燃えよ剣(上)
司馬遼[#しんにょうの点は二つ]太郎
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〈底 本〉『燃えよ剣(上)』昭和四十八年二月一日 文藝春秋刊
(C) Midori Fukuda 2000
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(例)副長の土方歳三《ひじかたとしぞう》
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(例)新選組局長近藤|勇《いさみ》
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目  次
女 の 夜 市
六 車 斬 り
七里研之助
わいわい天王
分 倍 河 原
月 と 泥
江 戸 道 場
桂 小 五 郎
八王子討入り
スタスタ坊主
疫 病 神
浪 士 組
清河と芹沢
ついに誕生
四 条 大 橋
高 瀬 川
祇園「山の尾」
士  道
再  会
二帖半敷町の辻
局中法度書
池 田 屋
断章・池田屋
京 師 の 乱
長州軍乱入
伊東甲子太郎
甲子太郎、京へ
慶応元年正月
憎まれ歳三
四条橋の雲
堀 川 の 雨
お  雪
紅  白
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[#改ページ]
燃えよ剣(上)
女 の 夜 市
新選組局長近藤|勇《いさみ》が、副長の土方歳三《ひじかたとしぞう》とふたりっきりの場所では、
「トシよ」
と呼んだ、という。斬るか斬らぬかの相談ごとも二人きりのときは、
「あの野郎をどうすべえ」
と、つい、うまれ在所の武州多摩の地言葉《じことば》が出た。勇は上石原《かみいしわら》、歳三は石田村の出である。どちらも甲州街道ぞいの在所で、三里と離れていない。初夏になれば、草むらという草むらが蝮《まむし》臭くなるような農村だった。
さて、「トシ」のことである。
トシという石田村百姓喜六の末弟歳三の人生が大きくかわったのは、安政四年の初夏、八十八夜がすぎたばかりの蝮の出る季節だった。
例年になく暑かった。
この夕、歳三は、村を出るとまっすぐに甲州街道に入り、武蔵《むさし》府中《ふちゆう》への二里半の道をいそいでいた。
浴衣《ゆかた》の裾《すそ》を思いきりからげている。
背がたかい。肩はばが広く、腰がしなやかで、しかも腰を沈めるように歩く。眼のある者からみれば、よほど剣の修業をつんだ者の歩き方だった。
顔は紺無地幅広《こんむじはばびろ》の手拭でつつみ、頬かぶりのはしを粋《いき》に胸まで垂れている。
洒落《しやれ》者《もの》であった。
手拭一本でも自分なりに工夫して、しかもそれが妙に似合う男だった。
洒落者といえば、|まげ《ヽヽ》が異風であった。百姓のせがれらしく素小鬢《すこびん》という形にすべきところだが、村でもこの男だけは自分で工夫した妙な|まげ《ヽヽ》を結《ゆ》っていた。それが大それたことに、武家|まげ《ヽヽ》に似せてある。
この|変り《ヽヽ》まげ《ヽヽ》については、
「分際《ぶんざい》(階級)を心得ろ」
と、名主の佐藤彦五郎から叱られたことがあったが、歳三は眼だけを伏せ、口もとで笑っていた。
「なあに、いずれは武士になるのさ」
といった。
その後も|まげ《ヽヽ》をあらためなかったが、ただ紺手拭で頬かぶりをするようになった。だから村では、
「トシのお目こぼし髷《まげ》」
と悪口をいった。歳三の家と佐藤家とは親戚なのである。親戚だから、名主もこの異風を目こぼしする。そういう意味である。
しかし頬かぶりよりも、頬かぶりの下に光っている眼がこの男の特徴だった。大きく二重《ふたえ》の切れながの眼で、女たちから、「涼しい」とさわがれた。
しかし村の男どもからは、
「トシの奴の眼は、なにを仕出かすかわからねえ眼だ」
といわれていた。
まったく、この男はなにをしでかすかわからなかった。
いまも、街道を歩いている|なり《ヽヽ》はただのゆかたがけだが、その下にはこっそり柔術の稽古着《けいこぎ》をきている。
宿場のはずれに出たところ、野良がえりの知りあいから、
「トシ、どこへ行くんだよう」
と声をかけられたが、だまっていた。
まさか女を強姦《ころ》しにゆく、とはいえないだろう。
今夜は、府中の六社明神《ろくしやみようじん》の祭礼であった。俗に、くらやみ祭といわれる。
歳三のこんたんでは、祭礼の闇につけこんで、参詣の女の袖をひき、引き倒して犯してしまう。そのときユカタをぬいで女が夜露にぬれぬように地面に敷く。その上に寝かせる。着ている柔術着は、女の連れの男衆と格闘がおこった場合の用意のつもりだった。
歳三だけが悪いのではない。
そういう祭礼だった。
この夜の参詣人は、府中周辺ばかりでなく三多摩《さんたま》の村々はおろか、遠く江戸からも泊りがけでやってくるのだが、一郷《いちごう》の灯が消されて浄闇《じようあん》の天地になると、男も女も古代人にかえって、手あたり次第に通じあうのだ。
いよいよ下谷保《しもやぼう》をすぎたあたりから、府中の六社明神をめざしてゆく提灯《ちようちん》のむれが、めだってふえはじめた。
江戸の方角に、月があがった。
月の下をどの男女も左手に提灯をもち右手に青竹の杖をひいて異常な音響をたてながら押し進んでゆく。蝮の出る季節だから、青竹のさきをササラに割り、道をたたいて蝮を追いちらしながら歩いてゆくのだ。
歳三も、青竹をもっていたがこの男の杖だけはただの青竹ではなく、節《ふし》をぬいて鉛をながしこみ、ずしりと鉄棒のように重かった。
蝮をおどすよりも人間をおどすほうに、これは役に立つ。
この近在では、歳三のことを、
「石田村のバラガキ」
と蔭口でよんでいる。茨垣《ばらがき》と書く。触れると刺す例の茨《いばら》である。乱暴者の隠語だが、いまでも神戸付近では不良青年のことをバラケツというから、ひょっとするとこのころ諸国にこの隠語は行なわれていたのかもしれない。
歳三が府中についたのは戌ノ刻《はちじ》のすこし前であった。
府中の宿《しゆく》六百軒の軒々には、地口《じぐち》行燈《あんどん》に蘇枋色《すおういろ》の提灯がつるされ、参道二丁のけやき並木には高張《たかはり》提灯がびっしりと押しならんで、昼のように明るい。
いわば、女の夜市《よいち》なのだ。
歳三は、女を物色してあるいた。ときどき、同村の娘や女房連とすれちがってむこうから袖をひかれたりしたが、
「よせ」
と、こわい眼をした。歳三にはふしぎな羞恥癖《しゆうちへき》があって、同村の女と情交したことは一度もなかった。同村だと、いずれは露《あら》われるからだ。だから、
「トシはかたい」
という評判さえあった。歳三は、情事のことで囃《はや》されるのを極度に怖れた。
理由はない。
一種の癖だろう。だから、
「トシは、猫だ」
ともいう者があった。なるほど犬なら露骨だが、猫は自分の情事を露わさない。そういえば、歳三は情事のことだけでなく、どこかこの獰猛《どうもう》で人になつきにくい夜走獣に似ていた。
もっとも、歳三が同村の女と情交《まじわ》りたくないのは理由があった。土百姓の女には、なんの情欲もおこらなかったのだ。
(女は、身分だ)
と考えていた。美醜ではない。それが歳三の信仰のようなものであった。
自分より分際の高い女に対しては、慄《ふる》えるような魅惑を感じた。こういう性欲の型をもった男も少なかろう。
たとえば、去年の冬、この男がある生娘《きむすめ》と通じたのもそれであった。
女は、八王子の大きな真宗寺院の娘で、その宗旨のならわしとして、娘はその門徒たちから、
「お姫《ひい》さま」
とよばれていた。歳三はただそれだけを耳にし、娘をまだ見ない前から、その娘と寝たいと思った。
歳三はこの娘と通じるために、わざわざ二里はなれた八王子に数日|逗留《とうりゆう》した。
ついでながら、歳三は、八王子付近の住民から「薬屋」とよばれていた。
このころ、この男は薬の行商もしていたのだ。
もっとも歳三の家は、農家ながらもこの一郷では、「大尽《だいじん》」とよばれているほどの家だから、薬の行商をしなくとも暮らせるのだが、家に、「石田|散薬《さんやく》」という、骨折、打身《うちみ》に卓効ある家伝の秘薬がつたわっている。
原料は、村のそばを流れている浅川河原でとれる朝顔に似た草で、その葉に、トゲがあるそうだ。その草を土用の丑《うし》の日に採り、よく乾して乾燥させ、あとは黒焼きにし、薬研《やげん》でおろして散薬にし、患者にそれを熱燗《あつかん》の酒で一気にのませる。奇妙なほどにきいた。のちに池田屋ノ変のあと負傷した新選組隊士に歳三がひとりひとりに口を割るようにして飲ませてみたところ、二日ほどで打身のシコリがとれ、骨折も肉巻きがしなかったといわれる。
その家伝「石田散薬」の行商をして、歳三は、武州はおろか、江戸、甲州、相州まで歩いた。それがこの男の年少のころからの剣術修業法で、町々の道場に立ちよってはこの骨折、打身の薬を進呈し、そのかわり一手の教えを請うた。
当時歳三がしばしばそのあたりまで足をのばして逗留した甲府桜町に道場をかまえる神道無念流の梶川景次などは、のちに京の新選組のうわさを耳にし、
「土方歳三とは、あの武州の薬屋か。あれならばそれくらいのことはやるだろう」
といったという。
八王子の真宗寺院に入りこめたのは、薬売りという便宜があったからである。
寺の名を、専修坊《せんじゆぼう》といった。
院主《いんじゆ》は歳三が気に入り、
「寺の納屋《なや》にでもとまって数日近在に売り歩くがいい」
といってくれた。娘の姿は見なかったが、昼のあいだに寺の建物、庭の様子をくわしく調べておき、娘の居間が、この寺で客殿とよばれる小さな数寄屋造《すきやづく》りの一室であることも知った。
翌日、はじめて娘の姿をみた。娘は、魚に餌を与えるつもりか、庭の池のふちに腰をおろして朝の陽《ひ》をあびていたが、通りかかった歳三に気づいて顔をあげた。
不審な表情で、眉をよせた。
むりもなかった。
紺手拭で頬かぶりをし、絹の縞《しま》の着物に献上の帯をしめているあたりはどうみても名主の総領息子の様子だが、それが威勢よく尻からげをしている。しかも股引《ももひき》をはき薬箱をかついでいるところだけをみればどうやら行商人としか思われない。ところがそうとも思われないのは、この若者が、剣術道具をかついでいる点であった。
こんな、ちぐはぐな男をみたことがない。それがふしぎと、この眼の涼しい男に似合っているのである。
(どなたかしら)
娘は、まじまじと見た。
歳三の見るところ、娘はさして美しくはなかったが、小柄でおとなしそうなところがかれの好みに合う、とおもった。
が、一礼もしなかった。
分際の高い女は好きだといっても、この男は女に頭をさげて愛嬌をふりまくのは好まなかった。
ただ、二、三歩近づいて、
「いずれ」
と、だけいった。
いずれなにをするのか。
娘が訊《き》こうと眼をあげたときは、歳三は背をみせて山門のほうに去っていた。
その夜、子《ね》ノ刻《こく》、歳三は娘の部屋の雨戸にゆばりを流して、音もなく開けた。武州多摩の村々の若者は、娘を|よば《ヽヽ》う《ヽ》ときにこの法をつかう。
女が、二人寝ていた。
ひとりは娘の乳母で、歳三が枕もとで寝息をうかがうと、正体もない。
つぎに、娘の寝息を嗅《か》いだ。低く小さくまろやかで、これも正体がなかった。
歳三は、ふとんの裾にまわった。ふとんをそっとはぐると、娘の半身が出た。
両方の親指を、歳三はつまんだ。つまみあげた。両脚を親指だけでつまみあげるのはひどく重いものだが、娘の目をさまさせないようにするためには、それしか法のないものだということを歳三は知っていた。
やがて、娘の両脚は裾を割って無心にひらいた。死体のように知覚がない。
娘が目をさましたときは、すでに異変がおこってしまったあとだった。
ところが歳三にとって意外だったのは娘が騒がなかったことだった。ただひたすらに体を固くしているほかは、吐息さえもこらえ、声もたてない。
――いずれ。
と歳三がいった意味を、娘はすでに知っていたのだろう。むしろ、この見映《みば》えのいい旅の若者が忍んでくることを、ひそかに期待していたのかもしれなかった。若者が娘を|よば《ヽヽ》う《ヽ》ことは、この郷ではめずらしい事件ではない。
娘の意外な落ちつきをみて、
(これがお姫《ひい》さまか)
と失望したのは、歳三のほうだった。その翌日、寺の裏手にひろがっている桑畑にうずもれ、野良着をきて桑つみをしているのをみて歳三はさらに失望した。
(ちがう。――)
とおもったのは、かれが想像していた娘ではなかったのだ。野良着をきて桑臭くなっている娘ならかれの村にもいる。わざわざ八王子くんだりまで来ることはなかったのである。この男は、その夕、八王子を発《た》ったきりその後ついにこの専修坊に立ち寄らなかった。
すこし異常だが、この挿話は、それほどかれが分際の貴《たか》い女へのあこがれがつよいことを証拠だてている。
分際が貴い、といっても、武州三多摩の地は、幕府領、寺社領ばかりの地で、武家がいなかった。村には馬糞くさい百姓娘ばかりいる。やむなく、歳三は、数年前に府中の六社明神の鈴振り巫女《みこ》の小桜《こざくら》を手なずけて、ときどき彼女の住む社家《しやけ》のお長屋へ忍んでいた。
今夜の祭礼には小桜も巫女舞《みこまい》に出るためにおそらく会えまいとおもったが、神事の果《は》てる払暁には、お長屋に忍んでみるつもりでいた。
そのあいだに、女を物色する。目ぼしい女がおれば、この祭礼の俗風として灯の明るいうちに当りをつけておき、闇になるとともに寝るのである。
が、おもわしい女はいなかった。
(江戸からきた武家娘がいい)
と、歳三は軒《のき》行燈《あんどん》の下を歩き、境内の林のなかを歩きまわった。
(居ねえか)
もう一刻《にじかん》も、物色している。が、さすがにこんな猥雑《わいざつ》な祭礼に江戸の旗本の子女が来るはずがなかった。
もっとも参詣人こそ猥雑だが、当の六社明神(大国魂《おおくにたま》神社)は古来武州の総社で、祭礼の格式もきわだって高く、江戸の諸社の神職などは、この祭礼の下役人になって働かされる。それほど社格が高い。
(仕様がねえな)
歳三は、帰ろうかと思った。もっとも物色するうちに何度か、小百姓の女房風の女から囁かれたが、見むきもしない。
そのうち、社殿の森のあたりで祭礼役人の矢声《やごえ》がきこえ、神輿《みこし》の渡御《とぎよ》をつげる子ノ刻の太鼓がひびきわたったかとおもうと、万燈が一せいに消え、あたりは闇になった。
浄闇である。
ただ星だけが見え、数万の群衆は息をつめて、男神《おがみ》の神輿が女神のもとに通うのを待つ。男女の媾合《こうごう》はこのあいだに行なわれるのである。そのことも、六社の神を賑《にぎ》わす神事であると参詣人たちは信じていた。
だから、男女は影だけをかさね、声ひとつ立てない。神威をけがすことをおそれた。立ったまま犯される生娘もいたし、群衆の足もとに押し倒される人妻もいた。しかしどの女も歯をくいしばっても声を洩らさない。
歳三のこの夜の幸運は、万燈が消えたと同時に、かれのそばに女がいた。
なぜその女が、歳三のそばまで寄っていたかわからない。
場所は、群衆のひしめいている参道ではなく、境内の森のなかであった。もともと暗かったから灯のあるときにも女の影に気づかなかったし、女のほうもそうだったろう。抱きよせてみてから、女が、ひどく手ざわりのやわらかな絹を着ていることを知って歳三はおどろいた。
(何者だろう)
手さぐりで衣裳《いしよう》を探ると、四枚の比翼《ひよく》がさねに替裾《かわりずそ》といったもので、この近郷では名主の子女でも用いない。それに匂《にお》い袋を懐中に秘めているらしく、歳三などがかつて嗅いだことのない芳香であった。
「そなた、何者だ」
ついに禁を破って、囁いた。
が、女は、これが神事であると信じているのか、だまってかぶりを振った。
「いってくれ」
「申せませぬ」
明るい声であった。それに、つよい武州の田舎ことばでなく、語尾がやわらかであった。
「そなた、かまわぬか」
「かまいませぬ」
歳三は、草の上に女を押し倒し、はじめて女を知ったときの眩惑《めくる》むような思いで、女を抱いた。この女を抱いたことがやがて歳三にとって自分の新しい運命まで抱いてしまったことになろうとは、むろんこのとき気づかなかった。
(わからぬ)
女の体は、すでに男を知っていた。そのくせ、衣裳のぐあいは、娘なのである。
歳三は、抱きしめながら女の帯の間から錦《にしき》の袋に入った懐剣をすばやくぬきとった。これさえあれば、あとで身分が知れようと思ったのだ。
女はそれと気づかずに、やがて草の上で着くずれをなおし、闇のなかに消えた。
神事がおわり、夜が明けはじめたころ歳三は、巫女屋敷のなかの小桜の長屋に忍んでいた。
「これだ」
と、例の懐剣を見せた。
刀身は海藻《ひじき》肌《はだ》の地肌《じはだ》の立ったみごとなもので、銘は則重《のりしげ》とある。越中《えつちゆう》則重であるとすれば、世にいくつとないものだ。
しかし小桜は、刀身などに見むきもせず、錦の袋をとりあげて行燈にすかしてから、
「あんた、このひとと?」
とおどろいてみせた。
「たしかに、|まぐ《ヽヽ》あ《ヽ》ったの」
「そうだ。まだおれのからだに、あの匂い袋の移り香《が》が残っている」
「この紋をご存じ?」
と、小桜は、赤地の錦に金糸で縫いとられた五葉菊《ごようぎく》の紋をつまんでみせた。
「知らねえ」
「この府中の宮司|猿渡家《さわたりけ》の裏紋よ。あんた、とんでもないことをした。この懐剣の袋には、あたしは見覚えがある。当代|従四位下《じゆしいのげ》猿渡佐渡守さまの御妹君で、お佐絵《さえ》さまのものよ」
「そうか」
歳三は、袋をとりあげ、食い入るようにその五葉菊の紋を見た。
[#改ページ]
六 車 斬 り
なるほど、この男の恋は猫に似ている。
その後、歳三は、人知れず、府中の六社明神の神官猿渡佐渡守屋敷にしのびこんでは、蚊帳《かや》のなかでひとり臥《ね》ている佐絵と狎《な》れた。
たれも知らない。
知られることを極度に怖れた。その点、歳三は猫に似ている。
が、さらに風変りなのは、佐絵に対しても、何村のたれ、とも明かさない。猫以上の秘密主義であった。
ただ、はじめて忍んできた夜、佐絵をぞんぶんに抱いたあと、
「これから、歳《とし》、とよんでくれ」
とだけ云い残して帰った。それがひどく羞《はず》かしそうで、女の寝間《ねま》をもとめて猿渡屋敷に夜陰忍びこんでくるほどの豪胆さとは、およそ別人のような感じを佐絵はうけた。
(妙な男だ)
かと思うと、ひどくものやさしいのである。
最初この男が蚊帳のなかに忍びこんできたときなど、起きあがろうとした佐絵の口をいきなり掌でふさぎ、
「先夜、祭礼のときの男だ。あの夜は、ありがとう。あなたの忘れものをかえしにきた」
と耳もとでゆっくりささやき、例の赤地錦《あかじにしき》に入った懐剣をわざわざ鞘《さや》から抜きはなって佐絵の手ににぎらせ、
「いやなら、この短刀《さすが》で刺していただく」
といった。
手馴れている。
佐絵に恐怖をあたえる|ま《ヽ》をあたえない。
「あなたはどこのお人ですか」
佐絵は、何度もきいた。
「もし嬰児《やや》ができれば、父親の名も知れぬことになるではありませぬか」
しかし歳三は、いつもだまったきりであった。
そのくせ、この男のほうは、佐絵についての知識は十分にもっている様子だった。
つぎに忍んできた夜、
「ちかく、京にのぼって堂上家《どうじようけ》に仕えられるそうですな」
ときいた。
「まあ、どこから!」
そういう消息は、猿渡家の身内しか知らないことだからである。
「たれからききましたか」
「………」
この男のいうとおり、秋になれば、さる事情があって、京の九条家に仕えることになっている。
京へのぼることは佐絵自身は心がすすまなかったが、幕閣のある要人が、ぜひたのむ、と佐絵の前で手をついたために、ついその気になった。朝廷の動きを探索するためである。
むろん歳三はそこまでは知らなかった。
「お気の毒ですな。御亭主どのさえ生きておれば、三河以来の旗本松平|伊織《いおり》どのの御簾中《ごれんちゆう》であられるお前様だ。京などへのぼることはない」
「わたしくのこと、よくご存じですね」
「そんなことは、このあたりの百姓の作男《あらしこ》でも知っている」
佐絵は、十七のとき、本所《ほんじよ》に屋敷をもつ小普請組《こぶしんぐみ》八百石松平伊織のもとに嫁《とつ》いだが、ほどなく夫に死にわかれ、実家に帰った。
実家の猿渡家は、鎌倉幕府よりも古い昔に京からきて関東に土着したという国中きっての名族で、それに武家ではなく神職だから、江戸の旗本と婚姻縁組するかと思えば、京の諸大夫家《しよだいぶけ》とも嫁や婿のやりとりをする。
こんどの九条家|勤仕《ごんし》のはなしも、京のそういう血縁筋から出たものである。
三度目に歳三が忍んできたとき、
「佐絵は、秋になれば当家を出て京にのぼります」
と教えてやった。
「秋のいつです」
「九月」
「もう、いくばくもないな」
「歳どのも、京へおのぼりになれば?」
「京にか」
「ええ」
歳三は少年のように遠い眼をして、
「わしの一生で、京に用のあるようなことがあるだろうか」
「男ですもの」
「とは?」
「男の将来《さき》はわからぬものでございます」
と、佐絵はなにげなくいった。べつに数年後、新選組副長になるこの男の運命を読んだわけではない。
ところが、歳三の運命は、この佐絵との縁がもとでひどく変転することになった。
人を殺したのである。
そのころ、六社明神社の社家の一軒である瀬木|掃部《かもん》の屋敷に、甲源一刀流の剣客で、六車宗伯《ろくしやそうはく》という三十がらみの男が食客として住みついていた。
歳三も、この男は見知っている。
ずんぐりとした猪首《いくび》で、まげは総髪にむすび、腕は、江戸府内をのぞけば、武州随一という評判があった。
六車宗伯は、社家屋敷の道場を借りて、武州一円の百姓門人をとりたてている。
他国では考えられないことだが、この武州では、百姓町人までが、あらそって武芸をまなぶ。
いったいに武侠の風土といっていいが、いま一つには武州は天領《てんりよう》(幕府領)の地で、大名の領国とはちがい、農民に対する統制がゆるやかだった。
自然、百姓のくせに武士をまねる者が多く、どの村にも武芸自慢の若者がおり、隣村との水争いなどにはそれらの者が大いに駈けまわって働いた。その勇猛果敢ぶりは、三百年の泰平に馴れた江戸の武士のおよぶところではない。
武州一円には、そういう連中に教える田舎剣法の流儀が、三つあった。
一つは、武州|蕨《わらび》を本拠とする柳剛流《りゆうごうりゆう》で、これは相手の|すね《ヽヽ》ばかりをねらって撃ちこむ喧嘩《けんか》剣法である。江戸の剣客は、柳剛流ときけば|すね《ヽヽ》ばらいを嫌って試合をしない。
いま一つは、遠州浪人近藤|内蔵《くらの》助《すけ》を流祖とする天然理心流で、気をもって相手の気をうばい、すかさず技《わざ》をほどこすのが特徴で、江戸の巧緻《こうち》な剣法からみれば野暮ったいものだが、いざ実戦になると、ひどく強かった。宗家の近藤家は内蔵助の没後すでに三代をかさね、いずれも百姓あがりの剣客があとをついでいる。三代目が近藤周助(周斎)、すでに七十の老人で、跡目には、武州|上石原《かみいしわら》(現・調布市)の農家の三男|勝太《かつた》という者を改名させて養子にもらい、三多摩一帯の出稽古をさせている。これが、歳三より一つ年長の近藤勇である。
最後に、甲源一刀流がある。
武州|秩父《ちちぶ》地方に古くからあった流派だが、近年、高麗《こまの》郡《こおり》梅原村から比留間《ひるま》与八(天保十一年没)という達人が出るにおよんで、にわかに隆盛となった。
比留間の死後、その子の半造が武州八王子に本道場をおき、師範代の六車宗伯を府中に常駐させ、おもに甲州街道ぞいの農村に入りこんで、近藤の天然理心流と門人の数をあらそっている。
ある夜、歳三が、暁方ちかくまで佐絵の寝所にいて、さて引きあげるべく猿渡屋敷の土塀を乗りこえたとき、
「賊」
という声が、足もとの草むらでおこった。
「―――」
身をかがめると、眼の前に黒い人影が立っている。
(見られたな――)
とおもったとき、全身に冷汗が流れた。
相手はゆっくり近づいてきて、刀のツカに手をかけた。
「逃げると、斬る」
「………」
「名をいえ」
歳三は無言である。
「ちかごろ、この猿渡佐渡守様お屋敷に夜陰忍び入る者があるときいて、それとなく境内の見廻りをしていたが、果して風説のとおりであった。神妙にせよ」
(なにを云やがる)
歳三は、ツツと後じさりしながら、すばやく手を背にまわし、肩にかついだ菰包《こもづつ》みを解き、中身の太刀をとりだした。
夜道を歩くときには、かならずこれを肩からかついでいる。
拵《こしら》えこそ粗末だが、中身は、家に伝わる武州鍛冶無銘の業物《わざもの》で、姉婿の日野宿《ひのじゆく》名主佐藤彦五郎の鑑定《めきき》では、康重《やすしげ》ではないか、ということだった。
ぎらり、と引き抜くと、刀身二尺四寸、身のうちの凍るような匂いが立つ。
「ほう」
相手は、間合《まあい》を詰めながら、
「まさか、そのほう本気ではあるまいな。念のために申しておくが、わしは当神域に厄介になっている六車宗伯である」
六車宗伯といえば、聞いただけで武州一円ではふるえあがるような名である。
「刃物をすてよ」
と六車がいったとき、歳三には折りあしく雲間から十六日の月が出た。
月が、歳三の半顔を照らした。
「見た顔だな」
六車宗伯は、前進しながら、
「日野宿の佐藤彦五郎屋敷には、天然理心流の道場があろう」
「………」
「過日、わしは近藤に試合を申し入れて、ことわられた。そのとき、近藤のそばにいたのは、そのほうだったな」
(さとられたか)
歳三の決心がついた。
六車が、この男逃げる、とみていた歳三の足が、意外にもピタリととまった。
「六車さん、その歳三さ」
はっ、と六車も、前進をとめた。
歳三がいった。
「隠し姓は土方という。覚えておいてもらおう。天然理心流の目録で、師匠筋の近藤とは義兄弟の仲だ。だから近藤になりかわって他流試合の申し入れを、いま受けてやる」
「若僧、よせ」
六車は、落ちついている。
「たかが夜這《よば》いだ。逃がしてやるから、二度と猿渡屋敷に近寄るな。佐渡守さまがうすうすお佐絵御料人のご様子に気づかれ、かねてわしに探索をたのまれていた。捕えて入牢《じゆろう》させる、ということであったが、今夜はとくに免じてやる」
「抜け」
といっても歳三自身、まだ構えもせず、刀を右手にだらりと垂れさげている。肉厚《にくあつ》な、特徴のある大きなまぶたの下に、冷たい眼がひかっていた。情事を知った以上、この男は生かしておけない。
「歳三、念のため訊こう」
六車宗伯は、微笑してみせた。
「まさか、わしを武州随一の名人と知らずに喚《わめ》いているのではあるまいな」
「知っている」
「そうか」
六車は腰を沈め、草を薙《な》ぐようにして長剣をゆっくりと抜いた。おどすつもりである。そのまま剣尖《けんさき》を中段にとめ、一歩、踏みだした。
それにつれて歳三は、右足をひき、放胆に胴をあけっぴろげたままの左諸手《ひだりもろて》上段に剣尖を舞いあげた。
一瞬、刃《やいば》が鳴った。
無謀にも、歳三が撃ちこんだのだ。六車はからくも頭上で受けたが、
(こいつ、馬鹿か)
と思った。呼吸もはからないし、はからせようともしない。
びゅっ
と、つぎは右横面にきた。六車はつばもとで受けたが、手首がしびれた。
さらに左横面。
やっと防いだ。
いつのまにか斬りたてられて、どんどん退《さが》っている。
(こんなはずはない)
立ちなおろうにも、歳三の撃ちこみがはげしくて余裕をあたえないのだ。
技《わざ》の差ではない。
度胸の差であった。
歳三は、薬の行商をしながらよほど雑多な流儀を学んだらしく、面を撃つとみせて太刀をそのまま地へ吸いこませ六車の|すね《ヽヽ》をはらった。柳剛流だけにある手で、薙刀《なぎなた》を加味したものだ。
「あっ」
とびあがって避けた。
かわすと、待っていたようにその剣が腹を突いてくる。
「待て」
六車は斬りたてられながら、
「ここは神域だ」
「………」
「あらためて他日」
あらためて他日、と半ばまでいったとき、歳三が片手なぐりに撃ちこんだ剣が、六車宗伯の右|こめ《ヽヽ》かみ《ヽヽ》の骨を割った。
血が、六車の眼をつぶした。
「あらためて他日」
六車は背を見せた。
逃げようともがいた。が、歳三の剣が後頭部に、ぐわっと斬りこんだ。
浅い。
六車の眼はつぶれている。意識もくるってしまったのだろう。どういうつもりか、ふたたび歳三のほうにむきあった。刀を垂れ、立っているだけがやっと、という姿であった。
(これが、武州一円の達人とおそれられている六車宗伯か)
歳三は、ゆっくり剣をあげた。
(うむっ)
腰を沈めた。
歳三の剣がななめに流れ、宗伯の首は虚空にはねあがり、胴が草の中にうずくまった。殺人とは、こんなに容易なものかと思った。
その後、下手人は知れない。
歳三は、その夜、すぐ府中を発って自分の村には帰らず、江戸小石川|小日向《こびなた》|柳町《やなぎちよう》の坂の上にある近藤の江戸道場にころがりこんだ。
「どうした」
とも、近藤はいわない。
歳三も、だまっている。
近藤にとっては、歳三は、武州における天然理心流の保護者である佐藤彦五郎の義弟だから、門下とはいえ、義父の代から特別のあつかいをしていた。性格はちがうが、ふしぎにうまが合ったから、数年前に義兄弟の縁をむすんだ。
数日して、江戸の近藤道場にも、甲源一刀流の六車宗伯が何者かに斬られた、といううわさが流れてきた。
「知っているかね」
と近藤が、道場の奥で寝ころんでいる歳三のもとにやってきて、いった。
「信じられんことだが、宗伯ほどの者が、やられた。斬《や》ったのは、最近、蕨から入りこんでいる柳剛流の連中らしい。その証拠に|すね《ヽヽ》にさんざん傷を負っている。八州役人は蕨のほうをつついているという」
「斬り口は――」
「大小十二、三カ所。どうも多すぎる。おそらく一人ではあるまい。よほど多勢で斬りたてたのだろうというのが、府中へ調べにやった井上源三郎の報告だ」
「いや」
と、歳三は、起きあがって、
「一人だ」
「なぜわかる」
「斬り口の多いのは、仕手《して》が下手だけのことだ。それに柳剛流ではない」
「………」
近藤は歳三の顔色をじっと読みとりながら、
「では、何流のたれだ」
「おれさ」
とは歳三はいわず、にがい顔をいよいよにがくして、そっぽをむいた。何か考えている。
そのまま何を思ったのか歳三は江戸道場に住みつき、姿も武士にあらためた。
六車宗伯を斬ってから、歳三の道場での太刀筋はまるでちがってきた。
自信ができた、というのだろう。それとも、なにか悟るところがあったにちがいない。
それまでは、近藤は、周斎老人から養子に見込まれるだけあって、腕は一枚も二枚も上だったが、それがちがってきた。
道場での稽古でも、近藤は十本のうち八本まで撃ち込まれ、ついに、
「歳の太刀は不快だ」
と、立ち合わなくなった。
近藤の柳町の道場には、神道無念流皆伝の松前浪人永倉新八、北辰一刀流目録の御府内浪人藤堂平助など、近藤と互角に使える食客がごろごろしていたが、これらも歳三に歯が立たず、
「土方さん、何か憑《つ》いたか」
と、笑った。
秋になった。
歳三はあの一件後、はじめて甲州街道を西へのぼって、府中に入った。
この年は雨がすくなく、武州の空はかぎりなく青い。
歳三は、明神の境内を横切って、猿渡佐渡守屋敷の裏塀へ出た。
(ここだな)
編笠をとって、秋草の上に捨てた。
右手に溝川が流れ、漆《うるし》の若木が一本、紅葉しかけている。
この場所で、あの月明の夜、六車宗伯を斬った。たしかに斬ったが、ほとんど夢中で、なんの覚えもない。
あのときと同じように、歳三はスラリと刀をぬき、左上段にかまえた。
眼をつぶった。記憶を再現するためであった。やがて眼をひらき、眼をこらしてそこに太刀を構えている宗伯のすがたをありありと再現しようとした。
(なぜ、一太刀で斬れなかったか)
ここ数カ月、そればかりを工夫した。道場では、近藤と立ちあうときも、永倉、藤堂などと立ちあうときも、相手が、あのときの六車宗伯であるとして、撃ち込んだ。
(わからぬ)
いま、そこに六車宗伯がいる。
歳三は、踏みこんだ。
六車がかわす。
(浅い)
何度やっても、不満であった。小技《こわざ》すぎた。ついに歳三は上段のまま動かなくなり、気合を充実し、小半刻《こはんとき》も草の上に立ちつくした。風が歳三をなぶっては吹きすぎてゆく。
ついに、見た。
六車宗伯が気倒《けお》され、重大な|すき《ヽヽ》ができた瞬間を思い出した。
歳三は、どっと踏みこみ、振りかぶって右袈裟《みぎげさ》に大きく撃ちおろした。
戞《かつ》
と漆の幹が鳴って、空を掃きながらたおれた。歳三の映像のなかの六車宗伯も、たしかに真二つになったとみたとき、背後で、声がした。
「なにをなさっています」
ふりむくと、佐絵である。それだけ云うのがやっと、というほど真黒い眼がおびえていた。
「いや、いたずらだ」
刀を鞘におさめ、こそこそと立ち去ろうとした。そのにわかに萎《しお》れた姿が最初の夜、
――歳、とよんでくれ。
といって立ち去った、あのひどく気恥ずかしげな歳三の印象を佐絵におもいださせた。佐絵はほっとして、
「歳どの」
と、微笑《わら》ってみせた。
「あす、京へ発ちます」
[#改ページ]
七里研之助
江戸内藤新宿から六里。
いまの甲州街道ぞいの調布《ちようふ》市は、当時は中心地を布田《ふだ》といい、近在の国領《こくりよう》、小島、下石原、上石原をあわせて、
布田|五《ご》ケ宿《じゆく》
といった。
いまもさして様子はかわらないが、年中、|まぐ《ヽヽ》さ《ヽ》くさい街道風が舞いたっている宿場町である。
当時、街道に板ぶき屋根をならべる旅籠《はたご》には、一軒に二、三人は、|おじ《ヽヽ》ゃれ《ヽヽ》とよぶ遊女を置いていた。飯盛女《めしもりおんな》である。ところがこの宿《しゆく》ではふしぎと色黒女ばかりが集まったから、
「布田の黒よし」
とよばれ、甲州街道を上下する旅の小商人《こあきんど》などが、この宿でとまるのを楽しみにしていた。
その日の午後。
といえば、歳三が猿渡家の息女佐絵の京へのぼるのを見送ってからすでに半年にはなる。――まだ日も高いというのに旅籠上州屋理兵衛方にずいっと入ってきたのは、この男であった。
「おれだ」
と、刀を鞘ぐるみ抜いた。江戸の道場から来た。
「あっ、先生」
亭主の理兵衛自身がとびだしてきて、二階の部屋に案内した。
その日の土方歳三は、左三巴《ひだりみつどもえ》の家紋を染めぬいた黒のぶっさき羽織に、羅紗地《ラシヤじ》のはかまのすそを染め革でふちどりしたぜいたくなこしらえで、大小はすこし粗末で樫地《かしじ》塗り。まげは総髪にして、あのころからみれば見ちがえるような立派な武士の風である。
歳三は、月に一度は、甲州街道をこのあたりまでやってくる。つまり、地方《じかた》への出教授《できようじゆ》で道場を維持しているのが、近藤の天然理心流のほそぼそとした経営法だった。
近藤道場のある江戸の小日向柳町の坂のあたりは、わりあい小旗本の屋敷が多いが、かといって歴々の子弟は、こんな無名の小流儀を習わない。やってくる門人といえば物好きな町人、中間《ちゆうげん》か、伝通院《でんづういん》の寺小姓ぐらいのものだった。やはり道場の稼ぎは、多摩地方への出稽古なのである。
むろん、近藤もゆく。そのほか、土方歳三、沖田総司《おきたそうじ》、井上源三郎など目録以上の者が、月のうち何日かは交代で、甲州街道をてくてく歩いて、多摩方面へ出張をするのだ。
布田では、この上州屋がかれらの定宿になっていた。一泊して女とあそぶのが楽しみだが、もっとも歳三だけは、
黒よし
などに興味はなかった。ただ、酒をつがせるだけで、手もにぎらない。
「めしはあとだ」
といった。
「酒を一本」
ただし酒好きではないから、杯をなめるだけで、飲むというほどにはいたらない。
「それに、妓《おんな》」
とつけ加えた。亭主の理兵衛が驚き、
「どういう風の吹きまわしでございます」
といったが、歳三は取りあわず、
「お咲という飯盛女《おじやれ》がいたな」
「へい」
「呼んでもらおう」
亭主は駈けおりて、そのまま裏木戸へ走り出た。すぐ田圃《たんぼ》になっている。
草むらに女が二、三人、尻をもたげて騒いでいた。夜になるとこういう女でも垢《あか》じみた絹の小袖はきるが、真昼間は寝ているか、それとも紺々《こんこん》した野良着にきかえて、田のふちの水溜りを掻《か》きさがして|どじ《ヽヽ》ょう《ヽヽ》を獲《と》るのである。
むろん、女たちは鍋にして食うのだ。これさえ食っていれば、夜勤めにも体が堪えるし、無病で年季の明けるまで勤まるという。そのせいで、この甲州街道の宿場々々の女郎はどの女も|どじ《ヽヽ》ょう《ヽヽ》臭かった。
「お咲、手を洗え」
亭主は、牛を叱るような声でいった。女は、尻のむこうで顔をこちらにむけ、
「おきゃく?」
と、眉をひそめた。昼っぱらの客など、よほどの好色にきまっている。
すぐ衣裳を着更え、申しわけに首すじだけ白粉《おしろい》を塗りつけて歳三の前に出たときは、それから四半刻《しはんとき》は経っていた。お咲は十八、九の唇の薄い女で、上州なまりがぬけない。
歳三は南の空のみえる部屋で独り酒をのんでいたが、入ってきたお咲をみるなり、
「お前だな」
とぎょろりと眼をむけた。
「なんです」
「一昨夜、井上源三郎さんの敵娼《あいかた》だったてのは」
「ええ」
井上は、近藤道場では一番の年がしらで、剣は器用ではないが、その人柄らしく着実な撃ちこみで一種の風格があった。近藤道場では先代からの内弟子で、もとはやはり南多摩の百姓の子である。
土方がお咲をよんだのは、一昨夜、この妓が井上と寝たとき、寝物語で容易ならぬことをいったというのである。
「そいつを、ここで詳しく話してみろ」
「厭《いや》だ」
お咲は、眼を据えた。
「悪かった。おれァ、口のきき方がよくねえそうだ。云い改めよう。話して貰う」
話、というのは、数日前に、三人で繰りこんできた浪人剣客のひとりが、お咲を買い、寝床のなかで、上《こ》州屋《こ》にとまる近藤道場の連中のことをしつこく訊いた、ということを、一昨夜、お咲が井上源三郎に寝物語で話したのである。
井上が江戸道場にもどってから、そのことを歳三に報告し、
――何だかよくわからないが、こんどあんたが行くと妙なやつが悪戯《いたずら》をするかもしれない。多摩ではあまり夜道は歩かないほうがいい。
と、注意した。
(六車宗伯に縁のあるやつだな)
と歳三は、直感した。もっとも、六車を斬った一件は、道場のたれにも云っていない。他人の口のこわさを歳三は知っている。いえばかならず洩れるものだ。
――とにかく。
と井上源三郎はいった。
――上州屋のお咲にきいてみろ。
「どんなことを訊いた」
と歳三はお咲にいった。
「顔だよ」
お咲は酌をしながら、
「顔さ。先生たちご一統さまのご人相。なんだか、去年の秋、府中の六社明神の境内裏で、漆の木を切ったひとをさがしてるんだ、てことだったけど、その漆、ご神木だったのかしら」
「漆に神木はなかろう」
六車の一件だ、とおもった。歳三が、あの事件後、現場でもう一度、記憶をたどって太刀筋を検討していたとき、土地の百姓かたれかに目撃されたにちがいない。
そのうわさが、甲州街道ぞいの田圃をまわって、いまごろ六車宗伯の同門の者の耳に入ったものとみていい。
「その男、どういう人相だった。鬢《びん》のあたりが、ちぢれあがってはいなかったか」
「いた」
と、お咲はうなずいた。
面《めん》ずれのあととみていい。とすれば相当な使い手に相違なかった。
「ちょっといい男だった。月代《さかやき》がのびていて、右眼の下に|あざ《ヽヽ》がある。背丈は、五尺七、八寸」
「なまりは?」
「さあ、江戸にもいた様子だよ。しかし口の重そうな所をみると、上州うまれかもしれない」
歳三は、翌日、布田宿を出た。
上石原の近藤の実家で近在の若者を教えたあと、翌日は連雀《れんじやく》村に移った。
この村には、道場はない。
名主屋敷の味噌蔵を片づけて稽古をするのだが、歳三が到着すると、すでに五、六人の若者が待っていて、
「きのう、村に妙な浪人がきました。先生はいつお稽古にお見えになる、というのです」
といった。歳三は、ツト表情を消して、
「おれに、名ざしでか」
「そうです」
すでに相手は、名までつきとめている。
「用むきは?」
「一手、お教えねがいたい、ということでした。右眼の下に|あざ《ヽヽ》のある……」
「知らんな」
歳三は、興味なげに着物をぬぎ、総革の胴の紐をむすびながら、ふと思いだしたように、
「どこの男だ」
といった。
「八王子です」
と断言したのは、この村で作る馬の|わら《ヽヽ》じ《ヽ》を荷にして、月に十日は八王子の宿場へ売りにゆく辰吉という若者だった。八王子では、二、三度往来で見た顔だという。
歳三は、翌朝、連雀村を出ると、その足で八王子へ行った。
連雀から五里。
武州八王子は甲州に近い宿場で、街道はこれより西は山中に入り、小仏峠《こぼとけとうげ》を越えて甲州に入る。
戦国のむかしから家康の江戸|入府《にゆうふ》のころにかけて、関東、甲州で主家をうしなった落武者が、多くこの地に集まった。
徳川家ではこれらを「八王子千人同心」という名で一括して召しかかえ、小仏峠から侵入してくる仮想敵に対し、甲州口の要塞部隊として屋敷地をあたえ、四方四里にわたって居住させている。
自然、かれらを顧客とする剣術道場ができ、なかでも比留間半造の甲源一刀流の道場がもっとも栄えた。歳三が斬った六車宗伯も、この道場の師範代である。
(思ったとおりだ)
と歳三はみた。
例の|あざ《ヽヽ》は、六車宗伯の徒類で、八王子を根拠とする甲源一刀流の剣客に相違ない。かれらは、根気よく六車斬りの下手人をさがしていたのだろう。
歳三は、八王子の専修坊に入った。
かつて薬売りをしていたころ、八王子に来ればかならず泊まった真宗寺院で、この寺の娘の部屋に忍んだこともある。
院主の善海は、歳三の身なりの変りようにおどろき、江戸で渡り用人にでもなっているのかと訊いたが、
「なに、道中の賊除けにこんなかっこうをしています」
と自分に関する話題を避け、
「娘御は?」
ときいた。べつに訊きたいわけでもなく、差しあたっての話題がなかったからである。
「去年の秋、嫁にいった」
までは、おどろかなかった。院主は、
「|せん《ヽヽ》は」
と娘の名をいい、
「このさきの千人町《せんにんまち》の比留間道場の当主、半造の内儀になっている」
(ほう。……)
さりげなく、
「あの道場には、六車宗伯という仁《じん》がおりましたな」
「いた。が、去年、六社明神の猿渡屋敷の裏で、何者とも知れぬ者に撃ち殺された。当初は、臑《すね》を斬られているところから、蕨の柳剛流の連中に押し包んで殺された、といううわさがあったが、いまは別のうわさがある」
「どんな?」
「天然理心流だという。確証があるらしく、道場の者が躍起にさがしている」
「あの道場には」
歳三は、ちょっと言葉を切って、
「色白で右眼の下に|あざ《ヽヽ》のあるおひとが、たしかいると伺いましたが」
「師範代の七里研之助《しちりけんのすけ》のことではないか」
「七里?」
歳三は、とぼけている。
「どういう仁です」
「出来るらしい。もともとは甲源一刀流ではなく上州|馬庭《まにわ》で念流を修めたらしいが、武州へ流れてきて、道場の食客になっている。居合の名人で、あれほどの者は江戸にもざらにいないという」
歳三は、数日とまった。寺からは一歩も出ず、顔見知りの寺男などから、七里研之助のうわさを聞きあつめた。
年のころは、三十前後で、ときどき道場で酔うと門弟たちに両手を後ろにまわして縛《しば》らせ、腰をひねって白刃を高く宙《ちゆう》に飛ばし、さらにツツと駈け寄って落ちてくる刀を鞘におさめた。
居合は、上州の荒木流だという。この荒木流では、上州|厩橋《うまやばし》江木町に住んでいた郷士大島新五右衛門(安永八年四月十四日没)が、弟子に抜き身を屋根ごしに投げさせ、軒さきで待って、それを腰の鞘におさめるという曲芸のようなことをした。上州荒木流にはそういう伝統があって、七里研之助もそんな曲抜きのような技術を学んだのだろう。
(なに、どれほどのことがあるか)
歳三は、臆する心のうまれつき薄い男で、七里研之助に探索されたあげくに殺されるよりも、むしろ先制して撃ち殺そうとした。
いったん江戸の道場に帰り、すでに隠居をしている先代周斎老人に、
「もし居合を仕掛けられた場合、どう防げばよろしゅうございましょう」
とたずねた。
「一にも二にも退《ひ》く」
退いて、初太刀をはずすのである。相手の刀がまだ中空にあるとき、すかさず踏みこんで撃ちおろせば必ず勝てる、といった。
「もし」
と歳三はいった。
「背後に巨樹、土塀などがあって、思うさまに足を退けぬ場合、どうします」
「気をもって、相手のつばを圧するしか防ぐ道がない」
「ところが、それらがいずれもできなければ?」
「斬られるまでさ」
周斎は居合のこわさを知っている。
数日して、歳三は若師匠の近藤に、
「しばらく、もとの薬屋にもどりたい」
と頼み、髪形から服装まで変えて、もう一度八王子に出かけた。
こんどは専修坊には立ち寄らず、いきなり千人町の甲源一刀流比留間道場を訪ね、放胆にも道場内の庭にまわって、
「御師範代七里研之助様までお取りつぎねがわしゅうございます」
と頼んだ。
七里が出てきた。
「なんだ、薬屋か」
と、じっと見おろした。
「へい、石田散薬と申し、打身の……」
と薬の効能の説明をしながら、七里研之助の様子をうかがった。
なるほど右眼の下に|あざ《ヽヽ》がある。背が高く、右手が心持ち左よりも長く思えるのはいかにも居合師らしいが、あごから頸《くび》すじにかけて贅肉《ぜいにく》がくびれるほどに溜まっているのは、武芸者らしくない。三十とすれば、年より老けてみえた。
「当家には、はじめてか」
「いえ、御当家さまの御新造さまのお実家《さと》には、年来、ごひいきにあずかっていただいております」
「在所はどこだ」
と、研之助はいった。歳三は、聞きとれぬほどの早口で村の名をいってから、
「御新造さまが、よく御存じで」
「そうか」
研之助は、門弟に目くばせして奥へ報らせにやり、ひょいとのぞきこんで、
「薬屋、手に竹刀《しない》|だこ《ヽヽ》があるな」
といった。
薄っすらと笑っている。
歳三は、驚かない。
「少々、いたずらをいたします」
「何流で、どこまで行った」
「お買いかぶりなすってはこまります。いたずら半分でございますから、きまった師匠などはございません」
そこへ門弟がもどってきて、内儀は他行《たぎよう》しているといった。
「薬屋。――」
研之助は、何か思いあたるところがあったらしい。
「ちょうど退屈している。付きあってやるから、すこし汗をかいて行ったらどうだ」
「それは」
むろん、望むところだった。研之助の手すじを見るために、わざわざここまでやってきたのである。
歳三は、道場のすみで両膝をそろえ、研之助の投げ与えた防具をつけた。
[#改ページ]
わいわい天王
土方歳三が防具をつけて道場の真中へ出ると、七里研之助はまだ支度《したく》をしない。
ばかりか、道場の正面で稽古着のままあぐらを掻き、あごをなでている。
「薬屋、支度ができたらしいな」
と七里は大声でいった。
「へい」
歳三は、聞きとれぬほどの低声《こごえ》で、
「御用意ねがいます」
「できている」
七里は、道場のすみで面、籠手《こて》をつけている五、六人の門人のほうを|あご《ヽヽ》でしゃくってみせた。
「まず、この連中とやってみな。遠慮はいらねえ、みな、当道場では、目録、取立免状《とりたてめんじよう》といった剣位だ」
七里は、すでにこの薬屋がただ者でないことを見ぬいているらしい。
「ご審判は?」
と歳三が問うと、
「審判か」
薄く笑って、
「当道場の他流試合に審判はない。申し入れた者が、|立ち《ヽヽ》切り《ヽヽ》でやる。ね《ヽ》をあげたほうが負け、というのが、わが八王子の甲源一刀流の定法《じようほう》だ」
だっ、と一人が飛びかかった。
歳三はとびさがって胴を撃った。が、勝負《かちまけ》をとってくれる審判がいないから、男は、胴を撃たれたまま、面へ面へと来る。
(これァ、乱暴だ)
はずしては胴を撃ち、飛びこんでは起籠手《おこりごて》を撃ち、摺《す》りあげては面を撃つなど、歳三の竹刀さばきは自分でもおどろくほど巧緻《こうち》をきわめたが、相手は歳三を疲れさせるだけが目的だから、撃たれても撃たれてもとびこんでくる。
やがて、さっと退く。
すかさず、新手《あらて》が入れかわって撃ちこんでくる、という寸法だった。
きりがない。
(野郎、たたっ殺す気だな)
歳三はそう思ったとたん、三人目で竹刀をとりなおした。これには仕様《しざま》がある。
三人目が面へ撃ちこんできたとき、歳三は相手の切尖《きつさき》を裏から払った。瞬間、くるりと体をかわして左半身から力まかせに相手の右胴のすきまをぶったたいた。
腋下《わきした》だから、革胴の防ぎがない。
相手はなま|あば《ヽヽ》ら《ヽ》をへしまがるほどにたたかれ、ぐわっと跳ねあがると、そのまま板敷の上に体をたたきつけて気絶した。
(来やがれ)
こうなると、度胸のすわる男だった。
つぎの男には、出籠手《でごて》をたんと撃って竹刀を落し、突いて突いてつきまくってやると、
「参った」
と、道場のすみにすわりこみ、自分で面をぬいだ。刺子《さしこ》のえりにまで血がにじんでいる。
が、歳三も疲れた。
五人目の男には、手足の関節がねばって機敏なわざが出来ず、逆にしたたかに撃ちこまれた。
歳三は、受けの一方だった。相手の竹刀は容赦なく、歳三の肩、腕のつけ根、肘ひじ、など露《あら》わな部分にぴしぴしと食いこみ、ときには息がとまった。
(やられるか)
眼が、くらみそうになった。竹刀が鉄棒のように重くなっている。
と、夢中で竹刀をひるがえし、上段から相手の|すね《ヽヽ》をはらった。
六車宗伯を斬ったときの手である。相手は撃たれまいと、さがりながら足をあげる。
さらに撃つ。
また、あげる。
相手は、振り落ちる歳三の竹刀の上で、足をあげては退き、あげては退いて、まるで踊っているようなすがたになった。むざんなほどに、体《たい》がくずれてゆく。
前章にものべたが、この|すね《ヽヽ》撃ちは、剣術では邪道とされて、諸流にはない。むろん、この道場の甲源一刀流にもなければ、近藤一門の天然理心流にもない。
ただ、柳剛流にのみある。
武州蕨で興ったいわば様子かまわずの百姓剣術で、蕨のひと岡田総右衛門|奇良《まさよし》という人物が創始した。
柳剛流については、咄《はなし》がある。
このころ、尾張大納言が催した大《おお》試合《よせ》のとき、当時脇坂侯の指南役をしていた柳剛流の某という者がこの|すね《ヽヽ》斬りでほとんどの剣士を倒した。
立ちあう者は、つい足に念をとられて構えを崩され、思うところに撃ちこまれた。最後に立ったのは、千葉の小天狗で知られた周作の次男千葉栄次郎である。
立ちあがるや、
――待った。
と手をあげて道場の真中にすわりこみ、しばらく竹刀を抱いたまま思案していたが、やがて立ちあうと、乱離骨灰《らりこつばい》に柳剛流が打ちのめされた。
栄次郎が考えた防ぎの工夫というのは、|すね《ヽヽ》を撃ってくる敵の太刀に対し、股《もも》を前へ出してはずさず、わが足のキビスでわが尻を蹴るような仕方ではずしてゆけば念も残らず、防ぎも神速になる、というもので、これが千葉の北辰一刀流の新しい秘伝になった。
が、この場の歳三の相手は、武州八王子の剣客だから、江戸の名流がすでに確立している防ぎ手などは知らない。さんざんに撃たれた。
が、これを見ていて、
(はたしてそうだ。――)
と立ちあがったのは、七里研之助である。
(この男が、六車を斬ったな)
歳三の竹刀の振《ふる》いざまをみていると、府中猿渡屋敷の裏で討たれた六車宗伯の死体の傷あとと一致するのである。
(あの傷あとは、柳剛流……に似ていたが、やや否《ひ》なるところがあった。おそらく剣に雑多の流儀が入っている男だろう)
それが、この薬屋とみた。
「勝負、それまで」
と七里は手をあげ、すでに疲労しきっている歳三の様子をじっとみながら、
「薬屋、奥で茶でものんでゆけ」
といった。
歳三は道場わきの一室に案内されたが、ふと気づくと、あたりが薄暗くなっている。
が、茶も運ばれず、行燈に灯も入れてくれない。
(奇態だ)
と思った瞬間、この軽捷《けいしよう》な男は、窓から外へ飛びおりていた。
(はて)
あたりを見まわした。
どうやら道場の裏になっているらしく、歳三が足の裏に踏んだのは畑の|やわ《ヽヽ》土だった。
すぐ眼の前に井戸があり、そのむこうに甲州の山々が西の空に暮れはじめている。
小仏峠の上に、三日月がかかっていた。
歳三は勝手のわからぬまま、軒下を西へまわってみて、あっ、と足をとめた。そこに小さなクグリ戸があり、その板塀のむこうに道場主比留間半造の屋敷の棟が見え、白壁を背景に黒松がのぞいている。
歳三が不意に足をとめたのは、その巨大な黒松をみたからではない。その松の大枝の下のクグリ戸がカラリと開き、女が出てきたからだ。
|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》である。
八王子専修坊の娘で、歳三とは、一、二度男女の縁があった。この比留間半造にかたづいてきてからの|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》を見るのは、いまがはじめてである。
武家の妻女らしくなっていた。
それに、歳三が内心おどろいたのは、|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》の落ちつきぶりであった。
歳三をじっと見ていたが、なにもいわずホッと手燭の灯を消し、ひたひたと近づいて、
「あなたさまのことについては、なにもかも当道場に知れております」
と低声でいった。
「………?」
「師範代七里研之助どのが、六車宗伯どのの仇《あだ》を討つと申して騒いでいる様子でございます。六車どののこと、あなたさまに覚えがあるのでございますか」
「………」
「いずれにせよ」
と、女はいった。
「早くここからお逃げになることでございます。その井戸端のところを真っすぐに突っきってとびおりれば、低いガケになっていて、あとは一面の桑畑でございます」
「そなた、たしか、|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》と申したな」
「|せん《ヽヽ》でございます」
滑稽なことに、この女は、歳三が薬売り当時に|よぼ《ヽヽ》う《ヽ》て獲《え》た女だけに、体の記憶はあるが、名まではうろ覚えなのである。
(容貌《かお》をみたい)
とおもったが、すでに暮れはてていてその想いは達せられそうにない。
匂い袋の香《こう》だけは、におう。その匂いが、かつてこの女の寝間を襲ったころの記憶を歳三によみがえらせた。
(あれァ、寒いころだった)
専修坊の庭がありありと眼にうかび、女はその離れにいた。夜這いは武州千年の田園の風《ふう》だから、歳三は馴れている。女は熟睡していたが、いざとなって歳三に抗《あらが》わなかった。前夜来から寺に泊まりこんでいる、この若者が、今夜忍ぶことは娘のカンで察していたのだろう。
「おい」
と、歳三は、たまらなくなった。
「いけませぬ」
と、比留間半造の内儀は、いった。この武州多摩地方の女は、娘のあいだはさまざまなことがあっても、|ぬし《ヽヽ》をもって家に入ってしまえば、どの土地の女よりも固いといわれている。
歳三もすぐ苦笑して、
「わるかった」
と素直にあやまった。
が、そう素直に出られると、女にすればかえって始末がわるかった。それを警戒していた緊張感が一時にゆるんだのか、
「土方さま」
と、歳三の手に触れた。握れ、というのだろう。が、歳三の眼はにわかにすわった。
「なぜわしの姓を知っている」
「土方歳三どのでありましょう。ちゃんと存じております」
「なぜ知っている」
「なぜとは?」
「なぜ知っている、というのです」
性分《しようぶん》で、そんなことが、気になる。
「七里研之助どのからききました。あなたさまは薬売りではありませぬ。江戸小石川柳町の近藤道場の師範代土方歳三どのでありましょう」
「―――?」
と眉をひそめたのは、背後で物音をきいたからである。と同時に歳三は、|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》のそばを離れた。
影のように走って道場裏のガケをとびおりた。
|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》が歳三の機敏さに驚いたときは、すでに当人は、小仏峠の上の月を怖れつつ、桑畑の中を歩いていた。
歳三は、江戸道場で、数日すごした。
歳三と入れかわって、近藤勇が多摩方面の出稽古に行ったが、ほどなく戻ってきた。
農繁期で、思ったより人があつまらなかったという。
「そいつは、ご苦労だった」
と、歳三がいった。
「ほかに何か異変がなかったかね」
「とは?」
近藤は、この男特有のにぶい表情で、
「そうだ、忘れていた。日野宿の佐藤屋敷に寄ったら、お前の兄《あに》さんが来ていた。いや喜六さんのほうじゃない、石翠《せきすい》さんだが、ちかごろ歳《とし》の野郎ちっとも家に寄りつかねえな、どうしやがったんだろう、なんて云っていた」
石翠は、歳三の長兄である。
うまれついて目が見えなかったから、跡目を次弟にゆずり、庭の見える八畳の間を一つもらって、道楽に三味《しやみ》をひいたり、義太夫を村の連中に教えたりして暮らしている。これがなかなか洒脱《しやだつ》で、盲人とも思えぬほどに世間のことに明るい。
歳三はカンで、この石翠が、なにか近藤にいったと見て、
「あの兄のことだ、云ったのはただそれだけじゃなかろう」
「ふむ……」
近藤はしばらく考えている風情だったが、やがて、
「歳さん、お前、人を殺したな」
歳三は、だまっている。
「六社明神の六車斬りは、歳の仕業《しわざ》じゃねえか、と石翠さんがこっそりいっていた。ちかごろ、八王子の甲源一刀流の連中がしきりと石田村に入りこんできては屋敷うちを垣間《かいま》のぞくそうだ。石翠さんは、お前をさがしているのだろうという。わしは、まさか、といっておいたが」
「いや、私の仕業だよ」
「………」
こんどは近藤がだまる番だった。この上石原うまれの|あご《ヽヽ》の大きな男は、勝太といったむかしから、驚くと表情《いろ》には出さず、尻を掻くくせがあった。
「本当か」
「水臭いようだが、いままでだまっていた」
「なぜだ」
「道場に迷惑をかけたくねえからさ。これは聞かなかったことにしておいてくれ。あの始末は、おれがつける」
「よかろう」
武州、上州は、流儀のあいだでの喧嘩沙汰が絶えない。近藤は、馴れている。
よかろう、といったが、そのあと、近藤は沖田総司を呼んで、事のあらましを告げ、
――歳三の野郎は気負っているようだが、なにしろ相手は多勢だ。歳に万一のことがあれば流儀の名にかかわる。
――いいですとも。あの方面へ行って探索しておけ、ということでしょう。
沖田はこの男一流の陽気な笑顔で何度もうなずき、その日のうちに道場から姿を消した。
数日たって、江戸へもどってきた。近藤に何事か報告したあと、よほどほうぼうを駈けまわってきたのか、道場裏の部屋に引きこもると、さっさと布団を敷いて寝てしまった。
翌朝、井戸端で歳三をみて、ぺこりと頭をさげ、おはようございます、というと、いきなり小声で、
「土方さんも物好きなお人だ」
とからかった。
「なぜだ」
「妙な芸人と知りあいだからさァ」
「なんだ、その芸人とは」
「わいわい天王《てんのう》のことですよ」
沖田のいうことがわからない。
「なんだ、わいわい天王とは」
「お面かぶり。――」
沖田は、可愛い唇でにこにこ笑っている。
「お面かぶりとは、九品仏《くほんぶつ》のか」
「そうじゃありませんよ。にぶいな。土方さんは俊敏だけど、ときどき人変りしたようににぶいところがあってこまる」
沖田は、洗面をすまして、さっさと道場に入ってしまった。
それから数日たって、多摩方面の出稽古が歳三の番になった。
多摩出張の日は、いつもまだ陽のあがらぬ暗がりに出る。
この日は、どの師範代の番のときでも、道場の門を八の字にひらき、門わきに定紋を打った高張提灯をかかげ、近藤が紋服を着て式台《しきだい》まで送りだす慣例になっていた。
歳三が草鞋《わらじ》をむすんでいると、近藤がその背越しに、
「総司も同行するように申しつけてある。あいつ、支度が遅れているようだから、すこし待ってやってくれ」
「総司が、なぜ」
はっと歳三が思いあたって不機嫌そうにふりむくと、近藤がめずらしく気弱そうな愛想《あいそ》笑いをうかべて、
「道中の話し相手だ」
「話し相手など、要らん。第一、総司のような多弁なやつと一緒に道中をさせられると、疲れてかなわぬ」
「来た」
総司は道場のほうからまわってきたらしく、すでに手甲《てつこう》、脚絆《きやはん》で四肢をかため、腰に馬乗り提灯を差し、袴《はかま》ははかず、尻をからげている。それが、この二十《はたち》の若者にはひどく小意気にみえた。
内藤新宿を出て甲州街道に入ったあたりで沖田総司が、
「こんどの出張では、多摩のどこかの村できっと、やつらに会いますぜ」
「やつら、とはなんだ」
「こまったな、土方さんの素っとぼけには」
沖田は、この男の好みの大山詣《おおやままい》りの笠を子供っぽくかしげながら、
「七里研之助など八王子の連中ですよ」
と、ずばりいった。
「じつは、こうです」
沖田は、探索の結果をうちあけた。それによると、八王子衆は、わいわい天王に身をやつして甲州街道筋に出没しているという。
これらは猿田彦《さるだひこ》の面をかぶっている。
安政の大地震このかた、世が攘夷論《じよういろん》さわぎで物情騒然となってくるにつれて、関東一円にかけ、この徒輩の横行がめだっている。つまり、牛頭天王《ごずてんのう》に祈願をこめたと称する家内安全無病息災の神符《おふだ》を家ごとに売ってあるく乞食神主のことだ。
黒紋付の羽織に袴をはき、粗末な両刀を帯びて、
「わいわい天王さわぐがお好き」
などとうたいながら町々を歩く。世情が不安だから、こんな神符でも買う者が多い。
「ところがね」
沖田がいった。
「土方さんの石田村にはあの小さな村に、三日にあげず二、三人ひと群れに組んでやってくるそうですよ。それが、きまって八王子から来るそうだ」
その日は、いつものことで、日野宿の佐藤屋敷に泊まった。沖田と一緒に夕飯を食っていると、庭先でかさこそと足音がする。
「総司」
と、歳三は目くばせした。
沖田は箸を捨てるなり、飛びあがって障子をぱっと明けた。
縁側に、大男が立っている。
猿田彦の大きな面をつけ、じっとこちらを見て、動かない。
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分 倍 河 原
面の男は、凝然《ぎようぜん》と立っている。
縁側に、である。
爛《らん》と光る黄金の巨眼をこちらにむけ、身動きもしない。
(ふん、おどかしゃがる)
歳三は、吸物をすすった。面の男のほうには、見むきもしない。
豪胆といえばそうだが、歳三は、変にこういう事態になると、拗《す》ねるところがある。子供がすねているような顔つきで、憎々しげに吸物をすすっている。
「土方さん」
沖田総司が、たまりかねていった。
「お客さまですぜ」
「御用件をきいてみろ。どうせ、変に江戸弁のまじった上州なまりで答えてくださるはずだ」
七里研之助、ということを歳三は、カンで気づいていた。
最近、この甲州街道筋の多摩の村々で、わいわい天王が群れをなして出没しているという話をきいたときから、
(おれをさがしているな)
と、気づいていた。七里研之助を塾頭にしている八王子の甲源一刀流の連中が、歳三を見つけ次第、六車宗伯の仇を討ってしまおうと計画しているのだろう。
(しかし、大胆なやつだ)
歳三は感心もした。
この佐藤屋敷(いまも佐藤家は東京都下の日野市に現存しているが、当主は郵便局長で、古い屋敷はとりこわされ、瀟洒な鉄筋の局舎にかわっている)は、甲州街道筋きっての大名主で、長屋門《ながやもん》をがっしりと構えた郷士屋敷であり、塀も高い。邸内には、手代、下男、作男があまた住んでおり、容易に忍びこめるものではない。
「なんの用事だ」
と、沖田は、わいわい天王にいった。
十五夜の満月が、このお面男の右肩の上にかかっており、中庭の松が、月に光っている。
「ご足労だが」
はじめて猿田彦の面は、声を出した。なるほど声は七里研之助である。
「ご足労とは?」
「だまってついてきてもらおう」
「どこへです」
沖田は、育ちがいいから、言葉がいい。ちょっと色小姓にしたいような美貌である。
「あんたは、天然理心流の沖田総司君だな」
「ご存じですか」
沖田は、にこにこした。この若者も、肝の在《あ》りどころが変わっているらしい。
「幸い、ここに御流の師範代がお二人までそろっていらっしゃる。御流には、われわれ、遺恨のことがある。晴らしたい」
「あなたは、どなたです」
「そこで箸を動かしている土方歳三君がご存じのはずだ」
人を、君づけでよぶ。
近頃、諸方を横行している尊攘浪士のあいだで流行《はや》りだした言葉で、案外七里という男は、固陋《ころう》な上州者に似合わず、新しいことに敏感な男なのかもしれない。
「薬屋」
こんどはそんな呼び方で、歳三をよんだ。
「六車殺しの証拠はあがっている。おれが代官所に訴え出れば、それでカタがつく。が、われわれ比留間道場は、それを慈悲でせぬ。安堵《あんど》しろ」
「………」
ちなみに。――
武州(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)の地は、江戸をふくめて、面積およそ三百九十方里。
石高にすれば、百二十八万石。
ほとんど、天領《てんりよう》(幕府領)の地である。江戸の関東代官、伊豆の韮山《にらやま》代官(江川家)などの幕吏が治めていたが、諸国の大名領とくらべるとうそのような寛治主義で、収税は定法《じようほう》以上はとりたてず、治安の取締りもゆるい。百姓どもも、
――おらァどもは大名の土百姓じゃねえ。将軍さまの直《じき》百姓だ。
という気位があり、徳川家への愛情は三百年つちかわれている。これは、近藤にも土方にも血の中にある。
それに代官支配だからお上の目がとどきにくく、自然、宿々には博徒が蟠踞《ばんきよ》し、野には、村剣客が力を誇って横行した。こういう現象は、日本六十余州をながめて、武州と上州のほかにない。
七里研之助が、代官所に訴えず、剣は剣で解決しようといったのは、武州剣客独特の始末のつけ方で、歳三にもよくわかる。
「総司、門まで送ってやれ」
歳三は、飯びつを引きよせながら、
「場所と刻限をよく伺っておくのだぞ」
いつもよりも一杯多く食べた。
食いおわったころ、沖田総司がもどってきて、
「場所は分倍河原《ぶばいがわら》の橋の上。刻限は、月が中天《ちゆうてん》にさしかかる戌《いぬ》ノ下刻《げこく》。人数は、先方もふたりだそうです」
「ああ」
歳三は寝ころんだが、すぐ起きなおって、刀をあらためた。
六車を斬ったときの刃こぼれが無数にあって、使いものにはならない。
「総司、これで斬れると思うか」
「さあ、どうかなあ。私は土方さんのように人を斬ったことはありませんのでね」
可愛い唇許《くちもと》で、からかうように笑った。だまっているくせに、六車斬りの一件は近藤からきいて知っているらしい。
「しかし、そいつはひどい刃だ」
沖田はのぞきこんで、
「斬れるかなあ」
歳三はすぐ納屋に走って行って、砥石《といし》四、五種類をさがし出し、それを使って井戸端で刃を研いだ。手の器用な男だから、手間ひまをかければ、へたな研師《とぎし》ぐらいはつとまる。
月が雲にかくれた。やがて雲間から出たとき、背後でひたひたと近づいてくるわら草履《ぞうり》の足音がした。やがてとまったかと思うと人影は歳三の後ろわきにしゃがみこみ、じっと手もとをのぞきこむ風であった。
(………)
どうせ沖田だろうと思ってかまわずにごしごし研いでいると、
「この夜分、なぜ刀を研いでいる」
当家のぬし、佐藤彦五郎であった。
何度も繰りかえすようだが、これは歳三の義兄である。姉、おのぶの婿で、齢は歳三より五つ六つ上。
佐藤家は戦国のころから続いた名家で、代々武張ったことが好きだった。とくに彦五郎の亡父は非常な剣術好きで、近藤の養父周助を経済的にも後援し、自邸の長屋門の片っ方をつぶして道場に仕立ててやったり、上石原の農家の子勝太を周助の養子に取りもって近藤勇という若い剣客を作りあげたのも、この佐藤家先代である。佐藤家がなければ、天然理心流も多摩で栄えず、近藤勇も世に出現しなかったといっていいだろう。
当主の彦五郎はまだわかい。これも亡父に輪をかけた武芸好きで、すでに勇の養父から目録をゆるされている。
うまれつき長者の風のある男で、温和な性分だが、それでも後年、新選組結成当時の資金はこの人物から出た。
「………」
歳三は、黙々と研いでいる。彦五郎は機嫌をとるようないい方で、
「よせよ、喧嘩などは」
「喧嘩などはしません。このあたりに野犬が出てうるさいから、始末しにゆくのです」
「ああ野犬か。あいつは、毛並のほうから斬っちゃ、斬れないよ。逆から、こう」
と手で斬るまねをして、
「斬るのさ。知っているかい?」
彦五郎は、育ちなのか、性分なのか、にこにこ笑っているばかりで、人の口を疑うということをしない。
だからこそ、人の悪い歳三も近藤も、かえってこの福々しい長者を尊敬して立て、近藤などは義兄弟の杯を交したほどなのである。
「義兄《にい》さん、頼みがあるのだが」
「なんだね」
「分倍河原の南に分倍橋という小さな橋があるでしょう。あのあたりに野犬が多いときくから、斬ったやつはみな橋のたもとに片寄せておく。朝になったら下男でもやって片づけてほしいんだ」
「あいよ」
歳三は、部屋にもどった。
彦五郎に頼んだのは、むろん、自分と沖田の死体のことである。
分倍河原までは、二里。
夜道だから、時間がかかる。歳三と沖田は、早目に日野の佐藤家をこっそり出た。みごとに晴れた月夜で、道がしらじらとみえる。歳三はせっかく用意した提灯を吹き消して、
「相手は、たしかに二人かね」
「おどろいたなあ」
沖田はいつもほがらかだ。
「なぜおどろく」
「存外のお人好しなんですね。どうせ大人数だ。きまっていますよ。あの悪たれた八王子の連中が、約束どおり二人で来るなんてことが考えられますか」
「それもそうだな」
なるほど変装するにも事欠いてわいわい天王に化けたり、天然理心流の縄張りに食いこもうとしたり、やることがどう考えても下司下根《げすげこん》である。仇討に事寄せ、沖田と土方さえ斬ってしまえば、多摩の村々は甲源一刀流の地盤にかわると思っているのだろう。
「しかし」
歳三は、にやりと笑った。
「総司はどっちが好きだ、小人数と大人数とは」
「大人数ですな。もっともこれは夜にかぎる」
夜、こちらが小人数で斬り込めば、大人数のほうは敵味方がわからず狼狽《ろうばい》するばかりで、かえってばたばたと斬られる。沖田は、そういう智恵があるらしい。
「よく知っているな、お前は」
「寄席の講釈できいた智恵ですよ。近頃、世間が騒がしくなってから、妙なことに寄席の客は武士が多い。武士が多いもんだから、芸人のほうも、太平記や三国志を読む。土方さんもときどきのぞいたらどうです。いっぱしの軍略家になりますぜ」
「ふん」
軍略などは天性のものだと思っている。歳三は、ひそかに自信があった。この天分を使わずに一生を送るとしたら、歳三は死んでも死にきれない。
甲州街道を、いまの西府農協のあたりまできたとき、
「おい、右へ折れよう」
と、あぜ道へ入った。そろそろ予定戦場に近いから、本街道上をのこのこ歩いていると敵の待伏せにかかるかもしれない。闇討を食うか、それとも物見に見つけられて、到着するまでの足どりがすっかりわかってしまう。
「晦《くら》ますんだ」
夜露にびっしょり濡れながら、草を踏んで南へ南へとさがり、ちょうど十五、六丁も歩いたあたりに野の中に墓地がある。いまでもあるが、野寺の名は正光院《しようこういん》。
歳三はここの寺男の権《ごん》という老人を知っている。年寄りのくせに小博奕《こばくち》が好きで、近在の村の賭場《とば》で袋叩《ふくろだた》きになっているのを、ちょうどその村に剣術指南にきていた歳三が救ってやったことがある。
叩き起こして権を墓地へ連れだし、
「分倍橋のほうへ行って来い。怪しまれねえように寺の提灯をさげていけ」
と、云いふくめて斥候《ものみ》にした。
分倍橋は、この闇のむこう五丁ばかり東にあり、そこまでは一面の田圃で、ところどころ、水溜りが、キラキラと月に映えている。
墓地は草深い。
石塔、卒塔婆《そとば》のあいだに歳三はすわりこみ、沖田にもすわらせた。
「総司、提灯に灯を入れろ」
地面を照らさせた。
歳三はその地面を古箸でひっ掻きながら、器用に地図を描いた。
「これが分倍橋付近だ。見えるか」
地図には、道がおそろしく入り組んでいる。
この分倍河原というのは、名こそ河原とついているが、現実の多摩川の河原はずっと南にあって、二、三百年前から田圃になり、点々と村まである。
古来、戦場になったことが多く、いまでもときどき畑の中から鎧《よろい》の金具、刀、人骨などが出ることは、沖田も知っている。
知っているどころか、先日の講釈の太平記はちょうどこのクダリだった。南北朝時代のむかし、元弘三年五月、久米川の方角から押してきた南朝方の新田義貞がこの分倍河原で鎌倉勢と戦って利あらず、いったん堀兼《ほりかね》まで退いて諸方の兵を募《つの》るうち、相模《さがみ》から三浦義勝が六千余騎をひきいて参加、義貞大いによろこび、十万騎の軍を三手にわけて分倍河原の敵陣を襲い、大いに鎌倉勢を破った。世にいう分倍河原の合戦とはこのことである。
「この分倍河原は、兵法でいう衢地《くち》だ」
と歳三は説明した。
衢地とは、諸街道が、三方四方から入りこんできてそこで合流する地点をいう。軍勢を動かしやすいから、こういう場所では、古来大会戦が行なわれることが多い。美濃の関ケ原にしても、そうである。
甲州街道とその枝道のほか、鎌倉街道、下河原街道、川崎街道などが、ここで合流したり、この付近を通っていたりする。
「これが分倍橋ですな」
沖田は、のぞきこんだ。実をいうと沖田は肚《はら》の中で感心している。敵がいかに多数とはいえ、たった二人で斬り込む仕事に、いちいち地図を作って作戦を考える歳三に感心したのである。
(この人は、単なる乱暴者《ばらがき》じゃねえな)
と思ううち、権爺ィがもどってきた。
「えらいこッた」
爺ィは、歳三のそばにすわりこみ、
「夜だからはっきりしたことは云わねえが、諸所方々の人数を入れると、二十人は居るンじゃねえかな」
ただし橋の上は二人だ、と権爺ィはいった。
しかし、土手の下、付近に十数軒はある百姓家の軒蔭などに、三人、四人ずつひそんで、息をこらしている様子だという。
「どの方角に、人数が多い」
「分倍橋の北詰《きたづ》めだね。土手下、欅《けやき》の木の蔭などにむらがっている」
「そうだろう」
「旦那にゃ、わかるンですかい」
「まあ、な」
べつに爺ィに自慢する気もなかったが、歳三が想像していたとおりだった。相手は、歳三らが、甲州街道を府中の手前で外《そ》れて鎌倉街道に入り、南下して分倍橋に至るものとみている。それが常識だ。
「よかった」
沖田は、鼻唄を歌いだした。
「唄はやめろ」
「怒らないで下さいよ。土方さんは大した軍師だ、と感心したンです。さっきあのまま甲州街道から順どおりの道を歩いていたら、その橋の北で押し囲まれてズタズタにされているところだった」
「権爺ィ」
歳三は、地図の或る一点をおさえた。橋の南である。
「ここは手薄だろうな」
「そのとおりだ。人影も一つ動いていただけだった」
「ふむ」
歳三は地図をにらんでしばらく考えていたが、やがて奇想がうかんだらしく、懐ろに手を入れて巾着《きんちやく》をつかみ出し、
「権、とっておけ。この一件、口が裂けても口外するンじゃねえぞ」
「わかっています」
権は、闇に消えた。
「総司、川づたいに斬りこむのだ。お前は川上から、おれは川下からジリジリと寄ってきて、橋の下で遭《あ》えるようにする。そこから土手を駈けのぼって、土手の蔭にひそんでいるやつを斬るのだ」
「なるほど」
沖田は利口だから、すぐ了解した。それなら、敵の不意を衝《つ》く。
だけでなく、土手かげにひそんでいる敵は弱いはずである。つまり、敵の布陣を想像するに、最も腕達者は、橋の上にいる。おそらく一人は七里研之助であり、いま一人は、道場主の比留間半造であろう。この二人は、オトリにもなっている。同時に、この人数配置からみれば、この橋上が指揮所なのだ。
その次に腕の立つのは、橋の北詰めにひそんでいる連中だ。この連中は、押し包んで討ち取る役目だからである。
そうみれば、土手下にいるのはいわば予備隊で、最も使えない連中に相違ない。
小人数で敵陣を襲う場合、二つの法がある。まっしぐらに大将を斃《たお》して逃げるのが良策の場合と、弱い面を斬り崩して、数の上で敵に打撃をあたえる場合のふたつである。
歳三は、後者をとった。
「まさか、橋の上の連中は、川から上がってくるとは思うまい。手近のやつらを斬り崩し、斬り崩してから存外もろいようなら比留間か七里のどちらかを斬り倒す。相手の備えが固くて無理なようなら、四、五人斬ってから逃げるのだ」
「落ちあう場所は?」
「この墓地だ」
歳三は脇においてある風呂敷包みを指し、
「これに着更えが入っている。どうせ着物は血でどろどろになるから、夜明けに歩けたもンじゃない。ここで着更えて、そのまままっすぐに江戸へ帰ってしまおう」
そういってから、呼子笛を一つ沖田に渡し、
「もし離ればなれになったとき、おれが吹いたら、退きあげの合図と思ってくれ。お前が吹いたら、お前の危ねえときだ。すぐ助けにゆく」
二人は出発した。
[#改ページ]
月 と 泥
どこまでも、あぜ道がつづく。
歩きにくい。
土方歳三と沖田総司は、這うようにして敵のいる分倍橋に近づいた。
空は海のように晴れた星月夜なのだが、それでも雲が二きれ三きれあって、それがときどき、月を隠す。
そのつど、下界の武州平野は闇になる。
闇になるたびに、歳三と沖田は、申しあわせたように田へころがり落ちた。足腰も胸も泥だらけになった。
「ひでえ」
沖田は泣きべそをかいた。
「まるで泥亀だ。これでにゅっとあらわれたら、先様《さきさま》のほうがびっくりなさるだろう。ねえ、土方さん」
「だまってろ」
「無茶だよ、土方さんの軍略は。さっき賞《ほ》めて損しちゃった。講釈にはこういう軍談はなかったなあ。これは楠正成を始祖とする楠流ですかい? それとも、武田信玄好みの甲州流ですかい」
「土方流だ」
「よかァねえよ、泥亀流だよ」
沖田総司は奥州白河藩の浪人となっているが、亡父は江戸詰めの御徒士《おかち》だったから、沖田はうまれついての江戸っ子なのである。歳三のような武州の在家《ざいけ》育ちとちがって、よく舌がまわる。
――歳三と沖田がいま這い進んでいるのは今日《こんにち》でいえば分梅《ぶばい》町三丁目のまんなかぐらいだろう。
まだ分倍橋まで、三、四丁はある。
急に足もとの土の感触がかわった。
(………?)
ふと、桑畑になっている。歩きいい。やがて月光の下に分倍橋のたもとの欅の巨樹がみえてきたとき、歳三は、
「総司、そこが河原だ、この辺で別れよう」
といった。
沖田はここから迂回して川上へまわる。歳三は川下から接近する。敵の集団を挟《はさ》み撃ちするのである。二人が河床を這ってうまく橋の下で落ちあったとき、白刃をつらね、一気に土手へ駈けあがって斬りこむ、という寸法だった。
「いいな」
「うん」
沖田は、ぼんやりしている。
むりもなかった。沖田は、いかに道場剣術の俊才とはいえ、白刃の下をくぐるのは、いまがはじめてなのである。
「こわいのか」
「まあね。私は土方さんのように、いっぺん斬《や》った人間じゃないですからね。しかし考えもおよばなかったなあ、私の一生で人を殺すような羽目になろうとは。いったい、どうすればいいんです」
「やってみれァ、わかる。これだけは、口ではわからねえ。とにかく、斬《や》られねえようにするより、斬《や》る、ってことだ。一にも先《せん》、二にも先、三にも先をとる」
「土方さん」
と、沖田は妙な声でいった。
「なんだか変だよ。お尻の菊座のあたりがむずむずしてきちゃった。変にそこだけがふるえるような痒《かゆ》いような……」
「こまった坊やだな」
「失礼ですが、そこの桑畑で済ませてきますから、待っててください」
「早くしろ」
といったが、歳三も下腹のあたりが怪しくなってきた。
(いまいましいが、沖田に誘われたらしい)
やっておくことだ、と思って桑の老木のそばにしゃがむと、おどろくほどそばで、沖田もしゃがんでいる。
「土方さんもですか」
「ふむ」
「初心の泥棒なんざ、侵入《はい》る前につい下っ腹に慄えがきて洩らしちまうと聞きましたが、ほんとうですね」
「だまってろ」
たがいに、なまなましいにおいを嗅《か》ぎあっていると、なんとなく慄えが去り、度胸がすわってきた。
(さて。……)
身仕舞をし、念のため刀の目釘をしらべた。
「総司、もういいだろう」
「いいですとも」
底ぬけに明るい声にもどっている。
歳三は、沖田とわかれて、河原へおりた。
河床はしらじらとした砂地で、真中に一すじ溝のような川が流れている。橋の下まで、ほぼ一丁。
一方、沖田は、桑畑のなかをかがみ腰で突っ走った。大きく迂回して、川上へまわるためである。
風が、出はじめている。
歳三は、月が雲間に入るたびに走り、やっと橋の下の闇に駈けこんだ。
頭上に橋板がある。
みしみしと足音がするのは、比留間半造か七里研之助だろう。
月は、ここまでは射しこまない。
歳三は、橋脚の一本を抱くようにしてすわった。
土手にも路上にも人がいるらしく、あちこちから低い話し声がきこえてくる。
(不用意なやつらだ)
と思ったが、敵は敵で、声を出しあっては恐怖をまぎらわしているのだろう。
(これァ、伊香保《いかほ》以来の大喧嘩になるな)
そういう事件が、上州にあった。
千葉周作が諸国遊歴時代、上州に足をとどめて門弟をとりたてた。文政三年四月、周作二十七歳のときである。
上州は武州とおなじく好剣の国だから、村々から有名無名の剣客があらそって弟子入りし、滞在十日で、百数十人に達した。
周作は、まだ若い。
老熟後の周作ならそういうことはなかったろうが、当時|衒気《げんき》があったのだろう。自分の創始した北辰一刀流の威風をみせるため、その弟子入りした上州剣客百数十人の名を刻んで大額をつくりあげ、これを近在の伊香保明神の社頭にかかげようとした。
おどろいたのは、上州|馬庭《まにわ》の土着の剣客である、真庭十郎左衛門である。これは念流の宗家で、十郎左衛門は十八代目。
上州の剣壇は、永年、この真庭門でおさえてきたが、真庭としては、その門弟のほとんどを周作にとられたうえ、名を刻んで社頭で公表されてはかなわない。
その納額を阻止するため真庭十郎左衛門は国中の門弟三百余人をあつめ、伊香保の旅館十一軒を借りきって千葉方の百数十人と対峙し、さらに後詰《ごづ》めとして土地の博徒千余人を地蔵河原に集結させた。
まるで合戦である。
いまにも千葉方の旅館に押しよせそうな気勢だったが、周作はそこは江戸人で、田舎剣客とあらそっても後々利のないことを考え、単身上州を脱出した。
が、歳三は、江戸人ではない。
相手もそうだ。
甲源一刀流と天然理心流という田舎剣客の争いだから、互いに血へどを吐いて斃れるまでやる気でいる。
(おう。……)
歳三が気づくと、沖田が足もとまで這い寄っている。
――私です。
沖田は歳三に抱きつくなり、耳もとで、
――そこに二人います。
と、土手のかげを指さした。
「よかろう。あれを血祭りにしたあと、おれは川をとび越えてあっちの土手から這いあがる。いいか」
「ようがす」
沖田と歳三は、橋の下の闇を離れ、二人の左右にまわった。
「おい」
と声をかけた。二人それぞれに振りむかせてから、沖田は、
「沖田総司、参る」
あざやかに胴を払って斃した。水ぎわだった腕である。
「土方歳三、参る」
歳三は、踏みこんで左袈裟《ひだりげさ》に斬り、トントンととびさがるなり、川を一足でとび越え、向う土手の草をつかみ、大またに這いあがった。その身ごなし、まるで喧嘩をするために地上に生まれてきたような男である。
路上では騒いでいる。
奇襲は成功した。相手は、歳三らが意外なところから這いあがってきたのに狼狽したばかりか、二手にわかれているために、どれほどの人数が来たかと思ったらしい。
歳三は、路上に這いあがった。
眼の前に欅《けやき》の巨樹がある。そこが橋の北詰めで、権爺ィの斥候《ものみ》ではもっとも人数が多い。その一部は、土手下の悲鳴をきいて河原へ駈けおりている。
歳三は、すばやく欅下に飛びこんで、黒い影を一つ、真向から斬りさげた。
相手は、凄い音をたてて地上に倒れた。一太刀で絶命したらしい。
すぐ死体に駈けよって、相手の刀をうばった。
(こいつは斬れるかな)
自分の刀は、鞘におさめている。粗《あら》っぽい俄《にわ》か研ぎだけに斬れ味に自信がなかったのだ。
歳三は、欅の蔭を離れない。
木《こ》の下闇《したやみ》とはよくいったもので、相手からはみえないし、自分からは、月下の路上や橋の上に走り動く影が、昼間のようにみえる。
(織るように走ってやがる)
歳三は、飛び出した。
手近のやつの腰をぐわっと払ったが、よほど硬い百姓骨なのか、刃がびんと返って斬れなかった。斬られた男は背を反らして五、六歩よろよろと走っていたが、そこまできてはじめて恐怖がおこったのか、きえーっと叫ぶなり、
「そこだ。欅の下にいる」
(仕損じたか)
歳三は、すばやく樹の下にもどった。
悲鳴をききつけてばらばらと四、五人駈け寄ってきたが、樹の闇が深くて近寄れない。月の下では、樹は城の役目をするものだ。
――取りまけ。
落ちついた声がきこえた。
七里研之助である。
そのうち、だんだん人数がふえてきて、十四、五人になった。
「深津」
と、七里は、門人らしい男の名をよんだ。
「火の支度をしろ」
樹の下を照らすつもりらしい。
深津、とよばれた男は、人数の背後にまわると、地面にかがんで燧石《いし》を撃ちはじめた。
|わら《ヽヽ》束に煙硝を仕込んである。点火するとぱっと燃えだした。
歳三はすばやく樹の裏にまわったが、足もとは崖になっている。
(いかん)
戻ろうとしたとき、すでに深津、という火術方は、|わら《ヽヽ》松明《たいまつ》をあげて、樹の根にむかって投げようとしていた。
その差しあげた右腕が、わっと落ちた。背後に、沖田がまわっている。
あの坊やが、と歳三があきれるほどの素早さで沖田は、手槍をもったその横の男を斬りさげ、同時に|わら《ヽヽ》松明を大きく蹴って河原へ落した。
あたりは、もとの闇になった。
闇になったと同時に、歳三は樹の下から突進して、七里とおぼしい大きい影に斬りかかった。
存分に撃ちこんだつもりだったが、七里の撃ち込みのほうが激しく、一たんは歳三の刀を払い、崩れるところを面にきた。あやうく受けたとき、
ばっ
と火花が飛び、歳三の刀が|つば《ヽヽ》元から叩き折られた。
(いけねえ)
飛びさがった。
(とんでもねえ百姓刀だ)
キラリ、と自分の刀を抜きおわるまでに右手の男に殺到していた。
どっと、そのあたりが崩れ立ったが、歳三は五、六度闇|くも《ヽヽ》に振りまわすうちに、何人かの、手、腕、肩を傷つけた。
沖田は、歳三の背後にまわっている。互いにかばいあって、敵を寄せつけない。
「総司、何人斬った」
「三人」
落ちついている。
「が、土方さん、変ですよ」
云いながら、前に来た男を右袈裟に斬り、
「ほら、変でしょう」
といった。
「なにが」
歳三も、ようやく息が切れている。
「刀が、棒のようになっている。奴ァ、死んじゃねえんだ」
「脂《あぶら》が巻いたんだろう。そろそろ」
「そろそろ?」
また一人、沖田へ撃ちこんできた。その出籠手《でごて》を沖田はあざやかに撃ち落してから、さっととびさがると、
「そろそろ、何です? 土方さん」
「遁《に》げるか」
「それがいい。私はもうこんなの、いやになった。こわくなってきましたよ」
そのくせ、沖田の太刀筋は糞落着きにおちついている。
「遁げろ」
いうなり、歳三は飛びこんで、前の男の顔を右|こめ《ヽヽ》かみ《ヽヽ》からたたき割り、のけぞったその死骸を踏みこんで土手の上を走った。
すぐ下の桑畑にとびおりた。
沖田もついてくる。
二、三十歩離れると、もう敵方からは影がみえない。
例の正光院の墓地まで駈けもどると、石塔の間にかくしてあった風呂敷包みを解いた。歳三の着物は、泥と返り血で、革のようになっている。
「総司、着かえるんだ」
「私?」
沖田はちょっと自分の着物をみて、
「いいですよ。泥がくっついているけど、こんなの、すこし乾けば払い落せます」
「………」
歳三は、ふりかえって沖田の|なり《ヽヽ》を|えり《ヽヽ》もとから|すそ《ヽヽ》まで舐《な》めるように見たが、だんだん開《あ》いた口がふさがらなくなった。この男はどんな斬り方をするのか、返り血もあびていない。
「お前《めい》……」
小面《こづら》憎くなった。
(こいつ、鬼の申し子か)
歳三は、佐藤家から借りた木綿の粗末な紋服に着かえ、野袴をつけ、手甲脚絆のひもを一筋ずつ結びおわると、
「あれァ、何刻《なんどき》だ」
遠くの鐘の音に耳をすましている。
「亥《よつつ》(夜十時)でしょう」
「総司」
歳三は、もう歩きだしている。月が、脂光《あかびか》りのした両肩にあたっていた。
「江戸へ帰れ」
「土方さんは?」
「帰る」
歳三の足は早い。沖田は追いすがるように、
「一緒に帰りましょう」
「ばかめ。こういうことのあとだ。二人|雁首《がんくび》をそろえて本街道を歩けるか」
「土方さん」
沖田は、くすくす笑った。
あとはいわない。云えば、この男のくせで歳三は本気になってごまかしてしまう。
(女の所だな)
沖田は、まだ女の味を知らない。どういうわけか、そういうことには生まれつき淡いほうらしく、道場の他の連中が岡場所の女に夢中になったりするのをふしぎに思っている。
が、いまの歳三の気持は、なんとなくわかるような気がしたから、
「では、ここで」
といった。
沖田は、聞きわけのいい坊やのような微笑をのこして、真暗な桑畑の中へ身を入れた。用心して本街道へは出ず多摩川づたいに矢野口まで出、国領で本街道にもどるつもりである。そのころには夜も明けるだろう。
歳三は、そのまま本街道へ出、府中の宿場に入った。
町は、すでに灯がない。
月は、もう隠れている。
宿場の軒々を手でさぐるようにして歩きながら六社明神の森のなかに入った。
燈籠に、点々と灯が入っている。
やがて巫女《みこ》長屋をさぐりあてると、鈴振り巫女の小桜の家の戸を、忍びやかに叩いた。
叩く法がある。きめてある。
小桜はすぐ歳三と察したらしく、桟《さん》をはずして中へ入れた。
「どうしたの」
歳三の手をとろうとしたが、
「まあ、くさい」
手をはなした。血のにおいが滲《し》みこんでいるのかもしれない。
「膩薬《あぶらぐすり》はあるか」
「怪我?」
巫女は、小首をかしげた。
「それに 焼酎《しようちゆう》も」
もろ肌ぬぎになった。妙な見栄があって沖田にはいわなかったが、右肩の付け根に一カ所、左の二の腕に一カ所、白い脂肪がみえるほどの傷《て》を負っている。
「犬に噛まれた」
「犬がこんな歯かしら」
小桜は手当の用意をするために立ちあがった。小腰を振るようにして奥へ入ってゆくのをみると、歳三は、
「いい、ここへ来い」
鋭くいった。我慢がしきれなくなっている。分倍橋での血の騒ぎが、まだおさまっていない。
(喧嘩と女、こいつは一つものだな)
血のにおいがする、どちらも。そう思った。
歳三は、女をつかみ寄せるようにして、膝の上に倒した。
そのころ、沖田は、多摩川の南岸を、覚えているだけの童唄《わらべうた》をうたいながら東へむかって歩いていた。
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江 戸 道 場
柳町の坂をのぼりきったところ、そこに近藤の江戸道場がある。
このあたりは、緑が多い。
ずっとむこうには水戸殿の屋敷(いまの後楽園)の森がみえ、まわりには小旗本の屋敷が押しかたまって、背後は伝通院の広大な境内がひろがっている。
町内に、法具屋、花屋など陰気くさい商売が多いのは伝通院と隣接しているからだが、町|なか《ヽヽ》のわりには小鳥も多い。
とくに夕刻、道場の裏あたりは烏《からす》の啼《な》き声がやかましく、このため口のわるい近所の町人は、
烏道場
と、蔭口をたたいている。
歳三が多摩方面からもどってきたのは翌々日の夕刻のことで、名物の烏が、妙に啼きさわいでいた。
(いやな声を出しゃがる)
こんな殺伐な男でも物の好悪《こうお》があるらしく、烏だけは好きではない。
すぐ道場の裏にまわって、井戸端で足をあらっていると、沖田総司がやってきて、
「ばかにごゆっくりだったですねえ」
と、例の調子でからかった。
「………」
歳三は、うつむいて足を洗っている。沖田はその顔をのぞきこむようにして、
「近藤先生は、ご苦労ご苦労、とほめてくださいましたよ」
「なんだと?」
歳三は、白い眼をむけた。
「分倍橋の一件、近藤さんに云ったのか」
「云やしませんよ、まさか」
「じゃ、なにがご苦労だ」
「剣術教授が、さ」
「なにを云ってやがる」
この若者には、かなわない。
「ところで」
沖田は、なおものぞきこんで、
「大変なことが持ちあがったんですよ。御帰府早々びっくりさせちゃわるいが、こいつだけは耳に入れとかなくちゃ、いかに才物の土方先生でも、その場にのぞんで、お狼狽《うろたえ》になります」
「なんだ」
歳三は、顔を洗いはじめた。沖田はその頸《くび》すじをちょっとみて、
「ひどい旅塵《ほこり》だ」
「なんだ、お前、大変というのは」
「まず、顔をお洗いなさいよ」
「云え」
ざぶっ、と顔を桶《おけ》に浸《つ》けた。
「実はほんのさっき、さる流儀の田舎剣客が一手御教授お願いつかまつる、とやってきたんですがね」
「なんだ、他流試合か」
めずらしくもない。
近頃の流行だ。
腕に自信のある連中が、江戸の二流、三流どころの小道場をねらってやってきては、いくらかのわらじ銭をせしめてゆくのである。
天然理心流近藤道場では、そういう場合は師範代の土方、沖田が立ちあうことになっていた。
強弱の順でいえば、この道場は妙なことに若先生の近藤がわりあい不器用で、沖田総司がもっとも強く、土方歳三、近藤勇、という順になる(むろん、これは竹刀《しない》のばあいで、真剣を使えば、この順序がどうなるか、やってみなければわからない)。
竹刀の場合で、
といったが、実をいうと天然理心流というのは野暮ったい喧嘩剣法で、近藤などは、一つ覚えのように、
「一にも気組《きぐみ》、二にも気組。気組で押してゆけば、真剣、木刀ならかならず当流は勝つ」
といっていた。
が、道場の試合はよわい。
剣術の教授法は、この幕末、未曾有《みぞう》の進歩をとげた。
教育者としては、古い時代の塚原卜伝、伊藤一刀斎、宮本武蔵などは、幕末の大道場の経営者千葉周作、斎藤弥九郎、桃井春蔵《もものいしゆんぞう》あたりとくらべれば、問題にならぬほど素朴単純である。
ことに千葉周作などは、きわめてすぐれた分析的な頭脳をもち、今日生きていても、そのまま、教育大学の学長がつとまるはずの男で、古流の剣術にありがちな神秘的表現をいっさいやめ、力学的な合理性の面から諸流儀を検討して、不要のものを取り除《の》け、教えるためのことばも、誇大不可思議な用語をやめ、たれでもわかる論理的なことばをつかった。
このため、北辰一刀流の神田お玉ケ池、桶町の両道場をあわせれば、数千の剣術書生が、その門に蝟集《いしゆう》している(千葉の玄武館は、他の塾で三年かかる業はここでは一年にして達し、五年の術は三年にして功成る、という評判があった)。
が、天然理心流はちがう。
これは、近藤の好きな、
「気組」
である。
だから、面籠手《めんこて》をつけての道場での竹刀試合は、どうしても当世流儀に劣る。
自然、
他流試合はにが手で、すこし強そうなのがやってくると、あわてて他流道場に使いを走らせて、代人を借りてくる。
あらかじめ、そういう場合の用意に、神道無念流の斎藤弥九郎の道場と黙契してあって、ここから人がきた。これは当世流儀で、江戸三大道場の一つといわれるほどだから、多士済々《たしせいせい》である。
この道場は最初飯田町にあって、人を借りるのにえらく都合がよかったが、その後、火災に遭《あ》ったために遠い三番町に移った。
だから、いざ、というときは近藤道場から小者が走り出て十数丁駈けどおしで三番町へ走りこみ、剣士を駕籠《かご》で迎えてくることになっている。むろん、謝礼は出す。
「三番町へ」
と、歳三は顔をあげて、
「迎えにやったのかえ?」
「近藤《せんせい》が」
と、沖田が親指を立て、
「そうしろ、土方や沖田では無理らしい、とおっしゃるもんですからね、走らせましたよ。もっとも試合は、あすの昼前の四ツですから、まだゆっくりしたものです」
「剣客《そいつ》は、それまでこの近所に泊まっているのか」
「宿所は隠していますがね、いまごろはこの近所のどこかで、おなじ烏の声をききながら酒でも飲んでいるはずです」
「たれだ、それは」
「驚いちゃいけませんよ」
沖田は、くすくすわらって、
「流儀は、甲源一刀流、道場は、南多摩八王子の比留間道場です」
といった。
歳三は、顔を洗う手をとめた。先夜、府中宿のはずれの分倍橋で大喧嘩したばかりの相手ではないか。
「江戸まで乗り込んできやがったのか」
「ええ」
「誰だ、名は」
「七里研之助。――」
といってから、沖田は飛びのいた。歳三が、
――馬鹿野郎。
といいざま、桶の水をぶっかけたからである。
「なぜ、いままでだまっていた」
「黙ってやしませんよ。土方さんの戻りのおそいのがいけないんだ。私はちゃんと、こうしてお帰りを待ちかねて注進におよんでいるんですよ」
「よし、よし」
歳三は、ほかのことを考えている。
「総司、たしかだな、近藤さんは、われわれが分倍橋で七里《あいつ》と斬《や》りあったこと、夢にも知ってはいまいな」
「立派なもんですよ、先生は」
「なにが立派だ」
「そんな小事はご存じない。土方さんなんかとちがって、やはり大物です」
「なにを云やがる」
歳三は、ちょっと考えて、
「七里のほうも、口をぬぐって知らぬ顔で、いるのか」
「脛《すね》に傷、はお互いですからね、七里は云やしません。それよりも、七里にすれば道場での勝負で堂々と勝ちを制し、それを多摩方面で云い触らして、天然理心流の声望を一挙に下げようという肚《はら》でしょう」
「おれは、立ちあわないよ」
竹刀で、公式にやるとなると、歳三は絶対勝ちをとる、という自信がない。七里がこわい、というのではなく、天然理心流が竹刀試合にむかない、といったほうがいいだろう。
「そのかわり、分倍橋のつづきなら、もう一度やってもいい」
「私はご免蒙《めんこうむ》りますよ」
沖田は、笑いながら行ってしまった。
夕食は、近藤がぜひ一緒に、というので、部屋でとった。
給仕は近藤の女房の|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》がしてくれるのだが、無口で陰気で、この女が給仕をすると、どんな珍味でもまずくなるような気がした。
歳三は食いものにうるさいほうで、味付けのまずいものなどは、一箸つけただけでやめてしまう。
ところが|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》は料理がからっきし下手なのである。だから近藤家で食事をするよりも、近所の折助《おりすけ》相手の仕出し屋から好きな惣菜《そうざい》をえらんで取りよせるほうがずっと好きなのだが、近藤にはそういう歳三の気持などはわからない。
今夜の煮付けは見たこともない妙な雑魚《ざこ》で骨ばかり張っている。一箸つけると舌が縮むほど辛いのだが、近藤は平気で、
「食え、食え」
とさかんに食べている。めしは、麦が四分に古米が六分。
気のきいた職人なら吐きだしてしまうようなめしを、近藤は六杯も七杯も食う。下|あご《ヽヽ》が異様に大きいから、少々の小骨ぐらいなら噛みくだいてしまう。しかも|あご《ヽヽ》が張っているせいか、物を食っている様子は、顔中で粉砕しているような感じだった。
「歳、どうした。腹でもこわしたのか」
「いや」
渋い顔で、
「頂戴している。うまい」
「そうだろう。|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》もちかごろは、だいぶ腕をあげているはずだ。なあ、|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》」
(え?)
という表情で、|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》は眼をあげた。
「聞いたか、歳が、ああほめている。この男がほめるほどなら、お前の調理もたいしたものだ」
(なにをいってやがる。いい男だが、舌だけは牛の皮で作ったような舌をもっている)
そう思って近藤の顔をまじまじ見ていると不意にその顔が、
「聞いたか、総司に」
「なにを?」
歳三は、とぼけてみせた。
「いやね、今日の午後、八王子宿から変なのが来てな、例の七里研之助てやつだ。厭なやつだが、腕は立つ」
「ふむ」
「例の六車宗伯のことがあるから、お前さんに何か云いがかりをつけにきたのかと思って応対すると、そうじゃない。試合をしたいというのだ」
「そのこと、聞いた」
「そうか」
近藤はやっと飯を食いおさめて、その癖で食後の小用に立った。
「御馳走でした」
歳三が|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》に一礼すると、|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》は食器を片づけながら、
――いいえ。
と、咽喉奥で答える。それだけである。歳三は、どうもこの女房がにがてだった。
やがて近藤が席にもどってきた。座につくなり、手にもった手紙をひらいて、
「いま、三番町から利八(小者)がもどってきた。三番町(斎藤道場)では、あすのこと、引きうけてくれたらしい」
「たれが来るのだろう」
「今度、あたらしく塾頭になった男だ。若いが、滅法できるらしい」
「名前は?」
「桂小五郎、というようだな」
「………」
歳三も近藤も、聞いたことがない。
もっとも桂の剣名は、すでに、江戸の筋の通った道場では鳴りひびいたものだったが、この柳町の田舎くさい小道場までは、まだ聞こえて来なかった。場末の悲しさである。
(斎藤道場の塾頭ほどにもなれば、華やかなものだろうな)
歳三は、おもった。うらやむわけではないが、おなじ塾頭という名はついていても、なんとはなく、自分がうらぶれた感じに思えてくる。
(男は、やはり、背景と門地だ)
そんなことを思いながら、道場の寝所に引きとると、沖田総司が薄暗い行燈のかげで下をむいていた。みると、下着を裏返して、蚤《のみ》をとっている。
「やめろ、総司」
腹だたしくなった。蚤ぐらいは歳三もとるが、この場合、沖田の姿勢がいかにもこの三流道場にふさわしすぎて、やりきれない。
「どうしたんです」
見あげた沖田の顔が、びっくりするほど明るい。歳三は、その明るさに救われたような気になって、
「あす、ここへ小遣い稼ぎに来る男は、桂小五郎という男だそうだ。聞いたことがあるか」
「知っていますよ」
沖田は、やはり物識りだった。
「永倉新八(近藤道場の食客。桂と同流別門の神道無念流の免許皆伝)さんから聞いたことがあります。敏捷《びんしよう》鬼神のごとしという剣で、かつて桃井道場で大《おお》試合《よせ》があったとき、諸流の剣客をほとんど薙《な》ぎ倒して、最後に北辰一刀流桶町千葉の塾頭坂本|竜馬《りようま》に突きを入れられて退場したが、おそらく疲れていたのだ、というはなしです。藩は、長州ですよ」
「長州か」
べつに、その藩名をきいても、歳三にはなんの感興もおこらない。長州藩自体まだ平凡な藩で、数年後に政情を混乱させた急進的な尊攘運動は、まだおこっていないのである。第一、歳三自身が、新選組副長ではない。
「長州では、どんな身分だ」
「桂家はもともと百五十石の家柄だったそうですが、相続の都合で九十石になっているらしい。が、あの藩では歴とした上士《じようし》です。学問のほうでも非常な俊才で、藩公のお覚えもめでたい、ということです。まあ、なにもかもめぐまれた俊髦《しゆんぼう》、という人物でしょう」
「ふむ」
歳三は、気に入らない。
普通の人間なら、見たこともない相手のうわさで、
――師にも、主君にも、門地にも、才能にも、すべての点でめぐまれている。
と聞けば、……なるほどわれわれとはちがう、と苦笑すればそれで仕舞いのところだが、歳三の心は、多少屈折している。恵まれすぎている、というそれ自体が気に入らなかった。
「総司、いやにお前、ほめるようだが」
「ほめてやしませんよ。ただ永倉さんからきいただけのことをいっているだけです」
「いや、ほめている。が、総司、お前だって浪人の子に生まれずに、大藩の上士の家にうまれていれば、筋目どおりの教育を受け、筋目どおりの立派な人間になって、主君のおぼえもめでたく、同輩からは立てられるようになっている。人間、生れがちがえば、光りかたもちがってくるものだ」
「………」
「そうだろう」
むろん、歳三は、総司よりもむしろ、自分にひきかえて云っている。
「そうかなあ」
沖田には、そんなことは、からっきし興味がなさそうだった。
その翌朝。――
定刻、七里研之助はやってきた。
相変らず顔の贅肉が煤《すす》よごれた感じだが、眼だけは凄味がさすほどにするどい。
その眼が、にこにこ笑っている。その眼のまま道場の玄関に立った。
単身である。門人も連れない。
むしろ、近藤道場の取次ぎの門人のほうが狼狽したほどの放胆さだった。
「近藤先生にお取次ぎねがいたい。昨日|御意《ぎよい》を得ました八王子の七里研之助でござる」
「どうぞ」
すでに、近藤は道場で待っている。
その横に、塾頭の土方歳三、免許皆伝者の沖田総司、目録の井上源三郎、客分の原田左之助、同永倉新八などが居ならんでいる。
「これは」
七里研之助は、薄ぎたない木綿の紋服に木綿|縞地《しまじ》の馬乗り袴をはいて、いかにも武州上州の田舎剣客といったいでたちである。
一通りのあいさつがおわってから、七里は微笑を歳三の方角へまわして、
「これは土方先生、先日は妙なところでお会いしましたな」
「その節は。――」
歳三は、こわい顔で、軽く一礼した。
「ああ、その節は、お互い、ご無礼なことでありました。おお、そこにおられるのは、沖田先生でござるな。お懐《なつか》しいことだ」
人を食った男である。
やがて、ひとり、取次ぎにも案内されずに(むろんそういう扱いを避けたのだろう、だが)、いかにも当道場の門人の端《はし》、という体作《ていづく》りで、むこうの入口から入ってきた男があった。
歳三は、その男をはじめてみた。
桂小五郎である。
男は、ゆったりと末座にすわった。
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桂 小 五 郎
「あれなるは、当道場門人|戸張節五郎《とばりふしごろう》」
と、近藤は七里研之助に紹介した。戸張とは、代人の桂小五郎のことだ。
「まず、当流の太刀癖をお知りねがう上で、この者とお手合せねがいたい」
「承知した」
うなずきながらも七里研之助は、うろんな表情をかくしきれない。戸張節五郎という剣客の名など、きいたこともないのである。
見れば、小兵《こひよう》ではないか。
(大したことはあるまい)
七里はそんな顔をした。
近藤道場では、三番町の神道無念流斎藤道場から人をよんでくる場合、たれでも「戸張節五郎」という架空の名を用いる例になっている。
やがて、道場の隠居近藤周斎老人があらわれて、
「わしが近藤周斎」
と、七里研之助に目礼し、ひょこひょこと道場の中央に進み出た。試合の審判をするためである。
六十三。
百姓|然《ぜん》としている。近藤、土方、沖田はこの老人に手ほどきをうけ、近藤、沖田はそれぞれ免許皆伝をうけたが、土方歳三だけはこの老人から目録しかもらっていない。
――歳《とし》ァ、腕は立つ。
周斎はそういっていた。
――真剣でやれば勇《いさみ》も危ねえだろう。が、あれは雑流だよ。天然理心流じゃねえ。いくら手直しをしてやっても、直しゃがらねえから、あいつは天然理心流では目録、我流では免許皆伝、それで十分なやつだ。
と、流儀にはなかなか手きびしい。
さて、桂小五郎が、立ちあがった。
ついで、七里研之助。
双方、道場の中央へ歩み寄り、講武所の礼法どおり、九歩の間合をとって目礼し、かがまりつつ竹刀を抜きあわせた。
桂は、述べたように小兵である。それが常寸《じようすん》よりやや短か目の竹刀をかるがると頭上に漂わせている。
七里研之助は大柄《おおがら》のうえに四尺の大竹刀を使っている。どう見ても、見た眼の威圧《おし》が桂とはちがう。
――近藤さん。
と、歳三は、桂のほうをみながら低声で話しかけた。
「負けるんじゃねえかな、あの男、どうも腰が浮きすぎている」
「そういえば、気組がないな」
気組、つまり、気力、気魄のことだ。他流の技術偏重主義に対し、天然理心流ではこれをもっとも尊ぶ。いや、近藤勇の場合、剣術理論の上だけでなく人物鑑定にもこれを用い、あいつは気組がある、ない、というだけで、男の価値をきめるくせがあった。
「やはり、小才子にすぎねえな」
と、歳三はささやいた。歳三にすれば、七里研之助よりも、せっかく傭《やと》ってきた味方の桂のほうが憎い、といった口ぶりである。
「しかし、歳」
と近藤がいった。
「笑いごとじゃすまねえぜ。あの野郎が負けると、お前《めえ》か総司が、七里と立ち合わなくちゃならねえ」
「真剣なら、やってもいい。七里研之助なんざ、あとあとまで祟《たた》りそうなやつだから、足腰の立たねえようにしておくほうがいいんだ」
「物騒なことを云やがる」
そのとき、道場の中央では、周斎老人が手をあげ、
――勝負三本。
と宣した。
七里研之助は飛びさがって下段《げだん》。下段は狡猾《こうかつ》という。攻撃よりもむしろ、相手の出方を試《ため》すのに都合のいい構えである。自然、構えが、暗い。
桂は小兵のくせに、剣尖を舞いあげて派手な左上段をとった。構えに明るさがある。いかにも日向《ひなた》を歩いてきた男、という大らかさが、その体《たい》にあった。
が、小兵の上段だ。七里は、甘し、とみたのだろう。
中段に直すや、ツツと間合を詰め、桂を剣尖で圧迫しつつ、
「やあっ」
と手をあげて胴を襲おうとした。その七里のわずかな起頭《おこりがしら》の籠手を、桂は目にもとまらぬはやさで撃った。
「籠手あり」
周斎老人の手が、桂にあがった。
つぎは、桂が中段。
七里研之助は右上段にとったが、足は自然体をとらず、古い剣法のように撞木《しゆもく》に踏み構え、歩幅がひろい。木刀や真剣のばあいはいいが、竹刀の場合は柔軟を欠く。
(泥臭え)
歳三でさえそうおもった。甲源一刀流といえば聞えはいいが、所詮《しよせん》は、武州八王子の田臭《でんしゆう》が、ありありと出ている。
が、その点、桂はまるでちがう。体《たい》に無理がなく、竹刀が軽い。さすが、精練をきわめた江戸の大流儀である。
ぱっ、と七里の剣が桂の面を襲ったが、桂は体を退《の》くと同時に、自分の剣のシノギで七里の剣を摺《す》りあげてふりかぶり、踏みこんで面を撃った。
(巧緻《こうち》だ)
と歳三はおもった。
が、撃ちは浅く、周斎はとらない。天然理心流では、骨に沁《し》み入るほどの撃ちでなければ、斬れぬ、としてとらないのである。
桂は、さらに踏みこんで面をつづけさまに三度撃ったが、これも周斎はとらない。
つぎは、七里が桂の面を襲った。が、桂は一瞬腰を推進させ、右ひざを板敷につき、竹刀を旋回させて七里の右胴を、びしり、と撃ち、さらに左足を踏みだして左胴を撃ち、つぎは立ちあがりざま、七里の籠手をうった。七里は、桂の曲芸のような竹刀さばきに手も足も出ない。最後に桂は竹刀を頭上に旋回させつつ、七里の横面をとった。
「面あり」
周斎は、その|撃ち《ヽヽ》を採《と》った。
最後の一本は、桂は、こういう場合の他流試合の儀礼として籠手一本を七里にゆずり、さっと自分で竹刀をひいた。
(気障《きざ》なことをしやがる)
譲りがみえすいているだけに、歳三は気に食わなかった。
「それまで」
周斎が、手をあげた。
試合がおわると、桂は不愛想な顔でさっさと身仕舞いをし、道場のむこうへ消えようとした。
「歳、茶菓の接待をしろ」
と、近藤はあわてながら、
「七里はわしが酒肴《しゆこう》で応接する。お前は、桂のほうだ。帰りの駕籠の支度をわすれるんじゃねえぞ」
「ふむ」
面白くねえ、とおもったが、歳三は道場を出て玄関の式台のところで、
「桂先生」
とよびとめた。
「別間に支度がしてございますから、暫時《ざんじ》、ご休息ねがいます」
「いや、いそぐ」
桂は、ふりむきもしない。この場合、桂と歳三の位置を今日風《こんにちふう》にいうならば、総合病院の副院長と、町の医院の代診との関係を想像すればよかろう。
「しかし、桂先生」
歳三は、袖をとらえた。桂はふりむいてから、ぎょっとした。
そこに眼があり、歳三の憎悪が燃えている。
桂は、気になった。
(なぜこの男は、こんな眼をするのか)
「では」
と、桂はおとなしく歳三に従った。支度は周斎老人の部屋にできている。
床柱の前に着座した桂に対し、歳三はことさらにうやうやしく拝跪《はいき》した。
「当道場の師範代土方歳三と申します。以後お見知りおきください」
「こちらこそ」
桂の頭は、軽い。
やがて、近藤の女房の|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》が、茶菓を運んできた。
これも陰気な女だから、一通りのあいさつはするが、愛想笑い一つしない。
|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》は、茶菓のほかに、紙と銭をのせた盆を桂の膝前にすすめた。桂は馴れた手つきでそれを受けとると、懐ろに入れ、あとは無表情に茶碗をとりあげた。
「桂先生」
歳三は、糞丁寧にいった。年恰好は、歳三とかわらない。
「さきほど、おみごとなお試合をみせていただき、眼福至極《がんぷくしごく》に存じました。あれほどの巧者《こうしや》な竹刀さばきは、甲源一刀流、天然理心流などのような田舎剣法では、とても及べません」
「いやいや」
「おかげさまにて、当道場の面目は立ちましたが、ただ後学のために伺いたいことがござります。先生の精妙な竹刀さばきは、打物《うちもの》が木刀、真剣でもおなじぐあいに行くものでしょうか」
「わかりませんな」
桂は、相変らず不愛想だ。歳三はなおも、
「天然理心流にしろ、甲源一刀流にしろ、馬庭念流にしろ、武州、上州の剣術は、実戦むきにできたものですから、ついつい、道場剣術では、江戸の大流儀に負《ひ》けをとります」
「そうですか」
桂は、そんな話柄《わへい》には興味がないらしい。
「もしも」
歳三はにらみすえて、
「いかがでしょう」
「なにがです」
「あれが竹刀でなく真剣なら、七里研之助をああは容易に撃てたかどうか」
「わかりませんな」
と、桂はいった。
相手にならない。田舎の小流儀派に教えにゆくと、かならず歳三のようなのがいて、
――実戦にはいかがなものでしょう。
という。桂は馴れている。
「しかし桂先生、もしここに暴漢がいて、先生に襲いかかってきたらどうします」
「私に?」
桂は、はじめて微笑《わら》った。
「逃げますよ」
「………」
歳三とは、まったく肌合いのちがった男らしい。
近藤は、自室で、|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》に酒肴を出させながら七里研之助と応対している。
七里は、立てつづけに十杯ばかりを飲みほすと、
「いかがです。ひとつ」
「酒ですか」
「いや、試合のこと」
七里は皮肉な顔で、
「こんだァ、御当流のお歴々を八王子に招待したいが、請《う》けてくれますか」
「さあ」
「八王子の酒はまずいが、剣のほうなら比留間道場をあげて十分におもてなしする。じつはそういう積りがあって、このたび試合を申し入れたのです。いかがですかな」
「門人とも相談の上で」
「相談もいいが」
七里は、ぐっと飲みほし、
「代人は、断わりますぜ」
「え?」
「甘くみてもらっちゃ、こまる。知らねえと思っていなさったか。ああいう竹刀曲芸の化物のようなのを呼んでもらっちゃこまる、というんだ」
「そうかね」
近藤は、嶮《けわ》しい顔をした。それっきり、ものも云わない。近藤の癖で、不利になるとだまる。だまると、すさまじい顔になる。
そこへ沖田総司が入ってきた。酒間の周旋をするためである。
「総司、こちら様はな」
と、近藤はいった。
「八王子で試合をなさりたいそうだ。これは請けねばなるまいが、竹刀の曲芸ならいやだとおっしゃる」
「七里先生」
と、総司は向きなおっておどろいてみせた。
「真剣でやる、とおっしゃるのですか。それァよくないご料簡《りようけん》ですよ。まるで合戦になってしまう。いまに、多摩の地は剣術|停止《ちようじ》になりますよ」
「ちがう」
と七里はいったが、追っつかない。
「日は、いつです」
「追って、お招《よ》びする日はきめる」
「しかし合戦に、日も約定《やくじよう》もありますまい」
「総司」
近藤が、むしろあわてた。
「さがってろ」
へっ、と総司はひきさがってから、廊下で歳三とばったり会った。
「桂先生は、もうお帰りになりましたか」
「帰った」
「大儀に存じます」
沖田は、おどけた。この男がおどけはじめると、ろくなことがない。
「土方さん、だいぶ、御機嫌がよかありませんね。近藤先生も、ちょうどおなじ顔つきで、苦《にが》りきっていましたよ」
「まだいるのか、七里が」
「いますとも。いるどころか、こんどは竹刀じゃなくて合戦はどうだ、と持ちかけています」
「うそをつけ」
歳三はどなったが、すぐ真顔になって、七里のことだ、やりかねまい、どんな話だったか、いってみろ、といった。
「いや、大した話じゃありませんよ。まず、御当流の御一同を八王子に招待する、日は追って決めるが、竹刀じゃない、真剣で」
「といったか」
「うん」
沖田総司は、可愛い|あご《ヽヽ》をひいてうなずいた。歳三は、道場の裏に出た。
その真黒い土の上に、大男の原田左之助が諸肌《もろはだ》ぬぎになり、村《むら》角力《ずもう》ほどはある腹を天にむけて寝そべっている。
この食客の日課である。腹に一文字の傷あとがあり、それがときどき思いだしたように痛むので、毎日、時間をきめて陽に当てる。
「原田君」
へっ、と起きあがった。
「君は、たしか人を斬ってみたい、といっていたな」
「いいましたがね」
不愛想な男だ。
肥っちょだが、色白の上にひげの剃りあとが青く、眼が意外に涼しい。が、短気この上ない男で、近藤や歳三でさえ、この食客とものをいうときは、よほど言葉に注意をする。
「あるんだ、その口が」
と、歳三は、折れ釘をひろった。
歳三の癖で、すぐ地図をかく。が、それが誰がみてもありありとその場所を想像できるほど巧妙だというから、この当時の人物としては、珍しい才能だろう。
一本、ぐっと線をひき、
「これが甲州街道だ」
「ふむ」
「浅川が、北から流れている」
「八王子宿ですな」
原田左之助は、うなずいた。
いいな、と云いながら歳三は、次第に筋を複雑にして行って、やがて一点を指した。
「ここだ、原田君。明後日の夜には到着して泊まっていろ。木賃宿《きちんやど》で、名だけは立派な江戸屋というんだ。委細は沖田総司に云っておくが、しかしこのこと、若《わか》(近藤のこと)」
と、親指を立てて、
「に云ってもらってはこまる」
あとは、おなじことを、食客の藤堂平助、永倉新八にも告げ、最後に沖田総司をよんでくわしく作戦を打ちあけた。
「いいか、みなを連れて八王子に行くんだ」
「それで江戸屋に泊まって、土方さんの合図を待ってから比留間道場を襲うのですな。ところで土方さんは、どうなさるのです」
「おれか」
歳三はちょっと考えて、
「発《た》つよ」
「いまから?」
「ああ。あの七里研之助が当道場を出ねえうちにこのまま抜け駈けて八王子へ行く」
「おどろいたなあ」
顔はちっとも驚いていない。
「それで、どうなさるのです」
「比留間屋敷を訪ねるさ」
「訪ねる?」
「兵は奇道だ。相手の喧嘩支度の整うのを待ってから襲《や》っては戦さは五分五分になる。おれが先発するのは、あの屋敷へお前らの人数をすらすらとひきこめるようにしておくのだ」
「軍師だな」
歳三は、そのまま発った。
八王子まで十三里。
途中、日野の佐藤屋敷の前を通る。むろん素通りである。
八王子に着けば、すぐ比留間屋敷を訪ねる。
といっても、尋常な手続きで訪ねられるものとは、歳三もおもっていない。
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八王子討入り
――歳《とし》の鬼あし。
といえば、日野宿かいわいで歳三の少年時代を知る者なら、たれでも知っている。この男の足は鬼のように迅《はや》い。
沖田総司などは、
――土方さんは化物ですね、韋駄天《いだてん》の。
と、からかったことがある。歳三は、(なにを云やがる)とそのときはむっとだまっていたが、こういうことでも根にもつ男で、だいぶ日がたってからだしぬけに、
「沖田、知らねえのか。足の達者なものは智恵も達者、というほどのものだ」
そんな脚である。歩きだすとむっつりとだまり、眼ばかりぎょろぎょろ光らせ、独特の不愛想づらで、とっとと街道を足で噛むようにして歩いてゆく。
その夕、まだ七里研之助が近藤勇と話をしている刻限、歳三は小石川柳町の道場を影のようにぬけ出た。
甲州街道十三里を駈けとおして八王子の浅川橋を渡ったときは、まだ夜が明けていない。たしかに鬼のような健脚である。
(七里はまだ舞い戻っちゃいねえだろう)
宿場に入ると、早立ちの旅人のための茶店が、すでに雨戸を繰《く》っている。
歳三は、浅川橋を渡ったところにある辻堂の裏で衣裳を変え、例によって「石田散薬」の薬売りに化けた。
紺手拭で顔をつつんでいるが、往来はまだ暗い。刀は|こも《ヽヽ》でくるんで横山宿の旅籠《はたご》江戸屋にはいった。
「おれだよ」
めずらしいこと、と、飯盛たちがさわいでくれた。ふるいなじみの|やど《ヽヽ》である。むろんこの旅籠では歳三を、薬屋としかおもっていない。
ここで一刻《にじかん》ばかりぐっすりねむり、あとは膳をもって来させ、めしに汁をぶちかけて存分に食った。
(これでいい)
往来へ出た。朝霧が、つめたい。
旅人が、霧の中で動いている。ここから千人町の比留間道場まで、二キロほどのところだ。歳三はすぐには行かない。事をおこすと火の出るほどに無茶をやる男だが、それまでは不必要なほど慎重に手配りをする。
まず例の専修坊へ立ち寄った。道場の様子を知るためである。寺の境内の太鼓楼のそばにある寺男の小屋へ入ろうとすると、方丈の縁で日向ぼっこをしていた老院主《ろういんじゆ》がめざとくみつけて、
「薬屋か」
手まねぎしてくれた。運がいい。歳三は、院主へ笑顔を作ってみせた。
「ちかごろ、どうしている」
院主は、歳三を縁側にすわらせ、手ずから煎茶をいれてくれた。
「相変らずでございます」
「結構だな」
院主は、菜の漬物を一つまみ、歳三の掌にのせてくれる。
「それはそうと、比留間道場へ嫁《い》らしたお姫《ひい》さまは、お達者でございますか」
「|せん《ヽヽ》か。ありがとう。息災だ」
と、院主は仏のような人物である。まさかこの薬屋が手のつけられない悪党で、娘が犯されている、とは知らない。
「しかし、あれだよ」
と、院主は相変らず話好きだった。
「比留間道場のほうは、だいぶごたごたしているようだよ」
「ほう」
歳三は、愛嬌よく小首をかしげる。
「どういう次第で」
「なあに、博徒の縄張り争いとおなじようなものさ。むかしはこのむこうの浅川の流れを境にして、東は天然理心流、西は甲源一刀流、ときまっていたものだが、世の中が攘夷騒ぎなどであらっぽくなってきたせいか、互いに力で縄張りを奪《と》りあいしようとする。元亀《げんき》天正《てんしよう》の戦国の世にもどったようなもんだね」
老僧は、娘の|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》に似た一重《ひとえ》まぶたの眼をほそめながら、
「なんでも婿どのの話では日野宿石田在のうまれの男で天然理心流の塾頭をしているナントカという男が、こいつが手におえない悪党《ばらがき》で、比留間のほうでもこれを分倍河原におびきだして叩っ斬る計略だったそうだが、逆にこっちに何人かの手負《ておい》を拵《こしら》えやがって、風をくらって江戸へ逃げたそうだよ」
「おもしろい男でござんすねえ」
「なにが面白いもんか。どうせ、面《つら》をみてもいやなやつだろう」
「へえ」
歳三は、ゆっくりと茶を服《の》んだ。
「どうだ、もう一服」
「へえ、ありがとうございます。――しかし、甲州街道筋のうわさでは、比留間道場の塾頭の七里研之助という男も相当な悪党《ばらがき》で、評判がわるうございますよ」
「そうらしい」
老僧は、うなずいて、
「なんでも、あの七里という男は、もともと八王子剣客でも甲源一刀流でもなくて、上州から流れてきた傭い塾頭だそうだ。婿どのの比留間半造も、内心手を焼いているらしいが、あの男がきてから、百姓や博徒の門弟がぐっとふえているから、婿どのも目をつぶっているのだろう。しかし腕はめっぽう立つそうだよ」
「ほほう」
「いまに、八王子の甲源一刀流が三多摩の雑流を打ちくだいて西武《せいぶ》一帯に覇《は》をなすと豪語しているという。どうだ、もう一服」
「へい?」
歳三は、ほかのことを考えていた。
「茶だよ」
「足りましてございます」
辞儀をして立ちあがり、そのまま山門を出て街道筋にもどった。
霧は、晴れている。歳三は、宿場の軒端《のきば》をつたいながら、西へ歩いた。
八王子宿は甲州街道きっての大宿場で、西にむかって長く、小宿《こじゆく》にわけると十五宿にわかれる。その小宿を横山、八日市、八幡、八木、と歩き、武家屋敷のならぶ千人町の角まできたときには、すでに陽も高くなっていた。
(さて)
歳三は、ためらいもしない。比留間道場の門前をゆうゆうと通って、そのままの足で裏木戸へまわった。それだけではない。放胆にも、ぬっと邸内に入ってしまったのである。真昼の押し込みに似ている。
幸い、人影はない。
(不用心なことだ)
歳三は、両肩をすぼめ、道場と屋敷のあいだにある狭い通りぬけをゆっくり通った。勝手はわかる。このまま通りぬければもう一つ木戸があり、それをあければ、裏は一面の桑畑がひろがっているだろう。
そこを通りぬけようとしたとき、背後で、がらりと戸があいた。
(………)
やっと、足をとめた。そのくせ、背後をふりむこうとはしない。もしとがめられたら、
――へえ、薬屋でございます。
という言葉も用意していた。もうこの道場では、そんな偽装も通らなくなっているのだが、歳三はぬけぬけとやってのける糞度胸も用意している。
「………」
歳三は、なおも背後をふりむかない。ところが奇妙なことに、背後の者も、だまりこくったまま、声もかけないのだ。ただ、はげしい息づかいだけはきこえてきた。女である。
(|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》だな)
都合がいい。会おうとした者にいきなり会えるなどは、やはり体を知りあった男女には、眼にみえぬ糸のかよいあっているものなのか。しかし歳三は、
(おれだよ)
ともいわず、歩きだした。
その薬屋姿の背後に、|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》は、唇から色を喪《うしな》って、ふるえながら立っていた。もはや色恋沙汰という感情ではない。恐怖といっていい。この男は、なんのために自分の婚家に、こうもしばしばやってくるのだろう。
むろん、|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》は、歳三が、じつは薬屋でなく天然理心流の塾頭であることも知っているし、六車斬りから分倍河原の喧嘩までのいきさつをいっさい知っている。
それだけに、おそろしかった。
木戸の手前で、この薬屋はゆうゆうと右へ折れた。ここに納屋《なや》がある。よく勝手を知っている。納屋は、味噌蔵と什器蔵《じゆうきぐら》にかこまれていて、ここへはめったに家人も門人も来ないことも、この男は、よく馴れた盗賊のように知っていた。
もう一つ、薬屋は、|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》の心もよく知っていた。
(かならずついてくる。――)
事実、|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》は、足音を忍ばせ、惹《ひ》かれるように歳三の背中を追った。納屋と蔵のあいだで、歳三は待っていた。
歳三は、手をのばして|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》を引きよせ、いきなり抱きすくめた。
「迷惑か」
耳もとでささやいた。迷惑は当然である。歳三は囁《ささや》きながら左手で|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》の裾を割り、むざんな仕掛けをくわえている。|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》は、抱かれて立っていた。|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》の素足は|どく《ヽヽ》だみ《ヽヽ》の茂みを踏み、その葉の青い汁が、足の指を濡らしている。温和《おとな》しい女だ。
身をよじって抗《さから》いはしなかったが、それでもこの女にしては精一ぱいの努力で、
「もう、来てくださいますな」
と、小さな声でいった。そのとき陽がにわかに翳《かげ》った。風が土蔵の西棟におこって栗の木がさわぎはじめている。
「あんたも悪い男に縁をもったことだ」
歳三の声が、乾《かわ》いている。
「厭《いや》」
「しばらく、動いてくれるな」
歳三の指に力が入った。|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》は、泣きそうになった。が、もがこうにも、歳三の片腕は|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》の体を抱きすくめて動かせない。
「あの、こんな、真昼に。――」
「夜ならば、いいと申されるのか」
「もう、おそろしゅうございます。ここへは来てくださいますな」
云いながらも、やっと立っている|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》の足は、|どく《ヽヽ》だみ《ヽヽ》を夢中で踏みにじっている。
「それは、堪忍《かんにん》。――」
「されば、あすの夜|十時《よつつ》、桑畑に面した裏木戸をあけておいてくれ。忍んで来る。最後の想いを遂げれば、もはや二度と来ぬ。このこと、承知してくれような」
「はい」
かすかにうなずいた。
(これでよい)
歳三は、|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》への用は済んだ。あとは、そのひらいた木戸から、沖田総司、原田左之助、永倉新八らを導き入れれば、それで済むことである。
(この悪党《ばらがき》め)
とは、歳三は自嘲しない。いまの場合歳三には喧嘩に勝つことだけが重要なのである。
その翌夕、歳三が旅籠江戸屋で待っていると、予定どおり沖田らがやってきた。
かねて打ちあわせどおり、旅籠の者に怪しまれないように、歳三とはまったく別の客としてかれらは階下にとまっている。
めしが済んでから、沖田総司は一人で歳三の部屋へやってきた。
「………」
歳三はうつむいて、ひざの上でなにか細工ごとをしている。よくみると、熱燗《あつかん》の入った五合徳利に散薬を入れていた。
「なんです、それは」
「打身骨折の妙薬だ。酒に入れてあらかじめのんでおくと、ききめが早い」
「それが、土方家伝来の妙薬石田散薬というやつですか」
「おれの商売ものだよ」
相変らず、不愛想な顔だ。
原料は、かつて書いたように、土方家のすぐそばに流れている多摩川の支流浅川の河原から採る。こんにちでもなお河原いっぱいに繁茂しているトゲのついた水草だが、これをとって乾燥させ、農閑期に黒焼きにして薬研《やげん》でおろし、散薬にする。土方家では、この草の採集期(毎年|土用《どよう》の丑《うし》の日)や製剤のシーズンには村じゅうの人数をあつめてやるのだが、歳三は十二、三歳のときには、この人数の狩りあつめから、人くばり、指揮、いっさいをやった。歳三が人動かしがうまいのは、こういうところからもきている。
「これは効くぞ」
歳三は、うれしそうな顔をした。
「そうかしら。しかし土方さん、相手は骨折ですぜ。服《の》んで効くもんですかねえ」
「薬は気で服む。性根《しようね》をすえて、きっと効くものと思えば、必ず効く」
「すごい薬だなあ」
「これを階下《した》へもって行って、みんなに五、六杯ずつのませてやれ」
「みな、感泣します」
沖田は、ぺろりと舌をだした。
「武器《えもの》は木刀だ。相手がたとえ真剣できても木刀でたたき伏せる。分倍河原のときは野っ原だったからいいが、こんどはそうはいかねえ。八王子宿だからな」
「寝込みを襲うわけですね」
「ちがう」
歳三は、いった。
「ちゃんと試合をする。ただ普通の試合とちがうのは、相手をたたきおこしてむりやりに木刀をもたせてやるだけのことだ」
「なるほど」
奇想である。内実はどうであれ、形はあくまでも試合のすがたはとっている。勝てば評判がたつ。剣の道は、評判をえた側と、墜《おと》した側とでは、なにかにつけ天地の差がある。
「七里研之助がわれわれの道場にきて云いきった以上、試合はすでにはじまっている、と考えていい。油断は、したほうがわるい」
「討入りは、どこから?」
「おれがちゃんと考えてある。その場で下知《げち》に従えばいい」
まだ、十時《よつつ》まで時間がある。歳三は沖田をおっぱらって、横になった。
うとうとしていると、歳三とは古い顔馴染《かおなじみ》の年増の飯盛女《おじやれ》があがってきて、
「どう?」
といった。一緒に寝ないか、というのだ。
「いいよ」
「あたしじゃ、不足かい」
「おれァ、白粉《おしろい》くせえのが嫌いなんだ」
「変わってるねえ。じゃ、白粉おとしてあがってくるから、おとなしく寝床にくるまって待っていな。いっとくけど、あたしゃ稼業でいってるんじゃないんだよ。いい男が独り寝しているなんざ、うすぎたねえざまだから、功徳《くどく》でいってるんだよ」
「かたじけねえ。だが、おれは今夜、夜発《よだ》ちをして甲州へ出かけなきゃならねえんでね」
「おや、あんたも夜発ちかい。およしよ。階下《した》のお侍衆も夜発ちだといっていたから」
「侍は侍、おれはおれだ」
「だってさ」
飯盛女はのぞきこんで、
「あの連中、なんだかおかしいよ。比留間道場と喧嘩するんじゃないかい」
(えっ)
が、歳三は驚きを消して、ゆっくりと起きあがった。話が、洩れている。
「どこで聞いた」
「勘《かん》さ」
女は、くすくす笑ってじらした。歳三は、そっぽをむいた。|しわ《ヽヽ》に白粉がめりこんだ女の白首がやりきれない。飯盛女はしているが、五十にはなっているだろう。
「あたしの勘だよ、お前さん」
と、女は得意そうにいった。
「………」
女好きのくせに、ときどき、女というものがぞっとするほど気味わるくなることがある。というより、本心、女が憎くてきらいなのかもしれない。歳三が、女に打ちこんだことがないのは、女がこわくて、いつも逃げ腰でいるせいかもしれない。
「ねえ、ききたくないかい」
女は、骨ばった指で、歳三のひざをつついた。
「おもしろいよ、あたしだけしか知っていない芝居が、いまにこの往来でおっぱじまるから」
「どういうわけだ」
「こうだよ」
さっき、女が階下《した》の手洗いで用を足していると、往来に、侍がいた。おかしい、と思い軒端へ出てみると、武士が何人もいる。用もないのにぶらぶらと往来を歩いたり、むかいの旅館の天水桶の蔭に立っていたりして、様子が尋常ではない。
(捕物かな)
とおもったが、捕方ではない。どの顔も、比留間道場にいる若い連中である。
「比留間道場?」
歳三は、息をのんだ。
露《ば》れている。
すでに相手は、先《せん》を打って、この江戸屋を見張っているらしい。おそらく、宿場外れの暗がりには十分の人数を用意しているだろう。
(たれが、露らしゃがった)
歳三の顔から、血がひいた。|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》が、訴えたにちがいない。相違なかった。|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》は小さな胸におさめかねて、何等かのかたちで夫の半造か、七里研之助に告げたものにちがいなかった。
「お前さん」
女は、けろけろと笑って、指で歳三を突いた。
「ずいぶん、女をだましてきたね」
「なに?」
歳三は、ぎょっとした。胸中の思案と、あまりにぴったりしているからである。が、女はべつに底意あっての戯言《ざれごと》ではなく歳三のくびに腕をまきつけてきて、
「いい男だからさ」
といった。
「どけ」
歳三は立ちあがっている。階下には、沖田総司、原田左之助、永倉新八、藤堂平助がいる。無事これだけの人数が八王子を脱出できるか、歳三にも成算がない。
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スタスタ坊主
一同、旅籠の階下で酒を飲んでいる。
土方歳三、かれらの部屋に入ってから、濁酒《どぶ》のにおいに、むッと顔をしかめた。原田左之助のごときは横になり、太鼓腹の上に五合徳利をのせ、鎌首をもたげては、猪口《ちよこ》をすすっている。
「原田君、それが武士の容儀か。起きたまえ」
冷たい眼でいった。歳三にとって、男の酔態ほど不快なものはない。ちなみに、近藤も土方も酒を嗜《たしな》まなかったが、おなじ下戸《げこ》でも近藤は酒席がすきで酒徒にも理解がある。が、土方は、この腸《はらわた》の腐るような匂いが、がまんならなかった。多少嗜むようになったのは京にのぼってからで、はじめて王城の地の美酒をのんだとき、酒とはこういう液体だったのか、とそれまでこの液体にもっていた憎悪を多少解いたほどである。
「ご用ですか」
と原田はいった。
「諸君に、話がある」
と歳三は、自分たちの企図がすでに比留間道場に知られてしまっていることを明かし、すでにこの旅籠のまわりや、宿場の要所々々は甲源一刀流の人数で固められている、と手短かに説明した。
「では、どうするんです」
「逃げるのさ」
「私は、いやだ」
「君は酔っている。だまりたまえ」
そのころ、八王子宿の千人町にある甲源一刀流比留間道場では、近在の門人のほとんどをかりあつめてしまっていた。
百姓、博徒、八王子千人同心、といったような雑多な顔ぶれで、人数は三、四十人もいたろう。それぞれ、木刀、タンポ槍などを持ち、鎖《くさり》の着込みをつけている男もある。もし代官所から故障が出たばあいは、天然理心流との野試合である、という弁明も用意していた。むろん、師範代七里研之助の智恵である。
当の道場主比留間半造はおだやかな男だから、指揮はいっさい、七里まかせだ。
内儀の|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》は、風邪と称して寝こんでしまっていた。生きた心地がしなかった。彼女は、「薬屋」を売った。智恵ぶかく告げ口したつもりだから、夫も七里も、彼女がまさかその薬屋と、娘当時に|いき《ヽヽ》さつ《ヽヽ》があったとは、気づいていない。女の狡智は、身をまもるために天から授かったものだ。が、この智恵ぶかい筋書がうまくいったにしても、戯作《げさく》の書き手である彼女は、いまから舞台で進行する芝居そのものはみたくない。
七里研之助は、人数を二手にわけた。相手がいずれに押しかけてくるにしても、これを機会に、連中《ヽヽ》の足腰を一生使いものにならぬほどにたたき折ってしまうつもりでいる。
その点、七里は似ていた。病的な喧嘩ずきは歳三とそっくりであった。七里は剣術道具をつけ、人数の手配りなどをしているときは、眼の色までかわっている。
七里は、一手を千人町の道場に詰めさせて道場主比留間半造をまもらせた。これが主力で二十人。
他の一手は、
明神の森
に、埋伏させている。
これで、天然理心流の五人は、退くも進むも、袋のねずみになる。
――何度もいうが、宿場の往来で闘争におよんではならぬ。上州ではそういうことがあって、一郷剣術|停止《ちようじ》の御沙汰を食いかけたことがある。あくまでも相手を、道場か、明神の森にひきずりこんで討《や》る。
と、七里は門弟衆に注意をした。
「――まさか」
と、歳三は、旅籠江戸屋の階下奥の間でいった。
「比留間の連中が、この殷賑《いんしん》の八王子宿の往来で事はおこすまい。おそらく、われわれが宿場はずれに脱《ぬ》けだしたときが、あの連中の|つけ《ヽヽ》め《ヽ》だろう。つまり、あぶないのは浅川の橋をわたってからだ。渡ってほどなく左手に雑木林がある。土地では明神の森とよんでいる。おれが七里研之助なら、ここへ人数を埋めておきたいところだ。ここがあぶない」
「それで?」
と、原田左之助はいった。
「われわれは、どうするんです」
「いま、云う」
歳三は、ぎょろりと一座を見まわして、
「沖田君」
といった。
「君は藤堂(平助)君、永倉(新八)君と三人で、先発してもらう。この三人は、闇組《くらやみぐみ》になる。提灯はつけない」
「ああ、|祭り《ヽヽ》の《ヽ》喧嘩《ヽヽ》だな」
と、沖田総司は、カンがいい。歳三のうまれた日野宿|郊外《はずれ》には、むかしからそういう喧嘩の戦法があるのだ。
この三多摩地方は、家康の関東入府いらい幕府領として、江戸の大人口をささえる農業地帯にさせられてしまったが、それ以前は、このあたりの農民は合戦といえば具足《ぐそく》を着て、源平以来、精強をほこった「坂東《ばんどう》武者」のすご味をみせたものである。
歳三の土方家も、いまでこそ百姓の親玉になりさがっているが、遠く源平のころは土方次郎《ひじかたのじろう》などという源氏武者も出(東鑑《あずまかがみ》)、戦国のころは多摩十騎衆の一軒(新編風土記)、土方越後、同善四郎、同平左衛門、同弥八郎などは、小田原北条氏の屯田司令官(被官《ひかん》)として、勇を近隣にふるったものである。
この三多摩一帯は、そういう源平武者、戦国武者の末孫だから、気性もあらく、百姓とはいえ、先祖の喧嘩のやりかたや、小競合《こぜりあい》の戦法を伝えてきている。土方歳三が指導したのちの新選組の戦術や、会津戦争、函館戦争のやりかたは、三多摩の土俗戦法から出たものである。
沖田総司が、
――ああ、|祭り《ヽヽ》の《ヽ》喧嘩《ヽヽ》、だな。
といった戦法も、その一つである。
「土方先生」
と原田左之助は不満そうにいった。
「私の名がないようですが」
「君は、おれと一緒さ。つまり、|祭り《ヽヽ》の《ヽ》喧嘩《ヽヽ》という戦法《やりかた》では、君も私も、提灯組、ということになる」
「というと?」
「まあ、私の教えるとおりにやってみることだ。なかなか乙《おつ》で、おもしろいぜ」
旅籠江戸屋のまわりを見張っている比留間道場の連中は、七人である。
これらの連中の任務は、たった一つしかない。
――出たら、どの方角か、告げろ。
とだけ、七里研之助から命じられている。歳三らが千人町(道場)へむかうか、それとも街道を東へ走って江戸へ帰ってしまうか。
(どっちだろう)
と、かれらのたれもが、旅籠の植え込み、天水桶のかげ、むかいの旅籠の土間、などから眼をひからせていたが、やがて戌《いぬ》ノ刻の時鐘が鳴ったあと、風が立った。そのとき、一様に編笠をかぶった三人の武士が出てきた。
沖田、藤堂、永倉の三人である。これが歳三のいう闇組で、提灯をもっていない。
――出た。
と、見張りの連中は色めいた。
夜空はみごとに晴れ、星がひしめきあって輝いている。三人組の編笠は旅籠を出るなり江戸の方面にむかって歩きだした。が、すぐ武士たちの黒い影は街道の闇にまぎれてしまった。
――甲州街道を江戸だ。すぐ千人町へ走って七里どのにそういえ。
と下知《げち》する者があって、使番《つかいばん》の者が軒づたいに走りかけたとき、旅籠江戸屋から面妖《おかし》なものが出てきた。
大坊主である。
こいつが坊かずらをかぶっている、とまでは、暗くて見ぬけなかったが、頭に縄の鉢巻を締め、腰に注連縄《しめなわ》を巻きつけ、背中からムシロを斜めにかつぎ、腰に大きな馬乗り提灯をさしこんでいる。
「さあさ、みなさん、善男善女」
と、歌い、かつ踊りながら歩きはじめた。
これが、かつて伊予(愛媛県)松山藩のさる上士の中間《ちゆうげん》部屋でごろごろしていたころの原田左之助が、当時おぼえた酒席の芸である。
いまでも酔っぱらうとこの隠し芸を出すのだが、口のわるい連中のなかでは、
(原田君、あれは中間部屋で覚えた芸だというが、案外、あれが本業だったのではないか)
と、真顔でいう者もある。それほど、この左之助の芸は堂に入っている。
掌《て》のなかに、単純な楽器が入っていて、これがカチカチと鳴る。楽器といっても竹札《たけふだ》二枚で、これを指ではさんでは離しながら、
「スタスタ、スタスタ、スタスタ坊主の来るときは、……」
とうたうのだ。
――なんだ、あれは。
――スタスタ坊主さ。
と、一人がいった。
むかしは諸国にこういう乞食坊主が歩いていたものだが、いつのほどか廃《すた》れていた。が、ちかごろは、また街道筋に湧《わ》くようにして出てきている。これも攘夷さわぎで、世間が不安になっているあらわれかもしれない。
「スタスタ、スタスタ、スタスタ坊主の来るときは、腰には七九《しちく》の注連《しめ》を張り、頭にシッカと輪をはめて、大日《だいにち》、代僧《だいそう》、代詣《だいまい》り、難行苦行のスタスタ坊主、スタスタ云うてぞ安らいぬ」
と、原田左之助は、踊りながら江戸の方角にむかって歩きはじめた。背中のムシロにはこの男自慢の肥前鍛冶藤原吉広二尺四寸がねむっている。
その背後から歳三が、これも無紋の馬乗り提灯を腰にさし、紺手拭の頬かぶり、薬屋の装束で歩いた。
二人は、浅川の橋を渡った。
渡ると、八王子宿はおわる。あとは星空の下で、黒土の甲州街道が武蔵野の草と林のなかを横切ってえんえんと東へつづくばかりである。
やがて、明神の森に近づいた。
この森の祭神は、山城《やましろ》と近江《おうみ》の国境に横たわる比叡山《ひえいざん》の氏神で、日枝《ひえ》明神という。おそらく、遠い戦国以前にこのあたりに叡山|延暦寺《えんりやくじ》の寺領があって、その寺領守護のためにこの明神が坂東の地まで勧請《かんじよう》されてきたものだろう。
祠《ほこら》は、雑木林につつまれている。欅の枝が街道に屋根をつくるようにして繁り、星の光りをさえぎって、下は洞穴のようにみえる。
「原田君、大声でうたえ」
と、歳三がいった。
「心得ました」
梟《ふくろう》が、啼いている。
――さあさ。
と、原田がうたいだした。
――みなさん、善男善女。スタスタ、スタスタ、スタスタ坊主の、……。
とまでいったとき、横手の森の中から十二、三人の男が出てきて、ぐるりとふたりを取りまいた。
ここまでは、歳三の計算ずみである。
「おい、坊主」
と、一人が提灯をつきつけていった。
「どこへ行く」
「ここは関所かね」
と、原田はいった。喧嘩腰である。歳三はヒヤリとした。ここは下手《したて》に出て、できれば事をおこさずに通過したい。(これは、役者選びを誤ったかな)とおもった。
「こっちから訊こう」
原田左之助は、底さびた声で、
「このあたりは、伊豆の韮山《にらやま》代官支配の飛地《とびち》だときいているが、代官でもかわって、この天下の公道に関所でもできたのか。それともうぬら徒党を組み、みだりに往来を扼《やく》して関銭《せきぜに》をかせぐとあれば、罪は九族まで獄門、天下第一等の悪業だぞ。よく考えて返事をしろ」
「なにをほざきゃがる」
相手はひるんだが、歳三のそばに寄ってきた一群が、
「うぬは、この願人坊主の供《とも》か」
と提灯をつきだしたとき、あっ、と声をあげた者がある。
「こいつだ、薬屋。――」
「どれどれ」
二、三人が、歳三の顔に提灯をつきつけ、舐《な》めるように見はじめた。
「おい、薬屋、頬かぶりをとってみろ」
面ずれのあとを見るためだ。
「へい」
と、歳三は小腰をかがめ、持っていたムシロを左わきにかかえ、あごの結び目を解くふりをしてやにわにムシロの中の刀のツカをにぎって、スッと腰をおとした。
「あっ、なにをしやがる」
飛びのいたはずみに歳三の刀がはねあがって、相手の裏籠手《うらごて》をぬき打ちに斬った。腕が一本、提灯をにぎったまま素っ飛んだ。
そのとき、スタスタ坊主の原田も踏みこんで、わっと刀を横に薙《な》ぎはらった。
みな、ばたばたととびのいた。
「後《あと》へ、後へ」
と下知者が、あわてて叫んだ。
「輪をひろく巻け。相手は二人だ」
しかも、歳三、原田は、これを目印に斬ってくれといわんばかりに、でかでかと大きい提灯を腰にぶらさげている。
「原田君、まだ仕掛けるな」
「なぜです」
「待つんだ」
歳三は、落ちついている。甲源一刀流の連中は、歳三の|わな《ヽヽ》にかかりつつある。
この戦法は、後年、会津戦争のとき、山中で薩長土の官軍をさんざんになやました手である。
実をいうと、沖田、藤堂、永倉の三人の闇組が、沖田は雑木林の中から、藤堂は田圃の中から、永倉は往来の東から、そっと忍び寄っていた。
このあたりの村の若衆が、祭礼の夜など、他村の者と喧嘩をするときには、たいていこの流でやる。
三人はそれぞれの場所で、起きあがった。
「わっ」
とはいわない。人数が知れる。
無言で、ただひたすらに手足を動かし、背後から、木刀で、できるだけすばやく後頭部をなぐってゆくのだ。
藤堂は、三つなぐった。
永倉新八は、右面、左面と交互になぐってまたたく間に六人を昏倒させ、沖田総司は真剣をふるって群れのなかにとびこみ、提灯を切り落しては、一つずつ闇を作った。
その混乱に、歳三と原田左之助は、正面から斬りこみ、籠手ばかりをねらって手あたり次第に斬りまくった。
比留間勢は、どっと西へ崩れた。闇のなかで、しかも背後からの無言の奇襲というのは、よほど大人数かと錯覚させるものだ。
「退《ひ》け」
比留間勢の下知者はわめいた。
わっと算をみだして逃げだしたが、歳三たちも、同時に東にむかって飛ぶように逃げだした。喧嘩は、機《しお》なのだ。ぐずぐずしていれば、千人町からの人数が駈けつけてくるにきまっている。
それから、一月ほど経った。
ある日、まだ日ざかりの時刻に多摩方面の出稽古から帰ってきた近藤が、裏の井戸端で足をすすぎながら、
「その辺に歳《とし》はいるか」
と、大声でよんだ。
歳三が道場から出てきて、のっそり横に立った。
「なにかね」
と歳三はいった。近藤は足の指のまたを洗っている。
「日野宿の佐藤さんのところで、八王子から流れてきたうわさを聞いた」
「どんな?」
歳三は、警戒している。例の一件が近藤の耳に入ったのではないかと、思ったのだ。
「八王子の比留間道場が、当分道場を閉めるてえうわさだ。きいたかね」
「きかないね」
「こいつは愉快だ。早耳の歳三といわれた男が」
近藤は、大口をあけて笑った。
「存外に鈍《どん》だな」
「鈍だとも。いったい、何だって一時はあれほど活気のあった道場を閉めたんだ」
「門弟の質《たち》がわるすぎるんだってよう。あの道場は先代までは、八王子千人同心だけを相手にほそぼそとやっていたんだが、当代になって、上州から流れてきた七里研之助などというえたいの知れぬやつを師範代にかかえたために、道場の品格がくずれた。七里のやつ、道場経営のためと称して、八王子近在から甲州にかけての博徒をあつめて剣術をならわせたものだから、道場の内外でこの連中の喧嘩刃傷沙汰がたえない。とうとう八王子千人|頭《がしら》の原三左衛門どのが仲に立って、道場の風儀をあらためることになった」
「七里は?」
「追われたそうだ」
「ふむ?」
歳三は、複雑な顔をした。
「なんでも」
と、近藤は手拭で足をぬぐいながら、
「道場の連中二、三人をつれて、京へのぼったそうだ。これからの武士は京だ、と吹いてまわっていたらしい。どうせ、流行《はや》りの攘夷浪士にでもなって、公卿《くげ》を神輿《みこし》にかついで公儀こまらせをする気だろう」
(これからの武士は京、か)
歳三は、考えこんだ。
(武士は京。……)
が、このときべつにまとまった思案があったわけではない。
この思案がにわかに現実化したのは翌年の秋、になってからである。
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疫 病 神
筆者は運命論者ではないが、人間の歴史というのは、じつに精妙な伏線でできあがっている。
近藤勇も土方歳三も、歴史の子だ。しかも幕末史に異常な機能をはたすにいたったことについては、妙な伏線がある。
麻疹《はしか》と虎列剌《コレラ》である。
この二つの流行病がかれらを走らしめて京都で新選組を結成させるにいたった数奇《さつき》は、かれら自身も気づいていまい。
この年、文久二年。
正月ごろに長崎に入港した異国船があり、病人を残したほか全員が上陸した。
そのうちの数人が高熱で路上に倒れ、しきりと咳《せき》をし、やがて船にはこばれた。それがハシカであることがわかった。このころ、大西洋上のフェレール群島(デンマーク領)で猛烈なハシカが流行し、たちまち全ヨーロッパに蔓延《まんえん》したから、この船員が長崎で飛散させた病源体《ビールス》は、おそらくそういう経路をたどったものだろう。
長崎は、軒なみにこの病源体《ビールス》に襲われ、これが中国筋から近畿にまで蔓延した。
たまたま、京大坂に旅行していた二人の江戸の僧がある。
この僧は、江戸は江戸でも、小石川柳町の近藤道場「試衛館」と背中あわせになっている伝通院の僧であった。
これが道中何事もなく江戸にもどったが、伝通院の僧房でわらじをぬぐとともに発病し、たちまち山内《さんない》の僧俗の大半はこれで倒れた。
ハシカの病源体《ビールス》は、現代《こんにち》でこそ国内に常在し、風土病化しているが、鎖国時代の日本ではまれにシナ経由で襲ってくる程度のもので、免疫になっている者はすくない。
ために、死ぬ者が多かった。
この伝通院の二人の僧がもって帰った「異国渡来」の麻疹は、またたくまに小石川一円の老若男女を倒し、江戸中に蔓延しはじめた。これにコレラの流行が加わった。
――これも、幕府が、京の勅許を待たずにみだりに洋夷《ようい》に港を開いたからだ。
と、攘夷論者たちはこの病源体におびえ、そういう説をなした。
江戸の人斎藤|月岑《げつしん》が編んだ『武江《ぶこう》年表』の文久二年夏の項によれば、
○日本橋上に、一日のうち棺桶が渡るのが二百個以上の日もあった。
○死体じゅうが赤くなる者が多く、高熱のため狂を発し、水を飲もうとして川に走って溺れ、井戸に投じて死ぬ者がおおい。熱さましの犀角《さいかく》などはとても効かない。七月になっていよいよ盛んで、命を失う者幾千人なりやを知らず。そのうえ、これにあわせてコロリ(コレラ)がはやった(これも数年前の安政年間が日本最初の流行で、この文久二年夏が三度目。この伝染病も、開港による西洋人もちこみの疫病である)。
「ひどいもんですよ」
と、町を出歩いては歳三に報告するのは、沖田総司である。
沖田の報告では、江戸の町々はどの家も雨戸を締めきって、往来に人がなく、死の町のようになっている。
夏というのに両国橋に涼みに出かける者もなく、夜舖《よみせ》も立たず、花柳街《いろまち》も、吉原、岡場所をとわず、遊女が罹患しているために店を閉めて客をとらない。
第一、湯屋、風呂屋、髪結床《かみゆいどこ》といった公衆のあつまる場所にはいっさい人が寄りつかず、このため、江戸の男女は垢だらけになり、地虫のように屋内で息をひそめている。
「江戸じゅうの奴らが、小石川界隈と云や地獄かと思っていますぜ」
「ここが風上《かざかみ》だからな」
と、近藤が憂鬱な顔をした。
流行の発祥地である小石川一帯はとくに罹患者が多く、人が寄りつかない。近藤道場には門人がかいもく寄りつかなくなったのである。
「伝通院の坊主め」
近藤は、吐きすてるようにいった。まさか近藤は、この病源体が大西洋上のデンマーク領群島から地球を半周して、近藤道場の近所までやってきたとは思わない。恨むとすれば、一昨年《おととし》の三月、桜田門外で殺された大老井伊|掃部頭直弼《かもんのかみなおすけ》の開国政策をうらむべきであった。
「しかし、面妖《みよう》だな」
と、近藤は腕組みしながら、
「当道場の連中はたれもかかっていない」
「近所じゃ、憎まれてますぜ。あそこの剣術使いどもが一人も罹《かか》らねえというのは、よほど悪運のつよい連中の集りなんだろう。一人ぐらい罹ったほうが可愛らしくていい、なんて、松床《まつどこ》のおやじが触れまわっているそうです」
と沖田がいった。
「歳、そうだとよ」
近藤がおかしがった。
「お前、みんなの身代りになって、すこし患《わずら》ってみたらどうだ」
「土方さんじゃ、だめです」
沖田がからかう。
「疫病神がしっぽをまいて逃げますよ。土方先生ご自身が、大疫病神でいらっしゃる」
「なにをいやがる」
「しかし歳」
近藤は、いった。近藤は養子とはいえ、この小道場の経営主である。こういう心配があった。
「このぶんでは、道場は立枯れだな。どうすればいい」
「待つしか手がありませんな。米櫃《こめびつ》がからになるまで籠城するしか仕方がありませんな」
「籠城か」
それには、金も米も要る。
歳三は、その工面《くめん》をするために日野宿の大名主佐藤彦五郎義兄のもとに何度も使いを走らせては、金穀《きんこく》だけでなく、味噌、塩、薬までとりよせた。
悪疫の猖獗《しようけつ》は、七月、八月とつづき、例年江戸じゅうの人気をあつめる浅草|田圃《たんぼ》の長国寺でひらかれる鷲《おおとり》大明神の開帳も、ことしは、付近の野良犬がうろついている程度だったという。
流行は、九月になってもやまない。
十月になって、ようやく衰えた。
が、いったんさびれた道場というのはおかしなもので、門人がもどって来ない。
もっとも門人といっても、歴とした禄米取りの武士といえば、先代周斎のころに奉行所与力某というのがいたというっきりで、現実《ありよう》は、町人の若旦那、旗本屋敷の中間部屋の連中、博徒、寺侍といった性根のない連中だから、稽古から遠ざかってしまうと、もうやる気がなくなるのである。
秋も暮れ、冬になった。
道場には、相変らず食客がごろごろしていて、水滸伝《すいこでん》中の梁山泊《りようざんぱく》のような観を呈していた。こういう連中があつまってくるのは、近藤の奇妙な人徳といっていい。
どこか、抜けている。
その抜けているところがこの町道場の気風をつくっていた。気楽だし、大きな顔をして台所飯を食っていられる。
食客にも、いろいろある。
伊勢の津の藤堂様のご落胤《らくいん》だと自称している江戸っ子の藤堂平助(北辰一刀流目録)や、松前藩脱藩で神道無念流の皆伝をもつ永倉新八、播州《ばんしゆう》明石の浪人斎藤|一《はじめ》などは、それぞれ他流を学んだ連中で、かれらは、天然理心流の近藤、土方、沖田とちがい、竹刀さばきが巧妙だから他流試合にくる連中の相手をする。そのために飼われている、というより、そういう役目があるから道場のめしを無代《ただ》で食うのは当然だが、伊予松山藩の中間くずれの原田左之助などは、根が槍術なのである。宝蔵院流槍術を大坂|松屋町《まつちやまち》筋の道場主谷三十郎(のち原田の引きで新選組に参加)にまなび、谷から皆伝をうけたが、剣術はあまり精妙でない。
無双の剛力で、しかも度はずれた勇気をもつ点では、源平時代の荒法師のような男だが、他の食客のように剣の代稽古で食扶持《くいぶち》をかえすというわけにはいかない。
「こまったな、こまったな」
といいながら、台所のすみでいつも飯を食っている。
道場は、窮乏している。
が、原田は食わざるをえない。しかもなみはずれた大飯である。
「原田君には飯櫃《はち》を一つあてがっておいてやれ」
と近藤はいつもそういっていた。
――近藤さんには、将器がある。
と評したのは、食客の最年長(二十九歳)の仙台伊達藩脱藩の山南《やまなみ》敬助で、土方歳三はわずかばかりの学問を鼻にかけるこの男があまり好きではなかった。
(山南は狐だ)
と、かつて沖田に洩らしたことがある。痩せがたで干《ひ》からびた|した《ヽヽ》り《ヽ》顔をみると、歳三は|むし《ヽヽ》ず《ヽ》が走るような思いがする。
もともと、仙台、会津といった東北の雄藩は、藩教育が徹底しているから、山南は筆をもたせるとじつにうまい文字をかいた。
(筆蹟《て》のうまいやつには、ろくな奴がない)
とも、歳三は沖田にいった。
歳三のりくつでは、文字のうまい才能などは、要するに真似の才能である。手本の真似をするというのは、根性のない証拠か、根性が痩せっからびている証拠だ。真似の根性はしょせん、迎合阿諛《げいごうおべつか》の根性で、その証拠に茶坊主、町医、俳諧師などお大尽の取り巻き連中は、びっくりするほど巧者な文字をかく、というのである。
もっとも沖田は、
――土方さんは、なにもかも我流ですからな。
とからかってはいたが。
山南は、剣はできる。神田お玉ケ池の千葉道場で免許皆伝まで行った男である。しかしその剣には、近藤が常時いう「気組」が足りなかった。やはり性格なのだろう(この性格が、のちに山南をして自滅させるにいたるのだ)。
山南は、顔がひろい。
なぜならば、江戸一の大道場で門弟三千といわれる千葉門下の出身だからである。この門下から、清河八郎、坂本竜馬、海保帆平《かいほはんぺい》、千葉重太郎など、多くの国事奔走の志士が出たのは、諸藩からあつまってくる慷慨《こうがい》悲歌の士が多く、その相互影響によるもので、現代《こんにち》の東大、早大における全学連と類似とはいわないが、それを想像すれば、ややあたる。
江戸府内に友人が多いから、山南は天下の情勢、情報を、しきりとこの柳町の坂の上の小さな町道場に伝えた。
もし山南敬助という、顔のひろい利口者がいなければ、近藤、土方などは、ついに場末の剣客でおわったろう。
その山南が、
「近藤先生、耳よりな情報《はなし》があります」
と、仙台なまりで伝えてきたのは、文久二年も暮のことである。
「どんなはなしだ」
近藤は、山南の|教養《ヽヽ》に参っている。
「重大なはなしか」
「幕閣の秘密に関する事項です」
「されば、土方歳三をここへ呼んで一緒にきこう」
「いや、事は極秘に属します。先生お一人でおききねがいたい」
「私としてはそれはできかねる。私と土方歳三は、日野宿の佐藤彦五郎(歳三の姉婿)とともに義兄弟の盃を汲みかわした仲だ」
「義兄弟とは、博徒のならわしのようですな」
「古く、武士にもある」
呼ばれて歳三がきた。
歳三も山南も、互いに一礼もしない。そういう仲である。
「じつは、私と千葉で同門の俊才で、清河八郎という出羽郷士がいます。文武、弁才、方略に長《た》けた戦国策士のような男で、年は三十すぎ、これが神田お玉ケ池で文武教授の塾をひらき、御府内の攘夷党の志士をあつめ、幕臣の有志とも親交をもっています」
「なるほど」
近藤は知らない。江戸で才物清河の名を知らないのは、よほど時勢にうといといえる。
「その清河が」
と、山南敬助がいった。
幕閣に働きかけて、幕府の官費による浪士組の設立を上申し、それが老中板倉|周防守《すおうのかみ》の裁断で許可がおりたというのだ。
幕府では、攘夷党の志士の横行、暴虐には手を焼いている。一昨年には大老井伊が殺され、去年このかた外人をつけねらう攘夷浪士が多く、たとえば、江戸|高輪《たかなわ》東禅寺の異国人旅館に連中が斬りこんでいる。京都ではかれらの跳梁のためにまったく無法地帯と化し、天誅と称して佐幕開国派の論者を斬りまくり、公卿を擁して倒幕をもくろむ者さえ出ている現状だった。
――毒は、集めて筐《はこ》に納《い》れるにかぎる。幕費をもって養えば、幕府に悪しかれという行動には出まい。
これが、老中板倉の考えである。
さっそく講武所教授方松平|忠敏《ただとし》らを責任者として、浪士徴募にとりかかった。
徴募の方法は、清河一派の剣客(彦根脱藩石坂周造――明治中期まで存命、事業家となる。芸州浪士池田徳太郎ら)が表むきはかれら浪人の私的な資格で、江戸府内はおろか、近国の剣術道場に檄文《げきぶん》をとばした。
「檄文?」
近藤は、不審である。
「この試衛館にはきていないが」
「それは」
山南は、気の毒そうな顔をした。江戸では安政中期以来剣術道場は三百近くもできたが、こんな聞いたこともないような百姓流儀の剣術道場にまで檄文がまわって来るはずがない。
「それはむりでしょう」
「なにが、むりですかな、山南さん」
と、横からいったのは、歳三である。
歳三はもともとこういう冷遇や差別にたえられない性格である。清河一派に腹がたったのではなく、大流儀育ちの山南敬助の口のききかたが気にいらない。
「いや、土方君、落ちこぼれということもある。むこうの手落ちだ」
「両君、議論はよしたまえ。ところで山南君、その浪士組というのは、旗本にお取り立てになるというのか」
「いや、それは」
と、山南はかぶりをふった。山南は、単純な剣客ではない。当時の知識人の普通の思想として攘夷論者であった。その意見は公式的だが、動機は純粋でもある。
「旗本になるとかならぬということではなく、大和《やまと》武士《ぶし》(当時の流行語。藩という割拠意識からぬけだし、汎武士《はんぶし》といったような意味)として、異国を撃ちはらう攘夷断行の先手《さきて》にこの浪士組はなります」
「しかし、いずれは直参になれような」
近藤は、単純明快でひどく古風である。近藤の考えでは、これは戦国時代の牢人が、戦さがあれば知る辺《べ》をたよって大名の陣を借り(陣借り)、働きの次第では取り立ててもらえるという徳川以前の風習があたまにうかんだのだ。
「歳、どうする」
近藤は、うれしそうな顔をした。近藤にすれば、本心では、直参になれようが、なれまいが、どちらでもいい。
このままでは道場がいよいよ窮乏し、ついには全員が食えなくなる。道場主としての経営難が、これで一挙に解決するのである。
「どうだ、歳」
「加盟するとすれば、天然理心流の試衛館はつぶれることになる。事が重大すぎるから、他流儀の山南さん御同席の前では、ちょっとまずかろう」
歳三の意地のわるいところだ。きらいとなれば、その男が地上から消えるまでがまんできない執拗さがある。
「大先生《ごいんきよ》(周斎)がいらっしゃる。ここでとかくを論ずるより、まずその御意見をきくことだ」
「よかろう」
近藤は、すぐ養父の周斎老人に話した。周斎は年寄りだから時勢がわからない。だから山南流の主義や思想で説くよりも、
「将来《すえ》は直参になれます」
と、一言で説明した。周斎はそのひとことでわかった。
「わしは直参《とのさま》の御隠居になれるわけだな」
そのあと、近藤は、道場に、門人と食客を集合させ、山南に説明させた。
「やるか!」
とおどりあがったのは、食客原田左之助である。食える、だけではない。この男は戦うためにうまれてきたような男なのだ。戦国時代なら、槍で千石二千石は楽にかせぎだす武者であったろう。
「沖田君、どうだ」
と近藤はいった。
「私ですか。私は近藤先生と土方さんの往くところなら地獄でも行きますよ。もっとも、極楽のほうが結構ですがね」
「井上君は?」
「参ります」
と、この近藤道場では、先代から用人同然の内弟子として仕えている温和な井上源三郎が、ぼそりといった。
「斎藤君」
「加盟します。ただ整理すべきことがあり明石にもどらねばなりませんので、結盟には遅れるかもしれません」
「永倉君、藤堂君は」
「武士として千載一遇の好機です。加盟します」
あとは、不参加。
総勢、近藤、土方以下九人である。これで道場はつぶれたことになる。
幕府徴募の浪士組は、各道場の系統から応募三百人におよんだが、道場そのものが潰れたのは試衛館だけであった。もっとも徴募による閉鎖というより、小石川で発生した麻疹《はしか》がつぶした、といったほうが正確だが。
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浪 士 組
歳三は山南敬助が、大きらいだ。山南が他道場からききこんできたこの幕府|肝煎《きもいり》「浪士組」設立の情報は、平素、(歴とした武士になりたい)とおもっている歳三にとって飛びあがるほどの耳よりな話だったが、(待てよ)とおもった。提供者の山南が気にくわない。
「もう一度、たしかめてみよう」
と、近藤にすすめた。
山南敬助は、幕府の趣旨を、
「攘夷のため」
と、いっている。これは、策士清河八郎の思想だ。はたして然《しか》るか。歳三には、疑問である。
歳三は、近藤と一緒に、牛込|二合半《こなから》坂《ざか》にあった屋敷に、この徴募の肝煎役である松平|上総介《かずさのすけ》を訪ねた。むろん、しかるべき紹介状はもらっている。
松平上総介は、気さくに会ってくれた。これも時勢であった。考えてもみるがいい。上総介の家系は、三代将軍家光の弟忠長の血すじで、捨扶持三百石ながらも格式は、徳川宗家の連枝《れんし》で、千代田城中では親藩大名の末席につくことのできる身分であった。世が世なら、やすやすと浪人剣客と会うような人物ではない。
「ああ、あのことか」
とこの貴人はいった。
「役目は、将軍家《たいじゆこう》の警固だよ」
上総介のいうところでは、近く、将軍家が京へおのぼりになる。
京は、過激浪士の巣窟だ。毎日、血刀をもって反対派の政客を斬りまくっている。将軍の御身辺にどのような危険があるかもわからない、武道名誉の士を徴募するというのである。
「それは」
近藤は、感激した。
「まことでござりまするか」
このときの近藤の感激がいかに深いものであったか、現代《とうせつ》のわれわれには想像もつかない。将軍といえば、神同然の存在で、二百数十年天下すべての価値、権威の根源であった。浪人近藤勇|昌宜《まさよし》は、額をタタミにこすりつけたまましばらく慄えがとまらなかった。歳三がそっと横目でみると、近藤は涙をこぼしていた。事実近藤にすれば、一生も二生もささげても悔いはない、という気持だった。
男とは、ときにこうしたものだ。
近藤の唯一の愛読書は、頼山陽の『日本外史』であった。日本外史は、権力興亡の壮大な浪漫《ロマン》をえがいた一種の文学書で、その浪漫のなかでも、近藤のなにより好きな男性像は、楠木|正成《まさしげ》であった。
楠木正成は、南北朝史上のある時期にこつぜんとあらわれてくる痛快児である。それまでは、河内《かわち》金剛山にすむ名も無き(鎌倉の御家人帳にものってない)土豪だったが、流亡の南帝(後醍醐天皇)から「われをたすけよ」と肩をたたかれたがために、たったそれだけの感激で、一族をあげて振わざる南朝のために奮戦し、ついに湊川《みなとがわ》で自殺的な討死をとげた。頼山陽はその著でこれを、日本史上最大の快男児としてとりあつかっている。
英国にもこんな例はある。
伝説だが、有名な獅子心王リチャードのとき、リチャード王が十字軍遠征で国を留守しているすきに王弟が国を簒奪《さんだつ》しようとした。その王権擁護のために立ちあがったのが、シャーウッドの森の土豪ロビン・フッドで、この森の英雄の痛快無比な物語は、いまも英国人の愛するところだ。が、これは余談。
歳三は、それから数日のち、日野宿の名主佐藤彦五郎のもとに行って、浪士組加盟のいっさいを告げ、
「ついては義兄《にい》さん、たのみがある」
といった。
「私にできることか。歳さんが武士になるのだ。きける話ならなんでもきく。どういうことだい」
「刀です」
「こいつはうかつだった。催促されなくても私のほうからだまって贈るべきだった」
とあわてものの彦五郎は仏間へ案内し、樫材《かしざい》に鉄金具を打った大きな刀箪笥《かたなだんす》をぽんとたたいて、
「三十|口《ふり》はある。気に入ったものならなんでももっていきなさい」
と、底ぬけに人のよさそうな微笑をうかべた。
義兄の微笑をみて、歳三はこまった。
そんな雑刀なら、束《たば》でくれてもほしくはないのだ。名刀がほしい。それも、銘の点で、大それた野心がある。しばらく考えて、
「姉さんはいますか」
「おのぶか。他行《たぎよう》しているが、もうもどるはずだ。おのぶにも用があるのかえ」
「お夫婦《ふたり》そろったところで、無心をしたいのです」
「そうかそうか」
やがておのぶが、先代の墓参から帰ってきて、浪士組参加の一件を歳三の口からきいた。
「そう」
肚のふとい女で、なにもいわない。
おのぶは、土方家の六人兄妹のうちの四番目で、家じゅうで持てあまし者のこの末弟をひどく可愛がっていた。歳三も、この姉が大すきで、子供のころから生家にいるよりも、姉の婚家である佐藤家にいるほうが多かった。
「頼みとは、なんのこと?」
おのぶがいった。
「刀を購《もと》めます。金子《きんす》を無心したいのです」
「いかほどですか」
「口をきった以上は、断わられるのはいやですから、まず、承知した、といって下さい」
「いいよ」
彦五郎は、肚の太いところをみせた。
「いくらだい」
「百両」
これには、夫婦とも沈黙した。このあたりの良田数枚を売ってもそれだけの金にはならない。屋敷で飼っている小者の給金が、年に三両という時代である。
彦五郎の声が、つい荒くなった。
「一体、どういう刀を買うのだ」
「将軍、大名が持つような名刀を買いたい」
と、歳三は、平然としていった。
「だいそれた。……」
「と義兄《あに》上《うえ》は思いますか」
歳三は、眼がすわっている。
「が、金高が大きすぎる」
「京では、西国諸藩や、不逞浪人がわがもの顔で町を横行している。それらの狂刃から将軍をお護りするのです。護持する刀にも、それにふさわしい品位と斬れ味が要る」
「―――」
「近藤さんは、虎徹《こてつ》をさがしているそうですよ」
「虎徹を?」
これも、大名ものだ。
「勇が、か。虎徹を」
「そうです。いま愛宕《あたご》下《した》日蔭町の刀屋が必死にさがしまわっています。京での仕事は、腕と刀次第で生死《しようじ》が決する。私も虎徹とならぶような業物《わざもの》をもちたい」
「そ、それもそうだな」
彦五郎は、おびえに似た眼で、女房のおのぶを見た。おのぶは落ちついている。じつをいうと、実家の土方家から輿入《こしい》れするとき、実父が五十両の金を鏡台に入れてくれた。
「歳《とし》、義兄《にい》さんから五十両貰いなさい」
「五十両でいいのか」
おのぶは、あとは自分の五十両を足し、二十五両包み四つを作って歳三に渡した。
「恩に着ます」
と、この他人には傲岸不遜《ごうがんふそん》な男が、おのぶがおもわず頬をなでてやりたくなるような子供じみた笑顔を作ってそれをうけた。
その翌日から、この男は、愛宕下の刀屋町をはじめ、江戸中の刀屋を駈けまわって、
「和泉守《いずみのかみ》兼定《かねさだ》はないか」
ときいた。
名代の大業物である。
斬れる。上作《じようさく》なら南蛮鉄をも断つ。ちなみに刀剣の「大業物」の位列というものはきまったものだ。有名な堀川国広、藤四郎祐定、ソボロ助広の異名《いみよう》で有名な津田助広など二十一工で、なかでも和泉守兼定は筆頭にあり、斬れ味は、刃に魔性があるといわれたほどのものだ。
「兼定を? あなたさまが?」
と、どの刀屋もおどろいた。一介の浪人|体《てい》の者がもつべきものではない。
「初代や三代兼定ならございますが」
という者もある。おなじ和泉守兼定でも初代と三代目は凡工で、値もやすい。浪人にはころあいの差料《さしりよう》である。しかし歳三は、
「ノサダだ」
と、いった。二代目である。いわゆる大業物兼定は、異称ノサダといわれている。刻銘を、兼定とせず兼|★[#うかんむり+之]《ヽ》と切るのが癖だったからで、文字を分解して之《ノ》サダというのだ。
古くは戦国の武将細川幽斎、忠興父子が好んだもので、ほかに、豊臣秀吉の猛将で「鬼武蔵」といわれた森武蔵守は、この兼定の十文字槍を愛用し、みずから、
――人間無骨《にんげんぶこつ》
というぶきみな文字を刻んで、敵を芋のように串刺しにしたものである。
歳三は、その「人間無骨」の故事をきき知っている。大業物兼定の舞うところ、人間は骨のないのと同然になるのであろう。
「和泉守兼定はないか」
と、毎日歩いた。
「ございます」
といったのは、なんと浅草の古道具屋で、両眼白く盲《めし》いた老人である。
「たしかか」
「疑いなさるなら、買って頂かなくともよろしゅうございます」
「いや、その眼で鑑定《めきき》はたしかかと申しているのだ」
「刀のことなら」
老人は乾《かわ》いた声で嗤《わら》った。
「目明きのほうがあぶない。私は十年前の七十の齢に盲いたが、それ以来、刀をにぎれば雑念がない。愛宕下の刀師《れんじゆう》でも、難物ならこの浅草までやってきて私ににぎらせるほどです」
「みせてくれ」
老人は、奥から、触れるもきたないほどに古ぼけた白鞘の一口《ひとふり》を出してきた。
「ごらんなされ」
抜いてみた。
赤さびである。歳三は、自分の顔が蒼ざめてゆくのがわかるほどに怒りをおぼえた。が、さあらぬ体《てい》で、
「値《あた》いは、いかほどか」
「五両」
歳三は、だまった。しばらくこのひからびた老盲をにらみすえていたが、やがて、
「なぜ、やすい」
といった。
「これは」
笑った口に、歯がなかった。
「廉《やす》いのがご不足とはおどろきましたな。百両、とでも申せばご満足でございますか」
「なぶるか」
と低い声でいったが、老人はおどろかない。
「刀にも、運賦天賦《うんぷてんぷ》の一生がございます。この刀は、誕生《うま》れた永正(足利末期)のころなら知らず、その後は一度も大名大身のお武家の持物になったことがない。ながく出羽の草深い豪家の蔵にねむり、数百年ののち盗賊にぬすまれてやっと暗い世に出た。その賊が、手前どものほうに持ちこんだ、といういわくつきのものでございます」
容易ならぬことを老人は明かした。その筋にきこえれば、手に縄のかかる事実《はなし》だ。それを明かすとは、どういう真意だろう。
「見込んだのさ」
老人はぞんざいにいい、さらに語を継いだ。わざわざ和泉守兼定をさがしているというこの浪人が、盲人の勘で、ただものでない、と思ったというのである。
「数百年間、この刀はあなた様に逢いたがっていたのだろう。手前には、なんとなくそういうことがわかります。五両、それがご不満ならさしあげてもよろしゅうございます。お嗤いなさいますか。道具屋を五十年もしていると、こういう道楽もしてみたいのさ」
どこか、伝法な口ぶりがある。ただの道具屋渡世だけの親爺ではなく、裏では、奉行所《おかみ》のうれしがらないこともしているのかもしれない。
「これに五両を置く」
と歳三はいった。
すぐ、愛宕下で砥《と》がせた。
出来あがったのは京へ出発もちかい文久三年の正月である。
拵《こしら》えは、実用一点ばりの鉄で、鞘は蝋色《ろいろ》の黒漆《こくしつ》。歳三の指定である。
みごとな砥ぎで、たれがみてもまぎれもない和泉守兼定であった。
刃文に点々と小豆《あずき》粒《つぶ》ほどの小乱れがあり、地金が瞳を吸いこむように青く、柾目肌《まさめはだ》がはげしく粟だっている。
(斬れる。――)
刀をもつ手が、慄えそうであった。
歳三は、その夜から、沖田総司がいぶかしんだほど、挙措《きよそ》がおかしくなった。
第一、夜、道場に帰らない。
暁方になって帰ってくると、昼まではぐっすり寝て、夕暮れにまた出かけるのである。
「土方さん」
と、沖田は可愛く小首をかしげた。
「やっぱり、|ある《ヽヽ》こと《ヽヽ》なんですねえ」
「なにがだ」
「狐憑《きつねつ》き、てことですよ。お顔までが似てきている。私の知りあいに山伏がいますが、調伏《ちようぶく》に連れていって差しあげましょうか」
「ばか」
歳三は、刀に打粉《うちこ》を打っている。
陽《ひ》が、暮れはじめて、明り障子を背にしている沖田の顔が、暗くてよくみえない。
「今夜は、何町です」
「―――?」
「だめですよ、隠しても」
この若者は、気づいているのだ。
ちかごろ、辻斬りがはやっている。多くは物盗りではなく、攘夷熱で殺伐になってきたため、浪人剣客が、異人襲来にそなえて腕を練る、と称して夜、町に立つのである。
毎晩のように人が斬られた。
被害者の多くは、武士である。このため、武士で、夜中往来する者がすくなくなった。
事件は、この小石川近辺にも多い。
彗星が連夜東の空にむかって飛んだこの年末など、小《こ》日向《びなた》清水谷《しみずだに》で一件、大塚窪町で一件、戸崎町の田圃で一件、おなじ夜にいずれも主人持ちの武士が斃《たお》された。
この年に入って、道場のある柳町の石屋の前で旗本屋敷の中間《ちゆうげん》が斬られたときなど、奉行所同心が近藤道場に目をつけてしつこくたずねてきたほどである。
「よくない悪戯《いたずら》ですよ。およしになったほうがいいとおもうがなあ、私は。――」
と、沖田はそれほどでもない顔つきでいった。
が、歳三はその夜も出かけた。
辻斬りが、目的ではない。
そういう男に逢いたくて、歳三は毎夜、うわさの場所を点々と拾って歩いてゆく。
ついに出逢った。
戌《いぬ》ノ下刻。
歳三が金杉|稲荷《いなり》の鳥居の前を通って久保田某という旗本屋敷の角まできたとき、不意に背後から一刀をあびせられた。
あやうく塀ぎわへ飛んでくるりとふりむいたときは、すでに和泉守兼定を抜いて、癖のある下段にかまえている。
(………?)
歳三は、むっつりだまったままだ。月がある。その下で、相手の影は、しずかに左へ移動している。
(出来るな)
と思ったのは、相手がふたたび刀を納め、右手を垂れたまま、歳三のまわりを、足音もなく歩きはじめたからだ。その足、腰、居合の精妙な使い手らしい。
歳三は、眼をこらした。
夜目というのは、間違っても影を見据えるものではない。影のやや上を見すえれば、物影がありありと視野の縁《ふち》にうかぶ。夜闘の心得である。
「おい」
と、相手はいった。
「訊いておく。何藩の者か。ついでに名も名乗ってもらえば、供養はしてやる」
「べっ」
と、歳三は|つば《ヽヽ》を吐いた。それっきり歳三は沈黙している。
相手は、歳三の仕掛けを待つ様子であった。間合は、六尺しかない。双方いずれが一蹶《いつけつ》しても、いずれかが死骸になるだろう。
歳三も、仕掛けを待っている。
こちらが仕掛ければ、その|起り《ヽヽ》を撃つのが居合の手であった。
(どう抜かせるか)
居合には、それしか応じ手がない。
歳三は、そっと膝をまげた。
一挙に伸ばした。
そのときは塀づたいに一間も横にとびのき、同時に脇差を弾《はじ》けるような早さで抜き、抜いたときは、狂気のように相手との間合の死地《なか》へとびこんでいた。
脇差を投げた。
よりも早く相手はすばやく踏みこみ、腰をおとし、白刃を空《くう》にうならせて歳三の頭上、まっこうに斬りおろした。
鉄が、火を噴《ふ》いた。
いつのまに持ったか、歳三は左拳《ひだりこぶし》で鉄扇を逆ににぎって、敵の白刃を受けた。
そのときはすでに、歳三の右手浅くにぎった和泉守兼定が風のように旋回して、男の右面に吸いこみ、骨を割り、右眼窩《みぎがんか》の上まで裂き、眼球がとび出、あごが沈んだ。そのままの姿勢で、男は、顔面を地上にたたきつけて倒れた。即死である。
(斬れる)
その夜が、正月三十日。
数日後の二月八日に歳三ら新徴の浪士三百人は小石川伝通院に集結して江戸を出発、中仙道六十八次、百三十里を踏み歩いて京へのぼったのは、文久三年二月二十三日の夕刻である。
歳三は、壬生《みぶ》宿所に入った。
袖に、江戸の血が、なお滲《にじ》んでいる。
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清河と芹沢
壬生郷《みぶごう》、というのは京の西郊で、古寺と郷士屋敷と農家の一集落だが、王朝のころは朱雀大路《すざくおおじ》の中心街であっただけに、どこか、古雅なにおいをのこしている郊《まち》である。
歳三たち天然理心流系の八人の壮士は、壬生郷八木源之丞方に宿営せしめられた。
「立派な屋敷だ」
と、近藤は大よろこびだった。
なるほど、歳三が知っている武州のいかなる豪家よりも、普請がいい。柱といい、床《とこ》といい、一本えらびの銘木がふんだんにつかってあり、前栽《せんざい》、中庭などは、数寄者《すきしや》がみればふるえの来そうな雅致がある。
「歳《とし》、みろ、これは名庭だ」
無骨者の近藤が、縁側まで出て、飽かずにながめている。名庭どころか、この程度の庭なら、京には掃いてすてるほどあるということはあとになって知り、近藤も、
「京はおそろしい」
と複雑な表情をするのだが、このときはただ目をみはっている。
「なあ、歳」
と、近藤はふりむいた。歳三は、立って庭をながめながら、
「その歳、てのは、もうよそうじゃないか」
といった。京にきてみると、どうも、近藤は土くさい。土臭いうえに、意外に人間が小さくみえる。
「では、どう呼ぶ」
「土方君、とよんでいただこう。そのかわり、私はあんたのことを、近藤さんとか、近藤先生、とかとよぶ。はじめはすこし照れくさいが、ものは形がかんじんだ。われわれはもはや武州の芋の子ではない。私はわれわれの八人の仲間も、年齢と器量を尺度《しやくど》にして、整然とした秩序をつくってゆきたい、と考えている」
「いいことだ」
「むろん、あなたが首領です」
「そうか」
当然だ、という顔をした。近藤は餓鬼大将のころから、一度も二の次についたことがない。
「そのかわり、首領らしくどっしりと構えてもらわねばならない」
「しかし歳、わしは平隊士だよ」
現実には、そうである。江戸を発《た》つときに清河八郎が、幕府から目付役《めつけやく》として来ている山岡鉄太郎らと相談して隊の制度をきめ、それぞれ浪士のなかから、組頭《くみがしら》、監査役などという幹部を任命したが、近藤一派は、近藤以下全員が平隊士であった。
無名のかなしさである。
幹部のなかには、もっとも愚劣な例として祐天《ゆうてん》仙之助がいる。前身は博徒である。平素自分の飼っている用心棒や子分を多勢ひきつれて入隊したから、自然、五番隊の伍長(組頭)になった。
そのほか、根岸友山、黒田|桃★[#王+民]《とうみん》、新見錦《にいみにしき》、石坂周造など、江戸の攘夷浪人のあいだで虚名を売っている浮薄な(と歳三は思っていた)連中ばかりが幹部につき、天下をとったような顔で先生面《せんせいづら》をしている。国士気どりの議論は達者だが、いざ剣をぬけば腰をぬかすのがおちだろう。
(馬鹿なはなしさ)
歳三は、京へのぼる道中でも、ほとんどこういう連中と口をきかず、ときどき白眼をもってにらみすえ、かれらから気味わるがられた。
(こういう烏合《うごう》の衆だ。いずれは|たが《ヽヽ》がはずれてばらばらになるにちがいない)
そのときを待つ。
歳三の闘争は、すでにはじまっていた。武州の天然理心流系をもって、この集団の権力をうばわねばならぬ。
(それにはどうすればよいか)
歳三は、終日不機嫌な顔で考えていた。
浪士組は、分宿している。
壬生郷の屋敷は徴発されており、本部は、新徳寺。
あとは、寺侍の田辺家、郷士の中村、井出、南部、八木、浜崎、前川の諸屋敷、それに大百姓の家まで占拠し、狭い壬生一郷は、東国なまりの浪士であふれるようであった。
その夕。
つまり、到着した二十三日の翌夕、本部の新徳寺から使番《つかいばん》が歳三らの宿所八木屋敷へとんできて、
「新徳寺本堂にて清河先生のおはなしがあります。すぐお集まりねがいます」
とよばわって駈け去った。
「土方さん、なんでしょう」
沖田が、箸をとめた。
みな、近藤の部屋でめしを食っている。どの膳部にも、壬生菜《みぶな》のつけものがついていた。
関東には、ない野菜である。
京菜(水菜)の変種で、色が濃緑のうえに葉も茎も粗《あら》っぽいが、噛めば微妙な歯ごたえがしてやわらかい。
――うまい。
と何度もそれを八木家の下女に命じてお代りしたのは、山南敬助である。歳三はそういう山南を軽蔑した。
食いものだけでなく、山南は、京のものならなんでも、讃美した。
――さすが、王城の地だ。ここへきてしみじみ、われわれは東国の|あら《ヽヽ》えび《ヽヽ》す《ヽ》だとおもう。
と、何度もいった。歳三は、山南が礼讃している壬生菜は、自分の膳部から遠ざけて箸もつけなかった。
(|あら《ヽヽ》えび《ヽヽ》す《ヽ》で結構だ。こんな塩味のきかねえつけものが食えるか)
むろん、歳三の真底《しんぞこ》は、食いものへの嫌悪ではない。山南への嫌悪である。
「なに、清河先生が?」
と、山南は箸をとめた。この教養人は、自分が教養人であるがために、博識な弁口家清河八郎を尊敬している。
「諸君、行きましょう」
「まだ、われわれは飯を食っている」
と、歳三はいった。
「あわてることはないでしょう。山南さん、清河八郎はわれわれの主人ではない。世話役にすぎぬお人だ。待たせておけばよい」
「土方君」
と、山南は、無理に微笑をつくった。
「あなたもせっかく京へきたのだ。京の言葉は、人の心に刺さらない。そういう心づかいをまなぶほうがいい」
「私は私の流でいくさ」
と、歳三は、むっとこわい顔をして、干魚《ほしざかな》をむしった。沖田は横合いから、くすくす笑った。
「土方さん、それは私の干魚ですよ。あなたのはそこにあります」
「知っている」
と、歳三は負けおしみをいった。
「他人《ひと》の膳部の物はうまそうにみえるのさ。私も、京惚れの山南さんに真似てみたのだ」
近藤一派は、最後に一椀ずつ茶漬けを喫してから、ゆっくりと宿所の玄関を出た。八木家の下男が、門扉《もんぴ》をひらいた。扉には、大名屋敷のようにずしりとした八双《はつそう》金具を打ってある。門は武家風の長屋門だが、武州日野の無骨一点ばりの佐藤屋敷の長屋門とちがうところは、壁に紅殻《べんがら》がぬられ、窓に繊細な京格子《きようごうし》がはめられていて、妙に女性的な感じであった。
出たすぐが、坊城通である。歳三らは、通りを横切るだけでいい。新徳寺は、八木屋敷のすじむかいにあるからだ。
すでに狭い本堂には、浪士一同が群れあつまっていた。歳三らは、その末座をあけてもらって、かたまって着座した。
本堂|須弥壇《しゆみだん》の右手に、山岡ら幕臣がならび、その横に清河がいる。憮然《ぶぜん》として、あごをなでていた。まわりに、清河の腹心石坂周造、池田徳太郎、斎藤熊三郎(清河の実弟)らが、異様に緊張した顔ですわっている。それをみて、
(なにかあるな)
歳三はおもった。
三十畳敷の本堂に、燭台が五つばかりおかれているほか、灯りというものがない。その薄暗いなかで、清河党の石坂周造が立ちあがった。
「諸君、お静かにねがいたい。ただいま清河氏より、お話がある」
清河八郎が立ちあがった。背が高い。姿のいい男である。
ゆっくりと、須弥壇の前へゆく。
出羽人らしく色白のうえに、眼鼻だちがさわやかで、男でもほれぼれするような顔だちである。北辰一刀流の達人らしく眼がするどい。気力充溢し、態度は満堂をのんでおり、いかにも不敵な感じがした。なるほど世間がさわぐだけのことはあった。当代一流の人物とみていい。
「諸君」
といって、清河は大剣を左手にもちかえた。
「この話は心魂をもってきいていただきたい。われわれ一身のことである。われわれの碧血《へきけつ》を何のために流すべきかということだ。諸君はいずれも剽勇《ひようゆう》敢死の士である。血を流すことはもとより厭《いと》うまい。しかし道をあやまって流せば、後世ぬぐうべからざる乱臣賊子の汚名を着る。――そこでだ」
清河は、一座を見渡した。
みな、|かた《ヽヽ》ず《ヽ》をのんで清河を見まもっている。清河は、ついに意外なことをいった。
「われわれが、江戸伝通院で、結盟したのは、近く上洛する将軍《たいじゆ》(家茂)の護衛たらんとするところにあった。が、それはあくまでも表むきである。真実は、皇天皇基を護り、尊皇攘夷の先駈けたらんとするところにある」
(あっ)
と声をのんだのは、一同だけではない。清河と手を組んで浪士組結成のための幕閣工作をした幕府側の肝煎たちである。山岡鉄太郎などは、蒼白になった。清河は、山岡にさえ話していなかったのだ(山岡という人は、数年後には見ちがえるほどの人物に成長したが、このころはまだ若く、策士清河の弁才に踊らされるところが多かった)。
「われわれはなるほど、幕府の召しに応じて集まった。が、徳川家の禄は食《は》んでおらぬ。身の進退は自由である。ゆえに、われわれは天朝の兵となって働く。もし今後、幕府の有司にして(たとえば老中、京都所司代が)天朝にそむき、皇命を妨《さまた》げることがあらば、容赦なく斬りすてるつもりである」
維新史上、反幕行動の旗幟《きし》を鮮明にあげた最初の男は、この壬生新徳寺における清河八郎である。清河は、兵を持たぬ天皇のために押しつけ旗本になり、江戸幕府よりも上位の京都政権を一挙に確立しようとした。いわば維新史上最大の大芝居といっていい。
「ご異存あるまいな」
一座は、清河にのまれてしまっている。というより清河に反対するどころか、かれの弁舌を理解する教養をもった者も、ほとんどいない。
そこを、清河はなめている。頭脳は自分にまかせておけ、汝《うぬ》らは自分の爪牙《そうが》になっておればよい、という肚である。
一同、発言なく散会した。
清河はその夜から、京都の公卿工作を開始し、浪士団の意のあるところを天皇に上奏してもらえるよう運動した。公卿たちは、政治素養は幼児のようなものである。それに時の天子(孝明帝)は、異常なほどの白人恐怖症におわし、幕府の開港方針に反対しておられた。だから、
「天意を奉じ、攘夷断行の先鋒となる」という清河の建白は大いに禁裡《きんり》を動かし、「御感《ぎよかん》斜めならず」と叡慮《えいりよ》が清河らに、洩れ下達された。
清河は、狂喜した。
このままもし時流が清河に幸いすれば、出羽清川村の一介の郷士が、京都新政権の首班になることもありえたろう。
「歳、どうする」
と、その夜、自室に歳三をよんだのは、近藤である。近藤は、このころまだ時勢というものがわからず、いわゆる志士どもの論議の用語さえ、よく理解できなかった。
歳三にとっても、同然である。ついこのあいだまで、武州多摩の田舎で、八王子の甲源一刀流と田舎喧嘩ばかりをくりかえしていただけの男である。
しかし、歳三には、近藤にはない天賦のカンと、男くさい節義があった。
「あれは悪人だぜ」
と、歳三はいった。その一言が、近藤のこの問題についての疑団を氷解させた。
「歳、よくいった。清河めはずいぶんむずかしいことをいったようだが、一言でいえばあれは寝返りだろう。どれほど漢語をならべて着かざったところで、中身は男として腐《くさ》り肉《み》だ。どうすればいい」
「斬る以外にあるまい」
「殺《や》るか」
近藤は、単純である。しかし歳三は、清河を斃すだけでは問題はかたづかぬ、といい、
「新党をつくることだ」
といった。
「新党を?」
「ふむ。だがわれわれは八人にすぎぬ。この少人数では、たとい清河を斃したところで、多数から袋だたきにあって自滅するほかない。これには一工夫が要る」
「それにはどうする、歳。――」
「土方君とよんでもらおう」
「ああ、そうだったな」
近藤は、顔をひきしめた。
歳三は、隣室の気配にじっと耳を傾けていたが、やがて筆紙をとりだしてきて、
――芹沢鴨《せりざわかも》。
と書いた。
「これを引き入れねば、事が成らぬ」
芹沢鴨は、水戸脱藩浪士で、当人は天狗党《てんぐとう》の仲間だったと自称している。巨躯をもち、力は数人力はあるという。
神道無念流の免許皆伝者で、門弟も取りたてているほどの男だが、始末のわるいことに一種の異常人で、機嫌を損じるとどんな乱暴もしかねない。
「せりざわ、か」
と、近藤は低声《こごえ》でつぶやいた。この男には道中、不快な目に数度|遭《あ》っている。これを仲間にひき入れることは愉快ではなかった。
歳三も、愉快ではない。
近藤よりもむしろあの兇悪な男を憎むところが深いかもしれないが、この際は、一度は芹沢と手をにぎることがあとの飛躍のために必要だと、歳三は説いた。
「なぜだ」
「まず、あの男の人数だ」
芹沢系の人数はわずか五人だが、いずれも一騎当千といっていい剣客ぞろいで、すべて水戸人であり、流儀は神道無念流である。芹沢はそれらの親分株として浪士組に参加したが、近藤系とはちがい、一味のなかから二人の浪士組幹部を出している(芹沢鴨は取締り付、新見錦は三番隊伍長。あとは、平間重助、野口健司、平山五郎)。
「それに」
と、歳三は、墨書した「芹沢鴨」の名を指でたたき、
「この男の本名を知っているか」
「知らぬ」
「木村継次という。この男の実兄が木村伝左衛門という名で、水戸徳川家の京都屋敷に詰めている。役目は公用方。よろしいか。公用方とあれば、京都守護職松平中将様公用方と親しかろう」
「それで?」
「京都守護職松平中将(容保《かたもり》)様といえば」
歳三は、言葉を切って近藤を見た。近藤もわかっている。京都守護職といえば、京都における幕府の代表機関である。
「わかった」
近藤は、うれしそうな顔をした。
「つまりは、こうか。新党結成のねがいを、芹沢を通じて京都守護職さまに働きかけさせるのか」
「そうだ。芹沢は毒物のような男だが、このさいは妙薬になる。――そのうえ都合のいいことに」
歳三は紙をまるめながら、
「芹沢一味五人とは、同宿ときている」
といった。これは奇縁といっていい。偶然な宿割りでそうなったのだが、近藤系と芹沢系は、おなじ八木屋敷の一つ屋根の下に宿営していた。もしこういう偶然がなければ、新選組はできあがっていたか、どうか。
「芹沢先生、話があります」
と、近藤が、中庭一つへだてた芹沢鴨の部屋に入ったのは、そのあとすぐである。
「ほう珍客」
と、芹沢はいった。一つ屋根の下にいてもたがいに割拠して、首領同士がろくに話したこともなかった。
芹沢は、近藤の来訪をよろこんだ。すでに、したたかに酩酊していて、
「おい、近藤先生のための膳部を」
と、内弟子の平間重助に命じた上、自分の使っている朱塗りの大杯を洗って、近藤に差した。
「まず、一つ」
「頂戴します」
近藤は、酒はのめない。が、このさい芹沢と同盟できるならば、毒をも飲むべきであった。近藤は、飲みほした。
「お見事。ところで、御用は?」
「例《くだん》の寝返り者のことですが」
「寝返り者?」
「清河のことです」
近藤は、よびすてた。つい前日までは、清河先生、と敬称していた相手である。
「なんだ、あの小僧のことか」
芹沢は、清河など、もともと意にも介していないふうである。近藤の返杯をうけながら、
「あの小僧が、なぜ寝返り者です」
「これは芹沢先生にしてはしらじらしい。そうお思いになりませんか」
「ふむ」
芹沢はくびをひねった。なるほど、いわれてみると、清河は、尊王攘夷という当節の常識論でたくみに問題をすりかえているが、これは大公儀の信頼に対する、武士としての裏切り行為である。
「武士としての、でござる」
「ふむ」
そう説かれてみると、芹沢の頭の中の清河八郎の映像が、芝居にある明智光秀と似てきた。
「斬るか」
と、声をひそめた。
「それについては」
と、近藤は歳三の策を告げた。芹沢は横手をうってよろこんだ。
「おもしろい。ぜひやってみよう。これは京で存分にあばれられるぞ」
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ついに誕生
土方歳三と近藤が、入洛《じゆらく》後まず熱中した|しご《ヽヽ》と《ヽ》は清河斬りであった。
むろん|暗殺《ヽヽ》である。
だれが殺したか、ということがもし洩れれば、あとの計画である近藤・芹沢両派の密盟による新党の結成がむずかしくなる。
近藤派八人は、毎日、ぶらぶら壬生界隈を散歩しては、清河の動静をうかがった。
芹沢派五人もこれに大いに協力したが、なにぶん、領袖の芹沢鴨は粗豪で、こういうきめのこまかい探索仕事にはむかない。
「近藤君」
と、芹沢は毎日のように近藤の部屋にどかどかと入ってきては、
「面倒ですな、こんなしごとは」
といった。気がみじかい。
いつも、酒気を帯びている。
話しながら、大鉄扇で、ばしばしと膝をたたくのが癖であった。鉄扇には、
――尽忠報国
ときざんである。水戸ではやりはじめた言葉だ。
「いっそどうだろう」
と、芹沢はせきこんだ。
「闇夜、清河八郎めの宿所に駈け入って有無《うむ》をいわせずたたっ斬ってしまえば」
「さすがに」
「妙案だろう」
「英雄ですな、先生は」
近藤は、必死の努力で、巧言をいった。このさい芹沢鴨に軽挙妄動されてはなにもかもぶちこわしになる。
「しかし、自重していただきます。ところで御令兄からのお返事がおそいようですな」
「ああ、守護職に|わた《ヽヽ》り《ヽ》をつける一件か」
「そうです」
「昨日も行ってきた。兄も、もうお返事があるはずだと申しておった。あの返事さえあれば近藤君、|京洛《けいらく》は君とおれの天下だな」
「私は、朴念仁《ぼくねんじん》でしかありませぬ」
近藤は、苦しい顔つきでお世辞をいった。
「しかし先生は、京洛第一の国士になられましょう」
「おだててもだめだ」
「私が、人に巧言令色を用いる男だとお思いになりますか」
「それもそうだな」
芹沢は、顔がほぐれた。
近藤は苦しくとも精一ぱいの世辞はいわねばならぬ。これが黒幕の歳三のひいた図式なのである。事を成すまでは、どうしても芹沢鴨という男が必要だった。
――もしも、近藤さん。
と、歳三は近藤に念をおしてある。
――芹沢がそうしろというなら、足の裏でもあんたは舐《な》めねばならぬ。ここは、専一にあの男の機嫌をとっておくことだ。
前章でのべたとおり、芹沢の肉親縁者は筋目がよく、実兄が水戸徳川家の家臣で、しかも好都合なことに、藩の京都における公用方(京都駐留の外交官)をつとめている。その兄から、京都守護職|会津《あいづ》中将松平容保の公用方に渡りをつけてもらって、
――清河八郎を誅戮《ちゆうりく》してもよい。
という密旨を得たい。それが、いまの時期の近藤系の正念場《しようねんば》なのだ。
歳三の観測では、清河の奇怪な寝返りには、幕閣もおそらくふんがいしているだろう(これはあたっていた。歳三の見こんだとおり、老中板倉周防守は、幕臣で講武所教授方の佐々木唯三郎をしてひそかに清河暗殺を命じていた)。だから京都における幕府の探題である京都守護職は当然、清河をよろこばない。これは、万《ばん》、まちがいはない。
(密旨は、かならずくだる)
とみて、歳三は、芹沢に運動させる一方、清河暗殺の計画をすすめていた。
果然、図にあたった。
その翌日である。
京都守護職松平容保の公用方|外島機兵衛《とじまきへえ》という利《き》け者《もの》から、
――ぜひ会いたい。
という使いが、芹沢のもとにきた。ただし人目もあることゆえ御内密にという念の行きとどいた言葉もついていた。
「これで事が成ったも同然だ」
と、歳三は近藤にいった。無名の浪人剣客が、江戸の幕閣以上の権威をもつ京都守護職に|わた《ヽヽ》り《ヽ》がつく、というだけでも、たいそうな収穫ではないか。
「そうだな」
近藤も、頬に血がのぼっていた。よほどうれしかったのか、
「歳、こいつは国もとに報《し》らせるべきだ。ぜひ、そうすべえ」
と、いった。たがいの盟友である日野宿名主佐藤彦五郎がよろこぶだろう。京都についてからも、彦五郎は、「入用が多かろう」といって金飛脚《かねびきやく》を差し立ててくれている。よき友はもつべきものだ。
翌日、出かけた。隊には、表むき、「市中見物のため」ととどけ出た。
一行は壬生から東にむかった。同勢は、
近藤勇、土方歳三。
芹沢鴨、新見錦。
の四人であった。
この四人が、数カ月後に京を戦慄させる男になろうとは、当の四人も気づいていまい。
黒谷《くろだに》の会津本陣に到着したときは、陽も午後にややかたむくころであった。
「ほう」
と近藤は見あげた。
鉄鋲《てつびよう》を打った城門のような門がそびえていた。会津本陣とはいえ、ありようは、浄土宗別格本山|金戒光明寺《こんかいこうみようじ》である。が、寺院建築というよりも、丘陵を背負い城郭に似ている。似ているどころか、これには|わけ《ヽヽ》がある。
江戸初期、徳川家は、万一京都に反乱のある場合を予想し、正式の城である二条城のほかに、二つの擬装城をつくった。それが、華頂山にある知恩院と、この黒谷の金戒光明寺である。当節、幕府にとって「万一のとき」がきている。そのため、会津松平藩を京に駐屯させた。本陣は擬装城である金戒光明寺である。徳川氏の先祖の智恵は、二百余年をへて、役立ったといえる。
「芹沢先生、りっぱな御本陣ですな」
「まあ、そうだな」
芹沢は、建物などに興味はない。
大方丈《だいほうじよう》に通された。
待つほどもなく、中年の眼光するどい武士があらわれて、下座で一礼した。
「わざわざの御来駕、痛み入りまする。それがしが、公用方を相つとめまする外島機兵衛でござる。以後、お見知りおきくだされまするように」
と、いかにも会津藩士らしい古格な作法であいさつをした。
あとは、酒になった。外島機兵衛は、顔に似あわぬ粋人らしく、他愛もない戯《ざ》れごとをいったり、酔って会津の俚謡《りよう》を、案外かわいい|のど《ヽヽ》で披露したりして、ひとり座もちをした。しかし近藤はこういう座ははじめてのことで、すっかり緊張して固くなっている。
歳三も、眼ばかりぎょろぎょろさせて、にこりともしない。
辞去するときになって、外島機兵衛は例の門のところまで送ってきて、
「本夕《ほんせき》は、愉快でしたな」
と、ゆっくり顔をなで、急に声を落し、
「近藤先生」
といった。
「はっ?」
「|き《ヽ》文字の一件、よろしく」
それだけをいった。き《ヽ》文字とは、清河のかくしことばである。これで、京都守護職が、清河暗殺を密命したことになる。
清河八郎は、毎日、外出する。御所の方角に出かけるのだ。
御所には、
「学習院」
という新設の役所がある。公卿のなかから頭のいいのを選んで詰めさせ、対幕府政策を研究、議事させる役所である。といっても公卿などは、源平以来七百年政権をとりあげられていたからなんの政治訓練もなく、自分自身の判断力などはまるでない。要するにその役所に出入りする「尊攘浪士」の議論におどらされているだけの役所である。
清河も、その傀儡師《かいらいし》のひとりである。
歳三は、清河の道筋を研究させた。
(さすがに、剣の清河だな)
と感心したのは、毎日、清河の往復の道すじがちがうことである。刺客の待ちぶせに用心しているのだろう。
探索の結果、毎日そこだけはかならず通過するという場所をみつけた。
九条関白家の南、丸太町通(東西)と交叉する高倉通(南北)の角である。
角は町家で、空家《あきや》になっている。
(これは都合がいい)
歳三は近藤と芹沢に説き、そこに人数を隠しておくことにきめた。
「暗殺は、かならず夜であること」
と、歳三は芹沢にいった。
「それも一撃で決していただきます。ぐずぐずしておれば、こっちの顔を知られてしまいます」
「心得た。君は軍師だな」
「人数も、小人数に」
「わかっている。君に指図されるまでもない」
近藤、芹沢の両派とも、前記四人のほかはこの密謀を知らないのである。だから、暗殺も、四人でやるほかなかった。
四人を二組にわけた。
近藤勇、新見錦。
芹沢鴨、土方歳三。
この二組が交替で、空家にひそむ。組みあわせをわざと仲間同士にしなかったのは、もし清河の首級をあげたばあい、両派のどちらかの一方的な手柄になってしまうからである。歳三はそこまで周到であった。
計画は、実施された。
しかし、清河もぬけ目がない。出かけるときには、かならず数人の腹心の猛者《もさ》を左右に従えていた。
それに、日没後は、歩かない。
「まったく隙がない男だ」
近藤までが、音《ね》をあげてしまった。毎日、待ちぶせるのだが、あたりが明るすぎるのである。
芹沢などは、歯ぎしりした。
板塀のふし穴からのぞいていて、芹沢はいまにも飛び出そうとするのだが、歳三は懸命におさえた。
ついに好機がきた。
芹沢、歳三の組のときである。日没になっても、清河は、学習院からもどらない。
「どうやら、今夜は首尾《しゆび》がよさそうだな」
芹沢は、板塀の根にふとぶととした尿《ゆばり》を放ちながら、いった。そのしぶきが、容赦なく歳三の|すそ《ヽヽ》にかかってくるのだが、芹沢は意にもとめない。
歳三は、顔をしかめた。
(いやなやつだ)
避けようとしたとき、板塀の隙間からみえる路上の風景が変わった。
提灯の群れがきた。
談笑している。
「清河です」
と、歳三がいった。
「どれどれ、おれにもみせろ」
と、芹沢はのぞいた。のぞきながら、
「四人だな」
と笑った。腹心の連中は、石坂周造、池田徳太郎、松野健次。いずれも、剣で十分町道場ぐらいはひらける男どもである。
「土方君、おれに清河を斬らせろ」
「では、私は雑輩をひきうけます。ただし一撃ですぞ。掛け声をおかけなさらぬように」
「くどいの」
芹沢は、悠々《ゆうゆう》と用意の覆面をした。歳三も黒布で顔を覆い眼だけを出した。
「土方君、行くぞ」
ぱっと板塀から出た。
芹沢は、抜刀のまま駈け出した。歳三も走りながら、和泉守兼定を抜いた。
――なんだ。
と、提灯の群れは、とまった。前方から、真黒の影が二つ、駈けてくる。
影の一つは、ばかに足音がおおきい。まるで地ひびきをたてるような派手な足音だった。
(芹沢め。……)
走りながら、歳三はその不用意さが腹だたしかった。
が、清河方は、かえってこのあまりにもあけっぴろげな走り方に安堵し、
「どこか、火事でもあるのかね」
と、石坂周造がのんきなことをいったほどであった。しかしさすがに領袖の清河八郎はただごとでないとみた。
「諸君、提灯を集めて地上に置きたまえ。そう、二、三歩後へ。そこで待つ」
といった。
清河の処置はあやまっていない。刺客は提灯の灯をめざしてとびこむものだ。
まず、芹沢が駈けこんできた。
地面の上の提灯の群れを飛びこえた。
飛びこえながら剣を豪快な上段に舞いあげ、地に足がつくやいなや、清河にむかって、一太刀ふりおろした。
清河は、二歩さがった。
「何者だ」
といった。動じない。
芹沢は派手に名乗りたいところだろうが、だまった。沈黙のまま、二歩三歩と踏みこみ、さらに一太刀ふりおろした。
清河は、受けとめている。
歳三のいう「一撃」はしくじった。
(芹沢め、口ほどもない)
歳三は、そこここに跳びちがえながら、石坂、池田、松野にめまぐるしく斬りこんでいたが、これ以上、時はすごせない、いずれは人《にん》を勘づかれてしまう。
石坂周造の太刀をはずすや、それを機《しお》に駈けだした。
芹沢も駈けだした。
高倉通を南下して夷川《えびすがわ》通を西走し、さらに間之町をぬけ、二条通を東走し、川越藩の京都屋敷のそばまできたとき、やっと敵を撒《ま》いた。
「芹沢先生、しくじりましたな」
「ふむ」
芹沢は、大息をついている。歳三は喧嘩なれているから、言語動作、平常とちっともかわらない。
(神道無念流の免許皆伝で門弟まで取りたてていたというが、大したことはないな)
歳三のそんな気持が伝わったのだろう、芹沢鴨は不機嫌になった。
「君がよくない」
といった。歳三は、むっとした。
「それはどういうことです」
「あのまま、もう二合もやっておれば、おれは清河を斬り伏せていた。が、君が逃げだしたのでみすみす大魚を逸した」
「それは御料簡がちがいます。最初からの軍略では、一撃で斃す、しからざれば去る、ということだったはずです」
「君は智者だ」
「私は無学な男ですよ」
「いや、智者である。軍略々々という。所詮は勇気がない証拠だ」
「なにッ」
川越藩邸の塀から、赤松の影がこぼれ落ちている。
「勇がないかどうか、芹沢先生、お試しねがいましょう。抜いていただきます」
「やるか」
芹沢も、抜刀した。
そのとき塀のむこうに人影が立った。
数人、ばたばたと駈けてきた。清河一派だろう、芹沢も歳三も見た。
(いかん)
どちらも肩をならべて逃げだした。
その翌日。――
清河は、壬生新徳寺に、ふたたび浪士隊一同の参集をもとめた。
「諸君、よろこんでいただく」
と、清河はいった。
「われわれの攘夷の素志は天聴に達し、勅諚《ちよくじよう》まで頂戴した。大挙京へのぼった甲斐があったということである。ところが例の生麦《なまむぎ》騒動が」
といった。生麦事件とは、先般、東海道生麦(神奈川と鶴見の間)で、薩摩の島津久光の行列を英人が馬上で横切ったため、藩士が一人を斬り、二人に深傷《ふかで》を負わせた事件で、このため幕府と英国とのあいだで外交問題がこじれている。
戦さになる、というので、横浜あたりでは家財を纏《まと》めて立ちのく町民もあった。
「こじれている。もしイギリスが戦端をひらいた場合、われわれはそれを撃ちはらう先鋒となる。その旨、公儀から通達があったため、急ぎ、江戸へ帰る」
それが、幕閣の手だった。
策士清河ほどの者がその手に乗った。この後、江戸にもどってから浪士隊は「新徴組」と命名され、肝煎《きもいり》清河は、赤羽橋で、佐々木唯三郎らのために暗殺された。
壬生新徳寺の会合で、
「われらは、ことわる」
と立ちあがったのは、近藤、芹沢、土方、新見ら八木源之丞屋敷を宿所とする一派である。すぐ、退場した。
清河の指揮する浪士隊が、京を発ってふたたび木曾路を江戸にむかったのは文久三年三月十三日のことで、京における滞在はわずか二十日間であった。
近藤勇一派八人。
芹沢鴨一派五人。
あわせて十三人だけが、宿所の八木屋敷に残留した。
分派した。
分派したといえば聞えがいいが、もはや幕府の給与も出ず、なんの身分保障もないただの浪人集団である。
「歳、どうするんだ」
と、近藤は、こまってしまった。食費もない。米だけは宿所の八木家に泣きついて借りたが、いつまでも|ただ《ヽヽ》めし《ヽヽ》は食わせてくれない。
「京都守護職だよ」
と、歳三はいった。歳三にとってはかねての思案どおりであった。芹沢の例の実兄をつかって、京都守護職に運動するのだ。「京都守護職会津中将様|御《お》預《あずかり》浪士」ということになれば、歴とした背景も出来、金もおりる。第一、壬生に駐屯している法的根拠が確立するのである。
「妙案だ」
と、芹沢はよろこんだ。
「ただし、近藤君、私が総帥だぞ」
「むろんそのつもりでいます」
当然なことだ。すべては芹沢の実兄あってこそ運動は可能なのだし、第一、水戸天狗党の芹沢鴨といえば、世間に名が通っている。このさい、芹沢を看板としてかつぎあげるしか仕方がなかった。
例の公用方外島機兵衛を通して働きかけると、意外にも即日、嘆願の旨が容れられ、隊名を「新選組」とすることも、公認となった。
「歳、夢のようだな」
近藤は、歳三の手をにぎった。歳三はそっとにぎりかえして、
「事は、これからですよ」
といった。脳裡に、芹沢の顔がある。
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四 条 大 橋
清河八郎が去った。
新選組が誕生した。
――壬生郷八木源之丞屋敷の門に、山南敬助の筆《て》による「新選組宿」の大札がかかげられたのは、文久三年三月十三日のことである。京は、春のたけなわであった。この宿陣からほど遠くない坊城通四条の角にある元祇園社《もとぎおんしや》の境内の桜が、満開になっている。
きのう今日、壬生界隈は、花あかりがした。
が、歳三の顔だけは明るくない。
「近藤さん、要は金だな」
と、いった。
歳三のいうとおり、京都守護職会津中将様のお声がかりがあったとはいえ、まだ、私党であった。軍用金はどうなるのか。十三人の隊士の食う米塩をどうするのか。
壬生の郷中の者は、隊士の服装をみて、みぶろ、壬生浪《みぶろ》、と嘲りはじめていることを、歳三は知っている。むりもなかった。どの隊士も、まだ旅装のままで、袴はすりきれ、羽織に|つぎ《ヽヽ》をあてている者もあった。初老の井上源三郎などは、大小を帯びなければ乞食と見まがうような姿だった。
――壬生浪やない、身ぼろ、や。
と、蔭口をたたく者もあった。
「金が、古今、軍陣の土台だ。――攘夷がどうだ、尊王がどうだという議論もだいじだろうが」
隊士は、毎日、なすこともないから、山南敬助を中心に天下国家ばかりを論じあっている。歳三はそれをいった。
「そうか、金か」
近藤には百もわかっている。柳町試衛館のころは、近藤は、苦労といえば金のことだった。江戸でも「芋道場」と蔭口をたたかれたほどの貧乏道場である。妻子が食いかねるときでも養父周斎老人の食膳には三日に一度は魚をつけたが、その魚さえ、購《もと》めかねるときがあった。
「また、日野に頼むか」
と、近藤はいった。入洛後、これで二度目である。試衛館のころから、せっぱつまると、武州日野宿名主佐藤彦五郎に無心をいうのが、近藤の唯一の経営法であった。
「むりだ」
と、歳三はいった。いかに義兄《あに》(彦五郎)に無心をいっても、送ってもらえるのは、五両、七両、といったはしたがねである。
「すぐ飛脚を差し立てよう」
「近藤さん、おれはね」
と歳三はこわい顔でいった。
「考えがある。この壬生に天下の刺客をあつめ、新選組を二、三百人の大世帯にし、王城下、最大の義軍に仕立てあげたいと思っている」
「歳《とし》」
近藤はおどろいた。かれの構想にはないことであった。この歳三という男は、まるで自分をおどかすためにいつもそばにいるように思われた。
「それには、金」
歳三は、指でトントンと畳をたたいた。
「金だ。筋目の通った金が要る。隊が費《つか》ってもつかいきれないほど湯水のように湧いてくる金が。――だから」
「なんだ」
「いつも日野から、五両、十両と小金をせびっているようなあんたのやり方を変えてもらわねばならぬ。いっておくが、精鋭二、三百人を養うとなれば、五、六万石の小大名ほどの経費《ぞうよ》が要る。では、あるまいか」
「そ、そのとおりだ」
小大名、ときいて、近藤は喜色をうかべ、自分の位置が、いまや京で、天下で、容易ならぬものになりつつあることをあらためて気づかされる思いであった。思わず胸がふくらんだ。
「よかろう」
といった。
「では近藤さん、早速、芹沢を|おだ《ヽヽ》て《ヽ》」
といってから、歳三は、近藤にさしさわりがあると思ってすぐ言葉をかえ、
「いや、芹沢にもう一度働いてもらって、会津侯にまで、その旨を通して貰いたい。いまのところ、芹沢は大事なお人だ」
「そうしよう」
近藤は、すぐ、芹沢の部屋へ行った。
芹沢鴨は、自室で、新見錦、野口健司、平山五郎ら水戸以来の腹心の連中と飲んでいた。
どの男の膝の前にも、ぜいたくな酒肴の膳がある。
この芹沢系五人は、近藤系の連中とはちがい、食うものも着るものも、豪奢であった。いずれも黒縮緬《くろちりめん》の羽織をまとい、芹沢などは、三日にあげず島原にかよい、すでにいい女までできているという。
近藤は、その資金の出所は知っている。かれらは、市中のめぼしい富家に難癖をつけては「押し借り」をはたらいているということだ。
「押し借り」などは、尊攘を口念仏にしている浮浪志士のやることではないか。それを鎮圧する、というのが、京都守護職から差しゆるされた新選組の本義ではないか。
近藤は着座した。
「いかがです、近藤先生」
と、新見錦は、杯をさしだした。
「いや、私は結構」
「ああ、近藤先生は、下戸でしたな。されば菓子でも」
「頂戴できませぬ。私どもの子飼いの者は、朝起きれば夕餉《ゆうげ》の膳の米のめしの心配からせねばならぬ|てい《ヽヽ》たら《ヽヽ》く《ヽ》です。頂戴しては、罰があたりましょう」
「ほほう」
新見錦は、酔っている。皮肉に笑った。この男は、このときから半年後に、「遊興にふけり隊務|懈怠《げたい》のかどにより」ということで、祇園で近藤一派のために詰め腹を切らされる男だ。
「感服しましたな、さすがに芋道場の御素姓は」
あらそえぬ、というつもりだったのだろうが、自分でも暴言に気づいたか、そこまではいわず、
「ご質朴なものでござる」
近藤は、だまっている。
芹沢は、床柱の前から声をかけた。
「近藤君、おはなしは?」
「されば」
近藤は膝をすすめ、口下手だがよく透る声で、歳三に教えられたとおりのことをいった。
「小大名?」
芹沢も、満足した。
「なるほど、よくぞ申された。皇城鎮護、将軍家御警護のためには、われわれはゆくゆく十万石の大名ほどの人数、武備をもつ必要がある。さっそく、守護職にかけあおう」
「拙者も、お供つかまつる」
近藤は、いった。いつまでも京都守護職との折衝を芹沢にだけまかせておけば、近藤一派は、下風に立つばかりであった。
早速、近藤は歳三に命じて、門前に馬をそろえさせた。
三頭、用意された。
芹沢は、近藤が乗ってから、もう一頭に気づいて、
「近藤君、この馬は?」
「さあ」
近藤は、とぼけた。
坊城通を四条に出てから、うしろから歳三が馬で駈けてきた。
「なんだ、君もか」
「お供します」
「君が来るなら、|うち《ヽヽ》の新見もよべばよかった」
黒谷に到着し、会津藩公用方外島機兵衛らに会い、この建案を大いに弁じた。歳三はあくまでも近藤を立てるように巧妙に話をしむけて行ったから、自然、会津側も、近藤にばかり話しかけるようになった。
「よくわかりました」
会津人は行動力がある。
すぐ別室で、家老横山|主税《ちから》、田中土佐らが協議し、藩主容保に通じた。容保は即決した。時期もよかった。会津藩は、表高二十三万石のほかに、京都守護職拝命とともに公儀から職俸五万石を加えられ、さらに数日前五万石が加増されるという内示があったばかりであった。京都駐兵の費用は、潤沢すぎるほどになっている矢さきだったのである。
「すぐ隊士を徴募しよう」
と、歳三はいった。
徴募の仕方は、「京都守護職|御預《おあずかり》」という権威をもって、京都、大坂の剣術道場を説きまわることであった。おそらく、風《ふう》をのぞんでやってくることだろう。
「近藤さん、これは大事なことだが、徴募の遊説《ゆうぜい》は、われわれ武州派の手でやることだな」
「どうしてだ?」
「芹沢一派にやらせると、その手を伝ってやって来る浪士はみな芹沢派になる」
「なるほど」
近藤は苦笑した。
歳三の処置は迅速だった。あくまでも、同宿の芹沢らには内密である。
その翌日から、沖田、藤堂、原田、斎藤、井上、永倉らを指揮して京大坂の道場をしらみつぶしに歩かせて、応募を勧誘させた。
もともと、京大坂は道場のすくない町だが、それでも三、四十はある。
資格は、目録以上の者で、剣がおもだが、柔術、槍術であってもかまわない。
――ぜひ。
と、即座に入隊を応諾する者もある。
小うるさい道場主になると、「せっかく御光来くださったのだから、ひと手、御教授ねがいたい」と、暗に新選組という耳なれぬ集団の実力を測ろうとする者もあった。
――のぞむところです。
と、沖田、斎藤、藤堂などという連中はむぞうさに竹刀をとって立ち合い、一度も敗れをとったことがなかった。
大坂|松屋町《まつちやまち》筋で槍術、剣術の道場を営む谷兄弟のばあいなどは、兄の三十郎が、原田左之助の槍術の師匠だったこともあって、
――さあ。
と尊大ぶってなかなか応じない。弟子が幹部になっている浪士組など、たかが知れたものとみたのか、それとも、処遇のことで高望《たかのぞ》みでもあったのか、煮えきらなかった。
沖田総司は利口者だから、こういう手合いには百の弁舌よりも試合を所望するにかぎるとおもい、
――谷先生、ひと手、お教え願います。
といって立ちあい、槍で立ちむかってくるところを三度とも手もとにつけ入って、あざやかな面をとった。
というようなわけで、あらかた諸道場に話をつけおわったころ、芹沢が近藤に、
「ぼつぼつ、隊士の徴募にかからねばなりませんな」
と相談をもちかけた。
(遅い。……)
が、近藤はさあらぬ体で同意し、芹沢方にも徴募にまわってもらった。しかし芹沢の連中は怠惰で近藤派のような足まめな仕事にむかず、結局はまかせっきりになった。これがやがて、かれらの墓穴を掘ることになる。
徴募隊士はざっと百名。
諸国を流浪して京大坂にあつまってきた者が多く、どの男も、一癖も二癖もあるつらがまえをしていた。
歳三は、山南敬助と相談しながら、これらの宿割りをした。
あとは、百十数名にふくれあがったこの隊を、どう組織づけるか、である。
「近藤君、これを二隊にわけて、貴下が一隊、それがしが一隊持ちますか」
などと芹沢はいい、近藤も同意しかけたが、歳三は、それに極力反対した。
「それなら、烏合の衆になる」
というのだ。歳三の考えでは、これらが烏合の衆だけに、鉄の組織をつくらねばならない。しかし、どういう組織がいいか。古来、
という組織がある。これが日本の武士の唯一の組織だが、参考にはならない。かれらには藩主というものがあり、主従でむすばれている。しかもその藩兵体制は戦国時代のままのもので、不合理な面が多かった。歳三にはなんの参考にもならず、このさい、独創的な体制を考案する必要があった。
歳三は、黒谷の会津本陣に行き、公用方外島機兵衛に仲介してもらって、洋式調練にあかるい藩士に会い、外国軍隊の制度をきいたりした。
これは、参考になった。参考というより、むしろ洋式軍隊の中隊組織を全面的にとり入れ、これに新選組の内部事情と歳三の独創を加えてみた。これが、このあたらしい剣客団の体制となった。
まず中隊付将校をつくる。
これを、助勤《じよきん》という名称にした。名称は、江戸湯島の昌平黌《しようへいこう》(幕府の学問所。東京大学の前身)の書生寮の自治制度からとった用語で、歳三はこれを物知りの山南敬助からきき、
「それァ、いい」
と、すぐ採用した。士官である助勤は内務では隊長の補佐官であり、実戦では小隊長となって一隊を指揮し、かつ、営外から通勤できる。その性格は、西洋の軍隊の中隊付将校とおなじであった。
隊長を、
「局長」
とよぶことにした。
ただ、芹沢系、近藤系の勢力関係から、局長を三人つくらねばならなかった。芹沢系から二人出て、芹沢鴨と新見錦。
近藤系からは、近藤勇。
その下に、二人の副長職をおいた。これは近藤系が占め、土方歳三、山南敬助。
「歳、なぜ局長にならねえ」
と、近藤がこわい顔をしたが、歳三は笑って答えなかった。隊内を工作して、やがては近藤をして総帥の位置につかしめるには、副長の機能を自由自在につかうことが一番いいことを歳三はよく知っている。
なぜなら、隊の機能上、助勤、監察という隊の士官を直接にぎっているのは、局長ではなく副長職であった。
助勤には、旗揚げ当時の連中の全員をつけさせ、それに新徴の士数人を加えた。助勤十四人、監察三人、諸役四人、これら士官は、圧倒的に近藤系をもって占めた。
(出来た)
歳三は、上機嫌であった。
すでに桜が散り、京に初夏が訪れようとしている。
隊旗もでき、制服もできた。新選組は名実ともに誕生した。歳三にとっては、かけがえのない作品のようにおもわれた。
桜がまだ散りきらぬころ、暮夜、市中見廻り中の近藤が、沖田、山南とともに、四条|烏丸《からすま》西入ル|鴻池《こうのいけ》京都屋敷の門前で、塀をのりこえて出ようとした押し込み浪人四、五人を斬り伏せたことを皮切りに、諸隊、毎夜のように市中で、「浮浪」を斬った。
当時、会津藩公用方のひとりであった広沢富次郎が、その随筆「鞅掌録《おうしようろく》」に、
浪士、一様に外套《がいとう》を着し、長刀地に曳き、大髪《だいはつ》、頭《かしら》をおほひ、形貌はなはだ偉《ふとぶと》しく、列をなしてゆく。逢ふ者、みな目をそむけ、これをおそる。
とある。
都大路の治安は、まったく新選組の手ににぎられた。ときには、大坂、奈良まで「出陣」し、浪士とみれば立ちどころに斬った。
このころである。
歳三は、建仁寺《けんにんじ》のある塔頭《たつちゆう》で会津藩公用方外島機兵衛と会談し、そのあと、沖田総司ひとりをつれて、大和大路を北にむかった。
風が、こころよい。
「木の芽のにおいまで、京はちがうような感じがするなあ」
と、沖田は、相変らずのんきそうだった。
「総司は、京が好きか」
「ええ」
沖田は、微妙に含み笑いをみせた。歳三は、この沖田が、相手がたれとまではつかめないが、淡い恋をおぼえているらしいことを、その言葉のはしばしで察していた。
「土方さんは、きらいですね。一体、京のどこがきらいなのだろう」
「土が赤すぎる。土というものは、ゆらい、黒かるべきものだ」
「武州では、黒いですからね。土方さんの好ききらいなんて、みなその伝《でん》だからな。私など、こまってしまう」
「なにが、こまる」
「べつにこまりはしないけど」
沖田はくすくす笑って、
「きっと、恋をなさらぬからですよ。京女に恋をなされば、土方さんはきっと変わると思いますね」
「なにをいやがる」
ふと、武州府中の社家の猿渡家《さわたりけ》のお佐絵が、九条関白家にいるはずだが、と思った。が、あの当時あれほど想った女の顔が、いま、おもいだそうにもおもいだせないのだ。京にのぼってから、すべての過去が、遠いむかしの出来事のようにおもわれる。
「武州では、いろんなことがあったな」
「あったといえば」
沖田は、急に話題をかえた。
「例の八王子の比留間道場の七里研之助が、いましきりと河原町の長州屋敷に出入りしているそうですよ」
「たれにきいた」
「藤堂さんが、たしかに昨日、長州屋敷に入るのをみた、といっています」
「ふむ」
歳三たちは四条通に出た。大橋を西へ越え、茶店で休息した。貸し提灯を借りるためであった。日が、暮れはじめている。鴨川《かもがわ》の水に、あちこちの料亭の灯がうつりはじめた。
往来を、人がゆく。黄昏《たそがれ》どきのこの通りの人の急ぎ足というのは、平素、悠長な町だけに格別な風情があった。
提灯が西へ過ぎる。
また群れをなして東へゆく。
その提灯の一つが、パッと消えた。
「総司。――」
歳三は、立ちあがった。
路上に血のにおいが立ち、落ちた提灯のそばで、人が斬られている。
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高 瀬 川
「総司、人体《にんてい》を見ろ」
と、歳三がいった。
沖田総司が死体のそばにかがみこんでみると、りっぱな武士である。
「土方さん、風装、|まげ《ヽヽ》などからみて、公卿に仕える雑掌《ざつしよう》、といった者のようですな」
「雑掌か」
京には、そんな武士がいる。公卿侍という者だ。平安朝のむかしなら青侍とよばれたものだが、近頃はなかなか腕ききを召しかかえている。
武士は、三十五、六。一合か二合、抜きあわせているうちに、五、六人に押しかこまれて討たれたらしい。
「旦那」
と、この祇園界隈を縄張りにしている御用聞が、顔を出した。
江戸なら威勢のいいはずのこの稼業人が、意気地なくふるえている。この連中も、尊攘派の浮浪志士の跳梁《ちようりよう》には、十手をかくしてふるえているしか手がないのだ。げんに去年の閏《うるう》八月、幕府のために猟犬のように駈けまわった高倉押小路上ルの「猿《ましら》の文吉」という者が、過激な志士たちのためにしめ殺され、三条河原にさらされている。
「おい、この者に見覚えはあるか」
「ございます」
「たれだ」
「九条関白様にお仕えする野沢|帯刀《たてわき》という御仁でございます」
(九条家、といえば、猿渡のお佐絵が仕えている公卿だな)
当主は、九条|尚忠《ひさただ》。
京都における佐幕派の頭目といわれ、ひどく尊攘派からきらわれているが、これも去年同家の謀臣島田左近、宇郷玄蕃《うごうげんば》が暗殺されてから時勢のはげしさにおびえ、落飾して政界からひとまず隠退している。しかしなお、尊攘浪士のなかには、執拗《しつよう》にこの一門をつけねらっている者がいるということは、歳三もききおよんでいた。
(それで、殺《や》られたか)
歳三は、立ちあがった。
調べは、それだけでいい。所司代とちがって、新選組には、事件の動機、経緯などはどうでもよかった。剣をふるう者には、剣をふるう以外に、新選組の仕事はない。
「相手の人数は何人だ」
「六人でございます」
御用聞は、見ていたらしい。
「特徴は?」
「三人は長州なまり、二人は土州の風体、じかに手をくだした一人は、どうやら旦那となまりが似ております」
「武州なまりか」
京の尊攘浪士に、武州者はめずらしい。
「どこへ逃げた」
「逃げた、というより、その先斗町《ぽんとちよう》の通りを北へ悠々と立ち去りました」
「総司、来い」
と、歳三は歩きだしていた。
(残らず斬ってやる)
木綿の皮色の羽織をぬぎ、くるくるとまるめて番所にほうりこむと、先斗町の狭斜《きようしや》の軒下をあるきだした。
狭い。
芝居の花道ほどの両側に、茶屋の掛行燈が京格子を淡《あわ》く照らし、はるか北にむかってならんで、むこう三条通の闇に融けている。
「総司、からだの調子はどうだ」
「どうだ、とは?」
「働けるか、ときいている」
沖田総司は、ときどきいやな咳をする。癆★[#やまいだれ+亥]《ろうがい》にでもおかされているのではないか、と歳三は近頃、気づきはじめていた。
「大丈夫ですよ」
沖田は、明るく笑った。
歳三が、念のためそうきいたのは、隊に急報して増援をたのむ気は、さらさらなかったからである。二人でやる。いまのところ新選組の武威を京にあげるのは、少人数で制するほか、ないと歳三はみている。
――ちぎりや。
と掛行燈の出た家から、芸妓が出てきた。
歳三と沖田は、ぬっと入った。
「会津中将様御預新選組である。御用によってあらためる」
あがりこんでみたが、それらしい者はいない。
五、六軒その調子であらためつつ北上しているうちに、先斗町を過ぎてしまった。
「土方さん、木屋町《きやまち》じゃありませんかね」
と、沖田は三条橋畔に立っていった。
木屋町とは、これから北にかけての旗亭の街である。
「ふむ」
と、歳三は、沖田の顔色を辻行燈のあわい灯ですかし見ながら、
「お前、大丈夫か」
と、また念を押した。
顔色が、よくない。
このさき、木屋町といえば、尊攘浪士の巣窟といってもいい町だ。河原町に正門をもつ長州藩邸が、その裏門を木屋町に面してもっている。
もともと、下手人どもは、人数が多い。
その上、町が町だけに、長州藩邸からも加勢がくるだろう。当然、激闘が予想される。
沖田の体が、心配だった。闘っているうちに咳きこみなどしたら、それが最期である。
「大丈夫ですよ」
沖田は、先に立って木屋町に入った。
木屋町に、
紅次《べにじ》
という料亭がある。ただしくは紅屋次郎兵衛というのが詰まったものだ。
「紅次」
と、沖田はつぶやいて立ちどまったが、すぐ格子のそばをゆっくりと歩きはじめた。
酒席の唄がきこえる。それをじっと耳袋に溜めるような表情をしながら、
「土方さん」
と、うなずいた。
武州の麦踏みの唄なのである。
「わかった。総司、ここを固めておれ」
云いおわると、歳三は、ガラリと格子をあけた。
「御用によって改める」
叫ぶなり、かまちへとびあがってツツと走り、ふすまを開けた。
――何者か。
と、一座の武士が、歳三を見た。なるほど人数は六人。まげも、土州風の者が二人、長州者らしい秀麗な顔つきの者が三人。それに歳三の顔見知りの者がいた。
名は知らない。
たしかに武州八王子の甲源一刀流の道場で、七里研之助の下についていた男である。
(七里も京へ出た、というが、はて、この場はこの男ひとりか)
「何者だ」
と、入口の一人が、とびのいた。それに応ずるように一せいに膝をたて、刀をひきよせた。歳三は、ずらりと一座をみまわした。
(どの面《つら》も、相当に出来そうな)
歳三は、そっと袴をつまみあげ、ゆるゆるとした動作で股立《ももだち》をとった。
「無礼であろう、名をいえ」
「土方歳三という者だ」
「えっ」
いっせいに立ちあがった。歳三の名は、すでに京の尊攘運動者のあいだで鳴りひびいている。
「さきほど、四条橋畔で、九条家の雑掌某を斬ったのはお手前方であろう」
「そっ、それが」
と、入口の背の高い男がいった。
「どうしたっ」
「詮議《せんぎ》する。隊まで御同道ありたい」
行く馬鹿はない。
入口の男が、返事がわりに抜き打ち、横なぐりに斬ってきたのを、歳三はかまわずにおどりこみ、あっ、と一同が息をのむすきに座敷の中央をまっすぐに駈けぬけた。
そのまま障子を踏み倒して、廊下へ出、くるりと座敷にむいた。
逃がさぬためである。表に逃げる者のためには、沖田が待っている。みごとといえるほどの喧嘩上手であった。
「相手は一人だ」
と、男のひとりが叫んだ。
「押し包んで斬ってしまえ」
「燭台に気をつけることだ。火を出すと、京では三代人づきあいができぬというぞ」
そういったのは、歳三である。剣を右さがりの下段にかまえている。
みな、近よらない。
歳三の背後は、縁。
それに狭い庭がつづき、板塀一つをへだてて鴨河原である。
「諸君、なにを臆しておられる」
と、さきほど入口にいた背の高い男が、剣を中段にかまえつつ、ツツと出た。
籠手を撃つとみせ、コブシをあげたとき、歳三の剣も、ややあがった。その瞬間、
「突いたあっ」
とすさまじい気合とともに体ごとぶつかってきた。
が、すでに歳三は片ひざをつき、|うな《ヽヽ》じ《ヽ》をのばし、体をのばし、剣を突きのばして、相手の胴を串刺しにしていた。
すぐ手もとへ引き、血の撒き散った畳を飛び越えてさらに一人を右袈裟《みぎげさ》にたたき斬った。
あとは、乱刃といっていい。
相手も、出来る。背後からあやうく斬りおろされそうになったとき、歳三の頭上に鴨居があった。
ぐわっ、と鴨居が鳴った。歳三はキラリとふりむくと、そこに顔がある。
武州の顔である。
眼に、恐怖があった。
男は、刀をぬきとるなり、庭さきにとびおりた。
つられて、歳三もとびおりた。苔が、足の裏につめたい。
男は、裏木戸をあけた。
すぐ、崖である。一丈ほどの石垣が、ほとんど垂直に組まれている。飛びおりれば、足をくじくだろう。
男は、ためらった。
宵の星が、東山の上に出ている。
「おい」
と歳三はいった。
「七里研之助は、達者か」
「土方」
男は、裏木戸から、身を闇の虚空にせり出した。
「覚えてろ」
飛んだ。
「………」
歳三は、座敷のほうをふりかえった。沖田がきている。
沖田は座敷の真中に突ったち、すでに剣を収め、左手を懐ろに入れていた。
豪胆な男だ。
足もとに死体が二つ。むろん、沖田が片づけたものだろう。
「土方さん、隊に帰りますか」
「ふむ」
歳三は袴をおろしながら、
「いまの男、八王子の甲源一刀流のやつだ」
「七里研之助の手下ですな」
「逃がした。もすこしで、武州の恨みをはらしてやるのだったが、惜しいことをした」
「土方さんは、執念ぶかい」
「それだけが」
歳三は、縁へあがった。
「おれの取り得だ」
「妙な取り得ですな」
「いずれ、七里研之助とも、どこかで出くわすことになるだろう。あれほどの男だ。やつも、それを楽しみに待っているにちがいない」
「おどろいたなあ」
沖田は、歳三の顔をのぞきこんで、
「田舎の喧嘩を花の京にまで持ちこすのですか」
「そうだ」
「土方さんには、天下国家も、味噌もなんとかも、一緒くたですな」
「喧嘩師だからな」
「日本一の喧嘩師だな。ただおしむらくは、土方さんには、喧嘩があって国事がない」
「その悪口、山南敬助からきいたか」
「いいじゃないですか」
二人は、通りへ出た。
剣戟におそれをなしたのか、木屋町は軒並に表を閉ざして、ひっそりと息をこらしている。
人通りもない。
三味の音も、絶えている。
「いまの一件、始末しておく必要がある。会所へ寄ろう。こっちだ」
北へ歩きだした。
わるいことに、会所のそばに、長州屋敷の裏塀がある。
(あぶないな)
沖田ほどの者でも、そう思った。
会所に入ると、たったいまの「紅次」での騒動をききつけて、町方たちが詰めかけていた。
「壬生の土方と沖田だ。さきほど、四条橋畔で九条関白家の家来野沢帯刀どのを斬った兇賊六人が、紅次で酒宴をしていた。からめとるべきところ、手向ったので、斬りすてた。討ち洩らした者は一人」
「へっ」
みな、慄えている。
「番茶はあるか」
「へへっ」
一人が走り出て、すぐ、枡《ます》にいっぱい、冷酒を汲んできた。
「これは、番茶ではないな」
「へい」
「番茶だ、と申している」
歳三は、凄い眼つきをした。やはり、人を斬った直後で、気が立っている。会所の番人が、大きな湯呑にそれを入れてくると、
「総司、飲め」
といって、表へ出た。番茶が咳の薬にもなるまいが、飲まぬよりはましだろうとおもったのだ。
――犬がほえている。
歳三は、南にむかって歩きはじめた。なるべく、川端に寄った。
高瀬川である。
沖田が後ろから追いついてきたとき、ちょうど船提灯をつけた夜船が通った。
その高瀬川の西岸に、北から、長州藩邸、加賀藩邸、対州藩邸、すこし南へくだって、彦根藩邸、土佐藩邸、と、諸藩の京都屋敷が白い裏塀をみせている。
「土方さん、木屋町の会所はね」
と、沖田が小声でいった。
「あれは、長州、土州になじんでいるから、どことなく、われわれにつめたい」
「それが、どうした」
「われわれがこの方角に出た、ということを長州藩邸に報らせていますよ、きっと」
「総司、疲れたのかね」
「いやだな」
沖田は、いった。
「私は、土方さんより丈夫ですよ。まだ一刻は働ける」
歳三は、足をとめた。犬が、あちこちで喧《かまびす》しく鳴きはじめた。
「総司、来たようだな」
「後ろ、ですか」
沖田は、前をむいたまま、訊いた。
「ふむ、後ろだ」
「前にも、いますよ」
二人は、歩いてゆく。
前後から四、五人ずつ、前の組はゆっくりと、背後の組は急ぎ足で、しだいに間隔をつめてきた。
「総司、離れろ」
と、歳三はいった。敵に、目標を分散させて、ここは斬りぬけるつもりだった。
沖田は、左手の軒端のほうに寄った。道の両端で、二人は同時に立ちどまった。
真中を、人影の群れが歩いてゆく。いずれも、屈強の武士である。
それらも、いっせいに足をとめた。むきは半分は沖田へ、半分は歳三へ。
「何の用だ」
と、歳三はいった。
「そのほう、壬生の者か」
「いかにも」
「さきほど、紅次において狼藉《ろうぜき》をはたらいた者であるな」
「詮議をしたまでのこと」
「同志の敵《かたき》っ」
抜き打つなり、真二つになっていた。歳三はとびぬけるように、トントンと道の中央に出た。
死骸が、斃れている。
「これ以上、殺生は無用だ」
刀をおさめると、すたすた歩きはじめた。
沖田の影はすでに前を行っている。右肩が急にふるえた。
咳をしているらしい。
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祇園「山の尾」
京は、大寺《おおでら》四十、小寺五百。
それが、旧暦七月、盂蘭盆《うらぼん》の季節に入ると、この町のどの大路も露地も、にわかに念仏、鉦《かね》、読経《どきよう》の声にみちる。
「仏臭え」
と、歳三は、吐きすてるようにいった。武州の盆は土臭いものだが、こんな陰々滅々としたものではなかった。
「やりきれませんな。町を歩いていると、着物の縫目まで抹香《まつこう》のにおいがしみそうだ」
と、沖田までがいった。むろん新選組では、盆がきても隊士の供養はしない。その点、盆がきてもあっけらかんとしたものである。救うも救われぬも、神仏は自分の腰間の剣のみ、という緊張が、隊士の肚の底にまである。
そういう日の朝、隊から新仏《にいぼとけ》が出た。隊士とおぼしき者が、千本松原で惨殺されているという報らせが奉行所からあったのである。
「山崎君、島田君」
と、歳三は、監察方の連中をよんだ。
「行ってもらおう」
かれらは出かけて行った。
やがてもどってきて、副長室の歳三にまで報告した。
「死体は、赤沢|守人《もりと》でした」
という。背後から右肩に一太刀、これが最初の傷らしい。ついで前から左袈裟、首に二カ所。これは絶命してから斬ったらしく、血が出ず、白い脂肪がみえていた。
「そうか。――」
歳三は、しばらく考えた。やがて眼をぎらぎら光らせはじめたが、なにもいわない。監察たちも気味がわるくなったらしく、
「いずれ、とくと調べましたうえで」
と、退出した。
歳三は、すぐ、隣りの近藤の部屋をたずねた。
「なんだ」
そういったきり、近藤は顔をあげない。
字を習っている。独習である。
(三十の手習いだな)
と歳三はよくからかう。
もともと、近藤は関東にいたころはひどい文字を書いていたのだが、京にのぼってからは、
(新選組局長がこれでは)
と、にわかに発心《ほつしん》して手習いをはじめた。士大夫《したいふ》たる者の唯一の装飾は、書であろう。書がまずければ、それだけで相手にされないばあいも多い、と近藤は考えている。
「ほう」
歳三はのぞきこんだ。
「だいぶ、うまくなったな」
「もともと、手筋はいいのだ」
近藤の手習いは、徹頭徹尾、頼山陽の書風のまねであった。勤王運動の源流になったこの文学者の書風を近藤がもっとも好んだ、というのはおもしろい。
「歳も手習え」
「私かね」
「君もいつまでも武州の芋剣客ではあるまい」
「私はいいさ」
「いいことはないだろう。書は人を作るときいている」
「あれは、儒者のうそだ」
「君は独断が多くていけない」
「なに、こんな絵そらごとで人間ができるものか。私は我流でゆく、諸事。――」
「我流もいいがね。しかし」
「我流でいいのさ」
「しかし気は、鎮《しず》まるものだぞ」
「しずまっては、たまるまい。この乱世で、うかうか気をしずめていては、たちどころに白刃を受ける。あんたも、そんな妙な鋳型《いがた》を学んで、関東のあらえびすの気概をわすれてもらってはこまる」
「白刃といえば」
近藤は無用の議論を避け、話題を変えた。
「今暁、千本松原で斬られていた隊士は、赤沢守人だったそうだな」
「ほほう」
歳三は、急に眠そうな顔でいった。が、脳裏をすばやく駈けめぐったのは監察団を掌握している副長職の自分よりも、一足とびに局長近藤の耳に入れたのは、たれか、ということである。順がちがうではないか。順をみだすのは、組織を自分の作品のように心得ていた歳三にとって隊律|紊乱《びんらん》の最大の悪であった。
「たれかね、その、あんたの耳に入れたはねっかえりの監察は」
「監察ではない」
「ない?」
歳三は、近藤の手から筆をとりあげ、
「それはおかしい。私はたったいま、現場からもどった監察に話をきいた。それをあんたに伝えようと思って、ここへきている。ところが、あんたが、ひょっとすると監察よりも早く知っていた。どういうわけだろう」
「私は、だいぶ前にきいたよ」
「だいぶ前とは?」
「厠《かわや》に立ったときだから、一時間《はんとき》も前だろう。例の野口君(健司・助勤)、あれと廊下ですれちがったとき、野口君がいった。赤沢守人君が長州の連中にやられました、と」
「長州の連中に? 野口君が下手人まで知っているとは妙だな」
「この書は、どうだ」
近藤は、かきあげた山陽の詩をみせた。本能寺の長詩のなかの数句である。
「読めるだろう」
「ばかにしてもらってはこまる」
――老坂《おいのさか》西ニ下レバ|備中《びつちゆう》ノ道。
と、歳三は目読した。
(ひょっとすると)
歳三は、近藤のへたな筆《て》でかかれた長詩をゆっくり眼でひろってゆきながら、
(赤沢を斬ったのは、長州のやつらではなく芹沢一派ではないか。敵は、存外、本能寺にいそうだ)
カンである。
が、歳三は、自分のカンを、神仏よりも信じている。
野口健司は、新見、平山、平間とともに水戸以来の芹沢の股肱《てあし》の子分で、腕もたつ。弁もたつ。学もある、小才もきく。
が、薄っぺらで実がなく、屁《へ》のような男である。どうもああいう男は好かない。
歳三は、部屋にもどって、小者をよび、茶を淹《い》れさせた。
茶柱が、立った。
「縁起がよろしゅうございますな」
「国でもそういうが、京でも、そうか」
歳三は、茶碗のなかを苦い顔でのぞきながら、
(いったい、おれのような男にどんな縁起が来るというのだろう)
――さて、赤沢守人。
歳三は考えこんだ。
死んだ赤沢守人も、じつのところ、歳三はあまり好きではなかった。
新選組にめずらしく、長州脱藩である。
この六月、新選組主力が大坂へ出張したとき、天満の仮陣所(京屋・船宿)に駈けこんできた男で、
――同藩の者から、侮辱をうけた。
と口上をのべた。ああいう藩にはもどりたくありません。もどる気も毛頭ありません。むしろ新選組に加盟し、長州藩の動静をさぐる。そんなお役に立ちたい、といった。問いつめると、身分は下関の町人あがりの奇兵隊士で、歴とした家士ではない。だから藩への忠誠心も、もともと乏しかった。
――よかろう。
と、芹沢も、近藤もいった。
それで、監察部の手に属さしめ、表面は新選組とは無縁の体《てい》にして、依然、京都の長州屋敷に出入りさせた。
赤沢は二つ三つ情報をとってきたが、これが非常に的確で、最初疑っていたように長州が送りこんだ間者ではなさそうであった(というのは、このところ、長州方の間者として入隊する者が二、三あり、隊内でも摘発騒ぎがあって、御倉伊勢武《みくらいせたけ》、荒木田左馬助ら疑わしき者が斬られている)。
ところが、赤沢。
この男のふところには、新選組からわたされた金が潤沢にある。
だから、よく長州藩士や土州脱藩の連中をつれて、祇園、島原といった遊所へゆく。そういう場所で長州藩士の口から洩れた情報を、歳三のもとにもってくるのである。
ところで赤沢の情報には、思わぬ副産物があった。
祇園、島原で遊んでいると、たいていは、新選組の連中と顔をあわせる、というのである。それも芹沢鴨とその一派で、近藤一味は金がないから、ほとんど姿をみせない。
――ほう、それはおもしろいな。
と、歳三は、そのほうに興味をもった。
「赤沢君、どういう遊びぶりです」
「いや、もう」
ひどいものです、と赤沢はいった。遊興費の踏み倒しなどは、普通であるらしい。それより楼主にとって迷惑なのは、酒乱の芹沢は、酔いがまわると怒気を発して器物を割ったり、隣室の客に狼藉を仕掛けることだった。
このため祇園の某亭などは、町人はおろか、諸藩京都藩邸の公用方たちも足を踏み入れなくなり、灯のきえたようになっているという。
(やはり、そうか)
歳三も、そのことは、新選組の世話方である会津藩の重役からも、きいている。
近藤と土方が、三本木の料亭で、会津藩公用方外島機兵衛らと会食したときのことだ。
「近藤先生」
と、外島機兵衛がいった。
「京師では、いかに顕職の士でも、祇園と本願寺、知恩院、この三つの一つにでも憎まれれば役職から失脚する、ということがござる。ご存じでござるか」
「いや、いっこうに迂遠です」
「土方先生は?」
「さあ」
歳三は、杯をおいた。外島はいった。
「代々の所司代や地役人の謳《うた》いなした処世訓でござるが、僧と美妓は、いかなる権門の|ひい《ヽヽ》き《ヽ》があるかもしれず、かれらの蔭口は思わぬ高い所にとどくものです。じつを申すとわが主人が」
はっ、とした顔を、近藤はした。京都守護職である会津中将松平容保が?
「芹沢先生の御行状一切、われらよりもよく存じておられる」
「ふむ。……」
「両先生」
外島機兵衛は、微妙な表情でいった。
「多くは申しませぬ。この一事、十分にお含みくだされますように」
「わかりました」
近藤はいった。
帰路、近藤は歳三に、
「あのように物判りのいい返事はしたが、外島どのが申されたこと、あれはどういう意味《こころ》だろう」
「芹沢鴨を斬れ、ということだ」
「しかし、歳。かりにも芹沢は、新選組局長であるし、さもなくとも天下に響いた攘夷鼓吹の烈士ということになっている。やみやみと斬ってよいものか」
「罪あるは斬る。怯懦《きようだ》なるは斬る。隊法を紊《みだ》す者は斬る。隊の名を涜《けが》す者は斬る。これ以外に、新選組を富岳《ふがく》(富士山)の重きにおく法はない」
「歳、きくが」
近藤は、冗談めかしく首をすくめた。
「おれがもしその四つに触れたとしたら、やはり斬るかね」
「斬る」
「斬るか、歳」
「しかしそのときは私の、土方歳三の生涯もおわる。あんたの死体のそばで腹を切って死ぬ。総司も死ぬだろう。天然理心流も新選組も、そのときが最後になる。――近藤さん」
「なにかね」
「あんたは、総帥だ。生身の人間だとおもってもらってはこまる。奢《おご》らず、乱れず、天下の武士の鑑《かがみ》であってもらいたい」
「わかっている」
そんなことがあった。
その後、歳三は、赤沢を通して、局長芹沢の非行をさまざま耳に入れた。
押し借りはする、無礼討ちはする、もっともひどい例は、これは赤沢からの情報ではなく、それどころか京都中の騒動になった事件だが、芹沢はその一派を引き具して一条|葭屋町《よしやまち》の大和屋庄兵衛方に強請《ゆすり》にゆき、ことわられたとあって、
――されば焼きうちじゃ。
と、隊の大砲を一条通に据え、鉄玉を焼いてどんどん土蔵に撃ちこみ、ついに土蔵ぜんぶをこわして引きあげた。
近藤はその日、終日障子をしめきって隊士の前に顔をみせず、習字ばかりをしていた。よほど腹にすえかねていたのだろう。
――監察山崎|烝《すすむ》が帰ってきた。
赤沢守人の一件である。
「ほぼわかりました」
と、この律義な若者はいった。山崎は大坂|高麗橋《こうらいばし》の有名な鍼医《はりい》の子で、剣もできるし、棒もできる。が、なによりも町育ちらしく機転がきくので、監察には手ごろの男といっていい。
「前夜、島原の角屋《すみや》で遊んでいたことはたしかです。長州の者数人と一緒でした」
「ふむ?」
歳三は失望した。
「たしかに長州者と一緒だったか」
「まちがいありません。長州藩士|久坂玄瑞《くさかげんずい》ほか四人」
「大物だな」
「泥酔して、島原を出たのは辰《たつ》ノ刻。ここまでははっきりしています。おそらくその後、千本松原に連れ出された上、斬《や》られたのでしょう」
「待った。久坂らと一緒に出たのか」
「ええ」
「たしかか」
「なんなら、たしかめて参りましょう」
「いや、いい」
歳三は夕暮れから支度をした。絽《ろ》の羽織、仙台平《せんだいひら》の袴、それに和泉守兼定の大刀、堀川国広の脇差。
島原の角屋に行ってみた。一度、近藤と一緒に登楼《あが》ったときに、桂木大夫《かつらぎだゆう》という大夫《こつたい》と遊んだ。女は、歳三がよほど好きになったらしく、その後も、仲居に古歌などを持たせてしきりと足のむくようにすすめている。
この夜、この桂木大夫と遊んだ。歳三は、さして酒がのめない。
むっつりと押しだまっている。
大夫も少々もてあましたらしく、
「|すご《ヽヽ》ろく《ヽヽ》でも、おしやすか」
と、大名道具のような金蒔絵《きんまきえ》の盤をもちだしてきたが、歳三は見むきもしなかった。
「おなかでも、お痛おすか」
「たのみがある」
「どんな?」
「野暮な用さ」
と、訊《き》きたい一件を手短かにいった。
「それ、難題どす」
大夫は、一笑に付した。ここは仙境で、浮世の用はいっさい語らず持ちこまず、という不文律がある。
「むりか」
「なりまへん」
そのくせ大夫はそっと立って、懇意の仲居に耳打ちしてくれた。
わかった。
その夜、赤沢は、久坂ら長州藩士と一緒に出たが、久坂らは駕籠であった。赤沢守人は徒歩である。とすれば、島原の大門《おおもん》を出たときは、もう別れた、とみていい。歳三は、そうみたい。
ところが、意外なことが判明した。芹沢とその腹心の新見錦も当夜、角屋であそんでいて、ほとんどその直後に出たという。
小雨がふりはじめていた。芹沢、新見は傘と提灯を借り、このとき新見が、
「赤沢君は、提灯をもって出たか」
「へい」
と、下男がうなずいた。
「角屋の提灯だろうな」
「左様《さい》で」
そういう会話を、下男とかわしたという。
(なるほど)
歳三は、考えた。千本松原の赤沢守人の死体のそばには、角屋の定紋入りの提灯がころがっていた。
それから数日たった夜。
歳三は、その夕、祇園の貸座敷「山の尾」という料亭へ不意にあがった。
「御用である」
と、亭主、仲居を鎮まらせた。
「新選組局長新見錦先生がご遊興中であるはずだが、座敷はどこか」
「ヘっ」
亭主は腰がぬけてしまっていたという。
「|は《ヽ》、|はな《ヽヽ》れ《ヽ》でござりまする」
歳三はすばやく手配りをして、同行の沖田総司、斎藤一、原田左之助、永倉新八を、離れ座敷の南に面した中庭に伏せさせた。
「亭主、騒ぐ者、声を立てる者は、斬る」
歳三は、大刀を亭主にあずけ、ひとり悠々と廊下を渡った。手には、別に大刀をもっている。
赤沢守人の遺品である。
障子に、影が二つ。
爪弾きの音《ね》がきこえる。影の一人は、芸妓である。
いま一つの影は、その大たぶさの|まげ《ヽヽ》でわかる。新見錦。芹沢の水戸以来の子分で、剣は芹沢と同流同門の神道無念流。腕は免許皆伝である。
新見の腕については、歳三は、屯所の道場で、一度、立ちあったことがあった。竹刀では互角とみていい。
「たれだ」
新見は、芸妓をつきはなして膝をたてた。
「私ですよ」
と、歳三は、大刀のコジリで、さっと障子をあけた。
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士  道
「――土方君か」
局長新見錦は、眉をけわしくした。
不審である。平素さほど親しくもない副長の土方歳三が、なぜここへきたのか。
「新見先生。御酒興をさまたげるようですが、邦家のため、御決断を乞いにきました」
「決断を?」
「そうです」
歳三は、あくまでも無表情である。
「私に?」
「むろん」
「土方君、君は副長職だ。すこしあわててはいまいか。新選組には、局長職をとる者が三人いる。芹沢先生、近藤君、それに私。軽微な用ならいずれの局長に相談してもらってもかまわない。わざわざ、こういう場所へ来なくてもよいではないか」
「いや、右御両方には相談ずみです」
半ば、うそである。しかしいまごろ屯営では、近藤が、左右に腹心の猛者《もさ》をならばせて、芹沢と膝詰め談判をしているはずだ。だから、芹沢への相談ずみというのは、半分、うそではない。
「とにかく」
歳三はいった。
「この件は、新選組局長であるお三方《さんかた》の御諒承が要ります」
「ああ、それなら私はかまわない。君たちにまかせておこう」
「たしかに、私におまかせねがえますか」
「ああ」
新見錦は、面倒そうに手をふって、冷えた盃をとりあげた。その手もとを、歳三はじっとみながら、
「用と申すのは、ほかでもない。新見先生にこの場で、切腹していただきます」
「えっ――」
手を、佩刀《はいとう》に走らせた。
「お待ちなさい」
歳三は、手をあげた。
「たったいま、それを御諒承いただいた。武士に二言はないはずです」
「ひ、土方君」
「心得ています。介錯《かいしやく》の太刀はこの土方歳三がとります」
「な、なぜ、私が。――」
「御未練でしょう。新見錦先生といえば、かつては水戸の志士として江戸では鳴りひびいたお名前だ。どうか、武士らしく」
「理由をきいているのだ」
「それは、お任せねがったはずです。芹沢先生、近藤先生、そして新見錦先生、この三局長の御裁断をたったいま得た。その三局長裁断に従い、水戸脱藩浪人新見錦は、押し盗み、金品強請を働いたかどにより切腹おおせつけられます」
「待て、屯営へもどる」
「どこの屯営です」
「知れている。壬生《みぶ》の」
「あなたはまだ新選組局長のつもりでいるのですか。すでにそれは剥奪《はくだつ》かつ除籍されている。それを裁断したのは、さっきまでここにいた局長新見錦だ。いまここにいるそれに似た人物は、すでに局長ではない。不逞《ふてい》の素浪人新見錦。――」
「お、おのれ」
「斬られたいか、新見錦。私は武士らしく切腹させようとしているのだ。その御温情は、会津中将様から出ている」
「うぬっ」
膝を立てるや、抜き打ちを掛けた。酔っている。手もとが狂った。
それを歳三は、持っていた赤沢守人の佩刀で鞘ぐるみ、はらった。黒塗りの鞘が割れ、抜き身が出た。
「この刀は」
歳三は、身構えながら、
「あんたが殺した赤沢守人の差料《さしりよう》だった。この刀で介錯申しあげる」
云いおわったとき、すでに、沖田総司が背後に来ている。
同時に隣室の唐紙がからりとひらき、斎藤一、原田左之助、永倉新八が、むっつりと顔を出した。
「刀を、お捨てなさい」
と、歳三がいった。
新見錦は、真蒼な顔になり、膝がふるえているのがありありとみえたが、刀だけは捨てない。
そのとき、はっと、新見の背後に人の気配が動き、ばたばたと駈け出そうとした。
ふりかえりざま、新見は横にはらってその人物を斬った。
血がとび、手首がばさりと落ちた。|★[#てへんに堂]《どう》と倒れ、血の海のなかで、狂ったようにわめきだした。新見の馴染《なじみ》の妓《おんな》である。逃げだそうとしたのを、新見が見あやまって斬ってしまったのだ。
妓は、のたうちながら新見を罵《ののし》った。形相は、鬼女に似ている。
新見は、あきらかに錯乱した。いきなり刀を逆手《さかて》にもつなり、妓の胸へ突きとおした。同時に、どさりと妓の体の上へ尻餅をついた。妓の死体が、びくりと動いた。
「土方、みろ」
新見も、新選組の局長をつとめるほどの男である。ゆっくりと懐ろから懐紙をとりだし、それを刀身に巻いた。
「介錯します」
歳三は、背後にまわった。新見は、腹に突き立てようとした。が、容易に手がうごかず、畳の上の一点をぎらぎら光る眼で、見つめている。
「原田君、手伝って差しあげなさい」
「はっ」
原田左之助も、故郷《くに》の伊予松山にいたころささいなことで、切らでもの腹を切りかけたことのある男だ。いまでも、腹三寸ほどにわたって、傷口の縫いあとがある。
「御免」
背後から抱きつき、持前の大力で新見の両コブシを上からにぎり、微動だにさせず、
「新見先生、こう致します」
ぐさりと突きたてた。新見の上体が一たん反り、すぐ前かがみになった。その瞬間、歳三の介錯刀が原田の頭上を走った。前に、首が落ちた。
新見は、死んだ。同時に、芹沢鴨の勢力は、半減した。城でいえば、二の丸が陥ちて、本丸のみが残ったことになる。
その芹沢は、歳三が新見のもとに赴いたあと、壬生屯営の一室で近藤の士道第一主義の硬論に攻めたてられ、いったんは新見の処罰を諒承するところまで追いつめられていた。
「わかった、わかった」
芹沢は、この小うるさい議論を早くうちきりたい。この夜、島原へ押し出すつもりでいたのだ。
が、近藤がなおも食いさがって離さなかった。
「芹沢先生、これは大事なことです。念のため申しておきますが、新選組を支配しているのは、何者だとお思いです」
と、近藤はいった。近藤の理屈ではなく、歳三が事前に教えた理屈である。
(何をいうのか)
という顔を芹沢はした。当然、筆頭局長である自分ではないか。
「近藤君、君は正気かね」
「正気です」
「では、いってみたまえ」
「この隊を支配しているのは、芹沢先生でもなく、新見君でもなく、むろん、不肖近藤でもありません。五体を持った人間は、たれもこの隊の支配者ではない」
「では、何かね」
「士道です」
と近藤はいった。士道に照鑑して愧《は》ずるなき者のみ隊士たりうる。士道に悖《もと》る者は、すなわち死。
そう、近藤はいった。
「でなければ、諸国から参集している慷慨《こうがい》血気の剣客をまとめて、皇城下の一勢力にすることはできません」
「では、きくがね」
芹沢は、冷笑をうかべた。
「士道、士道というが、近藤君のいう士道とはどういうものだ」
「といいますと?」
「あんたは多摩の百姓の出だから知るまいが、水戸藩にも士道がある。われわれは幼少のころから叩きこまれたものだ。長州藩にもある。薩摩藩にも、会津藩にも、その他の諸藩にもある。むろんそれぞれ藩風によって、すこしずつちがうが、要は、士たる者は主君のために死ぬということだ。これが士道というものだ。新選組の主君とは、たれのことです」
「新選組の主君――」
「そう。新選組の主君は?」
「士道です」
「わからないんだな。いまも云ったとおり、主君を離れて士道などというものはないのだ。主君のない新選組は、なににむかって士道を厳しくする」
芹沢は、論客の多い水戸藩の出身である。疎剛とはいえ、議論の仕方を知っている。
「どうだ、近藤君」
近藤はつまって沈黙した。
(百姓あがりの武士め)
芹沢に、そんな表情がある。
夜、歳三が帰ってきて、芹沢、近藤の両局長に、新見錦切腹のことを報告した。これを聞いた芹沢の顔中の血管が、みるみる怒張した。
「や、やったのか」
芹沢は、議論だけのことだ、と|たか《ヽヽ》をくくっていた。しかし、眼の前にいる武州南多摩の百姓剣客は、議論倒れの水戸人とはまるでちがう。平然とそれをやってのけたではないか。芹沢は、いま、はじめて見る人種に出会《でく》わしたような思いがした。芹沢だけでなく、近藤、土方などのような武士は、日本武士はじまって、おそらくないであろう。
芹沢は、席を蹴って立った。
やがて、水戸以来の輩下である三人の隊士を従えて入ってきた。
助勤 野口健司
助勤 平山五郎
助勤 平間重助
いずれも、水戸脱藩で、流儀も芹沢とおなじ神道無念流の同流の徒である。
三人は、芹沢を取りまいて着座した。険悪な表情である。
平山五郎などは、刀の鯉口を切っている。あごをあげ、首を、心もち左へ落していた。この男が、人を斬るときの癖であった。「目っかちの五郎」といわれた。左眼が無かった。火傷《やけど》でつぶれている。癖はそのせいである。
芹沢がいった。
「近藤君、土方君。もう一度、新見錦切腹の理由をうけたまわろう」
近藤は、押しだまっている。
歳三が微笑した。
「士道不覚悟」
歳三も近藤も、芹沢のいうようにいかなる藩にも属したことがない。それだけに、この二人は、武士というものについて、鮮烈な理想像をもっている。三百年、怠惰と狎《な》れあいの生活を世襲してきた幕臣や諸藩の藩士とはちがい、
「武士」
という語感にういういしさをもっている。
だけではない。
かれらは、武州多摩の出である。三多摩は天領(幕府領)の地であり、三郡ことごとく百姓である。が、戦国以前は、源平時代にさかのぼるまでのあいだ、この地は、天下に強剛を誇った坂東武者の輩出地であった。自然この二人の士道の理想像は、坂東の古武士であった。
懦弱《だじやく》な江戸時代の武士ではない。
「芹沢先生、おわかりになりませんかな」
歳三が、いった。
「新見先生は、士道に照鑑してはなはだ不覚悟であられた。それが、切腹の唯一の理由です。同時に」
「同時に?」
「芹沢先生でさえ、士道に悖られるならば、むろん、切腹、しからずんば断首」
「なに。――」
平山が立ちあがった。
「平山君」
歳三は、ゆっくり手をあげた。
「あんたは、隊内で、戦さをする気かね。私がここで手をたたけば、われわれの江戸以来の同志が、たちどころになだれ込む」
芹沢一派は、引きあげた。
その夜からかれらは復仇を企てるべきだったが、別の道をえらんだ。酒色に沈湎《ちんめん》した。芹沢の乱行は、以前よりひどくなった。
新選組局長芹沢は、京においてはまるで万能の王であった。路上で、町人が無礼を働いたといっては、斬った。平隊士の情婦《おんな》に惚れ、邪魔だ、というたった一つの理由で、その隊士(佐々木愛次郎)を誘殺した。かねがね四条堀川の呉服屋《ふとものや》菱屋で呉服を取りよせていたが一文も払わぬため、さいそくを受けていた。督促の使いは番頭のときもあったが、菱屋の妾がくることもあった。お梅といった。これを手籠《てご》めにし、借金は払わぬばかりか、お梅と屯営で、同棲同然の荒淫な生活をし、堀川界隈の町家の評判にまでなった。
歳三は、だまっている。近藤も、だまっている。が、計画は着実に進んでいた。討手はすでに決定していた。
近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎のわずか四人。
永倉新八、藤堂平助は、選ばれていなかった。この二人は江戸以来の同志で、近藤系の機密にはことごとく参画してきたが、歳三は、なお用心した。かれらは天然理心流ではない。
藤堂平助は北辰一刀流であり、永倉新八は神道無念流である。かつては江戸|小《こ》日向《びなた》台《だい》の近藤道場での食客だったために、近藤の旗本格ではあったが、いわば|三河《ヽヽ》以来《ヽヽ》の《ヽ》旗本《ヽヽ》ではなかった。考慮のうえ、はずされた。
実施は、多摩党でやる。あの貧乏道場をやりくりしてきた天然理心流の四人の手で。歳三にとっては、この仲間だけが信頼できた。
「しかし、すこし、心もとないな」
と近藤はいった。やるからには、一挙に芹沢派の全員を殺戮《さつりく》したい。小人数では、討ちもらすおそれがあった。
「歳、どうだ」
近藤はそういって、手習草紙に、
「左」
という文字を書いた。
原田左之助である。
「なるほど、これはいい」
歳三は、うなずいた。猛犬のような男だが、それだけに、近藤への随順は、動物的なものがあった。
近藤は、歳三同席の上で、原田左之助をよんだ。歳三の口からそれとなく、このごろの芹沢をどう思っているかと、訊きだした。
「快男児ですな」
原田は、からからと笑った。
近藤は、意外な顔をした。考えてみると原田は芹沢と同質の人間である。ただちがう点は、原田は松山藩の一季半季の傭《やと》い中間《ちゆうげん》という卑賤から身をおこし、少年のころからつらい目に逢ってきた男だけに、どこか、涙もろい。
「原田君、うちわっていうが、私は、一人で芹沢鴨を斬る」
と、近藤がいった。
さすがに、原田もおどろいた。
「先生お一人で?」
「そうだ。しかしここにいる土方君は反対している。自分も加わるという」
「いかん」
原田は、単純だ。
「土方さんのいうとおりです。芹沢局長お一人ではありませんぞ。第一、平山がいる。野口、平間という悪達者もいます。万一、先生にお怪我があっては、新選組はどうなります。――土方さん」
「ふむ?」
「ご説得ください。近藤先生は、ご自分お一人の命だとお考えのようです」
「わかった」
歳三はこの男にしてはめずらしく明るい微笑をうかべた。
「原田君、やろう」
「やりますとも」
筆頭局長を斬る、という是非善悪の論議などは、この男の頭にはない。ひょっとすると歳三が考えている新選組の「士道」とは、例を求めれば原田左之助のような男かもしれなかった。
原田は、口がかたい。
|その《ヽヽ》日《ヽ》が来るまで、この一件については、近藤、土方とも話題にしなかった。
文久三年九月十八日は、日没後、雨。
辰ノ|下刻《げこく》から、強風をまじえた土砂降りになった。鴨川|荒神口《こうじんぐち》の仮橋が流出しているからよほどの豪雨だったのだろう。
芹沢は、夜半島原から酔って帰営し、部屋で待っていたお梅と同衾《どうきん》した。双方、裸形《らぎよう》で交接し、そのまま寝入った。
島原へ同行していた平山、平間も、それぞれ別室で寝入った。芹沢派の宿舎は、このころ、八木源之丞屋敷になっていた。
道一つ隔てて、近藤派の宿舎前川荘司屋敷がある。
午前零時半ごろ、原田左之助を加えた天然理心流系五人が、突風のように八木源之丞屋敷を襲った。
お梅即死。
芹沢への初太刀は沖田、起きあがろうとしたところを歳三が二の太刀を入れ、それでもなお縁側へころび出て文机《ふづくえ》でつまずいたところを、近藤の虎徹が、まっすぐに胸を突きおろした。
平山五郎は、島原の娼妓吉栄と同衾していたが、踏みこんだ原田左之助が、まず、吉栄の枕を蹴った。
「逃げろ」
原田は、この妓《おんな》と寝たことがある。吉栄はわっと叫んで、襖を倒してころび出た。
驚いて目をさました平山は、すばやく這って佩刀に手をのばした。
そこを斬った。
肩胛骨《かいがらぼね》にあたって、十分に斬れない。原田は、暗闇のなかで、放胆にも、身をのりだしてのぞきこんだ。
あっ、と平山が鎌首をたてた。
そこを撃った。首が、床の間まで飛んで、ころげた。
平間重助は逃亡。
野口健司は不在。
この年の暮、二十八日に野口は、「士道不覚悟」で切腹。芹沢派は潰滅した。
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再  会
同じ年の文久三年、京の秋が、深まっている。
新選組副長土方歳三にとって相変らず多忙な日常であったが、この男の妙なくせで、半日部屋を閉じたきり、余人を入れない日があった。
隊では、
――副長の穴籠《あなごも》り。
と蔭口をたたいた。たれもが、この穴籠りを不安がった。
(なにを思案しているのか)
またたれかが粛清されるのではあるまいかという不安である。
その日、朝から小糠雨《こぬかあめ》がふった。
九月も、あと残りすくない。すでに新選組では数日前に、局長芹沢鴨の告別式をすませている。死因は、隊内に対しても、会津藩に対しても、病死、とされた(新入りの隊士のなかには、長州人が襲ったのではないか、と臆測する者もいた)。しかし、なにもかも、済んだことである。済んだ、ということは、新選組の隊内生活にあっては、完全な過去であった。隊士のたれもが、きのうのことを振りかえる習性はもたなかった。みな、その日を、必死に暮らしている。
その日の午後、沖田総司が市中巡察からもどってきて、式台にあがってから、ふと局長付の見習隊士をよびとめ、
「土方さんは」
在室か、ときいた。見習は、ちょっと翳《かげ》のある表情をした。
「いらっしゃることはいらっしゃるのですが」
「が? どうなのです」
「はあ」
「応答を明確にして貰います」
見習隊士はうまくいえないらしいが、どうやら、歳三は、朝から隊士が自室に入るのを拒《こば》んでいる様子であった。
「ああ、穴籠りか」
沖田はやっと気づいて、噴きだした。悪い道楽だ、そんな顔である。
沖田だけが、歳三が自室にこもってどういう作業をしているのかを知っていた。この秘密は、近藤でさえ気づいていない。
沖田は廊下をわたり、中壺《なかつぼ》の東側まできたとき、刀を持ちかえ、足をとめた。歳三の部屋の前である。
「沖田です」
と障子越しに声をかけた。かけてから、悪戯っぽく聞き耳をたて、なかの物音をききとろうとした。
予想したとおり、あわててなにかを仕舞う物音がした。やがて歳三の咳ばらいがきこえて、
「総司かね」
といった。
沖田は、障子をあけた。
「なんの用だ」
歳三は華葱窓《かそうまど》にむかっている。窓の前に硯箱《すずりばこ》が一つ。右手の床の間に刀掛けが一基、それだけが調度の、いかにも歳三らしい殺風景な身のまわりである。
「きょう、市中を巡察していますと」
と、沖田は着座した。
「めずらしいひとに逢いましたよ。たれだかあててごらんなさい」
「私は、いそがしいのだ」
「結構なことです」
沖田は、ゆっくりと歳三のひざもとへ手をのばした。歳三は、はっと防御しようとしたが、すでにその物品は沖田の手にさらわれている。
草紙である。
沖田は、ぱらぱらとめくった。内容《なか》は、歳三のくねくねとした書体で、びっしりと俳句が書きとめてある。
「豊玉《ほうぎよく》(歳三の俳号)宗匠、なかなかの御精励ですな」
「ばかめ」
歳三は、赤くなった。
沖田は、くすくす笑った。この若者は知っている。歳三の恥部なのだ、ひそかに俳句をつくるということは。
「総司、かえせ」
「いやですよ。新選組副長土方歳三先生が、月に一度、瘧《おこり》をわずらうようにして豊玉宗匠におもどりになる。それも隊士にかくれて、御苦吟《ごくぎん》なさる。隊士たちはまさか副長が俳句をつくっているとは存じませんから、いろいろと臆測をして、気にしています。みなに気を使わせるのは、あまりいいことではありませんな」
「総司」
歳三は、手をのばした。
沖田は、畳二畳をとびさがって、句作帖をのぞきこんでいる。
歳三の田舎俳句は、土方家としては、石田散薬とともに家伝のようなものだ。
祖父は三月亭|石巴《せきは》と号し、文化文政のころ武州の日野宿一帯では大いに知られたもので、江戸浅草の夏目成美、八王子宿の松原庵星布尼などという当時知名の俳人と雅交があった。
亡父|隼人《はやと》は無趣味だったが、長兄の為三郎は石翠《せきすい》盲人と号し、江戸までは名はひびかなかったが、近在では大いに知られている。
為三郎は長兄とはいえ、土方家の家督はつがず、次男喜六がついで、世襲の名である隼人を名乗った。為三郎は盲人だったからである。当時、法によって障害者は家督をつげなかったのだ。為三郎は、平素、歳三にも、
「おれは、眼が見えなくてよかった。片っぽうでも眼があいてりゃ、畳の上では死ねまい」
といっていた。豪胆な盲人で、若いころ府中宿へ妓《おんな》を買いに行き、帰路、豪雨のために多摩川の堤が切れ渡船の運航がとだえた。みな、茫然と洪水をながめているときに、為三郎はくるくると裸になり、着ていたものを頭にくくりつけ、
――目あきは不自由なものだな。
とそのまま濁流にとびこみ、抜き手を切って屋敷のある石田在まで泳ぎついたという逸話のもちぬしだ。
義太夫にも堪能で、旦那芸をこえていたというが、やはり得意は俳諧で、気性そのままの豪放な句をつくった。
歳三は、それに影響されている。
ところがこの男の気質にも似あわず、出来る句は、みな、なよなよした女性的なものが多い。むろんうまい句ではない。というより、素人の沖田の眼からみても、おそろしく下手で、月並な句ばかりである。
「ふふ」
沖田は、|のど《ヽヽ》奥で笑った。
――手のひらを硯《すずり》にやせん春の山
(あの頭のどんな場所を通ってこんなまずい句がうまれてくるのだろう)
菜の花の|すだ《ヽヽ》れ《ヽ》に昇る朝日かな
人の世のものともみえぬ梅の花
春の夜はむつかしからぬ噺《はなし》かな
(ひどいものだ)
沖田は、うれしくなっている。沖田のみるところ、歳三がもっている唯一の可愛らしさというものなのだ。もし歳三が句まで巧者なら、もう救いがない。
「どうだ」
歳三は気恥ずかしそうにしながら、それでも沖田のほめ言葉を期待している。
「ああ、この句はいいですな」
沖田は、一句を指さした。
「どれどれ」
「公用に出てゆく道や春の月。いかにも新選組副長らしい句です」
「そうかい。そいつは旧作だが。ほかに気に入ったのがあればいってくれ」
「ええ」
と視線を落してから、不意に笑いだした。
「年礼に出てゆく空や鳶《とんび》、凧《たこ》」
「ほうそれが気に入ったのか」
「まあね」
沖田は、なおも笑いをこらえて読む。
(これもひどい)
――うぐひすや|はた《ヽヽ》き《ヽ》の音もつひ止《や》める
「気に入ったかね」
「土方さんは可愛いなあ」
沖田は、ついまじめに顔を見た。
「なにを云やがる」
歳三は、あわてて顔をなでた。
沖田はなおも、ぱらぱらとめくって、ついに最後の句に眼をとめた。
墨《すみ》のぐあいから推して、たったいま苦吟していたのが、この句であるらしい。
(大変な句だな)
真顔で、じっと見つめている。
歳三はなにげなくのぞきこんで、
「あ、これはいかん」
と、取りあげた。取りあげるなり、そそくさと筆硯や句帖を片づけて、
「総司、もう出てゆけ。おれはいそがしい」
といった。沖田は、動かない。
「その句。――」
と、歳三の表情を注意ぶかく見ながら、
「たれを詠《よ》みこんだものです」
「知らん」
――知れば迷ひ
知らねば迷はぬ恋の道
と、句帖には歴々と書いてある。
歳三は、すぐ屯営を出た。どこへゆくか、行先は、沖田にだけは告げておいた。
きょうのあの瞬間ほど、歳三は人間の心の働きのふしぎさを思ったことはなかった。
じつをいうと、朝、佐絵を想った。想うと、たまらなくなった。
武州府中の六社明神の祠官猿渡佐渡守の妹佐絵とは、関東にいたころ、数度通じた。
通じた、という女は、あの時代の歳三には何人か、指を折るほど居はしたが、しかし、恋をおぼえたことはない。鈴振り巫女《みこ》の小桜や、八王子の専修坊の娘|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》、それに、歳三にとっては思いだしたくない履歴だが、十一歳のとき、一時、江戸上野の呉服屋松坂屋に小僧にやられたことがある。そのころ、そこの下女に、男女のことを教えられ、それが番頭にみつかって、生家《さと》に帰された。が、すべては、古ぼけた過去になった。
(佐絵だけは。……)
想いだされるのである。しかしそれも、ときどきではあったが。
(好い女だった)
京では、島原でも祇園でも一通りはあそんだ。しかし、床上手《とこじようず》で知られた京の遊《あそ》び女《め》でも、佐絵ほどのつよい記憶を、歳三の体に残してはいない。
(が、過ぎたことだ)
とは思っている。
だから、猿渡家の慣例により、佐絵が京にのぼって、九条家に仕えていることを知っていながら、会いに行こうとはしなかった。
(おれは恋などはできぬ男だ)
と、わが身の冷やかさに、あきらめはつけている。
(それが、漢《おとこ》だ)
とも思っていた。が、今朝、暁《あかつき》の夢のなかで、佐絵を抱いた。眼ざめてなおその夢の記憶をたのしむうちに、にわかに人のいう恋慕のようなものが突きあげてきて、床のなかにころがっている歳三をろうばいさせた。
(おれにも、そういう情があったのか)
起きあがって身支度をし、隊務をとろうとしたが、なにもかも物憂くなった。歳三にはときどきこういうことがある。
そんなときは、籠って、句を作った。自分でもうまいとは思っていないから、句作しているときは、人を寄せつけない。
句ができた。
それがあの句である。
ところが男女とは妙なもので、沖田総司が、きょう町で佐絵にばったり出逢ったという。場所は清水《きよみず》。
佐絵は物詣《ものもう》での姿で、清水の坂をくだってきた。安祥院の山門前で、沖田らとすれちがった。佐絵がよびとめた。沖田は佐絵を知らなかったが、佐絵のほうが知っていた。
――土方さんに、一度お会いしたい。
と、佐絵はいい、後刻屯営へ道案内の小者をやるから歳三にその旨を伝えてくれとたのんだ。
「沖田様、頼まれてくれますね」
武州女らしく、きびきびしたきめつけ口調でいった。沖田はひさしぶりで関東女のことばをきいて、楽しかった。
「頼まれますとも」
「きっとですよ」
佐絵は立ち去った。髪はふつうの高島田で、服装も武家風であった、と沖田はいう。
佐絵が仕えている前関白《さきのかんぱく》九条|尚忠《ひさただ》は皇女|和宮《かずのみや》降嫁事件で親幕派とみられて、いまは落飾して九条村に隠遁《いんとん》している。それにともない佐絵の境涯がどうなっているのか、歳三はちょっと気になった。
ほどなく小者が屯営へ迎えにきた。
その男の道案内で、歳三は壬生を出たのである。
出るとき、沖田は、ひとことだけいった。
「土方さん、いまの京は化物《ばけもの》の都ですよ」
気を許すな、という意味だろう。沖田には不安な予感があるらしい。
綾小路を東へどんどん歩き、麩屋町《ふやまち》まで出て、やっと北へあがった。その西側の露地。
古ぼけた借家である。
(こんなところに住んでいるのか)
奥の一室に通され、すわった。調度品を見わたすと、どうやら、女の独り住居らしい。
「粗茶でござりますが」
と、小者が茶を出した。
「佐絵どのは、いずれにおられる」
「へい、ただいま」
言葉をにごした。
「ここは、佐絵どののお住いか」
「いいえ、お住居は、ずっと下《しも》のほうやと伺うております」
「伺うて、というとそちは知らぬわけだな」
「へい」
賃で傭《やと》われた男衆《おとこし》らしい。
その証拠に、やがてどこかへ姿を消してしまった。
一時間《はんとき》はすぎた。
(妙だな)
あたりは、薄暗くなりはじめている。不審を抱いて、歳三は立ちあがり、まず、古びた衣裳箪笥をあけてみた。
|から《ヽヽ》である。
表へ出て、隣家の女房に、このあたりの家主はたれか、ときくと、へい、室町の野田屋太兵衛というものどす、と答えた。
「この家は、空家か」
「へい、ながいあいだ空家どしたけど、ちかごろ、さる公卿《こつ》さんの御家来がおかりやしたとかきいています」
(やはり、京には化物が住む)
もう一度、なかへ入った。
ほどなく格子戸があいて、佐絵が提灯をつけたまま土間を通りぬけてきた。
「………?」
歳三は、暗黒な座敷にすわったまま、身じろぎもしない。
「土方さま?」
まぎれもない、佐絵の声である。
「遅くなりました」
「これは」
歳三は声をひくめて、
「どういう仕掛けかね」
「ここ?」
佐絵は明るくいった。
「わたしが、お里下《さとさが》りのときに、ここを休息所に使っています」
「たしかに使っているのかね」
「ええ」
「それにしては、箪笥は|から《ヽヽ》だな。畳も、なんとなく|かび《ヽヽ》くさい」
歳三は用心をして立ちあがって、土間におりた。佐絵と、顔を見あわせた。
「たしかに」
と、佐絵のあごに指をあてた。
「顔だけは、武州六社明神の佐絵といわれた女にまぎれもないが、京にのぼってからどこかに尻尾が生えてきたのではあるまいな」
「いやなことを申されます」
「いやなもんか」
歳三は眼だけで笑った。
「近ごろの京はこわい。いかに関東の女《ひと》とはいえ、考えてみれば、猿渡家も京に縁の深い社家だし、代々の国学者の家でもある。しかもそなたは公卿奉公をしている。妙な議論に染まっておらぬともかぎらぬ」
「まあ」
佐絵は興ざめた顔をした。
「それが、この借家とどういうつながりがございます?」
「わしをおびきだし、|わな《ヽヽ》をこの借家に仕掛けたのではないか」
「帰ります」
佐絵は、きびすを返しかけた。
「帰さぬ」
歳三は佐絵の手をつかんだ。
「厭《いや》。あきれています。わたくしはむかし、歳《とし》とよんでくれ、といったころの歳三さんに逢いにきたつもりでございましたのに、ここに待っていたのは、新選組副長土方歳三という途方もないばけものでした」
「動くな」
歳三の疑いは、一瞬で晴れた。
佐絵をひきよせようとした。手から、提灯が落ちた。
佐絵は身をよじった。
「厭。厭でございます」
「わるかった」
とは、歳三はいわない。
ただ、犯すことを急ぎたかった。体を合わせてしまえば、この不安は解けるだろう。歳三は早く、この眼の前にいる他人を、自分のおんなに戻してしまいたかった。
「臥《ね》ろ」
座敷へひきずりあげた。
「六社明神の祭礼の夜にもどるんだ。おれは、日野宿石田在の悪党《ばらがき》さ」
機嫌をとるようにいった。
「そんなの、もう」
「もう?」
「遅い。もう厭でございます」
それでも佐絵の抵抗は、次第に弱いものとなったが、なお、体が固い。
(妙だな)
と思う疑問が、なお歳三の脳裡にかすかにある。佐絵の言動のどこかが、荒《すさ》んでいる。
以前は、もっと清雅な女だった。それが百姓剣客のころの歳三の気に入っていた。たしかに佐絵は変わった。京都の公卿奉公をすればもっと磨きがかかるはずだのに、これはどうしたわけだろう。
(いずれ、体をみればわかるはずだ)
歳三の手の動きが、優しくなった。疲れたのか、佐絵の体が、畳の上にしずまった。
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二帖半敷町の辻
その|こと《ヽヽ》が、済んだ。
歳三は、佐絵に背をむけてすわりなおしている。佐絵は背後で、身づくろいをしている様子であった。
(むなしすぎる。……)
歳三は、黄ばんだ畳に眼を落した。自分に対し、なんともやりきれぬ気持であった。
(くだらん)
自分が、である。
せっかく猿渡家の佐絵と再会したのに、こんな破れ畳の上で情交をいそぐとは、なんといううそ寒いことだ。
かつて歳三は、豪奢な情事にあこがれていた。情事は豪奢でなければならぬとおもっていた。つねに、武州では、貴種のむすめを恋《こ》うた。佐絵もそのひとりだった。
そのふたりが京で再会したというのに、この逢瀬《おうせ》は、馬小屋で媾合《こうごう》する作男の野合にひとしい。
佐絵も、みじめである。犯されるようにして歳三の体重を受け入れつつも、佐絵はみじめな思いをしたろう。
一瞬で、過去が褪《あ》せてしまった。
(過去の綺羅《きら》を褪せさせぬためには、別の場所を用意して逢うべきであった)
過去には、それだけの用心と智恵が必要だと思った。
(たのしくはない)
気持が、みじめになっただけのことではないか。
歳三は、脇差から、小柄《こづか》をぬいた。爪を削りはじめた。できれば、指を突き破って血を出してみたい衝動がある。
「土方さま」
佐絵はふりかえった。
彼女は、そんな呼びかたをするようになっている。やはり、武州日野宿石田在の薬売りの歳、というより、京を震撼《しんかん》させている新選組副長としての新しい印象が、佐絵の眼には濃いのであろう。
「なにかね」
「おかわりになりましたのね」
ちょっと、侮蔑《ぶべつ》するようにいった。佐絵も、はげしい失望があったのだろう。
「自分では変わっていないつもりだが」
「いいえ、別人のように」
佐絵は、おくれ髪をなでつけた。
「おれのどこが変わった」
「全体に」
「わかるように云ってくれ」
「あのころ、私どもの情事《なか》は、犬ころがじゃれあっているように楽しゅうございました。土方さまも、いえ歳さんも、犬ころみたいに無邪気だった。いまはちがいます」
「どこが?」
佐絵にも、わかるまい。歳三にもわからぬことだった。
(が、考えてみれば――)
歳三は、爪を一つ、削《そ》ぎ落した。
(おれはかつて、佐絵の身分にあこがれていた。それが、万事|そぶ《ヽヽ》り《ヽ》になって、佐絵にはういういしくみえたのだろう。が、いまはかつてとは、おれの立場がちがう。たかが武州の田舎神主の娘を、貴種だとはおもわなくなった。なるほど、かわった。これは非常なかわりようかもしれない)
爪をまた、削ぎ落した。
(痴愚の沙汰だった。過去は想いだすべきもので、抱くべきものではなかった)
「あんたも、かわった」
「それは別人におなり遊ばした土方さまの眼からみれば、変わったようにはみえましょうけれど、佐絵は、むかしのとおりでございます」
(ちがう)
佐絵は、あきらかに別人になっている。第一、公卿のお屋敷奉公をしているというが、|なり《ヽヽ》はむかしどおりの武家風だし、着物のすそが垢《あか》じみていて、なんとなく暮らしにやつれている、という風情《ふぜい》だった。
「やはり、九条家に勤仕《ごんし》しているのかね」
「ええ」
「うそだろう」
佐絵は、はっと顔を白くした。
(うそにきまっている。なるほど京にのぼったのは九条家に仕えるつもりだったし、仕えもしたろう。が、なにかの事情で主家を出ていまは町住まいをしているにちがいない)
歳三は、小柄を左手に持ちかえた。右指の爪をきるためである。
(思いたくはないが)
歳三は、親指の爪に小柄の刃をあわせ、ぐっと力を入れた。爪が、はじけとんだ。
(佐絵どのは、体がかわっている。亭主か、情夫《おとこ》を持っているのにちがいない。様子をみれば、暮らしも楽でなさそうだ)
歳三は、佐絵をみた。
「御亭主は、長州人ではないのかね」
佐絵の顔色がかわった。
「逢わぬほうがよかった」
歳三は、笑った。
「きょうのことは、忘れます。――佐絵どのも」
忘れてくれ、と立ちあがった。男の身勝手かもしれぬが、歳三は、胸中にあるかつての猿渡家の息女の像をこわしたくはない。
障子をしめ、土間へおりた。
暗がりで履物をさぐっているとき、ふと表のほうで人の気配がした。隣家の者か、とも思ったが、習性で、そのまま路上に出る気はおこらない。
裏へ突きぬけ、裏の木戸をあけて、外へ出た。ここには、人影はない。
(ひょっとすると、わるい|ひも《ヽヽ》がついているのかもしれぬ。なにしろ公卿屋敷に奉公していたのだ。出入りの尊攘浪士もおおぜい居たろう。九条関白が失脚して洛南九条村に隠棲《いんせい》してからは、佐絵はその尊攘浪士のひとりと一緒になったのかもしれぬ)
歳三は綾小路を西へ歩きだした。仏光寺門前まで出て、駕籠をたのむつもりである。
(どんな情夫だろう)
歳三は、歩く。うずくような嫉妬があったが、歯の奥で必死に噛みころした。
むろん歳三は、かつて自分と情交のあったその女が、いまは勤王浪士のあいだで才女の名を売っている女丈夫になっていようとは、このとき、うかつにも露も知らなかった。
猿渡佐絵。
もとは九条家の老女。
いまは、宝鏡寺|尼門跡《あまもんぜき》の里御坊《さとごぼう》だった大仏裏の古家に住み、人に歌学を伝授している。
というのは表むきで、この里御坊は、諸藩脱藩の士の隠れ場所の一つであった。佐絵はかれらの考えに共鳴し、この古家を管理しながら、かれらを世話し、勤王烈女、といった存在になっている。その間、何度か男を変えた。土州藩士もいた。長州藩士もいた。かと思えば国許もさだかでない無頼漢同然の「志士」もいた。男を変えるたびに、かれらからの感化が、佐絵のなかで深くなった。
佐絵には旧主九条家の後《うし》ろ楯《だて》もある。屋敷づとめのおかげで、堂上衆への顔もきいている。浪士たちが公卿に会いたいというときは、仲介の労をとってやった。自然、浪士のあいだで重んぜられるようになった。
佐絵は、いまの境涯に満足している。国許の猿渡家に帰っても、すでに兄の代になっている以上、出戻りの妹のすわる場所がなかった。それよりも京がいい。毎日に、|はり《ヽヽ》がある。
(佐絵は、かわった)
歳三は、仏光寺門前の「芳駕籠《よしかご》」に入って駕籠を命じた。
芳駕籠の亭主は、歳三の顔を知っている。
「あっ」
と恐縮し、若い者を祇園まで走らせた。町駕籠は、江戸なら不自由しないが、京では、遊里の付近にのみ常駐させている。芳駕籠ほどの店でも、夜分は店には一挺もない。
その間、時間がありすぎた。
歳三は、かまちに腰をおろした。芳駕籠では、女房まで真蒼《まつさお》に緊張した顔で、茶の接待をした。
「むそうございますが、奥へおあがりねがえませぬか」
「いい」
歳三は、この男の癖で、ぶすっといった。取りつく島もない顔つきである。
「しかし、それでは」
と、夫婦がおろおろしている。新選組も、初期の芹沢のころは市人にただその粗暴を怖れられるのみであったが、最近では、京都守護職|御預《おあずかり》という一種の格式にずしりとした重味がついてきている。その副長といえば、もはや、いまの京では錚々《そうそう》たる名士である。とはいえ、歳三という男はいつも屯営内にいて、諸藩との社交は一切しなかった。市中、幼童でも、新選組副長土方歳三の名は知っていたが、顔、姿まで知っている者はすくない。そういう陰気で不愛想な印象が、かえって戦慄すべき名前として市中にひろまっていた。
芳駕籠の夫婦のうろたえにも、そういう先入主があるからだろう。
長い時間がたってから、歳三は、やっと口をきいた。
「亭主、すまぬが」
歳三の眼は、暗い土間を通して往来を見つめたままである。
「店を、人が窺《うかが》っているらしい」
「げっ」
「驚くことはない。どうやら私のあとをつけてきた男がいるようだ。すまぬが、内儀にでも御面倒をねがおう。表通りを一丁ほどのあいだ、様子を見てきてくれまいか」
「へっ」
亭主は臆病な顔をした。
が、こういうことになると、女のほうが度胸のすわるものらしい。眉のそりあとの青々した芳駕籠の女房が、
「見て参じます」
提灯をもって出て行った。
やがてもどってきて、
「竹屋町の角に二人。二帖半敷町のかどに三人、見なれぬご浪人がお居やすようで」
「五人」
「へい」
「多すぎるようだな」
歳三は、ちょっと笑った。
女房もつい吊りこまれて笑い、美しい|おは《ヽヽ》ぐろ《ヽヽ》をみせた。どうやら歳三に、好意をもちはじめているらしい。新選組副長といえば鬼のような男かと思っていたのが、案外、瞼の二重《ふたえ》のくっきりした、眼もとの涼しい男なのである。
「あの土方先生。なんならうちの若衆を壬生までお使いに走らせましょうか」
加勢をたのめ、という意味だ。その女房の袖を、亭主がそっと引いた。
(よせ)
という合図だろう。新選組に好意を示したとあれば、あとで浪士たちからどんな仕返しをうけぬともかぎらない。
「いい」
歳三は、また不愛想な表情にもどった。
やがて、駕籠が帰ってきた。
こういう垂れのあるのを江戸では四つ手駕籠というが、京では四《よ》つ路《じ》駕籠という。形は似ている。
「亭主、威勢のよさそうな若者だな」
「へい、丹波者でございますさかいな」
「丹波者は威勢がいいのか」
「まあ、上方《かみがた》ではそう申します」
「それは頼もしい」
歳三は、懐ろから銀の小粒をとりだして若衆にあたえた。
「こんな沢山《ぎようさん》」
「いや、とってもらう。ところで、私は歩いて帰る」
「へえ?」
土間で、一同があきれた。
「しかし頼みがある。私のかわりにそこの樽《たる》に水を一ぱい入れて鴨川まで運んでくれぬか」
「旦那。――」
芳駕籠の亭主には、歳三の頭のなかに描いたからくりが読めたらしい。
「こまります」
竹屋町の角に浪人が二人|屯《たむろ》している。樽をのせた駕籠を、新選組副長だと思って襲うだろう。若者は駕籠を捨てて逃げるからまず怪我はあるまい。しかし、あとで、そういう仕掛けに協力した、といって乱暴な浪士どもから尻をもちこまれるのは、亭主のほうである。
内儀も、歳三の考えがわかった。しかし亭主とは別の態度をとった。
「安どん、七どん。すぐ樽の支度をおしやす。なるべくお人を乗せているように重そうに担ぐのどすえ」
「へっ」
丹波者が駕籠を土間にひき入れ、水樽の用意をし、やがて、
「あらよっ」
とかつぎあげた。どうみても十七、八貫はあるだろう。
駕籠が出た。東へ。
すぐそのあと、歳三は軒下を出て、それとは逆の西へむかった。提灯はもたない。尾行者は、駕籠に注意をうばわれて歳三に気づかなかったろう。
十数歩あるいたとき、背後の竹屋町の辻とおぼしいあたりで、予期したとおり、
「わっ」
と駕籠をなげだす物音がきこえた。
(やったな)
歳三は、すでに、二帖半敷町の辻をすぎてしまっている。内儀の見たところではこの辻に浪人三人がいたというが、影はない。駕籠に誘いこまれてどこかへ散ったのだろう。
そのとき、
(来たか)
と歳三は、そこまで読みきっていた。すぐ、南側の家の軒下へ身を寄せた。
竹屋町から、ばたばたとこちらへ駈けてくる四、五人の足音がする。水樽とわかって、引きかえしてくるのだろう。
(無事、壬生へ帰れそうだ)
歳三は、出格子のかげで、からだを細くした。そこまでは、この喧嘩上手の男の読んだとおりであった。
が、その連中が、竹屋町と二帖半敷町の中間にある芳駕籠の店に押し入ったときに、歳三の見当がくるった。
(いかん。――)
難癖をつけに入ったのだろう。甲高く騒ぐ声が、ここまできこえてきた。
歳三は、路に出た。
そのまま、騒ぎを見すてて西のほう壬生へ歩きだしたが、足が渋った。
(内儀が、あわれだな)
しかし、今夜は、早く屯営へ帰りたいとおもった。なにもかも物憂《ものう》くなっている。酒がほしい。
歳三は、歩いた。
見当はついている。あの連中は、佐絵となにかのつながりがあるのではないか。佐絵が手引きをしたのではないか。そう思っても、歳三はふしぎと怒りも、闘志もおこらなかった。
――知れば迷ひ
知らねば迷はぬ恋の道
(われながら、まずい句だな)
歳三は、星を見あげた。
恋の道、と結んでみたが、歳三は、自分が果して恋などしたことがあるか、とうそ寒くなった。
|おん《ヽヽ》な《ヽ》はあった。しかし恋といえるようなものをしたことがない。かろうじて、想い出の中の佐絵の場合がそれに似ていたが、似ていただけのことだ。ほんの先刻、むなしくこわれている。
(おれはどこかが欠けた人間のようだ)
歳三は、自分へ、思いきった表情で軽蔑してみせた。
(この歳三は、おそらく生涯、恋など持てぬ男だろう)
それでもいい、と思った。
(人並なことは、考えぬことさ)
歳三は、歩く。
(もともと女へ薄情な男なのだ。女のほうはそれがわかっている。こういう男に惚れる馬鹿はない)
しかし剣がある。新選組がある。これへの実意はたれにもおとらない。近藤がいる。沖田がいる。かれらへの友情は、たれにもおとらない。それでいい。それだけで、十分、手ごたえのある生涯が送れるのではないか。
(わかったか、歳。――)
と自分に云いきかせたとき、歳三はくるりとふりかえった。
路上にしゃがんだ。鯉口を切った。
四、五人の足音が、自分を追ってきているのを知ったのである。おそらく、芳駕籠の亭主が、白状したのだろう。
影は五つ。
そのうち三つが、二帖半敷町の辻でとまり、二つだけが、無心に近づいてきた。
――こっちか。
一人が、他の一人にいった。
――とにかく室町の通りまで出てみよう。
が、彼等はそこまで出る必要はなかった。
数歩行ったところで、路上に蹲踞《そんきよ》している男を発見したからである。気づいたときには、ほとんど突きあたりそうになっていた。
「あっ」
男は飛びのこうとした。右足をあげ、刀の柄《つか》に手をかけた。が、そのままの姿勢で、わっとあおむけざまにころがった。歳三の和泉守兼定が下からはねあがって、男のあごを割っていたのである。
歳三は、立ちあがった。
「私が、土方歳三だ」
「………」
斬られずに済んだ他の男は、しばらく口をひらいたままこの現実が理解できぬ様子だったが、やがて、声にならぬ声をあげると、二帖半敷町の辻へ一散に逃げた。
辻の三人は、どよめいた。
そのときはすでに、歳三は、路上にいない。北側の家並の軒くらがりを伝って、辻に近づいている。
――たしかに、居たか。
この仲間の音頭をとっているらしい銹《さ》びた声がきこえた。
歳三は、とびだそうとした。が、土をつかんで、自分をとめた。
(七里研之助ではないか)
目覚めるような驚きである。七里が、京にのぼっていることも聞いている。だけでなく、七里らしい男が、河原町の長州屋敷へ出入りしているということは、藤堂平助も目撃した。げんに、七里の八王子での仲間の一人を、歳三自身、木屋町で討ち洩らしている。
「七里」
歳三の影が、物蔭から吐きだされた。
「おれだよ」
といったときには、歳三はすでに星空にむかって跳躍していた。すでにいっぴきの喧嘩師がそこにあった。もう、なんの感傷も低徊《ていかい》もない。手足だけが躍った。七里のそばの男が肩を右首のつけ根から斬り割られてころがり、その上をとびこえて、二の太刀が、七里を襲った。
七里は防ぐまもなく、辻行燈までとびさがって、やっと抜刀した。
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局中法度書
「土方歳三。――とうとう出会った」
七里研之助は、辻行燈の腰板で背中をさすりながら、いった。云いながら、ゆっくりと、剣先を、下段にしずめている。
「土方」
七里は楽しそうだ。
「武州の芋道場《いもどうじよう》の師範代が、いまは花の都の新選組副長をなさっている。乱世ながらたいしたご出世だ」
「………」
歳三は、上段。
「出世したからといって、この七里を見限ってもらっちゃこまるよ」
「だから、相手になっている」
「結構々々。ところで近藤さんは、お達者かね。いずれ、おめもじするつもりだが」
「達者だ」
歳三は、吐きすてるようにいった。
「そりァ、よかった。懐しい、といいたいがね。普通なら、その辺でいっぺえどうだ、といいたくなるほど、たがいに浅からぬ縁だが、縁は縁でもお前、とんだ逆縁さ」
「逆縁だな」
「武州南多摩の泥臭《どろくせ》え喧嘩を、花の都にまで持ちこんで蒸しかえしたくはねえんだが、お前らとは、どうも適《あ》わねえようにできている」
「河原町の長州屋敷にごろついているときいている」
「おれの母方が、長州藩の定府《じようふ》の御徒士《おかち》でね。長州とはいろいろ因縁がある。武州の田舎で、泥鰌《どじよう》臭《くせ》え野郎と喧嘩をしているより男らしい死に方をしてやろうと思ってきたのだが、その泥鰌臭えのが、またつながってのぼって来やがった」
「話の腰を折ってすまないが」
歳三は、いった。
「佐絵どのをご存じかね」
七里は、だまった。
知っている、と歳三はみた。七里は、佐絵との間に何等かの連絡があって、きょう、歳三をつけていたのだろう。
「知らないよ」
「ばかに元気がなくなったようだ。存外、正直者とみえる」
七里は、返事のかわりに剣を中段になおした。その瞬間、歳三の剣が、すばやく上段から落ちた。
が、七里はもうそこにはいない。
ざくり、と歳三の切尖《きつさき》で、辻行燈の腰板が裂けた。引きぬくなり、足を大きくあげて、辻行燈を蹴倒した。
行燈のむこうから、七里がとびだした。
「ちょっとなぶってみせたのさ」
七里が、笑った。
そのうち、歳三の背後にまわった一人が、ぱっと仕掛けてきた。あやうくとびのいたが、袴を切られた。
(どうかしている)
剣に、はずみがつかない。喧嘩というのは弾《はず》みのついたほうの勝ちである。やはり、佐絵に対する複雑な印象が、心を重くしているのだろう。
こういうときには、なりふりかまわずに退《ひ》きあげてしまう。それが喧嘩上手というものだ。とは、歳三は百も知っている。武州の田圃で泥喧嘩をしているときのかれなら、一議もなく逃げ去ったろう。が、いまは人《にん》がちがう。新選組副長である。喧嘩にも体面がある。逃げた、とあれば、どんな悪評を京で撒《ま》きちらされるか。
(なるほど佐絵のいうとおり、こんな所までおれはすっかりかわったな)
歳三は、刀を右手でかざしつつ、器用に羽織を半ばぬいだ。羽織をぬぎたいのではない。羽織は、歳三の、狡猾《こうかつ》な誘い手である。
果然、半ばぬいだ隙をねらって、右手の男が上段から撃ちこんできた。
(待っていた)
図に乗った相手の胴を、片手で下からすくうようにして斬りあげた。
「相変らずの馬鹿力だ」
七里が、物蔭《ものかげ》で舌打ちをした。七里ほどの者なら知っている。片手わざではよほどの力がないかぎり人が斬れるものではない。
歳三は、やっと羽織を脱ぎきった。
「七里、もそっと寄れ」
「寄れねえよ。妙に沸《たぎ》って調子づいた野郎に仕掛ける馬鹿ァなかろう」
この男も、ただの剣客ではない。喧嘩の勘どころは知っている。歳三の気魄が異常に充実しはじめたのをみて、刀をひき、物蔭をさらさらと歩き、
「退け」
と命じた。
一せいに散った。
歳三は追わなかった。
(七里も、人《にん》が肥《ふと》ってきやがった)
京に集まっている数ある浪士のなかで、人傑も多い。七里のような男でもそういう者にもまれて平素、国事の一つも論じているせいか、八王子のごろん棒当時とはだいぶ印象がちがっている。
(男とは妙なものだ)
毛虫から蝶になるような変質も、ときにはあるらしい。
この年の十二月、幕府は浪士取締令を出した。京坂に流入してくる不穏の浪士は、みつけ次第捕殺する。
理由は、近く将軍|家茂《いえもち》が入洛する。京の治安は、武をもって鎮めておかねばならない。
「そういう次第です」
と、近藤は隊士一同を集めていった。
「大公儀の威武をもって、浮浪を一掃し、かしこきことながら、禁闕《きんけつ》の御静安をおまもりする。いよいよ今日から、王城の大路小路が新選組の戦場であると心得られたい」
新選組が文字どおり悪鬼のような働きをしはじめたのは、このときからである。毎日、京に血の雨を降らせた。
人数ざっと百人。
むろん一流の剣客ばかりではない。未熟者もおれば、怯者《きようしや》もいる。戦場の場で臆した者は、あとでかならず処罰した。処罰、といっても在来の武家社会にあった閉門、蟄居《ちつきよ》といったなまぬるいものではない。すべて死罪である。一にも死、二にも死。三百年狎れあいごとで済ませてきたこの当時の武士の目からみれば、戦慄すべき刑法であった。
隊士にしてみれば、乱刃のなかで敵に斬られるか、それとも引きあげてから隊内で斬られるか、どちらかであったから、決死の日常である。
「すこし、きびしすぎはしまいか」
と、ある日、一日に三人も斬首、切腹の被刑者が出たとき山南敬助が、近藤と歳三の前でいったことがある。
話が前後するが、これよりすこし前、芹沢鴨とその係累を一掃した直後、隊における山南敬助の処遇がかわっている。それまでは、歳三とおなじ副長であったのが、
「総長」
ということになった。昇格した。序列でいえば局長近藤勇、総長山南敬助、副長土方歳三ということになる。
この昇格は、歳三が近藤に献言したことだ。
――ぜひ山南を。
というと近藤はこのときばかりはよろこんだ。歳三が山南を好いていないことは近藤の苦の種になっていたのである。その歳三が山南のために「総長」という特別な職名をつくり、自分の上に置くという。
――歳《とし》、雨が降るよ。
といったほどだ。
――降らねえ。
と、歳三は無表情にいった。「総長職」とは名の響きは上等だが、実質は、近藤個人の相談役、参与、参謀、顧問、といったもので権限がない。いやもっと重要なことは、この響きのいい職名には隊士に対する指揮権がないことである。指揮権は、局長―副長―助勤―平隊士、というながれになる。現今《いま》のことばでいえば、総長山南敬助は、近藤のスタッフであって、ラインではないのである。
歳三は、山南を|てい《ヽヽ》よく棚にあげた。飾り達磨《だるま》にした。山南もはじめはよろこんだが、次第にその職の本質がわかってきて以前以上に歳三を憎むようになった。だけでなく、近藤に、
――もとの副長にもどして下さい。
と頼み、近藤もその気になって歳三に相談した。
――歳、|あれ《ヽヽ》を格下げしてやらんか。
――いや、あれでいい。
と、妙な例をひいた。
歳三は、少年のころ、家伝の石田散薬の原料を採集したり製剤したりするときには、夏の農閑期のときでもあって村中の人数を使うのだが、その指揮を十二、三の年からやった。そのころの経験で、長兄や次兄がうろうろやってきて口を出すたびに作業の能率がおちたことをおぼえている。命令が二途からも三途からも出ることになるからだ。
――副長が二人居ちゃ、そうなる。近藤さん、あんたの口から出た命令がすぐ副長に響き、助勤に伝わり、電光石火のように隊士が動くようにならねば、新選組はにぶくなるよ。組織は剣術とおなじだ。敏感でなければだめだ。それには副長は一人でいい。
これは、歳三の独創である。幕府、藩の体制というのは、たとえば江戸町奉行でも二人制をとっていたように、どういう職でも複数で一つの役目をつとめた。このことは、当時日本にきた外国の使臣がみな奇異の念をもったことだ。その陋習《ろうしゆう》を、新選組は苦もなく破っている。
――隊を強靭《きようじん》にするためだ。そのかわり、山南さんを栄職で飾っている。
と、歳三はいった。
それは余談。
「刑がきびしすぎはしまいか」
総長である山南敬助が近藤に助言したとき、歳三は白い眼で山南をみた。
「山南先生」
といった。
「山南先生とも思えぬ。隊を弱くしたいのですかね」
「たれがそう申した」
山南は気色《けしき》ばんだ。歳三はニコリともせず、
「私の耳には、そう聞こえる」
と、静かに応じた。
厭なやつだ、と山南は腹の底が煮えくりかえるようだったろう。
「山南さん、私はね、日本中の武士はみな腰抜けだと思っている。武士、武士といっても威張れたもんじゃねえという現場を、この眼で何度もみてきた。家禄の世襲と三百年の泰平がそうさせたのだろう。が、新選組だけはそうはさせぬ。真の武士に仕立てあげる」
「真の武士とは、どういうものです」
「いまの武士じゃない。昔の」
「昔の?」
「坂東武者とか、元亀天正《げんきてんしよう》のころの戦国武者とか、まあうまくいえないが、そういうものです」
「土方さんは、存外無邪気であられる」
子供っぽい、と吐きすてたかったのだろう。そのかわり、山南は頬にあらわな嘲笑をうかべた。
歳三は、その頬をじっと見つめている。かつて、芹沢鴨と「士道論議」をしたとき、芹沢の頬にうかんだのと同質の嘲笑が、山南の頬にはりついている。
――百姓あがりめが。
事実、山南はそんな気持だった。しかし、歳三の心底にも叫びだしたいものがある。理想とは、本来子供っぽいものではないか。
「まあいい、酒にしよう」
と、近藤はとりなした。近藤は、歳三を無二の者とは思っているが、山南敬助という学才の持主もうしないがたい。京都守護職、京都所司代、御所の国事係、見廻組頭取などに出す公式の文書は、そのほとんどを山南が起草する。また諸藩の公用方と会談するときも、山南を帯同する。隊中勇士は多いが、格式のある場所で堂々言辞を張れるのは、仙台脱藩浪士山南敬助だけである。
小姓に酒を運ばせてから、近藤は、山南、歳三の顔をかわるがわるみて、いった。
「私は仕合せだ。山南君の智、土方君の勇、両輪をあわせ持っている」
が、歳三は単に勇だけの器量か。
近藤も、この歳三の才能について、どれだけ見抜いていたかは、疑問である。山南の智は単に知識だが、歳三には創造力がある。
(みろ、そういう隊を作ってやる)
その夜、歳三の部屋に、おそくまで灯がともっていた。
例によって沖田総司が、からかいにきた。
「また俳句ですか」
のぞきこんだ。
「ほう、局中|法度書《はつとがき》」
歳三は、草案を練っていた。
隊の、律である。歳三の手もとの紙には、この男の例の細字でびっしりと書きこまれていた、五十カ条ほどの条項があった。沖田はそれを一つ一つ眼で拾い読んで、
「大変だな」
笑いだした。
「土方さん、これをいちいち隊士にまもらせるおつもりですか」
「そうだ」
「五十いくつも項目がありますぜ」
「まだ仕上げてない」
「たまらんなあ、まだこれ以上に?」
「いや、いまから削ってゆく。これを五カ条にまでしぼってゆく。法は三章で足る」
「ああきいたことがある。寄席でだが。もっとも唐《から》のどの大将の言葉だったか、こいつは山南さんにでもきかねばわからない」
「うるせえ」
ぐっと、墨で一条、消した。
深更までかかって、五カ条ができた。
一、士道に背《そむ》くまじきこと。
一、局を脱することを許さず。
いずれも、罰則は、切腹である。第三条は「勝手に金策すべからず」。第四条は「勝手に訴訟(外部の)取扱うべからず」。
第五条は「私の闘争をゆるさず」。右条々相背き候者は切腹申しつくべく候也。
さらに、この五カ条にともなう細則をつくった。
そのなかに妙な一条がある。この一条こそ新選組隊士に筋金を入れるものだ、と歳三は信じた。
「もし隊士が、公務によらずして町で隊外の者と争い」
というものである。
「敵と刃をかわし、敵を傷つけ、しかも仕止めきらずに逃がした場合」
「その場合どうなります」
「切腹」
と、歳三はいった。
沖田は、笑った。
「それは酷だ。すでに敵を傷つけただけでも手柄じゃないですか。逃がすこともあるでしょう。逃がしちゃ切腹というのは酷すぎますよ」
「されば必死に闘《たたか》うようになる」
「しかしせっかくご苦心の作ですが、藪蛇《やぶへび》にもなりますぜ。隊士にすれば敵を斬って逃がすよりも、斬らずにこっちが逃げたほうが身のためだということになる」
「それも切腹だ」
「はあ?」
「第一条、士道に背くまじきこと」
「なるほど」
隊士にすれば一たん白刃をぬいた以上、面《おもて》もふらずに踏みこみ踏みこんで、ともかく敵を斃す以外に手がない。
「それがいやなら?」
「切腹」
「臆病なやつは、隊がおそろしくなって逃げだしたくなるでしょう」
「それも第二条によって、切腹」
これが、公示された。
若い血気の隊士はこれを読んでむしろ飛瀑に肌をうたれるような壮烈さを感じたようであったが、加入後、まだ日の浅い年配の幹部級に、ひそかな動揺がみられた。こわくなったのである。
歳三は、その影響を注意ぶかい眼でみていた。果然、脱走者が出た。
助勤酒井兵庫である。
大坂浪人。神主の子で、当人は隊ではめずらしく国学の素養があり、和歌をよくした。
脱走した。
歳三は、監察部の全力をあてて、京、大坂、堺、奈良までさがさせた。
やがてそれが、大坂の住吉明神のさる社家のもとにかくまわれていることがわかった。
「山南君、どうする」
と、近藤は相談した。
山南は、助命を申しのべた。山南は平素、酒井兵庫に自作の歌の添削をたのんだりしていた仲である。
近藤は、斬りたかった。酒井は、助勤として隊の枢機《すうき》に参画した男だから、機密を知っている。世間に洩れれば新選組としてはともかく、累が京都守護職におよぶ。
「歳、どうだ」
「歌がどうの、機密がどうのと論に及ばぬことだ。局長、総長みずから、局中法度書をわすれてもらってはこまる」
「斬るか」
「当然です」
すぐ、沖田総司、原田左之助、藤堂平助の三人が大坂へ下向《げこう》した。
住吉の社家に酒井兵庫を訪れた。
酒井は観念して抜きあわせたらしい。
その刀を原田が叩き落し、境内での闘いを避け、酒井を我孫子《あびこ》街道ぞいの竹藪まで同道して、あらためて、刀を渡した。
数合で、闘死した。
以後、隊は粛然とした。局中法度が、隊士の体のなかに生きはじめたのは、このときからである。
やがて、年が改まった。
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池 田 屋
薪木《くろき》買わんせ
くろき、召しませ
大原女《おはらめ》が沈んだ売り声をあげて河原町通を過ぎたあと、その白い脚絆《きやはん》を追うようにして、日和雨《そばえ》がはらはらと降ってきた。
「静かですな」
沖田総司がいった。
絵のような、京の午後である。元治《げんじ》元年の六月一日。
祇園会《ぎおんえ》もちかい。
歳三と沖田は、たったいま大原女が通った軒先の二階にいる。
河原町四条の小間物問屋茨木屋四郎兵衛の階上で、薄暗く、かびくさい。二階一ぱいに、品物が積みあげられている。
この二階は河原町通にむかって、|むし《ヽヽ》こ《ヽ》窓がひらいていた。沖田は、そこから街路を見おろしている。
「朝から、三人ですよ。一人は武士、二人は拵《こしら》えは町人体だが、武士くさい」
と、干菓子《ひがし》をたべながらいった。
「そうか」
歳三は、たったいまあがってきたばかりである。
この|むし《ヽヽ》こ《ヽ》窓から見おろすと、河原町通の東側の家並、そこから東へ入る無名小路の人の出入りがよくみえるのだ。
その無名小路を河原町通から入って、家数にすればざっと五、六軒いった右側に、
「枡屋」
という道具屋がある。
そこを見張っている。見張りは沖田だけではない。
監察部の山崎烝、島田|魁《かい》、川島勝司、林信太郎などは、薬売り、修験者《しゆげんじや》などに変装してこの界隈をうろついているし、無名小路を通りぬけた西木屋町の通りにも、原田左之助が、町家を借りて、路上の人の往き来を見張っている。
「しかし、いやだなあ、見張りなんてのは。私の性《しよう》にあいませんよ」
「そうだろう」
沖田は、そういう若者だ。人の非違を見張るというのは、いくら隊務でも性にあうまい。
「まあ、我慢しろ。あす、交替させる」
「必ず?」
菓子を一つ、口に入れた。
のんきな顔だ。
歳三は苦笑して、
「そのかわり、今日一日は懈怠《げたい》してもらってはこまる」
「しかしどうかなあ。いや、私のことじゃないです。枡屋のおやじのことですよ。――風の夜をえらんで」
「ふむ」
「ええ、風の夜にですよ」
沖田は菓子をのみくだし、
「京の市中の各所に火をかけ、数十人狩りあつめの浪人で御所に乱入して禁裡さまを盗み出し、長州へつれて行って倒幕の義軍をあげようというのでしょう? 大体、できることじゃないですよ。そんな途方もないことを考えるというのが、そもそも、ふしぎなあたまをもっている。土方さん、ほんとうは、枡屋、狂人じゃないですか」
「正気だろう。血気の人間があつまって一つの空想を何百日も議論しあっていると、それが空想でなくなって、討幕なんぞ、今日にもあすにも出来あがる気になってくるものだ」
「つまり、狂人になるわけでしょう、集団的に。妙なものだな」
「妙なものだ。が、集団が狂人の相をおびてくると、何を仕出かすかわからない」
「新選組も、同じですな」
沖田はくっくっ笑って、
「土方さんなど、狂人の親玉だ」
「なにを云やがる」
こわい顔をしてみせた。が、沖田は、新選組の隊中で鬼神のように怖れられているこの歳三が、ちっともこわくない。沖田総司という、この明るすぎる若者の眼からみれば、歳三が力めば力むほど、壬生狂言でやる黙劇《パントマイム》の熊坂長範のような滑稽感をおびて映《うつ》ってくるのだろう。
「総司、すこし緊《しま》れよ」
にがい顔でいった。
「その、京に放火して一せいに蜂起するという浪人が、五十や六十人ではない、という情報《ききこみ》もある。これをどう鎮圧するかが、新選組が天下の新選組になれるかどうかの正念場《しようねんば》になる」
「一つ、いかがです」
沖田は、歳三の手に菓子をにぎらせた。歳三はいまいましそうに口へほうりこんで、外へ出た。
そのあと、原田左之助の見張所を訪《と》うて報告をきき、さらには高瀬川沿いの路上で、薬売りに変装した監察、山崎烝とすれちがった。山崎は、眼を伏せて歳三のそばを通りぬけた。うまい。山崎は剣も相当なものだが、もとが大坂高麗橋の鍼医《はりい》の息子だけに、町人姿が堂に入っている。
山崎とすれちがったあと、歳三は木屋町三条で辻駕籠をひろい、壬生へ帰った。
「どうだった」
と、近藤がきいた。
「まだわからん。が、総司も原田も、武士らしいものがあの無名小路にしきりと出入りしているのを見ている」
「しかし、万々、間違いなかろう」
「そうありたい」
もともとは、近藤自身が聞きこんだことなのである。
実は先日、近藤自身が隊士を率いて市中巡察をし、堀川の本圀寺《ほんこくじ》(水戸藩兵の京都駐留所に使われている)の門前まで帰ってきたとき、
「やあ、おめずらしや」
と、近藤の馬前に立ちふさがった一人の武士があった。すわ、刺客か、と隊士が駈け寄ると、武士は一向にあわてず、
「わしです、江戸の山伏町に住んでいた岸淵|兵輔《ひようすけ》です。江戸では、貴道場でさんざんお世話になった……」
「おお」
近藤は、馬から降りた。記憶がある。江戸道場が後楽園に近かったせいで、水戸藩邸の下士がよく遊びにきていたが、岸淵もそのひとりであった。足軽の子、とか聞いていたが、学問も出来、態度も重厚で、とてもそういう軽輩の出とはみえなかった。
いまも、服装こそ質素で、皮色木綿の羽織に洗いざらした馬乗り袴という体《てい》だが、すっかり肥って堂々としている。
「去年から、京都詰めになっています。土方氏、沖田氏、御活躍だそうですな」
「路上ではお話もうけたまわれぬ。壬生へ御光来ねがえませんか」
近藤というのは、こういう人懐《ひとなつ》っこさがある。抱くようにして連れて帰った。
さっそく酒席を設け、歳三も出た。
当節、在洛の武士というのは、二人以上あつまれば、国事を論ずる。そういう緊張した空気を、京の町は持っていた。時代が、沸騰しきっているのである。
昨年八月、いわゆる文久の政変があり、それまで京都政壇を牛耳《ぎゆうじ》っていた長州藩が一夜で政界から失脚し、長州系公卿七人とともに国許へ撤収した。
以来、長州藩の若手はいよいよ過激化し、諸藩脱藩の急進的な浪士はほとんど長州藩に合流し、倒幕挙兵の機をねらっている。
が、薩摩藩、土佐藩、それに会津藩、越前藩という政治感覚の鋭敏な大藩がすべて反長州的感情をもち(この感情には複雑な内容があるが、要するに長州藩の権力奪取活動があまりに過激で時勢から独走しすぎ、結局、長州侯が幕府にとってかわろうとする意図があるのではないかという疑いが濃厚すぎたためである。長州侯自身、その若い家臣団に体《てい》よく乗せられたところがあったらしく、維新後、長州の大殿さまが、おれはいつ将軍になるんだ、と側近にきいたという伝説さえある)、とにかく長州一藩の軍事力では、幕府や、右「公武合体派」の四藩を敵にまわすことができない。
そういう情勢にある。
だから、長州荷担の浪士団をふくめて秘密軍事組織をつくり、それを京に潜入させて一気に町を焼き、土寇的《どこうてき》な勤王一揆をあげようとしている、という風評は、京の町人の耳にまで入っており、さまざまの流言がとび、気の早い連中のなかには田舎へ避難準備をしている者があるくらいだ。長州も追いつめられて、悲痛な立場に立っている。これが成功すれば義軍、失敗すれば全藩|土匪《どひ》の位置におちるだろう。
岸淵兵輔は、情勢をさまざまに論じた。この水戸藩士はごく常識的な公武合体論者で、長州のはねっかえりが、にがにがしくて仕様がないらしい。
その点、近藤も同じだ。
ちかごろ、なかなか弁ずる。滑稽を解せぬ男だから、弁ずると、寸鉄人を刺すような論を吐く。
歳三は、だまっている。歳三にとって、空疎な議論などは、どちらでもよい。かれの情熱は、新選組をして、天下最強の組織にすることだけが、自分の思想を天下に表現する唯一の道だと信じている。武士に口舌は要らない。
この席で岸淵は、意外なことをいった。
「わが藩(水戸)はご存じのように政情の複雑な藩で、藩士はさまざまな考えを持って睨みあっている。だから風説が入りやすいのですが、昨夜、容易ならぬことを耳にした」
それが、枡屋喜右衛門であるという。
道具屋枡屋喜右衛門、じつは長州系志士のなかでも大物の古高《ふるたか》俊太郎(江州物部村の郷士で、毘沙門堂門跡の宮侍)の化けおおせた姿であるという。
「しかも」
と岸淵はいった。
「蜂起のための武器弾薬は、この枡屋の道具蔵にあつめてある。これは本圀寺の水戸藩本陣ではたれでも知っている」
蜂起派も疎漏な計画をしたものである。岸淵が近藤、歳三に告げた同じ日、枡屋の使用人利助という者が、町年寄の家へ、
――おそれながら、
と、右次第を訴え出た。利助はほんの昨今の傭われ者で、蔵に鉄砲、煙硝、刀槍などが積みあげられているのを見て驚き、累が自分にかかるのをおそれて、いちはやく訴人して出たという。
町年寄は、顔知りの定廻り同心へ報らせ、その同心渡辺幸右衛門という男がたまたま新選組出入りであったので、自分の役所には告げず、壬生屯所に一報してきた。
「すぐ、会津藩本陣に報らせよう」
と近藤がいうのを、歳三がおさえた。
「まず新選組独自の手で探索してからのことだ」
もし事実なら、新選組が、壬生の田舎でほそぼそと結盟して以来の大舞台がここに与えられるではないか。
(むざむざ、会津藩や京都見廻組の手柄にすることはないさ)
近藤と歳三が、営々として作りあげてきた新選組の実力を、世に問うことができる。
翌夕刻、探索の連中が帰ってきた。
「臭え」
原田左之助がいった。この男も探索にむかないのか、臭え臭え、というだけである。
沖田はただにやにや笑っていた。山崎、島田、川島といった連中はさすがに監察に席をおくだけに、くわしい聞きこみを報告した。
「すぐ、土方君」
近藤は、出動を命じた。が、歳三は動かなかった。
「新選組の晴舞台だ。局長、あんたが現場に床几《しようぎ》をすえるべきだろう。私は留守をする」
「そうか」
三人の助勤がえらばれた。沖田総司、永倉新八、原田左之助。その組下の隊士あわせて二十数人が動いた。現場についたときは、とっくに日が暮れている。
近藤という男は、やはり常人ではないところがある。
隊士を四手にわけて、無名小路の東西の口および裏口、表口にそれぞれ配置したところまでは普通だが、まず利助に戸をたたかせ、女中があけるや、たった一人でとびこんだ。
暗い。が屋内の様子は、利助から聞いて十分頭の中にある。
二階八畳の間に駈けあがるや、すでに寝ていた古高俊太郎の枕もとに突ったち、
「古高」
とかん高い声で叫んだ。
「そちはひそかに浮浪の者を嘯集《しようしゆう》し、皇城下で謀反《むほん》を企《くわだ》つるやに聞きおよんだ。上意である。縄にかかれ」
「どなたです」
古高も、これまで何度も白刃の下をくぐりぬけてきた男である。落ちついている。むしろ近藤のほうが、うわずった。
「京都守護職会津中将様御支配新選組局長近藤勇」
「あなたが。――」
ちらっと見て、
「支度をする。不浄な縄を受くべき理由はないゆえ、逃げもかくれもせぬ。しばらく猶予をねがいたい」
悠々と寝巻をぬぎ、紋服に着替え、|びん《ヽヽ》を梳《す》きあげ、女中に耳|だら《ヽヽ》い《ヽ》を運ばせて口まですすいでから、
「いずれへ参ればよい」
と立ちあがった。
この間、階下を捜索していた隊士は、古高の同志一同の連判状を発見している。
古高は当夜は壬生屯所の牢に入れられ、翌日、京都所司代の人数に檻送されて、六角の獄に下獄した。この夜から、獄吏の言語に絶する拷問をうけたが、ついに何事も吐かず、のち七月二十日、引き出されて刑死した。
が、事態はすでに古高の白状を必要とせぬまでになっていた。古高の連判状によって、徒党の名が洩れなくわかっている。すでに新選組、会津藩、所司代、町奉行の探索が活溌に動き、その結果、三条界隈に軒をならべている旅館に正体不明の浪人が多数宿泊していることもわかり、とくに三条小橋西詰め旅館池田屋惣兵衛方が、どうやら彼等の動きの中心になっているらしい。池田屋には、山崎が薬屋に化けて宿泊している。
さぐると、ほとんどが長州弁である。
守護職から、各個に捕えてはどうか、という示唆《しさ》がとどいていたが、新選組は動かなかった。山崎から、
「一味はすでに、古高が捕えられたことを知っているらしい」
という報告があったからだ。当然、あわてているはずである。暴発を中止してそれぞれ京から散るか、それとも短兵急に決行するか、善後策が必要なはずだ。そのために、かならず会合をするだろう。
「きっと、会合する」
と、歳三はいった。
近藤は、多少不安だった。
「このまま散らしてしまえば元も子もなくなるぞ」
「ばくちさ」
しかし、長州藩士とその与党は、まったく疎漏だったといっていい。狭い三条界隈の旅館街を、たれがみてもそうとわかる顔つきで、毎日、それぞれの宿泊先を訪ねあっているのである。
――場所は池田屋、日は今夜。
とわかったのは、六月五日である。それも夕刻になってから、山崎の諜報がとどいた。
ところが、おなじころ、町奉行所に依頼してあった密偵から、
「今夜、木屋町の料亭|丹虎《たんとら》(四国屋重兵衛)らしい」
とも、いってきた。丹虎は、従来、長州、土州の連中の使っている料亭で、池田屋よりはるかに可能性が濃かった。
近藤もこの報告には青ざめた。わずかな兵力を二分させることになるのだ。
「歳さん、これもばくちでいくか」
池田屋か、丹虎か、どちらかに兵力を集中させる、と近藤はいうのだ。
「そいつは、まずい。大事を踏んでここは二手に隊をわけよう。しかし」
兵力の按分である。
どちらの場所に可能性が濃いか、ということで人数はきまる。
「山南さん、どう思う」
と、近藤は総長の山南敬助にきいた。
「丹虎でしょう」
といった。妥当な判断である。丹虎はそれほど、倒幕派の巣として有名だった。
「私は、池田屋だと思う」
歳三がいった。理由はない。この男の特有なカンである。
「そうか」
近藤も、少年のころから歳三のカンには一種の信仰のようなものをもっている。
山南は、近藤が歳三の案を採用したことに、露骨に不快な顔をした。近藤はその表情を鋭敏に見てとって、
「山南君にも一理ある。だから、歳さん、あんたは、山南君のいう丹虎のほうをおさえてもらおうか」
といった。うまい馴らし手である。
歳三はうなずいた。
山南もそれとわかって、
「池田屋は私ですか」
といったが、近藤はにこにこして、
「これは私にやらせてもらおう。山南君はまだ霍乱《かくらん》のあとが癒えていない。大事な人を失いたくない」
といった。山南はだまった。山南は長州に対し、やや同情的なことを近藤は知っている。
人数は、丹虎を襲う土方隊が二十数人、池田屋へ討入りする近藤隊が、わずか七、八人。
討入り後、近藤が、江戸にある養父周斎にあてた手紙にこうある。
「折悪敷《おりあしく》、局中病人多にて、僅々三十人、二ケ所の屯所(敵の)に二手に分れ、一ケ所土方歳三を頭とし遣はし(中略)、下拙《げせつ》、僅々の人数引連れ出で」
が、この人数の割りふりは、実に巧妙にできている。小人数の近藤隊には沖田総司、藤堂平助、原田左之助、永倉新八といった隊でも一流の使い手をそろえ、土方隊は、人数は多くても粒からみれば落ちている。
「歳、いいな」
「いい」
薄暮、出動。
池田屋への討入りは、亥《い》ノ刻《こく》(夜十時)であった。近藤の手紙にいう。「(出口の固めにも人数を割いたため)打込み候もの、拙者始め沖田、永倉、藤堂、周平(養子)右五人に御座候。兼て徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余《いつときよ》(二時間余)の間、戦闘に及び候ところ、永倉新八の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助刀は刃切出|ささ《ヽヽ》ら《ヽ》の如く(中略)、追々《おいおい》、土方歳三駈けつけ、それよりは召捕り申し候(人数がふえたため斬り捨て方針を中止)。実にこれまでたびたび戦ひ候へども、二合と戦ふ者は稀《まれ》に覚え候ひしが」
と、近藤は剣歴を誇りつつ、
「今度の敵、多勢と申しながら、いづれも万夫の勇士、誠に危き命を助かり申し候」
と、結んでいる。
このときの服装は、隊の制服である浅黄色の山形のついた麻羽織を一様に着用し、剣術の皮胴をつけ、下には鎖の着込みを着、頭に鉢金《はちがね》をかぶっている者が多かった。歳三が使用した鉢金は、東京都日野市石田の土方家に残っている。二カ所、刀痕《とうこん》がある。
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断章・池田屋
歳三は、この池田屋斬り込みにあたって、その前日、綿密に付近を偵察している。
この三条大橋は、江戸日本橋から発する東海道の宿駅で、大橋の東西の往来にははたごやがひしめいている。
池田屋も、その一軒である。
間口三間半、奥行十五間、二階だてで、一階向って右が格子、左が紅殻壁《べんがらかべ》、二階もびっしり京格子ではりめぐらされ、内部から外はみえても、往来から人に見すかされるような構造ではない(いまはない。昭和六年、とりこぼたれ、その敷地あとに、鉄筋コンクリート四層の現在の佐々木旅館がたてられた)。
祇園町に、会所がある。
実成院《じつじよういん》という祇園社の執行《しぎよう》をつとめる寺の門前にあって、このあたりだけは人通りがすくない。近藤、歳三は、ここを攻撃準備点にえらんでいる。赤穂浪士のばあいのそば屋に相当するであろう。
その日、あらかじめ、隊服の羽織、防具などをこの会所に運びこんでおいた。壬生にある隊士たちは、夕刻、市中巡察をよそおって出る者、仲間とつれだって遊びにゆくようなふうを装う者、それぞれ数人ずつ、べつべつに壬生を出発した。
日没後、右会所に集結。
一方池田屋の楼上には、長州、土州、肥後、播州、作州、因州、山城などの藩士、浪士二十数人が、日没後、あつまることになっている。約束は、五ツ(午後八時)だったという。長州の桂小五郎(木戸|孝允《たかよし》)も、来会する予定になっていた。
このこと、孝允の自記には、
「この夜、旅店池田屋に会するの約あり。五ツ時、この屋《おく》に至る。同志未だ来らず。よつて、ひとまづ去つてまた来らんと欲し、対州の別邸に至る」
とある。要するに、定刻には行ったが、たれもまだ来ていなかったため、近所の対馬藩《つしまはん》の京都藩邸(河原町姉小路角)に知人をたずねた、というのである。
「しかるに未だ数刻を経ざるに、新選組にはかに池田屋を襲ふ」
とつづく。
桂は命びろいをしたのだ。この前後にも桂はよく似た好運をひろっている。命冥加《いのちみようが》という点で、維新史上、桂ほどの男はない。
桂がいったん池田屋を去った直後、同志一同が集まってきている。そのおもな者は、
長州 吉田|稔麿《としまろ》、杉山|松助《まつすけ》、広岡|浪秀《なみひで》、佐伯|稜威雄《みずお》、福原|乙之進《おとのしん》、有吉熊太郎
肥後 宮部|鼎蔵《ていぞう》、松田重助、中津彦太郎、高木元右衛門
土州 |野老《ところ》山《やま》五吉郎、北添|佶麿《よしまろ》、石川潤次郎、藤崎八郎、望月亀弥太
播州 大高忠兵衛、大高又次郎
因州 河田佐久馬
大和 大沢逸平
作州 安藤精之助
江州 西川耕蔵
といったところで、もし存命すれば、このうちの半分は維新政府の重職についていたろう。一座の首領株は、吉田稔麿、宮部鼎蔵の二人で、当時、第一流の志士とされた。
さっそく、二階で酒宴がはじまった。
議題はまず、
「古高俊太郎をどう奪還する」
ということである。
つぎに予定の計画であった「烈風に乗じて京の各所に火を放ち、御所に乱入して天子を奪って長州に動座し、もし余力あれば京都守護職を襲って容保を斬殺」するという「壮挙」を、古高逮捕によって中止するか、決行するか、ということである。
土州派の連中は過激で、
「相談もくそもあるか。事ここまで来た以上今夜にも決行しよう」
と主張した。
「それは暴挙すぎはしまいか」
こう押しとどめたのは、京都、大和、作州の連中だったらしい。
もっとも多数を占める長州側は、粒選りの過激派ばかりだが、ただ事前に、京都留守居役(京都駐在の藩の外交官)桂小五郎から、釘をさされている。時期ではない、というのである。酒がまわるにつれて、本来の過激論の地金が出てきた。
階下では、薬屋に化けて表の間にとまっている新選組監察山崎烝が、
「ぜひ、配膳を手伝いましょう」
と、台所で働いている。元来、大坂の町家のうまれだから、こういうことは如才がない。主人の池田屋惣兵衛(事件後獄死)まですっかりだまされていた。
山崎は、酒席にまで顔を出して、女中どもの指揮をした。京には、町家の宴席を運営するために配膳屋という独特の商売があって、山崎はいわば臨時の配膳屋を買って出たのである。
宴席は、表二階の奥八畳の間で、なにぶんにも二十数人が着座すると、せまい。みな、膝を半ば立てるようにしてすわった。そのおのおのの左に、佩刀《はいとう》がある。邪魔になる。とくに女中が配膳してまわるとき、よほど気をつけなければ、足に触れるかもしれない。
「いかがでございましょう」
山崎はいった。
「万一、女中《おなご》衆《し》どもがお腰のものに粗忽《そこつ》を致しては大変でございます。次の間にまとめてお置きくださいましては」
「よかろう」
一人が渡した。山崎はうやうやしく捧《ささ》げて次の間におき、あとはろくにあいさつもせずにどんどん隣室へ移し、それをまとめて押入れに収めてしまった。
一座のたれもが、このことに不用心を感じなかった。わずか二十数人で京をあわよくば占領しようという壮士どもが、である。
かれらは、近藤の手紙にもあるように「万夫不当の勇士」ではあったが、計画がおそろしく粗大すぎた。陰謀、反乱を企《くわだ》てるような緻密さは皆無だったといっていい。
かれらは大いに飲み、大いに論じた。しかし酔えば酔うほど、議論がまとまらなくなり、たがいに反駁《はんばく》しあった。それがまたかれらの快感でもあった。考えてみればこれは諸藩の代表的論客をあつめすぎた。
一方、祇園実成院前の会所では、近藤、土方らがいらいらしている。かれらもまた、
「出動は五ツ」
ということで、京都守護職(会津藩)と約束してある。その会津藩、所司代、桑名藩などの人数二千人以上がその時刻を期して一斉に動くはずであったが、動員が鈍重で、まだ市中に一人も出ていない。藩の軍事組織が、三百年の泰平でここまで鈍化してしまっているのである。
「諸藩、頼むに足らず」
歳三が、近藤に決心をうながした。近藤は無言で、立ちあがった。
すでに、午後十時である。
「歳《とし》、木屋町(丹虎)へ行け」
歳三は、鉢金をかぶった。鎖の|しこ《ヽヽ》ろ《ヽ》が肩まで垂れている。異様な軍装である。
「武運を。――」
と歳三は、眼庇《まびさし》の奥で近藤へ微笑《わら》いかけた。近藤も、わらった。少年のころ、多摩川べりで歳三と遊んだ思い出が、ふと近藤の脳裡をかすめた。
だっ、と歳三は暗い路上へ出た。
近藤も、表へ。
ついでながら、歳三の隊はまず木屋町の丹虎を襲ったが、しかし敵がそこにいなかった。
近藤のほうは池田屋へ直進した。
池田屋では、薬屋の山崎が、ひそかに大戸の木錠《もくじよう》をはずしてしまっている。
二階ではすでに酒座がひらかれてから二時間になる。酔が十分にまわっていた。
近藤は、戸をひらいて土間にふみこんだ。つづくのは、沖田総司、藤堂平助、永倉新八、近藤周平、それだけである。あとは、表口、裏口のかためにまわっている。
「亭主はおるか。御用改めであるぞ」
惣兵衛が、あっと仰天《ぎようてん》し、二階への段梯子《だんばしご》を二、三段のぼって、
「お二階のお客様。お見廻りのお役人の調べでございますぞ」
と大声で叫んだ。
その横っ面を近藤は力まかせになぐりつけた。亭主は、土間にころげた。
その亭主の声さえ、二階の連中の耳にはとどかなかった。
ただ土佐の北添佶麿が、遅参している同志がやってきたものと思ったのか、
「あがれ、上だ」
と階段の降り口へ顔を出した。階下から見あげたのは、近藤である。顔が合った。北添があっと身をひこうとしたとき、近藤は階段を二段ずつ駈けあがって、抜きうちに斬っておとした。
佩刀は、虎徹。
永倉新八がこれにつづいて駈けあがった。
階上にあるのは、近藤、永倉の二人きりである。奥の間へすすんだ。
奥の間の連中は、いまになってやっと事態がどういうものであるかがわかった。
が、刀をとろうにも、大刀がない。やむなく小刀をぬいた。室内の戦闘には小太刀のほうがいいという説もあって、あながち不利ではない。
議長格の長州人吉田稔麿はこのとき二十四歳である。吉田松陰の愛弟子《まなでし》で、松陰は、桂小五郎よりもむしろ吉田稔麿を買っていたという。
吉田稔麿は、さすがにこの急場でも十分に回転できる思慮をもっていた。河原町の長州藩邸(いまの京都ホテル)はここから近い。まず援兵をもとめようと思い、近藤、永倉の白刃の間をくぐって階段の降り口へとりついた。
近藤は、ふりかえりざま、肩先へ一刀をあびせた。
吉田は階段からころがり落ちた。階下にいた藤堂平助が一刀をあびせたが屈せずに往来へ出た。そこで原田左之助の刀を腰に受けたが、さらに屈せず、ひた走りに走った。
藩邸の門をたたいた。
「吉田だ、開けろ」
開門された。急を告げた。
「みな、すぐ来い」
とわめいた、が、不運にも藩邸には、病人、足軽、小者が数人居たばかりで、戦うに足るほどの者がいなかった。このとき藩邸の責任者であった留守居役桂小五郎は、それでも走り出ようとする者を押しとどめ、
「前途、亦大事。猥《みだ》りにこの挙に応ずるを許さず」(孝允自記)
といった。桂は、吉田らを見殺しにした。が、それもやむをえなかった。いま動けば長州屋敷だけで数千の幕兵と戦わねばならない。
吉田稔麿はやむなく手槍一本を借り、全身血だらけになりながら、同志が苦闘する池田屋へひきかえし、再び屋内に入り、土間で不幸にも沖田総司と遭遇《そうぐう》した。
繰りだした吉田の槍を、沖田は軽くはらった。そのまま槍の柄へ刀をすーと伝わせながら踏みこんで右袈裟一刀で斬り倒した。
このころ、歳三の隊は池田屋に到着している。歳三は、土間に入った。
すでに浪士側は、大刀を奪って戦う者、手槍を使う者、小太刀を巧妙に使いさばく者など、二十数人が死を決して戦い、藤堂平助などは深手を負って土間にころがっていた。
「平助、死ぬな」
というなり、奥の納戸からとびだしてきた一人を、|かま《ヽヽ》ち《ヽ》に右足をかけざま、逆胴一刀で斬りはなった。屍体がはねあがるようにして土間に落ち、藤堂の上にかぶさった。
二階では、近藤がなお戦っている。近藤の位置は表階段の降り口。
おなじ裏階段の降り口には、永倉新八がいる。降り口の廊下はせまい。ほとんど三尺幅の廊下で、浪士側は、一人ずつ近藤と戦わねばならぬ不利がある。
肥後の宮部鼎蔵が、一同かたまって廊下にあふれ出ようとする同志を制し、室内の広い場所に近藤をひきこんで多勢で討ちとるよう指揮した。
近藤は、敵が廊下に出てこないため、再び座敷に入った。
宮部と、双方中段で対峙《たいじ》した。宮部も数合戦ったが、近藤の比ではなかった。面上を割られ、それでも余力をふるって表階段の降り口までたどりついたが、ちょうど吉田稔麿を斬って駈けあがってきた沖田総司に遭い、さらに数創を受けた。宮部はこれまでとおもったのだろう、
「武士の最期、邪魔すな」
と刀を逆手ににぎって腹に突きたて、そのまま頭から階段をまっさかさまにころげ落ちた。
肥後の松田重助は、二階で戦っていた。得物は、短刀しかなかった。この日、重助は変装して町人の服装だったからである。
そこへ沖田が駈けこんできた。剽悍《ひようかん》できこえた重助は短刀のままで立ちむかったが、たちまち打ちおとされ、左腕を斬られた。そのはずみに同志大高又次郎の屍《しかばね》につまずいて倒れたが、倒れた拍子に、死体が大刀をにぎっているのに気づき、もぎとって再び沖田と戦ったが一合で斬られた(この松田重助の弟山田信道がのち明治二十六年京都府知事になって赴任したとき、闘死者一同の墓碑を一カ所にあつめて大碑石を建てた)。
すでに、池田屋の周辺には、会津、桑名、彦根、松山、加賀、所司代の兵三千人近くがひしひしと取りかこんでいる。
斬りぬけて路上に出た者も、多くは町で斬り死したり、重傷のため捕縛される者も多かった。
土州の望月亀弥太は屋内で新選組隊士二人を斬り、乱刃を駈けぬけて長州藩邸にむかう途中、会津藩兵に追いつかれて、路上、立ったまま腹を切った。
おなじく土州|野老《ところ》山《やま》五吉郎も数創を負いながらやっと屋内を脱し、長州藩邸まで落ちのび、開門をせまったところ門はついにひらかず、そのうち、門前で会津、桑名の兵二十数人にかこまれ、これも門前で立腹《たちばら》を切った。
志士側の即死は七人。生け捕り二十三人におよんだが、重傷のためほどなく落命した者が多い。
かれらはよく戦っている。わずか二十数人で、包囲側に与えた損害のほうがはるかに大きかった。
玉虫左大夫の「官武通紀」の記述によると、幕兵の損害は、次のようである。
会津 即死五人、手負三十四人
彦根 即死四人、手負十四、五人
桑名 即死二人、手負少々
松山、淀 右二藩いずれも少々死人、手負
実際に戦闘したのは新選組で、現場で即死した者は奥沢新三郎、重傷のためほどなく死亡したのは、安藤早太郎、新田革左衛門の二人である。その他、藤堂平助重傷。
斬り込みの最初からあれだけ戦った近藤、沖田は微傷も負わなかった。歳三もむろん、無傷である。
歳三は、この戦闘半ばから駈けつけたのだが、土間から動かなかった。
階上は近藤、階下は歳三が指揮した。べつに事前にとりきめたのではないが、この二人は自然にそういう呼吸になるらしい。
途中、表口の原田左之助が戸口から顔をのぞかせて、
「土方先生、二階は近藤先生と沖田、永倉の両君ぐらいでどうやら苦戦のようだ。土間は私がひきうけますから、様子を見にいらっしゃればどうです」
といった。が、歳三は、動かなかった。副長としては階下をまもって近藤にできるだけ働きやすくさせ、この討入りで近藤の武名をいよいよあげさせようとした。近藤の名をいやが上にも大きくするのが、新選組のために必要だと思っていた。
ときどき、階上から近藤のすさまじい気合が、落ちてくる。
「あの調子なら、大丈夫さ」
と歳三は笑った。
歳三の役目は、ほかにもあった。戦闘がほぼ片づきはじめたころ、会津、桑名の連中がともすれば屋内に入ろうとする。
いわば、敵が崩れたあとの戦場かせぎで、卑怯この上もない。
「なんぞ、御用ですかな」
と歳三はそんな男の前に白刃をさげて立ちはだかった。新選組の実力で買いきったこの戦場に、どういう他人も入れないつもりである。
「おひきとりください」
底光りのするこの男の眼をみては、たれもそれ以上踏みこもうとしなかった。自然、幕兵約三千は路上に脱出してくる連中だけを捕捉する警戒兵となり、戦闘と功績はすべて新選組の買い占め同然のかたちになった。
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京 師 の 乱
池田屋ノ変によって新選組は雷名をあげたが、歴史に重大な影響ももたらした。
普通、この変で当時の実力派の志士の多数が斬殺、捕殺されたために、明治維新がすくなくとも一年は遅れた、といわれるが、おそらく逆であろう。
この変によってむしろ明治維新が早くきたとみるほうが正しい。あるいはこの変がなければ、永久に薩長主導によるあの明治維新は来なかったかもしれない。革命には、革命派の狂暴な軍事行動が必要だが、当時の親京都派諸藩のいずれも、それへ飛躍する可能性も気分もなかった。どの雄藩の首脳も、幕府に楯《たて》をつくなどは考えもしていなかった。ひとり、三十六万石(長州は製蝋・製紙などの軽工業政策や新田開発で百万石の経済力はあった)の長州藩という火薬庫が爆発したのである。
新選組を支配する京都守護職(会津藩)も、決行すべきかどうかで、悩んだらしい。筆者はその実物をみたことはないが、事件の翌々日、京都の会津本陣(黒谷)から、江戸の会津屋敷にさしたてた公用方文書に、決行前の苦慮が、こう書かれている。意訳すると、
「かれら長州人および人別外《にんべつがい》の者(浪人)の密謀を打ちすておいては、殿様(松平容保)の御職掌(京都守護職)がたたぬばかりか、患害が眼前に切迫している。かといってこれを鎮圧ということになれば、かれらに一層の恨みを抱かせることになろうと思い、殿様にも深くお案じなされていた。しかし、ほかによろしき御工風《ごくふう》もこれなく、機会を失えば逆にかれらに制せられるおそれもあり、やむをえず」
とある。革命派に対する政府側の立場と悩みは、どの国のどの時代でもよく似たものだろう。
この評定は、近藤と歳三が、攻撃準備点である祇園|実成院《じつじよういん》門前の町会所で集結していたときに、なおつづけられている。えんえんと評定され、しかるのち、
「やむをえず」
という京都守護職の結論が、下部検察官庁である京都所司代、町奉行に通牒され、いずれも同意した。ちなみに、当時の京都所司代は、京都守護職松平容保の実弟松平|定敬《さだあき》(伊勢桑名藩主)で、兄弟で京都の治安に任じていたことになる。この両者の意思疎通はじつに敏速であった。
が、評定が長すぎた。しかも藩兵動員が鈍重だったために、新選組が、会津藩と約束した攻撃開始時刻の夜八時が、二時間も遅延してしまっている。そのため、近藤は、公命をまたず、独断専行で池田屋を襲撃した。近藤、歳三には、政治的顧慮などはない。あるのは剣のみである。
事件後、幕府から京都守護職に対し感状がくだった。
「新選組の者どもさっそく罷《まか》り出、悪徒ども討ちとめ、召捕り、抜群の働き」
と、文中にある。同時に新選組に対し、褒賞の金子がくだった。さらに幕閣から、新選組局長をもって、
「与力《よりき》上席」
とする旨の内示があった。しかし歳三は、
「よせ」
と、近藤に忠告した。
「与力なんざ、ばかげている」
たしかにばかげている。与力というのは直参にはちがいないが、元来の素姓《すじよう》は地付《じつき》役人で一代限り。しかも将軍に拝謁の資格のない下士で、御家人並《ごけにんなみ》である。その上、捕物専門職で、軍役の義務がなく、武家社会から「不浄役人」として軽蔑された。軍人ではなく純警察官であると思えば、遠くない。
幕府は、新選組を警察官とみた。近藤にすれば、片腹いたかったろう。
近藤は、志士をもって任じている。新選組の最終目標は、攘夷にあるとしている。本心は別として、それは何度も内外に明示している。いわば、軍人の集団なのだ。
近藤と歳三の、事件後の最大の不愉快は、幕府から、警察官としてしかみられなかったことだろう。評価が、小さい。
「待つことだ」
と、歳三はいった。待てば、もっと大きく幕府が評価するようになる。あるいは、大名に取りたてられることも、夢ではない。
近藤は、大名を夢想していた。この夢想に「与力上席」の内示が水をかけたことになるがしかし失望しなかった。
「おれの夢はね」
と、近藤は、歳三にだけいった。
「攘夷大名になることさ」
わざわざ「攘夷」とつけたのは当時の志士気質からしたもので、大名になって外敵から日本を守りたいという野望が、池田屋ノ変での未曾有の手柄以来、近藤の胸にふくれあがりつつあった。
「よかろう」
歳三はいった。攘夷どうこうは別として、風雲に乗じて大名になり、あわよくば天下をとるというのが、古来武士のならいである。決して不正義ではない。
「私はあくまで助ける」
「たのむ」
近藤は、卑職の与力上席をことわり、依然として官設の浪人隊長の自由な身分に甘んじた。幕閣、守護職御用所では、みな近藤の無欲に感動した。
しかし近藤は無欲ではない。
池田屋ノ変ののち、白馬を購入し、これに華麗な鞍を置き、市中見廻りにはこれを用い、槍をもった隊列を従え、威風、大名のような印象を士庶にあたえた。百姓あがりの浪人が大名まがいで市中を練るなどは、数年前の幕府体制のなかでは考えられなかったことであった。
守護職のある二条城に出仕するときも、馬上行列を組んで行った。
もはや、大名である。大名らしく演出して一種の印象を作りあげてゆくのが、近藤と歳三の、いかにも武州の芋道場の剣客あがりらしい料簡《りようけん》のずぶとさであったといっていい。
池田屋ノ変は、六月五日。
それからほどもない二十六日の日没後、早くも斬り込みによる不気味な影響が、あらわれはじめている。
河原町の長州屋敷においてである。
この藩邸は、池田屋ノ変後、まったく鳴りをひそめていた。藩邸には、なお、長州藩士や諸藩脱藩の過激浪士百数十人が残っている。
かれらが何を仕出かすか、幕府にとっては重大な関心事だった。藩邸のまわりには、さまざまの密偵が出没した。会津密偵、所司代の諜者、新選組監察部による密偵など、監視に油断はない。
その二十六日の深夜。この夜は池田屋事変の夜に似てひどくむし暑かった。歳三は、監察の山崎烝におこされた。
「なんだ」
いそいで衣服をつけた。
「河原町の長州藩邸が、日暮れからどうも様子が面妖《めんよう》です。人が、でます」
三々五々、めだたぬようにして町へ出てゆく様子であるという。
「方角は?」
「小門から出てゆくときは南北まちまちですが、どうやら密偵がつけたところによると、途中、みな西へ行くそうです」
「西になにがある」
「まだわかりません」
「密偵は何人出ている」
「市中に二十数人はばらまいてありますから、おっつけ様子がわかりましょう」
「各組頭にそういって隊士を起こし給え。それから近藤先生の休息所にも、使番を出しておくように」
歳三は、西へ行く、ときいたとき、とっさにこの洛西の壬生を襲うのではないか、と思った。しかし、ちがった。
さらに西。嵯峨《さが》の天竜寺であるという。
(これは、事が大きくなる)
と、報告がとどくたびに思った。
京都の長州人が屯集しつつある臨済宗本山天竜寺は、洛西の巨刹《きよさつ》である。練塀《ねりべい》をたかだかとめぐらし、ここで守ればそのまま城郭となるといっていい。
あとでわかったところによると、長州人百数十人は寺の執事を白刃でおどし、そのまま居すわってしまったらしい。もっとも長州藩と天竜寺は、一昨年の文久二年、多少の縁はあった。長州藩が京都警護の勅命をうけたとき、洛中に大兵を収容する場所がないため、下嵯峨《しもさが》の郷士で勤王家の福田理兵衛のあっせんで、天竜寺を軍営にあてている。しかしその後撤退してからは、何の縁もない。
「近藤さん、こんどは池田屋どころのさわぎではないよ」
と歳三は無表情でいった。
「天竜寺斬り込みか」
近藤は、もう気負っている。功名の機会を長州がわざわざ作ってくれるようなものだ、とおもった。
「どうかな。これはいくさになるかもしれない」
「戦さに?」
「その支度が必要だろう」
支度とは、新選組を警察隊から軍隊に移してゆく準備である。とりあえず、大砲が必要であった。
新選組には結成当時から、会津藩から貸与されている旧式砲があった。ポンペン砲(長榴弾発射砲)と称する青銅製、先込めの野戦砲で、鉄玉を真赤に焼いて砲口からころがして装填し、火縄で点火する。射程がひどくみじかく、一丁も飛べばいいほうである。
(会津本陣には、たしか韮山《にらやま》で作った新式砲があったはずだが)
歳三は、新選組の戦力として大砲がほしい、と思ったのではない。いわば「大名」並としての軍制を整える上で、火砲がほしかった。
翌朝、夜明けを待って歳三は黒谷の会津本陣に馬をとばした。
公用方の外島機兵衛に会った。
「外島さん、かならず、戦さになる」
とおどした。
外島は、土方歳三がきたというので、重役にも連絡した。ほどなく家老の神保《じんぼう》内蔵《くらの》助《すけ》も席に出た。一同ひどく鄭重であった。池田屋事変このかた、新選組の待遇は飛躍的にあがっている。歳三に対しても一藩の重役を遇するような態度であった。
「土方先生、天竜寺を攻める場合、どういう軍略を用いるべきか、早々に軍議をひらかねばなりませぬな」
と、会津家老神保内蔵助はいった。半ば、愛想のつもりでもあったろう。
「左様。しかしこのたびは、池田屋のごとく白刃を抜きつらねて山門を越えるというだけでは事が足りますまい。壬生も、砲が要ります」
「一門、ござったはずだが」
「いや、不足でござる」
歳三は、説明した。砲をもってまず土塀をやぶる。その崩れから隊士を突入せしめるつもりだが、一穴では、損害が多い。五門ならべて五カ所を破壊して突入したい、ぜひ五門はほしい、と強談《ごうだん》した。
これには会津側もおどろいた。それでは会津藩に砲がなくなるではないか。
「それも韮山砲がほしい」
といった。韮山砲は会津でも一門しかもっていなかった。
「無理です」
外島も蒼くなっている。
歳三は、いま壬生にあるポンペン砲は、掛矢《かけや》くらいの力しかない、といった。
「あれでは物の用にたちません。このことはすでに、芹沢鴨が試しています」
死んだ局長芹沢鴨が、かつて一条通の葭屋町《よしやまち》の富商大和屋庄兵衛方に金子を強要にいったとき、先方がことわったので、屯営から大砲をもちだした。その砲を大和屋の店先に据え、砲側で大焚火《おおたきび》をたき、それへ鉄玉をどんどんぶちこんでは真赤に焼き、それを填《こ》めては土蔵に射ちかけた。
が、土蔵の厚壁は容易にくずれず、焼けもせず、さすがの芹沢も閉口した。歳三が、試した、といったのはそのことである。
「しかし」
と、会津側は、自藩の火力が、薩摩藩(当時会津とは同盟同然の藩だった)などとくらべると非常に劣勢である旨を説明し、
「土方先生、いかがでござろう。ゆくゆく幕閣にも掛けあい、できるだけ貴意に添うつもりでござるゆえ、とりあえず一門だけでご辛抱ねがえまいか」
と、神保内蔵助がいった。歳三はむろん吹っかけただけのことで、一門でいい。それも旧式でいい。要は、軍容に権威をつけるだけが目的である。
「まあ、辛抱しましょう」
恩にきせて、一門せしめた。旧式ながらこれで洋式砲は二門になる。二門といえば、五万石程度の小藩より軍容はたちまさっている。
すぐ壬生の屯営にもどったが、問題の天竜寺の動きについては、かくべつの諜報はなかった。
その後数日何事もなかった。
やがて、幕府の諜報よりも早く京都市中におそるべきうわさが流れた。長州藩の藩兵が数軍にわかれ、それぞれ周防の商港三田尻を出航し、東上してくるという。
「冤《えん》(無実)を禁闕《きんけつ》で晴らさんがため」
というのが、出兵の理由である。要するに文久三年の政変で京都政界から長州勢力が一掃され、さらに池田屋事変で同藩の士多数が犬猫のように捕殺された、――その理由をただし藩の正論を明らかにするため、というのが表むきの理由のようだったが、要は軍事行動によって京都を制圧し、天子を長州に動座して攘夷倒幕の実をあげようとするにあった。
うわさにおびえ、京の町人のあいだでは丹波方面に家財を疎開させる者が多かった。
流言が真実を帯びはじめたのは、長州系の浪士団三百人を率いる真木和泉守《まきいずみのかみ》、久坂玄瑞《くさかげんずい》らが大坂に上陸したことがわかってからである。その翌日、長州藩家老福原越後の率いる武装隊が、同じく大坂に上陸した。なお後続の長州船が内海を東航しつつあるという。
京都守護を担当する会津藩では、連日、重役会議がひらかれた。新選組からはかならず近藤が出席している。
この席上、会津側のたれかが、
「主上《しゆじよう》(天子)を一たん彦根城に動座していただき、長賊を山崎、伏見、京で殲滅《せんめつ》しよう」
という軍略を申し立てる者があった。これがどう流れたか、すぐ大坂の長州屋敷にある遠征軍の耳に入り、かれらを激怒させている。
要するに内実は、長州、幕府側とも、天子をうばう、守る、という一目的にしぼられていた。天子を擁する側が官軍である、というのが、大日本史や日本外史などの尊王史観の普及によって常識化されたこの当時の法則であった。
近藤は、昂奮して屯営へもどってくると、廊下を歩きながら、
「歳、歳はいるか」
と、どなった。
歳三は、部屋にいた。机にむかい、隊士の名簿をあれこれとながめながら、隊の編成替えについて思案していた。新選組を市中取締りのための編成から、一転して野戦攻城にむくような組織に変改しようと苦慮していた。歳三にとって、公卿や諸藩や志士どもの政論などはどうでもよかった。
「歳」
近藤は障子をあけた。歳三はにがにがしい顔をして、ふりむいた。
「聞こえていますよ。歳、歳、などと物売りみてえに薄みっともねえ」
「玉《ぎよく》だよ」
近藤は、せきこんで、いった。
「玉?」
「そうだ」
近藤は将棋を指す手つきをしながら、
「こいつは奪《と》られちゃならねえ。これをとられると、将軍《たいじゆ》でさえ、賊におなり遊ばす。こんどの戦さは、池田屋とはわけがちがう。御所の御門に新選組の屍をきずいても、玉だけはまもりぬく。いいか」
「わかった」
「いいな。たとえ新選組が虎口《ここう》で全滅して、おれとお前とだけになっても、天子はまもりぬく」
これが、近藤のいいところだ、と歳三はおもった。多摩の百姓あがりの二人が、天子を背負ってでも長州の手からまもろうというのだろう。二条城での会議は、観念論、名分論などが多かったはずだが、近藤の頭は、つねに具体的で即物的だった。
歳三はさらにそれよりも即物的だった。この男の頭には、新選組の強化以外にない。
そのうち、長州藩兵が、ぞくぞくと伏見に入りはじめた。
大将福原越後は甲冑《かつちゆう》に身をかため、軍勢をひきいて伏見京橋口を乗り打ちし、ここを警備していた紀州兵がはばむと、
「われら長州人はつねに外夷に備えている。武装が平装である」
と、恫喝《どうかつ》して通過し、ひとまず伏見の長州藩邸に入った。
新選組に入った情報では、真木和泉守が率いる長州浪士隊は大山崎の天王山、およびその山麓の離宮八幡宮(現京都府|乙訓郡《おとくにぐん》、山崎駅付近)、大念寺、観音寺に陣取り、また嵯峨天竜寺の一団に対しては、適当な大将がいないため、長州でも豪勇をもってきこえる来島《きじま》又兵衛が急行してその指揮にあたっているという。
天王山、嵯峨、伏見の長州兵は、夜間はわざとおびただしい数の篝火《かがりび》を焚き、京都の市中に無言の恫喝を加える一方、禁廷に対して上書活動を開始した。
さらに元治元年七月九日、長州軍の本隊ともいうべき家老|国司信濃《くにししなの》指揮の兵八百が、大山崎の陣につき、国司自身は嵯峨天竜寺に入って全軍の指揮をすることになった。
すでに新選組の陣所は決定している。会津藩兵とともに御所蛤《はまぐり》御門《ごもん》をまもるという。
歳三ははじめてこのとき甲冑を着た。
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長州軍乱入
新選組では、かねて京の道具屋に命じて具足《ぐそく》をそろえておいた。戦さの場合には助勤以上が着る。いずれも骨董品《こつとうひん》にちかいものだ。
近藤は二領もっていた。
歳三も、ちゃんと買ってある。もっとも、幹部一同が着用したのは、あとにもさきにも、このときだけだった。
助勤で出雲《いずも》浪人武田|観柳斎《かんりゆうさい》(のち隊内で処断)という者が武家有職《ぶけゆうそく》にくわしいので一同を指導し、具足のつけ方、武者|草鞋《わらじ》のむすび方などをいちいち教えてまわった。
近藤の着付けは、武田が手伝った。
やがて兜《かぶと》の緒をしめおわった近藤の姿をみて、
「軍神|摩利支天《まりしてん》の再来のようでございますな。いや、おたのもしゅうござる」
と巧弁なことをいった。
歳三は、この武田観柳斎がきらいだった。この男の近藤に対する歯の浮くようなお世辞をきくと、体中が総毛だつ思いがした。
「土方先生も、お手伝いしましょう」
と観柳斎がすり寄ってきたが、歳三はにがい顔で、
「要らん」
とだけいった。もっとも観柳斎のほうも、つねづね歳三を怖れて話しかけないようにしている。
「ではご勝手に」
と、あらわに不快をうかべて近藤のそばへもどった。近藤は大将気どりをするだけあって、おべっかには弱い。いい気持になって、観柳斎の巧弁をきいている。
(油断のならん男だ)
歳三も、不快だった。余談だが、観柳斎はこの年の翌々年の秋、薩摩屋敷に通敵し、しきりと隊の機密をもらしていたことが露われ、近藤、歳三合議の上、隊中きっての使い手斎藤一の手で斬られている。
歳三は、器用な男だ。はじめてつける具足だが、てきぱきと着込んでしまった。陣羽織を着、かぶとは後ろへはねあげた。
沖田総司がやってきて、
「ああ、五月人形ができた」
とよろこんだ。
歳三は、返事もしない。観柳斎によれば近藤が摩利支天で、自分が五月人形とは、あまり|わり《ヽヽ》があわない。
「総司、支度ができたか」
「このとおりです」
沖田ら助勤は具足をつけた上に、隊の制服|羽織《はんてん》をはおっている。
「お前はわかっている。みなはどうだ」
「もう、庭に出ていますよ」
歳三は、出てみた。
なるほど、そろっている。平隊士は、鎖帷子《かたびら》を着込んだ上に撃剣の革張り胴をつけ、その上に隊服を羽織り、鉢金をかぶった者、鉢巻だけの者、まちまちだった。
この夕、守護職屋敷から使番《つかいばん》がきて、
「竹田街道を伏見から北上する長州軍本隊を九条河原|勧進橋《かんじんばし》付近で押えること」
という部署を伝えた。
「長州の本隊を?」
近藤はよろこんだ。おそらくこの竹田街道勧進橋が最大の激戦地になるだろうとおもったのだ。
「歳、本隊のおさえだとよ」
「そうか」
小さくうなずいた。歳三には、疑問がある。が、この使番の前ではいわなかった。会津藩に恥をかかせることになるからである。
「陣割りはこうです」
と、使番はくわしく伝えた。その陣地における友軍は、会津藩家老神保内蔵助利孝がひきいる同藩兵二百人。備中浅尾一万石の領主で京都見廻組の責任者である蒔田《まきた》相模守広孝が幕臣佐々木唯三郎以下見廻組隊士をひきいて三百人。それに新選組。
出動隊士はわずか百人余である。歳三はとくに腕達者を厳選し、精鋭主義をとった。あとは屯営の留守と諜報のためにつかった。
竹田街道勧進橋をはさんで鴨川の西岸に布陣したのは、元治元年七月十八日の日没すぎであった。
赤地に「誠」一字を染めぬいた隊旗を橋の西詰めに樹《た》て、そのまわりにさかんに篝火《かがり》を焚いた。旗は篝火に照らし出され、敵味方の遠くからでも、そこに新選組が布陣していることがわかった。
歳三は、洛中洛外の八方に諜者を走らせ、しきりと味方、敵の動向をさぐった。この男が、故郷の多摩でやった喧嘩のやりかたとおなじであった。
「おかしいな」
と疑問がいよいよ濃くなった。幕府方の兵力配置が、である。
幕府(京都守護職)は、会津、薩摩の二大藩を主力として、ほかに、大垣、彦根、桑名、備中浅尾、越前福井、同丸岡、同|鯖江《さばえ》、丹後宮津、大和郡山、津、熊本、久留米、膳所《ぜぜ》、小田原、伊予松山、丹波綾部、同|柏原《かいばら》、同|篠山《ささやま》、同園部、同福知山、同亀山、土佐、近江仁正寺、但馬|出石《いずし》、鳥取、岡山など三十余藩の兵を動かしている。兵力は四万。
長州側は、主として嵯峨(天竜寺が中心)、伏見、山崎(天王山が中心)の三カ所に屯集し京に入る機をうかがっているのだが、兵力はそれぞれ数百人ずつ、あわせて千余で、その点では問題はない。が、その主力部隊はどこかということであった。
幕府は、「伏見」とみた。だから、会津、大垣、桑名、彦根といった譜代大名を配置し、新選組もそれに含めた。
理由は、伏見に屯集している長州兵が、家老福原越後に率いられているからである。
「が、強いのは嵯峨じゃないか」
と、歳三は、近藤にいった。
「長州はなるほど総大将を伏見においているが、これは見せかけで、いざ京都乱入となれば嵯峨が意表を衝いて働くんじゃないか」
「なぜわかる」
「嵯峨には諸藩脱藩の浪士がおり、その大将は長州でも剛強できこえた来島又兵衛だ。それに諜報では、めっぽう士気があがっているという。しかし総大将のいる伏見はちがう。その旗本衆は、長州の家中の士で組織された選鋒隊《せんぽうたい》だ。こいつらは代々高禄に飽いて戦さもなにもできやしないよ。そういう弱兵を相手に、これだけ大げさな陣を布く必要がないよ」
伏見の押えといえば、新選組を含んだ勧進橋陣地だけではない。その前方の稲荷山には大垣藩、桃山には彦根藩、伏見の町なかの長州屋敷に対しては桑名藩、さらに遊軍として越前丸岡藩、小倉藩の二藩を配置するというものものしさである。
「こいつは裏をかかれるさ」
歳三は、爪を噛んだ。近藤にはよくわからない。
「まあ、上《かみ》できめた御軍配だ。いいではないか」
「しかし近藤さん。この勧進橋じゃ、目がさめるほどの武功はころがって来ないよ」
「かといって歳、部署をすてて嵯峨へ押しだすわけにも行くまい」
「まあ、機をみてやることだな」
歳三は、それっきりこの会話をうちきった。
はたして、歳三の言葉どおりとなった。
伏見に屯集していた長州藩家老福原越後が行動を開始したのは、その日の夜半である。
最初、大仏《だいぶつ》街道をとって京に入ろうとしたが、勢いが攻勢的でなかった。温厚な福原越後はあくまでも出戦ではなく、禁裡へ陳情にゆくという構えをすてなかった。ただ仇敵会津中将松平容保だけは討つ(この斬奸状は、すでに長州藩士椿弥十郎をして諸方にくばってある)。
北上する福原の軍五百は、途中、藤ノ森で、幕軍先鋒の大垣藩(戸田|采女正《うねめのしよう》氏彬《うじあきら》)がかためる関門にぶつかった。
馬上小具足に身をかためた福原越後は、
「長州藩福原越後、禁中に願いの筋あって罷《まか》り通る」
とよばわっただけで難なく通過した。
大垣藩兵は、黙然と見おくった。この藩は戸田采女正が藩主だが病いのため小原仁兵衛が代将になっている。小原は鉄心と号し当時すでに高名な兵略家で、とくに洋式砲術にあかるかった。
だまって通過させ、長州軍が筋違橋《すじかいばし》(関門から北へ四百メートル)を渡りきろうとしたとき、にわかに銃兵を散開させて後ろから急射をあびせた。
たちまち銃戦がはじまった。
十九日の未明、四時前である。
「歳、はじまったらしい」
と、近藤は闇のむこうの銃声をあごでしゃくった。
「あの方角なら藤ノ森ですね」
と、耳のいい沖田総司がいった。
「藤ノ森なら、大垣藩だな。鉄砲の大垣といわれたほどの藩だから相当やるだろう」
近藤は、武田観柳斎に作らせた長沼流の軍配をにぎって、落ちついている。
(ちえっ、大将気どりもいいかげんにしたらどうだ)
歳三はいらだっていた。近藤はちかごろ鈍重になっている。すぐ歳三は下知して探索方の山崎烝を走らせた。同時に、会津隊の神保内蔵助の陣からも使者が走った。
山崎烝は馬上に身を伏せて走った。
藤ノ森のある大仏街道は竹田街道と並行し、その間をむすぶ道は田圃道しかない。
山崎も放胆な男である。馬乗り提灯もつけず闇のなかを、藤ノ森の松明の群れと銃火をめあてにめくら滅法に走った。
大仏街道の戦場に到着すると、
「大垣藩の本陣はどこか。新選組山崎烝」
と、銃弾のなかで馬を乗りまわした。そのとき、二、三弾、耳もとをかすったかと思うと、槍をもった兵がむらがってきた。
――こいつ、新選組じゃと。
あっ、と山崎はいそいで馬首を南にめぐらせた。長州兵の真直中《まつただなか》にとびこんでしまったらしい。
馬上から、一人斬った。たてがみに顔をこすりつけて走った。長州・大垣が路上でほとんど錯綜《さくそう》していて、両陣の区別がつかない。
「使者、使者」
山崎は必死に叫びながら走った。やがて藤ノ森明神の玉垣の前で、大垣藩の大将小原仁兵衛に出あった。
「新選組使番」
山崎は馬からおりようとした。しかし小原は山崎を鞍へ押しあげて、
「すぐ援兵をたのむ。長州もなかなかやる」
あとでわかったことだが、この長州きっての弱兵部隊は、大垣の銃火と突撃で何度も崩れたが、そのつど、同藩士の太田市之進が陣太刀をふるって叱咤《しつた》し、
――退くなっ、退くと斬るぞ。
と、すさまじい指揮をしていたという。太田市之進は、嵯峨方面の隊長の一人だが、福原越後に乞われて開戦のちょっと前に臨時隊長として駈けつけたものだった。
やがて山崎が帰陣して報告すると、歳三は近藤を見た。
近藤はうなずいた。
すぐ馬上の人になった。
「筋違橋だ」
近藤はただそれだけを下知した。各組長はそれだけでわかるまでに呼吸があっていた。筋違橋の北詰めから攻めて、長州兵を夾撃《きようげき》するのである。
会津隊も、見廻組も動きはじめた。
が、戦場についたときは、長州兵は自軍の死体をすて、数丁南へ算をみだして退却していた。大将の福原越後自身、頬を横から撃たれ、顔を血だらけにして伏見の長州屋敷までもどったが、ここでも大垣兵の追撃に耐えることができず、さらに南へ走って、山崎の陣営(家老益田越中)に駈けこんだ。
すでに朝になっている。
近藤、歳三ら新選組が敗敵を追って伏見に入ったときは、彦根兵が放った火で、伏見の長州屋敷は燃えていた。
(あとの祭りさ)
歳三は不機嫌だった。いたずらに、大垣、彦根藩に名をなさしめている。
そのころ、京の西郊にある嵯峨天竜寺の長州軍八百は、家老国司信濃にひきいられて京都にむかって侵入していた。
歳三の予想どおり、この部隊は、伏見のそれとは別国人のように勇猛だった。先鋒大将は来島又兵衛、監軍は久坂玄瑞で、隊には今日をかぎり命を捨てようという諸藩の尊攘浪士が多数まじっている。
総大将国司信濃はわずか二十五歳の青年ながら、風折烏帽子《かざおりえぼし》に大和錦の直垂《ひたたれ》、萌黄縅《もえぎおどし》の鎧、背に墨絵で雲竜《うんりよう》をえがいた白絽《しろろ》の陣羽織、といったいかにも大藩の家老のいでたちで、馬前に、
尊王攘夷
討会奸薩賊《とうかいかんさつぞく》
の大旆《たいはい》をひるがえして押し進んだ。幕府は嵯峨方面の備えをほとんどしなかったために途中さえぎる者もなく洛中に入り、御所にむかって進み、国司の本隊がいまの護王神社の前に到着したときは未明四時ごろである。
そこで国司は、戦闘隊形をとった。来島又兵衛に兵二百をさずけて蛤御門に進ましめ、児玉民部におなじく二百をつけて下立売門《しもだちうりもん》に突進せしめた。
国司の本隊は中立売門《なかだちうりもん》へ。
世にいう蛤御門の戦いはこの瞬間からはじまる。伏見で陽動して幕軍をひきつけていた長州側の作戦は奏功した。
国司は中立売門まで進んだとき、一橋兵《ひとつばしへい》に遭遇した。一橋兵から発砲した。
長州は、それを待っていた。禁裡周辺で自藩から発砲すると賊徒のそしりをまぬがれない。
国司信濃は、射撃、突撃を命じた。一橋兵は、ひとたまりもなく敗走した。
さらに筑前(黒田)兵と遭遇した。たがいに発砲したが、筑前は長州に同情的だったためことさらに退却した。
やがて長州軍は中立売門をおしひらいて一気に御所へ乱入した。門のむかいは公卿御門であり、会津藩の持場である。
国司は定紋を見て、
「あれが会津じゃ。みなごろしにせよ」
と下知した。もともと禁門の政変から池田屋ノ変にいたるまでのあいだ、徹頭徹尾長州の敵にまわってきたのは会津藩である。
長州の突撃はすさまじかった。会津兵はばたばたと斬り倒された。
そのうち蛤御門で砲声があがり、来島又兵衛の二百人が討ち入った。ほとんど同時に児玉民部の二百人も、下立売門から突入した。かれらの目的は戦闘の勝利ではない。会津、薩摩藩を討つことである。
その刻限、新選組は伏見にいた。
歳三が京の市中に散らしてあった探索方が馬で伏見まで駈けつけ、御所の合戦を急報した。報らされるまでもなく京の空にえんえんと火炎があがっている。
(みたことか。幕府の手違いだ)
歳三は近藤につめよった。
「京へ引きかえそう」
「歳。みな疲れている。いまから京へ三里、駈けたところでどうなるものでもない」
「駈けるのだ」
歳三は路上に突っ立ち、いまにも駈けだしそうな身がまえでいった。陽は次第に高くなりつつあるが、隊士たちは、家々の軒端にころがって眠りこけている。敵を追うばかりで一度も接戦はしなかったが、昨夜来、一睡もしていない。
「これで、働けるか」
近藤は、いった。
「いや、働かせるのだ。かんじんの戦場に新選組がいなかった、という風聞に、おれは堪えられぬ」
せっかく、軍事団として組織をかえつつあった矢先ではないか。
「歳、あせるものではない。われわれに武運がなかった。ここはそう思え」
近藤は、大将らしくいった。しかし、と歳三は思うのだ。天子の奪いあいというこの一戦に、御所に居ないというのはどういうことだ。あきらめられることではない。
「土方さん。――」
沖田総司が、向いの家からにこにこ笑いながら出てきた。手に、黒塗りの桶をかかえている。
「どうです。あがりませんか」
「なんだ」
にがにがしそうにいった。沖田は、歳三の鼻さきへ桶をつきつけた。この鮨特有のひどい悪臭がただよった。
「鮒鮨《ふなずし》ですよ。土方さんの好物のはずだ」
「いま、いそがしい。お前、食え」
「私は食べませんよ。こんなくさいもの、土方さんでないと食べられるもんか」
「みんなにわけてやれ」
「たれも食いつきゃしませんよ、新選組副長以外は」
「総司。何を云うつもりだ」
歳三は、仕方なく苦笑した。沖田は、鮨にかこつけて何かをいっているつもりらしい。
ほどなく、長州の敗北が伝わった。来島又兵衛は奮迅の働きののち、馬上で自分の槍をさかさに持ってのどを突き通して絶命し、久坂玄瑞、寺島忠三郎は鷹司屋敷で自刃、長州軍の大半は禁裡の内外で討死し、国司信濃はわずかな手兵にまもられて落ちた、という。
幕軍は敗敵捜索のためにしきりと民家を放火してまわり、このために京の市中は火の海になり、煙が天をおおって伏見の空まで暗くなった。
長州の敗兵は山崎まで退却し、ここで最後の軍議をひらいた。
天王山に籠っていま一度戦さをしようという議論も出たが、容易に決せず、ついに国許へ退却するという案におちついた。即刻下山し、西走した。
が、山崎の陣に残った者もいた。真木和泉守がひきいる浪士隊のうち十七人である。山崎本陣の背後の天王山にのぼり、二十一日、山頂に例の「尊王攘夷」「討会奸薩賊」の旗をひるがえした。
新選組が先陣をきって駈けのぼったときは、すでに十七人が割腹絶命したあとだった。
「――武運がなかった」
近藤がいった。
天皇を奪えなかった長州軍もそうだったろうが、その長州兵と一戦も交えることができなかった新選組にとっても武運がなかった。
隊は二十五日、壬生へ帰営。
平素の市中見廻りについた。京の市中は大半、このときの戦火で焼けてしまっている。
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伊東甲子太郎
余談だが、筆者どもの高専受験当時、英文和訳の参考書に、通称「小野圭」という、おそらく二十数年にわたってベストセラーをつづけた受験用参考書があった。
著者は小野圭次郎氏で、三十代から五十代のひとにとっては懐しい名であるはずだ。小野氏は明治二年福島県の漢方医の子にうまれ、東京高師を出て英語教育界に入り、最後は松山高商教授をつとめ、昭和二十七年十一月、皇太子の立太子式の翌日、八十四歳で亡くなった。
当時、各新聞に訃報《ふほう》が出た。受験生の世界で長年月親しまれていた人だけに、どの新聞も比較的くわしい訃報をかかげたが、しかしこのひとの岳父が新選組隊士鈴木|三樹三郎《みきさぶろう》であり、その義理の伯父が伊東|甲子太郎《かしたろう》であった、とまでは、むろん書かれなかった。
小野氏には奇特なこころざしがあった。「小野圭」の参考書で得た印税を、その父小野良意、それに鈴木三樹三郎、伊東甲子太郎の研究にそそぎ、昭和十五年、それらをまとめて非売品の書物を一冊、出している。いまでは古本の世界でも稀覯本《きこうぼん》に属する。
その伊東甲子太郎。
常陸《ひたち》志筑《しずく》の浪人の子である。すらりとしたいかにも才子肌の美丈夫である。
年少のころ、故郷を出て最初水戸で武芸、学問をまなんだために、水戸的な尊王攘夷思想の洗礼をうけた。水戸藩尊攘党の頭目武田伊賀守(家老。のち耕雲斎と号し、攘夷義勇軍をあげて刑死)とも親交があったというから、伊東の尊攘主義も相当過激なものだったに相違ない。
伊東はいま江戸にいる。
深川佐賀町で道場をひらいている。
門弟がざっと百人、道場としては大きいほうである。
その伊東甲子太郎が、同志、弟子多数をつれて新選組に加盟してもかまわぬという意向をもっている、というはなしを歳三がきいたのは、蛤御門ノ変の直後であった。
歳三は近藤からきいた。
「本当か。――」
歳三も、その高名はきいている。
「本当だ。こう、平助が、手紙で報らせてきた」
と、ちょうど江戸にくだっている助勤藤堂平助からの手紙を、歳三にみせた。
歳三はちらりとみて、
「はて、伊東甲子太郎」
と、うたがわしそうにいった。
「たしかな男かね」
「たしかさ」
近藤は信じやすい。
それに、人手のほしいときだ。池田屋ノ変から蛤御門ノ変、大坂の長州屋敷制圧などの大仕事がこのところ相次いでおこったために、隊士が戦死、負傷、逃亡するなどで、六十人前後に減ってしまっていた。伊東が、門人多数をひきつれて加盟するとあれば、局長近藤は嬉し泣きしてでも迎えたい心境であった。
「どうかなあ」
歳三は、近藤の大きな|あご《ヽヽ》を見つめながらいった。
「歳、気に入らないのかね」
「こいつ、学者だろう」
「結構ではないか。新選組は剣客ばかりの集りで、四書五経、兵書に眼があり、文章の一つも書けるほどの者といえば、山南敬助、武田観柳斎、尾形俊太郎ぐらいのものだ」
「みな、ろくな奴じゃねえよ」
しっぽがどこについているのか、根性がどうすわっているのか、歳三にとって見当のつかない連中である。学問はいい。が、自分の環境に対して思考力がありすぎるという人間ほど、新選組のような勁烈《けいれつ》な組織にとって、不要なものはない。そう信じている。歳三はあくまでも、鉄のような軍事組織に新選組を仕立てたいと思っていた。
が、近藤はちがう。学者好きである。武田観柳斎のような、たれがどうみても腑ぬけたおべっか渡世の口舌武士を、助勤、秘書役、といった処遇で重用しているのも、そのあらわれである。学者、論客は、いまの近藤がいちばんほしがっている装飾品であった。
近藤には、対外活動がある。いまや、京都における幕権の代務者である京都守護職松平容保とさえ、直談《じきだん》している。
諸藩の重役とも、対等以上の立場で話をしている。席上、名だたる論客どもをむこうにまわして、時事、政務を論じている。近藤はいまや一介の剣客ではなく、京都における重要な政客のひとりであった。
それには、身辺に、知的用心棒が要る。武田や尾形程度では、もう役不足であった。
そこへ、降ってわいたようにとびこんできたはなしが、伊東甲子太郎の一件であった。
近藤がとびついたのも、むりはない。
「第一、伊東甲子太郎といえば、北辰一刀流だろう」
「ふむ、天下の大流だ」
天然理心流などの芋流儀とはちがう。
「しかし」
歳三は気に食わない。
北辰一刀流(流祖千葉周作、道場は江戸神田お玉ケ池)といえば、水戸徳川家が最大の保護者で、自然、この門から多数の水戸学派的な尊王攘夷論者が出た。ちょっと指折っても、海保帆平《かいほはんぺい》、千葉重太郎、清河八郎、坂本竜馬といった名前が、歳三の頭にうかぶ。
かれらは、反幕的である。倒幕論者でさえある。いわば、長州式の尊王攘夷主義者とすこしもかわらないではないか。
――伊東はたしかかね。
と歳三がいったのは、ここである。
――たしかさ。
と近藤がいったのは、伊東の学問、武芸のことだ。腕は立つ。凄いほど立つ。
伊東甲子太郎が、はじめ水戸で修めた流儀は神道無念流であったが、江戸に出てからはもっぱら、深川佐賀町の伊東精一について北辰一刀流を学んだ。たちまち奥義《おうぎ》に達し、師範代をゆるされ、精一の娘のうめ子(のち離縁)を妻にして婿入りし、伊東姓を継ぎ、精一病死後、道場をも継いだ。
道場を継いでからは、単に剣術のみを教えず、
――文武教授。
の看板をかかげて、あわせて水戸学を講述したから、門下に、多数の志士が集まった。
伊東はさらに、江戸府内の国士的な学者とさかんに交遊したから、尊攘論者のなかで名が高くなり、諸国の浪士で江戸へ来る者は、
「伊東先生の高説をきかねば」
と、しきりにその門に来遊する。
「近藤さん、これァ、地雷を抱くようなものだよ」
歳三は、いった。
「歳、おめえは、物の好き嫌いがつよすぎる。なぜ北辰一刀流がきらいなのだ」
「剣はきらいではないがね。あの門流には倒幕論者が多すぎる。それが宛然《えんぜん》、いま天下に閥《ばつ》をなしつつある」
「おおげさなことをいうものではない」
「でもないさ。血は水よりも濃いというが、流儀も血とおなじだ。流儀で結ばれた仲というのは、こわい」
当今《いま》でいえば、学閥に似ている。同窓生意識というものである。
新選組の幹部のなかで、北辰一刀流といえば、総長の山南敬助、助勤の藤堂平助のふたりである。どちらも、江戸の近藤道場の食客だった男で、旗揚げ以来の同志である。
ところが、おなじ旗揚げ以来の同志である近藤、土方、沖田、井上、といった天然理心流の育ちからみれば、どこか血がつながっておらず、肌合いがあわない。大げさにいえば知識人と百姓のちがいであり、当今《いま》の世情で比喩《ひゆ》すれば、東京の有名大学と、地方の名もない私学の卒業生ほどの色合いのちがいはあるだろう。
だから、結成当時。
つまり、清河八郎(北辰一刀流)が幕府の要人に説いて官設の浪士団を作るために、江戸その他近国の諸道場に檄《げき》を飛ばしたとき、近藤の天然理心流には、檄さえまわって来なかった。
かろうじて、食客の二人の北辰一刀流出身者(山南、藤堂)が、こういう動きがある旨を同流儀の他道場から聞きこんできて、近藤に、「どうです」と持ちかけたからこそ、こぞって応募することに決したのである。
山南、藤堂らは、大流儀だから、自然、流儀上のつきあいが多い。世間に、顔がある。
歳三は、北辰一刀流の術者の、そういう世間づきあいの広さが気に食わない。もっともこれは理屈ではなく、ひがみだが。
「まあ、そう眼鯨《めくじら》を立てるもんじゃない」
と近藤はいった。
「せっかく、江戸へひとりくだって隊士募集の渡りをつけてまわっている平助(藤堂)が可哀そうだよ」
「平助はいい男だがね」
「あれはいい」
「しかし平助の流儀が気に食わない。平助が伊東甲子太郎以下の多数の北辰一刀流術者を連れて帰れば、もはや新選組は、あの流儀にとられたようなものになるよ」
総長の山南敬助がよろこぶだろう。
同流の伊東が来る。自然、手を組む。なりゆきとして、これはどうなるか。
「新選組は、尊攘倒幕になるだろう」
「まあまあ」
近藤は手をあげた。
「そういうな。伊東がたとえ毒であっても、毒を薬に使うのは、わしの腕だ」
「どうかねえ」
歳三は、あまりぞっとしない表情で、そっと笑った。
藤堂平助は、多少の私用と、隊士募集の公用をかねて、江戸にくだっている。
同流の伊東甲子太郎を、深川佐賀町の道場にたずねた。
藤堂平助という青年は、あるいは以前に数行紹介したかも知れないが、
「伊勢の藤堂侯の落《おと》し胤《だね》だよ」
と自称して冗談ばかり云っているあかるい男である。池田屋の斬り込みのときには頭を斬《や》られてもうだめかといわれたが、何針か縫っただけでめきめきと回復し、蛤御門ノ変では、以前にもました勇敢さで働いた。
近藤は、平助を愛している。古いなじみだし、それに、単純で快活で勇敢なところが、近藤の好みにあっていた。もっとも近藤ならずとも、平助のような若者なら、たれの気にも入るだろう。
ところが、藤堂平助は、古馴染ではあっても近藤道場の|育ち《ヽヽ》ではない。歳三の疑惧する北辰一刀流のほうに、血のつながりがある。平助は、悩んでいたらしい。
「平助が悩んでいる」
といえば、隊のたれもが、笑うだろう。が平助は理屈こそいえない男だが、その思想の底に、水戸学がある。その剣門の影響であり、いわば、血すじといっていいだろう。
(新選組は、幕府の走狗《そうく》になっている。これでは、清河の浪士募集当時、攘夷の先駆になる、といった趣旨が失われてしまっている)
失われたどころか、攘夷の先駆者である長州、土州の過激浪士を池田屋で斬り、さらに蛤御門ノ変で、正面からかれらと戦った。
(約束がちがう)
藤堂は、そう思っている。もっとも、この男は、隊内では毛ほどもその種の不満をもらさなかった。もらせば、歳三に斬られるだけだろう。
蛤御門ノ変後、隊の人数不足が急を告げはじめたとき、近藤は、
「私が江戸へくだって募集してみる。ほかに公用もあることだから」
と洩らした。
藤堂は、おどりあがるようにしていった。
「私に、その露ばらいをさせてください。ひとあしお先に江戸にくだって、諸道場と話をつけておきますから」
近藤は、快諾した。
藤堂は江戸へくだった。おそらく同門の旧知をたどりたどって、深川佐賀町の伊東甲子太郎にわたりをつけたのだろう(伊東はもと、鈴木姓であった。かつては鈴木|大蔵《おおくら》と名乗っていた。藤堂が訪ねたときはすでに伊東姓で、伊東大蔵。京へのぼるとき、この年が元治元年|甲子《ヽヽ》にあたるところから、甲子太郎と改名した。が、煩わしいから、ここでは便宜上、伊東甲子太郎という名で、通すことにする)。
藤堂平助は、伊東を訪ねて、容易ならぬことをいっている。
「近藤、土方は、裏切者です」
といった。伊東はおどろいた。
「どういうわけです」
「いや、先年、かれらは、われわれと同盟を結び、勤王に尽さんと誓ったはずですが、近藤、土方はいたずらに幕府の爪牙《そうが》となって奔走するのみで、最初声明したる報国尽忠の目的などはいつ達せられるかもわかり申さず、同志のなかで憤慨している者も多い」(新選組永倉新八翁遺談などに拠る)
「されば」
と、藤堂は、この快活な若者にしては、信じられぬことをいった。
「このたび近藤が出府してくるのを幸い、これを暗殺し、平素、勤王の志厚い貴殿(伊東)を隊長に戴き、新選組を純粋の勤王党にあらためたいと存じ、近藤にさきだって出府した次第です」
「ほう」
伊東は、微笑している。だまって微笑しているほか、どういう態度もとれないほどの大事であった。
「私を隊長に?」
「左様」
「近藤君を暗殺して?」
「いかにも」
藤堂は、うなずいた。
「………」
伊東は、藤堂平助の血色のいい童顔をみて、この子供っぽい剣客が、どうみても佞弁《ねいべん》の策士であろうとは思えなかった。伊東にも人物をみる眼がある。藤堂の人柄を信じた。
「しかし、藤堂君。とっさのことだし、それに事が重大すぎる。私も、いま進退をきめろ、といわれれば、おことわりするほかない」
「いや、決めて頂きます。私も、こういうことをいうのは、決死の覚悟でいる。もし洩れれば死罪はまぬがれません。もし即座に決めていただかねば、私がここで切腹するか、――それとも」
「この伊東を討ち果たすか」
「そうそう」
藤堂は笑った。が、顔は綻《ほころ》びきれずになかばでこわばった。
じっと、伊東を見つめている。
「いかがです」
「藤堂君」
と伊東は、自分の大刀をひきつけた。藤堂は、はっとした。
「金打《きんちよう》します」
ぱちり、と、つば音を立て、
「私も武士だ。君の言葉を、たれにも洩らさない。胸にだけ刻んでおく。しかし私の力で新選組を勤王党に変えることができるかどうかは、これは別だ」
「伊東先生なら、できます」
「とりあえず、加盟だけは約束しよう。仕事はその上でのことだ。しかしその前に、近藤君と会って、とくと話しあわねばならない」
「なにをです」
「近藤君の心底、素志を、まずきかせて貰う。しかるのち私の意見も述べ、勤王ということで折れあわなくても、せめて攘夷の一事だけでも一致すれば、私は加盟しよう」
伊東は単に勤王どころか、倒幕論者である。が、倒幕、という思想はひとまず隠し、単なる攘夷論者として入隊しようというのだ。
「それに、処遇のこともある。私はどうでもいいが、私の門人、同志のなかには、有為の材が多い。単なる新規隊士というのではこまる」
「当然です。人材、人数の点からいっても、これは、新選組と伊東道場との同格の合併ということになりましょう」
「そうして貰えばありがたい。君のいう、あとの仕事もやりやすくなります」
「じつに愉快」
そのあと、酒になった。
席上、伊東はふと、
「土方君というのが、副長でしたな。これはどういう人物です」
と、きいた。
藤堂の眼が、にわかにいままでと違った光りを帯びた。その名前への怖れが表情に出ているのを伊東は見のがさなかった。
「ほほう、それほどの人物ですか」
「いや、先生」
藤堂は、杯をおいた。
「愚物です」
「といいますと?」
「愚物、としか云いようがありません。王の尊ぶべきを知らず、夷狄《いてき》の恐るべきを知らず、時世の急なるを知らず、かといって覇府《はふ》(幕府)尊ぶべしというほどの理ももたず、ただもうこの男の天地には新選組があるだけで、隊の強化ばかりを考えています」
「そいつは」
伊東は、くびをかしげた。
「真に怖るべき者かもしれぬ。近藤君はなまじい、志士気取りでいるから、私の理をもって説けばどうなるかわかりませんが、その土方という男は、理ではころばぬ」
「そう」
藤堂はうなずいた。
「伊東先生の御卓説をもってしても、まず、石にむかって法を説くようなものです」
「藤堂君、うるさいのはそういう馬鹿者だ。まあ会ってみなければわからないが、将来、この男がひょっとすると、私の思案の手にあまるかもしれない」
「斬る」
藤堂は、手まねをした。
この伊東甲子太郎が、不日《ふじつ》出府してきた近藤と対面したのは、元治元年も、晩秋にちかいころである。
伊東は、入隊を約束した。
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甲子太郎、京へ
伊東甲子太郎が、新選組局長近藤勇と対面したのは、例の小日向柳町の坂の上の近藤道場の奥の間である。
「伊東先生」
と、近藤は甲子太郎をそうよんだ。平素の近藤の眼は、人を射すようにするどい。
ところが、この席では、終始、笑い声をたてた。そばにひかえている武田観柳斎、尾形俊太郎、永倉新八らの隊士も、この日ほど上機嫌な近藤をみたことがない。
「尾形君、先生のお杯が」
と、注意したりする。
「いや、もう十分です」
伊東はいんぎんに頭をさげた。
「御遠慮なく。なかなかの御酒量とうかがっています。存分におすごしください。今日は、たがいに腹蔵なく語りあいましょう」
「望むところです」
この日の伊東甲子太郎は、当節はやりの七子《ななこ》の羽織に、黒羽二重《くろはぶたえ》の紋付袷《もんつきあわせ》、それに竪縞《たてじま》の仙台平の袴をはき、両刀のツカ頭に銀の飾りをつけ、つばは金象嵌《きんぞうがん》の入った竹に雀のすかし彫り、といった大身の旗本をおもわせるような堂々たるいでたちである。元来、風采のいい男であった。
「いや、愉快だ」
と、下戸《げこ》の近藤は、平素飲みつけぬくせに、杯を三ばいまであけて、真赤になっていた。
よほど、うれしかったのだろう。
(どういう男か)
伊東は、杯をかさねながら、観察をおこたらない。将来、新選組を乗っ取ろうとする伊東にとっては、この観察には命がかかっていた。得た印象の第一は、
(評判どおり、やはり常人ではない)
ということである。傑物、という意味ではない。なにか、動物を思わせる異常なものが、近藤にはあった。|男《ヽ》その《ヽヽ》もの《ヽヽ》、というべきか。野の毛物のような精気と、見すえられると身ぶるいするような気魄を、近藤は五体のすみずみにみなぎらせている。
伊東は、近藤に刃物を連想した。その刃物も、剃刀《かみそり》や匕首《あいくち》のような、薄刃《うすば》なものではない。|たが《ヽヽ》ね《ヽ》といっていい。鎚《つち》でたたけば、鉄塊でもたたき割りそうな感じがする。
(怖るべし)
とは思ったが、同時に軽蔑もした。
(乱世だけが、必要とする男だ)
伊東は、近藤の威圧をはらいのけるために、懸命に軽蔑しようとした。
それに、
(意外な弱点がある)
本来|たが《ヽヽ》ね《ヽ》にすぎぬこの男があわれなほど政治ずきということであった。
この日、近藤は平素になく、田舎くさい大法螺《おおぼら》をふいた。
この男のいうところでは、こんどの東下《とうげ》の理由は、将軍を説得するためだというのである。
「将軍を?」
「そうです」
将軍(家茂)を説得して上洛させ、勅命のもと、長州征伐の陣頭指揮をしていただく、というのである。
「ほほう」
伊東は、はじめのうちは半信半疑だった。
いかに幕権おとろえたりとはいえ、一介の浪人隊長が、将軍に拝謁できるはずがないではないか。
「おどろきました。近藤先生が将軍に拝謁をゆるされたとは」
「いや」
近藤はあわてた。
「将軍家にではない。御老中松前伊豆守殿をはじめ諸閣老を残らず歴訪し、京都の情勢がいかに切迫しているかを説き、将軍家の御上洛が、いまや焦眉の急であることを説いたわけでござる」
「なるほど」
それだけでも、たいしたものではないか。幕閣に対し政治的助言をするのは、御親藩、譜代大名のやることである。井伊大老のころ、外様《とざま》大名が幕政に喙《くちばし》を容《い》れたというだけで、何人かの大名が罪に服したことがあった。それを近藤は浪人の身をもって、幕閣に工作をしたというのである(むろん近藤は、老中に会うにあたって、会津藩から特別の下工作はしてもらってはいたが)。
(それにしても幕威も衰えたものだ)
と、伊東はおもわざるをえない。
「それで、幕閣の意向はどうでしたか」
「伊東先生」
近藤は、声をおとした。
「かまえて、ご他言《たごん》なさるまいな」
「念を押されるまでもありません」
伊東は、秀麗な顔でうなずいた。
「されば貴殿を同志として打ちあける。幕閣極秘の事項とおもっていただきたい。もしこれが、長州はむろんのこと、薩摩、因州、筑前、土佐、といった、あわよくば徳川にかわって天下の主権を握ろうとする西国大名に洩れれば、大事にいたる」
それほどの秘密を、近藤は幕府の老中から明かされている。それを、近藤は伊東甲子太郎に誇示しようとしたのか、どうか。
「伊東君」
同志らしく、そういう呼び方に変わった。
「幕府の御金蔵には、もはや将軍が長州征伐のために西上する金がないのです」
「金が」
「そう。……ない」
うなずいた。
「幕府に?――」
「ないのだ、金が。将軍上洛となればおびただしいお供が要る。お供に渡るお手当がもはやない。お手当だけではない。鉄砲も要る。馬も要る。兵糧荷駄も用意せねばなるまい。煙硝も要る。それらを運ぶ軍船も要るだろう。伊東君、その金が、ない」
近藤はまるで自分が老中のような、悲痛な顔をした。
余談だが、このころ、幕府は極秘裡にフランスとのあいだで、長州征伐の軍費と幕軍の洋式化の費用の借款を交渉していた(曲折をへて、不調におわったが)。それほど、幕府は窮迫していた。
「しかし」
と、伊東は、神妙にいった。
「江戸には、徳川家が三百年養い来《きた》った旗本御家人という者が居る。将軍が東照権現(家康)以来の御馬印をたてて西上するとなれば、かれら直参は、家財を売ってでも馬を買い、鉄砲をそろえ、道中のお手当などもみずから調達し、身命をなげうって三百年の恩を報ずるはずではないですか」
「ところがそれが」
近藤は、不快そうにいった。
「伊東君も、噂を耳にしておられるはずです。御旗本のほとんどは、家計の窮乏を理由として従軍を望んでおらぬ」
伊東も、きいている。むろん幕臣のすべてではないが、その大半は、将軍出馬による長州征伐には反対であった。かれらのうちには、公然と江戸城中で、
――たかが三十六万石の西陬《せいすう》の一大名を征伐するのに、将軍が出かける必要がどこにある。
と、放言する者さえいた。
要は、将軍が出かければ旗本御家人がその士卒として従軍せねばならぬ。家計の打撃というだけでなく、江戸の遊惰な生活をすてて戦野に身を曝《さら》すなどという野暮は、三百年、御直参、御殿、とよばれてきたかれらにとって、考えられぬことであった。
「旗本八万騎というが」
と、近藤はいった。
「藁人形《わらにんぎよう》にひとしい。伊東君、将軍は勅命によって御所を護り、長州を鎮圧し、さらに外夷から国家を守ろうとするのですぞ。その将軍を、何者が守るのか。旗本は戦さをきらっている。結局、将軍を護り、王城を護るのは、新選組のほかはない」
近藤は、ぐっと杯を干し、伊東に差した。
伊東は、受けた。横あいから尾形俊太郎が、それに酒を満たした。
「伊東君、義盟を誓いましょう」
「いかにも」
伊東は、それを静かに干した。心中、なにを思っていたか、わからない。
近藤に会った翌日、伊東は、深川佐賀町の道場に、おもだつ門人、同志をあつめた。
七人。
いずれも、佐幕主義者ではない。
あわよくば、旗を京に樹《た》て、天子を擁《よう》して尊王攘夷の実をあげようという連中である。
まず、伊東の実弟の鈴木三樹三郎(のち薩摩藩に身を寄せ、近藤を狙撃。維新後弾正小巡察。大正八年、八十三歳で死去)
伊東の古い同志では、
篠原泰之進(同右。明治四十四年、八十四歳で死去)
加納道之助(|★[#周+鳥]雄《わしお》、のち薩摩藩に拠《よ》る)
服部武雄(維新前、闘死)
佐野|七《し》五三《め》之助《のすけ》(維新前、切腹)
伊東の門人としては、
中西登(のち薩摩藩に拠る)
内海二郎(同右)
このなかでも、剣術精妙といわれたのは武州出身の服部武雄、久留米脱藩の篠原泰之進で、加納、佐野なども、新選組の現幹部に劣らない。
伊東は、この七人に対しては近藤との会談をつぶさに語り、さらに肚《はら》の底までうちあけた。
――あくまでも、合流である。やがて主導権をにぎる。それをもって討幕の義軍たらしめたい。諸君の御所存は如何。
「もとより」
と、伊東はいった。
「虎穴に入るのだ。しかも虎児を奪《と》るだけではない。猛虎を追いだして虎穴を奪《うば》う。拙者に命をあずけていただきたい」
みな、賛同した。
しかしただ一人、一座の最年長である篠原泰之進だけは、この伊東のあまりにも才気走った奇計に、多少のあぶなっかしさを覚え、
「大丈夫かね」
と愛嬌のある久留米なまりでいった。篠原は、先年、いまここに同席している加納、服部、佐野らと横浜の外国公館を焼き打ちしようとしたほどの「尊攘激徒」だが、平素はおだやかな庄屋の大旦那といったふうがある。剣のほかに、柔術ができた。
「大丈夫かね、とは、どういう意味です」
「私はね、芝居が下手ですよ。異心を抱いて新選組に入りはしても、三日とごまかしきれるような男ではなか」
「それで結構」
伊東は、才を恃《たの》んでいる。
「芝居は、私がやります。諸君はただ、近藤、土方の命ずるまま、だまって隊務についていてもらえばいい。いざ、というときに蜂起する」
「そいつは楽だ」
篠原は、笑いながら、
「しかし、座長《ざがしら》がさ」
「私のことですか」
「そうです。憎まれ口をいうようだが、才人すぎて、かえって花道からころげ落ちるようなことになってはつまりませんよ」
「篠原君」
「いや、きいてください。新選組といっても馬鹿や土偶《でく》のぼうばかりがあつまっているわけじゃない。芝居の観巧者《みごうしや》がいる。聞けば土方歳三」
「いや、先刻しらべている。土方は無学な男だ。とるに足りない」
「どうかなあ」
「篠原君、きみに似合わず、臆《おく》されたようですな」
「なんの」
篠原は、笑った。
「わたしゃ、こうときまった以上、命と思案は利口な|ああ《ヽヽ》た《ヽ》にお任せしてある。ただ結盟にあたって、ひとことだけ、不安を申したまでです」
「不安。新選組は、藤堂君にきけば、たかが烏合《うごう》の衆ですよ。篠原君は怖れすぎる」
「わたしの怖れているのは、新選組の近藤や土方などではない」
「では、なんです」
「|ああ《ヽヽ》た《ヽ》の才気ですよ。いや、才気を恃《たの》みすぎるところかな。見わたしたところ、この一座は大根役者ばかりで、千両役者といえば|ああ《ヽヽ》た《ヽ》お一人だ。巧者すぎて、浮きあがらんようにしてもらいたい」
「篠原君」
「いや、これで話はしまい。あとは|ああ《ヽヽ》た《ヽ》に命をあずけた。――酒だ、服部君」
「なんです」
「みなで酒を買おう。江戸の酒の飲みおさめに、今夜はつぶれるまで私は飲む」
その夜、みなが帰ったあと、伊東は故郷の常州三村に独り住んでいる老母の|こよ《ヽヽ》へ宛《あ》てて京にのぼる旨の手紙をかき、妻|うめ《ヽヽ》にも結盟上洛のいきさつを話し、その後数日して深川佐賀町の道場をたたみ、家族を三田台町の借家に移している。
前にものべたとおり、伊東はもともと大蔵という名であったのを、江戸を去るにあたって、甲子太郎と改名している。伊東なりに、よほどの覚悟があったのであろう。
伊東がよほどの覚悟をきめて京へのぼったということについては、ほかにも挿話がある。妻|うめ《ヽヽ》というのは、その手紙などの文章からみても相当の教養のあった婦人らしくおもえるが、やはり、京における夫の身を案じすぎたのであろう。伊東へはは様大病、と偽報し、おどろいて早駕籠で江戸に帰ってきた伊東に、
――実は母上のご病気とは偽りでございます。あまりにお身の上が気になりますから、もう国事に奔走するのは止《よ》して頂きたいと思い、手紙をさしあげました(この項、小野圭次郎著「伯父・伊東甲子太郎」と同文)。
このときの、|うめ《ヽヽ》に対する伊東の心事はよくわからない。ただ「非常に腹を立」て、
――汝如きは自己のみを知って、国家の重きを知らぬものだ。
と離別してしまっている。幕末維新で第一級の志士には意外なほど愛妻家が多いが、国事を理由に妻を離別したのは伊東甲子太郎だけであろう(余談だが、老母|こよ《ヽヽ》は、甲子太郎の絵像を床の間にかけて朝夕、その健康を祈っている、というふうの人であった。明治二十五年、常州石岡町の次男三樹三郎の家で死去、八十二歳。辞世は、万世《よろずよ》のつきぬ御代《おんよ》の名残りかな)。
伊東甲子太郎ら一行八人が、京に入ったのは、元治元年十二月一日である。
この日、ひどく寒かった。
歳三は、昼、自室でひとりめしを食っていた。副長には一人、隊士見習をかねた小姓が付くのだが、歳三は、いっさい、給仕をさせない。
飯|びつ《ヽヽ》をわきに引きつけ、自分で茶碗に盛っては、ひとり食う。子供のころから、ひとと同座してめしを食うのがきらいな男であった。この点も、猫に似ている。
「たれだ」
と、箸をとめた。
障子に、影が動いた。
からっと不遠慮にひらき、沖田総司が入ってきた。
「なんだ、総司か」
この若者だけは、にが手だ。
「どうぞ、召しあがっていて下さい」
「急用かね」
「いや、ここで拝見しています。私は自分が食がほそいせいか、他人がうまそうにめしを食っているのを見物するのが、大好きなんです。とくに土方さんの食いっぷりを見ていると、身のうちに元気が湧《わ》いてくるような気がします」
「いやなやつだな」
茶をのんだ。
「用かね」
「ごぞんじですか」
「なにがだ」
「近藤先生の休息所(興正寺門跡下屋敷)に、江戸から客人が八人来ています」
「ふむ」
湯呑を、置いた。
「伊東だな」
「やはり、勘がいい。伊東って人は色が白くて役者のようにいい男ですが、あとは、弁慶、伊勢義盛といった鬼のような豪傑ぞろいですよ」
「そうかえ」
楊枝を使いはじめた。
「山南先生、藤堂さん、といったところが、やはり同流のよしみで、さっそく挨拶に出かけたようです」
「妙だな。副長のおれンとこには、一行来着という報らせも来ていない」
「申し遅れました。私がその使者です。近藤先生から、土方さんを呼ぶように、と云いつかっています」
「ばか、なぜそれを早くいわない」
「しかし」
沖田は、くすくす笑った。
「なにがおかしい」
「楽しめますからね、土方さんのお顔の変わり方が」
「なにを云やがる」
「すぐ、興正寺下屋敷まで行ってくださいますか」
「行かないよ」
楊枝で、せせっている。歳三は、歳三なりの理由がある。新選組副長が、なぜ新参の隊士の宿所まで出むかねばならない。
「おれの|つら《ヽヽ》を見たけりゃ、その伊東さんに、屯所の副長室まで御足労ねがうことだな」
楊枝を、捨てた。
沖田は、鼻を鳴らして笑った。からかってはいても、そういう歳三が好きだった。
[#改ページ]
慶応元年正月
江戸から帰ってきてからの近藤は、妙に浮わついている。
(人が、かわった)
と、歳三はおもった。
――どういうことだろう。
歳三は、一時はとまどった。が、いまではつめたい眼で、そういう近藤を見るようになっている。
「総司よ」
と、あるとき、行きつけの木屋町の小料理屋の二階で、沖田総司を相手にいった。この若者にだけは、肚の中のどういうこともいえるのである。
「まあ、ここだけの話だがね。近藤さんがちかごろ、こう、おかしかねえか」
「ええ」
沖田は、くすっ、と笑った。同感らしい。この若者は、さっきから刺身のツマばかりを食べている。ひどい偏食家で、なまものは、たべない。
「人間、栄誉にはもろいものだな。江戸では、老中に会っている。どうもそこから、人間が妙になったらしい」
「そりぁ」
そうだろう、と、沖田は内心おもった。近藤といっても、うまれは、たかが多摩の百姓の子で、家には氏素姓も、苗字《みようじ》さえもなかった。その近藤が、老中と膝をまじえて政務を談じてきたというのである。はじめは、
(ほんとかなあ)
と、沖田はおもった。ひょっとすると、玄関わきの用人部屋で、老中の家老ぐらいと話をしてきたのを、近藤は大げさに|ほら《ヽヽ》を吹いているのではないか、とさえおもった。
近藤は、帰洛してからしばらくの間、まるで念仏のように、
――伊豆どのは、伊豆どのは。
といった。御老中松前伊豆守様とはいわない。同僚づきあいをしている口ぶりであった。新参の隊士などのあいだでは、
(さすが、新選組局長といえば大名なみだな)
と、感心する者もいた。
二条城へも、三日に一度は登城している。
この城は、徳川家の家祖家康が京都市中に築城したもので、将軍上洛のときの駐旆所《ちゆうはいじよ》として用いられてきた。いまは、「禁裏御守衛総督」である一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》(のちの十五代将軍)が在城している。
近藤はここで京都守護職の公用方と談じたり、右の一橋家の公用方と、天下の情勢を論じたりしている。
その近藤の登城の容儀は、江戸からの帰洛後、ほとんど大名行列に似てきた。むろん、乗物は用いない。馬上ではある。しかしつねに隊士二、三十人を従えて堀川通を練ったというから、小諸侯であろう。
(一介の草莽《そうもう》の志士ではなくなってきた)
そんな悪口を、結盟以来の幹部である山南敬助が蔭でいっているのを、沖田はきいたことがある。
「しかし、土方さん」
と、沖田はいった。
「近藤さんを大名に仕立てる、とこっそり近藤さんをおだてたのは土方さんじゃありませんか」
「ふむ」
歳三は、眼をそらした。
「そうさ」
「じゃ、わるいのは土方さんですよ」
「ちがう。おれは、新選組というものの実力を、会津、薩摩、長州、土州といった大藩と同格のものにしたい、とはいった。いまでもそのつもりでいる。むろんそのあかつきは、首領はあくまでも近藤勇|昌宜《まさよし》だから、近藤さんが大名になるのと同じ意味ではあるが、気持はちがう」
「どうもね」
小首をかしげた。
「なんだ」
「土方さんのおっしゃるそんな混み入った言葉裏が、近藤さんにはわかりませんよ。あのひとは、土方さんとちがって、根がお人好しだから」
「――とちがって、とは何事だ、総司」
「うふ」
箸で、焼魚をつついている。沖田は利口な若者だから、それ以上の理屈はいわない。しかし、近藤のいまの滑稽さも、歳三のほんとうの心境も、手にとるようにわかっている。
近藤が大名気取りになった理由のひとつには、隊士の飛躍的増加があった。
江戸で、あらたに五十人を徴募した。これがいま、隊務についている。
それに伊東一派の加盟が大きい。かれらはすべて文武両道の達人ぞろいで、いままでの隊士とは毛並がちがっている。
伊東は一流の国学者である。議論でも学問でも、近藤は、伊東甲子太郎の足もとにもおよばない。ひょっとすると、竹刀をとっても、近藤は伊東に及ばないのではないか。
事実、伊東が加盟してからというものは、隊士間の人気は大変なもので、副長の歳三などは影が薄くなり、近藤の人気までややおされ気味になった。
(だから、近藤さんは、格でおさえようとしているのだろう)
と、沖田はみている。すべての点で伊東にかなわないとすれば、近藤は、
「大名格」
になるしかしかたがない。
(おれだけは別格だよ)
というところを、伊東にも、隊士一同にも近藤は見せている。いかにも、多摩の田舎壮士あがりらしい感覚である。
しかし。
と、山南敬助が、沖田にいったことがある。
――われわれは、近藤の家臣ではない。結盟の当初、ともに攘夷の先駆をつとめようというので、はるばる江戸からのぼってきたのだ。新選組は、同志の集団であって、主従の関係ではない。近藤もまた、平隊士と同格の志士であるべきである。その近藤が、大名気取りで登城するとは、どういうことか。
(ちがいない)
と、沖田は心中、おもっている。
(近藤さんは、のぼせすぎている。ひょっとすると、伊東甲子太郎に足もとをすくわれるのではあるまいか)
「総司」
と、歳三はいった。
「近藤さんが大名気取りになるのは、まだ早すぎる。天下の争乱がおさまってからのことだ。すくなくとも、長州の討伐をやり、長州をほろぼし、その旧領の半分でももらってからのことだ」
(あっ)
と、沖田はおもった。新選組の真の考えが、そういうところにあるとは、沖田総司でさえ、はじめて知らされる思いだった。
「土方さん。――」
と、沖田は箸をおいた。
「いまの話、本当ですか」
「なんのことだ」
「長州領の半分を新選組がもらうということです」
「もののたとえだよ。武士が戦功によって所領を貰うのは、源平以来のならいだ。この争乱がおさまれば、幕府もだまっていまい」
「おどろいたな」
まるで、戦国武士の考えではないか。単純というか、旧弊というか、旧弊とすれば、おっそろしく時代ばなれのした話である。
「土方さん、あなたは大名になりたい、というのですか」
「馬鹿野郎」
歳三は、ひくく怒鳴った。
「なりたかねえよ」
「たしかに?」
「あたりめえだ。武州多摩の生れの喧嘩師歳三が、大名旗本の|がら《ヽヽ》なもんか。おれのやりたいのは、仕事だ。立身なんざ」
「なんざ?」
「考えてやしねえ。おれァ、職人だよ。志士でもなく、なんでもない。天下の事も考えねえようにしている。新選組を天下第一の喧嘩屋に育てたいだけのことだ。おれは、自分の分《ぶん》を知っている」
「安堵した」
沖田は明るく笑ってから、
「近藤さんは、どうなんです」
「心底か」
「ええ」
「そんなことは知らん。あの人が、時世《ときよ》時節を得て大名になろうと、運わるくもとの武州多摩|磧《がわら》をほっつきあるく芋剣客に逆戻りしようと、どっちにしてもおれはあの人を協《たす》けるのが仕事さ。しかしおれは、あの人がみずから新選組を捨てるときがおれがあの人と別れるときだ、と思っている」
(そこが、この人の本領だな)
沖田は、ほれぼれと歳三をみた。一種の異常者である。が、こういう異常者がいなければ、新選組はとっくに破裂しているかもしれない。
「だからよぅ」
と、歳三は多摩ことばでいった。
「まだ、大名気取りは早いというんだ、近藤の。伊東がきた。伊東に人気が集まっている。近藤がひとりお大名で浮きあがってちゃ、いずれ隊がこわれるよ」
歳三のいうことは、かつて近藤に「大名気取りでやれ」といったことと、矛盾している。しかし、あのときはあの時、いまは今、すでに伊東の加盟によって事態がかわっている。伊東ほどの男だ、きっと新選組を奪う、歳三は、むしろ恐怖に近い感情で、そうみていた。
そんなころ、歳三の眼からみればじつにばかばかしいことが、おこった。
この年、ちょうど年号がかわって慶応元年の正月のことだが、歳三は大坂へ出張した。
もどると、もう京では松飾りがとれてしまっている。
屯営の門を入ると、庭で隊士がざわめいている。
(なんだろう)
廊下を、近藤がゆく。
なんと、顔を真白にぬたくって、公卿も顔負けの化粧をしているのである。
(野郎、とうとう気がくるいやがったか)
かっとなって、庭から廊下へはねあがり、近藤のあとを追った。
「やあ、お帰りですか」
と、途中、伊東甲子太郎が部屋から出てきて、鄭重にあいさつした。
色が女のように白い。眉が清げで、秀麗な容貌である。微笑すると、芝居に出てくる平家の貴公子のようであった。
(まさか、近藤がこいつと張りあうために、白粉《おしろい》を塗りたくって歩いているわけではあるまい)
歳三は、近藤の部屋の障子をあけた。
「おっ」
棒立ちになった。
近藤が、真白ですわっている。
「どうしたんだ」
「これか」
近藤はにこりともせずに自分の顔を指さし、
「|ほと《ヽヽ》がら《ヽヽ》よ」
(畜生。……)
歳三はこわい顔ですわった。京都では、化粧のことを|ほと《ヽヽ》がら《ヽヽ》とでもいうのだろう。
「きょうは、はっきりというがね。お前さんは近頃料簡がおかしかねえか」
歳三は、沖田にいったようなことを、ずけずけといい、
「人間、栄誉の座にのぼると|ざま《ヽヽ》ァなくなるというが、お前さんがそうだね。おれはお前さんをそんな薄っ気味のわるい白首の化物にするために、京へのぼったんじゃないよ」
「歳、言葉をつつしめ。おらァ、おめえの多摩の地言葉でまくしたてられると、頭がいたくなってくる」
近藤は、むっとして、部屋を出、中庭へ降りた。
庭の中央に、敷物が敷かれている。近藤はその上に、むっつりとすわった。
やがて、儒者風の男が一人、それと医者の薬箱持ちのような男が三人あらわれて、近藤のまわりをとりかこんだ。
「なんだ、ありァ」
歳三は、その辺にいる隊士たちにきいた。隊内では朝からの騒ぎだったらしく、みなそのことについてくわしい知識をもっていた。
「|ほと《ヽヽ》がら《ヽヽ》ですよ」
現今《いま》の写真術というものである。感光力のにぶい湿板《しつばん》に写すのだから、被写体の人間には、真白にシナ白粉をぬりつけ、しかもその背後《バツク》に白布を張りめぐらせる。
大村藩士の上野彦馬がこの名人で、長崎の舎密《せいみ》(化学)研究所で蘭人ポンペから教わった。最初に上野彦馬が写した人物は、のちに近藤と親交を結んだ松本良順(蘭医、将軍家茂の侍医で法眼《ほうげん》となった。末期の新選組にはずいぶんと好意を示した人物である。維新後、順と改名し、軍医総監となり、のち男爵)で、場所は長崎の南京寺《ナンキンでら》である。
上野彦馬は、いやがる良順の顔にシナ白粉をぬった。
良順は、地顔が黒い。それを白くするためには、大量の白粉が要った。そのうえ、凹凸の多い顔である。厚塗りにするとおそるべき顔になったが、
――なにごとも学問のためだ。
と、辛抱した。さらに写真家上野彦馬は、感光をよくするために、その良順を寺の大屋根にのぼらせ、長時間、直立不動の姿勢をとらせた。それをみて、長崎の町のひとは、「南京寺にあたらしい鬼瓦ができた」とかんちがいして、ぞろぞろ見物にきたというはなしがのこっている。
いま、近藤を撮影しつつあるのも、その上野彦馬であった。
歳三が、まわりの隊士からきくと、上野彦馬は、どうやら二条城から差しまわされてきたらしい。
禁裏御守衛総督一橋慶喜が、
――近藤を写してやれ。
と、じきじきいったという。そういえば慶喜は大の|ほと《ヽヽ》がら《ヽヽ》好きで、二条城に登城してくる大名をつかまえては、写真《ほとがら》をとらせる。大名への機嫌とりのつもりで写真を馳走がわりにしている、という噂を、歳三もきいたことがある。
(なるほど、近藤もそういう大名なみになったのか)
もはや、一介の浪士ではない。歳三の知らぬ場所で、近藤は、異常に|出世《ヽヽ》しつつあるようであった。
「どうぞ、息をお詰めくださるように」
と、|ほと《ヽヽ》がら《ヽヽ》の術師はいった。
――こうか。
「左様」
術師は、レンズのふたをひらいた。その大きな木製の暗箱のなかに、近藤の映像がうつりはじめた。
(………)
近藤は、息をつめている。
術師は、容易に呼吸の再開をゆるさない。
やがて、近藤の首筋が充血してきた。ただでさえ迫っている眉が、嶮《けわ》しくなった。苦しさに、歯がみしはじめている。
やっと術者は、レンズのふたを閉め、
「どうぞ」
といった。
近藤は、吐息をついた。
歳三は、ばかばかしくなった。京都政界の大立者になった近藤の写真は、これで永久に残るだろう。息をつめて、それがために悪鬼のような形相《ぎようそう》になっている近藤の写真が。
「歳、お前もどうだ」
「いや、ご免蒙《こうむ》る」
と、廊下にもどった。
廊下にもどってからふと気づいたことは、見物の隊士のなかに、伊東甲子太郎の姿がみえない。
伊東だけではない。伊東派の幹部は、たれもいないのである。これに気づいたのは、歳三だけだったろう。
(部屋には、いるはずだが)
出て、かれらは見ようとはしない。たれにとっても|ほと《ヽヽ》がら《ヽヽ》はめずらしかるべきはずだが、伊東らは、一顧もしようとしなかった。
(愛嬌のないやつらだ)
歳三は、腹が立ってきた。
理由は想像がつく。伊東は、国学者流の攘夷論者である。おなじ攘夷主義でも、この系統の主義者は、ほとんど神がかりに近い神国思想の持ちぬしで、洋夷のものといえば、異人の足跡でも不浄であるとした。ましてや、|ほと《ヽヽ》がら《ヽヽ》を見物するなどは、
――眼がけがれる。
というわけであろう。
みな、伊東の部屋に集まっているらしい。
歳三は、わざとその部屋の前を通った。障子が、わずかにひらいている。見ると、みな大火鉢をかこんで、談じている様子であった。
伊東が、おだやかに微笑している。そのまわりを、ちょうど信徒がとりまくように、篠原、服部、加納、中西、内海ら、伊東派の隊士がすわり、ほかに、山南敬助の顔もまじっていた。
(山南の野郎。――)
歳三は、おもわず肚の底でうなった。
伊東が入隊してからというもの、山南の伊東への接近の仕方が、異常なほどであった。山南は、総長の職にある。その職をすててあたかも伊東の弟子になったとしか思えない。
(あいつ、近藤を、見限るつもりか)
妙なものだ。
こうなれば、新参の異分子伊東甲子太郎への憎しみよりも、むしろ、結盟以来の古い同志の山南の離反を憎む気持のほうが、はるかに強くなってくる。
歳三は、部屋の前を通りすぎた。そのあと、部屋の中でどっと笑い声があがった。
べつに、歳三を笑ったわけではない。が、歳三の顔は、廊下のむこうを見つめながら、真蒼《まつさお》になっている。おそらく、近藤がシナ白粉などをぬってよろこんでいる間に、いまあがった笑い声の群れが、新選組の主導権をにぎるときがくるのではないか。
(わかるもんか)
歳三は、そんな予感がする。
が、その予感は、意外な形で、事実となってあらわれた。
山南敬助が脱走した。
[#改ページ]
憎まれ歳三
新選組|総長《ヽヽ》山南敬助が、近藤あての書きおきを残して隊を脱走したのは、慶応元年二月二十一日の未明のことである。
(山南が?)
と、歳三は、まだ夜がつづいている真暗な自室のなかで、その報告をきいた。報告者は、廊下にいる。監察の山崎烝である。
「山崎君、たしかなことかね」
「さあ、置き手紙があり、お部屋には大小、荷物がなく、ご当人はいらっしゃいませぬ。それでご判断をねがいます」
「その置き手紙をみせてもらおう」
歳三は、付け木に火をつけ、その火を行燈に移そうとしながら、なにげなくいった。が、山崎は、入って来ず、障子に手もかけない。
「どうした」
「いや、申しおくれましたが、あて名は、近藤先生ということになっております」
「ああ、そうか」
除《の》け者《もの》にされている。が、歳三は、つとめて冷静にいった。
「山崎君。近藤さんの休息所への使いは行ったでしょうな」
「まだです」
「なぜ、早く行かない」
「私が、ただいまから参ります。まず土方先生に、と思ったものですから」
(利口な男だ)
順をみださない。副長職である歳三の職務的な感情をよく心得ていた。組織はつねに山崎のような男を要求している、と歳三はおもっている。
歳三が着更えをおわったころ、暁《あけ》の鐘が鳴り、廊下の雨戸がつぎつぎに繰られて行った。が、まだ雨戸の外は暗く、夜は明けきってはいない。
(寒い。――)
二月にしては、寒すぎる朝である。歳三は、近藤の休息所へゆくためひとり、門外へ出た。故郷の武州南多摩のように霜柱こそ立たないが、骨が凍るように寒い。
いつのまにか、沖田総司が、歳三の横に寄ってきている。
「大変ですな」
と、沖田は低い声でいった。この明るすぎる若者の声が、めずらしく沈んでいる。沖田は、江戸の芋道場時代から、山南と仲がよかった。山南は年は三十二。沖田より十歳の年長で、沖田を弟のように可愛がっていた。
「いいひとだったですがねえ」
と、歳三の横顔をみた。
だまっている。
沖田は、歳三がつら憎くなった。
(山南さんは、このひとが憎いあまり隊法を犯して脱走したのだ)
とみている。沖田だけではない。局中のたれもが、そうみるはずである。
一方は総長。
このほうは、副長。
身分は、同格である。だが、隊士の直接指揮権は副長がにぎり、総長は、局長近藤の相談役、というほどの職務になっていた。そういう組織にしたのは、歳三である。山南敬助は、棚あげされていた。というより、この仙台人は、棚ざらしになっていた。
(山南さんは、このひとを憎みきっていた)
だけではない。
山南は、思想がちがう。出が、北辰一刀流である。この流儀は、千葉周作以来、水戸徳川家と縁が深く、千葉一門の多くは水戸藩の上士に召しかかえられており、門弟は水戸藩士が多い。
自然、道場は、水戸学的色彩が濃く、門生たちは、剣をまなぶとともに、水戸式の理屈っぽい尊王攘夷主義の洗練をうけた。この門から、行動的な尊攘主義者がどれだけ出たかかぞえることができない。沖田が知っているだけでも、死んだ清河八郎、それに、新たに加盟した伊東甲子太郎がいる。
(山南さんも、根は、その派のひとなのだ)
沖田は、しだいに明るくなってゆく坊城通を歩きながら、おもった。
(が、このひとはちがう)
歳三は、思想など糞くらえ、と思っている。芸人が芸に夢中になるように、自分が生んだ新選組の強化に、無邪気なほど余念がなかった。そこが沖田の好きなところではあったが、しかし知識人の山南敬助は、そういう歳三の、主義思想のない|無智《ヽヽ》さ《ヽ》には堪えられなかったのであろう。
――住みづらいところだよ。
と、山南は、かつて池田屋ノ変のあと、沖田にぼやいたことがある。
――新選組が、なんのために人を殺さねばならぬのか、私にはわからなくなった。われわれはもともと、攘夷の魁《さきがけ》になる、という誓いをもって結盟したはずではないか。そのはずの新選組が、攘夷決死の士を求めては斬ってまわっている。おかしいと思わないか、沖田君。
――ええ。
と、沖田総司は、そのとき、あいまいな微笑をうかべてあいづちを打った。
「沖田君」
と、このときの山南は、めずらしく昂奮していて、しつこかった。なぜはっきりと意見をいわないのか、と詰めよるのだ。
「こまるなあ、私は。――」
と、沖田は頭をかいた。池田屋では、沖田がもっとも多く斬っている。山南はあの斬りこみには参加していない。
「君は、新選組をどう思っているのです」
「――私ですか」
沖田は、とまどった。
「私は、兄の林太郎も、近藤先生の先代の周斎老先生の古い弟子ですし、姉のお光は、土方さんの生家と親類同然のつきあいをしていた。そういう近藤、土方さんが京へのぼるとなれば私は当然、京へのぼらねばならない。だから、その攘夷とか、尊王とかとは――」
「関係《かかわり》がないな」
「ええ、そうなんです。――だけど」
沖田は照れくさそうに笑ってから、
「私はそれでいいんですよ」
と、はじめて明るくわらった。
「君は、ふしぎな若者だなあ。私は君と話していると、神様とか諸天《しよてん》とかがこの世にさしむけた童子のような気がしてならない」
「そんなの、――」
沖田は、あわてて石を一つ蹴った。この若者なりに照れているのである。
――土方さん。
と、沖田は、このときも石を一つ蹴った。小さな声で、「あのね」と、歳三に話しかけた。歳三が山南の処置をどう考えているか、さぐりたかったのである。
「山南さんをどうするんです」
「おれにきいたって、わかるもんか。そいうことは、新選組の支配者にきくがいい」
「近藤さんにですか」
「隊法さ」
それが新選組の支配者だ、と、歳三はいった。しかもその局中|法度《はつと》や、隊規の細則は、山南自身も合議の上できめたものである。
(切腹だな)
沖田は、おもった。が、すぐ、沖田は、大きな声でいった。
「土方さんは、みなに憎まれていますよ。山南さんはむろん、土方さんを憎みきっている。蛇蝎《だかつ》のように、といっていい」
「それが、どうした」
平然としている。
「どうもしやしませんよ。ただ、みな、あなたを怖れ、あなたを憎んでいる。それだけは知っておかれていいんじゃないかなあ」
「近藤を憎んでは、いまい」
「そりゃあ、近藤先生は慕われていますよ。隊士のなかでは、父親のような気持で、近藤先生をみている者もいます、あなたとはちがって。――」
「おれは、蛇蝎だよ」
「おや、ご存じですね」
「知っているさ。総司、いっておくが、おれは副長だよ。思いだしてみるがいい、結党以来、隊を緊張強化させるいやな命令、処置は、すべておれの口から出ている。近藤の口から出させたことが、一度だってあるか。将領である近藤をいつも神仏のような座においてきた。総司、おれは隊長じゃねえ。副長だ。副長が、すべての憎しみをかぶる。いつも隊長をいい子にしておく。新選組てものはね、本来、烏合の衆だ。ちょっと弛《ゆる》めれば、いつでもばらばらになるようにできているんだ。どういうときがばらばらになるときだか、知っているかね」
「さあ」
「副長が、隊士の人気を気にしてご機嫌とりをはじめるときさ。副長が、山南や伊東(甲子太郎)みたいにいい子になりたがると、にがい命令は近藤の口から出る。自然憎しみや毀誉褒貶《きよほうへん》は近藤へゆく。近藤は隊士の信をうしなう。隊はばらばらさ」
「ああ」
沖田は、素直にあやまった。
「私がうかつでした。土方さんが、そんなに憎まれっ子になるために苦労なさっているとは知らなかったなあ」
「よせ」
沖田の口から出ると、からかわれているようだった。
「性分《しようぶん》もあるさ」
にがい顔で、いった。
近藤は、さすがに真蒼になった。山南は、江戸の近藤道場の食客で、結盟以来の同志である。しかも、隊の最高幹部のひとりであった。その脱走は、隊の行き方に対する無言の批判といっていい。
「古い同志だが、許せない」
と、近藤はいった。脱走を、山南敬助のばあいにのみかぎってゆるすならば、隊律が一時にゆるみ、脱走が相次ぎ、ついには収拾がつかなくなるだろう。
「理由は、なんだ」
「私を、憎んだのだ。それだけでいい」
と歳三が、いった。
「いや」
と、監察の山崎烝が、とりなし顔で、意外なことをいった。
「山南先生は、ここ数日、水戸の天狗党の始末のうわさをきいては、ひどくしょげておられたようです」
「天狗党の?」
近藤は、視線を宙《ちゆう》に浮かせた。なるほど、京からさほど遠くない越前の敦賀《つるが》で、水戸天狗党の処刑がおこなわれているといううわさは、隊中でも持ちきりになっている。
水戸藩の元執政武田耕雲斎を首領とする水戸尊攘派の激徒が常州|筑波山《つくばさん》で攘夷|魁《さきがけ》の義兵をあげ、曲折のすえ、京の幕府代表者慶喜に陳情するため西走し、途中力尽き、去年の十二月十七日、加賀藩に投降した。加賀藩ではかれらを義士として遇した。べつにかれらは倒幕論者ではなく、幕府によって攘夷の実をあげようとしただけのことであったからだ。
ところが、今年に入って江戸から若年寄田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》が上京して事件の処理にあたり、浪士を懐柔しつつ武器をとりあげ、その総数八百の衣服まで剥《む》いて赤裸《あかはだか》にし、畜生扱いにして敦賀のニシン蔵に押しこめた。牢舎でのあつかい、残忍をきわめた。
だけではない。
この二月に入って、敦賀の町はずれの来迎寺《らいこうじ》境内に三間四方の墓穴を五つ掘り、その穴のそばに赤裸の浪士をひきだしては断首して、死体を蹴りこんだ。二月の四日に二十四人、十五日に百三十四人、十六日に百二人、十九日に七十六人、といったぐあいに、累計、三百五十二人におよんだ。幕府はじまって以来、というより、日本史上まれにみる大虐殺である。
しかもかれらの多くは、水戸徳川家の臣で、攘夷は唱えるものの、幕府そのものをどうこうしようという逆乱者ではない。そのかれらを、虫のように殺した。
――幕府、血迷ったか。
という声は、天下に満ちた。天下の過激世論が攘夷から倒幕に転換したのは、このときであるといっていい。こういう殺人機関を、なんの正義あって温存せねばならぬか。
「おれは、幕府から米塩を給付されているのがいやになった」
そういう意味のことを、山南は、局中でたれかに洩らしていた、と山崎はいった。
たしかかどうかは、わからない。
しかし、山南が衝撃をうけたであろうことは、この処刑者のなかに、江戸で旧知の同憂の士が、七、八人はいることでも容易に想像することができる。
山南は、時勢にも新選組にも絶望した。
――江戸へ帰る、とある。
と、近藤は、手紙を読みおわってから、いった。
それをきいて、沖田は、ほっとした。山南が、例の伊東甲子太郎とあれほど昵懇《じつこん》になりその説に共鳴しながら、伊東に同調して党中党をたてることをしなかった。――江戸へ帰る。山南はただ、帰ってゆくのであろう。そこに、どういう政治的なにおいもない。
(やはり、好漢なのだなあ)
沖田は、近藤邸の庭をぼんやりみながら、あの仙台なまりの武士のことを思った。が、そのとき、近藤の表情がうごいた。唇が、なにかいおうとした。が、それを引きとって、
「総司」
といったのは、歳三のつめたい声であった。
「お前がいい。山南君と親しかった。いますぐ馬で追えば、大津のあたりで追っつくだろう」
「――討手?」
自分が。という表情を、沖田総司はした。きっと、たじろぐ色が、浮かんだのにちがいない。腕は沖田がすぐれている。その意味で、ひるんだのではない。
「いやか」
歳三は、じっと沖田を見つめた。
「いいえ」
すこし、微笑《わら》った。それが、急に明るい笑顔になった。体のなかのどこかで、山南への感傷を断ち切ったのだろう。
沖田は、屯所へ駈けもどった。
馬に乗った。
駈けた。
寒い。口鼻からはいりこんでくる空気が、鞍の上で、沖田を咳きこませた。沖田の咳をのせて、馬は三条通を東へ駈けた。粟田口のあたりで、手甲《てつこう》を、口へあてた。布が、濡れた。わずかに、血がにじんでいる。
(自分も、永くはないのではないか)
そうおもうと、右手にすぎてゆく華頂山の翠《みどり》がふしぎなほどの鮮やかさで眼にうつった。
大津の宿場はずれまできたとき、一軒の茶店のなかから、
「沖田君」
とよぶ声がした。
山南である。葛湯《くずゆ》を入れた大きな湯呑をだいじそうに両手にかかえている。
沖田は、鞍からとびおりた。
「山南先生。屯所までお供します」
「意外だったな、追手が君だったとは」
山南は、例の人懐っこい眼で、沖田を見た。
「君なら、仕方がない。土方君の頤使《いし》のもとにある監察どもなら、生きては京に帰さないところだったが」
「かまいません。山南先生が、どうしても江戸に帰りたいとおっしゃるなら、刀をお抜きください。私はここで斬られます」
「どうして、斬られるのは私のほうだよ。私も、君の腕にはかなわないだろう」
日はまだ高い。いまから京へ帰れないことはなかったが、沖田は、山南に急がすにしのびなかった。明朝、京にもどることにして、その夜は大津に宿をとった。
二人は、床をならべて、寝た。
「寒い夜だ」
と、山南は、いった。
沖田は、だまっている。なぜこの運のわるい仙台人は自分に追いつかれてしまったのかと腹だたしかった。
第一、山南という男のみごとさは、隊を退くにあたって行方をくらまそうとはせず、置き手紙にも堂々と、――江戸へ帰る、と明記してある。だけでなく、宿場はずれの茶店から、追跡者である自分の名を、かれのほうから呼んだ。山南らしい、すずやかなふるまいである。
その夜、山南は、隊に対する不満も、江戸へ帰ってなにをするつもりだったか、ということも、なにも話さなかった。
故郷《くに》の話をした。それも愚にもつかぬはなしばかりで、仙台では真夏、さしわたし一寸ほどの|ひょ《ヽヽ》う《ヽ》が降るとか、御徒士《おかち》の内職は山芋掘りがいちばん金になるとか、そういうはなしばかりだった。
「山南先生も、山芋を掘られたのですか」
「ああ、子供のときはね。いや、あれは、おもに子供のしごとだったな。おもしろくもある。まだ山の芋が幼い季節に山に入ってそのはえている場所をみつけると、そこへ麦をまいておくのさ。麦がのびるころには、山の芋も土中で大きくなっている。麦を目じるしに、さがすというわけだよ」
「――江戸では」
なにをするつもりだったか、と、沖田が問いかけると、山南はおだやかに、
「江戸のはなしはよそう。私の一生には、もうなくなってしまった土地だ」
と、いった。おそらく、江戸に帰ったところで、どれほどのもくろみもなかったに相違ない。
その翌々日の慶応元年二月二十三日、山南敬助は、壬生屯営の坊城通に面した前川屋敷の一室で、しずかに、作法どおりの切腹をとげた。介錯は、沖田総司である。
山南には、女がいた。島原の明里《あけさと》という遊女で、事情を知っていた隊の永倉新八が、山南の変事を報らせてやった。女は、切腹の前日、坊城通に面した長屋門のそばに立った。
――山南さん。
と、女は泣きながら、出窓に手をかけた。その出窓の部屋に山南が監禁されている。
山南は、格子をつかんでいる女の指を、室内《なか》からにぎった。
しばらくそうしていたのを、門のかげから、偶然、沖田はみた。女の顔は、みえなかった。ただ黒塗りの日和《ひより》下駄と白い足袋が、沖田の眼に残った。
沖田は、すぐ門内にかくれた。
(足のうらが、小さかったな)
山南の首をおとしたあとも、そんなことだけが、妙に思いだされた。
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四条橋の雲
慶応元年五月。
維新史の峠といっていい。
将軍家茂が、第二次長州征伐を総攬《そうらん》するために京に入った。家康以来の金扇の馬標《うまじるし》が二条城に入ったとき、京の市民も、
「幕威、大いにあがる」
と、うわさした。
が、内実、幕府には、長州を征伐するだけの軍事力も経済力もなくなっている。
それだけではない。すでに三家老の首を切ってまでして恭順している長州を、もう一度討伐するだけの名分が、幕府になかった。それをこじつけてまでして、討伐の軍をおこした。これが幕府の墓穴を掘った。
長州討伐については、徳川家の親藩、家門、譜代、外様のほとんどが反対した。ただひとり強力に提案したのは、京を鎮護している会津藩であり、その支配下の新選組である、というより、近藤個人といっていい。
「このさい、防長二州に兵を入れて覆滅し、毛利家三十六万石をとりあげて、幕府の禍根を断つのが御上策」
と、近藤は、慶応元年正月前後から、会津藩家老としきりに会合し、力説していた。この単純な征伐論が、幕府の命取りになってゆくということを、近藤は考えもしない。頭脳的には、一介の軍人にすぎなかったからだ。
「御高説」
と、会津藩側も異存はなかった。
会津藩家老と近藤勇らの、いわゆる会津論議というものは、ずいぶん乱暴なもので、まわりまわって、尊王主義の越前福井松平|慶永《よしなが》の耳にまで入った。
慶永自身の手記を口語に訳すると、
第二次長州征伐については、幕府は大いに自信があるらしい。長州はタマゴをつぶすようなものだ、と幕閣の要人はいっている。ところで、風評では、天下がかくのごとく動乱するのは、以下の諸藩があるためであると説をなす者がある。つまり、薩摩、土佐、尾張徳川、越前松平(慶永自身)、肥後細川、肥前鍋島、筑前黒田、因州池田の西国八藩であるという。「これら諸藩は、帝王のみに勤王を唱え、可悪《にくむべき》やつら也。長州征伐万々歳ののちは、おいおい、これら諸藩を討滅する」という。ある人、余に、「貴殿は表むき、幕府の待遇が厚いが、内実はご油断なりませぬ」と忠告してくれた。どうも、事実らしい。
右は、近藤の意見と、同内容である。近藤が志士気どりで会津藩要人と天下国家を論じたことが、幕閣の意見になったかとおもわれる。近藤自身しきりと老中へ入説《にゆうぜい》していたし、会津藩からも江戸表へさまざまの意見が、送られていた。
当時の幕府の要人というのは、幕臣の勝海舟でさえサジを投げだしたほどの愚物ぞろいだから、京都における幕府探題である会津藩、新選組の意見、情勢分析とあれば、役目がら、最重要の参考資料としたであろう。
その上、幕臣が、にわかに強腰になったことについては、フランス皇帝ナポレオン三世の後援の約束が背景にあり、これについてフランス公使レオン・ロッシュが、しきりと幕府に入説している。が、そのフランス皇帝自身が、それから数年後に没落する運命にある男だとは、幕府の要人のたれもが、推測する材料ももっていない。
将軍入洛のとき、近藤は大よろこびで、歳三をつかまえていっている。
「これからが、面白くなる」
会津藩は将軍を擁し、新選組は会津藩の中核となり、声望大いにあがった。
「もはや、会津藩の天下である」という者もあり、「会津に百万石の御加封か」という出所不明のうわさも立った。
「よろこびも、ほどほどにしろ」
と、歳三は、監察が、三条大橋で剥がしてきた、落首をみせた。
彼奴《あいつ》(会津)離縁《いな》して
よい嬶貰《かかもろ》て
長《ひさ》し(長州)杯《さかずき》してみたい
とある。
「うまいもんだ」
俳諧師らしく、歳三はくびをひねった。
「ばか。感心するやつがあるけえ」
「いやいや、こうはスラスラと言葉がならばねえもんだ」
くすくす笑っている。
「やぶってしまえ」
と、いった。おおよそ、洒落《しやれ》、諧謔《かいぎやく》のたぐいのきらいな男である。
「間者のしわざだろう」
「それだけでもあるまい」
諸大名のなかには、長州同情派がふえつつあり、京の庶民も、惨敗の長州に対する同情の色が濃かった。もっとも、長州藩が京で盛んであったころ、長州人気をあおるために市中でずいぶん派手な金をつかった、というせいもあるが。
近藤は、あす、将軍が入洛するという夜、屯営にとまり、夜ふけまで起きて、愛読の書『日本外史』を朗々と誦《よ》んだ。
「いい声だ」
と、歳三も感心した。近藤はところどころ読みまちがったり、訓《よ》みがくだらず、行きづまっては咳ばらいをしたりしたが、よく透るみごとな声である。
近藤は、建武の中興のくだりを、ほとんど涙をにじませて誦みすすんでいた。
後醍醐天皇が、鎌倉の北条氏をほろぼし、楠正成を先駆として都に帰るくだりである。
近藤は、みずからを、楠正成に擬して考えている。後醍醐天皇は、将軍家茂というわけであろう。草莽《そうもう》の正成、忠を致さずんば、流浪《るろう》の帝《みかど》、なにをもってか頼らん、というような心境であった。
「歳、おれが楠正成だとすれば、お前は恩智左近《おんじのさこん》という役どころか」
「まあ、そうかな」
歳三は、相づちをうってやった。
「あの連中も、河内の金剛山の郷士か山伏か山賊か、とにかく名も知れねえ連中だったそうだから、われわれと素姓はあまりかわらねえ」
「素姓のことをいっているのではない。役どころだ」
「おれはどっちでもいいんだ。とにかく、新編成の役どころができたから、伊東君もよんで相談してもらいたい」
「おお」
近藤は、伊東甲子太郎をよんだ。
伊東が、白絽《しろろ》に紋を黒く染めた瀟洒《しようしや》な夏羽織をはおって入ってきた。相変らず、役者のようにいい男である。
「新編成ができましたか」
と、すわった。
(妙な野郎だ)
歳三には、伊東のような男がわからない。
この男は、入隊後、隊務などはみず、毎日外出しては、薩摩、越前、土佐など、対幕府的には、批判的な立場にある藩の連中と会っている(薩摩藩は、まだこの当時、表面上は、長州を憎むのあまり会津と友藩行動をとっていたが、かといって純粋な佐幕主義などではなく、いつ単独行動に出るかわからない藩として、幕府でもずいぶんと機嫌をとり、かつ警戒していた)。
それに、
――諸国、とくに九州方面を遊説《ゆうぜい》してまわりたい。
と、近藤に申し出ていた。つまり、西国の情勢をさぐるとともに、いわゆる志士たちと交わり、国事を論じ、あわせて新選組の立場をも説明してまわりたい、というのである。
――結構なことです。
と、近藤は、よろこんでいた。歳三のみるところ、悲しいかな、近藤はこういう知識人や、そういった知識人的活動が、好きでありすぎた。げんに近藤自身、ちかごろはいっぱしの論客といった様子で、京における雄藩の公用方と、しきりに祇園で会合している。
しかも席上、もっとも多弁にしゃべるのは近藤であるという話も、歳三はきいていた。
――伊東は気をつけろよ。
と歳三は何度も近藤にいうのだが、近藤はむしろそういう歳三をこそ、義兄弟を盟《ちか》った身ながら、不服におもっていた。
――これからの新選組幹部は、国士でなければならぬ。議論あれば堂々天下に公開し、将軍、老中にも開陳して、動かすだけの器量をもってもらわねばこまる。
――そうかねえ。
歳三は、不服だった。歳三のみるところ、新選組はしょせんは、剣客の集団である。それを今後いよいよ大きくして幕府最大の軍事組織にするのが目的であって、政治結社になるのが目的ではあるまい。幕府はむしろ、そういう新選組を迷惑におもうだろう。
――そうかねえ。
仏頂面《ぶつちようづら》をしてみせるのだが、近藤はむしろそんな歳三が不満になってきている。奔走家としての自分の片腕には、歳三はとてもなれない男である。
(こいつに、学問があったらなあ)
歳三をみる眼が、ときにつめたくなっている。
そのぶんだけ、伊東甲子太郎に、近藤は傾斜した。
――伊東さん。
と敬意をこめてよぶ。ときに、
――伊東先生。
とよんだ。歳、とよびすてにするのと、たいへんな処遇のちがいである。
伊東甲子太郎は、歌才があった。歌におもしろ味はないが、古今、新古今以来の歌道の伝統を律義に踏まえた、教科書的な短歌である。
伊東が新選組加盟のために江戸を離れ、大森まできたときに、
残し置く言《こと》の葉草《はぐさ》の多《さは》あれど
言はで別るる袖の白露
その時勢への心懐を詠んだ歌としては、
ひとすぢにわが大君の為なれば
心を仇に散らし(せ)やはせそ
といったぐあいなものがある。
「やあ、日本外史ですな」
と、伊東は、近藤の手もとをのぞいた。
「そうです。私は、大楠公が好きでしてな」
「ああ。――」
伊東は、微笑した。伊東も、水戸学派だから楠正成を神以上のものとして敬慕している。
「さすが、近藤先生ですな」
(ばかやろうめが。――)
と、歳三はおもった。近藤の楠正成は徳川将軍を奉戴しているのである。天皇をかついでいる伊東甲子太郎とは、神輿《みこし》の種類がちがっている。
「私も、先般大坂に下向《げこう》しましたとき、摂海《せつかい》を視察し、途上、兵庫の湊川《みなとがわ》なる森にまいり、大楠公の墓前にぬかずきました。そのときの偶感一首、――失礼」
と、容儀をただし、自作の歌を朗々と吟じはじめた。
行く末は
かくこそならめわれもまた
湊川原の苔のいしぶみ
「おみごと。――」
近藤は、物のわかったような顔で、うなずいた。歳三は、そっぽをむいている。
「そうそう、土方さん。新編成の下相談でしたな」
と、伊東が、現実にもどったような表情で、歳三に白い顔をむけた。
歳三は、近藤の手もとにある草案を、伊東甲子太郎にまわした。
――参謀、伊東甲子太郎。
とある。
これはすでに伊東との相談ずみのことであった。その他の伊東派の連中の幹部の席の割りふりも、すべて伊東の意向を汲んである。
こんどの編成では、助勤(士官)という名称を廃し、幕府歩兵を参考にして、フランス式軍制に似たものにした。
「これはみごとな隊制だ」
と、伊東はいい、歳三をみた。見なおしたような顔つきである。
「いや、土方君はこれが得意でしてな」
と、近藤もうれしそうにいった。組織をつくりあげる歳三の才能だけは、近藤は、天下及ぶ者がない、と評価していた。
新編成、左のとおりである。
局 長 近藤勇昌宜
副 長 土方歳三義豊
参 謀 伊東甲子太郎武明
組 長
一番隊 沖田総司
二番隊 永倉新八
三番隊 斎藤 一
四番隊 松原忠司
五番隊 武田観柳斎
六番隊 井上源三郎
七番隊 谷三十郎
八番隊 藤堂平助
九番隊 鈴木三樹三郎
十番隊 原田左之助
伍 長
奥沢栄助 川島勝司 島田 魁 林信太郎 前野五郎 阿部十郎 橋本皆助 茨木 司 小原幸造 近藤芳祐 加納★[#周+鳥]雄 中西 登 伊東鉄五郎 久米部十郎 富山弥兵衛 中村小三郎 池田小太郎 葛[#新潮文庫七十二刷では葛のヒが人]山武八郎
監 察
篠原泰之進 吉村貫一郎 山崎 烝 尾形俊太郎 芦谷 昇 新井忠雄
名簿のうち、ゴチックは、伊東が江戸から連れてきた者である。このほか伊東派では、服部武雄が隊の剣術師範として幹部待遇、内海二郎、佐野七五三之助は、平隊士にされた。が、腕はいずれも第一級のもので、隊務に馴れしだい、伍長に格あげをする、という含みがある。
「結構です」
と、伊東はあまり、興味を示さず、ただ、
「参謀とは、私はありがたい」
といった。
参謀という職も、かつての山南敬助の「総長」と同様、近藤の相談役というだけで、副長のように隊に対する指揮権はない。
「ぜひ、新選組のために、天下の英士とまじわり、隊の方向を誤らぬようにしたい」
「ぜひ、そう願いたいものです」
と近藤が、頭をさげた。
「歌がひとつ、出来ました」
と伊東は懐紙をとりだし、青蓮院流《しようれんいんりゆう》の端正な筆で、さらさらと書いた。
数ならぬ
身をば厭《いと》はず秋の野に
迷ふ旅寝も
ただ国のため
(歌も、ばかにならぬ)
歳三は、この二月に脱走の罪で切腹になった総長山南敬助をおもいだした。
山南の江戸への脱走は、伊東となにごとかを約した上でのことであったらしく、その死後、伊東は山南を弔《とむら》い、歌四首をつくって、隊士のたれかれに見せている。この歌が、いま、隊士のあいだで、微妙な波紋をひろげつつあることを、歳三は知っていた。
――すめらぎの護りともなれ黒髪の乱れたる世に死ぬる身なれば
――春風に吹き誘はれて山桜散りてぞ人に惜しまるるかな
(いやなやつだ)
歳三は、おもった。
が、伊東甲子太郎の平隊士間における声望は日に高くなり、その、ほとんど宗教的といっていい尊王攘夷主義は、隊士のあいだに、信者をつくりつつあった。
歳三は、そういう者をみると、ほかに非違を云いたてて、片っぱしから、切腹を命じた。
――新選組に、思想は毒だ。
という、断乎たる信条が、歳三にある。
近藤は、隊務よりも、政治と思想に熱中していた。
伊東は伊東で、大原三位卿など尊攘派の公卿の屋敷に出入りし、世務を論じている。
歳三のみが、置きざりにされたようにして、隊務に没頭した。諸幹部のうち、かれだけが営外に休息所をつくらず、営中に起居して、その癖のある眼を、ぎょろぎょろと光らせていた。
夏を越えた。
長州再征の軍令は出たものの時勢は動かず、ちょっと停頓している。将軍は、大坂城に入ったまま病いとなり、軍勢の発向を、いまだに命じていない。ひとつには軍費調達のめどがつかなかったのと、諸侯の足並がそろわなかったためである。が、この間、幕府側のまったく知らぬことが、政局の裏側ですすんでいた。いままで会津藩の友藩だった薩摩藩が、ひそかに藩論を一転させて倒幕援長に決し、土州海援隊長坂本|竜馬《りようま》を仲介として、薩長秘密同盟の締結をすすめていた。維新史の急転はここからはじまるのだが、むろん幕府はおろか、その手足の会津藩、新選組はゆめにも知らない。
秋になってもまだ幕府は攻撃令をくださず、十一月、幕府は長州に対し、問罪使を派遣するような悠長なことをしている。
正使は、幕府の大目付永井|主水《もんどの》正尚志《しようなおむね》である。場所は、芸州広島の国泰寺。
この幕府代表団の随員のなかに、なんと、近藤勇、伊東甲子太郎、武田観柳斎、尾形俊太郎の四人がまじっている。
(おっちょこちょいな話さ。いったい、なんの役に立つのか)
と、留守を命ぜられた歳三はおもった。
むろん、近藤、伊東らは、幕使としてではない。幕府代表永井主水正の家来、という名目で、近藤は名前も、近藤内蔵助と変名していた。
そのころ、長州側は、すでに、坂本竜馬らのあっせんで、長崎の英人商会から大量の新式銃を買い入れ、決戦の準備をしている。
長州側の代表として広島国泰寺にやってきた正使は、家老|宍戸備後助《ししどびんごのすけ》である。というのはじつは真赤なうそで、ありようは山県半蔵(宍戸|★[#王+幾]《たまき》、維新後子爵、貴族院議員)という、口達者を買われた中級藩士の三男坊である。それに宍戸という家老の家名を臨時に名乗らせ、一時仕立ての使者になってあらわれたのである。もともと、長州としては正気で談判に応ずるつもりはない。
歳三は、京で留守。
この間、市中で、長州系とみられる浪士を毎日のように斬ったが、一抹の淋しさはおおえない。
沖田総司を連れて、祇園の料亭へゆく途上四条橋の上で、夕映えに染まった秋の雲いくきれかが、しきりと東へ行くのをみた。
「総司、みろ、雲だ」
「雲ですね」
沖田も、立ちどまって、見上げた。沖田の|ほお《ヽヽ》歯の下駄から、ながい影が、橋上にのびている。
橋を往き来する武士、町人が、ふたりを避けるようにして、通った。新選組が二人、なにを思案しているとおもったろう。
「句が出来た」
と、歳三はいった。豊玉《ほうぎよく》宗匠にしては、ひさしぶりの作である。
「愚作だろうなあ」
沖田はくすくす笑ったが、歳三はとりあわず、懐ろから句帳をとりだして書きとめた。
沖田は、のぞきこんだ。
ふるさとへむかつて急ぐ五月《さつき》雲《ぐも》
「おや、いまは十一月ですよ」
「なに、五月雲のほうが、陽気で華やかでいいだろう。秋や冬の季題では、さびしくて仕様がねえ」
「なるほど」
沖田は、だまって、歩きはじめた。
この若者には、歳三の心境が、こわいほどわかっているらしい。
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堀 川 の 雨
その日、歳三は、小者一人をつれて、午後から黒谷《くろだに》の会津藩本陣に出かけた。
辞去したときは、すでに夜になっている。
まずいことに、雨がふっていた。
玄関まで出てわざわざ見送ってくれた会津藩家老田中土佐、公用方外島機兵衛のふたりが口々に、
「土方先生、今夜は手前方にとまられて、明朝お帰りになってはいかが」
とすすめた。
当時、新選組では花昌町《かしようちよう》(現在町名なし。醒《さめ》ケ井《い》七条堀川のあたり。当時、不動堂村ともいった)に屯営を新築して、一同そこへ移っていた。洛東の黒谷から、その花昌町新屯営まで、京の市中、ざっと二里はある。
外島機兵衛らが心配したのは、この雨、この暗さで、はたして事なく屯営まで帰れるかどうかということだ。
それに、土方は、護衛の隊士も連れず、馬にも乗らず、来ているのである。
「そうなさい」
家老田中土佐は玄関の式台から夜の雨の模様をのぞきながら、
「ぜひ」
と、歳三の袖をとらんばかりにしていった。
外島機兵衛も、
「先刻も話に出ましたとおり、防長二州に割拠した長州藩は、おびただしく密偵を市中に送りこんでいるといいます。それに、ちかごろ土州藩の脱藩浪士が、長州と気息を通じて、さかんに市中に出没している。いかに土方先生豪強といえども、万が一ということがある」
「まあ、そうですな」
歳三は、気のない返事をして、くるっと背をむけ、小者がそろえた高下駄に足を差し入れた。
「なんなら、当家の人数に送らせましょうか」
と田中土佐がいった。
「いや」
歳三は不愛想にいった。
「いいでしょう」
そのまま、出て行った。
――変わった男だ。
と、あとで、家老の田中土佐が、ちょっと不快そうにいった。
新選組では、近藤が、伊東甲子太郎らをつれて十一月半ばから広島へ下向したきりもどってこない。
その間、歳三が、局長代理である。なにかと会津藩に出むくことが多くなっていた。
いつも、あの調子でやってくる。近藤のように、馬上、隊士を率いてやってくるというようなことをしない。
「よほど、腕に自信があるのかね」
「さあ、別に理由もないでしょう。独りきりで歩きたい、というのがあの男の性分でしょうな。その点、武骨なわりに派手好きな近藤とはちがうようです」
と、古いなじみの外島機兵衛が、わらいながらいった。
外島は、どちらかといえば周旋好き(政治好き)の近藤よりも、実力を内に秘めて沈黙しているといった恰好の土方のほうを、好んでいる。
「それに」
と田中土佐は、歳三の不愛想さに好意をもっていない。
「あの男、女もないそうだな」
田中土佐にしてみれば、近藤が妾宅を二軒持ち、相当派手に女を囲っているといううわさから、ふと対比してそうおもったのである。
「なさそうですな」
「あれはあれで、よくみると苦味走ったいい男なのだが、京の女はああいう男を好まないのかね」
「いや、島原木津屋の抱えで、東雲《しののめ》大夫というのがいたでしょう」
「ああ、聞いている。ずいぶんと美形だったそうだな。それとあの男は良かったのか」
「いや。――」
外島機兵衛は、表現にとまどったような顔をした。ああいう男女関係をどういっていいか、うまくいえなかったのである。
かつて外島機兵衛が、近藤、土方ら新選組幹部とともに島原木津屋に登楼したときのことである。
歳三の敵娼《あいかた》は、東雲大夫になった。
島原は、江戸の吉原とならんで、なんといっても天下の遊里である。ことに、大夫の位ともなれば諸芸学問を身につけさせられているだけに非常な見識があり、客の機嫌はとらない。
むしろ客のほうが大夫の機嫌をとり、その機嫌のとり方がうまいというのが、この町では通人とされる。
近藤は、なかなかの遊び上手だった。この島原の木津屋でも金《こがね》大夫となじみを重ねているほか、一方では三本木の芸妓駒野に子を生ませたり、おなじ三本木で、植野という芸妓とも馴染み、これを天神の御前通にかこっていた。
それだけではない。
近藤は大坂へたびたび出張するうちに、新町のお振舞《ふるまい》茶屋でもさかんに遊び、織屋の抱えで深雪《みゆき》大夫という者が気に入り、大坂八軒家の新選組定宿主人京屋忠兵衛が奔走して落籍《ひか》せ、これを近藤が興正寺門跡から借りている醒ケ井木津屋橋南の屋敷に住まわせた。ところがほどなく病死し、その深雪大夫の妹が姉に似ているというので、それを後釜にすえた。
そのほか、祇園石段下の山繭《やままゆ》にも女がいてしきりと通っていた。
まったく、近藤はよく遊ぶ。当節、京洛を舞台に活躍している雄藩の公用方(京都駐留外交官)は、色町で公務上の会合をし、ずいぶん派手に遊ぶが、近藤ほど諸所ほうぼうに女を作っている男もめずらしく、一時、隊士のあいだでも、――会津藩から出ている局の費用の半分は局長の女の鏡台のひきだしに流れこんでいるのではないか、といううわさがあったほどであった。が、その点は、ちがう。
近藤個人の費用として、大坂の鴻池《こうのいけ》善右衛門から多額の金が出ていた。
鴻池は、尊王浪士と称する者から「攘夷軍用金|申付《もうしつけ》」の押し借りを受けることが多く、それを防ぐために鴻池では、新選組にたよった。近藤に献金した。近藤はその金で遊び、女をかこった。会津藩の新選組関係の公用をする外島機兵衛は、そういう内情まで知っている。
(酒ものまずによくまあ、あれだけあそべたものだ)
とかねがね感心するような思いでそれをみていた。が、外島機兵衛のみるところ、土方歳三はちがう。
酒は、やや飲む。
が、あまり好きなほうではないらしく、杯を物憂《ものう》そうになめている。
女は。――
「そら、その東雲大夫が、ですな。あの男と室にひきとってから、閉口したそうですよ」
よほど閉口したらしく、あとで、大夫が仲居に洩らしたのがひろまって、評判になった。
歳三は、だまって杯を重ねているばかりでひと言も口をきかない。どうも、ほかのことを考えている様子なのである。
――土方はん。
と、東雲大夫が、見かねていった。
歳三が、あまり酒を好まないことは、さっきの酒席で様子をみて察していた。
――もう、お酒は。
と、銚子《ちようし》をかくし、
――おやめやす。あまりお好きやおへんのどすやろ?
――ああ、好きじゃない。
と、歳三は所在なげに答えた。
――ほなら、おやめやす。お好きやないもんをそんなに飲んでお居やしたら、お体に毒どすえ。
――そうかね。
といいながら、歳三は手をのばして東雲大夫の手から銚子をとりかえし、
――それでも、色里の女より、ましさ。
といった。
元来、遊所の女がきらいなのである。御府内や武州の宿場々々をうろついていたころからそうだったが、この物嫌いは京にのぼってからもかわらない。
(あっ)
とこの廓《くるわ》でもおとなしいので通っている東雲大夫がさすがに色をなしたが、歳三は相変らず|にべ《ヽヽ》もない面《つら》で酒をのんでいる。
が、妙なものだ。
島原でこんな不愛想な客を、東雲大夫はみたことがない。が、慍《いか》りがしずまると、がたがたと張りも誇りも崩れるような思いで、東雲大夫はこの男を見た。そのとき、魘《おそ》われるような思いで、この男が好きになったような気が、東雲大夫にはした。
――縁起《えんぎ》どすさかい。
と、暁方《あけがた》、懇願するようにして、この客に床入《とこい》りをしてもらった。
「それが」
と、東雲大夫は、あとで仲居にいった。
「存外、やさしいお人どすえ」
客がそのあと、床のなかでどうふるまったか、東雲大夫は廓の躾《しつけ》として口外しなかったが、仲居にはさまざま想像することができた。うわさは、そういう仲介者の想像をまじえて、外島機兵衛の耳に入っている。
「それで、どうした」
謹直な田中土佐が、きいた。
「その後、近藤とともにあの男は、二、三度木津屋に登楼《あが》って、東雲大夫を敵娼にしたのですが、その態度たるや、まったく初会のときと判で押したようにおなじだったらしい」
「床入り後のやさしさも?」
「まあ、そうです」
その後、東雲大夫は、京の両替商人から落籍《ひか》されることになった。そのとき、しきりと使いを屯所に出して、
――最後に会いに来てほしい。
と、頼んだが、歳三は、(落籍されるような女に逢っても仕方がないさ)とついに行かず、どうしたわけか、それっきり、島原には足を踏み入れなくなったという。
東雲大夫はそれを恨みに思い、恨みのあまり、自分の小指の肉を噛みちぎって、大騒ぎになった。
それでも歳三は行かなかった。
「情のこわい男だ。おそらくあの男は、東雲大夫が、好きだったのではあるまいか。だから行かなかったのだろう」
「好きなら、普通そんな場合、垣をやぶってでも逢いにゆくのが人情でしょう」
「それはそうだな」
「見当のつかぬ男ですよ。とにかく。――」
そういって外島機兵衛は笑ったが、しかし外島は歳三が東雲大夫と初会した前日、この男の身になにがおこったかを知らない。あれは文久三年九月二十一日のことであった。歳三は、麩屋町《ふやまち》の露地奥の家で、いまは九条家に勤仕《ごんし》している府中猿渡家の息女佐絵と武州で一別以来ひさしぶりで逢い合った。その借家の古だたみの上で、例によって歳三流の不愛想な触れかたで佐絵と通じたが、そのとき、ありありと(佐絵は、変わった)と思った。佐絵は、たしかにかわった。情夫《おとこ》がいる、と思わざるをえなかった。
変心は、とがめなかった。その資格もなかった。武州当時、歳三は佐絵になんの約束もせず、むろん情人らしいどういうことばもかけてやらず、ただ偶然の縁で体のつながりを結んだだけのことであった、といえる。佐絵からみても、これは同じだろう。この猿渡家の出戻り娘はただ一時のなぐさみで、どこの在所の者とも知れぬ近在のあぶれ者じみた若者と体のつながりをもったにすぎない。京に来れば京に来たで、佐絵は佐絵の人生をもった。その人生の中に、長州藩士米沢藤次が入ってきた。当時、佐幕派公卿だった九条家に出入りしていた男で、佐絵と出来た。佐絵を通じて、幕府方の情報を得ようとし、佐絵は、当然、情夫のために働いた。
――土方を知っている。
と、佐絵は米沢に洩らした。「斬るべし」ということになった。米沢は、その土方暗殺を、長州藩出入りの武州脱藩七里研之助とその一味の「浮浪」に依頼した。武州八王子以来、七里は歳三に、遺恨をもっている。
――なあに、頼まれずとも斬《や》るさ。
と、七里は、二帖半敷町の辻で、歳三を要撃した。
その翌日である。歳三が外島機兵衛らと島原木津屋に登楼《あが》って東雲大夫と初会の夜をもったのは。
あの夜、歳三は、
(おれはどこか、いびつな人間のようだ。生涯おそらく恋などは持てぬ男だろう)
と思った。
(人並なことは考えぬことさ。もともと女へ薄情な男なのだ。女のほうもそれがわかっている。こういう男に惚れる馬鹿が、どこの世界にあるもんか)
しかしおれには剣がある、新選組がある、近藤がいる、としきりに自分に云いきかせていた。
(それだけで十分、手ごたえのある生涯が送れるのではないか。わかったか、歳)
そんなことを思いながら、歳三は、あの夜京の町を歩き、途中立ちよった芳駕籠《よしかご》の家の近所で七里研之助の徒党を斬り、しかもその翌夜、島原木津屋の楼上で酒をのんだ。
もともと奇妙なこの男を、東雲大夫がいっそう奇妙に思ったのは、むりはなかった。むろん会津藩公用方外島機兵衛は、そういういきさつまで知ろうはずがないのである。
「まあ、あれはあれで」
と外島はいった。
「洛中の一人物ですよ。あるいは、兵の用い方は近藤よりも数段上かもしれない。むかし太閤秀吉は大谷|刑部《ぎようぶ》を評して、あの男に十万の大軍を藉《か》して軍配をとらせてみたいといったそうだが、私は土方をみるたびに、そんな気がする」
それから半刻《はんとき》後、歳三は、丸太町通をまっすぐ西へ歩いて堀川に突きあたっていた。
灯がみえる。二条城の灯である。この道をこのまま小橋を渡って西へゆけば所司代堀川屋敷である。
が、歳三は渡らない。当然なことで新選組新屯営はこの堀川東岸を南に折れ、なおここから三十丁もくだらねばならない。
「藤吉、疲れたか」
と、歳三は小者にきいてやった。
雨は、なお降りつづいている。
「いえ、脚だけは自慢でございますから」
藤吉は、雨の中でいった。歳三の三歩前を、及び腰で提灯をさし出しながら、藤吉はゆく。
歳三は、唐傘《からかさ》を柄高《えだか》に持ち、黒縮緬の羽織、仙台平の袴。腰には、すでに何人斬ってきたか数も覚えぬほどに使った和泉守兼定を帯び、脇差は、去年の夏、池田屋ノ変のときにはじめて使った堀川国広一尺九寸五分。
「藤吉」
と、歳三は、いった。
「この先は、道がわるいぞ」
「へい」
「ぬかるんだ道を駈けるときは、ツマサキで地を突くようにして駈けるものだ。そうすれば転ばずにすみ、速くもある」
と妙なことをいった。藤吉にはこの無口な局長代理が、なぜ不意にそんなことを云いだしたかが、理解できない。
「藤吉、お前の傘、駈けるときは、そいつを思いきり後ろへ捨てろ。心得ごとだ」
「へい?」
藤吉は、首をかしげて歳三を見あげた。
「いま、捨てますンで」
「まだよい。しかし、もうそろそろ、捨てねばなるまい。おれが、藤吉、と呼ぶ。そのとき、提灯と傘を捨て、命がけで駈けろ。間違っても、うしろを見るな」
「見れば?」
「―――」
歳三はだまって、歩いている。
傘をやや後ろに傾けながら、背後の気配を聴いているらしい。やがて、
「藤吉、いまなにか申したか」
「いえ、後ろを見ればどうなりますンで、と申しただけでございます」
「怪我をするだけさ」
不愛想に答えた。
堀川をへだてて右手の闇に、二条城の白壁が、ぼんやりと浮かんでいる。
左手は、親藩、譜代の諸藩の藩邸がつづいている。播州姫路藩の藩邸の門前をすぎると、二条通の角からは越前福井松平藩の藩邸の土塀がつづく。
その門前近くまできた。
「藤吉」
と、歳三はするどく叫んだ。
そのとき歳三自身、傘を宙空《ちゆうくう》に飛ばし、腰を沈め、右膝を折り敷き、すばやく旋回した。
ばさっ。
と不気味な音が、歳三の手もとでおこった。
瞬間、歳三の右手へ人影がもんどりうって倒れかかったかと思うと、泥濘《ぬかるみ》のなかで、もう一度大きな音をたててころがった。血の匂いが、闇にこめた。
そのときすでに歳三は、五、六歩飛びさがっている。刀を下段右ななめに構え、越前藩邸の門柱を背《うし》ろ楯《だて》にとり、
「どなたかね」
闇のなかに、まだ三人いる。
「雨の夜に、ご苦労なことだ。人違いならよし、私を新選組の土方歳三と知ってなら、私も死力を尽して戦う覚悟をきめねばなるまい」
「そう」
と、十間ばかりむこうの闇できこえた。
「知ってのことさ」
ああ、と歳三はおもった。一度聞けば忘れられぬ。例のかん高い声である。
七里研之助であった。
「奸賊。――」
と、左手にまわった男が、うわずった声をあげ、二、三歩|間合《まあい》を詰めた。
こんな夜だが天に月はあるらしく、夜雲がかすかな明るみを帯びながら、眼一ぱいの闇をしずかに濡らしている。
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お  雪
歳三、右へ剣を寄せた。
頭上は、越前福井藩邸の門の屋根。
しなやかな|たる《ヽヽ》き《ヽ》のむれが、美人の手を反らせたようにかるくたわみ、軒を雨中の闇に突き出させている。
「奸賊」
数語ののしりながら、歳三にせまった影には、ひどい十津川《とつがわ》なまりがあった。ちかごろ、京には、大和十津川郷の郷士が多数流れ入っている。
(十津川者か)
歳三は、平星眼《ひらせいがん》。
癖で、剣尖をいよいよ右へ右へと片寄せながら、左手のその白刃には眼もくれない。
余談だが、土佐の田中|光顕《みつあき》(のちの伯爵)が国もとを脱藩して京にのぼったころの思い出を、昭和十年ごろ、高知県立城東中学校で講演したそうだ。
――新選組はこわかった。とりわけ、土方歳三はこわかった。土方が隊士をつれ、例のあの眼をぎょろぎょろ光らせながら、都大路をむこうからやってくると、みな、われわれの仲間は、露地から露地へ、蜘蛛《くも》の子を散らすように逃げたものだ。
その歳三を討《や》る。
この十津川者、勇気があろう。
あとは、雨中で遠巻きにしている。
接近しているのは、右手の七里研之助と、左手のこの十津川者だけ。
ぱっ、と十津川者が、上段から撃ちかかった。
歳三は剣をあげ、背後の柱へ三寸ほどさがった。十津川者の太刀が、歳三の右袖|左三巴《ひだりみつどもえ》の紋を斬って地を摺《す》るほどに沈んだ。
男の上体が、ひらいた。
瞬息、歳三の太刀が、十津川者の右肩を乳まで斬りさげた。
が、歳三は、前へころんだ。
十津川者を斬ったと同時に、右手の七里研之助が猛烈な突きを入れてきたのである。
逃げるしかない。
死体に蹴つまずいてころんだ。
すぐ起きた。
その頭上へ、七里研之助の二の太刀が襲った。
受けるいとまがない。
避けるために、もう一度ころんだ。歳三の体はすでに門を離れ、雨中、堀ばたにある。
背後は堀で安心だが、左右に、小楯にすべき樹一本も見あたらない。
「龕燈《がんどう》を用意しろ」
七里の落ちついた声が、仲間に命じた。
歳三が、たったいままで砦《とりで》にしていた藩邸の門の軒下で、龕燈が用意された。
「照らしてやれ」
七里が、低い声でいった。
ぱっ、と、龕燈の光りが、堀端に立つ歳三の影を照らした。
「歳三。武州以来の年貢《ねんぐ》のおさめどきのようだな」
「そうかな」
歳三は、相変らず右寄りの平星眼。声の低いわりには、両眼がかっとひらいている。
いつの喧嘩のときでも、死を覚悟している男だ。
「今夜こそ、八王子の仇《あだ》を討たせてもらう」
七里研之助は、上段のまま、悠々とせまった。
その間合を、はげしく雨がふりはじめた。
雨脚が地にしぶき、龕燈の光りのなかで白い雨気がもうもうと立っている。
「七里。長州のめしはうまいか」
「まずいさ」
七里も落ちついた男だ。
「しかし、土方」
用心深く間合を詰めながら、
「いまに、旨《うま》くなる。汝《うぬ》ら壬生浪人は時勢を知らぬ」
「うふっ」
笑った。歳三の眼だけが。
「上州、武州をうろついていた馬糞《まぐそ》臭え剣術屋も、都にのぼれば、一人前の口をきくようだな」
「おい、歳三。馬糞臭え素姓は、お互いさまだろう」
(ちげえねえ)
歳三は、肚のなかで苦笑した。
七里の右足が大きく踏みこむや、上段から撃ちこんだ。
受けた。
手が、しびれた。
すさまじい撃ちである。
歳三は撃ち返さず、七里の剣をつばもとでおさえつつ、さらに押えこみ、一歩、二歩、押しかえした。地の利を得たい、そんなつもりである。
七里は、足払いをかけた。歳三は、きらって足をあげた。
「みな、何をしている」
七里は、闇のまわりへどなった。
「いま、討て。討たねえか。この野郎とて鬼神じゃねえんだ」
ばらっ、と足音が左右にきこえた。
歳三は渾身《こんしん》の力をこめ、七里の体を突きとばした。
七里は飛ばされながら、左腕をのばして歳三の横面をおそった。
が、むなしく剣は旋回して流れた。歳三はすでにそこにいない。歳三は左手へ走った。
駈ける途中、袈裟《けさ》斬りに一人を斬り倒し、越前福井藩邸の南のはしの露地に入りこみ、東へ駈けた。
この喧嘩の功者《こうしや》は、一人で多数と撃ちあう喧嘩が、いかに剣の名人であっても、ものの十分も|もた《ヽヽ》ぬ《ヽ》ことを知っている。
西洞院《にしのとういん》へ出てから、歳三は、やっと歩度をゆるめ、ゆっくり南下しはじめた。
(痛え。――)
左腕をおさえた。
乱刃中にたれの刃が入ったのか、傷口をさぐると、上膊部に指が入るほどの傷が口をあけていた。
それだけではない。
右足の甲《こう》に一つ。
これは、十津川者が斬りさげたのをかわしたとき、できたものであろう。
しかしそれはいい。右|もも《ヽヽ》がぬるぬるするので袴をまくってさぐってみると、三寸ほどの傷があり、しきりと血が流れている。
(やりあがったなあ)
印籠《いんろう》に、|あぶ《ヽヽ》ら《ヽ》薬を入れてある。
そこはもともと薬屋だから、とりあえず止血をしておこうとおもい、あたりをすばやく見まわした。この大路で手当するのはまずかった。
いつ連中がみつけて襲うかもしれない。
恰好の露地をみつけて、入りこんだ。
(焼酎があればいいのだが)
おもいつつ脇差を抜き、傷口をしばるために袴をぬいで、ずたずたに裂いた。
そのときである。
頭上の小窓がひらいたのは。
「いや、恐縮です」
歳三は、土間へ入り、そのまま台所の奥の内井戸《うちいど》までゆき、そこでまず素はだかになった。
泥と血を洗いおとすためであった。
「お内儀《ないぎ》、あつかましいが」
奥へ声をかけた。
声は、ひそめている。近所をはばかってのことである。
「この棚の上の焼酎を所望したい」
大きな鉄釉《てつゆう》の壺が載っている。壺の腹に紙が貼ってあり、
――せうちう。
とみごとなお家流でかかれている。
(どうやら、女世帯らしい)
が、下戸、上戸を問わず、当時は、どの家にも傷手当の用意に焼酎は用意されていた。
「あの」
落ちついた女の声がもどってきた。
「どうぞおつかいくださいますように。金創《きんそう》の薬もございます。白愈膏《びやくゆこう》と申し、調合所は大坂京町堀の河内屋で、なかなか卓効があると申しますが、いかがなさいますか」
しずかな物の云いようだが、ことばに無駄がなく、頭のよさを感じさせた。
「遠慮なく、頂戴します」
歳三は、その女のことを考えた。言葉に、京なまりがない。
どうやら、武家女のことばである。
(何者だろう)
さっき格子戸をあけてなかへ入れてくれたとき、歳三はころがりこむようにして土間に入ってから、ふと顔をあげた。
そのとき、女は、蝋燭《ろうそく》の腰に紙を巻いた即製の手燭を、ちょっとかざすようにして立っていた。
すぐ通りぬけの台所へ入ったが、あのとき、女の意外な美しさに息をのむような思いをしたのをおぼえている。
としは、二十五、六で、身につけているものからして、娘ではない。かといって、夫が居そうにはなかった。
せまい家だ。
様子でわかるのである。
(痛い。――)
沁みる。焼酎が沁みた。
さすがの歳三も気をうしないそうになった。
褌《まわし》一本の姿で、歳三は井戸ばたにかがんでいる。自分で自分の傷をあらうのだ。よほど豪気でないと、この|まね《ヽヽ》はできない。
内儀は、いつのまにかきて、土間のむこうで、遠灯《とおび》をかざしながら、それをみている。
近づかないのは、武家育ちらしいたしなみというものだろう。
歳三はそれでも、傷口に|あぶ《ヽヽ》ら《ヽ》をぬり、内儀の出してくれた|さら《ヽヽ》し《ヽ》で三カ所の傷口をしばり、
「すまぬが、そこの町木戸の番小屋にそういって、辻駕籠をよぶように申しつけてくれませんか」
「どなた様です」
「え?」
傷が、鳴るように痛む。
「あの、あなたさまは、――」
内儀は、たずねた。
「ああ、申しおくれましたな。新選組の土方歳三、と申していただければ、町役人がよろしく取りはからってくれるはずです」
(このひとが。……)
歳三の名は、京洛《けいらく》で鳴りひびいている。
泣く児もだまる、というのは、この男のばあい大げさな表現ではない。
「たのみます」
「―――」
女はだまってうなずき、土間のすみに手をさし入れている様子だったが、やがて傘を出して、出て行った。
ほどなくきしみのさわやかな高下駄の歯音をたててもどってきた。
歳三の衣料は、雨と血でよごれている。
「もしおよろしければ」
女は、ひと襲《かさ》ねの黒木綿の紋服を、みだれ籠に入れてもちだしてきた。羽織、袴だけでなく、襦袢《じゆばん》、六尺に切った晒《さらし》までそろえてある。死んだ亭主のものだろう。
それを土間においた。
(気のつく女だな)
歳三は、顔をあげ、蝋燭の灯影でおんなの眼をみた。どちらかといえば京の顔だちではなく、江戸の浅草寺《せんそうじ》の縁日などに参詣にきている女に、こういう顔だちがある。
眼が|ひと《ヽヽ》え《ヽ》で、色が浅黒く、唇もとの翳がつよい。
「あんた、江戸のひとだな」
歳三は尻のあがった多摩弁でいった。
「―――」
女は、癖で、瞬《まばた》きのすくない眼を見はって歳三をみつめていたが、やがて、
「ええ」
というように、うなずいた。
「名は、なんと申される」
「雪と申します」
「武家だね」
「―――」
女は、だまった。いわずとも、知れている。
「いや、京で江戸うまれの婦人に会うことはまれなことだ。今夜、私は運がよかった」
(しかし、江戸の女がなぜ、こんな町でひとり住まいしている)
歳三は疑問におもったが、口には出さず、乱れ籠の上を、掌でおさえるようなしぐさをして、
「それは、ご好意だけ頂戴しておく。まだ血がとまらぬというのに、せっかくお大事のお品を汚《けが》しては申しわけない」
歳三は、褌《まわし》一つ、晒でぐるぐるしばりの姿のまま、大小をつかんで立ちあがった。
「そのまま、御帰陣なさいますか」
新選組副長ともあろう名誉の武士が、といった眼の表情である。
「お召しくださいまし」
|うむ《ヽヽ》をいわせず、命ずるようにいった。歳三は、立ち眩《くら》みそうになるほどの思いで、この女が命じた歯切れのいい響きを懐しんだ。京の女には、ない味である。江戸の女は、親切とあればおさえつけてでも、相手を従わせてしまう。
(ああ、忘れていた味だ)
歳三は、御府内のそとの片田舎のうまれである。年少のころから十三里むこうの江戸の女にあこがれた。
その思いが残っているために、ひとが佳《よ》いという京の女に、どうしてもなじめない。
「では、拝借する」
手を通しておどろいたことは、歳三とおなじ左三巴の紋である。
「奇縁だな」
歳三は、紋を見つめた。
(この女と、どうにかなるのではないか)
女は挙措《きよそ》をきびしくひかえめにはしているが、その眼に、あきらかに歳三への好意がある。
その好意が、おなじ東国のうまれ、という単なる親しみから出たものか、それとも、男としての歳三その者への好意なのか。
やがて、家主、差配《やもり》、町役人が、あいさつと見舞いにやってきた。
家主は、表の質舗《しちみせ》近江屋で、差配は、治兵衛という枯れた老人である。
「いずれ、礼にきます」
歳三は、かれらに見送られて辻駕籠に乗った。
屯営では、大さわぎをしていた。
小者の藤吉のしらせで、原田左之助、沖田総司の隊が現場に駈けつけたところ、付近には、死体も人もいない。
しかも歳三は屯営にもどらない。とあって市中の八方に隊士が捜索にすっ飛んだ。
そこへ歳三が火熨斗《ひのし》のよくきいた紋服を着てもどってきたのである。
「どうなさったのです」
隊士がきいても、にやっと笑うだけでさっさと式台へあがり、自室にひきとった。
すぐ外科をよび、手当を仕直して貰った。
医者が帰ると、沖田総司が入ってきた。
「ひとさわがせですねえ」
「すまん」
「どうなさったんです」
「越前福井藩邸の前で、また七里研之助のやつがあらわれやがった、あいつはおれの憑《つ》き物《もの》だよ」
「結構な憑きものだ」
沖田は、柄巻《つかまき》が、雨と血でぬれている歳三の和泉守兼定二尺八寸を抜いた。刃こぼれ、血の曇りがおびただしい。
「お働きのご様子ですね」
「斬《や》られかけたさ。あいつらは、長州の京都退却後、土州藩邸か薩摩藩邸にかくまわれているのだろう。十津川のやつもいた。その連中を、七里が|あご《ヽヽ》で使っている様子からみて、もう京都では相当な顔にのしあがっているらしい」
「なんでも、探索の連中のはなしだと、七里は、つねづね、土方だけはおれがやる、といっているらしいですよ」
「祟《たた》りゃがるなあ」
「うふ」
沖田が笑った。(あんたの昔の素行がわるいのだ)といった、悪戯《いたずら》っぽい眼である。
「ところで総司」
歳三は、生きいきとした眼でいった。
「おらァ、女に惚れたらしいよ」
「え?」
沖田は、まぶしい表情をした。
歳三が、かつて、
惚れた。
などということばを、女に関してつかったことがなかったからである。
「隊の者にはだまってろよ。近藤が芸州から帰ってきてもいっちゃならねえ」
「じゃ、私にも云わなきゃいいのに」
「お前だけは、べつさ」
「私だけは別? 迷惑だなあ、訴え仏みたいにされちゃって」
「ふふ、お前にはそんなところがあるよ」
十日ほどして歳三は、洗い張りをして縫いかえた例の衣類一さいを小者にもたせ、家主の近江屋へ出むいた。家主は、差配の治兵衛老人もよびつけて同席させた。
聞けば、女は、大垣藩の江戸|定府《じようふ》で御徒士《おかち》をつとめていた加田進次郎という者の妻女であるという。藩が京の警衛を命ぜられると、加田は単身、藩兵として京にのぼった。単身は当然なことで、どの藩でも、上士下士を問わず、妻子をつれて京にのぼっている者はない。
しかし、お雪は、風変りなところがあり、夫のあとを追って京にのぼり、藩には遠慮し、ひそかに町住まいをした。それほど夫婦仲がよかった、というわけではない。
お雪、画才があり、のちに紅霞《こうか》という号で多少の作品を、京、東京に残している。画技は、その人柄ほどのものではない。
京にのぼったのは、京の絵師吉田|良道《ながみち》について四条|円山派《まるやまは》の絵を学ぶためであった。
ほどなく夫が病死した。
お雪は、ひとり京に残された。すぐ江戸の実家《さと》へ帰るべきであったが、実家が寛永寺の坊官で収入《みいり》がいい。その仕送りがあるまま、なんとなく、日を消している。
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紅  白
それからほどない慶応元年|師走《しわす》の二十二日、局長近藤勇が、芸州広島の出張さきからもどってきた。
随行した参謀伊東甲子太郎、武田観柳斎、尾形俊太郎も、同様、旅塵にまみれた姿で、花昌町の新屯営に入った。
「歳《とし》、留守中はご苦労だった」
近藤は歳三の肩を大きくたたいた。近藤は、どこか、かわったようであった。
ひと月ぶりで歳三を見る眼も、どこかしらつめたいようである。
(妙だな)
歳三のこまかい神経が、働いた。
その夜、幹部の酒宴があった。
近藤は、杯を二つ三つあけると、真赤になった。本来、下戸である、そのくせ、
「うまい」
と含みながらいった。
「諸君、酒はやはり京だな」
しかし、それ以上は飲まない。飲むかわりに眼の前の膳部のものを大いに食い、大酒でものんだように高調子で談論した。
おもに長州の情勢についてである。
「長州はうわべだけは禁廷様と幕府に対し奉ってひたすら恭順をみせかけているが、あれァ、まるっきりの猫っかぶりだよ。背後でやつらは武備をととのえている」
「ほう」
留守の幹部は、みなおどろいた。
会津藩は徹底的な長州ぎらいだから、近藤もその眼で長州をみてきている。
(元来、長州藩には、天下に野望がある)
と、近藤はみていた。毛利侯は将軍になりたがり、天皇を擁して毛利幕府を作ろうとしている。長州人にとって尊王攘夷はその道具にすぎぬ、と近藤は憎悪をこめて信じていた。近藤だけではなく、母藩の会津藩が上下ともそう思いこんでいるし、のちに長州の友藩になった薩摩藩などは、強烈にそう信じこんでいる。
その証拠に、薩長同盟の密約のとき、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)は容易に腰をあげなかった。その疑惑があったからである。
「幕府は手ぬるい」
と、近藤は、吐きすてるようにいった。
「いま防長二州の四境に兵をすすめ、毛利家をたたきつぶして天領(幕府領)にしてしまわねば、どえらいことになるぞ」
「しかし、近藤さん」
と、伊東は白い顔をあげた。
伊東には、べつの見方がある。
「長州は去年、馬関海峡で四カ国の艦隊に対して、一藩でもって攘夷を断行している。天下の志士は、長州が自藩の滅亡をおそれずに攘夷を断行したことに喝采を送った。近藤先生、あなたも攘夷論者でしょう」
「そのつもりです」
まぎれもなく新選組結党のそもそもの主旨であった。
「それなら、もっと柔軟な長州観があってしかるべきでしょう。長州は、朝廷の御方針を奉じて攘夷を断行し、不幸|夷狄《いてき》の砲力がまさっていたために、沿岸の砲台はことごとくたたきつぶされた。その上、幕府の征伐をも受けようとしている。長州は瀕死の傷《て》を負っている。他にいかに非違があるとはいえ、これを討つのは武士ではありませんよ」
「武士ではない……」
近藤は、箸をとめた。
「伊東さん、武士ではないといわれるか」
「そうです」
伊東は、近藤の眼をじっと見つめてから微笑し、さらに議論をつづけた。利口な伊東は近藤という男を知りぬいている。近藤は、知的な論理のもってゆきかたよりも、むしろかれの情緒に訴えるほうが、理解しやすい頭脳をもっていた。
「武士が武士たるゆえんは、惻隠《そくいん》の情があるかないかということですよ。ひらたく申せば、武士の情けというものです」
「ひらたく申さずとも」
と、近藤は刺身をつまみ、
「わかっておる」
にがい顔で、口に入れた。
近藤は、もはや京都政界の大立者になっていた。当人もそのつもりでいる。伊東に、無学だと思われるのが、つらいのである。
「伊東さん。わしは、わかっておるつもりだ、なにもかも。多弁を用いてもらわずともよい」
「そうでしょうとも。こんどの旅では、旅程をかさねるにつれて、拙者の意見をよく理解してくださるようになった。――土方さん」
と、伊東は、近藤の膝一つおいてむこうにすわっている歳三に話をむけた。
歳三は、はじめっから、だまって飲んでいる。
「そうなんですよ、土方さん」
「なにが、です」
歳三は、物憂そうにいった。
「いや、つまり」
と、伊東は、どもった。この歳三がにが手なのである。
「近藤先生のことですよ。先生は、長州の情勢をみられて、また一段と視野を広げられたようにおもう。おそらく、いまの混沌とした京の政局を収拾なさるのは、清濁あわせ呑む底《てい》の近藤先生しかありませんよ」
「そうですか」
近藤のばかめ、と肚でおもっている。おだてられて、やがてひどい目にあうだろう。
「土方さんは、どう思います」
「なにがです」
「いまの問題」
「私には一向に興味はありませんな」
歳三は、にべもなくいった。
あるのは男一ぴきだけさ、と心中でおもっている。なるほど新選組は尊王攘夷の団体だが、尊王攘夷にもいろいろある。長州藩は、どさくさにまぎれて政権を奪ったうえで尊王攘夷をやろうとしている。これとはちがい、親藩の会津藩の尊王攘夷は、幕権を強化した上での尊王攘夷である。歳三は、新選組が会津藩の支配を受けている以上その信頼に応《こた》えるというだけが思想だった。しかし男としてそれで十分だろう、とおもっている。
(もともとおれは喧嘩師だからね)
歳三は、ひとり微笑《わら》った。
伊東はその微笑をよほど薄気味わるいものにおもったのか、だまった。座が白け、あとは、はなしもあまりはずまなかった。
明くれば慶応二年。
正月二十七日、近藤はふたたび、幕府の正使小笠原|壱岐守《いきのかみ》に随行して長州と折衝するために芸州広島へくだった。
「またかね」
出発前、歳三は近藤にいった。
「歳、留守をたのむ。こんどは、長州領に入る。この眼で長州の実態を見、長州人とも語りあいたい。かれらと国事を談ずれば、武によるべきか和によるべきか、この天下の紛争の収拾策がわかるだろう」
(がらでもねえ)
とおもったが、歳三は口に出しては云わない。ただ、
「伊東と一緒だね」
念をおした。
「あれは参謀だ」
近藤はいった。
「当然、連れてゆく」
「参謀?」
「そう」
「たれの参謀だかわかりゃしねえよ」
「歳、そうそう口汚くいうもんじゃねえ。われわれは国士だ。いつまでも多摩の百姓家のせがれじゃねえんだ。伊東はあれはあれで使い道のある男だ。あの男、やや長人《ちようじん》を代弁しすぎるきらいはあるが、かといってあの容儀、学才は、われわれの存在を重からしめていることはたしかだ」
「重からしめている?」
歳三は、くすっ、と笑った。
「いったい伊東がなにを重からしめているんだ」
「新選組をだ」
「近藤さん。伊東が接している人士のあいだでは、新選組は宛然《えんぜん》長州の幕下《ばつか》になったようにいわれているのを知っているかね」
「ばかな」
「つまり、重からしめている、というのはそんなことか」
「わるいところだ」
近藤はいった。
「歳、お前はむかしから意地がわるくていけねえよ」
「性分だからね、あんな得体《えたい》の知れねえ野郎をみると、むかむかするのさ」
伊東は、近藤と同行して長州にくだった。こんどは、伊東系の重鎮である監察の篠原泰之進をつれている。
伊東、篠原は、広島に入ってしばらくは近藤と行をともにしていたが、やがてひそかに長州の広沢兵助(のちの真臣《さねおみ》。木戸|孝允《たかよし》とならんで維新政府の参議となる)に渡りつけて、長州領に入った。長州藩としてはよほどの好意である。
二人は、長州藩の過激分子とまじわりをもとめ、しきりと意見を交換してまわった。伊東の腹中、
(討幕。――)
という考えがまとまったのは、この期間であったろう。
理由はある。
伊東が裏切りへふみきったのは、この長州訪問中、重大な秘密情報をえたからであった。
それまでは長州とは犬猿の仲で、むしろ会津藩の無二の友藩であった薩摩藩が、急転、長州藩と秘密の攻守同盟をむすんだらしい、ということである。
幕末史を急転させたこの秘密同盟は、この年正月二十日、土州の坂本竜馬の仲介で、長州の桂小五郎、薩摩の西郷吉之助とのあいだにむすばれた。場所は、京都錦小路の薩摩藩邸である。
この事実は、幕府、会津藩、新選組のたれも知らなかった。
むりはない。秘密を保持するために、桂も西郷も、自藩の一部の同志に打ちあけただけで、洩らさなかったのである。
「薩長が手をにぎれば」
と、当時、たれもが思った。
「武力的には幕府は歯がたたないだろう」
旗本八万騎は懦弱《だじやく》でつかいものにならない。御三家、御家門、御親藩の諸大名は、会津、桑名をのぞくほか、腰がさだまらない。そんな事態でこういう観測は、幕閣の要人でさえ常識としていた。
その二大強藩が手をにぎった。
この瞬間から幕府は倒れた、といっていいのだが、不幸にも歳三は知らない。
局長近藤も知らなかった。
ただひとり、参謀伊東甲子太郎のみが知った。
「京であらたに」
と、伊東は、長州で、長州人たちに宣言してまわった。
「義軍をつくるつもりです。むろん、近藤、土方とは手を切って」
長州人はよろこんだ。
伊東は優待されて、五十日間も滞留した。
近藤は、早く広島をきりあげたが、この広島行きは、近藤にとっても、収穫はあった。近藤を連れて行った老中小笠原壱岐守|長行《ながみち》が、この浪人隊長の人物に惚れこんでしまったのである。
惚れた、というより壱岐守は感動した。当節、一介の浪人で、幕府のために身をすてて尽してやろうという奇特な男は、この男しかないだろう。
「先生」
と、壱岐守は、そういう敬称でよんだ。鼻が大きいばかりで人一倍、気がよわくできているこの四十五歳の唐津藩主の世子は、近藤のような木強漢《ぼつきようかん》が、すきである。というより、はじめて見る人種だったのだろう。
――先生のようなひとこそ、国家の柱石というのでしょう。
と、奇巌でも仰ぐようないい方でほめた。
――三百年の恩顧ある旗本でさえ、ああいうざまです。私はものを悲観的に見がちだそうだが、大公儀が万一のばあい、新選組にたよらねばならぬときがくるかもしれませんよ。
「どうでしょう」
と、壱岐守は近藤にいった。
「いっそ、将軍家の御直参《ごじきさん》になっていただくわけには参らぬか。身分、禄高については、十分、ご満足のゆくようにはからうが」
――はっ。
と近藤はおどる胸をおさえかねたが、しかし新選組は、同志の集団である。隊士は近藤の家来ではなく、同志であった。かれ一存で請けるわけにはいかない。
(余の者はいい。伊東甲子太郎とその一派が反対するだろう)
かれらは近藤とは前身がちがう。多くはそれぞれ脱藩《くにぬ》けして攘夷の志をのべるために京へのぼってきている。ふたたびもとの主取りの身に戻るくらいなら、はじめから脱藩もすまいし、第一勝手に徳川家の家来になればもとの藩主にわるい。
(伊東甲子太郎、こいつは邪魔だな)
近藤は、はじめて思った。
しかし、伊東という人材を捨てる気にもなれない。あの男がいるおかげで、近藤は、諸藩の公用方とまじわっても、いっぱしの議論ができるようになった。新選組が、単に粗豪な剣客の集団ではなく、政治思想の団体として他藩が眼を見はるようになったばかりである。
「隊に帰り、同志とも相談《はか》りましたうえで、お請けしたいと存じます」
と答えておいた。
屯営に帰り、数日考えてから、近藤は、伊東と訣別《けつべつ》する肚をきめ、歳三にこの直参取りたての一件を相談した。
「その話なら、先刻、耳に入っている」
と、歳三はいった。じつは近藤は帰洛の途中、尾形俊太郎に洩らしたために、この情報は、隊中に知れわたっていた。
「歳も人がわるい。これほどいい話が耳に入っていながら、なぜわしにただそうとせぬ」
「はて。いい話かね」
歳三は、ちょっと微笑《わら》った。
「請ければ、新選組は真二つに割れるよ。もう伊東一派などはさわいでいる。内海二郎がどうやら長州にいる親分へ伺いの飛脚を立てたような形跡がある。あんたは、隊が割れてもいいというのか」
「義のためにはな」
近藤は、いった。
「一身の栄達のためではない。御直参として活躍するほうが働きやすいとすれば、これは天下国家のためであるし、禁廷様のおんためでもある」
「ちかごろ、理屈が多くなったな」
歳三は、苦笑しながら、
「おれはね、近藤さん、新選組を強くする以外に考えちゃいねえ。隊士が、直参にとりたてられたがために強くなるようなら、よろこんで請けるよ」
といった。
「歳、お前は、単純で仕合せだなあ」
「ははあ」
歳三はあきれて近藤の顔をまじまじと見つめた。この、
国士
をもって老中から遇せられている男は、政治をぶつことが複雑だとちかごろ思いこんでいるらしい。
「そうかねえ。私は、これはこれで、ずいぶんと混み入って考えているつもりだが」
「いやいや、結構人《けつこうじん》だよ」
近藤は豪快にわらった。
「いっぺん、お前のようになってみてえ」
「そりァ、あんたは苦労が多いからね」
「多いとも」
歳三は、噴きだした。なんのかんの云っていながら、歳三は近藤のこういうところが大好きなのである。
「ところで」
と、歳三は真顔になった。
「直参になるには、その前にすることがあるだろう」
「伊東のことか」
「そう」
歳三は、うなずいた。
直参になれば、新選組が名実ともに佐幕にふみきったことになるのだ。天下の浪士のなかで、ただひとり佐幕の旗をかかげることになる。伊東とその一派は、当然出てゆくだろう。
が、隊法がある。だまって、出すか。それとも、結成以来、隊法をもって絶対としてきた鉄則を、伊東にもあてはめるか。
「どうするかね」
と歳三はきいた。
近藤は、だまっている。やがて感情を押しころしたような、眠そうな表情で、
「局中|法度《はつと》どおりだ。あの法度あるために新選組はここまで来ることができたし、こののちも、烏合の衆に化することなく行くことができるだろう」
「さすがだ。あんたもまだ性根をうしなっていない」
「ところで」
近藤は、歳三の顔をのぞきこんだ。
「お前、女ができたそうだな」
「ちがう」
歳三は、狼狽した。事実、お雪の家にはあれから二度訪ねたきりだし、手も触れていない。
「ほほう、赤くなっている。めずらしいこともあるものだ」
近藤は、小さな声をたててわらった。
〈燃えよ剣(上) 了〉
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初出誌
週刊文春/昭和三十七年十一月十九日号〜
昭和三十九年三月九日号
単行本
ポケット文春版 昭和三十九年三月 文藝春秋刊
四六版 昭和四十八年二月 文藝春秋刊
新書版 平成十年九月 文藝春秋刊
文春ウェブ文庫版
燃えよ剣(上)
二〇〇〇年十二月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 司馬遼[#しんにょうの点は二つ]太郎
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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(C) Midori Fukuda 2000
bb001206
校正者注
(一般小説) 電子文庫出版社会 電子文庫パブリ 文春ウェブ文庫(383作品).rar 51,427,627 ee2f0eb8653b737076ad7abcb10b9cdf
内の”-燃えよ剣(上).html”から文章を抜き出し校正した。
綺麗に表示されないルビの前に|をつけた。
表示できない文字を★にし、新潮文庫七十二刷を底本にして注をいれた。
章ごとに改ページをいれた。
smoopyで綺麗に表示するためにヽヽを二つずつに分解した。