ブルー・ブラッド
―― ヨーロッパ王家の現代史 ――
山下 丈
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目 次
プロローグ 大津事件
第一話 ニコライ二世の結婚
第二話 小国の王子たち
第三話 ヴィクトリア女王
第四話 日露戦争
第五話 アイルランド独立運動
第六話 王族の第一次大戦
第七話 ロシア革命
第八話 皇帝一家処刑
第九話 アナスタシア・チャイコフスキーの出現
第十話 日英の皇太子
第十一話 女工フランツィスカ・シャンツコウスキー
第十二話 アナスタシアの供述
第十三話 王冠をかけた恋
第十四話 ジョージ六世の即位
第十五話 ウィンザー公とヒトラー
第十六話 大空襲
第十七話 ジョージ善良王の死
第十八話 アナスタシア裁判
第十九話 女王エリザベス二世
第二十話 マウントバッテン卿暗殺
エピローグ 永遠の謎
主な参考・引用資料
謝辞
主要登場人物の人名索引
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blue blood
貴族の生まれ、名門の出。この句の起源はスペインにある。ムーア人の血が混じっていない純粋なスペイン貴族の血は、混血の祖先を持つ人の血よりも青いといわれることに由来する。
――ブルーワー英語故事成語大辞典(大修館書店、一九九四年)より
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プロローグ 大津事件
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エリザベス女王の夫君エディンバラ公フィリップ殿下の血液サンプルが証拠となり、昨年ロシア東部で発掘された五体の遺骨が、一九一八年にボリシェヴィキに殺害されたロシア皇帝一家のそれにほぼ間違いないことが判明した。
英国アルダーマストンの内務省法医学研究所での検査から、フィリップ殿下のDNAは、殿下の母方の祖母であるドイツのヘッセン大公女ヴィクトリア(故マウントバッテン卿の母)の妹にあたるロシア皇后アレクサンドラとされる一体のそれと一致することが分かった。
フィリップ殿下は、生存するロマノフ家の親戚の中で、真っ先にDNA分析のためサンプルを提供した人物である。
ロシア皇帝のDNAは、皇帝の母方の子孫のひとりが提供したサンプルと一致しなかった。
――「ザ・タイムズ」紙、一九九二年十二月十一日――
ロシアで一九九一年に見つかった帝政ロシア最後の皇帝ニコライ二世(一八六八年〜一九一八年)とみられる遺骨について、ロシア保健省はこのほど、本人のものかどうか確認するため、ニコライ二世の血液が付いた遺品を持つ滋賀県教委にDNA鑑定の協力を申し入れた。
――「日本経済新聞」、一九九三年(平成五年)二月二十一日「窓」欄より――
〔ロンドン九日=尾関章〕 一昨年にロシアのウラル地方で見つかった帝政ロシア最後の皇帝ニコライ二世一家のものとされる遺骨は本物、とする英内務省法医学研究所の鑑定結果が九日、発表された。証拠は、一家の親類らが引き継いだ細胞の遺伝子(DNA=デオキシリボ核酸)だった。
発表によると、ウラル地方のエカテリンブルクで見つかった九体の遺骨のうち、五体の骨から採った細胞内にある小器官ミトコンドリアのDNAが、一家と血縁関係にある親類らのものと一致し、同二世と妻、三人の娘たちのものとわかった。九八・五%の確率で正しいとしている。
鑑定では一八九一年の大津事件の際に残された同二世(当時は皇太子)の血のついたハンカチの切れ端なども資料として使われたが、血の量が少なく変質していて、判定には役立たなかったという。ロシアの研究者が六月、大津市の滋賀県立琵琶湖文化館を訪れ、ハンカチの一部を切り取ったり、座布団の表面から血液を削り取るなどして、英国に届けていた。
――「朝日新聞」、一九九三年(平成五年)七月十日――
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一八九一年(明治二十四年)五月十一日快晴、午後一時半に近く、気温は摂氏二十六度まで上昇していた。雲ひとつなく澄みきった青空から初夏の陽ざしがふりそそぎ、町家の奥庭の木々や、家並のうしろに見える山々の新緑がきらきらと輝いている。男は、直立不動の姿勢でじっと身動きせず立ちつくしていた。湿度は低く爽やかなはずだったが、商店が軒をつらねるこの辺りは風も吹かず、乾いた地面の照りかえしが暑い。汗が脇をつたい、制服の下の綿シャツの奥の肌をながれ落ちる。やがて群衆がざわめき、遠くに土埃がたつのが横目に映った。沿道の店の使用人たちが早朝から道路の清掃にかり出されており、路面は箒のすじ目もくっきりと掃き清められ水がうたれていた。それも乾きはじめている。人力車の行列が進んできた。近づくにつれ、居ならぶ群衆が万歳をさけび国旗の小旗をうちふった。
「ご通行、ご通行」
呼ばわる声が、しだいに近くなる。人力車の轍《わだち》のきしむ音が聞こえ、大勢の車夫が地面を踏みならす響きが身体につたわる。埃で息苦しい。
「正面の呉服屋には、もっと水をまいておけと命じたのに」
腹立たしい思いが一瞬よぎったとき、行列の先導役をつとめる竹中京都府警部の人力車はもう目のまえに達していた。警部は、車上から眼光するどく周囲をにらみ通り過ぎていく。人力車には、ほかに後押しの車夫がついている。そのためもあって、スピードはかなり速い。
ハッとあわてて頭を下げて軽く敬礼し、数台をやりすごすと、腰に吊るしたサーベルに手をかけ、シャリンと抜きはなった。するすると列をはなれ、人力車の来る方向に走り出る。五台目の車には、脇押しの車夫が二人ついていた。まっすぐつき進むと、ひるむ車夫をしり目に車上の人物にかけ寄りざま右手を振りおろした。洋刀のこしらえだが、中身は日本刀である。車夫がひく轅《ながえ》に身体をさえぎられ、切っ先は車上の貴人がかぶっていたグレイの山高帽のひさしを切り裂き、その額をわずかにかすった。ひさしの裂け目の奥に、青い瞳が恐怖と驚愕で大きく見開かれ、それにパッと鮮血が流れた。もうひと太刀。こんども頭部を傷つけたが、やはり浅い。貴人は悲鳴を上げ、車からとび降りて前方へと逃げた。逃がさじと踏み出すと、後続の車から降りたもう一人の長身の貴人が、勇敢にも手にした竹の鞭でうちかかってきた。たじろいだところを背後から車夫の一人が組みつく。その衝撃でどうと地面に倒れた際、不覚にも刀が手からはなれた。べつの車夫が刀をひろい、仲間をふりほどいて起き上がろうとする狼藉者の背中に、激しく二度、三度と切りつけた。
「殺すな、めし取れ」
先駆けに加わっていた木村滋賀県警部の声が響いた。
前年の一八九〇年(明治二十三年)十一月四日、ロシア皇帝アレクサンドル三世は、皇太子ニコライを極東に派遣することにした。西シベリア鉄道の起工式臨席が目的だったが、これを機会に皇太子はギリシャ国王の次男で従兄弟のジョージ(ギリシャ名ゲオルギオス)親王と共にアジア諸国巡遊の旅に出たのである。オーストリアを訪問した後ギリシャに立ちより、ジョージと一緒にエジプトを見物しスエズ運河経由でインドを経てシンガポール、ジャワ、サイゴン、バンコク、香港と半年もかけて、四月二十七日に長崎に到着した。そしてこの日、琵琶湖周遊ののち、京都の常盤《ときわ》ホテル(のちの京都ホテル)に戻るため滋賀県庁を出て駅に向かった皇太子は、大津の街中を数町進んだところ(現在の大津市京町通り二丁目付近)で、警備のため沿道に配備されていた滋賀県守山警察署巡査津田三蔵に襲われ負傷した。世にいう湖南事件もしくは大津事件である。凶器に使われたサーベルは鍔《つば》に「九十九」と数字が刻まれた警察官用の官有物だったが、後年のものと異なり刃がついていた。皇太子は、右の額からこめかみにかけて二か所に切り傷を負う。逮捕された犯人の津田三蔵は、背中と後頭部に重傷を負っていた。
津田三蔵は、取調べにこたえて言った。
「私は巡査となるまえ、政府軍兵士として西南戦争に従軍し西郷軍と戦いました。このたびのニコライ皇太子の来遊については、ひそかにロシア軍艦で鹿児島を脱出し彼の国で生存しておった西郷隆盛がともに帰り来るとの風説も流れており、ロシア皇太子来日の意図に疑惑を抱きました。日本に到着したからには真っ先に上京して天皇陛下にご挨拶すべきであるのに、長崎に上陸して鹿児島へ、それより京都、滋賀等をへて東京に向かうとは、これはまさに日本征服の野心を隠しての下調べの行動にほかなりません。ここに一撃を加え、もって彼の心を寒からしめんとしたのであります」
商家の店先で腰をおろしてロシア人の侍従医官に手当てを受けながら、ニコライはかたわらで容態を案じる若い有栖川宮威仁《ありすがわのみやたけひと》親王に微笑んでみせた。
「あなたのお気づかいは心にしみます。しかし、私はこうしていれば大丈夫です」
宮は店の奥にとびこんで家人に布団を借り、自らそれを敷きのべてニコライに勧めたばかりだった。興奮を隠しきれない様子のロシア侍従武官らを目で制し、巻煙草を手にニコライは続けた。
「長崎上陸いらい愉快に過ごしてきましたが、その印象が一人の狂人のしわざで妨げられることなぞありません。こんな怪我は、京都で二、三日も静養すればじき治ってしまうでしょう。早く上京して、陛下にお目にかかりたいばかりです」
明治天皇は凶事のしらせを聞いて急ぎ東京をたち、京都の宿舎へニコライを見舞った。天皇はいたく心痛し、見舞いをうける側のニコライ本人の目にもひどく憔悴しているのが歴然と見てとれるほどだった。この後天皇は、旅行を中断して帰国するニコライに神戸まで同行したうえ、ロシア軍艦に上艦して会食し、なごりを惜しんだ。天皇が外国軍艦に乗り込んで食事すると言い出したとき、周囲は再び恐慌をきたした。
「外国の食事を召し上がるなど未曾有のことで、どれほど危険があるか、はかり知れませぬ」
「このたびの事変に激昂したロシア側が、とっさに錨を上げて陛下を拉致されるおそれがございます」
しかし天皇は自説を曲げず、終始なごやかな雰囲気で艦上の別れを惜しんだのだった。二人の車夫に命を助けられたことを知って感激したニコライは、彼らを乗艦に招いて勲章と謝金、それにロシア政府よりの年金を贈った。日本のマスコミは、「帯勲車夫」と呼んでほめそやした。
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その後この事件は、日本における司法権独立の金字塔として、ときの大審院長児島|惟謙《いけん》の名とともに長く後世に残ることになる。日本政府は外交政策上犯人を死刑にしようとしたが、当時の最高裁にあたる大審院は謀殺未遂として無期徒刑を言い渡した。だが津田三蔵は、北海道釧路集治監に収容されて間もない同年九月三十日に肺炎により死亡している。死刑を免れても、当時の監獄の劣悪な環境の中でひと冬すら生きのびることができなかったのである。ニコライ皇太子は、その後ロシア皇帝ニコライ二世となるが、生涯その額に「サムライの刀痕《とうこん》」をとどめていた。
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第一話 ニコライ二世の結婚
ニコライ皇太子の祖父アレクサンドル二世は、テロリストの投げた爆弾で落命していた。剛胆な父アレクサンドル三世も、大津事件の三年前、脱線転覆した御料列車から家族をたすけて脱出する際に、圧迫で腎臓をいためていた。そして大津事件の三年後に、この世を去ることになる。津田に切りつけられた瞬間、ニコライは自分も祖父と同じ運命をたどるのかと思った。そのとき心に浮かんだのは、やはり彼女の面影だった。
「ああ、アリックス、わがいとしい人」
アリックスは、ドイツのヘッセン大公女アレクサンドラの愛称である。母がイギリスのヴィクトリア女王の娘アリスであったから、彼女はヴィクトリア女王の孫にあたる。アリックスの次姉エリザベートことエラは、一八八四年にニコライの叔父セルゲイ大公と結婚している。アリックスが十二歳のときだった。アリックスは、姉の結婚式に出席するためロシアをおとずれた。花嫁エラを迎える特別列車が、純白の生花を客室に満載してロシアからやって来た。花嫁一行が国境を越えると、駅ごとにロシア正教の僧侶を先頭に土地の住民たちが埋もれるほどの花で歓迎した。叔父の花嫁につき従う少女を、十六歳のニコライははじめて見た。恐怖で動転しながらもニコライは、もし生きてサンクト・ペテルブルクに戻ることができたら、勇気を出して父帝に願いドイツまで求婚に旅立とうと決心した。
一八九四年四月二日ドイツ、バイエルンのコブルクで、アリックスの兄エルンスト=ルートヴィヒ殿下とザクセン=コブルク=ゴータ公女ヴィクトリア=メリタとの結婚式が行われた。イギリスのヴィクトリア女王の亡き夫アルバート殿下の実家にあたるゴータ公爵は、女王の次男エディンバラ公アルフレッド殿下が兼ねていたから、メリタ公女もヴィクトリア女王の孫だった。そのゴータ公爵夫人はニコライの叔母である。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世もヴィクトリア女王の孫だったから、この時期のイギリス・ドイツ・ロシアの三大国の王室はまさに親しい親戚関係にあった。結婚式には、ヴィクトリア女王はじめ大勢のヨーロッパ王家の人々があつまった。ニコライや、アリックスの姉のセルゲイ大公妃エラも、ロシアからやってきた。華やかな舞踏会が催されたが、軍服しか着ようとしないドイツ皇帝ヴィルヘルム二世にあわせて、男性たちはみな自国の軍服姿だった。これまで、かさねてのニコライの求婚の手紙に、アリックスは悩みぬき幾度もことわりの返事を書いていた。理由はただひとつ、彼の宗教がロシア正教で彼女がプロテスタント、それも敬虔なルター派の信者であることだった。だが彼はあきらめず、直接に彼女を説得するためにやってきたのだった。彼女の祖母のヴィクトリア女王も、孫娘の縁談をまとめあげるつもりであった。姉のエラが言った。
「きっと、あなたは『ニッキー』(ニコライの愛称)を愛しているはずよ。だったら勇気をお持ちなさい。わたくしは、結婚しても宗教を変える必要はなかったわ。夫は皇帝にはならないのだから。でも、自分からロシア正教徒になったの。あなたの場合は将来の皇后ですもの、どうしてもそうしなくてはならないわね。信仰を変えることは、そんな重大なことではないのよ。結婚相手がだれかということのほうが大切。わたくしは彼を心の底から愛していたから、彼の信じる宗教を選んだの」
アリックスは、とうとうニコライのプロポーズを受け入れた。コブルク城はドイツ有数の規模をもつ中世いらいの美しい城塞である。紫と白のライラックの花房がたわわに咲きみだれる城内の庭園を、二人はよりそうようにして散策した。決心してからの彼女はとても自信に満ちていて、しあわせそうだった。
(画像省略)
その翌朝、ニコライの寝室の窓の下に、ヴィクトリア女王の竜騎兵の一団が金具をがちゃつかせながらくつわを並べ、サーベルを抜いて叫んだ。
「ロシア皇太子ばんざい!」
婚約者たちは、女王の居室にかけこむようにして、
「おお、グラニー(おばあちゃま)クイーン、ありがとうございます」
と、礼をのべた。アリックスは、ヴィクトリア女王が大勢の孫の中でいちばんかわいがっていた娘だった。女王は椅子に腰をおろしたまま、満足そうな表情でアリックスを抱きよせた。女王の長男イギリス皇太子のアルバート=エドワード殿下が部屋に入ってきて、一同を見渡すと言った。
「さあさあ、庭に出てみんなそろって記念写真を撮りましょう」
三十人もの親族が、館の庭にずらりと並んだ。英独露の皇帝や国王、貴族たちである。当時、写真は上流階級のたのしみだった。王侯や貴族たちは、機会があるごとに写真を撮らせている。ヴィクトリア女王が前列中央に腰かけ、男性の中ではドイツ皇帝ヴィルヘルム二世だけが腰をおろしている。アリックスはニコライと並んで立ち、かたい表情をしていた。
婚約後、アリックスはイギリスの祖母ヴィクトリア女王のもとへ旅立った。ニコライは愛用のヨット「北極星」号でイギリスを訪問する。再会した二人は、バッテンベルク卿に嫁いでいるアリックスの長姉ヴィクトリア宅を訪れた。後年のマウントバッテン卿の両親である。ウィンザー城で謁見したヴィクトリア女王は、一八六一年に最愛の夫アルバート殿下をなくした後、生涯喪服姿だった。これまでにもう三十三年が経過していた。一八八七年に喪服の緩和令が出されていたが、胸には黒い石炭のような鉱石「ジェット」でできた喪服用の首飾り(モーニング・ジュエリー)をさげている。女王の眼前に、ニコライはロシアからアリックスのために持参した婚約プレゼントの品々をひろげた。ピンクパールの指輪、同じくピンクパールのネックレス、巨大なエメラルドのついたチェーンのブレスレット、サファイアとダイヤのブローチ、そして最大のプレゼントは父帝からのもので、当時のロシアで有名な宮廷御用達のジュエラーだったファベルジェ製作のパールのソートワール(襟飾り)であった。
「おやおや、なんてすてきなこと。でもアリックスや、これでお鼻を高くしすぎてはなりませんよ」
女王は、優しい祖母の目をして言った。
「さて、たまにはお供なしで二人きりで外出するのもよいでしょう。こんな夏のすてきな日には遠出をするものよ」
万事エチケットにうるさい女王の宮廷で、婚約したとはいえ、結婚前の彼らが二人きりになることなぞ許されないはずだった。喜びを隠しきれない様子で退出する若者たちを見送りながら、女王には格別の感慨があった。まだアリックスが幼い頃に死んだアリックスの母親で女王の次女アリスへの想いである。
一八六二年七月に、アリスがヘッセン大公家に嫁いだとき、女王はその前年に夫君アルバート殿下を失ったばかりであり、母娘とも喪に服していた。そのためアリスのイギリスでの結婚式は、婚礼というよりも葬儀のように暗い雰囲気のなかで行われた。ほどなく女王は、娘がダルムシュタットに新しい居城をかまえたことを知らされた。アリックスは、一八七二年六月六日に、ライン河にほど近いこの街で生まれた。「アリックス」というその名は、母の名「アリス」のドイツ語形である。
「お母さまによい名をつけていただいて、娘はしあわせです。だって、『アリックス』はドイツ語でもアリックスですもの。英語のわたくしの名前をこちらのドイツ人たちが発音すると、『アリーセ』となってしまうのです。アリーセなんて、まるでわたくしじゃありません」
アリスは二男五女をもうけたが、次男フリードリヒはアリックス誕生の翌年に四歳で他界している。アリックスは六番目で四女だった。
「かわいい愉快なおチビちゃんです。だから、『サニー』と呼ばれています。いつも笑っていて、片頬にだけえくぼがあるんです」
アリスは、生まれた娘のことをヴィクトリア女王に嬉しそうに書き送っている。
ヘッセン大公の城館は、フランクフルトの南に位置するダルムシュタットのせまい敷石の道がいりくむ旧市街の中心にあった。大公妃アリスは、館の中の家族の居住部分を完全に英国風にしつらえていた。両親であるヴィクトリア女王と故アルバート殿下、それに英国王室の面々のポートレートをかざり、子どもたちの養育係としてイギリス人の家庭教師をやとった。食事も英国流儀に質素であり、アリックスは焼きりんごとライス・プディングを食べて育った。クリスマスの食卓には、わざわざイギリスから運ばれたクリスマス・プディングと挽き肉やドライ・フルーツで甘く仕立てたミンス・パイが出された。つまりアリックスは、ドイツの大公女といってもイギリス人として育てられたのである。家族は毎年、ヴィクトリア女王のもとを訪問した。
だがこの当時、アリスの夫ヘッセン大公ルートヴィヒ四世は不遇だった。アリックスが生まれる一年前の一八七一年一月にドイツ帝国ができ、北ドイツの雄プロイセン王国の君主ホーエンツォレルン家のヴィルヘルム一世がドイツ皇帝となっていた。プロイセンの宰相オットー・フォン・ビスマルクは、まず一八六四年に、ドイツとデンマークの間で帰属が曖昧なシュレスヴィヒ、ホルシュタイン両公国の王位継承権をめぐり、ハプスブルク家のオーストリアを誘ってデンマークに戦いを挑み、デンマーク王クリスチャン九世のもとから領土の三分の一を奪った。シュレスヴィヒはプロイセン、ホルシュタインはオーストリアの統治のもとに置かれた。だが遠隔地ホルシュタインの管理に手を焼いたオーストリアが苦情を申し立てるや、ビスマルクはドイツの覇権をかけてオーストリアと戦う決意をする。同じヘッセン家の血筋であるヘッセン=カッセル家は、南ドイツの大国ヴィッテルスバッハ家が支配するバイエルン王国に誘われてオーストリア側につき、一八六六年、オーストリアの敗北によりヘッセン=カッセル選帝侯国はプロイセンに呑み込まれてしまった。
当初、オーストリアとの戦争をためらったプロイセン国王ヴィルヘルム一世は、勝利の知らせを聞くと勢いづいた。
「よし、ホーエンツォレルン家の軍旗を掲げ、ウィーンに入城パレードじゃ!」
「それは、なりませぬ」
宰相ビスマルクは、王を諫めて言った。
「覇権を争うことにおいて、敵味方に善悪の違いはありません。相手を不必要に辱めたり、懲罰を加えたりはせぬことです。また、ハプスブルク家の支配の下には、あまりにも多くの民族が服しております。これを吸収すれば統治は困難であり、他の列強諸国も承知しないでしょう。わがプロイセンによるドイツ民族の国家統一をもって宿願とし、オーストリア帝国はその圏外に置けばよろしかろうと存じます」
「それでは、『大ドイツ』が成らぬではないか」
ヴィルヘルム一世は不満やるかたない表情だったが、ビスマルクは譲らなかった。
そして一八七〇年、たまたま二年前から共和制をとっていたスペインが、ホーエンツォレルン家の王子を国王に迎えようとした。ドイツの脅威を警戒したフランスのナポレオン三世は、オーストリアやイタリアとの接近をはかりながらこれに干渉した。フランスが挑発を受けてドイツに宣戦布告するや、南ドイツ諸国を含むドイツ軍はあっという間にフランス軍を撃破し、セダンでナポレオン三世を捕虜にしてしまう。ドイツ皇帝となるヴィルヘルム一世の戴冠式は、帝政が倒れたフランスのヴェルサイユ宮殿で挙行されることになった。
小さいながらも大公国として独立国であったヘッセン大公の所領も、プロイセン国王が君臨するドイツ帝国の一部となってしまった。大公は、家の中にひきこもりがちだった。皮肉なことに、ドイツ皇帝の皇太子のもとには、ヴィクトリア女王の長女つまりアリスの姉ヴィクトリアが嫁いでいる。ヘッセン大公もふくめ南ドイツの小国の君主たちは、プロイセンに従属することを喜ばなかった。その筆頭は、最大のバイエルン王国のルートヴィヒ二世である。
「プロイセン国王は、われらの代表にすぎないはずだ。『ドイツ』という国の皇帝ではないのだから、その名称でもこのことを明らかにしてもらいたい」
プロイセン王ヴィルヘルム一世のほうも、機嫌が悪かった。
「『ドイツ皇帝』なぞ、どこの国を治めているのか分からないではないか。皇帝となるからには、『ドイツ帝国皇帝』でなくては意味がない」
プロイセンの宰相ビスマルクは巧妙だった。バイエルン王をなだめるため、自分の主君の不満をおさえることで実をとらせたのである。ルートヴィヒ二世の希望どおりの表現で憲法を制定し、これに書簡をおくった。
「『ドイツ皇帝』という名称は、その権利がドイツの諸君主および諸民族の任意の認可に発したものであることを意味しております。ドイツの諸公家が選挙したる皇帝が、諸公家の欧州における高き地位を毀損《きそん》する者となることは決して許されませぬ」
しかしルートヴィヒ二世は、なおも不満だった。
「余は、バイエルンが将来とも独立の地位を保持することを切望している。このことは、もとよりバイエルンが連邦政策に忠実に従うことと両立するものであり、かつ有害な中央集権の排除に寄与するものである」
ビスマルクは忍耐づよく返事をしたためた。
「私どもは、なんらの中央集権運動をももくろんではおりませぬ。これは陛下が正しく思料しておられるところと一致しております。どうか陛下は帝国憲法に記された保障をご信頼ください。陛下の権利は帝国憲法の不可分的部分をなしており、帝国の諸制度と同一安全なる法律の基礎に立つものであります」
宰相の執務室でビスマルクとひたいを寄せあうようにして密談しているのは、ホルンスタイン伯爵だった。
「バイエルン王は、どうあっても納得されぬか?」
「なにせ、このところずいぶんと情緒の安定を欠いておられるとか」
「貴公の思案を聞かせよ」
「築城に音楽にと、バイエルン王は国庫金を湯水のように使われております」
「金か、五百万金マルクまでなら出してもよいぞ。貴公の仲介役の労には、その十パーセントを褒賞金として支払うことといたそう」
こうして南ドイツの大国バイエルン王国のルートヴィヒ二世も、ビスマルクに押し切られてしまう。ヴィルヘルム一世を皇帝に推挙し、これに帝冠を差し出すのもプロイセンに次ぐ強国の君主ルートヴィヒ二世でなくてはならなかった。
ドイツ帝国内のそれぞれの国は、独自の軍隊、通貨や郵便制度、それに鉄道についての権利は維持できたが、ルートヴィヒ二世は再び屈辱を味わうことになる。皇帝の息子フリードリヒ皇太子をミュンヘンにむかえて、帝国成立を祝う閲兵式が挙行された。バイエルンの兵士たちは、黒い髪の自分らの王でなく金髪のプロイセンの皇太子に歓呼の声をあげ、プロイセン王が創設した鉄十字勲章を皇帝の名で授与された。皇太子に付き添ってミュンヘンの街路を馬で行進するとき、ルートヴィヒ二世は、
「私が臣下として騎乗するのはこれが最初だ!」
とつぶやいた。それでも気をとりなおして、
「この記念に、殿下をわがバイエルン軽騎兵隊の大佐に任じましょう」
と、ルートヴィヒ二世が言うと、フリードリヒ皇太子はにこやかに笑って、
「ありがとうございます。だがそれは、皇帝陛下にご相談申し上げなくてはお受けできません」
と答えた。侮辱に怒ったルートヴィヒ二世は、突然の頭痛を理由に席をはなれた。もはや王の楽しみは作曲家リヒアルト・ワグナーのためのバイロイト祝祭劇場の建設と、壮麗なノイシュヴァンシュタイン城やリンダーホーフ城の完成だけだった。
一八七八年、アリックスが六歳のとき、ヘッセン大公家の子どもたちのうち五人がつぎつぎとジフテリアに感染した。ヴィクトリア女王はわざわざイギリスからも医師を派遣したが、四歳の末っ子のメイは助からなかった。母親のアリスは、子どもたちの看病に寝食を忘れているうちに自分もジフテリアにかかり、夫と六人の子どもを残して、一週間後にメイのあとを追う。三十三歳の若さだった。
「わたくしは、あなたのことを本当の息子だと思っているのですよ。おお、かわいそうなアリックス! あの子が末っ子になってしまったのね。家庭教師たちには、わたくし宛ての定期的な報告を欠かさないように命じてください。そうすれば、わたくしもこの子たちの養育について、あれこれ指示を与えることができます。孫娘たちは、完璧なレディに育ってほしいのです」
ヴィクトリア女王は、娘に先立たれた義理の息子ヘッセン大公ルートヴィヒ四世と母をなくした孫たちのことが気がかりでならなかった。
ニコライとアリックスの婚約より四年前のこと、ヴィクトリア女王は、アルバート=エドワード皇太子の長男で「エディ」の愛称で呼ばれた孫のクラレンス公アルバート=ヴィクター殿下とアリックスの結婚を進めようとしたことがある。だが、アリックスはこれに応じなかった。
「お心を傷つけることはひどく心苦しいのですが、殿下の結婚の申込みはお受けできません。いとこ同士ということで殿下のことが好きです。でも、わたくしは殿下と結婚しても幸せにはなれません。殿下も、おしあわせにはなれないことでしょう。ですからどうぞ、もう」
「アリックスとエディを結婚させたいというわたしの願いは、これですべておしまいのようね。なんとも残念なことだわ。あの子に気持ちを変えてほしいと説得はしました。無理にでもというならそうするけれども、それでは自分もエディも不幸せになるというのよ。とても強い精神の持ち主だこと。あれが、わたくしたち一族の性格でもあるのね。あの子は世界でいちばん偉大な地位を蹴ったのよ」
ヴィクトリア女王はため息まじりに、それでも愛する孫娘アリックスを褒めた。「世界でいちばん偉大な地位」につくことを約束されている皇太孫エディは知的な面で欠けるところがあり、長じても異性と狩猟にしか関心を示さなかった。彼が大英帝国の未来の君主たる資質を持ちあわせていないことは、だれの目にも明らかだった。彼のプロポーズをアリックスが受け入れなかったのも無理ないことだった。そのうえ幸か不幸か、エディがその地位につく事態は永遠に訪れないことになる。一八九三年にヨーロッパ全域でインフルエンザが大流行したとき、彼はその犠牲となって二十八歳で死去した。
婚約が整い、アリックスは姑となるマリア皇后に手紙をしたためた。英文である。手紙の書き出しは、「アーンティ・ママ(ママおばちゃま)」となっていた。皇后は息子ニコライに言った。
「アリックスの手紙の中身はほんとうにかわいらしくて、実の娘ができたような気持ちになりましたよ。でもただひとつだけ、あの書き出しは気にいりません。わたくしはむしろ『マザー・ディア(お義母さま)』と呼ばれたいの。そのように、ちゃんと伝えておきなさい」
マリア=フョードロヴナ皇后は、小柄で陽気な美しい女性で、ロシア国民に敬愛されていた。四十八歳となった今でも、パーティーと舞踏会が大好きで、そうした社交界の催しは彼女が登場するだけで明るく光り輝く雰囲気となる。皇后として各種の慈善事業に献身する一方で、パリ仕立ての衣裳で優雅によそおい、ファベルジェの宝飾品に熱をあげ、豪華な招宴を主催した。美しいブロンドの髪と輝く眼差し、明るい微笑の気品あふれる姿で夫と並び、皇族たちを従えてきらびやかな軍服の衛兵が並ぶ回廊を進む。参列者一同がつぎつぎにうやうやしくお辞儀をする。
マリア皇后の人気には、また別の理由もあった。彼女は、イギリス皇太子妃アレクサンドラとは実の姉妹であり、デンマークのグリュックスブルク公女として育った。のちに父親がデンマーク国王クリスチャン九世となる。
革命にいたるロシアの不穏な情勢には、王族や貴族、軍人や政治家ばかりでなく商業まで支配しようとする在住ドイツ人に対するロシア人の反感も寄与していた。そもそも先祖アレクサンドル一世の母后もドイツのヴュルテンブルク出身で、后はヘッセン大公女だった。その弟でニコライの曾祖父ニコライ一世も、后をプロイセンから迎えた。当時の宮廷政治を支配したのも、ネッセルローデ伯爵ほかのドイツ人だった。祖父のアレクサンドル二世の后、つまりニコライの祖母もヘッセン大公家の出身である。アレクサンドル三世だけが后をデンマークからむかえたものの、兄弟のウラジミル大公やセルゲイ大公らの妃はみなドイツ人である。その意味でマリア皇后は、当時のロシア上流階級のなかでは異質な存在だった。一八六四年、シュレスヴィヒ、ホルシュタイン両公国の王位継承権をめぐってプロイセンとオーストリアの連合軍がデンマークに戦いを挑み、デンマーク王クリスチャン九世は領土の三分の一を奪われてしまった。マリア皇后の母もドイツのヘッセン=カッセル家出身だったが、マリア皇后はドイツ人を嫌っていた。
アレクサンドル三世は次男であり、成年に達するまで、本人も周囲も彼が皇帝となることを予期していなかった。父帝アレクサンドル二世も母后マリアも、皇太子である長男ニコライを偏愛していた。容貌も才能も、兄のほうが優れていた。だが、凡庸に見える次男アレクサンドルの真価を認めている者が、一人だけあった。ほかならぬ、兄ニコライである。結核のやまいが重くなって、皇太子が床に臥したとき、お付きの家来が涙を流しながら励まして言った。
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「もし殿下のご病気が癒えなければ、このロシアの国家はどうなりましょう?」
やつれた若者は、微笑んだ。
「私が死んでも、弟がいるではないか。君たちは弟を知らないから、そんな心配をするのだ。弟こそ、真の君主たるうつわだ」
マリア皇后は、もともと皇太子の婚約者だった。皇太子は、療養のため気候温暖な南フランスのニースに移され、そこで亡くなった。臨終の皇太子は、見守る人々の前で婚約者に向かって声をかけた。
「いとしい私のダグマール(マリア皇后のデンマーク時代の名)、もっとそばに来てください」
それから、呆然と傍らに立つ弟アレクサンドルを手招きした。
「おまえも、ここへ」
二人の手をとり、それをひとつに重ね合わせて言った。
「私が死んだら、どうか二人でロシアの国のことを頼みます」
フィアンセが泣き崩れると、ロシア正教の司祭が入れ替わりにベッドに近寄った。こうして二人は、兄の遺言で結婚したのだった。
そんな皇后と皇帝とはまるで不似合いに見えるカップルだった。アレクサンドル三世は、身長百九十センチをこえる巨漢で、うすい頭髪に顔じゅう黒々とひげをたくわえていた。暗殺された父帝アレクサンドル二世のような自由主義者ではなく、保守的な弾圧政策をとった。毎朝七時、皇帝は起床すると冷たい水で顔を洗い、ロシアの農民服を着る。これが彼の普段着だった。自分でコーヒーをいれて執務机のまえに腰をおろし、書類に目を通しはじめる。彼よりも遅く皇后が起き出してきて、それから夫婦の朝食の時間だった。ライ麦のパンとゆで卵だけの簡素なものである。子どもたちは、昼食のときにしか両親とは同席させてもらえない。もっぱら手狭なアニチコフ宮殿で暮らし、広壮な冬宮殿を嫌っていた。このロシア皇帝を絵に描いたような巨人アレクサンドル三世の恐れるものが、ただひとつあった。子どもの頃から馬が恐くて、乗馬が苦手だったのである。マリア皇后が美しい金髪を風になびかせながら、たくみに馬を操るのに対して、巨体のうえ肥満気味のアレクサンドル三世は、大人しくて頑丈な馬にこわごわ騎乗していた。
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アレクサンドル三世の皇子や皇女たちは、父帝を敬いおそれていた。それは皇太子であるニコライにとってもそうだったが、夭折した次男ゲオルギーだけは違っていた。アレクサンドル三世は、毎朝、ゲオルギーと戯れながら散歩をするのが好きだった。夏のある日、園丁がホースで水をまいている花園のそばを通りかかったとき、だだをこねたゲオルギーに、父帝はいきなり園丁のホースを奪って水をかけた。部屋に戻って着替えさせ、朝の執務を終えた皇帝が一階の書斎の窓から首を突き出し外を眺めていると、今度は二階の窓からゲオルギーがざあっと水をかけた。こんないたずらをしてもゲオルギーだけは叱られなかったし、そんなことを父帝にできるのも彼だけだった。皇太子ニコライの身長は百七十センチ、繊細なおとなしい性格で、すらりと背の高いアリックスと並ぶと彼女のほうが頭ひとつ高く見えた。ニコライは、母からきらきら輝く美しい青い瞳をうけついだ。だが、母后のような社交性も、父帝のように断固としたところも彼にはなかった。
秋になった。一八九四年十月のはじめ、アリックスは急きょロシアへとむかうことになった。ニコライの父アレクサンドル三世の腎臓病の病状が悪化したのである。むかしの列車事故の後遺症だった。それに飲酒が拍車をかけた。彼は、クリミア半島のリヴァディアにある夏宮殿で病臥していた。当時十六歳のニコライの妹オリガ皇女だけがベッド脇にいるのを見て、皇帝は苦しい息づかいでそっと言った。
「かわいいおまえ、となりの部屋にアイスクリームがある。だれにも気づかれないように、そいつを持ってきてくれんか。ラム酒をたっぷりとかけてな」
ベルリンの駅でアリックスを見送ったのは、「ウイリー伯父」ことドイツ皇帝ヴィルヘルム二世だった。アリックスは普通の列車の一般乗客としてクリミアへと発っていった。ロシアの大臣たちは皇帝の病気で奔走しており、皇太子妃となる彼女のために特別列車を手配していなかったのである。さびしい旅立ちであり、すべてが姉エラの結婚のときとは違っていた。
アレクサンドル三世は周囲が止めるのに耳をかさず、ベッドから起き上がって正装の軍服姿に着がえ、寝室のアームチェアに腰かけて息子の婚約者を迎えた。
「ロシア皇帝が未来の皇后を謁見するのだから、こうしなくてはならぬ」
病みおとろえた皇帝の身体に、もはや彼の軍服はフィットしていなかった。彼は優しくアリックスを手まねきした。彼女は緊張して皇帝のまえにひざまずき、その祝福を受けた。
十一月一日、アレクサンドル三世が亡くなった。四十九歳だった。まだ二十四歳の皇太子ニコライには帝位を承継する心構えはできていなかった。
「私には皇帝となる準備ができていない。なりたいと思ったこともないんだ。国を統治するという仕事については、なにも知らない。大臣たちとどんなふうに話すのかすら、思いもおよばない」
気が弱くて優しいニコライを励ましながら、アリックスは自分がしっかりしなくてはと思うのだった。その翌日、アリックスがプロテスタントからロシア正教に改宗するための洗礼式がおこなわれた。アリックスは、アレクサンドラ=フョードロヴナとなった。アレクサンドル三世の棺は、サンクト・ペテルブルクのペトロ=パヴロフスク教会に安置されるため、亡き皇帝一族の馬車の列と、それに一人で続くアリックスの馬車を従えて進んだ。市民はおし黙ってそれを見送りながら、厚いベールのかかった最後の馬車を指さして言うのだった。
「ドイツ人の花嫁が、陛下の棺と一緒にやってきた」
同時に、一年間の服喪令が公布された。十一月二十六日、この日はマリア皇太后の誕生日にあたる日だったから、この一日だけを喪明けとしたうえで、新皇帝ニコライ二世はアリックスと結婚する。冬宮殿の礼拝堂での挙式の際、ニコライは真紅の軽騎兵将校の軍服に純白のマントを肩にかけていた。アリックスは、銀糸で刺繍した長い白絹のドレスの飾り裾をささげさせて、金襴のマントをはおりダイヤモンドの輝く宝冠を頂いていた。
「わたくしの結婚式は葬儀の続きでした。ただ白い衣装を着けさせられただけです」
と、アリックスは回想している。マリア皇太后は優しく花嫁の手をとって歩いてみせたものの、皇后のための宝石や装飾品のたぐいを譲り渡す気はまったくなかった。
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第二話 小国の王子たち
時代をさかのぼり一八六六年のこと、エラとアリックスの姉妹の大伯父にあたる先々代のヘッセン大公ルートヴィヒ三世は、バイエルン王国などと手をむすびオーストリアに味方してプロイセンと戦い敗北を喫した。そもそもこのときにヘッセン大公国がプロイセンに併呑されなかったのは、ルートヴィヒ三世の末の妹マリエがロシア皇帝アレクサンドル二世に嫁いでいたからだった。ニコライの祖母でアリックスには大叔母にあたるこの皇后は、ロシア名をマリア=アレクサンドロヴナといった。ヘッセン大公家は、こうしてロマノフ家との姻戚関係をうしろだてに生き延びてきたのである。
このロシア皇后と、彼女のすぐ上の兄アレクサンダー殿下とは、彼らの母親がその夫ヘッセン大公ルートヴィヒ二世から疎んじられて別居し、とある男爵との間にもうけた子どもたちだった。二人は、バーデン大公女であった母の実家の領地ハイリゲンベルクの森の小さな家で育った。のちにヘッセン大公は、体面を保つため二人を認知して引き取った。母の死後、わずか十四歳のマリエは、花嫁候補を求めてヨーロッパを巡遊中のロシア皇太子にみそめられる。二年後に妹がロシアに嫁ぐと、兄もこれを頼ってサンクト・ペテルブルクに移り住み、ロシア陸軍の将校にとりたてられた。ハンサムで魅力的なこの青年将校は、妹の姑である皇后づきの女官と恋におちる。彼女ユリア=テレーザ・フォン・ハウケは、皇帝ニコライ一世が用いたポーランド人将軍の遺児だった。彼女の亡き父親は中流の下あたりの階層から出て立身出世し国防大臣までつとめたが、ワルシャワで起きた暴動の鎮圧にむかって命を落とした。直後に母親も死んだため、ニコライ一世はその境遇をあわれみ、彼女を冬宮殿の女官にしたのだった。ポーランド人とはいえ彼女の体内にはドイツ、オランダ、フランス、スイス、ハンガリー、ポーランド、そしてユダヤ人の血が流れていた。ある日、二人の関係は皇帝の知るところとなった。
「宮中の女官との勝手な恋はご法度だ。それにおまえは将来のロシア皇帝の義兄なのだぞ。身分というものをわきまえねば」
一八五一年のある日のことであった。皇帝ニコライ一世は、義理の娘の兄を呼びつけ、優しくさとした。
「ユリアにはもう二度と会わぬことだ。約束できるな。それよりも、わしの姪と結婚しなさい」
皇后も言葉をそえた。
「陛下の弟君ミハイル大公殿下のご息女カテリーヌは、本当に気だてのよい子ですよ。それで、この宮廷でのあなたの地位も約束されるのです」
だが、アレクサンダーは引き下がらなかった。
「いえ、それはできません。ユリアは妊娠しているのです」
「妊娠? 妊娠したらどうだというのだ。財産も持たぬ平民の娘と結婚するために、このロマノフ家の縁談を断るのか。ならば、わしがおまえに与えた将軍の位も給与も召し上げだ。ただの軍曹に降格してくれよう。とっととペテルブルクから出て行け!」
身重のポーランド人の娘を連れてダルムシュタットに戻った異父弟に対して、兄のヘッセン大公ルートヴィヒ三世は冷たかった。
「妹の立場は考えなかったのか? ロシア皇帝がおっしゃるように、この大公家のプリンツ(王子)であるおまえが平民の娘と結婚するというのは、家長の私には許せぬことだ。せいぜい『モルガナティッシェ・エー(貴賤結婚)』で我慢するのだな。ダルムシュタットの廃城の名をとって、妻には『バッテンベルク伯爵夫人』と名乗らせなさい。生まれてくる子も同様だ」
それでも兄は、不肖の弟がロシア皇太子妃となった末の妹と仲のよいことを思い出して譲歩してくれた。
「いつか時期をみて、おまえの妻子にも『プリンツェスィン(王女)』そして『プリンツ』の称号を与えるようにしてやろう」
貴賤結婚では、妻子は決して王族の身分も称号も与えられないはずだったから、これは異例の提案だった。このことはその後、一八五九年に実現している。
こうして領地を与えられなかったアレクサンダーは、生まれ育った母の土地ハイリゲンベルクに居をかまえ、オーストリアのフランツ=ヨーゼフ皇帝をたよってその軍人になった。オーストリア皇帝はハンガリー国王でもあり、ラヨス・コシュートらの独立蜂起の鎮定にロシア皇帝ニコライ一世の力を借りて以来、双方の関係は良好だった。いまやロシア皇帝アレクサンドル二世の后の実兄ということで、アレクサンダーはウィーンでも厚遇された。当時オーストリア領土であったイタリア旅行へも、フランツ=ヨーゼフとその后で「シシー」と愛称されたエリザベートに同行している。ラデツキー元帥がミラノ蜂起を鎮圧して十年ほど経過していた。元帥の武勲をたたえ、ヨハン・シュトラウス(父)は自分が作曲した行進曲に彼の名をつけている。九十歳の高齢となった元帥は、いまだにヴェネツィア=ロンバルディア総督をつとめていた。ヨーゼフ皇帝夫妻に対する現地住民の反応は、保守的な総督の苛酷な支配のせいもあって冷淡だった。
「それを逆転させたのは、あのかわいらしいエリザベート皇后のお人柄だった」
旅行からもどったアレクサンダーは、妻に語った。
「ヴェネツィアの広場を通りかかったとき、年輩の元ヴェネツィア軍将校が皇帝陛下に直訴したんだ。革命を支持すると言ったために、年金を受けられなくなったのだと。陛下としても現地の冷たい歓迎ぶりには考えさせられたらしく、この男の言いぶんに耳を傾けられたうえ、親切にも宮殿の事務所に伝えておくから出頭するようにと言われた。それでも男は困った表情を変えず、宮殿で門前払いに会うという。すると横から皇后が陛下に、『あなたの手袋を片方お渡しになられたら』とおっしゃった。陛下はその言葉ににっこりされ、手袋をはずし、『さあ、これを私たちの約束の証拠ということにしよう』とその男に渡された。この情景を見ていたヴェネツィア市民たちは、彼女のことを奇跡を起こす妖精だとほめたたえたよ。イタリア語の発音はやや硬いが、実に愛らしくてすばらしい方だ」
一八五九年、フランス皇帝ナポレオン三世とサルディニア王ヴィットリオ=エマヌエレ二世がオーストリアに戦争をしかける。アンリ・デュナンが赤十字の創設を考えつくきっかけとなった有名なソルフェリーノの戦いで、緒戦ではアレクサンダーは元帥として大胆な作戦を敢行し、オーストリア軍に有利な戦況をひらく軍功をたてた。
アレクサンダーとユリアは一女四男をもうけるが、男の子たちのいずれも、そろってハンサムだった。
長男のルートヴィヒは少年時代から海軍にあこがれ、それなら海軍国のイギリスだと十四歳のときに渡英して海軍士官学校に入り、そのままイギリス海軍の士官となった。バッテンベルク家はヘッセン大公家の分家だから、当代のヘッセン大公ルートヴィヒ四世のもとに嫁いでいたヴィクトリア女王の次女アリスを介して、女王を頼ったのである。女王は、この「モーガナティック・プリンス(貴賤結婚で生まれた王子)」の人柄を愛し、彼がたいそうハンサムな青年に成長したことに満足だった。そこで女王は、のちに若くして死んだアリスの残した子どもたちの一人で、アリックスの長姉ヴィクトリアと、このルートヴィヒ(英名ルイス)とを結婚させ、そのままイギリスに置いた。そうすることで女王自身、バッテンベルクをイギリス王家の一族とみなすようになった。女王は、アリスの遺児たちとバッテンベルクの王子たちとを偏愛した。ヨーロッパ大陸の貴族社会と違い、イギリスでは貴賤結婚の出自に対する偏見が少なかった。
バッテンベルクの次男「サンドロ」こと父親と同名のアレクサンダーは、いまやロシア皇后となった叔母を頼って、かつての父のようにロシア陸軍の将校になる。バルカン半島を火種とする紛争は、その当時も続いていた。トルコのオスマン帝国の衰えがみえはじめ、これに支配されてきた諸民族がそれぞれに解放運動を起こす一方、ヨーロッパ列強諸国の利害が複雑に絡み合っていたためである。一八七五年のボスニア=ヘルツェゴヴィナの蜂起がきっかけで、翌年セルビアとモンテネグロがトルコに宣戦する。ブルガリアでも、トルコの支配から独立の火の手があがった。トルコ政府はブルガリア在住トルコ人を中心に「バシボズク」と呼ばれる不正規軍十二万を組織し、トルコ陸軍三万を合わせてブルガリア蜂起を武力鎮圧した。バシボズクによる略奪や暴行、村の焼き討ちで殺害されたブルガリア人は三万人、投獄された者一万人、焼き払われた村八十、略奪された村二百以上、奪われた家畜は三十万頭におよんだ。ヨーロッパでは、トルコ政府による残忍な仕打ちは、イスラム教徒によるキリスト教徒の大虐殺として報道された。各国の世論は高まり、ロシアのトルストイやツルゲーネフ、フランスのヴィクトル・ユーゴーなど多数の知識人が抗議に立ち上がった。
ブルガリア人は、同じスラヴ系のロシアに救いを求め、南下に意欲的なロシアはこれに応じた。ロシア軍はドナウ河を渡ってブルガリアに侵攻し、ブルガリアの町や村をトルコ軍から解放しながらオスマン・トルコ帝国の首都コンスタンチノープルへと迫った。サンドロは、ロシア陸軍の将校として、コンスタンチノープル近郊のサン・ステファノに布陣していた。その頃、ルイスはイギリス海軍の士官として、女王の次男エディンバラ公といっしょに戦艦「サルタン」に乗り組み、ロシアの黒海艦隊を牽制すべくコンスタンチノープルの港に投錨していた。そのことを知ったサンドロは、一人で市内に足を踏み入れて兄に面会しようとした。敵のロシア陸軍の軍服のまま単身で市中を歩いているその姿に、トルコ市民が集まりはじめ不穏な空気になってきた。彼はあやうく難をのがれドイツ大使館に逃げ込んだ。大使館からの連絡に、ルイスは大喜びして弟を迎えた。エディンバラ公をまじえて艦上でなごやかに会食し、それから兄弟は英国海軍の最新鋭艦「テレメール」を見学した。だが、この艦は、最新の軍事技術が投入された当時のイギリスのトップ・シークレットだった。当然ロシア将校に見せてはならないものだった。このことを知ったヴィクトリア女王は、
「たしかに、サンドロはとても慎重で高潔な人物であると疑いません。けれども、重要機密の漏洩について、艦隊の責任者である『あなた』は、部下による機密保持は完璧であると『いかにして』想定できるというのでしょうか? ルイスもあなたも、いずれにせよ部下に信頼されているのだからというのですか? あなたにそのような不見識なことが『できる』こと、そして望んでそう決めたということにつき、わたくしは信じられない思いです」
と、手紙でエディンバラ公を叱っている。
列強諸国の介入によって休戦が成立すると、サンドロは自軍の陣営に兄を招いた。
「ほら兄さん、見てごらん。檻の中にいっぱいトルコ兵の捕虜がいるんだよ」
ロシア軍の幕営地の一角に、異教徒の捕虜の営倉があった。大勢のトルコ兵たちが、汚れ傷ついたまま治療も手当てもされずにうずくまっていた。サンドロは、まるで動物園の珍獣を見せるような無邪気な調子で兄に説明するのだった。
サン・ステファノ条約で、「大ブルガリア」は、トルコに貢納義務を負った公国としていったん独立が承認されたものの、今度はロシアの地中海進出をおそれるイギリスがそれに反対した。ドイツの宰相ビスマルクの提案で、ベルリン会議が招集される。オーストリアにボスニア=ヘルツェゴヴィナを帰属させたうえで、ルーマニアとセルビアがブルガリアの一部をかすめ取った。マケドニアはトルコに返還された。小さくなったブルガリア自治公国には、列強諸国のいずれの君主一族にも属さないキリスト教徒のプリンスを招き、大公として統治させることになった。大公は、ブルガリア人が選出してトルコ政府が任命するが、それは列強諸国の承認した者でなくてはならないとされた。ロシアは、意のままにできる「傀儡《かいらい》政権」の樹立を思案しはじめた。
サンドロは、まだ二十二歳の青年だった。ロシア皇帝アレクサンドル二世は、妻の甥にあたるこのドイツの若者をブルガリアの君主にすえようと考えた。サンドロは、ロシアの利益を代表してくれるに違いない。トルコ政府は彼にロシアの息がかかっていることを警戒したが、列強諸国から異議は出なかった。ブルガリア国民も、彼を歓迎して大公に選出した。サンドロは、ブルガリア君主アレクサンドル一世となった。だが理想主義者の彼は、じきにロシアの思惑からはずれてしまう。側近はロシア人の官僚や軍人ばかりだったが、彼らは新生ブルガリア大公国のことをロシアの属領としか見ていない。つぎつぎに入り込んできたロシア商人たちは、公然と利権漁りをはじめた。サンドロは、ブルガリア国民がロシアに対して抱く反感を共有するようになった。側近たちは、陰で不満をつのらせていった。
「あんな『木製の王冠』をかぶった若造が、一人でなにをするつもりなんだ!」と。
やがてロシアではアレクサンドル二世が暗殺され、息子のアレクサンドル三世が即位する。サンドロとは従兄弟どうしである。たがいに子どものころ、母の実家のヘッセン大公家を訪問した新帝と遊んだ仲であった。だが、アレクサンドル三世のほうでは、この「モーガナティック・プリンス」に格別の親近感を抱いてはいなかった。当時出版された『ゴータ貴族名鑑』にも、バッテンベルクは君主で統治権者たるプリンスとしては掲載されていなかった。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム一世は、サンドロに忠告した。
「わしは決して、ロシアのブルガリアに対する仕打ちを全面的に支持しているわけではない。だが、なぜ君は君でそんなにロシア皇帝の機嫌をそこねるようなことばかりするのかね? 皇帝宛ての君の手紙が無礼だと彼は怒っておったが、あの内容はわしにもそう思えた。少しばかり控え目な態度をとるようにしなさい」
サンドロは弁解した。
「あれは個人的な手紙です。彼とは従兄弟どうしですから、親しい口調であっても決して非礼となるようなものではないはずです」
老人は、たるんだ瞼を引き上げて大声で言った。
「従兄弟、従兄弟、従兄弟ならなんだ! わしの息子でさえわしに手紙を書くときは、『皇帝陛下の忠実なる下僕』とサインするのだ。ならば『殿下』に申し上げよう。君はその首まで借金につかっておって、ユダヤ人から金を借りて恥をかいておるそうじゃないか」
ブルガリアの国家財政はぜい弱で、ロシアの経済援助なしではなにもできなかった。それを補うためもあって、サンドロは借金を重ねていた。青ざめたサンドロは、両手のこぶしをぶるぶる震わせながら、うつむいたまま無言でドイツ皇帝のもとを退出した。
老帝が指摘したように、ブルガリアの宮殿は修繕費がなくて雨漏りするほどの窮状だった。資産のある妻を持つしかないという側近の勧めもあって、こっそりと裕福なロシア貴族の娘と見合いしたりもしてみた。しかし彼のハンサムな外見をもってしても、その娘にはブルガリアでの新婚生活が魅力的なものには思えなかった。ついにある深夜のこと、寝室に従者が駆け込んできて、寝入っているサンドロと弟のフランツィオスをゆすって叫んだ。
「あなたがたは裏切られました、やつらに殺されます! 手遅れになるまえにお逃げください」
すぐに、どやどやと銃剣を光らせた兵士が乱入し、彼らを取り囲んだ。ロシア人官僚ばかりかブルガリア人の大臣も加わっており、サンドロと一緒にセルビアと戦った将校たちまでいる。ブルガリアは行き詰まり、今ではだれもが彼を退位させたがっていたのだった。彼は力なく退位宣言文書に署名し、ドイツに戻っていった。
イギリスのヴィクトリア女王の長女でドイツ皇太子妃のヴィクトリアの目には、退位したサンドロは好もしい青年と映った。サンドロは、実家の母のお気に入りのルイスの弟でもある。そこで、彼に次女モレッタを嫁がせようとした。だが、モレッタの兄で皇太孫のヴィルヘルムや、老皇帝の宰相ビスマルクも、この縁談には反対だった。ビスマルクは、直接サンドロに言った。
「ブルガリアの大公をドイツ皇帝と対等視するわけにはゆかぬ。『皇女』と呼ばれるお方のふさわしい婿ではない。それに貴公は、貴賤結婚で生まれた王子ではなかったかな? 『バッテンベルク』の名も、ヘッセンの寒村から家名に借用したものだそうじゃないか」
皇太子妃はそれでもあきらめない。娘の縁談は、彼女と宰相との対決の道具になってしまう。老人は言い放った。
「サンドロが非常にハンサムな青年であることは認めます。そして、モレッタ妃が夢中になっておられることも。ですが、美青年に求婚されますならば、それがサンドロでなくとも、きっとモレッタ妃は夢中になられるに違いありませぬ。つまりこの際、若い娘らしい感情は問題にならぬということです」
この縁組みは、ドイツとロシアの関係をそこなうというのだった。皇太子妃は、それがまるで自分の縁談であるかのように、これまた引き下がらない。皇太子妃は、病臥している夫のフリードリヒ皇太子にビスマルクを説得させようとした。フリードリヒ皇太子に呼びつけられた宰相は、同じ意見を繰り返すばかりである。バッテンベルクびいきのヴィクトリア女王も、わざわざベルリンまで出向いてビスマルクと話し合ったが、宰相は譲らなかった。女王訪問を聞かされたとき、ビスマルクは側近に言った。
「きっと、旅行鞄のなかに牧師と花婿を入れてきて、ここでたちどころに結婚式をすませるつもりに違いない!」
そもそも皇太子妃は、舅である老皇帝ヴィルヘルム一世の宰相ビスマルクとは不仲だった。
「あなたはむしろご自分が君主になるか、あるいはせめて共和国の大統領になりたいと思っていらっしゃるようね」
皇太子妃ヴィクトリアは、皮肉たっぷりにこの保守官僚の頭目に向かって言ったことがある。鉄血宰相は、そんなイギリス流のあてこすりぐらいでは微動だにせず答えた。
「共和主義者たるには、皇帝陛下のご寵愛をいただき過ぎましたな。主君を敬う教育を受けて育ちましたゆえ、生涯を陛下の忠実なる下僕として送れることを神に感謝いたしております。ですが、『玉座を占めるお方』が変わりますならば、伝統もまた失われるやも知れぬと、このことを不安至極に感じておるのです」
ホーエンツォレルン家の帝位継承権者であるフリードリヒ皇太子と、イギリス女王の長女の結婚を望まなかった人々も大勢いた。
「ドイツ人でない花嫁をもらうなど、プロイセン王家にとって前例のないことです」
という声に、ビスマルクは言ったものだった。
「ドイツ人の馬鹿どもが、英国貴族と英国金貨をありがたがる。たしかに、イギリス人は気に入らぬ。だが、イギリスとの縁組みは良いかも知れない。要は、この姫がドイツ人になりきれるかどうかにかかっている」
しかし皇太子妃は、ベルリンの王宮でも英国流を貫いた。
舅ヴィルヘルム一世は、一八八八年三月に九十一歳で没した。父のアルバート殿下の資質を一人で受け継いだ聡明な長女ヴィクトリアは、夫がこの国の君主となる日を共に待ち続けてきたのだった。新帝フリードリヒ三世は、妻の影響もあって英国流の自由主義者だった。保守的な父帝の時代が終わったら、進歩的な改革にとりかかるつもりでいた。そしてついに老皇帝が死んだとき、悲劇的なことに皇太子の彼もまた死病に冒されていた。彼女がドイツ人の医師を信用せず、たびたび実家の母ヴィクトリア女王の助言に頼ったことも、結果的に裏目に出た。彼は喉頭ガンにかかっていた。ヴィクトリア女王の即位五十周年記念祭が祝われる前年の一八八七年、女王は長女に請われてイギリス人の医師を派遣していた。外科手術で腫瘍を剔出しようとするドイツ人侍医団に対して、イギリス人医師は消極的な治療法による延命を主張して譲らなかった。女王の侍医で英国医学会の長老サー・ウイリアム・ジェンナーまでかり出され、悪性腫瘍ではない可能性があると女王に具申している。翌春、皇太子が気管切開手術をうけて暖かいサン・レモで静養中のところへ、皇帝崩御の知らせが届く。病気をおして彼は列車に乗り、雪模様のベルリンに戻って即位した。
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老皇帝が亡くなり夫が新帝となるや、今では皇后の彼女は再びこの縁談を持ち出すのだった。皇帝はうなずき、サンドロにシャルロッテンブルク城に来てほしいと手紙を送る。そのことを知って病床に参内した老宰相は、ベッドの皇帝に言った。
「もしも陛下のご賛同を得られなければ、この老人はお暇を賜るつもりでございます」
皇帝は、喉の手術をしてからは話すことが不自由で、筆談で尋ねた。
「どうすればよいというのか?」
老人は、枕元で答えた。
「ご招待を、電報でお取り消しなされませ」
ドアの陰で二人のやりとりを聴いていた皇后は、ビスマルクが退出するや夫に向かってわめいた。
「国事と娘の結婚とは関係ありませんでしょう? バッテンベルクの兄弟たちは、わたくしの母のお気に入りです。貴賤結婚がどうこうと、もうドイツ人ときたら」
黙って聞いていた皇帝はやにわに喉の包帯をむしり取り、わずかに洩れる苦しい息づかいで、
「私を一人にしてくれ」
と言った。
フリードリヒ三世の治世はわずか九十九日に過ぎなかった。一八八八年六月十五日、難産から、生まれついての左腕の麻痺というハンディ・キャップをバネとして成長した皇太子フリードリヒ=ヴィルヘルム=ヴィクター=アルバートが、二十九歳で帝位に就いた。この新帝ヴィルヘルム二世は、母親から徹底して英国流の教育を受けていた。ギムナジウム(高等学校)の寄宿舎から母に手紙を書く際にも、完璧な英文で書くよう命じられた。嬉しい母からの返信を開けてみると、それは彼が書いた手紙を母が厳しく添削しただけのものであった。「馬に乗る(ライド)に、字を書く(ライト)と同じくWをつけたのは誤り、『お望みでしたら(イフ・ユー・ライク・イット)』のイットは不要です」という具合だった。ヴィルヘルムが、両親の希望とは反対に国粋主義的な人間に育っていったのは、こうした母親の教育への反抗でもあった。そして青年皇太子時代には、同じドイツ民族オーストリアの皇太子ルドルフと張り合う気持ちが強かった。ルドルフはわずか半年ほど年上で、知的な平和主義者だった。彼の妻ステファニーはヴィクトリア女王の叔父であるベルギー国王レオポルド一世の孫だったから、女王の孫であるヴィルヘルムとしてはいっそう競争心をかき立てられた。ヴィルヘルムの私的な談話についての報告が届く。
「いやはやなんとも!」
ルドルフは側近にむかって言った。
「中身は空っぽで、芸術家、文人気取りで、まるでユダヤ人のような俗受け狙い! 私のことだそうだよ。私は彼の父上そっくりだというんだ。オーストリアの宮廷は皆お人好しだが、役立たずの軟弱者ぞろい。贅沢が過ぎて、じき崩壊してしまう。バイエルンのように、プロイセンの属領並みの大公国になるのだと」
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そういう考えをもっていたヴィルヘルムが、オーストリア皇帝にもゆかりのあるバッテンベルクの王子サンドロを、義弟として受け入れるはずがなかった。
ヴィルヘルム二世は帝位に就くと、二十年にもわたり帝国宰相をつとめたビスマルクと衝突した。権勢欲あふれる若い皇帝は、
「老人には半年ほど休みをやり、その間は余が自ら治めるつもりだ」
と、側近に洩らした。青年皇帝は、一方では立憲君主として改革を好みながら、他方では旧態然とした絶対王制的観念の持ち主だった。一八八九年五月、ルール地方で鉱山労働者のストライキが起き、ドイツ全土の鉱山に波及した。ヴィルヘルム二世は、この争議に介入した。
「帝国の工業発展に不可欠な鉱物資源を採掘する労働者のためである。余は、関係する経営者たちに一定の賃金値上げを要請することにする」
老宰相ビスマルクは、こうしたストには弾圧でのぞむことしか知らない旧世代の政治家だった。だがヴィルヘルム二世は、これで野党である社会民主党も、皇帝の慈愛に満ちた姿勢を歓迎するにちがいないと、社会主義者鎮圧法の更新もさせないことにした。ビスマルクが、社会不安の元凶と見ていた社会民主党との対決を進めようとした矢先のことである。帝国議会も、いまやビスマルクの政治姿勢に反対だった。一八九〇年二月の議会選挙では、ついに社会民主党が大量得票した。次いで、ビスマルクが外交面で最重要視していた独露再保障条約の更新に、ヴィルヘルム二世は反対する。ビスマルクは、オーストリアを疎外し、フランスを打ち破ってドイツ帝国を建設した以上、なによりもロシアとの友好関係の維持が必要だと考えていた。ロシア皇帝アレクサンドル三世も、この条約の更新のための交渉をビスマルクと行うよう、ドイツ駐在大使に命じていた。しかしこの意見の対立に、ついにたまらず、老宰相は皇帝に辞表を提出した。ヴィルヘルム二世は、祖父の代からのこの老番頭を慰留するどころか、待ち受けていたとばかりに辞表を受理してしまった。
「肝心なのは、ホーエンツォレルン家が統治するのか、それともこれはビスマルク王朝なのかということだった。ビスマルクが帝国の主人であり、ホーエンツォレルン家は無に等しい存在だった。余は、この宰相の圧倒的な影から帝冠を救い出さねばと思ったのだ」
ヴィルヘルム二世は、そう回想している。祖父のヴィルヘルム一世が死んだとき、同じ人物に向かって、若者らしい真摯な熱情で、
「今後とも久しく、余と共に、帝国の旗を高く掲げ続けるように」
と語りかけ、老宰相を感激させたことなぞ、思い出すそぶりもなかった。
一八九〇年三月二十九日発行のイギリス週刊誌「パンチ」は、「操舵士、船を去る」と題して、船のタラップを降りるビスマルクと、いまや船長の座を取り戻して得意そうなヴィルヘルム二世の漫画を掲載した。あるプロイセンの歴史家は言った。
「皇帝は、将来にむけて莫大な金額の手形を振り出したのだ。皇帝がそれを支払うことさえできるならば、彼は正しいことをしたことになる」
親政に乗り出したヴィルヘルム二世は、労働者保護立法にとりかかる。彼の思惑では、国民はこうした皇帝の姿勢を「慈父の恩恵」と有り難がるはずだった。だが時代の潮流はそのような旧来の位置にとどまらず、社会民主党はますます政府との対決姿勢を強めてゆく。ヴィルヘルム二世は、そうした労働運動家の態度に失望し、突然にビスマルク流の強硬政策に戻った。社会民主党を危険思想の団体であると決めつけ、ストライキには懲罰をもってのぞむと言い出した。議会も国民も、これには憤慨した。ヴィルヘルム二世は、高い知性、敏速な判断力、記憶にすぐれ、豊かな想像力の持ち主で、近代的なもの、新しいものすべてに異常なほど関心を示した。だが移り気で落ち着きがなく、首尾一貫性と持続力を欠いていた。情緒不安定、気まぐれで、虚栄心と自己顕示欲から常に人気を気にし、お世辞に左右されやすかった。楽観的で自己批判ができず、傲慢で積極果敢をもって良しとする一方で、すぐに意気消沈してしまう。ヴィルヘルム二世の叔父にあたるイギリス皇太子アルバート=エドワードは、甥のことを、
「歴史上もっとも完全なできそこないだ」
と、酷評している。
バッテンベルク家の次男サンドロは、その後、ダルムシュタット宮廷劇場の若いオペラ歌手ヨハンナ・ロイジンガーと結婚する。平民の娘との貴賤結婚であったため、王子の位と称号は捨てなくてはならなかった。従兄弟のヘッセン大公ルートヴィヒ四世は、彼に王族にランクされない「ハルテナウ伯爵」のタイトルを与えた。彼は、オーストリア=ハンガリー帝国の陸軍中佐となり、グラーツで暮らした。その前にはハプスブルク家の娘の一人と結婚しようともしたが、厳格に貴賤結婚の出自を嫌う老皇帝フランツ=ヨーゼフに拒絶された。老皇帝のそうした信念は、やがてみずからその報いを受けることになる。甥にあたる後継者のフランツ=フェルディナント大公には、身分違いの妻がいたからである。サンドロは、一八九三年に三十五歳の若さで虫垂炎をわずらって死んだ。訃報がブルガリアに届くと、国民はこの元君主の死をいたみ、大臣たちが遺体を引き取りに現れて、彼をソフィアに埋葬した。
「リコ」ことバッテンベルクの三番目の王子ハインリヒ(英名ヘンリー)は、ヴィクトリア女王の末娘ベアトリスと結婚する。ベアトリスは地味な性格で、女王は彼女を終生自分のもとに置いておくつもりでいた。二十七歳になった末娘が、この一歳下の当時ドイツ陸軍将校であったヘンリー王子と結婚したいと言い出したとき、バッテンベルクびいきの女王は反対しなかったが、結婚後もこれまでのようにと二人をウィンザー城で自分と同居させることにした。英国オズボーン郊外のウイッピンガム教会で挙式した際、まばゆいばかりの純白のプロシャ陸軍の軍服で正装した新郎を見て、花嫁の長兄イギリス皇太子は言った。
「これはこれは、まるでワグナーの楽劇『ローエングリン』の白鳥の騎士のようだね」
ヘンリー王子は、身分は高いが侍従のようなその生活にじき退屈してしまう。彼の功績は、ベアトリス王女との間に四人の子どもをもうけたことくらいしかなかった。英国社会には貴賤結婚の出自をあれこれ言う習慣はなかったものの、王室にドイツ人が多いことは好まれていなかった。それに、器量のあまりよくない王女と入り婿同然の美青年とは、なにかと格好のゴシップの種になった。彼には、長兄ルイスが英国海軍での勤務にはげみ、順調に出世する様子がうらやましくてならなかった。西アフリカ黄金海岸(現ガーナ共和国)アシャンティ王国の奴隷商人王プレンペを牽制すべく、英国陸軍が遠征軍を派遣すると聞いたとき、彼はこれに加わりたいと女王に願い出た。
「いけません。聞けばあそこは『白人の墓場』と呼ばれているそうではありませんか。それだけは絶対にだめです」
ベアトリス王女は動転し、ヴィクトリア女王も許さなかった。彼は陸軍省に直接掛け合い、女王陛下が許可されるならという条件つきで了解を得てしまっていた。
「我々バッテンベルクの兄弟は、みな軍人として教育を受けました。そしていま軍人でないのは、私だけです」
言い張る彼を説得するため、女王は侍医を遣わした。侍医は彼に言った。
「遠征軍が派遣される西アフリカは、赤道に近い暑熱の地ですぞ。ここイギリスやドイツの気候からは想像もつかぬほど悪疫が流行っております。軍人として戦闘で倒れるよりも、熱病に冒されて失われる人命のほうが多いくらいです」
「それは確かにそうでしょうが、注意すれば熱病も避けられるでしょう。遠征は短期間のものになりそうだし、これをきっかけに私は軍人生活に戻りたいのです」
しぶしぶ西アフリカ行きを認めた女王に、彼はさっそうと別れを告げて出発した。
一八九六年一月二十二日朝、ヘンリー殿下の病死を告げる電報が女王のもとに届けられた。彼は三十七歳で、一人の戦死者も出さなかった戦争で、マラリアにかかって死んだのだった。起床前の女王の寝室に、青ざめたベアトリス王女が伺候して震え声で言った。
「わたくしの人生も、これで終わりました」
彼女は母よりも若く三十八歳で未亡人となり、母より長く五十年間の寡婦生活をおくる。二月三日、熱帯地方で死んだヘンリーの遺体は、ビスケット缶でつくった間に合わせの棺に航海中の腐敗を防ぐためラム酒を入れ、これに漬けられてポーツマス港へ戻った。彼の死後、陽気なイギリスの船員たちの間ではこんなジョークが流行った。酒場に入ってバーテンに向かい、これから人を面白がらせることを言うぞ、とばかりに赤く日焼け酒焼けした鼻をひくつかせながら、船員なまりでラム酒を注文する。
「おい、おれに『プリンス・エネリイ』を一杯くれや!」
女王は、バッテンベルクの家名を王女と遺児たちに継がせることにした。二人の間に生まれた娘が、スペイン国王アルフォンソ十三世の后となるヴィクトリア=ユージェニー愛称「エナ」である。
バッテンベルクの四兄弟の末弟「フランツィオス」ことフランツ=ヨーゼフにだけは、ヴィクトリア女王も好意を持てなかった。彼には誇大妄想的なところがあり、兄サンドロが自分の目のまえで失ったブルガリア君主の座に、みずから返り咲いてみせると広言していた。大陸の大都市や避暑地のサロンを渡り歩き、各地の貴婦人のもとに寄食してみたり、あるいはイギリスの兄たちを訪ねたりして遊び暮らした。道楽者で鳴らしたイギリス皇太子とはうまがあった。そんな彼でも、小国モンテネグロの大公女と結婚できたのは、やはりとびきりハンサムなバッテンベルクの王子ゆえのことであった。王家に生まれた二、三男たちの中で幸運な者は、このようにして自分の生国よりも小さな新生国家の王家に迎えられることが多くあった。でなければ、自国または外国の軍人になるしかなかった。また、ドイツの小国の王女たちはヨーロッパの大国の王子や貴族の跡取り息子の嫁のよい供給源となった。王家相婚のルールを厳格に守る必要から、異なる民族出身の君主や王妃でもかまわないとされたのである。列強諸国の思惑から、彼らの影響力のバランスがとれるような君主を新生国家にすえたいという傾向も加わった。
英露仏三か国の干渉でトルコがギリシャの独立に応じると、一八三三年、バイエルン王国のルートヴィヒ二世の叔父オットーがギリシャ国王となる。そしてオットーがクーデターで退位して帰国すると、イギリスの後押しでデンマーク王クリスチャン九世の息子ウィルヘルム=ゲオルグ王子が迎えられ、ゲオルギオス一世となった。大津事件のロシア皇太子ニコライの母マリア皇太后の兄である。また、大津事件でニコライを助けたジョージ親王は、ゲオルギオス一世の次男だった。ニコライは、のちに事件が起きた日の日記に、「神がジョージの手を使って私の命を救ってくださった大津事件」と記した。ジョージは皇帝となったニコライの推薦で、トルコの宗主権下での自治を認められたクレタ島の高等弁務官となることができた。ジョージが滋賀県庁の物産展で買い求め、津田巡査を打ち据えた竹の鞭は、今でもアテネの博物館に陳列されているという。
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第三話 ヴィクトリア女王
ハノーヴァー王家に由来するイギリスのヴィクトリア女王には、その夫アルバート殿下と同じドイツ人の血のほうが濃く流れていた。英国王室のハノーヴァー朝は、一七一四年にスチュアート王家のアン女王が深酒による脳溢血で四十九歳の生涯を終えたことにはじまる。アン女王は子どもが十四人とも十七人ともいわれる多産だったのに、みな早世してしまい世継ぎを残すことができなかった。当時のイギリスの王位継承令によれば、スチュアート王家の血筋でプロテスタントであることが国王の資格とされていた。先祖のジェームズ一世の娘がボヘミア王に嫁いでもうけた女児が、長じてドイツのハノーヴァー選帝侯と結婚していた。この二人の間に生まれた長男ゲオルクこそ、アン女王亡きあとの王位継承者と認められたのである。こうしてゲオルクは、イギリス国王ジョージ一世となってハノーヴァー朝を開いた。以後、歴代、ハノーヴァー王をも兼ねる「ドイツ人」の国王がイギリスを統治することになる。イギリス国民は、ドイツにいるときのほうがずっと居心地の良さそうな王たちと、そのドイツ人の王妃に我慢しなくてはならなかった。
一八三七年、イギリス国王ウイリアム四世がやはり継嗣を残さず亡くなり、王弟ケント公の遺児ヴィクトリアが即位するのは、彼女が十八歳のときでまだ独身だった。亡父ケント公も、イギリスには形ばかりの本宅を置いて執事にまかせ、ドイツやベルギーで暮らしていた。彼女の母親は、ドイツのザクセン=コブルク=ザールフェルト公の娘である。ケント公は、生まれてくる子が高い王位継承順位にあることを意識し、わざわざイギリスに戻って妻に出産させた。女の子であったが、当時のヨーロッパ諸国の多くの王室とちがい、王位継承権を男子に限る「サリカ法」はイギリスではおこなわれておらず、このことで問題はなかった。ヴィクトリアの母は再婚で、死別した前夫との間にヴィクトリアよりも十五歳と十二歳年上の子どもがいたから、なにかとドイツに戻る機会が多かった。幼いヴィクトリアの面倒をみる乳母もドイツ女性だったから、ヴィクトリアは三歳まではドイツ語しか話せなかった。宮廷ではずっと英語とドイツ語をまじえての会話がなされた。即位後、ヴィクトリア女王は、首相のメルボーン卿に言っている。
「そばで聞いても理解できない会話をがまんしなくちゃならないなんて、あなたも気の毒ですね」
なにしろ、イギリス王室の人々やその親戚一同、そればかりか宮廷に仕えるいろんな人々の中にもドイツ人が大勢いた。そのため、アルバート殿下の死後ヴィクトリア女王に近く仕えたスコットランド生まれの従僕ジョン・ブラウンなどは、自然にドイツ語を耳で覚えてしまい意味が分かるようになってしまった。女王の長男アルバート=エドワード皇太子は、即位してエドワード七世となってからも、終生ドイツ語風アクセントの英語を話した。
即位二年後にヴィクトリア女王が結婚したアルバート殿下は、彼女の母の兄ザクセン=コブルク=ゴータ公の次男で、彼女とはいとこ同士だった。彼もまた、父に疎んじられた母親が別の男性との間にもうけた子だとされている。ヴィクトリア女王がバッテンベルクの王子たちに寛大だったのは、最愛の夫のそうした出自によるともいう。ヴィクトリア女王は九人の子どもを産んだ。当時流行のミュージックホールでは、舞台と客席とで声をあわせて露骨な歌がうたわれた。
「VがAに(ヴィクトリアとアルバートの頭文字)、
厚かましくも言ったぞ。
この国ときたら、ちびっ子たちに途方に暮れてるわ。
あたいたちは増えてるぞ、どうだい、もう四人の子持ちだよ。
おちびさんたちを養ってるんだ、愛情こめて、たたいたりも滅多にしないの。
そうでしょアルバート、ねえアルバート、もうしないわよね。
もうしないったら、もうしない!
そうでしょアルバート、ねえアルバート、もうしないわよね」
アルバート殿下は、女王を補佐する一方でみずから学芸の振興にもつとめ、壮大な水晶宮(クリスタルパレス)の建設で話題をあつめた一八五一年の万国博覧会を企画し成功させた。だが、結婚と同時に帰化したからといって、ドイツ人でなくなるわけではなかった。バッキンガム宮殿での社交の夕べの席で、隣に座った貴婦人が言った。
「まあ、殿下はほんとうに英語がお上手ですわ」
とたんに彼はまじめな顔つきになり、
「いえ、そんなことはありません。聞くに耐えるというだけのことです。上手にならなくてはと思っているのですが」
と、力をこめて答えた。アルバート殿下は、自分が書いた英文の書面について、時折、ヴィクトリア女王に見てもらうこともあった。
「注意深く読んでみて、もしなにか間違いがあれば言っておくれ」
と、ドイツ語で妻に頼むのだった。
一家はウィンザー城で、クリスマスツリーを飾るドイツ流のクリスマスを祝った。アルバート殿下は、ツリー用の樅の木をわざわざ故郷のドイツの山から取り寄せた。ツリーには色とりどりに彩色されたろうそくを立て、色紙で包んだお菓子をゆわえつける。根元にたくさんのクリスマスプレゼントが置かれた。イギリス国民にはこれがもの珍しく、当時の流行となった。アルバート殿下は、一八六一年に腸チフスをわずらい四十二歳で急逝した。
最愛の夫アルバート殿下を亡くし公務の場に姿を現さなくなった女王と、成長してなにかと議会に費用を要求するその子どもたちの不人気は、フランスの帝政が崩壊した一八七一年に頂点に達した。この年、女王の三男コンノート公アーサー殿下が成年に達し、一万五千ポンドの年金が与えられることになった。やれ王女の結婚だ、やれ成人だと物いりな、
「これを『王様乞食連』というべきであります!」
と、トラファルガー広場には大群衆が集まり、王室を非難する集会をひらいた。
プロイセンとの戦争に敗れ、ナポレオン三世がセダンで捕虜となるや、フランスでは共和制が宣言される。ユージェニー皇后は、ロンドンに亡命した。十四歳になる一粒種の皇太子ルイもこれに加わり、重病と敗戦でやつれ果てた廃帝ナポレオン三世も妻子のあとを追った。偉大な伯父ナポレオン一世を懐かしむフランス国民の思いを利用して選挙で大統領となった後、クーデターで帝位に就いたのだったが、プロイセンの宰相ビスマルクに追われて哀れな幕切れを迎えた。パリのチュイルリー宮では、皇后の脱出を知らない市民たちが王宮に向かって口々に叫んでいた。
「スペイン女をやっつけろ!」
彼らの先祖は、八十年前のフランス革命で、ハプスブルク家から嫁いだ王妃マリー=アントワネットのことを「オーストリア女」とさげすんだのだった。マリー=ユージェニーは、アルハンブラ宮殿で有名なスペイン南部アンダルシア地方のグラナダで生まれた。名門のスペイン貴族グスマン家のモンティホ伯爵の娘で、二十六歳のときに四十五歳のナポレオン三世に見初められて結婚していた。あの当時、フランス国民は、
「俺たちと同じ成り上がり者の男が、『王族でもない一介のスペイン娘』と結婚するんだ。いい話じゃないか!」
と喝采したのに、その人々が今では「スペイン女」の皇后を非難していた。
フランスの共和制復活に刺激され、イギリスでも王制廃止を主張する共和主義者の運動が高まった。その頃、女王の長女であるプロイセン皇太子妃ヴィクトリアから、大きな荷物が女王に届いた。
「この屏風は、パリのサン・クルー宮殿のユージェニー皇后の寝室にあったものです。フランス軍が投じた爆弾で宮殿に火災が起きましたが、プロイセン軍の兵士たちは消火につとめ、貴重品の救出に成功いたしました。……将軍は国王陛下のお許しをえて、この屏風をわたくしに送ってきました。サン・クルー宮がフランス皇帝や皇后の私有でなく、家具いっさいも国家の所有であるとしましても、わたくしはこの屏風を戦利品と考えることはできません。それに、これを持っている権利はわたくしにはないと存じます。しかもわたくしは、なんであれ皇后のものであった品物を手元に置きたくはありません。あの方はわたくしにはいつもとても親切でした。そしてわたくしにたびたび素敵なプレゼントを下さいました。わたくしは、この屏風のことは国王陛下にも夫のフリッツにも黙っています。わたくしのものなら、わたくしが自由に処分できるはずですから。お母さま、どうぞよい機会にお気の毒な皇后にこれを返してさしあげてください。そしてそのわけをお伝え下さい。わたくしたちは戦争している間柄ですから、これは贈り物ではなく、お返しにすぎません」
ヴィクトリア女王は長女の手紙に眉をひそめた。普仏戦争にあたっては、イギリス政府はその「ドイツ人」の君主ゆえに不当にプロイセンに肩入れしているのではないかと、国民は疑っていた。それに娘はフランス軍の放火から救ったというものの、やはり戦場での略奪行為にすぎない。このことが公けになれば、屏風はプロイセン軍によるサン・クルー宮略奪の証拠として政治的に利用されることは明らかだった。賢明な長女らしくないふるまいである。女王は慎重に政府の意見を求めた。グラッドストン首相と女王との仲介役をつとめるグランヴィル卿は言った。
「わが国におきましては、戦利品といえば敵の軍旗とか大砲その他の武器を指しております。お城や民家から盗みだした品物は、ここイギリスでは略奪品と申します。……われわれイギリス人からいたしますと、そのようなドイツ軍の習慣をフリードリヒ皇太子殿下がお認めにならなければよいのにと存じます。わが友好国フランスの宮殿から盗み出された品物を陛下がお受け取りになられ、それをユージェニー前皇后にお与えになるというのは、やっかいな問題でございます。この贈り物はお断りなさるほうがよろしいかと存じます。フランス側は、これを略奪があった証拠として使うかもしれませんので」
女王は、それを娘に送り返さなくてはならなかった。
一八七三年一月、廃帝ナポレオン三世は亡命先のイギリスで客死した。最後まで権力の夢を捨てきれず、クーデターによる返り咲きを画策していた矢先、病に力つきた。ユージェニー皇后は、翌一八七四年に十八歳になった皇太子ルイに望みを託していた。彼女たちの周囲にはナポレオン一世を信奉する「ボナパルティスト」たちが集まり、皇太子ルイは「ナポレオン四世」を名乗らされていた。しかし、ヴィクトリア女王の配慮でイギリス陸軍の士官学校に入っていたルイは、「ルイ・ウォーター」というイギリス風の偽名を使い、若い士官候補生の生活を楽しんでいた。士官学校を卒業してイギリスの連隊将校となったルイは、一八七九年、南アフリカのズールー戦争にイギリス遠征軍に加わって従軍した。同年六月一日、青年将校ルイは、小人数で騎馬偵察から基地に戻ろうとしていたとき、敵の待ち伏せ攻撃を受けた。乗馬しかけたところで一斉射撃に驚き、偵察隊員たちは馬に飛び乗るようにして駆け逃げた。帰投してはじめてルイがいないことに気づき、人数をそろえてとって返すと、ズールーの投げ槍が胸に刺さり喉を裂かれた彼の死体が草原にころがっていた。
二十三歳になっていたルイ・ナポレオンが従軍を希望したとき、ディズレーリ首相はフランスを刺激することを恐れて反対した。だが、青年のたっての望みに、ヴィクトリア女王が許可を与えたのだった。ヴィクトリア女王は、このフランス人の若者を自分の息子以上に愛していた。女王は、日記に記している。
「恐ろしい出来事が脳裏から離れず、おぞましいズールー人の姿がたえず目のまえにちらつく。この凶報をまだ知らされていない気の毒なユージェニー皇后のことを思って、寝苦しい厭な一夜を過ごした」
悲運の皇太子ルイの葬儀は、ヴィクトリア女王臨席のもとで盛大に営まれた。だがディズレーリ首相は、イギリスの国費の使いすぎと思っていた。
「できそこないの若造め」
首相が言うと、議員のひとりも頷いた。
「フランス人は、わが軍が皇太子を見捨てたと非難するでしょうな」
「私は、あいつに冒険させないことで女王陛下と意見が一致したと信じていた。それをユージェニー皇后自身の願い出もあって、陛下は覆されたのだ。まったく、あの頑固な女性二人組ときたら!」
なぜ青年将校ルイが南アフリカ遠征に従軍したがったのか、母親のユージェニー皇后にも分からなかった。亡命フランス皇太子とはいえ、将来、復位できる見込みはわずかだった。経済面でも、英国貴族の子弟である同僚たちに比べ恵まれていない。生まれ落ちたときから、母后の保護と拘束の下で生きてきた。そうした若者の思いが、名誉と冒険の旅に向かわせたらしい。だがそれは、命と引き替えになるかも知れず、思いとどまらせようとしたのだが。なんとか女王陛下を説得してほしいと息子に頼まれて、ユージェニー皇后はついに折れたのだった。つまり、母親の自分が最愛の息子を死なせたのだ。同時に、復位の望みも断たれてしまった。皇后の悲しみは深かった。翌年、ユージェニー皇后は、息子ルイが殺された場所をその目で見るために、南アフリカへ旅立った。英軍のナタール駐屯部隊に導かれて草原に立ち、ヴィクトリア女王から贈られた大きな石造りの十字架を現場に立てた。
一九一一年の夏、二十二歳の青年詩人ジャン・コクトーは、南仏カンヌの別荘の前でユージェニーと言葉を交わしている。帽子も衣服も黒ずくめで杖をついた小柄な老女は、おつきの人たちとゆっくり坂道を上ってきた。側近の一人がコクトーを老女に紹介すると、彼女は言った。
「わたくしはもう詩人に勲章を授けることはできませんが、代わりにこれをあげましょう」
彼女は、白い沈丁花のひと枝を折ってコクトーに与え、彼がそれを襟のボタン穴に挿すのを見つめた。その後、ユージェニー皇后は、一九二〇年にイギリスで死去する。生前に彼女は、ロンドンから五十キロほど離れたファーンボロー・ヒルに小さな教会を建て、そこを自分たち親子三人の墓所と定めていた。その願い通り、ユージェニーの遺体は、夫ナポレオン三世と皇太子ルイが眠る教会の地下聖堂に埋葬された。生地スペインを再訪し、若き国王アルフォンソ十三世とヴィクトリア女王の孫娘エナ王妃とに九十四歳の誕生日を祝ってもらったばかりだった。
イギリス王室と国民のあつれきも、一八七一年に女王がリューマチ熱で倒れ、ついでアルバート=エドワード皇太子が腸チフスで病臥したことで一変した。侍医たちが右往左往する様子から、国民は十年前のアルバート殿下の死を思い出したのである。新聞はそれまでの王室批判報道をやめ、それぞれの病気の回復をねがう社説を掲げた。「ザ・タイムズ」紙は、五十二歳になる女王の心身の不調を仮病よばわりしたことを謝罪する記事を掲載した。「デイリー・ニューズ」紙は、国民も恥じ入っており、そうした国民の声を記事にすることで自己反省したいとした。三十歳の皇太子の重病に際しては、女王の病気の直後のことでもあり、新聞は号外を発行して病状を報道した。偶然にもアルバート殿下の命日に皇太子が回復すると、イギリス全体が祝福と感動に包まれたのだった。反対に、共和制論者は厳しい批判を浴びることになる。クリスマスの翌日、女王はその治世ではじめて国民への感謝の手紙を発表した。翌年二月には、セント・ポール寺院で公式に感謝の礼拝がおこなわれた。そのわずか二日後に女王暗殺未遂事件が起こり、共和主義運動の息の根を止めることになった。犯人はアイルランド人で、仲間の釈放を求める嘆願書に女王の署名がほしくて、空の拳銃を無蓋馬車の女王に突きつけたのである。女王は女官に守られて難を逃れた。
一八七七年五月のこと、ロンドン滞在中のドイツの偉大な作曲家リヒアルト・ワグナーは、ウィンザー城で女王に拝謁した。この頃のワグナーは、バイエルン国王ルートヴィヒ二世の庇護により自分のためのバイロイト祝祭劇場を完成させ、得意の絶頂にあった。謁見ののち、女王は彼の印象を側近に語った。
「正直なところ、ドイツ国民は彼にちょっと夢中になりすぎているわ。むかし最愛のアルバートが元気だったころ、彼が指揮する音楽会を一緒に聴きに行ったことがあるの。あの当時と比べると、老けてしまってずんぐりした身体つきになったわね。才気走って見せていたけど、たいした印象は受けませんでした」
ワグナーの方も、戻ると妻のコジマに言った。
「いけ好かない婆さんだ。いい歳をして退位もせずに、おかげですっかり歳をくってしまった皇太子は世間のわらいものだ。根性悪の女王だ、不愉快きわまる。ひと昔前なら、母親は成人した息子に養われたもんだ」
成人どころか、この先六十歳を過ぎるまで二十五年も待たなくてはならない皇太子だった。
皇太子は、父アルバート殿下が亡くなった後の一八六三年に、生前殿下が推していたデンマーク王クリスチャン九世の長女アレクサンドラと結婚する。イギリスでは、「海の彼方からの海王の娘」と歓迎された。妹は、ロシア皇帝アレクサンドル三世の后マリアである。明るい性格の美しい女性で、夫の遊び癖にも目をつむっていた。
(画像省略)
一八六四年に長男アルバート=ヴィクターを産んだのに続いて、翌一八六五年六月三日、皇太子妃アレクサンドラは、マールボロ・ハウスで二番目の男児を出産した。ヴィクトリア女王は、夫君アルバート殿下を亡くして四年ほどを過ごしたばかりだった。この次男ヨーク公ジョージ殿下ことジョージ=フレデリク=アーネスト=アルバートは、十二歳で海軍軍人となるべくポーツマスの海軍兵学校に入る。一歳年上の兄アルバート=ヴィクターの教育によかれと、両親は二人同時に入学させたのだった。一八八〇年から二年間におよぶ訓練航海では、日本にも寄港して明治天皇の歓迎を受けている。一八九三年、兄が死んだため父皇太子のつぎの王位継承者となり海軍を去ったジョージは、もと兄の婚約者テック公女メアリーと結婚する。「テック」は、ドイツのヴュルテンベルク王国の王子の貴賤結婚の家族につけられた姓で、テック公はイギリスに住み、娘メアリーもロンドンで生まれた。ヴィクトリア女王は、貴賤結婚の娘を将来の英国王妃に迎えるという英断を下したわけである。賢明な女性で、促成の皇太子教育で王位に就くジョージをよく助けた。
ヨーク公ジョージ殿下の長男であるエドワード皇太子、のちのエドワード八世そしてウィンザー公は、一八九四年六月二十三日に生まれた。当時七十五歳のヴィクトリア女王は、全ヨーロッパの君主のじつに半数がその孫という存在だった。エドワードは、リッチモンド・パークにある母の実家ホワイトロッジで生まれた。ちょうどウィンザー城には、皇太子時代のニコライが婚約者アリックスとともに滞在中であったほか、オーストリア皇帝の甥でその後継者のフランツ=フェルディナント大公も訪問していた。ヨーク公は祖母に向かって言った。
「いずれ王位を継ぐこととなるこの子は、『エディ』の愛称で呼ばれていた亡き兄にちなんでエドワードと名づけたいのですが」
ヴィクトリア女王は不賛成だった。
「亡くなったエディの本名はアルバート=ヴィクターだったのですよ。わたくしとしては、とくに王位継承者の男子には必ず亡き夫アルバート殿下の名をとって、ぜひアルバートと命名したいのです」
と譲らなかった。そこで彼の名は、エドワード=アルバート=クリスチャン=ジョージ=アンドリュー=パトリック=デイヴィッドとなった。愛称は「エディ」である。三番目の名、クリスチャンは赤ん坊のゴッド・ファーザー役となったデンマーク国王の、そして残りの四つは、イングランド、スコットランド、アイルランド、それにウェールズをあらわすものである。洗礼式には十二組のゴッド・ペアレンツが列席したが、その大多数はドイツ人だった。
一八九五年十二月十四日は、ヴィクトリア女王の亡夫アルバート殿下の三十四回忌の当日であった。ヨーク公夫妻に二番目の男児が生まれた。しかもこの日は、ヘッセン大公妃アリスがジフテリアで死んだ命日でもあった。夫と娘の命日の朝、女王が目覚めると化粧台のうえにその電報が置かれていた。ヨーク公は、妻の出産のタイミングの悪さを父や祖母に詫びた。すでに五十代なかばのアルバート=エドワード皇太子は、人情の機微を理解しており、やさしく息子を慰めて言った。
「わが一族にとって暗く悲しいこの記念日に、ハッピーな出来事が起こる予定だということを、おばあちゃまは悲しんでおられたよ。だが私が思うのに、そしてこれはここウィンザー城にいる家族の大部分の考えでもあるのだが、これでこのアンラッキーな日づけの『呪縛』が解かれることだろう。祝福すべきことじゃないか!」
皇太子の長姉であるドイツ皇太后も、この子のゴッド・ペアレンツの一人として洗礼式に出発するまえに、急いでベルリンから女王宛ての手紙をしたため、その中で強調した。
「それは私たちにとって、言葉に表せないほど悲しい記憶の残る日に、かわいいベビーが生まれたのは、やや残念なことだとは思います。ですが一方で、これは天からのたいへん貴重な贈り物です。お母さまの人生のもっとも暗いこの日に、歳月をへて一筋の陽光が送り込まれたのです! わたくしなら、この出来事の明るい面を見るようにいたします」
女王も、おなじ気持ちになっていた。
「今日のような悲しい日に誕生した子どもは、神から特別の祝福を受けた子かも知れないわね。わたくしの悲しみも少しは和らぐというものでしょう。でも、今度こそアルバートと命名するのは譲らないつもりですよ。とくに父親の『ジョージ』というのは、ハノーヴァー朝風の名であまり感じがよくないものね」
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次男は、アルバート=フレデリク=アーサー=ジョージと名づけられ、祖父皇太子と同じく「バーティ」と愛称された。祖父はこれ以後、「アルバート」の名はこの孫に譲ったとしてエドワード皇太子と名乗ることにした。そしてバーティは、兄のエドワード八世が王位を捨てたとき、自ら「ジョージ六世」の名を選んで即位することになる。エリザベス女王の父である。バーティは、誕生日ばかりか洗礼式の日取りまで不運に見舞われた。翌一八九六年三月四日に予定されていた洗礼式は、ヴィクトリア女王の末娘ベアトリスの夫バッテンベルクのヘンリー殿下が西アフリカで客死したため、その葬儀のごたごたで延期された。
マウントバッテン卿ルイスは、ヴィクトリア女王の孫娘だったドイツのヘッセン大公家の長女ヴィクトリアの末っ子として、一九〇〇年六月二十五日に、ウィンザー城内のフログモア・ハウスで生まれた。ヴィクトリア女王は、一八七八年に若死にした次女アリスの残した遺児たちのことを気にかけていた。大公女ヴィクトリアとその従兄弟バッテンベルク家のルートヴィヒ殿下とが結婚した一八八四年四月には、その前月にわが子レオポルドを失って喪に服していたのに、わざわざダルムシュタットまで出かけて婚礼に出席したほどであった。
「このあわれな子どもたちは、愛すべき母親を亡くして以来、わたくしにとってはわが子同然の存在でした。ですから、アヒルの雛たちが水に入っていくときの母親のような気がするのです」
大公女が最初の子を出産した一八八五年二月には、ヴィクトリア女王自身が孫娘の分娩に一日中付き添った。こうして生まれた長女アリスが、将来のエリザベス二世の夫君エディンバラ公フィリップ殿下を生むこととなる。そして今、同じようにウィンザー城内で末っ子ルイスが誕生したのだった。ヴィクトリア女王の最後の曾孫として、洗礼式には女王自身が介添えをつとめている。赤ん坊は身体の大きいきれいな子で、式の間も元気よくばたばたし、彼を抱く女王の眼鏡を小さな手ではらった。彼の名は、ルイス=フランシス=アルバート=ヴィクター=ニコラスと名づけられた。呼び名はやはり女王の指示で最初のうち「ニッキー」とされたが、これではニコライ二世と紛らわしく、そのうち自然に「ディッキー」になってしまった。そして卿は終生、このディッキーという名で親しみをこめて呼ばれた。
即位六十年祭を国民とともに祝った一八九八年このかた、老女王は手におえない孫のドイツ皇帝ヴィルヘルム二世とイギリスのマスコミの仲を修復させようと努力していた。ヴィルヘルムは、一八九一年に初めて君主の資格でイギリスを公式訪問した際には、自分の世界平和を願う気持ちを説いて歓迎された。
「独英両国の友好と相互理解こそ、平和のいしずえであります。私が皇帝の座にある限り、両国のよき関係を増進させ続けます。『Blut ist dicker als Wasser(血は水よりも濃い)』というではありませんか!」
自分はヴィクトリア女王の孫なのだから、と強調したのである。だがその言葉とは裏腹の彼の覇権主義は、イギリスで嫌われるようになっていた。女王は、亡夫アルバート殿下の伝記作者マーティン卿を派遣して、ロンドンの新聞と週刊誌の編集者に面会させ、ドイツ帝国と皇帝への論調を和らげるように依頼した。ヴィルヘルム二世としては、いつも自分を戯画にする「パンチ」誌の廃刊を願っていた。マーティン卿は、報道機関十四社から攻撃や非難をひかえて中立報道につとめる約束を取り付けた。「パンチ」誌も、これから悪ふざけはしないと誓った。一八九九年一月二十七日は、ヴィルヘルム二世(ウィリー)の四十回目の誕生日だった。女王は祝辞を送り、孫のウィリーもこの年になったからには慎重で思慮深い行動を心がけてほしいと期待した。ヴィルヘルム二世も祖母の女王に丁寧な礼状をしたためた。
「あなたご自身がしばしば胸に抱かれ、愛するおじいさま(故アルバート殿下)がナプキンにくるんで揺すっておられたあの豆粒のようなやんちゃな赤ん坊が、齢四十を数えるに至ったとは! さぞかし不思議に感じておられるであろうとお察しいたします」
一九〇一年一月二十二日、八十二歳のヴィクトリア女王は南部のワイト島のオズボーン離宮で亡くなった。「旧式の大型三層甲板船がゆっくりと沈むように」と表現された大往生だった。ベルリンからは、孫のウィリーも臨終の床にかけつけた。女王は、
「バーティー!」
と、ベッドのそばで見守るアルバート=エドワード皇太子の姿を認め、その名を呼んでから意識を失った。すっかり頭髪が薄くなり髭も白くなった皇太子は、壮年でいかめしくワックスでかためた「カイゼル髭」のヴィルヘルム二世とともに、女王の上体を少しでも呼吸が楽になるようにと、二人してベッドの両わきから支えた。そのまま二人に抱かれながら、ヴィクトリア女王は息を引き取った。こうして文字どおり十九世紀が終わり、二十世紀の幕開けとなる。ヴィクトリア女王の治世は六十四年の長きにわたったため、新国王となったエドワード七世はすでに六十歳の高齢に達していた。一九〇二年六月に予定された戴冠式は、新国王の病気で八月に延期された。
「すべてのヨーロッパ王家の祖母」といわれたヴィクトリア女王であったが、彼女の残した遺産はもうひとつあった。血友病の因子である。王室に多発するところから、「王のやまい」と称された。母親を通じて男児にあらわれるこの疾病は、当時の医学水準では対処できないものだった。「ハプスブルク病」と言われたりもしたが、オーストリアの帝室にはこの因子は存在していない。ヴィクトリア女王は四人の男の子をもうけたが、それは末息子のアルバニー公レオポルド殿下にあらわれた。レオポルドが十歳のとき身内の結婚式があり、女王の長女一家も当時四歳のヴィルヘルムを連れてドイツからやって来ていた。腕白なヴィルヘルムが、レオポルドの脚に噛みついたのである。六歳年上のレオポルドは痛そうな顔をしなかったが、それから徐々に彼の脚の状態は悪化してゆく。背の高い知的な若者に成長したレオポルドは、さるドイツのプリンセスと結婚して幸せな生活をおくり、女児をもうけた。だが妻の二度目の妊娠中に滞在先のカンヌで転倒して頭を打ち、三十一歳で死去した。
また女王の五人の娘のうち、二人にこの因子がもたらされた。一人は末娘ベアトリスで、彼女から、スペイン王家に嫁いだ娘のエナを通じてスペインの四人の王子たちのうち二人にもたらされた。もう一人は、ヘッセン大公家に嫁いだアリスだった。それはまず、アリックスの次兄フリードリヒにあらわれた。アリックスがまだ一歳の赤ん坊のときのことだった。母親のアリスがショパンの葬送曲を弾いているとき、三歳のフリードリヒは五歳の兄エルンスト=ルートヴィヒとふざけあいながら寝室を駆けまわっていた。寝室から庭に通じるドアが開け放たれており、躓いたフリードリヒはそのまま石のテラスに転落し意識を失った。数時間後に脳内出血がはじまり、夜になって容態が悪化し死亡した。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の弟ハインリヒ殿下と結婚した三女のイレーネもまた、この病気の因子を持っていた。四人の息子のうち二人にそれがあらわれている。長女ヴィクトリアの子どもたちにはあらわれず、次姉エラとセルゲイ大公の間には子どもがなかった。そして、アリックスは。
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第四話 日露戦争
一八九四年の暮れに結婚したニコライとアリックスは、いまや地球上最大のロシア帝国を統治する皇帝とその后のはずなのに、ニコライの母マリア皇太后の住むアニチコフ宮殿にとめおかれた。少なくとも、ただ広いだけの冬宮殿よりも小ぢんまりとして快適ではある。目抜きのネフスキー大通りの端に位置していて交通の便もよい。挙式を急いだあまり、新婚の二人の住まいの準備が間に合わなかったこともあったが、寡婦となった母后が寂しがったせいでもある。独身時代にニコライがすぐ下の弟のゲオルギーと暮らしていた部屋が、二人の新居だった。附属する狭い控えの間でニコライは皇帝として執務し、二十二歳の若妻アリックスは隣りの寝室でロシア語を勉強した。合間をみてニコライは煙草に火をつけながらアリックスとおしゃべりした。「ニッキー」そして「サニー」あるいは「アリッキー」と互いを呼びあい、二人の会話は英語である。ニコライは、母国語のロシア語のほか、英独仏三か国語を流暢に話し、母の実家のデンマーク語、それにイタリア語も理解できた。アリックスは、英語は母国語のドイツ語並みだったが、ロシアの宮廷用語のフランス語はもともと苦手で嫌いだった。今は、なんとしてもロシア語をマスターしなくてはならない。食事はいつも母后のもとでとる。
喪が明けると、じきに皇太后はサンクト・ペテルブルクの社交界に復帰した。黒ひげのコサック兵を御者に、きらびやかに着飾ってオープン馬車でネフスキー大通りを行く。夫が生きていた頃よりも、彼女はずっと若やいでいた。貴婦人たちは囁き合った。
「皇太后さまは、あんなにお顔にしわひとつないご様子だったかしら」
「イギリス皇太子妃の姉君アレクサンドラさまも、お歳よりずっとお若いとか」
「そのお姉さまに教えていただいたのだそうよ、パリでの手術のことを」
「まあ、するとフランス人のお医者に若返りの手術を受けられたというのは、ほんとうなのね」
「お顔の皮をはぐという、あのおそろしい手術のことでしょう」
先帝アレクサンドル三世の葬儀の際、大臣のウイッテ伯爵は、参列したイギリスのアレクサンドラ皇太子妃のことをニコライ二世の花嫁アリックスと取り違えたほどだった。マリア皇太后は、そうした姉と、若さと美貌を競っていた。ロシアの宮中の作法では、皇太后は皇后よりも上席を占めることになっていた。公式の場では、四十九歳になったばかりの皇太后がニコライに手をとられて列の先頭にたった。アリックスはそのうしろを、大公のだれかと一緒に進む。やっと二人はアリックスの妊娠をきっかけに、首都近郊のツァールスコエ・セロ(その後、プーシキン市となる)に移り住んだ。
一八九六年五月、モスクワで新帝ニコライ二世の戴冠式が盛大に挙行された。歴代のロマノフ皇帝の戴冠式が行われたウスペンスキー寺院では、長いひげをたくわえたロシア正教の高僧たちが、宝石のちりばめられた僧帽、金色の僧服姿で先導した。まずマリア皇太后が、豪華な刺繍のほどこされた純白のベルベットのガウンの長いすそを十二名もの従者にささげさせて、皇族の先頭をゆっくりと進む。ニコライはプレオブラジェンスキー連隊のブルーグリーンの将校服に、深紅の肩章をななめにかけている。アリックスは、一連のピンクパールのネックレス、銀白色のローブにやはり深紅の肩章姿である。ニコライはエカテリーナ女帝がつくらせた王冠を、しきたりどおりに自ら頭にのせ、つぎにはアリックスの頭にかかげてから自分の頭に戻した。アリックスの頭には小さな王冠がのせられた。何百本ものろうそくのゆらめく明かりと、金銀、宝石で極彩色に輝くロシア正教のイコン(聖像画)、聖歌隊の歌声のなかで、ニコライは僧侶たちのまえにひざまずき聖体拝領を受けた。彼が立ち上がろうとした瞬間、聖アンドレイ勲章の重いチェーンが肩からはずれ床にずり落ちた。高僧たちは息をのみ、あわてて十字をきった。不吉な前兆だったからである。儀式のあとは、七千人ものゲストを招いての大晩餐会である。伝統に従い、ニコライとアリックスは天蓋つきの高壇の上で二人だけで食事した。
四日後に、モスクワ郊外のホディンカの演習場で惨事が起きた。新帝の戴冠を祝うために集まった群衆に酒と食事と記念の品がふるまわれ、その後に皇帝も姿を見せる習わしだった。それらの品々が満載された荷馬車の列に近づこうと、群衆が暴走しはじめた。動員されていた警官たちもコサック騎兵も、数十万の人々をコントロールすることができなかった。女性や子どもや老人たちが倒れ、その上にまた人々が折り重なった。踏みつぶされて窒息死する者も多かった。死者数千人、負傷者は数万人とされるが、正確な数字はわからない。ニコライは惨事の報告を受けて呆然となったが、モスクワ総督のセルゲイ大公は祭典を中止しようとはせず、急いで犠牲者たちを取り片づけさせたあとの同じ場所で、皇帝と皇后臨席の祝賀式が行われた。
「せめて今夜のフランス大使館での舞踏会は、欠席できないものだろうか」
おそろしい出来事に涙を流すアリックスの姿を見て、ニコライは側近たちに尋ねた。
「それはいかんな」
またセルゲイ大公が言った。
「フランス大使のがんばりようときたら、きみに見せてやりたいほどだ。食器はヴェルサイユ宮殿から、十万本ものバラの花が南仏から取り寄せられておる」
大臣たちもそれを許さなかった。当時のロシア経済は、フランスとの友好関係に基づく莫大な借款でようやく息をついていた。
ニコライ二世の不運なスタートは、その名の由来する曾祖父ニコライ一世の場合とよく似ている。先代のアレクサンドル一世は、モスクワまで攻め寄せたナポレオン=ボナパルトを破った。敗走するフランス軍を追って、ついにパリまで進撃した。その功績は、意外な形での影響となってあらわれる。パリに入った貴族の青年将校たちが目にしたのは、西欧社会の進歩ぶりだった。ナポレオンが去ったあとのヨーロッパ各地では、民族意識が高揚して革命が頻発していた。国難から祖国を救い、西欧の新思想を知った彼らは、改革の希望に胸をふくらませて帰国する。だがそこで待ち受けていたのは、旧態依然としたロシアの後進性だった。クリミアで急死したアレクサンドル一世のあとをうけて、末弟ニコライ一世が即位しようとしたとき、モスクワ連隊が反乱を起こした。新帝へ忠誠を誓うことを拒否し、憲法制定を要求する「デカブリスト(十二月党)」の反乱である。元老院広場に集まった反乱軍に対して、ニコライ一世は配下の部隊に発砲を命じた。貴族の若者たちの革命騒ぎだったが、進歩的知識人と革命運動との結び付きがこうして出来上がる。強権だが慈愛に満ちた「父なるツァーリ」の伝統的なイメージが崩壊しはじめる。ニコライ一世は、なんとしても革命阻止をはかろうとした。政治警察として、帝室官房第三部を新設する。全国にはスパイが配置され、警察国家の体制がととのった。その一方で、農村の改革をすすめ、農民を味方につけようとした。その名を受け継いだニコライ二世も、曾祖父と似た統治をくりひろげることになる。
ニコライは極東進出に熱心だったが、日本に敵意は抱いていなかった。極東にロシアの勢力を拡大することは、アジアの辺境を文明教化することになる。そうした使命感が原動力だった。かねてから「黄禍」論を主張してきたドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、ニコライを「太平洋の提督」とおだてた。自分は、「大西洋」の提督を自称するヴィルヘルムとしては、ロシアの関心が西のヨーロッパよりも東のアジアに向いてくれたほうが好都合だった。ニコライは、父帝時代からの大臣たちに取り囲まれている。いずれは彼らの首をすげ替えるつもりだったが、なかなかそうはならなかった。優柔不断なニコライは、戦争回避かそれとも開戦か、周囲の進言があるたびに心を動かし、結局いつもあとから助言する者の意見に引きずられるのだった。むしろそうした彼のどっちつかずの態度が、日本が攻撃をしかけるきっかけを生んだともいえる。母のマリア皇太后と先帝の大蔵大臣でニコライ時代に首相となったウィッテ伯爵は、この戦争に反対だった。彼はロシアの経済改革をすすめてきたが、西欧諸国にも信用が厚かった。一九〇四年二月、日本が旅順を攻撃し日露戦争がはじまった。ヴィルヘルムはニコライに警告した。
「うかうかしていると、日本軍がモスクワでパレードすることになるぞ! 軍服姿の一万人もの日本陸軍の兵士が、メキシコ南部の農場で移民と称して働いておるそうだ。わがドイツのスパイがつきとめたのだが、奴等は建設中のパナマ運河を乗っ取るつもりらしい」
ヴィルヘルムは、皇太孫時代にロシアのブレストまで出向いてアレクサンドル三世と初会見した。駅頭で、アレクサンドル三世は、ドイツに敬意を表してドイツ軍の軍服を着用し列車到着を待ち受けた。アレクサンドル三世の偉容に、若いヴィルヘルムは気おされた様子だった。並んでロシア儀仗兵の前を歩いたあと、アレクサンドル三世は近侍のコサック兵に向かって怒鳴った。
「外套!」
コサック兵が進み出て皇帝の軍用外套を差し出そうとすると、ヴィルヘルムはコサック兵に駆け寄って外套を奪い取り、恭しくアレクサンドル三世に着せかけた。あのときには、ロシア皇帝に畏怖の念を感じたのだが、息子のニコライならこわくない。ニコライ二世の身長は、ヴィルヘルム二世の肩までくらいでしかなかった。ヴィルヘルムは親しげなそぶりで、いつもニコライの肩を抱くようにして話をした。ニコライは内心それを侮辱と感じたが、大人しい性格で口には出さなかった。皇后アリックスに対しても、ヴィルヘルム二世はロシア皇后というよりはヘッセン大公女扱いでふるまった。アリックスが敬愛する実家の兄ヘッセン大公にも、ヴィルヘルムは見下した態度を隠さなかった。フランクフルト近郊の演習場で、居並ぶ大勢の将官たちを前にしてヘッセン大公に言った。
「貴公は、黒鷲勲章が欲しくてたまらぬそうじゃないか。余の質問に答えられたら、この場でそれを授与してやろう。驃騎兵は乗馬の際、どっちの足を先にあぶみにかけるかな? 右か左か、さあ、どちらだ?」
公然と侮辱されたヘッセン大公は、屈辱に身を震わせた。
政治外交問題だけでなく、ロマノフ家内部の軋轢もニコライを待ち受けていた。亡き父帝には四人の弟がいる。ニコライにとって叔父にあたる大公たちは、若い甥に遠慮する気など毛頭なかった。兄の存命中は窮屈だったが、いまは開放的な気分である。モスクワ総督のセルゲイ大公が、ホディンカの惨事に行事の変更を許さなかったのも、そうした意識のあらわれだった。祖父の弟も三人が生きており、その息子たちがそれぞれに軍隊や政治の要職を占めている。互いに有利な地位に就こうと争い、適材適所の政治なぞ望むべくもなかった。戴冠式からいくらもたたないうちに、末の叔父パーヴェル大公が身分の低い女性と再婚したいと願い出た。下の妹オリガも、愛のない結婚を解消して家来の青年将校と結婚したいという。どちらも父帝には言い出せなかった請願だった。弟ミハイルは部下の将校の妻に手を出して、スキャンダルを引き起こしていた。いちばん頭をかかえた難題は、叔父ウラジミルの息子キリル大公が、皇后アリックスの実家の兄ヘッセン大公の妻ヴィクトリア=メリタとねんごろになった事件だった。ヘッセン大公は離婚に同意し、二人は結婚することになるが、エラとアリックスの姉妹はロマノフ一族の不行跡に腹を立てた。
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ニコライとアリックスが移り住んだツァールスコエ・セロは、サンクト・ペテルブルクの中心部から南へ二十キロメートルほどに位置している。歴代皇帝の所領の、美しい小さな村である。そこに、女帝エカテリーナ二世が愛する孫アレクサンドル一世のために建てたアレクサンドル宮殿がある。クラシックなスタイルの二階建てだった。アリックスは、サンクト・ペテルブルクの退廃的な社交界にも宮廷生活にもなじめなかった。彼女にとって、このおとぎ話に出てくるような郊外の住まいと生活は心やすまるものだった。純ロシア古典様式だったアレクサンドル宮殿はヴィクトリア様式に改装され、古い貴重な家具類は取り払われて薄いグリーンのチッペンデール様式の家具がイギリスから持ち込まれた。新居に落ち着いた二人は、皇太子が生まれることを期待して待った。ロシア皇后としてアリックスは男の子を産まなくてはならなかった。かつて、やはりドイツ人であったエカテリーナ女帝の息子パーヴェル一世は、父ピョートル三世をクーデターで倒して死に追いやり、自ら帝位に就いた母を激しく憎んだ。彼女の死後、皇帝となった彼は皇位継承法を定め、男子だけが継承権を持つものとした。それから百年後のニコライの時代まで、この「パーヴェルの法」がロシアでは行われていたのである。
一八九五年秋、デンマークの実家に里帰りしていたマリア皇太后は、アリックスの出産が近いとの知らせを受けて大急ぎで帰国した。
「しるしがあらわれたら、すぐに知らせてちょうだい!」
皇太后は、うきうきした様子で息子に言った。皇子の誕生には、クロンシュタットとサンクト・ペテルブルクで砲兵隊が合図の祝砲をならす。男児なら三百発、女児であれば百一発である。十一月なかばの晩秋の空気をついてとどろきはじめた砲声に、人々は耳をすませて数をかぞえた。だが百二発目は鳴らず、こうして長女のオリガが生まれた。オリガは父のニコライ似の性格で、恥ずかしがりやだが、おっとりした気だてのよい娘に成長した。金茶色の髪に青い瞳の持ち主だった。両目の間隔がひろいロシアふうの顔だちをしていた。翌々年の一八九七年に生まれたのも女の子で、タチアナと名づけられた。タチアナは母親に似たすらりとした体型で、姉のオリガよりも背が高くなる。赤毛に灰色の瞳、美しくて自信に満ち、なにごとにも意欲的でピアノもすぐ姉より上手になった。それからさらに翌々年の一八九九年にも女児が誕生した。三女のマリアである。姉妹のうちでもっとも美しい娘だった。明るい茶色の髪にダークブルーの大きな瞳、性格も明るくて暖かい。末娘のアナスタシアは、一九〇一年に生まれた。ずんぐりした身体つきで、いたずらっぽい青い瞳をいつもきらきらさせていた。めったに泣かないし、まるで男の子のように木登り上手だった。
日露戦争中の一九〇四年八月十二日、ついに皇太子が誕生した。三百発の砲声がとどろき、全国の教会の鐘が鳴らされた。ロシア全土で、人々はロマノフ家の世継ぎが生まれたことを祝った。大公たちやその家族だけでなく、マリア皇太后の実家の父デンマーク王クリスチャン九世までが、八十七歳の高齢をおして曾孫の顔を見に駆けつけている。ひきもきらぬ祝賀の客たちに、新生児のゆりかごのそばで長椅子に腰をおろしたアリックスは、かたわらに立つニコライと微笑み交わしていた。長女のオリガはもう九歳、タチアナは七歳、マリアが五歳でアナスタシアも三歳になっていた。両親から、新しく生まれた弟との面会を許されたとき、姉妹たちはつまさき立つようにして息をひそめてゆりかごの中をのぞきこんだ。黄色い髪がうぶ毛のようにはえた青い瞳の赤ん坊がそこにいた。皇太子にしてロシア大公のアレクセイ=ニコラエヴィチである。帝位の継承者をえたニコライは言った。
「ロマノフ家の皇帝は、ここのところニコライとアレクサンドルの繰り返しだ。皇太子にアレクセイは不吉だとされているが、あえてこの循環を破りたかったのだ」
アレクセイ皇太子とは、サンクト・ペテルブルクを首都に定めた開明君主ピョートル大帝の長男である。謀反を疑われ、父帝に殺される悲劇の主人公の名だった。
二人の結婚から十年近くが経過していた。かくも長い間、アリックスは皇位継承者を産まねばならないという精神的重圧に耐えてきたのだった。やっと恵まれた男児であったが、その喜びは長続きしなかった。生後六週間がたったころ、アレクセイのへその緒の切断部分から出血がはじまった。赤ん坊自身は泣きもせず、むしろ機嫌がよかった。だが侍医の手当にもかかわらず、出血は止まらなかった。出血はその後も中断しながら続き、三日目にやっと止まった。両親の不安は大きくなっていった。数か月が過ぎて、赤ん坊がはったり立ち上がったり、膝をすったりころんだりしはじめると、身体のあちこちに青あざができるようになった。ついに侍医たちはおそろしい事実を両親に告げた。皇太子アレクセイは、当時の医学水準では手の施しようがない血友病にかかっているというのだった。
皇太子のやまいは、外部には秘密にされた。祖母のマリア皇太后すら、知らされたのはずっとあとになってからのことだった。アレクセイが三歳半になったころにさえ、皇太后は滞在先のロンドンの姉のもとからニコライに書き送っている。
「ちっちゃなアレクセイは、ころんでおでこを打ち、両目がふさがるほどお顔をはらしているそうではありませんか。かわいそうなぼうや。なんてひどいことでしょう! でもいったい何にぶつかって、そんなことになったのですか? きっともう治ってしまい、ハンサムなお顔に傷跡は残っていませんね」
祖母が期待したような状態に戻るには、三週間も必要だった。この病気の原因が母親の自分にあると知ったアリックスは、この過酷な運命を神が与えた試練ととらえ、いっそう信心深くなる。また献身的に子どもの面倒をみるようになった。ニコライもアレクセイの病状を心配すると同時に、妻のそうした様子を気づかう。四人の姉たちを含めて家族全員がアレクセイの健康状態に一喜一憂した。皇帝一家は、いよいよツァールスコエ・セロに閉じこもりがちとなってゆく。
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冬の間、子どもたちはおかかえの家庭教師のもとで勉強した。毎朝九時にはじまるレッスンのまえに、エフゲニー・ボトキン医師の健康チェックがある。
「はいそれでは、お口をアーンと大きくお開けくださいませ」
親子二代にわたり皇帝一家の侍医をつとめるボトキン医師は、四人姉妹の様子を簡単に診たうえで、アレクセイについてはとくに念入りに診察するのだった。大柄でがっしりした体型のボトキン医師は、子どもたちのお気に入りである。太ったおなかのチョッキのうえに懐中時計の金鎖をつけ、パリ製の香水の強い香りをいつも漂わせている。幼い頃、皇女たちはその香りが嗅ぎたくて、小さな鼻をひくつかせながら彼のあとをついて歩いた。算数、地理、歴史、ロシア語、フランス語、それに英語、十一時に勉強が終わると、ニコライは子どもたちを連れて公園に出かける。家庭教師たちもまじえて雪の山を作ったりして遊んだ。昼食が一日のうちでいちばん正式の食事だった。アリックスは寝室に引きこもりがちでベッドで横になっていることが多かった。父親と子どもたちだけの食事となる。そこではロシア語が話されたものの、夫婦そして母子の会話は英語である。子どもたちは午後のレッスン、四時のお茶にはイギリス風のビスケットが出された。皇帝は書斎で執務し、夜八時にすべての公務をおえて夕食である。オリガとタチアナ、そしてマリアとアナスタシアで、二階のふた部屋をもらっていた。
すこし大きくなると、四人の姉妹たちは日曜日ごとにサンクト・ペテルブルクに住む祖母と叔母たちを訪ねることを許された。汽車に乗って首都へ出かけ、アニチコフ宮殿でマリア皇太后と昼食をとり、午後はニコライの末の妹オリガ叔母の家でお茶やゲームやダンスに興じた。だが、アレクセイはいちばん幼いうえに病身だったから、ほとんど人前に出ることはなかった。そのために、悪意に満ちたうわさが国民の間に流れていた。
「皇太子殿下は、精神的な発達が遅れておられるそうだ」
「テロリストの爆弾で、人前に出られぬほどひどいけがをしたらしい」
「いや、そのためもう死んでしまったのをひた隠しにしているのだ」
皇帝の子どもたちのフランス語教師でスイス人のピエール・ジリヤールは、当初は皇女たちだけを教えていた。ある日のこと、ツァールスコエ・セロの宮殿内の姉妹の勉強部屋に、青い目で金髪の巻き毛のかわいらしい男の子が駆け込んできた。すると、そのあとを追いかけて屈強だが気のやさしそうな大男の水兵があらわれた。黒ひげの水兵は、太い両腕で少年をそっと抱き上げて部屋から連れ出そうとする。
「いやだいやだ、姉君たちといっしょにいるんだ!」
「さあさあ、殿下はこちらで私めと電気機関車であそびましょう」
アレクセイがころんだりして出血のきっかけを作らぬよう、ボトキン医師の勧めでデレヴェンコとナゴルニィという二人の水兵がお守り役をつとめた。そしてこの時はじめて、ジリヤールは病気の皇太子を目にしたのである。
出血がはじまらないかぎり、アレクセイはむしろ活発な男の子だった。ミニチュアの兵隊人形や、船や汽車のおもちゃと、室内遊びの道具は山ほど与えられていた。だが彼は、姉たちといっしょに外出したがった。
「なぜ、ぼくだけ自転車に乗ってはいけないの?」
「ぼくも一緒にテニスをしたい」
ニコライがアレクサンドル宮殿の衛兵たちのパレードを観閲していたとき、七歳だったアレクセイはこっそり借りた自転車でその真ん中を走り抜けた。ニコライは動転して、衛兵たちにそれを止めるよう大声で命令しなくてはならなかった。けれども、なにかのきっかけで出血がはじまると、かわいそうなアレクセイは何週間も寝室に姿を消す。それから長いこと苦痛に耐えなくてはならなかった。肌の外傷は、きつく圧迫する包帯処置で止血することができた。鼻や口の中からの出血には包帯もできず、死の危険があった。ひざやひじの関節に内出血して血がたまると、おそろしい痛みがおそった。アリックスは徹夜で自ら看病した。常習性をおそれてモルヒネは使われなかったから、苦痛のあまり気を失うことだけがアレクセイの救いとなった。回復期の泥浴くらいしか、医師団にも手の施しようがない。
それでも子どもたちは、子煩悩な両親のもとで幸せだった。ロバや小犬など、たくさんのペットがいた。いちばん珍しいペットは、シベリア産のロシアン・セーブル(黒テン)だった。シベリア奥地の年老いた猟師の夫婦が、自分たちが捕らえて飼い慣らした黒テンを父なる皇帝陛下に献上したいと願い出た。二人で長旅のうえサンクト・ペテルブルクまでやって来てのことである。政府は現地の当局に照会して彼らが危険思想の持ち主でないことを確認したうえで、ニコライに奏上した。すぐに皇帝からの返信が届いた。
「黒テンをつれ、夫婦してただちにツァールスコエ・セロの宮殿まで出頭すべし。なにしろ子どもたちが待ちきれない様子である」
老夫婦は、宮殿の控えの間に通された。皇帝が姿をあらわすと、老人たちはその足もとにひざまずいた。黒テンは、きょとんと背伸びして皇帝を見上げている。
「よく来てくれた。さあ、立ち上がって子ども部屋に来てくれ! ひもをほどいて、黒テンを自由にしてやりなさい」
黒テンは、子ども部屋のなかをぐるぐる駆け回った。子どもたちは歓声をあげて、黒テンを追いかけ、遊びはじめた。
日本との戦争の状況は思わしくなく、国民の間に厭戦感情が高まっていった。一九〇五年一月、「血の日曜日」事件が起こった。皇帝に請願をしようと冬宮殿前の広場に進み出たガポン神父と労働者、女性や子どもたちに向かって、コサック兵が無差別に発砲し多数の犠牲者を出した。無防備の民衆を多数殺したことで、「父なるツァーリ」は国民の心に存在しなくなった。各地でストライキや抗議デモが起きたが、虐殺への抗議は国外でも繰り広げられた。アリックスは、イギリスの姉ヴィクトリアに宛てて書いている。
「かわいそうなニッキーの十字架は重すぎます。……新聞がふりまく恐怖を信じないでください。……ロシアの人民は本当に深く君主に心を寄せています。革命家たちは、地主やなにかに衝突させるためツァーリの名を利用しているのです」
日露戦争の戦火がやむとニコライは憲法を制定し国会を開設したが、国内の騒乱はしずまることがなかった。一九〇五年二月、超保守派のシンボル的存在であったニコライの叔父セルゲイ大公が暗殺された。大公妃でアリックスの姉エラは、テロリストの犯行を防ぐため夫の外出にはできるだけ同行するようにしていた。だがその日、大公は一人で馬車に乗ってモスクワ総督公邸へ向かうため宮殿を出た。宮殿まえのクレムリン広場でテロリストの投げた爆弾が爆発し、大公は頭部を吹き飛ばされた。遺体の一部は、付近の建物の屋根のうえから発見されている。急報に、エラはショールをはおっただけで現場に駆けつけ、雪のうえに散乱した夫の肉塊を素手でかき集めた。粗末な軍用担架に乗せられ軍服をかけられた遺骸に付き添い、青いドレスを血に染めて宮殿へと戻った。
夫を亡くした二日後、エラは、逮捕され投獄された夫の暗殺犯に面会に出かけた。牢獄の鉄格子のむこう側に看守に引き立てられて現れた犯人カリャーエフは、犯行時あるいは逮捕された際にどこか傷を負ったのか、それとも拷問を受けたのか顔色は青く具合が悪そうだった。
「あなたが自分の行為を悔い改めるなら、わたくしはあなたを赦します。そして、皇帝陛下に助命嘆願もしてあげましょう」
黒い喪服に黒いレースで顔をおおう帽子をかぶったエラは、カリャーエフに言った。乱れた髪とひげの奥で、カリャーエフの瞳が光ったように見えた。
「わたくしや、わたくしが面倒をみている子どもたちが、夫と一緒に馬車に乗っていたとき、あなたの仲間は爆弾を投げる合図を思いとどまったそうですね。あなたがたにも、どこかに人間らしい心が残されている証拠です。神はそれをお見逃しにはならないでしょう」
「ご立派なことだ」
ぼろ切れのような衣類を身にまとった男は、ぼそりと言った。
「あんたの亭主がどんな評判の男だったか、あんたの耳にも入っていただろう。あいつは残忍なだけの性格の持ち主だった。大勢の人民を虐殺した張本人だ。あんたの周囲のお偉方連中でさえ、あんなやつは殺されて当然と思っているよ」
王侯貴族の血は、平民のそれと違って青いという言い伝えがある。だが散らばった大公の身体から流れ出た血は赤く、あたり一面の雪を染めていた。人民も貴族や皇族も、これからロシアの大地を赤い血で染めることになる。そして血染めの赤い旗が、いつかクレムリンのうえに翻ることになるだろう。
「おれのほうこそ、あんたを赦してやるよ」
男のまなざしが、一瞬だけやさしく彼女を見つめた。それから男は、大声で叫ぶように言った。
「だが革命の大義のために情けは受けぬ。助かるよりも処刑されることで革命に貢献できるんだ。革命ばんざい!」
看守たちが飛びかかり、男を手荒く引きずっていった。
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第五話 アイルランド独立運動
一九一〇年五月にイギリス国王エドワード七世が六十九歳で亡くなり、ジョージ五世が即位する。エドワード七世は、世界政治の舞台において甥のドイツ皇帝ヴィルヘルム二世を牽制する有力な存在だった。イギリス、フランス、ロシアの三国協商が締結されたのは、エドワード七世のすぐれた外交感覚のおかげだった。ヴィルヘルムは、母と祖母の国イギリスを憎む一方で、イギリス海軍にあこがれを抱いていた。軍服道楽の彼は、いつかイギリス艦隊に匹敵するドイツ艦隊を作り上げて、これと共同演習し、エドワード七世と互いの提督服を交換するのが夢だった。ロシア皇帝のニコライ二世は、ヴィルヘルムがロシア海軍の提督服を所望すると快く応じてくれた。だが、イギリスのそれをというヴィルヘルムの願いは、ついにエドワード七世によって叶えられることはなかった。
エドワード七世の義理の甥になるニコライ二世は、ロシアの国会開設や革命騒ぎで苦労を重ねていたが、当時のイギリスも重大な国内問題を抱えていた。そしてイギリスの新国王ジョージ五世は、即位早々その困難な問題への対処を迫られることになる。アイルランド独立闘争と、それを和らげる目的で用意された自治法案をめぐる政争だった。イギリスはながいことアイルランドを支配してきたのだが、二十世紀に入ると現地ではストライキが頻発するようになっていた。アイルランドの独立運動家は、オーストリア=ハンガリー二重帝国のような統治形態を目指していた。自分たちの国と議会を持ち、オーストリア皇帝がハンガリー国王であるように、イギリス国王がアイルランド国王を兼ねればよいというのだった。植民地扱いであるかぎり、生活条件はイギリスよりもはるかに劣っている。一九一一年のダブリンの死亡率は、年間千人につき二十七・六人である。同じ大英帝国の植民地だが、ペストやコレラが蔓延していたインドのカルカッタですら二十七人である。ニコライが統治するモスクワは、これより低く二十六人であった。イギリスの民主主義者たちは、こぞってニコライの専制政治を非難していたが、その足もとにこれだけの不平等への不満が渦巻いていた。ジョージ五世は国民の融和を呼びかけ、政府の方針にも積極的に介入している。
一九一二年に政府がアイルランド自治法案を公表すると、アイルランド内部で深刻な対立が起きた。自治をかちとろうとする多数派のカトリック系住民に対して、北部の工業地帯のアルスター地方を中心とする少数派プロテスタント系住民は、イギリスからの独立に反対だった。一九一四年七月には、国王は激しく対立する各派の代表者たちを招いて、話し合いの場まで提供している。与党と野党の議員代表、政府代表、それにアルスター地方の独立反対派代表と南アイルランドの独立派の四者会談が、バッキンガム宮殿で開かれた。王は一同に歓迎の辞を述べ、
「皆がアイルランド自治問題の平和解決のために集まってくれて嬉しい。アイルランドの内乱と流血を避けるためであれば、これからも自ら努力を惜しまぬつもりだ」
と語って、退席した。数次に及ぶ話し合いにもかかわらず、結局、合意をみることはできなかったが、人々はそうした王の姿勢に感銘を受けた。
一九一三年には、ついに双方が「アイルランド義勇軍」と「アルスター義勇軍」を組織し、それぞれにドイツから密輸される銃で武装しようとした。同年の夏、自治法案に反対する「ユニオニスト」のリーダーであるエドワード・カーソン卿は、ハンブルクでドイツ皇帝ヴィルヘルム二世から会食の招待を受けた。ヴィルヘルムは、カーソン卿を説得してアイルランド独立運動支持に変えさせるつもりだった。
「アイルランド問題から手を引く気はないのかね? 自治なり独立なりを認めてやれば、それですむことじゃないか」
アイルランドを失えば、英国王室は先祖への面目が立つまい。祖母と母の国イギリスと、その名高い英国海軍に対して、ヴィルヘルムは大きなコンプレックスを抱いていた。そして二人の死後、彼の目標はイギリスをしのぐ海軍力を持つことだった。軍艦の建造にはげむ一方で、従兄弟のジョージが治めるイギリスの弱点アイルランド問題に内政干渉する。
「いえ、自治だの独立だのといってイギリスの市場を失えば、アイルランド経済は破綻します。アイルランドで多数を占めているカトリック勢力に押され、プロテスタントの信仰も危うくなることでありましょう。我々は、ぜひとも皇帝陛下のご援助を賜りたいのです」
どちらにせよ、イギリスの力をそぐ不安定要因なのである。ヴィルヘルムは考えを変えた。
「そうか、それならば喜んで独立反対運動を援助しよう」
会談後、カーソン卿の周辺は、ドイツ皇帝の支持をとりつけたと吹聴した。
「さる大国の君主、名をあげるわけにはいかないが、イニシャルは『W』とだけ言っておこう、そのかたが、自治法案が成立でもしそうなら、我々を助けてくださると確約された」
「もしイギリス国王が自治法案に署名し、大英帝国が我々を見捨てるのなら、アイルランドのプロテスタントはドイツの統治下に入るほうを選ぶ。かつて似たような状況のもとで父祖がそうしたように、大陸からの救援者を歓迎する」
というのだった。
一九一四年四月二十四日には、三万五千挺のライフルと二百五十万発の弾薬がドイツから陸揚げされ、独立反対派アルスター義勇軍の手に渡った。イギリス政府はアイルランドでの武器使用を禁止する布告を発した。海軍大臣ウインストン・チャーチルは、独断でイギリス艦隊を派遣する決定をくだす。これに陸軍の兵士を乗せ、ベルファスト湾に上陸させて軍隊の武器庫を保全する計画だった。そしてアルスター義勇軍の指導者を逮捕し、その本部を襲撃する。
「もしベルファスト側が戦うつもりなら、わが艦隊は二十四時間でベルファストを廃墟にしてみせてやる!」
と、チャーチルは言った。しかし、アイルランド駐在のイギリス陸軍将校の多くがアルスター義勇軍に敵対することを拒んだ。彼らは自治に反対するプロテスタントの味方だったし、軍隊を逃亡してこれに合流する兵士もおおかった。チャーチルの決定は、途中でたち消えになってしまった。
一九一四年七月、ヨーロッパに暗雲がたれこめ、すべての国々を巻き込む戦争の気配が濃くなっていた。大国間の戦争という国際問題に立ち向かう前に、国内の事態を憂慮したジョージ五世は、自らアルスター問題の調停に乗り出す。国王の仲介をえて、対立する双方は、ヨーロッパ大陸での戦争が終結するまで自治問題を棚上げにすることを合意する。そして八月三日、イギリスはドイツに対して宣戦布告した。第一次世界大戦である。ヴィルヘルムは、英露両国に戦いを挑んだのだった。アイルランドからも、多数の志願兵がイギリス軍に入隊して戦場に向かった。その数は二十五万人以上にのぼり、戦死者も四万人をかぞえた。当初の予想では、大陸の戦争は短期間で決着がつきアイルランドの自治もじきに認められそうに思えた。だが戦争が長びくにつれて、アイルランド人の間には幻滅が拡がっていった。アイルランド独立指導者の一人ジェイムズ・コノリーは、その労働運動家としての立場から、この大戦を民族解放のチャンスととらえていた。
「ドイツ軍がアイルランドに上陸するときが到来すれば、我々はこれに加わり、我々をこの戦争に引きずり込んだ大英帝国との関係を断ち切る」
彼は、この大戦は好戦的な君主たちによる労働者階級殺しであるとして、独立アイルランドが戦争からも縁切りすることを望んだのだった。そのためには、イギリスの敵ドイツの援助を求めるという。こうして、独立反対派に加えて独立派もまた、ドイツ皇帝の援助を当てにすることになった。
「イングランドの危機は、アイルランドの好機!」
古くからの言い習わしを合い言葉に、独立蜂起の準備がはじまった。
ロジャー=デイヴィッド・ケイスメントは、一八六四年にアイルランド駐留イギリス軍将校の息子として生まれ、ダブリンで育った。プロテスタント系であったが、弱者に味方する気持ちが強く、イギリス外務省で出世して爵位まで得たものの職を辞してアイルランド独立運動に加わった。父親も、義侠心に富む軍人だった。父が子どもたちに繰り返し話して聞かせたエピソードがある。
「一八四八年に、ハンガリーの独立運動家ラヨス・コシュートがオーストリアの支配に反旗をひるがえして立ち上がったとき、私は矢も楯もたまらずに、これに加わろうと出かけて行ったんだ。だが時すでに遅かりし! 蜂起は失敗し、彼らはオーストリア=ハンガリー帝国の国境を越えてトルコに逃げ、そこで拘束されていた。私は、かれらと面会した。コシュートが言うには、トルコ政府がオーストリアの圧力に屈して彼らを送還し、そこで処刑されるか、それともイギリス政府が介入して助けるか、それはもうどちらが先か時間の問題だということだった。私は馬を走らせてイギリスへとって返し、当時のパーマストン首相にコシュートのメッセージを渡した。それで、わが政府が彼らを救い出してくれたんだ。後年、偶然に私はコシュートと再会することができた。そのときに私が名乗るまで、彼は自分たちを救ったイギリス人がだれなのか、私の名前も知らなかったんだ。『ずっと、あの勇敢な若者に神のご加護があるようにと祈っておりましたぞ!』と、英雄コシュートは私の手を握り言ってくれたよ」
幼い子どもにとっては、ハンガリーもトルコもアイルランドから父の馬で走れる距離のように思えた。だがケイスメントは、この話を生涯の手本としていた。
彼は、敵地ドイツに独立の手助けを求めて乗り込むことを決意する。ベルリンでは、国防大臣から武器援助の約束もとりつけることができた。戦場で捕虜にしたアイルランド人を再武装してドイツ軍とともに戦わせる。そしてアイルランドが独立宣言すれば、これをいちはやく承認するというのだった。ケイスメントはアイルランド人捕虜を説得するために、収容所があるリムブルクへと向かった。
「同胞諸君、いまこそドイツと手をとり独立のために立ち上がるのだ!」
「この戦争に勝てば自治が許されるというのに、なんで武装蜂起が必要なんだ?」
「武力を用いずに、イギリス政府が独立はおろか満足な自治権を認めるわけがない。それに北アイルランドは別扱いというのが、まやかしの自治法案の修正条項に加えられている」
「おれたちは、ジョージ五世陛下に忠誠を誓って戦場に出たんだ。捕虜になってもドイツ野郎の味方なんぞするものか!」
捕虜のなかには、歴戦のアイルランド連隊の兵士が大勢いた。
「おまえはドイツからいくらもらったんだ?」
ケイスメントに同意する者は少なかった。殴りかかろうとする捕虜もいた。
「ばかなことを抜かすな。とっとと消えうせろ!」
千名のアイルランド人捕虜のなかから二百名も集まればと思っていたのだが、志願者は五十二名にしかならなかった。
アイルランドでの武装蜂起が、一九一六年四月二十四日のイースター月曜日と決まった。ドイツ側は、イースター蜂起に間に合うようにと、武器弾薬を船積みして送り出すことにした。だが兵員など人材の派遣はないうえ、ライフル銃も二十万挺の要請がわずか二万挺に過ぎなかった。あとは十挺の機関銃、それに弾薬と爆薬である。これらを積んだ貨物船「オード」号がリューベックを出港したあと、ケイスメントはドイツ海軍の潜水艦Uボートで帰国することになった。貨物船「オード」号は、四月二十日聖木曜日夜、荷おろし予定地であるアイルランド南西部ケリーのトラリー沖で、イギリス海軍の哨戒艦に拿捕《だほ》されてしまう。無線機を積んでいなかったため、蜂起側が二十三日に積み荷を受け取りたいと日程変更を申し入れていたのが伝わらなかったのである。「オード」号は、クイーンズタウン(現在のコブ)まで連行され、そこで自沈させられた。
ケイスメントは、ドイツ政府の満足な援助なしでは武装蜂起は失敗するとみていた。ドイツ軍のUボートは、イギリス海軍に発見されるのをおそれ無線の使用を禁じられていた。上陸して、自分たちの手で蜂起の中止を勧告するしかない。二十一日の夜明けまえ、黒い海面が突然に白く泡だち、ドイツ軍のUボートが浮上した。だが艦長は、「オード」号の姿も海岸からの発光信号も見出すことができなかった。
「しかたがない、ボートを降ろせ。ぐずぐずするな。はやくしないと夜が明けて敵の哨戒にひっかかるぞ」
小さなボートで濡れネズミになりながら、ケイスメントはバンナ海岸の浜辺にたどり着いた。ボートを沈めて証拠隠滅をはかろうとしたが、ボートはそのまま近くに浮かんでいた。巡回中の地元の警官が、浜辺の不審な男を発見した。身元はすぐに割れ、キリスト受難の聖金曜日の夜をトラリーの警察署で明かしたあと、その身柄はロンドンのスコットランドヤードに、そして国家反逆罪のかどでロンドン塔へと移された。
二十四日イースター月曜日正午すぎ、ダブリン市内の中央郵便局の玄関でアイルランド共和国の独立宣言が読み上げられた。だが、アイルランド各地で蜂起した者はわずかであった。中央郵便局を根拠地とした蜂起グループは、市内を流れるリフィー川をはさんで目と鼻のさきのダブリン城を占領することすらできなかった。当時、ダブリン城にはアイルランド総督府がおかれ、イギリスによる植民地支配のシンボルとなっていた。大戦中だったため、イギリス政府は敵国のドイツがからんだ陰謀によるものとして即座に軍事行動をとった。大砲や装甲車ばかりか、リフィー川を制圧するための砲艦まで派遣している。ダブリンの中心街では、双方のバリケードごしに激しい戦闘が繰り広げられた。蜂起側には、労働者や紳士然とした身なりの者など市民各階層が入り交じって銃をとっていた。イギリス軍が大砲や機関銃といった強力な火器の支援のもと、なかば廃墟と化した中央郵便局に突入する。蜂起グループが降伏し、イースター蜂起はわずか一週間で失敗した。首謀者たちは、あるいは裁判にもかけられず、あるいは秘密の軍事法廷で即刻死刑を言い渡されて処刑された。戦闘での死者数は約四百五十名、負傷者は二千五百名にのぼった。
イースター蜂起の指導者の一人ジェイムズ・コノリーは、中央郵便局の戦闘を指揮していたが、脚部に重傷を負って捕らえられた。収容者たちを診るため獄舎にやって来たトービン医師は、コノリーを治療しながら、そっと尋ねた。
「あんたのために、私になにかできることはないかね、コノリー?」
粗末なベッドに横たわったまま、灰色のコンクリートの天井を見つめてコノリーは答えた。
「私がほしいのは自由だけだ」
「ここがアイルランドでなきゃ、そいつはおやすいご用なんだが」
「私はどうなるんだろう?」
コノリーが突然に思い出したように言うと、トービン医師はそっけなく応じた。
「殺されるよ」
「おお、そう思うかね?」
「それに決まってる」
「なぜだ?」
「イングランド人の連中は、ほかにどうしようもないからさ。あんたを買収できるかね?」
「いや」
「脅しつけて、おとなしくさせるのは」
「できない」
「じゃあ、命乞いして、釈放と引き替えに国を離れ、未来永劫おりこうさんになるとでも約束するというのは?」
「ノー」
「だから銃殺にするしかないんだよ」
「なんとも納得のゆく話だ」
彼は、ベッドの上の肥満気味の身体をずらしながら、ひげをなでたり、はげ上がった額に手をやったりして頷いた。武器を手に市街戦を指揮することは、すでに四十八歳のコノリーには体力が追いつかなかった。
脚の傷はよくならず、翌月の五月十二日朝、コノリーはベッドから担架に移され、イギリス軍の兵士の手で、キルメイナム監獄の中庭に設けられた処刑場へと運ばれた。一人で立つこともかなわないため、銃殺隊のほうに向かって壁の手前で椅子に座らせられる。兵士たちが、ロープで彼の身体を椅子に縛り付けた。
「かまえ」
指揮官が、腰のサーベルを抜きはなって高く掲げ、命令した。十二名の銃殺隊の兵士のうち、前列の六名が姿勢を低くして片膝をつく。残りの後列六名と同時に、さっと小銃をかまえた。目隠しされたまま、コノリーはにっこりと彼らに笑いかけ、
「せいいっぱい自分の義務を果たそうとする勇者どもよ、諸君のために私は祈ろう」
と、大声で叫んだ。
「撃て!」
それに応えるかのように、指揮官がサーベルを振り下ろすと、いっせいに銃声が響いた。
ケイスメントの裁判がはじまったとき、アイルランド生まれの劇作家で、のちの一九二五年にノーベル文学賞を受賞するジョージ=バーナード・ショウは、法廷外で弁護の論陣を張った。
「ロジャー・ケイスメントを絞首刑にするべきか?」というショウの一文は、「ザ・タイムズ」紙への掲載を拒否されたあと、一九一六年七月二十二日付の「マンチェスター・ガーディアン」紙に載った。
「いくつかのイギリスの新聞が、この私の問いかけに激しい論調でイエスと答えた。そこで私はアイルランド人として、新聞が下した判断とのバランスをとることをお許しねがいたい。……
こうした世論は、ケイスメントが大英帝国の禄をはみ、有名人であり、爵位まで得たことにも影響されているようである。ジェントルマンを気どりながら、飼い主の手を噛むという卑しむべき存在とみなされたのである。だが、ほかならぬ私の場合を見てもらいたい。私は脚本家として長年ドイツに仕えたし、ウィーンの大劇場のためにオーストリア皇帝にも雇われて、多額の収入があった。このことを理由に、イギリスの劇場からは横柄な閉め出しをくらう。イギリスの新聞に婉曲な言いまわしで駄作と決めつけられることをおそれ、私のだいじな最新作『ピグマリオン(ミュージカルのマイ・フェアレディの原作)』の初演はベルリンで行うしかなかった。だからと言って、私はこの戦争でドイツやオーストリアに味方するはずだと見られているのだろうか。私は、ドイツ人に泥を投げるこの国あげてのゲームに加わる気にはなれない。しかし、ドイツがフランスに侵攻したとき、私はこれを強く非難してドイツを敵とした。
ケイスメントはイングランド人の反逆者ではなく、アイルランド人である。しかもアイルランド人であるからいけないのではなくて、ナショナリストのアイルランド人であるゆえに、訴追されている。したがって、彼には戦争捕虜としての処遇が与えられるべきである。もしも彼を処刑すれば、アイルランドでは国民的英雄となるだろう……。私は、彼を聖人の列に加えるのを妨げようとしているわけだから、彼自身は私の努力に反対するに違いない。だが、アイルランドにはもう英雄も殉教者もあり余るほどいる。経験を糧とせず、腹立ちまぎれに彼らを生産し続けるならば、知らず知らずにケイスメントの同胞らの支配下に置かれるのは、実はイングランドのほうなのである」
背が高くてスリムな身体つき、頬から顎そして鼻下に立派なひげをたくわえたケイスメントは、オールドベイリーの中央刑事裁判所の被告人席から、堂々とした態度で長い陳述を行なった。
「裁判長閣下、私は、目のまえの廷内の聴衆を越えて、より広く語りかけたいと存じます。まず、本法廷が国家反逆罪の罪状で私を裁く権限を持たないと主張いたします。けれども、それを訴えかける相手はこの法廷ではなく、私の同胞たちに対してであります。
私の異議申立は、おそらく法にかなってはいないでしょうが、モラルに基づくものです。五百年以上も昔のイングランドの法律を根拠に、現代のアイルランド人の名誉と生命とを奪うことはできません。しかもその理由たるや、『王の敵への加担』ではなくて、同胞に味方したことに過ぎないのですから。そもそも忠誠心とは感情であって、法ではありません。圧制でなく、愛情によっているのです。イングランドによるアイルランド統治は圧制によっており、法にすら根を持ちません。慕われようとしないのだから、忠誠心も得られないのです。もし私が祖国のために立ち上がれ、と同胞たちに呼びかけたことが間違いであったのなら、そうした私を正当に裁くことができるのは、同胞たるアイルランド人だけです。
私は陪審評決を受け入れます。この法律に従い、いかなる刑罰にも服します。けれども、私が彼らの忠誠心を汚したというような、つまらぬ指摘を甘受するつもりはありません。有罪というのなら有罪なのでしょう。彼らの評決をおそれるのは、私ではなく王権です。これはイングランドのルール、イングランド製の法、イングランドによるアイルランド統治に向けられた有罪宣告だからであります。それらはアイルランドの人々の意思によることなく、これを無視しています。正義でなく、征服によるものです。征服を正当化することはできません。肉体の支配は可能でも、魂は支配できるものではないのです。いかなる帝国も、人の動機や決断や感情には影響を与えられません。そして、この正当化できない征服者の法を根拠に、私がアピールする動機や決断、同胞への愛情を裁くことはできません」
陪審は有罪の評決を下す。ケイスメントは絞首刑を宣告された。八月五日ロンドン、死刑の執行を告げる刑務所の鐘が鳴りはじめたとき、塀の外に集まっていた群衆の間から、彼の運命をあざ笑う歓声が上がった。若い頃、イギリス政府の外交官としてアフリカや南米で原住民の保護に腐心した彼は、このとき五十二歳であった。ケイスメントの遺体がアイルランドに戻り、ダブリン市外西北にあるカトリックのグラスネヴィン墓地に義士として移葬されたのは、一九六五年になってからのことである。
イースター蜂起の失敗とそれに続いた首謀者たちの処刑は、その後のアイルランド独立運動の火にむしろ油を注ぐ結果となった。同じ大英帝国の片隅で、一人の青年がケイスメントの演説を報じる記事をつぶさに読んで感動していた。
「この演説はすばらしい。民族精神というものを的確に指摘している。イースター蜂起には、まさにその失敗ゆえに魅了される。失敗を嗤うのは真の勇気ではない。これは、民族の不屈の精神を弾圧では粉砕できないことを世界に宣言するものだ」
と、ジャワハルラル=パンディット・ネルーは記している。彼はこの年の暮れ、はじめてガンジーと出会う。当時のガンジーは、南アフリカのインド人の処遇改善のために闘って、インド本国に帰国したばかりだった。
「イギリスの危急を私たちの好機に変えてはいけない」
と、ガンジーは説き、インドの青年たちに志願兵に応募するよう勧めていた。
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第六話 王族の第一次大戦
一九〇〇年六月二十八日、オーストリアのフランツ=フェルディナント大公が結婚した。オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ一世の亡き下の弟カール=ルートヴィヒの息子である。老いた皇帝は、ウィーンの壮麗なシェーンブルン宮殿で孤独に暮らしていた。いつも変わらぬブルーの上着と黒いズボンの質素な軍服姿で、一人ぽつんと書斎に座り政務をとる。白いひげが寂しそうだった。
一八五七年のこと、上の弟フェルディナント=マクシミリアンを、九十歳のラデツキー元帥の後任としてヴェネツィア=ロンバルディア総督に任命した。マクシミリアンは、ヴィクトリア女王の叔父であるベルギー国王レオポルド一世がフランスの王女と再婚してもうけた娘シャルロッテと結婚し、任地に赴いた。マクシミリアンの自由主義的な政策は、現地では歓迎されたが、一八五九年、オーストリアの国益をそこなうとして更迭された。八十六歳で死の床にあったオーストリアの元宰相メッテルニヒは、サルディニア王ビットリオ=エマヌエレ二世に宣戦しないよう戒めて息を引き取った。だが当時のフランツ=ヨーゼフ皇帝は若く、フランスのナポレオン三世の挑発に乗ってしまった。こうしてオーストリアはイタリア領土の大部分を失い、一八六六年にはプロイセンとドイツの覇権を争って敗れた。ドイツ統一で疎外されたハプスブルク帝国としては、南西のバルカン進出しか残された道はなかった。そのためロシアの権益とぶつかり、かつての敵ドイツと同盟することになった。
のちにこのマクシミリアンは、失政で引きこもっていたところをナポレオン三世に利用され、かいらいのメキシコ皇帝とされたあげく、一八六七年に革命で銃殺された。夫をとにかく一国の君主に仕立て上げたかったシャルロッテと、ナポレオン三世の野望の犠牲となったのである。まだ三十五歳の若さだった。シャルロッテは、悲しみのあまり正気を失って実家に戻り、それから六十年もの余生を送る。
フランツ=ヨーゼフ皇帝の一人息子の皇太子ルドルフは、一八八一年に、やはりベルギーの国王レオポルド二世の息女ステファニーと結婚した。二人の間には娘エリザベートが生まれたが、夫婦仲は冷え切っており、一八八九年一月三十日、皇太子ルドルフはウィーン郊外マイヤーリンクの狩猟小屋で愛人の若い娘と情死した。
最愛の皇后エリザベートはドイツのバイエルン王家の出身だったが、一八九八年九月十日、旅先のジュネーヴで止宿先のホテル「ボー・リヴァージュ」を出たところを、イタリア人の無政府主義者に刺殺された。
しかたなく甥のフランツ=フェルディナントを皇太子としたものの、こんどは平民並みの娘との結婚である。花嫁のゾフィー・コテック(ホテク)は、ボヘミアの伯爵の娘だったが、オーストリア帝国並びにハンガリー王国の帝位と王位の第一継承権者の妻としてふさわしい出自ではなかった。
ヨーゼフ皇帝は、甥に向かって厳格に言い渡した。
「このハプスブルク家の当主としては、おまえの花嫁を将来の皇后とするわけにはゆかぬ。おまえが大公であるからといって、正式の大公妃にもできぬ。この結婚で生まれる子どもらにも、皇族としての身分や称号、それに帝位の継承権は与えられない」
それでも、甥は結婚の意思を変えないというのだった。
「ならば致し方ない。将来おまえの妻には、『ホーエンベルク大公妃』を名乗らせることにしよう。ただし皇室用の馬車の使用も、将来、ハプスブルク家の霊廟入りすることもまかりならぬ」
ヨーゼフ皇帝とおなじように保守的なウィーンの宮中では、彼女はつねに夫と離れて末席に座らせられた。公式行事でも、皇族の女性たちの最後尾を一人で歩かせられる。華麗なウィーンの社交界でも同じ扱いを受けた。
(画像省略)
フェルディナント大公は、そうした境遇の妻ゾフィーを深く愛していた。皇太子でありながら、彼自身も妻と同様、あまり宮廷には顔を出したがらなかった。いつも妻をなだめるのに気を遣っていた。だが、その日はいそいそと帰宅した。すばらしい旅行計画が持ち上がったからである。一九一四年の六月二十八日、つまりあれから三人の子どもを生んでくれた妻との結婚記念日に、オーストリアの領土となったボスニアの首都サラエヴォ郊外でオーストリア陸軍の大演習があると聞かされ、危険もかえりみず、喜んで閲兵式出席を引き受けたのだった。
「いいかね。私は陸軍元帥でもあるのだから、皇族でなく軍人の資格で行動するばあいには、おまえを公的儀式で皇太子妃として扱わせることができるのだよ!」
当時のボスニアの住民は、スラヴ系のセルビア人、ローマ・カトリック教徒のクロアチア人、それにイスラム系である。大公は、もうじき八十四歳の誕生日をむかえるフランツ=ヨーゼフ皇帝の治世が長くは続かないと意識していた。いまの統治形態はオーストリア=ハンガリー二重国家体制だが、自分の時代にはスラヴ人の国家を加えて三重の連邦制としよう。一見するとスラヴ人に有利な構想だが、関係者のだれも喜ばないものだった。オーストリアとハンガリーの大臣たちは、自分の権力が二分の一から三分の一になることを嫌った。スラヴ民族主義者らは、ハプスブルク王朝の支配を離れた大スラヴ自治国家の成立を妨げる策略とみた。このままでは老帝の死後、もっと独立が困難になるだろうというのである。しかも、大公は自分たちの結婚記念日のことしか念頭になかったが、この日はセルビア人にとっては特別な日だった。これより五百年ほど昔のこと、コソヴォの戦いでオスマン・トルコに敗れ、いにしえの大セルビア帝国が滅んだ日であった。それでも大公にしてみれば、彼なりにボスニアの住民感情に気を配った。大公夫妻を接遇する現地総督府に連絡をとり、住民たちが親しみを持ってくれるよう格別の配慮を命じた。
「軍隊の兵士が沿道に行列するというのは、今回はやらないように。地元警官を百五十名も警備に動員できるというのなら、それで十分だ。不穏分子対策としては、訪問計画をできるだけぎりぎりになって公表すればよい」
その日曜日は、前日の雨もあがり快晴だった。大公夫妻はサラエヴォ郊外で行われた陸軍大演習を観閲したあと、この町に立ち寄った。自慢の鼻ひげの両翼をぴんと立てた大公は、オーストリア陸軍の緑の軍服に羽毛のついた軍帽をかぶり威風堂々としていた。大公妃ゾフィーは大きな飾りのついたボンネットをかぶり、胸元がしまり腰から下がふわりとふくらんだ優雅な夏物のドレスに身をつつんでいた。サラエヴォ独特の平たい屋根の白い家並みが続く、たいして広くない街路を、群衆が埋め尽くしている。駅から市庁舎での公式歓迎会へと、車の列が向かう。先頭から二台目の大型オープンカーの後部座席に妻と並んで座った大公は、沿道の人々に上機嫌の笑顔をみせ手をふった。市庁舎近くまで来たとき、小さな黒い物体が飛んでくるのが大公の車の運転手の目に映った。とっさにアクセルを踏んで急加速し、ゾフィーのひざに落ちそうな異物をやり過ごす。沿道の群衆にまぎれていたテロリストの学生が爆弾を投げたのである。爆弾は後続車の下で爆発し、随員と観衆にけが人が出た。しかし、大公夫妻は無事だった。市庁舎で下車すると、大公は青ざめた表情で身体をふるわせ怒り狂って言った。
「これが訪問客に対する仕打ちなのか! 爆弾を投げて歓迎するというのが」
随員の一人がボスニア=ヘルツェゴヴィナ総督に進言した。
「陸軍の兵士を護衛に呼び寄せるべきではないでしょうか」
爆弾事件で面目をなくしていた総督は、随員に言い返した。
「このサラエヴォの街が、暗殺者でいっぱいだとでも思っておられるか? 陰謀が失敗に終わった以上、そのような必要などありはせぬ」
おざなりな歓迎式典のあと総督官邸での午餐会に向かうまえ、大公は負傷した随員たちを病院へ見舞うと言い出した。猛スピードで走る車の列を目にして、テロリストたちは絶望していた。全部で六名の仲間が沿道のあちこちの群衆のなかにいたのだが、一人が爆弾を投げて失敗したほか、もう一人は拳銃を発射しそこなった。別の一人は、ゾフィーを巻き添えにしたくないと引き上げてしまっていた。ラタイナー橋の角でも、十九歳のセルビア人学生ガブリロ・プリンツィプが呆然と車が通り過ぎるのを見ていた。目の前を進行する車の列はスピードがはや過ぎて、隠し持った拳銃を取り出す間もなかった。ところがその瞬間、奇跡がおきた。いったん通過した大公夫妻の車が曲がり角で急停止したのである。先導車の運転手が予定コースの変更を聞かされていなかったため右折してしまい、後続の大公夫妻の車もそれにつられて曲がろうとしたところを助手席の総督が叱った。
「ばかもの、そっちじゃない!」
ギアをいれかえ車の向きを変えて再び走り出そうとするところを、青年は車の右側の踏み板に足をかけ拳銃のねらいを大公に定めて引き金をひいた。つぎに助手席の護衛を狙ったつもりが、夫と並んで座っていた大公妃の上腹部に命中した。ゾフィーが夫の胸にくずおれる。随員はつぎの犯行を懸念し、大公の左手の踏み板に立って自ら楯となっていたが、反対側から狙われてしまった。
大公はまっすぐに背筋をのばして座席にすわった姿勢のまま、彼女を抱きしめていた。大公の首筋から鮮血がほとばしり緑色の軍服を染めるまで、彼も致命傷を負ったことにだれも気づかなかった。大公は苦しい息で妻を励まし続けていた。
「ゾフィー、ゾフィー、子どもたちのために生きておくれ!」
午餐会場のホールでは、召使いたちが冷えたシャンペンや磨いて光るグラスをテーブルにならべている最中だった。二人はそのホールの隣室へと運び込まれた。野戦用の折り畳み式ベッドが二つ広げられ、そこに並んで寝かされた。まず大公妃が絶命し、十五分後に大公も息を引き取った。妻を励ます言葉か、それとも現地の人々をなおも気づかったのか、最後につぶやいた。
「たいしたことじゃない!」
第一次世界大戦のはじまりを告げる言葉である。このときのオープンカーは、現在でもウィーンの軍事史博物館に展示されている。
予審判事による尋問に、青年は暗い表情で答えた。
「大公妃が亡くなったことはお気の毒でした。彼女を殺すつもりはなかった」
予審判事は、総督にも尋ねた。
「最初の犯行のあと、なぜ警備を増強しようとなされなかったのですか?」
横柄そうな総督はとたんに気弱な表情になり、言い訳するように言った。
「陸軍の演習場での皇太子妃扱いは、ちっともかまわぬ。軍内部のことだからな。だがサラエヴォの町では、すべてウィーン並みでなくてはならんのだ。ここでのわしは軍人じゃない。行政官だ。大公でなく皇太子ご夫妻としての警備体制をとれば、すぐに報告が中央政府に届き、このわしが責任を問われてしまう」
「なんですって、それでは貴賤結婚ゆえに大公夫妻は殺されてしまったと」
予審判事は、あきれた表情で総督の顔をのぞき込んだ。総督は、黙って頷いた。
フランツ=フェルディナント大公と大公妃ゾフィーの遺体は、ウィーンに運ばれて、カプツィナー寺院のハプスブルク家の霊廟にいったん安置された。だが王家の場合のように、二人の死を悼んで寺院の鐘を鳴らすことは許されなかった。その葬儀は、皇太子どころか、大公の身分にすらふさわしいものではなかった。両親を失った子どもたちは、葬儀に参列させてもらえなかった。ゾフィーの棺は、夫である大公の棺よりも一段下に置かれ、「女官」の扱いを意味する白い手袋と扇が添えられているだけだった。生前、大公夫妻は、自分たちはハプスブルク家の霊廟には葬られないものと考え、自領アルトシュテッテンに墓所を用意していたのである。そのことが知れたとき、さすがにウィーンの人々も気の毒な思いにかられた。
ロシア皇帝ニコライ二世は、なんとかオーストリアがセルビアに開戦するのを思いとどまるようにと、同じドイツ民族としてオーストリアを支援しているドイツ皇帝ヴィルヘルム二世を説得し続けた。スラヴ諸国の代表として、スラヴ系のセルビアが窮地に立たされれば、ロシアは開戦に踏み切らざるをえなくなる。互いに、「ウィリー」と「ニッキー」と親しく呼びかけ合う電報が、頻繁にやり取りされた。だがその裏で、ヴィルヘルムはオーストリアに強硬な態度に出るよう勧めていた。一九一四年七月二十三日、オーストリアはセルビアに最後通牒を突きつける。セルビアが留保つきでオーストリアの要求に応じると返答したため、同月二十八日、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。三十日、ニコライは総動員令を発した。総動員令には開戦の意味はなく、当時のことであれば何か月もかけて戦争の準備をはじめるにすぎない。だが、そうであるなら先手必勝と、八月一日、ドイツはロシアに対して宣戦を布告する。また三日には、フランスに宣戦布告した。これを受けて四日にはイギリスが、友邦フランスとベルギーのためドイツに宣戦布告する。そもそもの原因をつくったオーストリアも、六日、ドイツにうながされてロシアに宣戦布告する。こうして、列強諸国は大戦へと突入したのだった。
第一次大戦がはじまったとき、皇后アリックスの長姉ヴィクトリアは、次女ルイーズを連れてロシアに滞在中だった。開戦のしらせに急ぎ出国したのだが、ロシア訪問のさいに持参した自分のダイヤモンドのティアラ(宝冠)や真珠のネックレスなどを収めた宝飾品用トランクケースは、アリックスのもとに預けたままとなった。姉妹のどちらも、これは一時的な別離にすぎないと信じていたのだった。
ドイツとの戦争がはじまると、ロシア全土にドイツ嫌いの感情が吹き荒れた。ドイツゆかりの施設や店の打ち壊し、各界からのドイツ系の人物の追放、政府の要人や閣僚たちですら、そのドイツふうの名前の改名を思案しなくてはならなかった。ロシアの首都サンクト・ペテルブルクは、そのドイツ語的な響きからロシアふうにペトログラードと改められた。かつてニコライが戴冠したモスクワのウスペンスキー寺院では、皇族一同もそろって戦勝祈願のミサが行われた。軍服姿の皇帝とその一家、皇后と大公女たちは看護婦姿である。アレクセイ皇太子までも小さな軍服に身をつつみ、お守り役の水兵に抱かれて姿をあらわした。大群衆は狂喜して歓声を上げた。国民の団結心が高まって、皇室への不満はしずまり革命の機運は消滅した。ニコライも、前線に近い大本営で指揮をとることになる。アリックスは、戦場暮らしの夫に手紙をしたためた。
「わたくしは、祖国ロシアとその民衆のため、あなたと離れて暮らすことに耐えます。ですが、わたくしのかつての小さな祖国、兄の『アーニー』のヘッセン大公国のことも気がかりでなりません」
彼女は「ウィリーおじ」の軍隊のことを、けっして「ドイツ軍」とは呼ばない。あれは「プロイセン軍」なのですと強調した。そして、大国の身勝手から、自国ヘッセンの軍隊を率いてフランスとの戦いに出陣させられている実家の兄の身の上を案じていた。
一九一四年八月四日、ベルリンのホーエンツォレルン王宮の白の間で、ドイツ帝国の最初の戦時会議が開かれた。豪華な装飾の広間に伺候する侍従たちは、伝統のきらびやかな官服姿である。帝国宰相と宰相官房長も、華やかな竜騎兵姿だった。だが皇帝ヴィルヘルム二世も、また陸軍大臣も地味な灰色の軍服姿だった。濃い紫の衣装をつけた皇后が、皇女たちを従えて皇室用の桟敷に入る。皇帝の両脇には、アイテル=フリードリヒ王子とアウグスト=ヴィルヘルム王子とが父帝と同じ簡素な軍服姿で控えている。皇太子は、すでに出征した。帝国議会議長が音頭をとり、皇帝陛下万歳を三唱する。ヴィルヘルム二世は、玉座の前に立って言った。
「わがドイツ帝国が世界戦争を余儀なくされたのは、正当防衛のためであり、一点たりとてやましいところはない。……余は、もはや『党派』なるものを知らぬ。ただドイツ人あるのみ!」
居並ぶ帝国議会の議員たちのほうを見て続ける。
「諸君が、党派、地位、宗派の違いを超えて余のもとに団結し、苦楽をともにし、生死をともにすることのあかしとして、各政党の党首が前に進み出て、余と握手して誓約するよう命ずる」
(画像省略)
これまでヴィルヘルム二世は、イギリスとフランス、それにフランスとロシアの提携など長続きしないと見ていた。ドイツの西と東での両面作戦を避けるには、イギリスと手を結ぶのが一番だった。だが、それではイギリスとの軍艦建造競争を制約されてしまう。残された道は、オーストリアを頼りとすることだけであった。そのオーストリアのヨーゼフ皇帝は、高齢で病身だった。
イギリスでもドイツ嫌いの国民感情が高まり、なんでもドイツ的なものはすべて排斥されるようになった。ロンドンの下町イーストエンドでは、ドイツ名の屋号のついた店のショーウインドーには石が投げられ、看板は引きずりおろされた。胴の長いダックスフントすら、ドイツの犬だといって通行人に蹴飛ばされる始末だった。そこいらじゅうにドイツのスパイがいるから注意せよと言われた。海軍軍令部第一本部長バッテンベルク卿は、英国王室につながる血統とはいえ、生まれも名前からしてもドイツ人であったから、そんな人物が英国海軍軍人のトップとしてドイツと戦争できるのかと指摘されてしまう。同年十月二十四日、「ジョン・ブル」誌のコラムニストはいう。
「カイザー・ヴィルヘルムは、『血は水よりも濃い』と言ったことがある。すると、ドイツとわが国との生死をかけた闘いが問題となっているときに、バッテンベルク家とホーエンツォレルン家との血のつながりを、北海の水が果たして消し去ることができるのか疑わしい。ここに、我々の要求を繰り返さざるをえない。バッテンベルクのルイス王子を軍令部第一本部長の職から解任せよ。イギリス人の将官をもって後任とせよ」
バッテンベルク卿の子息「ディッキー」(のちのマウントバッテン卿)の親友たちすら二手に分かれ、一方は彼をドイツのスパイだと非難し、少数の友人だけが支持してくれた。そんななかで、父の失脚は悲しい出来事であった。父が海軍を退役させられたとき、海軍士官学校の生徒だった彼は一大決心をする。いつの日か必ず自分自身が、この不運な父のかわりに海軍のトップとなってみせるということである。少年はポールの上でひるがえるユニオンジャックの旗を見上げながら、一人ぼっちで涙を流していた。やせて背の高いひ弱な感じのその少年は、オズボーン海軍士官学校の制服に身をつつんでいた。士官学校の運動場に向かい、海から吹いてくる風がイギリス国旗をはためかす。旗に敬礼したまま、ぽろぽろ涙が頬をつたうにまかせていた。少年が父母から受け継いだのは、純粋のドイツ人の血だった。そしてその血ゆえにいま尊敬する父親は、イギリス海軍の職業軍人としての最高位である海軍軍令部第一本部長の職を解かれたのだという。
「ドイツ人(ジャーマン)という言葉はね、『ジャーム・ハン(昔の凶暴なフン族の子孫)』が語源なんだって、愛国誌『ジョン・ブル』に書いてあるそうだよ」
「あいつの親父はドイツのスパイで、ビーフィーター(ロンドン塔の衛兵)に引きたてられてトレイターズ・ゲイト(反逆者の門)をくぐるのを見たって、うちの両親が教えてくれたんだ」
十四歳のこの年頃の少年たちは残酷で、しかもその背後には上流階級の親たちの悪意があった。マウントバッテン卿の性格や行動様式は、すべてこの時期に形成されたといわれている。完全主義者、独善家、努力家、尊大、貴族を含めて上流階級を相手にせず、自分は王族だからと王室とだけつきあったこと。出自をまるでドイツ皇帝を生んだホーエンツォレルン家と同格のように自称したなどなど。その一方で、若者たちにはつねに理解を示し、その成長を手助けしようという姿勢を終生保ったのも、不遇な少年時代の経験によるという。
一九一七年六月、ディッキーの父バッテンベルク卿はイギリスふうに改名させられ、ミルフォード=ヘヴン侯爵となる。そしてつぎの代からはマウントバッテンを名乗ることになった。国王ジョージ五世自身が、王室の家名をドイツ起源のサクス=コバーグ=ゴータ王家からウィンザー家へと改め、王妃の実家のテックや、ホルスタインといった家名もそれぞれにイギリス風のものに変えるよう命じたからである。イギリス国民の反ドイツ感情を考慮した苦しい決断だった。王の秘書官スタムフォーダム卿は、王家の家名捜しを担当した。
「ご先祖をたどりますと、『ゲルフ』とか。あるいは、ヴィクトリア女王の夫君アルバート殿下のご家名より、『ヴェッティン』などでございましょうか」
「どちらもドイツ的な響きだな。改名は気がすすまぬが、外国人と言われたくないから思案しておるのだ。もっと、英国風なのはないものか」
「それでは、『ウィッパー』はいかがでしょうか」
「王家の家名としての重みが感じられぬ」
「ではいっそのこと、ウィンザーのお城から『ウィンザー』となされては」
「うむ、これはよい」
「ただプリマス伯爵が『ウィンザー=クライヴ』を家名といたしておりますので、一言お断りすべきかと存じますが」
「いや、複数の家名のなかに重複する部分があるからといって、わざわざ相談するまでもあるまい。むしろ名誉に感じてくれるだろう」
同時にジョージ五世は王室婚姻法を改正し、王室のメンバーに王族でない英国国民との結婚を許すものとした。王家相婚を守るかぎり、またドイツの王子や王女を子孫の結婚相手にさがす必要にせまられるからである。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、従兄弟のジョージのこうした決定をあざ笑い、
「シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』から借用したんだな。それじゃあ、シェイクスピアの戯曲のほうは、これから『サクス=コバーグ=ゴータの陽気な女房たち』となるんだろうな」
と、うそぶいた。
父が退役させられたうえ、こんな改名まで強制されるとは、
「滑稽なジョークで、笑いがとまらないや!」
と、ディッキーは言った。父親のバッテンベルク卿は、終始、ユーモアを失わずに耐えていた。ある日、卿が所属するクラブに入ってゆくと、ひとりの旧友が声をかけた。
「やあ、ルイス! ここで何をしているんだい? 君はロンドン塔だとばかり思っていたよ」
卿の数少ない親友の、友情に満ちたジョークだった。卿は、嬉しそうに笑って言い返した。
「君も、耄碌《もうろく》したな。情報が古い。私は、昨日、銃殺になったよ」
バッテンベルク卿の改名が報道されたとき、彼は、あるホテルに滞在していた。ホテルの支配人が、同情しきりの表情で言った。
「このたびは、ご家名をお変えになられましたとか」
卿は、いたずらっぽく答えた。
「君のところの宿帳には、『チェックインしたのはジキル王子で、出ていったのはハイド侯爵』と、書いといてくれたまえ」
彼は、五十年ちかくもイギリス海軍に勤務したのだった。来るべき戦争にそなえ、商船を武装して自衛させること、商船隊の被害をつぐなうため国営の戦争保険の制度をもうけることを提案したのは、十年も前のことである。海軍大臣だったチャーチルは、
「文明国家が、商船を潜水艦攻撃する時代が来るとは、私には想像もつかぬことだった」
と、バッテンベルク卿の先見の明をたたえている。
卿にとって、自分のドイツの王子としての「プリンツ・ルートヴィヒ・フォン・バッテンベルク」という地位と称号を失う悲しみは大きかった。一九一七年六月六日付の、バッテンベルク卿から次女ルイーズ(のちのスウェーデン国王グスタフ六世の后)に宛てた書簡は、彼の隠された苦悩を物語っている。
「愛する私のルイーズ。私は、私たちみんなに広い影響を与えるたいへん深刻なニュースを受け取ったが、それをすべておまえに話そう。ジョージ国王が先週私に電報をよこされ、できるだけはやく私に会いたいとおっしゃった。私はすぐにこのワイト島から船で発ち、陛下と長時間二人きりで話し合った。陛下は、自分が半分ドイツ人であって大勢のドイツ名前の親戚に取り囲まれていると非難されていることを、長々と説明された。そしてその結論として、ホルスタインとかテックとか、バッテンベルクといった家名も、私たちのドイツの称号もイギリスでは使わないよう、かわりにイギリスの家名をつけるようにと、私たちに頼まざるをえないということだった。……おっしゃるには、うちの家名『バッテン・ベルク(山)』も英語に変えて、例えば『バッテン・ヒル(丘)』とか『マウント(山)・バッテン』としてはどうかというのだ。私たちとしては、後者のほうが響きがよいという気になっている。……もとより私たちは、陛下のおぼしめし通りにするつもりだ。歴代の陛下が認めてくださってきたように、私たちだけがドイツの称号を用いることを許されていたのだが、それもいずれ承認されなくなるかもしれないとのことだった。もしもそうなれば、私たちは単なる『ミスター』となってしまう。いや、それはありえないことだろう。……おまえや愛するわが子たちに、私は本当にすまないと……。こんなことは、人間の過去をひっくりかえして断ち切る実にひどいことで、それもこのおそろしい戦争のもうひとつの結果なのだ。ママはりっぱな人で、自分の称号や位階を捨てると決心してくれた。それらはまったくママ自身のもので、私と結婚したことで得たものではなかったのだが。これからは、夫である私の名前と称号だけで自分を呼んでくれればよいそうだ。……新聞のコメントは不快なものになるだろうが、避けがたい。共和制論者がこれで納得するかどうかは、まだ分からない。イギリスの王制が、かの国のように揺らぎはじめやしないかと心配だ。……
愛するわが子よ、さようなら。これらすべてがひどくおぞましい。なじんだ自分の名をなくすのは寂しいことだが、ためしに新しいすてきな名前を書いてみることにしよう。
[#地付き]毎年おいぼれてゆく愛するB、父より」
ヴィクトリア女王と、その息子のエドワード七世にとりわけ愛され、英国海軍の近代化に貢献したバッテンベルク卿は、短い隠退生活を失意のうちにおくり、この手紙を書いてから四年後の一九二一年に死去した。晩年は、勲章の分類目録の作成、軍艦の艦名の由来をしるした書籍の執筆、切手の収集、それに絵筆をとってキャンバスにむかう毎日だった。その気品のある顔だちには、いつも愁いがただよっていた。
第一次世界大戦がはじまると、日本も日英同盟のため参戦をうながされることとなった。イギリスは当初、日本が中国山東半島のドイツの根拠地と東洋のドイツ海軍を攻撃してくれることだけを期待した。だが日本は、これを機会に中国進出の足がかりを得ようとしていた。一九一四年八月末、海軍大臣のチャーチルは、ダーダネルス海峡封鎖を立案する際、日本海軍の東地中海への派遣を要望していた。それが実現しないとなると、つぎにはロシア陸軍五万の将兵を日本艦隊の手で旅順からガリポリまで輸送してもらえないかと言ったりしている。中国青島のドイツ海軍基地が陥落すると、英露仏の連合国側からは、ヨーロッパ大陸の主戦場に日本陸軍の部隊を派遣投入してもらいたいとの要請が再三にわたってなされた。外務大臣加藤高明は、この申し入れをしりぞけて言った。
「帝国の軍隊は、徴兵制度および国民皆兵の主義にのっとって組織せられ、その唯一の目的は国防にあるがゆえに、国防の本質を完備しない目的のために帝国軍隊を遠く外征させることは、その組織の根本主義と相容れないのであります」
第二次、第三次と更新された日英同盟条約では、第一次のそれの中で「極東」地域での両国の戦争協力とあったのを「東亜および印度」地域にまで拡大していた。けれども、遠くヨーロッパの戦場まで派兵することが条約上の義務であるのか、日本では議論となった。結果的には、陸軍の派遣は断ったものの、海軍艦艇を地中海へと送ったため、そうした政府の姿勢がまた問題視された。
「イギリス政府にしつこくうながされ、あわてふためくようにして派兵するというのでは、あまりに自主性がない」
「いや、そのイギリスの政治家も、国民の顔色ばかりうかがっておるのだ」
「このたびの欧州大戦では、ドイツが勝つに決まっている。ひとり黄色人種の我々は、戦後の講和会議で孤立するに違いない」
「国家のためにはおのれを犠牲とすることをいとわぬ日本国民であるから、心情はむしろドイツ人のほうに近いのに」
「いずれイギリスとは、極東の権益で衝突する」
政府の官僚や学者たちにはドイツ留学組が多かったから、そのドイツびいきもあって議論は錯綜した。
日本海軍は、最初のうちは太平洋を中心としたドイツ艦隊の監視追跡といった任務に従事していた。しかし、オーストラリア、ニュージーランドからのヨーロッパ派兵には、巡洋艦での輸送を引き受ける。最終的には、対英協力に投入された日本海軍の海軍艦艇はのべ二十二万五千総トンにのぼった。日露戦争時の日本の海軍力に匹敵する規模とされている。一九一七年五月二十四日、イギリスの下院で封鎖大臣ロバート・セシルは議員の質問に答えて説明した。
「日本海軍はドイツ海軍を太平洋より駆逐し、その海峡植民地、北太平洋において英国海軍と共同行動し、その後は同盟各国の容認をもっていまや地中海に活動し、英国その他の同盟国海軍と共同行動してドイツの潜航艇に対抗しつつあります。全同盟国間に存する協働の精神をあらわすものであり、みごとな相互援助が功を奏していることは、はかりがたい価値あるものです」
ドイツの潜水艦Uボートの魚雷攻撃を避けながら、兵員や物資を長距離輸送するためには、船団護衛役として航続距離の長い日本海軍の巡洋艦が適していた。また、同年二月には、日本海軍の駆逐艦で構成された艦隊は、地中海のイギリス海軍基地マルタ島を根拠地として、そこでの作戦に従事することになった。一九一七年(大正六年)六月十一日、その第二特務艦隊所属の駆逐艦「榊」がUボートの魚雷攻撃をうけて大破し、艦長以下乗組員五十九名が戦死している。二年あまりの地中海派遣による死者は、ほかに事故死や病死した者十九名だった。
森山慶三郎海軍少将は、同年の国際法学会に招かれ、「帝国海軍の与国に対する貢献」と題する講演を行った。壇上で少将は、日本艦隊の行動図を書き込んだ世界地図を示しながら慨嘆している。
「図中、縦横、巣のごとくある赤き航路線はすべてわが艦隊の行動で、その区域は随分広大であります。現に太平洋はもちろん、豪州からインド洋全部にかけてこの大なる範囲を日本の艦隊が主として引き受けて、激しい任務に服しているのであります。……事実、日本人みずからも、わが海軍がこんなに働いておるとは必ず気づいておらないことだろうと思います。……味方側の国の人も世界の人もさっぱりこれを承知しておりませぬ。 これひとつには、 わが海軍がきわめて広告に下手でありまして、 また、たまたま広告をしても、このわが日本人民がまた広告がきわめて下手ときているからであります」
[#改ページ]
第七話 ロシア革命
ロシア国内には、国会開設だけでは鎮まらない政治のうねりがあった。デカブリスト反乱から八十年が経過していた。反乱を鎮圧したニコライ一世のあと帝位に就いたのは、ニコライ二世の祖父アレクサンドル二世だった。デカブリストには有力な貴族の子弟がおおぜい参加していたから、アレクサンドル二世はまずこれらに恩赦を与えるところからはじめた。父帝ニコライ一世は、クリミア戦争で英仏連合軍に敗れ気落ちして死んだ。かつてロシアは、ナポレオン軍を破り、世界一の軍事大国だったはずなのに、経済や社会基盤の立ち後れが明らかになった。アレクサンドル二世は、デカブリストも求めていた農奴解放にとりかかる。鉄道建設や工業発展にも力を入れた。だが皇帝を取り巻く貴族や官僚は、旧態依然としていた。耕作地の買い戻し金は農民に払わせたうえで、その土地は農村共同体に帰属させるという中途半端な改革となった。農民は借金を重ね、農奴解放は、かえって農村地帯に騒乱をもたらした。農村では「父なるツァーリ」信仰が生きていたから、慈悲深いツァーリの解放令を役人たちがごまかしたと誤解されたのだった。また都市の工業の発展は、農業人口を吸い上げる一方で貨幣経済を進め、農村を苦しめた。都会ではアナキズム(無政府主義)の思想が流布しはじめ、要人テロが激化する。思い通りの成果が見られぬ人民の啓蒙よりも、まず革命をというのだった。
ついに白昼、政治警察の帝室第三部長官が暗殺された。アレクサンドル二世に対する暗殺未遂事件も繰り返された。「解放帝」と呼ばれたアレクサンドル二世は、七回も革命家に命を狙われたが、ある日のこと突然にシュパレルナヤ通りの拘置所に足を運んだ。不意の行幸に驚く役人に向かって、アレクサンドル二世は言った。
「余を、ここの空いた独房に入れてみてくれぬか。投獄された囚人の心境を知りたいのだ」
冬宮殿の爆破や御料列車の爆破まで行われたが、皇帝は無防備な外出をやめず、警護も連れずにサンクト・ペテルブルクの街を歩き回った。そして、ついに暗殺されたのだった。
父帝の爆殺のあと即位したアレクサンドル三世は、当然のことながら反動政治にもどった。弾圧立法により、警察国家体制は強化された。革命を国内に入れないようにと、辺境の少数民族のロシア化政策もおしすすめた。大蔵大臣ウィッテのおかげで経済は順調に発展していったが、その一方で定住ユダヤ人に対する「ポグロム(虐殺と略奪)」が頻発する。これらすべてが暴力的な革命の下地となった。そしてそのすべてをニコライ二世は、父から引き継いだのだった。
一九〇五年の国会開設後、かえって農民一揆は増えている。その責任をとってウィッテが罷免されると、新首相ストルイピンは農業と経済の改革に取り組んだ。翌一九〇六年には、念願の憲法が制定された。ストルイピンは、土地制度の改革で農民をツァーリの味方につけようとする一方で、革命家に対しては徹底的な弾圧政策をとる。裁判なしの処刑台の絞首縄は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた。彼の別荘にしかけられた爆弾が爆発し、大勢の死傷者がでて家族も重傷を負ったが、彼は平然と執務を続けた。マリア皇太后は息子に宛てて書き送った。
「いつになれば、こうした恐ろしい犯罪や非道な殺人行為がなくなるのでしょう。こんな怪物たちが根絶されぬかぎり、ロシアは平和で安全な国になりません」
経済は発展し、外国の資本が導入された。ロシアは本格的な資本主義の時代に入ったらしかった。革命騒ぎはなりをひそめ、そのチャンスは永遠に失われたように思われた。
貴族や大地主などの富裕階級は、ルイ太陽王時代のフランスのような栄華をきわめていた。大戦前のサンクト・ペテルブルクは、かつてない繁栄の絶頂にあった。証券取引所では四万人ものブローカーが働き、ネフスキー大通りに軒を連ねる有名店には高価な商品があふれている。一流ホテルのバーでは、黒人のバーテンダーがケンタッキーなまりの英語で注文をとった。出されるシャンペンは必ず大型ボトルで、普通サイズの瓶はここにはなかった。パリやロンドンで豪遊し、南仏の保養地で浮き名をながすのも彼らだった。だが農奴制を廃止しても、農民の窮状が和らいだわけではなかった。都市の労働者の生活も苦しく、その日のパンにも事欠くありさまだった。ニコライも鉄道建設に邁進したが、ロシアの道路は首都ですら満足に舗装されておらず、雪解けの時期には全国が泥の中に沈むようである。それがまた、人民の生活を苦しいものにしていた。ストルイピンは、一九一一年に暗殺される。革命を阻止できそうに見えた唯一人の政治家が消えた。
第一次世界大戦がはじまるまで、ニコライ一家は毎年変らぬカレンダーに従って生活していた。遅い春を待ちかねて、三月には南のクリミアに出かける。五月には、北に移動してバルト海沿岸のペーテルゴフに滞在する。六月は、フィンランドのフィヨルドを帝室所有のヨットでクルーズする。八月は、ロシア領ポーランドの森の御猟場で過ごす。九月には、ふたたびクリミアに戻り、十一月からはツァールスコエ・セロで冬ごもりとなる。暗殺をおそれ、そっくり同じ豪華な仕様の御料列車が製造されており、それらが南へ北へ西へとニコライ一家を運んだ。黒海に南向きに突き出たクリミア半島は、温暖な気候に山と海、上質のワインの産地である。ヤルタからセヴァストポーリにいたる海岸沿いには、ニコライをはじめとする皇族や貴族たちの別荘が並んでいた。父帝アレクサンドル三世が息を引き取ったここリヴァディアの小宮殿は古くなり、ニコライは同じ敷地にイタリアふうの白い二階だての新宮殿を新築した。海を見おろすバルコニーには、暖かい潮風が咲き乱れるバラの香りを運んでくる。おてんばのアナスタシアは、海水浴でおぼれそうになって父親に助けられたことがある。皇帝のヨットでは、毎夕、日没時に水兵が礼砲を鳴らした。ボトキン医師の娘ターニャとデッキで遊んでいたアナスタシアは、きまって船室に逃げ込み、両耳をふさぎ、あかんべえの表情で轟音が過ぎるのを待つ。
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一九一二年六月には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世がその愛艇「ホーエンツォレルン」号でロシアを訪問し、ニコライは「シュタンダルト(スタンダール)」号に乗ってこれを出迎えた。
「ふむ、そのデンマーク製のヨットを見るたびに、そいつがほしくてかなわんよ」
ヴィルヘルムは上機嫌だった。
「わしのお気に入りのアナスタシアは、元気にしとるかな? 子どもたちみんなに、お土産をどっさり持ってきてやったぞ。とくにアレクセイには、遊びきれぬほどのおもちゃをな」
ニコライのヨットの家庭的な雰囲気と異なり、ヴィルヘルムのそれは彼の好みで軍隊的だった。高齢の将軍たちを整列させて自ら号令をかけ、体操をさせる。老人たちは威厳をなくして、汗を流し苦しそうである。たまらずよろめいて脱落する者が出ると、ヴィルヘルムは嬉しそうに笑うのだった。自室へと逃げ出す幕僚を、その戸口まで追いかけて大声で笑ったりする。ヴィルヘルムは、自分の人並みはずれた体力と強い意志が自慢だった。そしてこれが、二人の皇帝の最後の面談となる。
その年の九月なかば、ニコライ一家はポーランドの御猟場にいた。姉たちは父と一緒に森へ乗馬に出かけたが、アレクセイは馬に乗ることを禁じられている。そこで、湖のボート遊びに出た。岸からボートに飛び移ろうとして、左の太ももをオール金具にぶつけてしまった。念のためとボトキン医師が診ると、小さなあざができていた。スパラにある昔のポーランド王のハンティング・ロッジに移動した頃から、アレクセイの容態が急変する。家庭教師ジリヤールはいまではアレクセイにもフランス語を教えていたが、アレクセイは不調をうったえて真っ青な顔でベッドに戻って行った。サンクト・ペテルブルクから応援の医師団が呼び寄せられる。腿のつけねから下に、内出血がはじまっていた。血液が神経を圧迫し、アレクセイはおそろしい悲鳴をあげ続けている。
「ママ、ママ、助けて! ああママ、どうしてぼくを助けてくれないの」
アリックスは、苦しむわが子になにもしてやれず、ただその手を握りしめて涙を流しながらいく晩も過ごした。その十一日間で、四十歳になったばかりのアリックスの髪は美しい金髪から真っ白になってしまった。
奇妙なことに、そんななかでも皇帝夫妻の社交生活は続けられた。地元のポーランド貴族たちとともに従者をしたがえ、毎日のように森へ狩猟に繰り出す。夜になると、ロッジの庭先でかがり火をたきながら、ずらりと並べられたヘラ鹿や野牛などその日の獲物を点検する。それから大宴会だった。ニコライもアリックスも、快活な様子で客たちをもてなす。にぎやかな笑い声とグラスがふれあう音のするホールのドアが開き、くらい廊下に光りが洩れると、目に涙をためた皇后が二階の少年の病室に駆け上がる。皇帝は取り巻きたちと歓談しながら、そのドアの方向をじっと見つめていた。そんな二人の姿を、家庭教師のジリヤールは同情いっぱいの気持ちで見た。アリックスは、「シベリアの聖者」宛てに電報を打った。返信はすぐに届いた。
「神は、おまえさまの涙をごらんになり、祈りを耳になさった。おちびさんは死なぬ。医者どもに、おちびさんをいじりまわさぬよう言いなされ」
電報を受け取った翌朝、アリックスの表情は晴々としていた。
「グリゴリー師がだいじょうぶとおっしゃったわ。医師たちはまだなにも変わらないと言いましたが、アレクセイはよくなります」
彼女の言葉どおり、出血が止まって熱もさがり、ベッドの少年はすやすやと眠って元気になっていった。
シベリアのトボリスクに近い寒村で生まれた修道僧グリゴリー=エフィモヴィチ・ラスプーチンが、はじめて皇帝夫妻に引き合わされたのは一九〇五年のことだった。すでにシベリア時代から、「奇跡のいやし手」という評判だった。肩幅のひろい、いかにもロシアの農民らしいがっしりとした身体つきをしている。だぶだぶのシャツに汚れたズボン、すりきれた皮のブーツという服装も、伸びるにまかせた黒髪もひげも気にする様子はない。太いまゆの奥でらんらんと輝くブルーグレイの目が、不思議な魔法力のようなものを秘めていた。近づくと、動物のような臭いがした。サンクト・ペテルブルクの上流階級の間でも、彼の「治療」を信じる者が増えていった。身内の大公や大公女たちの口添えや、高位の聖職者らの推せんもあって、皇帝夫妻に目どおりが叶ったのだった。信心深いアリックスは、ついに祈りが神に届き使者を遣わされたのだと喜んだ。ニコライは、シベリアの農民出身のこの男が、皇帝と教会と人民を結ぶきずなとなるのであればと考えた。この国の最高権力者の信任をかち得たラスプーチンは、サンクト・ペテルブルクに屋敷をかまえ権勢をほこる存在となる。彼の信奉者である貴婦人たちで、屋敷はいつもいっぱいだった。アレクセイの命綱として、皇后が寄せる信頼は絶大だった。ツァールスコエ・セロの宮殿にも自由に出入りして、家族とともに祈った。
「わしの命あるかぎり、おちびさんのことは心配いりません」
ラスプーチンは、どうやってアレクセイの出血を止めることができたのだろうか。出血が長時間続くと、やがて血液がすこしずつ固まりだす時が来る。出血多量のため血圧がさがり、少年はうとうとしはじめる。だがそのタイミングをねらって登場する、というのは現実には困難だった。手遅れになるおそれがある。むしろ母親と少年が彼に寄せた絶対の信頼を利用した催眠効果のようなものとされている。彼は、こうして何度も「奇跡」を起こした。皇帝一家には高潔な聖者としてふるまう一方で、自分の屋敷では享楽的な生活にふけった。好物のマディラ酒をがぶ呑みし、好色さをむき出しにする。アレクセイにまつわるラスプーチンの役割は、皇太子の真の病名が国家機密である以上、決して公表できなかった。やがて政治にまで口出しするようになる。彼を皇帝夫妻に引き合わせた聖職者にも、その宗教心を問題視するものが増えていった。国民の間では、あらぬ噂が流れはじめた。
「ラスプーチンは宮殿にあらわれると、自分のブーツを脱がせるよう皇帝に命令するそうだ」
「宮殿はラスプーチンのハーレムだそうじゃないか」
「ドイツ女の皇后のベッドにもぐり込んでいるのを、侍女が見たというぞ」
「皇女たちも年頃だ。どの娘の寝室にも出入り自由とは」
帝室の威信が失われたばかりか、いまやラスプーチンには首相の首をすげ替えるほどの政治力すらある。皇室に対する非難の声は、ニコライの母マリア皇太后の耳にも届いた。
「わたくしのかわいそうな嫁は、自分が自分自身と帝政に破滅をもたらそうとしていることに気づいていないのです。あのいかがわしい人物が聖人であると、深く信じ込んでいます。だから、わたくしたちも、迫り来る破局に対しては無力なのです」
と、皇太后は言って涙を流した。
アリックスの姉エラは、夫の死後、自らマルタ=マリア修道会をつくり、モスクワの修道院で暮らしていた。ラスプーチンと手を切るよう妹に勧めるため、彼女はグレイと白の修道服に身をつつんでツァールスコエ・セロにやって来た。かつて彼女は、ハプスブルクの皇后エリザベートと共に、ヨーロッパには二人の美女エリザベートがいるとうたわれたが、いまなお十分に美しかった。四人姉妹は仲がよく、頻繁に行き来してきた。イギリスに住む長姉ヴィクトリアが手術したときは、エラやイレーネが駆けつけた。アリックスの具合が良くないと、姉たちがやって来る。だが、なごやかな姉妹の再会は、ラスプーチンの名が出たとたん雰囲気が一変してしまう。
「イギリスのヴィクトリアお姉さまも、この件ではご心痛ですよ」
「お姉さまがたが、グリゴリー師について『うその噂』を信じていらっしゃるなんて」
「でも、お願いだから聞いてちょうだい」
「お話がそれだけなら、もうやめにいたしましょう」
アリックスは立ち上がる。
「これ、だれか駅まで姉君の馬車の手配をなさい!」
「残念だわ。わたくしはここに来てはいけなかったみたいね」
エラの言葉に、アリックスは冷たく言い放った。
「ええ!」
これが、姉妹の最後の別れとなった。
だが革命への流れも、大戦直前一九一三年のロマノフ王朝三百年記念祭の折りには、かき消えてしまったかのようだった。モスクワでのパレードの際にも、アレクセイはコサック兵士に抱かれていた。群衆の喜ぶ様子に、侍女に向かってアリックスは言った。
「大臣たちは革命革命と陛下を脅迫していますが、要はこうしてわたくしたちが姿を見せればいいだけじゃないの。あっという間に、国民はわたくしたちの味方よ」
サンクト・ペテルブルクの冬宮殿では、壮大な謁見の儀が催された。ニコライとアリックスは、ロシアがまだ西欧化するまえの皇帝と皇后の東洋的な宝冠と衣装で登場した。この年のイースターには、当代随一の名工ファベルジェ製作の三百年記念エッグがつくられている。フランス系ロシア人のペーター=カール・ファベルジェは、総勢五百名もの金銀細工師やデザイナーをかかえる宝飾品業者だった。サンクト・ペテルブルクのほか、モスクワやロンドン、パリにまで店をかまえ、ロシアだけでなく全ヨーロッパの王侯貴族、富裕階級のためにオリジナルな宝飾品を製作した。皇后のティアラ(宝冠)や宝石をちりばめた扇子ばかりか、勲章や煙草入れといった男性用品まで、ファベルジェ・ブランドでなくてはならなかった。アレクサンドル三世とニコライ二世の二代にわたって、毎年イースターには皇后と皇太后のためのイースター・エッグがファベルジェに注文された。金銀プラチナ、宝石をふんだんに使った美術工芸品であり、デザインは製作者にまかされていた。たまご型の内部には、いつもミニチュアの仕掛けがなされている。ぜんぶで五十個ほどが製作されたなかで、この年のそれは最高傑作のひとつとされている。
繊細な商品であるため、これを皇帝に届けるのは主人のファベルジェ自身の役割だった。サンクト・ペテルブルクからツァールスコエ・セロまでの列車のなかでも、駅からアレクサンドル宮殿へ向かう馬車にあっても、ファベルジェは小さなたまごを収納した大きなかばんをだいじそうに抱え込んでいた。
皇后のための黄金のたまごは、いまではクレムリンの武器庫博物館に収蔵されている「三百年祭記念エッグ」である。外側にはロマノフ家のシンボル双頭の鷲と歴代皇帝のミニ肖像が、そして内部には青い地球儀に三百年まえと現在のロシア領土が描かれている。そして、もうひとつが皇太后のための「ウィンター・エッグ」だった。これまでのファベルジェのたまごの常識をやぶる新作である。半透明の水晶塊から削り出して造形したたまごの表面には、ローズダイヤモンドとプラチナで雪の結晶が描かれている。たまごを支える台も白い水晶の塊で氷をあらわし、それが幾筋ものダイヤとプラチナの流れとなって融けはじめている。そしてたまごを開くと、なかには宝石でできた春の花が、やはりダイヤとプラチナの花かごに活けられているのである。にちりんそうの乳白色の花弁は石英、うすみどりの葉は軟玉からみごとな造形で削り出されている。かごのなかには金線のコケが敷きつめられ、花心は金と緑色ガーネット、くきも純金だった。閉じられたたまごの表面の雪模様を透かして、なかの花がおぼろにうかがえる。たまごを開けたとたん、シャンデリアに輝く白い花弁と金の花心がちりりと音をたて、ふわりと融けてほんものの生花になり、凍った露がしずくとなってこぼれるようだった。
華美なことを好まないアリックスも、これには驚きと喜びのいり混じった声をあげた。暗く厳しい冬を過ごし、遅い春の到来を待つロシア人の心情を、これほど体現したデザインはない。
「これは、私自身で皇太后陛下にお届けしよう。母うえの喜ばれるようすが、目に見えるようだ!」
これひとつだけで、現在の価格になおして二億五千万円ほどだった。ニコライは、ファベルジェが差し出した請求書にも、まゆひとつ動かさなかった。
第一次大戦の開戦直後の愛国心の高まりと国民の一体感は、大戦が長引くとともに消えていった。戦況は思わしくなく、皇帝は「ドイツ女」の皇后とその「愛人」の僧侶のいいなりだった。国民の苦しみをよそに彼らは祖国ロシアを裏切り、ドイツとの単独講和を画策していると囁かれた。ロシア一の大貴族ユスポフ公爵の宮殿でラスプーチンが暗殺されるのは、大戦中の一九一六年十二月のことである。皇帝一家の悲しみは大きかった。保守派による帝政維持のための暗殺だったが、それで革命の流れを阻止することはできなかった。ロシア軍に緒戦の勝利をもたらした総司令官ニコライ=ニコラエヴィチ大公(ニコラーシャ)が、突然その地位を解任され、皇帝ニコライが直接に全軍の指揮をとることになった。ニコラーシャは、マリア皇太后に近く、ラスプーチンに対する反感も隠そうとしなかった。亡きラスプーチンが、軍事にまで口出ししようとするたびに、
「文句があるのなら、この前線総司令部までやって来い。来たら、わしがこの手で吊るしてやる」
と、言い放つのだった。こうした態度が皇后アリックスに嫌われたと同時に、その国民大衆への人気が皇帝ニコライの嫉妬をかったと噂された。だが、皇帝自身が総司令官を兼ねることは、敗戦の責任を皇帝が直接に負うことを意味していた。
一九一七年三月(露暦二月)、首都ペトログラードでは氷点下二十度の寒気のなか、女たちは肩に雪をつもらせながらパンの配給を待ち、行列していた。兵器工場にも機械を動かす石炭がなく、労働者たちは戸外でなにかが起こるのを待つばかりだった。兵営では、革命派の演説を兵士たちが聞いている。食料品店の打ち壊しから、ついに暴動が発生した。バルト海にむかってネヴァ河の河口にひらけたこの街は、ドイツによる海上封鎖の影響を直接に受けていた。首都であるため、兵士と労働者の数が多く、すぐにペトログラードの兵士と労働者の代表会議(ソヴィエト)が組織された。ゼネストが広がり、皇帝に忠実なはずの近衛連隊やコサック騎兵のなかにもソヴィエトに参加する者が増えていった。鎮圧のため政府に発砲を命じられた部隊の中で、凄惨な同士討ちがはじまった。素手の労働者たちに発砲する様子を見て、反乱側に寝返る部隊が続々と出た。デモ隊を制止しようとした警官に、反乱軍のコサック兵が馬上からサーベルで切りつける。将軍たちは、部下を掌握できなくなっていた。
ニコライは、暴動の鎮圧を指揮するため総司令部からツァールスコエ・セロに戻るところだった。移動中の列車が止められ、軍首脳と国会議員たちはニコライに退位するよう勧告した。将軍たちはこのままでは部下をコントロールできないと考えており、ニコライは退位に応じるしかなかった。ツァールスコエ・セロでアリックスは、子どもたち全員がはしかにかかったため、看病にかかりきりであった。地元の守備隊も反乱に加わっており、皇帝に忠実なコサック兵や近衛連隊の部隊と宮殿の柵越しににらみ合っていた。
「やい、ドイツ女とその息子をこっちに引き渡せ!」
略奪した酒に酔った反乱軍の兵士たちが騒いでいるものの、攻撃はしかけてこない。アリックスは、白い赤十字の看護婦姿に黒いシューバ(毛皮外套)をはおり、ただ一人健康な娘オリガを連れてコサック兵を激励してまわった。臨時政府の手で、ニコライが連れ戻されてきた。ニコライはアリックスの胸に顔をうずめ、少年のように声をころして泣いた。
臨時政府の新首脳アレクサンドル・ケレンスキーは、廃帝ニコライをツァールスコエ・セロに拘禁するものとした。ペトログラードとモスクワのソヴィエトは、ニコライとアリックスの処刑を要求していた。
皇帝に忠実なコサック部隊は遠ざけられ、エフゲニー・コブィリンスキー大佐が近衛連隊の一部を指揮して皇帝一家を監視する。三十九歳の歴戦の将校で、前線で二度も負傷した人物だったが、革命家ではなく軍人として皇帝に忠誠心を失っていなかった。ツァールスコエ・セロの陸軍病院で、「看護婦」アリックスの看護を受けたことがある。部下の兵士のなかには革命思想に染まる者もいて大佐の立場は微妙だったが、監視役というより守り手といえた。ドイツとの戦争は継続され、連合国側は臨時政府を支援した。ヴィルヘルム二世は、抵抗するロシアに「最終兵器」を使用することを決意する。スイスに亡命していた急進革命派ボリシェヴィキの指導者ウラジミル=イリイチ・レーニンに、「封印列車」でドイツを通過して帰国することを認めたのである。レーニンが労働者や農民、兵士のソヴィエトによって活動しはじめると、穏健派のケレンスキーは窮地に立たされた。
「しばらくペトログラードから離れた土地にお移りください」
ケレンスキーは、ニコライに言った。ニコライは尋ねた。
「クリミアのリヴァディアではいけないかな?」
幽閉生活も、リヴァディアなら悪くない。だが指示されたのは、シベリアのトボリスクだった。クリミアに行くには、ボリシェヴィキの勢力が強いウラル地方を通過しなくてはならない。むしろ東行し、シベリア鉄道からも離れたトボリスクなら皇帝一家は安全なはずだった。ケレンスキーがそう説明すると、ニコライはケレンスキーの顔をじっと見つめて言った。
「私は、なにも心配してはいない。君を信頼しているよ。君がそうする必要があるというのなら、私はそれが本当に必要なのだと思う」
それから、もう一度繰り返した。
「私たちは、君のことを信頼しているんだ」
八月十二日、アレクセイの十三歳の誕生日を宮殿で祝ったあと、出発の準備がはじまった。コブィリンスキー大佐が、近衛連隊の五名の将校と三百三十名の兵士を率いて同行する。宮廷のおつきの者たちだけで三十名を超えていた。宮殿のホールいっぱいに積み上げられた荷物を、兵士たちが列車まで運んだ。偽装のため列車は日章旗をはためかせ、「日本赤十字社使節団」の標識を掲げて東へ向かうのだった。コサック騎兵たちが周囲を囲んでなごりを惜しんだ。
トボリスクは毛皮の交易で栄えたシベリアの町で、住民の生活は質素であっても貧しくなく、人心は穏やかだった。施政官の公邸だった白い二階建ての屋敷で、彼らの生活がはじまった。ボトキン医師の子どもたちグレプとタチアナの兄妹のように、わざわざこの地に移り住んで家族と合流した者もいる。忠実な水兵ナゴルニィはここでもアレクセイのそばに仕えていたが、この時期アレクセイは元気だった。フランス語教師のジリヤールは侍女のテグレワと恋仲だったこともあり、自らつき従って来た。いつも白いシャツの高いカラーにきちんとネクタイをしめ、鼻ひげをピンと立てた家庭教師が、「シューラ」と呼ばれた侍女テグレワと恋をしていた。皇女たちは二人をひやかすのが楽しみだった。みんな年頃の娘になっていたが、長女オリガがルーマニア皇太子との縁談を断って以来、革命騒動が進行してしまった。
「わたくしは、おちびちゃん(アレクセイ)の靴下を編んでいます。どれも穴あきだから、新しいのがほしいと頼まれたのです。……今では、なんでも自分でつくります。パパのズボンは破れてつぎが当たっていますし、娘たちの肌着もぼろぼろです。わたくしの髪もすっかり白くなりました。アナスタシアは、まえにマリアがそうだったように、まるまるとウェストも太く、脚が短いのです。背が伸びてほしいと思います。オリガとタチアナは、痩せています」
とアリックスは、友人に書き送っている。
ケレンスキーの臨時政府が倒され、レーニンのソヴィエト政府が樹立された。静かだったトボリスクの町にも赤軍が入って来た。コブィリンスキー大佐の警備隊でも、反抗的な兵士が増えていった。冬の間に、オリガは二十二歳になっていた。もうじき、タチアナは二十歳、マリアは十九歳、アナスタシアは十七歳になる。一九一八年春、ロシアはドイツと単独講和する。ブレスト=リトフスク条約はドイツを戦勝国とする屈辱的な内容だったが、これでレーニンは、革命に邪魔な自国の軍隊の弱体化をはかるつもりだった。ロシアに勝ったとはいえ、ドイツも苦しんでいた。ドイツ軍は、ウクライナの穀倉地帯から食糧や物資をかき集めて本国に送るほどだった。西部戦線では、遅れて参戦したアメリカ軍が英仏連合軍側の陣営に加わることで、ドイツ軍の旗色は悪くなっていた。
四月、一人の人民委員があらわれ、ニコライを裁判にかけるためモスクワに連行すると告げた。
「ソヴィエト政府として、警備隊兵士である同志たちにはこれまでの給料の遅配をおわびする。諸君は任務から解放された。半年分の金を受け取ったら故郷に戻ってよい」
忠実なコブィリンスキー大佐とも、これでお別れだった。アリックスは、ニコライだけがモスクワに連行されてレーニンの言いなりになることをおそれた。ドイツとの講話条約の仕上げに、廃帝の署名を要求するつもりに違いない。
「陛下だけを行かせることはできません。わたくしも参ります」
アリックスは言ったものの、アレクセイの病状が思わしくなかった。遊んでいて転倒し、ポーランド以来の苦しみようだった。ラスプーチンも、もういない。母親がわりを次女のタチアナに託し、三女のマリアだけを連れて彼らは赤軍にひかれて行った。
たどり着いたのは、モスクワではなくてウラル山脈沿いの工業都市エカテリンブルクだった。鉱山労働者の町で、ウラル地方の革命の中心地だった。すり切れた軍服姿のニコライが列車から降り立つと、群衆が罵声を浴びせかけた。大通りに面した大きな白い二階建てのイパチェフ館が、彼らの幽閉場所である。傾斜地に立っているため、一階の側面は半地下になっていた。屋根に届くほどの高い板塀が、急ぎ周囲にはりめぐらされて赤軍の兵士が警戒に当たった。一階は監視役たちの部屋、二階がニコライ一家のそれである。部屋にはいるとすぐ、アリックスは幸運のシンボル「スワスチカ(かぎ十字)」を壁に書きつけた。彼女のすきなおまじないである。部屋の窓は、外が見えないよう白ペンキで塗りつぶされている。
翌月、アレクセイと三姉妹がトボリスクを出発した。ボトキン医師の息子グレプがお別れにやって来たが、路上で兵士に突き飛ばされて倒れた。彼は立ち上がり、それでもなお皇女たちに向かって手をふった。その姿をめざとく見つけたアナスタシアも、彼に向かって微笑みかけ手をふった。エカテリンブルクの駅前のぬかるみを、まずナゴルニィがアレクセイを抱いて車に移した。そのあとを皇女たちが自分のかばんひとつをかかえ、足首まで沈むような泥のなかを歩くのだった。最後尾をタチアナが、大きなトランクとペットのスパニエル犬まで抱いて歩いていた。戻ったナゴルニィが手をかそうとしたが、銃剣つきの小銃を持った兵士に妨げられた。見ていた家庭教師のジリヤールらがあとに従おうとすると、人民委員がさえぎって言った。
「おまえたちは、ここで立ち去ってよろしい」
コックや医師のほかわずかの人数しか、罪人の世話には必要ないというのだった。ジリヤールらはそのまましばらくエカテリンブルクにとどまり、ニコライ一家の様子をうかがった。それから近隣の町に移り、白軍のエカテリンブルク占領と同時に戻ってくることになる。
イパチェフ館では、ニコライ一行は完全に囚人扱いだった。監視任務を引き継いだ人民委員はいつも酒に酔っていて、ニコライをののしった。
「やい、人民殺しの『血まみれニコライ』! ここではおまえはただの市民だ」
警備の兵士たちは、ひわいな冗談で皇女たちをからかった。ある日のこと、いつものようにナゴルニィはアレクセイを抱いて庭先のニコライに預けた。二階に戻ると、一人の兵士がアレクセイのベッドのそばにいた。アレクセイの持っている聖像からひきちぎった純金の鎖を手にしている。
「ぬすっとめ! そのうす汚い手を離せ」
ナゴルニィが飛びかかり、兵士の腕をねじ上げた。
「ひい、助けてくれ! 反革命だ」
大勢の兵士に銃剣を突きつけられ、ナゴルニィはすぐに館から連れ出された。門前で車に乗せられるとき、館の様子をうかがいに来たジリヤールらと出くわした。ほんの数秒間、ナゴルニィはジリヤールのほうを見つめると、そのまま車中の人となった。ジリヤールらも、知人とさとられぬよう黙って見送った。ナゴルニィは四日後に処刑される。アレクセイを抱いて運ぶのは、父親ニコライの仕事になった。
[#改ページ]
第八話 皇帝一家処刑
一九一八年七月、ロシアは内戦状態に陥っており、コルチャク提督の白軍がエカテリンブルクに迫っていた。主力は、コサック部隊とチェコ=スロヴァキア軍団である。チェコ兵は、もともとはオーストリア兵としてロシア軍と戦って捕虜となったあと、オーストリアからの独立を求めてロシア側で戦ってきた。ロシアがドイツと単独講和したため、こんどはソヴィエト政府に反旗をひるがえしたのである。赤軍は敗走を続けており、エカテリンブルク陥落は時間の問題だった。
退位した皇帝とその家族は、ソヴィエト政府が諸外国と交渉する際の有力なカードとしてとっておかれた。だが、エカテリンブルクが白軍の手におちると、ニコライだけでなく家族のだれでも敵の道具になってしまう。モスクワからのレーニンの指示で、イパチェフ館の警備体制の手直しが行われた。「非常事態委員会(チェカー)」と呼ばれた秘密警察組織のメンバーであるヤコフ・ユローフスキーが責任者となった。黒い髪に黒いあごひげをはやし、黒の皮ジャンパーを着ていた。彼は、前任者のように酒に酔ってニコライをののしることもなかった。冷血な処刑人で、ニコライとアリックスに挨拶をすませると、人民委員エルマコフを誘って郊外のコプチャキ村に馬車で出かけた。村の近くの森のなかに、「四人兄弟」と呼ばれる四本松のなごりの跡地に廃坑があった。任務をまっとうするには、遺体を廃棄して証拠を残さぬことがだいじだった。淋しい森の奥の水がたまった竪坑《たてこう》は、その目的にぴったりだった。エルマコフにトラックの手配を命じておいて、イパチェフ館に戻った。そのあと、やさしい声でアレクセイに健康状態を尋ねている。アリックスの宝石箱のなかの宝石類をチェックしてリストを作成し、現物はすべてアリックスの手に戻した。コック見習いの少年だけは、ほかへ移すことにした。
七月十六日夜、白軍の砲声が聞こえていた。ニコライ一家はその夜も十時半にベッドに入った。深夜二時すぎに、ユローフスキーは一同を起こして言った。
「敵が迫っている。砲撃にそなえ、着替えて安全な階下に集まるように」
ニコライ一家七名のほか、ボトキン医師、コック、従僕、それに侍女のデミドワの十一名が、狭い半地下の部屋に集まってきた。ニコライとアレクセイは軍服姿、女性たちは上着なしのブラウスにスカートだった。デミドワはクッションを二つ持っており、ひとつをアリックスの椅子の背中に置き、ひとつをしっかり胸に抱いていた。アレクセイはニコライに抱かれて階段を降り、父と並んで椅子に腰をおろした。皇女たちや従者らは背後の壁際に立っていた。彼らと同数の十一名の男たちが部屋に入ってきた。先頭のユローフスキーが小さな紙片を取り出して読み上げる。
「……ソヴィエト・ロシアに対する攻撃を理由に、銃殺することが決定された」
よく聞きとれず、ニコライが聞き返す。
「なんだって? いまなんと言った」
ユローフスキーは声明を途中まで繰り返し、発砲を命じた。ニコライは、家族のほうをふり向きアレクセイをかばって叫んだ。
「父よ、彼らをお赦しください。自分がなにをしているのか知らないのです」
処刑人たちはいっせいに拳銃を抜いて発射した。ニコライが床に倒れ、アリックスは椅子に座ったまま手を挙げ、十字を切ったところで絶命した。ボトキン医師、コックと従僕もあとを追った。だが、皇女たちとアレクセイはまだ生きていた。弾丸を跳ね返す「異常な生命力」だったと、ユローフスキーは回想している。処刑人たちはさらに弾丸を詰め替えて撃ち続けた。侍女のデミドワは、悲鳴をあげながらクッションを楯にして逃げまわっていた。だれかが小銃をとってきて、銃剣で侍女を刺した。ユローフスキーは、いっこうに息絶えないアレクセイに向け拳銃を乱射した。デミドワは銃の台尻でなぐり殺された。スパニエル犬のジミーも同じようにして殺された。死んだようにみえた皇女たちは、まだ死んでいなかった。遺体を運び出そうとすると、皇女のうちのだれかが悲鳴をあげ、ほかの皇女たちも動きだした。処刑人たちは恐怖にかられ、銃剣で彼女らを刺した。
エカテリンブルクから郊外のコプチャキ村へと続く道の途中に、鉱山鉄道の踏切があった。深夜三時もまわった頃、泥道でタイヤをとられエンジンを空ぶかしするトラックの騒音で、踏切番の女が目をさました。番屋のドアをたたく者がいる。外の黒い影はトラックの運転手だった。
「エンジンが過熱しちまった。水をわけてくれないか」
「こんな真夜中に、いったいなんだっていうんだよ」
踏切番の女が苦情を言うと、運転手は腹立たしそうに答えた。
「のんびり寝てるなんて、いいご身分だぜ。こちとらときたら、ひと晩じゅう働きづめなんだ」
運転手は、背後のトラックのまわりの赤軍兵士らを指さした。
車は再び動きだし、森の「四人兄弟」の先の廃坑の近くまでたどり着いた。廃坑のそばで遺体をおろし、身元を分からなくするため衣類をはがすことにした。皇女のひとりの着物を脱がせると、銃弾に裂かれたコルセットからダイヤモンドがこぼれ落ちた。トボリスクから移送されるまえに、女性たちはコルセットを二重かさねにしてその間にダイヤをびっしりと縫い込んでいたのだった。デミドワが抱いていたクッションにも、ダイヤが隠されていた。
「ひゃあ、こんなところに宝石を隠していやがった!」
兵士は争うようにして、女性たちの遺体に飛びついた。アリックスのそれは多量の真珠のネックレスの束だった。
「やめろ、ダイヤをくすねるんじゃない! 銃殺だぞ。すべてリストアップしてモスクワに差し出すんだ」
ユローフスキーは、兵士たちをしかった。ダイヤの総重量は十六キロほどもあった。はぎ取った衣類はすべて焼却された。裸の遺体が廃坑に投げ込まれた。
作業を終えると、すでに七月十七日の朝になっていた。町に戻ると、エルマコフらはその日のうちに、皇帝一家を殺してその遺体をどこに遺棄したかを、吹聴してまわる。ユローフスキーは仕方なく、もういちど遺体の処分をやりなおすことにした。白軍が迫っていた。その夜、トラックに多量の石油と硫酸を積み、再び廃坑に戻る。硫酸は、この土地のプラチナ鉱山でプラチナを溶かすために使われていた。配下の一人が廃坑の底に降りて水に漬かった遺体をロープにゆわえ、仲間が引き上げた。十八日の朝がきたあと、ほとんど一日がかりで近くに穴を掘った。だが、新しく土を掘り返した跡が容易に発見されることに気づく。そこでまた遺体をトラックに乗せ、隠し場所を求めて走りだす。もう日が暮れようとしていた。そして翌十九日早朝、トラックがついに動かなくなってしまった。その場所を目標地点と定め、まず皇太子アレクセイと女性のうちの一人の遺体を焼却した。残りの遺体は埋めることにし、大きな穴を地面に掘った。穴のなかに遺体を並べ、硫酸を注ぎかけて身元が分からないようにする。この場所は、白軍には見つけられなかった。同日、ユローフスキーはエカテリンブルクの町に戻ると、その日のうちにモスクワに向けて脱出していった。モスクワのソヴィエト政府は「皇帝の処刑」を公式発表する。白軍の部隊がエカテリンブルクを占領したのは、そのわずか六日後の七月二十五日のことである。
臨時政府の首相でレーニンに追われて亡命したケレンスキーは、のちに語っている。
「一九一八年の春になったら、皇帝一家をトボリスクから海外へ出国させることができると思っていた。運命は違っていたがね。かねてから私は、フランス革命のマラーにはならぬと公言していたんだよ。そこで、コブィリンスキー大佐以下の警備隊の出発にあたって言った。『倒れた者を打つことはしないもんだ。ならず者じゃなく、紳士のようにふるまえ。彼が皇帝であったということを忘れるな』とね」
ケレンスキーの口振りには、革命騒ぎから遠いシベリアまで移したからには、そこからもっと東に逃げてくれてもよいという考えがうかがえる。現実に大勢の「白系ロシア人」と呼ばれる人々が、シベリアからあるいは中国へあるいは日本へと脱出していった。エカテリンブルクへの移送を命じられるまえであれば、忠実なコブィリンスキー大佐とその兵士と共に、シベリアから日本への逃亡は可能だった。だが、ニコライにもアリックスにも、自分からロシアを捨てて逃げ出す気はなかった。政府の手で亡命が許されるなら、ニコライはイギリスで田舎紳士ふうの余生をおくりたいと夢見ていた。アリックスも子どもたちもツァールスコエ・セロを出発するときから、最終目的地はイギリスだと信じていた。
イギリス首相デイヴィッド・ロイド=ジョージは熱血漢のウェールズ人で、ロシアの帝政に同情心は持ち合わせていなかった。大戦中アイルランド情勢が不穏だったとき、戦争大臣のキッチナー元帥と一緒にロシアを訪問するはずだったが、アイルランド人と同じケルト系の被征服民族出身ということでその対策を担当するため国内にのこった。キッチナー元帥の乗艦はドイツ海軍の機雷に触れて沈没し、元帥は戦死する。皮肉なことに、アイルランドの騒擾が彼の命を救った。ケレンスキーらの臨時政府が樹立されたときには、いちはやくこれを支持する電報を送っている。だが彼は、ニコライ一家のイギリス亡命を認めざるをえないと考えていた。国王ジョージ五世も親しい従兄弟一家の受け入れを望んでいた。だがイギリス政府が公式に亡命を承認した一週間後の一九一七年三月末、王は秘書官を通じて外務省宛てに下問した。
「(皇帝一家を海路イギリスへと運ぶにあたっての)道中の危険はもとより、全般的な便宜をめぐる判断からも、皇帝一家がイギリスに居をかまえるというのは果たして適当であるか、陛下は疑問が残るとされておられる」
かさねて四月六日、同様の書簡が送り付けられた。
「ロシア皇帝ご夫妻の入国につき、陛下は日増しに憂慮の念を深めておられる。既知、未知を問わぬ国民各階層の人々より、この問題がクラブや職場でいかに論議の的となっているか、また下院において労働党議員が亡命受け入れに反対意見を表明していることについても、たくさんの手紙を受け取られている。貴下もご承知のごとく、陛下は当初より、ロマノフ一家(とくに皇后)がわが国に滞在することによって生じる各種の問題を懸念されておられる。皇帝と皇后のどちらとも密接に連なる王室の立場がいかに困難になるか、十分ご理解いただいているものと存ずる」
同日中に、これを追いかけるようにして第二信が送られた。
「陛下は、今朝の私の手紙でしたためた問題につき、再度お伝えするよう望んでおられる。陛下は新聞などで見聞きされたところから判断なさり、廃帝ご夫妻がイギリスに居をかまえることが国民の強い反発を招き、国王および王妃の立場を甚だ困惑させることとなる旨、首相に指摘なさるようとのことである。……よって、……ロシア政府の申し入れに対する先般の同意は撤回せざるをえないと伝えるよう、訓令されることを望む」
外務大臣バルフォア卿は、首相に国王の書簡を手渡して言った。
「皇帝の亡命先としては、むしろスペインか南フランスあたりのほうがよいのではないでしょうか?」
マリア皇太后とジョージ五世の母后アレクサンドラ皇太后の実家の当主であるデンマーク国王クリスチャン十世からも、ジョージ五世やドイツ皇帝ヴィルヘルム二世にニコライ一家の救出が求められていた。ヴィルヘルム二世は、イギリス海軍の救出艦をUボートで攻撃させることはしないと約束している。同時にヴィルヘルム二世は、ケレンスキーの臨時政府に対してもニコライ一家の安全を保障するよう求めていた。レーニンの政府と講和してからは、モスクワ駐在ドイツ大使を通じて一家をモスクワに戻すよう働きかけた。ドイツ側の手の届く所に一家を置きたいという思惑だった。だがレーニンはその裏をかいて、ニコライたちを途中のエカテリンブルクに留め置いたのだった。ニコライはニコライで、これまでのヴィルヘルム二世の仕打ちから、ぜったいにドイツの救援は受けないと公言していた。アリックスも同意見だった。一九一八年七月、ニコライの処刑が伝えられると、ヴィルヘルム二世はジョージ五世とイギリス政府がなんら救出の手だてをしなかったことを非難した。ジョージ五世のほうでは、ヴィルヘルム二世こそたやすくニコライ一家を助けられたはずだと主張している。大戦は、まだ続いていた。
中立国スペインの国王アルフォンソ十三世は、王妃エナを通じてアリックスと繋がることから、独自に皇后と子どもたちを亡命させたいと考えた。処刑されたのはニコライだけだと、国外では信じられていた。ロンドン駐在スペイン大使は報告している。
「ロシア皇后は、非常に嫌われております。ドイツの手先であり、ロシアに革命が起こったのも皇后のせいだということです。夫である皇帝を完全に支配し、誤った助言をしたためこうなったのだと。皇后へのたいへん強い反感からして、そのイギリス亡命が認められる可能性はまったくありません」
「モスクワにて、ソヴィエト政府の高官と接触いたしました。陛下の人道的ご配慮につき、これはロシアへの内政干渉ではないことを説明しました。皇后ご一家のスペイン亡命後は、いっさいの政治活動はさせないつもりであると」
ソヴィエト高官は、まゆを上げて言った。
「人民にあれだけ多大な害を加えた人物のために、そこまでしてやるのかね。それよりも、わがソヴィエト政権を承認することのほうが優先課題じゃないか。あんたがたの国は、むしろ反共のとりでとなってきている」
アリックスの実家の兄ヘッセン大公は、とても妹おもいだった。ドイツ軍部の首脳でもあり、なんとか妹一家を救出できないかと運動していた。だがアリックスと皇女たちで五人もの女性、それに病気の少年をかかえていては、具体的に成功しそうな計画の実現は困難だった。
イギリスで心配するアリックスの長姉、もとバッテンベルクのミルフォード=ヘヴン侯爵夫人ヴィクトリアの願いは叶えられなかった。エカテリンブルクに入った白軍の調査結果は、ニコライだけでなく一家全員が処刑されたというものだった。八月三十一日、ジョージ五世は侯爵夫人宛てに親書をしたためた。
「親愛なるヴィクトリア。……残念ながら、ロシア皇帝一家の処刑という悲しいニュースはあなたに深刻な衝撃と多大な悲しみとをもたらすことでしょう。……あなたの愛する妹君と罪のない皇子たちの悲劇的な結末について、后とともに深甚なる弔意を表します。しかし、神のみぞ知ることではあるものの、妹君は、夫君ニコライ二世が亡くなった後も生きながらえることを望んだとは思えません。また、美しい皇女たちにとっても、おぞましい悪人たちの手にかかるよりは救われたのではないでしょうか。このおそろしい悲劇に深い哀悼の意を示すとともに、神があなたにやすらぎを与えてくださるよう祈ります。后も、深い愛と同情の念とをお伝えしたいと申しております。……親愛なるあなたのいとこ ジョージ」
ジョージ五世の親書を携えた使者がやって来て、ミルフォード=ヘヴン侯爵に言った。
「ヴィクトリア様より先に、殿下にお目にかかれたらと思っておりました。私は、なんと申し上げればよいのか、途方に暮れております」
「国王陛下のご親書は、どんな内容なのだね?」
「ロシアのニコライ二世陛下とアリックス様、それにお子様がた全員が処刑されました」
「全員だって? 病気の皇太子も、それに皇女たちも、だれひとり助からなかったのか?」
侯爵は、表情を曇らせて聞き返した。
「はい。私が、このご親書をヴィクトリア様に差し上げるまで、陛下はニュース報道を差し止めておられるのです」
「陛下のお手紙を私に寄越しなさい。私自身が伝えることにしよう」
やさしい声で侯爵は使者に言い、国王の親書を手に妻の部屋へと向かった。それから半時間もして、ヴィクトリアが応接間に姿を現した。顔色は蒼白だったが、王族らしい抑制された物腰で、彼女は使者をねぎらった。
「困難なお役目を引き受けてくだすって、ありがとう。あなたのお気持ちに感謝しています」
それから、ヴィクトリアは夫のほうを振り向いて言った。
「わたくしは、庭仕事をしなくてはなりません。短い夏の間に、やっておくことがいっぱいあるんです。庭師まかせにはできませんもの」
来る日も来る日も、朝から晩まで、彼女はただ黙々と庭園で働き続けた。大戦勃発を聞き、あわただしくロシアを離れてから、四年しか経過していなかった。妹アリックス一家と共に過ごしたあの短い夏も、好天続きだった。美しく成長した姪たち、それを見守る両親と色白の少年皇太子。みんな逝ってしまったのだ。だが、この時にはまだ、エラの横死については知らされていなかった。
大戦がはじまるまえの一九一三年夏ドイツ、まだバッテンベルク卿だった父たちとともに、ディッキーはダルムシュタットのヘッセン大公の館に滞在していた。ニコライとその家族もやって来た。ディッキーと同年代の子どもたちのうち、四人姉妹の皇女たちはにぎやかだったが、病気の皇太子アレクセイはおとなしかった。大人たちはドイツ語で、子どもたちは英語、フランス語あるいはドイツ語で思い思いに話していた。ディッキーと三女マリア皇女はほぼ同い年で、ディッキーは彼女のことが好きになった。だがこれが、親戚一同がロシア皇帝一家に会うことができた最後の機会となってしまう。ロシアの帝室とそれを取り巻く貴族社会の豪華さには、子供心にも目を見張るものがあった。絢爛《けんらん》たる宮廷儀式、数々の広壮な宮殿や離宮、彼ら親戚の子供たちが外出する際にも、コサック兵が轡《くつわ》を並べて馬車を先導し、街路を駆け抜けるのだった。彼は終生、初恋のひとマリアの写真を手もとに飾っていた。
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「もちろん、はじめからジョージ五世は私の母と話し合っていた。国王はロンドン亡命をなんとしても認めようとしたのだが、当然、政府と首相ロイド=ジョージは戦時下ということで反対だった。そうした首相の反対を押し切ることは困難だった」
一九〇八年の王エドワード七世の訪露に対する返礼として、翌年夏ニコライ一家は愛艇「シュタンダルト」号でイギリスを訪問している。これが、最後のイギリス滞在となった。皇太子エドワードは当時十五歳で、弟のアルバートとともにオズボーン海軍兵学校の生徒だった。兄弟はニコライ一家に自分たちの学校を案内することになっていたが、アルバートは風邪をひいており、ボトキン医師がアレクセイの健康を心配したため会見できなかった。エドワードはこのとき一度だけ、彼らと直接に会っている。後年、エドワードは次のように語っている。
「父のジョージ五世と従兄弟の『ニッキー』(ニコライ二世)には、ほんとうに親しい繋がりがあった。どちらも特徴的なひげをたくわえていて、とてもよく似ていた。ボリシェヴィキが皇帝を逮捕するよりもずっとまえから、私の父はイギリス軍艦での救出プランを自分で練っていたようだ。実行できなかったがね。イギリスがニッキーを助ける手を挙げなかったということで、父は傷ついた。『政治家連中ときたら、もしも同類の一人が同じような目に会ったとしたら、もっと敏速に行動に移ったに違いないのだ。気の毒な囚《とらわ》れ人が、政治家でなく皇帝だったというだけのことだ』と、父はいつも繰り返していたよ」
ケレンスキーは、アリックスの姉エラにも、修道院を出て頑丈な城壁に囲まれたクレムリン宮殿に避難するよう勧めていたが、彼女はこれを拒否した。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世も中立国のスウェーデン大使らを通じてドイツに戻るよう説得したが、ヴィルヘルムの初恋の人はついに応じることがなかった。一九一八年七月十七日、ロシア革命でニコライとアリックスとその子どもたちが処刑された翌日、赤軍の手で、彼女は他の皇族たちとともにウラル山脈のアラパエフスク郊外の鉱山へと荷馬車で運ばれた。そして生きながら鉱山の竪坑に投げ込まれ、そのあと手榴弾や材木が頭上に落とされた。
「こんなもんで充分だろう。はやく山をおりて引き上げようぜ。反革命の白軍が押し寄せてきているんだ」
赤軍の兵士たちが去ったあと、一人の農夫が廃坑の上からおそるおそる下をのぞき込んだ。深い底は暗くて見えなかったが、賛美歌をうたう声がかすかに聞こえた。農夫の報告で、白軍の一部隊が竪坑のなかを捜索し、犠牲者たちの遺体を引き上げる。皇族の若者の一人の頭には、修道女姿のエラが愛用していた灰色の頭布が巻かれていた。彼女は暗闇のなかで最後の力をふりしぼり、頭部に重傷を負った彼を介抱して、自らも息絶えたのだった。
この一九一八年(大正七年)八月、ニコライ一家の処刑が伝わったあと、チェコ=スロヴァキア軍団の救出を口実に米英仏など連合国側は白軍支援を決定した。同年十二月、フランス軍部隊はウクライナ分離運動を支援するため、オデッサに上陸した。イギリス軍部隊は、少数民族の独立政府を支援すべく、コーカサス山脈の両側に現れた。日本はすでに居留民保護を名目に海軍陸戦隊五百名を英軍とともにウラジオストックに上陸させていたが、アメリカの要請を受け本格介入にふみきった。シベリア出兵が公表されると米の投機的買い占めがはじまり、米騒動が日本全国に発生する。
ドイツでは、一九一五年に導入されたパンの配給制度は、その後、乳製品、じゃがいも、肉類、野菜そして果物と拡大されていった。その配給量もしだいに切り下げられ、代用食品も多くなった。その一方で、巨大なヤミ市場に物資は流れてゆく。高いヤミ価格の品物に手を出すことができない労働者や低所得者層は、反発を強めた。かつてプロイセンと覇権を争い、敗れてこれに吸収された東部ドイツのザクセンや南部のバイエルンでは、反プロイセン、反ベルリン感情が高まってゆく。
「ザクセンは、ドイツのなかでまるで敵国の扱いを受けている。この物資不足なのに、バイエルンやチューリンゲンに行けば、なんでも手に入るそうだ」
だが、バイエルンは農業中心地帯ではあったが、工業の軍需景気の恩恵にあずかってはいない。
「戦争で笑っているのは、プロイセンの資本家だけだ」
戦況を立て直すため、ドイツは二つの作戦を実行に移すことにした。毒ガス戦と無制限潜水艦戦である。ヴィルヘルム皇帝科学協会物理化学・電気化学研究所の原子核物理学者オットー・ハーンは、所長のフリッツ・ハーバーに呼ばれた。
「私は、ガス戦争特殊部隊を編成せよとの命令を受けた。君たちは、ベルリンで毒ガス兵器を扱う特殊訓練を受けるんだ」
青年科学者オットー・ハーンは驚いて尋ねた。
「ハーグ条約では、毒物を戦争に使用することは禁止されていますが」
ハーバー所長は答えた。
「敵のフランスも、毒ガス弾を持っているらしい。ガス戦争の準備をしているのは、わが国だけじゃない。それに、戦争を早く終わらせるためには、毒ガスが一番だ」
ためらうオットー・ハーンに、所長はしたり顔でつけ加えた。
「毒ガスこそ、まったく苦しまずに死ねる人道的な兵器だよ」
オットー・ハーンが進めていた核分裂の研究は、その後の第二次世界大戦で、もっと恐ろしい核兵器を生み出すことになる。無制限潜水艦戦は、アメリカ客船「ルシタニア」号の悲劇を引き起こし、アメリカの参戦を招いた。
アメリカ軍の勢いが加わった西部戦線で、ドイツ軍は体勢たてなおしに失敗した。軍隊そのものが崩壊直前だった。兵士たちは、前線に移動することを拒否するようになった。駅頭で、見送りの家族と兵士を引き離そうとした将軍のひとりは、群衆から罵倒されて姿を隠した。一九一八年十月、皇帝ヴィルヘルム二世の意を受けて、ドイツ海軍軍令部はこれまで温存してきた大洋艦隊に出撃を命じた。全艦を英仏海峡に突入させ、イギリス艦隊に決戦を強いるのだという。ドイツ海軍は、これまで「Uボート」による無制限潜水艦戦に頼り切って、大洋艦隊は「港で眠り込んでいる」と陰口をたたかれてきた。アメリカとの和平交渉は、無制限潜水艦戦をやめることが前提だった。そこで洋上作戦に切り替えるというものの、皇帝自身を乗艦させて出撃すべきかが検討されたところから、これは「自殺攻撃」だという噂が流れた。そして、こうした噂が口伝てに広められる軍艦の艦内では、以前から下級水兵たちの不満が渦巻いていた。
「士官たちは、朝は焼き立てのパンにコーヒー、昼にはカツレツを、そして夜もそうだ。我々と違って、飢えが苦しみだなんてことには気づいていない。一日中、爪を磨き、髪の手入れをするという『重労働』に従事なさっている」
そこに持ってきて、今度は自殺出撃である。
こうして、一九一八年十月二十九日、北ドイツのキール軍港で、ドイツ海軍の水兵たちが反乱をおこす。それがまたたく間にドイツ全土に広がっていった。戦いに疲れ切った兵士や労働者たちは、口々に叫んでいた。
「ロシアで起きたことは、ドイツにだって起きる!」
ヴィルヘルム二世は、自分がロシアに投げたボールをこうして投げ返されたのだった。
わずか十日ばかりのちの十一月九日、首都ベルリンでは共和国樹立が宣言される。社会民主党の共和国臨時政府とは別に、カール・リープクネヒト率いる急進左派グループは、ソヴィエト流の社会主義ドイツ共和国樹立を宣言した。ベルリンのホーエンツォレルン王宮のバルコニーには、いつものヴィルヘルム二世の代わりに、革命運動の指導者カール・リープクネヒトの姿があった。
「労働者、兵士諸君! ホーエンツォレルン家のこの『盗賊騎士の館』は、ついにわれわれ革命的労働者階級の手に渡りました。モスクワの同志たちに挨拶を送ります」
リープクネヒトの演説に、バルコニーの下に集まった群衆が「革命ばんざい!」を叫んだ。穏健派の臨時政府は、ドイツの帝政そのものは残してよいと考えていたが、急進勢力にこうして突き上げられ、自分たちのほうでも帝政廃止を決断したのだった。ドイツ帝国を構成してきた君主たちは、それぞれに王位を放棄した。
ヴィルヘルム二世は、ベルギーの保養地スパーの「オテル・ブリタニク」に大本営をおき、そこで戦争を指揮していた。退位の要求に言った。
「ドイツ皇帝としては退位することにしよう。ただしプロイセン国王としては留位する。全ドイツ軍の指揮権はヒンデンブルク元帥に譲り、余はこれからプロイセン軍を率いて敵と戦う」
それからヴィルヘルムは、側近にあてつけた。
「貴公は『ヴュルテンベルク王国』の将軍であるからして、もう余とは関係がない」
ヴィルヘルム二世の強がりも長続きせず、その翌日、彼は自動車でオランダに亡命した。そのあとのドイツでは、旧ドイツ帝国軍の志願兵から成る「自由義勇軍(フライ・コール)」と、スパルタクス団から改称したドイツ共産党との、内戦に等しい対決が待ち受けていた。
「ホーエンツォレルン君主制もいやだが、ソヴィエト共産制もいやだ」
そうしたドイツ国民の意向を受けて、傭兵じみた自由義勇軍の兵士たちは革命派を虐殺した。国軍のコントロールを離れた私兵のような軍事勢力の存在は、のちのドイツに「ナチス」を生むきっかけをつくった。一九一九年一月、ドイツの共産主義者カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが殺害されたことへの報復として、ペトログラードのペトロ=パブロフスク要塞に幽閉されていたロマノフ大公たちは、残らず処刑されてしまった。
ドイツの同盟国オーストリアの状況も、ドイツと似ていた。先の皇帝フランツ=ヨーゼフは、一九一六年十一月二十一日に、八十六歳で亡くなっていた。老皇帝の死をうけて帝位に就いたフランツ=フェルディナントの甥カール一世は、ブルボン=パルマ家出身の妻であるツィタ皇后の兄を通じて、フランスとの単独講和を画策した。二十九歳の若い新帝がこっそり講和しようとしているとの噂は、オーストリア内部の反発を招き、多民族から成る帝国の解体を早めた。ドイツの共和制樹立を聞いて、一九一八年十一月十一日、ウィーンでも民衆が蜂起した。カール皇帝はシェーンブルン宮殿を去り、翌年三月、イギリス軍に護衛されスイスへと亡命する。一九二〇年から二一年にかけて、かつてオーストリア皇帝を国王に戴いていたハンガリーでは政争が続いた。王政復古の動きに、廃帝カールはせめてハンガリー王として復位したいと乗り出す。工作は失敗し、カールはマディラ島に流されて一九二二年に配流先で死去した。長い亡命生活ののち一九八九年に亡くなった皇后ツィタの遺骸は、ウィーンのハプスブルク家の霊廟に安置された。
翌一九一九年六月、第一次大戦をしめくくるヴェルサイユ条約調印の一週間前、ドイツ海軍の残りの軍艦はイギリス海軍基地スカパ・フローに集められていた。ドイツ軍の司令官はこれを全部イギリス側に差し出すことをいさぎよしとせず、部下に命じて港内で自沈させてしまう。つぎつぎに爆発炎上する艦をはなれ、白旗をかかげて救命ボートでこぎ寄せるドイツ兵に向かい、憤激したイギリス兵たちが発砲した。ドイツ兵に九名の死者が出たが、これが大戦最後の戦死者だった。オランダの亡命先で、ヴィルヘルムの従者が、忠実な皇帝の兵士たちの最期を涙ながらに報告した。海軍国イギリスに対抗して作り上げたドイツ海軍だったが、その軍艦すべてが失われたと聞き、ヴィルヘルムは声を上げて泣いた。
それから猛然と、ドイツに残してきた財産の取り戻しを運動しはじめる。急ぎ国境を越えて亡命した際には、手際よく六十五万マルクをオランダの銀行に振り込んでおいたのだった。その後、プロイセン政府に命じて百万マルク送金させていた。プロイセン政府との本格的な交渉が成立し、一九二〇年三月には、貨車六十二両分もの家具調度品や美術品等がオランダに送られた。これを追いかけるように、百四十台のトラックの列が荷物を運んできた。残りの財産を清算して、六千九百万マルクが送金された。廃帝はこれでアムステルダムのメンデルスゾーン銀行に特別口座を持ち、スイスのバーゼルに資産運用会社を設立して株式投資などをした。死去するまで、ドイツに残された広大な所領からは、莫大な収入が入り続けた。
十一月十一日には、ついに休戦が実現した。戦勝国イギリスでは、退位したドイツ皇帝を戦争犯罪人として裁判にかけるべきだという声があがる。
「ドイツ皇帝を吊るせ!」
そうさけぶ国民の声に、ジョージ五世はまた重い気分になった。オランダ政府が身柄の引渡要求には応じないと表明してくれたことで、やっと救われた。
一九一九年、マリア皇太后ら赤軍の手を逃れた人々は、クリミアのリヴァディアに避難していた。ニコライ一家のことでは後味の悪い思いをしたジョージ五世も、今度は叔母をなんとしても助けようと考えていた。イギリス政府は戦艦「マールバラ」を救援に派遣する。その到着は、赤軍のクリミア侵攻との時間の競争となった。ジョージ五世の母アレクサンドラ皇太后は、妹のマリア皇太后に脱出を勧める親書をマールバラの艦長に託していた。しかし、七十二歳のマリア皇太后は、艦長の使者に言った。
「皇帝陛下やかわいい孫たちは、きっとどこかに隠れ住んでいるに違いありません。陛下に忠実な白軍の将軍たちによる救援を待っているのです。わたくしが国を出るいわれなぞありません」
「しかし、赤軍がもうそこまで迫っております。皇太后さまがご無事でなければ、皇帝陛下もおなげきになります。どうかここは、安全な国外で形勢の好転をお待ちになられるべきかと」
「ここには、わたくしを慕ってついてきた者たちがいます。みな忠実な皇帝のしもべです。この者たちを置きざりにはできません」
使者が艦長に報告する。
「よろしい、分かった。了解したとお伝えしろ。皇族はもちろん、侍従や女官、その係累あわせて何十人くらいになるのだ?」
「はあ、それがリヴァディアの一帯に避難してきている全員ということですから、数千名にはなるかと」
艦長は目をむいた。
「なんと、それだけの人数をイギリス政府の費用で救出せよというのか」
実際には、六千人の避難民がイギリス海軍が調達したありとあらゆる船舶で、町の外まで迫った赤軍の砲声を耳にしながら、ヤルタを出港した。一九一九年四月七日、戦艦「マールバラ」に乗船したロマノフ家の一族や貴族、その召使いたちの総数は八十一名、荷物の総重量だけで二百トンにのぼった。グリゴリー師ことラスプーチンを暗殺した首謀者ユスポフ公爵夫妻の姿も、その中にあった。公爵は、ペトログラードの自分の宮殿から持ち出した二枚のレンブラントの絵まで携えていた。
戦艦「マールバラ」は、陸地に向けて砲門を開き、じっと動かない。これも、マリア皇太后が出した要求で、彼女の乗艦の出航は最後でなくてはならないというのだった。小山のような戦艦に見守られながら、難民や兵士を満載した小艦艇が水に落ちた蟻の大群のように港外へと向かう。艦上のデッキのうえで、マリア皇太后は、両手を黒テンの毛皮のマフでくるみ、両脇を女官たちに支えられて遠ざかる国土をじっと見つめていた。皇帝一家が姿を消したいまでは、彼女が最高位の皇族である。亡命する白系ロシア人たちを率いて、いつの日か必ず祖国を奪回しよう。彼女は、かたく決心していた。小船にぎっしり乗せられた白軍の兵士たちが、皇太后の姿に気づいて「ウラー!」と喚声をあげ、涙を流しながら手をふっている。皇太后その人こそ、いまこうして彼ら全員の命を救った「君主」だった。
従兄弟同士のジョージ五世とニコライ二世とは、じつによく似ていた。側近たちですら、二人を取り違えた。ジョージのほうがニコライよりもいくらか背が低くて痩せていた。顔のつくりもやや薄く、その分だけ目元がふくらんでいた。真ん中から分けた髪型も同じなら、ヴァン・ダイク風のひげも似ていた。二人並んで立つと、兄弟というよりも双子のようだった。ヨーク公時代のジョージの結婚式の際、ニコライはわざわざロンドンまで出向いてきてマールボロハウスに滞在したが、そこでも何度も間違えられた。
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「これはこれは、ご結婚おめでとうございます」
ガーデン・パーティーでは、何人もの客たちがニコライに祝辞を述べた。
「このたびのお越しは、ご結婚の儀にご参列なさるだけですか。それとも、なにかほかにも外交上のお仕事とか?」
新郎のジョージが、うやうやしく質問された。
「お式の時間には、なにとぞお遅れになりませぬようにと、ジョージ殿下よりのお願いでございます」
と、ジョージ自身が侍従から告げられた。ジョージ五世は、いまになってあのときの情景を思い出し憂鬱になった。そしてその後、クリミアを逃れたマリア皇太后一行がバッキンガム宮殿を訪れたとき、その思いを新たにさせられることになる。宮殿内の大広間にジョージ五世が姿をあらわすと、かつてのニコライの侍従が二人、感きわまったようにして駆け寄り、王の足もとにひざまずいて両足に口づけしようとした。
「おお皇帝陛下、ニコライ様がご無事でここにいらした!」
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第九話 アナスタシア・チャイコフスキーの出現
一九二〇年二月十七日午後九時、ベルリン。真冬だったが気温は摂氏三度あり、夜空も晴れていてそれほど寒さを感じさせなかった。ぶ厚いコートを着て頭を粗末なショールにくるんだその若い娘は、市内のベントラー橋の石の手すりのそばから、川面に目をおとしていた。橋に並ぶ街灯のほの明かりが、黒い水面をおおう白いもやに乱反射している。娘は汚れたブーツの足を手すりにかけると、そのまま下を流れるラントヴェーア運河に身を投げた。たまたま橋のたもとを巡邏中のベルリン市警ハルマン巡査部長は、その水音を耳にするや運河の土手をかけ降りて、ためらわずに飛び込んだ。水は氷のように冷たかったが、彼は娘の身体をつかまえ、必死に岸辺まで泳ぎついた。大勢の通行人や駆けつけた警官たちの足元で、娘に人工呼吸がほどこされ、やがて娘は意識を回復した。
「気がつくと、大勢の人に取り囲まれていました。寒さでほとんど無感覚になっていて、自分がまだ生きていることが実感できませんでした」
毛布にくるまれ警察署に連行された娘に、尋問がはじまった。
「自殺未遂は犯罪行為だ。ハンドバッグひとつ持たず、ポケットにはなにも入っていない。着衣に名前の縫い取りだって見当たらぬ。おまえは、いったいだれなんだ。氏名と住所、なぜ無一物で一人ぼっちでいたのか。身投げの理由はなんだったんだ」
ひげをたくわえた中年の警官がひとしきり尋ねても、彼女はなにも答えようとしない。
「ふむ、おおかたあの辺で、客でも引こうとしていたのだろう。稼ぎがなくて、やけっぱちで飛び込んでみせたというわけか」
第一次大戦とロシア革命のせいで、当時のベルリンには大量の難民が流れ込んできていた。警察も、治安の維持にうんざりしていた。警官のあざけりの言葉に、それまで無言だった娘がとつぜん口を開いた。外国なまりのドイツ語だった。
「助けてほしいと頼んだおぼえなぞ、ありません」
その後は、決して話そうとしなかった。警察はこれを精神病者とみなし、市内のエリザベート病院に送致することにした。六週間の入院後、同病院よりベルリン郊外ダルドルフ精神病院に転院させられた。患者の氏名欄には、「フロイライン・ウンベカント(身元不明嬢)」と記されていた。その後、これが彼女の呼び名になった。ダルドルフに記録が残っている。
「身長百五十七・五センチ、体重四十九・九四キロ、全身いたるところに傷とあざ、非処女。氏名不詳。不正確なドイツ語をはなし、悪夢にうなされながらロシア語と英語でうわごとをしゃべる」
彼女はその後二年半をこの病院で過ごすことになるが、しだいに彼女がニコライの次女タチアナではないかという噂がたつ。一九二二年当時のドイツには、五十万人ものロシア難民がいた。ベルリンに住む十万人の亡命ロシア人社会は、パリにつぐ規模だった。亡き皇帝の遺児かも知れないということで、亡命ロシア人たちは皇后アリックスの女官をつとめていたゾフィー・ブクスヘヴェーデン男爵夫人に病院へ出向くよう願い出た。男爵夫人は、あのエカテリンブルクまで三姉妹と同行し、駅頭で家庭教師のピエール・ジリヤールらとともに拘束を解かれた一人だった。いまはアリックスの姉プロイセン公妃イレーネのもとで庇護されていた。同年三月ダルドルフ病院を訪問した男爵夫人は、居丈高な態度で患者を連れてくるよう命じた。患者が応じようとしないと聞くと、いきなり病室へと足を踏み入れた。ほんの数分で足ばやに病室を出てきた彼女は、あきらかに興奮した表情をしていた。顔色が赤くなったり青くなったりしている。落ち着きを取り戻すと、彼女は言った。
「違います。あれは皇女ではありません」
病室に男爵夫人が足音高く入ってきたとき、患者はさっとベッドにもぐり込みシーツをかぶってしまったのだった。夫人はロシア語、英語、ついでフランス語で患者に話しかけた。
「ほら、あなたの『ママ』から頂いたイコン(聖像)と指輪ですよ」
やさしい声音で言ってみても、返事をしない。腹を立てた夫人は、シーツを乱暴にパッとめくり患者を上から下まで眺めた。
「タチアナ様にしては、背が低過ぎるわ」
似たところもあるがと言い残して、彼女は去った。
男爵夫人のこうした態度を、のちにアナスタシアは、幽閉された皇帝一家の救出計画をボリシェヴィキに密告して命が助かった裏切り者だったからだと主張している。たしかに彼女が釈放されたことについては、不自然な点があった。同僚の女官ヘンドリコーワ伯爵夫人は、イパチェフ館には送られなかったものの、刑務所ゆきを命じられたからである。皇女づきの侍女テグレワも自由の身とされたが、彼女はスイス人の家庭教師ジリヤールと婚約しており、そのためとみられる。ジリヤール自身、ボリシェヴィキのした選別の基準は理解できないと回想記で語っている。
その後患者は、自分はタチアナではなく末娘のアナスタシアだと名乗った。命を救ってくれた兵士チャイコフスキーと結婚したから、チャイコフスキー夫人なのだという。伯母のプロイセン公妃イレーネに会いたくて、ベルリンまでたどり着いたのだった。病院を出て支援者宅にいた彼女を、ある日のこと突然に、プロイセン公妃イレーネが偽名で訪ねてきた。公妃の夫は、オランダに亡命したドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の弟ハインリヒ殿下である。公妃はブクスヘヴェーデン男爵夫人からタチアナではないという報告を耳にしていたのだが、かつて公妃の可愛がったアナスタシアかどうか、自分の目で確かめに来たのだった。主人にはその家の客として紹介され食卓を囲んだ。公妃が正面の席からまじまじと見つめると、彼女は急に無言で席を立って自分の部屋に駆け込んだ。目の前の貴婦人がイレーネ伯母であることに気づいたらしかった。公妃はあとを追い、自分と話をしてくれるように頼んだ。
「ひとことでもいいから、わたくしがだれか答えてちょうだい」
だが、彼女はベッドに腰をおろして両手で頭を抱え込み、窓のほうを向いて応じなかった。
「分からないかしら? あなたのイレーネ伯母ですよ」
無言でうずくまる相手に匙を投げ、公妃は立ち去っていった。
「すぐに姪ではないと気づきましたよ。もう九年も会ってないけれど、たとえば目や耳の位置といった顔のつくりの根本がそんなに変わるはずがありません。わたくしの覚えているアナスタシアは、お茶目でおてんばな十二歳の少女でしたが」
一九二五年になり、アナスタシアの支援者たちは先のドイツ皇太子妃ツェツィリエとの面会をお膳立てすることに成功する。
「ひとめ見て、この若い女性がマリア皇太后、それに皇帝ニコライ両陛下に似ていることに驚きました。ですが、皇后アリックス様にはちっとも似たところがありませんでした。彼女の正体を知る手がかりは得られないとさとりました。強情なせいか、それとも当惑していたのでしょうか、彼女はまったく口をききませんでしたから。わたくしには、どちらとも決めかねます」
ドイツの皇族の有力者を引っぱり出してみたものの、大戦と革命のせいで長く会っていない親戚では判断のつかない問題だった。
同年夏、アナスタシアは結核菌に左ひじを冒され、聖マリア病院に入院していた。二人の訪問者があった。ベルリン駐在デンマーク大使ヘルルフ・サーレとかつてのニコライの老侍従アレクセイ・ヴォルコフである。皇太后とともにデンマーク王家に身を寄せているニコライの妹オリガ大公女と、その叔父にあたるデンマーク王家のワルデマール殿下の使いだった。老侍従ヴォルコフは、エカテリンブルクで家庭教師のジリヤールらと別にされ、女官のヘンドリコーワ伯爵夫人の一行に加えられて刑務所に送られた。伯爵夫人のほうはそこで殺されたが、彼は間一髪生きのびて白軍に保護されたのだった。そして現在は、マリア皇太后のおそばに仕えていた。病院の事務室の窓から庭を歩くアナスタシアを目にしたとき、老侍従の第一印象は肯定的だった。
「遠くから、歩いてなさるあのおかたを見ますと、ああ! あれはまさしくアナスタシア様に間違いありません」
だが、面会して顔をのぞきこんだ彼はがっかりしたようだった。
「アナスタシアさまは、もっと丸いお顔でバラ色のほおをしていらっしゃったです」
患者は老人に気づかないらしく、サーレ大使とだけドイツ語で話した。老人はドイツ語ができなかったので、黙って横から観察するしかなかった。
「よく分からないわ」
「私の国デンマークから来られたのですよ」
大使が言うと、彼女はなにかを思い出そうとしながら答えた。
「でも、わたくしたちの宮廷の人みたい。知ってるような気がします」
彼女が記憶を引き出そうとすると、きまって頭痛がし意識があいまいになるのだった。
「パパのおそばにいて、いつもちょっぴりみすぼらしい服装だったわ」
「私にはこの若いご婦人がアナスタシア様だとも、そうでないとも断定できませぬ!」
老人は悲しそうだった。
「ちょっと通訳をしてくださらんか。この人物をご存じかと」
「それは、わたくしたち子ども付きの召使いのことね」
「おお、それでは弟君のアレクセイさまのお世話をしておった水兵の名は?」
「ナゴルニィでしょ、あの大きな身体の」
「なんと、すべて正しい!」
「もうひとつ、この名をうかがってもよいかな?」
「パパの副官です」
「それでは、この写真をごろうじませ」
老人が取り出したマリア皇太后の写真には、じっと見つめることもなく、
「おばあちゃまはお元気? でも、黒い喪服姿でないおばあちゃまを初めて見ました」
と答えた。老人は涙を流していた。
「さっきの水兵はもう一人いたわ。思い出しました。名前はデレヴェンコ、それにお医者様のボトキン博士のことも。いつも弟を救ってくださった」
老侍従は喜びに満ちた表情で、最後に自分の主人の名を出すのだった。
「オリガ=アレクサンドロヴナ様を覚えておいででしょうか?」
「ええ、わたくしの叔母です。とっても可愛がっていただきました」
彼女は嬉しそうな笑顔になったが、話が一転してシベリアに及ぶと暗く沈みこんでしまうのだった。老人は自分の立場を守り、デンマークへと戻って行く際にも、決して結論めいたことを口にしなかった。
「私はここで見たことを報告いたすだけで、自分の意見を言うわけにはまいらぬのです」
デンマーク王室は、彼女の入院費用を負担すると連絡してきた。
その頃、ロシアを脱出してスイスに帰国していたニコライの子どもたちの家庭教師ピエール・ジリヤールのもとに、デンマークから一通の手紙が届いた。彼は「シューラ」の愛称で呼ばれていたアナスタシア付きの侍女アレクサンドラ・テグレワと結婚し、ローザンヌ大学で教鞭をとっていた。
「すぐに二人でベルリンへ行って、あの気の毒なレディに面会してください。あの子がほんとうに小さかったことを思い出してちょうだい。本人かどうかは神のみぞ知るです。とてもみじめな一人暮らしをしているのがもし本物なら、たいへん恥ずべきことでしょう。重ねてお願いします、どうか急いで……。
追伸、本物だということでしたら、電報で知らせてください。わたくしもベルリンまで出向いて、あなたがたと合流します」
ニコライの妹オリガ大公女は、老侍従ヴォルコフの報告を聞いて、たまらず彼らに手紙を書いたのだった。二人はすぐに旅立ち、同年七月二十七日、サーレ大使の案内で聖マリア病院へ向かった。病室の患者は、高熱でうなされていて話ができる状態ではなかった。シューラはおそるおそるベッドに近づいて、患者の足を見せてもらえるかたずねた。
「足は、皇女さまのそれに似ています。このかたと同じように、右足が左足より変形していました」
ジリヤールは、患者をよりましな病院に転院させるよう主張した。デンマーク大使館は、モムゼン診療所の特別室に身柄を移した。ジリヤール夫妻は、いったんスイスへ戻って行った。
十月になり、患者が手術から回復したのを待って、こんどはジリヤールだけが彼女に面会した。ベッドのそばに腰かけて、彼はたずねた。
「私がだれだか分かるかな?」
「名前は思い出せないけれども、知ってる人みたいです。でも、なにかが違う。あっ、おひげはどうなさったの?」
「ああ、これかね」
ジリヤールはにっこり笑い、ひげのない顔をつるりとなでて言った。
「ボリシェヴィキの追手を逃れるために変装のつもりで剃ったんだが、不思議なことに二度とはえないんだよ。それよりも、革命が起きてからのことを聞かせてもらえるかな?」
「分からない、分からない。なにも覚えていないんです。他人に殺されそうになったことがおあり? それをきちんと思い出せますか」
彼と入れ違いに、藤色のケープを着た女性が病室にあらわれた。デンマークから駆けつけたオリガ大公女だった。大公女は、患者にむかって微笑んだ。
「おばあちゃまはお元気? 心臓の具合は?」
いきなり患者が聞いた。
「おばあちゃまはお元気ですよ」
それから二人は、大公女はロシア語、アナスタシアはドイツ語で親しそうに話しはじめた。大公女が中座したときに、サーレ大使がそっと質問した。
「あのおかたは、どなたですか?」
「パパの妹、わたくしの叔母のオリガです」
大公女は、ジリヤールの妻シューラを連れて戻ってきた。赤ん坊のときからアナスタシアの面倒をみたシューラは感情をたかぶらせており、これまで待たされていたのである。
「さあ、これはだれですか? わたくしに紹介してくださいな」
大公女は、楽しそうに尋ねた。
「シューラ!」
「おお、えらいえらい! でもこれからはロシア語で話しましょうね。シューラはロシア語しかできません」
大公女は手をたたいて喜んだ。アナスタシアは、それを無視してオーデコロンのビンをとり、シューラの手にたらして、やはりドイツ語で言った。
「わたくしのおでこにつけて!」
シューラはぽかんと口をあけ、それから笑いだしたが、目にはいっぱい涙をためていた。
「これが、アナスタシアさまのなさりようでした。とっても香水好きで」
再会を果たした三人が立ち去るとき、アナスタシアは泣きだした。
「泣かないで、手紙を書きます。いまはあなたの病気をなおすことに専念してちょうだい」
大公女は、アナスタシアの両頬にやさしくキスしながら言った。シューラは、病院を出てからもずっと泣き続けていた。
「わたくしは、アナスタシア様のことを本当に愛していたんです。どれだけ愛していたことか」
オリガ大公女は、デンマークからアナスタシアにカードを書き送った。
「あなたに、わたくしのありったけの愛情を送ります。いつも、あなたのことばかり考えています。……あなたはもう一人ぼっちではありません。わたくしたちは、あなたを見捨てたりしません。……たくさん食べて、ミルクを飲んで」
「身体の具合はいかがですか? ……はやくよくなってください。あなたからのお便りを待っています」
「わたくしの絹のショールを送ります。とても暖かです。これで肩から両腕を包んで、寒い冬を暖かく過ごしてください。このショールは、大戦まえに日本で買ったものです」
だがオリガの便りは、その年のクリスマスでぷつりと途絶えてしまう。そして翌一九二六年一月、デンマークの新聞に一つの記事が出た。
「もっとも権威ある情報源によれば、ニコライ二世の娘アナスタシア皇女と本人だと主張しているベルリンのレディとは、なんら共通の一致せる特徴はないとのことである。現在ドイツの新聞界をかけめぐっている噂は、すべてまったく根拠がない」
ジリヤールは、アナスタシアが本物かどうか疑念をはらすことができないでいたのだった。彼はあくまで教師であり、自分の生徒がシベリア時代のことをまったく思い出せないと言い張るのに満足できなかったのである。妻のシューラは感情的過ぎる。オリガ大公女を説得して、新聞記事を出させたのも彼だった。
「患者は私のことに気づかず、私も、かつての自分の生徒とこの人物がいささかも似ておらぬと思いました。妻を見て、オリガ大公女だと勘違いしたようです」
ジリヤール夫妻は、スイスに戻る途中、ヘッセン大公のもとに立ち寄っている。亡き皇后アリックスの兄の大公は、この姪と名乗る若い女性に冷たい態度で終始し、面会を拒み続けていた。
もと家庭教師ジリヤールの手記から。
「一九一七年七月二十日、私たちが閉じ込められていたエカテリンブルク近郊の街が白軍の手で解放されました。その数日後、まだ赤軍が支配していたエカテリンブルクでは壁新聞が張り出され、それには『同月十六日から十七日にかけての夜に皇帝を処刑したが、皇后と子どもたちは安全な場所に身柄を確保してある』とあることが伝えられました。七月二十五日にエカテリンブルクも陥落し、しばらくすると鉄道が復旧して連絡がつくようになりました。私たちは、さっそく皇帝一家を捜しに出かけました。……はじめてイパチェフ館に足を踏み入れ、牢獄となっていた部屋を通り抜けました。どこも散らかり放題で、そこにいた者の痕跡を消そうと努力した跡が歴然としていました。ストーブからは、たくさんの灰の塊があふれ出ています。その中から、炭化した歯ブラシやヘアピン、それにボタンなどを見つけました。がらくたに混じって、皇后陛下のイニシャルがついたヘアブラシが出てきました。もしもここに幽閉されていた人々がどこかへ連行されたとすれば、所持品はなにひとつ持って行くことを許されなかったということです。それから、両陛下の居室の壁の窓枠に、皇后がお好きだったあの『スワスチカ(かぎ十字)』が書かれてあるのを見つけました。あのかたときたら、いたる所に幸運をもたらすこのマークをつけるのです。それは鉛筆書きで、一九一七年四月三十日と日付が添えてありました。ここに閉じ込められた日です。同じしるしで日付なしのものが、皇后か皇太子が使っておられたベッドの高さの壁紙にもありました。懸命に捜してみたものの、彼らの足どりを示すような手がかりは何一つ見つけ出すことができませんでした。……アナスタシア=ニコラエヴナは負傷しただけで倒れ、殺人者たちが近づくと悲鳴を上げはじめたそうです。それから銃剣で何度も刺されて絶命したとのことです」
ジリヤールは、その後もチャイコフスキー夫人がシベリアでの正確な記憶を取り戻したかどうかを尋ね、それからは徹底した偽者説を主張するようになった。後年のマウントバッテン卿の見解も、これによっている。
「私のいとこのアナスタシアは、その場に倒れて悲鳴を上げたため、十八回も銃剣で刺されたんだよ」
おそろしい断末魔の悲鳴をあげてもがき苦しんでいる彼女が横たわっていた床には、十八か所の銃剣の刺し傷のあとが残っていた。それで生き残れるわけがないではないか、というのだった。
クリミアを脱出したマリア皇太后は、いったん姉のアレクサンドラ皇太后のもとに滞在したあと、娘のオリガ大公女とともに実家のデンマーク王室のもとに身を寄せていた。皇帝一家が虐殺されたらしいというニュースは、皇太后の耳にも届いていた。だが彼女は、そのことを認めようとはしなかった。年老いた皇太后は耄碌《もうろく》したのだという人もいたが、彼女のもとは亡命ロシア人にとって宮廷と同様であり、息子の死が確認されないかぎり彼女が亡命君主の代理だった。もしも彼女がニコライと皇太子アレクセイの死を公認すれば、すぐにその後継者問題が起こるはずであった。現にニコライの従兄弟キリル大公は、亡命皇帝なりと自称していた。皇太后は、にがり切った様子で義理の叔父ニコライ大公に手紙をしたためている。
「もしも神が最愛の息子と孫とを召されたのなら、将来の皇帝を指名するについては、帝国憲法とロシア正教会、それに人民の合意をみなくてはなりません」
それを読むニコライ大公自身、一部の亡命ロシア人たちから帝位承継者に推挙されていた。キリル大公は、自分の息子に皇太子を名乗らせてもいる。あのラスプーチンを殺害した一人でやはりニコライの従兄弟ドミトリー大公も、自分にチャンスが回ってこなくはないと主張している。
「わたくしが(ニコライ一家の死の)声明でも出そうものなら、それは醜い争いになることでしょうね」
皇太后は、イギリス王室の庇護の下で暮らしている娘クセニア大公女の夫アレクサンドル殿下に、そう洩らしている。
甥のデンマーク国王クリスチャン十世と皇太后には確執があった。二人のいさかいの種は、金銭問題である。国王の不満にも無理はなかった。彼女のもとには、世界中から亡命ロシア人たちが訪れた。従者や女官の顔ぶれも、ペテルブルク時代そのままだった。
「あなたはロシアを出られる際、たくさんの身の回りの品とともに数々の宝石類もお持ちになられた。その一部をお売りになるなり、担保として融資を受けるなりされてはと申し上げているのです。ここでの生活費は、ご自分で賄われるのが筋というものでしょう。デンマーク王室の予算も王家の財産も、決してあり余るほどではないのです。国民に負担をかけるわけにもゆきません。ロマノフ家と比べたら、それはたかが知れていますから」
「ぜったいにお断りです。代がわりしたとはいえ、ここはわたくしの実家です。人生の思い出のすべてがこもっている宝石を手放すいわれはありません」
一九二〇年のある晩のことだった。皇太后が娘のオリガ大公女と自室に座っていると、王の侍従がやって来て言った。
「陛下が私をこちらへお遣わしになりまして、このお部屋の灯をぜんぶお消ししてもよいか伺ってみよ、と仰せられました」
侍従は、気の毒そうに続けた。
「陛下のお言葉では、なにぶん最近は電気代の請求金額が増えていると申し上げよ、とのことでございます」
皇太后は怒りで青ざめ無言で従僕をにらみつけたが、彼は弱りはてた様子で立ち続けていた。侍従が引き下がらないのを見るや、皇太后はベルを鳴らし、侍女に命じて言った。
「この宮殿の灯を地下室から屋根裏部屋までつけてまわるのです」
この確執は、イギリス国王ジョージ五世が「愛するミミイ叔母」のために年額一万ポンドの年金を支給することで解決をみる。一九二八年十月十三日、彼女はニコライとその家族の無事を信じたまま祖国デンマークでひっそりと息を引き取った。八十一歳であった。彼女の遺骸は、首都コペンハーゲンの北郊にあるデンマーク王家の教会墓地に、他の王子や王女たちと共に葬られている。かつてのロシア皇太后としての扱いではなく、死せる彼女は、デンマーク王女に戻ったのだった。
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第十話 日英の皇太子
一九二〇年(大正九年)五月、ニコライ一家が殺害された大戦中の夏に連合国アメリカの要請を受けてシベリアに上陸した日本軍は、内戦が白軍の敗北でおおかたの決着をみたのに、まだがんばっていた。他の連合軍の軍隊は引き上げ、いまでは当のアメリカから居座りだと非難されている。アメリカとの当初の合意一万二千名をはるかに超えて、七万数千の兵士を中国の東北地方から極東シベリアに展開させたからである。だが、ロシアの赤色パルチザン(ゲリラ部隊)の士気は予想外に高く、日本軍は苦戦をしいられた。このとき、極東の港ニコラエフスクでは、日本軍が押し寄せてくるとの知らせに、幽閉されていた日本人居留民百数十名が虐殺されるという事件が起きた。いわゆる尼港事件である。ついに日本政府は撤兵を決定する。
翌一九二一年春、皇太子裕仁親王はヨーロッパ訪問に出発した。フランス、ベルギー、オランダ、イタリアの欧州各国に加えて、イギリスがこの巡遊の中心となる訪問国だった。イギリスと日本は、明治天皇の日英同盟以来、特別な友好関係にあった。日露戦争では、英露の君主同士が親しい親戚関係にあったにもかかわらず、イギリスは日本を助けた。また先の第一次大戦では、日本はイギリスをはじめとする連合国側に立って参戦し、日本海軍は地中海まで出かけてイギリス海軍を支援している。このたびの訪問航海に用いられた軍艦「香取」と「鹿島」もイギリスの造船所で建造されたものだった。二か月ちかい航海の後、スエズ運河を通過した二艦は、ポートサイド経由でマルタ島を目指した。マルタ島にはイギリス海軍基地があり、郊外の丘の上には第一次大戦時に地中海で戦死した日本海軍の将兵の墓がある。皇太子は、二艦の乗組員を従えて墓参した。
五月九日、ポーツマスに着いた。お召し艦のタラップを、英国陸軍のさっそうとした軍服姿で足どりも軽く駆け上がるようにして登ってきた人物、それが初対面のプリンス・オブ・ウェールズだった。エドワード皇太子は、英国王室を代表して日本の皇太子を出迎えたのである。裕仁親王は、日本陸軍の歩兵少佐の軍服姿だった。
「やあ、よくいらっしゃいました」
気どらない笑顔で、気軽に右手を差し出して挨拶するエドワードに対して、裕仁親王はややぎこちなく緊張した面もちで、その手を握って返礼した。
「初めまして、お会いできて光栄です」
二十七歳の誕生日を翌月にひかえた未来の英国国王エドワード八世と、二十歳になったばかりののちの昭和天皇との初めての出会いである。
(画像省略)
ロンドンのヴィクトリア駅では、国王ジョージ五世がホームでお召し列車の到着を出迎えた。五月十一日、バッキンガム宮殿において国王主催の歓迎大晩餐会が開かれた。エドワードは、公式の晩餐会やロンドン市内で華やかに繰り広げられた馬車パレードでも、裕仁親王の案内役をつとめた。一番驚かされたのは、エドワード主催の歓迎パーティーの様子だった。エドワードは参加者たちと気のきいたジョークを投げつけ合い、当時の流行の細身のドレスに身をつつんだ娘たちと踊る。一緒にはしゃぐ上流階級の若者たちはグラスを手にプリンス・オブ・ウェールズの背中をたたいて、
「やあ、エディ!」
と、気軽に声をかけるのだった。父王ジョージ五世は厳格な性格だったが、エドワードはオックスフォード大学時代に、こうした仲間うちのくつろぎ方を身につけていた。バッキンガム宮殿内のジョージ五世は、普段着姿のままで裕仁親王の居室を訪れて、言った。
「ねえ君。君がここにいる間、なにか欲しいものがあれば、だれもが用意できると思ってくれたまえ。必要なものがあったら、すぐに言いなさい。私と兄が横浜を訪問したとき、君のおじい様(明治天皇)がどんなに私たちをもてなしてくださったことか、私は決して忘れないつもりだよ。あのご親切に報いたいと、いつも思っていたんだ。ここには、『芸者』はいないんだがね。王妃が許してくれそうにない」
英国流のユーモアと辛辣な批評精神には驚かされるが、訪問先のオックスフォード大学イートン・カレッジでもそうだった。生真面目な日本側の随員たちは、学内新聞「イートン・カレッジ・クロニクル」紙による日本皇太子歓迎の辞での学生たちの悪ふざけを不敬と感じ、なんとかこれを差し止めてもらおうとした。
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「バンザイ、めでたい、めでたい。
大声で喜ぼう。
もうすぐヒロヒト王子が、わが校の緑の芝生をお踏みになる。
テームズ河の蚊が、自分の欲望を満たすために、殿下に失礼をしたり、随員たちを咬んだりしないように。
これから我々は、もうアラバマへ行きたくない。
さあ、『ハラキリ』生い繁る横浜へ行こう。
さあ、歌おう、はるかな東京で。
かわいい『ゲイシャ』見るため、『日本郵船』の船に乗って」
[#ここで字下げ終わり]
それまで「かごの鳥」だった皇太子は、イギリスで初めて人としての真の自由の貴重さ楽しさを知ったのだった。立憲君主制の君主のあり方についても考えるようになった。ロンドンの日本大使館で日本の新聞を広げたとき、彼は嬉しそうに言った。
「東京では、いつも新聞の切り抜きのスクラップしか読ませてもらえなかった。ここに来て初めて、新聞を全部読むことができた」
九月にヨーロッパ歴訪の旅から帰国した皇太子は、帰国後二か月が過ぎた十一月二十五日に摂政宮に就任した。病気の四十二歳の大正天皇にかわって、二十歳の皇太子が実質的には天皇としての役割をになったのである。
翌一九二二年、エドワード皇太子は、オーストラリアとニュージーランド訪問旅行を終えていったん帰国すると、再びインド、中国、そして日本へ向けて、巡洋戦艦「レナウン」に乗って旅立った。日本訪問は、昨年の日本の皇太子訪英に対する答礼だった。そのお供の中には、バッテンベルク卿の息子ディッキー・マウントバッテンの姿もあった。ディッキーがお供に選ばれたのは、仲のよい王家の次男ヨーク公アルバート殿下の推薦によるものだった。同年四月、プリンス・オブ・ウェールズのお召し艦「レナウン」は供奉艦「ダーバン」を従え、横浜港に入港した。大正十一年の日本では、イギリスの皇太子が一般市民に対してもとてもフランクに振る舞われることが、日本人に強く印象づけられた。そこで日本の皇太子である摂政宮も、これにならってもう少し形式ばらずに振る舞われるべきかが議論になった。エドワード皇太子が宿泊された箱根のホテルを訪問された際、ホテルの経営者に向かって摂政宮が直接にお礼を言われた。これもそうした検討の結果であったが、日本の皇室の長い歴史に先例のない出来事だった。エドワードは、
「日本は退屈でちっとも魅力を感じないけれど、いまに世界で大きな力を持つようになるだろうね。軍隊は素晴らしく訓練が行き届いているし、じきにヨーロッパのレベルになるに違いない」
と、周囲に語っている。
「日本の海軍はイギリスのコピー、陸軍はドイツのそれで、ジャーナリズムはアメリカかな。若い国という点では成長株で、そのうちイギリスとも張り合えそうだね。欧州各国並みというところまでは来ているんじゃないかな」
駐日イギリス大使は、
「殿下のまわりの日本人はみな英語を解せますので、どうかそれをお忘れなきよう」
と、プリンス・オブ・ウェールズの率直さにおそれをなしていた。
「日本の皇后にお目にかかったが、通訳を介してお天気と『サクラ』の花の話しかされなかった。皇太子はいいやつだ。英語があまり得意でないので、なんとかフランス語でぼくに話しかけてくる」
エディには愛敬があったから、貞明皇后ですら会見の席では彼の話を通訳に聴いて楽しそうに笑われた。
公式歓迎行事続きのエドワードを気づかって、摂政宮は彼を駒沢の東京ゴルフ倶楽部でのゴルフに招待した。宮のかねての願いどおりに、二人でくつろいで過ごすチャンスが訪れたのである。よく晴れたゴルフ日和で、二人ともグレイのスポーツ・ジャケットにハンティング・ベレー姿だった。クラブハウスから眺めるグラウンドは、新緑で輝いており手入れが行き届いていた。エディはにこやかにだれにでも声をかけ、プレイを終えるとポケットから巻煙草を取り出して自分で火をつけ、うまそうに喫った。のちの昭和天皇にとっては、将来の自分の治世ではこのようにありたいという思いの日々だったことだろう。二人でそれぞれに竹竿を手に、和船の木製の小舟を漕ぐ姿が写真に残されている。昨年の訪英で彼はすっかり英国びいきとなり、帰朝以来、オートミール、ハムやベーコンを添えた目玉焼き、パンにバター、ミルクティーの英国風朝食、寝間着はパジャマという英国風ライフスタイルを終生の習慣としたのであった。イギリスから持ち帰った蓄音機でレコードをよく聴くようになったのも、バッキンガム宮殿で見た英国王室の家族風景にならったものだった。皇居内の自室には専用の西欧風の書斎をつくり、西洋家具を置いた。これもヨーロッパ土産のワシントンやナポレオン、それにダーウィンといった偉人の胸像を書斎にかざり、英語の本を読んだ。帰国後はゴルフに熱中して、新宿御苑にゴルフコースをつくらせている。のちに結婚した皇太子妃にもゴルフを教え、他の皇族たちにもこれを勧めたのだった。
エディは日本のジャーナリズムの受けが良かっただけでなく、日本旅行中、エディとこれに同行した記者団との関係も良好だった。だがイギリスの記者たちのほうが、日本政府に対して険悪な空気になっていた。
「日本の役人は、わがプリンス・オブ・ウェールズの日本滞在すべてを儀式化してしまい、われわれ報道陣の取材を邪魔者扱いしている」
「いちいちうるさく言ってくる取材制限は、これからすべてボイコットするよう申し合わせよう」
エディの方が心配して、記者たちを集めて話し合った。
「よく分かりました。日英両国の親善のため、我々も協力するよう態度を改めましょう」
ボイコットを呼びかけていたいちばん強硬派の記者は、エディの説得を受けて答えた。
その一方で、エディ自身は日本側の周到な行事予定に対して、ぎりぎりの直前になって変更を申し入れたり、これをキャンセルしたいと言い出したりした。随員がなだめる。
「日本側は、殿下をおもてなしするために事前に時間も手間もかけているのですから、あまりたびたびの予定変更はいかがなものでしょうか」
「悪かったよ。これからは、歓迎側にも迷惑をかけないようにしよう」
だが、すぐに前言を翻すようなことばかりだった。
「殿下にしてみれば、どの国を訪問されたところで堅苦しい歓迎責めにうんざりなさっておられるのだろう。世界中どこでも足元の赤いカーペットと立ち並ぶ国旗だから、敷物が地面で旗は草木のようにしか目に映らぬに違いない。最高級のホテルからホテルへと泊まり歩き、警備陣の手で統率のとれた接遇を受けるのは単調このうえないことは確かだが、将来の君主たるもの地元側の気持ちも理解していただく必要がある」
イギリス側の責任者がそうした態度を問責すると、二十七歳の独身皇太子は、「レナウン」号の提督室の大きな椅子の背もたれによじ登るようなジェスチャーで難を逃れ、叱られた腕白小僧のような目で笑いかけるのだった。
ディッキーは横浜港に入港した際に目にした日本海軍の艦艇に強い印象を受けた。
「すばらしい装備の艦隊だ! 英国海軍以外で、こんなすごい軍艦は見たことがない。イギリスでは、日本人のやることは西欧の技術の物まねばかりで、それも下手に真似ることしかできないというのが専らの評判だったが、評価しなくちゃならないパワーがここにはあるぞ」
彼は、日本海軍の最新鋭戦艦「陸奥」に試乗したいと希望を出した。
「申し訳ないが、それはできません」
東京の英国大使館駐在海軍武官を通じてあらかじめ交渉したところ、にべもなく断られてしまった。そこで彼は、直接行動に出た。港に自分で出かけて、「陸奥」の当直士官と直接交渉したのである。幸運にも、司令官は不在だった。日本人の士官たちは親切だった。艦内くまなく案内してくれて、彼らの自慢の最新鋭の装備をすべて見せてくれた。
「ワールド・パワーという観点から日本を見たとき、この国の人的物的資源や軍艦、陸軍といったものに関して、この日本訪問で私はまさしく目を開かせられた思いがする」
旅のしめくくりに、ディッキーはそう日記に記している。
「だが日本の皇室の鴨猟は、それは昆虫採集用の網みたいなもので鴨を捕まえるのだけれど、鴨が狭い水路の溝に沿って一目散にばたばた低空飛行してくるんだ。ハンターとしては、ただ水面ぎりぎりのところでネットを下げて構えておくだけでいい。鴨が自分の方から網に飛び込んでくれる。エネルギッシュなスポーツのように見えて、その実は退屈だった。京都での鵜飼いで魚をとるシーンの方が興奮したね」
エドワード皇太子のお供で旅立つ直前の一九二一年に、ディッキーは未来の妻エドウィナ・アシュレイと婚約している。当時の彼は二十一歳、彼女はまだ十九歳であった。彼女は、皇太子の祖父エドワード七世の金庫番といわれたユダヤ人の富豪アーネスト・カッセル卿の孫娘だった。六十代になるまで皇太子だったエドワード七世は、その短い治世にあってのエジプトのアスワン・ダム建設など国家的事業面だけでなく、部屋住み時代の遊興費についてもカッセル卿らユダヤ人財閥のふところを当てにしてきたのだった。ケルンで生まれたカッセルは、イギリスに渡って銀行家として大成功し、一代で巨万の富を築き上げた。エドワード七世は、終生カッセル卿を親友として大切にした。エドウィナが生まれたときには、その代父をつとめている。イギリスの上流社会に受け入れられるため、カッセル卿は、ゴルフに競走馬、狐狩りと、英国貴族の趣味にはなんでも手を染めてきた。だがエドワード七世の死後は、自らのジャーマン・コネクションを生かして英独の政治家を仲介し、軍縮と戦争回避の努力を第一次大戦直前まで続けた。最愛の一人娘を早く亡くした老富豪にとって、エドウィナたちの成長だけが楽しみとなっていた。
ディッキーは日本から、一生懸命にエドウィナに手紙を書いては出し続けていた。彼は、エドウィナとの新婚生活のためにと、東京や京都で日本家具や小物をいっぱい買い求めた。
「象眼の施された木製パズル・ボックス、水彩日本画、手描きのディナー・テーブルの座席カードを七百枚、メニュー立てを二ダース、盆栽、どれも部屋の中のちょっとした飾りつけにぴったりだと思います。これらの一つ一つに、僕はその由来やなにかを記した札を付けました。日本の庭にある池は本当に小さくて、中で泳ぐ魚が跳ねたらそこいらは水浸しになりそうです」
彼は、エディとともに大正天皇に頂いた日本の着物がたいそう気に入った。
「それはとても高価ですが、まるで仮装ダンスパーティーのときの衣装みたいで素敵です。あるいは、自宅での夕食のときに着てもよいでしょう。あなたのためにも着物や帯や簪《かんざし》を買いました。イギリスでだれか日本人に着物の着付けを教えてもらえるよう、日本の皇太子の英国訪問の際の随員でもあった山本信二郎大佐にお願いして、ロンドンの日本大使館に手紙を書いてもらいました」
彼の技術面での好奇心と、こまめな性格が存分に発揮されている。
「着物の『オビ』を結ぶには、若干のテクニックを要しますから。それに、着物を着たときあなたがどんなヘアースタイルにすればよいか、専門家にインタビューしてメモをとっておきました。だから、ちっとも心配しないでください」
同年四月十七日のこと、「東京のハロッズ」三越でショッピングをした彼は、日記に記した。
「到着すると……支配人とアシスタントの二人が出てきて小部屋へと導いた。……そこでアームチェアに座るよう勧められ、煙草を差し出された。ほどなくして、小柄なゲイシャ・ガールが日本のお茶を手にして現れ、目の前でお茶をたててくれた。それからもう十分間ほど待たされ、支配人が販売マネージャーとデパートの各売り場の責任者を連れて戻ってきた。それぞれに引き合わされ、お互いに何度もおじぎをし合う。それから、みんなしてお天気の話をした。ここまでで、すでに店内に入ってから十五分以上は経過しているのだった……。私は彼らに、女性の着物をいくつか見せてもらえないかとたずねた。これはドジで、実に機転のきかない発言だった。彼らが私を喜ばしいささやかな朝食会でもてなそうとしているときに、私ときたらそんな浅ましい話題を持ち出したのだ。彼らは肩をすくめ、それから小柄なウエイトレスを呼んだ。運ばれた紅茶に、私は礼儀正しく口をつけた。再度私は、自分がここへ来た理由を彼らに思い出させようと試みた。すると、少女はケーキをとりにやられ、私たち全員はハシでケーキを食べた。
しばらくたってマネージャーの一人が退出し、五分ほどして二人のアシスタントに箱を持たせて戻ってきた。『いいぞ』、私は思った。『やっとキモノだ』。もちろん私のまちがいだった。それは大型のカメラで、彼らはそれを箱から取り出して組み立てるのだった。ここで私がさとったのは、一番良いやり方は着物みたいなややこしい話題にもう一度触れたりせず、なんでも彼らが持ち出すものに興味を示すということだった。……
やっと着物が届きはじめると、それは『ついに来たが、どんどん来るぞ!』というやつで、私はとまどい、本当に圧倒された。……シンプルに見えるものほど高価で、ほかのもっと手のこんだものは四分の一ほどの値段しかしない」
着物選びに一時間、それから帯がやって来て、つぎに足袋ほかの小物がと、朝の八時半に店頭に姿を現した彼が買い物を終えて店を出たときは、すでに正午になっていた。
帰国後の一九二二年七月十八日、ディッキーとエドウィナはウェストミンスターの聖マーガレット教会で結婚式をあげた。沿道では八万人もの群衆が出て、警官隊が出動する騒ぎとなった。王室の一族みんなが顔をそろえていた。レセプションへの招待者は四百人にのぼった。見物人は、紙のイギリス国旗の小旗を振って歓声を上げた。花嫁はオレンジの花の冠を頭にのせていたが、よく見るとそれは銀の針金で留められており、ひとつひとつの花弁からしずくとして水晶が下がっていた。花嫁衣装のドレスのうしろに長くのびた二本の飾り帯には、スパンコールとして真珠とダイヤと水晶が縫いつけられていた。海軍士官の大礼服で盛装した花婿の介添えは、同じ服装のエドワード皇太子がつとめた。王家に連なる者の結婚には国王の承認が必要だったが、それもこうしてエディが進んで介添え役をかって出るからと父王を説得してくれたのだった。ふたりが教会を出るとき、巡洋戦艦「レナウン」と「レパルス」の士官たちが剣を抜いて高く交叉させ、ふたりのくぐるアーチを作った。その華麗な様子は新聞各紙の大見出しを飾っただけでなく、ニュース映画になり国内外の各地で上映されたほどだった。
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新婚旅行で、パリから陸路をスペインへ、そこにはスペイン・ブルボン家の国王アルフォンソ十三世と、ディッキーの従姉妹にあたる「エナ」ことヴィクトリア=ユージェニー王妃が待ちうけていた。当時三十五歳のエナ王妃は、ヴィクトリア女王の末娘ベアトリスと亡きバッテンベルクのヘンリー殿下の娘だった。フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家の血を受けたアルフォンソ王は、ロンドン訪問の際、エナに一目惚れして求婚した。一九〇六年の結婚式では、エナに名を与えた故ナポレオン三世の后ユージェニーが花嫁の後見人をつとめた。だが、スペインの政情は混乱を極めており、挙式後ヘロニモス教会を出た国王と花嫁を乗せた四輪馬車に、アナキストがバルコニーの上から花束のかわりに爆弾を投げた。爆発で馬車の周囲の人や馬が死に、エナの純白の花嫁衣装は血しぶきに朱に染まった。当時のイギリス国王エドワード七世は、若いスペイン国王に嫁ぐ姪のことを心配していた。
「スペインは、おまえが生まれたこの国イギリスとはとても違う。なかなか馴染めないよ。苦労は承知のうえなんだね。あとで泣き言を言ってきても知らないよ」
スペイン国王夫妻は、ディッキーたちの前では仲良さそうにふるまっていたが、その実夫婦仲は早くに破綻していた。エナ王妃からすれば、夫の遊興が原因であった。美しい口髭をたくわえたアルフォンソ王は遊び好きで、パリやロンドン、あるいは多くのヨーロッパの保養地で浮き名を流していた。エナ王妃には、ヴィクトリア女王から受け継いだ血友病の因子があり、二人の間に生まれた男児四人のうち二人に発症した。スペイン王家には、生まれたばかりの子に割礼を施す古くからの習わしがあった。結婚の翌年、エナ王妃はめでたく男児を出産したが、医師が皇太子のペニスの包皮をメスで切り取ると、出血がなかなか止まらなかった。この男児二人は、成人に達した後それぞれに自動車事故で相次いでこの世を去った。ロシア皇帝ニコライ二世と皇后アリックスの夫婦仲は、子どもの病気を通じて強まったのだったが、アルフォンソ王は違っていた。
「余の世継ぎは、余ではなく王妃の家系に由来する疾患にかかったのだ」
と公言してはばからず、遊興にふけった。
スペインから再び北上して、ディッキーの父祖の地ドイツへと向かう。エドウィナに、自分が子どもの頃、夏休みを過ごしたダルムシュタットの風物を見せ、ゆかりの人々に会わせるつもりだった。伯父のヘッセン大公エルンスト=ルートヴィヒのもとには二人の息子ゲオルクとルートヴィヒがいた。だがロシアから訪れるはずの、エラ叔母やアリックス叔母とその家族の姿はもちろんない。ヴォルフスガルテンにある果樹園の中に立つ蔦に覆われた大公の夏宮は美しかったが、少年時代の思い出よりはずっと小さく見えた。父の実家ともいうべきハイリゲンベルクの別荘は、すでに人手に渡っていた。海軍を退役して年金生活に入った父は、イギリスの邸宅も売って小ぶりなアパートに移り住んだのだった。ドイツの地所を売り払って得た代金は、大戦後のドイツの途方もないインフレで、ただ同然となってしまった。
伯父とダルムシュタットの街を歩くと、かつての君主に人々が丁寧におじぎするのだった。このワイマール共和国のドイツのもとで、ヘッセン大公国と彼の統治権は消滅していた。伯父の態度や言葉の端々に、彼が帝政の復活をあきらめていない様子が見てとれた。オランダに亡命したヴィルヘルム二世でなくとも、せめて王子たちのだれかが返り咲くことができるかも知れない。ヘッセン大公は、甥のディッキーに言った。
「いずれにせよ、この共和制は長続きしない。ドイツ貴族が、称号と個人財産だけを残してもらって、ただの田舎紳士になるなんてあるかね。きみのイギリスですら、国王もあれば貴族院だってある。フランス革命のつぎには王制復古が起きたじゃないか。この状態では、世界大戦を戦った者たちは浮かばれない。インフレで政府の連中はじきに腰くだけになって、この国には再び強い統治者が復活するだろう」
彼らが新婚旅行から帰り着くのとほぼ同時に、ギリシャ王家に嫁いでいたディッキーの長姉アリスの夫アンドリュー殿下(ギリシャ名アンドレオス)一家がロンドンに逃れて来た。アンドリュー殿下の兄で、ギリシャ国王ゲオルギオス一世の長男コンスタンティノス一世は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の妹ゾフィーと結婚しており、ドイツびいきと見られていた。大戦中の一九一七年、アメリカの参戦をきっかけにギリシャでは革命が起き、あくまで中立を守ろうとするコンスタンティノス一世は、皇太子ゲオルギオス以外の後継者を選んで退位するよう求められた。彼は次男のアレクサンドロス一世に譲位して、スイスに亡命した。大戦後の一九二〇年、そのアレクサンドロス一世は、王室ぶどう園の管理人がペットにしていた猿に咬まれ、敗血症で急逝する。コンスタンティノスはいったん帰国して復位するものの、一九二二年に再び革命が起き、長男ゲオルギオス二世に譲位している。この革命で、アンドリュー殿下はアテネで投獄され、銃殺を待つ身となっていた。妻のアリスと子どもたち、その中にはのちのエリザベス女王の夫フィリップ殿下もいたのだが、家族はモン・レポに幽閉された。イギリス政府は、ジョージ五世の意を受けてギリシャの革命政府と交渉し、アンドリュー公とその家族全員の救出に成功する。ロシア皇帝一家の悲劇とは対照的な出来事だった。
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イギリスに戻ると、ディッキーの仕事が問題になった。第一次大戦後の軍縮のためイギリス海軍はその規模を縮小しており、彼と同期の士官の半数がすでに海軍を退役していた。
一九二一年に亡くなった父のあとは、兄のジョージが継いで、新しくミルフォード=ヘヴン侯爵となっていたから、別の方向が必要だった。国王ジョージ五世は、
「若者は、みんな働かなくては」
と言って、海軍に残りたいというディッキーの願いを海軍上層部に取り次いでくれたのだった。
マルタでの海軍勤務を終える時期がやって来た。ふたりは長女パトリシアと乳母を先にロンドンに帰し、スペインを旅して帰国することにした。一九二九年四月十九日、エドウィナはバルセロナのホテルで産気づいた。ディッキーは、同じホテルに投宿していたイギリス人医師に連絡した。だが、ホテルでただ一人見つけることができたこの医師は、引退した耳鼻咽喉科医だった。ディッキーは、手助けを求めて、マドリッドの王宮のエナ王妃に電話した。アルフォンソ国王が電話口に出て、ディッキーに言った。
「エドウィナに赤ちゃんだって? なんて素敵な秘密を打ち明けてくれたんだ! 私は、だれにも言わぬと約束するよ」
「いえ、そうではなくて、助けてほしいんです」
「バルセロナのことは、よく分からんが、ともかく現地の軍司令官に連絡をとろう。さあ、もう大丈夫だから、私にすべてを任せなさい」
国王は、兵士の一団を急派させ、ホテルの周囲を護衛させたのだった。結局、二人目の女の子パメラは、引退した耳鼻咽喉科の老医師と修道女の介護で生まれた。
それから二年後、ディッキーにとって残念なことに、スペインのアルフォンソ王が退位して亡命したという知らせが届いた。一九三〇年一月までの七年間というもの、国王は政治の実権を奪われていた。陸軍の元カタロニア司令長官ミゲル・プリモ=デ=リベラ将軍が、独裁政治を行ってきたのだった。そしてその独裁者が失脚すると、再び国王自身が統治の意欲を示した。国王のこうした動きに対して国民は、形骸化して久しい議会の選挙のやりなおしを要求した。高まる政治運動にあらがえなくなった国王は、しかたなく一九三一年四月十二日に総選挙を実施する。選挙結果の集計がはじまるとすぐに、農村部では王制支持派が多数を占めたものの、大都市では共和派の得票が圧倒的多数を獲得したことが明らかになった。同時に、農村部の選挙区では王制派による露骨な選挙妨害や不正工作があったことも伝わりはじめた。翌日の四月十三日夕刻、マドリッドではこれを不満とする大群衆によるデモが起きた。側近の将軍は、オリエンテ宮を取り囲んで国王の退位を要求する群衆を軍隊の手で鎮圧しようとした。アルフォンソ王は、これを退けて言った。
「余のために、スペイン人の血を一滴たりとも流してはならぬ」
だが、王権は歴史の産物であり個人のものではないから、放棄はしないという。アルフォンソ王は、威厳をそなえた声明を発表して王宮を離れ、ローマへと亡命したのだった。
「日曜日の選挙は、余が、余の国民の敬愛をもはや受けることができないことを示してくれた。余は、余に刃向かうすべての者に対して、王権を維持するための手段をきわめて容易に見つけることができよう。しかし余は、余の国民を同胞殺し合いの内戦のなかで相互に反目させることには関わりを持ちたくないと決意した。そこで余は、国民が求めるまで、余の国王としての特権の行使を意図的に停止するものである」
王制は、流血を見ることなく覆されたものの、スペインはやがて「市民戦争」へと突入する。一九三九年六月、スペイン内戦でフランコ将軍を支援したイタリア兵の凱旋パレードがローマで行われた。亡命王アルフォンソ十三世は、ムッソリーニ政権下のイタリア国王ヴィットリオ=エマヌエレ三世とともに、王宮のバルコニーからこれを見ていた。イタリア軍兵士の合間にスペイン兵が行進するのを見つけると、アルフォンソは涙を流して見まもった。彼は、それから二年後の一九四一年にローマで客死する。ローマのグランド・ホテルのスウィート・ルームで死を迎える前に、彼は退位して三男のドン=ファンに王権を譲ることにしたのだった。ブルボンおよびバッテンベルク家のドン=ファンは、ポルトガルのリスボン郊外の保養地エストリルで出番を待ち続けた。スペインにやっとブルボン王家の治世が戻るのは、一九七五年にフランコが死去して後のことである。ドン=ファンの息子ファン=カルロス王子は、こうしてスペイン国王ファン=カルロス一世となった。国王の祖父アルフォンソ十三世の亡骸は、ローマの教会から王家の廟のあるエスコリアル修道院へ移葬された。国王の父ドン=ファンは、一九九三年四月に亡くなり、「ファン三世」としてエスコリアル修道院に葬られた。
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第十一話 女工フランツィスカ・シャンツコウスキー
一九二六年六月、デンマークのサーレ大使は、アナスタシアをバイエルン州のアルプス地方オーベルスト・ドルフにあるシュティラッハ・ハウスというサナトリウムに移すことにした。オーストリア国境にほど近い風光明媚な土地である。澄みきった大気の平和な環境のなかで、病人は回復していった。心地よい夏のある日のこと、彼女のもとに二十歳そこそこの若い女性が連れられてきた。
「あの人たちはだれ? 名前は?」
「あの若いご婦人の父上が、皇帝陛下のおそば近くお仕えしていたのですよ」
「そういう人はたくさんいるわ。名前をおしえて」
その女性「ターニャ」ことタチアナ・ボトキン=メルニクは、皇帝の侍医ボトキン医師の娘だった。兄のグレプとともにシベリアまで、父や皇帝一家について行ったが、ウラジオストック経由で脱出した。ツァールスコエ・セロ時代から知り合いだった若い将校と結婚して、フランスで暮らしていた。
「エカテリンブルクで銃殺隊をまえにして、父の最期の仕草は皇帝陛下を身をもってかばおうとする手振りだったそうです。アナスタシア皇女のことを耳にして、それを確かめるのは自分の義務だと思いました」
ターニャは語っている。
「動作が、年長のお二人の皇女オリガ様とタチアナ様にそっくりでした。ツァールスコエ・セロ時代のアルバムを差し出すと、それを胸に抱きしめて自分の部屋に駆け込んでしまいました」
彼女があとを追うと、アナスタシアは涙ながらにタチアナ皇女の写真をなでながらつぶやいていた。
「この人の顔、この人の顔!」
それからターニャのほうを振り返ると、彼女に尋ねた。
「あなたは、以前からこの人を知っているの?」
「はい」
「それに、わたくしのことも?」
「ええ」
「最後にわたくしに会ったのは?」
「一九一八年のことです。わたくしが、お分かりになりませんか?」
「ええ、思い出せないの」
アナスタシアは、アルバムの写真に見入りながら繰り返していた。
「おかあさま、おかあさま」
それから、ターニャが皇后から下賜された小さな聖者の肖像画を取り出すと、
「これは、おかあさまがご自分でお作りになったもの」
と、叫び声をあげた。ターニャは納得して、アナスタシアにキスした。
「みんなの遺体は、どこにあるの? あなたは、あそこからなにも持ってこれなかったの?」
「なにも、あなたのほかには、マレンカヤ(おちびちゃん)!」
「マレンカヤ、父はわたくしをそう呼んだわ」
アナスタシアは、彼女を連れてきた人物に向かって聞いた。
「ベルリンに住むボトキンさん(ターニャの叔父)が送ってよこしたの?」
「いえ、ですがこの方は、ボトキン医師のお嬢さまですよ」
「そうじゃないかと思っていました。知ってる顔なのに、名前が浮かんでこなくて」
二人は手をとりあって再会を喜んだが、ターニャは、アナスタシアには記憶障害があるようだと思った。
「今度ご病気になったら、わたくしが父みたいにお着替えをお手伝いいたします」
「あの時は、はしかだったのよ」
ボトキン医師は、ニコライが退位した当時、一家のはしか治療に追われて看護婦役までこなしていたのだった。これが、本物のアナスタシアでないはずがなかった。
パリで亡命生活を送っていたニコライの従兄弟のアンドレイ大公は、ターニャを呼び寄せてアナスタシアのことを尋ねた。そして、ターニャの話に心を動かし、自らアナスタシアの足跡を調査することにした。アンドレイ大公よりイギリスのマウントバッテン卿の母ミルフォード=ヘヴン侯爵未亡人宛ての一九二七年四月十日付書簡が残っている。
「チャイコフスキー夫人事件に関する調査要約。一九二六年九月に、私はチャイコフスキー夫人事件に関する調査を行い、彼女がだれなのかをつきとめようとしました。……
調査の第一の目的は、ニッキーの娘たちの一人が助けられた可能性があるかどうかということでした。調べれば調べるほど、たしかに可能性はあると申し上げねばならなくなりました。当時エカテリンブルクに住んでいた二人のロシア人と二人のドイツ人それぞれの証言によれば、あの夜ニッキーの娘の一人が行方をくらましたが、それはおそらくアナスタシアに違いないというのです。これらの証言が真実だと思われるのは、ボリシェヴィキたちがその翌朝からオデッサにいたるまでのロシア中で彼女を捜していた事実があるからです。……一方、私はエカテリンブルクからオデッサまで、そしてさらにルーマニア国境までと、ニッキーの娘の一人がいくつかの街を通過してルーマニアに落ちのびて行ったという噂をたどることができました。ルーマニアでなにが起きたのかは、まだ分かっておりません。……
調査の第二の目的は、彼女がだれかをつきとめることでした。現在までのところ、この問いに確かな答は出せません。けれども、ベルリンのボンヘーファー博士とノーベル氏、ならびに他の人々の陳述を引用することができます。彼ら全員が、チャイコフスキー夫人は非常な上流階級の出身に違いないこと、彼女のマナーが完璧であること、最高の教育を受けたはずだということ、ロシア語を話し英語を解すると述べています。彼女にとりドイツ語がいちばん不完全であって、強いロシアなまりのアクセントが混じるのです。彼女が口にしたのは、ニッキーとアリックスとの生活、弟や姉のことだけですが、それらのすべてがツァールスコエ・セロやクリミア、そのほかに、彼らがそろって出かけた場所での一家の生活の、とても正確な詳細に結びついているのです。彼女は外国の親戚ぜんぶの名をあげることができますし、写真で完全に見分けられます。
私が聞いた話でいちばん興味深かったのは、バイエルンのサナトリウムの女性職員のそれでした。その職員は患者を歯医者にみせるためにいっしょにミュンヘンに出かけたそうですが、映画館で『ミシェル・ストロゴフ』を見たら、ロシア皇帝アレクサンドル二世が廷吏や衛兵にかこまれて登場するシーンがありました。患者は彼女の手を引っ張って、どれが自分の曾祖父か、そこに出てくる将校たちがどの連隊に所属しているかを説明しはじめたというのです。その職員が私に申しますには、もし私がそこに居合わせたとしたら、そのとき患者が目にしたすべてを知っているように映画の中の生活を味わっているのを見て、私もきっと彼女の正体を納得できたはずだということでした。ロイヒテンベルク伯爵ゲオルク公は、彼女がいまなお滞在中の彼のゼーオン城に到着した翌日、私に手紙をくれました。部屋に入ってきた彼女をはじめて見たとき、以前に会ったことのある人物を思い出させるひとだという印象をもったそうです。そのマナーや外見、そして彼を見るしぐさは、ミミイ叔母(マリア皇太后)かクセニア大公女によく似ているというのです。顔だちはアナスタシアには似ていないけれども、その身体つきや仕草が彼女たちみんなにとても似ているそうです。……
オリガ大公女がジリヤール夫妻とともにベルリンを訪れたのは、一九二五年十月のことでした。チャイコフスキーは手術直後でベッドに横たわっていました。そのため、オリガとジリヤール夫妻がこの娘がだれだか分からなかったというのは事実でしょう。……彼らは、それからベルリン在住の幾人かのロシア人に会いました。彼ら三人が断固としてその娘はアナスタシアではないと言うようになったのは、そのときからなのです。……態度豹変は、彼らがベルリンのロシア人たちと接触した瞬間と結びついているのです。これらの者たちは、オリガとジリヤールに彼女に関するうそをほのめかしました。それは主として、なにも知らなかったあの娘があれこれ学んだのはベルリンで、それも彼らや他の人々からだったというものです。……そこでオリガもジリヤールらもみな、あの娘がアナスタシアだということを否定したのです。
……現在までのところ、私たちは彼女がだれかを言うことはできません。けれども彼女に関して私が集めることができたすべてのことから申し上げねばならないのは、反対の証拠がないかぎり、なお彼女はアナスタシアかも知れないということです。その正体いかんは別として、モラルの問題があります。アナスタシアである可能性のあるこの娘にたいして、なぜわが一族がかくもわずかな関心しか持たないのか、人々は理解できず、私たちみなを批判しています。いわれのないとがめだてではありますが、一族のだれもこの事件に関心がないように思えます。私は一人ぼっちで取り組んでおり、最後まで頑張るつもりです。あの娘がアナスタシアである可能性がほんのわずかでも存在するかぎり、彼女がだれかを見きわめることが私の義務なのです。けれども、私はいま本当に助けていただきたいのです。救いの手を見出せないかぎり、これはスキャンダルとなるでしょうし、これっきりでおしまいということになりかねません」
一九二七年二月、亡命ロシア人女性ハリエット・フォン・ラトレフ=カイルマンが「ベルリナー・ナハトアウスガーベ」紙上に、「ロシア皇帝の末娘アナスタシアは生きていたか?」と題する連載記事を公表した。ラトレフ=カイルマンは、一九二五年のこと、それまでドイツの王族や旧ロシアの亡命貴族、宮廷関係者などによってもつきとめられなかったこの女性に会い、その身元調査に取り組んだのだった。二年近くに及んだ努力のすえ、同紙上に長文の連載記事を書き、翌年にはこれを『世界のカタストローフ(大破局)を映す鏡としての、ある女性の運命』と題する単行本として出版した。連載記事の冒頭で著者は強調している。
「ここに記した事柄はすべて、ロシア皇帝一家の非常に近くにいた人物でなくては知ることのできないものです。これまでどの国際報道でも言及されたこともなく、この病人が語ったことは彼女自身の体験だという証拠となるものです。これこそ重要で決定的なのです。彼女が語ってくれたことは、聞いたり読んだりした話ではありません。すべて彼女の体験なのです」
ドイツのマスコミは大騒ぎとなり、アナスタシア皇女のイラストや写真が葉巻や石鹸、チョコレートの箱にまで登場する。
記事の連載が進んだ頃、一人の若い女性が「ベルリナー・ナハトアウスガーベ」紙の編集部を訪れた。
「この記事の写真の女性のことなのですが」
煙草をすすめる編集者に礼を言って、その女性ドリス・ヴィンゲンダーは切り出した。
「この人を知ってます。でも、アナスタシア皇女なんかじゃありません」
「ほう、証拠は?」
「一九一五年以来、母とわたくしの家に下宿しておりました。この女性が身投げした二日まえに、家を出たきり戻りません。置いていった衣類を持ってきましたから、その人の身体に合わせてみればすぐ分かります。彼女は結婚していましたが、つれあいを戦争で亡くしたそうです。ベルリンの兵器工場で働いていたときに手榴弾の爆発事故で頭にけがをしてから、ひどくふさぎ込むようになっていました」
三月三十一日、同紙は「アナスタシア事件解明さる」と大見出しで報じた。同紙の調査結果で、彼女の正体は貧農出身のポーランド人女工フランツィスカ・シャンツコウスキーという名の女性と判明したというのだった。四月に入ると同紙は、これに追い打ちをかけるように「偽のアナスタシアの仮面をはぐ」という連載記事を公表する。同紙が雇った私立探偵マルティン・クノップは、ポーランド国境に近いポメルン地方の寒村ヒンゲンドルフにあるシャンツコウスキーの母親宅まで訪問していた。本人の写真も掲載されているが、その顔かたちは、アナスタシア皇女とも謎の女性チャイコフスキーとも似ていない。その第九回目では、家庭教師ジリヤールも偽者説を証言している。
同年五月、こうした動きに対抗して、ラトレフ=カイルマン女史は、失踪したシャンツコウスキーなる女性の弟フェリックスをアナスタシアと対面させた。彼はアナスタシアを見て言った。
「これは私の姉です。まちがいありません」
だが、女史がそれでは宣誓供述書にサインしてほしいというと、彼はためらった。
「うその証言は刑務所ゆきですからね」
「ああ、いや違うような気がします。正面からみると、とてもよく似てるんです。でも七年も会ってないので、サインするほどの確信は持てません。横からだとあまり似ていません。出産経験はなかったです。足の石膏型も見せられましたが、このひとの足はほっそりしていて、親指のところがふくらんでいた姉の足のようではありません。話してみたけれど、しゃべりかたも違います。姉は健康なひとで、あんなふうに手にきずもありませんでした。姉はポーランド語はあまり話せず、ドイツ語がじょうずでした。よい歯の持ち主でした。このひとは、私がだれだか分かっていません。まったく不安なさそうに、あきらかに他人のつもりで話しています。七年まえの私の誕生日にカードをくれたのが、姉からの最後の連絡でした。私は兄弟姉妹中でいちばん姉のお気に入りでしたから、姉がまだ生きているとしたら私に便りをしてくれないとは思えません」
「その文章でサインしてくれればいいのよ」
女史はにっこりわらいかけ、勝ち誇った気分でペンを差し出した。
サーレ大使は、アナスタシアをミュンヘンから車で一時間ほどのオーベル・バイエルンにあるゼーオン城に移すことにした。シュティラッハ・ハウスのサナトリウムでは、押し寄せるマスコミの取材から彼女を守れないと考えてのことだった。湖と湿原、リラと白樺の林、ゼーオン城は一八四〇年代以来ロイヒテンベルク公爵家が所有している。ロマノフ家とはニコライ一世に繋がる縁戚関係があり、ドイツとロシアの両方に屋敷をかまえて暮らしてきた。いかにも保守的なバイエルン貴族らしい現城主ゲオルク殿下は言った。
「彼女がアナスタシア皇女であるかどうか、私には分からない。だが、我々の緊密なサークル内の人物が助けを求めてきたときには、これを助けるのが私の義務だ」
アナスタシアはここで一年あまりを過ごすことになる。ゲオルク殿下はその後、脳腫瘍で死去するが、生前ロイヒテンベルク家の墓所に彼女が入ることを認めていた。そしてその言葉に従い、彼女はいまそこに眠っている。
古武士のようなゲオルク殿下は、こうして城の戸を閉ざしてマスコミを受け付けなかった。しかし同年五月、彼女のことをポーランド系ドイツ人の女工だと指摘した女性ヴィンゲンダーと私立探偵クノップがあらわれたときには、アナスタシアに対決するよう勧めた。アナスタシアは健康がすぐれず、寝椅子に横たわって毛布に半分顔を埋めていた。
「こんにちは」
ヴィンゲンダーが挨拶したとたんに、アナスタシアは怒りに満ちた声で、
「出て行きなさい、出てゆけ!」
と怒鳴った。ヴィンゲンダーは、凍りついたように身体を硬くしていた。横で立ち会っていた城主が、客たちを部屋の外に連れ出した。会見は一分もかからなかった。
「あの女もこちらに気づいたし、わたくしだってそうです。間違いっこありません、あれはうちの下宿人だったシャンツコウスキーです! 誓ってもいいわ」
ヴィンゲンダーは興奮をあらわにして言ったが、ゲオルク殿下には互いが知り合いのようには見えなかった。
「立ち会ったのは、私一人だった。それで思ったのだが、この対決にはなにか根本的に正しくない事情が背後にあるようだ」
ゲオルク殿下のいう「根本的に正しくない事情」、それが結局、ヘッセン大公が二万マルクもの大金を新聞社に渡してアナスタシア事件の調査を依頼していたという事実だった。他紙がこれを報道することによって、そもそもヘッセン大公自身が私立探偵クノップを雇っていたことが明るみに出た。私立探偵は偽アナスタシアの正体はシャンツコウスキーであるとでっち上げ、ヴィンゲンダーに偽りの証言をさせたうえで新聞社に情報を流したのだという印象が世間に広まった。今度は、ヘッセン大公のほうが窮地に立たされた。事情を知ったバイエルン州警察も、アナスタシア・チャイコフスキー名義の身分証明書の更新にこころよく応じた。
一九五六年はじめのこと、ハリウッドの二十世紀フォックス映画社が製作した映画『アナスタシア(邦題「追想」)』が封切られた。映画では、イングリッド・バーグマンがアナスタシア、ヘレン・ヘイズが祖母のマリア皇太后、ユル・ブリンナーがブーニン公子を演じた。映画は世界的な成功をおさめ、バーグマンはアカデミー主演女優賞を獲得した。だが、アナスタシアの支援者たちはこの映画の出来に不満であり、映画が実際の彼女の裁判に悪い影響を与えることをおそれた。劇中のマリア皇太后がやさしくアナスタシアを抱きしめたのに対して、実物の彼女はバーグマンのように美しくもなく、また祖母に受け入れられることもなかった。ブーニン公子とは、エカテリンブルクで皇帝一家と運命をともにした侍医エフゲニー・ボトキン博士の遺児グレプをモデルにしていた。グレプ=エフゲニヴィチ・ボトキンはアナスタシアの幼なじみでもあったが、妹といっしょにトボリスクに残された。ボリシェヴィキがロシア全土を掌握するようになり、彼はウラジオストック経由で日本に亡命する。当時の日本には、革命を逃れた白系ロシア人亡命者が大勢いた。しばらく日本で暮らすうち、同じ亡命ロシア人の娘と結婚した。彼らは一九二二年にアメリカに移住していた。そこで彼は、姿を現したアナスタシアの後援者となるのだが、映画の中では偽者の皇女を皇太后に高く売りつけようと企む詐欺師として描かれていた。そして実際に、彼本人のことをそのように考えている関係者は多かったのである。
一九二七年の春、グレプはニューヨークを発ってミュンヘン近郊のゼーオン城へと向かった。妹のターニャもフランスからかけつけて、病人の面倒をみていた。五月九日、アナスタシア・チャイコフスキーと会った彼は、彼女が本物の皇帝の娘、かつての幼友達のアナスタシア皇女であると確信する。
「ショックが大きすぎて、私は言葉もなく立ち尽くしていました。もちろん彼女は変わっておりました。今では大人の女性でした。……病気で疲れ切っているように見え、私はそれを心配しました。……彼女はさっさと車の方へと歩き出しましたが、その際ちょっと頭を下げ、だれへともなしに微笑んだのです。それこそ、模倣ではできない王族の仕草でした。彼らはどこへ出かけるにも、周囲の全方向から挨拶を受けます。そこで、このように皆に向けて、特定のだれへという訳ではないお辞儀と微笑みとで自動的に挨拶を返すのです」
「アナスタシア皇女は、みんなから『おちびちゃん』と呼ばれておりました。小柄だったのです。顔立ちからして、姉君たちほど美しくありませんでした。かなり長い鼻に広い口、下唇のしまりがなく、小さくてまっすぐなあご。でも彼女の目は並はずれて美しいものでした。父親ゆずりです」
「最後に彼女を見たのは、彼女たちがトボリスクを発つ日の朝でした。だれかが窓に顔を出してくれたらと思い、家の前まで行きました。私が手をふると、アナスタシアが笑顔で手をふってくれました。……身体つきは変わっていても、見間違えようはありません。九年前に最後にトボリスクで見たのは、若くて健康な少女でした。目の前にいるのはやせたきゃしゃな女性です。……気分屋で陽気な十七歳の少女は、幽閉されてからというものあらゆる苦難と恐怖を乗り越えてきたのです。それが顔つきに表れていました」
グレプは子どものときから絵を描くのが上手だった。トボリスク時代にアナスタシアに見せた絵を持ってきており、取り出して彼女に見せると、彼女は悲しみに満ちた表情でそれをじっと見つめた。グレプはアメリカに戻り、アナスタシアをアメリカに連れて行く準備をはじめる。
グレプとの再会を果たしたアナスタシアにとっては、新大陸よりもデンマークの祖母が気がかりだった。祖母からの招待がまだ来ないかと、くりかえしターニャに聞いた。ターニャは唇をかみ、アナスタシアに真実を告げる決心をした。
「おばあちゃまは、あなたのためになにもしてくださらないわ。あなたの叔母うえのオリガ大公女さまは、あなたが本物の姪だとはお信じにならなかったのです」
「なんですって?」
アナスタシアは聞き返した。それから目にいっぱい涙を浮かべて叫んだ。
「でも、わたくしはわたくしよ! あの人たちだって、わたくしからそのことを取り上げたりできないわ。おばあちゃまに会いたいの。証明してみせるわ」
「どうやって? 身元を証明する書類一枚だってないのですよ。あなたは証明できないんです」
「なぜなの? なぜ受け入れてくれないの、なにをしたから?」
「考えてごらんなさい。もしもロシアに帝政が復帰したら、あなたが産み残してきた坊やが帝位につくかもしれないのですよ。それを嫌う人は、ロマノフ一族のなかにも大勢います」
彼女はルーマニアでアレクサンドル・チャイコフスキーと結婚していたが、それは自分が知らぬうちにチャイコフスキーの子どもを身ごもっていたからだと語ってきた。経産婦であることは、医師の診察でも確認されている。赤ん坊はそのまま、ルーマニアの孤児院に預けられたのだという。
フェリックス・ダッセルは、アナスタシアのすぐ上の姉マリア皇女を名誉連隊長にいただく第九カザン騎兵連隊の大尉だった。一九一六年秋、前線で脚部に重傷を負った彼は、ツァールスコエ・セロのアレクサンドル宮殿の敷地内に設けられた野戦病院に送られた。マリアとアナスタシア両皇女の出資で設立された病院ということで、二階建ての小さな建物には十人たらずの患者しか収容できなかった。週に何回かは、二人の皇女も看護婦姿で訪問した。彼は革命までの半年間をここで過ごすうち、皇女たちとも親しくなった。内戦では白軍に加わって戦い、ベルリンへ逃れてジャーナリスト生活を送っていた。ゼーオン城にやって来たのは、この謎の女性を自分の目でたしかめたかったからである。訪問者があるといつもそうするように、アナスタシアはベッドのシーツにもぐりこみ、ハンカチで口元を隠している。彼は最初から彼女の正体を疑っており、偽りの質問をいくつも用意していた。だがアナスタシアは、すべてそれを正しく訂正した。一九一六年のクリスマスに皇女たちが入院患者の将校に配ったプレゼントは、シガレットケースと時計であって軍刀ではない。ビリヤード室は病院の一階にあり、二階ではないといった具合である。ダッセル元大尉は感心しながら、おもむろに一枚の写真を取り出した。入院患者たちがそろった記念写真だった。自分のほか一人も生き残っておらず、そこでのエピソードは外部に語られていない。写真のなかに、一人のユニークな大佐がいた。彼はラスプーチン支持を公言してはばからず、じきに前線に戻っていった。アナスタシアは彼を見つけると、くすりと笑って言った。
「あの『ポケットの人』ね!」
大佐は礼儀をわきまえぬ人物で、皇女たちと話すときも片手をポケットにつっこんだままだった。それをおもしろがったアナスタシア自身が、このニックネームをつけたのである。ダッセル元大尉は感激のあまり、あらためて彼女に軍隊式に敬礼して名乗った。
「マリア皇女騎兵連隊の大尉ダッセルであります」
グレプ・ボトキンはニューヨークに戻って奔走し、一九二八年、米国在住の亡命ロシア人たちの援助をえてアナスタシアをアメリカに迎える。そして、「グランダナー・コーポレーション(Grand Duchess Anastasia Romanov=ロマノフ皇女アナスタシアの頭文字から命名)」なるベンチャー企業を設立した。出資をつのって彼女のための裁判闘争の資金とし、ロマノフ家の遺産を取り戻せたら、その一部を出資者たちに配当する仕組みである。アメリカ的なこうしたやり方は、保守的なヨーロッパでは反感を買った。だがアナスタシアは、自分の支援者たちに語っている。デンマークのオリガ大公女が急に冷たくなった理由は、父ニコライが最後に娘たちに言い残したというイングランド銀行にある匿名預金のことを叔母に教えてしまったからではないかというのだった。いずれ、国外の王族のもとに嫁ぐ四人姉妹それぞれのために、かなりの金額が隠し口座にあるという。アナスタシアの身元が公式に確認されれば、それはすべて彼女の財産と認められるはずである。そうなれば、彼女は自分の名前と身分を取り戻してそれにふさわしい生活を送り、支援者たちは応分の報酬で報いられよう。アメリカ滞在中に、彼女は自分の名前を「ユージーン・アンダーソン夫人アンナ」と名乗ることにした。架空の夫の名「ユージーン」とは、グレプの父でニコライ一家と運命をともにした「エフゲニー」の英語読みである。「アンダーソン」は、彼女の帽子のラベルについていたブランド名だった。「アンナ」はもちろん、アナスタシアの英語風省略形である。彼女はニューヨークの上流社会でも注目を浴び、その独特の瞳の色は「アナスタシア・ブルー」としてもてはやされた。それから三年後、彼女はニューヨークのドイツ領事館発行の「アンナ・アンダーソン」名義のパスポートを手にドイツに戻る。彼女の生来の誇り高さ、わがまま、人見知りする性格に加えて、過去の苛酷な体験から体調だけでなく精神的なバランスも不安定だった。それが原因で周囲との不和を招き、送り返されることになってしまったのである。
一九三一年八月、アナスタシアはニューヨークからドイツへと送り返されてくる。ハノーヴァー近郊のイルテンにある精神病院への入院の手はずが整えられていた。アメリカでの度重なる異常な言動と周囲との衝突から、精神異常をきたしているものとされたのだった。だがイルテンの病院の医師たちには、患者にそのようなところは認められなかった。まず彼女を訪れたのは、ザクセン=アルテンブルク公爵家のフリードリヒ=エルンスト殿下だった。殿下は義理の兄弟であるイレーネ妃の息子ジーギスムント殿下の依頼で、イルテンにやってきた。ジーギスムント殿下は、大戦前にアナスタシアに直接会っている。フリードリヒ殿下自身は面識がないのだが、彼の両親はそれぞれに皇后アリックスやロマノフ家と親戚関係にある。ジーギスムント殿下が用意した質問すべてに、アナスタシアは正確に答えることができた。質問事項はジーギスムント殿下とアナスタシア皇女が最後に会った際のことに関係していたが、その書面を手渡された彼女は、それをじっと見つめてから言った。
「五日間ほど時間をください。よく思い出してみますから」
再度の面会にあらわれたフリードリヒ殿下が持ち帰った回答に、ジーギスムント殿下はいたく感心した。それだけで彼らは彼女を本物と認め、ながくこれを支援することになる。母と息子で意見が分かれることになった。質問状の内容を、ジーギスムント殿下は決して公表しなかった。
「公表すれば、すぐにあのジリヤールなどが難癖をつけてくることでしょうから」
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第十二話 アナスタシアの供述
一九三二年のこと、オランダで亡命生活を送っている元ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、二度目の妻ヘルミネをアナスタシアに面会に行かせた。ヴィルヘルムは、のちの映画女優オードリー・ヘップバーンの祖母の館を買い取って、オランダのドールンに居をかまえていた。一九二一年四月に皇后アウグステ=ヴィクトリアを亡くし、翌年十一月に当時六十三歳の元皇帝は旧家ロイス家の分家シェーネイヒ=カロラート家のヘルミネ妃三十五歳と再婚したのだった。ヘルミネは離婚後の再婚で、五人の子もちである。廃帝自身はドイツには立ち入ることができないため、ドイツとの連絡はヘルミネの役割だった。ヴィルヘルムの末息子のアウグスト=ヴィルヘルム殿下とヘルミネは、ヒトラーのナチズムの信奉者である。この前年の一九三一年一月には、「ナチの皇太子」とうたわれたヘルマン・ゲーリンクが二人の仲介でドールンを訪問し、廃帝と会見している。七十二歳になる老皇帝は、帝政復帰をねらって意気軒昂であった。アナスタシアを訪問したのと時期を同じくして、ヘルミネは夫の意をうけてヒトラーにも会っている。ヴィルヘルムはヒトラーを利用しようとし、ヒトラーはホーエンツォレルン家を利用しようとした。ヒトラーは、年老いたヒンデンブルク大統領追い落としの道具に、五十歳になろうとする元皇太子フリードリヒ=ヴィルヘルムを大統領候補に立てようと思案していた。皇太子とツェツィリエ妃は、帝政復活も夢ではないと考えて承諾した。だがそれでは自分のチャンスがなくなると、父帝は反対した。
「皇太子が『余の一将軍』ふぜいと座を争うなど、あってはならぬわ」
という口実だった。それでもヘルミネのとりなしでナチスとの関係は続き、ヘルミネが親しいゲーリンクには東プロイセンのロミンテンにあった狩猟用の城を譲り渡している。
ヘルミネはアナスタシアに会うと、すぐにこれを本物と認めたのだった。ときの権力者と親しい継母が本物説に立ったということで、元皇太子も、また以前にはアナスタシアを確認できなかった皇太子妃も彼女に味方するようになる。
一九二八年十月に、デンマークでマリア皇太后が亡くなったとき、ベッドの下の宝石がつまったトランクについては、二人の娘クセニアとオリガ両大公女に等分して与えると遺言していた。デンマーク国王クリスチャン十世は、長年叔母の面倒をみてきた自分の取り分があるものと考えていた。同じく皇太后の甥にあたるイギリス国王ジョージ五世も、王室の台所から年金を支給し続けたのだから、分配あってしかるべきだと思った。おまけにクセニア大公女まで養ってきたのである。皇太后の遺産がいたずらに散逸しないよう、ジョージ五世はこれらの宝石の鑑定評価と換金をイギリスで行うよう提案した。最高級の品々は、宝石や宝飾品マニアのジョージ五世妃メアリー王妃に買い取られた。アナスタシアは、皇太后の遺産の一部につき相続権を主張したが、まったく無視されてしまった。
「あれらの宝石は、わたくしに与えられるはずだったのです。それを、あのメアリー王妃が横取りしてしまいました」
一九三二年にイルテンの病院を出たあと、アナスタシアはさまざまな支援者のあいだを転々としながら暮らしている。その後彼女は、ハノーヴァーの新聞社主の世話で同地にアパートを借りて一人暮らしをするようになった。
ロシア皇帝の亡弟ミハイル大公の未亡人ナタリアは、一九三〇年代のはじめに、虐殺された皇帝一家の遺産の一部がドイツに存在していることを知った。その遺産とは、ドイツ帝国銀行ならびにベルリンのメンデルスゾーン銀行の預金だった。一九三三年九月八日、ベルリンの区裁判所は、大公妃に相続権証書を発行した。これによれば、両親とともに射殺された五人の子どもたちの遺産の相続人と相続分は、つぎのようになっている。
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皇帝の母マリア皇太后に四分の一、
皇帝の妹クセニア大公女に十二分の一、
皇帝の弟故ミハイル大公の息子ゲオルギー殿下に十二分の一、
皇帝の末の妹オリガ大公女に十二分の一、
皇后のいちばん上の姉ヘッセン大公女ヴィクトリアこと、バッテンベルク卿ルートヴィヒ殿下、のちのミルフォード=ヘヴン侯爵の未亡人に六分の一、
皇后の三番目の姉ヘッセン大公女イレーネこと、プロイセンのハインリヒ殿下未亡人に六分の一、
皇后の兄ヘッセン大公エルンスト=ルートヴィヒ殿下に六分の一。
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このような相続権証書にもとづいて、一九三四年はじめに、これらの人々に遺産の分配が行われた。遺産総額は、七十八万ライヒスマルクであった。これらの有価証券や預金は、皇后アリックスがニコライ二世と結婚した際のヘッセン大公家からの持参金がもとになっている。このほかにも、ベルリンのメンデルスゾーン銀行は、一九〇五年にロシア帝室宮内省の口座から振り込まれた皇太子アレクセイ名義の預金をも管理していた。この預金については、一方でオリガならびにクセニアの両大公女、他方で先帝アレクサンドル三世の弟ウラジミル大公の長男キリル大公より、それぞれに払戻請求がなされていた。この預金がはたして亡き皇帝もしくは皇太子の私有財産であるのか、それとも現時の帝位継承権者のものなのかが確定できなかったため、殺害された皇帝一家の遺族のため、他方でキリル大公や両大公女、それにソヴィエト社会主義連邦共和国のために、一九三七年九月にベルリンの区裁判所で供託が命じられた。この供託金額は、当時の通貨で二十万ライヒスマルクであった。いずれにせよ、ロマノフ家の遺産としては取るに足りない金額である。このベルリン区裁判決は直接にはドイツ所在の遺産にしか及ばないが、ドイツ以外の国に皇帝の遺産が残されていた場合、遺産相続人たちの権利主張の有力な根拠となる。
アナスタシアが主張していたイングランド銀行の預金に関心が集まった。イングランド銀行側は言った。
「ロシア皇帝の五億ドル相当の預金とか金塊などといったものは、当行にもなければイギリスのどこにだって存在しておりません。まったく根拠のない話です」
クセニア大公女はイギリス王室に保護された形でハンプトンコート宮殿で暮らしていた。彼女も語っている。
「兄がこのイギリスに残した預金はありません。数百万ポンドの預金があったことは事実ですが、それも一九一四年までの話です。大戦が勃発すると、兄は愛国心からそれを引き出してロシアの戦費にあててしまいました」
オリガ大公女も言う。
「もしもイギリスにそんな大金が残されていて、それをわたくしたちが入手したとしたら、どうして母がジョージ五世陛下から年金をいただくようなことをしたでしょうか?」
ロシアの大蔵大臣だったピョートル・バークは、イギリスに亡命してアングロ・インターナショナル銀行を設立した。バークもクセニアと同じ趣旨の説明を繰り返している。彼は、ときのイングランド銀行頭取エドワード・ピーコック卿と親しく、クセニアとオリガの相続権をめぐる訴訟の弁護士も彼とピーコック卿が雇った。アナスタシア側は、これらの関係者、もしくはイギリス国王ジョージ五世夫妻およびマウントバッテン卿も加わった共謀を疑っている。イングランド銀行にあったニコライの預金は、元大蔵大臣が創設した銀行の資本と化したというのである。
ヘッセン大公は、一九三七年十月九日に癌で死去した。長男ゲオルクが大公位を継ぐが、ひと月あまり後の十一月十六日、ロンドンのドイツ大使館勤務だった弟ルートヴィヒがスコットランド貴族令嬢と結婚することになったため、結婚式に出席すべくベルギーのサベナ航空機に乗りオステンド経由でロンドンに向かう途中、乗機が濃霧のオステンド空港で着陸に失敗、先代の未亡人および新大公一家全員が死亡した。二十九歳の次男ルートヴィヒだけが残されたわけで、これ以後は先代の姉ミルフォード=ヘヴン侯爵未亡人の息子ディッキーが、事実上のヘッセン大公家の当主がわりとなる。それは、先代ヘッセン大公である叔父エルンスト=ルートヴィヒの遺志を引き継いで、マウントバッテン卿がアナスタシア偽者説の代表者となることを意味していた。
一九三八年五月、元ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の住むオランダのドールンの館は、大勢の客たちで賑わっていた。初夏の明るい陽射しに新緑が輝く広い庭園で、着飾った人々がグラスを手に談笑している。老皇帝も嬉しそうだった。元皇太子フリードリヒ=ヴィルヘルムの次男ルイ=フェルディナントが、亡きロシア皇帝ニコライ二世の従兄弟キリル大公の娘キラと結婚したのである。元皇太子の長男ヴィルヘルムは、身分の低い女性との貴賤結婚を祖父に願い出たが認めてもらえず、五年前に帝位継承権を放棄して結婚した。老皇帝は、若い孫の恋をあきらめさせようとして言ったものだった。
「よいかね。馬にはいろんな品種のものがおるが、我々は例えれば純血種だよ。下賤の者と結婚すれば、それが半血になってしまう。許せぬことだ」
花嫁の父キリル大公は、ニコライ皇帝の父アレクサンドル三世のすぐ下の弟ウラジミル大公の息子だった。ロシア皇后アリックスの実家の兄ヘッセン大公の妻であったヴィクトリア=メリタと恋をして、その離婚を待ち結婚した。キラ大公女は、その二人の娘である。キリル大公は、ロシアで二月革命が起きたとき、赤旗を掲げる兵士や労働者たちといっしょになってペトログラードを練り歩いた。そのため、「赤い大公」と呼ばれ、ロマノフ家の人々に衝撃を与えた。ヴィクトリア=メリタとの道ならぬ恋を皇帝ニコライ二世に叱責され、いったん国外追放されたことを恨んでいたためである。だが十月革命で政権を奪取したボリシェヴィキは、まったく自分を必要としていないことに気づき、パリに亡命した。アナスタシア本物説に立つアンドレイ大公は、彼の弟だった。生存する亡命ロマノフ一族の中では、キリル大公が最も上位の男性である。そこで彼は、「亡命ロマノフ皇帝」を自称していた。当然ながら、キリル大公にとってアナスタシアは偽者でなくてはならない。つまりこの結婚は、かつてドイツを支配したホーエンツォレルン家とロシアに君臨したロマノフ家の帝位継承権者を、将来一人の子孫に集める縁組みだった。ドイツとロシア、いずれに帝政が復帰しても、どちらの家も君主に返り咲くことになる。オランダのウィルヘルミナ女王の息女で王位継承権者のユリアナ王女も、プロイセン貴族出身の夫君ベルンハルト殿下とともにお祝いにかけつけていた。孫に美しい花嫁を迎えて、老皇帝は上機嫌だった。花婿のルイ=フェルディナントは、経済学を学んだ後、一九三五年までアメリカ合衆国デトロイトのフォード社に勤務した。帰国してドイツの航空会社ルフト・ハンザに入っていたが、アメリカのルーズベルト大統領と親交があり、二人のアメリカ新婚旅行ではホワイト・ハウスに滞在した。第二次大戦では空軍士官となる。頭脳明晰で外国語に堪能、大戦中の反ヒトラー勢力によるアメリカとの和平工作にも加担した。ヒトラーを倒してホーエンツォレルン家の帝政に復帰する計画は成らなかった。豊かな芸術的才能の持ち主でもあり、ドイツ再統一後の一九九一年に、プロイセン王国の祖フリードリヒ大王の遺骸が、西側の避難先からゆかりの地ポツダムに移された際には、その式典用に、大王に捧げる葬送曲を作曲している。一九九四年九月、ルイ=フェルディナントは北ドイツのブレーメン近郊の同家の所領で死去する。八十六歳だった。
一九三八年、アナスタシアとその支援者たちは、彼女以外の人々の遺産相続権を認めた一九三三年九月八日の判決を取り消してもらうべく、ベルリン区裁に訴訟を提起した。彼女の両親と姉たちや弟の遺産相続権は、自分一人に帰属するというのだった。アリックス側の親族ならびにニコライの妹たちは、このベルリンの相続権証書裁判において、相続権証書の取消の申立を却下するよう主張した。そこでは、子どもたちのフランス語家庭教師であったジリヤールの証言がとくに引き合いに出された。申立人の正体は、フランツィスカ・シャンツコウスキーだと主張された。アナスタシア側は、これに激しく反論した。
ベルリン一九三八年八月十日付アナスタシア・チャイコフスキー名義の宣誓供述書から。
「わたくし、アナスタシア=ニコラエヴナ、アレクサンドル・チャイコフスキー未亡人は、露暦一九〇一年六月五日にロシアのペーテルゴフで、さいごのロシア皇帝ニコライ二世とその妻ヘッセン大公女アレクサンドラ(アリックス)とのあいだに生まれた末娘です。代母であるニコライ大公妃にちなんで命名されました。両親には、ほかに四人の子どもがありました。いちばん上の姉からオリガ、タチアナ、マリアは、わたくしとおなじく皇女の称号を与えられており、弟のアレクセイは帝位承継者でした。わたくしたちは、家族としてとてもまとまった生活をしていました。姉たちや弟といっしょに育ち、ほとんど親戚の子どもたちとだけつどいましたが、それもまれなことでした。教師はすべて宮殿にやって来ました。語学の授業では、ロシア語、英語、フランス語、それにドイツ語を学びました。家庭内ではもっぱら英語で話していました。ロシア語で話すのは、父一人といっしょにいるときでした。母は、ときおりドイツ語でわたくしたちと話しました。わたくしは、ギリシャ正教の信者として育てられました。大戦の勃発時にやっと十三歳でしたから、社交界にはほとんど加わることがありませんでした。ロシア国外にいる大勢の親戚については、ほんの一部としか知り合いになっていませんでしたし、しかもその機会は、あるいは両親といっしょの旅行中だったり、あるいは親戚がロシアに訪ねて来たりした折りのことでした。家族についで特になれ親しんだ親戚としては、祖母のマリア皇太后、父の母です、母の姉のプロイセン公妃イレーネ、母の兄で亡くなったヘッセン大公エルンスト=ルートヴィヒ、父の妹のオリガ=アレクサンドロヴナ大公女がいます。イレーネ伯母は、わたくしの記憶では、大戦まえの一九一一年ごろ父の狩猟用の城スパラで最後に会いました。母の兄ヘッセン大公エルンスト=ルートヴィヒを最後に見たのは、もっと後の一九一六年で、両親と単独講和について話し合うため、おしのびでフィンランド経由でロシアにやって来たときのことです。……
戦争中は、姉のマリアといっしょに小さな野戦病院で働きました。それは、ツァールスコエ・セロの宮殿のとても近くに建てられており、帝室がパトロンとなっていました。革命がおきてからはツァールスコエ・セロにとらわれの身となり、宮殿のごく一部にだけ住むことを許されました。一九一七年夏に、わたくしたち全員、つまり両親と子どもたち、それに従者らは、シベリアのトボリスクに移送されました。その顔ぶれは、父の侍医エフゲニー・ボトキン博士、母の女官アナスタシア・ヘンドリコーワ伯爵夫人、母の先生カタリナ・シュナイダー嬢、高級副官タチシェフ、父の侍従の陸軍少将ドルゴルコフ侯爵、ムッシュー・ピエール・ジリヤール、ミスター・シドニー・ギブスでした。数か月後に、まず父と母、それに姉のマリアが、あとになって姉のタチアナとオリガ、弟とわたくしがエカテリンブルクに運ばれたのです。トボリスクでは、まだある程度の自由が与えられていました。だから、たとえば授業を受け続けることができました。それに対して当時でもすでに、医師のボトキン博士の子どもたちと話をすることは許されていませんでした。かれらは父親に同行して別棟で暮らしていたのです。
けれどもエカテリンブルクでは、まるで犯罪人扱いでした。閉じ込められていたイパチェフ館は最高に厳しく見張られており、外界とは完全に遮断されていました。この館でいっしょに暮らしたのは、ボトキン博士と侍女一名、コックに給仕各一名だけでした。おたがいに話すことは許されていましたが、それはロシア語でだけでした。それにほとんどいつでも、部屋の中には見張りの者たちがいました。かれらは、昼夜かまわずどんな時間にでも入って来るのでした。兵士たちは、わたくしたち全員、とくに父を手ひどく扱いましたから、最悪の事態をおそれるようになりました。エカテリンブルクでのある日のこと、父は姉たちとわたくしにむかって、自分の死がもう近そうに思えるからといって、戦争まえの一九一四年に、イングランド銀行に姉妹それぞれのために五百万ルーブルを、ある代理人名義で預金しておいたとうちあけました。父がそのときあげた名前については、正確に思い出すことができません。ドイツふうに聞こえる名前だったとだけ覚えています。
両親と姉たちや弟の殺害、それに続いて起こったことについては、記憶が不完全です。すでに最後の瞬間のまえからおそろしい不安で意識がもうろうとなっていて、そのつぎに自分の身になにが起きたのか、はっきりしません。その夜、わたくしたち全員は突然に起こされ、服を着てその館の地下の一室に行くよう命じられました。街で騒乱が発生したからということでした。指示された部屋にそろったと見るや、ユダヤ人のユローフスキーの指揮の下でそこにいた兵士たちが拳銃で撃ちました。父と弟、それに姉のオリガに弾丸が当たったことまではわかりました。同時に自分も撃たれ意識を失いました。
わたくしが助けられたことについて言えるのは、助けてくれた人からあとで聞かされたことだけです。その後の数か月の出来事についても、記憶はほとんど跡切れがちです。助けてくれた人は、自分はポーランド生まれだと言っていました。名はアレクサンドル・チャイコフスキーといい、エカテリンブルクにいたのだそうです。チャイコフスキーは、わたくしが死んでおらずけがをして気を失っただけなのを知り、だれも見ていない瞬間を利用してわたくしを運び去りました。かれの兄と母親、それに妹といっしょに、わたくしを荷馬車の床に隠し、エカテリンブルクからひと月かけてルーマニアへと逃げました。このおそろしい逃避行の間の出来事については、所々記憶があります。けれどもそれを思い出そうとすると、当時を支配していた感情がじきにこみ上げてきて、記憶はぼやけて曖昧になってしまいます。あの虐殺の夜の思い出の恐怖とか、けがをしているのに敷物もない荷馬車の上に寝かされたための耐えがたい痛みと苦しみ、でも追いかけられて見つかるのではないかという言いようのない不安がいちばんでした。ルーマニアに国境を越えたと告げられたときの助かったという気持ちは書き尽くせないほどで、よく覚えています。荷馬車は、完全にすり切れるまで使っては何度も取り替えた記憶がありますから、こうした旅費は、知るかぎりでは、チャイコフスキーがわたくしの着物の中から見つけだした宝石を売ってまかないました。すでにトボリスクにいたとき、母とわたくしたち姉妹は自分の洋服や下着の中に宝石を縫いこんでいたのです。そうして身につけていたのは、ばらばらの宝石と一本の真珠のネックレスでした。
家族全員が虐殺されたことは、ブカレストではじめて知りました。そのことを耳にして以来、ずっと長いこと神経性の発熱でうなされました。この病気のころのことについては、あまり記憶がありません。ブカレストのとある教会で、チャイコフスキーと結婚しました。ミサをしめくくる言葉を、私はくりかえせませんでした。それがルーマニアでおこなわれている結婚の形式だということは、わたくしにもわかりました。それから間もなく、彼はブカレストの道路上で撃ち合いに巻きこまれ、致命傷を負いました。わたくしは旅行できるまでに回復すると、彼の兄に、わたくしをベルリンまで連れて行ってほしいと頼みました。ベルリンに行けば、イレーネ伯母の保護をうけることができると思ったからです。身元を証明する書類をなにも持っておらず、見つかるのではないか、そうすればその後になにが待ちかまえているかというひどい不安が、依然としてすべてを支配する感情でしたから、国境はすべて徒歩で越えました。この冬の旅は、体力をはるかに超えるものでした。ベルリンで、わたくしは精神的に破綻をきたしました。自分の境遇への絶望から暗澹《あんたん》となって、それに抵抗する力ももはや及ばず、完全にうち負かされてしまったのです。ラントヴェーア運河から救い上げられると、しばらくの間、とある病院に入院させられたあと、ダルドルフに送られました。発見されることをおそれて、自分の身元を明かさなかったからです。
チャイコフスキーの兄については、なにも知りません。……彼の母親や妹についても、二度と消息はありませんでした。……すでにダルドルフで、わたくしの正体は知られていましたが、当時は、ひとつには自分の状況が恥ずかしかったのと、もうひとつは、発見される不安がつねにくりかえし襲ってきて支配するものですから、とりわけ外部からやって来る人々に対しては、身元を隠すためにできることはなんでもしました。わたくしの運命がロシアからの亡命者のサークルの関心をひいたため、まず一九二二年に、帝政ロシア政府の高級官僚だったフォン・クライスト男爵が、家にひき取ってくれると言いました。その翌年からは、同じように同情して親切にしてくれる人々のもとで過ごしたり、何度も重病を患ったものですから、病院やサナトリウムに入院してそうした友人たちの世話を受けたりしました。デンマーク政府のベルリン駐在大使サーレ閣下は、心の底から同情してとくに親切にしてくれたと感じています。祖母の弟であるデンマークのワルデマール殿下は、サーレ大使を通じて、病気の治療にかかった費用を払ってくれました。そのおかげで、一九二六年にバイエルンのオーベルスト・ドルフにあるサナトリウム『シュティラッハ・ハウス』に入ることができました。ここで体力をつけ、本当に嬉しかったことにタチアナ・メルニクが私に会いに来てくれたのです。タチアナは、父の忠実な侍医であったボトキン医師の娘です。
一九二七年三月のこと、父のまた従兄弟になるロイヒテンベルク公爵ゲオルク殿下が、オーベルバイエルンにあるゼーオン城に、客として招いて下さいました。ロイヒテンベルク公は、わたくしを自分の子どもみたいに可愛がってくれました。ゼーオンでは、戦前戦中の頃からのさまざまな知り合いの人たちと旧交をあたためました。その中には、前にあげたタチアナ・メルニクの兄グレプ・ボトキンもいました。先に述べましたように、二人は父親の流刑に同行してトボリスクにおりました。ですから、あの災厄の直前まで仲良くしていたのです。ボトキン氏は、わたくしの(そして父にとっても)また従姉妹にあたる、ウイリアム・B・リーズ氏の夫人クセニアにお願いして、ニューヨーク近郊オイスター・ベイにある彼女の地所にわたくしを招いてもらいました。ゼーオンからアメリカまでの旅では、ミセス・リーズがヨーロッパまでむかえによこしてくだすった看護婦アグネス・ゲーラッハー嬢が世話をしてくれました。旅の途中パリで、父の従兄弟のひとりアンドレイ大公にご挨拶し、大公はシェルブールまで見送ってくださいました。わたくしを見るとすぐに皇帝の末娘だとお気づきになり、敬意を表してくださったのです。一九二八年二月にニューヨークへ着き、一九三一年の秋までアメリカに滞在しました。ミセス・リーズのもとで三か月ほど過ごした後は、親しい方のお世話を受けたり一人ぼっちだったりしながら、ホテルやサナトリウムで暮らしました。
……わたくしはミセス・リーズの手助けでデンマークに住む祖母マリア皇太后に会えると思っておりました。祖母がわたくしのことを認めてくれるなら、反対の態度をとっている親戚の人々にもわかってもらえるという確信がありました。この望みは、一九二八年の秋に祖母が亡くなったことで消えうせてしまいます。反対の立場の親戚の筆頭は、父の妹のクセニアとオリガ両大公女です。クセニア叔母と、その夫で妻と同様に冷たくわたくしを認めようとしないアレクサンドル大公の二人は、一度も会ってくれていません。オリガ叔母は、一九二五年にベルリンの聖マリア病院に見舞いに来てくれました。彼女はすぐにわたくしだと気づき、何度も面会に現れては姪を親切に扱い、その後も手紙で同じ態度を示してくれたのです。そうした彼女を少しも疑わず、エカテリンブルクで父が私たち姉妹に教えてくれたイングランド銀行に預けてあるお金のことを話しました。一九二八年の夏、グレプ・ボトキン氏に勧められて、父が娘たちのためにイングランド銀行に預けてくれたお金について権利があることを公表しました。そのまま放置しておくと期限切れとなり、クセニアとオリガの二人の叔母たちが兄の皇帝とその子どもたちの遺産相続人と認定されてしまうことを妨げる目的でした。すると叔母たちは、もしも自分の認知請求と相続権とを放棄するなら、身分相応の扶養料を生涯支払うと提案してきました。このような叔母たちの態度や、それにミセス・リーズにも腹をたて、申出を断りました。こうした体験をするまでは、ミセス・リーズやアンドレイ大公、それにイレーネ伯母の子息ジーギスムント殿下といった人々と同様に、他の親戚たちもわたくしのことを認知してくれるはずだと期待していたのです。ジーギスムント殿下の義弟ザクセン=アルテンブルク公エルンスト=フリードリヒ殿下は、親切にもわたくしの権利をまもろうとしてくださいました。このように長年月をかけて自分の認知を求めて争って参りましたが、それだけにいっそう残念でならないのは、イレーネ伯母のことです。彼女は、一九二二年の八月の末、ダルドルフを退院後に警察幹部グリュンベルク博士宅で危篤状態でふせっていたとき面会に訪れたのですが、わたくしを信じてはくれませんでした。けれども伯母が、他の人々やご自分の息子のジーギスムント殿下のように、わたくしの申立が真実であるという論拠をほかに持っている方々と話してみてくだされば、そうした拒絶の姿勢を捨ててくれるものと、なおも確信しています。
いまやわたくしはドイツでも訴訟を提起することを認めましたから、認知を拒んでいるだけでなく、両親と姉たちの相続人であるわたくしが権利をもち、それを行使しようとしている財産についても争っている親戚たちにたいして、財産法上の措置を講じなくてはなりません。わたくしの出自について、なんらかの証明書のようなものは持っておりません。相続権に関しては、両親と四人の姉弟の遺言状はわたくしの知るかぎりありません。これら両親と四人の姉弟からの遺産相続において、わたくしを排除したり相続分を減じたりする立場にある人物はほかに存在せず、過去にもいませんでした。わたくしの相続権を争う訴訟はどこにも提起されておりません。わたくしは両親と四人の姉弟の遺産を承継取得したはずです。両親と四人の姉弟は、その生前はロシア国籍でした。最後の住所は、ロシアのツァールスコエ・セロでした」
一九四一年にアナスタシア側の敗訴判決が下ると、争いはただちに地裁へ持ち込まれたが、その後は戦争で中断してしまう。
アナスタシアに関心を抱いたのは、元皇帝ヴィルヘルムだけではなかった。ヘルミネ妃との親しい関係もあり、いまや権力の絶頂にあるヒトラーも、この件の徹底究明を指示した。一九三八年、「さる高所」から命令されたハノーヴァー警察は、この「有名な犯罪事件」の調査に取り組む。そして、偽のアナスタシアの正体として名指しされたことのあるフランツィスカ・シャンツコウスキーの兄弟姉妹を連行し、アナスタシアと対面させることにした。ナチの秘密警察組織の手で、あちこちに散らばっていた家族が集められた。ハノーヴァー警察からの呼び出しに、アナスタシアは答えた。
「グレプ・ボトキンが立ち会ってくれるのでしたら」
連絡は瞬時にニューヨークのグレプに届いた。一九二九年以降、グレプは彼女に直接会っていなかったが、ただちにハノーヴァーへと向かった。同年七月九日、ハノーヴァー警察本署でかれらを待ちかまえていたのは、ナチの秘密警察だった。十年前に彼女と対面させられたことのあるフェリックスもいた。うえの兄のヴァレリアンに、ゲルトルート・エレリックとマリエ=ユリアーネの姉妹である。もう一人の兄弟ヴァルターはいなかった。ゲルトルートが言った。
「この人は、フランツィスカじゃありません」
妹も同じ意見だった。ヴァレリアンも言った。
「こりゃあ、ぜったいに違いますよ。自信をもって言えます」
フェリックスがつけ加えた。
「前に見たときも違うと思ったけれど、今度もそうです。ただ強調しておきたいのですが、行方不明の姉に似ていないだけじゃなくて、前に会った人とも別人のような気がします」
「四人とも、違うというんだね」
「ちょっと待ってください。もう一度、よく見せて」
ゲルトルートが叫んだ。
「話し声が違うけれど、姿形は似ているような気がするの」
「他人のそら似というやつだよ。もともと、姉さんと同じタイプの人ではあるからねえ」
兄弟が横から言った。アナスタシアは無表情のまま、部屋を出て行こうとした。ゲルトルートが大声をあげた。
「いいえ、あんたはフランツィスカよ! どうして家族の見分けがつかないの?」
彼女はアナスタシアの肩をつかんで揺すった。アナスタシアの表情は変わらない。
「お願いだから、思い出してちょうだい」
「あんたのほうで、なにか言うことがあるかね?」
鋭い目つきの秘密警察官が、アナスタシアに尋ねた。
「なんて言えばいいのですか?」
「兄弟姉妹は何人だね?」
「四人です」
「生まれは?」
「ロシアです」
「ロシアだそうだよ」
シャンツコウスキーの残りの家族は、興奮したゲルトルートをなだめるように言った。
「ひとめ見ただけでフランツィスカじゃないよ」
説得にも耳をかさず、ゲルトルートはアナスタシアに向かって叫び続けた。
「認めなさい、認めるのよ!」
アナスタシアは激しい怒りで青ざめ、無言のまま制止も聞かず部屋を出て、まっすぐアパートに戻って行った。グレブがあわてて、あとを追った。
ナチスによる身元調査はアナスタシアにとって屈辱的だったが、ベルリンから総統じきじきの招待が届いたのは、第二次世界大戦がはじまったころだった。黒塗りのリムジンで総統官邸にむかうと、総統の執務室に招き入れられた。総統は終始ていねいな物腰で、彼女のことを「プリンツェスィン」と呼んだ。イギリス王室は、あなたとその家族を裏切った。このたびの戦争では、その王室もほろびることになろう。あなたの家族を殺し、ロシアを支配しているボリシェヴィキも、自分の手でほろぼしてしまうつもりだ。ロマノフ家の再興を実現してみせよう。ヒトラーはそう言ったと、彼女は回想している。だが戦時体制が進んで日常生活が厳しく統制されるようになると、彼女には困った問題が起こることになる。あの虐殺の夜以来、あらゆる軍服や制服をおそれるようになっていた。配給切符を受け取る気にもなれず、アパートに閉じこもって餓死寸前の状態にまで陥ってしまう。
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第十三話 王冠をかけた恋
一九三二年三月のこと、イギリス国王ジョージ五世は、三十八歳になろうとするエドワード皇太子(エディ)と珍しく長い会話をした。内容はもっぱら、エディの当時の愛人レディ・セルマ・ファーネス、つまりファーネス卿夫人のことだった。セルマはアメリカ人で、ファーネス子爵とはお互い再婚どうしだった。
「おまえはまだ国民に愛されておるが、そんなことを続けていたらいずれは尊敬を失うだろう。それでいったい、今のおまえはしあわせなのか? なぜ、自分が真の愛情をそそぐことができる相手を持とうとは思わないのかね。独身のままで、王妃の支えもなく国王の重責を果たそうとするのは、あまりに孤独だ」
「たしかに私は孤独です。でも私が本当に結婚したい気持ちになったのは、彼女だけなんです」
「しかるべき家柄の娘と結婚する気はないのか?」
「まったくありません」
一九一八年以来、エドワード皇太子の公然の愛人はダドリー・ウォード夫人のフリーダ=ウィニフレッドであった。小柄でエレガントで、とても美しい女性だったが、十九歳のときに十六歳年上のウォード議員と結婚していた。一九二二年に皇太子が極東旅行から帰ると、フリーダは夫との間にできた子どもたちの評判を気にするようになっていた。彼は淋しい気持ちから深酒をし、いっそうのプレイボーイぶりを発揮するようになる。だが、ずっとフリーダのことを愛し続けていたのだった。父王ジョージ五世は、亡くなった兄の婚約者と結婚してエディらをもうけたくらいであったから、平民のフリーダが夫と死別し未亡人になったら、皇太子と再婚するということが可能でないか、秘書官に尋ねたりもしている。
「王家と血のつながりのない連れ子がいるのも構わない。庶民的な皇太子には、世論も味方してくれるだろう」
王は、息子の気持ちを尊重するつもりでいた。だが、そのつぎの愛人も人妻レディ・ファーネスだったから、ジョージ五世としてはやむにやまれぬ気持ちで皇太子に説教したのである。王はがっかりして、
「私が死んで一年経たずに、息子は破滅するだろう」
と、スタンレイ・ボールドウィン首相に語った。エディの方は、父に自分の意志をはっきりと伝えることができたのを喜んでいた。もっとも、父王の言葉を受けて、エディはディッキー・マウントバッテンに命じて、全ヨーロッパの十五歳以上の王女たち十七名のリストを作らせたりしたが、それは周囲の心配に対するジェスチャーに過ぎなかった。
一九二六年にイギリス全土を巻き込んだゼネラル・ストライキは、第一次大戦の戦勝国となって戦後十年近くが経過しても、この国の社会問題がなにひとつ解決していないことを示すものだった。一九二九年の世界恐慌がそれに追い打ちをかけた。皇太子の彼は、低所得の労働者たちの失業や住宅問題に積極的な関心を示すようになる。ひたすらそういう階層の人々の居住地域を視察して回るのだった。
「まず住宅環境さえ改善できたら、国民の不平不満のかなりが解決すると思う。ロンドンでつまらないパーティーに出席するくらいだったら、地方や工場を視察して歩きたいんだ」
グラスゴーやニューカッスルといった工業都市では、労働者たちが彼を熱狂的に歓迎した。人々は沿道に押し寄せ、皇太子に手を振り声をかけようとした。ダーラムやノースカンバーランドの炭坑地帯にも出かけた。鉱山の小さな村を訪ね、炭坑労働者のみすぼらしい家にも足を踏み入れるのだった。
「なんとひどい環境だろう! 大戦以来、こんなに大勢の人々が最悪の状況の中で生きてきたなんて」
だが、国民のだれもがそうした皇太子の熱意を喜んだわけではなかった。
「なにごとであれ、政府に事前の相談なくして政治や経済の問題につき発言せぬように」
病床のジョージ五世は皇太子をさとしたが、保守党内閣の閣僚の中には富豪の炭坑経営者もいて、皇太子の行動や発言を嫌がっていた。
彼は、ロシアの親戚たちを虐殺したボリシェヴィキの共産主義に対抗しなくては、とも考えていた。ドイツには親戚が多いこともあって、アドルフ・ヒトラー率いるナチスの反共主義と労働者福祉政策に多大の関心を寄せていた。のちに外務大臣となる駐英ドイツ大使ヨアヒム・フォン・リッベントロープは、ベルリン宛てに報告している。
「皇太子は、わがドイツの向上意欲に対する全幅の信頼をひとたびならず表明している。つまるところ、彼は半分ドイツ人だからである」
一九三〇年代半ばのドイツは、ヒトラーの下でやっと第一次大戦の惨禍から立ち上がり奇跡の経済復興を遂げたと評価されていた。
すでに一九二九年、六十四歳の国王ジョージ五世の健康状態はひどく悪化していた。老いやつれ、国民の目には同じ君主の姿とは映らないほどだった。王の病状を案じる国民が、無言のまま大勢バッキンガム宮殿の前に立ち尽くしていた。気丈なメアリー王妃は、それでも毎日宮殿を出て王妃としての公務を果たし続けていた。侍医に勧められて南部のポーツマスに近い保養地に向かうため、王は横になったまま救急車で宮殿を出た。参集した人々に王の表情は見えなかったが、門を出るとき王はゆるゆると片手を上げて国民に挨拶の意思を示した。人々から歓呼のどよめきが上がったものの、王の手の細さにだれもがショックを受けていた。だが、この時は王は奇跡的に回復したのだった。それ以後、外出する老王の膝にはいつもヨーク公の長女「リリベット」がちょこんと座っていた。一九二六年に生まれた現女王エリザベス二世の幼い姿である。兄弟の中でいちばん最初に次男のヨーク公が結婚したとき、長兄のエディは、その結婚相手の名エリザベスを女王エリザベス一世になぞらえてひやかしたものだった。
「エリザベスと結婚するんだって? それじゃあ花嫁を『クイーン・エリザベス』と呼ぼう」
「クイーン」には、女王だけでなく王妃の意味もある。王の気がかりは、こうしていつまでも結婚しない皇太子エディひとりとなったのである。
一九三六年一月二十日、先祖のウイリアム四世にならい「二十世紀のセイラー・キング」と愛称されたジョージ五世が亡くなった。王家の次男として海軍士官になったが兄の早世で急きょ王位につき、困難な時代を乗り切ってむかえた死だった。エディは、セント・ジェイムズ宮殿での自らの新国王エドワード八世への即位の儀式を、窓から新しい恋人ウォリス・シンプソン夫人にのぞかせた。参会者たちが解散する前に、新王は急ぎ座を離れて彼女のそばに立った。彼と並んで、再び窓から会場を見おろしながら彼女が笑っている様子を、ニュース・カメラマンが撮影していた。この映画ニュースを通じて、国民は新王の未来の花嫁を初めて目にすることになる。
「亡くなられた父王の葬儀もこれからなのに、ふたりで並んでいる姿を見せるとは!」
要人たちは、エディの無分別と外国人女性の無作法に憤りを感じていた。
ジョージ五世の葬儀後、参列した各国代表団をねぎらうため、しきたりどおりに、バッキンガム宮殿のゴールド・ダイニングルームで新王エドワード八世主催の晩餐会が開かれた。国葬の折りでもあり、エドワードは形ばかりのしぐさで居並ぶ人々と握手しながら入場したが、ヒトラーが送りつけたドイツの出席者たちの前まで来ると、親しげな様子でドイツ語で話しかけ、会話は二十分にもおよんだ。儀礼に反することであり、その間他の客たちはじっと立たされたままだった。けれども、そうして待たされるよりも、もっとひどい扱いをうけた者もいた。マキシム・リトヴィノフを代表とするソヴィエト連邦の使節たちだった。当夜の招待客全員が驚いたことに、ソヴィエト使節団の座るはずの席には、エドワードの従兄弟にあたるドミトリー大公ほかの亡命ロシア貴族たちが着座していたのである。間の悪そうな他の客たちに比べると、むしろ彼らのほうが堂々としていた。しかしそのままでは新国王としてもすまされず、ソヴィエト代表団には別に席がもうけられた。会見中、エドワードは、まるでなんでもないことをふと思い出したかのようなしぐさで、正面の席のリトヴィノフを見すえ、唐突に鋭い語気でたずねた。
「なぜ私の身内のニコライ皇帝を殺した?」
一座が水を打ったように静まった。凍りついた空気のなかで、老獪《ろうかい》なリトヴィノフはすこしもあわてたそぶりを見せず、おもむろに答えた。
「私は、やっておりませんのです。革命の頃は、むしろ保守派に属しておりましたもので」
エドワードのこだわりは終生のもので、退位してウィンザー公となったのちの終《つい》の棲家《すみか》フランスのブローニュの森の館の寝室には、非業の死をとげたニコライ二世の小胸像がずっと飾られていた。
同年十月三十日、数日前にロンドンに着任したばかりの駐英ドイツ大使ヨアヒム・フォン・リッベントロープは、国王エドワード八世に信任状を提出するため、モーニングコートにシルクハット姿でバッキンガム宮殿へと向かった。新王はまだ戴冠式をすませておらず、そのためこの会見は非公式なものとされた。この日の彼のいでたちも、彼にしてみれば英国流儀に合わせただけのインフォーマルなそれだった。母国を出るまでもっぱらドイツびいきと聞かされてきた王はシンプソン夫人の問題で憔悴している様子だったが、会見は友好的な雰囲気で終始した。出発前、ヒトラーは彼に向かって言った。
「イギリスの保守反動主義者とユダヤ人が徒党を組んで、国王がみずから選んだ女性と結婚するのを妨げようとしておる。国王たるもの、ああした金満家やマルキストどもに断固として言い渡すべきなのだ。自分は、この『国民の中から選ばれた娘』との結婚を、だれにも邪魔されないとな」
ヒトラーは、こうした点ではナイーヴでロマンチストの面をのぞかせて、付け加えた。
「たたかう国王を私は支持する。シンプソン夫人の一件に関しては、少なくともこのドイツでは全面的に報道禁止措置をとっている」
当時のシンプソン夫人は、インターナショナル・ベストドレッサーのトップにランクされるくらいだったから、総統と第三帝国に忠実な新任大使も「平民の少女」といったニュアンスの表現が彼女に当たっているかどうか、やや気にはなったのだった。
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ロンドン大使館の若いスタッフの中に、ヘッセン大公の次男でヴィクトリア女王の曾孫でもあるルートヴィヒ殿下がいた。大使は、彼を呼び寄せて命じた。
「いいかね、君は英国王室の縁者なのだから、できるだけバッキンガム宮殿との関係を密に維持しなくてはならない。国王の将来について、果たして彼がこのまま王位にとどまれるものなのか、どんな噂も細大もらさず報告するようにしたまえ」
そして今イギリスでは、四十二歳で独身の新国王エドワード八世の結婚問題で、国をあげて大騒ぎがはじまろうとしていた。その相手ウォリス・シンプソン夫人を、一九三一年に最初に皇太子当時のエディに紹介したのはレディ・ファーネスである。ウォリス・ウォーフィールドは、一八九六年六月十九日にアメリカ南部のメリーランド州ボルティモアで生まれた。エディよりも二歳年下だから、二人とも若くはない出会いであった。ウォリスの両親の家柄はどちらも南部の名門だったけれども、あまり裕福でなかった父は彼女がわずか生後五か月のとき病死し、ウォリスは母の手で育てられた。豊かな一族や友人の中で自分だけが贅沢をさせてもらえなかったことが、彼女の上昇志向につながったとされている。故郷を離れたい一心でアメリカ海軍の士官アール=ウィンフィールド・スペンサーと結婚して、その後に離婚し、金満家の海運業者アーネスト=オールドリチ・シンプソンと再婚する。夫シンプソンの母親はアメリカ人だったが、父親はイギリス人でロンドンとニューヨーク双方に拠点を構える船舶仲買人だった。ウォリスがアメリカでシンプソンに出会ったとき、ふたりとも前の配偶者との離婚手続が終わっていない状態だった。ふたりは別々にヨーロッパへ渡ってロンドンで落ち合い、チェルシーで結婚した。ブライアンストンコートのフラットに居を構えて社交好きの夫と暮らしていたが、レディ・ファーネスがグロヴナースクエアの自宅で催したカクテルパーティーで、シンプソン夫妻は皇太子に紹介されたのだった。
新国王は、なかなかその皇太子時代の住まいフォート・ヴェルヴェデアを離れてバッキンガム宮殿に引っ越そうとしなかった。シンプソン夫人は女主人然としてふるまい、王が遅れるときには王の客たちを自らもてなし、召使いに空になった客のグラスを満たすよう命じたりした。訪問客はひそひそ声で話すのだった。
「いかにもアメリカ流のやり方だね」
「あれは、アメリカの家庭で客を迎えるときに夫が不在の場合のふるまいぶりだよ」
「王さまは、彼女が公認されないかぎり、皇太子時代の正式の住まいヨークハウスからバッキンガム宮殿には移りたくないそうだ」
「バッキンガムでは、亡くなった先王の侍従や召使いたちが待ちかまえているものなあ」
「シンプソン夫人だって、ここでのように気ままにはできまい」
「メアリー皇太后さまは、さっさと宮殿を新王に明け渡しマールボロハウスにお移りになられたというのに」
新王は、スコットランドの離宮バルモラル城にもシンプソン夫人を伴った。だが、彼女はイギリスの田園風景には馴染まなかった。新王と王弟たちは、そこではスコットランドの伝統を尊重してキルトのスカート姿である。他の客たちも、わざわざ古着のスーツを持参していた。いっしょに招かれたエドウィナ・マウントバッテンも粗いツイード地の上下姿で、フラップのついたカジュアルな革靴をはいていた。そうしたイギリスの上流階級の習慣を知らないシンプソン夫人だけが、ニューヨークの五番街から直行したような細身のドレスにハイヒールという服装だった。
エドワード八世は父王の死によって即位はしたものの、戴冠式はまだであった。宮廷と政府、それに加えて、この問題の報道を控えているイギリスのジャーナリズムとの間の緊張が高まってゆく。国内の新聞やヨーロッパの新聞は、国王とイギリス政府の意をうけて沈黙していたが、アメリカの新聞は二人の結婚問題を名指しで書きたてた。アメリカの新聞は、イギリス本国や海外の植民地にも入ってくる。怒りと抗議の手紙が、本国政府のもとに押し寄せるようになっていた。十月十六日、「デイリー・エクスプレス」紙の社主マックス=エイトキン・ビーヴァーブルック卿がバッキンガム宮殿に召された。
「このたびのシンプソン夫人の離婚の件については、どの新聞もできるだけ短く事実だけを書いてほしいのだが」
新王の意向は、イギリス新聞界の最高実力者の彼に影響力を行使してほしいということだった。
「あのひとに落ち度はないんだ。君がそうやってくれなければ、ただ王の友人というだけで新聞に中傷されることになるだろう」
エドワード八世は、彼女の離婚と自分の結婚は無関係だとほのめかした。
「彼女にとって離婚は、耐え難い結婚生活から逃れることが許されたということにすぎぬ」
「よく分かりました。国内の新聞各社の社主たちにご趣旨がよく徹底するように致しましょう。私の力がそこまで及ぶかどうか自信はありませんが、フランスはじめヨーロッパ大陸諸国の新聞社にも話してみましょう。陛下に関する不当なゴシップ報道は、避けられねばなりません」
だが、シンプソン夫人の母国アメリカの新聞は、彼らのコントロールの枠外だった。十月二十六日、「ニューヨーク・アメリカン」紙は、シンプソン夫人とイギリス国王は八か月後に結婚することになるだろうと大々的に報じた。アメリカの各紙はいっせいにこれを報道し、ニュースは国境を越えてカナダに入った。カナダではイギリス本国同様に新聞は沈黙を守っていた。アメリカではむしろ好意的に受けとめられた報道内容も、カナダの住民にとっては大きなショックだった。こうした新大陸での様子は、徐々にイギリスへも伝わりはじめる。こうして、国王と離婚夫人の恋愛沙汰は、国内ではマスコミが沈黙しているのに、知る人の数は増すばかりとなった。下院で労働党の議員が通商大臣に質問した。
「ここ数週間わが国へ輸入されたアメリカの二つの有名雑誌では、その二、三頁分が切除されております。わが国の一般市民が知ってはならないことがあるとすれば、それは何であるか、ご説明ねがいたい」
通商大臣は、そっけなく答弁した。
「それは私どもの管轄外であります」
「新国王の戴冠式はないという噂ではありませんか。なぜなんですか?」
「黙れ、恥を知れ!」
議場のあちこちからヤジが飛んだが、彼はひるまずに大声で言い返した。
「そうだとも、あの女性のせいだ!」
イギリス国王は英国国教会の首長でもあるため、カンタベリー大主教は僧職者からの声をおさえるのに苦労していた。だがそれにも限界があった。ついに口火を切ったのはブラッドフォードの主教だった。「英国国教会の首長としての国王の義務」と題する説教をおこなったのである。
「数週間前のこと、私はあるビジネスマンの問いかけにいたく胸をうたれました。彼は申しました。『私は、戴冠式というものの宗教的な側面を大切にせねばならないと思っておりました。けれどもこの儀式の主役自身はそのように思っていないのなら、ここでは何が大切だということになるのでしょうか?』……王もまた普通の人々と同じ人間であります。王としての義務を正しく果たすためには、神の大きな恩寵が必要です。王は、神の恩寵の必要性をわきまえておられるはずです。私たちの間には、王がこうした認識をもっと積極的に示されるよう求めるむきもある、ということでありましょう」
説教の内容が穏当でないという意見に対して、大主教は首を振って言った。
「私が知っておるのと同じことを、ブラッドフォードの主教も知っておるのなら、なんで彼は口を閉じなくてはならんのかね?」
地方有力紙「ヨークシャー・ポスト」が、この説教を大々的に取り上げた。
「最近多くの読者が知っている事実だが、王にまつわるたくさんの噂が比較的センセーショナルなアメリカの新聞を賑わせている。……アメリカの一部の高級紙や連邦自治領の新聞も同様の傾向を示しており、無関心ではおれない内容が含まれていると認めざるをえない。充分な状況証拠から、その多くは事実だと思われるからである」
ついにイギリスの新聞各紙は、堰を切ったようにこの事件を報道しはじめた。「ニューズ・クロニクル」紙のように、国王に「貴賤結婚(モーガナティック・マリッジ)」をするよう勧める新聞もあった。「ニュー・ステイツマン」の記者も同意見だった。結婚するなら退位しかないだろうと書く新聞もあった。エドワード八世は、いちばん影響力の大きい「ザ・タイムズ」紙の論調を最も気にしていた。十二月二日、王はボールドウィン首相を呼びつけて言った。
「耳にしたところでは、『ザ・タイムズ』紙がいよいよシンプソン夫人への攻撃を開始するそうだ。ぜひとも君の力で、これを阻止してもらいたい」
「おそれながら陛下、新聞を統制することはできません。ですが個人的に、陛下のご意向を編集者へお伝えいたしましょう」
編集者は、首相を通じて草稿を王に示すことに同意した。
国王にとってシンプソン夫人の離婚成立は、マスコミ対策だけでなく法律上も、まだ厄介な問題を残していた。夫人が夫と合意のうえで提起した離婚の訴えは、ロンドンではなく、その北東サフォーク州のイプスウィッチ市の裁判所で審理されている。有能なソリシター(法廷外弁護士)であるセオドア・ゴダードのアイデアによるものだった。目立たない場所が必要だった。シンプソン夫人は、王の手配した同市近郊の海岸ぞいの町の別荘に移った。法廷では当時のイギリスきってのバリスター(法廷内弁護士)ノーマン・バーケットがシンプソン夫人についた。もっとも裁判官はこの事件そのものを嫌い、そそくさと審理をすませた。十月二十七日法廷で、裁判官は二人に言い渡した。
「原告である夫人により当法廷に提出された離婚理由は、被告である夫が妻以外の女性とホテルで一夜をともにしたというものでありました。証人による証言を通じて、その事実は完璧に立証されました。よって当法廷は、ここに二人の離婚を認めるものといたします」
だが、それで終わりではなかった。裁判官は続けて言った。
「ただし、これは『仮判決』であって『終局判決』ではありません。再婚できるようになるには、これより六か月が経過して終局的な判決を言い渡すことになります。もしもその間に、この訴えが二人の『なれあい訴訟』であったこと、あるいは離婚につき無責のはずの原告側に『不行跡』があった事実が判明した場合には、離婚仮判決は取り消されてしまいます」
そしてこの離婚仮判決のことを知った国民のなかから、義憤にかられて、これが「なれあい訴訟」だと主張する宣誓供述書が少なくとも二通は提出されようとしていた。王は、秘書官と慌ただしく対策を話しあった。煙草をたて続けに喫い、額にハンカチをあてて苦悩を鎮めようとしていた。
「申立にあるような疑いが明らかに存在するということになると、その事実を調査するため審理の再開が命じられます」
「大法官に旧友が就任する予定だが、それでなんとかならないだろうか?」
「申立が、いずれも『なれあい訴訟』を主張しておりますからには、陛下とウォリスさまとのことが離婚判決の取消理由として法廷で公式に宣言されかねません」
「この裁判に巻き込まれないために国王の免責特権を援用すれば、訴訟に干渉することもできなくなるということだね」
「いまはともかくウォリスさまをいったん遠ざけられて、判決無効申立の意欲をそぐのがご賢明な策かと」
「離婚判決まで無効にされては、これまでの彼女の努力の甲斐がない。あの人にはひとまず出国してもらい、事態の鎮静を待つことにしよう」
シンプソン夫人は、南仏に向けイギリスを離れた。王は、その後も自分の考えを変えなかった。貴賤結婚というアイデアにとびついて、イギリス本国の内閣とそれぞれの連邦自治領の政府にその承認を求めてほしいと、ボールドウィン首相に要求した。
「父のジョージ五世があれだけ国民の支持を得られたのは、彼がしあわせな結婚生活を送ることができたからだ。それは私にとっても同じことだと思う。自分の愛する妻なしでは、君主としての成功はありえない」
親しい友人に、退位したスペイン国王の例をあげて言った。
「私は、アルフォンソ王みたいになりたくはないんだよ。尻を蹴飛ばされて追い出されるなんて。そのときは、自発的にこの国を出て行くべきだろう」
労働者階級の人々は、新国王の時代には自分たちの苦しい生活も少しはましになるものと期待していた。皇太子の頃、あれほど貧しい者の味方として行動してくれたのだ。国民に対する彼個人の人気は少しも衰えていなかった。けれどもそうした人々は、王が二度も離婚したアメリカ女性を王妃にむかえようとしていることを知り、仰天し当惑し怒りを表明した。王自身、民衆の強い支持を期待していたのだった。ロンドンのイーストエンドの低所得者層や、ミッドランズやウェールズ地方の産業地帯の労働者や中産階級の人々は、皆この結婚には反対だった。新王が、素性の知れない外国人女性とイギリス国王の座とを秤にかけていることを知って、イギリス国民全体が大きなショックを受けていた。彼は宮廷の改新にも手をそめようとしたが、中途で投げ出してしまった。社会改革についても、底辺の人々が新王にこめた願いは届かなかった。
海外の植民地や大英連邦構成諸国の風土は、本国よりも保守的だった。ボールドウィン首相の政府がおそれたのも、海外からの反響が本国の政治に及ぼす影響だった。国王と正面衝突して内閣総辞職でもすれば、国論を二分しての国を揺るがす騒動になる。王の退位かそれとも貴賤結婚か、本国政府は急遽《きゆうきよ》海外の現地政府からの意見を集めた。
「現地の議会も住民も、いずれも貴賤結婚には賛同しないでありましょう。ましてやシンプソン夫人をクイーンにすることなど、だれもここでは受け入れることはできません」
「国王陛下に対するあからさまな批判が満ちております。この女性をクイーンであれ、貴賤結婚の配偶者であれ、しかるべく位置づけるという考えには現地政府は反対です」
インドでもオーストラリアでも、人々はまだヴィクトリア朝時代の流儀で生きていたのだった。とりわけ現地の中産階級はモラルに厳格だった。
「退位以外に、適正な解決なし」
同年十一月十六日、王に呼ばれてバッキンガム宮殿に伺候したボールドウィン首相は、首相官邸に戻り閣僚に告げた。
「陛下は、どうしてもシンプソン夫人と結婚なさるおつもりだそうだ。『この国の世論についての君の見解は正しい、私が出て行くよ』と、おおせられた」
離婚訴訟以来の夫人の弁護士セオドア・ゴダードが、南仏カンヌのシンプソン夫人のもとに飛んだ。会談後、ゴダード弁護士は首相に電話で夫人のメッセージを伝えた。
「シンプソン夫人は、仮判決後の離婚訴訟手続の取り下げを私に指示され、陛下の退位を阻止するためであれば、なんでもするつもりであると、私に告げられました」
これを受けた首相は王に退位を考え直すよう求めたが、王はこれを拒否した。もっとも、ゴダード弁護士の本当の使命はそこになく、王が亡き祖母アレクサンドラ皇太后の残した宝石類でシンプソン夫人にプレゼントしたものを回収すべく、王室が急派したのだと囁かれた。
十二月十一日、ウィンザー城からのラジオ中継で国王エドワード八世は退位を宣言する。
「これから皆さんに話すにあたって、どうか私を信じてほしい。私には、わが愛する女性の援助と支えなくして、私の願いどおりに国王としての重責を担い義務を果たすことはできないと分かった。……私はここに、すべての公務から身を退き、荷をおろすことにした。私が祖国にもどるのは、少し先のことになるかも知れない。だが私は、つねに深い関心をもってイギリス国民と帝国の繁栄を見守っている。そしてもし将来いずれかのとき、私人としての立場で国王陛下にお仕えする機会が到来するならば、私は必ずそうするつもりである。
今や我々みんなの新国王がおられる。新国王、それから王の民である皆の幸せと繁栄を、私は心から願っている。皆に神の祝福を。ゴッド・セイヴ・ザ・キング(国王陛下万歳)!」
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第十四話 ジョージ六世の即位
亡きジョージ五世の次男ヨーク公アルバート殿下妃エリザベスは、「リトル・プリンセス」と愛称されてきた。彼女は、義兄エドワード八世が退位して夫が即位すると聞かされたとき、重症の風邪で寝込んでいた。肺炎を併発して最悪の状態でいるときに、ニュースがベッドに届いた。夫と、十歳と六歳の娘といっしょに、このピカデリーの住まいで幸せに過ごしてきた生活は永遠に終わってしまった。彼女はワッと泣き出した。ヨーク公夫妻の長女「リリベット」ことエリザベス=アレクサンドラ=メアリーは、自宅の表が騒がしいことに気づいた。とんとんと階段を降りて行って、ドアのそばに立っていた使用人にたずねた。
「お父上が新しい国王になられたのですよ」
彼は感激を隠しきれない様子で答えた。路上の群衆が、新王ばんざいを繰り返していた。大急ぎで階段を駆け上がりこの重大ニュースを妹のマーガレットに教えた。小さな妹は首をかしげて姉に問い返した。
「お父ちゃまがキングということは、つぎはお姉ちゃまがクイーンになるの?」
「ええ、いつかね」
姉は、幾分おごそかな表情で答えた。
スコットランドの名門貴族ストラスモア伯の娘エリザベス・バウズ=ライアン十九歳は、一九二〇年初夏の舞踏会で、父王からヨーク公の爵位を授けられたばかりの「バーティー」ことアルバート殿下と出会った。ベルリンで、あのアナスタシアが運河に身投げした年のことである。「ダービー・ナイト」と呼ばれるその日は、ロンドンの社交界にとって特別の日だった。毎年この日に、国王はバッキンガム宮殿でジョッキー・クラブのメンバーを招待して晩餐会を開く。王妃と子どもたちは、グロヴズナー広場に面したレディ・ファーカー邸のパーティーに出席した。ダンスの前に、会食の席がしつらえられている。六十名の参加者たちが三つの大テーブルにつく。高価な陶器の食器が並べられ、食卓にはスウィートピーの花が活けられている。食事が終わった頃、数百人の客たちがやって来る。その中にエリザベスもいた。痩せて背が高いヨーク公アルバート殿下に対して、彼女は小柄でふっくらとして愛らしかった。二人の出会いには伝説があり、五歳の彼女が十歳の彼に、さるレディのチルドレン・パーティーで自分のケーキのチェリーをあげたところから、彼が彼女に恋したのだという。大人になっても小柄な彼女は、生き生きとしたブルーの瞳と黒みがかった髪、人をそらさぬ愛敬で周囲に愛された。父の伯爵の居城はスコットランドのグラミスにあり、ヨーク公も夏の休暇にこの壮麗な古城の館を訪問した。その冬、母后メアリー王妃は息子がエリザベス嬢のことばかり話すのに気づき、女官にたずねた。
「バーティーはレディ・エリザベスに恋しているようだけど、どんなお嬢さんかしら?」
「よく存じておりますわ。とても良いお嬢様でございます。お二人はなにやかやの会合でお会いになる機会が多いのですが、けっしてご同席なされません。それでいてお二人とも、そばにいらっしゃる方にむかってお相手のことばかりお話しされるのです。いかにもあのお二方らしいですわ。お似合いのカップルでございます。エリザベスさまは、ご自分のお気持ちに確信がもてないのと、王家の一員となられた場合の公的なご生活をおそれておられます」
アルバートは、エリザベスとの結婚を心の底から願っていた。彼女は愛くるしい容姿をもち、暖かく誠実な人柄で、若いのに機転のきく頼り甲斐のある女性だった。彼は、早く自分の家庭をもちたいと考えてきたのだった。生まれ育った王室を離れたい気持ちが強かった。大英帝国の君主とその妻である両親には、小さい頃から暖かい雰囲気の中で可愛がられた記憶はない。だから自分で暖かな家庭を築くしかないと感じていた。母后メアリーは、いつも兄皇太子の不行跡を彼に語る。兄のように、既婚女性とばかり交際して正しい結婚を望まないのは間違っていると。
「アルバートさまはとても恥ずかしがり屋でございますから、おそばで拝見していて気をもんでしまいます」
一九二三年一月五日、「デイリー・ニューズ」紙が「皇太子にスコットランドから花嫁か、正式発表は目前」と大見出しで報じた。「メアリー王妃周辺からの情報によれば、……この高貴な生まれのスコットランドのレディ……ツウィードの南と北の双方に居城をもつ有名なスコットランド貴族の息女……」と、エリザベス・バウズ=ライアン以外ではありえないほのめかしかただった。しかし、兄皇太子エドワードとの婚約という誤報だった。すぐに訂正されたものの、王室ウォッチャーの監視の目は彼女にそそがれたままとなる。アルバートは辛抱強く待ち続けていた。
一九二三年四月二十六日、ふたりはウェストミンスター大聖堂で挙式した。ウェストミンスター大聖堂は歴代のイギリス国王の戴冠式の場所であり、ここでの王子の結婚式はこの五百年間ではじめてのことであった。しかも英国王室の基準に照らせば、レディ・エリザベスとの結婚は王室がはじめて公認した王族以外の「平民」とのそれであった。第一次世界大戦の最中に父王ジョージ五世が王室婚姻法を改正させたおかげである。アルバート殿下は、創設なったばかりのイギリス空軍の制服を着用して式に臨んだ。花嫁は象牙色のシフォン・モワレに銀糸とパールで刺繍し、ノッティンガム・レースの袖、古いベルギー・レースの飾り帯をつけた花嫁衣裳に身を包んでいた。それ以来、エリザベスは海軍士官アルバートの妻となって幸福な家庭を築いてきたのだった。
アルバートとエリザベスのふたりの間に一九二六年四月二十一日に生まれた長女にも、エリザベス(のちの女王エリザベス二世)という名がつけられた。金髪で青い瞳の可愛らしい赤ん坊は、「プリンセス・ベティ」の愛称で国民に親しまれた。マダム・タッソウの蝋人形館では、祖父のジョージ五世がプレゼントしたお気に入りのポニーにまたがる彼女の人形が人気を集めた。後年の「リリベット」という愛称は、自分でつけたものである。王家ただ一人の子どもであったため、二歳のときから王族としてのマナーを身につけさせられた。
「よいかね、人前ではもじもじしたりしないんだ。ほら大勢の大人たちがおまえを見ているから、しっかり手を振ってやりなさい」
祖父王が言う一方で、祖母のメアリー王妃も孫娘のしつけに熱心だった。
「おしっこは我慢できなくちゃなりませんよ。お出かけのときにお利口さんにできたら、あとで大好きなクッキーをあげますからね」
次女プリンセス・マーガレット=ローズは一九三〇年八月二十一日生まれで、エリザベス女王より四歳年下のただ一人の妹である。彼女の出生のときには、王室だけでなく国民全体、あるいは海外の植民地の人々も男児が生まれることを願った。祖父のジョージ五世は、二年前の大病で急速に衰えて歳をとった。皇太子は三十五歳だったが、いっこうに結婚する気配がない。他の弟たちグロスター公ヘンリーとケント公ジョージも、三十歳と二十八歳の気楽な独身生活を楽しんでいた。さしあたって王家に男児が生まれるとすれば、まさしくこの機会だとだれもが期待していた。姉のエリザベスは、祖父母のお気に入りだった。自分の子どもたちとは一度もそうしたことをしなかったのに、祖父王は孫娘をいつも膝に抱き、バッキンガム宮殿の床に腰をおろして彼女と遊んだ。祖母メアリー王妃も、庭や砂場でエリザベスと散歩したり遊んだりするのが楽しみだった。
(画像省略)
毎朝、王は朝食を終えると煙草に火をつけて一服し、やおら双眼鏡を取り出して宮殿の部屋の窓からピカデリーの方向を眺める。そこにはヨーク公一家の住まいがあり、窓辺でエリザベスが手を振ってくれていた。期待の第二子は男児ではなかった。父親のアルバートは妻に話した。
「これで二人姉妹になったけれど、この子たちは私と兄のエドワードとは正反対に育てたいんだ。兄は皇太子だったから、私はつねに長男と次男では身分が違うことを忘れないように教育された。二番目の娘にそんな思いをさせたくない。この子はこの子で私たちのかけがえのない大切な娘なんだということを、自分で納得できるように育ててやりたい」
四歳も離れていたが、ふたりは双子のように養育された。できるだけ同じものを着せ、同じ家庭教師に学ばせる。ただ長女が落ち着いておっとりした性格なのに対して、次女のほうはおてんばで勝ち気だった。夜になると、両親も加わって子どものカードゲームを楽しみ、お風呂のあとは寝室のベッドの上で枕を投げ合ったり、ひとしきり木馬に乗って遊んだりしながら成長した。
突然の即位をしたアルバート殿下にとって、国事は重圧だった。自分は国王の器ではないと真剣に悩んだ。
「公文書なるものを見たことすらないんだ。僕はただの海軍士官で海軍のことしか知らないのに」
ディッキー・マウントバッテンは、彼を励まして言った。
「珍しい偶然の一致だね。亡くなった父が話してくれたことがある。クラレンス公アルバート=ヴィクター殿下が一八九二年に亡くなったとき、君の父上がやって来て君と同じことを言ったそうだ。ぼくの父は答えたという、『ジョージ、君は間違っている。海軍での訓練くらい、国王になる準備としてふさわしいものはないよ』とね」
兄ほどおしゃれでも魅力的でもなく、ただ誠実で地味な弟王は、ディッキーの言葉にうなずいた。
「エディの退位のことでつらい思いをしたうえ、君と奥さんのエリザベスは、この国を引っ張って行く重責を彼にかわって担うんだ。本当に大変なことだけれども、君もエリザベスもそれだけの資質を備えている。それに君のお父さんも、『セイラー・キング』と呼ばれたじゃないか。いま海軍の仲間たちは、セイラー・キングの再来を喜んでいるよ」
退位のための公文書にサインした一九三六年十二月十日、エドワード八世は退位後の生計費問題について相談するため、つぎの国王ヨーク公アルバート殿下と自分の住まいフォート・ベルヴェデアで話しあった。兄は弟に向かって言った。
「父王の遺言状の内容は、もちろん私が退位することを予想して書かれたものではない。だから国王になる長男の私には、金銭はなにも残されなかった。王位継承者である以上、そんな配慮は不要と思われたからだね。こんな条件のまま王でなくなると、私は飢えてしまうよ。政府からであれ王室からであれ、財政援助してほしい。私個人の財産は、総額九万ポンドにすぎないのだから」
エドワードはこれまでの騒動で憔悴しきっており、将来の金銭問題にいらだっていた。交渉のすえ、つぎのような条件でいったん合意が成立した。兄弟二人で契約書に署名している。
「一 新国王は、議会が国庫からの同様の支出を認めない場合には、王室の固有財産から年額二万五千ポンドを先王に支給することを約束する。ただし、議会の拒絶が先王に原因ありとされる場合はこのかぎりでない。
二 議会が王室予算上この支出を発効させるまで、先王はシンプソン夫人に会わないと約束する。
三 先王はその個人所有とされているサンドリンガムの所領を、新国王に公正な価額で売却する。
四 スコットランドにあるバルモラルの所領も先王の個人所有であり、これがスコットランドの法にしたがい新王に移らない場合、やはり先王から新国王に公正な価額で売却する。
五 上記の認められた条件と引換えに、先王は新王に対し、サンドリンガムおよびバルモラルの所領の売却益から生じる終身受益権を放棄することに同意する。
六 同様に、サンドリンガムおよびバルモラルの所領内にある先王の所有財産すべて、ウィンザー所在の家畜や農具、……ならびにジョージ五世の死で相続したすべての動産につき、先王はそれらの新王への贈与に同意する。
七 先王が負担してきた現在四人の兄弟全員のための年金についての責任は、新王が引き受ける。
八 即位により新王がウィンザー王家の長となることから、家宝の品々が新王の所有となることにつき、先王は同意する」
年額二万五千ポンドというのは、一九一一年に定められた王室予算にしたがい、王弟たちが受け取ってきたのと同額であり、王の兄も王の弟並みとみなせるからということだった。だが大蔵省側は、先王の経済状態の説明に首をかしげた。
「先王陛下のお手元の財産がわずか九万ポンドというのは、いったいどういう計算でしょうか? 皇太子時代の一九一〇年から一九三六年まで、コーンウォール公爵領からの収益を毎年お受けになりました。三六年のそれだけでも七万ポンドを超えております。もっとも、成人されてからの一九一五年以降は、たび重なる公務海外出張や社交上の出費、それにお身のまわりの世話をする者たちの報酬など、すべてこの収益により支払われました。とはいえ、それ以前の収益はほとんど支出の必要がなく、しかもインフレ前の金額は莫大です。それらを投資運用などされまして、ご即位当時には、おおよそ百万ポンド(現価で十五億円相当)でした。これをシンプソン夫人への数々の高価な宝石類のプレゼントや、お住まいのフォート・ベルヴェデアの改修にお使いになりました。もちろん王室費も支給されておりますから、あれこれを差し引きいたしまして、九万ポンドでなく八十万ポンドというところが、お手持ちの金融資産ではないでしょうか。これを上手に投資運用いたしますと、現在の実績では二万五千ポンドの年金額はかるく超えてしまいます。これまで課税負担もありませんでしたから、一般国民ならこの半額は税金に取られます。イギリスにお戻りになられないかぎり、もとよりイギリスの税はかかりません。そこへまた、非課税で年額二万五千ポンドを国庫からお支払いするというのはどうも」
一方、約束された年額二万五千ポンドの給付も、贅沢な生活を送ってきた人間からすれば、たいした金額ではなかった。
「私が希望したよりはるかに少ない額しか、認められないそうだ」
彼は、先に出国してカンヌで経過を見守っていたウォリスに国際電話で報告した。
「あなたはあのとき、ロンドンからの財政援助がなければやって行けないと、私に言いましたね」
退位の翌年、ジョージ六世となったヨーク公はウィンザー公となった兄に宛てて書いている。
「そんなことはないと否定されるけれども、たしかに私はそう聞きました。そしてあなたの言葉を信じたのです。当時のあなたは退位問題で緊張のさなかだったし、私はそれをとがめるつもりはありません。けれども、私が完全にミスリードされたという事実は残ります」
大蔵省の担当者や王室の財政顧問、王の法律顧問である弁護士や、王や首相の秘書官といった面々が集まって協議をかさねた。
「そもそも退位された先王の生計費を、王室予算でまかなうことができるのですか?」
「できぬということであれば、これは王家内部のプライヴェートな問題となりますかな」
「公的であれ私的であれ、新国王陛下ご自身が契約書にサインされたのですぞ。王が前言をひるがえし、約束をほごにされるというのはいかがなものか」
「それに王がお約束を守られなければ、ウィンザー公もそれに拘束されなくなってしまいますよ」
「まさか復位を要求されるわけではあるまい」
「サンドリンガムとバルモラルの所領を国王陛下がウィンザー公からお借りすることにして、年額一万ポンドの賃料をお支払いするというかたちをとってはどうでしょう」
「体裁さえ整えば、一万ポンドなら構わぬということか」
「法的な拘束力ある契約をなさったのですぞ。金額はともかくとして、他の契約条項はどうなさるおつもりか?」
「ウィンザー公は、公正な内容の契約を結ぶために要求される前提を充たしておりません。ご自分の経済状況につき、手の内を全部は明かされなかったからです」
「国王陛下としては、ご自分がサインされた内容を否認なさることができるというわけですな」
最終的な金額は四千ポンド減の二万一千ポンドで落ち着いた。うち一万一千ポンドは、二つの所領を国庫におさめたうえで、それを国王が借りうけて、その賃料を国に払い、これを政府がウィンザー公に終身支給する。残りの一万ポンドは、国王自身が任意に支払うものとし、ウィンザー公が政府の助言に違反して帰国した場合には、打ち切られるものとされた。のちの一九五二年にジョージ六世が亡くなると、後者の金額についてはジョージ六世個人が支給してきたものだからということで、いったん打ち切りがウィンザー公に通告される。公からのはげしい抗議で通告は撤回され、公が亡くなる一九七二年まで毎年この金額が支給された。晩年の六〇年代に、ウィンザー公は自分の死後もこの年金がウォリス夫人に支給されるよう請願を繰り返した。エリザベス女王は、伯父の遺志を尊重して半額の五千ポンドをウィンザー公未亡人が一九八六年に亡くなるまで払い続けた。
彼ら兄弟には、退位前にまだ話しあわねばならないことがあった。退位後の王ならびにその結婚相手の地位と称号である。国王の自発的な退位という先例のないことだけに、政治家や役人たちも頭を悩ます問題だった。
「王家の生まれを否定するわけにはいかないから、『殿下 (H. R. H. = His Royal Highness)』の称号は残さなくてはならないだろう」
「しかし、退位した王やその子孫が王位継承権を主張するのはおかしい」
「新しい公爵家をひらいて『デューク・オブ・ウィンザー』と名乗ることについては、ご兄弟で一致したようですな」
「ロイヤル・デュークだからといって、上院に議席をみとめるわけにはいきますまい」
「イギリス陸海空軍の軍籍までは剥奪すべきでないでしょう」
こうして先王の退位後の条件が整えられたあと、ヨーク公が即位文書に署名した。一九三六年十二月十一日、新国王ジョージ六世が即位した。別れの前に、弟は兄に聞いた。
「私が考えついた『ウィンザー公爵』という名はどんな具合ですか?」
ウィンザー公としては、自分がロイヤル・デュークであり殿下の称号を許されている以上、結婚相手のウォリスは、当然にウィンザー公爵夫人であると同時に、妃殿下と呼ばれるものと思っていた。だが結婚直後に、彼女を王家の一員とは認めず、「妃殿下 (H. R. H. = Her Royal Highness)」の称号は与えられないと通告された。
「『殿下』の称号はウィンザー公自身に限られ、公の妻ならびに子息がこのタイトルを使用することは許されません」
ジョージ六世からの書簡を読んで、新婚のウィンザー公は吐き出すようにつぶやいた。
「なんてすてきな結婚祝いのプレゼントなんだ!」
それから、ウォリスに向かって言い訳するように言った。
「私はバーティーのことはよく知っている。弟は、こんな手紙が書ける人間じゃない」
彼はその生涯を通じて、まさしく死の直前まで自分の妻を王室のメンバーとし妃殿下の称号を与えるよう請願し続ける。晩年の一九六六年に、彼は言っている。
「私を祖国と家族から切り離したこの冷血な仕打ちは、あの『ベルリンの壁』みたいに思えた」
夫が「殿下」でありながら、妻は「妃殿下」でないという事実は、あのバッテンベルクやフランツ=フェルディナントの時代でなく二十世紀半ば以降の社会でも、なお人々を当惑させた。
「ウィンザー公ご夫妻をお招きするとしたら、まず公に向かっておじぎするなり膝を折ってご挨拶するなりして、それから公爵夫人にはただ握手していただくことになるのかしら?」
「うむ、おじぎや膝を折るのは、王族に敬意を表する場合のしきたりだからね。それを、奥様が王族でないということだと」
「お呼びかけは、どうなさるおつもり?」
「まず『殿下 (Your Royal Highness)』とおごそかに申し上げてから、つぎに『奥様 (madame)』なんていうのは、実に具合の悪いものだねえ」
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第十五話 ウィンザー公とヒトラー
ロンドンのドイツ大使館勤務だったヘッセン大公家の次男ルートヴィヒ殿下がイギリス貴族の娘と結婚することになったとき、ドイツからロンドンに向けて飛び立った兄のヘッセン大公ゲオルク殿下とその一族は、全員が飛行機事故で死んでしまう。ルートヴィヒ殿下と花嫁の若いカップルは、けなげにも悲しみのなかで式に臨んだ。ギリシャ王女の妻マリナ妃と一緒にケント公が、また新郎と従兄弟同士のディッキー・マウントバッテンが妻とともに、それにドイツ大使リッベントロープ夫妻だけが参列した。リッベントロープ大使が信任状を携えてバッキンガム宮殿に赴いてわずか二週間足らずで、エドワード八世は退位してしまった。翌一九三七年二月五日、大使はふたたびスワスチカ(かぎ十字)の旗を立てたメルセデスでバッキンガム宮殿へと向かった。新国王ジョージ六世に信任状を提出するのである。今度は「正装」だった。バイエルン風の半ズボンに長いソックス、バックルのついた短靴をはいている。新国王の謁見を終えて退出する際は、習わしに従い、あとずさりしながら三度立ち止まり国王におじぎを繰り返さねばならないとされていた。当時のイギリスの宮廷でのおじぎの仕方は、決して腰を屈めるように深いものではなく、軽く優雅に頭だけ下げるものだった。彼は三回ともおじぎと同時に右手をさっと伸ばして上げ、ナチ式の敬礼をした。
「ハイル・ヒトラー!」
と叫んだかどうかは分からない。ジョージ六世の反応はといえば、軽く微笑んだだけだった。居並ぶイギリス側の人々の顔は怒りでひきつっていた。
「あんな無作法は見逃せませぬ、陛下とわが国に対する大変な侮辱です」
大使が退出すると、だれもが王に訴えた。ジョージ六世は笑って答えた。
「気にしないよ。私には、へんてこな挨拶の仕方だと面白かっただけだ」
大使に同行したルートヴィヒは、大使館の広間の長椅子に倒れこんで笑いころげた。
「君たち、想像できるかい? 大使は、イギリス国王に向かってナチ式敬礼をやってのけたんだ。思い出すだけでおかしくて」
イギリスの新聞にとっても、それは格好の話題だった。さっそく各紙は書きたてた。
「新イギリス国王かつインド皇帝に対してナチ式敬礼! 『リッブ(リッベントロープ)・ハイルズ・キング』」
イラストの漫画で、ソヴィエト大使が握りこぶしを国王の鼻先につきつけ、
「共産主義者の敬礼! この国では、だれもが自己流の挨拶をするのだ」
と記したものもあった。ドイツの記者たちも、おもしろおかしく尾ひれをつけて本国に送稿した。
一九三七年六月三日、フランスのツーレーヌに富豪のシャルル・ベドーが所有するコンデ城で、ウィンザー公と前シンプソン夫人のウォリスは結婚式を挙げた。イギリス王室からの出席者はなく、ディッキー・マウントバッテンも出席しなかった。ハネムーン旅行ののち、いったんパリに落ち着いたウィンザー公夫妻は、十月にはドイツへの旅に出発する。困難の増す世界情勢の中で、これはイギリス政府と王室にとって決して好ましいことではなかった。ウィンザー公にしてみれば、王様と結婚するはずだったのに玉座を手放した彼と結婚する羽目になったウォリスに、今でも自分が重要人物であることを見せたかったのである。公夫妻の後援者ベドーは当時五十歳、一代で財をなしたフランス人実業家だった。当時のアメリカでは長者番付第五位にランクされている。ヒトラーの側近と交渉して、ウィンザー公のドイツ旅行をアレンジしたのもこの人物だった。ナチス政府の手により経済復興をとげたドイツの労働者の現状視察ということで、ナチの労働団体「アルバイツ・フロント(労働戦線)」が夫妻を招待することとなった。もともとウィンザー公は、若い皇太子時代からイギリス国内の失業や住宅問題に関心を寄せていた。同時に、ニコライ一家の悲惨な最期から、共産主義の脅威がイギリスにまで及ぶのをなによりも警戒していた。貧しい労働者階級が革命に走るのを防ぐには、ドイツのナチズム、つまりヒトラーが推進していた国家社会主義による社会改革が有効だと考えていたようである。当時は、英米にもヒトラーは正しいとする人々が大勢いた。
駐英大使リッベントロープはウィンザー公の政治的な利用価値を考え、急ぎ帰国して盛大な歓迎プランを立てた。ドイツでのウィンザー公夫妻は晴れやかな表情で、じつに幸せそうにしていた。ミュンヘンのビアホールでは、地元のドイツ人客に混じってジョッキを重ね肩を組んで歌を歌った。ナチの副総統のルドルフ・ヘス夫妻や、ヘルマン・ゲーリンク元帥夫妻との会食後、元帥の部屋の壁に貼られていたヨーロッパ地図が、ウィンザー公の目にとまった。その地図では、オーストリアはドイツ領になっている。公の質問に、元帥は太った身体を揺すって笑い、
「もうすぐ、オーストリア人自身がお隣と一つになろうと決断するのです」
と言った。ドイツ軍がオーストリアに侵攻しこれを併合するのは、翌三八年三月のことである。ナチの宣伝相パウル=ヨーゼフ・ゲッベルスは、十月十二日の日記に記している。
「ウィンザー公は、ベルリンで熱烈に歓迎された。彼はこのドイツの旅を妻とともにはじめた。……午後のお茶の席で彼に引き合わされた。……しかし公はすばらしい。気持ちのよい好感のもてる人物で、オープンで明晰、しっかりとした人間理解、現代生活と社会問題にも目が届く。彼との懇談はなんと楽しかったことか。彼は何の話題にでもとびつき、あらゆる問題に関心を示し、決してスノッブではない。我々は実に種々雑多なことを話しあった。議会制度、社会問題に労働者問題、国内問題に国際問題。この人物がもはや国王でないとは、残念なことだ。彼とであれば、我々は同盟を結ぶことができたはずなのに。……彼の妻はあっさりしているが上品、エレガント、決してこれはあてこすりでなく本物の貴婦人だ。公には真の王となる素質があったればこそ、人々は彼に傾倒したのだ。会ってみてそれがいっそう納得できた。この三時間で本当に彼が好きになった。実に楽しい午後だった。人柄というものだ。(退位は)残念だし気の毒だ! 妻のマグダも感激していた。とくに公夫人のことが気に入ったようだ。これから彼は視察旅行をする。多くを見て知ることができるだろう」
十月二十二日、公夫妻はベルヒテスガーデンの総統の山荘に招かれた。そこには、公が長年憧れてきた人ヒトラーが待っていた。ナチス・ドイツの政策がもたらした経済的奇跡、労働者の住宅を建設し、完全雇用を実現したとされるその実績こそ、ソ連共産主義の脅威と対抗できる手段のはずだった。ナチスは、一九三三年の政権掌握直後には、ミュンヘン近郊のダッハウに最初の強制収容所を作っている。そうしたナチスのもう片方の側面は、まだ知られていなかった。ヒトラーは、ウィンザー公が退位したことを本当に残念がっていた。いずれドイツとイギリスの政策方針が衝突するとき、ドイツびいきの君主がイギリス側にいてくれたらなんと好都合だったことだろうか。ヒトラーは、まだ諦めてはいなかった。公は彼にむかって恥ずかしそうに微笑み、ぎごちなく右手を上げてナチ式の敬礼のまねごとをした。少なくともドイツ側ではそう証言する。
「あの女なら女王になれるよ」
ウォリスについて、そう側近にもらしたヒトラーの頭に、イギリスに傀儡《かいらい》政権をつくりウィンザー公を復位させようというアイデアがひらめいた。リッベントロープは、ベルリンでウィンザー公夫妻に会った。総統との会談の折のウィンザー公は、決してあからさまには総統に賛同せず、言質をとられないよう周到だったと聞かされていた。ドイツ語を話せるウィンザー公は、自分がなにかを批判したとき、ドイツ側の通訳が総統の意向を気にしてトーンダウンした表現で伝えたことを怒り、
「誤訳だ!」
と叫んだという。リッベントロープは、レストラン「ホルヒャー」に夫妻を招待した。会食に同席したのは、悪名高いナチの親衛隊(SS)の創始者ヒムラー夫妻のほか、映画女優のマリアンヌ・オッペ、それに俳優でナチの手先だったグスタフ・グリュントゲンスである。周囲に紹介される際、ウィンザー公は両足の靴の踵をパチッと合わせる旧プロイセン軍人ふうの挨拶をしてみせ、居並ぶ者たちを喜ばせた。
一九三八年七月、新国王ジョージ六世夫妻はフランスを公式訪問した。きたるべき戦争の予感が暗雲のようにヨーロッパ全土をおおいはじめていた。フランス国民は第一次大戦の記憶から、ふたたびドイツと戦争になるかもしれないという不安にかられ、イギリスとの連合に期待をこめていた。人々は、沿道で両国国旗の小旗をふって歓迎した。七月二十日、第一次大戦の戦没者の無名戦士慰霊碑にそろって参拝しようとした際の出来事だった。警護のすきまをかいくぐり、一人のフランス人の若者がエリザベス王妃めざして駆け寄った。王やフランス政府の要人、イギリス側のパリ駐在大使夫妻などの列が乱れ、周囲に緊張がはしった。ドイツの秘密警察ゲシュタポによる国王夫妻の暗殺をおそれて、フランス政府は厳戒態勢をしいていたのだった。
「止まれ!」
いち早く異変に気づいたフランス人将校が叫んだとき、若者は王妃に右手をつき出した。エリザベス王妃は少しもうろたえず、落ち着いた態度で差し出されたものを見つめた。若者は赤いポピーの花束を彼女に手渡そうとしていたのだった。王妃は嬉しそうに首をやや傾け、にっこり笑ってそれを受け取った。ジョージ六世は神経質そうに眉をひそめていたが、それを見て安心した様子だった。慰霊碑に詣でるばかりの場で花をもらうというのは、情景としてふさわしくなかった。しかし大勢のフランス人が見守る中で、その花束を捨てたりお供の者に下げたりするのも適当とは思えない。彼女はにこやかな表情のまま、おもむろに花束をほどくと慰霊碑を半円で囲むようにポピーの花を一本一本並べた。人々は彼女の機転と優しさに感動し、幸せそうな表情でお互いに目配せを交わし合った。ジョージ六世も王妃に微笑みかけた。
ふたたび群衆が移動しはじめたところで、大きな声が室内に響いた。
「そこで止めろ!」
青い光りの中でニュースフィルム風の映像が止まり、それまで暗かった部屋に明かりがついた。ヒトラーはいらいらした様子で席を立ち、映写幕のそばまで行くと、ちらつく青い光りの中で静止したイギリス国王夫妻の映像にむかって右手を上げ、王妃を指さして周囲に言った。
「こいつ、こいつは容易ならん。ヨーロッパ一危険な女だ」
あるいは本物のニュース映画を流用し、あるいはこっそりとドイツのスパイが盗み撮りした各国の要人の映像を、こうして上映させて観察するのがヒトラーの秘かな楽しみでもあった。
「いずれ時が来たら、あいつらは除かねばなるまい」
イギリスがドイツに宣戦布告する直前の一九三九年八月二十二日、ジョージ六世は独ソ不可侵条約が締結されたことを知った。ヒトラーとスターリンの思惑の一致から生じたものだった。イギリス大使から外務大臣に栄転したリッベントロープの功績である。これより前に日独伊防共協定を結んでいた日本は、外モンゴル国境ノモンハンでソ連と軍事衝突している最中だった。ドイツに突き放された形になり、内閣は総辞職した。日本は途方に暮れている。ジョージ六世は、すぐ外務省に連絡をとった。
「私自身が、日本の天皇に親書を書くというのはどうだろうか。つまり東洋人とのつき合いでは、元首間で直接のコミュニケーションをはかることが、とてもだいじだと思うのだが」
第二次世界大戦の開戦当時、アメリカ合衆国の駐英大使はジョゼフ・F・ケネディだった。のちの合衆国大統領ジョン・F・ケネディの父親である。ジョゼフ・ケネディはアイルランド系アメリカ人の富豪で、駐英大使になれたのは、ときのフランクリン・D・ルーズベルト大統領を支援してきた功労人事だった。アイルランド移民の子としてボストンで生まれた彼は、イギリス的なものを嫌っていた。戦争が近づいていたが、アメリカがイギリスに味方して戦争に巻き込まれることなど、あってはならないと考えた。イギリスのネヴィル・チェンバレン首相に、ベルリンに飛んでヒトラーと話し合うべきだと説いた。その一方で、ケネディ大使はアメリカ政府に報告し続けた。
「イギリスには戦争準備ができていない。アメリカは、負ける側につくべきではない。厳格に中立を守り、ヒトラーと融和すべきである。きたるべきヨーロッパの戦争に、アメリカが介入する余地はない」
ケネディ大使は、ドイツの同業者リッベントロープに信頼を寄せていた。
「アメリカ大使は、わがナチス・ドイツの反ユダヤ主義に対しても、ある程度の共感を示された」
と、ドイツ大使館員はロンドンから本国政府へ報告している。一九四〇年に、ケネディは駐英大使の職を解かれ、失意のうちにロンドンを去る。
ウィンザー公は、彼なりの戦争回避の努力を試みている。一九三九年八月末、滞在中のニースから直接にヒトラーに宛てて電報を打った。
「二年前のあなたのご厚意と私たちの出会いを思い出しつつ、現時の諸問題の平和的解決に向けてあなたが最高の影響力を行使されるよう、私はまったく個人的かつ率直に、しかし極めて真剣にアピールします」
ヒトラーは、ウィンザー公に返電を打ち、
「私のイギリスに対する態度は、当時と少しも変わらぬことを信じて下さい。……しかしながら、英独関係を将来にむけ発展させたいという私の願いが実現するかどうかは、イギリスしだいです」
と伝えた。
九月三日、フランスのアンチーブの自宅で、ウィンザー公夫妻はプールに入って泳いでいた。召使いが、パリの英国大使からの電話を告げた。召使いが差し出すローブを濡れた水着のうえにはおり、部屋に入って電話に出たウィンザー公は十分間ものやりとりを続けたあと、庭に戻った。プールサイドの夫人に、
「たった今、イギリスがドイツに対して宣戦布告したそうだよ」
と言うなり、水しぶきを上げてプールに飛びこんだ。
ジョージ六世は政府に命じて南フランスに救援機を飛ばさせ、夫妻をイギリス本土に避難させるよう手はずを整えた。けれども、ウィンザー公夫人ウォリスは大の飛行機嫌いだった。イギリスに帰国することになったと聞いて、盛装で山のような大荷物の旅支度を済ませたものの、空路によることが分かった途端、パニック状態になってしまった。仕方なく公は、駆逐艦を迎えによこすよう弟に依頼しなおす。シェルブールの港までウィンザー公夫妻を出迎えたのは、駆逐艦「ケリー」とその艦長ディッキー・マウントバッテンであった。ディッキーの晴れやかな笑顔にやっと二人は安堵したものの、帰国後の自分たちがどのように扱われるかが心配だった。海軍大臣ウインストン・チャーチルの名代として、その息子ランドルフが艦上で夫妻を待ちうけていた。
「きっと戦争が、家族のきずなを元にもどしてくれるに違いない」
公は、自分に言い聞かせるように言った。王室の人々も深刻な気持ちでいた。
「私たちは、あのミセス・Sをどう扱えばよいのですか?」
エリザベス王妃が、メアリー皇太后にたずねた。
「どの先代だって先々代が亡くなってから王位を継いでるのに、私の先代ときたら、まだ生きてるだけじゃなくて生き生きし過ぎなんだから!」
ジョージ六世はうめくように言った。
ディッキーは、ウィンザー公夫妻を救出するためフランスのシェルブール港に向かったとき、部下の士官たちに、
「決して、公の魅力を過大評価しないように」
と警告した。やはり弟のジョージ六世よりもこの人が王でいてくれたら良かったのにと、皆が思うことを心配したのである。だが、そうした心配は無用だった。駆逐艦のデッキで、ウィンザー公は元海軍士官にしては間抜けな質問ばかりして、乗組員たちをがっかりさせたのだった。
「海上にブイが見当たらないが、ブイなしで君らはどんなふうにして目的地にたどり着くことができるのかね?」
九月十二日夜、シェルブールを出た駆逐艦「ケリー」は、Uボートの魚雷攻撃を避けるためのジグザグ航行を続け、六時間かけて無事ポーツマス軍港に着いた。
王室のメンバーの出迎えはなく、彼らの荷物を運ぶための従者や車の手配もなされていなかった。夫妻はその滞在期間のほとんどを、ウィンザー公のかつての秘書官のロンドンと郊外の住まいで過ごした。ウィンザー公は単身でバッキンガム宮殿に弟王を訪問する。女性たちはいないほうが話をしやすいということで、エリザベス王妃たちはロンドンを離れていた。兄弟の再会はよそよそしい雰囲気だった。ウィンザー公は尋ねた。
「しばらくイギリスにとどまり、軍隊や民間防衛隊を査察してまわるというのはどうだろうか?」
「政府に相談しなくてはなんとも言えませんが、国防省の意向ではもう一度フランスの現地で働いていただこうかと」
「この非常時だから、私もなにか国家に役立つことをしたいんだ。国内の防衛態勢強化のための巡察ではいけないかね」
「国内に敵のスパイがいる可能性もあるのですから、あなたが各地の軍事拠点を訪問されることで軍の配備状況が知られてしまうおそれもあります」
それに陸軍の兵士たちが、夫人ウォリスに敬礼することを喜ぶかどうか、国王は口には出さなかったが、国民の反響を心配していた。
戦時のイギリス本国にもウィンザー公夫妻の居場所はなく、再びパリに戻って、英仏連合軍の要員として軍務につくことになる。だが一九四〇年五月十日、ついにドイツ軍のフランス侵攻作戦が開始された。その同じ日に、チャーチルが首相になっている。グーデリアン元帥麾下のドイツ軍機甲部隊がアルデンヌの対戦車防御陣地をやすやすと突破すると、パリはパニックに陥った。ウィンザー公の一行は、命からがら南フランスのアンチーブまで逃げ、そこから車でピレネー山脈を越えてスペインに入った。同年六月二十三日、ウィンザー公はマドリッドの高級ホテル「ザ・リッツ」で四十六歳を迎えた。イギリス政府は、ウィンザー公夫妻にポルトガルのリスボンへむかうよう指示する。そこから英本国へ帰国することになりそうだった。七月三日、二人はリスボン郊外の海を見おろす別荘に落ち着いた。そこで彼らに届いたのは、帰国ではなく中米のバハマの総督に公を任命するという知らせであった。リスボンから直接にバハマへ向かう便船を待てという。公は激怒した。
「一九四〇年のセント・ヘレナというわけね」
ウォリスは、ナポレオンの島流しになぞらえて言った。
ヴァルター・シェレンベルクは、まだ三十歳と若年ながらナチ親衛隊少将で、現在は国家保安部(SD)の外国情報部長の地位についていた。ドイツ占領下のパリで、ココ・シャネルの恋人と噂された人物である。日本を揺るがせたソ連スパイのドイツ人記者リヒアルト・ゾルゲについても、不審な点があるとする一報は、彼のもとに届けられていた。だが、日本の官憲がその組織を摘発するまで、その正体を見抜けなかったという。戦後、シェレンベルクは回想している。
「ゾルゲは一匹狼だった。母親がロシア人、父親はドイツ人だが長年ロシアで暮らした人物だったという彼の出自によるものだろう。共産主義による新しい社会秩序を通じて、ロシアとドイツの真の和解をはかれるものと信じていたようだ。ナチズムとファシズムを拒絶しただけじゃなくて、心底から憎んでいたんだ。ロシアの秘密情報員は、中央からの厳密な指示に従って動くものとされている。だが彼には、大幅な自由裁量の余地が与えられていた。ロシアの上層部がゾルゲの性格をよく理解していたからこそ、そうした異例の処遇がなされたのだろう」
一九四〇年七月のこと、シェレンベルクのもとに、外務大臣となってベルリンに戻っていたリッベントロープから電話がかかった。独特のよく通る声が受話器に響いた。
「やあ君、どうかね? ちょっとこちらへ来てもらえないか」
「かしこまりました。ご用件の概要を教えていただければ、必要な書類を準備して参りますが」
「いやいや、電話では話せないことなんだ」
受話器を置き、なにごとにも嫉妬深い国家保安部の長官ラインハルト・ハイドリヒに、外相から呼び出しがあったことを報告する。
「あのバカのことは、私はもう話題にしたくもないのだよ。いいから、行ってきなさい」
と言われ、シェレンベルクは総統官邸内の外相の執務室に出むいた。
「マドリッド駐在のフォン・シュトーラー大使から連絡があった。元イギリス国王のウィンザー公はスペインを経由してリスボンに滞在中だが、そのうちバハマ総督として赴任するそうだ」
外相の言葉を聞きながら、シェレンベルクは、目の前の人物が英国大使としてロンドンに駐在していた頃からずっと、毎年ウィンザー公夫人ウォリスの誕生日に七本の真紅のバラを届け続けている事実を思い出していた。総統がその理由をたずねても、彼は笑って答えなかったという。
「そこで、これは総統閣下自身のご命令だ」
軍人でもないのにリッベントロープは、総統閣下に言及するとき生真面目な表情で両方の靴の踵をパチッと合わせた。
「嫌味な奴だ」
実はナチズムの信奉者でないシェレンベルクは、内心ひそかに思った。
「つまり現在のウィンザー公は、イギリス秘密情報部の手で囚れの身というわけだ。解放されたがっている。総統も私も、あの方は真のドイツの味方だと思っている。そこで総統がおっしゃるには、ウィンザー公が独英両国の友好関係を支えて下さるかぎり、むこう二十年間にわたり総額五千万スイスフランを提供してもよいとのことだ」
「それで、私の役目は?」
「公夫妻に、いったんスペインに戻っていただいたうえで、例えばスイスなり適当な国に移ってもらう。それを君が現地で指揮するのだ」
「こちらの味方という確証はあるのでしょうか?」
「地元の銀行家をやって、この戦争についての公のお気持ちをたずねた報告がある。公は、自分が王だったら決してドイツと戦争になるようにはしなかったと答えられた。総統閣下の平和への願いには深い感銘を受けたと言われたそうだ」
「誘いに乗ってもらえない場合はどうします?」
「あらゆる手段を用いて、それには実力行使も含まれるが、まずスペインに越境してもらうのだ」
「かしこまりました」
シェレンベルクが引き下がろうとすると、リッベントロープは最後に言った。
「ああ、そうだ! 公夫妻への提案を先方に伝えることができたら、なによりもまずウィンザー公夫人がどのようにお考えかをこちらに報告したまえ。夫人が公に対して絶大な影響力を持っていることは、周知の事実だからな」
シェレンベルクは、ハイドリヒ長官に報告する。
「私にはいっこう気に入らない話だな。だが総統が承認したからには君が断るわけにもゆくまい」
ハイドリヒは首をかしげてそう言ったあと、にやりと笑ってつけ加えた。
「私がイギリス情報部の長だったら、君らに一泡吹かせてやるところだ!」
ウィンザー公誘拐作戦が開始された。彼はリスボンに飛び、日本人エージェントの協力をえて公夫妻が滞在しているエストリル海岸の別荘の図面を入手し、彼に依頼して様々な策略を実行に移した。別荘の窓に投石して、それがイギリス情報部の嫌がらせだと噂を流す。別荘の従業員を抱きこんで夫妻の居間に花束を送り、「イギリス情報部の陰謀に注意」というメッセージを添える。公と親しい現地の上流階級の人間に夫妻をスペイン国境近くのドライブに誘い出させ、強引に越境させようとするなどを試みた。この日本人エージェントとは、シェレンベルクが駆け出しのスパイだった頃、北アフリカのダカールのフランス海軍基地の情報収集に出かけたとき以来の仲だった。高価で精度が高いけれども目立つ「ライカ」製のカメラを手にしたドイツ人の若造を見て、日本人のベテランエージェントは丁寧に教えてくれたのだった。
「君は机上の作戦計画の立案はともかく、現場馴れしていないようだな。そのカメラはここに預けて、かわりに安物で目立たないのを持って行きなさい。それから写真を撮ったら、フィルムはそのまま『商品見本』として、こちらに送り返すんだよ」
今回も彼は、シェレンベルクにとって心強い協力者だった。公夫妻の日課とか、別荘を警戒するポルトガル警察やイギリス側の護衛などの情報も調達してくれた。
ドイツ寄りのポルトガルの実業家が、横から公を説得した。
「基本的にドイツは、イギリス国民との和平を望んでいるのです。ただ、好戦的なチャーチルとその一党が障害となっているに過ぎません。ここは公ご夫妻自身が、両国の和平にむけて動かれるべきかと存じますな。そのためには、バハマ行きなどお断りになればよろしい」
「停戦のために個人的に犠牲を払う気持ちは十分ある。イギリスかドイツのいずれかが私にそうしてほしいと言ってきたら、喜んで尽力するつもりだ。だが、いますぐ政府の命令にそむいて行動するのはスキャンダルになりかねない。私の英国での名声にきずがつく。時期尚早というものだろう」
実業家は、焦って言った。
「バハマへ行かれるべきじゃありません。スペインへお戻りなさい。和平が成立すれば、またイギリス国王の座にも復帰なさる運命が待っているかも知れませんよ」
ウィンザー公は、その言葉に驚いて言った。
「しかし、そんなことは英国憲法上できないはずだ」
ベルリンのリッベントロープからシェレンベルク宛てに、暗号電報が届いた。
「いまとなっては実力を行使しての誘拐作戦に切り替えるべしとの、総統閣下のご命令である」
シェレンベルクはそこまでは考えていなかった。以前にドイツ国境に近いオランダの街で銃撃戦の末イギリス人のエージェントを誘拐して車に押し込み、ドイツに拉致したことがあった。だが敵地同然のこの土地で暴力に訴えても、公夫妻を抱えての逃走に成功するはずはない。日本人のエージェントは、心配してあれこれ彼にアドヴァイスしてくれるのだった。
「命令は命令だから実行しなきゃならんでしょうな。だが命令に違反しないかたちで無茶をせずにすむかも知れません。上司に言い訳が立つように命令を回避できたらよいのでしょうが」
シェレンベルクはベルリンに問い返した。
「緊急の事態では、武器の使用も可なりや?」
「状況に応じ、適宜対処すべし」
結局、八月一日夜、ウィンザー公夫妻はアメリカの客船「エクスカリバー」号でバハマへと向かうことになる。シェレンベルクは、船への荷物の積みこみをサボタージュさせたり、時限爆弾が船底に仕掛けられているという情報を流したりして、あくまで策略で最後の瞬間まで公夫妻のバハマ行きを止めようとしたが、成功しなかった。
「ヴィリーにはその気なし」
作戦終結を報告する最後の暗号電報がベルリンに送られた。
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第十六話 大空襲
一九四〇年の夏の日の朝、ヒトラーはドイツ空軍総司令官のゲーリンク元帥と並んで、占領したフランス側の岸辺から、英仏海峡をへだてたドーヴァーの白い崖をはるかに見やっていた。総統は、この肥満体のナチの貴公子に他の元帥たちよりも上の帝国元帥の位を与えたばかりであった。八月十日に、いよいよ大規模な英本土むけ航空作戦を開始することになっていた。ゲーリンクは、自分の分厚く幅広い胸は数々の勲章を飾るためにあると言わんばかりに、得意満面のようすだった。これまでのフランス攻略作戦では、彼のルフト・ヴァッフェ(ドイツ空軍)に出番がなかった。
「かならず四日以内に、イギリス空軍を壊滅させてごらんにいれますぞ。以後、掃討作戦を行って、月末までには英本土上空の敵機を一機もない状態にいたします。そうすれば、九月中旬に予定される本格的な上陸侵攻作戦もやすやすと遂行されましょう」
自分の言葉に酔っていて、総統の表情があまり嬉しそうでないのには気づかなかった。先のダンケルクの戦いでイギリス軍をドーヴァー海峡に追い落とした際にも、奇妙なことにヒトラーはこれを包囲せん滅しようとする自軍に待ったをかけ、二十二万五千名もの英軍兵士の撤退を容易にした。フランスをうち破ったいま、彼は内心イギリスと停戦交渉に入ってもよいと考えていたのだった。
ゲーリンク元帥は、自分の幕僚たちに厳命した。
「我々ルフト・ヴァッフェが、陸海軍によるブリテン島侵攻作戦のつゆ払いをするわけではない。空軍力だけで、イギリスとの戦いに決着をつけるのだ。陸海軍は、わがドイツ空軍による航空戦のあと片づけをすることになる」
航空作戦は「アドラー・アングリフ(鷲の攻撃)」、英本土侵攻作戦は「アクツィオン・ゼーレーヴェ(とど作戦)」と名づけられた。九月末までにはイングランド南部を手中におさめ、十月はじめにはロンドン入城を果たす。実際にはゲーリンク元帥は、予定よりやや遅れて八月十三日を「鷲の日」と宣言した。
チャーチルの旧友で「デイリー・エクスプレス」新聞社主のビーヴァーブルック卿は、軍需相として航空機の増産を指揮していた。彼は自分の新聞を通じて、航空機の機体製造に必要なアルミニウムの供出を国民に呼びかけた。
「フライパンからスピットファイアーを」
実際に、フライパンが溶かされるシーンに続いてスピットファイアー戦闘機やランカスター爆撃機が女性労働者たちの手で製造されるニュース映画が作られ、フライパン伝説に貢献した。戦闘機の製造費をまかなうための資金づくりに、彼は国民の個人献金も求めた。国中の市や町で集めた献金が寄せられ、それらの市名や町名を機体につけたスピットファイアーが飛びたった。名高い「バトル・オブ・ブリテン(ブリテン島の攻防戦)」の始まりである。劣勢のはずのイギリス側の思わぬ善戦に、総統の意向を気にしてゲーリンク元帥はいらだった。幕僚が進言した。
「敵の空軍管制センターは、ロンドン周辺に集中しています。しかも敵の戦闘機部隊も、ロンドン郊外の基地に展開しており、イングランド南部をめざすわが方は、航続距離ぎりぎりのこうした根拠地をたたくことができません。思い切って、首都への大規模爆撃を敢行すべきではないでしょうか」
作戦本部の会議室で、元帥は肥満しきった身体を椅子の上で窮屈そうにずらしながら、眉をしかめて言った。
「うむ、しかし総統閣下は首都攻撃を許しておられぬ」
だが、その転機は思わぬきっかけで訪れた。八月二十三日夜、ドイツ空軍の爆撃機の編隊が進路をあやまり、ロンドン市内上空まで侵入してこれを爆撃した。ロンドン市民のなかに初めてドイツの爆撃による犠牲者が出た。ロンドン空襲への報復としてイギリス空軍は、八月二十五日、二十九日と、敵の首都ベルリンを爆撃した。ドイツ側も、首都の初空襲で市民に死傷者を出した。むしろドイツ側に与えた精神的ショックの方が大きかった。開戦の際、ゲーリンクが自信にみちた表情で、一発たりとも首都に敵の爆弾が落ちるようなことはさせないと豪語していたからだった。ナチの宣伝相ゲッベルスは、さっそく新聞社に命じて記事の扱いをできるだけ小さくし、その見出しも具体的に指示した。
「臆病な敵機の夜間爆撃。野盗のようにベルリン上空に侵入」
自らラジオのマイクをにぎって、イギリスのやり方を激しい口調で非難した。
「敵は残酷にも、ベルリンの無防備の女性や子どもたちを殺傷した」
九月四日、ヒトラーはある集会で演説し、興奮のあまり大々的なロンドン空襲をすると宣言してしまった。
「敵の空軍は、こわくて昼間のドイツ上空を飛ぶことができない。わが空軍機が、白昼堂々と敵本土で戦っているにもかかわらずである。英軍は明かりさえ目にすれば、それが住宅街であれ農村であれ爆弾を投げ捨てて逃げ帰る。いまイギリスでは、だれもが『彼は、攻めてこないのだろうか?』と、思っている。いいや、私は行くんだ。そう、私は攻めて行くぞ。目には目を、夜には夜をだ。敵が夜間爆撃で、二トン、三トン、四トンの爆弾を落とすなら、こちらは一晩に百五十トン、三百トン、いや四百トンの爆弾を投下してやる。敵の都市を破壊しつくすのだ」
一九四〇年九月七日、「ロンドン大空襲(ブリッツ)」がはじまった。夜間の連続爆撃である。チャーチル首相は、エリザベス王妃に二人の王女とカナダに疎開するよう勧めた。王妃は答えて言った。
「子どもたちは、わたくしとでなくては疎開できません。わたくしは国王を置いて行けません。そしてもちろん、王がこの国を離れることはありません」
エリザベスとマーガレットの姉妹は田舎に疎開して「国内某所の隠れ家」にいることになっていたが、それはウィンザー城に過ぎない。近衛連隊の分遣隊が警護にあたり、ドイツ軍の上陸がはじまったときには姉妹を装甲車に乗せて逃げ、海岸でカナダへ向かう艦艇に引き渡すよう手配されていた。十四歳と十歳の王女姉妹は、ある日ウィンザー城前の公園に落ちた敵のメッサーシュミット戦闘機の残骸を見に行ったりした。姉のエリザベスは、その後彼女が女王になってからと同様に、BBCのラジオ放送へ出演するようになった。
「わたくしたち銃後の子どもは、みんな元気で勇気いっぱいです。陸海空の勇敢な兵隊さんたちのために、できるお手伝いはなんでもします。戦争の危険と悲しみだって、子どもも分かち合わなくてはなりません。おしまいには、なにもかも良くなるはずですから」
長いせりふはしゃべれない妹は、それまで黙ってマイクの側にいる。
「いらっしゃい、マーガレット。おやすみを言いましょう」
それから二人で声を合わせて言うのだった。
「おやすみなさい子どもたち、あなたたちみんなに幸運を」
グロスターシャーに疎開していた祖母メアリー皇太后は、孫娘らのいじらしい頑張りようにラジオの前で涙をぬぐった。
毎夜のように空襲が続き市民に犠牲が出たが、当初のターゲットはロンドンの造船所の一帯、それに下町にあたるイーストエンドの工場街や労働者階級の住宅地だった。
「きのうは、やっと高級店が並ぶボンドストリートやパークレーンにも爆弾が落ちたよ。ドイツ野郎がバランスをとってくれたんだ」
上下の階級対立感情が厳しいイギリスでは、下町ばかりの被害は困ると民間防衛隊の指揮官がもらした。
九月九日月曜日、連夜の爆撃の夜が明けた。
「私はイーストエンドに出かけて、被害地区を視察しようと思う」
ジョージ六世の言葉に、側近たちは困惑した。そこに住む労働者階級の市民は、日頃から上流階級の人々に反感を抱いている。そのうえ前夜の空襲で、身内を亡くしたり家や財産を失った者も多い。罹災者たちが宿を求めて、高級ホテル「サヴォイ」に押し掛けるトラブルも発生している。王じきじきの視察が、市民に歓迎されるとは限らなかった。だが彼らの主人が言い出したらきかないことは、側近たちも承知していた。政府の許可が求められ、ジョージ六世は海軍の軍服姿でバッキンガム宮殿を出た。爆撃で道路に大穴があき、アパートが瓦礫の山と化した下町の街区では、大勢の人々が後かたづけに立ち働いていた。王が車を降りると、市民が手を休めて王の周囲に集まった。王は人々に言葉をかけ、互いに励まし合うのだった。
その日の夜、バッキンガム宮殿にも爆弾が落ちたが不発に終わった。翌朝、ジョージ六世はウィンザー城から宮殿に戻ってその報告を受けたあと、平静な様子で執務を続けていた。不発弾が突然に爆発した。衝撃で宮殿の窓が割れ、床が揺れた。この日、王はエリザベス王妃と一緒に、再び罹災地区を視察する予定だった。爆発のあと、王妃は嬉しそうに言った。
「よかったこと。これでわたくしは、イーストエンドの住民に顔向けができるわ」
国王夫妻は、下町の廃墟となった一帯を、住民たちと親しく言葉を交わしながら歩いた。
「幸運をお祈りします、両陛下に神の祝福を!」
「来てくださってありがとうございます」
人々は、口々に感謝の言葉や、逆に、国王夫妻に励ましの声をかけた。王は、気さくな態度で労働者たちをねぎらい、王妃はけなげな女たちの様子に感激の涙を浮かべ、老女の手をとって話し込むのだった。
九月十三日は、曇天のあと雨が降りはじめた。時ならぬ爆音に、ジョージ六世が宮殿の執務室の窓から外を見ると、厚い雲をくぐり抜けて一機のドイツ空軍機が突然に姿を現した。わずか三十メートルほどしか離れていない場所に一発、そして宮殿の外の道路にもと、その小型機は合計六発の爆弾を投下して姿を消した。地面には大きなクレーターができたが、今回も、宮殿の窓が割れるくらいの被害でしかなかった。だが、王の反応は違っていた。彼はひどいショックを受けていた。側近に向かって叫んだ。
「これは、明らかに宮殿をねらった爆撃だ。私は空軍勤務の経験もあるから、特定の建物の爆撃がどんなに難しいか、よく知っている。しかも、あいつはこの悪天候の低い雨雲を抜けて飛んで来た。あいつだ、あいつのしわざに決まってる。こんなことができるのは、バッキンガム宮殿の内部構造を熟知していてそのどこに私がいるか知っている、そう、親戚中でヘッセン家のクリストファーしかいない。ナチス空軍パイロットのあいつが、私を殺そうとしたんだ」
「そう簡単にやられやしないぞ。これからは、宮殿の中庭で小銃の射撃訓練をしよう。ドイツ軍のパラシュート部隊が宮殿に舞い降りたら、私も銃をとって最後まで戦うつもりだ」
ダルムシュタットのヘッセン大公家と共通の先祖で繋がるカッセルのヘッセン家は、一八六六年にプロイセンに併合されてしまっていた。だがヘッセン=カッセル家そのものは存続し、現当主の二人の息子フィリップとクリストフ(英名クリストファー)がいた。兄のフィリップはゲーリンク元帥と親しくナチス突撃隊(SA)の将軍になったのち、イタリア君主サヴォイ王家のヴィットリオ=エマヌエレ三世の娘マファルダ王女と結婚、ヒトラーによってローマ駐在大使に任命されていた。弟のクリストファーは、親衛隊(SS)長官のヒムラーと懇意で、ドイツ空軍のパイロットだった。
宣伝相ゲッベルスは、一九三五年十一月二十三日付の日記に記している。
「特別列車でカッセルへ。……私は二万人の聴衆で超満員のホールで演説した。……プリンツ・フィリップ。そう、プリンツたち! 彼らはわがほうではない。残念ながら、ゲーリンクのお気に入りだ」
のちにクリストファーは、イタリアで乗機が墜落して死んだ。フィリップは、イタリア国王がムッソリーニを裏切ったことへのヒトラーの報復として、妻とともにブーヒェンヴァルトの強制収容所に送られる。マファルダはそこで死んだが、彼は米軍の手で救出されている。アナスタシアは戦後このことを知り、マファルダ王女の悲運をわがことのように悲しんだ。
ディッキー・マウントバッテンの妻エドウィナは、二人の娘たちをニューヨークの親戚のもとへ疎開させ、自分は「聖ヨハネ赤十字救急隊」幹部となって働いた。ディッキーは妻子にユダヤ人の血が流れていることを心配し、彼女にも出国するよう勧めたが応じなかった。エドウィナは猛然と働きだした。赤十字施設と公共防空壕、それに救急治療センターへ派遣する聖ヨハネ奉仕団員の統轄責任者に任命されたのである。危険もかえりみず、爆撃直後の被災地を走りまわった。国王夫妻と会食した際にも、彼女は公共防空壕と避難施設のことばかりを熱心に話した。
「エドウィナは変わりましたね」
エリザベス王妃はジョージ六世に言った。深夜に仮眠をとるため、本部オフィスの簡易ベッドに倒れこんで眠るような日常である。だがそれでも彼女はおしゃれを忘れていない。細身の身体にぴったりフィットした黒の上下の制服は、自分が特別にデザインして仕立てさせたものだった。タイトスカートの下のストッキングは、うしろのシームが真っ直ぐでなくてはならない。制帽の側面に聖ヨハネ奉仕団のバッジをつけ、ひさしをやや目深に傾ける。彼女の容姿はいつも際だっていた。指にプレーンなリングと、シャツの袖のゴールドとエナメルのカフ・リンクだけは忘れない。
「レディ・ルイスがやって来た」
「あれがレディ・ルイスよ」
人々は彼女の顔を覚えてしまい、夫の「ディッキー」ことルイス・マウントバッテンのファーストネームで彼女を呼んだ。
独立したアイルランドのつぎの目標は、南北アイルランドの統一と英連邦を離脱した完全独立の「アイルランド共和国」の創設だった。大戦がはじまるとチャーチルは参戦をうながしたが、アイルランドは中立政策をとる。日本政府は、ダブリンに領事館を置いていた。二人の日本人外交官は、そのまま終戦までダブリンでの勤務を続けている。ヨーロッパの戦争が終わった一九四五年五月十三日の放送で、チャーチルはアイルランドを非難して言った。
「ダブリン政府の行動のせいで、……はなはだ容易に防衛できたはずの南アイルランドの港や空港が、敵の飛行機やUボートによって封鎖されてしまいました。これはまさしく我々の生存にとって致命的な重大事でありました。それゆえもしも北アイルランドの忠誠と友情がなかったならば、我々はアイルランド政府首脳を急襲するか、それとも地上から永遠に消しさるかを余儀なくされたでありましょう」
対英戦争義勇軍いらいのアイルランド共和軍(IRA)は、分裂や統合をくりかえしていた。独立できなかった北部六州での活動が主体となる。一九三六年に勃発したスペイン市民戦争には、その左右両派が敵味方に分かれて参戦した。マルクス主義者のフランク・ライアン率いる約二百名は政府側、ファシストの「青シャツ党」七百名はフランコ側だった。第二次大戦がはじまると、武闘派のショーン・ラッセルがIRAの参謀長となる。彼はイースター蜂起でも戦闘に加わり、投獄された経験を持っていた。彼は「イギリスの敵はアイルランドの味方」と、ドイツの援助を求めることにした。自分が嫌うソヴィエト政府にすら、武器援助を求めに出かけたこともあるくらいだった。このたびは、ドイツ国防省情報部のヴィルヘルム・カナリス海軍提督を頼った。
カナリス提督はティルピッツ・ウファーにある彼の執務室で、にこやかにラッセルを迎えた。銀髪で猫背、ふさふさした眉毛の奥の優しい瞳が笑っている。そうした外見から年齢よりも老けて見られるが、まだ五十代にさしかかったばかりである。ラッセルが勧められたソファーはすり切れており、提督自身が腰掛けた椅子は木製で部屋の隅には野戦用の粗末なベッドがある。スパイの頭目にふさわしくない禁欲的な雰囲気だった。
「遠路はるばる、よくおいでになりましたな。だが、ここにもあなたと同国人がいないわけではありません。フランク・リチャーズ氏をこれへ」
のちにヒトラー暗殺未遂事件に加担し刑死する提督は、金髪の秘書に命じた。入ってきた人物を見るや、ラッセルは笑顔になった。リチャーズというのは偽名で、それは彼の仇敵フランク・ライアンだった。マルクス主義者のライアンとは、IRA内部で激しい対立関係にあった。その後、ライアンがスペインに渡ってからのことは知らない。けれども、異郷での再会であれば、懐かしい同胞どうしにすぎなかった。
「おおライアン、生きていたのか」
だが久しぶりに見るライアンの姿は、やつれ切っているようだった。ライアンが、しわがれ声で言った。
「スペインの刑務所で、すっかり身体を悪くしちまってな。耳ももうほとんど聞こえないんだ」
英国人大隊の将校だったライアンは、アラゴンの戦闘で負傷してフランコ軍の捕虜となった。死刑を言い渡されたが、禁固三十年に減刑されたのち、アイルランド政府の交渉で釈放されベルリンに送られてきていたのである。二年間もスペインの刑務所に閉じ込められて、ひどく健康を害していた。
一九四〇年八月、彼らはドイツ海軍のUボートで帰国の途についた。出港前から、ライアンよりも元気なはずのラッセルの様子がおかしかった。顔色が悪く、しきりに腹痛をうったえていた。オークニー諸島近くまで来たとき、手当の甲斐もなくラッセルはライアンの腕の中で息を引き取った。十二指腸潰瘍で腸壁に穴があき、腹膜炎を起こしたのが死因らしい。アイルランド西部のゴールウェイ沖まで来ていた。暗夜の海にUボートが姿を現した。指令塔のハッチを開けて、艦長が叫ぶ。
「手早くすませるぞ」
ラッセルの遺体を水葬にするのだった。ライアンがとりすがった。
「わしを彼とボートで降ろしてくれ」
「気の毒だが、それはできません」
ゆれる艦橋の手すりにつかまったまま、艦長が首をふって答えた。
「ラッセル氏のほうが、あなたをボートに移して連れて帰ってくれるはずだったのです。あなたの身体は弱っている。二人いっしょに水葬にすることはできない。こうなったら、あなたをドイツに連れ戻るのが私の使命です」
「ゴールウェイの岸辺は、どっちの方角だ」
艦長は、黙ってそちらを指さした。真っ暗闇の中で、泡立つ海に流されるラッセルの遺体に向かい、見えない祖国を示してライアンは叫んだ。
「ラッセルよ、死してなお力のかぎり故国にたどり着け。ケルトの精霊よ、伝説の勇者たちよ、彼を潮流に乗せて岸に運んでくれ」
その後ドイツに戻ったライアンは、一九四四年、健康を回復することなく客死する。ドレスデン近郊のロシュヴィッツ墓地に埋葬された彼の遺体は、一九七九年祖国に運ばれ、ロジャー・ケイスメントも眠るダブリンのグラスネヴィン墓地に移葬された。
デンマーク国王クリスチャン十世は七十歳になっていたが、ドイツに降伏した。占領に反対することは、ドイツと陸続きの小国デンマークには不可能だった。だが国王は、反ドイツの姿勢を隠そうとはしなかった。クリスチャン十世は、毎日たった一人で馬に乗り、ドイツ軍占領下の首都コペンハーゲン市内を巡察し続けた。途中でドイツ兵が敬礼しても、見向きもせずに通り過ぎるのだった。ドイツ兵がよく見ると、老王の古びた軍用外套の胸には黄色い星の縫い取りがあった。ナチスの指示で、このデンマークでもユダヤ系市民はダヴィデの星のマークの表示を要求されていたことへの、無言の抗議のしるしだった。
彼の弟でノルウェー国王になったホーコン七世は、ドイツ軍による傀儡《かいらい》政権樹立を拒否した。イギリス国王ジョージ五世の妹モード妃と結婚してイギリスに住んでいたのを、ノルウェーの国民投票で国王に招かれて就位し、古いノルウェー王の名「ホーコン」を王名に選んでいた。ホーコン国王は首都オスロを離れて小さな村に滞在中に、オスロに戻ってドイツ軍の指示どおりに首班指名をするよう要求された。彼は、閣僚たちを村に呼び寄せて言った。
「私は、ドイツ側の要求を受け入れることはできない。そうすると、私が三十五年ほど前にこの国にやって来たとき、ノルウェー国王の義務として憲法を遵守すると誓ったところに背いてしまうことになる。……しかし、……私は、自分も国民も知らない人物を首相に指名することはできない……。
だが、大勢のノルウェーの若者たちの命を奪うことになる戦争の危険が迫っていることを考えると、もし君たち政府がドイツ側の要求を受諾するというのであれば、その方がよいということは私にもよく理解できる。そうなれば退位することだけが、私に残された途となる」
閣僚たちも国王と同意見だった。その返答がオスロに進駐したドイツ軍に伝えられたとたん、ドイツ軍の爆撃機が数機、村の上空にあらわれて村を爆撃した。村のそばの雑木林に避難して、四月の雪に膝までつかりながら、一同は徒歩で山岳地帯を横切ってノルウェーの西北海岸の街トロントヘイムに政府を移すことにした。空襲に、雪上を走って逃げるホーコン王とオラフ皇太子の写真が残っている。
一九四〇年四月二十一日、トロントヘイムの国王と政府を守るため上陸したイギリス軍の部隊と、オスロから進撃したドイツ軍部隊がリレハンメルで遭遇した。リレハンメルの戦いこそ、第二次世界大戦でイギリス軍がドイツ軍と銃火をまじえた最初の戦闘だった。だが自動小銃ていどの装備のイギリス軍に対して、ドイツ軍は野砲や軽戦車まで備えていた。イギリスとノルウェーの連合軍は敗退して、ホーコン国王と閣僚たちは英国海軍の巡洋艦でトロムセを離れ、ロンドンへ亡命した。
ホーコン国王は、自国民に向け「自由ノルウェー放送」でメッセージを送り続けることになる。その初日、ロンドンのBBC放送局のオフィスに一人の老紳士が現れた。玄関の受付で申告する。
「このたび、ノルウェー向けの放送を担当することになった『ホーコン』と申します」
受付係は、インターホンで奥に知らせた。
「あの、『ミスター・ホーキンス』という方がいらしてますが」
スウェーデン政府と国王グスタフ五世は、中立政策をとった。だが、ノルウェーで戦うドイツ軍部隊をスウェーデンの鉄道で輸送することを認めたので、ノルウェーの戦況は著しく悪化する。その後、ドイツ軍によるロシア侵攻作戦がはじまると、逆にノルウェー駐在のドイツ軍部隊が東部戦線へと向かうための輸送も承認を迫られた。グスタフ国王は、ヒトラーによる対英和平提案のメッセージの仲介役もつとめたため、ジョージ六世はこのことにも立腹していた。
若いベルギー国王レオポルド三世は、閣僚たちの反対にも耳をかさずにさっさとドイツ軍に降伏して物議をかもした。
「オランダやノルウェーの例にも見られますように、亡命政権を樹立するという方向もございます」
「いや、私はこの国に残ると決めたんだ。連合軍側で頑張る理由はもうない」
「それでは、陛下抜きの亡命政府が戦争を継続することになりますぞ」
「ドイツ側の無条件降伏要求に従うことにする」
「ベルギー軍総司令官としてのご降伏であって、国家元首としてのそれは政府の意向に反してはできないという意見もございます」
政府だけがロンドンに亡命して行った。ベルギー王は、ドイツ東部の街ドレスデン北方エルベ川沿いに立つ古城「ヒルシュシュタイン」城に幽閉される。のちにスイスに亡命するが、ベルギー国民の王に対する評価は分かれた。国民投票で五十七パーセントの支持をえて、やっと帰国できたのは戦争が終わって五年も経過した一九五〇年のことだった。帰国するや、この国を構成するワロン人とフラマン人の対立で内戦一歩手前の状態となり、彼は息子のボードワン一世に譲位せざるをえなかった。
一九四〇年五月、ドイツ軍がオランダに侵攻した。ロッテルダムが陥落しオランダ軍が降伏すると、ウィルヘルミナ女王は閣僚やユリアナ王女夫妻とともに英国海軍の駆逐艦でロンドンへ亡命する。ドイツ軍が、亡命皇帝ヴィルヘルムの住むドールンの町にも進軍してくる。イギリス国王ジョージ六世は、ヴィルヘルムのことをあくまで亡きヴィクトリア女王の孫と考えていた。すぐに使いを送り、イギリスに逃れるよう勧めた。
「いやだね。イギリスへ逃げるくらいなら、ここにとどまって銃殺されるほうがましじゃよ。あのチャーチルあたりと並んで写真におさまるなど、とんでもない」
そしてドイツ軍があらわれると、ヴィルヘルムはいそいそと自分の軍服の胸に鉄十字勲章をつけ、将校たちをねぎらうのだった。ヒトラーは別な場所に居を移してはどうかと勧めたが、ヴィルヘルムはこれも断り、そのままドールンに住まい続ける。彼は幸福だった。
「ドイツ軍の連戦連勝は、まさに奇跡の連続だ。いにしえのプロイセンのフリードリヒ大王の精神が、ここに復活した!」
ヒトラーがパリを占領した一九四〇年七月には、ヴィルヘルム二世はオランダからヒトラーに祝電を打っている。
「フランスの降伏にはなはだ感動しつつ、貴殿と全ドイツ国防軍に神が与えられた勝利につき祝意を表す。一八七〇年におけるわが祖父帝ヴィルヘルム一世の言葉にあるごとく、『神の摂理による秩序をもって、偉大な事績の転回が実現した』のである」
神よりも皇帝よりも自分の偉大さを信じるヒトラーは、その電文には心を動かされなかった。ナチの手をかりてでも復位をとげたいという廃帝の宿願は叶わなかった。ヒトラー率いるドイツ軍の攻撃が順調に進む中、一九四一年六月四日、ヴィルヘルムはドールンで息を引き取った。八十二歳だった。苦しい息の下から、
「余も終わりのようだ。沈む、沈む!」
と、つぶやいた。復位はならなかったものの、彼が夢見たドイツ軍のパリ進軍は実現された。そのわずか十八日後の六月二十二日、ドイツ軍はソ連へと侵攻を開始する。
ヒトラーとしては、イギリスに対する西部戦線とソ連向けの東部戦線の両面で戦わねばならないうえ、アメリカの参戦も気がかりだった。そこで日本を煽動して、シンガポールとインドを攻撃させ、イギリスとの戦争に巻き込むことを考えついた。そうすれば、アメリカもアジアの戦争に気をとられ、ヨーロッパをなおざりにするに違いない。ただし、アメリカを戦争そのものに巻き込むのは、少なくとも今のところは回避しなくてはならない。ヒトラーは、東京の駐日大使オイゲン・オットー陸軍少将に指示するよう命じた。
「ワシントンで行われている日米交渉は、できるだけ長引かせることが望ましい。ただし、日米間でいかなる政治的合意が成立するのも、現時点では好ましくない」
だが、日本軍の仏印(現ヴェトナム)進駐により、日米交渉は打ち切られた。アメリカのルーズベルト大統領は、日本に経済制裁を加えることで目的達成をねらった。日本の中国侵略もやめさせる必要があった。
一九四一年十二月八日未明、日本軍はイギリス領だったマレー半島北部に上陸し、南端の大英帝国の要衝シンガポール攻略を目指すとともに、日本海軍はハワイのアメリカ太平洋艦隊の基地パール・ハーバー(真珠湾)を攻撃した。日本側には、対ソ戦でのドイツ軍の破竹の進撃に勢いづいた面もあった。けれども、そのわずか数日前の十二月五日、ジューコフ元帥麾下のソ連軍はついに反撃に移り、ドイツ軍は総崩れとなって敗退しはじめていた。アレクサンドル一世の反撃を受け、飢えと寒さでモスクワから敗走したナポレオン一世の軍隊そのままの様相だった。こうなれば、日本が開戦に踏み切り、背後からソ連をついてくれればありがたい。だが、対米戦争までとは。ヒトラーは、SS長官ヒムラーに言った。
「やれやれ、我々もハワイにまで作戦範囲を拡大しなくちゃならんのか」
日米開戦に引きずられるようにして、ドイツもアメリカに対して宣戦布告した。ドイツの期待に反して、二年前のノモンハン事件でソ連軍の戦車と重火器の大部隊に惨敗を喫した経験から、日本には対ソ戦を戦う気はなかった。英米との戦争をはじめる半年前には、日ソ中立条約を調印しており、日本だけはこの条約が遵守されると信じていたのだった。
ノルウェー国王ホーコン七世が、BBCの海外向け宣伝放送のマイクの前でノルウェー国民を激励していたとき、同じ建物の別室では、作家のジョージ・オーウェルがインド向けに語りかけていた。インド独立運動家のスバス=チャンドラ・ボースが、ベルリンから行っていた「自由インド放送」に対抗する目的だった。ボースは言う。
「今回のシンガポール陥落は、大英帝国の崩壊を意味しています。シンガポールが象徴していた非道な体制の終わりであり、インドの歴史における新しい夜明けです。……インド国民にとって、大英帝国の打倒のためにつとめることは義務であります。たいへん幸運なことに、現在、いくつもの国々が大英帝国を打倒すべく戦っています。イタリア、ドイツ、および日本が我々に与えてくれている助力に感謝しなければなりません。……私は、イギリス軍に加わっている同朋のみなさんに対し、インドの解放のために戦っている兄弟姉妹に銃を向けないよう、心からお願いしたいのです」
これにこたえてジョージ・オーウェルは、一九四三年三月十三日の自分の最後の放送で言っている。
「日本が占領している地域からは、あまり情報が入ってきていません。しかし、私たちは別の情報源――間違いのない、すばらしい証拠の出所――を持っています。中国です。……日本がインドとそのほかの場所に向けて行っている宣伝に対する最高の答はただの三語、LOOK AT CHINA(中国を見よ!)です。この週間ニュース解説番組の終了にあたり、私が締めくくりの言葉としてインドの皆様にお伝えしたいのは、まさにこの言葉、『中国を見よ!』ということです」
オーウェル自身が書いた一連の放送原稿は、イギリス情報省による検閲で部分的に削除され、放送できないことが多かった。情報省との検閲をめぐる軋轢が続き、ついにオーウェルは宣伝放送から手を引くことになる。例えば、イギリス空軍がドイツ各地の都市に対して続けていた空爆を取り上げて、オーウェルは言った。
「今週二日にわたり二回、世界史上例を見ないほどの大規模な空襲がドイツに対して行われました。五月三十日夜、一千を超える飛行機がケルンを襲い、六月一日夜にも一千機以上がルール地方のエッセンを攻撃しました。……一九四〇年の秋から冬にかけて、イギリスは当時としてはまったく前例のない長期にわたる空襲を受けました。ロンドン、コヴェントリー、ブリストル、その他さまざまなイギリスの都市が手ひどく破壊されました。それにもかかわらず、これらの空襲の最大規模の場合でさえ、どう見ても五百機以上が参加したとは思えません。そのうえ、イギリス空軍が現在使用している大型爆撃機は、二年前に可能だったよりもはるかに重い爆弾を積み込んでいます。要するに、ケルンあるいはエッセンに投下された爆弾の量は、ドイツがイギリスに対する最も激しい攻撃で一回に投下した爆弾の、実に三倍にもなるはずです」
原稿の、これに続く部分は検閲で削除され、放送できなかった。
「イギリスにいる私たちには、これらの空襲が遂行した破壊のひどさが分かりますし、したがって今ドイツで起こっていることも、ある程度想像がつきます」
と、彼は言い添えたかったのである。
イギリスのチャーチル首相は、ロンドン大空襲の際にただちに報復としてベルリン空襲を命じたように、首都の空爆こそ、敵の息の根を止めるのに最も効果的な方法だと考えていた。
「残念ながら、まだソ連は日本と戦争状態にないが、いつかその時が来たら、シベリアの基地から直接に日本海を渡って東京を空襲するのがよい。タコを殺すには、八本の足をひとつずつ切り落とすなどというのはだめだ。ひと突きに中心部を狙わなくては」
それから彼は、シベリアからの連合軍の渡洋爆撃で東京の街が炎上する姿を思い浮かべた。極東のことはよく知らないが、世界地図で飛行コースをなぞってみる。月光に照らされた夜の日本海を渡る重爆撃機の大編隊が、この弓形の島国の首都を焼き討ちするのだ。一人で悦に入って葉巻を口からはなし、マザーグースの童謡を小声で歌ってみる。
「てんとう虫さん、てんとう虫さん、おうちに飛んで戻りなさい。あなたのおうちは火事ですよ。子供もどこかに逃げちゃった (Ladybird, ladybird, fly away home, Your house is on fire and your children are gone.)」
スターリンを誘って日本本土を空襲することは実現しなかったが、英米連合軍の爆撃機は日本とドイツの各地を爆撃し続けた。一九四四年九月十一日深夜の爆撃では、ヘッセン家の根拠地だったダルムシュタットのような戦略的に意味のない小都市も徹底的に破壊され、一万人以上の死者を出した。一九四五年一月二十二日から二十三日にかけての夜、ハノーヴァーもイギリス空軍による夜間爆撃を受けた。アパートを焼け出されたアナスタシアは、ハノーヴァーを離れて東に向かい、ライプチヒ近郊のアルテンブルクに住むフリードリヒ殿下のもとに身を寄せる。だがソ連軍の侵攻が近づいていた。彼女が最も恐れるボリシェヴィキの赤軍だった。
一九四五年二月四日から十一日にかけて、ソ連の黒海沿岸のクリミア半島の保養地ヤルタで、連合国の首脳会談が行われた。「ヤルタ会談」と呼ばれるが、実際に会談が行われたのはヤルタ近郊のリヴァディアだった。ルーズベルト大統領の健康上の理由から、真冬でも気候温暖なこの地が選ばれた。半島の山の南斜面で冬にも降雪はなく、糸杉の並木と松やブナの森が海岸へと続くなだらかな丘陵をおおっている。会談の主会場であると同時にアメリカ代表団の宿舎にあてられたのは、ニコライ二世一家が愛したリヴァディア宮殿だった。革命後はソヴィエト労働組合中央委員会の保養所として利用され、この戦争の一時期は占領ドイツ軍司令部になっていた。ソ連首相スターリンの一行は、これから少し先のコレイス館に入った。ラスプーチンを暗殺したユスポフ公爵の別荘である。チャーチルらイギリス代表団は、もっと先のボロンツォフ館にいた。スターリンは上機嫌で、英米の代表団をまえにして宮殿にまつわるエピソードを語った。
「ニコライ二世は退位した後、シベリア送りになると聞かされ、このリヴァディアの庭園で隠棲する許しを求めたのだそうです。しかし人々は言いました。『我々は皇帝を庭師にしようとして革命を起こしたわけじゃない!』と」
大統領と側近たちは大笑いした。チャーチルはウィンザー公と親しく、「勤王党」を組織して退位を阻止しようとまで思い詰めたこともある。公のニコライへの思い入れについても、よく知っていた。チャーチルがどんな顔をしたかは、記録が残っていない。
ここで調印された「ヤルタ秘密協定」では、ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結して二、三か月後に、ソ連が日本に対する戦争に踏み切ることが合意されていた。その見返りは、サハリン(樺太)南部や千島列島など、日露戦争でニコライ二世が失ったロシアの領土をスターリンが取り戻すというものだった。同秘密協定第二項はいう。
「一九〇四年に、日本の背信的攻撃によって侵害されたロシアの旧権利は回復される」
三大国の首脳たちは、最終日の昼食のテーブルで、グラスやキャビアの皿を押しやって協定に署名した。
ヤルタから戻ると、スターリンは、ドイツ東部でのソ連軍の作戦行動が容易になるよう、ライプチヒ市の爆撃を求めた。イギリス空軍司令部は、ライプチヒよりも有名な旧ザクセン王国の首都ドレスデンの破壊を決定する。芸術と文化の街ドレスデンは交通の中心に過ぎず、しかも東方からの避難民でごったがえしていた。徹底破壊の意図は、地上を進撃してくるソ連軍に連合空軍の戦略爆撃の威力を思い知らすことにあったとされている。イギリス本土の空軍基地で、司令官から「ダブル爆撃戦術」について聞かされた爆撃機パイロットの一人が尋ねた。
「なぜ、われわれの発進は、そんな時間差をつけて行われるのでしょうか?」
「今回の攻撃は四波に分けて実施されるが、第三波以降は米空軍による。諸君は第二波を担当し、第一波の攻撃ののち、ドイツ軍の救援部隊が市内に集結するのを待ってこれを叩くのだ。なお、攻撃目標は軍事施設に限定されない」
「なんだって、それじゃあナチ野郎の爆弾の時限信管と同じじゃないですか。俺はいやだ。こんな卑劣な作戦は願い下げだ」
「言葉を慎め。抗命行為になるぞ。われわれだって納得できずに、上層部に問いただしたんだ。もっと上、おそらくトップからの命令ということだった」
ドイツの敗戦が間近の一九四五年二月十三日から十四日にかけて、二百四十三機と五百二十九機のイギリス空軍ランカスター爆撃機による二波の夜間爆撃、十四日と十五日に三百十一機と二百十機のアメリカ空軍B17爆撃機による昼間爆撃が加えられる。最新鋭の大型爆撃機「スーパー・フォートレス(超・空の要塞)」B29爆撃機は、日本本土の爆撃に振り向けられており、ここには参加していない。十三日は告解火曜日だったので、大勢の子どもたちは、悪魔や妖精のカーニヴァル衣装のまま寝入っていた。死者数は二万五千から三万五千と、正確な数字は分からない。鉄道のレールを組み合わせた急ごしらえのかまどで遺体を焼く煙は、廃墟の空に二週間以上も立ち登っていた。エルベ河にかかる五つの橋で結ばれた旧市街と新市街を持つドレスデンの街は、あかあかと燃え上がっていた。轟音と振動で、街全体が揺れる。炎と黒煙の背後に、暗闇を照らすサーチライトがいく筋も夜空に交叉していた。サーチライトに照らし出されたのは、青と白と赤で丸く描かれたイギリス空軍の機体マークだった。
その二週間後、グアムのアメリカ空軍第二十一爆撃軍司令部で、カーティス・E・ルメイ少将がドレスデン大空襲の報告書に目を通していた。AP特派員電はいう。
「連合軍の空軍首脳らは、ヒトラー帝国を破滅させるため、無慈悲な選択だが全ドイツ市民を爆撃目標とすることに決定した」
芸術と文化で知られた古都ドレスデンの無差別爆撃に、アメリカの新聞は自国空軍が加わっていたことを非難していた。米陸軍長官は、都市中心部の爆撃はイギリス空軍が行ったものであり、アメリカの爆撃機はもっぱら郊外の鉄道操車場という「軍事目標」を爆撃したのだと強調した。前年までヨーロッパ戦線に従軍し、太平洋に転出したばかりのルメイ少将には、この報告書の意味がよく理解できた。昼間の高高度精密爆撃にこだわってきたアメリカ空軍が、従来から夜間の地域爆撃で都市攻撃を行ってきたイギリス空軍の戦略を、ついに受け入れるようになったのだ。これまでは、日本の航空産業の破壊にばかり目を向けてきたが、いよいよ焼夷弾による都市攻撃に踏み切るときが来た。低空からの夜間爆撃、それも木造家屋が密集し人口密度の最も高い東京の下町を完全破壊する。低高度の飛行による燃料の節約と、防御用機関銃などをいっさい取り外すことで、これまでの三倍の焼夷弾をB29爆撃機に積み込むことが可能となった。
ドレスデン爆撃からひと月後の一九四五年三月十日未明、東京の下町は米空軍B29爆撃機三百三十四機による大空襲を受けた。この空襲で投下された焼夷弾の総量は二千トン、死者・行方不明者は九万人ちかくにのぼり、負傷者は十万人を超えた。首都の四割を焼き払った業火は、皇居にも及んだ。御文庫の地下壕で被害報告が上奏されるや、昭和天皇は被災地を視察したいと言い出した。側近たちは反対したが、この行幸は三月十八日に行われた。天皇は、陸軍の大元帥服姿で車に乗って皇居を出て、見渡すかぎり焼け野原となった下町の深川で下車して惨状を視察した。
「関東大震災のときも市中をまわったが、大きな建物が少なかったこともあろうが、なにもかも焼けてしまっていて、それほど無残には見えなかった。しかし、今度ははるかに無残だ。コンクリートの残骸も残っているし、胸が痛む。東京も、これで焦土になってしまった」
帰路、昭和天皇は沈痛な表情で側近にもらした。これをきっかけに、昭和天皇は敗戦の翌年から全国巡幸をはじめる。戦後は軍服を脱ぎ、灰色の背広にソフト帽姿であった。
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第十七話 ジョージ善良王の死
一九四五年四月、ソ連軍はドイツの首都ベルリンに迫っていた。連合軍のたび重なる爆撃で、ベルリンの中心街は、すでに瓦礫の山と化している。ヴィルヘルム・シュトラーセに近い総統官邸地下壕で、ヒトラーと宣伝相ゲッベルスは、トマス・カーライルの名著『フリードリヒ大帝と呼ばれたプロシャのフリードリヒ二世の歴史』について論じ合っていた。
「ソ連軍の手に落ちぬよう、私は、フリードリヒ大帝の棺を安全な場所に移すよう命じたのだ。いずれ、しかるべき場所に永久安置しなくてはならぬ」
薬物の多用で面変わりしたヒトラーは、ふるえる指先で壁に掛かっている大帝の肖像画を指して言った。
「今こそ、わが国には、若き頃のフリードリヒ大帝のような英雄精神のあらわれが求められます」
ゲッベルスが、したり顔で頷いてみせる。
「一七六一年の暮れには、ロシア軍がベルリンに侵攻しようとしておった。翌年の二月までに形勢が好転せねば、大帝は毒をあおぐ覚悟だったのだ」
「だが、そうはなりませんでした」
「そうとも、一月五日に、あのピョートル大帝の娘でドイツ嫌いのエリザヴェータ女帝が死んだ。傍系のイワン六世を幽閉して帝位についたのだが、継嗣にめぐまれず、あとを継いだピョートル三世はフリードリヒ大帝に傾倒しておって、すぐドイツと和平を結んでしまった。夫殺しの女帝エカテリーナ二世も、やはりフリードリヒ大帝の偉大さに敬意を払っていたのだな」
「大帝は、ただ一月五日を待つだけでよかったのですね」
四月十二日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが脳溢血で急死する。副大統領ハリー・トルーマンが大統領となったが、和平の提案はなかった。四月二十日のヒトラーの五十六歳の誕生日に、ソ連軍によるベルリン砲撃がはじまった。翌二十一日、ソ連軍の戦車がベルリン市街へ突入する。三十日、ヒトラーが自殺し、ゲッベルスも妻や六人の子どもたちと後を追った。
一九四五年五月、ヨーロッパ全域で戦火がやんだ。アナスタシアは、フリードリヒ殿下に導かれて東のソ連軍占領地域を脱出し、ドイツ南西部に広がる「黒い森(シュヴァルツ・ヴァルト)」の村ウンターレンゲンハルトに住みついた。敗戦でフリードリヒ殿下は財産の大部分を失ったが、彼女のために兵舎だった小さな家を買ってくれた。一九六八年に再び渡米するまで、彼女は支援者の女性とここで暮らすことになる。
終戦まじかの同年四月、特殊任務をおびた米軍部隊が、ソ連軍が占領する予定のハノーヴァー東方ハルツ山系に入り込んでいた。山中に隠された膨大なナチスドイツの公文書をさがすためである。彼らは、全部で四百八十五箱もの書類と六十トンにのぼる書籍とを見つけだした。ドイツ外務省文書のマイクロフィルムの中から、「ウィンザー公夫妻関係」と題した一巻が出てきた。これには、一九四〇年七月のリスボンでのウィンザー公との接触の記録が含まれていた。政治的な影響の大きいしろものだと気づいたアイゼンハワー総司令官は、これを極秘扱いとして本国に送った。アメリカ国務省は、「イギリス国王と英国政府を当惑させないよう」この文書を破棄した。さらにヒトラーと外国要人との会談記録集も発掘されたが、一九三七年十月のウィンザー公夫妻との会談を記録した部分はなくなっていた。イギリス国王ジョージ六世は、実は米軍に先んじて行動していた。一九四五年三月、王室のライブラリアン二名をここに近いフリードリヒスホーフ城へ急派した。この城は、ヴィクトリア女王の長女フリードリヒ三世妃が建てたもので、ヘッセン=カッセル家が管理していた。ヴィクトリア女王からウィンザー公までの英国王室関連書簡の回収をはかったのである。モアスヘッドとブラントのライブラリアン・コンビは、亡きヴィルヘルム二世のオランダの亡命先にも資料回収に出かけている。
一九四七年十一月二十日に予定された王女エリザベスとフィリップ殿下の結婚式を前にして、花嫁の父ジョージ六世は頭を悩ませていた。大戦終結から間もないことであり、結婚式への招待客を選ぶのが問題だった。ヨーロッパ諸国の君主たちを招くにも、国を追われた王も少なくなかった。それに王たちが戦争で果たした役割も無視できない。元イタリア国王ビットリオ=エマヌエレ三世などは、大戦末期に独裁者ムッソリーニに反旗をひるがえしたとはいえ、敵国側で戦ったわけだから招待できない。ベルギーのレオポルド三世も、戦後になっても亡命先のスイスから帰国できずにいる。親戚ではあるが、彼も適当ではあるまい。ドイツの親戚たちはもっと問題が大きかった。イギリスの国民感情を考えると、ナチに協力的であった顔ぶれは除外しなくてはならない。なによりも、全員がドイツの王子に嫁いでいた新郎の姉たちも招待されなかった。もっとも、フィリップ殿下の長姉は亡きヘッセン大公エルンスト=ルートヴィヒの長男ゲオルクと結婚し、一九三七年の飛行機事故で夫や子どもとともに死んでいた。末の姉ソフィーは、ヘッセン=カッセル家のクリストファーの妻だった。生前の彼は、バッキンガム宮殿を爆撃してみせると言ってはばからなかった。夫の死後、彼女はハノーヴァー家の王子と再婚している。
だが最も大きなわだかまりは、兄のウィンザー公のことだった。王室の名誉を守るためとはいえ、兄のことでは終戦までひどく苦労させられた。というわけで、ジョージ六世としては兄も娘の結婚式には招待しないことにした。そもそもフィリップ殿下をエリザベス王女の結婚相手に選んだこと自体、この戦争が大きく影響したのだった。ヴィクトリア女王とアルバート殿下の例にも見られたように、ドイツの小国家の王子たちは、英国王室だけでなくヨーロッパの諸王家にとって都合のよい花婿の供給源だった。それが第一次大戦に続いて、今次の大戦でも敵の要員だったということになると、そこから王女の結婚相手を捜すことはできなくなっていた。
それにジョージ六世にしてみれば、青年士官フィリップに好意は抱いていたものの、背後でディッキー・マウントバッテンがこの縁組みの糸を引いているようで面白くなかった。ディッキーの長姉アリスとギリシャのアンドレオス殿下との息子フィリップは、母の実家からイギリスの海軍士官学校に行かせてもらい、ディッキーの庇護の下で暮らしていた。父はパリ、そしてモンテカルロで亡命生活を送り、帰国できずに一九四四年に同地で死去する。母アリスは信心深い地味な性格の女性で、アテネで質素に暮らしていた。ジョージ六世はいかにも娘の父親らしい感情で、ディッキーがせっかちに縁談を進めようとするのが不満に思えるのだった。
マウントバッテン卿の次姉ルイーズは、スウェーデン国王グスタフ六世の后となっている。卿の兄ジョージは父親の跡を継いでミルフォード=ヘヴン侯爵となったが、一九三八年に他界した。二人の姉にとっては、ディッキーのブロードランズの館が実家だった。歳をとってからも、ここで二人仲良く語り合うことが多かった。陽気な妹ルイーズ王妃が、館の執事を手招きして言った。
「いいものを見せてあげましょうか、ほら」
ハンドバッグの中から一枚のカードを取り出す。それには、「わたくしはスウェーデン王妃です」と書かれてあった。執事は首をかしげ、王妃に尋ねた。
「ご名刺のようにも見えませんが」
王妃は笑って答えた。
「よく一人でこっそりと、ホテルの向かいのハロッズにお買い物に出かけるの。道路を渡るとき車にはねられて身元が分からないのはいやですもの」
ディッキーの姉たちの嫁ぎ先についてはともかく、そもそもバッテンベルクの家柄が未来のイギリス女王の婿たるにふさわしいかどうか、問題がなくはなかった。とはいえ、今ではエリザベスはフィリップを愛している。娘の父親として、その願いは叶えてやりたかった。
大戦前の一九三九年夏、ジョージ六世夫妻と二人の王女は、マウントバッテン卿と一緒にダートマスの海軍士官学校を訪問し、そこの学生だったフィリップを王室のヨット「ヴィクトリア&アルバート」号に招いて歓談した。二人が仲良くなったのはそれ以来だと、ディッキーは強調したがる。当時フィリップは十八歳、それに対してエリザベスはまだ十三歳の少女だった。フィリップ殿下は、ギリシャおよびデンマーク王家のフィリップ王子と名乗っていた。だが、エリザベス王女との婚約まえに英国籍に帰化するにあたり、フィリップ殿下は王子の地位と称号を放棄した。またギリシャ王室は、格別に家名を持たない習わしだったため、彼の新しい家名が問題だった。マウントバッテン卿は、甥のフィリップと話し合った。
「ギリシャ王家の元の家名はデンマークのもので、『シュレスヴィヒ=ホルスタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク』というのです」
「あまりに無骨で、中世ドイツのチュートン騎士団ふうだな」
「もっと遡れば、『オルデンブルク家』の出ですよね。これを英語に直せば、『オールドキャッスル』かな。いや、やはり私は叔父さんの家名『マウントバッテン』にします。父方で適当な姓がなければ、母方のそれを選ぶのが道理というものでしょう」
こうして、エリザベス王女とフィリップ・マウントバッテンの婚約が正式に発表される。フィリップは、戦争難民たちとともに二十ポンドの手数料を払って帰化手続をとったのだった。これを聞いて感動したジョージ六世は、彼にエディンバラ公爵位ほかたくさんの位を与えることにした。
結婚したふたりは、新婚旅行の初日をマウントバッテン卿のブロードランズの館で過ごした。館は、ロンドンの南西八十マイルに位置するハンプシャー州のなだらかな丘が続くラムゼイ近郊のテスト川沿いにある。館を出ると、緑の草地が川辺に向かって傾斜している。エドウィナの祖父カッセル卿が入手したこの建物のオリジナル部分は、十六世紀半ばに建てられた。以来、この館を訪問しここに滞在した王侯貴族は数知れず、スチュアート王朝の始祖ジェームズ一世が一六〇七年に植えた桑の巨木が、二十エーカーの庭園に今なおそびえている。六千エーカーの残りの地所は、林や畑地である。建物の中心部は、ほぼ正方形で煙突があり、十八世紀の英国様式である。片翼には、その後十九世紀に増築されたヴィクトリア様式の部分がある。部屋の総数六十室のなかでも、とりわけ壮麗な、柱廊玄関を持つスウィート・ルームには、年代物のキング・サイズのベッドに十八世紀の中国刺繍のベッド・カバーがかけられている。かつて、マウントバッテン卿とエドウィナも、結婚式をすませたあと、ここでハネムーンの数日を過ごした。エリザベスとフィリップはそれにならったのだが、後年、チャールズ皇太子とダイアナ妃もまた、結婚式後の幾日かをここの同じ部屋で過ごした。
ジョージ六世は、戦争協力と引き替えに政府が約束したインド独立問題にも心を砕いていた。一九三九年のこと、第二次世界大戦においてイギリスがドイツに宣戦布告すると、大英帝国の各自治領もこれにならった。インドでは、インド皇帝であるイギリス国王の名代インド総督によって、現地の代議機関を通じてインド人の意見を聞くこともなく、宣戦布告がなされてしまう。第一次大戦に続いて、植民地インドの兵士もヨーロッパの戦場に送られた。ガンジーは、インド独立を要求して、この戦争への不協力運動を起こした。この闘争で、ネルーはまっさきに投獄され、一時的な中断をはさんで実に五年間も獄中で過ごした。一九四二年、アメリカ合衆国のルーズベルト大統領から圧力がかかり、ついにチャーチルは、この戦争が終わったらインドに自治権を与えることに同意した。一九四二年七月、チャーチルはジョージ六世と昼食をともにし、閣僚も議会各党派も、戦後インドを完全にインド人民に引き渡すことで一致したと報告している。チャーチルはジョージ六世に説明した。
「もしもイギリスがインドから軍隊を引き上げたら、ヒンズー教徒の政治家なんぞイスラムの戦士にじき制圧されてしまいますぞ。両教徒の勢力が協力しあうように仕向けるのは、実に困難なことです。それはまるで、私の子ども時代のパズルみたいですな。小さなガラスの箱に、色とりどりのマーブルが三つ、四つ入っています。箱をそっと揺らして、違う形をしたマーブルがそれと同じ形の囲いに収まるようにするのです。最後の一つがうまく収まりそうだぞというとき、きまってほかのマーブルがいくつか、ときには全部がとび出してしまう」
モハメド=アリ・ジンナー率いるイスラム同盟は、分離独立を要求していた。ジョージ六世は、対立する指導者ネルーとジンナーをバッキンガム宮殿に招いた。ジョージ六世の即位後は、じきに戦争だったから、彼はインド公式訪問の機会を願っていた。だが大戦が終わると、植民地の状況はいっそう困難になった。国王としては、穏やかな政権委譲を模索していた。チャーチルのあとを襲った労働党内閣のクレメント・アトリー首相に言った。
「インドのリーダーたちが対話をやめるのではないかと心配だ。イギリスが治安を維持できなければ、あとはヒンズーとイスラムの内戦しかないように思える。……ネルーは、国民会議派だけで統一インド政府をつくるつもりのようだ。だがイスラム側はヒンズー支配を嫌っているから、納得せずにパキスタンの分離を求めて戦うだろう。お互いに合意を求めて努力する気がない。結果は内戦しかないし、それでは独立後の政府だって倒れてしまうという危険に気づいていない」
一九四七年二月、マウントバッテン卿は最後のインド総督に任命された。労働党政府が王族を起用するという意外な指名だった。翌年六月までには、イギリスはインドを去ると決められた。独立インドは単一国家としてイギリス連邦内に留まることが望ましい。だが、彼らがそれを望まないのなら、分裂しての独立も仕方がない。ジョージ六世は、曾祖母ヴィクトリア女王から承継したインド皇帝の地位を手放すにあたって、王様らしい心配もしていた。
「どうか、インドのプリンスたちのことを公正に扱ってやってもらいたい」
ヴィクトリア女王をインド女帝として認め、彼女に忠誠を誓うかわりに、女王はインド国内の諸王を「プリンス」として処遇することを約束したのだった。土侯国であったり藩王国であったり大小さまざまに、インド国内には五百六十五の小国家が存在していた。
予定よりも遅れて八月十五日にふたつの新国家が誕生すると、生まれたばかりの両国の内部で内戦のような大虐殺がはじまった。どの地方でもこれまで両教徒が混住して暮らしてきたのだから、その土地ごとに多数派が少数派に襲いかかったのである。店も住居も打ち壊しにあい、イスラム教のモスクもヒンズー寺院も火をかけられた。女性はレイプされ、子どもたちは殺され、家族全員が虐殺される例も多かった。恐怖にかられた人々は難民となり、五千六百万人にものぼる人々が、命からがらそれぞれおのれの宗教の国の方へと逃げて行った。避難民を満載した列車は線路上の群衆に止められ、みな殺しにあった。各地の虐殺はこれから三か月も続いたが、東パキスタン(現バングラデシュ)に近いカルカッタの暴動だけは、ガンジーの説得で鎮まった。そのガンジーも、翌一九四八年はじめに暗殺されてしまう。
こうしてヴィクトリア女王の曾孫マウントバッテン卿は、曾祖母がインド女帝となって以来の植民地インドの幕を引いた。ヴィクトリア女王は、クイーン=エンペレスと呼ばれた。同じく女王の曾孫のジョージ六世は、キング=エンペラーではなくなってしまった。メアリー皇太后は、夫ジョージ五世の存命中に二度インドを訪問しており、かの地に強い愛着を抱いていた。息子のジョージ六世の手紙を受け取ったとき、すぐに気づいて女官に示して言った。
「バーティーの手紙の封筒の裏面をご覧なさい。『王(ラテン語の Rex)』の頭文字のRだけで『皇帝 (Imperator)』のIがなくなっているわ。悲しいことね」
「帝国王冠の宝石」と呼ばれたインドを失ったジョージ六世は、ジョージ五世の皇帝即位式のために製作されたインド王冠そのものも独立政府の要求があれば返すつもりでいた。インドからの歳入の六十万ポンドを使って作られたものだったからである。
「だがインドとパキスタンどちらに返却すべきなのか、それが定まるまではロンドン塔に飾っておくことにしよう」
一九四八年夏のある日のこと、秘書官が王の奇妙なしぐさを目にする。バッキンガム宮殿の執務室で、王は自分のますます細長く見えるようになってしまった足のふくらはぎを机の脚にくりかえしぶつけているのだった。秘書官に気づいた彼は、はにかみながら説明した。
「最近、足がけいれんすることが多くなってね。それに、つま先が冷える。こうしてやると血行が良くなるんだ」
それは、過度の喫煙がもたらした動脈硬化症の初期症状だった。循環器疾患の権威たちが招集された。放っておけば壊疽《えそ》を生じ、右足を切断しなくてはならなくなるかも知れない。侍医団の発表は、控え目な内容だった。
「陛下は、脚部大動脈の血流障害をきたしておられ、ごく最近それが顕症した。右足の血行不良が懸念されるが、最近おやつれになったのはこの十二年間のご心労のせいにすぎない」
侍医に命じられて公務をはなれ、大人しく床についたまま、ジョージ六世は翌年の春を迎えた。侍医が心苦しそうにベッドの王に告げた。
「通常の生活にお戻りになるためには、右腰の交感神経切除手術をするしかございません」
禁煙も必要だった。喫煙はウィンザー家伝来の悪習で、エドワード七世にまでさかのぼる。祖父王もまた父王ジョージ五世の死も、煙草に原因がある。ジョージ五世は死の床についてから呼吸困難となり、病室には酸素ボンベが備え付けられた。母のメアリー皇太后も喫煙者で、子どもたちの喫煙をとがめることはなかった。ジョージ六世自身、十八歳の誕生日に母后からシガレット・ケースをプレゼントされている。
手術は、一九四九年三月十二日にバッキンガム宮殿内で行われた。手術後、病床の王は執刀医を宮殿に招いて言った。
「君は私の身体にメスを入れたのだから、こんどは私が君にメスをふるうぞ」
ベッドから出ただけのガウン姿でスリッパをはいた王は、ソファーのクッションの下に準備しておいた儀式用の剣をさっと取り出した。そして、抜いた刃先を医師の肩において宣言した。
「君にナイトの称号を与えます」
その年の夏には、ダンスも踊れるまでに回復した。だが、侍医団は慎重だった。命にかかわる血栓症を起こす危険が待ちかまえていた。
「ご生活ならびに行動様式すべてを変えていただかなくてはなりません。それから、お気持ちもできるだけおたいらになされませ。心配症もストレスも、この病気には禁物でございます」
侍医のおしえを忠実に守り、一九五〇年の夏を元気に迎えた王に、国内の経済危機に加え、突発した朝鮮戦争の心労がおそいかかる。アメリカの原爆使用を懸念して、アトリー首相をトルーマン大統領の説得に派遣した。王は、日に十時間の執務という生活に戻っていった。
王の健康は再び悪化した。彼は肺癌にかかっていた。外見のやつれようから、国民の目にも王が病気なのは明らかだった。王は、ひどくせき込むようになった。病名は、王の死後十年以上も公表されなかった。患者自身にも最後まで告げられていない。車上の人となりバルモラル宮殿のゲートを出るとき、だれにともなしに王は言った。
「王妃とプリンセス・マーガレットが、よくピアノで一緒に歌うコミックソングがあるんだよ。『ひょっとすると、これでおしまいかもね。ええ、実はそうなの』っていうんだが、ここを出る今そんな気がする」
九月二十三日日曜日午前十時、バッキンガム宮殿で胸部外科医の執刀による手術がはじまった。手術は二時間以上におよんだ。宮殿の外には、詳細はなにも知らされていないのに五千人もの群衆がひしめきあい、不安げに発表を待ち続けていた。深夜になり、やっと掲示が出されたものの、国民がひと安心できるような内容ではなかった。
「国王陛下は、本日朝、左肺の切除手術を受けられた。これより何日間かは懸念が残るものの、手術直後の陛下のご容態は申しぶんない」
発表は、血栓症が起きるおそれをほのめかしていた。十月の総選挙の結果、労働党にかわり保守党が多数を制し、王の古い友人チャーチルが首相に返り咲いた。
王は、手術で病気は良くなったと信じて療養していた。従来から病弱の父親にかわり、エリザベス王女が王の名代をつとめることが多かったが、いっそうその負担が増した。しかし当時、彼女はマルタ島で海軍勤務の夫君フィリップ殿下と暮らしている。皇太孫チャールズ、それに一九五〇年八月十五日に生まれた長女アンは、ロンドンの住まいクラレンス・ハウスで乳母たちが面倒を見ていた。彼女は、夫の愛車の黄色いロードスターを自分で運転して、町に買い物に行く。主婦としてのショッピングのあとには、美容院にも寄った。自分の財布から支払をするのは、はじめての経験だった。そして国事の代行をつとめるたびに、マルタからロンドンへと往復した。父王は、そのことを気にしていた。
「あるいはご退位のうえ、エリザベス様に王位をお譲りになられれば」
侍医がある日、言い出しにくそうに切り出した。
「いや、あの子たち姉妹には、王家に生まれて気の毒なことだったと思っている。ふつうの家庭で育っていたら、少しでも娘らしい時代も過ごさせてやれたはずなのに。いまリリベットは自分の家庭というものを持って、妻として母親としての幸せを味わっているんだ。あとわずかの年月であっても、そうさせてやりたいんだよ」
一九五一年のクリスマスに、王家の人々はサンドリンガム宮殿に集まった。手術の影響で、すでに王は宮殿二階の寝室までの階段を登る体力をなくしていた。一階の一室が寝所に改装された。恒例のクリスマス・キャロルを歌う地元の聖歌隊が、宮殿内に招き入れられる。だが、家族やこれらの人々と唱和する王の声は、とても小さかった。王が嬉しそうな表情で、スタッフや家族に自分の手でプレゼントを渡すのも例年どおりであったが、ソファーに腰をおろしたままであり、立って室内を歩き回るようなことはなかった。国王のクリスマスのメッセージがラジオで放送された。国民は、王が健在であることを知って喜びあった。しかしそれはあらかじめ録音されたものだった。王自身は直接に国民に生放送で話しかけることにこだわった。だが、エリザベス王妃はそれを許さなかった。なめらかに発声することが困難で、いつも緊張気味の夫を励ますため、エリザベス王妃は放送に付き添うのを習わしとしてきた。だが、このたびばかりは夫の病状に甘い期待を抱いていなかった。
王の病気でいったん延期されたオーストラリアおよびニュージーランド公式訪問は、エリザベス王女と夫君フィリップ殿下が代行することになった。出発前夜の一九五二年一月三十日夜、国王夫妻とエリザベス王女夫妻、それにマーガレット王女とピーター・タウンゼント大佐は、アメリカのミュージカル「南太平洋」を見に由緒あるドルーリー・レーン劇場へと出かける。これが、一家そろっての最後の外出となる。タキシード姿の王は楽しそうだった。翌三十一日は寒かった。空路いったんアフリカのケニアを訪問し、それから船でオーストラリアへと向かう王女夫妻を見送るため、王は車でヒースロー空港に出向いた。機影が雲の中に消えるまで、王は防寒用の帽子もかぶらず冷たい風に吹かれじっと立ったまま見送っていた。
「そろそろお車に移られませんと、寒気がお身体にさわります」
側近がうながすと、王は突然ふりかえって改まった口調で彼に言った。
「どうか私のためと思って、リリベットのことをよろしく頼みます」
サンドリンガム宮殿に戻った王は、二月五日、愛車のランドローヴァーで野うさぎを撃ちに出かけるほど元気だった。ノーフォークの空は青く晴れ渡り、狩猟には理想的な一日であった。王は上機嫌で、王妃やマーガレット王女、それに猟のお供の人々と夕食をともにした。翌日のうさぎ猟の計画を話し合い、やりかけのジグゾーパズルをちょっとだけいじってから、にこやかに一階の自分だけの寝室に引き取った。その夜十時半には、王が寝室の窓のかぎをかける姿を庭からガードマンが目撃している。翌朝七時半、執事はお手伝いの若者をひき連れ王の寝室の前に立った。若者にモーニングティーのセットを載せたお盆を捧げさせ、ドアをノックした。たいてい王は目覚めていてすぐに返事があるのだが、王の声は聞き取れなかった。ご病後の狩猟行でお疲れなのかも知れない。そっとドアを開けて王のベッドに近寄り、声をかけてみる。はっと顔色を変え、無言で横たわる王の身体におそるおそる手をのばす。
「おお神様!」
雷にでも打たれたように悲鳴を上げ、なにごとかと入り口で待ち受ける若者の方に後ずさった。王はだれにも看取られずに、ひっそりと息を引き取っていた。血の固まりが就寝中の彼の心臓を止めたのだった。
ダウニング街のチャーチル首相のもとに、悲報が届いた。秘書官が首相のベッドルームのドアを開けると、彼はまだベッドの中で、愛用の葉巻をくわえたまま書類を手にしていた。ベッドサイドテーブルの上には、短くなった緑色のろうそくが突然の空気の流れに炎をゆらめかせている。首相はいつもそれで葉巻に火をつけるのだった。部屋中に、足の踏み場もないくらい書類が散乱している。紙片を踏みつけないよう注意して足を踏み入れながら、秘書官は告げた。
「悪いお知らせです、首相。国王陛下が昨夜亡くなられました。そのこと以外の詳細は、まだ報告が届いておりません」
鼻にかけた老眼鏡ごしに、チャーチルは秘書官をにらみつけながら言った。
「悪い知らせだって? 最悪だ」
老首相は、手にした書類をまき散らした。秘書官は、勢いで首相の口から吐き出された葉巻の燃えさしを床のカーペットの上から拾い、そっとテーブルの灰皿に乗せた。彼が無茶を言い出して周囲を困らせるたびに、その人柄で暖かく取りなしてくれた国王はもういない。ガウン姿でベッドを出て、部屋の中を歩き回りながらわめいた。興奮が静まるとつぶやいた。
「閣僚たちに連絡をしなきゃならん」
それからソファーにがっくりと身を落とし、じっと正面の壁を見すえたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。彼ほどこの国王と親しかった人物はいない。あるときは政治問題解決のための同志として、またあるときは父親と息子のようにして、二人きりで食事をしながら話し込んだものだった。給仕もまじえず、互いに料理や飲物をよそったり注ぎ合ったりする。順調に回復しているとばかり思っていた。エリザベス王女では、あまりにも若すぎる。孫のような新女王に仕えるすべも分からない。
マールボロ・ハウスのメアリー皇太后のもとにも、急使が派遣された。告げられた女官は、
「まあなんてことでしょう! でも、わたくしの口からはお伝えできませんわ。先に末のお子様のケント公がお亡くなりになったとき、いきなりあからさまに申し上げたわたくしのことを、皇太后さまは今でも決して許して下さらないのです。あなたご自身がお居間のほうに上がられて、直接に申し上げて下さい。陛下のご容態がひどくお悪いとかいうふうに」
「いや、それはできません。あと三十分もすれば、きっと世界中が知ることになるのです。そのまえに、皇太后さまには事実をお伝えしなくてはなりません」
「分かりました。わたくし、自分で申し上げてまいります」
おずおずと部屋に入った女官が口を開くまえに、静かな声で皇太后は言った。
「分かっています。王のことですね」
それ以後、彼女は急速に老け込み、一年後の五三年三月二十四日、息子のあとを追うように亡くなった。八十五歳だった。
アフリカのケニアを訪問中だったエリザベス王女夫妻のもとにも、ナイロビの新聞社経由でロイター電のニュースフラッシュの内容が届けられた。悲報は、フィリップ殿下が王女に告げることにした。ケニアのサガナ川の畔の宿舎を出て、二人は川岸に向かった。並んで川面を見下ろしながら、フィリップ殿下はその悲しい知らせを伝えた。それから半時間ほども、二人は無言で川岸を歩き続けた。彼らは旅行を打ち切って、急遽、帰国しなくてはならなかった。これまでの旅行中にも、彼女はいつも喪服を携えていた。国王の死で必要となる国書のたぐいも、つねに旅行荷物に加えられていた。書類の中には封をした封筒があり、王位継承宣言の草稿が入っていた。ついにそれが役立つ日がやってきたのだった。ロンドンの空港では、叔父のグロスター公、フィリップ殿下の叔父マウントバッテン卿、チャーチル首相、他の閣僚たち、両院議長、野党党首などが出迎えた。タラップが降ろされると、親族としてグロスター公とマウントバッテン卿だけが機内に入り、他の人々は滑走路で待った。二人がそれぞれにお悔やみを述べると、黒い喪服姿のエリザベスは彼らに尋ねた。
「一人で降りて行かねばなりませんか?」
彼らがうなずくと、彼女はすっと背筋をのばし静かに機外へと歩を進めた。父王の死を悼んで黒の帽子に黒いレースがかけられていたが、飛行機のドアの外からさしこむ光線に照らされたその下の荘厳な表情は、すでに女王のそれであった。
ジョージ六世の五十七年の生涯はいつも病気との闘いだった。彼が完全に健康であったことは一度もなかった。小さい頃は内反脚で、膝に矯正用の副木をあててすごした。言葉がどもるようになったのは、厳格な父ジョージ五世へのおそれと、生まれつき左利きだったのを無理に右手を使うよう強制されたからだとされている。少年時代に海軍に入り、第一次大戦のときには海軍士官だったが、インフルエンザ、肺炎、虫垂炎、慢性胃炎とたて続けにわずらい、ついに十二指腸潰瘍がもとで海軍を除隊する。それでもなお海軍航空隊入りを志願して認められ、空軍の創設とともに空軍に籍を移した。結婚して幸せな家庭を築いたのもつかの間、兄の退位でいそぎ王位に就いた。だが彼の弱い身体では、君主という激務のストレスにはそう長くは耐えられなかったのである。その地味な性格から、チャーチルという強烈な個性の政治家のかげに隠れて、彼は戦中戦後のイギリス政治の局面ではつねにナンバー・ツーとみなされていた。だが帝王学も学ぶことなく王位に就きながら、努力して理想的な君主となったのであった。その人柄の良さと、彼とともに過ごした苦難の歳月から、国民はこれを「ジョージ善良王」あるいは「ジョージ不屈王」とおくり名して別れを惜しんだ。
エリザベス王妃の悲しみは深かった。夫はもう、言葉なめらかにスピーチできないことを不安がらず、また闘病の苦しみからも免れて、やすらかな死に顔を見せていた。彼女は、そうした夫を励まし導き、そして力強く支えながら結婚生活を送ってきたのだった。死の直前は病状が改善していたため、将来の計画をあれこれと楽しそうに彼女に語り続けた。彼女もまた、この危機を乗り切ることができれば、いましばらくは平穏な日々をともに送ることができそうな気がしていた。それだけに、互いに別れの言葉もかわさず夫が逝ってしまったことに、ただ呆然としていた。国事にほんろうされ、病気と闘い続けた短い晩年を思うにつけ、夫をそうした状況へと導いた人たちに複雑な気持ちがつのった。だが、彼の性格には生来の高貴さとでもいうものが備わっており、ともすれば感情的になりがちな彼女をいつも優しくさとしてくれた。きっと今回も、亡き夫は自分の心の狭さに賛成しないに違いない。
一九五二年二月七日、チャーチルは悲痛な表情を隠そうともせず国民に語りかけた。
「この数か月というもの、国王は死とともに歩まれてきた。あたかも死が伴侶であり、知己であるかのようにして。王は死を受容され、おそれられなかった。そしてついに死が友として訪れました。王の旅に終わりが近づくのを、我々みなが見守ってまいったのですが」
二月九日から十日の週末の間、王の遺体はサンドリンガム宮殿内の王家の小さな教会に安置された。棺は王旗でつつまれ、王の従者たちが昼夜四交替でこれを護衛した。それから十一日には、先王ジョージ五世のときと同じ砲車に乗せられ、同じルートをウォルファートン駅までたどり、そこから列車でロンドンへと運ばれた。そして三日間、国会議事堂内のウェストミンスター・ホールに安置された王の棺に三十万人の人々が別れを惜しんだ。遺体は、ウィンザーの聖ジョージ教会に埋葬された。たむけられたたくさんの花輪の中に、チャーチルのそれもあった。白い花のリースにはたった一言、ヴィクトリア勲章からの引用で、老首相から死せる王への最後の献辞が手書きで添えられていた。
「勇者へ」
弟ジョージ六世の葬儀に出席するため、ウィンザー公は九年ぶりにロンドンの地を踏んだ。彼一人での参列だった。英国海軍士官の軍服とコートを着て制帽姿のウィンザー公は、砲車に乗せられた弟王の棺のうしろを歩いた。葬列を見送るイギリス国民の中には、彼らとともにあの苦しい戦争を戦い抜き、いま力尽きた国王ジョージ六世への追悼だけでなく、久しぶりに目にする前国王の姿に涙する者も多かった。だがそれ以上に人々にショックを与えたのは、弟を失ったウィンザー公がとても老け込んで見えたことだった。
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第十八話 アナスタシア裁判
一九五四年十二月、ブロードウェイのミュージカル「アナスタシア」が大ヒットすると、翌五五年には、アメリカから「ライフ」誌の記者がドイツまで取材にやってきた。第二次アナスタシア・ブームのはじまりだった。一九五六年には、アメリカとドイツで映画が競作され、どちらも映画賞を受賞する。翌年、アナスタシアの伝記本が世界的なベストセラーとなっている。ウンターレンゲンハルトの静かな村には、見物客が押し寄せるようになった。アナスタシアはいよいよ気むずかしくなり、家に閉じこもってしまう。彼女は寄贈された曾祖母ヴィクトリア女王のベッドなるものに身を横たえ、たくさんの犬や猫にかこまれて暮らしていた。五十代にさしかかった彼女の心身の状態は相変わらず良くなく、歯もすべて失い髪の毛も白くなって外見は老婆のようであった。室内は乱雑に散らかり放題で、庭も荒れるにまかせて手入れされていない。放し飼いの犬猫がぞろぞろ歩き回っている。人嫌いの変人ぶりがいっそう際だってきていた。
戦争で中断した裁判は戦後まもなく再開されたが、アナスタシアはエカテリンブルクで死んだものとして、一九五六年、彼女の訴えは却下される。アナスタシア側が再審理を求める一方で、いまやすでに代がわりしている遺産相続人側は、彼女の正体はフランツィスカ・シャンツコウスキーであるとの反訴を提起する。裁判は、ハンブルク上級地方裁判所(高裁)で一九五八年一月に開始された。同年三月、七十八歳の高齢となり髪も真っ白のかつての家庭教師ジリヤールが証言台に立った。妻のシューラは三年前に亡くなっている。彼は断固とした口調で偽者説を繰り返した。証言を終えた老人はローザンヌへ戻って行き、交通事故にあって一九六二年に傷がいえぬまま死んだ。
同じ一九五八年の秋、マウントバッテン卿は、イギリスBBCテレビがアンナ・アンダーソンことアナスタシア・チャイコフスキー夫人にインタビューする予定だと耳にする。さっそく彼はBBC会長のジェイコブ卿に手紙をしたため、この詐欺師による一連の長期裁判で自分の親族たちが経済的な打撃と精神的苦痛をこうむっていると述べた。
「親戚全員が、彼女には我々に似たところなどまったくないと話しておるのです」
BBCの番組制作は中止された。一九六〇年には、叔母のクセニア大公女がイギリスで死去し、もう一人の叔母オリガ大公女も移住先のカナダで亡くなっている。
そして一九六七年二月二十八日、ついにアナスタシア裁判の高裁判決が下されたが、アナスタシア側は、身元を証明するだけの証拠を提出できなかったというものだった。だが判決は彼女の主張を否定するものではなく、単に法廷が満足するだけの証明がなされなかったにすぎないとわざわざ付け加えた。しかも判決では、「アナスタシア皇女がエカテリンブルクで死亡したことは、決定的に証明ずみの歴史的事実として受け入れることはできない」と明言されており、実質的には、相続権をアナスタシアの親族に与えた一九三三年の判決を完全に無効にするものだった。世界中に向け、つぎつぎにニュースが打電された。
「ドイツの高裁は、アンナ・アンダーソンの承認を拒絶!」
アナスタシア側は、ただちにドイツ連邦通常裁判所(最高裁)へ上告すると発表した。
一九六七年四月、ヘッセン大公家の弁護士である男爵ベレンベルク=ゴスラー博士は、マウントバッテン卿に報告して言った。ベレンベルク=ゴスラー弁護士は、流暢《りゆうちよう》な英語を話した。
「一九四一年九月二十七日のベルリンの区裁判所の決定理由であげられておりましたのは、申立人がエカテリンブルクからブカレストまでの彼女の逃避行について述べることができる出来事はあまりにわずかなうえ、あり得るとか不可能ではないという程度からもほど遠く、それだけでもう申立人に対して大きな不信を抱かせるものであるということです」
マウントバッテン卿は、ドイツ語まじりで応じた。
「その通り! 我々ヘッセン家の一族もそう思っているよ」
「一九二五年以来、『アナスタシア事件』は、ドイツ内外のマスコミ全体にセンセーションを巻き起こしてきました。だからこそ、この手続で証人が証言したことや客観的に証拠だてられないことなど、すべて最大限に慎重に評価されなくてはならないというのです。さらに、『結局のところ、ほかのセンセーショナルな事件すべてと同様に、ここでも証言台に立つ人々は関心をひこうとして、まったく空想の産物を作り上げようとしているような印象も受ける』とされました」
「アンドレイ大公は夢想家だ。それに、君もあのジーギスムント殿下の失言を覚えているだろう。イタリアに住む『マリア皇女』を名乗るぺてん師のことも、本物だと認めたんだ」
「はい。それに、白系政府のコルチャク提督の委嘱をうけたソコロフ調査官が皇帝一家の殺害に関して行なった調査結果は、全面的に証拠価値のあるものと認められております。とりわけ六個のコルセットが破片となって発見されたことから、皇女たち全員が殺害されたという結論が必然的に引き出されるものとされました。
申立人のロシア語の知識については疑問があるとされた一方で、(ラントヴェーア運河から引き上げられたあと収容された)ダルドルフ精神病院において『名なし嬢』が完璧なドイツ語を話したという事実が、とくに注目されております。さいごに、本物のアナスタシア皇女の写真を手がかりに、とくに耳の形を比較してまったくの別人物であるとの確かな結論にいたった人類学の専門家の鑑定が採用されました」
「よろしい、よろしい!」
ベレンベルク=ゴスラー弁護士は続けた。
「この決定に対する異議申立は、一九五六年十二月二十八日に、上級審のベルリン地方裁判所で却下されました。この第二審では、さらにクラウベルク教授の鑑定も求められましたが、これも人物の同一性を明確に否定するものでした。革命前の本人を知る『識別証人』の取調については、ここでも以下のような理由から行なわないとされました。すなわち、『裁判所の司法判断の誤りであれ、心理的な日常の経験であれ、人の同一性を確認する際にいかに信じられないような過ちを犯すものであるかは、周知のところである。その場合、間違いの原因でとくに多いのは、ある人がだれかに紹介される際、それが初対面ではないと相手方が事前に予想していたり、あるいは意識下でそう望んでいたりする場合に生じる示唆作用であるとされている』というのです。相手方は、別の人類学上の鑑定を自分で依頼しようとしていたようですが、取り上げられませんでした」
「革命前には、アナスタシア皇女はまだ子どもだった。別人に、亡くした子の面影を見ようとするのはよくあることだよ」
「さらに同法廷で審理された問題は、皇帝一家のうち一人が、あの虐殺のあった夜逃げ出すことができたかどうかでありました。ここでは完璧な確実性は必要ではなく、『平均的な人生経験ある人間にとって、疑問をはさむ余地がないほどの高い程度でそうらしいという理由』が上げられればよいのです。そしてここでは、あまり広くない部屋の中に十一名の身を護るすべを持たない人々がいて、もう十一名の銃殺隊がそれぞれ銃器を手にこれを殺害する意図で対峙していたわけですから、きわめてありそうな結果とは、彼らがその目的をとげたということにほかならないとされました」
「あの恐ろしい瞬間のどこを取り上げてみても、蟻の這い出る隙間もない。それに、あの女は、そのときのことを説明できないというじゃないか」
「おっしゃるとおりです。さいごに、ベルリン地裁がもっと詳細に取り組んだ問題は、ロシア人である両陛下のお子たちの遺産についての相続権証書を、ドイツの裁判所がドイツの法律にもとづいて発行することが、そもそも許されるのかということでした。説得力ある証拠が上げられましたので、さまざまな法的視点のもとで、ドイツ国内所在の遺産に関するかぎりドイツ法が適用されるものとされました。
アンダーソン夫人は、このような地裁の判断に対する不服を、さらに上級審のベルリン高裁に申し立て、これまで申立人本人が発言を許されていないこと、目撃証言や識別証人がまったく取り調べられていないと主張しました。それから一九五七年十月十六日、アンダーソン夫人はハンブルク地裁に通常の民事訴訟を提起いたしました。彼女はこの提訴を決めたとき、(ベルリンの高裁での)いわゆる相続権証書手続での再度の不服申立を取り下げております。これは、ベルリン高裁での裁判の期日よりすこし前に同法廷の裁判長がアンダーソン夫人側の弁護士に対して、通常の民事裁判の手続によるよう強くすすめたためであります。証拠調べの申請に応じたり、とくに大勢の遠隔地居住の証人を調べてほしいというのであれば、(合意管轄によっている以上)この相続権証書手続によるのは適当でないということでした。
そこでアンダーソン夫人の弁護士たちは、自分らの依頼主に、皇帝一家の遺産分配にあずかった人々の中から、故イレーネ妃の相続人のバルバラ妃殿下のみをターゲットに選び出し、彼女だけを相手どって訴えを提起することを提案しました。これら二人の弁護士は、(一九三八年以来、ベルリンでの相続権証書裁判で、皇女を名乗る人物の利益を代弁してきたのですが)、自分たちの弁護士事務所をハンブルクに置いており、ハンブルク地裁の管内で開業免許も得ておりましたので、バルバラ妃に対してハンブルクで裁判をとりおこなうことに同意してほしいと願い出ました。妃殿下はキールにお住まいのため、キール地裁の管内にはとりたててご自分の信頼できる弁護士がいないこともあり、ハンブルクを『合意管轄』の地とすることをお認めになったのです」
「先方の弁護士たちも、よほどの旨味《うまみ》がなければ、こんなに長期間続けられなかったことだろう」
「一九五七年十月十六日に提起した訴えで、アンダーソン夫人は、つぎのように主張しました。
一 原告が両陛下の末娘としてただ一人の相続人であると確認したうえで、したがって、一九三三年九月八日をもってベルリン区裁が被告の祖母イレーネ妃に発行した相続権証書は無効とせよ。
二 被告バルバラ妃は、(西ドイツ国内所在の遺産部分の価額として)六千百マルクを原告に支払え。
同地裁は、国の内外で多くの証拠を調べました。とりわけ、人類学上の鑑定や筆跡鑑定も取り寄せられました。これら双方の鑑定とも、原告に有利に、彼女は本物のアナスタシア皇女であるとするものでしたが、ハンブルク地裁第二民事部は一九六一年五月十五日、この訴えを棄却しました。この判決は、非常に詳しい判決理由をそえて、すべての関係者に送達されました」
「高名な鑑定人たちも、事件の派手さに眩惑されたに違いない。裁判所が慎重だったのは、実に賢明なことだった」
「この(通常の民事裁判での)第一審判決に対する控訴審の裁判は、原告の訴訟代理人である弁護士の一人が一九六二年に死去したため、遅れることとなりました。やっと一九六三年末になってアンダーソン夫人の新しい弁護士が手続きを再開しましたが、彼は何か月もかけて、たくさんの訴訟資料を調べなおさなくてはなりませんでした。同時に原告は、ハンブルク高裁に訴訟救助を申し立てて訴訟費用を無料にするよう申請しましたが、彼女は法律がいう『貧者』にあたらないとして退けられたのが注目されます」
マウントバッテン卿は、頷いて言った。
「やつらは、センセーショナルな宣伝を通じて膨大な資金を集めている。この裁判を、『企業』として成功させるつもりなのだ」
「第二審の裁判所は、その徹底さにおいて第一審を上回るものがありました。第一審ならびに相続権証書裁判の専門鑑定人たちはふたたび詳しく審尋されましたし、第一審で発言ずみの証人のうち重要なものは再度証言させられました。新しい証人たちも大勢登場しましたが、その中には、一九一八年七月十六日から十七日にかけての、あの当夜イパチェフ館に滞在していた証拠があるルドルフ・ラッヒャーなるオーストリア兵捕虜の元鉄道員もおりました」
「君の質問に、イパチェフ館の半地下室を足もとの窓から覗いたら、たしかに十一の遺体があったと証言したのだったね」
「はい。ですが、相方側弁護士が『ドイツとオーストリアの相互協定により、ここでの偽証はオーストリアでも罪になる』と言ったとたん、態度を改め前言をひるがえしたのです」
「本当に現場にいたにせよ、あてにはならぬものだな」
「一九六七年二月二十八日、ハンブルク高裁はこの控訴を棄却する判決を下しました。その理由書はまだありません。ドイツの民事訴訟法によれば、理由を付した判決文は言い渡しから五か月以内に、当事者双方に交付されることになっています。ハンブルク高裁の所長は判決理由を書き上げるために取り扱う書類の量が膨大であることから、非常措置として一九六七年六月三十日まで、この事件を担当する判事全員を他のすべての仕事からはずすものとしました。これは『支援部』態勢というのですが、アナスタシア事件の判決理由を書く以外なにもしなくてよいというものです。
理由書は、タイプ書きで千頁を超えるものになると予想されます。そこで、同高裁は原告が本物の皇女ではないものと確信するという、非常にはっきりとした表現がなされることは明らかです」
「あたりまえのことを認めてもらうのに、これほどの時間と費用に苦しめられたわけだ」
「私は、被告側の訴訟代理人として、この裁判を被告の側で手助けする『訴訟支援者』、すなわちドイツの民事訴訟法にいう『補助参加人』である当代のヘッセン大公ルートヴィヒ殿下のため、すでに第一審の段階から働いてまいったのですが、原告がアナスタシア皇女でないと同法廷が確認するようあらゆる努力をいたしました。さいしょに私はこの手続に加えて地裁に反訴を提起し、アンダーソン夫人の正体はポーランド人の元農婦フランツィスカ・シャンツコウスキーであると確認するよう求めました。ただ手続上の理由から(ハンブルクの裁判所は合意管轄によるものであるため、こうした申立については管轄権を持たず、そのような『身分上の訴え』は彼女の住所地を管轄するカールウの地裁に提訴しなくてはならないということで)、この反訴は『不許可』として却下されました。そこで、我々が反訴を起こせないという点については地裁判決は確定したというわけです。けれどもその一方で、第一審の判決理由の中では、原告が一九二〇年二月にヴィンゲンダーの家族の住まいから姿を消したフランツィスカ・シャンツコウスキーと一致することには『高い蓋然性あり』と表現されています。私は、ハンブルク高裁が、アンダーソン夫人もしくはチャイコフスキー夫人の正体は、一九二〇年以来行方不明のフランツィスカ・シャンツコウスキーであると、はっきりと確認してくれるものと期待しています」
「これで、このばかげた裁判が打ち切りになればありがたいことだが」
「アナスタシア事件におきまして、とくに歴史的に重要なのは、アンダーソン夫人が頑固に主張しているように、先代のヘッセン大公エルンスト=ルートヴィヒ殿下が第一次世界大戦中に(一九一六年春であったというのですが)、両陛下からドイツ帝国との単独講和をかち取るべくペテルブルクめざして旅行したことがあったかどうかであります。訴えにつき判断するためには、この問題は法的にはほとんど関係がありません。とはいえ、アナスタシア伝説の世界的な意義からすれば、その時点での歴史の真実を上級審がこれきりのものとして確定するということは、やはり大切でありましょう。ハンブルク大学現代史講座の高名な歴史学者エグモント・ツェヒリン教授の総合的な鑑定によりますと、ヘッセン大公はそのように大勢の人目にふれるような旅は決してなされなかったものと立証されたとみてよいということです」
「私たち親族のだれ一人として、アーニー叔父(ヘッセン大公)からそのような話は聞かされていないよ。とんだ作り話を持ち出したものだ」
「さいごにもうひとつ期待されますのは、地裁はあの殺害の夜からの救出をまったくありえないこととはしていないのに対して、高裁が皇帝一家のだれもエカテリンブルクの虐殺を逃れることはできなかったものと確信すると書いてくれるのではないかということです。新聞報道にありましたように、アンダーソン夫人の訴訟代理人はカールスルーエの最高裁に上告するつもりであると表明しております。『控訴』とちがって、『上告』には法的な誤りだけを援用できます。つまり最高裁は、自分であらためて証拠調べをすることはできないのです。おそらく原告としては、ハンブルク高裁では重要な証人がもっといるのに取り上げてくれなかったけれども、それらの証言こそ裁判のゆくえを決定づけるものだったと主張するでありましょう。西ドイツの最高裁がそうした意見に賛成であっても、事件は高裁に差し戻されねばならず、裁判はそこでもう一度展開されることになります。
私個人といたしましては、ここでの第二審の判決理由が異例の慎重さで作成されております以上、上告は棄却されるものと予想しています。そうすれば、この判決が終局のものとして確定いたします。遺憾ながら、西ドイツの最高裁の仕事ぶりからいたしまして、裁判の期日指定を得られるまでに当事者はたいてい一年は待たねばなりません。七月十五日から九月十五日までは裁判所は夏休みとなりますので、上告期限が満了するにはおそらく今年の秋までかかるでしょう。ということは、上告がなされた場合にも、第三審の手続きがおこなわれるのは、一九七〇年ということはなくても、一九六九年に入ってしまうことだけは間違いありません」
ベレンベルク=ゴスラー弁護士が述べているように、著名な人類学者と筆跡鑑定家は口をそろえてアナスタシアをほんものと認めた。裁判には敗れたものの当時の法医学と鑑識技術の最高水準にあった者たちが、アンナ・アンダーソンことアナスタシア・チャイコフスキー夫人はロマノフ皇女アナスタシアだとみなしたのだった。また、ヘッセン大公家のこだわりようの原因として、アナスタシアの生活の面倒をみながら連載記事と本を書いて彼女を世間に送り出したラトレフ=カイルマン女史は、それは大公自身の大戦中の行動にあるとしていた。
「あなたが最後にママの伯父さんに会ったのはいつ? きっと随分小さかった頃でしょうね」
「いいえ。大戦中に、わたくしたちの家で」
「まあ、そんなはずはないわ。第一次大戦では、ヘッセン大公はドイツ側で帝政ロシアと戦ったのです。敵側の宮廷に受け入れてもらえるわけがないし、そこであなたが見たはずもありません」
「彼は、こっそりやって来たんです。こうなったらもう和平か、わたくしたち一家が国を出るか、どっちかだということでした。伯父さんが証明してくれます」
「ありえないことだわ。敵方の王族が、ロシアの、しかも宮廷にいたなんて! できるわけがない。あなたの間違いでしょう」
「彼はママに言ったわ、『もうプリンセス・サンシャインじゃおれない!』って」
「もしもあなたの言うとおりで、このことをだれも知らないとすれば……」
女史は大きく目を見開いた。
「本当に確かでしょうね?」
アナスタシアは、苛立たしそうにうなずいた。
オランダに亡命したヴィルヘルム二世は人気がなかったから、その皇帝の密使としてドイツ政府や軍部に無断で行動していた事実が露見すれば、ヘッセン大公の将来はなくなってしまう。彼女は、一九一六年二月十九日から四月二日までのどこかで、伯父はツァールスコエ・セロに滞在したと主張した。高裁判決では、ヘッセン大公側が提出した証拠や証言に従い、この期間中彼がフランスのヴェルダン要塞を攻撃中のドイツ軍査察で同地に滞在した日を除くと、残りは五日間しかないこと、この間に大公と大公妃とがやり取りした手紙の日付や内容から、ロシアへの和平の旅はなかったと認定している。大公自身がつけていた日記にも欠落はなく、歴史学者が調べた当時のドイツ政府の記録からもヘッセン大公による運動はなかったとされている。皇后がヘッセン大公家の出身であることから、そのような噂だけがしばしば流れていたというのである。
上告は一九六八年五月になされた。ドイツの弁護士制度によれば、最高裁で上告事件を扱うことができるのは、弁護士選出委員会の手で選ばれた者に限定される。アナスタシア側に立ってこれを引き受けたクルト・フォン・シュタッケルベルク男爵は、最高裁弁護士会の会長をつとめる大物だった。彼自身も、バルト諸国系ロシア貴族の末裔である。上告理由として彼が上げたのは、原審の(1)原告への立証要求が不当に厳しいこと、(2)二重基準による証言の評価、および(3)原告に有利な証拠の無視という三点だった。新しい西ドイツ基本法(憲法)にいう「基本的人権」が強調されていた。
「自己のアイデンティティについての権利ならびに氏名権は、人の尊厳についての基本権および人格の自由な展開に含まれるものであります」
グレプ・ボトキンはアメリカでアナスタシアのことを気遣っていた。一九六五年以来、ヴァージニア州シャーロッツヴィルに住んでいる。娘マリナが、弁護士のリチャード・シュヴァイツァーと結婚してこの町で暮らしていたからである。ここでグレプはジョン・E・マナハン博士と親しくなった。裕福な家の一人息子に生まれたマナハンは四十代で独身の歴史学者だった。アナスタシアの支援者たちは、彼女が最高裁で負けてしまったときのことをおそれていた。勝訴した相手方が追い打ちをかけ、彼女の全財産を取り上げることも考えられたからである。一九六八年七月、裁判の上告準備が終わった頃、彼女はアメリカへ発った。そして同年暮れ、自分より十八歳若い四十九歳のマナハン博士と結婚する。ビザの更新問題を考えての偽装結婚だった。グレプは彼に頼んで言った。
「私も今は一人身だから、私のほうが結婚すべきなのかも知れない。だが、このところの私の心臓の状態では、あの方よりも長生きできる自信がないんだ。それに形だけといっても、私はどうしても主君と結婚することはできない」
アナスタシアは、こうしてマナハン夫人となった。グレプは、彼の懸念どおり一年後に心臓発作でこの世を去る。旧西ドイツの最高裁判所では、いよいよ裁判がはじまろうとしていた。
一九七〇年二月十七日、西ドイツの最高裁は、彼女の身元についてはなにも見解を示すことなく、法技術的な理由だけによって上告を棄却した。とはいえ、その判決理由書も百四十三頁に及ぶ長文のものであり、とくにアナスタシアの身体の特徴についての鑑定や筆跡、使用言語の鑑定については、原審の取り上げ方に不当な点はないことを、逐一検討したうえで結論づけている。問題のヘッセン大公の単独講和の旅に関しても、なんら証拠や証言、鑑定の評価や採否に問題はないと説明する。彼女が、被告側の主張するシャンツコウスキーではないという反論についても、そうでなければアナスタシア皇女だということになるという二者択一関係はなく、不明の第三者の可能性もあるとする。彼女がベルリンの運河から助け上げられてから、ちょうど五十年が経過していた。カールスルーエからロイター電は、「三十六年間に及んだ闘い終わる。ドイツの裁判所はアナスタシアの請求をしりぞけた」と報じた。
ニコライ一家の殺害現場イパチェフ館は、一九七七年秋に取り壊されるまで原形をとどめていた。白軍が敗れ去った一九二〇年以降は、歴史的な史跡として見学者を受け入れていた。一九四五年までは、皇帝一家殺害現場の地下室は、ゆかりの品々を展示する博物館のようになっていた。その後は、全ソ出版同盟の州支部が置かれていた。七〇年代になると、ニコライ一家の悲劇やアナスタシア伝説を扱った出版が世界的にブームとなり、ここを訪れる観光客が増えてきた。亡命したロマノフ一族の子孫たちからは、この建物を歴史の生き証人として保存するよう、ソ連政府に働きかけがなされた。共産党はこれを拒否し、館の撤去を指示する。建物の解体を指揮した現地の共産党のトップは、ロシア連邦大統領となるボリス・エリツィンだった。
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第十九話 女王エリザベス二世
一九五三年六月二日、女王エリザベス二世の戴冠式がウェストミンスター大聖堂で挙行された。彼女は二十七歳になったばかりだった。当時十九歳の日本の皇太子明仁親王は、日本の皇族で戦後はじめてのイギリス訪問として参列している。ウィンザー公夫妻は、今回も招待されなかった。王族たちのなかに、ひときわ長身の老人の姿があった。あの大津事件でニコライを助けたジョージ親王(ゲオルギオス殿下)である。彼は、クレタ島の民族紛争で高等弁務官の座を追われたあと、パリで亡命生活を送り、この後一九五七年十一月に八十八歳で他界した。
(画像省略)
式のあと、大聖堂の出口でマーガレット王女のそばに寄り添うタウンゼント大佐の姿がマスコミの目を惹いた。第二次大戦の空のエースで、亡きジョージ六世の侍従をつとめた人物だった。ジョージ六世がその人柄を愛して手元に置きたがったため、通例の侍従武官としての勤務よりもはるかに長くバッキンガム宮殿に伺候し続けた。そして王の死後は、エリザベス皇太后とともに宮殿を出てクラレンスハウスで皇太后付きとなった。戦争中に結婚して二人の子どもをもうけたが、半年前に離婚したばかりである。二十二歳のマーガレット王女は、自分たちの関係を国民に示したのだった。新女王のはじまったばかりの治世で、最初の危機がこうして訪れた。新聞が騒ぎはじめた。
チャーチル首相は、女王に助言して言った。
「陛下は、この結婚に同意なさるべきではありません。きたるべき皇太后陛下ならびにマーガレット王女様の南ローデシア行きには、タウンゼントを同行させないことにしましょう。そしてご旅行から戻られたときには、彼はロイヤル・サーヴィスの仕事だけでなく、英国からも去っておればよろしい。ベルギーの英国大使館の駐在武官として、二年間の海外勤務を命じます」
そして一九五五年十月、彼はロンドンに帰任した。マーガレットの結婚の意思は変わらなかった。女王は、伯父ウィンザー公の前例があるだけに、妹の結婚を承認できなかった。チャーチルの後任のイーデン首相は、やはり女王は同意を与えるべきではないと助言した。これより前の同年八月二十一日は、マーガレット王女の二十五歳の誕生日だった。王室婚姻法によれば、この歳に達した王族は王の同意なしで結婚できる。そのためには、一年前に枢密院に予告すればよい。だが、それは法律上のことで、現実には政府や議会の意向に反しては強行できない。首相は、王女に説明した。
「たとえ議会が反対でなくとも、彼とご結婚なさるなら公的生活から退かれるべきでしょう。そうなれば、国庫から受けておられる年額一万五千ポンドの王族費は支給されなくなります。このようなご結婚は、王室の尊厳を損なうものです」
つぎに恋人たちがクラレンスハウスで会ったとき、タウンゼントはマーガレットに別れを告げる。王女の声明文は、国民の胸を打つものだった。
「ピーター・タウンゼント空軍大佐と結婚しない決心をしたことを、お知らせしたいと思います。もしもわたくしが王位継承権を放棄するならば、平民として結婚できるということも知っていました。けれども、クリスチャンの婚姻は解消されえないものだという国教会のおしえを心にとめ、英連邦に対するわたくしの義務を自覚して、これらのことをなによりも優先しなくてはと決意したのです。
まったくわたくし一人でこの決断に達しましたが、そうするにあたって、タウンゼント大佐の尽きない支えと献身に励まされました。わたくしの幸せを祈り続けてくださった皆さんに、深く感謝いたします。マーガレット」
ウィンザー公は、姪の悲恋に多大の関心を寄せていた。
一九五五年十月二十三日付ウィンザー公からニューヨークの夫人宛て。
「私は状況を興味深く見守っている。私の予想では、この問題はいずれにせよ、じきに沸点に達することだろう」
十一月五日付。
「明晩、私はフェリーでドーヴァー海峡を越えて、『敵の島』に渡ってくる。六日前にマーガレットとタウンゼントが破談になったと公表されたが、『ザ・タイムズ』や『デイリー・テレグラフ』に煽動されて起こった上辺だけ猫かぶりの偽善的言辞やたわごとは、支持しがたいものだった。英国国教会は、また勝ったというわけだ。私は賢明にも時代遅れの制度の網を逃れたけれども、このたびは彼らは蠅を捕まえたということだね。国教会は、もはや政府の一部局にすぎず、信仰に訴えるのではなくて伝統にしがみついている。私の一九三六年の決心を暗に指摘するような記事が出ないかと注目してきたが、イギリスの新聞ではなにも言及されなかった。そちらのアメリカなら、なにかあるかも知れないが」
それから数日後。
「たったいま、ロンドンからもどった。……ダウニング街十番地の首相官邸を訪問してきたが、イーデン首相はねんごろで親切だった。私がマーガレットとタウンゼントのエピソードに触れると、彼はすました表情で、私の姪のリリベットがこの件につき公式に諮問されなかったので、彼と五人の離婚歴をもつ閣僚はとても助かりましたと言った。内閣に六名もの罪人がいるというのは、率としてひどい」
一九七一年十月五日から七日まで、昭和天皇夫妻がイギリスを公式訪問する。つぎの訪問先オランダと同様イギリスでは、昭和天皇訪英を機に天皇の戦争責任をめぐる議論が高まっていた。一九四五年九月二日に、東京湾のアメリカ戦艦「ミズーリ」号の艦上でマッカーサー元帥を前に日本の降伏文書調印式が行われたが、シンガポールでは、同月十二日に、マウントバッテン卿が連合軍東南アジア方面軍最高司令官として日本軍の正式降伏を受けた。インパールから敗走する日本軍を追撃してビルマ(現ミャンマー)を解放した功績で、マウントバッテンは「ビルマ伯爵」の称号を授与されている。植民地ビルマの独立運動家アウン・サン将軍を見いだしたのは彼だった。太平洋戦争当時には、イギリス本国の対日感情はそれほど悪化していなかった。だが戦争が終わり、日本軍の捕虜となっていた人々が帰還して来ると事態は一変する。イギリスの新聞は、日本軍の捕虜収容所で死亡したイギリス人の氏名を連日のように報道した。国会議員たちが、実態調査のために極東へと出かけていった。日本との戦争そのものよりも、日本軍による捕虜収容所での虐待行為のほうが反日感情を高めたのである。
隠退したマウントバッテン卿は退役軍人を代表するシンボル的存在であったから、彼の去就が注目を集めた。エリザベス女王の歓迎姿勢は手厚いものだったが、ロンドン市民の反応は冷たかった。ヴィクトリア駅からバッキンガム宮殿に向かう昭和天皇とエリザベス女王の乗る馬車に、沿道から一人の青年がコートを投げた。ロンドン郊外のキュー王立植物園での記念植樹は、何者かによって切り倒された。マウントバッテン卿は先約があることを口実に、女王主催のバッキンガム宮殿の公式晩餐会には出席しないと言い残し、ロンドンを離れていた。
五日の晩餐会の席上、昭和天皇は語った。
「近代国家の建設にあたり、日本は貴国から多くのことを学びました。世界の平穏の維持と人類の福祉の増進に、貴国とともに取り組むことにより、我々の感謝の念を表明したいと存じます」
エリザベス女王の歓迎スピーチには、イギリスの国民感情を考慮した厳しい内容が含まれていた。
「わたくしたちは、過去が存在しなかったというふりをすることはできません。わたくしたちは、両国国民の関係が常に平和かつ友好的なものであったというふりをすることもできません。しかしながら、まさしくこの経験ゆえに、そうしたことを再び起こさせてはならないと、わたくしたちはいっそう決意させられるのです。……天皇陛下が平和と友好に献身しておられることは、一九四五年の暗い日々以降に示された陛下ご自身の行動や模範から、あまりにも明らかなところです。……このたびのご訪問で、陛下が王立学士院の会員に迎えられたことは、わたくしたちが全世界の市民として平和のための協力者仲間であらねばならないという、善意に満ちたすべての人々の意志を象徴するものでありましょう」
十月六日夕刻、姿を現したマウントバッテン卿はバッキンガム宮殿の女王に伺候することを口実に、宮殿内で昭和天皇と二人きりで非公式に会談した。会談は三十分ほどにも及んだが、マウントバッテン卿のスポークスマンは語った。
「今回の会見は、昭和天皇訪英に先だってアレンジされていたことです。したがって、公式晩餐会への欠席も、賓客への無礼の意図はありません」
一九七一年十月、昭和天皇夫妻はフランスからイギリスへ向かうまえ、パリのブローニュの森にあるウィンザー公の居館を訪ねていた。大型のリムジンが館の柱廊玄関に横づけされると、昭和天皇夫妻が降り立った。昭和天皇は人手を借りる必要はなかったが、出迎えたウィンザー公は夫人に支えられ杖をついていた。視力の衰えもあって、足元がおぼつかなかった。五十年ぶりの、そしてお互いの人生最後の再会だった。見つめ合う視線の先には、あの初めての出会いのときと同じ、にこやかな笑顔の二人の皇太子がいた。
「やあ、よくいらっしゃいました。プリンス・オブ・ウェールズ、エドワードです」
「初めまして、皇太子裕仁です」
彼らは人生の入り口に立っていて若く、そして意欲に満ちていた。自分の治世の時代がやってくれば、自国の国民により良い境遇をもたらすことができるよう、国を導くつもりだった。西と東で、世界の平和と繁栄とに貢献できることだろうと。あのときと同じ笑顔で、ウィンザー公は昭和天皇夫妻を館に導き入れた。玄関ホールを入ると、その広い屋敷のあちこちに昭和天皇から公へ贈られた品々が飾られていた。
(画像省略)
その日からいくらも経たないうちに、ウィンザー公は喉頭癌と診断される。公もまた、ウィンザー王家の一員として煙草好きだった。すでに外科手術不能の状態で、放射線治療だけが施された。公は、みるみる衰弱していった。一九七一年十一月、七十五歳の彼の喉頭癌は気管を圧迫しはじめていた。英国国教会は、公に和解の手を差し伸べる。もし彼が望むなら、教会復帰を認めるというのである。その申出に対して、公は返信をしたためた。
「私たちは二人して深く神を信ずるものですが、国教会における我々の位置づけをめぐる、すべての出来事にかんがみ、この問題はこのままそっとしておいて、これ以上の論争を避けるほうが賢明であると存じます」
一九七二年五月、エリザベス女王はフランス公式訪問の際、死が近い伯父を見舞った。
「可愛い姪のリリベットはイギリスの君主なんだよ。ベッドを離れて着替えなくてはならない」
ウィンザー公は、言い張って譲らなかった。
「ですが、点滴は中断できません」
「工夫をしたまえ。横になって応接できるものか。立ち上がって挨拶しなくては」
公が腰かける椅子の背後に衝立を立て、点滴の瓶などは、すべてそこに隠すことにした。点滴のチューブは袖口からうしろへ回す。女王の入室の際の一瞬だけ、公は立ち上がって首だけを前に傾ける伝統のお辞儀をした。それからフィリップ殿下やチャールズ皇太子も加わり、なごやかな歓談となった。同月二十七日、公のベッドに付き添っていた主治医は、片時も公のそばを離れようとしない彼のパグ犬が、そそくさとベッドを降りるのを見た。翌二十八日早朝、公は息を引き取った。遺体は英国空軍機でイギリスへと空輸された。マウントバッテン卿は、空港にウィンザー公未亡人ウォリスを出迎え、先に到着したウィンザー公の棺が安置されている聖ジョージ教会へと彼女を案内した。車中で、ウォリスは不安そうにたずねた。
「エリザベス皇太后は、わたくしのことをどうあしらわれるでしょうか? これまで決して許してはくださいませんでした」
「心配ありませんよ。きっと両手をひろげて、あなたを受け入れてくれます。皇太后はあなたに深く同情しています。彼女が今のあなたと同じ境遇にあったときのことを思い出されているからです」
ウィンザー公の遺体は、王家のフログモア墓所に葬られた。葬儀は国葬ではなく王室のそれだった。フィリップ殿下と、公の従兄弟にあたるノルウェーのオラフ国王、それにチャールズ皇太子が棺のうしろを歩いた。マウントバッテン卿もいた。エリザベス女王は黒い喪服の未亡人に付き添い、彼女をいたわっていた。未亡人がバッキンガム宮殿に宿泊したのも、エリザベス女王の配慮によるものだった。葬儀のあと、卿とチャールズ皇太子が彼女をエスコートして教会を出た。
ウィンザー公はその死の直前まで、夫人ウォリスを王家の一員として認めてほしいと繰り返していた。一九八六年四月二十六日、彼女はブローニュの館で息を引き取り、フログモアで眠るウィンザー公のそばに葬られた。ウィンザー公の終生の願いは、こうした形で叶えられた。
ウォリスの遺産管理人ブルーム弁護士は、翌一九八七年四月、故人所蔵の宝石類やウィンザー公ゆかりの品々をサザビーズのオークションにかけた。ジュネーヴの高級ホテル「ボー・リヴァージュ」で開かれた二日間のオークションでは、有名なカルティエのフラミンゴのブローチや豹のブレスレットなどをはじめとして、ウィンザー公がウォリスに贈った数々の宝飾品が競売された。ホテル前のモンブラン河岸にしつらえた大テントの会場には、千五百人ものオークション参加者がつめかけた。さらに七百人が、ホテル内の有線テレビで加わった。ジバンシーの専属モデルの女性たちが、舞台上から競売品を掲げて見せる。二日間にわたったオークションで、売り上げ総額は五千万ドルを超えたが、それは見積額の七倍にもなった。ブルーム弁護士は、これをすべてパスツール研究所に癌とエイズの研究基金のため寄付した。
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第二十話 マウントバッテン卿暗殺
マウントバッテン卿は、チャールズ皇太子とアン王女のことを、自分の孫のように可愛がっていた。自分は男の子を持たなかったし、本当の孫たちにはそれほど関わることができなかったせいでもあった。
一九五四年、海軍大将に昇進していたマウントバッテンは、マルタ島に立ち寄ったエリザベス女王夫妻の前で、地中海艦隊の観艦式を挙行した。五歳と三歳になっていたチャールズ皇太子とアン王女も、両親と合流するためにマルタを訪れていた。イギリスからマルタに着いた日、チャールズは、その後の彼の人生に最も大きな影響を与えることになる人と出会う。船から桟橋に降り立って小さな彼がふり仰ぐと、海軍の軍服を着た背の高い男性がにっこり笑った。地中海の強い陽射しで、その顔は制帽のひさしの影になって見えなかった。白いきれいな歯だけが印象に残った。マルタ滞在中、この大叔父はチャールズを膝に抱き、あれこれと昔話を聞かせてくれた。けれどもそれは、よくあるおとぎ話ではなくて、彼自身の冒険談だった。チャールズにとって、尊敬してやまない伝説の「ウォリアー=プリンス(戦士王子)」がそこにいた。
大叔父は、チャールズに自分の軍人としての体験を語り聞かせる。
「戦争がはじまった一九三九年の冬のことだった。私は駆逐艦『ケリー』号の艦長で、第五駆逐艦隊の司令官だったんだ。『ファイティング・フィフス(戦う第五艦隊)』と呼ばれ士気旺盛だった。根拠地のスカパ・フローの軍港から、なにも見えないほどの吹雪をついて北上した。もしも私が、『さあ皆、この艦には翼がついているから、これから北極まで飛んで行くぞ!』と命じたら、本当に北極の空を飛びそうな勢いだったよ。あくる年の四月には、ナチスのノルウェー侵攻がはじまった。ノルウェーのホーコン国王とその政府を助けようと上陸した英仏連合軍も、空と陸で優勢なナチの軍隊に追いつめられてしまった。ナムソスのフィヨルドの奥まで進入し、彼らを救出するのが我々の役目というわけだ。
フィヨルドは、雪と氷で覆われた切り立った断崖の入り江で、氷河に削られて垂直に深い。まっくら闇の中をフィヨルドの奥までたどり着くと、ナムソスの街はナチの攻撃で明々と燃え上がっていた。敵の急降下爆撃機が襲いかかってくるのも構わず艦をとめ、フランス軍の勇猛で知られるアルプス猟連隊の兵士を乗せた。隣でフランス海軍の駆逐艦が爆弾を受け、大爆発を起こして沈没した。私の艦は先頭で突っ込んで真っ先に脱出しようとしていたんだが、僚艦の一隻は海に落ちた生存者を救助しようとして爆撃され転覆してしまった。氷ついた艦橋の手すりをにぎり、自分の目で水路を確かめながら、フィヨルドの出口に向かって進む。敵機の機銃弾が、艦のすぐ側の壁のようなフィヨルドの崖に当たってはね返ってくる。爆弾が炸裂して氷を溶かし、水蒸気が爆発するように立ち登る。雪と氷と、そして高熱の炎の世界だったよ」
マウントバッテン卿は自分のヨーロッパの戦いについて語るとき、決して敵国「ドイツ」とか敵の「ドイツ兵」と言わなかった。必ず、「ナチス」あるいは「ナチの兵隊」と表現した。
それからウォリアー=プリンスは暑熱のアジアに向かうのだ。
「インドのアッサム地方は、私たちイギリス人にとって欠かせない美味しい紅茶の産地だ。アッサムの向こうには、世界の屋根ヒマラヤ山脈から連なる山々が海の方へ向かって並んでいる。山向こうはビルマだ。モンスーンと呼ばれる季節風がこの山々に当たって、雨を降らせジャングルを育て山を霧で覆う。山裾の平地では暑くて汗みどろになる。高地はとても寒い。一九四二年のこと、日本軍はビルマを占領して、当時イギリス最大の植民地インドを襲う計画を立てた。ジャングルを抜け高い山々を越えて、アッサム地方に下りて来るつもりだ。
先手をとってジャングルに出発したのはウィンゲート准将率いる遠距離挺身旅団だった。彼は、第一次大戦の英雄『アラビアのロレンス』からヒントを得たんだ。日本軍の攻撃にそなえて、まずジャングルのあちこちにグライダーの着陸場所を作らせた。そして大勢の諜報員をジャングルに潜入させたんだ。一九四四年になって日本軍がいよいよ大規模な攻勢に移ると、ウィンゲートは木製グライダーで部下の九千名もの特殊部隊兵士と出撃した。残念なことに、彼自身は空中事故で死んでしまったがね。
日本軍の部隊の中には、ジャングルと高い山を越えてコヒマまで下りて来たものもあった。リチャーズ大佐の防衛隊は、そこの丘にあった総督の別荘のテニスコートをはさんで二週間以上も日本兵と戦った。敵は撃退されて、その大多数は雨期のジャングルの中で消えてしまった。日本軍のインド征服の野望は破れたんだ。
私はこの作戦を指揮し、各地を走り回っていた。汗と埃にまみれながらジャングルの狭い道をジープで走っていたとき、左目に激しい痛みを感じた。てっきり敵の狙撃兵に撃たれたと思ったよ。それは敵の銃弾じゃなくて、ジャングルの細くてしなやかな竹のせいだった。ジープの前輪がそれを押しやって、私の顔に跳ね返ったんだ。しばらく左目はぐるぐる包帯で巻かれ、海賊船の船長みたいになっていた」
大きくなったら大叔父さんみたいなウォリアー=プリンスになる。そして王位に就き七つの海を駆け巡る自分の雄姿を、幼いチャールズは胸に描くのだった。
一九五〇年秋、卿の八十七歳になっていた母ミルフォード=ヘヴン侯爵未亡人が亡くなった。その三年後にはドイツでイレーネ妃が亡くなり、ヴィクトリア女王の娘アリスの遺児たちはすべてこの世を去る。ダウニング街の首相官邸の執務室で、チャーチルは葉巻をふかしながら思案していた。海軍首脳の後任を決める必要があった。この際、マウントバッテンを指名するか。第一次大戦中に彼の父親を罷免した直接の上司は、海軍大臣をつとめていたチャーチルその人だった。いつかはその息子の願いを叶えてやりたかった。
「そうだ、フィリップ殿下の意見も聞かねばなるまいて」
つぎにフィリップ殿下と会ったとき、老首相はさりげなくたずねた。
「殿下はディッキーがよいとお思いかな?」
フィリップ殿下は笑って答えた。
「私はいつだってディッキー叔父を支持しますよ。でも、なにごとです?」
殿下の若々しいさわやかな笑顔を見て、老人は決意した。
「よろしい、私も賛成しよう。あなたの叔父上を海軍軍令部の第一本部長候補として、女王陛下に具申申し上げるつもりだ」
一九五五年四月十八日、軍令部第一本部長としての最初の登庁日だった。父がこの椅子を追われてから四十年の月日が流れていた。あの少年の日に、父が奪われた地位を自分が必ず取り戻してみせると決心したのだった。少年は五十五歳の誕生日を目前にしていた。この日のために、四十年間の海軍生活を送ってきたのだ。第一本部長の執務室に入って見回すと、歴代の先任者たちの肖像画や写真がずらりと壁の上に並んでいる。その中に、彼の父のそれもあった。その写真を見上げ、それからそっと執務机の磨かれた木の表面をなでる。
「パパの写真が見おろすデスクに座るのはスリルだ」
マウントバッテン卿は日記にそう記した。
一九六〇年二月二十一日、卿の妻エドウィナがボルネオ(現マレーシアのボルネオ島サラワク側)で客死する。五十八歳だった。戦後になっても、彼女は聖ヨハネ海外救急隊の仕事に没頭していた。医師によれば、死因は心臓発作で死亡推定時刻は夜中の二時半頃ということである。彼女の棺は聖ヨハネ救急隊の旗で覆われて飛行機に乗せられ、英本国までの長い旅に発った。彼女の遺体は本国へ空輸されたあと、その遺志にしたがいイギリス海軍の軍艦に移され水葬に付された。海軍提督の軍服で正装したマウントバッテン卿は、同様に軍服姿の甥フィリップ殿下と並んで敬礼し、妻の棺を見送った。甲板のうえでは、水兵たちが弔意をあらわす笛を吹いた。彼女の水葬に参列した艦船の中には、インド海軍のフリゲート艦の姿もあった。ネルー首相が派遣したのである。エドウィナが死んだとき、彼女は宿舎の寝室で手元に一束の手紙を置いたままであった。夫がインド総督時代、彼女とネルーは恋仲になった。いつも彼女は就寝前、それまでにネルーから受け取った手紙を読み返していたのである。手紙の束は、他の遺品とともにマウントバッテン卿に届けられた。彼は黙ってそれを次女のパメラにも示した。四年後の一九六四年、インド初代首相のネルーは七十四歳でこの世を去った。
一九六五年、マウントバッテン卿はすべての公職から身をひいた。一方で彼は、ウィンザー家の女王の夫はマウントバッテンだから、英国王室の家名も「マウントバッテン」と改めてもらいたいと運動してきたのだった。すでに一九六〇年にエリザベス女王は、将来にわたり「ウィンザー」を使用し続けるという立場を改める宣言を公表していた。
「自分と自分の子どもたちは、やはり『ウィンザー』を使用し続けるものとする。しかし孫以降の子孫で、『プリンス』や『殿下 (Royal Highness)』といった称号の使用を許されない者には『姓』が必要となることを考慮し、結婚した女性とその子孫以外の者たちには『マウントバッテン=ウィンザー』を名乗らせる。直系の子孫については、祖父王ジョージ五世陛下が創始されたウィンザーの家名を、女王の婚家のそれを付すことで変更してほしくないというのが、年来より女王の希望です」
ところが一九七三年になって、アン王女がマーク・フィリップス大尉と結婚した際、自分の婚姻証明書に「アン=エリザベス=アリス=ルイーズ・マウントバッテン=ウィンザー」と署名した。マウントバッテン卿は、事前にチャールズ皇太子に手紙をしたためていたのだった。
「アンが結婚するとき、彼女の婚姻証明書が『マウントバッテン=ウィンザー』の姓を固定させる最初の機会となればありがたい。……もしも君が、彼女の姓が『マウントバッテン=ウィンザー』と記入されていることを確認してくれたら、これをめぐる論争にけりがつく」
チャールズ皇太子自身は、一九八一年にレディ・ダイアナ・スペンサーと結婚したとき、「プリンス・オブ・ウェールズ」とだけ署名した。だがアンドリュー王子は、一九八六年の婚姻証明書に「アンドリュー=アルバート=クリスチャン=エドワード・マウントバッテン=ウィンザー」と署名している。第三王子のエドワードは未婚なので、皇太子を除く女王の子どもたち全員が「マウントバッテン=ウィンザー」の姓を使用するかどうかは分からない。だが少なくとも、マウントバッテン卿としては生前にその願いが半分ばかり叶えられたわけである。
現在の英国王室について、マウントバッテン卿は語ったことがある。
「フィリップ殿下は完全にマウントバッテン家の人であり、いささかもハノーヴァー家ふうなところはないな。ハノヴァリアンには知性というものが欠けていた。ジョージ五世もあまり知的ではなかったし、ジョージ六世にして、またしかりだ。だがフィリップの子どもたちはかなりの知性を備えている。チャールズ皇太子も完璧なマウントバッテンだ。この王室の真の知性は、私の両親を通じてフィリップ殿下へ、そしてその子どもたちへと伝わったんだな。エリザベス女王はもちろん素晴らしい人柄の持ち主だよ。女王が物事をとてもよくわきまえておられることに、彼女の大臣たちはいつも驚かされている。彼女は利発というのではないが甚だしっかりしておって、それは母親譲りのものだ。たしかにジョージ五世、それにエドワード八世にすら、とても尊敬すべき点があった。けれども古いハノヴァリアンの血統は、もはや突き止められないくらい薄まってしまっている」
一九七三年九月、スウェーデン国王グスタフ六世が死去したとき、マウントバッテン卿はエリザベス女王の名代としてその葬儀に列席した。王孫カール=グスタフ王子がカール十六世となったが、新王はまだ独身だった。亡き王はマウントバッテン卿の義兄だったから、さっそくマウントバッテン卿は自ら仲人役をかって出て、王妃としてふさわしい花嫁さがしに奔走する。だが、若い国王は、ドイツ人の平民の女性ジルヴィア・ゾマラート嬢と結婚したいと言い出した。彼女が一九七二年のミュンヘン・オリンピック会場で働いていたのを、カール=グスタフ王子が見初めていらいの交際だった。この結婚にいちはやく賛成したのも、マウントバッテン卿であった。胸中を打ち明けられて、彼は言った。
「それはよい。スウェーデン国民が王室の民主化を願うなら、まず国王が王妃を民主化するというのは、まことに正しいやり方だよ」
カール十六世としては、きっと反対されるに違いないと思っていたのだった。
「だが大切なのは、その娘と結婚したければとにかく急ぐことだ。だれも横槍を入れるひまがないくらいにな。間近に迫っているイギリス訪問より早いほうがいい」
「ええ、いや、しかしそれはちょっと早すぎますね」
カール十六世は、驚いた表情で答えた。
「王家の花嫁は、『ブルー・ブラッド』にこしたことはない。だが、血筋よりも他の資質のほうがはるかに優先する、というのが私の持論だ」
老境に達したマウントバッテン卿は、核兵器に反対する発言をはじめる。生粋の職業軍人であるがゆえに、彼は核戦争反対の立場をとったのだった。
一九七九年五月十一日、ストックホルム国際平和研究所から賞を授かった際に、「最後の審判にいう『アビス』か?」と題する記念講演をストラスブールで行った。
「来月で私は満七十九歳となり、人生八十年目に入ります。私は、もはや数は少なくなりましたが、第二次世界大戦の大きな原因となった第一次大戦を体験した世代の生き残りの一人です。……海軍軍人として、私は海上での死と破壊とをいやというほど見ました。第一次大戦の西部戦線の戦場での徹底的な破壊を目にする機会も持ちました。そこでは、塹壕で戦う兵士たちには平均して二、三週間しか生きられる望みがありませんでした。それから一九四三年に、私は連合軍の東南アジア方面軍最高司令官になりました。そして、もっと大きなスケールともいえる死と破壊とを見ました。とはいえ、これらはすべて従来型の戦争であり、これまた戦慄すべきことですが、我々は生存を『戦いとる』チャンスなのだと感じていました。もしも核戦争となればチャンスもなければ生存者もないし、なにもかもが抹殺されるでしょう。……
核による破滅はSFではありません。それは現実の出来事なのです。三十四年前のこと、広島と長崎の二つの都市を地図上から消し去った二個の原爆によるおそるべき経験がありました。この悪夢を描写して、ある日本人のジャーナリストはつぎのように記しています。
『白っぽくてピンクがかったぎらつく光が突然に現われ、不自然な振動がありました。その直後に、窒息するような熱波と風が襲いかかり、その通り道にあったものをなにもかも吹き飛ばしました。数秒以内に街の中心部の通りにいた何千人もの人々は、高温の熱波で焼け焦がされたのです。大勢が即死し、他の人々は、負った火傷の耐え難い苦痛に苦しみ悲鳴を上げながら地面に倒れ、もがいていました。塀、家屋、工場、その他の建物、爆発方向と直角に立っていたものは、すべて全壊しました。……広島は消滅したのです』と。
……世界はいまや最後の審判にいう『アビス』の縁に立っているのです。我々の愚かさゆえにこの縁を越えてしまわないよう、あらゆる可能な実際的対策を講じることを決意しようではありませんか」
「アビス」とは、ヨハネの黙示録第九章にいう最後の審判の日まで悪魔たちを封じこめておく、地底の深い穴を意味している。
彼の「八十年目に入った人生」は、その後僅かで幕を閉じることになる。一九七九年六月四日から十四日まで、昭和天皇の義妹秩父宮勢津子妃殿下が麻生信子嬢(三笠宮寛仁殿下の妃となる)らを伴って、イギリスを訪問した。秩父宮妃は、幕末の会津藩主松平容保を曾祖父として、外交官の父のもと、一九〇九年にロンドンで生まれた。一九三七年のジョージ六世の戴冠式には、夫君である昭和天皇の次弟秩父宮とともに列席している。一九五三年に夫を亡くしてからも、しばしば訪英していた。イギリス外務省の内部文書には、「長年来の英国の友人」と記されている。六月六日、ブロードランズの館のマウントバッテン卿のもとへ、バッキンガム宮殿から急ぎの連絡が届いた。
「きたる六月八日の午餐会のことですが。一時十五分よりの開催に合わせ、モーニング・コート着用で宮殿のミュージック・ホールにお越しくださるよう、お願いしておりました。ところが、秩父宮妃殿下ご一行は、私どもが予期したよりも若干早めにご到着されるようです。そこで、まことにご足労ですが、庭園側の玄関に十二時五十分においでいただき、妃殿下をお迎えくださればと」
女王主催の午餐会のテーブルでも、卿はチャールズ皇太子とともに妃殿下を挟むように座り、なごやかに歓談した。夏の休暇が近づいていた。
マウントバッテン卿は北アイルランド問題をめぐって、一度も強硬意見を吐いたことなどなかった。八月二十七日月曜日は休日だった。夏は、アイルランド北西部スライゴー州のドネゴール湾に面したクラッシーボーン城で過ごす習わしだった。その城は、いまは亡き妻のエドウィナの父親が所有していたものだった。その日の朝、彼は全長三十フィートの愛艇「シャドーX」号で湾内に出て、海底に沈めておいたロブスター採りの籠を点検しようとしていた。ヨットの機関室に、五十ポンド爆弾が仕掛けられていた。沖合いでヨットは轟音とともに粉々になり、空中に飛散した。マウントバッテン卿は即死状態で、砕けたヨットの残骸や釣具や衣類の破片の間にうつ伏せになって浮いていた。長女のパトリシアとその夫ブレイボーン卿は重傷を負った。夫妻の息子で十四歳のニコラスと地元のアイルランド人少年ポール・マクスウェルは、即死だった。死んだニコラスの双子の弟ティモシーは、重傷を負いながら懸命に水をかいていた。ブレイボーン卿の八十二歳になる母レディ・ブレイボーン未亡人は、救助されたのち息をひきとった。
この日、南との国境に近い北アイルランドのニューリ付近のウォレンポイントでも、遠隔操作の地雷爆発で、十八人のイギリス軍兵士が殺され、五人が負傷した。マウントバッテン卿暗殺の報告をうけて、アイルランド警察は緊急警備体制をしいた。ほんの数時間後、一台の車が検問にかかった。車を運転していた農夫フランシス・マクガル二十四歳は、特別刑事法廷で無罪をかちとっている。同乗者で三十一歳の大工トーマス・マクマホンだけが、同年十一月二十三日、終身刑を言い渡された。彼は、IRA(アイルランド共和軍)の分派INLA(アイルランド民族解放軍)のメンバーで、その衣服からニトログリセリンが検出された。また、彼の靴に付着していた砂が、入り江を見おろすマラモアの断崖のそれと一致したうえ、靴底には、「シャドーX」号の船体の緑と白の塗料がこびり付いていた。爆弾製造の専門家マクナニーが逮捕されるのは、これから八年も後のことになる。彼は十三歳でIRAの少年部に入り、北アイルランド闘争に参加した。十五歳のときには、すでに電気仕掛の爆弾スイッチ製作のエキスパートになっていた。マウントバッテン卿の暗殺に使われた爆弾を作ったのは、十九歳の学生時代である。合計九十人の殺害とサッチャー首相暗殺未遂事件に加担した疑いで、懲役二十五年の刑に服した。IRAが闘争をやめると宣言するのは、一九九四年のことである。
一九七九年八月二十七日付アイルランド共和国スライゴー州発ロイター電
「政治手腕をそなえた『ブルー・ブラッド』にして戦争の英雄、ビルマ伯爵マウントバッテン卿が、本日、自分のモーター・ボートの爆発で殺害された。アイルランド人ゲリラたちは、この船に五十ポンド爆弾をしかけ、遠隔操作で爆破したと語っている」
マウントバッテン卿暗殺のニュースは、その日のうちにアメリカのテレビでも報道された。アンナ・アンダーソン=モナハンことアナスタシアも、自宅の居間でそのニュースを見ていた。
「マイン・ゴット(なんてことなの)!」
彼女の口をついて出た驚きの言葉は、ドイツ語だった。いまはもう故人となった仇敵マウントバッテン卿も使うことができた言葉である。彼女からすれば、彼もまた王族として革命家の手にかかって非業の死を遂げたのである。かつて彼女はインタビューに答えて言ったことがある。
「わたくしたちは、バッテンベルク家のことを嫌っていました。母だって、あの一族のことは苛立たしく思っていたのです。たいした身分でもないくせに、財産と称号ほしさにイギリスの王家と姻戚関係を結びマウントバッテンと改名したのです。ルイス・マウントバッテン卿は、わたくしの最大の敵でした」
ジャーナリスト出身のアメリカ人スパイ・ミステリー作家ビル・グレンジャーは、マウントバッテン卿暗殺のわずか二週間前にイギリスの出版社から処女作『ノヴェンバー・マン(十一月の男)』を出版していた。エリザベス女王の従弟とされるスラウ卿暗殺計画なるものをIRAが実行する、というストーリーである。マウントバッテン卿の暗殺から二十四時間たたないうちに、シカゴの小説家は世界中からの電話取材を受けた。
「あの小説の中で、いかにしてルイス・マウントバッテン卿の死を予言したのですか?」
グレンジャーは言う。
「私は予言などしていない。この作品は、いろいろな報道や私自身で行ったインタビューや経験に基づいている。ノヴェンバー・マン・シリーズで追いかけた情報収集やスパイ活動やテロリズムの世界は、大多数の人々の意識の奥に存在する現実の影の世界に向けられた鏡なのだ」
ベルファストでの取材の際、彼はBBCの関係者に言ったことがある。
「IRAが、いつかはイギリス王族のだれかを脅迫するか、暗殺することになるだろう」
相手は、その言葉にショックを受けて言い返した。
「ヤンキーに、アイルランド人の何が分かる?」
「テロリズムのことは分かっているさ」
「分かっていないね。IRAでさえ、王族には大変な敬意を払っているんだ。そんなことをやれるはずはない」
ビル・グレンジャーは言った。
「君は間違っている。テロリズムには、恐怖をもたらすこと以外にルールはない。そしてテロリズムは、どんなに過激なものであれ、政治運動なんだ」
卿の暗殺は、チャールズ皇太子にとって衝撃だった。彼は休暇でアイスランドにいたが、取り乱して泣き崩れた。九月五日、卿の棺は砲車に乗せられ、セント・ジェームズ宮殿からウェストミンスター大聖堂へと行進した。海軍の軍服姿のチャールズは、同じいでたちの父フィリップ殿下と並んで砲車のあとを歩いた。ユニオンジャックの旗で巻かれた棺の上には、海軍提督の羽飾りのついた大礼帽と儀式用の剣、黄金の提督杖が置かれていた。卿の黒い愛馬は主をなくしたことを示すよう卿のブーツをさかさにつけて引かれて行った。ハンプシャー州ラムゼイの墓地でチャールズは、「名誉孫 (H.G. S. = Honorary Grand Son) より名誉祖父 (H. G. F. = Honorary Grand Father) へ」と記したリボンを付けた花輪を捧げた。十二月二十日、セント・ポール寺院で行われた追悼ミサの席で、チャールズは異例の弔辞を故人に捧げている。
「マウントバッテン卿のような人々の英雄的な努力なくしては、わが国や、同様の多くの国々も、今なおどこかの外国勢力の支配下に置かれ、今日のこの時代に我々が当然のものと思っている自由を奪われていたことでしょう。……彼は、……『とても並外れた大叔父 (a very special great uncle)』でした。……ついに彼らは、将来の世代のために平和の種を蒔こうと懸命に努力していた人物の殺害に成功したのです」
チャールズは孤独だった。卿の死は、彼に国家と国民への責任を自覚させた。弔辞の中で、
「卿の逝去の仕方は、文明化した民主主義は、ほしいままに人々を吹き飛ばす、このような非人道的な過激主義からの攻撃に曝されやすいということを、私たちに気づかせることとなりました」
と語っている。卿の運命は、自分のそれでもある。王家にふさわしい妃を見つけ、子孫を残す義務がある。レディ・ダイアナ・スペンサーこそ、そうした目的にかなった女性だった。
一九八一年七月二十九日水曜日、快晴、二人の結婚式が、セント・ポール寺院で挙行された。バッキンガム宮殿からセント・ポール寺院にいたる沿道には、何十台ものテレビカメラが設置されている。式場の周囲や沿道には、百万を超えるロンドン市民がつめかけていた。一九五三年のエリザベス女王の戴冠式以来の、喜びに満ちた大群衆だった。花嫁の象牙色の絹のウェディング・ドレスには、古代レースで縁どりした二十五フィートもある飾り帯が裾から後方に流れるようにひかれていた。花嫁の頭上には、スペンサー伯爵家に代々伝わるダイヤモンドのティアラが燦然と輝いている。チャールズは、イギリス海軍中佐の軍服で正装してガーター勲爵士のブルーの綬《じゆ》をつけていた。カンタベリー大主教は、新郎新婦にというより、むしろテレビカメラを通して世界中に向けて説いた。
「ここに、おとぎ話となる素材があります。結婚の日の王子と王女です。しかし、おとぎ話はいつもここで、『彼らはいつまでも幸せに暮らしました』という簡単な文句でおしまいとなります。おとぎ話では、結婚は求愛のロマンスの後の付け足しとみなされているからでしょう。これは、クリスチャンの見方ではありません。われらが信仰は、結婚の日を到達の場所ではなく、冒険が真にはじまる出発点と見ているのです。
……我々が二人に課している重荷と彼らを支える我々の愛が、これからの歳月、つりあいのとれたものでありますように」
挙式後、ふたりはウェストミンスター大聖堂にある無名戦士の墓に花嫁が手にしたブライダル・ブーケをたむけた。ブーケの黄色い大輪のバラは新種で、翌年の全英バラ品評会でローズ・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、「マウントバッテン」と命名された。
一九八四年二月十三日付アメリカ合衆国ヴァージニア州シャーロッツヴィル発UP電
「その生涯をかけて、自分がロシア皇帝ニコライ二世の末娘アナスタシアであると証明しようとしたが叶わなかったアンナ・マナハンが、十二日日曜日マーサ・ジェファーソン病院で死去した。享年八十二歳」
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エピローグ 永遠の謎
一九九四年春、スペインのマドリッドに住む「ロマノフ家の女当主」がロシアを訪問した。マリア大公女四十歳は、あの「亡命ロマノフ皇帝」キリル大公の孫である。彼女の夫は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の曾孫だった。キリル大公が娘のキラ大公女をヴィルヘルム二世の孫と結婚させたのに続いて、キリル大公の息子ウラジミル大公も、自分の娘マリアをヴィルヘルム二世の曾孫と結婚させたのである。こうしてホーエンツォレルン家とロマノフ家とは、代々にわたって結びつきを維持してきたのだった。
マリア大公女の父親ウラジミル大公は、一九九二年にマイアミで心臓発作で死去したが、その遺体はエリツィン大統領の許可を得て、サンクト・ペテルブルクのロマノフ家の霊廟に運ばれている。マリア大公女は、十三歳になる息子ゲオルギー王子を同伴していた。モスクワ市長らの歓迎を受け、マリアは誇らしげに息子を示しながら言った。
「ゲオルギーは将来、わたくしの母校であるイギリスのオックスフォード大学で学ぶことになるでしょう。その前に、革命前のロマノフ家の男子たちと同じように、サンクト・ペテルブルクの海軍士官学校『ナヒモフスキー・アカデミー』に入れたいと思っています」
この子はなにしろ帝位継承権者なのだと、マリアは公言している。けれども、他の亡命ロマノフ一族の人々は、ゲオルギーはロマノフの王子ではなくて、ホーエンツォレルンの王子だと指摘するのである。
一九九五年三月五日、ロシア正教暦の吉日を選んで、サンクト・ペテルブルクではニコライ二世一家の再埋葬式が予定されていた。ニコライ二世の遺骸は、歴代のロマノフ家の皇帝が眠るペトロ=パヴロフスク教会内に移されることになっている。モスクワに埋葬されたピョートル二世を除けば、ここに安置されていないのは、女帝エカテリーナ二世の命令で幽閉先のシュリュッセルブルク監獄で暗殺されたイワン六世だけとなる。だがニコライ一家の再埋葬式は、すべての遺骨のDNA鑑定について最終結果が出るまで延期された。そのかわりに、一九九五年三月七日、キリル大公とその妃ヴィクトリア=メリタの遺骸が、彼女の実家であるドイツのコブルクから運ばれ、ロマノフ家の霊廟に移された。ロシア正教の主教がとり行う再埋葬式にあたり、ロシア海軍の儀仗隊が栄誉礼を捧げ、マリア大公女とゲオルギー王子が棺に付き添って、これを受けた。
一九九二年十月に、エリザベス女王と夫君フィリップ殿下は、第二次大戦末期に連合軍の大空襲を受けた旧東ドイツの都市ドレスデンを訪問した。東西ドイツ再統一なった当時のワイツゼッカー大統領に導かれ、ザクセンの新旧両教会の司教たち、それにコヴェントリーの主教をまじえての合同ミサ出席の旅だった。コヴェントリーは、ドイツ空軍に爆撃されて惨禍をこうむった中部イングランドの都市であり、ドレスデンと姉妹都市縁組みを結んでいる。コヴェントリーの主教はドイツ語で祈りの言葉をとなえ、フィリップ殿下もドイツ語で挨拶した。ドイツ側は英語で応じた。心のこもった合同ミサの後、エリザベス女王は旧市街の中心にたつ聖母教会の廃墟を訪れた。コヴェントリーの市民たちは、聖母教会再建のための募金活動をはじめた。
一九九四年夏のこと、一九〇八年のエドワード七世のロシア訪問以来、実に八十有余年ぶりの英国君主の訪露を前に、ピーター・ギル博士率いるイギリス内務相の法医学専門家チームは、アンナ・マナハンとして死んだアナスタシアの遺伝子鑑定を急いでいた。十月の出発前に結果を知りたいというエリザベス女王の意向を受けてのことだった。
アナスタシアの遺骸は、彼女自身の遺言によって火葬され、その遺灰はドイツのオーベル・バイエルンにあるロイヒテンベルク公爵家の墓所に埋葬されている。だが生前、彼女がシャーロッツヴィルの病院で外科手術を受けた際、臓器の組織標本が同病院に残されていた。彼女を看取ったジャック・マナハンの死後、グレプ・ボトキンの娘マリナ・シュヴァイツァーだけが縁故者として標本の持ち出しに同意権を持っていた。
英国チームの横手から、北ドイツ放送(NDR)の番組制作を請け負ったミュンヘンのディレクター、モーリス=フィリップ・レミイも、これをドイツに持ち帰ろうと画策していた。合衆国の裁判所は、マリナの意思を確認したうえで、ギル博士がこれを英国で分析することを許可する。敗れたレミイ側はドイツに戻って調査を進め、彼女の血液標本がハイデルベルク大学のザントクーラー教授のもとにあることを突き止めた。一九五一年にアナスタシア裁判の過程で、同教授が血液鑑定を委嘱された際のものだった。
ガラスのプレパラートにこびりついた乾燥した血液は、ゲッチンゲン大学で分析された。マナハンが本の間にはさんでとっておいたアナスタシアの遺髪も、米国で鑑定を受けていた。
真っ先に鑑定結果を公表したのは、レミイのドイツ・チームだった。ギル博士の発表にわずか数日先行する同年九月末に、ミュンヘンで記者会見が行われた。
「我々が入手したアナスタシアの血液標本によるDNA鑑定の結果、同女はロマノフ家とはなんらの血縁関係もない人物であることが判明しました」
記者たちがざわついた。
「アナスタシアではなかったというのですね」
「そのとおりです。ニコライともアレクサンドラとも、まったく異なるDNAの持ち主でした」
「それでは、いったい彼女はなにものだったのでしょうか?」
「それも突き止めました」
再び記者席がどよめいた。レミイは得意そうに打ち明けた。
「彼女に関する膨大な記録を子細に調べなおしました。彼女が偽のアナスタシアであるとして、その正体についてはたった一人の女性の名前しか登場しません。ポーランド系ドイツ人の女工、貧農の娘フランツィスカ・シャンツコウスキーです。我々は、彼女の姪にあたるマルガレーテ・エレリクという七十一歳の女性の所在を探し当て、鑑定協力を依頼しました。DNAの特徴はみごとに一致しておりました。つまり彼女の正体は、すでに一九二七年の段階で見破られていたのです」
十月五日のギル博士の発表内容も、これと同一のものに過ぎなかった。米国での毛髪鑑定も同じ結果を示していた。やはりここでも、ドイツ在住のシャンツコウスキーの甥の息子が鑑定に協力した。彼女のもう一人の姪ヴァルトラウト・シャンツコウスキーは言った。
「私のおばフランツィスカは、兄弟姉妹のうちいちばん賢かったそうです。田舎の村で一生を終えたくなくて、きっとなにかで世に出てみせると願っていたということでした」
「科学の先を見越して、自分を火葬にするよう遺言したのでしょうね」
ロシア正教の十字架が刻まれ、「アナスタシア」とキリル文字(ロシア語)で記された簡素な墓標を前に、レミイは語った。墓標には、「主のみ胸に抱かれるまで、われらが心やすまらず」とある。
七十五歳になるニコライ二世の甥で、スイスに住むニコライ・ロマノフ殿下は、この報告に接して心情を披瀝《ひれき》した。
「皇帝一家の殺害は、ほんとうに恐ろしい出来事でした。そこで人々の間には、あれはそれほどひどいことではなかったはずだと思いたい願望が生まれたのです。ボリシェヴィキにとっても好都合だったでしょう、亡命者たちはそれで二手に分かれたのですから。人々は、過去を一変させるようなとてつもない出来事があればと願ったのです。彼女の物語を共有したかったということでしょう。だが、歴史は残酷なまでにシンプルなものです」
レミイは言う。
「ほんものと信じて、あるいは偽者と疑って彼女のもとを訪れる双方の亡命者たちが、彼女に過去の宮廷生活の模様を詳しく語ったに違いありません。彼女はそれを吸収してアナスタシアになりきることができたのです。失われた祖国、かき消えてしまった過去の栄華、彼女はそういった亡命者たちの願望の橋渡し役にすぎず、人々は自らの思い出を彼女というスクリーンに映し出していたのです」
十月六日夜に英国で放映されたチャネル・フォーの特別番組「アナスタシアのミステリー」で、かつての相手方訴訟代理人ベレンベルク=ゴスラー弁護士はインタビューに答えて言った。
「私は、あの女性に強い尊敬の念を抱いています。一生をかけて重いやまいを克服し、高貴な人を演じきったその意志の強さは、まさしく尊敬に値するものです」
それでは、ほんもののアナスタシアはどうなったのか。今回の発表に先立ち、ロシア政府は、ニコライ一家の頭蓋骨と生前の写真とをコンピューターで分析照合した結果を公表している。同国の専門家によれば、発掘された遺骨の中にアナスタシアのそれが存在しており、ないのは皇太子アレクセイおよび三女マリアのそれだという。しかし欧米の専門家たちは、保存状態のわるい頭蓋骨ではこうした同定はできず、背骨の発育の度合いから十七歳のアナスタシアのものはないと、ロシア側の見解に同意していない。
「皇帝ニコライ処刑」の著者ラジンスキーに、謎の情報提供者は語っている。
「発掘は続けられています。足りない二人の捜索ですよ。というのは、ユローフスキーが二人の死体を跡形もなく完全に焼きつくしてしまうことは不可能だったと、鑑定人たちが考えたからです。そのためにはあまりにも多くの薪と、あまりにも多くの灯油と、そしてあまりにも多くの時間が必要です、そしてそのどれもユローフスキーにはなかった……」
「ユローフスキーの『手記』をよく読んでごらんなさい。ユローフスキーは、三人の娘が『ダイヤモンドを縫いこんだコルセット』を着けていた、と書いています。……では四人目はどうしたのです? なぜ四人目は着けていなかったんです?」
「では、アレクセイの場合は? 二歩ほどの距離から射たれたんですよ。だが射殺できなかった。……これはつまり、アレクセイも『ダイヤモンドの防弾着』をつけていて、それで救われたということですよ。彼も『装甲』されていたのです。ここに『異常な生命力』の原因があるんですよ。でもユローフスキーはそのことは何も書いていません。……何故でしょう? アレクセイは衣服をはがされなかったからですよ! もし彼が裸にされたら、やはりラスプーチンの香袋が見つかったはずですよ! ツァリーツァ(皇妃)が息子にその救い主の香袋をつけさせずにおくわけがありません! だがユローフスキーが書いているのはツァーリの娘たちの香袋のことだけです。ということは、たしかに彼は衣服をはがされなかったということです。なぜ?」
「そら、これが答えですよ。それはユローフスキーの手記の末尾にあります。焼かれたのは二人の死体だけです。アレクセイとある女性の。なぜ二人だけ?」
「それは要するに、二人の死体が足りなかったからですよ。アレクセイと娘の……それにこの二人のダイヤモンドもですね。だからユローフスキーは、少年と女性の二人の死体を焼却したと書くことを思いついたんですよ」
「それが起こりえたのは、一か所だけです。トラックが、踏切番の女が眠っていたあの百八十四番哨所のそばに来た時です。近くまで来て、泥道にはまりこんだ。……ユローフスキーとエルマコフはエルマコフ隊の仲間たちをさがしに出かけた。その時運転手リュハーノフは踏切番の女を起し、過熱したエンジンを冷やす水をもらうために、哨所へ向かった。
はまりこんだトラックと、警備の赤軍兵だけが残された。彼らは何名ほどいたか? おそらく三名か四名でしょう。あたりは夜明け前の薄闇。……白軍が町を占領することはもうまちがいありません。ソヴィエト政権は、どうやらもう永遠に終りです。白軍の将校たちは、ツァーリと家族殺害の報復として、犯人たちの吊し刑を始めるでしょう。だからこの警備の仕事は、彼らにとってはいわば災難だったのです。そして、シートの下にはツァーリと家族たちの死体が横たわっています……彼らには、きっと聞こえたはずです……シートの下からもれてくるうめき声が」
「トラックのそばに残った赤軍兵たちにチャンスが来た。……恐ろしい計画への参加は、彼らに死を運命づけた。だがここで家族の誰かを救えば! ……彼らがどのようにして、死にきれずにいた二人をトラックから運び出したか? どのようにして二人を森の中へ運び去ったか?」
「死体をトラックから荷馬車に移す時、ユローフスキーは死体が二つ消えていることに気付いて、エルマコフに何を言ったか? そしていっぺんに酔いがさめたエルマコフの驚きと恐怖は、いかばかりであったか! しかし彼らにはもう、消えた二つの死体をさがす時間はなかった。白軍が目の前に迫っている。残った死体を始末するという、やりかけた仕事をやりとげるほかなかったのです」
「救い出された二人はすぐに、その森の中で死んだか? それとも、実際に、誰かが命をとりとめ、そしてあの星空を見たのか。アナスタシアを名乗る女が、荷馬車の上で気がついて見上げたというあの星空を」
ラジンスキーは、そもそも虐殺の指揮者ユローフスキーが手記を書き、ソヴィエト政府に提出したのも、一九二〇年にベルリンでアナスタシアを名乗る女性が出現したというニュースに驚いてのことだったと見ている。だが、その女性は虐殺の夜の星空を見てはいなかった。そして現在のロシアでは、一九七一年に死去したナデズダ=イワノヴァ・ワシリエヴァなる女性こそ、アナスタシアではなかったかと噂されている。彼女は、一九二〇年、日本への脱出をはかって捕らえられ、精神病院に収容された。病院から、英国王ジョージ五世ほかの王族たちに救援を求める英文の手紙を出し続けたという。医学専門用語の「麻酔 (anaesthesia)」にも見られるように、アナスタシアの名は「いったん死んでから生き返ったもの」の意味に由来している。その名の示す神秘的な象徴性からも、虐殺からよみがえるのは、マリアでなくアナスタシアでなくてはならないのである。
一九九四年十月下旬、エリザベス女王とフィリップ殿下はサンクト・ペテルブルクの秋の日差しを受け、にこやかに人々に手を振りながら、ペテロ=パヴロフスク要塞内のロマノフ家の歴代皇帝の霊廟に詣でた。ラスプーチンを暗殺したユスポフ公爵邸内のコンサートホールで開催されたコンサートにも出席している。だが、革命時の皇帝一家の運命について女王が言及することはなかった。バッキンガム宮殿のスポークスマンは強調して言った。
「女王陛下ご一行の四日間のロシア訪問は、ニコライ二世の従兄弟であられたジョージ五世陛下の孫娘であるエリザベス女王にとって、現代のロシアを見る機会なのでありまして、遠く過ぎ去った過去をふり返るものではありません」
一九九四年十一月十六日、スイスのジュネーヴ、シンプソン夫人の宝飾品コレクションが競売されたレマン湖沿いのホテル「ボー・リヴァージュ」からほど近いホテル「ル・リシュモン」で、クリスティーズ社がファベルジェ製作マリア皇太后の「ウィンター・エッグ」をオークションにかけた。革命直後の一九二〇年に、ソヴィエト政府が外貨獲得のため西側に売り渡したものである。ぜんぶで五十個たらずのインペリアル・エッグは、そのうち十一個がニューヨークのフォーブズ・コレクションに、十個がクレムリンの博物館にある。エリザベス女王も三個所蔵する。他の大部分が公的な美術館や個人の収集品の中に収められており、これほどの名品がオークションにかけられることは滅多にない。売り手は、英国の個人財団とだけ紹介された。携帯電話を通じての激しい競り合いののち、五億円を超す記録的な高値で落札された。ニコライ・ロマノフ殿下と、スイスに亡命して客死した製作者カール・ファベルジェの娘タチアナがオークションに立ち会った。
「あれがロシアへ戻って行ったとしたら、嬉しいですな!」
殿下は感激の醒《さ》めやらぬ面もちでインタビューに答えたが、匿名の落札者はアメリカ人だということだった。居並ぶ参会者全員がため息をもらすような雰囲気の中を、係りの女性の手で「ウィンター・エッグ」はそっと持ち上げられ運び去られた。細くてやさしいその女性の指が卵を閉じるとき、シャンデリアにはえて白い花弁がきらりと光り、初めてそれを目にしたときのマリア皇太后の華やかな笑い声が一瞬会場に流れたかのようだった。
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[和書]
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[洋書]
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Bell, J. Bowyer, IRA Tactics and Targets, Poolbeg 1990
B屍enger, Jean, Histoire de LユEmpire De Habsbourg 1273-1918, Fayard 1990
Bergander, G嗾z, Dresden im Luftkrieg, B喇lau 1994
Blake, Robert/Louis, Wm. Roger (ed.), Churchill : A Major New Assessment of his Life in Peace and War, Oxford University Press 1993
Bloch, Michael, The Secret File of The Duke of Windsor, Bantam Press 1988
Bloom, Ursula, The Duke of Windsor, Robert Hale 1972
Bohn, Robert (Hrsg.), Deutschland, Europa und der Norden, Franz Steiner 1993
Bradford, Sarah, King George VI, Weidenfeld & Nicolson 1989
Carr, E. H., The Bolshevik Revolution 1917-1923, 3 vols., Macmillan 1950 (Pelican Books 1966)
Castellan, Georges, Histoire des Balkans, Fayard 1991
Cesarani, David, Justice Delayed, Mandarin 1992
Charmley, John, Churchill : The End of Glory, Hodder & Stoughton 1993
Checkland, Olive, Humanitarianism and the Emperorユs Japan, 1877-1977, St. Martinユs Press 1994
Craig, Gordon A., Das Ende Preussens, Beck 1985
Culme, John/Rayner, Nicholas, The Jewels of The Duchess of Windsor, Vendome Press/Sothebyユs 1987
Davies, Nicholas, Diana : A Princess and Her Troubled Marriage, Birch Lane Press 1992(デイヴィス/広瀬順弘訳、ダイアナ妃 ケンジントン宮殿の反乱、読売新聞社、一九九二年)
Dennis, Peter, Troubled days of peace : Mountbatten and South East Asia Command, 1945-46, St. Martinユs Press 1987
Denuit, Desir・ Albert Roi Des Belges, Biblis 1953
Dor, Milo, Die Sch殱se von Sarajewo, Deutscher Taschenbuch Verlag 1994
Dumont, Georges-H., La Dynastie Belge, Elsevier 1959
Evans, William, My Mountbatten Years, Headline Book Publishing 1989
Ferro, Marc, Nicholas II, Viking 1991
Fisher, Clive, No鼠 Coward, Weidenfeld & Nicolson 1992
Fisher, Graham & Heather, Monarch : The Life & Times of Elizabeth II, Robert Hale 1985
Furre, Berge, Norsk historie 1905-1990, Det Norske Samlaget 1993
Fusi, Juan Pablo, Franco, Deutscher Taschenbuch Verlag 1992
Garrett, Stephen A., Ethics and Airpower in World War II : The British Bombing of German
Cities, St. Martin’s Press 1993
G屍ard, Jo, Cinq Reines pour La Belgique, Collet 1982
Gorst, Anthony/Johnman, Lewis/Lucas, W. Scott (ed.), Contemporary British History 1931-61, Pinter 1991
Greve, Tim, Haakon VII Of Norway, C. Hurst 1983
Gruchmann, Lothar, Der Zweite Weltkrieg, Deutscher Taschenbuch Verlag 1990
Gutsche, Willibald, Ein Kaiser im Exil, Hitzeroth 1991
Hatch, Alden, The Mountbattens, Random House 1965
Higham, Charles, Wallis : Secret Lives of the Duchess of Windsor, Sidgwick Jackson 1988(チャールズ・ハイアム/尾島恵子訳、王冠を賭けた恋、主婦の友社、一九九〇年)
Hodges, Michael, Ireland : From Easter Uprising To Civil War, Batsford 1987
Hoey, Brian, Mountbatten : The Private Story, Sidgwick & Jackson 1994
Hough, Richard, Bless Our Ship : Mountbatten and the Kelly, Hodder & Stoughton 1991
Hoyt, Edwin P., Hirohito : The Emperor and The Man, Praeger 1992(ホイト/樋口清之監訳、世界史の中の昭和天皇、クレスト社、一九九四年)
Inglis, Brian, Roger Casement, Hodder & Stoughton 1973
Jablonsky, David, Churchill, The Great Game and Total War, Frank Cass 1991
Judd, Denis, The Life and Times of George V, Weidenfeld & Nicolson 1973
Kelley, Kevin J., The Longest War : Northern Ireland and the I. R. A., Zed Books 1988
Kurth, Peter, Anastasia, Jonathan Cape 1983
Lambton, Anthony, The Mountbattens, Constable 1989
Mai, Gunther, Das Ende des Kaiserreichs, Deutscher Taschenbuch Verlag 1993
Malia, Martin, Vollstreckter Wahn, Klett-Cotta 1994
Mansergh, Nicholas, The Unresolved Question : The Anglo-Irish Settlement and Its Undoing 1912-72, Yale University Press 1991
Mansergh, Nicholas/Moon, Penderel (hrsg.), India : The Transfer of Power 1942-7, vol. XII : The Mountbatten Viceroyalty, Princes, Partition and Independence 8 July-15 August 1947, Her Majesty’s Statinery Office 1983
Massie, Robert K., Die Schalen des Zorns, Fischer 1993
Massie, Robert K., Nicholas and Alexandra, Victor Gollanz 1968
Meissner, Gustav, D穫emark unterm Hakenkreuz, Ullstein 1990
Middlemas, Keith, The Life and Times of Edward VII, Weidenfeld & Nicolson 1972
Midgaard, John, A Brief History of Norway, 3rd ed., Tanum 1966
Millar, Lubov, Grand Duchess Elizabeth of Russia, Nikodemos Orthodox Publication Society 1991
Morgan, David/Evans, Mary, The Battle for Britain, Routledge 1993
Morgan, Janet, Edwina Mountbatten : A Life of Her Own, Scribners 1991
Mountbatten/Noel-Baker/Zuckerman, Apocalypse Now?, Spokesman 1980
Murphy, Ray, Last Viceroy, Jarrolds 1948
Neal, Frank, Sectarian Violence : The Liverpool Experience, 1819-1914 : an aspect of Anglo Irish history, Manchester University Press 1988
Nehru, Jawaharlal, An Autobiography, The Bodley Head 1989
Pelling, Henry, Winston Churchill, 2nd ed., Macmillan 1989
Piekalkiewicz, Janusz, Der Erste Weltkrieg, Econ 1988
Piekalkiewicz, Janusz, Der Zweite Weltkrieg, Econ 1985
Ramm, Agatha, Beloved and darling Child : Last Letters between Queen Victoria and her eldest daughter 1886-1901, Alan Sutton 1990
Reuth, Ralph Georg (hrsg.), Joseph Goebbels Tageb歡her 1924-1945, Piper 1992
R喇l, John C. G., The Kaiser and His Court, Cambridge 1994
R喇l, John C. G., Wilhelm II., Die Jugend des Kaisers 1859-1888, Beck 1993
Roth, Joseph, Radetzkymarsch, Deutscher Taschenbuch Verlag 1994
Sawyer, Roger, Casement : The Flawed Hero, Routledge & Kegan Paul 1984
Schellenberg, Walter, Memoiren, Verlag f殲 Politik und Wirtschaft 1956
Schumann, Wolfgang/Nestler, Ludwig (hrsg.), Europa unterm Hakenkreuz, VEB Deutscher Verlag der Wissenschaften 1990
Shirer, William L., The Rise and Fall of the Third Reich, Touchstone 1981
Sluka, Jeffrey A., Hearts and Minds Water and Fish : Support for the IRA and INLA in a Northern Irish Ghetto, JAI Press 1989
Snowman, A. Kenneth, Faberg・: Lost and Found, Abrams 1993
Strachey, Lytton, Queen Victoria, Penguin Books 1971(ストレイチー/小川和夫訳、ヴィクトリア女王、冨山房百科文庫、一九八一年)
St殲mer, Michael, Die Reichsgr殤dung, Deutscher Taschenbuch Verlag 1993
Smith, Denis Mack, Italy and its Monarchy, Yale University Press 1989
Swift, Roger/Gilley, Sheridan (ed.), The Irish in Britain 1815-1939, Pinter Publishers 1989
Taylor, A. J. P., The First World War, Penguin Books 1966(テイラー/倉田稔訳、第一次世界大戦、新評論、一九八〇年)
Terraine, John, The Life and Times of Lord Mountbatten, Hutchinson 1968
Thompson, Dorothy, Queen Victoria Gender & Power, Virago 1990
Van Der Kiste, John, Crowns in a Changing World, The British and European Monarchies 1901-36, Alan Sutton 1993
Van Der Kiste, John, Kings of the Hellenes, The Greek Kings 1863-1974, Alan Sutton 1994
Vermeir, P., Leopold I : Mens, Vorst, Diplomaat, Dendermonde 1967
Vilallonga, Jos・Luis de, Juan Carlos : Die autorisierte Biographie, C. Bertelsmann 1993(デ・ビラジョンガ/荻内勝之訳、国王、主婦の友社、一九九四年)
Ward, Alan J., The Easter Rising, Harlan Davidson 1980
Weibull, J嗷gen, Swedish History in Outline, The Swedish Institute 1993(旧版につき、アンデション=ヴェイブル/潮見憲三郎訳、スウェーデンの歴史、文眞堂、一九八八年)
Weitz, John, Joachim von Ribbentrop : Hitler’s Diplomat, Weidenfeld & Nicolson 1992(ワイツ/久保田誠一訳、ヒトラーの外交官、サイマル出版会、一九九五年)
West, Paul, The Women of Whitechapel and Jack The Ripper, Random House 1991
Woodham-Smith, Cecil, Queen Victoria : Her Life and Times 1819-1861, Hamish Hamilton 1972
Ziegler, Philip, King Edward VIII : A Biography, Alfred A. Knopf 1991
Ziegler, Philip, Mountbatten : The Official Biography, A. Knopf 1985
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[その他の資料]
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国際法外交雑誌、歴史評論、Der Spiegel ほか内外の雑誌・新聞記事、アナスタシア裁判関係資料、各国法令集等。
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謝辞
各国のさまざまな資料について、バッキンガム宮殿 (Buckingham Palace)、ケンジントン宮殿 (Kensington Palace)、セントジェイムズ宮殿 (St. James's Palace)、ランベス宮殿 (Lambeth Palace)、ウィンザー城王立図書館 (The Royal Archives, Windsor Castle)、王立バラ協会 (The Royal National Rose Society)、駐日アイルランド大使館、イタリア文化会館、英国大使館、ギリシャ大使館、シンガポール大使館、スウェーデン大使館、スペイン大使館、ノルウェー大使館、ベルギー大使館、ブリティッシュ・カウンシル東京事務所、ブロードランズ資料館 (The Broadlands Archives)、サザンプトン大学図書館 (University of Southampton Library)、クリスティーズ社 (Christie, Manson & Woods Ltd.) およびサザビーズ社 (Sotheby's) 等の関係者のかたがたから、協力いただくことができました。ここに記して、感謝の意を表します。ただし、資料の解釈は著者独自のものであり、これら諸機関の公式見解ではありません。
血友病に関しては、広島大学医学部附属病院の高田昇助教授よりご教示いただきました。また、広島市民病院の高蓋寿朗医師および荒木康之医師からも、資料や示唆をいただくことができました。ご協力に感謝します。
なお、血友病の知見と治療の現状について、以下のような説明を紹介しておきます。
[参考文献:高松純樹「古くて新しい病気ー血友病」『日常診療と血液』一巻三号二十八頁以下(一九九一年)]
血友病 (Hemophilia) は、バビロニアの経典にも記載されている古い疾患である。しかしその実態が明らかになったのは一九八〇年代以降であり、治療法も著しい進歩をとげた。血液が凝固するまでに時間がかかる止血困難を本態とする疾患であるが、わずかな外傷等で生命にかかわる大出血をするかのような誤解が多い。治療のための血液製剤は目覚ましく進歩したが、HIVをはじめとするウィルス感染症の原因ともなってきた。分子生物学的研究の進歩によって、血友病の病因も明らかになりつつある。その結果、遺伝子欠損のない突然変異による多数の症例が報告されている。現在は、遺伝子治療への取り組みが研究されている。
本書が成るにあたり、筑摩書房編集部長柏原成光氏より頂いた多くの示唆と励ましに感謝します。また、チューリヒ大学教授でスイス著作権法協会会長のマンフレート・レービンダー博士 (Professor Dr. Manfred Rehbinder) の変わらぬ厚情にも感謝の意を表します。ハーヴァード・ロースクール留学中であった西谷元教授には、コンピューターによる資料検索面で多くの援助を得ました。スイスとイギリスの若い法律家クリスティアン・シュヴァルツェネッガー新潟大学助教授 (a.o. Professor Dr. Christian Schwarzenegger) とアンソニー・ウェブスター氏 (Mr. Anthony Webster) にも、資料収集面で助けていただきました。
最後に、本書を倉田卓次先生に捧げます。
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主要登場人物の人名索引[#「主要登場人物の人名索引」はゴシック体]
アウグステ=ヴィクトリア皇后
ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の后
アナスタシア皇女
ロシア皇帝ニコライ二世の末娘
アナスタシア・チャイコフスキー
自称アナスタシア皇女
アリックス(アレクサンドラ皇后)
ニコライ二世の后
アリス大公女
マウントバッテン卿の長姉
アリス妃
ヴィクトリア女王の次女、ヘッセン大公妃
アルバート殿下
ヴィクトリア女王の夫君
アルバート=エドワード皇太子
ヴィクトリア女王の長男、エドワード七世
アルバート=ヴィクター
エドワード七世の長男
アルバニー公レオポルド
ヴィクトリア女王の四男
アルフォンソ十三世
スペイン国王
アレクサンダー王子
バッテンベルクの四兄弟の父
アレクサンダー(サンドロ)
ブルガリア君主
アレクサンドラ王妃
エドワード七世の后
アレクサンドル一世
女帝エカテリーナ二世の孫、ロシア皇帝
アレクサンドル二世
ロシア皇帝(解放帝)
アレクサンドル三世
ニコライ二世の父、ロシア皇帝
アレクセイ皇太子
ニコライ二世の息子
アン王女
チャールズ皇太子の妹
アンドレイ大公
キリル大公の弟
アンドレオス(英名アンドリュー)王子
エディンバラ公フィリップ殿下の父
アンナ・アンダーソン
自称アナスタシアの別名
イレーネ妃
アリックスの姉、プロイセン公ハインリヒ殿下の妃
ヴィクトリア女王
ケント公エドワードの娘
ヴィクトリア皇后
ヴィクトリア女王の長女、フリードリヒ三世の后
ヴィクトリア大公女
マウントバッテン卿の母、ミルフォード=ヘヴン侯爵夫人
ヴィクトリア=メリタ
ヘッセン大公と離婚後、キリル大公妃
ヴィクトリア=ユージェニー(エナ)
アルフォンソ十三世の后
ヴィットリオ=エマヌエレ二世
サルディニア国王、初代イタリア国王
ヴィットリオ=エマヌエレ三世
ムッソリーニ時代のイタリア国王
ウィルヘルミナ女王
オランダ女王
ヴィルヘルム一世
初代ドイツ皇帝
ヴィルヘルム二世
ヴィルヘルム一世の孫、ヴィクトリア女王の孫
ウィルヘルム=ゲオルグ王子
クリスチャン九世の次男、初代ギリシャ国王ゲオルギオス一世
ウィンザー公
退位後のエドワード八世
ウラジミル大公
アレクサンドル三世の弟
エカテリーナ二世
ピョートル三世の后、女帝
エディンバラ公アルフレッド
ヴィクトリア女王の次男、ザクセン=コブルク=ゴータ公爵
エディンバラ公フィリップ
女王エリザベス二世の夫君
エドワード七世
ヴィクトリア女王の長男
エドワード八世
ジョージ五世の長男
エラ(大公女エリザベート)
アリックスの姉、セルゲイ大公妃
エリザベス二世
ジョージ六世の長女
エリザベス皇太后
ジョージ六世の后、エリザベス二世の母
エリザベート皇后
オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフの后
エルンスト=ルートヴィヒ(アーニー)
アリックスの兄、ヘッセン大公
オラフ皇太子
ノルウェー国王ホーコン七世の長男、オラフ五世
オリガ皇女
ニコライ二世の長女
オリガ大公女
ニコライ二世の末の妹
カール一世
最後のオーストリア皇帝
カール十六世
現スウェーデン国王
キラ大公女
キリル大公の娘
キリル大公
ウラジミル大公の長男、自称亡命皇帝
グスタフ六世
スウェーデン国王、マウントバッテン卿の義兄
クセニア大公女
ニコライ二世の妹
クリスチャン九世
デンマーク国王、イギリス王妃とギリシャ国王とロシア皇后の父
クリスチャン十世
クリスチャン九世の孫
クリストフ殿下(英名クリストファー)
フィリップ殿下の義兄、ヘッセン=カッセル家の王子
グロスター公ヘンリー
ジョージ六世の弟
ゲオルギー王子
ロマノフ家の帝位継承権者
ゲオルギー大公
ニコライ二世のすぐ下の弟
ゲオルギオス一世
初代ギリシャ国王
ゲオルク殿下
マウントバッテン卿の従弟、ヘッセン(=ダルムシュタット)大公
ケント公ジョージ
ギリシャ王女マリナの夫、ジョージ五世の四男
コンノート公アーサー
スウェーデン王妃マーガレットの父、ヴィクトリア女王の三男
ジーギスムント殿下
イレーネ妃の息子
ジョージ五世
エドワード七世の次男
ジョージ六世
ジョージ五世の次男
ジョージ親王(ゲオルギオス)
ゲオルギオス一世の次男
セルゲイ大公
エラの夫、アレクサンドル三世の弟
タチアナ皇女
ニコライ二世の次女
チャールズ皇太子
エリザベス二世の長男
ツィタ皇后
カール一世の后
ツェツィリエ皇太子妃
ヴィルヘルム二世の長男の妃
ドミトリー大公
パーヴェル大公の息子、ラスプーチン暗殺共犯者
ナポレオン三世
ナポレオン一世の甥
ナポレオン(ルイ)
ナポレオン三世の息子
ニコライ一世
アレクサンドル一世の弟
ニコライ二世
最後のロシア皇帝
ニコライ=ニコラエヴィチ大公(ニコラーシャ)
ロシア軍総司令官
ハインリヒ王子
ヴィルヘルム二世の弟
パーヴェル一世
エカテリーナ二世の息子
パーヴェル大公
アレクサンドル三世の弟
ファン(ドン=)
アルフォンソ十三世の息子、ファン=カルロス国王の父
ファン=カルロス一世
現スペイン国王
フィリップ殿下(エディンバラ公)
エリザベス二世の夫
フィリップ殿下(ヘッセン=カッセル)
マファルダ王女の夫
フェルディナント=マクシミリアン
フランツ=ヨーゼフ皇帝の弟、メキシコ皇帝マクシミリアン
フランツ=フェルディナント
フランツ=ヨーゼフ皇帝の甥
フランツ=ヨーゼフ皇帝
オーストリア皇帝
フリードリヒ三世
ヴィルヘルム一世の長男
フリードリヒ=ヴィルヘルム皇太子
ヴィルヘルム二世の長男
ベアトリス王女
ヴィクトリア女王の末娘
ヘルミネ妃
ヴィルヘルム二世の后
ヘンリー殿下(ドイツ名ハインリヒ)
ベアトリス王女の夫君
ホーコン七世
ノルウェー国王
マーガレット王女
エリザベス二世の妹
マウントバッテン卿(ディッキー)
バッテンベルク卿改めミルフォード=ヘヴン侯爵の次男
マリア皇后(アレクサンドロヴナ)
アレクサンダー王子の妹、アレクサンドル二世の后
マリア皇太后(フョードロヴナ)
ニコライ二世の母
マリア皇女
ニコライ二世の三女
マリア大公女
アレクサンドル三世の妹、エディンバラ公妃
マリア=テレーザ(フォン・ハウケ)
バッテンベルクの四兄弟の母
マリー=ユージェニー(ウージェニー)
ナポレオン三世の后
ミハイル大公
ニコライ二世の弟
メアリー王妃
ジョージ五世の后
モード王妃
ジョージ五世の妹、ノルウェー国王ホーコン七世の后
モレッタ王女
ヴィルヘルム二世の妹
ユージェニー(ウージェニー)皇后
ナポレオン三世の后
ユスポフ公爵フェリクス
ラスプーチンの暗殺者
ユリアナ女王
オランダ女王
ルイーズ王妃
マウントバッテン卿の姉、スウェーデン国王グスタフ六世の后
ルイ=フェルディナント
ヴィルヘルム二世の孫、キラ大公女の夫
ルートヴィヒ(英名ルイス)王子
マウントバッテン卿の父バッテンベルク卿、ミルフォード=ヘヴン侯爵
ルートヴィヒ二世
バイエルン国王
ルートヴィヒ二世
ヘッセン(=ダルムシュタット)大公
ルートヴィヒ三世
ヘッセン(=ダルムシュタット)大公
ルートヴィヒ四世
同、アリスの夫
ルートヴィヒ殿下
ヘッセン大公エルンスト=ルートヴィヒの次男
ルドルフ皇太子
フランツ=ヨーゼフ皇帝の息子
レオポルド一世
ヴィクトリア女王の叔父、ベルギー国王
レオポルド三世
現ベルギー国王の父
ワルデマール殿下
イレーネ妃の息子
山下丈(やました・たけし)
一九四六年、大分に生まれる。大阪大学法学部卒業、京都大学大学院法学研究科博士課程中退。ハンブルク大学、マックス・プランク外国法・国際私法研究所、ハワイ大学などで在外研究に従事。広島大学教授、東海大学教授を経て、現在は紀尾井町綜合法律事務所弁護士。
本作品は一九九五年一一月、筑摩書房より刊行された。