|BLOODLINK《ブラッドリンク》 獣と神と人
退屈な日常を送る和志の心に変
化をもたらしたのは、天使の顔
に悪魔の心を持つ九歳の少女・カ
ンナの出現だった――一。IQ一
八五以上、五力国語を話す、掛
け値なしの美少女。だが、その
裏には九歳にして己を知りつく
した|オンナ《```》が潜んでいた……。
そんな和志たちを突如、異形と
化した世界が襲いかかる――駅
で手渡された機関銃の入ったス
ポーツバッグ、黒服の男と蜻蛉
と呼ばれる謎の女の接触――。
ぶたりを待ち受けるものはいっ
たい!? 新鋭が放つ、青春伝奇
ロマン登場!!
山下卓
最近、PowerBookを売り払い
G4cudeを購入。でも初期不良
で五週間使えなかった物書き。
またネット通販にハマって危
険な病が再発。通販って、夢
の世界から贈られてくるプレ
ゼントみたいだけど、お金も
夢みたいになくなる、という
ことに気づいた今日この頃。
イラスト/HACCAN
雄大なる北海道の大地がなん
となく育んだ純情派絵描き。
キュート&クールにナンセン
スをミックスした新感覚テー
マに挑み、流行の脇をひた走
る彼の趣味は珍品収集、好物
はイモと焼きビーフン。
目次
プロローグ
第一章 薄羽蜻蛉の誘惑
第二章 黒い鳥
第三章 引き返せない道
第四章 彼女の思い出
第五章 異形なる者
第六章 覚醒
エピローグ
あとがき
プロローグ
人を殺す、夢を見る。
なぜ、殺すのか、なぜ殺さなければならないのか、わからない。
ただ、冷徹に、淡々と人を殺す。
夢の中での僕は、しびれた心の裡《うち》に、それを当たり前に受け入れている。
いつからそんな夢を見るようになったのかは、もう憶《おぼ》えていない。
少なくとも、半年以上前からだ。
赤黒い闇の中――
僕はいつも、誰かの背中を見つめている。
熱く湿った闇にまぎれて、息を殺し、その背中を見つめている。
僕は自分の右手に握ったナイフに気づく。
……ソウダ、ボクハ、殺サナケレパナラナイ。
僕は獲物を狙《ねら》う獣のように身を屈め、足音を殺し、歩き出す。
僕はその背中を見送っている。
その場に立ちつくしたまま、見送っている。
目の前を行く僕は、狡猾《こうかつ》な足取りで、獲物の背中に忍び寄る。
右手に握られたナイフが、頭上高く持ち上がるのが見える。
獲物の肩が震え、僕の気配を察する。
振り返るより早く、ナイフは首のつけ根に突き立てられる。
獲物はあっけなく、倒れ、地面にうつぶせる。
僕はうつぶせた背中にのしかかり、執拗《しつよう》にナイフを突き立てている。
手を振り上げ、狂ったように、何度も突き立てている。
僕は、気づいていない。
後ろから見ている僕には、見える。
僕が突き刺しているのは、巨大なカブトムシの幼虫だ。
白くぶよぶよとした幼虫は醜悪《しゅうあく》に身をくねらせ、薄黄色い体液を滴《したた》らせでいる。
僕は僕がなぜ、そんなことをしているのか、わからない。
けれども――
目の前の僕がナイフを突き刺すたびに、甘ったるいしびれが頭の中に広がっていく。
僕はその甘美な感触の中に、僕が繰り返す殺戮《さつりく》を見守っている。
ぐちゃ、ぐちゃ……
と巨大な臼い幼虫が嫌な音をたてて潰れていく。
僕は気づかずに、ナイフを突き刺している。
何度も、何度も、何度も……
やがて僕は、広い部屋の真ん中で、ぽつん、と立ちつくしている自分に気づく。
そこは、真四角の大きな部屋だ。何もない、真っ白い部屋だ。
床は一面、赤黒い血に浸されている。
くるぶしまで、その血に埋まっている。
その真ん中に、僕はいる。
途方に暮れて、立ちつくしている。
僕の足下には、いつも誰かが横たわっている。
顔を横に向け、下側半分を血の海に沈めて横たわっている。
そいつは、右の眼球だけを持ち上げ、足下から僕を見あげている。
顎の先に、そいつの虚《うつ》ろな視線を感じる。
見なくても、わかっている。
その顔は、僕だ。
そして、この血は、僕の血だ。
誰かの声が、羽毛のように耳をかすめる。
誰かが、僕に囁《ささや》きかけている。
天井から、壁から、血の海から、無数の気泡が弾けるように、声がする。
それは、言葉の輪郭《りんかく》を溶かして重なり、幻聴のように部屋を満たす。
僕は呆然と立ちつくしている。
ただ、黒い不安が、胸の奥に波紋を広げはじめる。
部屋の彼方《かなた》に、天使が立っている。
僕はその姿に、すがりつく。
血の海に素足で多立ち、天使は僕を見つめて泣いている。
幼い、陶器《とうき》のような頬《ほお》の上を、銀色の涙が細い線を引いて滑り落ちる。
僕は初めて、ひどい痛みを覚える。
哀《かな》しみと寂しさとやりきれなさが、胸を切り裂き血を滲《にじ》ませる。
僕は天使の目に、懺悔《ざんげ》する。
助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ……
天使は何も言わず、細い銀色の涙を流し続ける。
囁き声が、無数の絹糸《きぬいと》となって伸びてきて、触手のように僕の耳をまさぐる。
理解されぬ声が、輪郭《りんかく》の溶けた言葉が、耳の奥に忍び込んでくる。
天使はそっと首を振る。
足下に横たわった僕が、僕の足首をつかむ。
ねっとりと血に濡《ぬ》れた手で、僕の足首をつかむ。
天使はそっと首を振る。
僕は途方に暮れて、立ちつくしている。
絹糸が、蚕《かいこ》のように、僕を包みはじめる。
天使はそっと首を振る。
僕は動けない。
囁き声は、聞こえている。
天使は泣きながら、首を振っている。
第一章 薄羽蜻蛉《うすばかげろう》の誘惑
「ねえ、カズシー」
窓の外から聞こえるいつもの声。無視をきめこむ。
「いるんでしょー、顔出しなさいよ」
時刻はただいま二三時。寝たふり寝たふり。
「ふーん、そぉ、いー度胸じゃない……」
ミシリ、と屋根に飛び移ってくる気配。そして、
どんどんっ!
「こらあ! カズシー! 起きてんのはわかってんだからねっ!」
わかっていても開けてやんない。なに考えてんだ、こんな時間に。
どんどんっ! どんどんどんっ!
「開けなさいよっ! 開けないとあとがヒドイわよっ! わかってんの!」
おいおい、それ以上やると、警察呼ばれるぞ……
僕はベッドに仰向《あおむ》けになったままため息をついて、首を振った。
突然、ピタリと音がやむ。やっとあきらめたか。
「きゃ!」
ガタン、と足を滑らせる音。
あのバカ!
「カンナ!」
跳び起きてカーテンを引き開け、カギを外して窓を開けた。
「おい! カンナ! 大丈夫か――」
外へ突きだした喉元《のどもと》に下から、ぬーっと白い腕が伸びてくる。
がしっ、と首がつかまれる。
「ふっふっふっ……あまーいっ! あますぎ!」
「……」
「カズシ、これが戦争だったら死んでるわよ」
「ばーか、どこの戦争でこういうシチュエーションがあるんだよ」
目線を下げると、窓枠《まどわく》の下にしゃがみ込んだカンナがいる。大きなブルーグレーの目
が夜気《やき》の中で猫みたいに輝いている。銀灰色の髪はサラサラと肩口から背中に広がり、
上質な絹《きぬ》のような光沢を放っている。白いシルクのパジャマの上にカーディガンを羽織
っているが、だぼついた胸元からまだふくらみはじめてもいない平坦な胸が覗《のぞ》いている。
「ああ、なに見てんのよぉ、すけべ」
「あのな、このポジションでおまえのほうを見たら、正面にあんのが、それだろ」
「それってなによ?」
「胸板《むないた》だよ、胸板」
「胸板……ふん、まあ、そーね」
カンナは僕の首から手を離さずに立ち上がリ、ぐいと室内へ押し返す。
「ほら、どいてどいて」
ようやく手を離し、窓枠に手をついてひょいと飛び越え、ベッドの上に着地。
「お邪魔しマース。きゃっほ!」
「邪魔だよ、ホントに」
「なに?」
「べつに……」
僕はしぶしぶべッドをカンナにあけ渡し、机の前の回転椅子に腰かけた。
「で、なんだよ、こんな時間に」
背もたれを抱え込んで、くるっと椅子を回し、カンナのほうを向く。
「え? なに?」
カンナはさっさと布団《ふとん》の中に潜り込みはじめている。
「おまえな、勝手に入のベッド入るなよ」
「はあ……ぬくい、ぬくい。カズシもおいでよ。ほらほら、湯たんぽ湯たんぽ」
天使の笑顔。邪気のない無垢《むく》な微笑《ほほえ》み。
「あのな……」
僕はこれ見よがしに大きくため息をついてみせた。
カンナ――秋月《あきづき》カンナの基本データ。帰国子女。知能指数一八五以上。五カ国語をマ
スター。俗に言う天才ってヤツだ。スレンダーなボディ。腰まである銀灰色の髪。北欧
系の血が混じった、色素の薄いブルーグレーの大きな目。正直、文句なしの容姿。
でも、ときめいてはいけない。なぜなら、こいつは小学生なのだから。年齢九歳。身
長一四ニセンチ。そしてなにより性格がマズイ。マズすぎ。恐ろしく生意気で気まぐれ
で世慣れていて、甘え上手で、突き放し上手。自分の可愛さを知りつくした典型的な猫
タイプ。生まれついての女王様。天使の身体に魔女の血を宿した小悪魔。僕の周りの何
人の人間が、この小娘に魂を抜かれてしまったことだろう。
今僕がこいつに屈したら、こいつは一生男というものをなめて生きるようになってし
まう。だから、僕は屈しない。僕だけは屈してはいけない――というのが僕が勝手に抱
いている使命感だ。
「いいか、絶対、そこで寝るなよ。寝たら、窓から放り出すからな」
「あたしね、さっき、ネット検索してたら、ちょっと面白いもの見つけちゃった」
人の話なんか聞いちゃいねえ……
「きっとね、カズシが興味持つものだよ」
また、こいつはこうやって……
「へへーん、聞きたいっしょ?」
「べつに……」
「あ、そお。じゃ教えない」
ムッとして枕元にあった雑誌を手に取り、背中を向けてめくりはじめる。
「まぁた、こんなの読んじゃってさ」
僕がさっきまで読んでいた雑誌『ヘブンズ』。世の中ではあまり相手にされない超
自然現象やオカルトやミステリーを真面目に取り扱った奇特な雑誌だ。趣味といえば、
まあ、僕の数少ない趣味といえる。
「それ、まだ読んでねーんだよ。返せよ」
「やだねー」
「じゃ、貸してやるから、自分の家に帰れよ」
「あ」
カンナは記事のひとつに目をとめ、声をあげた。
「すごーい。この記事、誰が調べたの」
「知らねーよ。どっかに記者の名前書いてあんだろ」
「……八神《やがみ》、亮介《りょうすけ》だって」
ごろんと背中を戻し、仰向けになって雑誌を顔の上に掲《かか》げる。
「ふーん、こーいう雑誌でもさ、けっこうまともな記事書く入もいるんだね」
「なにを偉そうに」
八神亮介といったら『ヘブンズ』ライター陣の中でも僕がもっとも敬愛するライター
なのだ。たとえ天才でもこんな小娘にとやかく言われたくはない。
「でも、カズシにはわかんないだろうけど、これってかなりインサイダーな記事だよ。
どうやって調べたの?」
「オレが知るわけねーだろ。なんだよ、オレにはわかんないけどってのは」
上から雑誌を取り上げ、カンナが見ていた記事を見た。
「あ、ちょっと返してよー」
かまわず立ったまま記事を読む。
『世界の政府が隠蔽《いんぺい》する新種の奇病。悪魔は実在したのかり?』
それは世界各地の不可思議なニュースを集めたコラム記事のひとつだった。
昨年末、ニューヨークのセントラルパークでホームレスが大量に殺される事件が起き
た。その五体の死体は頭部を喰いちぎられた痕《あと》があり、当初は野犬か何かの仕業かと思
われていた。が、検屍《けんし》の結果、その歯形や唾液《だえき》は人間のものであることが判明した。そ
の後、報道機関には一斉に箝口令《かんこうれい》が布《し》かれ、回収された死体も政府の研究機関に持ち去
られた。同種の事件はニューヨークのみならず、ロンドンや中国、カナダ、スイスなど
で同時多発的に起こっており、目撃者も多数いる。が、各国の政府はこの一連の事件を
極秘事項として隠蔽している。
要約すると、そんな記事だった。が、毎号掲載される記事に比べてとりたててショッ
キングな内容というわけでもない。
「これのどこがインサイダーなんだよ?」
「だから、カズシにはわかんないって言ったでしょーだ」
鼻にしわ寄せて、イーッと顔をしかめる。う、かわいーじゃねーか、この野郎。
「だいたい、この手の記事なら、毎号くさるほど載ってんだよ。おまえはたまにしか見
ないから、新鮮に見えるだけだろ」
「やーい、負けおしみー」
確かにそのとおりだ。
「でもさ、その記事、ホントだよ」
「なんでおまえにそんなことわかるんだよ」
「だって、あたしんとこにもMIT経由で研究協力のご依頼がきてるもん」
「はあ?」
「だから、さっき面臼いこと教えてあげようかって言ったのにさ。もうダメだよ」
べーっと舌を出して、掛け布団を日元まで引き上げる。
「カズシが思ってるよりね、枇界は不思議で広いのだよ」
「だからってオレの世界が変わるわけじゃねーだろ」
僕は雑誌を持って、椅子に戻った。カンナの話は気になるが、今さら聞き返すのもし
ゃくなので、平静を装《よそお》い雑誌をめくった。
カンナが言ったことは、たぶん本当だ。こいつは生意気で性格は悪いが嘘はつかない。
少なくとも僕には。こいつがネットを通じて世界各国の大学機関から研究協力の依頼を
受けているという話は何度も聞いているし、その内容にも信愚性《しんぴょうせい》がある。
たとえば最近カンナが参画したプロジェクトに「花粉症を治す遺伝子改良薬」という
のがあるが、僕はその薬の完成をニュースで報道される二カ月前から聞かされていた。
今ではその薬は花粉症に悩める人々にとって奇跡にも等しい神薬として話題になってい
る。そういう話はカンナが隣の家に引き取られてきてからこの七カ月間、いくつも聞か
されている。だから、今回カンナが言うことも、きっと本当なのだろう。
でも、だからって、そういう不思議な話は探せば世界中にごろごろ転がっているわけ
で、けっきょくのところ僕とはなんの関わりもないのだ。
「……なあ、おまえさ、そろそろ自分の家に帰れよ。いくら優しいじいさんとばあさん
だって、そのうち怒るぞ」
雑誌から顔を上げてベッドを見ると、時すでに遅し。枕の上に、ぽかんと小さく口を
開けたやすらかな寝顔がある。天使の寝顔。
こうなるとたとえ僕でもこの眠りを妨《さまた》げる気にはなれない。きっとこんな写真をどこ
かの雑誌社か芸能プロダクションなんかに送った日には、僕は明日にでも日本で何番目
かに多忙なマネージャーになれることだろう。
……まったく、反則な顔だな。
無意識に微笑が浮かんでしまう。カンナの寝顔を見ていると、自分でも不思議なほど
優しい気持ちになる。七カ月前までの僕は、そんなヤツではなかった。
人と話すことがわずらわしくて、いつも一人でぼんやりと空想にふけることだけが楽
しみだった。どこにも着地しない夢想。飛べない鳥が夢見る空。変えられない現実を妄
想で埋め、ただ、学校を行き帰りすることに、人生のカレンダーを黒く塗りつぶしてい
く。そんな無為《むい》な日々を送っていた。
それが、七カ月前に突然変わった。
まだ肌寒、い四月のある夜――今日と同じように、屋根を伝ってカンナがやってきた。
コンコン、と窓ガラスを叩く音がして、恐る恐るカーテンを引くと、ガラスの向こう
にカンナがいた。ガラスに両掌を押しつけ、今目と同じ臼い大きめのシルクのパジャマ
を着て、銀灰色の髪を夜気の中にふわふわさせて、にっこり笑っていた。
それは、本当に妖精が舞い降りてきたと思わせるに十分な容姿だった。二階の窓の外
に突然、見知らぬ女の子が現れた驚きよりも、僕はその容貌《ようぼう》に見とれてしまっていた。
「あ・け・て」
カンナは口だけを大きく動かし、ガラスの向こうで言った。
僕がきょとんとしていると、はあーっとガラスに息を吐いて白くさせ、そこに指で文
字を書いた。器用にも、こちらから見えるように左右反対に。
『ひっこしてきたの』
そこにはそう書いてあった。でも、隣は僕が生まれたときから住んでいる老夫婦の家
なのだ。誰かが引っ越してきたなんて話は聞いたことがなかった。
僕がなおもぽかんとしていると、カンナの目に苛立《いらだ》ちが浮かんだ。
突然、はあーっと勢いよくガラス全面に息を吐きかけ、大きく三文字。
『あ・け・ろ!』
と指先で書きなぐり、その文字越しにキッと睨《にら》みつけた。
寒いのだろう。小さな唇からは、吐息が白くなってこぼれていた。
僕はそれに気づいて、あわててカギを外し、窓を開けた。
「ううう、さっむう。なに考えてんのよ、こんないたいけな少女を屋根の上にほうって
おいて。さっさと開けなさいよ」
カンナは僕を片手で脇に押しのけ、窓枠に手をついて、僕の部屋へ侵入してきた。そ
れが感動のない第一声だった。その声には子供特有の透きとおった響きがあった。
「きゃっほー、けっこういいベッド使ってるねえ」
カンナはベッドの上をころころと転がりながら、はしゃいだ。
僕はベッドの足のほうの床に突っ立ったまま、その様子を呆気《あっけ》にとられて見ていた。
「あのさ……」
ようやく声を発すると、くるんと身体を起こしてカンナが笑った。
「あたし、カンナ、今日からお隣さん。よろしくね」
それが僕とカンナの最初の出会いだった。
カンナが隣の老夫婦の孫《まご》にあたる女の子で、その両親がアメリカで死亡し、引き取ら
れてきたのだ、という詳しい事情を知ったのは翌日、母からだった。
老夫婦はほとんど浮き世離れした生活を送っていて、カンナがなにをしていようとま
るで気にするふうもなかった。その優しさに乗じて、カンナはそれから毎晩のようにこ
の部屋にやってきては、週に最低三日は僕のベッドを占拠《せんきょ》してしまうようになったのだ。
その七カ月の間に、僕はなんとなく自分が変わっていくのを実感した。
少しだけ、毎日が楽しくなった。
が、しかし。
七カ月も毎日顔を突き合わせていれば、最初にかかった妖精の魔力も薄れる。
その後のこいつの傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な振る舞いは割愛《あつあい》するが、その天使の顔の下に、悪魔の顔
が潜んでいることを嫌というほど味わったのも、この七カ月間だった。
なにより、僕の家はもうこいつの支配下にある。
こいつ、一生寝てればいいのにな……
僕は立ち上がり、部屋の隅に丸めてあった非常用寝袋を引っぱり出し、ベッドと机の
問の床に敷いて横になった。……背中が痛い。
なんでオレが自分の部屋で寝袋なんだ?
僕は天井を見つめて、小さくため息をついた。
「カズシ、起きろー! 朝だよ、朝、朝」
どしん、と腹にのしかかってくる重み。はちきれんばかりの元気が詰まった声。目を
開くと横なぐりに差し込む朝陽の中で、カンナが勝ち誇ったような目で見下ろしている。
「……何時、だよ?」
「七時半だよ。あたし遅刻しちゃうんだかち、早くしてよ」
この横暴な態度。いつ着替えてきたのか、カンナは白いフードつきのスウェットに膝
丈のスパッツをはいて長い髪を後ろで束《たば》ねている。灰色がかった髪が陽射しに照らされ、
金属みたいに輝いている。
「あー、お腹すいたあ、さ、歯磨《はみが》いて朝ご飯にしよ。ほらほら、起きた起きた!」
ぐいと僕の腕を引いて強制的に起こしにかかる。ドキリとするほど大きな子猫のよう
な目が間近に迫る。寝ぼけた頭では素直にこいつの容姿に見とれてしまうのが哀《かな》しい。
「……おまえね、オレがなんで寝袋に寝てるのか考えたことある?」
欠伸《あくび》をかみ殺しながらかろうじて嫌味を言う。
「しんないよ、だいたい一緒に寝てくんないから、昨日の夜、寒かったよ」
「ばーか、ガキってのは、体温が高すぎるんだよ」
「ホントはあたしにオンナを感じてたりして?」
しゃがんだ膝に頬《ほお》づえをついてにんまり笑う。
憎たらしいほど可愛い。
「そういうことは、もう少し胸がでかくなってから言え」
僕はひと呼吸して立ち上がり、背中を伸ばした。やっぱり寝袋一枚だと背中や腰が痛
む。ついでに立ちくらみがしてベッドの縁《ふち》にへなへなと手をついた。
「やーい、オヤジ。立ちくらみ。目眩《めまい》。貧血」
「うっせーぞ」
頭を振って立ち直リ、床に脱いだままのトレーナーを拾って腕を通した。
「うわ、きったなーい。それ、昨日と同じヤツじゃん」
「いーんだよ、オトコは」
「なにいってんだかわかんない」
「ほら、行くそ、居候《いそうろう》」
僕はかまわず部屋を出た。
急な階段を降りて、玄関口で廊下を折り返し、突き当たりにある洗面所へ入る。
右手に洗濯機があって、その前に洗濯物が散乱した脱衣籠《だついかご》があって、正面にガラスの
引き戸があって、その向こうが風呂場という典型的な中流家庭様式。
「さ、歯磨き歯磨き!」
カンナは左手奥の洗面台に駆け寄って、鏡の前の棚《たな》から、黄色いコップに立てた歯ブ
ラシを取り上げた。なぜだか、我が家にはカンナの専用歯ブラシとコップがある。
「ほらほら、カズシも磨く。はい、これ」
と、僕の歯ブラシに歯磨き粉をつけて手渡してくる。こういうところは意外に世話女
房タイプだったりする。
「はい。タテタテ、ヨコヨコ、いちにさん!」
鏡に向かって二人並んで歯を磨く。けっこう間抜けな構図だ。
鏡の向こうで、しゃこしゃこと歯を磨きながらカンナがうれしそうに笑う。
「カズシ、こうやってみるとなかなか大きいねー」
「おまえはかなり小さいな」
「ふん、あたしは九歳だから、あたりまえじゃん」
こうして鏡に映った姿を客観的に見ると、カンナはやっぱり小学生で、僕はなんとな
くホッとした気分になる。背丈なんて僕の胸元にも届かない。でも、だからといってそ
の容姿はやっぱりフツーの小学生には見えない。
「おまえさ、ちゃんと小学校でクラスに溶け込んでるのか?」
僕はもごもごと奥歯を磨きながら、鏡の中のカンナに言ってみた。
「ふぁ? どーいう意味よ?」
カンナは目だけをこちらに向けて、聞き返す。
「ほら、ハーフみたいな顔したヤツっていじめられたりするだろ」
「よへーなお世話だよ。ほんふぉにハーフなんらから、べふにいーじゃん」
カンナは奥歯と歯の裏を磨きながら言う。どうやらちょっと怒ったらしい。
「ま、イジメられたりしてはいねーんだな」
カンナは口の中の歯磨き粉の泡を吐き出して、ふんと僕を見あげた。
「あ、なに? もしかして心配してくれてるの? カズシおにーちゃん」
「ああ、間違っておまえをイジメたりしちゃったクラスメイトのほうをな」
僕は泡を吐き出し、コップに水を受け、口をすすいだ。
「なによ、それ。カズシはね、あたしのことぜんぜんわかってないよ」
カンナは自分のコップを使って口をすすぎながら言った。
「どーかね、オレが一番おまえの実体を知ってると思うけどな」
僕は顔を洗って、手前にかけてあったタオルで拭《ふ》き、さっさと洗面所から逃げ出した。
「あらあら、カンナちゃん、昨日は和志《かずし》の部屋に泊まったの」
廊下から暖簾《のれん》をくぐって台所に人るとガス台の前で母が振り向いた。
「うん! おばさま、朝ご飯、ご馳走《ちそう》になっていいですか?」
「とーぜんよ。和志のぶんはなくてもカンナちゃんのぶんはいつだって用意しているか
ら、いつでも来ていーのよ」
「うれしいィ。今目のメニューはなんですか?」
「ふふ、今目はね、鰺《あじ》の開きに卵にのり、ひじきの佃煮《つくだに》という純和風温泉メニューでい
ってみました」
「うわぁ、あたし大好き!」
胸の前で手を合わせ、目をまん丸くして歓喜する。なんと愛らしいしぐさだろう。こ
れで大抵の大人はイチコロだ。当然、うちの母もニッコニコ。
「でしょ? カンナちゃんに合わせて作ったのよ」
おいおい、それは嘘だろ。
「うっれしい。おばさま、大好き!」
「まあまあ、おばさんもカンナちゃんが大好きよ」
……いったい、ここは誰の家だ?
僕はテーブルをまわり込んで、椅子に腰を下ろした。
「親父は?」
テーブルの上に放置された新聞を取り上げ、一応会話に割り込んでみる。
「今日は早いからって、一時間前に出かけたわよ」
「ふうん」
「そうなんだあ、カンナ、おじさまにも会いたかったな」
すかさずカンナが主導権を奪い返す。
「あらあら、そんなこと言ったら、あの人デレデレになって喜んじゃうわよ」
「そーですかあ。うれしいなっ」
「もお、ホントにカンナちゃんったら可愛いんだから。お隣さえよければ和志と交換し
たいくらいだわ」
「ああ、すればいいさ」
僕は新聞を適当にめくりながら言った。
「ほらほら、あんたも新聞なんて読んでないで、少しは手伝いなさいよ」
母は言いながらテーブルの中央に小鉢《こばち》やみそ汁の入った椀《わん》を並べていく。
「あ、おばさま、あたし手伝います」
カンナは食器棚から茶碗や箸《はし》をいそいそと持ってくる。勝手知ったる他人の家。
「あらもお、いーのよ、カンナちゃんは。ホントに和志ったら、ぜんぜん動かないんだ
から。カンナちゃん、和志のとこなんかで遊んでて退屈じゃない?」
「あたしは、ぜんぜん。カズシおにーちゃんって、すごい優しいんですよ。昨日の夜も
勉強教えてもらって、そのあとで学校のこととかいろいろ相談に乗ってもらっちゃって。
寝るときも自分は寝袋で寝るからって、あたしにベッドを譲ってくれたし。さっきも洗
面所で学校でいじめられてないか、とかすごく心配してくれたりするんです」
カンナは向かいで食器を並べながら、チラッと僕に目を向け、悪魔の笑みを浮かべる。
「それはね、カンナちゃんが可愛いからよ。ほら、この子って学校でもモテない君だか
ら、カンナちゃんみたいな子が遊びにきてくれるだけでうれしくてしょうがないのよ」
おいおい……
「そーなの? おにーちゃん。じゃ、カンナ、これから毎日遊びにきてもいい?」
これ見よがしに目をまん丸くして僕を見る。なにがおにーちゃんだ。
「ふん、勝手にしろ」
僕は答えに窮《きゅう》して新聞をめくった。その手がはたと止まった。
『上野公園で変死体。野犬の仕業?』
それは三面の隅に報じられた小さな記事だった。
上野公園で寝泊まりしていたホームレスが、首から上を喰いちぎられているのが昨夜
発見された。今のところ野犬か何かの仕業と見られている。書かれている内容はそれだ
けだ。いつもならさほど気にするような記事でもないのだが、昨日読んだ『ヘブンズ』
の記事との符合に胸がざわめいた。
「ん? おにーちゃん、なに見てるの?」
カンナが脇から覗き込んできた。
僕は目線で記事を示した。カンナの目がすっと真剣味を帯びる。
「ふーん」
「どう思う?」
「知ンないわよ」
「おまえ、専門家なんだろ」
「専門家じゃないよ。依頼されたばっかだもん」
「ふうん」
「なによ」
「いや、別に……」
「なによぉ」
「そういや、おまえさ」
「うん」
「昨日の夜、寝ながらおならしてたぞ」
「な……!」
カンナは真っ赤になって、新聞に手を叩きつけた。
「あ……あたしがするわけないでしょ! なにいってんのよ、馬鹿カズシ!」
流しの前にいた母がぎょっと振り返った。
「あ」
カンナは我に返って、乾いた笑いをもらす。
「アハハ、やだもお、カズシおにーちゃんったら……」
言って小さく「おぼえてろ、てめー」と呟いた。
「……ざまーみろ」
僕は笑って新聞をめくった。
「あ、待ちなさいよ、カズシー」
自転車に乗って通りへ出ると、カンナが自分の家の玄関から銀灰色の長い髪をなびか
せて走り出てくる。背中には赤いランドセル。正直、ちょっと不似合いだ。
「それっ!」
跳び箱の要領で荷台に飛び乗る。カシャンと荷台が軋《きし》む。カンナの体重は異様に軽い。
「おっし、行っていいわよ」
「オレはおまえのタクシーじゃねーんだぞ」
「だって、途中まで一緒じゃん。それ行け! レッツゴー!」
「……ったく」
僕は腰を浮かせてペダルを踏み込んだ。
家の前の通りを右手にまっすぐ行くといったんゆるやかな長い下り坂があり、それを
下りきったところから、同じくらいゆるく長い上り坂がある。通りの両側はイチョウ並
木に縁どられ、初秋のこの季節は黄色い扇《おうぎ》形の落ち葉がパラパラと散っている。
道は二車線で、車の通りは少ない。カンナはこの下り坂を二人乗りで下るのが好きだ。
「ううー、気持ちいいねー!」
頬《ほお》に当たる風が冷たい。そろそろ制服の上着の下にセーターが必要な時期だ。
「でもさあ、銀杏《ぎんなん》ってやっぱりちょっとウンコっぽい匂いがするよねー」
確かにこの道は小学生たちには別名『ウンコ通り』とも呼ばれていたりする。
「このへんに落ちてる銀杏拾って焼いたら、お店で買うのと同じ味がするのかな」
「さあな……。食ってみろ」
僕はペダルをこぐのを止め、坂を下るにまかせてあたりを見まわした。
同じような家が並んだ新興住宅地。代わりばえのしない景色。どこにでもある町並み。
生まれてから一七年、ずっとこの景色を見続けてきたが、家の密度が増したくらいで
特別何かが変わったわけじゃない。これが僕の世界の広さだ。
べつに文句があるわけじゃない。ただ、最近、その景色が妙に息苦しい。
坂を下りきったあたりから、右手の歩道に小学生の集団が現れはじめる。カンナより小
さい年少の子供たち。黄色い帽子をかぶって、アヒルの行列みたいに密集して歩いている。
「ほら、カズシ、一気に登れ! 第ニロケット点火!」
馬にむち打つようにカンナが僕の背中をペンと叩く。
「おっしゃ!」
腰を浮かせて前傾姿勢をとり、ペダルを一気に踏み込む。運動部にも入っていない僕
にとって、カンナを乗せて走るこの上り坂が体力維持の唯一の日課なのだ。
一見ほとんど傾斜していないように見える土り坂だが、なめたら命とり。その長さが
じわじわと足にきいてくる。真ん中あたりまでは軽快にいくが、そこから先が突然重力
が増す。まさに鉛のように大腿《だいたい》部がしびれてきて、カンナの重みを体感しはじめる。
「ほらほら、ファイトー! ファイトー!」
ハンドルの前に身を乗り出し、車体を左右に振って、体重を乗せて足を踏み込む。あ
っという間に息が上がり、肺の中が焼けたように熱くなる。
「おーっと、カズシ選手、スピードが落ちてきました。どうしたのでしょう。もうダウ
ンでしょうか。足をついてしまうのでしょうか、足をついてしまうのでしょうか」
耳|障《ざわ》りな実況中継。てめえ、なめるなよ……!
「おーっと復活です、復活です。セカンドウィンドです。これが噂のセカンドウィンド
です。頂上はもう少しだ。頂上はもう少しだ!」
額に浮いた汗が鼻梁《びりょう》に流れる。腕まで重くしびれてくる。この、やろ……!
「だあっ!」
最後のひと踏みで登りきり、両足をついてハンドルの上につっぷした。
「はいはい、ごくろーさん。じゃ、あたし行くね」
ぽんと背中を叩いてカンナが飛び降りる。目の前は交差点で、僕は左に曲がって商店
街を抜けて駅へ。カンナの小学校は前方五〇メートルほど行った右手に見える。
「いい? 今度窓にカギかけたらしょーちしないからね」
カンナはキッと僕を睨みつけ、くるっと背を向けて走り出す。赤いランドセルの上で
銀灰色の長い髪がキラキラ揺れる。
僕はハンドルの上にへばったまま、その背中が校門へ吸い込まれるまで見送った。
カンナはクラスに溶け込んでいるというけれど、僕はその点に関してだけはカンナの
言葉を信用していない。この七カ月の間に、もう何度もカンナをこの場所まで送ってい
るが、僕はあいつが同学年の友達と挨拶《あいさつ》を交わしているのを見たことがないのだ。
一見いかにも楽しそうに学校へ走っていくが、あの校門の向こう側があいつにとって
そんなに楽しい場所であるわけがない。五力国語をマスターした天才がひらがなだらけ
の教科書を読み、バイオテクノロジーの権威が水に住む生き物や人体の仕組みを先生と
一緒に暗唱する。そんな授業に混ざっていて楽しいはずがないし、そういう環境で対等
に話ができる友達がいるかどうかも疑わしい。
日本の教育システムを考えれば、カンナが小学校へ通わなければならないのは仕方の
ないことだが、正直、その点に関しては不憫《ふびん》だと思う。もっとも、プライドの高いあい
つにそんなことを言えば烈火《れっか》のごとく怒るのは目に見えてるし、確かにそれはあいつに
対して失礼なことだ。
そういうわけで、僕になにができるというわけでもないし、なにかしようとも思わな
い。ただ、できるなら、僕くらいはあいつにとって対等な人間でいてやりたいと思う。
頭の中身に関してはもう無理な話だが……
僕は体力が回復するのを待って、白転車の向きを変え、再びペダルを踏み込んだ。
駒沢《こまざわ》公園に面した大通りを抜け、国道沿いにある地下鉄の入口脇に自転車を突っ込む。
学校はここから二〇分ほど電車に乗った神保町《じんぼうちょう》の一郭にある。
僕はいつものように後ろから二両目の車両に乗り込み、座席前の吊革《つりかわ》につかまって、
窓の外の澱《よど》んだ暗がりをぼんやり眺《なが》めた。
この時間、電車はラッシュと市なって異様に混んでいる。
最近、ぼんやりすることが多い。
カンナの出現でいったんは盛り上がった僕の生活だが、そういう刺激もやがては怠惰《たいだ》
な日常の中に呑み込まれていく。けっきょく、なにも変わりはしないのだ。
とくにここ最近は、その倦怠《けんたい》感がピークに達しはじめていた。
その原因の八○パーセントは当然僕自身にあって、でも、残りの二〇パーセントくら
いは僕を取り巻く環境にある――と僕は勝手に思っている。
僕は部活もしていなければ、とりたてて熱中できる趣味もない。Jリーグや野球に熱
狂する気持ちにはなれないし、アイドルやJポップに熱狂するのも気が引ける。みんな
でカラオケに行くのもゲーセンに行くのも、家でテレビゲームに我を忘れるのも、なん
だか最近すべてが嘘くさくてスカスカしているように感じてしまうのだ。できあがった
箱庭の中で適当に平和な遊びに熱中させられているような、そんな感じ。
たとえば、深夜一人でゴルフゲームをやっているとき、突然、襲ってくるエアポケッ
トみたいな不安……
追い風5|M《メートル》、|PAR《パー》3のコース上を美しいカーブを描いてボールが滑空していく。グ
リーンに落下したボールはテンテンと二回跳ね、カシン、と乾いた音をたててフラッグ
ポールの下に吸い込まれる。コントローラーを握りしめた手に思わず力が入る。
――うそ、ホールインワン? やったー! すっげー!
こみ上げてくる達成感。ガッツポーズでもしたくなるような高揚《こうよう》――が、突き抜ける
手前で、空転する。すかん、と。すっと五度ばかり血液の温度が下がったような感覚。
――……オレ、なにホンキで喜んでんだろ。
仕組まれた罠《わな》に気づいてしまった瞬間。誰かが作った物語、誰かが仕掛けたハプニン
グ、誰かが与えてくれる笑い。そんな霞《かすみ》みたいな喜びを食いつぶして生きている自分を
醒《さ》めた目で見下ろしている自分がいる。そして、どこからか聞こえてくる誰かの笑い声。
僕はコントローラーを握りしめたまま途方に暮れる。それはすぐにやり場のない苛立
ちに変わり、からっぽの身体の中で、いがらっぽい熱だけがふくれあがる。
ナニヤッテルンダ?
コンナコト、シテイルバアイジャナイ……
もちろん、授業はそれ以上にかったるい。最大限真面目に勉強したって、その結果の
最上級コースが東大とかそういうものだと思うと、ゴルフゲームのホールインワンと大
差ない。まあ、そんなこと言えるほど真剣に勉強してるわけでもないのだけれど。
つまり、カンナに負けず劣《おと》らず、僕も学校に対しての不適合者なのだ。だから僕はカ
ンナも小学校に適応できていない仲間だと思っていたいのかもしれない。
あいつは上に突き抜けた不適応者で、僕は下に転がり落ちた不適合者だが。
「お、カズシー、カンナちゃん元気?」
「ねえ、真山《まやま》くん。今度またカンナちゃんを連れてきてよ」
「ねえねえ、今日のカンナちゃん、どんな服着てた?」
教室に到着すると挨拶代わりに交わされる毎度の会話。このクラスの連中もカンナに
魂を奪われた下僕と化している。今年の夏にカンナが小学校をさぼって学校に遊びにき
てしまったことがあった。そして、当然のごとく、恐ろしい騒ぎになった。
僕はその日を境に、すっかり妙な尊敬を集めるようになってしまったのだ。
今考えると、あいつはすべてを計算していた。こうなることを計算ずくで、僕の学校
へやってきたのだ。僕の生活環境を完全に自分の支配下に収めておくために――
「なあ、カズシ。おまえさ、そろそろカンナちゃんの写真、売ったらどうよ?」
席に座ると前の席に座っていたヨシノリが振り向いて、いつもの提案をしてくる。こ
いつは写真部を根城にする盗撮マニアで、スケベ根性丸出しのニキビ面だが、恥ずかし
いほどよく口がまわるので、けっこう女の子に人気があったりする。そして、カンナが
学校へやってきたとき写真に撮れなかったことが、こいつの盗撮カメラマンとしてのキ
ャリアに大きな傷を残しているのだ。
「それかさ、オレに写頁撮らせろよ。一日遊園地とかに連れてって、撮りまくればいー
じゃん。カンナちゃんだって、そういうの喜ぶだろ?」
「ばーか、あいつがそんなんで喜ぶわけねーだろ」
僕は小さくため息を吐いて、窓の外へ目を向けた。
「どーしてよ? 子供はやっぱ遊園地だろ。ぜってえ喜ぶって。オレの秘蔵のライカで
撮ってやるからさ。今度の日曜なんか、どうよ?」
「まあ、じゃあ、そのうち訊いておくよ」
僕はまた軽くため息をついて話を断ち切った。どっちにしてもあいつにこんな話をす
るつもりはない。言えばあるいは何かの気まぐれで喜ぶかもしれないが、正直、あいつ
の写真が学校に出同るなんてごめんだ。だいたい、なんの犠牲《ぎせい》もなしに写真に映った天
使の姿だけを享受《きょうじゅ》しようなんて甘すぎる。
「なんだよ、ノリわりいなあ。オレはさ、本当はおまえのためを思って言ってんだぜ。
おまえもさ、もう少し、社交的っていうの、ちっとはそういうふうになったほうがいい
と思うわけよ、オレはさ」
「悪いな。いろいろ気をつかわせちゃって」
「んだよ。いちいち嫌味くせーなあ……」
ヨシノリは一瞬本気でムッとした表情になったが、すぐに話題を戻して目を輝かせる。
「じゃあさ、こういうのはどうよ。カンナちゃんと一緒に行くってことで、ウチの学校
の上玉をデートに誘うのよ。まず百発百中だぜ。矢野創凉子《やのくらりょうこ》とか牧野香織《まきのかおり》とかさ、カン
ナちゃんにめろめろだろ。そしたら、おまえだってラッキーじゃん」
そんなものまるでラッキーじゃない。矢野倉涼子や牧野香織だって、自分のテリトリ
ーである学校でちょっと会ったから「可愛いィー」なんて喜んでられるが、一日一緒に
すごしたらプライドがずたずたになるのは目に見えている。なまじ可愛いオンナだから
こそ、他のオンナの可愛さには(それがたとえ小学生の小娘であろうと)敏感なのだ。
すべてのオンナはカンナの前では引き立て役になる。それはあの悪魔の性格をさっぴい
ても厳然たる事実だ。
「こーら、前島《まえじま》あ、今、わたしの話してなかった?」
噂の矢野倉涼子がヨシノリの机の脇にやってきて、ぷんと口をとがらせた。
「盗撮するんなら、たまにはなんかおごりなさいよね」
ショートカットのよく似合う快活な美人、ウチのクラスでは文句なくナンバーワンだ。
ちょっとコギャルっぽいけど、開けっぴろげでオトコもオンナも分けへだてなく付き合
う性格は僕だって好感を持っている。ヨシノリのリストの中でも涼子の写真が一番人気
のハズだ。ただ、僕はもう目が肥えてしまったのだ。カンナを毎日目にしている副作用
はきっと僕の人生において、今後ますます深刻な問題になってくることだろう。
「で、なに悪だくみしてたのよ? はくじょーしなさいよ」
腰に手を当てて、ちょっと首を傾《かし》げ、涼子が言う。フツーに見れば十分可愛い。
「ちげーよ。カズシがさ、今度の日曜にカンナちゃんと遊園地に行く連れを探してたか
ら、矢野倉なんかどうかなーって推薦《すいせん》してたわけよ」
「うそお! マジで? ねえ、真山くん、それホント?」
おいおい……。ヨシノリは僕を見てにんまり笑う。
「な、カズシ、そうだよな。カンナちゃんも矢野倉のこと気に入ってるみたいだから、
いーんじゃねーかって、たった今相談してたところだもの」
こいつの性格はある意味尊敬に値する。
「じゃあさ、香織も誘おうよ。そっちは真山くんと前島なんでしょ? こっちもダブル
のほうが釣り合いとれるもんね」
「そうそう、オレもまったく同じこと言ってたのよ、カズシにさ」
「うっそお、前島ってたまにはいーことするじゃん」
涼子はパチパチと小さく手を打ち鳴らし、飛び跳ねる。
「で、真山くん、どーすればいいの? 何時に待ち舎わせ? どこ行くの?」
僕は頭が痛くなってきて、ため息を吐いた。
「それがさ、こいつ、なんか矢野倉とか牧野が可愛いからって気兼ねしちゃってさ、な
んかさっきからノリが悪りぃのよ」
「うわあ、それすっこい勘違いだよ。わたしたちなんて逆に真山くんってわたしたちの
こと相手にしてないっていうか眼中にない感じがして、引いちゃってたんだもの。だっ
てさあ、毎日あんな天使みたいな子と一緒にいるわけでしょ? かなわないもんねー」
大筋では当たっているぶんだけ、言い返せない。
「でもさ、ここだけの話、真山くんってけっこう隠れファンがいたりするんだよ」
目をくりっとさせて可愛らしい笑みを向けてくる。
「おお、すげーじゃん、カズシ。おまえ、モテモテだったのかよ」
ばーか、ここだけの話はここだけの話なんだよ。だいたい、カンナがオレのグレード
を勝手に引き上げてしまっているだけじゃねーか。
「……わかったよ。行けばいいんだろ」
僕は目眩をこらえながら、ため息混じりに言った。
「おお! 絶対だぞ、ちゃんとカンナちゃんに約束とりつけるんだぞ」
「やったあ! じゃあ、わたしは香織に話しておくね。詳しいことはあとで決めよ」
涼子はにっこリ笑って、自分の席へ戻っていった。
「すげえじゃん。おまえ、これってウルトラ美女三人とデートだぜ」
「……おまえ、なんかあったら、責任とれよ」
僕は机につっぷして頭を抱えた。
けっきょく矢野倉涼子とヨシノリに押しきられ、僕がカンナの予定を訊《き》いて各自に連
絡することになった。牧野香織ももちろん大喜びで、僕はこの機に乗じて学校を代表す
る二大美女の携帯の番号を手に入れたことになる。
その日の帰り、ヨシノリの提案で近くの喫茶店で打ち合わせをしようということにな
ったが、僕は三人で勝手に決めておいてくれと言い残し、一人で神田《かんだ》の古本屋街へ出た。
引き受けてしまったものは仕方がないが、僕が他の三人と同じ気分で盛り上がれるはず
がない。テンションを下げてしまうのなら、いないほうがいい。
それに、この時間はカンナからも学校からも解放された唯一の憩《いこ》いの一時なのだ。
僕には学校帰りに必ず立ち寄る古本屋がある。
靖国《やすくに》通りを御茶ノ水《おちゃのみず》方向へ向かう途中の老人のようなビルの二階、ビルとビルに挟ま
れた薄暗いリノリウムの階段を上った場所にそれはある。
フロアは小さく、無口な親父が入ってすぐ左のカウンターに座っているだけだ。
ここは怪しい宗教書や古代伝承や自然科学の書籍が多いことで、そのての人たちには
けっこう有名だったりする。そのての本にどういう本が含まれるかといえば、たとえば
昔の超能力研究書や古神道の秘術や失われた大陸の伝承、あるいは天狗《てんぐ》や河童《かっぱ》や妖怪の
研究書なんかも分厚い学術書として埃《ほこり》をかぶっていたりする。そういう書物をめくって
いると、古びたページの隙間に異次元への扉が潜んでいるみたいで楽しい。床のいたる
ところに黄ばんだ本が積み上げられているのも、遺跡を発掘するみたいでワクワクする。
今日も古本屋は恐ろしく暇なようで、黄色く粉っぽい蛍光灯の明かりが埃っぽい室内
を照らしていた。
時間は四時半。まだ閉店までには二時間はある。
僕は中央アジアの文献《ぶんけん》が並ぶ、いつもの棚に立って物色をはじめた。
最近、ずっと探している本があるのだが、なかなか発見できない。
ヘルディナンド・オッセンドフスキーというロシアの探検家が書いた本でタイトルを
『動物と人と神々』という。ロシアから中央アジアへ旅した彼の奇妙な体験を綴《つづ》った記録
で、戦後すぐに日本で翻訳《ほんやく》されたがとうの昔に絶版になっている。その筋では奇書のひ
とつに数えられている本だ。
けっきょく、今日も見あたらない。店の親父にオーダーしておいて、見つかったら連
絡をもらうという方法もとれなくはないが、そういうシステマティックな方法で発見で
きる本ではないような気がする。出逢《であ》うべきときには本のほうから僕の前に姿を現して
くれるんじゃないか……そんな夢を見つつ、この古本屋に足を運んでいるのだ。
僕は適当に他の棚もまわって、三〇分ばかりで店を出た。
階段を降りて通りへ出ると、あたりはもう暗かった。
この季節は五時を過ぎると、もう夜だ。
町並みは深い紫色の夜気に沈み、冷えた風がシャツを通して肌に染みる。
車道を行きすぎる車のテールランプが生々しく赤い。
僕は小走りに交差点の脇にある神保町駅まで行き、地下へ降りる階段に足を踏み出し
たところで立ち止まった。そのまま階段を下れば、いつもの電車で、いつもの駅につい
て、それで終わり。なんだか、それを想像しただけで気分が憂鬱《ゆううつ》になった。
たまには違うルートで帰るのもいいかもしれないな……
僕は靖国通りへ引き返し、道なりに御茶ノ水駅のほうへ歩き出した。
新御茶ノ水から地下鉄に乗れば乗り換えは簡単だし、たまにはちょっと遠回りもいい。
歩道は近くにある大学の学生らしきグループや勤め帰りのサラリーマンの姿が目につ
いた。このあたりの夜は早い。あと数時間もすれば、ほとんど人通りがなくなる。
三省堂書店の前を通りすぎ、鞄《かばん》屋の前の横断歩道を渡る。
住友銀行の脇を斜めに入る細い上り坂を登って、明治大学のほうへ向かった。
この辺はゲームセンターや安い食堂が並んでいて、ウチの学校の生徒のたまり場にも
なっている。そこから、駿河台《するがだい》の坂を上って、明治大学の前を通りすぎると、JRの御
茶ノ水駅まで到着してしまった。
ちょうど帰りのラッシュアワーと重なって、駅前のスクランブル交差点は異様な混み
具合だった。駅の脇を線路沿いに走る道を聖橋《ひじりばし》のほうへ向かい、千代田《ちよだ》線の新御茶ノ水
駅の階段を下る。これで短い逃避行はほとんどおしまいだ。
こんな気まぐれのなかで、何か新しい世界を期待するのは間違っている。
けっきょく、どこにも逃げ場はないのだ。
僕は軽い絶望を噛《か》みしめつつ切符を買って、自動改札を抜け、異様に長いエスカレー
ターを降りて、駅のホームに立った。
ホームはラッシュの時間とあって、ほとんどすし詰めのような状態だった。
僕は人混みを避け、ホームの中程の階段脇の壁に寄りかかって、ぼんやりあたりを見
まわした。右も左もみっしりと人混みで埋めつくされている。スーツの上にコートを羽
織った人もちらほらと目につく。
このまま電車に乗ると思うと、それだけで気が重くなってくる。
ため息をついて、足元に視線を落としかけたとき、視界の右端《みぎはし》に何かが引っかかった。
強制的に視線が引き戻された。すっと音が遠のいた。
……薄羽蜻蛉《うすばかげろう》。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
肌に吸いつくような紺《こん》のハイネックにレザースカート。モデルのようにほっそりとし
た背の高い女性が、僕と同じく壁際《かべぎわ》に寄りかかって立っている。距離は車両のドアニつ
分ほど離れている。その姿は、人混みの中にあって、ぼんやりと光って兄えた。
たぶん、それは恐ろしく白い肌のせいだ。透きとおるような肌というのはこのことか
と思うほどその女性の顔は白かった。そして、背中に広がる白銀の髪。まるで細いガラ
ス繊維《せんい》を束《たば》ねたような煌《きら》めきがある。
その横顔は、妖気すら漂うほど美しい。遠日に見てもハッキリとわかるほど長いまつ
げに縁どられた切れ長の目。シャープな顎《あご》のライン。
あまりに現実離れした美貌《びぼう》のせいか、肉体の重みや体温が感じられない。
彼女は壁によりかかったまま、ぼんやりと宙を見つめていた。
寂しそうな眼だった。
彼女に目が引きつけられた理由はそれだけじゃなかった。その華奢《きゃしゃ》な両手に異様に大
きなナイロン製のスポーツバッグ――バレーボールの選手がボールを人れて運ぶような
体育会系度一二〇パーセントの青いスポーツバッグを重そうに提げているのだ。
それは彼女の姿には恐ろしく不似合いで、違和感があった。
まるでそのスポーツバッグだけが重々しい現実感と重力を発しているみたいに。
……いったい、なにが入っているのだろう。
突然、パーン、という音がして我に返った。
風を巻いて、向こうから列車が滑リ込んできた。
電車が止まり、ドアが開いて、ホームにいた人混みが吸い込まれていく。
僕は壁から背を離し、足を踏み出しかけて、また止まった。
目の端に彼女の姿が見えたからだった。
彼女は動かなかった。電車に乗る気配すら見せず、壁によりかかったまま立ちつくし
ている。まるで、電車も周りの入混みも見えていないかのように。
僕は一瞬電車と彼女を見比べ、けっきょく、また平静を装って壁に寄りかかり直した。
なぜだか妙に気になるのだ。
これじゃあ、まるで、ストーカーじゃないか……
ホームにいた人を飲み込み、列車が走り去るのを見ながら、ぼんやり思った。
気がつくと、ホームに僕と彼女だけがとり残されていた。
僕はチラッと彼女のほうを覗き見た。
同時に――
彼女がこちらを向いた。
目が合った。
やば!
あわてて目をそらそうとしたそのとき、信じられないことが起こった。
彼女が――笑った。
ずっと待っていた恋人を見つけたみたいに、うれしそうに。
僕は金縛リにあったように立ちつくした。
彼女はスポーツバッグを重そうに引きずりながら駆けてきた。
そして、僕の前まで来て立ち止まった。
目の高さが同じだった。
「よかった。もう来ないんじゃないかと思った」
息を切らせて、うれしそうに微笑んだ。
「ずっと待ってたんだよ」
「え?」
「はい、これ……」
手に持ったスポーツバッグの持ち手を僕のほうへ差し出した。
僕は魅入られたように、それを受け取った。
異常な重さ。肩ごと腕が下がり、スポーツバッグの底が床に触れた。
硬い鉄の音がホームに響いた。
「……確かに、渡したよ。がんばってね」
彼女の瞳の奥には、なぜだか、息苦しくなるほどの寂しさと痛々しさがあった。
僕は身動きできず、ただ、その瞳に映る自分の顔を見つめ続けた。
「そんな顔、しないで……。あなたは選ばれたのよ」
彼女の瞳が一瞬震えた。それを振りきるように身を翻《ひるがえ》した。白銀の髪がしなやかに弧
を描いた。その背中がかなり遠ざかってから、僕は我に返った。
「ちょっと!」
声をあげたとき、向こうからまた電車が滑り込んできた。
「ねえ、ちょっと待ってよ!」
僕は彼女を追いかけようとしたが、スポーツバッグが重くて身動きできなかった。す
ぐに電車が止まり、ホームに人が溢《あふ》れ出した。
見る間に華奢な背中が人混みに掻《か》き消えた。
「ちょっと! これ! 違うよ!」
僕はバックを引きずって、叫んだ。
濁流《だくりゅう》のような人波が僕をホームの内側へ押し流した。
そして、再び電車が走り出したとき、ホームには彼女の姿はなかった。
僕の腕に、彼女から渡されたスポーツバッグの重みだけがあった。
第二章 黒い鳥
「ほら、和志《かずし》、なにぼーっとしてんの、食べるならちゃんと食べなさい」
もう何度目かの母の声に我に返った。母と二人の夕食。いつもの風景――だが、僕の
頭の中は、こんな台所のテーブルにはなかった。箸《はし》を延ばしたひじきの煮付《につ》けの奥から、
あの女が現れ、白銀の髪をなびかせて駆け寄ってくる。その顔は寸分違《すんぶんたが》わず網膜《もうまく》に焼き
ついている。しかし当面の問題は、なにより、あのスポーツバッグの中身……
「もお、いいかげんにしなさい。食べないなら食べなくていいから、二階にでもなんで
も行きなさい」
気持ちはわかるが、今の僕にはそういう世俗的な怒りは通用しない。僕が今直面して
いる問題は、少なくとも、夕食をちゃんと食べるかどうかより遙《はる》かに深刻なのだ。
僕は曖昧《あいまい》な返事を喉《のど》の奥でして、食べかけの茶碗《ちゃわん》の上に箸を置き、立ち上がった。
「どうしたの? あんた具合でも悪いの?」
逆に母のほうが心配そうな顔になる。
「あ、うん。ちょっと熱っぽいんだ。今日はもう寝るわ」
僕は母の心配に乗じて、さっさと食卓を後にした。
階段を上がり、自分の部屋の前まで来ると、妙な興奮と緊張がお腹《なか》のあたりにこみ上
げてきた。これでドアを開けたら、あのスポーツバッグはなくて、すべては夢だった。
なんてことが十分にありそうな気がした。
僕は小さく深呼吸して、ドアノブに手をかけて回し、向こうへ押し開けた。
やはり、ある。夢じゃない。
ベッドの手前に、大きな青いスポーツバッグが横たわっている。
僕ははやる気持ちを押さえつけ、後ろを向いて、しっかりドアを閉めた。
ふーっと息を吐き出して振り返り、それからスポーツバッグの向こう側にまわりこみ、
ベッドに寄りかかって胡座《あぐら》をかいた。
再び、大きくひとつ深呼吸。
オペをはじめる医者のような慎重《しんちょう》さで、TKKと刻印されたチャックをつまみ、ゆっ
くりと横に引く。
魚の腹が裂けるみたいにスポーツバッグが口を開け、ごろり、と黄色い油紙に包まれ
た武骨《ぶこつ》な鉄の塊《かたまり》が崩《くず》れた。
僕は恐る恐る手を伸ばし、油紙の裂け目から覗《のぞ》く表面に指先を触れてみた。
ひやりとした鉄の感触。つるりとした機械油のぬめり。
ぞく、と妙な怖気《おぞけ》が背筋を走った。
間違いない。これはやはり機関銃以外のなにものでもない。
(どうして、こんなものが……)
きっと丹念に手入れされたものなのだろう。油紙に何重にも梱包《こんぽう》された上かち、さら
にビニールシートでくるまれている。
バッグの中には、それ以外にも大小さまざまなパーツが同じように梱包されて詰め込
まれている。戦争マニアでもない僕にわかる部品は、銃弾が詰め込まれたカートリッジ
とサイトスコープくらいなものだ。
そして、さらに――それらとは別に、黒いポリ袋にくるまれた三つの物体がスポーツ
バッグの中を占拠《せんきょ》していた。中身は、まだ不明だ。
正直、この流れでいけば、プラスティック爆弾か時限爆弾なんてこともありうる。
だから、迂闊《うかつ》に手を出せないのだ。
僕は意を決して黒いビニール梱包へ手を伸ばした。
危機感よりも好奇心が勝った一瞬だった。
まず一番大きな四角い物体に手を伸ばす。
……重い。
両手でわずかに持ち上げたところで、はたと手が止まった。
……やっぱり、アブナイんじゃないか?
悪い想像ほど簡単に繁茂する。意味もなく、屋根が吹っ飛び豪快に炎上する我が家の
惨劇《さんげき》が恐ろしくリアルにイメージされた。つーっと冷たい汗が背筋を伝った。
そっと戻せば、大丈夫だろ? だいたい帰り道、あんなに乱暴に運んできても大丈夫
だったじゃないか。いや、でも、人肌を感知して作動するとか、そういう仕組みだった
らどうする? おいおい、それじゃ、もしかして、手を離したら……
「どっかーんっ!」
耳元で声が破裂した。ぎゅううっと心臓がゴルフボール大まで収縮した。
頭から血が引き、力が抜けて、手から、ゴトン、と包みが落ちた。
一瞬、視界が狭《せば》まり、意識が遠のいた。
「まったく、なにこそこそやってんのよ。ん? わお、すごいじゃない」
……誰だ? 恐ろしく無造作にべりベリと梱包を破る音がする。
「うっわー。なによ、これ。ちょっとすごいんじゃない。うわうわ、これホンモノ。う
そ! これってヘッケラー&コック社の名作MP5A5のサイレンサーバージョンじゃ
なーい。うわわ、違う違う! これってきっと極秘モデルよ。こんなのどこの特殊部隊
も使ってないわよ。うっそお、トンデモびっくり、カンナちゃん」
ハッと我に返って愕然とした。おいおいおいおい……
引きちぎられたビニールや油紙が散乱し、僕がまだ取り上げてもいなかった機関銃が
むき身で床に転がっている。そして、あの正体不明のビニールの中身を小さな悪魔がも
てあそんでいる。
「お、おい! ちょっと待て!」
目の前にある小さな背中に手を伸ばした。
「これ、すごいじゃなーい! ねね、どーしたの、これ」
小悪魔が振り返って大きな目をキラキラと輝かせる。
「もお、なんでさっさとあたしを呼ばないのよ。なーんかこそこそしてると思ったら、
こんな楽しいこと一人でやっちゃってさ」
カンナはまた背中を向け、ウキウキとバッグの中に乎を突っ込む。
「ふーん、これ、通信機ね。なかなか高度なマシンだわよ。こんなものよく手に入った
わね。なかなかやるじゃん、カズシ。んんー、おっと、これは――」
知らぬ問に床の上には妙な配線やコードや電子機器のパーツが散乱している。どうや
らこれがあの黒い包みの中身だったらしい。
「なあ、ちょっと待て!」
僕はようやっと背後からカンナの右腕をつかんで動きを止めた。
「なによお、見てるだけでしょおー」
遊びを邪魔された子供の顔。あきらかに不機嫌な目で僕を睨《にら》みつける。
唖然。この状況下で、こいつがこんなふうに怒れる正当性はどこにあるのか。
「ねね、それよかさ、ちょっとこれ見てよ」
一瞬の隙をついて手をふりほどき、またバッグの中をまさぐりにかかる。
「待て!」
僕は再び、今度は両腕をつかんで引き上げた。ぶらん、とオランウータン状態。
「いったいなー、もお。そんな強くひっぱんないでよお!」
間違いなくこの部屋の世界はこいつを中心に回っているらしい。
「おまえは、人のものと自分のものの区別がつかねーのか」
くるんとこちらを向かせて、スポーツバッグの手前に座らせ、一応怒ってみせる。
「いーじゃん、カズシのものはあたしのものでしょ?」
「これはオレのものでもないんだよ」
「だったら、あたしとカズシの立場はビョードーじゃん」
「でも、オレが一応もらったものなんだ」
「誰から?」
「いや……」
一瞬あの謎の美女の微笑を思い出して、僕は言いよどんだ。
「……それが、わからねーんだけどさ」
「うそ……まさか、盗んだの?」
「そんなわけねーだろ!」
「もお、なんなのよ、オトナなんだから、ハッキリ言いなさいよ」
「いいか? よく聞け。ちょっと事情が複雑なんだ」
カンナを目で牽制《けんせい》しながらベッドに寄りかかって、僕は言った。
「確かにオレはこれをもらったんだけど、なんでオレがこれをもらったのかわけがわか
んないんだよ」
「なにいってんの。これ、わけがわかんなくてもらえるよーなものじゃないじゃん」
「いや、だから、そーなんだけど、無理矢理押しつけられたっていうか」
「そのわりには、ウキウキしてたじゃない?」
こいつ、いつから見てたんだ?
「……まあ、とにかくだな。これはその人からの大切な預かりものなんだよ。つまり、
子供が勝手にいじくって壊しでもしたら、オレは困るんだ」
「ふーん……」
カンナは急に剣呑《けんのん》な目をして僕の目を覗き込む。
「その人?」
「な……なんだよ?」
「カズシ、なんか隠してるわね」
ギクリ、とした。
「オンナ、でしょ?」
「え?」
「それも、かなり、美人ね」
すっと視線が鋭くなる。
「だ……だったら、なんなんだよ」
僕は開き直って言った。
「やっぱりね」
と、カンナは口の端《はし》をにやっと曲げ、鼻で笑った。
「おかしーと思ったのよ。なーんか妙にウキウキしてるし、おーかた、そのオンナにぽ
けっと見とれてるうちに、なんとなく手渡されてて、ハッと気づいたときには彼女はい
なかった、みたいなパターンでしょ? 違う?」
呆然。なんでこいつはそこまでわかるんだ。
「ま、いーけどねー。そーいうやましいところがあるから、ちゃんと筋道立てて説明で
きないのよ。そのオンナの存在をあたしに悟られないようにしつつ、誰からもらったの
かも知らないなんてさ。ばっかじゃないの。だいたい、なんであたしに隠す必要がある
わけ? サイテー、浮気した中年オヤジみたい」
ぷいと顔を横に向け、天井を睨みつける。
僕は女王様の逆鱗《げきりん》に触れないようにそっと口を開いた。
「……あのな、おまえさ、なんか勘違いしてるぞ」
「ほーお、なにを?」
「なあ、聞けよ……」
ベッドの縁に頭を載せ、丸い蛍光灯を見あげ、僕は軽くため息を吐いた。
「確かにその人はすごい美八で大半のストーリーはおまえの言うとおりだけど、オレは
その人が誰なのか、本当に知らないんだ。べつにお友達になったわけでも名刺交換した
わけでもないし、名前すら知らないんだ。だから、よくよく考えてみると、こんなもの
もらって喜んでもいられねーんだよ」
自分で言っていて、冷静になった。確かにこれはまっとうに考えればあまリ芳《かんば》しい状
況じゃない。どうやら僕はカンナが言うとおり、かなり舞い上がっていたらしい。
「で、あたしより美人?」
しゃがんだ膝の上に頬づえをついて、カンナはにっこり笑った。
「だから、そういう話をしてんじゃねーだろ?」
「あたしはそーいう話をしてるのよ。いいから答えなさいよ」
冷酷な笑い。女王様が従順な家臣に、街角で会った美しい花屋の娘と自分を比べてみ
なさいと言っている。
「おまえね、この状況は話題が違うだろ?」
「なにがどお違うのよ?」
「だから、オレはこの荷物をどうしたらいいのかって考えてんだよ」
「いーじゃん、もらっておけば」
「だって、機関銃だぞ。たぶん、ホンモノだぞ」
「間違いなくホンモノよ。そんなこともわかんないの?」
「いけないんだよ。ホンモノは、持ってちゃ」
「だったら、なんで、もらってきたのよ。その人に……!」
眼の奥に威圧的な光が浮き上がる。
「だから、それは……」
「ほーらね、けっきょく、問題はそこなのよ」
鬼の首を取ったような目。
僕はため息をついて、両手を挙げ、降伏の意思表示をした。
「……わかった。正直に言おう。オレだって中身はおいといて、おまえが並み以上の美
形なのは認めるさ。でもな、あっちはオトナなんだよ。オトナの成熟した美形。つまり、
熟《う》れ頃っていうのがあるだろ、花の咲く季節っていうのか、そーいうのがさ。おまえは
蕾《つぼみ》で、向こうは花なんだよ。蕾と花を同じ土俵《どひょう》で比べることはできねーだろ」
「その比喩《ひゆ》、なんか気に入らない」
カンナはぷいと横を向いて吐き捨てるように言った。
「食べ頃じゃない桃はガリガリしてて硬くてマズイ。桃はやっぱり、熟して甘いのがい
い。それまで桃は桃じゃない。そーいうことでしょ?」
「まあ、それは個人の主観の問題だろ。腐りかけが好きなヤツだっているし」
「あたしはカズシの主観の話をしてんのよ」
「あのな……」
と、僕はあえて大きくため息を吐いて、首を振った。
「硬くてガリガリの桃に本気で食欲を感じるオトコは、世間一般にロリコンとか異常性
犯罪者っていわれんだよ」
「世間一般の話なんてしてないわよ」
「おまえが世間一般じゃなくても、オレは世間一般に含まれるんだよ」
「つまり、あたしとカズシは住む世界が違うってことね」
「なあ、なんか、話がズレてるぞ」
「ごまかさないでよ」
「おまえさ、もしかして、妬《や》いてんのか?」
僕は頭の後ろに手を組んで、言ってみた。とどめを刺したつもりだったのだが、
「カズシって、ほんっとにバカね……」
恐ろしく呆れかえったため息に迎撃される。
「これはね、プライドの問題なのよ。どんなに役にたたない無用なオモチャでも自分の
持ち物に勝手に手をつけられたら、ちゃんとした人間は怒るの」
世界は自分のためにある、とその目は一点の迷いもなく言っている。
「あのな、いつから、オレはおまえの持ち物になったんだ?」
「ふん、見苦しいわね、モテない君」
「誰がだよ」
「もお、いーわ。今回っきり許してアゲル」
ぽんと手を叩き、勝手に話を終わらせて、カンナは僕の前にぐいぐいとお尻を割り込
ませてきた。そのまま顔を逆さまにして横柄《おうへい》に訊《き》いてくる。
「それで、これ、どーしよっか?」
どーしよっかではなく、どうするの? の間違いじゃないのかと思ったが、それを指
摘するとまたややこしくなりそうなので、僕は軽くため息をつく程度にした。
「だから、さっきからその話をしてたんだろ」
「違うわよ。早く組み立てないのっていってんの」
「は?」
「だって、人違いだろうがなんだろうがもらったんでしょ? いーじゃない。間違った
のはそのオンナなんだから。もしかして、警察にでも持ってくつもりだったの?」
「ま、まあな」
惜《お》しい気はするが、状況を考えればそれしかない。
「ねえ、それ、本気で言ってるの?」
なおも顔を逆さにしたまま、僕の目を覗き込みながらカンナが言う。
「こんなもの警察に持ってって、今のカズシの話、誰が信用すると思う?」
「……信用するもなにも、本当なんだから、しょーがねーだろ」
僕は目をそらして、口の中で言った。
「マジで? 本当だから、信用されると思ってんの? カズシさ、この世に冤罪《えんざい》で苦し
んでる人が何人いると思ってるの? すべての不幸の始まりはね、本当のことを信用さ
れないことから始まるのよ」
悪魔の囁《ささや》き。九歳の子供とは思えない台詞《せりふ》。
カンナはひょいと顔を戻し、腕組みをして、妙に深刻なため息を吐く。
「……これ、警察に待ってったら、カズシ、公安にマークされる一生が始まるわねー」
「え?」
公安? 僕はぎょっとしてカンナの後頭部を見つめた。
「そーよ、カワイソウだけど、間違いないわ」
カンナはキッパリ言って大きくうなずく。
「またまた、そんなあ……」
「嘘だと思ってるの? んじゃ、シミュレーションパターンその一ね――」
カンナはピンと右手の人差し指を立てて早口にまくしたてる。
〈あのお、これ知らない人に渡されたんですけどお〉
とバカ正直に交番に駆け込むカズシくん。
〈はいはい、なに? 落とし物? 中身は?〉とスポーツバッグを開けて騒然とする警察官。
〈ちょ、ちょっと待っててください!〉とあわてて電話をかけにいく。
その話はすぐに本庁から公安まで駆けめぐり、事情聴取が開始される。
その裏側では真山和志の犯罪歴がデータベースで調べられる。
とりあえず、ここにはカズシくんの名前はない。
しかーし、事情聴取が進むうちに疑惑は深まる。
〈じゃあ、きみ、話してくれるかな? これはどんなふうにして手渡されたの?〉
〈いや、急に手渡されちゃって〉
〈でも、こんなもの知らない人からフツー受け取らないでしょ?〉
〈いやそれが、いろいろあって〉
〈いろいろって、どういうこと?〉
〈いや、その人が知らない間に消えちゃって。アハハ〉
〈ねえ、きみ、ちゃんと話してくれないかな、これってすごく大変なことなんだよ〉
〈いや、でも、僕、嘘はついてないし〉
〈じゃあ、その人って、どんな人だったの? 特徴は?〉
〈あ、えと、すごく綺麗《きれい》な人でした〉と頬を赤らめるカズシくん。
〈え? なに?〉と苛立《いらだ》ちはじめる警察官。
〈あ、ですから、すごく綺麗な人で〉と恥知らずにも繰リ返すカズシくん。
〈なに言ってるの、きみ、こっちは真面目に訊いてるんだよ〉
〈あ、でもお、本当なんですう〉
ふうっと呆れてため息をつく警察官。
〈ちょっと待っててね〉
と疑惑の目で一瞥《いちべつ》して、またどこかへ電話をする。その先は本庁公安。
〈で、どうだった?〉
〈かなり怪しいですね〉
〈そうか、仲間割れって可能性もあるな〉
〈ええ、言ってることがめちゃくちゃで、わざと捜査を混乱させようとしているように
も思えますね〉
〈そうか、じゃあ、泳がせてマークしてみるか、また接触があるかもしれん〉
〈そうですね〉と電話が終わる。
一方、何も知らずに安閑《あんかん》としているカズシくん。戻ってきた警察官の優しい顔を鵜呑《うの》
みにしてホッとする。
〈じゃあ、今日のところは帰っていいよ。また連絡があると思うけど、協力してね〉
〈あ、はい。いつでも〉とぺこりと頭を下げて帰っていくカズシくん。
その背中を見届けて、警察官はまた電話をする。
〈今、出ました〉
〈そうか、真山和志の住所は押さえたな〉
〈もちろんです、ボス〉
〈電話も盗聴したほうがいいな〉
〈そうですね、ボス〉
〈じゃあ、きみもこの件はもう忘れろ。ここから先は公安が引き受ける〉
〈あ、はい。ガッテン承知の助です〉
ぽん、と手を叩き、カンナが話の終わりを告げる。
「はい、これで、ジ・エンド」
呆然。なんだか、妙にリアルな気がする。
「どお? シミュレーションパターン、2、3、4、5も聞いてみる?」
また顔を逆さにして、カンナが見あげてくる。
「ば、馬鹿馬鹿しい……」
「信じなくてもいーわよ、じゃ、試しに持ってったらあ?」
「……」
「だいたいさあ、こんなわけのわかんない機関銃と無線機を持ってって、知らないオン
ナに無理矢理押しつけられたんですなんて言いわけが通用すると思ってるの? カズシ
こそ、日本の警察を甘く見てんじゃない?」
ごろりと後ろに転がり、人の脚の上に頬づえをついて、カンナはなおも続ける。
「ねえ、知ってるう? 公安のマークって、何十年もついてまわるのよ。その間に、ち
ょっとでも妙な行動をとったりしたら即逮捕。もし、その美女さんが荷物を取り返しに
接触でもしてきたら、もおサイアクよ。お仲間だと思われて人生アウトね」
「だ……だったら、おまえはどうすればいいっていうんだよ?」
情けないかな、助けを求める口調で訊いてしまう。
「こんなの持ってたって、オモチャじゃねーんだし、どっちみちヤバイだろ」
「ノンノンノンノン。カズシが助かる道はひとつよ――」
くるん、と身体を反転させ、人差し指を僕の鼻先でメトロノームみたいに振る。
「返すのよ」
「え?」
「自力でそのオンナを見つけだして、返せばいーのよ」
「だって、どこの誰かもわかんねーんだぞ」
「わかるわよ」
「なんで?」
「ま、それには、あたしの協力が必要ね」
すっくと立ち上がり、テクテクともったいつけてスポーツバッグの向こうにまわりこ
み、カンナは床いっぱいに散乱したコードやら電子部品を見まわした。
「カズシさ、これ、自分で組み立てられる?」
「おまえが散らかしたんだろ。もうわけわかんねーよ」
「しゃーらっぷ! この際いっとくけどね、強がりは命とりだかんね」
腕組みをして、ずいと足を開き、カンナは恐ろしく威圧的な目で睨みつけてくる。
「これはね、あたしの見たところ、かなり高度な暗号通信機なわけよ」
「暗号通信機?」
「そ。おそらくそのオンナの仲間同士が連絡をとるための特殊な連絡網ね。つまり、こ
れを使えば、そのオンナと連絡をとることだってできるかもしんないってことよ」
「そうか……」
僕は胸が高鳴るのを感じて、汗ばんだ手をそっと握りしめた。
「……よし、わかった。じゃ、さっそく組み立ててくれ」
「イヤよ」
「え?」
「邪心があるウチはダメね」
腕組みをしたまま、カンナはツンとそっぽを向く。
「カズシ、今、そのオンナに会えると思ってときめいたでしょ?」
「あのな、おまえ、いいかげんにしろよ」
僕はベッドに背中をぶつけて、声を荒らげた。
「そんなこと今はどうでもいいことだろ。オレは、このよくわかんない状況をなんとか
したいだけだよ。ついでに、この際だから言わせてもらうけど、オレはおまえの家来で
もなんでもないんだよ。あんまりわけのわかんないこと言うなよ」
即座に言い返してくると身構えた――のだが、カンナは肩を落として黙り込んだ。
「……カズシこそ、どうしてわかってくれないの!」
ふいに、大きな目が涙を湛えて僕を見つめた。
「え?」
傷ついた天使の顔――が寂しそうに微笑《ほほえ》む。
「カンナだけなの? こんなに切ないのは?」
「お、おい……」
「子供だから、ダメなの? カズシはカンナになにも感じないの?」
哀切にうるんだ大きな目。銀灰色の髪が頬にそっと巻きつく。
「あ、いや、お、落ち着け……」
「イヤ! カンナ、もお、がまんできないもん!」
天使はかぶりを振って、境界線《スポーツバッグ》を乗り越える。
「ま、待て!」
ギリギリの自制心。僕はベッドの上に必死にずり上がった。
が、カンナは瞳を震わせ、よつん這いになって、ベッドの上をすり寄ってくる。
「待て! とにかく、待て!」
後ろに逃げる。が、あっという間に壁にぶつかる。天使の顔が間近に迫る。
「……どうして? もう、限界だよ。カンナ、ずっと、カズシのこと……」
逃げ場はない。長いまつげ。可愛らしい唇。震える大きな瞳……
「カズシを他のオンナにとられるなんて、ヤダ……」
恥ずかしそうに、そっと斜めにふせられた目。ぽうっと頭が熱くなった。
「カン、ナ、おまえ……」
天使のラッパが頭の周りで祝福のマーチを奏ではじめた。本格的に、ヤバイ……
「……カズシ、カンナのこと、嫌い?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ……カズシは、カンナだけのもの?」
「そう、かもな……」
「ホントに?」
「そう、だな。それで、いいから……」
「そう――」
ハッとしたときには遅かった。
きゅうっと唇が冷酷に吊り上がり、天使の顔の下から邪悪な顔が浮き上がる。
そして、変身……
「ほほほ、チョロいわね。カズシ、あまーい桃が好きなんじゃなかったの?」
腰に手を当て、悪魔が見下ろしていた。
「……て、めえ」
「もう遅いわよ。やだわ、カズシったら。言ってくれればいいのにィ」
もはや我慢の限界。オトコをなめるなよ。
「……もう遅いのは、おまえだよ」
僕は目をふせ、低く乾いた声でぼそりと言った。
「え?」
きょとんと振り返るより早く、その身体を抱き上げ、どさっとベッドに落とす。
「きゃ!」
カンナは目をまん丸くして僕を見あげる。その目を真上から見下ろし、目一杯、哀切
な表情を作って首を振る。
「おまえがいけないんだぞ、カンナ。こういうものは、もう止められないんだ」
「な、なによ、怖い顔しちゃって」
「そりゃ、オレだって怖いさ。初めてだものな……」
「は、初めてって、なに?」
「わかるだろ……。でも、責任はとるよ」
「セキニンって、ちょ、ちょっと、カズシ?」
「カンナあっ!」
ガバッと馬乗りになり、両手を左右に広げて押さえつける。
「い、いやあああっ!」
ガシャン、と背後で陶器《とうき》が割れる音がした。
「か、和志……」
母の声り?
僕は、その状態のまま振り向くしかなかった。
「か、母さん……」
戸口に蒼白な顔をした母が立っている。
「あんた、なんで、そんな、具合悪いって、言ってたから……」
完全に放心状態。目が虚《うつ》ろだ。
「お、おばさま! カズシおにーちゃんが! カズシおにーちゃんがあ!」
被害者の少女が僕の下から逃げ出し、泣きながら母の元へ駆けていく。
おいおいおいおい……
「……け……警察……そう……警察……よね……?」
ぶつふつと母が口の中で言っている。
その背後から顔を突きだし、にんまリ笑う悪魔がいる。
「ま、待ってくれ。違うんだよ、母さん」
「ケ、ケダモノ……!」
ケダモノ?
口に手を当て、「ぷっ」と笑いをこらえるカンナの姿。あの野郎……
「カンナ! てめえ! なんとか言え!」
「い、いや、おにーちゃん、怖い……」
ぎゅっと母の腰にしがみつきながら、べーっと舌を出す。
「か……和志、自首しなさい!」
鬼の形相。覚悟を決めた顔になっている。
「なあ、母さん。違うんだ。ホント、違うんだよ……」
僕は天を仰《あお》いだ。泣きたい気分だが、もはや打つ手はなし。ああ、神様……
そのときだった。
「――なーんてね」
カンナが言って、タタタッと駆け戻ってきた。
「おにーちゃん、アリガト!」
僕の手を握りしめ、ぶんぶんと上下に振る。
「これで、学芸会はバッチリね。なかなかハクシンの演技だったよ」
どういう風の吹きまわしだ? 僕はカンナの目を探るように見つめた。
カンナは(いーからまかせときなさい)と顔をしかめてウィンクする。
「もお、おにーちゃんったら、俳優の素質あるんじゃないかしら。ねえ、おばさまもそ
う思いません?」
くるんと振り向いて、母ににっこり笑いかけた。
「……ど、どういう、ことなの?」
まだ恐慌《きょうこう》状態から脱しきれない様子で母が呟《つぶや》く。
「やだあ、おばさまったら。さっきのあれ、お芝居《しばい》なんです。カンナの学校で、今度、
学芸会があって、おにーちゃんに協力してもらってたんです。驚かれました?」
キャハ、と首を傾《かし》げて可愛らしく笑う。
「あ……あれが、学芸会の、お芝居?」
「そーですよ、最近の小学校って進んでるんです。リアルな白雪姫と王子様っていうの
がテーマなんですけど、さっきの、あれ、王子様が白雪姫を起こすシーンなんです」
おいおい、それはいくらなんでも無理があるだろ? と思っていると、
「へえ……なんだか、すごいわね」
母が感心したように呟く。それからようやく安堵《あんど》した様子で、ふっと肩を落とした。
「もお、おばさん驚いちゃったわ。和志もそれならそうとちゃんと言いなさい」
おいおい、母さん、あんな嘘でだまされるのか?
「いや、オレは何度も、言おうとしたんだよ」
僕はため息を吐いた。
「そーですよ。おにーちゃん、何度も言おうとしてましたよ。おばさまったら、あわて
んぼさんなんですね?」
ふふ、と手を後ろに組んで、カンナが母に微笑みかけた。だめ押し。
「あら、やだ。ホントね、ふふふ」
天使にたぶらかされる哀《あわ》れな中年女性。
「あ、そーだ! カンナ、おばさまに教えてほしいことがあったんだ!」
カンナがぴくんと伸び上がって駆けだし、母の腰に抱きついた。
「え、まあまあ、なにかしら?」
「あ、ここじゃ言えないんです! ちょっと下に行きません?」
母の背中を押して部屋の外へ追い出す。そして、戸口で振り返り、床の機関銃を目線
で指した。なるほど、そういうことか。
僕は小さくうなずき、ベッドから降りて、さっさとドアを閉めた。
「はあ、つっかれたあ、ばっかじゃないの、カズシ……」
カンナが戻ってきたのは、それから一五分後だった。
「だいたい、なに本気で欲情してんのよ。付き合いかた変えるわよ」
「欲情なんか、してねーよ。悪いけどな」
「ふーん……」
白い目。
「本当だぞ、悪いけど、オレはおまえに天罰《てんばつ》を喰らわせようとしただけでな」
「あ、そ」
なにが気に入らないのか、ぷいと顔を背《そむ》け、無言で電子部品をかき集めはじめる。
「なあ……」
「もお、うるさいなあ、話しかけないでよ!」
床に散らばっていたコードや基板は小さな手に操られ、みるみるうちに黒い鉄のボッ
クスの中に魔法のように組み込まれていく。そして数分後、床の上には旧式のトランジ
スタラジオのような、黒く武骨な通信機が完成していた。
正面にスピーカーと大きなダイアルが二つあり、右側面からアンテナが伸び、左側面
にはコイルコードでマイクがつながれている。
戦場などで兵士が持ち運ぷ野戦用の無線機にも似ている。
「ほら、できたわよ。もお、あとは勝手にしたら?」
立ち上がって、カンナは軽くお尻を払い、背を向けた。なんだか妙にそっけない。
「なんだよ、もういいのか?」
「せっかくの美女さんとお話できるかもしれないのよ。お邪魔でしょ?」
「だから、違うって言ってんだろ」
「違わないわよ。みえみえじゃない。ばっかじゃないの」
「いーから、座れよ」
僕はカンナの腕をつかんで下に引いた。
「痛いわね、離してよおー」
カンナは腕を振ってふりほどこうとする。
「オレじゃ、この通信機の使い方わからないだろ」
「そんなの知ンないわよ。はなしてよお、もお」
「おまえの助けが必要なんだって言ってんだよ」
強く言うと、カンナはピタリと動きを止めた。
「ふん」
カンナは鼻を鳴らし、それから振り返って僕を見下ろした。
「じゃあ、この荷物を返すまでは、あたしの指示に従うのね?」
「……わかったよ」
僕に具体的に方策がない以上、仕方がない。
「あたしが隊長、カズシが部下、それでいいわね?」
「ああ」
「ふん、今度逆らったら、しょーちしないかんね」
カンナは通信機の前にどっかりと座り込んで、外装を点検した。
「ふーん、なるほど、ふむふむ……」
ぶつぶつ呟きながら仕組みを確認している。
「んじゃ、交信開始するわよ」
唐突に顔だけ振り返って言った。
「え? 今すぐ?」
僕は動揺した。
「すぐよ。嫌なの?」
「いや、わかった」
僕は急に胸の奥が緊張するのを感じて、唾《つば》を飲み込んだ。
立ち上がり、カンナと並んで、通信機の前に座る。
「いくわよ」
カンナがダイアルに手をかけ、僕のほうに流し目をくれる。
僕は小さくうなずいた。
小さな手が二つのダイアルをチューニングしはじめた。
じっと真剣な目で、目盛りを見つめている。
凛《りん》とした横顔――その顔は完全にオトナのものだ。
迂闊《うかつ》にも僕はそのりりしさに見とれてしまった。
次の瞬間、スピーカーから飛び出した音が、静寂を破った。
ガガッ、と小さなノイズが聞こえ、ざらついた声がした。
鉄錆《てつさ》びた、抑揚のない声だった。
〈黒い鳥から野槌《のづち》へ……黒い鳥から野槌へ……第一八地区A、地蟲《ぢむし》の陽性反応を確認し
た……繰り返す、第一八地区A、地蟲の陽性反応を確認した……駆除にうつれ……〉
駆除? インクの染みのように不吉な影が広がった。
〈地蟲は現在、調布駅二番ホームを移動中……特徴はグレーのスーツ、銀縁の眼鏡、身
長一七ニセンチ、スポーツ新聞を片手に持っている。右手首にダイバーウォッチ。左手
薬指に銀の指輪……目印は左耳の後ろの痣《あざ》だ……繰り返す、特徴はグレーのスーツ、銀
縁の眼鏡、身長一七ニセンチ……〉
〈第一八地区ミヤマ、地蟲を確認した……〉
違う男の声が応えた。声は違うがその声質は同じものだ。
〈これよリ、駆除に入る……〉
「……なに、これ?」
カンナが僕を見た。目の奥にかすかな怯《おび》えがあった。
僕は息を呑んで首を振った。
〈黒い鳥から野槌へ……第八地区C……例の地蟲が動き出した……場所は石神井《しゃくじい》公園|三《さん》
宝寺《ぽうじ》池……駆除せよ……地蟲は赤い靴《くつ》、銀のピアス……〉
いったい、どんな環境にいれば、こんな無機質な声になるのか。
まるで、地の底から響いてくるような嫌な響きがある。
〈第八地区ミズチ、地蟲を確認した……これより駆除にうつる〉
〈第五地区アズマ、地蟲の駆除を完了……民間人に目撃された……例の作戦を実行され
たし……繰り返す、民間人に目撃された……〉
〈第一六地区ハヤテ、これより尾行を開始する……これより尾行を開始する……〉
〈第九地区カザマ、東横《とうよこ》線出口、所定位置についた……地蟲の到着時刻を送れ……〉
〈第八地区ハムラ、地蟲の到着時刻は二三三二……地蟲の到着時刻は二三三二……〉
〈第十三地区イズナ、これより地蟲の誘導を開始する……〉
ガサガサと湿った腐葉土の下に密集した虫のように通信が交わされる。
窓の外や壁の中で男たちが動き回っているような錯覚《さっかく》を覚えた。
いったい、この男たちはなにをしているのか?
カンナが手探リで僕の手を握りしめた。僕もその手を握り返した。
〈地蟲は駒沢《こまざわ》大学駅を抜け、自由通りへ侵入した……〉
不意打ちのように飛び込んできたその声に、僕とカンナは同時に顔を見合わせた。
それは、僕がいつも利用する駅、そして自転車で通り抜けている大通りだった。
〈……所定位置で準備に入れ。地蟲は、大通りを小学校方面へ向かった……予定通り、
例の空き地へ誘導する……所定位置で準備に入れ……〉
無意識に胸が高鳴った。無線の男たちがすぐ近くにいる。自分たちが見知った場所に。
空き地といえば、カンナの小学校のグランドの隣に放置されたままのマンションの建
設現場がある。おそらくあれしかない。もし、今、あそこに行けば……
「ね……ねえ」
チラッとこちらに目を向けて、カンナが言った。
「な、なんだよ?」
「ちょっと、行って、みようか?」
緊張した目の奥に、ほのかな興奮が光った。
「だって、おまえ……これって、なんかヤバいだろ……」
「で、でもさ、なんか、気にならない?」
それはもちろん気になる。でも、きっと、いや、間違いなくヤバイ。
僕はこういうことには、昔から勘がいいのだ。自分でも嫌になるほど。
「だいたい、駆除って、なんだよ……」
「だから、それを確かめに、いくんでしょ?」
カンナの目から次第に緊張が薄れ、その裏側に隠れていた好奇心が露《あら》わになりはじめ
た。女と子供は妙なところで踏んぎりが早い。あきらかにうずうずしている。
「き……決めた! やっぱリ、あたし、ちょっと覗いてくる」
怒ったような決意を目に漲《みなぎ》らせて、カンナが勢いよく立ち上がった。両手を身体の脇
でぎゅっと握りしめ、自分を奮《ふる》い立たせている。
「お、おい、マジかよ」
僕は狼狽《うろた》えた。当然のことだが、こんなヤバイ場所にカンナを一人で行かせるわけに
はいかない。となると、カンナが行くなら自《おのず》ずと僕もセットということになる。
「カ、カズシは、べつに、来たくなければ、来なくてもいいのよ」
ぐっと全身を緊張に強ばらせ、カンナは僕を見下ろした。
「だって、そんなわけ、い、かねーだろ……」
「じゃあ、来なさい!」
素早く返事が返ってくる。
「やっぱり、一緒に行こ。そうよ、そのほうがいいわ」
カンナは笑った。が、口の端がひきつっている。なんだかんだ言って怖いのだ。
そんな子供っぽく虚勢を張る姿を見て、思わず苦笑してしまった。
もちろん、僕も興味がないわけではなかった。
怖いもの見たさというのは、確かにある。
「しょ……しょうがねーなあ。マジで、ちょっとだけだぞ」
僕はため息をついて、立ち上がった。
でも、僕らは甘かった。やっぱり、そこへは行くべきではなかったのだ。
その甘さは、わずか数十分後に思い知らされることになった。
「ほら、カズシ、早く。こっちよ」
振り返ったカンナの口から吐息《といき》がしろく舞った。
夜の小学校は液化した不気味な静けさに満ちていた。
カンナの提案で、自転車で小学校までたどりつき、学校の裏手の金網から建設現場へ
侵入しようということになったのだ。グランドの端の金網に穴があいていて、そこが建
設現場への小学生たちの秘密のルートになっているという。
僕らは念のため、人目につきやすい正門から入るのを避け、学校手前の細い道を折れ
て、校舎脇にある給食センターの業者やゴミ回収車が使う西門から学校へ侵入した。
あの無線の様子では、誰がどこから見ているかわからない。できるかぎり用心するに
越したことはなかった。
時刻は一〇時をまわっていた。気温は低く、僕はジャンパーを着込み、カンナは今朝
の格好の上に僕が貸してやったフリースを着ている。膝までがすっぽり隠れ、袖《そで》を何重
にもまくり上げている。
西門から入ると、ちょうど校舎の裏手に出た。入ってすぐ右に焼却《しょうきゃく》炉があり、左手に
校舎を見ながら奥へ進むと、少しして体育館に向かう渡り廊下が行く手をさえぎる。そ
の廊下が続く右奥に体育館がある。
渡り廊下と体育館の向こう側が大きく開けたグランドになっているが、そこを横切る
のは、あまりにも目立ちすぎる。
僕らは腰を屈め、渡り廊下に沿って体育館のほうへ進んだ。そのまま体育館の入り口
まで進み、そこからさらに体育館の右脇に伸びる人一人がようやっと入れそうな隙間へ
侵入して直進する。右手が高いコンクリートの塀《へい》になっていて、光が完全に遮断される。
カンナが手まねきして先に進み、僕が後ろに続いた。ジャンパーの両肩がざらついた
コンクリートの壁にこすれる。ひんやりした闇に苔《こけ》の臭《にお》いが混じっている。
ときどき、足の裏に空き缶やコンビニの袋の感触があって、ドキリとするほど大きな
音をたてる。そのたびにカンナの背中がびくっと伸び上がり、僕を睨みつける。
「……ほらほら、こっちよ、急いで」
体育館の壁が切れたところで立ち止まり、カンナが手まねきした。
暗がりにいたせいか、向こうが明るく見える。
三〇メートルほど先に高い金網がある。あれが建設現場と学校の境目になっているの
だ。金網の手前には高い杉の木が等間隔に並び、その手前に白粉花《おしろいばな》の植え込みがある。
植え込みまでは遮蔽《しゃへい》物はないが、あとは見つからないことを祈って突っきるしかない。
「いい?」
カンナが顔半分振り返った。僕は無言でうなずいた。
さっと身を翻《ひるがえ》して、カンナが飛び出した。腰を屈めて塀際を進み、臼粉花の植え込み
の裏側にまわりこんだ。カサカサッと小さな音がする。僕もすぐさま後に続く。
僕らは植え込みの裏側で、地面にひれふし、顔をつきあわせた。
カンナはそのままの姿勢で、くいっと金網のほうを顎の先で指した。
杉の根元の向こう、右端の金網の下が破れて穴があいている。手前に解体した段ボー
ル箱が立てかけられているが、ほとんど丸見えだ。
金網の向こうはススキとセイタカアワダチソウが繁茂し、その向こうに建設途中のマ
ンションがそびえている。かなり大きなマンションだ。一階から三階近辺までは外壁が
あるが、それより上は太い鉄骨が剥《む》き出しのままになっている。確か建物の高さで近隣
住民や小学校とモメて、いまだに建設が再開されていないと母に聞いた覚えがある。
カンナが顎をしゃくって移動した。
僕はうなずいて、中腰になり、穴のほうへ歩み寄った。
段ボール箱を取り除いて、穴の両脇に屈み込み、顔を見合わせた。
そのときだった。
キン、と鋭い金属音がした。
鉄骨に金属が跳ねたような音だった。
「な、なに?」
カンナがびくりとしてマンションを見あげた。
「ひいっ! だ、誰だ! やめろ! やめてくれ!」
男の叫び声がマンションのほうで反響した。次いで、誰かが駆けだす音がした。
僕とカンナはまた顔を見合わせた。
キン、とまた鋭い金属音がした。今度はかなり近かった。
「た、助けて! 助けてくれ! 誰かあっ!」
すぐ近くでまた狼狽《ろうばい》した男の声がした。息が切れ、声が干上《ひあが》がっている。
砂利に足をとられて転がる音、そして、さらに立ち上がり、駆けだす。
「だ、誰か! 誰かああ! やめてくれえ! 助けてくれええ!」
僕らは顔を見合わせたまま硬直した。お互いの顔に何かを必死につなぎ止めた。
砂利《じゃり》を踏む足音はすぐ間近に迫り、茂みをガサガサとかき分ける音がした。
突然、ガサッと目の前の茂みが割れて、金網の向こうに男の顔が現れた。
眼が合った。ぴりっと眼球から後頭部に電流のようなものが駆け抜けた。眼鏡をかけ
た三〇歳くらいの男。整髪料で固めた髪がめちゃくちゃに乱れている。男の眼が一瞬、
驚きに見開かれ、すがるような光を発した。
「た、助けてくれ! お願いだ! 警察を――」
そのとき、嫌な音がした。
ごっ、とくぐもった音。何かがめり込むような音だった。
「あ……」
男の眼と口が異様に大きく開かれ、顔が後ろに反り返った。
一瞬遅れて、その額から血が噴き出した。
男はそのまま金網にもたれ、前のめりに倒れた。
穴からこちらに、男の頭があった。
後頭部が破裂したように裂け、黒い液体がどぷどぷと溢《あふ》れていた。
耳の奥がしんと静まりかえった。
きーん、と妙な耳鳴りがした。眼球と視界が凍りついていた。
ナニガ、オキタ?
ナンダ、コレハ? ナンダ、コレハ? ナンダ?
思考が空転した。男の頭から溢れた黒い液体が大きく広がっていく。
じゃり、と小石を踏む足音がした。
思考が再び動き出すまでに数秒かかった。
突然、強烈な電流のように危機感が駆けめぐった。
顔を上げ、カンナを見た。
カンナは大きく目を見開き、男の頭を見つめて硬直していた。
大きな目を目一杯見開き、小さな口が半開きになったままわなわなと震えている。
その表情は今にも叫び声をあげそうに見えた。
僕は素早くあたりを見まわした。隠れる場所を探した。もう時間がない。
僕は奪いとるようにカンナを抱きかかえ、すぐ後ろの植え込みの後ろに隠れた、
背を丸め、目を閉じ、息を殺し、胸元にカンナをきつく抱きしめた。
カンナが小さくうめいた。
「黙ってろ、お願いだから、黙ってろ……」
カンナの耳元に鼻先を埋め、呪詛《じゅそ》のように繰り返した。
思い出したようにカンナの全身が震えだした。ガチガチと歯を鳴らした。僕はその顔
をなおも強く抱きしめた。カンナは僕のトレーナーを噛みしめ、その音を殺した。
金網の向こうでかさかさと茂みが割れる音がして、微かな声がした。
「……なぜ、ムダな弾を使った」
「はずれただけだ」
「遊ぶな。懲罰《ちょうばつ》ものだぞ」
「これ以上、どんな罰がある……」
鉄錆びた声。最低限の言葉しか発しない。感情のない声。
僕は息を殺し、背中に神経を集中した。背筋と首筋がひりついた。
この植え込みを隔てたすぐ向こうに連中がいるのだ。
硬く閉ざした目の端から涙が滲《にじ》んだ。
神にも祈る気持ちで、カンナの頭を胸に押しつけた。
「蜻蛉、後始末を頼む」
「はい」
澄んだ女の声――ハッと目を開いた。……蜻蛉?
ガサガサと草むらの中を男の死体を引きずっていく音がした。
小石を踏む足音が遠ざかっていく。
僕らはそのままじっとしていた。
必死に息を殺し、かすかな肌の揺れを通して感じる、お互いの鼓動にすがりついた。
いったい、どれくらいそうしていたのか……
気がついたときには、あたりはしんと静まりかえっていた。
僕はようやくカンナを抱きしめていた腕をゆるめた。
腕の中、鼻先が触れ合わんばかりの距離にカンナの顔があった。
カンナは僕のトレーナーを噛みしめていた口を開け、泣き出しそうな顔で笑った。
「も……もう、大丈夫、なの?……」
「わから、ない……」
僕は植え込みの陰《かげ》から顔半分突きだし、穴のほうを覗き見た。
穴の向こうの茂みは死んだように動かなかった。
再び顔を戻し、カンナの顔に囁いた。
「たぶん、大丈夫だ。……自分で、歩けるか?」
カンナは顎を埋めるようにうなずいた。
カンナを胸元から解放して、立たせた。
「帰ろう」
両肩をつかみ、正面から見つめ、かろうじて笑ってみせた。
カンナも精一杯の笑みを浮かべ、かぶりを振るようにうなずいた。
ぱさっと銀灰色の髪が顔の前に垂れた。
カンナはそのまま顔を上げなかった。
小さな肩が震えた。両手で僕のトレーナーの胸元を握りしめたままだった。
震える声で、カンナが言った。
「あ……あたし、あの人、知ってるの」
「え?」
「あの、死んじゃった人、この、学校の先生、だよ……」
「この、学校……」
僕はその言葉に誘導されるように、グランドの向こうに建つ校舎を見た。
「うそ、だろ……」
「ま、間違い、ないよ。だって……だって、あんなに近くで見ちゃったんだもん!」
「そん、な……どうして……」
「こ、怖い、よ、カズシ、あたし、怖い、よ……!」
カンナの全身が再びがくがくと震えだした。カンナの頭が胸元にぶつかってきた。
僕は尻もちをついた。校舎を見あげたまま、呆然とその頭を抱きとめた。
カンナは僕のトレーナーにしがみついた。頭を振り、顔を擦りつけ、鳴咽《おえつ》をもらした。
そして、突然、堰《せき》を切ったように泣き出した。
声を張りあげ、身体中に染みついた恐怖を吐き出すように泣き続けた。
僕はただ、その身体を呆然と抱きしめているしかなかった。
第三章 引き返せない道
忘れよう。
僕らはそう決めた。
そう決めるしかなかった。
すべては悪い夢だったのだ。
僕とカンナは、その夜、僕の部屋で一夜を明かした。
床の上に、ベッドにもたれて二人並んで座った。
足を投げ出し、ぼんやりと宙を見つめた。
僕らは二人とも、壊れた人形のようだった。
机の隣に床置きされたステレオのデジタル時計は、午前一時をまわっていた。
僕らは、あの植え込みの陰《かげ》で、二時間近く抱き合っていたことになる。
カンナは僕の家に戻ってきてから、トイレで一度吐いた。
無理もない。
カンナの場合、あの破裂した頭は自分が見知った人間のものだったのだから。
そのショックは僕なんかの比じゃない。
そして、そんな僕でも、さっきから何度も吐きそうになっている。
映画やテレビであんな映像は慣れているつもりだったのに。
現実の恐怖の前では、僕らの強さなんてあっけない。
なにより、金網越しに見た、あの男の顔。目が合った瞬間の最後の表情が網膜《もうまく》に焼き
ついて離れない。あの瞬間――視線がぶつかった瞬間、何かが、僕の中に流れ込んでき
た。冷たくヌルヌルした巨大なナメクジがずるっと僕の耳の奥に触れたような。死の直
前に、逃れられない呪いをかけられてしまったような嫌な感触があった。
これが、殺人現場に遭遇《そうぐう》する本当の恐怖というものなのだろうか……
「なに、考えてるの……」
虚《うつ》ろな声で、カンナが言った。
「べつに、なにも……」
僕は応えた。
「どう、するの?」
カンナがまた言った。
「……なにが?」
僕は聞き返した。カンナは小さく唾《つば》を飲み込んだ。
「あの、荷物……」
「ああ……」
僕はぼんやり考えた。
「捨てよう……」
「そう、だね……」
「警察、のほうがいいかな」
「わかんない」
カンナはかすかに首を振った。
「おまえさ……」
「うん……」
「忘れろ」
「……」
「忘れらんなくても、忘れろ」
カンナは顎《あご》を沈めて、黙り込んだ。
無理を言っている、と自分でも思った。
でも、僕はカンナの心的ダメージが心配だった。
僕みたいな年齢になれば、もちろん平気じゃないが、トラウマになったりはしない。
忘れられなくても、うまい具合にやりすごし、それほど時間がかからないうちに怠惰《たいだ》
な日常へ埋没《まいぼつ》できる自信はある。自分をだます自信が。
でも、カンナぐらいの年頃にあんな場面に遭遇したら、それがその後の精神の成長に
どんな影響をおよぼすのか……
「……カズシ、意外に、オトナなんだね」
カンナはぎこちなくはにかんで、伸ばしていた脚を曲げ胸元に抱えた。すっぽりと僕
のフリースの中に脚が隠れ、ヒヨコ饅頭《まんじゅう》みたいな格好になる。
カンナは抱えた膝に顎をうずめ、床を見つめた。
「あたし、びっくりしちゃった。ぜんぜん、ダメ……。カズシいなかったら、どうして
いいか、わかんなかった……」
また、その目が思い出したように涙をため、大粒《おおつぶ》の涙が頬《ほお》を伝う。
僕はその頭に手を置き、自分の脚の上に転がした。
ごろん、と膝を抱えたまま、カンナは転がった。
「なにすんだよぉ……」
カンナは僕の脚を枕《まくら》にして仰向《あおむ》けになり、口をとがらせた。目から涙を溢《あふ》れさせたまま。
「忘れろよ……」
僕はその目の上に掌をそっと押し当てた。
掌にひんやりした肌の感触と、熱い涙の感触があった。
カンナはその手を振り払おうとはしなかった。
僕の手の上に自分の両手を重ね、ゆっくりと、大きく、深く、深呼吸した。
「あったかいね……」
カンナはようやく安堵《あんど》したように言った。
そのやすらぎに満ちた声に、急に鼻の奥が熱くなって、僕の目からも涙が溢れ出した。
僕はあわてて、あいた手で、その涙を拭《ぬぐ》った。
涙腺《るいせん》が壊れたみたいに後から後から、涙が溢れた。
たぶん、そのとき、僕もようやく安堵したのだと思う。
カンナは何も言わず、僕の手を自分の顔に押し当てていた。
僕らはそのまま、ようやく訪れた深い安堵を噛《か》みしめていた。
翌朝、僕とカンナは示し合わせて、学校をさぼった。
カンナがそれを求めているのはわかったし、僕も気持ちは同じだった。
お互いに一人になるのが怖くて、なにもかも忘れてはしゃぎたかった。
そうしていないと、何かに追いつかれそうな気がしたから――。
僕がそんな逃避行を提案すると、カンナは目を輝かせてはしゃいだ。
そして、いったん自分の部屋に戻って、手早く服を着替え、玄関から飛び出してきた。
「おまたせー!」
白いニットのタートルネックにデニム素材のホットパンツをはき、黒白ボーダーのニ
ーソックスで長い脚を強調している。黒いジャケットがパタパタとマントみたいにそよ
ぐ。足下は黒いカッチリした革靴《かわぐつ》でキメている。
「ふん……」
僕は自転車にまたがったままその姿を眺《なが》めた。
「なによぉ……」
「いや、短時間にずいぶん」
「なに?」
「がんばるもんだと思って」
「フ、フツーよ、フツー!」
カンナはかすかに顛を赤らめ、カシャン、と自転車の荷台に飛び乗った。
僕らはいつものように家を出て、自転車に乗り、ひとまず駅に向かった。
「ねえねえ! どこ行く?」
いつもの下り坂で、カンナは荷台に立ち上がって、風に髪をなびかせ、声をあげた。
「どこ行きたいんだよ!」
僕は叫び返した。
「そうだねー……」
カンナは気持ちよさそうに額に風を受けながら、少し考えて、
「遊園地!」
と叫んだ。
「え」
思わず、ハンドルを握った手がぶれ、自転車が蛇行した。
「きゃ!」
カンナは僕の首にしがみついて、あわてて荷台に座り直した。
「なに考えてんのよ! あぶないじゃない!」
僕はなんとか自転車を立て直して惰性で下りながら、ようやっと聞き返した。
「……おまえ、遊園地なんて行きたいのか?」
「うん!」
「だって、おまえ、ああいうの子供っぼくて嫌じゃないのか」
「そんなこといつ言った?」
「いや、まあ、言ってはいないけど……」
「あたし、遊園地って行ったことないんだもん」
「え?」
「だって、向こうでは、パパもママも忙しくて、誰も連れてってくんなかったし、こっ
ちに来てからは、あんましワガママ言えないじゃない。こー見えてもね、あたしだって
いろいろあんのよ」
「……」
「だから、カズシと遊園地行きたい!」
ぎゅっと僕の首に腕をまわして耳元で叫んだ。
僕は素直にうれしかった。考えてみれば、こいつの身勝手なふるまいは、本当に居候《いそうろう》
しているあの老夫婦に対する精一杯の気遣《きづか》いなのかもしれなかった。
自分が乱入することで、あの老夫婦の生活を乱したくない。だから、自分の生活圏を
他の場所へ求めたのだ。その結果として、こいつが選んだ憩《いこ》いの場所が僕なら、精一杯
その気持ちに応えてやりたい。
「おまえってさあ!」
僕は風音に負けないように声を張りあげた。
「なに?」
「おまえって、けっこうガキなのな!」
僕は大声で笑ってやった。
「なに笑ってんのよ」
カンナが後ろから僕の首を絞めた。
「あたしの遊園地初体験にお供できるなんて光栄でしょお!」
「ああ、いいよ……」
僕は向かい風に目を細めて言った。
「行こうぜ、遊園地」
「ホント!」
カンナは僕の首から手を離して手を叩いた。それから、僕の背中をパンと叩く。
「おーっし、それじゃ急げ! 第ニロケット点火!」
僕らは昨日のことには一言も触れなかった。
それが今日のデートの目的であり、暗黙の了解だった。
でも、一日経って、僕には、なんとなくわかっていた。
僕らがしてしまったことは、やはり、とりかえしのつかないことだったのだ。
だから、こんなふうに遊べるのは、これが最後かもしれない、と――
僕らはラッシュアワーを外した電車に乗り込み、神保町《じんぼうちょう》から水道橋《すいどうばし》へ向かった。
ディズニーランドもいいけれど、遊園地となると、後楽園《こうらくえん》のほうがしっくりくる気が
したのだ。それにアメリカ帰りのカンナにはこっちのほうが新鮮だろうと思えた。
途中、駅のコインロッカーに僕のカバンとカンナのランドセルを預け、僕らは手ぶら
で遊園地のゲートへ向かった。
カンナは手ぶらになった両手を鳥みたいにひらひらさせて歩道を飛び跳ねた。
「なんか、すっこいね! 突然来ちゃった日曜日みたい!」
僕はその背中を見つめながら、胸が押しつぶされそうな不安を必死にこらえた。
そして、今日だけは、せめて、今日だけは、そっとしておいてくれ……と、祈った。
「ほらほら、カズシ! 急がないともったいないよ!」
カンナが遊園地前の横断歩道の手前で焦《あせ》ったように手招きした。
僕は笑って駆けだした。
不思議なもので、平日の昼でも遊園地にはそれなりに人がいて、ちゃんと稼働《かどう》してい
る。わかってはいたことだが、こうして目《ま》の当たりにするとなんだか妙な気分になる。
カンナはそんなことおかまいなしに、ゲートを抜けると同時に歓声をあげて駆けだした。
「うわ、うわわ! すごいすごい!」
カラフルなパステル色に塗られたメリーゴーランドやタコの化け物みたいな乗り物、
大観覧車にお決まりのジェットコースター。タワー型の落下マシンが遙《はる》か上空までそび
え立ち、それとはべつにパラシュートがついたカップル用の落下マシンもある。昼間は
煌《きら》びやかな電飾は楽しめないが、それでも妙には華《はな》やいだ気分になる。
「ねえねえ! どれから乗るの?」
先まで行っていたカンナが駆け戻ってきて、目を輝かせた。
「いーんじゃないか、かたっぱしから乗りたいの乗って」
僕は笑って応えた。
「でもさ、こんなにあると迷っちゃうね」
カンナはぐるっとあたりを見まわして言った。
「んじゃ、お化け屋敷から行ってみるか?」
「え? なにそれ?」
カンナはきょとんと目を丸くした。
「おまえ、知らないのか?」
「だから言ったでしょー、行ったことないって」
カンナは顔を赤らめて唇をとがらせた。
「しょーがねーな、じゃあ今日は、オレがナビゲートしてやるよ」
僕はカンナの頭をぽんと叩いて、その手を握った。
カンナは今時の子供ならさほど喜ばないようなチープなお化け屋敷でも目を丸くして
驚喜しっぱなしだった。僕の腕にしがみつき、興味|津々《しんしん》といった目で蝋《ろう》人形やホログラ
フィーやぎしぎし軋《きし》む廊下を子細に見つめ、突然目の前にぶら下がってきた提灯《ちょうちん》お化け
を指さして大笑いし、白いシーツに身を包んだ女性が飛び出してくると、尻《しり》もちをつい
て目を丸くした。僕も思わず腰を抜かして一緒に尻もちをついてしまったときには、お
化けの女性のほうが僕とカンナを見つめてふき出した。
なかでもカンナが一番喜んだのは、やっぱりジェットコースターで、螺旋《らせん》状にループ
したフレームを疾走し、大きく空中|旋回《せんかい》する爽快《そうかい》感にはやみつきになったようだった。
降りるとすぐに歓喜に目を輝かせて、
「すごいすごい! 目がぐるんぐるんするよ! もう一回乗ろうよ、ねね!」
と、頬を紅潮させてせがんだ。
僕はそんなカンナに振りまわされるなかで、今まで知ることがなかったカンナの子供
らしさを目の当たりにして驚いた。なんでこんなものに喜ぶのか、なんでこんなことを
知らないのかと不思議に思うほど、カンナは何も知らなかった。
ゲームコーナーの鬼にボールを当てて景品をとるゲームやコルクライフルで景品を落
とすゲームにも大はしゃぎでしがみついていた。
そして同時に、僕は自分がいかにカンナについて何も知ろうとしていなかったかを痛
感させられて、胸が痛んだ。
こんなことなら、もっと早くに、こんなふうにカンナをいろんな場所へ遊びに連れて
いってやるんだった。この七カ月間にそんな時間はいくらでもあった。それこそ、ヨシ
ノリや矢野倉涼子の誘いだってどんどん受けて、みんなで遊びにいけばよかったのだ。
カンナはこんなに子供らしく、可愛かったのに……
「はあ、お腹《なか》すいたあ! なんかすっこい、いろいろ乗っちゃったね!」
僕らは昼過ぎには、半分くらいのアトラクションを制覇《せいは》し、園内のピザショップで昼
飯をとった。なんだかんだ言って平日の昼はすいている。ジェットコースターや人気の
落下マシンですら待たされることはなかったのだから。
「ねね、カズシはどれが一番楽しかった? あたしはね、やっぱリジェットコースター
とタワーハッカーかなあ。あ、でもさ、お化け屋敷もけっこう面白かったよね!」
カンナは興奮冷めやらぬ口調でしゃべり続けた。目を輝かせ、まったく新しい世界に
二人だけで冒険に来てしまったかのように。
「ね、ご飯食べたらさ、今度はなに乗ろっか? あとなにがあったっけ?」
いそいそとジャケットのポケットから小冊子を取り出して眺めはじめる。
「なあ、おまえさ、どうでもいいけど、ピザも食えよ。冷めちまうそ」
「あ。あたしもうお腹一杯。あとカズシが食べていーよ」
小冊子から目を離さずに片手を上げてまあまあと制する。
「おまえね、そういうこと言っておいて、あとでお腹すいたあ、なんて言ったって、も
うぜってえおごらないからな」
「うるさいなあ、あたしもお、胸がいっぱいで食べれないもーん。こんな楽しいとお腹
すいてる暇なんかないよ。ああ、もお、なんでこんなに楽しいんだろ!」
「そんなに、楽しいのか?」
僕はあまりの喜びように思わず訊《き》いていた。
カンナはひょいと顔を上げて、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、カズシ!」
不意打ちのように言われて、僕は完全に狼狽《ろうばい》した。
「あ、いや、そ、そうか……」
言いながら、店内に視線をさまよわせた。こいつ、なんて顔するんだ……
「ふふふ」
カンナはそんな僕の動揺を頬づえをついて、うれしそうに眺めていた。
「ちょっと、カンドーした?」
「おまえね、そうやってオトコをからかって喜んでると、そのうち痛い目にあうそ」
「からかってないよ。ホントのありがとうだもん」
にっこり笑って、まっすぐに見つめてくる。
「あたし、こんな楽しいの、生まれて初めてかもしんない」
「そりゃ、どーも……」
ごくりと唾を飲み込み、目をふせる。
「カズシも楽しい?」
「まあ、な」
「へへ。じゃ、早く次の乗り物乗ろうよ! ほらほら、残り食べて!」
カンナはぴょんと椅子から飛び降り、出口に駆けだした。
それから夕方までは本当に夢のように時が過ぎた。
カンナはまるで疲れも見せず歓声をあげ、残りのアトラクションを飛びまわった。
夕方になると園内は混みはじめ、やがて電飾が宝石のような光を散らしはじめた。
僕らは大半の乗り物を乗りつくし、ベンチに腰かけて混みはじめた景色を眺めた。
さすがに足腰がじんわり疲れていたが、心地よい疲れだった。
目の前では何百というシャンデリアを散らしたようなメリーゴーランドが華やいだ音
楽の中で夢のように回転している。
「綺麗《きれい》だねー……」
ベンチからぷらんと脚を前に放り出して、うっとりとそれを見つめ、カンナが言った。
背中に垂れた銀灰色の長い髪が電飾に照らされて、キラキラ光った。
「なんか、夢みたい……」
にっこり微笑《ほほえ》んで、僕を見た。
息苦しいほどの愛おしさが胸にこみ上げ、僕は思わず、カンナを抱きしめたくなった。
が、もちろん、そんなわけにはいかない。
「なあ、なんか飲み物買ってきてやるよ」
僕は高ぶった気持ちを押しとどめて立ち上がった。
「おまえ、なにがいい?」
「ふーん、気前いいじゃん」
「ばーか、いつかまとめて返してもらうんだよ」
「やだねー」
イーッと顎を突きだし、鼻にしわを寄せて笑った。この遊園地でこいつ以上に可愛い
オンナはいないだろうと確信させるに十分な笑顔だった。
「なんでもいいんだな」
僕はそっけなく背を向け、売店のほうへ歩き出した。それから、いったん振り返り、
「あ、おまえ、勝手に動くなよ。それから知らない人にホイホイついてかないよーに」
「ナンパされよーかなあ」
目を丸くして笑う。
こいつがその気になれば誰だって拾ってくれるぶん、笑えない。
「とにかく、動くな。いいな」
ピッと人差し指を突きだし、強く言い置いて、僕は背を向け駆けだした。
そんなふうに、まるで、夢のような一日だった。そう、夢のような……
そして、夢は必ず、いつかは覚める。
ワンブロック離れた売店で紙コップに入ったジュースを受け取り、それを両手に持っ
てベンチのほうへ引き返した。
再び人混みに行く手をさえぎられ、両手を掲げて前へ進んだ。
あと少しで、人混みを抜けるところで、遠くにカンナが見えた。
無意識に頬がゆるんだ。でも……
その瞬間、夢は終わった。
僕は立ち止まり、目を閉じた。
僕はこういうことには、昔から勘がいい。自分でも嫌になるほど。
たまには、はずれてくれるといいのに……
背後から腰に硬い何かが押しつけられていた。
後ろと左右を見知らぬ男たちに囲まれていた。
驚きはなかった。ただ、すっと全身から力が抜けた。
ずっと感じていた。
誰かの視線を。
家を出たときから。いや、本当は、昨日の夜、学校から帰るときから。
気づきたくなかった。気のせいだと思いたかった。
でも、無理だった。
カンナにだけは言えなかった。言うわけにいかなかった。
泣かせたくなかった。
何も知らず、笑っていてほしかった。
だから、最後まで、あいつだけは護《まも》らなければならない。
僕は目を開けた。
遠く人混みの向こうに、ベンチに座ったカンナが見えた。
その姿だけをぼんやり見つめた。
「……お願いです」
自分でも不思議なほど落ち着いた声が出た。
「あの子には、手を出さないって、約束してくれませんか……」
左右の男の肩がぴくっと反応した。僕の反応に驚いたようだった。
「……おまえ、気づいていたのか?」
右のアーミー帽を目深《まぶか》にかぶった男が低く言った。
「オレ、そういうの、昔から、勘がいいんです」
あきらめが気持ちを軽くさせた。
「臆病《おくびょう》だから……」
「ずいぶんと、あきらめが早いんだな」
軽蔑《けいべつ》するような響きがあった。
「オレに、なにができるっていうんですか?」
投げやりな笑いに自分の顔が歪《ゆが》むのがわかった。
「……」
男たちは僕の反応にとまどっている様子だった。もしかしたら、僕が警察か何かに護
衛を頼んでいると思っているのかもしれない。皮肉なものだ。覚悟を決めてあきらめて
しまえば、今度は相手が勝手に躊躇《ちゅうちょ》しはじめる。
「さっきのお願い、聞いてもらえますか……」
僕は視界にカンナの姿を認めたまま繰り返した。
「オレ、それだけで、いいですから」
ふいに、左にいた黒いスーツの男がくつくつと喉に詰まった忍び笑いをもらした。
「君は、少し、誤解しているようですね……」
無機質な声。その男だけ、異質だった。一際背が高く、異様に首が長い。頭蓋骨《ずがいこつ》に直
接なめし革《がわ》を張ったような顔に黒いサングラス。外耳に沿って鋲《びょう》げような奇妙なピアス
がいくつも埋め込まれている。冷たい機械のような印象があった。
「我々は、昨日、君たちが目撃したことについては、何も問題にしていません」
「え?」
喧噪《けんそう》が耳に戻ってきた。ザワザワといろんな人の声や歓声が通りすぎていく。
「あれは、厳密な意味では殺人ではありませんからね」
男は言って、またくつくつと嫌な忍び笑いをもらした。
「君は、昨日、荷物を受け取りましたね」
小さく唾を飲み込み、それから、答えた。
「あれは、勝手に間違われて……」
「間違いではありません。君は、我々の仲間です……」
仲間?
「ただ……もう少し、時間が必要なようですね」
「どういう、意味ですか?」
「あの荷物の中身、決して、手放さないでくださいね」
男は質問には答えず、前を向いたまま、ぽつ、と言った。
「君には必要なものです。そのうち、きっと……」
チリチリと首筋が総毛立った。さっきまでとは違う、得体の知れない嫌悪感があった。
「あなたは、いったい、なにを言ってるんですか……」
声がかすれ、裏返った。
「君には、やるべきことがあります」
男は僕の問いかけを断ち切るように言った。
「あとは、彼女に訊いてください」
サングラスの眼がすっと前を指した。
息が止まった。
カンナの隣に女が座った。
長い白銀の髪……
あの女だった。
「あ……」
戻ってきた僕の姿を認めて、カンナは顔を明るくしてベンチから飛び降りた。
「もお、どこまで行ってたのよ!」
一瞬、怒った目が泣き出しそうに歪む。きっと不安でしかたなかったのだろう。
「ああ……悪い。ちょっと混んでて」
僕はかろうじて笑いながら、少し屈んでカンナにジュースを手渡した。
顔の右側が緊張にひりひりする。すぐ右脇にあの女が座っている。
「どうしたの?」
カンナは受け取った紙コップを胸元で握りしめて、心配そうな目をした。
「顔色、悪いよ」
「え?」
僕はあいた手で自分の額に触れた。べっとり脂汗《あぶらあせ》が浮いていた。
「カズシ?」
カンナの顔が真剣に強ばった。
「ば、ばーか、なに言ってんだよ。歩きすぎて疲れただけだろ」
ベンチに座った女は動かない。なにを考えているのか。
「ホントに……?」
カンナは大きな日で食い人るように僕の目を見あげた。
「おまえね、マジで怒るぞ。オレはおまえと違って、体力ねーんだよ。だいたい、おま
え、今日一日でどれくらい歩きまわったかわかってんのか?」
女の態度が気にかかる。なんで、何もしてこないのか。どういうつもりだ。
「だ、だって、しょーがないじゃん。楽しかったんだから……」
カンナは尻すぼみに語尾をしぼませて、唇をとがらせた。
「そんな、疲れた?」
申し訳なさそうにチラッと目を上げる。
僕は苦く笑ってため息をつき、その頭にぽんと手を載せた。
「ほら、そろそろ時間ねーぞ。あと、なに乗る?」
カンナは一瞬遅れて、パッと顔を明るくした。
それから空を見あげ、僕の背後を指さす。
「あれ! あのパラシュートのヤツ」
振り返ると、カップル用のパラシュートがついた落下マシンがそびえている。
「あたしね、入ったときから、最後はあれにしようって決めてたんだ」
カンナは言いながら、僕の腕に飛びついた。その拍子に片手に持っていた紙コップか
らジュースがこぼれて、僕の脚にかかった。
「うわ、ばか、てめえ、つめてーな」
「そぉんな細かいこと気にしないの。落下すれば乾くって」
カンナはニコニコ笑って、片手で僕の腕をつかみ、片手でジュースを飲んだ。
「じゃ、そろそろ行くか、混んできたし」
「うん!」
カンナはうれしそうにうなずいた。
女はまだ動く気配がない。
僕は振り返りざまに思いきって、ベンチに座った女に目を走らせた。
――え?
目が釘《くぎ》づけになった。
泣いている?
うつむいた女の頬に、細い涙の筋が光っていた。
高ぶった感情を必死にこらえるように、膝の上で固く手を握りしめて。
女が気づいた。目が合った。
女は一瞬、照れたように微笑し、あわてて指先で涙を拭って、またうつむいた。
「……行って」
僕にだけ聞こえるくらい小さく呟《つぶや》いた。
僕は一瞬、棒立ちになった。なにがなんだか、わからない。
ガツン、と脛《すね》にとがった痛みが弾けた。
「イッ!」
僕は思わずうずくまった。本気で痛い。
「てえ……」
僕は脛を押さえて屈んだまま、前に立ったカンナを睨《にら》みつけた。
「べーだ!」
カンナは目一杯舌をつきだして、身を翻《ひるがえ》して駆けだした。
クスッと女の笑い声がした。僕は女のほうを覗き見た。
女は僕をそっと見下ろし、赤くなった目に寂しそうな笑みを浮かべた。
「お願い、今日は、楽しんであげて。最後まで……」
懇願《こんがん》するようにその瞳が震えた。
僕は短くその目を見返し、それからカンナの後を追って駆けだした。
「あーあ、終わっちゃったね、今日……」
ゲートを出た途端《とたん》に、カンナは大きくため息をもらした。
そして、名残惜《なごりお》しそうに園内を振リ返った。
「あ、観覧車、乗ってなかった……」
夜空に電飾を灯して回転する大観覧車をぽかんと見あげた。
「また、来ればいいだろ」
「いつ?」
振り返ってカンナが目を輝かせた。
「まあ、そのうちな」
「絶対?」
「ああ、約束するよ」
「じゃ、その日観覧車に乗るまで今日は続くんだね」
「なんだそりゃ」
「カズシにはわからないことだよー」
カンナはイーッと鼻にしわを寄せて笑って、僕の腕に抱きついた。
「ね、明日にしよっか?」
「おまえね、そんなに毎日学校さぼるわけいかねーだろ」
「あたし、学校なんて行かなくたって、だいじょーぶだもん」
口をとがらせ、下を向き、小石を蹴るようなしぐさをする。
「おまえは大丈夫でも、オレはお勉強しなきゃいけねーんだよ」
かすかな安堵とそれ以上に得体の知れない不安があった。
僕は、あのとき、もう二度とカンナに会えないと思っていた。
少なくとも、そう覚悟していた。
でも、あの男たちはあのまま消え、そして、あの女は何もしなかった。
いったい、なにがどうなっているのか……
すべてが曖昧《あいまい》に保留されたまま、僕はなぜか無事でいる。
自分がなぜ解放されたのかが、わからない。
――君は、我々の仲間です。
あれは、どういう意味なのか。
そして、あの女の涙。
悪意のある眼には見えなかった。
ただ、ひどくやるせなく、痛々しい寂しさがあった。
そして、もう一つ。
僕を不安にさせる嫌な符合がある。
男たちが消え、ベンチに戻ってくる途中で、ようやく、それに気づいた。
カンナとあの女は、あまりにも似ていた。
他人のそら似でかたづけるには、あまりにも……
今にして思えば、地下鉄のホームで初めてあの女を目にしたとき、僕はカンナのこと
を想ったのだ。自分と近い年齢の――つまり、恋愛対象になれるカンナを目の当たりに
したようで、動けなくなってしまったのだ。
僕はあの女に、大人になったカンナを重ね合わせていた。
でも、僕が見ていたのは、やっぱり、カンナだった。
あの女ではなく、カンナだった。
あのとき二人を同時に目の前にして、僕は自分の気持ちをハッキリ確認してしまった。
その発見に関してだけは、今日一日の中で、妙にこそばゆく悪くない感触があった。
もちろん、こんなこと本人に悟られるわけにはいかないけれど、この気持ちを見つめ
ることだけが、今僕が抱えているいろんな不安から、僕を救ってくれる唯一の光のよう
に思えた。
だから、今は、いろんな不安より、こっちの気持ちを見つめよう。
僕は、カンナに恋している。
情けない話だが、九歳の胸もふくらんでいないガキに。
七カ月前の僕はそんなヤツではなかったはずなのだけれど、まあ、仕方がない。
「ね、カズシ、晩ご飯はどこで食べよっか?」
「ばーか、もう、金ねーんだよ。この、金食い虫が」
僕は笑って背を向け、駅のほうへ歩き出した。
「甲斐性《かいしょう》なしー! デートは最後にディナーでしょお!」
「じゃ、そのまた最後の最後まで付き合うか?」
カンナは真っ赤になって、僕の脚を蹴飛ばした。
「ばっかじゃないの! 大声で叫ぶわよ」
「ガキ」
信号が変わり、僕は横断歩道を駆けだした。
何かが自分の知らない場所で、動きはじめている気配があった。
第四章 彼女の思い出
翌日の土曜は何事もないまま過ぎ、日曜の朝がやってきた。
僕はベッドの上で目を覚まし、陰鬱《いんうつ》な気分にとらわれ、深くため息をついた。
昨日の夕方、僕は最悪なミスをしでかしたのだ。
昨日、学校から帰ってきたカンナは、夕方、窓から僕の部屋へ来て「あの先生は昨目
から休みみたい……」とだけ報告した。わかっていたことだが、それを現実として確認
するのはお互いにつらかった。僕らはそれ以上は、そのことについて話さなかった。
そして、その直後に僕は恐ろしく世俗的な問題を切り出さなくてはならなかった。
ヨシノリたちと遊びにいく話をまだカンナにしていなかったのだ。
でも、もうあと戻りはきかなかった。僕が休んでカンナと遊園地に行っていた日にヨ
シノリと矢野倉涼子《やのくらりょうこ》はすっかりその気で日曜のスケジュールを綿密に仕上げてしまって
いたのだから。しかも、最悪なことにその行き先は金曜と同じ後楽園《こうらくえん》遊園地だった。彼
らが後楽園を選んだ理由はあの日の僕とほぼ同じで、最初はディズニーランドも考えた
らしいのだけれど、アメリカで育ったカンナにはめずらしくもないだろうということで、
後楽園に落ち着いたという。彼らは彼らなりにカンナのことを精一杯|気遣《きづか》ってくれてい
るわけで、昨日学校をさぼってもう二人で行ってきたからとも言えず、そういう諸々の
罪悪感もあって、二人の勢いに押しきられてしまったのだった。
「ところでさ……」
と、僕はベッドの縁《ふち》に頭を載せ、窓の外に広がる夕焼けに目を向けて切り出した。
「おまえ、その、明目、またあの遊園地行く気あるか?」
カンナは一瞬、きょとんとして、それから目をまん丸くした。
「うそ! 明日も連れてってくれるの!」
「いや、まあ、そういうことに、なるの、かな?」
「やったあ!」
カンナは臆面《おくめん》もなく僕に抱きついてきた。
僕はベッドとカンナの板挟《いたばさ》みになって咳《せ》込んだ。
「あ、ごめん」
「いやいや、いいんだ」
僕はきわめて寛大にうなずき、カンナの肩をつかんで引き離した。
「それで、行くか?」
じっと顔をふせたまま訊《き》く。
「あったりまえじゃん! なんで行かない理由があるのよ。もお! すごいすごい!」
「そっか……よかった」
僕はひそかに安堵《あんど》の息をもらした。
「……じゃあ、その上で、明日行くメンツなんだけど」
「メンツ?」
ぴくっとカンナの肩が震え、声からはしゃいだ表情が消えた。
「メンツってなに?」
硬い一本調子の声。
「いや、だから、メンツはメンツだよ。メンバーってことさ。だから、その、明日は他
のヤツも一緒で、こう、みんなで楽しくやろうかなって」
そこまで言って僕は思いきって目線を上げ、カンナの顔を覗《のぞ》き見た。
鬼の形相《ぎょうそう》。眉間《みけん》に縦じわ。怒りに細められた目。
「え、と……」
「……」
「その、なんだ……」
「……」
「やっぱ、やめとくか!」
ベッドに寄りかかって、僕は窓の外へ目を投げ出した。
「つ、疲れているしな。オレも、まあ、ちょっと乗り気じやなかったし――」
「……いいよ」
「え?」
思わず顔を引き戻す。カンナは抱えた膝の上に顔を埋めていた。
「約束、しちゃったんでしょ?」
「ま、まあ……」
ごくっと唾《つば》を飲み込んでから、僕はあわてて付け加えた。
「でも、ぜんぜん今からだって断ることはできるし、だからその――」
「いーわよ、もうどーでも。でもね……」
カンナはぬっと顔を上げた。大人びた、能面のように醒《さ》めた顔だった。
「その人たちがどういうつもりでくるのかは知らないけど、あたしに子供らしいサービ
スなんて絶対、期待しないでね。あたしは可愛げや笑顔を強要されるのは大嫌いなの。
それでカズシがどんなに気まずい思いをしようと、あたしの知ったことじゃないわよ」
微動だにしない視線。静かな怒りが胸を圧迫する。
「や、やっぱり、やめるか……」
「それから、ついでに言っとくけど、つまらない浅知恵を働かせて、あたしを安易に喜
ばせないで。あたし、こう見えても、そんなに簡単に喜ばないの。だから、さっき馬鹿
みたいに喜んじゃったの、今、死ぬほど後悔しているの」
「だ、だからさ、明日は、やっぱり、やめようぜ、な?」
「ダメよ」
ぴしゃりとムチ打つ女王様の眼光、
「自分がしでかしたことの結末を最後まで見届けなさい」
僕はそのとき、話の運び方を最悪に間違えたらしいことにようやく気づいた。
「それじゃ、明目はお互い、せいぜい楽しみましょ」
すっくと立ち上がり、僕のほうを見向きもせず、窓から自分の部屋へ帰っていった。
そうして、今、日曜の朝がやってきたのだ。
きっと、今日は最悪な日曜になる。
ごめん、ヨシノリ、矢野倉涼子、それから、牧野香織《まきのかおり》……
僕はベッドの上で先にあやまり、支度《したく》をはじめた。
僕は陰鬱な気分を引きずりつつ、一〇時過ぎに家を出て、隣の家の玄関に向かった。
外は僕の気分などおかまいなしにさわやかな秋晴れで、透明感のある高い空の遙《はる》か上
のほうに、綿を薄くちぎったような雲が涼しげに流れていた。
絶好の行楽|日和《びより》。ヨシノリたちが立てたスケジュールによれば、待ち合わせは一一時
に後楽園のゲート前ということになっていた。
そういえば、こんなふうに玄関から隣の家を訪ねるなんてことは、カンナが来てから
初めてかもしれない。隣の門扉《もんぴ》の前まできて、僕は不思議な思いにとらわれた。
錆《さび》が浮いた黒い門扉を軋《きし》ませ中へ入ると、庭先は雑草が伸び放題で廃屋のようだった。
左手の縁側に老人が腰かけ、ぼんやり空を見あげている姿が目にとまった。
僕はなんとなく、ドキリとした。彼の姿を目にすることは僕の日常生活の中でほとん
どなく、隣にいながら、前にその姿を見かけたのはいつだったか思い出せないくらいな
のだ。言葉を交わした記憶となると、そんなことがあったのかも怪しくなる。
「あの……」
僕は立ち止まり、一応、声をかけてみた。が、老人は反応しない。
「あの、すみません」
少し声を大きくして言ってみた。が、やはり反応はない。
もしかしたら、耳が悪いのかもしれない。
あきらめて玄関に向かおうとしたそのとき、ふいに老人がこちらを向いた。
とろんとした眼。ぼんやりと焦点が合っていない。
僕は背筋が寒くなるのを感じた。まるで魚の眼のようだった。
「あの、隣の真山《まやま》です。今日はカンナを――」
すっと老人は興味を失ったように、また前を向いて空を見あげてしまった。
もしかして、ぼけてしまっているのか。
僕はその横顔を短く見つめ、それからまた玄関へ向き直った。
ドアの脇にあるチャイムのボタンを押す。ボタンは土台のネジが外れ、傾いていた。
なんだかこの家全体が、ある時から時間を止めてしまったような薄気味悪さを覚えた。
この家、こんなふうだったっけ……
じっと待っていると、カチャッ、とドアが細く開いた。その隙間から眼が覗いた。
背中を冷たいものが走った。
たぶん、老女の眼――だが、それは同じく魚のような眼だった。
「あ、あの……隣の真山ですけど、今日はカンナさんと出かける用事が――」
言い終えぬうちに、ドアが閉まった。中からぎしぎしと階段を上る音がした。
わずかな間をおいて、タンタンタンと階段を駆け下りてくる小さな足音がした。
カチャッとドアが開いて、カンナが姿を現した。
「ふん」
カンナは上目遣いに一瞥《いちべつ》して、そのまま僕の脇を通り抜け門扉のほうへ歩き出した。
まだ機嫌はまるで直っていないらしい。
「カンナや、あんまりお兄ちゃんに迷惑かけるんじゃないそ」
――え?
庭のほうから溌剌《はつらつ》とした老人の声がした。笑って手を振っている。
「それじゃ、和志《かずし》さん、よろしくお願いしますね」
廊下の端《はし》で老女がにっこり笑って頭を下げた。
呆然とした。突然、この家の時間が動きはじめたような錯覚を覚えた。
「どうかしましたか?」
老女が困ったように笑った。
……気のせいか。
「あ、いえ、じゃ、今日はお借りします。早めに返しますから」
僕はあわてて頭を下げ、閉まりきっていないドアを閉めた。
まったく、どうかしている。思わず苦笑した。
振り返ると、門扉の向こうで、カンナが後ろに手を組み合わせ、空を見あげていた。
僕は小さくため息をついて、歩き出した。
カンナの今日の格好は、ちょっと恐ろしいものがあった。
濃い紫色のベルベッドのミニのワンピースに、白いタイツで脚を包み、黒いストラッ
プシューズで、足先まで寸分の隙なくお嬢様に仕上げている。ワンピースは英国のアン
ティーク風で、細い首にスタンドカラーが似合っている。右手首にはめた赤いベルトの
腕時計が可愛い。どこから兄ても完壁《かんぺき》なお人形さん。こうなると連れて歩くほうは妙に
気負ってしまう。もっとも、それがこいつの狙いなのは一目瞭然《いちもくりょうぜん》ではあるのだが。
「その服、似合うな」
ダメもとでコミュニケーションを試みる。
「タクシー呼んで」
ツンと顔を背《そむ》けてカンナは言う。僕は小さくため息をもらした。
「ワガママいうなよ。ここから水道橋《すいどうばし》まで、いくらかかると思ってるんだよ」
「そのお友達に出させればいいじゃない」
「なあ、おまえが嫌な気持ちはわかるし、オレの.ゴロい方が悪かったのも反省してるさ。
でも、あいつらにしてみりゃ、悪気はないんだよ。みんな、おまえのファンで、今日一
緒に遊べることを本当に楽しみにしてるんだ。そういう気持ち、少しはわかってやるこ
とできないか?」
「カズシはあたしの気持ちはわかってるって言うの?」
キッと怒った猫のような眼でカンナが睨《にら》みつけてきた。
「まあ、少しは、わかっているつもりさ。悪かったと思ってる」
「ウソよ。わかっててこんなことするわけないじゃない。あたし、今日、お友達と一緒
に行くのを怒ってるわけじゃないんだからね」
「え?」
「ほら、カズシはなんにもわかってないよ。なんにもわかってないんだよ!」
怒りに頬《ほお》が紅潮し、目に涙すら浮かびはじめている。
僕は真面目に途方に暮れた。だったら、なにを怒っているかわからない。
「なあ、オレが何か大事なことをわかってないとしたら、あやまるさ。オレにできる償《つぐな》
いなら、今日が終わってから、できるだけのことはするよ。でも、今日はこれからせっ
かく楽しみにいくんだ。なんとか機嫌を直してくれないか?」
「そんなの全部あたしが知らない場所で勝手に決めたことじゃない! 勝手に決めてむ
りやり連れ出して楽しめなんて虫がよすぎるよ」
「だから、それはわかってるさ。その上で、お願いしているんだ」
「カズシは、お友達が喜ぶためなら、あたしに頭を下げてでも、嫌な思いをがまんさせ
るんだね」
「……悪かったよ」
僕はいいかげん疲れてきて、なかば自暴自棄になって言った。
「本当は、おまえがそんなに本気で嫌がるなんて思わなかったんだ。金曜だって楽しそ
うな顔してたし、勝手に決めたことは怒っても、そんなに嫌がるなんて思ってなかった
んだ。だから、そこまで嫌ならもういいさ。あいつらにはオレからあやまっておくよ」
カンナはぎゅっと目を閉じてうつむき、激しく首を振った。なんでわかってくれない
んだというように。
僕はまた、途方に暮れてため息を吐いた。
「なあ、わかったって。オレが悪かったよ。だから、本当にもういいんだ。確かにおま
えが言うとおりみんな勝手すぎたよ。おまえが怒るほうが誰が見ても正当さ」
「……もう、いーよ」
カンナはためていた息を吐き出し、か細く言った。萎《しお》れた花のようだった。
それから、顔を上げて妙にしらじらと微笑した。
「さ、行こう。みんな待ってるんでしょ。約束したもんね」
僕の腕に手をかけて、歩き出した。
歩きながら、カンナは心細そうに僕の腕をぎゅっと抱きしめた。
僕はわけもわからず、ひどい罪悪感にかられた。
「やっほおー! カンナちゃーん! ここ、ここ! ここよー!」
そんな水面下の恐ろしい苦悩もなんのその。遊園地のゲート前に差しかかると、赤い
スタジアムジャンパーを着てマイクロミニのデニムスカートから綺麗《きれい》な脚を覗かせた矢
野倉涼子が、船上の誰かを見送るようにぶんぶんと手を振った。
その隣でカメラを片手に持ったヨシノリが僕が見たこともないようなさわやかな笑み
を浮かべている。今日一日すてきなお兄さん役を演じようという浅はかな意図がありあ
りと見てとれる。やっぱり、真面目に連れてくるべきではなかったか。
「わああ、すごいすごい! カワイイ! カワイすぎ!」
僕などまるで目に入らない様子で、矢野倉涼子はカンナに駆け寄り、目の前にしゃが
み込んだ。僕は矢野倉涼子の下着が人目にさらされるのを心配しつつ目をそらした。
「ねえ、カンナちゃん、わたしのこと憶《おぼ》えている? 一度、カンナちゃんが学校に来た
ときに会ってるのよ。矢野倉涼子っていうの」
こういう人見知りをしないサバサバした性格は本来涼子の長所だが、今のカンナの精
神状態にどう響くのか、正直、予想もつかない。
「あ、それから、今日は真山くんに無理言って一緒について来ちゃってごめんね。邪魔
かもしれないけど、お姉ちゃんも一緒に遊ばせてね?」
にっこり笑って首を傾《かし》げる。僕は息をつめて、カンナの反応を窺《うかが》った。
ここで早くも玉砕《ぎょくさい》か……
と思いきや、カンナはにっこり微笑《ほほえ》んで首を振った。
「ううん。カンナ、みんな一緒のほうがうれしいです。なんかお兄ちゃんとお姉ちゃん
がいっぱいできたみたい。カンナのほうこそ、今日は一日、一緒に遊んでください」
ぺこりと両手を揃《そろ》えて可愛らしくお辞儀《じぎ》する。
元壁だ……
ヨシノリはこきゅと喉を鳴らし、矢野倉涼子はうるうると目に歓喜の涙すら浮かべて
僕を見あげた。
「あーン! なんでこんなにカワイイの? どういうこと? ねえ、どういうこと?」
僕は曖昧《あいまい》に笑い返しながら、小さな棘《とげ》のような罪悪感に胸が痛むのを感じた。
忘れていた。こいつは口ではどう言っていても、僕以外の人間には恐ろしく気を遣う
のだ。これでは、本当にただの可愛いお人形さんだ。そして、そうすることを遠回しに
強要したのは、まぎれもなく僕だった。
僕はカンナから目を引きはがし、隣にいるヨシノリに話しかけた。
「なあ、牧野さんは?」
もう一人のメンバー牧野香織がまだだった。
「……んー、まだ来てねーよ。あいつんち、すぐ近くだから、もうすぐ来るだろ」
ヨシノリはうっとりとカンナを見つめたまま上の空で答えた。もはやウチの学校の二
大美女の一人のことなんてどうでもいいという感じだ。
「なあ、なんか今日のカンナちゃん、すげーカワイくねーか。すごすぎるぜ。ちょっと
オレ、ダメかもしんない」
おいおい、ダメってなにがだよ?
「九歳ってことはさあ、あと七年だろ。そしたら、オレは、二四かあ……」
こいつがどんな夢を見ようと勝手だが、そこにカンナを巻き込むとなると話は別だ。
「なあ、おまえさ、相手は九歳の小学生なんだからな。あんましへんな目で見るような
ら、今すぐ連れて帰るからな」
無意識に語調が強くなった。ヨシノリは我に返って怒ったように顔を赤らめた。
「ば、ばぁか、わかってるさ。冗談だよ、冗談」
言いながらも、また矢野倉涼子と談笑するカンナに目が吸い寄せられている。
「いや、でもさぁ、やっぱオレ、おまえのこと、尊敬するわ。あんな天使みたいな子と
一緒にいて、よくへんな気にならねーな」
僕は小さく咳払《せきばら》いした。
「あのな……なるわけねーだろ。それじゃあ、マジでロリコンじゃねーか」
「オレ、あれなら、ロリコンでもいいわ」
「え?」
「だって、あれなら、ロリコンじゃねーやつだって、誰だって納得するぞ。納得しねー
やつはさ、うらやましいだけだって」
ヤバイ。目が完全にイっている。これは本当にもう帰ったほうがいいか。
そう思いかけたとき、
「あ、香織! こっちこっち!」
矢野倉涼子が叫んで手を振った。
牧野香織が黒いフレアのロングスカートを不器用にはためかせ、いかにも]所懸命に
横断歩道を渡ってこっちへ駆けてくるところだった。その格好はカジュアルな矢野倉涼
子とは対照的に見事なまでのお嬢様スタイル。パリッとしたべージュのジャケットの中
に白いふわふわしたハイネックを着ている。
「もお、遅いよ、香織。みんな待ってたんだからね」
「ごめんごめん。途中でお財布《さいふ》忘れちゃって、取りに帰ってたら、遅れちゃって」
牧野香織は息を弾ませて駆け寄ってきた。本当に急いできたらしく頬が上気している。
「あ、真山くん……」
牧野香織はカンナより早く僕に目をとめ、かすかに怯えたような眼をした。
その一瞬、僕は妙な違和感を感じた。綺麗すぎるのだ。確かに牧野香織は学校でも目
立つお嬢様タイプの美人だが、今日はなにか違う。妖艶《ようえん》なオーラというか、妙な色気が
身体や瞳の奥から滲《にじ》んでいる。
「ごめんね、なんかわたしのほうから頼んでおいて、遅れちゃって」
「あ、べつに、そんなことないさ」
僕はあわてて笑った。
「オレもカンナも今来たところだったし」
「よかった! わたしだけ置いてきぼりにされたら、どうしようかと思っちゃった」
気のせい、だろうか?
「……なあ、牧野ってあんな綺麗だったっけ?」
ヨシノリが耳元で囁《ささや》いた。こいつの勘はこういうときは当てになる。
「もしかして、あれか? オンナになったってヤツか?」
まあ、そういう考え方もできる。僕は妙な胸騒ぎを覚えつつ、ヨシノリの注意が牧野
香織に分散されたことにひとまず安堵した。
「イヤ!」
突然、カンナの声がした。同時にパンと手をはねつける音。
目を向けると、カンナの前に牧野香織が気まずそうな顔をして立っている。
「ど、どうしたの? カンナちゃん」
矢野倉涼子が困惑した笑みを浮かべて、カンナの前にしゃがみ込んでいる。
「カンナ?」
カンナがハッと僕のほうを見た。すがるような目。大きく見開かれた瞳が震えていた。
「……どうした?」
僕はその目を探るように見つめた。カンナは何かを訴えるように僕の目を見つめたま
ま、ごくりと喉を動かし、それから、ぎこちなく笑って首を振った。
「ううん、なんでもない。ちょっと、お姉ちゃんに突然、声かけられて、びっくりしち
ゃっただけ」
どうやら牧野香織がカンナに挨拶《あいさつ》しようとして、カンナがびっくりしてさっきの悲鳴
をあげた、ということらしかった。
「あ、なーんだ、そうだったの」
矢野倉涼子がホッと胸をなで下ろし、立ったままの牧野香織に笑いかけた。
「そういうことだってよ、香織。よかったね」
牧野香織も強ばった顔をようやくゆるめ、泣き出しそうな口で微笑した。
「……よかった。わたし、嫌われちゃったのかと思った」
「あ、ごめんなさい。カンナ、お姉ちゃんのことぜんぜん嫌いじゃないですよ」
カンナは牧野香織の前に駆け寄って、にっこり笑いかけた。
僕はどこかスッキリしない気分で、かわいそうなほど萎縮《いしゅく》してしまった牧野香織を眺《なが》
めた。そのとき、チリチリッと眼の奥に無数の棘が突き刺さったような痛みが生じた。
「う、あ……ッ!」
眼を覆い、しゃがみ込んだ。視界が赤黒く明滅する、眼球が焼けるように熱い。
「カズシ!」
カンナが誰よりも早く飛びついてきた。
「どうしたの、カズシ! ねえ! どうしたのよ!」
小さな手が肩を揺さぶる。
痛みはすぐに収まった。砂埃《すなぼこり》か何かが入ったのかもしれない。
「悪い……。なんか、目に入ったみたいで」
僕は頭を軽く揺すって何度か目を瞬《まばだ》きながら立ち上がった。
「もお、心配させないでよね。何考えてんのよ、馬鹿カズシ!」
カンナが一瞬いつもの調子で僕の脚を蹴飛ばした。
みんなが呆気にとられて、僕とカンナを見つめた。
「あ……」
カンナはギクリと顔を強ばらせ、振り返って、にこやかな笑顔をとりつくろった。
「も、もお、カズシおにーちゃんったら、いつもこんな調子なんです。カンナ、やんな
っちゃう」
僕らの一群は、遊園地の中で一際《ひときわ》目を引いた。
矢野倉涼子と牧野香織だけでもアイドル顔負けの美入なのに、それを遙かに上回るカ
ンナが真ん中になって三人固まって歩いているのだ。遊園地中の男どもの羨望《せんぼう》と嫉妬《しっと》の
的《まと》になっているのは間違いなかった。
僕だってこのグループに属していなければ、きっと立ち止まってこのグループを凝視
してしまうことだろう。そして、そこにいる男がどの程度のものか自分と引き比べてみ
るに違いなかった。当然、僕とヨシノリもそんな視線にさらされていた。
「なあ、カズシ、オレらってすごくねーか。羨望の的ってヤツだぜ」
ヨシノリは周りの視線など意に介《かい》さず、本気で誇らしげに笑う。
「なーんか気分いいなあ、おい。世界はみんなオレのものって感じじゃねーか」
「すごいな、おまえ……」
「なんだよ、また嫌味かよぉ」
「いや、マジでさ。すごいよ」
こいつはもしかしたら、カメラマンとして本当に大成するかもしれない。
「でもよ、今日の牧野のヤツさ、なんか、こうグッとくるよなあ」
ヨシノリは後ろから、牧野香織の後ろ姿に執拗《しつよう》な視線を這《は》わせる。
確かにヨシノリの言うとおり、今日の牧野香織は、やっぱり綺麗すぎる。二大美女の
片割れ矢野倉涼子に一馬身くらい差をつけた感じだ。オンナは男を知るとそんなオーラ
が滲み出るものなのだろうか。そう考えると、カンナがそうなったときには、どんな恐
ろしいオンナに変化するのだろう。あるいはカンナのようなタイプは逆に、フツーの女
の予に落ち着くのだろうか……
僕は二人の真ん中でにこやかに笑顔を振りまくカンナを見つめてぼんやり思った。
その日は、僕の予想を裏切り、恐ろしくなごやかに時が過ぎていった。
カンナは年上のお姉さん二人にしっかりとなつき、可愛らしい親戚《しんせき》の子供みたいな役
柄を完漿に演じていた。あるいは遊園地に入って気が変わり、本当に楽しんでいるのか。
カンナは牧野香織より矢野倉涼子のほうが好みらしく、ほとんど涼子と手をつなぎっ
ぱなしという状態だった。僕はそんなカンナの様子を後ろから興昧深く眺め、ヨシノリ
は蠅《はえ》みたいに三人の周りを飛び回って写真を撮りまくっていた。とにかく、そんなふう
に恐いほど平和なグループデートの模範のようだったのだ。
でも、そのうち、妙なことに気づいた。昼近くにお化け屋敷へ入ったとき、僕はそれ
に初めて気づいた。お化け屋敷に入る直前までは、カンナは妙にはしゃいでいたのに、
中に入った途端《とたん》、じっと足下を見つめ、ほとんど周囲を見ようとしないのだ。矢野倉涼
子に手をつながれたまま、ただ、自分の足先を凝視して、テクテクと歩き、そのまま外
へ出てきてしまった。たぶん、僕しか気づいていなかった。
「ああ、馬鹿にしてたけど、けっこう怖かったねー。カンナちゃん怖くなかった?」
矢野倉涼子が興奮して言った。
「うん、怖かった。カンナ、怖くて顔上げられなかった」
カンナは笑ってそう言った。
金曜はあんなに平気ではしゃいでいたのに、どうしてそんなことを言うのか僕には理
解できなかった。最初は、今日はそういう気分なのかもしれないと思っただけだった。
けれども、その不可解な行動はその後も続いた。
乗り物に乗るとき、二人乗りの座席では最初に涼子とカンナが座り、僕は遠慮してヨ
シノリと牧野香織がそれに続いて座ることが多かった。実際、金曜に乗りつくしてしま
ったせいか、ライドものは食傷気味で、外側からカンナの様子を見ているほうが気が楽
だった。そうして気づいたのだが、タコのお化けのような回転する乗り物でも、カンナ
はそれが回転しはじめると、ぎゅっと目を閉じて顔をふせ、最後までそのままでいるの
だった。あれじゃあ、何も見えないし、楽しくない。
……あいつ、なにやってんだ?
僕の不可解な気持ちはそんなカンナを目にするたびにつのった。
「ふふ、真山くんて、ずっとカンナちゃんばっかり見てるんだね」
昼飯の場所を探して歩きはじめたとき、牧野香織が隣に来ておかしそうに笑った。
カンナは涼子と姉妹みたいに寄りそい、その前でヨシノリがカメラを構えている。
「なんか、恋人を見てるみたいな眼だよ」
「まあ、一応、保護者の立場があるからな」
「ふーん、そうなの?」
ちょっと首を傾げて、横からからかうように僕の顔を覗き込んできた。
「あのな。他になにがあるって言うんだよ。オレはヨシノリと違ってロリコンの趣味は
ないさ」
「ホントに?」
間近にあった牧野香織の大きな目と視線がぶつかった。その瞬間――
――え?
ずくん、と頭蓋骨《ずがいこつ》の中で脳が大きく脈打った。視界がぶれた。牧野香織の顔が何重に
もだぶって見えた。僕はとっさに目を閉じ、頭を揺すった。頭の芯《しん》がぐらぐらする。
「どうしたの? 真山くん、大丈夫?」
牧野香織の心配そうな声がした。
「いや、ちょっと、立ちくらみしただけだから……」
僕は思わず、牧野香織の肩に片手でつかまった。
――え?
ぞくり、とその手から冷気のようなものが流れ込んできて背筋が寒くなった。
「あ、ご、ごめん。もう大丈夫だから」
僕はあわてて手を離した。しまったと思った。
カンナが顔半分振り返って、僕を見ていた。目の奥に剣呑《けんのん》な光がある。
僕はため息をついて、カンナに首を振ってみせた。
「立ちくらみだよ、立ちくらみ」
情けないかな言いわけするように言ってしまう。
「お姉ちゃん」
とカンナは隣の牧野香織を見てにっこり笑った。
「カズシおにーちゃんって身体弱いから、気をつけてあげてくださいね」
「あ、うん。わかったわ。気をつける」
牧野香織は真に受けて真顔でうなずいた。
カンナは一瞬、僕に鋭い目を走らせ、ツンと前を向き、これ見よがしにカメラを構え
たヨシノリに愛想を振りまいた。
「あ、もしかして、カンナちゃん、やきもち妬《や》いちゃったのかな」
牧野香織が妙にうれしそうに笑った。
「そんな可愛らしいものじゃないさ。女王様のプライドってヤツだな」
僕はため息をついて苦笑した。それから牧野香織の肩に触れた左掌をそっと見つめた。
……あれはいったいなんだったのだろう。
僕らはけっきょく、金曜に入ったのと同じピザショップで昼食をとることにした。
店内は金曜とはうって変わり大学生や高校生のグループやカップル客で賑わっていた。
窓際の四人がけのテーブルにかろうじて空席を見つけ、そこに陣どった。
向こうにカンナと矢野倉涼子が並んで座り、こちら側に僕と牧野香織が並び、ヨシノ
リは右側のコーナーに新たな椅子を持ってきて座るという配置になった。
「なんだよ、なんかオレだけおまけみてーじゃねーの?」
ヨシノリは両脇に座った僕らを見て、口をとがらせた。
「いーのよ、前島《まえじま》は今日はカメラマンなんでしょ? そこからなら、誰だって撮れてい
ーじゃない?」
矢野倉涼子が笑って言った。
「ばーか、誰だってじゃねーよ、オレが今日撮りたいのはカンナちゃんだけなの」
言ってヨシノリは僕を見て手を合わせる。
「なあ、カズシ、席代わってくれよお。おまえ、いつだってカンナちゃんの顔見れるだ
ろ。な、このとーり。お願い!」
確かにヨシノリの気持ちもわからないではない。
「しょーがねーな」
「ホントか!」
「ダメ!」
立ち上がりかけた僕を意外なほど強い声で、涼子が押しとどめた。
僕は驚いて涼子を見た。
「真山くんはそこでいーの。だいたい、正面で前島がカメラ、パシャパシャやってたら、
カンナちゃんだって落ち着いて食べられないじゃない。ね? カンナちゃん」
「なんだよ、それ、おまえ、なんかひどくない?」
ヨシノリは本気で不機嫌そうに言った。
「前島もカメラ撮りたいんなら、そこから撮ればいーじゃない」
一応、理屈はとおっているが、涼子の態度は妙に頑《かたく》なだった。
「あ……あの、じゃあ、前島くん、わたしと代わる?」
牧野香織がおずおずとヨシノリに言った。
「え、ホント? マジでいいの?」
「ダメだよ、香織……」
じっと怖い目で涼子が牧野香織を牽制《けんせい》した。
「あ、う、うん……」
牧野香織は顔を赤らめてうつむいた。
「なんだよ、なんで涼子が仕切ってんだよ。わけわかんねーぞ?」
ヨシノリは怪訝《けげん》な目をして僕を見た。僕は首を傾げた。確かに、わけがわからない。
「ほらほら、早くオーダーしようよ。カンナちゃんなんにする?」
欠野倉涼子がメニューを広げて、さっさと話題を切り替えた。
けっきょく、僕らはそのままの席で、昼食をとった。
ヨシノリも最初こそ不機嫌そうだったが、食事をはじめてしばらくするとすっかり写
真を撮るのに忙しくて、忘れてしまったようだった。どちらにしても、ヨシノリは立ち
上がってテーブルの周りを動き回って撮っていたので、席なんてあまり関係なかったの
だ。だから、まあ、この配置は正しいと言えば正しかった。
「ああ、もお、前島、写真撮りすぎ、顔の周りでパシャパシャやらないでよ」
矢野倉涼子はピザを食べながら、蠅を払うように乎を振った。
「うっせーなあ。だったら、おまえ、席代われよ。だいたいさ、おまえばっかし、さっ
きからずっとカンナちゃんの隣じゃねーか。なんか、ずるくない?」
この指摘には、矢野倉涼子もちょっとギクリとしたようだった。
「い、いーじゃない。カンナちゃんにだって選ぶ権利はあるんだからさ。前島は写真が
撮れればいいんでしょお」
「牧野はどーなんだよ? おまえばっかし、独り占めして。友情ねーな」
「香織は違うもん」
「りよ、涼子」
牧野香織があわてて口を挟んだ。
「なにが違うんだよ?」
ヨシノリがさらに問いつめる。
「もお、いちいち訊かないでよ。前島にはカンケーないこと」
ばっさり言って、矢野倉涼子は苛立《いらだ》った様子でピザを頬ばった。
なんだか不可解な空気がある。
僕は正面のカンナに目を移してさらにギクリとした。
カンナはまた、剣呑な目をして、僕の隣でうつむいた牧野香織を見ている。
いったい、なにがどうなっているのか?
僕はため息をついて、ピサを手に取り、かじりついた。
ゴツン、と脛《すね》に鋭い痛みが弾けた。
「イッ……!」
僕は思わずうめいて、身体を折り曲げ、テーブルの下で脛をさすった。
「真山くん、どうしたの?」
隣から、牧野香織が驚いたように言った。
「あ、いや……」
「ホント、どーしたの、カズシおにーちゃん?」
正面でカンナが目を丸くする。その目の奥に悪魔の光が煌《きら》めいた。
僕はわけがわからず、カンナの目を睨みつけた。
カンナは「ばーか」と口だけ動かして言って、ツンと窓の外を向いてしまった。
そんなふうに不穏《ふおん》な昼食が終わり、会計をヨシノリにまかせて僕はトイレに向かった。
小用をすませて、トイレから出ると、女子用から出てきた涼子とはち合わせした。
「悪いな、今日は、すっかりまかせちゃって」
僕は社交辞令的に礼を言った。
「ぜんぜん。もお、わたし夢みたいな気分だもん」
涼子は笑って目を輝かせた。僕が笑ってそのまま立ち去ろうとすると、
「あ、ちょっと真山くん、待って」
涼子がさっと会計のほうに視線を走らせて呼び止めた。
「ちょっと、こっち来て」
トイレのドアがある奥まった場所に引き戻す。
「なんだよ?」
怪訝な日を向けると、涼子は目を輝かせ、なにやら意昧深《いみしん》に声をひそめた。
「ねえねえ、真山くんってさ、彼女いるの?」
「はあ?」
「いーから、教えてよ。あ、勘違いしないでね。わたしじゃないから」
「なんだよ、わけわかんねーぞ」
「もお、だからあ、香織のことどう思うかって訊いてるのよ」
「は?」
「なによ、マジでまだ気づいてなかったの?」
矢野倉涼チは苛立ったように眉をひそめた。
「香織はね、今目は、ホントはカンナちゃん目当てじゃないんだからね。カンナちゃん
目当ては、わ・た・し・だ・け。わかる? この意昧?」
「え? ど、どういう……」
言いかけて、ようやく言葉の音心味に気づいた。
「うそ……」
「なんでわたしが嘘つかなきゃなんないのよ。あの子、一年の時からずっとなんだから
ね。でも、真山くんが夏にカンナちゃんを連れてきてから、急に萎縮しちゃったのよ。
まあ、気持ちはわからなくはないけどさ。もおカンナちゃんったらカワイすぎるもんね
え……あ、違った。だから、とにかく、香織は今日、真山くん目当てなの。わかる?」
「そんな、急にいわれても……」
僕はあまりに不測の事態にかなり大きく動揺した。
「それとも、香織じゃ不満があるっていうの?」
涼子は脅すような目で見つめる。こういうときの女の友情は始末におえない。
「だって、なんで、オレなんだよ?」
相手は曲がりなりにも学校の二大美女の一人だぞ。もう片方はおまえだけど。
「そんなのわたしが知るわけないじゃない。本人に訊きなさいよ」
「なあ、おい、ちょっと待てよ」
こんな話を聞かされたあとで、どうやって牧野香織の顔を見たらいいのか。
「いい? 香織ってすんこいイイ子なんだからね。あんなに可愛いのに、まだ誰とも付
き合ったことないんだから。あの子を傷つけるようなことしたら、たとえカンナちゃん
のお兄さんでもわたしが許さないからね」
「いや、オレはあいつのお兄さんじゃないけど、でもさ――」
「うだうだ言わない。とにかく、乗り物は苦手でも、前島なんか隣に座らせてないで、
たまには一緒に乗ってあげなさいよ。いい? わかった?」
反論を許さない目で強く睨みつけ、一人でうなずいてさっと背を向ける。それから、
歩きかけてあわてて振り返り言いそえる。
「あ、それから、今の話、聞かなかったことにしてよね。わたしが言ったなんて知った
ら、わたしたちの友情が台無しだからね。フツーにしててよ、フツーに」
恐ろしく身勝手な論理。これだけ聞かせて、聞かなかったことにしろ?
「じゃ、わたし、先に行くわよ。がんばってね」
しゅた、と手を挙げ、矢野倉涼子は大役をすませたとばかりに駆けだした。
「カンナちゃーん! さ、今度はどこいく?」
矢野倉涼子の猫なで声を遠くに聞きながら、僕は憂鬱《ゆううつ》な気分に帰りたくなった。
意識するなというのが無理な話で、レストランを出てからというもの僕の気持ちは恐
ろしく硬直してしまった。
突然、愛想よく話しかけるのも相手の気持ちを逆手《さかて》にとっているようで気が引けるし、
かといって、さっきまでのように無関心にふるまうのも、なんだか失礼な気がした。
それにしても、なんで僕なのだろう、と僕は歩きながらまたため息をついた。
牧野香織レベルの女の子なら、言い寄ってくる男は星の数ほどもいるはずで、やはり
それはにわかには信じがたい話としか思えないのだ。だいたいこの二年間、僕らは学校
でまともに話したことすらない。もちろん僕は彼女を知っていたが、彼女が僕のことを
知っていたというだけで僕はけっこう驚いていたのだ。そんなほとんど町中ですれ違う
他人同然の間柄で、彼女は僕のなにに好意を持ったというのだろう。よ」
そんなふうに心の裡《うち》ではさまざまな葛藤《かっとう》を抱えながらも、僕はけっきょく、端《はた》から見
れば昼飯の前と何一つ変わらない行動をとり続けるしかなかった。
当然、ヨシノリに隣の席を譲るたびに、矢野倉涼子が僕のほうに恐ろしく怒りに満ち
た目を向けてくるのだが、でも、まあ、彼女の親友にとっても、早く妙な勘違いから目
を覚ましてもらったほうが親切というものだった。
それに、彼女たちには悪いけれど、今の僕はカンナの奇妙な行動のほうが気にかかっ
ていた。なにしろ、その後もカンナはほとんどのアトラクションで目を閉じっばなしだ
ったのだ。大好きだった落下マシンも席に座るやすぐに目を閉じてしまい、墜《お》ちてきて
もそのままだった。あれでは、逆に怖すぎる。
そうして、ちょうど行列があいた隙を狙ってジェットコースターに乗ったとき、僕の
疑惑は確信に変わった。
僕は目眩《めまい》がするのを理由に四人を見送り、外側からその様子を眺めていた。するとま
た、カンナは矢野倉涼子に連れられて隣に座るやぎゅっと目を閉じ、バーをつかんで顔
をふせてしまったのだ。まるで嫌なものを見ないようにでもするように。
あいつは、ジエットコースターが大好きで、一番前に座りたがったくらいだったのだ。
……いくらなんでも、おかしすぎる。
僕は目の前を通りすぎる妙に痛々しいカンナの姿をぼんやり眺めた。
「ああ、やっぱさあ、ジェットコースターってスッキリするよねえ!」
矢野倉涼子が両手を上に伸ばし、爽快《そうかい》な顔をしてステップを降りてくる。
「あ、でも、カンナちゃん、ずっと目をつむっていたでしょお? もしかして怖かった?
それとも、ち.出っと疲れちゃったかな?」
「え?」
カンナは矢野倉涼子にふいに言い当てられてギクリと動揺した。
「あ、えと、そんなんじゃないけど……」
「え? じゃあ、どうして目をつむってたの?」
矢野倉涼子はきょとんとして聞き返した。
「あ、えと……その……」
めずらしいほどしどろもどろになってうつむいてしまう。
「そんなんじゃ、ないんだけど、あの……ごめんなさい」
カンナは唇を噛《か》み、何かをこらえるように目を閉じた。
「あ、いいのよ、もお、ごめんね。わたしなんにも気にしてないから」
矢野倉涼子のほうがあわててあやまった。
僕はカンナのその様子に妙な罪悪感のようなものを覚えた。
そうして、僕がその自分のあまりの無神経さと馬鹿さかげんをようやく思い知ったの
は、日が沈みかけ、最後に大観覧車に乗ろうとしたときだった。
「ちょっと、真山くん、こっち来なさいよ」
カップル客で賑わった長蛇の列に並んでいると、突然、矢野倉涼子が僕の腕を引っぱ
って、ズンズンと少し離れた場所まで連れていった。言いたいことはわかっている。
「もお、ちょっと、どういうつもり?なんにも進歩ないじゃない」
「だって、矢野倉、フツーにしてうって言っただろ」
「それとこれとは別でしょ?」
「いや、でもさ、そう一足飛びに進歩するのも、なんか、その、不自然じゃないか?」
とりあえず言いわけをしてみる。矢野倉涼子は急に真剣な目をする。
「そうかな? わたし、真山くんの態度観察しはじめて、ちょっと気づいちゃったけど、
真山くん、さっきからずっとカンナちゃんしか見てないじゃない?」
ギクリとした。女の目はいったいどこについているのだろう。
「あのな、オレは一応、あいつの家から直接預かってきた保護者なんだよ。だから、あ
いつのことを心配するのは当たり前だろ」
「わたし、そういうのとちょっと違うと思う」
矢野倉涼子はキッパリと言った。僕は大きくため息をついた。
「だったら、なにを言いたいんだ? オレがロリコンであいつにへんな気持ちでも抱い
てるって三口いたいわけか?」
「わたしは、べつに、そういうこと、言ってるわけじゃ、ないけどさ……」
僕に強く切り出されて涼子のほうが失速した。
「でもさ、だったら、香織の気持ちももう少し考えてあげてもいいじゃない。真山くん
てなんかわたしが思ってたより、冷たい」
ふてくされた子供みたいにロをとがらせる。
「悪いけど、オレは今、カンナの態度のほうが気になるんだ」
僕は正直に告白した。そう、思い返してみれば、午前中からずっとそうなのだ。お化
け屋敷でも、ジェットコースターでも、メリーゴーランドでも、パラシュートの落下マ
シンでも、あいつはずっと目を閉じていた。いくらなんでもおかしい。
「……気になるって、なにが気になるのよ?」
矢野倉涼子が不安な目をして聞き返した。何か自分に落ち度があったんじゃないかと
心配になったのかもしれない。
「あ、いや、べつにおまえのせいとかじゃなくてさ」
僕はあわてて言いそえたがうまく説明できなくて、言葉をにごしただけだった。
「その、ただ、ちょっと気になるだけなんだけど……」
「それって、真山くんの思いすごしじゃないの? 真山くん以外の人間といて自分が知
らないカンナちゃんを見てるから、そう思うだけだとわたしは思うな」
もちろん、その可能性は大いにある。
「もお、可愛いからって、あんまり過保護にしてると、ダメだぞ」
涼子は話の決着はついたとばかりに僕の腕を叩いて笑った。
「まあ、そうかも、しれないな」
僕は同意するしかなかった。
「じゃ、とにかく、最後くらいは香織と観覧車乗ってあげてよね。これはわたしからの
お願い。わたしはがまんして前島と三人で乗るからさ。ね?」
両手を顔の前で合わせ、じっと仔犬みたいに僕を兄つめる。
「……わかったよ」
僕は力なく微笑んでうなずいた。
「ホント! よかったあ。じゃ、あとはわたしがうまくやるから、お願いね」
身を翻し、列へ駆け戻っていく矢野倉涼子の背を見て、僕はまたため息をついた。
「さ、カンナちゃん、もうすぐだよ」
矢野倉涼子がカンナの肩を軽く抱いて、前へ進んだ。
そうして、列の外側からチラッと背後の僕に目くばせをして、軽くウィンクした。
僕は小さくため息を吐いて、目を閉じ同意した。
長かった列も、ようやく次の一巡で僕らの番がやってきそうな位置まできていた。
矢野倉涼子が彼女なりにうまくやった結果、涼子たち三人と僕と牧野香織の間には五
組ほどのカップルが挟まっていた。
こんなみえみえなことをされたら、牧野香織だって困るだろうと思ったのだが、彼女
はどういうわけか、何も言わなかった。僕らはお互いに気まずくて黙っていた。
僕はこのまま牧野香織と観覧車に乗り込み二人きりの時間をすごすことを想像して、
気が重くなった。彼女には本当に失礼な話だと思うが、しかたない。
たとえ相手が牧野香織だろうと、こんな形で無理矢理くっつけられるのは、やっぱり
余計なお世話だという怒りがある。というのは建前で、本当の理由は、それだけじゃな
い。これはあまりに失礼すぎて彼女自身にはもちろん、彼女の親友である矢野倉涼子に
も言えないが、彼女と密室で二人きりになるのが、怖いのだ。なぜだか……
「どうしたの? 真山くん、また気分でも悪いの?」
牧野香織が心配そうに囁く声に、僕は目を開け、あわてて笑みをとりつくろった。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してて……」
「あの、無理しないでね。気分悪かったら、わたし、やめてもいいんだよ」
牧野香織は気遣うように上目遣いに僕を見た。その目は本気で心配している。
「あ、ホントに違うんだ」
僕は口に手を添え、声をひそめてみえみえの嘘をついた。
「ここだけの話、昨日の夜中、オヤジの車勝手に釆って、擦《こす》っちゃったんだ。そのこと
考えてたら、憂鬱になっちゃって……」
「え? じゃあ、今日一日、なんか黙ってたのって、そういうことだったの?」
牧野香織はびっくりしたように目を丸くした。
「あ、まあね……」
僕は目をそらしてうなずいた。
「うそ……」
牧野香織は安堵の息をもらし、目元を細めて笑った。
「……なんだ、そうだったんだ……。よかった……」
その目に急に涙が溢れた。僕はドキリとして息を呑んだ。
牧野香織はあわてて指先で目頭を押さえて、精一杯の微笑を浮かべた。
「あ、ごめんね。わたしね、てっきり、真山くん、わたしのこと、迷惑なんじゃないか
って、思っちゃって……なんか、避けられてる感じだったから……」
押さえた指先を涙が伝って、頬にこぼれた。
胸がぐっと締めつけられた。牧野香織がこれほど思いつめていたとは予想外だった。
そして、その表情には、さっきまで感じていた怖さなんて微塵《みじん》もなかった。
僕はそんな曖昧な感覚のために、今日一日、彼女をこんなに不安にさせていたのか。
そう思うと、ほとほと自分が嫌になった。
「その……悪かったな」
僕は自分の足先を見つめて言った。
「オレ、もともとそんなに話すのとか、あんまりうまいほうじゃないから……」
「ううん、わたし、知ってるんだ。ホントは涼子から何か言われたんでしょ?」
牧野香織は涙を指先で弾いて、悪戯《いたずら》っぼく笑った。
「あ、いや、べつに……」
僕は返答に詰まった。
「いいの、隠さなくたって。涼子ってわたしのことになると、昔っから、すごいおせっ
かいで、いつもああなの。わたしが、しっかりしてないからなんだけどね。だから、余
計にうざったく思われてもしかたないなって思ってたの」
牧野香織はテヘッと可愛らしく笑った。僕はその一言ですっかり顔を上げられなくな
ってしまった。今、牧野香織本人が涼子の話は嘘ではないと認めてしまったのだから。
「あ……」
本人もようやくそのことに気づいたようで、うつむいて耳まで真っ赤にした。
「え、と……」
僕は小さく咳払いして、視線をさまよわせ、なんとなく観覧車を見あげた。
「観覧車、ちょっと、楽しみだな」
思わずそう言っていた。牧野香織を本気で可愛いと思った。
目の端で、牧野香織が真っ赤になってうつむいたまま、小さくうなずくのが見えた。
僕はさっきまでとは違った緊張に掌《てのひら》が湿るのを感じてジーンズに擦りつけた。
観覧車から次々に客が降りてきて列が縮むと、その緊張はさらに高まった。
「じゃ、カズシ、先行くそお!」
ヨシノリがこれ見よがしに振り返って、嬉々《きき》として笑った。
僕は他人のフリをして、目をそらした。
そうして、次々にカップルが乗り込み、涼子たちがステップをLがろうとしたときに、
それは起こった。
ざわざわと列の前方がざわめいた。
僕は嫌な予感を感じて、背伸びをして、前方を見た。
カンナが立ち止まっていた。
「どうしたの? さ、行こう、カンナちゃん、ね?」
涼子があわてて手を引こうとするが、カンナはうつむいたまま頑《がん》として動かない。
「ね、どうしたの? 乗りたくないの? ね?」
涼子は列の後ろを気にしながら、狼狽《ろうばい》してカンナの前に屈み込んだ。
カンナはうつむいたまま身体の両脇でじっと手を握りしめていた。
「あの、乗らないんですか?」
係員が苛立《いらだ》ったように声をかけた。
「ちょっと、すみません、あの……ちょっとだけ、待ってください」
ヨシノリがおろおろと言いわけをする。
後ろに並んだカップルからこれ見よがしなため息がもれた。
「おいおい、お子ちゃまかよ。じょーだんじゃねーよ……」
「何考えてんだよ、連れて帰れよぉ……」
「乗らないなら、並ばなきゃいいのにさ……」
カンナは身動きひとつせずじっとその罵声《ばせい》を背中に受けている。
「ま、真山くん……」
牧野香織が不安げに僕の腕につかまった。
「おい、帰れよ!」
ふいに列の中からガラの悪いヤンキー風の連中が叫んだ。
「そうだよ、どけよ!」
また誰かが叫んで、げらげらと嫌な笑いがわき起こった。
「カンナ……」
思わず僕が駆け寄ろうとしたそのときだった。
「……もお! やめたッ!」
カンナの金切り声が、カッターナイフの刃のように飛んできた。
「あーん、なにがやめたのお?」
「お嬢ちゃん、みんな並んでるんでちゅよお」
「みんなの迷惑考えましょうねえ」
「勘弁《かんべん》してくれよお」
「乗らないなら、どいてよねえ」
後ろに並んだガラの悪いグループから、またヤジが飛んだ。
「……るさいッ!」
銀灰色の髪が大きな弧を描いて翻《ひるがえ》った。振り向きざま、カンナの怒声が炸裂《さくれつ》した。
「あんたたちこそ黙ってなさいッ! あたしは今大事な話をしてんだからあっ!」
ビリッ!と強烈な電撃のようなものが群衆を打ちすえた。
綺麗さとは、凄《すご》みだ……
と、誰もが思い知らされた瞬間だった。
その子が泣いているとなればなおさら……
誰もが、黙ってしまった。口をつぐまされてしまった。まさに女王の覇気だった。
そして、その苛烈《かれつ》な瞳は、割れた人混みを抜け、今まっすぐ僕に向けられていた。
「カズシ!」
カンナはその瞳に凄《すさ》まじいまでの怒りを込めて僕を見すえた。
「カズシは、ホントにバカなの? なんで最後までわかんないのよっ! あたしが子供
だからってバカにしてんの?」
カンナは檸猛《どうもう》な肉食獣のような目をして髪を振り乱した。
「あたしの金曜日はね……」
肩で息をして、すっと息を吸い込む。
「あたしの金曜日は……!」
その怒りに満ちた大きな目から涙がどっと溢れた。
「観覧車乗るまで終わらないんだからあっ!」
ぶわっと熱い風が吹き抜けた気がした。
僕はそのときようやく、カンナが今日一日目を閉じていた理由に思い至った。
そういう、ことだったのか……
僕は思わず苦笑して目を閉じた。胸が熱くなった。
「カズシはあたしが好きなんでしょ……! メロメロなんでしょ……! あたし、ぜん
ぶわかってんだから! 最後くらい、ハッキリさせなさいよっ!」
まったく、公衆の面前で、すごい言われようだ……
カンナは突然、牧野香織を睨みつけて人差し指を突きつけた。
「あんたなんかにわたさないっ! カズシはあたしのものなんだから! 気やすく手を
出さないで!」
「ま、真山くん、な、なに、あの子、あの……」
牧野香織は完全に怯《おび》えた顔で、僕にすがりついた。
勝負はついた。
「ごめん、牧野さん……」
僕はカンナの目を見つめたままこみ上げてくる笑いをかみ殺した。
「オレ、先約あったんだ」
僕は列をかき分けて、カンナの前までたどり着いた。
カンナはじっと僕の目を睨みつけていた。
「悪かった」
僕は素直に笑った。
「乗ろうぜ、観覧車……」
カンナはキッと僕を強く睨みつけ、それから無造作に腕を組んだ。
「あったりまえでしょ! 行くわよ!」
僕の手を引いて、ステップを上がった。
「ほら、乗るわよ! さっさと出発させなさいっ!」
係員を怒鳴りつけ、どかんと観覧車に乗り込んだ。
係員は呆気にとられたまま、ドアを閉めた。
ぐらんと観覧車が揺れた。僕は座席に座って思わず吹きだした。
「おまえって、やっぱり、すごいんだな」
「い……いいかげんにしてよね! なんであたしにあんなことさせるのよ!」
カンナはうつむいた顔を真っ赤にしたままダンと足を踏み鳴らした。
「いや、なかなか格好よかったぞ。マジでさ」
僕は笑って言った。
「そういう問題じゃないでしょ! ちゃんと聞きなさいよ! まったく、いつ気づくか
と思ってたら、けっきょく最後まで――」
「なんだよ、おまえ見ないのか? すげえ綺麗だぞ」
僕は座席に寄りかかって、カンナの頭越しに外の景色を見て目を丸くした。
「おお、うわあ、すっげー」
「ちょ……」
言いかけて、カンナはがまんしきれずチラッと後ろの窓へ眼を向けた。
「あ……」
夕陽が黄金色に輝いて、空を熔けた金属みたいに輝かせていた。
光の筋が束《たば》になって放射線状に押し寄せてくる。
「う、わあ……」
金色に染まった横顔からため息がもれ、みるみる歓喜の表情が広がった。
誘われるように後ろを振り返り、向かいの座席に歩み寄った。
「……すごぉい、綺麗」
カンナは座席に膝立ちになって窓にへばりつき、しばらくその景色に見とれた。
観覧車が頂上にさしかかったあたりで、僕はようやくそっと安堵の息を吐いた。
「なに、安心してんのよ」
カンナが背を向けたまま、目ざとく言った。
「あ、いや、安心したわけじゃないさ。ただ、まあ、なんとなく……」
「ふん……、まあ、九回裏二死満塁で振り逃げってとこね」
カンナは言って、こちらを向き、脚を前に放り出して座った。
「なんだよ、振り逃げって」
「なによ、ホームランなんて格好いいものじゃなかったでしょ」
「あ、そーかよ」
僕はどしんと背もたれに背中をぶつけた。
ぐらんと観覧車が大きく揺れた。
「や、やめてよね、揺らさないでよ!」
カンナの顔が青くなった。僕は笑って、左手に広がる町の景色を見つめた。
「……悪かったよ」
僕は二口った。心の底からそう思った。
「ディズニーランドにすれば、よかったな」
「ふん」
カンナは少し照れくさそうに同じ方向に視線を投げ出した。
「今さら、気づいても遅いわよ。もう一回、ちゃんと連れてきてよね。あたし、今日な
んにも見てないんだから」
「わかった。約束するよ」
カンナの横顔が、夕陽に赤く染まっていた。
肩口から胸元に垂れた銀灰色の髪がベルベットのドレスの上で、金色にキラキラ輝い
ている。遠くビルの窓が夕陽を反射して眩《まばゆ》く光っていた。
「だいたいね、カズシはオンナを見る目がないのよ」
カンナはぶすっと言って、流し目をくれた。
「おまえさ、べつに彼女を悪く言うこともないだろ?」
言うと、カンナはキッと僕を正面から見すえる。
「あたしだって言いたかないわよ! でも、感じるんだもん! しかたないでしょ!」
「……感じるって、なにをだよ?」
僕は胸の奥がざわめくのを感じて、低く聞き返した。
「なにをって……そんなの、わかんないわよ」
カンナは急に自信を失ったように語尾をすぼませ、床に目線を落とした。
「……ただ、なんとなく、怖いのよ。触られたときも、なんか、寒気がしてさ」
「え?」
「と、とにかく、あのオンナは危険よ。あたしの直感がそう告げているの」
僕が硬い表情をして黙り込んでいると、カンナは怪詞そうな目をした。
「なによ、言い返さないの?」
「オレも、なんか、怖かったんだ」
僕はカンナの目を見て真剣に言った。
「勘違いだと思ってたんだけど、でも、ずっと彼女が、怖かった」
僕は床に目線を落として、両手を組み合わせた。
「学校で見てたときと、なんか雰囲気が違ってたし……。それに、彼女に触れたとき、
おまえと同じように、なんか、ぞくっと寒気がした」
「うそ……カズシも感じたの?」
カンナは目を丸くした。
僕は目線を上げ、カンナの目を見つめたまま小さくうなずいた。
僕らはお互いの目の中に同じものを確認して、背筋が寒くなった。
すっと観覧車の中の温度が下がったような気がした。
カンナの顔に不安と怯えが薄く広がった。
僕はあわてて背もたれに寄りかかり、窓の外を眺めて明るく言いそえた。
「でも、まあ、だからって、なんでも、ないけどな」
嘘だった。僕はこういうことに関しては勘がいい。カンナの気持ちに気づくのは遅く
ても。だから、つまり、なんでもないわけがないのだ。
カンナは横顔を向け、しばらく黙って外の景色を眺めていた。そして、やがてこらえ
きれなくなったように、ぽつん、と呟いた。
「……あたしは、なんか、嫌な予感がするよ」
カンナのブルーグレーの目が夕陽を反射して震えた。
それは僕も同じだった。僕はカンナに気づかれないように、牧野香織の肩に触れた右
手を膝の上でそっと開いて見つめた。あの感触には、覚えがある。
あの殺人現場に遭遇《そうぐう》したときから、いや、僕があのスポーツバッグを持ち帰ってきた
ときから、僕らの周りで得体の知れないものが動きはじめている気配があった。
そして、実際、それは僕とカンナの思いすごしではなかった。
「ああ、もおー、びっくりしたあ!」
観覧車から降りてステップを下り終えると、矢野倉涼子が両手を広げ、安堵した顔で
駆け寄ってきた。
「もおっ、カンナちゃんも真山くんと乗りたいなら、そう号言ってくれればよかったのに。
お姉ちゃん、びっくりしちゃったぞ!」
腰に手を当て、キッと上からカンナを睨みつける。が、その目に怒りはない。
カンナは両手を身体の前で重ね、勢いよく頭を下げた。
「……本当に、ごめんなさい!」
その様子を見て、矢野倉涼子がぷっと吹きだした。
「なーんて、嘘よ。カンナちゃん格好よかったわよ。なんかわたし、ちょっとカンドー
しちゃったもん。けっきょく、あれが地なわけね?」
矢野倉涼子は言って、僕のほうに目を向けた。
「いや、まあ……」
「まったく、すっかりわたしはだまされてたってわけね。なーんか、ショックぅ」
涼子のこういう性格は、止直、救いだった。でも、他の二人はどうか。
「なあ、ヨシノリと、牧野さんは?」
僕はさっとあたりを見まわして、それから涼了を見た。
僕の不安を察したように、涼子は気まずそうに苦笑いした。
「それが、まあ、ちょっと、帰っちゃって」
「え?」
「香織の気持ちはオンナとして、まあわかるけど、前島までなーんかムッとしちゃって
さ。すごいヤな感じだったんだよ」
涼子は思い出して怒ったように口をとがらせた。
「たぶん、あいつさ、ああ見えても実は内心《ないしん》口ベタな真山くんよりモテると思ってたり
するから、逆に差を見せつけられてくやしかったんじゃないの。おまけに相手がカンナ
ちゃんでしょ。そういう意味じゃ、前島だけじゃなくて、きっとあそこにいた男たちは
みんな真山くんのことうらやましいって思ってたはずだよ。ね?」
にっと笑ってカンナを見る。
「え、と……」
カンナはめずらしくたじたじとなってうつむいた。これから何かあったときは、涼子
に頼むといいかもしれない、と僕はひそかにほくそ笑んだ。
「あ、でもね、わたしは断然、カンナちゃんを応援しちゃうからね。うん、あれはマジ
でちょっと格好よかったわよ。まあ、香織もあれじゃあきらめるしかないわねえー」
言いながら、今度は僕に目を向ける。あきれたような笑みがあった。
「その……悪かったな」
僕は曖昧に笑って頭を下げるしかなかった。
「でも、真山くん、前途多難ねえー」
涼子は腕組みをしてため息をついた。
「え?」
「だってさあ、いくら相手がカンナちゃんだって言っても、公衆の面前で九歳の恋人を
お披露目《ひろめ》しちゃったようなもんじゃない」
「え?」
そうなのか?
「そーよ。カンナちゃんが激烈なる愛の告白をして、真山くんはそれに応えちゃったわ
けでしょ? もお、完壁にカミングアウトってわけよ」
「え……ちょっ……」
カンナが愕然として涼子を見あげた。ようやく自分のしたことを理解した顔だった。
「ま、こーなったち、いくとこまでいってもらうしか道はないわね」
「ち……違うもんっ!」
カンナが勢いよく顔をふせ、耳まで真っ赤にして叫んだ。
「あ、あれは、違うもん! そんなんじゃないもん! カズシはあたしのものだから、
あんまリカズシがバカだから、頭にきちゃって、だから――」
「ふふーん」
涼子は余裕たっぷりの笑みを浮かべて、カンナの頭にそっと手を添えた。
「でも、どーして、真由くんなわけ? カンナちゃんなら、これからオトコなんてより
どりみどりよ」
「だ、だから、違うよぉ……」
「ま、先は長いことだし、わたしとしては、なかなかキョーミ深い恋愛を末永く見守ら
せていただこうかしら?」
涼子はにっこり笑って僕を見た。
僕はまたたじたじとなって笑うしかなかった。まったく涼子にはかなわない。
「でも、ヨシノリのヤツと牧野さん、オレ、どうしたらいいのかな?」
僕はいったん顔から笑いを消して涼子を見た。
「ま、香織はわたしにまかせて。男友達のほうは勝手に男同士でやってよね。そこまで
メンドーみきれないからさ」
「まあ、そうだな」
「それから」
と、涼子は小さく咳払いしてちょっと照れくさそうに付け加えた。
「カンナちゃんが嫌じゃなかったら、また、ときどき誘ってくんない? わたし的には
今日、かなり楽しかったんだ」
カンナが驚いたように顔を上げて、涼子を見た。涼子は小さくウィンクした。
「ダメ?」
「ううん!」
カンナはぶんぶんと首を振った。それから照れたように笑った。
「あたしもホントはちょっと楽しかったの。でも、今日は楽しんじゃいけない気がしち
ゃって、途中で哀しくなっちゃった。だから、涼子ちゃんとはまた遊びたいよ」
「ホント! うれしい」
カンナはにっこり笑って大きくうなずいた。
どうやら、カンナは本気で涼子が気に入っていたらしい。
「それじゃ、デートのお邪魔しちゃ悪いから、わたしはここで帰るね!」
涼子は話はすんだとばかりにしゅたっと片手を上げて、身を翻した。
きっと僕らが気まずい思いをしないように一人で待っていてくれたのだろう。
「矢野倉!」
僕は元気よく駆けていく背中に声をかけた。涼子が立ち止まって振り返った。
「今日は、サンキュな」
僕は笑って軽く手を振った。
涼子は僕の胸に向けて「バン!」と右手で鉄砲を撃つマネをして笑った。ちょっと照
れくさそうな顔が可愛かった。
「涼子ちゃん、またねー!」
カンナが伸び上がるように乎を振った。
「絶対、約束だよ!」
涼子は叫んで、朝と同じように船上の誰かを見送るみたいに手を振リ、それからまた
背を向けて駆けだした。
僕らが矢野倉涼子を見たのは、それが最後だった。
第五章 異形なる者
この世には、知りたくないこと、見たくないこと、気づきたくないことが確かにある。
知らなければ、見なければ、気づかなければ、少なくとも僕自身の現実にはならない
から――。でも、けっきょく、それがなんなのかは、知ってしまうまでわからない。
僕は最初、その記事を別の興味で読んでいた。場所がこの間と同じ上野で、見出しが
『野犬の被害・今度は女子高生』だったから――。
でも。
読み進んで数行で、僕の目はそこから先へ動かなくなった。朝の空気が冷たく強ばリ、
耳の奥が静まりかえった。すっと顔の周りから現実感が遠のいた。
眼の周りがぎこちなくひきつリ、何度か目元を歪《ゆが》めた。そして、ざらり、とした嫌な
異物感が背筋を逆撫《さかな》でした。
僕は、その名前を、何度も何度も読み返した。必死に読み返した。読み返すうちに、
動悸《どうき》がして呼吸が荒くなった。新聞を持つ手が震えた。眼の周りが熱くなって、新聞の
活字が鼓動に合わせて伸縮した。
遺体の身元・矢野倉涼子《やのくらりょうこ》(17)私立|星辰《せいしん》学園二年……。
遺体の身元・矢野倉涼子(17)私立星辰学園二年……。
遺体の身元・矢野倉涼子(17)私立星辰学園二年……。
「和志、そろそろ期末テストじゃないの? あんた準備できてるの?」
母が台所で背中を向けたまま言った。
「ほらあ、聞いてるの? 新聞読むのはいいけど、そんなに」
ガシャンと僕の手元にあったコーヒーカップが吹っ飛び、食器棚にぶつかって割れた。
母が蒼白な顔をして僕を見た。その目にハッキリと法《おび》えがあった。
「ご……ごめん」
僕はうつむいた。そのまま新聞を握りしめ、きつく目を閉じた。歯を食いしばった。
叫びだしたかった。このやり場のない憤《いきどお》りをどうしていいのかわからなかった。
呼吸が痙攣《けいれん》して、とぎれとぎれに吐き出された。瞼《まぶた》の裏がチカチカした。
その狭間《はざま》に、昨目見た矢野倉涼子の顔が浮かんで、消えた。
ゲート前で大きく手を振っている矢野倉涼子。トイレの出口で僕に詰め寄ってきた矢
野倉涼子。両手を合わせて懇願《こんがん》する矢野倉涼子。そして、夕暮れの中で振り返り、僕の
胸に鉄砲を撃つマネをして、照れくさそうに笑っていた矢野倉涼子……
なんで……。あの声を、あの笑顔を見ることは、もうないというのか。
その遺体には、あの顔すらないというのか。あの顔が喰いちぎられたというのか。
こんな馬鹿なことがあっていいのか。こんなことが現実にあっていいのか。
新聞をきつく、きつく握りしめた。手が鬱血《うっけつ》してガタガタ震えた。
嘘だ。何かの間違いだ。間違いである可能性は、ないのか。
人違いじゃないのか。誰かが偶然、矢野倉涼子の荷物を持っていたとか。そういうこ
とはないのか。学校へ行けば、教室に矢野倉涼子がいて「真山《まやま》くん、昨日は楽しかった
ね」と僕の肩を叩いてくるんじゃないのか。そうじゃないのか!
僕はテーブルを叩きつけて立ち上がり、二階へ駆け上った。どうしていいのかわから
なかった。その場にじっとしていると、胸が張り裂けそうで気が変になりそうだった。
違う。何かの間違いだ。学校へ行けば、矢野倉涼子が新聞の記事に怒っていて「最悪
よね。失礼しちゃうわ」って、口をとがらせているはずだ。きっと、そうだ……
僕は身を屈めた。身体が寒かった。怖かった。受け入れてはいけない。受け入れた瞬
間に現実になる。僕は新聞に顔を埋め、きつく握りしめたままうずくまった。
「あああああッ!」
その新聞を力まかせに引きちぎった。そうすることで、この惨《むご》い現実が消えてしまう
のを願ったのかもしれなかった。
でも、僕にだってわかっていた。
矢野倉涼子の死は、もはや動かぬものとしてこの世界にあった。
その夜、矢野倉涼予の家で通夜が行われた。
雨が降っていた。
冷たくて、細い、絹糸《きぬいと》のような雨だった。
冷えた夜気《やき》が古びたフィルム映像みたいに白くかすんでいた。
僕は、一人で傘《かさ》をさして、彼女の家を目指した。
雨に濡《ぬ》れたカンナの家の錆《さび》の浮いた門扉《もんぴ》が、わけもなく寂しかった。
おそらくカンナも今頃は、涼子の死をなんらかの形で知ってしまったはずだった。
だが、僕らはまだ、彼女の死を挟《はさ》んで向き合う勇気はお互いになかった。
僕は足早にカンナの家の前を通りすぎた。
矢野倉涼子の家は、駅の反対側、僕の家から歩いて数分の距離にあった。
そんなこと、僕はこれまで知らなかった。
知ろうともしなかったし、興味も持たなかった。
わずかに学区が違っていただけで、彼女は、ずっと近所にいたのだ。
もし、昨日、僕があそこで彼女を帰さずに、一緒に家に帰っていたら。もし、別れ際《ぎわ》
に「一緒に飯でも食わないか?」と一言でも誘っていたら。帰り道、僕らはお互いの家
がこんなにも近くにあることを発見して、ひどく驚き、喜んでいたかもしれない。そし
て、彼女がカンナの家に訪ねてくるようになり、三人でときおり、どこかに遊びに出か
ける日々が始まったかもしれない。彼女となら、それができそうな気がした。昨日は、
確かに、そんな予感がしていたのに……
あるいは、僕が最初から、彼女の家を知っていたら、僕らは昨日、最初から一緒に出
かけ、一緒に帰ってきていたかもしれない。もっと、僕が周りの人間に興味を持ってい
たら。人並みに、クラスメイトとちゃんと接していたら。世界は平和なままで、なにも
かもが変わらずにいたのかもしれなかった。
……なんで、こんなことになっちゃったんだよ。
僕は立ち止まり、アスファルトに浮いた黒い水たまりをぼんやり見つめた。
駅のガード下を抜け、小さな商店街を抜け、煙草《たばこ》やジュースの自動販売機が並んだ角
を左に曲がると、左右に同じような家が並ぶ通りの真ん中右手に、遠目にも大きな花輪
が飾られた家が見えた。
家の前にテントがあって、そこに喪服を着た受付の人が二人いた。中年の男女、たぶ
ん親戚《しんせき》かなにかだろう。
ふくさこうでんあずきぽん
僕は受付で頭を下げて、袱紗《ふくさ》に包んだ香典《こうでん》を内ポケットから取り出し、小豆《あずき》色のお盆《ぼん》
の上に置き、名簿に名前を書いた。
門扉の間を抜け、開いたままの玄関を入ると、廊下の左手にある障子《しょうじ》にガラスがはめ
込まれた引き戸が開かれていて、その向こうにクラスメイトの姿が見えた。
僕は靴《つく》を脱いで、廊下に上がり、その部屋へ足を踏み入れた。
正面にたくさんの菊の花に飾ちれた祭壇《さいだん》があって、その下に白木の棺《ひつぎ》があった。
祭壇の中央に黒い額縁《がくぶち》にはめ込まれた矢野倉涼子の笑顔がある。開けっぴろげで元気
な笑顔。嘘みたいにうれしそうに笑っている。耳の奥に昨日一日すごしたなかで聞いた
彼女の笑い声が蘇《よみがえ》ってきて目眩《めまい》がした。
僕は一礼して、前に進み、焼香《しょうこう》して、矢野倉涼子の写真に手を合わせた。
本来なら顔の部分があいているはずの棺は閉ざされたままだった。やりきれない気持
ちに背中が硬く強ばり、また叫びだしたくなった。
中央を戸口付近まで戻り、右側に座ったクラスメイトの集団の手前に加わった。担任
の男性教師も数十名のクラスメイトたちも、みんな正座して顔をふせていた。女子生徒
の多くはうつむいたまま、顔を真っ赤にして泣きじゃくり鳴咽《おえつ》をもらしていた。
その中に、前島義則《まえじまよしのり》と牧野香織《まきのかおり》の顔はなかった。
ヨシノリと牧野香織は今日、学校にも来ていなかった。自宅に連絡はまわっているは
ずだが、もしかしたら、まだこの惨事を知らないのかもしれない。でも、ヨシノリはと
もかく、幼なじみらしかった牧野香織が姿を見せないのは、どこか奇妙だった。
煌《きら》びやかな袈裟《けさ》を着た僧侶がやってきて、祭壇の前でお経を唱《とな》えはじめた。
僕はその読経《どきょう》を遠くに聞きながら、昨日あの直後に矢野倉涼子にどんな災いが降りか
かったのかを想った。彼女は遊園地のゲートを抜け、その後、どこへ行ったのだろう。
なぜ、まっすぐ家に帰らなかったのだろう。彼女の家がここなら、なんで上野公園なん
かに行く必要があったのだろう。なぜ……
そのとき、玄関口のほうで、小さな悲鳴が起きた。
「ちょっと、待ってください! 困ります! 誰か! 誰か!」
中年女性のとり乱した声がした。受付の女性の声。誰かを必死で引きとめている。
「うっせええ! ばばあ! 離せよ、こらあ!」
酒に酔ったようなろれつのまわらない罵声《ばせい》がした。僕はハッとした。
ガシャン、となにかが倒れる音がして、誰かが玄関口から侵入してくる音がした。
室内がにわかに騒然とした。
戸口にそいつが現れた。ヨシノリだった。
ヨシノリは、昨日とまったく同じ服装で、ひどく薄汚れていた。
よれよれのジーンズに白いトレーナー。その上に黒いウィンドブレーカーを羽織って
いる。片手にウィスキーの小瓶《こびん》を持ち、顔は酔いのせいかどす黒かった。ひどく酒臭《さけくさ》く、
生ゴミが腐ったような臭いがした。
「うおぉい! りょうこお――! 来てやったぞお――!」
ヨシノリは戸ほに立ったまま祭壇に叫んだ。口の端から泡が飛び散った。
「おまえ、犬に喰われちまったんだってなあ――! おまえが真山なんかに股《また》広げちま
うから神様が天罰《てんばつ》下したんだぜええー!」
ヨシノリはケタケタ笑った。室内がざわめきたった。
「ヨシノリ!」
僕は思わず叫んで立ち上がった。
「おまえ、なに考えてんだよ! ここがどういう場所かわかってんのか!」
ヨシノリは僕の姿を認めて「ひっ!」と喉をひきつらせ、日を丸くした。
それから、おぞましいものでも見るように頭を抱え、その場に亀のようにうずくまった。
「や……やめてくれええ! やめてくれよおお! おまえがいけないんだぞおー! お
まえがぜんぶ独り占めしちまうからあっ! ま……牧野をふっちまうから、あんなこと
になったんだぞお! ぜんぶおまえのせいなんだよおおおっ! オレはあいつに誘われ
ただけなんだよおお! しょうがねーじゃねーかあ! 寂しかったんだよおっ! おま
えが涼子までとっちまうから! オレだって、寂しかったんだよおおっ!」
僕は一瞬棒立ちになった。ヨシノリの言葉が胸の内に黒い染みを広げた。
「ヨシノリ……おまえ、なに言口ってんだよ?」
その瞬間、ヨシノリが蛙《かえる》のように床から飛び上がり、僕に飛びかかってきた。
僕は身構える間もなく、ヨシノリの体当たりを喰らって、後ろに吹っ飛んだ。
後ろにいた女生徒たちが、悲鳴をあげて飛びのいた。
ヨシノリが僕の上に馬乗りになって僕の首を締《し》めつけた。
「ケケケケッ! ひっかかったああ! ばあーか!」
酸っぱい涎《よだれ》がぽたぽたと僕の顔に降りかかる。その目は完全に狂気に歪んでいた。
「おまえ、涼子とヤったのかよ? まあったくいー身分だよなあ。九歳の可愛い恋人が
いて、そいつを餌《えさ》にオンナなんか食い放題だもんなああ! ええ?」
ヨシノリはかあっと喉を鳴らし、僕の顔に痰《たん》を吐いた。べしゃと目の端にかかった。
「じょーだんじゃねーぜええ! おまえみたいな根暗野郎に喜んで股開くオンナなんて
よお、こっちから願い下げだっつーのお! せっかくあんなにいっぱい写真撮ってやっ
たのによおお! ずっと撮ってやってたのによおおお! オレをなんだと思ってんだよ
おお、てめらはあっ! いいかああ! おまえのせいなんだよおおお! ぜんぶ、てめ
えのせいなんだよお、カズシい! てめえの可愛い九歳の恋人も、そのうち涼子と同じ
目に遭《あ》わせてやるからなあっ! ひゃはは、覚悟しておけよ!」
――え?
「……どういう、ことだ?」
僕は呆然とヨシノリの胸ぐらをつかんでひねり上げた。
「ひっ!」
とヨシノリが気圧《けお》されたようにたじろいだ。
「どういうことだっ! 言えよ! ヨシノリ!」
突き上げた拳がヨシノリの顎《あご》を直撃した。そのまま馬乗りになって、首を締めあげた。
「カンナがどうした! 言えよ! おまえ、矢野倉になにをしたんだよおっ!」
ヨシノリは目をまん丸くして顔中をひきつらせ、半狂乱になって悲鳴をあげた。
「ひいいい! こいつを離してくれよおお! 誰かこいつを離してくれよお! こいつ
は疫病神《やくびょうがみ》なんだよ! こええよおお! こええよおお!」
ヨシノリは血が混じった泡を吐いて涙を流し、狂ったように暴れた。
その一瞬、目の奥がチリチリと痛んだ。無数の棘《とげ》が刺さったように……
「ヨシノリ、おまえ……」
僕は放心した。変貌《へんぼう》したヨシノリの顔を見下ろした。
後ろから僕の身体を誰かが取りおさえ、引きはがした。
僕は素直にそれに従い、立ちヒがった。
膝から力が抜けた。その場に崩れ落ちそうだった。
担任の男性教師だった。
「真山、今目は、とにかく、帰れ。ここはオレがなんとかするから……」
男性教師は、僕の耳元でそっと囁《ささや》いた。
「事情は、明日訊くことになるかもしれんが、いいな……」
僕は力なくうなずいて、ゆるゆると背を向け、部屋を出た。
背中に、矢野倉涼子の両親と親戚、そして、クラスメイトたちの視線が突き刺さった、
僕は、そのまま靴に足を突っ込み、踏み石を踏んで、門のほうへ歩き出した。
玄関の周囲で、何人かの喪服の客が、遠巻きに僕の様子を見つめていた。
みんな、怯えたような、おぞましいものでも見るような目だった。
その目の中をなかば放心状態で歩き、門扉を抜け、通りへ出た。
そのまま通りを右へ折れて、駅のほうへ向かった。
雨が降っていた。冷たい雨が……
途中で傘を忘れたことに、ぼんやり気づいた。
でも、もう、どうでもよかった。
僕は空を見あげた。
顔に冷たい雨が降りそそいだ。
ヨシノリの唾と痰を制服の袖《そで》で、軽く拭《ぬぐ》った。
酸っぱい饐《す》えた臭いがした。
頭の中が混乱して、考えることが、できなかった。
通りの端まで来たとき、右に曲がった手前にある自動販売機の明かりの前に、誰かが
立っているのが見えた。
販売機に寄りかかり、じっと空を見あげている。傘はさしていなかった。
背の高い、疲れきった感じの男だった。野良犬、あるいは狼のような印象を覚えた。
その男の前を通りすぎて、商店街のほうへ向かおうとしたとき、声がした。
「君、星辰学園の生徒か?」
僕はぼんやりと振り返った。色あせたジーンズに革《かわ》のジャケット。無精《ぶしょう》ひげの生えた
どこかうらぶれた顔だった。年は三〇前後、口の端に獰猛《どうもう》な笑みが浮かんでいる。
「君は、あの亡くなった子の、クラスメイトかい?」
男は丁寧《ていねい》な口調で聞き直した。低く優しい響きがあった。
僕はゆるゆるとうなずいた。
「そうです、けど……」
「そうか……。彼女、気の毒なことしたな」
ふいに、男の目に優しい光が浮いた。口の端に自虐《じぎゃく》的な笑みあった。
「恋人か、なにか、だったのかな?」
男は痛ましそうに僕を見つめた。
「いえ」
僕は力なく笑って首を振った。
「友達、でした……」
言った途端に、涙が溢《あふ》れて、こぼれ落ちた。
僕はそれを拭わず、うつむいて、地面に滴《したた》るままにした。
ぽつぽつと水たまりに涙が滴り落ちた。僕は鳴咽をこらえて歯を食いしばった。
「もし、よかったらでかまわないんだが……」
気遣《きづか》うような男の声だった。それは妙に優しく今の僕の心に染みた。
「少し、話、聞かせてもらえないかな?」
「……話って?」
僕は洟《はなみず》をすすり上げ、涙を拭って顔を上げた。少しだけ胸のつかえがとれた気がした。
「気、悪くしないでくれな」
男は少し笑って言った。
「雑誌の記者なんだ」
「雑誌?」
「でも、君なんかが知らない雑誌さ」
男は自嘲《じちょう》するように口の端を曲げて笑った。
「すごくマイナーな雑誌、だから」
「なんで、矢野倉のこと、なんか?」
袖口で残った涙を拭いさり聞き返すと、男は僕の目をまっすぐに見つめた。
「ちょっと気になるんだ。彼女の死因……」
胸の奥がざわめいた。
「どういう、ことですか?」
「馬鹿げた話だけど、聞いてみるかい?」
男はまた口の端を曲げ、獰猛な笑みを浮かべた。
でも、その目は真剣で、優しかった。
僕はしばらくその目を見つめ、小さくうなずいた。
「よかった……」
男は微笑《ほほえ》んで、片手で僕の肩を抱くようにして、歩き出した。
「オレは、八神《やがみ》――」
と歩きながら、男は言った。
「八神|亮介《りょうすけ》っていうんだ。よろしくな」
「え?」
僕は思わず立ち止まり、驚いて男の顔を見た。
「八神亮介って、『ヘブンズ』の?」
「へ?」
男は本気でぎょっと目を丸くした。
「君、オレのこと、知ってるのか?」
その驚きように、僕は思わず苦笑した。
「一応、読者で、あなたのファンです」
男はまじまじと僕の顔を見つめ、それから豪快《ごうかい》に破顔《はがん》した。
「そいつは光栄だな。こんなところで読者に会えるとは思わなかった」
八神亮介は笑いを引っ込め、また口の端を吊り上げた。
「じゃ、改めてよろしくな。読者の名前、聞いてもいいかな」
僕はその顔に不思議な親しみを覚え、なんとなく微笑んだ。
「真山です。真山|和志《かずし》です」
それが、僕と八神亮介の初めての出会いだった。
僕はこのとき、もう一つの巨大な運命の輪が廻《まわ》りはじめたことに、まだ気づいてはい
なかった。そして、それはもちろん、八神亮介のほうも――。
でも、とにかく、僕らは出逢《であ》ってしまったのだ。
その結果が引き起こすことになる悲劇は、まだ遠い未来の話だが……
「あの雑誌の読者なら話は早いんだが……」
商店街の端、駅前にある喫茶店に入ってソファに座ると、八神亮介は切り出した。
窓際の席。ガラスに雨の滴《しずく》が伝い、街灯の光を歪めて散らしていた。
僕と八神亮介の前には、コーヒーの入ったカップが湯気を上げている。
「君は、ウチの雑誌、どれくらい読んでるのかな?」
八神亮介はコーヒーをすすり、少し照れくさそうに言った。
「けっこう、読んでます。あなたの記事は大抵」
僕は少し笑って言った。実際、それは嘘ではない。
「じゃあ……」
言いながら、八神亮介の日がすっと真剣味を帯びた。
「今月号のニュースコラムは読んだかな」
ひやり、と嫌な怖気《おぞけ》が背筋を伝った。
ずっと心の隅に引っかかっていた嫌な予感。
カンナが依頼を受けたという政府が隠蔽《いんぺい》する人喰いの記事。
「まさか、矢野倉の死とあの記事が、関係あるっていうんですか?」
「まだ、わからない……」
八神亮介は脚の間で両手を組み合わせ、僕の日をじっと見つめたまま首を振った。
「わからないが、オレは、その可能性は高いと思っている」
「じゃあ、あれはやっぱり、野犬なんかの仕業じゃないっていうことですか?」
八神亮介はソファの背もたれに腕をかけて寄りかかり、苦み走った笑みを浮かべた。
「少なくとも、前に起こった上野公園の浮浪者の事件は、野犬の仕業じゃない。それは
調べがついている。その後、浮浪者の死体は政府機関の研究所に持ち去られ、報道機関
には一斉に箝口令《かんこうれい》が布《し》かれた。そして、今回の君の友達の死……」
「そんな……」
あの記事には、死体についた歯形と唾液《だえき》は人間のものだったと書かれていなかったか。
「それじゃ、矢野倉も……」
僕は唾を飲み込み、八神亮介の目を覗き込んで、言葉を継いだ。
「誰かに、人間に、喰い殺されたってことですか?」
八神亮介はいったん僕の視線を受け止め、それからついっと窓の外の闇に目を向けた。
「……厳密に言えば、人ではないのかもしれない」
「え?」
人ではない?
「でも、歯形や唾液は、人のものだったって……」
「確かにそのとおりだが……」
八神亮介は窓外の闇の中に何かの気配を探るようにかすかに口を細めた。
「それでも、人ではないんだ。ヤツらは……」
「ヤツら?」
「蟲《むし》、さ……」
「え?」
「地に棲《す》み、人に巣くう蟲……」
男の横顔にひどく残忍な笑みが浮き上がった。
「だから、地蟲《ぢむし》と呼ぶ連中もいる」
ガタンと僕の手元のカップが倒れた。身体が反応した。熱いコーヒーが手にかかった。
僕はその熱さにも気づかず、呆然と八神亮介の顔を見つめた。
耳の奥にあの通信の声が蘇《よみがえ》る。公園で遭《あ》った黒いスーツの男の声が蘇る。そして、学
校のグランドで見た頭を撃ち抜かれた死体……
テーブルの下で、右手を広げ、その掌を見つめながら、僕はかろうじて聞き返した。
「……それって、どんな、ものなんですか?」
「正体は、わからない……」
かすれた、どこか放心したような八神亮介の声が応えた。
「わかっているのは、人を宿り木にして成長する、得体の知れない生き物ってことだけ
さ。どこからやってくるのか、どうやって寄生するのかもわからない。ただ一つだけ確
かなのは、感染者は見つけ次第、できるだけ早く殺すこと……。人であるうちに殺さな
ければ、殺すことすらできなくなる」
「どうして……」
じんと頭がしびれた。テーブルの下に広げた右手を握った。その手を見つめた。
「……どうして、そんなふうに、言いきれるんですか?」
「オレだって、調べたことを全部記事にしているわけじゃないさ。いくらマイナーな雑
誌でも、本当にヤバイことは社会的混乱ってヤツを気遣ってふせてあるんだ」
自嘲するような声が応えた。
「オレが知っているだけでも、これまでに女性で二体、男性で三体の地蟲保有者が政府
の研究機関に捕獲されている。地蟲を人体から切り離す方法、地蟲だけを殺す方法は、
もう何度も試されたらしい。けれども、時間が経てば経つほど、ヤツらは、その生命力
を強めていくんだ。噂じゃ、その発現過程を確かめるために監禁していた若い女性は、
水も食事もいっさいとらない状態で三カ月以上も生き続け、医師団の検査の一瞬の隙を
ついて、拘束具《こうそくぐ》を引きちぎって逃走。三人の医師と警備兵五人を殺し、今なお、足どり
はつかめていないそうだ。そのときはもう、銃器はまるで、効かなかったと聞く」
「そんな……」
抵抗するように、顔がひきつった笑いを浮かべた。
「でも、だって……そんな、馬鹿な話って」
八神亮介は顔の端で笑って、目だけを向けた。あきらかな軽蔑《けいべつ》の光があった。
「みんな、君と同じさ。オレたちは、そうやって、身近に迫った本当の危険から、無意
識に逃げ続けてきたんだ。そして、こんなになるまで気づかぬフリをしてきた……」
八神亮介は顔を背《そむ》け、暗い殺意を宿した目で、雨に濡れた闇を凝視した。
「地蟲は、突然、現れたものじゃない……」
「え?」」
そのもの、地に湧き、人に宿りて、人に交《まぢ》はる。ゆえに、その名を地蟲と云《い》ふ……
今年の夏、遠野《とおの》の廃寺で発見された、写木に記されていた一節さ」
八神亮介は闇を凝視したまま静かに言った。
「オレたちの血には、拭いようもなくヤツらの記憶が染みついているんだ……」
冷たく、濡れた感触が、背中を這いあがってきた。
「かつて、人よりも古くから地に棲みついていたものがいた。古事記や日本書紀に限ら
ず、日本の古文書は、その存在に対する警告に満ちている。それを人々は国津神《くにつがみ》と呼び、
鬼神と呼び、地霊《ちれい》や地祇《ちぎ》と呼び、ある時は畏怖《いふ》し、ある時は忌《い》み嫌い、そしてある時は
崇《あが》めてきた。ヤツらと人は、歴史の狭間で、この地に棲む権利を賭《と》して、常に血塗られ
た争いを続けてきたんだ……」
冷えた妖気のようなものが、テーブルの周りに漂いはじめたような錯覚を覚えた。
「オレたちは、一度はその戦いに勝利したのかもしれない。実際、表の歴史には、天皇家の
先祖と言われる天津神《あまつかみ》が天孫降臨《てんそんこうりん》の名の下に、地に棲むものを殲滅《せんめつ》したという言い伝えが
ある。だが、その殲滅から遠野へ逃げ延び、妖怪になったといわれるものたちもいる。
その血塗られた歴史の暗部では、ごくまれにヤツらと人間の間に交配がおこなわれた
という記録まであるのさ。事実、安倍晴明《あべのせいめい》は狐の妖怪と人の間にできた子供として歴史
にその名をとどめている。そして、日本全土に散らばる狐愚《きつねつき》きや犬神や人を喰らう鬼の
伝承……。ヤツらは虐《しいた》げられた闇の中で人を喰らい、血をすすり、人に巣くって生き延
びてきたのさ。そして、平和な生活の中で怠惰《たいだ》に肥え太ったオレたちは、かつてオレた
ちの先祖が闇へ虐げたものたちの存在を、次第に忘れていった。あるいは無意識に忘れ
ようとしてきた。でも、どこかで、本当は怯えてきた……」
ぷつ、と糸が切れたように言葉が途絶えた。
「そん、な……」
八神亮介は黙り込んだ。それから、顔を戻して自嘲気味に笑った。
「少し、しゃべリすぎたな。悪いが、読者サービスはここまでにさせてくれ」
「でも……でも、僕は!」
勢い込んで叫びかけ、ギリギリで自制心が働いた。いけない。安易に誰かにしゃべっ
ていいことじゃない。僕だけじゃない。カンナが……あぶない。
「おいおい、コーヒーこぼれてるじゃないか」
八神亮介はあわてておしぼりで僕の前を拭い、カップを戻して間近から僕を見た。
「どうした? 顔色、悪いぞ」
その目の奥に鋭い光が収縮した。
「いえ……いえ。なんでも、ないです」
僕はテーブルに視線を落として首を振った。言いたい。言ってしまいたい。誰かにす
がりついて相談したい。でも、言うわけにはいかない。
「そうか……」
八神亮介は僕のふせた顔をじっと見すえたまま、ゆっくりとソファに腕を載せて寄り
かかり、それから軽く微笑した。
「なにか悩み事があるなら聞かせてもらいたいんだが、今日のところはオレの質問にも
答えてもらえると助かる。君に教えてばかりじゃ、オレも仕事にならないからな」
僕は黙ってうつむいたまま顎を沈めた。
「質問、させてもらうよ」
八神亮介はそれが仕事に入る合図のように、ジャケットのポケットからしわくちゃに
なったセブンスターのパッケージを取り出し、煙草を一本くわえ抜いた。
「あ、君も吸うか?」
片手に持ったパッケージを差し出してくる。
「あ、いえ、僕は……」
「そっか、健康的だな」
うれしそうに笑った。
「それじゃ、いくつか教えてほしいんだが……」
八神亮介は火をつけた煙草を灰皿に置いて、テーブルの上に身を乗り出した。
「君の学校で、あるいは殺された彼女の周りで、最近、急に綺麗《きれい》になった女の子は、い
ないかな?」
完全に虚《きょ》をつかれた。気がつくと、ぽかん、と八神亮介の顔を見ていた。
「……どうして、そんなこと?」
胸の奥がドクドクと脈打ちはじめる。心臓が直接|鷲掴《わしづか》みされたようにギリギリと痛む。
「そんなの、矢野倉の事故と、どんな、関係あるっていうんですか?」
八神亮介は顔の片側を歪《ゆが》めて、困ったように笑った。
「やっぱり、ちょっと、唐突《とうとつ》すぎたかな」
煙草を取り上げて、くわえ直し、ゆったりとソファに寄りかかりながら、僕を見た。
「じゃあ、特別に、最後にひとつだけ、読者サービスしておこう」
八神亮介は、ゆっくりと煙を吐き出し、煙草の先にたまった灰を軽く灰皿に落とした。
「さっきの逃走した女性の話、ちょっとしたおまけがあるんだ。監禁していた三カ月の
間に、彼女は、怖ろしい姿に変貌《へんぼう》したらしい」
「怖ろしい姿って……」
「綺麗だったそうだ」
八神亮介は、ひどく残忍な笑みを広げ、まっすぐに僕を見つめた。
「この世のものとは、思えないほど」
嫌な耳鳴りがした。きーんと耳が痛くなるような。
「男性の保有者はまだいい。問題は女性保有者さ。地蟲は人の女性を媒介《ばいかい》にして、男性
に感染し、群を形成するんだ。その増殖を手助けする変化の一過程として、地蟲に喰わ
れた女性は、妖《あや》しいまでに性的な魅力をまといはじめる。だから、欧州では地蟲のこと
を〈魔女の口づけ〉と呼んでいるそうだ。そして、そいつは、遠野の写本に記された一
節にも符合する……」
雨の音がした。しとしとと冷たく湿った雨音に、八神亮介の声が呪詛《じゅそ》のように滲《にじ》んだ。
地蟲、宿りたる女人、美しきこと、天女の如《ごと》し。
汝、交はることなかれ。
そのもの、もはや人にあらず、人を喰らふ、物怪《もののけ》なり……
そこから先の話は、もう、僕の耳には届いてこなかった。
地蟲……学校で見た男の死……野槌《のづち》と呼ばれた男たち……黒いスーツを着た冷たい機
械のような男……カンナに似た女……八神亮介の記事……
そして、矢野倉涼子の死……
大きな歯車がいくつも噛み合わさり、巨大な何かを突き動かしていた。
どこかで、誰かが、闇にまぎれて、今も僕をじっと観察している。
誰かが……
僕は明かりを消したままの部屋で、ベッドの隅で膝を抱えていた。
じっと闇の中に息を殺し、見えざる気配に耳を澄ませた。
八神亮介と駅前で別れ、家に戻ってきたときには、十時をまわっていた。
その後、八神亮介から、なにを質問され、なにをどう答えたかは、よく億《おぼ》えていない。
僕は膝に顎を押しつけ、暗闇に目を凝らし、ヨシノリの言葉を思い返した。
「おまえがいけないんだぞ! おまえが牧野をふっちまうから、あんなことになったん
だぞ! ぜんぶおまえのせいなんだよ!」
あれはいったい、どういうことなのか……
たった一日の間に、ヨシノリはなぜ、あんなにも変貌してしまったのか。
昨日の夜、遊園地から帰ってから、あいつになにがあったのか……
違う! 硬く目を閉じた。きつく奥歯を噛みしめた。
抱きしめた自分の腕に爪を立てた。皮膚《ひふ》に爪が食い込んだ。
ホントウハ、ワカッテイル……
ぞわり、と、甘ったるい、膿《う》んだ熱が、背筋を這った。
全身の肌が粟立《あわだ》った。ぶつぶつと鳥肌が全身に広がった。
僕は、卑怯《ひきょう》だ。いつまで、気づかないフリをし続けようというのか。
自分だけ、なにを護《まも》ろうというのか。
ここまで、なにもかもが、とりかえしがつかなくなってしまったというのに。
そう……本当は……答えなんて、わかっているのだ。
誰も知らなくても。クラスメイトも、先生も、警察も知らなくても。
僕にだけは、わかっている。
恐る恐る目を開け、暗闇を凝視した。
右手を広げた。その手を目の前にかざした。
見つめた。
……思い出す。あのときの感触。
あのとき、牧野香織の肩に触れたときに感じた、怖気……
ワカッテイル……
あれは、人のものではなかった。
ぬるりとした、蛙か蛇を暗がりで素手で触ったような、そんな怖気だった。
最初に、殺人現場を目にしたとき、本当はもうわかっていたのかもしれなかった。
金網越しにあの男の顔を見たときの怖さは、殺人現場を目《ま》の当たりにしたショックな
どではなかったのだ。
僕は、あの男に恐怖し、嫌悪したのだ。牧野香織に恐怖したように。
それがお互いの〈印〉だったのだから。
帰ってきて、クラス名簿を見て、ひとつの確信が芽生えた。
牧野香織の家は、上野にあった。
矢野倉涼子は、あのあと、牧野香織の家に行った。
牧野香織の様子を心配して、彼女の家を訪ねた。
そして、そこには、ヨシノリも居合わせていた。
でも。
矢野倉涼子は、そんな場所へ、行くべきではなかった。
そこには、何かが、あった。
そこで、彼女の身に、何かが起きた。
そして――。
彼女は、死んだ……
僕は、右手を、握りしめた。
きつく、握りしめた。
その拳を、じっと凝視した。
ワカッテイル……
牧野香織に、会わなければ、ならない。
会って、確かめなければ、ならない。
死んだ矢野倉涼子のために……
どす黒い恐怖の中に、ゆっくりと醒《さ》めた決意が固まっていった。
僕は抱えた膝を解き、立ち上がった。
ベッドを降り、左を向き、押入の戸を見すえた。
見つめたまま、歩み寄り、その戸を引き開けた。
上の段に、あの日のままの、青い大きなスポーツバッグがあった。
――君には、やるべきことが、あります。
男の声が耳の奥で、囁いた。
……あなたは、選ばれたのよ……
頭の中で、あの女が、囁きかけた。
羽毛《うもう》のような感触が頭の芯《しん》を撫《な》でた。
頭の芯で、小さな氷の塊《かたま》のようなものが、ゆっくりと融《と》けだした。
思い出した――思い出してしまった。
理解されぬまま降り積もった膨大《ぼうだい》な言葉が、頭の中に溢れた。
醒めた心の中で、なにかが、急速に理解された。
冷たい水が、頭の中に、滲み広がっていくように……
僕は、その声を、ずっと聞いていた。
この、僕をとりまく景色に、息苦しさを感じはじめた、あの日から……
なにもかもが、嘘くさく、無意味に感じられはじめた、あの日から……
僕は、ずっと、耳の奥に、その声を聞いていた。
神保町《じんぼうちょう》から、御茶ノ水《おちゃのみず》駅に向かったあの日、僕はその声をハッキリ聞いた。
耳の奥に、頭の奥に、その声をハッキリ聞いた。
ワカッテイル……
僕は、彼女に、呼ばれたのだ。
だが、僕には、時間が必要だった。
扉を開く、時間が、必要だった。
そして、僕は、そのために、矢野倉涼子の死を、必要とした。
眼球の奥が、チリチリと痛んだ。無数の棘《とげ》が刺さったように。
僕はもう目を閉じなかった。
その目で、闇を凝視した。
頭の奥で、火花が散った。
視界が、赤い、血の色に染まった。
無線機に手を伸ばした。
指先がチューニングナンバーを知っていた。
ざらついたノイズが流れた。
僕はマイクを手に取り、口元に当てた。
スイッチを押し、言葉を発した。
「……マヤマ。地蟲を確認しました」
錆《さ》びた、抑揚《よくよう》のない、感情の抜け落ちた声だった。
「これより、駆除に、向かいます……」
スイッチを離し、マイクを戻した。
僕はマシンガンの入ったスポーツバッグを肩に担《かつ》いだ。
硬い鉄の音がして、肩に重みがかかった。
背を向け、ドアに向かった。
冷えたノブに手をかけた。
「……カズシ?」
か細い声がした。
冷えた風が、首筋を撫でた。
ゆっくりと顔だけ振り返った。
蒼《あお》い夜気の中で、カーテンが揺れていた。
その向こうに、カンナがいた。
呆然と、蒼白な顔で、僕を見つめていた。
「どこ、行くの?」
震える声が訊いた。
「わかっちゃったんだ」
僕は――笑った。絶望的な気持ちになると、人は笑うのだろうか。もう、なにをどう
しても引き返せないと知ったとき、人は笑うのだろうか。こんなに哀しくても、つらく
ても、痛くても、苦しくても、笑顔を浮かべてしまうものなのだろうか。
「だから、オレ、行かなくちゃ」
涙が、溢れた。ただ、涙だけが、溢れた。
鳴咽も、感情の高ぶりもない。ただ、涙だけが、溢れ、頬を流れ落ちた。
「カズ、シ……」
銀色の涙が天使の頬《ほお》を伝った。半開きになったままの口が、僕の名を呼んだ。
その瞳が震えた。
「ヤダよ……」
「遊園地」
僕は笑った。
「え……」
カンナの顔から表情が消えた。
「楽しかったな」
カンナは、ぽつん、と僕を見ていた。
「また、行けるといいな」
僕は背を向けた。
ドアを開け、部屋を出た。
カンナの声は、もう、聞こえなかった。
改札口を抜けると、生暖かい風が、坂を駆け下りてきた。
雨は、霧雨に変わっていた。
通りの向かいに並ぶ映画館はすべてシャッターが降り、アメ横から上野公園へ続く長
い坂に街灯がぽつぽつ並んでいた。
人通りは、絶えていた。
上野動物園の階段の下の公衆電話で、牧野香織の携帯に電話をした。
牧野香織は三コール目で出た。
「牧野か……」
ひっそりとした沈黙が応えた。
「オレだよ。真山だ」
僕は言った。
「うれしい……」
静寂の向こうから、夢見るような声がした。暖かな水の中を細かな気泡が立ちのぼり、
蒸発するような声だった。
「矢野倉が、死んだ」
呼吸音がとぎれた。耳が痛くなるほどの沈黙があった。
くす……
と、嫌な笑い声がした。
頭蓋骨《ずがいこつ》をくすぐるような嫌な笑いだった。
「なんで、おまえ?」
受話器をきつく握りしめた。
「あいつ、親友だろ?」
沈黙が続いた。
「ねえ……」
また、遠くから、夢見るような声がした。
「真山くん、今、どこにいるの……」
盲目の少女が、手探りで人の温もりを探しているような響きがあった。やりきれない
想いが、胸を切り刻んだ。目の前が暗くなって、受話器にすがりついた。
「……おまえの家の、近くさ」
僕は、答えた。
「ホントに……」
また、夢見るような声がした。
「本当さ……」
自分が嫌になった。でも、僕にはもう、引き返す道はない。
「なあ、ちょっと、出てこないか」
僕は、恋人を夜中のデートに誘うように優しく囁いた。
「うれしい。でも、困ったなあ……」
ぼんやり窓の外の雨でも眺《なが》めるように牧野香織が応えた。
「真野くん、わたしのこと、怒ってるでしょ……」
「そんなこと、ないさ」
声が震えた。涙が出そうになった。
「おまえ、病気なんだよ」
「………」
「オレが、治してやるよ」
涙がこぼれた。
静寂の奥底で、ひどくやすらかな吐息《といき》がもれた。
「優しいんだね……、やっぱり、真山くんて……」
「おまえを、傷つけた」
「そんなこと、ないよ……」
冷たく蒼い夜気に浸された部屋。そこに、ぽつん、と立った牧野香織の姿を想った。
ひどく寂しい風景だった。
「なあ、出てこいよ。話、しようぜ」
涙で声が震えた。
「ねえ、臆えてる……」
ぽかん、と遠くを見るように牧野香織が言った。
「真山くんと、わたし、小学校、同じだったんだよ……」
「そっか……」
きつく目を閉じた。涙が落ちた。首を振った。
「やっぱり、憶えてないんだね……」
「悪い……」
「いいの……」
ひどく優しい声が羽ものようにそっと降りた。
「わたしね……」
「うん」
「前島くんと、寝ちゃった……」
「そっか……」
「寂しくて……」
「そっか……」
「前島くんも、同じだった……」
「そっか……」
「そしたらね……」
「うん……」
「ヘンになっちゃった……」
すっと首筋が冷えた。鼓動が大きく脈打った。街灯の光が霧雨に滲んでいた。
「牧野……」
「涼子ね……真山くんのこと、あきらめなって……」
「牧野……!」
かすかな沈黙があった。
「ごめんね……」
ぽつ、と滴《しずく》のように声がした。
目の前が真っ暗になった。ガラスに額を押しつけた。そのまま首を振った。
「ねえ、真山くん……」
耳元で囁くように、牧野香織の声がした。
「どう、した……」
歯を食いしばって鳴咽をこらえた。
「遊園地……」
声がした。
「少しだけ、楽しかった……」
胸が押しつぶされる。拳でガラスを叩いた。
「なあ! 牧野!」
ひっそりとした沈黙に声が吸い込まれた。
「わたしね……」
「……」
「お父さんの車の話、嘘でも、うれしかったぁ……」
「……」
「観覧車、乗れるとよかったなあ……」
「もうやめろ! 牧野!」
受話器を握りしめ、叫んだ。
「早く、出てきてくれよ。お願い、だから……!」
崩れ落ちる――罪悪感に。これ以上、もたない。これ以上、こらえきれない。
「もお、やだなあ……」
牧野香織の声がした。待ちぼうけを食らった女の子のような声。
「わたし、ずっと待ってるのに……」
ぞく、と背筋に冷気が走った。目を開いた。暗い車道が見えた。暗い歩道が見えた。
ゆっくり、首を同した。闇に溶けた動物園の階段があった。
「おまえ、どこいるんだ?」
声がへんな抑揚に震えた。
「なあ、おまえ、どこいるんだよ?」
ふふ、と可愛らしい笑い声がした。
「真山くんの部屋って、意外に、綺麗なんだねえ……」
「え……」
血の気が引いた。金身が凍りついた。思考が停止した。音が消えた。視界が凍った。
「牧野……やめろ……」
キャハッと甲高い笑い声がした。
「お隣、覗いちゃおうかなあ?」
「牧野! やめろおおお!」
ぶつ、と電話が切れた。
受話器を兄つめた。呆然とした。冷えた恐怖が背中を覆いつくした。
「カンナ……逃げろ……逃げてくれ……」
大通りへ飛び出して、手を振った。矢野倉涼子のように。
タクシーをつかまえるしか方法はなかった。
電車はとうに終わっていた。
家に電話をしたが、つながらなかった。
電話線を切られているに違いなかった。
警察にも電話をした。何度も怒鳴りつけて、用件を話した。
でも、帰ってきた返事は「とりあえず見回ってみる」というだけだった。
そんなものが、通用するはずがない。そんな悠長《ゆうちょう》なことで間に合うはずがない。
ちゃんと話せば話すほど、信じてもらえない。彼らの現実から遠ざかる。
女子高生が化け物で、カンナを襲おうとしているのだ。
頭がおかしいと思われているのがわかった。
でも、助けを求めずにはいられなかった。
誰かカンナを助けてくれ! 誰かカンナを助けてくれ! 誰かカンナを助けてくれ!
胸の内で血が滲むほど叫び続けた。必死に助けを求めた。
タクシーはつかまらなかった。空車はなかった。手を振っても止まってくれなかった。
間に合わない。もう、間に合わない。あいつはカンナの部屋へ行った。
あいつは、カンナの部屋へ行ったのだ。時間がない。時間がない。時間がない。
チリチリと焼けつくような痛みが首筋を焦《こ》がした。
こらえきれず、歩道を走り出した。泣き出したい気分だった。
スポーツバッグを持ってきてしまったことを呪った。
交差点に交番が見えた。飛び込んで叫んだ。
「お願いです! あいつを助けてください!」
叫んだ声が静寂に吸い込まれた。警察官がいない。
「誰か! 誰か! いないんですか! お願いです!」
目眩《めまい》がした。
「どこに……どこいってんだよ!」
机を蹴りつけた。気力が萎《な》えかけた。意識が朦朧《もうろう》とした。
「無理よ。警察には――」
振り返った。
夜気に自銀の髪が揺れた。
その目が僕を見つめていた。
突然、その目が苛烈《かれつ》に光った。
「早くしなさい!」
女の声がむち打った。
電流に撃たれたような衝撃が走った。我に返った。
「カンナが!」
叫んで女を見つめた。
女は僕の目を見すえたままうなずいた。
「急ぎましょう!」
長い白銀の髪が夜気の中で翻《ひるが》った。
僕は交番を飛び出し、女の後を追った。
赤いオープンカーが路肩に止まっていた。
女が先に運転席へ飛び乗った。
「早く!」
エンジンをかけながら叫んだ。
僕は後部座席にスポーツバッグを投げ入れ、助手席に飛び乗った。
タイヤを軋《きし》ませて、車が飛び出した。
第六章 覚醒
タイヤを軋《きし》ませて、家のワンブロック手前で車が急停止した。
小学校前の坂を僕の家のほうへ下りきった場所だった。
家まではまだ百メートル以上ある。
「まだ先です!」
女は首を振ってエンジンを切った。ヘッドライトが消えた。
「刺激したら、あの子があぶないのよ」
冷静な言菓に息を呑んだ。
「落ち着いて。そのまま飛び込んだって、あなたが死ぬだけよ。それに……」
女は後部シートのスポーツバッグを振り返った。
「その銃、もう彼女には通用しないわ」
「え……」
「それは、彼女がまだ人であったときなら、救済できた、人が作った武器……」
女は僕のほうへ顔を戻した。哀しい光が目にあった。
「でも、彼女は、変わりたいと願った。自分以外のものに、成り代わりたいと思った。
だから、彼らに喰われたのよ……」
女の目からすっと哀しみが消えた。代わりに青白く冷えた殺意が煌《きら》めいた。
「彼女はもう、人じゃない」
「どうしたら……」
「ヴリル」
「え?」
「ヴリルを使いなさい。それが、あなたの本来の力。あなたの覚醒《かくせい》……」
「ヴリ、ル……?」
女は微動だにしない視線で僕の目を兄すえたまま、かすかに顎《あご》を沈めた。
「あなたなら、使えるはずよ」
「でも、どうやって」
女は自分の右手首から腕輪を外し、差し出した。白銀に輝く螺旋の腕輪だった。
「……これは?」
僕はそれを受け取り、掌《てのひら》に載せた。奇妙なほど軽い。表面はすべすべしているが、内
側に蛇腹のような模様が彫り込まれている。とぐろを巻いた白銀の蛇に見えた。
「人でない彼女の魂を救ってあげるには、もう、それを使うしかないわ」
「こんなもの、どうやって使えっていうんだよ?」
「それは、誰にも教えられない。あなただけが知っていること」
「時間がないんだ!」
「甘えないで!」
女の目に怒りが浮いた。その奥にまたあの痛々しいほどの哀しみが光った。
「ここから先は、あなただけで、戦うしかないのよ。誰も助けてはくれないの。あなた
が覚醒できず、この程度の戦いに敗れるようなら、あなたは無用の存在。あなたの覚醒
と引き替えに、たとえ、あなたが護《まも》ろうとしているあの女の子が死のうと……わたした
ちは、あなたの覚醒を待つのよ。そういう、ものなの!」
女は何かをこらえるように顔をふせた。膝の上で手を固く握りしめた。
白銀の髪がほっそりとした横顔を覆っていた。痛ましいほど青白く細い首筋だった。
僕は女から目を離し、受け取った腕輪をそっと左手首にはめた。それから、後部シー
トのスポーツバッグを取り上げ、車を降りた。
ドアが閉まる音に、女が顔を上げて僕を見た。
「この銃、気休めくらいには、なるんだろ?」
僕はほんの少しだけ、笑ってみせた。
女もかすかに口の端《はし》をほころばせた。それから表情を厳しくする。
「忘れないで。彼女は、もう人じゃない。なにがあっても、気を許しちゃダメよ」
「気をつけるよ」
「それから……」
女の目に哀願するような光が灯った。
「できれば、あの子を助けてあげて。あの子は、何も知らないんだから」
僕は彼女の目を強く見すえて首を振った。
「できればじゃ、ダメなんだ。オレは、そのためだけに行くんだ」
女は微笑した。
「そうだったわね」
「行くよ」
僕は背を向けた。
「がんばって」
女の声がした。
家の前まで来ると、妙な静寂が張りつめていた。
冷えた妖気――が、蜘蛛《くも》の巣のように闇の中に張りめぐらされているような気がした。
僕の家に近寄ってくる侵入者を警戒するように。
玄関の明かりはついていた。庭に面した居間の明かりもついている。
母は、無事なのか……
僕は左肩にかけたスポーツバッグのチャックを半分開き、そこから手を差し人れて、
トリガーに指をかけ、脇に密着させた。
スポーツバッグの中で、銃口を前に向けたまま。
門扉《もんぴ》は開いていた。
そこを抜け、玄関のドアの前に立った。
取っ手に右手をかけ、引いた。
カギはかかっていなかった。
きり……
と緊張が張りつめた。
ゆっくりと引いて、中へ入った。
しん……
と、妙な静けさが耳を痛くした。
いつもより廊下が薄暗く感じられる。
ふいに、足音がした。
ぺた、ぺた……
と、素足が床に貼りつく粘《ねば》った音。
身構えた。
スポーツバッグの中で銃を握りしめた左手が汗ばむ。
廊下の右。暖簾《のれん》が揺れた。
ぬっと誰かが、現れた。
「母さん……」
「あら、帰ったの?」
母は言ってゆっくり歩いてきた。
「遅かったのね。夕飯、食べるでしょ?」
いつもの様子に警戒が薄れた。
「どうしたの? ヘンな顔して」
「いや、べつに……」
その顔をじっと見つめた特別、変わったところはない。
視線を外しかけ、ぞく、と怖気《おぞけ》が走った。
だらん、と下げた右手に包丁《ほうちょう》が握られている。
「母さん」
その包丁を見つめたまま訊いた。
「……誰か来てないかい?」
「誰も、来てないわよ」
胃が硬く収縮した。首筋の毛がチリチリと逆立った。
「母さん……」
ふせた顔が泣き笑いのように歪《ゆが》んだ。眼だけを動かし足下を指した。
見知らぬ靴《くつ》――小ぶりの茶色のローファーがひと揃《そろ》いあった。
「じゃあ、これ、誰の?」
声が震えた。
「さあ?」
母はにっこり笑った。
「誰のかしら……」
背中に嫌な汗が噴き出し、それが冷たくなった。
母を視界の端に人れたまま、階段の上方を覗《のぞ》き見た。
左手の僕の部屋から、明かりがもれていた。
「ねえ、母さん?」
僕は母の眼を見つめて囁《ささや》くように言った。
「どうしたの?」
母はにっこり笑って、見ている。
「オレ、ちょっと、二階へ行くね」
母は笑ったまま、動かない、だらん、と両手をたれたまま。
僕は靴をはいたまま、母の左側に回り込みながら廊下へ上がり、そのまま後ずさりな
がら階段へ向かった。母は、正面を見つめたまま動かない。
僕は一気に背を向けて、階段に足をかけた。
「カズシ?」
母の吐息が耳の後ろに吹きかかった。
「え……」
すとん、
と、冷たい異物感が右の脇腹に深く刺さった。
なにが、起きたのか、わからなかった。
耳の奥が静まりかえった。何度か、目を瞬《またた》いた。それから、母のほうを振り返った。
母はにっこり笑っていた。
でも、その右手に握られていた包丁が、僕の脇腹に深くめり込んでいた。
「母さん? どうして?」
呆然とその顔を兄つめた。すがりつくように、その目を覗き込んだ。
右脚がつけ根から、麻輝《まひ》した。すっと力が萎《な》えていく。
「かあ……さん……。まいった、な……」
喉《のど》に息が詰まった。腹に力が入らない。視界がへんな具合に歪み、また目を瞬いた。
額から浮き出た汗が、瞼《まぶた》の上に流れた。
膝から力が抜けた。左の壁に手をついた。ぬぷっと包丁が抜けた。焼けるような熱さ
が脇腹に広がった。
倒れるように壁に背中をぶつけ、かろうじて身体を支えた。
脇腹を押さえた。ぐっしょりして熱かった。
「どうしたの、カズシ」
母は血まみれの包丁を僕に刺した姿勢のまま、にっこり笑った。
「顔色、悪いわよ?」
「……母さん」
寒気がした。ひどく、寒い。
「ねえ、カズシ……」
ぐにゃっと母の目元が歪んで、どす黒い笑いを浮かべた。
「カンナちゃん」
「え」
「残念だったわねえ」
カッと目の奥で火花が散った。
「かああさんッ!」
凄《すさ》まじい音がした。
母の右肩が後方へ弾け飛んで、そのまま人形みたいに回転して倒れた。
スポーツバッグの止面からかすかな煙が揺れた。
硝煙《しょうえん》の臭いがした。
撃った。撃ってしまった。
母さんを……
一瞬、呆然として、次の瞬間、頭が覚醒した。
階段の上を見た。
うつぶせた母を振り返った。短く見つめた。また階段を見あげた。
壁に手をつき、階段を上がった。
脇腹が痛んで、右の脚がつけ根から動かない。
引きずり、歯を食いしばり、這《は》いあがった。
激痛に目眩《めまい》がした。
手摺《てす》りを左手でつかみ、最後は、這いうずくまって身体を引き上げた。
ドアは開いていた。
スポーツバッグをこじ開け、中身を取り出した。
脇腹を押さえ、左脇に銃を構え直して、立ち上がった。
そのまま脚を引きずり、部屋へ入った。
もはや、怖さは、なかった。
ベッドの端にこちらを向いて腰かけた少女がいた。
牧野香織《まきのかおり》だった。
「もお、待ちくたびれちゃったよ」
牧野香織はベッドに手をつき、口をとがらせて、僕を見た。あの日と同じ服だった。
「真山くんのお母さんったら、お茶も出してくれないんだもん。わたし、嫌われちゃっ
たのかな?」
ナンダ、コレハ? ダレダ、コイツハ?
また目眩がした。激痛と山血と怒りと、なにも変わらない牧野香織に。
「ねえ、真山《まやま》くんは、どう思う? わたしお母さんの好みじゃないのかなあ?」
「牧野おおおッ!」
僕は喉の奥から声を絞り出し、両手で銃を構えた。
「ふふ」
牧野香織は意に介《かい》さず、可愛らしく笑って反動をつけてベッドから立ち上がった。
「もお、怖いなあ、真山くんはあ」
にっこり笑って、後ろに腕を組み、歩み寄ってくる。
「スゴイもの持ってるね。それ、ホンモノ? なんか男の子って感じだね」
牧野香織はまん丸く目を見開いて首を傾《かし》げ、おどけたように僕を見た。
「おまえ……いいかげんにしろよオオオオッ!」
銃声が破裂した。たて続けに。全身の力をふり絞り反動をこらえた。
腕が肩ががくがく軋んだ。脇腹が焼けついた。
でも、引き金を絞り続けた。
火花が散った。煙がもうもうと立ちのぼった。
その中で、牧野香織が踊《おど》っていた。壊れた人形みたいに。がくがくと頭を揺らして、
ぶらぶらと腕を振って、糸が切れた操り人形みたいに踊っていた。
「う、ああああああああ!」
僕は引き金を絞り続けた。妙な静寂が耳の周りにあった。そこだけ空気が厚ぼったく
なったような耳鳴りがした。火薬の臭いがした。硝煙が目に沁《し》みた。涙が飛び散った。
ぐにゃり、と膝から倒れた牧野香織に、なおも銃弾を浴びせた。
床の上で、潰《つぶ》れた蛙《かえる》みたいに牧野香織の身体が痙攣した。
気がつくと、銃声はやんでいた。
弾が切れていた。
ぼろ布のような牧野香織が手足をあリ得ない角度に曲げてうつぶしていた。
服は焼け焦《こ》げた穴で、埋めつくされていた。
頭ががんがんした。眼球がドクドクと脈打った。
全身が輪郭《りんかく》を失ったようにしびれていた。
僕は荒く呼吸をした。
ただ、過熱した頭の中に荒々しい自分の呼吸音だけを聞いていた。
すっと膝から力が抜けた。腰から床に落ちた。尻《しり》もちをついた。
背後の壁に背中をぶつけた。
放心した。
……終わったのか……
目の前の景色をぼんやり眼に映した。
ベッドも床も壁も、穴だらけだった。
視界の真ん中に、牧野香織がいた。
手前に伸びた右手には、人差し指がなかった。途中からちぎれ飛んでいた。
頭の周囲に頭髪が散っていた。頭皮が削《そ》げ、骨が覗いていた。
……カンナは……
牧野香織から目を離し、窓のほうへ目を移した。
なにか――が、引っかかった。
なにかが、ヘンだった。
なにか――。
弛緩《しかん》していた空気が、すうっと凝固《ぎょうこ》した。
脱力した身体が、突然、冷たい恐怖に凍りついた。
血が――出ていなかった。
一滴も。
血痕《けっこん》がなかった。
ひとつも。
血の滲《にじ》みひとつすらない。
――その銃、もう彼女には通用しないわ。
思い出した。
――彼女は、もう人じゃないのよ。
思い出した。
ぴく
と、ちぎれた人差し指のつけ根が動いた。
「……ひどいな」
冷えた声がした。
「服、破けちゃった、じゃない……」
人差し指のない手が、床をつかんだ。
ぐぐっ……
と、腕が曲がり、腕立てふせの格好で、身体が起きあがる。
「この服、買ったばっかりだったのに……」
頭髪の塊《かたまり》が、ずる、と頭皮ごと床に剥《は》げ落ちた。
「真山くんのために、買ったんだよ!」
突然、顔が持ち上がった。
肉が切り刻まれ、ちぎれ、剥がれた顔……
頬が裂け、筋肉の筋と奥歯までが露出している。
飛び出しかけた右の眼球が上を向いている。
それが、突然、ぎゅ、と戻り、僕を見た。
全身が恐怖にひきつった。
が。
そこまでだった。
ふつ……
と、生への執着《しゅうちゃく》が、とぎれた。
力が、萎えた。
身体が、死を、受け入れた。
そして……急に、眠く……なった。
降参だ……
あきらめが、唇に笑いを滲ませた。
牧野香織がゆっくりと立ち上がった。
じっと、僕を見下ろした。
「……真山くん」
変わらぬ牧野香織の声に聞こえた。
視界が、すうっと暗くなりはじめた。
「一緒に、いてよ」
ひっそりと声がした。
なんだ、そういう、ことか……
ぼんやり思った。
牧野香織の気持ちが、少しだけ、胸に沁みた。
……わかったよ。
心の中で応えたのか、口に出して呟《つぶや》いたのか……
「うれしい……」
夢見るような声が応えた。
眠い……もう、疲れた……眠ろう……
瞼が、落ちた。
すうっと闇の中へ意識が――
「だめえ! カズシ!」
遠くで、声がした。
次いで――
激しくガラスを叩き割る音がした。
「カズシ! 起きなさいっ!」
甲高い声が意識を叩いた。
「寝ちゃだめえええ!」
誰の――声だ。
考えるよリ早く、涙が、溢《あふ》れた。
熱い。
誰かが、目の前に立ちはだかった。両手を大きく広げて。
小さなヤツが……
銀灰色の長い髪が、揺れていた。小さな背中が僕を護っている。
「あんた、何度言ったら、わかるのよッ!」
無謀なヤツ。無鉄砲すぎる。
「あんたなんかに……」
ぎり、と歯ぎしりする音がした。力強く。
「あんたなんかに……!」
小さな手が硬く拳を握りしめた。力強く。
「あんたなんかに――!」
肩が震えた。力強く。そして、
「カズシはわたさないっていったでしょおっ!」
ぶわっと熱い風が意識を吹き抜けた。
もう少し、生きていたい。
そう思った。
だから、僕には、最後にやることがある。
「カン、ナ……」
喉に詰まった息を吐き出しながら、壁に寄りかかり、身体を引き上げた。激しく咳《せ》き
込んだ。口の中がカサカサだった。寒気がした。尿意《にょうい》にも似た悪寒《おかん》に背中が震えた。
「カズシ!」
カンナが顔だけ振り返って、僕を見た。
「逃げて! 早く!」
必死の形相《ぎょうそう》だった。
僕は、粘ついた瞼をこじ開けながら、首を振った。胸で大きく呼吸を繰り返しながら。
今にも何かがとぎれそうだった。眼圧が狂ったように眼が痛む。視界がぼやける。
「なんで……! 早く逃げてよ! 早く!」
カンナは大きな[を震わせて懇願《こんがん》した。
僕は右手で脇腹を押さえた。激痛がわずかに頭を覚醒させた。直接胃から押し出され
るように、血と胃液が喉をふさいだ。激しく咳き込み、吐き出した。そのまま、左手に
持っていた銃を床に落とした。
「カズシ?」
カンナが信じられないという顔で身体ごと振り返った。蒼白な顔。言葉を失った口が
半開きのままわなわな震えた。
「……いいん、だ」
喉に詰まった息を塊ごと吐き出しながら、うめくように言った。
「なんで! ちょっと、やだよ! 死んじゃうよ!」
恐怖にひきつった目に涙が溢れた。その頭をあいた片手で無造作に引き寄せ、胸に抱
きしめた。その暖かさにしがみついた。その髪の感触を全身で感じた。
「カズシ……やだ! カズシ、ねえ! やめてよ!」
カンナは僕の胸元であがき、その腕を引きはがそうとした。
「……動くな、動くんじゃ、ねえ!」
やわらかな髪の中を指先できつくまさぐった。その感触に必死で意識をつなぎ止めた。
つなぎ止めながら、目の前に立った、牧野香織を見た。
牧野香織は、さっきから、まったく動いていなかった。電池の切れた人形みたいに。
ひどい格好だった。学校の二大美女が、台無しだった。
ベージュのジャケットも、黒いフレアのロングスカートも、ふわふわした白いタート
ルネックも見る影もなくボロボロだった。頭髪は半分、頭皮ごと抜け落ち、肉の下から、
頭蓋骨《ずがいこつ》が覗《のぞ》いていた。綺麗な頬《ほお》は、皮膚《ひふ》がほとんど焼けただれ、筋肉の筋が露《あら》わになっ
ていた。左眼は、なかった。半分飛び出た右眼だけが、僕をじっと見ていた。
「まきの……」
僕はその眼に笑いかけた。今できる精皿杯の気持ちを込めて、必死に笑いかけた。
唇が乾いていた。寒い、身体の芯《しん》が、凍えそうに寒い……
「ごめん、な……、オレ、おまえの、こと……、ちゃんと、見て、なくて……」
視界がぶれる。朦朧《もうろう》とした意識の中で、牧野香織の気持ちを思って泣けてきた。ここ
まで追いつめられなければ気づけなかった、自分の愚《おろ》かさに泣けてきた。
僕は、本当は、本気にしていなかった。彼女がずっと宝物のように大切にしてきた気
持ちを、まるで本気にしていなかった。本気じゃないと思っていた。そんなこと勝手に
決めつけることなんて、誰にもできるはずないのに。
それがどれだけ、彼女を傷つけたか……
答えを聞く前に本気にしてもらえない想い。宙ぶらりんのまま行き場を失った気持ち。
それが空回りして、彼女の中の最後のスイッチを押した。
だとしたら、すべては、僕の責任だった。
学校の二大美女の一人だって、うだつの上がらない根暗な男を好きになることがある。
あったっていい。恋なんて、そんなものだ。
自分がカンナに恋をしておきながら、自分だけ、そんな恋をしておきながら、僕は、
そんな当たり前のことに気づかなかった。気づいてやろうともしなかった。
「ごめんな……。オレ、最悪、だな……」
笑おうとした。激しく咳き込んだ。干《ひ》からびた喉がカッターで切りつけたみたいに痛
んだ。腰から背中が甘ったるい悪寒《おかん》に震えた。血を吐いた。唇がしびれた。口の端から
血が垂れた。冷えた鉄の味がした。
「カズシ! カズシ! やだあああ! 死んじゃうよ! もお、やめてよ! ねえ!」
カンナが胸の中で思い出したように暴れた。歯の根が合わない。意識が熱に溶けはじ
めた。脇腹の傷を押さえつけた。激痛に意識が戻った。目を見開いた。その痛みのなか
で牧野香織を強く見つめた。
「なあ……、最後に、教えろ、よ……」
声を絞り出した。必死に笑いかけた。
「おまえ、ホントは、今、正気、なんだろ……」
剥き出しの右眼に初めて動揺が走った。
身体がずっしりと重みを増した。
「芝居《しばい》……、ヘタ、だな……」
思わず、やりきれない笑いが唇に滲んだ。
疑問だった。ずっと……
牧野香織はカンナを襲わなかった。最後まで、僕に襲いかかってこなかった。
いくらでも、時間はあったのに……
牧野香織は最初から、僕に、殺されるつもりだったのだ。
もう、引き返せないと、知ったから……
だから、できれば、最後に、一度逃げ出してしまった自分の気持ちに、けじめをつけ
たいと願って、ここに来た。それは、たぶん、女の子として。
「おまえ、それじゃ、ただの、女の子じゃねーか……、フツーに、電話してこいよ」
かすんだ意識の中で、涙が、溢れた。牧野香織は、ぽつん、と僕を見つめていた。
「まきの……ちゃんと、聞けよ……」
僕は祈るようにカンナを抱く腕に力を込めた。遠のく意識の中で、必死に笑いかけた。
「オレ、こいつが、好きなんだ……。こいつじゃなきゃ、ダメなんだ……。悪いけど、
おまえの気持ち、応え、られない……」
「……」
牧野香織の口元が、ほんのかすかに微笑《ほほ》んだように思えた。
寂しそうに。憑《つ》き物が落ちたように……
するっと視界が融《と》け、膝から力が抜けて、腰から身体が落ちた。
「カズシ!」
カンナが抱きついて、僕の身体を支えた、
「カズシ! やだよ! やだあああ!」
視界がぐにゃっと歪み、回転しはじめた。眩《まぶ》しい。蛍光灯の明かりが、何千本もの針
となって眼球に突き刺さる。眩しすぎる。あの日見た、メリーゴーランドのように……
融けた視界の真ん中で、牧野香織の姿が何重にもぶれた。粘ついた瞼を細め、眼球を
動かし、目を凝《こ》らした――意識の中で必死に目を凝らした。
すっと、身体の火照《ほて》りが消えた。頭が静かになった。幻覚、なのか。
「やの、くら?」
目を凝らした。ぶれた牧野香織の残像が矢野倉涼子《やのくらりょうこ》に見えた。腐乱死体のような牧野
香織の姿に、矢野倉涼子の姿がだぶる。
「え?」
カンナが腕の中で怯《おび》えたように僕を見あげ、それから前を振り返り、また顔を戻して、
僕を見た。その顔が恐怖に青ざめていた。
「カズシ? いないよ! ねえ、カズシ! 涼子ちゃんはもういないでしょ!」
「……いるよ、あいつ、いるよ」
僕は目を閉じた。ハッキリ感じる。牧野香織の中に、矢野倉涼子はいる。
「違うよ、カズシ……カズシィ……」
カンナがか細く悲鳴をあげ、僕の胸を力なく叩いて泣きじゃくった。
「か、んな、ちゃん……」
牧野香織の半開きの唇が、水が震えるような声を発した。
「え……」
ぴくりとカンナの肩が震えた。泣きやんだ。カンナは振り返った。
牧野香織の眼球がぐぐっと軋むように動いて、カンナを見た。その目がにっと笑った。
「がん、ばれ」
「涼子、ちゃん……」
眼球がぎゅっと動いて僕を見た。
「ま、や、ま、くん」
牧野香織の喉が痙攣するように動いて、唇がぎこちなく言葉を発した。
「は、やく」
矢野倉涼子の声がした。
「はやく……」
牧野香織の声がした。
すうっと腰から力が這いあがってきた。
傷口から、暖かい水が染み込んでいくように。
牧野香織の唇が、ぴくっと動いた。
「早く!」
二人の声が同時にした。電流に打たれたように全身に力が満ちた。
その瞬間――カンナを抱いた左手首で、ぽうっと腕輪が眩《まばゆ》い光を放った。
「カズシ……」
カンナが呆然と間近でその腕輪を見つめた。
僕の腕がカンナの頭を離れ、何かに導かれるように持ち上がった。
まっすぐ、牧野香織のほうへ――。
「なんだよ、これ……」
腕輪は甲高い共鳴音を発し、眩い光を増していく。
白銀の蛇が肉を咬《か》み、血を吸い、骨を縛る。凄まじい力の内圧が手首にふくれあがる。
凶暴な矢をつがえた鋼鉄の弓がギリギリと引き絞られるように力が満ちる。
耳が痛くなるほどの共鳴音が室内を満たした。
それが、唐突《とうとつ》に、ピタリと止まった。
嫌な静寂が張りつめた。
力が臨界点で凍りついていた。
「牧野、矢野倉……?」
怯えが走った。牧野香織の右眼が、覚悟を決めたように、静かに僕を見返した。
「オレ、やだよ……、なんだよ、これ? おまえら、それで、いいのかよ……!」
膝が震えた。やりきれない想いが胸の奥にふくれあがった。なんで、こんなことにな
ったのか。なんで、僕らはもう学校で、二度と会うことができないのか。
「おまえら、二人いるなら、蟲《むし》なんて、なんとかなんないのかよォ!」
涙で視界がかすんだ。くやしさと哀しさと怒りが胸を切り裂く。
ぴく、
と牧野香織の肩が震えた。
ゆるゆると人差し指の欠けた右手が持ち上がった。
その欠けた指が僕の胸を指し、力なく銃を撃つマネをした。
その口元が一瞬、照れくさそうに、はにかんだように見えた。
その笑みは、牧野香織のものにも見えたし、矢野倉涼子のものにも見えた。
「なんで……」
力が、抜けた。絶望と救いが、同時に煌めいた。
突然、凄まじい力の波動が螺旋となって手首を襲った。
「待てよ……! やめろよ! やだよ!」
僕は前方に突きでた手首を必死に押さえつけた。
凶暴な力に脈打ち暴れる白銀の蛇を握りしめた。
でも、それを止める手だては、もうなかった。
力が――跳ねた。
「やめろオオオオオ――――!」
腕輪から閃光が爆《は》ぜた。
眩い光の洪水が顔にぶつかった。
瞼の裏が一瞬で白く染まった。
螺旋の波動が腕を伝い全身の骨を軋ませた。
光の粒子が細胞を突き抜ける。
細く、目を開けた。
白銀の霧が室内に満ちていた。
光の中に、牧野香織と矢野倉涼子が立っていた。
深い、霧の中に立っているように見えた。
その姿は、いつもの、牧野香織と矢野倉涼子だった。
矢野倉涼子が牧野香織の腕を引いて、光の中へ駆けていった。
そして――意識がとぎれた。
エピローグ
一週間後、僕は病院のベッドの上にいる。
あの日、目を覚ますと、僕はベッドに寝かされていた。
まるで高級ホテルの客室のような場所だったが、窓はひとつもなかった。
蛍光灯が白々《しらじら》とした光を散らしていた。
何時なのか、昼なのか、夜なのかもわからなかった。
腕に点滴《てんてき》がつながれ、口に酸素マスクがはめられていた。
傍《かたわ》らでカンナが椅子に座り、僕の肩口につっぷして寝ているのが見えた。
一瞬、安堵《あんど》し、同時に、あの惨事のことを思い出して、呆然とした。
母のこと。そして、牧野香織《まきのかおり》のこと。僕の家は、その後どうなったのか……
麻酔が残った頭の中で、ぼんやり想った。
ふいに、視界の左端《ひだりはし》に見えるドアが開いて、誰かが入ってきた。
飛び起きそうになった。が、こらえた。
黒スーツを着た、冷たい機械のようなあの男だった。
男は僕の横まで来て、いったん寝入ったカンナに視線を落とし、再び顔を上げた。
「お目覚め、ですか……」
黒いサングラスに僕の顔が映っていた。男は観察するように僕の顔を凝視した。
「しゃべらなくて、いいです……」
ぽつ、と言って、またカンナに視線を落とした。
「不思議な、子だ……」
呟《つぶや》いて、すっと部屋の隅に目をやり、独り言のように話しはじめた。
「なにも、変わりはありません。あなたの日常は……。すべて安心してお休みください。
我々には、それだけの、力があります……」
男は僕に視線を戻して首を振った。
「彼女の死も、事故です。あなたは、なにも関与していない。なにも……」
「母は……」
酸素マスクの中で声がくぐもった。男は小さくうなずいた。
「今頃、家にお帰りになられている頃です。少々、記憶をいじらせていただきましたが、
あのときの記憶はもともとありませんから。ただ、あなた、もう少し、射撃の練習をし
たほうがいい……」
男は口の端をかすかに吊リ上げた。
「父は……」
「お父様は、我々が足止めさせていただきました。ちゃんと会社のお仕事で……」
警察は……とは訊《き》かなかった。わかっている。彼らの組織は警察など問題にしていな
い。ここでは、あらゆる殺人が肯定《こうてい》され、闇に葬《ほうむ》られるのだ。
「ひとまず、おめでとう……。あなたは、我々の仲間です……」
男は僕の目を凝視したままゆっくりと右手を胸元に添えた。
「ようこそ、黒い鳥へ……」
その一瞬、目の前を大きな黒い鳥が羽ばたき、横切った気がした。
男は、そのまま部屋を出ていった。
カンナが目を覚ましたあとで、僕らは少しだけ話をした。
目を覚まして、僕が起きているのに気づくと、
「涼子ちゃん、格好よかったね」
カンナは明るく笑ってそう言った。人を思いやる方法は人それぞれだ。触れてはほし
くない場所に触れないこと。逆に、同じ痛みを持って、笑ってそこに触れてみせること。
カンナの優しさが、凍りついた心に岩盤の隙間を伝う水のように、滲《し》みた。
「おまえ、強いな……」
僕は天井を見つめたまま言った。
「オンナは、強くなるんだよ。だらしない男がそばにいるとね」
「まだ、オンナじゃねーだろ……」
僕はほんの少しだけ笑って軽口を叩いてみた。
「カズシ、あいわらず、馬鹿だねー……」
カンナは僕の肩口に顔を埋めて謡った。深いやすらぎに満ちた声だった。
「オンナはね、生まれたときから一生ずっとオンナなんだよ。男の子がそれに気づける
のが大人になってからってだけ」
「そういう、もんなのか……」
僕はその頭を抱き寄せ、そっと髪を撫《な》でながら、天井に言った。
「そーいうもんだよ……」
気持ちよさそうにカンナが言った。
「なんか、それ、つらそうだな」
視界が熱く滲《にじ》んだ。
「ううん」
カンナは顔を押しつけるように首を振った。
「すっごく、楽しいよ」
くぐもった涙声がした。
翌日、僕は自宅からほど近い見知った大学病院の個室へ移された。
医者も看護婦も僕の怪我《けが》について何も聞かなかったし、何も言わなかった。
母は、その日、真っ先に見舞いに来た。
顔を青くして、いろいろなことを教えてくれた。
僕はあの日、自宅で、精神異常者と取っ組み合って、刺されたらしい。
母はその前にそいつに撃たれ、気を失っていたというシナリオだった。
新聞でも、ニュースでも、学校でも、近所でも……
現実――に犯人も捕まっている。
前島義則《まえじまよしのり》という名の僕のクラスメイトだ。
彼は、警察に射殺されたらしい。
本当に、警察だったのかは、僕にはわからないけれど、
そして同じ日の夜、一人の少女が灯油をかぶって炎に包まれ、冷たい海に身を投じた。
彼女は一人でひっそりと死んだ。彼女の死と僕らの事件は無関係だ。
そういうことになっている。
彼らには、それだけの力があるのだ。
でも、僕は、彼らを信用してはいない。
彼らは、殺人ではないといったが、僕の手には、牧野香織を撃ったときの感触が拭《ぬぐ》い
ようもなく染みついている。
なにより、白銀の蛇は僕の手首を縛り、血を吸い込んだまま、もう離れない。
これが、拭いようもなく刻みつけられた罪の刻印だ。
僕は、彼女を殺したのだ。まぎれもなく。
そして、彼らの仲間になった僕は、これからも人を殺すだろう。
そのうち、両手の指では、追いつかないほどに。
僕らの本当の使命は、地蟲《ぢむし》が、完全に目覚める前に、その保有者を殺すことにある。
つまり、人間でいるうちに……
それは、どんな理由があろうと、まぎれもなく、殺人だ。
地蟲が、発現しないうちに、人が人でいるうちに、殺す。
カンナの小学校で殺されたあの男性教師が、そうだったように。
殺された人間は、自分がなぜ殺されたのかを、きっと知らない。
その人間にだって、家族や恋人や友人がいる。
でも、僕はもう、引き返すことはできない。
おそらく、一生……
僕はもう踏み越えてしまったのだから。
そして――。
地蟲とは、なんなのか……
そのもっとも重要な問いについて、僕はまだ、何も知らされていない。
僕が知り得た事実は、八神亮介《やがみりょうすけ》から聞かされたあの話だけだ。
昨日、母が持ってきてくれた荷物の中に『ヘプンズ』の最新号が入った封筒があった。
〈退院したら、連絡をくれ。いろいろ話したいことがある〉
裏に走り書きされた八神亮介の名刺が一枚入っていた。
地蟲は、本当に駆除すべき悪なのか……
牧野香織は、あの女が言ったように、本当に地蟲にすべてを喰われていたのだろうか。
疑問がある。
彼女は、最後まで、けっきょく、カンナを襲わなかった。
最初から、そんな意志などなかったのだ。
それは、たぶん、牧野香織として。
だとしたら、あの女は、僕に嘘をついている。
理由は、まだ、わからないけれど……
あの日から、僕の心は、どこか麻痺《まひ》したままだ。
僕は病院の窓からのぞく秋空に、ぼんやり呟いた。
「僕は、人を殺した。同じ学校の、僕を好きになってくれた女の子を……」
あとがき
ライフワークになる小説があるとしたら、僕にとってのこの作品はそれになる。
僕はたぶん、誰に頼まれなくても、この小説を書き続ける。もちろん、現実に誰にも
頼まれなかったらかなりつらい生活になるので、それはなんとしても回避したい。
この物語の阯界は、四年前にできていた。ただ、残念ながら四年前の僕には、この物
語をちゃんと始める力がまだなかった。
僕はこの四年間に約一〇冊の小説を書く機会に恵まれた。今見返して赤面してしまう
ものや手直ししたいものがあるとしても、それらはその時点での僕の限界だった。そし
て今回、僕はようやくこの物語をちゃんと始めることができた。
ちゃんと始めたら、ちゃんと終わらせなければならない。だから、この物語は最後ま
でちゃんと完成させる。それは僕にとって、まぎれもなく楽しい作業だ。
この物語は二つの大きな物語がシンクロして進んでいる。ひとつはカンナとカズシの
物語。そして、もうひとつはカンナとカズシの物語を呑み込む、より大きな物語だ。カ
ンナとカズシの物語がひとつの結末を迎えるとき、この小説のタイトルにもなっている
「ブラッドリンク」という言葉の謎が明かされる。これ以上し、現時点では言えない。
僕はこの物語を書くにあたって決めていることがある。それはろやんと「痛み」を書
きたいということだ。人が死ぬことの痛み。生きることの痛み。人を好きになることの
痛み。その三つをちゃんと書きたい。たとえ小説の中であろうと、そこに痛みを感じら
れるなら、それは「体験」として記憶される。
最後に、この小説は二つの出逢いに支えられた。この小説の担当は、四年前にこの物
語が生まれるきっかけとなった小説を書いたときからの担当で、当時別の出版社にいた。
彼がファミ通文庫の編集者となり、この物語を始める舞台を用意してくれた。彼は四年
前から僕とこの世界を共有し、今も共有してくれている。
そして、この作品のために彼が夜な夜なネットを排徊《はいかい》して、北海道から見つけだして
きてくれたイラストレーターがHACCANさんだった。僕と彼はHACCANさんの
絵に巡《めぐ》り会ったとき、正直、小躍《こおど》りした。そして、彼が描いたカンナを見たとき、僕は
仰天《ぎょうてん》した。それは寸分の狂いもなく、小説の中にいたカンナだったから。
これから先のカンナとカズシの物語は、僕一人ではなく、この三人で紡《つむ》いでいくもの
になる。僕はこの小説で、人と組むことの楽しさと強さを教えられた。
できるなら、あなたにも一緒に、カンナとカズシを見守ってほしい。
山下卓