死の逆転
―京都が危ない
姉小路祐
[#表紙(表紙.gif、横90×縦130)]
目 次
第一章 救いを求める手紙
第二章 背伸びする不動産
第三章 新たなる追跡
第四章 逆転の発想の逆転
第五章 町衆の怒り
あとがき
[#改ページ]
第一章 救いを求める手紙
『前略、失礼申し上げます。
周平さんとは長いこと会っとらんですが、きっとお元気で代書屋の仕事をやってなさると思うとります。
本日は、戦友である貴兄に折り入って頼みがあって、筆をしたためる次第です。
実は小生、うかつにも立ち退きの承諾書にハンコを押してしもうたのです。しかしながら、これは家主の詐欺によるものです。小生は困り果てております。
できれば会って話をしたいと考えております。
周平さん。何とか、わしを助けてくだされ。伏して、お願いする所存です。
石丸周平様     平成二年十月二十四日
[#地付き]馬崎弥兵衛 拝  』
「このラストに書かれている拝って、どういう意味なの?」
由佳《ゆか》は、最後の行を指差した。
「敬意をもって差し出します、というようなこっちゃ。正確に知りたかったら、辞書でもひいたらどないや」
石丸伸太《いしまるのぶた》は、由佳の質問にろくに答えずに、今どき珍しい和紙に筆でしるされた手紙を見つめている。
「あたしたちの家には、辞書なんてカルチャーなものはないわよ」
由佳は、おっかない顔で手紙を睨《にら》む伸太に、小さく肩をすくめた。
「ほなら、天王寺《てんのうじ》の図書館へでも行ったらどないや」
伸太は、由佳との会話などうわのそらといった様子である。
速達で届いたこの手紙の名宛《なあて》人になっている石丸周平《いしまるしゆうへい》は、今年の春に癌《がん》のために死んでしまった。由佳はその周平の長女である。
伸太は周平の息子となっているが、その関係は、少し説明を要する。
周平は二回結婚している。先妻には連れ子がいた。その連れ子が、伸太である。周平は伸太と養子縁組をして、親子関係を結んだ。ところがしばらくして、伸太の母であり周平の先妻である女性は病死した。そこで周平は、伸太の面倒を見ながら、再婚した。再婚相手の後妻には連れ子はなく、まもなく長女・由佳を出産する。
すなわち、由佳は周平の実子であり、伸太は養子である。したがって、由佳は伸太を「義兄《にい》さん」と呼んでいるが、二人の間には血の繋《つな》がりはない。
「これから京都へ行くで」
伸太は封筒の裏を向けた。
差出人である馬崎弥兵衛の住所が、やはり毛筆でしたためられている。
――京都市|中京《なかぎよう》區|西洞院《にしのとういん》通|竹屋町《たけやちよう》下ル塔池《とうのいけ》町八番地の四
「區って、この字だったかしら?」
「こいつは旧字や」
「馬崎弥兵衛さんって、相当な年配みたいね」
文面にしても、言い回しにしても、毛筆の使用にしても、若い人物でないことは断言できる。
「手紙に、オヤジの戦友とある。せやから、オヤジと同じ大正生まれとちゃうか」
周平は今春、六十八歳で他界した。伸太は当年とって、三十二歳。由佳は花の二十三歳である。伸太も由佳もまだ独身だ。
「義兄さんは、この馬崎さんに面識はないのね」
「あらへんさかいに、一緒に開封しよて提案したんや」
「そうだったわね」
郵便受けに入っていたこの手紙を先に見つけたのは伸太だった。オヤジ宛てやから、共同相続人である二人で一緒に開封しようや、と伸太は提案したのだ。
「義兄さんがコワイ顔をするから、忘れちゃったわ」
開封するまでは、伸太はいつもの温厚な(と言うより間延びしたと表現する方が正確な)表情だった。
「この手紙を読んで怒りが出えへん方がおかしいがな。ワイは人が騙《だま》される話を知ったら、たまらん気分になるんや。さあ、すぐに出かける支度や」
「お店の方は?」
「由佳ちゃんも一緒に行くんやったら、臨時休業やな」
伸太は、通天閣《つうてんかく》のすぐ近くである大阪市|浪速《なにわ》区|恵美須《えびす》で、お好み焼き屋を兼業する代書屋である。古い木造家屋の一階がテーブル四つで満員になるお好み焼きの店舗、二階が代書屋の事務所(事務所と言えば聞こえがいいが、寝室の一角に机と椅子があるだけ)となっている。
代書屋は、正式には司法書士というのだが、伸太は先代の周平がしていたものを引き継いで、くすんだ白地に剥《は》げた黒ペンキで「代書屋・石丸」とかろうじて読める看板を掲げている。もっとも司法書士としての報酬はほとんどない。訪れる数少ない依頼人は、その大半が伸太や先代の周平を頼って助けを求めに来る者である。伸太は、そんな人たちから報酬の類《たぐい》を取った試しがない。
いきおい生計は、副業(というよりはむしろ本業)のお好み焼き屋の収入で、ということになるが、これも廉価なうえにこうしてちょくちょく休業するのだから、利益はたかがしれている。伸太はその少ない収入の大部分を食費に充てている。大阪人は「食い倒れ」と言われるが、この石丸伸太は「食い倒れ」が吊《つ》りバンドをして歩いているようなものである。その大食漢ゆえに、身長は百六十センチなのに体重は百二十キロという真ん丸い体躯《たいく》をしている。おまけに、丸い顔の頬骨が肉づきの良いほっぺたよりもさらに突き出していて、さながらラグビーボールを横にしたような印象を受ける独特の輪郭をしている。とにかく、一度見たら、まず忘れられない風貌《ふうぼう》だ。
〈勝手ながら、本日休みます〉
伸太は、裏が白紙の新聞用折り込みチラシを持ってきて、マジックで金釘《かなくぎ》流の字体をしたためた。さっきの馬崎弥兵衛の毛筆も決して巧《うま》くはないが、小学生並みの伸太の字と比べると、ずいぶん達筆に見える。
「軒先に貼《は》ってんか」
伸太は、セロテープと共に差し出す。「高いとこに貼るときに、由佳ちゃんがいたら便利や。わいやったら椅子に乗らんとあかん」
由佳が気にしていることを、伸太はあっさりと言った。
由佳は身長が百七十五センチ。かつてはバレーボールの高校日本代表に選ばれたこともある。そのあと体育大学に進むが、膝を痛めて、結局引退を余儀なくされる。バレーボールをやっていたころは、一センチでも身長が伸びたならと思ったものだが、今では道ですれ違う男性に「ノッポの女だな」と言わんばかりの顔で振り返られるたびに恥ずかしい思いをする。もちろんハイヒールの靴など履《は》いたためしがない。
「京都まで自転車で行くわけにはいかへんな」
伸太は、愛用の自転車を横目に見ながら、店の扉を閉めた。伸太は車を持っていない。司法書士というのは、依頼を受けて法務局に登記の申請書などを代理提出するのが主たる仕事である。したがって、住民票や印鑑証明書といった登記に必要な書類を揃《そろ》えるために役所をめぐることが多く、普通の司法書士にとって車は必需品なのだが、伸太はバイクの免許すら持っていない。司法書士としての仕事量が少ないうえに、車を買うだけの経済力もないわけだ。
由佳は、周平が危篤になるまで、東京で一人暮らしのフリーターをしていた。周平の後妻であり、由佳の母親である女性は、周平の生活力のなさに愛想を尽かして、由佳が小学校三年生のときに離婚して、由佳を連れて東京へ引っ越した。
由佳の母親は、二年前に交通事故で死ぬ間際まで、周平のことを恨んでいた。周平は、現在の伸太と同じようにろくに代書屋の仕事をしないで、経済的には由佳の母親がやっていた縫製の内職に頼っていたのである。由佳も、東京にいた頃は、父親らしいことをほとんどしてくれたことがない周平のことが嫌いだった。けれども、危篤の知らせを伸太から受けて大阪へ帰ってみると、周平が多くの人々を代書屋として助けていたことが分かり始めたのだ。こっそりと蔭《かげ》で動き回って、名もない庶民を助け、それでいて金銭的報酬を受け取らない――そんな周平の隠された面を証明するかのように、彼の葬儀のときにはろくに喪服さえ身に付けていない庶民たちが、心の底から搾《しぼ》り出すような涙を浮かべながら次々と駆けつけたのだ。その「赤ひげ代書屋」とでも形容すべき姿勢を、伸太は受け継いでいる。
「山中のおばちゃん。ちょっと出かけまっさかい、あんじょう頼んまっさ」
伸太は遠出するときにも、ナンバー錠一つを店の扉に掛けるだけだ。近くの市場に買い出しに行くときなどは、何も施錠せずに出ていく。その代わりに、隣で大衆おでん屋を営む山中のおばちゃんに必ずと言ってもいいくらい声をかけていく。伸太に言わせると「鍵を掛けるより、その方がずっと用心がええで」ということなのだ。現に、それで空き巣の類《たぐい》が入ったためしがない。盗《と》られるものが何もないということもあるが、由佳が住んでいた東京の団地などでは考えられない下町のコミュニケーションが、ここ大阪市浪速区恵美須にはしっかりと根付いているようだ。
「またアベックでお出かけかい。仲のええこっちゃね」
山中のおばちゃんは、「おでんいろいろあり|※[#桝記号、unicode303c]《マス》」と書かれた入り口の暖簾《のれん》をめくりながら、色黒の顔を覗《のぞ》かせた。
「アベックやないで。こいつはわいの義妹《いもうと》やんか」
「兄と妹でも、アベックには違いあらへんやないの」
山中のおばちゃんは、冷やかすように手を叩いた。
「JRで行こか」
伸太は通天閣の方を太い指で差した。
「地下鉄の方が早いのじゃない?」
「地下鉄で行ったら、大阪駅までは二百円。JR環状線やと百九十円。人間、倹約と経済感覚が肝心や」
伸太は、ときどきこんなアンバランスなことを言う。
二人は、通天閣の下を潜った。通天閣は、四本の足の間に相当するスペースが開いていて、真下を人や車が通れるようになっている。こうしてすぐそばまで来てみると、高さ百三メートルの通天閣は結構高さがあるものだ。周りにこれといった高い建物がないせいもあるが、エレベータで展望台に上ると、大阪市内はもちろんのこと、奈良県との境にある生駒《いこま》山までが見わたせる。
通天閣からJR環状線・新今宮駅までの歩行者専用道はジャンジャン横丁と呼ばれる。通天閣|界隈《かいわい》は、かつての賑わいを失くしてさびれていると言われているが、ここジャンジャン横丁だけは健在だ。豪雨が降ったら雨漏りがしそうな古びたアーケードが覆う幅三メートルほどの狭い道の両側に、昼間っから開いている居酒屋(そのほとんどは客用の椅子の置かれていない「立ち飲み屋」と呼ばれる構えだ)、昔ながらのビンゴゲーム、臭いを嗅《か》いだだけで元気の出そうなホルモン焼き、そして無学奇行の棋士・坂田三吉を生んだ町らしく将棋クラブなどの店々が立ち並ぶ。さらには路上に古着などの品物を並べてタタキ売りをする光景に出くわすこともある。かつて三味線をジャンジャン鳴らして客を呼び込んだということから名前がついたというジャンジャン横丁には、ナニワの雰囲気と風情が最も残っている、と由佳は思っている。
「わいは、京都に行くのは久しぶりや。もう三年ほど行っとらんワ」
伸太は、さっき昼御飯を食べたばかりというのに、「一本三十円。四本で百円の大サービス」とかかれた串カツ屋の店先を物欲しげな目で見ている。
「人間、倹約と経済感覚が肝心なんでしょ」
由佳は、伸太の丸太のような腕をちょいと引っ張った。
由佳にとっては、京都を訪れるのは中学三年生以来である。東京で中学生時代を過ごした由佳は、京都へ修学旅行に来たのだ。
「京都って、何となく、日本の心のふるさとって感じがするわね」
このときの由佳はまだ、京都の美しい町並みが死の危機に晒《さら》されている現実も、恐ろしい事件に関わりを持つことも知らなかったのだ。
京都市中京區西洞院通竹屋町下ル塔池町八番地の四――という手紙の裏に書かれた住所を頼りに、京都に着いた二人は馬崎弥兵衛の家を探し始めた。
駅前の書店で地図を見て予習したところでは、中京区というのは文字どおり、ほぼ京都の真ん中に位置している。北は丸太町《まるたまち》通、南は四条通、東は鴨川《かもがわ》、西は西大路《にしおおじ》通で囲まれた長方形と考えて、ほぼ良さそうだ。京都市役所も、二条城も、中京区にある。
「この下《クダ》ルという書き方が、京都の地名の独特のとこなんや。南に行くことが下《クダ》ル、北に行くことが上《アガ》ルや。由佳ちゃんも知っていると思うけど、京都はほぼ碁盤の目状に通りが作られている。そやから、住所を頼りに尋ね当てることが比較的容易や。南北の通りと東西の通りの交差するところ、この場合で言えば西洞院通と竹屋町通の交差点まで行って、下ル即ち竹屋町の南に位置する街区を探せばええわけなんや」
「ふーん、昔の人の知恵ってすごいわね」
「けど、難儀なのは、どれが南北の通りで、東西の通りなんか、よう分からんのや。大阪やったら、南北の道路は筋《すじ》、東西の道路は通《とおり》と名前を分けとる」
「あら、そうなの?」
「たとえば御堂《みどう》筋は南北、道頓堀《どうとんぼり》通は東西や」
「今まで知らなかったわ」
「その代わりと言うたらなんやけど、京都の地元の人は昔から、童唄《わらべうた》で通の順番を覚えたそうなんや。丸竹夷《まるたけえびす》に押《お》し御池《おいけ》……」
「なに? それ」
「丸太町《まるたまち》通、竹屋町《たけやまち》通、夷川《えびすがわ》通、押小路《おしこうじ》通、御池《おいけ》通、というそれぞれの頭を覚えやすく取って唄にしてあんのや。この唄はまだまだ南の方まで続くんやで」
「そうか。京都と大阪って、同じ上方《かみがた》と呼ばれるけれど、少しやり方が違うのね」
「さいな。わいに言わせたら、通と筋の区別だけ知ってたらええ大阪は、よそもんに開放的やし、唄を覚えてなあかん京都はそれだけ閉鎖的やと思う」
そうこう話しているうちに、その竹屋町通まで来た。
「ここを南に行くんや。南は、ええっと、こっちや」
伸太は、少し迷った。「昔の京都では、ぐるりを見て、山がない方角が南やと言われたそうや。東山、北山、西山、と盆地の京都は三方を山に囲まれとる」
「南は山がないの?」
「せやないと、鴨川《かもがわ》も、桂川《かつらがわ》も、淀川《よどがわ》に注ぎ込まへんがな」
「あ、そうか」
「けど、こうしてみると、南の方角に山があるのかないのか、よう分からへんがな」
由佳はぐるりを見回した。
確かに周りには三階建てのコンクリート製の建物が、四、五軒に一軒ほどの割合で建っており、山の存在を確かめるのに見通しはよくない。しかし、その一方でやはり四、五軒に一軒くらいの比率で、二階建てでしかも二階部分が一階部分に比べてぐんと低く虫籠《むしこ》窓になった町家造りの古びた木造家屋が、黒い甍《いらか》を柔らかに光らせている。
「大阪の中心部と違《ちご》て、京都は空襲で焼けなんだ。せやから、古い家屋も結構残っているんや。二階がぐんと低いのは、天皇さんをはじめとする高貴なかたが前の道を通らはったときに、上から見下ろす失礼がないようにとの配慮から来る伝統的構造やそうやで」
「へえ、やっぱり古都なんだ」
由佳が修学旅行に来たのは、中学三年生の春で、まだ十四歳だったから、九年も前のことになる。九年前には、もっと黒い甍が目立っていたような気がする。
「もうちょっと南やな」
伸太はやや自信なげに猪首《いくび》を回しながら、ゆっくりと歩を進めた。「大阪市内は、住居表示制度と言うて、建物の入り口ごとに番号を付けて現わすシステムになっとる。せやから、大阪市内では、住所は何番何号という書き方になる」
「東京でもそうだわ」
「けど、京都市内では、まだ住居表示制度は未導入なんや。せやから、この馬崎はんの住所みたいに、何番地の何、という現わしかたになる」
「住居表示だと、だいたい番号順になっているから、こうして探すときは楽ね。住居表示板も要所要所に設けられているし」
「けど、その代わりに、由緒ある名前が消えてしまうということもあるで。たとえば大阪では、全国の渡辺姓のルーツとも言われる渡辺町というのがなくなってしもた」
「あれ」
由佳は小さく声を上げた。「あたし、修学旅行のとき、ここを通ったわ」
「ほんまか」
「間違いないわ。あの散髪屋さんに記憶があるもの」
由佳は、梅山理髪店≠ニいう看板の揚がった古い家を指し示した。赤、青、白のだんだら棒が、軒先でクルクルと回転している。
「散髪屋はんの郵便受けに、住所が書いてあるで」
伸太は細い眼をいっそう細くしながら近づいた。「西洞院通竹屋町下ル塔池町八番地の二か、ここの町内やで」
「ねえ、この細い路地の奥じゃないかしら」
梅山理髪店の横に、人間二人が並んでようやく通れるぐらいの細い道がついていた。
「せやな、入ってみよか」
「義兄さん、先に行ってよ」
由佳は伸太の横に並ぶのを避けた。風船のような伸太の体なら、通行定員一名様の路地である。「もしも向こうから人が来たら、義兄さんなら、擦れ違うことはムリね。そういうときは、どっちにバックする義務があるのかしら?」
由佳は、黒板のような伸太の背中のあとから、歩を進めた。伸太の方が十五センチも背が低いから、由佳としては見通しは悪くない。
「道路交通法には、そないな規定はあらへんやろな。どないなんのやろ」
伸太は猪首《いくび》を捻《ひね》って真剣に考えている。「けど、行き止まりの路地やから、人の往来はそないにあらへんで。京都の町中には、こんなふうな通り抜けのでけへん路地が多いんや」
伸太はそう言いながら、突然立ち停まった。由佳はふくらみのない胸を、伸太の丸っこい背中にぶつけそうになった。
「ここや、馬崎弥兵衛はんの家」
伸太は球形の顎《あご》をしゃくった。うっかり通り過ぎてしまうほどの狭い間口の、平屋建ての棟割り長屋の一軒だ。表札代わりに、馬崎と書かれた紙が入り口脇の柱に貼られている。その毛筆書体は、手紙のそれと同じだ。
「ごめんやす」
インターホンはもちろんのこと、呼び出しベルすらないので、伸太はガラス戸をノックした。このあたりは、伸太の住む通天閣|界隈《かいわい》の古びた長屋の雰囲気とよく似ている。
「開《あ》いとります」
しわがれた老人の声が返ってきた。
伸太はガラス戸を引いた。ガラス戸は、悲鳴にも似た軋《きし》みを上げて、つっかえながら開いた。
三和土《たたき》を上がったところに、六畳ほどの部屋があり、そこに老人と老婆が座っていた。二人は、グリム童話の絵本に出てくるような手動の紡《つむ》ぎ機を動かしていた。カタンカタンという音が、小気味よい。
「手紙をもらいました石丸周平の息子にあたる、伸太という者です。こちらは周平の娘の由佳です」
伸太が自己紹介するなり、紡ぎ機の回転が止んだ。
「馬崎弥兵衛です」
老人は短い白髪頭《しらがあたま》を下げた。「ここにおるのは女房の八重です」
隣の痩《や》せた老婆が腰を折るように礼をした。
「周平さんは?」
「この三月に、癌で死にました」
「そうですか……」
弥兵衛は、少し驚いた顔つきをして、自分もそう遠くないと言わんばかりに寂しそうに眼をしばたたかせた。
「オヤジ宛ての手紙を読ましてもらいました。わいはオヤジの代書屋を継いどります。何か、お役に立てることがあれば、と思ってやってきました」
「それはご親切に、まあどうぞ中へ」
弥兵衛は腰を浮かして、自分の使っていた座布団を裏返して、勧めた。八重の方は、すぐ後ろの流し場へ立った。
「わしらは夫婦二人で、この家を三十年来、借りてきました」
弥兵衛は説明を始めた。「家主はこの路地の入り口に住む、脇本タカ子という女です」
「路地の入り口ということは、あの散髪屋はんでっか?」
「路地を挟んで、散髪屋の向かいです。この路地には、四軒の所帯が住んでますねけど、脇本タカ子はそれを全部所有してます。所有者と言うても、死んだ彼女の夫から相続しただけのことですねけど」
由佳は、最近女性週刊誌で読んだ記事のことを思い出した。独身女性に結婚相手に望む条件をアンケートしたところ、第一位が「財産のある人」で、第二位の「優しい人」をかなり引き離していた。「同じ結婚するなら、結婚して自分が得《トク》をしたい」といった回答や「一生働き続けても、一戸建ちの家を持つことは難しいが、上手な結婚をすれば、それが可能になる」という意見が載っていた。脇本タカ子という女性がどんな人物なのか、由佳は何も知らないが、この弥兵衛の妻である八重と比べると、どんな男と結婚したかというだけで、現在の立場は大きく違っている。一方は、長屋四軒の所有者であり、他方は立ち退きの追い立てを食らっている。
「かれこれ二週間ほど前になりますやろか、その脇本タカ子がけったいな男を連れて来よりました。何でも、この長屋をつぶしてマンションにしたいから出て行ってくれという話です。わしら、そんなん困ります。よそへ行けと言われても三十年も慣れ親しんだところをあっさりと出る気にはなりまへん。それにここは西陣《にしじん》に近《ちこ》うて、仕事の点でも便利です」
弥兵衛は紡ぎ機を軽く手で押さえた。「わしらはこうして紐《ひも》を紡ぎます。そして西陣の方へ持って行きます。それが和服の帯締《おびじめ》の材料になるわけです」
由佳は、改めて紡ぎ機を見た。華麗な京着物の蔭《かげ》には、この弥兵衛のような地味な職人が下請けとしてコツコツと働いているのだ。
「急によそへ移れ、と言われてもアテはあらしませんし、買い物一つでも新しい場所では勝手が違います」
そう言いながら、八重が湯飲みを二つ、由佳たちに差し出した。「うちは歯の具合が悪うて、近くの歯医者さんの世話になりっぱなしですねけど、行きつけの歯医者さんを代わるわけにはいきません。そや言うて、遠いところから、通うのもかないません」
住居というのは、その人間の生活の基盤《ベース》なのだ。そこを代わるということによって、さまざまな影響が出てくる。それも、自分の意志で転居をしようという場合は、デメリットも覚悟の上だろうが、意に反していきなり立ち退きを迫られるとしたら、住んでいる者にとっては突然の災害来襲に近い印象を受けるに違いない。
「わしは脇本タカ子にも、その付き添いで来た男にも、『出ていくのは嫌や』とはっきりと言うたんです。一時間以上も粘られましたけど、わしは断り続けたんです。そしたら、脇本タカ子は『そこまで言うなら、諦《あきら》めましょう。でもこの男の人が、手ぶらで帰るわけにはいきませんから』と紙を出したんです。そして『この男の人に、来てもらった手数料を渡す必要がありますから、ここに名前を書いてハンコをついてくださいな』と言いました。わしは出ていかんでもええのやったらとホッとして、その駄賃のための紙にハンコをついたんです」
「その紙には、何か書いてありましたんか?」
話を聞く伸太の顔つきは、次第に険しいものになっている。
「いえ、何にも書いてあらへん白紙のちいちゃい用紙です。わしはただ、駄賃に必要なんやという話を信じましたんや」
「そのハンコは?」
「脇本タカ子の夫が死んだときに、彼女からの申し出で、わしらは借家の契約書を彼女と交わしましたんや。そのときに使《つこ》うたのと同じハンコです」
「なんでまた三文判にしやあらへんかったんでっか」
「いや、脇本タカ子がどうしてもそのハンコか実印やないとあかん、と言い張るさかいに」
「それで、立ち退きの要求は?」
伸太はラグビーボールを横にしたような形の頬を紅潮させながら訊《き》いた。
「一昨日、前に脇本タカ子に付いてきた男が今度は一人でやって来て、『あんたは立ち退きに承諾したんだから、今月じゅうに出て行ってくれ』と通告してきよりました。寝耳に水とはこのことです。『出て行かんでもええことになったやないか』て言うたら、男は前に駄賃に必要やからとわしに名前を書かせて、ハンコを押させた紙を取り出して『ここに承諾書があるじゃないか』と息巻きますのや」
「その紙に何か書いてありましたんでっか?」
「へえ。印刷したのかタイプでも打ったのかよう分かりまへんねけど、『出て行きます』という趣旨の活字が細こう並んでました」
「そら、おそらくワープロでっしゃろ。白紙の用紙に署名|捺印《なついん》をさせといて、そのあとからワープロで、立ち退き承諾の文言を打ちこんだんですワ。汚いやり方や」
伸太は、この馬崎弥兵衛からの手紙を読んだときの十倍以上も怖い顔になっている。
「わしら、やっぱり出て行かなあきまへんのやろか」
弥兵衛は不安そうに伸太を見つめた。
その横で、八重が縋《すが》るような視線を送っている。
「そないなことはあらしまへん。あんたらは、騙《だま》されはっただけや」
弥兵衛たちを気丈にさせようと、伸太がわざと大声で答えたのが由佳には分かった。「わいが来た以上は、そんな連中を許しまへんで」
「そらよかった。あんじょう頼んます」
弥兵衛と八重は、互いの顔を見つめながら、ホッとした声を出した。
「その横柄な男の名前とかは、分かりまへんのか」
「名刺、もろてます」
弥兵衛は、用箪笥《ようだんす》の引き出しから、名刺を取り出した。
京洛興産株式会社開発部 植島尚雄《うえしまひさお》、という名前が書かれてあった。
「この路地の四軒とも、似たような手口でやられてますねん」
「四軒ともでっか」
「一軒が騙されたあとで、次を騙しに来たというのなら、お隣りさんの話を聞いて警戒できまっけど、一斉に四軒それぞれが『駄賃に必要や』とか、『出て行かんでもようなったあかし』やとか嘘《うそ》をつかれてハンコを押さされましたんや」
泡を飛ばして怒りを現わす弥兵衛の横から、八重が遠慮がちに口を挟んだ。
「しかも、来た男の人は、みんな別々ですね。うちはこの植島尚雄ですけど、よそさんはまた別人です」
「そら、悪質なうえに、結構大掛かりでんな」
伸太は腕を組んだ。
話を聞いているだけの由佳であったが、今度の相手は難敵のようだ、という気が何となくした。
弥兵衛の長屋を辞した伸太と由佳は、再び狭い路地を通り、家主である脇本タカ子の居宅へ向かった。
タカ子の居宅は、弥兵衛の長屋の三倍以上の敷地を有し、生垣もあれば、インターホンもあった。
「脇本タカ子はん、居はりまっか?」
興奮した伸太はろくに名乗らないまま、インターホンを押し続けた。
「居るけど、誰? 何の用?」
「馬崎弥兵衛はんの知り合いのもんですねん、話があって来ましたのや」
「どんな話よ」
「話いうたら、話でんねん。とにかく出てきとくれやす」
伸太は珍しく早口でまくしたてた。
「何なの、大きな声で。今、忙しいのよ」
タカ子は出てきたが、不機嫌そうな顔で、生垣の向こうに立ったままだ。
「あんさん、馬崎弥兵衛はんを騙さはりましたやろ」
伸太はちょっと背伸びをしながら、詰問した。由佳の身長なら難なく生垣の向こうが見えるのだが、伸太ではちょっと背丈が足りない。
「変な言いがかりをつけないでよ」
タカ子はパーマをかけた髪の毛をいじりながら、硬張《こわば》った表情で答えた。着ている服は、赤バラをあしらったフラワープリントのブラウスに、ウンガロの黒ベルベット素材のスカートとひどく若造りをしている。しかし、目尻の皺《しわ》、肌の張り、脂肪の付いた首筋、と年齢は隠せない。由佳の見たところでは、タカ子はまもなく六十歳に手が届きそうだ。
「言いがかりやおまへん。あんさんは、来た人の駄賃に必要やというて、判を押させて、そのあと立ち退き承諾書を偽造したやろ」
「何のこと? 馬崎さんは、はっきりとあたしの眼の前で、立ち退き承諾書に捺印《なついん》したのよ」
「ようそないなこと言わはりますな」
伸太は、茹《ゆ》でダコのような真っ赤な表情で怒っている。「相手の善意や法的無知に付け込んで人を騙すのが、わいは一番キライや」
「大声でわめくのはやめてよ。何の証拠があるのよ。こちらは、立ち退き承諾書への署名と捺印というはっきりとしたものを持っているのよ」
「そんな論理は通じまへん。あんたを私文書偽造罪で訴えまっせ」
「勝手にしたら。あんな老いぼれ夫婦がボケて文句を言っていることを、真に受けて」
タカ子は、突っぱねるように言った。
「近所の人をいじめて、あなたはどうなさるつもりなのですか」
由佳までが堪《こら》えられなくなって、口を開いた。
「いじめてるつもりはないわ。ただ家主として、正当な立ち退き交渉をしただけよ。いいこと、このご時勢に、家賃は月たったの二万円だったのよ。そんな家賃でのうのうと暮らそうとする方が厚かましいわ」
タカ子は、無愛想につり上がった眼を伸太から由佳の方へ移した。「慈善事業で、家を貸しているのじゃないわよ」
「けど、あんさんもこの町内で暮らして来たんでっしゃろ。言うてみたら、身内やおまへんか」
「もう、この町内とはオサラバだわ。あたしは、白浜のリゾートマンションへ引っ越すのよ」
「白浜って、あの温泉で有名な白浜でっか。あんさんだけがええ思いして、ほかの人が苦しんで、そんでええんでっか」
伸太は生垣のすぐそばまで進んだ。生垣に植わっている樫《かし》の木が、伸太の腹の圧迫を受けて、しなっている。
「あんたたちに、あたしの立場は分からないわ。夫に先立たれて、子供がいなきゃ、財産だけが頼りよ。お金がなくて、老後の保証があるもんですか」
「ほなら、馬崎はんの立場はどないなりますねん」
「四の五の言ってないで、文句があるなら、京洛興産の方へ言ってよ。もう、京洛興産へ売却したんだから」
タカ子は、冷たくいなした。
そのとき、伸太の後ろでクラクションが鳴った。ペンギンのマークをボディにデザインした大型トラックがゆっくりと近づいてきた。
「すんまへんな」
運転席から、やはりペンギンのマークの入った帽子をかぶった男が顔を出した。「脇本さんは、おたくでっか?」
ぺンギン帽は、トラックを停めて、伸太に向かって言った。
「ちゃいまっせ」
伸太は猪首《いくび》を左右に振った。
「あら。引っ越し屋さんね。ご苦労さまですわ」
タカ子は、それまでの態度とは打って変わった猫撫《ねこな》で声を出しながら笑顔を作った。
「そうです。ご用命いただいて、ありがとうございます」
ペンギン帽は、軽く礼をした。その横にさらに男が二人乗っている。
「さあさあ、入ってくださいな。お待ちしてましたのよ」
タカ子は、そこに伸太たちが居ることを完全に無視して、玄関扉を開けた。「準備のために、三日前から日帰りで白浜に通ってる状態ですのよ。今日荷物を運んで転居届を役所に出して、明日からずっと白浜暮らしができますわ」
「すんまへん。さっそく始めます」
運転席から三人の大柄な男が次々と降りて、脇本タカ子の家に入っていった。
「ちょっと、脇本はん……」
伸太は声を張り上げたが、タカ子は黙ってバシンと玄関扉を閉めた。
「アホンダラ」
伸太は口惜しそうに地面を蹴った。
「義兄《にい》さん、これからどうするの?」
「とりあえず、京洛興産へ行こ。敵がどないな奴か、知っときたいんや」
伸太は忌々《いまいま》しげに、スタスタと歩き出した。
由佳はその横に肩を並べた。
「あたし、やっぱりここに修学旅行で来ているわ」
由佳は眼の前に、二条館≠ニいう看板の掛かった二階建ての木造旅館を見つけたのだ。くすんだべんがら格子と唐破風《からはふ》の屋根が、いかにも京都らしい古びた宿屋という印象を与える。
「さよか」
伸太は取りつく島もないといった感じの返事しかしない。
由佳は仕方なく、なつかしい二条館≠フ看板を黙って見上げた。
由佳が修学旅行で京都に来たとき、大小二つのハプニングがあった。まず宿泊先であったはずの修学旅行会館の一部が、前日発生した火災によって使えなくなったことだ。由佳たちの前日に泊まった別の学校の修学旅行生が部屋でこっそりタバコを吸い、その不始末で深夜にボヤを出したのが原因のようである。消防車が駆けつけて、火事自体はたいしたことはなかったのだが、いくつかの部屋が水浸しになってしまった。翌日泊まる予定だった由佳たちの学校はとばっちりを受けた形になって、由佳のクラスの女子二十二人は急遽《きゆうきよ》、この二条館に宿泊先を変えることになったのだ。けれども、お蔭《かげ》でかえって京都らしい和式の宿屋に泊まれることになって、その変更は由佳たちにとっては嬉しい誤算だった。
ただもう一つのハプニングの方は、こうして思い出すだけでも由佳にとっては恥ずかしい。そのころからクラスメートの中でひときわ背が高かった由佳は、慣れない和式の部屋の鴨居《かもい》に頭をしこたまぶつけてしまったのだ。トイレから帰った途端に友人がみんなして風呂に入りに行くというので、「待ってよ、待ってよ」と叫びながら、床の間に置いていたカバンの中からタオルをあわてて取り出してダッシュしたところ、鴨居に額の生え際を激突させてしまったのだ。けたたましい衝突音の割には、由佳はそれほど痛みを感じたわけではなかった。けれども、流れ出した血に、友人たちが驚いた。
その場に尻餠をついたままの由佳を抱え起こすより先に、友人たちは「タイヘンです」と旅館の人を呼びに行ったのだ。
(たしか、北野靖枝という名前の、和服姿のよく似合うおかみさんだったわ)
由佳は、二条館の木塀づたいに歩きながら、九年前の記憶を次第に思い出していた。
おかみさんに手当てを受けて、止血はできたのだが、額に当てた絆創膏《ばんそうこう》がひどく目立つことになってしまった。鏡を見た由佳は、泣きベソをかきそうになった。鴨居に頭をぶつけただけでもクラスの笑い者なのに、このあとこんな目立つ恰好《かつこう》で京都を散策する気にはなれっこない。
「せっかくの修学旅行やものね。何とかしてあげるわ」
おかみさんは、由佳の気持ちを察して、さっきの梅山理髪店へ由佳を連れていってくれた。理髪店はとっくに閉店時刻を過ぎていたが、おかみさんは中学時代の同級生だという理髪店主に頼み込んで、由佳の前髪のヘアスタイルを変えることにより、絆創膏が分からないようにしてくれたのだ。由佳は感謝しながらサイフを取り出したのだが、おかみさんは笑顔で「お客様に対する当然のサービスよ。こんなことにお金を使わないで、お土産の一つでも買いなさい」と言って、受け取らなかった。
(あのおかみさん、どうしているかな)
由佳は、二条館の木塀に貼られたビラに眼を止めた。
京都の町並みと景観を破壊するマンション建設に反対します。
[#地付き]塔池町住人=@
全紙大サイズの白い紙に、楷書《かいしよ》体の美しい毛筆でしたためられていた。
さっきの馬崎弥兵衛は、京洛興産がマンションを建てようとしているために、長屋から追い立てを受けているのだと話していた。馬崎の住んでいる路地と、二条館とは、眼と鼻の先である。もしもあの路地に高層マンションが建ったなら、風情のある和式の二条館の情緒は減殺されてしまうだろう。マンションの上の階から、覗《のぞ》き見られるというマイナス面も出てきそうだ。
一つの建築物を新しく作るということは、単にその建築物だけの問題ではなく、周囲に影響を与えるものなのだ。建築基準法などの法規は、そのことを念頭において作られているはずだが、この京都の町中のように、古くからある木造家屋が鉄筋コンクリートの建物に押し虐《しいた》げられている観のある街区を歩いて来ると、現行法規は本当に充分なのだろうかという疑問にも駆られてしまう。
ここ塔池町に来るまでに歩いてきた西洞院通には、たくさんのビルやマンションが両側に立ち並んでいた。
(京都は、日本の心のふるさとではないように変わっていくかもしれないわ……)
東京の都内と何ら変わらない町並みに変わったなら、もはや京都は京都でなくなってしまう。
ボン――
由佳は突然背後で起こった軽い物音に振り向いた。
二条館の塀を乗り越えて、サッカーボールが道路に飛び出してきたのだ。
(九年前のあたしたちのような、修学旅行生が泊まっているのかしら)
由佳はちょっと後戻りして、サッカーボールを拾い上げた。競技用のサイズより二回りほど小さく、材質もスポンジゴムで、できている。修学旅行だとしたら、中学校ではなく、小学校だと思われた。
(この旅館はいつまでも変わらないで、修学旅行生を暖かく迎えてほしいわ)
由佳はそう願いながら、サッカーボールを塀の中に投げ入れた。
前を見ると、伸太は由佳にお構いなしにスタスタと歩いている。
(もう義兄さんたらっ)
文句を言い掛けた由佳だが、伸太の煮えくり返るような腹の中が分かるだけに、黙って長いコンパスで追いついた。
(馬崎さんだって、古い京都の長屋の中でコツコツと地道に働いて、着物という京都の伝統産業を蔭で支えてきたのだわ)
そんな庶民の慎ましやかな生活を、無知に付け込んで騙《だま》し取ろうとする連中は、由佳だって許す気にはなれない。
京洛興産は、丸太町通に面する八階建ての総鏡張りのビルディングだった。屋上に、Kをデザインフォルムした大きな社旗が、道行く人を威圧するかのように揺らめいている。ビルディングの前の空きスペースには、趣味の悪い紫色のタイルが敷き詰められている。
「開発部の植島尚雄はんに会いたいんですワ」
まるで警察署のように入り口に立哨《りつしよう》しているガードマンに、伸太は告げた。
さっき馬崎に見せてもらった名刺を写したメモを見ずに、伸太は植島尚雄の名前を出した。
由佳は、周平が危篤という知らせを受けて今年の三月に大阪へ来てからはずっと伸太と一緒に住んでいる。もう半年以上も同居していることになるが、いまだにこの伸太の言動は予測できないところがある。こんなふうに記憶力のいいところがあるかと思えば、由佳の得手領域であるファッションやポップス音楽に関することなどはいくら教えても覚えられないのだ。伸太はキュロットとホットパンツの区別は永遠につかないだろうし、オリビア・ニュートン・ジョンは男性の物理学者だと思い込んだままだ。
「植島に何の用件ですか? それにおたくは誰なんですか?」
若いガードマンは居丈高《いたけだか》に尋ねてきた。
「司法書士の石丸伸太と言いますねん。用件は植島はんに会《お》うてから喋《しやべ》ります」
ガードマンは無言で背中を見せて、社屋の中へ半身を入れた。中に居るもう一人のやや年配のガードマンが彼とふたことみこと言葉を交わしたあと、内線電話をかけている姿が見える。
内線電話は簡単に終わり、二人のガードマンは足並みを揃えるように社屋から出てきた。
「植島は、会う気はないとのことです。さっさとお引き取りください」
若いガードマンは宣告するような調子でつれなく言った。
「そんな、ろくに話も聞かんと何ですねん」
伸太は大きく腕を拡げた。
「脇本タカ子さんから今しがた電話があって、事情は把握しているとのことです。そのうえで、おたくとは話し合う余地はないと植島は言っているのです」
年配のガードマンは、極めて事務的な口調で答えた。
「ちょっと待っとくれやす」
伸太の言葉を聞き入れずに、二人の屈強なガードマンは後ろに手を回したまま前進を始めた。伸太は突き出た腹を押される恰好《かつこう》になった。
「ここは当社の敷地です。敷地から出てください」
「そうでないと、住居侵入罪で警察に通報します」
二人のガードマンは、前進をやめなかった。
「ちょっとあなたたち、強引だわ」
由佳は抗議した。しかし、二人のガードマンは無言で歩を進めるだけだ。
伸太と由佳はやむなく、趣味の悪い紫色のタイルが敷き詰められた京洛興産のビル前スペースから道路へ出た。
それを確認すると、ガードマンたちはまるで機械仕掛けの人形のように、クルリと踵《きびす》を返した。
そしてもとのように若い方は前で立哨し、年配の方は何事もなかったかのように社屋の中へ入った。
「くそっ、けったくそ悪いで」
伸太は歯軋《はぎし》りをしたが、もはや道路からでは、充分に声が届く距離ではなかった。京洛興産の総鏡張りの壁に、デブの伸太とノッポの由佳という対照的な体型の二人が怒っている姿が写し出されるだけだった。
伸太は、風にたなびく京洛興産の社旗をしばらく睨《にら》みつけたあと、風船のような体を反転させた。
「義兄《にい》さん、どこへ行くの?」
「わいは代書屋や。これから法務局へ行って、京洛興産のことを調べてみよと思うんや」
「法務局って、登記簿の置いてあるところね」
伸太とこうして行動をするようになっても、由佳はまだなかなか難しい登記制度のことが憶《おぼ》えられない。ファッションやポップス音楽に関することなら、記憶力は確かなのだが……。
「さいな。登記簿というても、土地や建物に関する不動産登記簿と違《ちご》て、商業登記簿というやつや。株式会社などの会社は、その本店や支店を管轄しとる法務局に、会社の登記簿を置いている。これを閲覧したら、会社の中身がある程度分かるんや」
京都地方法務局は、京洛興産から北東に十五分ほど歩いた、上京《かみぎよう》区河原町|荒神口《こうじんぐち》にあった。伸太はその二階で、京洛興産の商業登記簿を閲覧した。
(図省略)
「こいつが商業登記簿の商号資本欄や。これで会社の正式名称や規模が分かる。資本金が二億円というのは、あれだけの社屋にしては小さいがな」
伸太はそう呟《つぶや》きながら、頁を繰った。
(図省略)
「これが役員欄や。株式会社やったら、取締役の氏名、代表取締役の住所並びに氏名、そして監査役の氏名が登記せんならん事項なんや。京洛興産は京都の丸太町が本店所在地やのに、代表取締役は二人とも大阪の住人やな」
「代表取締役というのは、社長のことなの?」
「社長とは限らへん。社長というのは、商法に規定のある名称でも何でもないんや。法律上は、会社を代表して契約を締結したりする権限のある取締役を代表取締役と言うんや。その代表取締役は、会社によって社長だけのこともあるし、社長と副社長がなることもあるし、専務を含むこともあるし、さまざまや。もちろん代表取締役は、一人に限るという必要はあらへん。この京洛興産では二人や」
「でも、会社にとって重要なポストであることは確かよね。その二人とも、大阪に住所があるということは、どういうことなのかしら」
関東で言えば、東京から横浜へ通うようなものである。横浜から東京へ通勤するサラリーマンは数え切れないが、逆方向の、それも代表取締役となるとそう多くはいないだろう。
「待てよ。設立はいつやった」
伸太はさっきの商号・資本欄に戻って、その右隅に太短い指を置いた。
「平成元年二月六日に設立の登記か」
「どういうことなの?」
「設立年月日というのは、言うてみたら、会社の誕生日や」
「ということは、京洛興産はできてまだ丸二年が経っていないのね」
それにしては、立派な社屋だった。
「付属書類を閲覧してみよ」
伸太は、サラサラと閲覧申請書をしたため始めた。
「付属書類って?」
「会社を設立するに際しては、いろいろな書類をここの法務局に提出している。利害関係があれば、そいつを見さしてもらうことがでけるんや」
しばらくして、法務局の職員がファイルをカウンターに差し出した。
「由佳ちゃん、これを見てみいや」
伸太はファイルの中に綴《つづ》られた、株式申込書という用紙を開けた。「京洛興産は株式会社なんやけど、その株式の出資者として、海星不動産の名が書かれとる。京洛興産の発行済み株式総数は四千株やけど、その九割近い三千三百株を海星不動産が保有しとる」
「海星不動産って、あの海星グループの会社なの」
「さいな。関西系の旧財閥で海星銀行を中心にするコンツェルンや。これで京洛興産の代表取締役が二人とも大阪に住所があるのが分かったワ。おそらく彼らは海星不動産から派遣された社員やろ。ようするに、京洛興産は、海星グループのダミー会社や」
「ダミー会社って?」
「直接に海星の名前を出すと、えげつない地上げがしにくいやないか。企業イメージなんかもあるさかいに」
「それで別会社を造って、思う存分、悪質な地上げや追い立てをやるわけね」
由佳は憤りを覚えた。最近、銀行のコマーシャルフィルムがテレビ解禁になっているが、海星銀行は清純なイメージのある女性タレントを使って「あたしのお金はハツラツしてまーす」と言わせている。しかし、その実は、女性タレントの笑顔に誘われた一般市民の預金が、あんな問答無用のガードマンが屹立する会社へと、横流しされているかもしれないのだ。
「それだけやのうて、ダミー会社を作ることによって、転売をして儲《もう》けることがでけるんや」
「どういうこと?」
「さまざまな会社がどんどん買い求めとる形にして、さも価値のある不動産のように思わせるんや。ダミー会社は京洛興産の他にもあって、それらのダミー会社の間をどんどんと物件を転がし、そのたびに売買価格を上げていき、最後に物件を取得する親会社がよそへ売るときは、京洛興産が得た価格の数倍になっているのや。これが土地転がしというテクニックや。ダミー会社の利益は、最終的には全部親会社のフトコロに入るわけや。しかもそれぞれのダミー会社ごとの差益で所得税の課税計算がなされるから、税金上もずっと得《トク》なんや」
「土地転がしって、濡《ぬ》れ手に泡の儲《もう》けね」
「土地というのは、特殊な商品なんや。他のものと違《ちご》て、製造ということはでけへん。たかだか海を埋立するくらいしか新たな供給はあらへんのやし、それとて一企業が勝手にでけるものやあらへん。そやけど、その反面、土地というものは、原料や技術なしで、契約をするだけで簡単に所有権を得ることができて、しかも短期に売買がでけるという代物《しろもの》なんや。土地自体は何ら変わらへんでも、勝手に値段が上昇するんや。これも土地という商品の特殊性や。たとえば、京都市におけるここ一年間の地価は、四十八・四パーセントという驚異的なアップや」
「四十八・四パーセント! 信じられないわ」
たった一年で約五割も上がっているのだ。五千万円だった土地が七千五百万円、一億円だった土地は一億五千万円に跳ね上がったことになる。
「四十八・四という数字は、京都市内全体の平均地価上昇率や。さっきの塔池町などの市内中心部では、さらに値上がりは激しいそうやで。それだけ儲けがボロいのなら、多少荒っぽいことをやっても、泡銭《あぶくぜに》を得ようとする輩《やから》が現われてきよる。けど、その蔭《かげ》で、必ず被害を受けて苦しむ人たちが出てくる。そのほとんどは、馬崎はんのような名もない庶民や」
伸太は、グローブのような拳《こぶし》を造った。「金のある強い者が泡銭の暴利をむさぼるために、金のない庶民が苦しむ――わいは、そんな理不尽が、どうあっても許せへんのや」
大阪へ帰った伸太は、たちまち特製のお好み焼きを作った。
伸太は腹を満杯にしないと、頭が回転しないという特殊な体質であった。
まず、鍋にタマゴを三つ割り、強力小麦粉をとき、さらに山芋を擂《す》り下ろす。そして刻みキャベツを入れて、イカとエビを放り込んで充分にかき混ぜる。鉄板の上にできるだけ薄く油を引き、ブタ肉を敷いて加熱する。さらに牛肉を加える。そこへかき混ぜた鍋の中身を一気にぶちまける。まるでホットケーキのようなぶ厚いお好み焼きになる。伸太はその上から、鍋のフタをして蒸らしながら、何度もひっくり返して焼き上げる。伸太に言わせると、この鍋のフタを使うのが秘中の秘だそうだが、由佳にはその効果のほどは分からない。ただ味の方だけは、確かにイケるのだ。見てくれはUFOのように不恰好だが、一口食べてみると、いろんな具が巧みにブレンドされた独特の味が拡がる。
「腹が減っては戦《いくさ》がでけん、と昔の人はええことを申したはる」
伸太はあっという間に、特製のお好み焼きを三人前、ペロリと平らげた。由佳は一人前がやっとだ。
「満腹になったところで、妙案は浮かんだの?」
「妙案とまではいかへん。ただ、相手が海星グループやと分かったんやから、こっちも腰を据えてじっくり戦うこっちゃ。まず、明日もう一度馬崎はんのところへ行って、騙《だま》されたときのやり取りを正確に聞き出しておくんや。向こうは相手をナメたんか、似たような手口で長屋四軒の立ち退き承諾書を取ってよる。そこがこっちの突っ込めるとこやで。四軒全部|揃《そろ》て、被害届を出してもらうこっちゃ」
やはり腹を充《み》たすと、伸太の頭はエンジンが掛かってくるようだ。
翌十月二十六日の朝。
伸太は馬崎弥兵衛のところへ電話を入れた。
これからそちらへ行くので長屋四軒の住人が揃って待機していて欲しいと、伝えようとしたのだ。
「石丸さん、えらいすんまへん。もう、よろしいんです」
馬崎の返事の意味が、伸太には理解できなかった。
「よろしいて、どういうことでっか?」
「もう、わしらここを出ていくことにしましたんや」
「ちょっと待ちなはれ」
伸太は意外な展開に口をあんぐりと開けたままだ。
昨日、馬崎はあれだけ「ここを出ていくのは、困ります」と繰り返したではないか。
「石丸さんには、ほんまにご迷惑とご心配をかけてしまいました。けど、わしらあれからいろいろ考えて、結局ご時勢に従う方がええと思いましたんや」
「馬崎はん、あんさん、なんぞ脅しでも掛けられたはりますのか?」
そうでも解釈しないと、この手のひらを返すような態度の変化は納得できない。
「いいえ、そやないです。わしらの意志で決めましたんや。長屋四軒の、話し合いの上の結論です」
「と、とりあえず、そっちへ行きますさかいに、話を聞かせとくれやす」
もしも脅迫されているのなら、電話でやり取りしていても進展はない。
「来てもうても一緒です。脅しはあらしません」
馬崎は、そう強調した。
伸太は、今日も〈臨時休業〉の貼り紙を取り出した。
「すんません。昨日ご心配かけたうえに、今日もまた来てもうて」
馬崎は深々と白髪頭を下げた。その横で、八重も頭を畳に擦りつけんばかりにしている。
伸太と由佳が見たところでは、馬崎の家の雰囲気は昨日と変わるところがない。
「正直言うて、わいは狐につままれたような気持ちですねん」
三和土に立ったまま、伸太はゆっくりと切り出した。「オヤジ宛てに出さはった手紙を読んでも、昨日のお話を聞いても、あんさんは『家主に騙《だま》されてハンコを押してしもた。そやから、絶対にここを出て行きとうない』ということやったやおまへんか」
「すんません、ほんまにすんません。昨日の夜、みんなで話しおうて、出ていくことに決めましたんや」
馬崎は、さっきの電話と同じ内容を繰り返した。
「年寄の気まぐれやと思って、堪忍しとくれやす」
八重がそう口を添えた。
「馬崎はん、何《なん》ぞ隠したはることがあったら言うとくれやす。相手の後ろ盾《だて》は海星グループやということが分かりました。けど、わいはどないな相手であれ、そんな詐欺による追い立てを許す気にはなれまへん」
「ありがとうございます。詐欺を受けたのは確かです。せやけど、いろいろ考えてみて、もう出ていくことがええんやないかという話になりましたんや。すんません」
馬崎はもう四回も「すんません」を口にしている。
「ほんまに、京洛興産からきつい脅しを受けて、諦《あきら》めはったんとは違いますのやね?」
「ええ、それはもう」
馬崎はきっぱりと否定した。
由佳は、この狭くて古い馬崎の借家を見回した。どこかに京洛興産の手の者がこっそりと潜んでいて聞き耳を立てているというテレビドラマのようなシーンを想像してみたのだが、それだけのスペースすらなさそうだ。
「聞きにくいことでっけど、立ち退き料を弾まれはったんでっか?」
「いや、別にそういうわけではありません」
「ほなら、ここを立ち退いてどこに行かはりますねん」
「それはこれから京洛興産の植島さんが来はって、話し合います」
「ほなら、とにかく先に出ていくことだけを決めはったんでっか」
伸太は腕を組んだ。
「紐《ひも》作りの仕事は、西陣に近くないとできないのでしょ?」
由佳が訊《き》いた。今日は紡ぎ機は回転していない。
「そうです。せやから、植島さんには、あんじょう頼んでみます」
馬崎がそう答えたところで、ガラス戸が荒っぽく開けられた。三和土に立っていた由佳は、背中越しの激しい音にびっくりさせられた。
「おたくら、出ていくなら出ていくで、早くそう言ってくれりゃいいんだよな」
横柄な口を叩きながら、グレーの背広に身を固めた中年男が無遠慮に入ってきた。胸にKをデフォルメした京洛興産のバッジが光っている。
「あんさんが、植島はんでっか?」
狭い三和土に入り込まれた伸太は、植島を窮屈そうに振り返った。
「そうだが、おたくは?」
「司法書士の石丸というもんですねん」
「ふん」
植島は鼻先で返事した。
「昨日は会社まで行ったのに、会《お》うてもらえませんでしたな」
「会う必要はありませんな。もう馬崎さんは、立ち退くと言ってるんですからね」
植島は、路地の方を向いて「おーい」と呼んだ。そして馬崎の了解も得ずに、居間に上がり込んだ。手にメジャーやカメラを持った若い男たちが四人も、路地からドカドカと入ってきた。そして植島に続いて、畳に上がった。それぞれ胸に京洛興産のバッジを付けている。由佳はそのKが、京洛興産のみならず海星グループのイニシャルでもあることに気づいた。
「解体の見積りを始めますで」
植島は有無を言わせぬ口調で馬崎に告げた。若い社員が、さっそく間取りをカメラに収めていく。
「よろしゅうお願いします」
馬崎は、ちょこんと頭を下げた。あまりにも従順な態度に、由佳は少し驚いた。
「ほんとにさんざん粘るだけ粘っておきながら、いざ出ていくとなったら早く解体してくれと勝手をほざきやがって」
植島はグチリながら、若い社員たちに指示をしている。こうして植島がボヤいている姿を見ると、京洛興産が馬崎たちに脅迫を仕掛けたという可能性は少ないように思えてくる。
「あんさん。馬崎はんの立ち退き先がどこになるのか、ちゃんと話し合うのがまず第一とちゃいまんのか」
伸太が堪《たま》りかねたように口を挟んだ。
「解体の方を先にしてくれと、馬崎さんが言っているんだよ」
植島はうるさいとばかりに、言葉を吐き捨てた。
「おーい、ちょっと誰か来とくれやす」
京都弁で男が叫ぶ声が、路地から聞こえた。
伸太と由佳は、首を出した。
由佳は、半袖の白衣を着たその男の顔にかすかに見覚えがあった。修学旅行で二条館に泊まって、鴨居《かもい》に頭をぶつけて、絆創膏《ばんそうこう》を貼る羽目になった由佳の前髪をカットしてくれた理髪店の店主だった。
「えらいこってすのや」
理髪店主の声に、馬崎はゲタを引っ掛けて、あわてて外へ出た。伸太と由佳は、顔を見合わせて、あとに続いた。路地の他の住人も姿を見せた。
「梅山はん、どうしはりました?」
馬崎が、息を切らせて訊《き》いた。理髪店主の梅山は、顔面を真っ青にしながら、答えた。
「今、馬崎はんとこから、解体がどうのこうのと言うてはる声が聞こえましたやろ。しもた、わしらの反対運動にもかかわらず路地の人たちは降伏してしまわはったと思て、二条館のおかみさんのところへ駆け込んだのですや。そしたら、勝手口が開けっ放しになったままです。なんぼ旅館でも不用心やと思て、わしは中に入り込んだのです。別に入ろと思て入ったんと違いますで」
「梅山さん、わしは別にあんたを盗人《ぬすつと》やと疑ごうてはいません」
馬崎は大きく首を振った。
京都人は建前を重視するという話を由佳は聞いたことがあるが、緊急のときにもかかわらずこうしたやり取りが交わされるのを見ていると、その指摘は当たっているように思える。由佳は、早く本題に入って欲しいと苛《いら》つく気持ちになった。
「そしたら、おかみさんがいつも居《や》はる帳場の机の上に、こんなものが」
理髪店主の梅山は、便箋《びんせん》を馬崎たちに示した。表紙に笹《ささ》の葉が描かれた高級そうな便箋だ。
「こうして、表紙が捲《めく》られた状態で置いてあったのです」
梅山は、便箋の一枚目を開けた。丁寧なペン字で次のように書かれてあった。
『こんな手紙を書いてしまって、申し訳ありません。
本当は、もっともっと頑張って、マンション建設反対運動を続けなきゃいけないのでしょうね。
でも、もう疲れ果てました。わたくしは、もう十二年前のように、若くはありません。京都の町並みを守らなきゃいけないことはよく分かっています。わたくしも、それなりに一生懸命に力を尽くしたつもりです。でも、もうどうしようもありません。精も根も果てました。
二条館は、わたくしの代限りです。息子も娘も継がないでしょう。わたくしが居なくなれば、息子や娘はきっと有効に使ってくれるはずです。
もう、わたくしの行方は、どうか探さないでください。お願いします。
[#地付き]平成二年十月二十六日  北野靖枝』
由佳は末尾に記された名前にある種のなつかしさを覚えた。やはり、あの親切な二条館のおかみさんの名前は、由佳の記憶に間違いなく、北野靖枝という名前だった。
(でも今は、なつかしさにひたっている場合じゃないわ)
眼の前に書かれた便箋《びんせん》は、北野靖枝の書き置きと考えられるのだ。
「おかみさんとは、昨日の夜も会いました。えらい顔色が良うないんで、早く休まはったほうがええと勧めてましたんや」
梅山は、便箋を持つ手を震えさせた。
「おかみさんの息子さんや娘さんへの連絡は?」
馬崎も心配げに便箋を覗《のぞ》き込んでいる。
「そんなことより、おかみさんの行方を探すほうが先決どす」
梅山は、苛立《いらだ》つように言った。
「どこぞ、心当たりは」
「さあ、そいつが」
梅山は力なく首を振った。
「馬崎さん、解体の見積りが終わりましたで。ここに印鑑をついてもらいまっせ」
突然、植島の濁声《だみごえ》が割り込んだ。
「あ、あんたらが、無茶な追い立てをするさかいに、こないなことになんのや」
梅山は、顳《こめかみ》に青筋を立てて、植島を睨《にら》んだ。
「いったい、何のことですかいな」
植島は、口調を変えようとしない。
「二条館のおかみさんが書き置きを残して失踪《しつそう》しはったんです」
梅山が端的に伝えた。
「ほう」
植島は、かすかに口許《くちもと》を綻《ほころば》せた。「そいつは、たいへんなことですな。でも、くだらない住民運動という名前の遊びをしているよりはずっと賢明でしょ」
「遊びとは、聞き捨てなりまへん」
梅山は、声を張り上げた。「あんたらの強引な地上げに対して、この風情のある町並みを守ろうとする運動が、何で遊びですのや」
「いつも申しているように、風情があるないというのはおたくらの主観でしょ。いつまでも歴史にしがみついていたら、京都は古くさいだけの町になってしまいますがな」
植島はせせら嗤《わら》った。「懐古趣味のわがままで、町の活性化を妨げようとするから、おかみさんには天罰が下ったんかもしれませんな」
「何《なん》ですと」
梅山は、植島に掴《つか》み掛かった。
「やめときなはれ」
それまで黙って成り行きを見ていた伸太が、割って入った。
由佳は、後ろでカメラのシャッターを切る音を聞いて振り返った。植島に付いてきていた京洛興産の若い社員が写真を撮ったのだ。梅山を挑発して、暴行をはたらかせて、その証拠写真を得て、今後の地上げを有利に展開しようとする意図が由佳にも読めた。
「事情は分からんわけやおまへん。せやけど、ここは手を出した方が負けでっせ」
伸太の懸命の説得に、梅山はようやく腕を下ろした。
「おい、代書屋さんよ。あんまり、よそごとにおせっかいはやめときな」
植島は、梅山に掴まれて乱れたネクタイをちょっと直してから、馬崎の方を向いた。「さあ、この解体見積書に印鑑をついてもらいましょ」
馬崎は黙って、揺れる眼で植島を見上げた。自分のやろうとしていることが、あるいは間違っているのではないか、と当惑している様子が由佳には受け取れた。
「印鑑は家の中でしたかね。それなら、家の中へ入りましょ」
植島は、馬崎の猫背を押した。この場から、馬崎を引き離してしまおうとする意図が、ありありと見えた。
「くそ……」
梅山は、再び腕を振り上げかけた。
「あきまへん」
伸太はその梅山の腕を押さえた。「ここで暴力に走ってしもたら、連中と同じレベルに成り下がってしまいますのや」
「ほんまに面目《めんもく》ないことどす。年甲斐《としがい》ものう、興奮してしまいました」
梅山理髪店の、理容室の奥にある和室に、伸太と由佳は通されていた。
「お気持ちは分かります。わてかて、昨日は京洛興産の社屋に火を付けてやりたいほどの憎たらしい思いをしたんですワ」
伸太は汗の滲《にじ》んだ二重|顎《あご》を、トレーナーの袖で拭《ぬぐ》った。「それで、まだ事情がよう分かりまへんねけど、あんさんや二条館のおかみさんは、京洛興産の地上げに対する反対運動をしてはったのでんな」
「そうどす。十二年前にも、全く別の会社が開発と称する地上げをしてこの町内にテナントビルを建てようと試みたのですけど、そのときは二条館のおかみさんが中心になって、みなで団結して、それを跳ねのけたんどす。そやさかい、今回もきっとあんじょう行くと思てましたんや」
「さいぜんのおかみさんの書き置きに『わたくしは、もう十二年前のように、若くはありません』と書かれていたのは、そのときのことを指してるのでっか」
「そうどす。せやけど、十二年前とは、いろいろ事情が違ってきました。まず、地価の高騰です。地上げ業者としては、それだけ利益が大きいんでっしゃろ。京洛興産の連中は、わしのこの店にも『売りなさいよ』としつこく迫ってきましたねけど、買取り代価として示された金額は、十二年前の十倍以上になっていました。しかも、今回は、あの脇本タカ子が自分の土地をさっさと京洛興産に売り渡してしまいました。住民の団結というのは、歯と一緒で、一本抜けると力がガタ落ちどす」
「十二年前は、脇本タカ子は売ろうとせえへんかったのでっか?」
伸太と由佳が会った印象では、タカ子は長屋を売り飛ばすことができて清々したという顔つきだった。
「まだタカ子の旦那が、健在でした。それに彼女自身も、祇園《ぎおん》からこの町内に来たばっかりでまだおとなしかったんどす」
「祇園から?」
「ええ。彼女は祇園のクラブでホステスをやっていて、脇本の旦那に見染められて後妻に収まったんどす。祇園と言うても、ずいぶん場末のクラブやそうですし、子供のおらん脇本の旦那の財産目当てで結婚したと思われるフシが感じられます」
梅山は、タカ子のことを口にするとき、憎々しげに唇を少し曲げた。「そのうえ、地上げ業者も十二年前より、ずっと悪質で、そのくせ巧妙になってます。それに、おかみさんの書き置きにもおましたように、わしらも十二年前に比べてずいぶん年を取りました」
由佳は、改めてこの梅山を観察した。禿《は》げ上がった頭、眉間《みけん》に何本も入った皺《しわ》、頬に浮き出たシミ、といったところから見ると、若くて五十代前半、もしかすると五十代の後半かもしれない。修学旅行生だった由佳の前髪をカットしてくれたときは、頭は今ほど禿げていなかった。
「馬崎さんたち路地の長屋の店子《たなこ》さんは、もっと高齢になってはります」
梅山は寂しそうに視線を落とした。
「それで、このあと、どないしはりますねん?」
「とりあえず、大阪に住んではるおかみさんの娘さんと、名古屋の息子さんに連絡を取ってみます。もしかしたら、おかみさんはそのどちらかに居てはるという僥倖《ぎようこう》の可能性もおますやろ。そして、もし息子さんたちと一緒に心当たりをあたってみて、あかんかったら、警察に捜索願を出してみよと思てます」
「そうでっか」
伸太は由佳に目配せをした。あまり長居をして梅山の時間を取ってはいけないという事情は、由佳にも飲み込めた。
由佳は、九年前の思い出のことを梅山に話せないまま、腰を浮かした。
「義兄さん、これからどうするの?」
「わいはあくまで代書屋や。登記の世界で勝負するしかあらへん。法務局へ行ってみるワ」
「また京洛興産の会社登記簿を見るの?」
できることなら、二日続きで同じものは見たくなかった。
「今度は、不動産に関する登記簿や。あの町内の土地と建物のことを頭に入れておきたいんや。登記簿というもんは、じつに様々なことをわいらに教えてくれるもんなんや」
伸太はそう言って、鼻水を啜《すす》った。
昨日訪れた京都地方法務局の、三階が不動産登記を扱っている部門になっていた。
伸太はまず、土地の公図の閲覧を請求した。土地の公図というのは、町名や地番順に土地の形状や大きさを図面にしたものである。言ってみれば、土地の鳥瞰《ちようかん》図である。
「フムフム、塔池町というのは狭いんやな」
と呟《つぶや》きながら、伸太はメモ用紙を取り出した。メモ用紙といっても、新聞の折込み広告のビラのうち、裏が白紙のものばかりを集めて、手ごろな大きさに切って綴《と》じたものである。
公図に、一軒ごとの居住者が書かれている住宅地図をつき合わせたうえで、伸太は次のような見取り図を書いた。由佳は、それを覗き込んだ。
「脇本タカ子の家って、間口は狭いけれど、ずいぶん奥行きがあるのね」
生垣越しに見たときは、それほど広さを感じなかったが、こうして図面で見ると結構広い。
「京都ではこういうのを鰻《うなぎ》の寝床《ねどこ》と呼ぶそうや。体が細長い鰻の住処《すみか》みたいに、奥行きが深いからや。鰻の寝床と行き止まりの小さな路地が多いのが、京都の町中の特徴らしいで」
確かに馬崎の家も、ちょっと通り過ぎたなら分からない袋小路の路地にあった。
(図省略)
「鰻の寝床とか行き止まりの路地とか、何だかテレビゲームの迷路みたい」
「こういう住環境が、良く言えば奥ゆかしい、悪く言えば裏で何を考えているかよう分からへんといわれる京都人の性格に影響を与えとるという説もある」
「そういうものかしら」
住まいの構造と人の性格がどれだけ関連性があるかは別にして、昨日と今日の馬崎の変貌《へんぼう》ぶりを見ても、何となく京都の人間というのは単純に割り切れない複雑さ≠奥に秘めているように由佳には感じられる。大阪人の方が、ずっと本音を喋《しやべ》り、裏表が少ないように思えるのだ。やはり同じ上方でも、公家《くげ》の町と町人の町では違いがあるのかもしれない。
「こうしてみると、梅山理髪店は、ええ場所にあるがな。東南《とうなん》の角地《かどち》やで」
「それ何? 東南の角地って」
「二つの道路がまじわった角に位置する土地を角地というのは、知っとるやろ。角地というのは、いろいろとメリットが高いんや。商業用地やったら、道路が交差する分だけお客さんの通行量が多いことになる。両方の道路に、出入り口を設けることもでける。一方を客用、もう一方を従業員や家人用の出入り口と分けることも可能や」
「そういえば、デパートとかパチンコ屋さんとかはたいてい角地ね」
「さいな。そして住宅地とする場合でも、角地は値打ちがあるとされる。道路には絶対に建物は建てられへんのやから、道路に面した家というのは、それだけ日当たりがええということになるんや」
「そうか。一方の道路に面した家より、二方の道路に面する家の方が、日当たりがいいってことね」
「そのとき東南角地、つまり南側と東側が開いていると、柔らかな朝日と冬の暖かい南の日差しが入ってくるわけや」
「北向きの道路だと冬が暗いし、西日も眩《まぶ》しくて暑いものね」
由佳は納得して、地図を見た。梅山理髪店は、敷地は狭いが、東南の角地だ。
「東南角地というのは、当たり前のことやけど、東側と南側が道路やということが要件や。そやから、この地図の現状では、梅山理髪店だけが東南の角地やけど、それと一緒に馬崎はんたち四軒の長家や、脇本タカ子の家をくっつけて一つの土地にしたら、大きな東南角地ができよる」
「あ、そうか。現在のままだったら、脇本タカ子の土地は鰻の寝床ということで用途も限られるけれど、全部ひっくるめて東南角地となったら別なのね」
「せやから、たとえば梅山理髪店の土地が一坪四百万円やったとして、脇本タカ子の土地が一坪三百万円やったとしても、一緒になって東南角地ということになったなら、今の脇本タカ子の土地までもが一坪四百万円に跳ね上がりよる。しかも土地というのは、狭いよりも広い方がいろんな物件を建てることができるということで、地価もさらに高くなりよる。そのうえ、路地の四軒長家も一緒にでけたなら、その四軒分の敷地だけやのうて、路地の通路として使われとるスペースすらも、有効に使えることになる」
伸太は図の上から指をなぞらせて、大きな長方形を描いた。
「この一帯を巧く地上げしたら、大きな角地ができる、いろんな建物が建築可能となる、路地スペースを繰り入れられるという三重の意味で、値上がりするというわけや」
「ふーん、何か魔法みたいね」
由佳は、土地という怪物の変化を垣間見《かいまみ》たような気がした。
「さあ、この図面を頭に入れたうえで、それぞれの土地の所有者を登記簿で調べるで」
伸太はまず、馬崎弥兵衛が住んでいる長屋の土地登記簿の閲覧を申請した。
「さいぜんの公図を見るのは無料やけど、土地登記簿を閲覧するには手数料が必要とされる。それは現金やのうて、この登記印紙というやつを閲覧申請書に貼って出す形で収めるんや」
伸太はポケットから、切手サイズの赤色の登記印紙を取り出した。
「収入印紙とは違うのね」
よく領収証とかに貼られている緑色の二百円の収入印紙とは、また別のものだ。
「昭和六十年までは収入印紙で良かったんや。ところが、収入印紙やと、いったん大蔵省のフトコロに収められてしまうさかいに、法務省の会計に直接入れるための登記印紙というシステムが取られるようになったそうなんや。お役所内部の事情はよう知らんけど、利用者としてはポピュラーに通用する収入印紙が使えへんというのは不便やで」
伸太は牛タンのような長い舌を出して、登記印紙を湿らせた。「しかも、この四月から、閲覧の手数料は、一件二百円から一件三百円に値上げされてしもた」
伸太は二百円の登記印紙の下に、百円の登記印紙を付け足して、閲覧を求めた。
「えーっと、この甲区欄というのが、所有権に関する記載をしているのだったわね」
土地の登記簿を見るのは初めてではないのだが、こうして伸太に確認しないと自信はない。
「さいな。壱から順番に事項欄を見ていけば、権利関係が追えるようになっているんや。まず脇本泰弘という人物が、売買によってこの土地の所有権を取得しとる。彼は脇本タカ子の旦那やろ。そして、その脇本泰弘は、今年の七月四日に死亡して、タカ子が相続してる。そして、脇本タカ子は、十月六日付けで京洛興産に売却しとる」
「じゃあ、夫が死んでから、わずか三カ月で売っちゃったのね」
さっき梅山が、脇本タカ子は財産めあてで後妻に収まったのだ、と唇を曲げていたのが思い出される。「まさか、タカ子は、早く相続したいからって考えて、夫を殺したんじゃないでしょうね」
「そら分からへんで。これだけ地価が上がったら、都心では猫の額ほどのスペースでも、一億円とか二億円とかべらぼうな値段がつきよる。それだけの利益が得られるのなら、と殺人が起きたとしてもおかしくはあらへん」
由佳は背筋に寒さを感じた。五百万円、七百万円といったレベルでは、殺人を犯してまで、とは思わないのが普通だろう。けれども、一億円、二億円ということになると、それに魅せられる人間も出てくるだろう。不動産は命の次に大事なものと言われるが、ときには命よりも重要なものとランクされることだってありうるだろう。
伸太は、馬崎たちの住む長屋に関する建物登記簿を閲覧した。その内容は、土地の記載事項と全く同じであった。
(図省略)
「脇本タカ子が、京洛興産に土地を売り渡したら、それだけで、馬崎さんたち四軒の借家人は絶対に出て行かなきゃならないの?」
「そんなことはあらへん。言うてみたら、借家付きで、土地の売買がなされたという恰好《かつこう》になるんや。出ていく必要はあらへん。せやからこそ、馬崎はんは、駄賃に必要やからと騙《だま》されて立ち退き承諾書に署名|捺印《なついん》させられたんや」
「土地を買った京洛興産としては、上に古い家が建っていては仕方がないから、姑息《こそく》な手で追い立てを企《くわだ》てたのね」
「建物が建っとらへん土地を更地《さらち》と言うんや。更地やったら、その上に自由に、いろんなものが建てられるさかいに高《たこ》う売れる。けど更地と違《ちご》て、借家が建っていたら、その土地からは借家の家賃収益しか期待でけへんのや」
由佳は更地という言い方にも、土地という怪物の変化を感じた。土地の上に建っているものをなくしてしまえば、土地は真新しいサラの土地として誕生して、新商品として高く売れるのだ。
「更地にしたら、町の中心部に、新しい埋立地が忽然《こつぜん》とできたのと同じような結果になるのね。地上げが横行するはずだわ」
由佳は東京に居た頃にも、凄《すさ》まじい地上げの話は聞き知っていた。何度も嫌がらせ電話をかけてきたり、家の前に屯《たむろ》して立ち退きを迫るなどというのは序ノ口で、腐った動物の死骸《しがい》を投げ込んだり、まるで地震でも起こったかのように深夜に扉や壁をドンドン叩いたり、果てはダンプを突っ込ませて壊したり、放火によって消失させたりもする。その一方で、巧みに札束をちらつかせたりする。
「地価が急騰した地域ほど地上げの旨味《うまみ》が多いのやから、地価の上昇と地上げは比例しとる、と表現しても過言やあらへん。東京に始まった地価高騰は、東京でほぼ飽和状態になって大阪へ飛び火して、そのあと京都へ類焼してきたという感じや。昨日も言うたように、去年の京都の四十八・四パーセントという地価上昇率は全国一やで」
「さっき梅山さんも、十二年前のケースとは、迫力が違うと言っていたわね」
「そらそやで。ようけ儲《もう》かるとなったら、地上げする方も必死やで」
次に伸太は、梅山理髪店の土地登記簿を閲覧した。
梅山は、昭和四十二年に、父親から土地を相続し、そのまま所有していた。
「梅山さんは、『京洛興産がしつこく売れと迫っている』と話していたわね」
由佳は、伸太がメモ用紙に書いた土地の見取り図を再び見つめた。梅山理髪店は、変形の狭い敷地だが、格好の東南角地に位置しているのだ。
「馬崎はんたちの棟割り長屋の北側に、月極《つきぎめ》ガレージとあるやろ。こんな町中《まちなか》でガレージになっとる土地は、元は何らかの建物があったという可能性が高いんや」
伸太は、月極ガレージとなっている土地の登記簿を閲覧した。
「ここはもともと、神泉《しんせん》和菓子有限会社というところが所有しとって、それが十二年前に、京都ハウスワークという不動産屋に転売しとる。おそらく、斜陽の和菓子屋さんが左前になって転売したんとちゃうか」
「和菓子って、斜陽産業なの」
「茶道に使われるような高級和菓子を除いて、一般の人の需要はだんだんと落ちる一方やと聞くで。由佳ちやんたちギャルかて、饅頭《まんじゆう》や羊羹《ようかん》をあんまし食わへんやろ」
「だって、ケーキとかパフェの方がトレンディっぽくて、おいしいもの」
「馬崎はんたちが携わっている和服の世界にしてもそうやろ。今どきギャルは成人式か結婚式のときくらいしか、和服を着いひんがな」
「確かに、そうね」
京都という町はかつての首都であっただけに、日本的な伝統産業というのは古くから発達してきたはずだ。しかし、平成の現代では、以前のような需要はもはや望めなくなっている分野もかなりあるはずだ。いきおい、すたれてさびれていくことになってしまう。
「この京都ハウスワークというのが、梅山はんの言うていた、十二年前にテナントビルを建てようとした業者やろ」
「そのテナントビル建設は反対運動の結果、計画中止になって、月極ガレージになったのね」
伸太は、月極ガレージの土地登記簿を繰った。
「けど、その京都ハウスワークから、京洛興産がその土地を今年の九月十九日付けで買《こ》うてるで」
「京洛興産の凄《すご》い買い占めね」
「月極ガレージ、四軒の長屋、そして脇本タカ子の居宅を繋《つな》いで、大きな更地《さらち》を作る意図やで」
「義兄《にい》さん、二条館の土地は大丈夫かしら?」
二条館を取り込めば、さらに広い更地が得られることになる。
「せやな」
伸太は直ちに、二条館の敷地の登記簿を閲覧した。
「二条館には、京洛興産の手はまだ及んどらんワ。こうして登記簿を見る限りは」
伸太の言葉に、由佳は少しホッとした。しかし、あの親切なおかみさんが、「マンション建設反対運動に疲れました。行方を探さないでください」という書き置きを残して失踪《しつそう》してしまったことを思い出して、すぐに暗い思いに捉《とら》われた。
「京洛興産の地上げがなければ、二条館のおかみさんの失踪もなかったはずだわ」
由佳は、登記簿を憎らしい思いで見た。
(地上げをする方は、土地の有効利用だの何だのお題目を並べるけれど、結局のところお金儲けが目的のはずよ。そのお金儲けのために、地上げの標的になった人たちやその周囲に住んでいる人たちは、さまざまな迷惑を受けるのだわ。地上げをする方は、敷地に出向いて戦争をしているのと同じことで、負けたらそこから撤退したらいいだけだけれど、生活の舞台が地上げの戦場になっている人たちは、たとえ勝ったとしてもいろんな爪跡《つめあと》が残るのじゃないかしら)
「待てよ。これはどういうこっちゃ?」
伸太は登記簿を繰りながら、猪首《いくび》を捻《ひね》った。
「どうかしたの?」
「いや、たいしたことやあらへんねけど」
伸太は、捲《めく》った頁を由佳に見せた。「これは二条館の宿泊客用駐車場の土地登記簿や。この乙区欄というのは、抵当権などの権利関係が記されるんや」
(図省略)
「二条館の建物がある土地は、抵当権も何も付いとらんのやけど、この宿泊者用駐車場の土地には、平成元年九月に抵当権が付けられて、それが一カ月後にすぐ抹消されている」
「抹消というのは、キャンセルという意味ね」
「そういうこっちゃ。キャンセルされたんやから、別に問題はないと言えばないのやけど、たった一カ月後に消されるということは普通はあらへん。この登記簿の記載でいくと、北野靖枝はんが、大阪の千里山《せんりやま》金融というところから、三百万円の借金をして、その担保としてこの土地を抵当に入れとる」
「それだけ二条館の経営は苦しかったということかしら?」
由佳は、九年前に泊まった二条館の造りを思い起こした。和式の部屋ばかりが一階と二階に、二十ばかり並んでいたと思う。風呂は一階の一角に男女別に設けられていたが、決して新しくはなかった。トイレも各階に共同だった。夜中にトイレに行くのがコワイと言ったクラスメートが居て、由佳はボディガードとして付いて行ったことを憶《おぼ》えている。そのクラスメートはしきりに「ダサイわ」とボヤいていた。たしかに、モダンな洋式ホテルでもなく、かといって小ぢんまりとした民宿の雰囲気でもなかった。特に交通の便が良いとか、名所史蹟の前というわけでもない。
「さっきの和菓子や和服と同じように、あんな古い感じの町中の旅館は、はやらなくなっているのかしら」
「かもしれへんな。京都は観光で持っているような面があるけど、最近は大型のホテルがどんどんと建設されて、観光客はそっちの方へ流れていっているそうやで。いっそのこと、料金の安い民宿とかユースホステルとかになったら、また話は別みたいやけど」
「そう……」
由佳は小さく息をついた。
十二年前のテナントビル建設計画、それに対する反対運動、旅館経営の悪化、借金と抵当、今回の京洛興産による近隣の地上げ、その反対運動と疲弊、そして書き置きを残しての失踪《しつそう》……由佳が知るだけでも、北野靖枝は相当な苦労をしているようだ。
(とても親切で、和服のよく似合ったおかみさんなのに)
由佳は、頬を膨らませた。
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第二章 背伸びする不動産
京都府|与謝《よさ》郡|伊根《いね》町|波谷《なみたに》地区。
伊根町は、京都府の北端である丹後《たんご》半島のそのまた北端の東半分を占める。日本三景で有名な天橋立《あまのはしだて》から二十キロも離れていないが、夏のシーズンを除いて、あまり観光客は訪れない。
丹後半島をぐるりと一周する国道百七十八号線も、天橋立から伊根町に入るまでは、宮津湾づたいに海岸線を走るが、伊根町に入るとあとは海岸線を離れて走る。そして伊根町と丹後町の境界に当たる経《きよう》ケ岬《がみさき》近くまで来ると、再び海岸線に出る。したがって、国道百七十八号線の通らない伊根町の本庄浜、新井、波谷といった海岸線は、部外者には馴染《なじ》みが薄くなる。
伊根町波谷地区の駐在所巡査・木野俊幸は、十月二十九日の朝空が白み始めた頃の電話にまどろみを破られた。
「駐在さん、大変だ。死体ぎゃ浮かんでいる。死体ぎゃ」
電話の相手は、顔見知りの漁師・石倉和男であった。石倉の言葉はなまりが強い。
「ば、場所はどこだ?」
睡魔はいっぺんに飛んでしまった。
「波谷桟橋から、電話してるんだで」
相手の石倉の方もかなり慌てているようだ。
「死体のある場所は、桟橋か?」
「違うで。二ツ岩を過ぎて、百目|洞窟《どうくつ》へ向かう途中の岩場の海岸だで。船のエンジンの調子が悪いもんだで、ちょっと陸に着きょうと向かったら、女の死体ぎゃ、波打ち際に浮きゃんどる」
木野巡査は、寝ぼけまなこを凝らして地図を見た。バイクで近づくことがしにくい場所であった。
「あんたの船に乗せて現場までわしを連れていって欲しい。そのまま桟橋で待っててくれ。すぐにそっちへ行くから」
「ほうでも、わしの船はエンジンがダメでぇ……」
石倉がそう言うより先に、木野巡査は電話を切っていた。
結局、石倉の漁師仲間の船に乗って、木野巡査は現場に向かった。急いで駐在所を出たために制帽を忘れてしまったが、そんなことを気に掛けている場合ではなかった。
通称二ツ岩を過ぎて三分ほど北へ行った岩場の波打ち際に、死体《ホトケ》は漂うように仰向けに浮かんでいた。
木野は無線で本署に連絡を取るとともに、死体を引き揚げた。推定年齢五十歳代の和服を着た女性であった。波に洗われていたためであろう。胸元がはだけ、裾が乱れている。髪の毛のほつれも激しい。ただ、白い足袋《たび》だけは、両足とも脱げていなかった。
「かわいそうに、顔が少し魚に食われちょるで。イシダイかそれともベラの仕業かな」
石倉が眼を背けた。
遺体は伊根署に移された。伊根署には霊安室はなく、やむなく車庫で嘱託医立ち会いのもとに検死が進められた。
死因は、頭部強打による脳挫傷《のうざしよう》であった。
遺体は波に洗われているだけに、正確な死亡推定日時の判定は難しく、死後二、三日が経過しているものとされた。波によって着物は乱れていたが、下着などには異常はなく、乱暴された形跡は見られなかった。手指の先は魚に食われていたために、指紋は採取できず、顔も鼻先や耳が食われていたが、識別ができないほどではなかった。身体は、ふくらはぎの一部がやはり魚に食われ、腹部に手術痕があるのを除いて、海中に浸っていた死体にしてはきれいで色白であった。
「和服のホトケさんとは、ちょっと色っぽいね。帯締を解《ほど》いたときは、思わず興奮してしまったよ」
検死を終えてホッとした嘱託医は、そう冗談を飛ばした。
それと平行して、遺体発見現場付近を中心にした捜索が行われた。
捜索をした警官たちは、きちんと揃えられた一対の和草履《わぞうり》と、草履の隙間に挟み込まれた遺書、そして巾着《きんちやく》袋を発見した。遺体のあった場所から、一キロ近く北に行った海岸に聳《そび》える崖の上である。
遺書には、流麗なペン字で次のように書かれていた。
『どこへ行こうか迷ったあげく、生まれ育った奥丹後の海へ来てしまいました。わたくしはこの海が好きです。暗いけれど、吸い込まれるような深い蒼《あお》さが、今の傷だらけのわたくしを優しく包み込んでくれそうです。
これまでのわたくしの人生は、人に言えない辛《つら》いことがたくさんありました。でも、もう今日で、すべてが終わりになります。この高さから飛び降りることを思うと、足がすくみそうになりますけれど、苦しさから解放されることを思えば耐えられます。
塔池町の皆さん。わたくしが居なくなったあとの二条館は、どうか娘と息子の好きなように処分させてやってください。二条館は、もはや経営は完全な火の車です。わたくしはこれでも、一昨年亡くなった義母の遺志を継ごうと努力はしました。でも、もうわたくしには、かつてのような二条館を復活させることは到底できません。わたくしの子供二人には、どうかわたくしの死に免じて、二条館を自由に処分させてあげてください。くれぐれもお願いします。
京洛興産の思うがままに塔池町の家並みが乱開発されるのは辛《つら》いですけれど、これも仕方のないことだと思います。たとえ京洛興産を排除できたとしても、また新しいディベロッパーが登場するでしょう。時代も、行政も、社会も、どれもがわたくしに味方しなかったのです。わたくしは、もう精も根も尽き果てました。
最後の身勝手を、お許しください。
[#地付き]平成二年十月二十六日   北野靖枝』
巾着の中には、遺書を書くのに使ったものと思われる万年筆、現金十六万七千余円、〈二条館 北野靖枝〉の名刺数枚の入った財布、パフやルージュといった化粧品などが入っていた。
北野靖枝については、長女・真奈美と長男・政昭の連名で捜索願が提出されていた。
捜索願に記載された事項――年齢五十六歳、身長百五十八センチ、体重四十八キロ、失踪《しつそう》時の着衣、所持品、さらには子宮|筋腫《きんしゆ》の手術痕まで、すべてが遺体のそれと合致していた。捜索願に添付されたスナップ写真も、彼女の顔であった。
直ちに捜索願出人である大阪の真奈美と名古屋の政昭に連絡が取られた。二人に連れ添って、同じ町内の住民、梅山喜一郎と馬崎弥兵衛もやって来た。
四人は、申し合わせたかのように、頬を引きつらせ唇を震わせながら、遺体が北野靖枝のものであることを確認した。
「この遺書に、『生まれ育った奥丹後の海へ来てしまいました』とありますが、北野靖枝さんはここのご出身ですか?」
木野駐在巡査の質問に、眼を潤ませた梅山が答えた。
「靖枝さんは、この伊根町の出身だと聞いてます。母親は妊娠中毒症で、靖枝さんを出産してすぐに死なはったそうです。そして小学生のときに、漁師だった父親も時化《しけ》で遭難死して、結局京都市内の叔母《おば》のところへ引き取られていかはったわけです。たしか旧姓は、小長谷《おばせ》と言うたはずです」
木野巡査は、役場などで裏付けを取った。そして、梅山の申し立てたとおりであることが確認された。
「人間は、同じ死ぬのなら、ふるさとで死にたいと思うものらしい。彼女もこの郷里の海岸で、幼いころに亡くなった両親のあとを追ったということだな」
木野巡査は、自分が死体を引き上げた場所に、花束を投げ込んで合掌をした。
崖から飛び降りて、岩場に頭をぶつけて死亡した北野靖枝の遺体が、満潮によって海へ流され数日間波に洗われたあと、発見現場へ漂着する光景が、木野の瞼《まぶた》で描かれていた。
京都府警中京警察署へ連絡が取られて、遺書から検出した指紋並びに筆跡の確認がなされた。二条館に残された帳簿や宿帳控えなどとの照合がなされ、完全に一致した。梅山喜一郎が持参していた北野靖枝が失踪《しつそう》の際に残していった書き置き≠ニも、念のために照合がなされ、やはり一致した。
伊根警察署は、北野靖枝は自殺との結論を出した。
石丸伸太は、馬崎弥兵衛の家に電話を入れた。
救いを求める手紙を馬崎からもらい、京都・大阪間を二往復してから、四日間が経過していた。
手紙を出しておきながら「もうええんです」と手のひらを返したような馬崎の態度はいまだにしっくりこなかったし、北野靖枝の行方のことも気になっていた。
「石丸さんに連絡しようと思っていたところでした……」
弥兵衛の妻・八重が電話口に出た。「靖枝さんは、自殺死体として発見されました。今遺体は、主人たちと一緒に、こっちへ向かっているそうですのよ」
伸太は少なからぬショックを受けた。
失踪を告げる書き置きは、必ずしも自殺|行《こう》を明確に現わしたものではなかったが、その可能性は仄《ほの》めかされていた。あの書き置きを読んだ限りでは、原因は京洛興産による地上げ攻勢とそれに対抗すべき反対運動に疲れたということであった。
「これも、地価高騰の生んだ悲劇の一つかもしれへん」
受話器を置いた伸太は、由佳に重い口調で報告した。
「うっそー」
由佳は、顔を覆った。「どうして、あんな優しいおかみさんが、犠牲にならなきゃいけないのよ」
由佳の知っている北野靖枝は、和服姿のよく似合う美しい京女《きようおんな》だった。当時中学生だった由佳は、大人になったらあんなふうになりたいなと思った理想の女性の一人であった。
「あたしは、悪辣《あくらつ》な京洛興産が許せないわ。義兄《にい》さん、自殺に追い込んだ罪なんて言うのは刑法にないの?」
「そういうのはあらへん」
「でも京洛興産には、何らかの刑事責任を負わせられるんでしょ」
当社の敷地から出ないと、住居侵入罪で警察に通報します≠ニ冷酷に言い放った京洛興産のガードマンのロボットのような姿は、由佳の脳裏から離れなかった。
「いや、そいつはちょっと難しいんや。京洛興産の地上げと靖枝はんの自殺との間には、因果関係というもんがあらへんわけやからな」
「義兄《にい》さん、それじゃ京洛興産のやり得《どく》じゃない」
「結果だけ見たら、そないなことになるかもしれへん。けど、京洛興産だけに責任があるわけやないようにも思うんや。無論背後には海星グループが控えとるのやし、地上げをすれば儲《もう》かるという状況は、むしろ政治や行政が作ってしもたもんやとわいは思てるで」
「でも、運が悪いという一言では、片づけられないわ」
靖枝の書き置きに残された「京都の町並みを守らなきゃいけないことはよく分かっています。でも、もう十二年前のように、若くはありません」という文字が由佳の眼底に浮かんで、揺れた。十二年前のテナントビル建設阻止の実績を買われて、靖枝は今回も京洛興産のマンション建設の反対運動のリーダーにまつり上げられたに違いない。人のいい靖枝は、それを断り切れなかったのだろう。そして、十二年前とは違う情勢のもとで、一人|悶々《もんもん》と苦しみ、疲れ果てていった姿を由佳は想像した。
「あたし、せめて靖枝さんのお葬式に行くわ」
由佳は、零《こぼ》れそうになる涙を堪《こら》えた。
「わいもそのつもりで、葬儀のことを訊《き》いといたで。あさっての二時に、二条館であるそうや」
翌々日の十月三十一日は、由佳の気持ちを映すかのように、今にも降り出しそうな曇天となった。
由佳は父・周平の葬儀以来の喪服を着た。伸太は、こんなときでも、ボタンが取れかかった紺のブレザーと黒のネクタイだけだ。
「特注サイズの黒のスーツを買う金がないんや。かんにんしてな」
伸太は、照れ臭そうに頭を掻《か》いた。普段なら合の手の一つでも入れる由佳だが、今日は心が弾まない。
二条館には、百人近い人たちが詰めかけていた。
菊の花に飾られた荘厳壇の上には、靖枝の遺影はなく、位牌だけがぽつんと置かれていた。
喪主は、靖枝の長女・真奈美が務めていた。真奈美は靖枝に目許《めもと》がよく似た、黒の和服姿の美しい女性であった。真奈美の横に、五歳くらいの幼稚園の制服らしい半ズボン姿の男の子が、神妙な顔で寄り添うように付いていた。その姿が、よけいに哀感を誘う。
「靖枝さん、あんなお孫さんが居たのね」
由佳は小さく言った。書き置きに「わたくしはもう若くありません」と書いたはずである。
僧の読経が終わり、参列者の焼香が始まったところで、混乱が起きた。
「あんたらなんかを呼んだ覚えはない」
突然、場違いな大声が、受付の記帳所で起きた。
由佳は声の主を探した。喪服姿の梅山が真っ赤な顔をして怒っている。
「葬式に参列するのに、招待状でも要《い》るって言うのかいっ」
口論の相手は、京洛興産の植島だ。
「帰ってくれ。あんたらの顔は見とうもない」
「せっかく香典を持ってきてやったのに、何て口の利き方だよ」
植島の後ろには、若い社員が数人付いている。黒い服に身を固めた屈強な男たちの集団には、ヤクザにも似た威圧感があった。
「十万円というのは、香典の域を越えてますがな」
梅山の横で、馬崎が熨斗《のし》袋を返そうとしている。
「受付の人間にとやかく言われる筋合いはないな。喪主はどこなんや。喪主は」
植島は息巻いた。
「すみませんが、今日のところはお引き取りくださいな」
真奈美が、梅山に連れられてやって来た。「葬儀ですので、静かに行ないたいのです」
真奈美の声は小さく、どこか自信なげに聞こえた。
「ほう。あんたが喪主かい。こんな老いぼれ連中に葬儀を取りしきらせない方がいいぜ」
植島は尊大に、梅山や馬崎を指差した。その態度は、北野靖枝という障害物がなくなったことに、喜びを感じているというふうにさえ受け取れた。
「ここは二条館の敷地でっせ」
いつの間にか、伸太が梅山の横に立っていた。
「またおまえか」
植島は軽く舌打ちした。
「敷地から出ていってくなはれ。せやないと、住居侵入罪で警察に通報しまっせ」
伸太は、腰の後ろで手を組み、突き出た腹で植島を押し出すように前へ進んだ。植島たちは、なすすべもなく、じりじりと後退《あとずさ》りした。
「ここが敷地の境界線よっ」
由佳は、道路まで先回りして、指で地面を差しながら叫んでやった。京洛興産の社屋で受けた行為の仕返しができることで、由佳の気持ちはちょっぴり明るくなった。
「早《は》よ、出て行っとくなはれ」
伸太は、七福神の布袋《ほてい》のような腹をグイグイと押し出す。
植島たちは、諦《あきら》めて後ろを向いた。その植島の黒背広のポケットに、馬崎が熨斗袋をねじ込んだ。
「あんたらに来てもろたら、故人が悲しみますで」
気弱でおとなしい馬崎の精いっぱいの言動に、居合わせた者たちは拍手を送った。
さすがの京洛興産も、今日は完敗であった。
キイーッ、という急ブレーキ音が由佳の後ろでした。振り返ってみると、真奈美の連れていた子供が横断歩道で尻もちをついていた。今のトラブルのために、参列者のほとんどは気づいていない。道路に出ていた由佳は、あわてて駆け寄った。
「坊や。気いつけなあかんで、信号は赤やんか」
靖枝の棺《ひつぎ》を運ぶためにやって来た霊柩《れいきゆう》車の運転手が、窓から険しい顔を出していた。
「すいません。ちょっとこちらがバタバタしてましたもので」
由佳は、霊柩車の運転手に謝った。植島とのトラブルに母親の真奈美が巻き込まれていたために、子供心に怖くなって外へ出てしまったものと思われた。ここで交通事故にでも遭っていたなら、とんだ犠牲者になっていたところだ。
「ねえ、僕。運転手のおじさんに謝りなさい」
「ごめんなさい」
男の子は、素直に頭を下げた。
「坊や。信号の赤は、ストップの意味やぞ」
霊柩車の運転手は、小学校の教師のように念を押してからハンドルを切って、二条館の前で停めた。
植島たちが去っていった二条館は、元の静寂を取り戻していた。
参列者の焼香が全部終わったあと、靖枝の長男である政昭がお礼の言葉を述べた。政昭は、知的な顔立ちをしていたが、挨拶《あいさつ》は苦手らしく、しばしば言葉を詰まらせた。けれども、それはかえって、植島たちによって乱されたしめやかな雰囲気を取り戻す効果があった。そして献花となり、真奈美、政昭、そして梅山たち近所の者が次々と白菊を捧げた。
「卓也はそこに居て」
真奈美は、さっき危うく交通事故に遭うところだった男の子の献花を押しとどめた。幼い子供が祖母の遺体を見てショックを受けることがないように、という母親らしい措置だと由佳は思った。
啜《すす》り泣きが聞こえる中、棺が霊柩車の中へ運び込まれ、そして火葬場へ向かっていった。
「これで二条館ももうおしまいね」
「マンション建設反対運動は完全に頓挫《とんざ》よ」
参列者は小声で話しながら、四散していった。
「さあ、わいらも行こか」
伸太は、太い腹を括《くく》るベルトを上げながら、小さく言った。
「なんだか虚しいわ」
由佳は肩を落とした。
「葬式というのは、そんなもんやで」
「葬式のことじゃなくって、あの参列者のおばさんたち、出棺のときは泣いていたのに、葬儀が済んだと思ったら『これで二条館ももうおしまいね』って、ひどく冷めたような言い方だわ」
「前にも言うたかもしれへんけど、京都人というのは裏表の落差が大きいんや。京都人は、澄んでいながら底の見えへん湖やと評した者も居《お》る」
「そう……」
由佳は東京に居た頃、古都保存協力税の問題が持ち上がって紛糾した京都のことを、新聞やテレビを通じて知っている。由佳が修学旅行に訪れてから、二年ばかり経っていたから、昭和六十年前後のことだ。当時の京都市当局が、京都に訪れる観光客が寺社に支払う拝観料の中から、税金を徴収すると発表し、これに寺社側の多くが反対し、金閣寺や清水寺などで拝観停止が続いたのだ。拝観ができなくては意味がないと、由佳の出身中学では、やむなく修学旅行の行き先を東北に変えた。
その古都保存協力税は結局廃止になったのだがそこに至る経緯は、由佳はいまだにわけが分からない。
まず寺社側は、文化観光施設税という名前の同じような課税で紛糾した昭和三十九年に当時の市長が「今後同種の税金はいかなる名目においても設定しない」旨の念書を市長公印を押したうえで渡していたことを、反対理由の一つに上げた。ところが、市側は、議会の承認なしに当時の市長が交わした念書は法的に無効だと主張して、対立を始めた。
寺社側は、拝観停止で古都保存協力税に対抗するが、やがて市長選挙を前にして突然の和解をする。ところが、いったん和解したかに見えた市と寺社側は、再び対立を始めてしまう。寺社側は、市長選直前の密約文書を公開し、そして、再度拝観停止がなされる。そしてそれから約二年後、古都税は廃止になる。しかし市長は「古都税は間違いではなかった」と、最後まで言ったそうである。
十代をずっと東京で過ごした由佳に言わせれば、前に交わした念書を無効だと主張するのも、市長選を前に突然の和解をするのも、その和解をしながらもなお二年間も解決しないのも、どれも「煮え切らねえ奴」なのだ。伸太が引き合いに出した「澄んでいながら底の見えへん湖」というたとえは、言いえて妙かもしれない。
「ちょっと待っておくれやすか」
後ろからの年老いた女の声に振り返ると、馬崎八重が小走りに追い掛けてきていた。
「さっきは、あの京洛興産の愚連隊みたいな男どもを追い出してくれておおきにさんでした。胸がスッとしました」
八重は、伸太に頭を下げた。「よかったら、うちで乾菓子《ひがし》でも食べていってくださいな。焼き場から、夫が帰ってくるまで手持ちぶさたですから」
この八重も、やはり由佳には、底が見えない。弥兵衛とともに、「詐欺的追い立てから助けてください」と頭を下げておきながら、たった一日で、「もういいのです」とあっさりと撤回している。どことなく、古都税をめぐるやり取りと似ているような気がする。
「そうでっか。ほなら、よばれまひょ」
伸太は、あっさりと顎《あご》を引いた。
由佳は、雑誌で読んだことのある記事を思い出した。京都の昔ながらの町中の一部では、「そろそろ、お茶漬けでもどうですか?」と来訪中に勧められたら、素直に「いただきます」と答えてはいけないらしい。それはむしろ「そろそろ辞去してくれませんか」というサインのときが多いそうだ。そんな出そうで出ない≠ィ茶漬けをさんざん粘って口にする、「京の茶漬け」という落語の題目まであるのだ。だから、そんな京都の町中では、ちょっとした結婚祝いや新築祝いを送られてもすぐに受け取ってはいけないそうで、何度か「こんなもの、いただくわけにはまいりませんわ」と返して、相手が「せっかくですから」と繰り返し差し出すのを確かめてからようやく受け取る、という一種のセレモニーが慣習的に成立しているそうである。
その方程式からいくと、「ほなら、よばれまひょ」という、伸太の今の即答は失礼極まりないことになる。
しかし、伸太は何も気に掛けていない様子で、着慣れないブレザーを窮屈だとばかりに脱ぎながら、八重の住む路地の方へ歩いて行っている。伸太の住む大阪では、そんな複雑な言葉の裏や含みを読み合うような慣習はなさそうだ。「もうかりまっか」が日常あいさつとなる大阪は、もっと即物的だ。剥《む》き出しの群青色の鉄骨に大きな広告の掛かった通天閣と、寺院の蝋燭《ろうそく》を思わせるデザインで鉄骨を隠す京都タワーの対比を見ただけでも、その違いが出ているように由佳には思える。
「お口に合わんかもしれませんが、どうぞ」
乾菓子は、盆の上に敷かれた半紙に乗って出てきた。けれども、由佳は手を付ける気になかなかなれない。
「喪主をしはった真奈美はんというのは、おいくつでっか?」
伸太は旨《うま》そうに乾菓子を口の中に放り込んでいく。それも一つずつ摘むというのではなく、グローブのような手でむんずと掴《つか》んで、ムシャムシャと食っているのだ。
「ようは知りませんけど、三十路《みそじ》とか」
「もう結婚してはりまんにゃろ」
「ええ、大阪の方で、大工さんと所帯を持ってはるそうです」
「弟はんの方は、おいくつでっか?」
伸太はパリパリと音をさせながら聞いた。
「たしか、二十七、八だったと思いますわ」
「眼鏡を掛けはって、えらい賢そうな顔したはりまんな」
「へえ、何でも大学の化学の先生を目指して、名古屋で勉強したはるそうですから」
「ほなら、二条館はどちらも継があらへんのでんな」
「ええ、靖枝さんは、自分の代で終わりやと言うたはりました。ほんまは、もうちょっと早《は》よう辞めたかったはずどすけど」
「なんででっか?」
伸太の手の動きがちょっと止まった。
「靖枝さんは小さい頃に丹後の方から、叔母《おば》さんにあたる先代のおかみさんに引き取られて、この二条館へ来はったのです。。靖枝さんは、ほんまは高校へ行きたかったようどすけど、中学を出るまでの面倒を先代のおかみさんに見てもうた手前もあって、二条館で働くようになったんどす。そして、先代のおかみさんは、病気で入院しはって、そのまま靖枝さんが新しいおかみさんにならはったんどす」
八重の言葉は少し回りくどい。伸太は、彼女の話をまとめるように確認した。
「つまり、恩義や先代のおかみさんの入院などの事情があったさかいに、靖枝はんとしては自分の意志にかかわらず、新しいおかみを務めることになったということでっか?」
「まあ、そういうことどすやろか」
「先代のおかみさんは、いつ頃から病気だったのですか?」
由佳は質問を挟んだ。
「かれこれ十年前くらいになりますやろか。先代のおかみさんは男勝りのようなご気性で、お酒が好きどしたさかいに、肝臓を患わはりまして」
十年前ということは、由佳が修学旅行で二条館に泊まる少し前だ。
「まだ先代のおかみさんは、ご存命なのですか?」
「いえいえ、二年ほど前に亡くならはりました。ほんまに靖枝はんは、人の縁の薄いかたどす。幼くして自分の両親を失くし、先代のおかみさんには病気がちのまま死なれ、夫までもが脳溢血《のういつけつ》で昨年先立っています。ええおかたやのに、運のない人どす。靖枝さんの遺書に書かれた、『辛《つら》いことがたくさんありました。でも、もう今日ですべてが終わりになります』という文字を見たときは、ほんまに気の毒で、気の毒で」
八重は目頭を押さえた。
「靖枝はんの遺書を読まはったんでっか?」
「へえ、丹後の警察の人から遺品の引き渡しを受けましたのやけど、他の人は棺《ひつぎ》を運ぶのに精いっぱいだったということで、年寄りであるうちの主人が大事に遺品を持ち帰りましたんどす。真奈美さんたちが焼き場から帰ってきはったら、お渡しすることになってます」
八重は、ちょっと合掌をしてから、用箪笥の一番上の引き出しを開けた。そして靖枝の遺書を、拝むように取り出した。
「すんまへん、ちょっと拝見します」
伸太は、乾菓子の粉の付いた指先を、ズボンの膝頭で何度も擦《こす》ってから、受け取った。由佳は、そっと横から覗《のぞ》き込んだ。楷書《かいしよ》体の美しいペン字が、きちんと便箋《びんせん》に並んでいる。
「なるほど。自分がどうしても二条館を継がなあかんかった辛さを、娘や息子には味わわせたくないという親心が出とりまんな」
遺書を読み終えた伸太は、しみじみとした口調で言った。
「こういう言い方をしたら何ですねけど」
八重は、少しためらいながら続けた。「二条館のような昔ながらの旅館には、お客さんがだんだん来てくれんようになってます。板前としての腕の良かった靖枝さんのご主人が生きてらっしゃったときは、まだしも良かったのですけど」
由佳が泊まったとき、確かに食事がおいしかったのを憶えている。そのときでも、修学旅行生一クラスの女子二十二人を急に受け入れられるほど、二条館には客室が空いていたということになる。伸太が言っていたように、古い京都の旅館は、近代的なホテルに押されているようだ。交通の便が良いとか、広い庭園を持っているとか、有名人が経営しているとか、何か特徴がないと、西洋式ホテルに慣れてきた日本人は宿泊先として選ばないのかもしれない。和式でアットホームという点なら、ずっと料金の安い民宿の方が好まれるようだ。
「わたしらのやっております和装も、だんだんとすたれてきてますのや」
八重は、今日は覆いの掛けられた紡ぎ機に眼を遣《や》った。
確かにこの町内は、由佳の知っている限りでも、和装の下請け、和式の旅館、和菓子製造、と和のつく名称に係わりが深い。さすがに、京都の町中と言える。その和が、次第次第に衰退をしている。それは日本人の生活洋式の西洋化とどこかで繋《つな》がっているはずだ。今の平均的日本人が家を新築した場合、畳敷きの和室は一室しか作らないという。トイレも浴室も洋式が圧倒的だ。構造的にも、木造よりも鉄骨やコンクリートを使ったものが増えている。和は洋にさまざまな面で押されているわけだ。それは住宅に限らず、食生活でも、衣生活でも、同様のことが言える。
「あんたらは、祇園祭を知ってはりますやろ」
八重は、伸太と由佳を等分に見た。「あの祇園祭というのは、織物業者が集まった室町《むろまち》を中心にする京都の町衆が、作り出した祭どす。当時の和服産業には、あれだけ大規模な祭ができるほどの利益が集まったわけです。けど、今では、住人がほとんど居ないという鉾《ほこ》もあって、市からの助成金や企業の賛助金などがかなりのウェイトを占めるそうどす」
八重は淋しそうにかすかに笑った。
「八重はんたちは、ここを出て、どこへ行かはりますのや」
「わたしらは、夫婦二人だけやさかい、狭いアパートでもどこでもかましまへん。京洛興産も、少しは立ち退き料を払《はろ》てくれそうですし、どこか西陣に近いアパートでも探します」
「せやけど、あの詐欺的な立ち退き承諾書の件は、どないしはりますの?」
「もうええんです。二条館が取り壊されることになったら、ますますここには住めしまへん」
確かに、二条館が解体されて、マンションでも建ったなら、風通しや日当たりは悪いうえに上から丸見えの家になってしまう。しかし、たとえ自主的に出ていくとしても、立ち退き承諾書に騙《だま》されて印鑑を押したことを不問にする必要はないはずだ。
「けど、京洛興産の連中に何も言わん手はおまへんやろ」
「いえ、もうええんです」
八重も弥兵衛も、その一点張りだ。それも、二条館の手放し云々《うんぬん》のことが出てくる前からだ。
「ほな、せめて脇本タカ子はんには、文句のひとことくらい言ったらどないですね」
「もう彼女は、白浜へ引っ越さはりましたよって、文句の言いようもあらへんのどす」
確かに伸太が事情を訊《き》きに行ったときに、引っ越し業者が来ていた。
「相手が引っ越したかて、告訴はでけまっせ」
「でも、もう済んだことどす」
八重は、外の物音に腰を浮かした。「うちの主人たちが焼き場から戻ってきたようです」
釋尼浄靖安という戒名が付けられた小さな骨壺《こつつぼ》に入れられて遺骨がひっそりと帰ってきた。
「おかあさん、おなかが空《す》いたよ」
靖枝の孫にあたる男の子だけが、沈痛な顔つきの一同とは異質な声を出している。
「卓也、もうちょっと我慢しなさい」
喪服姿のよく似合う真奈美がたしなめている。
由佳は、卓也に小さく手を振ってみた。さっきは卓也は信号を無視して道路に飛び出していた。まだ幼い彼には、祖母の死の意味がよく分からないようだ。卓也は、手を振り返してきた。
「ほなら、さきに食事をしましょ。仕出し屋さんに頼んであるのでっさかい、持ってきてもらう時間を早《は》よしてもろたらよろしいね」
梅山が、提案している。
「そうしましょうか。わしらも、空腹です」
馬崎が頷《うなず》いている。
「由佳ちゃん、そろそろ帰ろか」
伸太は太鼓腹を押さえた。「なんや話を聞いているだけでも、腹が減ってきたワ」
「そうね。あたしたちが同席できるわけではないものね」
葬儀が終わったあとは、故人と血の繋《つな》がった者とか、昔から近くに住んでいる者しか立ち入れなくなるものだ。
「雨やな」
伸太は暗い空を見上げた。小粒の雨がパラパラと落ち出してきた。
二条館の木塀の奥に植わっている椎の葉が、雨の襲撃を受けて、細かく揺れている。
由佳は、ほどなくその木塀が取り壊される運命にあることを思うと、悲しい気持ちになった。また一つ、京都らしい木造家屋が壊されて、無機質なコンクリート建造物が建つのだろう。
こうして京都に足を運んだときに、ふるさとを訪れるにも似たホッとした気分がするのは、黒い瓦屋根と木の柱が醸《かも》し出す日本的な風情に負うところが大きいように由佳には思える。日本家屋の町並みが何もなく、ただ古い寺院がぽつんぽつんと点在するというだけなら、京都には分散された博物館≠フような弱い魅力しか感じられないのではないだろうか。
「うーん、イマイチ、腑《ふ》に落ちひんな」
食卓の上には、空になった皿が六つも並んでいる。伸太は、帰りがけに、京都の台所と言われる錦《にしき》市場に立ち寄った。そこで、京都の名産である箱ずし、生湯葉《なまゆば》、生麩《なまふ》、すぐき、千枚漬といった品々を多量に買い込んだ。
家に帰ったとたんに、伸太はそれをまるで仇《かたき》のように食いまくった。そして、ゴロリと横になった。巨体が寝ている姿は、北海のトドを連想させる。しかし、伸太の頭脳は、回転を始めているのだ。
「あたしも、ちょっと引っ掛かるのよ」
もともと物事を推理するのは好きな方だが、伸太と一緒に暮らすようになって、より強くなったような気がする。
「どないふうに引っ掛かるのや?」
「あまりにも、京洛興産の思う壺《つぼ》になり過ぎているのよね。脇本タカ子から、彼女の家とその借家や敷地を購入した京洛興産は、巧みに立ち退き承諾書を得て、しかも元の和菓子屋が持っていた土地をも取得して、東南角地のマンション建設用地をしっかりと確保しているわ。そしてマンション建設反対運動のリーダーである靖枝さんが、タイミング良く亡くなったわ。そのうえ、もしも二条館が売られることになったなら、ますます京洛興産にとっては理想的だわ。もっとも、靖枝さんの遺族は、京洛興産には売らないでしょうけど」
由佳は、今日の葬儀でのトラブルを思い出していた。
「せやけど、靖枝はんの遺族がたとえ別の不動産業者に売ったとしても、そこから京洛興産に転売されることまでは止めることがでけへんのやで」
「そんな転売なんて可能性はあるの?」
「不動産業者も結局は銭儲《ぜにもう》けでやっとんのやさかい、一万円でも高《たこ》う買《こ》うてくれるもんがおったら、そっちになびくがな。前に説明したように、二条館の土地それだけよりも、あの長屋を含めた大きな東南角地にした方が地価は上がる。そやから、京洛興産としては、金を上乗せするメリットは充分にあるわけや」
「そうか。土地の魔術でそうなるのね」
「もう一つの魔術は、税金制度や。京洛興産の後ろ盾《だて》である海星不動産というのは、マンション建設しか手掛けとらん。それも、業界では資産家用節税マンションと言われる代物なんや」
「何なの? 資産家用節税マンションって」
「資産家には、どうしても避けて通れへん相続税という問題がある。ところが、不動産を巧く購入したら、その相続税をかなり逃《のが》れることがでけるんや」
「どういうこと? 避けて通れないものが、どうしてかなり逃れられるの」
伸太はムックリと起き上がった。
「たとえば、今一億円の財産を持っている老人が居たとしよや。その老人が自分の子供たちに相続税をかからんようにしよと思たら、こういう方法をとるんや。まず時価二億円の、できるだけあとで売りやすい都心型マンションを買うんや」
「どうして資産が一億円なのに、二億円のマンションを探すの?」
「そこがミソなんや。差額の一億円は、銀行から借金をする。借金というのは、負の財産として、やはり相続の対象となる」
伸太は、特製のメモ用紙を取り出して、書き付けた。
「不動産というのは、相続されるときには、売買価格で計算をするわけではないんや。土地のときは市街地では路線価格というて、概《おおむ》ね実際の価格の六、七割でカウントされる。家屋の場合は、建築工事費の四、五割とされる。とすると、たとえ売買価格二億円のマンションでも、相続のときは一億円ぐらいの財産価値にしかならへん。そこで生きてくるのが、さいぜん銀行借金して作った負の財産としての一億円や。相続財産として計算されるマンション一億円から、負の財産としての一億円を差し引けば、それで資産はゼロになって一円も相続税を払わんでもええことになる」
(図省略)
「そんなのズルイわ」
「けど、これは合法的に認められとる節税なんや。もし何もせんと一億円を現金や預金で持っていたなら、二千万円前後の相続税がかかるのに、こないな手を使《つこ》たらごっそりと逃れることがでけるんや」
「銀行からの借金一億円はどうするの?」
「被相続人が死んだあと、すぐにマンションを売ったらええんや。二億円で売って、銀行に一億円返したら、差し引き一億円が元のとおり残る。地価がどんどん伸びとる情勢なら、転売によって二億円以上で売れて儲かるさかいに、銀行に利息を払《はろ》てもまだお釣りがくるくらいやで」
「お金持ちの人の資産は、結局は減らないのね」
真面目に働いて、所得税を納めるのがバカらしい気分だ。
「海星不動産は、そないな目的に合致したマンションをあちこちに建設して、金持ち連中を相手にマンションを買《こ》うたり売ったりさせて、その転売手数料を荒稼ぎしとるわけや」
「そういうことか」
由佳は小さく息をついた。
「せやから、海星不動産の建てたマンションを見たら、夜になってもほとんど電気がついとらへん。みんな相続税対策で、マンションを買《こ》うた所有者ばかりやさかいに、そないになるんや」
馬崎老夫婦のような人々の生活の場を奪い、古風な町並みを破壊し、その挙句《あげく》にできたマンションが無人の館とは、いったいどういうことなのだろうか。地上げ業者は町の活性化と土地の有効利用というお題目をしばしば掲げるが、無人の館では活性化にも、有効利用にも繋《つな》がりはしない。
「ねえ、義兄《にい》さん。北野靖枝さんは、もしかしたら自殺なんかじゃなくて、殺されたのじゃないかしら」
由佳は、さっきから喉元《のどもと》に引っ掛かっていた言葉を出した。「あの悪辣《あくらつ》な京洛興産なら、利益のためなら、詐欺はもちろんのこと殺人だってやりかねないわ。靖枝さんがいなくなれば、反対運動が核をもがれるうえに、二条館の土地が取得できるという、二重のメリットがあるのよ」
「うん、わいかて、靖枝はんの死は、何かウラがあるような気がしてならんのや。さいぜんからイマイチ腑に落ちひんのは、そこなんや」
「海岸の断崖から飛び降りたということだけど、突き落とされたときとの区別はつかないわけでしょ」
「断崖が岩場やったら、たとえ争ったとしても、その足跡とかは残らへんしな」
「問題は、靖枝さんの書き残した遺書よね」
「地元の警察が自殺と判断した以上は、筆跡の照合などは当然やっとるやろしな」
「筆跡照合って、どんなものとあの遺書を比べるの?」
「そら、旅館やったら、帳簿などの靖枝はんが日常的に書いとるもんがあるやろ」
「義兄さん、その照合が曲者じゃないかしら。たとえば、旅館にある帳簿をあらかじめ、書き換えておくのよ。そしてその人物が、靖枝さんの名前で遺書を書けば、それで自殺のトリックになるじゃない」
「けど、そないな書き換えがでけるやろか」
「本物の帳簿を盗んでおいて、それと同じものを作ればいいのよ。京洛興産なら、やりかねないわ。そして何か理由を付けて、靖枝さんの故郷である丹後半島まで呼び出して、崖の上から突き落としたのよ」
由佳は、自説に自信を持った。「義兄さん。何か靖枝さんの書き残した筆跡を確かめる方法はないかしら?」
「そない言われても……」
伸太は額に親指を当てて、考え込んだ。
「何なら、これから二条館へ行って、何かおかみさんの書き残したものはないかって、尋ねてみたらどうかしら」
「いや、一つ手頃なもんがあるで」
伸太は額から指を外した。「前に、わいらはあの町内の不動産登記簿を閲覧したやろ。そしたら、二条館の宿泊客用駐車場に、抵当権が付けられて、そのあと消されとったやないか。抵当権が付けられたということは、その設定契約がなされとる。その契約書は、抵当設定の登記の付属書類として、十年間は法務局に保管されとる。そいつを調べるんや」
「じゃ、行きましょ」
「そないあわててもあかん。今からでは五時の法務局閉庁時刻に間にあわんで」
「勝負は明日ね」
由佳は、かじりつくように画面に見入っている連続ドラマがちょうどいいところで「次回に続く」と表示されたような気持ちになった。
翌日は、風の冷たい日となった。
由佳と伸太は、京都地方法務局に足を運んだ。
伸太は、さっそく、二条館の来客用駐車場に昨年付けられた抵当権の設定登記の付属書類を閲覧した。問題の抵当権設定契約書は、その中に綴《と》じられていた。
「この末尾の靖枝はんの署名は、遺書のやつと違うで」
確かに、この契約書に記された北野靖枝の署名はずいぶんと右肩上がりの線の細い字であった。
「じゃあ、やっぱり、遺書は偽造されたものなのね」
由佳は声を弾ませた。
しかし、伸太は水を差すように言った。
「いや、そら早計や。この契約書の方が偽造されたものということもありうる。この抵当権が設定されたあとですぐに消されとることを、忘れたらあかんで」
「どっちが本物か、どうしたら分かるのよ」
「他にも、靖枝はんの署名は、あと二つこの法務局に残されとる。なんでか言うたら、靖枝はん名義の登記は他に二回なされとるからや。ひとつは、この抵当権を消すためになされた抹消登記や、あとひとつは、靖枝はんの義母にあたる先代のおかみさんが亡くなったとき、相続登記をしとるはずや。それらを調べたら、ええんや」
伸太はいつもの緩慢な動作からは想像もできないほどの、早い手つきで閲覧申請書をしたため、それぞれの登記の際に北野靖枝が提出している書類の署名を調べた。
果たして、いずれも、遺書と同じ丁寧で巧《うま》い楷書《かいしよ》体であった。
「どうやら、この抵当権を付けたときの契約書の方が、偽物ということになるな。そやから、すぐに抵当権を解除したんやろ」
「ということは、遺書は靖枝さんが書いたものということなの?」
「そないなことになりまんな」
伸太は、閲覧中の申請書をじっと見つめたまま少しぶっきらぼうに答えた。
「じゃ、やっぱり、自殺なの……」
由佳は、自分のひらめきが、脆《もろ》くも崩れてしまったことに失意を感じた。
警察が下した結論をそう簡単に素人が覆《くつがえ》せるほど、現実は甘くはなく、とても映画のようにはいかないのだ。
「問題は、この二条館の駐車場に対する抵当権の登記や。単に契約書が偽造されとるだけやのうて、靖枝はんの印鑑証明書も権利証もちゃんと付いとる」
「え、どういうこと?」
由佳の耳は、伸太の言っている意味を理解できなかった。
「土地に抵当権を付ける場合には、その登記申請に際して、土地所有者の印鑑証明書と、その土地に関するいわゆる権利証を付けなあかんのや。それがちゃんと付けられとる」
「それは偽造ではなくって?」
契約書の名義が偽造ならば、それらも偽造ではないのか。
「印鑑証明書の方は、こうしてここに綴じられとるように、間違いなく本物や」
伸太は由佳に、綴じられた印鑑証明書を示した。北野靖枝の氏名と生年月日そして住所がタイプ字で打たれ、中京区長の公印が押されている。
「ただ、権利証の方は、抵当権設定登記申請のときは付けられるが、そのあとは法務局に綴じられるのやなしに、所有者に返されることになっとるさかいに、この場では本物か偽物かは確認でけへん」
「どうしたら、確認できるの?」
「靖枝はんが保管していた権利証を見ることや。もしも抵当権が付けられていたら、その権利証には『抵当権設定』のゴム印が押されているんや」
「じゃあ……」
「二条館へ行きまひょ」
伸太は太い親指で、西の方向を指した。
「あたし、まだ、靖枝さんが自殺だなんて、ちょっと信じられないな」
由佳としては、優しいが芯の強そうなあのおかみさんが、簡単に遺書を残して自殺したことを認めたくない気持ちがあった。「あれは、本当に遺書のつもりで書かれたのかしら」
「あの文面は、抽象的なものやのうて、どない読んでも自殺を示しとるで」
「そうね」
たとえば「迷惑かけてすみません。責任を取ります」といった短くて曖昧《あいまい》なものなら、誰かが靖枝を騙《だま》して書かせたというのも考えられるが、あれだけの長さのものはそうは解釈できない。はっきりと、「マンション建設反対運動に疲れた」ということにも触れられている。
「脅迫されて、書かされたということも考えにくいわよね」
脅された状態で、あんな丁寧で長い文章は記せないだろう。
「筆跡というのは、真似《まね》て書けないものかしら」
「そない簡単には、でけへんやろ。由佳ちゃんが、わいの字をそっくり似せて書けるか」
「ムリね。義兄《にい》さんの字は、独特の金釘流だもの」
「金釘流やのうても、長い文章を人の字体そっくりに書くというのは、難しいで」
どう考えても、由佳の遺書偽造説は分が悪い。
二条館の木塀が見えた。木塀に貼られた京都の町並みと景観を破壊するマンション建設に反対します≠フビラが半分|剥《は》がれかかり、冷たい風になびいている。その毛筆字も、靖枝の遺書と同じ丁寧で巧《うま》い楷書《かいしよ》体だ。
その横に、新しいトタン看板が掲げられている。
〈管理物件 堀川不動産商事〉というペンキ字が真新しい。
「なんやて、もう売却されたんかいな」
伸太は素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げた。
「管理物件という看板が掛かっていることは、売られたということなの?」
「そういうことやろけど、あまりにも早いな。昨日葬式が済んだばかりやで」
二人は二条館の正面に回った。古びた唐破風《からはふ》の屋根の下の門は、しっかりと閉ざされていた。
「これでは、権利証の確認どころやあらへんがな」
あまりの急展開だ。
「代書屋さん」
後ろからかけられた声に振り返ると、梅山が理髪店の扉を半開きにして、白衣姿を見せていた。
「あ、こんにちは」
伸太は梅山にちょこんと頭を下げた。「もう、二条館は売り物件になったんでっか?」
「そうですねん。わしは、反対したんでっけど、真奈美さんと政昭さんが揃って、早《は》よ手放したいと」
梅山は店の扉を大きく開けた。「寒いとこで立ち話もなんでっさかい。どうぞ、入っとくなはれ」
「けど、店の商売の方は?」
「臨時休業ですのや」
梅山は淋しそうな表情で、回転を止めた青、赤、白のだんだら棒を指差した。
「ほな、お邪魔します」
伸太と由佳は、脇本タカ子が住んでいた家の生垣の前を通って、梅山理髪店の中に入った。
「なんでまた臨時休業なんでっか?」
「隣家の解体が午後から始まりますのや。とてもお客さんに静かに散髪をしてもらうわけにはいきまへん」
「隣って、脇本タカ子はんの家でっか」
「そうです。それに、たとえ解体工事がなくても、ちょっと商売をする気になりまへんのや。馬崎はんたちは立ち退かはるし、靖枝はんは死んでしまうし、二条館は売りに出るし、なんや使い慣れた櫛《くし》の歯がボロボロ抜け落ちよるみたいな気分です」
由佳は理容室の中を見回した。由佳にとって美容室は見慣れているが、理容室は男子用トイレにも似てなかなか入る機会が少ない。三台の椅子が並び、それぞれ前に洗面台が置かれている。美容室では客は仰向けの状態で洗髪をしてもらうが、理容室では前屈みになるというのが由佳には面白い。洗面台の棚には、トニックなどの整髪用品が並び、その先に大鏡が壁に付いている。
「けど、その白衣は仕事着でっしゃろ」
「これですか」
梅山は、白衣の胸を指で摘んだ。そして壁の大鏡に映る自らの姿を見つめて、かすかに微笑《ほほえ》んだ。「長年やってきたこの店の中で白衣を着られるのは、もう何日もおません。まあ言うてみたら、そのノスタルジアです」
「あんさんまでもが、立ち退かはるのでっか?」
「ええ。二条館までもが売りに出たら、どうしようもあらしまへん」
梅山は、小さく首を振った。「わしとこ一軒がどない頑張って京洛興産に盾突いても、虚しいだけです。大きなマンションに囲まれた谷間にぽつんと建ったみすぼらしい散髪屋では、お客さんは来てくれはらしまへん」
「新しいマンションにテナントとして、入れてもらうことは考えていらっしゃらないのですか?」
由佳なら、立ち退きの交換条件としてそう交渉するかもしれない。
「毎月十万円とか十五万円とかいう高い賃料をとても払《はろ》ていけしまへん。たとえ、そうやって無理して店を続けていっても、住むとこはどないします。今やったら、わしは一人暮らしでっさかいに、この二階に住んでられます。けど、新しいマンションは買取り式で、一億円とか二億円とかいう値段やそうどす。そんなん買う金なんてとてもあらしまへん」
梅山は、鏡の前の調整ハサミを取り上げて、かざした。
「ここら一帯は、だんだんと人口が減っていって、お客さんの数も年々減っていっていますのや。寂しいこっちゃけど、郊外に移り住むしかしようがおへん」
「人口が減るのは、やっぱし、この町内みたいに地上げで資産家用のマンションがでけるからでっか?」
「それが一番の原因やと思います。ほんまにここ数年の京都の町並み破壊は、ひどいもんです。もう京都は、かつての京都やのうなりつつあります。応仁《おうにん》の乱以来の町壊し≠ニいう言葉を知ったはりますか」
「いいえ」
「資料をお見せしますよって、ちょっと待っててくれやす。ま、よかったら椅子にでも掛けてくれやす」
梅山は、奥の和室に消えた。
「おおきに」
伸太は理容台の椅子をちょっと見たものの、そのまま立っている。巨大なヒップが、入らないかもしれないと懸念している様子だ。由佳は、これ見よがしに座ってみせた。美容院の椅子よりも、重量感があって、それでいてクッションはきいている。
「市民団体がまとめた、京の町壊しについてのレポートです」
梅山が、小冊子を持って姿を現わした。「京都という町は、日本人の心の故郷という要素が強くて、ブランドイメージが高いそうなんどす。そのブランドイメージの高さが、投資型マンションの建設を激しくさせているようです」
梅山の差し出した小冊子には、さまざまな町並み破壊が、写真入りで挙げられていた。
◎平安神宮の中にある静寂な神苑の北側に、ビルが建設され、神苑の緑の木立からニョッキリと姿を現わし、伝統ある庭園の幽邃《ゆうすい》を破った。ビルの右手には、新たにマンション建設が予定されている。
◎三高寮歌の「紅萌《くれないも》ゆる丘《おか》の花《はな》」で有名な吉田山の、東部一帯の宅地が、七十億という資本を投じてなされた土地買い漁りの結果、軒並み地上げの危機に瀕《ひん》している。かつて銅板屋根の高級借家が立ち並んだこの一帯は「銅板の御殿」と呼ばれ、京都ならではの趣のある住宅が立ち並ぶ景勝地である。
◎岩倉五山の一つに数えられる一条山《いちじようやま》が、違法開発によって、頂上だけ樹木が残ったモヒカン刈りのような無残な姿になってしまった。
◎小堀遠州作と伝えられる建仁《けんにん》寺の庭を見下ろす恰好《かつこう》で、すぐ隣にマンションができ上がった。建仁寺側から見ると、せっかくの土塀と黒い瓦が醸《かも》し出す歴史的雰囲気がぶち壊しである。
◎清水寺から、三年坂二年坂を経て、八坂《やさか》の塔、高台寺《こうだいじ》、八坂神社へと抜ける風情のある道の近くで、さまざまなマンション建設計画が持ち上がっている。とりわけ高台寺の西にある石塀小路《いしべこうじ》に隣接する千八百二十三メートルという広い空き地には、地上六階地下二階の巨大マンションの建設計画が持ち上がっている。
「周りにマンションやビルが建ってしまったなら、寺社や庭園が、まるで映画のセットみたいに見えちゃいますわね」
由佳は暗澹《あんたん》たる思いで、小冊子の写真を繰った。悪貨は良貨を駆逐するという言葉があるが、無粋な建築物は、落ち着いた佇《たたず》まいがはんなりと浮かぶ風景を無残に切り刻んでいる。これなら、まだいっそのこと、コンクリートの高層ビル群が犇《ひしめ》いている光景の方が、モノトーンでいい。
「このパンフレットを見とくれやす。ここ中京区で作られたマンションを売り出した業者が、大阪や東京で配ったものです」
梅山は、鮮やかなカラー印刷のパンフレットを拡げた。
〈伝統と現代が、あでやかに交差する京都に資産を持ち、活用しましょう〉という大きな活字が、派手な赤で印刷されている。
〈このマンションからは、京都の夏の風物詩、大文字《だいもんじ》の送り火がよく見えます。すぐ近くは、落ち着いた寺社と庭園があります。散策にも絶好です〉というコピーが白抜き文字で、軍艦を連想させるような巨大なマンションの完成予想図にオーバーラップされている。その下には、夕陽に映える五重塔のシルエットがイラストしてある。
「これを見たら、金持ちが幅を利かす今のご時勢がよう分かります。マンション自体は景観をぶちこわし、付近の住民に迷惑を掛け、大文字を見えなくしているのどす。せやのに、高層マンションを買《こ》うた金持ちだけは、風通しのええ部屋で、大文字を観賞できて、寺社の庭園を借景とすることができるわけどす」
梅山が言った「ブランドイメージ」の意味が、由佳にはようやく分かりかけてきた。日本文化の伝統が根づく古都というレッテルが、京都のマンションには付加価値を与えるのだ。同じ価格のマンションなら、大阪よりも京都の方が、取得しようという触手がより動くというわけだ。そのマンションが、日本文化の伝統をぶち壊しているという自己矛盾を棚上げにして。
「こちらのパンフレットのマンションは、東京や大阪の金持ち連中のための財テク型どす。去年のような約五割の地価上昇率になれば、一億円で買ったものが一億五千万円の資産に膨らむのです。たった一年で、五千万円の資産増加ですよ。そんなん、わしら庶民の生活で考えられますか? わしらはこうして、汗水たらして働いても、絶対に一年で五千万円などという利益を上げることは、無理どす」
株でも売り買いするのと同じような感覚で、財テク型マンションが売買取引されるのだろう。ブランドイメージの高い京都は、成長間違いない安定株というところかもしれない。けれども、株と違って、財テク型マンションの場合は、それを作り出すに際して、地上げや景観破壊といった問題を引き起こすのだ。
「このマンションはたちまち完売されたそうでっけど、財テク型ですから、夜になっても部屋に明かりのつかない幽霊の館のようなマンションになってます」
伸太が言っていた相続税対策としてのマンションにしろ、財テク型マンションにしろ、どちらもそこには人が住まないのだ。鉄骨やコンクリートなどの資源を使い、多くの作業員の労力を費やしながら、何と無駄なことをしているのだろうか。発展途上国の人の中には、雨露さえ凌《しの》げないスラム街に住んでいる人たちも少なくないというのに……。
「さいぜん言うてはったブランドイメージなどで京都の地価が急騰したことと、東京や大阪からの資金が流入しているということが、このようなマンション建設ラッシュの主な原因でっか?」
「そうどす。それに拍車をかけるように、市の行政当局は高さ制限を緩和しようとしてますのや」
梅山は、引き出しの中から京都の地図を取り出した。「今、京都では、これまでになかった高さの建築物が建てられようとしてます。その一つがJR京都駅、もう一つは河原町通を挟んで市役所の隣にある京都ホテルです。どちらも六十メートルという高さのものに建て直される予定ですのや。これまでの京都では、東寺《とうじ》さんの五重塔の高さである四十五メートル以下やないとあかんということになってましたのや。それがいっきに六十メートルどっせ。市側は、これらは遷都千二百年事業などに伴う例外的緩和やと説明しとるようでっけど、こんなことがあちこちでなされたら、遷都千二百年で、京都の町並みはおしまいやという声も強《つよ》おます」
確かに、京都には、東京の西新宿のような超高層ビル群はもちろん、階数が二十に及ぶような目立って高い建物は見られない。けれども、今後の方向は、次第にそれを許容していくようだ。地価がこれだけ上がってしまったので、少しでも建築物を高く造って土地の利用を計ろうということなのかもしれない。
「京都の不動産は、ますます背伸びしそうでんな。建物は、どんどん高層化して、土地の値段は上昇しよる」
伸太は低い声で言った。
「そうですのや。わしら、昔から京都に住んでる者にとっては、悔しいやら、情けないやらです。古都の風情は、まさしく瀕死の状態どす。死から逆転することは難しそうです」
梅山は、苛立《いらだ》つような仕草で地図を引き出しに片づけた。「わしは、小さい頃ですのでほとんど記憶はおませんねけど、太平洋戦争でアメリカ軍はこの京都に空襲をしませんでした。日本の至宝、と言うよりは世界の至宝と形容すべき、古都の町並み破壊をアメリカはためらったそうです。せやのに、日本人が、自らの手で、京都を破壊しようとしとるんです」
梅山は、客待ち用のソファのところへ行き、棚の上に置かれた箱の覆いを取った。水槽の中に、鮮やかな黄色の尾ひれのグッピーと、縞模様の美しいエンゼルフィッシュ、それに円盤のような体型で大きなせびれが優美なディスカスが、数匹ずつ泳いでいた。
「わしは熱帯魚を飼うのが趣味ですねけど、熱帯魚というのは種類ごとに強い個性を持っています。その個性が、大きな魅力どすのや。都市というのも、そうとちゃいますやろか。東京には東京の、大阪には大阪の、京都には京都の、町の顔や個性があるべきやおませんやろか」
「同感でんな」
伸太は大きく頷《うなず》いた。「わいの住んどるのは、大阪の通天閣の近くでっけど、あの一帯が最もナニワの風情を伝えていると、わいは思とります。キタと呼ばれる梅田《うめだ》や、新しいビジネスタウンとして開けつつある京橋《きようばし》付近などは、どない見ても東京の小型としての顔しかしてまへん。しょせん、東京の真似《まね》をしても、東京には勝てっこおまへんのに、大阪は必死で東京のあとを走っとるような気がしますのや」
伸太が、生まれ育った大阪にかける愛着は相当なものだ。「演歌も、浪花《なにわ》節も、人情喜劇も、東京とは空気も水も違うナニワが一番よう似合うと思いますねん」
「通天閣界隈も開発が進んでますのか」
「開発というよりも、若い人がすっかり来んようになりましたのや。レトロの街として、もの珍しさでちょっと訪れるという感じですワ。あんさんが言わはった京都の場合と一緒で、わいは市の姿勢が気に入りまへんねん。たとえば、それまで庶民が気軽に入れてました天王寺公園にフェンスがされて、百五十円の入場料が要るようになりましてん」
「行政は、もっとそこに住んどる住民の意見を聞くべきどすな」
梅山は、水槽の横の缶を手にした。中にペレット飼料が入っている。エンゼルフィッシュが、申し合わせたように水面にゆっくり浮上してきた。由佳は、東京にいた頃に母親が熱帯魚を飼っていたことがあるので、決まった時間に餌《えさ》を与えるとそれを憶《おぼ》えて寄ってくるエンゼルフィッシュの習性を知っている。この梅山は、律義できっちりとした性格であると思えた。九年前に修学旅行生の由佳の前髪を切ってくれたときも、納得するまで丁寧に仕上げてくれたものだ。
そんな職人が慣れ親しんだ生活と仕事の場を奪われようとしている姿に、由佳は同情と怒りを覚えた。
「おや、おいでなさったな」
梅山は、ペレット飼料を水槽に落としながら、窓の外を窺《うかが》った。
ギイーッという重い音とともに、巨大な影が窓を塞《ふさ》いだ。由佳は、一瞬、皆既日食になったのかと思った。道路幅ギリギリの大きなユンボが、横づけになったのだ。
「脇本タカ子の家の解体に来ましたのや。いよいよ、町壊しの始まりどす」
梅山は苦笑を浮かべながら、窓のカーテンを閉めた。
「二条館に管理物件の看板を出しとる堀川不動産販売というのは、この近くでっか?」
「ええ、この前の道を堀川通まで行ったところにある不動産屋どす。真奈美さんも政昭さんも、京洛興産に売ってしまうのは、あまりにも敗北感が強いと、地元の不動産業者のところに足を運ばはったんどすけど、結局は京洛興産が、金を積んで手に入れるんですやろ」
「昨日相続してすぐ、今日に売ってしまうことは、あまりにも、早よおまんな」
「そら、いろいろ事情がおますのやろけど」
梅山は、再び熱帯魚の泳ぐ水槽に近づいた。「東山にある清水寺の大講堂の真下に、敷地八百坪の旅館がおました。その土地が売られて、六階建てのマンション建設が計画された時点で、清水寺は十億円を醵出《きよしゆつ》して、その土地を買入れて景観を守りましたんや。その清水寺の姿勢は立派やと思いますけど、所詮《しよせん》十億円出せる経済力があるからでけたんです。わしらでは、どないもこないもでけません」
梅山は、水槽を眺めた。底の砂に生えたミズワラビが、緑色の葉を漂わせている。
「熱帯魚たちは、こうして別の種類のものを入れても、喧嘩《けんか》せんと仲良く生活しよります。人間は、欲なんて余計なもんがあるさかいに、ややこしいことになりまんのや」
「あんさん、二条館の来客用の駐車場が、一年前に借金のカタに抵当に入っていたということを、知りまへんか?」
伸太は、全く熱帯魚には興味を持っていない。今年の七月にオープンした大阪南港の海遊館《かいゆうかん》へ行ったときなど、「あのマグロは造りにしたらイケるで」とか「あのアジは焼いたらウマそうやで」とか、魚を食欲の対象としか考えていなかった。
「二条館の駐車場どすか……」
梅山は、オウム返しに答えた。
「何か、知ったはることがあったら、教えとくなはれ」
「…………」
梅山は、水槽から視線を上げた。その眼が小刻みに揺れている。話そうかどうか、迷っている様子だ。
ガシン、ガシン、と振動が響き、水槽が揺れた。中のエンゼルフィッシュたちが、何ごとが起きたのかと、あわててヒレを動かしている。
「もうちょっと静かに解体でけへんのかいな」
伸太の小言は、ドーンという激しい音にたちまち掻《か》き消された。
「梅山はん。ここでは、会話をしていられる状態やおまへんし、ちょっと外へ出まへんか」
「そうですな」
梅山は頷《うなず》いて、水槽に覆いを掛けた。
三人は、表へ出た。
荒っぽい解体に伴う粉塵《ふんじん》が、火の粉のように舞い上がっている。申し訳程度にホースで水を掛けてはいるが、ほとんど役に立っていない。
「家を建てるのには時間がかかるけど、壊すのは早いわね」
由佳は咽《のど》のいがらっぽさに顔をしかめながら、巨大な機械の塊のようなユンボの横を通った。
蟷螂《かまきり》の刃のようにもたげたユンボの鉄の爪《つめ》が、瓦屋根を潰《つぶ》し、壁土を捲《めく》り、柱をなぎ倒していく。メキメキと裂ける柱の音が、断末魔の家屋の悲鳴のように聞こえる。やがては、二条館も、梅山の店も、同じような呻《うめ》き声を上げながら壊されていくのだろう。そして更地《さらち》になった地面に杭《くい》が打ち込まれ、精いっぱい背伸びした高層マンションが完成するのだろう。
「ここからそない遠くないですよって、法務局まで行ってみまひょ」
伸太はどうやら、さっき閲覧した二条館の駐車場に関する契約書などを、梅山に直接見せようという腹づもりのようだ。
澄んでいるが底の見えない湖≠フような京都人は、言葉遣いは柔らかくても、部外者にはなかなか本音を言ってくれない。ここは明確な資料を突きつけないことには、梅山の口は動かない――と、伸太は判断したのだろう。
「京都に住んでいながら、法務局に来るのは初めてどすのや」
梅山はちょっぴり照れくさそうに、四階建ての庁舎を見上げた。梅山は「寒いどすから」と、伸太と由佳をマイカーに乗せて、法務局までやって来た。
「一般の人には、そないに縁のあるとこやないでんな。不動産を売ったり買《こ》うたりすることは、一生に一度か二度のことですよって」
三階の不動産登記課で、伸太は閲覧申請書をしたため、二百円の赤い登記印紙を三枚手にした。
「閲覧は有料どすのか?」
「へえ」
「何やったら、わしの持ってる収入印紙を使《つこ》てくれやす。引っ越し先が決まるまでしばらく商売できまへんから、使用しませんのや」
自分がスラスラと話さないために、伸太に手間と金を費やさせているのが悪いと思ったのか、梅山はポケットから財布を出して、二百円の収入印紙を三枚取り出した。
「おおきに。けど、法務局では、登記印紙やないとあきまへんのや」
伸太は長い舌で、赤い登記印紙の裏を湿らせて、二条館の駐車場の抵当権設定登記に関する書類と、靖枝が二条館の相続登記をしたときの書類の閲覧を求めた。
筆跡の違う二つの「北野靖枝」の署名が、梅山の眼前で対置された。
「どうでっか。筆跡の違いが一目|瞭然《りようぜん》ですやろ。駐車場の抵当権設定登記の契約書は、誰かの手によって偽造されたと考えると辻褄《つじつま》が合いますのや」
伸太は、頼み込んだ。「あんさんには迷惑は掛けしまへん。知ったはることがあったら、教えとくなはれ」
「わしが聞いた話は、あくまでも噂ですんや」
梅山は、小さい声でそう言った。
「噂で、かまへんのですワ」
伸太に促されて、梅山はようやく喋《しやべ》り始めた。
「実は、真奈美さんが負債を作ってしもて、母親である靖枝はんに無断で、その担保として駐車場を提供したことがあったそうどす」
「何《なん》でまた負債を?」
「真奈美さんの結婚相手は、井坂源三という大工さんですねけど、これがバクチを打つという悪い癖がおまして、えらい借金をしょい込んでしまいよったんどす」
「そういうことでっか。やっぱり、靖枝はんの身内がやらはったことでっか。印鑑証明書が本物やさかいに、靖枝はんに近い者やないと、印鑑登録カードは持ち出しでけへんと思てましたんや」
伸太は、我が意を得たりとばかりに、ちょこんと顎《あご》を引いた。閲覧した契約書の筆跡が靖枝のそれと違っていたのは、真奈美が靖枝の名前を勝手に借用したからだった。ようやく、小さな謎が一つ解けた。
「事情を知った靖枝さんは、すぐに借金を返さはったそうどすけど、そのために二条館の改装資金を使《つこ》てしまわはったんです」
「それで、抵当権がすぐに抹消されてるわけでんな」
「母親に迷惑をかけたことに懲りた真奈美は、井坂源三が賭博《とばく》罪で逮捕されたことを機に、いったんは手を切ったんですけど、しばらくして復縁してしもたんどす。井坂は、性懲りもなくまたバクチに手を出して、再び借金をこさえたようどす。相続したばかりの真奈美さんが、二条館を売り急いだのは、そんな事情もあったんやと思います」
「なるほど」
借金を抱えているなら、早く売却したいと思うはずだ。
「葬儀の夜に、『今度こそ、井坂とは完全に縁を切ります』と、真奈美は言うてましたけど。さあ、どないですやろか」
梅山は、猜疑《さいぎ》の色を眼に浮かべた。
あたしなら、そんな男とはとっくに別れているわと、由佳は胸の中で呟《つぶや》いた。けれども、それは由佳がこれまでオリンピック選手を目指してバレーボールに明け暮れてきて恋愛らしい恋愛をしたことがないから、そう即答できるのかもしれない。
「恋愛は発狂ではないが、両者には共通の点が多い」というカーライルの言葉を引くまでもなく、愛してしまえば冷静な計算はどこかに消し飛んでしまうことも少なくないのだ。
京都地方法務局からの帰りがけに、伸太と由佳は、梅山に連れられて京都ホテルの前を通った。法務局から南にまっすぐ九百メートルほど行ったところだ。
「さっき、言うてました京都ホテルどす」
梅山は車を停めて、苦々しく言った。「来月いっぱいで営業を打ち切り、解体して、十六階で高さ六十メートルのものに建て替えされる計画ですのや」
由佳は、九階建ての今の建物を見上げた。
「現在の高さは、どのくらいなんですか」
「三十一メートルやそうどす」
とすると、二倍ほど背伸びしたのっぽホテルができ上がることになる。
「そうなると、京都御苑から見ても、二条城から見ても、なだらかな東山の稜線《りようせん》が六十メートルホテルで遮られてしまうそうどす」
梅山は、両手で円を描いた。「ご承知のように京都は、三方を山に囲まれた盆地です。そやさかい、高い建物がでけたら、たちまち緑が見えんようになります。よそから来はった人は、京都は緑が多いて言わはりますけど、それは周囲の山がすばらしい借景を提供してくれているからであって、公園自体は少ないんどす」
由佳は、確かにそうかもしれないと思った。京都の町中で、無料で入れる広い公園は京都御苑くらいのものだろう。
「総合計画制度、というのを知ってはりますか?」
梅山はそう訊《き》いてきた。
「いえ、知りまへん」
伸太は猪首《いくび》を左右に振った。
「京都市当局が一昨年導入した制度で、建物の周りに一定の空き地スペースを作れば、高さを市内中心部で六十メートルまで上乗せしてよいというやつどす。京都ホテルは、その新しい総合計画制度の適用第一号どすのや」
住民の生活を守るべき市が、不動産の背伸びを許す行政をしているために、自分たちは迷惑し立ち退きを余儀なくされていると、梅山は言いたげである。「わしらが不安に思うのは、第二弾、第三弾の適用を受けるビルが乱立して、京都が京都でなくなってしまうことどす。総合計画制度はもともと、経済と人間が集積され尽くした東京のために考え出された制度と聞いてますのや」
東京育ちの由佳としては、京都が東京と同じようなコンクリートジャングルになってしまうのは気が進まない。京都が、東京のあとを追いかけたって、所詮経済的には東京を追い越すことはできないだろう。それならば、そんなにムリをする必要はないのではないか。
「大阪に、船場《せんば》という商人《あきんど》の町がおます。いや、おましたと言うた方が正確かもしれまへん」
伸太はそう言い直した。「昔は、四方を川で仕切られ、繊維を中心とした商家がずらりと軒を連ねていたそうでんねん。けど、川を埋め立て、高速道路を通し、ビルをどんどん建てた結果、すっかり船場の町は影をひそめてしもた観があります。その轍《てつ》を、京都には踏んでほしくありまへん」
梅山と別れた伸太と由佳は、二条館を取得し、管理物件の看板を掛けた堀川不動産商事に足を伸ばすことにした。
堀川不動産商事は、その商号から受けるイメージとはずいぶん違って、モルタル作りの二階建てのいわゆる町の不動産屋さん≠ナあった。前のガラス戸には、「格安物件」と黒マジックで書かれた手作りの物件紹介図が、数枚貼られている。
「この不動産屋さん自身が、そのうち、地上げに遭いそうな感じさえするがな」
伸太は冗談とも本気ともつかない言葉を吐きながら、ガラス戸を開けた。
「おいでやす」
町役場の書記のような店主が、小さな机の上で物件見取り図を描いていた。
「司法書士の石丸伸太て言いますねん」
「なんだ。司法書士さんなら、うちは遠井五郎という先生と二十年来の付き合いをしとります。新しいかたにお願いしよとは思てまへん」
店主は、たちまち愛想笑いを消した。
「司法書士の仕事をセールスしに来たのやおまへんで」
伸太は丸い頬をいっそう膨らませた。「二条館のことでお訊《き》きしたいことがあるんですワ。あそこには、おたくの管理物件という看板が掛かってまんな」
「ええ、うちが媒介をします」
「なんぼの値段やったら、売ってくれはりまっか」
伸太は単刀直入に尋ねた。
「分割はしませんで」
店主は少し驚いた様子だ。
「分割やのうて、駐車場スペースを含めて、いくらでっか?」
「八億円。いや、八億一千万円以上なら、お売りしまひょ」
店主は、丸眼鏡を外して、伸太を値踏みするように見た。
「どないでっか? もうすでにどこかの業者が、欲しいと言うて来てまんにゃろ」
「さあ、それはどうですやろな」
「京洛興産が、八億円で買いたいと今日さっそく言うて来た、そうですやろ」
伸太は前屈みに店主を見た。店主は小さな眼を見開いて、口をもごもごさせている。どうやら図星のようだ。
「おおきに、邪魔しました」
伸太はあっさりと、堀川不動産商事を出た。
「義兄《にい》さん、どうして今のことが分かったの?」
由佳は、あわててあとについた。
「あの手の小さい不動産業者には、二条館ほどの広い土地を買い入れる力はとてもあらへん。そやから、媒介という形で、売主と買主の売買契約の斡旋《あつせん》をするわけや。あの堀川不動産商事にとっては、めったに扱わへん大型物件のはずや。せやから、さっそく看板を作って、二条館の塀に掲げた。堀川不動産商事が媒介によって得る手数料は、売買価格の三パーセントにプラス六万円や。三パーセントと言うても、ベースになる売買価格が大きいさかいに、手数料も相当なもんになるんや」
由佳は、頭の中で計算した。一千万円の三パーセントなら三十万円、一億円の三パーセントなら三百万円だ。
「その看板を見た京洛興産が、すぐに交渉に行ったんや。京洛興産としては、狙っていた土地が売りに出たんやから、すぐに飛びつくがな。買い値は、八億円という数字が提示されたんやろ。せやから、『八億円。いや、八億一千万円以上なら、お売りしまひょ』というさっきの店主の表現になったんや」
媒介をする堀川不動産商事としては、一千万円でも売値が上ならば、それだけ入ってくる手数料はアップするわけだ。
「堀川不動産商事の店主は、真奈美はんから売りたいという話があったのが昨日で、京洛興産から申し出があったのが今日とあまりにも早急やさかいに、少しだけ保留して他に高い買値を付けるとこがおらなんだら、京洛興産に決める肚《はら》づもりやろ」
「京洛興産以上の値段を出す買い手はつかないかしら?」
「脇本タカ子の所有地と一緒に抱き合わせることで二条館の敷地の価値を高めることがでけるのは京洛興産だけやさかい、結局は京洛興産が一番高い値段を付けることができることになるんや」
「それじゃ、あの堀川不動産商事を経由するという迂回《うかい》をしただけで、とどのつまりは京洛興産が所期の目的を達成するのね」
それにしても、八億円というのは、すごい金額だ。真奈美と政昭は、たとえ税金を半分払うとしても、それぞれ二億円の現金を手に入れることができるのだ。二億円と言えば、平均的サラリーマンの生涯賃金に、ほぼ匹敵する。由佳など、ジャンボ宝くじが二回連続当選するという有り得ない奇跡でも起こらないかぎり、そんな金額を手にすることはできっこない。どんな家庭に生まれるかという選択権はないのに、相続というのは不公平にできている。何もしなくても親からの財産を引き継げる者と、自分の額に汗してもなかなかゆとりのできない者との格差は、地価高騰によってますます拡がっている。
「ねえ。まさかと思うけど、真奈美さんたち、相続財産を得たくて、靖枝さんを殺したってことは、ないでしょうね」
真奈美の夫が賭博《とばく》で大きな借金を作った、という話を梅山から聞いたばかりだ。政昭の方も大学の教官を目指して名古屋で勉強中というが、経済的には楽とは言えないだろう。拝金主義が横行する現代では、金を積んで大学教官の就職口を得るということも、全く不可能ではないかもしれない。
「せやけど、自分の親を殺してまで、相続財産を得ようとするかな」
「そりゃ、分からないわよ」
生命保険金を狙った犯罪では、肉親や配偶者を標的にする人間がほとんどである。和菓子など和のつくものの衰退と同列に考えてはいけないのかもしれないが、かつての日本が持っていた親や教師や目上の者に対する敬愛の情は、次第に薄れているように思える。
「けど、たとえ仮にそうやとしても、靖枝はんの遺書が残されていたという関門はどないして潜《くぐ》るんや」
「そうね」
先ほど梅山と話をして、二条館の駐車場に関する抵当権設定は、真奈美が靖枝の名前を勝手に使ってなしたものであることが分かった。法務局に残されていた抵当権設定契約書に記された右肩上がりの「北野靖枝」の署名は、真奈美の手によることがはっきりした。そしてその抵当権を抹消したのは、靖枝本人であることも判明した。その際に、法務局に残っている書類の「北野靖枝」の丁寧な楷書《かいしよ》体は、靖枝自身が書いたものであったわけだ。
そうなると、遺書の楷書体の丁寧なペン字は、本物の靖枝の筆跡であることがますます確実になったことになる。
靖枝は何者かに殺されたのでは? という由佳の推論は、よりいっそう成り立たなくなったわけだ。
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第三章 新たなる追跡
それから、二日が経った。
あいかわらず、伸太の代書屋としての仕事は開店休業に近い暇な状態であった。
伸太は、お好み焼き屋の仕事を夜十一時に終えると、近くの公衆浴場に行き、一個百円のミニビール缶を一缶だけ飲んで、寝床に入るのがいつもの日課だ。
ところが、今夜は風呂には行ったが、ビールは飲もうとしない。
(どこか体の具合でも悪いのかしら)
由佳は、なぜだか伸太のことがしきりに気になるのだ。
「またアベックでお出かけかい。仲のええこっちゃね」と山中のおばちゃんに冷やかされても、いつも金魚のフンのようにくっついてしまう。
(あたし、義兄《にい》さんのことが好きなのかしら?)
父の先妻の連れ子ということだから、伸太とは血の繋《つな》がりはない。したがって、恋愛の対象とすることに障害はない。
(でも、あんな象と豚をたして二で割ったような男と……)
由佳は決まってこう考えて、自問を打ち消す。もうそれが、半年以上も続いているのだ。大阪のこんな陋屋《ろうおく》に住んでいる必要など何もないのに、東京へ帰ろうという気にならない。
「うーん」
いったん寝床についたはずの伸太は、特大のパジャマ姿のまま起き出してきて、店の丸椅子に腰を掛け、鉄板にガスをつけた。
「どうしたの?」
由佳は、奥の部屋で髪の毛をブローする手をやめて、店に足を運んだ。
「何か、腹に入れておきたいんや」
伸太は、小麦粉をとき始めた。「考えたいことが、あるよってな」
「じゃ、あたし、隣の山中のおばちゃんにおでんをもらってきてあげるわ。いくらおいしくても、毎日毎日お好み焼きばかりでは、考えも同じになっちゃうわよ」
「それもそやな」
伸太は、キャベツを刻もうとした手を止めた。「けど、このメリケン粉は捨ててしまうのは、もったいないな」
伸太は小麦粉に砂糖を入れて、ベタ焼きにし始めた。
ビールを飲まない日はあっても、食欲が減退する日は、伸太にはなさそうだ。由佳は、容器を持って、隣のおでん屋まで向かった。
「いいわよ、お代なんて」
暖簾《のれん》を中に入れて掃除をしていた山中のおばちゃんは、容器に山盛りのおでんを盛ってくれた。「どうせ、今日の売れ残りなんだからさ」
「でも、今日売れ残っても、また明日のネタとして使うのでしょ。その方が、良く味も染《し》みるわけだし」
「あら、知っていたの」
山中のおばちゃんは、小学生のようにペロリと舌を出した。「でも、明日のネタだってブーやんにならあげるわよ。お隣同士なんだもの。あたしだってよくブーやんに、お好み焼きをおごってもらっているからさ」
山中のおばちゃんは、あくまで代金を受け取らなかった。山中のおばちゃんに限らず、この町に住む人はみんなこんなふうに助け合う姿勢が強い。由佳が住んでいたことのある東京の団地とは、まるで別世界だ。団地では、真上の階にどんな人が住んでいるのか、全く知らないまま何年もが過ぎた。同じ時間に、上からも同じテレビの音声が聞こえてきて、一緒のテレビ番組を見ているということが分かることもあった。それでも、話したことはなかった。隣の部屋の人とも、黙礼を交わす程度であった。不在荷物は管理人さんが受け取ってくれるし、回覧板にあたる告知は一階の掲示板に張り出される。「留守にします」の声を掛け合うこともなく、自治会組織は有名無実である。そんな状態のもとでは、近隣コミュニケーションなど希薄になって当然である。したがって、ソースを切らしたときでも、隣に借りに行くようなことはせずに、二十四時間営業のコンビニエンスストアへ走ったものだ。
ところが、この通天閣|界隈《かいわい》では、隣へソースを借りに行かないと、かえって「水臭いやおまへんか」ということになる。人と人の触れ合いという点では、はるかにこちらの方が暖かい。けれども、団地暮らしが長かった由佳にとっては、鬱陶《うつとう》しさや煩わしさを感じることがないこともない。「またアベックでお出かけかい。仲のええこっちゃね」と山中のおばちゃんに冷やかされることなど、団地ではあり得ないことだ。この街では、プライバシーが完全だとは言えないし、近隣の視線や噂を考えたら行動が取りにくいということだってある。近隣コミュニケーションというのも、一長一短なのだ。
(二条館の町内は、どっちなのだろう?)
二条館のある町内も、きっと近隣コミュニケーションが強い方だろうと思えた。古くからある京都の街ということで、ここ大阪の下町とはまた一味違うだろうが、少なくとも東京の団地とはかなりの差がありそうだった。
容器に盛られたおでんから上がる湯気が頬に当たるのを感じながら、由佳は山中のおばちゃんの店を辞した。
「義兄《にい》さん、お待たせ」
由佳が声をかけても、伸太は手紙に見入っている。鉄板の上で暖められたベタ焼きもひっくり返されておらず、片側ばかりが焼けている。
(まさか、ラブレターでは……)
由佳は、そばまで行って、覗《のぞ》き込んだ。
由佳と伸太が、京都・大阪間を何往復もするきっかけになった馬崎弥兵衛から父・周平に宛てられた速達の手紙だった。
「こいつが、原点や」
伸太は顔を上げた。そして、気がついて、コテでちょいとベタ焼きをひっくり返した。
「義兄《にい》さん、まだその手紙にこだわっているのね」
由佳はおでんを伸太の前に置いた。
「何や気になって、しゃあないんや。あの町内では、住人たちの反対にもかかわらず、地上げが強行されていき、その過程で一人の自殺者を出した。それだけに、反対運動は余計に撤退することになった。そして、ユンボが古い家を壊し始めた。外形的には、それで一つの地上げ物語が完結したように見える」
伸太は、コテで器用にベタ焼きを切って、口に運んだ。「けど、わいは何かがひっかかるんや」
「それでビールが咽《のど》を通らないというわけね」
「さいな。おでんは入るけどな」
伸太は、手掴《てづか》みでおでんを口に放り込んだ。
「こんなときには振り出しに戻るしかない、とわいは考えたんや。原点であるこの馬崎はんの手紙はこうや」
伸太は手紙の内容を声を出して読み上げた。「実は小生、うかつにも立ち退きの承諾書にハンコを押してしもうたのです。しかしながら、これは家主の詐欺によるものです。小生は困り果てております。できれば会って話をしたいと考えております。周平さん。何とか、わしを助けてくだされ。伏して、お願いする所存です」
周平の死を知らずに、馬崎は「伏して、お願い」してきている。かつての戦友とはいえ、死去したことを知らないほど疎遠な人間を頼らざるを得ないほど、馬崎は困っていたのだ。
「これだけ書いてきてるのに、そしてわいらが訪れたときも『お願いします』と頭を下げてるのに、その翌日には『もうええんです』と、態度を急変させている。このことが、どないしても納得がいかへん」
「馬崎さんは、やはり何か、脅迫されていたのかしら」
「彼は否定しとるけど、そう解釈したなら、辻褄《つじつま》が合いよる。奥さんの八重はんも、靖枝はんの葬儀のあと乾菓子を振る舞ってくれてえらい親切やったのに、このことを訊《き》いたら貝のように口を閉ざしてしもた」
「脅迫の犯人は、京洛興産ね」
「おそらくな」
「どうしたらいいの? ひどく脅されていたなら、そんな簡単には打ち明けてくれないだろうし、京洛興産を訪れても、またあのガードマンたちに押し返されるのが関の山よ」
靖枝の葬儀のときに、伸太たちは植島を二条館から押し出した。それだけに、京洛興産はよけいに態度を硬化させているものと思えた。
「もう一人、訊きただす相手が居《お》るやないか」
伸太は、おでんを全部平らげて、汁の付いた唇をグローブのような手で拭った。
「え、誰?」
「馬崎はんの借家の前所有者で、この手紙に書いてあるニセの承諾書に印を押させるのに、一役|買《こ》うた人物や」
「脇本タカ子」
「さいな。わいらは、脇本タカ子とは、一度会ったきりや。それも引っ越しの運送屋が来たということもあって、ろくに話もでけなんだ」
伸太は、容器の底に残った汁をすすった。「脇本タカ子を問い詰めることで、わいらがまだ知らんことを得て、突破口を掴《つか》めるかもしれん」
「でも、彼女を攻めようとしても、京洛興産が守るのじゃない?」
「いや。彼女は、白浜の方へ行ったんやから、突然訪れたら、なんのガードもあらへんはずや」
脇本タカ子は独り暮らしで、馬崎たちの借家を売った代金で、白浜のリゾートマンションに移り住んで行ったということだった。
「じゃあ、白浜へ行ってみましょうか」
関西屈指の温泉地ということは知っているが、由佳は一度も足を運んだことはない。「でも、彼女の転居先はどうやって調べるの」
「住民票で調べるのが、一番簡単や。引っ越したら、住民票は除票というのに綴《と》じられる。それを見たら、転居先が書いてあんのや」
「じゃ、京都まで、また行くわけ?」
「京都駅始発のスーパーくろしおで白浜へ直行するというプランはどないや。新しい車両で、乗り心地がええで」
「それ、賛成」
由佳は、食欲を覚えたが、もはやおでんは残っていなかった。しかたなく、伸太の前の鉄板に、半円形の姿を残しているベタ焼きに箸《はし》を付けた。
「あっ、わいのベタ焼き……」
伸太は悲鳴に近い声を上げたが、由佳が口に運ぶ方が早かった。
〈転出先 和歌山県|西牟婁《にしむろ》郡白浜町海原四九番地 ファイナル・ケア・カーサ南紀217〉
と住民票除票に記された脇本タカ子の住所を頼りに、由佳と伸太は翌十一月四日、スーパーくろしおに乗車した。ロマンスシートタイプの座席は前も後ろも、新婚とおぼしきカップルが座っている。
「ねえ、義兄《にい》さん。あたしたちも、端《はた》から見たら新婚に映るかしら」
由佳は、伸太の太い腕にちょっと手を絡めた。
「せやな。見えるかもしれへんな」
伸太はガイドブックから目を離そうとしない。「南紀の名物は、サバを使ったなれずし、小鯛雀《こだいすずめ》ずし、正方形の蒲鉾《かまぼこ》であるなんば焼き、そして活魚の舟盛り料理か。やっぱり、魚が旨《うま》いわけやな」
「また、食べることなの?」
「そらそやないか。人間、食べることをやめたら、死んでしまうがな」
伸太はガイドブックを捲《めく》った。「けど、魚は大阪でも食えるさかいな。むしろ高野《こうや》山のゴマ豆腐とか道成寺《どうじようじ》の精進料理に惹《ひ》かれるな」
「道成寺って?」
高野山は弘法大師が開いた真言宗の総本山ということは知っているが、道成寺は名前を聞いたような聞いたことのないような感じだ。
「能や歌舞伎で結構有名やないか。安珍清姫《あんちんきよひめ》物語て知らんか」
「さあ」
「その昔、安珍という東北の若い修行僧が熊野詣《くまのもう》での途中、真砂《まさご》というところに泊まるんや。その宿屋の娘、清姫は安珍に魅《ひ》かれて誘惑する。安珍は帰りに必ず立ち寄るさかいにと言うて熊野へ行く。しかし、修行の身を考えた安珍は、その約束を破って、素通りしてしまう。それを知った清姫はつのる恋慕にかられて、裸足で安珍を追いかけるんや。そして清姫は日高川の濁流に飛び込んで大蛇と化して、道成寺に逃げ込む安珍をなおも追う。安珍は寺の鐘の中に隠れるが、清姫の大蛇は鐘の上から七巻きして口から火を吐き、我が身もろとも安珍を焼き殺してしまうんや」
「コワイ話」
由佳は、伸太の腕に絡めた手をあわてて離した。
「女の情念はえげつないということやな」
「でも、それは約束を守らなかった男の人が、悪いのよ」
由佳は、そっぽを向いて、窓の外を見た。由佳は、これまで恋愛らしい恋愛はしたことがない。中学、高校、大学と、オリンピックを目指してバレーボールに青春のすべてをかけ、膝と腰を痛めてやむなく引退をしてからは、半ば抜け殻のようになっていたのだ。そんな由佳でも、マスコミなどが三高志向(身長、学歴、収入の高さ)で現代女性を十把一《じつぱひと》からげのように扱うことには抵抗を感じる。今も昔も、女は愛する人のそばで生きたいという願いは基本的には変わらないと思うのだ。
(脇本タカ子さんは、本当に幸せな生活を送っていたのかしら)
馬崎の話によると、タカ子は祇園のクラブの元ホステスで年の離れた初老男のところへ後妻に来たのだということだった。どんないきさつで後妻になったのかは知らないが、相続によって夫の財産を得たけれども、その反面で得そこなったものも少なくないのではないか。「あなたたちに、あたしの立場は分からないわ。夫に先立たれて、子供がいなきゃ、財産だけが頼りよ。お金がなくて、老後の保証があるもんですか」というタカ子の捨てゼリフが思い出された。
和歌山、御坊《ごぼう》、紀伊田辺を経て、スーパーくろしおは白浜に到着した。
由佳は、白浜温泉というのは駅を降りてすぐのところにあるものとばかり思っていた。けれども、駅からバスに十分以上も乗らなくては、温泉街には着けなかった。むしろ、南紀白浜空港の方が温泉街には近い。
脇本タカ子が購入したファイナル・ケア・カーサは、その南紀白浜空港から東南の方向に進んだ海原台と呼ばれる海岸線に建っていた。
鉄筋コンクリート五階建ての白堊《はくあ》の建物は、高級ホテルだと言われても頷《うなず》けるほどの瀟洒《しようしや》で垢抜《あかぬ》けた構えだった。
「リゾートマンションは、第二次のブームと言われとるんや。昭和六十二年までは、年平均一千戸であったが、平成に入ってからは年一万個以上と急増しとる」
「どうして、そんなに増えたの」
「内需拡大を目的にした総合保養地域整備法という、いわゆるリゾート法がでけたことが大きい理由やとわいは思う。それによって、リゾート開発に対する政策的バックアップがなされたわけや」
「でも、開発って言えば聞こえはいいけど、自然を壊してるんじゃない?」
「そういうことや。地方では自然破壊、都市では地上げという弊害を引きずりながら、内需拡大による景気発展を進めていったというのが、昭和の末から平成の初めにかけての日本経済なんや」
由佳は、次第に近づきつつある白堊の建物を見つめた。こうして海岸線が占領された結果、一般の人にとっては風光|明媚《めいび》な光景が一つ失われ、その反面入居できる資産家にはその景観が独占できる。それは京都で高層マンションが建った結果、大文字の送り火が一方で見えなくなり、他方で私有される現象と全く同じである。
「リゾートマンション建設の二大エリアというのは、熱海《あたみ》を抱える静岡県と、ここ白浜のある和歌山県や。両方の県で、日本全体で造成されるリゾートマンションの約六割を占める。それぞれ首都圏、大阪圏から近い温泉地という要素が、集中の理由みたいや」
「温泉ね」
バレーボールで膝と腰を痛めた由佳は、草津温泉でリハビリ療法に取り組んだことがあった。そのとき、リハビリ目的ではなくて、ゆったりと静養に来れたならどんなにいいだろうかと思ったものだ。草津のような内陸部の温泉と違って、白浜なら、海の幸もおいしいだろうし、海水浴だってボートセイリングだって思う存分できるだろう。
ファイナル・ケア・カーサの中に入った二人は、ここが別荘型のリゾートマンションではないことを知った。敷地内には、医療棟もあれば、共同菜園も作られており、ゲートボールの設備だってある。外来者用の案内板の「ファイナル・ケア・カーサ南紀」の上には、「生涯リゾート施設」という修飾句が付けられている。
「どうやら、権利金を積んで入居し、あとは月々の管理費を支払うことで、老後に至るまでのすべての面倒を見てもらうという、温泉付きの施設のようやな」
敷地内を行き交う青年や子供の姿はない。老夫婦の二人連れが目につくが、電動車イスに乗ったお年寄りの姿もある。若くても、脇本タカ子のような六十前ぐらいである。
「生涯リゾートだから、ファイナル・ケア・カーサという名前なのね」
「どないな意味や。わいは外国語はさっぱり分からんのや」
「最後まで面倒を見るお城、というような意味よ」
「高齢化社会という、近い将来確実に訪れる現象を見越した、新しいビジネスかもしれへんな。脇本タカ子は、京都の自宅と借家を売り払って、ここに身を寄せることにしたわけやな」
彼女の「あなたたちに、あたしの立場は分からないわ。夫に先立たれて、子供がいなきゃ、財産だけが頼りよ。お金がなくて、老後の保証があるもんですか」という言葉が再び思い出された。これから向老期を迎え、独り淋しく、あてにする人間のない生活を送り、人知れず死んで財産を残したところで、身寄りのないタカ子としては詮《せん》のないことだ。それならばいっそのこと、すべてを現金に代えて、ここでの温泉と医者と仲間を伴う生活を買った方がいい、タカ子はそう計算したのだろう。
「タカ子さんの考えも、分からないではないわね」
「けど、それやったらあんな詐欺的な恰好《かつこう》で、馬崎はんの立ち退き承諾書を取るのやなしに、ちゃんと借家権を認めたうえで、売りに出すべきや」
「でも、その借家権付きかどうかで、売り値はずいぶんと違ってくるのでしょ」
「そらもう、月とスッポンくらいに違うで。けど、そやから言うて、人を騙《だま》して、自分だけがええ生活を得ることが許されるわけはあらへんがな」
「そうよね」
「さあ、あそこの事務室と書かれたところで、脇本タカ子の部屋を訊《き》いて、討ち入りや」
伸太は、討ち入りという厳《いか》めしい表現を使った。
「何《なん》やて!」
伸太は、唖然《あぜん》として訊《き》き直した。「脇本タカ子は四日前に、出て行ったんでっか」
「ええ。私どもの会社の規則で、入居後一カ月間は、買い戻しができることになっています。一種のクーリングオフ制度ですわ」
度の強い眼鏡をかけた女性事務員は、利口ぶった口調で説明した。若い女性がほとんど見かけられない施設内では、こういう三十過ぎの不美人でもそこそこの別嬪に見えたりもする。
「それで、彼女はどちらの方へ引っ越したんでっか?」
「それは私どもの方では聞いておりません。脇本タカ子さんの場合は、少し複雑なケースなのです」
吉岡厚子という名札を付けた事務室嬢はファイルを取り出しながら答えた。「脇本さんは、入居している部屋の所有権を蔵田文孝という人に転売しました。そしてその蔵田文孝さんから、買い戻しの請求があったのですわ。したがって、前所有者である脇本さんの転居先までは、私どもは把握していないのです」
「ということは、脇本タカ子から、直接買い戻し請求があったわけやないのでんな」
「ええ。譲受け人からの買い戻し請求ができるのかどうか、脇本さんも自信がなかったようで、私どもの東京本社に問い合わせたうえでの、転売のようでしたわ」
「その転売は、いつなされたんでっか」
「七日前の十月二十八日です」
七日前といえば、伸太が馬崎弥兵衛に「もう、あの件はええんです」と言われ、北野靖枝が書き置きを残して失踪《しつそう》した日の翌々日になる。「ほなら、新しい所有者である蔵田文孝という人から買い戻し請求があったのは、いつのことでっか?」
「四日前の十月三十一日のことです。その日のうちに脇本さんは荷物をまとめて引っ越して行きましたわ。現在は空き室で、買い戻しによって私どもの会社が所有者になっています」
「蔵田文孝という人の住所は分かりまっか?」
「ええ」
吉岡厚子は、スチール机からファイルを取り出した。「神戸市|灘《なだ》区西谷町八の五の三〇一です」
伸太は普段のゆっくりした動作からは想像できないほどの素早さで、ポケットからメモを取り出して書き取った。
「脇本タカ子が、この施設の部屋の所有権を買ったのは、いつでっか?」
「ええと、十月九日ですわ」
ファイルを辿《たど》るようにして、吉岡厚子は答えた。
「入居手続きをしたのは?」
「十月二十二日となっていますわ」
伸太たちが、馬崎からの手紙をもらって、京都へ行き、引っ越し中の彼女と会話を交わした日の三日前だ。タカ子はそのとき、「準備のために三日前から日帰りで白浜に通ってる状態ですのよ。今日荷物を運んで転居届を役所に出して、明日からずっと白浜暮らしができますわ」と引っ越し業者に言っていた。
「買い戻し請求というのは、ようあるんでっか」
「時たまあります。購入したものの、急に他に資金が必要になったり、家族から同居をしようと持ちかけられたり、理由はさまざまですが」
「全額、払い戻しでっか」
「いいえ。購入代金の八割となっております」
「買い戻し請求のあった部屋はどないしますのや?」
「私どもの会社の方で、新たに入居希望者を募って、その方に購入していただきます」
「そのときの売買価格は、当初の価格の八割でっか?」
「いえ、そういうわけではありません」
「八割で買い戻して、十割で売ったら、二割の儲《もう》けでんな」
「…………」
吉岡厚子は、何も答えずに眼鏡を光らせた。
一種のクーリングオフと言えばえらく出資者を保護しているように聞こえるが、結局は会社の利益に繋《つな》がる制度のようだ。
「もう払い戻しは済んだんでっか?」
「ええ。四日前に、蔵田さんがこちらへお見えになりました」
「その蔵田という人がほんまに所有者であるかどうかの確認は、どないしはりますねん」
「脇本タカ子さんから蔵田文孝さんへの所有権が移った記載のある新しい権利証と、蔵田さんの印鑑証明書を持参いただき、買い戻し代金の小切手と交換いたします」
「脇本タカ子さんが買った部屋は新築なのですか?」
由佳が尋ねた。
「はい、そうですわ」
馬崎たち借家人を騙《だま》してまで金を手に入れて、せっかく取得した新築の部屋を転売するというのは、よほどの事情があると由佳には思えた。
伸太は、最後までインテリぶった印象を受ける吉岡厚子に礼を言って、外へ出た。
「えらいせわしない話やで。ちょっとまとめてみよか」
伸太はメモ用紙に次のように書きつけた。
@十月九日、脇本タカ子が、ファイナル・ケア・カーサの一室を購入。
A十月二十五日、京都から荷物を運送。
B十月二十八日、蔵田文孝なる人物に転売。
C十月三十一日、ここを引っ越す。
「さっき京都で取った住民票の除票には、十月二十五日にこちらへ転入したという記載がなされていたわね」
「さいな」
伸太は念のために、住民票の除票の写しを確認した。
「じゃあ、白浜の町役場で、住民票を取ったら、脇本タカ子の新しい住所が分かるわね」
「理屈上は、そないなるんやけど」
伸太は少し頼りなげに答えた。
白浜町役場まで行って、脇本タカ子の住民票を求めたが、その記載は〈和歌山県西牟婁郡白浜町海原四九番地ファイナル・ケア・カーサ南紀217〉のままだった。
「義兄さん、どういうことなの?」
「彼女は、転出届を出しとらんということや」
「どうしてなの? ファイナル・ケア・カーサは引き払ったんでしょ」
「引き払っていても、本人が転居届を出さへん限りは、住民票はこのままや。住民票というのは、申請に基づいて記載がなされるシステムなんや。細かいことを言うたら、脇本タカ子が京都を転出した日かて、十月二十五日となっとるけど、正確に言うとそれは彼女が届出をした日や。彼女は『明日からずっと白浜暮らし』やと、その二十五日に言うてたやないか」
由佳は、こういった事務的な話が得手ではない。
「ねえ、脇本タカ子から買った蔵田文孝という人物を当たってみたら、どうかしら。確か神戸だったわね」
「その前に、この白浜で調べておきたいことがあるんや」
「何を調べるの?」
「わいはあくまで代書屋や。登記で勝負するしか能はあらへん」
伸太は得意のセリフを言った。
伸太と由佳は、和歌山地方法務局南紀出張所で、登記簿を閲覧した。
「東京に本社のあるファイナル・ケア社から、脇本タカ子に所有権移転があって、そのあと蔵田文孝に転売され、買い戻されとる。確かに、あのビール瓶の底みたいな眼鏡をかけとる事務室嬢の言うとおりや。ここにはヒントはあらへん」
伸太は、その謄本を求めたあと、脇本タカ子から蔵田文孝への転売に伴う登記の関係書類の閲覧申請をした。
(図省略)
「うーむ」
伸太は薄い眉根を寄せて、じっと腕を組んだ。
「義兄《にい》さん、この申請書を出すことによって、登記が受け付けられるのだったわね」
由佳は、しびれを切らして、口を開いた。ワープロで打たれた難しい書面を眺めているだけでは、退屈でしかたがない。
「さいな」
伸太はしかめっ面のままだ。
「何か不審な点でもあるの?」
「うん、まあな」
「意味を説明してよ」
「ほなら、この申請書を見ながら、順番に行こか。まず、最初の〈登記の目的〉という項目は、どないな登記を申請したいかということを書くんや。本件では所有権移転、すなわち所有権が動いたという登記をして欲しい、というこっちゃ」
「それは分かるわ」
「次の〈原因〉には、どないな理由でこの申請をするのか、ということが書かれとる。この場合は、平成二年十月二十八日にファイナル・ケア・カーサの一室が売買されたことを原因に、所有権が移転するという意味のことが記載されとる。これも分かるやろ」
「ええ。そのファイナル・ケア・カーサの一室の所有権を得る〈権利者〉が蔵田文孝で、所有権を引き渡す〈義務者〉が脇本タカ子ということね」
「さいな。問題はその次の〈添付書類〉や。これは、『この登記は、真正な権利関係に基づいてなされるものです』ということを証明するために添付するいわば証拠書類なんや。その中身を順に見ていくと、まず申請書副本というのがある。こいつが、曲者なんや。本来、売買行為がなされたなら、売買契約書が交されるのが普通や。せやから、その契約書を、登記申請の際に添付して、提出するのが原則とされる。けどそいつはあくまで原則で、たとえ契約書を付けへんでも、申請書副本を付けたなら、それで許されるんや」
「申請書副本って、何なの」
「わいらが今見ている、このワープロで打たれた登記申請書をコピーしただけのもんや」
「えっ。これのコピーを付けたら、それで売買契約書は付けなくてもいいの?」
「法律上はそうなっとるんや。そやから、問題点もあるで」
「どういうこと?」
「実際に売買契約が全くなされていなくても、この登記申請書のコピーを付けるだけで、売買契約書が提出されたと同じ結果になるやないか」
「そうか。でも、どうして法律はそんなことを認めているのかしら?」
「売買というものは契約書が必ず作成されるとは限らへんから、契約書を絶対的な添付書類としていない、と説明されとる」
「契約書が作成されない売買ってあるの?」
「そら、駅の売店で新聞を買うのも、スーパーでおかずを買うのも、法律的には売買やで」
「そう言われたら、そうね」
「せやけど、不動産のような重要な財産の売買において、契約書が作られへんことはまず考えられへん。せやから、わいは不動産売買の場合は、必ず本人の署名の入った契約書を付けなあかんと、法律を改めるべきやと思とんのや。そうしたら、勝手に不動産名義が動かされる犯罪行為の減少に、ちょっとは役立つはずや」
「じゃ、この場合も、勝手に脇本タカ子の不動産名義が動かされたの?」
「いや、これだけでは断言でけへん。ただ、申請書副本という方法が使われて、脇本タカ子の署名が現われとらん。せやから、偽造の可能性はそれだけ高いと言えるやろ」
伸太は先を続けた。「申請書副本のあとに、登記済証とあるやろ。登記済証というのは、俗に言う権利証のことや。そやから、脇本タカ子の権利証はちゃんと提出されとる。そのあとの印鑑証明書というのも、脇本タカ子の印鑑証明書のことや」
「脇本タカ子の権利証と印鑑証明書が出ているということは、ちゃんと売買契約があったということなの?」
「ところが、そうとは言い切れんところが、日本の登記制度の難しいところや。日本の登記は、形式的審査主義やさかい、書類上の不備がなければ、実体上の関係と食い違っていても、登記名義が動いてしまいよる。現に、わいらは、二条館の駐車場の土地が、北野靖枝はんの意思に反して、娘の真奈美がその権利証を持ち出したために、勝手に抵当権が付けられてしまったことを経験したやないか」
「そうだったわね」
いつも伸太が言うことだが、登記制度というものは一般市民が思っている以上に、脆弱《ぜいじやく》な基盤の上に成り立っているのだ。
「添付書類の最後の項目にある住所証明書というのは?」
「これは〈権利者〉である蔵田文孝の住民票や。第三者が住民票を取ることは特別難しいことではあらへん。貸金の督促状発送のためとか、会社雇用のためとか、適当な理由を付けといたらええんや」
「じゃあ、この〈義務者〉も〈権利者〉も、両者ともが知らない間に、この登記申請書が作られて提出されるということも、あり得ないことではないのね」
「そういうこっちゃ。この例で言えば、ファイナル・ケア・カーサの一室の所有権が、買主も売主も知らない間に勝手に動いているかもしれへんのや」
何千万円、ときには何億円もする不動産の所有名義が、当事者が何も知らないうちに勝手に動いてしまう――それを防ぐ方法はないというのが、日本の登記制度の現状なのだ。
「ねえ、義兄《にい》さん。この登記申請書を提出するには、ここの法務局に来なきゃいけないのでしょ」
「さいな。出頭主義というて、わいら司法書士か、または本人が来ることになっとる」
「だったら、申請を受け付けたここの法務局の人は、申請書を出した人物の顔を憶《おぼ》えていないかしら」
「どやろな」
伸太はカウンターの中を太い指で示した。〈登記申請書入れ〉と書かれた透明の箱がカウンターの隅に置かれている。「登記申請をする場合は、こないな手続きになっとんのや。まず申請をしよと思う者は、添付書類などを取り揃えて、あの透明な箱の中に放り込む。法務局の職員は、何通かの申請が溜《た》まったら、箱から取り出して、底の方から順に内容を審査していくんや」
「ということは、窓口で来庁者と対面して一通ずつチェックしていくわけじゃないのね」
「うん。書類の審査には結構時間がかかるし、申請件数も相当な数にのぼるさかいに、窓口ですぐにチェックされるようにはなってへんのや。登記申請をした者は、何日かあとに再び法務局を訪れて、権利証などを受け取ることになっとる」
そういう方式では、法務局の職員が、どんな人物がどの申請書を出したかを記憶している期待はあまり持てそうもない。
「ただ、少しだけ望みがないこともないんや。こういう登記申請を職業にしているわいら司法書士ならともかく、一般の人間なら、カウンターにおかれた透明箱に放り込むことを知らずに、何か職員に訊《き》くはずや。それに司法書士を通さんと申請をしたときは、どうしても細かい不備があって補正を言われることが少なくない」
「補正って?」
「提出すべき書類が揃っていなかったり、記入ミスがあったときに、法務局から修正を求められることや」
「じゃ、その補正があれば、申請を出した人間と窓口の職員が言葉を交わしているわけなのね」
「さいな」
「そうですね。このケースは、申請書の課税価格の算定方法が分からないということで、当事者から質問を受けたように思います」
窓口の中年職員は、何度も申請書類を見返しながら、そう答えた。
「どういうこと?」
由佳は、伸太に説明を求めた。
「所有権の移転登記をするときは、登録免許税という一種の代金を支払わんならん。その登録免許税は、固定資産税の評価額の〇・五パーセントということになっとる。けど、新築の場合は、まだ固定資産税がいくらになるか分からんさかいに、法務省で定めた算定表を使うんや」
伸太は職員の方を向き直った。
「申請人は、どんな風体の人物やったんでっか?」
「どんな風体って、三十歳くらいの男の人がカウンターで喋《しやべ》って、その後ろに少し派手な服を着た六十前の女性が付き添っていましたね。この申請書に書かれた権利者と義務者じゃないですか」
「六十前の女性……」
伸太と由佳は顔を見合わせた。脇本タカ子は、六十前の年齢だ。派手な服というのも、脇本タカ子であることを窺《うかが》わせる。由佳が会ったとき、彼女はバラ柄のブラウスとウンガロのスカートを着ていた。
「人相は、どうですか?」
由佳は勢い込んで訊いた。由佳は、デザイナーの勉強をしており、特徴を聞いて人物デッサンを描く自信はある。
「人相なんて、そんなはっきりとは憶えてませんよ。毎日何十人という市民が来庁するわけですし、ごく簡単なやりとりでしたから」
「でも、何か特徴的なことがあったとか、印象に残ったこととかはないですか?」
「そう言われてもねえ」
中年職員は困ったように眼鏡のつるに手を遣《や》った。「男性が、十月というのに手袋をしてましてね。ケガでもしてるのかって、思ったことくらいです」
「手袋でっか」
「義兄さん、申請書に指紋を残さないためよ」
由佳は、犯罪の臭いを嗅《か》いだ。「あたし、脇本タカ子さんに一度会ったことがあります。その人相を今からデッサンしますから、その六十前の女性かどうか答えてください」
「はあ」
中年職員は自信なげに返事をしたが、由佳はかまわずに脇本タカ子の似顔絵を描いた。
「どうでした? こんな女性でしたか?」
「さあ、そうだったかもしれませんけど、ちょっと違うような気もします」
全く頼りない声が返ってきた。
しかし、記憶があいまいな彼を責めることはできなかった。毎日多数の来庁者と応対しなければならないのだし、そのうちのどの来庁者が犯罪に絡んでいるかを外見だけで判別することなど不可能なのだ。
法務局の前にある公衆電話ボックスからダイヤル一〇四を回して、蔵田文孝の電話番号を聞き出した伸太は、直ちにそこへかけた。
十回近くコールがなり、伸太が切ろうと諦《あきら》めかけたとき、
「はい、蔵田ですが――」と、寝覚めたばかりのような男の鈍い声が響いた。
「こちらは司法書士の石丸と言いまっけど、あんさんが買わはった白浜のリゾートマンションについてお尋ねしたいんですワ」
伸太はストレートに訊いた。
「は? 白浜のリゾートマンション?」
「ええ。今、白浜にある法務局の南紀出張所の前から電話してまんねけど、あんさんは十月二十八日に、ファイナル・ケア・カーサというマンションの一室を脇本タカ子という人から買《こ》うたことになっとります」
「あのう、電話番号を間違えてられませんか。こちら蔵田と申しますが」
蔵田の口調は演技とは思えなかった。
「いえ、間違いやおまへん。あんさんの名義がしっかりと登記簿に載ってますねん」
「何のことか、さっぱり意味が分かりません」
「あんさんは、白浜に来はったことは?」
「高校生のときに、友人と海水浴に行ったことがあるだけです。もう、十五年ほど前になります」
「ほなら、ファイナル・ケアという会社の名前は?」
「聞いたこともありません」
蔵田の言葉を信用すると、法務局の窓口に訪れた男は、別人ということになる。
「そうでっか。分かりました。またお伺いすることになると思いまっけど、あんさんの名前と住民票が勝手に使われとるようです」
伸太は簡単に事情を説明して、受話器を置いた。
「さあ、ファイナル・ケア・カーサへ戻るで。蔵田文孝と名乗った男は、この法務局で所有権移転登記をなして、その権利証を持ってファイナル・ケア・カーサで、買い戻し請求をしとる」
「そうか。あのビール瓶の底みたいな眼鏡をかけた女性事務員は、その男性と会っているのね」
「さいな。神戸に行く前にやっておきたいことがあると言うてたんは、そのことなんや」
「そんな、神戸の蔵田さんは何も知らないですって。あたしは、ちゃんと権利証で所有権者であることを確認しましたわ。その権利証もこちらへいただいています」
ファイナル・ケア・カーサの女性事務員・吉岡厚子は、事情を伸太から聞かされて、ひどくあわてた。
「権利証というのは、必ずしも信用でけまへんのや」
「本社とさっそく連絡を取って、相談します」
「その前に、ここを訪れた蔵田文孝はどんな人相をしてたか、教えてくなはれ」
「あたし、近眼ですから、それほど自信はないですけど」
吉岡厚子は、眼鏡を光らせながら、由佳の描く似顔絵に協力した。
角張った輪郭、オールバックの髪型、くっきりとした二重瞼《ふたえまぶた》、通った鼻筋、引き締まった唇、という似顔絵ができ上がった。
「結構ハンサムね」
書き終えた由佳は、ちょっと絵を傾けた。トレンディドラマの二枚目役を演じることができそうな、ちょっぴり危険な香りのする顔立ちだ。
「彼は、手袋をしてまへんでしたか?」
「ええ、そう言えば、バイク用のファッション手袋をしていたような気がします」
「領収証とか、何か書き残したものはありまへんか」
「本社に転送しました。でも、コピーは取っています。それに、買い戻し請求書は、こちらにあります」
「それを見せとくなはれ」
吉岡厚子が、書類棚を引っ掻《か》き回した。
「ええっと、これですけど」
領収証のコピーと買い戻し請求書が、示された。いかにも意識して書いたと思われる、活字のような角張った字体で、蔵田文孝の住所と名前が記され、その右下に印が捺《お》されている。
「筆跡というものは、こんなふうな活字のような字にしたり、利き腕でない方で書いたりすることで、かなりごまかせるもんや」
伸太は頬に手をあてがった。
「でも、権利証という確実な書類が提出されていますわ」
吉岡厚子は眼鏡のズレを直しながら、自信ありげに言った。
一般の人間が、権利証に寄せる信頼というものは強いものだ。登記を扱う公的機関である法務局のお墨付きであるのだから、信用するなと言う方が無理だ。
「そのうえ、領収証には実印が押されてます」
吉岡厚子は、領収証の右隅を指で押さえた。「もちろん、印鑑証明書も付けてもらいましたわ」
「印鑑証明書というやつも、百パーセント信用でけまへんのや」
伸太は頬から手を放した。「それで、買い戻しのときは、脇本タカ子はんも同席してはりましたんか?」
「あの日は、彼女の部屋に引っ越し業者が来ていたようですから、たぶん引っ越しの指示をしていたのでしょう」
「そのときの彼女の姿は、見てまへんのやな」
伸太は確認するように訊《き》いた。
「ええ」
吉岡厚子は小さく顎《あご》を引いた。「あの、東京本社に、連絡を取りたいんですけど」
「へえ、どうぞ。あ、ちょっとすんまへん」
伸太はグローブのような手を差し出して、腰を浮かせた吉岡厚子を引き止めた。「東京本社に連絡しはるときに、脇本タカ子はんが、初めから買い戻しのことを知っていたかどうか確かめてもらえまへんか」
「はあ」
何のために伸太がそんなことを訊くのか分からないという顔つきをしながらも、吉岡厚子は頷《うなず》いて奥に消えた。
「義兄《にい》さん、この似顔絵だけじゃ、とても手掛かりにならないわね」
「いや、そないなことはあらへんで」
伸太は笑ってみせた。「それにしても、白浜まで来てみて、えらい展開やな」
「ええ」
由佳だって一度は、もうすべてが終わったような気がしていた。
「お待たせしました」
吉岡厚子が眼鏡を光らせて帰ってきた。「十月二十六日、脇本タカ子さんから東京本社に電話で問い合わせがあったそうです。『売却処分をしたいが、貴社の承諾を得ずに勝手にできるのか』ということでした。本社の係員が、買い戻し請求の制度もあることを説明すると、『第三者に譲ってからでも買い戻しはできるのか』と訊いたそうです。かなり売り急いでいるのではないか、という印象を係員は受けたそうです」
「つまり、脇本タカ子はんは、買い戻しの制度を初めから知っていたわけではありまへんのやな」
「ええ、そうです」
「けど、入居するときは、そういう約款を知ったうえで契約するんでっしゃろ」
「ご入居のかたには、その旨を記した約款をお渡しします。ただ、実際は、そこまで約款をお読みにならないかたも多いようです」
伸太はその約款を見たいと申し出た。細かい字がズラリと並んでいる。その真ん中あたりの一行に買い戻しのことが書かれていた。確かに、ここまで微に入り細をうがって約款を読んでいる入居者は多くないだろうと由佳は思った。
伸太はそのあと、脇本タカ子が入居していた二一七号室を見たいと言った。吉岡厚子は渋ったが、何度かのやり取りを経たのち、伸太が押し切る形となった。
脇本タカ子は単身者ということで、室内は2DKのサイズだった。家具や絨毯《じゆうたん》の類《たぐい》は一切引き払われ、ひどくがらんどうな印象を受ける。
「これで、なんぼでっか?」
伸太は、吉岡厚子に訊いた。
「単身者用ですので、売買価格は八千万円です。あと、管理費が月十万円です」
「十万円、そら高いでんな」
「そのかわり、二十四時間体制で医療サービスが付いていますわ。何かがあったら、あの壁に付いているボタンを押せば、直ちに医療棟から医師が駆けつけます」
吉岡厚子は、見学者に対してセールスレディが説明するような口調で答えた。部屋の壁の両側に、押しボタンが高い位置と低い位置それぞれに設けられている。どんな体勢でもボタンを押せるように、配慮されているのだろう。「そのほか、クリーニング注文があれば取り次ぎますし、宅配便や郵便物は誤配のないようにスタッフが部屋まで届けます。お年寄りって、誤配があると結構うるさいんですのよ」
由佳は、トイレとバスルームを開けてみた。そこにもやはり同じ急報ボタンが付けられている。
「ここのバスルームは、温泉のお湯が出ます。旅館やホテルでは、給水管が傷《いた》みやすいということで、大浴場以外の部屋のお風呂は普通のお湯が引いてあるという場合が多いでしょ。でも、このファイナル・ケア・カーサ白浜は違います」
吉岡厚子は、誇らしげに説明した。
伸太は吉岡厚子に礼を言って別れたあと、隣室のチャイムを押した。
ドア・チェーンが付けられたまま、扉が開けられた。老婆が不安げな眼を揺らせている。
「おばあちゃん、こんにちは」
伸太はまるで、山中のおばちゃんに接するかのような柔和な顔を向けた。
「決して、怪しい者ではありませんわ。隣室におられた脇本タカ子さんを、ちょっと知ってる者です」
由佳は横からフォローした。老婆はほんの少しだけ、警戒を解いたが、ドア・チェーンは付けられたままだ。
「脇本タカ子はんは、退去していかはりましたんやね」
「ええ。いつのまにか引っ越していきなさったけど」
「どこへ行かはったか、聞いてはりまへんか?」
「あなたがた知り合いなのに、どうしてご存じないの?」
「いや、そこまでの知り合いやおまへんね」
あまり犯罪とか登記詐欺とかに言及して老婆を驚かせたくないという配慮をしているために、伸太はかえって怪しまれている。
由佳は、とっさに紙を出して、タカ子の似顔絵を描いた。
「脇本タカ子さんは、こんなかたでしたわね」
「ええ、そうですわ。あなた、絵がお上手ですわね」
老婆はようやく口許を少し弛《ゆる》めた。
「あたしたち、脇本タカ子さんの転居先を訪れてみたいのですが、ご存じありません?」
由佳は、改めて尋ねた。
「いいえ。挨拶も何もなしに勝手に出ていかれたから、知りませんわよ」
老婆は、タカ子に対して良い印象を持っていない様子だ。「こちらに入居してきた日も挨拶はなかったですわ。その前に準備に来ていたときに、ドアを叩いて『お風呂の湯栓の使い方、教えて下さいな』って、いきなりでしたわ。ぶしつけな方でしたわね」
老婆は、皺《しわ》だらけの目許《めもと》に、さらに皺を寄せた。
「いったい、脇本タカ子さんはどこへ行ってしまったのかしら?」
帰りのスーパーくろしおにも、新婚カップルが多く乗っていたが、往きとは違って、由佳はそんなことはまるで眼に入らなかった。
「分かったことを、もう一度整理してみようか」
伸太はトレードマークのような広告ビラの裏を使ったメモ用紙を取り出した。
@脇本タカ子は、京都市中京区の自宅敷地その他を売り払ったうえで、十月二十五日に白浜のファイナル・ケア・カーサに家具や荷物を運送し、転居届を出す。
A十月二十六日、蔵田文孝という人物に転売したい、と東京本社に問い合わせる。
B十月二十八日、脇本タカ子から蔵田文孝へ転売する。
C十月三十一日、ファイナル・ケア・カーサを引き払う。同日、蔵田文孝から買い戻し権行使がなされる。そのあとの脇本タカ子の消息を知る者なし。
「ざっと、こんなところやな」
書き終えた伸太は鉛筆を耳に挟んだ。「さてと、脇本タカ子は、どこで消えたんかや」
「ファイナル・ケア・カーサを引き払って出ていくところは、誰も見ていないわね。だから、Cの段階では、彼女の所在は不明よね。とすると、消息を断ったのはBとCの間ということになるわ」
「いや、Bより前の段階でも、ほんまに脇本タカ子が居たとは、断言でけへんで」
伸太は細い眼をしばたたかせた。「順に行くと、@だけは確かや。わいら自身が、京都、塔池町で引っ越し中の脇本タカ子を見たんやからな。けど、A以降は、疑おうと思えばいくらでも疑えるで。Aの東京本社への通告は、あくまで電話によるものや。誰かが彼女に成り済ましてかけた、という可能性はあり得るで。電話をかけた『脇本タカ子』は、買い戻し請求がでけることを知らなんだ。Bの転売の登記に訪れたときも、法務局の職員は六十前ぐらいの女性ということしか、見とらんのやさかい、それが脇本タカ子本人とは言い切れへん」
「じゃあ、義兄さんは、@とAの間で、脇本タカ子は消えたと考えているの?」
「いや、@とAの間とは特定でけへんのや。@からCの間という曖昧《あいまい》なことになってしまいよる。せやから、悩んどんのや」
伸太は丸太のような腕を組んだ。「消息を絶ったいきさつも理由も全く不明やしな」
「せっかく医療施設の整った温泉付きの施設に入ったのに、一週間ほどで出てしまうことはないわね。身寄りのない人間には、天国のような場所よ。入居するのに高いお金は要るけれど」
「あのメガネオバケのような事務室嬢は、『入ったけれども、経済的に無理だということで、キャンセルする人もいる』て言うてたけど、脇本タカ子はそれには当てはまらんと思うのや。彼女が、京洛興産に売り渡した土地の代金を推測すると、次のようになる。脇本タカ子自身が住んでいた家の敷地、坪単価三百万円として、三十坪で九千万円。馬崎はんたち四軒の長屋については、承諾書を取ったことで、坪単価は二百五十万円に跳ね上がっとるやろから、四軒合わせて四十坪で一億円。しめて一億九千万円や。長期譲渡所得としての税金が四千万円かかったとして、正味一億五千万円や」
「彼女が入居した2DKサイズは八千万円で、管理費が月十万円ということだったわ」
「一億五千万円から、購入代金の八千万円を差し引いて、七千万円が残るがな」
「七千万円を銀行に預けたとしたら、利息が年五パーセントとして、三百五十万円だわ。月に換算して三十万円近くあるから、管理費が月十万円取られても、食費その他は充分賄えるわね」
由佳は計算しながら、脇本タカ子が強引に、というより詐欺的に馬崎たちの承諾書を取った理由が実感として分かった。承諾書を得なければ、長屋の敷地代価はうんと安くなり、ファイナル・ケア・カーサに入居できたとしても、管理費その他を支払っていくだけのお金が不足するのだ。
「せっかく入居したばかりで、経済的に行き詰まっていたわけでもないとなると、退去の原因はますます考えにくいな」
「彼女が持っていたはずの預金とか現金は、どうなっているのでしょうね」
「それも考えんとあかん。何しろ、彼女は家具その他の財産を含めて、すっかり消えてしもたんや」
「ねえ。義兄《にい》さん。もしかして脇本タカ子は、殺されたんじゃないかしら?」
「え、またかいな」
伸太は、テストが終わった日に宿題を出された中学生のような顔をした。
「北野靖枝の死と脇本タカ子の死は、繋《つな》がりのある連続殺人事件のような気がするわ」
「どないな繋がりや?」
「たとえば、靖枝さんはやっぱり自殺に見せかけた他殺で、脇本タカ子はそれに加担していたか、あるいは秘密を握っていたのじゃないかしら。だから、その秘密を守るために、何者かに殺されてしまったのよ」
「ほなら、二つの殺人事件は、同一犯人の手によるわけか?」
「そうよ」
由佳は小さく顎《あご》を引いた。「あの悪辣《あくらつ》な京洛興産なら、それくらいの凶行をやりかねないわ」
由佳の瞼《まぶた》に、京洛興産の植島の厳《いか》つい顔と頑強な体躯《たいく》が浮かんだ。
「せやけど、北野靖枝は自殺やという警察見解をわいらは一つも崩せてへんで。脇本タカ子にしても、失踪《しつそう》したというだけでまだ死んだとは限らへんがな」
「そう言われれば、そうよね」
由佳は自分でも、根拠のない想像を述べていることは分かっていた。「じゃあ、これからどうするの?」
「とりあえず、神戸の蔵田文孝に会おうと思てる。それから、もう一度京都の中京区まで行こと思てる。行き詰まったときは現場百回、という言葉が刑事はんたちの世界では言われとるそうや。あの古い町並みの残る京都の町内が、今回のいろんな出来事の、広い意味での現場やという気がわいにはするのや」
伸太は、胸ポケットから、もう何度も穴の開くほど読んでいる馬崎から周平に宛てられた救いを求める手紙を取り出した。
伸太と由佳は、神戸市灘区に住む蔵田文孝を訪ねた。
蔵田の住まいは、五階建ての平凡な賃貸マンションであった。
「ここが集合郵便受けやな」
伸太は、一階のエレベータ横を見た。
鉄製の下駄箱のような、五層の郵便受けが設置されている。それぞれの箱に、マジックインキ、サインペン、名刺の挟み込み、といった思い思いの氏名表示がなされている。五層の郵便受けは、まるでマンションのミニチュアのようにも見える。
「三〇一号室やったな」
伸太は、郵便受けの三層目の一番端を指差した。ローマ字で、KURATAと書かれた紙が表示されている。
「たぶん部屋の表札も、ローマ字で名前が書かれとるで」
その伸太の予想どおり、エレベータで上がった三階の一番手前の部屋には、KURATAと記されてあった。
「すんまへん。さいぜん、電話しました石丸ですねけど」
チャイムを押しながら、さらに伸太はドアをノックした。
「はーい」
男にしてはオクターブの高い返事がして、ドアが開いた。
二十代半ばの、痩《や》せた男が顔を覗《のぞ》かせた。細い眼とだんごっ鼻と下がり眉毛に、坊っちゃん刈りが何となくマッチしている。ファイナル・ケア・カーサの吉岡厚子が相対した似顔絵の男とは、似ても似つかない。いくら変装の名人でも、この二人一役を演じるのは難しい。
「初めまして、蔵田文孝です。どうも」
蔵田は、ちょこんと頭を下げた。
「すんまへん。押しかけてしまいまして」
伸太の言葉もいきおい丁寧になる。
「むさくるしいところですけど、中へ入ってください」
蔵田は、由佳にも礼をしながら、大きくドアを開けた。
彼のマンションは二間あるが、そのうちの一室が応接室兼蔵田の書斎となっていた。
本棚にズラリと並んだ数学の本に、由佳はある種の威圧感を抱いた。数学が不得手だった由佳は、微分とか積分とかいう文字を見ただけでアレルギーを起こしそうだ。
「ぎょうさん本がありますな」
伸太は、猪首《いくび》を回した。
「まあ、商売道具ですから」
蔵田は、照れ臭そうに笑った。「予備校で、数学を教えているんですよ」
「さよか」
伸太は納得したかのように頷《うなず》いた。「けど、受験生が相手というのは大変でっしゃろ」
もう十一月初めだから、大学受験は追い込みの時期になっているはずだ。
「僕は予備校教師二年目ですが、いつまでこの仕事が続けられるか正直言って、不安です」
蔵田は、タバコを取り出した。「予備校の教師は、プロ野球の選手と同じ一年契約なんですよ。それなりの成績が上げられなければ、いつ解雇されるか分かりません。だから、今日みたいな休みの日でも、ついつい家で教材研究ということになります」
「毎週金曜が休みでっか?」
「ええ。水曜と木曜が、豊中市にある本校での授業です。金曜日が僕の休みで、土曜日曜は広島校、月曜、火曜は福岡校まで教えに行きます。週のうち、四日はここに居ないのですよ」
「毎週、出張講義でっか」
「大手予備校の講師はたいてい、東奔西走《とうほんせいそう》ですよ。僕なんかまだマシな方です」
「大学の先生とは、ずいぶん違うんですね」
由佳は、北野靖枝の長男である政昭が大学の教師を目指していることを思い出した。
「大学教員とは安定度が全然違いますね。僕はこの三月にちょっと病気をして予備校近くの医院に入院をしましたけど、もしも健康が回復しなかったら解雇されてしまうなって、不安を抱えた毎日でしたよ」
蔵田は、タバコに火をつけた。
「大学の先生になるのって、たいへんなんですか?」
由佳は、この蔵田も大学教員になりたいと思っていたのではないか、という気がした。
「普通に大学院を出た、という程度じゃだめですよ。よほど成績が優秀だとか、人脈にコネがあるとかでないと、難しいというのが僕の実感です。今、大学は第二次ベビーブームが頂点を下る平成四年以降を見越して、生き残りに必死ですから、教員定数を削減する傾向にあります」
「大学院を出ても、職のないオーバードクターという人も少なくないようですね」
「ええ。何を隠そう、この僕も予備校講師になるまでは、その一人だったんですよ」
蔵田は、少し寂しげに紫煙を吐いた。
「ほなら、そろそろここへ来さしてもろた本題に入りまっけど」
伸太は、太い膝にグローブのような手を置いて、居ずまいを正した。「さいぜん、電話でちょっと言いましたんやけど、あんさんは白浜のファイナル・ケア・カーサという生涯リゾートマンションを、脇本タカ子という人から買《こ》うたことになっとります」
「僕は、そんな白浜のリゾートマンションのことは、金輪際《こんりんざい》知りません。心あたりすらありません」
蔵田文孝は、タバコを消しながら真顔で答えた。「だいいち、そんなマンションを買うお金なんて、僕にはありませんよ。まだ予備校講師としては駆け出しですし、大学院の奨学金すら返せてないんですから」
「白浜に行ったのは高校時代に一度だけ、と言うたはりましたな」
「ええ、温泉は嫌いです。だいたい風呂というものを、ぼくはあんまり好かないのですよ。何となく時間の無駄だという気がしましてね」
「あんさん。法務局という役所はどんなとこか、知ったはりまっか?」
伸太は、数学関係以外の書物が一冊もない本棚を眺めながら尋ねた。
「人権擁護を担当しているところでしょ」
「ほう、よう知ったはりまんな」
「神戸の大学院に通っているときに、理事者側と院生の間でトラブルがありましてね。院生仲間が、法務局に人権擁護の救済申立てをしたことがあるのですよ」
「そないなことがおましたんか」
伸太は小さく頷いた。「法務局が登記を扱っているということは、知ったはりまっか?」
「トウキ、焼きものの陶器ですか?」
蔵田は真面目な顔で聞き返した。
どうやら、蔵田が脇本タカ子の所有権登記を動かした犯人、もしくは共犯者である可能性はなさそうだ。
「この似顔絵の人に、記憶はありませんか?」
由佳は、ファイナル・ケア・カーサの吉岡厚子の記憶を元に描いた二枚目男の絵を蔵田に差し出した。
「知りませんね。でも、この男、僕よりずっと利口そうな顔をしていますね」
ズラリ並んだ数学の本を背中に言われると、由佳の耳には慇懃《いんぎん》無礼にさえ聞こえる蔵田の喋り方だった。
「蔵田はんは何《なん》も知らんうちに勝手に名前が使われてしもていた、と判断して間違いなさそうやな」
蔵田の部屋を二人は辞去して、エレベータに乗り込んだ。
「そうね。人相も全然違うわ」
二十代の男性という共通項があるだけだ。「蔵田さんとしては、勝手に名義を使われていたことを、知りようがないの?」
「現在の制度では、法務局から『あなた名義で、所有権を得た登記がなされました』というような通知が行ったりはせえへんさかいな」
伸太はエレベータの下りボタンを押した。「前に説明したように、買主になるときは、住民票が要るだけや。住民票を取ることは、そないに難しいことやあらへん。そして所有権を売るときは、買主になったときに得た権利証を使《つこ》うたらええんや。あと、印鑑証明書が求められるだけや」
「蔵田さんの印鑑証明書が要るのね。それはどうやって、取ったのかしら」
一階に着いて、由佳はエレベータを降りた。
「おそらく、あれを悪用したんやろな」
伸太はエレベータを出たところにある、集合郵便受けを顎《あご》で示した。
「どういうこと?」
由佳は立ち停まった。
「印鑑証明書というのは、本人が役所に登録申請することが前提となる。蔵田はんの場合は、ここの住所地を管轄する灘区役所に印鑑登録申請書を出す。せやけど、申請書の記載事項は、住所・氏名・生年月日やから、住民票を得ておけば、たとえニセ者でも容易に書き込める。そのときに、ハンコを持っていって、区役所に実印として登録を申請しておくわけや」
「印鑑証明書は、それですぐに降りるの?」
「原則的にはすぐには降りひん。役所の方では、回答書を郵送する。その回答書を持って行けば、本人やということで、印鑑証明書を交付してくれるわけや」
「つまり回答書を持っているということが、本人証明になるのね」
「さいな」
伸太は、郵便受けの前にしゃがみ込んだ。「せやけど、郵送というのは、マンションなんかでは、この集合郵便受けに放り込まれるだけやさかい、その気になったら、こうして取れるわけや」
伸太は、ローマ字でKURATAと書かれた三段目の一番端の郵便受けを開けた。数学図書の出版社からのダイレクトメールと電話料金領収のハガキが入っていた。
「回答書は、区役所から書留で送られてくるわけじゃないのね」
「そういうシステムにはなってへん」
「回答書が送られてくる日は分かるの?」
「たいてい、印鑑登録申請をしたその日に、投函される」
「じゃ、蔵田さんみたいに、週に四日も部屋を開ける単身者の郵便受けからなら、容易に回答書を取れるのね」
「そういうこっちゃ」
伸太は、KURATAの郵便受けを元に戻した。「ニセ者の蔵田文孝としては、回答書を持参して再度区役所に出向けば、印鑑証明書が取れる。もちろん、実印として役所に登録したハンコは自分が持っとるさかいに、実印は押し放題や」
ファイナル・ケア・カーサの吉岡厚子は、買い戻し金の領収証に「蔵田」の実印が押され、印鑑証明書が付けられていることを強調していた。伸太はそれに対して「印鑑証明書というやつも百パーセント信用できまへんのや」と反応していた。由佳は、その意味がようやく分かった。
「もし、蔵田さんがすでに印鑑登録を区役所にしていたときは、どうなるの?」
「そんときは、実印を紛失しましたと申し出て、今と同じような方法で新たな印鑑登録をして、その印鑑証明書を得たらええんや」
由佳は、軽く溜息《ためいき》をついた。
権利証とか、印鑑証明書といった社会的に重要なものが、いとも簡単に別人に取られてしまう今の制度を改善する余地はないのだろうか。
二人は、京都市中京区塔池町に着いた。
二台のユンボが気忙《きぜわ》しく二条館を解体していた。二条館の庭に植えられた松や椎《しい》の木が、無残にもなぎ倒されていく。何十年もの樹齢が一瞬にして抹殺されてしまうとき、木は断末魔にも似た軋《きし》みを上げる。その軋みを消すかのように金属音の唸《うな》りを上げて、ユンボは獰猛《どうもう》な獣のように鉄の爪を振り降ろし続けている。
風情のあったべんがら格子の木塀はもはや跡形もなくなり、唐破風《からはふ》の屋根は半分以上が壊され、床柱や襖《ふすま》が剥《む》き出しとなっている。さながら、臓物を露《あらわ》にしながら、切り身にされていく鮪《まぐろ》のようだ。
地球の自然破壊とか環境保護ということが最近よく問題にされるようになっている。しかしただ自然だけでなく、人口建造物であったとしても、それをぶっ壊すときには環境の改変をきたすのだという事実を由佳は認識させられた。
脇本タカ子の住んでいた奥行きの深い家はもちろん、馬崎たちの棟割り長屋も、すっかり解体が終わり、更地《さらち》に変わっている。瓦の破片や壁土の小さな塊だけが、名残りとして地面に転がっている。そしてその間から、雑草が芽を吹き出しかけている。
ただ一軒、梅山理髪店だけがぽつんと残っている。しかし、理髪店のシンボルマークとも言うべき赤と青と白のだんだら棒は、もう店頭に掲げられていない。その代わりに、「長い間のご愛顧ありがとうございました」という貼り紙がされている。
「これでは、現場百回どころやあらへんな」
伸太は更地という名の廃墟《はいきよ》を横目に見ながら、梅山理髪店のチャイムを押した。
「ご苦労さんです。もう梱包《こんぽう》は終わってます」
意味の分からない梅山の声が返ってきたあと、扉が開いた。「あ、すんまへん。てっきり、引っ越しの運送屋さんやと思いましたんや」
梅山は、照れを隠すかのように髪の薄い頭を撫《な》でた。
「いよいよ、引っ越しでっか」
「ええ、残念やけどしようがおません。うち一軒だけが抵抗してもでけるものやおません。高層マンションに囲まれ、通風や日照を遮られて、商売をやっていけるわけはあらしません。そうかと言うてどこか近所に店を借りて、商売を続けるとしたら、高い賃料を取られます。理容料金というのは、組合で価格が協定されてますので勝手に値上げはできしません」
梅山は、苦笑を浮かべた。
由佳は、東京での昼食代が全国平均の倍近くかかるという、雑誌に乗っていた記事を思い出した。うどんにしろスパゲティにしろラーメンにしろ、東京での昼食代は高くつくそうだ。人件費が日本一である、内装代がかかる、需要に対して供給が少ない、といった事情もさることながら、地価の上昇に比例して賃借料が高騰していることが最大の原因だという。固定資産税のアップだって反映しているはずだ。食堂なら値上げも自由だが、理髪店はそうはいかない。かといって、梅山一人では、いくら切り盛りしても売り上げを伸ばすことは限度がある。喫茶店のようにコーヒーを運んでおけばあとは放っておいてもよいわけではなく、理容は付きっ切りのサービスが要るのだ。もちろん、客を長い間待たせるわけにもいかない。
「どちらへ引っ越さはりまんのや」
「府南部の城陽《じようよう》市へ行きます。京都市内に居よかと思たんですけど、手頃な値段の物件はあらしませんし、それに建都千二百年の古都が応仁の乱以来の町壊しで死に絶えていくところを見せつけられるのも堪《たま》りませんよって」
その梅山の語尾を、二条館で動くユンボの破壊音がかき消した。
「中へ入ってください。埃《ほこり》もかないませんやろ」
由佳はそう言われて、さっきからいがらっぽさを感じていた喉元《のどもと》を押さえた。
理容室の椅子は、すでに床から抜かれて、いつでも運搬できるように梱包《こんぽう》されていた。鏡も外されて、丁寧に包装され〈ワレモノ注意〉と紙が貼られている。
前に訪れたときと変わっていないところは、棚の上の熱帯魚の水槽だけといってよかった。
由佳は、水槽に顔を近づけた。ここだけは、悲劇的な地上げとは別世界を形作っていた。鮮やかな尾ひれのグッピーも、縞模様の美しいエンゼルフィッシュも、円盤のような体型で大きなせびれを持つディスカスも、前に見たときと同じように優美に泳いでいる。
「熱帯魚は、一緒に連れていかれるのですね」
由佳はふと心配になって訊《き》いた。新しい店に持って行けないということで、電源を切られてしまったら、罪のない魚たちは、とんだ立ち退きのとばっちりを受けたことになる。
「もちろん、運びますよ」
梅山は即座に答えた。「お嬢さんは、ずいぶん熱帯魚が好きなんですね」
「ええ、死んだ母が飼っていましたので、その影響です。あたし、中学生のときに、熱帯魚の水槽レイアウトをデザインする仕事ができたらいいなと思ったことがありますわ」
由佳は、水槽を眺めた。魚はみんな元気に動いていて、しっかり手入れが行き届いているのがよく分かる。ただ由佳に言わせれば、少し色彩に片寄りがある。ここに泳ぐグッピーもエンゼルフィッシュもディスカスも、青、黒、緑といった寒色系であることだ。由佳なら、赤い色の入ったソード・テールかネオン・テトラを入れるだろう。それが無理なら、せめて水草を、ここにあるような平凡なミズワラビではなくて、葉が赤紫色のクリプトコリネ・コルダータに変える。
「それほど興味をお持ちなら、魚を少し分けてあげましょうか。空《あ》いている水槽が一つありますから」
梅山は、後ろから声をかけた。
「いえ、そんな。せっかく仲良く泳いでいる仲間をバラバラに引き裂いてしまうのはかわいそうですから」
「そら、そうですな」
由佳の言葉に、梅山はひどく悲しそうな表情を垣間見せた。
(あ、そうか。梅山さんたちこの町内の人たちは、これまで仲良く平穏に暮らしていたのに、立ち退きによってバラバラに引き裂かれてしまうのだわ)
由佳は不用意な言い方をしたことに、自らを叱責《しつせき》した。
「ごめんやす。サンシャイン引っ越しセンターですけど」
表の扉がノックされた。
「はいはい」
梅山は、腰を浮かした。
「由佳ちゃん、じゃまにならんうちにおいとましよや」
「うん」
由佳は、グッピーたちに手を振って別れた。
ジュラルミンの車体に、派手な太陽のイラストの描かれたトラックから、数人の男たちが降りてきた。由佳は、彼らとすれ違うように、外へ出た。
脇本タカ子のときは、ペンギンがトレードマークの運送会社だったことを由佳は思い出した。脇本タカ子を恨む梅山は、わざと違う引っ越し業者に依頼したのではないか、という気がした。
「あ、義兄《にい》さん」
由佳は不意に浮かんだヒントに足を停めた。「白浜のファイナル・ケア・カーサを引き払った『脇本タカ子』は、どんな引っ越し業者に頼んだのかしら? 引っ越し業者を見つけて、問い合わせれば、はたして本物の脇本タカ子が依頼したのかどうか、そしてその移転先はどこだったのか、が掴《つか》めるのじゃない?」
「なるほど」
伸太は、由佳に歩調を合わすかのように立ち停まった。
「和歌山県内の引っ越し業者に、片っ端から電話をかけて、あたってみてはどうかしら」
「よっしゃ。ほなら、これから電話局へ行って、和歌山県の電話帳を見せてもらおう」
「和歌山県内だけに限定してはいけないかもね。和歌山県内の引っ越し業者の数って、そう多くないでしょう」
「そらそやな。ほなら、京阪神と奈良の業者を虱潰《しらみつぶ》しにやってみよや」
二人はさっそく、電話局へ向かった。
一軒ずつダイヤルをして、先月三十一日にファイナル・ケア・カーサ二一七号室で引っ越しの仕事を担当したかどうかを確認するという「言うは易く、行なうは難い作業」を二人は粘り強く実行した。しかし、指先と耳が痛くなったにもかかわらず、骨折り損のくたびれ儲《もう》けの結果に終わった。「うちで扱いました」と答えてくれた業者は居なかった。
「どういうことなの。東京あたりの引っ越し業者に頼んだのかしら?」
由佳は、げんなりした声を出した。東京に転居するということになったら、それも不自然なことではないかもしれない。
「あのファイナル・ケア・カーサのメガネオバケはん、まさかどないな引っ越し業者が来てたか憶えとらんやろな」
伸太は縋《すが》るように言った。「トラックに太陽のイラストがあったとか、ユニフォームにペンギンのマークが入っていたとか、そんなことでもええんや」
伸太は、倦まずにファイナル・ケア・カーサの電話番号を回した。
「さあ。トラックは来てましたけど、そんな太陽とかペンギンとかは何も見なかったように思いますけどね」
メガネオバケの吉岡厚子は、あっさりと伸太の期待を萎《な》えさせた。「それから、東京本社と相談して、警察に被害届を出すことにしましたわ。蔵田文孝さんの名義を勝手に使って、買い戻し金を受け取ることって犯罪になるんでしょ」
「へえ。詐欺罪と私文書偽造罪になるはずですワ」
伸太は力なく答えた。
「義兄《にい》さん、これからどうするの?」
「わいは代書屋や。あくまで登記の土俵で勝負するしかあらへんがな。けど、今日は、くたびれたうえに腹が減ってしもた。大阪へ帰って、特製のお好み焼きを食べてからやないとアイデアも出んワ」
まるで申し合わせたかのように、伸太の腹の虫がグーッと鳴いた。
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第四章 逆転の発想の逆転
翌日の朝刊に、京都駅の建て替えに関する特集記事が載っていた。
京都駅とその周辺は現在、都市計画法に基づき第五種高度地区に指定されており、最高でも高さ三十一メートル(総合設計制度を使ったとしても四十五メートル)の建物しか建てられない。京都タワーはそれ以上に高いが、これは「建築物」ではなく「工作物」ゆえに、現行法でも許される。
ところが今回「建築物」である京都駅の全面改築がコンペを通じてなされようとしているが、そのコンペ参加作品は、最も低いものでも五十九メートル、最も高いものでは百二十メートルに達している。京都市当局は「平安建都千二百年記念のモニュメンタル的建物である」ことを主な理由に、例外的な高さ規制緩和の意向を表明している。こうした市の姿勢に対し、地元の弁護士たちは「法制度の枠の中でコンペを行うのが法治国家の在り方である。京都駅ビルという特定の建物のために、コンペの結果に合わせて市が都市計画を変更しようとするのは重大な法律違反だ」と指摘し、市に再考を促す申し入れをしている。
市は、特例措置を認めるもう一つの理由として、駅ビルの公共性≠挙げている。しかし、駅ビルスペースの多くは、中に入るデパートとホテルで占められており、公共性と言いながら、その実は企業の営利性のためではないか≠ニいう批判もなされている。
(塔池町の立ち退きは、氷山の一角のようね)
駅ビルという京都の玄関口に関わる大きな問題だからこそ、こうして新聞に特集されるが、小さな一町内の地上げなど、記事にさえならない。しかし、日本一の地価高騰率と、相続税対策や不動産財テク、それに古都というブランドイメージの価値、という現状が変わらないかぎり、塔池町に限らず、さまざまな地上げと立ち退き劇が、京都の古い町並みを舞台にして展開されているはずだ。そしてその蔭《かげ》には、いろいろな人たちの涙と悲哀が込められているに違いない。
(本当にこのままでいいのかしら)
地価高騰の弊害が指摘されて久しいながら、東京↓大阪↓京都、という形であたかも伝染病が蔓延《まんえん》していくかのように、土地の値段は急騰し、さまざまな悲劇をもたらしている。行政の方は、これといった対策をしていない。いや、むしろ火に油を注いでいる面もなきにしもあらずだ。京都市のように高さ制限を緩和すれば、土地はそれだけ含み価値≠高めることになり、風情のある町並みの破壊と借家に住む庶民への追い立てに拍車がかかることになるだろう。
「はあぁ、よう寝たワ」
伸太がようやく万年床から起き出してきた。昨日は帰るなり、UFOのような特製お好み焼きを三枚ペロリと平らげ、ビールを飲んでそのまま寝てしまったのだ。「どや、ちょっと気分を変えて、朝飯は外へ食いに行こか。特別サービスで奢《おご》るで」
伸太は、吊《つ》りズボンのベルトを直した。
「起きるなり、食べに行くの?」
「腹が減っては戦がでけへんという諺《ことわざ》があるやないか」
由佳は伸太に引っ張られるようにして、〈朝定食三百円〉と貼り紙のされた近くの店へ入った。伸太は、こと食べ物に関してはさまざまな店を知っている。
「どや、ここは安いやろ。生卵とメザシと海苔《のり》と漬けもんと味噌汁に、御飯が大盛りで、しめて三百円やで。今日日《きようび》、なかなかこないな値段ではあらへんで」
伸太は満足そうに箸《はし》を動かしている。確かに、安いのは安いのだが、若い女性客は由佳だけだ。
「奢ってくれるって言うから、もっと高級なところかと思ったわ」
由佳は子供みたいにアカンベエをしてやった。
「安うて旨《うま》いのが高級グルメ、これが大阪の発想や」
「そうね。でも、きっと、京都ではその公式は通用されないわ。ムードや格式がなければ、高級感はないのよ。そうでなければ、茶道なんか成り立たないわ」
ついつい京都のことが頭を離れない。町人文化の街と、公家《くげ》文化の街は、東京育ちの由佳が考えていた以上に違う。大阪では安くないと売れない、しかし京都では上質ならば高くても売れる、という質的な差があるようだ。
「あのなあ、わい、昨夜たらふく食うたお蔭で、寝床でふいに考えが浮かんだんやけどな。脇本タカ子は、殺されたんとちゃうやろか」
伸太の言葉に、思わず由佳は噛《か》んでいた漬物を飲み込んでしまった。
「義兄《にい》さん、それ、あたしが昨日言ったセリフじゃないの。そのとき義兄さんは『またかいな』とバカにしたように言ったわ」
「確かに言うた」
伸太は由佳の攻撃をかわす盾のように、登記簿の謄本を差し出した。和歌山地方法務局南紀出張所で、昨日求めた謄本である。脇本タカ子から蔵田文孝名義へ、ファイナル・ケア・カーサ二一七号室の所有権が移転した記事が記載してある。「けど、わいが由佳ちゃんの考えに宗旨変えしたのは、根拠があるのや。この移転登記の登記申請書をわいらは閲覧したやないか。そのとき、〈添付書類〉として、申請書副本、蔵田文孝の住民票、脇本タカ子の権利証と印鑑証明書が付けられていたやないか」
「ええ、そうだったわね」
「そのうち、申請書副本はワープロで打ったらしまいやし、蔵田の住民票を取ることもそないに難しいことやあらへん。けど、脇本タカ子の権利証と印鑑証明書は、そないに簡単にはいかへん」
「でも――」
例の「蔵田文孝」の名前をかたった人物は、容易に権利証と印鑑証明書を得ていた。
「蔵田文孝名義で、買い戻しの登記をしたケースとは違うんや」
伸太は箸を置いた。「まず印鑑証明書の方やけど、ファイナル・ケア・カーサ南紀には集合郵便受けはなかったやないか」
吉岡厚子は、月十万円の管理費を取る見返りのサービスとして、二十四時間体制の医療サービスのほか、「クリーニング注文があれば取り次ぎますし、宅配便や郵便物は誤配のないようにスタッフが部屋まで届けます。お年寄りって、誤配があると結構うるさいんですのよ」と言っていた。
「次に権利証の方やけど、『脇本タカ子』から『蔵田文孝』に所有権を移転するときは、『脇本タカ子』が持っている権利証が必要なんや。それは、そのあとで『蔵田文孝』が買い戻し請求をするときに付ける権利証とは別のもんなのや。ちょっと図で示そうや」
伸太は、メモに次のように書きつけた。
「つまり、ニセ者の『蔵田文孝』としては、買い戻しのときは自分の持っている権利証を差し出したらいいだけだけれど、脇本タカ子から所有権移転を受けるときは、あくまで脇本タカ子が持っている権利証が必要なんや」
「脇本タカ子が持っている権利証を得ようとしたら、どうしたらいいの?」
「彼女の意思に反して得ようと思たら、勝手に持ち出すしか方法はあらへん」
「持ち出し……」
「二条館の駐車場の所有権が移されていたときは、北野靖枝はんの長女が、母親の持っていた権利証と印鑑証明書を勝手に持ち出した。けど、脇本タカ子には、そないなふうに家に自由に出入りでける身内はおらへん」
「だからこそ独りぼっちの老後に備えて、ファイナル・ケア・カーサに入居したのだったわね」
「そういうこっちゃ。とすると、あと彼女の部屋に何者かが押し入って権利証と印鑑証明書を持ち出したと考えるしか、ほかに可能性があらへんのやないか」
「脇本タカ子自身が、自分の意思に基づいて、権利証や印鑑証明書を提出したということは考えにくいわね」
「あのドケチとエゴの塊みたいな彼女が、あえて損をする買い戻し請求をするとはどないしても思えへん」
(図省略)
「じゃあ、やっぱり、勝手に持ち出されたと考えるべきね」
「さいな」
伸太は、メザシを旨《うま》そうにムシャムシャと食った。
「じゃあ、犯人は強盗みたいに、脇本タカ子の部屋に押し入って、権利証などを奪ったのかしら。その他の現金や預金通帳なんかも」
「そこらへんが、もうひとつ見えてこんのや」
伸太は、どんぶり鉢の縁《ふち》に付いて残った飯粒を、注ぎ込んだ茶で洗い流して、それを啜《すす》った。「脇本タカ子が殺されたとしても、いったい、いつ、どこで、誰に、どのような方法で殺されたのか? 死体はどこに隠されてるのか? まだ想像すらでけへん」
「あら! ブーやんたち、揃って朝帰りなの?」
家の前まで来るなり、山中のおばちゃんが窓越しに声をかけた。
「ちゃいまっせ。今、朝メシ食うて来たとこですねん」
伸太は、体育祭の応援団長のように大げさに両手を振った。
「恋愛は自由やけど、さっきからお客さんがお待ちかねだよ」
山中のおばちゃんの店から、背広姿の老若二人の男がゆっくりと外へ出てきた。
「和歌山県警南紀署の原竹といいます」
年配の方が代表して、警察手帳を示した。
「同じく、下森です」
若い方は、警察手帳を出さない代わりに、頭を下げた。
「ファイナル・ケア・カーサ南紀から、詐欺罪の被害届が出まして、その件で詳しい事情をお知りだということですので、来てみたのです」
「そら、ご苦労はんどす」
伸太は、自分の店のガラス戸を引いた。「わいもちょっと話したいことがおますねん。何やったら、お好み焼きでもどないでっか?」
原竹と下森は顔を見合わせた。
「さっき、隣でおでんをごちそうになりましたもんで」
下森が、小さい声で答えた。
伸太は、二人の刑事の質問に応じる形で、事情を説明した。脇本タカ子が殺されたのではないかという仮説はその段階では出さなかった。
「ファイナル・ケア・カーサから引っ越しを担当した業者のことを電話で照会しまくった人間が居るということですが、もしかしてあなたがたですか?」
ひととおり事情聴取を終えたあと、原竹はそう訊いてきた。
「ええ、そうでっけど」
「われわれも、同じように引っ越し業者を当たってみたのです。そうしたら一足先に調査していた人が居るということが分かったのです」
警察はさすがに素早く対応しているようであった。「しかし、われわれの調べでも、ファイナル・ケア・カーサから引っ越しを請け負ったという業者は出てきませんでした」
この謎も未解決だった。
「刑事はん、笑わんといてくれやっしゃ」
伸太は、タカ子が殺害されたのではないかという自説を披露した。
「下森、ちゃんとメモを取っとけ」
原竹は真顔でそう命じた。けれども、伸太の話を聞き終えたあとの言葉は慎重だった。「まだわれわれは捜査の端緒を掴《つか》んだばかりの段階です。私どもが当面捜査に当たらなくてはならないのは、被害届の出ているファイナル・ケア・カーサに対する詐欺行為です」
「脇本タカ子さんについての捜索願も出ていませんしね」
下森が、メモをする手を止めてそう言った。
「そら、当たり前でんがな。彼女には、捜索願を出す身内が居りまへん」
「そうですね。失礼しました」
原竹は謝った。「警察というところも税金で運営されている役所ですから、単なる失踪《しつそう》ということでは、直ちに殺人の疑いで捜査というわけにはいかないのです。しかし、あなたたちのお話を聞きまして、参考にさせていただくところはさせていただきます」
二人の刑事は、神戸の蔵田文孝の住所を訊《き》いたあと、「また来るかもしれません。そのときはよろしく」と言い残していった。
「由佳ちゃん。刑事はんたちに、『蔵田文孝』の似顔絵を見せなんだな」
伸太は、コップに水を満たしてぐいと飲んだ。
「どうせ、あの吉岡厚子さんから事情聴取しているんでしょ」
素人の意見を鵜呑《うの》みにするわけにはいかないとばかりに、脇本タカ子の失踪に直ちに取り組もうとしない刑事たちの態度が由佳には少し気に入らなかった。
「原竹刑事は、殺害されたと考えるだけのしっかりとした根拠が欲しいと、言いたげやったな」
「義兄《にい》さんだって、似顔絵を見せたら、と言わなかったじゃない」
「うん、わいは刑事はんたちに話しているうちに、ちょっと気づいたことがあるんや」
喉《のど》の渇きをいやした伸太は、どっかと丸椅子に腰を降ろした。丸椅子が、いつもながらの軋《きし》みを上げた。「わいらは、ファイナル・ケア・カーサに現われた『蔵田文孝』ばかりに気を取られ過ぎてへんやろか。これは、前に一度整理してみたことやけど」
伸太は、メモ用紙に次のように書きつけた。
@脇本タカ子は、京都市中京区の自宅敷地その他を売り払ったうえで、十月二十五日に白浜のファイナル・ケア・カーサへ家具や荷物を運送し、転居届を出す。
A十月二十六日、蔵田文孝という人物に転売したいと、東京本社に問い合わせる。
B十月二十八日、脇本タカ子から蔵田文孝へ転売する。
C十月三十一日、ファイナル・ケア・カーサを引き払う。同日、蔵田文孝から買い戻し権行使がなされる。そのあとの脇本タカ子の消息を知る者なし。
「わいらは、神戸の本物の蔵田文孝と会《お》うた結果、蔵田はむしろ住民票を勝手に使用された被害者や≠ニいうことで、まず間違いないという印象を得た。それに、さいぜん朝メシを食いながら言うたように、脇本タカ子の権利証と印鑑証明書は勝手に持ち出された可能性が高い。そうなると、Bの転売もその登記も、本物の蔵田文孝や脇本タカ子が、与《あずか》り知らないうちに勝手になされたと考えるべきや。となると、法務局南紀出張所へ訪れた『蔵田文孝』も『脇本タカ子』もニセ者ということになる」
法務局南紀出張所のカウンター係員は、「三十歳くらいの男の人がカウンターで喋《しやべ》って、そのうしろに六十前の女性が付き添っていましたね。この申請書に書かれた権利者と義務者じゃないですか」と言っていた。
「わいらは、六十歳くらいの女性ということが脇本タカ子と一致するので、そんときは本物の脇本タカ子かもしれへんな、と思た。せやけど、『蔵田文孝』も『脇本タカ子』もニセ者やとしたら、犯人は一人やのうて複数犯ということになるやろ」
「だとしたら、Aの問い合わせ電話を東京本社にかけたのも、おそらくニセ者の『脇本タカ子』ね」
「そういうこっちゃ。もし、本物の脇本タカ子が殺されたとしたら、@とAの間という可能性が強うなる」
由佳たちが会ったのだから、@の脇本タカ子は間違いなく本物だ。そしてそのあとほどなく、彼女は殺害されたのかもしれない。
「案外、ニセ者の『蔵田文孝』は補助者役で、ニセ者の『脇本タカ子』の方が主犯格かもしれないわね」
法務局南紀出張所のカウンター係員の証言にあった、「その後ろに六十前の女性が付き添っていた」という位置関係が、ニセ者の『脇本タカ子』の黒幕性を由佳に感じさせた。
「そやな。せやから、ちょっと行き詰まった観のある『蔵田文孝』よりも『脇本タカ子』の線を追いかける方が、案外早道かもしれへんのや」
「でも、本物の脇本タカ子がファイナル・ケア・カーサに転居したことを知っている六十前の女性って?」
由佳は、タカ子が京都・祇園のホステス出身ということを思い出した。もしも、かつてのホステス仲間ということなら、由佳たちの今の持ち札にはない。
「なんか、もうちょっとで、頭の中に推理がでけそうなんやけどな」
伸太はゆっくりと立ち上がった。「由佳ちゃん、ちょっと腹に何か入れに行こ。こんなときは、食うに限るワ」
「え、朝ごはん食べたばかりじゃないの」
「そんときに得たカロリーなんて、さいぜんの刑事はんとの事情聴取で、すっかり使い果たしてしもたがな」
「しかたないわね」
満腹になったときの伸太は時折、切れ味の鋭い仮説を出す。それに期待だ。
伸太は、由佳を自転車の荷台に乗せて千日前《せんにちまえ》まで連れていった。
さっきのように若い女性が一人もいないところには行きたくない、と由佳がリクエストを出したからだ。
「法善寺《ほうぜんじ》横丁を知っているか」
「織田作之助の夫婦善哉《めおとぜんざい》という本に出てくるところ?」
「さいな」
「お蝶《ちよう》さんと柳吉さんだったかしら」
お蝶は何事にもテキパキとしてしっかりしているのに、柳吉は病弱で「あんじょう頼んまっさ」が決まり文句である。読んでいて、男だったらもうちょっとしっかりしなさいよと歯がゆい思いをしたが、由佳としては、安珍清姫物語の男女関係より、ずっとお蝶と柳吉の方が好きである。
「その繊田作之助ですっかり有名になった店へ行きまっせ」
伸太は荷台の由佳をちょっと振り返った。「由佳ちゃん、あんじょう頼んまっせ」
夫婦善哉というそのものズバリの名前のぜんざい店は、法善寺横丁を入ってすぐの西側にあった。
「食べる前に、ちょっとお参りに寄ってこや」
自転車を停めた伸太は、夫婦善哉の隣にあるお堂へ足を運んだ。たくさんの提灯《ちようちん》が吊《つ》られた屋根の下に、普通の人間の倍くらいの大きさの彫像が立っている。彫像には、水々しい苔《こけ》がへばり付いている。
「これが有名な水かけ不動さんや」
伸太は、杓《ひしやく》を取って中に水を入れ、不動像に浴びせた。「こうしてお参りに来たもんがひっきりなしに水を掛けるよって、あんなに見事な緑の苔がむしてるのや」
「何に御利益《ごりやく》があるの?」
由佳もならって、杓で水を掛けた。
「よう知らんけど、男女の縁切りをお参りに来る人が多いそうや」
「男女の縁切りか」
「遠くて近きは男女の仲とも言うけど、男と女の間には深くて長い川があるとも言われるがな」
伸太には不似合いなセリフが口をついた。「この不動さんは、文字どおりどっしりしてはって、人の信心を集めてるありがたい存在やけど、土地とか建物の不動産の方はあかんな。どんどん背伸びして値上がりするさかいに、庶民にはマイホームはますます高嶺《たかね》の花になりよるし、地上げが横行して生活の場を奪われることにもなる。わいは、不動産と値上がりが縁切りでけるように、不動さんにお祈りするワ」
伸太はそうダジャレを言って両手を合わせた。
夫婦善哉の店内は、三坪ほどの狭いスペースだった。メニューは、一人前五百円の夫婦善哉のみだ。
その一人前は、赤と黒の二つの小さなお椀《わん》が並んで出てくる。二杯で一人前なのだ。
「なんで、こないなふうに二杯ワンセットなのか、分かるか?」
「夫婦だから、二つで一組ということかしら」
「という説もある」
「お金がないから、夫婦で仲良く、一杯ずつ食べた人が居たとか」
「そないなことも言われとる」
伸太は黒い方のお椀を取ったかと思うと、音を立てて食べ干した。「こうしていっきに食うてしもても、あともう一杯あると、得《トク》した気になるやろ。つまり、一杯山盛りよりも、ちょっとずつ二杯にする方がぎょうさん入っているように見えるがな。これは織田作之助の本に出てくる柳吉の説なんや」
「ふうん。でも義兄《にい》さんにかかったら、二杯でも三杯でも同じじゃない」
由佳がそう言うより先に、伸太は赤い方のお椀を持ち、箸《はし》を動かしていた。「中身が一杯分なのに、容器が二つなら、洗うお店の人は手間よね」
「さいな。せやから、わいの店のお好み焼きは、一人前を二皿にせえへんのや」
「そんな。お好み焼きを半分にしてしまったら、一目見ただけで半人前だって分かるじゃない」
由佳は笑った。ぜんざいは蓋《ふた》の付いたお椀に入っているから半人前でも一人前でも外見上は区別がつかないが、皿に盛るお好み焼きはそうはいかない。
「由佳ちゃん、それや」
伸太は箸を持ったまま、いきなり由佳の方を指差した。「わいがさっきから浮かびかかっていた推理が、ようやく捻《ひね》り出たで。やっぱりぜんざいを腹に入れたお蔭《かげ》や」
伸太は二つのお椀を置いた。
「ぜんざいやから、一杯分を二つに分けてもおかしいない。けど、お好み焼きやったら、不審に思う。人間の感覚てそんなもんや」
「どういう意味?」
「わいらは、脇本タカ子の失踪《しつそう》事件を知る前に、北野靖枝の自殺事件にでくわしてる。一方が行方不明で、他方が自殺、そやから死体が一つしかわいらの前に登場せえへんでも何や当たり前みたいに思てしまう。けど、これが、仮に二つとも殺人事件やったとしたら、死体が一つしか出えへんのはおかしいと考えるがな」
「えっ、二つとも、殺人事件なの?」
「たとえばの話やがな」
「あたしが、北野靖枝さんは殺害されたのではないかしらって考えたとき、義兄《にい》さんはあくまで反対だったじゃない」
「そうや。今でも、わいの考えは変わらへん。靖枝はんは殺害されたのではないと思うで。登記の付属書類に記された彼女の筆跡と、遺書のそれとは一致しとったんやから」
伸太は、赤い椀と黒い椀を差し替えた。「けど、わいは逆転の発想をしてみたらどないやと思うねん。すなわち、北野靖枝は自殺してへん、と考えるねん」
「どういうことよ。義兄さん、今遺書は靖枝さんの筆跡に間違いないと言ったじゃない」
「確かに、遺書は靖枝さんが書いたもんや。けど、靖枝はんは自殺してへん。つまり、靖枝はんは遺書を残して、さも自殺したかのように見せかけて、実は死んでへんのや」
「ちょっと待って、丹後半島で、靖枝さんの死体は上がったのよ」
伸太は赤い椀の上に黒い椀を重ねて置いた。
「死体は一つで、死者も一つ。靖枝はんが死んでへんとしたら、あの死体は、消息を絶った脇本タカ子や」
伸太はメモ用紙を取り出した。「わいらは朝メシを食うたあと、この@からCまで書いたメモを見ながら検討したがな。Aの問い合わせ電話をかけたのはニセ者の『脇本タカ子』で、本物の脇本タカ子はAの日つまり十月二十六日にすでに消息を絶っていたという仮説に達したやろ。そして北野靖枝の死体が上がったんが、十月二十九日で、死後二、三日経過するものとされた。計算は合うがな」
「じゃあ、脇本タカ子を殺したのは……」
「遺書を書いて、それを自らの死体やと見せかけた北野靖枝ということになる」
「まさか。あんないい人が殺人なんて」
由佳はかぶりを大きく振った。九年前の修学旅行でのことが、また思い起こされた。
「ええ人やから、犯罪を犯さへんとは限らんのとちゃうか。せやから、逆転の発想なんや」
「あたし、信じられない」
由佳の前の夫婦ぜんざいは、蓋を取られたまま、虚しく湯気を上げている。「いったい、靖枝さんがどんな動機で殺人を犯したというのよ」
由佳は、怒ったような口調になった。
「そこまではまだとても思い至らへん。ただ、わいは二条館の駐車場が抵当に入れられていたことが、ヒントになるように思うんや。長女の真奈美は、母親の権利証を勝手に持ち出さんならんほど金に困っていたこともあったし、その原因であるバクチ好きの夫とも、まだ別れてへんということやったやないか。となると、真奈美が金に困り果てていて、靖枝がそれを見るに見かねて、ということは考えられるやろ」
「でも、それなら、二条館の土地を売却しただけで、借金は返せるのじゃないかしら」
真奈美は、弟の政昭とともに二条館の土地所有権を相続し、堀川不動産商事に売っていた。
「いや、分からんで。バクチというのは、途方もない借金を作るというさかいな」
「じゃ、ニセの『蔵田文孝』を演じたのは?」
「長男の政昭やないかと想像しとる。根拠は二つや。まず一つは、あの登記申請書や。窓口で少し質問をしたとはいえ、それ以外ではあの申請書はちゃんとでけとった。何の知識もない者《もん》では、なかなかああはいかへん。けど政昭やったら、大学教授を狙うほどのインテリやから、少し勉強したらでけるのとちゃうか。書店へ行ったら、『自分でできる不動産登記』というような本も売られとる。もう一つは、真奈美と政昭が丹後半島まで、北野靖枝の遺体確認に行ったことや。さいぜん、和歌山県警の下森という若い刑事が『脇本タカ子さんについての捜索願が出ていません』と言うて、わいが『脇本タカ子には、捜索願を出す身内がおりまへんがな』と反論したやろ。そんときのやりとりが、わいにはずっと引っかかっとったんや。捜索願を書いたんは、身内である真奈美と政昭やろけど、彼らはそんときに脇本タカ子の特徴を北野靖枝の特徴として書いたんとちゃうやろか」
「どういうこと?」
「つまり北野靖枝とあらかじめ打ち合わせておいた真奈美と政昭は、梅山たち近所の者《もん》が北野靖枝の残した書き置きに気づいたあと、捜索願を警察に出す。捜索願の記載事項は、身長・体型・顔型といった身体的特徴と失踪《しつそう》時の着衣・所持品が主要なものや。身体的特徴として、わざと脇本タカ子のものを書くんや」
「脇本タカ子の身体的特徴を、北野靖枝さんの捜索願に書くの?」
「さいな。身長とかは死体のそれを計測したら、正確な数値が得られるわけや」
「着衣や所持品は?」
丹後半島で上がった死体は、和服姿であったと聞く。
「脇本タカ子を殺害してから、捜索願に書くものを、着せたり、持たせたらええんや。そして脇本タカ子の死体が上がったら、当然身内である真奈美と政昭は遺体確認につき合わされるわけや。そこで、『間違いなく母親です』と証言して、悲しみにくれる演技をしたら、脇本タカ子と北野靖枝が巧《うま》く入れ替わるやないか」
「捜索願に顔写真は付けないの?」
「脇本タカ子の写真を付けたらええんや。脇本タカ子を殺害して、ファイナル・ケア・カーサ南紀二一七号室の鍵を得たら、権利証や実印のほか、スナップ写真の一枚や二枚は手に入るがな」
「じゃ、脇本タカ子の顔写真が付けられたまま、捜索願は警察に保管されているのかしら?」
だとすると、伸太の今の推理は検証が可能だ。
「いや、自殺死体として処理されたら、遺族は捜索願の取り下げと写真の返却を求めることができるはずや」
「そう……」
由佳はこういうふうに言われてみると、なかなか反論のしようがない。けれども、どこか納得できないのだ。
「丹後半島の警察は、詳しい捜査をしなかったのかしら」
「北野靖枝の筆跡に違いない遺書の存在が大きいで。遺書があって自殺やと判断されたなら、犯罪絡みのものやなくなるさかいに、警察としてはそれほどの精査はせえへんやろ。北野靖枝のふるさとで、捜索願どおりの特徴の遺体が上がり、娘と息子が揃って『母親です』と証言しとるんや」
「でも、梅山さんたちも同行したのよ」
「同じ町内に住む人間というだけでは、遺体確認はせえへんやろ。息子と娘が、泣きじゃくってたら、とても疑うどころではないやろしな」
「じゃあ、義兄《にい》さんは、北野家の家族ぐるみの犯行という考えなのね」
「そないなる。北野靖枝の故郷ということは、人間はふるさとで自分の人生の終わりを告げたがることが少なくないと、自殺説の根拠の一つになっとったようやけど、そいつは裏を返せば北野靖枝が犯行をしやすい土地鑑を持っている場所やということやったんや」
「それじゃ、Aの問い合わせ電話をかけたニセ者の『脇本タカ子』も」
「北野靖枝とちゃうか。法務局南紀出張所へ『蔵田文孝』とともに訪れた『脇本タカ子』も北野靖枝やろ。六十前の女性という法務局職員の言葉と合致するがな。わいらは北野靖枝は死んだと思てたから、そないな年齢の女性は知らんなと錯覚したのや」
「ちょっと待ってよ」
由佳は、クラッチバッグの中から、ニセ者の『蔵田文孝』の似顔絵を出した。「この人相、政昭さんとはずいぶんと違うんじゃない」
政昭は、堅いイメージの学究顔で、危険な香りのする二枚目ではない。
「そら、あのメガネオバケはんの記憶が正確やなかったんや。彼女自身が、近眼だからそれほどの自信はありませんと言うてたやないか」
「うーん、そうなのかしら」
由佳は、眼の前に置かれたままの二杯のぜんざいを見つめた。いくら入れ物が二つでも、所詮《しよせん》一人前のぜんざいである以上、中身は一杯分なのだ。
それと同じように、死体は一つしか出ていないのだから、一人は死んで一人は生きていると考えると確かに一応の辻褄《つじつま》は合いそうだ。けれども、由佳は何としても、あの優しい北野靖枝が殺人行為をしたとは考えたくなかった。いくら九年が経っているといっても、そんなに人間の本質がたやすく変わるものだろうか。
「証拠はあるの?」
「いや、今思いついたばかりや。裏付けを取るのはこれからや」
由佳はまだぜんざいに箸《はし》すら付けていないのに、伸太は早くも大きな尻を上げたがっている。
「どこへ行くの?」
「とりあえず、北野靖枝の長女、真奈美のところを尋ねてみよと思てる。彼女は大阪に住んでるはずや」
「でも、大阪のどこなのか、詳しいことは分からないわ」
「登記簿を見たら分かる。二条館の土地は、北野靖枝から、相続によって、真奈美と政昭に所有権が渡って、そのあとで堀川不動産商事に転売されたんや。せやから、登記簿を見たら、相続人である真奈美の住所は書いてあるんや」
登記簿で調べた『豊中市青井二丁目六番七の二十五』にあるハイツを訪れた伸太と由佳であったが、北野真奈美(現姓は井坂)の名前は、表札に掛かっていなかった。ガスメーターに針金で括《くく》られた付箋《ふせん》が現在閉栓中であることを教えている。
「もしかして、引っ越したのかしら」
「そうみたいやな。一階に管理人室があったようやから、訊《き》いてみよ」
伸太は、下を親指で示した。
「五日前の月末に、出て行かはりましたで」
管理人は、カレンダーで確認しながら答えた。五日前の月末と言えば、『脇本タカ子』がファイナル・ケア・カーサを引き払った日である。「それがちょっとけったいな具合ですのや」
管理人はいったん中へ消えた。
由佳は不吉な予感に捉《とら》われた。また新たな事件が始まるのではないか。
「わしらには何の伝言もなしに、ここの入居|斡旋《あつせん》をしている会社に電話で『退去します』と通告があったそうですのや。会社の係員が、『文書で解約通知をする規則になっています』と答えたら、こんなワープロで打ったものが寄せられてきたそうでっせ。これはそのコピーですのや」
管理人は、コピーを示した。
〈一身上の都合により、本日付けで退去します。
急に退去する場合は、一カ月分の家賃を収めることになっていますので、同封します。敷金については、権利放棄しますので、返却は不要です。
平成二年十月三十一日  井坂源三・真奈美〉
「ほう、敷金の返還権は放棄したんでっか」
伸太は細い眼をしばたたかせた。
「放棄言うても十五万円でっけど、あれだけピーピーなんぎしとった人がえらい勢いや」
「ピーピーなんぎしてたって?」
「源三はんは、サラ金にぎょうさん借金をこさえとんのや」
「それはここ最近のことでっか?」
「いやいや、前からひっきりなしに続いとる。ここへ引っ越してきて一年くらいになるけど、いきなり取り立て屋がやって来たもんや」
二条館の駐車場が抵当に入れられていたのは、約一年前のことだった。「かつては腕利きの大工はんやったそうで、美術品専門の工務店にいて、もっとええとこに住んだはったそうやけど」
「バクチが好きやったそうでんな」
伸太は、そのことを梅山から聞いていた。
「そうでんねん。仏像修理中に足場が崩れて右腕を痛めてから、ロクに仕事がでけんようになって、バクチに走ってウサ晴らしをしとるようでっせ」
「源三はんが仕事をロクにせえへんかったら、生活は?」
「奥さんの真奈美はんが近くの医院で受付のパートをしてはりまんねけど、家計としては焼け石に水の状態とちゃいますやろか」
管理人は、ちょっと言葉を切った。「これは隣室の奥さんに聞いたんでっけど、真奈美はんは結婚する前に看護婦さんをやっていて、入院してきた源三はんに一目惚《ひとめぼ》れしはったそうですのや。すでに世帯を持っていた源三はんは妻子と別れて、真奈美はんと一緒になったわけです。それだけに、真奈美はんとしては源三はんと別れられへんのとちゃいまっか」
二人は、管理人に礼を言って、ハイツをあとにした。
「それにしても、よく喋《しやべ》る管理人だったわね」
「人の口には戸を立てられんと言うけど、とくに大阪には、あないな人間が少のうないで。まあ、こっちは助かるけど」
伸太は口調が軽い。
「義兄《にい》さん、自分の推理が当たっていると思っているのでしょ」
「そらあ、あんなふうに行方をくらまして、転居先を言わへんというとこが怪しいがな」
「でも、電話で通告があったなんて、まるで脇本タカ子の場合と同じじゃない」
由佳としては、北野靖枝も、そして真奈美も、殺人事件に加担しているとは考えたくなかった。
「ほな、井坂一家の失踪《しつそう》は、あるいは殺されたからかもしれへんと、由佳ちゃんは考えるのか」
「その可能性は、否定できないわ。電話で退去を通告してきたのも、ワープロで賃貸借の解約通知をしてきたのも、真奈美さんたちだとは限らないのよ」
由佳は、真奈美・源三の一粒種の卓也のことが気になった。まだ幼稚園には行っていない年齢かもしれないが、どこかで淋しい思いをしているのではないだろうか。靖枝の葬儀の際に、卓也が信号を見誤って道路に飛び出したところを目撃しているだけに、由佳としてはひどく不安に駆られる。いや、最悪の場合は、卓也を含めて、親子三人が殺害された惨劇の可能性もなきにしもあらずなのだ。
真奈美がパートで受付をしていたという医院も訪ねてみたが、突然「やめさせてください」と先月末に電話が入ったあとパッタリ姿を見せなくなった、と医師が困った顔つきで話していた。
「ここから神戸は、結構近いな。すぐ隣が兵庫県の尼崎《あまがさき》やで」
伸太は阪急電車の豊中駅で、運賃表を見上げた。「もういっぺん、神戸の方まで足を延ばして、蔵田文孝に会うてみよや」
「会ってどうするの?」
「北野靖枝のことを知らんかどうか、尋ねてみるんや。こないだは、あんたの名前を借用した人に心当たりおませんか、という漫然とした訊きかたしかでけなんだしな」
「でも、それなら電話でもいいんじゃない」
蔵田文孝が北野靖枝を知っていると答えたら、伸太の推理がそれだけ補強されることになる。それはとりもなおさず、彼女が殺人を犯したという確率を高めることになる。由佳はどうも気が進まない。
「途中で、寄っておきたいとこがあるんや」
伸太はそれ以上は言わずに、一人分の切符を券売機で買った。
「待って、あたしも一緒に行くわ」
こうなったら、乗り掛かった船だ。
伸太は蔵田のアパートに立ち寄る前に、灘区役所に立ち寄った。
「本物の蔵田文孝は、知らない間に印鑑登録されたうえ、勝手に印鑑証明書を使われたと推測でける。そいつを確認しとくんや」
区役所の窓口職員と押し問答をしたあげく、ようやく伸太は印鑑登録申請書の綴《つづ》りを見せてもらった。その申請書に書かれた文字は、前にファイナル・ケア・カーサで見た買い戻しの請求書と同じく、筆跡を隠すような角張った字体であった。
「おや、こんなところで」
後ろからかけられた声に振り向くと、和歌山県警の原竹と下森が立っていた。
「刑事はんは、何でここへ来はったんでっか」
「蔵田さんからの事情聴取を終えて、どうやら彼の印鑑証明書が勝手に使われたということだから、それがどのように請求されたか確かめようと思いましてね」
「なんや。もうちょっと早《は》よ来てくれはったら、警察手帳の威力ですんなりと見せてもろたのに」
伸太はズッコケた。
「印鑑登録の申請書、触ったんですか?」
下森が心配そうに覗《のぞ》いた。
「指紋でっか。たぶん、相手は手袋をしてたと思いまっせ。けどわいは一応、注意して触らんようにしましたけど」
伸太は顎《あご》でカウンターの中を示した。職員には、とてもそこまで求めるのは無理だ。申請書に職員の指紋がベタベタと付いていることは避けられない。
「刑事はん、ちょっと話したいことがおまんね」
伸太は思い切ったように、言葉を出した。「調べてほしいことがおます。前にもちょっと言いましたけど、これは単なる詐欺事件とは思えまへんのや」
こうして伸太が先回りしていたという実績があったためか、伸太が再度申し出たためか、原竹刑事たちは区役所のホールの椅子に腰掛けて、話を聞く姿勢を見せた。伸太の推理の核である、北野靖枝とされた死体≠ェ実は脇本タカ子のもの≠ナはなかったかという点については、原竹自身がメモをとる熱心さを見せた。
「あたし、ほんとは刑事さんに話して欲しくなかったな」
原竹たちと別れて、区役所を出た路上にあった空き缶を由佳は蹴飛ばした。空き缶はコロコロと転がって、植え込みのところで止まった。
「警察の力を借りんと難しいことや。捜査権のないわいらには限度がある」
伸太は、空き缶を拾った。
「警察の力を借りたことを、非難してるんじゃないの。義兄《にい》さんが、北野靖枝さんたち一家が犯人だって決めつけているのが、嫌なのよ」
「そないなつもりはあらへんけど」
伸太は近くのゴミ箱に、空き缶を放り込んだ。
「でも、もしもよ。靖枝さんたちが何もしてなかったら、人権侵害になるのじゃない」
「うん。そら、まあ……」
伸太は空き缶を投げ込んだままのポーズで、手を止めた。
「あたし、仮に靖枝さんたちが犯人だとしても、本当に彼女たちだけが悪いとは思わないのよ。地価の高騰とか、地上げの横行とか、登記制度の不備とか、非難されるべきものはたくさんあるわ」
由佳に言わせれば、京洛興産のような業者が野放しになっていること自体が、悪いことだと思える。
「確かに、そのとおりや。わいは、そんなことが少しでも世の中からなくなってほしいと、切に願っとる。たとえ微力でも、わいなりに、頑張ってるつもりや。せやけど、社会が悪いからというて、犯罪を犯してええというもんやないやろ。被害者がひどい人間やから、何をしても許されるということはあらへんやろ」
伸太は細い目を光らせた。「由佳ちゃん、あんさんは靖枝はんがすごくええ人やというとったな」
「親切で優しい人よ」
「わいはな、いつも思うんやけど、ええ人であればあるほど、もし何らかの事情で罪を犯してしもたら、その罪の意識に苦しむんとちゃうか。空き缶一つでも、何の抵抗もなくポイ捨てをする者《もん》も居《お》るけど、うっかり捨ててしまったあとで、悪いことをしたと後悔する人間も居《お》る」
「ええ、それは分かるけど」
「罪を犯してしまったあと、それが発覚しないということは、善良な人間にとっては実は苦しいはずや。ほんまに受けるべき罰をまだ受けとらんのや。そしてそれがいつ発覚するか分からへんさかい、よけいにしんどいはずや」
「でも、あたしなら、自首するわ」
「自首が容易にでけるときはええ。けど、いろんなしがらみで、自首のでけんことかてあるで。たとえば自首をすることで、人を巻き込んだり、不幸に陥れてしまうときかてあり得るはずや」
伸太はゴミ箱を少し持ち上げて由佳の方に見せた。〈町をきれいに 老人クラブ〉と白ペンキで書かれている。
「このゴミ箱は、こうして設置されたお蔭《かげ》で、目立たんかもしれんけど、毎日人の役に立っとるんや」
伸太はゴミ箱を元に戻した。「罪を犯してしまったあと自責の念に苦しんでいる者《もん》に、言うに言えなくてじっと苦しみ持っている気持ちを捨てることができるゴミ箱がそっと差し出されたら、きっと楽になるはずや。わいは、そんなゴミ箱になりたいんや」
「ゴミ箱か……」
「自ら告白することはできないが、内心誰かが告発してくれることを待っている善人のためのゴミ箱や。ちょっとでっか過ぎるサイズやけどな」
伸太は、ドラムカンのような巨体を揺すりながら、ゆっくりと歩き始めた。
「北野靖枝ですか、いえそんな人物は知りません。名前を聞いたこともありません」
蔵田文孝は即座に否定した。
「ほなら、北野政昭という男は知りまへんか? あんさんは、オーバードクターやったて言うたはりましたやろ。この北野政昭は名古屋の方で、大学の教官を目指してはるということで、やはりオーバードクターみたいな存在やと思いますねん」
「名古屋ですか。僕は名古屋は新幹線で通ったことしかありませんよ」
蔵田文孝は小首をかしげた。「僕は生まれたのも神戸ですし、幼稚園から大学院に至るまでずっと神戸市内を出てません。今の勤め先の予備校だって、豊中本校と、あとは広島校と福岡校ですよ」
「けど、たとえば大学院生同士の繋《つな》がりで、何か大会があったとか、サークルに属していたとか、おませんのか」
「いえ、僕はそういった類の交流が嫌いでしたから。もっとも、つきあいが悪かったから結局助手に取ってくれなかったのかもしれませんけどね。大学というところは、人脈社会ですからね。金を使って、主任教授や理事に贈り物をする奴が案外多かったりするんですよ」
蔵田は、だんごっ鼻をさすりながら、軽く笑った。
「大学院生の名簿みたいなんはおまへんのか」
「少人数でしたからそんな立派なものはなかったですよ。せいぜい専攻学科ごとに、便箋《びんせん》に線を引いて、名前と電話番号を書いたものをコピーした程度です」
「それには、生年月日は書いてまへんのやな」
印鑑を登録するには、住所はもちろん、生年月日が要る。
「そんなもの載せたってしかたないでしょう」
蔵田は、今度は前歯を見せて大きく笑った。
「由佳ちゃん、北野政昭の似顔絵を出してんか」
伸太に説得されて、由佳は政昭の似顔絵を描いて、持って来ていた。靖枝の葬儀のときに見ているから、出来栄えには自信があった。
「この男ですか? やっぱり、知りませんよ」
蔵田はかぶりを振った。「この前に見せてもらった似顔絵とは、ずいぶん違うじゃないですか」
「これでっか」
伸太は、ファイナル・ケア・カーサに現われたニセ者の蔵田文孝の似顔絵を出した。
「どう見ても別人に映りますけどね。この絵が正確であればの話ですが」
本物の蔵田文孝は、二枚の似顔絵を見比べてそう言った。
「義兄さんの推理、やっぱり、外れてるんじゃない」
由佳は、遠慮がちに言った。
「いや、そうは思わんで」
伸太は、まだまだという顔をした。
「でも、似顔絵が違っているのは?」
「ファイナル・ケア・カーサに現われたニセ者の蔵田文孝と対面したのは、あのメガネオバケはんだけやしな」
「彼女が近眼だということに、義兄さんこだわり過ぎじゃない」
「そうかもしれんけど」
伸太は、さっき由佳が書いたばかりの北野政昭の似顔絵を取り出した。「あのメガネオバケはんのところへ郵送してみよと思てんのや。ほんまは、こないな男やなかったかと」
伸太は、それを実行した。
二日後の十一月七日、白浜の吉岡厚子から、速達で返答が送られてきた。
「前略。本日新しい男性の人相書きをいただきましたが、私が会いました人物ではありません。もっと四角い顔の輪郭でした。鼻の形もずいぶん違います。輪郭や鼻の形は、骨格ですから、変装はできないはずです。  敬具」
彼女の片意地な性格が窺《うかが》われそうな短い文面に、由佳は微笑《ほほえ》ましい思いさえしたが、伸太は少しがっかりしていた。
そしてその伸太をさらに落胆させる来訪者が、夕刻に姿を見せた。
「やあ、突然お邪魔してすみませんな」
和歌山県警の原竹が、のっそりとやって来た。後ろに、下森が影のように寄り添っている。
「この前は、いろいろと示唆をもらいましてどうも」
原竹と下森は、伸太に勧められるままに、店の丸い木椅子に腰を降ろした。「あなたにもらったヒントを検討してみました。正直申しまして、丹後で上がった死体が、北野靖枝ではなく脇本タカ子ではないか、という点はとても興味深く拝聴しました。われわれの所属する南紀署でも死体の上がった伊根署でもそうなのですが、大都市でなければ監察医制度がないのですよ。監察医制度がない地方では、臨床医が検死をして死因を決めています。医師であれば、何科の医師でもよいということになっています。私はこれで充分な検死ができているのかと、常々疑問を抱いている人間でしてね」
由佳は、〈ただいま準備中〉の札を店の表に出した。原竹の話は長くなりそうだった。
「そんなわけで、私はこの下森と一緒に京都府警本部へ行っての帰りに、ここへ立ち寄らせてもらったというわけですよ」
原竹は実直そうな語り口で、喋《しやべ》り始めた。
「京都府警本部まで行かはったんでっか。どうもご苦労はんです」
伸太は素直に頭を下げた。由佳は、水の入ったコップを四つ運んできて、伸太の横に座った。
「結論から申しますと、伊根署はただ単に、北野政昭や真奈美が提出した捜索願の記載のみに基づいて、遺体を北野靖枝のものと判断したのではありませんでした。遺体が傷んでいて指紋の採取ができなかっただけに、慎重だったのです。すぐに中京署へ連絡して、二条館の在宅毛髪を取っていました」
「在宅毛髪って、何でっか?」
「住まいから採取される毛髪のことです。二条館の、いつも靖枝さんが使っていた化粧台のブラシやナイトキャップから毛髪を十数本採取して、それを遺体の毛髪と照合していたのです。太さ、形状、色調、パーマの状態など、完全に一致していました」
「それは死体発見後に直ちに検証しはったのでっか」
「ええ、そうです。警察は、北野政昭や真奈美の『母に間違いありません』という言葉を鵜呑《うの》みにしていたのではありませんよ」
「はあ……」
伸太の返事は元気がない。
原竹は、そんな伸太をさらに追い打つかのように言葉を続けた。
「遺体から採取された毛髪は、現在まだ中京署に残っているということでした。そこで私どもは二条館を訪れてみました。二条館はすでに解体されて更地《さらち》になっていましたが、靖枝さんが使っていた洗面台のあったところを掘り返してみたところ、地中から配水管が出てきました。配水管にへばり付いた毛髪があったので、私はそれを京都府警の科学捜査研究所に持ち込みました」
原竹が京都府警本部へ寄ってから、こちらへ来たと言ったのは、そのためであった。「一人暮らしである靖枝さんが使っていた配水管から出てきた毛髪は、丹後半島の遺体のそれとも、死体発見直後に採取された在宅毛髪とも、見事なまでに合致していました」
「労さえいとわなければ、たとえ死体を荼毘《だび》に付しても、検証は可能なのですよ。丹後半島で自殺したのは、やはり北野靖枝だということが再確認できたのです」
下森が少し誇らしげに、付け加えた。
「北野靖枝が脇本タカ子を崖から突き飛ばしておいて、自らが死んだように遺書を残した――というあなたの考えには、他にも難点があります。調べてみたのですが、北野靖枝はじめ、政昭も真奈美も、車の免許は持っていません。車がなければ、あんな断崖へ行くことは、できませんよ」
「それに、脇本タカ子がどうしてあのような場所へノコノコ付いて行ったかも説明できません。現場へ行ってみたら分かりますが、人気《ひとけ》がなくて、とても危なっかしいところです」
下森が追い打つように言った。「そのうえ、北野靖枝の遺体は、政昭や真奈美に付き添って丹後半島に行った同じ町内の住人たちによっても確認されています」
「そうでっか」
伸太は水を飲んで、唇を一文字に結んだ。丹後半島へ足を延ばしていないのが、伸太の弱みであった。
「それから、政昭さんですが、愛知県警に照会したところ、彼は名古屋の方で逃げも隠れもしていませんでした。もうすぐ、アメリカへ留学するそうですが」
「けど、真奈美はんは、行方をくらましていました」
「そりゃ、あるいはまた別の事件が起こったという可能性は考えられますな」
原竹も、水を一口飲んだ。
「でも、脇本タカ子さんの消息は、まだ掴《つか》めてないのでしょ」
由佳は、伸太が肩を落としている姿がかわいそうになってきた。
「ええ、まだです」
「それに、神戸の蔵田文孝さんが、脇本タカ子さんのファイナル・ケア・カーサの部屋の買い戻し人として名前を借用されたのは、事実ですわ」
「それは、われわれが鋭意捜査します」
下森が、強い口語で言った。
「脇本タカ子さんは、自宅や借家を処分して、相当の現金や預金を持っていましたわね」
由佳は喋《しやべ》りながら、あるいは脇本タカ子は、自分たちが関わってきた事柄や人物とは全く関係のないところで、犯罪に巻き込まれたのではないか、という気に捉《とら》われ始めていた。たとえば、脇本タカ子のホステス時代の仲間が、彼女が借家などを売り払って財産を得たことを聞いて、知り合いの情夫を蔵田役に仕立てて実行したかもしれないのだ。もしそうだとしたら、とんだ見込み違いをしてきたことになる。
「逆転の発想が頭に浮かんだときは、これやと思いましたんやけど」
伸太は半ばうわごとのように言いながら、自分のコップと由佳のコップを並べた。夫婦善哉を食べながら、赤いお椀《わん》と黒いお椀を入れ替えたときと同様の仕草を、伸太は鈍重な動作で行なった。しかしいくら入れ替えても、所詮は同じコップであった。
「逆転の発想は、逆転負けなんやろか……」
伸太は低く呟《つぶや》いた。
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第五章 町衆の怒り
京都の開発をめぐる問題は、その後も新聞紙面をしばしば賑《にぎ》わしていた。
◎京都市内にこれまでなかった高速道路の建設計画が、本格化し、新十条通が高架高速道路となり東山の一部をトンネル貫通する予定である。
◎JR二条駅周辺整備事業計画が実現の道を歩き始め、二条駅舎が改築され始めた。
◎大文字山の山麓《さんろく》北側が百七十ヘクタールに及んで不法開発されて、そのうちの一部はヘリポート用に舗装され、使用されていた。
このような動きに対して、住民側も町並み保存の運動を展開するようになっている。
◎鴨《かも》川上流に京都府はダム建設を表明していたが、地元住民らは鴨川の生態系の破壊や水質悪化などを理由に反対。ついに京都府にダム建設計画の撤回を表明させた。
◎中京区|笹谷《ささや》町では、全国的にも珍しい都心部での建築協定を実現し、五年間は建物の高さは三階で十三メートル以内にするという制限を住民の力で勝ち取った。
(もっと住民側に頑張って欲しいわ)
記事を読みながら、由佳は声援を送った。住民側には、権限も財力もない。運動を高め、それを継続していくのは大変だろうと思われた。それだけに、よけいに住民側に肩入れしたくなる。
(一部のお金持ちや企業が、京都の景観を食い荒らすのは許せないわ)
京都に住む庶民だけでなく、京都を訪れる内外の観光客の大部分も、これ以上京都の町並みが壊されていくのを望んでいないはずだ。ただお寺と神社さえ残っていれば、古都と言えるわけではないのだから。
由佳は、何度か京都に足を運んで、想像していた以上に、高層ビルやマンション建設が無秩序に進んでいることを肌で感じた。地域によっては、「もう手遅れだわ」と思ってしまうところさえ散見できる。隣にマンション、裏手にビルというふうに囲まれてしまうと、日照、電波障害、ビル風、プライバシー侵害、落下物、不法駐車駐輪、暴力団入居などのさまざまな問題が起こるようだ。その結果、古い木造家屋に居る人たちは、ますます住んでいられなくなって出ていくことになる。たとえてみれば、高速道路を全く同じ条件で、ダンプと自転車が往来するようなものだ。いきおい、自転車は脇に押されて、ついには通れなくなってしまう。
本来は、行政が自転車しか乗れない弱い庶民のために、交通規制すべき立場にあるべきと思うのだが、むしろ行政は輸送効率の良さを理由にダンプが走りやすいような政策を進めている、というのが由佳の受けた印象だ。
(祇園祭を始めた京の町衆たちが、今の状態を見たら嘆息するに違いないわ)
かつての京の町衆たちは、古き都でありながら山紫水明《さんしすいめい》の美しい景観を守ってきた京都に、強いプライドを持っていたことだろう。もちろん、それぞれの時代にも、新しさを取り入れる必要性や変化に対応しなくてはならないことはあったはずだ。そんなときでも、京の町衆たちは、伝統を守りながら巧みに、進取の姿勢を取ってきたと思えるのだ。日本で最初の小学校も、市電も、疎水も、そうした素地の下に生まれてきたはずだ。ところが、今の京都の開発はやみくもで、かけがえのない伝統をぶち壊しているという思いを由佳は拭《ぬぐ》えないのだ。
(別のことで、嘆息している人がここに一人居るわね)
新聞をたたんだ由佳は、伸太の方を見つめた。和歌山県警の原竹たちが帰ってから、二日が経つ。伸太は、その二日間というもの、ずっと元気がない。寝酒代わりのビールを飲まないのはもちろん、食欲までもが減っている。お好み焼きの材料のキャベツを買いに出かけながらうっかり財布を持って行かなかったり、二往復してようやく買ってきたキャベツを刻むときに包丁で指先を傷つけてしまったりしている。
「やはり、事件の推理のことが気になっているのだわ」
北野靖枝一家が脇本タカ子を殺害したのではないか、という伸太の仮説は、原竹たちによって否定された形となった。けれども、それですべてが解決したわけではない。タカ子の行方は以前として不明のままであるし、彼女が入居していたファイナル・ケア・カーサの一室が、誰の手によってどういう理由によって買い戻し権を行使されたかは何も分かっていない。
「名古屋の政昭はん、もうすぐアメリカへ留学するということやったな」
伸太は、ボンヤリとした口調で言いながら、丸椅子に腰を下ろした。
「ええ、刑事さんがそう言ってたわ」
「その金、どこから調達したんやろ」
「アメリカ留学くらい、何とかなるのじゃない」
「けど、政昭はんはまだ定職に就いてへんかったんとちゃうか」
「アルバイトでも、塾とか家庭教師とかはすごく時給がいいのよ。義兄さんの生活感覚で計っちゃいけないわ」
「さよか」
伸太は、力なく答えて、指先に巻《ま》いたバンドエイドを剥《は》いだ。
「もう痛くないの?」
包丁で傷つけたときは、伸太は大げさに「痛《いて》てっ」と叫んだものだった。
「大丈夫やで」
伸太はしげしげと指先を見つめた。「人間の指は不思議やなあ。こうして傷をしても、ちゃんと指紋は元通りになりよる」
伸太は指先の皮膚をちょいと引っ張った。伸太はこんなところにも、人一倍の脂肪が付いている。
「丹後半島で上がった死体は、魚に食われて指紋が取れなかったということやけど、だいぶん食われていたんやろな」
「義兄《にい》さん、そんなに気になるなら、徹底的にやってみたらどう? 名古屋の政昭さんのところでも、丹後半島の現場でも、行ったらいいのよ」
「けど、交通費かかるしな」
「いいじゃない。それくらい何とかなるわよ。あたしのフリーター収入だって、義兄《にい》さんのお好み焼きよりは、稼ぎがいいのよ」
由佳は、笑ってみせた。「義兄さん。このままだと、あまりにも中途半端で気持ち悪くてしかたがないんでしょ」
「うん、よう分かるな」
「だって、兄と妹ですもの」
言ってしまってから、由佳は自分たちに血の繋《つな》がりがないのだから、おかしい理屈だということに気づいた。
福知山までをJRで行き、そのあと宮津までを北|近畿《きんき》タンゴ鉄道という聞き慣れない第三セクターの路線に乗り継ぐ。宮津からは、丹後海陸交通バスに乗り継いで、伊根町に向かう国道百七十八号線を北に走る。
「本屋でこれを買って来たんやけどな」
伸太は観光ガイドブックを取り出した。「丹後地方というのは、れっきとした京都府でありながら、こういうガイドブックではほとんど京都の冊子の中に入れられとらん。たいてい、若狭《わかさ》とか滋賀あたりと一緒になっとる。ちょっとけったいなぐあいや」
「東京人が、『京都』と言えば、普通は京都市内を指すわ」
「けど、この地方がかつて京の都に果たしてきた役割は大きいと思うで。由佳ちゃんは、縮緬《ちりめん》という織物を知っとるか?」
「ええ、名前だけは」
「縒《よ》りの強い生糸を石鹸《せつけん》水で煮沸して縮ませたものや。丹後縮緬というて、ここでたくさん生産されてきた。それが、京都の室町や西陣の着物産業をずいぶんバックアップしてきたはずや」
由佳は、紡ぎ機を回していた馬崎夫婦を思い出していた。華やかな和装の蔭《かげ》には、さまざまな人の地味な働きがあるようだ。
「このガイドブックによると、今は縮緬の生産は次第に先細りの傾向にあり、代わって脚光を浴びとるのが発電所ということや。つい最近も、宮津に火力発電所が作られて操業を始めとる。今度は電力を送ることで、京都市内をバックアップすることになるんやろか」
由佳たちを乗せたバスは、伊根町役場の前を過ぎたあたりから、海岸線を離れて、低い山の間を縫うように走り始めた。
「そろそろ降りなあかんな」
伸太は、ガイドブックをたたんだ。
伊根町波谷地区の駐在所を探すのも、訪ねるのも大変だろうと思っていたが、国道沿いの農協で道を訊《き》いたところ、「歩きじゃ無理だで。同じ方向に行く用事があるから車で送ってあげようで」という親切な答えが返ってきた。
由佳は帰りもこんな幸運に恵まれるかどうか、少し心配になったが、ともかく農協職員の厚意に甘えることにした。
「駐在さんを訪ねるて、落し物でもしなったか?」
「いえ、そういうわけやないんでっけど」
「あの駐在さんは、誠実なええ人でえよ」
農協職員の運転する軽自動車は、国道を外れて、海岸に近い狭い道を走った。ときおり見える日本海は宮津の天橋立付近のそれに比べて、暗く、青く、厳しさを湛《たた》えている。入り組んだ海岸線も、次第に切り立った険しいものになっていく。
「このへんは、魚が旨《うま》いでっか」
伸太は久々に食べ物を話題にした。やはりこうでないと、伸太らしくない。
「ほうだよ。イカ、カレイ、タイ、アジ、ブリ、とくにここでとれる伊根ブリは有名だで」
農協職員は、ブレーキを踏んだ。「あの郵便ポストの横が、駐在所だで」
頭を下げる伸太と由佳に軽くクラクションを鳴らして、農協職員は走り去っていった。
「大阪からお越しですのか」
駐在巡査・木野俊幸は、小さな体を制服に包んでいた。
「ええ、司法書士は登記事務だけしとったらええんやという考えもあるかもしれまへん。けど、わいは司法と名の付く職業である以上、自分の関わった仕事で、法律を掻《か》い潜《くぐ》ろうとする密《ひそ》かな動きを嗅《か》いだら、納得の行くまで究明すべきやと思てますのや」
伸太は、木野にここに来ることになった経緯をかいつまんで話した。木野は、一つ一つ頷《うなず》いて話を聞いてくれた。
「そう言えば、和歌山県警の刑事さんが府警本部に来られたそうで、あらためて照会がありましたね」
木野は、黒い紐《ひも》で綴《と》じた書類を取り出した。
「遺体からは、指紋は全く取れなかったのでっか?」
「ええ。かわいそうに、潮に流されとる間にイシダイかベラあたりに指を食われとりましてな。漁師さんの話では、イシダイとかは見かけによらず獰猛《どうもう》な魚で、ウニを割って中身を食う鋭い歯を持っているそうですな」
「顔もでっか?」
「指ほどはひどくはありませんでして、判別できる程度でしたが、せっかくの和服美人がかわいそうなもんです」
「遺体を写した写真があったら、見せとくなはれ」
「あることはありますが、あまり気持ちのええもんではないですよ。特にお嬢さんには」
「いえ。あたし、大丈夫です」
力んで見せた由佳であったが、白黒の死体写真を目の前にしたときは、思わず背中をのけ反らせてしまった。
「ほら、言わんこっちゃない」
木野は、写真をしまおうとした。
「待ってください」
由佳は指を挟んだ。鼻などが食い荒らされていて、由佳が九年前に会った靖枝の面影の記憶と完全に照合させることができないのだが、靖枝とは別人のようにも見える。そして、髪の毛がウェーブがかかっているのが気になる。
「この写真は小さくてよく分からないのですが、髪の毛は、潮に流されてこんなになったのですか?」
「いや、そうじゃないはずですよ」
木野は、書類|綴《つづ》りを繰った。「髪の毛の検査結果によると、パーマを比較的最近にかけた模様である、とあります」
原竹刑事も、毛髪照合の結果、長さや太さの他、パーマの状態が一致したと言っていた。
「この和服の柄とパーマは似合わないわ」
九年前の靖枝は、和服姿にひっつめ髪でそれが彼女の清楚《せいそ》さを引き立てていた。
「由佳ちゃん、そんな自分のセンスを押しつけたらあかんで」
「そりゃそうだけど」
原竹の説明だと、遺体が北野靖枝のものであるとダメ押しされたのは、毛髪の合致が根拠になっていた。それだけに、ついつい髪の毛に注意が行ってしまう。
「捜索願には、子宮|筋腫《きんしゆ》の手術を受けたと書いてありましてね」
木野は、由佳たちが初耳の情報を提供した。「検死してもらったうちの嘱託医は、産婦人科が専門でしてね。一目見て『腹の傷痕《きずあと》は、子宮筋腫の手術によるものだよ』と言っていました」
「そうでっか」
伸太は、少しがっかりした声を出した。真奈美や政昭が、脇本タカ子の身体的特徴を『北野靖枝』として、捜索願を書いたというのが、伸太の推理だった。しかし、子宮筋腫を患ったということを、しかもそれが七年前であるということまでを赤の他人が知る可能性は少ない。脇本タカ子が靖枝あたりに喋《しやべ》っていたということもありえないことではないが、普通はそこまでは言わないだろう。
「解体された旅館の配水管の中から、毛髪を再採取して確認したという話は聞かれましたね」
「はい」
伸太は小さく頷いた。
心配していたが、帰りは木野巡査がマイカーでバス道まで送ってくれることになった。
伸太は「えらいすんまへんねけど、遺書が置かれてあった断崖へ寄ってくれはりまっか」と頼んだ。
木野は快く引き受けてくれた。
そこは、車道から百メートルほど離れた荒い岩場の断崖であった。ごつごつした岩が不規則に海に突き出ている。上から見ると、白い波が激しく押し寄せ、波頭が深い海に誘いこむように触手を伸ばしている。
「遺書はここに置かれていました」
木野は、手を合わせて黙祷《もくとう》をした。「和草履もバッグも丁寧に揃えられていましたよ」
今日はあいにく曇っているが、靖枝が生まれ育った小さな漁港は晴れていればここから見える、と木野は付け加えた。
伸太はそのあと、死体発見現場の浅瀬にも連れていってもらった。車では入れない低木をかき分けて進んだ岩礁の浅瀬であった。遺書のあった断崖とは一キロ近く離れている。
「さいぜんの断崖に比べて、靖枝はんが生まれ育った漁港に近くなったんでんな」
伸太は確認した。
「ええ、そうです。死体はふるさとに帰るように、潮に流されたんですな」
「ご苦労さんでした。あくまでも、死の真相を探ろうとするあなたの姿勢には賛成です。そうでなければ、死者の霊は浮かばれません」
バス停で伸太と由佳を降ろして、木野は運転席から敬礼を送った。
「おおきに、失礼します」
伸太たちはちょうどやって来たバスに乗り込んだ。
木野の車が次第に小さくなった。
「義兄《にい》さん、納得できた?」
「いや」
伸太は、猪首を左右に振った。「なんや話が巧《うま》いことでけ過ぎとらんか。指紋が採取でけん程度に指が魚に食われていたり、潮に流されて浅瀬に流れ着いたり」
「でも子宮筋腫の手術痕のことは、義兄さんの推理マイナス材料よ」
「うん、せやな」
伸太はバスの車窓越しの光景に目をやったまま、黙って考え込んだ。
由佳は、自分なりの回想を進めた。
北野靖枝が自殺ではなくて殺されたのではないかと言い出したのは、由佳であった。京洛興産のマンション建設に対する反対運動のリーダーである靖枝がタイミング良く居なくなり、二条館が売られることになった結果から、疑問を感じたのだ。その疑問の矛先《ほこさき》は、京洛興産に向いていた。しかし、遺書の内容と筆跡から、他殺説は成立しなくなった。
ところが、京洛興産に自宅と借家を売り渡してさっさと立ち去っていった脇本タカ子が、買ったばかりのファイナル・ケア・カーサを、蔵田文孝なる人物に転売して行方不明となってしまった。本物の蔵田文孝は、勝手に名義を使われ、買い戻し金は所在が分からないままだ。そのことから伸太は、遺体はタカ子のもので、靖枝は生きている。それどころか、タカ子は靖枝に殺されたのではないか≠ニ考え出した。しかし、原竹刑事が再検査した結果、遺体の毛髪は二条館の配水管のものと一致した。
(でも義兄《にい》さんは、自分の推理が完全に否定されたと思っていないわ。確かに、真奈美さん一家の失踪《しつそう》など、未解決の問題も残っているものね)
由佳は、細い眼を閉じた伸太の横顔を見つめた。何かが、伸太の頭の中で、ゆっくりと回転している気配が感じられた。
バスは山あいの停留所で停まった。伊根町の役場前までは、国道は海岸線を通らない。バスから降りた小学生らしい女の子の二人連れが、手を繋《つな》いで歩いていく。その足元に咲いている美しい青紫色のりんどうの花に、女の子たちは足を止めた。
(靖枝さんは、あんなふうなのどかな少女時代を送ったのかしら)
梅山の話によると、靖枝は自分の誕生と引き換えに母親を亡くし、小さいときに父親も海難事故で失い、二条館の先代のおかみさんのところへ養女としてやって来たのだ。おそらく、辛《つら》くてさみしい毎日を京都の街で送ったに違いない。
(靖枝さんにとって、楽しい思い出の染《し》み付いた愛着のある場所は、京都市内ではなく、むしろこの丹後半島のはずだわ)
小学生の女の子たちは、しゃがみ込んでりんどうの花を摘み始めた。バスは排気ガスを残して、走り去っていく。
由佳は、花と小さい子供たちという組み合わせから、あるシーンを思い出した。靖枝の葬儀の最後に、献花が行なわれた。真奈美、政昭、そして梅山たち近所の者が献花し終えたあと、真奈美の子供・卓也が続こうとしたところ、真奈美に押しとどめられたのだ。
(あれは、どうしてなのだろう?)
遺体の顔が、魚に食われて醜く傷んでいるために子供に見せなかったというのが、考えられる理由だ。けれども、交通事故で損傷した死体は、傷を粘材で埋めたり包帯で繕ったりして葬儀に臨むという話を聞いたこともある。もしそういう補修をしていないなら、真奈美と政昭はともかく、梅山たち近所の者には無残な顔面を見せないのが普通ではないだろうか。京都というところは、大阪や東京以上に、世間体や恰好を気にする風土性があることは、由佳も何度か訪れているうちに感じていた。ところが、梅山たちは、ちゃんと献花をしていた。それならば、たった一人の孫である卓也に献花させてもいいのに、どうして真奈美は押しとどめたのだろう。
バスは伊根町の中心部に入り、信号で停まった。
(卓也君は、危うく霊柩車《れいきゆうしや》に撥《は》ねられそうになったりもしたけど、献花をしようとした仕草などはしっかりしていたわ)
由佳は、卓也の顔を思い浮かべた。今、卓也は、真奈美たちと共に所在不明のままである。いったい、どこでどうしているのだろうか?
「京都市内を経由して帰ろか」
バスが終着の宮津駅前に着いて、伸太はようやくひとことそう言った。
宮津から福知山に出たあと、大阪へ行くには二つのルートがある。JR福知山線に乗って宝塚経由で向かう方法と、同じくJRの山陰本線を使って京都を経て帰る道程である。時間的には、京都を通らない方が少し早い。
「塔池町を見ておきたいんや」
伸太は、ポケットの中から、皺《しわ》だらけになった手紙を取り出した。馬崎弥兵衛から周平に宛てられた、救いを求める手紙だ。
伸太は、太い指で皺《しわ》を伸ばした。
「今回の事件の始まりは、この手紙や。わいは、原点であるこの手紙と、それに引き続く馬崎はんの変貌《へんぼう》ぶりをないがしろにしとった」
確かに、伸太の推理の枠の中には、馬崎からの手紙の一件は入っていなかった。
「義兄《にい》さん、何か新しいヒントを得たの?」
「いや、まだや。そのヒントを探しに、塔池町へ行くんや」
五日ぶりに訪れた塔池町は、見事なまでの更地《さらち》になっていた。
この前に足を運んだときには残っていた梅山の店はもはや解体され、脇本タカ子の自宅、馬崎たち四軒の棟割り長屋、二条館の建っていた敷地、そして二条館の駐車場、としめて四百坪の東南角地が、鮮やかに誕生していた。
わずか一カ月前まで古い京都の町並みと人々の暮らしが息づいていたことを窺《うかが》わせるものは、もう何も残ってない。まだ整地されていない土の上に、瓦のかけらや木片が廃墟《はいきよ》のごとく散らばっている。半分に千切れ、泥だらけになった〈マンション建設反対〉のビラが見える。あえなく頓挫《とんざ》したマンション建設反対運動が、その無残な姿に象徴されていた。
道路との境界線上には工事用のロープが張られ、〈立入禁止 京洛興産所有地〉の立て看板が勝者の立場を示威するかのように、東南のコーナーに鎮座している。
「堀川不動産商事は、京洛興産に売り渡したのね」
「そないみたいやな」
伸太は腕を組んだ。
「あたし、憤りを感じるわ」
古都の中心部に位置し、大文字送り火が見えて祇園祭の巡行経路に近い四百坪の更地は、こうして誕生≠オ、このあと京洛興産から、いくつかのダミー会社を経て(その間に利益の上乗せと節税がなされて)、最終的には海星不動産の所有となる。海星不動産は、屋上塔屋にKをデフォルメした高層高級マンションを建てる。古都、大文字、祇園祭といったセールスポイントを派手にうたったパンフレットが印刷されて、東京を中心とした資産家や企業に配られる。相続税対策や財テクを計算した連中が、それを購入する。買った者も、売った海星不動産も、それで経済的利益を享受する。この更地が誕生≠キるまでに流された涙を、養分にして。
「それにしても、解体したのが早過ぎるで」
「そりゃ、あんな大きなユンボが牙を剥《む》いたら、木造家屋なんて、ひとたまりもないわ」
「確かに家屋の解体も早過ぎる。けど、わいが言いたいのは、マンション反対運動の解体が早過ぎるということや。ああしてビラを貼ったのに、あまりにもあっけないで」
「そりゃ、京洛興産に強引にやられたら……」
そう言いかけて、由佳は京都市内の各地で町壊し≠ノ対する住民運動が盛り上がっており、成果を上げている地域もあるという新聞記事を思い出した。
伸太は、更地の周りをのっそのっそと歩いた。
「由佳ちゃん。あんたが修学旅行で泊まった二条館の部屋は、この敷地のどのあたりや」
伸太は突然妙なことを言い出した。
「そんな九年も前のこと、憶《おぼ》えてないわよ」
「ほな、こないだ葬儀のあった、靖枝はんの住んでいた建物は?」
「確か、あのあたりだと思うけどな」
由佳は、腕を伸ばした。
「わいもそのへんやと思う。法務局で編綴《へんてつ》されている建物図面を見たら、もっと正確なことが分かるやろ」
「また法務局へ行くの?」
「いや。わいが言いたいのは、図面などにより建物の特定をしたら、その下の地面も、その建物に関係あるものと推定がされるというこっちゃ」
「どういう意味?」
「たとえばこの場所が、応仁の乱のときの古戦場やったとしよや。ここに近い西陣という地名は、応仁の乱のときの陣地に由来するそうやから、合戦が行なわれていたとしてもおかしくはないで」
伸太は、更地を囲んでいる工事用ロープが膝に当たるまで前に進んだ。「もし、マンションを建てるための土台を深く掘っていて、刀の鍔《つば》が出てきたとしたら、どないな推定を受ける?」
「そりゃ、応仁の乱のときの武士のものじゃないかって、思われるでしょうね」
「さいな。ということは、それを敷衍《ふえん》すれば、こう言うことにならへんか。二条館の北野靖枝が居住用に使っていた建物があった地面の底に埋まっていたものは、北野靖枝のものと推定される」
「原竹刑事たちが話していた、配水管の中の毛髪のことを言っているのね」
「そういうこっちゃ。靖枝が住んでいた建物の配水管の中にあった毛髪を、靖枝のイニシャルを取って毛髪Yとしよや。一方、タカ子が住んでいた家の配水管にあった毛髪を、やはりタカ子のイニシャルから毛髪Tとしよや。この毛髪Yと毛髪Tを、こっそりと入れ替えといたら、どないなる」
「靖枝さんの住んでいた建物の下の配水管から出た毛髪Tの方が、靖枝さんのものだと推定されてしまうわ」
「わいの考えは、丹後半島で上がった死体は、靖枝やのうてタカ子やということやった。その前提を採ったら、丹後半島で上がった遺体の毛髪は?」
「本当はタカ子の遺体なら、当然毛髪Tよ」
「せやろ。ということは、丹後半島の遺体の毛髪と、原竹刑事が採取した配水管の中の毛髪が、どちらもTということで一致するがな」
本来はどちらも毛髪Yでないとおかしいのだが、毛髪Tという形で、ともかく両者は合致する。
由佳は、更地《さらち》を見つめた。こうして建物が解体されたなら、配水管を掘り起こして、毛髪を入れ替えて、また埋めるという作業はそんな難しいことではない。
「ちょっと待って。原竹刑事は、在宅毛髪がどうのこうのって言ってなかった?」
「言うてたで。丹後半島で死体が上がった直後に、二条館の靖枝が住んでいた建物の中の、化粧台のブラシやナイトキャップに付着していた在宅毛髪と照合がされていたのや。けど、これも初めから、そのブラシなどにタカ子の毛髪Tが付けられていたら、何の不思議もないわけや。死体から、毛髪を抜き取っておくことは容易やろ」
由佳は、丹後半島で上がった和服の死体がパーマと似合わないと思ったが、それなら説明がつく。
パーマをかけたタカ子の毛髪Tが、丹後半島でも、在宅毛髪でも、原竹刑事が採取した配水管の中でも、靖枝のものとされていた可能性はある。
「ブラシやナイトキャップの指紋は、どうなるの?」
「指紋は靖枝はんのものでええのやから、靖枝はんの指紋が付着していて当然や」
「そうか、考えてみればそうよね」
丹後半島の断崖に置かれた遺書からは、靖枝の指紋が検出され、それが靖枝が遺書を残して自殺した≠ニ考えられた根拠の一つになっていた。遺体や毛髪はタカ子のものでも、指紋は靖枝のものでないと、遺書の持つ意味がなくなるわけだ。
「そろそろ、大阪へ帰ろか」
伸太の声に、由佳は我に返った。「食欲が湧いてきたんや。今日は久しぶりに、食い倒れするで」
伸太はぐいと拳《こぶし》を突き出した。どうやら、新たな推理が煮詰まりつつあるようだ。
地下鉄|御堂筋《みどうすじ》線をナンバで降りた伸太は、地上へ出る階段をスタスタと歩いた。
「義兄《にい》さん、どこへ行くの?」
伸太は普段はのっそりしているが、こうと決めたら体型に似合わず行動は敏速だ。
「洋食屋さんへ行くんや」
「洋食屋さん?」
「戦前の大阪人は、チキンライスやトンカツなどを出す店をそう呼んだんや」
伸太は、新歌舞伎《しんかぶき》座の前の横断歩道を渡り、そのまま東へ進んだ。「こないだ夫婦善哉《めおとぜんざい》へ行ったことやし、もう一軒織田作之助に馴染《なじみ》の店へ行こやないか」
伸太は、〈大衆洋食 自由軒〉と書かれた紫色の暖簾《のれん》をくぐった。入り口に〈織田作好み 名物カレーの店〉という看板が上がっている。
店内は、伸太の店と雰囲気が似ていた。飾り気のないシンプルな椅子とテーブル、箸《はし》紙を付けずに無造作に容器に立てられた箸、ソースはメーカーのラベルが貼られた瓶がそのまま置かれている。天井は古びた木張りで、換気扇はムキ出しになっている。壁には織田作之助の写真が貼られ、その横にトラは死んで皮を残す 織田作死んでカレーライスを残す≠ニ書かれてある。
「わいは、名物カレーと別《べつ》カレーを頼むワ」
伸太はそう注文した。名物カレーも別カレーも、どちらもメニューの名前なのだ。
由佳は壁に貼られた紙のメニュー表を見ながら、合いノ子ランチを注文した。いったいどんなものが出てくるのかという好奇心に駆られたからだ。
「お待っとはん」
運ばれてきた別カレーというのは、ライスとルーが別々になったという意味の、普通の喫茶店で出てくるようなカレーだ。名物カレーというのが、ライスとルーをドライカレーのように混ぜてその上に生タマゴを落としたものだった。そして合いノ子ランチは、ビフカツとオムレツがワンセットになったものだった。
「大阪って、こういう異質のものをごちゃ混ぜにするのが好きね」
五目寿司とか散らし寿司とか呼ばれる魚肉や野菜やタマゴを混ぜた寿司の形態は、大阪で生まれたと聞くし、大阪名物のタコ焼きにしたって、伸太が本業(?)にしているお好み焼きだって、さまざまな材料を混入させた食べ物である。
「一つの味だけやのうて、いろんな味をミックスすることによって、相乗効果が生まれるというこっちゃ。このカレーと生タマゴにしても、本来結びつきそうにないものを、重ね合わせたアイデアが秀逸なんや」
自由軒を出た伸太は、今度は北へ向かって歩き始めた。
「もうちょっと腹の中に入れたいな」
「え」
慣れてきたつもりであるが、由佳は伸太の大食漢ぶりにはいまだに驚かされる。さっきカレーを二人前、ペロリと平らげたばかりなのだ。
「道頓堀《どうとんぼり》へ行こ」
伸太は、ヒョコヒョコと歩いていく。
由佳は、父・周平のことを思い出した。貧乏暮らしの周平は、ろくに家族サービスができなかったが、道頓堀に食事に連れて行ってくれることだけはたまにしてくれた。血を引いていないのだが、伸太の食い倒れの姿勢は周平以上だ。表向きはボンクラな代書屋の素振りをしながら、庶民の味方をこっそりとして報酬を受け取らないというナニワ節的司法書士の姿勢もしっかりと踏襲している。伸太にとって、最も尊敬すべき存在が、周平なのだろう。その周平宛てへの救いを求める手紙が来たのが発端だっただけに、この事件に対して伸太はここまでのこだわりを持ってきたのだろう。周平が生きていて手紙を受け取っていたならば、やはり納得行くまで、たとえ鈍重でも事件を追ったはずだ。
「この道頓堀へ来ると、どないに満腹でも、また食い気が出てきよるんや」
道頓堀は、江戸時代に安井道頓という人物が造設した濠《ほり》だ。人工のものだから、道頓堀は東西に真っ直ぐ伸びている。その両側には、飲食店がズラリと立ち並んでいる。
「道頓堀の北岸側を宗《そう》右衛門《えもん》町というんや。かつては粋な芸者が行き来する高級料亭が軒を並べていたし、今もその高級ムードは残っとる。それに対して、この南岸側を道頓堀通というて、大衆的で安い店が多い。わいはもっぱらこっちやで」
伸太は、道頓堀通に立ち並ぶ店の看板を見上げながらゆっくりと歩いた。そのほとんどが、飲食関係だ。
その名もズバリ「くいだおれ」という八階建てのビルが建っている。一階から八階まで、オール食べ物屋だ。その内容も、なべもの、すき焼き、うどん、すし、トンカツ、焼き鳥などバラエティに富んでいる。そして、入り口に置かれた電動ピエロ人形が、ユーモラスに眉を動かし、太鼓を叩いて客寄せをしている。「くいだおれ」の真向かいには「ドウトン」というこれまた一階から九階まで、ずらりと食べ物屋が入ったビルが建っている。その「ドウトン」の隣には、「かに道楽」があり、店の壁に掛かった巨大サイズの模型電動かにがライトに照らされながら、足とハサミを動かしている。
「いかにも大阪らしいやろ。見ただけで、旨《うま》そうなジャンボかにやで」
伸太はごくりと唾《つば》を飲み込んだ。「この巨大サイズの電動かにで、かにすきを作ったとしたら、何人前でけるか、分かるか?」
「そんなこと、分からないわ」
看板代わりの模型のかにまで食欲の対象にしてしまう伸太の想像力が、由佳には理解できない。
「幅が七メートル、高さが二・三メートルということで、普通のかにの約三千六百匹分になるそうやで。ほんまに、食い気がそそられるやないか」
「そうかしら。ちょっとグロテスクじゃない。怪獣みたいに大きくて、しかも足とハサミが動いているのなんて」
「何言うてんのや。見事にハサミと足がごちゃごちゃと動いとるさかいに、リアルでええんや」
そう言ったあと伸太は、じっと電動かにを見上げた。その伸太のエラの張った顔は、かにに似ている。
「義兄《にい》さん、そろそろ行きましょ。いつまでも見てるのって、恰好悪いわ」
「ちょっと待ってんか……」
伸太は、由佳の手を掴《つか》んだ。
知らない人が見たら、仲の良いアベックが、手を取り合って、電動かにをもの珍しそうに観賞しているように映るかもしれない。それほど伸太は、かにの動きに視線を停めていた。
「自由軒の名物カレーは、生タマゴとカレーという、本来結びつきそうにないものを重ね合わせとった。そしてかに道楽のかには、ハサミと足が揃って動くさかいに、効果が出とった……」
伸太はうわごとのように呟《つぶや》いた。
「義兄《にい》さん」
「事件の原点である馬崎はんの手紙と丹後半島の死体という異質に見えるものを、わいは結びつけることをせなんだ」
伸太は軽く舌打ちをした。「そして、一人一人がバラバラに思える人間たちが、実は統一した動きをしとったら、一人のときよりずっと強力なパワーが出るはずや」
伸太はなおも、その場に立ち尽くしていた。
「私はそんなことをやった経験がありませんよ」
京都の司法書士・遠井五郎は、困った顔を伸太に向けた。
「経験とか、そないなレベルの問題やあらしまへん。あんさん、司法書士法の第一条を知ったはりますやろ。そこには、『司法書士制度は、国民の権利の保全に寄与することを目的とする』ということが書いてあるやおまへんか」
伸太はまくし立てるように話していた。
遠井五郎は、堀川不動産商事を顧客とする司法書士であった。
「それはそうですが……」
遠井は、広い額に苦汁の汗を浮かべていた。
「ここで白黒をはっきりさせとかんと、あんさんも、事実関係と食い違う登記をしたことになりまっせ」
伸太は、真綿で首を締めるように遠井をじわじわと説得していった。
次に伸太は、北野靖枝と真奈美に関する戸籍謄本を求めた。戸籍は、一般の閲覧には供されないし、第三者が写しを請求することもできない。ただし、司法書士がたとえば相続登記を申請する場合など職務で必要な場合には、謄本を得ることができる。
「戸籍上は、真奈美の父親は静男となっとるな」
伸太は、確認するように言った。静男は靖枝の夫であり、一昨年に脳溢血《のういつけつ》で死亡していた。
それから伸太は、塔池町を区域に持つ中学校へ出かけた。さらに蔵田文孝のところへ電話をかけ、この三月に過労で入院していたという医院のことを訊いた。
そして伸太は、和歌山へ再度足を運んだ。そして、南紀署の原竹刑事のところを訪れた。原竹はなおも地道に、捜査を続けていた。
さらに伸太は、名古屋へ行き、北野政昭のところを訪れた。
「いつから、アメリカ留学でっか?」
伸太は単刀直入に訊いた。
「あと一週間後に、発《た》ちます」
政昭は、伸太の来訪に対する戸惑いを隠すかのように、しきりに伸びた無精髭《ぶしようひげ》をさすった。
「アメリカ留学をしようと思わはった動機は何でっか」
「前から行きたいと思っていたのと、知人の勧めがあったからですよ」
「ところで、あんさん、大学院というのは、何年間行くんでっか」
「ドクターコースまで行けば、五年ですね」
「ということは、全部ストレートで行くと、二十七歳でんな。あんさんは、二十八歳ということは、一年間のブランクがあるということでんな」
「どうして、僕の年齢を」
「悪いでっけど、ちょっと戸籍を見ましたんや」
「プ、プライバシーの侵害ですよ」
「確かに、もしこれが犯罪絡みの事件調査やなかったら、プライバシー侵害でんな」
「ど、どういう意味ですか?」
政昭は、しきりにどもった。
「それより、一年間は、どないしはったんでっか」
伸太はあえて政昭の質問には答えなかった。
「そんなことを話す必要はありませんよ」
「もしかしたら、あんさんは高校を卒業して、調理師学校へ一年行ってはったんとちゃいまっか?」
「ど、どうやって、調べたんですか」
政昭は、眼を剥《む》いた。
「調べたんやおまへん。わいの勘です」
伸太は、遠井司法書士事務所と印刷された封筒を差し出した。「あんさんらが、売らはった二条館の土地売買に関して、京都の遠井司法書士事務所に来て欲しいという呼び出し状ですのや」
「そんな、わざわざ京都まで行けませんよ。まもなくアメリカ留学ですから」
「そのアメリカ留学が、オジャンになるかもしれまへんのや。あんさんは、おそらく二条館を売らはった代金を留学費用にしたはりますのやろ。せやけど、二条館の売買が無効ということになったら、代金は返却せんなりまへんで」
「何ですって、売買が無効! どうしてなんですか」
政昭は我を忘れて立ち上がった。
「お手数でっけど、この呼び出し状に書かれた時間に来とくれやす。そしたら、すべてが明らかになりますやろ」
伸太は、遠井司法書士事務所の封筒を、小刻みに震える政昭の手に渡した。「何やったら、あんさんにアメリカ行きを勧めはった知人にもオブザーバーとして来てもろたら、どないでっか。その方が、わいも話がしやすいですワ」
その二日後が、遠井司法書士事務所からの呼び出し状に書かれていた召集日だった。
政昭は、指定された午後二時に一分遅れて遠井事務所に到着した。
「少し遅刻してすみません」
政昭は、おそるおそるといった感じでドアを押し開いた。その政昭の後ろに、角張った顔の男が立っていた。
「私の知人の石橋君です」
と政昭は紹介した。薄いサングラスをかけた長身の石橋は、軽く黙礼した。
「ほなら、これで全員が揃いましたな」
伸太は一同を見回した。それほど広くない事務所に、十一人の人間が入った。
伸太、由佳、遠井、そして塔池町の住人であった梅山喜一郎、馬崎弥兵衛、その妻・八重、馬崎と同じ棟割り長屋に暮らしていた三軒の住人、さらに政昭とその知人の石橋である。
遠井が開会を宣するように口を開いた。
「これで、あとは現在行方不明である井坂真奈美さんが居られれば、塔池町の地権関係者全員が集まったことになります。本日は、みなさん、忙しいところをありがとうございます」
「売買が無効というようなことを言い出してこられたら、忙しくても集まらなくてはしかたないじゃないですか」
着いたばかりの政昭が文句を言った。
「同感です。もう京洛興産による工事用測量も開始され、あの町内とは縁が切れたと思っているのに、ろくに理由も説明せずに集まれとはどういうことどすか」
梅山が、政昭を援護するように言った。
「その質問は、私ではなく、石丸伸太司法書士に申し出てください。実は私も、この集まりの趣旨はまだきちんとは説明してもらっていないのです」
遠井は責任を回避するかのように、伸太の方に手のひらを向けた。
「すんまへん。どうしても、みなさんの居はる場所で、はっきりとさせときたいことがあって、集まってもらいました。交通費は、あとでわいの方からお支払いします」
伸太は、頭を下げた。
「そんなことより、早く本題に入ってください」
梅山はせかすように促した。
「結論を言いますと、二条館を売却した所有権移転登記は無効ですのや」
伸太は、二条館の敷地に関する登記簿謄本を取り出した。「登記簿上は、すでに京洛興産に所有権移転登記がなされています。けど、日本の法律では、実体関係が登記に反するときには、いくら所有権移転登記がなされたとしても、それは効力を持ちまへんのや」
「あなたの講義はどうでもいい。いったい、どうして無効なんですか」
政昭が、早口で訊《き》いた。
「そないあわてんと、わいの話をじっくり聞いてくなはれ」
伸太は、由佳の方を向いた。「コーヒーの用意はでけてるか」
「ええ。缶コーヒーですけど、みなさんどうぞ」
由佳は、足元に置いていた紙袋をテーブルの上に置いた。
しかし、伸太以外は誰も手を伸ばそうとしなかった。
「さて。わいがこの事件との関わりを持ったのは、ここに居はる馬崎はんから、父|宛《あ》てに救いを求める手紙をもろたからです」
伸太は、これまでずっと持ち歩き、何度も取り出したために、すっかり皺《しわ》の入った手紙をテーブルの上に拡げた。「ところが、この手紙をもろた翌日に、わいは馬崎はんから『もう、あの件は結構ですねん。諦《あきら》めて出て行くことにしましたんや』という言葉を受けましたのや。馬崎はん、そうでしたな」
馬崎は、黙って視線を下げた。
「わいは、そのことにもっとこだわりを持つべきやったんですワ。京洛興産と脇本タカ子から詐欺的追い立てを受け、藁《わら》にもすがる思いで救いを求める手紙を出した馬崎はんは、わいが訪れた日も『何とか助けてください』と必死でした。その状況がたった一日で撤回されたのですよって、よほどの大きな変化が起こったことになります。わいはその時点では、追い立てをしとる京洛興産が、何ぞ脅迫したんやないかと思いました。京洛興産は、えげつない地上げを行なう札付きの業者でっさかいに」
「あたしたちにとって、京洛興産は悪玉の加害者で、住民側は善玉の被害者という図式ができ上がってしまっていたのです。強引な地上げの展開されている町では、ほとんどその図式が当てはまりますから」
由佳が、伸太の横で付け加えた。「ましてや、京都の古い町並みを破壊する地上げということで、あたしは憎しみを京洛興産に向けました」
「あんさんたち塔池町の住人は、マンション建設反対運動を展開し、ビラを貼らはりました。そないな反対運動に向けられていた団結力が、急に撤退に向かって動き出しました。そして、塔池町は見事に更地《さらち》になりました」
「われわれと京洛興産が、裏で取引をしたとでも言う気どすか」
梅山がムッとしたように言った。
「いや。そやおません。京洛興産は決して信頼のおける業者やあらしまへん。そないな裏取引をどこでどうバラすか分からしまへん。あんさんらが町壊しに手を貸したことが発覚したら、あんさんたちは塔池町周辺の住民から激しい非難を浴びます。あんさんら生粋《きつすい》の京都人は、そないな蔭口《かげぐち》を叩かれることを、わいらが想像する以上に嫌うはずでんな。わいは京都という地域性がようやく少し分かりかけてきました」
「じゃあ、いったいどういうことどすのや」
梅山は詰め寄った。
「まあ、順番に行きまひょ。その前に、せっかく缶コーヒーを持って来たんでっさかい、飲まはったらどうでっか」
伸太は、缶コーヒーのリングプルを引いて、ぐいと飲んだ。由佳も、それに続いた。遠井司法書士は、由佳に勧められて、缶コーヒーを手にした。しかし、他の者は、一切手をつけようとはしなかった。
「ここに居はる人は、わいと義妹《いもうと》を除いて、みなさん京都生まれのはずでんな。ただ、今回の事件関係者で、京都は京都でも、府下の出身のかたが居はりました」
「あたしが修学旅行でお世話になった、北野靖枝さんです」
由佳は、北野靖枝に関する戸籍謄本を差し出した。「靖枝さんは、与謝《よさ》郡伊根町の生まれで、幼くして両親を失くして、叔母《おば》である北野富士栄さんを頼りにやって来ました。子供の居ない富士栄さんは、靖枝さんを養女にしました」
「そんなことは、みなさん知ったはります」
馬崎がようやく口を開いた。
「そうでんな。京都の人は、うわべでは無関心な素振りをしても、近所の人のことをよう知ってはるようでんな。そやからこそ、よけいに世間体を気にすることになるんでっしゃろけど」
伸太は、由佳の出した戸籍謄本を開けた。「先代のおかみさんである北野富士栄はんは、昔|気質《かたぎ》のかたのようでんな。そら、苦労して二条館を大きくしてきはった人でっさかい、一生懸命にならはるのも無理ないかもしれまへんけど、高校へ行きたいという靖枝はんを押しとどめてまで、こきつかうように働かせたんは、靖枝はんにとって気の毒でしたな。そうでんな、八重はん」
伸太は、この話を八重から聞いたのだった。八重は、ほんの小さく頷《うなず》いた。
「そんな靖枝はんは、育ててもらった富士栄はんには逆らわずにじっと旅館の仕事を黙々とこなしました。けど、靖枝はんも、いわゆる年頃というやつを迎えました。そして、彼女に、好きな人が出けたわけです」
伸太はちょっと照れ隠しに、コーヒーを飲んだ。由佳が言葉を引き取った。
「靖枝さんは、中学までしか学校へ行かず、毎日毎日休みのない旅館の仕事をしていたわけですから、よほど身近な人でなければ親しくなれる機会を持っていませんでした。富士栄さん以外に親戚のない彼女には従兄弟《いとこ》のような存在はありませんでした。残るは、近所の青年ということになります」
「二条館の一軒置いて、隣の散髪屋さんに、靖枝はんとおない年で中学校で同級生やった好青年が居はりました。梅山喜一郎はん、あんさんです」
「あまり想像でものを言わんでください」
梅山は息苦しそうに、カッターシャツの衿元のボタンを外した。
「確かにここから先は、わいらの推理となります。せやから、もし誤りがあったら遠慮せんと指摘しとくなはれ。こうして推理を展開せんことには、話は進みまへんのや」
「靖枝さんと梅山さんの関係がもしかしたら、と思いついたのは、あたしでした」
由佳は、テーブルの上に、二百円の登記印紙と、やはり二百円の収入印紙を一枚ずつ置いた。登記印紙は赤色で、収入印紙は緑色で、ともに200と数字が印刷されている。「あたし今、デザイナーの勉強をしています。だから、色には人一倍敏感なんです。梅山さん、ぶしつけな質問ですが、赤い色は、登記印紙ですか、それとも収入印紙ですか?」
梅山は、じっとテーブルに目を落としたまま、唇を閉ざして答えようとしない。隣の馬崎が、指で右の登記印紙だと教えた。
「カンニングはあきまへんで」
伸太は印紙を片付けた。「梅山はん。あんさんは、わいが法務局で登記印紙を貼ろうとしたとき、『よかったら、使ってください』と収入印紙を差し出しましたな」
「それだけじゃありませんわ」
由佳は、畳みかけるように言った。相手がカンニングの連携プレーをしてくるのだから、伸太とのコンビネーションをしっかりしなくては太刀打ちできない。「あたしが、梅山さんが赤緑色盲ではないかと思いついたのは、あなたが飼ってらした、熱帯魚の配色からですわ。あの水槽に泳いでいた熱帯魚は全部寒色系のものばかりでした。ふつうなら、ネオン・テトラとかソード・テールとか、赤の熱帯魚を入れますわ」
「…………」
梅山は、黙ったままだ。
「やはり同じように、信号の赤と緑を見落とした子供がいましたわ。真奈美さんの長男、つまり靖枝さんにとって孫である卓也君です。あたし、葬儀のとき、危うく卓也君が交通事故に遭《あ》いかけたところを目撃しました」
「知ったはると思いまっけど、赤緑色盲は伴性劣勢遺伝です。父親が赤緑色盲で母親が正常のとき、娘には潜在的保因として遺伝するだけで外には現われまへん。けど、その息子には二分の一の確率で、赤緑色盲が現われるわけですのや」
「すなわち、靖枝さんと赤緑色盲である梅山さんとの間にできた真奈美さんに潜在的保因として遺伝し、真奈美さんの息子である卓也君に赤緑色盲が顕在したと考えれば、巧《うま》く辻褄《つじつま》が合いますわ」
「もうひとつ根拠がおます。わいが法務局で二条館の駐車場に関する抵当権設定登記を見ながらあんさんと話をしたとき、あんさんは二回も『真奈美』と、呼び捨てで言わはりました。わいはちょっとおかしいなと引っ掛かってましたんやけど、興奮のあまりつい実の娘を呼び捨てにしたと解釈するなら、納得でけます」
梅山は、髪の薄い頭をうなだれた。その首筋から、血の気が引いていく。
その梅山に、伸太は語りかけるように話した。
「あくまでわいの想像でっけど、富士栄はんはあんさんらの結婚に反対しましたのやろ。『旅館であるだけに、夫は腕のいい板前であって欲しい』と。あんさんには気の毒ながら、赤緑色盲のハンディがおました。色彩感覚が求められる京料理の作り手としては、不適格やと富士栄はんは判断したんでっしゃろな。おまけに、一人息子であるあんさんは理髪店の跡取りという道が決まっていたわけですやろ」
「富士栄さんは、靖枝さんに絶対的に優位な地位にありましたわ。しかも、あなたがたが中学校を卒業したのは、昭和二十四年、まだやっと男女共学が始まった頃ですね。今のような男女交際や恋愛に対するオープンな雰囲気はなく、ましてや婚前交渉があったことがもしも発覚すれば強い非難がされたのではありませんか」
由佳は、梅山に同情を寄せた。深く愛し合っていながら、結婚することができない剣が峰に、梅山と靖枝は居たのだ。
「あんさんは、これ以上靖枝はんを苦しませるわけにはいかへんと身を退いて、近くで彼女をずっと見守ることにしたんですやろ。靖枝はんは、泣く泣くあんさんの申し出を受け入れて、富士栄はんの勧める見合い話に従って、板前として腕のいい静男はんと結婚したわけです。若い二人が、燃え尽きんばかりに身を求め合って、かなわぬ恋慕への葛藤と執着を必死で断ち切ろうとした姿が、わいには想像でけます。けど、あんさんは、独身を貫かはりましたな」
「靖枝以上に愛せる女性は現われませんでした」
梅山は低い声で、半ば呻《うめ》くように言った。「しかも、自分の本当の娘が、一軒置いて隣で日ごとに大きくなっていくのです」
「わいは色恋のことはよう分かりまへんけど、あんさんのような愛の形もあってええと思います。ただ、そのあとのことは、ちょっと感心でけまへん」
伸太は、太い腕を組んだ。「これは、真奈美はんの中学校の担任はんから聞き出した話です。真奈美はんが中学校で血液型の集団検査をしたことから、静男はんが本当に自分の父親なのかという疑問を持ち、小さいときから再三相手をしてくれたりプレゼントをもらったあんさんこそが本当の父親やないかと訊《き》きに行ったとき、あんさんは『そんな夢みたいなことを言うたらあかん』と突き放さはりましたな」
「真奈美には、まだ本当のことを話さないほうがよいと思ったんどす。靖枝は妊娠してすぐに結婚したので、静男さんは何も知らんまま、黙々と板前仕事を勤めたはりました。富士栄さんすら、気づいていません。それに、近所の手前もありました」
梅山は、ハンカチを出して首筋の汗を拭《ぬぐ》った。
「最後の近所の手前というのが、案外大きな理由やったんとちゃいまっか。あんさんは、そのことを近隣のみんなに知られたら、後ろ指をさされて、塔池町には居づらかったですやろ」
伸太は、馬崎の方を向いた。「馬崎はんは、梅山はんと真奈美はんの関係に気づいたはりましたんか?」
「いえ、つい最近まで知りませなんだ。あんじょう、騙《だま》されてました」
馬崎は、梅山の顔色を窺《うかが》いながら首を左右に振った。
梅山は、馬崎を睨《にら》みつけながら、伸太に向かって言った。
「大阪人であるあんたは、京都の町中に住む連中の陰険さを知らんさかいに、私を非難でけますんや。表面的には無関心を装いながら、その実は人の噂や不幸が大好きで、当人が道を通り過ぎたあとネズミのようにこそこそと窓から顔を出して悪口を言い合う体質を、あんたは知らんでしょう」
伸太は、腕組みをはずした。
「わいには分からん事情があったと思いまっけど、高校時代に不良少年たちとつきあうようになり、結局高校を中退して、準看護婦になり、そのあと井坂源三はんと不倫の関係に陥った真奈美はんに、もうちょっと父親らしいことをしてやるべきとちゃいましたか」
「私が下手に動けば、靖枝が富士栄にいじめられたんです。富士栄は、少しずつ二条館の経営が巧《うま》く行かない不満と体が悪くなってくることからの苦しさを、靖枝に八つ当たりすることで解消するようになっていたんです。もちろん真奈美の非行も富士栄のストレスを高めました」
梅山は、馬崎たちの視線を気にする仕草を見せながら説明を続けた。「そんな富士栄に対して、靖枝はけなげなほどに耐えてました。富士栄が倒れて病床に伏しても、靖枝は二条館を切り盛りしながら、献身的に看病を続けていました」
「あたしが修学旅行で、二条館に泊まったのはその頃でしたわ。あたしは、優しい靖枝さんにお世話になり、あなたには髪の毛をカットしてもらいましたわ」
由佳は、前髪を触った。「そのあと真奈美さんは、奥さんと離婚した井坂源三さんと結婚しました。しかし利き腕である右手を負傷して、美術大工としての生命を絶たれたも同然だった井坂さんは、辛《つら》い思いを忘れるために賭博《とばく》に走りました。でも、真奈美さんは、そんな井坂さんへの愛想を尽かしませんでした」
由佳の頭の中では、道成寺物語で我が身を焦がさんばかりに男を愛し抜く清姫の姿が、描かれていた。清姫の顔の右半分は真奈美に似ており、左半分は、厳しい義母の目を盗んで梅山と愛し合い、身籠《みごも》った真奈美を自分と夫との嫡出子として育て上げた靖枝の面影に似ていた。
「真奈美はんは、井坂はんの作った借金を返済するために、こっそり二条館の駐車場を抵当に入れましたんや。靖枝はんは、この抵当を抹消しましたけど、それで精いっぱいでした。ホテルと民宿に挟み撃ちされた二条館は改築もままならないまま、客がどんどん減り、経営は火の車の状態に陥ってました。もちろん、富士栄はんの医療費もかさみましたやろし、腕のいい板前職人である夫の静男はんが脳溢血《のういつけつ》で倒れはったのも大きかったと思いまっせ」
「靖枝さんの長男である政昭さんの学費もたいへんだったでしょう。大学の先生になるのは、なかなか大変ですもの」
政昭は、驚いた顔で成り行きを見つめている。この本の虫のような男は、大学入学以降は名古屋に行ってしまい、二条館の経営悪化のことも充分には知らないのだろう。伸太はその政昭に言葉を送った。
「夫の静男はんへの負い目もあったやろとおもいますけど、静男はんとのほんまの子供であるあんさんは、靖枝はんの大変な庇護《ひご》の下に育ちましたな。あんさんは、勉強のようでけるボンボンということで、大学へも行きましたな。最初は、二条館の跡取りにしたいという富士栄はんへの意向で、調理師の専門学校に進んだんでっけど、結局好きな化学を勉強することになりましたな」
富士栄が病魔に襲われて入院したのは十年前、そして政昭が名古屋の大学に入学したのも十年前である。
「二条館は倒産寸前の状態、二人の子供はまだまだお金が要る、そんな状況で、起きたのが京洛興産による地上げだったわけです」
「ところが、十二年前の実績があるだけに、靖枝はんはマンション建設反対運動の代表にまつり上げられてしまいましたんや。ほんまは、すぐに売った方がええ状態やのに、反対をせんならん立場に追い込まれたわけです。そないなことになってしもたら、よそから来て脇本はんの後妻に入って塔池町の住人になったタカ子はんのように、あっさりと京洛興産に売り渡すわけにはいきまへんやろ。表向きは反対の顔をしておき、『反対運動を続けたが、やむなく売らざるを得ない』という形で世間体を繕おうと、靖枝はんは梅山はんと話し合ったはずです。体面をひどく大切にする京都の町中ゆえに、そういう遠回しの道筋を取るのが最善やったのですやろ」
梅山は、黙り込んだまま、再び汗を拭《ぬぐ》った。
伸太は続けた。
「梅山はん。ここから先の動機がわいには今一つよう分からんのでっけど、あんさんは、脇本タカ子はんをあんさんの店の理容室に呼んで、殺害しはりましたな。わいが初めて塔池町を訪れた日、つまり脇本タカ子はんのところに引っ越しの運送業者が来てた日のことですワ」
重く、息苦しい空気が、一同を包んだ。
「梅山さん」
遠井司法書士が耐え兼ねたように口を開《ひら》いた。「あなた、本当に、脇本さんを殺したんですか」
「ちょっと待ってくなはれ」
伸太は遠井の言葉を遮った。「ここは責任を追及する場やおません。あくまでわいらの推理を話して、その真偽を検証するために集まってもろたんです」
由佳が引き続いた。
「あたしたち、脇本タカ子さんが引っ越しの手配をしていた日に、真奈美さんが二条館に来ていたのではないかと想像しています。あの日、あたしは、二条館の木塀を越して道路に落ちてきたサッカーボールを拾って、中に投げ込みました。そのときは小学校の修学旅行生でも来ているのかと思いましたが、もはや修学旅行生を受け入れるだけの余裕を二条館は持っていませんでしたわ。だから、あれは卓也君が遊んでいたサッカーボールだと思います。卓也君を連れて真奈美さんがやってきて、卓也君が二条館の庭で一人遊んでいた姿があたしには描けます」
「馬崎はんが『もうええんです』と態度を変えたのは、その翌日からですワ。そやから、わいは馬崎はんたち棟割り長屋の人たちも、何らかの形で絡んでると思いますのや」
馬崎と八重は、辛《つら》そうな眼でお互いを見合った。「おそらく、みなさんが集まって、詐欺的な承諾印をつかせたことに関して、脇本タカ子を追及したんとちゃいまっか。そして、その場で、タカ子を殺害するに及んだ――わいはそう思とりますのや」
伸太は一枚の写真を取り出した。暗い室内に、内部が青白く光る管が浮かび上がっている。まるで、闇夜《やみよ》に蛍が筒の中に何百匹も集まったような構図だ。
「梅山はんの店は解体になりましたな。けど、まだ配水管の類《たぐい》は土中に埋まっています。わいは、警察の人に頼んで、これを掘り起こして、調べてもらいましたんや。ルミノール反応というのを知ったはりますやろ。血痕《けつこん》に対しては、たとえ二万倍に薄めたとしても、発光するんですワ。せやから丁寧に水で洗い流しても、ルミノール反応を逃れることはでけへんそうです。この写真に映ったのは、梅山はんの理容室の下の配水管をルミノール検査にかけた結果ですのや。鮮やかに発光してますやろ。わいがさいぜん、犯行現場は理容室やないかと言うた根拠はこれですのや」
梅山も、馬崎も、八重も、みんなが食い入るように写真を見つめている。「脇本タカ子を殺害したあと、梅山はんは、靖枝はんに遺書を書いてくれと説得したんとちゃいますか。脇本タカ子の死体を靖枝の自殺死体とすり替えることができれば、一方でタカ子殺害の最大の証拠である死体を隠すことができ、他方で靖枝が自殺したということで二条館を手放す理由がでけます。そういう一挙両得を狙わはったんとちゃいまっか」
由佳は、一同を見回した。
「靖枝さんと脇本タカ子さんを入れ替えるために、あなたたちは五つの工作をしたのではありませんか。一つは、真奈美さんが書いた靖枝さんの捜索願に、タカ子さんの身体的特徴を書いておくことです。身長とかは、その場で死体を計ればいいことですわね。二つ目は、靖枝さんの失踪書き置きと遺書をはっきりと残しておくこと。三つ目はタカ子さんに、靖枝さんの和服を着せること。四つ目は、タカ子さんの髪の毛を取って、普段靖枝さんが使っている櫛《くし》や鏡台に付けておくこと。梅山さん。あなたは、さすがに髪の毛の専門家ですわ。そして五つ目は、タカ子さんの遺体から指紋を消すこと。そのために、梅山さんは趣味を活かしましたね」
由佳は、売上伝票をテーブルの上に置いた。「梅山さんがよく行っていた熱帯魚店からお借りしてきた伝票です。その日、あなたは新しい水槽とピラニア・ナッテリーを十匹買っています。そう、肉食魚として有名なアマゾンのピラニアです。一般の人は意外に思うかもしれませんが、何の制限もなくピラニアを購入することはできます。十匹くらいで人を殺すことは不可能ですが、指先や鼻先やふくらはぎを食い千切らせることはできますわ。そうして死んだ脇本タカ子さんの顔と指紋を細工しておいて、そのあとあなたは靖枝さんたちと共に、丹後半島へ行ったのでしょ。靖枝さんたちは車の運転ができませんけど、あなたはできます。あたしたちを車に乗せて法務局へ行ってくださったこともありましたね。奥丹後の海岸は、人気《ひとけ》も少なく入りくんでいますから、死体をしばらく洞窟《どうくつ》のようなところに隠しておいて、頃合を見て、さも流れ着いたかのように波打ち際に放置したのではないですか。きっと、あなたがたにとって大きな賭《かけ》であったと思うのですが、巧《うま》く地元警察の眼をごまかすことができました」
「一方、あんさんたちは、脇本タカ子の持っていたキーを使って、白浜のファイナル・ケア・カーサへ行き、彼女の権利証や印鑑証明書を持ち出しましたな。脇本タカ子という女が失踪《しつそう》したと見せかけるには、ファイナル・ケア・カーサを出た形にした方がええですからな。買い戻しによって、対価である金銭を得てみんなで分けるという副産物もありましたやろ。もっとも買い戻し制度をあらかじめ知っていたのではなく、『蔵田文孝』から不動産屋にでも売ればいいと当初は思てたはずでっけど」
伸太は、『蔵田文孝』の提出した買い戻し請求書のコピーを取り出した。「あんさんたちの見事なことは、集団の力でファイナル・ケア・カーサから脇本タカ子の家財道具を運び出したことでんな。ここに居る男たちが、引っ越し会社従業員のふりをして、レンタルしたトラックを使って、京都の塔池町までタカ子の家具類を運び戻したわけです。そして、解体寸前の長屋の中に隠し込んだんですな。ユンボが暴れ回ったら、家具類が少しぐらい多くても、一気に破壊されます。しかも、その解体された家具類は、すぐにトラックで片付けられますさかいに、絶妙の証拠隠滅方法でんな」
「あたしたちが、馬崎さんから救いを求める手紙を受け取った翌日、京洛興産の社員たちが乗り込んで来て、解体の見積りを始めました。『解体よりも立ち退き先がどこになるのかちゃんと話し合うのがまず第一とちゃいまんのか』と義兄《にい》さんは、抗議しました。京洛興産の植島は、『解体の方を先にしてくれと、馬崎さんが言ってんだよ』と答えました。あたしはそのときは京洛興産の強弁だと思っていたのですが、それは本当のことだったのですね」
馬崎は、白髪頭を抱えた。あのあと、梅山が「二条館のおかみさんが、書き置きを残して失踪《しつそう》しはった」とあわてて飛び込んできたのも演技である。タカ子が殺される前に馬崎が出した手紙を受け取った伸太に、靖枝は自殺し、塔池町のマンション建設反対運動は、なしくずし的に息絶えた≠ニ印象づけさせて、手を引かせる意図だったわけだ。
さらに、梅山は京洛興産に有利な材料を与えようとわざと植島に掴《つか》みかかり、それを伸太は止めに入った。その直後に、馬崎は、自分のしていることが、あるいは間違っているのではないか、と当惑する眼の揺れを見せた。手紙を出しただけに、馬崎は辛《つら》い立場に居たのだ。
伸太は、政昭が知人と紹介した石橋の方を向いた。
「石橋はん。いや井坂源三はん、『蔵田文孝』に成り済ましたのは、あんさんでっしゃろ。なかなか巧い演技でしたで。ファイナル・ケア・カーサの事務室嬢の吉岡厚子は、すっかり騙《だま》されました。ただ、賭博《とばく》罪の前科のあるあんさんが、手袋をせんならんのはちょっとハンディでしたな。それに、こうして政昭はんに付き添って来んならんのも、ご苦労はんなことやと思います。こう言うたらなんやけど、ボンボンで学究肌の政昭はんにはほんまは何も教えとうなかったと思いますのや。けど、まさか靖枝はんが死んだと騙すわけにはいきまへん。そやから、事情を説明したうえでアメリカ留学を強う勧めはったんとちゃいまっか」
政昭は、頬を真っ赤にして、俯《うつむ》いている。その横で、石橋は観念したかのように薄いサングラスを外して、端正な横顔を見せた。
由佳が、ファイナル・ケア・カーサの女性職員に特徴を聞いて似顔絵を描いたハンサムな『蔵田文孝』は、やはり井坂源三だった。そのときいっしょに付き添っていた六十前の女性というのは、靖枝だったわけだ。
「住民票を得るために本物の蔵田文孝さんの住所や生年月日を引き出したのは、井坂真奈美さんですわね。看護婦経験のある彼女は、豊中の医院で受付アルバイトをしていました。その医院に行ってみたら、その近くに蔵田文孝さんが勤めている予備校の豊中本校がありましたわ。蔵田文孝さんはこの三月に、過労でダウンしてその医院の世話になりました。受付なら、健康保険証を預かりますから、住所や生年月日や職業を知ることは可能ですし、土曜から火曜にかけては、広島や福岡に出張講師に行くことも、通院日の関係で蔵田さんは話しますものね」
適当な買い戻し役を探していた真奈美の眼に、蔵田は恰好の人物と映ったのだろう。
「わいが、なかなか真相の把握に至らんかったのは、塔池町の立ち退いた人間全員が、今回の犯罪に関わっていたということに気づくのが遅れたからですのや。葬儀の献花のときは見事でしたな。身内と近隣の者が揃って、何食わん顔で菊の花を棺《ひつぎ》に入れて行けば、参列者はまさか中にタカ子の遺体が入っているとは思いまへんやろ」
「ただ、事情を説明するわけにいかん卓也君だけは、もしも遺体を見て『おばあちゃんじゃない』と正直に言い出したら困るということで、献花をさせませんでしたね」
由佳は、魚に食われた酷《ひど》い顔を子供に見せない真奈美の母親らしい配慮だ、とすっかり誤解してしまった。
「葬儀のあと、八重はんがわざわざわいらを呼び止めて遺書を見せたのも、計算のうちやったわけでんな。わいが馬崎はんの手紙とそのあとの態度|豹変《ひようへん》に不審を抱いていたさかいに、靖枝はんの遺書を見せることで事件の終結を印象づけようとしたんですやろ」
八重は、皺《しわ》だらけの両手で顔を覆った。「それでもわいがまだ塔池町を訪れたよって、梅山はんはわいに声をかけて、自分たちの反対運動にもかかわらず京都の町並みがどんどん壊されていくことを強調しましたな」
「梅山さん。突然こんなことを言い出して変に感じられるかもしれませんが、あたしには、あなたがそんなに悪い人には思えません。今でも、優しい人だと思っています」
由佳は、苦しげに顔をしかめる梅山を見つめた。「あたしたちとの話が長引いたとき、あなたはいつも餌《えさ》をやっている時刻が来たということで、熱帯魚の水槽の覆いを取りました。そのあなたの優しさが、のちにあたしにヒントの一つを与えることになりましたわ。しかも、あたしに『熱帯魚を少し分けてあげましょうか。余分の水槽もありますから』と言ってくれましたね。あなたは、ピラニアを買い入れたからといって、グッピーたちを捨ててしまうことをせず、水槽をもう一つ買ったのですわね」
「いいえ。わしは悪い男どす」
梅山は、自らを責めるように言葉を吐き出した。「解体された敷地の配水管の中の毛髪の入れ替えをして、あなたたちを騙そうとしました」
「いっときは、それでわいも挫折《ざせつ》しましたで」
梅山は、靖枝の建物の配水管にタカ子の家の配水管から得た毛髪Tを、そしてタカ子の家の配水管に靖枝の建物の配水管から取った毛髪Yを入れた。そのことで、丹後半島の死体から採取された毛髪Tと、靖枝の建物の配水管から採取された毛髪Tが一致して、〈やはり死体は、靖枝のもの〉ということになったのである。
「けど、それが逆にわいの推理の証拠になりましたんや。あんさんは、白浜のファイナル・ケア・カーサの配水管までは、工作でけませんでしたな。新築の建物で、配水管を壊したらすぐ分かりますよって」
梅山は、上目遣いに伸太を眩《まぶ》しそうに見た。彼は、工作するまでもなく、自分の墓穴に気づいていなかった様子だ。
「ケチなタカ子はんは、引っ越し前の準備のために足を運んだとき、自室に付いとる温泉風呂に入ってますのや。隣室のおばあちゃんが、『いきなりドアをノックして、ぶしつけに湯栓の使い方を訊《き》いてきたわよ』と言うてました。そして、あの部屋は買い戻しされたまま、まだ誰にも使われてまへん。警察の人に風呂の配水管を割って調べてもろたら、ちゃんとタカ子はんのパーマのかかった毛髪が出てきましたんや」
タカ子しか使っていないファイナル・ケア・カーサの風呂の配水管から、毛髪Tが検出されたのだ。その毛髪Tが靖枝の使っていた建物≠フ配水管から出たということは、とりもなおさず建物解体後の作為――毛髪TとYの入れ替えを立証する結果となった。
「あんさんは理容の専門家だけに、毛髪に細工をすることを考えたんですやろ。けど、その毛髪に逆に自分自身が括《くく》られる結果となってしもたんです」
伸太が、そう言い終えたとき、電話が鳴った。
遠井司法書士があわてて受話器を取った。
「石丸さん、和歌山県警の原竹さんからです」
遠井は、コードレス電話を伸太に手渡した。
「そうでっか。原竹はん、すんまへんけど、ちょっとこのまま待っとくれやす」
用件を聞いた伸太は、受話器にグローブのような手を当てがった。「富山県にある井坂源三はんの実家で、靖枝はん、真奈美はん、それに卓也君の身柄を確保したそうです」
戸籍を見て、井坂の本籍地である彼の実家を当たってみてはどうか、と原竹に示唆したのは伸太だった。
「彼女たちは、わしの指示に従ってくれただけどす。悪いのは、わしだけです」
梅山は、ようやく伸太の方を正視した。「ここに居るかたたちもみんな、わしの願いで動いただけどす。すべての責任は、わしにあります。石丸さん、詳しい話を聞いてくれはりますか」
「お聞きしまひょ」
伸太はあとからまた電話をして欲しいと告げて、原竹との電話を切った。
「石丸さんの言わはったことは、ほぼ当たっとります。靖枝は二条館を手放したいと思っていました。真奈美と井坂は、『またサラ金に借金を作っている。早く売って欲しい』と、事件当日も二条館に来てました。わしは、売却もやむなしと考えてました。京都らしい町並みを自ら一つ消してしまうのは辛《つら》い気持ちでしたが、如何《いかん》せん、個人の力ではどうしようもないところもあり、二条館の経営不振のことも真奈美の借金のことも分かってました」
梅山は、馬崎たちを見た。「しかし、近所の手前がおました。靖枝は十二年前の実績もあって、マンション建設反対運動の代表にまつり上げられて、苦しんでいました。塔池町の周囲に住む市民たちは、近くにマンションができるのは嫌やさかいに、口先では『頑張って阻止《そし》しとくれやす』と言うくせに、何も動いてはくれません。それでいて、もし売却でもしようものなら、蔭口《かげぐち》を叩くに決まってます。みんなにとって不利益なことができてしまうときには、『あの人のせいや』と、そこに非難を集中してしまう陰湿さが京都にはおますのや。靖枝をその悲しい生贄《いけにえ》にしたくありません」
梅山は喉《のど》が渇いたのだろう、缶コーヒーを求めた。
由佳はリングプルを抜いて差し出した。本音でものを言い合いにくい京都の町中の風土が、事件の複雑さを強めていたことを、由佳は再認識させられた。
「わしは、その生贄役を脇本タカ子に負うてもらおうと思いました。と言うても、最初は彼女を殺す気などはなかったんどす。ただ、彼女の身勝手のために、塔池町はわれわれの反対にもかかわらず地上げをされたという形を示したかったのどす。わしは、脇本タカ子には個人的な恨みもおました。彼女は、以前に子宮|筋腫《きんしゆ》を患いました。タカ子は、当時看護婦をしていた真奈美に頼んで、真奈美の勤める病院で診察を受けて入院しました。真奈美は、善意で彼女の病室を担当し、看護したのどす。せやのに、そのあとでタカ子は恩を仇《あだ》で返しました。祇園のホステス時代に知り合っていた美術品の工務店の親方に頼まれて、真奈美に井坂の看護担当をさせました。井坂は嘱望されて親方の次女と結婚したものの、利き腕を負傷してしまって仕事が続けられなくなっていたのです。転院してきた井坂は、タカ子の口利きで、真奈美と仲良うなりました」
梅山は、井坂を憎らしさの混じった眼で見た。「惚れてしまった真奈美が悪いと言えば悪いのですが、タカ子が動かなければ、あんな放蕩《ほうとう》の男とは知り合わずに済んだのです。親方の狙いどおり、井坂は離婚して、真奈美と結婚しました」
「脇本タカ子は、子宮筋腫で入院したということでんな」
伸太は確認した。
「そうどす。そやさかい、捜索願にそのことが書けたんどす」
梅山は、コーヒーを不味《まず》そうに飲んだ。「脇本タカ子は、長屋の住人を詐欺的な手段で追い立てようとしました。わしは、渡りに船やと思いました。そのお蔭《かげ》で、脇本タカ子と京洛興産が悪いのであって、わしらはやむなく塔池町を出て行く≠ニいう形がとれると思いました」
「なるほど、塔池町の周囲の人間たちにも申し開きができるということでんな」
「ところが、馬崎弥兵衛さんが、石丸さんに救いを求める手紙を出したことで、ややこしいことになりました。もし石丸さんと司法の力で、タカ子の詐欺的追い立てが無効ということになり、京洛興産が手を退きでもしたら、せっかくの二条館売却のチャンスがなくなります。わしは、あせる気持ちで、馬崎たち長屋の住人を集め、引っ越しのトラックを見送ったタカ子をわしの店に呼び付けました。その時点でもまだ、彼女を殺す気はなかったんどす。わしが率先してタカ子を詰《なじ》り、みんなで糾弾《きゆうだん》することで、タカ子がさらに態度を硬化させて京洛興産に強引な地上げを早くさせたらええと計算したんどす」
梅山は次第に眼を充血させた。「理容室の奥の和室でみんなに車座になって責められたタカ子は、わしらを完全にバカにする態度をあらわにしました。『今の世の中は、金のある者が強いのよ。貧乏人がどうのこうの理屈を並べたって、屁《へ》の突っ張りにもならないわよ。政治だって行政だって、金持ちの味方をしているのが分からないの。口惜しかったら、金を持ちなさいよ』とタカ子は、息巻きました」
馬崎が、こらえ切れないように口を開いた。
「タカ子は、『あたしは、空気のいい温泉付きリゾートマンションで長生きするわ。あなたたちはごたくだけ並べて、どっかへ行って早死にしなさい』と捨てゼリフを吐いたんです」
馬崎は唇を噛《か》んだ。「わしは、奥の部屋から理容室へ出ていくタカ子のあとを追い掛け、扉の前に立ちはだかりました。『あの長屋は、わしらの生活の場です。そして仕事の場です。わしらにとってかけがえのない長屋です』とわしは訴えました。そしたらタカ子の奴は『金のない弱い者の生活や仕事なんて、今の社会じゃ、虫ケラくらいにしか扱われないのよ』と言いました。そして『どきなさいよ』と、手近にあった店のブラシを投げつけました」
「その言動に、わしは当初の目的を忘れて、激怒しました。長い間仕事に使ってきたブラシやハサミを粗末に扱われたら、理髪職人はたまったものじゃありません。それなのにタカ子は、『こんな安物、いくらでも弁償してあげるわよ』と反発しました」
梅山は、拳《こぶし》を握り締めた。「石丸さんは、わしが京洛興産の植島に殴りかかったことを演技と思たはるようですけど、そやおません。わしは、自分でも嫌になるほど短気どす。わしは、気がついたら、タカ子に殴りかかってました」
「それを煽《あお》ったんは、居合わせたわしらです」
馬崎は、細い肩を落とした。「打ちどころが悪く、梅山さんに殴られたタカ子は店の洗面台に頭をぶつけてしまいました。床にぶっ倒れた彼女が動かないのを見て、わしらは初めて事の重大さに気づいたんどす」
「わしは動転した気持ちで、二条館に居た靖枝を呼びに行きました。いざというとき、やはり彼女を心の拠《よ》り所として求めていたのです。靖枝は、タカ子の姿を見て驚きました」
梅山は、拳を振るわせた。「そして、靖枝に付いて来た井坂がアイデアを出しました」
「下手すりゃ、全員が殺人罪になっていたじゃねえか」
井坂が低い声を出した。「あの女のために迷惑を受けたんだから、慰謝料として彼女の財産を分けたっていいはずだぜ」
「価値のないタカ子のために、みんなが殺人の罪を負うのはたまらない、とわしも思いました。わしは井坂と一晩中話をしました。真奈美を不幸にしているこの男のことがわしは好きではないのですが、ここは彼に頼りました。登記のことは、彼が服役中に知り合った地面師から、聞き出してもらうことにしました」
「わしらも賛成しました」
馬崎は、白髪頭を掻《か》きむしった。「そやから、みんなで白浜へ引っ越し業者のふりをしてタカ子の家具や荷物を取りに行ったり、石丸さんに『もう、あの件はいいんです』と言い訳をしたりしたんです」
「そういうことでしたんか。よう、話してくれはりました。もうすぐ京都府警の人たちが来はることになりますけど、わいは減刑嘆願書を書こと思てます。こうやって、つつみ隠さずに話してくれはったことは、裁判の際に必ずあんさんらに有利に働くはずです。わいは、なんぼでも証言台に立つつもりでっせ」
伸太はきっぱりとした口調でそう言った。
「あたしも、証言することをお約束しますわ」
由佳もそれに続いた。
もう一度、原竹刑事から電話がかかってきた。
「義兄《にい》さん、あたし、ちょっと後味が悪いわ」
由佳は、遠井事務所をあとにしながら、振り返った。今頃、京都府警の刑事たちが梅山らに手錠を掛けているかもしれない。「何だか、庶民の犯罪を暴いてしまったという気がするのよ。梅山さんも靖枝さんも悪い人じゃないだけに、よけいだわ」
「けど、わいは前に言うたやろ。犯罪を犯した者《もん》にとっては、それを告発されて罪を償った方がかえって救われた思いになることがある。梅山はんにしろ靖枝はんにしろ馬崎はんにしろ、今回の事件関係者はみんな、そっちの方のタイプやで。全員で秘密を共有しつつ、バラバラに住む――言うのはたやすいが、辛《つら》いもんやで。繁華街でバッタリと会《お》うても、一杯飲みまひょかと声を掛けるのも気まずいのとちゃうやろか」
伸太はスタスタと歩いていく。
「それは分かるけど、あたしは、この事件の元凶とも言うべき京洛興産が、何のとがめも受けないのが、どうも好かないのよ」
「わいも好かん。もちろん、その背景を作り出した地価高騰に無策な政府の姿勢にも腹が立つし、高さ規制を緩和することで弱者を食いもんにする状態を結果的に導き出しとる京都市の行政にも憤りを感じとる」
伸太は、辻を曲がった。もうすぐ塔池町だ。
「わいは、自分のでける範囲で、精いっぱい戦うで」
かつての二条館の敷地が見えた。そして、梅山たちが住んでいた家が建っていた敷地が続いている。周囲にロープが張られ、中で作業員数人が、計測器を持ち、ポールを建てて、測量を進めている。
伸太は、ロープを潜って、かつての二条館の敷地の中にズカズカと入っていく。
「おい、君っ。勝手に入っちゃいかん」
ヘルメット姿の作業員が怒鳴った。
「どうしたんだ?」
作業員の声に気づいて、背広姿の若い男が現われた。伸太は、その顔に見覚えがあった。馬崎弥兵衛の家の解体見積りに、植島と一緒に来ていた京洛興産の若い社員だ。
「なんだ、また貴様か」
若い社員も伸太のことを憶えていた。「部外者は立入禁止だ。そのロープが見えんのか」
「さいな。立入禁止区域ですのや。せやから、あんさんらには出て行ってもらいまひょ」
「何を寝ぼけてるんだ」
若い社員が声を荒げた。
「あんさんらは、事情が変わったのを、ご存知ないようでんな」
伸太は、全く動じない。
「どういう意味だ?」
「京洛興産の偉いさんに伝えてくれやす」
伸太は、体重百二十キロの体躯《たいく》を、どっかと地面に座り込ませた。「この土地の所有者である北野靖枝はんは、まだ生きてはります。せやから、相続登記は無効やし、その相続登記をベースにした京洛興産への所有権移転登記も無効ですのや」
「何だって。いい加減なことを言うな」
「嘘やおません。わいは、さいぜん真の所有者である北野靖枝はんに電話で確認しましたんや。『二条館の敷地を売る意思はありません』という伝言を受けましたんや。せやから、この土地は京洛興産の所有物になりまへん。嘘やおませんで、和歌山県警の原竹という刑事はんが証人や。疑うんやったら、確かめはったらよろしおまんがな」
北野靖枝は、泣きながら「わたくしは償いを終えたら、もっと小ぢんまりとしたものでいいですから、塔池町で京都らしい風情のある民宿を始めようと思っています」と言っていた。彼女の涙が受話器から流れ出てくるのではないか、と伸太は思ったほどだ。
「この土地は、わいが靖枝はんに成り代わって、守りますで。ユンボでも何でも、寄こすんやったら寄こしなはれ」
伸太の勢いに、京洛興産の社員や作業員たちは後退《あとずさ》りした。
「義兄《にい》さん、カッコいい」
由佳は、パチパチと拍手した。「さあ、分かったでしょ。ここから出て行きなさいよ。そして、京洛興産の偉いさんに『二条館のあった土地にはマンションは建ちません』って伝えてちょうだい」
由佳は、土に埋もれ、半分千切れた〈マンション建設反対〉のビラを取り出して、若い社員たちに突きつけた。少なくとも二条館の敷地については、町並み破壊という死の状態からの逆転を果たすことができた。
「いったい何なんだよ。このアベック……」
小声で文句を言いながらも、若い社員は逃げるように走り出した。作業員たちもメジャーを巻いて、測量を中止し始めた。
「あら。あたしたち、アベックに見えるのかしら?」
由佳はクスクスと笑いながら、伸太の方を見た。伸太は短いウィンクを送った。
晩秋というのに、早春を感じさせるようなさわやかな風が、由佳の頬に心地よく当たった。
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あとがき
私は、京都の市内で生まれ育ちました。そして、現在も京都市に住んでいます。ペンネームの姉小路は、京都に実在する通りからお借りしたものです。
ある東京の友人によると、「大阪人は東京に対抗意識を持っている。しかし、東京人は大阪には対抗意識など持っていない。そんな東京人も、京都に対しては、日本の心のふるさととして別格扱いをしている」ということです。
その言葉が的を射ているかどうかは別として、京都を特集する雑誌は少なくなく、京都を扱うテレビ番組もよく見かけます。
ただ、私からすると、それらの多くは京都を表面的に(あるいは観光的に)しか扱っていないような気がするのです。
京都の中から見た京都(いわばウラの京都)を書いてみたい。そして、今の京都で「応仁の乱以来の町壊し」とも言われている都市再開発の問題をとりあげてみたい、と常々思っていました。それが、この作品です。
土地の開発といったテーマを扱うのにもってこいのキャラクターがいます――と私が言うのもヘンなのですが、司法書士の石丸伸太《いしまるのぶた》にこの作品では登場してもらいました。
石丸伸太は、私が横溝正史賞をいただいた「動く不動産」の主人公です。「動く不動産」をお読みいただいたかたはご承知のことと思いますが、彼は大阪生まれの三十二歳で、父(母の再婚相手なので、正確には義父)の仕事を継いで司法書士を通天閣のそばでやっています。しかし、司法書士としては全く繁盛しておらず、父の代からの「代書屋」という古い看板を掲げ、お好み焼き屋を兼業しています。お好み焼き屋のほうが本業のような大食漢です。
この伸太には、義妹がいます。それが由佳《ゆか》です。由佳にとっては、伸太は「先妻の連れ子」ということで、二人は血は繋《つな》がっていません。由佳は母親が離婚して以降の十代を関東で育ち、東京的視点を持っています。そして、彼女はバレーボールの高校日本代表に選ばれたこともある長身の痩《や》せた女性です。
私は「動く不動産」を書き上げたあと、すぐにこの凸凹コンビの登場するシリーズ第二作に取りかかりました。それが、この「死の逆転――京都が危ない」です。シリーズ第二作といっても、「動く不動産」とは全く独立した作品です。
当初は、「動く不動産」の受賞第一作ということで、「背伸びする不動産」というタイトルをつけました。本文にもありますように、京都市内における高さ制限が緩和され高層建築物の工事が開始されたことから、このタイトルになったのです。書き上げたのは、横溝賞をいただいた平成三年でしたので、その前年の平成二年が舞台となりました。このころの京都市の地価上昇率は、全国最高の激しいものでした。
ところが、この作品の原稿を版元の角川書店に送ったあとで、版元から「横溝賞関係の作家の本をまとめて刊行したいので、『背伸びする不動産』をそちらの方に回したい」というお話がありました。私はすぐに了解しました。そしてそのあと、いくつかの経緯があって、横溝賞関係の作家にとどまらず、より発展させた「十三人によるミステリーコンペ」が行われることになり、「背伸びする不動産」はそこへエントリーされることになりました。
そのため、原稿を送ってから二年近くたっての刊行という異例なことになりましたが、私としてはもう一度読み直しと加筆ができる機会が与えられて良かったではないか、と前向きに受け止めています。
ただ、「動く不動産」のシリーズ第二作を待っていただいていた読者のかたには、申し訳ない結果になってしまったことは、この場をお借りしてお詫《わ》びしておきたいと思います。
なお、加筆にあたってタイトルは「死の逆転――京都が危ない」と改め、また当初の原稿を書いた時点から情勢の変わっている個所のほか、多くの部分で筆を加えました。
平成五年の現在でも、やはり京都の古い町並みが「応仁の乱以来の町壊し」の脅威に晒《さら》されていることには変わりありません。むしろ、町壊しは今のほうが顕在化し激化している印象を受けます。その意味でも、この時期に刊行できたことはむしろ良かったのではないか、と思っています。
最後になりましたが、この作品を書くに当たっては、次の書籍や資料を参考にさせていただきました。また京都在住の司法書士のかたがたにも、ご協力をいただきました。ありがとうございました。
◎「ねっとわーく京都」(一九九〇年八月特別号)
60メートルのっぽビル地価高騰にストップを(かもがわ出版)
◎大崎晴由「司法書士を生きる」(東京法経学院出版)
◎住宅流通新聞(一九九一年七月二六日号)
リゾートマンション市場動向をみる(住宅流通新聞社)
◎梅津重利「熱帯魚の飼い方と病気」(高橋書店)
◎京都新聞 一九八九年〜一九九三年までの京都再開発・景観問題・ビル高層化に関する報道記事ならびに特集記事(京都新聞社)
・この作品は、あくまでもフィクションであり、実在の人物・会社・団体等とは、全く関係がありません。
・代書屋は、司法書士の正式名称ではありません。
・作品中の登記簿やその申請書類は、一部簡略化してあります。
・平成五年現在、不動産登記簿の閲覧手数料は、一件につき四百円に改訂されています。
〈姉小路祐キャラクター別作品リスト〉
「十三人によるミステリーコンペ」にタイアップさせたわけではありませんが、十三冊になりました。今後ともよろしくお願いします。
(A)司法書士石丸伸太(ブーやん)シリーズ
@動く不動産  91・5・25(角川書店 四六判)
A死の逆転――京都が危ない  (この本)
(B)老弁護士朝日岳之助シリーズ
@真実の合奏《アンサンブル》 89・5・25(カドカワノベルズ)
A有罪率99%の壁  89・10・25(カドカワノベルズ)
B殺意の法廷  91・8・25(カドカワノベルズ)
C野望の賭け  92・9・25(双葉ノベルズ)
D|黄金の国《ジパング》の殺人者  93・8・25(中央公論社C・NOVELS)
(C)復活弁護士橘竜太郎シリーズ
@特捜弁護士 ―― 十三年目の復讐  93・5・30(カッパ・ノベルス)
(D)部長刑事岩切鍛治(ダンさん)シリーズ
@刑事長《デカチヨウ》  92・8・5(講談社ノベルズ)
A刑事長―四の告発  93・4・5(講談社ノベルズ)
B刑事長―越権捜査  93・11・5(講談社ノベルズ)
(E)生命保険調査員平木寿恵シリーズ
@期待された死  92・2・25(双葉ノベルズ)
(F)その他(エッセイ・短編集)
@推理作家製造学入門編  91・6・5(講談社ノベルズ)
[#地付き]姉 小 路 祐
角川文庫『死の逆転』平成5年12月10日初版発行