は二度と鹿児島に住むことはない。ただし本籍だけはずっと鹿児島市西田町だった。それを東京に移したのは昭和も三十三年になってからのことだ。一家が鹿児島を引き払ってから四分の三世紀以上の間、房親が生まれた西田町の番地がこの一家の発祥の地をしめし続けてきたのだった。
明治九年の一家の上京はあるいは脱出行のようなものではなかっただろうか。
しゃばどびうびしゃばどび、と水の流れる音が絶え間ない。
「啓次郎、何をしているのですか。早くいらっしゃい」
寿賀の低い声が闇《やみ》に響いた。
「母上、待って下さい。私はその、そちらではなくこちらの方に」
「何を言っているのです。この一刻を争う時に」
寿賀は困惑した。いつもは聞きわけのよい次男が何かにつかれたように逆の方向に一人で歩き出したのだ。
「馬鹿《ばか》、啓次郎。どこへ行くのだ」兄の雄熊があとを追う。しかし啓次郎は兄の手を振り払うようにして甲突《こうつき》川の上流に向かって歩いて行った。
「啓次郎、どうしたのだ」兄の雄熊もあとを追って闇の中に消えて行った。寿賀は三人の娘とそこに残された。十二歳の栄と六歳の徳、五歳の直だ。
ようやく上京することになって寿賀はとりあえず安心した。もはや今の鹿児島には住めない一家になってしまったのだ。夫の龍右衛門は西郷隆盛と一緒に東京に行ったが一緒には戻って来なかった。東京でポリスというものになっているという。それも西郷のすすめだったことを寿賀は知っていた。明治四年に一度上京してすぐに龍右衛門は鹿児島に帰ってきた。なんでもまだ用意ができないから一度帰って待っていてくれということだった。そのとき西郷は龍右衛門以下のメンバーにわざわざ会いにきて帰りの旅費をたっぷり渡してくれたという。やがて再度手紙が届き龍右衛門は満を持して出かけて行った。すぐにポリスの要職についたという知らせがありそのまま国もとでは主《あるじ》の出世を喜んでいたのだ。だが西郷が征韓論争で政府と相容《あいい》れず帰ってきてから、この国ではその出世が逆に重荷となった。
東京に居残っている者はよくないということにいつの間にかなってしまった。西郷を創始者とする私学校というものができ、いずれ子供たちがこれに入らないわけにはいかなかった。入れば武人教育や新しい武器の扱いの修得とともに自然に反政府的な教育も行なわれるのだ。最近になって各地で不平士族の反乱があった。熊本、福岡、萩《はぎ》に続けて起きた。そのたびに西郷が呼応して立つのではないかという噂《うわさ》がたった。いずれこの国でも反乱が起きるのが当り前のような雰囲気《ふんいき》だった。
このようなときに長男が十歳次男が九歳になっている。郷中《ごじゆう》にはむろん参加していたが子供同士の間でも東京居残り組を親に持つ者はどこか特別扱いをされた。西郷を擁して東京政府と一戦をやり、東京にいて外国にへつらい私腹を肥やし美妾《びしよう》をかこい士族を圧迫する奸賊《かんぞく》を除いて第二の維新を起こすのだという話も伝わってきた。となるとこの家の主も倒されるべき敵方にいるとみなされてしまう。
このようなときに東京から手紙が届いた。すべて手配をするからできるだけ早く上京せよという内容だった。戦いは避けられないと書いてあった。寿賀はすぐに子供たちに話し、次の日の夜には家を出ることにした。
こうして遠い先祖以来住み続けてきた西田を捨てたのだ。一家|揃《そろ》って西田橋を渡った。数えきれない日々行き来したこの橋を渡るのもこれが最後になった。渡り切ったところにある番所の役人は顔見知りだった。外に出て来て明らかに旅支度の一家六人をじっと見た。小さな六つの影が立ちつくしている。役人はかすかにうなずき道ばたによけるようにした。寿賀は深ぶかとおじぎをし六人は通りすぎた。
走り去った啓次郎と雄熊の後を追って寿賀は川の上流へ急いだ。永吉村の近くまでくると遠くの対岸にかすかに青白く光るものが見えた。なおも近づくとその光は消え川の手前にぐったりとした啓次郎を抱き起こす雄熊の姿が見えた。
「大丈夫ですか」寿賀は走りよってたずねた。
「大丈夫です」と雄熊は言い、啓次郎を肩に背負った。再び下流に向かって歩きはじめた。月が雲に隠れ川に沿って下る一家の姿を隠した。
「啓次郎はどうしたのですか」寿賀はたずねた。
「それがその。興奮のあまり幻覚を見たようです。うわごとを言っておりました」
「どのようなことを」
「ぽりぞんとかぷりざんなどというえげれす語らしいものを口走り自分は必ずここに帰ってくるのだと申しておりました」
「まあ。よほど国を捨てるのが悔しいのですね」
「私もそうです。母上」
「分かります。でももう仕方ありません。これはお父上がお選びになった道です。それに従うしかありません」
「はい」
「ところでさきほどの青白い光は何ですか。あなたも見たでしょう」
「はい。しかし私が啓次郎に追いついたときには消えはじめておりました。あの中に啓次郎は何か見たようなのですが」
「何を見たのですか」
「実は私もちらりと見ました。あれはとても大きな異国の建物のようでした。しかし本当はそうではなく何かとても不吉な物なのです。一体何なのか。それにしても不思議なことです。夢を見ているようです」
「………………………」
一家六人は甲突川の河口を目ざして黙々と歩いた。
啓次郎は兄の背中で寝息を立てていた。三十年後にこの子供が今捨てつつあるこの故郷に不思議なかたちの凱旋《がいせん》をしに戻って来ることを予言できる者は一人もいなかった。
こうして妻子を東京に呼びよせて後顧の憂《うれ》いを絶った房親は次の年の三月には二重峠に戦いに来ていたのだ。
大警視の川路利良も房親も佐川官兵衛のことはよく知っていた。話はさかのぼるが、元治元年(一八六四)の禁門の変のときには薩摩と会津は味方同士として長州と戦った。京都守護職の会津の将の中でも佐川の働きは人一倍目立った。戦国時代の勇者そのままの姿だった。そして川路も武勇では人に負けていなかった。このときには敵に囲まれていた川上助八郎という者を助けるべく単身おどり込んであばれまくり助け出した。このような姿が西郷の目にとまり以後引き立てられたといわれる。そして禁門の変のときは房親も一緒だったらしく、次のような房親の回顧談が残っている。
「禁門の変のあと川路さんの刀を見ると刃がぼろぼろに欠けていた。これでよく切れたなというと、いや切れない、敵の鎧《よろい》の糸が切れたばかりだと言う。なぜ突かなかったのだと聞くと、戦いの最中《さなか》にそんなことを考えるものか、謙信だって突くのを忘れて打ったではないか。ただただ打って敵を打ち倒したまでだと答えた」
まるで戦国時代の会話だ。つくづくこの人たちはサムライなのだと分かる。徹底的に即物的なサムライの会話だ。この川路利良についての回顧談はやがて図書館で探し出すことになるある本に載っているのだが、この他にも房親の川路についての思い出はすべてこの調子で講談のような面白いエピソードばかり並べてあった。他の偉い人たちの重厚な言葉とはずいぶんちがっていた。これを読んだときにどこか同じ根[#「根」に傍点]を感じてほっとしたものだ。まあそれはともかくこのようなサムライの会話を交わす者たちが佐川官兵衛を知らないわけがない。戊辰戦争では最強の敵になっていたわけだが、一方ではサムライとしての尊敬の念を別のところで持ち続けていたのではないだろうか。
川路は結局佐川を警察に迎え結果的に部下にした。このあたりの両者の心理は色々に推測できる。川路はたしか会津攻めにも参加しているのだ。
この頃《ころ》には川路はこの自分たちの手で作った新しい国をちゃんとしたものにするということしか頭になかった。フランスに行きそこのポリス制度に傾倒し警察官こそ国民の模範でなければならないという極端な考えにまで到達していた。川路の中ではそれが文明開化思想と一体となっていた。そういう観点からは鹿児島に帰り旧士族を引き連れて政府に訊問《じんもん》に来るという西郷隆盛の行動はもはや暴徒以外の何者でもなかった。西郷に対する川路の激烈な言葉が残っている。
「あのようなわけの分からないことをする西郷はもうもうろくしてどうにかなってしまったのだ。我々は西郷に教えられた者だが、もし攻めて来るというのなら、今となってはあのような姿の西郷を殺してやるのがなによりの恩返しなのだ」
このようになった西郷と川路のあいだをなんとか房親がとりもとうとした形跡もある。
現在もっとも詳しい川路利良研究の成果をあげておられるのは鹿児島在住の肥後精一氏だが、その著書「明治のプランナー」に山下房親の言葉が出てくる。
「一度川路さんに西郷さんとよく話してみるように言ったが、川路さんは今は警視庁の仕事が忙しくてそれどころではないと言う。そちらなら人手もあるだろうからと言ったが聞かず、手紙を書いただけだった。その手紙が、論争に破れたくらいで国に帰ってしまうなどとは女子供のやることだ、というような調子のものだったらしい。それを見た桐野たちが騒ぎ出し、ちょうどその頃に視察だ刺殺だということになった」とある。出典は徳富蘇峰の「近世日本国民史」だ。
さて回り道をしたが二重峠で起きていた出来事というのは次のようなものだ。
二月二十三日に小倉に上陸したこの部隊ははっきりとした目的地が定められておらず中津、宇佐、などと動き回り最後には阿蘇|山麓《さんろく》から熊本に通じる参勤交代の要路を進むことになった。坂梨というところにつき、そのあたりから斥候《せつこう》を出すとよもやこんなところにはいないと思われた西郷軍の兵士が小人数いた。二重峠というところに土嚢《どのう》を積んで陣地を作りはじめていた。桐野利秋が念のために出しておいた一隊だった。ここを固められると大分―熊本のルートが遮断《しやだん》される。さてどうしようかということになった。二重峠はテレビ映画のコンバットによく出てくるようななだらかな草原地帯だ。
戦いの熟練者である佐川官兵衛の考えはすぐに決まった。敵の数が少なくこちらに気がついていない今のうちに攻撃して殲滅《せんめつ》する。佐川官兵衛でなくてもコンバットを見たことのある人間なら誰だってそうすると思うが、不思議なことに総指揮官の檜垣直枝がこれを許さなかった。大阪にいる川路の判断を仰がなければならないから待てというのではない。逆に川路はのちに檜垣がどうしたらよいかと問い合わせてきたときにびっくりした。こういう者を指揮官にするのではなかった佐川官兵衛にすればよかったとくやんだという。
とにかく話は簡単で歴戦の勇士が的確な状況判断のもとに今攻めましょうと言うのを、実戦経験の乏しい地位の上の者がいいやそれはいかんちょっと待てと言っているのだ。よくある話で、コンバットのサンダース軍曹《ぐんそう》が無能な少尉《しようい》の下で戦うことになったら同じようなシチュエーションになるにちがいない。
「少尉、すぐに攻撃命令を出して下さい」
「黙れサンダース。指揮官はおれだ。勝手な真似《まね》は許さん」
「今攻めなければ勝機を逸します。わたしの手勢だけで攻めていいですか」
「いかん。サンダース。そんなに手柄《てがら》が立てたいのか。部下を危険にさらしても平気なのか」
「そうではありません。今攻めれば勝てるのです。一日遅れればそれだけ勝機が減ります」
「うるさい。黙れだまれ。誰がここの指揮官だと思っているのだ。少々の戦功を鼻にかけて上官を馬鹿にするつもりか。判断はこのわたしがする。命令はこのわたしが下す。わたしが命令するまでは何もしてはならん分かったか」
「少尉、申し上げます」
「黙れ。もうよい。下がれさがれ。おや、サンダース。何をにらんでいるのだ。それにお前のそのヨタッたような態度はなんだ。その恰好《かつこう》がよいなどと言う者もいるようだがわたしは大嫌《だいきら》いだぞ。人気があると思っていい気になるのではない。命令するのはわたしだ。わたしが命令しなければお前は何もできん。そして理由がどうあろうとわたしは命令を出す気はない。実は戦いに勝とうが負けようがそんなことはどうでもよいのだ。命令を出してお前が出かけていけば必ず劇的なストーリーが展開され、お前はカービーやリトルジョンと共に名演技をやってまたまたファンを増やすにちがいない。視聴率を上げてギャラをわたしの十倍取ることになる。それがわたしはいやなのだ。戦争なんかどうでもいい。お前がのさばるのを見るのがいやだからわたしは命令を出さんのだ。分かったか。分かったらさっさとここから出て行って失意の演技でそこらをヨタッて歩くがいい」
佐川官兵衛は再三再四、檜垣の陣に馬を飛ばして会津隊だけでもよいからと出撃の許可を求めた。檜垣はそのたびに反対し、しまいには「誰がここの指揮官か」などと怒鳴った。こうして六日間が無為に過ぎた。二重峠の西郷軍はそのあいだにどんどん数を増し塁は強固なものになっていった。勝機は去ってしまったのだ。佐川官兵衛は茶碗《ちやわん》酒をあおって悲憤|慷慨《こうがい》した。このような経過のあげくの「三月十八日進撃」だったのだ。
すでに記録で見た通りこの部隊は大損害を受けた。敗戦だった。佐川官兵衛は戦死した。抜刀して指揮をしているところを三発の銃弾で撃たれ最後の一発が額に当って即死した。そのとき発砲した敵兵士を敵指揮官が「あ、その人は撃つな」と止めようとしたという話も伝わっている。こうして幕末に会津藩と共に数奇の運命をたどった名将佐川官兵衛は宿敵が作った新政府の警視隊の一員として阿蘇山麓でその一生を終えたのだ。
さてではこのときに房親は何をしていたのだろうか。戦闘が始まり抜刀して敵塁に迫り脚を撃たれた。碑文に書いてあるそのことは事実だろう。幸い命はとりとめ結果的には名誉の負傷となった。だが問題はその前だ。佐川官兵衛と檜垣直枝の間で房親は何をしていたのだろうか。ただの戦闘用員であったのなら問題はないのだが、碑文に「警視隊参謀」と書いてあったのだ。参謀とは何か。
さん‐ぼう〔参謀〕@高級指揮官の幕僚として作戦・用兵その他一切の計画・指導にあたる将校。A転じて、策略を立てる人。「選挙――」(広辞苑)
この通りだとすると房親は檜垣を助けて作戦一切の計画や指導をしなければならなかったことになる。佐川官兵衛の提案もまっさきに聞いて知っていたはずだ。どう対処したのだろうか。
佐川官兵衛の出撃案に賛成だったのか反対だったのか。それを檜垣に進言できるような立場にあったのか。それとも実際は参謀といっても色々なランクがあって、ただ戦闘単位の長であったというだけなのか。上の者の命令に従う我関せずの態度だったのか。もうひとつ気になるのはそれぞれの出身藩だ。
檜垣直枝は土佐。佐川官兵衛は会津。山下房親は薩摩。
つまり、土佐出身の司令官のもとで会津出身の実戦家を部下もろとも薩摩の逆賊に当らせているという川路利良のプランだった。そこに川路の幼|馴染《なじ》みで警察組織の創設に最初から立ち会っていた山下がいる。土佐と会津では信用できないからそばにいてよく見届けてくれということだったのか。その役目のことを房親は参謀といったのだろうか。戊辰の役では敵だったが禁門の変では味方だった名将佐川官兵衛に房親はどのような態度で接したのだろうか。そもそも位は同じ大警部だが話をする機会があったのだろうか。出撃は一緒だったのだろうか。肩を並べて戦ったのだろうか。これ以上の追求はできそうになかった。
ただ言えることは左足に当った銃弾があと一メートル高かったら房親も死んでいたということだ。死ななかったのがむしろ偶然だった。そしてサムライの本能としてその時房親は死ぬことをすこしも恐れなかっただろう。むしろ佐川官兵衛という名将と共に戦うその場所で房親はそのサムライの本分を一層の喜びを持ってつくしたのではないだろうか。
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第十三章
図書館の窓の外は昼の日ざしになっていた。いったん外に出て昼食をとることにした。行きあたりばったりに歩き回りラーメン屋を見つけて入った。当然サツマラーメンだった。ニンニクをたっぷりぶち込んでメンをすすり一滴残らずスープを飲みほした。汗をかきながら図書館に戻った。再び静かな二階の部屋に入り息を殺しながら探索の続きをはじめた。
今度は原口さんの言葉を思い出して「大西郷全集」という本を探すことにした。棚《たな》には「大西郷全集」と「西郷隆盛全集」があった。両方ともほぼ同じ内容で、前者が後者のタネ本になっている。これは年代順に並べられた西郷の全書簡集だった。それならもしやと思い急いで目次を調べた。すると、なんと、ちゃんと「山下龍右衛門への手紙」というものが載っていた。こちらはあっという間の発見だった。
こんなに簡単なことでいいのかと思いながら、あわてて家に伝わっていた手紙の読み下し文をとり出して比べてみた。北小路健さんが読んでくれたものをさらに新潮社の今田さんが書き直して鹿児島に送ってくれていたものだ。するとこれがぴったりと一致した。身震いが起きた瞬間だった。
本を全巻調べると、家にあった二通の手紙の他にも一通もらっていることが分かった。それぞれの手紙にくわしい解説がついていて事情が分かるようになっていた。それによると最初の手紙は戊辰《ぼしん》戦争の終り頃《ごろ》に北陸の戦場に届いたものだった。
「元気でやっているか。いずれ庄内では一緒に戦って功を争おう」という激励的内容のもので、これは別の本によれば「西郷が単なる一小隊長とわざわざ戦功を争った珍しいエピソード」としても紹介されていた。これで房親の碑文にあった「北越之野」が判明した。
解説によれば西郷はこの年明治元年のそれも八月になって急に兵を集め新潟に向かって出発した。その部隊の小隊長の一人として房親が参加していたのだ。到着したときには大事な長岡の戦いはすでに終わっていた。松ヶ崎に陣取り、新発田《しばた》の本陣に来てくれという黒田清隆や山県有朋《やまがたありとも》の要請になぜか耳をかさなかった。それでわざわざ二人の方から西郷のところにやって来ては打合せをした。このあと庄内に行って、有名な無血占領を指示する。
このときの西郷が何を考えていたのか不審に思うむきもある。戦機を逸した部隊をわざわざ連れてきたようでもあるのだ。そしてその中の一小隊長にわざわざ励ましの手紙を送っている。どこか妙な気がするが、ともかく房親が西郷隆盛から特別に目をかけられていたのは間違いないらしい。龍右衛門房親はこの手紙に喜び、うらやんでそれを譲ってくれという周りの兵士たちに自分が倒れたら取ってもよいと言って渡さず、手紙を体に巻きつけて奮戦したという。「大西郷全集」の編者は房親の子供の啓次郎に取材をした。「父がよくその話をしていた」と啓次郎が言うのを聞いている。
その手紙を以後房親は掛軸にするほど大切にして持っていた。それが今でも家に残っていたのだ。そして、西郷隆盛がそれを書いた時から百十年の後に、受け取り手の曾孫《ひまご》がこれを手にしたというわけだ。それにしても、あの掛軸の入った細長い大きな桐箱《きりばこ》を抱えて、今田さんと斎藤女史と一緒に電車に乗って北小路さんの家まで手紙の真偽の鑑定をしてもらいに行ったのがもはや何年も前のことのように思える。
その他の二通の手紙はどちらも明治四年にもらっていた。最初のものは、折角東京に呼んだがまだポリスの準備ができないからいったん国に帰っていろというものだった。これには西郷がわざわざ房親ら数名に会いにきて自らたっぷりと旅費をくれたので感激したという房親の言葉がそえられていた。
最後のものは数カ月後で、いよいよ準備ができたから来いというものだった。日づけによればこの二通の手紙の間に廃藩置県という大騒動が行なわれていた。手紙のおしまいに西郷は、自分も参議になったが大変だということをつけ加えていた。いやまあ、大変な歴史的出来事の真只中《まつただなか》に先祖はいたわけで、おかげで今まで何も知らなかった明治時代の出来事がまるできのうの新宿での出来事のように身近に感じられる。
このようにして西郷隆盛の手紙の謎《なぞ》はあっけらかんと解けてしまった。しかし、なぜ龍右衛門が西郷にこのように目をかけられたのかそのへんのなれそめは依然として、分からない。
とりあえず必要な個所をコピーした。それからさらに数時間、血まなこになって関係のありそうな本をあさった。必要なものを全《すべ》てコピーした。先祖の足跡が確かにそこに残されていた。くたくたになった。日が暮れかけていた。図書館が閉まる時間だった。未練はあるがともかく今回はこれまでだった。ふらふらしながら席を立ち階段を降りた。
東京に帰ってからも探索は続いた。
原口さんの紹介で、川路利良研究家の肥後精一さんと手紙のやりとりがはじまった。
ある日には藤森照信さんのお宅に押しかけ一晩講義を受けた。そのときには何と啓次郎の卒業論文というものを見せてもらった。
折りもおり、山下啓次郎と監獄と条約改正を卒論のテーマにとりあげるという日本史専攻の女子大生が連絡をしてきた。家に来てもらい色々教えてもらった。膨大な数の監獄関係の資料雑誌があることが分かり唖然《あぜん》とした。このときに、房親が典獄をやっていたということの客観的裏づけ資料も見せてもらった。
ようやく先祖のやったことが何とか頭の中に整理されてきた。
その子供啓次郎が生れた次の年に父親は戦争に出かけて行ったのだ。
その戦いで父親の属していた反乱軍は政府軍に勝ち、新しい政府がうちたてられた。戦いを終えた父親はいったん故郷にもどったが、子供が四歳のときに再び出かけて行った。反乱軍時代の総大将が目をかけてくれていてわざわざ呼ばれたのだ。その名を江戸から東京と変えたこの国の首都でポリスというものを始めるから、それに協力しろというのだった。願ってもない幸運だった。父親は忠実に職務を勤めた。職にあぶれている大勢のもと反乱軍兵士たちに比べれば目もくらむような出世だった。東京の新政府で官吏になったのだ。そのまま家族は郷里に自分は東京にという生活が五年間続いた。
しかし、子供が九歳のときに父親は家族を郷里から東京に呼びよせる。郷里で戦争が始まりそうになり、家族が危険だと判断したのだ。今度の戦争は困ったことに、彼を取り立ててくれたかつての反乱軍の総大将が同じ郷里の地薩摩で新たな反乱軍を組織して新政府に挑《いど》んで来るというものだった。
困りつつも彼は態度を決めた。新政府に残りポリスの役目に忠実であろうとすれば、かつての恩人の軍隊と戦わなければならない。家族を呼び寄せてすぐの翌年早春、子供が十歳になる前に父親は再び戦いにでかけていった。最初の戦いで負傷し、片足を無くして帰ってきた。やがて秋になり反乱軍は敗れ、恩人である西郷隆盛は自殺した。新政府は体制をかためた。
父親は以後戦いに行くことはなかったが、職務を勤め続けた。この国の近代警察制度を身をもってささえた人々のうちの一人になっていた。かつて時の政権を倒す戦いに参加し、今、新政府を守るために戦って片足を失った。文句のないキャリアだといえる。以後官職につき続けた。
さて、このような父親の歴史のもとに十歳の子供が育っていかなければならない。これはけっこう大変なことではなかったか。幸いこの子供は素直に勉強をしたようだ。考えてみれば勉強にうちこむ為《ため》の動機はいくらでもあった。基調には父親が体を張って作り上げた今の一家の幸運を維持しなければならないというサムライの一家なら当然の意欲がある。そしてそれはまったく何の矛盾もなく父親がその成立に全身を捧《ささ》げて参加したこの新しい国を立派なものにしていくという目的と重なるのだ。さらに郷里を敵として捨てているからもう帰れない。それはつまり、この一家が東京を新しい郷里とし、そこに新しくでき上がっている権力機構を新しい主君とみなさざるを得ないことを意味していた。また初めて接した首都の文明開化の様子に子供の魂が奪われないはずがなかった。そういう先進国の文明を理解し実践できる人間があらゆる分野で今この国に必要だった。そして勉強をすればそういう人間になることができたのだ。
すべての状況が子供の勉強の動機となり得ていた。こんなお膳立《ぜんだ》てなら誰だって勉強せざるを得ないとも思うがそう単純なものでもないか。
中にはこれらすべてが裏目に出る人間もいただろう。
「わしは戦ってお国の為につくした。しかし最早《もはや》戦いの時代は終わった。これからはおまえは勉強をしてお国の為につくすのだ」
「なあにを言ってやがるこのくそおやじ」
「げ。何ということを」
「だれがこんなインチキ急造白痴国の為につくすものか」
「たわけ者。そのようなことを申しておまえはこのわしの息子として恥ずかしいと思わんのか」
「うるせえ。頼んで生れたんじゃねえや。馬鹿《ばか》国と一緒になって勝手なことを押しつけやがって。もう我慢ができねえ」
ガキが卓袱台《ちやぶだい》を引っくり返し、チョエーなどと叫びながらテレビとステレオと電気冷蔵庫を飛び蹴《げ》りで粉々にしてからバイクで飛び出していくなどということも起こり得たとおもうが、この親子の場合はなんとかうまくいったのだ。明治になってからも依然として反動王国だった鹿児島で、九歳になるまで叩《たた》き込まれた服従や忠実や負けてはならぬというサムライ精神がうまくそういう方向に作用したのかもしれない。
この新しい政府とその子供は一緒に生れたようなものだった。子供が生れた翌年に新しい政府ができて元号が明治となっている。つまり、この子供の満年齢は明治の年号と一致していた。まさに明治の申し子だった。明治時代が始まったときにこの子供の一生も始まった。明治時代が幼いときにはこの子供も幼かった。明治時代が青年になるとこの子供も青年になった。そして子供の成長を待ち受けているように教育制度が次々と整えられていった。明治十六年に後の一高になる大学予備門に入る。そして明治二十二年、二十二歳の山下啓次郎はできたばかりの帝国大学に入学した。造家学科つまり建築学科を選んだ。
これはすなわち、下級とはいえ元サムライの一家が、父親は岡っ引きになり息子は大工になったということになる。サムライでなくても上級の家庭だったらどこか逡巡《しゆんじゆん》するものがあるのではないか。しかしどうも薩摩人にとってはこういうことはあまり問題ではなかったらしい。罪人に関わる職業を敬遠する下地があまりなかったようだし、大工にいたっては大変威張っていた。つまり、食えない下級武士が腕を生かして大工をやっているということがあった。こういう大工に一般人が家の修理などを頼むと大変だった。いつまでたっても来てくれず、ようやく来ても身分の差をよいことに威張りくさってあれこれ言った。しまいには皆いやがってなるべく自分で家を直したということだ。
もっとも、その頃には西洋建築家になるというのは、昔の大工になるというのとは明らかに異なる新時代のエリート的ハイカラ的選択だったにちがいない。その証拠かどうか、かの夏目漱石も一度は建築家になろうとしたという話がある。
漱石は啓次郎と同じ慶応三年(一八六七)の一月生れだから、十二月生れの啓次郎より約一年ほど年上だ。しかし色々あって、大学予備門への入学は一年遅れの明治十七年になった。さらに病気で落第した。この頃に友達の米山保三郎がたずねて来て次のような会話があった。
「君は将来何になるのだ」
「建築家だ」
「建築家か。しかし日本ではセント・ポールズのような大寺院は作れないぞ。まだ文学の方が生命がある」
そこへ正岡子規も乱入した。
「なに、建築家だと。よせよせほととぎす。あれは馬鹿のやることだ」
「ううむ」
「君と同年齢だが一学年上に山下というのがいるだろう。あいつも建築家になると言っているらしい。とすると君は彼の後輩にならざるを得なくなる」
「うううむ」
「君も知っているだろうが、彼の家はサツマの出身だ。サツマのイモザムライに江戸っ子の君が一生先輩|面《づら》されていいのか」
「ううううむ」
「それに彼の親父《おやじ》さんは刑務所長らしいぞ。そんな奴《やつ》と仲間になりたくないだろう」
「うむむむむ」
「な。建築などはそういうサムライ的立身出世的即物的技術至上主義の馬鹿者たちに任せておけばいいのだ。我々はそうではない。文学をやるのだ。文学の底知れぬ奥深い魂の光によって新しい世界を照らそうではないか」
漱石はその晩のうちに文学者になる決心をした。
「父上、分かりましたからどうかもうお戻り下さい」
一方、啓次郎も大学の教室で父親と押問答をしていた。
「そう邪険にするな啓次郎。わしは嬉《うれ》しいのだ。おまえの晴姿をこうして見ていられるのだからな」
「わたしはもう子供ではありません。あのように級友たちも笑っているではないですか」
「なんの恥ずかしいことがあるものか。おうおう、そこにいるのは伊東忠太さんだな。いやあ立派りっぱ。どうかこの啓次郎のこともよろしくお願いしますよ」
「またそのようなことを。それに窓からのぞくなどご無体でしょう。さあ父上、もうどうかお戻りを」
「いやいやまだじゃ。わしは嬉しい。夢のようじゃ。おうおうそこにある巻き物にはエゲレス語が書いてあるのじゃな。なに、そうかそうか。授業すべてエゲレス語でなされるというか。いやえらいものじゃ。それにつけてもさて、あれは思い起こせばへれはらも、もう何年前のことになるか。エゲレスが薩摩を攻めて来おってのお」
「父上、またそのお話ですか。それならば家に帰ってゆっくりうかがいますから、どうかもうこれで」
「何のなんのやめるものか。あの時わしは色々と不思議な目に会ったのだが、あの夷狄《いてき》のエゲレスの黒船を最初に見た時もそうじゃった」
「父上、そのように身を乗りだして窓から入ろうとしてはいけません」
「あれは白日夢のようなものじゃった。いつの間にかわしはあの黒船の上にいたのじゃ。まだ知らぬエゲレスへと向かっているようじゃった。しかし、それはわし自身ではない。誰か他の者の代りに見た夢のようでもあった。今にしてその意味が分かるのじゃ。啓次郎、あれはお前じゃった。おまえはこうして立派に帝大に入り勉強をして、やがてかならずエゲレスへ渡ることになるのじゃ。あれはそのことの予知だったのじゃ」
「父上、洋行などはまだまだ先の夢です」
「いやいやそうではない。お前はかならず行く。今となってはっきり分かるのじゃ。本当のことじゃ、くれぐれも心せよ。これはかならず起こることなのじゃ」
「父上、落ち着いて下さい。そのように興奮されて、松葉|杖《づえ》を振り回しながら窓を乗り越えようとされてはいけません」
「何のこれしき。すぐにこの敵塁を抜いてくれるわ」
「何を言っているのですか。あ、先生がおいでになりました。どうかお戻り下さい」
「何、辰野先生がおいでになったか。あの方は唐津藩士であった。是非ご挨拶《あいさつ》をしてイクサの話をしなければならぬ」
「父上、いい加減にして下さい。怒りますよ」
「分かったわかった。ふざけておるのじゃ。すぐに本気になりおってからに」
ひひひひひ、などと言いながら意外に素早い動作で父親の房親が去ると、教室に辰野金吾が入って来た。
英国人ジョサイア・コンドルから受けた授業のノートを開き、よく通る声で講義を始めた。英語だった。
最初の世代が英語で学びそのノートでそのまま次の世代に伝えて行くというこの現象には憶《おぼ》えがある。
ジャズでは一九六五年に帰国した渡辺貞夫がバークリー音楽院の授業をそっくりそのまま英語で我々に教えてくれた。ジャズ特有の音楽用語をいちいち日本語にしているのは意味がないからオルタードスケールもジーセブンもそのまま通用することになる。もっとも授業そのものは日本語で進められた。しかし、黒板に書かれる内容はすべて英語だった。入学試験はなかったから授業を受けていた者のレベルは様々だった。プロもいればアマもいた。音楽理論の基礎を知っている者もいればハ長調のスケールが書けない者もいた。そもそも英語がよく分からない者もいた。そこでいきなり英語の授業だから妙な騒動も起きる。
あるとき渡辺貞夫が「トーナル」と「ノントーナル」ということを教えはじめた。「調性的な」「非調性的な」という音楽用語だ。これを先生はニューヨークなまり的に発音するから「トーナン」「ナントーナン」とも聞こえる。するとしばらくして一人の女の子が手を上げて質問した。
「先生。その東南とか南東とかいうのは何ですか」
あのなあ。今おれたちゃあジャズを教えてもらっているんだろうが。え。そこになんで天気予報が出てこなきゃあならねえんだ。この大馬鹿者め。と怒る間もなく爆笑してしまったが、まさかテーダイではこんなことは起きなかったんだろうな。
啓次郎は明治二十五年、二十五歳で無事卒業した。卒業と同時に警視庁専属の建築家となった。そうなるしかない必然の結果に思える。
「文明国には西洋式の監獄が必要なのだ。作る者を誰か一人回してくれ」
帝国大学造家学科の辰野金吾教授のところに国からそう言ってきても不思議はない。先生は生徒をそれぞれの分野に振り分けるだろう。あるいは教室で皆に聞いたかもしれない。
「こういう話がある。誰か行く者はいないか」
皆だまって下を見ている。やがて全員の視線が徐々に一人の学生に集中する。
「あいつしかいない」とすべての視線が言っている。なにしろそいつの親父というのはサツマのサムライで、戊辰戦争と西南戦争を戦い、警察制度の創設者の一人だというのだ。今現在も鍛冶橋《かじばし》監獄で典獄をやっているらしい。その息子が引き受けなくて誰が引き受けるというのだろう。
「というわけだな。山下」
「分かっております」
こういうことだったのだろうか。あるいはまた「それなら一人適任がいます。彼をやりましょう」とどんどん決められてしまったか、それとも、「私が行きます」「いや、私です」と絶好の官途への出世の機会を奪い合った末に、やはりあいつのコネにはかなわなかった、ということになったのか。はたまた、「いやだいやだ私は第二|鹿鳴館《ろくめいかん》を建てるような優雅な建築家になりたい」と泣きわめいていた啓次郎を、父親の房親がサーベルとピストルと刀と松葉杖でおどかして引っ張り込んだのか。ともかく啓次郎は警視庁に就職した。
啓次郎の卒業論文は驚いたことに、あるいは当然のことに、全部英語で書かれている。タイトルはそのまま訳せば「地震を考慮した煉瓦《れんが》建築について」正式には「耐震煉瓦造建築に関する研究」ということになるらしい。
出だしのところを写してみる。
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Graduation Essay
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On Brick Buildings
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with
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the Consideration of
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Earthquake
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K. Yamashita
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1892
[#ここで字下げ終わり]
それから「序」がある。
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The subject upon which I am now going on
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to solicit your attention is perhaps a very great
and difficult one, so that it is almost beyond
my faculty. But………………(本論でとり扱う問題はあまりに大きく困難なものであるため、筆者の能力をこえていると思われるほどだが……………)
[#ここで字下げ終わり]
これに続けて、
「昨年十月二十八日の大地震によって、私はこの問題を研究することを思い立ち、本論文を執筆することになったのであった」と書いている。なおこの日本語訳は今田さんのご紹介によって、佐伯順子さんにやっていただいたものだ。評判になった「遊女の文化史」の著者で今紫式部のような才媛《さいえん》だ。おそれ多いことだが、四百字づめ原稿用紙で百十五ページもの量になってしまった。
論文は以下、参考文献の提示、それから目次となる。目次は序論から始まって第一部が三章、第二部が四章、第三部が十三章、それに結論となっていた。
最初の方では、当時の最新知識を総動員して地震という現象を科学的にとらえようとしていた。専門家が今見てどのように評価するのか分からないが、「通常波と横波」「振動の周期」「地震の動きの振幅」「Velocity」「加速度」「強度」などという項目がたてられていた。ナポリ地震に関してのマレット氏の研究が参照されたり、トマス・ヤング博士やミルン教授の見解も引用されていた。
このジョン・ミルン教授は日本地震学会を創設した斯界《しかい》の恩人だ。地震計をはじめとする数々の業績が逆に西欧に普及するという助《すけ》っ人《と》外人の鑑《かがみ》だった。もっとも地震を研究するのにこんなに適した国はないわけで、その分野の先進国になったのも当然かもしれない。そういう背景もあってか啓次郎はまるで専門の学者のような熱心な態度で地震の研究に取り組んでいた。
T=√D/E×2πなどというわけの分からぬ数式が出てきたりした。これは「弾性の影響下における粒子の振動の法則をあらわす」ものだそうだ。これによって「地震の際には岩石のほうが沖積《ちゆうせき》層よりも、煉瓦や石の方が木材よりも、振動が速い」ということが明らかなのだそうだ。
いやあまいった。こういうことに頭が痛くならないのだろうか。しかしどうやらじいさんは平気だったらしい。つまり、あの平気で人の分からぬことを勉強する不気味な理工系だったのだ。それにしても九歳で鹿児島から逃げて来たサムライの子供が十六年後にはこのようなことを非常に書き馴《な》れた英語で書いている。これには驚くしかない。
さらに論文では実際に起きた地震の分析もやっていた。たとえば、日本でこれまで起きた破壊的な地震を文献からさがし出してすべて羅列《られつ》するということをしているのだ。それによれば文献上最古のものは允恭《いんぎよう》天皇の五年、七月十四日に大和地方に起きたものだった。以下六十一件が、年代、地方、被害状況と共に書かれていた。そして、最新のものが論文の動機となったという明治二十四年の美濃・尾張地震だった。いわゆる濃尾地震でこれはひどかったらしい。この地震については別の本に次のような記述がある。
「このときの被害は当時ようやく発達期にあった煉瓦造の土木建築物においてとくにひどく、外来技術に深刻な反省をもたらした。多くの学者や技術者が現地を調査したが、ミルンも自ら実地をくまなく踏査し、種々有益な論文を発表した」(村松貞次郎「お雇い外国人N建築・土木」鹿島出版会)
啓次郎の強い動機が裏付けされているようだ。すぐれたものと信じて勉強してきた「外来技術」が日本の宿命である地震によってあっという間に壊されてしまったのだ。口惜《くや》しかったにちがいない。そんなはずはないとばかり外来技術の復権を図ってこの論文を一気に書き上げてしまったのではないだろうか。その素早さは体質として理解できるような気もする。
「なに。津軽三味線にジャズが負けた。そんな馬鹿な。おれがやってやろうじゃねえか」
ということだったのではないか。
ところで妙なことに啓次郎は歴代の地震の起きた年代を元号と神武紀元という数字だけで表わしていて西暦年を書いていない。これではいくら英語でインターナショナルな論文を書いたといってもガイジンには分からないではないか。何を考えておるのだ。ちなみに允恭五年は西暦四一六年となる。「神武紀元」だと一〇七六年だとしている。科学者のはしくれのくせに本当にこんなことを信じていたのだろうか。
論文の後半はいかにして地震に強い煉瓦建築を作るかということが、図入りでくわしく説明されていた。しかし、前半の理論的部分に比べて、このあたりは今の目で見るとやや子供だまし的な観をまぬがれない、と藤森さんは言う。
たとえば基礎をしっかりとコンクリートで固めろというあたりはよいが、煉瓦の壁に取りつける飾りの出っ張りや何かがよくはずれて危険だから、これらを石で作らずに金属と木で作れなどと提唱している。このへんは少しセコイということだ。動機のあまりの素早さに内容が追いつけなかったということか。
この論文の三十一年後に最大最悪の関東大震災が起きる。その地震が起きる少し前に啓次郎は自分で設計した家を渋谷の金王町に持った。地震のとき、慌《あわ》てふためいて飛び出そうとする家族に、「おれの作った家が倒れるはずがない」といって悠然《ゆうぜん》としていたそうだ。家族は余震がこわくて庭にカヤを吊《つ》って一晩過ごしたが、啓次郎本人は最後まで家から出なかった。実際に塀《へい》の一部が壊れただけで家は無事だった。その塀だけが煉瓦作りで、家は木造モルタル作りだった。
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第十四章
卒業論文のほかに啓次郎は卒業作品の設計もしていた。迎賓館のような外見の「ポリティカル・クラブ」という建物で、よく見ると壁のそこここに天使がラッパを吹きながら飛んでいる彫り物なども描かれていた。藤森さんによれば、フランス式の派手めのデザインでネオバロックに属し当時の国家建築では一般的だったとのことだ。
同じ卒業の年、明治二十五年に啓次郎は樺山資紀《かばやますけのり》の家も設計した。当時は大学は七月卒業の九月入学だが、その年の九月には着工されているというから、この年に卒論、卒業作品、樺山邸の三つを同時にこなしたわけだ。
「樺山邸はたいしたものです。よくやったという感じで、我々の間でも評価は高いです」と藤森さんは言う。英国風の建物で現物はもうないが写真や設計図やスケッチが残っている。
樺山資紀は薩摩《さつま》出身で、西南戦争のときは熊本城に籠城《ろうじよう》していた。明治二十四年には同じく薩摩の松方正義内閣の海軍相をやっていた。その年の暮に開かれた第二帝国議会で海軍の腐敗や薩長閥支配体制を批判されると、いきなり怒って立ち上がった。
「てめえらなんだかんだ言うがこの国がここまで無事にやってこられたのは誰のおかげだ」と反対派を怒鳴りつけた。「蛮勇演説」というらしいが、このため議会は大混乱となりとうとう解散してしまった。このセリフはどこかで聞いたことがあると思ったら、南伸坊と坂田明の共同開発による田中角栄の物真似《ものまね》と同じだった。
「皆さん色々おっしゃいますがね、戦後四十五年間、一億三千万の国民が繁栄してまいったのは誰のおかげですか。自民党のおかげですよ。見ればバンドマンの諸君が集まって馬鹿《ばか》なことを言いながら酒を飲んでおるようですが、これも自民党のおかげですよ。共産党の世の中でこんなことができますかああ!」と、とどめをさすのだ。
支配階級を形成し郷土意識のことさら強い薩摩の者どもは機会があれば集まり焼酎《しようちゆう》を飲んで話をする機会があったにちがいない。
「房親さんのご子息もそろそろ卒業ではないですか」
「さいわい来年には卒業して警視庁に入ることが決っています」
「そうですか。いよいよ条約改正も関係して監獄を整備することになってきたようですね」
「そういうお役に立つことになるのでしょう」
「幕府時代の牢《ろう》では外国人を納得させられないし、といって今までのような間に合わせのものでも心もとない」
「さようです」
「しかし、お国の為《ため》とはいえ啓次郎君はつまり一生監獄しか作れないわけですか」
「そうなりますかな」
「それは少し気の毒だ。やはり彼も他のものも作ってみたいだろう。勉強したことをすべて試してみたいはずです」
「そうですね。折角、立派なピアノの先生についてバッハやベートーヴェンを習得したのに、人前では『君が代』しか弾かせてもらえないようなものですからな」
「そのような妙なたとえを君がするわけがなく、これを書いている者がまたでたらめを始めようとしているわけですが、まあつまりはそういうことかもしれませんな」
「まったくこれを書いている者にはいつも困らされているのです。始めた頃《ころ》には何も知らずに勝手なことを書き、少し調べたら今度は妙になれなれしくなってきた。子孫だからといって甘えは許されないはずなのですがね」
「お察しいたします。いや、それにしても啓次郎君は立派だ。そこで実は提案があるのですが、来年に家を建てようと思います。卒業のお祝いといってはなんだがそれの設計を啓次郎君にやっていただきたいと思うのですが」
「それはなによりです。さぞ啓次郎も喜ぶことでしょう」
などと話しているところに、バックグラウンドミュージックが鳴り響いた。ミュートをかけたトランペットとピッコロフルートが高音で二匹の蜜蜂《みつばち》のような急速度でかけめぐる。
「どうしていつもこうして人の、じゃ、邪魔ばかりしに、出てくるのかな」
「うるさい。おまえは黙っていろ」
同じ人間の中に二つの人格を有する浴衣《ゆかた》姿の小肥《こぶと》りの男が現れた。
「ははあ、この者ですか。房親さんが時々口走られていた謎《なぞ》の男というのは」
「そうです。妙なときに出てきてはその場をわけの分からないものにしてしまうのですな。これを書いている者もこやつがまさかこのようにのさばるとは思ってもみなかったようです。いや、偶然に登場した人物が作者による抹殺《まつさつ》を拒否してそのまま居すわるなどということが起きるとは、文字を書いていて初めての経験にちがいありません」
「喋《しやべ》り慣れないことを、長々とよく言うじゃあねえか。おっさん」
「黙れというに。このたわけ者めが」
男の右手が自分の口を押さえた。左手がその手につかみかかって引き離そうとした。右手は口を押さえながらすきをみては左手を強く叩《たた》くなどというめまぐるしい動きをみせた。やがて左手はあきらめておとなしくなった。
「龍右衛門、久し振りだな」理知的な人格が現れてそう言った。
「その声はやはり兄上ですか」
「そうであり、そうではない。確認のためにそこらへんのことを復習することにしよう。
黙って聞くのだぞ。なに。そうだ。これから語って聞かせるから。え。そうそう。だから黙って。え。なんだって。チョウチン屋が? あたしの義太夫《ぎだゆう》を聞くまでは? 仕事が手につかない? 何を言っているんだ。さっきは何てったんだ。徹夜で特別注文のチョウチンを五百個作らなくちゃあならないからとか何とか言って断わったじゃあ、え、なに? そう思って始めてみたが? 今頃はあのあたりをお語りじゃあないかと思うと気が気じゃあなくて気がついたらチョウチンが三角になっていた? 仕事にならないからもうやめて義太夫をうかがいにあがりました? はははははは。そうかそうか。分かった分かった。そんなに好きなら仕方がない。うん。なんだよ。ほらほら。早速お上がりになっていただいて。こら。こら。わたしに何をやらせるのだ。『寝床』じゃあないってんだ。まったく。えへん。えへん。ではまいるぞ。非常に長い上に大変な回り道をするから心して聞くように。
そもそもはこれを書いている者が家系図を見ていて気がついたのが発端だ。山下龍右衛門房親には兄がいたことが分かった。そこには『清太郎|房敦《ふさあつ》江戸にて死亡。享年《きようねん》十九歳』と書いてあった。鹿児島の城下のはずれにある西田地区の貧乏ザムライのせがれがその年で江戸に行っていたことになる。これはどういうことだろうと色々ない頭を絞ったのだ。その結果、これは優秀生徒の留学にちがいないと勝手に身びいき的解釈をした。実際はそれだけではなく『馬の子』だなどと称して参勤交代についていってしまうようなこともあったらしいのだが、ま、それ以後その清太郎というものは秀才ということになってしまったのだ。その秀才が江戸で命を落とす。何が原因か。たちまち思い浮かんだのは『よそものいじめ』だった。
なぜそんなことを真っ先に考えるかというとこれも書いている者の体験からきているのだ。小学校時代に何度も転校し、あげくの果ては北九州の田川という炭鉱町まで行った。これはつまり父親の啓輔が三井鉱山に勤めていたからで、啓輔は啓次郎の次男だが、つまりは『帝大を出てそのときのお国の為になる仕事をする』という基本路線を忠実に守っていたわけだ。どうもその世代では『帝大に行く』ということが、刀を持って敵を倒しに行くというのと同じような当然さで、この家のサダメになっていたような気配でもある。
それはともかくこの転校は子供に大変なカルチャーギャップをもたらした。東京から九州に行ったときにはまず言葉が分からないという信じられない現象があった。それは子供のことだからたちまち分かるようにはなるのだが、おおげさに言えば異文化に触れていく恐怖と喜びをこのとき初めて知ったのだ。国語の本を読むと先生より標準語が正確だった。思わぬ余得だが、今で言えばニューヨークから転校してきた子が英語の先生より英語が上手《うま》いというのと同じだろう。いやもっとギャップがあったかもしれない。なにしろ蒸気機関車で一昼夜かかったのだ。今ニューヨークからは十三時間で来られる。
つまりは他所者《よそもの》だった。全校で一人だけ髪を七三に分けていた。しめしがつかないと先生がハサミを持って追いかけてきた。教員室で説教されたが言うことを聞かなかった。切らなくてすんだが実際は、『東京からきた三井の技師長の息子』ということで先生もうかつに手出しができないという特権状態だったのだ。それをいいことにしたい放題だった。同じ三井の子と自転車に三人乗りをし、後ろに立って両手を水平に広げて走ったりした。ちょうど警察署の前で別の自転車の男とぶつかり倒れた。男はかんかんに怒ってそのまま子供たちを警察署長室に連れていった。なんとその人が警察署長だったのだ。猛烈な勢いで説教と取り調べが始まった。しかし、三人の子供が次々に名をなのると、署長の顔が段々と青くなっていった。それから、人が非常に困ったときによく見せる泣きながら笑うという表情になった。やがて、もう帰ってもよいということになった。三人の子供は警察署の玄関を出ながらにやにやしていた。
当然、正義の裁きが下されることになる。炭鉱の現場労働者の息子が顔を合わせるたびに喧嘩《けんか》をふっかけてきた。しかし三井のガキも気が強くて負けてはおらず、一対一で戦った。マイク・タイソンのような顔の丸坊主《まるぼうず》のわるガキ対七三分けのきざガキの戦いは一時連日のように行なわれた。相手を追いかけ追いかけられ、つかまえつかまえられ、馬乗りになり、馬乗りになられ、殴り、殴られた。何日戦っても勝負が着かないというのも不思議なもので、しまいには動物の子供どうしのじゃれあいと同じで一種の習慣的儀式になってしまった。
これが終わるのは片方の子が怪我《けが》をしたからだ。それまではいくら殴っても転んでも怪我はしなかった。暗黙のルールがあったにちがいない。このときの怪我も予期できないハズミだった。マイク・タイソンが鉄道づたいに逃げた。貨車の操車場が戦場になった。貨車の下をくぐって逃げるタイソンを同じく四つん這《ば》いになったきざガキがくぐろうとしたときにタイソンが車両を連結しているパイプの金具をハッシと叩いた。逃げながら手当り次第にそこらの物を相手に投げつけるという例のよくある手法だった。パイプが二つに離れ重い金具のついた一端が弧を描いて追跡者の顔面を襲った。防御体勢が一瞬遅れた。四つん這いだったから腕で防げなかったのだ。弧を描いて襲ってくるゴムパイプの金具が前歯を直撃した。前歯が欠けた。すぐには何が起きたか分からずきざガキはしばらく追跡を続けた。しかし、あまりの痛さにやがて追跡をあきらめた。
家に帰って食事をしようとしてギャッと叫んだ。剥《む》き出しの神経のままでメシに食らいついたのだ。親が医者に連れて行き、金歯がかぶせられた。前歯に金歯という古典的コンビネーションがこのときに出現した。もっともこのおかげでそのころの同級生が最近の姿をテレビで見て正体を確認できたというから、身元確認上も大変便利な対タイソン戦引き分け記念金メダル金歯というべきだろう。
このようなことがありつつ、さらに自転車で崖《がけ》から落ちて破傷風などという奇っ怪な病気になったりしつつ、もちろん自分は東京の子なのだと思いながら暮らしていた子供に、とうとう東京に戻る日がやってきた。そこが本来自分の属すべき場所だった。髪の毛を伸ばしていようと『はい』のかわりに『ええ』と答えようと誰からもびっくりされたり笑われたりしない東京の学校へようやく戻って来たのだ。
最初の日に彼は転校の挨拶《あいさつ》をすることになった。しかしそこで致命的なことが起きた。礼儀正しく喋ったつもりのその言葉が、なんということだ、もはや田川弁以外は喋れなくなっていたのだった。
『そぎゃんもこぎゃんもちゃかんちゃかんにしきらんとくさ、ばってんそげんこつがぐじゃっぺだきゃあ、あとはどうなときゃあなろたい』
このような意味不明の言語を聞いた東京の子がどんな反応をするか。それはかつての自分が一番よく知っていたことなのだ。爆笑とあざけり。そして好奇の目目目。大きく開けた口の中で長い舌をへらへらさせながら笑う男子生徒。互いに隣の子をつつき合いながら下を向き肩を震わせて笑う女子生徒。そのまま彼は一カ月間口が利《き》けなくなった。どうしても言葉を喋ることができなかった。面白がって話しかけてくる者には喉《のど》の奥で不明瞭《ふめいりよう》な音を発して答えるだけだった。やがてようやく言葉が喋れるようになったときには彼の帰属意識はすっかり失《う》せていた。かわりにただただ一つの怨念《おんねん》が脳の中にこびりついた。
『くそ。東京の奴《やつ》らめ。いつか必ず殺してやる』
いきなり過激な田舎者になってしまったのだ。といって彼がそれを機に自分のアイデンティティを炭鉱町田川に求めたかというとそうではなかった。一度だけ喧嘩のときに『わがあ。わきあがりよると、しゃあきあげちくるるぞ』などという恐ろしい言葉を吐いて相手をたじろがせたことはあったが、それだけだった。彼は帰属すべき場所を完全に失ったのだ。
え。なに? 話がどこへ行くのか自分で分かっているのか? だからそう言っておるではないか。これはそもそもは清太郎の話なのだ。いやそれは少しあらぬ方向に去ったかもしれないが、なにしろチョウチン屋がせがむものでな。だからええと、なんだ、つまりそうそう、よそ者いじめの話だった。
こういう体験をした者が、十八歳で江戸に行きながらそこで死んだ先祖がいることを知る。当然自分の体験と重ねて考えてしまうだろう。
田舎の秀才が東京で馬鹿にされるというパターンだ。書いている者の体験では一カ月口が利けなくなればよかったが、その当時はそうはいかない。なにしろ、卑怯《ひきよう》だ臆病《おくびよう》だと言われるよりは死んだ方がましだという教育を受けている。馬鹿にされたらいやでも決闘をしなければならない。しかし相手が悪かった。よくいるだろう。トッチャン刈りにして、黒縁眼鏡かなんかかけていて、目は少し出目金で、鼻の下が長くて、しかも出っ歯のくせに、目茶目茶に勉強ができて、しかも意地悪で、しかも喧嘩も強いというのが。なに、そんな奴は見たことがない? うるさい黙れ黙れ。
とにかくそういうことで、決闘になったのだ。その結果、負けて死んでしまったという筋書きが最初は考えられた。サツマには示現流という必殺の剣法があるが、それも修得の度合いは人それぞれだ。清太郎は勉強が好きだったぶんだけ体育は不得意だったともいえる。つじつまは合う。だから最初は先祖が決闘して死んでしまうという話を書こうとした。しかしどうもうまくいかなかった。なんとか死なせないようにしようという身内意識が働くらしい。とうとうトラブルの相手を代えてしまった。意地悪な秀才の代りに、親の威光でかろうじてその塾に入っていた愚鈍沼|泥之丞《どろのじよう》という馬鹿者が急遽《きゆうきよ》浮上してきた。泥之丞はことあるたびに清太郎をワナにおびき寄せて殺そうとした。しかし、再三の泥之丞のくわだてにもかかわらず清太郎はそのたびに漫画映画のセオリーによって危機を脱し反対に泥之丞がひどい目に会い続けた。
泥之丞はとうとう清太郎に心服し家来のようについてまわった。やがて当時万巻の書物を読破しアインシュタインと筒井康隆まで読んでしまっていた清太郎はどうしてもこの江戸時代には住めないと感じ、脱出口を求めて平賀源内に会いに行った。平賀源内がタイムマシンを発明していて時代を自由に行き来していることをつきとめたのだ。
清太郎は未来に行こうとした。ちょうど自分の子孫が自分たちの存在に気づいた今の年代に来ようとしてタイムマシンに乗り込んだ。そこへ清太郎を慕って追って来た泥之丞が現れ、無理矢理入り込んできた。タイムマシンは故障を起こし二人の属する時空間は入り乱れた。二人の人格融合までおきた。こうしてわたしは以後時空間をさまよう存在となってしまったのだ。あるときは山下清と名乗って日本中を放浪してまわった。清太郎の名前と泥之丞の体型知能が混ざった結果だ」
「だからぼ、ぼくはこういうしゃ、喋りかたにな、なるんだな」
「うるさいおまえは黙っていろ」
二つの人格があらそった。
「分かりました。そういうわけだったのですか」龍右衛門は言った。
「わしには何がなんだかさっぱり分からんよ」樺山資紀が言った。
「薩英戦争のときにもお会いしましたね。あのときには英艦の砲撃で燃えている磯《いそ》の集成館の跡でこれから起きることをすでに起きていることのように話されていた。そしてそれがすべてそのとおりになった。幕府が倒れ薩長が天下をとったのです。あまりの不思議さにあのとき一緒にいた川路さんともかえってその話を以後しなかったほどです」
「そういえば川路君が死んでもう十二年になるのだな」
「そうです。西郷さんが亡《な》くなって十四年になります」
「西郷隆盛はたしか二年前に公式に逆賊の汚名が除かれて正三位になったわけだな」
「当然のことです」
「たしかに死後なお人望があった。常に存在する政府への不満のシンボルには絶好の人物なのだ。だからそれを政府が取り込むのは上手い手だ。結局は政府側の軍国主義のシンボルにされていくわけだからな」
「……………………」
「そこで、西郷隆盛と川路|利良《としよし》とおまえとの関係だが、こちらの調査でその後分かったこともある。本人の前だが、これから少しその話をしようと思うが、いいかな」
「いいとも」
強引に話を自分のペースにもっていこうとする男の勢いにつられて思わず房親《ふさちか》が軽薄な答えを発しているすきに男は再び長い演説とも独白とも分からぬものをはじめた。
「鹿児島には川路利良研究家の肥後精一氏がおられる。この方から作者はすでに十五通ものお手紙をいただいた。そのなかで肥後氏は、川路について定説とは異なる様々な発見を教えてくれた。
そのひとつは、川路が比志島《ひしじま》村から西田の薬師町に移ってきた時期だ。従来はどの本にも十七歳となっていて、これをもとに作者も龍《りゆう》右衛門《えもん》と川路の出合いを想像していたのだが肥後氏の新しい研究によるとこれは川路が二十四歳のときのことだったらしい。このときに殿様から銀二貫目が与えられているというのだ。金を与えられて外城士が城下に住めるようになったわけだ。これは破格のことと言わねばならない。
このようなことが手がかりとなって、従来言われてきたように禁門の変で西郷に認められてはじめて登場したかに見える川路が実はその以前から独自の確固とした地位を藩内に占めていたという観点が生れてきた。たとえば川路はすでに十四歳で殿様につかえ江戸へ上下していた形跡があり、若くして剣道や太鼓打ちの免許皆伝になった。一方、西郷が島津|斉彬《なりあきら》に認められて世に出るのは西郷が二十八歳のときで、このとき川路は二十一歳だ。川路は二十三歳のときには真影流の奥儀を極めているという逸材だから、西郷もこのときには川路の存在や力量を十分承知していたはずだ。多分この時点では川路の存在は西郷、大久保より上だった可能性がある。
さて一方、山下龍右衛門房親と、西郷、川路の関係はどうかというと、『西郷隆盛全集』第三巻に収められている色々な手紙から推測する限りでは、警察制度創設時においては、西郷は川路よりもむしろ山下龍右衛門、篠崎真平、神崎長太らを買っていたふしがある。しかし、結果は川路が長となる。これはどういうことになるのか。この点について現在肥後氏は調査中だが、ここで作者が思い出したことがあった。
最初の手がかりとなった司馬遼太郎著『翔《と》ぶが如《ごと》く』の一節だ。実は作者は大胆にも司馬氏に手紙を出していたという事実がある」
「あれは、ぼ、ぼくが考えたんだな。シバ先生はシキバ先生と名前が似ているからきっと親切なはずだと、お、思ったんだな」同じ人間の中に別の人格が現れて主張をした。
「分かったわかった。その結果、大変丁寧なご返事があったのだ。お忙しい中で当該資料を探して下さった。中村徳五郎著『川路大警視』という本の一節だった。実はこの本は作者も図書館で見つけていたのだが、巻末にあった山下房親の川路についての思い出話に気を取られて他の個所を丹念に調べなかったのだ。その七十七ページ目が送られてきた。
内容は戊辰《ぼしん》戦争の後鹿児島に帰った西郷が城下常備隊として四つの大隊を編成し、それぞれの隊長を決めたというものだった。桐野利秋、篠原国幹、川村純義、野津鎮雄、後に種子田左門という面々が選ばれた。このときだ。山下龍右衛門房親が登場するのは。
『時に戊辰役の小隊長として北越に転戦したる山下房親すでに凱旋《がいせん》して鹿児島に存《あ》り、一日南洲を訪ふて曰《いわ》く、城下四大隊長の任命は之を見たり、然れども未だ川路利良君に及ばざるは何ぞやと、南洲答へて曰く、川路の事は予が方寸すでに定まれり、暫く其機を待てと』
これは見方によってはずいぶん偉そうな態度だ。そうそうたる連中がすでにそれぞれの立場を得た。それも西郷隆盛という最高司令官の決定によるのだ。その人事に文句があるといっているようにさえ見える。自分の知り合いのために単身西郷のところに乗り込んで談判をしたわけだ。このことから次のようなことが推測される。
山下はこういうことをするほど川路を認めていた。あるいは同じ郷中《ごじゆう》の先輩として強い友情を感じていた。どうやら小さな頃《ころ》から山下は川路を見知っていたらしいのだ。川路が同じ西田に引っ越して来たのが十七歳でも二十四歳でもそれは変わらないようだ。同じ中村徳五郎著『川路大警視』の巻末の思い出話で次のように言っている。
『(川路は)幼少の時から一風変わって気性の強い、そうして無駄口《むだぐち》を叩《たた》かない、誠に謹直の人であった。殊《こと》にその健脚なことは当時及ぶもの無い程で、藩政時代には毎日三里もある所から城下まで通勤して居た。滅多に口を利《き》かぬ代り、一度口外する時は必ず其主張を貫徹せねば止《や》まぬという風であった』
以下講談のような語り口で八つほどのエピソードが紹介されている。他の人のやや紋切り型の話とは少しちがってどれもがとっておきの面白い話風だがどこか川路を語り手の兄弟のように感じさせるものばかりだ。『川路の幼少の頃のことは山下房親君に限る』と他の人たちが言う所以《ゆえん》だろう。つまり山下と川路は若いときから知合いであり頭角を現わしていた川路に年下の山下が心服していたことは充分に考えられる。その人の為《ため》に西郷に談判に行くというそのことがそれを証明しているではないか。
そして一方では山下はそんなことができるほど西郷とも親しかったわけだ。もっとも西郷は見知らぬ者がいつ来ても気軽に会ったともいわれるが、この場合はそうではない。戊辰戦争のときに西郷に率いられた部隊に属して北越に行き、その陣中に西郷その人からの手紙が届けられている。生涯《しようがい》に三通もらう西郷からの手紙の一通目だった。
この手紙についてここで詳しく紹介することにしよう。
『西郷隆盛全集』からの読み下し文だ。
『御壮栄御出軍の筈珍重に存じ奉り候。陳《のぶ》れば|※[#「禾+最」、unicode7A5D]《さい》所、神宮司の両士差し遣わし候間、仰せ談ぜられ、進撃十分に御勉励|希《ねが》い奉り候。昔日の忠憤、今日に相顕われ候処これなく候わでは他人へ面を対し候儀も相叶わずと存じ奉り候。御互に隔絶いたし候処、尚更気遣い候間、不日庄内において御面会の節、戦功御争い申し上ぐべく候。此の旨幸便に任せ一筆此の如くに御座候。頓首』
日付は八月二十五日。慶応四年、後の明治元年のことだ。署名は西郷吉之助となっている。この手紙についての解説を『西郷隆盛全集』よりやや詳しい『大西郷全集』の第二巻から写してみる。
『隆盛は新潟に上陸後松ケ崎に滞陣して薩藩諸隊の指図をしてゐた。新発田の官軍本営より屬屬来営を求めた。其為に黒田、吉井、山県の三参謀代る代る松ケ崎に来りて極力|勧請《かんじよう》せしも遂に行かなかつた。
宛名《あてな》の山下龍右衛門(房親)は隆盛の引率して来た兵具隊|附士《つきし》一番隊の隊長の一人であつた。一番隊は八月十八日、二、三番隊に分れて村山口へ進軍したのであつた。隆盛此書を贈つて山下を励ましたのである。此時、隆盛の声望は藩の内外に高く、人々官軍の総帥《そうすい》の様に考へてゐたのであるけれ共、新発田の官軍本営へは、わざと顔を出さず、薩藩の兵具方諸隊の指令を以《もつ》て自ら任じ、一偏将に過ぎざる山下龍右衛門(房親)に此書を贈り、〈不日庄内に於《おい》て御面会の節戦功御争可レ申候〉とあるは、如何《いか》にも面白い。これがために山下は非常に感激し、奮戦功を立てんことを心に誓つたといふことである。
山下啓次郎氏(房親の嫡男《ちやくなん》にて今の司法省勅任技師)嘗《かつ》て編者に語つて曰く、此書を父がもらつた時、之を見た人々が、非常にほしがりて是非譲つてくれと請《こ》ひしも、父はこれはあげられぬ。自分が戦死したら誰でも取つてよろしいが、生きてゐる間は与へがたしとて胴にくゝりつけて放さなかつたと、よく父が話してゐた、と。氏また語りていへるやう、これも父の談であるが、庄内降伏の際、西郷先生は、〈かゝる大軍を一日|留《とど》めておけば、一日、庄内藩の入費が嵩《かさ》みて、庄内も大《おおい》に迷惑するであらう、官軍の方でも戦勝に乗じて、我意を振舞ひ、軍紀を紊《み》だすことがあつてはならぬ。速《すみやか》に引揚げ〉といつて、僅《わず》かな兵をとゞめてさつさと引上げさせた。といふことである』
同じく『大西郷全集』の第三巻には『伝記』の部がある。そこでこの手紙について再び触れられている。
『隆盛一部将と戦功を争ふ』というタイトルで、前半は本営に行かなかったという事実を述べ、続けて次のように書いている。
『隆盛は、諸参謀が折角謀議してをる所へ、自分が出るのは、よくないと思つたからであらう。わざと、本営に顔を出さず、薩藩兵具方諸隊の総差引といふ地位にゐて部下の将士を励ましてゐた。当時、兵具隊附一番隊の山下龍右衛門(房親)に与へた手紙に〈昔日《せきじつ》の忠憤、今日に相|顕《あら》はれ候処これなくては他人へ面を対し候儀も相叶はずと奉存候。……不日、荘内において御面会の節戦功相争ひ申上ぐべく候。〉と書いてゐる。光明|赫々《かつかく》の地にあつて、なほ部下の一偏将と同じく〈戦功を争はん〉と言ふところ、たとへ激励の言葉にもせよ隆盛の面目躍如たるものがある』
前出のものと重なるところが多いがこうしてわざわざエピソードとして取り上げられるほど珍しいことだったのだ。この場合の面白さは全軍の総帥がなぜか参謀たちには会いに行かず、わざわざ一小隊長に手紙を送ったというそのコントラストだった。つまり、総大将が居並ぶ偉い人たちを振って無名の若者のことばかり気にしていたというわけだ。
そう思ってよく読むとこの手紙はどこか異様なところがある。『大西郷全集』の伝記ではわざと引用をさけて〈………………〉にしてしまっているその個所がそうなのだ。
『御互に隔絶いたし候処、尚更気遣ひ候間』とある。
『お互いに離ればなれになっているので、なおさら心配だが』こう西郷が言っているのだ。
単なる大将の激励の手紙だろうか。
特別な気持ちを抱いている相手に向けての特別な手紙ではないだろうか」
[#改ページ]
第十五章
浴衣《ゆかた》姿の小肥《こぶと》りの男の演説とも独白ともつかぬものが長々と続いていた。そして彼はとうとう西郷隆盛と山下龍右衛門房親の間には単なる指揮官と部下の関係以上の何かがあったにちがいないとまで言い出したのだ。
こういうことになってはおれもじっとしていられない。最近買ったマウンテンバイクに飛び乗り、立川から阿佐《あさ》ヶ谷《や》まで二時間かかって両親の家にたどりついた。
「ぜいぜいぜい。ところでおとうさんは房親さんの顔を見ていますか」
「ああ。会っているよ」
「どんな顔だった」
「啓次郎さんにそっくりのきれいな顔立ちだったな」
神棚《かみだな》のとなりに飾ってある写真を見ると、啓次郎は二重《ふたえ》まぶたの大きめの目とよく通った鼻すじを持つなかなかの顔立ちであることが分かる。
「そうか。いや実は西郷さんの手紙なんだけどね。これこれしかじかのことがあってひょっとしたらそういう可能性もあるんだ」
「そうか。昔の鹿児島だからあるかもしれないな」
父親はこともなげにこう言った。
「それはあなたそうかもしれませんよ」
久し振りに現れた母親がすかさずソロを取ろうとしはじめた。
「織田信長をごらんなさい。そばに連れ歩いているのは皆男ですよ。武田信玄も上杉謙信もそうです。戦国武将は皆そうです。これはなぜかと言いますと戦地には女を連れては行けないからなのです。昔から英雄豪傑というのは大体がそういうものなのです」
「房親さんとはなにか話をしましたか」
「子供だったからね。話というより、よくウナギを一緒に食べようといって取り寄せてくれたな。自分もウナギが大好きだったんだ」
老いてますます脂《あぶら》っこいものの好きな薩摩人か。すっかり暗くなった道を再びバイクで戻りながら考えた。
西郷も川路も房親も時の反乱軍の戦友だ。戦って明治時代というものを作ってしまった。明治時代というのは明治天皇という人が即位したからそう呼ばれるわけだが、この人はしかし当時まだ青少年だった。冷徹で即物的なサムライたちの戦いの場では「玉」と称されて手に入れた方が有利になる将棋の駒《こま》のようなものでもあった。同時にやはり反乱軍に属していたのだから三人の戦友ということにもなる。計算ずくだけではない同志的感情も通っていたはずだ。結局、男たちは国を勝ち取って青少年天皇にプレゼントしたのだ。「だからちゃんとした君主になれよな」という気持ちは戊辰《ぼしん》戦争を戦った反乱軍の戦士すべてが感じて当然だった。「ちゃんとしねえとまたおれたちが暴れるからな」という言葉が次に用意されていても不思議はない。もちろん「ちゃんとしろ」というのは自分たちの分け前をちゃんとしろということも含んでいる。
その天皇に対する西郷のアフターケアを思い出した。西郷は青少年天皇が女官に囲まれて教育をされているのを見てこれをやめさせ、まわりをすべてそれもサツマの男たち中心で固めたというのだ。西郷が若い明治天皇を好きであり天皇もまた西郷を愛したということもどこかで読んだ憶《おぼ》えがある。天皇の権威と軍事力の象徴のような西郷の名前がこうして結びつけられているのは好戦的な国家を持ちたい人々にとっては好都合なことだろう。しかし、もしかしてこれが単なる宣伝的エピソードだけではなかったとしたらどうか。先祖への手紙を通じて西郷の別の姿をかいま見たおれの頭の中にいきなりおそろしい考えが浮かんできた。好きだ愛したが文字どおり本当のことだとしたら。西郷はこのころ四十を過ぎたばかり。青少年天皇は十六歳。可能性は充分に……………。
「げ。西郷さん。あんたは何ちゅうことを」
思わず関西弁となったその瞬間、路地から夜猫《よるねこ》が一匹飛び出してきてバイクの前を横切った。急ブレーキをかけると後輪がすべり、おれはバイクごと道路に横倒しになった。妖《あや》しの想念はたちまち消え失《う》せた。
さて一方こちらは再び浴衣姿の小肥りの男、山下龍右衛門房親と樺山資紀を前にしてなかなか演説をやめない。
「そういうわけで山下と西郷と川路の関係をもう一度整理してみよう。
今までは川路と山下の関係だけを重要に考えていた。たしかに同じ西田地区に住み郷中《ごじゆう》の先輩後輩だった。いつもつき従う弟のような存在だと考えられる。またそうなる理由として、鹿児島独特の目上の者に対する服従心に加えて小さいときに兄をなくした山下と外城士として城下に移ってきて疎外《そがい》感を抱く川路とが特に引かれあったということも考えられる。以後山下は常に川路に従い、川路を通じて仕事をし、川路を通じて西郷とも知り合ったのだと考えられた。たとえば川路が禁門の変で大活躍をし西郷に認められたという従来の説にからめると、西郷にほめられた川路が機を見て舎弟分の山下を西郷に紹介したという筋も成り立つ。しかしどうもこう簡単ではないようだ。
肥後精一氏の手紙には『西郷は川路よりも山下のほうに親しかったのではないか』という示唆《しさ》もあった。それならば西郷と山下が川路経由でなく知り合う可能性があったのだろうか。
山下の生れた西田町と西郷の生れた加治屋町とは甲突《こうつき》川をはさんでそう遠くない距離にある。別の郷中同士は仲が悪いのが普通らしいがそれでも知り合いになる機会はあったろう。西郷その人でなくもしかしたら弟の従道《つぐみち》だったかもしれない。房親の二歳年下だ。熊本から名石工の岩永三五郎がきて五大石橋を作りはじめたころに共に幼年時代を過ごしている。二人は見物に行って顔を合わせていたかもしれない。あるいは夏に甲突川で泳いでいるときに知り合ったかもしれない。そんなこんなで仲よくなり、たとえば山下が子供のころに従道に連れられて西郷家に遊びに行くというようなことがあったかもしれない。
『吉之助兄さん、こちらは西田の山下君です』
『こんにちは』
『西田の山下。するとあの清太郎さんの弟さんか』
西郷が藩校で一緒だった清太郎を憶えていたとしても不思議はない。その弟というので特に記憶に残ったかもしれない。
弟の従道が特別山下と親しかったという証拠はないがまったく没交渉だったとも考えにくい。後の征韓論争で西郷が政府をやめたときにやはり残るという選択を従道はしている。最初にポリスの構想を西郷にもたらしたのが従道だったという事実も何か関連を感じさせる。
さらにここに興味ある新聞記事がある。山下と従道が一緒に出てくるのだ。西郷兄弟との関係を知るヒントになりそうなのでそれを挙げてみよう。
明治二十年九月二十一日の『読売新聞』の記事だ。
『西郷隆盛|翁《おう》の真影の世になきは人の知るところにて、世人が想像を以《もつ》て作りし翁の肖像といふものを、同県人にして翁と共に戦死せし永山弥一郎の写真を翁の真影として売る者あり、世人もそれを真と思ふは遺憾の事なりとて、同県出身の人々が審議し、西郷従道、黒田清隆の両氏が検定。山下親房[#「親房」に傍点]氏が選者となり、床次《とこなみ》正精氏が画《か》きし真像を、銀座三丁目大盛堂より発売せしが、威容あたりを払ひ、一見して翁の真影を知るに足れり』(西沢爽『雑学 明治珍聞録』文春文庫より。傍点筆者)
この山下親房[#「親房」に傍点]について西沢氏は『政愛《まさよし》か。維新の志士、鹿児島に知己が多かった。もと、大和芝村藩士』と推測されている。たしかに明治の人名辞典などに出てくる山下姓のところには政愛が出ていて親房の名はない。そして政愛は維新のときに鹿児島に帰属してその後警視庁に勤めている。たいへん似たところがあるのだ。しかし、山下政愛が親房と名乗っていた痕跡《こんせき》がどうも見つからない。一方『大西郷全集』全六巻の中で西郷の手紙を受け取っている山下はただ一人でそれは房親だ。出身地もごく近い。などからやはりこれは『房親』が『親房』とまちがって書かれたものだと考える方が自然ではないか。資料を自分の都合のよいように『南は東のまちがい』などと勝手に歪曲《わいきよく》するのはいけないことは充分承知しているが、この場合はわたしの責任でそういうことにさせてもらおう」
「ぼくも責任を、と、とるんだな」
久しぶりに現れたもう一つの人格が発言した。
「おまえは黙っていろというに」
二つの人格が争い、男はさらに続けた。
「不思議なことにこのころには西郷隆盛の顔を知っている者があまりいなかったらしい。写真も残っていなかった。そこで、こういう顔だったいやこうだったと決める係に弟の従道と一緒に山下がなっているわけだ。親しかった証拠だ。ということはつまり、山下は川路利良の追悼本を作るときには皆に『川路の幼少の頃《ころ》のことなら山下がいちばんよく知っている』と言われるほど川路と親しいと思われ、一方では『西郷隆盛の顔なら山下が弟と同じくらいよく知っているはずだ』とも認められていたということだ。そして、西郷と川路は最後は宿敵のようになって戦い前後して死んでいった。妙なめぐりあわせの人生になったものだな」
「こうもりみたいな奴《やつ》なんじゃないだろうな」
別の人格が出てきて口をはさんだ。
「まあまて。山下と西郷が川路の仲介なしで知りあっていたかどうかということだったな。その可能性は強いようだ。さてここで再び思い出されるのが『西郷隆盛の知遇を受く』と『国事に奔走』という墓碑銘の言葉だ」
「墓碑銘と申されましたか」
今度は房親が口をはさんだ。
「おっと。本人を前にしてまずかったか」
「いや構いません。あなたはこれから起きることを起きたことのように知っている方だ。どうか話して下さい。わたしの墓はどこになるのですか。碑文はだれが撰《せん》するのですか」
「それでは話してやろう。おまえはいずれ青山墓地に眠ることになる」
「やはりそうですか。すでに大久保さんも川路さんもあそこにおられる」
「おまえの場所は二人からすぐのところだ。二人とは比べものにならぬほど小さなものだが、ちゃんと碑文が彫られている。撰は大山綱昌だ」
「おう。大山さんが」
「彫られている文字の形は啓次郎の書だ」
「そうですか。ありがたいことだ」
「そのときにはおまえは勲四等正五位になっていて、どうやら天皇からいくらかお金ももらうようだ。それで墓地を買うということらしいな」
「畏《おそ》れ多くも聖上が」
「ただしこれはおまえが一緒に戦ったあの青少年天皇ではない。その子供だ。おまえが一緒に戦った人はおまえより前に逝《い》くことになっている」
「なんと。わたしは聖上より長生きをすると申されるか」
「そのとおりだ。長生きをして啓次郎の出世ぶりをゆっくりと眺《なが》めることができる。そういえば、昔、磯《いそ》の集成館が薩英戦争で焼けたときに話をしたことがあるな」
「何十年も後になって修復されたその建物に啓次郎が西洋式の玄関をつけると申されていました。あのときは何が何だか分からなかったが今ははっきりと分かる。エゲレス語で造家法を学んだ啓次郎はなんでも設計できるのですね」
「そうだ。そのときまでおまえは生きていられるだろう」
「あれは由緒《ゆいしよ》ある場所です。ということは鹿児島に啓次郎が凱旋《がいせん》できるのですね」
「そう言えるかもしれないな。そういうことならもっと目立つものによって啓次郎は鹿児島のそれもなつかしい西田町のすぐ近くに凱旋することになる」
「何をするのです」
「しばらく前におまえたちが話していたではないか。監獄だ」
「そういう計画のあることは承知しておりますがあのあたりの場所を選ぶのですか」
「不思議な形の門がついている。今から十七年後にはできあがっているだろう」
「やはりあの近くに建てましたか。二十年前にわたしはあそこを出て以来帰っていない。十五年前に家族もあそこを捨てざるを得なかった。そういう鹿児島の人間は多いのです。結果として大久保さんや川路さんの側で政府に残る道を選んだ。その者たちはいまだに故郷に帰れないのです。西郷を倒した側になってしまった鹿児島人は故郷では永久に許されないでしょう」
「それは作者がこれを書いている時代になってもそういう雰囲気《ふんいき》はあるようだ。しばらく前に大久保の銅像がようやく建ったがそのときもかなり危険な空気が渦巻《うずま》いたらしい。川路のことに関してなどはまだ論外ということのようだ」
「やはりそうですか」
「ただこれもまた単純ではない。建前的な西郷崇拝の愚かさに気づいている鹿児島人は多い。作者も様々な人たちに会った。その中には学者もいればジャーナリストもいた。奄美《あまみ》大島出身の人もいた。皆、決して単純ではない。深いところで鹿児島の異様な歴史をきちんと受け止めている人たちばかりだった。いや、この問題はまたくりかえし登場するだろう。というよりこれが実は唯一《ゆいいつ》の問題かもしれないのだ。房親も啓次郎も作者もわたしも監獄の建物も結局すべて西郷の存在と鹿児島人の運命という大きなテーマの中に引きずり込まれてしまっている。そして様々な姿を現わしながらも山下房親という無名の者にまで目をかけた西郷という生身の人間の暖かさには理由のない感動を覚えるのだ」
「自分の身内が親切にされると、すぐにほだされるんだな。お、O型の、わ、悪いくせだな」
別の人格が現れて解説をした。
「こればかりはおまえの言うとおりかもしれない。いや困った。ひとまず話を戻そう。墓碑銘のことから話が飛んでしまったのだったな。それであの言葉だが『国事に奔走』が先に書いてあり『西郷隆盛の知遇を受く』がそれに続いている。その順番に解釈して『国事に奔走していたところそれが縁で西郷と知り合った』と考えてよいのだろうか。このへんはさっぱり手がかりがない。『国事に奔走』とはそもそも何か。下《した》っ端《ぱ》ザムライどもが集まって焼酎《しようちゆう》とハイミナールを飲み、口から泡《あわ》とヨダレをたらしながら保守的な上級藩士たちの批判をしていたのか」
「そうだな。今までのジャズの決まりは全部ぶち壊して、フ、フリージャズをやって、目上の奴《やつ》らを驚かしてやると、言っていたんだな」
「作者の歴史と混同するな。そこへ西郷がきて『山下君、元気がいいね。明日からぼくのバンドに来ないかね。前のピアニストが新撰組に切られて死んでしまったんだよ』と言った。こらこらのせるんじゃない」
「あ、あんたも嫌《きら》いじゃないんだな」
「うるさい。黙っていろ。あるいは山下は本当に西郷のもとで国事に奔走したのかもしれない。手紙を届けてもことづけをしに走って行っても国事に奔走だからな。それだと禁門の変の前後に京都でということも考えられる。あるいはこのころ西郷が従道に若い秘書を探してくれと頼み、従道が山下を推薦したとかな。しかし、京都ではそばにぴったりついていたのはなんといっても中村半次郎、のちの桐野利秋たちだ。房親がそのあたりでどうしていたかについての手がかりはまったくない」
「わ、分からなくては困るんだな。な、何が言いたかったのかな」
「そうだった。これはそもそも西郷、川路、山下三者の関係の整理だった。もう一度一人一人について考えてみよう。
西郷はその休む間もない激動の人生のあるときに十四歳年下の山下を心にとめる機会があった。戦中で激励の手紙を出し、やがて新政府のポリス制度をはじめるときにこれを抜擢《ばつてき》した。
川路は藩政時代には早くから頭角を現わしていた。年は若かったがあるいは西郷や大久保よりも一目置かれていた可能性もある。ただしかれは城下の出身ではなかった。しかし、やがて城下に住むがこれには公《おおやけ》の引っ越し料が払われた。これは異例の処置だった。優秀だったのだ。移り住んだのは城下といってもはずれの西田町薬師馬場だった。同じ郷中に七歳年下の山下がいた。
山下は小さいときから城下に通ってくる川路を見知っていた。誰もが幼|馴染《なじ》みと認める間柄《あいだがら》だった。一方あるときに西郷と出会って気に入られていた。戊辰戦争のときは陣中に手紙をもらうほどだった。戦後、新政府でポリスというものをやるからと呼ばれた。
西郷は藩政時代から川路を優秀な人材として知っていただろう。島津斉彬に認められて抜擢されるまではむしろ西郷の方が格下だったかもしれない。しかし、斉彬によって諸国に使いをし傑物に会い、やがて斉彬の死、自身の自殺未遂、命令違反、二度の島流しからの帰還という激動の時間の中で西郷はいつのまにか大物になっていった。
川路はその間も優秀な藩士として存在し続けた。しかし、特に西郷と組んだり西郷を取り巻く一派ではなかった。
山下も川路に準じていたと思うが、同じ年頃の西郷の弟従道と知り合っていた可能性もある。
禁門の変が起きたときに川路は大活躍をした。誰もが噂《うわさ》をしたほどのものだった。大勢の敵に囲まれていた戦友を一人で助け出したりもした。
山下もここにいた可能性はある。川路と住居が同じ単位に属していたのだからその地区の部隊の出陣の番だったとも考えられる。
このときに西郷はあらためて川路を認めた。つまり総指揮官という上の立場からはじめて川路を視野に入れたのだ。立場の逆転ということだったのかもしれない。
川路は武士の本分を尽くして満足だったろう。刀の刃がノコギリのようになった。
山下はこの現場でかあるいはしばらくあとでか、その刀を見て『これでよく切れましたね』と聞く。
『いや切れない。鎧《よろい》の縫い糸しか切れなかった』
『なぜ突かなかったのです』
『謙信だって突くのを忘れて打ったではないか。火花を散らして戦うときはそういうものだ。仕方がないから打ち倒したよ』
などという会話があった。
やがて戊辰戦争となる。西郷は反乱軍総司令官として君臨した。江戸無血開城など行なうがすぐに鹿児島に帰ってしまう。
川路は鳥羽伏見、江戸の上野、東北会津と転戦。上野の戦いで『川路の睾丸《こうがん》』といわれるエピソードを残した。どういうものか山下の回顧談を挙げる。
『上野戦争の時、君は広小路口に向ひ、衆に先じて叱咤《しつた》敵に向つたが、弾丸雨飛、賊の勢|頗《すこぶ》る猛烈で官軍も屡々《しばしば》撃退された。負けぬ気の君は残念で/\堪《たま》らない、一層|邁進《まいしん》して居る時しも敵弾に中《あた》つて仆《たお》れた。官兵は直《すぐ》に君を担《かつ》いで営に帰り、医者の手に掛けた。傷口を検《しら》べて見ると、丁度|陰嚢《いんのう》を弾丸が貫いて居た。併《しか》し幸にも睾丸を傷けて居ない。これは激戦中でも此《こ》の豪胆なる川路君の睾丸は何時《いつ》もぶら/\垂れて居たことを証明して居るのである。そこで|川路の睾丸≪○○○○○≫と云ふ事が軍中の大評判となつたさうな。上野戦争の際君が物した七絶がある。
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一片黒雲追短蓬
海天巻雨乍濛々
疾風吹入緑山樹
山上群鴉散晩風』
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後年こう語る山下は現場にはいなかった。あとで聞いた話を面白がって吹聴《ふいちよう》しているのだ」
「その体質はよく分かると、さ、作者が言っているな」
「分かった分かった。ついでにつけ加えると、この男子の睾丸というものは怖かったり寒かったりするとちぢみ上がるとされているのだ」
「あ、そうだったんだな。そ、それで意味が分かったな」
「出陣の機会がなかった山下は八月になってから西郷に連れられて船で新潟へ行った。この陣中に西郷の手紙が届いたのだ。
戦後、西郷は鹿児島で軍隊組織の再編制をやる。するとある日山下が一人でたずねてきて『川路さんのポストがないがどうなっているのだ』と聞いた。西郷は腹案があるから心配するなと言った。山下自身のポストがどうだったのかはよく分からない。いずれかの部隊に自動的に配属されることになっていたのだろうか。ところで川路は明治二年には兵器奉行という地位になっていた。しかし、今度の西郷人事では大隊長などの重要ポストは桐野、篠原、永山、野津といったいわば西郷一派の側近によって占められてしまった。西郷一派とは縁が薄くそれでも独自に頭角を現わしていた川路などが優遇されなかったのだ。そしてそのことについて同じような立場の他の者も言いたいことがあったかもしれない。そういう背景をもって、生れ育ちは西田一派あるいは川路一派でありながらなぜか西郷に特別目をかけられている山下がその関係を利用して西郷に談判にいったということなのかもしれない」
「川路は、西郷に、なつかなかったんだな。そ、それで西郷が怒って川路が可愛《かわい》がっていた山下を、取ってしまったんだな」
「おまえはそういう性格を利用して言いたいほうだいができるわけだな」
「でも、あんたもこういうスジは嫌いじゃないんだな」
「ええい黙れ黙れ。さてそれで明治四年になって西郷は弟の従道の進言でやることにしたポリス制度の要員として山下、篠崎、神崎の三人を選んだ。そして彼らをいわゆる御親兵の上京と一緒に連れて来ていたのだが、廃藩置県前では何もできず一度帰す。それからどうなったか。肥後氏の研究によって判明した以後の出来事を年表風に並べてみよう。
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七月六日 廃藩置県を審議。
七月十日 山下以下に上京の準備をするよう手紙を書く。
七月十四日 廃藩置県を断行。直後に西郷は大久保利通にポリス制度を進言した。
八月五日 大久保が岩倉具視にポリス制度を進言。
八月七日 岩倉が大久保にポリス制度施行を許す。
十月 川路は東京府大属となる。
十月二十三日 邏卒《らそつ》三千人決定。
明治五年五月 六人の邏卒総長がおかれる。それは水野元靖、安藤則命、桑原譲、川路利良、田辺良顕、坂元純煕だった。
八月 邏卒隊を接収して警保寮をおく。
八月 安藤、坂元、川路が警保助となるが、川路のみが大警視を兼ねる。
九月 川路は欧州視察に出発。
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この間山下はどうかというと、まず取締組組頭というものになった。それから大警部というものになった。以後西南の役までそのままだ。せっかく西郷にこのように目をかけられて抜擢された者としてはこれでは少しさみしいのではないかな」
「だからやはり、ば、馬鹿《ばか》だったんだな。西郷は、あ、愛に目がくらんでそれが分からなかったんだな」
「またそのようなことを。そうではなくてやはり最初から西郷は組織全体を考えていたのかもしれない。つまり、山下たちはあくまでも下働きの素材だと」
「それとも、もしかしたら最初は山下にやらせようと思ったかもしれないな。それで山下がびっくりして『ぼ、ぼ、ぼくは頭が弱いのでそういうことはできないんだな。川路さんがいいんだな』と言ったんだな」
「いや、やはり最初から西郷は川路を長にと考えていたのだろう。この組織は最初は六人の連立指導体制だったようだ。やがてその中から川路だけが抜け出て行く」
「だから、そのときはもう西郷は関係ないんだな。大久保だな」
「そうか。おまえもときにはよいことを言う。大久保と江藤新平が実務をやったようだ。ポリス制度について西郷は最初のひと突きをしてあとは黙っていた。そしてそのときに、自分の見込んだ山下以下の者はとにかく使ってやってくれと言ったわけだ」
「兵隊の位が低いんだな。大将には、なれないんだな」
「大久保、江藤なども色々な人材を知っていただろう。組織の運営の素質と実際に腕を使って役に立つ素質とはちがうのだ。山下はあくまでも実技派だったのかもしれない。頭を使うよりも、とにかくピアノの前に座ってしまえばなんとかなると考えるような」
「さ、作者と混同しては、いけないな」
「とにかく以後は江藤と大久保に西郷はまかせてしまう。そのラインで川路はたちまち大活躍をはじめる。西郷が『川路については腹案がある』と言ったとおりに川路を長として推薦していたのならそれもまた川路の存在を特別なものにしただろう。そして、以後川路は熱狂的にこの警察制度に献身しそれを文明の証《あかし》と信じ守り通した。その完璧《かんぺき》な自走的論理がとうとう数年後に西郷を殺しにくることになるのだ」
「そ、それにくらべると山下はただ命令を聞く兵隊だったんだな」
「山下の川路についての言葉をもう一度挙げておこう。
『寡言《かげん》で豪毅《ごうき》、其《その》上に身体《からだ》が図抜けて大きく、大西郷に余程信ぜられて居た。警視庁の創立も矢張り大西郷によつて成つたのだ。勿論《もちろん》其後に於《お》ける庁制の改革は川路君がやつたのであるが……伏見、鳥羽並に会津の戦争には一方の隊長となつて大に奮戦して、何《いず》れの戦でも負けたことがなかつた位、益々以《ますますもつて》大西郷の信用を得て終《つい》に大警視となつたのだ』
話が少し前後するような語り方だが、意味は分かる。なんだか宿敵と見なされたまま相ついで死んでいった二人を死後になってもとりなしているようではないか」
二つの人格を持った浴衣《ゆかた》姿の小肥《こぶと》りの男の演説とも独白ともつかぬものはまだ続く。
「そういうわけで西郷と川路と山下の妙な関係を一応整理したわけだが、このあいだにも時代は明治、大正、昭和、平成と進んでしまったわけだ」
「そして作者は、ア、アフリカにいるんだな」
「そこで黄熱病とコレラとマラリヤとライオンとワニとダイジャと戦いながらこれを書いていると訴えているわけだが、しかし、こんなに簡単に平成時代となってよいものか」
「それだな。やはり、め、明治時代のように一つの時代ができるためには、大戦争が起きた方が、お、面白いんだな」
「なるほど。おまえはその性格を利用して何でも言える立場なのだったな」
「徳川のやつらはこの機会に、な、なぜ暴れないのかな。新しい天皇を、さらって錦の旗を作って戦争を起こせば、あのときの仕返しが、で、できたのにな」
「あのときとは状況がちがうからな。天皇も青少年ではないし」
「親戚《しんせき》には、若いのもいるな。ヒゲを生やしたのもいるな。どれかを、さらって戦争を起こすんだな。そ、そして今の平成政府をあやつっているネズミ目の姦賊《かんぞく》どもを叩《たた》き殺すんだな」
「分かった分かった。おまえも意外に興奮症だったのだな」
「こ、こ、こ、興奮して、ど、どこが、わ、悪いかな。みんなは、ぼ、ぼくを頭がよわいと言うけど、頭がよわいのはみんなそうだな。こんな、ば、馬鹿な国ができて、よ、よく我慢しているな」
「分かった分かった。ではそれは今度の時までに皆で準備をしておくということにしよう。さてそれよりも、いつのまにか西郷隆盛の磁力に引かれてさまよっていた話をそろそろ元に戻さなければならない」
「ど、どこに戻すのかな」
「鹿児島でのシンポジウムのところにだ。では龍右衛門、樺山さん、長々と邪魔をしたな」
あっけにとられている二人の耳にハープの最高音域のアルペジオが響き渡り、目の前の小肥りの浴衣姿の男は消え去った。
ハープの最高音域のアルペジオが響き渡り、アフリカのジャングルの中でダイジャに巻きつかれていたおれの目の前に、浴衣姿で小肥りの男が現れた。
「あ、西郷さん。助けて下さい」おれはもがいた。
「よかよか。おまはんの役割はちゃんと考えてある」男は言い、おれの左手をつかんだ。三たびハープの最高音域のアルペジオが鳴り響くとおれは時空を飛んで鹿児島に着地した。市立美術館の会議室の前の廊下に立っていた。
「さあ着いた。またこの場面に戻れるぞ。ではさらばだ。次にわたしに出てもらいたいときにはバックグラウンドミュージックの手を抜かないように」男が言った。
「すみません。なにしろダイジャに巻きつかれていてはろくな音も想像できず、ついついマンネリに」言いわけをしていると急に大声が聞こえた。
「あ、ここにいたぞ」
「今度こそ逃がすな」
久し振りに現れた三人の追手のサムライが刀を抜いて男に迫ってきた。
「あらよがさってあれこれけなましもそ」急に別の人格になりながら意味不明の言葉を発して男は逃げだした。追跡者と逃亡者は一団となって美術館から飛び出し私学校跡の塀《へい》ぞいに走って消え去った。
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第十六章
シンポジウムは藤森さんの講演のあとの休憩が終わり、揚村《あげむら》さんの番が始まるところだった。揚村さんが喋《しやべ》りはじめた。
「今日の話の発端になりました鹿児島刑務所が、皆様の目に触れることなく壊されてしまうであろう、ということを考えまして、是非ともその前に映像で見ていただきたいと思いました。いかにきれいで色々な思いのこもった建物であるかを知っていただきたいと思います」
そして揚村さんは皆に配ってあった専門的な資料を参照しながら解説を加えた。以下のようなことが語られた。
この建物は現存する日本の石造建築で最も大きい。これが造られた時代はすでに日本でも鉄筋コンクリートが導入されていて以後はそちらになっていくのだが、あえて石造にされている。デザインはゴシックを基調にしているがこれもすでに当時では古典だった。啓次郎が勉強していた時代はヨーロッパではネオクラシシズムの時代だったから最先端から復古調まで色々なスタイルがあった。啓次郎が洋行した一九〇一年にも様々なものが見られたはずだが、それらの中からこのスタイルが選ばれて日本の刑務所に適用されたわけだ。そして特に鹿児島には江戸時代から五大石橋など石の建造物は多く石も切り出せる。その石文化の存在する地元で石造のゴシックがテストされたのだろう。そこには当然国をあげてのヨーロッパに負けるなという基本方針があったが、この建物はデザインも居住性も決して負けていない高水準を保っている。
「では絵を見て下さい」部屋が暗くなってスライドが映し出された。
画面には甲突川の対岸から見た門の姿が映し出された。手前にやはり石造の鶴尾橋が見える。次にどうやって撮ったのか高い位置からの刑務所の全景が映った。橋、門、つい最近不審火で焼けたという庁舎の跡、五指放射状の房舎が見えた。
思えばすべての話の発端は今年(一九八六)の正月だった。ジャズフェスティバルに出演のために鹿児島にやってきたおれは、ここの刑務所がうちのじいさんの造ったものらしいという親戚《しんせき》筋の情報をたよりにそのことを人にたずねたのだ。そのころまでには揚村さんも藤森さんも山下啓次郎が設計者だということは知っていた。しかし、決定的な証拠がなかった。この建築家の子孫がどこにいったのか行方がつきとめられなかったのだ。そういうときにその人物の孫が向こうから名乗り出てきたというわけだった。しかも、ちょうどそのときにはこの古い刑務所をこれ以上使うのをやめて別の場所に別のものを建てるという方針が市によって決定されていた。そして元の建物は壊してしまうということが内定されていたのだ。来るのが一年遅ければおれは永久にこの建物と対面することができなかったかもしれない。
不思議な偶然だった。
さらに不思議な偶然は建物の門を見に案内してもらうと決めたジャズフェスティバルの当日、目が覚めてみると五十年ぶりという大雪が一夜にして鹿児島を覆《おお》ってしまったことだ。交通機関がすべて止まり結局この日は門を見ることができなかった。後に西南戦争の始まりの日にも鹿児島では滅多にない大雪が降ったことを知ったおれは、これらの偶然の重なりに、これは何かの因縁が別の時空間で絡《から》まりあっているにちがいないと感じざるを得なかったのだ。
このようなことを思い出しているうちにも揚村さんのスライドによる説明は続いていた。敷地面積五万七千三百六十五平方メートル、建築面積一万一千八百六十四平方メートルの巨大な建物についての細かく厳密な建築学上のアナリーゼが行なわれた。使われた石片一つ一つをいとおしむような心が伝わってくるようだった。そこでは、ひかえ壁のリズム、荒っぽいこぶ出し仕上げ、ローズウインド、双頭の塔のデザイン、バトルメント、マチコレーション、パサール、ピナクル、バットレス、トレサリー、モールディング、ポインテッドアーチ、水きり、まぐさ石、いぬばしり、ルーバーのついたこし屋根、などなどの専門用語が次々と発せられた。それらの言葉は理解できぬままおれの耳に快くひびき、論ぜられている建物が監獄ではなく、巨大な美術品であるかのような錯覚さえ生じさせた。
しばらくまえに火事で焼けたという庁舎に触れたときには揚村さんは、輪郭の石がギョウカイ岩であったために熱で焼け落ちなかった、これがカコウ岩であったなら膨脹率の関係で冷えるときに破壊されていたであろうなどと、まるでこの火事を啓次郎が予知して防いだかのような言い方さえした。その他にも注目すべきところ、特長となっているところ、今では実現不可能なところなどが数々挙げられ、それらが他の誰もが持ち得ぬ熱心さと愛情をもって語られていった。
その一つに各房舎棟の周りに掘られた側溝《そつこう》があった。この溝《みぞ》の断面がVの字型に掘られているのだ。これは明らかに桜島から降りそそぐ灰を考慮したものだという。同じ形のスコップをあてがえば四角の断面の場合よりもはるかに楽に灰を除去できる。水が流れるときの速度も早いという新工夫だった。
また屎尿《しによう》処理装置についても説明がなされた。従来は部屋のなかに便槽《べんそう》があってそれに用を足し、看守の方に出すのが普通だったが、ここでは戸外から石壁を通じて穴が作られその延長に便槽が置かれて外から出し入れをした。
あるいはまた、別に立っている給水塔も注目された。これには円形の平面が先細りになっている構造があり、こういう形の石の切り出しは大変難しい。当時そのような機械があったのかと言われているほどだという。
そして独居房につけられている数字についての有名なエピソードがあった。すべての「七」という字が独特の書体で彫られていて、よく見るとそれは鳥の形をしているというのだ。
スクリーンに「第七房舎」という字が大写しになった。それはどこか達人の書のような躍動感があった。そして七の横棒が異様に太くしかも妙な曲り方をしており、縦棒の曲線も呼応してなるほど全体で確かに鳥の姿が浮かび上がっていた。ふっくらとした胸と鋭い尻尾《しつぽ》を持つ鳥が今にも左へ向かって飛び立とうとしているようだった。この字を彫る係になった囚人の作と言われている。鶴尾橋をふくめてすべての建物は囚人たちの労働によってできたことが分かっているのだ。
その他にも施工精度の大変高い中廊下の敷石や小さな診療所が開けるくらいの広さの病棟や霊安所や二階建ての倉庫が紹介された。そして勿論塀《もちろんへい》があった。塀は門がこぶ出しのごつごつの作りだったのに対しこれはやはり機能上平滑でなければならず上は丸く仕上げられている。スクリーンいっぱいに映ったのっぺりと長く高い塀は、こればかりは日常にあるどのような建築物とも同じ範疇《はんちゆう》では語れないぞという不気味な貫禄《かんろく》を示して、この建物がやはり人を閉じ込めておく為《ため》のものだったことを見る者に思い知らせていた。
このあと揚村さんの話は刑務所そのものを離れ鹿児島に今までに出現した石の文化についてのものになった。
それによれば鶴丸城にも石橋はあって、これは例の天保の五大石橋よりも古い。ただしアーチ式にはなっていない。その天保の五橋と前後して岩永三五郎によって造られた波止場は現在も機能している。尚古《しようこ》集成館は日本で最古の石造による工場建築であり、入口はあとでつけられている。実はこの直後に揚村さんはこの入口が啓次郎によって設計されたことを証明する書類を見つけるのだがこの時点ではまだそのことに触れていない。さらに、明治十六年に建てられている現在の県立博物館がある。石造で不思議な和洋折衷だがこれは設計者が分からない。擬宝珠《ぎぼし》のデザインが少し泥臭《どろくさ》く、ななめにした格子《こうし》も日本人のセンスではないから多分外国人であろうと言われている。さらに設計者が分からないものにザビエル教会というものもあり、これは刑務所とほぼ同じ頃《ころ》の起工だ。ゴシックの教会堂で戦災で焼けた。一部がザビエル公園に移っている。このほかに興味深いのは古くから石の倉庫が鹿児島には存在していたという事実だった。東一木にあるもので相当大きなものもある。ツマのカタの部分が同じデザインになっており中にはローズウインドを持ったものもある。古くからの石造文化の伝播《でんぱ》の証拠として今後の研究対象となるだろう。そして最後に鹿児島以外に残る石造建築として、明治村に移されている札幌電信電話局と小樽《おたる》にある北海道銀行の本店が紹介された。
「そしてそれらすべてに比べてもこの鹿児島刑務所は現存する日本最大の石造建築物なのです」
揚村さんはこう言って話を結んだ。拍手と共に休憩となった。
休憩のときに前回のようにあの浴衣《ゆかた》姿の男が現れるようなことはなく、どうやらこのまま無事に進行するようだった。
揚村さんがやってきたのでシンポジウム開催の努力について敬意を表した。すると揚村さんは小声で「いや、この場所は実は具合が悪いのですよ」と言った。なにしろ市立の美術館でありその市が一方では建物を壊そうとしている。それを壊すなと言って気勢を上げる者どもの集会に会議室を貸すわけにはいかないという問題があったのだ。それで今回は決して取り壊し反対集会ではなく建築学会の例会だということで押し通した。
そのような裏話をきいているうちに休憩時間が終わり今度は松井宏方さんの話が始まった。東京生れのイタリア育ちとご自分で言われる松井さんの口調には、なるほど東京の下町生れの人にときどきある上品な落語調というものが感じられた。
松井さんは最初に人々が岩山に穴をあけて住んでいるトルコのカッパドキアのスライドを映した。それから次に鹿児島の知覧《ちらん》の武家屋敷の写真を映した。そして、同じ人間が住むのにこのようなちがいができるのはそれぞれの自然にかかわる方法がちがうからだと述べられた。さらに都市の建築物についての話になり、含蓄のある言葉が述べられた。
「人工のものにはその都市のそれぞれの時代の記憶が残ります。そこに価値があるのです」
それからこの百年間のヨーロッパの近代建築の話となった。それらがどのように現代とかかわっているかの例としてパリのオルセー駅が取り上げられた。この駅の歴史がざっと語られた。
それによると、セーヌ川をはさんでルーブル美術館の対岸にあるこの駅の場所はもともとは会計院があったところだった。それが一八七一年のパリコミューン騒動のときに破壊された。ちなみに一八七一年とは明治四年だ。戊辰戦争から帰ってきていた啓次郎の父親の龍右衛門房親が、西郷隆盛に呼ばれて上京し日本最初のポリスの一人になる年だ。
その会計院の跡地がパリ―オルレアン鉄道のオーナーのものになり、やがてアウステルリッツ駅から鉄道を引いてしまうということになった。一八九八年に競技設計でヴィクトール・ラルーが勝った。ちなみにこの年は明治三十一年。啓次郎は三十一歳で大学を出て六年たつ。すでに巣鴨《すがも》監獄の建設を妻木頼黄のもとで手伝い、監獄建築の専門家として認められていた。それについての講演を建築学会でもしており、三年後には自身の設計監督によって五大監獄を着工させる。それと同時に欧米八カ国三十個所の監獄を視察に行く。
オルセー駅は一九〇〇年に竣工した。長さ百二十八メートル。幅四十メートル。十六軌の線路の入っている鉄骨大架構構造の一大デモンストレーションだった。このころまでに鉄道は電化計画が進められていたので煤煙《ばいえん》の心配がなく、装飾に白を使えたために内部は大変明るかった。中にはなんと四百室を擁するホテルまであった。啓次郎の洋行は一九〇一年で、このときにはパリ郊外のフレンヌ監獄と町中のサンテ刑務所を見ているからパリ滞在中にこのオルセー駅も見ている可能性はある。エッフェル塔もすでにできていたからこれを街のどこからか見たのはまちがいないだろう。もっとも、駅でも塔でも見れば即座に監獄に応用するという視点がいつも優先したのかもしれないが。
一九一〇年にはセーヌ川が大|氾濫《はんらん》をしたが、このときにオルセー駅の内部は水位の関係で水浸しとなりプール同然となってしまった。日本では明治四十三年。九年前の啓次郎の洋行の年に施工の第一段階が始まった鹿児島刑務所を含む日本の明治の五大監獄はすでに二年前に完成していた。
やがて時代がとんで一九三六年になると鉄道が廃止となった。ただし、メトロは使われていた。このころジャン・ルイ・バローが内部にテントを作って芝居をやったりした。日本では大正が過ぎすでに昭和十一年となっている。啓次郎がこの世を去って五年たつ。
一九三九年ごろには鉄道の廃止のために、ホテルも死にかけていた。この年はすでに昭和十四年。啓次郎がこの世を去って八年目だ。オルセー駅を惜しむ声が高まり、オーソン・ウェルズやジャン・ルイ・バローが映画を作ったりして保存運動をしたという。しかし、うまくいかず一度はすべて壊して大ホテルにしようとする案が決まりかかった。しかしこれをポンピドーが阻止した。とうとう政治家が出てきたわけだ。
そしてさらにとんで一九七三年なんと昭和四十八年、オルセー駅がようやく歴史モニュメントに指定され、一九七七年美術館にすることが考えられた。具体的な案を出したのがジスカールデスタンだった。またまた政治家が出てきてこれを自分の大統領在位のモニュメントとして考えたのだ。ルーブルには一八〇〇年代の半ばまでのものがそろっているし、ポンピドーセンターには現代のものがある。そのあいだの抜けている「近代」をこの空間に収めようということになった。
かくして数々の歴史を刻んだ巨大な鉄骨の駅は消滅せずに再生した。そしてパリにはルーブル、ポンピドー、オルセーという近い地域にそれぞれ三つの異る時代を押し込めた建物が出現したというわけなのだ。
いやはや長い歴史だった。そして日本ではセーヌの氾濫のころにできあがった監獄のひとつが今になって壊されようとしているのだ。
近代の建物を現代にどうするかについての例として次に松井さんが見せてくれたのはイタリアのトリノにあるフィアットの工場だった。異様なものが画面に映った。建物のつながりとその上に乗っている楕円《だえん》形のハイウェイだ。この試走路の大きさがとてつもないもので、テレビで見るインディ五百マイルレースのコースよりも大きいのではないかと思われた。東京の首都高速道路の一部を見るようだが幅は何倍もあるだろう。くねくねした楕円形の巨大な試走路を王冠のように頭に載せた建物の複合体は超現実的な芸術作品のように見えた。一九二〇年から三〇年にかけて作られたもので、これが今実働しなくなっている。鉄道の操車場、オフィスビル、工場、試走路の複合体だがこれらすべてを何にするか国際コンペにして案をつのっている。三十万平方メートルのしろものなので大変だが、とにかく最初に壊すということを考えないのが彼らの考え方なのだ。
松井さんが住んでいたミラノで書店の設計を手伝ったときにも、その場所にローマ時代の浴場と中世の塔があった。これらをかならず残すという条件が最初からついていた。
ここで松井さんは今日の話題である刑務所ということを考慮されたのかそちら方面の軽い話をした。通っていた事務所がミラノの刑務所のすぐ近くだったので毎日|眺《なが》めて暮らしていた。暴動が起き天井を破って屋上に一週間たてこもった連中もいた。それも毎日眺めながら通っていた。その刑務所の天井はハリのあいだにヤキモノを並べて作ってあるものなので下から棒で突き上げて壊しカワラを破って屋上に出られたのだそうだ。
脱獄もあった。イタリアの警察が右往左往していた。「隊長、あっちです」「そうか、追え」などと言って小さな五百ccの車で走り回っていた。イタリア映画そっくりの情景だった。
あるいはまた中に入っている男のところに女が会いにくる。といっても塀の外の見えるところからハンカチを振り回して大声で呼び交わすのだ。「おおい。来てくれたか」「あんた元気?」「弁護士はなんて言っていた」「まだ連絡ができないのよ」などとこれまたイタリア映画そのものだったが、やはり放《ほう》っておくわけにはいかずだんだんと塀を高くして見えなくしてしまった。
牢屋《ろうや》の再生ということではドイツの建築家の作った世界に三つあるという円形の牢屋が紹介された。真中に監視人がいる構造だがこれがいらなくなったときにオフィスとして再生したという。
再生の例としてはフィレンツェのサンマルコ美術館もあげられた。これはもとは一二〇〇年から三〇〇年のあいだにでき一四三七年に増築された僧院だったのだ。フレスコ画がもともと部屋に一つずつあるので、そのまま美術館になった。見る者は個室に入っては出てくる。有名なフラ・アンジェリコの「受胎告知」もこの中にある。
松井さんはこのようなことを話され、最後に山下啓次郎氏の作品の形(つまり刑務所のことだがそうはっきりと言われないのが奥ゆかしさというものだ)を見たときに最初にイメージしたのが美術館だったと述べられた。そうあてはめてもおかしくはないのではないか、と保存の場合の方法を示唆《しさ》されて話を終えられた。
拍手と共に松井さんが席に戻ると、再び揚村さんが立って、保存の際の具体的な計画を示した。門を残す場合。門と庁舎を残す場合。門と庁舎と房舎の一部を残す場合。それぞれの計画図が画面に映された。三番めのものは庁舎を中心にして突き出している五指放射状の房舎が適当なところで切り取られ、それらを石の博物館と科学博物館にするというものだった。
さらに外国での保存の例として、オーケストラピットがありオペラもやるアテネのアクロポリスの円形劇場、生き残っているギリシャの教会、高層ビルのあいだにはさまってひときわ目立つロンドンの遺蹟《いせき》建造物、集会、コンサート、映画などもできるローマのコロセウム前の遺蹟スペース、市立美術館になっているブエノスアイレスの修道院、巨大なショッピングスペースになっているサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフにある煉瓦《れんが》造りの倉庫などが次々に画面に現れた。
保存する場合の利用法について揚村さんから意見を聞かれた藤森さんは、「外から鍵《かぎ》を掛ければ牢屋だが、中から自分で鍵をかければユースホステルとも考えられる」などという変なヒントを出された。松井さんは「鹿児島は洋画の発祥の地でもあるのだからギャラリーにすることは意味がある。一部屋ずつに別の画家の作品を展示するのも面白い」と言われた。
やがて揚村さんが、「それではここで本日の話題の元になっている山下啓次郎の写真をお目にかけることにいたしましょう」と言った。
画面に明治時代の背広で正装をした啓次郎が映った。
その写真は両親の家にあるものよりはずっと若いときのものだった。髪の毛は短く刈りこんであった。少し斜め右を向いているその顔だちと自分の顔の類似性が感じられた。初対面のときに藤森さんがお孫さんの方がそっくりだといって喜んでいた理由が納得された。両親の家の神棚《かみだな》の隣にあるすっかり貫禄のついた顔ではなかった。おそらく大学を出たばかりのころのまだ初々《ういうい》しさの残る写真だった。そこには九歳で故郷の鹿児島を脱出しなければならなかった子供のどこか耐えた表情が残っていた。同時に父親の龍右衛門房親の侍としての運命をそのまま引き受け、明治という国の建設に貢献していくことを自分の意志で決めた若者の顔でもあった。やさしい目の輪郭と真一文字に結ばれた口がどこかアンバランスな決意を現わしていた。
この人がおれのおじいさんなのだ。
そう自分に言い聞かせたが思ったよりもその存在は遠くに感じられた。十一年の差でこの世では会うことのできなかった人だった。しかし、この人の血がおれの体の中に流れていることはまちがいなかった。そしてそれは龍右衛門房親にも流れさらに遠く遠く鹿児島の先祖たちへとつながる血だった。突然、何もかもを押し流す家族の契《ちぎ》りという理不尽な感情が湧《わ》きだして、おれは思わずつぶやいた。
「おじいさん」
すると画面の啓次郎がそれに気づいたかのように少し顔をほころばせた。それからかすかにおれの方に向き直った。
「ようやくここまできたか」という声が聞こえた。
「はい」とおれは答えた。
「それで知りたいことは全《すべ》て分かったのか」と啓次郎が聞いた。
「いいえ」とおれは言った。
「まだよく分かりません」
「そうか」
啓次郎の顔がゆっくりと正面を向いた。明治時代の男の写真に特有の何かを見すえたような表情でおれの頭の上のさらに遠方に視線を投げた。
「何から何まで知りたいのだな」
「そうです」
「ではついて来るがよい」
周りがだんだんと暗くなった。周囲にはシンポジウム会場のとは別のざわめきが満ちてきた。明治時代の服装をした男たちが集まっていた。天井の高い古めかしい部屋だった。一角にある演壇に啓次郎が登場した。
「諸君。今晩は私の演説の番に当たつたに依つて、何か演説をして呉《く》れろと云《い》ふ幹事からの御沙汰《ごさた》でありましたが、別に演説を致したこともございませぬし、また面白い演題も考へ当たりませぬ」
やや緊張の面《おも》もちで啓次郎は喋《しやべ》りはじめた。
「併《しかし》ながら丁度ただいま監獄建築のことに従事して居りまして傍《かたわ》ら少しく調べたこともありますから、少々監獄建築の御話《おはなし》をして今晩の責を塞《ふさご》うと思ひます」
明治二十七年の造家学会、後の日本建築学会での啓次郎の初演説の現場にいつのまにかおれは連れて来られていた。
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第十七章
啓次郎の恩師の辰野金吾や横河|民輔《たみすけ》や同級生の伊東忠太などが居並ぶ造家学会の本会の末席におれは座っていた。啓次郎の初演説が始まった。啓次郎は意を決したように喋《しやべ》りはじめた。
「諸君、諸君は定めてご承知ではありませうが、この監獄改良と云《い》ふことは近頃《ちかごろ》日本に於《おい》て一つの社会問題となつてをりまして、既に監獄協会の如《ごと》きものも開かれてをります。これに加へて監獄の経済のことについても色々議論があつて、監獄費国庫支弁と云ふやうなことも一つの政治問題になつてをります。すでに第二議会以来、先日解散になりましたところの第六議会に到《いた》るまで議会|毎《ごと》にこの監獄費国庫支弁案といふものが出てをります」
第二議会とか第六議会というのは明治二十三年にはじめて第一回目が召集された帝国議会のことだ。二回目は明治二十四年で以後二十五年五月、二十五年十一月、二十六年、と開かれ、ここで言う第六議会は明治二十七年五月に開かれて六月に解散している。そこで監獄の建築費を国が出すかどうかが検討されているというのだ。これは同時に国として新しい監獄を造るかどうかという問題だった。その渦中《かちゆう》に専門建築家として啓次郎はかかわっていたのだ。
「これらは一つの政治問題であつて私が此所《ここ》で喋々《ちようちよう》するに足りないことでありますが、併《しか》し兎《と》に角《かく》この監獄のことと云ふものは今日の大なる社会問題であつて、かの地価修正とか或《あるい》は条約改正問題とか云ふものと殆《ほとん》ど肩を並べてをります」
信じられないことだがこの明治二十七年には日本はまだ徳川幕府が諸外国と結んだ条約に縛られていた。関税率は向こうの言いなりだし、外国人がどのような犯罪を日本人に対して行なってもその犯人を日本側で裁判にかけることはできなかった。その国の領事館が自分でやる領事裁判というものが行なわれていた。当然、犯人を本国送還にするなどのうやむやな解決ということになる。現在の米軍基地周辺で起きる問題と同じだ。あれもいつも米軍が犯人を連れて行ってしまって余り日本の裁判所で裁いたという例がないような気がするがあの周辺では未《いま》だに明治時代なのか。ともかく当時から不平等条約と言われるゆえんなのだ。そして日本側に裁判権をみとめない理由として外国側が持ち出す理由の一つにちゃんとした監獄がないことを含む日本国内の法制度の不備があった。自国の利益を守るための言いがかりだが、それだからこそきちんとした対応が必要だ。
「おい聞いたか。ジャップどもは監獄という考え方をしないらしいぞ」
「それは昔はおれたちもそうだったさ」
「そのとおりじゃ」
造家学会会員の下田菊太郎がいきなり出て来て監獄の沿革について喋りはじめた。
「古代監獄なるものは欧州諸国といへども全く残酷の考案極みをなせしもののごとし。故《ゆえ》に異教者を罰し敵を罰し或は憎きものを罰する場所に用ひたるものにして、或は罪人を殴殺《おうさつ》し囚徒を毒殺し或は肢体《したい》に負傷せしめ不具者となせり。甚《はなはだ》しきに到りては道路に俎《まないた》を置きこれに身体を打ち付け流血を見て満足するあり。或は木を構へ裸体を釣《つ》り下げ火炙《ひあぶ》りを為《な》すが如《ごと》き、今日の文明より之《これ》を評せば全く狂獣相互に行ふの有様に異ならざるべし。此等《これら》のことより推せば懲戒帰善の主義の存したるに非《あら》ずしてただ単に苦しめたるものと云ふべし」
「へえ。『狂獣相互に行ふの有様』とは面目ない。おそれいりやした」
「しかしそれは昔のことだろ。おれたちから見れば未だにこの国では掴《つか》まったら直《す》ぐに首を切られるか、自分で腹に短刀を突き刺してハラワタを切って死ななければならないように見えるんだよな」
「ハラワタといってもつまりあれは主に腸で朝鮮焼肉料理のミノと同じだろ。あれ硬いんだよな。なかなか切れないよな。痛《い》てえだろうな」
「そんな野蛮な国で裁判は受けたくねえや」
「というわけで急にこのような場面になったわけだが、急遽《きゆうきよ》ご出演のミスター・シモダにはくれぐれもお礼を言いつつおれたちも去ることにしよう」
わけの分からない場面がはさまっているあいだにも啓次郎の演説は続き、話がだんだんと具体的になってきた。
「今、監獄と一時に申しましても、中々監獄と云ふものは広いものであつて、監獄の中には病院もあり囚徒の工作をする服役場もあり炊事場|教誨《きようかい》場と云ふやうに殆ど社会にある所の建物を此所に網羅《もうら》して一個の不思議なる建築を為してゐるのであります」
一個の不思議なる建築を為しているとは不思議な言い方だ。なるほど工場もあれば農場もあり学校も病院も教会もあるわけで、言わば完結した小宇宙だ。こういうものにはすぐにロケットを取り付けて宇宙に発射しそのままスペースコロニーにしたい。
「是《これ》だけの色々の建物の部分を一々申し上げると云ふと一夕の談で尽すことではないだらうと思ひますからして、そのおもなる監房に属する部分、その他大体の所について少しく御話《おはなし》を仕様と思ふのであります。先《ま》づ今晩申し上げますることの順序をたてて申し上げますと、
一、監獄の種類
二、監獄制度に因《よつ》て起る獄舎の種類
三、建築学上獄舎の形式
四、獄舎の配列及監房
五、衛生上の件
六、監獄建築に関し建築家の注意すべき諸件
是だけを今晩御話し申し上げます」
これだけという言葉とは裏腹のたっぷりとした内容らしいので覚悟を決めることにした。どうやら啓次郎はおれがどれだけ我慢できるか試しているらしい。
「まづ第一の監獄の種類と云ふことを申し上げますが、監獄の一体の目的と云ふものはどうであるかと云ふことをちよつと先に言はなければ此ことが分かりませぬ」
啓次郎は初歩から説明を始めた。
「この監獄の目的と云ふものを平たく云ひますと、社会に人間が生存してゐる間は必らず社会の秩序と云ふものがあるのであります。この秩序を保つ為《ため》に立法者と云ふものがあつて法律と云ふものを作つてその法律に服従さしていく。その法律の中にまた細かな所謂《いわゆる》刑法と云ふものがあつてこの刑法に依《よつ》て社会の秩序を遵守《じゆんしゆ》させる。そこでこれを遵守しないものは罰して行くのであります。それでこの秩序を守らずこの法則を犯すものにはそれぞれ刑名があつてこれに施すに刑罰を以《も》つてし、その犯罪の種類と程度に依て色々の罪科と云ふものを区別して行くのであります。譬《たとえ》て申しますれば最も重いものは死刑となり、それから名誉|剥奪《はくだつ》の刑、罰金、自由剥奪の刑と、皆それぞれ刑名があるのであります」
なるほどそうなっているのだった。ところで名誉剥奪の刑というのは面白そうだが今はもうないのだろうか。いやある。時々マスコミにさらしものにされる有名人などはそのようなものだ。
「判決。一年間の名誉剥奪の刑に処する。その間人並みの仕事をすることを禁ずる」
実際にこのように機能している。
さて啓次郎は監獄はそのうちの自由剥奪の刑を執行するところであると言い、さらにその人間の自由剥奪の状態に応じてその場所が、未決監、已決《いけつ》監、別房監、懲治場と区別されることになると言った。
未決監は嫌疑《けんぎ》をかけられたものが入るところでその人間はまだ刑罰の宣告を受けていないから罪人ではない。ただ外に出しておくと証拠|湮滅《いんめつ》、悪事の続行などが予想されるので一時此処に入れておいてそれを防ぐ。だから扱いも当然ちがう。
「譬て申しますと食物の如きも自分の勝手な物を食ふことが出来、着物の如きも赤い着物を着ないで宜《よろ》しい。自分が社会にゐた時の着物を着てさうして三度の飯も差入れをして貰《もら》つて食つてゐると云ふやうな殆ど自由の身であります。ただ世の中と自由の交通を遮《さえぎ》られてゐるだけのことであります」
これでは遅筆の流行作家のカンヅメ状態とあまり変わらないのではないかと思うが、実は大ちがいだ。迫田順一さんの論文「鹿児島刑務所に関する研究」の中にイラストがある。未決囚は覆面をさせられることになっていた。顔の前に布がたれ目のところだけ穴があいている。まあこういう恰好《かつこう》で執筆をするのが好きだという人がいてもかまわないが、不気味なものだ。
次の已決監は判決を受けて刑名が決ったものを入れる。
「此所に這入《はい》つた以上は己れの自由を検束され着物の如きも一定の着物を着食事の如きも一定に与へられる所の食事を食はなければならぬ。また時としては教誨を受け服役にも従事しなければならぬのであります」
一定の着物とは前にも言っている赤い着物のことだ。
別房監というのはすでに刑期を終えているのにまだいるものを入れておくのだという。
「全体監獄の年期が明ければ自分の父兄の許《もと》へ送つてやつて其所《そこ》で監視をやるのでありますが、悪いことをする者の中には親戚《しんせき》故旧と云ふものもない独身の者があります。さう云ふものを此所に入れて置いて監視の刑を此所で執行するのであります。それで着物の如きも今まで着てゐた赤衣を脱いで青い着物を着、また聯鎖《れんさ》の如きも解けて単身で服役するのであります」
身寄りがないから行くところがないと言えばそのまま置いてくれたわけだ。それにしても聯鎖つまり連鎖という言葉が異様だ。鎖に繋《つな》がれているのが普通の状態だったわけだ。
最後の懲治場というのはどういうものかというと、
「是は別に法律上有罪と云ふ程の悪いことはしないが、どうも親の側《そば》に置いては品行が修まらないとか、或は父母の訓誨《くんかい》に従はないとか云ふものを入れるので是は其父兄の頼みに依て入れるのであります。それで食費或は衣類の如きものも自弁するのであります。つまり此所で強制教育をやつて人間に仕様と云ふ目的を以て設けてあるものであります」
ネリカンというよりは親が金を払って頼むのだから戸塚ヨットスクールだ。こういうことを昔は国がやっていたということになる。それにしても「人間にする」という言い方は即物的だ。
「ただいま日本に於きましては地方などはこの四つのものをば一つにして一ケ所にまとめてあるのが多いやうでありますが、外国では之を別々に区別した所も随分あるやうな様子であります」
監獄の種類の説明を終わり次に獄舎の種類について啓次郎は話し始めた。
「即《すなわ》ちこれをば分けまして又四つに致します。即ち雑居制、独居制、共同|緘黙《かんもく》制、階級制であります」
雑居制というのは「あっそしえーしょんしすてむ」といい、一つの監房の中に十人も十五人も一緒に入れておく。昼は工場に出して仕事に従事させる。罪質の区別をせず「盗賊も詐欺師《さぎし》も諸般のものが一緒に」入っているのでよくないと啓次郎は言う。
「実にこの制度の悪いと云ふことは分かることであります。一昨年あたりの調べに依て見ますと、殆ど日本の罪人の三分の二位までと云ふものは再犯四犯或は十犯以上のものもあると云ふことであります。是はつまり初めて監獄に這入つたものが悪いばかりでなく又随分中に這入つてから悪いことをする手段を教つたり習つたりするのであつて実は酷《ひど》い制度なのであります」
そしてこの制度だと囚徒を一坪に三人、四人、五人と押し込めるから建築費は安くてすむが、悪い人間を善道に導くと云うことは難しいと言った。
二番目の独居制は「せぱれーしょんしすてむ」で分房制ともいうがこれは囚徒は終始独りで仕事をし夜も独りで寝る。
「この法は大層懲戒の中で遷善《せんぜん》悔悟の道には宜しいか知れませぬが、また余程研究して見なければならぬ制度であります」
啓次郎はこのやり方について妙に熱のこもった説明を加えはじめた。
「何故《なにゆえ》なれば日本人は通常活発なる性質であつてさう云ふ窮屈なる所にたつた一人居つて別の人とも顔を合はすことも出来ず話をすることも出来ぬと云ふ部屋に押込めて置くと幾らか精神の病を起すのであります。之に反して欧羅巴《ヨーロツパ》の人民の今日の生活を考へて見ますと云ふと、つまり一個人の住居でも分かるでありませうが大概秘密の生活をしてゐて一室に閉ぢ籠《こも》つてゐるのが彼れ等の習慣であるのであります。例へば外から人が這入つて来る時には戸を叩《たた》かなければならぬ。戸を叩いて中で応じなければ入ることが出来ぬと云ふやうなことで随分日本人から較《くら》べると生活が秘密の風でありますから又事に依つたら欧州の人に適して居つて日本の人には適せぬかも知れませぬ。又我国民には宗教の心と云ふものも多少ないではないが殆どまあ欧羅巴の人から見ると全体に宗教心が薄いので、斯《かか》る窮屈なる所の部屋にゐて一人で考へ事をしても何も心神を慰めることがないが、外国の人達は幾らか宗教の道からして慰める所があらうと思ふのであります。既に我日本でもこの独居制といふものを少しやつて見た所もあるさうでありますがどうも二月三月|経《た》つと馬鹿《ばか》のやうになつて遂に瘋癲《ふうてん》病になるとか何とかと云ふことになつたさうであります。まだ長い経験もありませぬから充分のことは知れないのであります。欧羅巴の或国ではこの分房制を非常に悪く言つて居ります」
独居制の説明の中で日本人と外国人の比較論がやや極端な形で述べられた。しかし、「欧羅巴の人民の秘密の生活」とか「日本人が通常活発なる性質である」とか「一室に一人でいてもすることがない」とか「宗教心が薄い」とかどこか変だが妙に納得する意見だ。西洋の個人主義と日本人である自分との対決というのは未だに続く我々のテーマだが、開国後の日本で最初に青年としてそれに直面した世代である啓次郎たちは折りにふれては日本と西洋の精神のちがいを考えていたにちがいない。その一端がここに披露《ひろう》されたのだ。しかし結局、西洋でも独居制は駄目《だめ》だった。その点では日本も西洋も同じだった。だから啓次郎の話は、このように精神がちがうから東洋では駄目だが西洋ではこの方法が好んで採用されたという風にはなっていかない。それなのにあえてこういう話をするのは日本と西洋についてのそういう自分の意見を言いたかったからかもしれない。漱石や鴎外が直面した問題にやはり啓次郎も無関心ではいられなかったはずだ。西洋的教育を受けることになった元サムライの子として、様々な矛盾や葛藤《かつとう》に直面したにちがいないのだ。
啓次郎が続けて話したところによれば、独居制はそのような欠点があることが分かったので発祥の地のフィラデルフィアでもやめてしまい、ベルギーでは一部になり、フランスでは刑期の極く短い者にしか行なわなくなり、イギリスでは六カ月以下の者でなければその中には入れないということになった。
そこで三番目の共同緘黙制が出てくる。これは「おーばるんしすてむ」といい、昼は皆一緒に働いて夜は独りになるというものだ。これでは普通人の生活と変わらないようだがそうはいかない。仕事中に他の者と話をしてはいけないのだ。それで緘黙という言葉が入っているのだった。
「この制度は一方から見ますと大変良いやうでありますが、実際服役の間、囚徒をば一緒にして緘黙させることが出来るや否《いな》やの一点であります」
それは絶対に無理だと思うが、これにすると作業場が共同になるから建築費は安くてすむと啓次郎は言っている。結局啓次郎はこのシステムを推薦することになる。
「第四番目は愛蘭土《アイルランド》制即ち階級制であります」
これについて啓次郎は独居制が採用されているならばこのような考え方は無意味だと言い「是は雑居制中のまた一つの制度となつて分れたやうなものであります。是には囚人の罪質を区別し又年齢を区別しそれから色々社会にゐる時の事情から照らして階級を付けるのであります」と説明した。田中角栄と三浦和義が同じ部屋に入っていたらどう階級をつけるのか興味のあるところだ。
「此制は少しは日本でやつて居るさうでありますが其《その》結果は未だ判然しないのであります」と啓次郎はこのシステムについてはややそっけなかった。
「次に獄舎の形式と云《い》ふことについてお話いたします」
啓次郎は次のテーマに移っていった。
「獄舎の形式と云ふものは大概同じやうなものでありますが明らかに区別すれば二つにしか分けられない。即ち長屋式と申しますが『ぱびりおんしすてむ』それから放射式と訳して置きましたが『ぺんしるうぁにや式』この二つであります」
啓次郎は白墨を手にとると黒板に長屋式の図を描いた。四つの長方形の獄舎が左右上下にきちんと並べて描かれた。
「かう云ふ風にこの間に幾らか距離を取つて棟を並べて建てて行くのでありますからちつともむづかしいことはない。御承知の通り日本で古い監獄は多くやつてゐたので又今日でもこれをば実行してゐる所もあるのであります。この式に依ると大層多くの監視人を要するので実際非常に不便なものと思ひます」
長屋式には放射式との混合のようなものもあった。その方式はベルギーで使われていたがそれも人の分担が大変だから結局放射式がよいと啓次郎は言った。
「是は初めてペンシルウァニヤ州に起つたものであります。中央に観察する所があつてそれからずつと星のやうになつて四方に出て居るのであります。極簡単の図を書きますればかう云ふやうな形になつて一個所ですつかり監房の廊下を見通すことができるし大変都合が宜《よろし》いのであります」
この形式については鹿児島でのシンポジウムで藤森照信さんから詳しい話をしてもらっているから我々はこのときの啓次郎よりよく知っている。啓次郎がまだ知らないらしい設計者の名前がジョン・ハビランドで今では主にハビランド方式と呼ばれていることもだ。
あのとき藤森さんはこのシステムを近代の合理性と集中管理の象徴としてとらえる考えがあるということも教えてくれた。それを思い出しながら啓次郎の書いた図を見ているとこれが何かに似ていると思えてきた。よく考えたら空港だった。シャルルドゴールや成田もそうだがまず中央にチェックインカウンターが集中してあり、そこから行く先ごとに四方に長い通路がのびている。その先に待合室があるがそこから飛行機に行くときも放射状に連結通路が繋がれている。ペンシルバニア方式とはつまりあの長い動くベルトのある通路の両側にびっしりと囚人が詰まっている部屋があると思えばよいのだ。あるいは飛行機に乗るときの連絡チューブの両側にもずらりと房舎が並んでいる。それを待合室の真中に立って見張っているわけだ。
「日本などでもこの式が段々行はれて参りまして小菅《こすげ》の集治監を始として静岡の監獄署、長野の監獄署、それから其処《そこ》の八代洲河岸の監獄署、巣鴨の監獄署では此式を用ひてをります」
八代洲河岸とは今の八重洲口《やえすぐち》あたりのことか。とするとそこの監獄署とは当時あった鍛冶橋《かじばし》監獄のことになる。そしてこの時期明治二十七年には、啓次郎の父にして元|薩摩《さつま》藩士、戊辰《ぼしん》、西南はもとより生麦、薩英、蛤御門《はまぐりごもん》とすべての戦いを知る五十三歳になる隻脚《せつきやく》の山下|龍《りゆう》右衛《え》門房親《もんふさちか》が典獄としてそこに勤めていた。山下家中興の祖龍右衛門房親とその息子啓次郎はいつのまにか近代日本の監獄史と共に生きる運命になっていたのだ。
「このペンシルウァニヤ式にも色々変形がありまして十字形、扇面形、丁字形と枝の出しやうが違ひますが、先《ま》づその起こりと云ふものは皆同じであります」
英国では一七〇〇年以降改良に意を用いて円形の獄舎を考案したことがあった。円の中心に監視人がいる方式だった。
「ペンシルウァニヤの式と云ふのもペンシルウァニヤで発見したと云ふが或《あるい》はかう云ふ所から段々発達してあー云ふペンシルウァニヤ式と云ふ純然たる式が出来て来たのであらうかとも思はれます」
どこかイギリス本家的な立場に立っているのが面白い。もっともこの後洋行した啓次郎はアメリカでさらに新しい方式に出合って驚くことになる。明治三十五年帰国直後の演説では次のように述べた。
「私が今日まで信じて居つたのは監獄の形式と云ふものは長屋式及放射式の二つと思つて居つたが、今度行つて始めて見て来たのがもう一つあります。即ち、第一に長屋式、第二に放射式、第三に鞘造式であります」
新発見の鞘造式とはどういうものかというと中央監視所から煉瓦《れんが》または石で放射状に壁が造られているのは同じだが、その中に独立した中鞘《なかざや》が置かれているのだ。それがすべて鋼鉄で造られている。つまり映画でよく見る鉄格子《てつごうし》のオリが初めて出現したわけだ。四階建てのものもあり狭い面積のところに大勢入れられるという大きな利点がある。アメリカではその時点ですでにペンシルバニア式の本元であるフィラデルフィアを除いてはすべてこの方式になっていた。そしてそのころには各国共同で監獄事業についての世界会議が行なわれ当然このアメリカの新方式の存在は知られていた。しかしなぜかヨーロッパではこの方式をすぐには取り入れなかった。
「而《しか》して建築のことも皆矢張り他の行政事務などと一緒に欧羅巴に伝染しさうなものでありますが、この建築法だけは欧羅巴に伝染して居らないのであります」
世紀の変り目|頃《ごろ》にはアメリカは数々の影響をヨーロッパに与えていたはずだ。しかしこの建築法だけは伝わらないと啓次郎はやや不思議がっているのだ。人心のちがいがあるということは啓次郎も指摘しているがその他にもヨーロッパの本家意識やアメリカの鉄鋼産業の隆盛など様々な要素が絡《から》んでいるのだろう。
結局、啓次郎は獄舎の形式について「一人で百人も二百人も支配することが出来ると云ふ方式はないやうであります」と結んだ。
啓次郎は疲れを見せずさらに次の監獄の配置という項目に進んだ。啓次郎はこれは難しい問題だと前おきをした。
「例へば監獄と申しても監房、病監、炊事場の如《ごと》き種々雑多な種類の建物があつて、其中に未決、已決、別房、懲治、暗室、密室、閉禁室などと云ふものがあります。それのみならず男女の区別、又男女の中にも避病監、伝染病監と云ふものもあれば病監の中の又外科室、内科室と云ふやうに殆《ほとん》ど枚挙することが出来ない位に色々の種類があります。之《これ》をば一つの監獄の一構の中に纏《まと》めて双方便利|宜《よろ》しく又互に違つた種類のもの其監房を接しないやう配置して行かうと云ふのは余程むづかしいのであります」
最初に言っていた一個の不思議なる建築は同時に一個の複雑なる建築でもあるのだ。それにしてもいきなり「暗室」「密室」「閉禁室」というものが出てくるとはさすがただの建物ではない。
「今日本ではどういふ配置に是等《これら》の建物を置くと云ふ極りはないので唯《ただ》建築を担当する人の考へで、典獄なら典獄の考へにあるのでありますが、随分かう云ふことは一定の方針を以《もつ》て定めて置いたら宜いことであらうと思ひます」
典獄と言うときに当然啓次郎は父親のことを頭に思い浮かべただろう。当時の鍛冶橋監獄はどんなだったのか。親子で監獄の改良策などを語り合ったりしたのか。啓次郎の話はふと別の方向にさまよった。
「又少しく細かに立ち入つて監房の事を考へて見ますと監房の如きも今まで日本の造り方は極粗末な格子建の造り方であつて、さうして気候が寒くても別にそれに向て寒の防ぎをすると云ふこともなく殆ど開け放しのやうな姿でありますが、実に憐《あわ》れなものであるのであります」
藤森さんがシンポジウムで話していた江戸時代からの「ギスカン」のことにちがいない。つまりキリギリスのオリだ。しかしそれは今までの日本だった。これからは違うということを啓次郎は言いたいのだ。
続けて啓次郎は十年ほどまえにベルリンで決められた監獄改良案を紹介した。それによると監獄の大きさは収容人員が五百人を越えてはいけないと決まった。しかし、日本には現在七万人の罪人がいるからその計算でいくと全国に百四十個の監獄を造らねばならない。一県に三、四個だ。東京の囚人は四千人いるから東京だけでも八個所の監獄が必要になる。「勿論《もちろん》これは日本に当はまる訳はありませぬ」と啓次郎は述べた。これを決めた諸外国でもこの通りにしていないのは後に出てくる収容人数の表を見ても分かる。
監獄を建てる場所も考慮された。委員会はこれを「小都会の殊《こと》に停車場の近傍であつてさうして土地は高燥にして空気の流通の宜いところが良い」と決めた。つまり、郊外の駅からすぐ近くの高台で空気がきれいなところだというのだ。なあにを悠長《ゆうちよう》なことを言っておるのか。そんなところならたちまちハイエナ不動産屋が殺到して刑務所なんか造らせるものか。しかし、明治二十七年一八九四年の啓次郎はこれについては「是は日本などでも願くはさうしたいと思つて居ります」となんの懸念《けねん》も感じていないようだった。
建築地の坪数の問題はこれは五百人に対して七千九百坪位が適当だということになった。一人十五坪だがこれはもちろんそういう広さの部屋に皆が住めるということではない。それでは最高快適なシティボーイのシングルライフになってしまう。監獄のある全敷地との割合だ。建坪で計算するとやはり一人一坪ちょっとにしかならない。これについては啓次郎は日本の主な監獄の統計を示しほとんどが基準より小さい値であることを明らかにした。ただし新築の巣鴨監獄はさすがで囚人数二千三百人にもかかわらず一人当りの敷地坪が二十七・四坪、建坪二・九坪とはるかに国際基準を越えていた。
獄舎の配列と衛生上の注意というものが次に話された。図や統計表によって部屋の容積、平面積平均、立方積平均などという理工系の言葉が飛びかった。空気の流通ということも論ぜられ、一時間に十立方メートル以上の空気は必要だなどと宇宙船のようなことまで言っていた。さらに暖房ということにまで言及したのには驚いた。
「暖室の法も矢張今日まで日本に行はれては居らないのでありますが自然と是も必要になるのであらうと思ひます。欧羅巴では此暖室法と云ふものは多くは監房の廊下の地下室に釜《かま》を置いて或は熱湯を通して空気を暖めるとか又暖めた空気を監房の中に送込むと云ふ仕懸になつて居るさうであります。ちよつと例を申しますと監房は大概二十一度位の温度を保つて置けば宜い。廊下は十五度、病室は二十五度位にして置けば宜いと云ふことであります。是は余り深く調べませぬから是だけにして置きます」
暖房もすると言っているのだ。今現在はどうなのだろう。塀《へい》の中のレポートではかならず夏はうだり冬は歯の根も合わずに震えるというのが普通になっている。暖室の法は実現していないのか。
最後に啓次郎は監獄建築に関して建築家の注意すべき諸件ということを述べはじめたがこれはまず金銭の話からはじまった。つまり、監獄改良はいいのだが極端になると大変な費用がかかるというのだ。たとえばイギリスのメイドストンの監獄では四百八十の監房に対して工場を百八十九も造った。一つの工場で二、三人しか働かせないという贅沢《ぜいたく》の極みだった。
「成程一方に於《お》いては宜いかも知らぬが又詰らぬ罪人を入れて置く所を非常なる金を掛けて造るのは全体政治家建築家と云ふものが其方針を誤つて居るのであります」
それから欧米六カ所の監獄を比較しそれぞれ囚人一人あたりにかかった建築費を割り出した。最低でも一人当り千円を越し最高は一人当り八千円かかっているものがあった。これは明治三十年に、今は六千円ほどする十キロの米が一円少々だったという資料から推定すると、一人あたり六百万円から四千八百万円ということになる。四千八百万円というのはイギリスのヨーク監獄でたった三十二人を入れる独居房を造るためにかかったのだそうだ。
「どうもかう云ふ風に詰らぬものの為《ため》に国家の経済を浪費するのは余りに馬鹿気た御話《おはなし》であります」とまた啓次郎は「詰らぬもの」を強調した。そして日本では今までのところ最高が巣鴨の百五十九円五十八銭でつまり一人あたり今の九十五万七千円ほどであることを述べた。平均では七十二円九十九銭今でいえば四十四万円たらずだった。これを啓次郎は必ずしも安いとは思っていないようだった。次の言葉が続いた。
「日本では唯今ではかうでありますが、之を今日《こんにち》日本の一体の経済上一個人の住家のことから考へて見ますとどう云ふものでありますか、暫《しば》らく御参考の為めに申し上げて置きます。ともあれ監獄の建築と云ふものをやるに付いては、かう云ふことをば記憶して置かなければならぬ。英国の如きは監獄改良の度|毎《ごと》に納税国民から嫌《きら》はれたと云ふことであります」
当時の日本人の住宅事情から見るとそれでも高いと言っているようにも思える。しかし、一人あたり四十四万円の部屋を罪人にあたえると考えると大変だがこれはそのままずっと使うわけで、何も家賃が四十四万円の部屋に住まわせてやるということではない。どう比較したらよいのかよく分からないが、啓次郎がこの後に造ることになる数多くの「部屋」は八十年近くたつ今でも実動している。元は充分とれたのではないか。安いと思うがそれでも納税国民に嫌われてはいけないという税金から給料をもらっている者なら当然の懸念がわざわざ表明されているのは面白い。
最後に啓次郎は囚人を使って監獄を造るのはどうかという問題を取り上げた。欧米ではほとんど常識となっているこのやり方は、しかし今のままでは駄目だと啓次郎は言った。
「終始|聯鎖《れんさ》に繋《つな》がつて仕事をして居るからどうもはかばかしく行かない」と啓次郎は述べた。だからもしやらせるのであれば「一時便宜の法を設けて聯鎖を解くとか、飯を沢山食はせるとか云ふやうにしたら極|廉《やす》く監獄の建築をすることが出来るであらうと思ふ」と言っている。鎖をとき飯をもっと食わせろと言う。つまり、ここでは建築家の合理主義が囚人の待遇改善に妙な効果を及ぼしているわけだ。そしてさらに合理的に囚人の一日の手間賃が世間の相場より安いことを説明した。大工が十五銭、鍛冶屋が十五|乃至《ないし》二十銭、土方が十銭で使えるのだそうだ。これは先ほどの換算率によれば夫々《それぞれ》、九百円、九百から千二百円、六百円ということになる。
「以上申しました通り殆ど日本に監獄の建築と云ふことは新しいので一向経験もないのでありますが是は我々建築家と云ふものは実地に当り又種々諸外国の例を考へて新しい所の一つの構造法を日本に考へなければならぬのであります。余り詰らぬことを長く申して居りまするは御迷惑でありませうから今晩は是だけにして置きます」
こう言って啓次郎は演説を終わった。
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第十八章
啓次郎の演説が終わりになると再びまわりの情景が薄暗くぼやけてきた。辰野金吾らしき人が立ち上がって「それでは例によって何か質問がおありになれば存分になさいませ」と言ったようだったが、その声はすでにかすかになり明治の部屋の景色は急速度で遠ざかっていった。
気がつくとおれは再び鹿児島のシンポジウムの会場にいた。白日夢のためにまだ頭がぼんやりしていた。揚村さんが何かを喋《しやべ》っていた。
「ほれへはへっかくれほはいまふはら、ほほれひゃまひたひょうふけひゃんほほひょうはいひらいほほもいまふ」
「それでは折角でございますから、ここで山下洋輔さんをご紹介したいと思います」と言っているのだとようやく分かった。ふらつく頭のまま演壇の方へ歩いて行った。
「みなひゃんほんにひは、いやもとい、皆さんこんにちは。本日はお招きをいただいてありがとうございました」
頭が整理されないうちに喋り始めていた。
「いやその、先祖が監獄を造ったと知った人間がどういう顔をしてよいのやら、大変困っておりました。なぜそういう悪いものを造るのか。これでは世間様に顔向けができない。そう思っていたのであります。しかしながら本日はなにやら実にありがたいご扱いで救われたような気持ちです。まことに建築学というものはありがたいものであります。特に揚村さんなどはあれがまるで貴重な美術品であるかのように大事に愛情をもって扱って下さいました。本当にその分野に熱中する学者の情熱というものはキチガ、いや常識を越えた素晴らしいものであります。ありがたいことです」
整理のつかぬままに言葉が口から出続けた。
「じつは先程門を見てまいりました。あれが建ってから八十年後に初めて啓次郎の子供と孫と曾孫《ひまご》とその家族が門の前に立つことができたわけです。わたくしにはこの世では会えなかった啓次郎にようやく会えたという気さえしました。あのようなものを造った啓次郎の意志と感情が石の形をしてそこにあるようでした。この形が壊されてしまえばもう二度と啓次郎に会えない。その石の姿を見ることはできない。それは人が死ぬのと同じだなどとも思ってしまったのでした。まことに肉親の情はわがままでしかもわがままであるということの恥ずかしささえ忘れてしまいます。
わたくしは本来こういう人間ではありません。保存も当局へのお願いも団体行動もすべて大嫌《だいきら》いな人間です。ですからこのようなことには普通なら巻き込まれないはずなのです。むしろ『かまわないから壊せ。古いものが壊れるのは当り前だ。だからおれたちが新しいものを造れるんじゃねえか』という立場のはずでした。しかしあれを造ったのはわたくしの祖父でした。そしてわたくしはあの石の門を見てしまいました。まことに肉親の情は困ったものです。もうそうは申せません。逆にあれが残るためならどんなことでもする。どんなへ理屈でも言ってやるという感情さえ生じてくるのです」
とめどなく喋り続けた。
「たとえばあのものにはこの鹿児島の深い深い歴史が刻まれていないでしょうか。あれを建てた啓次郎の父親の山下龍右衛門房親は西郷隆盛に目をかけられた薩摩藩士でした。日本で最初のポリスの一員となり西南戦争では政府側で戦ったのです。分かっています。分かっています。そうです。結果は大久保や川路側の人間となったのです。西郷一派に言わせれば裏切り者です。しかしそれは仕方ありません。立場を異にしたら親兄弟といえども戦わねばならぬというのは侍のおきてです。それが当り前に遂行されただけではないでしょうか。そしてその侍の息子があの友人や家族を敵味方に分けた西南戦争が終わった二十四年後にこの鹿児島の元の住まいの近くに帰ってきたわけです。ただしそれは勝者となった明治政府の法律にそむく者を罰するための建物を造るためでした。異様なモニュメントです。しかしそれは同時に日本が近代国家になるための激しくも異常な時間の記憶に他なりません。あるいはその中で流されたすべての鹿児島人、いやすべての日本人の血の証拠かもしれません」
完全に頭が熱くなっていた。
「頭が熱くなってまいりました。おそらくもうこれはわたくしが申していることではありません。きっとわたくしの体の中に流れる鹿児島の血がわたくしの口を動かしているのです。分かっています。分かっています。鹿児島人は議を言わない。喋るよりは信じることのために戦って黙って死ぬのだ。そういう者たちがおまえのような奴《やつ》の口を借りてべらべら喋ったりするものかとおっしゃるのですね。しかしそうでしょうか。彼らは本当に自分の人生を自分で選ぶことができそのために死ねたのでしょうか。そうではなかったかもしれません。誰も彼もが皆あのとき起きていた大きな事件の中に流されてその中で役割を果たさせられていたに過ぎないのではないでしょうか。西郷隆盛も桐野利秋も篠原|国幹《くにもと》も村田新八も大久保利通も川路利良もその他無数の兵士たちも山下房親も皆そうだったのではないでしょうか。そしてあたえられた役割はやり通して死ぬというおきてはそれぞれ守ったのです。そして同時に彼らは自分の意志によってではなく死ななければならないその悲しさも知っていたのではないでしょうか。彼らは黙っています。決して喋りません。しかしわたくしには聞こえます。あの鹿児島人特有のはにかんだような笑顔で彼らがこちらを見て言っている言葉が。それはおれたちが血を流して作った国が今では誰でもが自分の人生を自分で決めることのできる国になっているのか、と言っているのです。どうなのですか皆さん。何と答えるのです」
話の脈絡が目茶目茶になっているのが自分でも分かったが止まらなかった。
「失礼いたしました。ますます頭が混乱してきました。お許し下さい。しかし話をさせて下さい。日本という近代国家が成立する過程でこの国には沢山の実に異様な歴史が刻まれました。特に鹿児島にです。そのことを言いたかったのです。あの建物は確かに悪いものです。おぞましいものです。誰だってそばにはおいておきたくない。どこか目に見えないところに行って欲しいものです。しかしどうか肉親の身びいきを聞いて下さい。あれを啓次郎は鹿児島への深い愛情と悲しみをもって建てたと思います。啓次郎は漢詩を作るときの号を錦甲としていました。いうまでもなく錦江《きんこう》湾と甲突川です。九歳でそこを離れなければならなかった少年の心にそれほどまでに鹿児島は深く突き刺さっていたのです。そしてこの一家は以来八十年以上の間戸籍を鹿児島から移そうとしませんでした。故郷は鹿児島だという感情はいくら東京に暮らし続けても消え去るものではなかったのです。たしかにあれはいまわしい記憶を刻んだいまわしい建物です。だからといってそれをただ消してしまうのでしょうか。そのおぞましい記憶と対峙《たいじ》しなければこの先何もできなくなりはしませんか。鹿児島人が血を流してこの国に刻み込んだ貴重な歴史をあえて消し去ることになりはしませんか。わたくしは大袈裟《おおげさ》でしょうか。しかしどうかご理解下さい。わたくしはいつもは決してこのようなことをべらべら喋る人間ではないのです。気がつきますとこのように議ばかりを申す馬鹿者《ばかもの》と化しておりました。それもこれもすべてあの建物のせいです。にもかかわらずあれを残せとわたくしは申しているのです。あれが残るためならなんでもすると先程申し上げました。ではもう喋るのはやめましょう。実力行使をいたします。といってもわたくしはピアノ弾きです。できることは一つしかありません」
目が吊《つ》り上がっているのが自分で分かった。
「あの門の前でピアノを弾きます」
両目が真中に寄ってくるのが分かった。
「グランドピアノを持ち出します。脱獄コンサートをやります」
とうとうとんでもないことを言い出してしまった。
何人かの人が笑い何人かの人が拍手をしたようだった。混乱した頭のおれにはもはやその場の状態がその後どうなっていったのか見きわめる能力はなくなっていた。ぼんやりとしたまま演台を降りそのまま椅子《いす》に座っていた。
揚村さんは監獄の保存ということについて客席にいる人たちの発言もうながしたようだった。色々な意見が飛び交った。混乱した頭のままでそれらを聞いていた。
「五大監獄が建てられた場所は明らかに当時の日本の外国に向かってのその場所のアピールの意味を含んでいます。千葉と金沢は太平洋側と日本海側の要所ですし奈良は伝統を誇る古都です。そして長崎と鹿児島は西南の要《かなめ》であり言うまでもなく幕末以前から外国に開かれていた重要な場所でした。特に鹿児島のものだけが石造りであるということはまた別の意味があります。ここには古くからの石の文化がありました。この建物も江戸時代からの鹿児島の石造技術の集大成であるとも考えられるのです。そういう歴史的な意味も忘れてはならないと思います」
これは原口泉さんの声らしかった。
それから様々な声が順不同で飛び交った。
「残すと言っても具体的にどうするかを考えなければいけませんよ。これは政治の問題になるわけで学者がいくらいい物だ歴史的価値があるといったところで市や県を動かせなければ駄目《だめ》なんだ」
「もう取り壊しの予算が決ったというではないですか。それを市議会で撤回させるのは大変ではないですか」
「大体、市もけしからん。我々に何も知らせずにどんどん決めてしまうとは」
「あのう、わたくしはつい一週間前に長州から流れてまいりました浪人者ですが」
と言う変な男まで現れた。
「あちらでも今の明治政府のやりかたに不満を持つ者が大勢いてもはや暴発寸前なのです。もし暴発した時にはこちらの西郷先生は共に立って下さいますでしょうか」
「何を言っているのだ、あんたは」
「いきなり時代を入り乱れさせてはいけませんよ」
「そうでなくても我々鹿児島人は暴発という言葉を聞くと興奮するのだからな」
「あ。失礼しました。いや実は長州いやその山口県でも同じような問題が起きまして、これは大正時代の赤|煉瓦《れんが》造りの建物だったのです」
その男はかまわず喋り続けた。
「取り壊すという計画が分かって反対運動が起きました。建築家や美術家から始まりやがて大物を立てて県知事を動かしました。すぐには壊さないという確約をとりました。市民の側で保存後の計画を立てれば譲渡あるいは貸与するということになったのです。ここまでがまず大変でしたがここからがまた大変なのです。保存後の建物の管理費はやはり年間一千万二千万というものですからこれをどうするかがまず問題になります。市や県に出させることができるでしょうか。それともだれか市民の篤志家《とくしか》が出すのですか。それとも募金運動をするのですか。こういうことには覚悟がいるのです。価値があると言っているだけでは駄目です。市民の運動と連動した巧妙な政治的駆け引きも必要です」
長州の男はとうとうと喋り続けた。
「先程からうかがっていると失礼ながらそういう具体的な方法が何もない。これでは保存はできません」
「…………………」
しばらく皆沈黙した。
「やかましい。長州人め」
その沈黙を破って大声が聞こえた。見ると天文館通りに昔からあるジャズ喫茶「コロニカ」の常連の一人でトロツキーというあだ名のヒゲ男だった。そこに集まるうるさい常連の中でもひときわ過激な男なのでこのあだ名がある。
「きさま、薩摩人を馬鹿にしにきたのか。下らないことをべらべら喋りやがって」
「何を言いますか。下らないことではありません。保存するには手順が必要だと言っているのです」
「その口先と手管を弄《ろう》しておまえらがうまいことをするから折角の明治革命政府が反動化し腐敗し堕落したのだ。自己批判しろ」
「何を言いますか。権力に群がったのは薩摩の芋づるも同じではありませんか。議を言わぬなどと正義づらしていきなり裏切るのはどこの誰ですか。長州は何度も薩摩に煮え湯を飲まされてきたのですよ」
「うるさい。つべこべ言うと叩《たた》っ切るぞ」
「そうやってすぐに原始|隼人《はやと》民族の本性を出す。刀を振り回せば問題が解決すると思っている。そういう野蛮な人達に文化の保存などできるわけがありません」
「だからそれをこうして話しているのではないか」
「しかしお話をうかがっておりますともう完全に手遅れですね。ざまあ見ろでございます」
「うぬ。もう許せん」
トロツキーが刀を抜き右肩上方に振り上げる示現流の構えをしながら長州の男に走り寄った。
「きえーっ」という独特の恐ろしい叫び声を発した。
「ひえーっ」という声を発して長州の男は慌《あわ》てて逃げ出した。
トロツキーがあとを追って部屋の外へ飛び出した。
「それでは残念ながら時間がきてしまいました」
司会の立川先生が何事もなかったように閉会の言葉を述べていた。
会が終わりぞろぞろと外へ出た。
「折角ご家族お揃《そろ》いなのですから明日は建物の中に入れるように手配します。是非ご覧下さい」
揚村さんが言った。父母妻子一同は礼を述べた。
「わたしはこれから東京へ戻ります」
いそがしい建築|探偵《たんてい》の藤森さんはそう言って去って行った。父親から受け取った啓次郎の自筆の履歴控はしっかりとポケットに入れたままだった。
夕食時になっていたので一同はそのまま薩摩の郷土料理の店に行った。
イモ焼酎《じようちゆう》を飲みながらサツマアゲとブタの角煮を食べた。キビナゴはだめだった。おれはなぜかスシサシミを含む生魚は食えない。
揚村さんも飲み話は自然に啓次郎のことになっていった。
「啓次郎さんの建てたご自宅はどこにあったのですか」
揚村さんが父親にたずねた。
「渋谷の金王町にありました」
父親は記憶をたどった。
その家には車寄せのある洋式の玄関があった。厩舎《きゆうしや》があり馬丁もいた。広い洋式の応接間があった。マントルピースと出窓があった。大きなライオンの置物があって子供達はよくそれにまたがって遊んだ。玄関を入るとホールがあり螺旋《らせん》状の階段が二階に続いていた。ホールをはさんで応接間の反対側には食堂と書庫があった。しかし一家の生活は普段はそこで行なわれていたのではない。これらの洋風の一画に接して純日本風の住まいが建てられていた。そこには正面玄関の横にあった内玄関から入った。父親の啓輔と弟の啓三は和室の離れに住んでいた。ひのき造りの広い部屋だった。
「弟の啓三にこのあいだ会いましてね。洋輔がこういうことを調べているという話が出ましたら、啓三がそれで部屋を広くしたわけが分かったと言うんですな」
「どういうことですか」
「あの家には個室がなかったんですよ」
「え。そうだったの」
おれは思わず口をはさんだ。
「そうなのよ」
母親が言った。
「主人はわたしの兄と親友でしてね。よく家にも遊びに来ていたのですが、家には兄弟姉妹七人に全部個室があったんです」
「いやそれがうらやましかったものでした」
父親が笑いながら言った。
「兄もよくそう言っておりました。山下の家には個室がないから家に来るたびにうらやましがると」
「やっぱり牢屋《ろうや》で散々個室を造っていたから家ではいやだったのかな」
おれが言った。皆少し沈黙した。
「そう啓三も言うのですがね」
父親は機嫌《きげん》がよかった。
なるほど。啓次郎は自宅では独居制を採用しなかったのだ。一部屋に閉じ籠《こも》るのは日本人の精神には合わないという考えで監獄にも採用したがらなかった。しかし夜は一部屋にいて昼は皆と一緒に仕事をするいわゆる共同|緘黙《かんもく》制は啓次郎の推薦するところだった。いつも皆が一緒にいる雑居制よりもこの方がよいと言っていたのだ。しかし自宅では子供たちは雑居制にしていたわけだ。
あるいは自分の鹿児島での子供時代の生活を踏襲したのだろうか。そこでは狭い家に母親と兄と三人の姉妹がいた。地域ごとに子供だけで集まる郷中《ごじゆう》教育もまだ実践されていた。東京にいる父親とは立場が敵となる私学校派の体制が強化されていくさなかにこの一家は家の中で身を寄せあって暮らしていたはずだ。
啓次郎は子供たちに個室を与えなかった。しかしすでに大正の空気を浴びて育っていた子供たちの方では個室を必要としていたのだ。
「あのあと啓三が手紙をよこしましてね。思い出したことがあるといって」
その内容を父親はおれにも知らせてくれていた。
小学生の啓三がある日学校に行くのはいやだとだだをこねた。こういうことは親なら誰でも経験する。対処の仕方は人によって様々だ。しかし、そのとき啓次郎がやったことをしたあるいはされた人間というのも少ないだろう。啓次郎は子供を家の前に連れ出してそこにあった電信柱に縄《なわ》で縛りつけたのだ。通っていた小学校は家のすぐ隣だった。登校する生徒達が大勢前を通りかかる。電信柱に縛りつけられている級友を見ることになる。こういうことに遭遇した子供たちがどんなに驚き喜び笑うか今も昔も同じだ。
「あんなに恥ずかしかったことはなかったよ」
啓三おじは後におれと会ったときにそう言っていた。しかしその顔は心の底から嬉《うれ》しそうに笑っている鹿児島人の顔だった。
しかし、だだをこねる子供を表に連れて行って電信柱に縄で縛りつけるという作業も並たいていのものではない。たとえば啓次郎はそのときどういう恰好《かつこう》をしていたのか。写真によれば立派な口髭《くちひげ》を生やしていた。家では和服が多かったというから朝食時は和服姿だったか。あるいは出勤直前なら正装の洋服だった可能性もある。
とすると役所に出掛ける前に毎日迎えに来る車を待たせたまま立派な身なりの口髭の紳士が泣きわめく子供を電信柱に縛りつけているということになる。これはもはや映画の一シーンとしか思えないが一体どういう映画になるのだろう。喜劇か。悲劇か。娯楽か。文芸か。スラプスティックか。ホラーか。ミステリーか。冒険か。
「あ。それは鹿児島の話ですよ」
話を聞いた揚村さんが即座にそう言った。
「と言いますと」
「島津|忠義《ただよし》の逸話に同じようなものがあるのです」
島津忠義が子供のころ先生の言うことを聞かなかった。罰として柱に縛りつけられた。泣き声が遠くの母親のところまで聞こえたが母親も共に耐えて何もしなかった。おきては遂行され忠義は名君になるための得難い体験をしたというわけだ。
「なるほど。自分の子供を電信柱に縛りつけているときに啓次郎は絶対この話を思い出していたはずだよね」
おれは何となく嬉しくなってそう言った。
「けけけけけけ」と息子が笑った。この話をもっと早く知っていたらおれも一度は息子にやってみたいと思っただろうか。もっとも子供があまり大きくなってからではこういうことはできない。暴れられたらかなわない。下手をしたら逆にこちらが電信柱に縛りつけられてしまう。精神的にも肉体的にも小学校の下級生ぐらいまででなければ実現しないパフォーマンスなのだ。啓次郎も無意識にこの鹿児島パフォーマンスをやる機会を待っていたのかもしれない。おそらく幼いときに郷中の集りで散々聞かされた話なのだ。
「骨の髄まで鹿児島なんだね。というより鹿児島を捨てなければならなかったから余計愛着が深いんじゃないかな」とおれは言った。
外国に住まざるを得なくなった人の中で日本の姿が過激的に特殊な方向へ変わっていくことがある。その現象と同じだ。
この電信柱事件のおかげかどうか啓三おじは学習院の高校を一番で出た。ほうびの銀時計をもらい東大の造船科に入った。それより前に父親の啓輔も芝中から学習院を経て東大の機械科に入っていた。啓輔は三井鉱山に入り啓三は日鉄船舶に行く。さらにこの下の弟の啓四郎は慶応大学から日本鋼管に行く。いずれも当時の日本が必要としていた分野だ。明治維新のときには刀を振り回してあばれ、国ができるとポリスとなり、その息子は監獄を建て、さらにその次には石炭と鉄と船を造ったというわけで、まことに世代ごとに国に忠義な一家だとも言えるのだ。
「お父さんが大学に入ったときには啓次郎さんはまだ生きていたの」
「ああ。受かって学帽を持って帰ったらそれを手に取って頭にかぶせてくれたよ。にこにこ笑ってとても嬉しそうだったな」
昭和四年のことだった。このとき啓次郎は六十二歳。嬉しかったはずだ。最初の子供を得て以来三十年近く待ったよろこびだった。本来なら十年も前に長男とこの喜びを分かちあっているはずだったのだ。
啓次郎は不幸ないきさつで長男をなくしていた。このときには啓輔、啓三、啓四郎の三兄弟の他に道子、伊与子、美代子の三姉妹がいた。生れた順番は道子、啓輔、啓三、伊与子、啓四郎、美代子となるのだが、実は道子の前に長男が生れていた。だから以後の男の子の名前に輔や三や四がついている。
啓次郎が結婚したのは明治三十一年、五大監獄が着工される三年前だった。相手は末弘直子という十九歳の娘だった。直子の父親は末弘直方といった。やはり鹿児島出身でかつて警視庁に勤めていたが、この当時には岩手県知事をしていた。明治十年に東京から鹿児島に放たれた西郷隆盛暗殺団ともいわれる警視庁の調査隊があったが、その一員だった。啓次郎の父の房親は少し年上の同僚だったということになる。両方にちょうどよい年頃《としごろ》の子供がいるということで話がまとまったのだろう。恋愛結婚だった可能性はまずない。
結婚した翌年に待望の長男が生れた。昔の鹿児島の人間にとって何はともあれ男の子が一番大事なものだ。直子にとっての大手柄《おおてがら》だった。房親が切り開き啓次郎が継承した東京での山下家の存続がゆだねられるべき存在が誕生したのだ。
一家の期待を一身に受けてその子は房雄と名付けられた。房親から一字そして雄の字は房親の長男で啓次郎の兄である雄熊《ゆうぐま》からとったものだろう。
期待どおりこの子供は頭のよい子だった。目立つほどの大きな頭をしていた。三歳のときに箱根に向かう汽車の中で旅の僧がこの子供をしげしげと眺《なが》めたほどだった。
「これは異相だ。この子は神童にちがいない」とその旅の僧は言った。そのとおりだった。いやそれ以上だった。麻布中学に入ってからは五年間のあいだ一度たりとも学年で一番の座をゆずらなかった。ところが五年目の終わりの試験で初めて三番になった。とたんに狂ったのだ。
それ以後は一日中ぼんやりとし妙なことを口走り学校には行かず人の目を避け親が何を言っても聞こえる様子がなくなった。啓次郎と直子の心配と落胆は想像にあまりある。房親と雄熊の悲しみもだ。啓次郎はそういう息子に何を言いどうやって直そうとしたのだろうか。電信柱に縛りつけようにも大き過ぎる。中学五年といえば今の高校二年だ。背はにょきにょきと伸びときどきフカのような目をして親をにらむ。どういう対策が取られたにせよ子供はそれっきりもとに戻らなかった。あるときなどは家を出て行ったまま行方不明になってしまった。あきらめた頃に啓次郎がたまたま電車に乗るとそこに房雄がいた。啓次郎は房雄を連れて帰った。
「神様のお引合せだ」と啓次郎は言った。それ以後のことだ。家に座敷牢が作られた。何ということだ。国の期待を一身に背負って仕事をした監獄専門建築家の家に座敷牢があってそこに長男が入れられていたのだ。そして奇《く》しくも房雄の生れたのは五大監獄の着工とほぼ時を同じくしていた。これ以上の痛烈な偶然はない。とんでもないしっぺ返しだった。
それはこの一家が幕末以来無理矢理切り開いてこなければならなかった運命に生じた亀裂《きれつ》だった。そしてそれはそのままこの国が無理矢理に文明化されていった運命と重なるのだ。
房雄は二十七歳で死んだ。死ぬ直前にもとに戻った。
「ひげをそってくれ」と言い「大和田のウナギが食べたい」と言った。
こうして、明治後期に生れ天分を示しながら大正期のほぼ全《すべ》てを夢の中で過した山下房雄は昭和時代の始まりとともにその生涯《しようがい》を閉じた。
啓次郎はかつて監獄建築についての演説をしたときに獄舎の種類ということにふれ懲治場というものがあるとして次のように言った。
「是《これ》は別に法律上有罪と云ふ程の悪いことはしないが、どうも親の側《そば》に置いては品行が修まらないとか、或《あるい》は父母の訓誨《くんかい》に従はないとか云《い》ふものを入れるので是は其《その》父兄の頼みに依《よつ》て入れるのであります。それで食費或は衣類の如《ごと》きものも自弁するのであります。つまり此所《ここ》で強制教育をやつて人間に仕様と云ふ目的を以《もつ》て設けてあるものであります」
まさかこれが自分の身の上に生じるとはこのときは夢にも思っていなかっただろう。そして啓次郎はそれが起きたときに自分の述べたやりかたを決して自分の息子には当てはめなかった。啓次郎はこのとき何物かに対して借りを負ったのだ。その時から自分が何をしたかを声高に子孫に伝えることができなくなったのではないか。これが啓次郎の姿が今にいたるまでこの一家の中でぼんやりとして焦点が合わなくなっていた理由の一つではないだろうか。
啓輔の東大合格を喜んだ二年後に啓次郎はこの世を去る。
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第十九章
啓次郎の長男の不思議な運命を思ってしばらくぼんやりとしているあいだにも会話は進んでいた。
父親は啓次郎が大学のときに陸上をやりボート部に入っていたことを思い出していた。典型的なイギリス型のキャンパスライフを啓次郎は目指していたのだろうか。
父親の子供時代の思い出も話された。その家には自動車があった。ホロのかかるビュイックでナンバーは六七七六だった。啓輔と啓三は時々内緒で藤井運転手に運転をさせてもらっていた。この車は大正十二年の大震災のあとに見舞いとして送られてきたもので、贈り主は当時ハワイのヒロ市にいた紺野という人だった。この人は以前から啓次郎を先生と呼んでしばらく書生のようにしていた。
啓次郎はその紺野氏にお嫁さんを世話していたのだ。そのお嫁さんは伊東|巳代治《みよじ》という政治家の娘さんだった。ただし正妻の娘さんではなかった。
ちなみに伊東巳代治とは次のような言葉の中に出てくる人物だ。
「伊藤は才力に任せ、ずい分|我儘《わがまま》なり、今日他に伊藤ぐらいの人物あらば、互に相制して都合|宜《よろ》しきもその人なし。……右の景況にて伊藤は気高《きだか》くなり、欧洲にてはビスマーク、支那《しな》にては李鴻章《りこうしよう》、日本にては自分と、いよいよ大天狗《だいてんぐ》となりたり。伊藤が大天狗となりたれば、井上|毅《こわし》も天狗となりて、山県などのいう事は聞き入れぬよし、つづいて伊東巳代治も金子堅太郎も小天狗となりたるよし」
伊藤とは伊藤博文のことでこれは明治天皇が佐々木高行に語った言葉だという(色川大吉「日本の歴史21近代国家の出発」中公文庫より)。
この大天狗小天狗グループで明治憲法を作った。この憲法が発布された明治二十二年に二十二歳の啓次郎は帝国大学造家学科に入っている。三年後に書く英語の卒業論文の中で啓次郎は日本の歴史上に生じた地震の記録をすべて調べて書き出しているがそのときには地震の起きた年月日を元号と皇紀つまり神武紀元で書いていて西暦を用いていない。すでにこの欽定《きんてい》憲法下での明治国家への奉仕精神がしっかりと身についた若者になっていたということが考えられる。まあ薩摩のサムライの子供としての生れ育ちを考えれば主君への忠誠は当然であり、身の置きどころとしては理解しやすい国の構造であったにちがいない。
その伊東巳代治の正式でない娘さんをやがて自分の書生に紹介することになったわけだ。どのような交遊過程が生じていたのかはよく分からない。
ともあれ結果はよかった。二人は仲むつまじく暮らしハワイに行きコーヒーと砂糖を作って大成功をした。大震災の話をハワイで知ってお見舞いにと外車を一台送ってきたというわけだ。
しかしその後紺野氏はハワイで病気にたおれそのまま亡《な》くなった。夫人は忘れ形見の小さな男の子を連れて日本に帰ってきた。その時には啓次郎ももうすでにいなかったが紺野氏の訃報《ふほう》は手紙で啓次郎の妻の直子に届いた。その紺野夫人からの手紙を読みながらやはり未亡人となったばかりの直子がぼろぼろ涙を流していたという。残された男の子の名前が紺野ジョージであるということまで伝わっているから山下家にとってこの人はよほど印象の深い存在だったのだ。そういえば啓次郎は日曜日の朝にはかならずコーヒーを飲んだというがそのときの挽《ひ》き器も豆もすべて紺野氏がハワイから送ってくれたものだった。当時外国で大成功をし自動車やコーヒーをどんどん送ってくれる若い友人がいるというのはこの一家の自慢だったにちがいない。
「結構いい暮らしをしてたんだなあ」
思わずうらやましがった。
「今考えるとずいぶん進んでいましたな」
父親は揚村《あげむら》さんに言った。
再び家の話になった。大震災のときにも啓次郎が自分で建てたその家は塀《へい》の一部以外は壊れなかったことや、余震が怖くて庭にカヤを吊《つ》って寝るという家族を尻目《しりめ》に啓次郎だけは「おれの作った家が壊れるはずはない」といって家の中で寝たという話が出た。これは前にも書いたが、よく考えると家族は結局外で寝たのだ。つまり自分たちの命をたくすことについて、啓次郎の腕を完全には信頼していなかったことになる。しかし、啓次郎はその家族を別に強制して家にいれることもせずお前ら勝手にしろという態度で誰もいない家に入って一人で寝た。その啓次郎の様子はどことなくおかしい。おれの仕事がおまえらに分かるものかという明治男の気概か。あるいはおれの建てた家が倒れるものなら仕方がない一緒に死んでやるというサムライと職人の混ざったような度胸か。それにしても自分たちは自分たちの判断で何の遠慮もせずに平気で庭に寝ている家族というのも結構したたかだ。
「そういえば、啓次郎さんが自分は岩永三五郎ではないと言ったという話があるんですよ」
揚村さんが妙なことを言い出した。
「何かの修復工事で石を積ませたのですがやり方が気に入らなかった。やり直しをさせたのですがそのときに『我々は岩永三五郎ではないのだから』というような言葉を吐かれたといいます」
「つまりああいう江戸時代の名人職人|気質《かたぎ》とはちがうんだという意味でしょうか」
「それとやはり自分たちの学んだ西洋の技術というものに絶対の自信と信頼があったのでしょうね」
「なるほど。それでなんとなく三五郎をライバル視しているわけですね」
そしてこれはやはり父親の房親の見た情景とも深い関係があるはずだ。
岩永三五郎が熊本からやってきて当時の石造文化技術の粋を集めて鹿児島に五大石橋を造りはじめたのは房親が物心つくかつかぬかのころだった。家のすぐ前に新しい石造りの橋が出来上がっていくのを毎日見ていたことになる。その大きな石造建築の偉容は岩永三五郎という偉大なアーティストの名前と共にくっきりと幼い房親の心に焼きついたことだろう。三五郎はアーチが完成するとその上端に最後の石の一片をさし込みその上に立った。そうやって周りの支えをすべてはずさせた。アーチはびくともせず、頂上に立つ三五郎はその瞬間偉大な英雄だった。
その後にやってきた激変の時代を生き抜いた房親に息子ができた。その息子が建築家になると知ったときに房親の脳裏にはまざまざとあのときの光景がよみがえったにちがいない。
「すると啓次郎、おまえは橋も造れると申すか」
「もちろんです父上。西洋の技術でできないことはありません」
「そういえば、あの岩永三五郎は見事であった。あのような偉大な石工はもう二度と出ないであろうな」
「それはそうでしょうが、あの程度のことなら我々の知識ですぐにもできるのですよ父上」
「そうであるか。いや偉いものじゃ。しかしそれにしてもあの岩永三五郎はすごかった」
「ですからああいう橋ならばすぐにでも」
「そうかそうか。偉いものだのう。しかしなんといってもあの岩永三五郎だな」
「父上。いまの技術や知識の方が格段に優れているのですよ」
「おうおうそうかそうか。偉いえらい。しかしそれにしてもあの岩永三五郎はのう」
「父上。お言葉ですが私が学んだ西洋の知識によればああいうものは大変基礎的なことであって誰にでもできることなのです」
「おうおうそうであったな。偉いえらい。しかしなんだ。何しろわしはその偉業を間近に見ておったのだからな」
伝説的人物のライブを生で見たという老人の話はえてしてこのようになるものだ。
「いやああのときのパーカー、ガレスピー、モンクはすごかった。どこで聴くといってあのミントンズ・プレイハウスで聴く連中の音ほどすごいものはなかったな。なに? タウンホールのコンサートを聴いた? それもレコードで? ごみ。ごみ。そんなものはお前さんごみです。なんといってもあの晩だ。あたしゃあ目の前で聴いたんだから。あれにかなうものはない。絶対にない。いいえ。あたしゃあ見ました。あれ以上のものはこの世の中に後にも先にも金輪際存在いたしません。いいえ。聞こえません。うううううう。ぶるぶるぶる」
しまいには興奮して裏声を出し顔を左右に激しく振ってたるんだほっぺたを震わせたりするのだ。
この調子で息子との話が建築の話題になるたびに房親が一つ覚えの「岩永三五郎」を繰り返した可能性はある。そしてそれは啓次郎に岩永三五郎に対して何事かの復讐《ふくしゆう》を誓わせる充分な原因になり得たはずだ。
やがて食事が終わった。
「では今日は皆様お疲れでしょうからホテルへおいで下さい。明日の午前中には刑務所の内部に入れるようにいたしましょう」
揚村さんが言った。
「それからお願いがあるのですが、そのあとにぜひ県庁と市庁を皆さんで訪問していただきたいのです。わたくしがお連れいたします。ご子孫から直々に県知事と市長に建物の保存を訴えていただきたいのです」
我々は承知した。
アフリカのトーキングドラムと大正琴と自由民権バイオリンがリンガラスタイルのバックグラウンドミュージックを奏《かな》でるとどこからともなく浴衣《ゆかた》姿の小肥《こぶと》りの男が現れた。同じ人間の中に二つの人格を持つその男は一人で会話をはじめた。
「とうとうこの家の秘密をばらしてしまったな。こ、この作者は、リンチだな」
「たしかに啓次郎の長男のことはあまり皆話したがらないのだ」
「どうして分かったのかな」
「作者もそのことを話しておきたかったのだろう。それで我々が出てきたわけだな」
「こうなったら喋《しやべ》らないわけにはいかないな」
「そういうわけだ。実は啓次郎のことを調べはじめてしばらくたった頃《ころ》に、作者は啓次郎の子供たちすべてに集まってもらって話を聞こうと考えたのだ。めでたくも珍しいことに全員元気にしていた。八十三歳になる長女の道子を筆頭に啓輔、啓三、伊与子、啓四郎、美代子が顔を揃《そろ》えた。啓輔と啓三と啓四郎のお嫁さんである菊代、文子、佐喜子も出席した。
さいわいこの家は昔から集まるのが好きだった。集まるとかならず一種独特の身内びいきの感覚があった。それはただの身内びいきの域を少し越えて、いつもこの家は他のどこともちがう特別な家なのだというところまで高まっている気配があった。といってゆったりとくつろいだエリートの家の雰囲気《ふんいき》とは少しちがっていた。どこか切羽詰まって過敏であり、まるで敵に迫害されている一民族の結束感に共通するものさえあった。皆はお互いをかばい合いちょっとしたことにも驚くほどの大笑いをした。大声で笑いながら同時に泣いて涙をふいているおばの姿もよく見た。作者にとっては昔からどこか不思議なおじおばたちなのだった」
「実は、う、宇宙人ではないのかな」
「話を妙な方向へもっていくのではない。それで、中華料理を食べてもらいながら話を聞かせてもらうというその集まりで皆は代わる代わる啓次郎の思い出を語ってくれた。それらをもとにして書かれているのだ」
「色々な話があったのだな」
「そうだ。初代ミス日本の話まで出てきて作者はびっくりした」
「ど、どういうことかな」
「話が少し離れるがふれておこう。啓次郎の妻の直子が末弘直方の長女だったことは言ったな。その妹にヒロ子というのがいてこれが大変美人だったという」
「び、美人」
「いきなり興奮するのではない。そのヒロ子が学習院の女子中学生だった頃にミス日本のコンクールがあった。時事新報という新聞がアメリカのヘラルド・トリビューン社と提携してやった写真によるコンクールだった。日本代表の写真はいずれアメリカに送られて世界大会に参加する。ヒロ子の写真を撮ったのは東京の江崎写真館の江崎清氏だったがこの人の奥さんは直子の妹でヒロ子の姉だった」
「とすると義理の兄と妹だったわけだな。そして、兄が写真家で妹がとびきりの、美人だったわけだな。た、ただでは済まないな」
「馬鹿者《ばかもの》。何を考えているのだお前は。それで当時明治四十年というから西暦で一九〇七年だがその頃は写真の技術が大変進歩したときだったという。照明や何かを駆使していくらでも写真家の思う通りの画面ができることが分かり始めた頃らしいのだ」
「明治四十年といえば、ご、五大監獄が完成する直前だな」
「おまえはもうそういう風にしか時代を数えられなくなっているのだな。まあともかくそういう背景もあって江崎氏は自分の腕試しという意図もあったのだろう。アメリカ仕込みの腕をふるってヒロ子の写真を撮った。そしてこれが見事に一等に選ばれた」
「み、皆大喜びだな」
「ところがちがうのだ。江崎氏はヒロ子や末弘家には内緒で応募していたのだ。事前に言えば断わられるに決っている。今のようにお嬢さんと称する若い女がむやみにマスコミに出たがる世の中ではない。本当の深窓の令嬢が存在していたのだ。そのような下世話なことに巻き込まれたらもう令嬢ではなくなってしまう。令嬢でなくなるとちゃんとした家柄《いえがら》のところにお嫁にいけない。むしろ大変困ったのだ」
「い、今も昔も、写真家のエゴイズムというのは、変わらないんだな。自分のためならなんでもするな。女は泣くな。自殺した女もいたな」
「案の定大騒ぎになった。なにしろ当時の学習院の女子生徒といえば令嬢中の令嬢だ。これが自分の美貌《びぼう》を人前にさらして話題になるといういわば商売女と同じことをした結果になったわけだからな」
「つまりそのなんだな、く、黒木香と同じになったんだな」
「今さらおまえの思考回路を詮索《せんさく》しても始まらない。そう思いたければ思っていろ。とにかくそうなった。ヒロ子とその一家もびっくりしたが一番びっくりしたのは学習院の院長だ」
「校長はいつも生徒を、し、叱《しか》るんだな」
「院長の乃木|希典《まれすけ》は昭和天皇が若い頃に説教をしたくらいの人だ。筋を通さないわけにはいかない」
「どうしたのかな」
「即、退学だ」
「かわいそうだな。本人の責任ではないな。く、黒木香は本人の責任だな。そ、それでも横浜国大の学長は、退学にしないな」
「うるさいなおまえは。何を興奮しているのだ」
「く、黒木香は、え、えらいんだな。ぼ、ぼくと頭が同じだからだな」
「おまえが三周遅れていても同じに見えることがあるのだぞ。話の邪魔をするな。ええとそれでこの黒木じゃなかったヒロ子は退学となった。希望の未来に胸をふくらませていたはずの若い美しい令嬢が、たちまち悪い女の烙印《らくいん》を押されて深窓の令嬢の館《やかた》を追われたのだ」
「そうなったら、や、やはり黒木香をたよるしかないんだな」
「理不尽な世間の仕打ちに復讐を誓い、家出をし、紅灯の巷《ちまた》に身を沈めて天性の美貌で次々に男を狂わせてゆく元令嬢という運命をたどる可能性もあった。しかしそうはならなかった」
「どうしたのかな」
「学習院院長の乃木希典が知恵を出した。昔からの戦友の野津道貫に話をし息子の鎮之助の嫁にどうだとヒロ子を紹介したのだ」
「そ、それは、じ、人身売買ではないのかな」
「おまえの思考回路が興味深いものであることは認めよう。しかしこれが人身売買なら人を紹介する人間は皆|奴隷《どれい》商人ということになるのだぞ。むしろこれは大岡裁きだ。三方一両損だな」
「なにかな」
「乃木希典は規則は守るがそれだけではない人情家であることを示した。野津家では日本一の美人の折りがみがついた家柄のよい令嬢を嫁にすることができた。それも乃木希典の紹介及び仲人でだ。ヒロ子自身は行き所のない身になるところを救われ末弘家はこれで後ろ指は指されずにすむ。写真家の江崎氏さえもこういう結果になったお陰で誰からも恨《うら》まれずに自分の芸術的手腕を世の中に示すことができたのだ」
「それなら四方一両得だな」
「そのとおりでめでたしめでたしとなったのだ」
「でも黒木香ほど面白くはならなかったな」
「やがてヒロ子は三人の娘を生みその娘の一人のさらに娘が正田という家に嫁ぐ。そこには聖心女子大を出た美智子という姉がいてすでに学習院大学出身の男と結婚していた」
「何という名前の男かな」
「それが名前のない男で単に明仁《あきひと》というのだ」
「妙な奴《やつ》だ」
「その家には代々名字がないのだ。天皇の家だからな」
「そういうものかな」
「今の今上《きんじよう》天皇明仁がその男だ。つまり初代ミス日本の末弘ヒロ子の孫娘の義理の姉が皇后になってしまったわけだが、むろんこれはもはやはるかに遠い遠いところでの話だ」
「それで啓次郎の長男の話だったな」
「そうだった。親戚《しんせき》の集まりではこのような様々の話が聞けたわけだ。しかしその席では長男の房雄の話は出なかった」
「さ、作者はどうやって知ったのかな」
「それは自分で語ってもらおう。我々は少しくたびれた」
それはちょっとした偶然からだった。
会がお開きになり皆と別れたあと父親は先に帰った。母親と妹とその娘が残った。妹はとうに嫁いでいるのだがこういう集まりというとやってきて山下家の儀式に参加する。いつまでも山下家の女という立場をとり続けるのもどうかと思うがどうも伝統的にそうなる下地がこの家にはあるらしい。
こうして会うのも久し振りなのですぐには別れずに妹が娘をそのビルの屋上にある遊園地で遊ばせるのに母親共どもつきあうことにした。屋上に上がりコーラを二人に買いおれはコーヒーを持ってベンチに座った。秋の陽射《ひざ》しの中で小さな娘がおてんばな恰好《かつこう》をして遊んでいる。それを母親と並んで座って見ながらコーヒーの香りを嗅《か》いでいた。そのときに急に聞き残した大事な話があったことを思い出したのだ。
「家系図を見ると啓次郎には長女の道子おばさんの前に房雄という長男が生れているね。この人はどうしたの」
「ああ房雄さんね。この方の話はわたしも聞きましたよ」
「どういう人だったのこの人は」
「神童だったのよ」
「でも若死しているね」
「やはり頭がよすぎたのね。ずうっと麻布で一番を通したのよ。それが五年目に三番になった途端に変になったのね」
「変になったって、つまり狂ったの」
「まあ今で言えばノイローゼのひどいのかしらね。あらあら、あなたこんなことを書いてはいけませんよ」
「書かないよ。それでその房雄おじさんはどうしたの。どういう話が残っているの」
どうしても聞かないわけにはいかなかった。母親は「書いてはいけません」と繰り返しながら義理の兄についてこの家に伝わる記憶の断片をいくつか話してくれた。おれは持っていたノートを取り出して書きとめたというわけだ。
「それで書いてしまったんだな。作者はリンチだな」
「どうしてもそのことが大事に思えたのだ」
家に帰ってすぐに年表を作ってみた。すると思いもしなかった啓次郎の背負っていた蔭《かげ》が見えてきた。
この長男は明治三十二年つまり一八九九年つまり十九世紀も終わるという頃に生れている。啓次郎の年齢は明治の年号と一致していたわけだがこの子供の年齢は歴史が二十世紀に入ってからの年数とほぼ一致するわけだ。このときに啓次郎は三十二歳で妻の直子は二十歳の初々《ういうい》しい母親だった。そして、五大監獄はこの二年後に着工される。啓次郎は大学を出て六年目だ。
何もかも順調にいっていて押しも押されもせぬ若手司法建築家だった。折しもこの年に待望の監獄費国庫支弁法案が成立した。つまり国が金を出して五大監獄を造ることに決ったわけだ。そして啓次郎がその設計責任者になった。このころまでに千葉監獄と奈良監獄の設計はすでに着手されていた。
そしてこの監獄計画の進行を背景にしたように、幕末以来の不平等条約の改正交渉が続けられた。明治三十二年にはようやく外国人の治外法権が撤廃された。まさに、お国のための仕事だった。
長男の生れたこの年から洋行する明治三十四年までの二年間に、啓次郎は浦和、横浜、越谷、台湾、鹿児島、熊本、京都、小倉、大阪、宮城、千葉、名古屋、奈良、神戸、福岡、長崎、愛知などとたて続けに出張した。各地の区裁判所、地方裁判所、控訴《こうそ》院などにいって打合せをしたらしい。そしてそのまま続けて外国へ行ってしまうのだ。バンドマン顔負けの忙しいスケジュールの親だったわけで、こういうことが生れたばかりの子供にはよくないのかなどと先走った考えさえしてしまうほどだ。
しかし慌《あわた》だしかったが啓次郎にとって待望の初洋行だった。嬉《うれ》しかったにちがいない。
とくに父親の房親の感慨は深かったろう。自分が二十二歳のときに鹿児島の沖に現れた夷狄《いてき》の黒船艦隊のことは今でもはっきりと脳裏に焼きついている。この黒船艦隊の出現が以後の鹿児島と自分の運命をどのように変えて行くのか知るすべもなかったが、あの黒船艦隊をにらみつけながら房親は不思議な白日夢を見たのだ。敵であるはずの黒船に乗って敵の母国に運ばれて行く夢だった。これは予知だったが実は自分の未来ではなく自分の息子の未来を垣間見《かいまみ》たのだ。もっともそのとき房親はまだ結婚もしていなかった。
「わしの見た夢は実現した。啓次郎、あれはおまえだったのじゃ」
洋行決定の知らせを聞いた房親はつぶやいた。さらに房親の脳裏にはその後の三十有余年の出来事がパノラマとなって写し出されたはずだ。薩摩藩が参加した数々の戦い。西郷との出会い。警視庁の設立。啓次郎の上京。西南戦争。西郷との別れ。大久保と川路の死。生き残った自分の幸運と責務。そして啓次郎の成長。
「啓次郎、安心して行って来い。この子はわしが見ていてやろう」
このとき房親は六十歳。すでに二年前に官歴を終えていた。そしてかたわらには二歳になったばかりのかわいい初孫の房雄がいた。
啓次郎が子供が生れたときからあまりそばにいてやれない親だったとすれば、そのかわりに子供のそばには定年退職したばかりのおじいさんが常にいたことになる。それも大変に強いおサムライさんだった片足のおじいさんだ。こういうことが子供にはよくないのかなどとまたもや先走る。
しかし房雄は順調に育った。啓次郎は一年後に帰国した。
「私は昨年の八月東京を出まして、さうして先月帰朝いたしましたのでありますが、其《その》経歴いたしました所は大凡《おおよそ》欧米八カ国に跨《またが》つてをりまして、往復の時日を引き去ればほんの僅《わずか》の視察に止《とど》まつて居るのであります。併《しかし》ながら私の主に旅行した目的は欧米各国に於《お》ける監獄の建築を視察するのが本当の目的でありまして、傍《かたわ》ら普通の建築物について視察を致したので監獄建築の視察の方に主に時を費したのでありますからして、時日は誠に短うございましたけれども、監獄は大分数多く見ました。大凡三十位は見ましてございます」帰朝報告会で啓次郎はこう述べている。
五大監獄は順調に工事が進められた。そして明治四十年それらが竣工《しゆんこう》する前の年に次男の啓輔が生れた。このとき房雄は八歳。すでに妹の道子はいたがはじめての弟を持つことになったわけだ。すぐ二年後には三男の啓三が生れる。
弟が急に沢山できたのがいけなかったかなどとまたもや先走るが、このころには房雄はもはや一家の期待を一身に背負っていた。なにしろ旅の僧が三歳の房雄を見て「異相だ。神童だ」と言ったというのだ。それはすでにこの家の語り草になっていてことあるごとに房雄自身もそのことを聞かされたにちがいない。そしてその通り房雄は麻布中学に入り一番を続けた。当然そのまま一高へ行き東大に行くと誰もが思った。一高とは官立の第一高等学校で啓次郎や漱石の通っていた大学予備門が前身となっている。つまり啓次郎の長男は父親が歩んだとおりのエリート街道をまっしぐらに進むと思われた。しかし、そうはならなかった。言い伝えどおりだとすると中学五年で房雄は社会や親との接触を絶った。十六歳か十七歳のころだ。
以後のいくつかのエピソードはすでに書いた。そして結局、啓次郎は初めて建てる自宅の中に房雄の為《ため》の座敷|牢《ろう》を用意しなければならなかった。
維新の功労者の次男にして明治五大監獄の設計者、勅任技師山下啓次郎は晩年になってようやくその自宅を設計する機会が訪れたときに、その華麗な和洋折衷形式の一角に座敷牢の構想を持つべく運命づけられていたのだ。
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第二十章
さらに年表を作ってみて微妙だったのは啓次郎の父親の房親《ふさちか》の死期だった。
天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正にまたがるこの国の激動の時代を生きた房親は大正四年にとうとうその生涯《しようがい》を閉じている。大震災の直前に作られた啓次郎の自宅を見ることはできなかったはずだが、ちょうどそのころに房雄が十六歳になっているのだ。
房雄が十歳を過ぎた頃《ころ》に時代が明治から大正となる。大正四年は一九一五年だから房雄はこのとき十六歳だ。すでにそうなっていたのだろうか。つまり房親は自慢の秀才の孫が自分の世界に閉じ籠《こも》る姿を見て死んで行かなければならなかったのか。それともそれを知ることなく自分の切り開いた運命を継承する子孫の無限の可能性を信じたまま笑って死んで行けたのか。あるいはやさしいおじいさんであった房親の死そのものが房雄に影響を与えたのか。房親は三月に死んでいる。房雄が三番になりそれがためにその人生が狂ったという中学五年の試験はいつのことだったのだろうか。
麻布中学へ行って記録を調べて見れば分かるのだろうか。しかし、そう思うと急に無力感におそわれた。
幸運ないきさつで入学した昭和三十年代の麻布中学ではおれは不幸にも後ろから三番目の口だった。おかげで恥ずかしい思いはよくした。たとえば幾何の試験を返してもらうときに皆の前で先生から「はい、君はマル」といって渡されたりする。零点という意味だ。あるいは学級委員の選挙のときに被選挙権がない。平均点が七十五点以上ないと駄目《だめ》なのだ。資格者の名前は黒板に書き出すから書かれなかった者はすぐ分かる。あるいはとうとう黒板に書かれる文字が何一つ理解できなかった化学の授業。思い出せばきりがない。屈辱感も人並以上にあったと思う。しかし、幸い狂わなかった。いやそれとも実はおれもあのとき狂っていて、だからこのようなことを臆面《おくめん》もなくほざいているのか。
無力感が虚脱感となった。それ以上考えられなくなった。机の上のラジカセのボタンを押してカセットテープを回した。セシル・マクビー、フェローン・アクラフとニューヨークでやったピアノトリオの音が流れた。曲は「抱きしめたいあなた」だった。この自己宣伝的バックグラウンドミュージックはなんとか功を奏し、一人の人間の中に二つの人格をもつ浴衣《ゆかた》姿の男がどこからともなく現れて一人会話を始めた。
「で、でも三番ならまだいいんだな。とてもいいんだな。ぼ、ぼくだったら非常に嬉《うれ》しいな」
「確かにそうだ。しかしある種の人々にとってはそうでない。一番でなければゴミと同じだという考えもありうる」
「や、野球の某球団の周辺のやつらも皆そうだな」
「おまえの話はどうしてそう妙なところにいくのだ。しかし言われてみればそうだ。一番でなければならないなどという馬鹿《ばか》げた前提があるとプレイヤーもファンも狂わざるを得なくなる。監督の顔がまず狂ってくる。選手も皆そうだ。捕球後に出る舞踏病や捕球前に出る暴走激突性自殺願望症をはじめ、自己利益的打率獲得性自閉症、死球性被害|妄想《もうそう》的殺人症、失策|隠蔽《いんぺい》性多幸症、投球性無脳症、捕手性心身|麻痺《まひ》、疑似テレビタレント性血走り目症、三振性ごまかし笑いしかもひきつり性空威張り症、逃亡性|欺瞞《ぎまん》性言いわけ付き金くれ症など、様々な病気の発病が常時見られる」
「フ、ファンもそうだな」
「カレーライス拒食症になったりフンドシ性裸体露出六本木狂走症が出たりした。某球団が負けるたびに荒れ狂って家を全部|叩《たた》き壊しそのたびに新築するという作家もいる」
「い、一番になれないからいけないのかな」
「いや。実はそうではないのだ。一番になれないからといって普通の人間は狂わない。一番になれなかった途端に狂う人間はそのまえにすでに狂っているのだ」
「ど、どういうことかな」
「一番になれなかったというのは単なる引き金だからだ。原因ではない。原因はもっと別のところにある」
「ど、どこかな」
「周りを見回すような下らぬギャグをやるのではない。分からんのか。親だ。先祖だ。血だ。歴史だ」
「な、何を言っているのかな」
「ええい。今度ばかりはおまえの愚鈍さがじれったいわ。一目|瞭然《りようぜん》のこの事実が目に入らないのか。わたしには自分のことのようによく分かるぞ。房雄が物心ついたときからどのような環境にいたと思うか。この馬鹿な作者でさえ想像できるほどなのだ」
房雄はその日はじめて学校を休んだ。熱があり体がだるかった。いつもならこのくらいのことでは決して休まない。少しくらいの病気なら這《は》ってでも学校に行くというのがこの家のしきたりだった。しかし今日はどうしてもだめだった。一度立ち上がってみたが足元がふらふらした。全身から力が抜けていた。その様子を見て母親はようやく子供の異変に気づいた。あらためて別の部屋に女中が布団《ふとん》を敷き房雄はそこに横たわった。
やがて野口先生がやって来て診察をした。野口先生は太い指で房雄の胸と背中を軽く叩き口の中をのぞきこんだ。それから注射をして薬をおいて帰っていった。女中が障子をしめた。秋の白い陽射《ひざ》しが障子に映った。
房雄はしばらくうとうとした。ぼんやりした頭で天井一杯にしみ出してくる面白い模様を眺《なが》めていた。障子に映る光と影を数えた。頭の中に鳴り響いてくる不思議な音を聴いた。それからいつのまにか頭の中をかけめぐる無数の言葉があった。学校とも勉強とも関係がなくただそれを味わうだけで嬉しいそれらの物事とのたわむれがあった。ぼくは特別に皆よりこういうことを受け止める感覚に恵まれているようだと房雄は思った。よく友達と話していてぼくの分かることが人には分かっていないことがある。それは勉強のことではなくもっと別のことだ。たとえばあの岡田などは勉強のことしか分からない。もうすぐぼくを抜いて一番になるなどと皆に言っているらしい。馬鹿なやつだ。別にぼくは一番でなくてもかまわない。もっと面白いことがこの世にあることをこうして知っているような気がする。でももし一番でなくなったら両親ががっかりするだろうか。優しい両親だが成績のことになるとにこにこ笑っているその眼《め》の奥にとても妖《あや》しい光がさすのだ。
「ははおやじゃとてもの。せんせいがへらはりましては」
「そうかそうか。さらへらかれたか」
母親と祖父がやって来たらしい。
「あととりながらりっぱにやりたもへれ」
「いわいでもんさてな」
「いくさとて、りっしんしゅっせはてがらのさーべる」
「おいえのやまいは、おかみのすめらぎ」
「しゃもじるときには、いのちにかえても」
「このみのせいきん、やまさかころばず、はやねはやおきはやめしはやぐそ」
ぼんやりとしたあたまに二人の会話が響いた。房雄はこの祖父が昔のおさむらいさんであることを知っていた。鹿児島から出て来てこの一家の運命を切り開いた人だという。父親はそのあとをついでこの国のために建築家となった。だからぼくもそのように何か立派な人になり立派なことをしなければならない。そう皆は思っている。だからぼくを見る眼がときどき妖しく光るのだ。
「おうおうねけこけておじゃらすか」
「とうとうやすめりはらまして」
しばらく前に学校であった出来事を房雄は思い出す。あの馬鹿な岡田がそっと近寄ってきて耳元でささやいたのだ。「おまえのとうさん牢屋《ろうや》大工、おまえのじいさん牢屋番」房雄は父や祖父のした仕事のことは聞かされて知っていた。それはお国のための大事な仕事だった。だから岡田が何を言おうと平気だった。しかしあれ以後少しずつ房雄の心に忍び込んできた情景があった。それは父親が作り祖父が見張りをしたその建物の中に入れられている人々のことだった。その人々は煉瓦《れんが》や石で作られた狭い部屋の中に大勢で閉じ込められ汗と汚物にまみれて泣き叫び苦しみ怒っていた。
房雄が生れてすぐにあった大きな戦争にこの国は勝ち初めて世界の一等国として認められたのだと人々は言っていた。しかしそうは考えない人々もいた。この戦争の勝利をとてつもなく忌《いま》わしく不吉な未来の予兆としてとらえるアンテナを持った人々もいた。いつのまにか房雄もそのアンテナを持つ一人となっていたのだ。
「いくさだてにてがらなしてな」
「いくさなければべんがくでな」
「めいじのみよのすめらぎのもり」
「いくさのはてのへこきもぐら」
母親と祖父の声を遠くに聞きながら房雄はようやく自分が何を負わされているのかが分かった。この人たちはぼくに「明治時代」をくれようとしているのだ。血ぬられ裏切られ謀《はか》られ圧迫され圧殺され声を封じられ捕えられ投獄され処刑されたあの無数の人々をつけてこの四十五年間の「明治時代」を受け取れと言っているのだ。最高最良の贈物を差し出す自信に満ちた態度で彼らはそれを房雄の手に乗せようとしていた。しかし、微笑するその顔の両眼が妖しの光に満ち満ちているのを房雄は見た。
「いやだ」房雄は叫んだ。
「ぼくにはできない」布団を蹴《け》り飛ばした。
「いうことをきけないぼくは悪い子だ。牢屋に入れて下さい」
熱にうなされた頭で房雄は自らの未来を予言し同時に俗世界での自らの未来を閉ざした。こうして房雄はこの家にまつわりついていた「明治時代」の呪縛《じゆばく》を断ち切ろうとしたのだ。
「さあそれでは中に入りましょう」
鹿児島では揚村さんに連れられて一同がぞろぞろと刑務所の中に入るところだった。正面の大きな鉄柵《てつさく》の扉《とびら》ではなくその横の通用門からだった。もと看守長の増満《ますみつ》さんが出迎えてくれた。長い間勤められてこの場所に大変愛着を持っている方だった。
まず門の中に入った。両側の塔の上に作られている西洋の古城と同じ体裁の矢よけのバトルメントは飾りなのだが、本体の中には中二階に長方形の部屋空間があるのだ。ちょっとした西洋の一部屋下宿くらいの広さはある。バラ窓からのぞくと甲突《こうつき》川にかかる鶴尾橋が見えた。
「どうですか。山下さん。この門を買ってここに住んで下さい。そうすれば誰も壊せません」揚村さんが妙なことを言い出した。
「買えるわけですか」
「ええ。市のものですが手続き上問題はありません。特に設計者の子孫なのですから話が進みやすいのではないですか」
「いくらですか」
「まあそうですね。一億円もあれば」
一億円はないから無理だが、なるほどここに誰かが住みつくということも不可能ではないのだ。いずれ時がたって誰もこの門のことを知らなくなっても通りがかりの人をつかまえては何か言っている老人が出現することになる。
「これは昔の監獄の門での。わしのおじいさんが建てたものなのじゃ。これには長い長い話があっての。ほれあそこの西田町の。あそこに昔やましたという家があったのじゃ。そもそもやました家はその昔谷山郷に発し…………」
いやがる子供をつかまえてきいきい声でかきくどくずたぼろ姿の怪老人だ。
門の中から外に出ると中庭のような空間がありその先に庁舎があった。庁舎の二階に執務室があった。二階に上る階段についている木製の手すりの形が雰囲気《ふんいき》があってよいのだと揚村さんは教えてくれた。執務室内はしばらく前に起きたという不審火を消したあとで室内には物が散乱していた。不審火は移転後の空家に誰かが入り込んで焚火《たきび》をした結果らしい。
庁舎の一階からはさらに奥に向かう廊下が監視所のあるポイントへと続いていた。
そしてそこから先がまぎれもない監獄空間だった。何度も話に聞き本で読んだペンシルバニア方式ともフィラデルフィア方式ともハビランド方式とも言われる放射状の構造物の中心点にようやく立つことができた。
左右百八十度と四十五度に一本ずつと正面奥に向かって一本の計五本の廊下がのびている。なるほどそこに立つとすべての方向が一度に見渡せた。廊下の左右に並んでいるどの扉が一センチ動いても監視者の注意を引かざるを得ないことが実感された。五本の長い廊下は視覚だけでなく聴覚にも影響を与えるようだった。外のまばゆい光をさえぎってあくまでも薄暗い視界と思いがけない空気の冷たさとがあいまって、針が一本落ちてもシンバルのように鳴り響きそうな緊張感があった。とぎすまされた監視空間だった。
正面の廊下を歩いた。滑らかな石の床だった。左右の石の壁には頑丈《がんじよう》そうな木の扉が一定の間隔ではめこまれていた。
一同は一つの部屋の前で止まった。
「折角だから入ってみて下さい」
増満さんがどことなく嬉しそうに言って大きな鍵《かぎ》で扉を開けた。思ったより明るい室内だった。中に入るとはっきりと分厚いと感じられる壁が四方から迫っていた。ひとすみにある便所らしい狭い区切りの他は何もなかった。床は木だった。
「ここのところが手がこんでいるのですよ」と揚村さんが言った。
床と壁が接する所に木がはめ込まれている。その仕上げ方のことらしいが、なるほどそうかと思うだけでそれ以上の感慨がもたらされないのは専門家でない悲しさだ。
中から見る扉はひときわ頑丈で何かを出し入れする小さな窓以外に外と通じているところが何もなかった。そのことの方が大変なことだった。その小さな窓を見ているうちに息がつまってきた。一刻も早くここから出たくなった。いくら建築学上貴重な建物でそれが自分のじいさんの作った物であっても牢屋は牢屋だ。ゴシック風の石の門を見て面白がるのとは全然ちがう不気味な実用性がここにはあった。
「あんたはなんちゅうものをこしらえはったんや」
思わず関西弁となってつぶやかざるを得なかった。
「牢屋は入るものではない、作るものだ」などという言葉も思い浮かんだ。
「いや牢屋は作るものではない。誰かに作らせるものだ」
「監獄は遠くにありて想《おも》うもの、近くば寄って目にも見よ」
とうとうわけの分からない状態となってようやく部屋から逃れ出た。
一同は中央棟の廊下を歩き突き当りの扉を開けて次の区画に入った。講堂、作業場、風呂場《ふろば》、医療室を見て外へ出た。
真夏の鹿児島の光と熱気が一度にふりそそいできた。降り積もっていた桜島の火山灰が風に舞って全身にからみついた。
その灰の素早い除去を考慮したという断面がV字型の側溝《そつこう》を見た。独立して建っている石の霊安室もあった。それは見捨てられた田舎のバス停留所のようだった。給水塔は円錐《えんすい》形の頂上を持つ西洋じみた姿だった。そして見渡すとそれらすべてをつつむように高い長い塀《へい》が続いていた。
塀は人間という動物の生身の運動能力の限界を計算し尽くしたような傲慢《ごうまん》な高さを保ってうねうねと続いていた。真夏の光の中でそれは茶色にも紫色にも黒色にも見えた。灰の積もった真っ白い地面を踏んで塀の近くに行ってみた。塀の内側には九十度の角度を持つ場所はない。直角になっているべき個所は丸みを帯びた彎曲《わんきよく》面となっていた。直角だとそこに両手両足を張り付けてするすると登ってしまう者がいるからだ。
「うさぎをやるからね」と増満さんが言った。うさぎとは脱獄のことだそうだ。
塀に手を触れてみた。軟らかく心地よい感触があった。振り返ると白い灰の積もった地面の向こうに房舎が見えた。細長い倉庫のようであり校舎のようでもあったがそのどちらでもなかった。見れば見るほど何にも似ていないのだ。それはやはり人が人をつかまえておくためにだけ考案された形だった。放射状に突き出した棟と棟のあいだには四十五度に区切られた扇形の空間が出現していた。見なれない景色だった。この塀の中にあるものはそれぞれはどれもなじみのあるものなのに、それらが機能別に配置されると急に別世界の景色が出現することになる。啓次郎の言う「一個の不思議なる建築」とはこのことだったのかもしれない。
揚村さんたちによって貴重な美術品のようにあつかわれた建物だが、実際に中に入るとそのような悠長《ゆうちよう》なことが考えられなくなる。やはりここは牢屋の敷地だった。拘留空間であり閉じ込め空間であり懲罰空間であり自由|剥奪《はくだつ》空間だった。あるいは拷問《ごうもん》空間であり虐待《ぎやくたい》空間でありリンチ空間かもしれなかった。そしてそれらすべてをカバーして見る者に美術空間の錯覚を起させる役目をしているものがあの門だったのだ。
うねうねと横たわる高い塀とそれに囲まれた白い灰の大地はどこまでも続いているかのようだった。どこまで歩いてもここからは出られないのではないかと思った。祖父啓次郎が実現した理想の中に閉じ込められた我々はまばゆい夏の光の中でしばらく立ちつくしていた。
やがて再び門を通って外に出た。建築学科の生徒たちが運転してくれる車に分乗して市役所の近くの喫茶店に行った。
そこに山根銀五郎とおっしゃる老紳士がおいでになった。これから行く市役所と県庁に同行して下さるという。山根氏は鹿児島大学の名誉教授で植物学が専門だった。以前、城山の環境破壊が問題になった時にまっさきに植物系保存の立場から異を唱《とな》えた。例の五大石橋の保存会の会長でもある。
「市とか県に何か文句を言いに行くときには私が出るということになっておるのです」
山根氏はにこにこ笑ってそうおっしゃられた。長老役なのだ。山根氏と揚村さんに引率されて一同はぞろぞろと市役所に向かって歩いた。
風が強く火山灰が舞い上がり周りの景色が一瞬映画の西部劇の町のようになる。その中を山根氏と父親は同じような白いパナマ帽を片手で押さえながら並んで歩いた。
市役所ではしばらく待たされた。揚村さんと山根氏があちこち歩き回りやがて部屋に通された。助役の人が会いに出てきた。あらかじめ話は伝わっていたらしいが揚村さんはあらためて我々を紹介した。
こうして子孫がそろってやってきたのだからどうかその意を汲《く》んで刑務所の移転に伴う取り壊し計画を是非見直してもらいたい、ということが伝えられた。助役の人は熱心そうに聞いていたがすでに予算が通っていることについて市が方針を変更するわけにはいかないという背景がある。つまりこれは、
「黙っているわけにはいかないから一応文句を言ったぞ」
「確かにうけたまわった」
という大変高度な大人的やりとりなのだった。学者と長老が子孫を連れて文句を言いにきたわけで相手は困りながらもうけたまわらざるを得ない。
再び歩いて今度は県庁へ向かった。同じようなことが県庁でも行なわれた。こちらは秘書の人がでてきた。
ところで鹿児島の県庁といえばこちらの頭の中ではすぐに明治時代がよみがえる。維新後も鹿児島だけはなかなか変わらなかった。特に明治十年の西南戦争直前の鹿児島県庁は制度上は中央政府の直属機関であるはずなのにまったく政府の言うことを聞かなかった。県知事をはじめ県の職員のほとんどすべてが中央政府にではなく鹿児島独立国に帰属していた。その中心に政府を見限って帰って来ていた西郷隆盛があり同時に島津家もいぜんとして殿様的存在だった。この独立国がやがて中央政府と戦争をはじめたときに鹿児島県庁はそれを全面的に支援する。考えてみると異常なことで、このような反抗的な県や県知事や県庁はその後二度と出現しない。
その戦争が始まるときに西田町には山下という家がありこの家の次男の啓次郎は九歳だった。父親が中央政府にあくまでも忠実でなければならない警察官であるこの子供の境遇はどのようなものだったのだろうか。やがてその子は鹿児島を逃れて東京に行く。三十年後に帰ってきて新しい奇妙な建築物を建てる。さらに八十年後にその建築物に引き寄せられて我々が鹿児島県庁にきているのだ。
政府にたてつくということでは実はこの監獄取り壊し問題の中にもそういう図式が存在していないことはなかった。もともと鹿児島監獄は政府のものだったのだが、それを鹿児島市に引き渡したのだ。だから市はそれをどうしようと勝手なのだが、政府側つまり法務省はなるべくこの司法史上貴重な歴史的建物を壊して欲しくない意向があったという。
「国が何を言おうと市の方針で壊すものは壊します」
「そこをなんとか」
「黙らっしゃい」
「国の意向ですぞ」
「うるさい。だからよけいに聞きたくないのだ。ここをどこだと思っていますか。鹿児島県庁ですよ。昔から中央にはたてつくことになっているのです。特にあのものは裏切り者一派が我々西郷派の目の前にこれ見よがしに建てた権力の象徴のようなものです。一刻も早くなくしたいのです」
「それはないでしょう」
「何がないですか。大ありです。それよりこんなところに強引にやってくるとあんたらのことを東京政府の密偵《みつてい》と思っている私学校派の若者が何をやるか分かりませんよ。早々にお引取り下さい」
またまた時代の混乱した白日夢の中でありもしない会話が聞こえてきた。応接室の仕切りが開いた。その向こうに白|鉢巻《はちま》きに抜き身の刀を下げた若者が数人見えた。彼らはこちらを見ると一斉《いつせい》に刀を右肩の上に構える示現流の構えをしながら「ちぇすとお」と叫んだ。「ひええ」と言っておれは応接室を逃げ出した。若者の一人がすごい早さで追いすがってきた。おれの肩に手をかけてぐいと引いた。振り向かされた目の前に色紙が突き出された。
「サインをして下さい」
白鉢巻きも刀も持っていない県庁の青年職員が笑っていた。おれはあぶら汗を流しながら色紙にサインをした。やがて会見は終わった。
一同は外に出た。そこで解散ということになった。もう夕方に近い。食事の時間だった。おれと揚村さんはまだ少し話があった。
「昨日言われた刑務所門前脱獄コンサートですがねえ」と揚村さんが言った。
「ええ。勢いにまかせてとんでもないことを言いました」
「是非やりましょう」と揚村さんが言った。小柄《こがら》な全身から決意が立ちのぼっていた。
「それは、自分で言ったことですからやりますが」とおれは言った。それから二人で同時に言った。
「どういう風にやればよいのですか」
「どういう風にしましょうか」
「相談をしましょう。今晩はどうされますか」
「食事をして『コロニカ』に行くつもりです。ご一緒にどうですか」
おれ達は皆と別れ、まず「焼酎《しようちゆう》天国」という店に座り込んで話がはじまった。
「当然ですがピアノが要ります。できればというよりなるべくというよりどうしてもグランドピアノが欲しいですね」
「分かりました」
「それを門の前まで持ってくるわけです。その運送手段と野外の演奏ですから拡声装置も考慮して下さい」
「色々あたってみます。問題の一つはあの場所でそういうことができるかどうかです。つまり当局が許可をするかどうかですね」
なるほど無許可でやれば当然オマワリがきてやめろと言うわけだ。それでもやめなければ次のようになる。
「あーそこの刑務所の門前で楽器演奏行為を行なっているバンドマンに告ぐ。ただちに演奏行為を中止しなさい。その場所でそういうことをしてはいけません。足をバタバタさせ、ウーなどとうなりながらこぶしで鍵盤《けんばん》を叩《たた》いてはいけません。ただちに中止しなさい。指を動かすのをやめなさい。中音域の鍵盤をカラコレキリなどと弾いてはいけません。特に左手で低音をダバトダバトなどと叩きながら高音でピレピレピレなどというフレーズを弾くと監獄和声法違反になります。ただちにやめなさい。すぐやめなさい。今やめなさい。あと三拍でやめなさい。なに? 黙れオマワリ? なにを言うか。ただちにやめなさい。イヌ? イヌとはなんだイヌとは。イヌはあっちへ行け? うぬ。もう我慢できぬ。警官侮辱公務執行妨害犬差別罪で今すぐ逮捕する。抵抗すると拳銃《けんじゆう》で撃つ。そこを動くな。手を上げろ。手を上げろというのに聞こえぬか。そうではない。弾くのではなく手を上に上げるのだ。両手を上に上げてからまた鍵盤の上に叩き降ろすのをやめなさい。そういう行為をすぐにやめなさい。なに? 逮捕はできない? なぜかというとおれの先祖はお前らポリスの先祖でもあるからだ? なにをわけの分からぬことを言っているか。死刑にするぞ」
などということになるわけで、面白いが大変だ。
「どうしたらよいのですか」
「当局に許可を申請するわけですが」
揚村さんは少し考え込んだ。
「なかなか難しいと思います。特に私は今まで散々やりあっていますからね。またお前かということで向こうの反応がはかばかしくないということが十分考えられます」
「なにかよい手はありませんか」
揚村さんは焼酎を一口飲んだ。
「こうすればいかがでしょう。山下さんご本人が鹿児島市長に手紙を書くのです。それを受けて我々が地元で動き出すという段取りです」
「市長に手紙ですか」
「そうです。旧刑務所跡でコンサートをやりたいという希望を伝えて下さい。そして、そのことはマスコミにもいち早く知らせるようにします。鹿児島テレビの有村さんや南日本新聞の馬場さんはそもそもの発端から立ち会っていた関係もあってずっと興味を示してくれていますし、昨日のシンポジウムには他からの反応もずいぶんありました」
「そうですか」
「私が言うより山下さんご自身からのほうがはるかに話題になります」
「話題になって盛り上がりコンサートができたとして、取り壊しについての市の方針が変わりますか」
「残念ながらそれは大変可能性が低いと思います。しかし、このまま引き下がるわけにはいかないでしょう」
揚村さんの眼鏡の奥の眼《め》がきらりと光った。
「そのとおりです。分かりました。市長への手紙は必ず書きます。そのコピーをお送りします」
こうして薩摩と江戸を結ぶ刑務所門前コンサートの陰謀が密《ひそ》かにスタートしたのだった。
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第二十一章
飲み屋を出てぶらぶらと天文館通りへ向かって歩いた。その一画にジャズ喫茶「コロニカ」がある。最初にきて演奏したのがもう二十年近く前になるという古い店だ。以来、鹿児島に来る機会は多くはなかったが来るたびに寄る。寄れば大抵朝まで焼酎《しようちゆう》を飲んで騒ぐ。おなかが減るとすぐ近くの「呑竜《どんりゆう》」というラーメン屋に行って冷し中華を食べる。これは一年中食べられる。なぜかというとしばらく前におれが「全日本冷し中華愛好会」というものの会長をしていたときにそれを面白がったマスターの中山信一郎さんがラーメン屋の主人をそそのかして冬でも作るようにしてしまったのだ。
中山さんはジャズ評論や映画評論もやり著作もある。いつもハンチングをかぶっているお洒落《しやれ》な趣味人だ。他に店には駄《だ》洒落《じやれ》でしか会話のできない兵頭氏とか、いつも胃に穴をあけているソフトリーとか、前にも出てきた過激なトロツキーなどといううるさい常連たちがたむろしていて、時々東京からジャズマンを呼んで演奏をやらせる。それをサカナにますます飲んでは騒ぐという場所なのだ。
この話の発端となった正月のジャズフェスティバルのあとには大雪にもめげずに出演者全員が店に押し寄せて大ジャムセッションとなった。そのときには知る人ぞ知るかの大先輩テナーサックスの尾田悟さんも楽器を持って現れた。
揚村さんと行ったその晩はまだ時間が早く常連たちはそろっていなかった。中山さんはいつもの飄々《ひようひよう》とした態度で黙って焼酎の瓶《びん》を出してきた。奥にステージがありその前のテーブルには学生らしい若者が四、五人たむろしている。やがてこちらに挨拶《あいさつ》にやってきた。鹿児島大学のジャズ研の連中だった。
「山下さんが多分ここに来るだろうと待ち構えていたわけです」と揚村さんが言った。
痩《や》せている坂口君がベースで肥《ふと》っている森田君がドラムだった。他にはホーンの連中が何人かいた。ベースの坂口君がリーダーだということだ。飲みながら話した。森田君をはじめ建築科の学生もいて話はジャズ用語と建築用語が入り乱れるものになった。
「じゃあGセブンのバットレスをエリントンがシンメトリーにしたらサテンドールの飾り破風《はふ》はどうなるんだ」
「それはDフラットセブンのガーゴイルをバラ窓にピボットすればいいんじゃないですか」
「でもそれだとマイルストーンのコーピングトーンがPデジタルの櫛形《くしがた》アーチになるからまずいんじゃないの」
「べつにかまわないでしょ。最近ではマチ子が連れションしたらマチコレーションだって言い出す奴《やつ》がいるくらいですからね」
わけの分からないことを言っているうちに鹿大のジャズ研はフルバンドが主体らしいことが分かってきた。
「今度一緒にやってくださいよ」と森田君が言った。
「おれはフルバンは得意じゃないんだよ」
「パンジャ・スイング・オーケストラというのがあるじゃないですか」と坂口君が言った。
「ああ、あれね。あれはでも譜面というよりは極端な個人技を必要とするからねえ」
「秋|頃《ごろ》に発表会をやりたいんですよ」
「是非きてやって下さいよ」
「まあちょっと待てよ」
ところでバンドの名前は何というのだと聞くとすごい答えが返ってきた。
「チェリー・アイランド・ジャズ・オーケストラ」
「わははははは」思わず笑ってしまった。
なるほど桜島というわけだ。しかし、これはきわどい。ちょっとちがってチェリー・アイランダースだったら途端にハワイアンバンドになってしまう。それならたとえば「サツマ・ボルケイノズ」はどうか。これはどうもバンドというよりはプロレスのタッグチームのようだ。「噴煙バンド」「降灰スランプ」「キビナゴ・クリエイターズ」「クロブタ・シスターズ」などとめどなく連想が続いた。あるいは「暴発キッズ」に「反乱パンク」か。どうやら頭の片すみには依然として百年以上前の鹿児島がこびりついているようだ。
ステージでは中山さんが黙ってピアノのふたを開けてマイクなどをセットしていた。バーにはそろそろ常連たちもたむろしはじめたようだ。
誰も何も言わないが段々とピアノを弾かなければならない場面へとおびき寄せられていることが分かる。無論弾かなくてもいいのだがなぜか弾くということになるのだ。しかし、こういう状況でピアノを弾くということは、つまりそれが無償行為であるわけだから、当然マネージメント事務所のもっとも嫌《きら》うところだった。とはいえミュージシャンというものはどこかにそれをやる本能を持っていて、実にしばしばこういうことは起きる。どういう風になっているかを分類すると次のようなことになるだろう。
その一はジャズマン本人がやりたくてしかたがない場合だ。先程のようにジャズフェスなどで盛り上がったあとなどは起きやすい。特にこういうときは普通ならステージではなかなか一緒にやる機会がない別派閥、別音閥、別年閥同士が心置きなく手合わせができるという意味が大きい。実は正月のときにはおれは前から噂《うわさ》だけを知っていた尾田悟さんと是非やりたくてホテルのロビーで直訴したのだ。
「ドラムの石井剛さんからよく話をうかがっていました。ここにはよいジャズクラブがあります。是非楽器を持ってやりにいきましょう」
「ああそうか。じゃあいこうか」
こうして伝説の達人尾田悟の音を直接浴びることができたわけだ。
こういうときは最初からやりにいく目的だから躊躇《ちゆうちよ》はない。どんどん店に入って行ってステージに行き誰がやっていようとえり首つかんで引きずり降ろしてやってしまう。最近ではドラムの村上ポンタ秀一と一緒のときだと大抵これになる。店に入った途端にポンタはそこのドラマーを放《ほう》り出してドラムセットに座ってしまう。そのまま朝の八時半まで叩《たた》き続ける。おれもなるべく最後まで付き合う。
まあとにかくこの場合は本人がやりたいのだから仕方がない。店側では喜ぶなり、怒るなり、ただ酒を飲ませるなり、倍づけの金を取るなり、余計なことはするなといって叩き出すなり勝手にすればよい。
分類その二は今ここで起きているような場合で、徒党を組んで乱入するのではなくむしろ普通の客として一人で来ている場合だ。特にやりたくて来たわけではなく、他に知っているところもないからいるわけだが、これが大抵そそのかされてやるはめになる。そそのかされかたは様々で、マスターの密命を受けた可愛《かわい》いネエチャンが小首をかしげて手をパチパチパチなどと叩くのにだまされたり、髭面《ひげづら》のうるさい常連からふっかけられた議論から逃げるついでにピアノを弾いたりと色々なパターンがある。これはそそのかされてはいるのだが決して後味は悪くない。つまり双方納得ずくという場合だ。
それに反して、第三には明白な強制というのがある。プレイヤーの自発的演奏をなんとか強制しようという矛盾した行為が行なわれる。たとえば楽器をセットしてあるところでやる有料二次会などがそうだ。バンドマンはただの打ち上げだと思ってイエイイエイなどと言いながら酒を飲みに出かけて行くのだが、実は皆さんはちゃあんと聞くつもりで待っていたりする。これも分からないうちに気持ちよくやってしまった場合なら後で有料二次会だったと分かってもまあしょうがねえかということになるのだが、みえみえだったりそそのかす奴に人格的問題があったりするとこじれる。大変不快となり、いきなり腹が立って「さっきまで手めえら何を聴いていやがったんだ」とわめいて天井に飛び蹴《げ》りをすることになる。
しかし、よく考えてみると実はこの打ち上げということについてはこちらにも反省しなければならないことが多々あった。その昔はとにかくどこに行っても誰も何も頼まないのにどんどん勝手に打ち上げをやっていたのだ。タモリがいてハナモゲラ語で歌いまくるわ、坂田明がシュール童謡の語り弾きをするわ、小山彰太がヘラハリ和歌をよむわで、これにはまずおれが真っ先に受けているわけだから、率先してそそのかしていたということなのだった。しかしこういうことのムクイはあるものだ。やがてあるところからとんでもないことを言ってきた。
「コンサートはしなくていいから、打ち上げだけやりに来てくれませんか」
これにはさすがにおれたちも怒った。しかし怒りついでにそれも面白いというので裏芸ばかりをやる「打ち上げ大会」というものを自分達で率先して日比谷野外音楽堂で素早く挙行してしまった。このへんのリアクションは自分でもどうなっているのかよく分からないが、何とこれを見に五千人の客が来たというのだからあの頃はわけが分からない時代だった。まあそれについての詳細は拙書「ピアニストを二度笑え!」(新潮社)を見ていただくとしてこのように強制するのしないのという話の中にも様々な流動性はあるのだった。
そういえばかのセシル・テイラー師匠でさえもマネージャーの心配をよそにそういう行為をやった。六本木の「ボディ・アンド・ソウル」で客が誰もいなくなったあとでだ。
その晩「ボディ・アンド・ソウル」には鈴木良雄のバンドが出ていておれは客席から呼ばれて飛入りをしてしまった。セシル師匠はご機嫌で手を叩いていた。やがて皆帰りキョウコママやほかの身内だけでバーで飲んでいるときにセシル師匠がおれに聞いたのだ。
「あのピアノはどうだった」
「少し軽かったけどよいピアノですよ」
「そうか」
「どうですか。弾いてみたら」
思い切って言ってしまった。
「……………」セシル師匠は独特の謎《なぞ》としかいいようのない微笑に似た表情をした。
「明日帰るのだし、東京最後の夜の記念にどうですか」勢いがついてまくしたてた。
「そうよ。セシル。やんなさい」東京のマネージャー役の木幡和子さんはアメリカマネージャーからセシル師匠の行動について禁止十個条というものを受け取っていたのだがこういうときにはまず味方になる人だ。するとセシル師匠はまたもや謎の表情を浮かべそれからキョウコママに向かって「アイ・プレイ・フォー・ユー」と言った。そのままピアノの方へと歩いた。われわれはぞろぞろついていって周りの椅子《いす》に座った。
セシル師匠はいつものゆっくりとしたフレーズからはじめた。静けさのなかに疾走の予感を秘めた時間が進んでいく。われわれは固唾《かたず》を飲んで見守っていた。やがて疾走の始まる寸前まできた。その時間に突入すれば一時間は釘付《くぎづ》けになる。われわれは覚悟を決めた。するとその時セシル師匠は一瞬夢から醒《さ》めたような表情となり爆発寸前の地点からだんだんと音を鎮《しず》めていった。やがて音がぴたりと止まった。まるでそこから先の長く熱い疾走の時間が聴く者の頭の中に永久に鳴り響くような終わり方だった。あるいは最強の剣の達人が殺気と共に抜きかけた刃を再び静かに鞘《さや》に収めたようでもあった。われわれは長い拍手をした。セシル師匠は笑った。そのままさらに一同は近くの「ホワイト」にまでなだれ込んでミイコママのおごりのシャンペンで乾盃《かんぱい》するという一夜だったのだ。
タモリたちといい尾田さんといいセシル師匠といいどうもおれの役目はそそのかし屋でもあったという発見を今したところだが、まあともあれこういうわけでそういうマネージメント事務所が否《いな》とするバンドマンの行為は様々な要因によって喚起されるわけだった。
そしてここ鹿児島でも今や皆は用意し待ち期待し酒を飲みこちらを眺《なが》め笑いかけていた。全体がどこかせっぱつまった狂騒状態をかもしだしていた。ここでやらねば男でないぞという声さえ聞こえて来るようだった。鹿児島の血が互いに呼びあって騒いでいるのだろうか。できることなら平穏無事に酒を飲んでいたいのだが周囲の状況がそれを許さない。
もっとも考えてみればその類《たぐい》の人間がそういうところに顔を出せば騒ぎになるに決っているとも言えた。だからそれをちゃんと読み切っていやなら最初から来なければいいのだ。来るからにはやはりお前やりたいのだろうと言われても仕方がない。確かにこういうところで自分が一人で酒を飲んでいたらどうなるだろうと考えるのは人前|稼業《かぎよう》の人間には共通の心理だ。そして結局は引っ張り出されることになっても、その迷惑さとやはり皆は待っていたのだという喜びとを秤《はかり》にかけたらどういうことになるのだろう。
西郷隆盛の唯一《ゆいいつ》の欠点は人望好きであるということを同時代の誰かが言っていた。人望好きとは人気好きのことだ。そしてそういう人間は引っ張り出されればどこかにエンターテイナーとしての喜びがあったのではないか。彼もまた来なければ何も起きないのにやはりジャズクラブにのそのそ現れてしまうバンドマンではないのか。のっぴきならない戦争を始めてしまった西郷隆盛の場合とバンドマンの遊びを一緒にしてはいけないが行動が起こされなければならなかったそのメカニズムはどこか共通するような気がするのだ。
いつのまにか心は百十年前をさまよっていた。
立とうか。立つまいか。
「西郷さん」
耳元で大きな声が聞こえた。見上げると駄洒落の兵頭氏がにやにや笑って立っていた。
「皆そろっております。出番ですぞ」
「仕方がない。皆様にこの体をさしあげよう」
焼酎《しようちゆう》のお湯割りが入ったコップをおいて立ち上がった。
ピアノの方に歩いて行った。ステージに上がると皆が拍手をした。ピアノの前に座り音を調べているうちにそのまま「ラウンド・ミッドナイト」を弾いていた。弾き終わってからベースの坂口君とドラムの森田君を呼んだ。ついでに大声を出してビールをリクエストした。ドラマーとベーシストとビールがステージにきた。ビールを飲みどんどん「枯葉」をはじめた。二人はすぐについてきた。よいコンビだと分かったのでさらに「朝日のごとくさわやかに」「ノー・グレイター・ラブ」「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ」などとたて続けにやった。
走り出したものが止まらなくなる暴走感覚が生じていた。さらにメディアムのブルースをやっていると、ポニーテールにジーパンの女の子がトロンボーンを持ってステージに上がってきた。大柄《おおがら》なわりには童顔のその女子学生は皆の大声援を受けて楽器を構えた。思いもかけない豪放なトロンボーンの音が響き渡った。天衣無縫ともいえるフレーズが続いた。しばしば乱暴とも思える場面に突入したが各フレーズはちゃんとしたポイントを押さえていてセンスのよさが保証されていた。「ひやー。何だこいつは」などとわめきながら嬉《うれ》しがって伴奏をした。その子はますます乗りまくり激しいボディアクションと共にますます乱暴な音を吹きまくった。やがてぴったりの場所でフィニッシュを決めた。大拍手が起きた。
これが呼び水となったかアルトサックスやテナーサックスやトランペットを抱えた学生たちがぞろぞろとステージに上がって来た。そのうちの二人は女の子だった。ギターも持ち込まれてとうとうフルメンバーの大セッションが始まってしまった。
ピアノの上にはビールのかわりに焼酎が何杯も運ばれてきた。全員が出す大音響の中でおれの体は宙に浮いていた。目茶目茶の大音響であるにもかかわらず全《すべ》ての音があるべきところにぴったりとおさまっているようだった。やがてその大音響の中からさらにそれを上回る絶叫が聞こえてきた。強力なボーカルが参加したらしい。そちらを見るとなんとその声を出しているのは揚村《あげむら》さんだった。揚村さんは思いがけないしゃがれたブルース声でスキャッツを歌いまくっていた。
「ういしゃばだば。ういしゃばだば」
全楽器がそれに応《こた》えてわめいた。
「だばしゃばだば。だばしゃばだば」
全員が一体となった大音響がはてしなく続いた。
揚村さんの髪の毛が逆立っていた。学生たちの目は寄り目になっていた。大音響は店の屋根を突き破り中天に舞い上り夜の桜島の上空にまで吹き飛んで行った。
やがてセッションが終わった。皆汗まみれでよれよれとなっていた。そのまま席に戻りまたがやがやと飲んだ。となりに座ったさっきのトロンボーンの女の子はさっちゃんという名の教育科の学生だということが分かった。あまりに楽しかったので、毎日一時間のロングトーンを一年続けたらプロになれる、などと余計なことを言ってしまった。するとそばにきていた過激なトロツキーがすかさずさっちゃんに説教をはじめた。
「ほらだからおれが言っただろう。お前は才能はあるのだ。抜群なんだよ。誰が聴いたってそう言うじゃないか。それなのにどうして真面目《まじめ》にテクニックを勉強しようとしないんだ。なんでやらないんだお前は」
さっちゃんは別に困った様子もなく童顔のままでにこにこしている。
胃に穴の開いたソフトリーもやってきた。店にくるジャズマンすべてに「朝日のごとくさわやかに」をリクエストする癖があるのでこのあだなになった。ソフトリーは今はあまりこういうところには来ないで、基本生活は吉野村で畑を耕している状態なのだと言った。昼は畑を耕し夜はレコードを聞くという。それも今はレスター・ヤングだけで、吹き込まれた順にすべての演奏を聞き直しているのだそうだ。
「レスターが非常に重要な気がするんだよ」
どうやらジャズの神髄を極めつつあるらしい。それにしても吉野村で百姓をしながら日夜ジャズに精進しているというのはどういうことなのだ。まるで桐野利秋だ。百年以上前の鹿児島人と同じ精神なのではないか。
揚村さんがやってきたので思わず立ち上がって握手をした。
「いやあびっくりした。どういうわけなんですか」
「いやおはずかしい」揚村さんの声は普段からブルース声だったことに気がついた。
「だからどういうわけなんです」
「実は私は昔フォークシンガーだったことがあるのです」
「え」絶句しているおれに揚村さんはキーワードを伝えてくれた。
「例の七〇年の頃《ころ》です」
なるほど。あのころはロックもフォークもジャズも一緒くたになって世界中の学生と共に騒いでいたのだった。建築家といえども巻き込まれないわけにはいかなかったのだろう。それにしても思いもかけぬことだった。
学生たちがやってきた。やあやあと乾盃をした。こういうセッションを一度するとなんとなく身内の感覚になる。特にここが先祖の地ということもあっておれはすっかりリラックスしてしまった。頭の中にはいずれやることになる監獄門前コンサートの情景と今のセッションが入り乱れて映し出された。
「さっき言っていたチェリーの発表会だけどね」
「はい、やってくれますか」
「やりたいね」
学生たちが歓声をあげた。
「ただし、ただしね。こっちにも頼みがあるんだ」
「なんですか」
「実はおれのじいさんはここの刑務所を作った人間でね」
「ああ。その話なら聞きましたよ」
「刑務所取り壊し反対のコンサートを門前でやろうと計画しているんだよ。それを一緒にやってくれるか」
坂口君と森田君が顔を見合わせた。二人同時にうなずいた。
こうして一人のはずだった決起行動に桜島一派の援軍がつくことになったのだ。
やがて皆より先に表へ出た。揚村さんと中山さんとで恒例の深夜の冷し中華を食いに「呑竜」まで歩いた。
「揚村さん」聞きたいことがあった。
「はい」
「学生たちを呼んでおいたのですね」
「はい」
「こうなることが分かっていたわけですか」
「ええまあ」
「これが薩摩のやりかたですか」
「結果的にそうなりましたね」
冷し中華はうまかった。翌日おれは東京に帰った。
「鹿児島市長様
妙なお願いをお聞きください。
私は、貴市西田町出身の明治時代の建築家、山下啓次郎の孫にあたる者です。先日、はじめて祖父の五大作品の一つである旧鹿児島監獄の建物を見ることができました。父と息子も一緒でしたから、つまり、啓次郎の子供、孫、ひ孫、が、揃《そろ》って先祖の残した物の前に立ったわけです。『刑務所』という言葉にはどこか子孫としても『うしろめたい』かのような響きがあったのですが、実物を見、また、鹿大の揚村先生、東大の藤森先生の熱心なご説明もあって、この建物が、近代日本の歴史に深くかかわる誇るべき貴重な遺産であることが分かりました。にもかかわらず市の方針ではこれをとり壊すとのこと、残念でなりません。
子孫の気持ちというものはこれはもう仕方ありません。どうか祖父の残した決して凡庸ではない遺産を残しておいてくださいと申し上げるほかありません。しかしながらお願いと申しましたのはこのことではありません。
私はジャズピアノ演奏家ですが、使われなくなったこの建物を眺めるうちに、妙な考えが浮かびました。とり壊される前にこの場所でピアノの演奏ができないかというものです。妙なと申しあげましたが、こういう場所でコンサートが開かれることはヨーロッパではよくあります。メルス市、バーデンバーデン市など西独では昔の城跡で世界的ジャズフェスティバルを開き、その市の文化的姿勢を内外にアッピールいたします。日本でも私はかつて、小豆島の農村|歌舞伎《かぶき》舞台や、伊賀上野の芭蕉庵《ばしようあん》の前、などという『特殊』な場所で演奏を行なったことがありいずれも大成功でした。特殊な場所に置かれると思いがけない創造的インスピレーションが湧《わ》き起こることが芸術家にはあります。そういう場所の中でもこの旧刑務所内はその歴史的文化的意義からいっても出色であると思います。特にこの私にとってこのようにひかれる場所は他にありません。どうかあの場所をコンサートにお貸しください。あの場所でピアノを弾いてよいという御許可をください。はじめに申しあげた『妙なお願い』とはこのことです。
音楽には人の魂を鎮める力がある、と申します。あの場所で、先祖の偉業をしのび、今ある自分の姿を写し、さらに、あの場所で長い間暮らした人びとに何事かを捧《ささ》げたい、という私の願いをどうかお聞きとどけください。
いずれ、地元の主催者グループがお願いに伺うと思います。どうかよろしくお願い申しあげます。
貴市の益々《ますます》の御発展をお祈りしつつ。
鹿児島市長様
[#地付き]山下洋輔」
帰ってすぐに揚村さんとの約束の手紙を書いて投函《とうかん》した。揚村さんにもコピーを送った。どうなるか待つしかない。待っている間にもう一つの手紙についての話と海外における啓次郎の波紋について書くことにする。
この時期までにすでに自宅にはドイツから大きな筒状の荷物と手紙が届いていた。ベルリンのプレッツェンゼー刑務所からのものだ。
啓次郎は洋行して八カ国三十個所の刑務所を見て回った。明治三十四年(一九〇一)のことだった。そのことが分かってからは外国に行くたびにそこに住んでいる知り合いにその国の刑務所のことを調べてくれと頼むことにしてあったのだ。一九〇一年に日本から調査見学に行った者の記録はないかということが知りたかった。ドイツの古い知り合いのホルスト・ウエーバーのやってくれたことは以下のようだった。
まず電話番号案内に電話をしてベルリンのプレッツェンゼー刑務所の番号を教えろと言った。女の交換手は大変驚いてここはミュンヘンの案内だから分からない、ベルリンに聞けと答えた。実は、プレッツェンゼーという刑務所の名前はドイツ国民なら誰でも皆強い衝撃と共に記憶しているわけがあった。ヒットラーの暗殺を企てて失敗した将軍たちが全員処刑されたのがここだったのだ。その名前はドイツ人の苦い思い出とともにあるのだった。ミュンヘンの交換手がいきなりその番号を聞かれて驚く所以《ゆえん》だ。
ホルストはベルリンに電話をした。ベルリンの交換手も驚きながらも調べた。しかし、電話帳には載っていないと言った。ホルストはやや癇癪《かんしやく》を起こしてじゃあ一体どこに聞けばいいのだと詰め寄った。するとこの交換手はそんなことは知らないそれよりあんたはなんで刑務所なんかに用があるのだ家族が入っているのかなどと余計なことを詮索《せんさく》した。ホルストは怒りつつも最初から説明した。自分はミュンヘンのレコード会社のプロデューサーであるが、十五年以上前から知っている日本のジャズピアニストがいて私はこれこれのレコードを作りこれこれのジャズフェスティバルにブッキングした。たとえばベルリン・ジャズフェスティバルについてはお聞き及びであろう。長いつきあいだから怪しい者ではないことは私が保証する。さてそこで実は最近その日本人が言い出すには。
交換手は興味を持ったらしくもう一度調べてくれた。そしてその番号はベルリン市役所に聞かないと分からないことになっていることをつきとめてくれた。そこでホルストはベルリン市役所に電話をした。すると電話に出た者がまたびっくりした。なんですと。どうしてあんたはそんなことを知りたいのか。身内が中にいるのか。
そこでまたまたホルストは最初から説明した。私はミュンヘンのレコード会社のプロデューサーだが。相手は納得したが一度上の者に聞いてみないと教えてよいものかどうか分からないから明日電話をくれといった。ホルストは次の日電話をした。思わぬことの成行きにこの頃には半分面白がっていた。係は今度はすぐに、ああウエーバーさんですね、と言ってプレッツェンゼー刑務所の番号を教えてくれた。その番号に電話すると再び質問が投げかけられホルストはもはや棒読みのような口調で繰り返した。私はミュンヘンのレコード会社のプロデューサーだが。聞き終わると先方はそれなら広報課につないであげましょうと言った。刑務所に広報課があるというのも驚きだったがまた出て来た人が実に話の分かるよい人だった。もちろんそういう人だと分かる前にホルストは同じ話をもう一度繰り返さなければならなかったわけだが、このときにはもはや大変素早く要領よく話せるようになっていたというわけだ。
こうしてとうとうそのハリング氏が登場した。ハリング氏は自分が責任をもって調べてさしあげよう、その建築家のご子孫にはプレッツェンゼー刑務所の設計図をコピーしてお送りしよう、それからいまの建物の全景の写真もお送りしようと言ってくれた。それまでのいきさつを知るホルストが逆に心配した。そんなことをしてよいのかと聞いた。いやなに大丈夫です。そういう人だと分かっているのだし、写真は私が自分のカメラでこれから撮りますからと意に介さなかった。外国の公務員にはときどきこういうファンキーな人がいる。
というわけでおれの手元に大きな設計図が届いたのだ。同封の手紙には大意以下のようなことがドイツ語で書いてあった。
「ミュンヘンのエンヤレコードのウエーバー氏を通じて、あなたがプレッツェンゼー少年刑務所を訪問した建築家についての情報を得たい旨《むね》うけたまわりました。
残念ながらあなたのご祖父が参加していたとされる一九〇一年の日本からの建築視察団についての記録は現存しないということをお伝えしなければなりません。台帳が戦争で失われたものと思われます。
建物の感じを分かっていただくために昔の設計図の写しと現在の建物の写真を何枚かお送りします。
重ねてのお問合せがあれば喜んでお答えいたします。ぜひ一度ベルリンにおいで下さい。その折には喜んで建物を御案内させていただきます。
ではお元気でお仕事をお楽しみ下さい。
友情を込めて。
[#地付き]ハリング」
レターヘッドを訳してみるとプレッツェンゼーは今は少年刑務所になっていることが分かった。
それにしてもこの立派な設計図はどうしたものだろうか。バンドマンが刑務所の設計図を持っているというのはどこかいけない気がするがどうか。これは早々に揚村さんに送って鹿児島大学の建築科にあずかってもらうしかない。
ともあれおれは次のような内容のつもりの返事をでたらめの英語で書いた。
「親愛なるミスター・ハリング
あなたのお手紙を祖父が見たであろうものを想像することにおいて大変よく私を助けてくれるところの偉大な贈物と共に受け取りました。ありがとうございました。
さて、ここで私があなたに私の家族についてのいくらかの歴史についてご説明することをお許し下さい。
私の祖父の父であるフサチカ・ヤマシタは日本の南の部分のサムライでした。彼は日本で一八六八年に『メイジ・リボルーション』と呼ばれるものをリードしたサツマ・サムライグループのメンバーの一人でした。リボルーション戦争の後、彼は新しい政府のポリス・デパートメントの中の重要な人間というようなものになりました。そして同じ日本人同士で戦われた最後のもう一つの戦いの一年前に、彼は彼の九歳になる息子のケイジロウ・ヤマシタをサツマからトーキョーに呼びました。そして彼自身はその戦争にポリスのコンバット軍団として参加しました。彼は一つの足を失いました。しかし、ともかくも生きて帰りました。
それは日本国が彼女自身を西洋に学んだ近代的な国に急いで変えることを始めなければならない時代でした。この雰囲気《ふんいき》の中でその息子は育ち、新しく作られたばかりのトーキョー大学で学び、そして建築家になりました。学校を終えてすぐに彼は彼の仕事をポリス・デパートメントに得ました。それから彼は建物を作るように頼まれましたが、しかしそれは五つのウエスタン・スタイルのプリズンを含むポリス・デパートメントの為《ため》のものだけでした。
これらの監獄を作るすぐ前の一九〇一年に、彼はヨーロッパとアメリカをツアーしました。ただ監獄を見るだけのツアーでした。八つの国と三十の監獄を見たと後に彼は報告しています。そしてその書いて記録された一九〇二年の彼の報告のスピーチの中に私はプレッツェンゼー≠ニいう一つの言葉を見たのです。これが私がその名前を知ることになった理由です。
日本の五つの監獄は一九〇八年に作られました。それらの内の一つの写真を同封します。これはカゴシマ・プリズンの門です。すべて石で作られています。私は私の祖父が他のものよりもこの建物により多くの特別な感情を持っていると確信します。なぜならば、カゴシマの昔の名前はサツマでした。そこで彼は生れたのです。そして彼はそこに住んだヤマシタ・ファミリーの最後の人間でした。そして、このファミリーのサムライにならなかった最初の人間となったのです。
今、私はこれらすべてについての一つの本を書くことを試みています。
そこでお願いですが、私はあなたとあなたの贈物というこのナイスなエピソードもまた書いてよろしいでしょうか。
あなたのご親切なご返事をお待ちしつつ、私が私の目であの建物を見る日を待ちつつ、私はあなたに最上を願います。そして、もう一度ありがとうございました。
[#地付き]ヨースケ・ヤマシタ」
するとこんどはハリング氏からも英語で書いてきた。
「大きな喜びをもってお手紙を受け取りました。ご家族の歴史のお話は大変に魅力的でした。私はサムライやブシドーや日本の近代国家への発展などということについての本をざっと読んでみました。あなたのご先祖は明治革命に参加することによって日本の発展に大変重要な役割を果たされたわけですね。その結果、日本が西洋に国を開き新しい生活様式や技術を西洋から受入れることになったわけです。しかし、残念なことは古い伝統が消えて行くということです。それらはいずれはオーバーテイクされ、新しい時代の中でもはや価値がなくなるわけです。残念なことですが新しい発展の為に我々が払う代償なのです。
カゴシマ・プリズンの写真をありがとうございました。確かに堂々たる建築物です。
次はあなたの問合せへの答えです。もちろんこの手紙の交換をご本に入れて下さって結構です。こういう小さなエピソードにそのような価値があると思われるならですけれど。私は光栄に思います。
さらにご質問があればいつでもご協力いたします。
またお手紙をお待ちします。ベルリンでお会いして個人的に知り合いになれるといいですね。
心からの敬意をこめて。
[#地付き]ディター・ハリング」
実はこのあとベルリンに行く機会があった。事前に手紙を出しているひまもないあわただしい旅だった。ベルリンを出発する前日にプレッツェンゼー刑務所の手紙にあった番号に電話をしてみた。しかし、週末のせいか誰も出なかった。翌日ホテルをチェックアウトして駅に向かう途中タクシーでその場所に回ってもらった。全容は見えなかったがその一画に古い煉瓦《れんが》だての建物がひっそりと立っていた。八十年以上前に啓次郎がその中に入って行った建物だった。啓次郎は一九三一年に死んでいるからヒットラーという名前をかすかに聞いたことはあるかもしれない。しかしその後その人物が何をしたかそしてその人物を暗殺しようとした人たちの身の上にここで何が起きたかということはついに知ることはなかった。
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第二十二章
薩摩からの便りを待つ間にもバンド稼業《かぎよう》は続いていた。アメリカに行く機会に例のフィラデルフィアの刑務所を是非見たいと思った。
ニューヨークで、アーティストコーディネーターをしてもらっているノブコさんに事情を話して助けてもらうことにした。石垣島出身のノブコさんは昔からなにかと我々の事務所の手伝いをしてくれていたのだが、しばらく前からある翻訳会社の支部長としてニューヨークに来ていた。来るついでに若いハンサム男をさらってきて略奪結婚をしたというウワサもある。なるほどふたりは仲むつまじくそろそろ赤ちゃんが生れるらしい。
「分かりました。フィラデルフィアにある刑務所の住所が分かればいいんですね」ノブコさんは目の前にエンパイアステートビルがあり遠くに自由の女神とハドソンリバーさらにはイーストリバーまでを見晴らせる高層ビル内の専用オフィスの一室でてきぱきとした口調で言った。
「そう。古い由緒《ゆいしよ》ある建物とされているはずなんです。それでもし分かれば一九〇一年に日本人建築家が訪問した記録があるかどうかも聞いてくれませんか。それとあと今どうなっているかとか分かることはなんでも」
「フィラデルフィアには二人で行ったことがあるけど、古い建物を大事にする町だからきっと分かりますよ」ノブコさんはさりげなく二人で行ったなどとのろけながら、協力を約束してくれた。
次の日に行くとちゃんと調べがついていた。
まずノブコさんはフィラデルフィア観光局に電話するという正攻法をとった。ところが最初に電話に出た観光局の男は「プリズン」と言っても分からずスペルを聞き返したりした。まさかいきなり牢屋《ろうや》のことを聞かれるとは思わなかったのだろう。本当に牢屋についての問い合わせだと分かっても今度はどういう種類のとか名前は何だとかどこにあるのだとか逆に聞くのでノブコさんは答えに困った。とにかくペンシルバニアにあるはずの古いプリズンの建物のことを知りたいのだと言った。すると男はちょっと待てと言って周りの人間に聞きはじめた。この態度が日本の役人とちがって素直ではないか。するとそれならおれが知っているという人物が現れた。カルロスという名前だった。
「なにかお役にたてますか」
「古い建築に興味があるのですが、そこにある刑務所のことを知っていますか」するとカルロスは知っていることをすべて話してくれた。もっともその話がすべて事実どおりかについては分からないところもある。
「ああ、あれね。とても古い有名な建物ですよ。ヨーロッパコロニアルをモデルにした初めての建築物です。チャールズ・ディケンズも一度訪れて日記に書いているほどですよ。最近ではティナ・ターナーのビデオにあの場所が使われています」
「今はどうなっているのですか」
「一九七二年にクローズして今は市のものになっているはずです」
「個人のものではないのですか」
「ちがいます」
「買うとしたら?」
「二百五万ドルです」
いやにきっぱりとした値段が返ってくるのがアメリカらしい。これは約三億円だ。
「昔そこを一人の日本人が訪れたことを知っていますか」
「本当ですか。それは知りません」
「一九〇一年のことなんですけど記録はありませんか」
「それはちょっとここでは。あなたはどこから電話をしているのですか」
「ニューヨークです」
「そこの公立テレビ局や公立図書館に資料があるはずですよ。ドキュメントフィルムを見られるはずです。え、いやくわしいことはわかりませんが、ここフィラデルフィアではWHYY局にあります」
「色々ありがとうございました」
「いいですよ。いやそれにしてもこれは観光局始まって以来の問合せでした」
カルロスも妙な電話に結構興奮していたらしい。ノブコさんは刑務所の住所を書いた紙を渡してくれた。正式な名前は「イースタン・ペンシルバニア・ペニテンシャリー」だった。ペニテンシャリーを辞書で引くと「((米))州(連邦)刑務所」となっていた。ペニテントには懺悔《ざんげ》する人という意味もある。プリズンよりは少しやわらかい言い方なのだろう。後に知ることだが、囚人のこともその筋ではプリズナーとは絶対に言わない。インメイトと言うのだ。
こうして啓次郎がアメリカに残した足どりをたどる手がかりがともかくも手に入った。ジャズクラブ「スイート・ベイジル」で一週間の出演が終わったあと一日を監獄見学にあてることにした。
フィラデルフィアへはニューヨークからアムトラックと呼ぶ列車がある。最近では「アムトラック66列車強奪」という小説があったしエディー・マーフィーとダン・アイクロイドの映画「大逆転」のクライマックスシーンがこの列車の中だった。バンドマンが列車騒動に巻き込まれることを心配したマネージャー兼秘書室長のムラマツ・Gがついて来てくれることになった。外人相手にはいつのまにか「G」という通り名で通用しているこの青年はどこか若年寄り的風格をもってバンドマンを守ってくれる。そもそも通り名の「G」は日本語の「爺《じじ》い」というあだ名からきているのだ。
マディソンスクエアガーデンの下から列車が出る。そのあたりに行くとスポーツグッズの店があったので大リーグの公式球をいくつか買った。これの重さも大きさも飛び具合も日本の公式球とは違っているという話を思い出した。これには文句がある。
どうして同じにしないのだ。これではアメリカのチームと同じ条件で試合ができないではないか。それならおれが手が小さいからといって小さなサイズのピアノを弾いていいのか。それではカーネギーホールで弾けといわれたら弾けないだろうが。もっともこっちはゲイジュツ関係だから小さなピアノを持ち込んでこれが自分の表現だと言い張れば誰も文句は言わない。しかしそっちは同じ条件が前提の戦いだ。それに実際にはこっちでは年端《としは》もいかないガキが大きな外人に混ざって大きなピアノを弾きまくってコンクールで一等になったりしている。日本の野球の方々もせめて同じサイズのボールで同じサイズの球場でやってもらいたい。そうじゃないとアメリカで野球の会話ができない。日本にも野球があっておれはタイヨウ・ホエールズのファンでそこにはタシロという変な選手がいておれは好きなんだがいつもゲッツー打ばかり打って、などという話が対等にできないのだ。このままだと日本の野球が好きな自分がうしろめたくなってしまいには病気になる。いやこれは選手に怒っているのではない。プレイヤーたちは素人《しろうと》からみれば信じられないほどの高いレベルの能力を持った尊敬されるべき存在だ。最初からずるをして小さなボールや球場でやったほうがいいなどと考えるはずがない。悪いのはそのプレイヤーたちが大体において頭が馬鹿《ばか》だということにつけこんで野球をないがしろにしている経営関係の悪党共なのだ。何だか段々玉木正之が乗り移ってきたが、こうなったら一度プレイヤー全員ストをやってくれてもかまわないぜ。「わしもーイカッたけん。もーやらんけんね」といって一年間|茶漬《ちやづ》けを食って我慢してくれ。おれたちも一年間野球を見ないで我慢する。そこらの草野球で我慢する。いや草野球も高校野球もできないようにする。全《すべ》てなしにする。そうすれば野球禁断症状が出て日本中で暴動が起きるだろう。その騒動に乗じて極悪経営者共を死刑にしてちゃんとしたボールと球場を勝ち取ろうじゃねえか。
などと思わず興奮しているうちに列車は走りだした。「大逆転」に出てきたコンパートメントではなく新幹線スタイルの座席だった。同じ路線でも走る列車の種類が色々あるらしい。窓の外の風景はヨーロッパとはちがっていたるところにわけの分からない汚ならしい空間が放置されていてなぜかほっとする。
列車は一時間半ほどでフィラデルフィアに着いた。映画「大逆転」で男二人が最後にニューヨークへ乗り込む前に女と執事に見送られたコンコースを通る。映画では女が噛《か》んでいたガムを一度口から出して執事に渡し執事がそれをうやうやしく持っている間に男と別れのキスをしまた受け取って口に入れるというギャグがあった。
すぐにタクシーに乗り刑務所の住所を告げる。白人の運転手はうなずいて走り出した。そこには古い刑務所があるかと聞くとまた黙ってうなずいた。わざわざ古い刑務所跡に行く二人づれの東洋人と下手に関《かか》わりをもたない方がいいと思っているのかもしれない。
やがてあまり人のいない一画に入ると前方に明らかにそれと分かる建物が見えてきた。周りにも石や煉瓦《れんが》の家が立ち並んでいるがそれとはまったくちがう厳《いか》めしさと古さがその建物からは立ち昇っていた。やはり塀《へい》のせいなのだ。異様な高さで街路の突き当りに立ちはだかっていた。塀にそって一周してくれるよう運転手に頼んだ。運転手は相変わらず黙ったままそうした。正面らしい所で止めてもらい待っていてくれと言って外に出た。大きく頑丈《がんじよう》で古く汚い石の壁だった。通りを渡って距離をおいて眺《なが》めた。正門らしき所をよく見ると二重構造になっていた。昔のアーチ状の入口が煉瓦でふたをされて塗り込められたようになっているのだ。塀の上には何カ所か監視塔もあった。古色|蒼然《そうぜん》とした王冠のような形をしていた。世界で初めてここにその姿を現わしたという放射状の建造物は外からはまったく見えなかった。そのままなすすべもなく立っていた。もう一度通りを渡って正門の所まで行って石の壁を手で触ってみた。ざらざらとした石のつぶが手のひらにくっついてきた。
通りの向こうでムラマツ・Gがカメラを取り出してこちらをのぞいた。塀にもたれてカメラの方を見ていると二人の黒人男がどこからともなく現れてこちらに歩いて来た。一瞬米国社会における様々な事件の例が頭をかけめぐったが二人は話をしながらそのまま目の前を通り過ぎて行った。通りには再び誰もいなくなった。
タクシーに戻った。
「どうさらはりますか」ムラマツ・Gがわざと出鱈目《でたらめ》の大阪弁で聞いた。
「どうさらはりまひょうかね」
「このままニューヨークに帰るというのもなにですね」
「そうですね」
「いかがいたしましょう」わざと馬鹿丁寧な会話になることがある。
「折角ですから、わたくし、図書館に行ってお勉強をいたしたいと思います。でもその前にどこかでシーメを食いこきたいですね」
「わっ……かりました。ではそうしましょう」
Gが言った。このGの「わっ……かりました」の場合、「………………」が長ければ長い程疑問を感じているのだという観測が業界の一部にはある。以前に無理難題を承知しなくてはならないことがあった時には、「わっ」といったまま「かりました」が出るまで「…………………」が二分三十秒程続いたことがあったという。
Gは全米のガイドブックを取り出してフィラデルフィアのところを広げた。運転手に言って車は町の中心へ向かって走りだした。しばらくすると運転手がなにやら言い出した。「インディペンデンス・ホールに行くのか」などと言っているらしい。自分に分かる行動パターンを示した東洋人共にようやく安心したのだろう。そういえばここはアメリカ独立の際の重要な何かがなにしていたらしいことがおぼろげに思い出された。
「確か独立宣言をここでやったんじゃないですか」とGが国立一期校のキャリアに物を言わせて教えてくれた。折角だからその記念の建物に行ってみようということになって運転手に伝えると運転手はますます安心した態度になった。
その建物のそばでタクシーを降り見学をしたが別段の感慨が湧《わ》くということもない情けないバンドマンだ。早々に切り上げてショッピングセンターのようなビルの中の食堂街に行った。目茶苦茶にまずいホットドッグを食いながらGに図書館の場所を教えてもらった。駅での待ち合わせの時間を決めて別れた。
図書館では恥を忘れて係員に聞きまくった。しかし一九〇一年にあの刑務所を見学した人間の記録書類はここにはないようだった。警察の記録室ではないかと言われた。仕方なくターゲットを変えて何かあの刑務所に関して書いてある本はないかというと、ひっつめ髪に縁なし眼鏡という典型的な図書館員スタイルのおねえちゃんが親切にも何枚かのカードに何かを書き込んで渡してくれた。どうするのだというとそれを持って別のところへ行けという。そこへ行くと今度は太縁眼鏡の黒人のおにいちゃんがカードと照らし合わせて本を探し出し三冊積み上げてくれた。それをかかえて読書室に行った。
最初に「歴史のフィラデルフィア・創立から十九世紀の初めまで」という本を広げた。目次に「十八世紀のフィラデルフィアの監獄」という項目があったのでそこを拾い読みした。
十七世紀|頃《ごろ》には監獄は文字通り「箱」だったとか、ウイリアム・ペンが監獄に新しい構造を与えたとかいうことが書いてあった。そういえば確かこのペンという男がこのへんにやって来て何かしたのでこのへんをペンシルバニアというようになったというようなことではなかったかと思う。いずれにしても十八世紀では該当物件とは関係がないはずだからこの本は早々に放《ほう》り出した。
次は「目で見るフィラデルフィアの歴史」というような内容の本で写真や絵が主体のものだった。これには該当物件の絵と写真の両方がちゃんと載っていた。説明文には「一八二三―二九に建てられた。ジョン・ハビランドによってデザインされた。フェアモント・アベニューとコリンティアン・アベニューの角に位置する」とあった。ジョン・ハビランドの名前をようやく自分の目で確かめたのだ。説明文には「フィラデルフィア近郊ペンシルバニア州東部監獄」という本が一八三三年に出版されているということが付記されていた。
写真に写っている監獄は先程見てきたものとほぼ同じ印象だった。周囲はほぼ市街地となっているようだった。しかし絵の方はちがっていた。出来た当時の景色がそのまま描かれていた。郊外のそれも荒寥《こうりよう》とした嵐《あらし》が丘のようなところにそびえ立つ不気味な城だった。今にも風がふきすさび雷光が空を走りコウモリが五千羽飛び交いそうな情景だった。
最後の本は「ステイリーの見たフィラデルフィア」という写真集で一九一一年に出版されているものだった。フランク・ステイリーという写真家の撮ったその頃のフィラデルフィアの風景が集められている。それを見るとフィラデルフィアには実に多くの由緒ある建物が残っていることが分かった。しかしこちらはそういうものに心をとめる動機がないままにひたすら監獄を探し求めた。ようやく監獄の写真を見つけた。その写真の監獄はすでに市街地に囲まれていた。
この写真が撮られる十年前に啓次郎はこの町に来ているのだ。この写真集に写っているのと同じ街路を歩きこの中にあるホテルのどれかに泊まったにちがいない。そしてある日確かにあの監獄のアーチ形の門をくぐって中に入ったのだ。そして放射状に突き出た房舎の中心に立って廊下を見渡した。ちょうどおれがもう誰もいない鹿児島の刑務所に入ってそうしたように。誰が出迎え誰が案内しどのような説明や会話がなされたのだろうか。世紀の変わり目にやってきた日本からの遠来の客は歓迎されただろうか。どこかで一夜|晩餐《ばんさん》のもてなしがあっただろうか。そのとき啓次郎はどのような姿だったのだろうか。
この町にやって来たとき啓次郎は三十四歳だった。新妻と生れたばかりの長男を日本に残していた。フィラデルフィアのホテルの一室でベッドに横になったときに彼は家族のことを思っただろうか。あるいは別離もまた奇妙な興奮剤にしてしまうあの異郷での充実した仕事の時間の中に啓次郎もいたのだろうか。
気がつくと図書館の中で三時間が過ぎていた。本を返して外に出た。Gの地図で方向の見当はついている駅に向かって歩いた。思ったより距離があった。駅は坂の上にあり最後のアプローチの登りは長かった。やがて古い石の宮殿のような駅の建物が見えはじめた。啓次郎が来たときにもこの駅はこういう形をしていたのだろうか。
見上げていると駅から二頭立ての馬車が現れてこちらに向かって進んで来た。近づくとその中にはフロックコートに山高帽の啓次郎が乗っていた。すれちがうときに見ると啓次郎はきっとした表情で前を見つめていた。馬車は坂を下り遠ざかってそのまま過去の時間の中に消え去っていった。
坂を登り駅にたどりついた。
Gと落ちあい列車強奪事件に巻き込まれることもなく無事ニューヨークに帰ってきた。
次の日にパリへ飛んだ。スペインでのコンサートのための中継地点だった。その機会に何とかフランスでの啓次郎の足跡をたどりたいと思った。啓次郎はフランスではフレンヌとサンテという刑務所の名前を手がかりに残している。それを見たかった。
そして実は啓次郎の孫の一人がフランスにもう三十年以上も住んでいる。孫の世代の最年長になるその従兄弟《いとこ》は啓次郎のことをよく知っているはずだった。その話も聞きたかった。
パリに着いてすぐに中央生物学研究所に電話をしてそこにいる従兄弟の四柳与志夫に連絡をとった。家の場所と行き方をあらためて聞いた。レ・アール駅から郊外線に乗ってジフ・シュール・イベットという駅に向かった。
啓次郎には長男の房雄のあとに長女の道子が生れた。道子の記憶では年頃になったときに園遊会の招待状が届いたという。御令臈《ごれいろう》という宛名《あてな》だった。勅任技師の啓次郎の娘ゆえの特権だった。
「園遊会の場所は今のサミットだったのよ」
何かと思ってよく考えたら迎賓館のことらしい。
他にも道子の記憶には毎年正月に啓次郎が皇居に記帳にいったこと、必ずやった書初めの墨を自分がすったことなどもある。やがて道子は四柳与四治に嫁ぎ大正十五年(一九二六)に待望の長男が生れた。啓次郎の初孫となるこの男の子が今フランスにいる四柳与志夫だ。
啓次郎の満年齢が明治の年号と一致するように与志夫の年齢も昭和の年号と一致する。啓次郎は初孫の誕生をとても喜んだ。もっとも一緒に生きた時間はわずか六年だった。昭和六年に啓次郎は急にという感じで病に伏す。道子は子供を連れて見舞いに行った。小康を得ていた啓次郎は布団《ふとん》の上に起き上がり孫を膝《ひざ》に乗せて何度もあやした。あやされたその子は成長し一高から東大という啓次郎の歩んだ道をそのまま進んで科学者になったのだ。一九五三年だからまだそう何人もの学生が外国に留学できる時代ではない。与志夫は横浜港を出発してフランスへ渡った。そのまま日本に戻って来なかった。
郊外の静かなジフ・シュール・イベットの駅に従兄弟は車で迎えに来てくれていた。どこか大川橋蔵という俳優に顔立ちが似ているこの年長の従兄弟は車のことをいまだにジドウシャなどと言う。日本語はもはや大変不自由になっている。前に来たときはドライブをしてくれて泰西名画のような景色の中を走った。英国の王位を捨ててかけおちしたウインザー公とシンプソン夫人がひっそりと暮らしていたという館《やかた》や藤田|嗣治《つぐじ》の別荘など見せてくれた。しかし今回は日帰りのつもりなのであまり時間の余裕がない。
一人暮らしのアパートで早速色々と聞くことにした。
「というわけなんですが」
「あれはたしか最初に小泉さんのところの清春おじさんが調べたんですね」
「そうです。それで初めて分かってきたんです」
従兄弟の日本語は実際はこのように滑らかに出てきたのではない。あーとかうーとか言いながら思い出して喋《しやべ》った日本語を翻訳してある。
「あのときに日本から送ってきた写真を見てまず思ったことがあるんですよ」
「どういうことですか」
「あれはナポリのカステル・ヌーボーなんですよ」
それはナポリ湾を見下ろしベスビオ火山を望見するように建っている城だという。
「鹿児島とナポリはよく比較されませんか。両方とも南国の湾ぞいの町で火山のすぐそばにあるでしょう。啓次郎さんが一度でもそこへ行ったことがあるなら相当強い印象を受けたはずです」
なるほど、ベスビオ火山と桜島。ナポリ湾と錦江《きんこう》湾。城と監獄か。その城には例のバトルメントや塔も勿論《もちろん》ある。
「お城と監獄というのはどうつながるのですか」
「それは昔はお城がそのまま牢屋だったわけでしょう。地下室や塔に罪人を幽閉していたわけですからね。無理なく結びつくわけです」
「なるほど。ところで与志夫さんは啓次郎本人や渋谷の金王町にあった自作の家のことは憶《おぼ》えていますか」
「もちろん憶えていますよ」
母親に連れられて小さな頃からよく遊びに行った。大きな不思議な家だった。啓次郎はいかめしいおじいちゃんだった。そのおじいちゃんのそのまたお父さんという人の話もよく聞いた。その人はフサチカさんという一本足のこわいオサムライさんだった。その人のものが残っている部屋に入り込んで遊んだりもした。仕込み杖《づえ》やサーベルがあった。ピストルもあった。
「あるときピストルに紐《ひも》を結んでおもちゃにして遊んでいたんですよ」
そのまま紙屑籠《かみくずかご》に放り込んで忘れていた。これが事件のもとになった。
近所の交番から呼び出しがきたのだ。出入りの屑屋が紙屑の中からピストルを発見してびっくりして交番に届けたのだという。落語の「浮かれの屑より」のとおりに屑を選《よ》り分けていたのだろう。
「ええ、紙は紙。鉄《かね》は鉄。ミカンはミカンと。ええ、紙は紙。鉄は鉄、ミカンはミカン、ピストルはピストル、げ、ピピピピピストル」ってんで駆け込んだわけだ。
「だ、だんな。大変だてえへんだ。こんなものが出てきやした。あそこの山下ってえ家に間違いありやせん。妙な家だと思っていやしたがやっぱり悪党だったんだ。お上《かみ》の転覆をはかる武装|蜂起《ほうき》のアカでござんす」
直子おばあちゃんが慌《あわ》てて飛んで行った。
「なぜこのようなものがお宅にあるのか」という巡査の質問に直子はどう答えたのだろうか。嫁に来たこの家の舅《しゆうと》がそもそもこの国の最初の警察組織ができるときから関与していた人間だった。実父も警視庁の功労者だった。ここにいる巡査から見ればはるか雲の彼方《かなた》の大先輩上司になるのだ。
「無礼者。下がりおろう。わらわをなんと心得るか」と言って長い長い由来を縷々《るる》説き聞かせたのだろうか。与志夫の記憶では「さんざんあやまって許してもらった」ということになっているが、いずれにしてもそのピストルは返された。巡査は何事かを納得したことになる。
「あの家の記憶は大きくなってフランスに来てからますますはっきりとよみがえったんですよ。つまりあの家の意味がこちらに来てようやく分かったわけです」
与志夫は不思議な体験をした子供だった。応接間に入り込んで遊んでいるときに見た椅子《いす》の足がぐにゃぐにゃしている。変だなと思いながら育ち、後にヨーロッパに来て同じものに出合って理解した。アールヌーボーのデザインだったのだ。あるいは葡萄《ぶどう》色のカーペットや広いサロンやガラス窓のついたベランダや籐《とう》椅子や植物やマントルピース。応接間の一画にある書斎。大きな手摺《てす》りにまたがってよく滑り下りた二階に続く階段。これらすべてがこちらに来てみると再び存在した。
「ぼくがきたのは一九五三年でした。その頃のこちらのご老人たちによく招かれたんですよ。ベルエポックのブルジョアの家の面影《おもかげ》がまだ残っていたわけです。そういうところに行ってみてはじめてあの渋谷の家の意味が分かったわけです」
まず応接間つまりサロンでアペリティフを飲んで談笑をする。やがて食事の用意ができると女中がきて「マダム・エ・セルビ」と呼ぶ。皆は食堂に移ってディナーとなる。その後再びサロンで食後酒を飲む。タバコを吸いたい男たちはタバコルームに行くがこれは書斎でもよい。そこで男は男同士の話をしたりする。ホールで音楽が始まったりダンスをしたりすることもある。
こういうことがすべてできる舞台があの家にできていたのだ。だから与志夫はフランスでのそういう場面にあまり戸惑いがなかった。むしろ子供の頃に体験した不思議な世界が再び出現したという懐《なつ》かしい感情さえ湧いたのだ。
「あの家の間取りなんかも憶えていますか」
「ええ」
与志夫はおれのノートにさらさらと図を描《か》いた。玄関。ホール。応接間。書斎。食堂。二階は和室だった。
「そして面白いのはこの西洋風の奥に和風の建物がくっついていることです。こっちの方がこの家族が生活する本来の場所なんですね。お茶の間があり畳の部屋がありお風呂《ふろ》があり離れがある。表の方はまさにデコールつまりヨーロッパの社交の舞台が完璧《かんぺき》に整えられているわけですが、そこでは実は生活をしていないわけです。啓次郎さんは普段はあぐらをかいて碁を打っていたわけでしょう」
そういえば啓次郎が碁を打っている横長の日本画風の絵がずうっと家のかもいにかけてあった。描いたのは伊東忠太で絵の中に啓次郎の碁の相手をする自身の後姿を残している。
「うちの父親や啓三おじさんはよく応接間で遊んでいたらしいですね」
「そういえば一度啓三おじさまが応接間で勉強しているのを見たことがありますよ。大学の卒業論文を書いているとかでなんて偉いんだろうと思いました」
おれに言わせればそういうおじの姿を見て自分もすくすくと勉強にはげんだこの従兄弟も偉い。天性か努力かやがて与志夫は祖父啓次郎以来この家で初めて一高から東大というコースを歩む人間となったのだ。
「そのときにとても嬉《うれ》しいことがありましてね。一高生はマントを着るのですがぼくは残っていたおじいさまのマントを着ることになったのです」
与志夫の母親は房雄の次に生れた啓次郎の長女道子だ。啓次郎のマントを息子に着せかけながら嬉し涙を流したにちがいない。
「そのマントがすごいものでしてね。裏が紫色になっているのです。これを着て行くのは自慢でしてね。同級生たちはそれはそれは羨《うらや》ましがったものです」
高級品だったわけだがそれ以上に与志夫がこのマントに強い記憶があるのには別の理由があった。
「葉巻の匂《にお》いが染《し》み込んでいたんですよ」
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第二十三章
裏地に紫色の絹が張られていたその啓次郎の遺品のマントには葉巻の匂《にお》いが染《し》みついていた。だから啓次郎についての与志夫の記憶は葉巻の匂いと強く結びついている。
「プルーストの『失われた時を求めて』は読みましたか」
「いいえ」
おれの無教養さに従兄弟《いとこ》は少し驚いたようだったが話は続けてくれた。
「あの中ではマドレーヌというお菓子が主人公の記憶をよみがえらせる鍵《かぎ》になっているんですが、ぼくにとっては葉巻の匂いがまさにそれなんです」
そしてこちらで招かれたベルエポックのなごりを残す家々には必ず葉巻の香りが染みついていた。そこでもまた啓次郎の記憶に出合うことになったのだ。
まるで時間の輪が閉じられているような構造だった。幼年時代に見たぐにゃぐにゃした椅子《いす》の足や葡萄《ぶどう》色のカーペットだけでなく青年時代に羽織ったマントに染みついた香りに加えて、さらにそのマントを羽織って行なう行動様式までもが原形がこちらにあった。
「たとえば一高生というのは旅をするわけですね。伊豆だの箱根だのもっと遠くてもいいんですが大体南と決っているわけです。これはそもそもはドイツあたりの寒い国の詩人なんかが南ヨーロッパに憧《あこが》れて旅をしたわけでしょう。放浪したり恋をしたりしてそれが作品になったりもする。そういうことを日本の昔の人が真似《まね》したわけですね」
与志夫もこちらでは暇さえあれば南ヨーロッパを散策した。
この大正最後の年に生れた啓次郎の初孫が啓次郎の残した明治時代の時間の中にそのままいるような気がした。同時に彼は最先端の科学である遺伝子の研究をこのフランスで三十年も続けているのだ。つじつまがあっているのかいないのか不思議な気持ちになってしばらく従兄弟の顔を眺《なが》めていた。
「それにしても啓次郎さんはなんであんな監獄を建てたんでしょうね」
何回も繰り返した最初の素朴《そぼく》な疑問が思わず口から出た。
「二通りの考え方ができますね」従兄弟が即座に言った。
「といいますと」
「第一は彼が真面目《まじめ》すぎて融通のきかない建築学の学生であったという場合です。つまり建築理論の奴隷《どれい》ですから習ったことをそのままやるしかない」
「はあ」
「この場合はゴシックだったわけですね。ゴシック建築を唯一《ゆいいつ》絶対のものと思い込んでそれ以外のことは考えられなかった。習ったことを監獄だろうがなんだろうがただそれを試す以外になかったのです」
「なるほど」
「もう一つはそうではなくていま少し啓次郎さんに余裕があったという場合ですね」
「はあはあ」
「考えてもごらんなさい。それまで日本にそういう監獄を実際に建てた人は誰一人いなかったのですよ。何をやろうとどんなものを建てようと誰も批判できない立場に啓次郎さんはいたのではないですか」
「そういえばそうですね」
「費用は国が出しているのでしょう。国からすべてまかされているわけですね。それで外国に視察にも来ている」
実はこの外国旅行の費用はなぜか奈良県が払っているということがこのときまでには揚村さんによってつきとめられていた。五大監獄の一つは奈良にも建てられたからそのことと何か関係があるにちがいない。そしてすべての建築費は勿論《もちろん》国が出していた。
「つまり国の金で好き放題ができるチャンスだったというわけですね」
「啓次郎さんはこのとき年はいくつだったのですか」
「三十四ですね」
「それならまだ若いですね。充分お茶目のできる年ではないですか」
「はあ。お茶目ですか」
「自分の作りたかったものを作ってしまったのですよ。どうせ役人には何がどうなっているのか分かりっこないのですからね。啓次郎さん自身も役人であったわけですからそのへんは誰よりもよく知っていたはずです」
なるほど。国に金を出させて自分の勝手なゲイジュツをやってしまう人間か。しかし警視庁に勤める役人で建築家だった啓次郎がはたしてそのような心を持てるのだろうか。
「いやあの頃《ころ》の人は底が深いですよ。あなたは漱石や鴎外を読みましたか」
「いやそのあまりちゃんとは」
従兄弟はおれの無教養さに再び驚きつつも話は続けてくれた。
「あの頃の人は両方できるわけです。たとえば鴎外は作家であると同時にずうっと現役の科学者つまり医者でしたね」
「そのようですね。漱石が建築家になろうとしたという話も残っているようです」
「そうでしょう。鴎外の場合は軍医が同時に作家であったわけです。監獄建築家の中に芸術家がいる可能性だってあるわけでしょう」
それから従兄弟はよく言われる建築の三つの種類について話してくれた。
それらは「沈黙する建築」「話す建築」そして「歌う建築」というものだった。話さない建築と話す建築は共につまらない。たとえば駅なら駅であるということを誰にでも分かるように表現しているのは話す建築だが、これはだからどうしたと言われても「わたしは駅です」と繰り返しているしかないぼんくらだということになる。歌う建築というのが面白いわけでこれは単に駅であるということを越えて勝手に自分の歌を歌っているような存在を言うのだ。簡単に言えば機能性を超えた芸術性が存在するということらしい。こういう言い方をしたのはポール・ヴァレリーで「ユーパリノス」という本の中の「建築家とソクラテスの対話」という一節にあるという。
「啓次郎さんの建てたものもただ人をつかまえて閉じ込めておくという機能だけでなく、あの門などを見てもどこかで歌っているとみなすことは可能です。だとすればそれは音楽をやっているあなたとまさに同じ遺伝子を共有しているということではないですか」
思わぬ角度からの指摘におれはびっくりした。しかし「歌う」ということをキーワードにして啓次郎とおれを結びつけてくれた従兄弟の冗談すれすれの飛躍的なイマジネーションは面白かった。科学者の中にいる芸術家とはこの従兄弟自身のことなのかもしれない。
「それはすごい仮説ですね」
「いやインスピレーションのメカニズムというのは不思議なものでしてね。思わぬことがヒントになることがあるんですよ。自然科学の研究のインスピレーションもとんでもないことがきっかけで出てくることがあるんです」
おれの頭の中にフロックコートを着て杖《つえ》を持ちシルクハットを片手でかかげながら石の門の上で歌い踊る啓次郎の姿が浮かんだ。それをおれはピアノで伴奏していた。即興のフリーフォーム音楽だった。こぶしやひじも随時使った。啓次郎は平気な様子で門から塀《へい》へと飛び移って行った。軽がると歌い踊っていた。
「そしてあれはたしか阿部のおばさまと呼んでいた方でした」
従兄弟の声でまた我にかえった。別の思い出を話してくれていた。
「英国大使の夫人でしたね。いつも正装をしてたという記憶があります。まるで鹿鳴館《ろくめいかん》時代から抜け出したようなきれいな人で子供心にあこがれたものです。まさにデコールの登場人物そのものでした」
啓次郎の妻直子の妹には育子《いくこ》もいてこの人が阿部氏に嫁いでいる。初代ミス日本のヒロ子の姉になる。
「『どんなに暑くても決して手袋をとらずハンケチを出さない人でした』と直子おばあさまが言っていたのを憶《おぼ》えていますよ」
葡萄色のカーペットやアールヌーボーの椅子やマントルピースやその他もろもろの与志夫の記憶の景色の中にはその美しい夫人の姿もあったのだ。そしてそれらすべてのものが大人になってフランスにきた与志夫の目の前にもう一度現実の姿となって現れた。昔見た美しい夫人にも再会できたのだろうか。どうやらこのまま独身を通しそうな従兄弟のフランスでの長い時間が急に謎《なぞ》めいて見えてきた。
日が暮れかけていた。そろそろパリ市内に戻らなければならない。啓次郎が訪れた可能性のある二つの監獄の名前を従兄弟に言って地図を見てもらった。偶然にもフレンヌという地名はパリからここへ来る途中にあることが分かった。サンテ刑務所はパリ市内にあった。部屋を出て夕暮れの田園風景の中を再び車で駅まで送ってもらった。
「啓次郎さんのことですごい偶然があったのを思い出しました」
彼の言うジドウシャを運転しながら従兄弟が言った。
「こちらに来るときにフランス大使館にビザをもらいに行ったのですが、その家がおじいさまの建てたものだったのですよ」
「どういうことですか」
戦後の一時期にフランス大使館が普通の家に移っていたことがあった。麻布にあった日本家屋風の家だった。与志夫はそこにビザをもらいに行った。ところがその家が実は啓次郎が建てたものだったと後に分かったというのだ。何という偶然だろう。再び時間の輪が閉じられている。その一生を明治という時代と一致させた祖父とその年齢が昭和の年号と同じになる初孫は、どこか別の世界の別の時間の中でしっかりと結びついているようだった。そこはおれの手の届かない場所だった。
「しかし考えてみればこの家の人たちはいつも国に必要なその時代時代の流行《はや》りをやってきたのかもしれませんね」
「といいますと」
「幕末にはお侍さんですね。明治時代になってからは建築家でしょう。それからその子供たちは石炭と船と鉄を作ったわけですね。そして国は戦争をやり彼らは今度は復興時代を支えた」
「はあ」
「そして我々の世代ですね。ぼくが生命科学であなたが音楽でしょう。これらも今の『お国』に一番必要なことかもしれないんですよ」
やがてジドウシャは小さな駅舎についた。出札口でパリまでの切符を買った。
「啓次郎さんに芸術家的な動機が少しでもあったと思うとなんだかほっとします」
電車を待ちながらぼんやりとした口調になっておれは言った。
「芸術家は作品を残すんですね。そしてそれは謎を残すということなんです」
従兄弟が言った。
「本当は謎などないかもしれないんです。でも後の人が必ずそこに謎を探ろうとするんですね」
「…………」
やがて電車がきた。ホームに出て乗り込んだ。ドアが閉まって走りだした。ホームから歩き去る従兄弟の姿がパリの郊外の夕闇《ゆうやみ》に溶け込んでいった。人が作る作品がある。それと同時に人それぞれが否応《いやおう》なく生みだすその人間の人生という作品がある。それこそが最大の謎を含んだ芸術なのだ。柄《がら》にもなくそのようなことを考えながらがらんとした車内にしばらく立っていた。
この数年はパリにくると画家の松井守男さんの家に転がり込むことになっている。郊外電車をレ・アールで降り地下鉄の一番線に乗り換えてフランクリン・ルーズベルト駅に行きさらに九番線に乗り換えて十六区のジャスミンという駅まで行った。そこで降りてアヴニュー・モザールを少し歩きカフェ・モザールの斜め前を左に入ると昔ジョルジュ・サンドとショパンが住んでいたヴィラ・ジョルジュ・サンドという一画がある。そこにある古い建物がアパートとなっていてその最上階が松井さんのアトリエ兼住居なのだ。
真向かいのアパートの最上階にはレイコ・クルックが住んでいる。映画「愛と哀しみのボレロ」や「ノスフェラトゥ」のメイキャップをてがけた日本人女性だ。二人ともよくある「日本で稼《かせ》いで外国に住む」という別荘派ではなく「外国に住み着いてばりばりに仕事をやりその世界では完璧《かんぺき》に一目置かれて裕福に暮らしている」という実力の原住民派だ。松井さんなどそろそろモナコに家を移すという計画まである。
建物の外のドアをもらっていた鍵であけてロビーに入った。左右に押して開く木製のドアを開けてエレベーターに乗った。古いエレベーターはごとごとと古いヨーロッパの趣きと共に上がって行く。
部屋では夕食が始まるところだった。松井さんが特別にギョーザを作ってくれていた。秘書のロベールと三人でテーブルに座りワインをあけた。ギョーザにかぶりつきながら刑務所のことや啓次郎のことを夢中で話した。なんとか調べる方法はないかと聞いた。とうとう松井さんは明日になったら色々やってみてくれるという約束をしてくれた。ロベールはそのハンサムな外見からは想像もつかないがもとテロ専門の警察官という不思議な経歴だ。松井さんが話の内容を通訳すると大変面白がって笑っていた。
食後にレイコ・クルックがシャンペンを持ってやってきた。松井さんとレイコさんはある日同時にベランダに出て通りごしに相手を見た。二人共|浴衣《ゆかた》を着ていて思わずていねいなおじぎをしあった。それがきっかけで話をするようになったのだそうだ。一同はテーブルからアトリエの一画に移って座った。ようやく話が刑務所からはなれてパリ本来の絵画と音楽と映画のことになった。松井さんがこのあいだ日本でやった個展が大成功だった話やレイコさんの映画関係の内輪話を楽しんだ。レイコさん自身が撮りたい短編映画のことも話してくれた。田舎でウサギを飼う老人と少女の話だがレイコ流のメタモルフォーゼメイキャップを駆使したすごい幻想場面がクライマックスとなる。レイコさんの話が専門的かつ面白く上手だったのでその映画のすべての場面を実際に画面で見たような気になった。非常に感激してしまった。おれが金持ちの映画プロデューサーだったらいますぐ契約していくらでも金を出す。さらに第二作も三作の権利も買い取ってしまう。
やがてレイコさんはお向かいに戻った。ロベールの考案した新しい照明の光のなかで松井さんの新作をしばらく眺めた。上空から森を見るような独特のマツイスタイルだ。模様の中に無数の人間がいるようにみえるときもある。しばらく眺めているとようやく気持ちが落ち着いてきた。
翌日に松井さんの活躍がはじまった。
まず電話番号案内の本にあたるという正攻法からだった。フレンヌはFresnesという変なスペルだがこれでまず電話番号と住所が判明するという順調なすべり出しだった。松井さんはすぐにフレンヌ監獄に電話をした。猛烈な早口のフランス語だったが松井さんがことの説明の中で日本のジャズピアニストとかパリ・ジャズフェスティバルとか言っているらしいことはなんとなく分かった。一段落したところで経過を聞くことにした。
「どういうことになりましたか」
「それがねヨースケさん聞いてください」
松井さんは日本語も猛烈な早口の上に独特のフランス語なまりがある。従兄弟《いとこ》の場合と同様以下なるべく普通の言語に直して記すことにする。
松井さんはホルストの場合と少し違って相手が聞くまえにこちらの特殊事情を話した。その中心テーマは簡単に言えば「偉大な芸術家がおじいさんの思い出のためにそちらの建物を見学したいといっている。便宜をはかれ」というものだ。
「とにかく芸術家が大事にされる国ですからね。なんでも言ってみることです」
その言葉どおり松井さんはここでは芸術あるいは芸術家至上主義を完全に貫いている。それが通用する国なのだ。以前、おれがパリ・ジャズフェスティバルに出るときにつきっきりで世話をしてくれたことがある。そのときにあまりの忙しさでなんとフランスの国会議員たちとの昼食会の約束を忘れてしまった。待ちぼうけをくらった議員がかんかんになって電話をしてきた。そのとき松井さんはしまったと思いつつもとっさに次のような言いわけをまくしたてた。
「確かに約束を破って申し訳ない。しかし、こちらにも理由があります。どうか聞いて下さい。私の友達のムッシュウ・ヤマシタが日本からきていたのです。彼はパリ・ジャズフェスティバルに招かれてきたピアニストです。ご存じでしょう。テアトル・ド・ラ・ヴィルつまりあなたがたの市民劇場で毎年行なわれている権威あるあの音楽会のことは。え。知っている? 結構です。そこでムッシュウ・ヤマシタはパリは初めてで私がついていなければ何かと不自由なのです。お分かりですね。そして彼がその素晴らしい芸術をフランス国民のまえに示すためにはどのような不自由さもあってはなりません。そして私は彼の親友でありその面で彼を助けられる唯一《ゆいいつ》の立場にいるわけです。空港への出迎え、打ち合わせ、リハーサル、インタビューの通訳、楽屋への案内、そして本番と私は彼に付添いました。お分かりですね。こうして彼はフランスでの大事なコンサートを大成功のうちに終えることができたのです。まさにフランスと日本の文化の偉大な交流でした。このような事情があってあなたがたとの食事会に出られなかったわけです。どうかご理解ください」
相手は理解した。なごやかな雰囲気《ふんいき》と共に次の会食の約束があらためてなされた。我々からすれば不思議なことだがここはフランスでことが芸術問題なのだ。ちなみにこの国では芸術大臣つまり文化相経験者でなければ大統領になれないとまで言われる。
しかしまあこのような土壌があるとはいえ誰もがこうして国家関係者を芸術でねじふせるという真似《まね》ができるわけではない。これはやはり松井さんの画家としての実力と魅力的な個性がものをいっているのだ。ついでにいうとこの人は最近とうとう税金を絵で払ってもよいという画家にとっては夢のようなピカソ方式を勝ち取ってしまった。まあこれは一方ではフランスがマツイという画家を他所《よそ》にはやらずに丸がかえにしてしまおうという態度を決めたともいえるのだ。一芸術家対国のダイナミックな戦いと交渉と契約の様相がそこにはある。国が芸術を足手まといとしか考えられない東洋の一島国ではなかなか生じない現象ではないだろうか。まあそんなこんなでともかく松井さんが公務員関係と何事か交渉するときには常にこういう背景があるのだった。
フレンヌ監獄の係のマドモワゼルは松井さんの話術に魅せられたのだろう。たちまち話を理解し興味をしめした。大変好意的だった。ただし今はディレクターがいないので何も決められないと言った。そこで松井さんはこの話をディレクターに伝えるよう頼んだ。あるいは命令した。そしてその返事の電話をこちらまでするよう指示した。マドモワゼルは承知した。
次の日に本当に向こうから電話があった。同じマドモワゼルがディレクターの指示をあおいだらしい。しかし内容は見学や調査の許可は法務省でやっているからそちらに手紙を書くのが順序ですというものだった。直接の会話の有効性を信じる松井さんは今度はすぐに法務省に電話をかけた。
「刑務所の係につないでください」
出てきたのはやはりマドモワゼルだった。頼んでいるのは芸術家だということを分からせながらこれまでの経過を話した。
「大変よく分かりました。それでも一応手紙を書いて送ってください」
「それは前にも聞いて知っています。しかし芸術家は忙しいのです。とくに私の友人のピアニストはまもなく日本に帰らなければなりません。早くしてください」
「お話はごもっともですがどうか手紙をお書きください」
「ではしかたありません。書きますから着いたらこれを真っ先に開封して返事をください」
「そういたします」
「必ずですよ。私の名前はマツイです。どうか書き取ってください。いいですか。MはモリスのM、AはアナトールのA、TはテレーズのT、SはスザンヌのS、UはユルシュールのU、IはイレーヌのIです」
「分かりました」
「刑務所の建物はそのピアニストのおじいさんの思い出なのです。どうか願いをかなえてあげてください」
「できるだけのことはいたします」
「お願いします。ではごきげんよう。マドモワゼル」
「ごきげんよう。ムッシュウ」
というわけで妙なことに巻き込まれた松井さんは素早く手紙まで書いてくれた。
この後一週間松井さんは朝から晩まで毎日絵を描《か》きおれは毎日それを眺《なが》め、散歩をし、ピアニカを吹き、字を書き、スペインまで往復したりした。しかし、なかなか返事はこなかった。松井さんは再び法務省に電話をしたが以前のマドモワゼルがつかまらず、らちがあかなかった。短気な松井さんはそれならというのでもう一度フレンヌ監獄に直接電話をかけた。今度は有無を言わせずディレクターを呼び出した。これまでの経過を伝え早くなんとかしろと迫った。するとディレクターが言った。
「失礼ですが新聞をご覧になっていませんか」
松井さんの家にはテレビもなければ新聞もない。電話はあるが絵を描いているときには留守番電話にしてほとんど出ない。ドアには「制作中のため予約の無い方とはお会いできません」という言葉が仏英日語で書かれた葉書が半永久的にとめられている。だから何週間も集中して絵を描いているそのあいだは荒野の一軒屋にいるのと同じだ。そういうわけでつまり松井さんは新聞は見ていないのだ。
「それならばご存じないと思いますが実はいま刑務所が大変なのです」
「どうしたのですか」
「暴動が起きているのです」
「オーララー!」
「待遇改善を要求して囚人が暴れています。大変危険です」
「オーララー!」
「二、三分なら中を見せてさしあげたいのですが今は無理です」
「せめて建物だけでも見られませんか」
「外からご覧になるのは構いませんがそういうわけですのでどうか気をつけてください」
というわけで芸術家の奥の手も暴動にはかなわなかった。松井さんは最後の手段として自分の絵のファンの警察署長に頼んでみてもよいと言ってくれたがもうこれ以上は申し訳ない。松井さんには絵に専念してもらうことにしてあとは自分でやることにした。
といっても結局はだれか他の人の助けを借りることになる。パリにきたらいつでも電話をしてくれと言ってくれていたオーボエ奏者の福田雅夫君に頼むことにした。
「というわけで郊外の刑務所までドライブをしませんか」
「面白そうですね。行きましょう」
「運転代とガソリン代と食事代はせんえつながらシビアにお払いしたいと思います」
「それはそれは」
スペインで合流してパリに来ていたムラマツ・Gにも一応連絡をした。Gは例によってバンドマンを見守りに来てくれることになった。
翌日、福田君のフォルクスワーゲンに乗って出発した。Gが助手席で地図を見てナビゲーターをしている。途中まではオルリー空港へ行くのと同じルートを南にたどりやがて右にそれて走り続けた。
福田君はドイツにいるもうひとりのオーボエ奏者の茂木大輔とコンビでありとあらゆる馬鹿《ばか》面白いことを発明する。この二人については拙著「ピアノ弾き乱入元年」(徳間書店)にややくわしい記述があるのでそちらもご参照願いたい。あれ以後、茂木君はとうとうシュトゥットガルト交響楽団の一番オーボエの座を得てしまった。福田君も仕事の関係でそろそろドイツに移ると言っているがこれは茂木、福田のガイキチパフォーマンスを連日実践せんがためという目的もあるにちがいない。
福田君は今は「この世界は実はすべてロシア人に占領されているのだが人々はそれに気がついていない」という観念に固執している。
「じゃあそこのカフェに座っているじいさんはどうなの」
赤信号で止まっているときに聞いてみた。
「ああ。あの人ね。ロシア人ですよ。KGBです。このへん一帯を監視しているんですね」
「本当かよ」
「本当ですよ。ためしに話しかけてみましょうか」
福田君はいきなり窓ごしにロシア語らしいものをカフェのじいさんめがけてわめきまくった。じいさんは何の関心も示さない。
「何の反応もないぞ」
「いやいや。一瞬ぎくりとしました。それからそしらぬ顔をしましたね。さすが年期の入ったKGBです」
そんな馬鹿なといってもこういうことは言い張られると論破することができないのがオソロしい。
やがて車はきれいな並木の立ち並ぶ高級住宅街を通り抜け監獄のある地区へと入って行った。
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第二十四章
ディビジョン通り一番地にあるフレンヌ刑務所の門の前までやってきた。福田君は車を徐行させおれは右側の窓に顔をおしつけて入口を観察した。一見大学のキャンパスのような煉瓦《れんが》造りの門だった。左右にいかめしい塀《へい》はなく普通の住宅地のような低い囲いが続いている。人は普通に出入りをしていて特に緊迫した暴動の気配はない。構内に車止めが数個配置されているだけで警戒用の機動隊のような一団は見あたらない。
「ふむふむ。ここはまだ刑務所そのものの入口ではないな。この奥に本当の門や塀があるはずだ。なるほどいきなり門や塀を世間にむき出しにしないという手法もあったわけだな」などと出来損ないの建築|探偵《たんてい》のような感想を述べた。
「これは多分ロシア政府の新しい政策なんですね」と言い張る福田君に頼んでこの一画にそって車で回ってもらうことにした。
右へ右へと回り込んでしばらく行くと左側が住宅街になってきた。ふり出した小雨の中にアパートが立ち並びスーパーマーケットがある。静かな平和な風景だ。右側は木立が続いていてその向こうにあるはずのフレンヌ監獄の建物を隠している。木立の切れ目に小高い場所があったので車を止めて登ってみた。煉瓦造りの大きな建物の集合体が見えた。長方形の建物が整然と並んでいる。放射状に配置されたものは見えなかった。
帰朝報告演説のなかで啓次郎はこの建物について図面まで出してくわしく説明をしている。いわゆる「長屋式」であると言いさらに次のように述べた。
「この図に依《よ》つて御覧になると、斯《こ》う三つの棟が並行して建つて居る、而《しこう》して方角は南北に建つて居るのです。これは仏蘭西《フランス》の近郊のフレンヌと云《い》ふ所にある監獄で、極新しいのでありまして、千八百九十八年に漸《ようや》く出来上がつたのであります。何故之《なぜこれ》を拵《こしら》へたかと云ふと、巴里《パリ》にマザース、クラン、ロケー、サン、ペラジーと云ふ三つの小さい監獄があつた(この五つの言葉がどのように三つの監獄と対応するのか不明。作者註)、それを三つ一緒に集合する目的を以《もつ》てフレンヌといふ巴里の近郊に拵へることになり、漸く千八百九十八年に出来上がつたのであります。そこでこの監獄は幾人置くかと云ふと、千五百二十人入れられる様になつてゐる。尤《もつと》も此《この》監獄は刑期の短い即《すなわ》ち一年以下の囚人を入れるのであります。我々の聞いて居つたには大監獄の方針はいけない、大概|独逸《ドイツ》あたりでは千人以下と制限して居ると聞いて居たに、今日新しく造つた監獄に千五百人以上収容する監獄を造つたのは、如何《いか》なる訳であるかと実は怪んだのでありますが、併《しか》し此処《ここ》に居る囚人は極刑期の短いものであるから、斯《かか》る大勢の人間を入れることになつたのであらうと思ひます」
その建物をしばらく眺《なが》め続けた。目が馴《な》れてくると古い塀の輪郭がおぼろげに見えてきた。
「ふむふむ。あれが古い塀の跡だ。その周りを明らかに新しい塀が取り巻いている。あの穴は監視塔が立っていた跡にちがいない。あっちの穴は物見|櫓《やぐら》だ。あの窪《くぼ》みは古代の濠《ほり》の跡だ。とするとやはりここがヤマタイ国だったか」
わけの分からないことを言っていると横では相変わらず福田君が「ロシア人は色々な策略をしますからねえ」などとあいづちを打っている。
それにしても小雨の中で三人の黄色人が雁首《がんくび》をのばして刑務所をのぞき込んでああだこうだと言っているわけで、暴動が起きているという折からもあまり平穏な光景ではない。しかし誰もあやしむ風はなく周囲の平和な雰囲気《ふんいき》はそのままだった。さらに車で回りようやく塀がむきだしになっているところを見つけて触りにいった。のっぺりした石の塀は雨に濡《ぬ》れていたがまだ少し温かかった。しばらく触っていたが、そのうち刑務所の塀に外から触れても、ただなすすべがないという気持ちになるだけだということがわかった。
車に戻り先に進んだ。じかに塀にさわれる所は結局そこしかなかった。車は刑務所の周辺を一周して再び正門前に戻ってきた。そこで降りてあてもなく門の前をぶらぶらした。守衛のところに行って「日本からきた芸術家だが実は祖父がうんぬん、だから中を見せろうんぬん」と談判する気力はとてもない。だが祖父啓次郎は八十五年前に確かにこの門を通って中に入って行ったのだ。ぶらぶらしているうちに正門に字が彫りこまれたプレートがあるのを見つけた。福田君に読んでもらった。
「ええと、セーヌ県|矯正《きようせい》院。自由、平等、博愛と書いてありますね」
「となりには何て書いてあるの」
「ええと、一九四〇年から四四年までの第二次世界大戦の時に、占領下でここに収容され銃殺されたレジスタンスの為《ため》の記念板、と書いてあります」
さらに正門の横の木立に囲まれた一画にも別のプレートがあった。
「一九四〇年から一九四四年。何千人の人々がここで銃殺されあるいはここからポーランドやドイツに送られた。そのことを忘れないようにしましょうと書いてありますね」
こちらは特にユダヤ人の為の記念板らしかった。いずれにしても日本もそれに参加したこういう歴史を啓次郎はついに知らずに死んだわけだ。
正門を背にして右前方を見ると交差点の向こうに一軒のカフェがあった。妙なことに周りには建物がなくそこだけがくっきりと見えていた。古くくたびれた風情《ふぜい》だった。客は一人もいなかった。ここを出た人がすぐに見つけて久し振りのワインやタバコを飲みに走って行くところにちがいないと見当がついた。
車に乗りそのカフェの横を通ってパリへ向かった。雨は上がっている。夕立の後のような景色の中を走って行った。
「そのおじいさまという方はこの道をやはり馬車で来られたのでしょうかね」ムラマツ・Gが例によってわざと馬鹿《ばか》丁寧な口調になって言った。
そういえばなんの考えもなしに馬車だと思い込んでいたが実際はどうだったのだろうか。ものの本によればその頃《ころ》つまり二十世紀の初めまでにはヨーロッパでは鉄道網は完備されていた。一方自動車はというとこれは未《いま》だに蒸気エンジンと電気エンジンとガソリンエンジンの優劣が定まらず入り乱れて競っていた頃だった。これに決着をつけたのがヘンリー・フォードでガソリン車の大量生産ということを一九一三年にやる。となると全行程を自動車でというのはまずない。馬車にしてもパリから結構長い距離だからやはり鉄道が好ましそうだ。最寄りの駅までは汽車で行きそこからは迎えの馬車に乗るということではなかっただろうか。今の路線で言えばパリから南へ向かうB4線のアントニーという駅で降りることになる。監獄を建てる場所について世界会議で決められた内容を報告した啓次郎の演説が思い出される。「小都会の殊《こと》に停車場の近傍であつてさうして土地は高燥にして空気の流通の宜《よ》いところが良い」。
車は再びパリへと入って行った。地図によれば地下鉄六番線のサン・ジャック駅とグラシエル駅のあいだの南側にサンテ刑務所がある。サンテ通りに入って北に向かうと道路の左側に高い塀が続いた。くすんだ色の石造りで所々に蔦《つた》がからまったりしていた。周囲のパリの町並と全然違和感がない。しかしこれが刑務所だった。左回りに一周することにした。裏側に回るとさすがに人通りのない一画となっていた。大きくはないが厳《いか》めしい門が建っていた。ちらりと見えた中の建物はやけに古さが目立ち、陰々滅々という印象さえあった。啓次郎はこの中にも入って行ったのだ。そして次のような言葉を残している。
「それは実際、ラ・サンテーと云ふ監獄が巴里にある。千二百人入れてある監獄であります。此処に巴里博覧会前の時分に拡張工事を起こしまして只今《ただいま》出来上がつて居りますが、此れも斯う云ふ風に出来て居るから、どう云ふ訳で斯う云ふ建築をしたかと聞いて見ると何事も新式を好む余り、星の形が古臭いと思つてやつたが、今日になつて見ると後悔すると云ふことを其処《そこ》の理事者が言つて居つたのであります」
説明をしないと意味不明だが、星の形とは例の放射状に獄舎を出す建て方のことだった。つまり啓次郎はここでフレンヌもそうであったような「長屋式」と十九世紀の前半にフィラデルフィアに出現したまさに監獄の為のアイディアともいえる「放射式」との比較を行なっているのだ。フレンヌもサンテも当時最新の建物だった。そこに用いられているのが「長屋式」なのを見て啓次郎はいったんは「放射式」がもはや前世紀の遺物ではないかと思う。実際新しい建て方で各棟を間隔をとって南北に建てれば光線はよくあたって囚人の健康によいし、さらにこのやり方の方が建築費も安くなるのだ。「是等《これら》の点が最も向ふの主張する所の利益のある点でありました。併し御承知の通り監獄と云ふものは悪人を入れて置く所で常に監視が必要である」啓次郎はこのように言いさらに「少ない人間を使つて余計に監督しようと云ふには、どうも私は此式は恐らく宜《よろ》しくないだらうと思ひます」と考えていた。
そして啓次郎は実際に責任者と会いどうなんだという話をしたのだ。その責任者が実は後悔していて本当は放射式にしておけばよかったと言うのを聞いて我が意を強くしたということなのだった。
しかし職務上の公式の報告とはいえ、悪人を入れて置く所だの小人数で監視しやすいだのという言葉は即物的すぎて前に示唆《しさ》された「啓次郎芸術家説」が遠のく人間像だ。しかし、便利さとは別にどこかこの放射状の建物の形の面白さに強く引かれるというセンスが啓次郎にあったという可能性も否定はできない。
建物一周が終わりかける頃に福田君が言い出した。
「たしかこの刑務所ですよ。大変な脱獄騒ぎがあったのは」
そういえば日本でも報道されたその事件は囚人の夫が待ち受けるこの刑務所の屋上に妻がヘリコプターを操縦して来てロープで吊《つ》り上げたという大荒技スペクタクルだった。たしか妻はそのためにヘリの操縦免許を取ったのだ。結局は二人とも掴《つか》まった。それにしてもかっこいいというかやけっぱちというか後先を考えないというか引田天功というかえらいことをやるものだ。
「なにしろ全部ロシアのやることですからねえ」相変わらずこの世はすべてロシアの支配下説の福田君はあきらめている。
刑務所の一画を離れサン・ジャック通りに出て左に曲がった。ダンフェール・ロシュローの交差点を右に曲がりラスパイユ通りに入ってそのまま北に向かって走った。やがてモンパルナス通りとの交差点にきて信号待ちをした。
「ほらあれを見て下さい」福田君が角のカフェを指さした。
「フレンヌに行く途中のカフェにいた奴《やつ》ですよ。やはりKGBだったんですね」
「同じ老人かい。どこにでもいるパリのカフェ老人と見分けがつかないよ」
「まちがいありませんよ。変装しているけど同じ奴です。驚かしてやりましょう」
福田君は窓を開けると老人に向かっていきなりロシア語らしきものをわめきたてた。
それから起きたことが現実のものだったのかまたまたはじまった白日夢だったのかよく分からない。その老人は驚くべき素早さでテーブルの下からロシア製カラシニコフ突撃銃を取り出すと我々めがけて発砲した。と同時にそのカフェの前景が回転舞台のようにぐるりと回ると裏側から全身黒ずくめの戦闘服に身を包んだ十数人の男がこれまた手に手に自動小銃を持って飛び出してきた。もっと驚いたのは福田君が少しも騒がず運転席の下からウジーの短機関銃を三丁取り出してそのうちの二丁をおれとGに手渡したことだ。
「この車は特殊合金と特殊ガラス及び特殊タイヤでできているので決して壊れません。適当にこれで応戦していて下さい。すぐに助けが来ます」と福田君は言った。
こうなったら大藪春彦世界をやるしかない。窓のすき間から銃身を突き出して撃ちまくった。流れ弾に当ったフランス女がゴミバコに叩《たた》きつけられてミニスカートの下から真っ白な太腿《ふともも》を剥《む》き出しにして息絶えるのを見ながら、三キロのステーキと五キロのボローニャソーセージと三十個のオレンジを二ガロンのコーヒーで胃に流し込んだ。その間に福田君はポケットからFM/AMツーバンドレシーバーICF―S16型のソニーの携帯ラジオを強烈な右手の一ひねりで取り出し、左手の軽いスナップでバッテリーチャージボックスのオープナーのツマミを開の位置にしてカバーをはずした。そこにトーシバLR6Pしかも386045/T―UのC8511型AM3―1・5ボルトのニューウルトラゼットアルカリ乾電池ジスマーク付きを二本同時に0コンマ1秒の早さで押し込んだ。すぐにアンテナをのばして送信した。ほどなく爆音と共に超音速戦闘ヘリコプターエアーウルフが姿を現わし我々の上空でホバリングをはじめた。機体の下から特殊アタッチメントをのばしてきた。改造フォルクスワーゲンは空中に吊り上げられヘリはそのままマッハ二・五の速度で一路日本をめざした。
日本では刑務所門前コンサートの計画が着々と進められていた。
「日にちは十月十六日でどうでしょうか」と揚村《あげむら》さんから連絡があった。
やはりと思った。昔から二と六に縁があることになっているのだ。おれの誕生日が二月二十六日。啓次郎の妻直子が死んだのが十六日。啓次郎が死んだのが昭和六年の二月六日。直子の生れた日を見るとなんとこれが明治十二年十月十六日だった。ぴったり当日ではないか。もっともこれは曾祖父房親《そうそふふさちか》以来啓次郎の子供の代までの家系図に登場する二十二人におれを加えてその中のたったの四例だ。おれが特に直子おばあちゃんにかわいがられたことや誕生日と結びつけてなんとなく家族がそう言うようになっていたということだった。しかし十月十六日が直子の誕生日だったという偶然はあらためて調べるまで知らなかった。そして偶然にもその前後のスケジュールがぽっかりと空いていたのだ。
「その日で結構です。それでどういうことに」
「やはり刑務所門前の野外コンサートができるようにしたいわけですが、こちらの調整がこれからですのでしばらくお待ちください」
「チェリーの連中はやってくれるのですか」
「それは大丈夫です。皆張り切っていますよ」
「市長へのぼくの手紙は届いたのでしょうか」
「コピーは私のところに届いていますから当然先方にも着いているはずですね」
「返事をくれとは書かなかったのですがあとはお任せしていいですか」
「大丈夫です。なるべくはやく実施計画書を持って会いに行くつもりです」
「あの場所でできそうですか」
「さあどうなるかご期待ください。ところであれ以後色々と新聞が取り上げています。お送りしますからご覧になってください」
これからコロニカに行って皆とも相談をすると言って揚村さんは電話を切った。やがて新聞の切抜きが送られてきた。二つともシンポジウム直後のものだった。最初のは朝日新聞で「人きのうきょう」という欄だった。
「刑務所コンサート?!
ジャズピアニスト山下洋輔さんがこのほど、鹿児島市にある旧鹿児島刑務所の石造建築の保存を訴えるため鹿児島市を訪れ、講演会に出席したり、県や市を訪れて陳情したりした。『保存運動のため必要なら正門前にピアノを置いて刑務所コンサートでもやります』と訴えた。旧鹿児島刑務所は明治四十一年にできたが、設計者の旧司法省営繕課長山下啓次郎さんは山下さんの父方の祖父に当たる。刑務所は今年三月、鹿児島県|姶良《あいら》郡吉松町に移転し、土地と建物の払い下げを受けた鹿児島市はこの秋までに取り壊し、スポーツ施設に再生させる計画だが、鹿児島大工学部建築科の教授や学生に保存を求める動きがある。講演会はこの人たちが計画、山下さんを招いた。啓次郎さんのかかわった刑務所は全国に五カ所ある。講演会では『その中でも自信作といわれた建物にこんな問題が起きて胸が痛む』と話し、ゴシック様式の装飾をふんだんに取り入れた正門を、父啓輔さん、長男康輔君とともに訪れた時は『刑務所建築という枠《わく》にしばられない遊び心を感じた。どんな客でも楽しませよう、という芸人根性に通じます』。これから毎年、夏は墓参りのつもりで祖父の関係した刑務所を回る、という」
もう一つは南日本新聞の「南風録」という「天声人語」スタイルのコラムだった。
「脱獄コンサートでもやってみたい、とジャズピアニスト・山下洋輔さんがいっている。十日前、鹿児島市で開かれた旧鹿児島刑務所を考える講演会でのこと。脱獄とは穏やかではないが、いわばジャズマンのジョーク◆石造りの旧刑務所は、七十八年前に建った。刑務所そのものは吉松町に移転して、跡地は市が再開発を計画中だ。山下さんはこの旧刑務所を手がけた時の司法省営繕課長・故山下啓次郎さん(鹿児島出身)の孫。自ら建築|探偵《たんてい》≠ニいう東大の藤森照信助教授らの『探索』で、孫のいることがわかって招かれた◆明治三十四年から啓次郎さんが手がけた刑務所は五つあり、石造は鹿児島だけで、あとはレンガ造り。五大石橋や尚古《しようこ》集成館など石造建設技術の、集大成といわれる優れた建物で、地場産業技術の履歴書の一項目。鹿大工学部の手で調査研究中だが、洋輔さんは祖父の自信作を残すため、石を一個ずつ買う運動も考える◆外界と隔絶された刑務所。暗い機能性とともに、人を締めつける力も感じさせる。半面、石造刑務所は入所者の、生活上の安全と衛生面の配慮も、当時としては高い水準だという。そこに旧帝大や西欧留学した啓次郎さんの勉強ぶりと温かい人柄《ひとがら》がうかがえるのだと藤森探偵はいう◆思えば、現代人は見えないオリの中で、幾重にも首綱、足かせをはめられているようだ。現実から思い切り脱出したい、という願望は強い。破獄、脱獄という、息づまるようなスリルと、恐怖のストーリーに興味をかき立てられるのは、その心象か◆ピアノの鍵盤《けんばん》をヒジで打ち、ゲンコツでたたく山下さん。荘重なゴシック風の門前のパフォーマンスを想像すると、現代のアイロニーが見える。ガランとなった旧刑務所建築の空間には、こもごも人にせまる強さがある」
やがて「実施計画書を作りました。これを持って市に申し出てみます」というメッセージと共に揚村さんから計画書が届いた。
計画書のタイトルは「山下洋輔メモリアルコンサート」となっていた。出演はおれで共演が鹿児島大学チェリー・アイランド・ジャズ・オーケストラ。場所は旧鹿児島刑務所特設会場。入場料は千五百円。主催は山下洋輔コンサート実行委員会。後援には南日本新聞、KTS鹿児島テレビ、鹿児島市民文化会議、LSJPの会という名前が並んでいる。
南日本新聞社の馬場さんとKTSの有村さんにはこの騒動の発端から立ち会ってもらっていたという縁がある。鹿児島市民文化会議というのは様々な芸術団体の代表者の会であり、LSJPはコロニカの中山さんを中心としたジャズ関係者の会だ。
プログラムは一部が山下啓次郎に捧《ささ》ぐピアノソロで二部がセッション・レクイエムとなっていた。チェリーの連中が一緒にやってくれるなら皆でできるフリースタイルの「レクイエム」を書いてみるからと約束していたのだ。会場は正門前の広場で借用時間は午前十時から午後九時。演奏時間は午後六時から八時。予定入場者数は三百から四百人。警備措置としてガードマン二名と主催者警備員八名の計十名が用意される。周辺の交通対策にもこれらの人があたり、会場周辺に駐車させないように渋滞を生じないように注意する。騒音対策としては必要最小限の音量にとどめ周辺住民には事前に了解をとる。仮設トイレ二基を会場内に設置する。そしてコンサート後は清掃を行ない「すみやかに原状に復します」と述べてあった。どこから見ても文句のない計画書に見えた。イベントを手がけ馴《な》れている新聞社の馬場さんやテレビ局の有村さんのアドバイスが生かされているにちがいない。
しかし次の電話でもたらされた以後の経過報告ははかばかしくなかった。
これを持って中山さん馬場さんそれにチェリーのバンマスの坂口君が市役所に行き都市整備課というところが受付けた。その時は「検討する」という返事だったが、やがて市が勝手に決めるわけにはいかないから周辺住民の許可が必要だといわれた。そこで学生代表が刑務所のある地域である永吉町の町長に会いに行った。しかし断わられた。周辺住民はそういうものを望んではいないという返事だった。
「例の手紙の件も少しからみまして市がヘソを曲げたふしもあります」
「どういうことですか」
「そちらから市長にあてた手紙は私が引き継いで返事をもらうことになっていたのですが」
「はいはい」
「これが新聞社の知るところとなりましてまたまた記事が出たのです」
「はあはあ」
「市長しか受け取ってないはずの手紙の内容がなぜ新聞社にもれるんだといって大分怒っているようですね」
「そうですか。そういう場合はたしか公開書簡とか内容証明とかいう手続きがありましたね。あれをやるべきでしたか」
「いやそれは私がコピーを受けとった段階で判断したことですから」
「というとやはりそちらから流れたと」
「ええまあそういうことです」
揚村さんはどことなく愉快そうだった。
「相手は相当圧迫感を受けているのではないでしょうか」
人々の知らないうちに決定されて実行に移されていった取り壊し計画に真っ先に気づき止《や》めさせようとしたのが揚村さんを中心とした人達だった。取り壊し反対を訴え保存運動を起こしシンポジウムを開き設計者の子孫を呼び陳情した。そしてとうとう明らかに取り壊し反対をうたう野外コンサートを当の刑務所の前で設計者の孫を擁して行なう計画を立てた。この矢継ぎ早の展開の経過でその孫が市長へ当てて書いた「お願い」の手紙がマスコミにリークされていったのだ。見事な作戦ではないだろうか。おれに手紙を書くように勧めたときにすでに揚村さんはこのタイミングを計っていたのだろう。すさまじいと言いたいほどの学者の情熱を見るようだった。この妖《あや》しの情熱に励まされなければおれは決してここまでこられなかっただろうとも思った。
「では門前コンサートは不可能になったわけですね」
「それは公式には無理ということですね」
「なるほど」
「しかしあそこでやらなければ」
「分かります」
「意味がありません」
「そうです。意味がありません」
電話の向こうで揚村さんの眼鏡の奥の目がきらりと光るのが分かった。
「許可があろうとなかろうとそこにピアノがあればぼくは弾きますよ」
「それを聞いて安心しました」
何か別の手段を考えてみると言って揚村さんは電話を切った。やがてその問題の新聞記事の切抜きが送られてきた。
南日本新聞に大変大きな記事が載っていた。七段抜きということになるのだろうか。門を右横から写した写真があり啓次郎とおれの顔写真も配されていた。一番上に横書きで大きく「祖父ゆかりの地にジャズの音ひびけ」と書いてあった。右側に縦書きで「旧刑務所で演奏会を」とあり、それに並んで「鹿児島市にラブレター=vとなっていた。左下には「鹿大バンド連など中心に実行委結成へ」という見出しがあった。
内容を抜粋してみる。
「(刑務所設計者の孫でこれこれの職業でこれこれの年齢の)山下洋輔氏が、同所の解体を進めている市に対して『取り壊される前に先祖や受刑者らを音楽で鎮魂≠キるコンサートを開きたい』旨《むね》の手紙を送っていることが、三日までにわかった。市は思わぬこのラブレター≠ノ困惑気味だが、鹿児島大などのジャズバンドを中心にコンサート実行委員会結成の準備が進んでいる」
以下おれの紹介と手紙の短い引用があり次のように続く。
「手紙を受け取った市当局は年内に建物を全面解体する方針を固めているだけに『近く取り壊しが本格化する。このためコンサートは時間的にも不可能では』と話す」
以下に「鹿大のバンド連」の反応がありバンマスの坂口君が「何が何でも実現させたい」と言ってくれていることや「既に山下氏から譜面も届き、市内のジャズ愛好家らに呼びかけ、近く実行委員会を発足させるという」ことが報ぜられていた。そして次のように結ばれていた。
「建物を調査した鹿児島大学建築学教室は六月、学術的に貴重な石造建築物として市に解体延期を要望、八月末には市民グループが同様の趣旨で、建物の一部保存を申し入れている」
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第二十五章
新聞記事は他にも三つあった。一つは南日本新聞の例の「南風録」だった。刑務所で演奏したいという申し出を山下が市にしたらしいが実現するならぜひ聴きに行きたいという出だしだった。市長への手紙が書かれたことはすでに報じられているという前提のもとにその内容が紹介されていた。欧州の城跡、小豆島の農村|歌舞伎《かぶき》舞台、伊賀上野の芭蕉庵《ばしようあん》などという今までやった変な演奏場所の話がありそういう場所で演奏すると創造的インスピレーションが湧《わ》くという手紙の主旨が引用されていた。結びは次のようになっていた。
「山下洋輔のジャズピアノなど、もともとホールなどという改まった場所より、居酒屋とか公園とかで聴きたい気がする。血をたどれば鹿児島に帰ってくる男でもある。型破りの芸術家のとっぴな思いつきは、父祖の地の文化的な眠りをさます一撃になるかもしれない」
もう一つは女性の方が送ってくれたものだった。ご本人は刑務所の近くにある短大でピアノを教えている方だった。同封の手紙には、刑務所コンサートの実現を手伝いたい必要なら署名運動ぐらいはすると書かれてあった。感謝しつつそのことは揚村さんに連絡をされるようにという返事を書いた。この方はすでに紹介したものに加えて朝日新聞に載った別のエッセイを同封してくれていた。「さつま随想」という欄に梅原秀次郎という方が書いた「残さねばならない」と題されたものだった。
梅原氏は鹿児島短期大学音楽科の教授で「重要石造建造物を活《い》かす市民の会」代表という肩書きを有せられている。二十年前に初めて門を見たときのことが次のように書かれていた。
「車は電車通りを北に走り、左折して狭い石橋にかかった。すると私は目を疑った。正面にヨーロッパのゴシック様式のような、大きな石造りの門があったからである。私は迎えに来てくれた人にあわてて『あれは一体何か』と尋ねた。すると彼は、妙な事を聞くものだ、と言わんばかりに『どれですか、ああ刑務所ですよ』と何の感慨もない声で答えた。私が盛んに感激しているものだから、彼は『毎日見ているので何とも思わんですけどね』とこともなげにつけくわえた」
その後梅原氏は鹿児島に居を移され永吉町にある短大に通われる道で毎日石門を見て飽きることがなかったと言われる。そして「いま刑務所は移転を完了し、建築学者たちが、この建物のわが国における、あらゆる意味での重要さを指摘している。その一部を残せ、残さないの議論ではなく、後世に残さなければならないものだし、残すのが当然であると思う」と述べられ、最後はやや皮肉を込めて次のように結ばれた。「明治の初め、日本で唯一《ゆいいつ》鹿児島だけがすべての寺院・仏閣を完全に破壊したのであるから、たかが刑務所ぐらい破壊するのはいとも簡単なことかもしれない。天に祈らねばなるまい」
三つ目の新聞記事には次のような個所もあった。
「『暗い面影《おもかげ》はもういい。早く撤去して地域に還元してほしい』と地元の人はいう。が、橋向かいの喫茶店主は『雨上りや霧に浮かぶ石造は美しい』といった」
同じ欄の経過説明のところには次の文章があった。
「今春、新刑務所は県北の吉松町に引っ越した。跡地は全面解体し、地域再開発に活用するという約束で市は国と契約している。だからすでに一部を壊し、九月市議会でも、正門をのぞく旧施設はすべて年内に撤去という方針を明らかにした」
ここには市の方針がはっきりと書いてあった。本体を壊す意思は少しも変わっていないのだ。ただしどうやら門は残るらしい。この結果をおそらく揚村さんは最初から分かっていたのだろう。分かりながらやはりこのままでは引き下がるわけにはいかなかったのだ。この記事の終わりの方にはその揚村さんの談話も載っていた。揚村さんはシンポジウム以来の一貫した主張を述べていた。しかし現在着々と進行中のコンサート計画については触れていなかった。
「市民の会事務局長の揚村さんは『解体だけを考えず、活かす方法も考えてほしい。舎房をユースホステルふうに、プール、テニスコートをつくるとか』と、再生・活用を呼びかける。地域の再開発には『地元の繁栄』という大義名分だけでなく、『都市の美学』も必要なのではないか。それが今、この受刑の館《やかた》に問われている」(朝日新聞〈列島ふるさと話〉欄〈受刑の館〉)
市の決定がくつがえることはないにしろせめて最後まで抵抗をしたい。それが揚村さんが最初からおれに示していた原則的姿勢だったのだ。最初から負け戦は覚悟だった。
せめて暴れるだけ暴れて勝手に物事を決めてしまった者達に何事かを分からせようとしているのだ。またしてもおれの頭の中に百年前の西南戦争が浮かんできた。
「だからこのヤマシタをタマに使えばいいだろうが」
コロニカでの作戦会議でトロツキーが弁舌をふるっていた。
「刑務所がちょうど壊される年の一月にやってきて設計者の孫だと言い出すなど願ってもないことだ。知名度もそこそこある。やれと言えばどこまでもやるエビセン体質だ。我々もどうせやるなら派手にやろうではないか。その趣旨にはこれはぴったりのタマなのだ。これだけ新聞も騒いだし、後はマスコミを総動員してコンサートをやり、その場で玉砕させれば完璧《かんぺき》だ。演奏のクライマックスであらかじめ隠しておいたダイナマイトを爆発させてあの門もろとも吹っ飛ばすことにしよう。反対運動をけむたがる官の仕業《しわざ》だと宣伝する。それから混乱にまぎれて市役所と県庁を乗っ取り政府の弾薬庫を襲撃し、返す刀で川内《せんだい》の原子力発電所を襲ってこれを占拠する。我々の言うことを聞かないなら原子炉を爆破するといって中央政府を脅す。どうです。さらに別動隊は熊本城を包囲する。田原坂《たばるざか》には機関銃を備えつけるから今度は絶対に官軍には負けない。もう一隊は長崎港で米国の原子力航空母艦を奪い東京を襲う。皇族を一人さらって函館にたてこもる。なに? 一緒にダイナマイトで吹っ飛ばされる学生たちがかわいそうだ? 馬鹿者《ばかもの》。革命に犠牲はつきものだ。そのような女々《めめ》しい考えで権力が倒せると思っているのか」
あわてて白日夢を追い払った。
季節はやがて九月になった。これらの新聞の切抜きを持って実家に行くことにした。昔から外国旅行の前後には実家にある神棚《かみだな》にあいさつをするというのがなんとなく習慣になっている。今回は出かける前に寄れなかったのでそれのつぐないもある。
茶の間にある神棚には啓次郎の写真とその夫の死後三十年生き続けた妻直子の写真が飾ってある。直子の写真の方が当然年をとっていた。手を合わせて目を閉じた。
「このたびは色々とお世話になっております。啓次郎さんも直子さんも房親さんも雄熊《ゆうぐま》さんもその他のもろもろの北京《ペキン》原人までさかのぼるご先祖様たちも私のやっていることをどうか怒らないでくださいね。これは仕方のないことなのです。どうしてもやらねばならなかったことなのです。なぜそう思うのかは分かりません。もしかしたらあなた方が私にやらせたのではないですか。え、ちがいますか。では私がこういうことを始めたことについて、あなたがたはどう思っておられるのですか。怒っているのですか。笑っているのですか。お声をお聞かせください。駄目《だめ》ですか。失礼しました。しかしどうであろうと私はこれをやってしまいますからね。もう意地ですからね。そこんところどうかよろしく。遅くなりましたが今回の外国旅行を無事にお守りくださって有難うございました。どうかまたこの次もよろしくお願いします。お参りに来られないこともありますがそのときはお見逃しください」
三秒の間に都合のよいことを全部願ってしまった。
父親は毎日の習慣の散歩からまだ帰って来ていない。新聞記事の切抜きを見た母親は面白がっているようだった。
「あの門の前でねえ。でもピアノはどうやって持ってくるの」
嫁入り道具にピアノを持ってきて朝から晩まで弾いていた母親だからすぐに実際的なことを考える。しかしそう言われればこれはどうするのだろう。誰のピアノをどこからどうやって持ってくるのだ。
「それにしてもあなたは直子おばあちゃんにかわいがられたわねえ」
母親の話題はどんどん変わる。確かにそうだった。長女と長男は母親に渡したがこの次男だけは自分のものにするという理屈があったのではないかと思われるほどひいきをしてくれた。
一緒の部屋に寝起きをした。朝起きると枕元《まくらもと》にはサツマイモやお菓子などの「お目ざ」と称するおやつと紙と鉛筆が置いてあった。腹ばいのままそれを食べながら紙にいたずら書きなどをしているとやがて祖母が目を覚ます。白い長じゅばん姿のまま布団《ふとん》の上にすっくと立ち独特の体操を始めるのだ。全身に反動をつけながら伸ばした両腕を肩の高さまで上げ下げする。それぞれの腕をもう片方の手で肩からもみおろす。握りこぶしで肩をとんとんとんと叩《たた》く。首をぐるぐる回す。一体どこでどうやって憶《おぼ》えたどういう流儀の体操だったのか。とうとう聞くことはなかった。
話をした覚えはほとんどない。大学とか東大とかいうこともやかましく言われたことはない。兄にはずいぶんそう言ったらしい。あまり聞かされるのでおとなしい筈《はず》の兄がついに爆発し「そんなに東大東大というんなら東大に入れなかったら死ねばいいんだろう」と怒鳴ったという話がある。以来こりたおばあちゃんは静かになりもっぱら次男を手元におくことで満足していたかに見えた。しかし大学イコール東大という考えはこの人にとっては変えられる考えではあり得ない。口では言わないが頑固《がんこ》にそのことは思い続けていた筈だった。高校を出て二年間ピアノを弾いて暮らしていたときも「洋輔はいつ大学に行くのか」と時々母親に聞いていたらしい。じっと待っていたのだ。
「直子おばあちゃんの超能力事件というのもあったわねえ」
晩年もう寝ているだけの日々だった。その頃《ころ》にとうとうおれは大学を受けることになった。といっても国立《くにたち》音楽大学だ。国立《こくりつ》と思い込む人にはそう思わせたままにしておくというメリットのある名前の学校だがもちろん東大ではない。しかしそろそろ夢の世界を漂っていた祖母にはそういう区別はつかなかった。「洋輔は音楽をやっていてこれは音楽大学というものなのですよ」と母親が説明したとしてもよく理解したとは思えない。洋輔が音楽が上手でそれをやっているのはいいが、それはそれとして東大にはいつ行くのかと思っていたにちがいない。
超能力事件はそのときに起きた。受験の前の日に受験票がなくなったのだ。どこを探してもない。どこにしまったのかも思い出せない。このときに寝たきりでそもそもそういう問題が起きていることも知る筈のない祖母が母親を呼びうわごとのように言ったのだ。
「あれは二階の洋輔の部屋の引き出しの中にあります」
半信半疑で母親がそこを開けてみると受験票があった。
「あれにはびっくりしたわねえ」
その受験票で受験をし音楽大学に入れることになった。その報告を母親が祖母の耳元でした。「洋輔が大学に入りましたよ。大学に入りました」祖母はかすかにうなずいたらしい。「でも東大ではなくて音楽の大学なんですよ」などと余計なことは母親も言わなかった。ダイガクに入ったということはそれは即《すなわ》ちトーダイに入ったのだという風に祖母の頭がなっていたのならそのままでいいのだ。
入学式の六日後に祖母は息を引き取った。
「あの方にはあたしは二十年仕えたことになるわね」
「それはご苦労さまでした。ところで直子おばあちゃんの方の舅姑《しゆうとしゆうとめ》さんはどうだったのかな」
「啓次郎さんのおかあさまはご病気でね。『帯も解かずに看病をした』とよくおっしゃっていたわよ」
「でも年表をみると寿賀《すが》さんが亡《な》くなったのが明治三十一年五月で啓次郎さんと直子さんの結婚は同じ年の十二月になっているね」
「昔のことだから式の前に事実上はお嫁さんだったのかしらね。ご病気中なので式が挙げられなかったということかしら」
元治元年(一八六四)に山下|龍《りゆう》右衛門《えもん》房親に嫁いで以来三十四年間の激動の時間を共に過ごし五男六女をもうけた寿賀は明治三十一年五月に死んだ。同じ年の十二月に啓次郎と直子の結婚式が行なわれた。
「でもそのあとお舅さんの房親さんがいたよね」
「それがね。すぐにお世話をする人がきたんですよ」
「誰なの」
「しげさんという人でね。直子さんより少し年上のきれいな人だったのよ」
このしげさんについては以前の親戚《しんせき》の集まりでも聞いていた。母親はもちろんこのあたりのことは実際に見聞きはしていないのだが嫁に来て以後話を聞いているのだ。このしげさんが房親の世話をしなんとなくシャモジをにぎる感じだった。女中もいたから実際に直子が一家全体を差配しなくてもよかったようだ。舅姑でも料理でも直子には何の苦労もなかった。それにひきかえ私はというのが母親の言いたいことらしかった。
ところでこのしげさんは房親の死後、浅岡|満俊《みつとし》造船中将に嫁いだ。子供ができなかったので啓次郎の四男の啓四郎を養子に迎えることになる。もともとこの兄弟にとっては母親同様になついていた乳母のような人だったのだ。
房親の家は麻布の中ノ町にあった。この時期そこには一家が皆一緒に暮らしていたらしい。啓次郎の兄の雄熊もまだ独り者だった。長女と次女はすでに嫁いでいた。三女と四女は若いうちに亡くなっていた。このときには十九歳になる三男以下四男、五女、六女、五男がいた。房親としげさんを加えて総勢十人だ。これに何人かの女中が加わる。家長は勿論《もちろん》房親だった。長男の雄熊が家督相続をするのは房親の死後十年たった大正十四年になる。日付は三月二十六日。おっと以前に書いたこの家とおれにまつわる二と六の因縁がこんなところにもあった。
そのつもりで年表を見るとまだあった。長女の嫁いだのが十六日。次女は二十二日。三女は十二日に死亡。三男は六日に生れ六月六日に死亡。四男は二十二日に死亡。六女は六日に生れ、十六日に結婚、そして二月二十六日つまりおれの誕生日と同じ月日に死亡。前には啓次郎の子供の代までの二十二人におれを加えてもたったの四例だと思っていたが房親の子供の代までさかのぼってこういう風にしつこく見てみると、さらに六人にまつわる九例が符合することになった。合計十三例だ。すごい確率と言える。
しかし実際はどうなのだろう。一年のうちで二か六がつく月は二月六月十二月だから十二分の三つまり四分の一の確率だ。月のうちで日にちがそうなるのは二、十二、二十二、六、十六、二十六だから大体三十分の六つまり五分の一だ。これが一人の人間の誕生結婚死亡という「谷間に三つの鐘が鳴る」人生の三度の節目に当る確率は、四分の一の五分の一の三回の、ええと、恥ずかしながら何にも分からない。まあとにかく門前コンサートの日にちが十月十六日と決ったときに「ああやっぱり」と自然に思う背景はあったということなのだった。
この大家族の中で啓次郎と直子の間に子供が生れて行く。長男の房雄のことは前に書いた。そのあとに生れたおれの父親である次男の啓輔も房親にかわいがられた。よく一人だけ二階に呼ばれてウナギを食べさせてもらった。
直子が嫁いできたのを待っていたかのように長男の雄熊、三男の清治、六女の幸が結婚する。逆に四男の康貞、五女の順が若くしてこの世を去っている。五男の豊彦はまだ若かった。ちなみに長女の栄と次女の徳はすでに大山綱昌という人の前妻と後妻となっていた。姉が亡くなったので妹が後妻に行ったのだ。三女の直と四女の愛もともに若死にだった。
このようにして明治の終り頃になるとさしもの大家族も嫁に行ったり死別したりするものが増えて以前のようではなくなっていた。そしてその間ずっと啓次郎夫妻が房親と共に住んでいた。結婚した兄や弟はそれぞれ別に家を持った。
「この後大正になって房親さんの死後に啓次郎は自分の家を建てるわけだね。それにしても今残っていないのは残念だな。やはり戦争で焼けてしまったわけだね」
「いいえあなた。あれはもうその前から手放していたんですよ」
「ああそうか。戦争で焼けたとしても自分の家ならその跡に住めるはずだもんね。でも手放したっていうのはよほど困っていたのかな」
「いえね、それもあの清治さんのせいだという話もあるんですけどね」
「あ、その人か」
以前の親戚の集まりでもこの啓次郎の弟の話はちらりと出た。どうやら自由奔放に暮らした人らしくかならずしも親戚の受けはよくなかった。というより諸悪の根源をこの人に帰するというような雰囲気《ふんいき》があった。
「清治さんという人は面白そうな人だね」
「この人のおかげで家も財産もなくなったと直子さんは言っていましたけどね」
「どういう話が残っているの」
「それは色々聞きましたよ。たとえば、あらあらあなたこれを書いてはいけませんよ」
「書きません書きません」
というわけで聞いた話はたいへん興味深いものだった。
この人は何度も兄の啓次郎のところにきては金を無心していた。そういうふうに家族の記憶ではなっているのだ。啓次郎はそのたびに金を貸していた。あまりに続くので直子がとうとう怒った。子供たちの養育費にまで手がつくとはどういうことだ。やめてくれないのなら井戸に飛び込んで死ぬとまで言った。直子は清治を出入り禁止にした。
家が出入り禁止になると清治は啓次郎の勤める役所にまでやって来た。どこそこに銀の出る山がある。掘れば絶対に大儲《おおもう》けができるなどというのが理由になったときもあった。そのたびに啓次郎は金を貸した。どの金も返ってこなかった。清治のこの振舞いは最後まで直らずとうとう啓次郎が病に伏しているその病床にまで無心の手紙をよこした。啓次郎は布団のうえでそれを読み珍しく怒気をあらわにして舌打ちをしその手紙を投げ捨てた。死の前日だった。
清治は大変顔立ちのよい男だったともいう。女にはもてた。義理の妹になる英国大使夫人に横恋慕をしていたという話もある。フランスにいる従兄弟《いとこ》の与志夫が子供の頃にその姿を垣間見《かいまみ》て胸をときめかせた鹿鳴館《ろくめいかん》から抜け出したような美しい夫人を啓次郎の弟も恋していたわけだ。この夫人は直子の妹だから直子が清治を毛嫌《けぎら》いする理由がここにもあった。
啓次郎は息子たちのために貸家にできるような家を三軒建てておいた。それも清治のおかげで借金のかたに取られたと直子は話していたらしい。どうしてこういうことになったのか。家系図と年表を眺《なが》めているうちにだんだんと納得できる筋道が姿を現わしてきた。原因はどうやら清治の生れる前後の事情にある。そしてそこにも西南戦争が大きな影を落としていた。
啓次郎の父親である山下房親は明治維新のときには二十七歳だった。それより五年前に起きた薩英戦争の翌年に結婚しその年の暮れには長女が生れる。元治元年のことで禁門の変や第一次長州征伐があった年だ。さらに慶応二年と三年にたて続けに男の子が生れる。次男啓次郎が生れたのは王政復古の大号令が下った九日後だった。この後|戊辰《ぼしん》戦争後の明治三年に次女が生れるまで子供はない。つまり房親が戊辰戦争に参加していていそがしかったという事実と符合する。そして続けて明治四年の十月には三女が生れるがこれはつまり例の十月十日《とつきとおか》の原則からしてその年の一月ごろには房親は家にいたことになる。
ところが四月に西郷隆盛からの呼び出しがあって急にいそがしくなる。この三女の出産には立ち会えなかっただろう。上京後そのままポリス制度の成立の渦中《かちゆう》にいたからだ。そして明治六年に西郷が鹿児島に帰ってもそのまま東京に残った。やがて明治十年に西南戦争がおきる。
この間単身赴任であって子供が生れるチャンスはない。次に生れるのは明治十一年つまり西南戦争終結直後だ。明治四年の上京から西南戦争までの房親の境遇と子供の出生の状況とはぴたりと一致している。
明治九年に家族を鹿児島から呼びよせた房親は子供をつくる暇もなく翌年の二月には警視隊の一員として戦争に出かけていった。大分の山中で西郷軍と交戦し片足を失って帰ってくる。早い時期の戦線離脱だった。負傷が三月十八日だから遅くても一月後には家に帰って来ていたろう。そのころの戦況は政府軍が熊本城に入りやがて西郷軍は人吉《ひとよし》に向かうあたりだった。西郷軍の敗走の旅のはじまりともいえる時期だ。そのしらせを刻一刻受けとりながら房親は負傷の身を休めていたのだ。
やがて夏の盛りのころになると房親はすっかり回復した。その証拠に十カ月後の翌年五月の終わりには七年ぶりの子供が寿賀に生れる。寿賀がこの子を身ごもったときには西南戦争はまだ続いていたのだ。やがて宮崎方面を敗走していた西郷軍は九月に入ると死に場所を求めるかのように鹿児島にもどって行き二十四日に政府軍の総攻撃をうけ西郷は自決する。
かつての恩人の死を房親は敵軍の一員という立場で知ることになった。手紙をもらい上京し準備がまだだから帰って待てという指示と共にその人自ら旅費を手渡してくれたのがわずか六年前だったのだ。再び呼ばれ今の職を与えられた。その職にとどまることによってその人と戦うことになった。その戦いがようやく終わったのだ。そしてこれは薩英戦争以来明治維新をはさんで休むことなく続いていた房親自身の戦いの日々がようやく終わったということでもあった。もうこの国の中で戦争は起こらない。明治政府は最後の反乱軍を鎮圧したのだ。
戦いの日々の間に命が宿り戦いが終わったその次の年に生れてきたのは女の子だった。房親はこの子に愛という名前をつけている。西郷隆盛が好んだ「敬天愛人」という言葉が頭にあったのだろうか。いずれにしても平穏な日々への願いが込められているかのような名前だった。家族と再会してはじめてできた七年ぶりのこの子を房親は心からいつくしんだろう。しかし、この愛の寿命はわずか一年だった。長い長い戦いの日々へのつぐないのように愛にはつかの間の命しか許されなかったのだ。
これが清治の生れる直前の状況だった。清治は愛がこの世を去った二カ月後にその身代りのように生れた。しかもこの家にとって啓次郎以来実に十三年ぶりの男の子だった。その時三十九歳だった房親の喜びが想像できる。この子の誕生を喜び愛の分もあわせて成長を願いいつくしんだだろう。
清治という名前の一字は遠い弘化の昔にここ東京で死んだという房親の兄清太郎からかもしれない。治の字は新しいこの明治の時代からとったものだろう。この家にとってはじめての明治生れの男の子なのだ。大事な意味が込められた名前だった。
この子供は戦乱の世の終わりと共にこの家にもたらされたかけがえのない宝だった。親の房親はこの男の子をどのように育てればよかったのだろうか。房親に戸惑いはなかっただろうか。
啓次郎までは伝統的な教育の体系があった。房親は東京にいて離れていたが明治になってからも鹿児島だけはサムライ養成の伝統的システムを維持していた。自動的に啓次郎はその中で育った。九歳で東京にくるがそれまでに叩《たた》き込まれたものはどこかにバックボーンとしてあるはずだった。
しかし清治はそれと同じではなかった。この家ではじめての東京生れの男の子だった。勿論周りには郷中《ごじゆう》はない。サムライもその精神ももはや時代遅れだった。房親はどのような価値観をこの子供に伝えればよかっただろうか。啓次郎のときには「もう戦いの時代ではない。お前は知恵でこの国にご奉公しろ」といったかもしれない。そしてそれは素直に啓次郎の心に伝わったかのようだ。父親が切り開いた運命を自分が引き継ぐということがごく自然に納得のできる時代背景があった。しかし清治の事情はそれとはことなるのだ。まったく新しい教育制度によって育てられなければならない。世紀の替り目を二十歳くらいで過ごすことになる新しい世代だ。彼らには、家にまつわる使命感も出世への必死の意気込みも自分がやらねば家が倒れるなどの危機感もなかっただろう。
そんなこんなでつまりは清治は勝手に生きた。様々の理由で房親はそれを許した。なによりもこの子がかわいくて仕方がなかった。そのことは十三歳年上の兄啓次郎にも共通した心理だったかもしれない。もう平和の時代なのだ。幸い一家は成功し裕福に暮らしている。この子をつらい目にあわせてまで鍛える必要があるだろうか。
この家の戦いの日々がようやく終わったその直後の安堵《あんど》感の中に生れた幸運によってこの子供は我がままを許されて育ったのだ。
成長してから前に書いたようなエピソードを残すわけだが啓次郎の財産がすべて清治のために失われたというのは少し極端かもしれない。
家長の房親は大正四年に死に啓次郎も昭和六年に死ぬ。このときには啓次郎の長女は嫁いでいたが三人の男の子と二人の女の子が直子の手もとに残された。夫を失った母親のもとで一家六人が暮らさなければならなかったのだ。
房親や啓次郎の恩給がどうなっていたにせよ、まだ大学生だった啓輔以下五人の子供たちが養育されていかねばならない。そして彼らはすべていわゆる高等教育を受けることになる。大変な金が必要なのだ。しかしどんなに貧乏をしても子供にはよい教育を受けさせるという鹿児島の伝統的気質によって直子は躊躇《ちゆうちよ》なくそうしたろう。その金はやはり持っているものを売るしかなかったのだ。清治によって借金のかたにされたという啓次郎の建てた三軒の貸家があればもっと楽だったかもしれない。それがあれば直子は啓次郎の自作の家を手放さなくてすんだのかもしれない。そうだとすると直子が終生清治を恨んだ気持ちは分かる。
ちなみにこの直子と清治という義理の姉弟は同い年だった。房親の後輩として警視庁のために働いた直子の父親の末弘直方もあの戦争直後にこの長女を得ていたのだ。
なんとなく清治に親近感をおぼえていた。出来のいい兄に迷惑をかける弟というのは古今東西どこにでもいる。エデンの東にもいた。そしてそのストーリーの結末はそれぞれだ。何をやってもかなわない兄というのはおれにもいた。唯一《ゆいいつ》音楽だけがこちらのポイントだった。清治も自分の表現方法を見つけなければならなかったのだ。そして奇妙なやり方だったがあれが清治の見つけ出した独自の表現方法だった。それによって清治はこの一家の歴史の中でどこか鋭い存在感をもって記憶される人物となったのだ。
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第二十六章
「刑務所門前でのコンサートはどうやら不可能になりました」
電話の向こうで揚村さんがいった。
「そのようですね」
「しかし当日にコンサートはやるという方針で進めています」
「どうなるのですか」
「市民文化ホールというところを借りました。ここでチェリー・アイランド・ジャズ・オーケストラがかねて用意のリサイタルをやります」
「はい」
「そこにゲストとして参加していただくというのが一案です」
「ジョイントリサイタルになるわけですか」
「私はよく分かりませんが、ソロもしていただき、できればチェリーの演奏にも参加していただきたいということらしいですね」
「そうですか。それはできると思いますが」
「それからやはり啓次郎さんへのレクイエムもやろうということです」
「そのテーマはあるわけですね」
「そうです。実は盛り上がっていまして取り壊し反対の署名運動も始まりました」
「そうですか」
「そのままの勢いでやりたいわけです。演奏中にうしろのスクリーンに刑務所の写真や啓次郎さんの写真を映すというようなことも考えています」
「なるほど」
「そちらは有料になります。採算が取れましたら飛行機代やホテル代がお払いできます。もっと結果がよかったら演奏代もお払いすることができるかもしれません」
「それはなによりです」
「こちらはなんの障害もなく計画が進行中ですのでよろしくお願いします」
「はい」
「そこでもうひとつの方ですが」
「ええ。刑務所門前ですね」
「そうです。断わられたといってもこのまま引き下がりたくはない」
「ぼくも同じですよ。こうなったらいきなりピアノを持ち込んでやってしまいますか」
「それもいいですがそれだと市が止めにきますね」
「そうですね」
「最後までちゃんと演奏できるかどうか分かりません」
「ええ」
「やる以上未遂になるのは不本意ですし不法という口実を向こうに与えるのはどうも後味がよくない」
「なるほど」
「もう少し別のやり方があるのではないかと思うんですがね」
「といいますと」
「たとえば山下さんは作曲をされるときにはピアノが必要なんでしょう」
「そうですね。それがあるのがやはり一番いいですね」
「そうするとたとえばですよ、おじいさまの作られた門のあたりを散策しながら作曲の構想を練るというようなことも起り得ますよね」
「あ。なるほど。筋としては通りますね」
「そういうことをする許可を申請したらどうでしょうか」
「ああ。分かりました。つまりええと、ぼくがあの門を見て作曲のインスピレーションが湧《わ》くわけですね」
「そうです」
「どうしてもそこに行かなければ曲ができない。それで一日あそこを散策しながら髪をかきむしってアイディアを求める。おおこれじゃといって曲が湧きだしてきた瞬間いつの間にかそこにはピアノが置いてある。それを心ゆくまで弾きまくる。こういう筋なんですね」
「そうです」
「そこにどういうわけかドラムもベースもラッパもトロンボーンもサックスもやってきて大セッションになる。そうなると当然何だ何だというので見物人も大勢集まる」
「そうなるといいですね」
「その楽器を持った連中というのがかねて顔見知りの鹿大のジャズ研のメンバーだというのも不思議なことですが、実は彼らは練習の帰りに楽器を持って偶然そこを通りかかったというわけですね。ぼくがいるのを見て思わず演奏に参加してしまったと」
「完璧《かんぺき》ですね」
「彼らがドラムやベースのような大きなものをわざわざ練習帰りに引きずって歩いているのは変ではないかと言う人もいるかもしれないが決して変ではない。これは彼らの日頃《ひごろ》の習慣であった。こういうわけだから計画的なものはどこにもない」
「まさにそういうわけですね」
「しかしこのような話が本当に通りますか」
「申請するのは発端のところだけです。とにかく山下というあの場所にゆかりの人が創造的活動をする為《ため》にあそこに行くと言います。ピアノを持って行くとは言いません。作曲活動に必要ななんらかの楽器のようなものを携帯するかもしれないと言います。普通はピアノがないときはどうされますか」
「ああ。旅先ではピアニカという鍵盤《けんばん》のついたハモニカのようなものを使うことがありますよ」
「ギターなんかはどうですか」
「ぼくは使いませんがそれで作曲をする人はいます。最近は肩からかけるシンセサイザーのキーボードもありますね」
「なるほど。とりあえずそういうものを携帯するかもしれないということにしましょう。とにかく山下さんが楽器と共にあそこにいることを許可したという事実があればいいのです」
「分かりました。よろしくお願いします」
「申請書ができましたらコピーをお送りします」
「ではお待ちしてます」
どういうことになるのか、とにかく待つしかない。
この間にまたまた行なわれた二件の外国刑務所見学について書くことにする。
一つはベルギーにあるサン・ジール監獄でこれは揚村さんたちの研究によれば啓次郎が参考にした可能性が最もあるとされているものだ。なるほど写真で見る正門は旧鹿児島監獄のものによく似ている。バトルメントのついた塔があり一見古い城だ。全体の構造も啓次郎の好きな放射式になっている。
ユーロパリア・ジャパンの催しで和太鼓の林英哲さんとのデュオコンサートがベルギーであった。コンサート会場はヴィルトンというブリュッセルから二百キロほど離れた小さな町の公会堂だったが公演の翌日空港に行く途中に寄ってもらったのだ。依頼を受けた現地主催者はたいして怪訝《けげん》な顔もせずに承知してくれた。一人の青年がよく知っていて地図を書いてくれた。ブリュッセル南西の市街地にあるらしい。
当日の朝に三台の車に分乗して出発した。PAや照明のスタッフも日本から来ているから現地スタッフを入れて総勢十四人になる。最初はブリュッセルに残る組は途中で別れることになっていたのだがどういうわけか全員が監獄まで来てしまった。ブルグマン通りを右折してジョンクシオン通りに入ると左がわに白い高い塀《へい》が連なっていた。正門前に止まり車から降りて道路越しに門を眺《なが》めた。
なるほどよく似ていた。本当の城にしては少し小さいサイズまで似ていた。ただこちらの正門全体は左右に長く作られていて塔も二つだけでなくいくつもにょきにょきと出ている。塀がはじまるまでの左右の広がりがたっぷりとあるのだ。
アーチ形の頑丈《がんじよう》そうな木の扉《とびら》の前に二、三十人の人が群がっていた。我々同様の見学者達かと一瞬思ったがやはりそうではなくこれは面会の人たちにちがいなかった。向こうも急に現れてわいわい言っている日本人どもを怪訝そうな顔で見ていた。面会かあるいはジャパニーズヤクザの出所だと思ったかもしれない。まさかこのような理由で見にきているなどとは想像もつかないだろう。
揚村さんから送られてきていた資料の中のサン・ジール監獄の写真を取り出してながめた。当然ながら目の前にあるものとそっくりだった。ただ写真の方は建っている場所の印象が郊外という感じで今やすっかり町中になってしまっている現在の景色とはやはりちがっていた。といって極端な違和感があるわけではない。パリやフレンヌがそうだったが、赤レンガのアパートの次が石の屋敷で次が公園でまた大きな古い建物があってその隣が少し高い塀の建物だなとおもうとこれが監獄だったというわけなのだ。これに比べてフィラデルフィアのものは同じ町中にあってもどこか不気味な違和感を放っていた。鹿児島では瓦《かわら》屋根の連なる住宅地にいきなりそびえたつ石の城というわけでこれは違和感というよりはエキゾチシズムになるかもしれない。
しばらく見続けた。なりゆきで一緒にきてしまった連中には申し訳ないがこんなことでもなければ外国の刑務所を見るなどということはまずないというその貴重性に免じて勘弁してもらうことにした。中には面白がっている人もいてPAのニイ君などはどういう断片的情報の独断的解釈によるのか、
「これが山下さんちのおじいさんが作った刑務所です」
などと皆に吹聴《ふいちよう》している。
「ちがうだろうが」
あわてて止《や》めさせた。
道路を渡って門を背景に写真をとった。門の前の人々がこちらを見て相変わらず怪訝そうな顔をしている。その向こうで大きな木の扉が開きはじめた。制服の係官が面会人の入場の整理をはじめたようだった。
祖父啓次郎は八十五年前にこの木の扉を通って中に入ったのだ。ここになら来訪の記録が残っているにちがいないという考えが急に浮かんだ。一瞬そこに走って行って「おれも入れてくれ」とわめきたい衝動にかられた。しかしすぐにあきらめた。面会人達はぞろぞろと入って行った。それを見ながら帰りどきだという気になっていた。三台の車は再び出発し我々の乗った一台だけが途中から空港に向かった。
ブリュッセルからロンドンまではひととびだった。ヒースロー空港でこれから一人でアイルランドを歩き回るという林英哲さんと別れて外に出た。そこに旧友の上山高史夫妻が待っていてくれた。
上山氏は年上の友人で元ジャズ歌手だ。知り合ったのは一九六二年だった。グアム島のアンダーセン米軍基地の慰問芸能団の一員で行ったときに一緒だったのだ。グループは違ったが話が合って友達になった。顔が日本人離れしていたのでしばらくはフィリピン系の人の里帰りだと思っていたのだが話してみると日本人で慶応出身だというのも面白かった。
趣味のよいスタンダードジャズナンバーを驚くほど沢山知っている。英語は完璧でフレージングはモダンだ。特にフラッテドフィフスのサウンドが好きで何かというとその音を偏重する。そのたびに伴奏しているおれは喜ぶ。以後、長い付き合いで家族の一員のようになった。母親にお茶を習ったりもしている。
以前はテレビにもよく出たが、やがてスタンダードジャズを歌う男性歌手などというものが出にくくなる時代になるとさっさとデューダして国際的なエンジニアリング関係の会社に入ってしまった。きれいに足を洗ったかと思いきや実は全然洗っておらず日夜ピアノバーに現れては難しい歌を歌いまくって伴奏者を困らせるというくせ者になっているのだ。
イギリスにはすでに二年程住んでいてロンドン支店をまかされている。おれがベルギーでやるという情報をロンドンのジャパンファンデーションから聞き込んで帰りは絶対に寄れという命令だったのだ。イギリスでの上山家滞在スケジュールをどんどん決めてしまった。連日ジャズソング漬《づ》けになろうというのでこちらも実は嫌《きら》いではないからいいのだが、折角の機会なので刑務所見学の件も頼んでおいたのだ。
啓次郎の報告ではイギリスの刑務所として、ドーバー、メイドストン、ヨークの三つの名前があげられていた。そのうちのメイドストンは上山家のあるロンドン南郊からさほど遠くないケント州の州都だった。そこに渡りがついたらしい。
「秘書のミス・マンレイというおばちゃんが全部やってくれたのよ。お礼を言っといてよあなた」市内に向かう車を運転しながら相変わらずの妙な口調で上山氏は言った。
車内で上山家がプランしているおれのイギリス滞在の予定を夫人のミオさんから聞き出した。それによると、一日目の今日は事務所訪問のあと市内で夕食。二日目に刑務所見学。三日目にはミオさんの案内でロンドン市内大観光。これは郊外電車、バス、地下鉄、タクシー、徒歩をすべて利用する総合調査となる。四日目はミオさんの大買物ドライブのお供。これは五日目の自宅大パーティーのためのものらしい。これには紳士淑女計二十二人が招かれ公用語は英語だという。
「そこでやはり最後は歌いまくろうというわけでしょうね」
「困ったものですねえ」ミオさんはあまり困っている様子でもない。なにしろ結婚式のときに夫から自作の英語の歌を捧《ささ》げられているという筋金入りなのだ。そのアレンジはおれがした。だから我々が二人そろえばどうなるかは先刻ご承知だ。
数ブロック離れた駐車場に車を入れ、ホテルリッツの前のドーバーストリートの事務所まで歩いた。中に入り受付にいた秘書のミス・マンレイに刑務所ツアーのアレンジのお礼を言い、かねて用意の折紙セットのおみやげを渡した。それが好きだと聞いていたのだ。
上山氏はオフィスに入り猛烈な勢いで溜《た》まった用件を片づけはじめた。そこらで勝手にしていろというのでソファに座って出された紅茶を飲みながら見学をした。上山氏は時折り眼鏡をかけメモを読み、やってきたイギリス人の部下を眼鏡ごしに上目遣いに眺めては指示を与える。かとおもうと電話機に向かってジョークまじりの早口の英語で喋《しやべ》る。そのアクセントが微妙にイギリス風になっているのが面白かった。普通のイギリス人の発音でもアメリカ英語を聞きなれた耳には妙に気どっているような感じがある。これとは別にさらに強烈なコクニーという下町なまりがあってこれが例の「マイ・フェア・レディ」の素材となっている。今度行って分かったのはそのタイトルの中にも発音の違いが現れているということだった。ロンドンにはメイフェアという場所があるがそれが下町なまりではマイフェアになるということなのだ。
上山氏の仕事が終わり町に出た。「ゼン」という評判の店で大変おいしい中華料理を食べてから南の郊外にある上山氏の自宅へと車で走った。
二階に寝室が四つあるという典型的な郊外の一軒屋だった。休む前に明日の刑務所見学についての予備知識として手紙の写しを見せてもらった。
手紙は刑務所長本人からの上山氏への返事だった。
「あなたが当メイドストン刑務所をミスター・ヤマシタと共に訪れる日にちを確認された手紙を受け取りました。
私は次のようなことを取り計らっておきました。収容者活動係長のミスター・ブルームハムが朝十時に正門のところであなたたちにお会いします。それから彼が刑務所内の見学にお連れします。その後に私に会いにおいでください。コーヒーを飲みながらご覧になった印象をお聞きし、またどのようなご質問にもお答えいたしましょう。
ミスター・ブルームハムはメイドストン市の記録保管係にコンタクトしてミスター・ヤマシタのご祖父が一九〇一年に当刑務所を来訪中に何かの来客帳や書類に名前を残していないか調べています。刑務所内にはそういう記録がほとんど残っていないのです。もしご覧になりたいものがあったときには当日の午後にそちらへ行けるようミスター・ブルームハムが手配いたします。
お出《い》での際にはお二人とも何か身分を証明するものをお持ちくださるようお願いします。ご到着のときに正門の警官にそれをお見せください。
お会いするのを楽しみに」
秘書のミス・マンレイは上山氏の家のあるロンドンの南郊外のパーレイからさらに南のメイドストンまでの行き順をちゃんとタイプしてくれていた。それによればまず近くのA822道路をハイウェイのM25へ向かう。M25に乗ったらリムプスフィールド方面に走り5番出口で降りる。ラウンドアバウトからM26に乗りそのままM20に入る。7番出口でM20を降り右折してA249道路に入る。最初のラウンドアバウトでB2012別名ホーランドロードに入り突き当りまで行くとカウンティロードとの交差点に刑務所があるということだった。ラウンドアバウトというのが分からなかったので聞くとロータリーのことだった。このラウンドアバウトはイギリスではいたる所にある。ただし、真夜中過ぎにしか通れない。「ラウンドアバウト・ミッドナイト」なんちゃって。失礼。
翌朝八時半に出発した。
趣きのあるイギリスの郊外の景色の中を指示どおりに走りホーランドロードにたどりついた。
道路の突き当りに白っぽい石の壁が見えてきた。
「ああ。あれだあれだ」こういう場面にはすでにこちらはすっかり馴《な》れている。
「正門はどこなの」車の速度を落としながら上山氏が聞いた。
「見つけるから壁に沿ってずうっと回ってみて」左に壁を見ながらほぼ一周したところにそれらしいものがあった。アーチ形の門に木の扉がついていた。門全体はそれほど大きくなく威圧感はなかった。しかしそこが正門であることは間違いなかった。通りを渡った角にドラッグストアが一軒ぽつんと見えたからだ。
「ここが正門だよ。あの角の店に出たばかりの囚人が走って行くことになっているんだ」
上山氏は門のすぐ前に車を止め自動駐車機にコインを入れた。それから門についていた呼び鈴を押した。間髪をいれずに門が開いた。我々は中に入った。
ブルームハム係長がそこにいた。紺色の制服制帽を着けたやや小柄《こがら》で細身の人だった。髪に白いものが見え眉《まゆ》が太く目が輝いていた。ゲイリー・クーパーの弟といった感じだった。我々はパスポートを見せた。係長はうなずきすぐ横のベンチの置いてあるがらんとした部屋に我々と共に入った。すぐに実直そうな口調で話しはじめた。
まず祖父啓次郎がここを訪れたという証拠の記録は見つからなかったと言った。それから古い町の地図を出し監獄の位置を示した。さらに当時の監獄の簡単な設計図まで見せてくれた。建て方は十字形になっていた。啓次郎の好きな放射式の一変形だ。
一八五〇年に今の形に建てかえられたというからハビランドがペンシルバニアに世界最初の放射状の監獄を建てた約二十年後ということになる。本来のものは一八一〇年頃からあったが簡素なものでしょっちゅう脱獄騒ぎがあった。また囚人はオーストラリアに送るということもできたから本格的な建物を作ることがなかった。しかしこの年にそれが廃止され今の建物が必要になったのだ。この頃までは窃盗などの軽罪も死刑にしていたがこの年にできた法律によって死刑は殺人に限るようになった。
一八五〇年は日本では嘉永《かえい》三年。ペリーが浦賀にくる三年前だ。啓次郎の父房親は九歳で西田町にいたことになる。刑罰も牢屋《ろうや》も江戸時代のままだった。このあと十八年たつと明治政府ができさらに数年の後にこのメイドストン監獄の成立ちの背景となった欧米の法体系の一部が日本にもたらされる。そのときに房親もその制度の中で役割を与えられるのだ。それが全《すべ》てのはじまりだった。そのおかげで八十五年前の祖父に続いておれまでが今イギリスの同じ監獄の中にいる。
「では見学にお連れしよう。終わったらガバナーがお会いする」
ブルームハム係長は我々をともなって部屋を出た。もう一つ内側の鉄製の扉を係官がきびきびとした動作で開けた。そこを通って我々は中庭に出た。古い石の建物が配置されていた。教会のようなものもあった。普通の居住区と一見変わらない。西洋の古い石の建物はどれもそのまま監獄になるのだ。「彼らは秘密の生活を好み鍵《かぎ》をかけて一室に閉じこもり」といった内容の啓次郎の言葉が思い出された。しかしここが普通の居住区ではないことを示しているのはやはり塀だった。独特の傲慢《ごうまん》な高さを誇示してここでも塀は我々の周りを取り囲んでいた。
立派な玄関のついた建物の正面にきた。ここが正面入口で昔はこの前方に大きな門があったのだという。なるほど今の小さな門は昔の正門ではなかったのだ。
「この入口はあなたのおじいさんがきたときにもここにあった」というブルームハム係長のあとについて建物の中に入った。二階に上がり工作室のようなところに入った。四、五人の男女が絵を描《か》いたり工作をしたりしていた。収容者らしい。係長は皆におれのことを紹介した。
「ヤマシタ氏のおじいさんは一九〇一年にここに建築上の視察に来ているのだ」
へえという顔で皆が見た。かねて用意の論文の小冊子と写真をとりだして見せた。皆はすぐにのぞき込み納得したようだった。「絵を描いているのか」「そうだ」などと話しているうちに上山氏がおれがジャズピアノ弾きだということを伝えた。すると一人の男がよろこんで「おれはパーカッショニストだ」と言いだした。
「今度一緒にやろう。ここにやりにこい」冗談なのか本気なのか分からない。やがて皆と握手してその部屋を出た。先にたって歩いていく係長のあとについていきながら上山氏とこそこそ話した。
「あの人たちやはり悪いことしたんだよな」
「何をしたんだろうね」
ついつい最悪の犯罪を考えてしまう。今どきマリファナを吸った位ではこういう境遇にはならない。
収容者の居住区は非常に明るくきれいだった。ちょうど留守になっている一人部屋の中を見せてくれた。壁じゅうに写真が貼《は》られテレビがないだけで普通の独身者の部屋と変わりがない。その部屋から出るとちょうど部屋の居住者が戻ってきた。初老の顎鬚《あごひげ》のある人だった。にこにこ笑って挨拶《あいさつ》をしてくれた。一体何をやった人なのだろう。それにしてもずいぶんと自由な様子だった。
食堂や娯楽室や面会室も見た。面会室は一段高いところに見張りの机があるだけであとはテーブルと椅子《いす》のある普通の広い部屋だった。教会内部にも入った。
「これができたのはあなたのおじいさんが来たあとだ」と係長が言った。そこにはカトリック、プロテスタント、イスラム、ユダヤ、ブッディストなどどの信者でも祈れるように別々に部屋を作ってあるということだった。キリスト受難の宗教画がいくつかかかっていてすべて同じ作者のものだった。収容者の一人が描いたもので、中に出てくるユダらしき人物の顔はすべて描いた本人そっくりに描いてあるのだという。この教会の名物になっているらしい。
次に行ったのは警察犬を飼っている建物だった。一つの部屋に入り壁の下方の一画にあけられている通路を係長は示した。さらに中腰のままその通路に入り中をのぞけと言った。のぞくと壁の向こうには大きな煙突のような空間の跡があった。
「絞首刑をした所だ」とブルームハム係長が言った。「上から吊《つる》すとここに落ちてくる。死体をここからこっちへ運び出したのだ」身振りを交えて説明した。「うへえ」「おええ」おれと上山氏は顔をしかめた。「昔の話だ」と係長は言った。少し笑っていた。
何人かの制服姿の上級職員らしき人たちが会議をしている広い部屋にも入っていった。話を中断してこちらを見る人たちにブルームハム氏はおれのことを説明した。たいした関心は呼び起こさなかった。やがてブルームハム氏がこの部屋に案内してくれたわけが分かった。一方の壁にこの刑務所の歴代の所長の名前と在任期間を記したボードがかけてあったのだ。それによると啓次郎が来た一九〇一年にはメイジャー・W・L・C・ダンダスという人が所長だったことが分かった。啓次郎はこの人と言葉を交わしたのだろう。
この場所について啓次郎は次のような言葉を残している。
「英国あたりでは此《この》監獄の改良と云《い》ふことが盛んになつて種々改良の工夫をして非常な構造法を始めたのであります。メイドストンの監獄の如《ごと》きは四百八十位の監房を造り、さうして工場を百八十九造つて一つの工場に二人だけしか工事をさせないと云ふぜいたくを極めた。さうどうも非常に金を掛けて監獄の建築をしたものだから納税国民も監獄建築を改良することを嫌つて来るやうになつたので、此例を見ますと云ふと監獄の改良と云ふことは成程一方に於いては宜いかも知らぬが又詰らぬ罪人を入れて置く所を非常なる金を掛けて造るのは全体政治家建築家と云ふものが其《その》方針を誤つて居るのであります」
監獄建築の経済性について述べたときにぜいたく過ぎる例としてこのメイドストンが出てきていたのだった。
やがて時間となり我々は今の所長がいる部屋に向かうことになった。ぴったりと時間をはかった見学コースだったのだ。それでも所長室の前に着くとまだ前の来客がいた。ブルームハム係長は「一分早かった」と言って一度廊下に戻った。きっかり一分待って所長室に入った。G・グレゴリー=スミスという名の所長は長身で眼鏡をかけたおっとりとした人だった。背広にネクタイだった。いかにも叩《たた》きあげのブルームハム係長とははっきりちがった雰囲気《ふんいき》を漂わせていた。
挨拶をしコーヒーを飲み早速鹿児島監獄の写真を見せた。「色々こちらで学んだおかげでこういうものが建てられたのです」という意味のことを言った。
ここで見る写真の鹿児島監獄の門は実に立派だった。作者のどこかけた違いの志と芸術的意図が写真の門からは感じられるようだった。
所長は写真をながめ軽く讃辞《さんじ》のようなものを述べた。おれはこの祖父がなぜこういうものを作るようになったかを説明しはじめた。
「日本のメイジ・リボルーションを知っていますか」
「ああ。聞いたことはありますな」適当な受け答えをしている所長にショーグンだトクガワファミリーだサツマサムライグループだと言いつのった。ニューメイジガバメントとウエスタンカントリーとの間に平等条約《イクオール・トウリーテイ》を結ぶためにもこの監獄が必要だったなどとも言った。所長は自動的なあいづちをうっている。
やがて上山氏が合図をしたので話をやめておみやげを渡すことにした。知り合いの松浦孝次氏の制作した錦絵の葉書、グリーティングカード、相撲のすごろくのセットを差し出した。所長はうれしそうに手に取ってながめた。ブルームハム氏もじっと見ている。それを見た上山氏は数枚をわけてブルームハム氏にも渡した。係長は鋭い目を輝かせながらも笑顔になった。
記念写真を撮ってから所長室を辞した。中庭を歩いた。途中で制服を着たすごい金髪の美人とすれちがった。腰の周りに鎖のようなものをつけていたので、一瞬パンク女かと思ったがやはり職員にちがいない。女職員は腰を振って歩いて行った。我々は入口の扉《とびら》のところまで戻り、ブルームハム係長にお礼を言って握手をした。係官ががちゃがちゃがちゃと鍵を鳴らして扉をあけた。二人は外に出てシャバにもどった。
車を少し走らせたところにパブがあった。「何はともあれあそこに入ろう」と上山氏をさそった。イギリスのパブはどのような村のものでも風格がある。ラガービールとビタービールを飲んだ。どちらも非常においしかった。今回の監獄見学についてあらためて上山氏にお礼を言った。上山氏は「いやあなたのおかげよ。こんな経験ができるなんて」と言った。それはまあ普通の日本人は何年イギリスに住んでいてもまず刑務所の中に入るということはないわけだ。
パブを出ると通りの向こうに「フィッシュ・アンド・チップス」という看板が見えた。噂《うわさ》に聞くイギリス名物、魚とジャガイモのフライのコンビにちがいない。
「あれを一度食いたい」
「あなたまでがそう言うの。どうして日本から来る人はあんなまずいものを食べたがるんでしょうね」上山氏は顔をしかめた。
「揚げたてのやつを新聞紙にくるんでもらうとインクのにおいがついてそれがまたいいんだっていうよ」
「誰がそんな馬鹿《ばか》なことを言っているの」きたないじゃないのと怒る上山氏を、まあまあ話のたねに食わしてくれよとなだめて一緒に店に入ってもらった。いかにもファーストフード屋の作りだが奥にはテーブルもある。そこに座って食べた。魚は案外からりと揚がっていたしジャガイモも悪くはなかったが、まあ特においしいというものではなかった。思ったより量が多くてへきえきしたといってもよい。一度でこりたという上山氏は顔をしかめたままコーヒーだけを飲んでいる。
ふたたび車にもどりロンドン方向へ走った。八十五年前そのままのようなイギリスの田園風景が続いた。やがて変わりやすいイギリスの天気が本領を発揮してあたり一面たちまち大雨になった。と思うとすぐにまた薄日がさしてきた。我々はドライブを楽しんだ。先程までいた刑務所という場所の後味がなぜかとても快いものになっていた。
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第二十七章
やがて揚村さんから分厚い大型の封筒がとどいた。
「例の申請書ができました。ついでながらこれまでの経過の分かる書類を同封いたします」というメモが入っていた。
調べてみるとたいへん貴重な書類が入っていた。今まで分からなかったことや揚村さんがあえて話さなかったことが色々と明らかになってきた。経過を立体的に追うことができそうだ。
まず市とのやりとりが三つのチャンネルによって行なわれていることが分かった。まずは建築学会関係であり、それに市民運動が加わる。そこにさらにジャズコンサート関係がなだれこむという経過だった。
最も早い動きは建築学会関係からだった。
以前から鹿児島大学建築科の歴史意匠講座はこの建物の断続的な調査を行なってきた。特殊な施設なので調査は困難をきわめたが、それでも七年前には制限つきながら内部の写真撮影や実測調査ができた。それによって暫定《ざんてい》的なとりまとめをした。例の迫田順一氏の最初の論文はこういう背景のもとにできあがっていったものにちがいない。
一方鹿児島市は十五年くらい前から国と移転交渉を始めている。その結果が今年の三月の新刑務所への移転決定となった。残された旧刑務所の建物について揚村さんはむしろこれで詳細な調査ができるようになると楽観していたらしい。
ところが同じ三月の市議会で市長が本年度前半には解体整地したいという突発的とも思える発言をした。六月中旬から作業を始める準備をしていることも分かった。このことを事前に鹿児島大学や県や市の文化財保護審議会などに相談した形跡はなかった。驚いた揚村さんはすぐに日本建築学会九州支部の建築歴史・意匠研究委員会に行き相談をした。これが最初の行動だ。そこでこういうことにはまず地元の運動が必要であり、その後しかるべき時期になれば正式にバックアップしようという結論となった。
鹿大側は四月には所管課と交渉して調査期間を六月の末まで延長することができた。しかし建物本体を八月には壊すという市の方針は変わらなかった。
同様の事件がこれまでにも二度あった。以前にも市はあの江戸時代からある例の古い石橋を撤去しようとしたらしい。それから市立美術館の建設にからんで周囲の古い石垣《いしがき》も壊そうとした。これは鶴丸城の二の丸跡だ。前者は市民と新聞社の強力な反対運動によって止められた。後者は美術館がよく見えるようにするという理由で上から三分の一が切り取られてしまった。ちなみにこの美術館内の一室でシンポジウムが行なわれたのだ。
今回の旧刑務所の保存については、市との最初の交渉が六月に出された要望書から始まった。
要望書は鹿児島大学工学部建築学教室主任教授である徳広育夫氏から赤崎義則鹿児島市市長以下、関係当局と議会議長あてに出されている。同時に支援の要請が県と市の文化行政担当課と文化財保護審議会に対してなされた。
要望書の中では調査によって明らかになったあの建物についての重要な事柄《ことがら》が整理されて述べられていた。シンポジウムのときにも触れられていたがそれは次のようなことだった。
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一、日本の近代建築技術史上の重要性。
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○ 我国に現存する稀少《きしよう》な石造建築の中で最も規模が大きい。
○ 我国|唯一《ゆいいつ》の石造による刑務所建築であり、その機能から要求された特殊な平面形式を保有する建築はこれのみである。
○ 石造による本格的欧風様式主義建築(ゴシック様式)の秀作である。
○ 我国の石造建築の歴史上、最も充実した時期に建設されたもので、設計、施工に於《お》ける水準の高さと、その後に果たした影響は大きい。
○ 当時として、世界に誇る採光、換気、衛生設備を備えている。
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二、日本の外交史に於ける物証としての重要性。
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○ 鹿児島刑務所建設は司法省の第一期監獄改築計画によっており、その動機は明治政府が国家目標とする治外法権の撤廃であったこと。
○ 第一期監獄改築計画に鹿児島が選定されたことにより、当時の我国における鹿児島県の重要性を指摘できること。
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三、鹿児島の石造建造物を実証する上で必要不可欠である。
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○ 鹿児島は石造建造物を多く有する。甲突《こうつき》川改修工事、鶴丸城築城、甲突五石橋建設、築港、尚古《しようこ》集成館、前県立博物館、ザビエル教会(現存せず)、旧鹿児島刑務所、その後各地に拡散建設された倉庫群等、があり、これらを実証的に述べる上で鍵《かぎ》となる最も重要な建築物である。
○ 特に鹿児島市が、我国に現存する石造建築のうち主要な三例(尚古集成館・慶応元年、前県立博物館・明治十六年、旧鹿児島刑務所・明治四十一年)を保有していることは注目に値する。
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こういうことが述べられ、こういう学術的重要性について議論を尽くさぬままにこの建物を失うことは鹿児島市のみならず我国にとってもまことに遺憾だとの意見が続いていた。最後に要望がまとめられていた。
要望事項
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一、旧鹿児島刑務所については、学術的価値の重要性についての論議を尽くして戴《いただ》きたい事。
二、旧鹿児島刑務所の建物解体業務は、上記の論議を尽くしながら、跡地利用計画の詳細が決定するまで一時延期し、その間の調査研究に便宜をお計り戴きたい事。
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この要望書が送られる直前に揚村さんは、斯界《しかい》の重鎮であり藤森照信さんの師にあたる村松貞次郎氏に事情を書き送って中央からの応援をもとめた。東京大学名誉教授、文化財保護審議会専門委員、工学博士の村松氏は快く承諾されすぐに手紙が書かれた。出されている要望事項を日本近代建築史の研究家の一員として自分も賛成支持するという内容だった。最後に次のような印象的な言葉が述べられていた。
「時代はこうしたものへのやわらかい対応を歓迎する傾向をますます強くしております。旧刑務所の主要建築を巧みに再利用した計画は全国にさきがける快挙として広く歓迎されると思います。御賢察を心からお願いいたします」
この心を打つ言葉には役人も反応せざるを得なかったのだろう。市は文書で返事をしてきた。しかしその内容は基本的には「色々おありだろうが既定方針なので変えるわけには参らない」というものだった。
この間に鹿大の建築学教室では建物の調査を申し込みそれは許可されていた。調査期間の延長も認められた。
そのような動きに呼応してさらに応援の要望書が市に送られた。送ったのは社団法人日本建築学会九州支部建築歴史・意匠研究委員会で、委員長の前川道郎氏の名前が記されていた。建築学会として最初の正式な参加だった。
要望書にはこの建物が歴史的建築史的価値が高く貴重なものだから保存についてよい方策を検討してもらいたいということ、その保存に関して今後発生する諸般の問題の技術的解決について当委員会はできる範囲で手伝いをする用意があるということが述べられている。その中には建物についての説明もあった。前出のものと重なるところがあるが、学会からのまとめということでもう一度書き写してみよう。
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一、旧鹿児島刑務所は明治三十四年に着工し、途中日露戦争で二年間中断したが、明治四十一年に現在地(鹿児島市永吉町)に竣工《しゆんこう》した。設計者は地元(鹿児島県西田町)出身で、欧米視察を基に刑務所建築に新しい形態を生み出した司法省営繕課長山下啓次郎(工部大学校=[#「=」はゴシック体]東京大学前身。明治二十五年卒)と推定される。
二、この建物の建設時期はレンガ造建造物の全盛期で、すでに石造建造物は建てられなくなり、オフィスビルとしての鉄筋コンクリート造が出現(明治四十三年旧三井物産横浜支店)する少し前に相当する。従って、この建造物は当地域に現存する甲突川五大石橋(江戸末期)、集成館機械工場(慶応元年)、県立博物館考古資料館(明治十六年)と共に、鹿児島市の石造技術の変遷《へんせん》をたどる上できわめて学術的価値が高いものである。
三、この建造物は建築技術上の価値のみならず、各房舎(独房、雑居房)が工場と接続しているなど機能の追求が建築計画に見られ、また正門の外観は八角形の塔屋を両側に構え、威風堂々とした城郭風な造りで本館と共に優れた作品である。
四、この建造物は鹿児島市という地域の特質を示す大切な石造建造物であるのみならず、現存する唯一《ゆいいつ》の石造刑務所である。また保存状況もよく、保存、活用に適している。
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こういうことが述べられ、さらに以前に日本建築学会が刊行した「日本近代建築総覧」の中でこの建物が高く評価されている事実があることもつけ加えられていた。その結果、日本建築学会会長が旧鹿児島刑務所所長あてにその建物を長く大切に使用してもらいたい旨《むね》をすでに書き送っていたということがあった。その書類が参考資料として添えられていた。
それによると日本建築学会では明治、大正、昭和戦前の建物を調査して、全国で一万三千棟の建物リストが完成した。その中からさらに建築学的に貴重なもの二千棟がとりあげられたが、その一つに鹿児島刑務所が選ばれたというのだ。該当の項目にマルがつけられていたがそれによると、姿形がよい、技術史上大切である、特色ある景観を構成しているとなっていた。ちなみに、すぐれた建築家の設計によるという項目と地域の歴史をたどる上で大切であるという項目、それにその時代の建築様式をよく示しているという項目にはマルがついていなかった。これには少しがっかりした。もはや子供に百点満点を期待する親のような気持ちになっているのだ。
こういうことがあった後に、おれも出席したあのシンポジウムが開かれることになる。八月に入ってすぐのことだ。ということは今年の前半までに全面解体をするという市の方針がこのときにはもう遅れていたことになる。
設計者の子孫である我々親子がゲストとして出席したことが少しは味つけになって、シンポジウム後にいくつかの新聞報道がなされたのはすでに書いたとおりだ。それによって延期されているとはいえ市の方針があくまで取り壊すというものであることがかえってはっきりとした。そして、そういうマスコミ報道によって、いままで学者の世界の専門的な出来事であったものが今度は市民の関心を引きはじめたということが起きたようだった。
八月の下旬に市民団体からの要望書が作成されこれが市長に送られた。
「私達鹿児島市民は、貴重な石造建造物である旧鹿児島刑務所について、充分な議論がなされないまま、その解体工事が進められようとしていることに対し深い憂慮の念を抱いております」という出だしで始まる「旧鹿児島刑務所再生活用に関する要望書」は「重要石造建造物を活《い》かす市民の会」というグループによって提出されていた。その代表者には梅原秀次郎氏の名前が記されていた。以前に新聞にあの建物について「残さねばならない」と題されたエッセイを書いた鹿児島短期大学の教授の方だ。
要望書は建物の価値を述べ鹿児島市は「史と景の街」を標榜《ひようぼう》する市なのだから尚《なお》さらこの建物が市民に開かれた文化施設として活用されることがふさわしいのではないかと提案していた。要望書は次のように結ばれていた。
旧鹿児島刑務所の建築学的美術的価値の重要性が市民の間に認識されるにつれ、多くの心ある人々から、その解体を惜しむ声が続々と起こり、多くの実現可能な再活用プランが当会に寄せられていることを付記し、以下の点につき市当局に要望します。
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一、旧鹿児島刑務所の石造建造物を含む敷地利用計画が確定するまで、解体工事を延期すること。
二、石造建造物の内、最低限「石門」「本館」「給水塔」及び本館に連結する「房舎の基部」を残し、再生活用を図ること(当該敷地面積は全敷地面積に対し一五パーセントで足りる)。
三、旧鹿児島刑務所の跡地利用計画については、市民の意見やアイディアを積極的に採用し集約すること。
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これらについて九月五日までに文書で回答をするようにという要望がなされていた。
この市民の会の要望書に対して市は回答を送ってきた。以下のようなものだった。
鹿児島刑務所移転事業は、昭和四十年代のはじめに、法務省において老朽化した同施設の建替計画を進めようとした機会をとらえ、これを全面的に移転することにより、地域の振興ならびに全市的な視野にたった都市づくりを進めることを目的に、始めたものであります。
本市は、この方針のもとに、国側と折衝を重ね、五十四年三月に拘置支所を除く移転が正式に決定いたしました。
これらのことは、その都度新聞等により、縷々《るる》報道されたところであります。
その後、同敷地の評価額に係る折衝に長期間を要しましたが、この間、市議会、県議会においては、早期移転の要望がなされるとともに、これに対する国への要望、意見が決議されました。
国及び本市においては、五十八年度から姶良《あいら》郡吉松町への移転予算を計上し、六十一年三月、鹿児島刑務所は移転いたしました。
本市といたしましては、国との契約に従い、正門を除く旧刑務所施設の解体撤去を六十一年度に行なうべく予算計上し、市議会の議決を経て現在順次工事中であります。
又、跡地利用については、当移転事業の目的に従い、五十八年度から跡地利用計画の検討に入り、六十一年度は更に学識経験者の意見を聴いて内容を詰めているところであります。
この跡地利用の基本的方向は、五十六年度策定された市総合計画に基づく伊敷《いしき》、草牟田《そうむた》地区の核づくりを行なう見地から、再開発を推進することにあります。
従って当施設を部分的にせよ残すことは、土地利用に致命的な制約をうけ、移転作業の本来の目的を達成できないという結果を招きます。
ただし、正門については残す方向で検討いたしております。
要望事項につきましては、次のとおりでありますので、御理解いただきますようお願いいたします。
一、について
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解体工事はすでに段階的に発注をはじめており、旧施設を撤去し、跡地の整地、囲障工事等を年度内に終えるためには、延期は無理である。
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二、について
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要望の施設は、跡地のほぼ中央に位置しており、これを存続させることは、跡地全体の土地利用に致命的制約を受けるため、正門を除いては要望にそいがたい。
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三、について
[#ここから3字下げ]
跡地利用計画については、コンサルタントに依託するとともに、学識経験者の意見を反映させるべく、すでに懇談会を設置し作業にはいっている。
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以上だった。つまりは、もう決ってしまったが正門は残すから我慢しろと言っているのだ。順次工事中というのは本体についてではなく付属施設のことらしい。
しかしこの回答に市民の会は全然納得せずさらに鋭い追及を続けた。
「回答文を熟読しても市当局の見解に不明解の点が多々あると判断されますので九月六日の当会総会での意見を集約し、ご質問もうしあげます」として十二項目からなる公開質問状が提出された。それらをまとめると次のようなことになる。
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○ 「史と景の街」を標榜する鹿児島市は今後歴史的技術的文化的に価値の高い建造物や環境をどのように位置づけ取り扱うのか基本姿勢を答えよ。
○ 当該建造物の価値は日本建築学会によって指摘されているが市の評価はどうなのか。
○ この建物の価値について市民に広く知らせる努力をしたか。
○ 説明では建物の解体までもが市民に説明されて合意がなされているかのようだが解体については本年三月の市議会ではじめて明らかにされたのではないか。とすると市民の合意を得るには短期間すぎないか。
○ 回答書の前文からは、解体が国との契約の中に明記されているかのようだが当会の調べでは契約中に解体を要請するような条項はない。契約条項を公表しこの点について答えよ。
○ 解体延期は予算消化を理由に無理と言っているが、建物の価値についての議論がないのに跡地利用計画を立てたり、さらにその計画がちゃんとしていないのに解体工事を行なうのはよくない。跡地利用計画書を示して答えよ。
○ 刑務所の移転は事実上終わっているのだから今後は市民の合意にもとづく市独自の利用計画を進めてもよいのではないか。
○ 市民の意見の集約についてはコンサルタントへの依託と懇談会の設置という回答だったが、この方法では市民の声が反映されず議会さえ無視することにならないか。
○ 懇談会の役割と構成員を発表せよ。
○ 懇談会の答申は解体の前に公表せよ。
○ 市民の代表や各方面の専門家の声を反映する場を作れ。
○ 速やかに建物を一般公開し、市民がその価値について判断する機会を与えよ。
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このような質問がならび、九月十八日までに回答をするようにとなっていた。
いや実に筋道の通った言いがかりだ。これでは市もぐうの音も出ないだろう。
市民「何とか言ってみろ」
市「ぐう」
まったく市にとっては「るっせえな、もう。いい加減にしろ」と言いたいだろうが、やはりこちらの立場としては当然「そうだそうだ。もっと言ってやれ。いくらでも言ってやれ。いいぞいいぞ。スピーク、ブラザー、スピーク、イエイイエイ」という気持ちになるのだ。
同じ要望書の中にはこの「重要石造建造物を活かす市民の会」の実体が公表されていた。十四条からなる会則があり代表の梅原氏以下、顧問三人、世話人八人、会計一人、監事二人、事務局長一人という構成となっていた。いずれもそうそうたる肩書きの人たちだった。迫田さんの名前もあり事務局長は揚村《あげむら》さんだった。どうりでただの市民の会にしては要望書の内容が専門的だったわけだ。
付則というところを見ると「本会則は昭和六十一年九月六日から施行する」と書いてあった。つまりできたてのほやほやなのだ。その第一回目の総会でこの公開質問状が作られた。とするとこれは明らかにこの刑務所移転問題を契機にというよりその問題のために急遽《きゆうきよ》結成された運動団体であるということになる。
わざわざそれ専門の支援団体が作られ建物を守ってくれようとしている。祖父啓次郎の作品はこの時期になんとも豪華でぜいたくな扱いを受けながらゆかりの甲突川のほとりに立っていたのだった。
さてこの頃《ころ》になるとジャズコンサート主催一派も公式な活動を始める。あの「コロニカ」でのジャムセッションのあとの約束どおり鹿児島大学チェリー・アイランド・ジャズ・オーケストラの連中は門前コンサートに協力してくれることになった。しかしどうやら市はそれを許可しないようなのだ。今度の資料でその経過が詳しく分かった。
コンサート実行委員会会長にはチェリーのバンマスでベースプレイヤーの坂口君がなってくれている。その坂口君が市役所に申請書を持って行ったときのことが大きく新聞に出ていて、その切抜きが入っていた。事前にマスコミに伝えておくということが行なわれたにちがいない。むしろマスコミとの連動かもしれない。それが騒動の発端いらい一貫したこちらの作戦となっているようだ。
新聞には端正な横顔がどこかブーニンに似ている坂口君の写真が大きく出ていた。市役所都市整備課長が書類を受け取っているが、その肩口に取材のものらしいマイクロフォンが突き出されている。何やら大騒ぎという感じだった。坂口君が手渡しているのが以前に紹介した非のうちどころのない野外コンサートの計画書だ。新資料によると計画書の他に趣意書が添えられていることが分かった。そこでは丁寧な口調で演奏会実現の「お願い」がなされている。以前に出した市長あてのおれの手紙も引用されていた。
「……という山下氏の言葉に強く賛同し、演奏会実現のために当日敷地の一部借用を願い出る次第です。演奏会は営利目的などでは決してなく、献身的な人々が集まって運営することになります。場所と人と動機とが一体となりうるこの演奏会を、鹿児島市と私達がお手伝いできるとすればこの上ない幸せと存じます」
と書いてあった。
新聞の見出しは四段抜きという大きさだった。
「刑務所での山下洋輔演奏会。実行委が開催要請。市は『むちゃ』と拒否の構え」
内容を抜粋する。
「(実行委が)十日、市当局に『十月中旬、所内の特設ステージで山下氏の演奏会を行ないたい。その当日だけでも解体工事を休止できないものか』と訴えた。しかし市当局は『工事現場で音楽会とはむちゃ』とこれらの申し出を拒否する構えだ」
これで分かるのは当日にはその場が「工事現場」になっているということを双方が承知しているということだった。不思議に思って続きを読むとそれに関連した内容が記されていた。
「一方、市当局は十一日、建物群を全面解体する競争入札を控えているだけに『取り壊しの最中に、所内を音楽会場にするのはふさわしくない』と話している」
入札が十一日、つまりこの要望書を手渡した次の日に予定されていたのだ。
これは新事実だった。市民の会も知らなかっただろう。八日付で出した公開質問状にはそのことは触れられていない。このことを知らないまま回答を十八日までにもらいたいと言っていたわけだ。その前に電光石火の入札が行なわれてしまうということになる。
このことがいつ世間に漏れたのか資料からはよくわからない。あるいはジャズコンサートの許可ができない理由としてこの日に明らかにせざるを得なかった可能性もある。またはマスコミ連動の情報で入札日を察知したジャズ側がこの日を選んで押しかけたということも考えられる。市民の会もそのことを当日までには知ったらしく、ただちに抗議声明が発表された。それが同じ新聞に続けて載っていた。
「入札一時停止を。市民の会が抗議文」
内容は市が先に同会が出した要望を拒否し、さらに八日に出した公開質問状にも回答しないまま入札を行なうのは「とうてい容認し難く、市民を愚弄《ぐろう》する行為である。厳重に抗議し、入札業務の一時停止を要求する」というものだ。当然とはいえ素早い対応だった。しかし、その記事の先を読んで驚いたことは同じ日付で市が回答を送ったという事実だ。
「市は十日付で、同会が八日に出した公開質問状に対し『(解体作業を進める)基本的な考え方に変りがない』という内容の回答を、梅原代表あてに送付した」
これまた電光石火の早業《はやわざ》だ。入札日となってしまったらまた何を言われるかわからない。だから何とかその日のうちに届ける算段が大急ぎでなされたにちがいない。使者が鉢巻《はちま》きをして早馬を飛ばしたのではないか。
「ぜいぜいぜい。これがお上《かみ》の回答でござる。確かに今日中にお渡ししたぞ。筋は通ったのだぞ。よいな。ではさらばじゃ」そのまま死んだと思われる。
その市の回答が手元にある。市の基本的な考え方は前に回答したとおりであると言い次のように続いていた。
「なお『刑務所跡地施設整備基本計画策定に係る懇談会』は、本市がコンサルタントに依託した『刑務所跡地施設整備基本計画策定案調査』に、学識経験者の意見を反映させるため設けたものであり、同懇談会の構成員は別紙のとおりであります。
また、施設の一般公開については、矯正《きようせい》施設という特殊な施設であるため、その取扱いについて、法務省から慎重な対応をしてほしい旨《むね》の要請をうけており、法務省とも協議の上、学術的調査以外は一般市民への公開を行なっておりません」
急にコンサルタントという存在が明らかになってきた。
しかしまあこの刑務所跡地……以下合計十八個の漢字の羅列《られつ》はどうだろう。役所とか公文書というものの硬直性は分かるがなんとかならないものか。何だか書写|中枢《ちゆうすう》を破壊された偏執狂の国にいるような気になる。とはいえこれを普通の言葉で言おうとすると、
「昔刑務所だった建物とそれが建っていた場所をどのように調子や状態をととのえてすぐ使えるようにするかということについて物事がそれに基いて成り立つような根本の方法や手順や内容をあれこれ考えて定めるための思いつきを取り調べること」
などとなるわけでこれも大変だ。
別紙にはその懇談会の名簿があった。四人の人の名前が書いてあり、それぞれ鹿児島市都市計画審議会委員(都市計画)、鹿児島商工会議所専務理事(経済)、鹿児島大学法文学部教授(地域振興)、鹿児島大学教養学部教授(社会体育)という肩書きがつけくわえられていた。この方たちが市民の会の要求する「市民の意見の集約」を代表して行なった結果、入札も工事もしてよいということになったというわけなのだ。
いやそれにしても慌《あわた》だしい日だった。
ジャズコンサートの申請。翌日入札という事実の発露。市民の会の緊急抗議。電光石火の市の回答。
その昔に大政奉還と倒幕の密勅が同時に出された日のことを思い出す。
どうやらこの日は因縁の日らしく実は同じ日付による書類がもう一つあった。日本建築学会本部からの要望書がちょうどこの日付に作成され市長に送られているのだ。一通は会長の芦原義信氏によって書かれていた。その中ではあの建物が同会の刊行した「日本近代建築総覧」の中で重要な評価をされていること、さらに同会が文化庁から依託されて選定した全国重要近代建築六百二十件の中にも入っていることが指摘されていた。そして最後に、この建築の文化的価値を後世に伝える何らかの良策をご検討いただきたいという丁寧な言葉による要望がなされていた。さらに別紙では同学会の建築歴史・意匠研究委員会の会長である坂本勝比呂氏があらためてこの建物に対する見解をまとめられていた。それらは、
一、日本最高最大の純石造建築であること。
二、すぐれた表現をしていること。
三、五大監獄の一つであること。
四、地域と縁の深い作品であること。
という四点だった。
夫々《それぞれ》に説明がついていた。四、の説明では啓次郎のことが次のように述べられていた。
「設計者の山下啓次郎は旧|薩摩《さつま》藩士の子として生れ、東京帝国大学で辰野金吾に建築を学び、卒業後、司法省技師として活躍しているが、薩摩|隼人《はやと》であることを生涯《しようがい》誇りとし、島津邸の設計や尚古《しようこ》集成館の修理など、鹿児島と縁の深い仕事をいくつも手がけている」
この要望書も含めてなぜかこの日にあらゆるものが市庁めがけて殺到したのだった。やはり入札の日が関係者には漏れていて、それがタイムリミットを形成したのだろう。
しかし、すべてはもう遅かった。翌日入札が行なわれた。本格的全面的解体工事がいつでもはじめられる態勢がととのったのだ。
市民の会はあらためて怒りの抗議文を発表した。
「旧鹿児島刑務所解体工事入札強行に対する緊急抗議声明書」と題されたものだった。四ページに渡る長文の抗議声明書には最強の抗議の言葉が叩きつけられていた。
「市当局はこの建物の真価を市民に知らせる努力を怠るばかりか、むしろそれを避けて来た感をぬぐえません。この愚行は永久に鹿児島市史に残り、末代までの恥辱として市長の名と共に記録されることでしょう。そして今後の鹿児島市政に対する市民の不信感を募らせることは確実でありましょう」
さらに先の公開質問状と市の回答が並べられ、回答を要求した十二項目のうち回答されたのはわずか三項目であることが示されて市当局の誠意のなさが強調されていた。
施設の解体が刑務所の移転のための国との必須《ひつす》の契約条件であるかのように装い、さらにそれを理由に回答をきちんとしないのは市民を愚弄する行為であると断定されていた。
文化遺産を守るのが行政の責務であるのに、専門家や住民の声を押さえつけてまで破壊を強行する態度はもはや暴挙であると述べられていた。
終わりのところを写させていただく。
「今回の入札の強行に関しては、保護の世論が高まってきている中で、異常としか言いようのない性急さを以《もつ》て行なわれたことに対し、我々市民は奇異の念を持っております。この『異常に性急な入札の強行』の理由を、包み隠さず市民の前に公表する義務が当局にはあると信じます。
ここに重ねて『公開質問状』に対する全項目にわたる完全回答を要求します。
次に回答により初めて明らかになった『刑務所跡地施設整備基本計画策定に係る懇談会』は、このような重大な案件を審議し答申するには、この組織ではあまりにも小人数であり、不適当と考えますので、当懇談会の即時解散と真の有識者による、二十名程度の跡地利用懇談会の再編成を要求します。
今からでも少しも遅くはありません。まだ建物は残っています。今すぐにでも解体工事の中止を命令して下さい。方法はいくらでもあるはずです。この声明書は広く市民に公開します」
しかし、当局だの為政者などというものがこういう経過で何事かを反省してやり方を変えるなどということができるわけがない。役所組織という盲目の愚鈍な怪物が動き出しわけも分からず空《から》になった刑務所を破壊しようとしているのだ。そのことは市民の会の人たちも承知していただろう。それでもなお痛烈な捨てゼリフを叩《たた》きつけぬわけにはいかなかったのだ。
様々な抵抗によって、八月には終わるはずだった市の計画の実施が確かに九月の下旬まで遅らされた。だがここまでだった。
市民の会の最後の抗議声明の出された数日後に巨大なパワーショベルが建物の敷地内にやってきた。
パワーショベルは何のためらいもなく非情な鉄の腕を振り回して建物に襲いかかった。七十八年間立ち続けた石の塀《へい》、庁舎の建物、五指放射状に突き出た房舎、給水塔がたちまち鉄の腕に撃たれ、傷つき、その傷口に鉄の指を差し込まれ、引き倒されていった。かけがえのない価値があったかもしれない大きな石の城があっという間に土煙にまみれたガレキの山と化していった。
しかし建物の基部はなかなか壊れなかった。特に地上七十センチ程に表面を出して敷かれていた房舎の石の床は最後まで鉄の腕に抵抗した。何度叩いてもひっかいても石は容易にその形を崩さなかった。
「そこは絶対に壊れないぞ」
現場で建物の最後を見とどけていた揚村さんは思わずそう叫んでいた。
やがて季節は十月になった。
ある日一通の手紙が鹿児島市都市整備課長あてに送られた。
「拝啓 時下|益々《ますます》ご清栄のこととお慶《よろこ》び申しあげます。
さて、九月十日来たびたびお願いに上がりました山下洋輔氏のコンサートにつきまして、別紙のように実施することになりましたのでお知らせいたします。
コンサートは会場を移しての実施となりましたが、事の経緯により、旧鹿児島刑務所との関連を希薄なものとするわけにまいらず、山下洋輔氏も門前で曲想を練りたいと申しており、是非とも正門前での追悼のプレイベントを行ないたいと考えております。
日時は、コンサート当日午後三時頃より四時頃までで、簡単な楽器を携えてテーマを創造し、これにより一曲を即興演奏したのち、一礼して引き上げる事になります。もちろん演奏会ではありませんので観客は動員いたしません。
お忙しい折とは存じますが、何卒宜《なにとぞよろ》しく御協力お願い申しあげます。
[#地付き]敬具」
差出人はコンサート実行委員会の代表の坂口君だった。しかしこの文面は揚村さんのものにちがいない。以前に電話で二人でたくらんだとおりのことが巧妙な言回しで述べられているのだ。同封のパンフレットには市民文化ホールでのコンサートが案内されていた。
「このコンサートは山下洋輔自身もよく知らなかった祖父啓次郎に捧《ささ》ぐ、そして無残にも破壊された旧刑務所へのレクイエム・コンサートであります。当夜はソロピアノ及び鹿大チェリー・アイランド・ジャズ・オーケストラとの共演も行なわれることになりました。ファンから見ても興味深いジャズイベントといえるものです。皆さんの多大な御支援をお願いします」
そして次のような一節がなにげなくしかし大事なところは非常に目立つようにゴシック体の活字でつけ加えられていた。
「なお当十月十六日(木)PM三時〜四時旧刑務所正門前[#「十月十六日(木)PM三時〜四時旧刑務所正門前」はゴシック体]にて山下洋輔レクイエム・セレモニーが行なわれます」
見に来いとは一言も言っていない。しかしこれは誰が見ても観客を募っていた。してはいけないという相手の抗議を巧みにあしらいながら結局はしたいことをやってしまったこの間までの向こうのやり口を、今度はこちらがやろうとしているのだ。手続き上どこにも手落ちはない。お願いの手紙は出した。それにこれはそもそもがプライベートな散歩なのだ。
こうして門前コンサートの準備が整った。
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第二十八章
こうして決行されることになった刑務所門前コンサートの日が段々と近づいてきた。
そのようなある日、自室のピアノの下にもぐり込み防音材がわりの卵のケースをピアノの裏に貼《は》り付けているおれの耳にかすかな音が聴こえてきた。尺八の音色に似ているがそれにしては少し音域が高い。嫋々《じようじよう》とした調べはまるで太古からの風の音のようだった。音は戸口の外まで近づいてきて何事かを促していた。おれは戸口のところに行き扉《とびら》を開けた。
浴衣《ゆかた》姿の小肥《こぶと》りの男が立っていた。小型の尺八のようなものを一心不乱に吹きならしていた。
「あ、あなたは、あのご先祖の天才のなれの果ての馬鹿《ばか》の清の超能力の時間漂流の何処《どこ》にでも都合のよいときに出てくるあのお方ですね」
演奏中の人間とバスの運転手には話しかけてはいけないのだが、思わずマナーを忘れてしまった。男は半眼だった目を元の眼《め》に戻して竹の笛を口から離した。
「そうだ。しばらくだったな」
「いつもいつもお世話になります。その後いかがお暮らしでしたか」
「お前が呼び出さないときには歴史の時空間を飛び回って登場人物たちを蔭《かげ》ながら助けておるのだ」
「あ、なるほど」
「このあいだは薩英戦争のところに行って弟の房親《ふさちか》や川路|利良《としよし》と一緒に英国海軍の旗艦を惑わしてやった。これはお前も承知しているはずだ」
「は、もちろんです。その節はお世話になりました」
「昨日は一八五八年の錦江《きんこう》湾に行って海に飛び込んだ西郷を助けてきた」
「え、というと」
「そうだ。月照という坊さんを抱きかかえて飛び込んだ。ここで死んでは日本の歴史が目茶目茶になる。しかし飛び込む前に助けるわけにはいかない。西郷は助かるが月照は生き返ってはならない。助けるタイミングがむずかしいのだ」
「あそこのところはぼくも考えたことがありますよ。薩摩藩にとっては実に都合よく月照が消えてくれる。あれは心中に見せかけた月照|抹殺《まつさつ》計画ではなかったのかと」
「たしかに武士ともあろうものが自殺の手段として坊さんと一緒に海に飛び込んで心中などというのはおかしい」
「ではやはり最初からそういう計画だったと」
「さて」謎《なぞ》めいた表情になった男の顔が急に愚鈍なものに変わっていった。
「ぼ、ぼくには、わ、分からないな」
男の中に別の人格が現れてそう言った。
「こういうときにはいつも、さ、作者が思考停止になるんだな。そしてぼくを出して、ごまかすんだな。うるさい。お前は黙っていろ」
一人の人間の中で二つの人格が争いはじめた。
「黙れ黙れ。いや失礼した。西郷の人生の大事な節ぶしにわたしは現れて歴史どおりの行動をするように調節しているのだ」
「なるほど。西郷さんの行動には矛盾が多いといえますよね。戊辰《ぼしん》戦争後期からはすべて現場に遅れている。廃藩置県で武士の権利を取り上げておきながら鹿児島に帰って再び武士社会を目指すような動きをする。天下の陸軍大将ともあろうものがイガグリ頭に浴衣で首都を歩き回っている。西南戦争ではなに一つ具体的な戦闘指令を出さない」
「ほかにも色々ある」
「山で木の根っこにつまずいて転んで頭を打ってから変になっていたという人もいる。周期的に出る症状から躁鬱《そううつ》病だという説もある」
「それは実は」
「病気のために異常に大きくなっていたという睾丸《こうがん》とひっきりなしの下痢も抱えていた。これではまあ嫌気《いやけ》がさすのも仕方がないと思うけど」
「いや実は原因がある。西郷に密着しているうちに時々我々は人格融合を起こすようになっていたのだ。何しろこちらは天空自在の存在だからな」
「つ、つまり大霊界だあ」男の顔が急にたてに伸び、目をぎょろつかせて野太い声を出した。
「うるさい。お前は黙っていろ。そういうわけで大事な場面では歴史どおりになるように西郷に働きかけていたのだ。実際話しかけたといってもよい。西郷はそれを天の声というふうに考えたかもしれない。いつの頃《ころ》からか自分は何かもっと大きなものにあやつられているだけだと思うようになった。するとそこには当然無力感も生じてくる。これが西郷が時々投げやりな態度になる原因だ」
「そうだったのですか。いや妙にすじが通っている」
「そのとおりだ。しかも時々わたしの中のもう一つの馬鹿な人格が西郷に現れるということもあった。一度などは浴衣姿のまま道端に座って絵を描《か》きはじめようとした。これはわたしが何とか止めた。しかし妙な振舞いが現れてしまうことも再三あったのだ」
「なるほど。西郷の奇妙な振舞いの原因はすべてあなたにあったということになるわけですね」
「こ、これも皆、お、お前のせいだぞ。は、反省しろ」愚鈍な人格が現れてわめいた。
「よしよし黙っていろ。このものが馬鹿であることはもう皆分かっているのだ。それよりも今日現れた目的はこのようなことを話すためではない」
「何でしょうか」
「手紙を届けるためだ」男は一通の封書をふところから取り出しておれに渡した。
「心して読むように」男は立ち去ろうとした。
「あ、待ってください。もう一つ。さっき吹いていた笛は何ですか」
「古来より薩摩に伝わる天吹《てんぷく》と呼ばれる笛じゃ」急に時代劇めいた言葉つきになった男は再び笛を口にあて高い音を吹き鳴らした。音が空中に消えて行ったときに男の姿も消えていた。
部屋にもどり渡された封筒を開けた。便箋《びんせん》が二十数枚入っていた。一枚目から読みはじめた。
「私は酒匂《さこう》津屋《つや》と申しまして、此《こ》の七月末に白内障の手術を受けましたが未《ま》だ世の中がぼんやり見える七十八歳の老婆《ろうば》でございます。私は明治四十一年刑務所と一緒に生れました」
達筆のペン書きの字が記されていた。びっくりしながら夢中で読んでいった。
「私が六歳の時、川内《せんだい》の裁判所より鹿児島の裁判所へ転勤した父は薬師町へと居を定めました。北側はずつと田圃《たんぼ》でした。続く田圃のその先に高い/\石垣《いしがき》の家が見えました。そして毎日赤と青の衣類が高く干してありました。父は『悪い事をすればあんな所に入れられてあんな着物を着せられるのだよ』と教へました。裁判所と刑務所のつながりも自然にわかりまして世にも恐ろしい光景におびえつつ、大正三年一月十二日の桜島大爆発を迎へました」
あの建物をそのような昔に毎日見ていた方からの手紙なのだった。赤い着物や青い着物のことは啓次郎の演説の中にもあった。已決《いけつ》囚は赤い着物で青いのは年期が明けてもまだ別房監にいる者が着るのだ。
啓次郎は言っている。
「悪いことをする者の中には親戚《しんせき》故旧と云《い》ふものもない独身の者があります。さう云ふものを此所《ここ》に入れて置いて監視の刑を此所で執行するのであります。それで着物の如《ごと》きも今まで着てゐた赤衣を脱いで青い着物を着、また聯鎖《れんさ》の如きも解けて単身で服役するのであります」
「子供の教育にあまり良くないと考へた父は同じ薬師町で刑務所の見えない所に転居しました。すぐ近くに山下といふお宅がありました。お兄さんが司法省の技師でお直さんのお婿《むこ》さんである事、弟の山下|大尉《たいい》が留守宅にいらつしやる事も父は話してくれました」
啓次郎の弟の山下大尉とは清治以外にはあり得ない。軍人だったという話はあるが何しろ前に書いたような色々な別のエピソードで語り伝えられている人だからこういう姿をすぐに想像はできなかった。しかし津屋さんは実際に清治の兵隊姿を見ているのだ。
直子おばあちゃんのことを「お直さん」と呼んでいることにも理由があった。実は津屋さんのご一家は直子の父親でやはり川内生れの末弘直方と浅からぬ因縁があったのだ。なんと津屋さんはいま現在直方の生れた屋敷に住んでおられるという。
「そもそも事の起こりは薩摩郡|平佐《ひらさ》村の木ノ上家に男の子二人女の子二人が生れたからなのでございます」おもわず引きつけられる文章が続いていた。
その木ノ上家の長男が平佐で一番の財産家である上《かみ》の柏田家の一人娘スマのところに養子に行って柏田六右衛門となった。六右衛門とスマとの間に子供が三人生れた。その中のイトという娘が末弘直方の嫁つまり直子の母となったのだ。イトの妹は下《しも》の柏田家の柏田盛文に嫁いだ。柏田盛文はのちに文部次官となる人だ。
一方、木ノ上家の娘のうち姉の不美は十六歳のときに毬《まり》とお手玉を持って西牟田家の才助のところに嫁いできた。この西牟田才助と不美が津屋さんのご祖父母なのだ。
「ですから、あなたさまとわたくしとは髪の毛一筋の血がつながつてゐるのでございます」
なるほど津屋さんのご祖母の生家である木ノ上という平佐の家の血が六右衛門からその子のイト、さらにその子の直子、さらにその子の啓輔を通じておれにも流れているわけだ。そのことをこうして知らせてくれる人に急になつかしさを感じた。
ご祖父の才助氏は直方の親友だった。津屋さんの手紙では「髪も結ひ合つた仲だつた由《よし》」という言葉が使われている。明治維新後に東京で近衛兵《このえへい》のラッパ卒をしていたが病気で川内に帰った。
やがて明治十年の西南の役がはじまる。
「才助の兄は東京で巡査でしたので官軍から出て田原坂《たばるざか》で戦死いたしました。才助と才助の弟の休之進は賊軍から。三人の息子達を敵味方と戦場に送つた曾祖父母《そうそふぼ》の心中を思へば私の胸も痛みます」
すべての鹿児島人を巻き込んだ悲劇がここにもあった。ちなみにこのときは房親も大分の山奥で戦っていた。津屋さんが薩摩軍を「賊軍」と当然のように書いているのが面白い。どういう状態だったのか次のような一節が続いていた。
「川内川に近い西牟田宅の辺は敵が宿るから皆|疎開《そかい》せよとの事で、末弘宅より五百|米《メートル》位離れた娘の嫁ぎ先に一家は疎開しました。曾祖父は焼酎《しようちゆう》が好きなため祖母不美は自家製造の焼酎を取りに家に帰へりました由。女子供には官軍はどうもしないといふ事だつたさうですが本当にその通りでしたつて。才助の首スレ/\に弾がよけて通つたと祖父はいつも話してくれました」
ここでいう敵とは官軍のことらしい。平佐に官軍の兵隊がやってきて自宅付近に駐屯《ちゆうとん》したのだ。一家は疎開したが疎開といってもちょっと先の別の家に移ったという感じだ。やがてその家の主婦が忘れ物を取りに帰るような様子で家に帰り、台所から自家製の焼酎の瓶《びん》だかカメだかを持ち出した。駐屯中の政府軍の兵隊とは出合ったが邪魔をされるわけでもなく危険な目にもあわなかったというのだ。
なにやらのんびりとした風景が浮かび上がる。ここ平佐を舞台にしては戦いはなかったのかもしれない。しかし、熊本を中心に激烈な戦いがあったのはいうまでもない。平佐からもそこまで行って戦った者は大勢いた。
後に津屋さんが送ってくれた、著者宮内吉志氏、発行者財団法人寺山維持会による「平佐の歴史」という貴重な本によれば薩摩軍側から参戦して西南戦争に従軍した平佐の人たちの内、二十五人が戦死している。生還者はそれよりは多く、その中には西牟田才助と西牟田休之進の名前も書いてあった。二人共無事に帰ってきたのだ。
一方、戦争前に、西郷隆盛を頭目とする私学校一派に味方をしないように、政府にたてつかないようにと説いて回る者たちもいた。彼らは警視庁から派遣されていたが西郷暗殺団と思われて全員捕まえられた。そのなかに末弘直方、田中直哉、柏田盛文の名がある。いずれもここ平佐の出身だ。田中直哉は直方の実の弟だった。もう一人龍岡新熊という人がいてこれも弟になる。この三人が現在津屋さんの住む元末弘家の屋敷で生れているのだ。
密偵《みつてい》として私学校側に捕らえられた直方と直哉は散々な目に会う。拷問《ごうもん》のようなこともあり私学校側の臆測《おくそく》にそった口述書をとられた。救出されてからそれが強制的なものだったという内容の始末書を直哉は書く。直哉は元は評論新聞記者であってこの新聞は常に政府攻撃の急先鋒《きゆうせんぽう》だった。東京における私学校の機関紙ともいえるものだった。それが逆の立場で密偵をしてきたことになる。
これより前に直哉が川内地方の八つの郷を合併するために奔走したという話もある。このときには西郷、村田、桐野にも会い助力を願った。西郷がその見識に動かされて「私学校にきて青少年を教えてくれ」と言った。直哉は「力を貸してくれると約束してくれるなら来てもよい」と返答し、西郷は笑ってそれ以上の進展はなかった。
西南の役の後直哉は二十代で県会議員になるというような出世をするが明治十八年に三十二歳の若さで死ぬ。評論新聞にいた時からスパイと思われていたなどという話もあり、このあたりは調べると面白いのだろうがきりがない。さらに平佐出身者には有島一族の人達がいる。これまた興味深いのだが今はこれ以上は深入りできない。
ただ密偵問題に関してだが、あの当時私学校側にも話の分かる人がいたのはたしかなのだ。でなければ捕まえられた暗殺容疑者二十三人全員が生きて帰されるはずがない。敵といい味方といいつつも、どこかで同郷であり幼|馴染《なじ》みであり本来は志を同じにしていた者同士だというきずながつながっていたのではないだろうか。あるいは私学校に属しながらもかすかに事の無謀さを憂《うれ》う人達が存在したことの証《あかし》にはならないだろうか。
直方も西南の役の最中に釈放され警視庁に戻りその後順調に官歴を重ねた。つまり密偵の仕事は経歴上のマイナスとは決してならなかった。むしろ逆に大手柄《おおてがら》だったのだ。
直方は何度か川内に帰って来たことがあった。
「濃い/\味噌汁《みそしる》をお好みになりました由。夜中に目覚めて手洗《ちようず》水を飲む方なので手洗|鉢《ばち》はいつも綺麗《きれい》にするものだと不美は教へました」と津屋さんは書いている。
味噌汁だけではなく当然酒なども飲み夜中に起きて手洗いに行く。喉《のど》が渇いているので外においてある手洗鉢の水を備えつけのひしゃくかなんかでぐびぐびと飲んで「ううい。酔いざめの水は千両じゃ」などと言っていたのだ。その癖を津屋さんのご祖母の不美さんが知っていて直方のお嫁さんのイトに教えているわけだ。不美さんはイトの伯母さんでありご自身のだんなさんが直方の親友なのだから当然そういう立場になれるのだった。
不美さんには才次という息子が生れこの人が津屋さんのお父さんとなる。年代でいえば才次が啓次郎と同じだ。才助、直方、房親がその前の世代ということになる。もっとも年齢は房親が直方より十幾つ年上だった。そして津屋さんはご祖父母の時代の話をくりかえし聞いて育ったのだ。
津屋さんは七歳で男子師範の付属小学校に合格され十三歳で第一高等女学校に合格されたという才媛《さいえん》だ。いまだにこのような魅力あるお手紙をしたためられる所以《ゆえん》だった。やがて酒匂家に嫁がれる。ご主人の融《とおる》氏は県庁から農林省に出向になり日本中で直轄《ちよつかつ》工事の主任を勤められた。功績を重ねられた。
「昭和五十三年には皇居の春秋の間で皇太子殿下のお言葉を(陛下がお風邪で)頂きました」
津屋さんが十八歳のときに当時住んでいた屋敷に末弘の三姉妹が里帰りをした。
「三台の人力車が門前で止まりました。中から同じお顔の和装の綺麗な/\方々が降りて来られました。江崎様阿部様山下様が氏神|詣《まい》りがてら不美に逢《あ》ひにいらしたのです」
このときは大正十四年で長女の直子は四十六歳になっている。二人の妹も若くはない。この三人は皆東京生れで東京で結婚した。初めての里帰りで言葉や何かもずいぶんちがっていたろう。父親の直方ももう亡《な》くなっている。その父親の生れた家を一目見たいと思い立ったのだろうか。
「せめてここが末弘の屋敷の跡だとの印があつたなら、とおつしやつたのも忘れません。祖母不美が、おあがりなさいお茶でもと申しましたが、氏神様(末弘家の)を拝んでお帰りになりました」
この訪問の時期とどう重なるのかよく分からないが直方の末の娘はここ川内に嫁いでいた。その結果はあまりよいものではなかった。実は大変な失敗だった。
「娘の家に行くと取り次ぎが居るから(末の娘は)高城《たき》の田舎にやると言はれた直方さんはあんまり勝手過ぎたのではと思ひます。ご自分は田舎から東京に、都に出ていらつしやつてね」
つまり東京生れの娘たちはそれぞれ建築家の山下、写真家の江崎、外交官の阿部、軍人の野津という家に嫁いでいる。娘をたずねていけば取り次ぎが出てくるような家ばかりだった。あまり気軽に娘をたずねても行けない。そういうことを直方が言っていたのだ。はたしてこれは本気か冗談か。一人は故郷の地に置いて縁をつなげておきたかったのだろうか。しかしこのトメという娘も当然東京生れだった。
「学習院を出たお姫様が田舎の四季折々の行事を何でお分りになりませう。お正月の行事。三月の節句のお菓子。お餅《もち》つき。五月のカカラン団子とあく巻き作り。お盆の事。お彼岸。お味噌作り。醤油《しようゆ》作り。田舎は本当にうるさいんですもの」
たしかに東京生れの娘が急にできることではない。夫や家の辛抱強い助けがあれば何とかなるかもしれないがどうやらそのへんもうまくいかなかったようだ。
悲劇が起きていた。
「おトメさんは度々家にいらつしやいました。直子様と相似形でいらつしやいました。玄関から真すぐ鏡台の部屋に行かれ髪を綺麗にされました。実家のやうな気がしたのでせう。いつも空の財布を出されました。頭がくるつていらつしやるので別に話もなく母の津多は『高城から歩いては大変だつた故《ゆえ》、帰へりは車でお帰り下さい。お好きなものを買つてね』と幾らかを差し上げました」
この日津屋さんは太平橋のところでまたトメに会った。トメは津屋さんをおカツさんと呼んで挨拶《あいさつ》した。おカツさんは田中直哉の孫だった。先程まで会っていた津屋さんを別人と見まちがえているのだ。
痛ましい光景を近所の人が見たという話もあった。それは「ご主人が川の中につぶし込んで髪の毛をひっぱる」というものだった。あるいはおかしくなってしまった妻を直そうとしていた光景だったのかもしれない。そう考えたいという気持ちが強く湧《わ》く。
こうして娘の一人をゆかりの故郷へ嫁にやるという父親の作戦は無益な試みに終わった。トメはやがて直方の弟の龍岡新熊に引き取られそこで亡くなった。
ところで最初にあったように津屋さんは末弘家とばかりではなく山下家の者とも会っていた。これは新しい事実をおれに教えてくれるものだった。
「啓次郎様御一家は早く東京に引き揚げていらつしやつた由ですが、啓次郎様の弟様がいらつしやいまして留守宅を守つておいででした。四十五連隊の大尉で、毎日従卒の兵隊さんが馬の手綱を取つて送り迎へされました」
清治のことにちがいない。一家の歴史の中でどこか気になる不良の印象を持つこの大叔父の姿を少女の津屋さんが見ているのだ。
「その方の息子さんが清親さんで男子師範の付属小学校で同級でしたので仲良く通つたものでしたが、お互ひうちでは遊んでといふ事は一度もございませんでした」
津屋さんが清親おじと幼馴染みだったとは。この清親おじのことはよく憶《おぼ》えている。端正な顔立ちをした細身のダンディな人だった。あの人があの清治の子供だったのだ。そうと分かると何となく腑《ふ》に落ちるものがあった。清親おじもどこか一族のつながりの外に立って鋭い存在感を漂わせていた人だったのだ。
一度このおじの名が強烈な思い出となっている事件があった。
ある冬の夜に千葉の病院から電話がかかってきた。ご親戚の山下さんが入院された、重体だからすぐ来て欲しいというのだ。母親とおれはびっくりしたが、すぐにこれは銚子《ちようし》に一家で住んでいる兄の啓義のことだと思い込んだ。寒い冬の夜だったがすぐに支度をして阿佐ヶ谷から中野に向かい総武線に乗った。長い時間をかけて千葉に着いた。さらにそこから乗り換えて銚子に向かった。暗い夜の暗い車内だった。病気などしたことのない兄だった。おれたちは黙って窓の外を見ていた。陽気な母親もさすがに少し肩を落とし涙ぐむ瞬間もあった。やがて銚子駅に着き歩いて兄の家に向かった。いま考えると病院の名前や所在地を聞いておかなかったのは変だし、兄の家に電話はなかったのかとも思うが、とにかくこういう経過となったのだ。兄の家の玄関は真っ暗だった。不吉な予感を覚えながら我々は戸をどんどん叩《たた》いた。やがて中に明かりがつき鍵《かぎ》がはずされた。戸が開くとそこに兄がいた。寝間着の上にドテラを引っかけた姿で大変迷惑そうな顔をしていた。それでも我々を認めると困ったような笑顔になって「どうしたんだい」と言った。おれは唖然《あぜん》とし次の瞬間爆笑した。「いるじゃないの」兄を指さしながら笑い転げた。「何これ。おれたちは何をしにここにきたの」そのあいだに母親は大声で何やら説明していた。「あらまああなた病気じゃなかったの。入院したんじゃあなかったの。電話があって千葉の山下って言えばあなたでしょう」そのうちお嫁さんの桂子さんが出て来て玄関に三つ指をついた。「これはこれはお母さま。よくいらっしゃいました。どうぞお上がり下さい」いやもう大騒ぎ。このまま爆笑のうちに深夜の宴会となった。外にまで飲みに出かけた兄とおれは帰りに大きな大八車を見つけ積んであった正月用の松飾りもろともそれを引いて家に持ちかえった。翌日二人そろって桂子さんに大目玉を食らった。
いや長くなったがつまりこのときの電話の「千葉の山下」というのが実は清親おじさんだったのだ。疎遠になっていたので母親もとっさに思い浮かばなかった。同じ千葉でも市川に住んでいた清親さんはこのときは独り暮しになっていたが、親戚筋の連絡先として手帳の一番最初に山下家の跡取りである父親の家の電話番号が書いてあったのだ。幸いこのときの病気は治って退院する。その後は母親はよく家に出かけては面倒を見ていた。
その清親おじもしばらく前にこの世を去っていた。
「清親様は如何《いかが》お暮らしでせうか」
当然、津屋さんの手紙にはそう書いてあった。どう答えていいのか分からない。
その頃《ころ》津屋さんは西田町にいて何と山下の家とは隣同士だったのだ。
「山下様のお屋敷と末弘直方様のお屋敷を両方存じ上げて居る者は世界広しと言へども、この津屋一人でございます」
その通りなのだ。そして津屋さんのたしかな記憶によればこの家があったのは西田町の薬師町だった。家に残る家系図にいう鷹師町とは異なるのだがこれはつまり明治維新の前と後ということになる。江戸時代には家系図のいうとおり山下という家は鷹師町にあったのだろう。しかしそこは西南戦争直前に慌《あわた》だしく引き払って出てきてしまった。留守番も親戚《しんせき》も誰一人残らなかったのだ。やがて維新後東京生れの三男が鹿児島にある連隊に入り、ここに住むことになった。そのときに何度も房親や兄達から聞かされていただろう話を頼りに昔先祖が暮らしていたというゆかりの場所の近くに家を探したのだ。そして鷹師町のすぐ隣の薬師町にそれを見つけた。清治はそこから連隊まで毎日従卒の引く馬に乗って通ったのだ。
「甲突《こうつき》川べりを通り刑務所の門を左に見て玉江橋を渡り国道三号線に出ますともう右は連隊でした」
そうだった。そこにはもう刑務所と石の門が建っていたのだ。それは清治の兄が建てたものだった。父が生れ育ち一家の運命を切り開きに上京していったこの場所に兄の建てた建物がある。そこに清治は暮らしていた。そして房親への愛情のしるしのように清治の子供には清親という名前がつけられていた。
津屋さんの手紙にはこの他にも興味深い話がいくつも書かれていた。たとえば才助氏の従兄弟《いとこ》に赤貧洗うが如《ごと》き人がいた。ベンカママ(米飯)を炊《た》いてよくもてなした。その人の長男は川内中学を途中でやめて行方不明になった。後日、久米正雄、岡本一平、かの子、林芙美子などに川内を紹介した改造社の社長山本実彦氏がその人だった。
門前での演奏を前に再び時間が過去をさまよっているようだ。
津屋さんの手紙の内容を反芻《はんすう》しながら日が過ぎていった。過去に流れた時間の渦《うず》にひかれるように、日が経《た》つにつれてその末弘の旧家が見たくなった。どのように返事をしどのように出かけていけばよいのだろう。
思案しているうちに解答が川内からやってきた。一本の電話だった。
「こちらは川内でジャズ喫茶『はいから』をやっている瀬下というものです」
若いマスターの声が聞こえた。以前から評判の聞こえていた店だった。東京から何度かミュージシャンを呼んでライブコンサートをやっている。
「今度は鹿児島にこられるそうですね」
「ええ。刑務所騒動がありましてね」
「存じています。それでですね、その前に川内においでになりませんか」
「それはその行きたいのですが、鹿児島でもコンサートがあるわけでしてその」
「あ、いやいや、仕事の話ではありません。ご先祖がこちらの出なんですね」
「そうです」
「実はこの電話は私の母からの依頼でして、なんでも母はヨースケさんのおばあさまの従姉妹《いとこ》になるのだそうです」
「え。その方はなんとおっしゃるのですか」
「旧姓は柏田です。あ、ちょっとお待ちください。かわります」
かわって若々しい上品な婦人の声が聞こえた。挨拶をし今回の刑務所騒動による鹿児島行きのいきさつなどが話された。先方では何もかもご存じの様子だった。そして平佐の柏田家のお墓のあるところには直方のお墓もあるから是非お参りにいらっしゃいとすすめられた。
「せっかくお帰りになるのですからお墓にもお寄りなさいませ」
この言葉に打たれた。鹿児島に行くことはおれにとって故郷に帰ることなのだろうか。少なくとも平佐に住むかすかな血のつながりのあるこの方々にとってそれはどうやら当り前の考え方らしかった。「せっかくお帰りになるのですから」という言葉がいつまでも耳から離れなかった。
「かならずまいります」とおれは答えていた。
「ところでやはり平佐の方で酒匂津屋さんという方がおられますね」
「ええ。ええ」
「お手紙をもらっているのですが、あの方の家にもうかがえますか」
「それはもうお待ちですよ。お墓参りをしたらすぐにそちらにまいりましょう」
何だか皆が血のつながった大きな家族同士のような感覚だった。あちらでは何でもお互い通じているようなのだ。
「では演奏の前の日に是非うかがいたいと思います」
再びかわったマスターに空港からの道順を聞いた。結局、車で迎えに来てくれるという願ってもない結論になった。
「では当日よろしくお願いします」
こうして急転直下、川内への旅が決った。子供の頃から聞かされて不思議に思っていた鹿児島にあるセンダイだ。東京生れのはずの直子おばあちゃんがいつもどこか誇らしげに話していた場所だった。そこは何かの折にかならず直子おばあちゃんの口をついて出た「スエヒロ」という家の故郷だったのだ。
当日、空港に瀬下氏が迎えに来てくれた。
「というわけですから私がヨースケさんのお父さんのフタイトコになるそうです」
車を走らせながら瀬下氏が言った。
「おやじの方に近いわけですね。代が一代格上だ。お辞儀をしなければいけませんね」
「私のおじいさんはずっと年下の弟だったらしいんですね。それでこういうことになったわけです」まだ若い瀬下氏のきりりとした眉《まゆ》と目のあたりが若い頃の兄に似ていると思った。
車は山ひだをぬうようにして川内に入って行った。まず「はいから」に案内された。今風のきれいなカフェバーだった。ちゃきちゃきの若いママが出迎えてくれた。すみのテーブルから二人のご婦人が立ち上がって挨拶をされた。お二人とも細面《ほそおもて》の顔が驚くほど直子おばあちゃんに似ていた。薫、真佐江といわれるご姉妹だった。早速家系図的な話になった。
直方の妻で直子の母のイトは柏田六右衛門とスマの間に生れた娘だ。その妹は柏田盛文に嫁いだ。さらにずっと年下の弟がいてそれがお二人の父上になるのだ。末っ子で大変年が離れていたのでお二人は従姉妹とはいえ直子のことを「おばさま」と呼ぶほどだった。東京の家でのことだろうか、啓次郎にオシメを替えてもらったことがあると薫さんは言われた。
「ではお墓にまいりましょう」
小高い丘を車は登っていった。昔からの平佐の士族の墓地で段原《だんばる》という地名が残っている。丘の上の墓地は大きくはなかったが静かできれいな景色だった。大きなお墓がいくつかありそのうちの一つが末弘直方のものだった。前にいって手を合わせた。
幕末には十代半ばだった。西南戦争直前には警視庁で中警部となっていた。明治九年帰鹿して私学校党に捕まる。戦後警視庁に戻り明治十八年には高城、薩摩、伊佐、出水《いずみ》、甑島《こしきじま》各郡の統一郡長となったと「平佐の歴史」にはある。直子が生れたのは明治十二年つまり西南戦争直後でこのとき直方はまだ警視庁にいたはずだから直子はたしかに東京生れだ。妹たちも学習院に行っているから本拠地は東京だった。その後、香川、高知、岩手県知事を歴任し小倉市長にもなった。
一通の手紙からとうとう祖母方の曾祖父《そうそふ》のお墓の前までたどりついた。山下の家の者でここまできた者はいない。もしかしたらこのことのために、つまり自分の父とその誇りある故郷にいずれ子孫の誰かを来させるために、祖母直子はおれを選びかわいがったのかもしれない。そうだとしたらいまその目的は達せられたのだ。
直方の兄弟たちや柏田盛文のお墓にもおまいりをした。再び車に乗って津屋さんの住む家に向かった。
玄関に出迎えてくれた津屋さんは丸顔の色の白いかわいい方だった。とても喜んでくださっていた。おれは長いお手紙によってこの方のことを非常によく知っているのだった。なつかしい気持ちになりすぐにうちとけた。座敷に通され初対面の挨拶もそこそこに親戚同士のような昔話になった。
鹿児島市での山下の住居が鷹師《たかし》町か薬師町かという話では津屋さんは子供のような頑固《がんこ》さで薬師町だと言い張られた。
「お隣だったのですから間違えるはずはございません」
「ですからそれは大正時代のことですね。私の申し上げているのは江戸時代の山下の家のことなのです」
その家を津屋さんは啓次郎が残した留守宅と考えておられることが分かった。これはしかし鹿児島に来ることになった弟の清治が新たに見つけたものだというのがおれの考えだった。啓次郎の兄|雄熊《ゆうぐま》の書き残した家系図がある。そこには代々鷹師町に住んでいたということが書いてあった。東京にいた房親が明治九年に一家を呼び寄せたときあるいはその家を売って旅費にしたことも考えられる。愛着ははかりしれなかっただろうが、とにかくいったん鹿児島も家も捨てなければならなかったのだ。
しかし津屋さんは仲々納得されなかった。
「ではこの問題はいつまでも議論することにしましょう」
「そういたしましょう」
その薬師町の家に一度だけ直方が泊まりに来ていたときのことも津屋さんはご存じだった。つまり直方は娘婿《むすめむこ》の弟の家に泊まったのだ。この義理の親子はうまくいっていたらしい。しかし当の義理の姉直子が清治を決してこころよく思わなかったのは前に書いたとおりだ。
直方が初めてそして最後に一度だけ隣の津屋さんの家を訪ねたことがあった。そのときには父上の才次氏は留守だった。勤め先の裁判所に母上が知らせた。直方と才次氏は鹿児島駅で会うことができた。直方はこの旧友の息子に娘のトメのことをよろしく頼むと言った。最後まで嫁にやった娘の運命が気になっていたのだ。これ以後直方は川内には帰らなかった。
津屋さんの娘さんが淹《い》れてくれたお茶と手製のハヤトウリのつけもののあたたかい味が口に広がった。
食べ物の話となり直子が肉が好きだったことを話した。津屋さんのご祖母の不美さんは牛肉や豚肉は決して食べなかった。卵焼きや酢の物それにヒボカシという鯛《たい》を串《くし》にさして遠火でやいたもの、オカベ(豆腐)や野菜を煮つけたものが特に好物だった。生ものも食べなかった。カシワは食べた。病床に伏せられてから母上が尋ねるとウナギと申されたそうだ。一口食べて「おいしかった」と満足されたがこれが一生一度のウナギだったという。
なぜかいざというときにはウナギの好きな鹿児島の人々なのだった。あの房雄も最後にそう言った。房親も大好きだった。そういえばいまでも両親の家に行って食事どきになると「ウナギでもとろうか」ということが多い。めったに食べられない美味《おい》しい貴重な御馳走《ごちそう》という昔ながらのイメージとどこか体によいという実効性が素直に信じられているかのようだ。
秋の日が傾いてきた。今日はじめて会う方々なのにおれはまるで昔からの家族のように迎えられていた。いや実際我々は昔は家族だったのだ。そして髪の毛一筋の血のつながりによってこのように寄りそっている我々の背景には、やはり平佐と鹿児島とこの国を捲《ま》き込んで流れていった過去の時間があるにちがいなかった。
おいとまの時間になった。お屋敷を辞して玄関を出た。古そうな梅の木が目についた。
「これはもとのお屋敷の頃からあったものでございます」と津屋さんがいった。庭の池のほとりの小山には何かがお祭りしてあった。「石仏でございます。ここはもとはお寺だったのでしょうか。廃仏|毀釈《きしやく》のときに土の中にかくしたらしいのが五つ出てまいりました」
三体が保食神であとは地の神様と無縁仏だそうだ。そこへ行ってお祈りをした。
津屋さんは目と足が少しご不自由だがそれでも門の外まで送ってくれた。
そこに立って瀬下氏が車を回して来てくれるのを待っていた。
「清親様はいかがお暮らしでしょうか」と津屋さんが聞いた。
「…………」
悲しい知らせをする心の準備ができていなかった。
「お元気だと思います。最近はあまり便りがないもので」
あらためてお招きのお礼を言い両手で津屋さんの手をにぎった。白いやわらかな手だった。
車で川内駅まで送ってもらった。そこから列車に乗って鹿児島をめざした。
「お屋敷からは川内駅から発車する鹿児島行が黒い煙を残し乍《なが》ら『テセコツジャ/\(難儀々々)シュッシュッ』と走るのも見えましたけれど、終戦四十年の間に全く世は変りました」
列車の窓の外は暗くなっていた。鹿児島に着いても桜島は見えないだろう。今年のはじめに見た桜島は大雪の中で北極海の火山島のように屹立《きつりつ》していた。夏に来たときには紺碧《こんぺき》の海の向こうでむくむくと白煙を吹き上げていた。そしていま秋の闇《やみ》の中にも桜島は豪然と立っているはずだった。
その場所を目ざして列車はまっしぐらに疾走していった。
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第二十九章
翌日は快晴だった。
午後一時すぎに揚村さんが車で迎えに来てくれた。助手席に乗り込んで出発した。国道三号線を北上し中草牟田《なかそうむた》の信号を左に曲がると鶴尾橋が見えた。その向こうに石の門が立っていた。車は橋を渡り門の前の広場に入って行った。
すでに大勢の人が集まっていた。見物人と関係者が入り混じっている。車から降りて門を眺《なが》めた。両側にうねうねと続いていた塀《へい》がなくなっていた。アーチの形の入口にはめこまれた鉄格子《てつごうし》の向こうに見えていた二階建ての庁舎の姿も消えていた。門以外のすべてのものは倒され壊され引き裂かれ粉々にされたのだ。もう二度とこの世にはもどってこない。
塀も庁舎も獄舎も取り去られてそれだけ残された門は奇妙だった。権威と威厳と恐怖という後ろだてを失った姿で人前にさらされていた。監獄の門にしては面白いなどという言い訳はもうできなかった。門はいまやただの建築物としての自分自身を人目にさらしてその価値を問われていた。微妙に縮められたような門全体のサイズがどこか心ぼそげだった。
門の前に立っていると関係者風の人が挨拶《あいさつ》をしに来た。
「取材に来ましたのでよろしくお願いします。フォーカスです」
「これはこれはよろしくお願いします」歓迎していると他の人たちもやって来た。
「フライデーです」
「エンマです」
「フラッシュです」
「週刊朝日です」
「鹿児島テレビです」
「NHKテレビです」
通常のコンサートではまず集まってはくれない取材陣だ。
門の横を通ってかつての刑務所内の敷地に入ってみた。テレビカメラをかついだ人が一人ついてきた。五つの方向に突き出していた房舎は跡形もなく消えていて、そこに広い空間が出現していた。その空地の一角に石が積みあげられている。
「例の七の字が彫られている房舎の石は残したようです」と揚村さんが言った。例の左に向かって飛ぶ鳥の姿に見える七の字は第七房舎以下、十七、二十七、三十七といくつもあるわけだ。それらが彫られた石がすべて集められているらしい。ひとかたまりにされた鳥文字の石が一斉《いつせい》にうごめいて飛び立つのではないかと思いながら眺めていた。
門のそばに行って内側から鉄の格子戸越しに広場を眺めた。人が増えはじめている。知っている顔があちこちに見えた。夏に一緒に県庁と市役所へ陳情に行っていただいた山根銀五郎さんが笑いながら近寄ってきた。鉄格子を挟んでご挨拶をするということになり、思わず鉄格子を両手で握りしめてお辞儀をするという囚人スタイルをとってしまった。カメラのシャッター音がいくつか聞こえた。
そうこうしているうちにトラックに積まれたピアノがやってきた。プロの運び屋さんが二人で手際《てぎわ》よく広場の土の上に降ろす。馬場さんや中山さんが集まって位置を決めていく。チェリーの連中も手伝ってピアノが門の前の地面にセットされた。
このピアノは国分市の秋葉氏の提供だった。「梁山泊《りようざんぱく》」という頼もしい名前の店を持つ秋葉氏はこのイベントのことを聞いて別の「ポパイ」というスナックにおいてあった自分のピアノを持ち出すことにしたのだ。
「よく貸してくれましたね」と中山さんに聞いた。
「雨が降ろうと叩《たた》かれて壊れようと構わないということでしたよ」
このイベントの実行の裏ではすごい覚悟の助《すけ》っ人《と》が方々にいるのだ。
ピアノの前に座って鍵盤《けんばん》を押してみた。妙な場所に連れてこられたグランドピアノはややとまどい気味の音を出した。なだめるようにして触り続けた。そのまま少し弾き込みをした。周りに報道陣がやってきてシャッターの音が響きビデオが回った。
本番のような雰囲気《ふんいき》になりかけたので一度やめて待機することにした。そばではチェリーの森田君がドラムをセットしはじめた。坂口君もベースをケースから出してアンプにつないでいた。ピアノの中にもマイクが二本さし込まれた。電源はどうなっているのかと思ったら小さな発電機があってそこからコードが引かれていた。さすがに巨大な電源車というわけにはいかなかった。何しろ本来はこれはおれが作曲のアイディア拾得のために行なう門前散策のはずなのだ。しかしここにきている人たちのうち誰一人そんなことを信じていない。今日ここで音楽イベントがあるということはもう知れわたっていた。それが目当てらしい人や近所の住人らしき人たちがどんどん増えはじめている。こういう騒ぎになっては市が止めようとしてももう遅いだろう。
しかし市の側からの偵察《ていさつ》はちゃんと来ていた。二人づれの背広姿の男が揚村さんを取り囲むようにして話していた。
「国立大学の先生なら公務員だろう」と一人が言っていた。
「大学の先生が嘘《うそ》をついていいのか」ともう一人が言うのも聞こえた。
「嘘なんかついていませんよ」と揚村さんが応じていた。
どうやらこの事態に驚いて揚村さんを詰問《きつもん》しているらしかった。やりとりを見ているおれに気がついた揚村さんは身振りと表情であっちに行っていろと合図をした。おれは退避することにした。
大通りに出て喫茶店を探そうと鶴尾橋の端まできた。するとそこにあるべきものがあるのに気がついた。売店とつながった小さな喫茶店だった。ちょうど門から斜め向かいの位置になる。フランスにもイギリスにもあった刑務所門前カフェだ。そこに入ることにした。
きりりとした顔立ちのママがいてコーヒーをいれてくれた。
「やはり門から出てきた人はすぐにここに走ってくるんですか」と聞いてみた。
「そういう方もいますよ。すぐにタバコをくれと言って何本も吸ったり」
「みんなそうではないんですか」
「お迎えのある方はそのまま行くようですね」
そうだった。たいていの場合迎えがいるのが普通かもしれない。それがなくて一人でここに走って来なければならないというのは悲しい状況といえるのだ。
隣の売店は差し入れ用だということだった。演奏前だったがメニューにあったヤキソバがおいしそうな気がしたので作ってもらって食べた。大変おいしかった。つぼ漬《づ》けがたっぷりそえられていたのもおれ好みだった。ヤキソバを食べ終わりコーヒーをあと二杯飲んでいるうちに三時近くなった。
窓越しに広場を見るとますます人が増えていた。門をバックにして置かれているピアノやドラムやベースがある所が自然にステージ空間となっていた。人々はその周りを半円形に取り囲んでいる。
ドアが開いてトロンボーンを持ったさっちゃんが入って来た。ジーパンにポニーテールのさっちゃんは相変わらず童顔でにこにこしていた。
「そろそろはじめると言っています」
「ありがとう」
さっちゃんは門の方へ戻って行った。
立ち上がって勘定を払った。
「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアを開けようとするとママが言った。「あの、わたしも山下っていうんですよ」
こうなったら誰もかれもみんな親戚《しんせき》だ。やってやろうじゃねえかという気になって門の前に歩いて行った。
人をかきわけてピアノのそばまで行った。不思議な生物が翼を広げたようなグランドピアノの向こうに石の門が見えた。ピアノに比べると門は圧倒的に大きくおおいかぶさるように立っていた。門に向かって左からピアノ、ベース、ギター、ドラムスと半円を描いてセットされている。右側にホーンセクションの連中が十人ほど並ぶことになる。最初はピアノソロをやるのでチェリーのプレイヤーたちはまだ位置についていなかった。中山さんが馬場さんや有村さんと何か話していた。揚村さんの姿は見えなかった。市当局の密偵二人とどこかで殴りあいをしているのだろうか。
周りは人で一杯だった。まさに黒山の人だかりだった。子供から老人まであらゆるタイプの人がいた。買物かごをさげた女の人や自転車にまたがったままこっちを見ている人もいた。大きな西洋風の門の前に大勢の人が集まってがやがやしているのはどこか気持ちのよい光景だった。そしてそれはこの門がここに立ってから経験するはじめての光景なのだ。
中山さんが土の上のステージ空間に進み出てマイクの前に立った。
「みなさん今日はようこそお集まりくださいました」
司会をはじめた。曲想を練るための個人的散策という偽装など全然気にしていない。中山さんは刑務所とおれとジャズと今日の催しについての関連性を述べた。そのうち「こういうところでやらせないなどということはまったく理解できない」と市の非難をはじめた。「ヨーロッパなどでは許可など必要ないのです。どんどん勝手にやってしまえば市も何も言わないというのが常識なのです」
「コロニカ」の作戦会議でトロツキーたちと話しているうちに過激になってしまったのだろうか。これが当局の盲点をついてそっとやっているものだなどという弱々しい態度は完全に忘れさられていた。むしろ公然と無許可で行なっているコンサートなのだとみんなに伝えていた。
「では山下さんどうぞ」と中山さんが言った。おれはピアノの前に進み出た。
椅子《いす》に座り右足でペダルの位置をたしかめてから両手で鍵盤を押した。ニ短調の和音を弾いていた。そのままバラードともバッハともつかぬものを演奏していった。段々と調性を無視してなんでもありの無法地帯へと入っていった。両手の動きが速くなり、右手で低音を叩いたり左手で高音を叩くような場面が増えてきた。すぐ近くのカメラのシャッター音が激しくなった。普段だとこういうことはしてもらいたくない。だが今日は普段ではなかった。ここで行なわれているこのことを世間に知らせたいという点でカメラマンとプレイヤーの意思が一致しているのだ。何をやってくれてもよかった。
すぐ近くに近寄ってくるカメラの動きや耳元のシャッター音に反応してフレーズが高音にかけ上がったり低音にかけ降りたりした。ビデオカメラを担《かつ》いだままピアノのそばにあお向けに寝そべる人もいた。弾き手の向こうに門が見えるローアングルを狙《ねら》っているのだ。蹴《け》とばさないようにしながら弾き続けた。弾きながら顔を上げて門を見た。門は大きくそびえ立っていた。その表情が喜んでいるのか怒っているのかは分からなかった。
ソロを弾き終わり一度立ち上がった。マイクの前に行って見物の人達に集まってくれたことのお礼を言う。それからチェリー・アイランド・ジャズ・オーケストラを呼び出した。メンバーがぞろぞろ出て来て位置についた。ここで散策をしているおれを練習帰りに見かけた彼らが思わず持っていた楽器を出して参加してしまったわけだった。
「いいかい」とベースの坂口君に聞いた。坂口君はうなずいた。目もとがきりりとなっていた。ドラムセットに座った森田君は早く大音響を発したくてうずうずしているようだった。トロンボーンセクションのさっちゃんは楽器を口にあてて待機していた。ポニーテールの童顔が少し引きしまり頬《ほお》に赤味がさしていた。
「じゃあいくよ」ピアノの前に立ったままゆっくりとテンポをカウントした。十数人が奏《かな》でる音のかたまりが刑務所の門の前の広場に響き渡った。
「レクイエム」のテーマは下行半音階と上行半音階が交叉《こうさ》していくゆっくりとした曲だった。何度も繰り返すうちに決められた音からどのように逸脱していってもよいということになっていた。むしろわざと音をずらす方がよいのだ。音程がずれテンポがずれそれでもお互いに何をやっているかが分かっているような状態が望ましかった。そういう混沌《こんとん》状態が生じればそこから先には誰が何をやろうと自由な時間が現れる。
演奏はそのように進んでいった。森田君のドラムが時折猛烈なスネアロールとシンバル音で皆をけしかけるのが効果的だった。テーマは何度も反復されそのたびに混沌となっていった。そろそろ誰かがソロを取りはじめる場面にさしかかっていた。
最初に出てきたのはトランペットだった。全員の出す混沌とした音の中で吉田君が朗々とした即興のメロディを吹いた。同じトランペットの笹原君と島田君が急速のフレーズでその周りを装飾した。三本のトランペットは絡《から》み合いながら最高音へと登っていった。そこで三人の間に一瞬のバトルが行なわれた。短いフレーズが数合ずつ繰り出され空中で激突して火花が散った。それから三人は音の渦《うず》の中に戻って来た。
トランペットがおさまると次はサックスセクションが登場した。激しいリズムセクションの動きにサポートされながら全員が同時にソロをとりはじめた。最初はそれぞれが楽器の音域をわきまえたプレイをした。即興的にハーモナイズされた分厚いフレーズが響き渡った。やがてその中からアルトサックスの入島君がとび出してソロを取った。
とび出して行った入島君の前方に敵の姿が見えた。他のプレイヤーたちはハーモニーで援護をした。ひと暴れした入島君が再びハーモニーの中に帰ってくると今度はバリトンサックスの関君がとび出していった。最低音から最高音まで駆け上がり駆け降りて縦横無尽の活躍をした。やがてシンコペートされた八分音符を吹きながら戻ってきた。それを見た二本のテナーサックスが同時に塁からとび出した。林道を左右に分かれて走り猛烈なバップフレーズを掛け合いで吹きながら敵の塁へ突進していった。すぐに森田君と坂口君が最高速のフォービートを叩き出して援護した。二人は敵陣で八十五コーラスを吹きまくると素早くユニゾンになって退却し林道をじぐざぐに走って戻ってきた。
トロンボーン隊が一斉にグロウルをしてこれを迎えた。トロンボーン隊はそのまま散開して林の中に姿を消した。リズムセクションは再び激しいフリーリズムで援護を続けた。三方からそれぞれ特長あるサウンドが聴こえてきた。柔らかい宇都君の音に平川君の鋭い音がからんだ。乱暴なまでに豪放な音はさっちゃんのものにちがいない。三つの音はやがて一体となって消えていった。次の瞬間、最強音のスタッカートとスラーとグロウルが入り混ざって響き渡った。敵と遭遇したらしい。叫び怒鳴りわめくような音が何十秒か続いた。やがて静かになった。一同が耳を澄ましていると二本のトロンボーンが対位法を奏でながら現れた。二人は無事に戻ってきた。しかしさっちゃんはなかなか帰ってこなかった。皆が心配になりかけた時に遠くで乱暴なトロンボーンの音が聴こえた。同時に敵の悲鳴が聴こえた。あたりが静まりかえった。やがてさっちゃんの姿が遠くに現れた。ややあわて気味にクレッシェンドしながらこちらに走ってきて、全員が繰り出す混沌とした音の中に帰還した。トロンボーンを口から離してさっちゃんは腕で顔をぬぐった。ポニーテールの童顔が赤味をおびていた。両目は少し張りつめていた。
ホーンセクションが混沌とした音の中からト長調の和音を引き出そうとしていた。
ギターの白木原君が立ち上がってソロをとりはじめた。エレキベースを持った山下君が乱入してきた。ギターアンプのジャックに自分のベースのプラグをつないだ。二人は強烈なエレクトリックサウンドを発して猛烈なバトルをはじめた。そのまま一体となってたちまち彼方《かなた》に走り去った。と思うとすぐに戻って来た。
坂口君と森田君とおれはトリオで超高速のフリープレイに突入した。しばらく聴いていたホーン楽器の連中は互いに目くばせをすると一斉に同じタイミングで強烈な打撃音を打ち込んできた。断続的に高まっていく打撃音に何度も叩かれてとうとうおれはこぶしと両肘《りようひじ》を使って鍵盤を打っていた。
ホーンセクションとリズムセクションが一体となった断続的な打撃音の間隔が急速にせばまっていった。やがて波が崩れるようなクライマックスが現れた。音が全方向に散らばった。全員がフォルテッシモを出していた。森田君が最後の力をふり絞ってドラムセットを最強音で叩き鳴らしていた。ギターのアンプから白煙が立ちのぼっていた。全員の出す大音響が延々と続いた。その中で我々は百年の時間を漂っていた。やがて頭の片隅《かたすみ》にレクイエムのテーマがよみがえりそれをピアノで弾いた。これが全員に伝わって大団円を迎えるはずだった。
しかしそうはならなかった。テーマの出現を予感してフロアタムを叩いていた森田君の音とは別の打楽器の音がどこからか聴こえてきた。
かすかに聴こえてきたのは四度音程のティンパニーだった。それが段々とクレッシェンドしていった。ついには大音響となって我々の演奏と激突した。顔を上げるとギターアンプから吹き出す白煙を通して門が見えた。アーチ形の鉄格子《てつごうし》の扉《とびら》が開きはじめていた。四度音程のティンパニーに加えて不気味な低音の弦楽器の旋律が響き渡り扉は開き切った。そこから大名行列が現れた。
行列からとび出してきた一人の侍が大声でスキャットをはじめた。
「どばしゃばだば、だばしゃばだば」
門前バンドも負けじと応じた。
「どばどばどば、だばだばだば」
「どけしゃばだば、どけしゃばだば」
侍はいきなり刀を抜くと「どけどけどけ」などとわめきながら行列の先頭に走って行った。行列の先頭では馬に乗ったまま立往生しているイギリス人がいた。走って行った侍は飛び上がってイギリス人に切りつけた。「チェスト」「オーマイゴッド」などというスキャットの応酬があってイギリス人は馬から落ちた。行列はそのまま鶴尾橋を渡って消えていった。
すると今度は半音階を多用した不安げな弦楽器の旋律と威嚇《いかく》的に積み重なる金管楽器の五声のハーモニーが鳴り響いた。それをバックに門の中からイギリスの黒船艦隊が現れた。クーパー提督とニール代理公使とジョスリング艦長とウィルモット副官が出てきた。四人はボーカルカルテットで歌いまくった。
「薩摩来てみりゃ心底憎い
どこが尻《しり》やら頭やら
犯人要求賠償金も
無しのつぶての暴風雨
一列縦隊猛攻撃は
旗艦撃たれておれは死ぬ」
ジョスリングとウィルモットが顔を寄せあい伸び上がるようにして声を振り絞った。
薩摩藩砲手の隼狗鬱蔵《はやくうつぞう》と疾虎以蔵《しつこいぞう》が出て来てすぐに歌い返した。
「海賊|夷狄《いてき》の成れの果て
世界の果ての島国で
土民支配のその野望
薩摩ばかりは許しゃせぬ」
「土民め」「毛唐め」というスキャットの応酬を続けながら彼らが退場すると今度は船員のヘミングウェイが釣《つ》り竿《ざお》を持って現れた。
ヘミングウェイは釣り竿の根元を口にあて尺八のように構えて吹き鳴らした。ソプラノサックスのような音が響いた。ヘミングウェイは吹き続けたが大変下手だった。ようやく彼が吹いているのが「ウォーターメロンマン」だと気づいた門前バンドは一瞬ずっこけたがすぐに立ち直って委細構わずフリープレイを続けた。やがてヘミングウェイは「ふあーい」などとあくびをしながら鶴尾橋の方へ去って行った。
白煙が周りに渦巻いていた。門も広場も鶴尾橋ももうろうと霞《かす》んできた。その中で門前バンドはエンディングなど完全に忘れて窮極的なアナーキー状態に突入していった。大音響が門の前に響き続けた。
やがて門からどっと人があふれて来た。公卿《くぎよう》と長州侍が京都を追われて逃げて来た。それを追って薩摩侍と会津侍と新撰組《しんせんぐみ》と鞍馬天狗《くらまてんぐ》と杉作と犬と桂小五郎と坂本竜馬と奇兵隊と高杉晋作が出てきた。桂小五郎が大音響の中でマイクをわしづかみにした。
「三千世界の烏《からす》を殺し」
どら声で都々逸《どどいつ》をわめきはじめた。
「ぬしと朝寝がしてみたい」
「こらこら間違えるんじゃない。ここはそういうところではないのだ」
いつの間にかバンドの中に入ってマラカスを振り回していたトロツキーが怒鳴った。
「何だと。わしを誰だと思うか。後の内閣顧問木戸孝允だぞ」
「そうだそうだ。そしておれは坂本だ。知っているだろう。こちらにいるのは高杉だ」
竜馬が言った。
「晋作だ」と高杉晋作が言った。
「それがどうした。片平晋作なら仲間に入れてやるがお前らは駄目《だめ》だ」トロツキーは言い張って桂小五郎をマイクの前から引きずり離そうとした。
「なぜだ。曲りなりにも幕末の話だろう。おれたちのような有名人抜きにはできないはずだぞ」桂がトロツキーの腕を振りはらいながらわめいた。
「それがいかんというのだ。よそで有名だからといってどこででも歓迎されると思ったら大間違いだ。他ではちやほやされるだろうがジャズは駄目だジャズは。出直してこい」
門前バンドの大音響に負けない大声でトロツキーが言い返した。
「坂本なんてのは顔の長いフォーク歌手に独占されているぞ。そいつは自分が現代の坂本竜馬だなどと恥ずかしいことを平気でいう始末だ。そっちに行けばちやほやしてくれるだろう。ここからはとっとと消え失《う》せろ」トロツキーは言いつのって三人の背中を押した。
「ジャズだフォークだロックだパンクだというそのようなセクト主義では外国に負けてしまうだろうが。そのことを我々が示したのが分からんのか」竜馬が振り向いて真面目《まじめ》な口調になって言った。
「うるさい。物事を単純にたとえてはいかん。それとこれとは話が違うのだ」トロツキーが怒鳴った。「とにかくここではお前らはお呼びでない。とっとと京都に帰って芸者の膝枕《ひざまくら》で酒でも飲んでろ」
トロツキーはどこから取り出したのかバズーカ砲を抱え込むと三人に狙いをつけた。
「言うことを聞かないとぶっぱなすぞ」
三人の顔色が変わり両手を上げてあとずさりをした。
「せっかく出てきてやったのに馬鹿《ばか》なジャズ野郎め」
「くそ。最低のマイナーの泥沼《どろぬま》にうごめくプライドばかり高い差別主義者め」
「極貧の乞食《こじき》芸人め」
「CMたかりのシラミ共め」
「死ね死ね死んでしまえ」罵声《ばせい》を上げながら鶴尾橋の方へ消えていった。
大音響は続いていた。
白煙渦巻く門の中から次に出てきたのは踊り狂う大群衆だった。色とりどりのけばけばしい着物を目茶目茶な恰好《かつこう》に着ていた。阿波踊りによく似た音程とリズムで全員が狂ったように歌い踊っていた。
「ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないかっ」
「ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないかっ」
「ピアノを弾いてもええじゃないかっ」
「監獄を壊してもええじゃないかっ」
「ピアノを壊してもええじゃないかっ」
「締め出し食らってもええじゃないかっ」
「ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないかっ」
「クサヤを食ってもええじゃないかっ」
そこへ坊主《ぼうず》の一団が団扇《うちわ》太鼓を叩《たた》きながら入って来た。
「どんつくどんどんつくつく、どんつくどんどんつくつく」
「坊主は出なくてええじゃないかっ」
もみあいとなっているところへさらにディキシーランドジャズを吹き鳴らす一団が乱入してきた。殿様、姫、侍、腰元、茶坊主、御典医ら一つの城に住む全員が狂躁《きようそう》状態となってのりまくっていた。腰元たちは琴をベースのように立てて弾いていた。腰を振りながら弾くうちに感極まって「あへあへ」などと言ってその場に倒れる者もいた。三味線から尺八から洗濯板《せんたくいた》から算盤《そろばん》から桶《おけ》から木魚までありとあらゆるものが楽器にされていた。横笛をすごい勢いで吹きまくるお姫様が桶を叩く若侍にしなだれかかりそのまま二人は仰向《あおむ》けにひっくり返った。殿山泰司そっくりの無表情な御典医は半眼で木魚を叩いていた。前髪をぱらりと垂らした白面の若殿様がクラリネットを吹いていた。ニューオリンズから流れ着いたらしい黒人三人がトランペットとトロンボーンとドラムをやっていた。
「筒井康隆原作、岡本喜八監督の映画『ジャズ大名』ではないか」おれは思わず大声で叫んだ。「とうとうここにも出てきた」
「ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないかっ」
「何が出たってええじゃないかっ」
ドラムの大音響が鳴り響いた。
西郷隆盛が三台のドラムセットを同時に叩きながら現れた。三つのベースドラムのヘッドにはそれぞれ「SATSUMA」「TOKYO」「KOREA」と書かれていた。すぐあとから大久保利通がピアノを弾きながら出て来た。ピアノの横腹には「NEW GOVERNMENT」と書いてあった。
西郷と大久保はたちまち猛烈な音の応酬をはじめた。
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第三十章
西郷が三つのベースドラムを同時に鳴らしながら右手でトップシンバルを三十五連音符で叩《たた》いた。左手は五十六分音符でスネアとタムタムとフロアタムを叩きまくっていた。対する大久保は上半身を直立させ顔色をぴくりとも変えず物凄《ものすご》い速さで両手の指を動かしてピアノを弾いていた。ガレゴレギレ、カレコレキキなどと高音に駆け上がって西郷の攻撃をかわした。カラキリコレガラゴレグガと高音から急降下して低音域の巻き弦地帯を拳《こぶし》でゴギと叩いた。太い巻き弦が五本切れて空中に飛んだ。切れた弦はそのまま凶器と化して西郷に向かって飛んでいった。西郷はスティックを持った両腕を水車のように振り回してそれをすべて叩き落とした。そのあいだにもベースドラムをドバラバダバ、ガラグシャメシャと踏み続けていた。激しい音の応酬が続いた。
何度目かの大久保の攻撃でとうとう西郷のベースドラムのうち「KOREA」と書いてあったものが壊れた。大久保のピアノの低音域の弦もほとんど切れていた。機を見て大久保は高音に駆け上がり両手の人差し指を超高速で交互に鍵盤《けんばん》に打ちつけて最高音の5点ハ音を連打した。弦が粉々に切れ無数の針となって空中を飛んだ。今度は防御をくぐり抜けた何本かが西郷の体に突き刺さった。苦悶《くもん》の形相の西郷はひときわ大音響でドラムを叩き鳴らした。左右の腕が目にも止まらぬ速さでスネアとタムタムを叩きまくった。右左左右右左右左左左左左左右。とどめの右の一打でハイハットシンバルがスタンドから外れて空中に舞い上がった。まっすぐに大久保の頭を目がけて飛んでいった。首をすくめた大久保のマゲが円盤のように回転するハイハットシンバルによって切断された。大久保の頭はザンバラ髪になった。衝突の反動で反転したハイハットシンバルは大久保の頭の周りを飛び回りザンバラ髪をきれいに整えた。大久保はどこからか取り出したポマードでそれを素早くなでつけると、今やもう弦が中音域に一オクターブしか残っていないピアノで急にスタンダードジャズの弾き語りをはじめた。
「イッツ・オンリー・ア・ペイパームーン」
「こら大久保」ドラムを叩きまくりながら西郷が怒った。「それはないだろう。おれたちは一緒にフリージャズをやって旧体制をぶち壊したのだ。これからもぶち壊し続けるしかない。いまさらスタンダードはないだろうが」
「いや、そうはいかないのだ」大久保が弾き語りを続けながら言い返した。「このまま壊し続けるわけにはいかない。今からは国を作らねばならんのだ」
「作るより壊すのがおれたちの役目だ。作ることならおれたちがやらなくてもよい。別の頭を持った者たちが沢山いる。おれたちはたとえれば農民を苦しめる悪代官を叩き斬《き》った通りすがりのサムライだ。このまま恰好《かつこう》よく名も告げずに立ち去ろうではないか。あとはそこの者どもに任せておけ」
「それは分からないことはない。おれも薩摩武士の端くれだ。しかしそれはできない」大久保はまたフリージャズに戻り激しくピアノを弾きはじめた。「第一におれは欧米のスタンダードの手本を見てしまった。そしてそれを畏《おそ》れ同時に我が物にしたいと思った。これは薩英戦争を経験したものなら必ず思い当ることなのだ。西郷、お前は薩英戦争を体験していない。これは大きいぞ。あれによって我々薩摩人は一夜にして戦いと和平をゲームのようにあやつる欧米の国々のやり方とそれを支える科学力という構造を理解したのだ。他のどの場所の日本人より早く欧米の国々と一体化したのだ」
「だからといっていつまでも革命の功労者づらをして権力をむさぼってはいかんではないか」
「しかしそうせざるを得ないのだ」
「なぜだ」
「悪代官を叩き斬ってそのままおれたちが去ったあと、農民か人民か大衆か知らんが残されたやつらがどうすると思うか」
「…………………」
西郷は急に黙りこんだ。ドラムは物凄い勢いで叩き続けていた。
「何もできんのだ。何もできないうちに元の木阿弥《もくあみ》になる。すぐにまた別の悪代官が復活する。前よりも一層|酷《ひど》い目にあう」だんだん激してきた大久保の目が吊《つ》り上がってきた。「なぜだか分かるか」大久保は右腕を振り上げ鍵盤に肘《ひじ》を叩きつけた。
「あいつらが馬鹿《ばか》だからだ。あの農民だか人民だか大衆だか知らないがあいつらは決して自分のことを自分で決めることのできない意志薄弱の権力恐怖症の他人依存のへえこらもみ手の中腰ずり足の大馬鹿白痴の魯鈍《ろどん》どもだからだ」
「それを言ってはいかん」
「何がいかんか。それがあんたの悪い癖だ。本当は侍しか信用しないくせに妙な人望癖はやめろ。悪代官を叩き斬ってどこかへ行ってしまうのが結局は一番|卑怯《ひきよう》で酷《むご》い仕打ちになるのだ」
「たとえ馬鹿でもやらせてみればよいではないか」
「まだそんなことを言うのか。駄目《だめ》だ。そんな余裕はない。欧米列強は豺狼《さいろう》だ。混乱をしたらたちまちこの国は乗っ取られる。植民地にされサムライゲリラが永久に田圃《たんぼ》の泥《どろ》の中を這《は》いずりまわる国になるのだぞ」
「くそ。しかしおれたちは最初からずっと一緒だったではないか。一緒にフリージャズをやってきたではないか。いまさらスタンダードなどはできない。おれはこれしかできないのだ」
西郷は泣きながら凄い速さでドラムを叩いていた。
「仕方がない。おれは愚民どもに近代国家を作ってやらねばならない。いまからはそれがおれのテーマだ」
「本当にそうなのか」
「本当だ。だが分かってくれ」大久保の顔が少しやわらいだ。「おれだってこんな急造国家の行く先がどうなるかぐらい分かっている。しかしやらねばならない。おれの作る国がたとえ学芸会のボール紙の月のようなものであろうともだ」大久保は再び弾き語りをした。
「イッツ・オンリー・ア・ペイパームーン」
「いいやボール紙の月などではない」真面目《まじめ》な顔の川路|利良《としよし》が出てきた。「ポリスさえいれば大丈夫だ。ポリスこそは近代国家のいしずえだ。選ばれた美丈夫だ。愚民どもを導く光だ。国民の鑑《かがみ》だ。これこそ侍の天職なのだ」
サーベルと警棒とピストルを組み合わせて作ったポリスサックスという楽器を取り出して吹きはじめた。周りのことなど一切聴かない唯我《ゆいが》独尊的没入演奏だった。
「お前らはいいよな」相変らず凄い勢いでドラムを叩きながら西郷はまだ泣いていた。「そうやってここに残れるんだからな。つまり残ってそこに楽しみを見出《みいだ》せるのだ。おれにはできないよ」
「できるよ西郷。お前も残れ」大久保が言った。
「いいや駄目だ。それはおれだって欧米の最先端の文明を享受《きようじゆ》する喜びも分かる。洋服で正装をし着飾った美女と毎夜の宴《うたげ》もあるだろう。しかしそれはお前らのような普通の人間にとっての喜びであっておれのではない。分かっているだろう。このおれに最新のファッションが似合うか。外人相手に猿真似《さるまね》の仕種《しぐさ》と表情で肩をすくめて両方の手の平を上にして見せたりできると思うか。できるわけがない。このあいだも洋服を着て下町を歩いていたらおれを見て皆逃げた。それからは少しでも親しみを感じてもらおうと浴衣《ゆかた》を着ることにしたがますます変に思われた。今では周りにいるのはごつい親衛隊だけだ。それにおれは肥満止めの薬を飲みすぎて慢性の下痢になってしまった。分かるだろう。権力を握ったといって外国にへつらい結局前の悪代官と同じことしかできない政府の高官どもには我慢ができない。といってどこにいても目立つこの身は置きどころがない。大|睾丸《こうがん》とひっきりなしの下痢にはもうほとほと嫌《いや》になった。つまり、根本的な思想と体と内臓の成立ちがお前らとはちがうのだ。だからせめて外回りをやらせてくれと言っているのだ。好きな時に好きな所に行って好きなことをやらせてくれ。今度の朝鮮の話もそう言っているだけではないか」
「お前が行ったらただでは済まないということが分からんか」
「ではおれはどこで何をしていればよいのだ」
「古今無双の陸軍大将として皆ににらみをきかせていてくれればよい」
「にらむだけか。おれは行動をしたい。この時期に世界で最強にちがいないこの兵隊たちに働き場所をやりたいのだ。革命が周りの国に余波を及ぼすのは歴史の必然だ。フランス革命を見ろ。あのあとナポレオンはロシアにまで攻めて行ったのだぞ」
「日本が今それをやると大変なことになる。駄目だ」
「くそ。分かっている。おれには分かっているよ。戦乱のときには絶対に必要だった図体《ずうたい》のでかい大男が平和になったらいる場所が無くなったのだ。そんなやつが汗の臭《にお》いをさせてうろうろしていたら邪魔になるだけだ。皆が忘れたい忌《いま》わしい戦争の記憶なのだ。うとんじられるだけだ」
「だから西郷、悠々《ゆうゆう》自適の生活を楽しんでくれ。家も金も美妾《びしよう》も世話をしよう。何かことあるときには必ず力を借りに行く」
「それが勝手だというのだ。廃藩置県のときもおだてて引っ張りだした。用が済んだらおれをほっぽらかして全員で外国旅行に行ってしまった」西郷はおもいっきりベースドラムのペダルを踏んだ。「TOKYO」と書かれたベースドラムが粉々になった。
「そうだそうだ。何という無責任なやつらだ」トロツキーがマラカスを振り回しながら怒鳴った。
「そしてあの留守番の西郷内閣の日本こそが日本の歴史の中で唯一正しい革命政府だったのだ。身分制度は廃止され人々は真の理想国家を垣間見《かいまみ》ることができた。それが何だ。お前らが帰ってきた途端に元の木阿弥だ。反省しろ。自己批判しろ。自己総括して首をくくってしまえ。一刻も早く権力を人民に返せ」
トロツキーの大声は三人には聞こえないようだった。
「ではおれは鹿児島に帰るからな」と西郷が言った。とどめのようにタムタムを連打した。親衛隊らしい人影がばらばらと門から出て来た。桐野利秋や篠原|国幹《くにもと》や村田新八たちの顔が見えた。手に手に示現流サックスやサーベルトランペットや鉄砲ギターを持って強烈な音を出していた。それを知ってか知らずか川路はポリスサックスの演奏に没入していた。「私は行かない」とその音は言っていた。
「山下はどうした」西郷が突然言った。「龍《りゆう》右衛門《えもん》は来ないのか。どこで何をしているのだ」西郷、大久保、川路のトリオの最後の演奏が轟《とどろ》いているこのさなかに、しかし、山下龍右衛門|房親《ふさちか》の姿はどこにもなかった。
全楽器をフォルテッシモで叩く西郷の姿が白煙の中で空中に浮かび上がった。そのまま一派を引き連れて門の左側の塔のバトルメントをかすめて飛び去って行った。大久保と川路は右側の塔を伝わって空中に消え去った。三人が消えると同時に門の中からありとあらゆる文明開化の産物がどっとあふれ出して来た。
黒船と陸《おか》蒸気がぶつかりあいながら走り出てきた。ボンボン時計とテレガラフとガス燈《とう》がトリオでビバップをやっていた。牛鍋《ぎゆうなべ》とザンギリ頭と赤ゲットは泥酔《でいすい》してブルースを歌っていた。人力車と馬車が正面衝突した。人力車夫が馬を背負い投げで投げ飛ばした。怒った馬が人力車夫を蹴飛《けと》ばした。人力車夫は門の上を飛び越えて以前に第七房舎があった場所に墜落した。砂ぼこりの中から無数の鳥が羽ばたいて飛び立った。それを見ていた煉瓦《れんが》街と洋食屋がデュエットでがなりたてた。
「イッツ・オンリー・ア・ペイパームーン」
見物人のブランデーとシャンパンとビールとワインとウイスキーとパンと洋菓子が手拍子を打った。物陰から覗《のぞ》いていた日本酒とドブロクと焼酎《しようちゆう》と泡盛《あわもり》と猿酒《さるざけ》がいまいましげに舌打ちをした。我慢のできなくなった薩摩焼酎が菊の露とマッコリと灘《なだ》の生《き》一本と立山の超特大吟醸と浦霞《うらがすみ》と天狗舞《てんぐまい》を引き連れて煉瓦街に殴り込みをかけた。ブランデーと焼酎、ビールと吟醸酒、ウイスキーと泡盛、シャンパンとマッコリが激突しあってそこらじゅうに飛び散った。巻き込まれた他の見物人は全員回復不能の二日酔いになった。
讃美歌《さんびか》と軍楽隊とカッポレと都々逸《どどいつ》が入り乱れて出て来た。童謡と学生歌と軍歌と壮士節がそれにかぶさった。「抜刀隊の歌」と「ノルマントン号沈没の歌」が響き渡った。「おれの曲を真似するな」と叫んでビゼーが出て来た。「抜刀隊の歌を作ったシャルル・ルルーはおれの節を盗んだのだ。あれはカルメンの第二幕でドン・ホセが歌う軍歌だぞ。日本でなら分からないと思っただろうがそうはいくものか。お前ら全員著作権料を払え。払わなければジャスラックに訴える」しかしその声もすぐにオッペケペー節に消されてしまった。続いてヤッツケロ節とダイナマイト節も出て来た。そこらじゅうで爆発が起こった。その混乱に乗じてトンヤレ節がアニー・ローリーに抱きつこうとした。音楽取り調べ係が出て来てトンヤレ節を取り押さえた。しかし混乱はいつまでたっても収まらずとうとう第一議会が召集された。明治天皇が出て来て演説をはじめた。
「静まれ静まれ。朕《ちん》思うに皇国はその初めから目茶苦茶なり。皇祖皇宗は納豆の酵素でありそもそもは邪馬台国《やまたいこく》はなかった。ウガヤフキアエズの命《みこと》はとりあえずウガイをし、コノハナサクヤ姫は伊豆七島新島のクサヤである。タカチホのタカマガハラのヒムカの里はシャチホコがオカマの腹に刃向かった故《ゆえ》なり。思えば我ら一族は阿弗利加《アフリカ》はウンゴロ谷に発しもともとは皆エイズであった。しこうして連綿と続くその系統は、ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ、スジン、スイニン、ケイコウ、セイム、チュウアイ、オーヤンフィーフィー。はてはアグネス・チャンとなって難民と化し日本列島に押し寄せたのである」
混乱がかえって増した。軍艦|三笠《みかさ》が出て来て大砲を撃ちまくった。船橋には東郷|元帥《げんすい》が立っていた。双眼鏡を目に当てたまま東郷元帥が喋《しやべ》り始めた。「私は薩英戦争のときは十五歳で参戦していた。その経験が伏線となってこの全世界注目の海戦に勝利することになるのだ。ロシアにとっては歴史上唯一の敗戦となる。もっともソ連の教科書ではこのことを抹殺《まつさつ》しているようだがそのようなことでペレストロイカもグラスノスチもあるものか。日本の勝利にロシア嫌《ぎら》いの周りの国は大喜びだ。フィンランドではビールのラベルに私の顔が印刷された。まさに鹿児島とビール飲みの誇りとなるのだ」マストにZ旗がひるがえった。「広告の荒廃この一宣にあり。書く人一層奮励努力せよ」と電通の社員が読み上げた。広告につられて無数の兵隊が出て来た。そこに敵の砲弾が落ち兵隊たちは粉々になって飛び散った。周りに火薬の匂《にお》いが立ちこめた。
白煙の中に鉄でできた巨大な大蛇《だいじや》が現れた。頭に日の丸の鉢巻《はちま》きを巻いていた。鉄の大蛇は門に巻きついてよじ登った。日の丸の鉢巻きをした頭を振り立てた。
無数の囚人が現れて来て石を積みはじめた。紛れ込んでいたロシア人の囚人たちは甲突《こうつき》川で大きな船を引きながら陰鬱《いんうつ》な歌を歌っていた。「エイコーラ、エイコーラ、も一つおまけにエイコーラ、ボルシチ食いたい、エイコーラ、ウオッカ飲みたい、エイコーラ、くれぬと原発また壊す」
陸では日本の囚人たちが丸太を組んで作った手動の土ならし装置に取りついてやけくそになって歌っていた。「かあちゃんの為《ため》ならエーンヤコーライ、とうちゃんの為ならエーンヤコーライ」綱を引いては手を放して大きな重しを土に打ちつけた。「牢屋《ろうや》の為ならエーンヤコーライ、お上の為ならエーンヤコーライ、悪党国家だエーンヤコーライ、強盗国家よエーンヤコーライ、欧米手本のエーンヤコーライ、亜細亜《アジア》の化け者エーンヤコーライ」
門前バンドは大音響を発し続けていた。
門の前にモーニング姿の啓次郎が出てきて命令をした。
「我々は岩永三五郎ではない。そのような原始的な方法でやってはいかん。やり直せ」
「何を生意気な」岩永三五郎がかんかんに怒って出て来た。
「洋学官吏の青二才め。古来伝統の秘術を馬鹿にするか」
「そうだそうだ」大工左官|鳶《とび》職の大群が現れてそこらを走り回った。棟梁《とうりよう》の伊藤平左衛門と新門の辰五郎がデュエットをはじめた。
「西洋かぶれのお上の阿呆《あほう》、洋学官吏で国つぶす」辰五郎がを組[#「を組」に傍点]の纏《まとい》を振り上げてわめいた。「それ野郎どもやっちまえ」一斉《いつせい》に啓次郎に襲いかかろうとした。
門の中からばらばらと人影がでてきて啓次郎をかばった。房親の一族郎党だった。
「薩摩の芋ヅルがそろって出て来やがった。構わねえから一緒にしてたたんでしまえ」辰五郎がわめいた。
「待ちなさい。私たちは皆東京生れなのですよ。同じ江戸っ子です。仲良くしてたもんせ」人影の中から女の声がした。
「笑わせるな。なんだ、たもんせとは。大体お前らはお江戸に住みながら全部薩摩同士で一緒になっているじゃねえか。江戸っ子が聞いてあきれらあ」たたんじまえと再びわめいて辰五郎たちが襲いかかろうとしたときに子分の一人が駆けつけてきて辰五郎に報告した。
「親分てえへんだ。江戸で火事が起きやした。坊主《ぼうず》頭で浴衣姿の男がそこらじゅうで火付をしておりやす。すぐに来ておくんなさい」
「何だと。きっとそいつは西郷とかいう奴《やつ》の仕業にちげえねえ。こうしちゃあいられねえ。野郎共引きあげろい」
辰五郎たちが慌《あわ》てて行ってしまうと啓次郎はポケットからサングラスを取り出してかけた。兄の雄熊と弟の清治それに四男の康貞と末弟の豊彦が出て来て同じようにした。五人そろってブルースブラザーズそっくりの恰好《かつこう》で歌を歌いはじめた。一族の女たちが鹿鳴館《ろくめいかん》から出て来たような恰好のままバックバンドをやりコーラスをつけた。早死にした者たちも成長した姿だった。一年の寿命しかなかった四女の愛は目を見張る美少女になっていた。大胆な恰好でリードギターを弾きまくっていた。
「おやじは牢番、お上の手先
おれは監獄ぶったてる
文句あるのか、下郎に愚民
卑人難民車夫馬丁
イエイ、ジェイルハウスロック」
五人はやけくそで歌い一斉に同じ振りで体を一回転させた。
「肉刑|斬刑《ざんけい》ノコギリ挽《び》きに
遠島火あぶり百|叩《たた》き
八つ裂きハリツケ逆さに吊《つる》し
今じゃ首締め電気|椅子《いす》
イエイ、ジェイルハウスロック」
女バンドのこれまたやけくその間奏がはじまった。激しい動きで鹿鳴館風の衣裳《いしよう》が破れはじめた。胸がはだけ太腿《ふともも》もあらわになってきた。そのまま弾きまくっていた。
「洋学官吏はお国の宝
富国強兵|屯田兵《とんでんへい》
獄卒典獄牢名主
五大監獄西洋館
イエイ、ジェイルハウスロック」
五人の男たちのモーニングも破れてずたずたになってきた。最後のコーラスを声を限りにわめいた。
「牢屋牢屋と騒ぐな愚民
この国もとから牢屋だらけ
小学中学高校大学
塾に予備校満員電車
団地に病院役所に会社
野球も部活もみな牢屋
飲屋に居酒屋クラブに酒場
年功序列の牢名主
どこに行っても牢屋の国じゃ
五大監獄も裸足《はだし》で逃げる
イエイ、ジェイルハウスロック
ジェイルハウスロック
ジェイルハウスロック
ジェイルハウスロック」
もはや狂乱状態となって歌い踊り演奏を続ける一族郎党の中から啓次郎がこちらに走って来た。
「こら。どさくさにまぎれて何ということを我々にさせるのだ。このふらち者め。勉強もしないでこのようなことばかりしておっては東大に行けぬぞ。お仕置をしてやる」
おれの衿首《えりくび》を掴《つか》むとすごい力でピアノの足元に押しつけた。どこからか荒縄《あらなわ》を取り出すとピアノの足におれを縛りつけた。「見せしめじゃ」啓次郎はまた一族郎党のもとへ走って行った。おれは泣きながら足の指につけた涙で地面に音符を書いた。
「だから言ったでしょう」母親が出て来た。「私がこの一族で最初の薩摩以外からやって来た嫁だったのです。私の方の家のことも書きなさい。母親は三味線の名手でした。父親は鬼検事でした。家の前で共産党が硫酸の瓶《びん》を投げたのですよ」どさくさにまぎれてソロを取りはじめた。「ではシェイクスピアの一節を聞かせてあげましょう。イフ・バイ・ユア・アート・マイ・ディアレスト・ファーザー・ユー・ハブ・プット・ザ・ワイルド・ウオーターズ・イン・ディス・ロアー・アレイ・ゼム」門に向かって両手を広げた。「あらまあ、偶然とはいえこれしか覚えていなかったこの一節は最初からぴったりだったのね。なぜならこれは『お父様、この大騒ぎを起したのがあなたの技のせいなら、どうか静めて下さい』という意味だったのですからね」勝手なことを言って母親は去った。
一族郎党は親兄弟の代まで出現していた。明治大正昭和の全世代が入り乱れて大音響を発していた。父親がすごい勢いでハモニカを吹きまくっていた。おれにジャズを教えてくれた兄が前髪をぱらりと垂らしてジーン・クルーパの恰好でドラムを叩いていた。今までの音楽生活で共演したミュージシャンが全部一度に出て来た。一族郎党の中に清春おじさんの顔が見えた。清春おじさんはにこにこしながら近寄って来て縄をほどいてくれた。おれはまたピアノにとりついた。
大音響が響き続けた。
もうとっくに見物人もプレイヤーも入り乱れて区別がつかなくなっていた。全員が何かの楽器を持って鳴らしていた。大群衆の中にいつの間にか鹿児島の仕掛け人カルテットも混ざっていた。揚村さんと馬場さんと有村さんと中山さんがそれぞれ建築サックスと新聞ラッパとテレビトロンボーンと白波ベースを弾きまくっていた。有村さんはトロンボーンを示現流のように構えて一吹きで敵を倒していた。実は秘法を受けつぐ達人の家系だったのだ。揚村さんは時々建築サックスを口から離して、ウイシャバダバとブルース声のスキャットを響かせていた。
藤森さんが建築学会バンドと建築|探偵《たんてい》団バンドを同時に率いて路上観察トランペットを吹いていた。
石造建築を守る市民の会オーケストラが市当局刑務所跡地施設整備基本計画策定案調査吹奏楽団と激突して緊急抗議糾弾組曲を叩きつけていた。市当局刑務所跡地施設整備基本計画策定案調査吹奏楽団は選んだ行進曲のテーマが長すぎて身動きができなくなり硬直しながらも必死になって四分の二拍子を守ろうとしていた。
天吹《てんぷく》紫笛振興会の人たちも現れて百本の天吹を吹きまくった。
いつの間にか原始|隼人《はやと》の集団が出て来て門の前にうずくまりすさまじい狗吠《くばい》の声を上げていた。
あらゆる時代のあらゆる人々の発する大音響が轟き続けた。
音は門を伝わって天空高く駆け上がって行った。鹿児島中が揺れ動いた。ついに桜島が爆発した。灰が空をおおった。周囲が薄暗くなった。かすかに残っていた青空の一角に光がさした。そこから亀裂《きれつ》が生じ空が裂けた。すべての音を圧する大きく強く深い音が響き渡った。その音は広がりやがて全天を揺るがす轟音《ごうおん》となった。
百年分三十一億五千三百六十万秒の時間が圧縮され爆発した。我々は飛び散った。万華鏡《まんげきよう》のような景色の中を百年の時間に向かって散りぢりになって飛んで行った。
しゃばどびうびしゃばどび、と水の流れる音が絶え間ない。
「啓次郎、何をしているのですか。早くいらっしゃい」
寿賀《すが》の低い声が闇《やみ》に響いた。
「母上、待って下さい。私はその、そちらではなくこちらの方に」
「啓次郎、どうしたのだ。早く来い」
母と兄が呼びかけた。姉と妹たちが心配そうに見守っていた。しかし、啓次郎には聞こえなかった。啓次郎の頭の中には別の言葉が響き渡っていた。それは啓次郎に甲突川の上流に向かうようにと言っていた。
「啓次郎、どうしたのだ」
みたび雄熊が声をかけたときには啓次郎はすでに走りだしていた。物《もの》の怪《け》がとりついたようだった。足は宙に浮いていた。やがて啓次郎は永吉村に着いていた。折から照らしはじめた月の光に浮かび上がるのは一面の水田とその彼方《かなた》の低い山並だけだった。目の前を流れる甲突川越しに啓次郎は対岸を見つめた。青白い光が現れその中に巨大な物の姿がぼんやりと浮かび上がった。頭の中に声が響いた。
「啓次郎、よく見ておけ。この物をお前がこの場所に建てるのだ。お前は必ずまたここに戻って来る。これを作りにだ」
それが何であるか一瞬のうちに啓次郎は理解した。これからの自分の運命がまざまざと見えた。それは人が死ぬときに自分の一生を思い返すというパノラマ現象の逆だった。啓次郎はこれから自分の身の上に起きることをこのときすべて見たのだ。東京で勉強する自分の姿を見た。塾に通う自分を大学に通う自分を建築の勉強をする自分を、そして父親と共に警視庁にいて建物の設計をする自分の姿を見た。洋服で正装をして外国の街を馬車で行く自分の姿も見た。そしてこの場所に作る建物の細部までがはっきりと目に映った。
しかし、次の瞬間、対岸のその物の姿は消え、啓次郎は自分が何を見たのか忘れた。
「啓次郎、大丈夫か」ようやく兄が追いついた時、啓次郎はまだ呆然《ぼうぜん》と立ちすくんだままだった。雄熊は弟の両肩に手をかけてゆさぶった。
「兄上」対岸の一点に心を奪われながら、低い声で啓次郎は言った。
「私は必ずまた鹿児島に帰ってまいります」
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エピローグ
山下啓次郎は昭和六年二月六日にこの世を去った。六十四年の生涯《しようがい》だった。日本建築学会発行の「建築雑誌」四月号には当時の建築学会会長の佐野|利器《としかた》氏の弔辞と長い官歴のリストが載せられた。後輩の浜野三郎氏が追悼の言葉をよせていた。
「故人は性行極めて淡泊の中に豊なる情味を持つて居られた。故《ゆえ》に内にあつては誠に善き慈父であり外には多くの親友を有された。部下に対しても真の温情を以《もつ》て遇されたから一人として悪声を放つものがなかつた。又時には無頓着《むとんちやく》と思はるゝ程事物に拘泥《こうでい》せず万事大観的であつたが決して豪放ではなかつた。(略)故人の人格の現はれとして私の敬服した一例を挙ぐれば部下を叱責《しつせき》さるゝ場合でも未曾《いまだかつ》て怒気を面《おもて》に表されたのを見ないことである」
一方、墓碑銘によれば啓次郎は青年のときは運動競技に頭角を現わし長じては漢詩を好み書をよくし囲碁と撞球《どうきゆう》を愛した。
浜野氏は啓次郎の死の前日訪ねられた。病気中ということで妻の直子と会った。直子が言うには発病は一月三十一日で医師の診断は胆嚢《たんのう》炎だった。しかしすでに痛みも熱も去っていて大したことはないということだった。後日を期して浜野氏は辞された。
しかし、その後啓次郎は、自分で手洗いに行くと言って布団《ふとん》の上に立ちそこで心臓|麻痺《まひ》を起こしたのだ。
西田町から出て東京の文明開化を経験し欧米に行き東京に住み再び鹿児島にそっと戻って来ていた啓次郎の一生がこうして終わった。
急を聞いて駆けつけた浜野氏はその夜|親戚《しんせき》の一長老が次のように言うのを聞いた。
「啓次郎は初めて病気をして初めて死にました」
どこか鹿児島的な愛情とユーモアがにじむこの言葉は生涯啓次郎を見守りはげました兄の雄熊のものだったにちがいない。
石の門は甲突川のほとりに立ち続けていた。
門の前には小さな喫茶店がある。
店の中からレースのカーテン越しに見える石の門は冬の陽射《ひざ》しを浴びて黒灰色に見えた。
あの門前コンサートのあと我々は会場を屋内に移し再びコンサートを行なった。満員の聴衆だった。ステージのホリゾントのスクリーンには啓次郎と監獄の建物の写真が映し出された。関係してくれたすべての人たちが来てくれた。市民の会の梅原秀次郎氏もわざわざステージに上がって来て挨拶《あいさつ》をしてくださった。大成功だった。これがきっかけとなってチェリー・アイランド・ジャズ・オーケストラは毎年この時期に中山さんの司会でリサイタルを行なうことになったりもした。いくつかの週刊誌に門前コンサートの記事と写真が載った。テレビのモーニングショーでも取り上げられた。
あれから一年が経《た》っていた。
前日の宮崎での仕事の後に門を見に鹿児島にやって来たのだった。西鹿児島駅でタクシーの運転手にこの場所を言うとすぐに連れて来てくれた。
「あの前にピアノを持ち出して弾いた人がいるらしいですね」走り出してすぐに運転手は言った。
「そうらしいね」
「お客さんはどちらからですか」
「東京だけど」
「そうですか。いやそういうお客さんが近頃《ちかごろ》いるんですよ。もとの刑務所の門の所まで行けという人が」
「ほう」
「そのうち観光バスが止まるという話もありますよ」
「へえ」
「たしかにおかしな門ですがね。そんなに大事なものなんですかね」
「そうねえ」
「元は刑務所ですからねえ」
「そうだねえ」
「お客さんは建築方面の人ですか」
「いやちがうよ」
「そうですか。このあいだ乗せたお客さんは建築方面の人でしたよ。何かそんな話をしていましたよ」
「なるほど」
そのような会話をしながらここに着いたのだ。
「このお店は大丈夫なの」とママさんに聞いた。
「あの後に拘置所ができたんですよ。それで隣の差し入れ屋さんもここも前と同じにやっているんです」
「ああそうか」
「でもそのうちに体育館か何かが建つそうですよ。いずれは立ち退《の》きになるらしいんです」
「そうなの」
ヤキソバを作ってもらってゆっくり食べた。
「ママさんも山下さんだったよね。どのへんの出だか分かる」
「すぐそこの草牟田ですよ。鹿児島には多いんですよ」
そういえば歴史学者の原口泉さんの母上の旧姓が山下でこちらは福山の方らしい。五つ子で有名になったNHKの山下氏とは親戚にあたると言われていた。おれの方は谷山郷というところから西田町に出て来たのだった。そこで代々貧乏侍として暮らしていたのが龍右衛門という者の時代にその場所が世界史と接触することになった。それがすべての始まりだったのだ。それにしてもその肝腎《かんじん》の龍右衛門房親は門前コンサートにも姿を見せなかった。どうしているのだろう。
窓越しに見える石の門は冬の日に照らされていた。
それを見続けていると微《かす》かな音が耳に聴こえてきた。マーチバンドのドラムにかぶさって天吹《てんぷく》の音が響いていた。店に近づいて来る足音がした。足音はドアの前で止まった。ドアが開いた。そこに明治時代の警視庁の制服を着た男が立っていた。金ボタンがダブルで並んだ制服の袖《そで》には金モールが入っていた。詰襟《つめえり》には徽章《きしよう》が光っていた。
啓次郎に古武士の風貌《ふうぼう》を加えたような顔の男だった。
「山下龍右衛門房親と申す。この書類をここに持って行けとの兄清太郎よりの依頼であった」房親は店の中に進むと持っていた古い雑誌をテーブルの上に置いた。「では渡したぞ。よいな」そのまま回れ右をするとふたたびドアをくぐり抜けて出て行った。
「待ってください」
跡を追って外に出た。制服姿が門のアーチをくぐって消え去るところだった。紺ラシャの制服のズボンと長靴《ながぐつ》に包まれた二本の足が目に焼きついた。房親の姿は消えた。
店に戻り古い雑誌を広げた。「西郷南洲を憶《おも》ふ」というタイトルで山下房親の談話が載っていた。丸々六ページ分もあった。いくつものエピソードが語られていた。それによると房親は何度も西郷と会っては話をしていた。西郷はそのたびに「山下君」と呼びかけていた。談話の最後の方で房親は鹿児島の西郷の菩提寺《ぼだいじ》に立派な社殿を建てる計画には反対であると述べていた。それにまつわるお祭騒ぎも西郷の遺志にそわないと言っていた。
そして長いあいだ知りたかったことがついに房親の口から語られていた。
「南洲|翁《おう》の志が片々たる朝鮮位でなかつた事は私の口から申さぬでも知れ切つて居る事である。吾輩は征韓論が破裂して老西郷が投げ文で帰られた頃は、病床に呻吟《しんぎん》して、体の自由を失つて居た。若《も》しも其際《そのさい》元気で居つたならば、遠うに城山の黄土となつて居つたに違ひないと思ふ。帰りはぐれた為《た》めに意気地のない世界で、浮目を見るのぢや」
病気だったのでついて帰る機会を逸したと言っている。そしてそれを後悔しているのだ。このあとに激烈な言葉が続いていた。
「私に言はしむると、社殿を立派に改修するが如《ごと》きは、断じて翁の志に背いた遣《や》り方である。若しも翁の志を迎へて、翁に酬《むく》ゐんと欲せば取るべき道は外にイクラもある。第一南洲翁をブチ殺して華族になつて居る百官有司が沢山あるのだから、是等《これら》の連中が発起となつて、征韓論の犠牲になつた薩南壮士の子弟を救ふて遣る方法を立つるが一番ぢや。後れたりと雖《いえ》ども為《な》さざるに優る事万々で、若し城山の秋風に残骸《ざんがい》を晒《さ》らした大英傑たる南洲翁が、死後に其心を痛めて冥《めい》する事の出来なかつたものがあつたならば、ソレは申すまでもない、良人を喪《うしな》つて窮途に泣く三千の未亡人と父兄を碧血《へきけつ》の中に埋めて方向に迷つた万千の子弟である。父や良人が仮令《たとえ》順逆を誤つたにせよ、彼等は飽くまでも楠公《なんこう》の心を失はない乱臣賊子であつた。憐《あわれ》むべきは之《こ》れ有り、悪《にく》むべき所のない彼等である。而《しこう》して其未亡人や子供は如何なつた。若し今頃南洲翁の志に背いて社殿を飾る様な金があるならばナゼ其の金を奨学資金に振り換へて、此の憐むべき戦死者の子弟を救ふて遣らないのだ。倒行逆施とは今の鹿児島の諸君が遣る事ぢや。実に憤慨せざるを得ぬではないか」
西南戦争の傷はついに房親の心を去ることがなかったのだ。そしてその発端とされるあの警視庁の密偵《みつてい》事件についても房親ははっきりと述べていた。
「西郷は明治の大功臣である。之に刺客を差し向けて暗殺を計つたなどと云ふのは真赤な嘘《うそ》である。吾輩は当時中警視として其の実情を充分に知つて居る。大久保や川路がソンな馬鹿《ばか》な事をする人間であつたならば、西郷が頭の飛ぶ前に先《ま》づ吾輩の手に依《よ》りて、川路大警視と大久保|内務卿《ないむきよう》の頭が飛んだに違ひないと云ふことを断言する。併《しか》し大久保や川路は故なく明治の大功臣を斃《たお》す様な馬鹿でなかつた」
まさに胸のすくタンカだった。房親の首尾一貫した言動は長い間の胸のつかえをようやく取り去ってくれるようだった。
窓越しに大きな石の門が見えていた。
この激烈な言葉を吐いた男の息子があれを作ったのだ。しかし、もし父親が反乱軍に加わり城山で死んだとしてもやはり彼はこの門を建てることになったのだろうか。
古い雑誌の表紙をあらためてよく見た。政教社というところが出している「日本及日本人」という雑誌の五百四十二号だった。この号は特に「南洲号」と題されていた。発行年月日は明治四十三年九月二十四日だった。
かすかな疑問が湧《わ》いてきた。
九月二十四日は西郷隆盛が城山で死んだ日だった。明治四十三年はその三十三年後でこの門と刑務所が建って二年目だ。日本国はその六年前に日露戦争に勝っている。そして房親はこの年六十九歳だった。西郷隆盛は十二年前に汚名を取り消され死後の叙勲を受けていた。その不思議な人気が軍国主義の象徴とされていくのは自然の成行きだった。このときにこういう一見してそれと分かる「民族的」な雑誌で西郷の特集号が出され、まさに雑誌の意向にそう人物の一人として七十歳になろうとする房親がインタビューを受けているのだ。そこには老人の昔話が自然にそうなりがちな無邪気な自慢とそれに伴うある種の辻《つじ》つま合わせが生じてはいないだろうか。
西郷の下野に病気でついて行けなかったと言う。それなら治ってから追いかけて行けばよいではないか。大久保や川路を語る態度も大げさ過ぎるし、その密偵事件のときに自分は中警視だったと言っているのも気になる。これは大警視に次ぐ高い地位だ。しかし、西南戦争の記録には山下房親はそのとき三等大警部だったことがはっきりと書いてある。インタビューでこれを話したときにはすでに記憶があいまいだったのだろうか。
どうか本当のことを思い出してほしいと思った。自分は東京に残りたかったのだと言ってくれてよいのだ。そう決めたから鹿児島から家族を呼び寄せたのではないのか。何よりも西郷隆盛その人から直接任命された任務を最後までまっとうしたのだ。恥じることはない。後で言い換えることはない。敵味方に別れなければならないのも武士の習いだ。あなたがそう決断してくれたからここにおれがこうしていられるのではないか。雑誌記者にそそのかされて大ぼらを吹くような老人になっていてほしくはなかった。
激しい感情が湧いてきて目の前の雑誌がぼやけた。いつのまにかこうして先祖を追求し続ける自分の立場を一瞬恨んだ。
二杯目のコーヒーをゆっくり飲み終わった。
感情は収まっていた。
どうであれ、房親は新しい国の下働きを忠実に勤めたのだ。その子供の啓次郎もそうだった。決して光の当ることのない役目を黙々と果たし子孫には何も言わずにこの世を去った。薩摩閥にしては驚くほど地位が低いという原口さんの言葉を思い出した。啓次郎は自分の一派を作らなかったという揚村さんの言葉もよみがえった。
雑誌をしまい立ち上がって支払いをした。
「また来ますよ」
「立ち退く前にまた来てくださいね」
外に出た。そこには門が立っていた。石造りの大きな門だった。どこか周囲とはそぐわなかった。監獄という目的を持った建物を失った門には収まるべき場所がなかった。房親も啓次郎も門もおれも結局どこにも帰ることができないのだと思った。
この門のために巡りめぐった長い時間を思い返した。
どこからかかすかにバックグラウンドミュージックが聴こえて来た。それは無数のざわめきだった。様々な音が混ざっていた。行進の足音や人々のどよめきがあった。砲声と銃声と喚声が入り混じっていた。街のざわめきがあった。夕餉《ゆうげ》時に呼び交わす人々の声があった。赤ん坊の泣き声も聴こえた。軍楽隊とオーケストラの優雅な音が混ざり合った。耳をつんざくプロペラの音がした。爆弾と焼夷弾《しよういだん》の落ちる音が鳴り響いた。門の向うにキノコ雲が立ち昇った。
三十一億五千三百六十万秒分のざわめきが門の周りに満ちていた。
門に背を向けて鶴尾橋を渡った。大通りの信号を渡ってタクシーを待った。
すぐにタクシーが来た。それを止めて乗り込んだ。運転手は黙って車を出した。
「いま元の刑務所の門を見てきたんだよ」とおれは言った。
「ああ、あれですか」と運転手が言った。「このあいだあれを作った人のお孫さんだという人があそこでピアノを弾いたそうですよ」
「それはね、おれなんだよ」とおれは言った。
「そうでしたか」運転手はちょっと後ろを振り返るようにしてにやっと笑った。頭はいがぐり坊主《ぼうず》で太い眉《まゆ》と大きな目が見えた。
「それで」と運転手が言った。「面白かったですか」
「ああ」とおれは答えた。「とても面白かったよ」
「それはよかった」と運転手が言った。
「とてもとても面白かったよ」とおれは言った。
「ふふふふふふ」と運転手が笑った。大きな背中が揺れていた。
「はははははは」とおれも笑った。
「あははははは」と房親が笑った。
「わははははは」と啓次郎が笑った。
おれたちは一緒になって笑い続けた。
車は甲突川の土手を下流に向かって疾走して行った。前方に見えてきた海が視界一杯に広がり車はたちまち錦江湾の上空に舞い上がっていた。
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本書は大体においてノンフィクションであり、登場する人物・団体等が実在のものと類似していてもそれは偶然ではありません。何らかの事実の曲解があった場合、それは筆者の意図に基づくものです。[#「本書は大体においてノンフィクションであり、登場する人物・団体等が実在のものと類似していてもそれは偶然ではありません。何らかの事実の曲解があった場合、それは筆者の意図に基づくものです。」はゴシック体]
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参考資料[#「参考資料」はゴシック体](順不同)
西郷隆盛全集 第三巻[#「西郷隆盛全集 第三巻」はゴシック体] 大和書房
西郷隆盛を語る[#「西郷隆盛を語る」はゴシック体] 司馬遼太郎ほか著 大和書房
西郷隆盛(上)(下)[#「西郷隆盛(上)(下)」はゴシック体] 井上清著 中公新書
人物叢書 西郷隆盛[#「人物叢書 西郷隆盛」はゴシック体] 田中惣五郎著 吉川弘文館
西郷隆盛はなぜ敗れたか[#「西郷隆盛はなぜ敗れたか」はゴシック体] 佐々克明著 新人物往来社
西郷と明治維新革命[#「西郷と明治維新革命」はゴシック体] 斎藤信明著 彩流社
西郷隆盛の実像[#「西郷隆盛の実像」はゴシック体] 下竹原弘志編 指宿白水館
日本及日本人 第五四二号[#「日本及日本人 第五四二号」はゴシック体] 南洲号 政教社
西郷従道 大西郷兄弟物語[#「西郷従道 大西郷兄弟物語」はゴシック体] 豊田穣著 光人社
明治のプランナー 大警視川路利良[#「明治のプランナー 大警視川路利良」はゴシック体] 肥後精一著 南郷出版
大日本人名辞書 第四巻[#「大日本人名辞書 第四巻」はゴシック体] 講談社
西南戦闘日注[#「西南戦闘日注」はゴシック体] 東京大学出版会
明治百年史叢書 七二 薩藩海軍史(中)[#「明治百年史叢書 七二 薩藩海軍史(中)」はゴシック体] 公爵島津家編纂所編 原書房
日本の歴史 第一九〜二二巻[#「日本の歴史 第一九〜二二巻」はゴシック体] 中公文庫
学研まんが日本の歴史 第一一〜一三巻[#「学研まんが日本の歴史 第一一〜一三巻」はゴシック体] 学研
教育社歴史叢書〈日本史〉 八 熊襲と隼人[#「教育社歴史叢書〈日本史〉 八 熊襲と隼人」はゴシック体] 井上辰雄著、一五〇 文明開化[#「一五〇 文明開化」はゴシック体] 井上勲著 教育社
古代隼人への招待[#「古代隼人への招待」はゴシック体] 隼人文化研究会著 第一法規出版
値段の明治・大正・昭和風俗史(上)[#「値段の明治・大正・昭和風俗史(上)」はゴシック体] 週刊朝日編 朝日文庫
翔ぶが如く 第一〜一〇巻[#「翔ぶが如く 第一〜一〇巻」はゴシック体] 司馬遼太郎著 文春文庫
抜き、即、斬[#「抜き、即、斬」はゴシック体] 津本陽著 小説新潮一九八七年六月号
県史シリーズ 四六 鹿児島県の歴史[#「県史シリーズ 四六 鹿児島県の歴史」はゴシック体] 原口虎雄著 山川出版社
NHKかごしま歴史散歩[#「NHKかごしま歴史散歩」はゴシック体] 原口泉著 日本放送出版協会
鹿児島県史料忠義公史料 第二巻[#「鹿児島県史料忠義公史料 第二巻」はゴシック体] 鹿児島県
平佐の歴史[#「平佐の歴史」はゴシック体] 財団法人寺山維持会
西田校区郷土史誌[#「西田校区郷土史誌」はゴシック体] 西田校区文化財保護委員会発行
薩摩とイギリスの出会い[#「薩摩とイギリスの出会い」はゴシック体] 宮澤眞一著 高城書房出版
天吹[#「天吹」はゴシック体] 天吹同好会
カルメン→ラッパ節「ヂンタ以来」より[#「カルメン→ラッパ節「ヂンタ以来」より」はゴシック体] 堀内敬三著 アオイ書房
近代建築史概説[#「近代建築史概説」はゴシック体] 村松貞次郎ほか編 近江栄ほか著 彰国社
監獄と人権[#「監獄と人権」はゴシック体] 日本弁護士連合会編 日本評論社
お雇い外国人 一五 建築・土木[#「お雇い外国人 一五 建築・土木」はゴシック体] 村松貞次郎著 鹿島出版会
建築雑誌 第三五、九一、一一二、一八七号[#「建築雑誌 第三五、九一、一一二、一八七号」はゴシック体] 日本建築学会
鹿児島刑務所に関する研究[#「鹿児島刑務所に関する研究」はゴシック体] 迫田順一著 鹿児島大学大学院工学研究科修士論文
鹿児島刑務所の建設過程とその設計者に関する研究[#「鹿児島刑務所の建設過程とその設計者に関する研究」はゴシック体] 揚村固・迫田順一著 鹿児島大学工学部研究報告 第三〇号別刷
新潮日本文学アルバム[#「新潮日本文学アルバム」はゴシック体] 夏目漱石 新潮社
白水uブックス 三六 シェイクスピア全集 テンペスト[#「白水uブックス 三六 シェイクスピア全集 テンペスト」はゴシック体] 小田島雄志訳 白水社
THE TEMPEST W. Shakespeare, Penguin Books
この作品は平成二年八月新潮社より刊行され、
平成五年九月新潮文庫版が刊行された。