燃えよ剣(下)
司馬遼[#しんにょうの点は二つ]太郎
-------------------------------------------------------
〈底 本〉『燃えよ剣(下)』昭和四十八年三月一日 文藝春秋刊
(C) Midori Fukuda 2000
〈お断り〉
本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。
また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。
〈ご注意〉
本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)風は、崖のうえの大紅葉《いちぎよういん》の老樹のあたりから吹き落ちてくる。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)京都守護職|御預《おあずかり》浪士という身分
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
-------------------------------------------------------
[#改ページ]
目 次
与兵衛の店
二条中洲の決闘
菊 章 旗
お 雪 と
江 戸 日 記
剣 の 運 命
大 暗 転
伏見の歳三
鳥羽伏見の戦い・その一
鳥羽伏見の戦い・その二
鳥羽伏見の戦い・その三
鳥羽伏見の戦い・その四
大坂の歳三
松 林
西 昭 庵
江 戸 へ
北 征
甲 州 進 撃
勝沼の戦い
流 山 屯 集
袂 別
大 鳥 圭 介
城 攻 め
沖 田 総 司
陸軍奉行並
艦 隊 北 上
小姓市村鉄之助
松前城略取
甲 鉄 艦
宮古湾海戦
襲 撃
再 会
官 軍 上 陸
五 稜 郭
砲 煙
あ と が き
章名をクリックするとその文章が表示されます。
[#改ページ]
燃えよ剣(下)
与兵衛の店
「土方歳三を斬る」
というはなしが伊東一派のあいだで真剣に論議されるようになったのは、|この《ヽヽ》前後《ヽヽ》からであった。
この前後、――つまり、新選組が、京都守護職|御預《おあずかり》浪士という身分からはなれて、徳川家の直参に御取り立てになる、というはなしが具体化しはじめたころである。
新選組年譜でいえば、かれらが京洛の地で四度目の秋をむかえたころであった。
慶応二年初秋。
参謀伊東甲子太郎は、表むき、
「江戸のころの仲間の供養をする」
という届けを隊に出し、伊東派のおもだった者を、洛東京都守護職|御預《おあずかり》浪士という身分|泉涌寺《せんにゆうじ》山内の塔頭《たつちゆう》、戒光寺にあつめた。
あつまったのは、伊東の実弟である新選組九番隊組長鈴木三樹三郎、同監察篠原泰之進という大物のほかに、伊東の剣術の内弟子であった内海二郎、中西登。それに伊東の江戸以来の同志の伍長加納★[#周+鳥]雄、同服部武雄、同監察新井忠雄などである。
そのほか、たった一人だが、新選組以外の人物がまじっていた。
その人物、柱を抱くようなかっこうで、だまっている。
戒光寺の方丈の一室がこの密会所で、縁側のむこうは、東山の崖をとり入れた灌木《かんぼく》の多い庭になっていた。
初秋だが、陽ざしはあつい。
風は、崖のうえの大紅葉《いちぎよういん》の老樹のあたりから吹き落ちてくる。
「伊東さん、離脱。その一手だよ。いまさらむずかしい相談も策もありゃせんじゃないか」
と、篠原泰之進はいった。維新後、秦林親《はたしげちか》と名乗って官途につき、ほどなく悠々自適して明治末年八十四歳という長寿で死んだこの久留米浪人は、どこかのんきそうなところがあって、めんどうな策謀がきらいだった。
「あんたはね、伊東さん」
と、篠原はいった。江戸以来の伊東の仲間だが、としは七つ八つ上である。
「未練だよ。事ここにいたっても、なお新選組を乗っ取って、勤王の義軍にしたいとおもっているのだろう」
「思っている」
「策の多いひとだ。なるほどいまの新選組も三転している。はじめは清河八郎が作り、ついで芹沢鴨が斃されて近藤一派が乗っ取りはした。四度目は伊東甲子太郎」
と、篠原は、首筋を鉄扇でぴたぴたたたきながら、
「そうは問屋がおろすかねえ。いまの新選組には桶屋が居るよ」
「桶屋?」
「土方のことさ。野郎は、武州のころは薬売りをしていたそうだが、じつは桶屋だね。ぴたっと板を削って、大石を投げこんでもゆるまねえような|たが《ヽヽ》を締めてやがる」
「篠原君、よくみている」
と、伊東甲子太郎は、微笑した。
「その桶屋を」
「斬《や》るかね」
「そう」
伊東はうなずきながら、
「土方さえ殺《や》れば、あとは馬鹿の近藤さ。説けば勤王になる。私には、たびたび中国筋へ同行して、自信はある。あれは、可哀そうに、政治とか思想とかというものが好きなおとこだ。きっと鞍替えをさせてみせる」
「すると、問題は桶屋か」
篠原はくすくす笑いながら、
「しかし、強いぜ」
ぴしゃっ、と鉄扇で首の根をたたいた。秋の蠅が、ころりと膝のうえに落ちた。
「篠原君、なにも君にやってくれとは、私はいっていない」
と伊東がいった。
「多勢でやるのかね」
「さあ、それを相談《はか》ろうと思っている」
「斬るなら、一人だね」
と、篠原は蠅をつまんで縁側まで立ってゆき、そこで捨てた。
「伊東さん、一人でやらなきゃ、この一件は露顕《ばれ》るよ。ばれりゃ、事だ。近藤なんざ馬鹿だからいきりたって復讐するだろう。勤王にひきこむなぞは、水の泡になる」
「そこを私も考えている」
と、伊東は縁側の柱のほうをチラリとみた。
そこに、例の男がいる。
莨《たばこ》を吸っている。狐色の皮膚が、半顔、庭の照りにはえてうっすら苔がはえたように青くみえた。
唇が薄く、右の小鼻から|しわ《ヽヽ》が一本、唇のはしへ垂れている。
六年。
この男も老いた。
武州八王子の甲源一刀流道場のかつての塾頭七里研之助である。
長州、薩摩屋敷に流寓《りゆうぐう》していたが、いまでは、京の勤王浪士の顔役のひとりである。伊東甲子太郎を薩摩の中村半次郎(桐野利秋)に手びきしたのも、七里の働きである。
「じつは七里さんが」
と、伊東はいった。
「浪士連をあつめて斬《や》りたい、とおっしゃっている。七里さんのいうところでは、われわれがやると、きっと洩れる。代行してさしあげる、とおっしゃるのだ。われわれとしては能のない話で汗顔のいたりだが、そうやってもらうとあとの仕事がやりやすい。近藤をひきよせて隊を勤王の義軍にする、ということが」
「しかし七里さん。あの用心ぶかい桶屋をどういうぐあいにおびきだすのです」
と、篠原が、縁側へ顔をむけた。
逆光のなかに、七里研之助がいる。ぽん、と|きせ《ヽヽ》る《ヽ》の雁首《がんくび》で吐月峰《はいふき》をたたき、ひどく小さな声でいった。
「あの男の性分は心得ています。ふるい|つき《ヽヽ》あい《ヽヽ》ですからね」
「どうやら、怨恨がありそうですな」
「いや、皇国のためです。新選組を倒幕の義軍たらしめるには、この程度の危険はなんでもないことです。あなたのおっしゃるあの桶屋ひとりを斃せば、新選組の|たが《ヽヽ》は、ばらばらにはずれる」
その翌日、伊東甲子太郎は、腹心の新井忠雄をつれて、尾州名古屋に発った。
――尾州徳川家の動向が微妙である。
と伊東はいい、その情勢を見てくるというのが近藤への理由だが、本心は、尾州藩における勤王派との意見交換であった。というより、その奥に、もう一つ本音《ほんね》がある。
留守中に七里が土方歳三を殺《や》る。おそらく隊中大さわぎになるだろうが、その巻きぞえを食わぬ用心のためである。
――七里さん、私は九月の二十日すぎには帰洛する。仕事はそれまでにねがいたい。
と念をおしてある。
歳三。――
むろん知らない。
近藤がちかごろ屯営に落ちついているのをさいわい、隊内《なか》は近藤にまかせて、しきりと市中巡察に出ていた。
いつも、何番隊かを交替でつれてゆく。
歳三が京の市中に出れば、大路小路は、シンと水を打ったように静まるといわれた。
その日、沖田総司の一隊をつれて、夕刻から屯営を出た。
高辻の山王社の前で落日をみた。ふりむくと、境内の大銀杏のむこうに赤光《しやつこう》を西山《にしやま》の雲にしたたらせながら、陽がおちてゆく。
「豊玉《ほうぎよく》宗匠、句ができませんか」
と沖田がからかった。
「おれァ、秋の句がにが手でね」
「四季、どの季題ならいいのです」
「春だな」
「ふうん」
意外なことをいう、という顔を、沖田はしてみせた。
「土方さんが、春ですかねえ」
「不満かね」
「べつに不満じゃありませんが」
「おれは春なのさ」
なるほど、沖田がのぞいた例の「豊玉発句帖」にも、春の句が圧倒的に多かった。
一見冬の骨のこごえそうな季感を、この男の性分なら好きだろうと思ったのだが。
「春の好きなひとは、いつもあしたに望みをかけている、と云いますね」
「そうかね」
東洞院《ひがしのとういん》を北上した。
ここから六角《ろつかく》にいたるまでのあいだ、諸藩の京都屋敷が多い。水口藩《みなぐちはん》、芸州広島藩、薩摩藩、忍藩《おしはん》、伊予松山藩。
このあたりの京都詰めの藩士も、道で新選組巡察に行きあうと、そっと道を避ける。
蛸薬師《たこやくし》の角まできたとき、隊士一同提灯をつけた。
「総司、ちょっと思惑がある。ちょっとそこまでひとりでぶらぶらするから、ここで別れよう」
「どこへいらっしゃるんです」
とは、沖田はいわない。
沖田は、歳三がどこへゆくかを、おぼろげに察している。
「では、お気をつけて」
「ああ」
歳三は、蛸薬師の通りを西へ歩いた。
例の女の家である。お雪。
女は、いた。まるで歳三の来るのを待っていたかのように、淡く化粧《けわい》をしていた。
「そこまで来たので。――」
と、歳三は女の顔から眼をそらしながらいった。この男が、これだけの羞恥をみせるのは、ないことである。
「ご迷惑だろうか」
「いいえ。おあがりくださいまし。いまお茶を淹《い》れますから」
訪ねるのはもう七、八度目で、お雪はすっかり物腰がやわらいでいる。
が、歳三はお雪の手もにぎらない。どういうものか、この男には似ず、お雪にだけはそういう振舞いに出たくなかった。
いつも、世間ばなしをして帰る。
江戸のはなし。子供のころのこと。義太夫のこと。京の市井《しせい》のことなど。
歳三は、お雪の前ではひどく饒舌《じようぜつ》な男になった。近藤や沖田が、もし蔭で歳三をみていたら、別人ではないかとおもったろう。
子供のころの話など、まるで際限もなくしゃべった。
お雪は、頭のいい聴き手だった。いちいちうなずいたり、低くて響きのいい笑い声をたてたり、ときには、つつましくまぜっかえしたりした。
歳三はふしぎな情熱でしゃべった。とくに想い出ばなしになると、熱を帯びた。
まるで、自分の一代のことを、お雪に伝えのこしておきたいというような情熱だった。
「お袋はね。三つのときに亡くなった」
と、他人がきけば愚にもつかぬはなしである。
「お雪さん。あなたは武州の高幡不動《たかはたふどう》というのを知っていますか」
「ええ、名前だけは」
「母親はあの村の出でね。女のくせに酒がすきだったそうだ。その血は、姉のおのぶも受けていて、夜はかならず銚子の一本か二本は|から《ヽヽ》にしている」
「そのおのぶさまが、お母様がわりだったのでございますね」
「むこうはそのつもりだったのだろう。私は姉よりも姉の婿の佐藤彦五郎というほうに懐《なつ》いて、石田村の生家にいるときよりも日野宿の佐藤家にいるほうが多かった。このひとは日野一帯の名主でね、お父さんの代からわれわれの天然理心流の保護者だった。彦五郎義|兄《あに》も、剣は免許の腕です」
「おのぶ姉様は」
と、お雪は女きょうだいのほうに関心がある。
「お母様似でいらっしゃったのでしょう」
「酒だけはね。顔も気象も似ていないそうだ。私の母親は、むろん私などはおさなかったからおぼえていないが、姉や兄たちからきくところでは、酒は、こう」
と、いいかけて歳三は口をつぐんだ。
いままでどうして気づかなかったのかとおもうのだが、小さな発見があった。それが胸の中でぱちんと弾《はじ》けて、胸いっぱいに驚きとなってひろがった。
(この女に似ている。――)
自分がなぜ、しげしげとこの家を訪ねてくるかが、自分でもやっとわかった。
お雪という女は、歳三がいままで自分の好みに適《かな》うとして相手にしてきたどの女の型にもはまらなかった。どちらかといえば、以前の貴種《きしゆ》好みな歳三なら、興をひくはずのない型である。それが魅《ひ》かれている。その理由が、自分でもよくわからなかった。
「どうなさいました」
「いや、なに。……」
歳三は、薄手の京焼の煎茶茶碗を、そっと膝もとからひろいあげた。
さりげなく話題を変えた。
「武士になりたくてね」
「え?」
「いや、私がさ。だから小僧のころ、生家の庭に矢竹を植えてね。戦国のころの武士の館《やかた》というものはかならず矢竹を植えたもんだというのを耳にしたものだから、自分もそうするのだといって植えた」
話は、とめどもない。
その|らち《ヽヽ》もない歳三の饒舌を、お雪は貴重なもののように相槌をうってくれるのである。
(このひとは話しに来ているのではない)
と、お雪はおもっていた。
(なにか、別の自分になるために此処《ここ》にきている)
喋る、というのではなく、歳三は、自分の心のなかにある別な琴線を調べるために来ているようであった。
そのくせ、一方では、
(お雪は好い)
と、哀しくなるほど想っている。
(いつかは、抱こう)
そう思いつつ、この家にきてしまうと、そんなとりとめもない饒舌で、かれ自身のわずかしかない時間を消してしまう。
その夜、お雪の家を出たのは、夜|戌《いぬ》ノ刻さがりであった。
どぶ板をふむと、虫の音がやんだ。
星が、満天に出ている。
歳三は、油小路《あぶらのこうじ》をさがって、越後屋町《えちごやまち》という一角に出た。
どの家も戸をおろしていたが、この町に、与兵衛という、酒とあま酒を売る店が、一軒だけあいているのを、歳三は知っていた。
そこへ入った。
先客がいる。
歳三は、あま酒を注文した。
「あま酒かね」
と笑ったのは、親爺の与兵衛ではない。隅の暗がりにすわっている先客である。笑いながら、鯉口を切っていた。
歳三は、すこし離れた床几《しようぎ》に腰をおろした。
「七里かね」
落ちついている。
この執拗な甲源一刀流術者は、諜者でも使ってお雪の家に歳三がときどきゆく、というところまで突きとめているのだろう。ひょっとすると今夜も、歳三がお雪の家を出るところから、七里の諜者がつけていたにちがいない。
七里自身、さきまわりしてこの与兵衛の店に入り、往来を見張っていたものだろう。
「甘酒とは、優しいな」
と、七里は自分の床几から立ちあがって歳三のそばへやってきた。
「やるのかね」
と歳三。
「やらないさ」
七里は、歳三のむかいに腰をおろした。前に、自分の徳利、杯、肴の皿を、コトコトとならべながら、
「おたがい、縁がふかすぎる仲だが、こうして二人っきりで差しむかいになったのははじめてのようだな」
といった。
歳三は、だまっている。
「土方、今夜はゆっくり語ろう」
「ことわる」
と、歳三は顔をあげた。甘酒がはこばれてきた。
「話さないのかね。いかに縁がふかくても喧嘩縁じゃ仕様がねえとこのおれはおもうんだが、お前が話さねえというならこいつはどうにもならねえ。執念ぶけえこった」
「執念ぶかく祟りゃがるのは、そっちのほうだろう。堀川じゃ、あやうく命をおとしかけた」
「土方、お前は生まれ落ちるときに、どなた様に願をかけたかは知らねえが、ずいぶんご冥加《みようが》なことだ。しかしどうだろう。おれもこんな因縁めいた仲てのは性《しよう》にあわねえから、二人で因縁切りの修法《しゆほう》をやってみねえか」
「二人でかね」
「お前も、土方歳三といわれた男だ。男と男の因縁切りの修法に、助人《すけつと》や加勢を呼ぶことはすまい」
「お前は?」
「七里研之助だ。古めかしいが熊野誓紙にかいて渡してもいいぜ。もっとも土方、お前のほうは|あて《ヽヽ》にゃならねえが」
「武士だ」
歳三は、みじかくいった。武士である。遺恨は一人対一人で始末をつけあうべきだろう。――七里研之助も、歳三が当然そう答えることを期待していたようにうなずき、
「お前の武士を信じる。時は、後日を約するとおかしな水も入るだろう。いますぐ、はどうだ」
「場所は?」
と歳三はいいかけてすぐ畳みこんだ。
「おれにまかせるだろうな。受けたほうがきめるのが定法のはずだ」
七里に指定させると陥穽《かんせい》があるかもしれないとおもったのである。
「二条河原なら、人は来るまい」
「よかろう」
といって七里は、すぐ奥へ声をかけた。
「親爺、駕籠を二挺よんでくれんか」
[#改ページ]
二条中洲の決闘
駕籠が二挺。
歳三と七里研之助をのせて、月明の大路を、東へ駈け去った。
月は、沖天《ちゆうてん》にある。
決闘には都合のいい月夜なのだ。すこし欠けているようだが、幸い、天に雲がない。町々の|いら《ヽヽ》か《ヽ》が、銀色に燻《いぶ》っている。
駕籠が駈け去ったあと、この越後屋町の「与兵衛」の店に、浪士風の男が三人、のっそりあらわれた。
七里研之助が集めた浪人である。むろん、七里としめしあわせての行動だった。
「親爺。いまの駕籠、行くさきはどこだ」
「存じまへんな」
親爺は、ぶあいそうに答えた。
「知らん?」
「へい。うちは酒一本、甘酒一椀売っただけで、行くさきまで知りまへんどす」
京者は、ものやわらかいとはかぎらない。偏屈者になると、酢《す》でもこんにゃくでも食えない手合がいる。
ぎらっ、と一人が刀をぬいた。
おどしではない。眼が血走っていた。町々で天誅《てんちゆう》さわぎをおこしている連中だから、本気で斬るつもりだろう。
親爺は、これには閉口した。
「ああ、二条河原どす」
「間違いないな」
「おへん」
「うそとわかれば、もどってきて叩っ斬るがよいか」
「へへ。与兵衛は、うそまで売りまへんどすさけ、安心してお行きやす」
京弁の口悪さというものほど憎態《にくてい》なものはない。
浪人の一人が、与兵衛親爺にとびかかってなぐり倒した。
(あっ、おンどれ奴《め》ァ)
与兵衛はかっとなった。若いころ、ばくちも打ち、牢にも入り、目明しの手先もつとめたこともある男だ。
表へ駈けだしたが、そのときは浪人の姿はもうなかった。
与兵衛も昔とった杵柄《きねづか》で、人体《にんてい》はわかる。先刻の客が、どうやら新選組、それも京の浪士どもをふるえあがらせている土方歳三だと見ぬいていた。
(あの浪人ども、押しつつんで土方さんを斬る計略だな)
見て知らぬ顔、というのが京かたぎだし、与兵衛親爺もそのつもりでいたのだが、こうなっては腹の虫が承知しない。
花昌町の新選組屯所へ駈けだした。しかし道のりは半里ほどあるだろう。
歳三は、二条堤《にじようづつみ》に降り立った。
「いいあんばいな月だ」
眼の下の鴨川に月が落ち、瀬にきらきらと光っている。対岸にはわずかに町並があるのだが、すでに灯が消えていた。
この当時、二条の橋というのは、三条のように一本渡しの大橋ではない。鴨川|中洲《なかす》まで欄干も手すりもない板橋が一つ。
さらにその中洲からむこう岸まで、第二橋がかかっている。その第一橋と第二橋のあいだの中洲は、葦《あし》や秋草が繁っていた。
歳三と七里は、その中洲へ出た。草を踏むたびに虫の音がやんだ。
「七里、抜け」
と歳三は、草を一本、口にくわえた。
「ほう、もうやるのかね」
七里は、落ちついている。なかまの来着を待っているのだろう。
「土方、冥土へいそぐことはあるまい。なんなら、国許への遺言でもきいておいてやろうか。……いや、それより、例の」
「ああ、お雪のことかね」
歳三は、先手を打った。
「そう。あれはいい女だな。そのお雪とやらに申しのこすことはないか」
「お前、親切だな」
歳三は、草を噛んでいる。どこかで鈴虫が鳴いているのを、じっときいていた。
「土方、念のためにいっといてやるが、おれも武州八王子のころの腕ではないぜ。これでも京では人斬り研之助といわれた男だ。人の二十人は斬ったろう。そのなかに、新選組が七人、見廻組が二人」
「結構なことだ」
このころ、隊士が市中でしばしば斬られる。七里らの仕業かもしれない。
そのとき、ふと板橋のきしむ音が、遠くでした。
東岸から第二橋へ、西岸から第一橋へ、それぞれ人影が渡りつつある。あわせて七、八人の人数はいるだろう。
「土方、まずい。人がきたようだ」
と、七、八間むこうの草むらの中で、七里研之助がちょっとはずんだような声でいった。
「ああ、来たようだな」
と歳三はすばやく羽織をぬぎすてた。この喧嘩なれた男には、それが、七里の人数だと直感された。人数が来着するまでに七里を斬りすてなければ、とても勝目がない。
袴のももだちをとった。下げ緒で、くるくるとたすきをかけ、
「七里、参る」
ツツと進んだ。歳三は鯉口をきった。刀は愛用の和泉守兼定である。
脇差は、堀川国広。
きらり、と七里の草叢《くさむら》から淡い光りがひかった。抜いた。
七里は上段。
歳三は、いつもの平星眼《ひらせいがん》で、近藤、沖田とおなじ癖の右寄り。歳三はこの癖がいっそうひどく、左籠手がほとんど空《あき》っぱなしになっている。
七里、間合を詰めた。
そのとき、人数が両橋を渡りきって、中洲の七里のそばにかたまった。
みな、だまって抜きつれた。
(まずい)
と、歳三はおもった。七里の素朴すぎるほどの策に、自分ほどの策士が乗った。武士だ、おれとお前とで――、と七里はいった。歳三の性情を見ぬいている。武士だ、といえば、この百姓武士が気負いたって乗ることを見ぬいていたのだろう。
(近藤を笑えねえよ)
歳三は、自分が腹だたしくなった。おれがわるいのさ。七里研之助のような上州の百姓あがりの剣客と、武州の喧嘩師の自分とが、
――武士の約束。
などというのは、滑稽劇《にわか》ではないか。武士の約束、なんざ、と歳三はおもった。三百年家禄で養われ、儒教や作りものの徳川武士道で腑ぬけのようになっている門閥武士どもがいう口頭禅で、自分や七里、長州の過激連中といった乱世の駈け歩きどものひっかつぐべき神輿《みこし》じゃねえ、とおもった。
歳三の背後は、瀬。
中洲には、楯にとるべき一本の樹もない。
(今夜が最後か)
むろん、いつの喧嘩のときも、そう覚悟している。命はない、と思いこんで打ちかかる以外に、喧嘩に勝つ手はない。
七里の剣は、二尺七寸はあるだろう。
剣は天に伸びながら、影は下へ、足下へ、地へ沈んでいる。敵ながら、みごとな備えであった。
七里は、間合をつめている。抜きつれた七里のなかまも、平押《ひらお》しに押してくる。
歳三を瀬の際に押しつめようとするのだろう。
「おい」
七里は笑った。
「武州ではだいぶ煮湯《にえゆ》をのませてくれたが、どうやら、今夜が縁の切れ目らしい」
「―――」
歳三はむっつりだまっている。相手はじりじりと押してくるが、歳三は半歩もひかず、間合の一方的につまってくるがままにまかせている。よほどの度胸がなければこうはいかない。
相変らず、平星眼。
「土方、お前が居なくなれば、京は静かになるだろう」
「よく喋る」
歳三はいったつもりだが、さすがに声がかすれていた。汗が、頬へ流れた。
七里。――
そのままの上段。
すでに武州以来数度の撃ち合いで、歳三の剣の癖を知りぬいていた。歳三という男には、小技《こわざ》で仕掛けるといい。それも左籠手。癖で、あいている。
「―――」
七里は、気合で、誘った。
歳三は動かず。
七里は踏みこんだ。
とびあがった。
上段から、電光のように歳三の左籠手にむかって撃ちおろした。
が、その前、一瞬。
歳三はツカをにぎる両拳《りようこぶし》を近よせ、刀をキラリと左斜めに返し、同時に体を右にひらいた。むろん、眼にもとまらぬ迅《はや》さである。
戞《か》っ
と火花が散ったのは、和泉守兼定の裏鎬《うらしのぎ》で落下した七里の太刀に応じたのだ。七里の太刀がはねあがった。体が、くずれた。
そのとき歳三の和泉守兼定が中空《ちゆうくう》で大きく弧をえがき、七里研之助の真向《まつこう》、ひたいからあごにかけ、真二つに斬りさげていた。
死体が倒れるよりもはやく、歳三の体は前へ三間とんでいた。
一人の胴。
さらに一人の右袈裟。
歳三は、前へ前へと飛んだ。
板橋へ。
板橋の橋上で左右をまもる以外、自分をこの死地から救いだす手はなかった。
与兵衛親爺が、花昌町の屯所に駈けこんで、門番に訴えた。
門番は、一番隊組長沖田総司に急報した。
じつのところ、沖田は、市中巡察から帰ったあと、例によって体が熱っぽく、袴もぬがずに臥《ふ》せていたのだが、跳ねおきた。
「一番隊、私につづいて頂きます。行くさきは二条河原」
もう庭の厩舎《うまや》へとびこんでいた。
隊には数頭の馬を飼っているが、近藤の乗馬が二頭ある。そのうちの白馬は会津侯からの拝領のもので、逸物《いちもつ》とされていた。
「開門、開門」
と叫びながら沖田は、鞍を置き、大いそぎで腹帯を締めた。むろん無断借用である。
鞍上に身を置くや、だっ、と八の字に開門した正門からおどり出た。
路上は、あかるい。
堀川をまっすぐに北上し、二条通の辻で東へまがったときに両袖を|たす《ヽヽ》き《ヽ》でしぼりあげ、西洞院《にしのとういん》、釜座《かまんざ》、新町、衣棚《ころものたな》まできたとき、汗どめの鉢巻をしめた。
歳三は、やっと板橋の東のはしにまで、体を移動した。
が、相手も心得ている。背後の板橋の橋上にふたり、前の中洲に三人。
選りすぐりの連中らしく、手ごわい。おっそろしく腕が立つうえに、一歩も退《ひ》かない。
歳三は背をひるがえすや、ひるがえした勢いで片手なぐりに橋上の敵を斬った。胴ににぶい音がしたが、斬れない。刀身に、脂がまわったのだろう。
すばやく、刀をおさめた。
そのすきを撃ちかかった中洲の敵が、ひらききった胴の姿勢のまま、血煙をたてて流れへ落ちこんだ。
歳三は、堀川国広をぬいている。
乱闘のときの心得で、長さ二尺にちかい大脇差をえらんである。
が、もはや、面撃ちはきかない。小太刀で面へとびこむのは、冒険すぎるだろう。
中洲側の一人が、橋上に踏みこみ、二つ三つ踏み鳴らしつつ、だっと突いてきた。
歳三は、半歩さがって、きら、と刀を左肩にかついだ。
相手は、意外な構えに動揺した。瞬間、歳三は飛びこんで、右籠手を斬り落した。
そのときである。沖田総司の馬が堤上に跳ねあがったのは。
鞍からとびおりて馬を放し、堤を駈けおりながら、
「土方さん」
と、この若者にはめずらしく甲高《かんだか》い叫び声をあげた。
「―――」
歳三は、応答できない。小太刀のためにどうしても、受けが多くなっている。
沖田は橋上に駈けこむや、歳三の背後の男を、水もたまらずに斬っておとした。
「総司か」
やっと、声が出た。
「総司ですよ」
沖田は歳三の横をすり通りつつ、歳三の前の敵へ、あざやかな片手突きを呉れた。声も立てず、相手は倒れた。
あとは、逃げ散っている。
「何人居ました」
沖田はあたりを見まわしながら、刀をおさめた。
「数える間もなかった。今夜だけはおれもだいぶ、うろたえたらしい」
「斬ったなあ」
沖田は、中洲を歩きながら、死体をかぞえている。
一人、沖田の足もとで、びくっと動いた。
歳三は、はっとしたが、沖田はべつに警戒もせず、その男のそばにかがみこんだ。
「あんた、まだ息がありますね」
道端で立話するような、ゆっくりした声調子である。
「傷はどんなぐあいです」
沖田は懐ろから蝋燭を出し、燧石《いし》を打ってあかりをつけた。
左肩に、傷口がある。が、歳三の刀に脂が巻いていたらしく、深くはない。打撃で、気を喪《うしな》っていたのだろう。
「これァ、助かる。――」
男の片肌をむき、血止め薬をつけ、そばの死体の袴を裂いて、傷口をしばった。
そのまま草の上に臥《ね》かせ、医者をよんでくるつもりか、板橋を西へ渡って行った。
歳三は、中洲の上に寝ころんでいる。ひどい疲労で、立っていられなかったのだ。
(物好きなやつだ)
と沖田を思った。
(あいつは病い持ちだから、つい|いた《ヽヽ》わり《ヽヽ》が出るのだろう)
寝返ってうつぶせになり、瀬の水へ顔をつけた。水をのんだ。
顔の中を、水が過ぎてゆく。ふと生きかえったような気がして、顔をあげた。
怪我人が、いった。
「済まない」
かすかな声である。
(おらァ、知らねえよ)
歳三は、薄情なものだ。いずれ、自分もこの身になるのだ。なる、どころか、たった先刻、運がわるければ、この男の立場になっている。七里らは、介抱するどころか、とどめを刺すだろう。
首を打つ。
どこかに捨て札をして、梟首《さらしくび》にするにちがいない。
(おらァ知らねえぜ)
と肚の中でつぶやきつつ、その怪我人のそばににじり寄っている。
歳三は、夜目がきく。
男は、目をあけていた。意外に生気があることがわかった。
「おれは、土方歳三だよ」
男は、うなずいた。
「馬鹿なやつだなあ。お前を斬った土方歳三だぞ。手当をしてくれたのは、沖田、というおれの同僚《なかま》だ。おれに礼をいうことはない」
「土方さん」
男は、夜星を見つめたまま、いった。
「あなたはうわさどおりだった。強い。七里が、なに大根さ、といったから私も加わったのだが、誘いにきたとき、あのまま情婦《おんな》の家におればよかった」
「情婦てな、なんて名かね」
歳三は、なにげなくきいた。
「お佐絵さ」
(えっ)
歳三は、息をとめた。
「心が氷のようにつめてえ女だが、おれァ、忘れられない。土方さん」
「うむ?」
「私は、たすかるかね。いや、助かったところで、あんたはあらためて殺すだろう。その前に、あいつに逢いたい」
「もう、喧嘩は済んだ。怪我人を殺したところで、なんの益《えき》もない。いま、沖田が医者をよびに行っている」
「あっ」
起きあがろうとした。うれしかったのだろう。
この男は、越後浪人で、笠間喜十郎。沖田が親切に医者の手当をうけさせたが、傷口が膿《う》んで、十日目に二条|御幸町《ごこうまち》の医者の家で死んだ。
死ぬ前に、
「差しがねは、新選組参謀伊東甲子太郎だ」
と、告白した。
伊東への疑いは、決定的なものになった。
[#改ページ]
菊 章 旗
その日。――
というのは、この年(慶応二年)九月二十六日の朝のことだが、花昌町屯営の廊下を歳三が歩いていたとき、参謀の伊東甲子太郎とすれちがった。
「やあ」
伊東は、いつもよりばかに愛想がいい。
名古屋から帰ってきて、数日になる。
「すっかり」
伊東は、軒のむこうの空を見あげて、
「晴れましたな」
といった。
「左様」
歳三にがい顔である。二条河原で七里研之助らの刺客をさしむけたのはこの伊東であることは、すでに証拠があがっている。
が、歳三は近藤以外には秘していた。
隊中の動揺がこわかったのである。
「豊玉宗匠」
と、伊東は、雅号で歳三をよんだ。たれかからきいたのだろう。
「句にはいい季節ですな。ちかごろ、そのほうはいかがです」
「いや、駄句ばかりです」
「私のほうは歌ですが、昨夜、一穂《いつすい》の灯《ひ》に対坐していると、思いがつのってきて、一首できました。きいていただけますか」
「どうぞ」
伊東甲子太郎は、欄干に寄りかかり、半顔を庭にむけた。多少の道中焼けはしているが相変らず秀麗な面持《おももち》である。
身をくだき
心つくして黒髪の
みだれかかりし世をいかにせむ
「いかがです」
「なるほど」
歳三は、表情を変えない。黒髪のごとくみだれた世をどうまとめよう、という伊東の志士らしい苦心はまあわかるとして、「いかにせむ」という|策《ヽ》のなかに自分を殺すことも入っているのだろう。あまりうれしい歌ではない。
「もう、土方さん、高雄(紅葉の名所)や嵐峡《らんきよう》は、色づいているでしょう」
「でしょうな」
「一度、いかがです。隊務から離れて洛外へ吟行に出られては――。私もお供します」
「結構ですな」
「近藤先生もたまには御清遊なさるといい。いつにします」
「さあ、それもいいが」
それもいい。高雄も嵐峡もいいが、しかし行って見ると、とんでもない伏兵がいて、紅葉狩りどころの騒ぎではなくなるのではないか。
「考えておきます」
行きかけると、
「あ、そうそう、土方さん」
と、その背中へ、伊東が思いだしたように声をかけた。
「今夜、おひまですか」
「吟行ですか」
「いや、左様な風流|韻事《いんじ》ではない。折り入って御相談申しあげたいことがある」
(来たな)
歳三はおもった。
「なんの御相談です」
「それはそのとき申しあげます。いまから近藤先生にも申しあげに行きます。場所は、できれば遊里でないほうがいい」
「興正寺屋敷にしますか」
近藤の休息所である。大坂新町の遊女|深雪《みゆき》大夫を落籍《ひか》せてかこってある。
「結構です。時刻は、何字《なんじ》がよろしい」
「左様」
歳三は、袂《たもと》時計をとりだした。最近手に入れたフランス製のもので、歳三の大きな掌の上でちゃんと針が動いている。
「五字がよろしいでしょう」
ちょっと微笑をした。べつに伊東の申し出がうれしいのではなく、時計をみるのがうれしかったのだろう。
伊東は、不快な顔をした。
これも土方が不快だというより、極端な攘夷論者の伊東は、その洋夷の時計が見るもけがらわしい、とおもったのである。
歳三は、定刻より一時間早く、近藤の屋敷へ行った。
近藤は、二条城から下城して、屯営には寄らず、そのまま帰っている。
「歳、なんの話だろう」
「脱盟だね、いよいよ云いだすのさ」
と、すわった。
近藤の妾が、茶を運んできた。
上方《かみがた》にはざらにある容姿《かおかたち》で、色白で眉がうすく、しもぶくれの前歯の大きな女である。そこが東国人の近藤の気に入ったものだろうが、歳三は、こんな女はすきではない。
(江戸の女は、浅黒くて、猪首で、そばっかすがあったりするが、もっときりっとしているよ)
例のお雪を、ふとおもった。
「おいでやす」
ゆっくりと頭をさげた。べとべとした女臭い声で、こういう声も、どうもやりきれない。
妾が、ひっこんだ。
「おれは信じられんな、伊東とは武士として約束をかわしてある。離脱ということはあるまい」
「なんだか知らないが、おれァ、斬られかかったんだぜ」
「聞いた」
近藤の表情は冴えない。七里研之助の一件に、伊東がつながっているとは、さすがに信じかねているのだろう。
やがて、本願寺の太鼓がきこえてきた。五時である。
玄関で、人の声がした。
「おい、多数だよ」
近藤は気配を察していった。
「そのようだな」
「まさか歳、ここでわれわれを斬り伏せるつもりではあるまい」
「斬り伏せられるあんたか」
「あははは、そのとおりだ。近藤、土方が、やみやみ斬り伏せられる手合ではない」
――御免。
と伊東甲子太郎がふすまをあけた。
つづく者は、篠原泰之進。
それだけかとおもうと、伊東の実弟の九番隊組長鈴木|三樹三郎《みきさぶろう》、監察の新井忠雄、この男は剣をとれば新選組屈指の腕である。
つづいて伍長の加納★[#周+鳥]雄、監察の毛内《もうない》有之介(監物)、伍長の富山弥兵衛。
「これだけかね」
と近藤がいったとき、最後に意外な人物が入ってきた。
八番隊組長藤堂平助である。
(あ、こいつもか)
近藤と歳三の表情に、同時におなじ翳《かげ》がはしった。
藤堂は好漢を絵にかいたようなおとこで、近藤、歳三とも、身内のように愛していた。
げんに、江戸結盟以来の同志である。藤堂は流儀こそ千葉門の北辰一刀流だが、近藤の道場には早くから遊びにきていた。
そもそものはじめ、――つまり幕府が浪人を募集しているということをききこんできて応募を近藤、歳三にすすめたのも、死んだ山南敬助とこの藤堂平助である。
考えてみれば、どちらも北辰一刀流の同門であった。
いや、伊東甲子太郎も。
(なるほど、同門意識というものは、ここまで強いものか)
と、歳三はおもった。
むろん藤堂平助は平助でかねがねおもっていたのであろう。新選組の中核は、近藤、土方、沖田、井上(源三郎)といった天然理心流の同流同郷の者が気脈を通じあい、他の者に対しては、どこか他人であった。これが同志といえるか。
(ばかにしてやがる)
藤堂侯の落し胤という伝説のある江戸っ子の平助には、その野暮ったさがやりきれなかった。
早くから、同門の先輩の山南敬助にはこぼしていた。山南も同感であった。
(所詮、生死は共にできない)
と、山南などはいっていた。もともと山南は勤王心がつよく、幕府には多分に批判的であった。
これは千葉の門の塾風で、藤堂平助もその気《け》はある。山南の感化によっていっそうつよくなり、江戸で塾の先輩の伊東甲子太郎を勧誘して加盟させたのも、藤堂平助である。
そのときすでにこんにちの密約はあった。ただ途中、山南の脱走・切腹によって一|頓挫《とんざ》しただけのことである。あのとき、山南が無事江戸へ帰ったとすれば、江戸で同志をあつめ、東西呼応して伊東のもとに強力な新団体をつくったであろう。
近藤、歳三は、藤堂平助という若者を見誤った。
平助は武士というよりも、江戸の深川の木場などで木遣《きや》りを唄っているほうがふさわしい|いな《ヽヽ》せ《ヽ》なところがあった。
だから、たれからも好かれた。
まさか、この部屋で伊東とならんですわるほどの|思想《ヽヽ》家《ヽ》とはおもわなかった。というより、これほどの策謀のできる男だとはおもわなかったのが、油断であったろう。
(おどろいたな)
歳三は、しかし、例のねむったような表情でいる。
(時勢だ、見かけはそうでないものまで、時の勢いへかたむく)
幕威は日々に衰えつつある。天下の志士、比々《ひひ》として侮幕、討幕論を説かざるはない、という形勢になっている。腹に五月《さつき》の風が吹き通っているような藤堂平助でさえ、こういうことになるのであろう。
「平助、君は――」
近藤は、にこにこしていった。
「やはり伊東さんとおなじ御用かね」
「そうです」
藤堂は、首筋をかいた。そんな癖のある、一見無邪気な男なのである。
「みなさん、お平らに」
近藤は、ちかごろ、如才がない。諸藩の公用方と、祇園などで茶屋酒をのんでいるせいだろう。
「さて、伊東さん、伺いましょう」
「申します。きょうは、腹蔵なく天下の大事を論じ、隊の今後の行き方を検討したいと存ずるので、時に言葉が矯激にはしるかもわからない。御両所、あらかじめお含みおきくださるように」
「どうぞ」
近藤は、微笑をひきつらせた。
「土方さんもよろしいな」
「ああ、結構です」
と歳三はいった。
そのあと、伊東は天下の形勢をとき、さらに例をシナにとって夷国の野望を説き、
「もはや弱腰の幕府では日本を背負えぬ。政権を朝廷に返上し、日本を一本に統一して外夷にあたらねば、日ならず、清国のごとく悲惨の目にあうだろう。新選組のそもそもの結盟趣旨は攘夷にあった。ところが世上のうわさには、幕府の爪牙に堕しているという。爪どころか、幕臣に取りたてられるといううわさがある。おそらく事実でないと私は信ずるが、近藤先生、如何」
「―――」
「いかがです」
「私も、そのうわさはきいている」
近藤は、苦しそうにいった。
きょうも、二条城でその話があり、近藤も伊東一派の意向をきいてから、ということで確答を保留してきているのである。
「単にうわさですか」
「さあ」
「いや、よろしい。問題は今後の新選組のことだ。天朝様の親兵として、また攘夷の先陣《さきがけ》として働くかどうか」
近藤は、頑として佐幕論をとった。
「拙者は、天朝様を尊崇し奉っている」
といった。当然なことで、だからといって近藤が尊王絶対主義者にはならない。尊王論は当時の読書階級の武士はおろか、医者、僧侶、庄屋、大百姓にいたるまでのごく普遍的な概念で、政治上のイデオロギーではない。
「しかも、あくまでも、攘夷をつらぬきとおすつもりでいる」
これも当然なことだ。当時開国論を唱えていたのはよほどの先覚者で、奇人か、国賊あつかいにされていたのである。
「が、伊東さん」
ここからが、近藤の所論だ。
「武権は、関東にありますよ」
「それは」
「いや、その武権も、東照大権現(家康)いらい征夷大将軍ということで、朝命によって命ぜられた御役目である。現実にも、三百諸侯を率いて立っている徳川幕府こそ攘夷の中核たるべきで、聞くところではフランス皇帝でさえそれを認めている」
「ははあ、フランス皇帝も」
伊東は、近藤の飛躍におどろいた。第一、フランス皇帝うんぬんをもちだすことからして|攘夷《ヽヽ》的《ヽ》ではなく、幕府のなしくずし開国外交に同調している証拠ではないか。
「土方さん」
伊東は視線をゆっくりまわした。
「あなたはどう思われます」
「おなじさ」
面倒くさそうにいった。
「なにと?」
「ここにいる近藤勇と、ですよ」
「佐幕、ですな」
「さあ、どんな言葉になるのかねえ。私は百姓の出だが、これでも武士として、武士らしく生きて死のうと思っている。世の移りかわりとはあまり縁のねえ人間のようだ」
「つまり、幕府のために節義をつくす、それですな」
「それ」
一言、いった。
あとは、なにもいわなかった。こういう時勢論や、思想論議は、あまり得意なほうではない。
夜が更けた。
両論対立のまま、別れた。
翌日、伊東甲子太郎と篠原泰之進は、最後の談判をするため、ふたたび興正寺下屋敷で、近藤と歳三と会合した。
「御両所」
一本気な篠原が眼をすえた。
「いい加減に眼をさまして頂けんか。きょうは、御両所の眼がさめぬとあれば、われわれ一同、隊を割って独自の道を進む覚悟できた」
――篠原泰之進(維新後、秦林親)の当夜の手記が残っている。
「また翌二十七日夜、余が輩、罷越《まかりこ》し、今夕彼等服せずば、首足《しゆそく》、処《ところ》を異《こと》にせんと」
その場で、近藤、土方を斬るつもりでいたのだが、相手に隙がなく、斬りつけるにいたらなかった。
「(余)憤心頭髪を侵すの勢にて議論せしも、なほもつて、(かれらは)分離を沮《はば》み、服せず。彼等(近藤・土方)徳川の成敗(ここは失政という意味か)を知らず、勤王の趣旨を解せず、ただいつに、武道をもつて人を制せんとするのみ」
と近藤と歳三の本質を衝き、さらに伊東がその論才を縦横に駆使して二人を追いつめ、
「終《つい》に余が輩(わが派)の術中に陥入り、分離論に服す」
本当に服したかどうか。
とにかく両派は、袂《たもと》をわかつことになった。
とはいえ、伊東らがすぐ新選組を去ったわけではなく、しばらく屯営に起居していた。
この間隊内大いに動揺し、ぞくぞくと伊東派への共鳴者が出た。
暮夜、ひそかに歳三は近藤の真意をたずねた。近藤は、だまって、愛用の長曾禰虎徹のツカをたたいた。
歳三はうなずいて、からっと笑った。
これを篠原の手記風の文体で書くと、
――喋々ヲ要セズ、剣アルノミ。
というところだったろう。
新選組実動部隊は、十番隊まである。そのうちの八番隊、九番隊の指揮官藤堂、鈴木が脱けたことになるのだが、この伊東、篠原の離脱声明の翌々日、はやくも動揺があらわれ、意外にも伊東派とさほど親しくなかった武田観柳斎が、単独離脱した。
伊東は薩摩藩と親しい。薩摩藩との渡りがついたので離脱を表明したようなものである。武田は武田で、別個に薩摩藩に接近していた。
「武田君は、近頃薩摩藩邸にしきりと出入りなさっているそうだが、時節がら結構なことだ。いっそ、そちらへ参られてはどうか」
と、近藤は、隊の幹部をあつめて送別の宴を催し、夜、屯営の門から武田を送り出した。
隊士二人に送られて、武田観柳斎は花昌町を出た。
隊士のひとりは、斎藤一。
竹田街道|銭取橋《ぜにとりばし》までさしかかったとき斎藤、抜く手もみせず、武田の胴を斬りあげ一刀で即死させた。
――脱隊は、死。
隊法は生きている。
武田観柳斎の斬死体は、伊東派に対する近藤と歳三の無言の回答といっていいし、戦いの宣言ともいえた。
その年の暮、孝明天皇崩御。
翌慶応三年三月十日、伊東派は、その御陵|衛士《えじ》という役を拝命し、高台寺の台上に菊花紋章の隊旗をひるがえして本陣とした。
隊名は優しいがじつは勤王派新選組というところだろう。
(戦さだな)
歳三はこの日、和泉守兼定の一刀を研《と》ぎにやった。
[#改ページ]
お 雪 と
そとは、六月の雨。
歳三は、お雪の家の縁側へすわって、ぼんやり庭すみの紫陽花《あじさい》をみていた。
「ことしは梅雨《つゆ》がながい」
つぶやいた。伊東甲子太郎らも東山高台寺で、この雨をながめているだろう。
「―――」
と、背後でお雪は顔をあげたらしい。
が、なにもいわずに、ひざもとの針へ視線をおとした。
縫っている。その膝の上のものが左三巴の歳三の紋服であることを、かれは知っていた。が、お雪も歳三も、これについてひとことも会話をかわしたことがない。
(妙なものだ)
歳三は、おもった。
こうして、雨が濡らしている一つ屋根の下に|静も《ヽヽ》って《ヽヽ》いると、ふと、ながい歳月をおくってきた夫婦のような気がするのである。
が、お雪とは、男女のつながりはない。歳三が求めようとしないのだ。
この男は、女を抱きおえたあとの寂寞《せきばく》の想いがひとよりもはげしくできている自分を知りぬいていた。それがいままでの歳三の恋を、――
いや、恋ともいえぬが。
不幸にしてきた。
(おれという男は、女を見ながらそれを抱かずに静かに端居《はしい》している、そんなふうにしか、まっとうな恋ができぬ男らしい)
庭はほんの三坪しかない。
市中の借家らしく、すぐ眼のそばが板塀でむこうは他人の家になっている。
「紫陽花《あじさい》は、狭い庭に似合いますな」
皮肉ではない。
「そうでしょうか」
お雪は、糸を噛んだ。
「わたくしは、江戸|定府《じようふ》の御徒士《おかち》の家にうまれておなじ家格の家に嫁いだものですから、庭といえばこういう狭い市中の庭しか存じませぬ。実家にも、婚家にも、紫陽花は植わっていました」
「ああ、そういえば、お雪さんは紫陽花ばかりを描いているようだ」
「飽きもせずに」
お雪は、肩で笑ったが、声をたてないから背をむけている歳三にはわからない。
「御亭主も、紫陽花がお好きでしたか」
歳三には、淡い嫉妬がある。
「いいえ」
お雪は顔をあげずにいった。
「好きでもきらいでも。……ひょっとすると自分の家の庭に紫陽花がうわっている、なんてことも気づかずに死んだのではありませんかしら」
「この花とは、他人だったわけですな」
「だけでなくわたくしの絵とも。――」
「他人だった」
「ええ」
お雪の声が小さい。
短い結婚生活だったようだが、お雪は亡夫と心の通う場所がなかったのではあるまいか。
歳三は、雨を見ながら、あれこれと想像している。
「どういう御亭主でした」
訊《き》かでものことを、と思いながら、歳三はつい訊いた。が、歳三がふと予想したとおりの態度を、お雪は、強い語調で示した。
「好いひとでしたわ」
たとえその生前、故人へ不満があったとしても、死んでから悪口をいうような女ではない。
「そうでしょう。私は妻というものは持ったことがないからわからないが、夫婦とはいいものらしい」
「………」
お雪は、ことさらに相手にならない。
「兄がいっていましたが」
と、歳三はまた故郷《くに》の話だった。
「おらァの嬶《かかア》とは、足の裏で話ができる。昼寝をしていても、嬶は足の裏をみただけで、ああ、水がほしいんだな、とか、いま何かで腹を立てている、とか」
「まあ」
お雪はやっと声をたてて笑った。
「それは為三郎お兄さま? それともおなくなりになった隼人《はやと》さま?」
「いや、大作という末兄ですよ」
「ああ下染屋《しもそめや》(都下府中市)のお医者さま」
お雪は、歳三の兄姉や家族を、みなおぼえてしまっていた。末兄大作は、歳三と六つちがいで、下染屋村の粕谷《かすや》仙良という医者の養子になり、良循《りようじゆん》と改名している。
医者には惜しいほどの剣客で、近藤の養父周斎に幼少のころから手ほどきをうけ、目録まですすんだ。
詩才もあった。山陽ばりの詩を作り、詩のほうの名は、玉洲、修斎と号した。だけでなく能書家でもあり、近在の素封家《そほうか》にたのまれては、ふすまなどに豪宕《ごうとう》な書をかいた。現在《いま》でもこの地方には、多少、良循の書がのこっている。
「これが医者には惜しいような豪傑なんだが、|かみ《ヽヽ》なり《ヽヽ》がきらいでね。鳴りだすとあわてて茶碗で大酒をのみ、そのままぐうぐう寝てしまうというひとですよ。下染屋村のひとは、雷より良循さんの鼾《いびき》のほうが大きい、と笑っていた」
「為三郎兄さまといい、そのかたといい、みな詩才がおありですね。むろん、土方様も」
「冗談じゃない」
歳三は、正直、赤い顔をした。自分の下手な俳句をもちだされるのは、この男はいつもにがてである。
「みな、できそこないですよ。詩藻とぼしく詩才まずしいくせに、血気だけがある。詩を言葉であらわさずに、自分の奇矯《ききよう》な行動であらわそうとする」
「それも詩人です。たった一つの命でたった一つの詩を書いていらっしゃるんですもの」
「京に集まっている浪士というのは、大かたそんなものだろうな」
「新選組も?」
「まあ、そうでしょう。私にはよくわからないが」
「参謀の伊東甲子太郎様らが、隊士をたくさん連れて、天朝様の御親兵におなりあそばしたそうでございますね」
「よくご存じだ」
「でも、市中で持ちきりのうわさですもの。――それに」
お雪は、針をとめて、
「土方様は、ご出世あそばした」
と小さくいった。
「幕臣のことかね」
背中でいった。やや不機嫌そうであった。
時勢のなりゆきで、左右|旗幟《きし》を鮮明にするために新選組一同、幕臣に取りたてられることを|うべ《ヽヽ》なった。
それが正式に沙汰されたのは、ほんの先日のことである。慶応三年六月十日。
局長の近藤勇は、大御番組頭取《おおごばんぐみとうどり》、副長の歳三は、大御番組頭である。
むろん、旗本としても相当な顕職《けんしよく》で、近藤は将軍の親衛隊の総長といった格、歳三は親衛隊長、といったふうに理解していい。
新選組の助勤(士官)は、いちように大御番組にとりたてられた。助勤|並《なみ》の監察は、それぞれ大御番並。平隊士は、御目見得以下の処遇だが、それでも、世が世ならば、諸藩の藩士を「陪臣《またもの》」として見くだしていた天下の直参である。
「べつにかわったこともないさ」
歳三は縁先からわずかに身をひきながらいった。
どうやら風のむきがかわったらしく、雨が、軒を冒《おか》してしきりとしぶきこんでくる。
「この雨じゃ、鴨川も大変だろう。さっき荒神口の板橋が流れた、ときいたが」
「御時勢も大変」
お雪は妙に、きょうはそんな話題をえらびたがるようである。やはり歳三の身が、さまざまと気がかりなのだろう。
伊東の分離で、
新選組は、幕府の親兵。
御陵衛士は、天朝の親兵。
と、旗幟が明らかになった。
というより伊東の御陵衛士は、薩摩藩の雇兵といってよかった。薩摩藩では、一朝、京で兵をあげる場合の遊撃隊として伊東一派を考えていたのであろう。
ちなみに、京に藩兵をおく諸藩のうち、新選組近藤派が陣借りをしている会津藩と、これに対立する薩摩藩が、ずばぬけて多数の兵力を擁していた。
薩摩藩としては、会津藩の遊撃隊が新選組であるように、自藩でも同様のものをもちたかったのであろう。
いわば、伊東一派は、薩摩藩新選組といってよかった。
高台寺月真院に本陣をかまえた伊東一派の給与は、薩摩藩邸の賄方、食料方、小荷駄方《こにだがた》(兵站部《へいたんぶ》)から出ていた。伊東一派をひき入れたのは、かねて伊東と親交のあった薩摩藩士の大久保一蔵(利通《としみち》)、中村半次郎(桐野利秋)であった。かれらは伊東一派をひどく優遇し、たとえば食事も、一日一人八百文というぜいたくなものであった。
が、伊東甲子太郎ほどの男である。かならずしも心中、薩摩藩の走狗、というところにはあまんじていなかったであろう。
「天皇の旗本」
というつもりであった。これはかつて清河八郎が構想した奇想天外な案だが、実現せずに清河は死んだ。
天皇には、兵は一兵もない。家康が持たさなかった。徳川体制では、兵は将軍と大名がもっている。
伊東甲子太郎一派は、天皇の「私兵」のつもりであったし、げんに十六弁菊の御紋の使用をゆるされ、本陣である月真院の門にその禁紋を染めた幔幕《まんまく》をめぐらした。いいかえれば、伊東は天皇の新選組である、ということであったろう。
「時勢がかわってゆく」
と、歳三はいった。
「妙なのも出てくるさ」
「いつか、花昌町(新選組)と高台寺(御陵衛士)とのあいだで大戦さがはじまる、と市中ではうわさをしていますが、本当でございますか」
「うそですよ」
歳三は、部屋のなかに入った。
「お雪さん、そんなことより、私は、ちかぢか、公用で江戸へ帰る。上洛以来、はじめての江戸です」
「まあ」
うれしいでしょう、というふうに、お雪はうなずいた。
「どこかに言伝《ことづけ》はありませんか。お雪さんのためなら、飛脚の役はつとめます」
「たたみいわし」
と不意にいって、お雪は赤くなった。
白魚の干物で、京にはないたべものである。
「たたみいわし?」
歳三は、声を出して笑った。お雪らしい。お雪のうまれた下級武士の家の、台所、茶の間のにおいまで、暮らしの温かみをもって匂ってくるようであった。
「お雪さんは、あんなものがすきですか」
「だいすき」
顔を縫物に伏せて、くっくっ笑っている。
「いいひとだなあ」
「どうしてたたみいわしが好きだと、いいひとなのです」
「いや――」
歳三は、|せき《ヽヽ》をした。くだらぬことでもひらきなおって問いつめる癖など、やはり江戸の女であった。近藤の好きな上方の女とは、まるでちがっている。
「可愛いことをいう、と思っただけです」
「それが可愛いこと?」
お雪は、眼をあげない。針をもつ手だけが、ちまちまと動いている。
「……いちいち、どうも」
「さからうでしょう?」
肩で笑っている。
「そんなことばかりいうと、つい、抱いてさしあげたくなる」
「――え?」
というように、お雪の呼吸《いき》がとまった。が、眼を俯《ふ》せ、手だけは動いている。
動いたまま、いった。
「抱いてくださってもかまいませんことよ」
「………」
歳三の呼吸《いき》が、とまる番であった。あとは自分がなにをしたかが、わからない。
こんなことは、かつて、どの女とのあいだにもなかった。いつも歳三のやることを、歳三の別の眼が監視し、批判し、ときには、冷やかな指図をした。
「お雪さん。――」
そのことがおわったあと、歳三は、別人かとおもうほどの優しい眼をした。
お雪も、
(このひとは。――)
と、内心、あざやかな驚きがあった。こんなやさしい眼をもったひとだったのか。
「ゆるしてください。私はあなたにだけはこんなことをするつもりではなかったが、あなたもわるかった。私から心を奪った」
「そのお心……」
お雪はふざけて、さがす真似をした。
「どこにございます?」
「知らん」
歳三は、立ちあがった。
「どこか、庭の紫陽花の根もとにでもころがっているでしょう」
雨中、歳三は出た。
風は衰えているが、雨脚はつよい。傘にしぶいていた。
傘の中に、歳三は籠《こも》るような気持で、ひとり居る。お雪の残り香とともに、歩いた。
歳三の公用、とは、江戸で隊士を募集することであった。
「歳《とし》、こんどはお前が行ってくれ」
と、近藤がたのんだ。
隊士は、減りつつある。理由は闘死、そのほか隊中での切腹、逃亡、病死など。
それにこんどの伊東派の分裂である。伊東派の退去は、表だっては幹部十五名だが、なお隊内に残っている者のなかには、伊東甲子太郎がことさらに隊内|攪乱《こうらん》のための間諜として残した者が歳三の見るところ十人ほどおり、ほかにも、挙動不審な者が数人いた。
人数は、いよいよ減るだろう。
しかも、新選組が幕府の官制による正規軍となり、身分も直参となった以上、人数はいよいよ必要なのである。
いま、百数十名。
あと一騎当千の者五十人はほしかった。
「高台寺の伊東のほうでも、ちかぢか、関東で募兵をしようとしているようだ」
と、近藤はいった。
「私もきいている。|さ《ヽ》の字の話だろう」
「ふむ、|さ《ヽ》の字」
さの字とは、斎藤一。
江戸以来の同志で、三番隊組長、隊の剣術師範役だった男である。
伊東派に奔《はし》った。
というのは表むきで、伊東派の動静をさぐる諜者になっている。
「いずれ、このまま捨ておけば、市中で大戦さになるな」
と近藤がいった。
「市中の戦さはまずかろう」
と、歳三。
「まずい。われわれが京都守護職のもとで、治安維持の任にある以上」
「ついには、会津藩と薩摩藩の戦さをひきおこすことになるかもしれない」
「歳、策はあるか」
「あるさ」
歳三は、集団と集団との衝突を避けるためには、先方の大将伊東甲子太郎ひとりをおびき出して討つ以外にない、といった。
「伊東がやすやすその手に乗るかな」
「乗るさ」
歳三は、笑った。
「おれでさえ、七里研之助の手に乗って、一人でのこのこと二条河原へ行った。行けばあのとおりの人数が出てきた」
「あれは、|抜《ヽ》かったな。歳らしくもない」
「いや、あんたでも、ああ出られればかかるだろう。そういうものだ」
「どういうものだ」
「いや、諸事自信自負心のつよいやつというのは抜かるものさ。自分は利口なようにおもっていても、子供だましのような手にかかってだまされる」
「とにかく」
近藤はいった。
「江戸募兵が先決だ。江戸や南多摩に帰ればみなによろしくいってくれ。歳、なんといっても、大公儀の大御番組頭という大身の旗本で帰国するのだ。いい気持だぞ」
「冗談じゃねえ」
「いや、剣一本で、ここまで立身できたのは戦国以来、おれとお前ぐらいのものだろう」
その年、慶応三年。
七月の末、歳三は旅装をととのえて、江戸へ発った。
[#改ページ]
江 戸 日 記
「いや、私はこの姿《なり》でいい」
と、歳三が、ただの浪人姿で東下《とうげ》しようとするのを、近藤がとめた。
「道中ではさきざき、宿割りして本陣にとまることになっている。その風体《ふうてい》では、御定法《ごじようほう》が立たぬ。歴とした格式どおりの装束《こしらえ》でゆけ」
当然なことだ。
浪人姿で、本陣どまりはまずかろう。本陣は、大名、公卿、旗本、それに御目見得以上の身分でなければ泊まれない。
歳三は、ぎょうぎょうしい恰好になった。
青だたき裏金《うらきん》輪抜けの陣笠、その白緒をつよくあごに締め、供には若党、草履取り、槍持、馬の口取り、といった者をそろえて、街道をくだった。
これに、隊士五人がつく。
(どうも芝居じみている)
はじめは、照れくさかった。
本陣へつくと、門前に、
「土方歳三宿」
という奉書紙の関札《せきふだ》がはりだされ、宿役人が機嫌うかがいにくる。
(おかしなものだ)
箱根を越えるころには、すっかり板についてしまっていた。
(照れ臭え、とおもえば、他人の眼からもちぐはぐにみえるだろう。そういうものだ)
度胸をすえてしまった。
据えてみると、上背《うわぜい》もあるし、眼もと、口許に苦味のある涼しい容貌の男だから、親代々の旗本よりずっとりっぱにみえるのである。
「土方先生、こりゃどうも」
と隊士のほうが、口にこそ出さないが、そんな眼で、おどろいている。
道中、単衣《ひとえ》でとおした。
この慶応三年秋というのは、いつまでもだらだらと暑さがつづいて、やりきれなかったからである。
品川の海が右手にきらきらと光りはじめたとき、歳三はやっと、
(帰ってきた)
という実感をもった。あれは文久三年、まだ寒かった二月のことだ。江戸を発った。あれから足かけ五年目の帰郷である。
歳三一行は、江戸の大木戸へ入った。
しばらく歩いて、金杉橋のたもとの茶店で、休息した。べつに疲れてはいなかったが、江戸にかえった、という気分を、床几の上で味わってみたかったのである。
(江戸はかわった)
景気が、ではない。
町の者、茶店の亭主、女房、婢女《はしため》のたぐいまで、どこか表情がしらじらしい。
が、すぐ歳三はその理由に気づいた。
(ばかばかしい。おれのこの衣裳だ)
町人どもは、旗本である歳三に対し、それにふさわしい表情、物腰で接する。江戸がかわったのではなく、歳三がかわったのだ。
「親爺」
とよんでも、即答はしない。若党に、うかがいを立てるような顔つきをする。
「おい、菰田《こもだ》君」
と、歳三は同行の平隊士にいった。
「あの親爺に、おれにいろいろ世間話をするように、さとしてくれ」
われながら、滑稽になった。
親爺は、やっと打ちとけた。
「殿様、江戸もここ一年でだいぶかわりましてござります」
と、おやじはいった。歳三が、大坂在番かなにかで、もどってきた、とみているのだろう。
「こうして外をながめていると、そうもみえぬようだが」
「いいえ、一度ごらんなさいまし。一ツ橋御門のそとに異国人伝習所というとほうもない建物ができておりますし、鉄砲洲《てつぽうず》の軍艦御操練所のあとへも、|ほて《ヽヽ》る《ヽ》とかいう異人の宿がこの夏から建って、近くの十軒町の連中が、むこうの空がみえねえと、半分冗談でさわいでいるほど、たいそうなものでございます」
「そうか」
歳三も、感慨無量だった。
かつて江戸を発つときには、
「攘夷のさきがけになる」
といって出たはずである。
ところが、かんじんの幕府が、攘夷主義の京都朝廷の意向に反して、なしくずしに開国してゆく。
条約も、もはや一流国だけでなく、この月も、ポルトガル、イスパニア、ベルギー、デンマークといった二流国とまで結ぶにいたった、ということを歳三もきいていた。
(攘夷屋の伊東甲子太郎が怒るはずさ)
歳三は、攘夷も開国もない。
事がここまできた以上、最後まで徳川幕府をまもる覚悟になっている。
歳三らは、茶店を発った。
あとでおやじが、くびをひねった。
(どうも見たことのある顔だ)
おやじは、南多摩郡日野のうまれで、吉松といった。日野宿は、歳三の生家にちかい。
「あのかたは、どなただ」
と、女房にきいた。
「大御番組頭で、なんでも、土方歳三とおっしゃるそうだよ」
「あっ、歳」
おもいだした。
浅川堤から多摩川べり、甲州街道ぞいの一帯を、真黒に陽やけしてうろうろあるいていた茨垣《ばらがき》(不良少年)の歳ではないか。
「歳め、なんてえ真似をしやがる」
おやじは、眼をみはった。歳がニセ旗本で東海道を上下しているとおもったのだろう。
歳三は、近藤が最近買いもとめた牛込二十騎町の屋敷にわらじをぬいだ。
近藤はさきに帰東したとき、小石川小日向柳町の古道場をたたんでしまって、格式相応のこの屋敷を買った。
このひろい屋敷に、病臥中の近藤周斎、勇の女房の|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》、それに、ひとり娘の瓊子《たまこ》が、世間からおきわすれられたようにして住んでいる。
(なるほど、りっぱな屋敷だ)
江戸もかわった、とやや皮肉に歳三はおもった。武州の百姓あがりの近藤勇が、これだけの屋敷を、江戸にもっているのである。
周斎老人は、骨と皮だけになって、もう視力もいけないようだった。
「いかがです」
と、歳三は、ふとんの横にすわったが、眼がひらいているだけで、みえていないらしい。
それでも、夜になってすこし元気になり、
「歳三よ。おれも一生で九人も女房をかえたほどの男だが、こんどはいけないらしい」
と、小さな声でいった。
勇の女房|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》はあいかわらずの不愛想で、懐しがりもしていなかった。
「お達者ですか」
と、歳三がいうと、
「体だけはね」
と答えた。こんな女でも、近藤から捨てられて暮らしていると、やはり人並に腹がたつものらしく、以前よりも、顔つきが剣呑《けんのん》になっていた。
「当分、宿に拝借します」
「ああ」
|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》は、腹のあたりを掻きながらうなずいた。
とうてい、大旗本の奥様とはいえそうにない女だった。
歳三は、この屋敷を本拠にして隊士募集をするつもりでいる。
「多少、人が出入りしますが、おふくみおきください」
翌日から、隊士に檄文をもたせて、江戸中の道場を片っぱしから訪ねさせた。
大小三百軒はある。
なるべく無名流派の小道場をえらび、千葉、桃井、斎藤といった大道場は訪ねさせなかった。
大道場の門人は、勤王化している者が多い。
もう新選組も、清河八郎や、山南敬助、藤堂平助、それに伊東甲子太郎でこりごりだった。
「小流儀がいい。それも、百姓、町人といった素姓の者で、根性のすわった男がいい」
と、歳三は、募集掛りの隊士にいった。
「長州の奇兵隊をみろ」
百姓、町人のあがりばかりだが、いまや、長州軍をささえる最強の隊になっている。
代々、家禄に飽いた家からは、ろくな武士が出ない。
噂はたちまち江戸の諸道場にひろまって、二十騎町の近藤屋敷にたずねてくる剣客が、ひきもきらなかった。
面接は、隊士にまかせている。
隊士が気に入ると、鄭重に玄関まで送り、集合の日をしらせるのである。
歳三は、いっさい顔をみせず、奥の一室で、掛りの隊士からその日の報告をきくだけである。
「なぜ、お会いにならないのです」
と隊士がきいたことがある。
「おれは、もうつらをみただけで好き嫌いが先に来る男だよ。そんなやつに大事な隊士の選考ができるものか」
「なるほど」
と隊士たちはあとで、ささやき合った。
「あの人は、あれはあれなりに御自分がわかっているらしい」
という者もあれば、
「いや、この道中で思ったのだが、あの人も人間ができてきたようだ。もう、こまごましたことはいわない」
そんなことをいう者もある。どういうものかわからないが、歳三の評判がこの江戸行きをさかいにして、めっきりよくなってきた。
歳三自身も、これは自分でも気づかぬところだろう。ひょっとすると、京のお雪との交情にかかわりのあることかもしれないのだが。――
もしここに、人間観察のするどい隊士がいるとすれば、
「ひとり身で、女もろくに抱かずにここまでやってきた人だ。血が猛《たけ》っている。それがちかごろどこかでいいのができて、他人《ひと》それぞれの生命のあわれさがわかってきたのではないか」
そんなことをいうかもしれない。
日野の佐藤家に残っているはなしでは、この江戸滞留中、一度だけ、歳三は、生家と佐藤家、その他をたずねた。
|あん《ヽヽ》ぽつ《ヽヽ》駕籠という、当時身分のある武家でなければ乗れなかった駕籠でやってきたらしい。
日野宿近辺では、評判があまりよくなかった。
「頭《ず》が高くなりゃがった」
というのである。
義兄の佐藤彦五郎までが、
「歳、お前、いまは殿様かもしれねえが、むかしを忘れちゃいけないよ」
と、遠まわしにたしなめた。
「おなじ歳さ」
と、歳三は、笑いもせずにいった。
歳三はむかし、この近郷では不愛想で通った男であった。その地金はいまも、おなじだ、といったのである。
「しかし歳、せっかく故郷に錦をかざったんだ。みな、お前と勇とが、三多摩きっての出世頭だとよろこんでいる。みんなにそういう気持の下地があるんだから、ちゃんと応《こた》えてやらなくちゃいけないよ」
「ふむ?」
にがい顔でいった。
「どうすりゃ、いいんだ」
「すこしは、笑顔をみせろ、笑顔を。この辺の連中は素直だから、ああ、偉くなる人はちがったものだ、頭がひくい、とみんながよろこぶ。それとも、そんなにお前、笑顔が惜しいかね」
「惜しかねえが」
歳三には、わからない。
「可笑《おか》しくもないのに笑えねえよ」
そのくせ、妙にこまごまと気のつく優しいところがあったという。
石田在の生家に、姪《めい》で、|ぬい《ヽヽ》というむすめがいた。
歳三が京へ発った当時にはまだ幼かったが、その後江戸の大名屋敷に行儀見習に行っていた。
ほどなく隣家へ嫁したが、病身のために不縁になって出戻っている、といううわさを歳三も京で聞いていた。
この|ぬい《ヽヽ》にだけは、いつのまに買いととのえたのか、京の櫛笄《くしこうがい》、絵草紙などをみやげにもってきてやっている。
「歳も、存外なところがあるものだ」
と盲兄の為三郎が感心した。
ほかに、縁談があった。
姉のおのぶ(佐藤彦五郎妻)がもってきたもので、盲兄の為三郎も、しつこいほどすすめた。
「その娘、おれァも知ってるんだが、きれいな娘だよ。目あきならともかく、目の見えないのがそういうんだからこれほどたしかなことはなかろう」
戸塚村の娘である。
土方家とは遠縁にあたる家で、村でもたいそうな物持だが、先代の道楽で、三味線屋もかねている。
「ああ、あの家か」
と、歳三もうろ覚えにおぼえていた。屋敷には冠木門《かぶきもん》に楓《かえで》垣根がまわしてあり、街道筋に面した一角だけは、「店」と称して小格子づくりにしてある。
そこで、三味線を売っていた。
「お琴さんだろう」
歳三は、破笑《わら》った。
このくだりで、はじめて笑ったらしい。
お琴は、戸塚かいわいでもきっての美人だし、なによりも三味線がうまかった。歳三が京へ発つころ、十五、六だったから、もう二十はすぎているだろう。
「歳、お前、気があるな」
盲兄が首をかしげた。気配で、ひとの気持がわかるらしい。
「貰うこった。お前はこの家の末っ子だが、指を折ってみるともう三十三になる。男としても|とう《ヽヽ》が立っている」
「立ちすぎている。三十三にもなって|やも《ヽヽ》め《ヽ》というのは、もうだめだね。女房だなんてことで女にべったり二六時中くっつかれちゃ、おお、と身ぶるいがする。それに、ただの武士なら禄を食ってひまをつぶしているだけでいいが、おれには仕事がある」
「なんの仕事がある」
「新選組さ」
この縁談《はなし》は、それっきりになった。
歳三は、数日、郷里にいただけで、すぐ江戸へもどった。
江戸では、沖田総司の義兄で、新徴組の小頭になっている同姓林太郎、その女房のお光(総司の実姉)などにも会った。
お光は、総司の体のことばかりを、くどくどときいた。
「なあに、気づかいはないです」
と歳三はいったが、事実は、総司は月のうち半分は寝こむようになっていた。
薬は、医者の投薬したものものむが、歳三の生家の家伝の薬ものんでいる。
土方家には、歳三がかつてそれを担《にな》って売りあるいていた打身薬「石田散薬」のほかに、結核にきくという「虚労散」という名の薬があり、歳三は、それをわざわざ京までとりよせては、沖田にのませていた。
歳三が煎じてやると、
「いやだなあ」
と不承々々、のむ。
「土方さんのために服むんですよ」
と恩に着せたりした。
「お光さん、こんども、それを持って帰ります。あれは効きますから」
薬売りのころのくせで、こんなことを自信をもっていう。いや、歳三自身も、自分の薬は効く、と信じきっていた。諸事、そんな性分の男なのである。
隊士は、選りすぐって二十八人。
十月二十一日未明に近藤屋敷に集結し、江戸を発った。
それより数日前の十四日、将軍|慶喜《よしのぶ》が大政を奉還した、という事実があるが、江戸にいる歳三の耳にまでは入っていなかった。
小田原の本陣できいた。
そのとき、歳三は顔色ひとつ変えず、
「なあに、新選組の活躍はこれからさ」
と、ひとことだけいった。
十一月四日、京都着。
三条大橋をわたろうとすると、前夜からの風雨がいよいよつのって、むこう岸が朦気《もうき》でくろずんでみえた。
歳三は、橋の上に、ぼう然と立った。これほどすさまじい表情の京を、みたことがなかった。
[#改ページ]
剣 の 運 命
歳三は駕籠で花昌町までゆき、屯営の門をくぐりながら、
「いやもう、ひどい降りだ」
近藤は、おもだった隊士とともに門まで出むかえてくれた。
「歳」
近藤は、ぐわんと肩をたたいた。懐しいらしい。
「歳、お前が京へ入ると、天も感じて雨をふらせるようだな」
近藤らしい下手な冗談だが、しかしその云いかたにどこか|うつ《ヽヽ》ろ《ヽ》な響きがある。
(妙だな)
歳三はこういうことには敏感であった。大政奉還とともに近藤の心境が、変化しはじめているのではあるまいか。
(そうにちがいない)
廊下を肩をならべて歩きながら、近藤の口ぶりは、また変化した。歳三の機嫌をとるようにいうのである。
「道中、疲れたろう」
「ふむ」
歳三は近藤という男をよく知っている。
心でおもっていても、こんなことを口に出すような|やわ《ヽヽ》な男ではなかった。
「疲れはせぬ。それよりもあんたの様子をみると、京にいたほうが疲れるようだ」
「そうかね」
「顔が冴えない。どうやら、心術定まらざるものが腹にあるようだ」
「歳三、お前は知らぬのだ」
「まあいい。この話はあとでしよう」
その夕、近藤の屋敷で、隊の幹部があつまって、歳三の慰労のために酒宴をひらいた。
「土方さん、江戸はどうでした」
と、沖田総司がいった。
「ああ、お前の姉にも会った。あとでくわしくいう」
どうも妙だな、とおもうのは、一座の雰囲気が、京を発ったころとはちがう。どこか、沈んでいる。
もともとこの一座、ずらりと見わたしても物事に沈むような性根の連中ではなかった。原田左之助が楽天家の筆頭。永倉新八も覚悟のできた男だ。それに温和で書物も読まぬ井上源三郎、さらに沖田総司、これは近藤、土方と生死を共にするという一事だけがたしかで、あとの悩みは神仏にあずけっぱなしというかっこうの若者である。
歳三は、江戸のはなしをした。
周斎老の病状。
佐藤彦五郎の近況。
それに、江戸における新選組の評判。
「両国の花火はことしはなかった。江戸もかわったね。町を歩いていても、コウモリ傘てやつをさして歩いている武士が多かった。はじめは旗本のあいだにはやったんだが、ぼつぼつ町人も用いているようだ」
「そんなに変わりましたか」
と永倉がいった。
永倉新八は松前藩脱藩で、定府の下士の子だったから|きっ《ヽヽ》すい《ヽヽ》の江戸育ちである。それだけに、懐しさがちがうのだろう。
「江戸に帰りたいなあ」
疲れきったような表情でいった。
「どういうわけだ」
歳三は、杯を唇でとめて、微笑した。この男の微笑は、うるさい。
「いや、理由などはありませんよ。土方さんが久しぶりで江戸の匂いを運んできたからそういったまでです」
「しかし新八つぁん、江戸には帰らせねえよ」
歳三は、杯を置いた。
「京《ここ》が、新選組の戦場だと私は心得ている」
「が、歳。――」
と、横から低い声がきこえた。
近藤である。つぶやいている。
「お前は一本調子で結構だが」
「結構だが?」
「お前の留守中、京も、変わったのだよ」
大政奉還のことをいっているのであろう。この急変に、近藤はどう処していいのかわからなかった。
「将軍は、政権を天朝に返上してしまわれたんだよ」
「その話はあとだ」
と、歳三はいったが、近藤はおっかぶせて、
「歳、おれのいうことをきいてくれ。三百年、いや日本は源頼朝公以来、政権は武門の棟梁《とうりよう》がとってきた。政権の消長こそあったが、これが日本の古来からの風だ。ましていまは、洋夷に国を狙われている。いまこそ征夷大将軍を押したてて国を守るべきときであるのに、公卿に政権を渡して日本がまもれるかどうか」
「そのとおり」
末座で原田左之助が割れるように手をたたいた。単純な男なのである。
「左之助、だまっておれ」
近藤は、おさえた。
「しかしながら、天朝に弓をひくことはできぬ。歳」
「なんだえ」
歳三は、杯をおいた。
「お前に意見があるか」
「意見はあるがね。しかしそんなむずかしいもんじゃねえ。新選組の大将はお前さんだ。お前さんが、源九郎義経みたいな白っ面で悩んでいることはないんだよ。大将というものは、悩まざるものだ。悩まざる姿をつねにわれわれ幕下に見せ、幕下をして仰いで泰山のごとき思いをさせるのが、大将だ。お前さんが悩んでいるために、みろ、局中の空気は妙に|うつ《ヽヽ》ろ《ヽ》になっている」
「これは相談だ」
「どっちにしろ、無用のことさ」
吐きすてた。相談なら、自分とこっそりやってくれるといい、というのが歳三の意見であった。隊長が隊士に自分の悩みをうちあけているようでは、新選組はあすといわず、今日から崩れ去ってしまうだろう。
「近藤さん」
と、そのあと、近藤の屋敷でいった。ほかの隊の者はいない。
「われわれは、節義、ということだけでいこう。時勢とか、天朝、薩長土がどうの、公卿の岩倉がどうの、というようなことをいいだすと、話が妙になる。近藤さん、あんたの体から、|あか《ヽヽ》をこそげ落してくれ」
「|あか《ヽヽ》?」
「政治ということさ。あんたは京都にきてからそいつの面白さを知った。政治とは、日々動くものだ。そんなものにいちいち浮かれていては、新選組はこのさき、何度色変えしなければならぬかわからない。男には節義がある。これは、古今|不易《ふえき》のものだ。――おれたちは」
歳三は、冷えたお茶をのみほしてから、
「はじめ京にきたときには、幕府、天朝などという頭はなかった。ただ攘夷のさきがけになる、というだけであった。ところが行きがかり上、会津藩、幕府と縁が深くなった。しらずしらずのうちにその側へ寄って行ったことであったが、かといっていまとなってこいつを捨てちゃ、男がすたる。近藤さん、あんた日本外史の愛読者だが、歴史というものは変転してゆく。そのなかで、万世に易《かわ》らざるものは、その時代その時代に節義を守った男の名だ。新選組はこのさい、節義の集団ということにしたい。たとえ御家門、御親藩、譜代大名、旗本八万騎が徳川家に背をむけようと弓をひこうと、新選組は裏切らぬ。最後のひとりになっても、裏切らぬ」
「歳、楠公もそうだった」
「あんたはなかなか学者だ」
歳三は、くすと笑った。脱盟した伊東甲子太郎も楠公信者だったことをおもいだしたからである。
「しかし、ことさらに楠某など死者の名前を借りずともよい。近藤勇、土方歳三の流儀でゆく、それだけでよい」
「が、局中は動揺している。なにか告示すべきだろう」
「いや、言葉はいけない。局中に節義を知らしめることは、没節義漢を斬ることだ。その一事で、みな鎮まる。まず、脱盟して薩摩藩側に奔《はし》った伊東|摂津《せつつ》」
伊東は、江戸のころは鈴木|大蔵《おおくら》という名であったことは、かつて述べた。
それが新選組に加盟した年、それを記念して甲子太郎と名を変え、こんど薩摩藩に奔って御陵衛士組頭となり、摂津とあらためた。
この当時、脱藩者などが名を変えるのは常識になっていたが、変節するごとに名を変えたのは伊東甲子太郎ぐらいのものであったろう。
この伊東甲子太郎が暗殺されたのは、慶応三年十一月十八日の夜である。
近藤の私邸に招待され、泥酔した。辞去したのは、夜十時すぎである。
風はなかったが、道が凍《い》てていた。すでに沖天にある月が、北小路通を照らしている。伊東は東へ歩いた。東山高台寺の屯営にもどろうとしていた。
提灯に灯も入れない。供もつれなかった。伊東は、自分の才弁に自信をもちすぎたのであろう。
近藤の私邸では、伊東は時務を論じ、幕府を痛罵し、ほとんど独演場であった。
みな、感動した。
近藤のごときは、手をにぎり、
「伊東先生。たがいにやりましょう。国事に斃れるは丈夫の本望とするところではありませんか」
と、眼に涙さえうかべた。近藤の涙はどういう心事であったろう。
原田左之助のような男まで伊東の弁舌に魅了され、感歎の声をあげては、酒をついだ。
(愚昧《ぐまい》な連中だけに、いったん物事がわかると感動が大きいのだ)
伊東は、いい心もちであった。
(が、あの席に土方が居なかった)
はじめは不審であったが、杯をかさねるほどに気にならなくなってきた。
(世がかわるにつれて、ああいう頑愚者も新選組から消えてゆかざるをえないだろう。察するところ、こんにちの時局を予言していた私との同席が、はずかしかったにちがいない)
その「頑愚者」は、伊東の行くて、半町ばかりむこうの町寺崇徳寺の門の蔭に身じろぎもせずに眼を光らせていた。
むかいも寺。
前の道は、ひとが三人やっとならんで歩ける程度のせまさである。
そこの板囲い、町家の軒下、天水桶《てんすいおけ》の積みあげた背後、物蔭という物蔭が、ひそかに息づいていた。
伊東は、酔歩を橋に踏みいれた。小橋をわたりながら、江戸のころに習った謡曲で「竹生島《ちくぶじま》」の一節をひくく謡いはじめた。
渡りおわった。
橋からむこうの道は、東へまっすぐに伸び、その道の果てをくろぐろとした|いら《ヽヽ》か《ヽ》の山がさえぎっている。東本願寺の大伽藍《だいがらん》である。
伊東の謡曲は、つづく。
やがて、とぎれた。
一すじの槍が、伊東の頸の根を、右からつらぬいていたのである。
伊東は、そのまま立っていた。
気管をはずれていたため、かすかに呼吸はできたが、身動きができない。槍も動かず、伊東甲子太郎も動かなかった。
そのとき背後に忍び足でまわった武藤勝蔵という男が、太刀をふりかざしざま、伊東に斬りつけた。
伊東、それよりも早く抜き打ちに勝蔵を斬ってすてたというから、尋常な場合なら伊東はどれほどの働きをしたかわからない。
抜き打ちで斬ったときに、伊東の頸を串刺しにしていた槍が抜けた。
と同時に、血が噴きだした。伊東は、槍に突かれていることによって、辛うじて命をとりとめていたということになるだろう。
五、六歩、意外なほどたしかな足どりであるいていたが、やがて、角材でもころがすような音をたてて、横倒しにころがった。
絶命している。
「戦さはこれからだ」
と歳三は歩きだした。
悪鬼に似ていた。
(節義をうしなう者は、すなわちこれだ)
伊東の死体は、オトリとして七条|油小路《あぶらのこうじ》の四ツ辻の真中に捨ておいた。やがて町役人の報告で東山の御陵衛士の屯営にきこえるであろう。
おそらく全員武装をして駈けつけるはずだ。
それを待ち伏せて脱盟者を一挙に殲滅《せんめつ》するのが、歳三の戦術であった。敵将の死体をオトリにして相手を|わな《ヽヽ》にかけるというような残忍非情の戦法をおもいついた男も、史上まれであろう。
伊東を、人間としてあつかわなかった。
それほど歳三は、かれ自身の|作品《ヽヽ》である新選組を、崩潰寸前にまで割ってしまった元兇を憎んでいた。
その余類に対しても同様である。
「やがて連中がやってくる。一人も討ち洩らすな」
と、出動隊士四十余人にきびしく命じた。
歳三は、油小路七条の四ツ辻の北へ三軒おいて東側の|うど《ヽヽ》ん《ヽ》屋「芳治」を借りきり、ここに出動隊の主力を収容した。
他は三人ずつ一組とし、四ツ辻のあちこちに伏せさせた。
やがて月が傾きはじめたが、まだ来ない。
「土方さん、来るだろうか」
原田左之助は、「芳治」のかまちにすわっている歳三に、土間から問いかけた。
「来る」
確信がある。正直なところ、伊東派の連中は腕も立つが、気象のはげしい者が多い。首領の死体をはずかしめから救うために、かれらは生死をわすれるだろう。
一方、高台寺月真院の御陵衛士の屯営では、この夜不幸がかさなっていた。営中には小人数しかいなかった。
隊の幹部の新井忠雄、清原清は、募兵のために関東にくだっていた。
伊東の内弟子だった内海二郎、阿部十郎は前日から鉄砲猟をするために稲荷山の奥に入ったまま帰隊していない。
伊東亡きあとは、その相談相手でもあり、最年長者でもあった篠原泰之進が、自然、下知する立場になった。
急報してきた町役人を帰したあと、篠原はさわぐ同志をしずめて、
「死体をひきとることだ。おそらく連中は待ち構えているだろう。しかしどうあろうとも死体をひきとる、これ以外に、余計な思慮を用うべきではない」
「篠原さん」
といったのは、伊東の実弟の鈴木三樹三郎である。ふるえている。
「相手は旧知の連中です。みな面識がある。当方が礼をつくして受けとりにゆけば、事はおこらぬのではないですか」
「礼を尽して?」
篠原は、笑った。武士の礼のわかるような連中なら伊東をだまし討ちにはすまい。
「戦うあるのみだ」
と服部武雄がいった。かつて新選組の隊中でも抜群の剣客といわれた男である。
「篠原さん、甲冑をつけてゆこう」
「いけないよ」
篠原は、一同に平装を命じた。このときの心境は、篠原泰之進の維新後の手記にこう書かれている。
――モシ賊ト相戦ハバ、敵ハ多勢、我ハ小勢ナリ。然リト雖モ甲冑ヲ着テ路頭ニ討死セバ後世ソノ怯ヲ笑フ可シ。
出動隊士は、七名である。
篠原泰之進、鈴木三樹三郎、加納★[#周+鳥]雄、富山弥兵衛、藤堂平助、服部武雄、毛内監物。みな、駕籠に乗った。
それに伊東の遺骸をはこぶための人足二人に、小者がひとり。
東山の坂をくだったときには、午前一時をすぎている。
油小路ニ駈付ケタリ。
四方ヲ顧ミルニ、凄然トシテ人無キガゴトシ。ヨツテ直チニ伊東ノ死所ニ至リ、ソノ横死ヲミテ一同歎声ヲ発シ、スミヤカニ血骸ヲ駕《かご》ニ舁《か》キ入レントスルニ、賊兵三方ヨリ躍リ出、ミナ鎖ヲ着シ、散々ニ切リカカリタリ。ソノ数、オヨソ四十余人也。
歳三は、「芳治」の軒下に腕を組んで争闘をみていた。
月が、路上の群闘を照らしている。
藤堂平助、服部武雄の奮戦のすさまじさには、歳三も、胴のふるえるのを覚えた。一歩も逃げようとしないのである。
飛びちがえては斬り、飛びこんでは斬り、一太刀も無駄なく斬ってゆく。
「土方さん、私が出ましょう」
と控えの永倉新八がいった。
「いや、新参隊士にまかせておけ」
「お言葉だが、死人がふえるばかりだ」
永倉はとびだした。
歳三がみていると、永倉は弾丸のように群れの中に突き入って、藤堂の前に出た。江戸結盟以来のふるい友人である。
「平助、永倉だ」
といいながら剣をぬき、軒へ身をよせ、逃げろ、といわんばかりに南への道をひらいてやった。
藤堂は永倉の好意に気づき、駈けだそうとした。安堵したのがわるかったのだろう。背後に油断ができた。その背へ、平隊士三浦某が一刀をあびせた。
藤堂はすでに身に十数創をうけている。
さらに屈せず、三浦を斬ったが、ついに力尽き、刀をおとし、軒下のみぞへまっさかさまに頭を突っこんで絶命した。
服部武雄はさらに物凄かった。おそらく傷を負わせた者だけで二十人はあったろう。原田左之助、島田魁といった隊中きっての手練《てだれ》でさえ、服部の太刀をふせぎきれずに傷《て》を負った。やがて闘死。
毛内監物も闘死。
篠原、鈴木、加納、富山は乱闘の初期にすばやく脱出している。
死んだのは奇妙なことにすべて一流の使い手であった。かれらは脱出しようとしても、剣がそれをゆるさなかった。剣がひとりで動いてはつぎつぎと敵を斃し、死地へ死地へとその持ちぬしを追いこんで行った。
(剣に生きる者は、ついには剣で死ぬ)
歳三はふと、そう思った。
軒端を出たときには、月は落ちていた。歳三は真暗な七条通を、ひとり歩きはじめた。
星が出ている。
[#改ページ]
大 暗 転
いやもう、大騒ぎである、天下は。
慶応三年十一月十八日、油小路で脱盟の巨魁《きよかい》伊東甲子太郎を斬ってからこっち、近藤は様子がおかしくなった。度をうしなったのであろう。
大政奉還。
徳川慶喜は、将軍職返上を朝廷に申し出ている。
天下はどうなるのか。
「近藤さん、男はこういうときに落ちつくものだ。時流に動かされてうろうろするもんじゃねえ」
歳三はどなりつけるようにいったが、近藤は|きり《ヽヽ》きり《ヽヽ》舞い《ヽヽ》、といった毎日だった。毎日隊士団をつれ、京の諸所ほうぼうを走りまわり、二条城に行っては幕府の大目付永井玄蕃頭に会い、黒谷の会津藩本陣へ走っては情報をきき、あげくのはては、勤王系(といってもやや幕府への同情派)の土佐藩邸にまで出かけて、参政後藤象二郎に会い、
「長州は蛤御門ノ変で京をさわがした。しかも反省はしておらぬ。あれは貴殿はどうおもわれる」
と、もうどうにもならぬ時代おくれの議論を吹っかけたりして後藤を閉口させた。じつをいえば討幕の密勅はすでに薩長にくだっているのである。
この日、後藤象二郎は訪れてきた近藤を一喝した。
「いままさに国難のときだ。日本は統一国家を樹立して外国にあたるべきときである。大政奉還後は、皇国一心協力、国内を整頓し、三百年の旧弊をあらため、外国と堂々ものをいえるような国にならねばならぬ。長州がどうのこうのといっておる時勢ではない。そんなことで国内が内輪もめをしておるあいだに、外国に国を奪られるであろう。今日より、志士たる者は心魂をそこにすえるべきだ。どうです、近藤先生」
「なるほど、志士たる者は。……」
といったきり、「勇、黙然、一言モ発セズシテ去レリ」。もっともこれは後藤側の記録だから、近藤の姿がばかにしょんぼりとえがいてあるが、おおかた、こんなものであったであろう。
近藤は政治家になりすぎた、と歳三はおもっている。
(諸般の情勢などはどうでもよい。情勢非なりといえども、節義をたてとおすのが男であるべきだ)
近藤は、後藤側の記録では、「私も土佐藩の家中にうまれたかった。それならばこの時勢に、どれほどの働きができるか」ともらしたという。
あきらかに近藤の思想はぐらついている。一介の武人であるべき、またそれだけの器量の近藤勇が、いまや分不相応の名誉と地位を得すぎ、さらには、思想と政治にあこがれをもつようになった。近藤の、いわば滑稽な動揺はそこにあった。
歳三はそうみている。
こまったものだよと、病床の沖田総司にひそかにこぼした。
「新選組は、いまや落日の幕軍にとって最強の武人団になっている。こういう組織というものは、その動かざること山のごとく、その徐《しず》かなること林のごときものであってこそ、怖れられるのだ。それをなんぞ、首領みずからが、幕府や諸藩の要人のあいだを駈けまわって、べちゃべちゃ時務を論じていては軽んぜられるばかりだ」
「そう……ですねえ」
沖田は、相変らず、どっちつかずの微笑で枕の上から歳三を見あげている。
「総司、早く元気になれよ」
「なりますとも」
沖田は、微笑をした。その微笑は、……いつもそうなのだが、歳三がこわくなるほど澄んでいる。
「総司、お前はいいやつだねえ」
「いやだねえ」
沖田は、頸をすくめた。きょうの歳三は、どうも変である。
「おれも、来世もし、うまれかわるとすれば、こんな|あく《ヽヽ》のつよい性分でなく、お前のような人間になって出てきたいよ」
「さあ、どっちが幸福か。……」
沖田は、歳三から眼をそらし、
「わかりませんよ。もってうまれた自分の性分で精一ぱいに生きるほか、人間、仕方がないのではないでしょうか」
と、いった。沖田にしてはめずらしいことをいう。あるいは、自分の生命をあきらめはじめているのではないか。
心境がそうさせるのか、声が澄んでいた。
歳三は、あわてて話題をかえた。なぜか、涙がにじみそうになったからである。
「おれは兵書を読んだよ」
と、歳三はいった。
「兵書を読むと、ふしぎに心がおちついてくる。おれは文字には明るくねえが、それでも論語、孟子、十八史略、日本外史などは一通りはおそわってきた。しかしああいうものをなまじいすると、つい自分の信念を自分で岡目八目流《おかめはちもくりゆう》にじろじろ看視するようになって、腰のぐらついた人間ができるとおれは悟った。そこへ行くと孫子、呉子といった兵書はいい。書いてあることは、敵を打ち破る、それだけが唯一の目的だ。総司、これを見ろ」
と、ぎらりと剣をぬいた。
和泉守兼定、二尺八寸。すでに何人の人間を斬ったか、数もおぼえていない。
「これは刀だ」
といった。歳三の口ぶりの熱っぽさは、相手は沖田と見ていない。自分にいいきかせているような様子であった。
「総司、見てくれ。これは刀である」
「刀ですね」
仕方なく、微笑した。
「刀とは、工匠が、人を斬る目的のためにのみ作ったものだ。刀の性分《しようぶん》、目的というのは、単純明快なものだ。兵書とおなじく、敵を破る、という思想だけのものである」
「はあ」
「しかし見ろ、この単純の美しさを。刀は、刀は美人よりもうつくしい。美人は見ていても心はひきしまらぬが、刀のうつくしさは、粛然として男子の鉄腸をひきしめる。目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである。新選組は節義にのみ生きるべきである」
(なるほどそれをいいたかったのか)
沖田は、床上微笑をつづけている。
「そうだろう、沖田総司」
「私もそう思います」
これだけは、はっきりとうなずいた。
「総司もそう思ってくれるか」
「しかし土方さん」
と、沖田はちょっとだまってから、
「新選組はこの先、どうなるのでしょう」
「どうなる?」
歳三は、からからと笑った。
「|どう《ヽヽ》なる《ヽヽ》、とは漢《おとこ》の思案ではない。婦女子のいうことだ。おとことは、どうする、ということ以外に思案はないぞ」
「では、どうするのです」
「孫子に謂《い》う」
歳三は、パチリと長剣をおさめ、
「その侵掠《しんりやく》すること火の如く、その疾《はや》きこと風のごとく、その動くこと雷震《らいしん》のごとし」
歳三はあくまでも幕府のために戦うつもりである。将軍が大政を返上しようとどうしようと、土方歳三の知ったことではない。歳三は乱世にうまれた。
乱世に死ぬ。
(男子の本懐ではないか)
「なあ総司、おらァね、世の中がどうなろうとも、たとえ幕軍がぜんぶ敗れ、降伏して、最後の一人になろうとも、やるぜ」
事実、こののち土方歳三は、幕軍、諸方でことごとく降伏、もしくは降伏しようとしているとき、最後の、たった一人の幕士として残り、最後まで戦うのである。これはさらにこの物語ののちの展開にゆずるであろう。
「おれが、――総司」
歳三はさらに語りつづけた。
「いま、近藤のようにふらついてみろ。こんにちにいたるまで、新選組の組織を守るためと称して幾多の同志を斬ってきた、芹沢鴨、山南敬助、伊東甲子太郎……それらをなんのために斬ったかということになる。かれらまたおれの誅《ちゆう》に伏するとき、男子としてりっぱに死んだ。そのおれがここでぐらついては、地下でやつらに合わせる顔があるか」
「男の一生というものは」
と、歳三はさらにいう。
「美しさを作るためのものだ、自分の。そう信じている」
「私も」
と、沖田はあかるくいった。
「命のあるかぎり、土方さんに、ついてゆきます」
情勢は、日に日に変転して、大政奉還から二カ月たらずの慶応三年十二月九日、
王政復古
の大号令がくだった。
京都駐留の幕府旗本、会津兵、桑名兵はことごとくこの「薩摩藩の陰謀成功」を不服とし、洛中で戦争を開始しようという動きがたかまってきた。
「将軍慶喜は、水戸の家系だ。もともと朝廷を重視しすぎる家風で育ったゆえ、このお家の重大事に、薩摩側の、勤王、勤王、というお題目に腰がくだけてしまった。将軍は徳川幕府を売ったのだ」
将軍が幕府を売った、とは妙な理屈だが、幕臣でさえそういうことを大声叱呼して論ずる者があった。いまや混沌。
慶喜は、才子である。おそらく、頭脳、時勢眼は、天下の諸侯のなかでも慶喜におよぶ者がなかったろう。
しかし時流に乗った薩長側の、打つ手打つ手にはとても抗しようもない。
当時の「時勢」のふんいきを、後年、勝海舟は語っている。
気運というものは、実におそるべきものだ。西郷(隆盛)でも木戸(桂小五郎)でも大久保(利通)でも、個人としては、別に驚くほどの人物ではなかった(勝は、別の語録では西郷を不世出の人物として絶讃している)。けれど、かれらは「王政維新」という気運に乗じてやって来たから、おれもとうとう閉口したのよ。しかし気運の潮勢が、しだいに静まるにつれて、人物の価《あたい》も通常に復し、非常にえらくみえた人も、案外小さくなるものサ。
ついでに、もうひとくだり、卓抜した批評家でもあった勝が、当時の情勢をどうみていたかについて、かれ自身の言葉を借りよう。ただし右の引用は、勝の口調どおり速記して遺されているものだが、左記のものは、かれ自身がこの慶応三年の当時、ひそかに随想として書きとめておいたもので、それだけに「時勢」のにおいが躍動している。ただし文語のため、以下は作者意訳。
会津藩(新選組を含む――作者)が京師に駐留して治安に任じている。しかしながらその思想は陋固《ろうこ》で、いたずらに生真面目である。しかしかれらは、いかにすれば徳川家を護れるかという真の考えがない。その固陋な考えこそ幕府への忠義であるとおもっている。おそらくこのままでゆけば、国家(日本)を破る者はかれらであろう。とにかく見識狭小で、護国の急務がなんであるかを知らない。(中略)このさい、国家を鎮め、高い視点からの大方針をもって国の方向を誤たぬ者が出てくれぬものか。それをおもえば長大息あるのみだ(作者――もっともこういう勤王佐幕論よりももう一つ上から、当時の国情を見ていたのは幕臣では勝海舟ひとりである。あるいは、将軍慶喜もそうであったかもしれない。慶喜の“幕府投げ出し”を会津藩士が激怒したのは、こういう意識のちがいにある)。
京都の幕兵、会津、桑名の兵に不穏の動きがあると知るや、慶喜はこれを避けるため、自分は京都からさっさと大坂城にひきあげてしまった。
それまで、
「家康以来の英傑」
といわれ、「慶喜あるかぎり幕府はなおつづくかもしれぬ」と薩長側がその才腕を怖れていた徳川慶喜の変貌が、このときからはじまる。恭順、つまり時勢からの徹底的逃避が、最後の将軍慶喜のこれ以後の人生であった。
余談だが、慶喜はこの後、場所を転々しつつ逃避専一の生活をつづけ、その逃避恭順ぶりがいかに極端であったかは、かれが、ふたたび天皇にごあいさつとして拝謁したのは、なんと三十年後の明治三十一年五月二日であった。かれは自分の居城であった旧江戸城に「伺候」し、天皇、皇后に拝謁した。明治天皇はかれに銀の花瓶一対と紅白のチリメン、銀盃一個を下賜された。政権を返上して三十年ぶりでもらった返礼というのは、たったこれだけであった。推して、慶喜の悲劇的半生を知るべきであろう。
幕軍は、慶喜の大坂くだりとともに潮をひくように京を去った。むろん、会津藩も。
ところが、新選組のみは、
「伏見鎮護」
という名目で、伏見奉行所に駐《とど》められた。
京は薩摩を主力とするいわゆる倒幕勢力が天皇を擁している。
幕府の首脳部は、
(いつ京都の薩長と大坂の幕軍とのあいだに戦さがはじまるかもしれぬ)
という理由で、大坂からみれば最前線の伏見に、新選組をおいたのである。
「これほどの名誉はない」
近藤もさすがによろこんだ。もし開戦ともなれば、薩長と最初に火ぶたを切るものは、新選組であろう。
「歳、うれしいだろう」
「まあな」
歳三は、いそがしい。花昌町の屯営の引きあげ、武器その他を積載する荷駄隊の準備、隊の金庫にある軍資金の分配、その他移駐にともなう指揮は隊長の職務である。
にわかなことで、あすの十二月十二日には出発しなければならなかった。
「歳、今夜かぎりの京だ。文久三年京にのぼって以来、この都でさまざまなことがあったが――」
と近藤がいったが、歳三は、こわい顔をしてだまっていた。そういう感傷につきあっていられる余裕がないほど雑務に多忙であった。いや、この男の本性《ほんしよう》はおそらくそうではなかったのであろう。
元来が、豊玉(歳三の俳号)宗匠なのである。それも、歳三はひどく感傷的な句をつくる「俳諧師」であった。多感なおもいがあったにちがいない。
「なあ、歳。原田左之助や永倉新八は女房をもっている。それに、云いかわした女がある隊士もおおぜいいるだろう。どうだ、今夜はみなそれぞれの女のもとにやり、明早暁、陣触れ(集合)ということにしては」
「反対だね」
と、歳三はいった。
「あすは、いわば出陣なのだ。女との別れに一晩もついやさせては、士気がにぶる。別れは一刻でいい」
「お前は情《じよう》を解さぬな」
近藤はさすがにむっとした。近藤は妾宅が三軒もある。近藤が怒るのもむりはなかった。その三軒を駈けまわるだけでも、一晩では足りないだろう。
(おれにも、お雪がいる)
歳三はそうおもうのだが、この情勢混乱期に、隊の中心である近藤や自分が、一刻でも隊士の視野から姿を消すことはできない。
脱走。――
を怖れている。
いや、この情勢下では、うかつに眼をはなすと脱走者がきっと出る。
(どうせ逃げるやつなど惜しくないのだが、脱走者が一人でも出れば全体の士気にかかわる。それがこわい)
歳三はそうおもっていた。
「いやとにかく――」
と、近藤はいった。
「明日はおたがい命がどうなるかわからぬ身だ。一晩、名残りを惜しませるのが、将としての道だ。歳、おれはいまから隊士をあつめてそう命ずる」
その夜、歳三は、残った。
幹部で屯営に残ったのは、副長の歳三と病床の沖田総司だけである。
「今夜はお前の看病をしてやるよ」
歳三は、沖田の病室に机をもちこみ、手紙を書いた。
「お雪さんへですか」
沖田は、病床からいった。
「私はまだお会いしたことはないが、沖田総司からも、お達者を祈っていますと書きそえてください」
「うん。――」
歳三は、瞼《まぶた》をおさえた。
涙があふれている。
京への別離の涙なのか、お雪への想いがせきあげてきたのか、それとも沖田総司の優しさについ感傷が誘われたのか。
歳三は泣いている。
机へつっ伏せた。
沖田は、じっと天井を見つめていた。
(青春はおわった。――)
そんなおもいであった。京は、新選組隊士のそれぞれにとって、永遠に青春の墓地になろう。この都にすべての情熱の思い出を、いま埋めようとしている。
歳三の歔欷《きよき》はやまない。
[#改ページ]
伏見の歳三
伏見。――
人家七千軒の宿駅である。
京から伏見街道を南へ三里、夏は真昼でも蚊のひどい町だ。街道をくだってこの宿場に入ると、最初が千本町《せんぼんちよう》。ついで、
鳥居町
玄蕃町
とつづき、やがて、木戸門がある。
その木戸門をくぐった鍋島町に、家康以来二百数十年、徳川の権威を誇ってきた伏見奉行所の宏壮な建物がある。維新後、兵営になったほどのひろい敷地が、灰色の練塀でかこまれている。
近藤、歳三らがこの伏見奉行所に移って、
「新選組本陣」
の関札をかかげたときは、隊士はわずかに六、七十名に減少していた。歳三の予想したとおり、あの夜、時勢の変化をみてついに屯営に帰らない者が多かったのである。
幕軍主力は大坂にいる。京の薩藩以下の「御所方《ごしよがた》」に対する最前線は伏見奉行所であった。その伏見奉行所をまもる新選組が六、七十人というのは、(ほかに会津藩兵の一部もいたとはいえ)ひどすぎるだろう。
ほかに、大砲が一門。
「これじゃ、仕様がねえよ」
近藤もあきれてしまい、大いそぎで大坂の幕軍幹部、会津藩とかけあい、それらのなかから、腕の立つのをえらんで増強してもらった。
兵力百五十人。
「まあまあ、どうにかこれでかたちがついたことだ」
と、近藤も安堵した。
沖田総司は、新屯営に入っても、寝たっきりであった。
賄方《まかないかた》から運ばれてくる膳の上のものも、ほとんど箸をつけない日が多い。
「総司、食わねえのか」
と、歳三は日に一度は部屋に入ってきては、こわい顔でいった。
ここ一月、沖田の痩せようがめだってきている。
「食わねえと、死ぬぞ」
「ほしくないんです」
「虚労散はのんでいるか」
歳三の生家の家伝薬である。
「ええ、あれをのむと、すこし体に活気が出てくるような気がするんです。気のせいかしれませんけど」
「気のせいじゃない。おれがむかし売りあるいていた薬だ。効く」
「ええ」
微笑《わら》っている。
かつて沖田が率《ひき》いていた一番隊は、二番隊組長の永倉新八の兼務になっていた。
「新八が、早く癒《なお》ってくれないと荷が重くてこまる、といっていたよ」
「そうですか」
うなずいた表情が、もう疲れている。これだけの会話が苦になる、というのはよほど病勢がすすんでいるらしい。
そのうち、長州藩兵が、ぞくぞくと摂津|西宮《にしのみや》ノ浜《はま》に上陸し、京に入りはじめた。
「長州が?」
近藤は、その佐幕的立場から長州をもっともきらっている。近藤が、長州藩兵の西宮上陸をきいておどろいたのも、むりはなかった。長州は、元治《げんじ》元年夏のいわゆる蛤御門ノ変で京を騒がした罪により、幕府が朝廷にせまって、藩主の官位をうばい、恭順、罪を待つ、という立場にある藩である。
それが、朝命もまたずに勝手に兵をうごかし、西宮へ無断上陸したばかりか、京へ入って来つつあるというのだ。
「幕府をなんと心得ているのだ」
と、近藤は、激怒した。
が、すでに京都にある薩摩藩が宮廷工作をして、長州に対する処遇が一変していた。藩主父子の官位が復活されたばかりか、
「入洛して九門を護衛せよ」
という朝命が出ている。
長州人の入洛は元治元年以来、四年ぶりである。もともと京都庶人は長州びいきで、慶応三年十二月十二日長州奇兵隊が堂々入洛してきたときには、京都市民は、そのタス(弾薬箱)の定紋をみて、
「長州様じゃ」
とおどろき、涙を流しておがむ者もあり、
「怖《こわ》や、怖や」
とささやく者もあった。長州軍が入洛した以上、その藩風から推して、もはや戦さはまぬがれぬと京都人はみたのであろう。
この日から毎日のように長州部隊が入洛し、ついに十七日、総大将毛利平六郎(甲斐守)のひきいる主力が摂津|打出浜《うちでのはま》に上陸し、砲車を曳きながら京にむかって移動しはじめた。
こうした長州部隊が、新選組が駐屯する伏見奉行所の門前を、堂々と通過してゆくのである。
「これをゆるしておくのか」
と、近藤は、十八日早暁から、当時まだ二条城に残留していた幕府の大目付永井玄蕃頭|尚志《なおむね》に意見具申するため隊列を組んで出かけて行こうとした。
「もう、よせ」
歳三は、制止した。政治ずきの近藤がいまさら駈けまわったところで、こんな田舎政治家のような男の手におえる事態ではない。将軍慶喜がすでに家康以来の政権を奉還し、しかも王政復古の号令も出ているときである。
「歳、お前は知らねえ。王政復古てのは、すべて薩摩の陰謀なのだ。幕府はしてやられたのだ」
と、近藤は、ききかじってきた政局の内幕を歳三にいうのだが、歳三にはそんなことは興味はなかった。
「近藤さん、もう、談合、周旋、議論の時期じゃねえ」
と歳三はいうのだ。
「戦さで、事を決するんだよ。事態はそこまできている」
「わかっている。おれは永井玄蕃頭にそれをすすめにゆくのだ」
「要らざることさ」
「なに?」
「あんたはこの本陣の総大将だ。うろうろ駈けまわって居ちゃ、隊士がまとまってゆかない。戦さてのは、たったいま始まるかもしれねえんだぞ」
「歳、お前はばかだ」
「ばか?」
「新選組にあって天下の事を知らん。天下の策を知らぬ。戦さの前に策をととのえてこそ、勝つ」
「わかっている。が、われわれは幕軍の一隊にすぎぬ。天下の策は一隊の将がやるべきでなく、大坂にいるお偉方《えらがた》にまかせておけばよい。あんたは、動くな」
が、近藤は出かけた。
白馬に乗り、供は隊士二十名。いずれも新米の隊士である。それが京をめざし、竹田街道を走った。
奉行所に、望楼がある。
ちょうど本願寺の太鼓楼を小さくしたような建造物で、上へあがると、眼の前の御香宮《ごこうのみや》の森、桃山の丘陵、さらには伏見の町並がひと眼でみえた。
その正午、歳三は望楼にのぼった。
眼の下の街道を、これで何梯団目《なんていだんめ》かの長州部隊が通りはじめたからである。
人数は二百人あまり。
異様である。洋服に白帯を巻き、大小をさし、すべて新式のミニエー銃口径十五ミリをかつぎ、指揮官まで銃をもっている。
(カミクズ拾いのようなかっこうをしてやがる)
と歳三はおもった。
しかしそれだけに運動は軽快だろう、とおもいつつ、四年前の元治元年、この街道を攻めのぼってきた長州部隊が、大将は風折烏帽子《かざおりえぼし》に陣羽織、先祖重代の甲冑《かつちゆう》の下には錦の直垂《ひたたれ》を着、従う者はすべて戦国風の具足をつけ、火器といえば火縄銃ばかりであったことをおもうと、今昔《こんじやく》のおもいにたえなかった。
(あれから、四年か)
わずか、四年である。しかし長州の軍備は一変した。この攘夷主義、西洋ぎらいの長州藩が、幕府から第一次、第二次征伐をうけているあいだに、藩の軍制を必要上、洋式に切りかえた。京都の薩摩、土佐の部隊も、この長州とおなじ装備である。
(どうやら、世界が変わってきている――)
歳三は、眼のさめるおもいで、かれらの軍容を見おろしていた。
砲車が、ごろごろと曳かれてゆく。
これも、新式の火砲である。四|斤山砲《ポンドさんぽう》というやつだが、砲の内部(砲腔)にはねじがきざまれ、弾丸は、千メートル以上も飛ぶ。
それにひきかえ、新選組がもっているたった一門の大砲は、江戸火砲製造所でつくった国産品で、砲腔がつるつるのやつであり、有効射程は七百メートル程度であった。
これら長州兵の様子とくらべると、幕軍の装備は、四年前の長州とおなじであった。
幕府歩兵隊こそフランス式ではあるが、旗本の諸隊、会津以下の諸藩兵は、ほとんど日本式で、刀槍、火縄銃を主力武器とし、わずかに持っている洋式銃も、オランダ式ゲーベル銃という、照尺もついていない粗末な旧式銃である。
(勝てるかねえ)
が、兵力は、幕府のほうが、おそらく十倍を越すだろう。
(人数で押せば勝てる)
と、歳三はおもいかえした。
長州兵が、通りすぎたとき、ぱらぱらと昼の雨が降った。
陽は照っている。
(妙な天気だ)
と、望楼の窓から離れようとしたとき、ふと眼の下の路上で、ぱらりと蛇《じや》の目傘《めがさ》をひらいた女を見た。
(あっ、お雪か)
とおもったとき、すでにその女は、京町通へ抜ける露地に入りこんでいた。
歳三は、駈けおりた。
門をとび出した。
「どうなさいました」
と、門わきで隊士の一人が駈けよってきた。
「いや」
歳三は、にがい顔である。が、その表情のまま路上に突っ立ちつつも、気持が沸き立ってくるのをおさえかね、
「こ、ここで」
と、噴《ふ》きあげるようにいった。
「女を見かけなかったか、いま長州人が通りすぎたあとに。若い……いや、若いといっても中年増《ちゆうどしま》だろう。眉は落していない。蛇の目をさしていた。そういう女が、この門のあたりを通りすぎて、そこの露地へ消えた。それを……」
「土方先生」
隊士は、やはり歳三の挙動に異様さを感じたらしい。
「われわれここで、ずっと長州兵をみていました。しかしそういう女は」
歳三は歩きだしていた。
例の露地。――
入口にはいると、すでに隊士の眼はない。
歳三は暗い露地のなかを、なりふりかまわず走りだした。
京町通に出た。
(いない)
左右は、明るすぎるほどの街路である。
(錯覚であったか)
いや、ぱらりとひらいた傘の音まで、耳に残っている。しかし、考えてみると、あの高い望楼から傘のひらく音が、果してきこえるものだろうか。
お雪はそのころ、京町通の「油桐屋《ゆとうや》」という軒の低い旅籠《はたご》にとまっていた。
歳三の手紙をうけとって以来、お雪はひそかに伏見へ二度もきている。
会うつもりは、なかった。
(あの人は、別れに来なかった。武士らしく会わずに戦場へゆきたい、と書いていた。そのくせ、会えば、自分が変わってしまうかもしれない、とも書いてあった)
このとき、歳三の筆蹟をお雪ははじめてみて、まずおどろいたことには、ひどく女性的な筆ぐせだということだった。
(これが、京の市中を戦慄させた土方歳三なのか)
と思ったのは、その文章であった。女でもこういう綿々とした書きかたはしないであろう。
(決して優しい人ではない。心の温かいひとでもない。しかし、どうであろう。これほど心弱いひとがあるだろうか)
お雪は、その心弱い歳三という男を、よそながらもひと目みて、別れたいとおもった。その想いが、お雪をこの町に来させた。
(もう、いらっしゃらないのかしら)
奉行所の練塀のなかは、数百の人数がいるとは思えないほど、いつも静もっている。
きょうは、朝、近藤が出てゆくのを軒端で見た。
ひるは、長州人の通過を見た。
しかし、歳三の姿だけは、いつも、どこにもなかった。
(縁が、もともと薄いのかもしれない)
お雪は、あきらめはじめている。ながい人生のほんの一時期に、あの男が影のように通りすぎた。それだけの縁なのかもしれない。
歳三は、おそい昼食をとった。
しばらく午睡した。
遠くで銃声がきこえ、背後の山に|こだ《ヽヽ》ま《ヽ》したが、一発きりで、やんだ。歳三は起きた。懐ろの時計が四|字《じ》半をさしている。
「なんだ、いまのは。――」
と、濡れ縁に出た。
ちょうど、庭に永倉新八がいた。
「さあ」
と、永倉がいった。
「どこかの藩が、調練でもやっているのでしょう」
「一発きりの調練かね」
歳三はくびをひねった。
のも、当然だったかもしれない。
この一発の銃声が、今後の新選組の指揮を歳三にとらせる運命になるのである。
その刻限。――
近藤は、前後二十人の隊士を従え、伏見街道を墨染《すみぞめ》にさしかかった。
尾張徳川家の伏見藩邸がある。
そのわきに空家が一軒あり、古びた格子を街道に曝《さら》している。
その格子の間から、鉄砲が一挺、わずかに銃口をのぞかせたのを、隊列の者はたれも気づかない。
空家の屋内には、富山弥兵衛、篠原泰之進、阿部十郎、加納道之助、佐原太郎、といった伊東甲子太郎の残党が待ち伏せていた。
かれらは、朝、近藤が京にむかったことを察知して、復讐の日を今日ときめた。
近藤が、この日、二条城、堀川の妾宅に寄り、二時すぎ、伏見街道にさしかかったことまで、十分に偵知している。
「隊士は二十人いる」
と、篠原はいった。
「ところがどの面をみても、覚えがない。どうやら新参の役立たずばかりだ。鉄砲一発ぶっぱなして斬りこめば逃げ散るだろう……」
油小路の仇を、伏見街道で討つつもりであった。いずれも新選組当時、使い手として鳴らした連中だけに、近藤勢の数をおそれていない。いまは、一同、京都の薩摩藩邸に陣借りしている。
やがて、近藤が、かつかつと馬を打たせてやってきた。
(来た。――)
と、篠原泰之進が、左眼をとじた。指をしぼりつつ、引鉄《ひきがね》をおとした。
轟《ごう》っ、と八匁玉が飛び出した。
弾は、馬上の近藤の右肩に食いこみ、肩胛骨《けんこうこつ》を割った。
「それっ」
と、伊東の残党は路上にとびだした。
近藤は、さすがに落馬せず、鞍に身を伏せ、街道を飛ぶように走りだした。
篠原らはそれを追いつつ、またたくまに隊士二、三人を斬り伏せたが、ついに近藤に太刀をあびせるまでにはいたらなかった。
近藤は、鞍壺に身を沈め、右肩の傷口に手をあてつつ、駈けた。
伏見本陣の門へ駈け入るなり、馬を捨て、玄関に入った。
歳三と、廊下で出あった。
「どうした」
「医者をたのむ。そう。外科だ」
近藤は自室に入り、はじめてころがった。血が畳を濡らしはじめている。
歳三は、永倉らに伏見町の捜索を命じ、医者が来るまでのあいだ、衣類をぬがせ、傷口を焼酎で洗ってやった。
「歳、傷はどんなものだ」
顔が苦痛でゆがんでいる。
「たいしたことはなかろう」
「お前のいうことをきいて、きょうはやめればよかった。骨はどうだ、骨は。骨がやられては、もう剣は使えねえよ」
お雪がそのころ、屯営の前をとおり、ひっそりとまた「油桐屋」にもどった。
[#改ページ]
鳥羽伏見の戦い・その一
数日前、筆者は、歳三がいた伏見奉行所あとを訪ねるために、京都から伏見街道を南下してみた。
途中、
「御香宮《ごこうのみや》」
という広大な神域をもつ神社がある。道路の西側に森をなしている。
そのわずかに南、御香宮よりおそらく十倍はひろかったであろう地域に、
「伏見奉行所」
は、塀をめぐらせていた。
「いま、どうなっています」
と、御香宮の神主さんにきくと、
「団地どすわ」
と、吐きすてるようにいった。
なるほど現場に立ってみると、奉行所があった場所は、ブルドーザーできれいにならされて、星型建築や、羊羹型《ようかんがた》の建物がたっている。
「むかし、といってもほんの最近までですが、この路傍十坪ほどの敷地に、立派な自然石で鳥羽伏見の戦いの幕軍戦死者の慰霊塔がありました。その子孫の人たちがたてたもので、明治以来、私のほうのお宮で、毎年、祭祀をしておりました。いまは取りはらわれ、敷地も売られてしまって跡形もございません」
私は、ぼう然と、団地風景を見渡した。
日本歴史は関ケ原でまがり、さらに鳥羽伏見の戦いでまがった。
その場所にひとかけらの碑もなく、ただ団地は、見渡すかぎり、干し物の列である。
「暑うおすな」
と、偶然、知人から声をかけられた。
伏見の葭島《よしじま》で川魚を獲っているおやじで、京都の老人らしく、錆《さ》びさびとした声を出す。
「|あの《ヽヽ》年《ヽ》は、寒おしたそうどすな」
と、老人は、曾祖母から聞きつたえているはなしをしてくれた。
「お奉行所のそばに、小|ぶな《ヽヽ》などがいる水溜りがおして、そこに暮から正月にかけて一寸ほどの氷が張っていたそうどす」
近藤が墨染《すみぞめ》で狙撃されたのは、その水溜りに厚氷が張っていたであろう慶応三年十二月十八日である。
医者にみせると、意外に重傷で、肩胛骨にひびが入っていた。
「痛むだろう」
と、歳三はいった。
鉛弾《えんだん》が、肉に食い入り、弾がこなごなに砕けたらしく、肩肉が、コブシほどの面積にわたって、ぐさぐさに潰れている。血がとめどもなく出る。白布を一夜に何度か取りかえたが、すぐ真赤になった。
「なあに、大したこたねえ」
近藤は、苦痛に堪えていた。
これだけの傷で落馬しなかったとは、さすがは近藤であると歳三は、舌を巻いた。
「――歳よ」
と、近藤はいった。
「新選組を頼む」
「ああ」
歳三はうなずいた。多摩川べりで遊んだ餓鬼のころからの仲である。ただそのひとことで、指揮権の移譲は済んだ。
そのあと、近藤のからだに高熱が襲った。一週間ほど、食事もろくに摂《と》れず、うとうとと眼を閉じたりあけたりするだけの状態だった。
(膿《う》まねばよいが)
と歳三は案じていたが、血にそろそろ黄色いものがまじりはじめている。
大坂城にいる将軍慶喜からも見舞いの使者がきた。
「大坂へ来い」
という伝言である。伏見にはろくな外科がいない。幸い、大坂城には天下の名医といわれた将軍の侍医松本良順がいる。
松本良順は、近藤より二つ年上の三十六歳。幕府の医官松本家の養子になり、長崎で蘭医ポンペから西洋医術を学び、まだ書生のころ長崎で日本最初の洋式病院(当時長崎養生所という名称。いまの長崎大学医学部の前身である)をたて、医者には惜しいほどの政治力を発揮した。のち幕府侍医となり、法眼《ほうげん》の位をもらった。非常な秀才だが、血の気も多かったため、幕府瓦解後は、各地に転戦した。維新後そのため一時投獄されていたが、新政府がかれを必要としたため出仕し、名を順とあらためた。陸軍軍医制度をつくりあげ、陸軍最初の軍医総監(当時、軍医頭という名称)になった。七十六歳まで生き、晩年、男爵をおくられた。今日われわれの生活とのつながりでは、海水浴を最初に奨励啓蒙した人で、たしか逗子《ずし》だったかにはじめて海水浴場をひらいた。当時の日本人は、海で泳いで遊ぶなどは奇想天外なこととしていた。
この松本良順(順)は、近藤を大坂城で治療してから新選組の非常な後援者となり、いま東京の板橋駅東口にある近藤、土方の連名の碑もこの松本良順の揮毫するところで、晩年まで新選組のことをよく物語った。明治の顕官のなかでは、おそらく唯一の新選組同情者であったといっていいであろう。
近藤は、伏見から幕府の御用船で大坂へ送られることになった。そして病臥中の沖田総司も。
その前夜。――
「歳、お雪というそうだな」
と、不意にいった。この「歳」という男は若いころから、自分の情事について一切口にしたがらない性癖を近藤は知っていたが、この夜はかれのほうから話題にした。
「そう。――雪」
と、歳三は無表情でいった。
「なぜ歳。京を去る夜、そういう女がいるのに、会いに行ってやらなかった」
「|ない《ヽヽ》からね」
歳三は、あわてて手短くいった。
「なにが|ない《ヽヽ》んだ」
と、近藤は鈍感。
「会う必要が、さ」
「必要がないのかね。家の始末とか、女への手当とか」
と、近藤がいう。実をいえば、歳三は手紙を町飛脚にもたせてやるときに、自分の手もとにあった二百両の金子のうち、五十両だけをのこして、お雪にこっそり届けてある。
しかしそれは、歳三の気持のなかでは「手当」ではない。
お雪は歳三の大事な恋人であった。女房、妾、といったような、歳三にいわせれば|俗《ヽ》な存在ではないのである。
「近藤さん。まちがってもらってはこまるがお雪は妾じゃありませんよ」
「ふむ?」
近藤の頭では、理解しにくい。
「妾でないならば、なんだ」
「恋人だ」
と、現代《いま》ならばそういう手軽で便利でわりあい的確な語彙《ごい》があるから、歳三はそう答えたであろう。しかし、
「大事なひとさ、私の。――」
と、そういっただけだった。
「大事なひとなら、なぜ会わない」
「さあ」
歳三は、これ以上この話題をつづけたくない、といったふうのにがい顔をした。女房のほかに妾が三人もある近藤のような型の男には、いっても無駄であろう。
その夜、近藤はひどく気の弱い話をした。
「時勢は変わってしまった」
というのである。いずれ天朝中心の世の中になるのであろう。そのとき、自分は賊軍にはなりたくない、といった。
「近藤さん、もうよせよ」
と、歳三は何度もとめた。体に障《さわ》る。さわるだけではなく、近藤という男の弱点がみえてきて、歳三はいやなのだ。
(このひとはやはり英雄ではある)
と、歳三はおもっていたが、しかしながらそれはあくまでも時流に乗り、勢いに乗ったときだけの英雄である。勢いに乗れば、実力の二倍にも三倍にも能力の発揮できる男なのだ。
が、頽勢《たいせい》によわい。
情勢が自分に非になり、足もとが崩れはじめてくると、近藤は実力以下の人間になる。
(凧《たこ》のようなものだ。順風ならば、風にもちあげられ自分も風に乗り、おだてに乗り、どこまでもあがってゆく大凧だが、しかし一転風がなくなれば地に舞いおちてしまう)
そういう型であって、これは非難すべきものではない。
(しかし)
おれはちがう、と歳三は思っていた。
むしろ頽勢になればなるほど、土方歳三はつよくなる。
本来、風に乗っている凧ではない。
自力で飛んでいる鳥である。
と、自分を歳三は評価していた。すくなくとも、今後そうありたいと思っている。
(おれは翼のつづくかぎりどこまでも飛ぶぞ)
と思っていた。
翌日、近藤と沖田は護送された。
大坂は、幕軍の大拠点である。
かれらは、といってもとくに会津藩、桑名藩という両松平家(藩主は兄弟)が急先鋒であったが、――京都で少年天皇を擁して、ほしいままな策謀を行なっている薩摩藩に対し、もはや開戦せねばおさまらぬほどの憤激をもっていた。
慶喜はすでに将軍職を辞し、家康以来の内大臣の官位も返上し、京からはるか十三里の大坂で、
「謹慎」
しているにもかかわらず、こんどは途方もない難題をもちかけてきた。幕府の直轄領三百万石を朝廷に返上せよ、という。
すでに慶喜は一大名の位置におちた。
そのうえ、何の罪あって所領を返上せよというのであろう。大名が所領を返上せねばならぬというのなら、薩摩も長州も土佐も芸州も、そして三百諸侯も、そろって同列に返上すべきである。が、それは、触れない。
慶喜だけに返上せよという。
無茶である。
理屈もなにもあったものではなく、これには、京都にあって薩摩とともに天子の輔佐をしている、土佐、越前、芸州の諸侯も、猛反対した。
が、公卿の岩倉|具視《ともみ》、薩摩藩周旋方大久保一蔵(利通)が、たった二人で「少数意見」を通そうとして八面六臂《はちめんろつぴ》の活躍をしつつある。
大久保の思案は、あくまで、
「徳川家討滅」
にあった。徳川家をその兵力と権威のまま残しては、薩長が考えている「維新」は打開しないのである。古来、戦争手段によらざる革命というものはありえない。
だから討つ。
討つには、名目が要る。稀世の策謀家だった大久保一蔵は、大坂城の徳川慶喜に領土返上という難題をもってせまり、もし承諾しなければ、朝敵として討つ。そのつもりで対朝廷工作をすすめていた。
が、公卿はその案に冷淡。
土佐侯をはじめとする親朝廷派の諸侯も、薩摩方式の「革命」には反対である。おそらく、当時、全国の武士に世論調査をしても、その九割九分までは、むしろ、土佐案か会津藩の徳川家温存方式に賛成したであろう。なぜならば人間はたれしも現状が急変することを好まない。が革命は少数意見が優勢な武力をにぎった場合に成立するものだ。世論、もしくはいわゆる正論、などは、革命をする側にとっては屁のようなものである。
その|悪例《ヽヽ》は、徳川家の祖・家康自身が残している。二百数十年前、すでに大坂で七十余万石の大名の位置に堕《お》ちていた豊臣家をほろぼすために、あらゆる無理難題を思いついては押しつけ、ついに、豊臣家が起たざるを得ないようにして大坂冬ノ陣、夏ノ陣をおこし、ついに討滅してしまった。
その宿命の城に、徳川家最後の将軍慶喜がいる。
慶喜は、知識人である。水戸家から出たために、尊王論者でもあった。かれは、後世、朝敵の名をのこすことを恐れた。慶喜がもし家康、またはそれ以前の英雄ならば、幕府の軍事力をあげて抗戦したであろう。慶喜の不幸は、水戸史観の徒であるということであった。水戸史観は、史上の英傑を「朝敵」と「忠臣」に分類した史学である。朝敵にはなりたくなかったであろう。
それが、慶喜の態度を弱くした。
が、会津藩と一部の幕臣は強硬である。薩摩討つべし、と慶喜にせまった。
ついに、
「討薩表《とうさつひよう》」
をかかげ、天子に強訴《ごうそ》する、というかたちをとって大軍を京都に進めることになった。
幕府側は、薩摩側の挑戦にみごとに乗ったのである。その先例は、豊臣秀頼を挑発してほろぼした家康にある。
幕軍(正確には徳川軍)は、慶応三年十二月の暮、老中格松平|正質《まさただ》を総督として、諸隊を部署した。
その予備隊は数万。進撃部隊は一万六千四百人という大軍であった。
――これを迎えうつ京都側は。
兵力いまだにわからないが、おそらく五千人はなかったであろう。
兵数からみれば、幕軍のがわが、圧倒的に優勢である。
「この戦さは勝つ」
と歳三は信じた。
「いいか、諸君。――」
と、歳三は隊士を集めていった。
「おらァ、子供のときからずいぶんと喧嘩をしてきた。喧嘩てのは、おっぱじめるとき、すでにわが命ァない、と思うことだ。死んだ、と思いこむことだ。そうすれば勝つ」
が、内心、
(勝てるかな)
という疑惧がある。この疑惧のたった一つの理由は、慶喜という人物である。
幕軍が、討薩表(陳情書)をかかげて大坂を出発するというのはいいが、その陣頭になぜ慶喜が立たない。
慶喜は大坂城に腰をすえたままである。しかも姿勢はおよそ戦闘的ではなく、婦女子のように|恭順《ヽヽ》しているだけではないか。
(わるい卦《け》だよ)
とおもうのだ。
大坂夏ノ陣の軍談は、歳三は諳《そら》んずるほどにおぼえている。
総大将の豊臣秀頼は、ついに一歩も大坂城を出なかった。四天王寺方面で難戦苦闘している真田幸村は、何度か息子の大助を使者にして、
「御大将ご出馬あれ」
と、懇請した。大将が出れば、士卒はふるい、倍の力を出すものである。が、秀頼は、敵の家康が、七十余歳の老齢で駿府城からはるばると野戦軍の陣頭に立ってやってきているのに、ついに出なかった。
(それに似ている)
ところも、大坂城。
(わるい卦だ)
とおもったのは、それである。
歳三は、毎日、望楼にのぼっている。
この奉行所の北隣り、といっていいほど眼と鼻のむこうに、御香宮があるのだ。
そこに薩摩兵が屯営している。藩主の縁族島津式部を司令官とし、兵力八百。
参謀は、吉井|友実《ともざね》(通称幸輔。のち枢密顧問官、伯爵)である。
この幸輔を、歳三も知っている。西郷、大久保につぐ薩摩藩の切れ者で、早くから侮幕、倒幕運動をやっていた男だ。
(幸輔を斬っておけばよかった)
歳三は、そう思った。が、幕府、会津藩の外交方針として、薩摩派をあくまでも刺戟しないようにしてきたため、ついに斬れなかった。
開戦となれば、まっさきにこの御香宮の薩摩隊八百と交戦することになるだろう。
新選組は百五十名。
ほかに、この奉行所に同宿している幕軍としては、城《じよう》和泉守がひきいる「幕府歩兵」千人がいる。
みな、|だん《ヽヽ》ぶく《ヽヽ》ろ《ヽ》を着て、洋式銃をもち、仏式調練をうけた連中である。
しかし、あてにはならない。
江戸、大坂の庶人から募集した連中で、やくざ者が多く、平素は民家に押し入って物を掠《かす》めたり、娘を犯したりして威張りちらしているが、いったん戦さになればどうであろう。
(たよるは自力、と思え)
と、歳三はそう覚悟している。新選組、それもしぼってみれば、江戸から京都にかけて苦楽を共にした二十人内外が、おそらく奮迅のはたらきをするであろう。
(いつ、はじまるか)
歳三は本来、眼ばかり光った土色の顔の男だが、ここ数日来、ひどく血色がいい。
生得《しようとく》の喧嘩ずきなのだ。
それに、たとえ、一戦二戦に敗れても、このさき百年でも喧嘩をつづけてやるはらはある。
(いまにみろ)
歳三は、ふしぎと心がおどった。どういうことであろう、――自分の人生はこれからだ、というえたいの知れぬ喜悦がわきあがってくるのである。多摩川べりで喧嘩にあけくれをしていた少年の歳三が、いま歴史的な大喧嘩をやろうとしている。
その昂奮かもしれない。
やがて暮も押しつまり、年が明けた。
明治元年。
[#改ページ]
鳥羽伏見の戦い・その二
その元旦、歳三は、甲冑陣羽織といったものものしい戎装《じゆうそう》のまま、終日濡れ縁にすわっていた。眼の前は、白洲《しらす》である。急にあたりがひえびえとしてきた。
(暮れやがった)
陽が樗《おうち》の老樹に落ちてゆく。史上、第二の戦国時代といっていい「戊辰《ぼしん》」の年の第一日が暮れた。
「あっはは、きょうも暮れやがったか」
歳三は、気味のわるいほど機嫌がいい。
「歳、暮れたのがどうした」
と訊きかえすであろう近藤はもうそばにいないのである。近藤とともに大坂に後送された沖田総司がもしここにおれば、
「土方さんは喧嘩のために生きているのですか」
とまぜっかえすところであろう。歳三はじれるような気持で、開戦を待ちかねていた。
しかし、元旦は無事に暮れた。
二日も無事。
しかしこの日は、多少の変化があった。会津の先遣隊三百人が大坂から船でやってきて、伏見の東本願寺別院に入ったのである。
その使番《つかいばん》が、伏見奉行所の新選組にあいさつにきた。
「主力は、あす三日にこのあたりに到着するでしょう」
と、使番はいった。
(戦さは、あすだな)
歳三は、地図をみている。
大坂の方角から京に入る街道は、鳥羽街道(大坂街道・ほぼ現在の京阪国道)、竹田街道、伏見街道の三道がある。使番のはなしでは、この三道をひた押しに押して京へ入るということであった。
当然、伏見から鳥羽にかけて東西に布陣している京方の薩長土の諸隊と衝突する。
(面白え)
歳三は、じっとしていられなくなって、この日も望楼にのぼった。
風が身を切るようにつめたい。
歳三は、フランス製の望遠鏡をとりだして予定戦場を遠望した。
さすがに望遠鏡では見えないが、薩軍主力五百人が京都の東寺《とうじ》にあることは諜報でわかっていた。東寺からまっすぐに南下しているのが、大坂街道(鳥羽街道)である。薩摩藩はこの街道をおさえている。その前哨部隊二百五十人は下鳥羽村小枝にまで南下して陣を布いていた。
砲は八門。
二百五十人の部隊に火砲が八門というのは日本戦史上、かつてない贅沢さである。薩英戦争以来、極端に砲兵重視主義になった薩摩藩の戦術思想のあらわれというべきであろう。この前哨陣地の隊長は薩摩藩士野津|鎮雄《しずお》。その弟|道貫《みちつら》も配属されている。のちに日露戦役で第四軍司令官となり、勇猛をうたわれた人物だ。元帥、侯爵。
(しかし人数がすくなすぎる)
と歳三。
さらに望遠鏡を東に転じて、足もとの伏見の市街地をみた。
伏見というのは京風の都市計画でできた町で、道路が碁盤の目になっており、人家はびっしりつまっている。ここでは、日本戦史では類のすくない市街戦になろう。市街戦は新選組の得意とするところであった。
つい目と鼻のさきの御香宮が薩軍屯所で、ここに八百人。
その伏見街道ぞいの背後には長州軍千人が屯集し、主将は毛利|内匠《たくみ》。参謀は長州藩士山田|顕義《あきよし》(維新後陸軍少将になったが、のち行政家に転じ、内務卿・司法大臣などを歴任、伯爵)、諸隊長のなかにはのちの三浦|梧楼《ごろう》(観樹)などがいる。
竹田街道には土佐藩兵百余人。その予備隊として一個大隊が背後にあり、大隊長は谷|干城《たてき》(のちの陸軍中将で西南戦争における熊本鎮台司令官として知らる。子爵)、中隊長には、のち日清戦争で旅順城を一夜で陥落させた「独眼竜将軍」山地|元治《もとはる》がいる。
これら伏見部隊が、歳三の正面の敵になるであろう。
(存外、鳥羽方面にくらべて大砲が少ねえ)
と、歳三は観察した。
(これは、勝つ)
たれがみてもそう思ったであろう。京都の薩長土三藩の兵は、大坂の幕軍の可動兵力からみれば、八分の一にもあたらない。
この日、伏見の新選組では、「誠」の隊旗のほかに日章旗を立てた。
幕軍全体の隊旗である。というよりも幕軍のほうが、国際的立場からみれば(大政奉還したとはいえ)日本の政府軍であるというあたまがあったのであろう。これは親幕派のフランス公使の入れ智恵であったかとおもわれる。
薩長土は、まだ「官軍」にはなっていなかった。なぜならば御所に詰めている公卿、諸侯のほとんどは、薩長の対徳川強硬策に反対で、もし戦闘がおこれば、それは薩長の私闘であって京都朝廷は関知しないという肚でいる。公卿たちは、十中八九、幕軍が勝つとみていた。勝てば、幕軍が官軍になる(薩長の首脳部でさえ勝てるとは確信していなかった。もし敗けたばあい、少年天子を擁して山陰道に走り、中国、西国の外様《とざま》大名の蹶起を待つつもりであった。薩摩藩の首脳部のひとり吉井幸輔も「薩長の存亡、何ぞ論ずるに足らんや」といっている。もはや薩長にとっては必死の賭博といってよかろう)。
三日。――
運命の日である。
この日、前夜来大坂城を進発した会津藩兵はぞくぞくと伏見に到着し、伏見奉行所に入った。
歳三はそれを門前でむかえた。
「やあ、土方さん」
と肩をたたいたのは、隊長の林権助老人である。このとき六十三。顔が赤く、灰色のまゆが、ちぢれている。
林家は代々権助を世襲する会津家中の名家で、権助|安定《やすさだ》は若いころから武骨で通った名物男であった。会津藩が京都守護職を命ぜられてからずっと大砲奉行をおおせつかってきている。
歳三がかつて、
「新選組にも大砲を数門よこせ」
と会津藩に折衝したとき、あいだに立った藩の公用方の外島機兵衛がだいぶこまったが、林権助が、
「ああ、一つ進ぜる」
と無造作にくれた。
その後、何度か、この老人と黒谷の会津本陣で酒を汲みかわし、権助も歳三をひどく気に入ったようであった。
権助、酒は、あびるほど飲む。
「あんたは感心じゃ」
と、権助は歳三をほめたことがある。
「飲んでも、天下国家を論ぜぬところがおもしろい」
ほめたのか、どうか。――ただそのあとで、
「わしと同じじゃ」
とつけくわえた。武弁であることに徹底しようとしている老人である。
酔っても、芸はなかった。ただ、芸とはいえないがときに、
「|遊び《ヽヽ》をやりまする」
と幼童の声を真似る。
「|遊び《ヽヽ》」とは、会津藩の上士の児童のあいだにある一種の社交団体で、六、七歳になるとこの「遊び」という団体に入る。
会津藩の上士は、約八百軒である。これを地域によって八組の|遊び《ヽヽ》団体にわけ、九歳の児童を最年長としていた。
かれらは午前中は寺子屋に通い、午後はどこかの家にあつまる。
ここで、年齢順にならび、最年長の九歳の早生れの者が座長となり、
「これからお話をいたします」
と正座し、「遊び」の心得方をのべる。
一、年長者のいうことは聴かねばなりませぬ。
二、年長者にはおじぎをしなければなりませぬ。
三、うそを言うてはなりませぬ。
四、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。
五、弱い者をいじめてはなりませぬ。
六、戸外で物を食べてはなりませぬ。
七、戸外で婦人と言葉を交してはなりませぬ。
権助は、酔うと童心にかえるたちなのか、これを高唱して子供のころのまねをするのだ。現在《いま》なら酒席で童謡をうたうようなものであろう。それだけが酒席の芸という男である。
槍術、剣術の免許者で、とくに会津の軍学である長沼流にあかるく、調練の指揮をとらせると無双にうまかった。
だから会津藩も、こんどの伏見方面の指揮をこの六十三歳の老人にとらせることになったのであろう。
林部隊の砲は、三門である。ごろごろと車輪をひびかせつつ、奉行所の門に入った。
「土方さん、形勢はどうです」
と、林権助は、あごを北へしゃくった。薩長の陣地の配置をきいていたのである。
「あとで望楼へお伴しましょう」
と歳三はまず手製の地図をひろげた。
権助は驚嘆して、
「ほう、ほう」
と、子供のように眼をかがやかせた。
「この地図は、どなたが作ったのです」
「私ですよ」
と、歳三はいった。この男は、多摩川べりで喧嘩をしていたころから、かならず地形偵察をし、地図を作ってからやった。たれに教えられた軍学でもない。歳三が、喧嘩をかさねてゆくうちに自得をしたものである。
「これは土方流の軍学じゃな」
と、長沼流の権助は咽喉を鳴らした。うれしいときの老人のくせである。
歳三の地図は精密なものだ。このあたりを十分踏査して描き、諜報その他によって得た敵の配置を、克明にかき入れてある。
「これで戦さをなさるのか」
「いや、この敵の配置は、たったいま現在のものです。もう一刻たてばどう変化するかわかりません。喧嘩の前には忘れますよ」
と、権助の見ている前で破り、そばの火鉢の中にほうりこんだ。
ぼっ、と燃えた。
敵情は変化する、とらわれない、というつもりであろう。
「土方流ですな」
権助は、また|のど《ヽヽ》を鳴らした。自分と一緒に戦さをする男を、ひどく気に入っている。
「土方さん、あんたとわしが手痛く戦さをすれば、向うところ敵なしですよ」
「一献《いつこん》、汲みますか」
「いや、酒は勝ってからです。また例の会津幼童の|遊び《ヽヽ》を聴かせましょう」
二人は、一緒に昼食をとった。
そのあと、望楼にのぼった。
「ごらんなさい」
と、歳三は足もとを指さした。ほんの足もとの近さである、御香宮は。
そこに、薩軍の本拠がある。奉行所の北塀とは二十メートルほどの距離であろう。
「土方さん、変わった」
と、権助は首をつきだした。
「あんたの地図とは、もうちがっている。薩軍はふえている」
だから歳三は地図を破った。敵というものは、どう変化するかわからない。
歳三は望遠鏡でのぞいた。
なるほど、薩摩軍は、ふえている。
会津の林隊による奉行所兵力の増強に、敏感に対応したのである。
御香宮の東側に、小さな丘陵がある。土地では竜雲寺山とよんでいたが、山というほどの高地ではない。
そこに薩摩藩の砲兵陣地がある。それがほぼ二倍に増強されているのである。
増援された砲兵隊長は、薩摩藩第二砲隊の隊長大山弥助であった。のちの日露戦争の満州軍総司令官大山|巌《いわお》で、当時二十七歳。早くから江戸に出て砲術を学び、薩英戦争にも砲兵小隊長として参加した。冗談のすきな若者で、
「また大山が冗談《チヤリ》云う」
と家中で一種の人気者だったが、この日、京都から伏見へと急行するあいだ、ほとんど口をきかなかった。
竜雲寺山に四斤野砲をひっぱりあげると、すぐ放列《ほうれつ》を布いた。
眼下が、伏見の奉行所である。でたらめに撃っても、弾丸はことごとく命中するであろう。
「あの竜雲寺山は」
と、林権助はいった。
「はじめ、彦根藩の守備陣地になっていたのではないですか」
「そうです」
と、歳三はいった。
「彦根藩の陣地ですよ。しかしいつのまにか薩摩藩に通じ、陣地をひきはらって薩摩の砲兵を入れてしまった」
「彦根の井伊といえば」
云わずと知れている。家康以来、徳川軍の先鋒ときまっていた。家は譜代大名の筆頭で幕閣の大老を出す家格である。
「それが寝返ったか」
「愚痴」
と歳三はいった。
「いわぬことです。それよりも、あの山に砲を置かれては、二階から石をおとされるようなものだ。開戦となれば、会津の砲ですぐあいつをつぶしてくれますか」
「いかにも」
権助には戦国武者の風貌がある。げんにその老体を、先祖重代の甲冑で鎧《よろ》っていた。
二人は、望楼をおりた。時刻がやや移った。
そのころ、西のほう大坂街道(鳥羽街道)では、おびただしい人数の幕軍が北上しつつあった。
「討薩表」を所持した慶喜代理の幕軍大目付滝川|播磨守《はりまのかみ》を「護衛」する、という名目の部隊が先鋒で、幕府仏式歩兵二大隊(七百人)砲四門、佐々木唯三郎が率いる見廻組二百名、という兵力である。さらにやや間隔をひらいて後続の幕軍主力が山崎にまできていた。
この滝川播磨守の先鋒が、鳥羽街道を北進して鳥羽の四ツ塚まできた。
四ツ塚には、薩摩兵が陣地をかまえ、関門をつくっている。
幕軍は使者を出し、まず関門の通過方を請うた。
薩摩の軍監は、椎原《しいはら》小弥太である。ほかに一名をつれただけで、大胆にも路上を幕軍にむかって歩き出した。
「貴下は何者だ」
と、幕軍の滝川播磨守は馬上で高飛車にいったという。世が世ならこちらは幕府の大目付、相手は陪臣にすぎない。
「ここの関守でごわす」
と、椎原小弥太は幕軍に囲まれながら泰然と答えた。
あとは、通せ、通さぬの押し問答である。
(問答無用)
と、幕軍は思ったのであろう。
椎原との交渉中、歩兵指図役の石川百平はひそかに砲隊のもとに走って、
――薩軍を撃て。
と命じた。
なにぶん、行軍中の砲である。弾《たま》を装填《そうてん》し車輪を運動させて、まさに砲口を北方にむけようとした。
そのとき、薩軍の砲兵陣地のほうがいちはやく火を噴いた。砲兵指揮官野津鎮雄の独断による射撃命令である。
弾は飛んで、運動中の幕軍の砲一門の砲架に命中し、轟然と炸裂《さくれつ》した。
砲架は粉砕され、その砲側にあった歩兵指図役石川百平、大河原|★[#金+辰]蔵《しんぞう》の二人は肉片になって飛び散った。
この野津の一弾が、鳥羽伏見の戦い、さらにそれにつづく戊辰戦乱の第一弾になった。このとき、午後五時ごろである。すでに陽は暮れようとしている。
この砲声、さらにつづく激しい小銃の射撃戦の音は、すぐ東方の伏見に聞こえた。
「やった」
と、林権助、すばやく奉行所の北方に構築してある柵門《さくもん》をひらき、砲を進出させ、初一発を薩摩の竜雲寺山の砲兵陣地に撃ちこんだ。それにつれて後門を守っている新選組百五十人が路上に突出しようとしたが、歳三は押しとどめ、
「まあ、首途《かどで》の祝い酒を汲め」
と、用意の酒樽の鏡をぬいた、という伝説が土地に残っている。
みな、|ひし《ヽヽ》ゃく《ヽヽ》をまわして酒をのみ、全員が飲みきらぬうちに、御香宮と竜雲寺山の二カ所から撃ちだす薩摩の砲弾がやつぎばやに落下してきて、あちこちの屋根、庇《ひさし》を粉砕しはじめた。
「いまは」
と、はやろうとする一同を歳三は再びおしとどめ、
「二発や三発の砲弾に何ができる。酒宴の花火だとおもうことだ」
と全員が汲みおわるまで隊列を鎮め、やがて、
「二番隊進めっ」
と、雷のような声を発した。二番隊組長は、永倉新八である。島田魁、伊藤鉄五郎、中村小二郎、田村太二郎、竹内元三郎ら十八人である。
「進め」
といっても、前は自陣の奉行所の塀。
それを永倉らは、乗りこえ乗りこえして、路上にとびおりた。
[#改ページ]
鳥羽伏見の戦い・その三
最後に歳三、
「やっ」
と土塀の上にとびあがり、その屋根瓦の上にあぐらをかいた。
ぴっ
ぴっ
と、小銃弾が耳もとをかすめた。
奉行所内部に待機している隊士らは、歳三の無謀におどろき、
「副長、なにをなさるのです。薩長の射撃の標的になるつもりですか」
「土方さん」
原田左之助などは、のびあがって歳三の腰帯をつかみ、
「死ぬつもりかよ。あんたまでが弾にあたっちゃ、新選組はどうなる」
「原田君」
歳三は、路上を駈け出してゆく永倉新八ら十八人の二番隊のほうをあごでしゃくりながら、
「あいつらも弾の中にいる」
といった。この男の例の憎体《にくてい》な、梃子《てこ》でも動かぬ面構《つらがま》えである。
(勝手にしろ)
と、原田も、手をはなした。
歳三は大あぐら。
(芝居さ)
と思っている。喧嘩とは、命を張った大芝居なのだ。歳三の両眼が見ていればこそ二番隊の決死隊も働き甲斐があるし、構内で待機中の連中も、
(この将のためなら)
と思うはずだ。
事実、歳三もただの男ではない。うまれつきの喧嘩師の上に、ここ数年、文字どおり白刃の林をくぐってきている。
武士の虚栄は、死だ。
その虚栄が、骨の|ずい《ヽヽ》まで浸みとおり、血肉をつくり、それが歳三のふてぶてしい|つら《ヽヽ》を作りあげているようなところがある。
と、瓦が割れた。
歳三は、例の憎体面《にくていづら》のままである。顔色を変えるような「愛嬌」がこの男にはない。愛嬌といえばどういう種類の愛嬌も歳三にはなかった。
おかしなことに弾もこの不愛想な男をいやがるのか、すべて避けて飛んでゆく。
(おれにゃあたらねえ)
喧嘩師特有の自信である。歳三の尻は、ずしりと土塀の屋根にすわっている。
一方、路上の永倉新八らの抜刀隊は、惨烈な状態になっていた。
新選組の担当正面は、通称指月庵の森といわれている疎林で、そこに薩長の兵が、奇妙な塁をかまえている。
民家から徴発した畳を積みあげ、それを胸壁がわりにして銃をのぞかせている。
林の中には畳の胸壁が、あちこち巧妙に配置されて、たとえ陣地内に斬りこまれても、死角というものがない。
一つの胸壁の銃兵を斬り殺しても、他の胸壁からたちまち突入者はやられてしまう。一夜造りの野戦陣地としては、じつにうまいものだった。長州藩の指導によるという。長州藩は、幕府の長州征伐を受けたおかげで、野戦攻城の経験が豊富になっていた。
奉行所からその陣地まで、わずか三十メートルたらずである。
歳三は、永倉ら剣術精練の士をえらんで、
「斬りこめ」
と命ずる一方、新選組がもっている一門の大砲を間断なく射撃させて、援護した。
永倉らは、白刃をふるって駈けた。
必死に駈けた。
「駈けろ」
塀の上の歳三は怒号した。駈けねば敵陣へたどりつくまでに撃たれる。
「傘が無え、傘が」
と、原田左之助が塀の上に首だけ出していった。
「なんの傘だ」
と、歳三。
「弾よけの傘がよ。雨ならカラカサ一本でよけられるが、弾はそうはいかねえ」
路上で、ばたばた隊士が斃れた。
弾をくらうと体が跳ねあがって倒れる。どさっと地に叩きつけられる音が、ここまできこえてくるような気がした。
永倉が、松林に躍りこんだ。つづいて、五人、六人と躍りこんだが、みなそれぞれ松を一本ずつ抱えたまま、身動きが出来ない。動けば諸所方々の畳の塁から撃たれるのだ。
それでも永倉はとび出そうとしている。
「永倉、待てっ。動くんじゃねえ」
と、歳三はどなった。
怒鳴ると、構内の原田をふりかえり、
「君の隊から十五人選ぶんだ」
といった。
原田はすぐ選抜し、高さ二間の土塀をつぎつぎと乗りこえて路上にとび出した。
歳三もとびおりた。
「おれにつづけ」
と、駈けながら二尺八寸和泉守兼定をひきぬいた。抜いた拍子に、刀身の物打《ものうち》にぴしりと弾があたって跳ねた。
「駈けろ、駈けるんだ」
駈けるのが戦さ、といった戦闘で、話にもなにもならぬ。
弾が、雨のようにやって来る。その間、五足《いつあし》ほど駈けるごとに、御香宮から撃ち出している薩摩砲兵の弾が、
どかん
どかん
と路上で炸裂した。弾体に霰弾《さんだん》が詰まっている砲弾だから、はじけるとそこここに血煙が立った。
歳三はやっと松林にとびこみ、一本の松を楯にとった。
ふりかえると、路上の死体はすでに十二。
「みな、飛び出すな」
と、歳三はいった。
夜を待つのだ。暮れきってしまうのに、あと十分も待てばいいだろう。
夜戦で斬る。
白兵となれば天下に響いた新選組である。
(死体の山を築いてやる)
歳三には自信がある。
奉行所表門。
このほうは、奉行所を要塞とする幕軍の主力で、例の林権助老人を隊長とする会津兵である。
権助老人は砲三門をもって、まず竜雲寺高地の薩摩藩砲兵陣地を射撃させた。
が、一発撃つごとに、十発落下してくるようなあんばいで、火力ではなんともならず、しかも眼前二十メートルの御香宮の塀から、薩軍の銃隊が乱射してくる。
「こっちも鉄砲、鉄砲」
と、権助老人は会津の銃隊を督励するが、なにぶん火縄銃が多い。
操作におそろしく時間がかかるうえに、有効射程がせいぜい一丁ほどのものだ。
薩長兵は、ミニエー銃で装備している。当時、薩摩藩では、国許と京都藩邸に工作機械が据えられており、ほとんどの銃は、藩の製造によるものである。それらの銃は、長州軍にも無償で渡されていた。性能も外国製にほとんど劣らない。
大砲なども、いま竜雲寺高地の砲兵陣地を指揮している大山弥助が、洋式野砲をみずから改造して、
「弥助砲」
というようなものまで作っている。
当時、藩兵の精強さは、会津、薩摩をもって天下最強といわれたものだが、その近代化の点ではくらべものにならない。
会津の戦法は、依然として古色蒼然たる長沼流である。戦国時代からなにほども進歩していない。
その新旧が激突したのだ。
権助はついに、三門の会津砲を奉行所東端の路上にひきだし、仰角をもって、竜雲寺高地に射ちあげた。
砲弾はほとんど、松林にあたって炸裂し、かんじんの敵陣地がつぶれない。
もっともそれでも多少の効果があり、その破片が第二砲隊長大山弥助の耳たぶを傷つけた。ただし耳たぶだけのことである。薩摩砲兵の射撃は、いよいよ活溌であった。
御香宮に籠っていた薩摩の銃隊も、路上、軒下、小祠などに散開してじりじりと南にむかって押しはじめた。
権助老人、路上で指揮し、
「もはや斬り込みじゃ」
と、刀槍隊を叱咤して何度か突撃したが、十メートルも進まぬうちに先鋒はことごとく銃弾のために死骸になった。
それでも権助、三度まで突撃した。が、前後左右、死屍を作るのみである。
権助、さらに屈しない。
「さあ、もう一度押すぞ」
と長槍をふりあげたとき、同時に三発の銃弾が体をつらぬいた。
どかっ、と尻餅をついた。
立てない。
兵が抱きおこして退らせようとすると、
「触るな」
とはらいのけ、路上にすわったまま、指揮をとった。
夜になった。
歳三は、新選組全員を松林に集結させ、一本の松明に火を点じた。
「いいか、この火がおれだ。この火の進む方角について来い」
松林の中の畳の堡塁群は沈黙している。暗くなったために目標がみえないのだ。
「原田君」
と、歳三は耳うちした。
原田左之助は声が大きい。
歳三にいわれたとおりのことを、松林の中の敵にむかい、腹の底から怒号した。
「聴け、いまから」
と|がな《ヽヽ》っ《ヽ》てから一息入れ、
「新選組千人が斬りこむぞ」
この声は、たしかにききめがあった。
敵は新選組という語感に恐怖を感じた。この松林の敵は、長州の第二歩兵隊が主力である。
やみくもに乱射しはじめた。
「闇夜に鉄砲さ」
歳三はその発火の位置をたしかめ、どっと斬りかかった。
斬った。
歳三ひとりで四人。
原田左之助などは槍が折れるほど闘い、ついに敵は崩れ立った。このとき長州側は、小隊司令宮田半四郎以下死傷二十余名。
敵は北へ逃げた。
北こそ、歳三が襲うべき敵の本陣「御香宮」である。
「つづけ」
と歳三は、左手に松明をかかげ、右手に和泉守兼定をかざして路上を突進した。
奉行所東端まで来た。
会津藩の主力がいる。
「林さんはどうした」
「あれに」
会津兵が指さすと、林権助は甲冑のまま路上にすわっている。
なお大砲の射撃指揮をしているのだ。
「やあ、土方さんか」
権助老人は笑った。
笑っているそばで、砲弾が炸裂したが、権助は顔色も変えない。
「やられたようですな」
「鉄砲玉が」
と、左腕、腰、右膝を指し、
「入っている。あんたはまだかね」
「まあね」
といったとき、銃弾が飛んできて歳三の松明を撃ちとばした。
歳三はゆっくりと拾いながら、
「佐川さん」
と、会津藩別選隊長の佐川官兵衛によびかけた。家中でも勇猛で知られた人物である。
「どうやら敵の大小砲の発砲状態をみてみると、西方の市街地にはあまり人数がいないようだ。ひとつ、市街地へ大迂回し、御香宮の背後にまわって、南北から挟撃しようじゃないですか」
「なるほど」
佐川もはじめて気づいた。敵の弱点攻撃こそ、戦術の眼目である。長沼流にもある。
ただし歳三のは天賦の喧嘩流である。
「やろう」
と、その場で会津藩、幕軍伝習隊の諸隊長をあつめ、趣旨を徹底させた。
先鋒は、新選組である。かつて蛤御門ノ変のとき伏見市街で長州兵と戦った経験があるから歳三は進んで買って出た。
どっと西へ駈け出した。
八丁畷《はつちようなわて》を経て市街地に突入すると、少数の長州兵がいたが、すぐ蹴散らした。
(勝てる)
歳三は、両替町《りようがえまち》通(南北線)の角に立ち、
「伝習隊はこの道を北進してください」
と指示し、さらに西進。
新町通(南北線)へ出た。
「北へ駈けろ」
歳三、突進した。狭い街路を、三列、四列の縦隊になって各種幕兵がつづいた。
が、それも二十メートル。
両側の民家という民家が、いっせいに銃火を噴きあげた。幕兵はばたばたと斃れた。
長州の遊撃隊であった。
「伝習隊は、このまま駈けてください」
と云いのこすと歳三は新選組を指揮して突風のように空家を襲っては長州兵と戦い、一軒ずつたたきつぶしては進んだ。
市街戦、接戦になると、どの隊士もいきいきと働いた。
さらに北へ走って、先着の伝習隊、会津藩兵と合流し、ついに敵の本陣「御香宮」の背後にまわった。
(勝った)
と歳三はふたたび思った。
敵もおどろいたらしい。
薩摩軍はさっそくその精強の徒歩部隊を路上にくりだし、まず射撃戦を展開し、やがてすさまじい白兵戦がおこった。
もう、指揮というものはできない。敵味方ひしめくように路上で戦うのだ。走ってぶちあたったやつが敵ならば斬る。芋の子を洗うような混戦である。
「新選組進め、新選組進め」
と歳三は怒号しながら、異装の人影と見ると斬り、背後をはらい、さらに進んだ。御香宮へ。
塀をのり越えるのだ。
が、そのころ、竜雲寺高地に放列を布いていた大山弥助らの薩軍砲兵は、戦況が意外な方面に移りつつあることに気づき、いそいで砲座を移動しはじめた。
同時に薩軍の銃隊もこの方面に集中しはじめ、戦闘開始以来、最大の火網を張った。
歳三の周囲で、死傷が続出した。
幕軍歩兵、同伝習隊は動揺したが、さすがに会津藩兵は動揺しない。
死屍を乗りこえ、乗りこえして斬り込んでゆく。
(やるなあ)
歳三も感心したが、ただ会津藩兵は敵を斃すとかならず首を斬り、腰にぶらさげるのである。
これには歳三も閉口した。
甲冑の装《よそお》いといい、戦場作法といい、戦法といい、三百年前のそれではないか。
首は重い。
二つも首をぶらさげれば、もう行動はよたよたになってしまうのだ。
歳三は乱戦の最中、そういう会津藩兵をみつけると、
「あんた、首を捨てろ」
とどなるのだが、かれらにはわからない。
そこへゆくとさすがに新選組の白兵戦は軽快そのものであったが、人数はおどろくほど減ってしまっている。
そのうち、伏見戦闘における幕軍の最大の不幸が勃発した。
後方の本陣伏見奉行所の建物が、火の粉を噴きあげて燃えはじめたのである。
たちまち、あたりは真昼のような明るさになり、薩長方からは、歳三ら幕軍の行動が手にとるようにわかってきた。
銃砲火の命中が的確になった。雨のようにそそいだ、といっても誇張ではない。しかも幕軍は狭い路上に密集している。
もはや戦闘でなく、虐殺であった。
歳三はなお路上を疾駆して指揮していたが、このとき、会津藩隊長の佐川官兵衛にいった言葉が、のちのちまで伝わっている。
「佐川さん」
と、歳三はいった。
「どうやらこれからの戦さは、北辰一刀流も天然理心流もないようですなあ」
が、歳三、絶望の言葉ではなかった。
今後は洋式で戦ってやろう、という希望に満ちた言葉だった。
妙な男だ。
笑っていたらしい。
その笑顔を、伏見奉行所の火炎が照らしている。
(おれの真の人生は、この戦場からだ)
歳三は、隊士を集めた。
「みな、いるか」
弾雨のなかで、顔の群れを見た。そこに六十数名が立っている。
原田左之助、永倉新八、斎藤一、結党以来の組長たちの元気な顔があった。
が、故郷から一緒に出てきた天然理心流の兄弟子で六番隊組長井上源三郎の姿がみえない。監察の山崎烝も。
「山崎君は」
「負傷して後送されました」
「あとの諸君は?」
いわずと知れている。鬼籍に入った数、百数十名である。
「よし、この六十人でもう一度、押し返してやろう」
歳三は、どかっとすわった。
その頭上を弾がかすめた。
[#改ページ]
鳥羽伏見の戦い・その四
劇場がそうである。
客席を暗くして舞台の人物群にだけ照明をあてる。
新選組にとって、この戦場はちょうどこのとおりであった。
後方で炎々と燃えさかっている伏見奉行所の猛炎が、街路上の新選組、会津藩兵をして舞台上の人物群にしてしまった。
薩長の陣地は、暗い客席、といった戦術的位置である。自在に銃砲火をあびせることができた。
「ひでえことになりゃがったなあ」
と、歳三は奉行所の猛炎にむかって吐きすてながら、とりあえず隊をまとめて京町四丁目から二丁目にかけての露地々々に隊士をかくして、「照明」から退避した。
この正月三日は、陽暦でいえば一月二十七日である。この日、英国公使館書記官アーネスト・サトーは大坂にいた。この若いきっすいのロンドンっ子については知られすぎている。かれは通訳生として文久二年来日し、のち薩長に接近し、あふれるような機智と的確な時勢眼で、上役のパークス公使をたすけ、一方薩長側にさまざまの助言をした。このアーネスト・サトーの『幕末維新回想記』のこの日の項によると、「一月二十七日の晩、京都の方角に大きな火災がみえた。遠藤(サトーの従者)にきくと、伏見で薩摩とその連合軍が、幕軍と戦っているのだ、という」とある。伏見奉行所の火災は、十三里はなれた大坂から望見できるほどのものであったわけだ。その「照明」の巨大さがわかろうというものである。
「ちえっ、運のわるい。もう五十歩で敵本陣へ斬り込むてえところでこの|ざま《ヽヽ》か」
と、十番隊組長原田左之助は剣を鞘《さや》におさめた。
左之助のいうとおり、奉行所の火事さえなければ、伏見における夜戦は幕軍の勝ちになっていたかもしれない。
いや、この戦闘正面だけでなく鳥羽伏見の戦いそのものが、いかなる国のいかなる名参謀が検討しても、図上戦術に関するかぎり幕軍が勝つべき戦いである。
京都の薩長は、兵力少数である。
予備軍もすくない。手一ぱいに兵を出している。鳥羽と伏見の御香宮の前線がもし崩れれば、退却、天子を擁して京を脱出、再挙、とまで薩軍の首脳部は考えていた。
なるほど、兵器は薩長がすぐれていた。
が、幕軍のほうも、背嚢《はいのう》を背負って完全洋式化したいわゆる「歩兵」をぞくぞく西上させつつある。
その人数も圧倒的に多い。
だが、戦意がなかった。薩長のように必死でなかった。この点も、日本史に封建体制をもたらした関ケ原の合戦に似ている。関ケ原の戦いも図式的にみれば西軍が敗ける戦いではない。人数も多く、戦場における地の利もよかった。ただ西軍に戦意がとぼしく、必死に働いたのは石田三成隊、大谷|吉継《よしつぐ》隊、宇喜多秀家隊ぐらいのものである。
鳥羽伏見の戦いにおける第一日も、必死に戦闘したのは、会津藩と新選組だけであった。しかもそれらは不幸にも、刀槍部隊で洋式部隊ではない。
英国人サトーでさえ幕軍主力を嘲笑している。
「一万の大軍を擁しながら意気地のない連中だ」
と。――英国ははやくから幕臣の腰抜けに見切りをつけ、薩長による日本統一の構想をひそかに後援してきたが、
「自分たちの賭けは裏切られなかった」
と、安堵した。
歳三、――
路上に立っている。東南方の奉行所の猛火が、歳三の姿をくっきりと浮かびあがらせた。
(戦さは勝つ)
と、歳三は信じている。この幕軍最前線の修羅場《しゆらば》さえ死守しておれば、明朝には洋式武装の幕軍歩兵が大挙してやってくるのだ。げんにその先発の幕軍の仏式第七連隊がすでに伏見に入りつつある。
幸い、友軍の会津藩兵は、ひどい旧式装備ながらも、その藩士は、薩摩とならんで日本最強の武士、といわれた本領をみごとに発揮し、例の林権助隊長などは、体に三発の弾をくらいながらも、一歩もひかない。
ところが。
午後八時ごろになって、歳三が伝令として使っていた平隊士野村利八が駈けもどり、
「御味方、退《しりぞ》きつつあります」
と報告した。
「うそだ」
と歳三はどなり、二番隊組長永倉新八らに確認を命じた。
新八は、西へ走った。
走ったが、両替町一丁目付近にいた幕軍第七連隊の一部がいなくなっている。
新八はさらに西へ走り、新町四丁目へ出た。
(いない)
ここに第七連隊が密集していたはずだ。
(どこへ行きゃがったか)
と、新八は狂気のように南へ駈けた。やっと伏見松林院御陵の東角で、第七連隊の最後尾に食いついた。
「そのほうども」
と、永倉新八は血相をかえた。永倉は「大御番組《おおごばんぐみ》」で歴とした旗本である。
「歩兵」などといっても、もともとは江戸、大坂で公募したあぶれ者、中間《ちゆうげん》、火消といった連中だから、永倉が威猛高《いたけだか》になるのは当然なことだ。
「ど、どこへゆくんだ」
「知らねえよ。大将が逃げろ、というから逃げるだけさ」
と、歩兵の一人がそっぽをむいた。永倉はそいつの横っ面を力まかせになぐった。
――あっ。
と、ぶっ倒れたが、根が「兵隊」を志願したというようなあぶれ者である。
「な、なにをしやがる」
と起きあがって、銃をさかさにもち、永倉に打ってかかった。永倉は体《たい》をかわしざま、高蹴りに蹴り倒し、
「新選組の永倉新八を知らんか」
と、どなった。
みな、あっとどよめいた。
そこへ歩兵指図役(幕臣・士官)が駈けつけてきて、
「な、なにか無礼を働きましたか」
と、蒼くなっている。
永倉はそいつの頬げたもぶんなぐり、
「無礼もくそもあるか。第七連隊はどこへ行くときいているのだ」
と、いった。
「た、たいきゃく」
「退却?」
「豊前守《ぶぜんのかみ》様(松平正質・幕軍総督)の御命令です。高瀬川の弥左衛門橋のむこう(横大路村)まで退却します」
「新選組はきいとらんぞ」
「それは足下のご勝手でしょう」
「なにっ」
「われわれは命令で動いている。新選組がどうこうとまでは知らぬ」
ぱっと新八、剣をぬいた。
指図役は逃げた。
偶然、そのとき、新町九丁目あたりにいた長州軍が南下してきて一斉射撃を加えた。
足もとに土煙があがった。
幕府歩兵は算をみだして逃げた。
「ちっ」
永倉は、敵の方向へ走った。
軒々を伝い走りに走り、民家を駈けぬけなどして、やっと新選組の屯集地点にもどった。
「土方さん、歩兵《やつら》は遁《に》げやがったよ」
「ほう」
と、顔色もかえずに感心したのは、歳三の横にいた会津藩隊長の佐川官兵衛である。
「逃げましたか」
ひとごとのようだ。右眼を砲弾の破片でやられ、半顔に白布をぐるりと巻き、真赤に血をにじませている。齢三十八。
官兵衛六百石。のち会津に帰ってから、各地で転戦し、軍事奉行頭取となり、会津落城の寸前には家老になって作戦を掌握し、落城まで戦った。維新後警視庁に奉職し、明治十年の西郷の乱(西南戦争)には警視庁よりぬきの剣客をひきいて「官軍」の巡査隊長となり、戊辰の役のうらみを晴らすべく薩軍にしばしば斬り込みをかけ、ついに戦死した。大砲奉行の林権助とともに、いかにも会津武士らしい男である。
「それにしては」
と、歳三は首をかしげた。
「薩長は追撃をしませんな。追撃する余力がないとみたが、佐川さんどうです」
「土方さん」
と、佐川官兵衛は別なことをいった。
「われわれは踏みとどまりましょう」
「あたりまえですよ」
と、歳三はすぐ負傷者の後送について、会津藩に依頼した。
調べてみると、戦死者は、会津藩、新選組をふくめて三百人。重傷者はほぼ百数十人とわかったから、すぐ看護隊を組織して後送した。
その直後、薩長兵が襲来した。
「斬り込め」
と、歳三は、白刃をふるって京町通を北へ駈けた。新選組六十余人、それに残留した佐川官兵衛指揮の会津藩兵がこれにつづいた。
ばたばたと銃丸で倒れた。
「駈けろ」
敵軍に飛びこむ以外に手がない。
両軍、激突した。すさまじい白兵戦になった。
歳三、飛びちがえては斬り、飛びちがえては斬った。
白刃の乱闘となれば、新選組のお家芸である。
さらに会津の槍隊が穂先をそろえて突入してきた。
薩軍というのは剽悍《ひようかん》だが、新選組のように剣客をそろえているわけではなく、白兵戦でも不馴れであった。それに、薩摩人の特徴で、
「分《ぶ》がわるい」
となると、粘着力がない。下手な戦さでねばるよりも遁《に》げたほうが戦術的にもいい、という合理的な思想が、古来ある。
のちの西南戦争のときも、熊本から西郷軍に参加した肥後人は、薩摩人のこの癖には閉口したという。いったん敗勢になったばあい、あっというまに逃げ、肥後人が気づいたときにはあたりには薩摩兵がたれもいないというほどのすばしこさであった。
この場合も、乱軍のなかにいた薩摩の隊長が、
「退《ひ》くんじゃあ、みんな」
とひと声あげた。そのあとはもう、スポーツといっていいほどのさわやかな逃げ足で散ってしまった。
「追うな」
歳三も隊士の足をとめた。こっちも追撃して敵の主力と衝突するほどの兵力がないのだ。
「退けっ」
両軍退却、といった妙な戦さである。もとの屯集所にもどった。
もどると、幕府総督松平豊前守からの使番がきていた。
「高瀬川の西岸まで退いてほしい」
という。
歳三が訊きただしてみると、いったん退却した幕府歩兵第七連隊は、豊前守の命令で高瀬川西岸にふみとどまり、築造兵(仏式工兵)をして野戦陣地を構築中であるという。
「なんだ、おれは大坂まで逃げたのかとおもった」
と、歳三はあざわらった。
「ご親切だが、新選組と佐川さんの会津兵はここでとどまります」
「しかし、敵の包囲をうけますぞ」
「冗談じゃない。薩長に包囲するだけの人数があれば、第七連隊の退却のときに追尾してあんたなどはいまは生きちゃいませんよ」
「しかし」
「われわれはとどまる」
歳三は使番を追いかえした。
事実、京都の薩長には兵力の余力はまったくなかった。軍資金も同様で、朝廷で重臣の持ち金をかきあつめさせたのが、たった五十両であったという。歴史を転換させた戦いでその勝利側の兵站部《へいたんぶ》に五十両の準備金しかなかったという例は、世界史上まれであろう。そういう相手に対し、旧政府軍であるはずの幕軍がなぜ負けたのか。
ほどなく二人目の使番がきた。
やはり、
「後退せよ」
という。
歳三はばかばかしくなって、
「高瀬川西岸の陣地はできたのかね」
ときいた。
「まだです」
「その築造中を夜襲されたらどうする」
「さあ」
歳三は笑いだした。
「後退しよう。ただ、高瀬川陣地が出来あがるまでわれわれはここで支えている」
急造陣地が完成したのは午前零時すぎで、歳三たちは午前一時すぎ、陣をはらって高瀬川陣地までさがった。
翌四日。
この水郷《すいごう》特有の濃霧の朝で、陽がのぼったとはいえ、数尺むこうもみえなかった。
この気象も、慶長五年九月の関ケ原の合戦がはじまる朝に似ている。
ただ雨は降っていない。そのうえ寒気がひどく、水溜りには厚い氷が張っていた。
「天佑《てんゆう》ともいうべき霧だな」
と、歳三は仮眠から起きあがってつぶやいた。
濃霧のために、敵砲兵が射撃できず沈黙したままなのである。
天佑といったのは、
(時間がかせげる)
と思ったのだ。じつをいうと、大坂から夜を徹して急行軍しつつある幕軍の洋式部隊第十一連隊が予定ではもう到着していいころだった。指揮官は、佐久間|近江守《おうみのかみ》信久であった。幕府の歩兵奉行で、骨柄《こつがら》といい容貌といい、幕臣のなかではめずらしく三河武士らしい豪宕《ごうとう》さをもった男だったという。
佐久間とは別に一個大隊を率いてやってくるはずの歩兵頭《ほへいがしら》窪田備前守|鎮章《しずあき》も、決して弱将ではない。ただかれが率いている大隊は大坂で急募した町人兵で、なかには長州の間者もまじっているといううわさであった。
いや、第十一連隊指揮官佐久間近江守の馬の口取り英太という者は長州の間者であったということが明治後わかった。
午前七時。
これらのフランス士官が訓練した幕兵がぞくぞくと戦場に到着した。
「左之助、鉄砲屋がきたよ」
と、歳三はよろこんだ。
午前八時、霧晴る。
快晴。
たちまち両軍の砲撃戦が、鳥羽伏見の天地にこだましはじめた。
新選組は幕軍十四大隊の洋式火器に援護されつつ、薩軍一部隊のまもる中島村に接近し、白兵突撃を行なって一挙に占領した。
大坂街道では佐久間近江守の第十一連隊が大いに進出して薩長側を圧迫した。
淀山橋方面では、会津部隊の一部白井五郎大夫の隊が砲二門をもって進撃し、ついに薩長兵を潰走せしめ、下鳥羽北端、というほとんど敵陣地にまで進出している。
戦闘第二日目は幕軍の勝利で、この戦況が御所に伝わるや、公卿たちが色をうしなって騒いだという。兵力薄弱の薩長土を「官軍」としたことが軽率だったというのである。
戦闘第三日目の正月五日も快晴。
両軍の勝敗、容易に決しなかったが、幕軍歩兵の指揮官佐久間近江守、窪田備前守が、前日の戦闘で指揮官みずから先頭に立って斬りこんだため、相ついで戦死し、このため幕府の洋式部隊の活動がにぶった。潰走しはじめる隊が多く、会津藩、新選組が、自軍の退却を食いとめるのに必死になった。
淀堤《よどづつみ》を退却する幕府歩兵に、新選組原田左之助と会津藩士松沢水右衛門が剣をぬいてさえぎり、
「なぜ逃げる。戦さは敗けておらんぞ」
とどなったが、ついに支えきれず、
「大砲を置いてゆけ、大砲を」
と、奪いとった。
が、すでに朝廷では薩長土をもって、
「官軍」
とすることを決定し、仁和寺宮《にんなじのみや》が総督として出陣したため、山崎の要塞をまもっていた幕府方の藤堂藩が寝返りをうち、このため幕軍は、挟撃《きようげき》される戦勢となった。それをおそれて、幕軍中最弱の歩兵がまず潰走したのである。
そのうえ、京にあって中立をまもっていた諸藩が、
「錦旗あがる」
という報とともに、薩長の戦線に参加し、それが誇大に幕軍に伝わった。
会津・桑名両藩および新選組は、部分的な戦さではほとんど六分の勝ちをおさめていたが、午後になって、ついに主力の敗走にひきずられた。
この日、歳三はついに三十人にまで減少した隊士を掌握しつつ淀堤千本松に幕軍歩兵指図役をよび、
「最後の一戦さをしよう」
と約束し、剣をふるって路上を突撃した。
しかしついて来る者は、新選組のほかは、会津藩の生き残り林又三郎(権助の子・この路上で戦死)以下数人であったという。
歳三は、大坂へもどった。
敗走兵でごったがえしている大坂では、おどろくべき事実が待っていた。
[#改ページ]
大坂の歳三
とにかく、潰走。
そうにはちがいない。歳三は、無傷の者は淀川べりを徒歩で南下させ、負傷者は三十石船に収容して大坂へくだった。
(敗けたかねえもんだな)
とおもったのは、隊士の貌《かお》つき、肩の姿までかわっている。どうみても敗軍の兵であった。十番隊組長原田左之助のような威勢のいい男までが、槍を杖によりかかるようにして歩く。
歳三は馬からおり、
「左之助、元気を出すんだ。隊士が見ていることをわすれるな」
といった。
左之助は、疲れもしていた。が、平素威勢のいい男だけに、敗け戦さとなると、ぐったりと来るのだろう、――歳三をじろりとみて、
「あんたのようなわけにゃいかねえよ」
といったきり、精《せい》も根《こん》もつきはてたという様子で歩いてゆく。
「みな、大坂城がある」
と、歳三は馬上にもどってはげました。大坂城には、将軍がいる。幕府の無傷の士卒が数万といる。武器もある。
「城は、金城湯池《きんじようとうち》だ。これに拠り、将軍を擁して戦うかぎり、天下の反薩長の諸藩はこぞって立ちあがる」
どうみても勝つ戦さである。なるほど、鳥羽伏見では、実際戦闘したのは、会津藩、新選組、見廻組ぐらいのもので、藤堂藩などは山崎の砲兵陣地を担当しながら、みごとに寝返った。幕府直属の洋式歩兵は、戦うよりも逃げることにいそがしかった。
が、主力は大坂にいる。しかも、城は、秀吉が築いたとはいえ、家康以来西国大名(とくに毛利・島津)の反乱行動にそなえて、保全に保全をかさねてきた大要塞である。
(とうてい、薩長の兵力では陥《おと》せまい)
歳三ならずとも、古今東西のいかなる軍事専門家でもここは楽観するところであろう。
「大坂で、戦さのやりなおしをするんだ」
歳三は、みなを鼓舞した。
歳三はまちがってはいない。
京の官軍の頭痛のたねもここにあった。官軍には、追撃力さえなかった。追撃して戦果を拡大するのが軍の常識であったが、兵数が足りない。
当時、京都で薩長連合軍の作戦に参画していた長州藩士井上|聞多《もんた》(のちの馨《かおる》・侯爵)なども、
「幕兵はかならず大坂城に拠るにちがいない。察するところかれらは、大坂を拠点として兵を四方にのばし、兵庫(神戸)の開港場をおさえて、外国からの武器輸入をはかり、かつ薩長の国モトからの増援部隊の上陸をこばみ、かつ、その優位なる艦隊で瀬戸内海を封鎖するであろう。さすれば京のわれわれは、袋のねずみである。かつ、幕府譜代大名の若州《じやくしゆう》小浜藩兵などは、大津口をおさえてしまう。京の市民の米はおもに近江からきているから、市民は餓死せざるをえぬ。こうなれば、われわれ少数の在京軍は負けである。この上は、いそぎわしは国モトに帰り、国モトの兵をこぞって、山陰、山陽から畿内《きない》へ攻めのぼってくる。薩摩もそうしてもらいたい。その手しかない」
と弁じ、薩摩側も賛成し、国モトの兵がのぼってくるまで、八幡、山崎の洛南の丘陵地に砲台をすえるだけで持久のかたちをとろう、ということに一決した。
歳三の戦況に対する楽観は、当然なことであったのである。
守口までくだってきたときに、西南の天に大坂城の五層の天守閣がみえた。
「みろ」
と、歳三は|むち《ヽヽ》をあげていった。
「あの城があるかぎり、天下はそうやすやすと薩長の手には渡らんぞ」
心境、大坂冬・夏ノ陣の真田幸村のような感懐であったであろう。もっとも幸村のときは、敵は逆に徳川家であったが。
しかし、一軍、惨《さん》として声がない。みな、伏見口で、おそるべき銃火をあびた。薩長軍の元込銃《もとごめじゆう》は、会津藩のサキゴメ銃が一発うつごとに十発うつことができた。会津の火縄銃などは一発弾ごめしているうちに、むこうは二十発をあびせてきた。
(どうやら世の中がかわった)
という実感を、実際に銃火をあびせられて隊士たちは体で知った。単なる敗軍でなく、そういう意識の上での衝撃が大きかった。
(なあに、あんな銃は買えば済む)
歳三だけは、たかをくくっている。
が、幕軍の負傷兵はおびただしいもので、河をつぎつぎとくだってくる者は、どの男も繃帯を真赤にしていた。ほとんどが刀槍による傷ではなく、砲弾、小銃弾による傷で、手や足をもがれた者、|あご《ヽヽ》を破片で噛《か》みとられた者、体に三発もの弾をうちこまれた者など、酸鼻をきわめている。
「それはもう、戦争(鳥羽伏見の戦い)のときは、えらいさわぎでおました。わてらが京橋(大坂)のほうへ逃げていくと、血みどろの幕軍方の侍が、ぎょうさん舟で淀川をおりてきました」と、この当時の目撃者が、その後ながく生きていた。大阪市北区此花町一の稲葉雪枝さんである。百一歳のとき高齢者として市からお祝いを受けたが、その新聞記者が会いにいったときの第一声が「戦争のときは」であったという。彼女は、単に戦争といった。記者は大東亜戦争のことだとおもったが、よくきいてみると、鳥羽伏見の戦いのことであった。
歳三は、新選組宿陣にわりあてられている大坂代官屋敷に入った。天満橋南詰めの東側にあり、堂々たる屋敷である。
「近藤はいますか」
と、代官屋敷の連中にきくと、内本町《うちほんまち》三丁目の御城代下屋敷で、傷療養中だという。
「沖田総司も?」
ときいたが役人はそこまでは知らなかった。
「永倉君、負傷者のことをたのむ」
と云いすて鞍上に腰をおろした。
せまい谷町筋《たにまちすじ》をまっすぐに南下して御城代下屋敷に入り、馬をつないでいると、雨がぽつりと降った。
寒い。
ここ数日来、おもってもみなかったこの平凡な感覚が、はじめて歳三の肌によみがえった。
雨が、ぱらぱらと降った。歳三は、ゆっくりと玄関にむかって歩きだした。疲れた。疲れきっている。うまれてこのかた、これほど重い足を感じたことがなかった。
ふと、
(お雪は、どうしたろう)
とおもった。突拍子もない想念だが、玄関の松のむこうに、ありありとお雪の姿がみえたような気がした。
むろん、幻覚である。
疲れている。
「近藤の部屋はどこです」
と、廊下を歩きながら、幕府の歩兵指図役らしい新品のラシャ服姿の男に聞いた。戦さには出なかった男だろう。
「近藤とは、どこの近藤殿です」
と、ラシャ服は当然な反問をした。
「わからんか。近藤といえば、新選組の近藤にきまっている」
歳三はどなった。むろん、尋常な神経ではない。
歳三は教えられた部屋の紙障子を、カラリとあけた。
近藤が、ひとり寝ていた。
「歳だよ」
と、歳三はにじりによって、枕もとに刀をおいた。
「敗けてきた」
「きいている」
と、近藤は、ひどく力のない眼で、歳三をみあげた。
「ご苦労だった」
「傷はどうだ」
と歳三はそらした。
「肩がまるで動かない。良順(松本)先生はすぐ癒《なお》る、といってくださるのだが、動かねえのが厄介だ。いや、あと一月もすればもとどおりになる、といってくださってはいる」
「では、一月で戦さが出来るな」
「出来るだろう」
歳三はうなずき、手みじかに、戦況、隊士の働き、損害などを語ったあと、
「総司のほうはどうだ」
ときいた。
沖田総司の部屋を訪ねると、ちょうど徳川家侍医松本良順が、枕頭にすわっていた。
「やあ、あんたが土方さんか。私は毎日、近藤さんや、この沖田さんにあんたの名をきいているから、もう百年の知己のような気がする」
とあいさつもなくいきなりいった。齢のころは、近藤よりもすこし上の三十七、八で、眼鼻だちが大きく、医者とは思えないほどの豪毅《ごうき》な顔つきの男である。このあと東北に転戦したり、明治後とくにゆるされてついには軍医総監になるほどの男だから、戦さが好きらしい。
「なあに、鳥羽伏見なんざ、敗け戦さじゃないよ。まあ話をきかせてくれ」
「まあそれはあとにして」
と、沖田の顔をのぞきこんだ。
沖田は微笑している。例の、この男特有の陽がそこだけに射しているような明るい微笑であった。
(が、めっきり痩せやがったな)
「沖田君は、大丈夫さ」
「そうですか」
歳三は、疑わしそうに良順を見た。良順の表情から微笑が消えている。
(やはり、むずかしいのか)
「土方さん」
と、沖田は口をひらいた。
「喋るな。この病いは疲れるといけねえ」
と歳三は、沖田の手をとろうとした。
が、沖田は、気はずかしそうに手を掛けぶとんの中にもぐりこませた。
痩せている。腕に肉というものがなかった。沖田はそれがはずかしかったのだろう。
「おらァ、隊務を残している。ゆく。しかし総司、毎日きてやるぞ」
「土方さん」
と、沖田は、枕頭の梅の枝へ視線をはしらせ、指でさすようにしながら、
「お雪さんが活《い》けてくれたものです」
「なに?」
歳三は、立ちあがりかけて問い返した。
「お雪て、どこのお雪だ」
「ほら」
沖田は歳三の眼をのぞきこみ、ただ微笑するだけで、うなずいた。
「大坂に来ています。毎日、ここへ見舞いに来てくれます」
「そういえば近藤の部屋にも、おなじ梅の枝があったな」
「そうでしょう。しかし、お雪さんはここへきても土方さんの噂をひとこともしません」
(そういう女だ)
歳三はふと遠い眼をしたが、もう立ちあがっていた。が、狼狽している証拠に、松本良順へのあいさつを忘れている。
良順がなにかからかったようだが、歳三はすでに廊下に出てしまっている。
(お雪か)
と後ろ手で障子をしめたとき、中壺《なかつぼ》にふりそそいでいるほそい雨をみた。
(会いたい……)
歳三は、廊下をひそひそと歩き、やがて気がついたときには濡れ縁にしゃがんで、沈丁花《じんちようげ》の小さな灌木を見つめていた。
(お雪、また、故郷《くに》のむかし話でも聞いてくれねえかなあ)
歳三の眼いっぱいに雨がふっていたが、しかしその瞳孔は何もみていないようでもあった。痴呆のような顔をしていた。雨気にしめりはじめたせいか、肩にのこっている煙硝のにおいが、かすかに鼻にただよった。
「くだらねえ戦さだったよ」
と、歳三は声を出してお雪につぶやきかけていた。
「しかし、大坂で一戦さやるさ」
「土方さん」
と、背後で声がした。
ぎょっと、ふりむいた。
さっきの松本良順が立っている。歳三はこのときの良順の、なんというか、名状しにくい表情をのちのちまで覚えていた。
「知らなかったのかね」
と良順はいった。
「慶喜《うえさま》も、会津中将も、もうお城にゃいないんだよ」
「えっ」
「お逃げになったのさ」
「そ、それを、近藤も沖田も知っていたのですか」
「知っている。せっかく難戦苦闘してきた君には、伝えにくかったのだろう」
(置きざりにされた。――)
という実感は、歳三だけではない。鳥羽伏見で戦った武士たちはむろんのこと、死者たちのすべての気持であったろう。
「くわしく話してください」
と、歳三にはもうお雪の幻影はない。
慶喜は、味方からも逃げた。
事実、慶喜は味方からも逃げた。鳥羽伏見方面における戦況の不利が大坂城内に速報されたとき、城内ではわきたち、主戦派が当然の戦術的助言として、
「一刻も早く城を出て、御出陣なされますように。家康公以来の御馬標《おうまじるし》を先頭にお立てあそばすならば、旗本、譜代大名の臣、ことごとく御馬前に死ぬ覚悟をもって戦いまする。兵数われにあり。かならず勝つことはまちがいないでありましょう。しかも、摂海にはすでに海軍が軍艦をうかべて、御下知を待っておりまする」
と切言した。慶喜の側近ことごとくこれに和したため、慶喜はついに立ちあがり、
「よし、これより直ちに出馬する。みなみな用意をせよ」
と、いった。とくに会津藩士はどよめき、よろこび勇んでみな持場々々にもどった。
そのすきに、慶喜は脱出した。正月六日夜十時ごろである。数人を従えたのみであった。その数人の筆頭が、なんと、かつては京都で守護職で威をふるった会津中将松平|容保《かたもり》である。会津藩士は、その会津藩主からも捨てられた。容保という男については、沈毅《ちんき》、の言葉をもって多くは評する。しかし、「貴人、情を知らず」という言葉があるとおり、うまれつきの殿様というものは、所詮は、どたん場になっての感覚が、常人とはちがっているようである。歳三ら新選組は、二人の主人にすてられた。会津藩主と、慶喜と。
桑名藩兵も、鳥羽方面で、惨烈な戦いをしたが、その藩主松平越中守(容保の実弟)も、この数人の逃亡貴族のなかに加わっている。慶喜もそうであったが、この二人の大名は、自分の側近にさえ、「逃亡」を知らさなかった。
かれらは、夜ひそかに大坂城の裏門から出た。裏門を出るとき衛兵が見とがめて、
「何者か」
と誰何《すいか》したが、慶喜に従っている老中板倉伊賀守が、
「御小姓の交替です」
といつわって難なく城を出ることができた。あとは夜の大坂を走り、八軒家から小舟に乗り、川をこぎくだって海へ出た。天保山沖には、幕府の軍艦が四隻、イカリをおろしているはずであった。
が、海面は暗い。
他の諸外国の軍艦も碇泊している。慶喜らは、どこに幕府軍艦がいるのかさがしあぐねて、ついに、いちばん距離のちかいところにいる米国軍艦にゆき、一夜の宿を乞うた。米軍艦長は、一行を艦長室に迎え入れた。早暁、港内のぐあいが見えてきたとき、幕府軍艦開陽丸にうつった。
慶喜らがいなくなった、と城内が知ったのはその翌日になってからであった。城中、みな茫然とした。
明治のジャーナリスト福地源一郎(桜痴)はこのとき幕府外国奉行支配翻訳方として、大坂城内にあった。歴とした旗本である。それが書き残している。(以下、大意)
この六日夜は、私は城内の翻訳方の部屋で、同僚と上役の悪口をいったりして、タバコをくゆらせていたが、果ては雑談にも飽き、毛布をとりだしていつものようにごろ寝をした。ところが夜半になって、友人の松平太郎が洋式に武装して入ってきた。
「君たちは何を落ちついているんだ」
と親指を立て、
「|これ《ヽヽ》はもうとっくにお立ちのきになりましたぞ」
そういった。私は、「太郎殿、この場だ、冗談にもそういう不吉なことは云いたまうな」とたしなめると、
「疑うなら御座の間へ行ってみたまえ」
と、太郎は立ち去った。
松平太郎は、将軍退却後、ただちに歩兵頭を命ぜられている。だから太郎からきいたこの「私」の福地源一郎は、城中でももっとも早耳の一人だったであろう。
歳三は、なお疑いが晴れず、大手門から馬を入れて重職らしいものをつかまえてはきいてみた。
「まことでござる」
と、みないう。
その証拠に、早くも機密書類を燃やす煙がぼうぼうと立ちはじめている。
「貴殿」
と、相当な旗本がいった。
「われわれも知らなんだ。しかし、天保山沖には榎本和泉守(武揚《たけあき》)ひきいるところの幕府軍艦が多く碇泊している」
「では、まだ戦さをするということですな」
「いや、われわれの身柄はぶじ軍艦で運んでくれるということじゃ」
「馬鹿」
と、歳三は、その武士をなぐり倒した。武士はよほどはげしくなぐられたのか、動かなくなった。
(とっ)
歳三は、馬上にもどった。慶喜、容保に対するむかっ腹が、ついつい、男に手を出させた。気の毒した、と思ったのだろう、
「おれは新選組の土方歳三だ。遺恨があればかけあいに来なさい」
馬首をめぐらせると、さっと大手門にむかって駈けだした。
(おれァ、やるぞ)
慶喜が逃げようと容保が逃げようと、土方歳三だけは戦うだろう。
慶喜、容保にはそれなりの理屈がある。
が、歳三には喧嘩師の本能しかない。
[#改ページ]
松 林
歳三はその足で近藤が寝ている御城代下屋敷にもどり、
「どうやらうそじゃねえな。将軍も会津中将も、城から消えた、てのは」
と、近藤の枕もとでいった。
「ああ、無事、落ちられたようだ」
近藤は小さな声でいった。落ちた、てもんじゃないよ、と歳三はにがい顔をしてみせた。
「されば出陣する。一同部署についておれ」
と命じて奥へひっこむとすぐ変装し、家来にも告げず上様、殿様は逃げた。戦場からはかれらのために闘った戦士たちが帰っていないのである。かれらは、ひとことのねぎらいもかけず、負傷者の顔もみず、逃げた。
(どうも、古今聞いたこともねえな)
歳三は頭をかかえる思いだった。
が、近藤は、京洛時代の最後のころは「政客」として諸藩の士とまじわっただけに、気持は歳三と同じではない。おぼろげながら、時勢というものがわかるのだ。
わかりかたが、珍妙なだけである。
「歳《とし》、こんどの戦さァ、ただの戦さじゃねえよ。ちィとちがうんだ」
「どこがちがう」
「おめえにゃ、わからねえよ」
「あんたにはわかっているのか」
「いるさ」
大きな骨張った顔が、天井をむいている。
(どうもわかっている顔じゃねえな)
歳三もおかしくなった。近藤の政治感覚なんどは、現代《いま》でいえば田舎の市会議員程度である。
政治家がもつ必須要件は、哲学をもっていること、世界史的な動向のなかで物事を判断できる感覚、この二つである。幕末が煮えつまったころ、薩長志士の巨頭たちはすべてその二要件をそなえていた。
近藤には、ない。
ないが、おぼろげながら、京都時代に接触の多かった土佐藩参政後藤象二郎などの説をおもいだしていると、わかるような気がするのである。
近藤がもし、自分の頭のなかのモヤモヤを整理できる頭があったとすれば、
「歳、あの戦さは思想戦だよ」
といったであろう。思想戦とは、天子を薩長に奪われたということだ。戦いなかばで薩長藩は強引に錦旗を乞い、自軍を、
「官軍」
とした。
京に官軍の旗がひるがえると同時に、もっとも怖れたのは、将軍慶喜である。かれは尊王攘夷主義思想の総本山である水戸徳川家から入って一橋家を継ぎ、さらに将軍家を継いだ。
「自分が賊軍になる」
ということをもっとも怖れた。足利尊氏の史上の位置を連想した。幕末、倒幕、佐幕両派を問わず、すべての読書人の常識になっていたのは、南北朝史である。
南朝を追って足利幕府をつくった尊氏をもって史上最大の賊と判定したのは、水戸史学である。水戸の徳川|光圀《みつくに》のごときは、それまで史上無名の人物にちかかった尊氏の敵楠木正成を地下からゆりおこし、史上最大の忠臣とした。幕末志士のエネルギーは、
「正成たらん」
としたところにあった。正成ほど、後世に革命のエネルギーをあたえた人物はいないであろう。
京に錦旗がひるがえったとき、慶喜はこれ以上戦さをつづければ自分の名が後世にどう残るかを考えた。
「第二の尊氏」
である。
その意識が、慶喜に「自軍から脱走」という類のない態度をとらせた。こういう意識で政治的進退や軍事問題を考えざるをえないところに、幕末の奇妙さがある。
「歳、いまは戦国時代じゃねえ。元亀天正の世にうまれておれば、おまえやおれのようなやつは一国一城のあるじになれたろう。しかしどうもいまはちがう。上様が、暮夜ひそかにお城を落ちなすったのもそれだ」
|それ《ヽヽ》だ、といいながら、近藤の頭には|それ《ヽヽ》は緻密《ちみつ》には入っていない。
なんとなくわかるような気がするのである。
「それじゃ、将軍はいい。それと一緒にずらかった会津藩主はどうだ」
「歳、言葉をつつしめ」
「たれも聞いちゃいねえ。――とにかくおれは伏見、淀川べり、八幡《やはた》でさんざん戦ってみて、この眼で、会津人の戦いぶりをはっきりと見た。老人、少壮、弱年、あるいは士分足軽の区別なく会津藩士は骨のずいまで武士らしく戦った。もう、みごとというか、いまここで話していてもおれは涙が出てきて仕様がねえ。武士はあああるべきものだ」
「わかっている」
近藤はおもおもしくいった。
「しかし歳、戦えば戦うほど足利尊氏になってしまうのがこの世の中だよ」
(なにいってやがる)
歳三は、ぎょろっと眼をむいた。
「尊氏かなんだか知らねえが、人間、万世に照らして変わらねえものがあるはずだよ。その変わらねえ大事なものをめざして男は生きてゆくもんだ」
「歳、尊氏てものはな」
「尊氏、尊氏というが、将軍も尊氏になりたくなけりゃ、京へ押し出して薩長の手から錦旗をうばい、みずから官軍になればよいではないか」
「尊氏もそれをやった。が、やっぱり百世ののちまで賊名を着てしまった。それをご存じだから上様は城をお脱《ぬ》けになったのだ。歳は知るめえが、こういう筋は六百年のむかしにちゃんと出来ているのだ」
「六百年の昔にねえ」
歳三はからかうようにいった。
「すると、なんでも大昔の物語《すじ》にあわせて行動しなきゃならねえのか」
「そうよ」
近藤は、おもおもしくうなずいた。
歳三はくすくす笑って、
「どうも化け物と話しているようだ」
しかし言葉には出さず、だまって立ちあがった。
歳三には、教養、主義はないが、初学は近藤よりすぐれている。近藤のいうようなことは、百もわかっている。ただいいたいことは、
(慶喜も幕府高官も、なまじっか学問があるために、自分の意識に勝ったり負けたりしている)
ということであった。しかしそれをうまく云いあらわす表現が、歳三にはない。
(まあいまにみろ。おれが薩長の連中から錦旗をひったくって慶喜ら|ばけ《ヽヽ》もの《ヽヽ》に吠えづらかかせてやる)
京橋の代官屋敷にもどると、隊長代務をとる二番隊組長永倉新八が出てきて、
「土方さん、知っているかい」
と、この男らしい不敵な笑いをうかべた。
「この件だろう」
歳三は親指を立てた。
「ああ、知っていたのか」
「永倉君。隊士はどうだ」
「別に動揺がないように思う。もっとも伏見で募《つの》った五、六人が、ぶらっと外出したきり、居なくなった」
「長州の間者だった、としておきたまえ。隊士の士気にかかわる」
ほどなく、大坂城の残留組のなかでの最高官である陸軍奉行・若年寄|並《なみ》の浅野|美作《みまさかの》守氏裕《かみうじひろ》から登城するように、との達示がきた。
歳三は、城内大広間に入った。なにしろ歳三の身分は、大御番組頭《おおごばんぐみがしら》である。
城内の幕臣らのなかでは、上席なほうであった。
「大評定でもあるのですか」
と、歳三は、新任歩兵頭の松平太郎にきいた。太郎とは、のちに函館まで遠征する運命になる。
「知りませんな」
松平太郎は、にこにこして、歳三にしきりと伏見戦争の話をききたがった。
好意をもっている。
丸顔で色が白く、まだ若い。洋装の戎服《じゆうふく》の似合う男であった。旗本の家にうまれ、はやくから蘭学に興味をもち、幕府の洋式訓練も受けた男である。函館では、外国人から、
「かれはフランスの貴族出身の陸軍士官を|ほう《ヽヽ》ふつ《ヽヽ》させる」
といわれた。
旧弊な旗本のなかから、もはや新種《しんしゆ》といっていいこういう若者がうまれてきている。
「土方先生の雷名はかねてうけたまわっておりました」
「いや」
歳三は話題をそらせ、鳥羽伏見における薩軍の銃器と射撃戦法をくわしく話したあと、
「松平さん、新選組もゆくゆくはあれに切りかえますよ」
「それァいい。賛成です。刀槍どころか、火縄銃やゲベール銃も、もはや銃ではありません。元込の連発銃がそろそろ外国でも出はじめている時代です。戦争は兵器が決定します」
「まったくそうだな」
「土方先生、これを機会にお近づきねがえませんか」
「私のほうこそ望むところです。ところで、洋式戦闘のわかりやすい書物をお持ちではありませんか。一冊読めばなんとかかたちがつくという」
「これはどうです」
松平太郎は、ポケットから和綴木版刷《わとじもくはんず》りの小冊子をとりだした。
歩兵心得
とある。
幕府の陸軍所から刊行した正式の歩兵操典である。「千八百六十年式」とあるのは、西暦であった。オランダ陸軍の一八六〇年度のものを翻訳したものである。
歳三がぱらぱらとめくると、物の呼称がオランダ語になっているが、見当はついた。
「ソルダート、とは平隊士のことですな」
「ほう、土方先生は蘭語をおやりですか」
「あてずっぽうですよ。なるほど、コムパクニーというのは、組ということらしい。オンドルオフィシールというのは士分で、コルポラールは下士か」
「おどろきましたな」
「こんなことは、和文の中のカナ文字だから見当はつきますよ。しかしこれは旧式のヤーゲル銃の操法ですな」
「そうです」
「あいつは会津も持っていてさんざんやられたから、新式銃のはありませんか」
「いや、銃の操法はちがいますが、隊の仕組みはかわりません。だからその本でも多少のお役に立つでしょう」
「まあ、ないよりましだ」
歳三が読みふけっていると、やがて浅野美作守があらわれて、江戸へ送る大坂残留兵の輸送法について指示をはじめた。途中、
「土方殿」
と、美作守がいった。
歳三は、「歩兵心得」を読んでいる。ひどくおもしろい。喧嘩の書である。歳三はこのとしになってこんなおもしろい本を読んだことがなかった。
「土方殿」
と、美作守がもう一度いった。
松平太郎が、歳三のひざをつついた。
(え?)
という表情で、歳三は顔をあげた。
「貴殿の新選組は、十二日出帆の軍艦|富士山丸《ふじやままる》に乗っていただきます。天保山岸壁に集結は十二日の早暁|四字《よじ》」
「承知しました」
軽く頭をさげ、そのまま眼を「歩兵心得」におとした。
(面白え)
この瞬間、城中でこれほど生き生きした表情の男はなかったろう。
(十二日なら、まだ間があるな)
歳三は馬上、濠端《ほりばた》を北にむかった。右手は現在《いま》でいえば大阪府庁であろう。いちめんの松林で、ちょっとさがって御定番《ごじようばん》屋敷など大小の武家屋敷が、ずらりとならんでいる。
歳三は、馬を北に進めた。
北の空が眼に痛いほどに晴れている。数日前、さんざんの敗北をとげたことなど、うそのような天地であった。
(地なんてものは、人事にかかわりもなく動いてやがるものらしいなあ)
歳三はふと、少年のような感傷におそわれた。この男の、時として出る癖である。
かれがときどき兄ゆずりの下手な俳句をひねるのは、たいていこういうときであった。
ふと川風が、鼻に聞こえてきた。新選組の宿陣である大坂代官屋敷(いまの京阪天満駅付近)も近いであろう。
前のほう、やや右手に京橋口の城門がみえる。
その京橋口の前あたりから南北にかけて長い土手があり、老松のびっしりと生《お》いならんだ林になっており、城の北郭《きたくるわ》の風情《ふぜい》をひどく優美にしていた。
鴎《かもめ》が、その松林のむこうを飛んでいる。
河に潮がさしのぼっている様子であった。
松林まできたとき、
(あっ)
と、歳三は馬からおりた。
自分でもはしたなくおもうほどうろたえていた。
松林に、お雪がいる。
遠い。
(まさか)
とおもったが、馬の口をとって歩きはじめた。
女も、歩きだした。
歩きはじめてからその体のくせで、お雪であるとわかった。
「大坂へいらっしゃっていたそうですな」
歳三は、微笑した、つもりである。が、微笑にならぬほど、動悸《どうき》がはげしかった。
歳三はおそらく、少年のような顔をしていたであろう。
「叱られるかと思いましたけど」
お雪は、できるだけ翳のない表情をつくろうとしてつとめているようであった。
あかるく微笑《わら》っていた。
が、その頬を指さきででもつつけば、もう崩れそうになる危険が、歳三にも感ぜられた。
「お雪さん、ここで待っていてください。すぐ参ります」
歳三は、徒歩でもほんの五分ほどむこうの代官屋敷へ馬で駈けた。
あっ、ととびおり、廊下を歩きながら、
「オフィシール(士官)はあつまってくれ」
と、いった。
みな、|きょ《ヽヽ》とん《ヽヽ》とした。口走った歳三も、はっと気がついた。さきほど読んだ「歩兵心得」の言葉が、頭にやきついていた。
「いや、組長、監察、伍長だ」
といいなおすと、みんな集まった。
「われわれは十二日、富士山丸で東帰する。当夜の屯営出発は、|丑ノ刻《ごぜんにじ》としよう。再挙は関東にもどってからだ。ところで」
と、歳三は顔をあからめた。
「私に、二日の休暇を頂きたい」
「どこへいらっしゃいます」
と、永倉新八がきいた。原田左之助も、
「あんたが休暇をとるとは、めずらしいことがあるものだ」
生真面目にいった。
「私には、女がいる」
あっ、とみんながおどろいた。歳三に女がいる、いない、ということより、そういうことがあっても妙に隠しだてしてきた性癖のこの男が、ひらきなおったようにいったからである。
「いるんだ。自分の女房であると思い、それ以上にも思っている」
「わかった」
原田が押しとめた。
「お行きなさい。あんたが不在中の隊務は、私と永倉と、そしてここにいる諸君とで見てゆこう。呼びあつめた本旨は、富士山丸などよりもそれだったのだろう」
「恩に着る」
「当然なことだ。しかしあんたにもそういう女がいたということは、うれしいことだ」
皮肉ではない。原田左之助が涙ぐむようにいった。
歳三に通《かよ》っている血は、鬼か蛇《じや》のようにいわれているからだ。
「おれまでうれしくなってきた」
と、永倉は顔を崩した。原田にも永倉にも女房というものがいる。が、この戦乱で、二人とも自分の女房がどこにいるのかも知らない。
歳三は、みなをひきとらせて、着更えをした。紋服、仙台平の袴をつけた。
いそいで、宿陣を出た。
松林へ行った。
暮色がこめはじめている。
「お雪殿」
影が動いた。
歳三は抱きよせた。もうたれがみていてもかまわない。
「お雪殿。どこか、水と松の美しいところへゆこう。二日、休暇をとった。そこで、ふたりで暮らそう」
「――うれしい」
と、お雪はきこえぬほどの声でいった。
[#改ページ]
西 昭 庵
お雪は駕籠。
歳三は、そのわきを護るようにして歩き、やがて、下寺町から夕陽ケ丘へのぼる坂にさしかかった。
両側は、寺の塀がつづく。
坂には人通りがない。これでも市中なのだが、あたりは大小何百という寺院が押しならんでいる台地だけに、森寂としていた。
「なんという坂だ」
「へい、くちなわ坂、とこのあたりではよんでいますんで」
と、駕籠かきがこたえた。
「おかしな名だな」
「べつにおかしくもございません。坂の上へのぼりつめてごらんになればわかります」
なるほど登りつめてから坂を見おろすと、ほそい蛇《くちなわ》がうねるような姿をしている。
「それでくちなわ坂か」
歳三は、この土地の即物的な名前のつけかたがおかしかった。
登りつめても、寺、寺である。
月江寺という高名な尼寺がある。その裏門へ駕籠がまわると、そこには寺がなく、鬱然《うつぜん》とした森があった。
森に冠木門《かぶきもん》があり、粋な軒《のき》行燈《あんどん》がかかげられている。
西昭庵《さいしようあん》
料亭である。
「へい、ここでございます」
と、駕籠かきが駕籠をおろし、相棒のひとりが門からの小径《こみち》を駈けて行った。客がきたことを報らせるつもりであろう。
「ご苦労だった」
と、歳三は酒代《さかて》をはずんでやった。
浪華《なにわ》の辻駕籠、というのは便利なもので、
――どこぞ、ゆっくり話のできる家はないか。
とそういっただけで、相手の男女の行体《ぎようてい》を見、ふところ具合まで察し、ちゃんとそれにふさわしい場所に連れて行ってくれ、その家との交渉までしてくれるのである。
「お雪どの、どうぞ」
「はい」
お雪は、下をむいて歩きだした。小径に木の根が這っている。
西昭庵では、西側の部屋へ通された。
(いい部屋だな)
歳三は、すわった。
伏見方面での戦ささわぎで、こういう家も客がないらしく、屋内はしずかだった。
酒肴がはこばれてきたころ、明り障子に西陽があたった。
その落日とともに、遠近《おちこち》の寺々から木魚《もくぎよ》の音がきこえ、この刻限に誦《ず》する日没偈《にちもつげ》の声がかすかに室内までとどいた。
「しずかでございますね」
とお雪がいった。
「静かだな」
「遠い山中《さんちゆう》かなにかで暮らしているような気がしますわ」
お雪が立ちあがって、明り障子のそばにひざをつき、歳三のほうをむいて、
(あけて、いい?)
といった眼をしてみせた。その表情がひどく可愛かった。
「いいですよ。すこし寒いかもしれないが」
「お庭を見たいのです」
からっとあけた。
「まあ」
庭はないといっていい。苔と踏み石と籬《まがき》だけのせまい庭が、籬のむこうで断崖になって落ちている。
はるかな眼の下に、浪華の町がひろがっていた。
そのむこうは、海。
北摂《ほくせつ》、兵庫の山々が見える、陽がたったいま、赤い雲を残して落ちてゆこうとしている。
「大変な夕陽ですな」
と歳三も立ちあがった。
「だからこのあたりを夕陽ケ丘というのでしょうか」
お雪は歌学にあかるい。
この地名と夕陽をみてあらためて思いだしたらしく、
「そうそう、此処《ここ》は」
とつぶやいた。王朝のむかし、藤原|家隆《いえたか》という歌人があり、新古今集《しんこきんしゆう》を撰《せん》したことで不朽の名になったが、晩年、この難波《なにわ》の夕陽ケ丘に庵《いおり》をむすび、毎日、日想観《につそうかん》という落日をながめる修行をして日をすごした。
ちぎりあれば 難波の里に宿りきて
波の入り日を拝《おが》みつるかな
「あの夕陽ケ丘でございますね」
「そういえば、なんだかそのあたりに塚がある、という話を、さきほど内儀《おかみ》が話していたようだ」
歳三は庭下駄をはいて、苔をふんだ。お雪もついてきた。
庭から西へまわると、柴折戸《しおりど》がある。あけて出ると、樟《くす》の老樹が木下闇《このしたやみ》をつくっており、そのそばの草が小高い。
五輪塔があった。そのそばに碑があり、
「家隆塚《かりゆうづか》」
とよめた。
「私は無学でなにも知らないが、家隆とはどういうひとです」
「おおむかしの歌よみで、よほどここからみえる夕陽が好きだったのでございましょう。夕陽ばかりをみていた、としか存じません」
「華やかなことを好きなひとのようだな」
「夕陽が華やか?」
お雪は、歳三は変わっている、と思った。
第一、家隆卿は、この地で、大坂湾《ちぬのうみ》に落ちてゆく夕陽の荘厳さをみて、弥陀《みだ》の本願が実在することを信ずるようになり、その辞世の歌にも、「難波の海を雲居になして眺むれば遠くもあらず弥陀の御国《みくに》は」と詠《よ》んだ。その歌からみても、この岡の夕景がすきだった家隆は、落日がはなやかだとはおもわなかったであろう。
「華やかでしょうか」
「ですよ」
歳三は、いった。
「この世でもっとも華やかなものでしょう。もし華やかでなければ、華やかたらしむべきものだ」
歳三は別のことをいっているらしい。
「あ」
とお雪が声をあげたのは、塚をおりようとして足をすべらせたときだった。もう、日は暮れてしまっている。
「あぶない」
と、歳三はすばやくお雪の右わきをすくいあげて、ささえてやった。
自然、ひどく自然ななりゆきで、お雪は歳三にもたれかかる姿勢になった。歳三は、お雪を抱いた。
「この唇を」
と歳三は、お雪のあごに手をあてて、そっと顔をあげさせた。
「吸いますよ」
(馬鹿だなあ)
とお雪はおもうのだ。
わざわざことわる馬鹿がどこにいるだろう。
歳三は、お雪の唇がひどくあまいことを知った。
「なにを口に入れているのです」
「いいえなにも」
「すると、お雪さんの唇は自然《じねん》にあまいのですか」
歳三は、むきになって訊いた。暗くて表情がわからないが、少年のような声音《こわね》を出していた。
お雪は、内心おどろいている。新選組の土方歳三といえば、天下のたれもが、こういうときにこういう声音を出す男だとは知らないであろう。
「土方様は、女にはご堪能《たんのう》なのでございましょう?」
「むかしはそのつもりだった。しかしお雪どのを知ってから、自分がいままで女について知っていたことは錯覚だったような気がしている」
「お上手《じようず》」
「は、いっていない」
不愛想な声にもどっている。
夜更けとともに、部屋がこごえるように寒くなってきた。
はじめ、二人は床を寄せた。ついで、掛けぶとんを|ふた《ヽヽ》え《ヽ》にし、一ツ床で臥《ね》てから、やっと落ちついた。
「はずかしい」
と、最初、お雪がいやがった。素肌のままで臥ることを、である。
「お雪どの。私は」
と、歳三はきまじめにいった。
「あなたを、尊敬してきた。私は母の顔を記憶せずに育った末っ子で、姉のおのぶに育てられてきたようなものだが、あなたにはその面影があった。そのことが、私があなたにひきよせられた理由だったのだが、同時にどこか昵《なじ》めなくもあった。しかし知りあうことが深くなるにつれて、お雪どのはこの地上のたれにも似ていない、私にとってたったひとりの女人《によにん》であることがわかってきた。――私は」
歳三は、いつになく多弁になっている。
「私は、こう――、どちらかといえば、いやなやつ、いやどう云えばいいかな、そう、いつの場合でもひとに自分の本音《ほんね》を聞かさないようなところのある人間だったようにおもう。過去に女も知っている。しかし、男女の痴態というものを知らない」
「……そ、それを」
お雪は、武家育ちでかつて武家の妻だったことのある女なのだ。眼をみはった。
「わたくしにせよ、とおっしゃるのでございますか」
「頼みます」
歳三は、語調を変えずにいった。
「私は三十四になる。このとしになって、男女の痴態というものを知らない」
「雪も存じませぬ」
「それは」
歳三は、ぐっとつまった。
「そうだが。――しかし、お雪どの、私はそんなことをいっていない。私は、なにも男女の愛の極は、痴戯狂態であるとは思っておらぬ。だが私は、お雪どのと、なにもかもわすれて裸の男と女になってみたい」
「わたくしには、できそうにありませんけれど」
「二夜《ふたよ》ある」
「ええ、二夜も」
「五十年連れ添おうとも、ただの二夜であろうとも、契りの深さにかわりはないとおもいたい。ふた夜のうちには、きっと」
歳三は、言葉をとめた。しばらくだまってから、
「私は、どうやら恥ずかしいことをいっているようだ。よそう」
といった。
「いいえ」
こんどは、お雪がかぶりをふった。
「雪は、たったいまから乱心します」
「乱心?」
「ええ」
「そんな」
歳三は、くすっ、と笑った。
やはり武家育ちはあらそえないものらしい。
「お笑いになりましたね」
お雪も、そのくせ忍び笑いを洩《も》らしてしまっている。
「こまったな」
「困りましたわ。覚悟して、ただいまから乱心いたします、と申しあげても、雪は雪でございますもの」
とはいったものの、お雪は、自分がおもわず洩らした忍び笑いによって、心のどこかがパチリと弾《はじ》けてしまったことに気づいていた。
「雪は、できそうでございます。でも、行燈の灯を消してくださらなければ」
「点《つ》けておく」
「なぜ?」
「痴戯狂態にはならない」
「闇のなかならばお雪は変わって差しあげるというのに、それでは何もなりませぬ」
「点けておく」
「いやでございます」
いうまに、というより、そういうやりとりを楽しんでいるあいだに、お雪は腰帯を解かれ、長襦袢からかいなをぬかれ、|ゆも《ヽヽ》じ《ヽ》をとられた。
「|そも《ヽヽ》じ《ヽ》、と呼ぶよ」
と、歳三はお雪の耳もとでささやいた。
お雪はうなずいた。
やがて唇を、かすかにひらいた。
「なにか申したか」
「だんなさま」
と、お雪はささやきかえした。
「そう申しあげたかっただけ」
「もう一度、いってくれ」
「聞きたい?」
お雪は、いたずらっぽく笑った。
「私はひとり身ですごしてきたので」
と、歳三はいった。
「しかし少年のころから、いつかはそういう言葉で自分を呼ばれたいと夢想してきた。お雪どのは、かつて呼んだことがあるかもしれないが」
「皮肉でございますか」
歳三は、今夜ほど、お雪の亡夫に対してはげしく嫉妬したことはなかった。
「本気でいっている」
「だんなさま」
「たれのことだ」
「歳三さまのほかに、たれがいますか」
「この体のなかに」
と、歳三は、触れた。
お雪は、あわてて手の甲を唇にあてた。
声が洩れそうになったのである。
「いる」
「………」
「今夜は、それを揉んで消し去ってしまいたい」
半刻《はんとき》ほど経《た》った。
風が出てきたらしく、雨戸がはげしく揺れはじめた。
寒い。
が、お雪は気づかなかった。
あと、半刻たってから、やっとお雪は、
「風が出はじめたようでございますね」
と、おそろしげにいった。
「先刻から出ている」
歳三は、おかしそうに含み笑いをお雪にむけた。
「お雪は、気づかなかったのだろうか」
「いいえ」
お雪は、わざとふくれていた。
「先刻から存じておりましたわ。それがどうかなさいましたか」
「いや、なんでもない」
歳三はしかめっつらにもどった。
ひと夜は、すぐ明けた。
歳三が眼をさましたときは、すでにお雪の床がたたまれ、姿がなかった。
歳三はいそいで床をあげ、井戸端へおりた。
(きょうも、みごとな晴れだな)
やがて、お雪が膳部をととのえてはこんできた。お雪らしい、と歳三はおもった。
台所を借りて、自分で作ってきたのだろう。
お雪はたすきをはずし、自然な折り目で指をついた。
「おはようございます」
「抜けている」
「なにが、でございますか?」
「呼び言葉が。――」
「ああ」
と、お雪は赤くなった。
「だんなさま」
「うん」
(馬鹿にしている)
という表情で、お雪は微笑した眼を、大きくした。
(世の亭主というのも、こういうものかな)
そんな顔で、歳三はきちんと膝をくずさずにすわっていた。
(幕府のことも新選組のことも、きょう一日はわすれて暮らすのだ)
「どうぞ」
と、お雪は盆をさしだした。
歳三はあわてて右手で飯茶碗をとりあげた。
「箸がない」
「左手にもっていらっしゃいます」
「なるほど」
歳三は、左右、持ちかえた。世の亭主も、ときどきこういうしくじりをするものであろう。
「お雪」
「はい?」
「一緒にたべよう。私は多勢の兄姉や甥たちのなかで育ったから、めしは一緒に食べないとまずい」
「ご兄姉ならそうでございましょう。でもわたくしどもは夫婦でございますから」
「ああ、そうか」
亭主に、歳三は馴れていない。
[#改ページ]
江 戸 へ
「夫婦」
といっても、はじめは芝居じみていたが、二人の人間が一ツ意識で懸命に芝居しあっていると、本気でそうなってしまうらしい。
お雪と歳三が、そうだった。
たった一夜をすごしただけで、千夜もかさねてきたような気持になった。
西昭庵の二日目。――
お雪も歳三もすっかり板につき、ちょっとしたことでも、同じときに、
「………」
と、微笑しあえるようになった。同時に笑えるというのは、二つの感覚が相寄ってついに似通ってしまわなければ、そうはいかないであろう。
午後、歳三が、
(きょうも夕陽をみられるかな)
と、西の障子をあけ、浪華の町のむこう、北摂の山なみを、町並を遠見にながめていると、言葉には出さなかったはずだのに、お雪が、
「この雲の模様では、いかがでございましょう」
といった。なるほど雲が出ている。
「見とうございますわ、きょうも」
「しかし月の名所はきいているが夕陽の名所というのはめずらしいな。この家の名も西昭庵というから、夕陽だけが売りものなのだろう」
「でも、昭の字が、照ではございませんね」
「照では、ぎらぎらしすぎるようだから、昭を用いたのかもしれない。昭のほうがあかあかとしているうちにも、寂光《じやくこう》といったしずけさがあって、夕陽らしい」
「豊玉宗匠。――」
お雪は忍び笑って、歳三をからかった。さすが俳句をひねるだけあって、漢字に対する語感も研《と》がれているのであろう。
西昭庵には、茶室がある。
そのあと、お雪は、炉の支度などをして、歳三をよんだ。歳三は、炉の前にすわった。
「私には、茶ができない」
「お喫《の》みになるだけでよろしゅうございます」
「この菓子は?」
「京の亀屋|陸奥《むつ》の松風《まつかぜ》でございます」
(京。……)
と聞くだけで、歳三はそくそくと迫るような感懐が湧きあがってくる。京の町がすきなのではない。京の町にうずめた歳月が、思いだすにはあまりにもなまなましすぎるのであろう。
お雪はすぐ察したらしく、あわてて話頭をかえようとしたが、いったん沈黙にのめりこんでしまった歳三をひきもどすことはできなかった。
歳三はだまって茶碗をとりあげ、ひと口のみ、しばらく考えてから、ぐっとあおるように一気にのんだ。
「いかがでございました」
「ふむ?」
夢から醒めたように顔をあげ、
「結構だった」
と口もとの青い泡を、懐紙でぬぐった。
「お雪どのは、絵の修業でずっとこののちも京に住むつもりか」
「そのつもりでいます。江戸に帰っても戻る家がございません。――世が治まれば」
お雪は、つい二人の間の禁句をいった。
「治まれば、歳三様とご一緒に住めましょうか」
「将来《さき》のことはわからぬ。茶の湯でいうように、一期《いちご》の縁を深めるほかに、われわれの仕合せはないように思う。わしはこのさき流離《りゆうり》にも似た戦いをつづけてゆくか、それとも一挙に世を徳川のむかしへもどしうるか、将来《さき》のことはわからぬものだ。こういう男と縁のできたそなたが哀れにおもう」
「いいえ、お雪は、自分の現在《いま》ほどの仕合せはないと思っています」
不幸な結婚を前歴にもつお雪は、ああいった暮らしを何年つづけていっても、このふつかふた夜の思い出に及ばないと思っている。
「――ただ」
絶句して、お雪は顔を伏せた。肩で、泣いている。この二日ふた夜が、万年もつづけばよい、とつい望めぬことをおもったのであろう。
「もう時刻かな」
歳三は、懐中の時計をとりだした。夕陽を待っている。すでに刻限にまぢかい。
「西の縁へ参りましょう。わたくしはここを片づけてから参りますから、おさきに」
西の縁側に立った。
が、雲がいよいよ低くなっていて、わずかに西の空に朱がにじんでいる。
「お雪、だめなようだな」
と、奥へ大声でいった。
「夕陽が?」
とお雪が出てきた。
「まあ、やはりだめでございますね。でも、きのうあれだけ綺麗な夕陽をみたから」
「そう、それでいい。昨日の夕陽が、きょうも見られるというぐあいに人の世はできないものらしい」
陽が落ちると、急に部屋のなかが薄暗くなり、ひえびえとしてきた。
「寝ようか」
と、なにげなく歳三がいってから、お雪を見た。
耳もとが、赫《あか》くなっている。
翌朝、歳三は、西昭庵の者に駕籠をよばせ、いそいで身支度をととのえた。
やがて、駕籠がきたことを、この家の者が知らせてきた。歳三は脇差を腰に押しこみながら、
「お雪、出かける」
別れる、と歳三はいわなかった。お雪も、歳三の和泉守兼定を|そで《ヽヽ》で抱き、玄関まで、さも自分が歳三の妻であるような気持になって、見送りに出た。
歳三は、式台をおりて白緒の草履に足を入れて、式台へふりむいた。
お雪が、刀を渡した。
「では。――」
それっきりで、出て行った。その姿が、庭の植込みのむこうに消えたとき、お雪は、二日間歳三とともにすごした部屋にもどった。
「わたくし、いま数日、泊めていただけませぬか」
と、お雪は西昭庵の内儀に頼んだ。
「どうぞ、なんにちでも」
内儀も、なにごとかを察していたのであろう。お雪にひどく同情をもった口ぶりでいった。
その後、数日、この部屋でこもりっきりで岩絵具《いわえのぐ》をとかしたり、筆をならべたり、画仙紙をかきつぶしたりして、すごした。
もう一度、あの日の落日を見るつもりであった。西昭庵の台地から見おろした浪華の町、蛾眉《がび》のような北摂の山々、ときどききらきらと光る大坂湾《ちぬのうみ》、そこへ落ちてゆくあの華麗な夕陽を描こうとした。
お雪は、風景は得意ではない。しかしかきとめねばならぬとおもった。下絵を何枚もつくり、最後に絹布をのべたとき、歳三とともにみたあの夕陽が落ちてゆくのをみた。
幕府軍艦富士山丸が、歳三ら新選組生き残り四十四人をのせて大坂天保山沖を出たのは、正月十二日であった。
抜錨《ばつびよう》したのは、西昭庵でお雪が最初の下絵にとりかかったころであったろう。
艦が、第一日、紀淡海峡にさしかかったとき、戦傷者のひとりである山崎烝が息をひきとった。大坂浪人である。
新選組結成直後の第一次募集に応じて入隊した人物で、隊ではずっと監察をつとめ、池田屋ノ変では薬屋に変装して一階にとまりこみ、放胆な諜報活動をした男である。
淀堤の千本松で、薩軍陣地に斬りこむとき身に三弾をくらってもなお生きつづけてきたほど気丈な男だが、乗船のころから化膿がひどくなり、高熱のなかで死んだ。
「死んだか」
歳三は、にぎっている山崎の手が急につめたくなったことで、もう眼の前にいるのが山崎でなくなったことを知った。
葬儀は、洋式海軍の慣習による水葬をもってせられた。
山崎の遺骸を布でぐるぐる巻きにし、錨《いかり》をつけ、国旗日の丸(嘉永六年ペリー来航以来、幕府はこれを日本の総旗じるしとしていた。鳥羽伏見の戦いでも幕軍は日章旗をかかげ、幕府海軍も軍艦旗に日章旗をもちいていた。これを国旗として維新政府があらためて継承したのは、明治三年一月である)をその上にかけ、甲板には、艦長以下の乗組士官、執銃兵が堵列《とれつ》した。
「そうか、海軍が山崎の葬儀をしてくれるのか」
と、士官室で病臥したきりだった近藤も、紋服、仙台平をつけて、甲板上に出てきた。
顔が青い。
体を動かすとまだ肩の骨が痛むようであった。
近藤と同室で寝ている沖田総司も、もうひとりで歩きにくいほどに衰弱していたが、
「土方さん、私も出ますよ」
と、寝台をおりた。とめたが、この若者は笑っているだけで、羽織、袴をつけ、刀を杖につき、手すりにつかまり、階段をのぼろうとした。
歳三が、右腕をかかえてやろうとすると、
「いやですよ」
とことわった。新選組の沖田総司が、衰弱しきってひとの肩を借りて歩行した、などといわれるのは、この見栄坊の総司にはたえられないのであろう。
「医者が臥《ね》てろ、というからいいつけどおりにしているんだけど、私はほんとうは元気なんですよ」
「そうかね」
歳三は、この若者の笑顔が、透きとおるような美しさになってきているのを、おそろしいものでも見るようにして見た。
「軍艦《ふね》の階段は、急だなあ」
あえぎをごまかそうとして、そんなことをいった。
無理である。呼吸《いき》をするには、沖田の肺はなかばその機能をうしないはじめていた。
新選組四十三人のうち、動けぬ重傷者三人をのぞいて、全員が甲板にならんだ。近藤はむろんのこと、そのほとんどが、大なり小なりの負傷をしていた。
「土方さんぐらいのものだなあ、無傷で突っ立っているのは」
と、沖田が、くすくす笑った。
「ものをいうと疲れるぞ」
「疲れませんよ。感心しているんです。見渡してみると、どうみても土方さんだけが鬼のように達者だ」
「静かにしろ」
やがて、銃隊を指揮している海軍士官が剣をぬいた。
号令をかけた。
だだだだ、だあーん、と弔銃が紀淡海峡にひびきわたり、監察・副長助勤山崎烝の遺骸は、舷側から海にすべりこんだ。
その間、喇叭《らつぱ》が吹奏されている。
葬儀がおわってから、近藤は、海軍のこの葬儀がよほどうれしかったらしく、艦長|肥田《ひだ》浜五郎(機関にあかるく、維新後新政府に乞われて仕え、海軍少将にあたる海軍機関総監などに任じ、明治二十二年四月二十七日、公用で出張中、静岡県の藤枝駅でホームから顛落し、おりから入ってきた汽車にひかれて死んだ)をつかまえて、
「かたじけない、かたじけない」
と、何度も礼をいった。近藤も一軍の将でありながら、傷で憔悴《しようすい》しているせいか、肥田艦長に腰をかがめている姿が、田舎の老夫のようにみえた。
士官室にひきとってからも、
「歳、新選組も結党以来、何人死んだか数えきれねえほどだが、山崎のようなああいう葬礼をしてもらったやつはいない。よく働いたやつだが、死んで恵まれもした」
さかんに感心した。
「近藤さん、葬礼なんぞに感心するもんじゃねえよ。志士ハ溝壑《こうがく》ニアルヲ忘レズ、勇士ハソノ元《くび》ヲ喪《うしな》フヲ忘レズ、という言葉がある。自分の死体を溝《みぞ》にすてられ、首が敵手に渡るという運命になることを忘れぬということだ。男というものは、葬われざる死をとげるというものだ、とおれはおもっている」
「歳、おまえはつむじまがりでいけねえよ。山崎は勇士であってしかも葬われた。それをおれはよろこんでいる」
が、近藤、土方、沖田は、その最期において、葬われるかどうか。
艦は、汽罐《かま》をいっぱいにたいて、太平洋岸をつたいつつ、東航した。
富士山丸は、木造、三本マスト、千トンの大艦である。
艦載砲十二門。
百八十馬力。
幕府が米国へ発注して慶応元年にうけとったもので、長州征伐のとき下関砲撃にも参加した歴戦の艦である。
が、千トンの木造船といえばよほど大きいはずだが、この一隻に千人をこえる幕軍が乗ったために、艦内生活の苦しさは言語に絶した。
食事も艦の厨房《ちゆうぼう》だけでは調理しきれず、甲板にいくつもの大釜をもちだしてめしをたき、汁を煮、そのまわりはびっしりと人が詰まり、それも横臥できるゆとりがなく、みな膝をかかえてわずかに安らいでいる。
正月の海は風浪が荒く、ほとんどが船酔いで病人同然になり、与えられた食事を残さずに食えるという者がすくない。
米も、わるい。大坂で積みこんだ米は、大坂城に貯蔵されていた古米が多く、たきあげると悪臭を放った。
近藤も、江戸のころは食いものをどうこういうような性格でも暮らしでもなかったが、京にきて美食に馴れたため、
「歳、これァ、食えねえな」
と閉口した。
歳三は、ほとんど食わなかった。まずいものを食うぐらいなら、死んだほうがましだと思っている。
ただ、沖田総司がひと粒も口にしないのには、近藤も歳三も弱った。
「総司、食うんだよ」
と叱ってみたが、力弱く笑っている。食わなければ病気にわるいことはきまっているのだ。近藤はどなるようにいった。
「総司、武士が戦場の兵糧のまずいうまいをいうべきものでないんだ」
「どうも、酔って」
総司は、真蒼な顔だった。
「無理にたべても、吐くんです。吐くと力が要って、どうもあとがわるいんです」
歳三は、平隊士のなかで妙に船につよい野村利三郎をえらび、沖田の看病をさせた。野村は気のつく男で、厨房で魚の煮汁と|かゆ《ヽヽ》を作らせ、沖田に飲ませた。それだけがやっとのどを通った。
海上四日。
十五日未明に品川沖にさしかかったとき、歳三は甲板に出て、舷側から吐瀉《としや》していたがふと陸地の灯を見、
「あれはどこだ」
と、水夫にきいた。
「品川宿《しながわじゆく》でございます」
水夫は、伊予塩飽《いよしあく》なまりで答えた。
(品川なら、これは降りたほうがいい)
と、艦長の肥田浜五郎にかけあうと、浜五郎はあっさり承知し、笑いながら早口でなにか云った。歳三があとで思いだすと、どうやら、
「新選組も、船酔いには勝てぬとみえますな」
といったらしい。
未明、投錨し、三隻の短艇がおろされ、新選組四十三名だけが、上陸することにした。
品川では、
「釜屋」
という旅籠にとまり、近藤と沖田だけは投宿せず、浜からそのまま漁船をやとい、ひとあしさきに江戸に入り、神田和泉橋にある幕府の医学所で治療をうけることになった。
歳三は釜屋の入口に、
「新選組宿」
と、関札を出させた。この品川釜屋が、京大坂を離れた新選組の最初の陣所というべきであったろう。
「諸君、戦さはこれからだ。数日逗留するから、船酔いの衰えを回復することだ」
といいふくめ、自分は海のみえる奥に一室をとり、掻巻《かいまき》一枚をひっかぶって、ごろりと横になった。
(いまごろ、お雪はどうしているか)
奇妙なことに、お雪がまだあの西昭庵にいるような気がしてならない。
おそらく、あの別れの日、お雪が、わが家から送り出すようにして、式台にひっそりとすわっていたからだろう。
夕刻まで、ぐっすりとねむった。
起きた。
そのころ、お雪は西昭庵のあの部屋で絵絹をのべながら、たったいま北摂の山に沈んでゆく陽の赤さを、どの色でうつしとるべきか、ぼんやり思案していた。
[#改ページ]
北 征
歳三ら、新選組は、関東にもどった。自然筆者も、ここから稿をあらためて、
「北征編」
とする。
おそらく土方歳三の生涯にとってもっともその本領を発揮したのは、この時期であったろう。
歴史は、幕末という沸騰点において、近藤勇、土方歳三という奇妙な人物を生んだが、かれらが、歴史にどういう寄与をしたか、私にはわからない。
ただ、はげしく時流に抵抗した。
すでに鳥羽伏見の戦い以降、それまで中立的態度をとっていた天下の諸侯は、あらそって薩長を代表とする「時流」に乗ろうとし、ほとんどが「官軍」となった。
紀州、尾州、水戸の御三家はおろか、親藩、さらに譜代筆頭の井伊家さえ、官軍になった。
徳川討滅に参加した。
と書けば、時流に乗ったこれら諸藩がいかにも功利的にみえるし、こっけいでもあるが、ひとつには、京都朝廷を中心とする統一国家の樹立の必要が、たれの眼にもわかるようになっていたのである。
かれらは、
「日本」
に参加した。
戦国割拠以来、諸藩が、はじめて国家意識をもったことになる。
しかし、「日本」ではなく、薩長にすぎぬという一群が、これに抵抗した。
抵抗することによって、自分たちの、
「侠気」
をあらわそうとした。
といえば図式的になってかえって真実感がなくなる。
まあ、小説に書くしか仕様がないか。
いったん品川に駐屯した新選組が、江戸丸之内の大名小路にある鳥居丹後守の役宅に入ったのは、その正月の二十日である。
隊士は四十三名。ただしそのうちの負傷者は、横浜の外人経営病院に収容されていた。
生き残りの幹部は、永倉新八、原田左之助、斎藤一といった結党以来の三人のほかに、隊中きっての教養人といわれた尾形俊太郎、人斬りの名人といわれた大石|鍬次郎《くわじろう》など。
沖田総司は療養中。
近藤のほうの傷は、江戸に帰ってからめきめきよくなり、城へも駕籠で登城できるまでになった。
「歳、やはり江戸の水にあうんだよ」
「いいことだ」
といっているうちに、千代田城中で、近藤は奇妙な人物に出逢った。
格は芙蓉《ふよう》ノ間《ま》詰めで、家禄四千石、それに役高、役知を加えて一万石という大身の旗本である。
甲府勤番支配佐藤|駿河守《するがのかみ》であった。
奇妙なのは、その人柄ではない。小声で近藤に耳うちした内容である。
「近藤殿、内密で話があるのだが」
といった。
じつをいうと、幕府瓦解(ただし徳川家とその城池、直轄領は残っている)とともに佐藤は、甲府勤番支配としての今後の処しかたを閣老に相談するために江戸にもどったのである。
ところが、老中連中はそれどころではなく、ろくに佐藤の相談に乗ってくれず、
「よきように、よきように」
というばかりであった。
佐藤はこまった。
甲府は、百万石。
戦国の武田家の遺領で、その後は徳川家の私領(天領)になっている。佐藤駿河守は、その百万石を管理する「知事」なのだ。
「いま、東山道を、土佐の板垣退助が大軍をひきいて東下している。この東山道軍の主たる目的は、甲府百万石を官軍の手におさえることですよ」
「ふむ」
わかることだ。朝廷軍といっても諸藩寄りあい世帯で、京都政府には領地というものがない。
幕府領をおさえるほかなかった。
「なるほど、甲府か」
「このままでは、官軍に奪《と》られるばかりですよ」
甲府城には、江戸からの勤番侍が二百人いるのだが、ほとんど江戸へ引きあげているし、あとは、幕府職制上非戦闘員ともいうべき与力職が二十騎、ほかに同心が百人いるきりで、どちらも地役人だから、戦さには参加すまい。
「空き城同然です」
「ほう」
近藤は、思案のときのくせで、腕組みをして聞いている。
「それで、私に甲府城をどうせよと申されるのか」
新選組の手で奪え、と佐藤駿河守はいうのである。
(おもしろい)
と、近藤は、佐藤ともども老中の詰め間へ行った。
「よかろう」
と老中河津伊豆守|祐邦《すけくに》がいった。
実のところ、徳川家は大政奉還をしたが、まだ徳川領四百万石、旗本領をふくめて七百万石は失っていない。
新政府は、領地をも返上せよ、と迫り、その押問答が鳥羽伏見における開戦の一原因になった。
徳川家の拒否は、理屈としては当然なことで、政権を奉還して一大名になった以上、他の大名が一坪の土地も返上していないのに、徳川家だけが返上せねばならぬ理由はない。
第一、返上してしまえば、旗本八万騎は路頭に迷うではないか。
一方、新政府が諸道に「官軍」を派遣して徳川慶喜討滅の戦いをはじめたのは、さしせまっては、
「土地」
の奪取が現実的目的であった。
ところが。
かんじんの徳川慶喜は、あくまで謹慎恭順して、ついには江戸城を出、上野寛永寺の大慈院に移ってしまっている。
徳川領を軍事的に防衛する肚はない。
(だから、甲府百万石は宙に浮いている。官軍はそれを拾いにくるだけだ。されば官軍が来る前に押えてしまえば、こっちのものではないか)
と近藤は、考えた。
老中の意見も同様である。
「新選組の手で、押えられますか」
と、河津伊豆守がいった。
「出来ます」
「それなら、押えてもらいたい。軍資金、銃器などは、出来るだけ都合をする」
このとき、老中の河津か、同服部筑前守かが、冗談でいったらしい。
「甲州を確保してもらえるなら、新選組に五十万石は分けよう」
分けるに価いするほどの大仕事だ、という意味なのか、それともまるっきりの冗談だったのか、いずれにしても近藤の耳には、
「分けてやる」
ときこえた。
云った連中も、たかが知れている。幕府瓦解後の老中というものは、すでに政府の大臣ではなく、徳川家の執事にすぎない。身分も、かつては譜代大名から選ばれたものだが、いまでは旗本から選ばれ、それもそろって無能で、いやたとえ能吏でもこの徳川家をどうさばいてよいか方途もつかぬ事態になりはてている。
いわば、どさくさなのだ。
(五十万石。――)
近藤は、正気をうしなわんばかりによろこんだ。
「歳、五十万石だとよ」
と、近藤は、大名小路の新選組屯所にもどってくるなり、声をひそめていった。
「それより、傷はどうだ」
「痛まねえ」
傷どころではなかった。
「歳、さっそく一軍を作って甲州城へ押し出すんだ」
近藤は、京都時代の末期には、諸藩の周旋方と交遊したり、土佐の後藤象二郎などに影響されて、いっぱしの国士に化《な》りかけていたが、やはり地金が出た。
近藤も相応な時勢論をもっていたのだが、甲府五十万石のつかみ取り案の一件が、わが近藤勇をして三百年前の戦国武者に変えてしまった。かれにとって、この戊辰《ぼしん》戦乱は、戦国時代のように思えてきた。
「近藤さん、正気かね」
と、歳三は顔をのぞきこんだ。
「私は京都のころ、あんたが公武合体論などをとなえて、――勤王はあくまで勤王、しかれども政治は江戸幕府が朝廷の委任によって担当する、などという理屈をさかんに諸藩の周旋役に吹きまわっていたのを、私は柄《がら》にもねえと思って忠告したことがあるが、こんどは風むきがかわったようだ」
「歳、時勢が変わった。お前にゃわからねえことだ」
「時勢がねえ」
といったが、喧嘩屋の歳三には、甲州に進撃して百万石をおさえるという大喧嘩は、近藤とは別の意味で、たまらなく魅力でもあった。
(こんどは、洋式でやってやる)
懐中には、例の「歩兵心得」がある。
「歳、すぐ募兵しろ」
「そうしよう」
と、歳三はそのことに奔走することになった。
近藤も、毎日登城し、老中に会ってはできるだけ大軍を編成するように交渉した。
大軍を募集するには、まず指揮官の身分が必要であった。
幕閣では、近藤を「若年寄」格とし、歳三には「寄合席」格を与え、謹慎中の慶喜の裁可を得た。
「大名だよ」
と、近藤はいった。
そのとおりであった。若年寄といえば、十万石以下の譜代大名である。歳三の寄合席というのも、三千石以上の大旗本であった。
しかし幕府はすでに消滅している。徳川家としては、この二人にどういう格式を濫発しても惜しくはなかったのであろう。
老中たちは、
「おだてておけば役に立つ」
と、思ったにちがいない。近藤はたしかに時勢に乗っておだてられさえすれば、器量以上の大仕事のできる男であった。
近藤は、毎日の登城にも、長棒引戸《ながぼうひきど》の大名駕籠に乗ってゆくようになった。
一方、歳三は、洋式軍服を着た。
「歳、なんだ、寄合席格というのに、紙クズ拾いみてえなかっこうをしやがって」
と、近藤がまゆをひそめた。
「戦さにはこれが一番さ」
鳥羽伏見の戦場で、薩長側の軽快な動作をみて、うらやましかったのだ。
軍服は、幕府の陸軍所から手に入れたラシャ生地、フランス陸軍式の士官服である。
募兵は容易に進まなかった。
ところが、近藤、沖田の治療をしている徳川家典医頭松本良順が、
「浅草弾左衛門を動かせば?」
と、近藤と歳三にいった。
弾左衛門は、幕府の身分制度によって差別された階級の統率者である。
近藤は老中に交渉し、この階級の差別を撤廃せしめ、かつ弾左衛門をして旗本に取りたてる手続きをとってやった。
弾左衛門は大いによろこび、
「人数と軍資金をさしだしましょう」
と、金は一万両、人数は二百人を近藤の指揮下に入れた。
土方は、これら新徴の連中に洋式軍服を着せ、即成の洋式調練をほどこした。
調練といっても、ミニエー銃(元込め銃)の操法だけだが、近藤は、
「歳、いつのまに身につけた」
と、おどろいた。
徳川家からは、砲二門、小銃五百挺が支給され、軍の基礎はほぼ成り、名称は、
「甲陽鎮撫隊」
とした。
幹部は、新選組旧隊士である。
入院加療者のほかに十数人が脱走したため、二十人足らずにまで減ってしまっていた。
しかし、近藤は毎日上機嫌であった。
ある日、歳三が調練から帰ると、
「歳、これが甲府城(舞鶴城)の見取図だ」
とひろげてみせた。
「ふむ」
歳三は、ほぼ見当がつくし、江戸から甲府への道(甲州街道)も、若いころ薬の行商をして何度往復したかわからない。
予想戦場として、これほど都合のいい地方はなかった。
「甲州をおさえた場合、それぞれの石高をおれは考えてみた」
「ふむ」
歳三は、近藤の顔をみた。
相好《そうごう》をくずしている。
「おれは十万石、これは動くまい。歳には五万石をくれてやる」
「………」
「総司(沖田)のやつは病気だが、これには三万石。永倉新八、原田左之助、斎藤一ら副長助勤にも三万石。大石鍬次郎ら監察には一万石、島田魁ら伍長連中には五千石、平隊士にも均等に千石」
「ほう」
「どうだ、右は老中にも話してある。諒承も得た」
「あんたは、いい人だな」
歳三は、本心から思った。
幕府瓦解のときに、大名になることを考えた男は、近藤勇ただ一人であったろう。
「戦国の世にうまれておれば、一国一城のあるじになったひとだ」
「そうかね」
「ただ、いまは戦国の世じゃねえよ。たとえ薩長をぶち破って徳川の世を再来させえたとしても、大名制度は復活すまい。フランス国と同様、郡県制度にしようという考えが、大政奉還以前から、幕閣の一部にはあったときいている」
「洋夷《ようい》かぶれのばかげた意見さ。権現様《ごんげんさま》以来の祖法てものがある」
「まあ、どっちでもいいことだ」
歳三は、作戦計画に没頭していた。致命的なことは、兵力の不足であった。せめて二千人はほしかった。
(二百余人で果して甲州がとれるか)
甲府城に入城すれば、土地の農民によびかけて、増兵をする予定ではいる。それがうまくゆくか、どうか。
「なに、大丈夫さ。城をとれば、すでに百万石の領主と同然だ。郷士、庄屋に命じて村々で壮士を選ばせれば、万はあつまる」
と、近藤は楽観的であった。
なるほどそうかも知れない、と歳三はおもった。世情が、こうこんとんとしてしまった以上、何事もやってみる以外に見当のつけようがない。
出発にさきだって、歳三は平隊士数人をつれ、神田和泉橋の医学所の一隅で寝ている沖田総司の病状を見舞った。
見舞った、というより、医学所は、もう閉鎖同然になり医者もいなくなっていたから、沖田の体を別の場所に移すためであった。
総司のただ一人の肉親である姉のお光、それにお光の婿沖田林太郎(庄内藩預り新徴組隊士)も一緒だった。
あたらしい療養場所は、林太郎の懇意で千駄ケ谷池橋尻に住む植木屋平五郎方の離れをかりることになっている。
沖田はすっかり病み衰えていたが、声だけは意外に張りがあり、
「土方さん、私は三万石だそうですね」
と、くすくす笑った。
「なんだ、近藤がいったのか」
「いいえ、先日、見舞いにきた相馬《そうま》主計《かずえ》君が教えてくれましたよ」
(すると、近藤は一同に話したらしいな)
近藤にすれば、士気を鼓舞するつもりで、打ちあけたのだろう。
しかし相馬などは、沖田を見舞いにきたその足で脱走してしまっている。万石、千石の夢も、もはや隊士を釣れなくなっている証拠であった。
「総司、よくなれよ」
「ええ、三万石のためにもね」
と、沖田はまたくすっと笑った。
歳三は、千駄ケ谷の植木屋まで沖田を送ると、その足で屯所へもどった。
あすは、甲州へ発つ。
(こんどこそ、洋式銃で対等の戦さをしてみごと伏見のあだを討ってやる)
二重《ふたえ》の厚ぼったい眼が、あいかわらずきらきらと光っていた。
[#改ページ]
甲 州 進 撃
近藤、歳三の正面の敵になった「官軍」東山道方面軍は、洋式装備の土佐、薩摩、長州の諸藩兵を主力とし、これに旧装備の因州藩兵などがくわわり、参謀(指揮官)は、土佐藩士|乾《いぬい》退助(板垣、のち伯爵)である。
二月十三日、出陣の土佐藩兵は、京都藩邸で酒を頂戴し、老公山内容堂から、
「天|尚《なお》寒し、自愛せよ」
という有名な言葉をたまわった。「二月とはいえ、野戦は寒い。風邪をひくな」という意味だ。これをきいて「一軍、皆な踴躍《ようやく》す」と、鯨海酔侯《げいかいすいこう》という書物にある。
翌十四日早暁、京都御所を拝み、砲車をひいて京を出発。
三日目に大垣に入り、総指揮官乾退助は、ここで姓名を板垣退助にあらためている。
じつは出発にあたって、岩倉具視が、
「甲州の人間というのは気が荒っぽくて天下に有名だ。ただ、武田信玄の遺風を慕う気持がつよい。そこを考えて民情を安んぜよ」
といった。
偶然なことだが、退助の乾家には、その先祖は信玄の麾下《きか》の名将板垣|駿河守《するがのかみ》信形の血をひく、という家系伝説がある。
だから陣中ながら板垣とあらため、甲州へ間諜をはなって、
「こんどの官軍の大将は、土佐人ながら遠くは甲州の出身である。しかも信玄の猛将板垣駿河守の子孫であり、信玄公をうやまうこと神を見るがごとくである」
と流布せしめた。
この奇妙な宣伝が甲州人にあたえた影響は大きく、最初は徳川びいきであったものが、にわかに「天朝」びいきになった。
官軍の総隊がいよいよ甲州の隣国信州に入り、上諏訪、下諏訪に着陣したのは、三月一日のことである。
この同じ日に、近藤、歳三ら新選組を主軸とする「甲陽鎮撫隊」二百人が、江戸四谷の大木戸を、甲州にむかって出発した。
第一日の行軍は、わずか三キロ。
歩いたとおもえば、はや、
「新宿の遊女屋泊り」
という行軍であった。新宿の遊女屋をぜんぶ隊で借りきった。
「歳、にがい顔をするもんじゃねえ」
と、近藤は、いった。
「これも戦法だ」
近藤のいうとおりである。二十数人の新選組隊士をのぞいては、みな、刀の差し方も知らぬ浅草弾左衛門の子分どもで、これをにわかに戦《いく》さ場《ば》にかり出すには、それなりの手練手管が要《い》った。
「まあ、見ておれ、一ツ屋根の下で女を抱くと、あくる日は、一年も一ツ釜のめしを食ったようにぴしっと二百人の呼吸があうものだ」
歳三だけは、高松喜六という宿でとまり、女をちかづけなかった。
隊士が気をつかったが、近藤は、捨てておけ、といった。
「あいつは年若のころから猫のようなやつで、ひと前では色事をしない」
翌朝、出発。
近藤は、長棒引戸の駕籠に大名然と乗り、歳三は洋服、陣羽織姿で馬上、先頭をゆく。
斎藤、原田、尾形、永倉ら幹部は、旗本のかぶる青だたき裏金《うらきん》輪抜けの陣笠に陣羽織、平隊士は、綿入れの筒袖に撃剣の胴をつけ、白もめんの帯をぐるぐる巻きにして大小をさし、下はズボンにわらじばきである。
新募集の連中は、幕府歩兵の服装で、柳行李の背嚢《はいのう》を背おい、ミニエー銃をかついでいた。
服装からみても、雑軍である。
この戦闘部隊のなかで、近藤の大名駕籠がいかにも珍無類で、異彩を放った。
歳三が、
「戦さにゆくのだよ。その駕籠はよせ」
といったが、近藤はきかない。
「歳よ、お前は学がねえから知るまいが、唐《から》の故事に、出世して故郷に帰らぬのは夜《よる》錦をきて歩くようなものだ、ということがある」
といった。
途中、近藤や歳三の故郷の南多摩地方を通るのである。
「大名になったのだ」
というところを、近藤は故郷のひとびとにみせたかったのであろう。
滑稽といえばこっけいだが、近藤にはそういう男くさいところが多分にあった。男くさいというのは子供っぽいということと同義語である。子供のように権勢にあこがれ、それを得ると無邪気によろこぶし、図に乗って無我夢中の行動力を発揮する。
(やはり戦国の豪傑だ)
と、歳三はおもわざるをえない。
行軍第二日目は、府中にとまった。この府中では、故郷の連中が押しかけてきて、大へんな酒宴さわぎになった。
第三日目の昼、日野宿にさしかかった。
「歳、日野だぜ」
と、近藤は、引戸をあけて、懐しそうにさけんだ。
(日野だな)
歳三も、感無量である。
ここの名主佐藤彦五郎は、歳三の姉の婚家で、同時に天然理心流の保護者であり、新選組結成当時、金銭的にもずいぶん応援もしてくれた。いわば、新選組発祥の地といっていい。
「歳、きょうは、日野泊りにしようか」
と、近藤は宿場の入口にさしかかったとき相好をくずしていった。
「まだ、昼だよ」
歳三は苦笑した。
甲州街道ぞい日野宿のまんなかあたりに、佐藤彦五郎の屋敷がある。なにしろ、日野本郷三千石の管理者だから、屋敷は宏壮なものだ。
その孫佐藤仁翁が書きのこして現在同家に蔵せられている「籬蔭《りいん》史話」という草稿には、
「隊員一同、表庭や門前街路に休憩した」
とある。以下、その文章をひこう。
駕籠より出た近藤は、髪を後ろにたばね丸羽織に白緒の草履をはき、表庭を玄関へあるいてくる。
近藤は、彦五郎とともに出迎えていたかれの老父の源之助の顔を遠くからニコニコ笑いながら見て、
「やあ、お丈夫ですな」
と声をかけた。これから戦争にゆくというような風は、すこしも見えなかった。
土方歳三は、総髪で洋服姿であった。
一同を奥の間へ招じ入れた彦五郎はひさしぶりのよろこびで、珍味佳肴をそろえて大いにもてなした。
酒盃をとった近藤は、負傷の右手が胸ぐらいしかあがらず、すこし痛い、と顔をしかめたが、
「なにこっちなら、このとおり」
と左手でグイグイとのんだ。
近藤は、あまり酒をたしなまない。グイグイといっても、おそらく、二、三ばいぐらいのものだったのだろうが、それほど意気軒昂としていたのであろう。
「そのあいだに歳三は」
と、この記録にはある。
席をはずして別室へゆき、姉のおのぶに会った。末弟の自分を母親がわりにそだててくれた姉である(記録者仁氏の祖母にあたる)。
「しばらくでした」
と、歳三は鄭重にあいさつし、用意の風呂敷を解いた。
「それはなんですか」
おのぶは、のぞきこんだ。なかから、真赤な縮緬地《ちりめんじ》のものが出てきた。
むかしの絵巻物などで、騎馬武者が背負っている母衣《ほろ》である。ふわりと風が入るものでおそらく二、三間はあるだろう。
「母衣ですね」
と、おのぶがいった。
「よくご存じですな」
「そりゃ」
おのぶは手短く、
「武者絵なんかで見ますから。しかしなぜこんなものをあなたがお持ちです」
「書院番頭《しよいんばんがしら》に召し出されたとき、将軍家から拝領したものです」
「ずいぶんと出世したものですね」
「出世、かな」
歳三は、自問するように首をひねって、
「ただ、身をもって時勢の変転を見た、ということではおもしろかった。多摩の百姓の末っ子が大旗本にまでなった、というのも変転のひとつですよ。出世じゃない」
「このさき、どうなるのです」
「この将来《さき》ですか」
と、歳三は声をおとしたが、すぐ、この男にはめずらしく高声で笑ってごまかしてしまった。
と、記録にはある。
母衣は、当家に残しておく、といった。
「こんな拝領のお品を」
と、おのぶは迷惑がったが、
「なあに、子供の振り袖でも仕立てればいいでしょう。いいんだ」
と、くるくるとまるめて押しやった。
歳三が姉と別室にいるとき、にわかに台所の土間のほうがさわがしくなった。隊士が応対に出てみると、この日野宿界隈の血気の連中が、きっかり六十人、土間に土下座している。そのうちの代表が平伏して、
「ぜひとも、近藤先生に拝謁しとうござりまする」
といった。その代表のいうところでは、|拝謁《ヽヽ》してお言葉を頂戴したいし、できれば人数にくわえてもらいたい、というのである。
「ああ、いいよ」
と、近藤は奥の間で、盃をおいた。顔が、自然と笑ってしまっている。近藤の生涯でのもっとも得意な瞬間であったろう。
六十人の若者たちは、いずれも郷党の後輩であったが、みな天然理心流をかじっていて、その宗家の近藤からみれば、たがいに面識はなくても「師弟」であった。
「では」
と、近藤は酒席をたちあがった。
羽織は、黒羽二重《くろはぶたえ》。
しかも葵《あおい》の五つ紋のついた将軍家拝領のものである。
背後に太刀持の小姓がついている。大名然としたものである(ちなみに、この太刀持の小姓は、井上泰助といい、当時十三歳。結党以来の同志だったこの地方出身の井上源三郎の甥である。井上源三郎は既述のように伏見奉行所の戦闘で戦死。泰助はそれ以前に京に近藤の小姓としてのぼっていたが、このあと、佐藤家に残された。のち、泰助の妹が沖田総司の甥芳次郎にとつぎ、その沖田家の家系が立川にのこっている)。やがてふすまがひらき、近藤がゆったりと出てきた。
一同、土間に平伏した。
近藤、表座敷の中央にすわり、
「諸君、ご健勝でなによりです」
と、微笑した。
異様な感動が、土間にうずまいた。
泣くようにして、従軍をねがい出た。
「いやいや、それはゆるされぬ」
と、近藤は、笑顔のままいった。極力、その申し出をことわった。近藤としては、これ以上、郷党の血をながすのにしのびなかったのであろう。
このあたり、近藤の正気は残っている。
が、この連中がたって泣訴したため、独身次男以下の者三十人をえらび、「春日隊《かすがたい》」と名づけて同行することにした。
「時も移る。早く出発しよう」
と歳三がせきたてたが、近藤はなお、土間の連中に京での手柄話を物語って、腰をあげない。
歳三は、性分なのであろう、郷党の連中に微笑さえあたえなかった。このため後年までこの地方に、
――土方というひとは権式ばったいやなひとであった。
という口碑がのこっている。
この日、慶応四年(明治元年)三月三日で、関東、甲信越地方は、春にはめずらしく雪がふった。
「歳、雪だよ」
近藤はこのまま、日野宿で腰をすえたいつもりらしかった。
このおなじ日、板垣退助以下の官軍三千は、全軍上諏訪の宿営地を進発し、甲府にむかって雪中行軍を開始した。
主力の土佐兵は南国そだちだけに、寒気に弱く、銃把《じゆうは》をにぎれぬほどに手をこごえさせて、行軍した。
馬上の板垣退助は、諸隊に伝令を出し、
「天なお寒し、自愛せよ」
との藩の老公のことばをとなえさせた。風邪をひくな、というほどの意味だが、唱えているうちに、かれらの胸に譜代の士卒独特の感情がわきあがって、士気はとみにふるった。
そのころ、日野宿の佐藤屋敷に斥候が駈けもどってきて、甲信方面のうわさを伝えた。
官軍がすでに上諏訪、下諏訪にまで来ているという。
「えっ、そこまできているのか」
とは、近藤はいわなかった。しかし表情におどろきが出ている。
「歳、行こう」
近藤は、別室にしりぞき、いそいで羽織をぬぎすてて鎖《くさり》帷子《かたびら》を着込み、撃剣の胴をつけ、陣羽織をはおった。
駕籠もすてた。
わらじをはき、二、三度土間で踏みしめてから、
「馬をひけ」
と、門を出た。顔が赤い。その頬を、どっと吹雪がたたいた。
「ひでえ、雪だ」
と、馬上のひとになった。もう、往年の近藤にもどっている。
軍が、動きだした。
が、すぐ陽が落ち、与瀬に宿泊。
一方、官軍の一部先鋒部隊はその夜行軍をして早暁にははやくも甲府城下に入った。
官軍代表はただちに使いを城中に出し、城代佐藤駿河守、代官中山精一郎に本営に来るよう申しわたした。
むろん佐藤、中山は決戦の意をかためていたが、かんじんの近藤勇が来ない。
「新選組はなにをしているのだ」
と、青くなった。
新選組が先着しておれば、籠城決戦という手はずがきめられていたのである。
「やむをえぬ。近藤の到着まで、できるだけ時間をかせぐことだ」
と、佐藤駿河守は、とりあえず恭順をよそおって官軍先鋒の本営へ行った。
官軍側は、城中の武器いっさいを城外に出したうえで開城するよう申しわたした。
「委細承知つかまつっております。なにぶん火急のことでございますから、城中ととのいませぬ。開城の日時は、武器お引渡しの手はずがととのい次第おしらせします」
と、佐藤駿河守はとりあえず官軍をおさえ、城内にもどってひたすらに新選組の来着を待った。
が、官軍側も油断がない。
甲州街道ぞいにしきりと諜者をはなって情報をあつめていると、
「幕将大久保|大和《やまと》(近藤)なる者、甲府鎮撫を名とし急行進軍しつつあり、今夜中にかならず甲府に入るであろう」
という情報に接した。
「一刻をあらそう」
と、官軍先鋒も判断し、少数部隊ながらも一挙に城を接収するために佐藤駿河守の期日通告を待たずに城にせまった。
佐藤はおどろき、やむなく開城、官軍に城を渡してしまった。
その日、近藤らは笹子峠を越してようやく駒飼《こまかい》の山村に入っている。
駒飼に宿営した。この山村から、山路はくだる一方で、もはや甲府盆地は、あと二里である。盆地におりれば激戦が待っているであろう。
隊の連中は、民家に宿営した。
ところが、それらの民家にはすでに甲府での官軍の入城、軍容が細大もらさず伝わっている。
新徴の隊士は村民からそれらをきき、大いに動揺して、その夜のうちに半分いなくなった。
近藤はこれには閉口し、
「会津の援兵が来る」
と隊内で宣伝したが、動揺はおさえられない。
「歳、どうする」
と、相談した。もう長棒引戸の大名駕籠に乗っていたときの得意の顔色はない。
「ちょっと、神奈川へ行ってくる」
と歳三は、立ちあがった。神奈川には、幕軍で菜葉隊《なつぱたい》というのが、千六百人駐屯している。これに急援をたのむつもりだった。
「この夜分に?」
「仕方あるまい」
本営から馬をひきだすと、ただ一騎、提灯もつけずに駈けだした。
が、すでにおそく、官軍側は、甲陽鎮撫隊の動向を偵察しきっていて、土州の谷守部(のちの干城、中将)らを隊長とする攻撃隊が準備をととのえつつあった。
しかし、当面の敵が、まさか、すぐる年京で土州藩士を多数斬った新選組であろうとは、かれらもそこまで偵知していない。
[#改ページ]
勝沼の戦い
歳三はただ一騎、山路を縫い、谷川を駈けわたり、村々を疾風のようにかけぬけて、神奈川の菜葉隊本営へむかってはしった。
「援軍依頼」
これ以外に、甲州で勝つ手はない。
(それまで近藤が、もちこたえてくれるかどうか)
いや、近藤ならやるだろう。当代、戦さをやれば、じぶんと近藤ほどつよい者はないという信念が、歳三のどこかにある。京における新選組の歴史がそれを証明するであろう。
夜がふけ、やがて朝がちかづいた。
歳三は必死に駈けた。
さいわい、雪中である。視界はしらじらとして、燈火がなくともさほどの不自由さはなかった。
小仏峠を越えたとき、あたりがぱっと白《しら》んだ。陽が昇った。
その刻限、駒飼の名主屋敷を本陣として一泊した近藤は、ゆうゆうと朝の陽のなかに出た。
庭を散歩しはじめた。
やどを貸している名主は、
(大久保大和などというお旗本は武鑑にも出ていないが、さすが一党の大将だな)
と感嘆したという。
近藤は屋敷うちをひとまわりまわってから隊士十人をあつめ、それぞれに同文の書きつけをわたし、
「近郷の村々に行っていそぎ兵をつのるように」
と、出発させた。
書きつけには、近藤の自筆で、
徳川家御為に尽力致し候輩《やから》は、御挽回の後、恩賞可|致《いたすべき》者也《ものなり》
大久保大和|昌宜《まさよし》
とある。
近藤は徳川家の|御挽《ヽヽ》回《ヽ》を信じていたし、甲州百万石の夢もすてていなかった。
甲州の農村にも、近藤同様、夢のある血気者が多いとみえて、夕ぐれまでにみるからに屈強な連中が、二十人ほどあつまってきた。
そのなかで、いかにも眼つきの油断ならぬ若者がいて、他の甲州者はひどくこの男に遠慮をしている。
「君は何者かね」
と、近藤はすぐ眼をつけた。
「雨宮《あめのみや》敬次郎」
ふてぶてしく答える。
「苗字《みようじ》をゆるされているのか」
「いかにも」
甲州東山梨郡の小さな庄屋の息子である。
近藤は、さらにたずねた。
「ご紋をみるに、マルに上の字とは見なれぬ御家紋だが、なにか由緒がおありなのか」
「武田信玄の部将、雨宮山城守正重を家祖とし、武田家滅亡後は野にかくれて三百年、里正《りせい》(名主・庄屋)をつとめます。いま天下争乱に際遇し、ぜひ功名をたてて家を興し先祖の武名をあげたいと存ずる」
ひどい甲州なまりである。
「それはご殊勝な」
と、近藤もかたちをあらためた。自分もだんだん戦国の武将のような気持になってきたらしい。
「われら甲陽鎮撫隊は、前将軍家(慶喜)から甲州百万石の沙汰をまかされている。西軍を追ってみごと斬りとらば、働きに応じ、十分の恩賞を頂戴できます」
「ありがたいことです」
「貴下を甲州組の組頭にしたいが、ほかのかたがた、ご異存はござらんな」
「ありませぬ」
くちぐちにとなえた。
この雨宮敬次郎、このときは正気で甲州ぶんどりを考えたらしい。
こののち変転し、明治十三年、今後はパンの需要がたかまるに相違ないとみて、東京深川に小麦製粉所を作って大もうけをし、そののち各種の投機事業にくびをつっこんで、そのほとんどに成功した。もっとも、東京市水道鉄管事件という疑獄で投獄されたが、出獄後、市電の敷設にはしりまわったり、川越鉄道、甲武鉄道、北海道炭礦などに関係して巨富を得た。明治四十四年、死去。
「さて、雨宮君、さっそくだが」
と、地図の上の勝沼をさした。
「ここに貴隊をもって、関所をつくってもらいたい」
勝沼は、この駒飼の山中から甲府盆地におりたところにある宿場で、三里足らず。
近藤は、ここを防衛の最前線とし、歳三の援軍の到着しだい、勝沼から五里むこうの甲府城におしだそうと考えていた。
雨宮らは、荷車に柵をつくる材木をつみあげ、近藤からもらったミニエー銃をかつぎ、威風堂々と山をおりていった。
「ちえっ」
原田左之助は、そのあまりにも堂々とした雨宮のうしろ姿に舌打ちをした。
「火事場泥棒め」といいたかったところだろう。
さらに近藤は、本営をわずかに前進させることとし、柏尾《かしお》(いまは勝沼町にふくまれる)を要害とみて、ここに野戦築城をすることにした。
柏尾は、もう眼の下に甲府盆地を見おろす街道ぞいの山村で、たしかに要害といっていい。
陣地は、村のひがしの丘陵(柏尾山)にもうけ、神願沢《じんがんざわ》の水を堀に見たて、街道の橋をきりおとした。
さらに丘陵に砲二門をひっぱりあげて眼下の街道をななめ射ちできるようにし、街道のあちこちに鹿砦《ろくさい》を植えこんだ。
一方、甲府城に入った官軍指揮官板垣退助のもとに、ひんぴんと情報が入っている。
「柏尾に、しきりと東軍が出没している」
というのである。
「例の大久保大和という人物だな」
この名は、武鑑でしらべ、甲州開城のときに旧藩士にもきいたが、ついに正体が知れないままである。
板垣退助ら土佐人は、新選組をにくむこともっともはなはだしい。もし近藤とわかればただでおかない下地がある。なぜなら、新選組が京で斬った人数を藩別にすれば、長州人よりもむしろ土佐人が多かった。薩摩人への加害は皆無だったが。
板垣は、一情報では、敵将の名が、
「近藤勇平」
であるともきいている。事実、近藤は、ふた通りの変名をつかったのだが、このときも、まさか近藤勇であるとはおもわなかった。
とにかく、板垣は、土佐藩よりすぐりの指揮官五人をえらび、進発させた。
谷守部
片岡健吉(のちの自由民権運動家・衆議院議長)
小笠原謙吉
長谷重喜
北村長兵衛
谷守部は、鳥羽伏見いらい官軍が遭遇する最初の敵とあって用心ぶかい態度をとり、しきりと斥候をはなって敵情をさぐったが、人数千人といううわさもあり、さらに数万の後続部隊が来る、といううわさもあって、どうもよくわからない。
いずれも、近藤が、村々にむかってとばした虚報である。
「とにかく、ぶちあたることだ」
と、砲隊長の北村長兵衛がいった。
かくて、北村の砲兵を先頭に勝沼へむかって前進しはじめた。この時代の砲は射程がみじかいため、軍の先頭をゆくのが常識であった。
すでに天は晴れ、山野の雪もとけはじめている。
勝沼の宿場に入ったとき、北村長兵衛は大胆にも兵五、六人をつれ、砲二門を急進させて町の中央に出た。
その街道中央に、例の急造の関所がひかえている。守備兵は雨宮敬次郎ら十人ほどの甲州組である。
北村長兵衛は、赤毛のシャグマをなびかせて、柵にあゆみよった。
「この天下の公道に、柵をもうけさせたのはたれかね。ひらきなさい」
時候のあいさつでもするように、ゆっくりといった。
柵内では雨宮が進み出て、
「開けるわけにはいかぬ」
にべもなくいった。
「おや、なぜだろう」
「隊長の命でここを守っている。隊長の命がなければあけられぬ」
「隊長の名は、何という」
「知らぬ」
「そうか、ではやむをえぬ」
北村はうしろの砲にむかって、
「射ちかた用意」
命じすてて左側の旅籠の軒下にとびこむや、射て、と命じた。
轟《ごう》っ
と、四斤山砲が火を噴いた。
発射煙がしずまったとき、すでに柵内には人がなく、はるかむこうを雨宮敬次郎ら十人がころぶように逃げていた。砲弾はその頭上をこえて、むこうに炸裂した(雨宮はどうやらこのまま逃げっぱなしで横浜へ行ったらしい)。
柵をひらいて北村らがとびこみ、勝沼の宿場じゅう捜索したが、もう敵兵はひとりもいない。
宿場の者にきくと、
「守兵はあの連中だけだった」
という。
この勝沼宿場での発砲が、東征軍の最初の砲声だったことになる。
谷守部がやってきて、
「敵は柏尾山にいる。この勝沼を前哨線として柵を作ったのだろう。それが十人そこそこの人数だとすると、柏尾の本陣の人数はその二十倍もあるまい」
そう計算した。ほぼ的中している。
即座に、前進した。
近藤は、柏尾山上にいる。
「来た」
と、原田左之助がのびあがった。
「近藤先生、赤のシャグマだとすると、土州の連中ですよ」
薩州が黒、長州が白、土州が赤、ということにきまっている。
この三藩はすべて洋式化されていたが、それでも戦闘法に特徴があり、おなじ小銃射撃法でも長州は臥射《ねうち》、薩州は立射《たちうち》、土州は射撃をすぐやめて斬りこみをやった。
「土佐か」
近藤には、とりわけて敵に対する知識はなかったが、おもいだされるのは京のことである。
「池田屋では、土佐のやつをずいぶん斬ったものだ。野老《ところ》山《やま》五吉郎、石川潤次郎、北添|佶麿《よしまろ》、望月亀弥太……」
「そうだったねえ」
原田左之助も、往事をおもって茫然たる顔つきである。
「それから、天王山の一番乗り」
と、横で、永倉新八がいった。
元治元年蛤御門ノ変で、長州軍が敗走し、そのうちの浪士隊が天王山にこもった。幕軍がこれを包囲し、新選組がまっさきかけて駈けのぼった。
が、そこには真木和泉ら十七人の志士の自刃死体があっただけである。そのうち土州浪士は、松山深蔵、千屋菊次郎、能勢達太郎、安藤真之助。
「時勢もかわればかわるものだ」
近藤は、往事の夢がさめやらぬおももちでいる。
「永倉君。池田屋では、最初、君などと五人で斬りこんだものだった。それでもどうとも思わなかったが」
いまは、ちがう。
当時は、京都守護職から動員された諸藩の警戒兵が三千もあり、その包囲警戒のなかで新選組は、ぞんぶんにきりこむことができた。
当時は時流に乗ったからこそ働けたが、いまは相手が時流に乗ってきている。
近藤の天然理心流の術語でいえば、双方の「気組《きぐみ》」の差が大きい。
(はて、戦さになるかどうか)
にわか募集の兵は、大半逃げてしまって、残っている連中も、山肌にはりついて動かない。
「尾形君」
と、近藤は、眼下の街道わきに身をよせている尾形俊太郎をよんだ。
「敵が近づいている。そろそろ橋むこうに火をかけたほうがいいだろう」
「承知しました」
尾形は、農兵十人ほどに松明《たいまつ》をもたせ、橋むこうに突進して、たちまち民家数軒に火をかけた。
ぼーっ、と数条の火があがり、もうもうたる白煙が、近藤陣地の前面を覆いはじめた。古法による戦術で、煙幕の役目をはたすし、民家も敵の銃隊に利用されることをふせげる。
この白煙を、谷守部らがみて、ほぼ敵陣地の位置がわかった。
「兵を三道にわかとう」
と、谷守部は敵陣の地形を遠望しながらいった。諸隊長も、賛成した。
谷自身は、五十人に砲二門をひきいて本街道を直進する。
片岡健吉、小笠原謙吉は、五百人をひきいて敵前面の日川《ひかわ》をわたり、右手の山をよじのぼって進む。
長谷重喜は左手の山にのぼって、山上、街道上の敵を乱撃しつつ前進する。
「では」
と、谷守部がうなずくと、諸隊長は四方に走って自隊にもどり、ただちに前進した。この軽快さは、組織された藩兵の強味である。
やがて日川東岸に達すると、双方、猛烈な射撃戦を開始した。
近藤は山上に突っ立った。
(歳はまだ帰らんか)
ふと背後を見わたしたが、鬼神でもないかぎり、こう早くは神奈川との往復ができるはずがない。
「射て、射て」
近藤は、馴れぬ射撃指揮をしていたが、にわか集めの射手たちは、ミニエー銃を一発ぶっぱなしては十歩逃げるという|てい《ヽヽ》たら《ヽヽ》く《ヽ》で、どうみても戦さをするかっこうではない。
「やむをえぬ。斬りこめ」
近藤は、どなった。が、往年の新選組幹部たちは、みな銃隊の指揮者になって、あちこちに散らばっているために、結束した白兵《はくひよう》部隊にはならない。
近藤のそばには、「近習《きんじゆう》」として、京都以来の平隊士三品一郎、松原新太郎、佐久間健助などがいる。
これらが抜きつれた。
前面の稜線《りようせん》上にすでに敵が這いあがってきて、眼鼻だちまではっきりとみえる。
「斬りこめ」
近藤は、走った。右手がきかないために、刀を左手にもっている。
衝突した土州部隊は、小笠原謙吉の隊である。先鋒のみだから十数人しかいない。
山上で、乱闘になった。
近藤は、左手ながらもすさまじく働き、たちまち土州兵三人を斬りすて、さらに荒れくるった。
(何者だ)
と、小笠原謙吉はおもった。小笠原は槍術の妙手といわれた男だが、むろん槍を戦場にもってきていない。
剣をぬいて戦った。
近藤に肉薄しようとして、一隊士(松原新太郎か)に邪魔された。
とびあがりざま、松原の肩を斬った。松原がよろめくところを、小笠原隊の半隊長今村和助が、背後から斬りさげ、さらにとどめを刺した。あとでこの松原(?)の刀を検分すると、撃《う》ち痕《あと》がみなつばもとから五寸以内にあり、|つば《ヽヽ》ぜり《ヽヽ》あい《ヽヽ》の激闘をしたことを思わせる。
近藤は、敵の人数がいよいよふえてくるのに閉口し、
「退《ひ》くんだ」
と一令すると、すばやく背後の松林に逃げこみ、さらに笹子峠にむかって退却しはじめた。
笹子峠で敗兵をまとめ、攻めのぼってくる敵にさらに一撃をあたえようとしたが、原田左之助が気のない顔で、
「よそう」
といった。
「そうか、八王子まで退くか」
八王子までひきあげると、兵はもう五十そこそこになっている。
「いかん、江戸まで帰ろう」
と、ここで甲陽鎮撫隊を解散し、新選組はそれぞれ平服にきかえて、三々五々、江戸へ落ちることにした。
そのころ歳三も、東海道を江戸へむかって走っていた。
神奈川で援軍をことわられ、この上は江戸へもどって前将軍慶喜にかけあい、直接兵を借りようとおもったのである。
むろん、歳三は、甲州で近藤がすでに潰走していようとは、夢にも知らない。
[#改ページ]
流 山 屯 集
「いや惨敗。夢、夢だな」
近藤は、神田|和泉《いずみ》橋《ばし》の医学所のベッドのうえで、高笑いをした。
声がうつろである。
故郷の南多摩の連中が、野菜をかついで見舞いにきているのである。
ガラス窓に三月の陽ざしがあたって、室内は体が饐《す》えるようにあったかい。
「どうも甲州くんだりまで行って、得たものというのは古傷の破れだけさ。官軍がああも早く甲府城に入っているとは知らなかった」
「官軍の先鋒はもう武州|深谷《ふかや》にまできているといううわさですよ」
と、ひとりがいった。
事実である。官軍総督府では、江戸城進撃の日を三月十五日ときめていた。
この日、三月七日。江戸もあとわずかの命脈である。そこへ歳三がすっかりやつれた顔で入ってきた。江戸へ敗退した近藤をさがしもとめて、やっとつきとめてやってきたのである。
「済まぬ」
歳三は頭を垂れた。
神奈川、江戸、と八方かけまわって援軍をたのんだが、ついに一兵も得られなかった。
「敗軍はおれのせいだった」
「なあに、歳」
近藤は、時勢をなかばあきらめはじめている。
「あのときたとえ援軍が来ていても手遅れよ。西からきた官軍の足のほうが早かった。足の競走だから、こいつは恥にもならない」
やがて、八王子でちりぢりばらばらになった原田左之助、永倉新八、林信太郎、前野五郎、中条常八郎ら、新選組の同志がやってきた。
「ずいぶん探した」
と、永倉がいった。
再挙を相談したい、と永倉、原田は、敗戦のつかれなどはすこしもない。
「今宵、日が暮れてから、深川森下の大久保|主膳正《しゆぜんのしよう》殿の屋敷に集まってもらえまいか」
と永倉新八はいうのだ。
(おや、いつのまに永倉、原田が隊の主導権をにぎった)
と歳三は内心不快だったが、よく考えてみると、隊などはどこにもない。みな、いまでは個人にもどってしまっている。個人としても、永倉、原田、いずれも大御番組の身分で、りっぱな徳川家の家臣である。
「集まっていただけましょうな」
と永倉が念をおすと、近藤はべつに気にとめるふうもなく、行くよ、とうなずいた。
近藤、歳三のふたりは、その夕、大久保屋敷に行った。主人の主膳正は、最近まで京都の町奉行だった男だから、近藤も歳三もよく知っている。
会合はその書院を借りた。
すでに五、六人、頭数がそろっていたから近藤は、やあやあ、といって上座についた。
酒肴が出る。
このころ、前将軍慶喜は上野寛永寺に蟄居して月代《さかやき》も剃らず、ひたすらに謹慎恭順の態度を持していた。
幕下の抗戦派に不穏の動きが多いときき、しばしば諭《さと》し、江戸城決戦論の首魁《しゆかい》と思われる海軍の榎本武揚、陸軍の松平太郎に対してはわざわざ召致して、「そちらの言動は、予の頭《こうべ》に刃を加えるのと同然である」と思いとどまらせた。
しかし、旧幕臣有志の動きは、前将軍の説諭ぐらいではおさえきれず、すでに先月十二日、十七日、二十一日の三回にわたる幕臣有志の会合の結果、彰義隊がうまれつつある。
前将軍慶喜は、これら徳川家臣団の動きに対して、
「無頼の壮士」
という言葉をつかっている(高橋泥舟への談話)。
一方、官軍に対し江戸攻撃の中止を嘆願するため、さまざまの手をうっていた。
勝海舟、山岡鉄舟が、慶喜の意をうけて官軍慰撫の工作にとりかかったのも、このころである。
一説では、近藤勇に対し、幕府の金庫から五千両の軍資金をあたえ、砲二門、小銃五百挺を貸与して「甲陽鎮撫隊」を組織させ、甲州百万石の好餌をあたえて勇躍江戸を去らしめたのも、勝の工作だという。
「新選組に対する薩長土の恨みはつよい。あの連中が、前将軍への忠勤々々といって江戸府内にいるかぎり、官軍の感情はやわらぐまい。追いはなつにかぎる」
ということだったらしい。
考えてみれば、話がうますぎた。窮乏しきっている旧幕府から五千両の大金がすらりと出たというのもふしぎだし、「甲州百万石うんぬん」というのもそう言質《げんち》をあたえれば近藤がよろこびそうだ、ということを、慶喜も勝も知りぬいていたのであろう。
旧幕府にとって、いまは、新選組の名前は重荷になりつつある。近藤、土方を幕下にかかえている、というだけで、徳川家、江戸城、さらには江戸の府民がどうなるかわからぬ、ということさえいえそうである。
もっとも、余談だが。
明治九年、歳三の兄糟谷良循、甥土方隼人、近藤の養子勇五郎らが、高幡不動境内(日野市)にこの両人の碑をつくろうとし、撰文を大槻磐渓に依頼し、書を軍医頭松本順にたのんだ。日ならず、文章と書はできた。
ただ碑の篆額《てんがく》の文字を徳川慶喜にたのもうとし、旧幕府の典医頭だった松本順が伺候し、家令小栗尚三を通じて意向をうかがったところ、慶喜は往時を回想するように顔をあげ、
「………」
と両人の名をつぶやいて、書くとも書かぬともいわない。
家令小栗がかさねていうと、
「近藤、土方か。――」
とふたたびつぶやき、せきあげるようにして落涙した。
「御書面(碑文の草稿)をそのまま御覧に入れ候ところ、くりかへし御覧になられ、ただ御無言にて御落涙を催され候あひだ、御揮毫《ごきごう》相成り候や否や、伺ひあげ候ところ、なんとも御申し聞かせこれなく、なほまたその後も伺ひ候ところ、同様なんとも御申し聞かせこれなく」
と、家令小栗尚三が、松本順に送った手紙にある。
要するに、何度催促しても落涙するばかりで、ついにいやとも応ともいわなかった。
慶喜の落涙を察するに、譜代の幕臣の出でもないこの二人が最後まで自分のために働いてくれたことに、人間としての哀憐の思いがわき、思いに耐えかねたのであろう。同時に、かれらを恭順外交の必要上、甲州へ追いやったことも思いあわされたのかもしれない。
揮毫をことわったのは、慶喜の維新後の生活信条による。このひとは、生涯、世間との交渉を絶って暮らした。
なお篆額の揮毫はやむなく旧京都守護職会津藩主松平容保がひきうけ、碑は明治二十一年七月完成、不動堂境内老松の下に、南面して立っている。
さて、話は深川森下の大久保主膳正の屋敷の書院。
ここでの近藤の態度は、ひどく尊大なように永倉、原田ら旧幹部にとれた。
じつは、永倉、原田には具体案がある。
「近藤さん、直参で芳賀宜通《はがよしみち》、このひとは深川冬木弁天の境内に神道無念流の道場をもっていて、門人が多い。この芳賀氏が、ぜひ合流して一隊を組織して官軍に対抗しようというのです」
と永倉はいった。
江戸に帰ると永倉新八はじつに顔が広い。
思いだしてみると、文久二年の暮、幕府が浪士隊を徴募するといううわさをききだしてきたのも、この永倉、そして死んだ山南敬助、藤堂平助であった。
永倉は、御書院番の芳賀宜通と同流というだけでなく、旧友である。永倉新八は松前藩脱藩、この芳賀ももとは松前藩士で、のち旗本の芳賀家に養子として入った男である。
「いかがです、土方さん」
「ふむ」
歳三はこういうときに意見をいわない。癖である。だから陰険といわれた。
「近藤さん、いかがです」
と、永倉はするどく近藤をみつめた。解党すれば近藤は局長でもなんでもない、単に同志にむかって家臣に対するような態度をとる近藤を、永倉はもうゆるせなくなっている。
近藤は江戸に帰ってから、
――君らは私の家臣同様だから。
と失言したことがある。その一言で傘下を去った京都以来の同志が数人いるのだ。
(だから新党をつくったときには、あくまでも芳賀を中心とし、近藤、土方を客分程度にする)
と、永倉、原田はおもっていた。
「その芳賀というのは、どういう仁《じん》だ」
「人物です」
永倉はことさらに強調した。
近藤は心中、物憂《ものう》くなっている。いまさら見も知らぬ男と一緒に事をなすのは、どう考えても気がおもい。
その気分が議論にのりうつって、どちらかといえば恭順論者のような意見を吐いた。
「近藤さん、残念だがあなたを見損った」
原田は、これが袂別《べいべつ》の機《しお》だとおもって立ちあがった。
「まあまあ」
と近藤はおさえ、
「歳は、さきほどからだまっているが、どうなのだ」
といった。歳三、顔をあげた。膝の上で猪口《ちよこ》をなぶっている。
「私は会津へ行くよ」
あっ、と一同は歳三を見た。会津へゆく、という案は、ついぞたれの頭にもうかんでいない。会津はなお、薩長に対する強力な対抗勢力なのである。
「江戸で戦さはむりだ」
「むりじゃない」
原田は怒号した。
歳三はぎょろりと原田をみて、
「君はやりたまえ。私はここではいくら戦さをやっても勝てないとみている」
といった。数日前、援軍依頼で駈けまわった実感でそれがわかるのだ。
譜代の旗本には戦意がない。戦意のある連中も、前将軍の「絶対恭順」にひきずられて十分な行動ができない。
「江戸は、われわれの甲州行きを見殺した。そういう土地で味方を得られるはずがない」
「では土方さん、どうするのだ」
「流山」
「ながれやま?」
「下総《しもうさ》(千葉県)では富裕な地だ。私は多少知っている。さいわい天領(幕府領)の地だし、ここに屯営をすえて近在から隊士を募集し、二百人にも達すれば奥州へゆく。奥州は山河|磽★[#石+角]《こうかく》なりといえども、兵は強い。西国諸藩の横暴に対する批判も強かろう。薩長がたとえ江戸城を陥しても、奥州の団結の前には歯が立つまい」
「歳」
近藤がびっくりしている。
「たいそうな広言だな」
「そうかえ」
歳三は、猪口のふちをきゅっとこすった。
「しかし歳」
「なんだ」
「勝てるのか」
「勝てるか勝てないか、やってみなければわからないよ。おらァもう、勝敗は考えない。ただ命のあるかぎり戦う。どうやらおれのおもしろい生涯が、やっと幕をあけたようだ」
「お前は、多摩川べりで走りまわっていたころから喧嘩師だったなあ」
「まあね」
歳三は、そっと猪口を置くと、袴をはらって立ちあがった。
「原田君、永倉君。こう時勢がひっくりかえっちゃ、もとの新選組で行くわけにはいくまい。たれにも意見というものがある。京都のころは、みなの意見を圧殺しておれは新選組をつよくすることに躍起となった。その新選組がなくなった。別れるさ」
と、原田の肩をたたいた。
原田は急にしょんぼりした。
「みな自分の道をゆこう」
歳三は、さっさと玄関へ出た。そのあとを近藤がついてきた。
夜の町を歩きながら、
「歳、またおれとお前に戻ったな」
と近藤がいった。
「いや、沖田総司がいる」
「ふむ、総司。所詮は天然理心流の三人ということか。伏見で討死した井上源三郎がおれば、四人」
「しかし総司は病人、井上は死んだ」
「とすれば、おれとお前だけか」
星が出ている。
近藤は星にむかって大きな口で笑った。|もと《ヽヽ》の《ヽ》もく《ヽヽ》あみ《ヽヽ》の近藤、土方、というところであろう。
「ところで、歳、流山へ行くのか」
「行くさ。あんたが隊長だ。私が副長」
「兵が集まるかねえ」
近藤は気乗りがしないようであった。かれは鳥羽伏見には参加していなかったから、甲州ではじめて近代戦を体験した。しかも近藤にすれば最初の敗戦である。その後、ひどく気落ちがしている。
(このひとはやはり、時勢に乗ってはじめて英雄になれるひとだな)
歳三は皮肉な眼で、近藤をみている。
「私は喧嘩師だそうだからね、行くところまで行くんだけれども、近藤さんはいやなら行かなくてもいいよ」
「いや、行く」
行く以外に、どこに安住の場所があるか。いま三道にわかれて怒濤のように押しよせつつある官軍のどの参謀の脳裏にも、かつての新選組への復仇の気持があるであろう。
「地の果てまでゆくのさ」
歳三は元気よく笑った。江戸が自分たちとともに戦ってくれないとすれば、戦ってくれる場所を求めて行くのが、これからの自分と近藤の生涯ではないか。
「歳、俳句ができねえか」
と、近藤は急に話題をかえた。
歳三はしばらくだまっていたが、やがてポンと石を蹴った。
「京のころは、わりあい出来たがね。公用に出てゆく道や春の月」
「はっははは、思いだすねえ。都の大路小路は、おれとお前の剣で慄えあがったものだ」
「今後も慄えあがるだろう」
「そうありてえ」
近藤も石を一つ蹴った。こうしてならんで夜道をあるいていると、なんとなく子供のころの気持にもどるようである。
その後数日、近藤は江戸にいた。歳三は流山へ走って、屯営の準備をした。
近藤は、幕府の倉庫からあつめられるだけの銃器を集め、浅草弾左衛門の手で人夫を募って荷駄隊を組んでどんどん流山へ送った。
今度も、金が出た。二千両である。
これには近藤は感激した。徳川家が自分たちに対してもっている期待と感謝の大きさを感じたのである。
(やらねばならん)
とおもった。
旧隊士も、医学所に近藤がいることをきき伝えて、何人かやってきた。かつての三番隊組長で、剣は新選組屈指といわれた斎藤一。
平隊士で大坂浪人野村利三郎。
近藤、歳三と同郷でしかも土方家の遠縁にあたる松本捨助。
これらが、
「流山で旗揚げですか」
と目をかがやかせた。
隊旗も用意した。赤地のラシャに「誠」の一字を白で抜いたものだが、鳥羽伏見の硝煙でひどくよごれている。
「そいつは行李にしまっておけ」
と近藤はいった。このさき、官軍に新選組であることを明示するのは得策ではなかった。
「いや、樹《た》てましょう」
と斎藤はいった。士気がちがう。威武もちがう。江戸の府外の一角に新選組の旗がひるがえるのは、関東男子の壮気をかきたてるものではないか。
「いやいや、しまっておけ」
三日目に、出発した。近藤は馬上。口取りは京都以来の忠助である。墨染で死んだ久吉から二代目の馬丁であった。
千住大橋をわたれば、もう武州ではない。下総の野がひろがっている。
ほどなく松戸の宿《しゆく》。
幕府は開創以来、ここをもって水戸街道の押えの要衝としたもので、御番を置いてある。宿場も、江戸の消費地をひかえた近郊|聚落《しゆうらく》だから、人口は五千、繁華なものである。
近藤がこの宿に入ると、いつどこで知ったのか、松戸の宿場役人をはじめ土地の者が五十人ばかり、宿場の入口で迎えてくれた。
旅籠で昼食をとると、流山のほうからもぞくぞくと迎えの人数がやってきて、たちまち二百人ほどの人数が、土間、軒下、街道にあふれた。
無論、流山に先着している歳三の手配《てくば》りによるものだが、賑やかなことのすきな近藤は、すっかり元気をとり戻した。
「流山は近いかね」
と、そこからきている連中にきくと、
「いえもう、ほんのそこでございます。屯営では内藤先生(歳三の変名)がお待ちかねでございます」
土民だが、みな元気がいい。歳三がよほど煽《あお》ったのだろう。
[#改ページ]
袂 別
下総流山は、江戸からみれば鬼門の方角にあたっている。
(歳もよりによって江戸の鬼門に陣所を設けなくてもよかろう)
近藤は縁起をかつがない男だが、松戸から流山への馬上、妙にそのことが気になった。
街道はせまい。馬一頭がやっと通れるほどの道で、道の両脇にタンポポが咲いている。
「ひと茎《くき》、折ってくれ」
と、馬丁の忠助にたのんだ。
忠助が走って行って一茎を手折り、近藤に手渡した。
眼に痛いほど黄色い。
「………」
近藤はそれを口にくわえて、馬にゆられてゆく。茎の汁がわずかににがいようである。
「忠助、この土地をどう思う」
「広うござんすねえ」
馬の口をとりながら、下総の野の真中で肩をすぼめた。山のない広い野というものは変に気おくれのするものだ。
田園のあちこちに榛《はん》の木が植わっている。変化といえばかろうじてそれである。
流山の町の中に小高い丘があり、地名はそこからきているのであろう。
町の西に、江戸川が流れている。行徳《ぎようとく》、関宿《せきやど》、上下利根川筋への舟つき場でもある。
「蚊の多い町だな」
馬上の近藤の顔に、蚊がむらがっている。
蚊の多いのは、水郷、ということもある。しかしなによりもこの町は、酒、味醂《みりん》の産地で、町じゅういたるところに大きな酒倉がある。酒倉の甘さをよろこんで、蚊がわくのにちがいない。
近藤は、この土地で、
「長岡の酒屋」
と通称されている大きな屋敷(現在、千葉県流山市酒問屋秋元鶴雄氏)の門前で馬をおりた。
関札がかかっている。
「大久保大和宿」
とある。歳三がかけたものだろう。
近藤は、門内に入った。
歳三が出むかえ、離れ座敷に案内した。
土地の世話役があいさつにきて、それらがひとわたり帰ったあと、
「歳、大きな屋敷だな」
と、近藤が、明け放った障子のむこうをみた。
邸内は三千坪はあろう。そのなかに、板張りの倉庫が幾棟かならんでいる。
「蔵はいくつある」
「三棟ある。一棟百五十坪から三百坪ほどもあるから、兵を収容するのにいい。むこうの一棟、これは中二階がついているのだが、それをあけてもらった」
兵舎にはうってつけの建物である。
「しかし、歳」
近藤は、手の甲の藪蚊をぴしっと叩いて、
「蚊の多いところだねえ」
と物憂そうにいった。
「この辺ではもう蚊帳をつっている。酒をくらって育った蚊だから、江戸の蚊の二倍はあるよ」
と歳三は勢いよく右頬をたたいた。
ぴちっ、と皮膚に小さく血がはねている。それを近藤はまじまじと見ながら、
「堕《お》ちぶれたものだな」
と苦笑した。新選組も、いまはこの草深い川沿いの町の藪蚊に食われている。
ソレがおかしかったのだろう。
兵は、予想以上にあつまった。
ざっと三百人。むろん、付近の農村の若者である。おのおの苗字を名乗らせ、銃器を与え、大小を帯びさせた。
歳三は、一同にミニエー銃の射撃操作をおしえ、近藤は、斬撃刺突の方法を教えた。
三百年、ねむったように静かだったこの郷が、にわかに騒然としてきた。
毎日、射撃訓練の銃声がきこえ、近藤のものすごい気合が、「長岡の酒屋」からきこえてきて、郷中の者は怖《おそ》れて近寄らない。
「歳、官軍が江戸を包囲している」
といったのは、戊辰《ぼしん》三月十五日のことである。
官軍大総督府は、すでに東海道の宿々《しゆくじゆく》を鎮撫して、駿府《すんぷ》にある。
さらに、近藤らを甲州から追った東山道先鋒部隊は、土州藩士板垣退助にひきいられて、三月十三日、板橋に到着し、江戸攻撃の発令を待った。
江戸攻撃の予定日時は、早くから三月十五日早暁ときめられていた。
ところが、官軍の薩人西郷吉之助と幕人勝海舟とのあいだに江戸城の平和授受の話しあいがすすみ、攻撃は無期延期になった。
江戸の治安は勝に一任されることになり、官軍はその周辺に駐屯した。
最大の兵団の一つは、板橋を本営とする東山道先鋒部隊である。
「流山に、幕軍がいる」
とわかったのは、三月二十日すぎである。
密偵をつかって調べさせると、兵数はほぼ三百、すべて農兵である。
ただ指揮官の服装からみて、旗本らしい。首領の名は、大久保大和。
「それァ、甲州でやったあいつじゃないか」
と、参謀筆頭の板垣退助がいった。例の武鑑には載っていない幕臣の名である。
「近藤だな」
そういう観測が、一致した。
というのは、この東山道部隊が、甲州勝沼で大久保大和を破ったあと、甲州街道を進撃し、去る十一日に武州八王子の宿に入り、同宿横山町の旅籠「柳瀬屋」を板垣退助の本営として、敗敵の捜索を行なった。
「このあたりは新選組の発祥の地だ」
ということは、官軍の常識になっている。
とくに、天然理心流の保護者であり、歳三の義兄にあたる日野宿名主佐藤彦五郎家に対する詮議《せんぎ》はきびしかった。
この一家は、官軍襲来とともに逃げ、やがて四散してそれぞれ多摩一帯の親類を転々としていたから、容易に所在がつかめない。
彦五郎の子佐藤源之助(昭和四年没、八十)はこの当時十九歳で、他人の撃剣道具から感染した疥癬《かいせん》をわずらい、歩行困難にまで病みおとろえていた。
いったん粟ノ須の親戚へ落ち、さらに隣村宇津木へ山越えして逃げ、農家の押入れにかくれているところを官軍の捜索隊に発見された。
八王子の本営で、取調べをうけた。
要するに、父佐藤彦五郎の行方が、尋問の焦点である。源之助は、知らぬといった。
吟味役は、三人で、そのうちの二人はひどい薩摩訛《さつまなま》りでよくわからなかった。あとの一人の言葉だけはわかった。土佐藩の谷守部である。
谷の取調べは執拗をきわめた。谷にしろ参謀筆頭の板垣にしろ、土佐藩士は新選組に対し、異常なほどの憎しみをもっていた。京都で同藩の者が、多く、新選組のために命をうしなっている。とくに、坂本竜馬を暗殺したのは新選組だとかれらは信じていた。
「そちの父、彦五郎はどこにいるか」
というのが、質問の第一項である。彦五郎をさがし出すことによって、近藤と歳三の所在を知ろうというのが目的であった。
尋問の第二項は、「彦五郎と近藤勇、土方歳三はどんな関係か」。第三項は「日野宿における銃器の有無」。第四項は「日野宿および付近一帯の住民は、かつて近藤勇から剣法を学んでいたというが、その術者の人数」、というものであった。
その四カ条をくりかえし質問し、その後は納屋に檻禁し、翌日午後、奥庭のムシロの上にすわらされた。
源之助遺話・前の障子が左右にあいて、ひとりの威儀厳然たる男があらわれた。番兵が小声で、頭を下げよ、という。謹んで敬礼をした。この人物が板垣退助であった。
板垣は、源之助を病人とみて、さほどの尋問はしなかった。ただ、
「大久保大和、内藤隼人は、出陣にあたってそちの家で昼食をとり、郷党を引見したというのはまことか」
といった。
同じ質問を、昨日もされた。そのときは、「近藤、土方は」という問い方だった。
きょうは、「大久保、内藤は、」という名前を、板垣はさりげなく使った。源之助はついつりこまれて、そうです、と答えた。
これで、この変名のぬしが何者であるかが官軍にわかった。
それが、流山に布陣しているという。
板橋の官軍本営では、色めきたった。この東山道先鋒軍が、もし土佐兵を主力にしていなければ、あるいはこうも沸きたたなかったかもしれない。
「京の復讐をやろう」
という昂奮が、営中に満ちた。
官軍の副参謀格で、御旗扱《おはたあつかい》という役目についている者に、
香川敬三
という人物がいた。元来は水戸藩士だが、京都相国寺詰めとなり、長州、土州の過激志士とさかんに交通していたが、やがて脱藩し、土佐藩の浪士隊である陸援隊に投じた。
陸援隊の隊長は、海援隊長坂本竜馬とともに横死した中岡慎太郎である。
中岡の死後、隊の指揮は土州脱藩田中顕助(のちの光顕、伯爵)がとり、香川は副長格になり、鳥羽伏見の戦いのときは、討幕軍の別働隊として高野山に布陣し、紀州藩のおさえになった。
香川は維新後はもっぱら宮廷の諸職をつとめ、最後は皇太后宮大夫、伯爵、大正四年七十七歳で死没。
狐の香川、というあだながあり、性格に陰険なところがあって、幕末からずっと一緒だった同志の田中光顕でさえ、維新後折合いがわるくなり、田中は香川が死ぬまで口もきかなかった。
その香川が、
「新選組討滅の隊に加えてもらいたい。中岡の仇に酬いるためだ」
と、板橋の本営にねがい出た。願いとしてはもっともである。
が、この鉢びらき金つぼまなこの男には、隊の指揮というものができない。
薩人有馬藤太(副参謀、のちの純雄)が兵三百をひきいて討伐にむかうことになり、香川はその部隊付として参加した。
有馬隊が、その宿営地の千住を出たのは、四月二日早暁である。
有馬は、この千住付近に、流山からしきりと密偵が入りこんでいることを知っている。
だから、自軍をあざむき、兵には、
「古河《こが》へゆく」
と告げ、その夜は千住どまり、その翌日は粕壁《かすかべ》(現・春日部市)にとまった。
その翌朝、にわかに軍を反転させて南下し、やがて利根川の西岸へきた。
兵がおどろいてたずねると、有馬は対岸の流山を指し、
「あれを攻撃する」
といった。
すぐ近在の農家、漁家からありったけの舟をあつめて、神速に川をわたり、土手下に集結した。
朝、九時ごろである。
流山の聚落から、その模様をまず知ったのは、町の西方を警備していた数人の兵であった。
早速、射撃した。
が、射程とどかず、しかも官軍側はしずまりきって、一発も撃ちかえしてこない。
「歳、銃声だな」
と近藤がいったとき、警戒兵が走りこんできて、敵が来襲した、という。
「よし、見てくる」
と歳三は厩舎《きゆうしや》へ走って行って、馬にのるや聚落の中のせまい道をあちこち乗りまわしつつ、西の町はずれにきた。
(なるほど)
はるか土手のあたりの民家のかげに、官軍の影がしきりと出没している。
人影五百、とたしかめ、むしろこちらから急襲すべく本営に駈けもどった。
「みな、本陣の庭にあつまれ」
とどなった。
すぐ近藤の部屋の障子を、縁さきから手をのばしてあけた。
「どうした」
歳三はおどろいた。
近藤は、平服に着かえてしまっているのである。
「歳、官軍の本陣まで行ってくる。われわれは錦旗に手むかう者ではない、ということを釈明しにゆく」
「あんた、正気か」
「正気だ。ここ数日、考えた。どうやらこのあたりが、峠だよ」
「なんの峠だ」
近藤は答えない。答えれば議論になることを知っている。
近藤は、白緒の草履をはいた。
「話せばわかるだろう」
近藤は、官軍をあまく見ていた。まさか、新選組局長近藤勇の正体がばれていようとは想像もしていない。
流山屯集部隊は、要するに、利根川東岸の治安維持のために駐留している、と申しひらきすればよい。
不都合である、と官軍がいえば、解散させるまでで、それ以上のきびしい態度を官軍がとるとはおもわれない。
なぜならば、江戸府内の治安維持についても、官軍は彰義隊を半ば公認し、それに一任しているかたちなのである。
(流山屯集隊もおなじではないか)
だから近藤はあまく見た。
「よせ」
と歳三はいった。
「|わな《ヽヽ》にかかるようなものだ」
「いや大丈夫。それに歳」
と近藤はいった。
「わしはながいあいだ、お前の意見をたててきた。しかしここはわしの意思どおりにしてもらう」
近藤は微笑している。その笑顔は歳三がかつてみたことのない安らかなものだった。
「すぐ、戻る」
近藤は、部下二人をつれて門を出た。
官軍の陣所になっている百姓家まで、ひとすじの田ンぼ道がつづいている。
近藤は、部下二人に先導させ、ゆっくり草を踏みながら歩いた。
やがて、柴垣をめぐらしたその百姓家の前へきた。官兵が銃を擬して、さえぎると、
「軍使です」
とおさえ、隊長に会いたいといった。
やがて、座敷に案内された。
「大久保大和です」
と、近藤はいった。
有馬は、薩人らしいやわらかな物腰で、用件をきいた。
そばに、香川敬三がいる。
有馬も香川も、近藤の顔は見知らない。しかしその特異な風貌は、聞き知っている。
(まぎれもない。――)
香川の眼が青く光った。
「今朝来」
と近藤はいった。
「官軍と気づかず、部下の者が不用意に発砲しました。おわびに来たのです」
「あれは不都合でごわしたど。御事情もあり申《も》そが、いずれにせよ、お申しひらきは、ご足労ながら粕壁の本陣でしていただかねばならぬ。それに、ただちに銃砲をさしだされたい」
「承知しました」
とうなずいた近藤の心境は、歳三にはわからない。
「一たん、帰営の上で」
と、近藤はもどってきた。
歳三は、激論した。
ついに、泣いた。よせ、よすんだ、まだ奥州がある、と歳三は何度か怒号した。最後に、あんたは昇り坂のときはいい、くだり坂になると人が変わったように物事を投げてしまうとまで攻撃した。
「そうだ」
と近藤はうなずいた。
「賊名を残したくない。私は、お前とちがって大義名分を知っている」
「官といい賊というも、一時のことだ。しかし男として降伏は恥ずべきではないか。甲州百万石を押えにゆく、といっていたあのときのあんたにもどってくれ」
「時が、過ぎたよ。おれたちの頭上を通りこして行ってしまった。近藤勇も、土方歳三も、ふるい時代の孤児となった」
「ちがう」
歳三は、目をすえた。時勢などは問題ではない。勝敗も論外である。男は、自分が考えている美しさのために殉ずべきだ、と歳三はいった。
が、近藤は静かにいった。おれは大義名分に服することに美しさを感ずるのさ。歳、ながい間の同志だったが、ぎりぎりのところで意見が割れたようだ、何に美しさを感ずるか、ということで。
「だから歳」
近藤はいった。
「おめえは、おめえの道をゆけ。おれはおれの道をゆく。ここで別れよう」
「別れねえ。連れてゆく」
歳三は、近藤の利き腕をつかんだ。松の下枝のようにたくましかった。
ふってもぎはなつかと思ったが近藤は意外にも歳三のその手を撫でた。
「世話になった」
「おいっ」
「歳、自由にさせてくれ。お前は新選組の組織を作った。その組織の長であるおれをも作った。京にいた近藤勇は、いま思えばあれはおれじゃなさそうな気がする。もう解きはなって、自由にさせてくれ」
「………」
歳三は、近藤の顔をみた。
茫然とした。
「行くよ」
近藤は、庭へおりた。おりるとその足で酒倉へゆき、兵に解散を命じ、さらに京都以来の隊士数人をあつめて、
「みな、自由にするがいい。私も、自由にする。みな、世話になった」
近藤は、ふたたび門を出た。
歳三は追わなかった。
(おれは、やる)
ぴしゃっ、と顔をたたいた。脚の黒々とした藪蚊がつぶれている。
[#改ページ]
大 鳥 圭 介
話はかわる。
慶応四年(明治元年)四月十日のことだ。
その丑満《うしみつ》の「第二時」というから、ただしくは十一日であろう。
駿河台《するがだい》の旗本屋敷の門から吐き出された黒い影がある。
三人。
ひとりは従僕で、行李《こうり》をかついでいる。一人は綿服の壮士。
ひとりは、この旗本屋敷の主人で、としのころは三十六、七、黒羽二重の紋服、仙台平の袴、韮山笠《にらやまがさ》をかぶって、傘を柄高《えだか》にもっている。
前夜来の雨が、降りやまない。
「木村(隆吉)君、わるい日に出陣だな」
旗本は、苦笑した。
それっきりしばらく口をきかず、昌平橋を渡った。浅草|葺屋町《ふきやまち》に出、大川橋をすぎ、やがて向島《むこうじま》小梅村の小倉庵まできた。
「このあたりが、集合所だと申していたが。木村君、むこうの豆腐屋できいてみな」
豆腐屋なら、もう起きているだろう。
門人らしい木村が、走った。が、すぐもどってきた。
「わからぬ、というのです」
「おかしい。洋服姿の男が四、五百人も参集するのだ。近所がわからぬというはずがあるまい。自身番を起こしてみなさい」
旗本は、雨の中で待っている。
白皙《はくせき》、ひたい広く、鼻すじ通って、りゅうとした美男子である。
自身番では、幕府の歩兵服を着た連中が、四、五人ざこ寝をしていた。
木村に起こされて、あっととびおきた。
「いや、お待ちしていたのです。ついまどろんでしまって」
「先生は、表でお待ちだ」
「そうですか」
歩兵たちは出て、「先生」という人物に、仏式の敬礼をした。
「ふむ」
先生は、|あご《ヽヽ》をひいた。
「ご案内します。そこの報恩寺です」
雨中を歩きだした。
先生、というのは、幕府の歩兵頭《ほへいがしら》大鳥圭介(のち新政府に仕え、工部大学長、学習院長、清国|駐★[#答+りっとう(刺の右側)]《ちゅうさつ》特命全権公使、枢密顧問官、男爵、明治四十四年没、齢八十)である。
維新のとき反政府戦に参加した多くの幕臣とおなじようにかれも譜代の旗本ではない。
播州|赤穂《あこう》の村医の子である。
大坂の緒方洪庵塾《おがたこうあんじゆく》で蘭学をまなび、とくに蘭式陸軍に興味をもち、軍制、戦術、教練、築城術の翻訳をするうち幕府にみとめられ、二年前の慶応二年、幕府直参にとりたてられた。この幕府を後援する仏国皇帝ナポレオン三世が歩騎砲工の将校二十数人を軍事教師団として派遣してきたので、この訓練をうけた。
やがて大鳥は幕府の歩兵頭にとりたてられ、仏式歩兵を指揮することになった。
やがて幕府は瓦解した。
「ばかな」
とたれよりも思ったのは、大鳥ら、仏式幕軍の将校たちであろう。かれらは、たれよりも幕軍の新式陸海軍が、装備の点で十分に薩長に対抗できることを知っていた。
陸軍の松平太郎、海軍の榎本武揚が、あくまでも江戸開城に反対したのは当然なことであったろう。
かれら陸海将領はひそかに江戸籠城を企画したが、上野に謹慎中の前将軍慶喜がこれをきき松平らをよび、
――卿《けい》らの武力行動は、わが頭《こうべ》に白刃を加えるのとおなじである。
とさとしたため、籠城の挙だけはやんだ。
そのためかれらは開城直前に江戸を脱走することにきめ、かつ実行した。
大鳥圭介が、駿河台の屋敷を出て、向島の秘密屯集場所にやってきたのも、そのためである。
ふたたび日付を繰りかえすが、この日は四月十一日。
陽はまだ昇らない。
朝になり、正午になれば、江戸城は官軍の受領使に明けわたされるはずであった。その直前に、幕府歩兵部隊は大量に江戸を脱走することになったわけである。
報恩寺には将校(指図役)三、四十人、歩兵四、五百人があつまっていた。
歩兵頭大鳥は、当然その司令官になった。部下の人数は行くに従ってふえるであろう。
早暁、向島を出発。
泥濘《でいねい》の道を行軍して、市川(現千葉県市川市)へむかった。市川には、他の旧幕士、会津藩士、桑名藩士らが屯集しているはずであり、これと合流する手はずになっていた。
市川の渡し場にきたとき、旧幕士小笠原新太郎が舟を準備して迎えにきていた。
船中、小笠原はひどく意気ごんで、大鳥の耳もとで、
「新選組の土方歳三殿も来ています」
といった。
「ほう」
大鳥はいったが、つとめて無表情を装《よそお》っているふぜいであった。
小笠原は、気づかない。
「かの仁、拙者は遠くから見ただけですが、さすが、京都の乱、鳥羽伏見といった幾多の剣光弾雨のなかをくぐってきているだけに、眼のくばり、物腰、ただ者でないものがあるようです」
「………」
大鳥は、歳三に好意をもっていなかった。
些細なことで感情がこじれた。歳三が、流山から江戸に戻ってきたとき、実をいうと城内にいた旧幕臣は一様に、
――また戻ってきたか。
とおもった。
旧幕臣のなかでも、とくに勝海舟、大久保一翁らは恭順開城派だっただけに、新選組が江戸城内にいることは、官軍との和平交渉に支障があるとして最も好まなかった。だからこそ、甲州出撃、流山屯集に、多額の軍資金を渡してきたのである。
脱走抗戦派も、多くは洋式幕軍の将校だっただけに、この剣客団とは肌合いがちがう。新選組は京都であまりにも多くの人を斬りすぎた。殺人嗜好者のような、一種の不気味さがある。
歳三が城中に帰ってきたとき、大鳥はごく儀礼的に、
――近藤さんが捕えられたそうですな。気の毒なことをしました。
と、歳三にいった。
歳三は、ぎょろりと大鳥を見たきり、だまっていた。
大鳥は、むっとした。むっとしたが、妙な威圧感をおぼえていた。
歳三は、城中でも近藤のことを語りたがらなかった。ながいあいだ、一心同体で文字どおり共に風雲のなかを切りぬけてきた盟友の、あまりにも無残な末路をおもうと、それを話題に他人に語る気がしなかったのであろう。
大鳥にはそういうことはわからない。
(いやなやつだ)
と思った。
船中、――
小笠原新太郎には、さらにそういう大鳥の感情はわからない。
「歩兵の連中などは、あれが新選組の鬼土方か、というので、ひどく人気がありますよ。かの人の参加で、士気があがっています。やはり、当節の英雄というべきでしょう」
「あれは剣術屋だよ」
大鳥は、吐きすてた。その語気に小笠原新太郎はびっくりして大鳥を見、沈黙した。
実をいうと、市川屯集の幕士のあいだで、大鳥を将とすべきか、土方を将とすべきか、多少の話題になっていたのだ。いずれにしても大鳥が土方に好意をもっていないとすれば、これはゆくゆく問題をひきおこすかもしれぬ、とおもった。
市川の宿場に入ると、江戸脱走の幕士、諸藩の士、歩兵など千余人が旅籠、寺院を占領していて、非常なさわがしさだった。
大鳥圭介は、引率してきた部隊に昼食を命じ、自分は隊を離れ、小笠原新太郎に案内されて、一寺院に入った。
「これが、本営です」
と小笠原がいった。
本堂に入ると、むっと人いきれがした。ずらりと主だった者が、須弥壇《しゆみだん》を背にして、身分の順にすわっている。
この一座で、もっとも身分が高いのは、大御番組頭土方歳三である。
紋服を着、むっつりと上座にすわって、余人とは別なふんいきを作っていた。談笑にも立ちまじっていない。
一座の顔ぶれは、
幕 臣
土方歳三、吉沢勇四郎、小菅辰之助、山瀬司馬、天野電四郎、鈴木蕃之助
会津藩士
垣沢勇記、天沢精之進、秋月登之助、松井某、工藤某
桑名藩士
立見鑑三郎、杉浦秀人、馬場三九郎
である。
幕臣天野電四郎は大鳥とは旧知で、
「ああ、待っていました。どうぞ」
と、大鳥を、土方歳三の上座にすえようとした。やや格式が上だから当然なことだが、大鳥は礼儀として、尻ごみの風をみせた。
歳三は、大鳥を見た。
「どうぞ」
と、低くいった。ひきこまれるように大鳥は、示された座にすわった。すわってから、歳三に指図されたような不快さを感じた。
軍議になった。
宇都宮へ進撃することは、すでに既定方針としてきまっている。
「大鳥さん」
と、天野電四郎がいった。
「いま市川に集まっているのは、大手前大隊七百人、第七連隊三百五十人、桑名藩士二百人、土工兵二百人、それにあなたが率いてきた兵を含めると二千人余になります。それに砲が二門」
「砲がありますか」
大鳥が関心を示したのは、かれは主として仏式砲兵科を学んだからである。
「とにかく、官軍の東山道総督|麾下《きか》の兵力と人数においては大差がありません。しかしながら、これを統率する人物がない」
「土方氏がいる」
大鳥は、心にもないことをいった。が、横で当の歳三は、不愛想にだまっている。
「その案も出ました。このなかで実戦を指揮した経験者は土方氏だけですから。しかし土方氏はかたく辞退される」
「どういうわけです」
「私は」
歳三は、にがっぽくいった。
「伏見で敗けている」
「いや、あれは幕軍全体が、敗けたのです。あなただけが敗けたのではない」
「洋式銃砲に敗けた、と申している。それを学ばれた大鳥さんこそ、この軍を統率すべきでしょう」
「お言葉だが」
と、大鳥は一座を見まわした。
「私は戦場に出たことがない。これが資格を欠く第一。つぎに、大手前大隊は私が指導したからよく知っている。しかし他の諸隊、諸士についてはまったく知らない。だから総指揮はことわる」
「いや、もうあなたが来られる前に、ここであなたを推そうと一決したのだ。こういっている間も時刻は過ぎる。承知して貰いたい」
と、天野電四郎がいった。
やむなく、というかたちで、大鳥圭介はうけた。
歳三は副将格となり、洋式軍隊以外の刀槍兵を率いることになった。むろん、銃は一人一挺ずつ渡っている。
行軍序列がきまり、早速、宇都宮にむかって進軍を開始した。
歳三は、フランス士官服に、馬上。
おなじ服装の大鳥圭介と馬をならべ中軍の先頭を行軍した。
十二日、松戸で、甲冑《かつちゆう》武者にひきいられた約五十人の郷士、農兵が参加。
十五日、諸川宿で、幕臣加藤平内、三宅大学、牧野|主計《かずえ》、天野加賀らが御料兵をひきいて参加し、いよいよ軍容はふくれあがった。
十六日、先鋒の第一大隊(砲二門付属)が小山《おやま》(現栃木県小山市)で官軍小部隊と交戦し、敗走させたうえ大砲一門をうばった。
十七日、おなじく小山方面で、中軍が約二百人の官軍と衝突し、砲二門、馬二頭、旧式のゲベール銃その他の戦利品があった。
この両日の敵軍は、新式装備の薩長土三藩の兵ではなく、おなじ官軍でも、彦根藩、笠間藩といった旧式装備の、しかも戦意薄い連中ばかりであった。
とにかく、破竹の勢い、といっていい。
この日の昼食は小山宿でとった。
人口三千、下野《しもつけ》きっての宿場である。
大鳥、歳三以下の士官らが本陣に休息していると、にわかに門前がさわがしくなり、村民がぞくぞくやってきて、酒樽をどんどん持ちこみ、赤飯を炊いて戦勝を祝した。
大鳥は、ひどくよろこび、集合のラッパを吹かせて四方に散っている諸隊を本陣の付近にあつめ、酒樽の鏡をぬき、
「今日は東照宮の御祭日である。はしなくもきょう勝利をおさめたのは、徳川氏再興疑いなしという神示であろう」
と、大いに士気を鼓舞した。たちまち小山の旅籠という旅籠は戦勝の兵でいっぱいになり、飯盛女が総出でもてなし、宿場は昼っぱらからの絃歌で割れるほどのさわぎになった。
(これがフランス流か)
歳三は、本陣の奥にまでひびいてくる絃歌をじっと聞きながらおもった。
「大鳥さん、この宿場に今夜はとまるつもりですか」
「そのつもりです」
大鳥は、得意であった。大鳥自身まだ弾丸の中をくぐってはいないが、戦さとはこうも容易なものかと思ったらしい。
「ここで兵をやすめ、士気を大いにあふって宇都宮に押し出したい」
「まずいよ」
歳三は笑いだした。
「こうも浮かれちゃ、四方の官軍の耳にとっくに入っているだろう。今夜あたり夜襲をかけてくれば、三味線をかかえて逃げなきゃならない」
「………」
「それに、この宿場は四方田ンぼで守るにむずかしい。ここから壬生街道を北に二里、飯塚という小村がある。三拝川、姿川がこれをはさんで天然の濠をなしているから、全軍そこに宿営するが良策と思うが」
「さあ」
大鳥は播州の出だから関東の兵要地誌に暗い。それに、この男は、大将のくせに地形偵察というのはすべて人まかせで、自分でいっさい見にゆこうとしない。
「なるほどそれも一策だが、すでに飯塚あたりには敵が来ていると見ていいが」
「来ていれば、いよいよこの小山が危ないでしょう。まあいい。宿割りをしがてら、私が偵察に行きましょう」
歳三は、本陣の庭に降り、洋式装備の伝習隊二百人を集め、さらに砲一門を先頭にひかせて出発した。四囲すべて敵地とみていいから、偵察もいきおい、威力偵察になる。
ところが、歳三の偵察部隊が小山宿を出ようとしたとき、にわかに東方で砲声がおこり、結城《ゆうき》方面から三百人ほどの官軍(彦根兵)が攻めてきた。
(来た)
と歳三は馬頭をめぐらし、
「おれについて来い」
と宿場の中央路を駈けだした。どっと伝習隊が一かたまりになって駈けた。
砲弾が、いくつか宿場の中に落ちた。
歳三が予想したとおり、宿場の中では、目もあてられぬさわぎ、飯盛女が長襦袢一つで路上に飛びだして逃げまどったり、酔っぱらった兵が、銃をわすれて桑畑に逃げこんだり、軍記物にある平家の狼狽ぶりもこうかと思われるような光景である。
歳三は宿場はずれに出ると、馬からとび降り、洋式兵書で読みおぼえたとおり、銃兵に散開を命じ、街道を直進してくる彦根の旧式部隊にむかって、はげしく射撃させた。
やがて砲が進出してきた。
それが一発射撃するごとに、散兵を前進させ、やがて佐久間|悌二《ていじ》という者の指揮する半隊のそばへ駈けより、
「あのくぬぎ林」
と東南一丁ほどむこうの林を指さし、
「あの林の後方へまわってむこうから敵を包むようにしろ」
と命じすて、さらに自分は、旧新選組の斎藤一以下六人をつれて左側の桑畑へ入り、桑を縫って敵の側面に出た。
斎藤らも、銃をもっている。
射撃しては走り、走っては射撃し、やがて敵と十間のところまできたとき、歳三は白刃をかざし、
「突っこめ」
と路上の敵の中におどりこんだ。
最初の男を右|げさ《ヽヽ》に斬りおろし、その切尖《きつさき》をわずかにあげてその背後の男を刺し、手もとにひくと同時に、横の男の胴をはらった。
歳三は三人、斎藤も同数、野村利三郎は二人を斬った。
機をうつさず伝習隊が突撃してきて、彦根兵は算をみだして潰走した。
敵が遺棄した死体二十四、五、武器は仏式山砲三門、水戸製和砲九門である。
[#改ページ]
城 攻 め
下野《しもつけ》小山で、歳三は、おかしな偵察報告をきいた。
(ほう、人の世にはめぐりあわせということがあるらしいな)
歳三は、宿場の東郊での戦闘をおわったあと、総帥《そうすい》の大鳥圭介のいる本陣をめざし、宿場の中央道路をゆっくりと歩いている。
ここから七里北方の宇都宮城にいる官軍部隊というのは、流山で近藤を捕縛したあの隊だというのだ。
指揮官は薩人有馬藤太、水戸人香川敬三。
このふたりには恨みがある。
兵は三百。
(料理してやるかな)
野戦で堂々と復讐してやろうと思った。
第一、この喧嘩好きな男も、まだ一軍をひきいて城攻めをしたことがない。
小山宿の黒っぽい土を踏みながら、歳三はわきおこってくる昂奮をおさえきれない。
本陣についた。|わら《ヽヽ》じ《ヽ》のままあがりこんだ。
大鳥も、奥の一室でわらじのままあぐらをかいている。
真蒼な顔で、地図に見入っている。歳三が入ったことにも気づかない。
大鳥は、旧幕臣のなかでも西洋通として第一人者であり、軍事学の知識を高く買われていた。
が、それはいずれも翻訳知識で、実戦の能力では未知の男であった。
もとより秀才である。秀才で物識《ものし》りである以上、武将としての能力があると買いかぶられていた。が、実のところは、将才はない。歳三は喧嘩師としてのカンで、それを見ぬいている。
――今後、どうしようか。
と、大鳥は、途方に暮れていた。なるほどいままでの小戦闘では連戦連勝だが、こののち、どうすればよいか。
「大鳥さん」
と、歳三は見おろしていた。
ぎょっと眼をあげた。
「私ですよ」
敵じゃない。
大鳥は、顔を赤くした。が、すぐ歳三の闖入《ちんにゆう》に対し不快な色をうかべた。
「なんの御用です」
と、ことさらにいんぎんに大鳥はいった。
「つぎは宇都宮城を攻めればいい」
と、歳三は大鳥の迷いを見ぬいているかのように断定した。
「宇都宮城?」
ばかな、という顔を大鳥はした。名だたる大城である。西洋兵術でいえば要塞攻撃になる。西洋では要塞攻撃といえば、日本人からみれば過大なと思うほどの準備をしてかかるものだ。
「むりですよ」
憫笑《びんしよう》した。この新選組の親玉になにがわかるか、という肚《はら》である。
歳三にも、この洋学屋の言葉うらの感情がありありとわかる。
が、歳三には、剣電弾雨のなかで鍛えぬいてきたという自負がある。
(戦さには学問は要らない。古来、名将といわれた人物に学問があったか。将の器量才能は学んで得られるものではなく、うまれつきのものだ。おれにはそれがある)
歳三には、大鳥の学問に対して劣等感があるのだが、それだけに自分の能力に対する自負心がつよくなっている。
「むり?」
歳三はいった。
「では、あなたは次はどこを攻めるのです」
「ここを」
と大鳥は地図の上で、ちょうど小山から北西二里半の地点を指で突いた。そこは、
壬生《みぶ》
である。壬生には四方三町ばかりの小さな城塁があり、鳥居丹後守三万石の城下である。すでに少数の官軍が入っている。が、なにぶんの小城だから、ひとひねりにつぶせるはずだ。
「この壬生を通過する。先方から仕かけてくれば戦闘するが、さもなければ一路日光へゆく」
日光へゆく、という最終目標は、すでに軍議できまっているところである。
歳三はそれを良案としていた。日光東照宮を城郭とし、日光山塊の天嶮《てんけん》に拠って北関東に蟠踞《ばんきよ》すれば、官軍も容易に攻められないだろう。そこで官軍を悩ますうち、薩長に不満をもつ天下の諸侯がともに立ちあがるにちがいない。建武の中興における楠木正成の戦略上の役割りを、この軍は果たそうというのである。日光は徳川の千早城になるであろう。
「まあ、壬生はいい。しかし宇都宮城を捨てておいては将来、禍根をのこしますぞ」
「………」
歳三はさらにいった。
「宇都宮は、兵法でいう衢地《くち》である。奥羽街道、日光例幣使街道をはじめ、多くの街道がここに集まり、ここから出ている。他日、官軍が日光を攻める場合、この宇都宮に大兵を容れて兵を出すでしょう。この城は取っておかねばならない」
「貴殿は簡単に申されるが」
大鳥は鉛筆で地図をたたきながら、
「万が一城を奪ったとしてもです。あれだけの城をまもるのには千人の兵が要る。守るときのことを考えると、宇都宮にさわる気がしない」
「とにかく、奪取すればいいのだ。北関東の重鎮が陥落したといえば、いま日和《ひより》見《み》をしている天下の諸侯に与える影響は大きいはずです」
「私はとらない」
「なるほど」
歳三は、苦笑した。こういう答えは、はじめから予想している。
「兵三百に、いま鹵獲《ろかく》した砲二門を借りようか」
と歳三はいった。
「たったそれだけで陥《おと》せる、とおっしゃるのか」
「陥せる」
すでに陽は落ちようとしていたが、歳三は、すぐ出発した。
部下は洋式訓練をあまり経ていない桑名藩兵を先鋒とし、伝習隊、回天隊の一部がこれにつづいた。
副将は、会津藩士秋月登之助である。
夜行軍してその夜は街道の民家に分宿し、翌日は宇都宮城下へ四里、という鬼怒川《きぬがわ》東岸の蓼沼《たでぬま》に宿営して、ここを攻撃準備地とした。
「秋月君、あなたは宇都宮を御存じか」
と歳三はいった。
秋月は会津藩士だけに、かつての新選組副長をひどく尊敬している。
「行ったことがありますが、まさか戸田土佐守七万七千石の城下を攻めるつもりで行ったわけではないから、よく覚えていませんな」
歳三もめずらしく笑い、
「私は講釈の宇都宮釣り天井で知っている程度です」
といった。
歳三は、土地の者を連れて来させて、できるだけ詳細な地図をつくりあげ、城の濠《ほり》、付近の地形、街路を丹念にきいた。
「これァ、城の東南から攻めれば陥《お》ちるな」
と、小さくつぶやいた。
宇都宮城は、大手のほうは濠も深く、櫓《やぐら》からの射角も工夫されていてなかなか堅固だが、歳三の表現では、
「脇っ腹が、なっていない」
のである。城の東南部のことであった。このあたりは雑木林、竹藪が多く、城からの射撃を防ぎやすい。さらにこの方角は堤もひくく、濠の水もからからに干あがっている。
「大手へは、敵の注意をひきつける程度の人数をさしむけ、主力は間道を通ってこの雑木地帯から攻めることにしよう」
翌未明、軍を発した。
馬上、歳三は、
(近藤は、板橋本営につれてゆかれたというが、はたして無事か)
ということが、念頭をはなれない。
とにかく下総流山の敵が、いま下野宇都宮城に拠っているのだ。
撃滅して捕虜を獲《う》ればなんとか消息がわかるだろう。
城には、薩人有馬藤太、水戸人香川敬三が、諸方から駈けもどってくる騎馬斥候、諜者の報告に、一喜一憂している。
報告はすべて、小山から飯塚に出て壬生城下に進んでいる大鳥圭介指揮の本隊の動静に関するものばかりである。
まさか、西南の蓼沼に歳三らの小部隊が頭を出しはじめているとは気づかない。
「江戸脱走隊」
と、大鳥軍のことをよんでいた。
「おそらく脱走隊は、宇都宮を避け、間道をつたって鹿沼《かぬま》へ出、そこから日光にゆくつもりだろう」
と有馬も香川もみていた。
「そうすれば、だまって行かせるしか仕方がない」
有馬は出戦をあきらめていた。
なにしろ、宇都宮城の官軍といえば、指揮官こそ薩人有馬藤太だが、兵は、薩長土の精鋭ではなく、戦えば負けるという旧式装備の彦根藩兵三百である。
この有馬隊は、ほんの支隊なのだ。かれらの本隊である官軍東山道部隊は、板橋を本営としてまだ動いていない。
「脱走隊の隊長は、大鳥圭介らしい」
といううわさは、耳に入っている。幕軍きっての洋式陸軍の権威で、その脱走兵のほとんどは、洋式歩兵だというのだ。有馬があずかっている彦根藩兵では勝てるはずがない。
「時代がかわったものだ」
と、有馬藤太はいった。
彦根の井伊家といえば、家康のころは、
井伊の赤備《あかぞな》え
といって天下に精強をうたわれたものである。家康の徳川軍団は、関ケ原以後譜代筆頭の井伊と外様の藤堂をもって先鋒とする、というたてまえになっており、大坂冬、夏ノ陣では、この両軍が、事実上、先鋒の錐《きり》の役目をしたものである。
家康は、井伊家を最強兵団にすることにつとめ、甲斐の武田家の牢人を多く召しかかえて井伊家につけた。武田の赤備えが、そのまま井伊の赤備えになったわけである。
しかし、刀槍の時代はすぎた。
彦根藩はいまや、諸藩でも最弱といっていい部隊になっている。
「旧幕府ではなんといっても、いま大鳥がひきいている町人百姓あがりの歩兵と、伝習隊、衝鋒隊《しようほうたい》がもっとも強いだろう」
「強弱だけではないさ、時代のかわりは。――」
香川はちょっと首をすくめ、
「徳川譜代筆頭にいわれた彦根が徳川家をすて、官軍になって旧幕軍と戦おうとしている」
といった。香川はどういうわけか、彦根人に好意をもっていなかった。
薩人の有馬は、香川のそういう口さがない性格がきらいだった。
そういう理屈でゆけば、香川は徳川御三家の一つ水戸家の家中だった男ではないか。
一方、本隊をひきいる大鳥のもとに、壬生藩から使者がきて、
――当城に官軍の人数が入っております。もし城下をご通過になれば戦いは必至、われわれ徳川譜代の家としては板ばさみになり去就に迷います。それに城下が戦場になっては庶人が迷惑しますので、日光にむかわれるならば、栃木《とちぎ》をお通りくださいませんか。道案内をつけます。
と口上をのべたので、それに従い、栃木へ迂回し、悪路を北上して鹿沼へむかった。栃木から鹿沼へは五里半、鹿沼から日光へは六里余である。
宇都宮城では、この大鳥部隊の行動をみて、
「さては当城を避けたか」
と、香川は手を拍《う》たんばかりにしてよろこんだ。
それが、四月十九日である。
ところがその日の午後、にわかに城の東南に砲車を曳いた軽兵三百があらわれて、有馬、香川を狼狽させた。
有馬はすぐ、城の東方に彦根兵一小隊を出した。
歳三は、その奇襲兵の先頭にあった。
城東の野に彦根兵が現われるや、すぐ兵を散開させて射撃しつつ躍進させた。
歳三は、平然と馬上にいる。その馬側に、「東照大権現」と大書した隊旗がはためいていた。
「おりさっしゃい、おりさっしゃい」
と秋月が、田のあぜに身をひそめながらさかんに声をかけた。
「………」
と歳三は、微笑してかぶりをふった。自分には弾があたらぬ、という信仰がある。
事実、弾は歳三をよけて飛んでいるようであった。
兵は、遮蔽物《しやへいぶつ》から遮蔽物へ走っては射ち、走っては射ちして、近づいてゆく。
彼我《ひが》、五十間の距離になった。
歳三は馬上、
「射撃、やめろ。駈けろ」
とどなった。どっと桑名兵、伝習、回天の諸隊が駈けだした。
歳三はその先頭を駈けたが、途中、馬が鼻づらを射ぬかれて転倒した。
と同時にとびおり、退却しようとする彦根兵のなかに駈け入った。
斬った。
斬りまくったといっていい。そのうち味方がどっと駈けこんできた。
敵は逃げた。
追尾しつつ、城の東南の雑木、竹の密生地に入り、そこへ砲を据えさせ、城の東門にむかって砲撃させた。
「門扉《もんぴ》を砕くんだ」
と、歳三はいった。
三発射った。その三発目が、東門に命中し、戸をくだいて炸裂した。
その間、桑名兵の一部を走らせて城下の各所に放火させ、さらに伝習隊には大手門の正面から射撃させ、自分は主力をひきいて、空濠《からぼり》にとびおり、弾丸の下を一気にかけて、東門の前にとりついた。
ちなみに宇都宮城は、徳川初期の有名な宇都宮騒動のために幕府に遠慮し、郭内には建物らしい建物はない。
つまるところ、門の守りさえ破れば、郭内での戦闘は容易であった。
「門に突っ込め、突っこめ」
と歳三は怒号した。
門わきには彦根兵がむらがり、旧式のゲベール銃を射撃してくる。
こちらはミニエー銃で射ち返しつつ、迫った。
ついに、敵味方十歩の距離となり、数分間そのままの距離で双方はげしく射撃しあった。
歳三は、業《ごう》をにやした。
新選組華やかなりしころなら、このくらいの距離にまできて、たがいに距離を大事にしあっているということはなかった。
歳三のそばに、かつての新選組副長助勤斎藤一ほか六人の旧同志がいる。
「鉄砲、やめろ、鉄砲を――」
と味方をどなりつけて射撃をやめさせ、
「新選組、進めっ」
わめいて、門内へ突っこんだ。
斎藤一、歳三のそばをするすると駈けぬけるや、槍をふるって出てきた彦根兵の手もとにつけ入り、上段から真二つに斬り下げた。
わっと、血煙りが立ったときは、歳三の和泉守兼定が弧をえがいてその背後からとび出した一人を脳天から斬りさげていた。
――新選組がいる!
彦根兵は、戦慄した。
どっと門内に逃げこんだ。
そのとき、背後の疎林から射撃している歳三の砲兵の一弾が、城内の火薬庫に命中した。
わずかに火災がおこった。やがて大音響とともに爆発した。
歳三らは、城内を駈けまわった。
「官軍参謀をさがすんだ、参謀を」
歳三は、全身に返り血をあびながらさけんだ。かれらをとらえて流山の仇を討つ。近藤の安否を調べる、――この城攻めは、歳三にとってその二つの目的しかない。
歳三は、郭内をさがしまわった。ときどき逃れ遅れた城兵がとびだしてきて打ちかかってきたが、そのつど無惨な結果におわった。
相手は、この洋式|戎服《じゆうふく》の男が、まさかかつての新選組副長土方歳三とは知らない。
郭内での戦闘は、日没におよんでもやまなかった。
敵も執拗に戦った。
歳三は、左手に松明、右手に大剣をかざして、敵を求めた。
夜八時すぎ、敵は自軍の死体を遺して郭内から北へ退却し、城北の明神山にある寺に集結しようとした。
敵の退却がはじまったときに歳三は、新選組旧同志を率いて、退却兵の松明の群れのなかにまっしぐらに駈け入った。
退却兵のなかから、二、三十発の銃声がはじけ、弾が夜気をきって飛んできた。
なお突進した。
そのとき、すさまじい気合が、歳三の鼻さきでおこった。
避けた。
斬りおろした。
たしかに手ごたえがあった。が、敵の影は斃れず、そのまま敗走兵のなかにまぎれ入った。
それが、有馬藤太だったらしい。
歳三の剣は、有馬の胸筋を斬り裂いたようである。
が、かすった。有馬は一命をとりとめ、担送されて横浜の病院で加療し、のち回復した。
大鳥はその翌日、宇都宮の西方三里の鹿沼まで進出して、はるかに城にあがる火煙をみて、落城を知った。
(あの男が。――)
ひそかに舌をまいた。
[#改ページ]
沖 田 総 司
いま千駄ケ谷で植木屋といえば、ほんの二、三軒、父祖何代かの店が残っているぐらいだというが、当時はこの界隈《かいわい》は植木屋が多い。
小旗本にならんで、五百坪、七百坪といった樹園がある。
沖田総司が養生している平五郎の樹園は内藤駿河守屋敷(現在新宿御苑)の南にあり、家の北側に水車が動いている。
沖田は、納屋に起居していた。
(おれは死ぬのか)
とは沖田は考えたこともなかった。よほど生命が明るくできているうまれつきなのかもしれない。
もう医者にはかかっていない。
ときどき旧幕府|典医頭《てんいのかみ》松本良順が若党や門人を寄越して薬をとどけてくれるが、それもだんだん遠のいていた。
おもに、歳三が置いて行った土方家の家伝薬「虚労散」というあやしげな結核治療薬ばかり服《の》んでいる。
「効《き》く」
歳三がいいきった薬である。歳三の口からそう断定されるとなにやら効きそうな気がして、良順の西洋医術による処方の薬をこっそり捨てることがあっても、これだけは服んでいた。
姉のお光が、三日にあげずきてくれては、介抱してくれた。
お光は、来るたびに獣肉屋《ももんじや》から買ってきた猪肉などを庭さきで煮てくれた。
「お汁も飲むのですよ」
と、つきっきりで総司が食べるのを見守っている。目をはなすと、捨てかねないのだ。
「くさいなあ」
と、沖田は呑みこむようにして咽喉に入れた。
獣肉はにが手だった。
「総司さん、きっと癒《なお》らなきゃいけませんよ。沖田の家は林《う》太郎《ち》が継いだといっても、血筋はあなたひとりなんですから」
「驚いたな」
総司は底ぬけの明るさで小首をかしげてしまう。
「なにがです」
お光もつい吊りこまれて微笑《わら》ってしまうのだ。
「なにがって、姉さんのその口ぶりがですよ、私の病気はそんな大そうなものじゃないと思うんだがな」
「そうですとも」
「あれだ」
総司は噴《ふ》きだして、
「姉さんは取り越し苦労ばかりしているくせに、ちょっとも理屈にあわない。たいした病気でないとわかっていたら、そんなにご心配なさることはありませんよ」
「そうでしょうか」
「癒ります。きっと」
ひとごとのようにいう。本気でそう思っているのかどうか、この若者の心の底だけはわかりにくい。
もう食欲はまったくないといってよかったし、無理をしてたべても消化が十分でない。
「腸にきている」
と、松本良順は、林太郎とお光にいった。
腸に来れば万に一つ癒る見込みはない。
大坂から江戸へもどる富士山丸のなかで、素人《しろうと》の近藤でさえ、
(総司は永くあるまい)
と歳三にいった。そのくせ富士山丸の中では冗談ばかりをいって笑い、「笑うとあとで咳が出るのでこまる」と自分でもてあましていた。
江戸に帰ってから近藤は、妻の|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》(江戸開城後は、江戸府外中野村本郷成願寺に疎開)に、
――あんなに生死というものに悟りきったやつもめずらしい。
といったが、修行で得たわけではなく天性なのであろう。総司はこのとき二十五歳である。
総司が起居したこの千駄ケ谷池橋尻の植木屋平五郎方の納屋、といっても厳密には納屋ではなく、改造して畳建具なども入っていた。
明り障子は南面しているから日あたりはいい。
すこし気分がいいと障子をあけてぼんやり外をみている。
景色はよくない。むこう二十丁ばかりは百姓地で大根などが植わっている。
身のまわりの世話をしている老婆が、
「よくお倦《あ》きになりませんね」
とあきれるほど、ながい時間、おなじ姿勢でみている。
老婆は、この青年が、かつて京洛の浪士を慄えあがらせた新選組の沖田総司であるとは知らされていない。
「井上宗次郎」
という名にしてある。もし沖田だとわかれば、官軍がうるさい。総司は療養というより潜伏している、というほうが正確だった。
老婆も、身元は知っている。庄内藩士沖田林太郎の義弟、ということであった。
お光も老婆には、
――藩邸のお長屋ですと、病気が病気ですから、ひとにいやがられますので。
といってある。すじの通った話である。
ちなみに、お光の夫林太郎はいつかも触れたが、八王子千人同心井上松五郎家の出で、やはり近藤の父周斎の門人であり、天然理心流の免許を得、入り婿のかたちで沖田姓を継いだ。
沖田家の嫡子総司がまだ幼かったからである。
林太郎は、総司らが京へのぼったあと江戸で新徴組隊士となり、新徴組が幕府の手から離れたあと、いまは庄内藩に属し、藩邸のお長屋に住んでいる。男の子があり、芳次郎といった。その子が要《かなめ》、この家系がいま立川市に残っている。以上余談。
慶応四年二月下旬、庄内藩主酒井忠篤が江戸をひきはらって帰国した。
あとに家老が残り、江戸屋敷の処分や残務整理をしている。
沖田林太郎は残留組になったが、いずれは出羽庄内へ行かねばならないであろう。
その江戸引きあげのときが総司との生別の日になる、とお光はその日の来るのを怖れていた。
ついに来た。
四月であった。偶然三日である。この日、近藤は流山の官軍陣地にみずから行き、両刀を渡してしまっている。
お光はそういうことは知らない。この朝あわただしく駈けこんできて、
「総司さん、私どもは庄内へ行きます」
といった。
総司の微笑が、急に消えた。
が、すぐいつものこの若者の表情にもどり、
「そうですか」
と布団のなかから手をさしのばした。おそろしいほどに痩せていた。
お光は、その手をみた。
どういう意味だか、とっさにのみこめなかったのである。
総司は、姉にその手を握ってもらいたかったのだ。
が、お光は、動顛していた。
江戸に残る弟は、このさきどうなるのか。
お光は夢中になってそのあたりを片づけていた。手と体を動かしているだけである。
お金だけが頼りだと思い、林太郎に渡ったお手当のほとんどを総司のふとんの下に差し入れた。
「俄《にわ》かのことだったから」
と、お光は泣きながら、総司の身のまわりのものを大きな柳行李に詰めている。詰めてどうなるものでもないのに、その作業にだけ熱中した。総司が京都で使った菊一文字の佩刀《はいとう》もそのなかにおさめた。
総司はそういう姉を、枕の上からじっと見ている。
(刀まで納《しま》って、どういうつもりだろう)
姉のあわてぶりがおかしかったのか、顔は笑わず、肩だけをすぼめた。
お光には時間の余裕がないらしい。このまますぐ走って藩邸のお長屋にもどり、夫とともに出発しなければならない様子だった。
「総司さん、ここに下着や下帯のあたらしいのをかさねておきます。もうお洗濯はしてあげられないけど、肌身のものだけはいつもきれいにしておくのですよ」
「ええ」
総司は、少年のようにうなずいた。
「良人《うち》は、庄内に行くと戦さになるかもしれない、といっています」
「庄内藩の士風というのは剛毅なものだそうですね。国許の藩士は雨天でも傘を用いぬ、というのが自慢だというのは本当ですか。子供のころそんな話をきいたことがあるけど、それが本当ならずいぶん強情者ぞろいらしい」
お光は、話に乗って来ない。
「鶴岡のお城下では羽黒山から朝日が出るそうですよ。それがとてもきれいだと聞いています。しかし江戸からずいぶん遠いなあ。朝日というものはあんな北の国でも東から昇るのだと思うと、おかしくなる」
「まあ、このひとは」
お光は、やっと気持がほぐれたらしい。
「もう雪は解けているでしょうね。山なんぞにはまだ残っているかもしれない。いずれにしても姉さんの足では大変だな」
「総司さんはご自分の心配だけをしていればいいのです」
「良くなれば庄内へゆきますよ。西から薩長の兵が来れば、私ひとりで六十里越えの尾国峠《おぐにとうげ》でふせいでやります。そのときは、近藤さんと土方さんも連れてゆきますよ」
「ホホ……」
この弟と話していると、なんだかこちらまでおかしくなってしまう。
「近藤さんや土方さんはいまごろなにをしているかな。江戸のまわりは官軍で充満しているときいているけど、流山は大丈夫でしょうね」
「あのひとたちはお丈夫ですものね」
と、お光は妙なことをいった。
総司は笑った。
「そうなんだ。江戸にいたころの近藤さんは、到来物の鯛を食べて、骨まで炙《あぶ》って、こんなもの噛みくだくんだといって、みんな噛んで食べてしまいましたよ。あのときはおどろいたな」
「大きなお口ですからね」
お光も噴きだした。
「そうそう。あんな大きな口のひとは日本中にいないでしょう。京都で酒宴をしたときなど、土方さんはあれで案外、端唄《はうた》の一つもうたうんですよ。ところが近藤さんの芸ときたら、拳固《げんこ》を口のなかに入れたり出したりするだけで、それが芸なんです」
「まあ」
お光は、明るくなった。
「総司さんの芸は?」
「私は芸なし。――」
「お父さんゆずりですものね」
「遠いな」
と、総司は不意にいった。
「なにが?」
「お父さんの顔が。私は五つぐらいのときだったから、うっすらとしか覚えていない。ああいうものはどうなんでしょう」
「え?」
「死ねばむこうで会えるものかな」
「ばかね」
お光はこのとき、やっと総司がふとんの外に右手を出している意味がわかった。
「総司さん、風邪をひきますよ」
といいながら、そっと握り、ふとんの中に入れてやった。
「早く元気になるのよ。よくなってお嫁さんを貰わなければ」
総司は返事をしなかった。
枕の上で、ただ微笑《わら》っていた。京で、芸州藩邸のとなりの町医の娘に、淡い恋を覚えたことがある。ついに実《みの》らずにおわった。
(妙なものだな)
総司は、梁《はり》を見た。考えている。くだらぬことだ。
――死ねば。
と総司は考えている。
(たれが香華《こうげ》をあげてくれるのだろう)
妙に気になる。くだらぬことだ、とおもいつつ、そういうひとを残しておかなかった自分の人生が、ひどくはかないもののように思えてきた。
沖田総司は、それから一月あまりたった慶応四年五月三十日、看取《みと》られるひともなくこの納屋のなかで、死んだ。
死は、突如きたらしい。縁側に這い出ていた。
そのまま、突っぷせていた。菊一文字の佩刀を抱いていた。
沖田林太郎家につたわっている伝説では、いつも庭に来る黒い猫を斬ろうとしたのだという。
斬れずに、死んだ。
墓は、沖田家の菩提寺《ぼだいじ》である麻布桜田町浄土宗専称寺にある。戒名は、賢光院仁誉明道居士。永代祠堂料金五両。――のちに江戸にもどってきたお光と林太郎がおさめたものである。
のち墓石が朽《く》ちたため、昭和十三年、お光の孫沖田要氏の手で建てかえられ、おなじく永代祠堂金二百円。当時としては大金といっていい。
お光の沖田家の現在の当主は、東京都立川市羽衣町三ノ一六沖田勝芳氏である。そこに総司のみじかい生涯を文章にしたものが遺されている。たれが書いたものか。
沖田総司|房良《かねよし》、幼にして天然理心流近藤周助の門に入り剣を学ぶ。異色あり。十有二歳、奥州白川阿部藩指南番と剣を闘はせ、勝を制す。斯名《このな》、藩中に籍々《せきせき》たり。
総司、幼名宗次郎春政、後に房良とあらたむ。文久三年新選組の成るや、年僅かに二十歳にして新選組副長助勤筆頭。一番隊組長となる。大いに活躍するところあり。
然りといへども天籍、寿を以てせず。惜しいかな、慶応四年戊辰五月三十日、病歿す。(原文は漢文)
総司の死の前月二十五日に、近藤は板橋で斬首された。
当時なお、総司は病床にある。しかしこの報は、千駄ケ谷の東のはずれでひとり病いを養っている総司の耳につたわらず、息をひきとるまで近藤は健在だと信じていた。
歳三が、風のたよりに近藤の死を知ったときは、すでに宇都宮城をすて、日光東照宮に拠って、江戸の官軍をおびやかしていたときであった。
その後、各地に転戦し、次第に兵はふくれあがり、その後、会津若松城下に入ったときには、歳三の下にすでに千余人という人数になっていた。
歳三はこれを、
「新選隊」
と名づけた。
当時すでに兵の集団を|組《ヽ》ではなく|隊《ヽ》と名づける習慣が一般化していたのだ。
副長は、新選組結成いらいの奇蹟的な生き残りである元副長助勤三番隊組長斎藤一であった。
剣の精妙さは京都のころから鬼斎藤といわれ、京都時代はおそらく三十人は斬ったであろう。
が、かすり傷一つ負わなかった。のちに東京高等師範学校をはじめ、諸学校に剣術を教えに行ったことがあるが、三段、四段の連中がむらがって掛ってきても、籠手一つかすらせなかった。
老いて、南多摩郡|由木《ゆき》村中野の小学校教員になった。
京都時代は強いばかりでさほど味のある人物でもなかったが、各地に転戦を重ねてゆくうち、どういうわけか、だんだん性格が剽軽《ひようきん》になってきて、ある日、
「隊長、私は雅号をつけた。きょうからはその号で呼んでいただけないか」
といった。なんだ、ときくと、
「諾斎《だくさい》です」
笑っている。若いくせに隠居のような名である。
歳三も噴きだして理由をきくと、
「なんでもあんたのいうことをきく。だから諾斎」
といった。
この号は、死ぬまで用いている。
この斎藤のほか、副長格に、歳三の遠い親戚にあたる武州南多摩郡出身の旧隊士松本捨助を選んだ。佐藤彦五郎に付いて天然理心流を学んだ目録持ちで、才気はないが、弾丸雨注のなかでも顔色一つ変えず真先《まつさき》に斬りこんでゆく。官軍の群れのなかにとびこむと、
「新選組松本捨助」
とかならず名乗った。
そんなことで、この男の名は官軍の間にまで知られていた。
[#改ページ]
陸軍奉行並
この時期から、土方歳三という名が、戊辰戦役史上、大きな存在としてうかびあがってくる。
かれは庄内藩へ走って藩主を説得し、また会津若松の籠城戦に戦い、さらに奥州最大の雄藩仙台藩の帰趨《きすう》が戦局のわかれ目とみてその態度決定をうながすため、仙台城下|国分町《こくぶんちよう》の「外人屋」に入り、麾下《きか》二千の兵を城下の宿所々々に駐留させ、青葉城内での藩論決定を武力を背景にせまった。
東北の秋は早い。
仙台城下の寺町や武家屋敷町の落葉樹が、もう黄ばみはじめている。
この間、近藤の板橋での刑死については、会津若松での戦闘中に官軍捕虜から詳報をきき、若松の愛宕山の中腹をえらんで、墓碑をたて、
貫天院殿純義誠忠大居士
という戒名をきざんだ。
仙台城下に入ってからも、二十五日の命日には終日、魚肉を避けて冥福をいのった。
そうしているうちにも、江戸脱走、関東転戦の反薩長有志が、ぞくぞくと仙台城下にあつまり、歳三の指揮を仰いだ。
歳三はしばしば青葉城に登城し、藩主|陸奥守慶邦《むつのかみよしくに》およびその家臣に説いた。
「奥州は日本の六分の一でござる」
というのである。
「しかも奥州各藩の兵を合すれば五万であり、兵馬|強悍《きようかん》、西国にまさっている。この地に拠って天下を二分し、しかるのちに薩長の非を鳴らし、きかざればその暴を討つ。伊達家の御武勇は藩祖の貞山公(政宗)以来、天下にひびいたものでござれば、ぜひ奥州同盟の盟主として正義を天下に示されたい」
歳三は、いわば旧幕府の代表者として談じこんでいる。その背景にはおびただしい脱走陸兵がいるから、この男の一言一句は、仙台藩をゆるがすに十分だった。
このころ、仙台藩主伊達慶邦は、みずからの佩刀の下げ緒を解き、歳三に与えている。水色|組糸《くみいと》の下げ緒で、現在、日野市佐藤家所蔵。
一方、旧幕府海軍副総裁榎本和泉守|武揚《たけあき》が、八月十九日夜、旧幕府艦隊をひきいて、品川沖を脱走し、北上しはじめた。
開陽丸を旗艦とし、回天丸、蟠竜丸《ばんりゆうまる》、千代田形丸の四艦に、神速丸、長鯨丸、美嘉保丸、咸臨丸《かんりんまる》の輸送船をともなう日本最大の艦隊で、官軍は海軍力においてはとうていこれに及ばない。
この榎本艦隊には江戸脱走の旧幕兵をも載せ、さらに旧幕府陸軍のフランス人教官である砲兵士官ブリュネー、砲兵下士官フォルタン、歩兵下士官ブュフィエー、同カズヌーフなども同乗させていた。
途中、風浪のために四散し、美嘉保、咸臨の二艦を喪《うしな》ったが、艦隊としての実力にはさほどひびかない。
これらが仙台藩領|寒風沢港《さぶさわこう》、東名浜にぞくぞく集結してきたのは、八月二十四日から九月十八日にかけてである。
旗艦開陽丸は、八月二十六日に入港し、同日榎本は幕僚、陸戦隊をひきいて威武をととのえて上陸した。
榎本は、土方歳三、大鳥圭介らが国分町に旧幕軍本部を置いているときき、ひとまずそこで海陸両軍の協議をとげることにした。
途中、榎本は、
「荒井君」
と、開陽丸指揮官荒井|郁之助《いくのすけ》にきいた。
「大鳥はよく知っているが、土方歳三というのはどういう男だ」
「江戸で会ったことがあります。沈着剛毅といった男で、大軍の指揮ができる点では、あるいは大鳥以上でしょうな」
荒井郁之助は榎本とおなじく旧旗本の出身で、幕府の長崎海軍伝習所に学び、江戸築地小田原町の海軍操練所頭取、幕船順動丸船長などを経た根っからの海軍育ちだが、のち歩兵頭をつとめたこともある。
その気象学の知識をかわれて、維新後、初代中央気象台長になったという風変りな後半生をもつにいたった。要するに、オランダ留学までした榎本を筆頭に、荒井、大鳥などは、旧幕府きっての洋学派といえるだろう。
が、いまから対面する旧新選組副長土方歳三という人物の見当がつかない。というより、どこか、違和感があった。
国分町宿館についてみると、歳三は、城南大年寺に兵を集めてたむろする仙台藩主戦論者富小五郎を訪ねて不在だった。
宿館で、歳三の評判をきくと非常な人気で、大鳥のことはたれもあまりよくいわない。
学者かもしれないが臆病者だ、といいきる者もある。
やがて、歳三がもどってきた。
「私は榎本|釜次郎《かまじろう》です」
と武揚はいった。
「申しおくれました。土方歳三です」
にこにこ笑った。この不愛想な男が、初対面の榎本に相好《そうごう》をくずしたのは、よほどのことである。
仙台城下では旧幕軍艦隊の入港というので沸きたっているのである。嘉永六年ペリー提督のひきいる米国東洋艦隊がきて日本中に衝動をあたえたが、それとおなじ実力の艦隊が、いま領内に入っているのだ。
たとえば旗艦開陽丸は排水量三千トン、四百馬力、オランダ製新造艦であり、これにつぐ回天丸は千六百八十七トンで、この二艦の備砲射撃をするだけでも仙台藩の沿岸砲は一時間で沈黙するだろう。
それに江戸から千数百人の陸兵を輸送してきている。
「榎本さん、仙台藩の藩論はなお和戦両論にわかれて動揺していますが、これで百万言の説得よりも効があるでしょう」
「土方さん、あなたは旧幕府きっての歴戦の人です。頼みます」
と、榎本は、西洋人のように歳三の手をにぎった。
その夜、軍議がひらかれ、それぞれの役割りがきまった。
歳三は、この日から陸軍部隊を統轄する陸軍奉行並に就任し、陣地の部署割りもきまった。
本陣を、日和《ひより》山《やま》に据えた。
現在《いま》の石巻市(仙台湾北岸)の西南にあるひくい砂丘で、南北朝時代、奥州第一の豪族であった|葛★[#新潮文庫六十九刷では葛のヒが人]西《かさい》氏の城跡である。
丘は低いが海陸の眺望がよくきき、東は北上川をへだてて牧山に対している。
歳三はこの日和山のふもとの鹿島明神を宿舎とし、松島、塩釜までのあいだ海岸十里にわたって布陣した。
これには、榎本もおどろいた。
「土方さん、兵を仙台の城下に集中させておくほうがいいでしょう。なぜ、長大な海岸線に分駐させてしまうのです」
「いや」
と、歳三に好意をもつ旧歩兵頭、現陸軍奉行の松平太郎が、
「仏式演習をして、青葉城(仙台城)の軟論派の気勢をくじくのです。演習後、すぐ城下に集結させます」
といった。
この演習には、仙台藩星|恂太郎《じゆんたろう》の指揮する洋式歩兵隊も加わり、総数三千余が、紅白にわかれ、完全仏式による大規模な模擬戦闘を行なった。
むろん、演習計画の立案、作戦、戦闘行動については仏人顧問団が指揮している。
歳三は、松平、大鳥とともにこの演習の総監であったが、この男の独特のカンのよさは、フランス式用兵をこの大演習で完全にのみこんだことである。
砲兵教官ブリュネーが驚き、
「土方さん。フランス皇帝があなたを師団長に欲しがるでしょう」
と真顔でいったほどであった。
九月三日、仙台藩では、城内応接所に旧幕軍首脳をまねき、仙台藩代表とともに、官軍来襲の場合を想定して、作戦会議をひらいている。
ところがその後十日もたたぬうちに、藩論が軟化し、ついに九月十三日官軍への帰順を決定、藩の要路から主戦派の重役がいっせいにしりぞけられた。
この報を城下国分町の宿舎できいた榎本は大いにおどろき、
「土方さん、同行してください」
と、二人で登城し、あらたに藩の主導権をにぎった執政遠藤文七郎に対面した。
遠藤は、仙台藩の名門で、代々栗原郡川口千八百石を知行地とし、すでに安政元年に藩の執政になったが、性格がはげしすぎるために藩の要路とあわず、その後、京都に駐在した。
この間西国諸藩の志士とまじわり、帰国後激越な勤王論を唱え、そのため佐幕派から罪におとされ、以後知行地にひっこんでいた。
藩が帰順にかたむくや、にわかに起用されて執政に再任したのである。
遠藤は、京にあって薩長土の志士とまじわっていたころ、新選組の勢威というものを眼のあたりに見、憎みもしていた。
その土方が、眼の前にいるのだ。
しかも、薩長の非を鳴らし、主戦を説いている。
遠藤としては、
(なにをこの新選賊)
と、笑止であった。
歳三も、説きながら、この新執政の顔をどこかで見たような気がしてならない。
(ひょっとすると京で、市中巡察中に見たのではないか)
記憶力のいい男だから、そう思うと、出あったときの情況までありありと眼にうかんできた。
冬、烏丸《からすま》通を南下してきたとき、四条通でこの男と、その連れ四、五人に会っている。
当時は、新選組の巡察とみれば大藩の士でも道を他にそらせ、浪士などは露地へかくれ散ったものだが、あのときもそうだった。
――土方がきた。
と、たしか、遠藤の連れがいった。|まげ《ヽヽ》からみて、土州浪士だろう。
うるさいとみて、みな、散ってしまった。
遠藤だけが残った。大藩の重臣だから、ふところ手をして傲然《ごうぜん》と立っている。
歳三が、尋問をした。
「伊達陸奥守家中遠藤文七郎」
と、相手はいった。
ふところ手をしたままである。
「われわれは御用によってたずねている。懐ろから手を出されたい」
と、いうと遠藤は鼻で笑い、
「この手を出させたいなら、われらが主人陸奥守にまで掛けあわれたい。拙者は不肖といえども、伊達家の世臣だ。陸奥守以外の者から命を受けたことがない」
と、堂々たる態度でいった。
――こいつ。
と、永倉新八が剣を半ばまで鞘走らせたが歳三はとめた。
「ごもっともなことだ」
と、隊士一同を去らせ、自分だけが残って遠藤にいった。
「どうやら喧嘩を売られたと気づいた。買いますからお抜きなさい」
両者の間、五歩。
遠藤も、抜くつもりだったらしく、左手をあげて、刀の鯉口を切った。
そのときどうしたことか、寒の雀が一羽、二人のあいだに舞いおりた。
(町雀だけに、物おじせぬ)
と、歳三は、ふと俳趣を感じた。このあたり、下手な俳句をたのしむ豊玉宗匠の癖が出た。
遠藤が踏み出した。
雀がぱっと飛びたった。
「馬鹿、雀が逃げた」
と、歳三がいった。
そのとき遠藤が大きく跳躍して真向から抜き打ちを仕掛けてきた。
歳三は、身を沈めた。右手から剣が弧をえがいて空を斫《き》り、遠藤の遅鈍な抜き打ちを鍔元《つばもと》から叩いた。
「生兵法《なまびようほう》はよすがいい」
遠藤の刀が、地上に落ちている。
「爾今、藩の身分を鼻にかけた空威張りもよすがよかろう。いまの京では通用せぬ。われわれは市中の取締りに任じている。伊達家の大身ならば御理解あって然るべきところだ」
云いすてて歳三は南へ立ち去った。
おもえば、あのころが、花であったかもしれぬ。
その歳三が、脱走幕軍の陸軍奉行並として仏式軍服を着て、遠藤に対坐している。
(あの土方が)
遠藤の眼に、軽蔑と憎しみがある。
榎本武揚は、説いた。
この男は、日本人にめずらしくヨーロッパを見てきた男である。
説くところ、世界の情勢から説き、薩長が幼帝を擁して権をほしいままにし、日本国を誤ろうとしている、という論旨で押してきた。
歳三はちがう。
どうも口下手で、榎本の言説のような世界観がない。仙台戊辰関係の資料では、歳三はこう云ったことになっている。
「仙台藩にとって、官軍に帰順するが利か、戦うが利か、そういう利害論は別だ」
というのである。
「弟をもって兄を討ち(弟とは、紀州、尾州、越前といった御三家御家門をさすのだろう。兄とは徳川家らしい)、臣(薩長)をもって君(徳川家)を征す。人倫地に堕《お》ち、綱常まったく廃す」
という革命期には通用せぬ旧秩序の道徳をもって薩長の非を鳴らし、
「このような彼等に天下の大政を秉《と》らしめてよいはずがない。いやしくも武士の道を解し聖人の教えを知る者は、断じてかれら薩長の徒に味方《くみ》すべきでない。貴藩の見るところ、果して如何」
残念ながら歳三は所詮は喧嘩屋で、大藩の閣老に説くにはどうも言説がお粗末で、ひらたくいえば、清水次郎長、国定忠治が云いそうなことと、あまり大差がない。
やはりこの男は戦場に置くべきで、こういう晴舞台にはむかないようである。
ただ、歳三の随臣格として登城し、別室にひかえていた京都以来の隊士斎藤一と松本捨助は感心してしまい、のちに日野の佐藤家を訪ねてこのときの模様を、
――いやもう大したものでした。挙措重厚、じゅんじゅんと陳述するところ、大大名の家老格といったところで、自然に備わる威儀|風采《ふうさい》には実に感じ入ったものでした。
と語っている。斎藤や松本といった古いなかまの眼からみれば、武州南多摩郡石田村の百姓の喧嘩息子が、剣一本だけの素養で、とにかく仙台六十二万五千石の帰趨《きすう》決定を、青葉城内の大広間で論じただけでもたいしたものだと思ったのであろう。
が、歳三の出る幕ではなかった。
その直後、仙台藩執政遠藤文七郎が、同役の大条《おおえだ》孫三郎に、
「榎本はさすがな男だ」
と、その学才、政治感覚に感心したが、歳三については、ひどい評を下している。
「土方に至りては、斗★[#たけかんむり+肖]《としよう》(小さなマス。一斗程度しか入らない)の小人、論ずるに足らず」
遠藤は、藩内勤王派の首領であり、歳三には恨みもある。だからこうも酷評したのだろうが、まずまず、こういうところであろう。
このあと宿舎に帰ってから歳三が、松平太郎に、
「ひどい役目だった」
と、汗をぬぐいながら閉口し、
「私はやはり大広間にむかぬ。弾《たま》の雨、剣の林といったようなところがいい」
といった。
それをそばできいていた大鳥圭介が、
「相手がわるい。遠藤という男は私も知っている。江戸に遊学していたころ昌平黌でも秀才で通った男だった」
と、歳三を冷笑するようにいった。
昌平黌とはいうまでもなく幕府の官設による最高の学問所で、こんにちの東京大学の前身である。
大鳥にすれば暗に無学な百姓あがりの剣客の歳三をからかったつもりだろう。
やがて仙台藩は、官軍に帰順した。
榎本艦隊は、仙台藩領を去って、風浪のなかを北海道であたらしい天地をひらくべく航海を開始した。
歳三、旗艦開陽丸にある。
[#改ページ]
艦 隊 北 上
この夜、風浪やや高い。
艦隊は、北上している。
歳三の乗っている幕艦開陽丸は、左舷に紅燈、右舷に緑燈をともし、主檣頭《メインマスト》に、三燈の将官燈をつけていた。
この燈火が一燈の場合は、坐乗する提督は少将、二燈の場合は中将、三燈の場合は大将というきまりになっていた。
榎本武揚は、大将、というわけである。
将官私室に起居していた。
歳三のためには、その次格の部屋ともいうべき参謀長室があてられている。
艦は、当時世界的水準の大艦で、十二センチ口径のクルップ施条砲《せじようほう》二十六門をそなえ、その戦闘力は、一艦よく官軍の十艦に匹敵するであろう。
日没後、榎本は甲板を巡視した。
風浪はつよいが、帆走に都合がいい。石炭の節約のため艦長が汽罐を休止せしめたのか、煙突は煙を吐いていない。
榎本は、歳三の部屋の前を通った。船窓から灯がもれている。
(あの男、まだ起きているのか)
榎本は、徹頭徹尾洋式化された武士だが、かといって同類のフランス式武士大鳥圭介をさほどに信頼していなかった。
生涯ついに会うことがなかったが、この榎本は近藤勇にひどく興味をもっていた。
のちの函館の攻防戦のときも、永井玄蕃頭|尚志《なおむね》という旧幕府の文官(若年寄)あがりに都市防衛の指揮権をゆだねたことを後悔し、
――たとえば死せる近藤勇、あるいは陸軍奉行並の土方歳三に函館をまかせればああいうざまはなかったであろう。
と、晩年までそういうことをいった。
榎本は、新選組がすきであった。のちに維新政府の大官になった旧幕臣のなかで、新選組を熱情的に愛した第一は初代軍医総監の松本順(旧名良順)、ついで、榎本武揚である。
榎本は、歳三の部屋のドアの前で、足をとめた。
(話してみたい)
と、おもったのである。
仙台の城下で、はじめてこの高名な新選組副長土方歳三という者と会った。
ともに青葉城に登城して仙台藩主を説得したりしたが、二人でゆっくり語りあったことはなかった。
(なるほどあの男は弁才はなかった)
しかし城の詰め間に裃《かみしも》をつけて据えておく男ではない。
どうみても戦うためにのみうまれてきたような面魂《つらだましい》をもっていた。
榎本は幕臣のそだちだから旗本というものがいかに懦弱《だじやく》な者かを知っている。土方のようなつらがまえの男を、かつてみたことがない。
(陸軍はこの男にまかせよう)
榎本は、そうきめていた。
かれは、土方歳三という男が、江戸脱走以来、宇都宮城の奪取、日光の籠城、会津への転戦、会津若松城外での戦闘など、かれがどんな戦さをしてきたかを、土方の下にいた旗本出身の士官からきいてよく知っている。この新選組の旧《もと》副大将は、おどろくほど西洋式戦闘法を自分のものにし、独自のやり方をあみだしていた。
一例は、若松城外での戦闘のときである。
榎本がきいている話では、歳三は小部隊をひきいてみずから偵察に出かけた。
部落のはずれに、雑木林がある。道はその林の中を通っている。
すでに薄暮になっていた。雑木林まできたときにわかに林中からミニエー銃の一斉射撃をくらった。
一同、官軍の大部隊に遭遇したとみて、散って伏そうとする者、応射しようとする者、大いに狼狽したが、歳三はすぐ鎮《しず》め、
「みな、その場その場で大声をあげろ、声をそろえろ」
と命じた。
わあっ、と一せいに叫びあげると、雑木林の敵もこれにつられて、
わあっ、
と応じかえした。
歳三は、あざわらった。
「少数だ。前哨兵である」
声で、数まであてた。五十人とみた。
「かまわずに進め」
と、どんどん押してゆくと、敵は前哨兵だから、戦わずに逃げた。
歳三が偵察からもどってくると、平素、歳三に臆病者とののしられている大鳥圭介が、
「なぜ射たなかった」
と、やや難ずるようにいった。
「理由はあなたがもっている仏式の歩兵操典にかいてある。斥候の目的は偵察にあり、戦闘にはない」
大鳥も負けていない。
「敵も前哨兵だ。戦って捕虜にすれば本隊の状況がわかるではないか」
「そのとおりだ。しかし、捕虜の口を借りるより、拙者自身が敵の本隊を見てきたほうがもっと確かだろう」
事実、大胆にも敵の本隊の眼鼻がみえるところまで接近して、その動きを偵察して帰っている。
将校斥候としては、理想的な行動といっていい。
しかも歳三は偵察から帰隊するや、剣士三十人、銃兵二百人をつれて無燈のまま急進し、その本隊の宿営地を襲って、はるか後方まで潰走《かいそう》させている。
(大鳥には出来ない芸当だ)
この話をきいたとき、その指揮ぶりがもはや|芸《ヽ》になっていると思った。|戦さ《ヽヽ》芸《ヽ》の巧緻さ、決断の早さ、大胆さ、行動の迅速さは三百年父祖代々の食禄生活にあぐらをかいて、猟官運動にだけ眼はしのきく譜代の旗本たちの遠くおよぶところでないとおもった。
だいぶ、海霧《ガス》が出はじめている。
船尾から十町はなれてついてくる甲賀源吾艦長の「回天」の舷燈がみえなくなっていた。
「開陽」は、霧笛を噴きあげた。
やがてはるか後方の闇で、「回天」の霧笛がそれに応じてくるのがきこえた。
(すべてうまく行っている)
榎本は、歳三の部屋のドアをノックした。
「………?」
歳三は、洋式に馴れない。剣をとってドアに近づき、身をよせ、
「たれか」
と、声を押し殺した。京の新選組当時に身につけた用心ぶかさは、もはやこの男の癖になっている。
「私です。榎本です」
「ああ」
と、歳三はドアをひらいた。
真黒な風とともに、船将服の榎本が入ってきた。
「お邪魔ではないですか」
榎本は微笑している。オランダの首都ヘーグの市庁舎で、「どうみてもお前は極東人ではない。スペイン人だろう」といわれたほどの彫《ほ》りの深い顔をこの男はもっている。面長《おもなが》の多いいわゆる江戸顔ではない。
榎本家は、三河以来の幕臣であるが、じつはこの武揚自身にはその血は流れていない。
父円兵衛は、備後国《びんごのくに》深安郡湯田村箱田の庄屋の子であった。土地を支配している郡奉行《こおりぶぎよう》にその学才を愛され、江戸へつれて行ってもらい、幕府の天文方高橋作左衛門、伊能|忠敬《ただたか》の両人に師事して江戸でも有数の数学者になり、幸い幕臣榎本家の株が千両で売りに出ていたのでそれを買い、榎本円兵衛|武規《たけのり》と名乗り、五人扶持五十五俵を給せられることになった。
その子である。
血に田舎者の野性がまじっている。しかし武揚自身は三味線堀の組屋敷でうまれた生粋《きつすい》の江戸っ子で、学問一筋かと思うと狂歌としゃれがうまい。ほどよく田舎者の血と都会育ちのうまみがまじって、一種の傑作というべき人間をつくりあげた。
榎本は、歳三が文久三年三月十五日、近藤勇、芹沢鴨らとともに新選組を京で発足させた一月目の四月十八日に、幕府留学生十五人の一人としてオランダのロッテルダム港に入港している。
当時ロッテルダムの市民は、伝説と噂のみにきく極東の「サムライ」を見物するために、川岸に数万の人出があり、騎馬巡査が交通整理に出馬し、怪我人まで出るさわぎであった。
歳三が京で浮浪浪士を斬っている三年半のあいだに、榎本は化学、物理、船舶運用術、砲術、国際法をまなび、さらに当時めずらしかった電信機まで学んでモールス信号の送受信に相当な腕をもつにいたった。
しかも、おりから丁墺《ていおう》戦争(一八六四年のデンマーク・オーストリア戦争)がはじまったので、観戦武官として戦線に出かけた。
もっともこの戦争は、弱小国デンマークが、当時の大国オーストリアとビスマルクにひきいられた新興国プロシャの連盟のために、あっけなく敗れただけの戦争だったが、榎本がうけた衝撃は大きかった。
「弾丸雨飛の中を出入して、いわゆる文明国戦を実地にみた。この利益は大きかった」
と榎本は後年いっている。
墺普《おうふ》連合軍がデンマークに侵入し、シュレスウィッヒを陥したころ、榎本はその最激戦場を見た。
そのころの陰暦になおすと、歳三らが京都三条小橋西詰め池田屋に斬りこんだ元治元年六月五日前後であったろう。
新選組が京の花昌町に新屯営を造営して大いに威を張った慶応元年十月の当時、オランダでは榎本はウェッテレンの火薬廠で、火薬成分の研究をし、さらに幕府が買い入れるべき火薬製造機械の注文交渉をしている。
慶応二年九月十二日夜半、歳三が原田左之助ら三十六人を指揮して三条橋畔で土州藩士らと大乱闘をやっていたころ、榎本は、ロッテルダム市から約十里離れたドルドレヒトという小村にある造船所に詰めていた。
いま乗っている「開陽」が、数日後に竣工するまでになっていたからである。「開陽」ほどの大艦の造船は、オランダでもめずらしかったから、当時は新聞、雑誌がこの艦のことを書きたて、「果してこの艦を架台から無事、河底の浅いドルドレヒト河におろしうるかどうか、技術上の最後の苦心はそこに払われた」と雑誌ネーデルランス・マハサイが書いている。
これが無事、進水し、さらに両岸の風景の美しいメルヴェ河にうかびあがったときは、臨席した海軍大臣も、その付近の牛飼いも昂奮につつまれて歓声をあげた。
そのころ歳三は、鴨川|銭取橋《ぜにとりばし》で、薩摩藩に通謀した疑いのある五番隊組長武田観柳斎を斎藤一をして刀で討ちとらせている。
「どうも」
と歳三は、妙に照れながら椅子をすすめ、卓子《テーブル》にむかいあった。
榎本は腰をおろしたが、この男もどこか落ちつかない。
たがいに異邦人といっていいほど経歴がちがうのだ。
「船酔いは、されませんか」
と、榎本は話題がみつからないまま、あたりさわりのないことをいった。
歳三は、だまって微笑し、すぐこの男独特の不愛想な顔にもどった。
榎本は、
「土方さんは、軍艦ははじめてでしょう」
といった。
「いや、大坂から江戸へもどるとき富士山艦に乗っています。あのときはすこし」
「酔うのは当然です」
榎本は、そのあと、京の新選組のころのことを聞いた。
歳三は、
「往事茫々《おうじぼうぼう》です」
といったきりで、多くを語らず、ただ近藤のことを二、三話し、
「英雄というべき男でした」
といった。
榎本はうなずいた。
「ヨーロッパやアメリカの軍人、貴族にはああいう感じの男がたくさんいる。日本は武士の国だというが、すくなくとも江戸の旗本には豪毅さの点において、ヨーロッパ人に劣る者がほとんどです。私は新選組を思うとき、いつも新興国のプロシャの軍人を思いだす。似ています」
「そうですか」
歳三には、見当もつかない。
「土方さん、考えてもみなさい。欧米を洋夷々々というが、かれらのうちの商人でさえ、この開陽の半分ほどの船に乗って万里の波濤を越え、生死を賭けて日本に商売にやってきている。馬鹿にしたものじゃない」
ついで榎本は函館(箱館)について語った。
榎本は年少のころから冒険心がつよく、十八、九のころ、のちに目付、函館奉行になった幕臣堀|織部正利熙《おりべのしようとしひろ》がまだ御使番にすぎなかったころ、幕府から密命をうけ、松前藩の内情をさぐるため、北海道《えぞち》へ行くことになった。
その堀に懇願してその従僕になり、二人とも富山の薬売りに化けて函館まで出かけた、という。
「講釈でいう、隠密ですよ。あのときはわれながら、こういうことが実際あるのか、とおかしかった」
と、榎本はいった。
榎本が函館へ行こうと思った最も小さな理由は、かつて行ったことがあるからである。
最大の理由は、北海道を独立させ、函館に独立政府を作ることであった。
「外国とも条約を結びます。そうすれば京都政府とは別に、独立の公認された政府になるわけです」
その独立国の元首には、徳川家の血すじの者を一人迎えたい、というのは歳三はすでに仙台で榎本からきいている。
「政府を防衛するのは、軍事力です。それには、京都朝廷が手も足も出ないこの大艦隊があります。それに土方さんをはじめ、松平、大鳥らの陸兵」
ほかに、と榎本はいった。
「かの地には、五稜郭《ごりようかく》という旧幕府が築いた西洋式の城塞がある」
徳川家の血縁者を元首とする立憲君主国をつくるのが、榎本の理想であり、その理想図は、オランダの政体であったろう。
そのほか、榎本が函館をおさえようとした理由の最大のものは、函館のみが、官軍の軍事力によって抑えられていない唯一の国際貿易港であった。
長崎、兵庫、横浜はすべて官軍におさえられ、その港と外国商館を通じて、官軍はどんどん武器を買い入れている。
函館のみは、公卿の清水谷|公考《きんなる》以下の朝廷任命の吏僚と少数の兵、それに松前藩が行政的におさえてはいるものの、それらを追っぱらうのにさほどの苦労は要らず、まずまず、残された唯一の貿易港である。
外国人の商館もある。
ここで榎本軍は武器を輸入し、本土の侵略をゆるさぬほどの軍事力をもち、産業を開発して大いに富国強兵をはかり、ゆくゆくは、現在静岡に移されてその日の暮らしにもこまっている旧幕臣を移住させたい、と榎本は考えている。
「土方さん、いかがです」
と、榎本は血色のいい顔に微笑をのぼらせて、得意そうであった。
榎本は、楽天家である。
なるほど、かれが知りぬいている国際法によって外国との条約も結べるであろう、経済的にも立ちゆくだろうし、軍事的にもまずまず将来は本土と対等の力をもつにいたるかもしれない。
「三年」
榎本は指を三本つき出した。
「三年、京都朝廷がそっとしておいてくれればわれわれは十分な準備ができる」
「しかし」
と歳三は首をひねった。
「その三年という準備の日数を官軍が藉《か》さなければどうなるのです」
「いや日数をかせぐのに、外交というものがある。うまく朝廷を吊っておきますよ。われわれは別に逆意があってどうこうというのではないのだ。もとの徳川領に、独立国をつくるだけのことだから、諸外国も応援してくれて、官軍に横暴はさせませんよ。私がそのように持ってゆく」
「なるほど」
榎本は近藤に似ている、と思った。途方もない楽天家という点で。
(そういう資質の男だけが、総帥がつとまるのかもしれない)
歳三は、所詮は副長格である自分に気づいている。
むろん、それでいい。
おおいに榎本を輔《たす》けてやろう、と思った。
ただ、|二代《ヽヽ》目《ヽ》の楽天家が、|初代《ヽヽ》とちがい、ひどく学問があるのに閉口した。それになかなかの利口者であった。
(官軍は三年も捨てておくまい。かならずそれ以前にやってくる。その戦さにこの男は耐えられるか)
歳三は、条約などはどうでもいい。要は喧嘩の一事である。榎本のなかに近藤ほどの戦闘力があるかどうかを見きわめたかった。
[#改ページ]
小姓市村鉄之助
さらに北上した。
艦隊は、開陽、回天、蟠竜、神速、長鯨、大江、鳳凰《ほうおう》の艦船七隻。
戊辰の秋十月十三日、榎本艦隊は、薪水補給のため、南部藩領|宮古湾《みやこわん》に入った。
艦隊は、水路の複雑な湾内を縫うようにして入ってゆく。
「ほほう」
と、開陽甲板上にいた歳三は、この湾の風景のみごとさに眼をほそめた。
「市村鉄之助」
と、歳三は、自分の小姓をフルネームで呼んだ。
「寒い」
と、歳三はいった。
旧暦十月ともなれば、奥州の潮風はすでにつめたくなっている。
十六歳の大垣藩出身市村鉄之助は、歳三のために外套《マンテル》をもってきた。
歳三は、甲板で大剣をつき、外套を肩からかけた。
宮古湾は現在岩手県宮古市にあり、陸中海岸国立公園になっている。ノコギリ状の湾入部に富むいわゆるリアス式海岸であり、北上山脈が断崖となって海に落ち、遠望すると、漁村は高い海蝕崖《かいしよくがい》の上に散在している。
「鉄之助、これは眼の保養だな」
と、歳三はいった。
歳三は、希望に満ちている。歳三だけではない。
榎本艦隊のすべてが北海道で建設する第二徳川王朝の希望で心をはずませていた。
そのために、この本土における最後の寄港地になるであろう宮古湾の景色が、たれの眼にも美しくみえた。
この湾の景色を絵にしようとすれば、西洋画でなければ不可能であろう。それも、黄のチューブがふんだんに要るはずであった。どの島も、どの断崖も、あかるい黄と暗緑色の断層でそのふちをかざっている。
「松島も美しかったが、この宮古湾にはおよばないかもしれない」
と、歳三は、いつになく多弁に、市村鉄之助に話しかけた。
希望が、景色を美しくみせている。
「はあ」
と、十六歳の市村は答え、歳三の機嫌のいいのを、ひどくよろこんでいた。
艦隊は、測量をしながら、ゆるゆると入ってゆく。
北湾は、わりあい広い。漁村|立埼《たちがさき》から奥は水深二十|尋《ひろ》で、深くもあるが、奥へ入るにつれてしだいに浅くなる。海底は、泥である。
ただ北湾の欠点は、外海に開きすぎていて風波が侵入してくるおそれがあり、安全な投錨地とはいえない。
榎本司令官は、そう判断した。
艦隊は、鍬崎《くわざき》という漁村の前面にまで入った。ここでの測量結果は、水深三尋から五尋まで。
まず、投錨に十分である。
しかも、湾内の地形が複雑で、風をふせいでくれる。
――ここがいい。
と、榎本がいったが、なにしろ湾内がせますぎて、全艦隊が入らない。やむなく、大型の開陽、回天が、この狭隘部《きようあいぶ》の出入口からややはみ出た島かげに投錨した。
歳三は、榎本の指揮ぶりをみていて、この男への評価をしだいに高くした。
(出来る男だな)
とおもったのは、榎本の手配りのよさと、入念さである。
南部藩に使者を出す一方、この宮古湾の測量をなおもやめない。執拗なほどの入念さであった。この南部領宮古湾など、錨をぬいて出てしまえば、もはや無用の湾ではないか。
(変わっている)
それが、榎本のもともとの性格なのか、外国仕込みのやり方なのか、歳三にはわからない。
「榎本さん、ご入念なことですな」
と、仏式陸軍将官の制服の歳三は、榎本に話しかけた。
榎本は、オランダから帰国後、かれ自身が意匠を工夫して旧幕府に献言し採用された海軍制服を着ている。
黒ラシャ製の生地で、チョッキ、ズボン、それにフロックコート(とも云いがたい。羽織との折衷である)を羽織り、ボタンはすべて金、コートの袖に士官の階級をあらわす金筋を入れている。榎本は大将格だから五本である。
そのズボンのベルトに日本刀をぶちこみ、渡欧中に蓄《たくわ》えた八字ひげをはやしていた。
ひげは戦国武者がこのんだが、徳川三百年、はやらなかった。
ところが、西洋人はこれを好む。榎本のひげは、欧化幕臣のしるしといっていい。
「測量は、寄港するごとに、入念にやり、海図という道案内に書き入れます。その港が、今後必要であろうがなかろうが、やるわけです。つまり、西洋式海軍の癖のようなものですな」
と、榎本は、この無学な剣客のために懇切に説明した。
「そんなものですか」
歳三は、考えている。
この喧嘩師のあたまには、榎本にはない奇抜な空想がうかんできたらしい。
「土方さん、なにをお考えです」
と、榎本は、興深そうにきいた。第二徳川王朝軍の将領はそろいもそろって旧幕臣きっての学者、秀才ぞろいだが、この土方歳三だけは異質なのである。それだけに、榎本にとってこの無学な実戦家の発想に興味があった。
「いや、榎本さん、あなたはお笑いになるかも知れぬが、この宮古湾についてです。官軍の艦隊が、将来、北海道《えぞち》に来襲するばあいのことを考えています」
「………?」
「いったい、蒸気船というものは、海上で港にも寄らずに走れるのは、何日間です」
「艦船の大小によってちがいますが、艦隊を組むばあい、そのうちの最も小さな船に歩調をあわせます。官軍艦隊の輸送船はせいぜい二百トンほどでしょうから、それに陸兵を満載するとすれば、飲料水だけで、三日ももたない」
榎本には、多少の衒学《げんがく》趣味もある。無用のこともいった。
「走力だけでいえば」
と、言葉を継いだ。
「蒸気罐《じようきがま》ばかり焚いていると、良質の石炭でもせいぜい、二十日間です。その石炭を節約するために、風の調子のよい日にはつとめて汽罐をとめ、帆走を用います。その二つの力を巧みに用いるのが、よい艦長、船長というものです。それをうまくやれば、まず一月は大洋を走れます」
講義をきいているようだ。
が、歳三のきこうとしているのは、もっと具体的なことである。
「榎本さん、官軍艦隊が江戸湾を発すると、この宮古湾にはかならず寄りましょうな」
「ああ、そういうことですか。それは寄港するでしょう」
「そこを叩く」
と、新選組の親玉はいった。
「え?」
「榎本さん、いまにしてわかったが、洋式軍艦というものも不自由なものらしい。いったん錨をおろせば、汽罐の火は消す、帆はおろす、これじゃ、いざ敵襲といっても、容易に出動できない。官軍艦隊がここで碇泊《ていはく》しているところを、にわかに軍艦で攻めこんで来れば、敵は全滅しますよ」
「ほう、それで?」
榎本は、眼をかがやかせた。
「こっちの軍艦には、われわれ陸軍をのせておく。できれば砲戦せずに、つまり敵の軍艦を傷つけずに接近し、舷側にくっつけ、甲板へ斬りこんでゆけば、軍艦が丸奪《まるど》りになるじゃありませんか」
(ふっ)
と、榎本はおもわず吹きだすところであった。
(新選組はやっぱり新選組じゃ、話の最後は斬り合いか)
おもいつつ、笑いもできず、臍下丹田《せいかたんでん》に力をこめて、大まじめにいった。
「御妙案です」
この珍案が、のちに世界海戦史上|稀有《けう》といっていい歳三らの宮古湾海戦として実現するのだが、榎本はこのとき、まずまず座興としてききながした。
船室の歳三の身のまわりは、小姓市村鉄之助が面倒をみている。
細面《ほそおもて》の、眼のすがすがしい若者で、どこか眼のあたりが、沖田総司に似ていた。
「お前、沖田に似ている」
歳三がいったことがある。
「沖田先生に?」
これが、市村の自慢になった。
市村は、美濃大垣藩の出身であるということは前述した。
鳥羽伏見の戦いの直前、新選組が伏見奉行所に駐屯したとき、最後の募集を行なった。
そのとき市村は、兄の剛蔵とともに、大垣藩を脱して応募したのである。
採用するとき、すでに近藤、沖田は傷と病いのため大坂へ後送されていた。当時歳三が事実上の隊長で、採否をきめた。
市村鉄之助をみたとき、その齢《とし》の幼さにおどろいた。
「いくつだ」
ときくと、
「十九です」
とうそをいった。
いま十六だから当時は十五歳だったはずである。
歳三は、にやりと笑ったきり、なにもいわなかった。
「剣は、何流をつかう」
「神道無念流を学びました。目録をいただくまでになっておりましたが、この騒乱で、印可《しるし》は持っておりません」
「立ち合ってみなさい」
と、隊士の野村利三郎をえらび、試合をさせた。
どちらもあまりうまくはない。が、気魄だけは、鉄之助がまさった。
「君は、沖田に似ている。齢はどうやらうそをいっているようだが、総司に免じて採用しよう」
と、歳三がいった。いわば、沖田総司のおかげで、採用されたようなものである。
市村鉄之助は、この一言で沖田総司をひどく恩に着、伏見での戦闘後、大坂へ引きあげたとき、はじめて病床の沖田総司に会った。
沖田はあとで、歳三にいった。
「似てやしませんよ」
「そうかね」
歳三も苦笑していた。別にたいした理由があってあのときあんなことをいったのではない。
どうせ、猫の手でも借りたかったときのあの伏見奉行所時代である。
(これァ幼すぎる)
とおもったが、ままよ、と採った。そのとき、歳三は自分に云いきかせる理由として、
――沖田に似ているから、それに免じて採ろう。
といったまでであった。
その一言が、市村鉄之助の一生を左右したといっていい。
市村は、大坂から江戸へもどる富士山艦のなかでも、つきっきりで沖田の介抱をし、かんじんの局長近藤勇とは、ついに生涯口をきいてもらったことがなかった。
江戸に戻ってから、兄の剛蔵が、
――鉄之助、逃げよう。
とすすめた。
すでに天下は徳川に非で、将来《さき》に眼ざとい連中は、新選組のなかから、毎夜のように、一人逃げ、二人消え、していたころである。
剛蔵の逃亡も、むりではなかった。
「鉄之助、われわれは新参なのだ。伏見で戦っただけでも十分だと思う。これ以上隊にいては、すでに京の薩長が錦旗をひるがえした以上、賊軍になってしまう」
といった。
「いや、僕はとどまります」
と、明けて十六歳の鉄之助は、ひどく信念にあふれた顔で、断乎といった。
「理由はなんだ」
「沖田さんを介抱せよ、と土方先生からいわれているのです」
「え?」
それが、理由のすべてである。
剛蔵は怒った。
「お前、沖田総司が兄か、おれが兄か」
「兄上、こまったな」
この心情は、自分以外にはわからない。
なにしろ沖田総司と自分が似ているのだ。
「似ているから採ってやる」
と、副長の土方歳三が、はっきり云ってくれた。沖田総司といえば、京で知らぬ者はなかった。市村もむろんその雷名はききおよんでいた。幕末が生んだ不世出の剣客であろう、と、市村は、沖田総司の風貌を鬼のような勇士として想像していた。
ところが、大坂の病室で対面した現実の沖田総司は、ひどく照れ屋で、市村のような若僧に対しても敬語をつかい、しかも、自分から用事をいいつけたことがない。
富士山艦の中でも、
「市村君。僕は元気なんだ。そう病人あつかいにしないでくださいよ」
と、いう。
咳の出る夜など、徹夜で看病する気でいると、
「市村君は、あんたは、僕を病人にするために入隊《はい》ってきたんですな。あんたがそこにいると、だんだん病人みたいな気持になってしまう」
そんなことをいって、ことわってしまう。
手に負えなかった。
江戸に帰ってからでも、隊務の余暇をみつけては医学所へ行って看病したが、
「いけませんよ、市村君」
と、鉄之助とよく似た眼もとで笑い、
「あんたは男の子でしょう。ひとを看病するために新選組に入隊したのではないはずですよ」
といった。
沖田は、歳三にもいった。
「あのひとを」
と、市村鉄之助のことを呼んだ。
「寄せつけないでくださいよ。どうも伝染《うつ》りそうな気がして、気が気でならない」
歳三は、沖田のその言葉を、市村鉄之助にそのままに伝えた。
鉄之助は感激し、声をあげて泣いた。沖田ほどのひとが、それほど自分の身を想っていてくれたのか、と。
「あれはあいつの性分なのさ」
と、歳三はつけ加えたが、しかし年若な市村鉄之助にとっては、そうは思われない。
(自分を。――)
と、身がふるえる思いであった。
兄剛蔵が、逃亡をすすめたときも、踏みとどまる理由にそれをいおうと思ったが、わかってもらえまい、と思い、口に出すことをやめた。
第一、表現のしようがないのである。士はおのれを知る者のために死す、という古語があるが、そういうことともちがう。
なんだか、変なものだ。
そういう変な、筋のとおらない、もやもやとしているくせに一種活性を帯びたものが接着剤となって、人間というものが結びあうばあいが多いらしい。
「僕はふみとどまります」
と、鉄之助は兄にきっぱりいった。
剛蔵は、その後、行方不明になっている。
鉄之助は、歳三とともに、各地に転戦し、どの戦場でも勇敢であった。
単純な理由である。
(僕は、沖田さんに似ている)
それが、つねにはげみになった。
この市村鉄之助という人は、その後、数少ない新選組の生き残りとなり、明治後、土方歳三のことを語る、唯一にちかい語り手になって世を送り、明治十年、西南ノ役に警視庁隊として応募し、西郷の薩軍と戦い、戦死している。
南部藩は榎本艦隊の威力をおそれ、その要求どおりの物資をさしだした。
薪が、おもな提供物資である。榎本は石炭がほしかったが、奥州でそれは望めない。
燃料は薪で代用することにし、満載して出航した。
宮古湾を出たのは、十月十八日である。その日、晴天、浪はやや高かった。
艦隊は、北上をつづけた。途中、数隻の外国船とすれちがった。
そのつど、幕軍の船旗である日の丸の旗をかかげた。
その外国船の船長たちは、この艦隊の意図をよく知っていた。横浜から発行されている各国の新聞には、榎本が函館で新政府をつくろうとしているという記事が毎日のように出ていたからである。
[#改ページ]
松前城略取
艦隊が、北海道噴火湾にすべりこんだのは、戊辰十月二十日である。
鷲《わし》ノ木《き》、という漁村がある。艦隊は、その沖で、それぞれ、錨を投げこんだ。この瞬間から、戊辰史上、天下をゆるがす事件がはじまることになる。
歳三は、開陽の甲板上に立った。眼の前に、自分の上陸すべき山野が、雪をかぶってひろがっている。
すでに、榎本、松平、大鳥らとともに上陸後の作戦の打ちあわせはおわっていた。
二隊にわかれて函館(箱館)を攻撃するのである。本隊の司令官は大鳥圭介、別働隊の司令官は、土方歳三。
「土方さん、おたがい武州のうまれだが、とほうもない所へきた。しかしこのすべてが、われわれの政府の国土だと思えば、可愛くなる」
と、榎本武揚が、歳三の横に寄ってきて、いった。
歳三は、望遠鏡でのぞいている。
(ほう、人家がある)
しかも百四、五十軒も。これにはおどろいた。
「榎本さん、人家がありますな」
「いや、わしもおどろいている。鷲ノ木には人はすんでいるときいたが、どうせ蝦夷人《アイヌ》だろうと思っていましたが、世のことはわからぬものだ」
上陸してみると、東海道の宿場とおなじようにちゃんと本陣まであり、主人が紋服、仙台平で出むかえたのには、さらに驚いた。
もっと驚いたことには、この本陣屋敷は日本建築だったことで、部屋数も七つか八つほどあり、貴人を迎えるための上段の間まで備わっていたことだ。
榎本までおどろいた。
「日本と変わらん」
十八歳のころ松前へ来たことがあるという榎本にしてこうだから、歳三や大鳥、松平などは、茫然としている。
「土方さん、私はもっと蛮地かとおもいましたよ」
と、松平太郎がいった。
「なんの、考えてみれば、松前藩《まつまえはん》が、ここで数百年根を張ってきたのだ。しかしおどろいたなあ」
若い松平は、にこにこしている。
翌日、函館へ進発した。
大鳥軍は、旧幕軍歩兵を主力として、遊撃隊、それに白兵戦のために新選組(新選隊)を傘下に入れた。歳三の配慮であった。
「新選組は新政府のもので、私の私兵ではありませんから」
ところが歳三の土方軍は、完全洋式部隊で、いわば兵を交換したようなものであった。
鷲ノ木からまっすぐ南下すれば函館まで十里。これを大鳥軍がゆく。
土方は、海岸線を遠まわりし、途中、川汲《かわくみ》から積雪の山を越えて湯ノ川へ出、東方から函館を衝《つ》くことになった。
函館には、公卿の清水谷公考を首領とする官軍の裁判所(行政府)があり、それを長州藩士一人、薩摩藩士一人が補佐し、防衛軍として、松前、津軽、南部、秋田藩などの藩兵が、官軍として駐屯していた。
大鳥、土方両軍はこれを各所で破り、清水谷公考は青森へ逃亡した。
函館の占領が完了したのは、上陸後十日ばかりの十一月一日である。
榎本軍は、函館府の内外に幕軍の旗である日章旗を樹《た》て、港内に入った軍艦からそれぞれ祝砲二十一発を撃って、この占領を日本人、外国人に報《し》らしめた。
その政庁は、元町の旧箱館奉行所に置き、永井玄蕃頭尚志を「市長」とし、榎本軍の軍司令部は、函館の北郊亀田にある旧幕府築造の西洋式要塞「五稜郭」を本部とした。
函館占領を機会に、榎本軍では、市中に公館をもつ諸外国の領事を招待して祝賀会をおこなうはずであったが、北海道における唯一の藩である松前藩が、函館の西方二十五里の居城で藩兵を擁し、なお「降伏」しない。
「土方さんは城攻めの名人だ」
と、松平太郎は軍議の席上でいった。
歳三は、だまっている。宇都宮城攻略のことをいっているのであろう。
「ご苦労だが、行ってもらいましょうか」
と、大鳥圭介もいった。大鳥は歳三を好んでいないが、松前藩を陥さなければ、外国公館に対する信用の問題になる。
このとき歳三は、鷲ノ木から函館までの二十里の戦闘をおわったばかりで、兵もほとんど休息していなかった。
「陥落は、早ければ早いほどいい」
と榎本もいった。榎本は、これは政治的な戦争だとみていた。この攻略戦の早さで、外国公館、商社の、函館政権に対する信用が深くなるはずであった。
「……それなら」
と、新政権の将領のなかでこのたった一人の無学者は、仏頂面《ぶつちようづら》でうなずいた。
満足している。
仲間たちのほとんどは洋学者であった。漢学の素養もそれぞれ深く、事にふれて漢詩をつくったり、蘭学、仏学のはなしをしていたが、歳三は、そうした雑談のなかまには入ることができなかった。
喧嘩のうまさだけが、自分のたった一つの存在意義だと思っている。
「行きます」
と、歳三はうなずいた。
歳三は、新選組、幕府歩兵、仙台藩の洋式部隊である額兵隊、それに彰義隊の脱走組などをふくめた兵七百を率いて、出発した。
松前藩というのは、三百諸侯のなかで、知行高をもっていない唯一の藩である。藩経済は、北海道物産でまかなわれている。
前藩主松前|崇広《たかひろ》は、幕府の寺社奉行、海陸総奉行、さらには老中にまでなるほどの器量人だったが、いまは病没して亡い。
現藩主は、十八代徳広である。多病で、藩政をみる力がなく、そのうち藩内が勤王派で牛耳《ぎゆうじ》られ、城中で空位を擁している。が、なんといっても、一藩を攻めつぶすのだから、はたして七百の兵力で足りるかどうか、榎本軍の仏人顧問たちもあやぶんだ。
小藩とはいえ、相当な城である。
安政二年に竣工したばかりの新造の城(現国宝)で、面積二万千三百七十四坪、天守閣は三層で、銅ぶきの屋根をもち、壁は白堊《はくあ》の塗り込めになっており、しかもペリー来航後にできた新城だけに、城の南面、海にむかって砲台を備えている。
「まあ、足りるでしょう」
と、歳三はいった。鳥羽伏見では薩長のミニエー銃に負けたが、こんどはこちらがミニエー銃をもち、相手は火縄銃と五十歩百歩のゲベール銃しかもっていない。
むしろ、雪中の行軍で悩んだ。
当別《とうべつ》、木古内《きこない》、知内《しりうち》、知内峠までは民家宿営ができたが、その翌日は露営をした。
「火をどんどん燃せ」
と命ずるしか、露営の方法がない。
歳三も、外套《マンテル》をひっかぶって大焚火《おおたきび》のそばで寝ころんだが、体の下の雪が融けてきて、かえって体が凍りつくような始末になり、これはたまらぬと思った。
夜中、全軍をたたきおこし、
「敵陣を奪う以外に寝る場所はないと思え」
と夜行軍をはじめた。
敵の第一線は、人口千人の港町福島にあり、斥候の報告では守兵は三百だという。
全軍、眠りたい一心でこの町を攻め、激戦のすえ奪取したが、松前軍は雪中露営の困難さを知っているから町に火を放って退却した。
その夜は焼けあとで寝たが、夜中風雪がひどくなり、また露営していられなくなった。
「起きろ」
と、歳三は夜中兵をおこし、
「ねぐらは松前城ときめよ。城を奪《と》るか、凍死か、どちらかだと思え」
みな、ふらふらで行軍した。
ついに、歳三らは松前城の天守閣をみる高地まで出た。
歳三は、まず、城から六、七丁はなれた小山(法華寺山)をえらんで四|斤《ポンド》山砲《さんぽう》二門を据え、城内にむかって砲撃を開始させた。
敵も、城南築島砲台の十二斤|加農砲《カノンほう》の砲座を変えて応射し、砲兵戦になった。
歳三は、砲兵に援護射撃をつづけさせつつ、彰義隊、新選組には大手門をあたらせ、歩兵、額兵隊などの洋式部隊は搦手《からめて》攻めを担当させた。
自分は、馬上指揮をとった。
城は、地蔵山という山を背にし、前に幅三十間の川をめぐらせている。
川岸まできた。
敵は川むこうと城内からさかんに撃ってくる。が、ゲベール銃という燧石式《ひうちいししき》の発火装置をもった銃は、操作に手間がかかるうえに、ひどく命中率がわるい。
「あれは音だけのものだ。おれは伏見で知っている」
と、歳三は笑った。
「花火が打ちあがっていると思え。川にとびこむんだ」
と、馬腹を蹴ってみずから流れに入った。
彰義隊が、まっさきに進んだ。
新選組が、その下流をやや遅れて進んでいる。
(ちっ)
歳三は、気が気ではなかったが、全軍の統率上、新選組だけを鼓舞するわけにいかず、いらいらした。
「市村鉄之助」
と小姓を馬のそばによび、
――斎藤にいえ、京都を思い出せ、と伝えろ。
市村は、洲を駈け、浅瀬を渡り、ときには深い流れの中を泳いだりしながら新選組指揮官諾斎こと斎藤一にちかづいてそれをいうと、
「冗談じゃない」
と、斎藤は弾雨の中でどなった。
「京都のころでも、鴨川を泳いだことはなかった。あの人にそういってくれ。北海道《えぞち》の冬に川泳ぎするとは思わなかった」
全軍、どっと対岸へのぼった。
白兵戦がはじまると、新選組の一団の上にはつねに血の霧が舞っているようで、もっとも強かった。
彰義隊とともに敵を大手門まで追ったが、ひきあげてゆく敵は、ついに大門をとざしてしまった。
「これァ、いかん」
刀では、鉄鋲《てつびよう》をうった門をどうすることもできない。
その門前で、斎藤一は、彰義隊の渋沢成一郎、寺沢新太郎らと協議し、
「搦手門にまわらんと、戦さはできんぞ」
と、歳三の決めた部署を勝手に変更してどっと駈けだした。
途中、馬上の歳三に出遭った。
「両隊、何をしておる」
歳三がどなると、斎藤一はそのそばを駈けぬけながら、口早に理由をいった。
「なるほど、門はやぶれまい。おれも搦手門へゆこう。各々、わがあとにつづけ」
と、城壁の下を駈けだした。
城壁から鉄砲玉がうちおろされてくるが、可哀そうなほどあたらない。
そこでは、敵は奇妙な戦法をとっていた。
城門の内側に、砲二門をならべ、弾をこめると、パッと門をひらき、同時に発射して、また門を閉める。
額兵隊、歩兵はこれには攻めあぐみ、そこここに伏せて、その砲弾の炸裂《さくれつ》からかろうじて身をまもっていた。
歳三は、散兵線に馬を入れると、額兵隊長の星恂太郎をよんだ。
星は、真赤なラシャ服に金糸の縫いとりをした派手な額兵隊制服を着ている。
「あの門、いま何度目にひらいた」
「四度目です」
「開門から開門まで、どのくらい時間がかかっている」
「さあ、呼吸《いき》を二十ばかりつくほどでしょうか」
「では銃兵二十人を貸したまえ。あとの諸君は突撃の用意をしておく」
やがて五度目に門があき、二門の砲が同時に火を噴き、歳三の背後にいた歩兵八人を吹っとばした。
すぐ門が閉ざされた。発射煙だけがのこった。
「来い」
と、歳三は二十人の銃兵とともに走り、搦手門の眼の前まで接近して、立射の姿勢をとらせた。
「門がひらくと同時に射手めがけて一斉射撃しろ」
後方の味方は、地に身を伏せながらみな、かたずをのんでいる。
もし大砲の発射のほうが早ければ、二十人は歳三をふくめて木っ端|微塵《みじん》になるだろう。
やがて門がひらいた。
にゅっ、と二門の砲が出た。
と同時に、二十挺の小銃が火を噴き、砲側の松前藩兵をばたばた倒した。
「斬り込め」
と、最初にとびこんだのは、彰義隊の寺沢新太郎、ついで新選組の斎藤一、松本捨助、野村利三郎。
そのころには、法華寺山の味方の砲兵陣地が撃った弾が、城内に火災をおこしはじめていた。
全軍、乱入した。藩兵は城をすてて江差《えさし》へ敗走した。
歳三は、追撃を命ずべきであったが、みなは寝るために松前城を陥したのだ。
「寝ろ」
と、命じた。
命じてから、新選組のみを率い、みずから斥候になり、江差へゆく大野口の間道をのぼりはじめた。
山路を二丁ばかりゆくと、木コリ小屋があり、そこに旧幕府歩兵がなぜ来たのか、すでに先着している。
かれらは歳三をみて、狼狽した。
「どうした」
ときくと、どうやら、城を落ちて行った女どもを追っているらしい。
歳三は、小屋の土間に入った。そこに、五人の御殿女中風の娘が、病人らしい若い婦人をまもって、それぞれすさまじい形相で懐剣をにぎっている。
歳三は、自分の名と身分を告げ、害意はもたない、事情をきかせてほしい、といった。
「土方歳三殿?」
女たちは、この京で高名だった武士の名をみな知っていた。が、この名がどういう印象で記録されていたかは、よくわからない。
中央の婦人は、妊婦であった。まだ二十すぎで、美人ではないが、気品がある。
「私の名をつげなさい」
と、女中たちにいった。
松前藩主松前志摩守徳広の正室であった。
歳三は、ここで、あまりこの男にふさわしくない、ひどく人情的な始末をしている。
「志摩守殿は、江差におられるはずですな」
といった。すでに間諜の報告で、攻城の直前、江差へ去ったことはきいている、なぜ身重の藩主夫人だけが残ったのか、そのへんの事情はよくわからない。
「江差まで隊士に送らせましょう」
といった。
その隊士を歳三は、とっさの判断で、名指しした。
斎藤一、松本捨助
のふたりである。どちらも新選組(新選隊)の指揮官ではないか。
しかも、
「江戸までお供せい」
と命じた。
「土方さん、正気ですか」
斎藤が眉をひそめた。
「正気さ」
「私はことわるね。あんたとは新選組結成以来一緒にやってきた。北海道《えぞち》もこれからというときになって江戸ゆきはごめんですよ」
「江戸へついたら、故郷へ帰れ」
「………」
いよいよ斎藤と松本は驚いた。
歳三はそれをおそろしい顔でにらみつけ、
「隊命にそむく者は斬る、という新選組の法度《はつと》をわすれたか」
|とうむ《ヽヽ》をいわさず承知させ、部隊の行李を呼び、餞別《せんべつ》をあたえた。
ところが餞別に差があり、松本捨助は十両で、斎藤一は三十両であった。
理由をきくと、この差には歳三なりの理由のあることだった。どちらも南多摩郡の出(斎藤は播州明石の浪人の子)だが、斎藤には故郷に家族がない。捨助には、両親も健在で家屋田地もある。
「だからよ」
といったきり、歳三はそれ以上いわなかった。
二人は江差から北海道《えぞち》を脱し、その後、明治末年ごろまで生きた。生きさせるのが、歳三の強要した別離の最大の理由だった。
――妙な人だった。
と晩年まで山口五郎(斎藤一改名)は歳三のことをそんなふうに語った。
[#改ページ]
甲 鉄 艦
話はかわる。
江戸城の西ノ丸に本営をおく官軍総督府では、密偵や、外国公館筋からの報告で、北海道の状況をくわしく知っていた。
毎日のように参謀会議がひらかれた。
「どうやら、北海道《えぞち》全土はかれらの手に帰したらしい」
という報道は、歳三の松前城占領の十日後には外国汽船によってもたらされていた。
その後数日たって、北海道政府の樹立がつたわり、政府要人の名簿まで伝えられた。
なにしろ横浜の外人間では、このうわさでもちきりであった。
「函館政府は、在函館の外国公館、商社、船長などをまねいて、盛大な祝賀会をやったらしい」
という報道も、横浜の英字新聞に載った。
フランス人などは、旧幕時代の関係で暗にこの政権に好意をもっており、条約まで結ぼうという動きがあるといううわさが、江戸城内にもつたわった。
さらに榎本は、英、仏、米、伊、蘭、独の各国公使を通じて、京都政権との併立和合をはかろうとして、精力的な文書活動をつづけている。
むろん新政府では、
「攻伐」
に決していた。
当然なことで、京都政権がせっかくできあがった早々、内乱敗北派による別の政権が北辺に成立しているのをだまっていては、唯一無二の正式政府としての対外信用が皆無になる。
「早急に」
というのが、薩長要人の一致した意向であった。
ただ、総参謀長の長州藩士大村益次郎だけは、早急討伐論に反対であった。
「まだ寒い」
というのが、戦術家がいった唯一の理由である。その門人の回想談では、益次郎の意向をこう伝えている。
この冬にむかって、寒い土地に行っては、とても仕事がやりにくかろう。なにもいま騒ぐことはない。それに、むこうがべつに攻めてくるわけではない。来春がいい。陸軍は青森で冬籠りし、海軍もその間に軍艦を修繕して、すっかり準備しておくがよい。
函館では、すでに選挙によって政府要人の顔ぶれをきめていた。
総裁は、榎本武揚である。
副総裁は、松平太郎であった。
海軍奉行は荒井郁之助。陸軍奉行は大鳥圭介。陸軍奉行並が、土方歳三。
ほかに、かつて旧幕府の若年寄だった永井玄蕃頭(尚志、旧称主水正)が首都の市長ともいうべき函館奉行、松前城には松前奉行をおき、漁港の江差には江差奉行、さらに開拓長官として開拓奉行などをおき、実戦部隊指揮官として、海軍頭《かいぐんがしら》、歩兵頭、砲兵頭、器械頭などの旧幕以来の職をもうけ、二十二人の練達者が選任された。
歳三は、五稜郭の本営にいる。
明治二年二月、官軍の艦船八隻が、品川沖で出航準備をととのえつつあるという情報が、函館の外国商社筋から入った。
さっそく軍議がひらかれた。
「軍艦は四隻です」
と榎本武揚はいった。
「運輸船は四隻。これに陸兵六千をのせてくるというはなしです。これだけの数字ならおそるるに足りないが、ただ、こまったことがある。軍艦のなかに甲鉄艦《ストーン・ウオール》がふくまれていることです」
一同の表情に、非常な驚きが走った。とくに海軍関係者はその軍艦の威力を知っているだけに驚きというだけでは済まされない。
恐怖といってよかった。
「土方さん」
榎本は、微笑をむけた。
「甲鉄艦のことはごぞんじでしょう」
馬鹿にしてやがる、とおもった。いくら歳三でもこの艦のことは知っている。
甲鉄艦はこの時期、おそらく世界的水準の強力艦であったろう。
旧幕府が米国に注文し、できたときは、幕府瓦解の直後であり、米国側はこれを横浜港にうかべ、
――国際法上の慣例により内乱がおさまるまで双方に渡せない。
と、どちらにも渡さなかった。
榎本も、品川沖出航の直前まで執拗に米国側とかけあったが、|らち《ヽヽ》があかない。
「大げさにいえば、あのときあの甲鉄艦さえ手に入っておれば、北海道《えぞち》防衛はあの一艦で間にあうほどのものです」
と、かつて榎本は北海道への航海中、歳三に語ったことがある。
この艦が、新政府側の大隈《おおくま》八太郎(のち重信《しげのぶ》)らの苦心の折衝で、ようやく手に入れることができ、海軍力のよわい官軍に強大な威力を加えることになった。
まだ、艦名はない。
木製だが甲鉄でつつんで鋲《びよう》で打ちとめてあるから、そういう通称がうまれたのであろう。
艦の大きさは函館政権の「回天」とさほどかわらないが、馬力が「回天」の四百にくらべ、千二百である。
備砲は四門。
数ははすくないが、三百|斤《ポンド》のガラナート砲、および七十斤の艦砲をそなえ、一弾で敵艦を粉砕できる日本最大の巨砲艦とされている。
余談だが、この艦は、アメリカの南北戦争の最中に北軍の注文で建造されたもので、一艦もって南軍艦隊を破りうるといわれたほどのものであった。が、できあがったときには南軍政府が降伏し、戦争はおわっていた。
おりから幕府の軍艦買いつけ役人が渡米して、この新造艦を港内で見、ぜひゆずってほしいということで、話がついた。
ところが横浜に入ったときは、幕府がなくなっている。宿命的な軍艦といっていい。
この艦はのちに東艦《あずまかん》と命名され、二十数年後の日清戦争のときでもなお庶民のあいだで代表的軍艦として名を知られていた。
「日清談判破裂して、品川乗り出す東艦」
という日清戦争のときの唱歌は、この艦をうたったものだが、厳密には同艦は明治二十一年には老朽して船籍から除籍されている。
「榎本さん、その甲鉄艦は、南部領(岩手県)の宮古湾に寄港するでしょう」
と歳三はいった。
「当然、するでしょうな」
「そのときに襲ってこちらに奪いとってしまえばよろしい」
「………」
みな、あきれたような顔で歳三を見た。
(この無学者が)
というところであったろう。
歳三は、例のはれぼったい眼を薄眼にしてねむったように瞳を動かさない。
榎本だけは、しきりとうなずいている。すでに宮古湾の洋上で、歳三から、この夢のような戦術をきかされていたからである。
「しかし土方君、わがほうにすでに開陽がないのだ。あの当時とこちらの条件がちがっている」
と、榎本はいった。
開陽は昨秋十一月、江差の弁天島投錨地で台風に遭い、沈没してしまっていた。これによって函館の海軍力は半減した、といっていい。
「回天があるでしょう。蟠竜、高雄もある。陸軍の私がいうのは妙だが、とにかく海軍はわれわれを運んでくれるだけでよい。乗っ取るのは陸軍でやる。もっとも乗っ取ったあと艦を動かして帰るのは海軍だが」
「………」
みな沈黙した。といって好意的な沈黙ではなかった。旧幕府陸海軍の秀才たちは、こういう戦術を学んだことがない。
(まるで昔の倭寇《わこう》ではないか)
という感想であった。
このあと軍議は雑談におわって解散した。
この函館海軍当局の恐怖が、函館居住の外国人によって新政府に報告され、その報告文が横浜の英字新聞「ヘラルド」に掲載された。
文中、「函館政府の将校たちは、甲鉄艦が近くやってくることに非常に恐怖している。そのせいか、海峡にたびたび捜索船を出しているようである。昨夜も、蒸気船二隻を出し、函館港の内外を航行させていた」とある。
この記事が大きく扱われているところからみても、横浜の外人にとって、函館政府の動きは重要な関心事だったにちがいない。
歳三の案は、榎本の口から旧幕府の仏人軍事教師団に伝えられた。
ニコールという男が、
「それは外国の戦法にもある」
といったから、榎本はにわかに関心をもった。接舷攻撃《アボルダージ・ボールデイング》、というのである。
「土方君、外国にもあるそうだ」
「あるでしょう。戦さというものは、学問ではありませんよ。勝つ理屈というものは、日本も外国もちがうもんじゃない」
(そのとおりだ)
榎本も閉口し、眉をさげる特有の笑いかたで、歳三の肩をたたいた。
「私が負けた」
「私も船のことはわからないから回天艦長の甲賀源吾君にきいてみた。すると甲賀君は学問があるわりには」
と、歳三は榎本をみて苦笑し、
「いや、これは学問のあるあなたへの皮肉ではない。甲賀君は学者のわりには頭が素直なようです。出来そうだ、といってくれた。とにかく研究してみる、ということだった。軍艦はべつとして、陸兵は私が指揮をします」
「陸軍奉行みずからゆくべきじゃない」
「私は戦いに馴れている。近藤勇は甲州城を奪いそこねて恨みをのんで死んだが、その報酬に甲鉄艦を奪いたい」
「薩長はおどろくだろう」
榎本は、歳三が軍神のようにみえてきたらしい。外国人がよくするように手を握った。
「想像するだけでも愉快なことだ。土方さん、薩長にすればまさか新選組が軍艦に乗って斬りこんで来るとはおもうまい」
「これには諜報が要《い》る。かんじんなことは、むこうの艦隊がいつごろ宮古湾に来るのか」
「いや、今日あたり江戸の諜者からの手紙が英国船に託されて入ってくるはずだ。それをみればほぼ見当がつく」
新政府は、艦隊の編成にこまった。政府の艦船としては、甲鉄艦一隻、輸送船は飛竜丸一隻きりである。
他は、旧幕以来、諸藩が外国から購入した艦船をあつめざるをえなかった。
そうした艦船が品川沖にあつまってきて、艦隊、船隊を組みおわったのは、明治二年三月のはじめである。
軍艦は四隻、汽船は四隻であった。
甲鉄艦を旗艦とし、これにつぐ軍艦としては、薩摩藩の「春日」(一二六九トン)がわずかに期待される程度である。
のこる二隻は、長州藩の「第一|丁卯《ていぼう》」(一二〇トン)、秋田藩の「陽春」(五三〇トン)であるが、大きさ、速力、威力は函館側とくらべれば問題にならない。
彼女らは、三月九日、いっせいに錨をあげて出航した。
この旨は、横浜に潜伏している函館政府の間諜(外国人か)から報告されて、日ならず函館政府は知った。その報告には「宮古湾寄港は十七日か十八日」と書かれていた(麦叢録)。
官軍艦隊の第二艦「春日」(薩摩藩)に、のちの東郷平八郎が、二十三歳の三等士官として乗り組んでいた。
乗組士官は、艦長が赤塚源六、副長格が黒田喜左衛門。ほかに谷元《たにもと》良助、隈崎《くまざき》佐七郎、東郷平八郎。
この無口な若者は、砲術士官として舷側砲をうけもっている。
「東郷元帥の経歴のふしぎさは、わが国におけるあらゆる海戦に参加したことである」
と、のちに小笠原|長生《ながなり》翁が書いているように、これほど戦さ運にめぐまれた人物は外国の例にもないといわれる。
――あれは天運のついた男だ。
というのが、日露戦争の直前、海軍大臣山本権兵衛が、当時閑職の舞鶴鎮守府長官として予備役編入を待つだけの運命であった東郷(当時中将)を連合艦隊司令長官に任命した理由だったという。
明治天皇が、なぜ東郷をえらぶのか、と山本海相にその選考理由を下問したときも、
「ここに幾人かの候補者がいます。技術は甲乙ございませぬ。ただ東郷のみは運の憑《つ》きがよろしゅうございます」
と答えた。
「春日」の乗組士官である薩摩藩士東郷は、かつて榎本の率いる幕府艦隊と阿波沖で交戦している。
慶応四年正月、鳥羽伏見の戦いの真最中での出来事で、当時「春日」は兵庫港にあり、同藩の汽船二隻を護送して藩地へ帰る命をうけていた。
四日朝、大坂湾をはなれて阿波沖にさしかかったとき、榎本の坐乗する日本最大の軍艦「開陽」に遭遇した。
むろん、「開陽」にかなうはずがない。「春日」は快速を利用して離脱しようとしたが、榎本はぐんぐん艦をちかづけて交戦を強《し》いた。
榎本は、十三門の右舷砲の火門をいっせいにひらかせて、砲撃した。
が、一発も「春日」にあたらない。なにしろ、艦は大きく、海軍技術ははるかに幕軍のほうがすぐれているはずなのに、撃ち出す砲弾はすべて「春日」の前後左右で水煙をあげるのみであった。
ついに「開陽」は、わずか千二百メートルの近距離にまでせまった。
このとき東郷みずからが操作する左舷四十|斤《ポンド》施条砲《せじようほう》が、はじめて火蓋《ひぶた》を切った。
これが一発で、「開陽」に命中し、第二弾、第三弾もいずれも命中した。
この海戦は、この国における洋式軍艦による最初の海戦であった。
この記念すべき戦闘で、海軍に熟達しているはずの「開陽」乗組員が、百発ちかい砲弾を発射したにもかかわらず、一発も命中しなかった。運がわるい、というほかない。
――東郷は運がいい。
という山本権兵衛の最初の印象は、この初一発の命中であったろう。「春日」は無事離脱して鹿児島へ帰っている。
官軍艦隊は北上をつづけたが、途中何度か時化《しけ》にあい、宮古湾寄港が予定よりもずっと遅れた。
五稜郭にある榎本は、海軍奉行荒井郁之助をして、しきりと宮古湾周辺まで斥候船を出させている。
陸軍奉行並の歳三は、軍服に乗馬用の長靴をはき、函館港内に繋留している「回天」に乗りこんで毎日のように「斬り込み隊」の訓練をしていた。
「よいか、人を斬る剣は所詮は度胸である。剣技はつまるところ、面《めん》の斬撃《ざんげき》と、突き以外にない。ならい覚えた区々たる剣技の末梢をわすれることだ」
と歳三は、甲板上で右足を踏み出し、ぎらりと和泉守兼定をぬいた。
瞬間、凄味があたりに満ち、陸兵も海員もみな声をのんだ。京都のころ、史上、もっとも多くの武士を斬ってきた男が、ここで殺人法の実技をみせようとしている。
歳三の眼の前に、ハンモックが、袋に包んで立てられている。
踏みこんだ。
和泉守兼定が陽光にきらめいたかと思うと、そのハンモックはタテ真二つになってころがった。
「腰を」
歳三は自分の腰をたたいた。
「腰をぐっと押して行って相手の臍《へそ》にくっつけるところまで行って斬れ。切尖《きつさき》で切るのは臆病者のやることだ。刀はかならず物打《ものうち》で切る。逃げながら相手の胴を払ったり、籠手をたたいて身をかわすような小技《こわざ》はするな」
聞いている連中も、各隊よりすぐりの剣客だから素人ではない。
選ばれたのは、
新選組からは、野村利三郎、大島寅雄など二十人。
彰義隊からは、笠間金八郎、加藤作太郎、伊藤弥七など二十数人。
神木隊《しんぼくたい》からは、三宅八五郎、川崎金次郎、古橋丁蔵、酒井|★[#金+扇]之助《せんのすけ》、同良祐など二十数人である。
どの男も、京都、鳥羽伏見、上野戦争、東北戦争、蝦夷地《えぞち》鎮定戦などで死地のなかを何度もくぐってきた連中である。
三月二十日夜十二時、かれらは三艦に分乗し、函館の町の灯をあとにして、ひそかに北海道を離れた。
「回天」は先頭にあり、艦尾に白燈をともして後続艦を誘導した。
宮古へゆく。
[#改ページ]
宮古湾海戦
回天、蟠竜、高雄の三艦は、その序列で一列になって南下している。
歳三は、ずっと旗艦回天の艦橋にいた。
二十二日は、南部藩領|久慈《くじ》のとなり、土地では「鮫《さめ》」と呼んでいる無名港に入った。
三艦とも、幕軍の船旗「日の丸」をおろし、マストに官軍の船旗である「菊章旗」をかかげていた。漁民や航行船の通報をおそれたのである。
「土方さん、陸兵の斥候をおろしますか」
と、艦長の甲賀源吾がきいた。斥候、というのは、宮古湾における官軍艦隊の動静をさぐるためであった。
「私が行きます」
歳三はそういって、小姓の市村鉄之助ひとりをつれて短艇に乗った。
鮫村、という漁村に着き、土地の漁夫から官軍の動静をきいた。
みな、知らなかった。
歳三は失望して、ふたたび艦上の人となった。
「甲賀さん、官軍の様子がわからない」
索敵がうまくゆかなければ、この奇襲作戦は失敗するであろう。
「なるほど、鮫村では宮古湾から遠すぎて様子がわからないのも当然かもしれない。土方さん、錨をあげます。出帆します。こんなところにぐずぐずしていては、敵に気取られてしまう」
と甲賀艦長がいった。
そのとおりだ、と歳三はうなずきながら、甲賀艦長の手もとの陸図をのぞきこんだ。
宮古湾までに、偵察のために手頃な漁港はもうなさそうである。
ただ、宮古湾をやりすごせば、同湾から南五里のところに山田という漁港がある。
「ここがいい。やや接近しすぎるきらいはあるが、この山田村の人間なら五里むこうの宮古湾の様子を知っているだろう」
「妙案です。おっしゃるとおり発見される危険はともなうが、戦さには賭けが必要だ」
甲賀源吾は、すぐあと二艦の艦長に連絡し、錨をまきあげ、やがて低速汽力で出航しはじめた。
港外に出たとき、蒸気をとめ、帆走にきりかえた。
幸い、風は追風である。
艦橋《ブリツジ》は、静かである。
歳三も無口だし、甲賀源吾という武士も必要なこと以外はほとんど口をきかないたちの男であった。
(この男こそ函館きっての人材かもしれない)
と歳三は、甲賀をひどく好意的な眼で眺めていた。
齢は歳三よりやや若い。三十一歳である。削《そ》いだような耳と、小さな眼をもっている。小作りな体に無駄なく、精気を凝りかためたような体格の男であった。
(体つきは、藤堂平助か、永倉新八に似ている。性格はおれに似ているかもしれない)
甲賀源吾は、むろん幕臣である。しかし、函館政府のほとんどの幹部がそうであるように、譜代の旗本ではなかった。
遠州掛川藩士甲賀孫太夫の第四子にうまれた。この家系の遠祖は忍びで著名な近江国甲賀郡から出ている。
江戸で幕臣|矢田堀《やたぼり》景蔵(のち鴻《こう》・幕末の海軍総裁)について航海術を学び、のち荒井郁之助(函館政府の海軍奉行)について高等数学、艦隊操練の蘭書を翻訳し、さらに長崎で実地に航海術を修業し、この技術によって幕臣にとりたてられ、軍艦操練所教授方、軍艦頭などをつとめた。
甲賀源吾も歳三には好意をもっているようであった。
歳三の戦法は索敵を重んじた。しかし軍艦でいちいち沿岸に錨をおろしては漁村で索敵するのだから、つい行動が鈍重になり、面倒でもあり、海軍としては快適な戦闘準備ではなかった。
それでも甲賀は、唯々《いい》とその陸兵的発想の索敵法に協力してくれた。
「土方さん、池田屋のときにも十分な索敵をしましたか」
甲賀は、元治元年六月のあの高名な事件についてききたがった。
新選組の少数が斬りこんで奇功を奏した戦闘である。
「あれは近藤の手柄でした。私は木屋町の四国屋重兵衛方を受けもち、あとで池田屋に駈けつけたときはあらかた片づいていた。しかしその前に池田屋は十分に調べた。探索方の副長助勤で山崎烝」
といったとき、艦が大きく揺れはじめた。
歳三は、窓外を見た。波のうねりが高くなっている。外洋に出たせいかどうか。
「この山崎が」
歳三は窓外を見たままである。
「探索の名人でした。薬屋に化けて池田屋にとまりこみ、敵方に接近して信用を得て、酒宴の膳はこびなどもした。集まった人数のわりに座敷がせまかったから、薬屋の山崎が、みなさんお腰のものをおあずかりしておきます、といって大刀をまとめ、隣室の押入れへ入れておいた。わずか五人で斬りこんだ近藤の第一撃が奏功したのは、このためです。勝つためには策が要る。策をたてるためには偵察《ものみ》が十分でなければならない。喧嘩の常法ですよ」
艦のゆれがひどくなった。
風が強くなった。雨こそ降らないが、雲が重く沖合に垂れはじめ、素人眼にも容易ならぬ天候になりつつあることがわかった。
(陸ならば夜討ちに恰好な天候だが)
歳三は艦橋をおりて舷側へゆき、先刻食べたものを一気に吐き捨てた。
夜に入って晴雨計がどんどんさがりはじめ、風浪がはげしくなった。
それまでに「回天」は帆を一枚ずつ剥ぐようにおろしていたが、ついに汽力航走にきりかえた。
黒煙をあげて走っている。
夜半、当直士官が騒いだ。後続する蟠竜、高雄の舷燈が見えなくなったのである。
かれらは、艦橋で仮眠している甲賀艦長を起こした。
甲賀はさわがなかった。
「かれらは、波にまかせている」
回天とは、汽力がちがう。
両艦とも汽力が乏しいために、この風浪のなかで自力航走をすることはかえって危険であった。
蟠竜と高雄は、おそらく汽罐をとめ、錨をおろし、ひたすらに艦の損傷を避けるためにただ浮かんでいるだけの航法をとっているのであろう。
しかしうかんでいるだけでも、この風浪なら、操舵をあやまりさえしなければそのまま自然と南下できるはずである。
その夜、回天は横波のために舷側の外輪の覆いをうちこわされた。
夜明けとともに風はやんだ。
「いない」
歳三は窓外を見て、くすっと笑った。笑うしか仕方がなかった。後続していたはずの蟠竜と高雄が、この見わたすかぎりの大海原《おおうなばら》のどこにも居なかったのである。
(なんと軍艦とは不自由なものだ)
やがて艦は陸地にむかって走りはじめた。
朝焼けの空の下に、山田湾の風景がひらけてきた。
おどろくべきことがあった。湾の入口に濛々と黒煙をあげている軍艦があり、近づいてみると高雄であった。
流されたほうが早かったのである。蟠竜の行方はわからない。
回天、高雄は、山田湾に入った。
きょうはマストに回天が米国旗、高雄はロシア旗をひるがえしている。
「土方さん。――」
艦橋の甲賀源吾はさも重大な発見をしたように歳三のほうをふりかえり、陸上の丘を指さした。
「菜の花畑です」
眼が痛むほどあざやかな黄色に丘や野が色づいていた。
北海道《えぞち》はまだ残雪が残っているというのに、奥州南部領ではもはや初夏の感があった。
歳三も、眼を細めた。懐しかった。久しぶりで故国にもどったような感慨であった。
船は万一の敵襲に備えて錨を投ぜず、そのままカッターをおろした。
偵察員は、仏人である。通訳と称して日本人二人をつけた。外国艦と称している以上、歳三ら日本人が偵察してはおかしいからである。
こんどの偵察は、収穫があった。
予想したとおり、宮古湾には官軍艦隊が入港しているというのである。
めざす甲鉄艦もいる、ということであった。
山田村での話では、宮古湾の沿岸漁村は時ならぬ艦隊の入港に大いに賑わっているらしい。
さっそく回天艦上で軍議がひらかれ、あす未明に襲撃することにした。
回天、高雄の二艦であたることにした。
蟠竜の到着を待っていては戦機を逸するからであった。
午後二時、両艦は出港した。ところが出港後まもなく、高雄は昨夜の風浪による機関の故障のために船速が極度に落ちた。
洋上で修理をはじめたがらちがあかず、脱落せざるをえなくなった。
ついに襲撃は、回天一艦がうけもつことになった。
一方、宮古湾では、官軍の甲鉄艦、春日、陽春、第一丁卯、それに運輸船の飛竜、豊安、戉辰、晨風《しんぷう》の八隻が錨をおろしていた。
陸兵は、上陸して漁村に分宿している。
甲鉄艦は、鎧武者《よろいむしや》がうずくまったような姿で、島蔭に静止していた。二本マストで、煙突がふつうの軍艦より短い。どの軍艦も、煙を吐いていなかった。汽罐に火が入っていないのである。いざというときにはまず汽罐焚《かまた》きからはじめねばならず、行動を開始するまでに相当の時間がかかるであろう。
この日、三月二十四日である。日没前、海軍士官はほとんど上陸した。日が暮れた。ちょうどそのころ、襲撃艦回天は燈火を消し、洋上で刺客が息をひそめて闇にひそむような恰好で、明朝早暁の突入を準備しつつ、宮古湾外の洋上の一点にうかんでいた。闇が、海も艦も真黒にぬりつぶしているから、港内の官軍艦隊は気づかない。
いや、官軍にも眼のある男がいる。
それは海軍の士官ではなかった。陸軍部隊を指揮する参謀黒田了介(薩摩藩士、のちの黒田清隆。酒乱ということをのぞけば、政治、軍事に当時これほど有能だった男はめずらしい)がそれである。
黒田は、沿岸漁村の名主の家を本陣として宿営していたが、その夕方、鮫村方面から流れてきた風聞を耳にした。
「なに、菊章旗をかかげていた?」
と、黒田は部下に念を押した。
「はい、漁民はそう申しております。軍艦は三隻だったといいます。官軍の軍艦でしょうか」
「馬鹿、官軍の軍艦というのは、天上天下、五大州広しといえども、この港内にいるあの四隻だけじゃ。そいつらは、さだめし賊艦じゃろ」
捨てておけない。
黒田了介はすぐ大小を差し、漁船を出させて港内に浮かんでいる甲鉄艦を訪ねた。
甲鉄艦には、ほとんど士官は居残っていなかった。
艦長もいなかった。
「それでは、石井は居ろう。居らんか」
と黒田は、若い三等士官をつかまえてどなり散らした。
石井というのは、肥前藩士石井富之助。艦隊参謀の職にある。
「陸《おか》です」
「女でも抱いちょるのか」
「存じません」
甲鉄艦の乗員、艦長は長州藩士中島四郎、乗組士官はおもに肥前佐賀藩士で、それに宇和島などの他藩士もまじっており、いわば雑軍で、その点無統制であった。士風もゆるんでいる。それが最初から陸軍の黒田の癇《かん》にさわっていた。
「石井、中島をよんで来い」
「陸軍参謀が御命令なさるのですか」
と、若い肥前なまりの三等士官がむっとした。
薩人の参謀の傍若無人さが腹にすえかねたのであろう。
「おい、君はなんという」
「肥前佐賀藩士加賀谷大三郎です。この甲鉄艦の三等士官をつとめております」
「俺《おい》は黒田じゃ」
「存じております」
「では訊《き》く。ここに家が燃えちょる。水をもって来い、と俺はいうた。それが命令か。命令じゃあるまい。早う、陸《おか》へ走って石井、中島をよんで来い」
(どうも佐賀のやつは理屈っぽくていかん)
黒田は、艦長室に入った。
船窓からのぞくと、すぐ眼の前に薩摩の軍艦春日艦だけが上陸を禁止していることを黒田は知っていた。
(ほう)
と黒田は室内を見まわし、棚の上に二升入りの大徳利がおかれているのを発見した。
黒田は、手をのばして徳利を抱きあげ、傾けて口へ入れはじめた。酒は黒田の生涯でいくつかの失敗をさせたが、このときもやはり失敗のうちに入れれば、入れられるかも知れない。
一升は入っていた。
またたくまに大徳利から黒田の腹の中へ酒は移された。
飲みおわったころ、甲板に足音がきこえてきて、やがて艦長室の前にとまった。
ドアがひらいた。
石井海軍参謀、中島艦長が、無断侵入している黒田をあきれて見ている。黒田は酔っていた。ふりむくなり、
「海軍ちゅうのは斥候《ものみ》をせんのか」
といった。
この云い方がわるかった。もともと、感情的にみぞがあった。陸海対立というだけでなく、中島は長州人であり、その点からいっても幕末以来薩摩藩士に対してぬきがたい憎しみがある。
「君のいう意味がわからぬ」
「意味ははっきりしている。海軍は斥候を出さぬものかと問うている」
「時には出す。さきほどこの艦の加賀谷大三郎に、火事じゃと申されたそうだが、火事はどこにある」
「火事どころか、敵艦が鮫まで来ちょるこツを知っちょるか」
「黒田さん、ここは南部領だ。南部藩はほんのこのあいだまで奥州連盟に参加していて、いまなお賊臭を残している藩だ。虚報はそのあたりから流れたにちがいない」
「虚報?」
「斥候《ものみ》は大事かもしれぬが、斥候の報告の良否を判別するのは良将の仕事だ」
「何ン?」
黒田は椅子を蹴って立ちあがった。
「まあ、よそう」
と石井がいった。
「あなたは|しら《ヽヽ》ふ《ヽ》ではない。酒を飲んでいる。しかもそれは私の酒だ」
陸海軍の臨時会議は、これで決裂してしまった。黒田も相手の寝酒を飲み干してしまったという弱味があり、それ以上卓をたたくわけにもいかずに、退艦した。
回天は、闇の洋上で、刺客のようにひそんでいる。
その夜、艦長甲賀源吾は、備砲のすべてに砲弾を装填《そうてん》させた。
そのあと歳三は、陸兵、乗組員を真暗闇の後甲板にあつめ、何度も繰りかえしてきた接舷襲撃の方法をさらにくりかえして説明した。
「敵甲板へは一斉におどりこむ。ばらばらにとびこんでは討ち取られるばかりだ」
部署は、五隊にわかれている。
もっとも攻撃の妙味を発揮するのは、|★[#★土+今]門隊《あなもんたい》である。
この隊は甲板上の扉という扉をぜんぶ閉めてしまい、それを守り、下の船室で眠っている乗組員を缶詰めにして甲板上に出さないようにしてしまうのである。うまくゆけばこれだけで艦はまるごとこちらのものになる。
甲板上にはわずかな敵兵は居るであろう。それは二隊で始末する。
あとの隊は、甲鉄艦が甲板上にもっているもっともおそるべき火器を占拠するのが任務であった。
敵艦を射つ艦砲のほかに、敵の甲板掃射のための野戦速射砲《ガツトリング・ガン》という新兵器が車台に積んでのせられているのである。
これは六つの砲口をもつ砲で、砲尾の機械を運転すると、ニール銃弾のちょうど二倍の大きさの小砲弾が、一分間に百八十発も飛び出すというものであった。
「これを押えればこちらの勝ちだ」
と歳三はいった。
そのあと、船室で全員の酒宴になった。
満天の星がすさまじい光りでかがやき、海は、死んだように静まっている。
[#改ページ]
襲 撃
軍艦回天は闇のなかで錨をあげ、汽罐を低速運転し、襲撃すべき宮古湾にむかってひそかに洋上をすべりはじめた。
刺客に似ている。
艦橋に歳三がいた。チョッキから時計を出し、
(夜あけまで、三十分《はんじ》か)
とつぶやいて、蔵《しま》った。蔵うと、タラップをおりはじめた。
上背もある。顔の彫《ほ》りもふかい。どうみても、洋風の紳士である。
ただ腰にぶちこんでいる和泉守兼定さえなければ。
甲板には、各組が昂奮をおさえかねてぞろぞろ出ていた。歳三はそのそばを歩きながら、
「あと三十分で夜があける。そのころに宮古湾に入るだろう」
といった。さらに、
「霧で体が濡れる。いざというときに手足が動かない。船室で待機しているように」
ともいい、追いたてるように甲板下の船室へ逆もどりさせた。
頭上で、ロープのきしむ音がきこえた。
マストに旗があがりつつある。星条旗である。湾に入るまでは米国軍艦に擬装することになっていた。べつに卑怯でもなんでもない。敵地に侵入するときに外国旗をかかげ、いよいよ戦闘というときにいそぎ旗をおろし、自国旗をかかげるというのが、欧州の慣例のようになっていた。
やがて闇の海面が濃藍色に変じ、さっと光りが走って、東の水平線に明治二年三月二十五日の陽が、空を真赤に染めつつのぼりはじめた。
眼の前に、三陸の断崖、山波が起伏している。
閉伊崎《へいさき》の松が、眼の前にみえた。
(きたな)
と、歳三は小姓市村鉄之助をふりむき、
「みな甲板へ出ろ、といえ」
歳三も甲板へおりた。
やがて襲撃隊がぞくぞくバレー(船の出入口)から出てきて、各部署ごとにむらがって折り敷いた。
みな、右肩に白布をつけている。敵味方の識別をするためである。
銃を背負って抜刀をそばめている者もあり、逆に剣を背負って銃をかかえている男もある。
「いい日和《ひより》らしい」
と、歳三はめずらしく笑いながら、昇ってゆく陽にむかって眼をほそめた。
艦長の甲賀源吾は、乗組員をきびきびと指揮していた。
マストの楼座には、水兵が銃をもち、あるいは擲弾《てきだん》をもって待機している。
両舷の艦砲も、装填をおわった。
どの砲も、兵員殺傷用の霰弾《さんだん》と、甲鉄破壊用の実弾とそれぞれ二弾をこめていた。
実霰合装《じつさんがつそう》という装填法で、発射すればふたつの砲弾がとびだすというわけである。
歳三は艦橋にもどった。
艦は、せまい湾口をするするとすべるように進んでゆく。
一方、艦船八隻よりなる官軍艦隊はすでに起床時間がすぎていたが、各艦とも甲板に出ている人数はちらほらしかいなかった。
マストの楼座にいる哨兵《しようへい》だけが活動している。
どの艦船も、汽罐に火が入っていない。
むろん帆はあがっておらず、錨をおろしたままだから、いざ戦闘となれば、まず動くことに十五分以上の時間がかかるであろう。
だから艦隊はまだねむっているといっていい。
回天は、なおも湾の奥へすすんでゆく。
この狼の口のように深く狭く裂けた湾は、入口から奥までのあいだ、海峡のような海が二里あまりもつづく。
歳三が最後に甲板におりたときに、眼の前の風景がかわって、一艦を見た。
錨を沈めて、沈黙している。
「戉辰丸です。陸兵をのせる運輸船です」
と、この艦の見習士官が歳三に教えた。
回天は戉辰丸を黙殺しつつ、その舷とふれあうようなそばをゆうゆうと通りぬけた。
そのころ、戉辰丸では、哨兵が、
――右手に、米国軍艦。
と、当直士官に報じた。
が、たれもおどろかない。
――たしかに米国軍艦だ。
と、みな信じた。旗のせいばかりではなく、回天の艦姿が、官軍海軍の記憶にあるそれとはすこし変化していたのである。
回天といえば、たれしもが「三本マスト、二本煙突」と記憶していた。たしかにそのとおりだったが、去年、品川沖を脱出して北走の途中、犬吠岬《いぬぼうざき》沖で暴風にあい、二本のマストと一本の煙突をうしなった。
いま官軍艦隊の眼の前にある回天は、前檣《ぜんしよう》だけの一本マスト、一本煙突の異様な艦型である。米国軍艦と信じこんだのもむりはなかった。
のちに元帥東郷平八郎の直話にもとづいて書いた小笠原長生著「東郷平八郎伝」および「薩摩海軍史」には、このときの官軍側の情況を、
艦員のなかで上陸している者もあり、艦内にいてもまだ眠っているものも多かった。全員在艦していたのは、薩摩藩軍艦「春日」だけであった。
すでに起きていた各艦の乗員も、上甲板にあつまって、先進国の米国軍艦の投錨その他の操業ぶりをみようと思い、愉快に笑いさざめきながら見物していた。
とのべている。
回天のマストの楼座には、とくに士官の新宮勇が勤務につき、湾内の甲鉄艦をさがしていた。
「甲鉄艦《ストーン・ウオール》あり」
と新宮がさけんだとき、全員が配置についた。
襲撃隊は舷の内側に身をかくしつつ、それぞれ刀を抜きつれた。
歳三は、艦のヘサキにいた。眼の前にうずくまっている甲鉄艦をみたとき、
(すごい)
とおもわず胴ぶるいがきた。
艦の腹を鉄板でつつみ、無数の鉄鋲をうちつけてある。
マストは二本、煙突は一本、それがずんぐりとみじかい。艦の前と後に旋回式の砲塔があり、とくに前の砲は回天の主砲の四倍もある三百|斤《ポンド》砲である。おそらく歳三の喧嘩の歴史でこれほどの大物とやるのは、最初で最後であろう。
しかも斬り込むだけでなく、奪いとって函館へもって帰るのが目的である。できるかどうか、ばくちのようなものであった。
いよいよ近づいた。
甲鉄艦の乗員の顔が、目鼻だちまでみえる距離に接近したとき、甲賀艦長は、
「旭日旗をあげよ」
と命じた。
米国旗がおろされ、するすると日の丸の旗があがった。
官軍艦隊は、白昼に化物をみたように驚愕《きようがく》した。とりわけ、甲鉄艦の狼狽はみじめなほどで、甲板を走るもの、出入口に逃げこむ者、さらには海にとびこむ者さえあった。
ただ甲鉄艦の艦尾でゆうゆうと信号索をとりながら、信号旗をあげる武士がいた。全軍警戒、の信号である。この勇敢な男の名はつたわっていない。
回天は、接舷すべくなおも運動をつづけている。甲鉄艦に並行して「リ」の字の形になろうとするのだが、回天の舵には右転のききにくい癖があり、どうしてもうまくゆかない。
接舷に失敗し,いったん後退した。
さらに突っこんだ。
ぐわァん
という衝撃が、全艦につたわった。
ヘサキにいた歳三は、二、三間、はねとんだ。
起きあがるなり、状況をみた。
(こりあ、まずい)
と、血の気がひいた。
回天のヘサキが、甲鉄艦の左舷にのしあげていた。つまり「イ」の字型になっていた。
全舷接触してこそ、全員が同時になだれこめるのだが、これでは、ヘサキから一人二人と飛びこんでゆくしか仕方がない。
艦の運動がわるかったために、意外な状況になってしまった。
しかも、いま一つ意外なことがある。回天はひどく腰高な艦で、甲鉄艦の甲板へとびこもうとすると一丈の高さをとびおりねばならない。よほど身軽な者か、運のいい者でなければ、脚を折ってしまうであろう。
(無理だ)
歳三はひるんだ。もともと無理な喧嘩をしない男であった。
艦橋では、甲賀艦長が、やはり唇をかんでいた。
が、思案しても仕方がない。
「土方さん、やろう、接舷襲撃《アボルダージ》」
と艦橋からどなりおろした。
「やるか。――」
と、歳三はふりむいて微笑した。甲賀はうなずき、白刃を振った。
それが、歳三が甲賀源吾を見た最後であった。
艦首から、ロープをおろした。
「飛びこめ」
と、歳三は剣をふるった。
――お先に。
と、歳三のそばを駈けすぎて行った海軍士官がある。測量士官の旧幕臣大塚波次郎である。
ついで新選組の野村利三郎。
三番目は、彰義隊の笠間金八郎。
四番目は、同加藤作太郎。
さらに新選組隊士五人、彰義隊、神木隊といった順でとびおりた。
が、それぞれとびこんだものの、雨だれ式で落ちてくるために、甲鉄艦のほうでは防戦しやすかった。
甲鉄艦のほうでも、狼狽からようやく立ちあがっている。
それぞれ甲板上の建造物のかげにひそんで小銃を乱射し、また白刃を抜きつれて一人ずつおりてくる襲撃兵をとりかこんですさまじい戦闘を開始した。
(いかん)
と歳三はおもった。
この男は、陸軍奉行並である。つまり函館政府の陸軍大臣だが、ついに意を決した。士卒にまじって斬り込もうとした。
「みな、綱渡りはやめろ。飛びおりろ。脚が折れたらそれまでだ」
と、みずから大剣をふりかぶるなり、一丈下の敵甲板上へ落ちて行った。
歳三は落ちた。
跳びおきるなり、銃をさか手にもって打ちかかってきた敵兵の左胴を真二つに斬りあげて斃した。
ついで、眼をあげた。マストの下で新選組の野村利三郎が、五、六人にかこまれて苦戦しているのをみた。歳三は長靴をガタガタといわせながら大股で駈け、跳躍するなり、背後から一人を袈裟《けさ》に斬って落し、狼狽する敵の頸部をねらい、一閃、二閃、すばやく二人を斬り倒した。
さすがに玄人である。
三人を倒すあいだ、二分もかからなかった。
「野村君、右肩をどうした」
と、歳三はゆっくりと近づいた。残る二人の敵は、気をのまれたように突っ立っている。
「鉄砲弾《てつぽうだま》です」
息が苦しいのか、真蒼《まつさお》になっていた。歳三は、野村をかつごうとした。そのとき飛弾が野村の頭をうちぬき、どっと歳三の上におりかぶさった。
(だめか)
見ると、通気筒のそばに、一番乗りの大塚波次郎が、全身、蜂の巣のように射ちぬかれて斃れている。
甲板上には、すでに襲撃隊数十人が戦っており、どの男も、敵の白刃と戦うより銃弾に追われていた。
唯一の戦法であった甲鉄艦の出入口の閉鎖が、接舷法のまずさのために果たすことができず、甲鉄艦の乗員は全員武器をとって甲板上にあがってしまっていた。
(喧嘩は負けだ。引きあげるか)
と歳三は兵をまとめようとしたとき、回天艦橋上の甲賀源吾は、なおもあきらめなかった。舷側の砲群を、轟発させた。
ぐわあん
ぐわあん
と十発、甲鉄艦の横っ腹に打ちこんだ。が、むなしかった。
|たど《ヽヽ》ん《ヽ》を投げたように鉄板にあたっていたずらに弾がくだけるだけであった。
歳三はその衝撃で何度もころんだ。
(あの人は若い)
三度目に起きあがろうとしたとき、頭上を数十発の銃弾が、同時に飛びすぎて行った。
回天の全員がおそれていた敵の機関砲《ガツトリング・ガン》がすさまじい連続音をまきちらしながら稼動しはじめたのである。
そこへ、擲弾が歳三の前後左右に爆発しはじめた。
敵の擲弾もある。
回天艦上から投げつける味方の擲弾もあり、その爆煙のなかで、歳三は夢中で人を斬った。
一方、他の官軍艦船である。いちはやく戦闘準備についたのは、薩艦「春日」だけであった。
「春日」は、もう一つ運がよかった。というのは、どの艦船も味方の甲鉄艦が邪魔になって砲の射撃はできなかったが、春日だけが、わずかに回天を射てる射角をもっていた。
その春日の艦載砲のなかでも、左舷一番砲を受けもつ三等士官東郷平八郎だけが、回天を射つことができた。
春日が射撃をはじめた。そのうちの二弾が回天にあたって甲板上の小建造物、人員を吹っとばした。
が、他の艦船もすでに錨をぬき、汽罐に火を入れ、エンジンのかかるのを待っていた。
エンジンがかかれば七隻をもって、回天をとりかこみ、集中火をあびせるであろう。
回天も、坐してそれを見ているわけではなかった。
四方八方に艦砲を轟発し、戉辰丸、飛竜丸に被害をあたえた。
戉辰、飛竜の二船には陸兵が満載されている。かれらは、数百挺の小銃をならべて回天にむかって射撃した。
甲賀は、なお艦橋にいた。
足もとには、士官、連絡兵の死体がころがり、靴が床の上の血ですべるほどであった。
ついに一弾は、甲賀の左股をつらぬいた。
支柱につかまって、起きあがった。
さらにその右腕を吹っとばした。倒れながら連絡兵に、
「後退の汽笛を」
と命じたとき、小銃弾が首を射ぬき、絶命した。
汽笛が鳴った。
甲鉄艦の上では、すでに立ち働いているのは、歳三のほか、二、三人しかおらず、みな倒れた。
ころがっている敵味方の死傷者で、甲板上は文字どおり屍山血河《しざんけつが》という惨状を呈していた。
「引きあげろ」
歳三は生き残りをロープのそばに集め、それぞれのぼらせた。
最後に歳三がつかまった。
敵の銃兵五、六人が、遮蔽物《しやへいぶつ》から遮蔽物にかけて躍進しながら追ってきた。
歳三は、剣を鞘におさめた。
「やめた。そのほうらも、やめろ」
と、敵にどなった。
敵は、ついに射撃しなかった。歳三が回天艦上に移ったとき、艦は甲鉄艦を離れた。
湾を出た。
春日以下が追跡したが、速力のはやい回天にはついに追いつくことができなかった。
回天は、二十六日函館に帰港した。
[#改ページ]
再 会
歳三は癇症《かんしよう》な男で、一日のうちで何度か乗馬用の長靴をぬぐう。
馬丁の沢忠助が、
「あっしに磨かせとくンなさい」
とたのんでも、歳三はきかない。
武具は自分でみがくものだ、といっている。
靴を「武具だ」と心得ているようであった。
その日の午後も、羅紗切《ラシヤぎ》れをもってたんねんにぬぐっていた。
小姓の市村が入ってきて、「大和屋友次郎どのがご面会です」といった。
「通してくれ」
歳三は、脂《あぶら》をすりこんでいる。革に血が滲みこんでいるのが、どうみがいてもとれないのである。
大和屋友次郎というのは、大坂の富商鴻池善右衛門の手代で、函館築島にある鴻池支店の支配人をつとめている。
鴻池屋と新選組との関係は濃い。
結党早々の文久三年の初夏、鴻池の京都店に浪人数人から成る「御用盗」が入ったのを、市中巡察中の近藤、山南、沖田らがみつけ、路上で斬り伏せたのが、縁である。
その後、歳三は近藤らとともに大坂に出張したとき、鴻池から招かれて豪勢な接待をうけた。
このとき、鴻池では隊の制服を寄贈したり、近藤に「虎徹」を贈ったりしている。
さらに鴻池側から、
――支配人を推薦してほしい。
という希望があったほどである。鴻池は治安事情のわるいあの当時、新選組と密接になっておくことで自家の安全を期したのであろう。
歳三が北海道にきてからも、鴻池の厚意はかわらず、大坂から函館店に、「できるだけの御便宜をはからうように」との|さし《ヽヽ》ず《ヽ》がきていたほどである。
友次郎が入ってきた。
紋服、仙台平、まげをつややかに結いあげている。
まだ年は二十七、八で、英語が多少できる。
「しばらく見えなかったようだが」
と、歳三は長靴をはき、友次郎に椅子をあたえた。
「へい、英国汽船の便があったのを幸い、横浜へ行っておりましたので」
「ほう、江戸へも?」
「東京の様子も見てきました。大名屋敷が役所になったり、旗本屋敷に新政府の官員が入ったりして、旧幕時代てのが、だんだん遠い昔のようになってきましたな。世の中が途方もない勢いで動いているようでございます」
「鴻池の商いもいそがしいことだろう」
「なんの、住友などとちがい、大名貸しが多うござんしたからね。薩長土三藩が藩籍を奉還したことはお聞き及びでございましょう。体《てい》よくいえば奉還でございますが、借金もろとも新政府に押しつけてしまったかたちでございましてな、その新政府が、旧幕時代のことは知らんぞ、とおっしゃる。大坂の富商など、五、六軒つぶれるところが出て参りましょう」
友次郎は、官軍の消息も伝えた。かれが帰途、品川から英国船に乗ったとき、品川沖で官軍の軍艦「朝陽」がもうもうと黒煙をはいていた。横浜でのうわさでは、「朝陽」は陸兵の最後の部隊を輸送するという。
「行くさきは青森だな」
歳三は、にがい顔をした。青森に官軍の陸軍がぞくぞくと集結しているのである。
「ところで」
友次郎は、無表情にいった。
「東京から珍客をつれてきております。手前どもの店の奥座敷に逗留していただくことにしました。お名前でございますか、へえ、お雪さまで」
「お雪。――」
歳三は、がたっと立ちあがった。
「うそだろう。たれからその名をきいたのか知らないが、私はその種の冗談がきらいだ」
狼狽している証拠に、靴拭いの羅紗を、チョッキの胸ポケットに入れた。
「おきらいでもどうでも、お雪さまに相違ございませぬ」
五稜郭本営から函館の市街まで、一里あまりある。
歳三は仏式帽の目庇《まびさし》を深くかぶり、鐙《あぶみ》を一字に踏んで鞍の内《うち》を立ち透《すか》しつつ、単騎馬を歩ませた。
(信じられぬことだ)
とおもった。
友次郎のいうところでは、かれが沖田総司の病床を見舞ったとき、総司の口からお雪のことをきいたという。
――ときどき、様子を見てやってほしい。
と、沖田はそういうぐあいに、お雪のことをこの友次郎に頼んだ、というのである。
(総司め、妙なお節介をして死にやがった)
と、歳三は手綱を下げつつ、雲を見上げた。
白銀のように輝いている。
沖田総司の笑顔が浮かんだ。が、すぐ消えた。
この土地の自然は大まかすぎて、故人をおもいだすのには、ふさわしくなかった。
市街地に入り、築島の鴻池屋敷の前で馬からおり、屋敷の小者に手綱をあずけた。
「|かい《ヽヽ》ば《ヽ》をやってくれ」
小者はアイヌとの混血らしい。何を考えているのか、澄んだ大きな眼をもっていた。
友次郎は、歳三を玄関で迎えた。
「やはり、お出でになりましたな」
……歳三は、充血した眼で、友次郎を見た。
昨夜はねむれなかったらしい様子が、顔に出ている。
「このことについては、口数をすくなくしてくれ」
女中が、歳三を別館に案内した。外人を泊めるために建てたのか、ここだけは洋館二階だてになっている。
女中が去った。
歳三は、窓ぎわに寄った。窓の外には、函館港がみえた。内外の汽船が錨をおろしている。
港口には敵艦の侵入をふせぐために縄がはりめぐらされており、回天、蟠竜、千代田形の三艦が入れかわり立ちかわり運転しては、港内をぐるぐるまわっていた。
歳三は、背後に人の気配を感じた。窓の外を見つづけていた。
どういうわけか、素直にふりむけないのである。
「お雪さん?」
といおうとしたが、その声が、口をついて出たときは、まるで別の言葉になっていた。
「あれが弁天崎砲台さ。昼夜、砲兵が詰めている。あれが陥ちるとき、私の一生はおわるのだろう」
背後が、|しん《ヽヽ》とした。
お雪の小さな心臓の音まできこえるようであった。
「来ては、いけなかったでしょうか」
「………」
歳三は、ふりむいた。
まぎれもなくお雪がそこにいる。右眉の上に、糸くずほどの大きさで、火傷の古い|ひき《ヽヽ》つり《ヽヽ》があった。
歳三が、何度かその唇をあてた場所である。
それを見確かめたとき、不覚にも歳三は、ぽろぽろ涙がこぼれた。
「お雪、来たのか」
抱き締めた。火傷のあとに、唇をあてた。
お雪は、|いや《ヽヽ》いや《ヽヽ》をした。以前もこれとそっくりな|しぐ《ヽヽ》さ《ヽ》をお雪がしたのを、歳三はおもいだした。
「つい、来てしまったのです。お約束をやぶって」
とお雪がいった。
「黙っているんだ、しばらく。――」
と、歳三はお雪の唇に自分の唇を押しあてた。
お雪は、夢中で受けた。
いままで、ふたりがしたこともない愛撫である。
が、この外国の建造物と異人の多い町では、そういう|しぐ《ヽヽ》さ《ヽ》になんの不自然も覚えなかった。
やがて、歳三はお雪を離した。
いつのまにか、ドアがあいている。茶を運んできた子供っぽい顔の女中が、お盆を持ったまま、この場をどうしていいかわからない様子で、茫然とつっ立っている。
「迷惑だったな」
と、歳三は真面目な顔で、女中に詫びた。
「い、いいえ」
と、女中ははじめてわれにかえったらしくひどく狼狽した。
「ここへ置いておきます」
「ありがとう。しかし頼みがある。矢立《やたて》と巻紙を借りてきてくれないか」
女中はすぐ、それらを持ってきた。歳三は、小姓の市村鉄之助あてに自分の所在を報らせるための手紙を筆早に書いた。
「築島の鴻池に居る。あすの午後に帰営するだろう」
と。
文字にこの男らしい風韻がある。
「亀田の五稜郭まで、たれかに届けさせてくれ。そうだ、さっき馬の世話をしてくれた小者がいい。あれはエゾ人の血がまじっているのか」
「まじっているそうです」
女中は、おびえたような表情で、つまずくようなうなずき方をした。
女中が去ったあと、歳三は、すぐ息ぐるしくなった。
お雪をつれて、街へ出た。桟橋《さんばし》のあたりまで歩いた。
「あの船できたのか」
と、歳三は、沖あいを指さした。三本マストの外輪船が、英国旗を垂れて、碧《あお》い水面にうずくまっている。
「ええ、鴻池の友次郎さんが、やかましくすすめるのです。横浜から五百三十里もあるというものですから、気が遠くなりそうだったけれど、わずか四日できました」
「いつ、帰る」
「あの船が出る日に」
と、お雪はつとめて明るくいった。
そこへ、奇妙な形をしたアイヌの舟がきた。
女ばかりの十人ほどで、櫂《かい》を漕《こ》いでいる。
掛け声が、内地の人の船頭とはちがう。ソラエンヤ、ソラエンヤといっているようであった。
「なにをいっているのでしょう」
「さあ」
と歳三は小首をかしげて耳を澄ましていたが、やがて、この男にしてはめずらしく冗談をいった。
「お雪の未練、といっているようだ」
「まあ、そんな。……」
「ちがうかね」
「わたくしには、歳のばか、歳のばか、といっているようにきこえます」
「どちらも本当らしい」
と、歳三は声をたてて笑った。
お雪は裾をおさえた。風が出てきている。
「もどるか」
と、歳三はお雪をうながした。お雪は歩きはじめた。
「いつ、そのお髪《ぐし》に?」
と、お雪は見あげた。
歳三は北海道に来てから|まげ《ヽヽ》を切り、オール・バックにした。髪が多いために、よく似合う。
「|まげ《ヽヽ》があっては帽子がかぶりにくいから、この髪にした。いつごろからこうなったのか、覚えていない。ここへ来てから、一日すぎると、その一日を忘れるようにしている。過去はもう私にとって何の意味もない」
「わたくしとの過去も?」
「その過去はちがう。その過去の国には、お雪さんも近藤も沖田も住んでいる。私にとってかけがえのない過去だ。それ以降の過去は、単に毎日の連続だけのことさ」
「わからない。何をおっしゃっているのか」
「北海道《えぞち》の毎日は、無意味だったように思える。私の一生には、余分のことだったかもしれない。北海道では、今日、今日、今日、という連続だけで生きてきた。ただ、未来だけは、いやにはっきりとした姿で、私の眼の前にあるな」
「どんな未来です」
「戦さだよ」
歳三は、ちょっとだまった。
「官軍が、私の未来を作ってくれるのさ。官軍が来れば、各国の領事《ミニストル》に連絡して異人たちは港内の自国の軍艦にそれぞれ退避させることになっている。それからが、戦さだ。弾と血と硝煙。私の未来には、音も色も匂いもちゃんとついて、眼の前にある」
「あの英国船で」
とお雪が突如いった。いや、突如ではなく何度か反芻《はんすう》してきた言葉だろう。――が、
「逃げましょう」
という言葉は、いえなかった。
友次郎が待っていて、洋館のほうに夕食の支度が出来ている、といった。
二人は、膳の置かれている卓子《テーブル》をかこんだ。
「わたくし、お給仕します」
とお雪がいうと、歳三が笑った。
「こういう西洋風の場所では、男女同時に食事をしているようだ。船で、洋食を食わされたろう」
「ええ。でも」
「こまったろう、牛の肉」
「食べなかったのです。歳三さんは?」
と、お雪は、名前で呼んだ。
「食べないさ。牛肉というと、沖田が、医者のすすめる肉汁をいやがった。あの顔はいまでもおぼえている」
「だからお食べにならない……?」
「でもないがね。私は食いものの好ききらいの多い人間だから、新しいものはだめだ。近藤は、物食いはよかった。豚肉まで食っていた。あの料簡《りようけん》だけはわからない」
歳三は、とめどもなく喋りそうだった。自分でも、自分の饒舌《じようぜつ》におどろいている。
考えてみれば、榎本、大鳥などと北海道《えぞち》へきていらい、毎日、数えるほどの回数しか、他人と会話を交して来なかったような気がする。
「おれはよくしゃべるな」
と、肩をすぼめた。
「あ、船が」
と、お雪が窓の外を見た。
港内はすっかり暮れている。その闇の海に舷燈をつけた黒い船体が動いていた。
「警戒中なのさ。官軍の軍艦がにわかになぐりこんでくるとこまるのでね。もっとも、われわれも出かけたが」
「宮古湾?」
「よく知っている」
「横浜では、外国人のほうがよく知っているという話ですけれど。新聞に出ていた、といいます」
「しかし、しくじった。幕府ってものが、三百年の運を使いきってしまった、という感じだ。何をやってもうまくゆかない」
細い月が昇りはじめたころ、歳三はお雪の体を締めつけている|ひも《ヽヽ》と帯を解いた。
「いや。たれか、来るわ」
「扉に|かぎ《ヽヽ》がかかっている」
寝室は、二階である。
寝台もランプも、どうやら船の調度品らしかった。
「自分で、する」
と、お雪がもがいた。歳三は、だまって|作業《ヽヽ》をつづけた。
やがてお雪の付けていたすべてが床の上に散り、そのなかから、お雪の裸形《らぎよう》がうまれた。
歳三は横倒しにして抱きあげた。
「今夜は、眠らせぬ」
と、歳三は破顔《わら》った。
が、涙がお雪の首筋に落ちた。その冷たさにお雪の肌がおびえた。眼をみはって、歳三を見あげた。
(………?)
お雪は不審だった。歳三は、泣いてはいない。
と思うまにお雪の体が宙《ちゆう》で旋回し、やがて歳三の腕をはなれて、寝床の上にうずもれた。
その日、官軍艦隊は上陸部隊を満載して青森を出航し、北海道にむかいつつあった。
旗艦は甲鉄艦で、二番艦は春日。以下、陽春、第一|丁卯《ていぼう》、飛竜、豊安、晨風《しんぷう》。陸軍は長州兵を主力とし、弘前、福山、松前、大野、徳山の各藩の藩兵である。
[#改ページ]
官 軍 上 陸
官軍艦隊、輸送船団が、江差の沖合にあらわれたころ、歳三はなおお雪の体を抱いてベッドのなかにいた。
お雪のまげは、毛布のうえですっかりくずれてしまっている。
(ずいぶんと、好色。――)
お雪は口には出さないが、おどろいてしまった。
かつての歳三は、もっと見栄坊で、大坂の夕陽ケ丘のときでさえこうではなかった。
窓が白みはじめたころ、二人はそれと気づかずに眠りに入った。
が、一刻《にじかん》もたたぬまに、歳三はお雪の体を抱き寄せた。
「お雪、どうも、可哀そうだな」
歳三もわれながら可笑《おか》しかったとみえて、くすくす笑った。
「いいえ、可哀そうじゃありませんわ」
「痩せがまんだな。お雪の眼はまだ半ばねむっている」
「うそだ、歳三さんの眼こそ、まだ夢の中にいるみたい」
「夢の中さ」
歳三には、陳腐な詞藻《しそう》が、なまぐさいほどの実感で湧きあがってきている。
函館の港を見おろす楼上で、いまお雪と二人きりでいること自体が、夢ではないか。
(人生も、夢の夢というようなものかな)
これも陳腐だが、いまの歳三の心境からみればまったくそのとおりであった。三十五年の生涯は、夢のようにすぎてしまった。
武州多摩川べりでのこと、江戸の試衛館時代、浪士組への応募、上洛、新選組の結成、京の市中での幾多の剣闘、……それらの幾齣《いくこま》かの情景は、芝居の書き割りか絵巻物でもみるような一種のうそめいた色彩を帯びてしか、うかびあがって来ない。
夢である、人の世も。
と、歳三はおもった。
歳三は、それを回顧する自分しか、いまは持っていない。なぜならば、敵の上陸とともに戦うだけ戦って死ぬつもりでいる。
もはや、歳三には、死しか未来がなかった。
「やったよ、お雪」
と、不意に歳三はいった。
お雪はびっくりして眼をあげた。まつ毛の美しい女である。
「なんのことでございます?」
「いやなに。やったというのさ」
片言でいって、笑った。かれに巧弁な表現力があれば、「十分に生きた」といいたいところであろう、わずか三十五年のみじかい時間であったが。
(おれの名は、悪名として残る。やりすぎた者の名は、すべて悪名として人々のなかに生きるものだ)
歳三は、もはや自分を、なま身の自分ではなく劇中の人物として観察する余裕がうまれはじめている。
いや余裕というものではなく、いま過去を観察している歳三は、歳三のなかからあらたに誕生した別の人物かもしれなかった。
「お雪。――」
と、つよく抱き締めた。お雪の体を責めている。お雪は懸命にそれを受けようとしていた。
歳三は、もはやいま生きているという実感を、お雪の体の中にもとめる以外に手がなくなっていた。
いや、もう一つある。戦うということである。
それ以外に、歳三の現世はすべて消滅してしまった。
お雪も、歳三のそういう生命のうめきというか、最後に噴きだそうとする何かを体内で感じとっているのか、悲歎などはまったく乾ききったような心で歳三を受けた。
毛布の上のお雪は体だけになってしまっていた。頭はない。頭などはこの期《ご》になんの役にも立たなかった。体だけが、歳三の感情も過去も悲歎も論理も詞藻も悔恨も満足も、そのすべてを受けとめる唯一のものであった。お雪は夢中になって体を動かした。その温かい粘膜を通して歳三を吸いとろうとした。お雪は夢中で眼を瞑《つむ》っている。唇をひらいている。すこし微笑していた。
やがて、歳三は絶え入るようにねむった。
お雪は、寝台からそっとおりた。隣室にたしか鏡があったことをおもいだした。
髪をなおそうとした。
隣室への扉のノブに手をかけたとき、ふと窓を見た。
海が、下に見えた。
そこに函館政府の軍艦がいた。
マストの上に異様な信号旗がひるがえっているのを、お雪はむろん気づかなかった。
すでに官軍は、函館から十五里はなれた乙部《おとべ》という漁村に敵前上陸し、付近に駐在していた函館政府軍三十人を撃退して進撃態勢をととのえつつあった。その急報が五稜郭と函館にとどき、港内の軍艦にもしかるべき信号があがっていたのである。
お雪が、髪の崩れをなおし、化粧をととのえ、着物をきちんとつけおわったころ、歳三は眼をさました。
あるいは、お雪の様子をととのえさせるために眼をとじていただけだったのかもしれない。
歳三は、ズボンをはいた。
サスペンダーを肩にかけながら、窓を見た。
軍艦に信号があがっている。それは、函館市内に居住する外国人に対し、避難を要望する信号だということを歳三は知っていた。
「お雪、支度はできたか」
「ええ」
と、お雪が入ってきた。歳三は眼を見はった。もとのきりっとしたこの婦人に脱《ぬ》けもどっていて、たったいま寝台の上にいたのは別人かと疑わしくなるほどだった。
歳三は寝台に腰をおろし、足をあげて重い長靴をはこうとした。
「来たよ」
「なにが来ました?」
お雪は、かがんで長靴の片方をとりあげ、歳三に穿《うが》たしめようとした。
「敵がさ」
お雪は、息をとめた。が、その頭上で歳三が、手を嗅いだ。
「おぬしの匂いが残っている」
「ばか」
お雪も、苦笑せざるをえない。敵が、どこに来たのだろうか。
歳三は、なにもいわなかった。お雪もそれ以上たずねなかった。
歳三は、階下の応接室におりた。すぐこの家のあるじの友次郎をよぶように、給仕にたのんだ。
友次郎が、いそいでやってきた。
「よびたてて済まない。函館の府内に避難命令が出たろうな」
「いま出たばかりです。市内のうわさでは、官軍は乙部に上陸したとのことです」
「ただちに函館が戦火の巷《ちまた》になることはあるまい。ここには外国商館がある。港内には外国の艦船もいる。官軍は遠慮をして砲撃はすまい。鴻池の商いはつづけて行ったほうがいいだろう」
「むろん、つづけるつもりです」
「いい度胸だ。大坂のあきんどらしい」
歳三は、お雪のことをくれぐれも頼んだ。この男にしては、くどいほどの云いがさねをして、卓上で小さく頭をさげた。
「頼む」
「申されまするな。鴻池がひきうけた以上は官軍が保障するよりもたしかでございます」
「その厚意につけ入るようだが」
といって歳三は、部屋のすみに置いていた馬嚢《ばのう》をかかえてきて、なかからありったけの金をとりだした。二分金《にぶきん》ばかりで、六十両ある。
「お雪が乗って帰る英国船に、もう一人分の客室をとってもらいたい。これは、その者の運賃だ。余ればその者にそなたの手から餞別《せんべつ》として渡してもらいたい。そう、品川まで送ってもらう、あとはその者がどこへなりともゆくだろう」
「お引きうけいたしますが、いったい、どなたでございます」
「市村鉄之助だよ。伏見で最後の隊士募集をしたとき、応募してきた。美濃大垣藩士でなにしろ年があまりに幼すぎた。十五歳だったよ……」
「………」
「沖田に似ている、というので採った。本人もよろこんで、関東、奥州、蝦夷《えぞ》と転戦するあいだ、無邪気についてきた。これ以上、道連れにしてやりたくない」
そこへ、市村が、乙部での敵上陸の報を伝えるために五稜郭からやってきた。
「友次郎さん、この男ですよ」
と、鉄之助の肩をたたいた。
そのあと、事情をきいた市村が、泣いて残留を乞い、腹を切る、とまでいった。
歳三が市村鉄之助にいった内容は、市村の遺談にある。
それによると、
江戸から甲州街道を西へゆくと、日野という宿場《しゆくば》がある。その宿の名主佐藤彦五郎は、予の義兄にあたる。それを頼って落ちよ。
これは任務である。その佐藤彦五郎にこれまでの戦闘の経過をくわしく申し伝えよ。そちの身のふりかたについては彦五郎は親身になって世話をしてくれるはずである。
市村は、あくまでもこばんだ。すると隊長は大変にお怒りになって、わが命に従わざれば即刻討ち果たすぞ、とおおせられました。その御様子、いつもお怒りになるときとおなじおそろしい剣幕でしたから、つい気圧《けお》され、とうとうその任務を受けてしまいました。
歳三は、その場で友次郎から半紙をもらい、小柄《こづか》をとりだしてそのハシを二寸ばかり切りとって細い「小切《こぎれ》紙」をつくり、そこに、
「使いの者の身の上、頼上候《たのみあげそろ》。義豊」
と細字でしたためた。
さらに、佐藤彦五郎へ贈る遺品のつもりらしく、写真を一枚、添えた。
洋服に小刀を帯びた姿で、函館へ来てから撮ったものである。これが現存する歳三の唯一の写真となった。
最後に、もう一品、ことづけた。佩刀である。
京都以来、かぞえきれぬほど多くの修羅場《しゆらば》を歳三とともに掻いくぐってきた和泉守兼定であった。
「鉄之助、たのむ。そちの口から語らねば、近藤、沖田らの最期も、ついには浮浪人の死になるだろう」
歳三は、後世の批判というのをそれほど怖れたわけではなかったろう。怖れたとすれば多少の文才のあるかれのことだから、幾ばくかの書きものを残しているはずである。
ただ、縁者だけにでも、自分の遺品と生前の行跡を伝え残したかったようである。
ことに義兄佐藤彦五郎は、縁者というだけではない。新選組結成当時、まだ会計が窮屈であったころ、しばしば近藤が無心をいって金を送らせた、いわば創設時代の金主といってよかった。金主に新選組の最後を報告する義務は、あるといえばあるだろう。
妙なことがある。
歳三は、ついに市村鉄之助には、同船すべきお雪のことをいわなかった。紹介もしなかった。船に乗ればたがいに語りあうだろうと、自然にまかせていたのかもしれない。とにかく最後まで、自分の情事をひとに知られたくない性格を捨てなかった。
お雪も、ついに歳三が居るあいだ、階下にはおりて来なかった。夕陽ケ丘のときとおなじように、別離をきらったのかもしれない。
歳三は、鴻池の店さきで馬に乗った。戞々《かつかつ》と十歩ばかり歩ませてから、ふと背に視線を感じて、ふりむいた。
お雪が、二階の窓をひらいて、歳三をまばたきもせずに見おろしていた。
歳三は、ちょっと会釈した。
それだけであった。すぐ姿勢をもとにもどすと、腰を浮かして馬腹を蹴った。馬は、ひどく姿勢のいい主人をのせて、亀田の五稜郭へ駈けだした。
五稜郭へもどった歳三は、榎本、松平、大鳥から戦況をきいた。
「江差も陥ちた」
大鳥が、いった。
無理はなかった。乙部に上陸した官軍は二千人で、三十人の守備隊はまたたくまにつぶれた。
三里むこうの江差には、当方は二百五十人で砲台をもっている。それを官軍艦隊が艦砲射撃でつぶした。
「わが兵は、総数三千人を越えぬ。防御軍は攻撃軍よりも数倍の兵力が必要だというが、これでは全島の防衛ができるかどうか」
と、榎本武揚が、沈痛な表情でいった。
なにしろ、兵力がすくない上に、守備隊を分散させすぎている。五稜郭の本城には八百人、函館三百人、松前四百人、福島百五十人、室蘭二百五十人、鷲ノ木百人、その他、森、砂原《さはら》、川汲《かわくみ》、有川、当別《とうべつ》、矢不来《やふらい》、木古内《きこない》などに数十人ずつを配置していた。
「まず、兵力を集結して、上陸軍の主力に痛打を与えることですな」
と、歳三はいった。
さっそく、分散兵力の集中化がおこなわれた。これだけに数日を食った。
が、その完全集中のおわるまでに、歳三と大鳥とは、それぞれ兵五百人程度をひきいて別路、進発した。
大鳥は、木古内へ。
歳三は、二股口《ふたまたぐち》へ。
その間、松前守備隊が、心形《しんぎよう》一刀流宗家旧幕臣|伊庭《いば》八郎らを隊長として、官軍占領中の江差にむかい、官軍本隊と遭遇して大いにこれを撃破敗走せしめ、分捕った敵兵器は、四|斤《ポンド》施条砲《せじようほう》三門、小砲、ランドセル、刀槍、弾薬など多数にのぼった。
歳三は、二股口の嶮に拠って敵の進撃してくるのを待った。
「官軍を釣ってやろう」
と、歳三は、一種の縦深陣地をつくった。最前線を中二股におき、ついで下二股を中軍陣地とした。
が、これらはいずれも少数の兵を植えるのみにした。
「敵が来れば、小当りに当たってじりじりと逃げろ。相手の行軍が伸びきったところで、本陣の二股口からどっと兵を繰りだして殲滅《せんめつ》する」
四月十二日昼の三時ごろ、官軍(薩、長、備後福山らの兵)六百が、歳三の最前線の中二股にあらわれた。
山上の歳三の陣地まで、さかんな銃声がきこえたが、やがて味方は予定のとおり退却しはじめた。
中軍陣地も敵と衝突して、退却。
「来るぞ」
歳三は、眼を細めて眼鏡をのぞいている。
上には、十六カ所に胸壁を築いて、隊士は銃を撫《ぶ》しながら待った。
ついに来た。
歳三は、射撃命令をくだした。すさまじい小銃戦がはじまった。
歳三は、第一胸壁にいて、紅白の隊長旗をたかだかとひるがえしている。
――土方さんがいるかぎりは勝つ。
という信仰が、函館軍のなかにあった。
隊長旗は、三度、銃弾に撃ち倒されたが、三度とも、歳三はすぐ新たに樹《た》てさせた。
戦闘は夜陰におよんでもやまず、ついに払暁を迎えたが、さらに激しく銃戦した。
この一戦闘で歳三の隊が撃った小銃弾は三万五千発、戦闘時間は十六時間という、それ以前の日本戦史にかつてない記録的な長時間戦闘になった。
朝六時、敵はようやく崩れた。
「隊長旗を振れ」
歳三は、全軍突撃の合図をし、旗手に隊長旗をかつがせて、崖の上から一気に路上へすべり落ちた。
剣をぬいた。
たちまち白兵戦になり、五分ばかりで敵はさらに崩れ、くだり坂をころぶようにして逃げはじめた。
その敵を一里あまり追撃し、ほとんど全滅に近い打撃をあたえ、銃器、弾薬多数を奪った。
味方の損害は、戦死わずかに一名というおどろくべき勝利だった。
この数日後、官軍参謀から内地の軍務官に急報した文面では、「何分敵は百戦練磨の士が多く、奥州での敵の比ではない。とても急速な成功はむずかしい。いそぎ援軍をたのむ」という文意になっている。
[#改ページ]
五 稜 郭
歳三は函館政府軍における唯一の常勝将軍であった。
この男がわずか一個大隊でまもっていた二股の嶮は、十数日にわたって微塵もゆるがず、押しよせる官軍がことごとく撃退された。
歳三の生涯でもっとも楽しい期間の一つだったろう。
兵も、この喧嘩師の下で|★[#口+喜]々《きき》として働いた。
一日一銃で一千余発を射撃したお調子者もあり、そういう男どもの顔は煙硝の|かす《ヽヽ》で真黒になった。
銃身が焼けて装填《そうてん》装置が動かなくなった。熱くて手に火傷をおい、皮がやぶれた。
歳三は、ふもとから水桶を百ばかり運ばせて、銃を水につけては、射たせた。水冷式の射撃戦をした男など、同時代のヨーロッパにも、いなかったのではないか。
「弾はいくらでもある、射って射って射ちまくれ」
と、陣地々々をまわっては、激励した。
この男の一軍が蟠踞《ばんきよ》している、
「二股」
という峠は、函館湾の背後の山嶺群の一つで、函館市内から十里。日本海岸江差から函館へ入る間道が走っており、函館港を背後から衝こうとする官軍は当然ここを通らねばならなかった。
戦略地理的な類型を求めれば、日露戦争の旅順港攻防戦における松樹山《しようじゆざん》、二〇三高地といったものに相当しており、ここが陥ちれば函館の市街は眼下に見おろされ、裸になったのと同然であった。日露戦争といえば、榎本武揚がステッセル将軍に相当するであろう。頭がよく、学識がある。ただ、どちらも若いころから物に飽きっぽい(江戸を脱走して榎本軍に加わった幕臣心形一刀流宗家伊庭八郎は、江戸を出るとき、末弟の想太郎にいったという。「榎本という人は意思の薄弱な人だから、この戦いは終りまで為し遂げることはできない」と。当時榎本にはそういう評価がわりあい行なわれていた)。
旅順の露西亜陸軍でいえば、土方歳三はコンドラチェンコ少将に酷似している。どちらも育ちがわるい。学問がないが、最も戦さ好きでしかも巧者であり、将士の信望を一身にあつめていた。コンドラチェンコ少将の戦死後、旅順の士気がにわかに衰え、あれほど早期に開城せざるをえなくなった最も主な原因の一つをつくった。
二股は、現在《いま》、中山峠とか鶉越《うずらごえ》という名でふつう呼ばれている。
峠道は、北方の袴腰山《はかまごしやま》(六一三メートル)と南の桂岳《かつらだけ》(七三四メートル)とのあいだを走っており、歳三の当時には馬が一頭、やっと通れる程度のせまさであった。
天峻といえる。
歳三はこの道の上に最近函館の外国商館から買い入れた西洋式司令部天幕を張り、部下にも携帯天幕を張らせて野営させた。
身辺に、新選組隊士はいない。数人残っているのだが、諸隊の隊長などをして各地にちらばっているため、二股陣地では洋式訓練兵ばかりであった。
五稜郭の本営からは、榎本の伝令将校が毎日のように来る。
榎本は、戦況が心配でならないらしい。
「だいじょうぶだよ」
としか、歳三もいわない。
何度目かに歳三は、「馬のわらじを損ずるだけだ。戦況に変化があればこちらから報らせる。薩長は天下をとったが、二股だけはとれぬといっておいてくれ」と、この男にはめずらしく広言をはいた。
司令部幕舎の中には、仏人の軍事教師ホルタンも同居している。
陣中、歳三が句帳にしきりと俳句をかきつけていると、ひどくめずらしがって、それは何か、とたずねた。
「ハイカイだよ」
歳三はぶっきら棒に答えると、仏語のややわかる吉沢大二郎という歩兵|頭《がしら》が通訳した。
シノビリカいづこで見ても蝦夷の月
そう句帳にある。
シノビリカとは歳三がこの地にきて覚えた唯一のアイヌ語である。「ひどく佳《よ》い」という意味らしい。
「閣下は芸術家《あるていすと》か」
と、この仏国陸軍の下士官はちょっと妙な顔をしていった。
「あるていすと、とは何だ」
と、歳三はきいた。歩兵頭は、「歌よみ、絵師のことだと思います」といった。もっとも|ある《ヽヽ》てい《ヽヽ》すと《ヽヽ》には、「名人」とか「奇妙な人」という意味もある。歳三は、その奇妙なひとのほうかもしれなかった。
戦いというものに、芸術家に似た欲望をこの男はもっている。
榎本武揚、大鳥圭介などは、この戦争についてのかれらなりの世界観と信念とをもっていた。どうみてもかれらは戦争屋というより、政治家であった。その政治思想を貫くべく、この戦争をおこした。
が、歳三は、無償である。
芸術家が芸術そのものが目標であるように、歳三は喧嘩そのものが目標で喧嘩をしている。
そういう純粋動機でこの蝦夷地へやってきている。どうみても榎本軍幹部のなかでは、
「奇妙な人」
であった。
あるいはこの仏国下士官はそういう意味で旦那は|ある《ヽヽ》てい《ヽヽ》すと《ヽヽ》かとたずねたのかもしれない。
二股の攻防戦では、歳三はほとんど芸術家的昂奮でこの戦さを創造した。
血と刀と弾薬が、歳三の芸術の材料であった。
官軍の現地司令部は、しきりと東京へ援軍を乞うた。
歳三らのすさまじい戦いぶりについて、それらの手紙には、窮鼠《きゆうそ》必死の勁敵《けいてき》とか、余程|狡猾《こうかつ》、何分練磨、などという極端な表現がつかわれており、薩摩出身参謀の黒田了介(清隆)は自軍の弱さをなげき、
「この官軍(つまり諸藩混成の)ではとても勝算はむずかしい。薩摩兵と長州藩のみが強い。わが藩以外に頼むは長州兵のみで、他の藩兵は賊よりも数等落ちる。歎息の至りである。ねがわくば後策(増援)望み奉る次第である」
と東京へ書き送っている。
ところが、十六日にいたって官軍陸軍の増援部隊が松前に上陸し、さらに艦隊の沿岸砲撃が予想以上に奏功しはじめてから、形勢が一変した。
歳三の二股陣地に各地の敗報がぞくぞくととどいた。
十七日松前城が陥落し、二十二日には大鳥圭介がまもる木古内陣地(函館湾まで海岸線七里の地点)が陥ち、このため官軍艦隊が直接函館港を攻撃する態勢をとりはじめた。
「だらしがねえ」
二股の|ある《ヽヽ》てい《ヽヽ》すと《ヽヽ》は、憤慨した。もはや前線で日章旗があがっているのは、歳三の陣地だけとなった。
官軍は、各地の陣地を掃蕩《そうとう》して大軍を二股のふもとに集め、いよいよ四月二十三日をもって猛攻撃を開始した。
「来やがったか」
歳三は山上で、京のころ「役者のようだ」といわれた厚ぼったい二重まぶたの眼を、細く光らせた。
激闘は、三昼夜にわたった。官軍は十数度にわたって撃退されたが、なおも攻撃をくりかえしてくる。ついに二十五日の未明、歳三は剣術精練の者二百人をえらび、抜刀隊を組織してみずから突撃隊長になった。
旗手には、とくに日章旗は持たさず、緋羅紗《ひラシヤ》の地に「誠」の文字を染めぬいた新選組の旗をもたせた。
「官軍には鬼門すじの旗さ」
と、二百人の先頭に立って路上にとびだし、銃隊に援護させつつ、十町にわたる長距離突撃をやってのけた。
激突した。
歳三は斬りまくった。頃を見はからって抜刀隊を両側の崖に伏せさせる。そこへ銃隊が進出して射つ。さらに抜刀隊が駈けこむ。
それを十数度繰りかえすうち、官軍はたまらずに潰走《かいそう》しはじめた。
すかさず歳三は山上待機の本隊に総攻撃を命じ、
「一兵も余すな」
と突進した。
官軍は大半が斃れ、長州出身の軍監駒井政五郎もこのとき戦死した。
が、他の戦線は潰滅総退却の現状にあり、五稜郭本営の榎本は、ついに戦線を縮小して、亀田の五稜郭と函館市街の防衛のみに作戦を局限しようとした。
(榎本は降伏する気だな)
と歳三が直感したのはこのときである。
なぜなら、二股放棄を勧告にきた伝令将校に生色がなかった。
その顔色で本営の空気を察することができた。
「ここは勝っている」
と、歳三は動かなかった。
が、伝令将校の口からおどろくべき戦況をきいた。
二股から函館への通路にあたる矢不来の陣地が敵の艦砲射撃で陥ちたという。もし官軍が入ってくれば、土方軍は孤軍になる。
やむなく十数日にわたって官軍を撃退しつづけてきた二股の陣地をくだり、歳三は亀田の五稜郭に帰営した。
「土方さん、よくやっていただいた」
と、榎本は城門で馬上の歳三を迎え、帰陣将士にもいちいち涙をためて目礼した。
榎本にはこういうところがあり、それが人徳になって一種の統率力にまでなっていた。
歳三も、近藤にはなかったそういう榎本の一面がきらいではない。しかしこの場合、その涙は余計であった。士気に影響した。
みな予想していた以上の敗色を、榎本の涙でさとった。
さらに帰営して驚いたのは、大鳥が率いていた幕府歩兵が数百人脱走してしまっていたことである。
どうせ根は武士ではなく、江戸、大坂でかきあつめた町人どもで、いざ敗戦となれば性根がない。
が、その脱走の事実を知って、歳三の戦勝部隊にいる歩兵も動揺し、帰陣後十日ほどのあいだに百人は姿を消した。
それにさらに衝撃をあたえたのは、函館政府軍の虎の子というべき軍艦が、つぎつぎと喪《うしな》われたことである。すでに高雄がなく、千代田形艦が函館弁天崎沖で坐礁し、最大の戦力であった回天も函館港内の海戦中五発の砲弾をうけて浅瀬に乗りあげ、無力化した。
残る蟠竜も、機関故障で機能をうしない、榎本がもっとも頼みにしていた海軍は全滅した。この全滅が、榎本をはじめ海軍出身の幹部にあたえた衝撃は大きく、かれらの意気|銷沈《しようちん》が全軍の士気を弱めた。
全滅は五月十一日で、このときから官軍艦隊は全艦、函館港に入った。
五稜郭本営では、この海軍全滅の日、もっとも緊張した空気のなかで軍議がひらかれた。
「どうする」
というのである。
が、野戦陣地はつぶされたとはいえ、五稜郭のほかに、函館港の弁天崎砲台、千代ケ|岱《たい》砲台はまだ健在であった。
「籠城がよかろう」
という意見は、大鳥圭介である。
が、榎本も松平太郎も、出戦論を主張した。
歳三は、相変らずだまっていた。もはや、どうみても勝目はない。
「私は、どちらでもいい」
と、意味のとおらぬことをいった。どちらにしても、負けることにきまっているのだ。
歳三は自分が死ぬことだけを考えるようになっていた。
函館政府がどう生き残るかという防衛論には興味をうしなってしまっている。
「それでは意見にならぬ」
と大鳥がいった。
「すると大鳥さん、この軍議はどうすれば勝つ、という軍議なのか」
「当然なことだ。それが軍議ではないか。あなたは何を考えている」
「驚いている」
と歳三はいった。
「なにが?」
「勝てるつもりかね」
歳三は、生真面目な表情でいった。
「勝つつもりの軍議なら、事ここに至ればむだなことだ。しかし戦さをするだけの軍議なら私も思案がある」
「戦さは勝つためにするものではないか」
「まあ、続けていただく。私は聞き役にまわろう」
一方、官軍の司令部では、すでに五稜郭の本営に対し降伏勧告の準備をしつつあり、正式の招降使を出す前に、五稜郭出入りの商人を通じて、うわさ程度のものをしきりと流して城内の反応を打診しようとした。
これをきいたとき、榎本以下の五稜郭の諸将はいずれも一笑に付したが、しかし部下の将士のあいだには、
「榎本は降伏するのではないか」
という疑惑がひろがった。
これが、千代ケ岱の守将中島三郎助の耳にまできこえ、馬を飛ばしてやってきた。
中島三郎助はかつて浦賀奉行所の与力だった人物で、嘉永六年六月三日、ペリーが来航したとき、小船に乗って訊問応接に出かけたことで知られている。
その後、幕命によって長崎で軍艦操練法を学び、のち軍艦操練所教授方頭取となったが、榎本はかつてその下僚であった。
幕府の末期には両御番上席格の軍艦役で、病身のため実役にはついていなかった。
幕府瓦解とともに長男恒太郎、次男英次郎とともに榎本に従って函館に走り、五稜郭の支城ともいうべき千代ケ岱砲台の守備隊長になっている。四十九。
詩文音曲にたくみでしかも洋学教育をうけた、というその教養からはおよそかけはなれた古武士然とした人物で、性格はひどくはげしい。
のち、榎本が降伏して五稜郭を開城してからもこの人物とその千代ケ岱砲台だけは降伏せず、五月十五日、官軍の猛攻をうけて奮戦のすえ、二児とともに戦死した。
「うわさはまさか、真実ではなかろうな」
と、本営の洋室に入ってきた。あいにく室内には歳三しかいなかった。歳三はこのときも、丹念に長靴をみがいていた。
「なんのことです」
と歳三はふりむいた。中島はこの男の主義で、和服である。開戦前は函館奉行をつとめていた。
「あ、土方殿か」
うしろ姿をみて、榎本とまちがえたらしい。
「土方ですが」
「貴殿でもいい。ご存じでござろう。風聞では、榎本が降伏すると申すが、まさか真実ではござるまいな」
「存じません。歩兵どもの間での他愛もないうわさでしょう」
「それならよいが」
と、中島三郎助は椅子をひきよせて腰をおろし、歳三をのぞきこむようにして、「土方殿」といった。
「こういっては何だが、榎本という男はいざとなれば存外腰の砕けやすい男だ。私は軍艦操練所のころ、かれを下僚にしていたからよく存じている。もし、いや仮に、でござる、榎本が降伏すると云いだせば、陸軍奉行たる貴殿はどうなさる」
「さあ」
歳三は、こまったような表情をした。かれはもはや他人《ひと》はひと、自分は自分という心境のなかにいる。
「私は身勝手なようだが、榎本がどうするにせよべつに異論はない。ただ私自身はどうするのかときかれれば、答えることができる」
「どうなさる」
「私にはむかし、近藤という仲間がいた。板橋で不運にも官軍の刃で死んだ。もし私がここで生き残れば」
歳三は、ふとだまった。
べつに他人に云うべきすじあいのことではないとおもったのだ、靴をみがきはじめた。
近藤は地下にいる。
もしここで自分が榎本や大鳥らとともに生き残れば地下の近藤にあわせる顔がない、と歳三は靴をみがきながらごくあたりまえのいわば世間話のような気安さでそのことを考えている。
[#改ページ]
砲 煙
その夜、亡霊を見た。
五月九日の夜五ツ、晴夜だった。歳三は戦闘からもどって、五稜郭本営の自室にいた。ふと気配《けはい》に気づき、寝台から降りた。眼をこらして、かれらを見た。眼の前に人がいる。ひとりやふたりではない。群れていた。
「侍に怨霊《おんりよう》なし」
と古来いわれている。歳三もそう信じてきた。むかし壬生にいたころ、新徳寺の墓地に切腹した隊士の亡霊が出る、と住職が屯営に駈けこんできたことがある。
歳三はおどろかなかった。
「その者、侍の性根がないにちがいない。現世に怨霊を残すほど腐れはてた未練者なら、わしが斬って捨ててあらためてあの世へ送ってやろう」
と、歳三は墓地へゆき、剣を撫して終夜、亡霊の出現を待った。ついに出なかった。
が、いまこの部屋の中に居る。亡霊たちは、椅子に腰をかけたり、床《ゆか》にあぐらをかいたり、寝そべったりしていた。
みな、京都のころの衣裳を身につけて、のんきそうな表情をしていた。
近藤勇が、椅子に腰をおろしている。
沖田総司が寝ころんでひじ枕をし、こちらを見ていた。その横に、伏見で弾で死んだ井上源三郎が、あいかわらず百姓じみた顔でぼんやりあぐらをかいて歳三を見ている。山崎烝が、部屋のすみで鍔《つば》を入れ替えていた。そのほか、何人の同志がいたか。
(どうやら、おれは疲れているらしい)
歳三は、寝台のふちに腰をおろして、そう思った。五月に入ってから歳三はほとんど毎日五稜郭から軽兵を率いて打って出ては、進出してくる官軍をたたきつづけてきた。
不眠の夜がつづいた。部屋のなかにいる幻影はそのせいだろうと思った。
「どうしたのかね」
歳三は、近藤にいった。
近藤は無言で微笑《わら》った。歳三は沖田のほうに眼をやった。
「総司、相変らず行儀がよくないな」
「疲れていますからね」
と、沖田はくるくるした眼でいった。
「お前も疲れているのか」
歳三がおどろくと、沖田は沈黙した。灯明りがとどかないが、微笑している様子である。みな、疲れてやがる、歳三は思った。思えば幕末、旗本八万騎がなお偸安《とうあん》怠惰の生活を送っているとき、崩れゆく幕府という大屋台の「威信」をここにいるこれだけの人数の新選組隊士の手でささえてきた。それが歴史にどれほどの役に立ったかは、いまとなっては歳三にもよくわからない。しかしかれらは疲れた。亡魂となっても、疲れは残るものらしい。
歳三はそんなことをぼんやり考えている。
「歳、あす、函館の町が陥ちるよ」
近藤は、はじめて口をひらき、そんな、予言とも、忠告ともつかぬ口ぶりでいった。
歳三はこの予言に驚倒すべきであったが、もう事態に驚くほどのみずみずしさがなくなっている。疲れて、心がからからに枯れはててしまっているようだ。
「陥ちるかね」
と、にぶい表情でいった。近藤がうなずき、
「函館の町のうしろに函館山というのがあるが、あそこは手薄のようだ。官軍はあれにひそかに奇兵をのぼらせて一挙に市街を攻めるだろう。守将の永井玄蕃頭はもともと刀筆の吏(文官)で、持ちこたえられぬ」
歳三は、面妖《おか》しいな、と思った。この意見はかねがねかれが榎本武揚に具申《ぐしん》してあの山を要塞化せよといってきたところである。ところが、兵数も機材もなかった。
――せめて私が行こう。
と、今朝《けさ》もいったばかりである。ところが榎本は、五稜郭から歳三が居なくなるのを心細がり、ゆるさなかった。
(なんだ、おれの意見じゃないか)
寝返りを打って寝台の上に起きあがった。軍服、長靴のまま、まどろんでいたようであった。
(夢か。――)
歳三は、寝台をおりて部屋をうろうろ歩いた。たしかにたったいま近藤がすわっていた椅子がある。さらに沖田が寝そべっていた|ゆか《ヽヽ》のあたりに歳三はしゃがんだ。
|ゆか《ヽヽ》をなでた。
妙に、人肌の温かみが残っている。
(総司のやつ、来やがったのかな)
歳三はそこへ、ごろりと寝そべってみた。肘《ひじ》まくらをし、沖田とそっくりのまねをしてみた。
それから半刻ばかりあと、扉のノブをまわす音がして、立川《たちかわ》主税《ちから》が入ってきた。立川は甲州戦争のころに加盟してきた甲斐郷士で、維新後は鷹林《たかばやし》巨海と名乗って頭をまるめ、僧になり、山梨県東山梨郡|春日井《かすがい》村の地蔵院の住職になって世を送った。歳三が「歳進院殿誠山義豊大居士」になってしまったあと、その菩提《ぼだい》を生涯とむらったのが、この巨海和尚である。
「どうなされました」
と、立川主税がおどろいて歳三をゆりおこした。歳三はさっきの沖田とそっくりの姿勢でふたたびねむりこけていたのである。
「総司のやつが来たよ。近藤も、井上も、山崎も。……」
と、歳三は身をおこしてあぐらをかくなり、ひどくほがらかな声でいった。
立川主税は、気でも狂ったかとおもったらしい。平素の歳三とはまるでちがう表情だったからである。
歳三は、このあと、新選組の生き残り隊士をよぶように命じた。
みな、来た。馬丁の沢忠助もきた。|みな《ヽヽ》といっても、十二、三人である。そのなかで京都以来の最古参というのは旧新選組伍長の島田魁、同尾関政一郎(泉)ほか二、三人で、あとは伏見徴募、甲州徴募、流山徴募といった連中だった。それぞれ、歩兵大隊の各級指揮官をしている。
「酒でも飲もうと思った」
と、歳三は床の上に座布団を一枚ずつ敷かせ、肴はするめだけで酒宴を張った。
「どういうおつもりの宴です」
「気まぐれだよ」
歳三は、なにもいわなかった。ただひどく上機嫌で、かえってそれがみなを気味わるがらせた。
一同にその意味がわかったのは、翌朝になってからである。兵営の掲示板に、昨夜会同した連中が一せいに異動になっていた。全員が、総裁榎本武揚付になっている。
この日、函館が陥ちた。
永井玄蕃頭ら敗兵が五稜郭へ逃げこんできた。もはや残された拠点は、弁天崎砲台、千代ケ岱砲台、それに本営の五稜郭のみであった。
「土方さん、あなたが予言していたとおりでした。敵は函館山から来たそうです」
と、榎本は蒼い顔でいった。歳三はどう考えても不審だった。自分はたしかに予言していたが、日まで予言しなかった。どうも昨夜の夢は夢ではなく、近藤らがわざわざそれをいいにきてくれたのかもしれない。
「あす、函館へ行きましょう」
と、歳三はいった。
榎本は、妙な顔をした。もはや市街は官軍で充満しているではないか。
軍議がひらかれた。
榎本、大鳥は籠城を主張した。歳三はあいかわらずだまっていたが、副総裁の松平太郎がしつこく意見をもとめたので、ぽつりと、
「私は出戦しますよ」
とだけいった。陸軍奉行大鳥圭介が、歳三への悪感情をむきだした顔でいった。
「それでは土方君、意見にならない。ここは軍議の席だ。君がどうする、というのをきいているのではなく、われわれはどうすべきかという相談をしている」
のちに外交官になった男だけに、どんな場合でも論理《すじだて》の明晰《めいせき》な男だった。
「君は」
と、歳三はいった。
「籠城説をとっている。籠城というのは援軍を待つためにやるものだ。われわれは日本のどこに味方をもっている。この場合、軍議の余地などはない、出戦以外には。――」
皮肉をこめていった。籠城は、降伏の予備行動ではないかと歳三は疑っているのだ。
松平太郎、星恂太郎らは歳三に同調し、翌未明を期して函館奪還作戦をおこすことになった。
偶然、官軍参謀府でもこの日をもって五稜郭攻撃の日ときめていた。
その当日、歳三が五稜郭の城門を出たときは、まだ天地は暗かった。明治二年五月十一日である。
歳三は、馬上。
従う者はわずか五十人である。榎本軍のなかで最強の洋式訓練隊といわれた旧仙台藩の額兵隊に、旧幕府の伝習士官隊のなかからそれぞれ一個分隊をひきぬいただけであった。
この無謀さにはじつのところ、松平らもおどろいた。が、歳三は、
「私は少数で錐《きり》のように官軍に穴をあけて函館へ突っこむ。諸君はありったけの兵力と弾薬荷駄を率いてその穴を拡大してくれ」
といった。
歳三は、すでにこの日、この戦場を境に近藤や沖田のもとにゆくことに心をきめていた。もうここ数日うかつに生きてしまえば、榎本、大鳥らとともに降伏者になることは自明だったのである。
(かれらは降《くだ》れ。おれは、永い喧嘩相手だった薩長に降れるか)
と思っていた。できれば喧嘩師らしく敵陣の奥深く突入り、屍《かばね》を前にむけて死にたかった。
歳三は、三門の砲車を先頭に進んだ。砲を先頭にするのは、射程のみじかかったこのころの常識である。
途中、林を通った。暗い樹蔭からにわかにとびだしてきて、馬の口輪をおさえた者があった。馬丁の忠助である。
「忠助、何をしやがる」
「みなさん、来ていらっしゃいます。新選組として死ぬんだ、とおっしゃっています」
見ると、島田魁をはじめ、一昨夜別盃を汲んだ連中がみなそこにいる。
「帰れ。きょうの戦さはお前たち剣術屋のてには負えねえ」
と、馬を進めた。島田ら新選組は馬側をかこむようにして駈けだした。
陽が昇った。
待ちかまえたように、官軍の四斤山砲隊、艦砲が、轟々と天をふるわせて射撃をはじめた。
味方の五稜郭からも二十四斤の要塞砲隊、艦砲が火を噴きはじめた。歳三の隊に後続して、松平太郎、星恂太郎、中島三郎助の諸隊がつづき、その曳行《えいこう》山砲が、躍進しては射ちはじめた。
たちまち天地は砲煙につつまれた。
歳三のまわりに間断なく砲弾が破裂しては鉄片が飛びちったが、この男の隊はますます歩速をあげた。
途中、原始林がある。
それを駈けぬけたとき、官軍の先鋒百人ばかりに遭遇した。
敵が路上で砲の照準を開始していた。
歳三は馬腹を蹴り疾風のように走って馬上からその砲手を斬った。
そこへ新選組、額兵隊、伝習士官隊が殺到し、銃撃、白兵をまじえつつ戦ううちに、松平、星、中島隊が殺到して一挙に潰走させた。
歳三は、さらに進んだ。途中、津軽兵らしい和装、洋装とりまぜた官軍に出あったが、砲三門にミニエー銃を連射して撃退し、ついに正午、函館郊外の一本木関門の手前まできた。
官軍は主力をここに集結し、放列、銃陣を布《し》いてすさまじい射撃を開始した。
松平隊らの砲、銃隊も進出して展開し、
――その激闘、古今に類なし。
といわれるほどの激戦になった。
歳三は白刃を肩にかつぎ、馬上で、すさまじく指揮をしたが、戦勢は非であった。敵は歴戦の薩長がおもで、余藩の兵は予備にまわされており、一歩も退《しりぞ》く気配がない。それにここまでくると函館港から射ち出す艦砲射撃の命中度がいよいよ正確になり、松平太郎などは自軍の崩れるのをささえるのにむしろ必死であった。
歳三はもはや白兵突撃以外に手がないとみた。幸い、敵の左翼からの射撃が不活溌なのをみて、兵をふりかえった。
「おれは函館へゆく。おそらく再び五稜郭には帰るまい。世に生き倦《あ》きた者だけはついて来い」
というと、その声にひきよせられるようにして、松平隊、星隊、中島隊からも兵が駈けつけてきてたちまち二百人になり、そのまま隊伍も組まずに敵の左翼へ吶喊《とつかん》を開始した。
歳三は、敵の頭上を飛びこえ飛びこえして片手斬りで左右に薙《な》ぎ倒しつつ進んだ。
鬼としかいいようがない。
そこへ官軍の予備隊が駈けつけて左翼隊の崩れがかろうじて支えられるや、逆に五稜郭軍は崩れ立った。
これ以上は、進めない。
が、ただ一騎、歳三だけがゆく。悠々と硝煙のなかを進んでいる。
それを諸隊が追おうとしたが、官軍の壁に押しまくられて一歩も進めない。
みな、茫然と歳三の騎馬姿を見送った。五稜郭軍だけでなく、地に伏せて射撃している官軍の将士も、自軍のなかを悠然と通過してゆく敵将の姿になにかしら気圧《けお》されるおもいがして、たれも近づかず、銃口をむけることさえ忘れた。
歳三は、ゆく。
ついに函館市街のはしの栄国橋まできたとき、地蔵町のほうから駈け足で駈けつけてきた増援の長州部隊が、この見なれぬ仏式軍服の将官を見とがめ、士官が進み出て、
「いずれへ参られる」
と、問うた。
「参謀府へゆく」
歳三は、微笑すれば凄味があるといわれたその二重|瞼《まぶた》の眼を細めていった。むろん、単騎斬りこむつもりであった。
「名は何と申される」
長州部隊の士官は、あるいは薩摩の新任参謀でもあるのかと思ったのである。
「名か」
歳三はちょっと考えた。しかし函館政府の陸軍奉行、とはどういうわけか名乗りたくはなかった。
「新選組副長土方歳三」
といったとき、官軍は白昼に竜が蛇行するのを見たほどに仰天した。
歳三は、駒を進めはじめた。
士官は兵を散開させ、射撃用意をさせた上で、なおもきいた。
「参謀府に参られるとはどういうご用件か。降伏の軍使ならば作法があるはず」
「降伏?」
歳三は馬の歩度をゆるめない。
「いま申したはずだ。新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みにゆくだけよ」
あっ、と全軍、射撃姿勢をとった。
歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。
が、馬が再び地上に足をつけたとき、鞍の上の歳三の体はすさまじい音をたてて地にころがっていた。
なおも怖れて、みな、近づかなかった。
が、歳三の黒い羅紗服が血で濡れはじめたとき、はじめて長州人たちはこの敵将が死体になっていることを知った。
歳三は、死んだ。
それから六日後に五稜郭は降伏、開城した。総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人の閣僚のなかで戦死したのは、歳三ただひとりであった。八人の閣僚のうち、四人まではのち赦免されて新政府に仕えている。榎本武揚、荒井郁之助、大鳥圭介、永井尚志(玄蕃頭)。
死体は、函館市内の納涼寺に葬られたが、別に、碑が同市浄土宗称名寺に鴻池の手代友次郎の手で建てられた。
肝煎《きもいり》は友次郎だが、金は全市の商家から献金された。理由は、たった一つ、歳三が妙な「善行」を函館に残したことである。五稜郭末期のころ、大鳥の提案で函館町民から戦費を献金させようとした。
「焼け石に水」
と、歳三は反対した。
「五稜郭が亡びてもこの町は残る。一銭でも借りあげあれば、暴虐の府だったという印象は後世まで消えまい」
そのひとことで、沙汰やみになった。
墓碑の戒名は広長院釈義操、俗名は土方歳三義|直《ヽ》、で一字まちがっている。しかし函館町民が建てたものは俗名はただしく義|豊《ヽ》となっており、戒名は歳進院殿誠山義豊大居士。
会津にも藩士のなかで歳三を供養した者があるらしく、有統院殿鉄心日現居士、という戒名が遺っている。
土方家では、明治二年七月、歳三の小姓市村鉄之助の来訪でその戦死を知った。翌三年、馬丁沢忠助が訪ねてきて戒名を知り、「歳進院殿……」のほうを位牌にして供養した。
市村鉄之助の来訪は劇的だったらしい。
雨中、乞食の風体《ふうてい》で武州日野宿はずれ石田村の土方家の門前に立った。当時、函館の賊軍の詮議がやかましいという風評があったため、こういう姿で忍んできたのであろう。
「お仏壇を拝ませていただきたい」
といい、通してやると、
「隊長。――」
と呼びかけたきり、一時間ほど突っぷして泣いていたという。
土方家と佐藤家では、鉄之助を三年ほどかくまってやり、世間のうわさのほとぼりも醒めたころ、近所の安西吉左衛門という者に付きそわせて故郷の大垣へ送ってやった。のち家郷を出、西南戦争で戦死した、ということは既述した。歳三の狂気が、この若者に乗りうつって、ついに戊辰時代の物狂いがおさまらなかったのかもしれない。
お雪。
横浜で死んだ。
それ以外はわからない。明治十五年の青葉のころ、函館の称名寺に歳三の供養料をおさめて立ち去った小柄な婦人がある。寺僧が故人との関係をたずねると、婦人は滲《し》みとおるような微笑をうかべた。
が、なにもいわなかった。
お雪であろう。
この年の初夏は函館に日照雨《そばえ》が降ることが多かった。その日も、あるいはこの寺の石畳の上にあかるい雨が降っていたように思われる。
〈了〉
[#改ページ]
あ と が き
男の典型を一つずつ書いてゆきたい。そういう動機で私は小説書きになったような気がする。べつに文学とか、芸術とかという大げさな意識を一度ももったことがない(小説が本来、芸術であるかどうか)。
男という、この悲劇的でしかも最も喜劇的な存在を、私なりにとらえるには歴史時代でなければならない。なぜならば、かれらの人生は完結している。筆者とのあいだに時間という、ためしつすかしつすることができる恰好な距離がある。
土方歳三という男の人生が完結してから、ちょうど百年になる。この男は、幕末という激動期に生きた。新選組という、日本史上にそれ以前もそれ以後にも類のない異様な団体をつくり、活躍させ、いや活躍させすぎ、歴史に無類の爪あとを残しつつ、ただそれだけのためにのみ自分の生命を使いきった。かれはいったい、歴史のなかでどういう位置を占めるためにうまれてきたのか。
わからない。歳三自身にもわかるまい。ただ懸命に精神を昂揚させ、夢中で生きた。そのおかしさが、この種の男のもつ宿命的なものだろう。その精神が充血すればするほど、喜劇的になり、同時に思い入れの多い悲劇を演じてしまっている。
武州日野宿石田、というのがこの男のうまれた里である。
いまは東京都下日野市石田という地名になっているが、付近に多少の近代建築ができているほか、風景はかれがうまれたころとほぼかわりがない。武蔵野特有の真黒いポカ土と雑木林の多い田園である。
その生家を二度訪ねた。姿のいい村のなかに、大きな農家がある。
「お大尽《だいじん》さんの家なら、あすこです」
と、村の若い人が、そんないいかたで土方家をおしえてくれた。歳三の兄の曾孫という温厚な初老の当主が、応対してくれた。
「ええ、このへんでは、トシサン、トシサンと呼ばれていました」
大きな大黒柱がある。高さ四尺ばかりのあたりがあめ色に光っていた。柱は、湯殿にちかい。
「湯からあがりますと、トシサンはこの柱を相手に角力の稽古をしていたそうです」
庭に矢竹が植わっている。
「あれを植えたんだそうです。おかしな子だったんでしょうな、百姓の子のくせに、武士になるのだといっていました。ええ、矢竹は武士の屋敷にはかならず植えられていたそうで、真似たのでしょう」
歳三はこの生家に、京都時代に使ったという和泉守兼定の一刀と兜の鉢金などをのこしていた。鉢金には、刀傷があった。
歳三の姉の曾孫が当主になっている佐藤家は日野の甲州街道ぞいにある。当主は、
「維新後は、肩身のせまい思いをした、と祖母がいっていました」
と微笑したが、その容貌が、写真で歳三の顔にもっとも似ていた。
「眼もとの涼しい顔で、役者のようだった、といいます」
幾日か、かれの故郷のあちこちを歩いた。
多摩川の支流の浅川という河原で、とげのある薬草も摘んでみた。かれは少年のころ村人を指揮して家業の薬草とりをしたそうだが、あるいはかれの天才的な組織作りは、そういう労働の経験からうまれたものかもしれない、ともおもった。
「おそらく、そうでしょう」
と、土方家の当主もいわれた。こまかくその薬草の採集から製造までの工程もおしえていただいた。百人ほどの人数が、部署部署にわかれて複雑に動きまわるのを指揮するのは大変な手腕の要るものだという。
歳三は、それまでの日本人になかった組織というあたらしい感覚をもっていた男で、それを具体的に作品にしたのが新選組であったように思われる。その意味だけでいえば、文化史的な仕事を、この男の情熱と才能はなしとげたのではないか。
司馬遼[#しんにょうの点は二つ]太郎
[#改ページ]
初出誌
週刊文春/昭和三十七年十一月十九日号〜昭和三十九年三月九日号
単行本
ポケット文春版 昭和三十九年五月 文藝春秋刊
四六版 昭和四十八年三月 文藝春秋刊
新書版 平成十年九月 文藝春秋刊
文春ウェブ文庫版
燃えよ剣(下)
二〇〇〇年十二月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 司馬遼[#しんにょうの点は二つ]太郎
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
http://www.bunshunplaza.com
(C) Midori Fukuda 2000
bb001207
校正者注
(一般小説) 電子文庫出版社会 電子文庫パブリ 文春ウェブ文庫(383作品).rar 51,427,627 ee2f0eb8653b737076ad7abcb10b9cdf
内の”-燃えよ剣(下).html”から文章を抜き出し校正した。
綺麗に表示されないルビの前に|をつけた。
表示できない文字を★にし、新潮文庫六十九刷を底本にして注をいれた。
章ごとに改ページをいれた。
smoopyで綺麗に表示するためにヽヽを二つずつに分解した。