目次
国盗り物語
斎藤道三
開運の夜
奈良屋のお万阿《まあ》
運さだめ
小《こ》 宰《ざい》 相《しょう》
京へ帰る
淫楽《みだら》
有《あり》馬《ま》狐《ぎつね》
兵法者《ひょうほうしゃ》
お万阿《まあ》悩乱
初更《しょこう》の鐘《かね》
奈良屋の主人
奈良屋消滅
歓《かん》喜《ぎ》天《てん》
美濃へ
常在寺《じょうざいじ》
金華山《きんかざん》
朱《しゅ》唇《しん》
深《み》芳《よし》野《の》
西村勘九郎
京の夢
お万阿問答
槍術「一文銭」
槍、槍
水馬
林の中で
天《てん》沢《たく》履《り》
虎《とら》の瞳《ひとみ》
深《み》芳《よし》野《の》を奪《と》る
川手城
火炎剣
那《な》那《な》姫《ひめ》
府城乗っ取り
大狂言
女買い
夕月
香《よし》子《こ》
小倉山問答
藤左衛門
続・藤左衛門
夜討
上意討
雲がくれ道三《どうさん》
舞いもどり
法師白雲
雑話
松山合戦
小見《おみ》の方《かた》
雨
姓は斎藤
馬《ば》鞭《べん》をあげて
わが城
木下闇《このしたやみ》
二条の館
月の堂
紙屋川
若菜
織田の使者
美濃の蝮《まむし》
淫《いん》府《ぷ》
漁火《いさりび》
三段討
英雄の世
尾張の虎《とら》
蝮《まむし》と虎《とら》
濃姫《のうひめ》
京の灯
織田信長
三助
忍び草
華燭《かしょく》
蝮《まむし》の子
くわっ
美濃の使者
菜の花
清《きよ》洲《す》攻略
猿《さる》の話
お勝騒動
秘事
崩るる日
戦端
南泉寺の月
長良川へ
血戦
お万阿《まあ》の庵《いお》
朽《くつ》木《き》谷《だに》
森の怪異
桶狭《おけはざ》間《ま》
風雨
須賀口
一乗谷《いちじょうだに》
六角斬《ぎ》り
堺《さかい》と京
浮沈
美濃攻略
光秀奔走
剣と将軍
奈良一乗院
奈良坂
甲賀へ
和田館《わだやかた》
半兵衛
藤吉郎
探索
花籠《はなかご》
夕《ゆう》陽《ひ》
湖水渡り
転身
豹《ひょう》の皮
桔梗《ききょう》の花
謁見《えっけん》
道三桜《どうさんざくら》
天下布武
上洛軍《じょうらくぐん》
京の人々
大願成就《たいがんじょうじゅ》
洛中合戦《らくちゅうかっせん》
九つの蛤《はまぐり》
葉桜
秀吉
身の運
梅一枝
遊楽
敦賀
退却
清水坂《きよみずざか》
千《ち》種越《ぐさごえ》
寝《ね》物語《ものがたり》ノ里《さと》
姉川
戦塵《せんじん》
孫八郎
変報
雪
猛炎
唐崎《からさき》の松
信玄
山崎の雪
槙島《まきのしま》
箔濃《はくだみ》
日向守《ひゅうがのかみ》
伊丹《いたみ》城
竹《ちく》生《ぶ》島《じま》
甲斐《かい》
備中へ
参籠《さんろう》
時は今
叛《はん》旗《き》
本能寺
幽斎
小《お》栗《ぐる》栖《す》
あとがき
解説(奈良本辰也)
国盗り物語
斎藤道三
開運の夜
落ちついている。
声が、である。
その乞食は、御所の紫《し》宸殿《しいでん》のやぶれ築《つい》地《じ》に腰をおろし、あご《・・》を永正十四年六月二十日の星空にむけながら、夜の涼をとっていた。
風は、しきりと動いている。
御所とはいえ、もはや廃墟《はいきょ》といっていい。風は、弘徽《こき》殿《でん》、北廊、仁寿殿《じじゅうでん》の落ちた屋根、朽ちた柱のあいだを吹きとおりつつ、土《ど》塀《べい》の上の乞食のほお《・・》をなぶっていた。
世は、戦国の初頭。――
「国主《こくしゅ》になりたいものだ」
と乞食はつぶやいた。
ひとがきけば狂人とおもうだろう。が、乞食は大まじめである。事実、この夜のつぶやきは、日本史が永久に記憶しなければならなくなった。
「草の種ならば、種によって菊にもなれば、雑草にもなる。が、人間はひとつの種だ。望んで望めぬことはあるまい」
乞食。――
厳密には乞食ではないのだが。
京の西郊、西ノ岡のうまれ、――かつては妙覚寺本山で、
「智恵第一の法蓮房《ほうれんぼう》」
といわれた若者である。
智恵第一どころか、「学は顕密《けんみつ》の奥《おう》旨《し》をきわめ、弁舌は富婁那《ふるな》(釈《しゃ》迦《か》の弟子・古代インドの雄弁家)にもおとらず」といわれるほどの学識もあった。
舞もできる。鼓《つづみ》も打て、笛を唇《くちびる》にあてれば名人の域といわれ、しかも、寺で教わりもせぬ刀槍《とうそう》弓矢の術まで、神妙無比の腕に達している。
いまの名は、松波庄九郎。――
おもうところがあって衣棚押小路《ころものたなおしこうじ》の妙覚寺大本山をとびだし、還俗《げんぞく》した。
髪をのばしはしたが、京は応仁以来の戦乱で荒廃し、諸国はみだれ、さて食えるあて《・・》はない。
戦国。――
といっても、この松波庄九郎、つまり後に戦国諸大名を慄《ふる》えあがらせた斎藤道三《どうさん》の若いころは、まだ、家門がものをいう時代で、いかに有能でも、氏素姓《うじすじょう》もない庄九郎をいきなり士分に召しかかえる大名はなかった。
(――足軽《あしがる》かせぎなら)
口はある。
が、この自負心のつよい若者には、足軽奉公などは、死んでもいやだった。
ついに、乞食に落ちぶれてしまった。
「王にはなりたくないが」
と、庄九郎は、背後の内《だい》裏《り》をみた。庄九郎だけが乞食ではないのである。
灯《あかり》がひとつ、ともっている。
そこに、この国の天子が住んでいる。庄九郎とかわらぬ極貧人で、毎日雑色《ぞうしき》が、「関白袋」と称する袋をさげて京都市中をまわり、一握りずつの米をもらいあるき、かろうじて御所のその日の煙をたてていた。
先帝(後《ご》土《つち》御《み》門帝《かどてい》)が亡《な》くなられてすでに十七年になるが大喪《たいそう》もなされていない。当今《とうぎん》の後柏原帝が践《せん》祚《そ》されてこれまた十七年になるが、即位の費用もない。
「王にはなりたくないが、将軍、それがむりならばせめて国主になりたいものだ」
「夢じゃ」
と、足もとで笑った男がある。
やぶれ築地の下で、犬のようにうずくまって臥《ね》ている。庄九郎が、妙覚寺大本山をとびだすとき、
――わしを家来にしてくだされ。
と付いてきた赤兵衛という寺男である。気転はきくが、妙覚寺でももてあましの小悪党で、盗み、かどわかし、にせ祈《き》祷《とう》師《し》、やらぬ小悪事はないという男であった。
麻の襤褸《ぼろ》をきて縄《なわ》を一すじ腰にまいているが、野太刀《のだち》だけは一本、だいじそうに右肩から背負い掛けていた。
その点、庄九郎もおなじである。
「なにが夢かよ」
庄九郎は、星にむかってうそぶいた。
「ふん」
赤兵衛は、あざわらった。
「夢ではおざりませぬかい。お前様のようなお人に付いて出たがために、とうとう乞食になりはててしもうた」
「将来《すえ》は、栄耀栄《えいようえい》華《が》を見せてやるわ」
「すえのことよりも、いまの一椀《わん》のひえ《・・》がほしいわい」
「乞食め」
庄九郎は笑った。
「これは心外。お前様も乞食ではおざりませぬか」
「物《もの》乞《ご》いはするが、将来《すえ》に望みはもって生きておる。一椀の望みで夢をうしなうようなやつを、乞食とはいうぞ」
さわやかな声である。
貌《かお》は、異相であった。
この男の肖像画は、現今《いま》、岐阜《ぎふ》市本町の日《にち》蓮宗《れんしゅう》常在寺の寺宝として遺《のこ》っている。
住職は、同市の中学校の教頭をつとめているひとで、筆者のために、すでに四百年をへたその絹地の幅《ふく》をひろげてくださった。
岩彩《えのぐ》は変色剥落《はくらく》している。
が、しさいに描線をたどれば、たれの眼でもありありとその骨柄《こつがら》、人相をうかがうことができる。
丈《たけ》の十分にある筋肉質の骨柄で、贅肉《ぜいにく》はない。
顔は面《おも》ながで、ひたい《・・・》は智恵で盛りあがったようにつき出ている。下あご《・・》は、やや前に出、眼に異彩があり、いかにも機敏そうな男である。
異相だが、妙覚寺の稚児《ちご》時代は、
――玉をあざむくほどの美童。
といわれた。
長じていよいよ秀麗をうたわれたが、顔に癖がつよい。しかしそれだけに、男の旨《うま》あじを知った女どもにはたまらぬ味があろうと僧《そう》侶《りょ》のころからいわれていた。
「あっ」
起きあがったのは、赤兵衛である。
「わらわら、人の群れが来るわ。この刻限、松明《たいまつ》もつけずに歩いておるところをみると、物《もの》盗《と》りではおざりませぬか」
「ほう、物盗りか」
庄九郎の空き腹が鳴った。物盗りなら、きっと食物はもっていようと思ったのである。
言うほどもなく、影が立つ。
きらっ、と光ったのは、長《なが》柄《え》の厚刃であろう。
いつのまにか、東山の峰に、月がのぼりはじめている。
「赤兵衛、殺《や》るか」
「殺《や》りましょうず」
ふたりは、築地のかげでうなずきあった。
影の群れは、高笑いしながら、こちらへどんどんやってくる。
紫宸殿の南階十八段のきざはし《・・・・》の下を通って、ななめに御所をつききりはじめた。
「赤兵衛、つけろ」
「へっ」
走り出た。
庄九郎は、あとに残った。
「謹んで勧請《かんじょう》し奉る、本門寿量《ほんもんじゅりょう》の本尊」
と心中唱えたのは、こういう大事の場での、坊主のころからのくせである。
――仏よ。来い。
と祈るのだ。わが利《り》益《やく》のためにはからえ、というのである。むろん、くせだけのことで、自信の強烈な庄九郎には、信心のしおらしさなど、かけらもない。
「南無《なむ》三大《さんだい》秘《ひ》法《ほう》事《じ》一念三千之妙法蓮華経《いちねんさんぜんのみょうほうれんげきょう》」
「南無《なむ》久遠実成大恩教主釈迦《くおんじつじょうだいおんきょうしゅしゃか》牟尼《むに》仏《ぶつ》」
「南《な》無証明法華《むしょうみょうほっけ》多《た》宝如来《ほうにょらい》」
在天のほとけ、みなわがために働け、という庄九郎独創の自《じ》力聖道《りきしょうどう》の法である。もっとも庄九郎だけでなく、この当時、仏法というのは自分のみの利益のためにあるものと信じている者が多かった。日蓮宗徒だけでなく、浄土門の真宗でさえおなじである。
わが身、法華経の功《く》力《りき》さえ信じておれば、
殺すも正義。
盗むも正義。
そんな気でいる。――もっとも、筆者はいう。これはこの戦国当時、一部の法華経信者だけの気風で、現今《いま》、泰平の世に、しかも教学大いにすすんだこんにち、こういう法華経の信じかたはない。
乱世である。
(南無、妙法蓮華経)
と念誦《ねんじゅ》している庄九郎には、正信《しょうしん》などというものではない、独特の罪障消滅法があるのだ。
「庄九郎様」
赤兵衛がもどってきた。
盗賊らは、かつて御所の宣陽門《せんようもん》があったあたりの「左兵衛督《さひょうえのかみ》宿所」という廃館にあつまっているらしい。
「金銀、食物はいかほど持っておる」
「いやそれが」
赤兵衛がいった。
「生首ひとつなんで。――」
「赤兵衛。それにしてはうれしそうな顔じゃな。察するところ、その生首にねうちがあるのであろう」
「さすがは、智恵第一の庄九郎さま」
ほくほくと顔を崩した。
赤兵衛も利口な男だから、筋みちをたてて話しはじめた。
京の東洞院《ひがしのとういん》二条。――
そこに、奈良屋又兵衛という畿《き》内《ない》有数の油問屋がある。
「油屋なら、とほうもない物持だ。小さな大名ほどの富はある」
庄九郎はうなった。
去年、あるじが亡くなって、いま若後家のお万阿《まあ》というのが、奥から指図している。
「しっかり者か」
「いえいえ、おとなしい女でおざるが、なにぶん跡取り娘のあがりゆえ、亭主が死んでも手代どもが主従同然に心服しておりますゆえ家業に波風は立ちませぬ」
「跡取りならそうであろうとも。――それでその奈良屋がどうした」
「こんど備《び》前《ぜん》から、荏胡麻《えごま》を運びます」
「ほう、それは大がかりな」
荏胡麻とは、燈油の材料である。
この植物は、どうしたことか、京都付近ではあまり育たず、中国筋では備前(岡山県)が最大の産地であった。
ほかに、東では、尾張《おわり》、美濃《みの》、西のほうでは、四国の讃岐《さぬき》、伊予などに栽培されている。
ところが、かんじんの燈油の大消費地は、京都、奈良、堺《さかい》、山崎といった神社仏閣、民家の多い都市である。
それらの町には、店に搾油《しめぎ》機械を備えつけた奈良屋のような大資本があつまっているが、原料そのものは、遠国《おんごく》からはこばねばならない。
その輸送が、大変であった。
なにぶん、乱世である。
途中、盗賊、野伏《のぶせり》が跳梁《ちょうりょう》するだけでなく、沿道の大小名そのものが、関所の通過の仕方に苦情をつけては、ときに金銀を強奪したり、荏胡麻をうばったりする。
自然武装隊商が組まれた。
油問屋が、護衛隊長を傭《やと》い、隊長は請け負った金で牢人《ろうにん》どもをかりあつめ、その人数で輸送隊をまもってゆくのである。
その隊商の人数は、牢人をふくめて七、八百人になる、というのがふつうだった。
「はて……」
庄九郎の智恵でもそこがわからない。
「その荏胡麻と生首とは、どんなつながりがある」
「生首というのは、――ほら」
赤兵衛は、指を一本立てた。
「例の春夏悪右衛門でおざりまするよ」
「ほう」
異様な名だが、どうせ、本名をかくしたあ《・》だな《・・》である。
庄九郎も、名はきいている。
もとは山名家の足軽だったというが、怪力無双といわれた男で、牢人したあと、あぶれ牢人をあつめてはばくち《・・・》を打ったり、戦さがあれば陣屋を借りて稼《かせ》いだり、ときには商家にやとわれて用心棒をつとめたりしていた洛《らく》中《ちゅう》の名物男で、ちかごろは、奈良屋の荷頭《にがしら》(護衛隊長)もつとめている、といううわさを庄九郎もきいていた。
「その悪右衛門が首になったのか」
「左様」
「あの連中に殺されたわけじゃな」
庄九郎には、すべてがわかった。
奈良屋の荷頭といえば、商家の侍大将だから、少々な大名の物頭《ものがしら》などより収穫《みいり》がいい。
その悪右衛門の位置をねらうために、洛中の別なあぶれ者の集団が、かれを襲って首にしてしまったのだろう。
「して、連中は何者だ」
「青《あお》烏帽子《えぼし》の源八でおざる」
「おお」
首になった悪右衛門と、洛中を両分していたあぶれ牢人の首領である。
「おれにも、運がむいてきたな」
庄九郎は、長いすね《・・》をのばして立ちあがった。風が、びんをほつらせている。
星を見あげた。
「今夜は、おれの一生にとって最初のいい日になるだろう」
我智《がち》力如《りきにょ》是《ぜ》、慧光照無量《えこうしょうむりょう》、寿命無数劫《じゅみょうむしゅこう》、久《く》修業所得《しゅごうしょとく》……と、庄九郎は、つい僧門当時の癖で自我偈《じがげ》をとなえた。
(われに力あらしめよ)
そう祈ったのである。
いまから、殺戮《さつりく》をする。
餓鬼《がき》、外《げ》道《どう》、堕地獄ども、わが利《り》益《やく》のために殺されよ、――庄九郎の全身に、みずみずしい力が湧《わ》いてきた。
「庄九郎さま。どうやら奈良屋の荷頭の位置を、あなたさまが横どりなさる、という筋でおざりまするな」
「よう見た。おれが取る」
笑った。声をたてて。
澄んでいる。この男の声をきく者は、すべて、これがなま《・・》な人間の穢《え》身《しん》から出た声か、とおもうほど、清らかである。自分のやることのすべてが正義だ、と信じている証拠だろう。
「しかし、赤兵衛」
「へい」
「まだ読みが浅い。おれはあの北斗七星をみて、もっと将来《すえ》の将来《すえ》のおれの相《そう》をみた。仏《ぶつ》母大孔雀明王経《もだいくじゃくみょうおうきょう》という経には、諸星よく吉凶をあらわす、とある」
「あなたさまの将来《すえ》は、どうなるので」
「不滅の名を英雄列伝にのこす、とある」
うそだ。
庄九郎は、心中、自分のうそを可笑《おか》しがりながら、淡い星明りのなかで、小悪党の赤兵衛の眼を、じっと見つめた。
赤兵衛は、がたがた慄《ふる》えだした。恐怖ではない。いいようのない、はげしい感動であった。
(とほうもない人傑に、おれは付いた。おれの運もひらけてくるだろう)
むろん、のぞきこんでいる庄九郎は、赤兵衛の感動をそう読みとっている。
「赤兵衛、いまから斬《き》り込む。命を惜しんで運をとり落すまいぞ」
「よう承わった」
「赤兵衛、目《め》釘《くぎ》――」
庄九郎はツカをたたいて、
「調べておけ」
といった。
赤兵衛は、べっ、と目釘につばをかけた。
二人は、御所のなかを歩いた。
御所のなか、といっても、廃屋同然で、左《さ》近《こん》の桜、右《う》近《こん》の橘《たちばな》のあたりは、すね《・・》でかきわけねばならぬほどの雑草でおおわれている。
二人は、日《じっ》花《か》門《もん》の崩れおちたあとを通り、宣耀殿《せんにょうでん》あとの礎石をふみ、やがて、かれらが巣を作っている左兵衛督の廃館の窓に忍びより、やがてつまさきを立ててのぞきこんだ。
内部《なか》に、獣脂の灯が三つ、皿《さら》の上でさかんに油煙をあげながら燃えている。
土間の炉に大鍋《おおなべ》がかかり、獣肉が煮えていた。それをとりまいて、五人の男が濁酒《くろき》をのんでいる。親分の青烏帽子の源八は、そういう異風な帽をかぶっているだけで、ひと目で知れた。
(あいつか)
庄九郎は、相手の短所を読みとろうとして凝視した。
眼の動きは、ややにぶい。
が、灯《ほ》明《あか》りの影で筋肉の一つ一つが隈《くま》どりされ、胸の谷を体毛がうずめて、すさまじいばかりの巨漢である。
庄九郎は、顔色も変えなかった。
低声《こごえ》で、
――赤兵衛、おのれは北廊のほうの出口にまわって待ち伏せろ。わし一人が斬りこんでますぐに青烏帽子を斃《たお》す。
――されば?
と、赤兵衛は自分の役目をきいた。
――わからぬか。わしが青烏帽子を斃《たお》したと同時に、北廊への出口で、人数が十人も来たかとおもうほどに、その辺をたたきまわり、喚《わめ》きちらすのじゃ。これが、松波庄九郎の開運の合戦になるぞ。命をおしむな。
「へっ」
影になって、忍び走った。
庄九郎は、そろりと剣をぬいた。妙覚寺の蔵から盗みだした身分には不相応な、三条小《こ》鍛冶《かじ》宗近《むねちか》の二尺八寸。
抜きはなつと、月を受けてこの作独特の乱れ刃がにぎにぎしく明滅した。
庄九郎は、躍りこんだ。
まず、大鍋を蹴《け》りたおしてすさまじい灰神《はいかぐ》楽《ら》をたて、
「青烏帽子」
叫ぶのと踏みこむのと、灰神楽のむこうに動く影を斬りおろすのとが、同時であった。
「汝《われ》ァ」
ぱっ、と灰が朱で染まった。
「何者ぞ」
青烏帽子が盛りあがるようにして立ちあがった。
右肩を割られながらも抜き打ちに斬り返してきた。が、庄九郎はかわしもせずに踏みこみ、
「南無羅《なむら》刹《せつ》ッ」
それが気合なのか、天の鬼神を招《よ》んだのか、庄九郎の声がおわったときには、青烏帽子は、まっこうからあご《・・》にかけて真二つに割られていた。
青烏帽子の乾《こ》分《ぶん》は、腰をぬかしている。
「しずまれ」
庄九郎はさわやかにいった。
「奈良屋の荷頭は、わしになる」
どの男も、平伏した。
奈良屋のお万阿《まあ》
その翌日、京は快晴である。
まったく、暑い。
暑いが、戦国百年は、ふしぎと湿気がこんにちよりもすくなかったといわれている。人も気象も、からりとしていた。
「たれ?――」
と、奈良屋のお万阿が、風通しのいい奥座敷に寝そべりながら、午《ご》睡《すい》からさめた。
「お客さまなの?」
「へい」
御簾《みす》のむこうで、手代の杉丸《すぎまる》が、小さな声でこたえた。
「お客さまは、御料人様《ごりょうにんさま》にお会いしたい、とおっしゃいます」
「睡《ねむ》いな」
お万阿は、唐《から》うちわ《・・・》をゆるりと裾《すそ》へまわして、蚊を追った。うちわは、檳榔《びんろう》の葉を張り、金でふちどりしたぜいたくなものである。この品ひとつでも、奈良屋の富のほどが知れよう。
「はじめてのお人かえ?」
「左様でございます」
「はじめての客は物《もの》憂《う》いな」
と、白い指をみた。
後家になってから、すこし肥《ふと》ったようだ。指のつけ根に五つ、くぼみができている。
「杉丸、私の顔は、ねむそう?」
「御簾でお顔がみえませぬ」
「繰りあげて、おのぞき」
「へい」
と杉丸は、御簾のすそをわずかにあげて、おそるおそる、のぞいた。
吉祥天女のように美しい。
と、杉丸はかねがねおもっている。
「お美しゅうございます」
「そう」
お万阿は、皿《さら》の上の唐人豆《ピーナツ》を一つぶ、口に入れた。
皓《しろ》い、小さな歯が、豆をくだいた。
「どんなひと。――」
「お武家さま、と申しましても、牢人《ろうにん》でございますが。――じつは、そのかたの申されるのは」
と、杉丸は、昨夜、御所の左兵衛督《さひょうえのかみ》の廃館でおこった例の事件を話した。
「えっ」
お万阿は起きあがった。
「荷頭の悪右衛門がころされた、と? たれにです」
「ちかごろ市《し》井《せい》をあらしている青《あお》烏帽子《えぼし》の源八に、でございます」
「それで」
「その源八を討ちとった、というのが、ただいま表に見えている牢人でございます」
「どんな男です。年寄りか。それとも」
「若うございます」
「通しや」
お万阿は、いそいで起きあがった。化粧《けわい》をなおすためである。
「ほう」
廊下を歩きながら、松波庄九郎。
ゆったりと感心している。
(商人とはいえ、奈良屋ともなれば、もはや城館じゃな)
一室に通された。
唐様《からよう》の部屋で、椅子《いす》、卓子《テーブル》、がある。壁にペルシャ絨緞《じゅうたん》がかけられていた。堺からきたものだろう。
「杉丸」
と、庄九郎は名前を覚えてしまっている。
いや、いま覚えたのではなく、奈良屋の内部については朝からしらべぬいていた。
手代が、二十人。
そのなかでも、もっとも若いこの杉丸という男が、後家のお万阿から信頼されていることも、ちゃんと調べあげていた。
(なにしろ奈良屋を乗っ取ろうというのだ。なまなかなことではできぬ)
「そなたは、西ノ岡の出だな」
「よくご存じで」
杉丸は、小さな顔に、驚きをうかべた。
「わしも、西ノ岡だ」
西ノ岡というのは、京都の西郊をさす。現《い》今《ま》の向日《むこう》町《まち》から山崎にかけての一帯だ。当時もいまも、山城筍《やましろだけ》の産地として、諸国の食通に知られている。
「すると、松波庄九郎様は」
と、杉丸は、目をみはった。
「あの松波様《・・・・・》でございますか」
「その一統だ」
「あっ。存ぜぬとは申しながら、ついお見それつかまつりました。申しわけございませぬ」
杉丸は、土下座してしまっている。
「まあ、立ってくれ」
と、庄九郎は、椅子の上からいった。
「旧家とは申せ、五十年もむかしのことだ。いま、松波、といったところで、驚いてくれるのは京でもそなたぐらいのものであろう」
松波左近将監《さこんしょうげん》。
それが松波家の世襲の官名だったと、庄九郎自身は称している。
左近将監は御所の北面の武士で、御所が衰微したために、わずかな田地を西ノ岡に買いもとめて土着した。
しかし、馴《な》れぬ仕事はうまくゆかぬもので三代で家はほろんだ。
わずかに松波の血統と称する家が、西ノ岡から山崎にかけて散在しているが、
(この庄九郎様も、そういう家の出なのであろう)
戦国とはいえ、この時代の人の血統崇拝の深さは、こんにちのわれわれには想像もつかない。
杉丸の態度がそうである。
「あの、松波様。暫時これにて」
と、自分はあわててひっこんでしまった。
(ははあ、後家殿に伝えに行ったな)
思いつつ、庄九郎は、にが虫をかみつぶしたような顔で、すわっている。
真赤なうそなのだ。
庄九郎は、西ノ岡うまれの母親が、土地のたれかと密通してできた子である。父親の名は、庄九郎も知らなかった。
(知らぬが幸い。父親などは、どこのたれであろうとかまわぬ。氏素姓《うじすじょう》などは、自力でつけてゆくものだ)
しかし、家系も役に立つことがある。そうおもって、妙覚寺本山を出て還俗《げんぞく》するとき、松波家をたずね、いくばくかの金を出して、その系図のはしに、
「左近将監基宗《もとむね》の庶子庄九郎」
と、書き足しておいてもらった。これが、奈良屋で生きたわけである。
(なあに)
そのくせ、庄九郎の心の、もう一つ奥は、ふてぶてしくあぐらをかいている。
(漢の高祖をみろ。氏も素姓も学問もない百姓の子で、若いころは郷里の沛《はい》の町でも鼻つまみの無頼漢だった)
その素姓知れずの無頼漢が、漢帝国をきずいた。その高祖劉邦《りゅうほう》にくらべれば、庄九郎は、学は内外(仏典、漢学)をきわめ、兵書に通じ、武芸は神妙に達し、舞、音楽をやらせれば、公卿《くげ》もおよばない。これほどの才気体力があって天下をとれぬことがあろうか、とおもっている。
(が、いっぺんには天下はとれぬ。千里の道も一歩からだという。まず奈良屋の巨富をねらうことだ)
そう考えて、神妙にすわっていた。
その刻限、奈良屋の塀《へい》ぎわに立った旅の老僧がある。
竹の根の杖《つえ》をつき、笠《かさ》をあげて、いぶかしげに、奈良屋の門、塀、土蔵の一つ一つをなめるようにながめていたが、やがて、
「赤気《しゃくき》が立っている」
といいすてて立ち去ろうとした。
奈良屋の屋根から、その上の天へ赤い気が立ちのぼっているというのである。
店の者がききとがめて追いすがると、
「お前の眼には見えまい」
と網《あ》代笠《じろがさ》のなかからいった。
「それは瑞兆《ずいちょう》でございますか、凶兆でございますか」
「瑞兆である」
そのまま、去った。
店の者が邸内へ駈《か》けこみ、それを杉丸に伝え、杉丸はお万阿御料人に伝えた。
「赤気が?」
お万阿は、おどろかない。若い女の身ひとつで、奈良屋の身代を動かしているほどの女である。
化粧をしながら、
「そのお坊さん、ゆうべの見残しの夢でもおもいだしたのでしょう。それとも、暑さで気が狂《ふ》れているかしら」
といったが、やはり気にかかるのだろう。
「朝から、かわったことはなかった?」
「いいえ。荷出し、売り子の手くばり、永楽《えいらく》銭《せん》の蔵積み、みないつものとおりで、判で押したように、昨日、おとといのとおりでございます」
といってから、あっ、といった。
「変わったことと申せば、あのご牢人様ではありませぬか。あの方は西ノ岡の名族で松波……」
「それは先刻ききました。杉丸、お前は若いから、人を信じやすい」
「はあ、……しかし」
杉丸は、あの牢人の血統をきき、かつ異風な容貌《ようぼう》をみただけで、
(これは貴種だ)
と思いこむようになっていた。眼光ただならぬ男だが、柔和な微笑をうかべている。骨格が玉《ぎょく》でできあがっているような、そんな燻《いぶ》されたような光を感じさせる男である。
(このひとが、洛中《らくちゅう》でも人に怖《おそ》れられる青烏帽子の源八をお斬《き》りなされたか)
げんに、手《て》土産《みやげ》として首がふたつ。
ひとつは奈良屋の荷頭の悪右衛門の首であり、ひとつは、青烏帽子である。
(瑞気とは、あの客に)
と、お万阿も、そこは人並である。気になっていた。
(あの客に立ちのぼっているのか、それともあの客がきたために、奈良屋に奇瑞があるのか)
この赤気は、庄九郎こと、のちの斎藤道三にまつわる伝説である。
庄九郎のことだ。あるいは旅の老僧を傭《やと》って、ひと芝居うったのかもしれない。
お万阿は、唐《から》の間《ま》へ出た。
「やあ、庄九郎です」
と、客は笑って立ちあがった。
気合のようなものだ。
お万阿は、その笑顔にひきこまれてしまい、初対面ともおもえぬ親しみをおぼえた。
「わたくし、当家のお万阿です」
と、まず、荷頭の仇《かたき》を討ってくれたお礼をいった。
「それで、御用は?」
「いや、それだけです。悪右衛門と青烏帽子の首をもって参っただけのこと。どうぞご当家において回《え》向《こう》してやってください」
もう立ちあがっている。
お万阿のほうがあわてた。どうせ礼銭せびりだろうとたか《・・》をくくっていたからだ。
「あの」
「いや、いそぎますので」
ふりきって出てしまった。
「杉丸、杉丸」
お万阿は、声をあげた。
「早く追っていってください。あの方は行っておしまいになります」
(云《い》わぬことじゃない)
杉丸は、駈け出した。
残されたお万阿は、ぼう然としている。
(善人とはああいう人をいうのか)
容貌といい、立居振舞といい、そこに残り香《が》がただよっているような人柄《ひとがら》である。
杉丸は、追った。
どこの辻《つじ》へまがったか、もうみえない。
(御料人さまがわるいのだ。気位が高くて、ひとを疑いやすい。だから、せっかくの奇瑞のある人を、うしなってしまった)
ついに見あたらなかった。
「さがすのです」
と、お万阿は、手代ぜんぶに命じた。
ただ、一つの手がかりがあった。
数《じゅ》珠《ず》である。
客が、置きわすれていた。
(みごとな)
と声を呑《の》むような美しい数珠で、玉は百八つの帝釈青《たいしゃくせい》である。
数珠は、宗旨により、また本山によってちがう。
お万阿は、手代に、各宗の本山をたずねまわらせたが、存外、これに手間がとり、数日もかかった。
(京には、お寺の多いこと)
あらためておどろくおもいだった。
「これは日蓮宗本山の妙覚寺の僧がもっているものだ」
とわかったのは、十日後である。
「まあ、よかった」
そのころには、お万阿の庄九郎への想《おも》いがふくれすぎるほどにふくれあがっている。
想い、といっても、恋情ではない。
敬慕、というべきだろう。が、女の場合、恋情との境目が、あいまいである。
(ゆかしいひとだ)
ともおもい、
(ひょっとすると、人間ではなく、神仏の化《け》身《しん》があのとき顕《げん》じなされたのかしら)
とまで、夢想した。赤気の一件が、それならば符合するではないか。
杉丸は、妙覚寺本山をたずねた。
この寺は、現今《いま》でこそ烏丸鞍《からすまくら》馬《ま》口《ぐち》の西のほう、わずか一万五千坪の敷地にひっそくし、塔頭子院《たっちゅうしいん》もほとんどない状態だが、杉丸がその大山門に入って行ったこの当時は、衣棚押小路にあり、境内をとりまく塔頭は百余、城郭のような法城である。
「もうし、松波庄九郎さまという方が、御《お》檀《だん》越《おつ》のなかにいらっしゃいませぬか」
と、杉丸は、境内にある百余の塔頭子院を、一軒々々きいてまわった。
二十三軒目が、竜華院《りゅうげいん》である。
庄九郎の兄弟子が、住持をしている。
「ああ、法蓮房《ほうれんぼう》のことか」
と、旧名でうなずいてくれた。
「そこもとは、何の用だ」
当時の本山の塔頭の住持というのは、現今《いま》のようなものではない。現今《いま》でいえば、その社会的地位は、旧帝大の教授以上とおもってさしつかえないであろう。
杉丸は、事情を説明した。
「ああ、そうか。その俗名松波庄九郎なら、奥にいる」
「へへっ」
杉丸は、一室に通された。
庄九郎が、出てきた。
その姿をみたとき、
(ああ、探し甲斐《がい》があった)
と、泣きだしてしまいそうになった。事実杉丸は、
「松波庄九郎様」
といったきり、顔が畳からあがらず、体のふるえがとまらなかった。
考えてみると、妙なものだ。奈良屋の大身代からみれば、小虫のような素牢人である。それがなぜ、これほどまでにありがたいのであろう。
「久しぶりだな」
「おさがし申しあげました。庄九郎さまは、なぜ奈良屋に左様に情《つれ》無《の》うなされまする」
「情無うした覚えはないが」
笑っている。
「と、とにかく、松波庄九郎様。手前とともに奈良屋にお足を運んでくださるわけには、参りますまいか。あるじの御料人が、御礼を申しあげたいそうでございます」
「ならんな」
微笑のままだ。
杉丸は、はっ、と気づいた。奈良屋の御料人が、じきじきこの竜華院へ足をはこんでくるべきであった。
「わ、わかりました」
「杉丸」
茶が運ばれてきた。
「ちかぢか、備前へ荏胡麻《えごま》を運《ひ》きにゆくそうだな」
「へっ、そのことで、いま店は大騒ぎでございます。なにしろ、車借《しゃしゃく》、馬借《ばしゃく》、店の手代、それに護衛の牢人衆を入れて八百人の大人数になりまするが、それを宰領する大将の悪右衛門どのが」
「死んだな」
「へい。なにしろ、山城《やましろ》、摂《せっ》津《つ》、播磨《はりま》、備前、四カ国の境をこえてばく大な金品を運びますゆえ、途中、山賊、野伏《のぶせり》の難が絶えませぬ。よほど強い大将に宰領してもらわねば……」
「杉丸」
庄九郎は、茶をのみながら、
「じつは、わしは播磨、備前を見聞したいとおもい、旅の用意をしている。なんなら、わしが荷駄《にだ》の群れを護衛してやってもよいぞ」
「あっ」
驚くのが当然である。
松波庄九郎というほどの人が、わざわざ手を汚して奈良屋の荷駄隊の隊長になってやろうというのだ。
「ま、まことでござりまするか」
思わずにじり寄ったが、よく考えてみれば名もない素牢人である――とは杉丸はおもわなかった。
「まあ」
と、お万阿も、報告をきいて驚いた。
「本当?」
「う、うそではござりませぬ。ありがたくも松波庄九郎様がご宰領。奈良屋の荷駄は、日本一でございます」
お万阿は、多額の金銀、帛《きぬ》などを杉丸にもたせて、さっそく、竜華院へ行った。
竜華院の奥で待たされているあいだ、胸の鼓動が尋常でなかった。
恋人を待つような気持である。
運さだめ
(真実の悪人とは、九天に在《ま》す諸仏諸菩《ぼ》薩《さつ》のごとく荘厳きわまりないものだ)
そう、松波庄九郎は信じている。
(おれもそういう悪人になりたい)
庄九郎は、竜華院の奥座敷でお万阿をまたせているあいだ、本堂で寝そべっていた。
本堂の須《しゅ》弥《み》壇《だん》のむこうに、金色燦然《こんじきさんぜん》たる釈《しゃ》迦牟尼《かむに》仏《ぶつ》が庄九郎を見おろしている。
(本尊《ほんぞん》よ)
と、庄九郎はその金像によびかけた。
(お前はおれを知っているだろう。こどものころからこの寺で養われた者だ。稚児《ちご》のころは峰丸といった。かがやくばかりの美童であったぞ。長じて坊主となり、法蓮房といわれた。いやもう、本尊よ、お前には、華を献じたり、閼伽《あか》(古代インド語・水のこと)をくれてやったり、法華経をあげてやったり、さんざん世話をしたものだ。その恩を感ずるならばこんどはお前のほうがおれのために仕えよ。力をあたえよ)
(とりあえず)
と、庄九郎は祈るのだ。
(あの奈良屋の後家をわがものにしたい。利口なおなごゆえ容易にはなびかぬであろう。そこをなびかせて奈良屋の身代をわがものにする。――しかし釈迦牟尼仏よ)
庄九郎は、手枕《てまくら》のまま眼をあげた。
(これは私慾にあらず。いやさ私慾かもしれぬが、わしの慾は奈良屋の身代どころにとどまってはおらぬ。一国一天下を望もうとする者だ。法華経を持《じ》する者は、その願い何事か成就《じょうじゅ》せざるべき、と申すではないか。それがまことならば、釈迦牟尼仏よ、わが家来となってはたらけ)
庄九郎、一礼もせずに本堂を去った。
この男、衣裳《いしょう》は先夜のような野伏まがいの見ぐるしいものではない。
麻地に、大輪の天竺《てんじく》牡《ぼ》丹《たん》の模様を染めた真新しい素《す》襖《おう》に、いやしげでないこしらえの脇《わき》差《ざし》、それに金梨《きんなし》地《じ》の鞘《さや》の大刀を手にもち、あたまには烏帽子《えぼし》をいただいている。
みな、借り着である。
この妙覚寺のむかしなじみの坊官から、わずか半日という約束で借りたものである。仏像に金を塗ってその荘厳を増すがごとく、悪にも装束《しょうぞく》が必要だとこの男はおもっていた。
廊下を通った。
奥座敷のふすまを、からりとひらいた。
「おまたせした」
と、庄九郎はいった。
(あっ)
と、お万阿は、息をのんだ。
(なんと涼やかな殿御。……)
庄九郎は着座した。
お万阿は、声も出ない。
「どうしました」
「いえ、もう、どうしたことでしょうか、体がふるえてなりませぬ」
「じきになおる」
庄九郎は、懐中から金襴《きんらん》の小さな袋をとりだした。
(ああ、唐渡りの……)
またおどろかされた。金襴という錦の一種は、堺湊《さかいみなと》に入るシナの貿易船がもたらすのみで、まだ日本ではつくられてはいない。お万阿は商家の御料人だけに、この錦がいかに高価なものであるかよく知っていた。
庄九郎、むろんこれも借りもの。
この小袋に包んだ壺《つぼ》のなかから丸薬を一つぶとりだし、
「心気が晴れます」
と服《の》ませた。この薬だけは庄九郎のものである。が、べつに高貴薬でもなんでもなく、橘《みかん》の皮や木皮を煮つめてかためただけのもので、利尿ぐらいにはきくであろう。
しかし庄九郎の口から、
「効く」
といわれれば、お万阿はひどく効くような気持になり、事実、のんでほどなく胸に涼風が通るようにさわやかな気分になってきた。
「ああ、気持がよろしゅうございます」
「はあ、そうですか」
庄九郎は、にこりともせずにうなずいた。薬を与えたのは、自分の魅力をためしてみたかっただけのことであった。
試してみたかったことは、それだけではない。京の名ある女のなかでも利口者で通っているお万阿が、どんな性質かを知りたかったのである。
(案外、ものに惚《ほ》れやすいたちであろう)
しかし、美しい。
色が白磁のように白く、黒くぬれている瞳《ひとみ》が、よく皮膚に似合った。唇《くちびる》がやや厚ぼったいのが顔の整いをこわしているが、かえってそれが、お万阿の容色を温かくしている。
お万阿は、内心、気が気ではなかった。
はじめは、京のあちこちに屯《たむ》ろして飢えすさんでいる素《す》牢人《ろうにん》程度にしかおもっていなかったのだが、衣裳といい、持ちものといい、むろん人品骨柄《こつがら》といい、これほど立派な人物をお万阿はみたことがない。
(礼物《れいもつ》が、粗末すぎた)
はずかしい。
いや、実は粗末どころではなく、白綾《しろあや》の小《こ》袖《そで》と多少の金銀をもってきているのだが、いまあらためて見る松波庄九郎には粗末すぎるであろう。
「あの、杉丸」
と、お万阿は、手代の杉丸に眼顔で合図した。
白木の三方が二基。
それを杉丸がしずしずと捧《ささ》げて、庄九郎の前においた。
「あの、松波様。先日、悪右衛門の仇をお討ちくださいましたお礼の、これはほんのしるしでございまして」
「左様か」
庄九郎は、かるく一礼した。
「ありがたく頂戴《ちょうだい》いたします。しかしどういうものであろう、わしも仏縁ある者、しかもここは日蓮宗本山の一つ妙覚寺でござる。この財物を、当山に布施《ふせ》したいが」
「布施?」
「自分の財物を他人にあたえることは、仏法では布《ふ》施行《せぎょう》といわれ、六《ろく》波羅《はら》蜜《みつ》の一つで非常に功《く》徳《どく》のあるものです」
と、寺の僧や坊官をよび、ことごとくあたえてしまった。もっとも与えるのは当然で、庄九郎にとっては衣裳や座敷の借り料であった。
しかしお万阿は、
(あっ)
と、三度目のおどろきに堪えていた。この男は生身《しょうじん》の菩薩なのか。なんという無慾な男なのであろう。これほどの無慾な男が、天下ことごとく餓鬼道に堕《お》ちて肉親相《あい》食《は》む戦乱をくりかえしているこの世に居ようとはおもわなかった。
(大慾の前には、小慾は殺すべし)
と、庄九郎。
泰然と、庭に視線を遊ばせている。
「毎日、暑いことですな」
「あの、庄九郎様。備前まで、奈良屋のために行ってくださるというのは、まことでございましょうか」
と、お万阿が訊《き》いた。
例の隊商八百人を率いてゆく護衛隊長のしごとのことだ。
「もったいなすぎて、奈良屋はばち《・・》があたります。松波庄九郎さまは、あきんど風《ふ》情《ぜい》の荷頭になるようなお方ではございませぬ。国主守護の侍大将にもふさわしい……」
「いやさ、私は好きでゆくのだ」
庄九郎は、面倒そうに眉《まゆ》をひそめてその会話をうち切った。
松波庄九郎の率いる奈良屋の隊商八百人が京を発《た》ったのはこの年永正十四年(一五一七年)の夏がすぎようとしているころである。
庄九郎は、馬上。
甲冑《かっちゅう》、陣羽織をはおっている。お万阿が贈った装束であった。
京を出て初《はつ》の泊りは、
山城《やましろ》の山崎
であった。
この里に鎮座する山崎八幡宮《はちまんぐう》は、社領こそわずかだが、油の専売権をもっていて、この八幡宮のゆるしがなければ、油を売ることも、原料の荏胡麻《えごま》を産地から運んでくることもできない。
近国、遠国の油屋どもは、金銀を八幡宮におさめて製造、販売の権利を買いとるのである。その権利も一年かぎりのもので、翌年になるとまた金銀をおさめねばならない。
そのため、山崎八幡宮は、なまなかな大名よりも富強で、境内の蔵々には金銀がうなりをあげているといわれた。
神社は、武装した神《じ》人《にん》(寺の僧兵にあたるもの)を数百人も養い、勝手に油を売る者があれば、遠国までも押しかけていって、店をこわした。
余談だが、――
現在《いま》も、山崎八幡宮(離宮八幡宮)は、東海道線京都・大阪間の「山崎駅」の西裏にある。背後に天王山を背負い、前に淀川《よどがわ》の流れをひかえているが、いまは境内も縮小し、参詣者《さんけいしゃ》もほとんどなく、村の鎮守《ちんじゅ》といったかっこうになってしまっている。神官は、庄九郎のころとおなじ津田氏の世襲で、当主津田定房氏は四十六代目である。
むろん、ここが荏胡麻油の専売権をもっていたのは戦国時代までで、こんにち往年の盛大さをしのぶよすがもないが、ただおもしろいことに、東京油問屋市場、吉原製油、味の素、昭和産業といった全国の食用油の会社、組合が、いまなお氏子になっている。
庄九郎は、この山崎八幡宮から、許可証がわりの「八幡大菩薩」の旗一旒《りゅう》、それに関所手形などをもらい、翌朝、出発した。
西国《さいごく》街道を西へ。
摂津郡山《こおりやま》
同 西宮《にしのみや》
同 兵庫
播州明石《ばんしゅうあかし》
と、泊りをかさねてゆく。
「庄九郎さま。大事がござる」
と、腹心の赤兵衛が馬を寄せてきたのは、播州平野も尽きて、ようやく備前国境いの山岳地帯にさしかかろうとしているときである。
「なんだ」
眼をほそめた。馬上でゆられていると、坂から吹きおろしてくる風が、眠気を誘われるほどここちよい。
「ただいま、斥候《ものみ》が帰って告げましたるところによりますと、このさきの有《う》年峠《ねとうげ》」
「ああ、有年峠」
そこで野営をするつもりである。
「どうやら、その峠の山砦《さんさい》に拠《よ》る有年備中守《びっちゅうのかみ》と申す小名《しょうみょう》が、われわれの荷駄《にだ》の金銀永楽銭を襲い奪《と》るつもりか、しきりと人数を出没させている様子でございます」
「そうか」
すぐ、隊をとめた。
すでに山中で、陽《ひ》はもう一刻《にじかん》すれば暮れおちるだろう。
暦では、今夜は日没からほどもなく満月がのぼるはずであった。夜間の行動には、たい《・・》まつ《・・》は要るまい。
「赤兵衛、お前は荷駄を連れてこのまま有年峠へのぼれ」
「護衛の牢人も連れずに?」
「おうさ、お前は餌《えさ》になるのよ」
「庄九郎様は?」
「思うことがある」
庄九郎は、荷駄隊のなかから、弓、長《なが》柄《え》、槍《やり》をもった百人の牢人をひきぬき、自分も馬を捨てて、徒歩《かち》になった。
「どうなさるのです」
と、赤兵衛が不《ふ》安《あん》気《げ》にたずねた。
「油屋が、賊になるのさ」
「わしはどうします」
「餌だよ」
庄九郎は、近在の猟師をつかまえて、このあたりの山谷の地図を訊《き》いた。
それによると、若狭野《わかさの》、真《ま》殿《どの》、黒鉄山《くろがねやま》をむすぶところにキコリ道があって、有年の山砦の搦手門《からめてもん》に出るという。
庄九郎は、全員に用意の白布を肩からかけさせて夜の目じるしとし、
「よいか、逃げる者は斬《き》る」
ぎらりと、刀をぬいた。
庄九郎が、「日蓮上人《にちれんしょうにん》護持の御太刀」と称している数珠《じゅず》丸恒次《まるつねつぐ》二尺七寸、常人にはあつかいかねるほどのながいものである。
むろん偽《ぎ》物《ぶつ》だ。
(日蓮上人がもっていたという数珠丸恒次はむかし身《み》延山《のぶさん》久《く》遠《おん》寺《じ》の寺宝とされていたが、その後転々とし、いまは兵庫県尼崎市の本興寺におさまり旧国宝である。庄九郎のもっていた刀はおなじ作者の青江恒次にはちがいないが、数珠丸であったかどうかはうたがわしい)
地《じ》肌《はだ》が青く、沸《にえ》がつよく、いかにも庄九郎の佩刀《はいとう》らしく凄《すご》味《み》がある。
「見たか。触れずとも三寸むこうは太刀風で斬るという刀だ」
といいながら一たん鞘《さや》におさめ、一同の注意が刀から離れたころあいを見はからって再び、抜き打ちに鞘走らせ、
きらっ
と空《くう》を斬って、鞘におさめた。
たしかに、空を斬った。が、そばで枝を繁《しげ》らせていた樫《かし》の十年木が、しずかに天を掃いて倒れたのである。
(…………)
みな、青ざめている。恐怖というよりも、松波庄九郎という大将の、人間ばなれした通《つう》力《りき》に感じ入ったのである。
(これは頼むに足る)
と一同はおもったであろう。
庄九郎としては、無名の素牢人が、一隊の首領として指揮するには、この程度の小細工は必要なことであった。
みな、庄九郎を見る眼がちがってきた。
「わしについてくれば戦さは勝つ。砦《とりで》には財宝がある。わしは一物も奪《と》らぬゆえ、すべて汝《うぬ》らのものぞ」
やがて、庄九郎の隊は、山中に消えた。
この有年峠の一帯千石ばかりを領している有年氏というのは、かつての播磨《はりま》一国の大名赤松の支族《わかれ》である。
赤松氏といえば足利《あしかが》幕府の大大名であったが、いまは一族、家臣に領地を食いあらされてほろんだも同然となっており、一族のうち、別所氏が東播州をおさえ、小寺氏が、西の姫路一帯をおさえているが、あとは地侍《じざむらい》程度が各村各郷に割拠してたがいに小ぜりあいをつづけているのが、現状だった。有年氏も、そうした土豪の一つである。
当主は有年備中守という。
「山賊同然の男さ」
庄九郎は、山陽道の土豪の性質を、京でつぶさにしらべあげている。
奈良屋の荷駄が、この男に襲われたことも数度あった。
「庄九郎様、有年峠をこえるときだけはご注意あそばしますように」
と、奈良屋のお万阿もいった。
(逆に襲ってやろう)
と、庄九郎は京を出るときから、その心支度をしていたのである。
やがて庄九郎の隊は黒鉄山にのぼり、月下の尾根道を北に駈《か》けて、有年砦のうしろの崖《がけ》の上に出た。
「みろ」
と、一同にのぞかせた。
眼の下、わずか二丈の山腹に、柵《さく》を組んだ城砦がうずくまっている。
「見たか」
「たしかに」
と、一同うなずきあった。
「砦を見たならば、この砦のさらにむこうをみろ」
もう一段、崖になっていて、その下を山陽道が通っている。その路上に、
篝火《かがりび》
たいまつ
大焚《おおたき》火《び》
といった火の群れが燃えさかっている。
「あれが、赤兵衛らの荷駄組だ。おおかた、寝支度をしているのだろう」
「うかがいまするが」
と、牢人の一人が、小声でいった。
「この眼の下の砦には、いっこうに人の気配がいたしませぬが、どうしたことでございましょう」
「空き城さ」
「えっ」
「たったいま人数が出はらったあとだ。この砦の連中は、むこうの崖から街道にとびおり、奈良屋の荷駄をねらうつもりだろう。そうと見込んで、わしはここまできている」
降りろ、と庄九郎は命じた。
百人が、虫の這《は》いおりるように、ぞろぞろと崖をおりはじめた。
途中、つかんでいた草の根が抜けて、崖下へ落ちる者がある。
が、それらは、下に植えこんである削《そ》ぎ竹《だけ》や、鹿砦《ろくさい》に、胴、頸《くび》を突き刺されて、声も立てずに即死した。
庄九郎は、地上におりると、それらのあいだを用心ぶかく擦《す》りとおって、柵にとりついた。
柵を越えた。
(南無妙法蓮華経……)
と、つい題目のくせが出た。
庄九郎は、この有年砦に、なんの野心もない。ただ、合戦をしてみたかった。
つい前年までは、妙覚寺本山の学生《がくしょう》にすぎなかった庄九郎には、むろん、合戦の経験などはない。
(しかしおれには、天稟《てんぴん》の武略がある)
そう信じている。
その才能を試したかった。というより、自分の一生の運を占うつもりであった。
(もし失策《しくじ》れば坊主にもどる。もし奪れればおれの一生は吉運といっていい)
月が、たったいま降りたばかりの崖の上にのぼった。
庄九郎の影。――
悪鬼に似ている。
小《こ》 宰《ざい》 相《しょう》
風が強い。
(焼くには好都合じゃな)
と、松波庄九郎。
頭上に月がある。
庄九郎はわが影を踏みつつ、長槍《ながやり》を小わきにかかえ、ゆうゆうと有年備中守の城館に足を入れた。
(存外な)
小造りである。
板ぶきの粗末な屋根で、京の大寺を見なれた庄九郎の眼には、田舎じみて拍子ぬけがした。
(人はおらんか)
おれば突き殺すつもりでいた。わが武芸の試しどころであろう。
(南無妙法蓮華経……)
ついこのあいだまで法《ほっ》華《け》坊主の法蓮房《ほうれんぼう》であった庄九郎は、人などは殺そうともおもわなかった。しかしいまは殺すべきである。わが力をためすためには。――
(おらんか)
ふすまを、びしっ、びしっ、とひらいて行った。
その奥に、金箔《きんぱく》を押した豪華なふすまがあり、磯《いそ》の松が群青《ぐんじょう》でえがかれている。
からっ
とあけると、眼いっぱいに黒々とした板敷がひろがり、そのすみに綾絹《あやぎぬ》の几帳《きちょう》が垂れていた。
(居る、人が。――)
槍の穂でかきあげてみると、たれもおらずただ掻巻《かいまき》にぬくもりが残っていた。女のにおいである。
(なんだ、女か)
そのとき、屋内のあちこちで、庄九郎の手下たちの騒ぎがはじまった。財物を奪いあう声、廊下を駈《か》けちがう足音、杉《すぎ》戸《ど》をこわす物音、それにまじって、つんざくような悲鳴がきこえた。
(女を犯している)
庄九郎は、顔色も変えない。庄九郎の哲学では、女は犯されるために存在するものではないか。
ふと、板敷のすみでものの気配がした。
「たれだ」
と、庄九郎は槍をみじかく構えて板の上をすべって行った。
「あっ」
と物影が立ちあがろうとしたときには、庄九郎が背に手をまわして抱きよせている。
部屋は、暗い。
(児《こ》小姓《ごしょう》か)
とおもい、念のため手を股間にさし入れると、女であった。下腹から恥所にかけて、掌《てのひら》でおおえば溶けそうになるほど柔肉《やわじし》が隆起しているが春草が生《お》いきるまでにはいたっていない。年のころ、十五、六であろう。
「備中守殿の奥方か」
といった。指が、濡《ぬ》れはじめている。
「それとも、側室か」
「…………」
女は、ふるえている。
じつのところ、僧房で成人した庄九郎は、女の秘所にふれたのはいまがはじめてであった。
男色《しゅうどう》は心得ている。寺稚児《ちご》のころは坊主どもに抱かれもしたし、学生《がくしょう》になってからは眉《み》目《め》のよい稚児を抱きもした。恋情ということも恋の駈けひきも、そういうことでは知りぬいていた。いや、その道でも松波庄九郎は達人芸といってよかった。妙覚寺本山のころは、寺に五十人ほどいる稚児たちがみな法蓮房庄九郎に抱かれることを誇りとし、ある者などは焦《こ》がれ死ぬばかりの恋文をよこしたりした。
(この道の芸も情《じょう》も、相手が女であろうが男であろうが、かわることはあるまい。おなじ手《て》管《くだ》、おなじせつなさ、おなじ恨みが、女色にも男色《しゅうどう》にもある)
だが、女は知らない。
奈良屋の後家お万阿《まあ》の身と心を奪ってその巨富を得ようとは志を立てたものの、これほどの庄九郎が、女の秘所に手を触れるのはいまがはじめてであった。庄九郎、抜けめがないようでもかんじんなところで抜けている。
(妙な手ざわりのものじゃな)
庄九郎が知っている男のそれは、前のそれも後ろのものも、いずれもカリリとした筋肉のきびしさを感じさせる。しかし女のそれは、どこまで触れて行っても粘膜でしかない。
(女とは、かようなものであるのか)
庄九郎は、感嘆した。
というより、こういうことも知らずに、奈良屋の後家を蕩《た》らし込もうとはなんという無謀さであったか。
われながら、おかしくなった。智恵で女《・》を知っていたにすぎないのであろう。
「あっ、おゆるしくださりませ」
女は、身もだえた。
「おお、なぜ悶《もだ》える」
坊主あがりの庄九郎にはわからない。
「なぜ悶えるのだ」
疑問は突きとめぬと気のすまぬたち《・・》であった。
「云《い》え」
いえやしない、と、女が気が強ければがな《・・》り《・》たてるであろう。庄九郎の長い指が秘所の内陣にまで触れてしまっている。
女は、唇《くちびる》を噛《か》んでいる。唇から血が流れていた。口惜しいのか。それとも。――いや庄九郎には、まだそこのところがわからなかった。
「どうせよ、というのだ」
「せよ、とは申しておりませぬ。するな、と申しておるのでございます」
と、女はようやく口がきけるようになったらしい。
眼が、きらきらと怒りに燃えている。
「そうか」
庄九郎は、解《と》きはなってやった。
女は、白い脛《はぎ》を動かせて後じさりしながら、
「下《げ》郎《ろう》の身で、わたくしに触れてはなりませぬ」
と、つめたくいった。庄九郎が自分を好《す》いた、とみて、にわかに自信と落ちつきをとりもどしたのであろう。
そういう心の動きは、稚児の道で庄九郎はよく知っている。
びしっ
と女の頬《ほお》をたたいた。
女は、横倒しに倒れた。むざんなことに、頭をはげしく板敷で打ちつけたらしい。
「思いあがるものではない」
と庄九郎はいいながらなんとなくやさしく女を抱きおこしてやった。しかもそのやさしさ、声《こわ》音《ね》まで舐《な》めるようである。女はむしろ、殴打されたよりも、相手のにわかな変化のほうが、衝撃が大きかったであろう。
「女」
と庄九郎はいった。
「おれには志がある。余計な女は抱かぬ。抱けといわれても抱かぬ。そこもと、思いあがって侮《ぶ》蔑《べつ》したゆえ、打擲《ちょうちゃく》を加えた。おれは侮蔑には堪えられぬ男だ。二度とあのような口をきくと、ゆるさぬぞ」
「あっ」
と女が驚きの声をあげた理由は、ばかげている。庄九郎を貴人とおもったのだ。貴人が野盗をつれて押しこんでくるはずがないのだが、女の頭とは、もともと脈絡のつかぬように生まれあがっている。
「あなた様は、何とおおせられます」
「松波庄九郎さ」
「―――?」
聞いたことのない名である。
「あっははは、不審なのも当然じゃ。いまは無名である。しかし後に、天下におれがあるということを、どこぞで聞くであろう」
歩きだしてから、ふとふりかえって、
「女、礼をいう」
と、思いだしたようにいった。
礼とは、先刻の一件であろう。坊主あがりの庄九郎は、はじめて女のその場所がどんなものであるかを知った。
(稚児とはちがうな)
あたりまえである。が、知識とはあたりまえのことを眼と手で知ることだ。
学問をした、と庄九郎はおもっている。これだけは、京洛《けいらく》随一の学問寺である妙覚寺本山でも教えてくれなかった。
このときの女、――庄九郎こそ知らなかったが有年備中守の側室で、
「小宰相《こざいしょう》」
とよばれた女である。京から都落ちして姫路の小寺氏に寄食している公卿《くげ》綾小路中納言《あやのこうじちゅうなごん》の娘で、ちかごろ有年備中守の妾《めかけ》として売られてきた。
当節、公卿は娘を売って生きている。
庄九郎は、高欄へ出た。
架木《ほこぎ》(手すり)につかまりながら下をのぞくと、そのまま、崖《がけ》である。
崖は垂直に切りたち、やがて段をなし、さらには裾《すそ》に石垣を積み、ついには街道へ落ちこんでいる。
街道には、赤兵衛が、庄九郎のかわりに指揮している荷駄《にだ》隊が寝支度をしていた。
その荷駄隊。
庄九郎の戦術では、敵への餌《えさ》であった。
(かならず、有年は襲うぞ)
それを待っている。
ただ待っているだけではなく、すでに掠奪《りゃくだつ》に倦《あ》いた手下の牢人《ろうにん》衆に、わら《・・》をかつぎこませていた。
屋内に積ませていた。
(来たっ)
庄九郎は、高欄をたたいた。胸が躍った。かれの合戦の人生はこの瞬間からはじまるのであろう。
街道の東西。
その東西から、
「わああっ」
と鯨波《とき》の声があがって、荷駄を掠奪すべく有年の人数がはさみうちをかけてきたのである。
馬上の者もいる。
長《なが》柄《え》の刃が、薄野《すすきの》の穂みだれのようにかがり火にきらめいた。
(赤兵衛、遁《に》げろ)
庄九郎、心中でどなったが、路上の赤兵衛はさすがに庄九郎の胸三寸を心得ている。
人夫をはげましつつ、山へ駈けのぼる者、敵の人数をかいくぐって、逃げる者、まったく、蜘蛛《くも》の巣袋をやぶって子を散らしたような光景であった。
有年備中守の人数も、殺戮《さつりく》が目的ではない。
奈良屋の荷駄がめあてである。車の上には永楽銭が、叺詰《かますづ》めで積まれている。
「おい」
と、庄九郎はふりかえった。
「館《やかた》に火をかけろ」
「へっ」
と、手下どもが駈け去った。
みな、館じゅうを駈けまわっては、火攻めの急所、急所に炎を噴きあがらせた。
炎は天井《てんじょう》を突きやぶった。
やがて火は板ぶきの屋根を噴きぬき、山風にあおられながら、
轟《ごう》っ
とすさまじい音をたてはじめた。
(図にあたった)
庄九郎は、崖の下をのぞきこんだ。
路上で掠奪にとりかかっていた有年の人数は、山上の火災に動顛《どうてん》した。
もはや、荷駄どころではない。
(素破《すわ》? 夜討か)
とおもったのであろう。この播州《ばんしゅう》と備前境では、年中、小土豪の小ぜりあいが絶えなかったからだ。
有年衆は、路上の荷駄をすてて東へ走り、右衛門坂とよばれる城砦《じょうさい》への山道をのぼりはじめた。
(予測のとおりだ)
庄九郎は身をひるがえして、火炎のなかをくぐった。
途中、ふと気づいて例の板敷の部屋を駈け通った。
火が天井に這《は》い煙がもうもうと渦《うず》をまいて、なかの様子がわからない。
(おらぬ。――)
庭へとびおりた。
柵《さく》を越え、搦手《からめて》の崖にとりついた。
かねての手はずどおり、牢人どもはひと足さきに崖を這いのぼって、すでに崖の上で庄九郎ののぼってくるのを待っている。
庄九郎は、木の根、草、岩角をつかんで、尺一尺、身を持ちあげて行った。
崖のなかごろまできたとき、不意に体が重くなった。ずり落ちそうになった。足をつかんでいる、――誰かが。
「はなせ」
槍は左手にある。それを一たん空に突きあげ、まっすぐに突きおろそうとした。
「待って」
小宰相であった。炎に追われて、ついに崖にとりついたものだろう。
(こいつか)
槍の手を、とめた。
が、庄九郎の右手につかんでいるのは、榊《さかき》の若木である。根は、靱《ねば》くはあるまい。その根に、ふたりの体重がぶらりと吊《つ》られている。
根が切れれば、墜死する。女の命はいい。これから天下を狙《ねら》おうとする松波庄九郎の命が、このまま、その野望とともにこの地上から消え去るではないか。
「女、手をはなせ」
と、庄九郎はいった。
「放して、死ね。おれが法《ほ》華経《けきょう》を念誦《ねんじゅ》してやるゆえ、安んじて死ね。わが唱える法華経の功《く》力《りき》により、お前はたちどころに仏《ぶつ》子《し》となり、淳善地《じゅんぜんち》(寂光浄土)に生《しょう》ずることができるであろう」
「厭《い》やっ」
女は必死でいった。
「松波庄九郎様、もし私を見ごろしにすればあなた様は、地獄に堕《お》ちまするぞ」
「地獄?」
庄九郎は、いった。
「わしは妙法蓮華経(法華経)を念持しているゆえ、地獄にはおちぬ。日蓮という昔の坊主はそう申した。――もっとも」
星を見あげながら、
「わしは日蓮よりえらいゆえ、地獄に堕ちようが堕ちまいが、屁《へ》ともおもっておらぬ」
「放さぬ」
小宰相はますますしがみついてきた。
庄九郎は、閉口した。なまじい、この女とは先刻の「縁」がある。あの「縁」がなく、見知らぬ者ならば、庄九郎は法華経を念誦してやりつつ蹴《け》落《おと》したであろう。かくてありがたい仏国《ぶっこく》土《ど》に生まれかわらせてつかわせたであろう。
しかし、「縁」を持った。
哀憐《あいれん》がかかった。
(おなごとは無用の縁を持たぬことよ。奈良屋の後家のごとく利《り》益《やく》ある縁ならばよいが、金輪際《こんりんざい》、役にもたたぬ縁をもたぬことだ)
庄九郎、一つ学問をした。
「なあ、女、救ってとらせる。ただしおれは後悔しながら、お前を救うのだが、それでも救ってもらいたいか」
「もらいたい」
女は、鬼女のような顔をあげて、いった。
「仏国土に生まれたくはないか」
「ない」
庄九郎は、覚悟した。左手の槍を捨てた。
同時に左手は岩角、右手は榊をつかみつつおそるべき膂力《りょりょく》で、二人分の体をもちあげた。
「女、しっかりつかんでおれ」
「はい」
「名はなんというのだ」
「小宰相」
女も必死で庄九郎の右足にしがみついている。一尺、一尺と、体が上へあがってゆく。眼下は、紅《ぐ》蓮《れん》の地獄である。
「小宰相、おれはそこもとの貌《かお》をよくよく見ておらぬのだが、美しいか」
喋《しゃべ》りながら、息も切らさずに庄九郎は悠々《ゆうゆう》とのぼってゆく。
「姫路でもこの有年の里でも、ひとはわたくしを愛《かな》しいと申しまする」
「それは不幸だ」
庄九郎は断定した。断定のすきな男だ。
「なぜでございます」
「普通《ただ》の容貌《かおだち》にうまれついておれば、かような有年の妾にならずに済み、かように火にも追われずに済み、いまこのように崖をのぼらずとも済む。お前は地獄におる。いや崖の上に這いあがってのちの生涯《しょうがい》も、その美貌《かな》しさゆえに地獄が待っていよう。おれがせっかく法華経の功《く》力《りき》で仏国土へやってやろうと申したのに、お前は聞きわけがない」
「…………」
「小宰相、惜しい運をのがしたな」
からからと笑った。
その笑い声をききつつ、小宰相は、
(なんと、わるい男ではありませぬ)
と、意外な思いをした。
やがて崖の上に這いあがった。
這いあがると、庄九郎は人変りしたように無慈悲になり、
「小宰相、消《う》せろ」
と、足蹴りせんばかりにいった。
「あの、わたくしをつれて行ってはいただけませぬか」
「つけあがるな」
背をみせて歩きだした。歩きながら、庄九郎は考えこんでしまっている。たった一度、女の秘所に手をふれただけで、これだけの徒労をした。女とは、男にとってどういう存在なのであろう。
(女は魔道じゃな)
坊主のころに教わった理屈である。が、十歩もあるかぬうちに、庄九郎は小宰相のことは忘れてしまっていた。
「合戦だ」
と手短くいったとき、あたりから手下の牢人どもがばらばらとあつまってきた。
「敵は右衛門坂をのぼってきている。それを上から突き崩すのだ。人数を大きくみせるために、一切声を出すな。松明《たいまつ》はつけるな」
庄九郎、歩きだした。
聳《そび》えるような長身である。実際の身《み》丈《たけ》はさほどでもないが、牢人どもの眼からは、その影が巨人のようにみえた。
京へ帰る
「かかれっ」
松波庄九郎は、坂の上で叫ぶと、みずから牢人どもの先頭に立って、だだっ、と駈けおりはじめた。
かねて、
――夜軍《よいくさ》ゆえ、声を出すな。
――首は獲《と》るな。突きすてて、そのまま坂を駈けおりろ。
と、おしえてある。
さらに、こうも教えた。これは戦国期を通じてあたらしい集団格闘法になったが、松波庄九郎、のちの斎藤道三《どうさん》の創意である。かれは牢人には長槍《ながやり》を用意させていた。
その長槍で、相手をなぐるのだ。自然、相手は、たたかれまいとして槍をあげる。そのスキをぐさりと突く法。
坊主あがりの庄九郎の新工夫である。はたしてそれが、うまくゆくかどうか。
この右衛門坂で、実験してみたかった。
(うまくゆくはずじゃ)
道三、つまりこのころの庄九郎、この男の一生は、創意工夫のあけくれだったといっていい。かれが頼る唯一《ゆいいつ》のものは、自分自身が編みだす工夫以外にないのである。
庄九郎の牢人衆は、槍の穂をそろえ、密集して駈けおりた。
有年《うね》の兵は、駈けのぼってくる。三人に一人は松明《たいまつ》を持っているから、庄九郎のほうにとっては、目標があかるくていい。
その松明をみて、
(ばかな戦さ立てをするものよ)
庄九郎は、軽蔑《けいべつ》した。
有年家といえば、南北朝以来、武門の名家である赤松家の支族だ。いわば戦さでは玄人《くろうと》の家筋であるというのに、その幼稚さ、
(この程度のものか)
と、素人《しろうと》の庄九郎はおもった。
いや、有年家だけがこうなのではない。諸国の武将はたいていこうしたものだ。伝統的なやり方ばかりを踏襲し、それを別なものに変えようとはしない。
いい言葉がある。
西洋の軍人のことばだが、「歴史は、軍人どもが戦術を転換したがらないことを示している」というのだ。職業軍人というものは、古今東西、頑《がん》固《こ》な伝統主義であり、愚にもつかぬ経験主義者である。太平洋戦における日本軍の指揮官が、いったん負けた戦法をその後もくりかえし使って、アメリカ軍を苦笑させた。そういうことをいうのであろう。が、「しかしながら」と、この言葉はつづく。「と同時に、歴史は、戦術転換を断行した軍人が必ず勝つことを示している」
これは余談。――
いま庄九郎は、懸命に坂を駈けおりている。
(南《な》無妙法蓮華経《むみょうほうれんげきょう》、南無妙法蓮華経。……)
唱えっぱなしだ。
やはり初陣《ういじん》というものはおそろしい。
一方、有年勢はやっとそのころになって、坂の上からころげおちるような勢いでやってくる真黒い集団をみた。
「敵じゃあっ」
騒ぎはじめた。
まず、松明をふやそうとする者、兜《かぶと》を背からずりあげてかぶる者、これはまだ落ちついたほうだ。
逃げる者もある。足がすくんだのか、ぼう然と立っている者もある。
が、勇者もいた。
「何某、一番槍をつかまつる。――」
とどなりながら、駈けのぼりはじめた。このころの戦闘は、一番駈け、一番槍、をめざして先頭を切る者にひきずられながら、二番、三番とつづいてゆくやり方である。
庄九郎、
ぱっ、とその男の頭上へ長槍をふりおろした。男はその意外な出方に、
(これは。――)
とおどろいて槍を立てようとしたとき、両腕のつけ根があいた。その具足のすき《・・》間を、
「――っ」
と、無言で庄九郎の槍が突きつらぬいた。
(やった。――)
この戦さではじめての殺戮《さつりく》である。
(存外、容易な)
そうも思ったが、度をうしなってもいた。槍は突くよりも、引くほうが肝要である、槍の穂に重い死体をつけたまま、庄九郎は三、四歩、ずるずると坂をすべった。
その崩れをねらって横合いから太刀をふりかぶってきた者がある。
庄九郎は、槍と死《し》骸《がい》をすてた。
刀を引きぬくなり、真向から相手のカブトを斬《き》った。
切れはしない。
が、おそるべき膂力《りょりょく》だ。相手は、ぐわん、とカブトを叩《たた》かれた衝撃で、気絶をした。
その横を、庄九郎の牢人隊が、槍の穂をそろえて敵を押しはじめた。
わっ
といっせいに槍をふりかぶった。
びしっ、びしっ、と叩きはじめた。ちょうど、嵐に竹のはやしが吹きみだれているようなすさまじさだ。この意外な戦法に、敵は度をうしない、構えもなにも、目もあてられぬ乱調子になった。
とにかく、ふせぐ。
槍をあげる。
自然、腰が浮く。
背が、反《そ》る。
そのつど、庄九郎の牢人隊が、槍をすぐさまに沈め、ずぶっ、ずぶっ、と突いてゆく。
(戦さとは、これでよいのか)
庄九郎自身が、気味わるくなるほどの容易さである。
突きくずしながら、牢人隊は駈けおりてゆく。
その中にまじりながら、庄九郎自身も何人かの敵をその槍先で屠《ほふ》った。
いつのまにか、高声で勤行《ごんぎょう》用の「自我偈《じがげ》」を唱えてしまっている自分に気づかない。素姓はあらそえないものだ。
我此土《がしど》安穏《あんのん》 天人常充満《てんにんじょうじゅうまん》 園林諸堂閣《おんりんしょどうかく》
種種宝荘厳《しゅじゅほうしょうごん》 宝樹《ほうじゅ》多華果《たけか》 衆生所遊楽《しゅじょうしょゆらく》
諸天撃天鼓《しょてんぎゃくてんく》 常作衆《じょうさしゅ》伎《ぎ》楽《がく》 雨《う》曼《まん》陀羅華《だらけ》
散仏及大衆《さんぶつぎゅだいしゅ》 我浄《がじょう》土不毀《どふき》 而衆見焼尽《にしゅけんしょうじん》
「諸天が、天鼓を撃っている」
経文にそんな文句がある。庄九郎は、敵を突き殺しながら、天鼓を撃つ諸天のような、ひどくリズミカルな気持になっていた。
(おれは、やれる)
自信が、庄九郎の心をはずませた。
誦経《ずきょう》の声が、いちだんと高くなった。
路上では、赤兵衛が待っていた。
「赤兵衛、荷駄《にだ》はぶじだったか」
崖下《がけした》の泉で、槍の血を洗いおとしながら、庄九郎はきいた。
「へい、無事で。いったん散った人夫も、すでにあつまっております。しかし」
「ふむ?」
と庄九郎は、赤兵衛を見あげた。
「なにかね」
「いいえ、その」
赤兵衛の顔が、畏《おそ》れと驚きをまじえて、異様にゆがんでいた。
「庄九郎様、あなたさまは戦さがお上手でござりまするなあ」
「ただの坊主くずれではあるまい」
「赤兵衛は、今夜こそ、あなた様につき従うてよかった、と思いました。やはり、わしも妙覚寺本山の寺男していた冥加《みょうが》があり、毎夕、耳にしていた法華経の功《く》力《りき》が、しらずしらず身に降りつもったのでござりましょう」
「ばかばかしい」
庄九郎は、手の滴《しずく》をきって立ちあがった。
「おれのような悪人の家来になれたことが法華経の功力か」
「左様。なにごともこの経は現《げん》世利《ぜり》益《やく》」
「あっははは。南無妙法蓮華経」
どうもこの主従《しゅじゅう》は抹香《まっこう》くさい。
やがて、荷駄隊の隊列がそろい、護衛の牢人隊の人数もそろって、総勢八百人は、車のわだち《・・・》の音も高く、有年峠をくだりはじめた。
「有年の人数は追ってきませぬか」
「来まい」
庄九郎に、自信がある。
あの敵の人数のなかに、たしかに有年備中《びっちゅう》守《のかみ》とおもわれる装束《いでたち》の人物がいたが、いちはやく谷へころがって逃げてしまった。追うにも、指揮《げち》をとる大将がいない。
備前に入った。
この国の
「福岡」
という在所に、国中きっての市《いち》がある。
福岡村は、現在《いま》でいえば岡山市から国道二号線を東へ二十キロほどいった南がわにある小部落で、無名の農村にすぎなくなっているが、当時は備前では福岡といえば大そうな商業地であった。いまの岡山市などはなきにひとしかったといってよかろう。
隣村が、刀鍛《かたなか》冶《じ》で有名な、
「長船村《おさふねむら》」
である。庄九郎のころから刀鍛冶の大部落として天下にきこえており、諸国から刀を買い入れにくる者が多い。こうした旅人は、たいてい「福岡」でとまる。
余談だが、庄九郎よりもやや後年に出た黒田官兵衛如水《じょすい》の先祖は、一時、この備前福岡の市《いち》に居ついていた。黒田家が筑前一国に封ぜられ、博《はか》多《た》の西方に築城したとき、先祖にゆかりの備前福岡の地名をとって、城下の地を福岡と名づけた。いまの福岡市がそれである。
庄九郎の一行は、この福岡を中心に分宿して、荏胡麻《えごま》の買いあつめにとりかかった。
庄九郎は、この近郷をおさえている福岡肥《ひ》前介《ぜんのすけ》という地侍の屋敷を宿所にした。肥前介は下にもおかぬもてなしようである。
当然なことだ。
庄九郎の一行は、当時の油商人の慣習《ならわし》として、
「大山崎八幡宮《はちまんぐう》神《じ》人《にん》」
という肩書きできている。この資格のあるかぎり、諸国の関所は一も二もなく通過させてくれるし、諸国の大名、豪族は、その旅行の安全を保障することになっている。
大山崎八幡宮は、油の専売権を足利《あしかが》幕府からあたえられていたことは、前にのべた。おそらく、没落同然の足利将軍家は、こういう許可権をあたえることで、八幡宮から金をとっていたのであろう。奈良屋のような問屋は、その八幡宮へ一年ごとに金をおさめて、一年かぎりの「神人」の資格を得る。そういう仕組みである。庄九郎らが、備前の原料買いつけ地で大いにもてなされたのは、幕府のお声がかりがあるというよりも、地侍や百姓どもに大いに金を撒《ま》くからであろう。
庄九郎は、福岡屋敷にとまりながら、備前一国の形勢をしらべた。
もともと綿密な男なのだ。
下心がある。奈良屋を乗っとったあと、その巨富をもって、どこかの国をねらって大名になるということだ。
それには条件がある。
国の守護大名、豪族などの家政がみだれ、仲間で相争っているという国がいい。
そのうえ、英傑の人物がおらぬ、ということ。
(おれがその国を興して英雄になるのだから)
だからこそ、自分の野望をはばむような土着の英雄がいてくれては都合がわるいのである。
宿主《やどぬし》の福岡肥前介というのは、愚にもつかぬ好人物で、庄九郎のことをかげでは、
「永楽銭様」
と称してあがめている。庄九郎が、奈良屋から運んできた永楽銭を、気前よく分けあたえてくれるからである。
「いやもう備前などは」
と、肥前介は、泣きごとをいった。
備前一国の実力者は、かつて赤松家の家老にすぎなかった浦上氏である。現在《いま》セメント工業のさかんな「三石《みついし》」に城をきずいて、美《みま》作《さか》にまで威をふるっている。
その浦上氏が播州《ばんしゅう》の旧本家である赤松の支族の諸豪族から攻められたり、攻めこんだりしている一方、浦上氏の家老である宇喜多《うきた》氏がちかごろ頭をもたげてきて、主家をとりかねまじき気配がある。
こういう入り組んだ国情だから、むかしは播州赤松家の保護をうけていた福岡家などは播州の赤松諸豪にもよしみ《・・・》を通ずる一方、表面は浦上氏に属し、その陣触れがあると合戦に出ねばならず、浦上氏の家来である宇喜多氏の機《き》嫌《げん》もとっておかねばならない。ずいぶん気苦労の要ることだ。
「大変ですな」
「われわれ小領主《こやけ》は、苦労なことです。それにくらべると、あなたのようなあきんどがうらやましい」
「いやいや」
庄九郎はほどほどにあしらいつつ、備前一国の人物をきいた。
挿《そう》話《わ》をきくのだ。
こぼればなしなどをききつつ、備前一国の人物群の重さをはかるのである。
それによると、
(わりあい、人物がいるらしい)
という実感だった。
なぜならば、備前は、足利幕府によって封ぜられた守護大名がすでに衰え、下剋上《げこくじょう》につぐ下剋上で、つぎつぎと新興勢力があたまをもたげ、国中がたぎっている。
こういう国には、人物が出る。足軽から身をおこしても、大名になれる可能性があるからだ。
(備前は、むりだな)
庄九郎は、そうおもった。後年、「蝮《まむし》の道三」といわれた庄九郎から見放された《・・・・・》備前こそ、幸いだったというべきだろう。
荏胡麻の買いつけをおわって、庄九郎らは京へもどった。
奈良屋の手代杉丸《すぎまる》が、伏見まで出むかえにきていた。
「道中、ご苦労さまでございました」
杉丸は、すでに庄九郎の手紙で、有年峠でおこった事件、福岡庄《ふくおかのしょう》での買いつけのぐあいなどは、すべて知っている。
「杉丸、お万阿《まあ》殿は達者か」
それが、ききたい。
「へえ、お達者でございますとも。庄九郎様の御安否を気づかって、毎日のようにお噂《うわさ》をなさっておりました」
「うまいことをいう。お万阿殿は、おれの身より、おれが護衛している荷やぜに《・・》のほうが気づかいだったのであろう」
「いえいえ」
と人のいい杉丸はあわてて首をふったが、じつは、庄九郎のいうとおりである。
若後家の身で奈良屋の大身代をきりまわしているお万阿にはただの小娘が殿御のうわさをするようなところはない。
庄九郎よりも荷、むろんそれが心配だったのである。護衛隊長の身代りなどは、いくらでも募ればやってくるのである。
伏見から三里。
市に入った。
このころの京は、公卿《くげ》文化の雅《みや》びこそ衰えたが、人口の多さはやはり天下第一の殷賑《いんしん》の府で、戦国中期にやってきた耶蘇《やそ》会《かい》士《し》の日本通信天文十八年十一月五日発の報告書にも、
「キョートの戸数九万以上」とあり、「この町を見たポルトガル人たちはみなリスボン市よりも大きい、といった」とある。
そのなかでの最大の商家の一つが、奈良屋であった。
お万阿は、この朝、化粧《けわい》をこらして待っていた。
やがて荷駄隊が、奈良屋の店さきに到着したとき、お万阿は、広い土間へおりた。
「庄九郎様は?」
と、杉丸にきいた。
「それが」
杉丸は口ごもった。
「それが、どうしたのです」
「東《とう》寺《じ》まで参りましたとき、庄九郎様が、ここから先は京の街じゃ。もはや護衛も要るまいゆえこれにて別れる、と申され」
「申され?」
「ふりきっていずこへともなく、消《う》せられましてござりまする」
「杉丸」
お万阿の指が、杉丸の痩《や》せた頬《ほお》にそろそろとのびた。
「あっ、御料人さまおゆるしなされませ」
杉丸は、もがいた。
頬がひきつっている。杉丸の足が、つまさき立ちになった。お万阿が、頬を力まかせにつねりあげているのである。
「なぜ、お引きとめせなんだのかえ。これくらいの折檻《せっかん》では済みませぬぞ」
「さ、察するところ」
「何かえ」
「庄九郎様は、ああいう無慾なご気象のお方でございますゆえ、この奈良屋にもどって礼《れい》物《もつ》を受けとるのが、おいやなのでございましょう」
「はるばる備前まで荷頭《にがしら》をして頂いたゆえ、荷頭としての礼物を受けとっていただくのが当然ではありませぬか」
「そ、それが、庄九郎様には通じませぬ。庄九郎様にすれば荷頭をひきうけたのは身すぎ世すぎのためではない。退屈しのぎに請《う》けたまでのことで、もし礼物をもらえば、松波庄九郎ともあろう者が、一商人《あきびと》の荷頭にすぎなくなる、ということで、身をかくされたのでございましょう」
お万阿は、手をはなした。
ぼう然としている。
(ふしぎなお人もあったもの)
松波庄九郎という牢人が、いよいよ神秘的な人物としてお万阿の心に映じてきた。
(なんと無慾な。……)
いまどき、世に在るとはおもえないほどの無慾さではないか。
淫楽《みだら》
逃がした魚は大きい、というが、奈良屋のお万阿の心境は、そんなものである。
「杉丸、さがすのです」
――松波庄九郎様を。
(なんという風流士《みやびお》であることか)
荷駄隊を護送し、戦闘し、しかも京に帰ってからは、一文の報酬もとらずに身を消してしまっている。
真の風流士というものは、そんなものであろう。
が、惚《ほ》れるところまで行っていない。
(いや、男には惚れはせぬ)
とかたく思っている後家殿である。
陽気で、あけっぴろげで、どうかすると、使用人の眼の前でも平気で小《こ》袖《そで》を着更《きが》えたりするお万阿だが、
(なかなか、どうして。――)
と、京洛《けいらく》の好色《すき》者《もの》が、手をつかねている後家殿だ。
(奈良屋のお万阿は蕩《と》けやせぬ。あれが仇《あだ》し男に蕩けるなら、丹《たん》波《ば》の黒石が湯で融《と》けるであろう)
といわれているほどである。
お万阿のばあい、貞潔、などというようななまやさしいものではない。
第一、お万阿に、操《みさお》ごころなどはなかった。この当時の京の町家の後家は、江戸時代のようなこせこせした世間に生きていない。後家といえば、たれに遠慮することもない身で、気に入れば男とも臥《ね》ようし、あらたな男と添いもする。
さればお万阿は、亡夫に遠慮があるのか。
ない。
お万阿は、家付《いえつき》のうまれである。亡夫は、死んだ両親がえらんだ手代のあがりで、これは、一遍宗《いっぺんしゅう》という妙な宗旨に凝っているだけが能の、陰気な男だった。四《し》六時中《ろくじちゅう》、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、とばかり唱えていた。
亭主が死んだとき、
(ああ、あの南無阿弥陀仏から解放されるのか)
と、ほっとしたくらいである。一遍宗は、生涯《しょうがい》に一遍だけでも南無阿弥陀仏をとなえればそれだけで極楽に往《い》ける、という乱世むきのお宗旨だから、亭主殿はおそらく極楽へ行ったであろう。
(だから、弔う必要も、悼《いた》んでやることもいらない)
――極楽《いいところ》へ行ったのだから。
からっとそう割りきっている。
しかし。
である。
操ごころも亡夫への想《おも》いもさほどにないお万阿ではあるが、しかし財産がある。
奈良屋の巨富がある。
これがお万阿の四書五経であり、仏説阿弥陀経であり、現《げん》世利《ぜり》益《やく》の法海であり、いわば貞操でもある。
(うかつな男と臥《ね》れば、ずるずるとこの奈良屋に入りこまれ、わたくしの体の上ならともかく、金銀の上にあぐらをかかれてしまい、しまうばかりか、いいように費消《つか》われてしまう)
そうおもっている。
自衛の緊張がすこしでもゆるめば、他人に生命財産を犯されてしまう時代なのだ。お万阿のこの気持は当然であろう。
(――しかし松波庄九郎様には)
興味がある。
杉丸をはじめ、手代、小者、飼いおきの牢《ろう》人《にん》に手をつくして探させた。
ところが、いない。
例の、日蓮宗妙覚寺本山にもいないし、寺にいる庄九郎の旧友たちにたずねても、
「あれだけの男だ。しかるべき大名にでも仕えたのではないか」
というばかりであった。
やがて、秋が深くなった。
京の町《まち》屋《や》の軒下にも虫が鳴くようになったが、庄九郎の消息はついにきかなかった。
冬になった。
ついに年が明けてしまった。明くれば、永《えい》正《しょう》十五年。
その正月も月ずえになったころ、京の高倉通を北へ歩いていた杉丸が、花園《はなぞの》左大臣の廃邸の辻《つじ》で、ばったり赤兵衛と出会った。
「あっ、赤兵衛殿」
すがりついた。
「さがしておりましたぞ。松波庄九郎様は、いずれに在《わ》せられまする」
「たれかと思えば、杉丸どの」
赤兵衛はおちついたものだ。
ゆったりと破れ築《つい》地《じ》に腰をおろした。足もとに、先刻降った雪が残っている。
「さがす、とはたれを?」
「松、松波庄九郎様でござりまするわ」
「庄九郎様を、どなたがおさがし申しあげているのでござる」
赤兵衛、これは人の顔ではない。むじなの顔を柿《かき》の渋に漬《つ》けたような皮膚をしている。ぼってりと肉が厚く、表情がよくわからない。
が、表情の奥には、
(思うつぼ《・・》よ)
という微笑があるのだが、杉丸のような男にはわからない。
赤兵衛は、庄九郎に命ぜられて、ここ数日京の市中を歩き、奈良屋の者と出遭う機会を待っていたのである。
「奈良屋の御料人様でございます。庄九郎様が京からお姿を昏《くら》まされてこのかた、毎日々々、われわれをおせめなされ、手代どもは身の痩《や》せる思いでございます」
「それはお気の毒」
赤兵衛は、腰の垢《あか》じみた麻袋から干し肉をつまみ出して口に入れた。
(なんの獣肉やら。――)
と、杉丸は気味がわるい。
赤兵衛はうまそうに食っている。
「おぬしも、食わぬか」
と、ひときれくれた。杉丸は受けとってはみたが、そのえたいの知れぬ獣肉よりも、赤兵衛の手に触れたことがむしろ気味わるくて、
「あ、ありがとうござります」
といったきり、掌《てのひら》にのせている。
「お食べ」
「はい。しかし松波様の」
「ありか《・・・》か。庄九郎様は京にはおわさぬ」
「では、いずれに?」
「旅に。――」
は、事実であった。庄九郎は、丹波、但馬《たじま》、若狭《わかさ》、因幡《いなば》、伯耆《ほうき》、といった諸国をめぐりあるき、例によって、白蟻《しろあり》の食った古い大名家はないか、とさがしていた。
「しかしながら」
赤兵衛は、肉を口に入れた。
「いまは有《あり》馬《ま》の湯で湯治なされている」
「あっ、それならば」
京から近い。
三日もあれば、行けるであろう。
「さっそく、それがし、お会い頂くために参上いたしまする」
「はは、おぬしが? お会いなされぬわ。庄九郎さまは兵書、仏書などをお読みなされて、おいそがしいお身じゃ」
と、赤兵衛はくどくどと勿体《もったい》をつけた。
「さ、されば」
杉丸は思いきっていった。
「御料人様に行っていただきまする。京から一歩もお出ましなさらぬおかたでござりまするが、杉丸めが、理《こと》を解《わ》けてお説き申しあげまする。して、お宿は?」
「有馬温泉《うんせん》寺《じ》の宿坊たる奥之坊」
大変な山中である。
有馬の湯は、摂津有馬郡。「囲《かこ》むに山嶺《さんれい》をもってし、諸水、東南に潰《つい》ゆ」と旧記にあるとおり、北摂山塊の渓谷《けいこく》にある。
が、畿《き》内《ない》という地は、温泉のないところでわずかに有馬一カ所である。自然、古くから京の貴顕紳商に愛され、人皇《にんのう》三十六代孝徳天皇などは、左右大臣、群卿《ぐんけい》、諸大《しょだい》夫《ぶ》をひきいて八十二日も逗留《とうりゅう》された。この間、渓谷に国都が移ったような観があったという。
いや、湯はおっそろしく赤い。
妙なにおいもする。火山地帯に住む関東、奥羽、九州の者なら、土民でもいやがるような湯だが、京《けい》畿《き》では上代の天子でさえ、これほどに珍重した。
「有馬の湯に?」
お万阿は、まずそれに気が誘惑《そそ》られた。
(行ってみようかしら)
「杉丸、温泉とは、どのようなものです」
「谷の水が、熱うございます」
「本当に熱いものですか」
「はい。冬などはもうもうと湯気が立ちこめて、眼の前の木の枝がみえぬほどでございます」
「うそ」
お万阿は、楽しんでいる。
「お湯が、自《じ》然《ねん》々々と湧《わ》きあがるはずがないではありませんか」
「いらっしゃればわかります」
「杉丸は、温泉を見たことがある?」
「有馬は知りませぬが、先年、備前へ荏胡麻《えごま》を買いつけに参ったとき、美作《みまさか》の湯に浸《つか》ったことがございます」
「お万阿も浸りたい」
「ぜひ」
と、杉丸はいった。
「有馬の湯へ参られまし。一生のはなしのたねでございましょう」
「そうします」
決心すると、お万阿は早い。
早速、護衛の隊を組織させた。途中、西国《さいごく》街道はよいとしても、有馬街道は峠がいくつかあって、山賊の巣窟《そうくつ》もあるという。
飼っている牢人のほかに、東寺から寺侍を借り受け、三十人の隊をつくった。むこうへ到着するとかれらを返し、また迎えに来させるのである。
お万阿は出かけた。
二月。
京にはすでに雪はない。しかし摂津の山を奥へ奥へと分け入るにつれて雪は深く、それが都育ちのお万阿にはかえってめずらしかった。
有馬の山郷に入った。
この里が温泉として飛躍的に発展したのは、お万阿のこの時期よりも七十年後、太閤秀吉《たいこうひでよし》が諸将、諸嬪《しょひん》をひきいて有馬湯治をやったときからで、当時は、
(まあ、こんな山里。――)
と、お万阿がおもわず、風雅を通りこしてわびしさにぼう然としてしまったほどの山《やま》家《が》であった。
普通の湯治客は、キコリの家にたのんでとめてもらうのである。
多少の物持、身分ある者は、温泉寺の宿坊にとまるのであった。奥之坊、二階坊、御所《ごしょの》坊《ぼう》。それに蘭若院《らんにゃくいん》、阿弥陀《あみだ》房、清涼院、といった塔頭《たっちゅう》。
それらが、渓流ぞいに点在している。これが宿である。
「験《げん》がござりまするぞ」
と、杉丸がしきりといった。この当時の湯治は、なかば宗教的なものである。
上古、温泉の多くは僧侶《そうりょ》によってひらかれた。僧侶は、シナの医書を読んで、温泉の薬効あることを知っている。かれらは温泉に寺を建て、宿坊をつくり、大いに宣伝して俗人をあつめた。仏法を言葉で説くよりも、温泉の薬効で人をおどろかせ、しかるのちに「それこそ霊験である」と説いた。有馬の湯も、奈良朝の僧行基《ぎょうき》がひらいたもので、温泉寺もこの行基菩《ぼ》薩《さつ》の建立《こんりゅう》であった。
お万阿の一行は、御所坊と蘭若院に分宿した。
せまい渓谷である。
眼の前に、松波庄九郎が逗留しているはずの奥之坊の檜皮《ひわだ》屋根がみえる。
「杉丸、それとのうおさぐりなさい」
と命じた。
いや、さぐるまでもなかった。
この山里のキコリにいたるまで、
「京からつややかなお武家様がみえていて、毎夜遅くまで奥之坊で書物をお読みなされている」
といううわさで持ちきりであった。
(それこそ、庄九郎様。――)
お万阿の胸はおどった。どういうことであろう。恋に似ている。
「杉丸めが、ご先導つかまつります」
といったが、お万阿はおさえ、
「わたくしがいきなりお訪ねして、あの生真《きま》面目《じめ》な庄九郎様をおどろかせてさしあげましょう」
と、声をはずませた。
(………?)
杉丸はその様子をみて、すこし心配になってきた。
(お万阿様は、懸《け》想《そう》なされたのではあるまいか)
到着した翌日、まだ陽《ひ》が高いころに、お万阿は、奥之坊への苔《こけ》蒸《む》した石段をのぼった。
坊がある。
白木の寝殿造りで、戸は蔀戸《しとみど》の古風な建物だが、一角だけが、当世風の書院になっている。その華《か》葱窓《そうまど》の障子あかりに、人影があった。
(庄九郎様、にちがいない)
はずむ思いで玄関で案《あ》内《ない》を乞《こ》い、出てきた僧にいきなり多額のぜにをあたえた。
「ご喜捨、ご奇特に存ずる」
と、僧は、下へもおかぬ態度をとった。
「案内は要りませぬ。松波庄九郎様のお部屋に参ります」
「あれなる書院でござる」
僧も、なにやら察したらしい。気をきかせたつもりで、姿を消してしまった。
「庄九郎様」
ふすまのかげで、お万阿は声をかけた。
(来た。――)
と、庄九郎。
朱塗りの経机に眼をおとしている。
(どう料理《りょう》るか)
むずかしいところだ。お万阿といえば身持のかたさで通った女ではないか。
と、庄九郎はいっぱしな思案をめぐらせてみるものの、実のところ、腹中にあるのはこの男生来《せいらい》の強烈な自信だけで、じつのところ、女を知らない。
稚児《ちご》は、さんざん知っている。手練手管はおなじようなものだと思うが、さてあのから《・・》だ《・》は、なんと稚児とちがうことであろう。
有《う》年峠《ねとうげ》で、小《こ》宰相《ざいしょう》のからだに触れて、
(女とはこうしたかたち《・・・》なものか)
とはじめて知った。
われながら嘲《わら》うべき無智である。いやなるほどほんのこのあいだまで、戒律のうるさい妙覚寺の学生《がくしょう》だった身だから無智はやむをえないとしても、
(しかしそのおれが、名だたる奈良屋のお万阿御料人を蕩《と》かせようというのだから、これは有年峠の合戦のようには行くまい)
とおもっている。
しかし、お万阿をしてはるばる有馬の湯まで惹《ひ》きよせたということは、庄九郎の軍略はなかば以上成功したというべきであろう。
「どなたです」
やっと、庄九郎は低い声でいった。
「奈良屋の」
と、お万阿はいった。
「奈良屋の?」
「お万阿でございます」
「うそじゃ」
庄九郎、書物から眼をはなさない。
「うそ? でございますと?」
「誑《たぶ》らかそうにも、法華経行学《ほけきょうぎょうがく》の奥義をきわめたるこの松波庄九郎はたぶらかされぬぞ」
「―――?」
お万阿にはなんのことやらわからない。
「一昨夜も、お万阿はここへ来た」
(えっ)
生霊《いきりょう》でもないかぎり、お万阿は来れるはずがないではないか。
「おれは、正体を見ぬいていた。それに性《しょう》こりもなく、きょうも来た。……しかも真昼」
「…………」
「おのれは、裏山に巣食う狐《きつね》であろう」
「ち、ちがいまする」
お万阿にも事態がわかってきた。これをどう弁《べん》疏《そ》すればよいのか。
「ふすまの蔭《かげ》におる女」
「は、はい」
「正体は狐と知れておる。わしが奈良屋のお万阿どのを恋うるのを知って、さかしくも化けて出たのであろう」
(あっ)
と驚いたのは、ほかでもない。庄九郎の本心がわかったのである。これほどのひとが、さあらぬ体《てい》をつくろいつつ、内実は自分を恋うてくれていたのか。しかも、明かさず、身をかくすなどして、なんとゆかしい人物なのであろう。
(うれしい)
とおもった。そこは女である。自分を恋うてくれると知って心の動かぬものは、女ではないであろう。
「狐。――」
庄九郎、声はさわやかである。
「あくまでも奈良屋のお万阿殿であるとたぶらかすうえは」
「うえは?」
「これへ来い。帯を解き、小袖を剥《は》ぎ、身をあらわにして、正体をつきとめてとらせようぞ」
「――あの」
お万阿はこまった。
いっそ狐になりとおして、小袖もなにも、庄九郎の手で剥ぎとられてみたい、と思った。
有《あり》馬《ま》狐《ぎつね》
襖《ふすま》のかげで、お万阿は、
(いっそ狐になりすませてさしあげようかしら)
とおもった。
(――されば)
人間でなくなる。お万阿でなくなる。奈良屋の御料人様でなくなり、お万阿にかぶさっている人の世の制約《きずな》が、はらりと解けてしまうわけだ。
奇妙。
まったく奇妙。
(そうすれば、庄九郎様のおひざの上で、いかに淫楽《みだら》をはたらいても、あとで、――あれはお万阿ではございませぬ。有馬の奥之坊に巣食う狐でございましょう、といえるではないか)
ほたほたと胸がときめいてきた。固いとは世間でいわれていても、お万阿は自分をよく知っている。
(よくよく私は男が好きじゃ)
しかしその男よりも、奈良屋の財産《しんだい》のほうがお万阿には大事なだけである。
(そう。狐になってしまおう)
狐の淫楽、ということになれば、庄九郎とこの有馬でいかな縁を結んだところで、それは浮世の害にはなるまい。
(あれは狐のしわざ。――)
それで済む。
お万阿は胸もとをおさえ、ふすまのかげでこれだけの思案をした。
一方、隣室の庄九郎。
百もお万阿の思案を見ぬいている。「狐であろう」といったのは庄九郎の軍略である。そうきめつければ、身代《しんだい》大事のお万阿は「奈良屋の後家」という束縛から解放される。
(あと腐れない淫楽《たわむれ》ができると思い、裸か身になってわがひざに折り崩れるであろう)
そこまで見通したうえのことだ。
「奥之坊の狐」
と、庄九郎はいった。文机《ふづくえ》に眼をおとしたままである。
庭で、寒椿《かんつばき》が白い花をつけている。
「はい」
と、ふすまのかげで、お万阿はひくい、小さな声でうなずいた。狐の挙措とは、こうもあろうかしら、――と思案しつつ。
「狐。わしを法華経念持の行《ぎょ》者《ざ》と知ってこれへ参ったのか」
(どう答えよう)
お万阿は云《い》いよどんでいるうちに、庄九郎は、すずやかな声でいった。
「玄中記という書物にある。狐ハ五十歳ニシテヨク変《ヘン》化《ゲ》シ、百歳ニシテ美女トナリ、神巫《カンナギ》トナル。或《アルイ》ハ丈夫《ジョウフ》トナリテ女子ト交接シ、ヨク千里ノ外ノ事ヲ知ル」
「まあ」
お万阿はつい、とんでもない声を出してしまった。
「学問がおありでございますね」
「…………」
お万阿のはずんだ声に、庄九郎のほうがだまってしまっている。
(これはいけない)
と、お万阿は反省した。
(もそっと妖《あや》しゅうならねば)
「来《こ》よ」
と、庄九郎はいった。
はい、と口の中で答え、お万阿はふすまのかげで、すそをたかだかとからげた。足が白い。自分で愛《あい》撫《ぶ》したくなるほど、うつくしいあしである。
(さて、わたくしは狐になる。――)
お万阿は庄九郎の部屋にはゆかず、足音を忍ばせて廊下へ出た。廊下をすべるように走ると、重い杉《すぎ》戸《ど》がある。
(重いなあ)
すこし持ちあげ、音のせぬように明けた。そとは庭である。
庭へとびおり、はだしに杉苔《すぎごけ》を踏んだ。ひとあしごと、足の指が、苔にうずもれた。
やがて、書院のぬれ縁へまわった。
庄九郎が、書見をしている。
特徴のある盛りあがったひたい、するどくはねあがった眉《まゆ》、切れ長の眼。
その眼が、お万阿を見た。
「狐らしく庭さきからまわったな」
「はい」
もうお万阿は狐の気持である。庄九郎にどうされようと浮世の事件ではない。
「このあたりに住む荼吉尼《だきに》天《てん》でございます」
と、狐のことを仏語でいった。
「ほう、白状したな」
「松波庄九郎様のご眼力にはおそれ入るばかりでございます。有馬《こなた》にお湯治に来られてこのかた、お慕い申しあげておりました」
「男を知っておるか」
と、庄九郎。
もっとも高《たか》飛《び》車《しゃ》には出たものの、庄九郎自身は、備前境の山中で小宰相のかくしどころに手を触れて女とはこうかと知ったほか、いまなお女性《にょしょう》の体には触れたことがない。
「存じております」
と、お万阿は大胆にいった。娘のころに公《く》卿《げ》の公達《きんだち》、真宗の坊主など二、三人と通じたことがある。それと、なくなった手代あがりの亭主。それだけである。
「いままで、何人ほど」
「さあ」
お万阿はこまった。自分のばあいは三、四人であるが、狐ならばどういえばこの化生《けしょう》にふさわしいのであろう。
「荼吉尼天と申せば、狐《こ》精《せい》である。仏典によれば通力自在にして、人の死を六カ月前に予知し、その予知されし者の死せんとするや、その死の寸前に心《しん》ノ臓《ぞう》を食らうという。汝《われ》は、男の心ノ臓を幾人吸うたか」
(まあ)
とお万阿はおどろいた。よく考えてみると娘のころに通じた公卿の公達も、真宗の坊主も、お万阿の前夫も、みな死んでいる。男運がわるいのかしらと自分ではおもっていたが、ひょっとすると自分は「狐精」なのではあるまいか。
(厭《い》や。あたまがおかしくなる)
自分の妄想《もうそう》をふりきって、お万阿は顔色も変えずに立っている。
「庄九郎様の心ノ臓を食べたい」
と、お万阿は含み笑いをした。
「あっははは」
庄九郎は書物を投げすてて寝ころんだ。
「食えるものなら食ってみろ」
「食べまするぞ」
と、お万阿は濡《ぬ》れ縁に素足をあげた。庄九郎はそれをそらすようにして立ちあがった。
「谷へおりる」
と、部屋を出てしまった。
お万阿は、部屋に突っ立った。
(馬鹿《ばか》。――)
自分が。
と、お万阿は自分をののしった。奈良屋のお万阿ともあろうものが、みじめすぎるではないか。
(たかが素《す》牢人《ろうにん》。……)
自分につばを吐きかけたい気持である。京では大路小路を歩けば、
――あれが奈良屋の御料人。
と眼をそばだてぬ者はない。高貴な衣《きぬ》、うつくしい眉目《みめ》。京の男どもはいうのだ。奈良屋様の足の、そして指の、その小桜の花びらのような爪《つめ》の一つに触れさせてもらえば、命も要らず後生《ごしょう》も要らぬ、というのである。
(それほどのお万阿が)
松波庄九郎に見返られた。
その日は、暮れた。
つぎの日も庄九郎は朝から書見し、昼にはみずから山鳥の肉を焼いてめしを食った。まだ昼食の習慣のめずらしい時代で、こういうささやかなことでも庄九郎は時代から一歩先んじている。
午後も書見。
時刻がくると、谷へおりる。これが判でおしたような日常である。
なるほど、昨日、谷へおりるといってお万阿を置きざりにしたのも「軍略」ではあったが、しかしその刻限に谷へおりるのはかれの習慣でもある。
真槍《しんそう》をかかえている。
渓流《けいりゅう》は、大小の岩が多い。
庄九郎。
その渓流の中の岩の一つに立った。槍《やり》を小わきにかかえている。
その姿を、お万阿は、自分の宿である御所《ごしょの》坊《ぼう》の庭さきから見おろしていた。
(なにをなさるのかしら)
庄九郎は、見られているとは知らぬのであろう。
ふところから、一合枡《ます》の底ほどの大きさに切った紙をとりだし、十枚、ぱっと空中に舞いあげた。
舞い落ちる。
それを庄九郎は、岩から岩へとびまわっては、一枚ずつ刺しとおすのだ。砥《と》ぎすました槍の穂はきらきらと虚《こ》空《くう》に舞い、舞うたびに庄九郎の体が跳ね、跳ねるごとに紙のひときれがつきささる。
突き洩《も》らされて渓流に舞い落ちる紙も多かったが、ただ驚嘆すべきは庄九郎のみごとな足わざである。眼は虚空の紙を追っているのに、足は、足そのものに眼があるように、岩から岩へと跳んで、踏みはずさない。腰はつねにずしりと沈み、高腰、及び腰に一瞬といえどもならなかった。
「神業《かみわざ》でござりまするな」
と、いつのまにか背後にひかえていた杉丸《すぎまる》がいった。
「なんのためにあのようなことをなさっているのでございましょう」
杉丸も、ふしぎである。
「さあ」
お万阿は考えた。舞を習ったことのあるお万阿にはわかるような気がする。おそらく虚空の紙片を突くのが主目的ではなく、腰を定め、つねに鎮《しず》める稽《けい》古《こ》をしているのではあるまいか。
それにしても、変わった槍ではある。
「まるで天《てん》狗《ぐ》のようでございますな」
(……なんの)
お万阿は、感心したくはない。
「あの方は、狂人です」
と、お万阿は断言した。むろん本心そう思っているのではないが、かの庄九郎に、面とむかって吐きかけてやりたい気持は、むらむらとするほど、この胸にある。
「なにをおっしゃいます」
杉丸は、すっかり松波庄九郎の心酔者である。
「あの方は、妙覚寺御本山のころでも、学問諸芸いたらざるなく、智恵第一の法蓮房《ほうれんぼう》、といわれたほどのお方じゃげにござりまするが、おおかた、仏天のうまれかわりでございましょう」
「杉丸はあの人が好きですか」
「好きでございます」
「お万阿は、きらいです」
「そのような」
杉丸はあわててたしなめた。
「おっしゃられてはなりませぬ。松波庄九郎様は奈良屋の恩人でございます。しかも、恩を売ろうともなさらぬあたり、この濁世《じょくせ》のひとともおもえませぬ」
「そうかえ」
崖下《がけした》の庄九郎を見つめているお万阿の胸は波立つ思いだが、かといって杉丸のようにはお万阿は思えない。
相学《そうがく》に、大慾の持主は無慾の相をしている、という。
(庄九郎様は、そうではあるまいか)
あの男には、強烈なあく《・・》がある。そのあく《・・》は杉丸には見えないが、お万阿には女のかん《・・》でわかるのである。そういうあく《・・》のもちぬしが、無慾恬淡《てんたん》であるはずがなかろう。
が。――
お万阿はそのあく《・・》がきらいではない。むしろそのあく《・・》に魅《ひ》かれている、ということは自分でもはっきりわかる。
(あのあく《・・》は謎《なぞ》だ)
とお万阿はおもう。ひょっとすると驚天動地のことを仕出かす根源が、いまおだやかにあのあく《・・》となって沈澱《ちんでん》しているのではあるまいか。だから、
(怖い)
ともおもい、それだけに、怖さに近づきたいような、そういう思いがある。
あったればこそ、有馬のような辺《へん》鄙《ぴ》な山峡《やまかい》の湯にやってきたのである。
夕もや《・・》がこめてきた。
もや《・・》は、どうやらこの上の童子山のむこうの山ひだ《・・》にうまれ、山ひだ《・・》に満ちてからこの渓谷に流れて来るようである。
「杉丸、湯に参ります」
「さればおひさどの(婢《ひ》女《じょ》)をお供に申しつけましょう」
「要りませぬ」
お万阿は、岩肌《いわはだ》を彫りぬいたせまい石段をおりはじめた。
もや《・・》が、濃くなっている。
岩間の湯に庄九郎は浸《つか》りながら、無心で羊《し》歯《だ》の葉をむしっていた。
湯が、赤い。
そばを、渓流が奔《はし》っている。その渓流へ、岩間の赤湯がすこし瀬でたゆたい《・・・・》、やがては渓流に溶け入って流れ落ちてゆくのがおもしろかった。
「おれに詩才があればな」
そのおもしろみを詠ずるところであろう。万能にめぐまれた松波庄九郎も、詩の才質だけはなかった。
それだけに物の考え方が詩的ではない。ひどく散文的である。しかし散文も、岩に一字一字彫りこんで書くような、そういう性格であった。自分のそういう性格を庄九郎は知っている。が、はたしてこの性格が自分の一生に益するものかどうか、世間にのりだしてみないと、まだわからない。
(僧房の生活は退屈だった)
しかし無益ではなかった。学んだものは法華経である。内容は愚にもつかぬ経典だが、法華経独特の一種、強烈な文章でつづられている。すべてを断定している。はげしく断定している。天竺《インド》語を漢文に訳した唐代シナの訳官の性格、文章癖がそうさせたものか、どうか。
それはわからない。
が、庄九郎の性格の彫りを深めるには役立った。すくなくともお万阿のいう「あく」を強めた。法華経の宗旨からは、悪人が出る。
善人も出る。
善悪ともに強烈な、酷烈な、そういう人間をうみだすふしぎな風土のようである。
その唱えることばをみてもわかる。
かれらは、
「南無、妙、法蓮華、経」
と連呼する。大声でとなえる、自然、心が歩武堂々、前へ前へと前進するようなリズムになる。しかも宗旨に現《げん》世利《ぜり》益《やく》の色が濃く、これを念持すれば、仏天は浮世の諸慾を満たせてくれるという攻撃的な教えである。
庄九郎がもし、少年のころを浄土教(浄土宗、一遍宗、浄土真宗)の本山で送ったとすれば、よほどちがった人間になっていたであろう。法然《ほうねん》、親鸞《しんらん》によって栄えた浄土教は、あくまでも現世否定の宗旨である。
来世のみを欣《ごん》求《ぐ》する。自然、人間は内省的になり、哲学的にならざるをえない。
かれらは、
「なむあみだぶつ」
という。南無妙法蓮華経のような外攻的な景気のよさはない。景気のよさがないどころか唱えれば唱えるほど、心理的に内へ内へと籠《こも》ってゆくようなリズムになっている。ついには、諸慾消滅した妙好人《みょうこうにん》ができあがるであろう。
この二つの宗旨で代表される精神の型は、庄九郎の生きているこの戦国初頭のふたつの魅力ある巨峰であった。
しかしこの二つが、はたして釈《しゃ》迦《か》の「仏教」なのかどうか。筆者もむろんわからない。古今の大学者もおそらく明言することはできないであろう。
――それはともかく。
庄九郎は、岩を枕《まくら》に、体を赤い湯に浮かせている。
(お万阿は、わが手に落ちるかな)
つい、法蓮房のころのくせで、諸願成就《じょうじゅ》の法華経を心中で念誦《ねんじゅ》してしまう。
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
と念誦するうちに、
(ほう)
と、眼をひらいた。
岩二つ三つ隔てたむこうの湯に、白い裸形《らぎょう》が沈むのを見たのである。
すでに、夕闇《ゆうやみ》がしのび寄っている。
兵法者《ひょうほうしゃ》
山峡《やまかい》の空がみるみる藍色《あいいろ》に染まりはじめているが、そのせまい天に、すでに明星《みょうじょう》が出ている。
「そこの岩湯の女《もの》、そちはきのうの有馬狐《ありまぎつね》か」
と、湯に浸《つか》りながら庄九郎はいった。
(くっ。……)
と腹のなかで笑ったが、お万阿《まあ》はだまっている。この楽しさ、娘のころにもどったようだ。
「狐も入湯するのか」
「いたしまする」
「狐」
庄九郎は宵《よい》の明星を見あげながらいった。
「こちらの岩湯へ来《こ》よ。そちの肌《はだ》、わが手で賞《め》でてやろう」
声が、凜《りん》としている。
「厭《い》やでございます」
「ならばよい」
眼は、藍色の天へ。
明星が、庄九郎の将来を期待するようにかがやいている。
庄九郎が妙覚寺で学んだ天文術では、金星はここ数年、日没後西天高く輝き、太陽より四時間も遅れて沈む。
庄九郎の生まれた年もそういう周期にあたっていた。母が、――氏《うじ》もなき山城《やましろ》西ノ岡の庶女だったが、
「この子は、明星の申し子じゃ」
といっていた。
庄九郎も、そう信じている。明星は、独り輝き、他の群星とむらがらない。庄九郎は自分自身の光で、天にかがやくときがくるであろう。
(ことしもその周期か)
開運の年かもしれない。しかしながら徒《と》手《しゅ》空拳《くうけん》で運をひらくのは容易なことではない。
順がある。
階《きざはし》を踏むごとく。
開運の順は、まずお万阿のからだを開くことであった。
「有馬狐、あの星をみろ」
「あれが?」
「おれだ」
断固といった。
庄九郎は、宿曜経《しゅくようけい》という古い中国の占星術のはなしをした。
お万阿は、湯気をへだてて聴いている。
庄九郎は生来、音量のゆたかな声で、しかも底に力がある。おのずからひとを説得し、陶酔させる力があった。
「わたくしは、なんの星でございます」
「知らぬな」
「薄情」
お万阿は蓮《はす》っ葉《ぱ》になっている。
「おれは、おれが明星であればよい。それだけを有馬狐、知っておくがよい」
お万阿の体が浮いた。
岩角をはなれ、岩肌づたいに体を浮かせながら、庄九郎の岩間にきた。
「あの、お万阿の星は?」
あまえている。
「有馬狐」
といったときは、湯の中で庄九郎の腕がお万阿の腰を掻《か》きよせていた。
「よい肌じゃ」
背後の山肌に、千年杉《せんねんすぎ》が天を蔽《おお》わんばかりにして枝を栄えさせている。すでにあたりは暗くなっていた。
庄九郎は、お万阿の唇《くちびる》を吸った。
(甘い)
なんとあまいものか。庄九郎は女の唇を吸うのははじめてであった。
庄九郎は、右腕を沈めてお万阿の豊かな股《こ》間《かん》にふれた。湯のなかでもそれと知れるほどに濡《ぬ》れている。
「お万阿、ここ《・・》は何ぞ」
と、お万阿の耳もとでささやいた。
「お万阿ののの《・・》さま(仏様の幼児語)でございます」
「おれはまだ、この仏国《ぶっこく》土《ど》の内部《なか》を知らぬが、それほどな悦楽の里であるのか」
「存じませぬ。庄九郎様ほどのお方なら、沢《たん》山《と》な女人《にょにん》ののの《・・》さまをご存じでございましょうに」
「法蓮房、と」
と、庄九郎は杉の老樹をしずしずと見あげてゆきながら、
「わしはかつては呼ばれたことがある。持戒堅固な仏弟子であった。もっとも去年、或《あ》る女人の仏国土に触れたことがあるがなか《・・》は知らず、ましてどのような姿のものか、ようは知らぬ」
庄九郎はざぶりと湯から半身をあらわし、お万阿を抱きあげた。
そばに、崖《がけ》がある。
あつらえむきに平らで、しかもふかぶかと苔《こけ》でおおわれていた。
「見て進ぜるゆえ、動くな」
「厭や」
といったが、臥《ね》かされてしまっている。もう山峡には残光がほとんどなかったが、それでもお万阿の裸形《らぎょう》がしらじらとみえた。堪えがたいほどに盛りあがった胸の隆起が、鳩尾《みぞおち》で落ち、ふたたびなだらかに起伏して、ついには小さな堆陵《たいりょう》をつくっている。
堆陵に恥毛が品よく這《は》い、あわあわと下降して股間へ落ちている。
「これが、のの《・・》さまか」
「離して」
といったが、庄九郎はお万阿の体に一指も触れていないのだ。お万阿は呪縛《じゅばく》にかかったように、もがこうにももがけないのである。
「なるほど、これが仏国土か」
庄九郎は見つめたまま、飽きもやらない。
「もうお離しくださいまし。お湯へ。お湯へ入れてくださいますように」
「寒いのか」
「愧《は》ずかしゅうございます」
「狐、ではないか。真実、奈良屋のお万阿御料人ならば、松波庄九郎もかようなことは致さぬ」
「かんにんして」
「こちらが謝《あやま》りたいくらいだ。庄九郎は桑門《そうもん》(仏門)の育ちである。桑門には、長老、学《がく》侶《りょ》、大衆《だいしゅ》にいたるまで稚児《ちご》は許されておる。しかしながらのの《・・》さまは存ぜぬ。この仏国土にお詣《まい》りする法は如何《いか》なものか、そこもとに教えてもらいたいものだ」
「厭や」
お万阿はやっと瞼《まぶた》をひらき、眼を俯《ふし》目《め》にして自分のからだのむこうにいる松波庄九郎の両《ふた》つの眼を見た。
意外に涼やかな眼である。お万阿をいまから食い散らそうとしている眼ではなかった。
(このひとは、稀有《けう》な魂の持主かもしれぬ)
好色ではない。
あたらしい真実を見つけた者のみがみせるあの無邪気な驚きがある。
(いいひとなのだ)
と思ったときに、庄九郎の腕がお万阿の首すじと両の脛《すね》を抱き、やがて持ちあげた。
(どうなさるのか)
期待がある。
が、庄九郎はお万阿の白い体を、湯の中に沈めた。
「風邪をひく」
そういっただけである。
その翌日、意外な事件がおこった。
お万阿の従者には、細川管領家の牢人《ろうにん》で、関東の香《か》取《とり》明神の神《じ》人《にん》について刀法を修行したという男がいる。
そのころ、
「兵法《ひょうほう》」
といった。もともと兵法とは軍略の漢語だが、この時代は文字に暗い。つい剣術をも、世間では兵法といいならわしていた。
草創ほどもない斬新《ざんしん》な技術で、なかなか理に適《あ》ったものではあるが、当時の武士社会ではこれを軽蔑《けいべつ》し、庄九郎よりもすこしあと、甲州武田信玄麾下《きか》の名将といわれた高坂弾正《こうさかだんじょう》も信玄にむかってこういっている。
戦国の武士は武芸知らずとも事すむべし。木刀などにて稽《けい》古《こ》するは太平の世にては斬《き》るベき相手《もの》なきにより、その斬り様《ざま》の形をおぼゆるまでのことなり。
戦場へ出る時は始めより斬り覚えに覚ゆるものなれば、自然の修練となるなり。
その程度にしか、迎えられていない。第一戦場では、甲冑《かっちゅう》を着用している。刃の立つものではない。
が、術者は、次第にふえはじめていた。兵法者といったり、芸者といったりする。多くは牢人者で、世のあつかいは、旅芸人程度の眼でしか見られていなかった。
これら兵法者は諸国の大名に珍重された、ということもあるが、その兵法によって珍重されたのではない。兵法者にかぎらず山伏《やまぶし》、高野聖《こうやひじり》、芸人など旅をする者はみな、城下々々に逗留《とうりゅう》すれば一応の待遇は受けた。諸国の内情、地理、噂《うわさ》を、かれらはよく見聞しており、国主城主は、そういう者から居ながらにして情報をえたのである。
奈良屋の牢人は、香取明神の神人であった飯篠長威斎《いいしのちょういさい》ひらくところの「神道流《しんとうりゅう》」の使い手で、京では知られた腕の者であった。
お万阿が有馬にきた翌日、かれもやってきて杉丸の指図で女主人の護衛をしていたが、あの湯浴《ゆあ》みの翌朝、中ノ瀬という崖ぎわの路上で、頭《ず》蓋《がい》を割られて死んでいるのを発見された。
下手人はすぐわかった。
お万阿の宿館へわざわざ名乗り出てきたからである。遺恨はない。
「試合な、仕《つかまつ》った」
と、ぬけぬけという。これが、この芸者の社会の特殊な慣習であった。この技法の芸者は、応仁《おうにん》のころから興った足軽階級の牢人が多く、うまれはたいてい百姓の次男三男である。もともと漂泊の者が多く、たがいに技をきそいあい、勝った者は、諸所方々に名乗り出て、名をひろめる。
「それがしは兵法中条流の流れを汲《く》み、櫛風《しっぷう》沐《もく》雨《う》、山野に修行してようやく技の神《しん》をきわめたる者。常州小田の住人猪《いが》谷《や》天庵《てんあん》と申す」
山伏の風体《ふうてい》をしている。当時兵法者にはこういう風体の者が多かった。
「奈良屋に寄留したい」
というのだ。
奈良屋の傭《やと》い牢人を殺してぬけぬけとしたものだが、この兵法者の社会には主人持ちの武家とはちがうそれなりの作法があって、他の階級の世間では触れないようにしている。事情はだいぶちがうが、社会を別にしている点では、現在のやくざ社会に対する世間の態度と、一抹《いちまつ》似ているのではないか。
「いやその儀については、ご相談すべきお人が当家にはおりまするので」
と杉丸が、いった。
「御料人殿でござるか」
よく事情を知っている。
「ちがいまする」
「お手代どの。どうやらそれがしの技をお疑いのようじゃ。お疑いならば、ほかにお傭いの御牢人をここにお出しねがいたい。その者が兵法者ならば、もう一度試合うて進ぜる」
「左様なわけではございませぬ。奈良屋には荷頭《にがしら》という、大名で申せば侍大将にあたるお方がおられまする。そのお方にひとこと相談の上にて」
「何と申される」
「松波庄九郎様」
「兵法者か」
庄九郎は、興味をもった。
奥之坊の書院である。庄九郎は、庭前の高《こう》野《や》槙《まき》の上の雪を見ながら、一瞬にして思案がきまった。
好奇心である。兵法者というものに、かつて出会ったことがない。
(いずれ、一国一天下の主《あるじ》になろうというこのおれだ。兵法とはいかなる術か、見ておくのも無益ではあるまい)
「会ってやろう」
とはいわなかった。
「試合う」
「えっ」
相手は、刀術家である。庄九郎がいかに戦さの駈《か》けひき、馬上の槍《やり》さばき、士卒の指揮がうまいといっても、これは別のものだ。
「相手は賤《いや》しゅうございます。お手をお触れ遊ばすな」
「見たい」
庄九郎、みずからをおさえがたい。
「どのような男か。人相、挙《きょ》措《そ》、癖、言葉づかい、くわしく申してみい」
身のたけは五尺七寸。
山伏の体《てい》であるが、経文は読まぬ。年のころは二十四、五で、鼻は低く、頬骨《ほおぼね》は異様に高く、眼がほそい。全体に卑《いや》しげであるが眼だけは獣《けだもの》に似ている。人を殺したことはすでに二十八人。
「血に餓《う》えたるがごとき」
と、杉丸はいった。惨殺してはじめて血の騒ぎがおさまるという狂気の者であろう。
「即刻、この下の河原で待て、といえ」
猪谷天庵は、河原で待った。
晴れている。
陽《ひ》が、狭い河原に落ち、磧石《かわらいし》の一つ一つに濃い翳《かげ》をつくっている。
やがて、はるかむこうの道脇《みちわき》の崖から飛びおりる影があった。
松波庄九郎である。
(人間を見た上で、家来にしてみよう)
というのが、庄九郎の魂胆《こんたん》である。性情の忠実な、しかも一技一芸にすぐれた者を抱えるというのが武将の心得であるべきだ。
「天庵、これへ」
と、庄九郎は手まねいた。
挙措をじっと見ている。この庄九郎の眼光にあてられれば、ひとははらわたの底まで見すかされるようだ。
顔が近づいてきた。
天庵、あごが翼のごとく張っている。叛臣《はんしん》の相である。
(あごは、まず失格)
庄九郎の視野に、みるみる翼を張った顔がちかづいてくる。唇、貪婪《どんらん》である。唇だけが別に生きているような。
(食禄《しょくろく》にきたない)
そうとみた。
猪谷天庵、四尺ほどのびわの木刀をもっている。木肌が、にぶく陽を溜《た》めた。
「得物はいかに」
と眼を吊《つ》りあがらせた。性根、ただ勝負の男だ。勝負に固執しすぎる男は、集団のなかでは生きがたい。
(家来にむかぬ)
そう見た。
庄九郎、そう見つつ、
つまり相手の人相、人物を見るのみで、この男と勝負することなど、まるで心底からわすれてしまっている。
すべて興味はそこにある。闘技の巧拙、いやまかりまちがえば自分が殺されるかもしれぬということを、考えもしていない。
稀有《けう》の性情である。放胆、ということばさえあたらぬであろう。
「得物は、いかに」
「まあ」
と、自分の前の岩を指さした。
「すわれ」
「猶《ゆう》予《よ》は無用じゃ。支度をせよ」
「猪谷天庵」
庄九郎は懐《ふとこ》ろから袋をとりだし、磧《かわら》に投げすてた。ずしり、と、銭である。
「これが支度金だ」
「―――?」
意表を衝《つ》かれた。
「わしの家来になれ、と申している。分別が出来るまで、その岩にすわれ」
「ま、松波」
「様、とよべ。わしを何者と心得る」
あっ、と威厳を感じた。
もはや天庵の負けである。人間の関係は、一瞬の気合できまるものだ。
「な、なに様におわすか」
「見て、みずから察せよ」
「何流をお使いなさる」
「下《げ》賤《せん》な」
庄九郎は歯をむいた。
「これでも一国一天下を望む者だ。歩卒の技など学ばぬわ」
「しかしながら奈良屋の手代の話では、貴殿は試合を望まれた、という」
「わしは兵法者ではない。兵法者でない者が試合という言葉をつかうかぎりは、おのずから別な意味がある。汝《なんじ》の骨柄《こつがら》を見にきた」
「骨柄?」
「物の用に立つかどうか、と」
「立つ?」
天庵、茫《ぼう》っとした。
「立つ《・・》骨柄でござるか、それがし」
「いや、卑しすぎる」
「卑し?」
「天が与えた品《しな》というものがある。その骨柄ではゆくゆくわしの侍大将はつとまるまい。せいぜい歩卒じゃ」
「云《い》うたな」
腰を跳ね、木刀をきらめかせた。
躍りあがった。いや、躍りあがろうとした天庵の脳天に、
ぐわっ
と異様な音が籠《こも》った。割れた。
庄九郎の右手に、日蓮上人《にちれんしょうにん》護持の銘刀とかれ自身が自称する青《あお》江《え》恒次《つねつぐ》が、冴《さ》えざえと垂れている。
(これが、兵法者か)
庄九郎の自信を強めるために、猪谷天庵は殺されたようなものである。
庄九郎は瀬で、白刃を洗った。
世にいう青江反《ぞ》りのみごとな姿で、刃の逆《さか》乱《みだれ》を流れが洗ってゆく。
そばで、山魚《あめのうお》が空《くう》へ跳ねた。
水中のただならぬ光芒《こうぼう》におどろいたのだろう。
翌未明、庄九郎は有馬から姿を消した。
お万阿《まあ》悩乱
その朝、杉丸《すぎまる》は、御所坊のお万阿の前でひれ伏したきり、顔があがらなかった。
「ご、御料人さま」
お万阿は、しきい《・・・》一筋をへだてた奥の間で、腹《はら》這《ば》いになっている。顔を両肘《りょうひじ》でささえていた。
「お、お腹立ちでござりますか」
と、杉丸がいった。
「うん」
お万阿の眼は、庭の高《こう》野《や》槙《まき》をぼんやり見つめていた。
「も、もうしわけございませぬ。杉丸めがついていながら、庄九郎様がこの里をお発《た》ちになるのも存じませなんだとは」
「杉丸」
お万阿は、つぶやくようにいった。
「は、はい」
「お万阿には、庄九郎様を魅《ひ》くだけの愛《かな》しさがありませぬか」
(ああ)
杉丸は泣きたいような気持であった。
(お万阿様は、恋を遊ばしている)
「ありませぬか」
と、お万阿は、力なくいった。
「と、とんでもござりませぬ。京で一といわれたご料人様でござりまする。杉丸の眼からみましても、照り輝くように見えまする」
「だめ」
お万阿は瞬《まばた》きもせずいった。
「だめなのです。庄九郎様はお万阿を美しいとも思うて下さっておりませぬ」
「そ、そんな」
といったが、杉丸も内心そう思わざるをえない。いったい、松波庄九郎というお武家は、木石でできたお人なのか。
それとも、僧房のころの意識《あたま》が抜けきれず女人をけがれと思うておわすのか。
杉丸は、六つのときに西ノ岡から奈良屋に貰《もら》われてきて飼われ育てられ、奈良屋を二なき棲《すみ》家《か》として生きてきた。
二なきといえば、家つき娘のお万阿に対しても同然である。柔肌《やわはだ》に血の通うた吉祥天女《きっしょうてんにょ》であろうかとあがめてきた。
もしお万阿が命ずるとすれば、お万阿のゆ《・》ばり《・・》でも杉丸はよろこんで飲むであろう。が杉丸は、武家でいえば、家ノ子である。
飼われ者だ。
お万阿への情念《こころ》を、恋であるとはおもったことはなかった。おもうべきではない。もしそのような不《ふ》逞《てい》のこころをおこすとすれば、
(死ね)
と、杉丸は自分に命ずるであろう。庭の樹《き》に縄《なわ》をかけて縊《くび》れ死ぬであろう。
そのかわり、お万阿の恋のためには、どのようなことでもしたい。
(しかも)
その相手の松波庄九郎は、この世にあり得《う》可《びょ》うともおもえぬほど、無慾なお方ではないか。奈良屋の身代をねらうようなおかたではない。
(いうなれば)
菩薩行《ぼさつぎょう》のひとである。吉祥天女さまの恋の相手としては、これほどのお人はない。
「杉丸、わたくしはね」
と、お万阿は天女のような無邪気さでいった。
「わたくしのののさま《・・・・》をお見せしたのです」
「ののさま?」
「ええ、ののさま」
お万阿は、うつろな眼でいった。
杉丸の悲劇は、――というよりお万阿と杉丸の喜劇は、お万阿が杉丸という人間を性をそなえた男とはおもっていないことだ。幼いころから屋《や》舗《しき》の庭にはえている庭木とおなじようなものだ、とおもっている。だからこそ杉丸の前で平気で着更《きが》えをするし、
「ののさまを見せた」
などと、白々というのである。杉丸はさすがに、息をのみ、動《どう》悸《き》をおさえている。
「御料人さま。御料人さまから進んでののさ《・・・》ま《・》をお見せあそばしたのでござりまするか」
「ちがう」
物《もの》憂《う》くくびをふった。
「庄九郎様が、見せよ、と申されたから」
「それは」
おどろきである。
「庄九郎様はそのような淫乱《ばぶれ》たことを申されたのでござりまするか」
あのかたが。――信じられぬ。
「庄九郎様のおおせられるには、有《う》年峠《ねとうげ》で何やらの姫のののさま《・・・・》に手で触れたことがあったが暗うて見なんだ、見たことがない、見せてたもれとおおせられるのです」
「それで?」
「仕方がありませぬ」
「お見せなされたのでござりまするな。庄九郎様はどうおおせでござりました」
「黙って」
「だまって?」
「おいでなされただけ。庄九郎様は僧房で稚《ち》児《ご》のみをごぞんじであったゆえ、おなごはおきらいなのであろうか」
「まさか左様な」
杉丸は、語気を荒《あらら》げた。おなごのきらいな男などあってよいものか。
諸国の武将で、なるほど稚児を愛する者は多い。しかしそれは戦陣、征旅に女人を連れてゆかぬからであろう。それが証拠に、かれらは平素、館《やかた》では女人にかしずかれている。察するところ、稚児のもつ「菊の花」(当時の隠語)は、所詮《しょせん》は女人のののさま《・・・・》の代用にすぎぬものだ、と杉丸はおもっている。
「杉丸、お万阿は」
と、眼だけをむけた。
「堪《こら》えられませぬ。想《おも》いが、この胸の。杉丸などにはわからぬであろう。わからぬゆえそのような平然《しれしれ》とした表情《かお》をしているのです」
「いいえ、そんな」
「おだまり」
お万阿は、おきあがった。
「わたくしは、恋をした。おなごにうまれてこのように胸の灼《や》ける思いをしたことがありませぬ。――杉丸」
「は、はい」
「支度しや」
お万阿は立った。
(お美しい)
杉丸は、甘酸っぱい、悲しいような気持でお万阿を見あげた。
「京へ帰ります。吉田(洛北《らくほく》)の陰陽師《おんみょうじ》に庄九郎様の行方を占ってもらうのです」
庄九郎は、京にむかって歩いている。
(われながら、細工のこまかいことよ)
とおもうのだ。
(お万阿は手に入れることはできる)
とまでは、自信はついた。
しかしながら、ただ単にお万阿の女体を手に入れるだけではつまるまい。
ほしいのは、奈良屋の財産《しんだい》だ。
あの有馬の湯でお万阿のののさま《・・・・》を見ながら、なおお万阿を放ちやったのは、庄九郎なりの手《て》管《くだ》である。
あのときは、お万阿は抱けた。お万阿はよろこんで庄九郎に身をまかせたであろう。
(しかしながら)
それだけのことだ、と庄九郎は思う。お万阿を得るだけのことである。
お万阿をして、身も世もなく庄九郎に惚《ほ》れさせねばならぬ。悩乱して、ついには命よりも大事な奈良屋の身代をなげだすまでにお万阿の心を灼きあげてゆかねばならぬ。
(そのためには)
辛抱が肝腎《かんじん》。
庄九郎は、颯々《さっさっ》と歩いてゆく。一あし一あしが、地を踏みしめるような歩き方だ。
庄九郎には、あらたな自分への自信ができた。自分への発見といっていい。
(おれは稀有《けう》の男だ)
という自信である。考えてもみよ、と庄九郎は北摂《ほくせつ》の天を見あげるのだ。
お万阿は、京随一の美女という。京随一の美女といえば、天下随一の美女ということでもある。
(天よ、おれを賞《ほ》めよ)
この松波庄九郎は、その美女を裸形にし、その体を開かせ、しかも抱かなかったではないか。
あの場にのぞんでその事に堪えうる者は、本朝唐天竺《ほんちょうからてんじく》ひろしといえどもこの松波庄九郎のほかはあるまい。
(野望があるためだ)
と、庄九郎は思うのである。男の男たるゆえんは、野望の有無だ、と庄九郎はおもっている。庄九郎の満足は、自分の野望が女色をさえしりぞけられるほどに強い、ということであった。
(いやいやこの庄九郎、いままで男であると思っていたが、これほどの男であろうとははじめて知った。一国一天下を望むも、もはや夢ではないであろう)
鳶《とび》が、舞っている。
庄九郎は、北摂の山峡《やまかい》を、黙々と京にむかって歩いてゆく。
(京での用事は)
お万阿を抱くことだ。あの想いにじれているだろうお万阿のからだを、こんどこそは抱く。抱く。
(どう抱くべきか)
残念なことに、学は古今に通じているはずの法蓮房《ほうれんぼう》松波庄九郎は、天地万物の事理のなかでたったひとつ、女を抱くすべ《・・》を知らない。
(いやさ、知ってはおる。男女《なんにょ》の合歓は自《じ》然《ねん》の道だ。教えられずともわかるものであるが、ただそれではお万阿の心は蕩《と》かせるわけにいかぬ。芸がいる。芸が。――)
芸が。――これが、庄九郎のやり方である。歩一歩、芸でかためつつ、階段をのぼってゆく。
庄九郎。
京へ入るまえに、その芸《・》をみがくために、高名な江《え》口《ぐち》ノ里へ足をとめた。
王朝のころからの遊里で、京から公卿《くげ》、諸《しょ》大《だい》夫《ぶ》なども淀川《よどがわ》に船をうかべてこの里へあそびにきたものだ。
自然、遊女の多くは文雅の道にあかるく、歌人西行法師《さいぎょうほうし》がこの江口で泊まり、遊女妙《たえ》とやりとりした贈答の歌が、勅選の「新古今和歌集」に採録されているほどである。
むろん、松波庄九郎は、この里の遊女と文雅な閑話をするつもりではない。
おなごを、どう為《な》せばよいか。
為す、だけではない。その法を用いればおなごの体は蕩《と》けるものか、その教授を乞《こ》うつもりであった。
川べりに、宏壮《こうそう》な娼家《しょうか》がならんでいる。檜《ひ》皮《わだ》ぶき寝殿造り、といった、公卿の屋敷と見まがうような、優雅な建物ばかりである。
(その道に堪能《たんのう》なおなごと寝たい)
と庄九郎はおもうのだが、さて、
「そのような妓《おんな》がおるか」
などとは、一軒々々、軒下に入って訊《き》くわけにはいかない。
そこは利口で堅実な男だ。
釣《つ》り竿《ざお》を一本、購《あがな》い、娼家の町を背にして釣り糸を垂れた。
宿所も、手まわしよくきめてある。この里の寺で、寂光院《じゃっこういん》という坊だ。宗旨こそちがうが、
「かつて京の妙覚寺本山におった者だ」
といえば、ありがたいことにちゃんと泊めてくれる。
数日、釣りをした。
いっぴきもかからない。かかるはずがなかった。糸は垂れていても、はり《・・》はつけていない。
それが里の評判になった。
「かわったお武家様じゃ、衣裳《いしょう》、容貌《ようぼう》からみれば由緒《ゆいしょ》ありげなご身分のお方じゃが、どういうおつもりであろう」
ひまな里人が、話しかけてくる。
庄九郎はそれがねらいだ。釣り糸一つ垂れておれば、妙なもので人は警戒を解き、なんとはなく里のうわさをする。
「この里では、どのおなごが上手じゃ」
と、庄九郎も、さりげなく訊ける。
漁人、船頭、娼家の小者、さまざまな男ども二、三十人ほどには、庄九郎はきいたであろう。
白《しら》根《ね》
月《つき》御前《ごぜ》
桔梗《ききょう》
と、三人をいう者が最も多い。しかしながら最後に老漁夫がいった。
「いまでこそ庵《いお》を結んで尼《あま》御前《ごぜ》になっておわすが、むかしの名は白妙《しろたえ》、憂婆夷《うばい》(尼)になっての御名は妙善と申されるおひとが、いちばんの物知りにおじゃりまする」
「齢《とし》いくつじゃ」
「四十二、三」
「それはよい、その尼御前に物を訊きたいゆえ、この手紙を持って使いに行ってくれまいか」
庄九郎は、名文家である。
とくに漢文に長じていたが、このばあいは流麗な和文を用い、しかも今様の俗語も入れて諧謔《おかしみ》もくわえ、自分がかつて僧籍にあったためおなごを知らぬこと、しかしいまは知りたいこと、さらに知る以上は最上の巧技を学びたいこと、などを書いた。
老漁夫は、文字が読めない。
かしこまって、それを、江口の西、涙池のほとりの松林に埋れて建つ妙善尼の庵まで持って行った。
やがて戻《もど》ってきて、
「いらせられませ、とのお言づけでおじゃりましたわい」
と、返事した。
「そうか」
立ちあがったときは、釣り竿は庄九郎の手から離れて西へ流れはじめている。
涙池のほとり、庵室《あんしつ》の前に立った。庵をめぐって姫椿《ひめつばき》が垣《かき》根《ね》がわりになっている。姫椿はその葉を茶に製すると香気があり、女どもはそれを袋に入れてふところに忍ばせ、香袋《においぶくろ》にするものだ。いかにもこの庵のぬしの前身をおもわせて婉《えん》である。
眼の前は、真白な紙障子。
背後の西《にし》陽《び》が、庄九郎の影を、隈《くま》もあざやかに紙障子に映した。
障子は、ひらかない。
ただ、ひどく澄んだ声が、
「お入りくださいますように」
と、洩《も》れてきた。
庄九郎、革《かわ》足袋《たび》をぬぎ、足を、涙池へ流れこんでいる小川で洗い、
「ご免」
と、障子をあけた。
香《こう》が、部屋にたきしめられている。ひとかげはない。
円座が一つ。
客を待ちげに、置かれている。
庄九郎は、青江恒次の大刀を置き、円座にすわった。
眼の前に青磁の香炉が一つ息づき、そのむこうに老梅の枝が一《いっ》枝《し》、立《りっ》華《か》されているほかは、なんの飾りもない。
ほぼ半刻《いちじかん》、そこにすわっていた。その間、陽はしだいに傾き、やがて闇《やみ》がきた。
庄九郎は、闇の中に端座している。
そのとき、はじめてふすまがひらき、物音もなく匂《にお》いがちかづいてきた。
眼にはみえない。
匂いのみで、女体を嗅《か》ぐことができる。
「教えて進ぜまする」
と、その匂いの影はいった。
やがて匂いの影は、庄九郎の手をとり、舞うような仕草で、ふわりと立たせた。
「こちらへ」
部屋を一つ、過ぎた。
次の部屋は、畳になっている。屏風《びょうぶ》がめぐらされている様子であったが、闇に馴《な》れぬ庄九郎にはみえない。
匂いの影はうずくまって庄九郎の袴《はかま》を解き、小《こ》袖《そで》をぬがせた。
ただそれだけの仕草のあいだに、ときどきさわさわと肌《はだ》に触れる指のかぼそさ、しなやかさ、それが単に庄九郎の肌に触れるというようなものではない。肌で、妙音を聴くような感触である。
「やがて」
と、匂いの影はいった。その声は、澄んだなかにも湿りがある。
「やがて、月が昇りましょう。燭《しょく》は用いませぬ」
庄九郎は、臥《ふし》床《ど》に横たわった。
やがて、その横に影も添《そい》臥《ぶ》せた。
庄九郎はやにわに抱きよせようとしたが、匂いの影はそっと庄九郎の手をはずし、
「それはまだ早うございます」
と、微笑を含んだ声でささやき、ささやいた口で、庄九郎の耳を小さく噛《か》んだ。
「ああ」
われにもなく庄九郎は声をあげ、まだ女体を知らぬ庄九郎の男《・》が、勃然《ぼつぜん》とした。
「あれ、すさまじや」
と、匂いの影は、庄九郎の男《・》の雄偉さに、静かな驚きをもらした。
「庄九郎さま。さきほどからのあなた様の身のこなしから察して、おそらく舞をなされたであろうと思いましたが、いかがでございましょう」
「乱《らん》舞《ぶ》、曲舞《くせまい》、ひととおりのことは学びはしたが、それがどうしたか」
「それも舞の上手」
と匂いの影はささやき、
「舞もこのみちも、かわりはありませぬ。笛は遊ばされまするか」
「まずひととおりは」
「ああ、それならば、ご上達が早うございましょう。音曲、歌舞、おなごを為《・》す道も極意《こころ》はかわりませぬ」
と、匂いの影は庄九郎の左手の指をかるくつまみ、やがて自分のからだに触れさせた。指がしめやかに濡《ぬ》れてゆく。
「庄九郎様」
と、声が低くなった。すでに匂いの影《・》ではなく、女という実体に化《な》りつつあり、やがて血があつくなり、肌が動いた。庄九郎の指は、もはや影に触れていない。
そこに女《・》がいる。
(これが、女か)
やがて、月が枕辺《まくらべ》に射《さ》した。
庄九郎は、女に誘われるままに、女のいう舞を演じはじめた。優雅に。
しかし、ときにはげしく。
(これも一国一天下に事をなさんがため)
庄九郎の情事は、あくまでも生真面目《きまじめ》である。
初更《しょこう》の鐘《かね》
奈良屋のお万阿《まあ》が、京にもどってふた月ほどたったある日。
東山に夏の雲が湧いていた。
朝、清水《きよみず》への物詣《ものもう》でからもどると、杉丸《すぎまる》が軒さきまでとびだしてきて、
「あの庄九郎様が」
と、絶句した。お万阿は次の言葉を待った。その松波庄九郎の行方をさがして、すでにふた月になるのである。
「庄九郎様が、どうなされたのです」
「ご自身、足をお運びなされ、ただいま奥にてお待ちあそばされておりまする」
「あ」
と、お万阿は、手にもったあやめをおとした。
「奥とは、屋《や》舗《しき》のですか」
「はい。有馬から、あのまま旅にお出ましあそばされたそうでござります」
それはうそではない。庄九郎は、有馬から江口ノ里へ出たあと、例によって摂津、河内《かわち》、大和《やまと》の形勢をさぐったあと、山城《やましろ》へ入り、京へのぼってきたのである。
「旅」
とお万阿はつぶやいた。
「――はい、旅」
「旅から旅を重ねられて、庄九郎様はいったい何がおめあてなのであろう」
「存じませぬ。それはご料人様が、庄九郎様からごじきじきお訊《き》きなされませ」
と、杉丸は、いんぎん《・・・・》な口調だが、この男なりに女主人をからかっているつもりである。
「杉丸、なぶるつもりですか」
と、お万阿はこわい顔をして、店の中へ入った。
杉丸の鼻に、残り香《が》が漂った。
お万阿は廊下をいくつか渡り、ひたひたと板を踏みながら中壺《なかつぼ》まできて、ちょっと考えた。右へ折れた。
左は庄九郎が居る客間。
(待たせてさしあげる)
それくらいの罰があってもよい。
お万阿は自室にもどり、自室で婢《ひ》女《じょ》に着更《きが》えを手伝わさせ、化粧《けわい》をなおした。
「杉丸をおよび」
言いつけて、唇《くちびる》に紅をさしている。
ほどもなく、杉丸が次室に跪《ひざまず》いた。
「御用でござりましたか」
「足を、ぬぐってください」
鏡のなかのお万阿はいそがしい。
幼女のころから、お万阿の足は杉丸がぬぐってきた。習慣《ならい》になっている。
杉丸はすぐ黒漆塗りの耳だらい《・・・》をもってきて、布をしぼった。
お万阿は、足を出した。杉丸はぬぐった。たがいに、何の感動もない。ただ杉丸がぬぐうと、指のまたのあいだまで、玉をみがくようにしてみがいてくれる。
「ごくろうさま」
お万阿は、立ちあがった。
庄九郎は、座敷から庭のあやめを見ている。装束《しょうぞく》がすがすがしい。
突き出たひたい《・・・》、やや受け口、頑丈《がんじょう》なあご、よく光る眼、異相ながらも、それなりに秀麗な容貌《ようぼう》である。
「ああ、お万阿殿か」
庄九郎は、あやめから視線を転じただけで、表情も変えない。
この男、倨傲《きょごう》なくせに、寺育ちらしくあいさつだけは鄭重《ていちょう》である。
ひととおりの挨拶《あいさつ》をかわしたあと、
「京に宿がない」
といった。
「今夜はとめていただく」
「どうぞ」
お万阿も、奈良屋のあるじらしく、行儀はことさらに固くしている。有馬の湯で、
――狐《きつね》
に化《な》って庄九郎の前で見せた嬌態《きょうたい》は、いま片鱗《へんりん》もない。
「京の滞留は、数日になるかもしれぬ」
「幾日なりとも」
「礼をいいます」
庄九郎は、侍烏帽子《さむらいえぼし》をわずかにさげた。ひもが朱である。
「じつは有馬で御料人に変《へん》化《げ》した狐をみた」
などと野暮なことは庄九郎はいわない。ぴしっ、と音の鳴るような固い貌《かお》である。
だまっている。
中庭からの陽《ひ》ざしが、骨ばった半顔をくっきりと照らし、ひざは袴《はかま》の折り目のままに端座している。
「…………」
と、お万阿はこまった。この男と対座していると間がもてないのである。
つい、こちらが多弁になる。ならざるをえぬように松波庄九郎は仕むけているのであろうか。
「京での御用はなんでございます」
「用か」
庄九郎は、お万阿の眼を射るように見、その視線をはなさず、
「そなたを抱くためさ」
といった。
お万阿は、陽射しの中で狼狽《ろうばい》した。庄九郎はさらにいった。
「有馬の湯では、狐を抱こうとした。が、狐ではいやじゃ。抱こうなら、真正のお万阿殿をそなたの閨《ねや》にて抱きたい」
(あの)
お万阿は、自分がどんな顔をしているのかもわからない。ただ、体だけが庄九郎の眼前にさらけ出ている。その体が、すでに突き貫かれたとおなじ衝動をもった。
「今夜、閨で待つように」
「そ、そのかわり」
お万阿は、自分の唇が、もう意思の統制をはなれてとんでもないことを口走っていることに気づかない。
「そのかわり、数日逗留《とうりゅう》、などとは申して下さりますな」
「何月も?」
「いいえ」
「何年もか」
「いいえ。庄九郎様が一生、奈良屋に居てくださるというならば、お万阿は今夜、閨でお待ちいたします」
「この、あるいは天下のぬしになるかもしれぬ松波庄九郎を、奈良屋が飼おうというのか」
「ち、ちがいまする。お万阿のほうが」
「ほうが?」
「庄九郎様に飼われとうございます。今生《こんじょう》だけでなく、つぎの世までも」
「入婿《いりむこ》せよというのじゃな」
と庄九郎、顔がにがい。
「わしは」
庄九郎はいった。
「諸国を経《へ》めぐってようやくわかった。この庄九郎、いまは凡《ぼん》下《げ》にすぎねども、ゆくゆく、この国の歴史を変える男になろうかもしれぬ。それを奈良屋の婿にしてしまうのか」
「虎《とら》も」
と、お万阿はいった。
「飼いならせば猫《ねこ》のようになると申します」
「ひもじい」
庄九郎は、もうこの会話に飽いたらしく、庭前のあやめの花に眼を移している。
「湯漬《ゆづ》けはないか」
その夜、月が昇った。
庄九郎は、あてがわれた自室で青江恒次の一刀に打《うち》粉《こ》をうっていた。
華《か》葱窓《そうまど》から月がさしこんで、刀身をあおあおと染めあげた。この刀は斬《き》れる。
事実、何度か、人を斬った。
(しかし、この素《す》牢人《ろうにん》の一剣をもって天下を斬りとれるものであろうか)
占えるものなら、自分の将来《すえずえ》をうらないたい。庄九郎は、素手である。素手で国が奪《と》れるものであろうか。
庄九郎は、刀身に映えている月の光をたどりながら窓を見、華頂山《かちょうざん》にたかだかとかかっている月をみた。
そのとき、浄菩提寺《じょうぼだいじ》の初更《しょこう》をつげる鐘がひびいた。
(ああ、お万阿か)
庄九郎は思いだしたように刀をおさめて立ちあがった。
「いざ寝《い》なむ」
と、庄九郎は、いまはやりの今様《いまよう》を口ずさみ、舞の足ぶりで部屋を出た。
いざ寝なむ
夜も明けがたになりにけり
鐘も打つ
とん、と足を廊下に踏んで、
宵《よい》より寐《い》ねたるだにも
飽かぬ心をいかにせむ
(はて、おなごとはさほどに佳《よ》きものか)
江口の尼《あま》には、伝授のみ受け、伝授されることに気をとられて、夢中になれなかった。
庄九郎は、お万阿の閨のふすまをひらき、十分に月の光を入れてから、ツト閉めた。香がカ《た》きしめられているのを知った。
「わしだ」
といったとき、鐘が鳴りおわっている。
庄九郎は、刀を床の間に置き、するすると装束をぬいだ。
お万阿は、その影を見つめている。おもわず眼をつぶったときに、体が浮いた。庄九郎のたくましい腕が、お万阿を抱きとっている。奈良屋を抱きとっている、といってよかった。
「お万阿、よいか」
「なぜ御念をお入れ遊ばします」
(身代のことだ)
と、庄九郎は念を押したつもりである。
庄九郎の指が、京の男という男が垂涎《すいぜん》する奈良屋の御料人の小《こ》袖《そで》の帯をといた。下は素《す》肌《はだ》である。
「では契《ちぎ》るぞ」
と、庄九郎はお万阿のからだをひらかせ、
「ののさまはこれじゃな」
と、ばかな念を押した。武骨さ、おもわず出たのは、庄九郎の正直なところであろう。
「あっ」
とお万阿がうめいたとき、奈良屋の身代は松波庄九郎のものになっていた。
お万阿は、体が一時に灼《や》けた。恋うてはいたが、この瞬間がおそろしくもあった。そのおそろしいものが、お万阿の体に入った。入っただけではない。お万阿の五臓をひきちぎるかとおもわれるほどに荒れた。
「お万阿」
庄九郎は、ささやいた。
「はい」
とお万阿はうつろ《・・・》に答えている。
「わしは、今夜おなごをはじめて知ったことになる」
「うそ」
と、お万阿が答えたのは、それから半刻《いちじかん》も経《た》ってからであった。解放された。
「うそでございましょう」
「いや、じつは」
と、有《う》年峠《ねとうげ》でのこと、江口での伝授などを正直に話し、
「そなたを恋うていたがためじゃ。今夜のためにそれだけのことをわしはした」
といった。
余人がいえばふざけた理屈だが、庄九郎の口から出ると、もうそれだけでお万阿を感動させた。
「でも」
不審がある。
「それならばなぜ、庄九郎さまは、いままで奈良屋に近づこうとなさいませんでした」
「お万阿は、そういう男ならいいのか」
「そういう男とは?」
「そなたの色香に想《おも》いこがれて、夜も日も奈良屋の軒下に尾をたれて通うてくる男がよいのかというのじゃ」
「いいえ」
そんな男なら、いままで幾人もあった。
「この庄九郎、お万阿に不《ふ》憫《びん》ながら、お万阿のことのみ思うてはおらぬ」
「ほかに?」
「いや、女はおらぬ。野望がある」
「公《く》方《ぼう》様にでもおなりあそばすか」
と、いくぶんからかい気味で、庄九郎の広い胸をなでた。まさか成れはすまい、という安心がある。素牢人の身でなにができるであろう。
「お万阿、そなたは微笑《わら》っている。しかしおれより以前に、こういう男が一人いた。伊勢新九郎という男じゃ」
「そのおひとが?」
「いま東の都といわれる小田原の都城をきずき、関東一円の覇《は》王《おう》となった北条早雲《ほうじょうそううん》じゃよ。この男がやったことを、この庄九郎ができぬと思うか」
「さあ」
お万阿はそういう知識にうとい。が、関東の北条といえば、天下にそれほど強勢な大名がいない、ということぐらいは知っている。
「でも庄九郎様。お万阿とこうなった以上はそういうおそろしい夢を捨ててくださいますでしょうね」
「奈良屋の身代をまもれ、というのか」
「ええ」
これだけはお万阿、断固といった。
「そうしていただきます。そのかわり、奈良屋としては、庄九郎様を御婿に迎えたということを、大山崎八幡宮《はちまんぐう》にもおとどけ申し、むろんそうするのみか、世間にも知らせるために、にぎやかな式をあげとうございます」
「ふむ」
庄九郎は、だまった。ここで異存を唱えたところで、どうにもならない。一国一天下などといくら唱えたところで、夢のまた夢である。いま庄九郎には、現実、奈良屋の巨富がころがりこんでいる。これだけでも天下の野望児を羨望《せんぼう》させるに足りるものであろう。
「わかっている」
と、庄九郎は不覚にも本心でいった。夢を追っても、自分に運がなければどうにもならぬことだ。
「商人《あきゅうど》になっていただきます」
「性根者じゃな、お万阿は」
「そりゃ、奈良屋庄九郎様の御料人さまでございますもの」
「奈良屋庄九郎か」
「あきゅうど」
と、お万阿はいった。
「きっと日本一のいいあきゅうどにおなりあそばすとお万阿は思っております。そうなれば、あのお刀も捨てていただかねばなりませぬな。妙覚寺本山の学問僧から還俗《げんぞく》なされて武士におなりあそばしましたが、こんどはあきゅうどにおなりあそばす。松波庄九郎様も、おいそがしいこと」
「負けた」
お万阿の微笑にはかなわない。
「どうやら、猫にされた」
「うれしい」
と、お万阿は顔を庄九郎の胸にうずめてきた。
(勝った)
とお万阿はおもっている。
「商売《あきない》のことは、手代がたくさんおりますゆえ、庄九郎様は、お好きな舞、学問などをなさって遊び暮らして頂ければいいのです」
「いや」
庄九郎は真顔になった。
「奈良屋庄九郎になるかぎりは、この店の身代を三倍にしてみせよう」
「三倍に」
といったことが、お万阿にうれしかったのではない。庄九郎がその気になってくれたことがうれしかった。
「庄九郎様。もうお万阿は、一生、庄九郎様に抱かれて暮らすことだけを考えていればいいのでございますね」
「しかしいつ虎にもどるかわからぬぞ」
「お万阿がしっかりつかまえてもどしませぬ」
といったが、ふとあご《・・》をあげて、
「お万阿が可愛い?」
最後に、もっとも大事なことをきいた。たがいにそのことだけは忘れている。
「可愛い」
これも庄九郎の本心だった。お万阿、というより、女とはこれほど可愛いものかということを、今夜はじめて知ったような思いがする。
「お万阿、それでは奈良屋庄九郎として、はじめてわたしが内儀を抱こう」
「うれしい」
お万阿は、庄九郎の下にからだをにじらせた。
奈良屋の主人
庄九郎という男の奇妙さは、奈良屋の入婿《いりむこ》になったとたん、商人《あきゅうど》そのものになってしまったことである。家つきのお万阿までが、
(まるで、うまれ落ちて以来の商家そだちのようじゃ)
と舌をまいた。いまの奈良屋庄九郎には、かつての法蓮房《ほうれんぼう》のおもかげも、かつての牢人《ろうにん》松波庄九郎の面影《おもかげ》もまったくない。
「商人というものは、永楽銭《えいらくせん》一文の客にも、一貫文の客にも、おなじようないんぎん《・・・・》さをもってせよ」
と、手代以下に説いた。
庄九郎自身がそうであった。
この当時の油商は、奈良屋ほどの店でも小売りをかねている。
店売りと行商がある。行商は、麻の素《す》襖《おう》にククリバカマをはき、棒の両側に油桶《あぶらおけ》をぶらさげて、
「おん油ァ、おん油ァ」
と、市中から郊外の村々まで振り売りして歩いた。おん《・・》と敬称がつくのは、油の専売権を大山崎八幡宮がもっているので、油屋にいわせるとただの油ではない、
「神油」
というわけである。
なんと庄九郎は、奈良屋の主人のくせに、店の売り子にまじり、そういう振り売りの行商までやった。
「おん油ァ、おん油ァ」
と売ってまわる。
つらい仕事だ。だて《・・》や酔興でできるものではないのである。
当時、油商の世界では、京の市中の油問屋はむしろ傍系で、なんといっても洛南《らくなん》の「山崎」が日本の油商人の中心地であった。
余談だが、山崎からも京の市中へ油の行商が来る。
そういう者がくると、奈良屋など京の油屋は、戸をおろして、山崎油売りの通過を待ったものだ。それほどまでに京の油問屋は、山崎の地下《じげ》人《にん》に対して敬意をはらったものである。
その山崎の油の行商の働きぶりを、このころの京わらべはこう歌った。
宵《よい》ごとに都へ出づる油売り
更《ふ》けてのみ見る山崎の月
一幅の俳画的風景である。しかし当の行商にとってはつらい労働であったろう。
庄九郎もそういう調子で売って歩いた。
「なにもそこまでなさらなくても」
とお万阿は、うれしいながらも庄九郎が気の毒になってしまった。
「いや、商人の見習いは振り売りからじゃ。これがわからねば、大商いもできぬ」
と庄九郎はいった。
そのとおりであろう。庄九郎は振り売りをしながら、売り子の悪徳をみつけた。
売り子は、油をマスではかる。それを客の壺《つぼ》に入れてやるのだが、最後の一滴をたくみにマスの中に残すが商い上手とされた。その一滴ずつをためておいて、自分が着服するのである。一日溜《た》まると、ばかにならぬ量になる。
「それはならん」
と、庄九郎はきびしく禁じた。一滴のこらず客のものである。
「奈良屋の商法にうそがあってはならぬ。マスから壺へは、客の手で移させよ。奈良屋の商法はこれじゃ、といえば客もよろこぶであろう」
ささいなことだが、これが京の内外で人気をよぶことになった。
同時に庄九郎は売り子の利益もみとめてやる。マス残しの油と同量のものを、店から無償でくれてやることにしたのである。
これには売り子もよろこんだ。人気があるから昼すぎまでに油を売りつくし、さらに一たん店にもどり、もう半《はん》荷《が》、宵の口までに売った。
店には非常な利潤になった。
庄九郎は、あたらしいことを考えることがすきである。
(ただ売るのはつまらぬ。なにか芸をさせながら売らせるのはどうであろう)
その後数日、かれは倉の中で懸命になにかをしていたが、やがて杉丸に手代、売り子などを土間へ集めさせ、
「こういうのはどうじゃ」
と、永楽銭一文をとりだした。
銭の真ン中に、四角い穴があいている。
庄九郎は、まずマスに油を満たしそれを壺にあけるかとみたが、
「さにあらず」
と、ニヤリとした。永楽銭をつまみ、その上からマスを傾けてたらたらと注ぎはじめたのである。銭の下に壺がおかれている。
「あっ」
とみなが声をのんだのは、マスからこぼれ落ちる油は、一すじの糸をなし、糸をなしつつすーっと永楽銭の穴に吸いこまれ、穴を抜けとおって下の受け壺に落ちてゆく。
銭は、ぴたりと庄九郎の二本の指で、空間に固定されている。
「さあさ、お客衆、ご覧《ろう》じろ」
と、庄九郎は、ずらりと手代、売り子の群れを見まわした。おどろいたことに、庄九郎の両眼は、「お客衆」を見まわしているばかりでマスをもつ手や永楽銭をもつ手を監視しない。だのに油はマスから七彩の糸になって流れおち、永楽銭の穴に吸いこまれてゆく。
至芸である。
「マスは天竺須《てんじくしゅ》弥《み》の山、あぶらは補陀《ふだ》落《らく》那智《なち》の滝、とうとうたらり、とうたらり、仏天からしたたり落つるおん油は、永楽善《えいらくぜん》智《ち》の穴を通り、やがては灯となり、無明《むみょう》なる、人の世照らす灯《ほ》明《あか》りの……」
と節おもしろく唄《うた》いはじめた。声もいい。節ぶりもいい。
おもわずみなが聞き惚《ほ》れたとき、
ぴたり
と最後のひと滴《しずく》が壺におさまって、
「どうじゃ」
庄九郎はあらためてみなの顔をみた。
「かようにして売れば、人が集まる。いちいち家々をまわらずとも、辻《つじ》で売れる。客がむこうから来るわけじゃ。――むろん前口上《まえこうじょう》には」
庄九郎は語を継ぎ、
「一滴たりとも穴のそとに油がこぼれればた《・》だ《・》で進ぜる、と述べておく。客の興は、いちだんとそそられるわけじゃ」
といった。
みな、ぼんやりしている。
「よいな。今夜から、商いをおわれば、みなで稽《けい》古《こ》をせよ。要するに、商いを振り売りから辻売りに変えるのじゃ」
が、この案は失敗した。
どの男も、あらそって稽古をしてみたが、みな油を銭面にそそいでしまい、庄九郎のようにはいかなかったのである。
「ご主人様、あの件はおとりやめくださいませ」
と、杉丸が泣くようにいってきた。下手な芸で売れば油をみなただ《・・》で客にやってしまうことになる。
「左様か」
庄九郎も苦笑せざるをえない。
とまれ、庄九郎はつぎつぎと新商法をあみだしては油を売り、奈良屋の身代はみるみるふとった。
お万阿は、よろこんだ。
もともと、お万阿は妙覚寺本山で学問をまなび、諸芸を身につけた庄九郎ほどの若者を婿にしたことだけでも奈良屋の誇りであるとおもっていた。妙覚寺本山の学生《がくしょう》あがりといえば、現在《いま》でいえば博士以上の稀少《きしょう》性はあったであろう。
だまってすわっているだけで、奈良屋にとっては、これ以上の装飾はないと思っている。それが、西宮《にしのみや》の戎様《えびすさま》の化《け》身《しん》かとおもわれるほどの商い上手を発揮しはじめたのである。
(これほどの仕合せはない)
と思った。そのうえ、庄九郎は男としてお万阿に満足しきっていた。
「お万阿、おなごとはよいものじゃな」
と、閨《ねや》で毎夜いうのである。
「わしは、僧房におった。幼いころから教えられて、女とは罪障ふかき者、僧の身で近づけば地獄におちる、と思いこまされた。長じては僧房で稚児《ちご》を愛した。いまにしてわかった。おなごとはこれほど美味《うま》いものゆえ、求《ぐ》道《どう》のさまたげになるとして釈《しゃ》迦《か》は禁じたのであろう」
「庄九郎様」
お万阿は心配になってきた。
「美味いのは、お万阿だけでござりまするぞえ」
お万阿に味をしめて、そこここのおなごを試食されてはたまらない。それならばお万阿は試験台の役割りだけだったことになる。
「うそをつけ」
庄九郎は声をたてて笑った。
「わしは知らんが、世間にはもっとうまいおなごがいるはずじゃ。女に嫉《しっ》妬《と》があるのは、女にも品々《しなじな》がある証拠であろう。男の性《しょう》が浮気なのは、よい品をさがそうという本能にもとづく。そういうことから推して、わしのような女に暗い人間でも、世間にさまざまな品のおなごがおる、ということがわかるわ」
庄九郎はいつになく多弁になっている。自分の前に、女色といういままで知的にも情感としても暗かった世界が、ほのぼのと曙染《あけぼのそ》めているという思いである。
「庄九郎様、それはご本心?」
「まあ、本心」
「そんなのは、厭《い》や」
お万阿はこまってしまった。この僧侶《そうりょ》あがりの男に、自分はとんでもないことを教えてしまったのではあるまいか。
「しかしお万阿だけは、お離しなさらないでしょうね」
「わしは江口の尼に聴いた。閨《ねや》の睦言《むつごと》というのは、真実をこめていえばいうほど、うそ《・・》じゃ、と。嘘《うそ》で彩《いろど》られていればこそ、男女の閨というのは美しい。しかしお万阿」
庄九郎は、ふと考えた。
「そういううそ《・・》は、世の閨という閨から星の天へむかって毎夜、ゆらゆらと立ち昇ってゆく。そういううそは、仏天のどこに葬られているのか」
まじめな顔である。
「わしが九天を駈《か》けまわれる通力があるとすれば、まず行ってみたいのは、そのうそ《・・》の墓場だ。そこへゆけば、何某という名のついた菩《ぼ》薩《さつ》が、神妙に墓守をしてござるであろう」
くすくす笑っている。この想像力のゆたかな男の目には、その場面がありありとみえ、菩薩の顔つきまで思い浮かんでいるらしい。
「そこで庄九郎様はどうなされます」
と、お万阿はつい釣《つ》りこまれた。
「墓場の扉《とびら》をひらいてくれという。許されればわしは、その中に籠《こも》る。古今東西の閨のうその記録を読めば、万巻を読むよりも人間というものがわかろう」
(他愛《たわい》もないおひとなのだ)
「だから、そのうそ《・・》の真実を云うてくださりませ」
「生々世々《しょうじょうせぜ》、お万阿を離さぬさ」
ぽっ、とうそが天に立ち昇った。
いや、庄九郎の商売というのは、すさまじく儲《もう》かった。
大山崎から、神《じ》人《にん》三百人が奈良屋に押しかけてきたくらいである。
「奈良屋のあるじはおるか。返答しだいでは打ちこわすぞ」
と神人の代表がいった。
神人は、当時の下層民である。八幡宮に属し山崎の油座《あぶらざ》の行商をさせてもらっている。反面、八幡宮の僧兵のようなもので、その利益のためには他国に出かけて行っても戦う、といううるさい連中である。
奈良屋の油が、売れすぎている。かんじんかなめの油専売権をもつ山崎神人の油が、京ではあまり売れなくなってしまった。
「だから、打ちこわす、といいます」
と、杉丸は青くなって庄九郎に告げた。
「ほう」
といったが、庄九郎もさすがに閉口したようすだった。
大山崎八幡宮の商権を笠《かさ》に着る神人にはかなわない。なぜ庄九郎でさえかなわぬか、という理由を説明するには、自由商業時代でなかった中世の、
「座」
という面倒なものを説明せねばならぬ。しかし説明するに従って読者は興をうしなうであろう。要するに、ほとんどの業種の商工業は自由に開業できなかった。許可権を、それぞれ特定の有力社寺がもっていた。社寺、といっても中世の有力社寺は宗教的存在というよりも、領地をもった武装国である。神聖権と地上の支配権をもち、それらがそれを背景として商工業の許可権をもっている。奈良の興福寺大乗院などは、一つの寺院で、塩、漆、こうじ、すだれ、菰《こも》など、十五品種にわたる商工の権をにぎって、そこから得る収入はばく大なものであった。こういうばかばかしい制度をぶちこわして、楽市《らくいち》・楽《らく》座《ざ》(自由経済)を現出させたのは、のちに庄九郎(斎藤道三)のむすめ婿になった織田信長であった。信長は単に武将というよりも、革命児だったといっていい。そういう経済制度の革命の必要を信長におしえたのは、道三である。
道三みずからが、この制度をぶちこわした先覚者であるが、この当時の庄九郎には、まだその力がない。とにかく、荏胡《えご》麻油《まあぶら》の座元は、大山崎八幡宮。
その直属神人に、油を直売させている。京の奈良屋といえども、八幡宮から、
「神人」
の株をもらっている身で、富商ながらも、山崎の神人どもには頭があがらなかった。かれらは、一行商人ながら、しかも神人と軽蔑《けいべつ》されている下層民でありながら、「神社直属」という点で庄九郎よりも格式が上であり、集団を組んでくるからうるさくもある。
「杉丸、とにかく銭のいくらかでもやって追いかえしてしまえ」
「さあ」
帰るまい。かれらは、奈良屋の膨脹《ぼうちょう》のために生活をおびやかされているのだ。
「神人の長《おさ》はどんなやつだ」
「すさまじい顔の男でござります。いま、赤兵衛どのが応接しておりますが」
赤兵衛は、庄九郎が奈良屋に入るとすぐ、市巷《まち》から呼んで手代にしてやったのである。
「赤兵衛でも手に負えぬか」
「いやもう、なにがなんでも奈良屋を打ちこわしてしまう肚《はら》のようでございます」
「人数は、何人いる」
「おいおいふえて参っておりますから、三百人は越えましょう。刀、長《なが》柄《え》、弓矢をもっている者もおりまする」
「それはこわいな」
くすっと肩をすぼめた。
商人でなく武士ならば、さっそく牢人《ろうにん》を狩りあつめてみなごろしにしてしまうところだ。
(それができぬわ)
「お万阿、わしは商人になったのは、まちがいだったようだな」
「あなた様が、ふるいしきたりをお破りなされてばかりいるからでございます」
「そのおかげで、財が殖えたではないか」
「でも、結局はかような目に遭っては、もとも子もなくなります」
「さてさて商いとは不自由なものよ」
不敵に眼がひかっている。
(やはり武将になることだ。一国一天下をとって、社寺からかような愚権を奪い、楽市・楽座にしてしまわねば世が繁昌《はんじょう》せぬ)
「しばらく捨てておけ」
「し、しかし、このままで夜に入ってしまいまするぞ」
事実、夜になった。
神人どもは、篝火《かがりび》を奈良屋のまわりに点々と焚《た》きめぐらせ、手に手に松明《たいまつ》をもってさわいでいる。
「火を放《か》けるぞ」
とわめいているやつもあった。いや、おどしではない。神人どもに打ちこわされたり火をかけられた富商が幾軒もあった。そういう制裁権まで、神人にはあるのである。
「では、出てやるか」
と、庄九郎は、無腰で土《ど》塀《べい》の外へぬっと出た。
「わたくしが」
と、腰がひくい。
「奈良屋庄九郎でございます。長はどなたでございます」
「おれだよ」
トン、と長柄の石突《いしづき》をついた。なるほど、すさまじい面相の男である。
「あなた様が」
「おお、山崎の神人で、宿河原《しゅくがわら》ノこえん《・・・》という者だ」
「わかりました。おおせのごとく、今夜より奈良屋の店を閉めまする」
「えっ」
とむしろ、神人のほうが驚いた。
庄九郎は赤兵衛に命じ、馬を一頭曳《ひ》かせてきた。
庄九郎は、ひらりと鞍《くら》の上の人になった。
奈良屋消滅
おりから、月がある。
街路が、夜目にも白い。
庄九郎は、左手に松明をかかげつつ、単騎京の夜を南へすっ飛んだ。
「退《ど》け、退け」
とわめきながら、馬をあふってゆく。
――紅梅殿の廃墟《はいきょ》、いま流行《はや》りの一向宗道場、院庁《いんのちょう》の廃墟などをまたたくまにすぎ、竹田街道へ乗り入れた。八条の十字路で犬を一頭、蹴《け》殺《ころ》し、九条を出、東《とう》寺《じ》の山門前では、路上に臥《ふ》せている乞食の群れにぶつかるや、
「動くな、怪我をするぞ」
と、みごとな手《た》綱《づな》さばきで飛びこえ飛びこえして、羅生門《らしょうもん》の旧址《きゅうし》へ出た。
「なんじゃ、あれは」
颶《ぐ》風《ふう》のように駈《か》けすぎた騎影をみて、乞食どもがぼう然と立ちあがったときは、すでに庄九郎は西国《さいごく》街道に出てしまっている。
「魔性であろう、おおかた。――」
「怖《こわ》や」
と、口々にわめいた。
庄九郎は、駈けてゆく。
やがて前方、月明の空に、天王山《てんのうざん》の隆起がくろぐろとみえてきた。
そのふもとに、山崎の町の灯がみえる。
左手は、漫々たる淀川《よどがわ》の水。
(ああ、にぎやかなものだ)
庄九郎は、この付近にうまれただけに、山崎という商業都市が、京のような取りすました帝都よりもむしろ好きであった。
戸数はざっと三千軒以上。
深夜でも、難波《なにわ》からのぼってくる夜船が、荷積み、荷おろしをして、そのかがり火、たいまつの群れがしきりと動いている。戦場に似ている。
(さすが、山崎よ)
町の入り口で、ひらりと馬を降りた。深夜というのに路上に商人、人夫が行き交《か》って、とても騎乗のままでは通れないのである。
(日本一の賑《にぎ》わいじゃ)
とおもうのだ。
山崎の商都は、中世末期に栄えてその繁栄は戦国中期にまで及ぶ。庄九郎のころが、全盛の末期というべきころで、こののち、油を菜種からしぼることが発見されたため、この荏胡《えご》麻油《まあぶら》の商工業地はしだいにすたれ、二十世紀のこんにちでは、一望の竹藪《たけやぶ》と田園に化してしまっている。
ついでながら、当時の山崎市の中心である大山崎八幡宮は、国鉄東海道線ができたために境内を分たれて小さくなってしまったが、当時はおそらく敷地は一万坪もあったであろう。
鳥居の両側に、百三十軒の社《しゃ》家《け》屋敷がたちならび、町はずれには遊女屋がびっしりと軒をならべていた。
庄九郎は、神官津田大炊《おおい》の門をたたき、
「京の奈良屋でござりまする。火急のことあっておねがいに参上しました」
と町中ひびきわたるような声でさけぶと、門番が長屋門の窓から顔をのぞかせ、
「もう夜ふけじゃ。明朝にせい」
といった。
すかさず庄九郎は、銭袋《ぜにぶくろ》を窓から投げ入れた。しばらく待った。ききめは、てきめんだった。
「なんの用ぞい」
と小門がひらいた。
「事務官《ざっしょう》の松永多左衛門どのはおいででござりまするか」
と入りながらいうと、門番はねむそうな眼をこすって、
「御《ぎょ》寝《し》あいなっておるわ。何の用かは知らぬが、あすにせい」
「頼みまする」
と、庄九郎、腰がひくい。
「ばか、いまどき起こせばわしが叱《しか》られるわ」
「そこを折り入って」
「ならぬ」
「門番」
庄九郎は、いきなり言葉をかえた。
「うっ」
と門番がうめいたときは、庄九郎に利《き》き腕をとられてねじあげられていた。
「銭《ぜに》を食っていながら、わしのいいつけをきかぬと申すのか。この腕、へし折ってみせるが、よいか」
「ああっ」
「どうじゃ」
庄九郎の顔、本気でへし折るつもりらしく眼が血走っている。
「門番、うわさにも聞いていよう。わしがただの商人と思うては心得ちがいだぞ」
「お、おのれっ」
門番はもがいた。
「どうやら、折られたいようじゃな」
と薄っすら笑って門番の顔をのぞきこんだから、門番はさすがにおびえた。いったんおびえてしまえば他愛もなかった。くたくたと折りくずれて、
「と、とりつぎまする」
「よい心掛けである」
と、庄九郎は、銭をふやしてやった。
やがて庄九郎は、境内にある事務官(雑掌)の松永多左衛門の家へ入った。
多左衛門、
「何用だ」
と不興げにいったが、平素、庄九郎から多額なつけとどけを受けているので、ぞんざいにはあつかえない。
「じつは火急のことあり、殿様(神官津田大炊)にお会いしたいのでござりまするが」
「いま、何刻《なんどき》と心得る」
「まず、これを」
と、庄九郎は砂金を入れた小さな袋をとりだし、多左衛門のひざにのせた。
「おおさめくださりまし。かような用ならば夜でもご不快はござりますまい」
「ふむ」
多左衛門はふところにねじこみ、
「して、殿様に御用とはなんのことじゃ」
「いや、仔《し》細《さい》はござりませぬ」
と、ふところから、なめし皮の大きな砂金袋をとりだして、前へおいた。
「献上したいのでござりまする」
「これを?」
多左衛門の眼つきが、いやしい。
「いつにかわらず殊勝な心掛けじゃ。しかしこの夜分、お起こしするのはどうかと思うゆえ、暁《あ》けまで待て」
「待つと奈良屋がつぶれまする」
「つぶれる?」
「潰《つぶ》れてもよいと申されるならば、いつまででもお待ち申しまする。多左衛門様、いかがじゃ」
「仔細をいえ」
と、多左衛門は、たじろいだ。庄九郎の眼光が物凄《ものすご》かったからである。
「いや、仔細は殿様に拝謁《はいえつ》してから申しあげることにしましょう。いまはただ取りついでいただくだけでよろしゅうござる」
「仔細をきかねば、取りつぐわけには参らぬわい」
「すると多左衛門様はなんでござるか、それがしがせっかく宮《ぐう》司《じ》の殿に献金すると申し出ておるのをご一存で差しとめられるわけでござりまするな。あとでこのことが殿様にわかってお叱りをうけてもかまわぬ、と申されるのかな」
「お、おどすのか」
「おどしはしませぬ。この庄九郎、殿様に火急のおねがいがあって参っております。もし暁けがたになれば、奈良屋の店がつぶれているかもしれませぬ」
「だから、なぜ潰れるのか、そのわけを申し聞かせよといっているのだ」
「それは拝謁して申しあげます」
と、庄九郎、微動だにしない。
(いまごろは京の店はどうかな)
無事か。
いや、ぶじではなかろう。
(あれだけおおぜいの神人がむらがっているのだ。おそらく火をつけているか、屋舗を打ちこわしてしまっているか、どちらかだろう)
その奈良屋打ちこわしを庄九郎はひそかに待っている。
(奈良屋など、今夜をもってつぶれてしまえ)
と、庄九郎。
実をいうと、京の奈良屋を取りまいている神人が屋舗を打ちこわすであろうことを期待しつつ、つまり神人に打ちこわしの時間をくれてやるために、多左衛門とこの無用の押し問答をしているのである。
「されば多左衛門様」
と、庄九郎は、巧妙に折れて出た。
「おおせによって、いま強《し》いては拝謁をねがいませぬ。朝、お目ざめを待って拝謁ねがうことにして、そのかわり、この砂金だけはたったいま、お取りつぎねがえませぬか」
「おお、それならば」
黄金が入ることなら、夜中たたきおこされても津田大炊は厭《いと》うまい。人情である。
「庄九郎どの。よう聞きわけてくれました。この袋だけは、いま持って参上しよう」
と、多左衛門は立ちあがった。
一方、京の奈良屋をとりまいている山崎の神人どもは主人の庄九郎が逃げたとみて、
「わっ」
と門の中に乱入した。
一種の司法行為である。
油の専売権は、大山崎八幡宮がもっているということは何度も触れた。同時に、八幡宮は、その専売権をまもるために司法権ももっており、その司法権を委任されているのが、ここにむらがっている大山崎神人どもである。たとえば、寺でいえば叡山延暦寺《えいざんえんりゃくじ》や、奈良興福寺の寺領・教権を守っている僧兵のようなものだ。
だから、神人どもは堂々たる、
「警察軍」
として奈良屋を押しかこんでいるわけだし、打ちこわそうが、火をつけようが、すべて正当な警察行為なのだ。
乱世である。
「ま、まってくだされ。主人がほどなく戻《もど》って来ましょうほどに」
と赤兵衛が必死にささえたが、長《なが》柄《え》でむこうずねをかっぱらわれて倒された。
奥で杉丸が、お万阿をかかえて土蔵の中へのがれ、床板をめくって、地下室にひそませた。
「杉丸、旦《だん》那《な》様はどうなされたのであろう」
「いや、ご安心くださりませ。旦那様は馬をとばして大山崎八幡宮に参られております。宮司様におすがりし、神人どもの乱暴をさしとめていただくよう嘆願されているはずでござりまする」
そのとおりである。
庄九郎は、
「嘆願」
と称して、悠々《ゆうゆう》、事務官《ざっしょう》の屋敷で、夜明けを待っている。座ったまま、例の端正な姿勢をくずさず。
そのころ奈良屋に乱入した神人たちは、油《あぶら》桶《おけ》をうちこわしたり、めぼしい調度を掠奪《りゃくだつ》したりして乱暴のかぎりをつくしていたが、やがて神棚《かみだな》から、八幡宮の朱印状をさげおろして、庭のかがり火に投げた。
ぼっ、
と燃え、灰になった。
これで、奈良屋が大山崎八幡宮から許可されていた荏胡麻油の販売権は消滅したことになる。
奈良屋は、油商としてはつぶれた。
「よかろう」
と、神人どもが山崎にむかって引きあげをはじめたのは、丑《うし》ノ下《げ》刻《こく》もすぎたころであった。
八幡宮にいる庄九郎は、一番鶏《いちばんどり》で悠々と口をすすぎ、二番鶏の鳴くころになって、雑掌屋敷に駈けつけてきた赤兵衛に対面した。
「しょ、庄九郎様っ」
と、赤兵衛が青くなって報告しようとしたのをかるく扇子でおさえ、
「奈良屋はつぶされたか」
といった。
「さ、さようでござりまする」
「まあ、落ちついて模様を話せ。いや、ちょっと待った。この話、わしひとりが聞くよりも、多左衛門殿の同座の上で聞こう」
と、多左衛門をよんだ。
赤兵衛、現場からたったいま駈けつけたばかりだから、話しぶりに巧まざる昂奮《こうふん》、恐怖がある。
ひとわたりの話がすむと、庄九郎はおもむろに多左衛門に眼をむけ、
「おききのとおりでござる。多左衛門様があのとき、お取りつぎくだされば、かような事態もおこらずに済んだ。奈良屋はこの町の神人につぶされましたが、これは多左衛門様の責任でござりまするぞ。どうしてくださる。まさか、云《い》いのがれはなさるまいな」
「そ、それは」
多左衛門は、事の重大さに色をうしなってしまっている。
「庄九郎、ど、どうすればよいのじゃ」
「それがしこそ、お聞きしたい。神人の乱暴は天災と同然でわれら商人には手がつけられぬ。かれらを差しとめる力は、宮司の殿しかない。その宮司の殿へのお取りつぎを多左衛門様はお拒みなされたゆえ、このような始末になった。つまりあなた様が奈良屋をつぶされたのも同然じゃ」
「庄九郎。――」
青くなっている。
庄九郎はからからと笑って、
「雑掌殿、気安うお呼びすてなさるな。奈良屋庄九郎、いまでこそは無腰の商人ながら、かつては武士じゃ。いまでも銭勘定よりは、弓《ゆみ》矢《や》刀槍《とうそう》の術のほうがうまい。店をつぶされた仇《かたき》に、ここで手並をみせましょうか」
用意の太刀《たち》をひきつけたから、多左衛門はいよいよ青くなって、
「ま、まあ、短慮するでない。そちとはかくべつ昵懇《じっこん》の間柄《あいだがら》じゃ」
「左様、金銀もずいぶんと差しあげたはず」
「ま、まったく」
と、多左衛門は意気地がない。
「どうすればよかろう」
「あらためて、朱印状をさげて頂きたい」
「し、しかし」
無理なのだ。神社側からいえば神人の身分などはるかに卑《ひく》いのだが、かれらに警察権を委任してしまっている以上、かれらが奪った奈良屋の「営業権」を、神社側で勝手に復活させることはできにくい。
「多左衛門殿」
庄九郎は、おかしそうに笑った。
「お智恵がないの。奈良屋はつぶされたが、庄九郎は生きておる」
「ふむ?」
「たったいまより、奈良屋の屋号をやめ、それがしの生地である山崎の地名を家号とし、山崎屋庄九郎とあらためたい。この山崎屋庄九郎に朱印状をつかわすというなら、八幡宮も御異存はありますまい」
「なるほど」
多左衛門は、ほっとした。
「さっそく宮司の殿にも拙者から申しあげ、社家の殿輩《とのばら》にもとりはからって、山崎屋庄九郎に朱印状がさがるよう、努力してみよう。それまで日《ひ》数《かず》はかかるが、京へもどって吉《きっ》左《そ》右《う》を待ってくれ」
「いや、ここで待っている。今日じゅうに御《ご》状《じょう》がさがるようはからってもらいたい」
「それはこまる」
「こまりはせぬ。わしの立場も考えてもみなされ。わしは奈良屋の入婿《いりむこ》じゃ。入婿が店をつぶしたとあっては、このままおめおめと京の内儀《かか》殿《どの》のもとに戻れませぬ。それとも多左衛門様はもどれと申されるのか」
「い、いや」
「多左衛門様。奈良屋には多少の財宝がござる。あなた様の仕事がしやすいように、百数十軒の社家の皆様や、神人の主だった衆に手厚く撒《ま》くつもりでござりまする」
「そ、それならば、見込みがある。さっそく御殿に参上するゆえ、そちはここでひかえているように」
「ああ」
庄九郎は、野太くうなずいた。
営業権はその日こそおりなかったが、庄九郎が滞留して三日目におりた。
狂喜したのは、心配のあまりずっと八幡宮に詰めきりだった、奈良屋子飼いの手代杉丸である。
「だ、旦那様。これで奈良屋の店も絶えずにすみました。ご料人様はどれほどおよろこびでございましょう」
「早速、そちが一走りさきに京にもどって報《し》らせてやれ」
「そう致しませいでか」
杉丸は、街道を京へ駈け出した。
そのあと庄九郎は数日逗留《とうりゅう》して、宮司、社家、神人頭たちに手厚く謝礼したあと、快晴の朝、社頭を馬で発《た》った。
右手は男山《おとこやま》。
ひだり手は、天王山。
まんなかの茫々《ぼうぼう》たる葦《あし》のなかを、淀の大河が流れている。
(山崎屋庄九郎か)
奈良屋が消え、庄九郎は自立した。
(もう入婿ではないわい)
いままでの立場では、庄九郎の自尊心がゆるさなかった。
その束縛から解放された。
(いまに見よ)
ここ数日の庄九郎のあざやかな智恵働きが、のちの「斎藤道三《どうさん》」の国《くに》盗《と》り工作の自信固めになったといえる。
庄九郎、駒《こま》の脚が軽い。
歓《かん》喜《ぎ》天《てん》
まず、余談であるが。
先日、筆者は、庄九郎、つまり斎藤道三の故地を調べるために、美濃《みの》へ行った。
美濃の国岐阜《ぎふ》に、常在寺《じょうざいじ》という古《こ》刹《さつ》があり堂宇が古色をおびている。
庄九郎ゆかりの寺で、このながい物語ののちのちに出てくるから、いま詳しくはのべないが、住職は北川英進といわれ、岐阜市立長森中学校の教頭さんでもある。
「道三は、真に英雄という名にあたいする人物でございますよ」
と、朝夕、道三のために供《く》養《よう》しているこのひとはいった。いや、道三というひとは不幸《・・》にも《・・》この常在寺にしか祀《まつ》られていない。北川英進氏は、朝夕、庄九郎に奉仕している世界でただひとりのひとである。
「英雄」
の定義が、筆者にはまだわからない。この小説が進むにしたがって、読者とともに考えてゆくつもりである。が、男としてその野望に強烈に生きる人物を英雄とすれば、道三はまさしくそうであろう。
「ただ、江戸時代の儒教道徳から、道三型の人間はわるいやつになってしまい、どこか静岡県のほうでいまでもご子孫の方がいらっしゃるそうでございますけど、江戸時代に姓を変えられたそうでございます」
この寺に、重要文化財の斎藤道三画像が保存されているが、いまひとつ、道三がつかっていたハンコも保存されている。
斎藤山城《やましろ》と刻まれている。
じつに几帳面《きちょうめん》な印形《いんぎょう》である。これをもし愛用していたとすれば、庄九郎道三という男は大それた野望をいだきながら、しかも気の遠くなるような着実な場所から、計画的に仕事を運んでゆく男なのであろう。
ふと、エジプトの墓泥棒《はかどろぼう》の話をおもいだした。
古代エジプトの墓泥棒は、王《ファラオ》が生前、自分の墳墓《ピラミッド》をつくりはじめると、かれら泥棒も、沙《さ》漠《ばく》のはるかな人煙絶えた果てから穴を掘りはじめるという。
むろん、五年や十年で、墳墓の底に達しない。場合によっては、父が掘ってそこで死んだ場所から子が掘りつぎ、孫の代になってやっと、墓の中の財宝を盗みだすという。
斎藤道三庄九郎は、やはり日本人だからこれほど気のながい「計画」はできない。
しかし北川英進氏のいわれるこの「真の英雄」は、エジプトの穴掘りどもには及ばずとも、日本人としてはめずらしく、
「計画」
があった。
奈良屋の養子から、たくみにすりかわって、
「山崎屋庄九郎」
になりすましてしまったことは、重大なことである。
店もそのまま。
商売道具もそのまま。
手代、売り子もそのまま。
しかし屋号だけが、奈良屋でなくなり、山崎屋になってしまった。
「ご料人さま、これほどお家にとっておめでたいことはござりませぬ」
と、人のいい手代の杉丸《すぎまる》などは、ぽろぽろうれし涙をこぼしながら、お万阿ご料人にいうのだ。
「お店は、万々歳でございます」
「………?」
お万阿は、変な顔をしている。なるほど、いったんは神人どもに取りつぶされた営業権が、庄九郎のあざやかな才智で復活はした。しかしあっというまに奈良屋が消え、山崎屋が誕生している。
(すると)
お万阿はくびをかしげた。
(わたくしは奈良屋の女主人ではなく、単に嫁になりはてたわけか)
大山崎八幡宮からの油座の朱印状が、「山崎屋庄九郎」という名で下りている以上、庄九郎は、もはや養子ではなく、歴とした主人になってしまったことになる。
(まるで狐《きつね》につままれたような)
いやいや、もともと庄九郎引き入れの発端《ほったん》は摂津有馬の湯の有馬狐の一件からはじまったことだから、事件のいっさいは、狐のしわざかもしれない。
その夜、庄九郎は、夜ふけまで書院で書見していたがやがて書物をとじて、閨《ねや》にはいった。
寝所は、贅沢《ぜいたく》ごのみのお万阿が、独り身時代から、贅をこらして作らせたもので、寝台は、おそらくいまどき、天子ももちいないような、帳台である。
「帳台」
とは、華麗なものだ。浜床《はまゆか》(寝台の基台)は黒漆に夜光貝をすりこんだ螺《ら》鈿《でん》に、厚さ三寸ほどの厚畳を布《し》き、寝台に天井《てんじょう》をつけ、覆《おおい》絹《ぎぬ》を張り、前後左右は、さまざまな模様でかざられた帷子《かたびら》が垂れていて、帳台の内部がみえないようにしている。
寝室のすみには、燭台《しょくだい》がほのかに闇《やみ》をはらい、床の間には、シナ舶載の青《せい》磁《じ》の香炉が、あまい香《こう》をくゆらせている。
お万阿は、庄九郎を得てから、いちだんとうつくしくなった。
いま、お万阿は、腹《はら》這《ば》い。
庄九郎を待っている。待つあいだ、枕《まくら》もとに壺《つぼ》をひきよせ、菓子をたべていた。
一粒、銅いくら、という高価な南蛮菓子である。
やがて庄九郎が、寝《しん》衣《い》にきかえて、お万阿の横に、横たわった。
「おあがりになりません?」
お万阿は、一粒、つまんでみせた。
「ふむ?」
庄九郎は、受けとらない。
この菓子は、堺《さかい》などに入ってくるシナ船の舶載品だが、シナのものではなく、ポルトガル菓子で南蛮語ではコンフェイトスというらしい。
原料は、氷蜜《ひょうみつ》という一種の砂糖だった。氷蜜どころかろくに砂糖もできない日本ではこの菓子は珍貴そのものというほかない。製法は、氷蜜を煮詰め、どろどろにしたものにうどん粉を加え、罌粟《けし》一粒を包み、さらにかきまわしながら煮あげると次第にふくれてきて、そとがわにいくつものツノがはえてくる。そういう菓子である。
「いかが。金米糖《こんぺいとう》」
「要らぬ」
庄九郎は、もはや奈良屋の入婿ではなく家屋敷もおなじながら、山崎屋の主人であった。お万阿が、いつまでも家付の女主人としてほしいままな贅沢をしているのを、もうゆるせぬ気になっている。
「お万阿、その壺をよこせ」
と、態度に、以前とちがった威圧がある。
「壺をどうなさるのでございます」
「かような贅沢は今後、相許さぬゆえ、金米糖もろとも、庭で打ちくだいてしまう」
「まあ!」
お万阿は、天地がひっくりかえったような驚きを顔いっぱいで示した。
「庄九郎様。贅沢をしようと何をしようと、この家はお万阿の家でございますよ」
事実、数日前まではそうであった。入婿などは、離《さ》縁状《りじょう》一枚で、たったいま去れといわれれば、家に入るとき着ていた麻衣《あさごろも》一枚で出てゆかねばならぬ身である。
が、いまはちがう。
「お万阿は、思いちがいをしている。この家はもはや奈良屋ではない。奈良屋は大山崎神人につぶされ、あらためて大山崎八幡宮からこの庄九郎に対し、山崎屋として朱印状がくだされている」
「…………」
お万阿は、蒼白《そうはく》になっている。
「今よりは、この屋《や》舗《しき》のあるじは山崎屋庄九郎。嫁はお万阿。――」
地位が転倒した。
「さ、さればどうなるのでございます。お万阿はいまは嫁にすぎぬゆえ、出てゆけと申されるのでございますか」
庄九郎は、からりとした声で笑った。
「死ぬまで添いとげるわい」
「さすればどうなるのでございます」
と、お万阿は、体が小きざみにふるえてきた。普通なら、いや普通どころかお万阿の気性なら、こういう場合、かっと前後もなく怒るところだが、庄九郎の声《こわ》音《ね》、態度のふしぎさは、怒《いか》る、憤《いきどお》る、逆上《のぼ》せる、腹をたてる、といったすき間をあたえぬものであった。
お万阿の慄《ふる》えは、不安である。安穏《あんのん》と思っていた大地が、足もとからぐわっ《・・・》と裂けて落ちこんでゆくような不安である。
「そなたを不幸にはせぬ」
と、庄九郎は声をやわらげた。
「ただ、申さねばならぬ。山崎屋となった以上、従前の家風、商いの仕方、奥まわりの暮らし、台所の煮炊《にた》きの仕方にいたるまで一変させるつもりでいる。――お万阿」
「は、はい」
情けないではないか、とお万阿は心の片すみで思うのだ。きのうまで京の市中でひびいた「奈良屋のお万阿ご料人」が、いま奴婢《ぬひ》のようにおびえている。
「起きなさい」
「はい」
「酒、酒器、杯《さかずき》を二つ、持ってくるように。いや、下女に言いつけるのではない。そなた自身が台所へ走るのだ」
「は、はい」
お万阿は、夢の中の人のようだ。われにもなく帳台をぬけ出て、廊下を走りだしていた。
やがて、銀の酒器、銀の杯、酒壺をもって帳台の中にもどった。
「酒を酒器に満たしなさい」
「はい」
そのとおりにした。酒を用意してなにをするのか、たずねるすきも、庄九郎の態度はあたえない。
「お万阿、杯をもつのだ」
「はい」
「わしが注《つ》いでやる」
と、やさしく満たせてくれ、自分の杯には庄九郎は自分自身で注いだ。
(………?)
お万阿は、不安そうに庄九郎をみている。
庄九郎は、きらきらと人一倍光る眼で、帳外の闇をじっと見つめていた。
庭に燈籠《とうろう》が一基。
ほのかな灯《あか》りを点じている。
「お万阿」
と庄九郎は長い沈黙のすえにいった。
「今夜、これが婚礼じゃ」
「えっ」
(それは、すでに取り行なったではありませぬか)
という表情《かお》をしてみせると、庄九郎はゆるやかに微笑をした。
「奈良屋は潰《つぶ》れた。入婿の庄九郎は、当然いずれかに去った。お万阿は路頭に迷った。あらためて山崎屋庄九郎という男があらわれ、もとの奈良屋の身代を救い、お万阿を嫁にした。お万阿は今夜、山崎屋庄九郎のもとに嫁にきたことになる」
「ああ」
お万阿は救われた思いになった、というから、この感情、ふしぎというほかない。
「お万阿はあらためて嫁御料人になるのでございますね」
「そう」
「だけど、どの実家《さと》から輿《こし》入《い》れしてきたのでございましょう」
「いまは無い奈良屋から」
「この山崎屋に?」
と、お万阿は無邪気にうなずいてみせたが、家屋敷その他は、きのうと変りはなく、この部屋もお万阿のうまれたときからのものである。
「酒を干《ほ》しなさい。媒妁人《ばいしゃくにん》こそいないが、庄九郎が法《ほ》華経《けきょう》の功《く》力《りき》により諸天諸菩《ぼ》薩《さつ》がここにあらわれている。これほどの媒妁人はあるまい。もしお万阿が、嫁としての心得にそむくことがあれば、仏罰たちどころにいたるであろう」
「怖《こわ》や」
冗談ではない。お万阿は真実、蒼《あお》ざめている。当時は、お経とか、諸天諸菩薩とか、そういうばかばかしい作りものをもっとも怖《おそ》れたころであった。
怖れぬのは、庄九郎ぐらいのものである。なぜならば庄九郎は、妙覚寺本山に育っただけに、多くの僧侶《そうりょ》と同様、そういうものの実在も功力も信じていない。ただ信じているのは、上は天子から下は愚民にいたるまでそういうものにはおびえやすいという一点である。
「わしも干すぞ」
「わたくしも」
お万阿と庄九郎は、同時に飲んだ。お万阿の眼には、のちのちまで物語ったことだが、几《き》帳《ちょう》の外に、金色《こんじき》の諸天諸菩薩が、あるいは印《いん》をむすび、あるいは剣をもち、あるいは独《どっ》鈷《こ》をにぎって、びっしりとひしめくようにこの婚儀を見ている姿が、ありありと見えたことである。
そのあとは、お万阿にとって生涯《しょうがい》わすれられない悦楽の夜となった。
「お万阿、初夜じゃ」
と、庄九郎は、すでに熟達しきった男わざをもってお万阿を、何度か死の寸前にやるほどに愛《あい》撫《ぶ》した。
「山崎屋庄九郎様のもとに嫁《かたづ》いてきた」
という仮想が、かえってお万阿に新鮮な情感を刺《し》戟《げき》し、
「旦《だん》那《な》様、旦那様」
と何度も叫んだ。
「お万阿はおなごとうまれて、今《こ》宵《よい》のような合歓《まぐあい》を味わったことがありませぬ」
「仏天の御加護である」
「ほんとうに、御加護」
お万阿は、夢中である。しかし諸仏のなかで男女の交媾《こうこう》をつかさどる仏さまとはどなたであろう。
「旦那様、それはどなたでございましょう」
「大聖歓喜天《だいしょうかんぎてん》」
「そこに、そこに」
と、お万阿は乱れきっている。
「いらっしゃいまするか」
「いまは参っておられぬが、庄九郎が真言《しんごん》を唱えて祈れば天から舞いおりて頂けるであろう」
「庄九郎様、そのご祈《き》祷《とう》を」
と、お万阿はあえいでいる。
天台、真言の両宗なら必ず大聖歓喜天をまつるが、庄九郎の学んだ日蓮宗《にちれんしゅう》ではそういうほとけを宗義として認めない。
が、庄九郎は、仏法でいう方便を用いた。方便とは、文学でいえば、真実に参入するために許される虚構のようなものであろう。
庄九郎は、お万阿を抱きおこして膝《ひざ》の上に乗せ、大聖歓喜天のお姿のままの姿態をとった。大聖歓喜天は、男仏女仏双身にして仏体をなし給うている。男仏は幾つかの手をもち第一手には金剛杵《こんごうしょ》、第二手には鉞《えっ》斧《ふ》、第三手には羂索《けんさく》、第四手には三《さん》叉《さ》戟《げき》、といったふうの古代印度の各種武器をもって力をあらわしつつ、女仏を組み敷き組み抱《いだ》くというすさまじい仏相をとっている。
「お万阿」
「はい」
「汝《なんじ》は女仏」
お万阿もそう連想した。
「わしは男仏」
といいつつ、庄九郎は、男仏の数多い手にもつ武器の一つ一つを説明し、
「金剛杵は、文字のごとく鉄の杵《きね》にして敵に擲《なげう》って斃《たお》す。鉞斧はまさかり《・・・・》で、敵の頭を真二つに割り、羂索は捕縄《ほじょう》、三叉戟は、刃に刃の枝の出た剣じゃ。お万阿、この庄九郎は、男仏と心得よ」
「…………」
天下の乱に臨み、刀槍《とうそう》をもって野望をとげる、という意味ではあるまいか、と思い、お万阿は、そぞろ心配になってきた。
「――さすれば」
「ふむ?」
「さすれば、このお万阿はなんでございましょう」
「女仏」
組み敷かれている。その大聖歓喜天の女仏の姿にこそ、女人の幸福がある、とこの庄九郎はいうのだろうか。
やがてお万阿は気が遠くなってきた。
(ままよ)
と思うのだ。
(ひとまず、この男仏についてゆく)
お万阿はたしかに、世にも逸品ともいうべき奇男子を夫にもった。
しかしそれが、お万阿の幸福になるかどうか。歓喜天の女仏になり果てているお万阿には、この瞬間、そこまでを考える余裕がない。
美濃へ
山崎屋は、大いに繁昌《はんじょう》した。
が、かんじんの庄九郎は、いまひとつ浮かぬ顔である。
書院でぼんやり考えこんでいるときなど、お万阿が、
「旦那さま。どうなされました」
と声をかけても、耳にきこえない様子であった。
ときに、
「いやなに。――」
微笑でごまかすこともある。
あるとき、
「徳政《とくせい》」
があった。
幕府のお得意芸である。足利《あしかが》幕府といっても、あってなきような存在で、この時代より数代前の将軍義政《よしまさ》でさえ、その妾《しょう》の出産費がなく、やむなく甲冑《かっちゅう》を質草にして京の土倉《つちくら》(質屋)から五百貫文をかりた、という話がのこっているほどだから、当代の将軍義稙《よしたね》などは、天子とともに虚位を擁するにすぎなかった。
そのくせ、足利家の家計がやってゆけなくなると、
「徳政」
をやる。官命による「借金踏み倒し」である。むろん、庶民間の貸借にまでおよぶ幕命だが、事実上は、足利家の家計をすくうためにやるもので、徳政は単に美称であった。
泣きっつらは、商人である。
「かなわん」
と、庄九郎は徳政の出た数日のあいだ、酢《す》をのんだような顔をしてくらした。
山崎屋は現銀取引きが多いからさほどの打撃はうけないが、かといって、足利家におさめている油は、年二回ばらいである。
それが帳消しになる。
腹が立つのだ。
「武士とは勝手なものよ」
と、お万阿にこぼした。
「将軍《くぼう》さまのお申しつけゆえ、仕方がないではありませぬか」
「ふん、将軍」
不快の原因は、そういう存在である。なんのために幕府、将軍は存在するのか。
いまは足利将軍家も初代尊氏《たかうじ》以来百八十年たつほどに古くなっているが、その間《かん》一族、重臣間の争いがあいつぎ、五十年前の応仁《おうにん》ノ乱では、京都全市が兵火で焼失するほどの騒ぎをおこした。
「民を苦しめるために存在している」
ことはあきらかである。日本史上、足利幕府ほど愚劣、悪徳な政府はないであろう。
「ほろぼすべし」
という声はまだおこっていない。諸国の大名、豪族は、なお将軍の「神聖権」だけはみとめているから、そこまでの声はおこらないのである。
――虚位を擁しているだけなら、まずまず無害ではないか。
というのだ。
「無害」
というのは、諸国諸大名にとっては無害である。しかし、庄九郎のような京の町人にとっては、これほど有害な存在はない。
いや、事実、戦国の地図をひらいてみるに京へのぼって新政権を樹《た》てられるだけの実力者は出ていないのである。
後年、庄九郎の婿《むこ》になり、京をおさえて、近世《・・》の幕をあげ、ついに幕府を倒した織田信長は、まだこのとき出生してさえいなかった。
ある夜、庄九郎はお万阿をそばによび、
「わしのいうことを素直にきいてくれるか」
と、いった。
「なにごとでございます」
「幕府を倒したい」
「えっ」
「あっははは。なんの、驚くことはない。一介の油屋にすぎぬ山崎屋庄九郎の手で幕府が倒れるものではない」
「さ、さようでござりましょう。ひとをおどろかすものではござりませぬ」
「もっともなことだ。しかしお万阿、倒せる法がないことはないぞ」
庄九郎の言い草が、いかにも冗談めいていたから、お万阿もつい、戯《ざ》れ口調になって、
「どういう手だてがございます?」
と、興味もないのに訊《き》いてみた。
「まず、お万阿の承知が要るわさ」
「わたくしの?」
「そう、お万阿の力を借りねばならぬ」
「面白《おもしろ》うございますこと。わたくしにそのような力がございますかしら」
「ある」
庄九郎は、断定した。
「あるとすれば、どうなるのでございます」
「わしは、国を盗《と》りにゆく」
「え?」
意味がわからない。
「一国を奪ってその兵力を用い、四隣を併合しつつ、やがては百万の軍勢を整えて京へ押しのぼり、将軍を追って天下を樹立する。もはや庄九郎の天下には、神《じ》人《にん》などというばけものもゆるさず、徳政などの暴政はなさず、商人には楽市・楽座(自由経済)の権をあたえ、二里ゆけば通行税をとられるというようなことをやめて関所を撤廃し、百姓には一定の租税のほかはとらず、天子公卿《くげ》には御料を献上してお暮らしの立つようにする」
「まあ、おもしろい」
お万阿は冗談だとおもっているのだ。あたりまえのことで、一介の油屋の旦那にできることではない。
「どうだ、お万阿」
「結構でございますこと」
というより、ほかはない。
「そうか、結構か」
「…………」
庄九郎の顔が笑ってないことに気づいて、お万阿はぎくりとした。
「旦那様、結構だと申せばどうなるのでございます」
「お万阿に力添えしてもらわねばならぬことがある」
「どういうこと?」
「簡単なことだ」
「早くおっしゃって」
「一年」
「いちねん?」
「その期間だけ、わしを世間に出してもらいたい。それだけのことだ」
「厭《い》や」
「とはいわさぬ。もうお万阿は承知してしまっている。一年だけのことだ。店のことはもう杉丸と赤兵衛にまかせていい。お万阿はただ、帳尻《ちょうじり》だけを見て、あとは毎日わしの帰りを待っていてくれるだけでよい」
「おうかがいします」
「なんだ」
「一年たてば、旦那さまは、百万の軍勢をひきいて京に押しのぼっておいでになるのでございますか」
信じてはいない。
「それはむりだな」
と、庄九郎も、はじめて笑った。
「一年で百万の軍勢はむりだが、一国をおさえるだけのめど《・・》がつくかつかぬかだけはわかる。その期間が、一年だ」
「一年」
「そう。一年で、とうてい庄九郎の力でむりだとわかれば、わしはもとの油屋になってもどってくる」
「めど《・・》がつけば、どうなります」
「お万阿をよぶわい。一年後にはその国へよぶというのだ」
「本当?」
「庄九郎、うそをついたことがあるか」
気持にいつわりはない。真実のつもりである。
「一年たてば、お万阿へのお気持が薄れるということはありますまいね」
「薄れぬ」
とうなずいたのも、真実な心であった。
庄九郎は、策略の多い人間だが、そのつどそのつど、心に濃烈な真実をこめていた。ただ濃烈な真実というものは、次の瞬間には色が変ずる、というむなしさも知っている。庄九郎の真実は、霜月《しもつき》に照りかがやく紅葉の美しさに似ていた。紅葉とは、翌月の師《し》走《わす》にはもう色が褪《あ》せる。そういうはかなさがあればこそ、霜月のもみじ《・・・》は、より一層の美しさでひとの心を打つのであろう。
「わかりました」
お万阿は、いわざるをえない。むしろ、感動していた。
「きっと一年でございますよ」
お万阿は、庄九郎の膝《ひざ》に両掌《りょうて》をおいた。
それから数日、庄九郎は書院でこもりきりですごし、夜も、そこに床をとらせた。
考えている。
すでに庄九郎は、大げさにいえば日本六十余州の諸国の国情について、居ながらにして語ることができるほど、材料をもっていた。
畿《き》内《ない》や中国筋は、自分の足で歩き、眼でみて知っているばかりか、この稼業《かぎょう》のありがたさで、諸国へ売りあるく売り子から耳にしている。
遠国《おんごく》については、山伏《やまぶし》、歩き巫子《みこ》、御師《おし》、放《ほう》下《か》僧《そう》、くぐつ師、など旅を人生としている者を座敷に泊めては、話をきいていた。
諸大名の能力、性癖、家老の人物、さらに家政の乱れ、整頓《せいとん》ぶり、それらをこまかくしらべあげ、
(はて、どの国がよいか)
と、考えぬいてきた。
ついに、
「美濃」
ときめた。
美濃の国は、郡のかずでいえば十数。米のとれ高は六十五万石はくだらない。
その上、京に近く、かつ、街道は四通八達し、隣国の尾張に出れば東海道、関ケ原付近からは北国街道、東山道《とうさんどう》、伊勢街道が出ており、天下の交通の要地で、兵馬を用いるのにじつに都合がいい。
(美濃を制する者は、天下を制することになる)
と庄九郎は見ぬいた。
庄九郎が、美濃をえらんだのは天才的な眼識といっていい。美濃に天下分け目の戦いがおこなわれたのは、古くは壬申《じんしん》ノ乱があり、のちには関ケ原の戦いがある。徳川時代には、美濃に大大名をおかず、つまりこの国を制せられることをおそれ、一国のうち十一万七千石を幕府直轄領《ちょっかつりょう》とし、あとの六十余万石を大名、旗本八十家にこまぎれに分割してたがいに牽制《けんせい》させた。それほどの要国である。
それに庄九郎は、遠く鎌倉《かまくら》時代から美濃に封《ほう》ぜられている、土岐《とき》家が腐敗しきっていることが、なによりも気に入っていた。
土岐家は足利幕府の諸大名のなかでもきっての名家で、往年は強盛をほこったものであった。
足利初期に、こういう話がある。
土岐頼遠《よりとお》というそのころの当主が、将軍尊氏の機《き》嫌奉《げんほう》伺《し》に京にのぼっていたが、都大路で、持明院《じみょういん》上皇の乗輿《じょうよ》に出会った。
当然、頼遠は下馬し、自分の行列を道に片寄せ、家来ともども伏しおがむべきところだが、時代は足利の天下がはじまったばかりの最盛期であり、土岐頼遠はその幕《ばっ》下《か》でも最大の大名の一人である。
頼遠は、知らぬ顔で、馬上、平然とすれちがおうとした。
「下馬《げば》あれ」
と、上皇の供奉《ぐぶ》の者が注意した。
頼遠は狂ったかとおもうほどにいかり、その言葉を『太平記』の記述どおりに写すと、
「このころ洛中《らくちゅう》にて、頼遠などを下馬《おろ》すべき者は、覚えぬものを、云うはいかなる馬鹿《ばか》者《もの》ぞ。いちいちに奴原《やつばら》、蟇《ひき》目負《めお》わせてくれよ」
とよばわった。
上皇の前《ぜん》駆《く》、随身《ずいじん》たちが驚き、これは京馴《な》れぬ田舎者ゆえそういうのであろうと思い、口々に、
「院(上皇)の御《み》幸《ゆき》であるぞ」
とどなった。頼遠、からからと馬上で笑い、
「何、院というか、犬というか。犬の御幸なれば射て落さん」
というままに、家来の十数騎にも弓に矢をつがえさせ、ぐるりと上皇の御車をとりかこみ、犬追物《いぬおうもの》の競技のように駈《か》けまわり駈けちがっては、さんざんにおどし矢を射かけた。
ばかばかしい話だが、土岐一族といえば都大路をわがもの顔にのし歩いていた時代もあったのである。
(その土岐家の屋台も、すっかり白アリに食いあらされている)
殿様やその一族は、百年の無為徒食ですっかり無力化し、国政は家老がにぎり、その家老一族も貴族化して家老の家老が実権をにぎり、それもまた、逸楽に馴れて、世のうわさではどの人物も「糞便《ふんべん》を垂れる土偶《でく》」同然になっている。
(手ごろじゃな)
庄九郎は、おもった。庄九郎が学んだ漢学では、民治能力をうしなった権力者は、その座にいることがすでに悪であり、それを倒すのが正義であるという。
「お万阿、美濃にきめたぞよ」
と、庄九郎はある日、にこにこと相好《そうごう》を崩して書院から出てきた。その調子のあまりの手軽さに、お万阿もつい、
「美濃におきめなさいましたか」
と、日常茶飯のように答えた。
「あの国は、水の景色がよい。長《なが》良《ら》川《がわ》の堤には見渡すかぎり竹やぶがつづいていて、秋などは歌の一つも詠《よ》みたくなるようなところだ。お万阿も楽しみにしているがよい」
「ぜひ」
とはいったが、もうお万阿の気持は夢からさめている。
(はたして一年で?)
としみじみと庄九郎の顔を見るのである。
庄九郎が、武士の姿にもどり、青江恒次の大剣を腰にしてひとり京を発《た》ったのは、大永《たいえい》元年の夏である。
この戦乱の世に、いかに武士とはいえ一人で旅をするというのは大胆以上のものであった。途中、草賊、山賊が各所に巣食い、穏和な百姓といえども、相手に金があるとおもえば、打ち殺して奪いあげるという時代であった。
出発のとき、お万阿が、
「だいじょうぶでございますか」
と、蒼《あお》ざめていった。
赤兵衛、杉丸も口をそろえて、
「人数をととのえてお出《い》でなされまし」
といったが、庄九郎は笑い、
「おれを殺せるやつがあるものか」
さっさと発ってしまった。
事実、庄九郎を殺せる男はいなかった。
京から十九里。
近江《おうみ》もはずれの山中に、醒《さめ》ケ井《い》という里があり、この里まできたとき、まだ陽《ひ》が高かった。
(いま一あし、のばして柏原《かしわばら》までゆくか)
と、山坂の悪路を踏みくだくようにして庄九郎はのぼった。
現在《いま》の梓《あずさ》のあたりだろうか、赤松の林がそろそろ杉にかわりはじめたころ、庄九郎は、ようやく脚が疲れてきた。
陽も傾きはじめている。
ふと峠から峰をみあげると、一軒の家がみえた。
庄九郎は、たずねた。
「泊めてもらえぬか」
と、窓へのびあがっていうと、なかにはおさだまりの話で、山賊が三人ほどいた。
暁《あ》けがた、賊が庄九郎の懐《ふとこ》ろをねらおうとおもって忍び寄ったとき、たちどころにはねおきて青江恒次をつかみ、炉をとびこえ、
「推参なり」
と素っぱ抜くなり一人を斬《き》ってすて、さらに土間にとびおりて一人を斬り、一人だけは生かして、刀で相手の頬《ほお》をぴたぴたとたたき、
「松波庄九郎だ。覚えておくがよい」
と、金をやって美濃の方角へ放ちやっている。自分の武勇ばなしをあらかじめ美濃へ伝わらせるための手だったのであろう。
庄九郎だけでなく、当時の武者修行者が、まま《・・》やった宣伝法である。
常在寺《じょうざいじ》
「ふむ?」
土地で、日護上人《しょうにん》とよばれているこの寺の住持が、口もとから煎茶《せんちゃ》の茶わんを離した。
「旅の武家であると?」
「はい。お上人様にお会いするために、はるばる京から参った、と申されております」
「名は?」
「申されませぬ。京で、友垣《ともがき》であった者、とこう申せばわかるであろう、名を申したところで、いまの名乗りは上人はご存じない、とこう申されておりまする」
取りつぎの弟子が、汗をかいている。
「はて、覚えぬのう」
日護上人は、眼を庭に移した。庭のむこうは、長《なが》良《ら》川《がわ》になっている。
寺のすぐ前は、美濃平野に突兀《とっこつ》としてそびえる稲葉山であった。いま、真夏の緑が、全山をおおっている。
鷲林山《しゅうりんざん》常在寺。
これが、この寺の名であった。
美濃きっての大寺で、しかもこの稲葉地方(いまの岐阜《ぎふ》市付近)では唯一《ゆいいつ》の日蓮宗の寺である。
当時、日蓮宗といえばもっともきらびやかな宗旨で、常在寺は当然、この地方の新文化の中心施設であった。
しかも、上人は、美濃きっての実力者長井豊後守利隆《ぶんごのかみとしたか》の実弟で、その点からも、
「御前さま」
と尊崇されていた。
まだ、齢《とし》はわかい。
おだやかな下《しも》ぶくれの容貌《ようぼう》をもち、遠山《とおやま》のかすむような眉《まゆ》、涼しげな眼、唇《くちびる》があかく、どこか貴婦人を連想させるかおだちである。
「私は、京で修行中、武士とはあまりなじみがなかったのだが」
「しかし、玄関の客は、上人とは莫逆《ばくぎゃく》の仲であったと申されております」
一方、玄関の式台に腰をおろしている庄九郎は、笠《かさ》をそばに置き、汗をふきながら、山門のむこうに聳《そび》える稲葉山を見あげている。
(ふしぎな山じゃな)
この大平野に、むくり《・・・》と盛りあがり、いかにも峻嶮《しゅんけん》そうで、登りにくそうである。
「もしお武家さま」
と、取りつぎの弟子の僧がもどってきた。
「上人は思いあたらぬ、と申されておりまする。お名前をおあかしくださりませ」
「わしの骨相をいったか」
「…………」
なるほど、あらためてながめてみると、ちょっと類のない奇相である。ひたい《・・・》と下あご《・・》がつき出、両眼が、
らん
と光っている。そのくせ、どこか魅き入られるような高貴なにおいがある。この男のもつ教養のせいであろう。
「あっははは、これは無理かも知れぬ。京で古いなじみの法蓮房《ほうれんぼう》がきたと申せ」
「は?」
僧名を名乗ったが、装束は武士である。弟子がとまどうのもむりはなかった。
「法蓮房と申されまするので」
「そう申した時代もある。当時は、御当山の上人も南陽房と申され、たがいに京の妙覚寺大本山で机をならべて学んだものだ」
「はあ、なるほど」
弟子はまた長い廊下を走らねばならない。
(早うそう申せばよいのに、手数のかかるおひとだ)
しかし庄九郎にすれば、美濃きっての寺格の高い鷲林山常在寺のお上人さまを訪ねるのに、卑屈な訪ねかたはとりたくない。
できれば、
「おれだ、とそう云《い》え」
と入ってきたいところである。
あんのじょう、日護上人は、
(あっ)
と、喜色をうかべた。
「法蓮房どのが来られたか。それは大事なおひとじゃ。わしとは年は一つちがいの兄、法《ほう》臘《ろう》(出家した年齢)も一つちがいの兄弟子、しかも、当時、諸国からあつまっていた妙覚寺大本山の千余人の徒弟のなかで、学問、智恵、諸芸第一といわれた俊才じゃ。大事におもてなしして、客殿へお通し申せ」
若い上人は、あまりのうれしさに落ちつかなくなった。
「そうじゃ、一山《いっさん》あげてもてなせ」
「はっ」
寺には、弟子の僧が十人、稚児《ちご》が三人、長井家からつけられている寺侍が二人、それに雑人《ぞうにん》をふくめると、二十人ちかい人数がいる。
それらが、一時に緊張した。
庄九郎は、脚絆《きゃはん》をとって手足をすすぎ、式台にあがってから、
「小部屋はないか。装束を直したい」
といった。この体《てい》では旅塵《りょじん》によごれすぎている。荷物のなかに用意の衣装があるのだ。
「はっ、こちらへ」
と、小部屋に案内された。
そこで悠々《ゆうゆう》と装束を着かえたのは、垢《あか》、塵《ちり》にまみれた姿の第一印象を旧友にあたえたくなかったのである。
長道中のすえとはいえ、
(ひどい姿でやってきた)
とおもわれれば、あとあとまで話が残るしその印象は消えないものだ。
庄九郎は、着更えを手伝っている二人の稚児に永楽銭一袋ずつをあたえ、
「わしから貰《もろ》うたとはいうのではないぞ」
と、微笑した。
「は、はい」
一人の稚児は、どぎまぎしている。これほどの重さの永楽銭を手にしたことはないにちがいない。いま一人の稚児は、
「しかし、あの、なぜこれほどのおかねをいただくのでございます」
「わしにもそちたちのような姿の頃《ころ》があって、人から物を貰えばうれしかった。そのころのことを思いだしただけだ」
「ああ」
稚児たちは、目に涙をにじませた。寺の稚児というのは大人にたちまじわっているだけに、早熟《ませ》ている。それだけにこの連中は口さがなく、ひとの善悪のうわさも、かれらの口から出ることが多い。
庄九郎は案内されて、客殿に入った。
すでに、日護上人は待っている。
「やあ」
と、上人は、稚児のころ、南陽房のころにもどって立ちあがった。
「法、法蓮房、懐《なつか》しい」
「南陽房」
と、庄九郎も、手をにぎった。冷徹な計算力が働くかとおもえば、ときに激越な感情家でもある庄九郎は、手をにぎりながら懐しさに堪えきれず、涙がこぼれた。
顔だけは、笑っている。
日護上人もおなじだった。いや、上人のほうが、何倍か感激したであろう。
「ま、ま、おすわりくだされ。京の話もききたい。修行時代のことも語りあいたい。それはそうと」
と、不安になってきたらしい。
「何日、滞在してくれるのか」
「まあ、十日ほどかな」
と、これは庄九郎のうそ。
できればふた月も三月も滞在して美濃の様子を知ったり、日護上人から美濃の名族、豪族を紹介してもらったりして、あわよくば生《しょう》涯《がい》この美濃に居つくつもりだ。
「十日。それはみじかすぎる。せめてひと月は居てくれぬか。美濃にも名勝はある。秋になれば長良川の月もいいものだ」
「ふむ」
「それが決まらぬと、落ちついて物語りもできぬ。な、一月以上は居る、というてくれ」
「では、厄介《やっかい》になろうか」
「安《あん》堵《ど》した」
学生《がくしょう》のころの親友というものはいいものだが、庄九郎、日護上人の時代にあっては、なおさらのことだ。当時の親友が、遠国の美濃まで訪ねてきてくれようとは、思いもかけぬことである。
庄九郎は庄九郎で、これから、
「国盗り」
をはじめようというこの美濃で、知りあいといえばこの旧友以外にないのである。手はじめは、日護上人の力にたよる以外に方法がなかった。
「おぬしが還俗《げんぞく》した、といううわさは、風のたよりにきいていた。僧でおればどれほどの学僧になっているか底知れぬおぬしが、惜しいことをしたものだ」
と、日護上人がいった。
「なんの南陽房」
と、旧友を修行時代の名でよび、
「わしのような権門のうまれでない者は、桑《そう》門《もん》(宗教界)にあっても、浮かばれぬと知っていや気がさした。よい例に、おぬしよ。わしと同じに机をならべて学んでいながら、美濃の長井家という権門の出であるがために、妙覚寺での修行がおわると、もう、このような大寺のお上人さまじゃ。おぬしのそのうわさをきいたとき、わしは僧をやめて俗界にもどる覚悟をきめた」
「すると、わしの罪であったというわけか」
と、常在寺の若い上人は、心から気の毒そうな表情をした。
「あっははは、罪ではない。ただうらやましかっただけのことよ」
「おなじことじゃ。これはわしの力の及ぶかぎり、おぬしに力添えをしてつぐないをせずばなるまい」
馳《ち》走《そう》が運ばれてきた。
酒もついている。
「まず、一献《いっこん》」
と、上人は酒器をとりあげた。
「南陽房は、酒をのむのか」
「寝酒ぐらいは嗜《たしな》む。出家に酒は禁物だが、妄《もう》語《ご》をせぬほどに飲むならよい、とわしはわしに云いきかせている」
「おぬしはあのころから固かった」
庄九郎は、盃《さかずき》をほした。
「うまい」
と、思わず、正直な声をあげた。
「美濃の酒がこれほどうまいとは知らぬことであったわ。酒の旨《うま》い土地は人も賢《さかし》い、というが、美濃人は利口者が多かろうな」
「なんの、愚物ぞろいじゃ」
と、常在寺上人は吐きすてた。寺から一国の政治を見ていると、傍《おか》目《め》八目で、あら《・・》ばかりがみえるのであろう。
しかも、美濃の実力者は、濃淡は別としてほとんどこの常在寺上人の親類縁者である。かれらの能力、暮らしぶりは、手にとるように知っている。
「ところで法蓮房」
と、上人は、庄九郎を旧称でよんだ。
「風の便りでは、奈良屋の入婿《いりむこ》に入ったということをきいたが、まことか」
「まことよ」
庄九郎は、盃をなめている。
「奈良屋といえば、京でも名高い富商じゃ。おそらく栄耀栄《えいようえい》華《が》をしておるであろうと思うていたが、その姿はどうじゃ」
「この姿」
武家の装束である。
庄九郎はその後のいきさつを手みじかに物語り、
「奈良屋は神人どもの打ちこわしでいったんは潰《つぶ》れたが、すぐ山崎屋として再興し、以前にもまさる繁昌をしている。しかし商人《あきゅうど》というものはつまらぬものでの」
「それほどの富商の旦《だん》那《な》になってもか」
「武家には弱い」
「ふむ」
「権と兵を持たぬ。せっかく財をためても将軍は一つ覚えのように借銭帳消しの徳政令《とくせいれい》をふりまわし、ときには窮民が一《いっ》揆《き》を組んで市中を羅《ら》刹《せつ》のように荒れくるい、われら油屋に対しては、上は大山崎八幡宮があり、その神権を笠にきて神人どもが暴威をふるう。それをなされるままに見ておらねばならぬのが、この松波庄九郎の気性には耐えられぬわい」
「それで?」
「武家になるつもりで、出てきた。わしの家系は、むかし院の北面の武士で代々左近将監《さこんしょうげん》の官職を頂戴《ちょうだい》していたこと、話したか」
「聞かぬ」
のは当然なことだ。庄九郎が、京の西郊西ノ岡で土着している松波家に行って系図にわが名を書きこんでもらっただけの「血統」である。
「さすれば、法蓮房は名流の血じゃな」
常在寺上人は、無邪気に感心し、
「それほどなら、ぜひ武士に戻《もど》って先祖の名をあげることじゃ。いや、これは驚いた。わしも、おぬしの志をたすけたい」
「頼む」
「さっそく、兄の豊後守利隆にひきあわせをしようか」
「いや、美濃で身をたてるとは、まだ決めておらぬ。こういっては何だが、美濃一国を統《す》べる土岐《とき》家は、源頼光《みなもとのよりみつ》以来の名家とはいえ、累年《るいねん》家政おさまらず、親族相《あい》食《は》みあい、豪家の子の多くは逸楽を旨《むね》としている。すでに隣国、近国に英雄豪傑、雲のように興りつつあるとき、はたしてこのような土岐家に身を寄せてよいものかどうか」
「待った、法蓮房」
と、常在寺上人はだいぶ酔っている。
「そういう土岐家であればこそ、おぬしのような英物がひと肌《はだ》もふた肌もぬいでくれて、傾く屋台をひきおこしてくれねばこまるではないか」
「易《やす》いことではないわい」
と、庄九郎も土岐家の前途を案ずるように沈痛な面持《おももち》でいる。
「権威とか、家とかというものは、いったんくだり坂になると、容易なことではもとへもどせぬものだぞ」
庄九郎は、中国、日本の歴史をつぶさに物語りはじめた。
「あな、おもしろし」
と常在寺上人はひざを叩《たた》いてよろこんだ。
なぜといえば、教養人にとって、田舎にいるほど孤独なものはないのである。庄九郎の史談、史論は、さほど警抜なものではなかったが、かといってこの種の「教養ある話」を語りあえる機会は、京都の勉学時代このかた、絶えてなかったことである。
庄九郎は、平家の滅亡を語り、さらに源家の鎌倉《かまくら》幕府の衰弱を語り、かつは室町《むろまち》に幕府をひらいた足利《あしかが》氏が、いまは虚器を擁するのみになっている状態を語り、
「病人なら投薬すればなおる。しかし老人を死からまもることはできぬ」
といった。
「土岐家は、老人か」
「もはや、寿命が尽きている。その証拠に、人は私党を組み、私利を追い、一国を顧みぬ。唐土、本朝の歴史をみても、一つの政体がほろぶときはつねにこうだ」
「いや、法蓮房、そういわれると霰《あられ》にたたかれるようで痛い。しかし土岐の美濃をみて、治療をしてくれ」
「病人とみるのか」
「そう見てくれ」
「病人」
庄九郎は、腕組みをして考えこんだ。その様子に名医のような威厳がある。
「百歩ゆずって病人としてもだ。この病人に、内科、外科、鍼灸《しんきゅう》あらゆる手をつくして施術しても、癒《なお》るかどうかわからぬ。あるいは毒物を用いて良薬に変ぜしめ、その病人に与えても、かんじんの肉体がその薬に耐えられるかどうか」
「法蓮房」
「ふむ?」
「おぬし、その毒物になって賜《たも》らぬか」
と常在寺上人がいったのは、いわば知的会話の綾《あや》であって、庄九郎が「毒物」であるとおもったわけではない。
「頼む」
「いや、近江《おうみ》には浅井氏が興っている。隣国の尾張では、織田の分家の分家の端くれから身をおこした織田信秀《のぶひで》(信長の父)がなかなかあなどれぬ大将だということだ。武士が身をたてようとするときは、このような大将をえらぶ」
「こまったお人じゃ」
常在寺上人は、手をたたいて稚児をよび、酒の不足を告げてから、
「まず、ゆるりと滞在して美濃の様子を見てもらい、人ともつきあってもらい、土岐の美濃というものに愛着ができてから、おぬしを口説くことにしよう。今夜は、なによりも昔語りじゃ。おたがいの師匠日善上人のことや、朋輩《ほうばい》どものうわさばなしでもして、ゆるゆる夜をすごそう」
といった。
その翌日、早暁《そうぎょう》に庄九郎は起き出て、稲葉山にのぼっている。
金《きん》 華《か》 山《ざん》
金華山
稲葉山
どちらでもいい。おなじ山である。
(おっそろしく固い山じゃな)
岩を切りくだいた細い山坂をのぼりながら、庄九郎は、足の裏に突きさす岩肌《いわはだ》の固さに、奇妙な実感をおぼえた。
「あっははは」
登りながら、ひとりで笑えてくる。
「固い」
と、つぶやく。べつに固いことが山のねうちになんのかかわりもないが、庄九郎にはこれがむしょうに気に入った。
(ちょっと珍しい固さじゃな)
庄九郎は、地質学者の散歩のように、岩のカケラをひろっては、石片と石片とをたたきあわせた。
チンチンと金属のような音がした。全山ほとんどが、硅岩《けいがん》でできている。太古には矢ジリに用い、庄九郎の時代には、火うち石に用いるほどの石である。
(なにやら宝のような気がする)
野望家は、その本心、つねにこどものように無邪気なものだ。庄九郎も、自分がいつか奪《と》ってやろうというこの山が、たんに固い、というだけで、無意味によろこんでいる。
庄九郎は、上機嫌《じょうきげん》でのぼった。
(ほう)
谷の深さをみてはおどろく。
切りおとしたように深いのだ。一条の尾根道以外は、とうてい谷から這《は》いのぼれる山ではない。
(城には絶好の山じゃ)
尾根道ときたら、まるで痩馬《やせうま》の背をあるくようなもので、二人ならんでは歩けない。
足もとがあぶなく、中腹から上は、吹きあげてくる谷風だけで、
よろり、
と、谷底へころがり落ちそうだ。
この山頂に城をつくれば、百万の敵がふもとをかこんでも、攻めおとせないであろう。
いや、いまも城がある。
この山城《やまじろ》は、日護上人の実家長井氏の持城で、尾根のところどころに柵《さく》を設けたり、ガケにふとい黒木を組みあげて矢《や》倉《ぐら》、トリデのような構造物をちらほらと設けている。
げんに庄九郎は、それらを番する長井家の足軽どもから、
「山へはのぼれぬ」
と何度かとめられた。
そのつど、常在寺の日護上人が書いてくれた書きつけをみせて、関門をひらいてもらった。
常駐の城兵は十数人であろう。この山城の留守をしているにすぎない。
もちぬしの長井氏は、美濃平野の中央の加《か》納《のう》に城館をきずいて、いつもはそこにいる。
「いや、結構な山が捨てられている」
べつに捨てられているわけではない。鎌倉のむかし二階堂行政がここに山城をきずいたといわれ、以来二百年、朽ちっぱなしになっていたのを、足利中期、斎藤利永という武将が修築した。
いまは、長井氏の所有、というより管理といったほうが、実情にちかい。
しかし、朽ちている。この天嶮《てんけん》をつかうほど大規模な合戦がないからであろう。
(隣国の近江、尾張というのは大雄小傑雲のごとく出ているというのに、美濃はまだ安逸をむさぼっているわけだ)
ひとくちに、美濃侍八千騎という。みな旧習にくるまって、その日暮らしの平和をたのしんでいる。かれらを再組織して強力な美濃国をつくらぬかぎり、いつかは隣国の餌《え》食《じき》になるだろう。
庄九郎は、ついに山頂をきわめた。
山頂には、粗末な楼閣があり、屋根はくずれ落ち、柱の何本かが折れている。
「たれじゃ」
と番人らしいのが出てきた。
「言葉をつつしむがよい。山麓《さんろく》の常在寺の客《まろ》人《うど》にて、松波庄九郎である」
「あっ、常在寺の上人の」
と、番人はそのひとことで態度をかえた。
この国における日護上人の威光のほどがわかろうというものである。
「山を見にきた」
「へっ」
「案内せずともよい。ひとりで見る」
庄九郎は、ゆっくりと四囲をみわたした。
天に数《すう》朶《だ》の白雲。
下は、びょうぼうたる濃《のう》尾《び》平野である。
北ははるか飛騨《ひだ》の山々がかすみ、足もとの山麓を長《なが》良《ら》川《がわ》がうねっている。
(いや、まったく天嶮じゃ)
庄九郎はむろん知るよしはないが、稲葉山は四億年前の地球の造山運動によってできたいわば地球のシワである。
(よくもこれほど大きな野に、かような山があったものよのう)
奇山といっていい。それだけに天が庄九郎のために、何億年前から用意してくれていたような気もする。
(天命なるかな)
とおもうのだ。この山に城をきずき見わたすかぎりの美濃の山河を統一せよということで、天は庄九郎をこの山に登らせたのであろう。
「いや、ここに城を築くにきめた」
「なんでござりまする」
番人が、妙な顔をしている。
「きこえたか」
「いえ、聞こえませぬ」
本当らしい。
「聞こえなんでよかった。左様なことをきけばそちの耳がつぶれるわ」
「はい」
番人はおだやかにうなずいた。
庄九郎はなおも谷をのぞいたり、丸太を組みあわせただけの砦《とりで》を見あげたり、尾根道を一丁ばかり歩いてはまた引きかえしてきたりした。
ひどく楽しそうな顔である。
脳裏に、すでに大城郭の設計《なわばり》がうかびあがっているのであろう。
戦国の英雄というのは奇妙な信仰を心のどこかにもっていて、自分を地上にくだしたのは天であるとおもっていた。
一種の誇《こ》大妄想狂《だいもうそうきょう》である。この「天命」があればこそ、行為はすべて正義であり、そういう強烈な正義観がなければ、誇大さがなければとうてい統一の大業は果たせないものだ。
甲斐《かい》の武田信玄は「天命われにあり」とおもったればこそ父を追って権力の座についたわけだし、奥州の伊達《だて》政宗《まさむね》も、敵に拉致《らち》されてゆく父の輝宗を敵とともに撃ち殺したのも、この感情である。
事、成就《じょうじゅ》すれば「天にもっとも近い者」であることを人に知らしめるために天空を劃《かく》するような城をつくる。
庄九郎は、その後、常在寺でぶらぶらすごしていたが、十日ばかりたったある霧の深い朝、日護上人はふと、
「法蓮房、心をきめてくれたか」
といった。
「何の心だ」
「美濃に仕官してくれる一件。おぬしのような大器量が美濃の統治をたすけてくれねば、この国のあすの運命はない」
「ふむ」
庄九郎は、心進まぬ顔である。
「じつをいうと」
と、日護上人はひざを乗りだした。
「兄の長井利隆に、おぬしのことをいちぶ始終話してしまったわい」
「長井殿に?」
庄九郎は、きらりと眼をひからせた。
長井利隆は、加納にいる。常在寺からはほんの一里の南である。
現今《いま》は、どちらも岐阜市にある。ちなみに岐阜という町は、庄九郎のちの道三《どうさん》がつくり女婿《じょせい》の信長が完成した町だが、この当時にはこの名は存在しない。
むしろ、このあたりは、
「加納」
という町名で、代表されていた。城下の長さ十数丁、東山道(いまの国道二十一号線)に面する重要な宿駅でもある。
この加納城の城主が、美濃の一勢力者である日護上人の兄長井利隆である。
年は四十。
庄九郎のしらべでは、よほど思慮ぶかい人物のようである。
「長井殿は、どう申されていた」
と、庄九郎は、日護上人の表情のすみずみまで見おとすまいとしている。
「よろこんでいた」
(え?)
と、油断がならない。
「いや、本当だ。わしは妙覚寺本山のころのおぬしの才覚、その後の武芸、諸芸、且《かつ》は商略をいちいち実例をもって話したところ、兄の利隆は」
(利隆は?)
庄九郎、日護上人の眼をみている。ひどく柔和な眼だ。
「左様な十徳をそなえた人物がいようはずがないとはじめはまじめにはとりあわなかったが、だんだんわかってくると、かたちをあらため、ぜひ、殿に推挙したい、いま土岐家にほしいのはそういう人物である、と膝《ひざ》をのりだしてきた」
「いやこれははずかしい」
庄九郎は、事実、恥じらいの色をうかべながら、
「わしは買いかぶられた。おぬしの言葉で、この松波庄九郎の像をうつくしく飾ってくれたのであろう」
「なんの」
日護上人は手をふった。
「天下でもとの法蓮房、いまの松波庄九郎を理解することわしの右に出る者はない。言葉を飾らずとも伝えられるわ。それで、兄に会うてくれるか」
「拝謁《はいえつ》するとも」
「きょうは、めずらしい異人がくる」
と加納の城館の奥で、長井利隆が侍臣にいったのは、その翌朝である。
この長井家というのは、美濃の守護大名の土岐家の直臣《じきしん》ではない。土岐家の家老斎藤氏の家老である。
しかし、諸制度がゆるみ、実力本位の下剋《げこく》上《じょう》の世の中だから、実力者の長井家が、滅んだも同然の斎藤家をとびこえて、直接、土岐家の世話をやいていた。
このあたり、別に武力沙汰《ざた》、権力沙汰でこうなっているのではなく、斎藤・長井両氏は姓こそちがえ、一族だったし、主家の土岐家とも百年余にわたって血の交流があるから、いわば親類同士のうちわ《・・・》のことだ。
実力、才智のあるおじさんが、つい同族の宗家の世話を焼かざるをえないのと似ており、後世考えるような越権沙汰ではない。
ところが、美濃土岐家というのは、当主政《まさ》頼《より》のときに、血の出るような相続あらそいがあったのである。
これで土岐家にひび《・・》が入った。この割れ目に、やがて庄九郎が入りこむ。こういう割れ目がなければ、天涯《てんがい》の孤客の庄九郎などが、とうてい入りこめるすきがない。
土岐家の先代は、政房。この先代の相続のときも、「船田合戦」とよばれる合戦までおこなわれてお家騒動があったのだが、こういう騒動は、くせになるらしい。
政房に八男一女あり、
長男を、
政頼。
次男を、
頼芸《よりよし》、
という。父政房は次男頼芸を愛してこれに家督をゆずろうとしたため争乱が生じ、国中が真二つに割れてあらそい、実力者長井一族も、ふたつにわかれて戦った。
本来、ここに英雄が出てくれば土岐の美濃はこのときほろぶわけだが、日護上人のいう「国中に人物がいない」ことが幸いし、京の足利将軍の仲裁で、長男政頼に相続がきまった。
この騒動のとき、長井利隆は、次男の頼芸を押したてた。しかし破れた。もっとも先刻のべたように、いわば美濃の同族あらそいだから騒動がすんでしまえば復讐《ふくしゅう》ということもない。
しかしながら政争に負けた長井利隆は、所領、城地こそそのままとはいえ、この加納の城で、鬱々《うつうつ》とくらしているのである。
「たれぞ、人はないものか」
と、つねづね実弟の日護上人と話しあっていた。
「頼芸様に推挙できる人物がほしい」
というのである。
長井利隆が推したてた次男頼芸は、相続あらそいにやぶれたあと、鷺山《さぎやま》に華麗な城館をつくり、そこで歌舞音曲にあけくれている。
長井利隆は、この鷺山の土岐頼芸があわれでならない。
「分家」をするとき、所領ももらったが、しっかりした後見人が必要なのである。この時代の地方貴族は、十数代にわたる無為の生活の結果、血の濃度がうすれたというか、後見人なくしては世が立たぬような生きものになっていた。
そこへ庄九郎の話をきいた。
「それは耳よりな」
と、利隆はおもった。「殿に推挙しよう」と弟を通じて伝言せしめた殿《・》というのは、おなじ土岐氏でも分家の「鷺山殿」のほうである。
ほどなく、庄九郎は、日護上人ともども、加納にやってきた。
むろん庄九郎は、何度も検分してこの町はよく知っている。
城といっても平城《ひらじょう》で、荒田川という小《こ》溝《みぞ》のような細流を外ボリにし、東西四丁、南北五丁ほどの小さな外郭で、石垣は築かず、土をかきあげて土居《どい》にしてある。
「南陽房」
と、庄九郎は上人を旧称でよんだ。
「おぬしの生まれた城だな」
「いや、はずかしい。城とはいえ、あの土居も洪水《こうずい》をふせげる程度のもので、大戦さには役立つまい。しかし美濃はみなこういう小城でな」
「なぜ稲葉山を本城とせぬ」
「稲葉山?」
日護上人はおどろいた。
「あれはけわしすぎる」
大手門を入った。
すぐ侍に案内され、奥へ通された。質素な書院だが、庭がうつくしい。
一里むこうに、稲葉山がみえる。庭はそれを借景《しゃっけい》して造られている。
(稲葉山が、庭の借景にしかならぬとは、さてさて、おだやかな国ぶりだ)
国ぶりがおだやかというより、庄九郎が物騒すぎるのであろう。
やがて、長井利隆があらわれた。
(ほう)
公卿《くげ》顔《がお》である。色白、瓜実顔《うりざねがお》であたまが小さく、眼がひとえ《・・・》であった。
よく考えてみると、一代前、京から一条関白兼良《かねよし》をはじめ二十数人の公卿、諸大《しょだい》夫《ぶ》が家族をつれてこの美濃土岐氏へ身を寄せた。そのときかれらは多くの子を生み、この利隆・日護上人の母も、その一条関白兼良の娘であると庄九郎はきいている。
「松波庄九郎でござりまする」
と、ひたい《・・・》を手の甲につけた。
ひとわたりのあいさつがあってから、長井利隆は、
「ここでは格式ばって物語をしにくい。いま茶亭に釜《かま》をかけておりますから、庄九郎殿、それへ参りましょう」
といった。
この時代、貴族が茶室を好んだのは、正式の座では、室町《むろまち》の武家礼法がじゃまをして機微のはなしができにくいからである。茶室に入れば、階級もそれにともなう作法も無用とされ、天地ただ主客があるだけというふしぎな場がうまれる。
庄九郎のこの時代、茶道が社交の場として流行したのは、室町幕府がつくった小うるさい小笠原礼法の反動のようなものだ。
庄九郎と長井利隆は、炉をはさんで主客の座についた。
利隆、点《て》前《まえ》はみごとなものだ。
それに応ずる庄九郎の所作も、利隆、日護上人がおもわず惚《ほ》れぼれと見たほどにみごとである。
「さすがは京のおひとでござるな」
利隆には、文化へのあこがれがつよい。
(これは御《ぎょ》しやすい)
庄九郎は、京文化の油壺《あぶらつぼ》からぬけだしてきたような男だ。
おそらく、学芸を論じ、諸芸を演じさせて、庄九郎ほどの「教養人」は、当代、天下にはいないのであるまいか。
話題が、ついそういうところへ行った。
「舞をやられるそうでござるな」
「曲舞《くせまい》、乱《らん》舞《ぶ》などは、少々」
「かと思うと、山歩きもなさるらしい」
「…………」
稲葉山踏査をいっているのであろう。これは食えぬ男だ、と庄九郎はおもった。
「数日、おとまりくだされ」
と、長井利隆はいった。ゆるゆると庄九郎の人物をみたいと思ったのである。
庄九郎も、緊張している。初対面でながながと居すわってはかえって倦《あ》かれると思い、
「いや、後日参ります」
と、喫茶一刻《いっとき》ほどして、あっさり加納城をあとにして常在寺にもどった。
(あとはしばらく反応をまつ)
庄九郎のおもうところ、利隆が、数日してまた招けばよし、招かねば、初対面の庄九郎について印象が、さほど鮮かでなかったことになろう。
(はて、人の世は舞の手の間《ま》のようなものじゃ。この待っている一呼吸の間で、吉《きっ》左右《そう》がわかれてゆく)
悠々《ゆうゆう》と、常在寺で待っている。
朱《しゅ》唇《しん》
(ふん。……)
庄九郎は、今日も常在寺の書院の縁側で昼寝をしている。
(まだ来ぬな)
ふと椎《しい》の木を見た。根もとから梢《こずえ》のほうにだんだん眼を移して行って、ぱっと閉じた。梢に太陽がひっかかっていたからである。
(考えてもむだなことだ)
まだ来ぬ、というのは、美濃の実力者長井利隆からの使いがである。来ぬとあれば、長井が庄九郎をよほど警戒したか、それともこの国の貴族社会に紹介するに足りぬ人物とみたか、どちらかであろう。
(待つことさ)
庄九郎の処世観では、世の中はやる《・・》と待つ《・・》の二つしかない。待つということも重要な行動なのである。
そうした午後、縁側にいる庄九郎の耳に、山門の方角から、にわかに馬のいななき、人声のざわめきが聞こえてわたってきた。
(………?)
と眼をつぶっていると、廻廊《かいろう》を稚児《ちご》が走り渡ってきて、
「松波様、松波様。京の山崎屋(奈良屋)から杉丸《すぎまる》、赤兵衛殿と申されるかたがお見えになりました」
といった。
(ほう、よいときに来たな)
京を出るときに、お万阿《まあ》に命じておいたことだ。美濃へ隊商を寄越せ、と。
(どれ、門前へ出てみるか)
庄九郎は本堂の西側を通って、山門へ出てみた。
路上、半丁ばかりのあいだが、山崎屋(奈良屋)の荷駄《にだ》、人馬でうずまっている。荷駄はすべて上質の荏胡《えご》麻油《まあぶら》であり、人は護送の牢人《ろうにん》、売り子、手代である。
「あっ、旦《だん》那《な》様」
泣きっ面の杉丸が駈《か》けてきた。
ぺたっと路上でうずくまって、お懐《なつか》しゅうござりまする、御料人様は毎日旦那様のことばかりを申されております、おつつが《・・・・》はございませぬか、と早口でいった。
「見てのとおり息災だ」
そこへ赤兵衛もやってきて、この男は例の悪相でにっと笑った。
「お達者そうでござりまするな」
「お前達も元気そうでなによりだ。人数の宿割りはもうきめたか」
「へい、近在の各村に分宿することに致しました。あれだけの荷を美濃一国に売りあるくのですから、二十日はかかりましょう」
「たんと儲《もう》けよ」
「そのつもりでござりまする」
ひとまず二人を、庄九郎の自室に通した。
杉丸はすわると、懐《ふとこ》ろから油紙につつんだ封書をとりだして、膝《ひじ》をにじらせ、庄九郎の前においた。
「御料人様からのお手紙でござりまする」
「ああ、そうか」
庄九郎はさすがにお万阿が懐しい。しかし二人の眼前で読むのもはばかられて、そのまま懐ろへねじこんだ。
「それで、例のものを持ってきたか」
「へい」
杉丸と赤兵衛は、庄九郎の前に砂金の入った鹿皮《しかがわ》の袋を三つならべた。そのほか、永楽銭をカマスに二十袋馬に積んで持ってきている、という。
「豪勢じゃな」
庄九郎は、この瞬間から美濃随一の金持になった、といっていい。
「御料人様が、旦那様がご出世なさるまで山崎屋(奈良屋)の身代を傾けても金銀を運ぶ、とおおせられております」
と杉丸がいった。筆頭手代として杉丸自身もそう思っている。もっとも杉丸にすれば、主人が美濃土岐家に仕官をする、という程度しか知らず、まさか、油屋の旦那のぶんざいで美濃乗っ取りを考えているとは、夢にも想像できないことだ。
「杉丸、京へ帰ればすぐその足で堺《さかい》へゆき、めずらしい唐物《とうぶつ》をさがしておいてくれ。こんどはいつくる」
「三月のちに」
「そのときに届けてもらおうか。大明《たいみん》のおし《・・》ろい《・・》、べに《・・》、香木《こうぼく》なども忘れずに」
「はい」
「朝鮮渡来の虎《とら》の毛皮などは、当国の者は田舎者ゆえ、よろこぶかもしれない」
「見つけに参りましょう」
「交趾《こうちん》の香盒《こうごう》などもおもしろいな。そうそう思いだした。大明渡来の墨、硯《すずり》、朱、群青《ぐんじょう》、胡《ご》粉《ふん》、絵絹などもそろえてもらおう」
「絵の道具でござりまするな。旦那様がおかきになりまするので」
「いや、わしは浮世に絵をかくのだ。絹の上に絵などをかいているひまがない」
他に思惑《おもわく》がある。そのことは物語の進むにつれておいおい出てくるであろう。
「そちらは、当山《とうざん》へ泊まれ」
庄九郎は、常在寺を自分の家のように思っているらしい。
「いやいや」
杉丸は遠慮した。主人が厄介《やっかい》になっているうえに、手代まで泊まれば悪かろう。
「なんの、遠慮は要らぬことだ。この砂金も永楽銭もぜんぶ常在寺に寄進する」
「えっ」
赤兵衛はたまげた。砂金などは土岐家の要所々々に賄《わい》賂《ろ》としてばらまくのであろうと思ってもってきたのだが、それを愚にもつかぬ寺にすっかり寄進してしまうとはどういう料《りょう》簡《けん》か。
「も、もったいのうござりまするぞ」
「赤兵衛、そちはもとは妙覚寺の寺男であったというのに、そんな性根では極楽には行けぬな」
庄九郎は笑った。
杉丸は、ちかごろは庄九郎の感化をうけてすっかり日蓮宗の篤信者《とくしんじゃ》になっていたから、庄九郎のこの美挙に感動した。さすがは敬慕する自分のあるじであるとおもった。
「だ、だんなさま、そうなされまし。当国では日蓮宗はこの常在寺だけとやら。御法義昂《こう》隆《りゅう》のために何よりの布施《ふせ》でござりまする」
「そのつもりでいる」
(ほう)
赤兵衛は、庄九郎の顔をまじまじみつめている。妙法蓮華経の功《く》力《りき》など、もとの法蓮房いまの松波庄九郎は、いまも昔も信じてはいないことをよく知っているのである。
「さてそちらはここで待て。当山の日護上人に拝謁《はいえつ》させてやる」
「日護上人といえばたしか、昔の南陽房様でござりましたな」
赤兵衛は寺男崩れだからよく知っている。
「そうだ。しかし学生《がくしょう》のころとはちがい、いまは当国きっての巨刹《きょさつ》の上人だ。心安だてに無礼はあってはならぬぞ」
「へっ」
赤兵衛は、首をすっこめた。
寄進ときいて、日護上人はよろこんだ。いや、驚いたのである。もとの兄弟子から財《ざい》施《せ》を受けるというのは、思いもよらなかった。
「法蓮房」
と、この若い上人は庄九郎を同学のころの旧称でよぶ。
「なにやら面《おも》映《は》ゆいな。おぬしはいかに物持とはいえ、そのように気を使うてもらわずともよいぞ」
「南陽房、申されるな。わしとても御《お》仏飯《ぶっぱん》で育てられた身、還俗《げんぞく》したりとはいえ、妙法蓮華経の功力により生かされている身じゃ。わずかなりとも仏恩に報いさせて貰《もら》いたい」
「おお、真の布《ふ》施行《せぎょう》とはこのことか」
上人はますます感動した。自分の所有物を他人に与えることを仏法では布施行といい、四《し》摂《せつ》の一つとして数えられるほどの重大な行《ぎょう》である。
しかし施者は、施すことによって福報を期待するようなことがあっては、真の布施行にはならない。ただ与え、ひたすらに与えることによって生得《しょうとく》の執着《しゅうじゃく》を去り、ついには仏法窮極の目的たる空《くう》の境地に達する。さればこそ、行というのである。
「おぬしはそれじゃ」
と日護上人はいうのだ。法蓮房はさすが学才智弁第一といわれただけに、仏法の真髄を知っている、というのである。
しかもその布施というのが、馬十頭に積んだ砂金、永楽銭といったものだときいて、日護上人は、胆《きも》をつぶした。
この当時はまだ物々交換がおもで、良銭というものは明国から輸入される永楽銭しかなく、それも通貨としては絶対量が不足なのだ。とくに美濃の田舎では、この銭そのものがめずらしいといっていい。それを馬十頭といえば、気の遠くなるような財である。
さっそく、日護上人は寺僧に食事《とき》をつくらせ、赤兵衛、杉丸をまじえて馳《ち》走《そう》した。
「………?」
と、上人は赤兵衛の顔をみて、妙な顔をしている。記憶《おぼえ》のある面《つら》つきなのだ。
庄九郎が、ほらあの頃《ころ》の寺男じゃ、と紹介すると、そうか、と苦笑した。
あとで日護上人が、
「法蓮房、おぬしらしくもない。あの寺男は妙覚寺本山で持てあましの悪党だったではないか。注意するがよいぞ」
「はははは、南陽房。悪人とは生得《しょうとく》慾心熾《さか》んなる者のことだが、それだけに使いようによってはなかなかおもしろい。善悪の色さだかならぬ腑《ふ》ぬけよりも、よほど役に立つ」
「おぬしの器量でこそ使えるのだ。しかし杉丸という手代は、善骨じゃな」
「わしは善悪両人、能に応じて使っている」
「いや、感心した」
日護上人の法蓮房庄九郎に対する傾倒は、妙覚寺本山のころからの習慣である。
一方、加納の城では。――
この翌々日の午後、城主の長井利隆は、朝からのにがい顔のまま、
「忘筌亭《ぼうせんてい》」
と名づける小さな学問所で独り二月堂《つくえ》にもたれ、茶壺《ちゃつぼ》に手を入れては、煎茶《せんちゃ》の葉を噛《か》んでいた。
利隆は、齢《とし》にしてはしわも多く顔色も冴《さ》えないのは、持病の胃のせいであろう。ひとつには茶好きでありすぎる。葉のまま噛むのがすきなのである。
利隆は、美濃きっての学問好きとされた男だ。戦国の世、しかも小なりともこういう城主の身に生まれてさえいなければ、とっくに出家遁世《とんせい》して花鳥風詠《ふうえい》を楽しんでいたであろう。
(本当なのか)
と、つぶやく。
にがい顔はそれだ。先日きた松波庄九郎が常在寺に多額の財を寄進した、ということである。
不快であった。
いや、庄九郎が、ではない。利隆は自分に対して、面白《おもしろ》くない。
あの日庄九郎を見たとき、あまりに怜《れい》悧《り》すぎ、あまりに人としての魅力がありすぎることにおそろしさを覚えた。
(これは謀《む》反人《ほんにん》の型ではないか)
利隆が読み知っている中国の史籍では、こういう魅力の男が、一国一家をくつがえすということを教えている。
(近づけるべきではない)
と見た。
だから、「いずれまた」といいながら、常在寺への使いを出さなかったのである。
その利隆の「見込み」がはずれた。けさ、あの男《・・・》が常在寺に多額の布施をした、といううわさをきいたのである。
(寺への布施をするなどは、利口者のすることではない。存外、そういう美談好きの甘い男ではあるまいか)
と思いなおさざるをえなくなった。自分の美談に酔える男かもしれない。いわば、見かけほどの利口者ではない。つまりその程度の利口者ならば、土岐の殿様に推挙しても害はなかろう、と思いかえしたのである。
(要するにあの男は、こうか。鎌倉以来の名家である土岐の家名にあこがれ、その名家が衰えているのを惜しみ、感傷し、いささかの力でもつくしたい、そういう感傷癖と美談癖のある男か)
なにぶん、寺に寄付をしてよろこんでいる男だ。存外そういう手の物好きかもしれない。物好きといってわるければ、他人に忠義を尽したくてその相手をさがしまわっている男、――要するにうまれついての忠義者か。
(そのうえにあの才覚。――)
これは土岐家のために天がくだしたような名執事になるかもしれぬ。
(いや、まったく見誤った。わしにもこういうことがあるのか)
長井利隆は、やっと顔色を平常にもどし、すぐ馬の支度を命じた。
「常在寺へゆく」
と、城門を出た。供は十人ばかり。この時代のこととて、それぞれ腹巻をつけ、弓、長《なが》槍《やり》をもっている。
めざす常在寺へは、一騎、先触れが走って訪問を予告していたから、長井利隆がついたときは、一山《いっさん》でむかえた。
「弟」
と、利隆は日護上人にささやいた。
「松波庄九郎殿はおられるか」
「法蓮房でござるか、もはや美濃にも倦《あ》いたと申して、今日あたりからあちこちに土産などを求め、京に帰る支度をしております。私がいかにとめましても、微笑しているばかりで、支度をやめませぬ」
「そ、それはならぬ。おとめせよ。あれほどの人物を他国に逃がすことがあってよいものか。弟、おとめ申せ」
「兄上、御思案が長すぎましたな。慎重は兄上の悪いお癖でござりまする」
「なんの、しかし心を決してしまえばゆるがぬのがわしの性分じゃ」
早速、常在寺の茶室で、日護上人を亭主に、庄九郎と席をともにした。
「お発《た》ちなされるそうでござるな」
「私ですか」
庄九郎は、茶碗《ちゃわん》をおいた。
「どうも、都から女房殿《にょうぼうどの》のたよりが参りましてな、それをみると、矢もたてもたまらなくなり、急に発つつもりになりました」
「庄九郎どのの御内儀とあれば、さぞ才色を兼ねた女人《にょにん》であろう。ちかごろ都では書風は何がはやっております」
「やはり青蓮院流《しょうれんいんりゅう》でありましょうか。一部の物好きは道風《とうふう》(小野)を好むようです。しかし私の女房は左様な流儀ではありませぬ」
「ほう」
長井利隆は膝をのりだした。都ぶりとあれば眼のない武士なのである。
「さしつかえなくば拝見できまいか」
といった。
「いや、べつに他人に読まれてこまるような手紙ではありませぬゆえ、お見せしてもよろしゅうございますが、長井殿、かならず笑われますな」
「なんの、嗤《わら》いますものか。都のはやりを知りたいものでござる」
「されば」
と庄九郎は、懐ろから一通の書信をとりだした。杉丸が言伝《ことづか》ってきたあの手紙である。
「どうぞご披《ひ》見《けん》を」
と、長井利隆のほうに押しやった。長井利隆はとりあげ、両手で鄭重《ていちょう》に押しいただいたうえ、静かに披見した。
庄九郎、端座したまま。
「…………」
と長井利隆は顔が、真赤になった。
巻紙には、何の文字も書かれていない。
ただ中央のあたりに、紅唇《こうしん》を捺《お》しあてて紅《べに》をつけた痕《あと》が、朱印のごとくくっきりしている。
「その手紙に添えて」
と、庄九郎はさらに紙包みをとりだして長井利隆のひざもとに進めた。
「こういう便りも認《したた》められておりました」
「は」
長井はどぎもをぬかれてほとんど無意識にその紙包みをひろげた。
ひとすじ、ほそいものが入っている。
「こ、これは何でござる」
「陰《かく》し毛《げ》でござる」
庄九郎は、にこりともしない。
はあっ、と長井はふとい溜息《ためいき》をつき、鄭重に巻きなおし、包みなおして、庄九郎のひざもとに返した。
「いや、おそれ入りました。千万言の文章、王《おう》羲之《ぎし》の筆にもまさる名筆でござる。庄九郎殿はよい内儀をもたれました」
「…………」
「どうぞ、お収めを」
長井は、しょんぼりしてしまっている。ど《・》ぎも《・・》をぬかれたのであろう。
しかし、これが庄九郎に対する長井利隆の印象を一変させた。
(ああまでのろける《・・・・》とは、抜け目がないようにみえて、よほど底のぬけた男であろう)
と、あとあとまで人に語った。
むろん、庄九郎の手である。長井利隆のような人物にはこの手でゆけばそういう印象をもつであろうということは、百も見通しのうえである。もっとも、お万阿がそういう手紙を送ってきたことだけは本当だが。
その夜、遅くまで長井利隆は、庄九郎を説得し、しまいには手をついて頼んだ。
「蜀《しょく》の玄徳劉備《りゅうび》が、諸葛亮《しょかつりょう》(孔明)の廬《いお》を三たび訪ねて出廬《しゅつろ》を懇請したときの気持もかようなものではなかったかと思われます。庄九郎殿、貴殿のお力がなければ美濃土岐家の衰運はどうにもならぬ」
長井利隆、
惚《ほ》れたとなれば、つい古典などをひきだして、過度な気持になるらしい。だんだん言葉をつくし、修辞を多くしてゆくうちに、むしろ自分の言葉に暗示されて、庄九郎が諸葛孔明にみえてきたのであろう。
庄九郎が、
「では。――」
とうなずいたのは、その夜も更《ふ》けたころである。
「ありがたや」
長井利隆、日護上人は、兄弟同時に手を拍《う》ってよろこんだ。
深《み》芳《よし》野《の》
人の世は、あすがわからない。
というが、こういう、わけのわかったようなわからぬような、その実、生きるためになんの足しにもならない詠嘆思想は、松波庄九郎にはない。
(あす、何が来るか、ということは理詰めで考えぬけばわかることだ)
と信じている。
「では庄九郎殿、お首尾がよろしいように」
と、常在寺の日護上人は、庫裡《くり》の玄関で庄九郎を送りだした。
山門から馬に乗った。
鞭《むち》をあげて加納への道を駈けだした。
美濃の天地は、すっかり秋色に染まっている。
(美しい山河だ。いつおれのものになるか)
庄九郎の人生には目的がある。目的があってこその人生だと思っている。生きる意味とは、その目的にむかって進むことだ。
そのために悪が必要なら、悪をせよ。
善が必要なら、それを駆使するがよい。
(進むことだ)
庄九郎はさらに鞭をあげた。
馬が、駈けた。
(駈けて駈けて、それがおれの一生だ。蹄《ひづめ》にアリがつぶされようと犬が蹴《け》ころされようと、かまうものではない。念仏は弱者がとなえよ)
庄九郎はやがて、加納の城門に入った。
すでに、長井利隆が、同行の支度をして待っている。
「早かったですな」
と、長井は玄関の式台からおりた。草《ぞう》履《り》とりが、履物《はきもの》をそろえた。
やがて二頭、馬首をならべて、鷺山《さぎやま》への街道を進みはじめた。
「庄九郎殿、鷺山の殿は、拙者の口からあなたのことを聞かれて、今日の日を待ちに待っておられます」
「はあ」
手綱をひいた。毛の禿《は》げためす犬が寝そべっていたからである。
「さすが僧門の出ですな。畜生にまでいたわりの深いことだ」
「癖になっております。べつにいたわりなどはありませぬ」
「ご謙遜《けんそん》なこと」
長井利隆は、すっかり惚《ほ》れこんでいる。
やがて長良川にさしかかった。
庄九郎は、トットットッと馬を河原におりさせ、浅瀬をえらんで渡った。
「庄九郎殿、私はこの土地の者だから浅瀬はわかるのだが、京からきたあなたがそうして無造作に浅瀬をえらんでは渡ってゆくところをみると、ふしぎな気がします」
「水の色、瀬の騒ぎでわかります」
「いや、奇才異能の士であることだ」
むこう岸に跳ねあがった。
途中《みちみち》、長井利隆は、いまから庄九郎をつれてゆく「鷺山殿」の人柄について語った。
「愛すべき人です」
と、長井利隆はいった。
鷺山殿、つまり土岐《とき》頼芸《よりよし》は、美濃の王(守護職)ではない。
兄の土岐政頼が守護職で、これは美濃の中心ともいうべき川《かわ》手《で》城(現在岐阜市正法寺町)にいる。
頼芸は数年前、兄と家督をあらそい、小戦さまでして紛糾したが、ついにやぶれてこの鷺山城をもらい、毎日、遊芸にあけくれて暮らしている。長井利隆は、この家督あらそいのとき、頼芸についた。そのときの縁で、いまでも頼芸の後見人としてなにくれと世話をやいていた。
「鷺山殿(頼芸)を応援したのは、御兄弟のおん父故政房様からたのまれたためでもありますが、土岐家十代目を継ぐのは頼芸様をおいてない、と信じたからでもあります」
「それほどの人物でおわしますか」
「いや、兄の君(政頼)よりまし《・・》という意味で。――」
「なるほど」
庄九郎のきいたうわさどおり、現守護職の政頼はよほど凡庸らしい。
「拙者は」
と、長井利隆は重大なことをいった。
「いまでも、鷺山殿が美濃の支配者になったほうがよかったと信じています」
「はあ」
と答えたが、思わず視線をめぐらして長井利隆の顔を見た。
長井は、相変らず彫りのふかいおだやかな顔に微笑をうかべているだけだ。
(私に、私の才覚で政頼を蹴おとして頼芸を守護職につけてくれ、という意味だろうか)
長井利隆の表情からは、汲《く》みとれない。
「鷺山の頼芸様は、たとえばどういうお人柄です」
と庄九郎は調べぬいていることながら、長井の口からそれをきこうとした。
「絵のうまいお人です」
「ほう」
大きく、感心した。
「そんなにお上手ですか」
「唐《から》の徽《き》宗《そう》皇帝とまでは行きますまいが、まずそれに準ずべき画才でしょう」
事実、頼芸は、その名のごとく芸術的天分にめぐまれており、別の世にうまれればもっと大きな名を後世に遺《のこ》したかもしれない。
好んで、鷹《たか》を描く。
鷹ばかり描いていた。絵師なら依頼主の注文に応じて描かねばならないが、頼芸は大名だから好きなものをかいていればいい。
自然、好きが凝って、かれの鷹は古今のいかなる画家よりもうまい。
現在《いま》でも、
「土岐の鷹」
という特別なよびかたで、いくつかの名品がのこっている。古美術界でひどく珍重されている絵である。雅号は洞文《どうもん》。
「絵だけでなく、歌舞音曲にも堪能《たんのう》なかたです」
(そういうことでも楽しむ以外に、毎日することがない生活人なのだろう)
「庄九郎殿の都ぶりの舞など、見せてさしあげれば、およろこびなさるに違いない」
「いや、たかが油商人、舞と申したところで知れたものでござるよ」
やがて、鷺山の城下町についた。
城下町、といっても、この小城の消費生活をまかなう程度の町家と農家が、五十軒ほどかたまっている程度である。
丘の上に、白い城館がみえる。大手門は、東面している。
二人は、城に入った。
「贅《ぜい》美《び》な建物でござりまするな」
と、庄九郎は楼門をみあげた。
本丸、櫓《やぐら》、武者走りなどには、たっぷり油を入れて練りあげた白壁で化粧されており、どの建物も青黒く焼きしめた美濃瓦《がわら》が、ずしりとのっている。
「小さいが、いい城だろう」
と、長井利隆はいった。
(いい城だ。この国を頂戴《ちょうだい》したあと、隠居でもするときに住もうか)
ぎょろりと眼をむいて見まわした。物腰だけはいんぎんだが、見まわしている眼は、後年、蝮《まむし》の道三《どうさん》といわれたこの男らしい眼である。
庄九郎は小部屋で待たされ、まず長井利隆が案《あ》内《ない》された。
(まさか、下人あつかいにして、庭へまわしてお言葉を頂戴、というのではあるまいな)
それなら庄九郎の誇りがゆるさない。もともと、学生《がくしょう》、浮浪人、というぐあいになんの誇るべき前身もないのだが、みずからを貴《たか》しとする精神がつよいのは、うまれついての性質であろう。
「松波庄九郎様」
と、美々しく着かざった児《こ》小姓《ごしょう》が、廊下でひざをついた。
「案内つかまつりまする」
庄九郎は、御前へ出、しきい《・・・》一つへだてて平伏した。
正面に頼芸。
一段さがって長井利隆がいる。
「あれなる者が」
と長井利隆が紹介しようとすると、頼芸が、
「油屋じゃな」
と、くすくす笑った。退屈している頼芸である。油屋という人間を見物する、というので、今日を待ちかねていた。別に、庄九郎の人物に期待したわけではない。
「わしは油屋というものを見たのははじめてだ。なかなかの異相にみえるが、油屋とはみなそうか」
「これは手前の顔でござりまする。油屋ゆえこの顔がついているのではござりませぬ」
と、庄九郎は真面目《まじめ》くさって直答《じきとう》した。
「いやいや、殿」
長井利隆がとりなした。
「この者は、北面の武士松波左近将監《さこんしょうげん》の子孫にて、氏は藤原氏、素姓《すじょう》もたしかな者でござります」
「そうか」
頼芸は貴族の鷹揚《おうよう》さで、油屋、という生きものが別にいるのかと思っていたらしい。
長井利隆が横から何か耳うちすると、
「ほほう、日護上人と同学というのか」
と眼の醒《さ》めたような顔をした。にわかに尊敬しはじめたのである。
「京の妙覚寺本山で、ともに内《ない》外《げ》典《てん》をまなびました」
「当国では日蓮宗はめずらしい。日蓮宗は、他宗を誹《ひ》謗《ぼう》し、一国の政道にまで口を入れようというのが宗風じゃときくが、まことか」
「いや、妙覚寺本山の学風は左様なものではござりませぬ。そのことは、日護上人の御徳風をご覧あそばせばわかることかと存じまする」
「日蓮宗とは、一言にして申せばどういうことじゃ」
「此《し》土入聖《どにっしょう》」
「ほ?」
「他宗には、悟りをひらいてはじめてホトケになる、浄土宗、浄土真宗は、南無阿弥陀《なむあみだ》仏《ぶつ》を唱えることによって死後極楽に往生する、真言、天台は、即身成仏。――などと申しいずれも現世を穢土《えど》(けがれた国)として否定し、死ぬことのみを欣《ごん》求《ぐ》し、死んで極楽へゆく法のみを説きまするが、わが宗はさにあらず。このままの身、このままの時間、このままの世界にて、このままで聖《ひじり》になれる、という教えでござりまする」
「思いあがった教えじゃな」
「左様」
庄九郎はうなずいた。
「人間、思いあがらずになにができましょうか。美人はわが身が美しいと思いあがっておればこそ、より美しくみえ、また美しさを増すものでござりまする。才ある者は思いあがってこそ、十の力を十二にも発揮することができ、膂力《りょりょく》ある者はわが力優《まさ》れりと思えばこそ、肚《はら》の底から力がわきあがってくるものでござります。南無妙法蓮華経の妙味はそこにあると申せましょう」
「そうきけば、法華ぎらいのわしでも、なにやらわかるような気がする。人の力を倍にするのか」
と、頼芸はおもしろがった。とほうもない思想のもちぬしがやってきたものである。
「どうやら、庄九郎」
「はっ」
「そちは、人間について明るいらしい、わしは年少のころからさまざまなことを知りたいと思っていた。うれしい人物が舞いこんできてくれたものよ」
膝《ひざ》を乗りだした。
「されば庄九郎、人間は死ねばどこへゆく。ひとことで教えてくれ」
「そのこと」
庄九郎は、説得力に満ちた音量でいった。
「坊主にまかせる、任せて考えぬ、これがサトリでござりまする」
「任せるだけか」
「そのだけ《・・》に、人間到達できれば、もはや大《だい》覚者《かくしゃ》でございます。死は坊主にまかせる、まかせて楽しく生を送る、それが達人の生き方というものでござりましょう」
「なにやら深そうなことをいう」
頼芸は素直に首をひねった。
長井利隆が横で、にこにこしている。推薦の甲斐《かい》があったと思っているのであろう。
が、庄九郎は内心、
(死は坊主に任せよ、生はわしに任せるがよい)
とうずうずとつぶやいているのだ。庄九郎の考えでは、愚者は所詮《しょせん》、智恵者の厄介《やっかい》になるしか仕方がないのである。
「いや、面白《おもしろ》い。酒にしよう」
と、すぐその場で、酒宴になった。
頼芸は庄九郎を近くへまねき、手ずから杯をあたえた。
庄九郎は、それを三度にわけて飲む。
膳《ぜん》の上のものの箸《はし》のつけ方も、すべて往年室町《むろまち》幕府が武家作法として制定した小笠原礼式にかなっている。
「庄九郎、きょうはすごせ」
と頼芸は何度もいいながら、京の物語などをしきりと訊《き》たがった。
庄九郎の話は、おもしろい。京の町々の辻《つじ》伝説、さる公卿《くげ》屋敷の怪奇、寺僧の女犯《にょぼん》、などを手ぶりをまじえて話してきかせる。
「ああ、都にあるようじゃ」
と、頼芸はため息をついた。地方豪族にとって生涯《しょうがい》そこに住めぬ場所だけに、都への思いは一通りなものではない。
たとえば庄九郎が、
「二位の局が、一元寺の南の里御所にいきましたとき」
というと、頼芸はひざをたたいて、
「おお、その横に有《あり》栖《す》川《がわ》が流れていよう。その南は北小路堀川殿じゃ。さらにその南には、村雲《むらくも》の大休寺の練塀《ねりべい》がつづいている」
というのだ。
むろん、頼芸は京へ行ったことはない。が人のはなし、物の本で、町の地図が頭にできてしまっているのである。
やがて宴なかばで、ふすまがしずかにひらいた。
(…………)
庄九郎が、眼を見はり、すぐ無礼に気づいて、頭《ず》をひくくした。
眼を伏せ、頭《こうべ》を垂れ、息をのみ、やがて息をほそめながら、たったいま見たものがこの世のものかどうか疑わしくなった。
(おそろしいものを見た)
うわさは聞いてはいた。
土岐頼芸の愛妾《あいしょう》深《み》芳《よし》野《の》のうつくしさについては。
深芳野。――
この女性《にょしょう》は、出生からして数奇であった。
下《げ》賤《せん》のうまれではない。丹後宮津の城主一《いっ》色左京大夫《しきさきょうのだいぶ》の子である。
父の四十二歳の厄年《やくどし》子《ご》であった。厄年子は育たないともいわれるし、生家に仇《あだ》をなすともいわれている。
そのため、姉が、この頼芸に輿《こし》入《い》れしてきたとき、一緒につけて貰《もら》われてきた。
姉は正妻である。深芳野は妾であった。いかに戦国の世でも、姉妹を同じ閨室《けいしつ》に入れて愛しているという例はめずらしい。
それだけに、隣国にまでうわさが高い。頼芸殿は艶福《えんぷく》、と近隣の大名からうらやましがられた。
「庄九郎、これが深芳野じゃ」
と頼芸はいった。
「はっ」
と庄九郎は眼をあげた。
食い入るように深芳野を見た。
深芳野も、じっと庄九郎を見ている。
黒々とした瞳《ひとみ》が、やがて、音をたてるようにしてまばたき、眼をそらせた。庄九郎の凝視に堪えられなくなったのであろう。
かぼそいうなじが、心もち、羞恥《しゅうち》に染まっている。
「松波庄九郎にござりまする」
「深芳野」
と、頼芸はいった。
「ゆうべ話したあの人物じゃ」
「はい」
ちら、と庄九郎を見た。
(ゆうべ話した、とは閨《ねや》でか)
庄九郎は頼芸を見た。頼芸は、大《たい》度《ど》にかまえているが、うわさでは深芳野にうつつをぬかして、領内の政治もかえりみないありさまだという。
(閨で、わしの話をした。――)
庄九郎は、ふたたび深芳野をみた。
「注いでやれ」
と頼芸は命じた。
深芳野は銀の酒器をとりあげた。
庄九郎は膝行《しっこう》して、深芳野の前へゆき、朱塗りの杯をささげるようにして前へ出した。
それへ、しずかに酒がしたたった。
杯で受けながら、庄九郎は杯ごしに眼をやり、酒器をもつひとの眼へ語りかけるように見た。
(欲しい。――)
その声がまるで聞こえでもしたように、深芳野は庄九郎を見、わずかに小首をかしげた。
「庄九郎殿、もうお酒が満ちております」
小首をかしげたのは、そのことである。
「はっ」
狼狽《ろうばい》して、ひきさがった。
もとの座にもどり、杯を唇《くちびる》にあて、二度飲み、三度目は大きく干した。
杯を置いた。
ひたいに、汗をかいている。
西村勘九郎
深芳野のからだに酒が入ったわけではないのに、酔いが夜ふけまで残った。
かるく、頭痛がする。
(なんと異様な男か)
あの松波庄九郎という男のよく光る眼が、深芳野の網膜の残像になり、こうして眼をつぶっていても、闇《やみ》のなかにありありとうかびあがってくるのである。
(厭《い》やな)
とは思わなかったが、気味わるくはある。ちょうど部屋のすみにまぎれこんだ夜走獣の眼が、またたきもせずにこちらを見つめているような。
そういう不気味さである。
(わたくしを欲していた)
深芳野には、本能でわかる。しかし、他人の館《やかた》にはじめて来て、しかも身分は一介の油商人でありながら、なんと無礼な眼をあの男はしたものであろう。
ぞくっ
と、深芳野は身ぶるいをした。
頼芸はよほど庄九郎が気に入ったらしく翌朝も使いを常在寺へ走らせて、
「わが無聊《ぶりょう》をなぐさめよ」
といってきた。
庄九郎は、
……夜来、風邪をひき、気分がすぐれませぬので。
とことわった。
使者は、ほとんど毎日やってくる。
庄九郎は、そのつどことわった。当然のことだ。よばれてすぐ参上するのは、放《ほう》下《か》僧《そう》ぐらいのものであろう。
断わる理由は、いつも、
病気、
であった。
「今日もすぐれませぬようで」
と、日護上人にいってもらう。
そのくせ、庄九郎は、書見をしたり、庭をぼんやりながめたり、槍《やり》のひとり稽《げい》古《こ》をしたりしている。
「法蓮房《ほうれんぼう》、どうするつもりじゃ」
と、日護上人があきれていった。
「仮病《けびょう》をつかって伺《し》候《こう》せぬのは、太守の弟君に対して無礼ではあるまいか」
「会う気がせぬ」
「相変らず、気むずかしいひとじゃ。頼芸様が気に入らぬのか」
「貴人の御前に出るというのは肩の凝るものだ。人間、おなじ五十年なら、できるだけそういう機会を避けて暮らしたい」
裏はらなことを云《い》っている。
この庄九郎の言葉が、日護上人の口から頼芸の耳に入ったらしい。
「さても無慾な男だ」
と感心し、いよいよ松波庄九郎という人物が貴重なもののように思えてきた。
頼芸は、加納城主長井利隆をよんで、庄九郎をいかにして美濃にとどめておくべきかの相談をした。
「やはり、地位と知行《ちぎょう》をあたえることでござりましょう」
「あの庄九郎が、受けるであろうか」
「わかりませぬな」
二人の頭に、庄九郎の京における巨富がある。都にそれほどの富をもつ男が、こういう片田舎で宮仕えをしたいと思うはずがない。
二人は貴族といっても、田舎者である。田舎者らしく、都住いの庄九郎に対し不必要なほどに気がねをしていた。
「あ、妙案がござりまする」
と、長井利隆がいった。
「西村の家を継がせれば?」
「ああ」
頼芸も、ひざを打った。
西村の家、というのは、美濃では名族の一つで、守護職の土岐氏とも血のつながりがあり、長井氏とは同族になる。
先年、「西村」の当主西村三郎左衛門が病死し、あとつぎもないまま、絶家している。
その西村氏の位《い》牌《はい》、所領は、長井利隆が親族としてあずかっているのである。
「そう。西村の名跡《みょうせき》を継がせるがよい。利隆そちの一存ではからっておけ」
「いやいや。この一件は、庄九郎に対し、殿ごじきじきに申されるがよろしゅうございましょう。人はそういうことで感奮するものでございます」
庄九郎は庄九郎で、もくろみがある。
ずっと鷺山《さぎやま》御殿に伺候しなかったのは、京からとどく贈りものを待っていたがためであった。
それがようやくにして、とどいた。
(機《き》嫌《げん》をとりむすぶだけでは、こちらが下目になる)
そう思って、手配したのである。この男は、無官の商人でありながら、心中美濃の太守の弟土岐頼芸と対等のつもりでいる。いや、気をもってすでに頼芸などは呑《の》んでかかっていた。
京から、馬も着いた。
赤糟《あかかす》毛《げ》である。みごとな駿馬《しゅんめ》で、耳そげ立ち、眼底に光彩あり、上首《うわくび》が長く、琵琶《びわ》股《また》に張りがあり、四足は、馬《ば》相《そう》でいう麻を立てたようにすらりとしている。
庄九郎は、あらかじめ鷺山殿に使いを馳《は》せた翌日、常在寺の人数に荷を運ばせつつ、鷺山へむかった。
青鈍色《あおにびいろ》の肩衣《かたぎぬ》に、やや色薄の小《こ》袖《そで》、袴《はかま》をつけ、当節はやりの打刀《うちがたな》ごしらえの大小を差し、蒔《まき》絵《え》鞍《ぐら》をおいた赤糟毛にゆられてゆく姿は、どこの小名《しょうみょう》かといういでたちである。
鷺山の城中では、頼芸が待ちくたびれて、窓から大手筋のあたりを見おろした。
やがて、小さな騎乗の人影がみえ、だんだんこちらに近づいてくる。
馬に張りがあり、人にあたりを鎮《しず》まらせるような威がある。
「深芳野、これへ来《こ》よ」
と、頼芸はせきたてた。
深芳野が、窓へきた。
「見よ、あれが男だ」
と、頼芸はほれぼれといった。
庄九郎の小さな影が、しだいに大きくなって大手門へ近づいてくる。それが、頼芸と深芳野の一生にどんな運命をあたえるかは、かれらは神仏でない以上、わからない。
頼芸の御前――。
庄九郎は、進み出て、長井利隆にまで献上物の目録をさしだした。
頼芸はそれに目を通しながら、いちいち子供のような声をあげた。
やがて席を移して、酒宴になった。
深芳野が同座した。
庄九郎は進み出、深芳野に対しても、別の目録をさしだした。
「これはあなた様に。――」
じっと、深芳野の眼をみつめた。他人のめかけに主人の面前でぬけぬけと物を贈る男もめずらしいであろう。
目録をもつ深芳野の手が、ふるえている。なぜか、庄九郎に見つめられるとからだが慄《ふる》えてくるのである。
「お気に召しましょうか」
と庄九郎はいった。
唐錦《からのにしき》
蜀江錦《しょっこうのにしき》
紅《べに》
白粉《おしろい》
など、堺《さかい》でなければ手に入らぬ舶来の品々のなかに、血のような色の土佐の珊《さん》瑚《ご》などが入っている。
「…………」
と、深芳野は庄九郎を見た。懸命に表情を消しつつ、小さく頭を下げた。
庄九郎は平伏し、やがてあとじさりしつつ自分の座にもどった。
「庄九郎」
頼芸は、人の好い微笑をふくんでいる。
「いまひとつ、無心をいいたい」
「なんでございましょう」
「そちの体をもわしに呉れぬか。いや、当方からも、西村家の名跡を引出物《ひきいでもの》にしたいが、どうであろう」
「…………」
と、庄九郎は、長井利隆に顔をむけた。
「お受けすべきか如何《どう》かは、すべて長井様のおはからいにおまかせしとうござりまする」
こういわれれば、紹介者の長井利隆もわるい気持がしなかった。
「庄九郎殿、先例のないほどの御沙汰《さた》でござる。有難《ありがた》くお受けしますように」
「はっ」
と庄九郎は平伏した。
「本文《ほんもん》にも、士はおのれを知る者のために死す、とござりまする。菲《ひ》才《さい》を補うに、一死もって御奉公つかまつるでござりましょう」
「おお、安《あん》堵《ど》した。されば、いまより西村の姓を冒し、勘九郎、と通称するように」
「西村勘九郎」
庄九郎は、生涯のうちで十三回姓名を変えている。変えるごとに身分があがった。後世もっとも有名になった斎藤道三《どうさん》という名は、その晩年のものである(筆者――この物語ではまぎらわしいため、庄九郎で通したい)。
「庄九郎、いや勘九郎殿」
と、長井利隆が横からいった。
「西村勘九郎となれば、わが長井家の親族ということに相成ります。よろしく」
「い、いや」
庄九郎は、度を失ったようにどもった。いや正直なところ、かれ自身、ここまで頼芸や長井から知遇を受けようとは思わなかったのである。
「なんの、御遠慮なさることはない。いずれ一族をあつめて、この披《ひ》露《ろう》の肝煎《きもいり》を拙者がつとめましょう」
「身にあまることでござりまする」
と庄九郎はあくまで、辞を低くした。
「御一族のはし、というよりも、家来分としてお使いくださりますように。加納城にも、身の都合のつきますかぎり、出仕いたしまする」
「これ、勘九郎」
頼芸はいった。
「出仕は、この鷺山にするのじゃぞ。そなたのような男を加納城にとられてはかなわぬ」
「これは殿のきつい嫉《しっ》妬《と》じゃ」
と長井利隆は苦笑した。
「いや、殿の申されるとおり、そなたは、この鷺山土岐家の執事として奉公してもらう。加納城にはときどき遊びにきてもらうだけでよい」
再び、酒宴になった。
「深芳野、ひとさし、舞わぬか」
と、頼芸はますます機《き》嫌《げん》がいい。
深芳野はすぐ伏目になり、やがて怨《えん》ずるような眼をあげ、頼芸にだけわかるようなしぐさで、
(厭や。――)
といってみせた。
「なぜそのようにむずかる。いつもわしのために舞ってくれるではないか」
(でも)
と、眼で懸命に頼芸へ訴えた。
(きょうだけはいやでございます)
京の舞の上手、といわれた庄九郎の眼の前では、とても舞う気はしない。
「……つまり、そういうことか」
(はい)
と眼で、いった。
体を知りあった男女のあいだだけに通ずる会話である。
それを眺《なが》めさせられていて、庄九郎ははげしく嫉妬した。
「されば」
と庄九郎は口早やにいった。
私が舞いましょう、というのである。庄九郎は、えたいの知れぬ衝動にかられている。
「おお、そちが舞うてくれるか。ねがってもないことだ」
と、頼芸は大よろこびで、地《じ》謡《うた》をはじめ、小鼓《こづつみ》、大鼓《おおかわ》など囃子《はやし》の支度をさせ、さらに深芳野のほうにむいて、
「笛はそなたじゃ」
と命じた。
舞うは、曲舞《くせまい》である。
「敦盛《あつもり》な、つかまつる」
庄九郎は、扇子をとって立ちあがった。女人の前で舞うには、十六歳を一《いち》期《ご》に、熊谷《くまがい》のために討たれたこの初々《ういうい》しい平家の公達《きんだち》を演ずるのがとく《・・》というものであろう。
やがて、庄九郎は、地謡、囃子の音につつまれて舞いはじめた。
……しかるに平家、世を取つて二十余年、
まことに一昔《ひとむかし》の、過ぐるは夢の中なれや。
寿永の秋の葉の、四方《よも》の嵐《あらし》に誘《いざな》はれ、散り散りになる一葉《いちよう》の、舟に浮き波に臥《ふ》して、夢にだにも帰らず。籠鳥《ろうちょう》の雲を恋ひ、帰《き》雁列《がんれつ》を乱るなる、空《そら》定めなき旅衣《たびごろも》、日もかさなりて年月の、立ち帰る春の頃、……
庄九郎は、七五七五の句切れで拍子をとりつつ、かるがると舞いすすめてゆく。
みごとな芸である。
舞いおさめ、やがて囃子が鳴りやんだとき頼芸ははじめてわれにかえったようにひざを打った。
「さすが」
と讃《さん》辞《じ》をのべようとしたとき、庄九郎はすかさず、いった。
「つぎは深芳野様にねがわしゅうございます」
「おお」
頼芸は、深芳野のほうにむいた。それと拍子をあわせるように庄九郎はするすると深芳野のまえに進み、
「それを」
と掌でうけるようにして、笛を指した。深芳野は、なにげなく庄九郎に笛を渡した。
庄九郎は受けとり、
「それがしは、笛をつかまつりまする」
と、すらりといった。否応《いなや》をいうゆとりなどをあたえない。
やむなく深芳野は支度をした。
曲は、吉野天人である。
庄九郎は、息をしずかに吸いこみ、たったいままで深芳野の唇に触れていた笛の歌口《うたぐち》に自分の唇を近づけ、やがて、
ひそ、
と触れた。
そのときには、妙音が噴《ふ》きあがっている。
深芳野が、舞う。
庄九郎は、その舞姿から眼をはなさず、笛を吹き、かつやめ、かつ吹いた。
(見られている。……)
深芳野は拍子のなかで舞いながらも、息がくるしくなっている。
汗が、深芳野の、薄いこめかみの皮膚にうかんだ。かつてないことである。
庄九郎は、毎日、鷺山城に出仕した。
出仕、といっても、頼芸のあそびの相手をするだけである。
その間、深芳野の挙措には、できるだけ注目をはらった。
やがて庄九郎は、毎月十九日の日没前から日没後にかけてほんの四《し》半刻《はんとき》ほど、深芳野が城内の念持堂にこもる習慣があることを知った。
(母者《ははじゃ》かなんぞの命日なのか)
とひとにきいてみると、どうやらそうらしい。奇貨《きか》である、とおもった。
が、かといって庄九郎は、ひと目を忍んでこの女人と恋を語ろうとはおもわないのである。
女人は、盗むべきものではない、白昼堂々と愛することができるような恋を、庄九郎は望んでいる。
しかしそのようなことが可能か。
(可能かどうかを考えるよりも、一つずつやりとげてゆくことだ)
まず、深芳野に自分の意中を伝えておく必要があるとおもった。
その日、庄九郎は、日の翳《かげ》るとともに、念持堂に入り、燈明をともし、香をカ《た》き、しかるのちに須《しゅ》弥《み》壇《だん》の裏に休息した。
ほどなく、観音扉《かんのんとびら》が、小さくきしりつつひらき、すぐ閉じられた。
(…………)
深芳野の足がとまったのは、堂に灯がかがやき香が燻《くゆ》っているのに不審をもったのであろう。
やがて、ひざまずいたらしい。
看経《かんきん》の声が、低く流れた。
すぐ、やんだ。
深芳野は、たちあがった。
そのとき、庄九郎が足をはこび、須弥壇の裏をまわり、深芳野の横に出た。
声も、出ないらしい。
「一こと、申しあげたかっただけでござる」
と、庄九郎は、板敷にすわった。
「なにを、でございます」
深芳野は、そうたずねるだけが、せいいっぱいの様子だった。
「あなた様を、いつかは、殿から申しうける所存でござりまする」
「…………」
庄九郎は外へ出た。
血を薄めたような色の星が、金華山の上に出ている。
京の夢
美濃へ来て、七カ月たつ。
大永二年の春、西村勘九郎こと庄九郎は、鷺山《さぎやま》殿へ伺《し》候《こう》し、頼芸《よりよし》に、懇願した。
「財産《しんしょう》などの整理もあり、いちど京に帰りたいと存じまする」
「帰りたい?」
頼芸は、いい顔をしない。
「勘九郎。帰る、という言葉がおだやかでない。そのほうの本貫《ほんがん》は美濃ではないか。まだ、美濃に腰をおろすつもりにはなってくれぬのか」
「いや、これは不覚でござりました。京へのぼる、と申さねばなりませぬ」
「なんのために京へのぼる」
「ただいまも申しましたとおり、京のそれがしの財産などを整理いたしたいと存じ、こうは願い奉っておりまする」
「財産の整理などとは、うそであろう」
「なぜでござりまする」
「そちは何もいわぬが、よそから耳にしたところでは、京には内儀がおるそうじゃの」
(こまったことを言う)
庄九郎は、深芳野のほうへちらりと視線を走らせた。この女性の耳に聞かせたくはない話題である。
深芳野はすぐ眼を伏せたが、その細い肩の表情は、この話題にはひどく関心がありげであった。
それをみて、
(ほう。……)
と、庄九郎はすぐ狼狽《ろうばい》から立ちなおった。すぐ明るい表情をした。あるいは自分が考えている以上にこの庄九郎という者に関心があるのではないか。
「ござる」
庄九郎は、どちらかといえばおもおもしくうなずいた。
「お万阿《まあ》と申しましてな、奈良屋の家つきの娘でござった」
「そちのことだ、そのお万阿とやらは、美しいにちがいあるまい」
「京のおなごでござりまするからの」
庄九郎は、笑いもせずにうなずく。
「申したわ」
頼芸は苦笑するほかない。
深芳野は顔をあげた。
表情を懸命にかくしながら、庄九郎の顔に視線をそそいでいる。
「その内儀が恋しゅうなったのではないか。まさか恋しさのあまり、そのままもとの油屋にもどるのではあるまいな」
頼芸は頼芸なりで、からかっているつもりだ。
「勘九郎、どうであろう、そのお万阿を当地へよびよせては」
「山崎屋という店舗《みせ》がござる」
「まだ油屋をやめぬのか」
「あっははは、山崎屋が商いをやめては、京の社寺に御灯《みあかし》があがらなくなり、公卿《くげ》、町家の灯も消え、京の夜は真闇《まっくら》になりまするわ」
「それほどの店か」
「左様」
「その店を、他の者へ売ればよい」
「店を?」
売れるものではない。当時は老舗《しにせ》が金にはならず、売るに値いするのは、せいぜい大山崎油神《じ》人《にん》の権利《かぶ》ぐらいのものだ。
「とにかく店を手放して、心置き無《の》う奉公してくれ」
「それはこまりまする。この西村勘九郎とて知行は知れたもの。分際《ぶんざい》のわりには贅沢者《ぜいたくもの》でありまするから、黄金を生む店をつぶされては立つ瀬がござりませぬ」
「勘九郎、知行の無心か」
「めっそうもない。この勘九郎、おそれながら、二十貫、三十貫の知行の高《たか》はむさぼりませぬ。望みはもっと大きゅうござる」
これは本心である。
「さもあろう」
頼芸は人のいい顔で、うなずいた。
「しかし、わしも分けてやれるほどの知行地がない。いまのは皮肉めかしくきこえた」
「なかなか」
庄九郎は会話を楽しんでいる。
「無心などは申しませぬ」
「さればこれならどうじゃ、京の妻はそれなりにしておき、当国でもたれぞ娶《めと》って落ちついてくれぬか。望みどおりのおなごを世話してつかわしてもよい」
「は?」
庄九郎は小首をかしげた。
いまの言葉、聞こえにくかった、という素ぶりである。
「いま一度、おっしゃって下さりませぬか」
「おお、何度でもいおう」
頼芸はくりかえした。
庄九郎は膝《ひざ》を打ってうなずき、
「いずれ、お願い申しあげる折りがござりましょう。それまで、いまのお言葉、お忘れくださりますな」
「忘れまい」
庄九郎は、馬上、京へ発《た》った。
供には騎乗の士二騎、歩卒十人を連れ、長《なが》柄《え》の槍《やり》、挾箱《はさみばこ》をもたせている。
粟《あわ》田《た》山《やま》のふもとを通り、蹴《け》上《あげ》の坂をくだって京の町を春霞《はるがすみ》のなかに見たときは、さすがの庄九郎もなつかしかった。
屋《や》舗《しき》についた。
杉丸も赤兵衛もおどろいた。
たれよりもびっくりしたのは、むろん、お万阿であった。
庄九郎は、懐《なつか》しいわが家のかまち《・・・》に腰をおろし、美濃から連れてきた下人に足を洗わせながら、
「お万阿」
ふりかえった。
お万阿は板敷の上に、ぺたりとすわったきりである。あまりのうれしさで、もう放心してしまっている。
「約束どおりの一年はまだ経《た》たぬが、わしも美濃では小なりとも地《じ》頭《とう》になり、守護職土岐《とき》の分家の執事にもなったゆえ、ひとまず戻《もど》ってきたわ」
「は、はい」
なんと自分は馬鹿《ばか》だろうとお万阿はおもうのだが、そんな棒をのんだような返事しかできない。
気のせいか、庄九郎が別人のようにみえてしかたがない。
首筋、肩のあたりがたくましくなり、物腰にあらそえぬ威厳が出来ている。
庄九郎は、杉丸、赤兵衛に命じて店の使用人をよびあつめ、美濃からつれてきた奉公人とひきあわせて、
「どちらもおなじ氏《うじ》に仕える身だ。商家、武家の別なく仲よくするがよい」
と、酒をふるまった。要するに、京の山崎屋も、美濃の名家「西村家」もおなじ一軒の家だというのである。
うしろできいていて、お万阿はうれしかった。その、京、美濃の両家を兼ねる内室が自分ではないか。
眼の前の世界が、急にひろくなるような思いがした。
庄九郎は、旅塵《りょじん》で、体がよごれている。
「すぐ、湯殿の支度を」
といった。
これは気がつきませなんだ、と土間にいた婢《ひ》女《じょ》と下男が駈《か》けだした。みな、庄九郎が帰ってきてくれて、うれしいのだ。いや、お万阿御料人のよろこびようが、彼等をうきうきさせているのだろう。婢女がころんだ。すそがめくれ、麻のかたい下着の奥のものがみえた。
「あっはははは」
笑ったのは庄九郎ではない。
ころんだ、婢女である。自分で笑っていれば世話がないであろう。
庄九郎は、この男にしてめずらしく、唇《くちびる》の片はしにしわ《・・》をよせて、くすっ、と笑った。
「わが家は懐しいものだ」
廊下を歩いた。なにもかも、京を去ったときのままであった。わずか七カ月前であったとはいえ、この家のあるじだったのはひどく昔のように思える。
庄九郎は、人を遠ざけ、真暗な塗《ぬ》り籠《ご》めの部屋に入り、しばらく横になり、眼をつぶった。湯殿の支度のできるあいだ、旅の疲れをいやすためである。
すぐ、ねむり入った。
半刻《はんとき》ばかりもねむったであろう。
夢をみた。
美濃の夢である。深芳野がいた。なんと庄九郎のそばに侍《はべ》り、かれのさしだす朱杯に、しきりと酒をついでいるのである。庄九郎のむこうには、侍臣が居流れ、中央で扇《おうぎ》をひらいて、たれかが「小《こ》督《ごう》」を舞っている。
年若い女であった。
むろんお万阿ではない。深芳野がそばにいるから、深芳野でもないようであった。
舞の手は、美しい。
平家のむかし、清盛の権勢をおそれて嵯峨《さが》野《の》に身をかくした小督局《こごうのつぼね》を、勅命を奉じて仲《なか》国《くに》が馬にのって探しにゆく。月明の夜に「想《そう》夫《ふ》恋《れん》」の曲の流れてくるのをきき、その笛の主をさがし求めるうちについにそれが小督であることを知り、無事君命をはたす、という物語である。
その「小督」を舞う女が何者とも知れない。
庄九郎は、夢からさめた。
(はて、あの女は何者であったろう)
見た覚えがない。しかし夢の中の庄九郎は、この地上のたれよりも、その女を溺愛《できあい》しているような様子であった。
醒《さ》めたいまも、その想《おも》いが胸の中に淡い残り香《が》のように残っている。
(いや、生身《しょうじん》の女ではあるまい)
庄九郎は、この男らしく即座に断定した。
といって、神ではない。
神が、神を信ぜぬ庄九郎の夢寐《むび》に立つはずがないのである。
庄九郎は、ときめくような思いで、その女を脳中に再現した。その女、――まぎれもなく、庄九郎の、
将来
というものの化《け》身《しん》である。庄九郎は、「将来」というものへの強烈な信者である。庄九郎は、「将来」というかがやかしい光体にむかって近づく。祈るようにして近づく。庄九郎が信じている神があるとすれば、それしかない。
(はて、あの座にお万阿が居ったかな)
居た、とも思えてくる。自分の朱杯に酒を満たしてくれている女人は、深芳野のようでもあり、お万阿のようでもある。
「お湯殿の支度がととのいました」
とお万阿が、金箔《きんぱく》の襖《ふすま》の外から声をかけ、やがて二寸ばかりひらいた。
庄九郎は、薄目をあけた。
案に相違して、そのすき間から、光りが、射しこんで来ないのである。
(ほう、もう夜か)
人生もこうかもしれない、と起きあがってあぐらをかき、顔をなでた。一睡のあいだに陽《ひ》が落ちた。いつかは死ぬ。
(しかし)
庄九郎はおもった。
生のあるかぎり激しく生きる者のみが、この世を生きた、といえる者であろう。
(生悟《なまざと》りの諦観《ていかん》主義者どもは、いつも薄暮に生きているようなものだ。わしは陽の照る下でのみ、思うさまに生きてやる)
「もうし、旦《だん》那《な》様、お睡《よ》りでございますか」
と、お万阿がふたたび声をかけた。
「いや、目覚めている」
庄九郎は、立ちあがった。
お万阿の手燭《てしょく》に足もとを照らされながら、庄九郎は幾つかの踏み石をふんで中庭を通りぬけ、柴《し》折《おり》戸《ど》を出、土蔵の横の湯殿に入った。
薄べり《・・》を敷いた三畳の間で下帯一つになり階段を三つおりて、湯殿の戸をあけた。
庄九郎は、湯気の中に入った。汗が、にじみ、やがて噴き出た。なかの仕掛けは、伊勢《いせ》風《ふう》の蒸《む》し風呂《ぶろ》になっている。
「お万阿、垢《あか》をとってくれ」
と、声をかけた。
お万阿は、贅沢《ぜいたく》な小《こ》袖《そで》を端折《はしょ》りもせず、入ってきた。
「わたくしの力で落せますかしら、美濃の脂《あぶら》濃《こ》いお垢を。――」
と、陽気にわらった。
「京の水で、京の女が落せば、やすやすと落ちるだろう」
庄九郎は、のっそりと背をむけた。皮膚が白いわりには、固い肉が盛りあがり、その隆盛の一つ一つが汗で光ってたけだけしいばかりの背である。
お万阿は手拭《てぬぐい》を水にひたし、かたくしぼって、そのしぼり形《かた》のまま、庄九郎の皮膚に押しあてた。
こすると、おもしろいほど、垢がでた。
「これはみな、――」
と、お万阿は気味わるそうにいった。
「美濃の垢かしら」
「道中のホコリもまじっているだろう」
「ずいぶん美濃では悪いことをなさったような。――」
「あははは、垢に苦情をいうのか」
「いいえ、垢に一つ一つ耳も口もあるものなら、お万阿は庄九郎様が仇《あだ》し女に関係《かかわり》がなかったかどうかをきいてみたいものでございます」
「あるものか」
庄九郎は、顔をあげて笑った。
「垢も、常在寺の喝食《かっしき》(寺小姓)が落してくれる。わしは美濃では女ぎらいの勘九郎で通っている」
「勘九郎?」
「そうそう。お万阿、わしは勘九郎という名前にかわったぞ」
「松波勘九郎でございますか」
「ちがう」
「なんという御姓でございます」
女房《にょうぼう》でありながら、いつのまにか夫の名前が改変《かわ》ったことも知らないというのも、なさけない話だ。
「なんという姓か、あててみろ」
「存じません」
あたるはずがないではないか。
「西村というのだ」
と庄九郎はいった。
「京でも武家に聞けばわかる。美濃で西村といえば由緒《ゆいしょ》ある姓だ。むろん、土岐家の遠い縁戚《しんせき》にあたる姓だから、勝手に名乗るわけにはいかぬという姓だ」
「お万阿にはわかりません。でも、旦那様ははじめは法蓮房《ほうれんぼう》、つぎに松波庄九郎、さらには奈良屋庄九郎、山崎屋庄九郎、また松波庄九郎、こんどは西村勘九郎、と六度お名前がおかわりになりましたな」
「名などは符牒《ふちょう》だ」
庄九郎は平然というが、この男の場合は単に符牒というだけではなさそうである。そのつど、服装、身分、職業、持金、まで変わった。
「めまぐるしいこと」
「それほどにめまぐるしいか」
「ホホ、お万阿などは、うまれたときからお万阿でございますのに」
「中身はかわったろう」
「いいえ、かわっておりませぬ。血の赤さも心の素直さも」
「云うわ」
「美濃では、きっときっと、お万阿のほかにおなごにお触れ遊ばしませんでしたか」
「むかしの法蓮房の固さのままじゃ」
「その固さがこわい」
「云うのう」
「沢山《たんと》、申します。毎夜々々の恨みがどれだけつもっているか、旦那様など男にはわかりませぬ」
「あとで、その恨みを解いてつかわそう。あすはおきられぬほどに」
「厭《い》や」
お万阿が、腰をひいた。庄九郎の手がのびたのである。
垢擦《す》りがおわった。
お万阿は、その垢をながすべく、湯殿のすみの大釜《おおがま》のそばへ行った。
釜は、二基ある。
一つは湯がたぎっており、他の一つには、水が満たしてある。
お万阿は、手《て》桶《おけ》に湯を汲《く》むそぶりをして、水を汲んだ。
「さあ、あちらをむいて」
庄九郎に、命じた。
「ふむ」
と、庄九郎は素直に背をむけた。
お万阿はその背へ桶いっぱいの冷水を、
ざぶっ
とあびせた。
「わっ」
と庄九郎はさすがに、蛙《かえる》とびに跳んだ。
「お万阿。――」
「わかりました?」
お万阿は、ころころと笑っている。いいざまだ、と思っているらしい。
「なにが、だ」
「七カ月の恨みが。――」
お万阿は、また水釜へ手桶をつっこんだ。
庄九郎は、さすがに逃げだした。その姿がよほどおかしかったらしく、お万阿は湯殿がひびくほどの声で笑い、すぐ外へ出た。
手桶をもっている。
もう一度、あびせてやるつもりだろう。
お万阿問答
お万阿の枕《まくら》がはずれた。
淡い月の光のなかで、悩乱している。唇を噛《か》んでいた。
紅帳がゆれている。お万阿が動くたびにゆれる。この紅帳は、過去七カ月のあいだ揺れることがなかった。
「お万阿、湯殿で水を浴びせたむくいじゃ」
いたぶっている庄九郎は、お万阿の耳もとで囁《ささや》いた。
(なんと可愛い女であろう)
わが妻ながら、そう思う。男をよろこばせる天《てん》賦《ぷ》のからだをもっている。お万阿自身それに気付かないのがいじらしい。
「だ、だんなさま。うれしゅうございます」
お万阿は、恍惚《こうこつ》のなかでいった。
「おお、わしもうれしいぞ」
庄九郎も本気だ。
「あの、そのようにしてくださりまし」
「どのように?」
「きっと赤児《やや》ができますように」
「そのとおりだ。お前に子がなければこの庄九郎、いかに一国一天下のあるじになったとて後を継ぐ者がない」
「では、そのように」
お万阿は祈りながら、乱れている。生殖を祈るときに、夫婦は近づく。近づき、ついには神になる。庄九郎、お万阿の属するこの列島の種族は、太古以来、その信仰に生きてきた。いま、祭壇に、夫婦は自分たちの歓喜をささげている。ふたりの体が吐く阿《あ》オ《うん》のなかから、いま白光《びゃっこう》を放つ炎がもえている。祭壇へのみあかし《・・・・》といっていい。
庄九郎は、日蓮宗の坊主あがりだ。つい、生殖への祈りが、経文《きょうもん》になった。
「百千万億《ひゃくせんまんのく》、那由佗《なゆた》、阿《あ》僧《そう》祇《ぎ》国《こく》、導《どう》利《り》衆生《しゅじょう》、諸善男《しょぜんなん》子《し》、於是《おぜ》中間《ちゅうげん》、我《が》説然燈仏等《ぜつねんどうぶつとう》、又復《うぶ》言《ごん》其《ご》、入於《にゅうお》涅《ね》槃《はん》、如《にょ》是《ぜ》皆《かい》以《い》、方便分別《ほうべんふんべつ》、諸善男《しょぜんなん》子《し》、若有衆生《にゃくうしゅじょう》、来《らい》至《し》我《が》所《しょ》、我以《がい》仏眼《ぶつげん》……」
低い、底にひびくような声量である。お万阿は聞くうちにわが身のまわりに絢爛《けんらん》たる法華世界がひろがってゆくようにおもい、歓喜は何度めかの絶頂に達するのである。
やがて夫婦は、体をはなした。紅帳はゆれることをやめた。
「お万阿、きっと子を成すぞ」
「そのようにありたい」
お万阿の白い腕《かいな》が、庄九郎の首すじに巻きついた。
「法華経の功《く》力《りき》が、お前をつつんでいる。あの経文を唱えれば、多《た》宝仏《ほうぶつ》、十方《じっぽう》の諸仏、菩《ぼ》薩《さつ》、日と月と、月と日と、星と星と、さらにはまたまた漢土、日本国の善神が、ことごとくここに集まられてわれらが願いを聴きとどけ給うというありがたい宝経だ。その証拠にお前のその白い肌《はだ》がぼっと暈光《うんこう》を発している」
「うそ」
気味わるそうに、両の乳房をおさえた。お万阿の掌ではその隆起はおさえきれない。
「お万阿、将来《すえ》のことを話そう。諸仏諸神が照鑒《しょうかん》なされている」
「ほんと?」
お万阿は大いそぎでうすぎぬ《・・・・》の紅帳を見まわした。なるほどそう思ってみれば、闇《やみ》の中ながらも、ところどころに怪《あやかし》めいた淡い光芒《こうぼう》がゆれているようである。
ありようは月の光にすぎないのだが。
「話して」
お万阿は腰を寄せた。
その部分が熱い。
庄九郎はさすがに、ぶるっと慄《ふる》えた。お万阿の体には、無限無量の歓《かん》喜《ぎ》仏《ぶつ》が在《ま》すのではあるまいか。
「わしは将軍《くぼう》になれる」
「まあ」
お万阿にはお伽話《とぎばなし》にすぎない。が、寝室を楽しくするためにこの会話の拍子、小鼓、笛を奏《かな》でようと思っている。
「本当だ」
庄九郎にとっては、お万阿のようなお伽話ではない。必死な現実感をこめている。
「お万阿、おれは夢想家ではない。夢想家というのは、いつも縁側にいる。縁側で空をながめている。空から黄金でも降ってくるのではないかと思っている。場合によっては、空に賽銭《さいせん》を投げる。神仏に祈るというやつだ」
「あ、旦《だん》那《な》さまも夢想家」
「なぜだ」
「いま、経文をお誦《ず》しになりました」
「あれは祈ったのではない。神仏に命じたのだ。わしにとって神仏は家来でしかない。わしのために働く。働かねば叱《しか》る。叱って聴かなければ、仏像、仏閣、社殿を破壊して人の住む地上から天上へ追っぱらってやる」
「こわい」
「わしは現実に動いている。いまも経文を誦しはしたが、お万阿の体にわしのものを注ぎいれた。わしはいつも街道にいる」
「縁側ではなく?」
「そうだ、街道にいる。街道にいる者だけが事を成す者だ。街道がたとえ千里あろうとも、わしは一歩は進む。毎刻毎日、星宿《せいしゅく》が休まずにめぐり働くようにわしはつねに歩いている。将軍への街道が千里あるとすれば、わしはもう一里を歩いた。小なりとも美濃の小地《こじ》頭《とう》になった」
「西村勘九郎様でございますものね」
「また名前がかわる」
庄九郎は、枕もとの壺《つぼ》に手をのばした。一つぶ、塩豆をとりあげた。
噛んだ。
「でも、旦那様、いくたびお名前が変わろうともお万阿にとってはいつまでも庄九郎様でございましょうね。西村勘九郎様など、よそのおひとみたい」
「いやさ、お万阿」
庄九郎は、大《おお》真面目《まじめ》である。
「西村勘九郎は美濃にいる」
「おや」
と、お万阿には意味がよくわからない。
「するとここに在《いま》す殿御は?」
「山崎屋庄九郎だ」
かりっ、とまた塩豆を噛んだ。
「すると、別人でございますか」
「おれは二つの人生を生きている。美濃の西村勘九郎は天下をねらう大泥棒《おおどろぼう》だ」
「えっ」
お万阿は息をとめた。
「驚かずともよい。とにかく美濃の西村勘九郎といえば、天下の名族土岐氏の一門で、美濃でいう長井氏、斎藤氏、明《あけ》智《ち》氏、不破《ふわ》氏などとともにゆゆしい武門の姓である。しかもその西村氏の名跡を継ぐ勘九郎なるやつは、美濃守護職土岐家の別家土岐頼芸公の執事、さらには美濃の諸領主のなかで随一の領地をもつ長井利隆の執事を兼ねている」
「えらいひとなのでございますねえ」
お万阿は、ほっと溜息《ためいき》が出た。出たが、そのえらい殿様というのは、いまここに半裸でいる庄九郎その者ではないか。
「そうでございましょう」
と、お万阿は念を押した。
「そうであるものか」
庄九郎は笑わない。
「ここにお万阿と寝ているのは、山崎屋の主人庄九郎、とりもなおさずお万阿の亭主である」
ややこしい。
「すると?」
「そう、西村勘九郎という男には、別に妻なり妾《めかけ》なりが要るというわけだ。美濃で門戸を張っている以上、当然なことであろう」
「………?」
「勘九郎にも妻を持たせてやりたい。そのようにこの庄九郎は考えている。いずれよい女がおれば、わしは世話してやる気だ」
「ちょっと待って」
お万阿は、頭を整理しようとした。
が、庄九郎はその余裕を与えない。
「お万阿も心掛けておいてくれ。そのことをわしは勘九郎から頼まれたがゆえに、わざわざ、美濃、近江《おうみ》、山城《やましろ》、と三国の境をこえてお前の庄九郎は京へもどってきた」
「わからない」
「お万阿、世のこと宇宙のことは、二相あってはじめて一体なのだ。これは密教学でいう説だが、宇宙は、金剛界《こんごうかい》と胎蔵界《たいぞうかい》の二つがあり、それではじめて一つの宇宙になっている。天に日月あり、地に男女がある。万物にすべて陰陽があり、陰陽相たたかい、相引きあい、しかも一如《いちにょ》になって万物は動いてゆく。宇宙万物にしてすべてしかり。一人の人間の中にも、陰と陽がある。庄九郎と勘九郎はどちらが陰か陽かは知らぬが、とにかく、厳然とこの世に二人存在している。お万阿、疑わしくば美濃へ行ってみるがよい。勘九郎という男はたしかに実在している」
「しかも」
「おお、しかも庄九郎は京の山崎屋の主人としていまお万阿と添い寝している。なかなか世の中はおもしろいものだ」
お万阿にとって何も面白《おもしろ》くはない。
「そ、それはこまります」
「お万阿」
庄九郎は、塩豆を口に入れた。
「お万阿はたしか、おれが将軍になることをかつて承知してくれたはずだな」
「はい」
「それならばよい。将軍になるためには、赤《せき》手《しゅ》のわしはなまはんか《・・・・・》なことではなれぬ。二人になって活躍せねばならぬ。お万阿は利口な御料人様ゆえわかってくれような」
「はい」
と、いわざるをえないではないか。
(しかし)
と思うのだ。
「なにかまだ疑《ぎ》団《だん》があるのかね」
「ございます。かりに、庄九郎様が将軍様におなりあそばしたとして、その御台所《みだいどころ》はどなたでございます。勘九郎様の奥様でございますか、それとも庄九郎様のお万阿がなるのでございますか」
「あっははは、これはむずかしいところだ」
「お万阿にとっては笑いごとではございませぬ」
「それもそうだ。わしはそこまで頭がまわらなんだ。一体、勘九郎が天下をとるのか、庄九郎が天下をとるのか。いずれにせよとったほうの奴《やつ》の女房が御台所になるだろう」
「だろう?」
お万阿は弱ってしまった。
「いや、そうなる。理の当然なことだ」
「でも、どちらが天下をお取りになるのでございましょう」
「あっははは、どちらがとるか、楽しみなことだな」
「わるいやつ」
「とは、どちらの男のことだ」
お万阿はもう、わけがわからない。しかし考えているうちにだんだん腹が立ってきた。
(なまじい、このひとは――)
と思うのだ。
(妙覚寺本山でむずかしい学問をなされたゆえこういう化物のような人間になったのであろう。要するに勘九郎といい庄九郎といっても、下帯の下で息づいている大事なものは一つではないか)
そう思うと、ますます腹が立ってきて、そっと手をのばし、いきなりそれを、ぎゅっとひねりあげた。
「あっ、痛い。なにをする」
「旦那様」
お万阿は、月の光のなかで微笑《わら》っている。
「いま痛い、とおっしゃったのは、庄九郎様でございますか、勘九郎様でございますか」
「お万阿」
庄九郎も負けていない。
ふとんの中から二つの掌《て》を出して、虚《こ》空《くう》でひろげてみせた。
「この両の掌をみろ」
「はい、見ております」
「よし」
ぱん、と掌を搏《う》った。
「聞こえたか」
「はい」
「さればどう聞こえた」
「ぱん、と。――」
「その音、右の掌の音か、左の掌の音か」
「…………」
またややこしいことをいう、とお万阿はこんどは心を引き緊《し》めている。
「どちらの音だ」
「右の掌?」
「と思えば右の掌じゃ。左の掌、とおもえば左の掌じゃ。左右一如になって音を発している。これが仏法の真髄というものだ」
「不可思議な」
「そうそう。不可思議な教えである。しかしながら真如《しんにょ》(宇宙の絶対唯一《ゆいいつ》の真理)とはこれしかない。さればお万阿」
「…………」
「返事をせい」
「はい」
気乗り薄に、返事をした。
「二つの掌が作ったこの音こそ真如とすれば、勘九郎、庄九郎を統一する者が一つある」
「それはどなたでございます」
お万阿は思わず真剣になった。
「音よ」
「え」
「左右の掌が搏ち出した音よ。お万阿がしつこく御台所のことをいうなら、この絶対真理の音の御台所になればよい」
「音はどこにいます」
「虚空にいる。両掌をたたけば、虚空で音が生ずる」
「ではその音をお万阿の前にもってきて、お万阿を抱くように命じてください」
いかがでございます、とお万阿は詰め寄った。
「あっははは」
庄九郎は笑っている。
「なにがおかしいのです」
「音は屁《へ》のようなものだ。掴《つか》めはせぬ」
「そうでございましょう。それならばなぜそのような詭弁《へりくつ》を申されます」
「詭弁ではない。大事な仏法の真髄をわしは話している。まだわからぬのか。釈《しゃ》迦牟尼《かむに》仏《ぶつ》でさえ、女人の済《さい》度《ど》はむずかしい、女人はついに悟れぬものだ、とおおせられたのは当然なことであるな」
「まあ勝手な」
お万阿は怒ってしまった。
「お釈迦さまがそのようなことを申されたのでございますか。そうとすれば、あまりに男だけに都合のいい理屈ではありませぬか」
「わからぬかなあ」
庄九郎は、ぽりっ、と奥歯で豆をくだき、
「音とは、譬《たと》えだ。方便で真理を説明したまでのことだ。真理は庄九郎の中にある。庄九郎はお万阿の亭主であると同時に、音である」
「音である?」
「統一体ということだ。勘九郎をふくめて一如の姿が庄九郎であり、同時に勘九郎の別体でもある。これは華厳経《けごんきょう》というむずかしい経典にかかれている論理だ。この論理がわかればサトリというものがひらける」
「お万阿に、華厳とやらで悟れと申されるのでございますか」
「そう。これを悟らせるために、はるばると三カ国の境を越えてもどってきた」
かなわない――。
とお万阿はおもうのである。
その翌朝から、庄九郎は山崎屋庄九郎として働きだした。
搾《さく》油《ゆ》の監督もした。その木製機械がずいぶん古びてしまってもいたので、京極《きょうごく》から職人をよび、あらたに作るように命じた。
さらに洛中《らくちゅう》洛外を歩き、辻々《つじつじ》や村々で荏胡《えご》麻油《まあぶら》を売っている売り子を監督してまわり、下手な口上をいう者があれば、自分で範を示して人を集めた。
例の永楽銭の穴に、升《ます》から油をひとすじの糸のようにたらしては、穴に垂らし通しつつ、
「たらたらと銭穴に通りまするこの油、もしも一しずくでも銭のふち、穴のまわりにこぼれるようなことがおじゃれば、この油ただで進ぜまする」
といった。
面白い流行歌《いまよう》も唄《うた》ってみせた。
かと思うと、お得意さきの神社仏閣、町家、公卿《くげ》屋敷などにあいさつに参上し、
「手前、旅に出ますることが多く、無沙汰《ぶさた》のみを致しまするが、なにとぞよろしくおねがい仕りまする」
と、丁寧にあいさつしてまわった。
むろん、あいさつされる側にすれば、この油屋の旦那が、まさか美濃で地頭になっているとは、つゆ思わない。
「御鄭重《ていちょう》なことじゃ」
と、鷹揚《おうよう》に受ける。その一軒々々に手みやげを持ってゆくから、相手はいよいよよろこんでいる。
大山崎八幡宮にも、あいさつにまかり越した。みやげには、美濃の紙を車に積んでもってゆき、宮司、社家、神人頭《じにんがしら》などに洩《も》れなくくばった。
「庄九郎はよく旅に出るの。お万阿が可哀そうではないか」
と宮司がいったが、庄九郎は平伏したまま、
「旅のみが道楽でござれば」
と、神妙に答えた。
いちぶのすきもない油屋の旦那である。この旦那が美濃で天下をとる工夫をしているとは宮司も気づかなかった。
店の業績は、庄九郎が帰ってからぐんぐんあがった。使用人たちもひきしまって仕事に精を出した。
(やはり、時に帰らねばならぬものだの)
庄九郎はしみじみ思った。
槍術《そうじゅつ》「一文銭」
庄九郎がそろそろ美濃への帰り支度をしているころ、京に、奇装の人物が入ってきた。
「めずらしい人物でございますよ」
と、杉丸が町のうわさを聞きこんできた。
「どんな男だ」
「修験《しゅげん》者《ざ》でございます」
「山伏《やまぶし》か。大和吉野の?」
と当然京ならば地理的にいって、修験者といえば吉野、とおもう。
「ところが出羽《でわ》の羽黒山の修験者でござるそうで。天《てん》狗《ぐ》の装束《いでたち》をしておりまする」
その男は、ひたいに兜《と》巾《きん》をいただき、鈴掛《すずかけ》、柿衣《かきごろも》という点ではふつうの山伏すがただが、その装束の上に鷹《たか》の羽をつぎあわせたものを羽織り、中国の神仙のような奇装をしている。
それが、二条室町《むろまち》の辻のそばにある廃館に小屋をたて、毎日、都の辻にあらわれては槍《やり》の芸を見せているというのだ。
「槍の芸を。――」
これには、庄九郎は魅《ひ》かれた。
当時、戦国のまっただなかで、戦場の武器がずいぶんとかわってきている。
振りまわして斬《き》る薙刀《なぎなた》は衰え、それにかわって上古、鉾《ほこ》といわれた槍が、集団戦の主要武器にかわってしまっていた。
が、そのあいだに、芸といわれるほどの技術は編みだされていない。
ちなみに、奈良興福寺二万五千石の子院で宝蔵院の住僧覚禅房胤栄《いんえい》が、槍術史上の祖とすべきである。槍術の諸流派はほとんどこの宝蔵院から出、幕末にいたるまでこの戦国中期の流祖の編んだ技術以外にさほどの新工夫も出なかった。
その宝蔵院流は、このころまだ誕生していない。庄九郎よりも一世代あとのことになる。だから庄九郎は、
(めずらしい)
と、おもったのだが、庄九郎だけではなく、都にいる足利《あしかが》家の武士、三《み》好《よし》家の家来、諸国からのぼってくる地侍、牢人《ろうにん》たちも、おそらく、
「それはめずらかな」
と思ったのであろう。
いや第一、めずらしいというよりも、この時代、これほど合戦で、騎士・歩卒が槍を用いながら、そのあつかいは、個々の器用力量にまかせられているだけで、芸にはなっていない。それをその羽黒修験者は、「芸」にまで仕立てあげたところに、非常な実力性がある。
都では、大いに人気をよんでいた。その証拠に、温和な手代の杉丸までが、興味をもったのである。
「その上」
と、杉丸がいった。
「毎日何人かが、その羽黒修験者に試合をのぞみ、槍をあわせるやいなや、高股《たかもも》を突き通され、腕のつけ根を穂先で縫われ、落命におよぶ者も多い、とききます」
「よほどの芸者じゃな」
庄九郎が感心したのは、繰り出して突くだけが能のこの変哲もない武器を、芸に仕立てあげたというその男の独創性である。
「おもしろい男だ。杉丸、――赤兵衛をこれへよんでくれぬか」
「はい」
ほどなく障子がひらき、赤兵衛の悪相がのぞいた。
膝《ひざ》でにじりながら入ってくる。
「赤兵衛。二条室町の辻の槍の芸者のはなしをきいているか」
「いや、見に参りました。名は僧名を名乗らず、大内無辺と名乗っております。それゆえ修験者じみたあの奇装は、売名のためのものでございましょう」
「そち、数日、入門してこい。様子をよくきいた上で、わしが出てゆく。場合によっては試合をしてもよい」
「あっ、それは」
およしなされ、と云《い》うのだ。せっかくここまで出世したものを、たかだか乞食《こじき》芸人のために命を落すこともあるまい。
「まあよい、行ってこい」
庄九郎には、血の気がある。計算ずくめで生きているだけではないのだ。
(そもそも)
と、庄九郎は思うのである。その二条室町の辻で、
槍術日本開創
などという旗をあげている大内無辺が何者であろうと、槍術を日本で開創したのはこの庄九郎である、と庄九郎は思っている。
(小癪《こしゃく》である。くじいてくれよう)
とおもうのだ。
話は、庄九郎のむかしへ戻《もど》る。――
かれは、京の妙覚寺本山の少年(喝食《かっしき》)のころから、独得の槍の稽《けい》古《こ》法をあみ出し、法《ほう》蓮房《れんぼう》時代もそれをつづけ、いまなおひまさえあるとこの鍛練をしている。
まず樫《かし》の二間柄《え》のさきに、口輪をはめ、五寸釘《くぎ》を差しこんで穂先とする。それが庄九郎の稽古槍である。
竹藪《たけやぶ》が稽古場だ。
なぜといえば、乱軍のなかではまわりに敵味方の人馬がいる。それが群生している竹どもである。竹藪で稽古すれば、おのずから槍のさばきに周囲への配慮のコツが会《え》得《とく》できるというものである。
つぎが、眼目だ。
一本の竹をえらび、枝から糸で永楽銭をつりさげるのである。
その穴を突くのだ。
はじめのほどは手のうち定まらず、突き通すことも能《あた》はざりしかども、極《ごく》意《い》も業《わざ》も一心にありと兵書にいへるごとく、つひには百度《ももたび》、千《ち》度《たび》、突くといへども一つもはづすことなし。
と旧記にある。
庄九郎の妙技は、永楽銭に関係がふかい。油をマスのふちから糸のごとく垂らして永楽銭で受け、みごと穴へ通す妙技ももっておれば、槍の修行まで永楽銭でやった。いかにも商人あがりらしい武芸の習得法である。
さてその槍術。
ついには糸でつるした永楽銭を振り子のごとく動かせても自在につけたし、二十間三十間のむこうから駈《か》けてきて、ぴたりと突くことができたし、ついには、竹藪のあちこちに七夕《たなばた》の飾りのごとく永楽銭をつるし、
「これは乱軍」
と心得つつ、自在に槍をふりまわしながら眼もとまらずに突き、さらに突いて進退してゆくこともできるようになった。
おそらく日本の槍術の開創の名誉、松波庄九郎、いや後の斎藤道三《どうさん》にこそ与えられるべきであろう。
ところで、出羽のひと大内無辺のことだが生国《しょうごく》は出羽のうちでも羽後《うご》である。横手の出であるという。身分は農夫か、あるいは漁夫、ひょっとすると、この辺は秋田氏の家来戸村十太夫という大身の武士の領地だ、だから、その郎党でもあったか。
横手は、現在《いま》秋田県横手市である。盆地のなかにあり、海からは遠い。
が、羽後第一の大河雄《お》物川《ものがわ》なども、その支流の源はこの横手のあたりから出ている。
わざわざこういう地理的説明をしたのは、秋から早春にかけての鮭《さけ》の産卵期には、雄物川一面が鮭の肌《はだ》の山毛欅《ぶな》色《いろ》になってしまうというほどにさかのぼってくるからだ。それが雄物川河口から二十里も奥のこの横手までやってくる。
大内無辺は、その季節になると河中に船をうかべ、庄九郎と偶然おなじ工夫の二間柄の樫棒《かしぼう》に大釘をつけ、鮭を突いては跳ねあげ、船中へほうりこむ。
そういう作業をしているうちに、ふと、
(この手で槍術が編めるのではないか)
と思いつき、工夫をかさねているうちについに妙技を得た。もっとも鮭突きで会得した、といえば面白《おもしろ》味《み》がないから、この時代の諸芸の流祖と同様、神威を借り、羽州仙北《せんぽく》の真弓山の神明に祈って霊夢を見、それによって編みだした、とこの流ではいっている。
そこで流名を無辺流と名づけ、諸国を歩いて一度も負けをとったことがない。ついに流名を天下にひろめるために京にのぼってきた、というのであろう。
当時、京は、日本中の噂《うわさ》の市である。ここで芸名をあげれば、天下一ということになる。
ややくだった時代、宮本武蔵《むさし》が、執拗《しつよう》に京都第一の兵法所《ひょうほうしょ》吉岡憲法の一族一門に試合を挑《いど》んだのもそれである。吉岡を倒し京で剣名をあげれば天下の名士になれるのである。
山中鹿《しか》之《の》助《すけ》もそうである。庄九郎よりもややあとの戦国中期、主家尼《あま》子《こ》家を復興するためにその生涯《しょうがい》を費やした人物だが、かれが天下の豪傑として、関東、九州にまで聞こえ、かつ後世にまで名を残したのは、京都で牢人ぐらしをし、公卿や諸名家に出入りし、時には市中で武勇を発揮したために、こんにちまで著名な名になって残っている。
繰りかえしていうが、戦国当時、京は噂《・》の生産、集散都市である。
大内無辺もそれを心得たうえで、二条室町の辻で、
槍術
という新奇な芸をみせていたのだ。
「旦《だん》那《な》さま、やはりおよしなされ」
と、赤兵衛が帰ってきていった。顔色を変えている。
「やはり天狗でござる」
といった。
無理はない。人間のわざのなかで「芸」というものほどふしぎなものはない。赤兵衛にすれば槍術をうまれてはじめて見た。その槍さばきの変幻さ、神わざとしか思えなかったのであろう。
庄九郎は、赤兵衛に物語らせた。
だけでなく、槍をもたせて、そのとおりの真似《まね》をさせてみた。
「いや不思議の術にて、繰り出してこう引けば、二間の槍が、一尺ほどに縮んだかと思えまする」
「それがすべて芸というものだ。驚くにはあたらぬ」
その翌日、庄九郎は、屋敷の裏で槍を持ち、しきりと工夫していたが、夕暮になってやめ、手紙を書き、赤兵衛をよんで、
「この手紙を大内無辺にとどけろ」
と、渡した。
差し出しの名は、京の油問屋山崎屋庄九郎ではなく、美濃土岐《とき》家の家来西村勘九郎正利《まさとし》ということになっている。ただし、京での宿はわざと書いていない。
赤兵衛は日没後駈《か》けもどってきて、
「承知した、ということでございます」
と復命した。
明後日、人の出の多い巳《み》ノ刻《こく》(午前十時)三条加茂川の河原で落ちあい槍の優劣をきめよう、というのである。
「大丈夫でございますか」
と、赤兵衛も杉丸も不安であった。浮浪人のころから付き随ってきた赤兵衛でさえ、庄九郎の槍を知らないのである。
「なんの、案ずることはない」
庄九郎は、不敵に笑っている。
かれは、京で槍の名をあげることによってその噂が西村勘九郎としての住国である美濃にとどくことを期待していた。さもなければ気位の高い庄九郎のことだ、武芸者づれと腕を競おうなどという愚はしない。
その夜、庄九郎は、美濃からつれてきた西《・》村勘九郎《・・・・》の家来どもに、
「明後日、巳ノ刻前に京を発《た》って美濃へかえる。その支度をするように」
とにわかに言いわたした。
その旅立ちの仕方も、芸がこまかい。
供の家来どもには三条橋をわたって粟《あわ》田《た》口《ぐち》まで先行させ、そこで待っておれ、というのである。
むろん庄九郎は試合には一人で出る。しかしもし勝ったあと、大内無辺の門人が庄九郎を追って来ぬともかぎらぬのだ。
「えっ、明後日にはお発ちでございますか」
と、あとで知ったのは、お万阿である。
「ああ、旅立つ。また山崎屋庄九郎になるために戻《もど》ってくるゆえ、機《き》嫌《げん》よく送ってくれ」
「この山崎屋の」
と、お万阿がいった。
「庇《ひさし》を一歩出れば、もう美濃の御住人西村勘九郎様でござりまするな。お万阿は留守居は厭《いと》いませぬけれども、別人におなりあそばすというのが悲しゅうございます」
「いずれ、将軍《くぼう》になって戻ってくるわさ」
「それがいつのことか」
こまった男を亭主にもったものである。
「なんの、一年、二年の将来《さき》かもしれぬ。楽しみで待っていてくれ」
「将軍におなりあそばしても、油屋の山崎屋をお営みになるのでございますか」
「それは面白い」
庄九郎は膝をたたいた。
「お万阿、そなたのお喋《しゃべ》りをきいていると思わぬ工夫にありつく。わしは将軍になって都に御所を作っても、昼は征《せい》夷《い》大将軍、夜は山崎屋庄九郎、これはおもしろいわい」
「…………」
と、お万阿にはちっとも面白くない。しかしこんな亭主をもったのが数奇、とあきらめざるをえない。
「旦那様、ね」
とお万阿はわざと陽気にせがむのである。
「なんだ」
「将軍の御台所《みだいどころ》はきっとお万阿でございますよ。このこと、おわすれになってはいけませぬ」
「すると、油屋の山崎屋庄九郎の内儀の席が空《あ》くな。たれがなるのだ」
「どうぞ美濃からでもお連れ遊ばしませ」
と冗談でもそんなことをいったところをみると、お万阿は、庄九郎の説得どおり、美濃妻を置くことを承知したらしい。というよりその件については諦《あきら》めてしまった、といったほうが彼女の心境に近い。
当日、巳ノ刻よりすこし前、庄九郎は供一人に槍を持たせて、侍装束で山崎屋の庇を出た。
東への旅は粟田口まで見送るというのが京のならわしだが、庄九郎はそれをきらった。
お万阿をはじめ、店の者には、
「送らずともよい」
と言ってある。侍装束の西村勘九郎を、油屋の店の連中が「お店の旦那」として見送るというのも妙なものであろう。
「では堅固に」
と、庄九郎は店の前でお万阿の眼へうなずいた。
旅立ちに涙は不吉という俗信があるため、お万阿は、懸命に涙をこらえていた。眼もとが必死に微笑《わら》っている。いずれ自室に戻ったあと、
(思うざまに泣こう)
と思っていた。
庄九郎の姿が、小さくなった。
お万阿はまだ佇《たたず》んでいる。幸いなことなのかどうか、あと四《し》半刻《はんとき》もたたぬまに庄九郎が三条の河原で槍の試合をするという、最も懸《け》念《ねん》なことをお万阿は知らなかった。
――お万阿にはきかせるな。
と、庄九郎が赤兵衛に口どめしてあるのだ。
庄九郎は、加茂川の西岸へ出た。
当時は、土手などはない。河幅は現今《こんにち》の京都の加茂川よりもはるかに広く、洪水《こうずい》のたびごとに湖のような観を呈するが、平素はほとんどが草茫々《ぼうぼう》の洲《す》である。
三条通も京極寺から東は、草原であった。むろん河床だから、ところどころに、水が溜《た》まっている。
庄九郎は、ぴょんぴょん跳びつつ、それを避けながら、歩いた。
「槍」
と、供の者から受けとり、その男には橋むこうの東岸で待っておれ、と命じた。
このところ、雨がない。
川が、枯れている。三条の付近は、洲を割って三筋ほどの細流が瀬をつくっているにすぎなかった。
大内無辺が、中洲で待っていた。門人五人ばかりを背後に屯《たむ》ろさせている。
「…………」
庄九郎は、川の上《かみ》手《て》をみた。そこに欄干のない貧弱な板橋がかかっている。
三条橋である。
橋の上に、橋脚が折れまいかと気づかわれるほど多くの見物衆が、こちらを見ていた。
(無辺が、呼びあつめたか)
町人もいる。
僧侶《そうりょ》、旅芸人、武士、公卿の青侍、粟田口あたりの鍛冶《かじ》の下職、あらゆる階層の者がこの試合を見ようとしていた。
庄九郎にとっても、大事な客である。かれらがしゃべる実見譚《じっけんたん》は一日のうちに市中のうわさとなり、一ト月を出ぬうちに東海から山陽、山陰にかけての話題としてひろまるであろう。
話題としての価値は大きい。
槍術という芸そのものが、めずらしいのである。
槍、槍
眼の前に、瀬がある。浅い。河底の小石の群れが、陽《ひ》ざしをうけて、さまざまな色に瞬《またた》いている。
庄九郎は槍をかいこみ、腰をおとし、
からっ、
と音のするような飛び方で跳びこえ、ツマサキを中洲の砂の上にしずかにつけた。
槍術開創と称する無辺流の術者大内無辺はそのむこうの中洲に立っている。無辺は槍をかまえていた、すでに。
「…………」
と、庄九郎はそのほうを見た。
庄九郎と無辺の中洲とのあいだに、もう一つ瀬がある。浅いが、幅は五間ばかりもあろう。
(跳びこえるか)
が、越えたが最後、奥州雄《お》物川《ものがわ》をさかのぼる鮭《さけ》と同様、庄九郎は足がむこうの中洲につかぬうちに、宙空《ちゅうくう》で串《くし》刺《ざ》しになってしまうだろう。
「無辺、これへ来い」
庄九郎はいった。
無辺はあざわらって、
「美濃の西村勘九郎とやら。おのれこそこれへ参れ。それとも臆《おく》したか」
武芸者の常套《じょうとう》な悪口である。
庄九郎は何よりも格調と気品を尊ぶ男だから、この手合いを相手に、雑言《ぞうごん》のやりとりをしようとは思わない。
「わからぬかな、無辺とやら。それにては勝負ができぬゆえこれへ来よ、と申している」
と、おだやかにいった。
三条橋の上の見物衆は、はじめこそかたず《・・・》を呑《の》んでいたが、だんだん倦《あ》いてきた。
二つの洲の人影が、いっこうに動こうとしないのである。
ただ、無辺のほうは、庄九郎を怒らせて渡らせようとする戦法か、数人の門人ともどもすさまじい悪口雑言を浴びせつづけていた。
庄九郎、――
乗らない。
「汝《われ》のほうから来るまで、これにてゆっくり待つ」
と、槍を横たえ、草の上にあぐらをかいてしまった。
庄九郎もまた無辺同様、無辺が浅瀬をわたってくるときをねらって槍をつける魂胆でいた。
そういう庄九郎へ、無辺の側から、卑怯者《ひきょうもの》とか、臆病、贋《にせ》武《ぶ》辺《へん》、横道《おうどう》、亡者《もうじゃ》、土《ど》亀《がめ》、などと考えうるかぎりの罵《ば》声《せい》をあびせてくる。
見物人も、こう試合がながびいてはやりきれない。当然、無辺のほうに味方し、おなじような罵声を、橋の上からあびせた。
無辺は、傲然《ごうぜん》と立っている。当然、見物衆を意識している。武芸者づれというものは十中八九、売名の徒が多い。
この当時、剣術《ひょうほう》のほうはすでに中条流、小田流、神道《しんとう》流、鹿《か》島《しま》神流などが存在し、それぞれ秘伝を伝え、門人を取りたて、武者修行と称して諸国を歩く者が出はじめており、庄九郎も何度かそういう芸者に会った。みな共通しているところは、いまそこに立っている大内無辺のように、異装、有髯《ゆうぜん》の者がおおい。心底は知れている。
浅はかな顕揚慾である。
こういう兵法者《ひょうほうしゃ》という者に対し、戦国武将にも好《こう》悪《お》それぞれがあって、織田信長はこの連中をまったく無視し、そういう芸の心得があるからといって召しかかえようとしたりはしなかった。豊臣秀吉《とよとみひでよし》も、まるで無関心である。
武《たけ》田《だ》信玄《しんげん》は、好悪明確でない。上杉謙信《うえすぎけんしん》は兵法がすきであり、みずからも学んだ。この点、徳川家康もこの体技が好きであった。家康の兵法ずきが諸侯に伝染して徳川初期の剣術黄金時代ができあがったもので、豊臣家の天下がつづいていれば、剣術史というものはよほどちがったものになったろう。
武田信玄の驍将高坂弾正《ぎょうしょうこうさかだんじょう》が信玄にいったことばに、
「戦国の武士というものは武芸を知らずとも済みます。木刀などで稽《けい》古《こ》するのは太平の世の仕《し》様《ざま》であります。われら乱世の武士は始めから切り覚えに覚えてゆくものでありますから、自然の修練となるものであります」
槍術もおなじことだ。
「芸」としては、軽視されている。それだけに刀槍の武芸者は、どぎつく自己の存在を誇示してまわらねばならぬのであろう。
……………………
さて、この時代の人は、気が長かったのか。
陽が落ちてしまった。
河原の瀬も中洲も暮色で黒ずみ、人の顔の区別もさだかでない。それでも橋の上の見物人は、なお去らないばかりか、松明《たいまつ》などを手にしている者まである。
庄九郎は、べたっとすわったままだ。ただ槍だけは引きつけている。
無辺も、くたびれてきたらしい。
瀬のきわで折り敷き、油断なく槍を掻《か》いこみこちらを見ている。その影が、いっぴきの鬼のようにみえた。
門人どもは走りまわって、やがてかがりを焚《た》きはじめた。
その炎々たる火《か》焔《えん》を背景にしているために、無辺の影は火が熾《さか》ればさかるほど黒くなり庄九郎の側からはあきらかに不利である。
(これはいかん。――)
庄九郎は思ったのか、それとも予定の行動だったのか、銭袋《ぜにぶくろ》をあげて橋の上の見物衆をさしまねいた。
「これを見よ」
袋を振り、銭をさかんに触れあわせた。
「薪《たきぎ》、柴《しば》、わらを持ってきて火をおこしてくれた者に、一人百文くれてやるぞ」
たちまち、橋の上で二十人ほどが動き、やがて駈《か》けまわって、手に手にそれらのものを庄九郎の背後に積みあげ、火をつけた。
庄九郎は油断なく前方の無辺をみたまま、袋を、群衆のうちの年がしらに与え、
「みなにわけてやれ。余ればそちがとっておけ。そのかわり、そこに居て火を絶やすな」
と、いった。
「へい」
年寄りはあぶれ者らしい。
やがて、庄九郎の火は、無辺の火の三倍ほどの大きさで燃えあがり、天をこがすばかりに成長しはじめた。
「年寄り。――」
庄九郎は、男にいった。
「そちの言葉を聴く連中は、何人ある」
「へい、この連中がみなそうで」
「それは好都合だ。もう一袋銭をやるゆえ、こんどは向うの連中の背後にまわり、桶《おけ》をもって火を消して逃げてくれんか」
「そ、それは」
「おそろしいか」
庄九郎は、笑った。
あぶれ者は、京の市中で戦さや火事、一《いっ》揆《き》があるたびに市中に跳梁《ちょうりょう》し、掠奪《りゃくだつ》、打ちこわしなどの働きに馴《な》れている。庄九郎はこの連中にやれぬことはない、と見ていた。
「年寄り。おれはこの二袋目の銭をお前にやるともう一文もない。しかしながら、銭はあの中洲の連中が持っている」
「えっ?」
年寄りは、庄九郎の云う意味が敏感にわかったらしい。
「門人が五人、無辺を入れて六人、つまり槍が六本ある。これもお前たちの所有《もの》だ。衣類も剥《は》げ。どれもこれも麻地でたいした値うちもないが、剥がぬよりはましだろう」
「し、しかしお武家様」
と、あぶれ者の年寄りは心配した。それはすべて庄九郎が勝って六人を平らげた場合のことではないか。
庄九郎にも相手の心配がわかったとみえて、
「まあ、案ずるな」
といった。
「おれは勝つ。万が一、おれが負けたとすればおれの死《し》骸《がい》から衣類、槍、刀を奪え。ところが、むこうは六人もいる。しかもおれの見たところ、三人は、なかなか上等の刀を帯びているようだ。むこうを負かすほうが得だぞ」
「それはそうでござりまするが」
「おれは法華行者だ。法華経の功《く》力《りき》が身にそなわっている。負けることはない。それよりも年寄り、おれの言う戦法《てだて》を聴け」
「へっ」
年寄りはうれしそうに手を揉《も》んだ。ひさしぶりの獲《え》物《もの》で、一族がうるおうとおもったのであろう。
庄九郎は、前方を見すえつつ、年寄りにこまかく指揮《げち》の仕方を教えた。
やがて、あぶれ者二十人の影は、庄九郎のそばから消えて行った。
ほどもない。
大内無辺の中洲の背後に、瀬を渡って敏捷《びんしょう》にちかづいたあぶれ者の影一つが、
ざぶっ
と手桶一ぱいの水を投げて、かがり火を消してしまった。
前方は闇《やみ》になった。
とたん、庄九郎は、自分の炎を背にしつつするすると瀬を渡った。
五間。
庄九郎の影は、その背後の光源のために、大内無辺の眼からひどく見えにくかったにちがいない。
庄九郎の槍が進んだ。
中洲に一歩足をかけるや、大内無辺にとって意外だったことは、庄九郎は槍を柄《え》一ぱいの長さにもち、竿《さお》でも振るように大内無辺の腰をめがけ、左から右にかけて横なぐりになぐりかけたのである。
(こ、こいつ、槍を知らんな)
と、大内無辺はあわてた。
知らぬことはない。駈けて行って槍の穂先で穴あき銭を通すほどの腕だ。しかし、兵に正あり奇あり。
庄九郎は奇を用いたにすぎない。
行きかえり二撲《ふたなぐ》りすると、さすがの無辺の構えが、やや上目になった。
庄九郎は槍を捨て、無辺の手もとにとびこんだ。
無辺は、意表を衝《つ》かれた。
「わあっ」
手もとに来られては、槍は弱い。退がろうとした瞬間、庄九郎の伝日蓮《にちれん》上人護持刀数珠《じゅず》丸恒次《まるつねつぐ》が鞘走《さやばし》り、真向《まっこう》、据物《すえもの》を斬るように無辺を斬《き》りたおしていた。
ぱちっと刀をおさめ、槍をひろい、突きかかってくる門人を一人突き伏せ、
「日本槍術開創大内無辺を、美濃の住人西村勘九郎が討ち取った」
と、大声にわめいた。
その声に、わっとあぶれ者が松明をもって前後の瀬を渡ってきた。
それらが、手に手にもった松明を、残る四人の門人にめがけて、弧《こ》をえがいて投げはじめた。
それらの松明が四人の足もとにつぎつぎと落ち、燃え、四人の身動きを、庄九郎の眼の前にくっきりと浮きあがらせてくれた。
が、この連中、何度か戦場を往来しているらしく、いざとなれば死力が出るようであった。
「突け、突き伏せい」
と、口々にわめきつつ槍の穂をそろえてやってきたが、庄九郎の槍にかかると、子供あつかいだった。
たちまち突き伏せられ、死骸になるたびにあぶれ者が群がった。
二人残った。
庄九郎は、相手が憐《あわ》れになった。
「馬鹿《ばか》者《もの》、槍を捨てるんだ。刀も捨てろ、着ているものもぬげ。裸になって逃げさえすれば命がたすかるのだ」
と、いった。
二人も、もっともと思ったらしい。槍をすてて逃げ、追いすがるあぶれ者に逃げながら刀を投げ、衣類を投げ、瀬の中にころがりこんだ。
(他愛《たわい》もない)
人間の動きというものには、心理の律《りつ》がある。この律のかんどころさえ握ってうまく人の群れをあしらえば、労せずしてこうなるものだ。
(人間とはなんと馬鹿なものか)
庄九郎は東岸にむかい、瀬を渡った。
粟田口で、馬に乗った。
眼の前に、くろぐろとした逢坂山《おうさかやま》がある。供に灯を点じさせ、灯をもった供を従え、星空の下の旅の道を庄九郎は東へさして進みはじめた。
「夜道になるが、大津の宿場まで出よう。そこで二泊しておなごを抱かせてやるゆえ、勇んで歩け」
「あっ」
みな、どよめいた。これほど勇ましい馬上の下知《げち》はあるまい。みな、まるで戦鼓を鳴らして戦場にゆく歩卒のように、どっどっと足音もすさまじく逢坂を越えはじめた。
美濃についたのは、七日目である。
庄九郎は、あいさつまわりに忙しい。それぞれの人のために選びぬいたみやげものを持ってまわった。加納城主長井利隆には粟田口鍛冶《かじ》の太刀《たち》を、鷺山《さぎやま》城の土岐《とき》頼芸《よりよし》には一匁《もんめ》の値が金より高いという程君房《ていくんぼう》の墨を、深《み》芳《よし》野《の》には大明《たいみん》渡来の白粉《おしろい》を、その他、土岐家の本家をはじめ美濃の豪族には洩《も》れなくくばった。
帰国あいさつに鷺山城に登城して土岐頼芸にあいさつしたとき、このときほど頼芸のよろこんだ顔をみたのは、庄九郎、かつてなかった。
「戻《もど》ってくれたか」
と、涙ぐんでいる。
美濃で頼芸と話のあうほどの教養人は、庄九郎のほかに一人もいないのである。
「勘九郎、わしは孤独ということをはじめて知った」
と頼芸はいった。
「はて、殿ほどの果報なお方が、なにが御不足で孤独なのでございましょう」
と、庄九郎はわかっているくせに、首をかしげた。
頼芸は、余技の絵だけでも後世数百年に令名と名作を遺《のこ》した男だけに、この美濃の田舎では抜んでて教養が高すぎた。
頼芸の不幸といっていい。
たれも話し相手がなく、同族のどの男と話していてもつまらなく、詩文を語って味わいあう相手がなく、なによりも、同じ高さで諧《かい》謔《ぎゃく》と微笑とが一致する相手がいない。これは牢獄《ろうごく》の独房にいるのと同じである。
庄九郎があらわれるまでは、この淋《さび》しさの正体がわからなかったが、庄九郎の出現によっていままでいかに自分が孤独であったかがわかった。
もうこうなれば、庄九郎は家来、被官というよりも、友といっていい。
程君房の墨を献上すると、手を搏《う》つようにしてよろこび、
「勘九郎、そちの心づくしもうれしい。しかし何よりもうれしいのは、墨は程君房、ということをそなたが知っていることだ。わしにとって、程君房の墨よりも、そちがそれを知っているということのほうが貴重だ」
といった。
「恐れ入りましてござりまする。墨は、中国《から》の徽州《きしゅう》、それも宋代《そうだい》のものがよいと申しまするが、あまり新しくて生々しくても発色に雅趣を欠き、あまり古くて乾きすぎるのも墨色に妙が薄れると聞き、ちょうど墨齢三十歳から八十歳までのものをと思い、堺《さかい》でさがさせましたるところ、それを得たまででござりまする。もとより野人、筆墨のことなどはよく存じませぬ」
「なんの」
頼芸はうれしそうに手をふった。
「謙遜《けんそん》じゃ。それだけの言葉の中にも、にじみ出た文雅への素養というものが感じとられる。勘九郎、もう旅はするな」
「恐れ入りまする」
この日は、深芳野は姿を見せず、そのため庄九郎は彼女への土産を頼芸に渡した。
「深芳野にまで心遣《こころづか》いをしてくれるのか」
と、頼芸は溶けるように微笑した。
(あたり前のことではないか、おれの想《おも》うひとだ)
庄九郎は、ぎょろりと眼をむいて端座している。
ひと月ほどして、美濃に、例の三条加茂河原で西村勘九郎が日本一の槍の名手を討ちとったという噂《うわさ》が聞こえてきた。
頼芸の耳にも入った。
(――なんと)
と、魂《たま》消《げ》るおもいであった。
(あの男は、それほどの武芸の達人か。おく《・・》び《・》にも見せぬところ、底の知れぬ男だ)
すこし薄気味わるくは思ったが、一面、いよいよたのもしく思えてきた。
(一度、当人の口からきいてみよう。できればその妙技をみたいものだ)
頼芸にとって庄九郎は、変幻きわまりない山岳のようなものである。春霞《はるがすみ》を通してみれば靄々《あいあい》として雅趣かぎりなく、秋霜の町から仰げば白刃のような雪峰を冬の天にそびえさせている。
(いや、あの男は汲《く》んで尽きぬものを持っている)
頼芸は庄九郎に惚《ほ》れきっている。男に惚れることは、ときに女に惚れるよりもおそろしいことだということを、この苦労知らずの貴族はむろん知るわけがない。
水馬
庄九郎には、おもしろい伝説がある。
同時代のひとも信じていたと思われるふしもあるから、ちょっとふれる。
あるとき、鷺山の殿さまの土岐頼芸が、鷹《たか》狩《が》りに出たとき、町はずれに小さな草庵《そうあん》があり、屋外に竹が立っていた。
その竹に、偶然、鷹がとまったので頼芸はふしぎに思い、
「あんなところに竹が立っているのは、どういうわけだ」
と家来にきいた。
家来も首をかしげ、理由がわからない。ただ、ひとりが、
「これは西村勘九郎どのの家でござる」
と、意外なことをいった。
頼芸はおどろいた。美濃守護職土岐家のお坊ちゃんそだちだから、あれほど勘九郎を寵《ちょう》愛《あい》していながら、かれがどこに、どんな屋敷に住んでいるということは、おもいもしなかった。
「小さな庵《いお》じゃな」
おどろいてしまった。台所のほかに、一間がある程度の世捨てびとの草庵同然のひどい住いである。
「勘九郎をよべ」
と、家来に命じた。
庄九郎は、路上に出てきて、馬の左側にまわり、膝《ひざ》をついて平伏した。
「勘九郎、あの竹はなんじゃ」
「ああ、あれは槍《やり》でござりまする」
「槍?」
わからない。竹の槍か、と訊《き》くと、庄九郎も苦笑して、
「いえいえ。住いが手狭でござりまするゆえ、槍の置きどころがござりませぬ。それゆえ竹の節をぬいて槍をさし入れ、雨露のかからぬように、あのように立てかけておりまする」
話は、この物語にもどる。庄九郎は、京から美濃にもどってほどないころである。加納城主長井利隆が、
「そちの住いについて考えている」
といった。
「…………」
と、庄九郎は無慾な微笑をしている。
「どうするつもりなのだ」
「いまのままで結構でございます」
庄九郎は、きまった屋敷というものがない。日護上人の常在寺が広いのを幸い、家来ともども住んでおり、また、その近所の草庵が無住になっているのを日護上人の世話で手に入れ、すこし修理をして使ったりしていた。
斎藤道三伝説の、「竹に容《い》れた槍」というはなしに出てくる草庵とは、これであろう。
もともと庄九郎は、西村家の名跡を継いだとき、本巣郡軽海村《もとすのこおりかるみむら》にあるわずかな所領と、同村で半ば朽ちはてている旧邸をひきついだ。
が、その古屋敷に住もうとしない。
長井利隆が、
――なぜ住まぬ。そちは無頓着《むとんじゃく》でよいとしても、郎党、小者がかわいそうじゃ。
と、やかましくすすめたが、頑《がん》として住まなかった。
理由は、
「美濃西村家という名門を継がせていただいただけで、もう十分でございます。所領は西村家の体面をたもつために、これは頂戴《ちょうだい》いたすとして、屋敷にまでは住めませぬ。住めば、世間の眼にうつる印象は、なにやら、それがしが西村家を奪いとってすわりこんだ、というふうにみえましょう」
「勘九郎、無慾もすぎるわ」
と、長井利隆も、手がつけられない、という顔をした。その後、この問題はそのままになっていた。
それを、長井利隆は、むしかえしてきたのである。
「そちが京へのぼっているあいだに、鷺山の頼芸様に御相談申しあげ、そちの屋敷地として鷺山城下の大手門から一丁のところに土地を作っておいた。主命であるによって、さっそく屋敷をつくるように」
といった。
これにはさからえず、世《せ》間体《けんてい》には慎重そのものの庄九郎も、ついに腰をあげた。
土地は、千坪ほどある。
鷺山の殿様の頼芸も、
「工匠は、飛騨《ひだ》(いまでは、美濃・飛騨は同じ岐阜県)からよぶがよい。城下屋敷とはいえ、知行地の館同然、堀を深くし、塀《へい》を高くし、できるだけ宏壮に造り成すがよいぞ」
と、いった。
「はっ」
と答えたが、庄九郎にはその気はすこしもない。
後年、天下の名城といわれる稲葉山城(金華山城・岐阜城)をみずから設計《なわばり》して造営した男だけに、建築の才はあり、好きでもある男なのだが、しかし庄九郎は、美濃に建築をしにきたのではない。
国を盗《と》りにきたのだ。
その大望、野心というものを、いまの段階ではひとに片鱗《へんりん》も気取《けど》られてはならない。
「ありがたき仕合せに存じまする」
といいながら、庄九郎はその拝領地に、桃《もも》や栗《くり》、梅など、実のなる樹《き》をびっしりと植えて、果樹園にしてしまった。
その林間に、わずかに郎党を住まわせるための二棟《ふたむね》の長屋をつくり、自分の住む母《おも》家《や》はつくらなかった。
庄九郎自身は、郎党どもとおなじく、長屋の一室を住いにしているにすぎない。
これには、長井利隆が、おどろくよりも腹をたててしまった。
「勘九郎、妙な屋敷をたてたそうじゃな」
「はっ」
庄九郎は、答えを用意している。
「それがしがごとき成りあがり者は、あれで十分でございます。実のなる樹を植えましたのは、あれを売って、知行地本巣郡軽海村の百姓どもに、税のほうびにわけてやるつもりでござる」
(無慾な男だ)
と思いつつも、長井利隆は、自分の折角の好意の出鼻をくじかれた不快はどうしようもない。
「勘九郎。申しておく。武士の屋敷というのは、細心に作《さく》事《じ》(建築)すべきもので、庭はなるべく空闊《くうかつ》にし、石、樹木を植えることも避けるほうがよいとされている。忍び《・・》などが邸内にひそめぬようにするがための用心だ。それをどうだ、そちの屋敷は塀を設けぬばかりか、林間にかやぶき《・・・・》の長屋をつくっただけ、というではないか。林間に屋敷をつくるなどはもってのほかの不用心で、白昼これを攻めんとすれば、弓矢を持った者が、樹々をタテに射かけては進み、射かけては進み、らくらくと屋敷を攻めとってしまう。敵のためにわざわざ攻めやすくしてやっているようなものだ。――いやわしは」
と、長井利隆は言葉をつづけた。
「こんどの作事で、そちの兵学の才を見るのが楽しみであったが、大きに失望したわ」
「恐れながら」
庄九郎は、いった。
「殿のお城を設計《なわばり》せいと、おおせあるならばこの西村勘九郎、いかなる敵をも寄せつけぬ金城鉄壁の城を作ってさしあげる自信はござりまする。しかしながら、それがしの分際で敵を予想して屋敷をつくる必要はいささかもござりませねば、果樹でも植えて実のなるのを楽しむほうが、分際に適《かな》ったことかと存じまする」
「…………」
そういわれてみれば、庄九郎のいうとおりである。
長井利隆には、一言もない。
同時に、うれしくもあった。長井利隆が見込んで鷺山の殿様に推挙したとおり、この男は才のみあって、毒気のまるでない人物であるらしい。
世間の評判もよかった。
もともと、分家の土岐頼芸は別として、本家の土岐政頼《まさより》をはじめとして美濃一国にちらばっている土岐一族のすべてといっていいほどの者たちが、この京都から流れてきた正体不明の油商人に、当然、好意をもっていなかった。
白眼をもって、庄九郎の一挙手一投足を見つめていた。
(いったい、どういう魂胆のある男か)
そういう眼である。
さらに、土岐頼芸に武事を忘れさせ、遊芸の相手をつとめてそれをもって取り入っていることが、美濃一国の地方々々の小貴族どもの最も気に入らないところである。
(佞臣《ねいしん》。――)
と見ていた。
その佞臣《・・》が、いかにも遊芸専門の商人あがりらしい感覚で、ああいう無防備な屋敷をつくった。
軽蔑《けいべつ》こそあれ、
(やはり、たかがそれだけの男か)
と、安《あん》堵《ど》するところもあった。評判がいい《・・・・・》というのは、その程度の意味である。要するに無用無害の人物らしい、ということであった。
大永六年の秋がきた。
金華山が、落葉樹で彩《いろど》られはじめ、その朝、ただひときれの白雲が峰の上に浮かんでいた。
庄九郎は、果樹園の屋敷を馬で出た。
真青な天が、美濃一国十数郡の野と川と村々の城館を覆《おお》っている。
(みごとな秋だな)
庄九郎は、感嘆したい思いである。
供は、馬の口取り、槍持ち、それに草履取り。――眼の前の鷺山城に登城しようとしていた。しかし、今朝にかぎって、妙に気がすすまない。といってべつに大した理由はないのである。
(ああ、体が凝《こ》る)
血が鬱勃《うつぼつ》としている。野心家にとってはここしばらく、あまりにも平穏無事な月日がつづきすぎた。
庄九郎のような男には、この平穏さは、むしろ毒であった。なにか事をおこさねば、鬱血が散りそうにない。
「権助、槍をかせ」
と、槍持から自慢の二間槍をうけとり、
「登城は、昼にする。うぬらは、屋敷にもどって休息しておれ」
と、馬の口取りも追いかえし、槍をかいこむや、一散に駈けだした。
西は鷺山城。
南は、はるかむこうに長《なが》良《ら》川《がわ》がながれている。庄九郎は、その河原をめざした。
現今《こんにち》では、鷺山から長良川まで、直線で半里はあるが、当時は水流がちがう。いまよりもずっと(ほぼ一・五キロ)北をながれていたから、庄九郎の現在地からは、ほんのひと駈けである。
(えい、水馬でも)
と、思ったのだ。
庄九郎は河原の葦《あし》のなかに、馬を入れた。
たくみに手綱をさばき、湿地に沈もうとする馬の脚を引きぬき引きぬきしながら、瀬に近づいてゆく。
河は、満々と水をたたえている。上流は郡《ぐ》上《じょう》の山岳地帯に発し、郡上川といい、山谷をうねりつつ南流し、途中板取川を容れ、さらに武儀《むぎ》川《がわ》、津保《つぼ》川《がわ》を合しつつ転じて西南に進み、美濃平野に出るや、堂々たる大河になる。
この河は、庄九郎の当時よりもはるかな古代から鵜《う》飼《かい》で著名で、夜ともなればその漁火《いさりび》がうかぶ。
ざぶっ、
と庄九郎は、馬を河中に入れた。
たちまち、馬の脚は河底にとどかない。
庄九郎は、たえず声を発し、馬を元気づけながら泳がせてゆく。
馬というのは、手綱をもつ主人の励ましと介錯《かいしゃく》の次第で泳ぐものだ。
水馬はむずかしい。
馬という生きものは、鼻面《はなづら》さえ水面に出しておれば泳げるものだが、ただ疲れやすい。
(疲れたな)
と思えば、庄九郎は、キラリと槍をひるがえして杖《つえ》のように持ちかえ、水中に突きさし、河底の砂を、
トン
と突く。
馬は浮く。そのぶんだけ、馬は楽になる。何度かそれをやってやる。
この槍杖《そうじょう》の水馬は、源平時代、坂東《ばんどう》武《む》者《しゃ》の秘術(当時は薙刀《なぎなた》)としたところだという説もあるが、戦国の美濃侍はそれを知らなかった。
庄九郎の独創といっていい。
やがて、向う岸に跳ねあがった。
馬に息を入れさせ、ふたたび鞍《くら》に腰をすえて、トットッと河原をおりてゆく。
再び渡り、またもどってくる。
その風景は、至芸といっていい。
やがて北岸にもどり、馬を河原のはん《・・》の木につなぎ、庄九郎は葦の間で、濡《ぬ》れた衣装をぬぎ、素裸でしぼった。
下帯一つ。
筋骨の隆々たる体《たい》躯《く》である。
この風景を、庄九郎の位置からほんの十間ばかりむこうの雑木林のなかで見ていた者があった。
さすが、眼のさとい庄九郎も、水馬に夢中になっていたために、その存在に気づいていない。
(寒い。――)
これには、閉口し、焚《たき》火《び》をしようとしてそのあたりに眼をくばり、枯木、落葉を物色したが、ほどよいものがない。
やむなく、低い堤をあがって、雑木林でそれを見つけようとした。
「…………」
その裸形《らぎょう》の庄九郎が近づいてくるのを見て雑木林のなかの二人は、立ちすくんでしまった。
「お国、どうしましょう」
と眉《まゆ》をひそめたのは、深《み》芳《よし》野《の》である。
この林に占地茸《しめじ》があがる《・・・》というので、秋の野遊びに老女のお国を連れて、城から遠くもないこの林に来ていたのである。
お国は、深芳野の実家である丹《たん》後《ご》宮津の城主一色《いっしき》家から付いてきた老女で、庄九郎とは親しい。
庄九郎にぬかりはない。かねがね、お国のよろこびそうな物品をあたえて、歓心を買ってある。
実は、庄九郎の水馬の姿を、最初、お国がみつけた。
――あれは西村勘九郎様ではござりませぬか。
と、深芳野に注意をうながした。
二人は、河に近い林のはずれまでゆき、栗の老樹のかげにかくれて、河中を往来する庄九郎の姿をみていた。
(なんと美しい)
そこにいっぴきの男《・》という生きものが、自然児に還《かえ》ったようなすがたで生命の可能性を無心に試していた。深芳野は、このときほど勘九郎という男の、生きものとしての美しさを感じたことはない。
「お姫様《ひいさま》、あのかたに、あれほどの武芸があろうとは存じませなんだ」
とお国はいったが、深芳野の印象では、武芸というようなものではない。自然の中で、一つの自然がみごとに生きている、といった感じであった。
思わず、深芳野は、籠《かご》に入れたしめじ《・・・》を籠ごと、取りおとした。
それから、ほどもない。
思いもかけず、庄九郎が、下帯一つの素裸で、雑木林のなかに入ってきたのである。
「あっ」
と、深芳野は逃げようとしたが、遅い。
庄九郎の強い視線が、すでに深芳野をとらえて、動かせもしなかった。しかも無礼なことに、辞儀もせず、ただ笑ったのである。
「この姿では」
と、自分の胸をみて苦笑し、
「礼を取ることもなりませぬ。おゆるしくださりますように」
と、突っ立ったままいった。
林は、深い。木洩《こも》れ日《び》が、庄九郎の裸身を色づきよく当てている。
「お国殿にも、この場はご無礼つかまつります」
と、会釈《えしゃく》した。
お国は庄九郎のひいき《・・・》だから、むしろそういう庄九郎に好感をもち、
「ご練武の最中なら、戦場も同然、ご会釈は要らぬことと存じます」
と、ほどのよいことをいって微笑《わら》う。
「いやいや、無礼は無礼でござる。何とぞここでそれがしに出会ったなどということは、お城に帰ってお洩《も》らしくださらぬように」
別に秘密を要するほどのこともあるまいと思ったが、お国は愛想よく首をたてにふってうなずいた。
「じつは寒い」
庄九郎は苦笑している。
「体を温め、衣装を乾かそうと存じ、枯枝などをさがしております」
「では勘九郎様、ここでわたくしが焚火をしてさしあげましょう」
お国が平素の庄九郎の厚意にむくいるためそのあたりの枯枝、落葉をかきあつめ、たちまち五尺ばかりの炎を燃やしあげた。
「これはありがたい」
庄九郎は、両掌《りょうて》を炎にあてた。むろん裸形のまま。
深芳野は、眼のやり場にこまった。庄九郎の下帯のすきまから、剛毛がはみ出ている、いやはみ出ている、といったようななまやさしいものではなく、いかにも堂々とそれが息づいているのである。
(どうだ)
と、深芳野の前に誇示している。剛毛だけではない。下帯が、火に温まるにつれて、ふくらみはじめている。
深芳野は、圧倒され、息もかぼそくなるような思いであった。
林の中で
深芳野は、焚火のまえにしゃがみ、じっと火を見つめている。
火勢はいよいよさかんになってきた。どうやら、火の中で松脂《まつやに》が燃えているらしい。
(こまった。……)
と、深芳野は自分の視線をもてあましていた。
むりもない。火炎がある。そのむこうに、庄九郎の裸身が、深芳野の視野いっぱいに両足を踏んばって立っているのである。
まるで、
(この男《・》に抱かれてみぬか)
というように。
深芳野は、実家の丹後宮津城内の持仏堂にあった愛染明王《あいぜんみょうおう》を念持仏としている。女性《にょしょう》に幸福をもたらしてくれる天竺《インド》の神だとおしえられていた。愛染明王は、火《か》焔《えん》を踏まえている。いまの庄九郎にそっくりなのである。
老女のお国は、如才がなかった。
「勘九郎様、京のおはなしなど、してくださりませ」
などと、話のつぎ穂をさがしてきては、しゃべった。
「何をおおせある」
庄九郎も如才がない。
「お国どのが育たれた丹後の宮津といえば、京から三十里とはいえ、古来、京との往来が繁《しげ》く、都の文化のしみついた府城でござる。その御殿育ちとあれば、この西村勘九郎などは、かえって田舎者でござる」
「お言葉じょうずな」
お国は、ほろほろと愛想よく笑った。
「まして深芳野様は、その一色家の姫御前であられる。この勘九郎のごとき、都のことをつべこべとしゃべるのははずかしい」
一色家というのは、武門では日本有数の名族である。
その祖一色太郎入道道猷《どうゆう》は足利《あしかが》氏の縁族で、尊氏《たかうじ》が天下をとるや、九州探題《たんだい》になり、その後、足利幕府の四職の一つとして室町《むろまち》時代を通じて栄えた。
一色の一族のうち、諸国の守護(のちの国持大名)をする者が多かったが、深芳野の実家の一色家は、百年このかた丹後の守護としてつづいてきたことは、さきに触れたかとおもう。
古い家系だけに、途中さまざまな盛衰もあったが、この戦国の世になお家運をたもち、日本海にのぞむ宮津城を本拠としている。
が、なにぶんにも旧家だから、武門としての勢威は、この美濃の土岐《とき》家と同様、だいぶ落ちている。
当主が、よくない。深芳野の父一色左京大《さきょうのだい》夫《ぶ》義幸など、深芳野が四十二の厄年《やくどし》子《ご》だから家にたたるというので、姉を土岐頼芸に輿《こし》入《い》れさせたついでに、妹の深芳野も、妾《めかけ》として呉れてやった、というような迷信のもちぬしである。
旧家というのは、迷信の因習が累積《るいせき》してそのあく《・・》のなかで人が育つ。ろくな者ができるはずがない。
甲斐《かい》の守護職武田家でうまれた武田信玄などは、例外の中の例外である。
他の足利以来の名家といわれる守護大名の当主というのは、思考の溌剌《はつらつ》さをうしない、家を家来や侵略者にとられるか、とられたも同然になっている。
ただ、女はいい。
深芳野が、そのいい例である。二百年の名家のみが生みうる臈《ろう》たけた気品を、この少女といっていい年齢の女はもっている。
それが土岐頼芸によって、すでに女にされているのである。庄九郎などの眼からみれば、気品に妖《あや》しい艶《つや》がつき、ふしぎな、としかいいようのない色気《つやめき》をもっている。
「深芳野様」
と、庄九郎は、炎のむこうからいった。
(え?……)
というように、深芳野は視線をあげた。
「お城住いは気《き》鬱《うつ》でございましょう。かように、ときどき野に出られまするか」
「はい。……」
まつげを伏せた。
「春には、お国とふたりで若菜を摘みに。……それに秋には殿様とご一緒にこの長良川で鵜《う》飼《かい》をみます」
「宮津の城にいらっしたときは、いかがでございました」
「……と申しますと?」
「野遊びなどは、なされましたか」
「はい」
ぽつり、と話がとぎれる。
(骨の折れることだ)
深芳野の口から話をひきだすことは。
「しめじ《・・・》狩りなども?」
「いいえ、こういう茸《たけ》は、わたくしが存じませぬせいか、宮津のお城のあたりにはなかったように思えます」
口が、ほぐれてきた。
「宮津は、海が近うございますな」
「はい、真蒼《まっさお》な」
「海でござったか」
「はい」
と、深芳野の脳裏には、なつかしい故郷の景色が、遠霞《とおがすみ》に霞んで思いだされた。
「春には」
深芳野の眼が、膝《ひざ》もとのかし《・・》の落葉の上を歩く蟻《あり》をみつめている。
「浜へ、貝がらを拾いに行ったものでございます」
「ほう、それは楽しげな。あのあたりの磯《いそ》は波間から岩礁《いわ》の間を見すかしますと、いたるところにあわび《・・・》、さざえ《・・・》などが拾えますとか」
「さあ。……」
深芳野は、はじめて微笑した。
「そのようにあぶないところは、お国が連れて行ってくれませんでしたので、ついぞ存じませぬ」
「あははは、お国どのは忠義者でございますから、さぞやご窮屈でございましたろう」
「まあ、勘九郎様」
と、お国も、つい気持が戯《ざ》れてきた。
「そのようなお言い草でございますと、まるでお国がお姫様《ひいさま》をおいじめ申しあげたように聞こえるではございませぬか」
「左様に聞こえましたか」
と、庄九郎は、お国に微笑をむけた。
「はい、聞こえましたとも」
「それならば」
庄九郎は、お国を微笑で包んでいる。
「お国どのは、忠義のあまり、お姫様の御自由をお縛り申しあげたのではないかと後悔なされているようじゃ」
「まあ」
お国は、手をあげて、掌《てのひら》をみせた。
「勘九郎どの、ぶちまするぞ」
「おお、こわい」
言いながらじっとお国の眼をみつめ、
「お国どの、それについてお願いしたいことがござる」
「どんな」
お国は上機嫌《じょうきげん》である。
「いやさ、お姫様に、たったひとつ、それもいまの瞬間だけ、御自由をゆるしてあげていただけませぬか」
「どのようなことでございましょう」
「言葉ではいえませぬ」
と、庄九郎は足もとの枯枝をひろって焚火の中にほうりこんだ。
「………?」
お国は、その手もとをみている。
庄九郎は、そのあたりの枯枝をさがしている様子で、すこし遠のいた。次第に遠のき、あちこちで枯枝を拾い、拾っているあいだにも四方に眼をくばり、林の内外に人影があるかどうかをたしかめて、無い、となると、枯枝をひろい歩くふりをして、深芳野のそばに近づいた。
「………?」
と、深芳野も、庄九郎の動きが気になる。
風が、梢《こずえ》を鳴り渡った。
お国も深芳野も、心を庄九郎に吸いとられたようにその動きにつられて、心を動かしている。一瞬、世界が停止し、庄九郎だけがそこに居るように思われた。
庄九郎は、ゆっくりと手をのばした。深芳野は、それにつられて、立ちあがった。
その庄九郎の手が、気づかぬまに深芳野の細い腰にまわり、やにわにひきよせた。
「あっ」
と、小さく叫んだ深芳野の唇《くちびる》に、庄九郎の唇が、たっぷりと重なった。
舌が、深芳野の小さな舌を攻めた。口中で追い、からまり、その芳香をもつかと思われるような唾《だ》液《えき》をぞんぶんに吸いはじめた。
お国は、茫然《ぼうぜん》としている。
信じられぬ事態が、いま眼の前ではじまっている。眼で、ありありとそれをみても、お国は信じられなかった。
たったいままで住んでいた世界が、裂けて別の世界に立たされているように思えた。
深芳野は抗《あらが》ったが、どうすることもできない。
体が、庄九郎が触っている腰のあたりから全身にかけて痺《しび》れているようである。
あるいは、軽い失神を起こしていたのかもしれない。
すこし誇張していえば、あとで深芳野は城内の自分の住いにもどったとき、やっとこのときの実感が誕生した、といっていい。深芳野は、はじめて男に抱かれた、という実感をもった。庄九郎の強い筋肉の締りと体臭が、はじめて深芳野のなかに女《・》という、男を迎えるにふさわしい粘液をもった生物を生まれさせた、といえる。
が、このときは、意識は虚《こ》空《くう》に散《さん》華《げ》してしまったようで、何が行なわれているか、庄九郎が自分に、何を加えているのか、なにもかもわからなかった。
深芳野の足がつまさき立ちになり、背が折れそうに反《そ》らされ、かろうじて息だけができた。裾《すそ》が、あるいは割られてしまっていたのではないか。
風が、栗《くり》の老樹をゆすぶり、哭《な》くように吹きすぎた。
空が、曇っていたかに思われる。庄九郎から離され、地にうずくまったとき、眼の前が真暗になっていたのが思いだせる。決して不快なものではない。何かが、深芳野に光をみる能力を喪《うしな》わせた。暗さに、濃緑の光のようなものがまじっている。地に吸いこまれてゆくような、そういう思いである。
深芳野が気づいたときには、空が、梢の上で青さをとりもどしていた。お国のひざの上で抱かれている自分を知った。
庄九郎の姿は、すでにない。
「お姫様《ひいさま》。――」
お国は、慄《ふる》えている。
「お国は、どうすることもできませなんだ。おゆるしくださりまし」
「いい」
と深芳野は、やっといった。
「病気になっていた、――わたくしが。そう思えばよい。お国、そなたもきっとそう思いますように」
深芳野はつぶやいた、らしい。らしい、というのは、あとでお国に聞かされて知ったのである。
深芳野の局《つぼね》は、鷺山《さぎやま》城内でも、本丸、殿舎《でんしゃ》、櫓《やぐら》などとは、別屋になっている。
一色館《やかた》
といわれていた。
野遊びから帰ってくると、深芳野は唇まで血の色をなくし、寝所に夜の支度をさせて、臥《ふ》せてしまった。
お国が枕《まくら》もとに付き添おうとしたが、
「厭《い》や」
と、かぶりをふってきかない。
疲れた。手も足も、体のすみずみにいたるまで、力が消えてしまっていた。庄九郎に精根を抜きとられてしまったようである。
何を考える力もなくなっていたが、ただ、ひどく気はずかしい。ああいうことをされたということではなく、されたあともそれがつづいていることであった。つづいているというより誕生した。誕生したものが深芳野の体の中で動き、ありありと息づいている。それが羞《はず》かしさの実体かもしれない。
日が暮れてから、お国が、そっとふすまをひらいて、気付けの薬湯《やくとう》を運んできた。
「それはなに?」
と、深芳野は、童女のようにお国をみた。眼が、ひどくすがすがしかった。
(このようにお美しいお姫様を、みたことがない)
お国は、眼をみはる思いであった。
「吉野の葛《くず》湯《ゆ》でございます」
「うれしい」
深芳野は、臥《ふし》床《ど》の上に、すわった。眼が、いきいきとしていた。
「お姫さま、どうなされたのでございます」
「なにが?」
と、深芳野は、自分の変化に気づかない。
深芳野は、葛湯の上の湯気を小さく三度吹き、ちょっと啜《すす》って、
「ああ、熱い」
と、お国をみて、意味もなく微笑《わら》った。
(照れていらっしゃる)
とも思えない。軽はずみな、と思うほどの笑顔であった。お国は、深芳野がうまれたときから付きそっているが、こういう深芳野をみたことがない。
そのあと、二人はながい時間、だまっていた。どちらも、あのこと《・・・・》に触れるのがこわく気羞かしかったのである。が、お国をさらに驚かせたのは、深芳野から、そのことに触れてきたことである。
「お国、あのこと《・・・・》ね」
「ええ、たきび《・・・》のこと? お姫様」
と、うまく受けてやった。お国は自分でもうまい受け方だとおもった。
「そうです、たきびのこと。あれは、たれにも口外しませぬように」
(むろん)
という緊張した表情でお国はうなずいた。いわれずともあんなことを口外する馬鹿《ばか》がどこにいるだろう。いかに深芳野が頼芸から寵《ちょう》愛《あい》をうけているとはいえ、この主人の身に大きな傷がついてしまったことだ。
「恐ろしゅうございましたでしょう」
と、お国はいった。お国は、深芳野にとって、自分の体の一部になっているような老女である。
深芳野は、かぶりをふった。
「ちっとも、こわくはなかった。なにもかも夢の中に居るような気持です」
「でも、西村勘九郎様とは、なんというお方でございましょう。お国は、はじめはなにがおこっているのか、眼が眩《くら》むようでわからなかったのです。気づいたときは、声も出ず、手足も動きませんでした。いまでも信じられませぬ。日本中の武士で自分の主人のお部屋様にあのような大胆な振舞に出る者があってよいものではなく、あるはずもございませぬ。しかも、あとで思いましたが、素裸で」
「お国」
深芳野は、いらだたしくいった。お国の神経にたえられない、自分のあの不可思議な体験を、お国のしゃがれた声で、しかも俗な道徳をまじえながら、ここで再現されたくはなかったのである。
「あのことはもう言いませぬように」
「はい」
お国は、深芳野のつよい語気に戸惑ったようだが、素直にうなずいた。
「それに」
と、深芳野はいった。
「西村勘九郎殿に、悪意をもってはなりませぬ」
「な、なぜでございましょう」
「深芳野が、まだあのことがよくわからないからです。とにかく、勘九郎殿に対しては、昨日までと同じ態度でおりますように」
「はい」
うなずくしかない。
……………………
庄九郎も、その日はついに登城せず屋敷にもどると、
「風邪をひいた」
と、引きこもってしまった。
(すこし、やりすぎたかな)
という後悔もあったが、
(いやいや、あそこまでゆけば、いっそのこと、お国の眼のまえで犯してしまえばよかった)
とも思った。
体が、うずいている。
いかに自制心のある庄九郎でも、深芳野が遺《のこ》したこのうずき《・・・》には堪えられない。
(いつかは。――)
ああいう形でなく、堂々と頼芸の手からあの寵姫《ちょうき》をとりあげてやろう、と思った。歯ぎしりの鳴りひびくような決意である。
天《てん》沢《たく》履《り》
秋が闌《た》けて風が冷たくなった。
そういう、冬晴れといった感じの朝、庄九郎は土岐頼芸の機《き》嫌《げん》を伺うべく鷺山《さぎやま》城に登った。
大手門を入ると騎馬五十騎を収容できるほどの平地があり、すぐその上は岩盤をけずった石段になっている。
庄九郎は、のぼった。のぼりながら石垣の上の松を見あげると、翠《みどり》が天のなかでかがやいている。
(いい日だ)
なにかおこるだろう、という予感が、庄九郎の胸に点灯《とも》った。
いや、この男の場合、事がおこるのではなく、事をおこすのである。正確にいえば、今日は自分がなにかを仕出かす、という予感であった。
頼芸は、館《やかた》で酒をのんでいた。そのそばに深《み》芳《よし》野《の》が、琴を横たえて侍《はべ》っている。
「おお、勘九郎」
と、頼芸はうれしそうに手をあげた。
「よいところに来てくれた。退屈《ぶりょう》にこまっていたところだ」
「ご退屈とはおそれ入りまする。これに深芳野さまがいらせられまするのに」
と庄九郎は、頼芸の言葉《ことば》尻《じり》をつかまえて、チクリと皮肉をきかせた。
退屈、とは深芳野への侮辱であろう、というのである。
頼芸もかすかにあわてた。気のよわい男なのだ。
「いや、深芳野も退屈していたのだ」
「どなたに?」
とは庄九郎はいわなかった。だまってにこにこ笑っている。
「勘九郎はいつになく機嫌がよさそうだな」
「拙者の瞳《ひとみ》が青うございましょう」
「瞳が?」
「左様。今朝の天は雲一つなく、お城の翠が眼に染まるようでありました。こういう日は手前、佳《よ》いことがある、という信心をむかしから持っております」
「おもしろい男だ。朝、登城するときにその日の運命《ほし》がわかるのか。いったい、人間には運命というものがあるのか」
「ござる」
うそだ。
庄九郎は、人間に運命があるとはおもっていない。シナ渡来の甘い運命哲学などは弱者の自己弁護と慰安のためにあるものだと信じている。
庄九郎は運命を創《つく》らねばならぬ側の男だ。シナ人のいう運命などがもしあるとすれば、徒手空拳《くうけん》のこの庄九郎など死ぬまでただの庄九郎でおわらざるをえないではないか。
(それではこまるわ)
不敵に、肚《はら》の底で嗤《わら》っている。
が、土岐頼芸のような退屈な貴族にとっては、運命論はかっこうな娯楽である。ときどき自分で易もたてるし、陰陽師《おんみょうじ》をまねいて星《せい》宿《しゅく》を占わせたりしている。
「運命《ほし》は、ござる」
といったのは、土岐頼芸へ迎合したまでのことだ。
もっとも、庄九郎にとって頼芸は運命論者であってくれたほうがいい。今後どういう事態になっても、
――これは自分の運命《ほし》だ。
と、自分であきらめる美質を持ってくれるほうが、万事都合がよい。
「勘九郎、今日はそちの学識のなかから、易経のはなしでも聴こうか」
「いや、それでは深芳野さまが退屈なされましょう」
「では、筮《ぜい》を立ててくれるか。そちはいま天気がよくて上機嫌だと申した。天象、人《じん》気《き》、良し。こういう日、こういう人物に筮をたててもらうとよくあたるものだ」
「では、略筮《りゃくぜい》にて八卦《はっくわ》を出しましょう」
「おお、承知してくれたか」
頼芸は、侍臣に用意を命じた。
すぐ、朱塗りの経机の上に道具がのせられて、小姓たちの手で運ばれてきた。
庄九郎は、頼芸に一礼し、北面して経机にむかった。
筮竹は五十本ある。
そのうちの一本をぬきとり、青銅製の筮筒《ぜいづつ》のなかに立てた。
太極《たいきょく》(宇宙の大元霊)のつもりである。
残る四十九本を左手につかみ、先端を扇がたにひらき、これに右手の四指を外側から添えて親指を内側にあて、ひたいの高さに捧《ささ》げて、呼吸をとめ、臍《せい》下《か》に力をこめた。
眼をつぶり、心気を充実させてゆき、やがて、
「………!」
と気を発して、筮竹の束を一気に割る。
あとは、きまりきった作業が残っている。右手のぶんを静かに机の上に置き、その中から一本ぬきとって左手の小指と無名指のあいだにはさむ。これが「人」になぞらえられる。左手に残った筮竹は「天」、右手のものは「地」。この天と人《じん》を合し、八本ずつ数えて行って、最後に八本に満たぬ端数が残るまで数え、かぞえて残った端数によって卦《くわ》をたてるのである。
「ほう、天沢《てんたく》履《り》、と出ましたな」
と、頼芸の顔をみた。
頼芸はうなずいた。天沢履のおよその大意は、この閑人《ひまじん》にはわかっている。
――おとなしくしておれば諸事好転する。
という、意である。まず、小吉というところであろう。
ところが庄九郎は、「天沢履」に特別な意味を読みとったのか、なにやら複雑な微笑をただよわせて、頼芸をみつめている。
「どうした、勘九郎」
「いや、殿の御運、かようによいとは思いもよりませんでしたな」
「ふむ? わしにはわからぬが」
「なんの、殿ほどのお方が、おわかりにならぬはずがありませぬ。とくとお身の上に照らして、この卦を味わわれまするように」
「これは意地がわるい。これはわしに出た、卦じゃ。謎《なぞ》めいたことをいわずに、なぜ明かしてくれぬ」
「いや、手前が申しましては興ざめでございます。ご自分でお考えありますよう」
「天沢履」
……わからない。
その夜、頼芸は考えた。
庄九郎が、退出するときに、小声でもらしたひとことが、謎解きのかぎ《・・》である。
「お兄君のお屋形様のこと」
ただそれだけであった。
お兄君のお屋形様、とは、美濃の守護職土岐政頼のことである。
(兄がどうしたというのか)
政頼は、美濃一国の本城ともいうべき川手城(現在岐阜市)にいる。これが美濃の太守である。
平凡で面白《おもしろ》味《み》のない男だ。
かつて兄弟の父政房が、政頼をきらい、弟の頼芸を跡目に立てようとした。このため美濃一国の豪族が両派にわかれて争い、長井利隆などは頼芸派の旗頭であった。
ついに美濃一国の乱に及ぼうとしたので、京で虚位を擁する足利将軍が調停し、兄が継ぐことが順当だろうということで、政頼が川手城に入って守護職になったわけである。
頼芸は、おもしろくない。
出来《でき》星《ぼし》の大名とはちがい、頼芸はうまれついての貴族だから領土慾などはこれっぽっちもない男だが、名誉慾だけはある。むしろ物慾を置きわすれたような男だけに、名誉慾は人一倍つよい。
(おれは守護職になるべき男だった)
というほこり《・・・》があり、自然、兄の政頼に対し家来の礼をとらず、川手城にも出むかないのである。
鷺山城内で酒色と遊芸に日を送っているのも一つは兄へのあてつけであり、一つはそんな方法でしか、ふんまん《・・・・》を消す手段をもっていないからだ。
わるいことに、美濃侍の半分はこの頼芸の自暴自棄に似た生活に同情的で、
――いかにもお気の毒に存じまする。
などと面とむかっていう者も多い。
それだけに頼芸は、あきらめきれない心境でいる。
(西村勘九郎はそのことを言ったのか)
とすれば容易ならぬことだと思い、頼芸は周易関係の書物をひっくりかえして調べてみた。
意外なことを知った。「天沢履」には、おどろくべき意味がふくまれている。「先人のあとを継承する」という。
(兄の政頼を追ってわしが守護職になるというのか)
しかも諸事、長者の指導に従え、という卦である。この場合、長者とは、庄九郎こと西村勘九郎である、ととれないことはない。
(大変な卦が出たものだ)
頼芸は、そろそろ暗示にかかりはじめた。
もっともこの卦に「女人、裸身の象《かたち》をとる」という意味もある。自分の妻妾《さいしょう》が多情不貞の働きをするおそれがあるというのだが、頼芸はつい見のがした。自分の諸条件からみて、考えられぬことだと思ったのである。
翌日、頼芸はいった。
「勘九郎、解けたぞ」
「は?」
庄九郎は、頼芸のいう意味が解《げ》しかねている様子を作ってみせた。
「なんのことでございましょう」
「いや」
むしろ頼芸のほうがあわてた。解いた「意」が、重大すぎることだからである。
「わすれてもらってはこまる。きのう、そちが立ててくれた卦のことよ」
「あああのこと。いやこれは」
庄九郎は苦っぽく笑った。
「痛み入りまする。ほんの座興でござったのに、殿はよほど占易がお好きとみえまするな。あれをそれほど深くお考えでござりましたか」
「あとで調べもした。考えもした」
と、頼芸はあくまで知的遊戯のつもりで無邪気に膝《ひざ》をすすめた。
「勘九郎、あれはわしはこう解いたが、きいて賜《た》もれ」
「お待ちくだされ」
庄九郎は、手で制した。
「殿」
「なんじゃ」
「それ以上は申されますな。殿のお命にかかわりましょう」
「なに。――」
頼芸は意外な顔をした。もともと遊戯で立てた卦なのである。それがどう出ようと、それだけのことではないか。
「勘九郎」
と頼芸は、庄九郎の物々しい表情を消そうと努めた。
「そちは座興で立てた。わしは座興で調べたまでのことだ。それを座興できいてくれればよい」
「わかっております。この勘九郎はわかっておりますが、人は何と思うかわかりませぬ」
「勘九郎、戯《ざ》れごとじゃというのに」
「殿。易は天の声を聴くと申す。されば殿は、たわむれに天の声をお聴きあそばした、というのでござりまするな。つまり天をおなぶりあそばした」
「勘九郎、そちもあれは座興、とたったいまも申したはずではないか」
「左様、手前にとっては座興でござった。しかし占って進ぜた相手は殿。殿にとっては、出た卦がどうであれ、天の声には相違ありませぬ。それを軽々しゅう口に出されることは、おそれながらお命にかかわることだ、とこう申しあげておりまする」
「…………」
当然なことだ。卦は、解釈によっては、
反逆
ということになる。
「勘九郎、わかった。いわぬ」
と、この貴人は、叱《しか》られた子供のような顔をしてうなずいた。
「おわかりくださいましたか」
「わかったとも」
「いやこの勘九郎めも、おわびせねばなりませぬ。かように身にあまる知遇を受けていながら、いまのいままで殿の御心中を察し奉らず、ただただ汗の出る思いでござりまする」
「………?」
と、頼芸はぼんやり庄九郎を見ている。この男がなにをいっているのか、よくわからない。
「勘九郎、なんのことだ」
「申されますな」
庄九郎は痛ましそうに頼芸をみた。
「いずれ、ご本望をお遂げあそばすよう、この西村勘九郎めが微衷をつくしまする」
「おい」
そこへ小姓が入ってきたから、頼芸は口をつぐんだ。
庄九郎は、退出した。
数日、庄九郎は病いと称して鷺山城へは登城しなかった。
そのくせ、加納城の長井利隆のほうには出仕し、何日目かに利隆が茶室に招じ入れたとき、庄九郎は思いあまったような表情で相談した。
「申しあげかねておりましたが」
と、例の一件である。
むろん、すこし咄《はなし》は変えた。土岐頼芸が、易の「天沢履」にかこつけて、自分が守護職になりたいという大望を庄九郎に打ちあけた、というのである。
長井利隆は、むろん頼芸への同情派だからこの話を素直にうけとった。
むしろ悲痛な表情をして、
「まだ殿は、お諦《あきら》めならなんだとみえる」
といった。
「ほほう、それほど根の深いお望みなのでござりまするか」
「根が深い、というわけではないが、お父君が頼芸様におあとを譲りたかったことは歴々としたことだし、わしも、あのとき、先代お屋形さまからじきじき頼芸様擁立を頼まれ、いろいろ力をつくしてみた。ところが美濃が二つに割れそうになったので、やむなく将軍家のお調停《なかだち》に従い、頼芸様にあきらめてもらった。頼芸様にすればそういうことがなければお人柄《ひとがら》からいっても守護職などをお望みなさるはずがないのだが、かついだわれわれがわるかった。いまのままではさぞお寝醒《ねざ》めのわるいことであろう」
「伺いまする」
「おお、なんでも申してくりゃれ」
「美濃の守護職には、頼芸様がふさわしいかいまのお屋形様がふさわしいか、どちらでございましょう」
「それはきまっている。われわれが頼芸様なればと思い、ああいう無理を押してでも船田合戦(先代政房のときの相続さわぎ)の二の舞をやったのだ。美濃という国には、頼芸様こそふさわしい」
いや庄九郎の見るところ、頼芸にしろ政頼にしろ、似たりよったりだが、ただ頼芸には太守らしい教養がある。おなじ凡質でも、教養のあるほうがまだしも、というのが利隆の気持であろう。
「いや、わかりました」
と、庄九郎はそれ以上はきかず、この話を打ち切った。
なぜといえばこれ以上、この問題を追いつめて、
――されば拙者が。
などといえば、長井利隆は美濃の分裂をおそれ、
「いやいや、手荒なことはならぬ」
と釘《くぎ》をさすにきまっている。雑談の域にとどめておいたほうが、仕事に都合がよい。
(これで長井利隆が暗黙に諒解《りょうかい》した、ということになる)
このあと庄九郎は、鷺山城に出仕した。
「体はどうじゃ」
と、頼芸は心配した。
「いいえ、まだはかばかしゅうはござりませぬ」
「医に診てもらえ。なんなら、曲直《まな》瀬良玄《せりょうげん》を差しつかわそうか」
頼芸の典医である。
「いや、良玄どのの薬でもそれがしの病いはなおりますまい。おそれながら、この病い、殿のご本望が達せられますれば、その日になおるかと存じまする」
「本望とは?」
「例の天沢履」
と庄九郎は頼芸からそっぽをむいてさりげなく言いすて、そのあとすぐその言葉を揉《も》み消すように、声量をあげて別の話題に転じた。
虎《とら》の瞳《ひとみ》
それから十日ほど経《た》ったある朝、庄九郎は、屋敷にいた。
日当りのいい縁側に円《えん》座《ざ》をもちだし、庭の雑木林に戯《たわむ》れる鳥の声をききながら、熱い煎《せん》茶《ちゃ》を吹き吹きすすっている。
雑木はほとんど果樹だから、小鳥が多い。
小鳥どもは、金華山から長良川を越えてこの庄九郎の果樹林にやってくるのである。
「おい、上天気だな」
と、林の中に声をかけた。小鳥に声をかけるほど、庄九郎はひまな詩人ではない。
やがて、小鳥の声がやみ、眼の前の林の中から人影が湧《わ》き出て足音もなく下草を踏み、縁のむこうへうずくまった。
「耳次でございます。なんぞご用でござりまするか」
「ああ」
ひどく小男である。ただそういう名で耳た《・》ぶ《・》だけが大椎茸《おおしいたけ》のように異常に大きい。耳が顔についているのではなく、まず両の大耳があって、それを結ぶために顔がくっついているような感じがする。
年のころは二十五、六、にぶそうな表情である。
隣国の飛騨《ひだ》うまれで、この屋敷を建てたとき庭番の小者として傭《やと》い入れた男であった。
この時代、日本人の労働力がヨーロッパ社会にくらべておどろくほど安いことを、すこし後に来た宣教師たちが故国へトピックスとして書き送っている。米さえあれば城でも建つ国である。
武士の家には米がある。それを与える、といえば百姓の二男、三男などはいくらでも傭えた。心得のある武士は、そういう者を選びぬいて手飼《てが》いの郎党に仕立ててゆくものであった。のちに大名になった秀吉の手飼いの郎党福島正則《まさのり》や加藤清正はこういう下人のあがりである。
耳次は従順であった。
それに慾がない。郎党としてうってつけの性格である。
耳次は、異様に聴覚がすぐれている。それだけでなく、他にわざ《・・》をもっていた。足の速さであった。
一日に二十里は駈《か》け道するのである。
庄九郎はその技倆《ぎりょう》を見こんで、手飼いの諜《ちょう》者《じゃ》として訓練していた。
「耳次、赤兵衛はまだ来ぬぞ」
と、庄九郎は茶を一口すすった。
「へい」
首をかしげている。
耳次は庄九郎の命を受けて京へ走り、赤兵衛に「すぐ美濃へくだりますように」と伝えてきたのである。
(おや)
と耳次は首をかしげた。
「赤兵衛様がただいま参着《さんちゃく》なされたようでござりまする」
「そちにはきこえるのか」
庄九郎はこういう技能者がすきだ。
やがて門前で馬の嘶《いなな》きがきこえ、赤兵衛のしわ枯れ《・・・・》声がひびきわたってきた。
ほどなく赤兵衛の声が廊下を歩きわたってきた。ふすまのむこうにとまり、
「京の赤兵衛でござりまする」
と、平伏している様子である。
「ようきた。入れ」
「へへっ」
人相、兇悍《きょうかん》、といえるつら構えの赤兵衛の赤っつらがあらわれた。
庄九郎は耳次を追いやって、座敷にもどった。
「赤兵衛、ひさしぶりだな。急に会いたくなってよんだ」
「お人情の深いことだ」
赤兵衛は、せせら笑っている。この男の露悪趣味で、どうもこれがよろしくない。そのつらつき《・・・・》と相まって、絵にかいたような悪人の感じになる。
「赤兵衛、お前の悪党づらをみると、心が安らぐ思いがする」
「おや」
と赤兵衛は顔をあげた。
「ほめられているのか、これは」
「あっははは、ほめている。ほら、神主がいうだろう。一人の人間に二つの霊がある、と。善魂《にぎみたま》と悪魂《あらみたま》のふたつだ。赤兵衛、お前はわしの悪魂の分身だと思っている」
「悪魂の分身」
「そうだ」
「すると、善魂のご分身はたれでおじゃるかい」
「杉丸《すぎまる》よ」
「ははあ、なるほど。あれは心素直で、旦《だん》那《な》様を神のように崇《あが》めておりまするな」
「崇められるだけのもの《・・》がわしに備わっていればこそ杉丸もわしに魅《ひ》かれてついてくるのだ。わしと相《あい》惹《ひ》くものがある。おそらくあれはわしの善魂の分身であろうと考えるのは、そういう根拠だ」
「杉丸のことはどうでもよろしゅうござりまする。いま、この赤兵衛の顔をみれば心安らぐ、とおおせられたのは、旦那様の悪魂が類を得てよろこぶという意味でおじゃるか」
「まあそうだ」
「おそれ入りましたわい。ところで、今度のお呼びは、悪魂がおよびなされたわけで」
「善魂がお前をよぶわけがない」
と、庄九郎は苦笑した。
「これは恐れ入りました。いまお顔の色をうかがい奉るに、頬《ほお》に血のつや《・・》がさしていかにもお元気そうでおじゃる。察するところ、よほどの悪計をたくらんでいなさるに相違ない」
「そんなに元気そうか」
「いかにも。お洩《も》らしくだされ」
「赤兵衛、ここ一月ほど美濃に滞在せよ。やる仕事というのは、このむこうに川手城という城がある」
「美濃の府城でおじゃりまするな。そこには美濃の守護職土岐政頼様がお住いじゃときいておりまする」
「その川手城を乗っ取る」
「えっ、旦那様が」
「あっははは、まだ早い。わしがいま乗っ取っても美濃一国の国侍が承知すまい。弟君の頼芸様が乗っ取って守護職になられる、という筋を考えている。ところで赤兵衛」
「へい、手前の役目は」
「そちは城攻めのその日、耳次とともに城の内部から火をかけい。それまでのあいだ、めだたぬように城の下士どもに近づき、昵懇《じっこん》になっておくことだ。その工夫はそちにまかせる」
「金銀をばらまくのでおじゃるな」
「ばらまき方がむずかしいぞ。費《つか》ったがためにかえって怪しまれるということがある」
「心得てござる」
これくらいの工夫ができないようでは、庄九郎の分身とはいえない。
庄九郎の半生は、謀《む》反《ほん》の連続で、その巧《こう》緻《ち》さは謀反を芸術化した男、といっていいほどだが、これはその第一回のしごとである。
ほどもなく、鷺山城の頼芸によばれた。
頼芸は例によって、酔っていた。
まわりに侍臣もいない。深《み》芳《よし》野《の》がただひとりで、はんべ《・・・》っている。
(これはよい機会《しお》。――)
と庄九郎は思った。
話が、武芸のことになった。
「勘《・》九郎」
と、頼芸は庄九郎をその名でよんだ。
「そちの名人槍《やり》のこと、見せる見せるといいながら、芸惜しみをしている。きょうこそみせてくれ」
「まず、酒《ささ》を頂戴《ちょうだい》つかまつりまする」
「おお、これはうっかりした。深芳野、この槍の名人のために注《つ》いでやれ」
――はい。
と深芳野は膝《ひじ》をにじらせた。
「あ、これはかたじけのうござる」
と凝《じ》っと深芳野を見つめ、やがて杯を捧《ささ》げて深芳野の手もとからしたたる酒を受けた。
それを飲みほすと、頼芸は上座から、
「勘九郎、大杯で飲め」
と声をかけた。
(頂きまする)
と無言で一礼し、手もとの三つ重ねの杯のなかから、朱塗りの大杯をとりあげた。
庄九郎は、底なしの酒量である。
しかし大杯を傾けおわると、さすがに頬がかすかに染まった。
「これは、……酔いましてござりまする」
「酔うても、槍は使えるか」
「なんの、これしきの酔い」
といいながらも、吐息を一つついた。わざと酔ったふりをしているのである。
「あははは、勘九郎めが珍しゅう酔うたようじゃ。ところで勘九郎、あれに」
と頼芸は、むこうの襖《ふすま》の絵を指さした。
「虎の絵がある。嵎《ぐう》(山のくま《・・》)を負い、寒月に咆《ほ》えている図だ。その眼の黒玉がそちの槍で突けるか」
「突ければなんとされます」
「望むものをとらす」
「あははは、殿は小心にまします。この勘九郎はうまれついての大《たい》気《き》者《もの》じゃ。おそらく話が適《あ》いますまい」
「なにをいう」
頼芸はつい稚気が出た。そういう男だ。
「わしが小心じゃと。ばかめ、わしほど大気な者があろうか」
「されば殿」
庄九郎は、膝をにじらせた。
「おお、望め」
「あの虎の瞳《ひとみ》をみごと突きましたならば、これなる深芳野様を頂戴《ちょうだい》しとうござりまする」
「…………」
と、頼芸はだまった。
やがて、赤くなった。唇《くちびる》が濡《ぬ》れて、とろりと垂れている。意外であった、というよりもその望みの法外さにあきれてしまった。
「勘九郎」
と制止しようとした。が、庄九郎はぴしゃりと、
「やはり殿は小心にまします」
云いおわって、視線を深芳野に移した。
うなだれている。若狭《わかさ》の国主一色《いっしき》左京大夫の姫も、いまは賭《か》けの物件にしかすぎなくなっていた。
深芳野の心情はどんなものであったか、よくわからない。
べつだん厭《い》やがっている風情にもみられなかったのは、庄九郎に関心以上のものがある、というより、これまでに何度も庄九郎に暗示をかけられてきたために、こういう運命の座に自分がひきだされることに、意外さを感じなくなっていたのかもしれない。
なにやら、これに似た場面を、何度か夢に見てきたような気がするのである。
「いかがでござる」
と、庄九郎はきびしい眼で深芳野をみた。
商人《あきんど》が物品をながめている、そういう眼である。
「殿、いかがでござりましょう」
「一興じゃ」
頼芸は、苦いかたまりを呑《の》みくだしたような顔をした。
はっ、と深芳野は頼芸をみた。失望と哀《かな》しみが面上を奔《はし》ったのは、当然であろう。夜ごと身をまかせている男に、いま、公然と売られたのである。
「いや、面白い」
頼芸は、自分の言葉で自分の気持を掻《か》きたてようとした。
わざと膝をゆすり、浮き浮きといった。
「前代未《み》聞《もん》の賭けじゃ。面白い。勘九郎、早くやれ」
「いや、止《よ》します。殿が可哀そうじゃ」
「同情は無用じゃ。退屈している」
退屈に、これほどの刺《し》戟《げき》的遊びはない。
「されば殿」
と、庄九郎は頼芸のために刺戟を添えた。
「もしそれがし仕損じましたるときは、あれなるお庭のすみ《・・》を拝借し、みごと腹を掻っさばいてみせまする」
「首を賭けると申すのか」
「殿の御座興のために」
「おお、よう申した。主人の座興のために死ぬというのは、忠の至上なるものだ。わしはまだ人の切腹というのを見たことがない。これはおもしろい」
「さらに、もうひとつ、殿のために興を添えるものを用意してございます」
「おお」
と頼芸は、だんだん昂奮《こうふん》してきた。
「まだ賭けるものがあるのか」
「いやいや、これはそれがしが負けて切腹絶命となればどうにもできませぬが、もし勝ち、深芳野様を頂戴し、……」
と、庄九郎はちょっと言葉をとぎらせた。
「それで?」
「もし勝ち、深芳野様を頂戴し、……」
「くどい、早う申せ」
「もし深芳野様を頂戴しましたあかつき、それにかわるものとして、殿のお手もとに美濃一国を差しあげまする」
「えっ」
何をいうのだ、美濃の国主は兄の政頼ではないか、と言おうとしてあまりの意外さにもぐもぐと口ごもった。
「殿、大志を抱かれませ。この西村勘九郎がこのひと月のうちにみごと殿のために美濃の国主の座を奪ってさしあげまする」
「か、かんくろう。……」
「これも酒興の一つでござるよ、殿」
「な、なるほど、酒興。……」
酒興で国を奪《と》る、というのは、死ぬほど退屈している貴族にとってこれほど刺戟的な遊戯はない。
「やれ、勘九郎」
「いかにも、仕《つかま》つろうず」
と庄九郎は肩衣《かたぎぬ》をはねあげて、なげし《・・・》の長槍をとった。
横手のふすまをからりあけ、
「御免」
と、控えの間に入る。ふすまを開けっぱなしたままである。
さらにその部屋のむこうのふすまをあけ放ち、ツツツ、とさがってゆく。
二《ふた》間《ま》むこうに、庄九郎は槍を小わきにかかえ、足をそろえて立っている。
遠い。
いかにも遠い。
その間《かん》を庄九郎は駈けとおして、槍を虎の瞳に突こうというのだ。
槍の長さは、三間半。これはかつて庄九郎が頼芸にすすめてわざわざ作らせた長槍である。
青貝をすりこんだみごとな槍で、柄《つか》は肥州天草《あまくさ》からとりよせた樫材《かしざい》であり、握れば指いっぱい太いもので、目方はひどく重い。
それをもって駈け、駈けおわると同時に虎の瞳を突くのは、いかに名人でも、なし得ようとは思えない。
「勘九郎、あははは、座興じゃ、もう止せ」
と、人の好い頼芸は、命を賭けている庄九郎に憐憫《れんびん》をおぼえたか、手をふった。
庄九郎は、そういう頼芸をぎょろりとにらんだまま、黙殺した。
深芳野は、真蒼《まっさお》になって二間むこうの庄九郎の立ち姿を見つめている。
彼女は、心中、庄九郎に好意をよみがえらせていた。
あの西村勘九郎は、自分を得るためにいのちを賭け物にしているのである。これが求愛の一種とすれば、古今、これほどすさまじい求愛はあるまい。
ところが頼芸はどうであろう。あれほど自分を溺愛《できあい》していながら、庄九郎に迫られて易《い》々《い》と自分を賭け物に投げ出している。
(頼芸様は、たよれるお人ではない)
いかに深窓そだちの深芳野でも、そう思わざるをえない。
「勘九郎、勘九郎、命は惜しゅうはないか」
と、頼芸は膝をたたいて囃《はや》した。
(勘九郎様、お勝ちあそばしますように)
深芳野は祈る気持になった。
だんだん自分の運命をわすれ、深芳野もこの賭けに気持がうわずってきた。
頼芸もおなじである。
呼吸があらくなっている。
ただ庄九郎だけは、鎮《しず》まっていた。気息を充実させているらしく、次第に眼が大きくなってきた。
左足を出した。
……槍を構えた。
深《み》芳《よし》野《の》を奪《と》る
庄九郎は、槍の穂先を沈めた。
まだ、構えている。
くわっ、とひらいた庄九郎の眼が、しだいに細くなってゆく。眼が細くなるにつれて顔から表情が消え、消えるにつれて、肩、両手に入っていた力が抜け、抜けた力は、構えている庄九郎の姿の下へ下へと沈み、やがて腰がすわった。
(まあ、みごと。……)
と、舞の上手の深芳野は、庄九郎の肢《し》態《たい》の美しさに眼をみはった。
土岐頼芸は、杯を唇《くちびる》にもって行ったまま、金縛《かなしば》りに遭ったように身動きもせず、杯越しに庄九郎の姿をみている。
「…………」
と、庄九郎は動いた。
駈けた。
するするするする、と両足が畳の上をむだなく移動してゆく。
素早い。
両足がしきいを越えた。
いま一つ、しきいをひらりと越えた。
越えると同時に、
「うっ」
と跳躍し、砥《と》ぎすました槍の穂が光の尾をひいて、頼芸と深芳野の眼の前を通りすぎた。
最後に庄九郎は、大喝《だいかつ》した。
体がはねあがった。
槍の穂がほとばしるように伸び、金色に輝いている虎《とら》の眼の黒い瞳《ひとみ》の中心でとまった。
襖絵《ふすまえ》の猛虎は、なおも咆哮《ほうこう》している。
「殿、おあらためを。――」
と庄九郎は槍を背後へころがして、平伏した。頼芸は立った。
深芳野もおもわず立ちあがった。
「おお」
と頼芸は、虎に顔を近づけてうめいた。
信ぜられぬほどのことだが、虎の瞳の中央に、プツリと銀針で突いたほどのかすかな穴があいている。
「勘九郎、でかした」
と、頼芸はほめざるをえない。
「おそれ入りまする。されば、この賭け、それがしの勝ちでござりまするな」
「いかにも」
「それがしの勝ちとあれば、お約束のものを頂戴つかまつりまする。――深芳野さま」
と、庄九郎は深芳野の手をにぎった。
「こちらへ参られますように」
と手をとりつつ、そろそろと畳を踏み、頼芸の座からはるかな座にさがって、膝をつき手をつき、平伏した。
深芳野も、庄九郎の横にすわりながら、血の気をうしなった顔を、頼芸のほうにむけている。
頼芸は、いまにも泣きだしそうな顔で深芳野を見ていた。
「深芳野さま。なにをなされております」
と、庄九郎は頼芸へも聞こえよとばかりの大声でたしなめた。
「頭《ず》をおさげあそばすように。ながいあいだの殿のお手塩かけた御養育、おん礼申しあげられますように」
「はい。……」
と、泣くような小声でいった。
「殿様、深芳野は、……」
「おお」
と、頼芸は、おもわず腰を浮かし、
「み、深芳野、なんぞ申すことがあるか。申すことがあろう、申せ」
と、歯に唾《つば》を溜《た》めていった。頼芸にすればこの瀬戸《せと》際《ぎわ》で深芳野が駄々《だだ》をこねてむずかってくれることを望んだのであろう。そうすれば庄九郎に、――このかけは戯《たわむ》れじゃ許せ、と頼み入ろうと思ったのである。
「早う、申せ」
「はい。……」
深芳野の細い頸《くび》すじに、さっと血がさしのぼった。
恨みの言葉がのど《・・》さきまで出かかっていたが、それがすらすらと云《い》えるような習慣を、深芳野はもっていない。
諦《あきら》めて、別のことをいおうとした。
云わねばならぬことであった。頼芸の子を、深芳野はそのほそい体にやどしている。まだ三月にしかならず、侍女のお国もそのことに気づいていなかったが、頼芸には閨《ねや》で明かしたことがある。頼芸はそのことを忘れたのであろうか。
深芳野は、そのことについて頼芸に言おうとした。
「…………」
と、こみあげてくるものを、何ひとつ表現することができない。思いあまってこの場は泣き伏すべきであったろう。
しかしふしぎと、涙も出ないのである。頼芸に対する恨み、憎しみが、この場の深芳野から、泣く能力さえ奪ったのであろうか。
「殿。――」
と落ちついて言上したのは、庄九郎のほうであった。
「それがし、賭けに勝ったりとはいえ、殿にとって天地にも代えがたい深芳野様を頂戴いたしましたる御恩は、生々世々《しょうじょうせぜ》、相忘れませぬ。このうえは深芳野様を通じておそれながら君臣は一体も同然……」
と、庄九郎は悪趣味な言葉をつかった。君臣がおなじ女の体を通じて結ばれた、というなまぐさいひびきを、この庄九郎のことばはもっている。
「されば、それがし、いよいよ身を粉にしてこの忠義をはげむ覚悟でござりまする。――深芳野様」
「は、はい」
「もはや、深芳野、と呼びます。殿のお気持がかわりませぬうちにいそぎ退出つかまつりましょうず」
と、膝行《しっこう》してさがろうとした。
頼芸の表情がゆがんだ。
「深芳野」
と声をかけ、伸びあがろうとするところを、庄九郎の声がぴしゃりとおさえた。
「ご未練でござる。武門の棟梁《とうりょう》たる者が、婦女子ごとき情をお持ちあそばすものではござらぬ。ご謀反《むほん》こそ男の大志と思い候《そうら》え。そのことについては数日後に登城つかまつり、くわしく言上するつもりでござりまする」
「そうか」
頼芸は力なくうなずいた。庄九郎のらん《・・》と光る眼に威伏されてしまっている。
庄九郎は、それが哀れになった。
「殿、ただいまも申しあげたとおりでござりまする。この西村勘九郎は股《こ》肱《こう》の臣とは申せ、譜代の家来でもこれ無く、また、お血すじを受けた御一門ご家門のはしにつながる者でもござりませぬ。その勘九郎めが、これから殿とともに、御一門にも洩《も》らせぬような秘策秘事をこらし、ついには美濃一国を殿のものにし奉ろうというときにあたって、殿との繋《つな》がりの薄さを、日ごろ悩まざるをえませなんだ。殿もおそらくはそういう心もとなさをそれがしにお持ちでございましたろう。この深芳野を拝領つかまつりましたうえは、もはや殿との御縁は、ご血族、ご縁類、譜代重恩《ちょうおん》のともがらよりも深う、重う、濃うござりまする。きょうはまことに……」
と、平伏した。
「おめでとうござりまする」
君臣が、女の体を通じて血を盛るよりも濃い杯を交したようなものだ、と庄九郎はいうのである。
気弱な頼芸はそういわれてみると、なにやらめでたく思わざるをえない気持になり、
「勘九郎、下げてとらせた深芳野を通じていつまでも変わらずにはげんでくれい」
と、頬《ほお》をふるわせていった。
「あっはははは」
庄九郎は傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に笑いとばしておくこともわすれない。この場の湿っぽい空気をいつまでも深芳野や頼芸に持ち越されてはたまらぬと思ったのである。
「なにを笑う」
頼芸は、眼をまるくした。
「うれしかったのでござる。いやいや、よだれが出申した。これからは、夜ごと深芳野を可愛がりながら、殿のおうわさなど致すでござりましょう」
あとは、くそ真面目《まじめ》な顔にもどって、しずしずと退出した。
頼芸は庄九郎と深芳野が去ったあと、もう一度、虎の襖絵のそばへ寄って、顔をちかづけてみた。
プツリと、小さな穴があいている。
手で、撫《な》でてみた。
(神業《かみわざ》のような腕だ)
槍の腕が、である。この人のいい男は、それを感心している。そのあげくに深芳野を、みごとに捲《ま》きあげて行った、庄九郎のもう一つの神業については、頼芸は夜になってからひしひしと実感せざるをえないであろう。
庄九郎は、深芳野を果樹の林のなかの屋敷に連れて帰った。
深芳野は、たった一日のうちにおこなわれたあまりにはげしい運命の転換に、ものをいう元気もない。
(まるで鉢《はち》活《い》けの木のような手軽さで、自分の運命が移しかえられている)
という憤《いきどお》りは、正直なところ深芳野の思考にはうかばなかった。環境の変化がはげしすぎて、ものを考える気力も体力も、深芳野から奪ってしまっていた。
「これが私の屋敷だ」
と、庄九郎は屋敷のすみずみまで案内し、赤兵衛、耳次などの郎党、小者などの男どもにもひきあわせ、さらにこの男の滑稽《こっけい》なことには、深芳野を庭へ連れだし、庭木の一本々々の幹をぱんぱんとたたいては、
「これは桃」
「これは栗《くり》」
「あれは柿《かき》」
と紹介してまわったのである。深芳野は、はじめはいちいちうなずいていたが、だんだん可笑《おか》しくなってきて、思わず頬に微笑をさしのぼらせた。
「ああ、そなたは愁《うれ》い顔もよいが、やはり笑顔が清げでよい。庭に連れだしたのは、もう一本の樹《き》を紹介したかったからだ。その樹は天にむかって亭々《ていてい》とそびえ、枝葉を繁《しげ》らせて美濃一国を蔽《おお》おうとしている」
「どの樹です」
「そなたの眼の前にいる。本来の名乗りは松波庄九郎、仮の名乗りは西村勘九郎」
「…………」
「どのようなことがあっても、そなたはわしを頼っておればよい」
口だけではあるまい。
そう断言できるだけの凜《りん》とした勁《つよ》さがこの男の五体をひき緊《しま》らせている。
頼芸にはないものであった。
庄九郎は、深芳野に部屋を一つ与え、老女のお国にも部屋をあたえた。
たちまち、屋敷が手狭になった。さっそく建て増しをせねばならないであろう。
とにかく、その日、屋敷うちでもっともおどろいたのは、京からきて滞留している赤兵衛であった。
「京の御料人様をどうなさるのでございまする」
「お万阿《まあ》か。あのままよ。山崎屋庄九郎の妻女は、天地、あの者しかおらぬ」
「安《あん》堵《ど》つかまつりました。しかしこのことは京に帰ってだまっているわけでおじゃるな」
「喋《しゃべ》れ」
「これはしたり」
「お万阿には申しきかせてある。深芳野は美濃侍西村勘九郎のもので、お万阿とはなんの関係もない。わしは二人いる」
「ははあ、べつべつなので」
赤兵衛は、あきれた。
「して、われわれはあの姫御前様のことをどうよべばよろしおじゃろうか」
「深芳野様とよべばよい」
「奥方様、とは呼び奉らずに」
「おお、そう呼びたければよべ。よび方などはどうでもよいことだ」
「すると、奥方様ではないのでおじゃるな」
「まあ、そうだ」
妾である。
庄九郎は、頼芸の寵愛《ちょうあい》している妾を、妾としてもらったわけで、それを正室にするつもりはない。
ひとの妾を本妻にするなどは、誇りの高い庄九郎の堪えられぬところである。
「驚きましたな。頼芸様の寵姫《ちょうき》をとりあげておいて、それをご正室にもなさらぬとは」
「あたりまえのことだ。正室などは政略によってやりとりするもので、男の想《おも》いの通わぬおなごのことだ。想いをかけたおなごは、側室こそのぞましい。もともと、正室、側室に上下はあるものか」
「すると、旦《だん》那《な》様は、まだこのあとご正室をどこかからお迎えなさろうというのでおじゃりまするか」
「どちらの旦那だ。山崎屋庄九郎のほうならちゃんとお万阿という正室がある」
「美濃のほうの」
「ああ、勘九郎のほうか。さきのことはまだわからぬわい。しかし深芳野を獲《え》たからといってあわてて正室の座にすえてしまう馬鹿《ばか》もなかろう。ああいう座は、明けておいてこそのちのちの妙味があるものだ」
深芳野にも、それがわからない。祝言《しゅうげん》はせぬのであろうか。今夜は、どこに寝るのであろう。……
「お姫《ひい》さま、不審でございまするな」
と、お国も声をひそめていった。
深芳野はだまっていた。一日のうちにこうも運命がかわりはてては、そのようなことまで考える根気がない。
夜がきた。
深芳野は、真新しい絹の臥《ふし》床《ど》に身を横たえた。
(来るか)
と、思った。が、疲れた。ついまどろみ、やがて深いねむりにおちた。
深夜、であったろう。
眼がさめたとき、臥床のなかに庄九郎が訪ねていることを知った。
「わしだ」
と、庄九郎はやさしく抱きよせた。その腕が、やがて深芳野のほそい骨が撓《たわ》むほどの力を加えてきた。
唇が、深芳野の唇を濡《ぬ》らしている。
「く、くるしゅうございます」
「あははは、これがわしの愛し方だ。お屋形はかようには愛さなんだか」
深芳野は、かぶりをふった。そのかぶりが途中でとまり、
(あっ)
と叫びが洩れそうになった。体をつらぬくような衝撃が、身のうちを走った。頼芸とはすべてに作法がちがっていた。
「いずれ、馴《な》れる」
「はい」
「深芳野、わしはついにそなたを獲た。いま天にものぼるような気持でいる。わしのよろこびに応《こた》えよ」
不覚にも、深芳野はつつしみを忘れた。忘れさせるものが、深芳野の胎内に蟠《わだかま》っていた。それがはげしく動いた。
長い髪がみだれ、深芳野がうごくたびに畳の上に渦《うず》を巻いて流れた。
「深芳野、よいか」
「はい」
「わしの子を産むのだ」
この夜、屋根の上の美濃の天には、星がおびただしく流れた。美濃の村々でそれをみていた者たちは、世に乱が来るのではないかとうわさした。まさか深芳野と庄九郎の合歓が、美濃の乱をつぎつぎに呼んでゆこうとは、たれも気づかない。
庄九郎は、深芳野の体から離れた。
「そなたのために屋敷を造りかえる」
と、庄九郎はいった。
「お国にも扶持《ふち》を与えるつもりだ。この西村はそなたの住みよい家にしてゆく」
庄九郎の胸の中に、深芳野は顔をうずめている。これが幸福なのかどうかは、深芳野にもわからない。ただ、温かい。
自分がいま抱かれている男がひどく高い体温をもっていることだけはわかった。
川手城
深芳野を得てからあとの庄九郎は、ただ一つの仕事にうちこんだ。
美濃の府城川手城を攻めとることである。
攻めとって国主(守護職)の土岐政頼を追っぱらい、弟の頼芸をその後釜《あとがま》にすることだ。それが、頼芸との約束になっている。
いいかえれば、頼芸に払う深芳野の、
「代価」
といっていい。
庄九郎は、深芳野とはじめての夜、抱きおえてから、その細くたおやかな小指を口に哺《ふく》み、噛《か》んだ。
「傾国《けいこく》の美女という古語がある。そなたのことだ」
傾国、傾城《けいせい》、おなじ意である。帝王が寵姫《ちょうき》の色香におぼれて国政をかえりみなくなり、そのために国が傾く、――それほどの美女だということだ。
「わたくしが? 解《げ》せぬことをおおせられます。いつ国を傾け参らせました」
「待て待て、これはちがうかな」
なるほど、考えてみると、この場合この言葉はあてはまらない。
深芳野の色香に迷ったのは庄九郎のほうである。庄九郎は帝王ではない。
その深芳野の代償に、なにも知らぬ美濃の帝王土岐政頼を追っぱらって国をそっくりその弟に献上しようというのだから、なるほど「城は傾く」にちがいないが、当の政頼こそいいつら《・・》の皮だ。
「いやいや、これはもののたとえだ。古来、傾国、傾城、国色、というのは美人の最高の形容ということになっている」
川手城。――
革手、河手、とも書く。
庄九郎は、城の様子を調べられるだけ調べた。
なにしろ川手城といえば、土岐氏の全盛時代、美濃、尾張、伊勢の三カ国百数十万石の鎮《しず》めとしてつくられた城館である。壮大な規模をもっている。
「殿、これが見取図でござる」
と、それから十日後、赤兵衛と耳次が、網膜にやきつけてきた川手城の郭内の道路、諸門、建物などを図面にしてさしだした。
「政頼様の御館《おやかた》はどれだ」
「これなる本丸御花畑のなかにござる。瓦《かわら》ぶきで、背後はお土居《どい》になっております」
「ご苦労だった」
庄九郎は、懐《ふとこ》ろに入れた。
ついで、自分の眼で城内の様子をたしかめるため、ある日、頼芸の使いとして、鷹狩《たかがり》の獲物などを持参して、川手城の政頼をたずねてみた。
この城は、現今《いま》では岐阜市の南郊の女子高校のグラウンドになってしまっている。城あとであることをかろうじて偲《しの》ばせるよすがとしてもち《・・》の樹《き》があり、老樹といっていい。樹のそばに「史《し》蹟《せき》川手城趾《し》」という石碑が立っている。それだけである。城をめぐって外濠《そとぼり》の役をなしていたという境川も、いまは溝《みぞ》ほどでしかない。
が、庄九郎のみた川手城は、ちがう。なんといっても、府城である。
(りっぱなものだ)
馬をゆっくり歩ませて、濠端をめぐった。
濠は、深い。渡れそうにもない。濠のむこうは、お土居になっている。石垣《いしがき》ではなく、濠を掘った土をかきあげたものである。およそ、防禦力《ぼうぎょりょく》はない。
大手門へは、板橋がかかっている。馬から降り、そのうえをコトコトと渡った。
番士が、庄九郎を門内に入れた。
「ご苦労」
と、庄九郎は愛想よく入った。
みな、ちかごろ美濃でうわさに高い庄九郎を、珍奇な動物でも見るような眼で、興ぶかげにみていた。
庄九郎はかまわず、あたりを見まわしている。
(なるほど、土岐家も泰平がつづきすぎた)
という実感であった。足利初期以来、この城には、頼康《よりやす》、康政、頼益《よります》、持益《もちます》、成頼《なりより》、政房、そして現在の政頼、と数代の守護職が住みつづけてきた。
城内の建物は、どれをとっても華麗すぎ、およそ戦闘用建築物という実感が湧《わ》かない。
もっとも、平地にある大名の居館というのはこのころまではこの程度のもので、それが戦闘用として大きな進歩をとげるのは、庄九郎のちの斎藤道三《どうさん》が稲葉山城(金華山城・岐阜城)をきずいてからのことである。
(これは、もろいな)
庄九郎は、建築設計者のような眼で、あちこちの建物、配置、道路、などをみた。建物の名や役割りは、赤兵衛や耳次に調べさせてあるので、その後ろがどうなっているかまで、見当をつけることができた。
それにもうひとつ、この中世風な旧式城館のよわいところがある。
城内や城下に、戦闘員が常駐していないことであった。高級武士たちは、みな知《ち》行地《ぎょうち》で小城を作って住んでいる。城から使番《つかいばん》が駈《か》けつけたり、陣触れの法螺《ほら》貝《がい》、太鼓がきこえ渡ってはじめて駈けつけるのである。
それが長い習慣であった。武家が興っていらい、平清盛も源頼朝《たいらのきよもり みなもとのよりとも》も足利尊氏《たかうじ》も、自分の城を築こうともせず、部将を城下にあつめておくこともしなかった。
(それでは、これからの時代に堪えることができぬ。攻防用のための一大巨城をつくる必要があろう)
庄九郎の脳中には、白《はく》堊《あ》で塗りこめた夢のような巨城がうかびあがっている。その城にくらべると、現実の川手城は子供だましのようにみえる。
番士に案内されて歩いていると、むこうから政頼の近習頭《きんじゅうがしら》のような武士がやってきて、
「西村勘九郎どのであられまするな、あるじにはお待ちかねでござる。こちらへ参られますように」
と、案内した。
庄九郎は、歩く。
(政頼はおれをきらっている)
ということは知っている。
「奸悪《かんあく》な男だ」
といっているらしい。
「弟の頼芸はああいう者を近づけて西村の名称まで継がせたらしいが、わしはだまされぬ。わしの城には寄せつけぬ」
ともいっているそうである。
しかし今日は、頼芸の使いだというからやむなく政頼は引見を承知した。
(はて、政頼はどういう態度で出るか)
庄九郎は、心のすみでそういう思案を楽しんでいる。
城内での政頼の居館は、東南に片寄っており、玄関は北にむいている。
はやりの書院造りである。
(あれが玄関か)
庄九郎は見たが、案内の武士は玄関にはあげず、建物のすみの柵《さく》の戸をひらき、庭へ通した。
庭へまわされた。
「これにてお控えありますように」
と、ひげの剃《そ》りあとの濃い近習頭は、気の毒そうにいった。
庄九郎は、白い砂利の上にすわった。この仕打ちは、ちょっと意外であった。下人の待遇である。
近習頭は、名を名乗った。
「それがし、当国明智郷《あけちのごう》を知行しまする明智九郎頼高と申しまする。お見お知りおき下さいますよう」
「ああ、高名の明智どのと申されるはそこもとでござったか」
当国土岐氏の支流で、美濃では名族のひとつである。庄九郎はかねてこの一族に接近したいと思っていた。
(なるほど、明智九郎頼高。――)
りっぱな武者顔である。
この九郎頼高の子が明智光秀《みつひで》となり、道三に私淑するにいたるのだが、これはこの物語ののちのはなしになる。
「西村殿、いずれ、ゆるりとお目にかかることもございましょう」
と明智は庄九郎にむしろ好意をもっている様子だった。
「それがしも楽しみにしております」
と、庄九郎は翳《かげ》の清げな笑顔でうなずいてみせた。明智頼高も、笑顔で酬《むく》いた。どことなくうま《・・》があった、というのが初対面の印象であった。
明智頼高は、足早やに去った。
庄九郎は、残された。
庭から見あげると、正面に欄干のついた階段があり、その上は濡れ縁である。そのむこうが、上座の間になっている。
待った。
一刻《にじかん》待っても、守護職土岐政頼はあらわれない。
(いやがらせだろう)
庄九郎は、ごろっと横になった。
手枕《てまくら》をした。相手がそういう態度なら、こっちも出方がある、という料簡《りょうけん》である。この際、おとなしくすわっていれば、相手は田舎貴族だからいよいよ軽侮するだろう。
やがて、濡れ縁を踏む多勢の足音がきこえ政頼の家来十五、六人が縁にすわった。
「西村勘九郎、起きませい」
と、ひとりがどなった。
庄九郎は、微動だにしない。
ほどなく、畳を擦《す》る音がかすかに聞こえてきたから、庄九郎は薄眼をあけた。
(あれが、土岐政頼か)
年のころは三十ばかりで、弟の頼芸には似ず、でっぷりとふとっている。
「御前であるぞ」
庄九郎は眼をひらき、ゆっくりと居ずまいをただし、しかるのちに平伏した。
「西村勘九郎にござりまする」
「聞きおよばぬことだ。そちは弟の頼芸のもとに居候《いそうろう》しておる京の油商人山崎屋庄九郎ではないか」
と、体つきに似合わず、かん高い声が庭へ落ちてきた。
「そういう名もござる」
「予はいま、山崎屋庄九郎としてのそちに引見している。されば、庭へまわした」
「殿は、油買いをなさるのか」
と、傲然《ごうぜん》といった。
「美濃の太守おんみずからが油の一升買いをなさるというなら、売りましょう」
「だ、だまれ」
「何をおおせある。たったいま、油屋を引見していると申されたではござらぬか。油屋の御用なら油の売買しかないはず……」
「控えろ、西村勘九郎」
といったのは、政頼の家老をつとめる長井利安《としやす》であった。利安は頼芸の家老職長井利隆の一類で、美濃では、
守護代様
小守護様
などとよばれている。この男も庄九郎がきらいらしい。
「ほほう、西村勘九郎とよばれましたな。西村勘九郎なら頼芸様の家来でござる。ただいま主命によって御使者をつとめておる。そのお使者を、下人、罪人同様、白《しら》洲《す》にまわすとはこれはいかに」
といい、さらに口早やにいった。
「いま一度申しあげまする。西村勘九郎は主人の名代《みょうだい》で参上しておりまする。それを白洲にすわらせるとは、とりもなおさず、当国の弟君頼芸様を白洲にすわらせるのとご同様でありましょう。小守護様、いかに」
「愚、愚《ぐ》弄《ろう》いたすか」
「愚弄されているのは、当方じゃ。いやいや愚弄はかまいませぬ。今日のこの処遇《あつかい》をみて、頼芸様を下人に堕《おと》しめられるご所存とお見受けし奉りました。しかと左様でござりましょうな」
脅迫している。
「小守護様、ご返答はいかに」
相手は、押しだまった。
「主人が羞《はず》かしめられている。本文《ほんもん》にもござる、主羞かしめらるれば臣死す、と。されば西村勘九郎、この場を立ち去らず、太刀をとって主人の恨みを晴らすべきや否《いな》や、いま寝ころびながらうつうつと考えておったところでござりまする。さて小守護様、いかに」
「お、おのれ、雑言《ぞうごん》……」
「待った、まだ申しのべたきことあり。当国の街々《ちまたちまた》、あるいは村々に流布されているあやしきうわさがござる。おそれながら当国の守護職政頼様、いかなるご存念かは知らねども弟君頼芸様をうらみ奉り、いついつの月明の夜に鷺山《さぎやま》城を押しかこんで成敗《せいばい》をなさるとのおうわさ、これはまことでござるか」
うそである。庄九郎がのちの行動への伏線のためにわざと作った流《る》説《せつ》で、うわさは赤兵衛と耳次が流してまわっている。
政頼、長井利安らには、むろん初耳であった。
「西村勘九郎、言葉をつつしめ」
「時と場合がござる。これほどゆゆしき大事をきいては、つつしむゆとりはありませぬ」
「そのうわさ、たれにきいた」
「たれかれ《・・・・》はござらぬ。国中の百姓まで存じておりまするわ。それがし、はじめは一笑に付した。信じませなんだが、しかしきょうのこのお取扱いを見て、信ぜざるを得まいかと思うようになりました。このこと、いかに」
白洲にいる男が、かえって弾劾《だんがい》する立場になっている。
「いかに。ご返答の次第では西村勘九郎、この場を去らず斬《き》り死の覚悟をきめておりまする。疾《と》く疾《と》くご返答賜わりまするように」
「…………」
長井利安は、政頼のそばに寄り、なにやら耳打ちをした。
やがて座にもどり、
「勘九郎、その流説、根も葉もない。いずれゆるりと言いきかせるによって、まずまずこの場は堪忍《かんにん》せい。そのほうを庭へまわしたこと、これは当方の手ちがいじゃ。いずれ後日、殿にあらためて引見を賜わるよう、わしが取りはからう。きょうは機《き》嫌《げん》よう引きとってもらえまいか」
と、態度がひどく変わった。
守護職土岐政頼は、不快そうに立ちあがった。
そのあとを、侍どもがぞろぞろとついてさがってゆく。
庄九郎も、立ちあがった。
日が暮れかけている。
庄九郎は別室に案内され、そこで湯漬《ゆづ》けを頂戴《ちょうだい》した。例の明智頼高が、相伴役《しょうばんやく》としてすわっている。
「いまひと椀《わん》」
と、庄九郎は、小姓に椀を出した。
小姓が、六つ目を盛った。
「ご健啖《けんたん》でござるな」
と、明智頼高があきれた。
「いやいや、あれだけ喋《しゃべ》りますると、腹の減るものでござりましてな、五椀までは腹のどこに入ったか、わかりませなんだ」
最後の椀をさらさらと片付けおわると、庄九郎は両ももに両手をおき、背筋をのばして居ずまいをただした。
「なにをご思案なされてござる」
と明智頼高がきいた。
「いや、もし毒が入っておればそろそろまわりはじめるころだと思いましてな、胃の腑《ふ》の様子をたしかめております」
「驚きましたな」
明智は、庄九郎が湯漬けを所望したとき、じつは感心した。こちらが毒殺しようと思えば、これほどの機会はない。
庄九郎も、そういう懸《け》念《ねん》をもったであろう。にもかかわらず湯漬けを六ぱいも平らげた度胸に明智頼高は舌をまいたものである。
小姓が膳《ぜん》をさげた。
そのすきに明智頼高はすばやく耳うちしてくれた。
「なに?」
と、庄九郎は耳をよせ、片膝《かたひざ》をたたいた。
「帰路、闇討《やみうち》の用意があると?」
「しっ、声が高うござる。ただご注意召されと申しているだけじゃ、あるとかないとかとは申しておらぬ」
「もっとも、もっとも」
庄九郎は懐《ふとこ》ろから妻楊《つまよう》枝《じ》をとりだして、歯をせせりはじめた。
明智頼高は、この男の度胸にあきれかえって、ただぼう然と眼をひらいている。
火炎剣
「帰路、お気をつけなされ」
と明智頼高が庄九郎に耳打ちしたことは、うそではない。
川手城では、闇討の支度が整っている。討手の物頭《ものがしら》には、可児《かに》権蔵《ごんぞう》という豪の者がえらばれた。権蔵は、のちに講談の豪傑として立川文庫などで登場する可児才蔵の父である。
――よかろうな権蔵。
と、肥《ふと》った守護職土岐政頼が、じきじきに命じた。
「相手は槍《やり》の名人ときく。くれぐれも油断すまいぞ」
「なんの、ぬかりはありませぬ」
可児権蔵は、よろこびをおさえかねて膝をたたいた。この当時の武士気質《かたぎ》で、闇討であろうが上意討であろうが、主君からわざわざ名指しでえらばれたというのがうれしいのである。忠義などというような徳川時代的なじめついた道徳ではなく、すべてが個人の名誉が中心になっている。権蔵の武勇の名誉を美濃のお屋形様が見《み》出《いだ》してくれたというのがうれしいのだ。
権蔵は、自分の家来を所領の可児村に置いてきているために、人数は「小守護様」の長井利安に借りた。十人。
それを引きつれて、城を出、城外の三丁松原というあたりに身をかくした。
そのころ庄九郎は湯漬けを食いおわり、懐ろから妻楊枝をとりだして歯をせせっていたわけである。
シイ
シイ
と音をたてながらせせっている。この男はあご《・・》が前へ出ているから、歯などをせせっていると笑っているようにみえる。
やがて妻楊枝を捨て、手をたたいた。給仕の児《こ》小姓《ごしょう》が次室で指をついた。
「それがしの供の者をおよびくださらぬか」
やがて、赤兵衛と耳次がきた。
「赤兵衛、おん前に」
「耳次、参上つかまつりましてござります」
「低声《こごえ》で話したい。寄れ」
へへっ、と二人はにじり寄ると、庄九郎は城方に闇討の計画があるらしいと打ちあけ、
「城方としてはさもあるべきこと。むろん覚悟していたところだ」
と、楽しそうに笑い、もう一本妻楊枝をとりだして、再び歯をせせりはじめた。
「耳次、お前は帰路をさぐりに行け。敵の人数、弓矢の有無を調べて、わしが城門を出るころに報告せよ。赤兵衛、そなたは城下の町で荷車を二台、大鍋《おおなべ》を二つ、薪《たきぎ》を十束、荏胡《えご》麻油《まあぶら》を二斗ほど買いもとめて城門のところでわしの下城を待っておれ。急げ」
二人は、出た。
そのあと、庄九郎は時間をかせぐために、給仕の児小姓をよび、医者をよんでほしい、とたのんだ。
「腹が、痛む」
仮病をつかって、ごろりと寝た。
やがて、医者がきた。脈をとり、薬を煎《せん》じはじめた。庄九郎は待っている。煎じおわるころには、耳次も赤兵衛も、命じられた役目を終えていることであろう。
煎じおわった。
医者がそれを茶碗《ちゃわん》にうつし、庄九郎に進めようとしたが、庄九郎は服《の》まない。
「どうやら、おさまったようです。脈をとってもらっただけで治ったようだ」
と、部屋を出た。
やがて城門を出た。
すっかり夜になっている。朔日《ついたち》で月はなく星だけがあった。
耳次が寄ってきた。
「討手は二十人ほどです。弓矢はもっておりませぬ」
「それはよいあんばいだ。赤兵衛」
と、闇のむこうへ声をかけた。赤兵衛が、ごろごろ荷車をひいてきた。
「お前はそういうものをひかせるとよくうつるようだ」
冗談をいってみなの気をやわらげさせ、供の者一人ずつに荷車をひかせ、一台は前、一台は背後をすすませた。
「赤兵衛、そろそろ火を焚《た》け」
「かしこまって候《そうろう》」
荷車には、一基ずつ、大鍋を積んである。その鍋にはたっぷりと油を満たせてあり、油の上には護摩《ごま》でも焚《た》くようにして薪を組みあげてあった。
赤兵衛は、それぞれ火をつけた。
ぼおーっ、と炎があがり、やがてえんえんと星を焦《こ》がすほどに燃えあがった。
庄九郎は、二台の「火炎車」に前後をまもられながら歩いてゆく。
川手城下の町の者は驚いた。火を見てかけつけてくる者もあった。
――どなただ、あれは。
――鷺山《さぎやま》の頼芸様の執事で西村勘九郎さまとは、あのひとではあるまいか。
「奇態な行列じゃ」
みなあきれた。庄九郎は、成功した。火炎に照らされながら行く者が西村勘九郎と城下の者にわかった以上、川手城ではうかつに闇討はできない。下手人がたれ、討手の命令者は何者、ということがわかってしまうからである。
庄九郎は、さらに派手だった。
「赤兵衛、町人どもにそういえ。いまからわしが、日蓮宗《にちれんしゅう》秘伝の歩き護摩《ごま》なる火の修法をつとめるゆえ、無病息災を冀《こいねが》いたい者は火の粉をかぶりながら鷺山までついて来い、功《く》徳《どく》深大《じんだい》であるぞ、と」
「へへっ、左様申しきかせまする」
赤兵衛は群衆の前に立ちはだかり、庄九郎ゆずりの弁舌をふるって、それを伝えた。
なにしろ群衆は、庄九郎が美濃では常在寺のほかその宗旨の寺のない日蓮宗の修法者あがりだということをうすうす知っている。
しかも、日護上人《にちごしょうにん》の兄弟子だったという。
還俗《げんぞく》しているとはいえその行力《ぎょうりき》は大きかろうと思い、われもわれもと二台の荷車のそばに寄ってきた。
南《な》無妙法蓮華経《むみょうほうれんげきょう》
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙……
と、庄九郎は首からかけた、数珠《じゅず》をかいつまみ、掌の中で擦《す》りあわせながら、よく透る朗々たる声で経文を誦《ず》しはじめた。
群衆は、どっと沸いた。この宗旨がめずらしいだけに、その感動も新鮮なのにちがいない。
一方、三丁松原で待ち伏せている可児権蔵は、街道のむこうからやってくる大火炎とそれをとりまく群衆に肝をつぶした。
「可児様、可児様、どうなされます」
と、人数のうちのおもだった者が、青くなって駈けつけてきた。
「これでは闇討もなにも、できませぬ」
「それでは、よせ」
可児は、ふてくされている。
「は?」
「臆《おく》したのなら、よせというのだ。仕《し》物《もの》は、わし一人だけでやる。わしも可児郷の権蔵といわれた男だ。相手が炎を背負ってやってきた、といっておめおめしっぽを巻いて城へ帰れると思うか」
「あのなかに斬《き》り込めとおおせられますか」
「あははは、いやか」
「いやではござりませぬが、あの明るさとあの群衆の前では、われわれが川手城の者、というのがすぐわかるではありませぬか」
「わかってもよい」
「そ、それは、われらが主人(利安)にも迷惑であり、ひいてはお屋形様(政頼)のご評判にもかかわりまする」
「わしはそういうこそこそした小細工がきらいでな。闇討といえば武士にとって戦場も同然だと考えている。花々しく名乗りをあげて斬りこもうと思うんじゃ。いやな者はいまから帰れ、可児権蔵が手《て》柄《がら》を一人占めするぞ」
「そ、それは強慾な」
たれしも、功名心がある。
前後も考えず、白刃をきらきらと抜きつれた。手《て》槍《やり》を持つ者は、リュウリュウとしごきを呉れて、火炎の近づくのを待った。
「…………」
と、可児は前方を見ている。
松が、火炎の照明に映えて夢の中の風景のようにあえかである。群衆が踏みたてるほこりが、彩雲のように松の梢《こずえ》にたなびいていた。
それが、こちらへ動いてくる。しかも朗々たる誦経の声が湧きあがっている。
やがて、それが題目の合唱になった。
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
庄九郎は、その合唱の中央にいる。自分も大声でとなえている。
が、眼はらんらんとあたりを見、配り、瞬時も油断がない。法悦のなかで庄九郎のみが眼醒《めざ》め、かれのみが題目の功《く》力《りき》などをこれっぽちも信じていない。
(来たな)
庄九郎は松林の根方のあちこちに動く人の影をみて、佩刀《はいとう》のコジリをあげ、鯉口《こいぐち》を十分に切った。
切りながら、群衆のほうにむかった。
「ご信心、重畳《ちょうじょう》に存ずる。ここまでのあいだ護摩火の法火を浴びただけで、もはや無病息災の功力は十分であろう。鷺山まで来ていただきたかったが、不幸な事態がおこった。前方に、刺客《せっかく》が待ち伏せておる。川手城のお屋形様が、鷺山の御舎弟様を亡《な》きものになさろうと思い、まずその手はじめとしてわれらに討手を差しむけられた。われらここで主人がために奮戦するゆえ、そこらあたりに身を隠してこの場をよく見とどけ、後日の物語にされよ」
群衆は、一瞬、息をのんだ。やがて崩れたち、逃げ帰る者、松の根方に身を沈める者、庄九郎へ励ましの言葉をどなる者、荷車のあとにつき従おうとする者、など、さまざまの行動をとりはじめた。
庄九郎はさらに荷車をひかせてゆく。
やがて、その火炎の照らす中へ、夏の虫のように飛びこんできた者がある。
庄九郎の数珠丸恒次が鞘走《さやばし》った。一合もまじえず、飛びちがえざま、斬り捨てた。
ぐわっ、と敵は路上にころがり、手で地面をたたいた。
庄九郎はそれにとどめを刺し、赤兵衛をさしまねき、
「後日の証拠になる。首を獲《と》れ」
といった。
このあざやかすぎるほどの太刀さばきに、敵はあきらかに鼻白んだようである。あとはたれも飛びかかって来ない。
庄九郎と火炎車が、さらに進む。
やがて、可児権蔵の眼《ま》近《ぢか》まできた。
権蔵は、大剣をひきぬいて、のそのそと路上に出て立ちはだかった。
「西村勘九郎であるか」
「いかにも。おぬしはたれじゃ」
「美濃可児郷の住人可児権蔵でござる。さる人より仕《し》物《もの》をつかまつれ、と命じられた。お覚悟あそばさるべし」
「ああ、美濃でその人ありと聞こえた可児権蔵とはお手前であるか、一度、会うてみたいものと思うていた。あたら勇士が、戦場ならばともかく、仕物のごとき用に使われるとは口惜しいことだ」
庄九郎は、権蔵のような男の心をつかむことも心得ている。
権蔵は、あきらかにひるんだ。庄九郎が川手城できいたような男でなく、意外にも武者惚《ぼ》れのしそうな男だったのである。
が、だからこそよき敵だともいえる。
足を踏み出した。
その足を、庄九郎は赤兵衛から槍を受けとりざま、横なぐりに払った。
権蔵は跳びあがって避けたが、体が崩れた。足が地におりたときには庄九郎の槍の石突が、胸まできている。
ぐっ、と庄九郎は突いた。
突かれて、よろけた。
そのすきを庄九郎の槍はさらに天空で翻《ひるがえ》って、ふたたび足を払った。
キ《どう》っと倒れた。
庄九郎はすかさず、槍の穂先を、権蔵ののど輪にあてた。まるで奇術のような槍のさばきである。
「動いてはならん、怪我をする。可児どの、お働き、感服つかまつった。さすが、三国に知られたる勇者と見奉った」
嘲弄《ちょうろう》しているわけではない。
庄九郎は、大まじめである。
「ただ、拙者の槍が、おぬしの太刀よりも寸がすこし長かっただけのこと。負けても恥にはなりませぬ。後日、またゆるりと茶をのみながら物語をすることもありましょう」
と、庄九郎は槍をひいた。
可児権蔵は、ゆるりと起きあがり、わるびれもせぬ態度で、庄九郎のそばに寄った。
「わしの負けだ」
と、庄九郎の肩をたたいた。
「負けてもあれほどの槍だ、恥にはならぬ。これにて兵を退《ひ》く」
のしのしと闇の中に消えてしまった。
庄九郎は四、五丁歩いてから、ぼそりと赤兵衛にいった。
「美濃は武者どころときいたが、なるほど、明智頼高といい、可児権蔵といい、ずいぶんと面白《おもしろ》そうな男の居る国だ。ただそれらは草深い山里住いの郷侍《ごうざむらい》ばかりで、この国の権力をにぎっている連中は、ふしぎと侏儒《こびと》ばかりがそろっている。侏儒を追いはらってああいう武者を使えば、これは天下にまたとない強国ができあがるだろう」
庄九郎は、昂奮《こうふん》している。この男ほど人間を馬鹿《ばか》にしながら、この男ほど人間に惚れやすい男もめずらしい。
翌朝、鷺山城に登城した。
頼芸に拝謁《はいえつ》し、昨日の川手城のこと、三丁松原での出来事をつぶさに言上した。
この侏儒《・・》は、それだけで仰天した。
「やはり、兄上はわしに意趣があるとみえるな、勘九郎」
「意趣どころではありませぬ。殿を亡きものにせねばお屋形様の権勢の根がさだまらぬというもの。殿をほろぼすのは当然の必要から出たものでございます。その殿の手足を断つためにまずこの勘九郎を討つことからはじめられたのでございましょう」
「わかった」
眼が吊《つ》りあがっている。
「わしは殺されるのをべんべんと待つような男ではない。こちらから押し寄せて討とう」
「殿、国中に御下《おげ》知状《ちじょう》をおまわしなされませ」
幸い、頼芸には人気がある。それに長井利隆の家来、被官もあわせれば、たちどころに三千人は得られるであろうと思われた。
「勘九郎、兄はどのくらい集めるであろう」
「集めようとなされば、当国の守護職でございますから、一万人以上は容易でございましょう」
「一万人に対し、当方はわずか三千人」
頼芸は、おびえた。庄九郎は、笑った。
「殿の御勘定は、算盤《そろばん》の勘定でございます。このような戦さの勘定は、一万人に三千人、というような単純なものではありませぬ。まずまず勘九郎めが勘定をご覧あれ」
庄九郎の勘定は、川手城の手薄を見はからって一挙に攻めることである。攻めとって政頼を追っぱらって頼芸を守護職にしてしまえば、美濃の豪族、郷侍どもはあらそって主従関係をむすぶであろう。
かれらは、政頼が可愛《かわい》いのではない。また頼芸に対し、わが身にかえてもと思うほどに敬愛しているわけでもない。すべて、わが身がいちばん可愛いのである。そういう個人主義でこの時代の主従関係は成り立っていた。
「あははは、戦さは加《か》減《げん》(足し算、引き算)ではござらぬ」
と、庄九郎はまず頼芸に下知状をかかせ、それに長井利隆に連署させた。
庄九郎はその夜から下知状をもって、美濃の小豪族、郷侍どもの城を一つずつまわりはじめたのである。
那《な》那《な》姫《ひめ》
庄九郎は、陰謀にいそがしい。陰謀こそこの男の生き甲斐《がい》であった。
(いずれは美濃一国をとるのだ。こまめ《・・・》に歩かねばならぬ)
不破《ふわ》郡、養老郡、海《かい》津《づ》郡、安八《あんぱち》郡、羽島郡、揖斐《いび》郡、本《もと》巣《す》郡、稲葉郡、武儀《むぎ》郡、郡上《ぐじょう》郡、可児《かに》郡、土岐《とき》郡、恵那郡、など、国中にこまかく割拠している村落豪族どもをたずねあるき、頼芸の下知状をまわして歩いた。
むろん、金をまいている。
このために、京の山崎屋から毎月のようにおびただしい金品が運ばれてきていた。
美濃の諸豪族にとっては、まるで福の神のような男だ。
ただし、庄九郎をきらう者もある。はっきりと守護職政頼方の者もある。そういう男のところへは、むろん行かない。
当時庄九郎は、
「赤《せき》兎《と》」
と名づける駿馬《しゅんめ》を手に入れていた。馬というより猛獣のようにあらあらしい大馬で、これに乗り、槍一筋をかかえて、国中の野道を歩き、谷を渉《わた》り、山を越え、雨が降ろうと風が吹こうと庄九郎は国中を歩きまわるのである。
「鷺山の頼芸様はお気の毒でござる。あれほどの器量をおもち遊ばされていながら、兄君の守護職さまにそねまれ、いまのままでは兄君のために害されておしまいになるかもしれませぬ。頼芸様はあなたさまを頼りにされております。お力になってあげてくださりますように」
といってあるくのだ。
明《あけ》智《ち》郷《ごう》などは、何度も足をはこんだ。例の明智下野守《しもつけのかみ》頼高の領地である。
明智郷は三《み》河《かわ》ざかいの山谷《さんこく》で、美濃平野からは二十里ちかく離れており、径《みち》は馬も脚をすくませるような嶮《けん》路《ろ》がつづいている。
このため美濃平野のひとびとはこの東方の山嶺《さんれい》を怖《おそ》れ、この一帯を、恵那郡とも明智ともいわず、ばくぜんと、
「遠山」
と通称しているほどであった。ちなみに徳川時代の名町奉行といわれて講談などで「遠山の金さん」として親しまれている遠山左衛《さえ》門尉景元《もんのじょうかげもと》の先祖はこの地から出ている。
「よくぞまあ、かような山深いところまで渡《わ》せられた」
と明智頼高はそれだけで庄九郎にすっかり好意をもってしまった。
庄九郎も、かの豪族に近づきたい。できれば、濃密な上にも濃密な関係をむすびたい。将来かけて自分の手足になってもらえそうなのはこの明智一族だと見込んだのである。
庄九郎は、頼高に惚《ほ》れてかかっている。
頼高もまた、それがわかるのか、川手城で庄九郎を見たときから、虫が好いた。
山谷《さんこく》の地は智者を生むという。そのせいでもあるまいが、この明智頼高というのは、美濃の数ある村落貴族のなかではなかなか思慮ぶかそうな人物であった。
世界観をもっている。
「勘九郎どの」
と、庄九郎のいまの名をよんだ。
「ここは山《やま》家《が》でござるが、明智の山は東は信州につらなり、南は三河につづいている。つまり、美濃、信濃《しなの》、三河の三国の国境いでござる。そのため諸国の情勢が、かえって美濃の野にいる連中よりもわかりやすい」
それだけに頼高は諸国の動きに敏感なのであろう。敏感でなければ、国境の小領主などはうかうかするまに隣国に併呑《へいどん》されてしまうのである。
頼高はさらにつづけた。
「京都の幕府はあってなきようなもの。国々ははげしく動いている。諸国に英傑がむらがり興りつつある。そのなかにあって美濃のみが安きを偸《ぬす》み、つかのまの平和の上に居ねむっているわけにはいかぬ。――力のある者が」
とそこで言葉をとぎらせ、庄九郎の眼をのぞきこみ、
「土岐家を盛りたてなければ、やがてはこの国を隣国の強者にぬすまれてしまう」
といった。
最初にこの明智郷の頼高の居館を訪ねたとき、三日も泊まりこんだ。
そのとき庄九郎は、恋をしている。いや恋といえるかどうか。
滞在中、庄九郎は屋敷に那那《なな》という娘がいるのを知り、ひどく興味をもった。
頼高にとっては末の妹にあたるむすめで、齢《よわい》がかけはなれているということもあって頼高は、この娘を自分の子以上に可愛がっている。
眼の切れの異常なほどに長く、唇《くちびる》がやや深い。美人とはいえないが、男の劣情をそそるなにかをもっている。
(これは欲しい娘じゃ)
庄九郎は、京から届いた品物などを那那にやって手なずけた。品物といっても、金銀でもなければ織物でもない。
菓子である。
娘は、菓子をよろこんだ。
よろこぶはずで、まだ八歳である。
「那那どの、那那どの」
と庄九郎は、子供であることをいいことに抱きあげたり、頬《ほお》ずりをしたりした。
まったく油断のならぬ男だが、かといって庄九郎は、八歳の女児に懸《け》想《そう》せねばならぬほど女に不自由をしているわけではない。そこまで変質な好色家でもないのである。
思惑がある。
那那が庄九郎を慕って膝《ひざ》の上に乗りにきたりすると、髪をなでてやり、
「どうだ、那那どの。大きくなればわしが嫁御料人にならぬか」
と囁《ささや》いたりする。
本気である。恋をうちあけているようなつもりだ。
この娘が明智家の亡《な》き当主の遺児とすれば庄九郎がそれを娶《めと》った場合、明智一族は庄九郎の意のままになるであろう。庄九郎は、そのことにきめた。
那那も、変になついてくる。もっともそこはこどもで、菓子がめあてだったにちがいない。
なにしろ、砂糖のめずらしいころで、砂糖をつかった京菓子などはこの美濃の山里では宝石のようなものだ。那那がよろこんだのもむりはない。
「あはははは、那那めはすっかり勘《・》九郎どのになつきましたな」
と頼高は、そこまで庄九郎の遠大な計画がわからないから、眼を細めてこの大人とこどものむつまじさをながめている。
三度目に明智郷を訪ねたとき明智頼高はおもいもよらぬことをいった。
「いかがでござろう、那那は勘九郎どのにあれほどなついておりますゆえ、鷺山のお城なり、勘九郎どののお屋敷なりに、しばらくおあずかりくださるまいか」
これは、暗に別の意味を表現している。明智一族が鷺山の土岐頼芸に味方する以上、明智側から人質をさしだすのが、この時代の当然の礼儀であり、政治的表明であり、誠意の披《ひ》瀝《れき》であり、ごく常識的なルールである。
頼高は、那那を人質としてさしだした。庄九郎は膝を打ち、
「頼芸さまはおよろこびなさるでありましょう」
といった。その実、庄九郎がおどりあがるほどよろこんでいる。
庄九郎は、那那を京の衣裳《いしょう》で可愛くかざりたてて、鷺山城下の自分の屋敷にともない帰った。
早速、大工《たくみ》どもをよび集め、夜を日についで仕事をさせ、邸内に那那のための座敷を一《ひと》棟《むね》建て増した。
たかが八歳の女児の住いとしては贅沢《ぜいたく》すぎるほどの結構である。深《み》芳《よし》野《の》の居室よりもりっぱであった。
「大切なあずかりびとだから」
と、深芳野にはとくしん《・・・・》させたが、彼女は決して愉快ではなかった。
(大名の人質ならいざ知らず、たかが山里の土豪の娘ではないか)
大事にしすぎるようである。
そのうえ、庄九郎は自分で那那を湯殿に入れてやるようなことまでした。
深芳野は、心平らかではない。むろん、たかが八歳の女児、ということはわかっている。しかし那那という児に対する庄九郎の態度は、どこかきなくさい《・・・・・》。
(おかしい。……)
とはおもうのだが、自分の嫉《しっ》妬《と》があまりにばかげているので、老女にもいえない。
(からだ《・・・》のせいであろう)
体とは、深芳野自身のそれである。そとめにはさほどめだたぬほうだが、臨月《うみづき》に近くなっていた。心が、たださえいらだつ時期である。
が、ありようは、深芳野が不審におもうのもむりはなかった。
深芳野は、湯殿で庄九郎が那那に何をしているかを次第に知るようになった。ぬか《・・》袋で那那の体を、まるで玉でも磨《みが》くように庄九郎はたんねんに洗ってやっている様子なのである。
ある夜、寝所で、
「まだ女児《ちいさご》とは申せ、おなごのことでございます。お手ずから肌《はだ》を洗ってさしあげるのはよい趣味とは思えませぬ」
と、深芳野はひかえめながらいった。
「劣情でしているというのか」
庄九郎は、意外にもかげ《・・》のない声で笑った。
その明るい笑いに、深芳野は正直なところほっとした。
深芳野は庄九郎を、まださほど好きになれぬとはいえ、
(この男こそ、唐土《から》の三国志などに出てくる英雄というものか)
と思うようになっている。その「英雄」が女児にいたずらをするような陰湿な趣味をもっているはずがない、とも思いなおすのである。
「ではなぜ、そのようなことをなされます」
「めずらしいのよ」
庄九郎は、事もなげにいった。
「なにが?」
深芳野には、わからない。
「なにがめずらしいのでございますか」
「女児《ちいさご》の体が、よ。わしは幼年、少年、青年の時代を通じて寺門という禁慾の場所でそだった。おなごへの思いが鬱《うっ》しておった。還俗《げんぞく》してからようやくおなごに接することができたが、喝食《かっしき》(寺《てら》稚児《ちご》)のころ寺にはおらぬ女児というものが一体どういうものかをさまざまに妄想《もうそう》した想《おも》いが、まだ心の底に滓《おり》のように溜《た》まっている。いまなお抜けきれぬ」
「わかりませぬ。お万阿《まあ》どのやわたしも、おなごでございますのに」
この二人の体でわからぬのか、といいたいのだが、さすがにそこまで口に出して言う勇気はない。
「いや、そなたやお万阿の体は大人だ」
(いやらしい)
深芳野は、顔を伏せた。
「そなたやお万阿を愛しておればこそ那那に興味をもつ。いったい、そなたやお万阿がなぜこのようになってきたか、それが知りたかっただけのことだ」
単なる好奇心であるといいきった。そういえば庄九郎という男は、いったん物に興味をもった以上、じつに執念ぶかい。好奇心が知識になるところまで調べぬく性癖をもっているようである。
「しかし、もう……」
「やめよというのか」
「はい。さもなければ深芳野はあなたさまをきらいになりそうでございます」
「言うな」
庄九郎は、生真面目《きまじめ》な顔をした。
「深芳野、そなたをわしは愛している。できることなら、そなたの女児《ちいさご》のあいだから愛したかった。男はそういう願望をもっている」
「庄九郎さまだけでございましょう」
「わしは慾望のつよい男だ。愛した以上は深芳野の過去まで愛したい。が、過去はここに見ることも手でふれることもできぬ。深芳野の過去が、いま那那にある」
「されば」
深芳野は驚いた。
「那那どののそこ《・・》に手をお触れでございますか」
「あははは、あたりまえよ。触れることによってとりもなおさず深芳野を愛している」
「坊主!」
と叫びたくなったが、口をつぐんだ。坊主にはそういうえたいの知れぬ論理がある。その論理を駆使し、その論理であらゆる自分の行動を正当化しつつ、なしうるかぎりの悪をこの男はこの現世で働こうとするのだ。
「深芳野」
と、庄九郎は抱きよせようとした。
(厭《い》や!)
と、体で抵抗した。手をふれられるのもいやな気持である。
庄九郎は高声で笑った。わらってから、
「そなたはまだわしがわからぬ」
と、手を離した。
(わからぬで幸い。――)
深芳野は、心中で叫んだ。むざむざと自分をこの男に奪《と》られてしまった頼芸のことを、このときほどなつかしく思いだされたことはない。
「おお、動いている」
庄九郎は、不意にいった。掌を深芳野の腹の上にのせている。その下に胎児がいる。
「男だな」
庄九郎は、いった。深芳野が、はっとするくらい無邪気な声《こわ》音《ね》だった。
「わしの後継者がこの中にいる」
「…………」
「動いている」
庄九郎は、深芳野の上に耳をつけた。深芳野は眼をひらいて、天井《てんじょう》を見た。
懸命に表情を消そうとして、天井を見つめつづけた。
(復讐《ふくしゅう》。――)
というほどの激しい気持は湧《わ》かなかったがそれに似たひそかな快感はあった。動いている。しかしこの胎児は庄九郎の子種ではないことを、深芳野だけはわかっている。
頼芸の子であった。頼芸が残していった子種が、いま息づいている。この子が成人したとき、自分と庄九郎と頼芸に、どのような運命をもたらすのだろうか。
が、庄九郎は飽きずに耳をつけていた。深芳野は、この男があわれに思えてきた。
(利口なようでも)
と深芳野はおもった。その場所には男がついに踏みこめぬようにできている。いかに庄九郎の智謀をもってしても、男はついに女の最後の部屋までは覗《のぞ》けない。
しかし深芳野の胎内のことはわからなくても、庄九郎は美濃の胎内がわかっている。
ほぼ、味方となるべき諸豪族への手あてもすみ川手城の守備の様子も手にとるようにわかりはじめた。
ついに政変をおこすべき夜がきた。大永七年八月の明月の夜、庄九郎は鷺山城下に五千五百の軍勢をひそかに集結せしめた。
府城乗っ取り
沼沢《しょうたく》の多い土地だ。
その夜、月が金華山上にのぼったとき、庄九郎のクーデター部隊は鷺山城下を進発した。
ところどころの沼が、月明をうけてきらきらと光っている。
美濃の野は、はん《・・》の樹《き》が多い。樹々は、半身、月を浴びて魔性《ましょう》のように野のあぜのあちこちに佇立《ちょりつ》している。
五千五百の具足の群れが、その雑木のなかをうねる細い道を、二列になって進んだ。
馬には枚《ばい》をふくませ、具足の草摺《くさずり》には金具がふれあわぬように縄《なわ》でむすび、槍《やり》の穂にはわら《・・》を巻いて月光の反射を避け、将士にはだまらせた。
鷺山城から、美濃の政府の川手城まで一里半。
「いい月だ」
と、庄九郎は先頭に馬を進めながら、兜《かぶと》の目庇《まびさし》をあげて月をふりかえった。今夜が中秋の明月である。
(大変な月見になったな)
と思うと、庄九郎は腹の底からおかしさがこみあげてくる。
大永七年八月の満月は、団々《だんだん》とのぼってゆく。庄九郎は、上機嫌《じょうきげん》であった。
めざす川手城では、国主の政頼が、京風の観月宴を張っているはずであった。
(いまごろ城内には音曲が湧き、女どもの舞扇が舞っていることであろう)
だからこの夜をえらんだ。城内の人数は女が百人、侍が百人、おそらくそれ以上は居まい。
しかもありがたいことに美濃の国主土岐政頼は、この平穏な美濃の国のなかで反乱がおころうとは夢にも思っていないのである。
鷺山城を出発するとき、土岐頼芸が庄九郎を別室によび、
「勘九郎、大丈夫であろうな」
と、真蒼《まっさお》な顔で念を押した。歯の根があわぬような様子であった。
「ご念には及びませぬ。あすは川手城にお引き越しあそばす御用意でもなされてお待ちくださりますように」
「心もとないことだ」
「あははは、勘九郎の腕前が疑わしゅうござりまするか。まずまず今夜は早う御《ぎょ》寝《し》あそばすか、お得意の鷹《たか》の絵でもお描きなされて佳《よ》き夜を心安うお過ごしあそばしますよう。翌朝お目覚めあそばせば、殿は美濃の守護職、国主の君におわします」
「そのように事が簡単にゆくものかどうか」
庄九郎はそれには答えず、
「とまれ、美濃を奪って差しあげるのは殿から深芳野を頂戴《ちょうだい》致しましたるときの約束でござりまする。勘九郎、舎利(骨)になっても殿との御約定《ごじょう》だけは果たさねばなりませぬ」
「ご苦労なことだ」
頼芸は、礼をいっている。とにかく累代《るいだい》の貴族というのは、赤児のようなものだ。
「深芳野と申せば殿、なかなかよいおなごでありまするな。殿とそれがし、あれ《・・》の一つ体を知っておりまするあいだがら。このごろは肉《み》がよう練れて、よろこび深いおなごになり申した」
「左様か」
頼芸は、物悲しそうにうなずいた。
「おなごとして肉が熟しましたるせいか、掻《か》いいだきますると、陰《ほと》の息づき、体のわりにはたくましゅうござって……」
「勘九郎、よい加減にせい」
頼芸は、聞くのがつらいらしい。深芳野の秘所のぐあい、閨室《ねや》でのふるまい、息づかいまでが、ありありと想い出されてくるのである。
「しかしもはや臨月《うみづき》にも近うござれば、大事を踏み、もはや閨室に呼び入れはしませぬ」
「そうあるべきことだ」
「この勘《・》九郎にとってはじめての子でありまするからな」
「ふむ。……」
頼芸は、用心ぶかく庄九郎を見た。どうやら深芳野の胎内に動いているのは自分の子であると庄九郎は思いこんでいる様子であった。
(これほどの男でも、抜け目があるものらしい)
頼芸は吻《ほっ》とし、芸術家らしく人間というものの存在に可笑《おか》しみを感じもした。
その庄九郎は、月下の長《なが》良《ら》川《がわ》を渡った。
かねて浅瀬を調べてある。
「わが馬のあとにつけ」
と、庄九郎は、百年この川ぶちに住んでいたような馴《な》れた手綱で浅瀬、中《なか》洲《す》を拾いつつ、川を渡った。
向う堤に乗りあげ、さらに部隊は進んだ。
可児《かに》権蔵《ごんぞう》が、馬を寄せてきた。
「西村殿、頼みがある」
「何でしょう」
と、庄九郎は顔を真っすぐむけたままきいた。
「わしは一番乗りをつかまつりたい」
「結構なことです」
「白《しら》を切ってもらってはこまる。先鋒《せんぽう》は明智殿ではないか。わしを先鋒にやってくれ」
当時の武士なのだ。
この間まで政頼に仕えていたのに、きょうはそれを攻める先鋒になりたいという。武名だけが大事なのである。
「この軍のなかに可児権蔵が加わっておらぬというならば知らず、加わっておるという以上は一番を他人にゆずったというは、国中、隣国への聞えもよろしからず、ぜひぜひ追《おう》手《て》門《もん》の先鋒をうけたまわりたい」
「ぜひもない」
庄九郎はうなずき、自分が裏門《からめて》の大将をひきうけているのを、あっさり可児権蔵にゆずった。武功は他人に立てさせるものだ。のちのちまで可児の一番乗りが人々の記憶に記録される以上、この反乱の主謀者の一人としてぬきさしならぬ名になる。
「裏門《からめて》をまっさきかけてうち破られなば、可児殿の武名は、上方《かみがた》、関東まで響きましょう」
可児が自分の行軍序列にもどると、それをきいてこんどは七、八騎の武者が庄九郎のそばに馬を寄せてきた。
「解《げ》せぬ」
というのである。
「権蔵めが小身者のくせに裏門の先鋒を頂戴するとは面白《おもしろ》からぬ。われこそは一番の城入りを仕りたい」
「天下に弓矢で響いた美濃衆はそうあるべきが当然です」
庄九郎は、愛想がいい。
それに頼芸の代官という名目だから、自在な指揮権がある。
「されば、おのおの、追手門の先鋒を相つとめなさい」
「明智殿ではないか」
「左様、明智殿も先鋒です。しかし今夜の夜討は二番、三番を設けず、われこそは一番を相勤めんと申される方々は、追手門の前に馬を立てならべ、早きが先鋒、ということで喚《おめ》きかかられては如何《いかに》」
士気は、わっとあがった。
庄九郎はすぐ馬を駈《か》けさせその了解を得るために明智頼高に近づき、次第をやわらかく述べ、
「お手前は、今夜の副将格でござる。ぜひとも、若殿ばらの気持を容れてやっていただきたい。戦さは逸《はや》りこそかんじんじゃ」
「よう申された」
明智頼高は、あくまで庄九郎に好意的である。簡単に譲歩してくれた。
やがて川手の城下町の灯がみえた。
そのころ、庄九郎が察したとおり、美濃の守護土岐政頼は、観月の宴に酔い痴《し》れていた。
「さらに舞え」
と、みずから小鼓《こつづみ》をとった。
舞うは、京の白拍子《しらびょうし》の群れである。古風な水干《すいかん》に衛府《えふ》の太刀を帯びた姿は、なんともなまめかしい。
五人、居る。
実をいうと、庄九郎の命令で杉丸《すぎまる》が京からよびよせた芸人どもで、数日前から川手城下に逗留《とうりゅう》させていた。むろん政頼は庄九郎が背後で糸をひいているとは夢にも知らない。
城下に京からきた舞い手がいるときいて政頼はさっそく観月の宴によんだのである。
杉丸は、その白拍子の宰領役、というふれこみである。さいわい、庄九郎の家来だということは、城内ではたれも知らない。
杉丸には、今夜の夜討についてはなにも洩《も》らしていない。洩らせばこの小心者は仰天するであろうし、たださえ芝居のできぬ堅《かた》気《ぎ》のお店者《たなもの》だからうろたえて正体がばれてしまわぬともかぎらない。
赤兵衛と耳次は、この白拍子のむれにまぎれて城内の番小屋にいた。番小屋の連中にはかねて金銀でよしみを通じてある。
「耳次」
と、赤兵衛はささやいた。
「月があの松のあたりに来る刻限、御主人様が討入りなされるはずだが、まだその気配もないようだな」
「なんの、合図の火矢が一箭《いっせん》、天空に飛んだときにわれらは追手門のかんぬき《・・・・》をはずせばよいだけ。空を見て待っておりましょう」
「逸《はや》るの」
だんだん刻《とき》がすぎた。
御殿では、政頼はもう舞を観《み》るどころではない。
そこに舞っている白拍子のたれかれを早く選んで寝所に入りたくなっていた。すでに小鼓の役は小姓にゆずっている。
白拍子も、稼業《かぎょう》がら、そういうしお《・・》は心得ていた。
一人ずつ舞から抜けては、政頼の前に膝《ひざ》をすすめて酒を注ぐ。注いでは立ちあがり、胡《こ》蝶《ちょう》のように舞の連れのなかにもどってゆく。
さらに、一人が舞いおりるようにして政頼の座の前にすわる。
さらに一人が。
といったぐあいに何度かそれをくりかえすうち、政頼の気に入った者ができてくる。
「そのほう」
と、小嵯峨《こさが》とよばれる舞姫の手をひきよせた。小嵯峨の袂《たもと》がひるがえり、燭台《しょくだい》の灯がゆれた。
消えた。
「来《こ》よ」
と、政頼は膝をたて、腰を浮かせた。部屋には、残りの燭台が三基、ほのかな灯《ほ》明《あか》りをつくっている。
政頼が、よろりと立ちあがった。
「あぶのうござりまする」
と、あとの四人の白拍子が走りよって政頼の体に手をそえた。
「おお、うれしや」
政頼は、美食で肥《ふと》った体をわざとよろけさせてみせた。
顔に、薄あばたが残っている。頬《ほお》にぼってりと肉のついた鈍い顔だちである。
実弟の頼芸とは、まるで顔だちがちがう。性格もちがえば、趣向もちがう。兄の政頼は毎日豚のように食って寝て、脂肪をふとらせるだけが用事の男である。弟のような詩文の教養もなければ、画才もない。
ひどく好色なところは似ている。いや女色以外に血をわかすどういう目標がこの環境にあるのだろう。
貴族は、ただ生きているだけでよい。累代、生きつづけてきた。しかしやがては、幾代目かのその首が血の祭壇に上せられねばならぬのが、いわば貴族の家系のこの世の役目のようなものである。
庄九郎はそう思っている。
かれが追手門の前で反乱軍を部署しているとき政頼はいっぴきの豚のようになって寝所にころがりこんだ。
五人の白拍子が、政頼の体を中心にもつれあっている。児《こ》小姓《ごしょう》が政頼に練絹《ねりぎぬ》の寝巻を着せた。着せられながら政頼はその五人に、五人ながら伽《とぎ》をすることを命じた。
「いやか」
政頼の眼に、白眼がひろがった。ひやりとするほどの酷薄な眼である。
「わしはこの国の守護職だ。この国の空をとぶ鳥、地を這《は》う蟻《あり》いっぴきといえどもわしの意にさからっては生きられぬ。云いつけをきかねば即刻首を刎《は》ねて、そこの河原に捨て梟《さら》しにする」
「怖《こわ》や」
女どもはおどけて騒いだ。が、もともと色をひさぐのが稼業のうちでもある。ひとわたり、おびえたりすねたりしながらも、やがて衣装を解いた。
政頼は満足した。国主としてのかれの威令が発せられた最後であったろう。
そのころ、反乱軍は城内に乱入した。
庄九郎は、戞々《かつかつ》と馬をすすめて、城内の侍屋敷、お長屋のあたりまで来ると、
「天命革《あらた》まれば王死す、という。当代お屋形様は、国土の守るべきを知らず、隣国の侮りの至るの近きを知らず、政道を懈《け》怠《たい》し、民心をうしない、その暴悪、桀紂《けっちゅう》にひとし。よって御《ご》連《れん》枝《し》頼芸様の命により、これを討たんとす。今日よりは当国の守護職は頼芸様である。もし頼芸様に忠をはげまんとする者は、弓を捨て、鉾《ほこ》を伏せよ。進んで頼芸様のために働かんとする者は、働きに応じ、分《ぶ》限《げん》に応じ、恩賞の御沙汰《ごさた》、胸をふくらませて待つべし」
りんりんと呼ばわった。
べつに政頼は暴悪の国主というほどではない。妙覚寺本山で学んだ漢籍知識で、言葉を調子づかせてそういったまでだ。
城内の侍たちは驚き、それぞれ武器《えもの》をとり雨戸を蹴《け》倒《たお》してとびだしてきた。
そのうち、大野十郎勝成という者、政頼の母《ほ》衣衆《ろしゅう》の一騎で豪勇を知られた男だが、これは寝巻のままで回廊を駈けわたり、長《なが》柄《え》をふりかざして濡《ぬ》れ縁から庭へとびおりた。
二、三合、庄九郎の槍《やり》と渡りあったが、打物とっては庄九郎の敵ではない。
槍が走って、大野の胴を串《くし》刺《ざ》しにし、槍をひくや、背後にまわった男を石突で突き倒し、
「手向うて、命を損ずるな」
と叫びながら奥へ奥へと進んだ。
「なんだ、あの物音は」
と、政頼は、枕《まくら》もとで肉の垂れた顔をあげた。どうみても暴悪《・・》の国主というほどの行動力もなさそうな顔である。
「嵐《あらし》でございましょうか」
と、横の小嵯峨がいった。まさか小嵯峨らは自分たちがこの反乱の重要な役割を演じていようとは夢にも知らない。
そのとき、血槍をかかえた近習《きんじゅう》の武士が、
「お屋形様!」
と駈けこんできた。
政頼はおどろいてとびおきた。一糸もまとっていない。
「申しあげます。頼芸様御謀《ごむ》反《ほん》でござりまする。もはや諸門ことごとく打ち破られ、城内を足音もとどろに駈けまわっているのは敵ばかりにて、お味方のあらかたは討ちとられましてござりまする」
「えっ、頼芸が? そちは夢でもみているのではないか。いや、夢であろう」
土岐家は数百年、泰平の夢を見つづけてきた。政頼はこの期《ご》におよんでも醒《さ》めないらしい。
「早くお支度を」
「ど、どうするのだ」
体が、たったいままで戯《たわむ》れていた小嵯峨の体のもので濡れている。その鼻先で「お支度を」といわれても、政頼はなにをしてよいのかわからない。
「ま、まさか自害せよというのではあるまいな」
「ご運のつづくかぎり、落ちのびねばなりませぬ。お装束《しょうぞく》を。――」
といってから近習の武士は、部屋のすみでかたまってふるえている五人の白拍子を、狂気をふくんだ眼でにらみすえた。
「おのれども、当国には見覚えぬ浮かれ女《め》。さては今夜の夜討の者どもを手引いたか」
とわめくなり、一閃《いっせん》。槍を繰り出した。
あとは、血と叫喚が、寝所を地獄にした。またたくまに女の死体が五つ、部屋、廊下のあちこちにころがった。
政頼は、その血しぶきの中で、せかせかと下帯を締め、小《こ》袖《そで》をつける作業にいそがしかった。
そのころ、庄九郎が回廊を風のように走って寝所へ近づきつつあった。
大狂言
庄九郎は廊下を走り、政頼の寝所の杉《すぎ》戸《ど》の前までくると、内部の気配をうかがうようにして戸に耳をつけた。
廊下は暗い。
具足姿の庄九郎は右手に槍、左手にタイマツを持ち、その炎は庄九郎の野望そのもののように粉を星のようにとばして燃えさかりつつある。
杉戸の絵は、京の画人がわざわざ美濃によばれてかいた絵らしい。岩絵《いわえの》具《ぐ》を盛りあげてかいた「火炎太鼓」である。
ぐらっ、
と、杉戸をあけた。なかに踏みこむと、血がある。
死体がある。
五つ、女ばかりであった。
その死体のなかで、らん《・・》と眼をむいて槍を構えている近習の武士が一人、それにその背後で衣装をつけおわったばかりの美濃の国主土岐政頼が、ふるえている。
「お屋形様でござりまするな」
庄九郎は、一歩、踏み出した。
この瞬間こそ、庄九郎がその生涯《しょうがい》で何度かみせた大狂言のうちでも最たるものであったろう。
「この城、頂戴《ちょうだい》つかまつる。いやさそれがしではござりませぬ。お屋形様の御弟君頼芸様にお譲りなされますように」
「あ、あぶら屋!」
と、どなったのは近習武士である。
「そのほう、商人《あきゅうど》の分際にて不《ふ》逞《てい》の心根《こころね》をいだき、御弟君をそそのかし参らせ、乱をおこし、弑逆《しいぎゃく》の大罪を犯さんとするか」
「おそれ入る」
庄九郎はその者にいんぎんに一礼し、
「弑逆とは臣にして君を殺すという意味でござるが、それがしはさきごろ、頼芸様の使者としてこの川手の府城に登城つかまつりましたるとき、お屋形様はそれがしをあぶら屋として遇された。美濃の国主と油屋、主従関係があろうはずがない」
庄九郎の足に、女どもの血が流れてきている。
「さらに申す。それなる政頼様、頼芸様の御父君政房様は、御生前、家督を頼芸様に継がせようとなされた。一部老臣の反対にあい、小戦さまでおこり、ついに御兄君政頼様が国主になられたわけでござりまするが、これは御父君の意思に逆いしことならずや。孝は国の大道なりと申す。不孝の国主を上にいただくことは一国のみだれをまねくもと」
冗談ではない、乱れのモトは庄九郎そのひとではないか。
庄九郎もさすがにこの道学者めいたせりふがおかしかったのか、ちょっと小首をひねってから、声をたてて笑いはじめた。
ひどく明るい声であった。
「お屋形様に申しあげまする。もはやあなた様にはこの乱世のなかで美濃一国を経営する能がないとそれがしは見申したわ」
「それがしとは何者ぞ」
政頼は、歯噛《はが》みしている。唇から血が流れていた。恐怖よりも憤《いきどお》りで体がふるえている。
「それがしとは、ここに居るそれがし」
「油屋か」
「でもあり、でもござりませぬ。お屋形様の眼には何と映っているか存じませぬが、天が美濃を革《あらた》めて国を興せと命じたる毘《び》沙門天《しゃもんてん》であるとお思いなさるが、まずまずご無難でありましょうな。――お屋形様」
「な、なんじゃ」
「ひれ伏しなされい」
庄九郎は威厳に満ちた足どりと、それこそ毘沙門天像のような炬《きょ》のような眼をひらいてゆっくりと政頼に近づいた。
近習は、やっとわれにかえり、さっと槍を繰りだしてきたが、庄九郎はすばやく槍の柄《え》で払い、力を喪《うしな》って流れたその槍を、足をあげて踏み折った。
近習は太刀のツカに手をかけた。
半ば抜きかけた相手の手もとにとびこみ、タイマツの火のカタマリをその顔へおしつけた。
「わっ」
とのけぞった。
「おのれがこの白拍子どもを殺したか。何の罪あっておなごを殺す」
もとはといえば、妙覚寺本山をとびだして庄九郎は還俗《げんぞく》したあと、一時は下人同然の境《きょう》涯《がい》に陥《お》ちた。いわば白拍子どもとおなじ階層の出身ともいえる。
「このあぶら屋もまた人を殺す。が、すべて天の命によって殺す。あぶら屋の殺戮《さつりく》はすべて正義と思え。しかしながらおのれどもの人を殺すは、恐怖か憎悪、この二つの理由からしかない。このあぶら屋は恐怖も憎悪もなく人を殺すぞ」
「………?」
と、武士には意味がわかるまい。
「お屋形様、お命だけはたすけて進ぜますゆえ、美濃へは再びおもどりなさるな。舞いもどられたときはこのあぶら屋の槍がお命を申しうけまするぞ」
そういわれるとにわかに恐怖がよみがえったのか、政頼は、わあーっとけものじみた叫びをあげて逃げだした。近習がそのあとを追った。
「裏門《からめて》から落ちられよ」
と庄九郎は声をかけ、すばやく先まわりして裏門口《からめてぐち》の大将の可児《かに》権蔵《ごんぞう》に声をかけ、政頼に手をかけるな、といった。
ただ、庄九郎は自分の手兵百騎をもって政頼を追わせた。送り狼《おおかみ》のようなものである。
庄九郎から意を受けた送り狼どもは、政頼を追い、大垣から関ケ原に入り、さらに北国街道を北上させ、越前まで走らせた。
越前一乗谷《いちじょうだに》に首都をもつ朝倉氏は、北陸王といっていい。美濃土岐氏とは在来婚姻《こんいん》を重ねてきたため、政頼はその朝倉孝景をたよって身を寄せた。
翌朝、庄九郎は軍勢のうち五百を割《さ》き、可児権蔵を大将にして鷺山《さぎやま》城に急行させ、頼芸を迎えさせた。
頼芸は即日、美濃の府城である川手城に入り、国主の位置についた。
庄九郎は、京都へも手をうった。朝廷も足《あし》利《かが》幕府も何の威権もないが、賞典の授与権だけはもっている。ほどなく朝廷から頼芸に美濃守任官の沙汰《さた》がくだり、幕府からは美濃守護職としての相続を公認する旨《むね》、沙汰がくだった。
(これはこれでよし)
庄九郎は頼芸に賀意をのべた。
頼芸も無邪気なものだ。
庄九郎の手をとり、
「そちのおかげだ」
と、眼をうるませた。庄九郎は手を頼芸にあずけながら無表情にうなずき、
「深芳野を頂戴つかまつりましたるときの御約束を果たしたまででござりまする」
といった。
このいわばクーデターのおかげで、つい数年前までは一介の油商人にすぎなかった庄九郎は、国主の執事となり、権勢ならぶ者はない存在となった。
が、その権勢も内実は不安定なものであることを、たれよりも庄九郎自身が知っている。なにしろ、頼る者といえば頼芸だけで、頼芸の権威の蔭《かげ》にかくれてそれをあやつっているだけの存在なのだ。
美濃八千騎。
といわれる。この面積四百方里の国で、それだけの小領主がいるのである。その向背《こうはい》のいかんによっては庄九郎の位置もあぶないものだ。
とにかく頼芸は、庄九郎に対する論功行賞として本巣郡文殊城《もとすのこおりもんじゅじょう》(現在の岐阜市から西北五里)を与えた。
が、庄九郎はこの城と領内の村々を一度見に行ったきりで、行こうともしない。もっともまるっきり無関心でない証拠に、領内の百姓の租税を美濃の他領よりも心持ゆるやかなものにした。
当然、百姓の好感を得た。この時代の百姓は、徳川時代のような法制化された「階級」ではない。兵農はまだ未分離の状態にあり、大百姓はいざ軍陣のときには小領主に動員されて騎馬武者(将校)になる者もあり、その百姓屋敷に飼われている作男どもはときに卒として活躍する。かれらの世論は重要というべきであった。
庄九郎はそういう「領民」どもをたくみに手なずけた。
なにしろ、庄九郎は京に山崎屋というぼう大な富があり、せかせかと百姓どもを搾《しぼ》らねばならぬようなしみったれた小領主ではない。
とにかく、その城には住まない。川手城内に屋敷をつくり、頼芸と肌《はだ》を接するようにして土岐家の家政をみている。
「文殊城では不満なのか」
と、頼芸が心配そうにきいた。
「いえ、文殊城はこの川手城から遠うございます。毎日登城ができぬとあっては、御奉公にさわりがございましょう」
そういう庄九郎に、意外な幸運が舞いこんだ。もたらした者は、長井利隆である。
利隆は、常在寺日護上人の兄で、庄九郎が美濃にきた最初から異常な好意をよせている老将である。
美濃の大豪族の一人であり、土岐の一族で、頼芸の少年時代から後見人をつとめてきた人物であることは、この物語の最初のころに紹介した。庄九郎を頼芸に引見させたのも利隆だったし、庄九郎の才能に対し気味わるいほどの尊敬をはらってきた唯一《ゆいいつ》の有力者でもあった。
かつ、この川手城攻撃の兵力の大半は、長井利隆の一族、家来なのであった。そこまで庄九郎を支援してきた。
利隆にすれば、庄九郎の才能を愛してそれを支援することは頼芸を支援することであり、かつ、隣国で成長しつつある近江《おうみ》の浅井氏、尾張の織田氏の脅威から美濃をまもる唯一の方法であると信じていた。
(あの男さえおれば、わしは安《あん》堵《ど》して眼を瞑《ねむ》れる)
とも思っている。
利隆は、病身であった。それがちかごろほとんど病床にあり、自分の余命がいくばくもないことに気づきはじめていた。
ある日、庄九郎を加納城内の病室によび、
「自分の気がかりなのは、頼芸様の御身の上と、美濃の安危である。どうだろう、そこもとがより一層に頼芸様に御奉公してくれるように、また御奉公しやすいように、私の家の名跡《みょうせき》と城を受け継いではくれまいか」
という意味のことをいった。
信じられぬことである。利隆は悩乱したのではあるまいか。どこの国に、えたいの知れぬ風来坊に城と領地と家名をゆずる馬鹿《ばか》がいよう。
「…………」
庄九郎は、枕頭《ちんとう》をわずかにさがって両手をついたまま、眼だけは注意ぶかく利隆の表情を読みとろうとしている。
利隆は、すこし瞳《ひとみ》に灰色がかってはいたが、澄んだ眼をもっていた。うそや冗談をいっている表情ではない。しばらく眼をつぶって考えごとをしている風《ふ》情《ぜい》であったが、やがて、
「庄九郎殿」
と、利隆はふるい呼び名でよんだ。
「悪人とはなにか、ということを、わしはむかしから考えつづけてきた」
(………?)
庄九郎は、眼をあげた。話は、意外な内容に発展しそうであった。
「庄九郎殿は、考えたことはござるか」
「それがし、かつては桑門《そうもん》(宗門)に居りましたれば」
――当然、善悪の問題は考えてきたことだ、という意味のうなずきかたを、庄九郎はした。
「そうであった、そなたは京の妙覚寺本山の大秀才であったな。ゆらい、日蓮宗というのは、善にも強烈な人間を出し、悪にも強烈な人間を出すということをきいた」
「左様、他宗は知らず……」
庄九郎は、日蓮宗の哲学《・・》に触れた。
「日蓮宗以外の他宗というのは、善悪の問題があいまいでござりまする。法然《ほうねん》、親鸞《しんらん》の浄土門にありましては、人間の存在そのものが、悪であると申しまする。人間は、魚介鳥獣《ぎょかいちょうじゅう》などの生きものの命を奪って食うしか肉体《しきしん》をたもつ方法がなく、女人《にょにん》を愛さねば子孫の繁殖ができず、そのように、殺生《せっしょう》、女犯《にょぼん》をせねば生きてゆけぬように作られた存在が人間であると申しまする。されば、釈尊の教えから見ますれば、救われぬ者がにんげん。そういう人間というものを、悪は悪のままで、信篤《しんあつ》き者も信薄き者も、そのありのままの姿で救うてくださるというのが阿弥陀《あみだ》如来《にょらい》である、と申しまするが、日蓮宗にあっては左様には寛容ではありませぬ。日蓮宗の根本経典《こんぽんきょうてん》である法華経を信ぜぬやから《・・・》は、たとえ世にいう善人であろうとすべて悪人であり、世を毒し、国をほろぼす者だと申しまする。自然、善悪というものに強烈なこだわりを持ちまするゆえ、そのせいか、日蓮の徒には悪人が多い。たとえ悪行《あくぎょう》をしても法華経を念《ねん》持《じ》すれば罪障が消滅するというべんりな教えがござりまするゆえ、すさまじい悪をする者があるようでござりまするな」
庄九郎は、けろりとしていった。とりもなおさず、この男のことではないか。
とは、長井利隆は思わなかった。
庄九郎の才器に心酔しきっているのである。
「いや、話がむずかしくなったが、私のいう悪とか悪人とかは、別のことだ。つくづく考えてみるに、無能の国主、無能の家老、無能の領主とは、乱世にあっては悪人だな」
「ほう」
驚いてみせたが、庄九郎も同感であった。
「この美濃をみよ」
長井利隆は目をつぶった。
なるほど、美濃はここ十年ほどのあいだ、何度も浅井、織田氏から国境を侵略され、そのつど出戦しているのだが、勝ったためしはない。
国境の百姓どもこそ、いいつらのかわで、稲の取り入れ時分になると近江の浅井軍が侵略してくる。
稲を刈ってしまうのだ。
(なんのための守護職か)
と、関ケ原付近や墨股《すのまた》付近の国境にいる百姓どもは恨みぬいているという。百姓だけではなく、その付近の地侍もさんたんたるもので、侵略されるたびに親を殺され、子を殺され、貯蔵している武器、食糧を掠奪《りゃくだつ》され、牧田という郷村にいる地侍で牧田右近という者は妻子を近江の浅井衆に殺されたあげく、乞食のような姿で京へ流れて行ったという。
この悲惨のモトはたった一つである。土岐家に人材がいないことだ。
国主は歴代無能つづきだし、それを補佐する豪族どもも、ろくな者がいない。
「わしをふくめて、そうだ」
と、利隆はいった。
要するに利隆のいうところ、領土を経営する者が無能なるは最大の悪であり、悪人であるというのである。
「頼芸様は、政頼様よりましとはいえ、あのとおりの人だ。大軍を率いて、浅井や織田に打ち勝てるお人ではない。また、累代《るいだい》腐りきった土岐家の組織を快刀乱麻を断つがごとく建てなおせるお人でもない。その補佐役のわしがこのとおりの病身で無能ときている。いわば悪人だな」
「…………」
となると、庄九郎は天がくだした無上の善人ということになるであろう。
「このままでは、土岐家はほろび、美濃はほろびる。わしのような悪人《・・》は引退せねばならぬ」
長井家は、土岐家の支族としても最大のものだから、庄九郎がこの家を継いでこの家の名において美濃の政治に臨むならば、少々の荒療治もできるであろう、と利隆はいうのだ。
「だから譲る」
――本気かな? と庄九郎は思った。
利隆は、本気であった。敏感な男だけに庄九郎が怖《おそ》るべき存在であることもわかっているにちがいない。が、この男に腕をふるわせる以外に、美濃は滅亡を待つばかりだということも、利隆は知っている。
利隆は、ひどく無慾になっていた。
病身で精気が衰弱しているせいでもあろうし、累代の名家の末というのは、利隆のように慾を置きわすれてうまれてきたような者も出るらしい。それになによりも利隆には子がなかった。
庄九郎は、養子という形になった。
利隆はすべてを庄九郎に譲り、自分は髪をおろして僧体になり、武《む》儀郡《ぎのごおり》の山奥の寺に隠《いん》棲《せい》してしまった。
庄九郎は、このとき、
「長井新九郎利政」
という名前にかわった。わずかな間に庄九郎は、妙覚寺の法蓮房、松波庄九郎、奈良屋庄九郎、山崎屋庄九郎、再び松波庄九郎、ついで西村勘九郎、さらにはこんど長井新九郎という名にかわった。
かわるたびに、人生が一変している。一生のうち、一人で何種類もの人生を送ろうというつもりらしい。
とまれ、加納城主になった。
川手の府城を奪取してから、わずかひと月目のことである。
変転のはやさ。
生きる名人というべきであろう。
女買い
加納城主になった庄九郎の毎日は、ひどくいそがしい。
庄九郎は、目標を二つ樹《た》て、すべての精力と智恵と行動を、それに集中した。
一つは、美濃八千騎の地侍どもの慰撫《いぶ》である。
(どこの馬の骨かもわからぬような男に、川手城につぐ美濃第二の要城を乗っとられてたまるか)
と、たれしもが思っている。人間通の庄九郎に、その感情がわからぬはずがない。
(思うのが当然なことだ)
庄九郎は、ひとりおかしかった。
どう慰撫するか。
(わし自身にはできぬ)
それだけの権威が、まだ庄九郎にはない。
(ただ一つ、策がある)
それは、あたらしい守護職、国主、美濃守、お屋《や》形様《かたさま》であられる土岐《とき》頼芸《よりよし》の神聖権を利用することである。
美濃八千騎といっても、かれらは、鎌倉《かまくら》以来ここで勢力を扶植《ふしょく》してきた土岐家の一門、一族、姻戚《いんせき》、遠縁関係にあたる者ばかりで、いわばこの一国は一つの巨大な血族団体になっている。
その宗家(本家)が、守護職頼芸なのだ。
当時の日本人の宗家への気持は、信仰といっていいほどのもので、この信仰がわからなければ、頼芸がこんどあたらしく就《つ》いた「守護職」という地位のありがたさが読者にはわかりにくい。
守護職は、その後に天下にぞくぞくとむらがり出てくる出来《でき》星《ぼし》の成りあがり大名とはちがい、血族の「神」なのである。
そのころまでの日本民族は、氏族社会の連合体であった。とくに武士にあっては。
余談だが、日本史の治乱興亡を通じて、なぜ天皇家が生き残ってきたかといえば、この血族信仰のおかげである。
氏族の頂点に、天皇家があるのだ。土岐家は源氏で、その遠祖は八幡《はちまん》太郎義家にさかのぼり、さらにそのかみは清《せい》和《わ》天皇から出ている。源平藤橘《げんぺいとうきつ》すべて、その祖を天皇家におく。
当時、どの日本人も、むろん土民までも、遠祖はその四姓のいずれかであると称した。
たとえば庄九郎は自分のモトの姓の松波氏が遠くは藤原氏から出ていると称している。のちにかれの女婿《むすめむこ》になった織田信長は、はじめは藤原氏と称し、途中で平氏に変えた。徳川家康は伝説的な家系をつくり、源氏と称した。
それら、日本人のすべての氏の総長者《そうちょうじゃ》が天皇なのである。
血族信仰の総本尊といっていい。だからその存在が神聖とされ、いかなる権力者も、革命児も、この存在を否定することができなかった。
それの地方的規模が、美濃では土岐の宗家である。頼芸は美濃氏族団の小天皇であり、美濃では犯すべからざる「神聖」であった。
庄九郎は京都うまれだから、各代の権力者が、この天皇という非軍事的な神聖宗主をいかにたくみに利用してきたかを、知りぬいている。
そのこつ《・・》で、かれがその地位につけた美濃の小天皇頼芸の神聖を大いに利用した。
むろん、頼芸に苦情をいいにくる一族、一門の者が多い。ひどく多い。
「あのような氏素姓《うじすじょう》も知れぬ者をお近づけになりませぬように」
と、かれらは頼芸に耳打ちする。
が、頼芸は、庄九郎の貴族的教養にシンから惚《ほ》れこんでいるから、庄九郎の自称する家《・》系《・》をも頭から信じこんでいた。
「なに、たかがあぶら屋と申すか。そちらは知らぬからそう申すのだ。かれは北面《ほくめん》の武士(仙洞《せんとう》御《ご》所《しょ》の武官)松波家の正流であり、松波家は藤原氏より出ている。公卿《くげ》、殿上人《てんじょうびと》でないとはいえ、それに準ずる家系の出のものだ」
美濃源氏の宗家土岐頼芸が、庄九郎の血統に折り紙をつけるのだから、一族、一門の枝葉の者はそう信じざるをえない。
「されば貴《き》種《しゅ》でありまするとしても」
と、かれらはさらに膝《ひざ》をすすめていう。
「邪智に長《た》けた者でござりまする」
「言葉をつつしめ」
と、頼芸は、庄九郎に知らず知らずのあいだに教育されたとおりの返事をするのだ。
「あの者は、智と正義によってわしを守護職にしてくれた。そちなどがいうごとくかれの智恵が邪智であるとすれば、わしが邪《よこしま》な心で守護職の地位についたことになる。されば汝《なんじ》らはわしの地位を非とするのも同然。かれを悪態《あしざま》に云《い》うことは、汝ら、わしに対し謀反心《むほんごころ》があるといわれても仕方がない。それを押してなお申すか」
みな、だまってしまう。
第二の目標は、頼芸という小天皇をさらにより濃厚に庄九郎の手中のものにせねばならぬ、ということであった。
貴顕のうまれの者など、いつ気が変わるか知れたものではない。
(頼芸様をいよいよわしの掌中にかたくにぎりしめるには)
女である。
それしかない。
現に頼芸は、守護職と川手府城を得たとたん、ひどく好色になってきた。
「新《・》九郎よ」
と庄九郎をあたらしい名前でよび、ちょっと、気はずかしそうな顔をしていった。
「なんでございましょう」
「無理であろうな」
「なにが、でございます」
「わしが願望《ねがい》は」
「あははは、美濃の国主にさえして差しあげましたるこの長井新九郎利政、わが力でできぬことはござりませぬ。ことにお屋形様のおんためとあれば、天竺《てんじく》の空をとぶという金の翼の鳥といえども獲《と》って参りましょう」
「まことか」
と頼芸は少年のように眼を輝かせた。が、その下瞼《したまぶた》は、荒淫《こういん》ではれぼったく垂れている。
「さ、申されませ」
といいながら庄九郎、この馬鹿《ばか》がえがく夢とはどういうものか興味があった。頼芸のいまの精神の状態を知るには、必要なことだったのである。
(この馬鹿が、なにを望むか)
庄九郎は微笑しながらさりげなく、
「天《てん》下《が》でもほしいのでござりまするか」
「いやいや、左様なものはわしには持ち重りがしよう」
(そのとおりだ)
庄九郎は内心、おかしくて仕方がない。しかし、ひと安《あん》堵《ど》しもした。国主になった以上望むのは当然天下であるべきだが、頼芸にはそういう方面の夢はないとみえた。
さらに、庄九郎はそれとなくきいた。頼芸にどれほどの政治的野望があるかを。
「されば、隣国の尾張でござるか。いやさ、隣国といえば近江《おうみ》もござるし、東は信州がござる」
「信州は寒かろう」
と頼芸の反応はとりとめもない。
「寒いのは、おいやでござるか」
「わしは洪水《こうずい》と吹雪《ふぶき》ほどきらいなものはないのを、そちは存じているはずじゃ」
「あ、左様でありましたな。されば近江はいかがでござろう。湖東の美田は、天下の諸豪の望んでやまぬところでござりまする」
「近江にはよい鷹《たか》がおらぬ」
「ははあ」
鷹は、画家としての頼芸が、好んでやまぬ主題である。いや、鷹しか描いたことのない男なのだ。現在《いま》でも美濃の旧家などで頼芸えがくところの「土岐の鷹」がいくらも残っているところからみて、月に何点となく描いていたのであろう。
「国がほしくないというおおせならば、頼芸様に恨みを抱く国人《こくじん》(地侍)の首でもとって参れというおおせでござりまするか」
「左様な者がいるのか」
「おらぬ、とは申せませぬ。げんに御《ご》縁辺《えんぺん》におりまする」
と庄九郎は、暗に自分に対する反対勢力の総大将である長井利安《としやす》の顔を思いうかべながら、いった。
「あははは、左様な者はおらぬ」
と、これだけは頼芸は断言した。そうであろう。美濃の神聖宗主に逆《さから》おうとするような者がいるはずがない。
「新《・》九郎、女だよ」
「なるほど。左様なことなら、いと易《やす》うござりまする。人間の人数の半分は女でござりまするからな」
庄九郎は、いよいよ上機嫌《じょうきげん》だった。その安気そうな庄九郎の顔をみて、頼芸はこまったような表情をした。
「新九郎、女は女でも、チトちがうのだ」
「むろん、美人でありましょうな。お屋形様のお好みは、よく存じております」
「それはありがたいが、美人というほかに願《のぞ》望《み》がある」
「のぞみがあればこそ、人間でござりまする。シテ、どのような?」
「天子の内親王《おんむすめ》がほしい」
あっ、この阿《あ》呆《ほう》は。と庄九郎は一瞬がく然としたが、驚きは顔に出さず、
「よう打ちあけてくださりました。では早速ながら調えて参りましょう」
物でも運ぶような調子である。
「新、新九郎、たしかにそちは請けおうてくれるか」
「さん候《そうろう》」
「易《やす》う請けおうて、わしを期待《たのし》ませておき、あとであの話は成りませなんだ、と申してわしを悲しませるのではあるまいな」
「この山崎屋」
といいかけてあわてて、長井新九郎、と言いなおし、
「左様なことをしたためし《・・・》がござるか」
「まあ、それほどの難事だというのだ」
「難事でも、お屋形様を美濃の国主になし奉ったほどの難事ではござりますまい」
「まさか、何者とも知れぬ京女をつれて参って、これが内親王と申すのではあるまいな」
「自慢ではござらんが、この新《・》九郎、山崎屋と申しましたるむかしから、油の良質さは天下第一でござりました。品物だけは確かな男でござりまする。現に、お屋形様はまやかし《・・・・》でもなく、歴《れき》とした美濃の守護職におつきあそばした」
庄九郎がもってくる品物は信用ができるという意味であろう。
「頼む」
と頼芸は、手を合わせた。
美濃の君主になったとたんに、それにふさわしい栄爵《えいしゃく》を、高貴な女性《にょしょう》を得ることによって表現したかったのであろう。
いや、頼芸も男だ。京にのぼって天子を擁し、天子の次位の位につき、関白《かんぱく》か将軍になって天下に号令するというのも戦国男子の道かもしれないが、頼芸はそのかわりに天子の娘を得るという裏街道で、よく似た快事を味わおうとしているのにちがいない。
(夜具の上での天下取りじゃな)
庄九郎は、頼芸がおかしかった。
「さればお屋形様、いまの御台所様を放逐なさるのでござりまするか」
「め、めっそうもない。あれはあれじゃ」
「されば側室に?」
「まあ、そういうことになる」
「それはむずかしゅうござりまするなあ」
といったが、なんの、正式の婚儀のほうがよほどむずかしい。公卿の最高の家格である五摂家の姫君ならこういう乱世だから、むしろよろこんで地方豪族の宗家にやって来ぬともかぎらないが、内親王がそのままの地位で実力大名の正室になったという話は、あまりきかない。
(むしろ、側室のほうが話が早い)
庄九郎は、御殿を退出した。
加納城にもどると、赤兵衛に用件の筋を云いきかせ、すぐ京にのぼらせた。天子にはどういう姫が在《ま》すか、下調査をしておくためである。
赤兵衛が出発するとき、庄九郎は、
「わしが上洛《じょうらく》すれば話がつくような様子ならすぐ急飛脚を差し立てよ」
といっておいたが、日ならず、赤兵衛から急飛脚がやってきて、赤兵衛の手紙を庄九郎に渡した。ひらくと、
(これでも文字か)
とあきれるほどへたくそな文字で、
――一人、おり申候。
と書いてある。下《げ》賤《せん》は不敬なものだ、と庄九郎はにがにがしそうにそれを破りすてた。
庄九郎は、深《み》芳《よし》野《の》や城中の腹心の者には、
「ちょっと、さる御《お》山《やま》へ参籠《さんろう》にまいるゆえ、たれにもわしが不在じゃとはいうな。みなには病気引き籠《こも》り中と申しておけ」
といった。
いまのような物騒な世では、城主がおらぬとわかれば、城外の勢力はいうにおよばず、城内からも反乱がおこらぬとも限らない。
庄九郎は、耳次など、心きいた郎党十人に油商人の恰好《かっこう》をさせ、むろん自分もむかしのその装束《しょうぞく》にもどって、夜陰城を出、中仙道《なかせんどう》を大いそぎで京へのぼった。
山崎屋のそばまでくると、店さきはあいかわらず荷作り、荷出しで賑《にぎ》わい、庄九郎が居た当初と繁昌《はんじょう》ぶりはすこしもかわらない。手代の杉丸《すぎまる》らが力をあわせて店をまもっている証拠なのだ。
ぬっと店の土間へ入ると、
「あっ、旦《だん》那《な》様」
と、杉丸が白昼ばけものを見たようにびっくり仰天した。まさか、前触れもなしに庄九郎が帰ってくるとは思わなかったのであろう。
「なにを驚く」
庄九郎は、店さき、店の中、使用人の働きざま、手代の指揮をじっと見、
「ぬからず精を出しておるな」
と満足そうにうなずいた。
さらに、桶《おけ》のふたをとり、指を油につっこんで舐《な》めてみた。
ちょっと考えた。
「品質も落ちておらぬ」
すっかり、以前の山崎屋庄九郎にもどっている。
「早速、お万阿《まあ》御料人様にお報《し》らせいたしましょう」
と杉丸がとびあがるようにして駈《か》け出しかけたが、庄九郎はおさえた。
「いや、驚かしてやろう」
庄九郎は土間で足をすすぎ、旅塵《りょじん》でよごれた衣装をぬぎすて、京第一の大資本の旦那らしくちかごろはやりの絹小《こ》袖《そで》に手を通し、帯を締め、水で髪をちょっとなでつけてから、美濃から連れてきた長井新九郎利政としての郎党どもに、
「店の者も美濃の郎党もおなじわしの身のうちだ。店の者、いたわって世話をやいてやれい」
「はい」
この旦那が好きでたまらぬ杉丸は、勢いよく返事をした。
「頼むぞ」
と、庄九郎は奥へ通る。
お万阿は、自室にいた。
庭のみどりが、縁の日射しをまっさおに染めている。
庄九郎は廊下から忍び足で入り、すわってなにやら、錦《にしき》のつづれを縫いあわせている様子のお万阿の両眼を、背後から、
「うっ」
とおさえた。
「た、たれ?」
お万阿は驚いてもだえた。
「わしよ」
「あっ、旦那様」
喜びで、いっそうにもだえて庄九郎の手をもごうとした。
「じっとしていろ、そのままで」
と、庄九郎は背後から抱きすくめた。深芳野にはない豊満な肌《はだ》の感触が、ひさしぶりにお万阿への庄九郎の慾望をよみがえらせた。
「そのままにしておれ」
と庄九郎はお万阿の両眼をおさえたまま押し倒し、両股《りょうもも》を割らせた。
「い、いけませぬ。たれか参ります」
「夫婦《みょうと》だ、憚《はばか》ることもない。店の者にもみせてやれ」
すぐ庄九郎の慾情がお万阿に移り、お万阿も夢中になった。
両眼をおさえられたまま。
「見せてくださりませ、お顔を」
うわごとのようにいっている。
夕月
その夜、庄九郎はひとり自室にいた。美濃からの急ぎの旅のあげくである。普通人なら足腰が木のようになっているべきところだが、この男の顔は疲れもみせない。
(世に、仕事ほどおもしろいものはない)
と思っていた。
それが庄九郎を疲れさせないのであろう。
横で、一穂《いっすい》の燈火がゆれている。
――つ、と縁のむこうの杉《すぎ》戸《ど》がひらいた。
「赤兵衛か」
「左様でござりまする」
と、縁側で声がした。
「入れ」
「へへっ」
赤兵衛が、性《しょう》の悪い顔を神妙に伏せながら膝《ひざ》をにじりこませてきた。
後ろから、耳次も入ってきた。
「まず、近う寄れ」
「されば、寄らせていただきまする」
低声《こごえ》がとどくほどにまで寄ってから、
「天子の姫」
「内親王といえ」
「へっ、そのおなご」
「おなご、とは不敬であろう。赤兵衛、そちもわしの郎党なのだ。ゆくすえは大名にもせねばならぬかと思うているのに、いつまでも妙覚寺の寺男の下品さではこまる」
「えへへへ」
愛想のつもりであほう《・・・》笑いしている。この様子では一生大名にはなれぬかもしれない。
「恰好なのが、一人いました」
「そのことは、そちの手紙で知った。どのようなお方か」
「齢は十八。長《た》けておりまするが、かがやくばかりのうつくしさでござりまする。――殿が」
と、庄九郎の顔を指さし、
「ご慾心をおこされはせぬかと心配でござりまする」
下卑《げび》た笑いをうかべた。
「名はなんと申される」
「香《よし》子《こ》」
ふむ、と庄九郎はうなずいた。
内親王とは、宮廷では「内の姫《ひめ》御子《みこ》」とよばれている。明治の皇室典範《てんぱん》では嫡出《ちゃくしゅつ》の皇女、または女子の御嫡孫、御嫡玄孫といったぐあいに正妃の御腹から生《あ》れました女性に対するよびかたになっているが、庄九郎の当時は遠い奈良朝時代の「大宝律令《たいほうりつりょう》」が生きているころで、御母君が正妃でなくても内親王とよばれる場合が多い。
香子の母は宮中の雑《ぞう》仕女《しめ》だったらしい。先帝の御たね《・・》である。
内親王というのは、童女のままでおわるひとが多い。尼になって京、奈良などにたくさんある尼門跡《あまもんぜき》の寺をつぐか、伊勢の斎宮《いつきのみや》になる例が多いのである。
香子も、京の堀川百々《どど》町《まち》にある宝鏡寺の御《ご》付《ふ》弟《てい》になって尼門跡になるはずであったが、寺に複雑な相続問題がおこり、その都合で得《とく》度《ど》せず、かといっていまさら親王家、公卿の家に輿《こし》入《い》れすることもできなくなり、有《う》髪俗《はつぞく》体《たい》のまま、嵯峨《さが》の小《お》倉山《ぐらやま》のふもとに小さな御《お》里《さと》御《ご》所《しょ》を建ててもらって、わびずまいをしている。
「ほう、それはうってつけじゃな」
うなずきながら、庄九郎はその佳人があわれになっていた。
母が、公卿の出ならば尼門跡の相続問題もうまく行ったであろうし、御父君が世に在《おわ》せばこうも薄倖《はっこう》でなかったであろう。
宮廷など、薄情なものだ。
先帝の遺児といううえに、生母の実家が無いも同然なために、香子は宮廷社会でわすれられてしまった存在になっている、と庄九郎は想像した。
(わしが庇護《ひご》せねば)
ぼつ然と、そういう気がおこった。
「それで、香子内親王はどういう御性質か」
「いやいや、そこがむずかしゅうござる。安公卿などからも縁談がないことはないのでござりまするが、御当人は、うち《・・》はいったん仏門に入ろうとしたものゆえ、――とかぶり《・・・》を振りなされ、世に出ようとはなさりませぬ」
「そうであろう」
庄九郎はうなずいた。香子は、世事のわずらわしさに、いやけがさしてしまっているようである。
「よう調べてくれた」
と、赤兵衛と耳次に銀を一片、あたえた。あとはこの者どもの手におえない。庄九郎の智恵、才覚にかかっている。
翌日、庄九郎は、馬を用意させ、侍烏帽子《えぼし》に清げな素《す》襖《おう》、太刀は黄金作りという豪奢《ごうしゃ》なものを佩《は》き、ただ一騎、山崎屋を出た。
嵯峨野へゆく。
(胸のときめくことだ)
古歌にある。
小倉山裾《すそ》野《の》の里の夕霧に
宿こそ見えね衣うつなり
なだらかな丘陵と、松林、竹藪《たけやぶ》、といった古歌の情景のままの嵯峨野の風景がひらけ、庄九郎の眼の前の里には夕《ゆう》餉《げ》の炊煙があがり、都のむこうに夕月がかかっている。大和《やまと》絵《え》の絵そのままのたたずまいを、庄九郎はみた。
庄九郎とその駒《こま》は、夕月を背に、画中の点景のように嵯峨野のなかを動いてゆく。
砧《きぬた》を打つ音がきこえた。
(ああ、古歌のとおりじゃな)
土地の者が、日《ひ》裳宮《ものみや》、とよんでいる小さなホコラの前に出た。
(これが、伝説の祠《ほこら》か)
手綱をひいて、馬上から見た。
聞き知っている。むかし、嵯峨帝の寵姫《ちょうき》で嘉智子《かちこ》という佳人がいた。
「檀林《だんりん》皇后」
と通称され、唐土《もろこし》の西《せい》施《し》、毛メ《もうしょう》にもおとらぬ美女であった。
若くして、他界した。息をひきとるとき、帝のなげきが、あまりにもはげしいため、その恋慕愛執の想《おも》いを離散させようとして、宮廷の女どもに遺言し、
「わが生前の着衣を小倉の山から嵯峨野にむかって捨てよ」
とたのんだ。
その上衣《うえのきぬ》が落ちたところがここよりすこしむこうの中院《なかのいん》の里であり、そこに村人が「裏《うら》柳社《やなぎのやしろ》」という祠をたてた。この日裳宮は、皇后の緋《ひ》の袴《はかま》が落ちたところで、いまもその袴が神体になっている。
(艶《えん》なものだ)
庄九郎は、駒を進めた。二《に》尊院《そんいん》の大門の前をすぎ、中院の里の道を通り、清涼寺《せいりょうじ》の西門へいたるまでに北へ入る小道がある。
藪のなかを過ぎる。
そのむこうに、粗末な柴垣《しばがき》をめぐらした庵《いお》が一つある。
(これか)
庄九郎は鞍《くら》から降り、馬をそばの柿《かき》の木につないだ。
夕闇《ゆうやみ》が、濃い。
庵のシトミ戸から、灯が洩《も》れている。王朝のころの相聞《そうもん》のぬしなら、腰から一管の笛をさしぬいて、一曲、奏《かなで》るところであろう。
庄九郎は、通りかかった柴刈り帰りの里人をよびとめた。
「これなる庵が、先帝の内の姫御子なる香子さまの御里御所か」
「へへっ、左様でござります」
「ああ」
庄九郎はわざとめかしい溜息《ためいき》をついた。
「いかに乱世とはいえ、あわれなものだ。雲の上に在《おわ》せしものを、いまは京の御所から捨てられたばかりか、打ち見るところ、垣の根に雑草が生《お》いしげり、刈りとって差しあげる里人もいないらしい」
「…………」
里人は、おどおどしている。
「山樵《やまがつ》」
と、庄九郎はよんだ。
「むかし、王朝が栄えたころ、この里人の心映えもすずしげで、時の皇后の落ちたる裳《もすそ》、上衣をさえ祀《まつ》ったという。いまは生ける内親王が侘《わ》び住もうていても、草の根一つ引こうとはしないらしい」
「…………」
「山樵、そちはこの柴垣の横を日に何度通る」
「へっ、一度は」
「通るであろう。通れば、あのかやぶき《・・・・》の屋根に雑草《むぐら》がはえているのを見ぬこともあるまい。見て、なお引いて差しあげようともせぬのか」
「へ、へい。……」
「草を引け」
庄九郎は、ずしっと云《い》った。
しかし、と声を落として、当節無料《ただ》では働けまい、これを、――と駒の鞍につけた大きな銭袋をおろし、
「里の者、みなに分けよ」
と、渡した。
里人は、腰をぬかさんばかりに驚いた。五貫文はあるであろう。これほどおびただしい永楽銭をみたこともない。
「この銭で、むこう一年、この道を通る里人のなかで、大《おお》根《ね》をつくる者は大根を持って来、干魚《ひざかな》を手に入れる者は干魚をもって来、米のとれる時季には米をもって来、貧しい者は手足をつかって草を抜け」
「あ、あなた様は、どなたであられまする」
「わしは、美濃の守護職土岐《とき》美濃守さまの執事にて美濃加納の城主長井新九郎という者である」
「ああっ」
へたへたと銭袋をかかえてすわりこんだ。
「所用あって京にのぼってきた。たまたま日《ひ》和《より》のよいのを幸い、この嵯峨野まで遠出をしてみたが、このいぶせき庵《いお》をみて涙を催さずにはいられなんだ」
「も、もうしわけござりませぬ」
「謝らずともよい」
庄九郎は矢《や》立《たて》をとりだし、帖紙《じょうし》を一枚ほそくさいて、さらさらと歌一首を認《したた》めた。
露霜《つゆしも》の小倉の山に家《いえ》居《い》して
干《ほ》さでも袖《そで》の朽ちぬべきかな
庄九郎の歌ではない。むかしこの里に閑居した歌人藤原定《てい》家《か》の歌である。この場合、自作の歌をかくよりも、古歌をかくほうが教養のほどがしのばれてよい、と思ったのだ。
庄九郎は、太刀の鞘《さや》から黄金の柄《つか》の小柄を引きぬき、それに歌を結びつけ、
「あすでも、通りがかりのときに、庵に投げ入れておいてくれい」
とたのんだ。
そのまま、駒をかえして京の山崎屋へもどってしまった。翌日、庵の香子の生涯《しょうがい》で、もっとも不審な出来ごとがおこった。
軒下へ大《おお》根《ね》を積む者、土間へ米俵をはこび入れる者、屋根のむぐら《・・・》を除《と》り去る者、庭草をむしる者、垣根を結《ゆわ》えなおす者、人と物が、湧《わ》くように庵にみちた。
「どうしたことでしょう」
と香子は婢《ひ》女《じょ》にきいた。婢女は丹《たん》波《ば》から炊《かし》ぎ奉公にあがった田舎女で、庵に仕える者はこの老婦ひとりしかいない。
「はて」
婢女も、首をかしげている。
やがて、里人の一人が、黄金の小柄に結びつけた例の古歌をさしだした。
美濃の守護職土岐氏の執事長井新九郎という名も、耳にした。
(きざなことをする)
と思ったが、荒くれた東国(美濃以東は東国)の武士にしてはゆかしげな教養のもちぬしらしいとも思った。
しかも驚いたのは、その富力である。通りすがりに、五貫の永楽銭を里人に与え捨ててしまうというのは、おそるべき財力の背景がなくてはかなわない。
(武家は物持、というが、美濃は上国《じょうこく》ゆえ富力もひときわきつい《・・・》にちがいない)
しかし、心憎いことをする。それほどの財を持ちながら、里人に与えるのみで、香子自身には、古歌一首を送ったにすぎない。
(きざ《・・》とも思うが、考えようによってはよほど洗練された武士じゃな)
ともおもうのである。
香子は、ふと会ってみたくなった。
「どのようなおひとでありました」
と、香子はぬれ縁にしゃがみ、立ち働いている里人に問いかけた。
里人たちはきのうの男を連れてきて、香子の問いに答えさせた。
「清げなお方でござりました」
「お年のころは?」
「三十《みそじ》を一つか、二つ越えていましょうか」
「お眉目《かお》は?」
「京にもまれなほどに涼しげで、鹿毛《かげ》の細やかな脚の駒がようお映りでござりました」
見たい。
と思わぬのは、女人《にょにん》でないであろう。香子は、当然、ひと目でも会いたいと思った。
庄九郎はそのころ、山崎屋の奥座敷で寝ころんでいた。
お万阿《まあ》が、茶をたてている。
「また、お名前が変わられましたそうな」
「ああ、かわった。こんどは、長井新九郎という。美濃の国中《くになか》に城があってな、加納城と申すわい。その城の城主の姓よ」
「以前の西村よりも重い姓でありますか」
「重いとも。美濃では国主の家が土岐じゃ。そのつぎが斎藤、それと相ならぶ姓で、これには城と大きな領地がついている」
「まだ、京にのぼって将軍になられませぬのか」
ときいたのは、庄九郎が将軍になって京に第館《だいかん》を造営したとき、正室として据《す》えるのがお万阿だからである。
その予定であった。
が、実現はまだまだ程遠い。
「天下の兵馬は美濃で用うべしという。美濃を制する者は、天下を制す、という。いずれ美濃一国のぬしになれば、天下は棚《たな》の上の物をとるよりもやさしい」
「そのあいだに、お万阿は齢《とし》をとって旦《だん》那《な》さまに嫌《きわ》われてしまわないかしら」
「なんの、お万阿の肌《はだ》は、春秋には侵されまい。美濃に下《げ》向《こう》したころからみれば、いよいよ若やいできたようにさえ思われる」
「お口上手な」
お万阿は、他愛《たわい》もなくころころと笑った。
茶わんを庄九郎の前に置いた。
庄九郎は起きあがってそれを抱えあげながら、庭を見た。
嵯峨野の空が、眼にうかぶ。今日にでも行ってみたい気持はやまやまだが、
(いやいや、よい酒をつくるようなものだ。あと二、三日、間をおくほうがよかろう)
とおもったりした。
「こんどは、なんのご用でございます」
「お万阿の顔を見にきたのよ」
皓《しろ》い歯で、笑っている。お万阿にとって、こういう得体の知れぬ亭主をもったことが、果して幸福だったのかどうか、自分でもわからない。
「あすは、どこへ行かれます」
「どこにも行かぬ。商《あきな》いの指図でもしていよう」
「また有《あり》馬《ま》の湯へ連れて行ってくださりませぬか」
(そういうこともあったな)
と庄九郎はつい先年のことを遠いむかしのように思いだしたが、お万阿にとって、庄九郎との間の楽しい想い出といえば、あのとき以外になかったかもしれない。
「楽しゅうございましたな」
「ああ」
内親王香子のことを思っている。思えば思うほど、土岐の馬鹿《ばか》殿《との》にくれてやるのは惜しいような女人ではないか。
時に、戦国風雲の世である。諸国の大名は京に人をやり、金にあかせて公卿の娘を漁《あさ》っては領国に曳《ひ》かせて帰っている。
(よくぞあれだけの女人が、そういう女買いどもの眼からのがれて残っていたものだ)
ふしぎといえばふしぎ、庄九郎にとってはもっけ《・・・》の幸運であった。
その翌々日、愛宕《あたご》山《やま》に陽《ひ》のかたむくころおい、庄九郎はただ一騎で、ふたたび嵯峨野の風景のなかの人となっていた。
香《よし》子《こ》
庄九郎は、扉《とぼそ》をたたき、
「頼みまする」
とよばわって、しばらく返事を待った。
陽《ひ》は、真昼からやや傾いている。
嵯峨野《さがの》の空はぬぐったように青く、眼の前の小倉山の赤松の幹の赤さが、ひさしぶりで京に帰ってきた庄九郎の眼をたのしませた。
美濃には、黒松が多い。
赤松があっても、京のそれのような品のいい代赭色《たいしゃいろ》ではないようである。
(京は、松一つでもうつくしい)
と庄九郎はおもった。王城の地というのは、樹木でさえ気品がよくなるのか。それとも、こういう雅《みや》びた山河なればこそ、王城の文化はうまれたのか。
(すくなくとも、赤松のすくない東国の坂東《ばんどう》に都がおかれたとしたならば、建物やひとびとの服装ひとつでもいまとちがっていたに相違ない)
庄九郎は、太刀のコジリを上げつつ、あたりの風景を楽しんでいる。
(いつかは、京にもどってくる)
この王城の地に、自分の家紋を染めぬいた旗を立てるのは、戦国にうまれた男子の本懐であることであった。
(将軍になる)
夢想ではない。美濃へくだってわずか七年目に、いまの姿になっているではないか。
軒に、竹の樋《とい》がかかっている。
そこにも草の穂がのぞいていた。風にゆれている。雀《すずめ》がいた。それが飛びたったとき、戸があいて、
炊《かし》ぎ女《め》が顔をだした。
「どなたでござりまする」
「美濃のな」
庄九郎はいってから矢立をとりだし、木の皮を一枚ひろいあげてその裏に、「美濃国加納住人長井新九郎藤原利政」と小さく書いて婢女にわたした。
「宮様は、おわしましょうな」
「おわしまするが、ひとにはお会いなされませぬ。どのような御用の向きでござりましょう」
「それがし、無位無官の卑《いや》しき田舎侍でござれば、ご対面もかないますまい。せめてお障子ごしなりとも、お声をお聞かせねがえまいかと思うて参上つかまつりました」
「して、ご用は?」
「恋でござるよ」
と、庄九郎はすばやく炊ぎ女の手をにぎった。銭をにぎらせている。
女は、当惑した。
恋。――
とつぶやいて女はがたがた慄《ふる》えはじめた。なんと大それた田舎侍であることか。おのれの富強にまかせ、無位無官のくせに内親王に懸《け》想《そう》して逢《あ》わせろというのである。
香子は、室内にいた。
むろん、庄九郎の声は、凛々《りんりん》と透《とお》ってきている。香子は耳を澄ませて聞いていた。――その人を、
(見たい)
とおもった。声にふしぎな力があり、その力が香子の体にかすかな作用をもたらしているようである。
香子は、経机の上の鈴をとりあげ、指さきで二度振った。
婢女が、庄九郎を待たせて、香子の部屋の障子のそとでうずくまった。
「およびでござりまするか」
「呼びました」
あとは、沈黙がつづいた。
だいぶ経《た》ってから、小さな声で、
「お客さまですね」
と、香子はいった。婢女はやむなく、障子を細目にひらいて、例の木の皮の名札を差し入れた。
香子は腕を交互に袖《そで》の中に入れ、畳の上におかれた名札を取りあげもせず、やや遠くからその文字を読みとろうとしている。決して行儀のいいすがたではない。
(美濃の長井新九郎利政か。――)
男の子のように、つぶやいた。察したとおり、一昨々日の武士であろう。
香子のまぶたは単《ひとえ》で、まつげが濃くみじかくそろっている。それがぱちぱちとよくまばたき、そのせいか、ひどく冴《さ》えざえとした光りを帯びていた。
「いかがとりはからいましょう」
「縁側へ煎茶《せんちゃ》でも出してあげなさい」
とだけいい、会うとも会わぬともいわなかった。
香子の言いつけどおり、婢女は縁側で煎茶をふるまった。
庄九郎は、腰をおろした。
茶菓子は、ほし柿《がき》である。
「宮は、どう申されましたかな」
と、庄九郎はたずねた。
「茶を出せ、とのみおおせられました」
婢女は正直である。そのとおりのことをいった。
(垣《かい》間《ま》みる気じゃな)
むこうに、すだれがかかっている。あるいはその内側からでも庄九郎の姿を見ているのであろう。
庄九郎は、嫋《たお》やかな女を想像した。
が、当の香子は、経机に右ひじを置き、ほ《・》お《・》杖《づえ》をついて庭の垣根を見ている。
(なぜ、献上物などをして接近するのか)
それを考えている。
香子は、御所のなかでこそ自分は不遇だが下《げ》賤《せん》の世界に降りればいかに自分の価値が高いかを知っていた。
(買いに来たのか)
美濃の国主は、土岐家である。むかし足利《あしかが》の全盛時代には伊勢、尾張までを領した強大な家で、その府城のある美濃の川手は、京都、鎌倉《かまくら》、山口、川手、とならび称せられた都《と》邑《ゆう》であった。香子は、公卿《くげ》なかまのうわさで、そういう人文地理はよく頭に入っている。
ついでだが、この当時の公卿は所領をうしなって落魄《らくはく》し、縁をもとめては地方の大名のもとにゆき、厄介《やっかい》になることだけを考えていた。
「どこそこは、富強じゃ」
という噂《うわさ》ばかりが、蜘蛛《くも》の巣を張った宮廷のなかで行なわれている。
公卿の荒れ屋敷に美しい娘がいれば、都の商人が目をつけ、媒介し、その娘をつれて地方大名のもとにゆき、妾《めかけ》にする、ということが普通に行なわれていた。
むろん、そういう大名から娘の実家の公卿へ相応な金品がおくられてくる。娘が子でも生めば、それを縁に親が馳《ち》走《そう》を食いに都を落ちてくるという例が多い。
だから、香子でも知っているほどに、戦国の地理を、この社会はよく知っている。
大名のなかでもとくに公卿好きな周防《すおう》(山口県)の大内氏などは、頼ってやってくる公卿どもを気前よく受け入れたため、その府城山口は、「西ノ京」といわれたほどである。
(土岐頼芸《よりよし》も遊び好きなそうな)
そう聞いている。香子は、腕組みをしたままであった。
化粧はせず、唇《くちびる》に紅もさしていない。よほど容貌《ようぼう》に自信があるのか。というよりも、化粧などを必要とせぬほどのうつくしい肌をこの娘はもっている。
「――――」
と、香子は鈴を振って、婢女をよんだ。
「なんでございます」
「炭火を」
みじかく命じ、念のため、「香をカ《た》きたい」という手まねをしてみせた。その程度の炭火でよい、という意味なのである。
香子は、自分で香《こう》炉《ろ》の支度をした。
やがて炭火が運ばれてくると、香子はそれを桜灰に埋《い》け、灰のあたたまるのを待って、香を埋けた。
屋内を燻《くん》じるためである。香などは宝石を砕いて焼くような贅沢《ぜいたく》さだが、香子はいかに貧窮していようと、これだけは必需品であるという境涯《きょうがい》のなかに生《お》いそだった。
香が、燻じられてゆく。
それを待つあいだ、香子は経机に寄りかかり、うたたねをしようと思った。
が、つい、眠った。眼が覚めたときは、陽がかげりはじめている。
庄九郎は、縁側で待った。
もともと気のながい男ではないが、根気よく待っていた。
(よほど、気位の高い女じゃな)
庄九郎はあれこれと思いめぐらしている。
貴族とは、人間の出来損ないだと庄九郎は思っていた。土岐頼芸も、貴族である。しかしたかだか田舎貴族で、そのうえ、富力と武力という背景がある点で、京の本格的な貴族とは種類を異にしている。
京の宮廷ほど、性悪《しょうわる》な人間をうむ世界はないと庄九郎は思っていた。富力、武力といった背景がないだけに、それを持つ連中をあやつったり、その連中からあやつられたりして数百年の歴史を経てきた。
――これでも人間か。
とあきれるほど、煮ても焼いても食えない人間が、公卿には多い。かれら京都貴族からみれば、土岐頼芸などは神さまのようなものだ。
(香子も、そのなかで生いそだってきたおなごだ。油断はならぬ)
庄九郎ほどの男が、きびしく肚積《はらづも》りをするようになったのは、この待たせかたが異常だったからである。
香子は、眼がさめた。
(そうそう、まだ、居るかしら)
と、首をかしげた。美濃の田舎侍に自分の価値のたかさを知らしめるのは、待たせるという手以外にはない。
香子は、鈴をふり、たった一人の従者である婢女に、荘重《そうちょう》に命じた。
「その者を、南縁にまわらせ、庭にすわらせますように」
「はい」
婢女は、ひたひたと草履の音をたてて庄九郎のもとに行った。
「どうぞ」
「さてはお許しくだされるか」
庄九郎は太刀をぬぎ、土間のすみに立てかけ、南側の庭にまわって、土のうえにすわった。
眼の前に、白い障子がある。
夕陽が、赫《か》っとあたっていた。閉じたまま障子はひらかれる気配もない。
やがて、障子のむこうに、小さな咳《せき》がきこえたので、庄九郎は平伏した。
「長井新九郎利政でございます」
「なにやら」
と、声がきこえた。
「この下の村の者に親切をかけて呉れましたそうな。礼をいいます」
障子を閉めっきりなのは、御所でいえば御《み》簾《す》のつもりなのであろう。
(お顔をみたいが、どうにかならぬものか)
「新九郎とやら、何をしにきました」
「お物語をお聞かせ申しあげに。――」
「そなたは地下《じげ》人《びと》であろう」
「官位はございませぬ。しかし、美濃で五千の兵を動かす力と城を一つ持っております。また、土岐美濃守の執事として、国政をみておりまする」
「そうか」
言葉が、とぎれた。
庄九郎は夕暮の天を仰ぎ、
「もはや陽も傾きましたゆえ、あすにでもまかり出まする。これはほんのお屋根直しの御《お》料《しろ》に」
と、重い金銀の袋を、縁の上に置いた。
残照ののこった空に、一番星が出ている。
山桃の下で馬に乗り、庄九郎は庵のそばの坂を駈《か》けおりた。香子はその姿を、細目にあけた障子のすき間からみた。
翌日、庄九郎は来た。
南縁にまわって、すわった。
香子は待ちかねたように、障子の内側にすわった。
「よい日和《ひより》がつづきますな」
庄九郎はがらりとくだけた。このままでは、百年、会いにきてもらち《・・》があかぬと思ったのである。
「そうですか」
「あははは、そこで障子をお立てなされていては、折角のあの空がみえますまい」
庄九郎は庄九郎流でゆくにかぎる、とおもい、縁へ片足をかけ、両手を障子の桟《さん》にかけ、
からっ、
と左右にひらいた。
「無礼な」
とは、武家の姫君のようにはいわない。香子は静かに、眼を細めて微笑《わら》っている。
「美濃には、礼というものがないと見える」
と、香子はいった。庄九郎も負けてはいない。
「空を御覧あそばすのに礼は要りますまい」
「ああ」
香子は、この応答が気に入った。
「そなたの申すとおりです」
「おそれながら、宮」
と、庄九郎は膝《ひざ》をつき、懐《ふとこ》ろに入れていた真新しい草履をとりだしてそこにそろえた。
「そとへおいであそばしませぬか。裏山の苔《こけ》のしとね《・・・》におすわりあそばして、美濃の物語などいかがなものでござりましょう」
屋内では無用の格式にさまたげられて、思うさまに話ができぬと思ったのである。
香子は、ちょっと浮かれた。
(それもおもしろいかもしれない)
と思った瞬間から、庄九郎のふんいきに乗せられてしまったといえるかもしれない。
庄九郎は、手をとって草履をはかせ、庭のすみの柴《し》折《おり》戸《ど》をひらき、裏山への小《こ》径《みち》をのぼりはじめた。
二百歩ばかりのぼると、森が深くなり、赤松の根もとに、ぬぐったように美しい苔の座がある。
「おすわりあそばすように」
と庄九郎は香子をすわらせ、自分もややさがった場所にすわった。
香子がおどろいたのは、その庄九郎の座の前に、石でかこんだ炉が切られており、炭が熾《おこ》り、茶釜《ちゃがま》がかかっていることである。
それだけではない。
この林間のどこからともなく美々しい粧《よそお》いの女、男が七、八人もあらわれ、携帯用につくったらしい水《みず》屋《や》を運び、屏風《びょうぶ》をたてめぐらし、茶道具をはこびはじめたのである。
「茶を進ぜましょう」
と、庄九郎は、さわやかな手さばきで茶をたて、香子にすすめた。
(なんという男だ)
香子が眼をまるくしているとき、庄九郎はこの男をもっとも特徴づけているそのまろやかな声で、
「茶とは、便利なものが流行《はや》ったものでござりまするな。ここに一碗《わん》の茶を置くだけで浮世の身分のちがい、無用の縟礼《じょくれい》をとりのぞくことができるとは」
といった。事実、茶の席では、亭主と客の二つの立場しかない。
庄九郎は、亭主である。
「いま一服、いかがでござる」
「足りました」
と、香子は、粗末な小《こ》袖《そで》の膝の上に落ちた松葉をつまみながら、いった。
「ところで利政」
と、庄九郎を見た。
「世から捨てられたわたくしに、そなたは何の用があるのです」
「恋でござるよ」
と、茶碗をぬぐいながら答えた。
「恋?」
「左様。待った、身分は論ぜらるな。ここではただの女と男の話が願わしゅうござる。この恋は、さてむずかしい。古《いにしえ》の詩《しい》歌《か》、物語にもない恋でござる」
「どのように?」
むずかしいのか。と香子は小首をかしげてから、やがて庄九郎のどぎもを抜くようなことをいった。
「利政、それは金銀で買いもとめる恋でありましょう。そなたのみるところ、わたくしはいかほどの値いです」
「おもしろい」
庄九郎は、この宮が好きになった。
「いかほどでなら、宮はご自分をお売りなさる」
「さあ」
むずかしい勘定である。なるほど庄九郎のいうとおり、こういう恋は、源氏物語にも古《こ》今集《きんしゅう》にもないであろう。
小倉山問答
赤松の梢《こずえ》に、風が吹きわたった。庄九郎は風のなかで、眼をほそめた。
膝の上で茶わんをぬぐいながら、内親王香《よし》子《こ》の「値」を考えている。
「いかほど?」
と、香子も、楽しそうにいった。
(なかなか、食えぬおなごじゃな)
庄九郎は、へきえき《・・・・》してしまった。あるいはこの女悪党、自分の手に負えなくなるのではあるまいか。
庄九郎は、即答しない。
そのうち、饗膳《きょうぜん》(料理)がはこばれてきた。
「粗《そ》餐《さん》でござりまする」
と庄九郎は謙遜《けんそん》したが、なかなかそのようなものではない。
本膳、七菜
二ノ膳、五菜二汁《じゅう》
三ノ膳、三菜一汁
で、これほどの饗膳は、いまどき京都の衰微した公卿《くげ》社会では、見ようとしても見られぬものだ。
亭主である庄九郎は、引盃《ひきさかずき》と錫《すず》の酒器をもちだし、香子の前にすすみ出た。
その挙措、典雅なものである。
香子の前に、引盃がおかれた。塗り物の盃を三枚、かさねてある。
香子は一礼し、そのいちばん上の盃を手にとった。
庄九郎が、注《つ》ぐ。
これが、初献《しょこん》である。茶席の酒は、酒客にはむかない。初献、二献、三献、と亭主が三度進み出て三度注いでそれでおわる。
ところが香子は、
「お酒は、三献だけですか」
と、庄九郎を見て笑った。たいへんな姫君である。酒が好きであるらしい。
「ご所望のままにいたしまする」
庄九郎は、いんぎんに頭をさげ、さげながら胸中、
(酔い食らわせるか)
とおもった。
いずれにせよ、たった一人の女人をもてなすための庄九郎の野《の》点《だて》は、亭主としての心づくしがすみずみにまで行きとどいていた。
たとえば、厠《かわや》である。
携帯用の厠まで持参していた。庄九郎がとくに考案したもので、小《こ》屏風《びょうぶ》をめぐらし、塗り板の台がおかれる。台の下には穴が掘られてあり、穴には、音のせぬように、杉《すぎ》のなま枝が敷かれていた。
ひとわたり膳がおわったあと、香子は小女《こおんな》に案内されて、杉木立のむこうのその厠へ入った。
香子は、身をかがめた。
眼の前に、屏風の絵がある。遠景に山が霞《かす》んでおり、近景に孤松が天にのび、その根もとの岩の上に、唐風の人物がすわって、琴をかき鳴らしている。
(おや。――)
と、香子がおどろいたのは、その人物の顔が、庄九郎そっくりなのである。
(まさか)
とおもってよくよく見つめたが、庄九郎その人が画中にあって琴を掻《か》き鳴らしているとしかおもえない。
むろん、そこまで庄九郎の智恵と細工が働いていたわけではない。偶然である。
というより、香子が、そう錯覚するほどにまで、庄九郎の醸《かも》しているこの男独特の音律、色彩のなかにとりこめられつつあった、というほうが正確であろう。
香子は、厠を出た。
眼の前の崖《がけ》の下に、泉がわいている。ひし《・・》ゃく《・・》をとって、手をあらった。
「どうぞ、お手を」
と、小女が、晒布《さらし》を用意していった。香子はだまって両掌《りょうて》を出した。小女は晒布をかぶせ、きれいに水気をぬぐいとってくれた。
羊歯《しだ》をわけて小《こ》径《みち》へ出、杉の林を通り、雑木林に入って、庄九郎の座にもどった。
もどると、模様がかわっていた。
茶の席はとり片付けられ、茶筵《ちゃえん》一枚がのべられて、簡素な酒器がおかれているにすぎない。
酒器も、先刻のものとはちがう。
銚子《ちょうし》は、青竹を切って作った素《そ》朴《ぼく》な筒であり、さかずきは、陶盃《とうはい》である。
さかなは、山菜、干魚、みそ、といったものが、一品ずつ青竹を断ち割っただけの容器に盛られている。
「どうぞ」
と、庄九郎は酒をすすめた。
香子は、酔った。
というほどには、肢《し》態《たい》の乱れないところ、育ちのせいであろう、と庄九郎はおもった。
ただ、ふたこと目には、ころころと笑う。笑い上戸なのかもしれない。相好《そうごう》が微笑で蕩《と》け、笑《え》みくずれてる微笑の翳《かげ》が酔えば酔うほど深くなってゆく。ふしぎな酔態である。
「新九郎とやら」
と、庄九郎のいまの名をよんだ。
「値の思案はつきましたか。いかほどで、わたくしを購《もと》めます」
「廉《やす》うは買いませぬ」
庄九郎も、酔っている。酒には強いつもりであったが、香子とともにさかずきをかわしているうちに、不覚にも手足が心もとないほどに酔ってしまった。
(酔わせて、どう、というどころか、こちらが逆に酔い潰《つぶ》されるわ)
夕闇《ゆうやみ》が、せまってきた。
庄九郎の下人たちは、茶筵のそばにかがり火を焚《た》き、二人の手もとを明るくした。
「いかほど?」
「はい。美濃に厚見郡高河原村という村がございます。それを一カ村、御化粧料として差しあげたく存じます」
「なりませぬ」
ゆらゆらと首をふった。酔う前とは、人がわりしたほどの濃艶《のうえん》さである。
「米、二百七十石とれまするぞ」
「なりませぬ」
「されば、本巣郡前野村はいかがでござる。ここは草高《くさだか》三百二十石でござりまする」
「なりませぬ」
と、微笑がいよいよ深い。
「なりませぬか。されば厚見郡宇佐村を進上いたしましょう。これは草高五百四十石ばかりでござりまする」
庄九郎は、ふんぱつしたつもりであった。
側室の代価《しろ》としてこんなに高く支払われるようなことは、美濃では前代未《み》聞《もん》であろう。
「なりませぬ」
「されば、大村《おおそん》を一つ、進上つかまつりましょう。いやいや、これは無理かな」
と、土岐家の土地台帳を頭にえがき、その村の風景を思いだしながら、云おうとした。その出鼻を、香子の嬌声《きょうせい》がさえぎった。
「ホホホ……、田舎侍の申すことは、きいているだけでもおもしろい。さてそれは、何郡の何村でありますか」
「それは……」
と庄九郎はだまった。からかわれていることに気づいたのである。むっと、胸につかえた。
(考えてみろ)
と思うのだ。衣《きぬ》と栄爵《えいしゃく》に覆《おお》われているにしろ、たかだか女陰一つに、武士が血で奪《と》り争う村一つを当てがうほどのことがあるか、と思うのである。
(しかしながら、頼芸《よりよし》への供御《くご》の女陰《ほと》だ)
むらむらと腹が煮えている。
「厚見郡六条村でござる。米にして千八百九十石」
「騰《あが》りましたな」
香子は、可とも不可ともいわない。
「新九郎とやら。美濃の国がわたくしを欲しいとあれば降《くだ》ってやらぬともかぎりませぬが、しかしわたくしの後見の親王、関白《かんぱく》、何某大臣といったひとびとに金穀の贈りものをせねばなりませぬぞ。御所様にも差しあげねばなりませぬ。そのようなことまで考えると、美濃一国の財富を傾けても足りますまい」
それは考えてはいる。しかしそれは、黄金数枚と絹いくばくかを当てれば済む、とおもっていた。
「美濃一国を渡せ、とおおせありまするか」
と、庄九郎は苦笑した。
「せめてそれほど頂ければ、皇室、公卿もずいぶんうるおいましょう。さればそなたに官位もくだされるはずです」
「官位など、要りませぬな」
庄九郎の気持は、急に冷えた。
「いかほど官位があったところで、この戦国の世ではなんの突っぱりにもならぬ。関白の位をもらったところで、隣国の大軍が押しよせてくればそれまでのことでござる。武士は強き弓矢こそよけれ、官爵など無用のものでござりまするな」
と、庄九郎は押され気味だった陣容を立てなおし、逆襲しはじめた。
「宮は、美濃一国の財富を、と申される。なるほど美濃一国を差しあげてもよろしゅうござる。しかし、武士にとって地所はわが五体の肉と同然。いまは差しあげられませぬ。他国を切りとってからのことでござるよ」
「隣国の尾張をとってからですか」
と、香子は、なかなか地理にあかるい。
「いやいや、たかが尾張一国をとっただけで美濃を差しあげようものなら、他の隣国から攻めほろぼされます」
「では、近江《おうみ》も?」
「なんの、天下六十四州を切り従え、四海に仇波《あだなみ》をたてさせなくしてから、ようやく御料として一国を差しあげられるか、というほどのものでございます。そうたやすくは、神仏いじりばかりなされておる皇室、公卿衆に利益はまわりませぬよ。一国とはそれほど重いものでござりまする」
「だから一村?」
「それも、肉を削る思いで差しあげます」
「よします」
と香子はいった。
庄九郎は、にわかに笑った。巣ごもりの山《やま》鳩《ばと》がおどろいて飛び立ったほどのけたたましい笑い声である。笑いおさめると、
「よした。それがしも。――」
といった。
「まず、一献」
と、庄九郎は青竹の酒器をとりあげ、香子のさかずきに注いだ。
「お干《ほ》しくだされ。それがしも頂戴《ちょうだい》する。もう、この一件、思いあきらめた。禅家では一《いち》期《ご》一《いち》会《え》と申す。普《ふ》天《てん》の下《もと》、人間は億千万人居りましょうとも、こうして言葉をかわしあうほどの縁を結ぶ相手は生涯《しょうがい》でわずかなものでござる。よほど前世の因縁が浅くなかったのでありましょう」
ぐっと干し、唇《くちびる》の滴《しずく》をぬぐってから、
「そうではござらぬか、宮。あなた様のおん前にいるのは、仏縁によってここに湧出《ゆうしゅつ》したるただの男」
と言葉を切り、さらに酒を満たし、
「わが前にいるあなた様は、これまた逢《あ》いがたきみほとけの縁によりてこの山に湧出したるただのおんな」
ぐらっと体がゆれた。
「そのただの女と男とが、ふしぎな縁で酒を汲《く》みかわした、ということでこのたびはお別れしましょう。されば縁の尊きを思うべし、思うなれば、歓をつくすべし」
酔っぱらってはいる。しかし庄九郎の酔態というのは、わるいものではない。土岐頼芸が庄九郎に魅了されたのも、ひとつはこの酔態であった。声に涼やかな風韻があり、酔語は巧まずして詞華を織り、ときに唄《うた》いときに舞えば都の名流といえども及ばぬような芸をみせる。
「舞いましょう」
と、庄九郎は、よろりと立ちあがった。
「されば、敦盛《あつもり》を。――」
ゆったりと舞いはじめた。
うた《・・》は、ない、鳴物もない。
が、どこかからそれらが聞こえてくるような舞いかたである。
香子はつい惹《ひ》きこまれて、庄九郎のためにうたった。はじめは低くかすかに口ずさんでいたが、やがて興が憑《の》ってきたのか、鈴が高鳴るようにうたいはじめた。
庄九郎は舞う。羽毛が風に乗るような軽やかな手ぶりである。
すでに、あたりは暗い。
かがり火は、林の上の星空を焦《こ》がさんばかりにして火の粉をふきあげて燃えている。
庄九郎の下人たちは、すでに、二人消え、三人消え、して、いまは一団の火炎とふたりしかこの山にはいない。
舞いおわって、庄九郎は茶筵に崩れた。
「酔うた」
と、星を見あげた。
「宮も舞われよ。それがしが歌おうず」
「それならば、わたくしは羽衣をつかまつりましょう」
と香子はするすると立ち、これもみごとに舞いはじめた。
曲舞《くせまい》である。
地に堕《お》ちた天女が、ふたたびとはもどれぬ天をなつかしみ、「天《あま》の原ふりさけみれば霞《かずみ》立《た》つ」とはるかな天を見あげる風情は、尋常な様子ではない。
――住みなれし空にいつしか行く雲の。
と、香子は雲をもうらやむふり《・・》をみせ、みずからを羽衣をとられて天に帰れぬ三保の松原の天人になぞらえている様子である。
(ほう、これは)
うたいながら、庄九郎は思った。
(美濃にくだる、という謎《なぞ》か)
やがて舞いおさめて席にもどろうとしたとき、庄九郎は立った。
「ワキをつとめましょう」
と、羽衣を奪った漁夫の役をつとめはじめた。香子はさらに舞う。
ときに、おどけた。存外、おどけごころのある娘らしい。
トン、と香子が拍子をとったとき、庄九郎は不意に抱きすくめた。
「それがしに羽衣を渡されよ」
と、香子の耳もとでささやいた。羽衣とは庄九郎のいう女陰のことであろう。
「いやです」
とは香子はいわなかった。庄九郎のふんい気のなかに酔ってしまっている。唇を、おのずとひらいた。
庄九郎は、それを吸った。香子は、さらに迎えた。歯の内側に唾《つば》が満ち、庄九郎の唇に移り、やがて庄九郎の血を熱くさせた。
(この女、すでに男を知っている)
庄九郎は思った。気が楽になった、といえぬことはない。
倒した。
あとは、内親王ではなく、ただの女になった。男としての庄九郎は、ただの田舎侍ではない。このことも武芸同様に芸と心得ているほどの雅士《みやびお》である。
そのことが、香子から緊張をうばった。香子の眼は、星を見、カガリ火を見た。やがて眼の前が、何度も真暗になった。
なお、庄九郎は離さない。かれが理想としている大聖歓喜天《だいしょうかんぎてん》の尊像のように、女神を組み敷き、組み伏せ、まろばせ、すすり泣かせ叫喚させ、なおやめない。
香子は、魔王に犯されている自分を思った。体をおさえつけている巨像は、草を薙《な》ぐようなはげしい息吹《いぶ》きをもらしている。
その息吹きが、やがて朗々たる法華経の文句になり、香子をさらに奇妙な陶酔のなかに誘いこんだ。
爾時《にじ》仏告諸《ぶつごうしょ》菩《ぼ》薩《さつ》 及一切大衆《ぎゅういっさいだいしゅ》 諸善男《しょぜんなん》子《し》 汝《にょ》等当信《とうとうしん》解《げ》 如来誠諦《にょらいじょうたい》之語《しご》 復《ぶ》告大衆《ごうだいしゅ》 汝等当《にょとうとう》信《しん》解《げ》 如来誠諦《にょらいじょうたい》之語《しご》 又復《うぶ》告諸大衆《ごうしょだいしゅ》 汝等当《にょとうとう》信《しん》解《げ》 如来誠諦《にょらいじょうたい》之語《しご》
香子は、ついに気をうしなった。
眼がさめたときは、山の端《は》に団々たる十五日の月があがっていた。
「極楽のような」
と、香子はつぶやいた。
「宮。あの月は嵯峨野ばかりを照らすのではござりませぬ。美濃の名勝長《なが》良《ら》川《がわ》の畔《ほとり》をも照らしまする。都を捨てられよ」
香子は、童女のような素直さで、こっくりとうなずいた。
藤左衛門
庄九郎は、内親王の香《よし》子《こ》をともなって、美濃にもどった。
主人頼芸に、香子を献上した。
「新《・》九郎(庄九郎の現在の名)、ありがたい。あれは本物の内親王じゃった」
と、頼芸は、香子との初夜を送った翌日、川手城の一室に庄九郎を導き入れ、手をとってぽろぽろと涙をこぼした。
「わしも男として、生涯《しょうがい》のうち、内親王を伽《とぎ》にできようとはおもわなんだ。そちの恩、わすれぬぞ」
だらしのない男である。涙とはなみずとが一緒に出て、それがあごまで垂れた。
庄九郎は懐紙をとりだし、鼻の下のよごれをぬぐってやった。
頼芸は、内分泌《ないぶんぴつ》の異常を来たしている。胸の左鎖《さ》骨《こつ》の下あたりに、むっくりとこぶが盛りあがっていた。
「内親王といえば、それほどよいものでござりまするか」
「佳《よ》い」
にッと笑った。
「しかし、われわれ凡《ぼん》下《げ》には、内親王でもおなごはおなごだとおもいまするが、いかがでございましょう」
「それが、浅ましさよ」
どちらが、あさましいかはわからない。
「わしのようにおなごに飽くと、もはや美醜よりも、変わった出自《しゅつじ》をもつおなごをもとめたがるものだ。わしは唐土《から》の天子がうらやましい。わしが唐土の天子なら、胡馬《こば》を求めて西域に遠征するよりも、碧眼金毛《へきがんきんもう》の胡《こ》女《じょ》をもとめて兵を出すところだ」
「胡女のかわりに内親王とは、痛み入ったことでござりまする」
と、庄九郎は笑わない。
(この退屈しきった豕《ぶた》め)
内心、苦汁《くじゅう》の出る思いである。戦国争乱の世に、豕のままに生きつづけようというのは、どういう料簡《りょうけん》であろう。
(天をも怖《おそ》れぬ男だ)
庄九郎の哲学をもってすれば、天をも怖れぬというのは庄九郎ではなく、こういう支配者なのであった。
「深《み》芳《よし》野《の》はその後、達者か」
と頼芸は、声をひそめた。
君臣、一人の女のからだで結ばれている。
「息災でござりまする」
「それはよかった。吉祥丸《きっしょうまる》はその後かぜもひかぬか」
吉祥丸、というのは、ちかごろ深芳野が生んだ男児である。
頼芸は深芳野から耳打ちされて、かれのたねであることを知っていた。が、庄九郎は知らない。これほどぬけめのない男でも、天地の間にたったその一事だけ知らなかった。
「息災でござりまする」
「結構なことだ。嬰児《やや》の顔というのは成長するにつれて父母、祖父母の顔を順次、似《に》映《うつ》してゆくときくが、いまいずれに似ている。父のそちか、それとも母の深芳野か」
「はて、それがしのほうでありましょうか。眉《まゆ》は雄々しくはね、眼は凛《りん》と張り、ゆくすえお屋形のために頼もしき武者にならんずる骨《こつ》柄《がら》をそなえておりまするな」
「あははは、そちも子ぼんのうなことだ」
頼芸はうれしそうに笑った。庄九郎に対して持ちうる優越感の第一は、これである。
事実、庄九郎は、こと深芳野と吉祥丸に関するかぎり、平凡な家庭人であった。
毎日、下城すると、
「吉祥丸はどこへ行った」
というのが、第一声であった。
衣服の帯も解かずに抱きあげ、一時間ばかり愛《あい》撫《ぶ》してから、下城後の仕事にかかるのである。
そういう庄九郎を見て、深芳野は複雑な思いをもたざるをえない。
深芳野は、自分を魔法のようなやり方で頼芸からとりあげた庄九郎に対し、根の深い憎しみを育てていた。
吉祥丸が腹にあったころ、この子の実の父を自分と頼芸のみが知って庄九郎に知らしめないことがひそやかな復讐《ふくしゅう》心を満足させた。
その点、いまもかわりはないが、なにも知らずに吉祥丸を舐《な》めるように可愛がっている庄九郎の姿を見ると、それを痛々しく思うあらたな感情が、心の別の場所に芽ばえてきたことも否《いな》めない。
(存外、神のような善人なのかもしれない)
とおもうのである。
吉祥丸がうまれ、それがだんだん成長するようになってから、深芳野の庄九郎への愛情は、憎悪を押し包みつつも、濃《こま》やかなものになってきた。この男へのうしろめたさ、さらにこの男を痛々しく思う心が、そうさせたのかもしれない。
「藤左衛門」
という人物がいる。
現今でもこの人物が住んでいた岐阜市稲葉山の山麓《さんろく》に、藤左衛門洞《ほら》という町名が遺《のこ》っており、その屋敷の宏壮さがしのばれる。ただしいまでは火葬場になっている。
藤左衛門は、正確には長井藤左衛門利安といい、眉が白い。
この物語には、美濃一国が同族社会であるために、よく似た名前が登場してまことにまぎらわしい。
藤左衛門こと長井利安は、この物語の最初から登場して庄九郎の恩人になった長井利隆と名前が、一字しかちがっていない。
むろん、別の人物である。
利隆、利安は美濃の名族長井氏を代表する両翼といった人物で、利隆は庄九郎にすべてを譲って隠居したため、この物語の今後の発展のうえでは影が薄れてしまっている。
かわって利安のほうが、このあと濃厚な姿で登場する。
長井家は、代々美濃の守護代であり、この国の地侍たちから、
「小守護」
とよばれる家であることはすでにのべた。
その長井家は二軒あり、庄九郎の恩人になった利隆の家は、やや小さい。
両長井家は、仲がよくない、どころか、代々土岐家の相続あらそいのたびに両派にわかれて何度か合戦までやってきた仲である。げんに長井利隆はかつて庄九郎が美濃に来る以前、土岐政頼、頼芸とのあいだであらそわれた相続騒動のときに弟の頼芸を擁して破れた。
そのとき勝ったのは、その政頼を擁立していた長井藤左衛門利安である。
ところが、利隆は庄九郎を頼芸に推挙することによって、ついに守護職土岐政頼を越前へ追い、頼芸を守護職につけた。
利隆は、同姓の藤左衛門利安の鼻をあかし以前の恨みを晴らしたことになる。
が、藤左衛門は守護代でもあり、美濃第一の勢力家であるために、利隆を圧迫してついには利隆を殺すかもしれない、という予測は当然、立つ。
利隆が、自分の長井姓と加納城を庄九郎に譲っていちはやく隠遁《いんとん》したのは、ひとつには藤左衛門からの圧迫、迫害、危難をのがれるためであった。
なるほど、まぬがれた。
ところが、藤左衛門の圧迫は、当然、利隆の名跡《みょうせき》をついだ「長井新九郎利政」つまり庄九郎にこそおしかぶさってきたのである。
藤左衛門は、川手城の頼芸のもとにはめったに伺《し》候《こう》せず、ひとり白眼をもって庄九郎のその後の動きを、稲葉山麓の城館からみていた。
そのとき、事件がおこった。
事件、といっても、いつものように庄九郎が種をまいたものである。
この年の六月、美濃名物の洪水《こうずい》があった。
木曾《きそ》川《がわ》が氾濫《はんらん》し、頼芸の川手の府城も土塁から上をのこしたまま、水面にうかんだ。
城下町は流失し、水は容易に去らない。折りかさなって疫病《やくびょう》がはやり、毎日、死者を焼く煙がたえない。
洪水ぎらいの頼芸は、参ってしまった。
「新《・》九郎、そちは智者じゃ。洪水からのがれるよい法はないか」
この一語が、頼芸の運命をかえた。
「この川手城から、どこかへお移りあそばせばいかがでございます」
「えっ、川手城から?」
頼芸は、狐《きつね》につままれたような顔をした。
むりもない。川手城は数百年の美濃の首都で、現今《こんにち》でいえば天子を東京から動座していただくようなものである。
当時、川手城の城下といえば東国第一の都会で、西の山口とならび、小京都とさえいわれたほどの殷賑《いんしん》の町であった。頼芸はこの城内でうまれ、この城を継ぎたさに、兄政頼を越前へ追って、ようやく入った。
川手城を捨てるなどは、考えられないことである。
が、庄九郎の魂胆はちがう。
川手城はなんといっても、美濃の政治の中心であり、商業の中心でもある。もともと政治に何の興味も示さない頼芸などが、腰をすえているべき城ではない。
居ては、こまるのである。
できれば頼芸をどこかの別荘にすまわせ、自分がこの美濃の神経中枢ともいうべき城に、
「城代」
という資格で入り、美濃一国の政治と経済を実質上、にぎりたかった。頼芸さえほかにやり、自分が実権者になれば、国人の頼芸に対する印象はだんだん薄れはじめ、実力者の自分の印象が、濃厚に美濃地侍八千騎の前に立ちふさがることになろう。
「殿、この川手の府城は、御先祖代々の御城とは申せ、水には弱うございます」
庄九郎のいうとおりである。
川手城は美濃平野の中央にあり、地はひくく、そばを木曾川が流れている。大雨がふれば、蛇《へび》が尾をのたうたせるように川の流れがかわり、川手城近辺は湖のようになってしまう。
「そのうえに沃《よく》野《や》の中央にあるため、風景《ながめ》に変化がありませぬ。王侯の居るべき場所でないと思います」
「いや、そこよ、新《・》九郎」
頼芸は、好色な顔になった。
「香子がな」
唇《くちびる》が、綻《ほころ》びてきた。
「いやがるのよ、この川手城を。このように水の浸《つ》く城に居とうない、もう京に帰りますというのじゃ。それに、景色になんのふぜい《・・・》もない。そちのいう王侯の居をさだむべきところではない、と香子も云いおった」
「ほほう」
やはり香子を都から連れてきた甲斐《かい》があった、と庄九郎は思った。男子の鉄腸を溶かすのは女色しかない。まして頼芸のような男は閨房《けいぼう》のかげからあやつる以外に手がないのである。
「宮は、左様なことを申されましたか。畏《おそ》れ多ききわみに存じまする」
「なんの、きわみ《・・・》でもないがの」
と、頼芸は、自分のおんなを庄九郎がこれほどにまでかしこんでいることに、ひどく満足していた。
「そこでわしも、どこかよい場所はないものかと考えておった」
「左様」
川手のような政庁ではなく、たれに気兼ねすることなく、女と遊べる別荘が、頼芸のような男には必要であった。
「それがし、心あたりがござりまする」
「ほう、どこじゃ」
「枝広《えだひろ》」
と北を指さした。
川手城から北方三里、長良川のほとりにある(この地名は、現在はない。岐阜の新市内の崇福寺がその場所である)。
「まず長所は、稲葉山(金華山)の絶景と長良川をへだてて相向いあっておりますこと」
庄九郎は、枝広の地の風景のよさを、美しい言葉で飾った。
朝は、巨大な緑の靄《もや》が湧《わ》きあがり、薄れるにつれて稲葉山が全容をあらわしはじめ、真昼は翠巒《すいらん》をかがやかせつつ美濃平野に君臨し、やがて夕靄を呼んで落日に彩《いろど》られてあたかも紅衣をまとうがごとくして闇《やみ》に溶けてゆき、夜は夜で河畔に鵜《う》飼《かい》の火が往《ゆ》き来して、終日城外の風景を見ているだけで命の延びるような思いがする、と庄九郎はいった。
「しかし、洪水のおそれはどうだ。枝広もまた河畔ではないか」
「ふしぎな地形でござりまする。野にあり、河畔にありながら、小丘陵をなし、川へは崖《がけ》が落ちこんでいて要害もよろしゅうござる。なにしろ小丘陵ながらも、百々《どど》峰《みね》、鶴《つる》峰、岩崎、ママコ淵《ぶち》などと、深山幽谷のごとき地名がついているだけでも、この地が洪水などとは縁の遠い姿をもっていることがわかりましょう」
「なるほど」
頼芸は、はげしく気持をそそられた。
「では、さっそく設計《なわばり》してくれぬか」
「いやいや」
庄九郎は、首をふった。
「なにしろ、川手は累代《るいだい》美濃の御一門から御《おん》宗《そう》家《け》の第館《だいかん》として親しまれてきたところでござりまする。守護職であるお屋形様がよそへお移りあそばすとなれば、頑迷《がんめい》な国人《こくじん》どもがむらがって反対を唱えましょう。それを押しきるだけのお覚悟ができてからのことでございます」
「わしは、美濃の国主なのだ。城をどこに持とうと、遠慮をするものではない。いったいたれが反対するというのだ」
「たれも、ありませぬ」
と、庄九郎は撞着《どうちゃく》したことを言った。すぐ言葉を足して、「お屋形様がたって、とおおせられれば」といった。
「しかし」
庄九郎はいう。
「さらに反対を唱える者がありとすれば、それは畏れながら、お屋形様に害意をもつ者とみてよろしゅうございます」
庄九郎の論理が、飛躍した。
頼芸は、おどろいた。
「害意とは容易ならぬ。なぜ、そういうことがいえる」
「そうでございましょう。水に浸く程度の平《ひら》城《じろ》であるこの川手の府城のごときは、攻め掛けようとすれば一夜で陥《おと》すことができます。この弱城に強《し》いてお屋形様を置きつづけたいというのは、他日のたくらみのある証拠」
「あははは、新《・》九郎は他国のうまれだからそういうことをいうのだ。この美濃ではたとえ路上にねていてもわしを害するような者はひとりもおらぬ」
「いや、現におります」
「たれだ」
「長井藤左衛門利安殿」
庄九郎は、じっと頼芸をみた。この藤左衛門の名をきいたとき、かすかな嫌《けん》悪《お》が頼芸の表情にながれたのを、庄九郎は見のがさなかった。
「そうでございましょう」
「ふむ」
むずかしいところである。
なるほど、藤左衛門は、かつては頼芸の守護職相続に反対して兄の政頼を擁立した政敵というべき存在である。ついで庄九郎のクーデターが成功して頼芸が守護職になったが、この期間、藤左衛門は兵をひきいて近江《おうみ》との国境の関ケ原付近で、近江の浅井の軍勢が侵入してくるのを防いでいる最中であった。
帰府したときは、守護職が頼芸にかわっている。
藤左衛門はこれを不快に思い、守護代でありながら、ほとんど頼芸の前に出仕しない。
庄九郎の予想はあたった。
頼芸が、枝広築城を公表すると、たちまち藤左衛門は反対の旗頭になり、国中に触れを出し、反対者の結束をかためはじめた。
藤左衛門の反対は、むろん頼芸に対してどうこうするつもりはなく、この機会に京から流れこんで美濃の実権をにぎろうとしている庄九郎をのぞこうとするためであった。
藤左衛門の勢力はさすがに大きい。
かれが国中に秘密文書をまわして同志をつのったところ、ほぼ半分が同意し、このさい押して庄九郎を斬《き》れ、と硬論する者さえ出てきた。頼芸の三人の弟たちが急先鋒《せんぽう》であった。揖斐《いび》五郎光親《みつちか》、鷲《わし》巣《ず》六郎光敦《みつあつ》、土岐八郎頼香《よりよし》。
かれらは、稲葉山麓の藤左衛門の城館を根城に、密謀を練りはじめた。
続・藤左衛門
体毛が、異様である。
髪と眉《まゆ》は白かったが、口ひげのみは濡《ぬ》れたように黒い。それに血色がよく、紅白色といっていい顔が、だらりと肉を垂らしている。
奇相である。
(あの顔は、人以外のものじゃな)
庄九郎はかねて、長井藤左衛門のことをそうおもっていた。
精神が感じられない。
あぶらぎりすぎている。体じゅうの脂肪を揺りうごかして、藤左衛門は歩いていた。
精神《・・》のかわりに、藤左衛門は体じゅうを実力で鎧《よろ》っていた。真実、美濃では守護職の土岐家以上の実力を、藤左衛門こと、
小守護さま
は持っていた。
この藤左衛門が、いままで成りあがりの庄九郎をだまって見ていたことこそおかしい。
反撃がおそいくらいであった。
年号は、大永があらたまって享禄《きょうろく》になっている。その二年十二月。
「なんとしても承知はできませぬ」
と藤左衛門は川手城に登城し、頼芸のすそをおさえるようにして諫《かん》止《し》した。
「そもそもこの川手なる御城《おんしろ》は、ご遠祖頼遠《よりとお》さま、頼康《よりやす》さまこのかた二百年、美濃の鎮城としてつづいてきたものでござりまする。それをなんぞや」
藤左衛門は厚い唇をなめ、
「あきんどあがりの新参者にたぶらかされ、いわれもなき枝広の地にお移り遊ばすとは。なんの、この藤左衛門は存じておりまする、あの才槌頭《さいづちあたま》めは、お屋形さまを枝広に移し奉り、おのれはこの川手城を乗っ取らんとするこんたん。お屋形さまにはそれがわかりませぬか」
「藤左衛門、口がすぎる」
頼芸には、この田舎臭い肉塊よりも、庄九郎の都会的な感覚のほうがこころよい。
「かの者は、左様な魂胆ではない」
「お屋形さま、お眼が昏《くら》んでおる。弟君の揖斐《いび》五郎様、鷲《わし》巣《ず》六郎様も、そう申しておられまするぞ」
「五郎、六郎が?」
頼芸は、不快な顔をした。
兄弟ほど油断のならぬものはないことを頼芸は知りぬいているのである。
頼芸自身、兄の政頼を越前に追っぱらって守護職になった。さればいつ、五郎、六郎が藤左衛門にかつがれて自分を追わぬともかぎらない。
げんに庄九郎がそういったのである。血は毒のようなものだ、と。
庄九郎が頼芸に説いた言葉は、一種の帝王学のようなものである。
「血は毒のようなものでござる。貧家の兄弟というものは分けあうべき財産《しんしょう》がござらぬため力を協《あわ》せてはたらき、家名を興すもとになります。毒も、この場合は薬、というべきものでありましょう。しかしながら権門勢家の兄弟ほど油断のならぬものはござりませぬ」
と、古今東西の実例をくわしくあげ、
「げんにお屋形さまがよい例でござる。おん兄君がお屋形さまによって追われた。弟君がその真似《まね》をせぬとはかぎりませぬ。肉親は毒物であるとお思いあそばすように」
もともと、頼芸は自分の兄弟に愛情など持てようのない育ちかたをしている。それぞれがべつべつにそだてられ、少年時代の共通の思い出などはない。
それに、五郎、六郎たちは妾腹《しょうふく》の出で、その点でもいよいよ疎《そ》遠《えん》であった。
藤左衛門が退出したあと、庄九郎が登城してきた。
「狒々《ひひ》どのが参られましたそうな」
というと、頼芸は大笑いした。なるほど、藤左衛門の容貌《ようぼう》は狒々に似ている。
「そちのことを、才槌頭と申しておったぞ」
「痛み入ります。しかし狒々殿が申されたのはそれだけではありますまい。才槌頭は川手城を乗っ取るつもりじゃ、と申されたに相違ございませぬ」
「よくわかるな」
頼芸は、感心した。
「そのとおりだ。しかしなぜわかった」
「あっははは。狒々どのは、ご自分こそ、この川手城がほしいのでござりましょう。お屋形さまを追って五郎様をあとに据《す》え、美濃一国を以前同然に切り盛りしたいというのが本心にちがいありませぬ」
「証、証拠があるのか」
「ござる」
と、うなずいたが、あとはだまった。だまるしか、仕方があるまい。証拠などなにもないのである。
庄九郎を殺す、ということを藤左衛門一派がきめたのは、十二月二十六日のことである。
この日、藤左衛門は、表むきの「連《れん》歌《が》の興行」ということで、揖斐五郎、鷲巣六郎をはじめ美濃でおもだつ地侍二十数人を朝から稲葉山麓《さんろく》の自邸にまねいていた。
(臭い。――)
と、庄九郎はにらみ、飛騨《ひだ》うまれの耳次を藤左衛門の屋敷に潜入させていた。
それだけではない。
招待をうけた客のひとりである不破《ふわ》市之丞《いちのじょう》という者がかねて庄九郎によしみを通じているのを幸い、内報してくれることを頼んだのである。
果然、陰謀の集会であった。
集まった者のほとんどはあらかじめ藤左衛門から相談をうけていたらしく、驚きもしなかった。この日の談合も賛否の相談ではなく、すでに実施の下相談にまですすんでいた。
「新春六日は、先君政房様の法《ほう》会《え》が、川手の霊薬山正法寺《りょうやくさんしょうほうじ》で営まれる。かの者は当然、出るであろう。法会がおわった直後、われらが堂内でむらがって立ち、刺し殺す。ご一同、おぬかり召さるなよ」
藤左衛門は、最後に念を押した。
席に、不破市之丞がいる。縁の下には、耳次がいた。
こもごも、庄九郎に報告した。
庄九郎はその夜、耳次のほかに赤兵衛をよび、秘策をさずけた。
「小守護様(長井藤左衛門)ご謀《む》反《ほん》、といううわさをたてよ」
というのである。
「よいか。小守護さまは川手城に押し寄せて頼芸様を弑《しい》し奉り、その跡に揖斐五郎さまをたてなさるおつもりらしい、というのだ」
翌日、うわさはぱっとひろまった。
聞いた非藤左衛門派の地侍は一驚し、ぞくぞくと川手の府城に登城してきた。
「お屋形さま、一大事でござりまする」
と、かれらはみなせきこんでいった。
頼芸は、真蒼《まっさお》になっていた。
ところが頼芸のそばに侍《はべ》っている庄九郎だけは驚きもせず、
「慎まれよ」
と一喝《いっかつ》した。
「左様なことは藤左衛門殿にかぎってありえぬことだ。流言でござる。おおかたは、尾張の織田、近江の浅井なんぞが、美濃に大乱のおこるのをねがい、忍びどもをつかって、あらぬ噂《うわさ》をふりまいているのであろう。お歴々ともあろうお方が、そういう児戯《じぎ》にひとしい詐略《さりゃく》に乗せられるとはなにごとでござる」
翌日、川手の町の高札《こうさつ》場《ば》に、
近頃、怪しき大事をいいふらす者これあり、右流言、固く停止《ちょうじ》の事。若し違背あるにおいては罰すべきもの也《なり》。
という文面を、土岐美濃守頼芸の名で掲示した。
このため一部で囁《ささや》かれていた噂がかえってひろまるはめ《・・》になり、なにも知らずに高札を読んだ者が、
――怪しき大事とはなんぞ。
とひとにききまわったりした。庄九郎の思う壺《つぼ》である。
噂と高札をきいて一驚したのは、当の藤左衛門である。
剛毅な男だから、早速馬と人数を用意させ、揖斐五郎、鷲巣六郎をも誘って百騎あまりで堂々と川手の城下町に乗りこんだ。
大手門のそばの高札場に馬を立てるや、
「何びとが噂を撒《ま》くか」
と割れ鐘のような声でどなった。
「わしが美濃を横領するやに吹聴《ふいちょう》する者があるが、横領の必要もない。わが家は代々の美濃の小守護じゃ。みなの者、聴け、地下《じげ》の者も聴け、われに逆意なきは、この高札のとおりであるぞ」
藤左衛門は、辻々《つじつじ》を練り、呼ばわって歩いた。この男にはそんな無邪気さもあったが、それだけではない。
ひとりの刺客をはなっている。
理由は、こんな噂が立った以上、正法寺での謀殺がやりにくくなったからである。
刺客は、こういうときによく傭《やと》われる伊賀出身の男であった。
異名を、猫《ねこ》歯《ば》といった。
暮の二十八日、庄九郎の加納城内の犬は日没とともにことごとく死んだ。
城内のたれもが気づかなかったが、ただ耳次だけが、乾《いぬい》の櫓《やぐら》の下で一頭の犬の死《し》骸《がい》を発見し、庄九郎に報告した。
「毒《どく》餌《え》か、と存じまする」
「あの犬は午《ひる》さがりには元気にいた。すると殺されてほどもないと見える。曲者《くせもの》は城内にいる。おそらく今夜、毒刃を持った男がわしの部屋にあらわれるだろう」
「いかがなされます」
「うむ?」
庄九郎はほかのことを考えているらしく、しばらくだまっていたが、やがて、
「耳次、そちがわしの身代りになれ」
といった。
「殺されるのでござりまするな」
耳次はおどろきもしない。庄九郎は大《おお》真面《まじ》目《め》にうなずいた。
「そうだ」
そのあと、こまかい指示をした。月代《さかやき》を清らに剃《そ》って庄九郎にまぎらわしくすること、寝所では深《み》芳《よし》野《の》と同衾《どうきん》すること。
「深芳野様と?」
聞いて、はじめて耳次は戦慄《せんりつ》した。主人の側室ではないか。
「抱きあってもよいぞ。深芳野にとくと言いふくめておく」
「し、しかし」
「耳次、逆らうな」
庄九郎はすばやく自分の小《こ》袖《そで》をぬぎ、耳次にあたえた。
夜が更《ふ》け、月が落ちたころ、城館の台所の煙抜きから、いっぴきの蜘蛛《くも》がおりてくるように黒い影が細引きをつたい、
すーっ
と土間におりてきた。藤左衛門が伊賀から傭い入れた猫歯である。
納《なん》戸《ど》にかくれた。
その内部は、かねて細工しておいたらしく天井板《てんじょういた》が簡単にはずれるようになっている。
猫歯は、板をはずし、身を持ちあげるや、一挙に天井の上にのぼった。
梁《はり》の上をさらさらと渡った。
ところどころに、忍びの用心のための金網が張られている。が、用を為《な》さない。
あらかじめ猫歯が、やすりで切りとってしまっているからである。
(首尾はよい)
夜気が動いた。猫歯は、庄九郎の寝所の上へそろりと移動した。
気配を殺している。この男のそばに鼠《ねずみ》の巣があった。鼠が二ひきいた。その鼠さえ、そばを過ぎてゆく猫歯の気配には気づかない。
猫歯は、庄九郎の部屋の上まで来た。格天《ごうてん》井板《じょういた》の一角に穿《うが》たれた錐《きり》の穴から灯が洩《も》れている。
その錐の穴へ、眼をあてた。
そのままの姿勢で、猫歯は四《し》半刻《はんとき》もじっとしていた。
寝息を聴いているのである。
――頃はよし。
とおもったのであろう。
音もなく、板をはずした。すべてあらかじめ細工してあったのであろう。
猫歯が、身を入れようとしたとき、眼の前の梁から自分を見おろしている男がいる。
(………?)
面覆《めんおお》いに、黒装束、忍び刀、といった装束は、すべて自分とおなじである。
「た、たれだ」
ひくい声で猫歯はきいた。
「藤左衛門様からおぬしに手伝え、との言いつけを受けた者よ」
「名は?」
用心ぶかく問いかさねた。
「云うな、と藤左衛門様はおおせられた」
「伊賀の者か。たれの下忍《あらしこ》だ」
と猫歯は訊《き》き、隙《すき》をうかがった。刺し殺すつもりだったのである。
「仕事をつづけろ」
梁の上の黒装束はいった。だけでなく、ゆっくりと降りてきた。
黒装束は、這《は》った。よほど器用な男か、みしり、とも音がしない。
猫歯はそっと忍び刀の鯉口《こいぐち》を切り、抱くようにして抜きはなち、背中へまわして剣をそばめた。
黒装束は、這ってきた。
「寄るな」
猫歯がいったとき、黒装束はすでに起きあがっていた。どうやら右ひざを立てている様子であった。
と思った瞬間、黒装束の背中から刀が電光よりも早く鞘走《さやばし》り、弧をえがいて落ちてきた。猫歯はあやうくその刀をつばもとで受け、はずすや、とびさがった。
「お、おのれは何者じゃ」
「まだわからぬか」
黒装束は、目だけで微笑《わら》った。
「おぬしが会いたいと思ってやってきた当のこの館《やかた》のあるじ、長井新九郎利政よ」
「お、おのれは」
刀を、びゅっと横ざまにはらった。が、むなしく流れた。
黒装束は、梁の上にもどっている。
「伊賀の者、わしの手につかぬか。士分に取りたててやるが」
「………?」
慾が出た。
そのすきに黒装束は、梁から飛びおりた。
そのころ、宿直《とのい》の者五、六人がすでに槍《やり》の鞘をはらって天井の下にむらがっていた。
みな、血走った眼で天井を見あげている。
物音が入りみだれて聞こえ、ほこりがしきりと落ちてくるが、いずれの物音が自分の主人のものか、よくわからない。
すでに屋敷じゅうの人数が起きて、軒端にすきまもなくカガリ火を焚《た》きはじめていた。こういうときの機敏さでは、庄九郎の家来は美濃でも随一であった。
「伊賀の者、もはやのがれられぬ。わしの郎党になれ」
「な」
どもった。
「なりまする」
庄九郎は、わざと気をゆるめ、体をくずしつつ、刀をおさめた。猫歯の本心を見るためである。
はたして、猫歯は動いた。
抜いた。横に払い、手《て》応《ごた》えもみず、そのまま梁に飛びついてのがれようとした。
が、すでに胴が二つになっていた。
ざあっ、と血が噴きこぼれ、死体が梁の上から落ちてきた。
庄九郎は、天井板をはずし、けもののような身軽さで座敷の上へとびおりた。畳の上に立つと、
「おれだ」
頭《ず》巾《きん》をとった。
天井から血がしたたり落ちている。
「戦さの支度をしろ」
「御敵は?」
「藤左衛門」
いまから稲葉山麓の城館へ押し寄せるとすれば、朝《あさ》駈《が》けになるであろう。
庄九郎は、具《ぐ》足櫃《そくびつ》のふたをはねあげた。
夜討
「人の世の面白《おもしろ》さよ」
庄九郎は具足をつけながら、からからと笑い、つぶやいた。
人は、群れて暮らしている。
群れてもなお互いに暮らしてゆけるように、道徳ができ、法律ができた。庄九郎は思うに、人間ほど可《か》憐《れん》な生きものはない。道徳に支配され、法律に支配され、それでもなお支配さ《・・・》れ足らぬ《・・・・》のか神仏まで作ってひれ伏しつつ暮らしている。
(――しかしわしだけは)
と庄九郎はおもうのだ。
(道徳、法律、神仏などには支配されぬ。いずれはそれらを支配する者になるのだ)
おもしろい。
人の世は。――
庄九郎にとってなにが面白いといっても権謀術数ほどおもしろいものはない。
権ははかりごと、謀もはかりごと、術もはかりごと、数もはかりごと、この四つの文字ほど庄九郎の好きな文字はない。
庄九郎はいま、稲葉山麓に城館をかまえる美濃第一の実力家長井藤左衛門を夜討にして討ちとろうとしている。
「それが正義か」
と、「道徳」は大喝《だいかつ》一声、庄九郎を攻撃するであろう。これほどの不義はない。
京から流れこんだどこの馬の骨ともしれぬ徒《と》手空拳《しゅくうけん》の庄九郎を引き立てたのは長井一族である。長井一族のうち、とくに長井利隆が推挙に推挙をかさねて庄九郎を押しあげてくれたのだが、長井藤左衛門にもまんざらの恩がないでもない。なにしろ藤左衛門は長井一族の宗家である。この宗家の藤左衛門が、
――まずまず。
という態度でいてくれたればこそ、さしたる邪魔だてもなく庄九郎は美濃第一の出頭人(にわか立身の者)となり、さらには、
「長井」
という姓さえ名乗れるようになったのである。いわば、大恩。
さらに、「法律」は責めるであろう。なぜならば、庄九郎は形式的には、美濃の小守護である長井藤左衛門の下僚になる。上下の系列でいえば、美濃守護職土岐頼芸―美濃小守護長井藤左衛門―頼芸の執事庄九郎、というぐあいになる。その庄九郎が、上司を討つ。無法のきわみというほかない。
が、庄九郎の「正義」はちがう。
美濃をわが力で征服し、あたらしい秩序をつくることこそかれの正義である。
庄九郎の道徳ではそのためには、いかなることをしてもよいのである。旧来の法をまもり、道徳をまもり、神仏に従順な者が、旧秩序をひっくりかえして統一の大業を遂げられるはずがない。
庄九郎とほぼ同時代にうまれたルネッサンス期のイタリーの政治思想家マキャヴェリは云っている、「力こそ世の静まりをもたらすものである」と。
かつ、マキャヴェリは、能力ある者こそ君主の位置につくべきだ、といった。能力こそ支配者の唯一《ゆいいつ》の道徳である、ともいった。このフィレンツェの貧しい貴族の家にうまれた権謀思想家が、自分と同時代の日本に斎藤道《どう》三《さん》こと庄九郎がいるということを知ったならば、自分の思想の具現者として涙をながして手をさしのべたかもしれない。
赤兵衛でさえ、いった。
「殿、殿」
声がふるえた。
「小守護様をお討ちなされるのでおじゃりまするか。恩ある人を殺さば、神仏の罰がおそろしゅうござりまするぞ」
「神仏がこの庄九郎に罰をあたえるというのか。わしは神仏など、わしの家来だと思っている」
「おそろしや」
小悪党は、意気地がない。
「赤兵衛。それほど神仏がおそろしければ、今夜、美濃じゅうの寺、宮の本尊に紙をもって目かくしをしてこい。それでもなお罰をあてる神仏があるとすれば、あとで神仏こそ退治をし、社殿、仏閣を打ちこわして痛い目に遭わせてくれるわ」
「おそろしや」
といいながら、赤兵衛は、このあるじをたのもしくおもっている。神仏をさえ足もとにひれ伏さしめる男など、天下のどこをさがしてもいないであろう。
「しかし、殿」
赤兵衛はいうのだ。
「藤左衛門様をお討ちになれば、美濃一国の殿原《とのばら》は蜂《はち》の巣をつついたようにさわぎだし、この加納城に攻め寄せてくるかもしれませぬぞ。いかがあそばす」
「考えてはいる」
庄九郎は、この点はさすがに心配らしく、多くを語らなかった。
庄九郎は、カブトをかぶった。
前立《まえだて》の黄金が、きらきらと燭《しょく》のひかりに映えてかがやいた。
前立は、波を図案化したもので、庄九郎の考案である。
二《に》頭波頭《とうなみがしら》、という。
庄九郎は波が好きで、このころから自分の紋所をみずから考案した「二頭波頭」に変え、後年は旗にもこれを用いた。
――波こそ、用兵の真髄である。怒《ど》濤《とう》のごとく打ち寄せ、寄せては退《ひ》く。
と、庄九郎はかねがねいっていた。軍事ばかりではない。人生万事、波の運動をこそ学ぶべきだという。二頭波頭の紋章は、斎藤道三の紋所としてのちに天下著名の紋になる。
「者共、支度はできたか」
と、庄九郎はいった。
邸内に、二十人しかいない。庄九郎の手飼いの大多数は、在所々々に常住していて、集めようとすれば触れを出さねばならず、そういうことをしていてはついついめだち、企図がばれてしまう。邸内居住の二十人で討ち入るほかなかった。
「支度は出来ましてござりまする」
「まだ、門から出るな」
庄九郎には、策があるらしい。
「わしは、ちょっと出てくる」
「お一人で?」
「ああ、一人でだ。馬を曳《ひ》け」
庄九郎はわざと裏門をあけて馬をひきださせ、むち《・・》をあげるや、ただ一騎で国主頼芸が在城する川手の府城にむかって駈《か》けた。
近い。
すぐ城門へ着いた。
「わしじゃ。火急に言上《ごんじょう》せねばならぬことがあって参った。門をあけよ」
と門をあけさせ、馬を番卒にあずけ、具足陣羽織のいでたちで、ずかずかと城内の頼芸の居館へむかった。
「夜分、どうしたのだ」
頼芸は不機《ふき》嫌《げん》な顔で書院の縁に出てきた。奥で女を抱いていたらしい。
「しかも、その扮装《いでたち》は?」
頼芸は縁に立ったまま、いった。
庄九郎は武装のままだから座敷にはのぼらず、地に平伏している。
カブトは背にはねあげ、髪はモトドリを解いて大童《おおわらわ》である。
「一大事、出来《しゅったい》つかまつりました」
言ったきり、だまった。
頼芸のほうから訊《き》かざるをえない。
「また国境に、近江《おうみ》兵でも侵入したか」
「さにあらず」
「早く申せ」
「はっ」
庄九郎は小わきにかかえていた桐《きり》の箱を眼の高さに捧《ささ》げ、膝《ひざ》ですすみ出て、縁の上においた。
頼芸は、ぎょっとした。
首桶《くびおけ》かと思ったのである。
児《こ》小姓《ごしょう》に手燭《てしょく》を近づけさせると、そうでもないことがわかった。
ふたをあけさせた。
みごとな新調の兜《かぶと》が出てきた。庄九郎はさらに進み出て、それを兜立にかけ、頼芸のほうにむけた。
「ほほう」
頼芸は、かねて庄九郎が甲冑《かっちゅう》、陣羽織の意匠を考案するのに非常な才があるのを知り、自分のカブトを作ってくれるようたのんでおいた。
細く長い鍬形《くわがた》うった前立、鉢《はち》には銀の星を打ち、錣《しころ》は四枚がさねで赤糸縅《あかいとおどし》、というもので、新奇なものではない。源平以来、大将が用いてきた普通のものである。
戦国の世になると、将も士も新奇な形のものを好み、それぞれその意匠をほこった。当世兜というものである。頭《ず》形《なり》、篠鉢《しのばち》、桃形《ももなり》、トッパイ、一ノ谷、貝形《ばいなり》、鯰尾《なまずお》などとよばれるものがそれで、いま頼芸の眼の前にある新調のそれは、「昔兜《むかしかぶと》」とよばれている。
頼芸は、当世カブトを所望したのだ。
「これは、昔兜ではないか」
「左様」
庄九郎はうなずいた。
「ごらんのごとく昔兜でござる。お屋形様は源家の嫡々《ちゃくちゃく》、美濃の守護職というお血統、お身分でござりますれば、当世カブトはおふさわしゅうはござりませぬ。昔兜こそ御大将《おんたいしょう》のご身分にふさわしゅうござりまする。されど」
と、庄九郎はさらに包みをひらいた。
みごとに輝くものが出てきた。
錦《にしき》かと思えば、錦ではない。
「孔雀《くじゃく》の尾でござりまする」
堺《さかい》に入津《にゅうしん》する大明《たいみん》の船から手に入れたものだという。それを金糸でつなぎあわせている。
「これにて錣を覆《おお》いまする」
と、庄九郎はカブトを手にとり、止《と》め金《がね》をもって錣に装着してみせた。
異様に美しいカブトができた。
「おお、これは」
「左様。お屋形様を孔雀明王に見たて奉ったものでござりまする」
「ほう、そうか」
「そもそも孔雀明王は」
庄九郎は、頼芸のすきな衒学《げんがく》趣味を、ことさらに発揮した。
「胎蔵曼《たいぞうまん》荼羅《だら》に住し、そのかたちは白色にして白絹の軽衣をまとい、頭に宝冠を頂き、胸には瓔珞《ようらく》(首飾り)を垂らし、両耳には耳《じ》ム《とう》(耳飾り)をつけ、金色の孔雀に乗り」
とその仏相を説いたあげく、孔雀明王の由来まで説いた。
印度《インド》の鳥である。
この鳥は、好んで毒草や悪虫を食べるがため、古代印度人はこれを「孔雀明王」として神格化し、人間を害する貪《むさぼり》、瞋《いかり》、癡《おろか》の三悪を食べつくしてくれると信じて信仰した。
「なるほど孔雀は三悪を食いつくすのか。武門の棟梁《とうりょう》のカブトをかざるのにふさわしい鳥であるな」
「左様」
庄九郎は、だまっている。
「しかし、その方」
頼芸は、当然な疑問にもどった。いかにカブトが調製できたとはいえ、これを夜中持ってくるのは非常識ではないか。
「どういうわけだ」
「その三悪を退治していただきたいのでござりまする。さ、刻限が移りまする。さ、はやばやとそのカブトをおかぶりくだされませ」
「悪はいずれにある」
「謀《む》反《ほん》でござる」
庄九郎は、藤左衛門が、頼芸の弟五郎、六郎を擁立して頼芸を攻め殺そうという動きがいよいよ露骨になった、といった。むろん、話は庄九郎の創作だが、その可能性はないとはいえない。
頼芸も、ちかごろの藤左衛門の様子をみてうすうすそういう疑いをもちはじめている。
「甲冑をつけるのか」
「左様」
「出陣するのか」
「いやいや」
庄九郎は、頼もしく笑った。
「戦さは、手前が致しまする。しかし今夜、あるいは藤左衛門方がお城に攻め寄せて来ぬともかぎりませぬゆえ、このお城内のすみずみまでカガリ火を焚《た》かせ、城詰めの侍には具足を着せ、足軽どもには弓、長《なが》柄《え》を持たせ、且《かつ》は、お屋形様におかせられては、せめて直《ひた》垂《たれ》でもお召しあそばしておりますように」
「そうする」
としか、言いようがない。庄九郎自身、手を砕いてこれから夜討に出かけようというのである。
庄九郎は、城門のそとで馬に乗った。
駈けた。
(これでよし)
と思った。
自分が長井藤左衛門の城館に夜討をかけたとしても国中《こくちゅう》の者は庄九郎が自《じ》儘《まま》でやったのではなく頼芸の命令だと思うであろう。
なぜならば、頼芸は、川手城に大小のカガリ火を焚きあげ、みずから武装して待機しているのである。
ところで。
庄九郎はあまい。
頼芸は庄九郎が暴風のように駈けこんできて暴風のように駈け去ったあと、なにやらばかばかしくなってきた。
(静かな夜ではないか)
満天の星がまたたいている。美濃の天地はあくまでも静謐《せいひつ》で、どの山、どの村、どの野にも反乱軍が蜂《ほう》起《き》しているようなけはい《・・・》もない。
(ばかげている)
とおもったのは、知的にそう思ったわけではない。感情がそう思った。
怠惰なのである。
着つけぬ甲冑をつける気にもなれなかったし、くだし馴《な》れぬ軍令を発する気にもなれなかった。
「あーあ」
と大あくびを一つ洩《も》らし、肩をたたき、奥へ引っこんで行った。
(たとえ謀反がおこったところで、あの者がうまくやるだろう)
庄九郎は、ぬかった。
この明敏な男でさえ、頼芸という男がここまで怠け者だとはおもわなかった。桁《けた》がはずれている。数百年、支配者の位置にあぐらをかいてきた貴族の血が、頼芸を弾《はず》まぬ男に生まれつかせてしまった。事に驚くなどは下司《げす》下《げ》根《こん》の世界のことだ。
頼芸は、児小姓に足もとを照らさせながら長い廊下を歩いた。
また一つ、あくびをした。
公卿《くげ》にまねたおはぐろ《・・・・》の歯が、開《あ》いた口を黒い空洞《くうどう》のようにみせた。
寝所に入った。
女が待っている。
今夜は、香《よし》子《こ》ではない。
「腰をもめ」
頼芸は、ながながと寝そべった。
庄九郎は自分の加納城に帰ると、城内の内側の広場で戞々《かつかつ》と馬を輪乗りにし、
「われにつづけ」
と、ふたたび城門から突出した。
庄九郎とその主従は、まっ黒なかたまりになって、北へ北へと駈けた。
稲葉山麓まで一里。
藤左衛門の城館は、こんにちでも岐阜市内で「藤左衛門洞《ほら》」という地名で残っている、とは前にのべた。
洞、というのはここでは洞窟《どうくつ》ではない。
山麓がするどく彎入《わんにゅう》している地形のことをさしている。
こんにち、岐阜市の松山町から山にさしかかるドライブ道路に面し、途中警察学校があり、やがて、雑木にかこまれた火葬場がある。黙山《もくさん》火葬場である。
それが、庄九郎のころの藤左衛門の城館であった。
藤左衛門は、寝酒が長い。
燭台《しょくだい》をひきよせ、自領の百姓に醸《つく》らせた濁酒を、上機嫌でなめている。
「新春六日が、待ちどおしいわ」
と、寵姫《ちょうき》の小《こ》筈《はず》という十二歳の少女に酌《しゃく》をさせながらいった。
藤左衛門にはそういう癖があり、初潮もみぬ小娘を買ってきては、夜の伽《とぎ》をさせる。
ほかに取りたてて欠陥のない男だが、この一事のために美濃での評判はひどく悪い。
「新春六日にはなにかおうれしいことがあるのでございますか」
と、小筈がきいた。藤左衛門はそれには答えず、
「そのほうは、あの男をどう思うか」
と、庄九郎の名をあげて、きいた。
小筈の答えは意外だった。
「好もしいお方と存じまする」
さらにつづけた。
「美濃のおなご衆は、みなあの方は涼やかでよい、と申しておりまする」
小娘だけに、正直である。
藤左衛門は、いやな顔をした。
上意討
道はほそい。
北へ。
稲葉山ふもとの長井藤左衛門の城館にむかってまっすぐについている。享禄《きょうろく》二年十二月二十八日の最後の時間はすでに去った。
刻《とき》は二十九日の子《ね》ノ刻《こく》(午前零時)すぎになっていた。
庄九郎はなお鞭《むち》をあげて駈けた。かれに従うのは赤兵衛以下、屋敷内の長屋にすむ手飼いの郎党にすぎず、さほどの侍はいない。
赤兵衛は、馬の鞍《くら》に大掛《おおかけ》矢《や》をくくりつけていた。この打撃道具で城門をたたき割ろうというのである。
騎馬団は、稲葉山麓《さんろく》につきあたった。森が多い。
森を西へまわった。
坂がある。
藤左衛門の城館にむかう大手道路である。
城の空濠《からぼり》についた。
「かねての手《て》配《くば》りどおり、三方にわかれよ」
庄九郎は兵を散らせた。
みな空濠へとびこみ、さきに熊《くま》手《で》のついた縄《なわ》を投げあげ投げあげ、城壁をのぼりはじめた。
赤兵衛は城門へ進み寄り、
ぐわーん
と大掛矢で門をたたいた。
びくともしない。
「ばか、赤兵衛、貸せ」
庄九郎は大掛矢をとりあげ、柄《え》のはしをにぎり、ゆるやかに虚《こ》空《くう》に弧をえがきはじめ、やがて弧をえがく速度がはやくなり、うなりを生じて回転したかとおもうと、
ぐわあーん
と門を打撃した。
はめ板が割れ、門の金具が吹っとび、さらに三度、四度と打撃をくわえるうちに、人が入れるほどの穴があいた。
「たれぞ、飛びこんで閂《かんぬき》をはずせ」
と命ずると、「承って候《そうろう》」と郎党の一人がとびこんだ。
すぐ門がひらき、一同槍の穂さきをならべ、どっと攻め入った。
一方、藤左衛門である。
すでに一刻《いっとき》も前に寝酒を終え、めかけの小筈とともに寝所に入っていた。
藤左衛門は、伊賀から傭《やと》い入れた忍びが帰って来るのを心待ちに待っている。
(はて、うまくゆくかどうか)
それを思うと、寝つけない。
(まあよい。それがしくじったところで、あとあとよき計略がたてられよう)
小筈は、愛《あい》撫《ぶ》に疲れはてて、かるい寝息をたてている。恥毛がない。寝顔も、まるっきりの童女であった。
藤左衛門は、いつのまにか、寝入った。
小筈は、眼をひらいた。
(………?)
と藤左衛門の顔をのぞきこみ、寝入った、と見すますと、そっと臥《ふし》床《ど》をぬけた。
隣室に、宿直《とのい》の間がある。侍が二人、寝ずに詰めている。
「厠《かわや》へ参ります」
と小筈はちいさく声をかけ、さらさらと廊下を渡った。
(三四郎殿のお言葉では今夜あたり、なんぞ異変があるときいていたが)
小筈は、庄九郎の児小姓関三四郎という者と従兄妹《いとこ》同士になっていた。その三四郎をとおして、かねて「なにか異変があれば藤左衛門様から離れるな」と言いふくめられている。
異変
とはなにか。
知らない。
小筈は疑問ももたず、せんさく《・・・・》もしなかった。その髪形が童女のままであるように、心も童女からぬけきっていない。
小筈には、習慣がある。
腰に鈴をつけていることであった。起き臥《ふ》し、鈴を体から離したことがない、小筈のゆくところ、いつも鈴が、
ちろちろ
と鳴った。それがいかにも可愛《かわい》い。
厠から帰ってきて、ちろちろと音をたてながら臥床に入ると、藤左衛門がものうげに眼をひらき、
「どこぞへ行っておったか」
ときいた。
「はい、厠へ」
小筈は悪びれもしない。当然なことで、小筈は庄九郎一味の陰謀などつゆ《・・》知らないし、いまも厠へ立ったことは嘘《うそ》いつわりもないことだからである。
そのときであった、藤左衛門が、
ぐわあーん
という地響きするような音をきいたのは。
「あれはなんだ」
はねおきた。
つづいて、二度、三度、四度とすさまじい物音がおこった。
「地震か」
「殿、殿」
侍が二、三人、廊下を叫びわたりながら駈けこんできた。
「う、討入りでござりまするぞっ」
「あわてるな」
藤左衛門はこうとなれば、さすが豪勇で近《おう》江《み》、尾張まで名を知られた男である。
長押《なげし》から小《こ》薙刀《なぎなた》をとり、さらに手をのばして長押の上の石ころ五つばかりをふところに入れた。
長押は、投石と書くという説があるほどで、武士の城館では長押の上に小石をおきならべてある。討入られた場合、室内戦闘につかうためである。
「小筈、逃げろ」
藤左衛門はいったが、小筈はここだとおもい、この初老の小守護様の腰にしがみついてはなれない。
「小筈は怖《こお》うございます」
三四郎がそう教えてくれた。「武家奉公する者のこれは心得ごとだぞ、万一異変があれば屋敷中の者は殿のご身辺をまもり、殿お一人を安全な場所へ落し参らせるから、殿のお身まわりにしがみついておれば身は安全だ」といったのである。
「うるさいっ」
藤左衛門は突きはなそうとしたが、小筈は泣きだしていっかな《・・・・》離れない。
「敵は何者ぞ」
「し、しれませぬ。ただ、お上意、お上意と叫んでおりまする」
「お上意?」
藤左衛門は、激怒した。
(お屋形はわしを御《ぎょ》意《い》討《うち》になさるか)
思いあたるふしはある。もともと藤左衛門は亡命した先代の守護職政頼を擁立していた男であった。当代の頼芸に好かれようはずがない。
一瞬、藤左衛門は決意した。
思いもよらぬことを決意した。たったいまからクーデターをおこし、頼芸を追い、あとに頼芸の庶弟《しょてい》の揖斐《いび》五郎を押したてて守護職にすることを。
どうせ、頼芸も庄九郎に押したてられクーデターによっていまの地位についたお屋形様ではないか。
「やる。――」
藤左衛門は、昂奮《こうふん》で顔が真赤になった。大声で手配りをした。
「太田伝内、伝内やいずれにある」
「おん前に」
家老の伝内が走り出た。
「すぐのろし《・・・》を打ちあげよ、五郎の殿に使いを走らせよ、美濃じゅうの軍勢を駆り催《もよお》すのじゃ。めざす敵はお屋形ぞ」
「はっ」
太田伝内は走った。
藤左衛門も尋常な男ではない。邸内に討ち入られながらそれを防ぐよりも、――いやむしろ防ぎをわすれて積極的な攻勢に出ようとした。
邸内はひろい。
建物の配置も複雑である。
藤左衛門は、あちこちを走った。そのうしろから、
ちろちろ、
ちろちろ、
と鈴の音がついてきた。
一方、庄九郎である。
「逃げる者は追うな、無用の殺生《せっしょう》はするな」
とどなっているが、庄九郎は庄九郎でどうかしていた。
藤左衛門方の人数は、五十人はいる。庄九郎方はその半分以下の二十人でしかない。
――逃げる者は追うな。
というどころではない。庄九郎の人数のほうが、逆に藤左衛門方の人数に追われて邸内を逃げまわっているのである。この男の強気は、底が知れない。
「者ども、聞け」
庄九郎はりんりんと声をあげた。
「めざすは、小守護殿(藤左衛門)ひとりであるぞ、余《よ》の者と掛けあうな」
「推参《すいさん》。――」
と、屈強の武士が大太刀をふるって飛びかかってきたのを、庄九郎は身をひくめ、
びしっ
と太刀を横に薙《な》ぎはらった。武士はどっと倒れた。
その死《し》骸《がい》をとびこえ、廊下を駈けた。廊下や回廊、ぬれ縁、庭さきなどのあちこちに敵味方の松明《たいまつ》が入りみだれている。
「………?」
庄九郎は耳を澄ました。
ちろ、
ちろちろ、
という鈴の音が、壁のなかからきこえてくる。右手に塗り籠《ご》めの部屋があるのだ。
(ここか)
がらっ、と戸をあけ、飛びのいた。小石が庄九郎の頭上をかすめて飛んだ。
庄九郎は室内に松明を投げこんだ。真暗な室内が、茫《ぼお》っとあかるくなった。
藤左衛門が、小薙刀をかまえている。そのそばで、小筈が顔を畳に伏せてうずくまっていた。
「小守護様でおわすや。お上意でござる。神妙に首《こうべ》をさし出されよ」
「お、おのれか」
藤左衛門はおどりあがるようにして、小薙刀をふりまわした。
きゃっ
と小筈が藤左衛門にとびついた。
「はなせっ」
藤左衛門は、蹴《け》り倒した。
わっと小筈は倒れたが、それでもなお藤左衛門が頼りとおもうのか、夢中に駈けよってきた。
「こいつ。――」
小薙刀が、旋回した。
無残、というほかない。小筈の細首が音もなく飛んでしまった。
(や、やったか)
藤左衛門は、うろたえた。小筈の死がかれをさらに物狂いにした。
小薙刀がぶんぶんうなりを立てて庄九郎にせまってくる。手に負えない。
そこへ赤兵衛が駈けてきた。
「赤兵衛、手槍を」
庄九郎はひったくるなり、構え、猪突《ちょとつ》し、飛びちがえた。
横に薙ぎまわしてきたのを、庄九郎は手槍の石突を畳の上に突ったてて、木のぼり猿《ざる》のようにとびあがった。
すぱっと槍の柄が切られた。
切って、薙刀の刃が去った。
庄九郎は、とびおりた。
瞬間、庄九郎の太刀が、藤左衛門の左肩から袈裟《けさ》に斬《き》りおろしていた。
「赤兵衛、首をとれ」
庄九郎は、廊下へ駈け出、
「敵味方とも聞け、長井藤左衛門殿はお上意によって討ち取った」
言いながら、用意の退《ひ》き鉦《がね》を打たせた。
そのあと、半刻のちには庄九郎は川手の府城の頼芸の御前にいる。
夜は、明けそめていた。
「御上意により、大奸《だいかん》をば誅戮《ちゅうりく》つかまつりました。御検視ねがわしゅう存じまする」
藤左衛門の首をみて、頼芸は声もない。
「お言葉を」
庄九郎は、強制した。
「大儀であった」
ほめざるをえない。
ところが、そのあとが大変であった。美濃の国中は、譬《たと》えどおり、蜂《はち》の巣をつついたような騷ぎになった。
「かの油商人を殺せ」
と口々にいい唱え、美濃八千騎の地侍のうち、藤左衛門の息のかかっていた五千騎が武装し、在所々々から郎党をひきい、
「お屋形様に願い奉る儀あり」
と押しかけてきたのである。
みな、城外に野営した。
その数は日に日にふえ、七日目には五千騎二万人を越える人数になった。
夜は、大カガリ火を焚《た》く。
その数、無数といってよく、城の櫓《やぐら》から見ると城外の野はことごとく火を噴いて燃えあがるようであった。
美濃はじまって以来といっていい。
国侍の一《いっ》揆《き》にも似た集団陳情がおこなわれたのは。
その主導をにぎる者は、かつて藤左衛門と腹をあわせて庄九郎誅殺の謀議に参加した連中で、その中心人物は頼芸の庶弟揖斐五郎に同鷲《わし》巣《ず》六郎、同土岐八郎。
さらに土岐家一門の重鎮斎藤彦九郎宗雄《むねかつ》、国島将監《しょうげん》、芦《あ》敷《しき》左《さ》近《こん》、彦坂蔵人《くらんど》。
それに、殺された小守護長井藤左衛門の実子で名族斎藤家の出身である斎藤右衛門利賢《としかた》(すでに僧形《そうぎょう》になっており、僧名は白雲《びゃくうん》)が、当然、復仇《ふっきゅう》のために、急先鋒《きゅうせんぽう》でいる。
「あの者を、われらが手にお渡しくだされますように」
と、一同頼芸にせまった。
「さもなくば、われらに追討の下し文をおさげ願わしゅうござりまする。さればこの軍勢を駆って一挙にあの者の加納城を陥《おと》してごらんに入れまする」
いずれにしても、庄九郎を殺す、という要求である。
庄九郎は、どこにいたか。
自分の城館である加納城にはいなかった。いいおとしたが、この加納城も、数千の人数でかこまれているのである。
庄九郎は、放胆にも頼芸の川手の府城にいた。一室にひそんでいる。
書院には陳情団が詰めかけているというのに、庄九郎はなすこともなく毎日酒をのんでいた。
「お屋形様、相手になされまするな」
と頼芸には念を押してある。
頼芸もまた、自分をこんにちの栄華の地位に押しあげてくれた庄九郎を裏切ろうとはおもわなかった。
頼芸は、無智粗豪な同族や国侍どもよりも、庄九郎のほうがいい。庄九郎とは、たとえば牧谿《もっけい》(中国宋《そう》代の画家。水墨画の名手とされ、とくに、竜、虎、猿、鶴、蘆《ろ》雁《がん》、山水樹石、人物をよくした。中国での評価よりもむしろ日本でもてはやされ、この時代での世界最大の画家とされていた)について語ることができる。牧谿という名さえ知らぬ肉親よりも、牧谿を知っている他人のほうが、頼芸の身にとって近い。頼芸はたとえば無人島に流されたとして、一人だけの友をえらべといわれれば躊躇《ちゅうちょ》なく庄九郎をえらんだであろう。
ところが。
陳情団は承知せぬ。
「されば、われら勝手にふるまいます。かの者を攻め殺すなり、なんなり自《じ》儘《まま》にいたしまするが、お屋形は眼をつぶっていませよ」
とまで強要した。
頼芸は、返事をしない。
一同、川手の府城からさがり、野に待機している五千騎二万人の人数にそれぞれの族長が、
「立て」
と命じた。
庄九郎の加納城を襲うのである。
おそらくこれだけの大軍なら、攻めつぶすのに一刻《とき》という時間も要らないであろう。
庄九郎はそれを、川手城の矢狭間《やざま》から見おろしていた。
顔が、だんだんにがっぽくなってきた。
(こんどこそ、かなわぬ)
正直な実感であった。
(すこし、やりすぎた)
後悔はしないが、このところすこし図に乗りすぎたようであった。
(馬鹿《ばか》も集団になると力だ。それをわすれていた)
さすがの庄九郎も、この集団にはかなわない。
(どうするか。……)
智恵の緒も切れたようで、頭がすこしも働かない。
雲がくれ道三《どうさん》
庄九郎は矢狭間から離れた。
顔だけは、平然としている。
(はて、どうするか)
絶体絶命といっていい。
さすが、智恵の庄九郎といわれたこの男もなんの思案も湧《わ》かなかった。
「あっははは、人間の智恵などは知れたものだ」
と、扇子で自分の頭をトントンとたたき、ごろりと板敷の上に寝ころがった。
事は急迫している。
なにか、行動せねばならぬ。
「はて、のう。……」
やがて、庄九郎の家来の児小姓が茶をはこんできた。
菊丸という十二歳の少年である。少年の眼にも自分の主人がいま直面している事態の重大さがわかるらしく、顔が真蒼《まっさお》だった。
「菊丸、なにをふるえている」
と、庄九郎は微笑した。
「いいえ、ふるえてはおりませぬ」
少年は、頬《ほお》を染めた。存外、気丈な子であるらしかった。
「人の一生にはな」
庄九郎は、いった。
「二度か三度、こういうことがある」
「はい」
少年は、涼やかな表情にもどった。
「そのとき《・・》にな」
「はい」
「どうするかが、英雄と凡人とのわかれめだぞ」
庄九郎は自分にいいきかせているらしい。
相手が少年、ということで、いまの場合、かっこうな語り相手なのである。相手はただうなずくだけのことだ。
「わしは、槍《やり》を稽《けい》古《こ》したことがある。太刀で敵と撃ちあったことも何度かある。いざ太刀を構えたとき、……」
庄九郎は、だまった。
「お構えあそばしたとき、どのようなご心境でございました」
「その心境を想《おも》い出している。いや、想い出せぬ。……のはあたり前で、頭も胸も、からだのなかがみなからっぽ《・・・・》だったな。あっははは、風がすうすう吹きぬけるようなからっぽ《・・・・》であったわ」
「面白《おもしろ》うございます。されば殿様は風におなりあそばしていたのでございましょう」
「風」
庄九郎は首をひねった。
「でもないな。風、というなら、文字もあるし、頬にも感じる。風でさえもなかったわい。なにかな、あれ《・・》は。無というものかな。無ほどでないにしても、それに似たものであろうな」
「放《ほう》下《げ》でございますか」
「ほい、それよ」
庄九郎は手を拍《う》った。
少年は何気なしに聞きかじりの禅語をいったにすぎないが、庄九郎は、胸の塞《ふさ》ぎがはじけとんで胸中、光明にみちた新世界が現出したように思えた。
「それよ、放下」
禅家では、諸縁をすべて投げすてることによって、無我に入る道をひらく。その投げすてることを放下という。
少年は無邪気にくびをひねった。
「太刀をあわされたときに、放下のお心持におなりあそばしたのでございますか、そのとき。――」
「そのとき?」
庄九郎は、不審な顔をし、やがて明るく笑いだした。
「そのときの話ではないわい。いまから放下するのよ。菊丸」
「はい?」
「そちが観音にみえる」
「………?」
菊丸は、とまどっている。
庄九郎は立ちあがり、「礼にひとさし、舞ってやろう」と悠々《ゆうゆう》、幸若舞《こうわかまい》の「敦盛《あつもり》」をはじめた。
人間五十年
化《け》転《てん》のうちにくらぶれば
ゆめまぼろしのごとくなり
人間など、観《かん》じ来《きた》れば一曲の舞にもひとしい。――生《しょう》あるもののなかで滅せぬもののあるべきか。
庄九郎の好きな一節である。のちに庄九郎の女婿になり、岳《がく》父《ふ》の庄九郎こと斎藤道三を師のごとく慕った織田信長は、やはりこの一章がすきであった。
「悲しい曲でござりまするな」
と菊丸は涙をぬぐっている。
「なんの菊丸よ」
庄九郎は、からりと笑った。
「これほど愉快な文句があるものか。男子とうまれてその生涯《しょうがい》を舞台に大事をなそうとする者、これほどの覚悟がなくてはかなわぬものだ。生死《しょうじ》をわすれ、我執を去り、悪縁を切りすて、ただひたすらに生涯の大事をおこなうのみだ」
「わかりませぬ。わたくしはただ悲しゅうございます」
「はっははは、わしも、ふと」
「ふと?」
「悲しくもあるわい」
庄九郎は涙を手の甲でぐいっとぬぐった。
が、女児の涙ではない、と思っている。このふときざす悲しみを味わう者こそ男子というものだ、と庄九郎はおもった。
「菊丸、湯と、剃刀《かみそり》を持って来い」
命ずるなり、着ていた侍衣裳《さむらいいしょう》をくるくるとぬぎすて、下帯までとり、素っぱだかになった。
耳だらい《・・・》に湯を満たしてふたたび入ってきた菊丸は、仰天した。
主人は、全裸で大あぐらをかいている。
「ど、どうなされました」
「頭を剃《そ》りこぼて」
もとの法師にもどるのだ、もとの無一物にもどれば、なんでもない。
「刀もそちにくれてやる」
頼芸が、びっくりした。
城内のどこでみつけたのか、庄九郎は墨染の破れ衣をまとい、縄《なわ》の帯をしめ、頼芸の前に大あぐらをかいてすわっている。
「もとこれ、洛陽《らくよう》の乞食法師」
庄九郎は、悠然《ゆうぜん》といった。
「所領も城も返納つかまつります。加納城にいる深《み》芳《よし》野《の》をはじめ家来の者も、それぞれ身のふりかたをきめましょう。無一物になった以上、いまや失う物はありませぬ。失う物がなければ、怖《おそ》るるものもない」
「…………」
あまりのことに、頼芸は声も出ない。
「美濃を去ります」
「そ、そなたは、わしを捨ててゆくのか」
「最後に所望《しょもう》がござる」
「な、なんじゃ」
「酒を一杯」
頼芸はすぐ酒の用意をさせた。しかしなんとか庄九郎を思いとどまらせられぬものかとこの男なりに思案している。
酒になった。
庄九郎は杯をかさね、いささか酔った。
そのうち、頼芸の側近の者から話が洩《も》れて噂《うわさ》はぱっと川手城にひろまり、すぐ城外に滞陣している美濃衆の耳に入った。
「なに? あの者、城も所領も家来もすてて僧にもどると?」
「うそじゃ」
そういう者もある。しかし信ずる者も、むろんある。
(あるいはそういう男かもしれぬ)
みごとな庄九郎の転身ぶりが、美濃の山里あたりからきた朴訥《ぼくとつ》な武士の心を打ったようでもあった。
さて庄九郎。
頼芸の御《ご》前《ぜん》にある。――
出家は本気であった。単純な男ではないが、この男なりに、いままですべてのことを本気でやってきた。単なるまやかし《・・・・》だけでは、京の奈良屋(山崎屋)を京洛随一の油屋にすることはできなかったであろうし、美濃にきてからも短期間にいまの位置まで駈《か》けあがることはできなかったであろう。
が、単なる本気ではない。
本気の裏っ側でいつも計数、策略が自動的に動いている男である。
いまもそうだ。
「酒を所望」
といったのは、「自分が出家した」といううわさが、川手城の内外にひろがる時間をかせぐための策略であった。
みなに周知させねばならない。理由は、かれのあとの行動の伏線になる。
「ではそろそろ、おん前を退出しとうござりまする」
「いや待て、新《・》九郎」
と頼芸はその名をよんだ。
「お屋形様、おそれながらその名は、すでにお返しつかまつっておりまする。かように頭をまるめましたる以上は、法名《ほうみょう》がござる」
「法名とは?」
頼芸は、きいた。
「道三《どうさん》」
と、庄九郎は答え、その文字まで説明した。菊丸に頭を剃らせているときに考えついた入《にゅう》道名《どうめい》である。
「道三とはめずらしい法名だな」
「道に入ること(入道、出家すること)三度でござるからな」
「ほう、なぜだ。以前、京の妙覚寺本山にて法蓮房《ほうれんぼう》と称し、顕密《けんみつ》の奥義をきわめたときいたが、こんどが二度目ではないか。それならばなぜ道《どう》二《じ》とせぬ」
「三度目がござりまするよ」
「それはいつだ」
「死ぬるとき」
平然と答えた。仏法では、死は単なる死ではない。往《ゆ》いて生くるという。死はすなわち道に入《い》ることである。庄九郎は二度入道し、さらに三度目の往生まであらかじめ勘定に入れて、このさき生きようとしている。
「では、お屋形様」
と、茫然《ぼうぜん》としている頼芸を尻《しり》目《め》に法師姿の庄九郎は退出し、城内の厩《うまや》から一頭の栗《くり》毛《げ》をひきだし、衣をひるがえして鞍上《あんじょう》のひととなった。
戞々《かつかつ》と城門を出てゆく。
どっと、美濃の豪族、その郎党が槍《やり》の穂をきらめかせてむらがってきた。
「どけっ」
にわか法師は、凛《りん》として叫んだ。
「すでに聴きおよんでいよう。わしは居城、知行のすべてを捨てて所《しょ》化《け》になった。僧は三宝の一、わが身に触るれば仏罰たちどころにあたり、地獄に舞い落ちるぞ」
わっ、と武者群の頭上を越え、一鞭《ひとむち》、北にむかって疾駆しはじめた。
「あれよ」
みな、口をあけて見送った。
庄九郎は稲葉山麓《さんろく》につくなり馬を捨て、常在寺の山門をたたいた。
夜中、小僧がおどろいて開門すると、意外な人が僧形《そうぎょう》で立っている。
「日護上人《にちごしょうにん》はおわすや」
「おわしまするが、なにぶんこの刻限、御《ぎょ》寝《し》あそばされておりまする」
「起こしてくれ。それに、わしのために一つ居室を支度してくれぬか。そうそう、南面に草庵《そうあん》めかしい建物があったな。あれに寝具を運び入れてくれぬか」
勝手を知った寺だ。
どんどん歩いてその草庵の蔀戸《しとみど》をあげ、なかに入りこんだ。
やがて寺内がさわがしくなり、小僧、喝食《かっしき》(寺小姓)などが廊下を走りまわる足音がきこえた。
庄九郎の部屋に燈火がともされ、寝具がはこばれてきた。
ほどなく、日護上人が入ってきた。
「この夜中、しかもその変わりはてた姿で、どうしたのだ」
「出家した。道三とよんでもらおう」
庄九郎は、あらましの経緯《いきさつ》と、いまの心境をのべた。
「法蓮房」
日護は、つい学生《がくしょう》時代の名でよんでしまう。
「おぬしは、美濃をすてるのか」
「南陽房よ」
と、庄九郎もむかしの名でよんだ。
「わしは、おぬしの俗縁の縁者である長井藤左衛門を、義によって誅戮《ちゅうりく》している。なにぶん藤左衛門は当国の小守護だ。土岐家によかれと思ってやったことだが、亡《な》き小守護どのはなにぶん勢力も大きい。これほどまで人が騒ごうとは思わなんだ」
「手段の善悪はともかく、美濃の建てなおしはおぬしを兄の長井利隆を通じて頼芸様に推挙するとき、いっさいまかせる、とわしはおぬしに申した。このところ少々やりすぎの気味はあったが、おぬしほどの智者だ、なにか十分な存念があろうと思い、ことさらに言わなんだ。しかし、出家とは思いきったな」
「昔の姿にもどっただけのことよ」
「なるほど、衣が身についている」
日護上人も、苦笑した。
「一笠一杖《いちりゅういちじょう》、天下に乞食してまわるわ」
「他家に仕えるのではあるまいな」
と日護上人がいったのは、なおかれはかれなりに庄九郎に望みをつないでいる。
――このままでは美濃はつぶれる。
という危機感が、この僧にはつよい。庄九郎だけが、この大平野に強力な軍事国家をつくり得るだろうと思っているのである。
「兄の長井利隆も申していた。このままでは美濃はどうせ他国に奪《と》られる。この国は古すぎるのだ」
上人がいうとおり、美濃の支配体制は鎌倉《かまくら》時代このかたのものだ。遠い昔、頼朝《よりとも》がつくった制度を、二百年前、足利尊氏《あしかがたかうじ》が再確認しただけでこんにちにいたっている。
当時は、商人というものも、存在せぬも同然の社会であったし、戦闘方式、軍団の編成法も騎馬武者の一騎打主義で、いまのように足軽という歩兵部隊がいない。
「早いはなしが、鎌倉時代にはおぬしのような無位無官で財宝をうんと持ったえたいの知れぬ者もおらぬ」
「えたいの知れぬ者?」
「商人という連中だ」
「ああ、そうか」
庄九郎は苦笑した。
「すべてが変わりつつある。このさき、なお変わるだろう。時代に残されてゆくものはほろびる。法蓮房よ」
「ふむ?」
「わしがおぬしでも、長井藤左衛門は殺すよ」
「ほう」
庄九郎は、おだやかな上人に意外な面を見《み》出《いだ》したようである。
「われわれの宗祖は、日蓮《にちれん》様だ。元寇《げんこう》のとき国難来《きた》るを予言してはげしく時の政府を糾弾なされ、そのため斬《き》られようとさえなされた」
と上人はいう。
「鎌倉幕府は居眠っていた。たまたま執権時《とき》宗《むね》のごとき英傑がいたればこそ元寇をふせぎえたが、居なければ日蓮様はみずから兵杖《へいじょう》をとって幕府を攻め取られたかもしれない。国家有事のとき、無能と旧弊と安逸主義こそ悪だ」
「おどろいたな」
「長井藤左衛門は」
と、日護上人はつづける。
「わるい男ではない。しかし藤左衛門のにぎっている組織こそ、腐りきった美濃の旧弊組織というものだ。藤左衛門はその代表であり、それを斃《たお》さなければ美濃は近江や尾張のようにあたらしくならぬ」
庄九郎はだまっている。
「法蓮房よ」
日護上人はいった。
「美濃にとどまっておくれ。この始末はわしにまかせてくれればよい。……第一」
上人は多弁になっている。
「この常在寺は守護不入《ふにゅう》の地だ」
守護不入というのは大寺にゆるされた特権で、大名の支配権に対し「治外法権」という意味である。従ってこの山門の中へは、庄九郎追《つい》捕《ぶ》の人数は入って来ることができない。
さればこそ。
(わしもここに逃げこんだのだ)
庄九郎は、頭のすみで思った。
が、口は別のことをいった。
「飽きた」
と。
「このさきは行雲流水《こううんりゅうすい》、風月を友にして諸国を歩くさ」
これも、本心である。巨大な事業慾ほど、巨大な厭世感《えんせいかん》がつきまとうものだ。矛盾ではない。
舞いもどり
南《な》無妙法蓮華経《むみょうほうれんげきょう》
南無妙法蓮華経
…………………
…………………
唱えながら三条の橋をわたって花曇りの京の町へ入ってゆく旅の僧がある。
頭には、ござ《・・》の両はしを巻いただけの簡素な回峰行者笠《かいほうぎょうじゃがさ》をいただき、首には百八個の鉄玉を結びつけた大《おお》数珠《じゅず》をかけ垂らし、麻の手《てっ》甲脚絆《こうきゃはん》で身をかため、帯には犬よけの大脇差《おおわきざし》をさしている。
どこからみても旅の乞食坊主である。
これが、京洛《けいらく》きっての油問屋山崎屋の店内に入ってゆくと、
「お万阿《まあ》はおるかね」
といった。
折りよくお万阿が奥から出てきて、店の土間におりようとしたところだった。
「お万阿、わしだよ」
変わりはてた姿の庄九郎の眼が、笠の下からのんきそうに笑った。
「まあ旦《だん》那《な》様」
と、お万阿は声も出ない。
「そ、そのお姿は、どうなされました」
「わけは、あとだ。まずすすぎ《・・・》の水をもってきて呉りゃれ」
「たしかに旦那様じゃな」
と、お万阿は真剣な眼で笠の下の庄九郎の顔をのぞきこんだほどであった。
「わしにはまちがいない」
手足をすすぎ、黒衣のちり《・・》をはらって上へあがり、
「飯」
と命じた。
「ひやめしでよいぞ。酒か、大徳利の口まで満たしてもって来い。それに、寝床を敷いておけ。慾も得もない。二日ほどぐっすりねむりたいわい」
と矢継ぎ早やにいった。
美濃の旦那様のにわかのお帰りとあって、店じゅう沸きたつような騷ぎになった。
魚を焼く者、酒壺《さかつぼ》をかかえて廊下を走る者、土間にころぶ者、それを叱《しか》る者……
「なんとも喧《やか》ましいことだ」
と、奥屋敷で庄九郎が顔をあげたときは、三杯目のめしをたいらげていた。
「あのう、……」
とお万阿がめしのおかわりをする合間々々にこの姿のわけをきこうとするが、
「あとだあとだ」
庄九郎は、とりあわない。
音をたててめしを食い、酒をのみ、魚を食い、さらに酒をのみ、胃の腑《ふ》を充分に満たしてから、
「寝る」
と、坊主頭をふりたてた。
「ではお万阿も。――」
まだ宵《よい》の口だのにお万阿がいつもの帰洛のときの習慣でそういうと、
「それも、あと、あと」
と手をふり、ひとり寝床に入ってしまった。
(怪態《けったい》な)
お万阿はあきれざるをえない。もともと世の中を相手に手品をつかっているような男だが、こんどの手品はどうやら様子がちがうようなのである。
陽《ひ》が落ちてからお万阿はおそい夕食をすませ、手燭《てしょく》をもって廊下に出た。
庄九郎の寝所の前までゆき、ふすまをそっとひらき、手燭のあかりだけを差し入れて室《な》内《か》をたしかめてみた。
「杉丸《すぎまる》、杉丸」
とお万阿は手代の杉丸をひっぱってきて、廊下から室内を見させた。
「杉丸はどう思います。あれはたしかにお万阿の旦那様でありますな」
「いささか」
杉丸は、首をひねった。
「ご様子はちがいまするが、どうやら旦那様と見受けられまする」
「たよりない。まさか、鴨川《かもがわ》のかわうそ《・・・・》が化けたのではありますまいな」
「そう申せば、鴨川の鮎《あゆ》をうれしそうにお食べあそばしておりました。かわうそ《・・・・》は鮎が好物ときいております」
「杉丸」
ぎゅっ、と杉丸のほっぺたをつねった。
「痛い、痛うございます」
「折檻《せっかん》じゃ」
そのくせ、お万阿はコロコロとのどで笑っている。多少怪しいふしがあるにせよ、庄九郎が帰ってきたことがうれしいのであろう。
翌々日の夕刻、庄九郎は寝所から出てきて裏庭へとびおり、井戸端で頭から水をかぶりたんねんに体を清めた。
春だが、水はまだつめたい。
が、庄九郎はむかし妙覚寺本山での修行時代、水行《すいぎょう》をさんざんやったから馴《な》れているのである。
お万阿は、あたらしい下帯、それに僧侶《そうりょ》の白衣、黒衣まであたらしくととのえて、縁側で待った。
「お万阿、よく気がつく」
庄九郎は麻の布で全身を拭《ふ》きながら、
「頭が濡《ぬ》れた。髪も結いなおしてくれ」
といった。
「ホホ……」
坊主頭であることをわすれている。お万阿は笑いながら、だまっていた。
「ああ」
庄九郎は青い頭に手をやり、そのことに気づいたらしいが、笑いもしなかった。縁側にすわっているお万阿の裾《すそ》のはだけたうちうら《・・・・》をじっと見ているのである。
「お万阿、ひさしぶりだな」
「いまごろ何をおっしゃっています」
と、お万阿はあわてて裾をかきあわせた。
「さあ、奥でゆるりとその後の物語をしよう。酒はあるかね」
「鮎もございます」
「それは気のきくことだ」
「鮎という魚はかわうそ《・・・・》の好物だそうでございますな」
と云《い》いながら、お万阿は半分本気で、庄九郎の顔色をうかがった。
「かわうそ?」
庄九郎は興もない。その顔つきのまま、縁側へあがってきた。
「お万阿」
庄九郎は奥で酒を注がせながら、
「また名前が変わったぞ」
といった。
まずふりだしは妙覚寺本山の学生法蓮房《がくしょうほうれんぼう》、ついで松波庄九郎、一転して奈良屋庄九郎、さらに山崎屋庄九郎、美濃へ行ってふたたび松波庄九郎になり、あとは出世するたびに西村勘九郎、長井新九郎などと、みじかい期間に名前がめまぐるしくかわった。
変わるたびに環境が一変し、いわば階段を一段ずつのぼるように立身している。
「どのような?」
と、お万阿は物の本の一章をめくるような興味と期待で、きいた。
――旦那様は、いつか将軍になる。
と、お万阿は、無邪気に信じていた。将軍でないにしても、国主、大名にはおなり遊ばすであろう。
(でなければ)
わたくしはこのようにおとなしく京で山崎屋の富の番人はしておりませぬ、とおもっている。
当然、庄九郎はこんどもまた出世をし、大名、将軍の地位へさらに一段近づいたはず、とお万阿はおもった。
「おもしろいこと。――」
お万阿は、自分の旦那様が、まるで自分の目の前で伝奇小説をくりひろげてくれるようにおもしろい。
「どのようなお名前におなり遊ばしました」
「道三よ」
「え? どうさん?」
お万阿は、拍子ぬけした。
「それはなんのお名前でございます」
「法名《ほうみょう》よ」
「されば旦那様、そのお姿のとおりお坊主様におなりあそばしたのでございますか」
「おおさ、振り出しに戻《もど》った」
「振り出しに? すると、こんどは何城をもち、何貫の所領を得た、というのでなく?」
「ああ、ないない」
「すると?」
「そうだ、乞食坊主にもどった。美濃を追い出されてきたのよ」
「まあ」
あいた口がふさがらない。
ところが、こんどはおなかの底からえたい《・・・》の知れぬおかしみがこみあげてきて、口をつぐみ、顔を真赤にして、やがて我慢ができなくなり、
「ホホホ……」
と肉《しし》置《お》きの豊かな体をゆすって笑いだした。
「なんだ、なにがおかしい」
「可笑《おか》しい」
こみあげてくる笑いに堪えかね、体を曲げ、ひざを崩し、ついに突《つ》っぶせになってしまった。
「おいおい」
庄九郎はにがい顔である。
「笑いをやめろ。亭主殿に無礼ではないか。なぜそのようにおかしい」
「ではございませぬか」
「なにがだ」
「たかがもとは油屋の商人。それが、旦那様、話がうますぎましたもの。そうでございましょう? 美濃へ行ったとたんに知行あるお武家様におなり遊ばし、すぐ城持にお進みなされ、西村、長井といった美濃の名家の姓をお継ぎあそばし、もったいなくも美濃の守護職様の執事をおつとめなされる……となりますと、お話がとんとん拍子にゆきすぎてうますぎましたもの。ね、旦那様、いいえかわうそ《・・・・》様」
「なんだ、その川獺《かわうそ》とは」
「鴨川に棲《す》んで人をだますとかいうけものでございます。そうそういつまでも拍子よくひと様はだまされてはおりませぬ。だまされているのは、お万阿ぐらいのものでございます」
「おいおい」
「あらあら、しくじりました」
とお万阿はあわててひざを手の甲でぬぐった。酒器から酒をこぼしたのである。いったい、底意地のある利口者なのか単に無邪気なのか、お万阿という女は庄九郎にとっても、いまだに謎《なぞ》である。
「お万阿をだましてはおらぬ」
庄九郎は、にがい顔でいる。
「そうでございましょうか」
「か《・》は余分だ。天上天《てん》下《げ》、お万阿のみを頼るゆえに、このようにしてそなたの膝《ひざ》もとへもどってきたではないか」
「道三様におなりあそばして。――」
と、お万阿はまたはじけるように笑いだした。庄九郎の、取りすました坊主姿や、あおあおとしたまるい頭がおかしかったのであろう。
「本当に、思いもかけぬお姿におなりあそばしましたな」
「これでなくては、美濃をのがれ去ることもできなんだわい」
と、庄九郎は変わりはてたわが身をちょっと見、あらましの物語をして聞かせた。
「あな、おもしろや」
と、お万阿は、お伽草《とぎぞう》子《し》でも読みきかされるような興味できいた。
「それで、これからどうなされます。もう将軍や国主のお夢はお捨てあそばして、死ぬまでこの山崎屋に居てくださいましょうな」
「お万阿よ」
道三坊主はいった。
「人の世にしくじりというものはないぞよ。すべて因果にすぎぬ。なるほどわしの場合、昨日の悪因がきょうの悪果になったが、それを悪因悪果とみるのは愚人のことよ。絶対悪というものは、わしが妙覚寺本山で学んだ唯《ゆい》識論《しきろん》、華《け》厳論《ごんろん》という学問にはない。悪といい善というも、モノの片面ずつにすぎぬ。善の中に悪あり、悪の中に善あり、悪因悪果をひるがえして善因善果にする者こそ、真に勇気、智力ある英雄というわい」
「むずかしいこと」
お万阿は、庄九郎の弁力についてゆけるほど、物を考えることに馴れていない。
「要するにお万阿の知りたいことは、旦那様がこのまま山崎屋にいてくださるかどうか、ということでございます」
「わからん」
庄九郎は、いった。
「わかれば、こんな姿になってもどっては来ぬ。二、三日、あるいは二、三カ月、油でも売りながら考えるわい」
庄九郎は、杯をかさね、語るほどにだんだん酔ってきて、ついに大酔した。
ごろりと横になった。
「膝をお貸し致しましょう」
と、お万阿は寄って行って、後頭部のよく発達した庄九郎の坊主頭を、自分の膝の上にのせてやった。
「これはよい気持じゃ」
「いかがでございます。そのように美濃で結びもせぬ白昼夢をごらん遊ばすより、この膝の上で生涯《しょうがい》お暮らしあそばしては」
「くさいな」
と、庄九郎は、頬《ほお》をお万阿の膝の割れ目に押しつけた。
「失礼な」
とお万阿は声をたてて笑った。
「なんの、お万阿よ、失礼なことはない。美濃では庄九郎は君子人にてこのような真似《まね》はできぬ。女房《にょうぼう》どのなればこそじゃ」
と恩に着せながら、奥をのぞいた。
「これはこれは、法華経でいう霊鷲山《りょうじゅせん》とはお万阿のかような所であろうな」
「南無妙法蓮華経のお声がしまするか」
「するとも。経文《きょうもん》にあるわい。――わがこの土《ど》は安穏《あんのん》にして天人《てんにん》つねに充満せり。その園《おん》林《りん》たるやもろもろの堂閣および種々の宝をもって荘厳《しょうごん》し、宝樹《ほうじゅ》華果《けか》多くして、衆生《しゅじょう》の遊《ゆ》楽《らく》する所なり。……」
「まあ」
お万阿は無邪気に叫んだ。
「わたくしののの《・・》様のことが、そのように経文にあるのでございますか」
「馬鹿《ばか》だな」
庄九郎は、お万阿をもてあまさざるをえない。
「いまのは仏のいます霊鷲山という所の描写だ。それはお万阿ののの《・・》様のことだと、わしはたとえて言うている」
「つまりませぬこと」
お万阿は、くっくっと笑っている。庄九郎の手がなにやらしているらしい。
「もうし、お坊様」
お万阿はいった。
「そのようなことを仏弟子の身でなされてよいものでございますか」
「まあ、よいとせい」
庄九郎はよろりと立ちあがって、いきなりお万阿を抱き上げた。
寝所へ行こうとするのである。
そのとき、廊下を駈《か》けわたる足音がして、部屋の外にぴたりととまった。
「たれじゃ」
と、お万阿はいった。
「杉丸でござりまする」
「なんぞ用でありますか。たいした用でなければ明日の朝にしや。いま旦那様とたいせつな御用がありますほどに」
「はい。……」
杉丸は、判断に迷っている様子である。
「なんの用か」
と、庄九郎がいった。
「おそらく、美濃から耳次が駈けてきたのであろう」
「はい、左様でござりまする。いまこれに耳次殿も控えておりまする」
「耳次、それにて申せ」
「はい」
と、耳次の声がした。
「日護上人様、なかなかのお働きにてお屋形様を説き奉り、お屋形様が美濃一国のおもだちたる侍衆をあつめ、じゅんじゅんと説き聞かされたそうでございます」
「なにをだ」
と庄九郎はきいたが、大体のことは推察がつく。
庄九郎は、ただ僧衣をまとっただけで京に舞いもどったのではない。
腹心の者をみな残し、それぞれ活動すべき役割りをきめ、仕事を教え、庄九郎の復帰の工作をつづけさせている。
その最大の運動者が、日護上人であることはいうまでもない。
「報告は明朝、きく。今夜はさがってよくやすめ」
「はい」
耳次と杉丸は、さがった。
法師白雲
翌朝、耳次がまかり出て、
「吉報でござりまする」
といった。
庄九郎は、お万阿に座をはずさせ、耳次を近《ちこ》う寄らせた。
「申せ」
庄九郎がいうと、耳次ははっと平伏し、
「美濃ではお屋形様のご説得、日護上人のご奔走が功を奏し、もろもろの国衆は在所々々に帰り散りましてござりまする」
といった。
「散ったか」
庄九郎は、鼻毛をぬいた。
耳次の話では、すべて日護上人の働きであったという。上人は、優柔不断な頼芸をはげまし、
――あなた様を、美濃の国主になし奉ったのはかの者ではありませぬか。ここで見捨てては後生《ごしょう》がわるうござりまするぞ。
と、地獄へゆくとおどし、
――もしかの者を失えば。
ともいった。
「やがてはお屋形様も美濃を追われ、弟君にその地位を奪われる憂《うき》目《め》にお遭いなされましょう。古語にもござる、唇亡《クチビルホロ》ンデ歯寒シ、と。お屋形様とかの者とは唇《しん》歯《し》輔《ほ》車《しゃ》の間柄《あいだがら》でござりまする。そのことをおわすれありませぬように」
頼芸もそう思っている。そこで、国衆のおもだつ者どもをよび、日護上人ともども、説得した。
国衆どもは、頼芸よりもむしろ長井一族の出でしかも徳望のある日護上人の言葉に気持を折った。
――上人がそう申されるならばわれわれとしては何もいうことはない。このたびは鉾《ほこ》をおさめよう。
といって、それぞれの領地へ帰ったというのである。
(学友はありがたいものだ)
と、庄九郎は感謝した。
庄九郎は生涯《しょうがい》、日護上人に感謝し、かれが天下の斎藤道三になってから日野、厚《あつ》見《み》の内の二カ村二千石を常在寺に寄進している。
「ひとまず、片づいたわけか」
と、庄九郎は苦笑し、そのはずみに二、三本いちどに鼻毛をぬいてくしゃみをした。
「しばらくは、美濃の国衆も騒ぐまい」
と庄九郎はひとりごとをいった。
余談だが、この時代までの武士は平素は領地の村々にいて、事あれば集まってくる。武士を城下町に集団居住させたのは道三からのことで、それまでは、いざ集まろうと思ってもなかなか容易でなく、団結力や機動力を欠いた。庄九郎のような男が美濃で存分に跳梁《ちょうりょう》できたのは、こういう盲点のおかげであった。
「では、早《さ》速《そく》にご帰国あそばしますか」
「京で遊んでいるわい。久しぶりの都は、意外とよい。ひょっとすると京のお万阿のもとでこのまま一生送るかもしれぬ」
「そ、それは」
耳次は驚いた。美濃に帰らぬというのは、自分の解雇《めしはなち》を意味するからである。耳次は美濃侍の庄九郎の家来で、京の山崎屋庄九郎の手代ではなかった。
「耳次は悲しゅうござりまする」
本気なのだ。耳次だけではなく、美濃での道三の家来は、他家に類がないほど、その主人の道三に心服している。
「そう申していた、と日護上人にいえ」
と、庄九郎はいった。むろんこれは本気ではない。しかし、庄九郎は泥棒猫《どろぼうねこ》のようにこそこそと帰れぬではないか。日護上人を通じ、頼芸から、正式に、
「帰ってくれ」
との使者か手紙でも来ぬかぎり、おなじつ《・》ら《・》をさげては帰れぬのである。
「されば」
耳次は正直者だ。すぐ美濃へ馳《は》せ帰って日護上人にその旨《むね》を伝え、むりやりにでも帰っていただくほかはない。
「すぐ美濃へもどりまする」
と、帰って行った。
それから数日たったある日、稲葉山下に風が吹いた。そのあと、夜に入って滅入《めい》るような陰雨にかわった。
そういう夜にふさわしい。
ここ、山麓《さんろく》の藤左衛門洞《ほら》にある長井屋敷では、いまは亡《な》き美濃小守護藤左衛門の法事がいとなまれている。
導師は、まだ若い。
その若さで、おおぜいの僧を従えて読経《どきょう》をつづけているのはよほど身分のよい出なのであろう。
眉《まゆ》が、けわしい。
眼がするどく、削《そ》ぎたったような頬《ほお》をもち唇が反《そ》っている。一種の美男である。
が、僧として一生を円満に終えられるような顔ではない。
眼を閉じ、ときにくわっとひらき、読経の声も音程がさだまらない。よほど、心中、さだかならぬことがあるのであろう。
白雲和尚《びゃくうんおしょう》。
とよばれていた。
実は藤左衛門の末子である。その経歴はちょっと複雑で、幼いころ、長井家の宗家である斎藤家を継いだ。
継いで斎藤利賢《としかた》と名乗ったが、すでに斎藤家は人が絶えていて、その姓と墓とわずかに残っている田地は故長井藤左衛門と、庄九郎道三の保護者だった長井利隆とが共同であずかっていた。
――どうせ、絶家になっている家だ。家を継ぐよりも僧になってその墓所をまもったほうが斎藤家代々の霊のためには供《く》養《よう》になるのではないか。
という意見が一族のあいだで出、この少年は俗姓斎藤をついだものの、すぐ得《とく》度《ど》出家して臨済禅《りんざいぜん》の本山である大徳寺に入り、数年して帰ってきた。
「悟れた」
というわけではない。とにもかくにも一族で寺を建ててくれたから、その住僧になるべくして帰った。
この美濃では、
「一人出家すれば九族天に生ず」
という信仰習慣があり、たとえば日護上人などもその習慣から僧にさせられ、一族で建てた常在寺の住僧になったのである。余談だが、この習慣はほんの最近まで岐阜県につよく残っており、この県出身の僧侶《そうりょ》が多い。
白雲も、そうであった。斎藤家の菩《ぼ》提《だい》寺《じ》の僧としてまだ若い日をすごしている。
そこへ実家の父藤左衛門が、京からきたあの流れ者に殺された。国衆は騒いでくれたが、結局は頼芸や日護上人になだめすかされ、うやむやになってしまった。
(これも、兄たちが不甲斐《ふがい》ないからだ)
兄がふたりある。ひとりは魯《ろ》鈍《どん》、ひとりは無能力同然で、三十を過ぎても、人前に出ると動《どう》悸《き》が打って座に堪えられぬというこまった体質である。
白雲のみが、武家の子らしかった。
むしろ、らし《・・》すぎた。剣をつかい、棒をつかい、射芸に巧みで、そのいずれもが抜群の若者なのである。
ただ、性格が正常ではない。
またしても余談であるが、この白雲和尚はのちに還俗《げんぞく》して女房《にょうぼう》をもち、子を生んだ。子の名が斎藤利三《としみつ》。のちに庄九郎道三が可愛がった明《あけ》智《ち》光秀の家老になり、その利三の娘が、徳川三代将軍の乳母で、大奥に威勢をふるった春日局《かすがのつぼね》である。つまり、春日局は白雲の孫ということになる。
さて、法師白雲。
眼をひらいた。
すでに読経を中絶してしまっている。
「父上。――」
叫んだ。
「かような読経で、お成仏《じょうぶつ》なされまするや。なさるまい。かの油売りの生首こそ、千僧万僧の経よりも供養になるであろう」
「こ、これ」
と、一族の年寄りどもが白雲のひざもとへ這《は》い寄り、袖《そで》をとらえた。
「経をつづけよ、経を」
「腰ぬけめが」
と、左右をどなり、丁《ちょう》と数珠《じゅず》を投げすて、立ちあがった。
みなが立ちさわぐなかを、雨の庭へとびおり、ツツと走りだしたときには、大刀を小わきにかかえている。
ばさっ
と、庭の椿《つばき》の老樹を真二つに斬《き》り倒し、
「かの者も、いずれかくの如《ごと》し」
そのまま法事の座から導師みずから姿を消した。
京も雨。
それから十日ほども経《た》っている。
夜、庄九郎が僧形のままで読経していると、雨戸がかすかに動いた。
(………?)
夜盗か、と思い、庄九郎は傍《かたわ》らの数珠丸の一刀に手をのばしてわきへ寄せた。
雨戸の外、中庭のあたりをひたひたと歩く足音がするのである。
(足音にしては、おかしいな)
すこし小さすぎるような気がする。
「たれだ。――」
とひくくいってみたがむろん応《こた》えはなく、依然としてひたひたと足音がする。
曲者《くせもの》、と判断した。
「たれかある」
と声を殺して人を呼び、廊下、台所、厠《かわや》、部屋々々にのこらず明りをつけまわるよう命じた。
「なにごとでございます」
とお万阿が起きてきた。
「曲者が忍びこんでいる」
庄九郎がいうと、お万阿はおどろき、亭主の手にすがったが、好奇心だけは旺盛《おうせい》で、
「どこに?」
と顔をあげた。
「中庭にいるらしい。いや、ひょっとすると雨だれの音かも知れぬ。とゆ《・・》でもこわれている場所があるのか」
「いいえ」
かぶりをふる。
そのとき、廊下に灯を点じてまわっていた手代の一人が、何の気もなく雨戸の桟《さん》に手をかけ、からりとひらいた。
「わっ」
と、雨と風と真黒な物体がおどりかかってきて、手代にかみついた。
「犬だ」
庄九郎が叫ぼうとしたとき、臆病者《おくびょうもの》のお万阿が、庄九郎のそばをすりぬけて手代をたすけようとした。お万阿は、自分の少女のころから店に仕えてきている手代たちを、異常なほどに可愛がっている。それが、前後を考える余裕をうしなわせたらしい。
「お万阿、わしがゆく」
庄九郎がいったとき、犬はお万阿ののどぶ《・・・》え《・》をめがけて跳びかかっていた。
お万阿は、長い廊下をばたばたと逃げた。
犬がそれを追う。
庄九郎は刀を抱いたまま、そのお万阿と犬のあとを追った。
そのときである。
影が、忍びこんだのは。
坊主頭を五条袈裟《けさ》で包んで山法師のように両眼だけ出し、腰に大刀をぶちこみ、五体は鎖帷子《くさりかたびら》で包みかためている。
それが、まず手代を刺した。心得ている証拠に、声もたてさせずに殺している。
さらにさらさらと廊下を渡り、庄九郎の背後に近づき、
「やっ」
と、ふりおろした。
一寸《いっすん》、の差で庄九郎は身をかわし、二の太刀を、数珠丸の鞘《さや》ごとで受け、受けたまま抜いて鞘をすて、同時にとびのいた。
「何者ぞ」
「長井藤左衛門の一子、仏門に入って俗縁は断ったけれども子は子じゃ、覚えがあろう」
「たわけっ」
一喝《いっかつ》したが、庄九郎は逃げた。お万阿がそこで犬の下になってあがいている。
救おうとした。
が、それが犬連れの刺客の手である。そういう庄九郎の崩れを、一《ひと》太刀《たち》、二太刀と踏みこみ踏みこみしては、斬ろうとした。
庄九郎は一方で受け、一方で犬を追おうとした。
刺客は、畳みこんできた。
庄九郎は、思いきって、犬とお万阿の上に倒れこんだ。
犬は驚き、庄九郎に噛《か》みついた。
「お万阿逃げろ」
いいながら、自分の血の匂《にお》いを嗅《か》いだ。犬はそのにおいで、ますます狂おしくからみついてくる。
「だ、だんなさま」
お万阿が庄九郎の右にしがみついてくるのを、庄九郎は、
「馬鹿《ばか》っ」
と蹴《け》倒《たお》し、同時に剣をひるがえし、すぱりと犬の首を切りおとした。
そこへ、法師白雲の太刀が殺到した。庄九郎ははじきかえして、大きく踏みこむなり、相手の右肩を斬った。
刃が、はねかえった。
(鎖帷子《きこみ》を着ておるのか)
刀では、役にたたない。
相手が撃ちこんできたのを幸い、つばもとで受け、そのままずず《・・》と寄せて行って、敵の足を踏んだ。
踏むなり、両腕で、どんと押した。
同時に足をはなすと、相手はどっとたおれた。
庄九郎はのしかかって、組んだ。
組むや、左腕を相手ののどに押しあて、
「うむ」
と力を入れると、相手はしばらくもがいていたが、やがて気絶した。
「お万阿、怪我はなかったか」
と抱きおこして体をしらべると、軽いかみ傷がある程度で、たいしたことはなさそうであった。
「病み犬かもしれぬ」
と思い、その場でお万阿を裸にし、焼酎《しょうちゅう》をもって来させて、お万阿の傷口をあらった。
酒が滲《し》み、傷口が鳴りひびくように痛い。お万阿は気をうしなってしまった。
あとはあぶら薬を塗り、杉丸以下の手代に寝室へ運ぶように命じた。
「旦《だん》那《な》様のそのお傷は?」
と、杉丸はおろおろしていった。庄九郎の両腕の噛み傷から血がしたたっている。
「おれはよいわ。これしきの傷から病毒が入るようなおれではない」
と笑いすてて、法師に近づいた。
手燭《てしょく》をかざした。
「よい、面魂《つらだましい》をしている」
庄九郎は、若いたくましい男の顔をみるのが好きである。まるで美術品でも見かざすようにして鑑賞しながら、
「あの阿呆《うつけ》の藤左衛門にこれほどの子があったのか」
と、むしろ楽しげであった。
「杉丸、みなでこの男を裸にし、顔、手足をぬぐい、ありあわせのものなど着せ、手足だけは縛ってわしの居間にほうりこんでおけ」
と命じた。
ついで、死んだ手代の供養である。
庄九郎は自分の手で体を浄《きよ》めてやり、人をよんで湯《ゆ》灌《かん》をさせ、棺におさめ、僧を呼んでその夜は通夜をした。
みな感激し、杉丸などは、
「旦那様、ありがとうございます、ありがとうございます」
と何度もはなみずをすすりあげた。庄九郎は、べつに演技ではない。
この男の美質といっていい。卑《ひ》賤《せん》のあがりだけに、自分のまわりの者を愛する点では、美濃あたりの村落貴族化した国衆どもの比ではない。
「御料人様のために医者をよびましょうか」
と杉丸がいった。
なんといってもこの山崎屋では、お万阿が中心なのである。
(万一のことがあっては、わしどもはどうしよう)
と杉丸は、まるで血の気はなかった。
「よい」
庄九郎はいった。
「わしに心得がある。看病はわしがする」
そういうことで、夜があけた。
ところが。
庄九郎の運命をふたたび変える事態が、美濃でおこった。
美濃へ、尾張の織田信秀が大軍をひきいて攻めこんできたというのである。
美濃勢は、随所に敗《ま》けているらしい。
その変報をもたらしたのは、手代の通夜のあけた朝であった。
耳次がもたらした。
雑話
書斎の窓に、新緑がある。
(もうこんな季節か)
とおどろいている。この物語の稿をおこしてから、ちょうど一年になるわけである。
そうおもうと、にわかに膝《ひざ》がくずれてしまって、タバコを一服のみたくなった。
その休息ついでに、できれば、庄九郎をこの座に拉《らつ》し来たって、世間ばなしでもしてみたい。
もっとも、庄九郎と一座すれば、茶のなかに毒でも混じられるかもしれぬことだ。
「なんといってもあんたは美濃の蝮《まむし》といわれた男だ」
と、作者は庄九郎をからかいつつ、警戒せねばならないところであろう。
「ちがう」
庄九郎は、にがい顔でいうにちがいない。
「わしは、人を毒で殺すような、陰湿なまねはしたことがない」
「なるほど、あんたの行為はいつも晴れている」
と私はいわねばなるまい。庄九郎的世界というのは、かれ自身が、自分の行為が美であり善であると信じているところから出ているようである。
「前半期のわしは革命家、後半期のわしは武将として見てもらいたい」
と庄九郎は要求するであろう。
なるほど、革命は、美と善を目標としている。すべての陰謀も暗殺も乗っ取りも、革命という革命家自身がもつ美的世界へたどりつく手段にすぎない。
革命家にとって、目的は手段を浄化する。
「ならぬ」
ということでも、やる。幕末の勤王家は、同時に盗賊でもあった。殺人犯でもあった。
しかしながら、かれらはその理想のためにその行為をみずから浄化し、その盗みを「攘《じょう》夷《い》御用」と称し、その殺人を「天誅《てんちゅう》」ととなえた。
庄九郎も、かわらない。
ただかれが日本の幕末や他国の革命家とちがう点は、その革命をひとりでやった点である。
集団ならば御用盗になり天誅になるところを、一人であるがために、その言葉の裏面である悪《あく》罵《ば》のみを一身に受けることになった。
「もっとも」
と庄九郎は、茶をのみながらいうにちがいない。
「その悪罵は、徳川時代の道学者がいっただけで、わしは同時代の者から悪罵はうけなかったよ」
読者は笑え。ここが、庄九郎的人間の特徴ともいうべきものである。庄九郎の同時代でも、人は「蝮」といってかげでは悪口をいったが、庄九郎の耳には入らない。人の悪口が、耳に入らないたち《・・》の人間なのである。すくなくとも、人が悪口をいっている、などとカンぐったり気にしたり神経を病んだりしないた《・》ち《・》の人間なのである。
だからこそ、気にしない。
見えざる人の悪罵をあれこれと気にやむような男なら、行動が萎《な》える。とても庄九郎のような野ぶとい行動はできない。この男の考え方、行動が竹でいえば孟宗竹《もうそうちく》のようにいかにもふとぶとしい《・・・・・・》のは、心の耳のぐあいが鈍感になっているからであろう。革命家という、旧秩序の否定者は、大なり小なり、こういう性格の男らしい。
ところで雑談のついでに、この物語の前途を思いきって話してしまおう。
要するにこの物語は、かいこ《・・・》がまゆ《・・》をつくってやがて蛾《が》になってゆくように庄九郎が斎藤道三《どうさん》になってゆく物語だが、斎藤道三一代では国《くに》盗《と》りという大仕事はおわらない。道三の主題と方法は、ふたりの「弟子」にひきつがれる。
弟子というのは語弊があるかもしれないがどこからみてもあきらかに弟子だから、あえて弟子という。
道三が、娘をもつ。その娘の婿《むこ》になるのが織田信長である。信長と道三の交情というのは濃《こま》やかなもので、道三がもっている新時代へのあこがれ、独創性、権謀術数、経済政策、戦争の仕方など世を覆《くつがえ》してあたらしい世をつくってゆくすべてのものを、信長なりに吸収した。
さらに、道三には、妻に甥《おい》がいる。これが道三に私淑し、相弟子の信長とおなじようなものを吸収した。しかし吸収の仕方がちがっていた。信長は道三のもっている先例を無視した独創性を学んだが、このいま一人の弟子は、道三のもつ古典的教養にあこがれ、その色あいのなかで「道三学」を身につけた。この弟子が、明《あけ》智《ち》光秀である。
歴史は、劇的であるといっていい。
なぜならば、この相弟子がのちに主従となり、さらにのちには本能寺で相《あい》搏《う》つことになるのである。
本能寺の変は、道三の相弟子同士の戦いである。
南蛮文化を好み、ツバビロの帽子、マントという姿で都大路を馬上で往《ゆ》き、安《あ》土《づち》でオペラを観《み》たという信長は新しい物《もの》数寄《ずき》の、それとは正反対の教養をもち、連歌などを好んだ古典派の物数寄の明智光秀に殺された。
光秀は叛逆者《はんぎゃくしゃ》であるという。
いや、光秀にいわせればそうではなかったであろう。かれは「道三流の革命」を実践したにすぎなかったのである。
「ちょっと待った」
だから、この物語における後編は、この二人の相弟子の物語になるであろう。
と、物語のこの時点における庄九郎は、制止するにちがいない。なぜならば、話はまだかれが「斎藤道三」になっていないばかりか明智光秀はうまれたばかりであり、織田信長はまだうまれていない。
「まだまだそれは、さきのことだ」
と庄九郎はいう。そのとおりである。
いま、庄九郎は、京の山崎屋に身をひそめ、一種の亡命生活を送っている。
前章では、白雲和尚《おしょう》という長井藤左衛門の遺児が忍んできて、庄九郎を討とうとした。
襲われてあやうくこの物語の主人公は落命しかけたが、ようやく白雲和尚を取りおさえた。
そこへ。
美濃から変事の報《し》らせが入ったはずだ。変事とは、美濃へ、隣国の尾張の強豪織田信秀が攻め入って連戦連勝の戦闘をつづけている、という。
尾張の信秀、つまり、織田信長の父親である。まだ物語は、そこにいる。
さて、読者諸兄諸姉。
さらにもう一服、茶を喫して、作者の雑談をきかれたい。
この尾張の信秀という男についてである。
べつに名門の出ではない。
尾張には、美濃における土岐《とき》氏のような代々の守護職がある。斯波《しば》氏である。この国では、
「武《ぶ》衛《えい》様」
とよばれて尊崇されていた。その武衛様もいまはあってないような存在になっている。
道三に殺された美濃守護代(小守護)長井藤左衛門にあたるのが、尾張守護代織田氏である。が信秀・信長の「織田」はそれでもない。
その「守護代織田」は室町《むろまち》末期に二つにわかれ、尾張清洲城《きよすじょう》にいる織田と同岩倉にいる織田とが勢力をきそいあった。その「清洲織田氏」の家来の織田が、信長の父の信秀である。守護職斯波氏からみれば三段下の陪臣《ばいしん》である。
信秀は、馬鹿《ばか》ではない。ゆるみきっている尾張一国をながめて、
「われこそが自在に斬《き》りとり、やがては近国をあわせ、天下にも旗を樹《た》つべし」
と野望をおこした。
庄九郎とおなじ「下剋上《げこくじょう》」というやりかたである。織田信秀は、さいわい、稀有《けう》ともいうべき軍事・謀略の才にめぐまれており、慾望、体力の点でも、その死の四十二歳のときに男女十九人という子を作っていたというほどのすさまじさである。
いわば、
「悪党」
であった。月並にいえば、英雄といえるであろう。
それが、あらゆる手をつくして親族をたおし、本家を追い、主家を攻めて、いまでは尾張半国の事実上の支配者になっている。
挿《そう》話《わ》がある。
庄九郎のいまの時点、つまり享禄《きょうろく》年間のことである。
尾張名古屋(那古屋)城の城主は、今川氏《うじ》豊《とよ》で、織田信秀とは年来、趣味の連歌を通して文雅の友であった。京の連歌師宗牧《そうぼく》が織田・今川のあいだをゆききしたりしているから、交情はこまやかだったのであろう。
今川氏豊というのは、尾張の国中に城をもっているものの、もとをただすと駿河《するが》・遠江《とおとうみ》の守護職今川氏の支族で、古い名門の出だから、人柄《ひとがら》はどこかまるい。
「当世、ともに文雅を語ることができる相手は、弾正忠《だんじょうのちゅう》(信秀)殿ぐらいのものでござる」
と二なく、大事にしている。
ところが戦乱の世で、たがいに一城のあるじでは共に会って語ることができず、手紙でやりとりし、連歌も手紙の交換で作りあっている。
が、今川氏豊は辛抱ができかねた。
「まどろおしき《・・・・・・》ことではござらぬか」
と、あるとき手紙をやった。
「一夜なりとも相会い、連歌など詠《よ》みあい、杯をもかわし、心ゆくまで語りあいたいものでござる。いかがであろう、歓待しますゆえ、わが名古屋城にお越しねがえまいか」
「望むところでござる」
と、織田信秀も感激した返信を送り、やがて日を打ちあわせ、家来わずかを連れて、信秀の居城勝幡城《しょうばたじょう》を出た。
信秀は名古屋城の客となり、家来は城下の武家屋敷に逗留《とうりゅう》させた。
今川氏豊は、信秀にいたれり尽くせりの接待をした。
ふたりは、連歌を興行し、酒をのみ、語りあって飽くことを知らない。
ある日、突如、織田信秀は病気になった。腹がえぐられるように痛く、七転八倒するほどにくるしみだした。
「いかがなされた」
と今川氏豊はおどろき、侍医に診させ、薬をもあたえたが、なおらない。
ばかりか、いよいよひどくなってゆくようである。
「これは、もはや」
と、織田信秀はいった。
「死病かもしれませぬ。この若さで思い残すことは多うござるが、定命《じょうみょう》が尽きたのでありましょう」
「なにを気弱なことを申される」
と、今川氏豊は声をはげまし、この雅友を叱《しか》りつけた。が、叱りながらも(信秀が死ねば、子はまだ幼い。勝幡城織田は、弱体化し、ついにはわがものになるか)と思わなかった、とはいえない。
信秀は、善美を尽した客殿で、侍女と医師に看《み》まもられながら、臥《ふ》せている。
「おねがいがござる」
と信秀はいった。
「万が一を考え、遺言などを申しおきとうござる。お手数ではありますが、城下に逗留しております家来どもを枕《まくら》もとにおよびねがえませぬか」
「ご遺言などは不吉」
と今川氏豊は眉《まゆ》をひそめたが、信秀の申し出がもっともであるので、使いをやって織田家の家来をよんだ。
家来が、城内に入った。
その夜、病人であったはずの信秀がにわかに立ち、家来を指揮して城内に火を放ち、火の中を荒れくるい、手あたり次第に今川の宿《との》直《い》を斬り、
「今川氏豊、見参《げんざん》」
とわめきまわり、追いまわしてとうとう一夜のうちに名古屋城をぶん捕ってしまった。氏豊は命からがら、城をすてて逃げている。
「信秀とはそういう男だ」
ということは、いま京の山崎屋にいる庄九郎はほぼ知っている。
――尾張の織田が、美濃の国境を攻め犯している。
との耳次の急報をきいたとき、まず頭にうかんだのは、尾張の狼《おおかみ》ともいうべき織田信秀のことであった。
(若僧、やるわい)
とおもった。「蝮」の庄九郎からみれば、織田信秀は「狼」としてひとに怖《おそ》れられているとはいえどこか幼いようにみえて仕方がない。
ただ、筆者はいう。
このとき、信秀はまだ、尾張一国の兵を動かすほどの実力者にはなっておらず、形式的には旧勢力の部将という形で美濃へ押しこんできたにちがいない。
この急報をきいた庄九郎は、すぐ廊下を渡った。
夜は、すでに明けている。
「雨は?」
と、中壺《なかつぼ》から見あげて空模様をみた。
なお細雨が降りつづいているが、午後にはやむであろう。
(雨のなかを、発《た》つか)
庄九郎は、廊下を歩いた。
歩いて、足をとめた。
左手に、部屋がある。
昨夜、忍び込んだ白雲法師をこの部屋にほうりこんである。
からりと障子をあけ、後ろ手で閉めた。
「気がついたかね」
と、庄九郎は笑った。
ふとんの上に手足を縛られたまま、ながながと寝ているのは、白雲法師である。
ぎょっと嶮悪《けんあく》な顔を、庄九郎にむけた。
「殺せ」
と叫び、あとは唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「白雲。――」
庄九郎はいった。
「親の仇《かたき》などと、鎌倉《かまくら》の世ではあるまいし古風な真似《まね》をするな。いやさ、討つならば討ってもよし。いつでもわしは相手になってやるわい」
「殺せ」
と、白雲はわめいた。庄九郎は耳をかさず、
「死ぬならば、戦場で死ね」
「戦場?」
白雲は、疑わしそうに庄九郎をみた。
「戦場とは?」
「美濃の国境いが、いま戦場になっている」
「なんのことだ」
「――聞け」
庄九郎は、耳次が伝えた戦況のあらましを告げ、
「よいか、美濃勢が、負けつづけている。なぜならば下知《げち》する将領《しょうりょう》がおらぬからだ」
「将領を、おのれが殺した」
と白雲はいった。亡父の小守護長井藤左衛門のことをいっているのである。
(うふっ、藤左衛門に将器があるかよ)
という表情で庄九郎は笑い、
「白雲、命はたすけてやる。美濃をすくうために、おれとともに征《ゆ》け」
といい、短刀を出して縄《なわ》を切った。
白雲は、茫然《ぼうぜん》としている。
「殺さぬのか」
「そう、殺さぬ。美濃のために生かしておくべき男だとわしは思った。とりあえず、わしとともに美濃へ急行し、帰るやただちに兵を指揮して尾張兵を追いはらおう」
「仇め、懐柔されぬぞ」
とふてぶてしくあぐらをかいたが、眼の光りはだいぶ弱っている。庄九郎という男について、この白雲は憎《ぞう》悪《お》以外の関心をもちはじめたらしい。
「たれが懐柔すると申した。するくらいのことなら、手間ひま《・・》をかけずに、いま殺しているわい」
と庄九郎はいう。さらに、
「いつなりとも、殺したければわしに仕掛けて来い。ただ、いまは美濃が亡《ほろ》びようとしている。それを救うために征こうというのだ。わしの軍配がなくては、美濃はほろびる。ただ、この戦さには手足がほしい。おのれはわしの軍の一方の大将になるだけの器量と勇気がありそうだ」
「家来になれというのか」
「あっははは、白雲、器量のある者が大将になり、器量これに次ぐ者が副将になる。目的は合戦に勝てばよい」
(なるほど)
と白雲はおもったらしいが、思いかえしたように顔をけわしくし、
「しかし、仇は仇だぞ」
「おうさ」
庄九郎はうなずいた。
「いつでも来い。ただ、今は美濃へ急行することだけを考えよ」
その日の昼前、庄九郎と白雲は蓑笠《みのかさ》をかぶって山崎屋の軒下から馬に乗り、鞭《むち》をあげた。
京を去り、近江《おうみ》に入り、雨中の街道を前後して駈《か》けた。
松山合戦
疾風のように美濃へ舞いもどった庄九郎は白雲とただ二騎、自分の城である加納城に入った。
「あっ、殿様」
と大手門の番士が槍《やり》を投げすてて地にひざまずき、面《おもて》をおおって哭《な》きだしたのは、同行した法師白雲にとって目に痛いほどの印象であった。
(この男は、これほどまでに家来の信望を得ておるのか)
が、番士の泣き崩れはむりもない。
城主みずから雲がくれした城など、聞いたこともないはなしなのだ。
そのため、主に捨てられた家来どもは国中の侮辱を受け、ずいぶんと肩身がせまかったらしい。
(われら美濃がいやで、京にお帰りなされたのか)
(雲水におなり遊ばして、旅の空にござるとやら)
などと、城内ではさまざまに取り沙汰《ざた》したが、家老株の赤兵衛がかろうじて統制していままで城を保ってきた。
みな、つらかったらしい。
なぜならば、土岐頼芸のいる美濃の府城川手では、国中の年寄連があつまり、
――かの者、逐電《ちくでん》と認め、加納城には他の城主をお入れなされては如何《いかに》。
という議論が多かったのである。
そういう議論をあくまでおさえて、
「いずれ、帰る」
と強硬に主張してきてくれたのは、明智城の城主明智頼高である。
頼高の庄九郎への友《ゆう》誼《ぎ》によるものだが、通りいっぺんな気持ではなく、異常なほどにかれは庄九郎という男に惹《ひ》かれている。
――それほどにいうなら、いますこし、様子をみてみよう。
ということで、城はそのままに捨ておかれていた。
そこへ、尾張勢が国境の木曾《きそ》川《がわ》を渡って乱入したのである。
「加納城を、あのまま主《ぬし》無くして捨てておいては尾張者がそれを攻めとり、美濃侵略の拠点にするかもしれない」
という懸《け》念《ねん》があった。
事実あぶない。
尾張国境にいちばん近い城は、川手の府城と加納城だからである。
そこへ、庄九郎が帰ってきた。
番士でさえ、泣き崩れるのも当然なことであったろう。
しかも。
城の内外の者が目をまるくしたのは、仇とねらって庄九郎を討ちに行ったはずの法師白雲を連れて帰ったことである。
(どうまるめこんだのやら)
庄九郎のやることは魔術《げどう》めいている、とみな思った。
庄九郎は大広間に入るなり、おもだつ家来に法師白雲をひきあわせ、すぐ、
「合戦はどうなっている」
とたずねた。赤兵衛らがそれぞれ言上したが、庄九郎はどの報告もにがい顔できいた。
(間違っておる)
とどなりたいくらいだ。どうせ国境付近を見に行った者もいないらしく、報告に実感がないのである。
「城に、ありったけの旗、のぼりを樹《た》てよ」
と命じた。
早速、城壁にすきまもなく旗やのぼりが押したてられ、それが早春の風にさわやかにひるがえった。城が、戦闘態勢をとった、というしるしであった。
「白雲殿」
と庄九郎はいった。
「甲冑《かっちゅう》を着なされ。采《さい》もお持ちねがう。わしはこの城を二日ほど留守にするゆえ、それまでに敵が寄せたら、城将として防がれたい」
「そこもとは、どうなさるのだ」
と白雲は、庄九郎の行動の見当がつかない。
「守護職のもとに伺《し》候《こう》なさるのか」
「いやいや、左様な悠長《ゆうちょう》なことは、敵を攘《う》ちくだいてからのことじゃ」
そういって庄九郎は城を出、二日間、すがたをくらました。
草刈り男に身をやつし、国境付近をつぶさに踏査した。
その結果、織田信秀の率いる尾張勢が侵入した、というのは誇大に伝わったうわさで、ありようは、尾張の野武士連中が、木曾川を渡って美濃の村々の貯蔵米を掠奪《りゃくだつ》してしまっているのである。
ただ、数が多い。
千人はいる。その軍の進退もじつに巧妙で表面野武士をつかい、じつは指揮は織田家の歴とした武士がとっているらしい。
(背後には、織田信秀がいる)
とみた。
目的は、単に兵糧掠《ひょうろうかす》めか。それとも美濃を疲弊させようとしているのか。あるいは、美濃に挑戦《ちょうせん》して合戦にもってゆこうとしているのか。
わからない。
意図は謎《なぞ》とはいえ、合戦は滅法強く、近在の美濃の地侍が小部隊ずつ掃蕩《そうとう》に出ても、苦もなく打ち破られてしまう。
敗報しきり、と京で耳次からきいたのは、それである。
(とにかく)
と庄九郎は見さだめた。背後に織田信秀がいるにせよ、おらぬにせよ、前面の敵は草賊である。
その砦《とりで》、砦も庄九郎はその目で十分に偵察《ていさつ》し、なに食わぬ顔で帰城した。
その夜、白雲に秘策をさずけ、かつ兵百を与えて、最も手薄そうな野武士の巣の一つを襲わせた。
白雲は猛気のかたまりのような男だ。味方の死傷をかえりみずに、わっと寄せて行って力押しに攻めとってしまった。
庄九郎の秘策どおりに、退《ひ》かずにそのまま砦に居すわり、夜はおびただしく篝火《かがりび》を焚《た》き、昼は自分の定紋を染めたのぼり《・・・》を樹てて気勢をあげた。
だけではなく、討取った野武士二十人の首を木曾川の河原にさらし、目鼻を尾張の方角に向けた。
付近の村々に巣を作っている野武士はこれをみて大いに怒り、どっと押しよせた。
白雲の砦は、背後を木曾川にのぞむ小さな丘の上にある。
丘まで、道はひとすじしかないが、尾張の野武士はその一筋道を、矢を射られようが石を投げられようが、面《おもて》もふらずに押し寄せてきた。
「防げえっ」
と白雲は、土塁の上を駈けまわって必死の指揮をするが、なるほど、たびたび美濃衆を打ち破ってきただけあって、尾張の野武士は、
(これが草賊か)
とあきれるほどに手《て》強《ごわ》い。
ともすれば、土塁に鉤《かぎ》を投げてはいのぼろうとした。
白雲は、士卒をはげましつつ、みずから槍をふるって突き伏せ突き伏せするが、敵はいよいよ勇奮して登って来ようとする。
ところが。
約束の庄九郎の部隊はあらわれないのである。
庄九郎が授けた策というのは白雲がその砦でオトリになることであった。敵を引き寄せ十分に引き寄せたときに、庄九郎が兵を提《ひっさ》げて駈けつけ、背後から包囲し、白雲隊、庄九郎隊で挟《はさ》み撃ちにしてみなごろしにしてしまうという作戦であった。
が、来ない。
(あの男。――)
と白雲は壁塁を駈けまわりながら、歯咬《はが》みしておもった。
(はかりおったなっ)
ここで白雲を野武士に殺させてしまう。手をかけずに返り討にすることができるのだ。
丘に、松が密生している。通称松山、という地名で、どちらかといえば守るに不適当なところだ。寄せ手は、そのあたりの松という松にそれぞれ身をかくしその幹を楯《たて》にし、矢を射放しつつじりじりと寄せてくる。
白雲は、全身、返り血で真赤になりながら駈けては突き伏せ、突き伏せては駈けた。息がようやく切れてきた。
庄九郎は、まだ加納城内にいる。すでに具足に身を固めていた。
白雲を、裏切るつもりはなかった。こういう約束にかけては生涯《しょうがい》物堅かった男で、絶対といえるほど破ったことはない。
(将になるほどの者は、心得があるとすれば信の一字だけだ)
約束したことは破らぬ、という信用だけが人を寄せ、次第に心をよせる者が多くなり、ついには大事が成就《じょうじゅ》できると思っている。
ただ庄九郎には人数が足りない。白雲に百人を割《さ》いたために、百人しかいなかった。
そのために、明智郷と可児《かに》郷に使いを走らせ、明智頼高と可児権蔵から人数を借りようとしたのである。それが、まだ来ない。
陽《ひ》が老い、傾き、もう一刻《とき》もすれば落ちるであろう。
夜になれば、寄せ手の有利で、庄九郎の作戦の挟み撃ちも、きかなくなるのである。
「赤兵衛、まだかえ」
庄九郎は、湯漬《ゆづ》けを掻《か》きこみながらいった。
「まだのようでございますな」
「遅ければ、白雲は死ぬえ」
と語尾をあげ、眉《まゆ》をひそめた。
「死ねば、殿にとって目ざわりが無《の》うてよろしゅうございましょう」
「そうはいかぬ」
庄九郎は、香の物をがりっと噛《か》んだ。
「借りる人数が来ねば、わが身を捨てる覚悟で勝敗を考えず、手勢だけで急行する」
「へーえ」
赤兵衛は、首をふった。
「わしらのような下司下《げすげ》根《こん》とはちがいまするな」
「人間、大をなすにはなにが肝要であるかを知っているか」
「存じませぬな」
「義だ。孟《もう》子《し》にある。孟子が百年をへだてて私淑していた孔《こう》子《し》は、仁《じん》だといった。ところが末法乱世の世に、仁など持ちあわせている人間はなく、あったところで生まれつきのお人好しだけだろう。そこで孟子は、義といういわばたれでも真似《まね》のできる戦国むきの道徳を提唱した。孟子の時代といまの日本とは、鏡で映したほどに似ている」
「孔子孟子というのは、唐《とう》土《ど》で聖賢の道を説かれた人でございますな」
「そうだ」
と、庄九郎は、湯漬けをかきこむ。
「すると、旦那様は聖人の道を歩こうとなさるので」
「そのとおりだ」
庄九郎は、香の物を口に入れた。
事実、庄九郎はそのつもりでいる。古《いにしえ》の聖賢も、庄九郎の立場でこの乱国にきたならば奸雄《かんゆう》の道をとったであろう。あらゆる手段をつくして乱国を一手におさめ、あたらしい秩序の国家をつくり、自分の理想とする政治を布《し》いたにちがいない。
庄九郎は、聖賢の道を理想とし、現実の克服には奸謀を用いようとしている。ところが奸謀は、単に奸謀であっては人がついてこない。そのために、
「義」
「信」
をこの男は、自分に課した「道徳」にしているらしい。
「来ぬか」
と庄九郎は立ちあがって兜《かぶと》をかぶった。
「出陣の太鼓を打て、馬を曳《ひ》け」
そう命じてから、赤兵衛に、
「そちは残れ。明智、可児の兵が来れば、明智殿にはこの城を守ってもらい、可児権蔵にはすぐ後詰《ごづ》め(予備隊)として駈けつけてきてくれるように頼め」
「へっ、かしこまりましたが、するとおおせのごとくであれば、この加納城を空っぽにしてお出かけあそばすのでございますか」
「そち一人が残る。鼠《ねずみ》にひかれるな」
庄九郎は玄関をとびだし、大手門の内側で馬に乗り、
「開門」
と叫んで鞭《むち》をあげた。
どっと百余人が真黒のかたまりになって飛び出し、木曾川畔の松山をめざして駈けた。
みちみち、
「相手は野武士といえども、命を惜しむな」
と叫び、
「強力《ごうりき》の怯者《きょうしゃ》は、非力の勇者に劣る。城を出たときにすでに死者になったるものと思え。死勇をふるう者ほど世に強い者はないぞ」
と叫んだ。庄九郎の兵はかならずしも合戦馴《な》れはしていない。教育している。死にむかって駈けてゆく途中の教育ほど、骨身に沁《し》みるものはない。
さらに十町ほど駈けたあたりで、
「相手は千人ぞ」
とおそるべき敵軍の数量を報《し》らせた。
「が、このわしの下知のとおりに戦えばかならず勝つと思え」
「さらには」
と庄九郎は叫んだ。
「野武士の首といえども恩賞はとらすぞ。財宝でとらすぞ」
そういったのは、野武士を攻め殺したところで、相手に土地はない。土地の分け前を恩賞として、普通ならもらえないのである。ひとつはそのために、正規兵が野武士や一《いっ》揆《き》を退治する場合に武威がふるわず、美濃だけでなくどの国でもしばしばかれらに負けるのだ。
が、庄九郎には、京の山崎屋という汲《く》めども尽きぬ富の泉がある。金銀や高価な織物をもって恩賞とする能力をもっている。
兵はみな勇奮した。やがて前方に、
きらっ、
と夕陽が反射した。
近い。映えたのは木曾川の流れである。たちまち、野武士が包囲している松山に迫った。
「弓組、前へ。長《なが》柄《え》組はそれにつづけ。騎馬の者も、半弓《はんきゅう》を鞍《くら》からはずせ」
と駈けながら口ばやに部署し、指図した。
鉄砲は、ない。この天下統一のためにすさまじい威力を発揮した火器は、庄九郎の中年以後に日本に渡来して来、その後は、庄九郎をもふくめて世の武将は戦国後期の史的段階に入るのだが、この物語のこの時期は、弓矢時代の最後のころといっていいだろう。
庄九郎の軍隊だけは、この当時、妙な馬上戦法をもっていた。騎乗武士が、みな鞍壺《くらつぼ》に半弓をくくりつけているのである。
槍を入れる前に、半弓に矢をつがえる。ひ《・》ょう《・・》と射放してから、槍を入れる。
「喚《わめ》けえっ」
と、庄九郎は馬上で命じ、槍をとりなおした。
太鼓、陣貝、武者押しの声が草木がふるえるほどに響きわたり、その大音響を割って弓組が進出し、斜面にとりつき、さしつめ引きつめしてたちまち五十余人を斃《たお》して退《ひ》きさがり、同時に長柄組が突撃した。
長柄組のあとから、騎馬隊がゆく。庄九郎の「二頭波頭」を染めぬいた旗はその群れのなかにある。
一方、山上では、法師白雲が、兜の目庇《まびさし》をあげて、援軍と庄九郎の旗をみた。
「あざむかざりしか」
と土塁の上で、雀躍《こおど》りした。
「わがほうも、陣貝を吹け、太鼓を打て、急調子に打て」
形勢は、一変した。
野武士団は挟み撃ちされるのをきらい、当然ながら山上に背をむけ、麓《ふもと》の庄九郎隊にむかって坂をころがり落ちるようにして突撃を開始した。
その集団が半ば麓におりたときを見はからい、庄九郎はふたたび、弓組、長柄組、騎馬隊の半弓、というぐあいに手順よく繰りかえして相手にすこしずつ打撃をあたえ、やがて、
「われに続け」
と流星のように一騎突出し、敵群のなかに突き入って得意の槍をつかいはじめた。
そこへ白雲の隊が、どっと逆落《さかおと》しに敵の背後を突いたから、野武士群はささえきれずにあちらの田、こちらの竹藪《たけやぶ》、河原《かわら》などへ四散しはじめた。
崩れた、となると野武士の群れほど弱いものはない。泣きながら逃げまどっているのもあり、素早いのは河を渡って尾張領へ逃げはじめた。
庄九郎、白雲は、それらをあちこちに追いつめ、悪《あっ》鬼羅《きら》刹《せつ》のように刀槍をふるった。
陽が落ちるころ、戦いはおわった。
庄九郎は河原で首実検をおこない、ことごとく首帳に記せしめた。
その数、六百七十。
それを尾張領からよく見えるように河原に梟《さら》し、兵馬をまとめ、一気に駈けて加納城にもどった。
この戦闘と勝利の評判ほど、庄九郎のその後の美濃国内での活躍に利したことはない。
「海内《かいだい》一の勇将」
という評判は、美濃一国の郷々、村々で鳴りひびいてしまった。
おそらく、庄九郎の中年すぎまでの好敵手になった尾張の織田信秀の耳にも痛いほどに入ったであろう。
もはや、
「油屋」
などと蔑《さげす》む者はいなくなった。
この戦勝の翌日、川手の府城へ登城し、頼芸に拝謁《はいえつ》、報告している。
小見《おみ》の方《かた》
女が熟しはじめている。
庄九郎の手で明智郷から連れて来られ、この加納城の一隅《いちぐう》で育ち、城主の庄九郎が曲芸のような生活を送っているうちに、彼女はほのぼのと熟《う》れたのである。
明智氏の娘、那那姫であった。
(……もはや)
テ《も》ぎどきではないか。と庄九郎はおもったのであろう。
庄九郎はかねてからこの美濃の名族の娘を手活《てい》けにして育て、ゆくゆくはこれを妻にし、那那姫の出身氏族である明智一族を無二の味方にしたい、そう考えていた。
その遠謀が、実を結ぶときがきた。那那姫を自分の邸内に移し植えたときはまだ苗木にすぎなかったものが、いまは茎がのび、蕾《つぼみ》をふくらませ、その蕾が露をふくんであすにも花をひらこうとしている。
庄九郎は念のために明智頼高をはじめその一族の重だった者に諒解《りょうかい》をえた。正室にしてくれるならば願ってもなきこと、という色よい返事であった。
が。――
納得させねばならぬものが、身近にいる。
深《み》芳《よし》野《の》である。
庄九郎は、かつて主君頼芸《よりよし》の妾《めかけ》であった深芳野を、頼芸の手からさらうようにして得た。それほどにして得た深芳野に対し、まだ「正妻」の位置をあたえていないのである。
「殿御は、おなごを得てしまえば、そのおなごをどうあつかってもかまわぬものでございましょうか」
と、ある夜、深芳野は臥《ふし》床《ど》のなかで怨《うら》みごとをいったことがある。
「そなたを二なきものと思っている」とそのとき庄九郎は答えた。「さればこそ夜《よ》毎《ごと》に愛《め》でているではないか」
「からだだけを」
愛でている。深芳野はそう怨みたかったがこの天性、自分を主張することのない女は、ついに言葉に出してはいわなかった。
深芳野には子がいる。庄九郎の子であるかどうか。深芳野が、頼芸のもとから離されて庄九郎のもとに来たとき、すでに胎内にあった子である。
「あの男には」
と、頼芸は、深芳野を離すとき、ひそかに彼女にささやいた。
「秘めて云《い》うな。その胎内の子はあの男の子であるがごとく、生め」
やがて男児が出生した、ことはすでにのべた。幼名は吉祥丸。
それが、いまでは四つになる。
庄九郎の世継ぎたるべき子であった。かれはこの子を溺愛《できあい》した。
眼の大きすぎる子で、顔のどの部分も、庄九郎の異相には似ていない。どころか、どうかした拍子に、実父である美濃の守護職とそっくりな表情をした。しかし庄九郎は気づかぬのか、それとも気づかぬふりをしているのか、そういう疑問を深芳野に対しても、たれに対しても、口外したことがなかった。
(あれほど慧敏《さと》いお人なのだ)
と深芳野は、底知れぬ庄九郎の肚《はら》の中をおそれた。
(きっと気づいていらっしゃるにちがいない。知らぬ顔であのようにわが子として振舞っておわす)
家来どもも噂《うわさ》しているらしい。吉祥丸、のちの斎藤義竜《よしたつ》が庄九郎の子ではないことは、たれの目にもわかった。
第一、吉祥丸は、深芳野が庄九郎のもとに来てたった七カ月目にうまれているのである。世間にそういう早生児はあるであろう。しかし早生児ならば小さいはずだ。ところが吉祥丸は、並はずれて大きい嬰《えい》児《じ》であったし、いまも七、八歳にみえるほどに手足が発育している。
たれがみても、庄九郎の子ではない。
ところが庄九郎だけは、
「わしの子だ」
という顔をしているのである。深芳野にはそれがかえっておそろしかった。
庄九郎は沈黙している。
四年間もそれについて沈黙しつづけたあと、ある夜、そのことよりももっとおそろしいことを、熱っぽい愛《あい》撫《ぶ》のあとでいったのである。
「深芳野」
と、その夜、庄九郎は深芳野の体をなお抱きながらささやいたものであった。
「吉祥丸の母を、もうひとり加えてもかまわぬな」
えっ、と深芳野がおどろいたのも、むりはなかったであろう。
「頼む」
と庄九郎はいった。
「恋しいおなごがいる」
庄九郎は、その恋しいおなご《・・・・・・》が深芳野であるかのように、彼女の髪をなでた。
「恋しいのだ」
「あの」
と深芳野は、やっと息を吐いた。
「それはどなたでございます」
「那那姫よ」と庄九郎はいった。さらに「深芳野」と呼び、庄九郎は髪をなでつづける。
「わしの恋を遂げさせてはくれぬか」
「ご勝手になされませ」
と、深芳野は掻巻《かいまき》をひっぱって顔をおおった。
「そう申すな。わしは、欲しい、とおもえば矢もたて《・・》もたまらぬ男だ。そなたをほしい、と思ったときもこうであった。わしはどうやら、慾が人の倍もつよいらしい」
「いいえ、百倍も」
深芳野は、泣きはじめている。
「百倍も、とはなんだ」
「ご慾が」
「強い、と申すのか。そう思ってくれればよい。そなたはわしをよく理解してくれている」
と、庄九郎は心からほめてやった。
(ばかにしている)
と深芳野は、おもったかどうか。ただひたすらに泣いている。
「泣いてくれるな」
庄九郎は、いい気なものであった。深芳野の髪を撫《な》でつづけている。
「わしは慾つよく生まれついた。体も、人の三、四倍は強靱《きょうじん》である。意思《こころ》も力も人の数倍はつよく、智恵も、人が十人額を集めてもわからぬことを一瞬に解くことができる。しかしながら深芳野よ」
庄九郎は、深芳野の恥所に触れた。べつに意味あっての行為ではない。癖である。
「そういうわしでも、寿命だけはひととおなじ五十年だ」
これだけは、庄九郎の力をもってしてもどうにもならぬというわけであろう。
「五十年」
不公平ではないか、と庄九郎は天をも恨みたいほどである。天は、庄九郎という男に、常人の数倍の能力を持たせて生みつけておきながら、定命《じょうみょう》が経《た》つと、愚夫と同様、平等にその生命をうばってしまう。
「わしのような男は」
と庄九郎はいった。
「おなじ五十年のあいだに、ひとの十人分ぐらいの人生を送らねば、精気が体内に鬱屈《うっくつ》しついには黒煙りを吐き、狂い死にしてしまう。そなたも存じているとおり、わしは京に妻がいる。わしが将軍になるのを待ち望んでいる。名はお万阿《まあ》という」
「存じております」
「可愛《かわい》い女だ」
と、庄九郎は心からいった。
「しかしそなたも可愛い。常人ならば、二人の女をもてば自然、愛に濃淡ができ、ときには一人を愛し、一人を憎悪するようになる。しかしわしはそうではない。お万阿も深芳野も同じように濃く、同じように深く、同じように初々《ういうい》しい恋心をもって愛している。深芳野、そうであろう。そなたは、わが心とわが体をよく知っているはずだ」
「…………」
深芳野は、泣きつづけるしか、自分を表現することができない。
「愛している」
庄九郎は、闇《やみ》のなかでぎょろりと目をむいた。天地神明に誓っても、深芳野を、常人一人分の心と体をもって愛していることは、まぎれもない。お万阿に対しても、同然である。
「ただ」
と庄九郎はいった。
「もう一人、愛することができる」
断固と、虚《こ》空《くう》の神仏に対していい放つような語気である。
深芳野は、泣くことをやめた。なにやら、この男を相手に泣いていることが、ばかばかしくなってきたのである。
(世には、こういう男もいるのだ)
掻巻《かいまき》のえり《・・》口から眼を出し、あらためて庄九郎を見た。むろん暗くてわからないが、顔の輪郭だけは窺《うかが》える。奇相である。なにやら、はじめて接する生きもののような想《おも》いがして、深芳野は不意に可笑《おか》しさがこみあげてきた。
「おや、笑っておるのか」
庄九郎は、深芳野の腹あたりに手をおいた。ふくふくと動いている。
「笑ってなどはおりませぬ」
(おなごとはふしぎなものだ。泣いているか笑っているか、どちらかしかない)
庄九郎は、深芳野の腹をおさえつづけている。掌《て》につたわってくる痙攣《けいれん》が、なまめいて好もしい。
不意に、いま一人分の情念がこみあげてきた。たったいま、一人分の情念を消費したくせに、また湧《わ》きおこってきたのである。なるほど、この男は一人で何人分かの人生をしているのであろう。
「深芳野、わしは満ちてきたわい」
と、その細い腰のくびれを掌《てのひら》ですくい、掻《か》きよせようとした。
「い、いやでございます」
「無用の我意はたてぬことよ」
と、庄九郎の掌はすでに指に化して、深芳野の股《こ》間《かん》をさぐっている。
「いや」
身をよじらせたが、身が濡《ぬ》れはじめた。それでもなおもがいた。もがいている深芳野の運動の芯《しん》を、庄九郎の指がたくみにおさえている。その庄九郎の指を中心に、深芳野は所《しょ》詮《せん》は舞っているようなものであった。舞いが、やがて哀《かな》しいほどにこころよいものに変じた。
「淫《いん》婦《ぷ》。――」
と、深芳野は小さく叫んで自分を責めた。
「淫婦ではない」
庄九郎は、低くいった。なぐさめているのではない。男と女の論理とは、所詮はこういう甘美なうやむや《・・・・》のなかにあるのだ。それでこそ尊い、という意味のことを、庄九郎は、この男独特の抑揚のある言葉つきでささやいた。
庄九郎は、那那姫を娶《めと》った。
妻《め》となって、
「小見《おみ》の方《かた》」
とよばれた。
庄九郎が、うまれてはじめて接した未通女《おとめ》は、この女である。
この小見の方が、やがて女児を生むことになる。その女児が長じて濃姫《のうひめ》と呼ばれ、やがては一つ年上の織田信長に輿《こし》入《い》れするのである。
庄九郎は、小見の方を愛した。が、それとおなじほどの量で、深芳野をも愛した。
奥
とよばれる一郭でふたりは同居し、地位は正妻である小見の方のほうがむろん高いが、しかしこの城内で少女時代をすごした小見の方は深芳野をむしろ上のごとくあつかい、
「深芳野様」
とよんだ。彼女は、幼いころから深芳野の美しさを敬慕していた。美濃きっての美女であり、かつては土岐頼芸の想い女であり、しかも出自《しゅつじ》が丹《たん》後《ご》宮津の城主一色左京大夫《いっしきさきょうのだいぶ》の実子、というこの深芳野に対し、国中《こくちゅう》のたれもが、物語の女主人公を思うような、淡いあこがれをもっている。
「深芳野は、天女のような女だ。邪気というものをまるでもたぬ」
と、庄九郎は、若い奥方がまだ那那姫とよばれていたころから、何度もそういっている。
「父一色左京大夫の厄年《やくどし》児《ご》というので棄《す》てられたも同然のかっこうで姉の嫁《とつ》ぎさきの土岐家にきたのだが、その数奇な生いたちでもわかるとおり、あるいは人間の子ではなく、神仏がいたずらをして地上に生みおとした子のようにもおもえる」
自然、小見の方もそう信じ、そのつもりで接触しているから、仲が悪《あ》しくなろうはずがなかった。
ある夜、庄九郎は宵《よい》から深芳野の局《つぼね》に渡ってきて、泊まった。
「奥はそなたをこの世にもなく浄《きよ》げで、天女か、神仏の申し子だと思っている」
「天女の舞は」
と深芳野は物《もの》憂《う》くいった。
「舞えますけれども、わたくしはまぎれもなく人間の子でございます。その証拠に、小見の方様を恨めしくてなりませぬ」
「こまるな、せっかくの天女がそのようなことを申しては」
「いいえ、人間でございます」
深芳野は、庄九郎の閨房《けいぼう》政治の手《・》はのみこんでいる。自分を「天女」ということにして、一方では小見の方をも鎮《しず》め、一方では深芳野自身を規正して妬《と》心《しん》をおこさせまいとしているのだ。
「人間でございます」
と言い張るのは、深芳野のこの男へのせめてもの抵抗《あらがい》であった。
「殿様は、数人分の人生を、五十年のあいだに送るのだ、とおっしゃいましたね」
「申した」
「では、男ならたれでも苛《さいな》まれねばならぬ女人の嫉《しっ》妬《と》というものも、やはり数人分受けることを甘受なさらねばなりませぬ」
「こまる」
とは、庄九郎はいわなかった。
「受けよう」
そうはいったものの、深芳野のような性格が、鬱屈すれば意外におそろしいことを庄九郎は知っている。
「お覚悟あそばすように」
「大げさだな」
庄九郎が深芳野を見たとき、深芳野は視線をそらせ、夕闇の小庭に移していた。頬《ほお》は意外にも微笑《わら》っていなかった。
(むずかしいことだ)
いかに数人分の世を送る、といってみても三人の妻をもってそれを仲よく御《ぎょ》してゆくということは、あるいは困難なことかも知れない。
お万阿はいい。小見の方もいい。なぜならば京のお万阿は「山崎屋庄九郎」の正室であり、油問屋の御料人としての仕事もある。小見の方の場合は、いうにはおよばない。ふたりとも自分をささえているほこり《・・・》がある。
小見の方が正室になって以来、深芳野にはそれがなくなっている。ただ局を訪ねてくる庄九郎を迎えて送るだけの存在になりはてた。かつてもそうであったが、いまはそのことがはっきりしてしまった。
(やるせない)
とおもうようになっている。庄九郎は数人分の世を送るというが、自分は自分の人生の場所さえ持てそうにないではないか。
子がある。
深芳野の救いであった。彼女は吉祥丸と遊んでいるときだけが、自分の人生を持っているような気がする。
遊んでいるとき、不意に、
(あなたのお父様は、あの方ではないのですよ)
と、あやうく真実を教えてしまいそうな衝動にかられた。いまはその衝動を耐え殺している。しかしいつかはそれを口外してしまいそうな自分を深芳野は感じていた。
さて庄九郎の「仕事」のほうは。
まずまず、うまく行っている。あれほど美濃衆の反対の多かった府城の移転の件も、ひとまず成功した。
枝広の地に、頼芸のために数寄をこらした別荘を建ててやると、頼芸は、
「このほうがよい」
と川手の府城から簡単にひき移ってしまったのである。
いわば、頼芸は、美濃守護職という現職のまま隠居になったようなものである。
(男のほうが、はるかに御しやすい)
と庄九郎は思った。
頼芸は、このところ絵に没頭している。相変らず鷹《たか》の絵ばかりであるが、それが枝広の新城に移ってから、にわかに画風に冴《さ》えがでてきた。
それを頼芸はよろこび、
「俗事にわずらわされなくなったからだ」
といっている。川手の府城にいるとなにかと守護職としての俗事があった。それが、この長《なが》良川《らか》畔《はん》の新城では、まずなくなった。
頼芸の毎日は、朝から絵筆をにぎり、夕方まで描き、そのことに疲れると酒をのみ、女を抱いた。人生の芳醇《ほうじゅん》な部分だけをこの貴族は飲んでいるようである。
世事にいよいよ疎《うと》くなった。
その世事は、加納城主の庄九郎が、川手の府城に詰めて切りさばいている。
こういう毎日が明け暮れて、天文三年九月六日という日を迎えた。
雨
天文三年の夏、美濃の大地が灼《や》けた。
長《なが》良《ら》川《がわ》をはじめ諸川《しょせん》が干あがり、河床がしらじらと露《あら》われて、草が枯れ、ひびが走るほどであった。
各村で雨《あま》乞《ご》いが行なわれたが験《げん》がなく、不作のまま秋に入った。
(ことしは凶作か)
と、庄九郎は秋の初頭におもった。あるいはこの穀倉地帯にもすさまじい飢《き》饉《きん》が来るかもしれない。
「赤兵衛」
と七月のある日、この便利な男をよび、京都へ使いにゆくように命じた。
「この秋、美濃は飢饉になるかもしれぬ。お万阿にそう申して、新米の季節になれば京で米を買いつけておくように」
「米を」
「そう、買いつけておけ。千石もあればよろしかろう。美濃がもし飢饉のばあい、さっそく京、大津の車借《しゃしゃく》・馬借《ばしゃく》(運輸業者)を総ざらえに傭《やと》い入れ、当方からしかるべき護衛の人数も出すゆえ、どっと当国へ運び入れるのだ」
「儲《もう》けるのでござりまするか」
「馬鹿《ばか》。世に大望をもつ者が、足もとの利をむさぼると思うか」
「施すのでござるな」
「そうだ。美濃一国の飢饉にわずか千石の米では焼け石に水であろうが、かゆ《・・》にして薄めれば一人何粒でも食える。庶人《しょにん》ははじめてわしが美濃にあることを、骨身にしみてよろこぶだろう」
「参候《さんそろ》」
赤兵衛は旅立って行った。まだまだ秋には早いが、米の買いつけなどは手間ひまのかかるものだ。京都に常駐して、京、近江《おうみ》、丹《たん》波《ば》それに摂《せっ》津《つ》などの米商人とのわたりをつけておかねばならない。
(しかしはたして飢饉が来るか)
というのは、赤兵衛の疑問である。その飢饉も、美濃だけならばよし、もし京都周辺まで凶作ならば買いつける米がないではないか。
さらに米を美濃まで運ぶ道路の近江も凶作ならばどうであろう。近江などは野伏《のぶせり》の多いところで、運ぶ米を掠奪《りゃくだつ》しはしまいか。
(たしかなことでござりますか)
と赤兵衛は、出立のさい、庄九郎に念を押してみた。庄九郎は笑い、
(天文、天象を判断して的中せしめ、それをもって行動をおこす者を英雄というのだ。もしあたらねば、わしは英雄ではない)
と大きなことをいった。
(あの人のことだ、はずれることはあるまいよ)
と赤兵衛は安心して美濃を発《た》ち、京に駐在したのだが、ところが秋立つ八月のころからほどよい雨が諸国を濡《ぬ》らしはじめたのである。
京の山崎屋で逗留《とうりゅう》しながら、赤兵衛は杉丸にこぼした。
「杉丸どの、京のまわりの田も作柄《さくがら》は持ち直したげな。美濃のことは知らず、このぶんでは凶作などはゆめおこるまい」
「おこりますまいな。あってはならぬことでございます」
「わしにとっては殿様、おぬしにとっては旦《だん》那《な》様というあの方は、妙覚寺御本山におわしたころから学は顕密《けんみつ》の奥旨をきわめ、弁は天《てん》竺《じく》の富楼那《ふるな》におとらず、といわれたほどかしこいお方じゃが、それでも百姓のことはわからぬとみえるわい」
「油のことはおくわしゅうございます」
「米よ。米はわからぬようじゃ」
美濃からは、十日に一度ぐらいは、耳次が情報をもって京にやってくる。
その情報によると、美濃の田も慈雨を得てあおあおと勢いづきはじめているということがわかり、赤兵衛は京で米商人どもと予約買いをしていることがばかばかしくなった。
「されば、帰るかい」
「いや、そのまま居よ、というおおせでござる」
と耳次は、庄九郎の意を伝えた。庄九郎によると、米などはいくら買いこんだところで無駄《むだ》になるものではなく、そのまま京で売りはたいてしまえばよい、というのである。
九月に入って、美濃の天は曇りがちであった。
庄九郎はこのころ勤勉に騎馬で領内の田園をまわっている。
べつに凶作を期待しているわけではない。それどころか、領主としての当然の利害と感情から、自領の豊作をのみ祈っているのだ。不作になればたちどころに軍事力の強弱にひびいてくるのは、この当時の経済である。
雨が降る。
庄九郎はその日も、笠《かさ》、蓑《みの》に身をつつみ、従者数騎を従えたまま、領内の大百姓、中百姓の家々を訪ね、かつ田のあぜ道に立ち、小《あら》作人《しこ》にまで声をかけた。
美濃にはそういう領主などかつていなかったから、村々はよろこんだ。それに、村々をまわっているうち、眼の動きの利発そうな者や、身動きの軽そうな者、膂力《りょりょく》の満ちあふれている者などをみつけては、
「わしに仕えよ」
といって、小姓にしてしまう。譜代の家来をつくりたかったのである。
その日、城北の村に立ち寄ると、あぜ道に老百姓が立ち、北のほう飛騨《ひだ》の天を仰いでひとりごとをいっているのをきいた。
「どうした」
と馬上から声をかけると、老百姓は土下座するのもわすれ、眼が定まらない。
「飛騨の空にかかる雲が妖《あや》しい」
というだけである。なぜ妖しいか、とたたみかけて訊《き》いたが、やっと百姓は相手が庄九郎であると気づき、地にひざまずき、それ以上は何をきいても答えなかった。妖言《ようげん》をなす、といって罰せられるのを怖《おそ》れたのであろう。
(飛騨の雲。――)
城にもどって物《もの》識《し》りらしい家来どもにきいても、たれも知らない。
(なにやらわからぬが、なにかがおこる)
この年の夏から庄九郎の胸を騒がしている不安である。それがなにか、ということはわからない。
九月二日、雨が降った。雨勢はいよいよ強まり、夜に入って暴風をともなった。
(さては、洪水《こうずい》か)
しかし、翌朝には風がやんだ。雨気はなお美濃平野を煙でつつみ、降るともなく降らぬともない霖《りん》雨《う》が美濃四百方里の森、藪《やぶ》、里、堤、城を濡らしている。
三、四、五の三日にわたって雨はふりつづいたが、五日の夜半にいたって、天象は一変した。地軸が動くかとおもわれるほどの暴風がおこり、闇《やみ》にどよめき、野を裂き、森を倒しはじめたのである。
「律兵衛はあるや」
と、庄九郎はかねて物頭《ものがしら》に取り立ててある林律兵衛をよんで、城を風からまもる指揮をさせた。
「殿は、いずれへ参られまする」
「枝広よ」
庄九郎は、すでに笠をかぶり、蓑ですっぽりと体をつつんでいる。
枝広は、庄九郎が美濃守護職土岐頼芸のために建てた別荘のある地だ。
「この風雨のなかを?」
と律兵衛はおどろいた。見舞にゆく、というような天候ではない。
このときの庄九郎は、動機は儀礼でもなく慾得でもなかった。この愛憎の強い男は、正直なところ、頼芸の身の上が心配になっていた。
枝広の里は、長良川の支流津保《つぼ》川《がわ》のほとりにあり、頼芸の新城は、石垣を水面に映して建っている。
(堤が崩れるかもしれぬ)
庄九郎は、不安になった。矢もたて《・・》もたまらず、加納城の城門を馬でとびだした。庄九郎にはそういう熱っぽい誠実さがある。
城門を出るなり、どっと風のかたまりがぶちあたってきて、庄九郎の菅笠《すげがさ》をあごからひきちぎり、天空高く吹きとばした。
(笠め、飛騨の山上へでも飛ぶつもりか)
むち《・・》をあげて駈《か》けた。
が、馬の脚が撓《しな》い、ときに動かなくなる。
「怖れたか」
とむち《・・》を加えると、馬は悲鳴のような嘶《いなな》きをあげるばかりで、意のごとく動かない。
それを、なだめ、叱《しか》り、時には大樹のかげで風を避けてやり、風の切れ間、切れ間をみては走らせた。
庄九郎の人生四十年のあいだ、これほどの風に出遭ったことがない。
(馬さえおそれるのか)
馬は風のなかで、もがくように行く。馬上の庄九郎の蓑は、とっくに吹きとんでしまい、むち《・・》さえ手から奪われそうだった。
真暗のなかで方角をさぐりあて、馬の眼のみを頼りに二時間ばかりあがき進むと、目の前の闇に、にわかに水声が湧《わ》きあがった。川だ、と思った。めざす津保川であろう。
庄九郎は、橋をさがした。枝広城をつくるとき、仮橋を架《か》けたはずである。
やっと、さがしあてた。が、川の水嵩《みずかさ》がふえ、いまにも橋桁《はしげた》のひくいこの板橋を押し流しそうであった。
(渡るべきか)
馬は怖れて、足をすくませている。橋がゆれている。もし人馬がこの板橋の上に乗ればその重みで撓い、水面に触れ、あっというまに橋はこなごなの木片《きぎ》れになって流れ去るであろう。
(どうする、庄九郎)
と、馬上で自問した。
幸い、風雨は小やみになっている。水声のみが、すさまじい。
(ままよ)
庄九郎はむち《・・》をあげ、馬腹を力まかせに蹴《け》り、突風のように橋上を駈けた。
向う堤に乗りあげたとき、背後で轟然《ごうぜん》たる響きが湧きあがって、ふりむいたときには橋がすでになかった。
(冥利《みょうり》なるかな。――)
城内に駈け入った。
人馬ともずぶぬれになってやってきた庄九郎を見て、頼芸はすがりつかんばかりにしてよろこんだ。
「よくぞ、命があったな」
頼芸は、人の誠はこういう異変のときにこそ知られるものだ、とおもった。庄九郎が世にいう阿諛《おべっか》の徒ならば、百に一つの命冥加《いのちみょうが》を頼みにここまでやって来はしまい。
「ありがたい」
「お屋形様、舟のご用意をなされませ。それがしが下知いたしまする」
「舟で、どこへ行くのか」
頼芸がけげんな顔をした。
「まさか」
庄九郎は笑った。この奔流に舟をうかべたならば、たちまち木っ端微《み》塵《じん》になるだろう。
万一、洪水になったときの支度である。
城は、やや小高い丘を根にしている。よほどのことがないかぎり安心なのだが、用意だけはしておく必要があった。
夜明けまで、城内の男女は一睡もしなかった。その刻限、ふと頼芸はおびえたように、
「なんの音だ」
と顔をあげた。
「雨でござるよ」
また雨が降りはじめた。城の屋根を叩《たた》き割るようにしぶき、その勢いはもはや雨というようなものではなかった。滝であった。
「天が覆《くつがえ》りましたかな」
と庄九郎がつぶやいた直後に、天文三年九月六日の記録的な大洪水が美濃平野一帯を襲ったのである。
ごうっ、と地鳴りがした。
「地震か」
「ではござるまい」
庄九郎が、六尺棒をかかえて飛び出し、石垣の上に仁王立ちに突っ立ったとき、さすがにこの男も身ぶるいがした。
美濃が、湖《うみ》になっていた。
その湖が、すさまじい勢いで西へ奔《はし》っている。家も森も村も押し流されてしまっていた。
(地の終りがきた。……)
正直、そうおもった。東天が白み、やがて明けはなってからよくよく見ると、このあたり一里四方で浮かんでいるのは、この枝広城だけである。それも石垣わずか三尺を水面上に残すのみで、おそらくこの城を遠望すれば枯葉一枚がやっと漂うほどに心もとない光景であったろう。
その後数百年間、この土地では、
「中屋切れ」
という呼称で記録されつづけたほどの大氾《はん》濫《らん》であった。長良川の堤が、稲葉郡の中屋村(現在各務原《かがみはら》市)で決潰《けっかい》したのである。決潰はその一カ所にとどまらなかった。
長良川という巨大な河を竜にたとえると、中屋村の地点で大運動をおこし、竜尾が二里にわたってすさまじくふるった。
川が移動したのである。
二里のあいだを横断して、枝広城の前の津保川に流れこんだ。
このため津保川が湖になった。庄九郎らが轟《ごう》という地鳴りをきいたのは、この川の堤が全域にわたって一挙に決潰した音であった。
ちなみに、この氾濫いらい、長良川はそのまま津保川に合流して腰をすえてしまい、現在の河川様態となった。庄九郎のこの時期までは、長良川は、現在の岐阜市の北方七キロのあたりを半円状に迂《う》回《かい》して、伊自良《いじら》川《がわ》と合流していた。
地が、一変したといえる。
流失家屋は数千戸、死傷二万余におよび、この平野の水害としては、前後これほどのものはない。
庄九郎は、舟を浮かべた。
頼芸とその家来、妻妾《さいしょう》などをのせ、総数二十数艘《そう》が濁流のなかにあてどもなくただよった。
天はなお満々たる雨気を孕《はら》み、晦冥《かいめい》し、女どもは生きた色もない。
「どこへゆく。川手城、加納城はだいじょうぶだろうか」
と頼芸はきいた。が、その二城とても平地にある以上、どうなっているかはわからない。
「わからぬものだ」
庄九郎はつぶやきながら、雨雲の天を仰いでいる。洪水で美濃は潰《つぶ》れた。営々とこの地で築いてきたものが、一瞬に押し流された。
「夫《それ》、洪水の前」
というのは、聖書馬太《マタイ》伝《でん》二十四章にある。
「ノア方舟《はこぶね》に入る日までは、人々飲み食い、娶《めと》り嫁《とつ》がせなどして、洪水の来《きた》りてことごとくほろぼすまでは知らざりき」
庄九郎はむろん、そういう遠い国の神話などは知らない。しかしかれの感じている主観的情況は、まったくそれに似ている。
ともかく。
一日濁流と泥土のなかを漕《こ》ぎまわってやっと庄九郎の持城の加納城に入った。この城もやっと土塁が水面に顔を出している程度だったが、それでも枝広よりは危険がすくなそうであった。
「ひとまずこれにてご休息くださいますように」
と頼芸一行をここに避難させた。
数日して晴天がよみがえった。が、美濃一帯の田園は泥土に化して、ことしの収穫などは期待できたものではなかった。
庄九郎は、京に耳次を走らせて赤兵衛に米の運送方を命ずる一方、連日、泥《どろ》にまみれて自分の領地と頼芸の直轄領《ちょっかつりょう》の村々の復旧の指揮をしてまわった。
一方、三《み》河《かわ》、尾張《おわり》、駿河《するが》、伊勢《いせ》あたりまで頼芸の手紙をもって救援方を乞いに歩いた。
麦、味噌《みそ》などが、どんどん美濃に入りこみ、それらは、国内の地侍の所領までうるおしはじめた。
古来、領主というものは百姓から年《ねん》貢《ぐ》を収奪するばかりでこういう政治をする者はまれであった。庄九郎が下層の出身であり、かつ商人の出であったればこそ、そういう感覚も能力も豊かだったのであろう。
この結果、自領、他領をとわず、庄九郎の人気は百姓のあいだで圧倒的なものとなった。
「美濃の救い神じゃ」
という声が、村々にあふれた。そのころ赤兵衛の手で京から米が運ばれてきた。それをかゆにして村々で炊《た》き出させたから、人気はいよいよあがった。
庄九郎は、洪水を生かした。
どころではない。この洪水を、捨てるところがないほどに利用した。
「枝広はもはや、あぶのうござる」
と頼芸に説き、頼芸も賛成し、かれを川手城・加納城(いずれも現在岐阜市)から北へ五里も入った山地に移すことにしたのである。
大桑城《おおがじょう》という。
はるかに飛騨の山々につづく大桑山の山上にある古城で、庄九郎がみずから監督してみちがえるほど壮麗な姿に仕立てかえた。なるほどこの山上なら、もはや洪水からの不安はない。
もともと洪水ぎらいの頼芸は、
「なぜ早くここに移らなんだか」
とよろこんだ。
追いやられた、とは頼芸は気づかなかったのであろう。
むろん庄九郎は大桑城などの僻《へき》地《ち》へは行かず、美濃平野の加納城と川手城の間を往《ゆ》き来して頼芸の政務を代行した。
が。――
この二つの平城《ひらじろ》がしだいに気に食わなくなってきた。政務をとるには便利はいいが、合戦、洪水などにこれほどもろい城はないであろう。
(そろそろ金華山―稲葉山―に三国一の巨城を築くことにするか)
とおもい立ったのは、この洪水以後のことである。
金華山築城は、庄九郎が美濃にきて以来、年ごとに思いつのってきている夢である。
姓は斎藤
「美濃の蝮《まむし》」
と、戦国の諸雄からおそれられた斎藤道三《どうさん》こと庄九郎が、その、史上で名を高からしめた斎藤姓を名乗るようになったのは、天文五年の春である。余談だが、このころには、のちのちかれの婿《むこ》になる織田信長がすでに隣国の尾張でうまれていて、数えどし三つ。
その信長の花嫁になって才色比類なしといわれた庄九郎と小見《おみ》の方《かた》のむすめ「濃姫《のうひめ》」は当時かぞえて二歳。
まだ、赤ん坊でしかない。
ところで、庄九郎が斎藤姓を名乗ったこの天文五年の元旦《がんたん》に、おなじく隣国尾張中村のあばらやでひとりの奇男子がうまれている。のちの豊臣秀吉《とよとみひでよし》である。
道三、信長、秀吉とつづく戦国の系譜は、この年の前後に誕生したわけである。
さて、さらに余談を。
斎藤姓についてである。この日本人の姓のなかでもっとも多い苗字があらわれたのは、平安朝の初期であるらしい。
平安初期、鎮守府将軍になった藤原利仁《としひと》という人物がある。その子で叙用という人物があり、どんな男であったかはよくわからないが、この藤原叙用がこの姓の祖である。
藤原叙用が、宮仕えして伊勢の斎宮《さいぐう》の世話をする役所の長官(斎宮寮頭)になった。従《じゅ》五《ご》位上《いのじょう》。
廷臣のなかで藤原氏が多い。そのひとをよぶときまぎらわしいため、京都の屋敷の所在地の町名でよんだり(たとえば近《この》衛《え》、一条、三条といったふうに)、その子孫で地方に住んだ者はたとえば加賀なら加藤とよんだりした。
斎藤は叙用が斎宮寮頭になったため「斎藤」と略してよばれたわけである。
その子孫が諸国に散った。なにしろ鎮守府将軍利仁の血系であるために国々では威をふるい、羽《う》前《ぜん》、武蔵《むさし》、加賀、能登《のと》、越中、越後、美濃など、とくに北国、東国、坂東《ばんどう》の在所、在所で栄えた。平家物語で白《しら》髪《が》を染めて戦場におもむく平家の老侍大将斎藤別当実盛《さねもり》は、武蔵国長井の住人であったし、謡曲の「安《あ》宅《たか》」に出てくる加賀の守護斎藤富樫介《とがしのすけ》は、加賀で繁栄した一族である。
美濃の斎藤氏は、すでに足利《あしかが》時代の末期、斎藤妙椿《みょうちん》というきこえた武士がおり、美濃守護職土岐家の家老として腕をふるい、一方、歌道にたんのうで、京の公卿《くげ》を美濃へ招待したりして都にまで名を知られていた。
庄九郎の当時の美濃斎藤家は、国主の土岐家と婚姻《こんいん》をかさねて分家同然になっており、長井家とともにこの国きっての名家であることは、すでに何度かふれた。
「斎藤の家をつぐがよかろう」
と庄九郎にいったのは、国主の土岐頼芸である。庄九郎が頼芸にそういわせるように仕むけて行ったこともたしかだが、しかし斎藤の宗家がほとんど死に絶えたも同然で、
――名家の名跡が絶えるのは惜しい。
という正当な理由もあった。
が、美濃斎藤家の分家は美濃一国にちらばっており、宗家の名跡をつぐなら、赤の他人の庄九郎などよりも、そういう血縁者がつぐべきであろう。
この相続は、決して穏当なものではない。
庄九郎が「頼芸の命令」ということでむりやりにその名跡をうばってわが頭に飾った、といったほうがいい。
斎藤左《さ》近《こん》大夫《だゆう》秀竜《ひでたつ》
というのが、庄九郎の名乗りであった。
庄九郎が美濃にきて、満十五年の歳月が、この名を得るまでに流れている。
この改名の直後、京のお万阿に報《し》らせるためにひそかに変装して美濃をぬけ、数日、京の春をたのしんだ。
京の山崎屋に落ちついて、油屋の旦《だん》那《な》「山崎屋庄九郎」にもどるなり、
「お万阿、美濃はいますこしで奪《と》れる」
といい、言いおわると、改名そうそうの姓名をお万阿におしえた。
「さいとう・さこんだゆう・ひでたつ」
とお万阿は、紙をのべてかな《・・》でそう書き、
「覚えにくいこと」
にこにこ笑いながら、何度か、口のなかでとなえた。亭主の名前も知らぬのでは、女房《にょうぼう》としてこまるのである。
考えてみれば、お万阿ほど奇妙な亭主をもった女もないであろう。いったい、この男は何度なまえがかわったか。はじめは松波庄九郎、ついで妙覚寺本山の学生《がくしょう》になって法蓮房《ほうれんぼう》、還俗《げんぞく》して旧称にもどる。ついで奈良屋のお万阿のもとに婿入りして奈良屋庄九郎、その屋号をあらためて山崎屋庄九郎、さらに美濃の廃家西村家を継いで西村勘九郎、ほどなく長井家を継ぎ長井新九郎、とじつにめまぐるしい。
「いくつかわったか、わしもおぼえきれぬ」
と、庄九郎はわらいだした。
「名など符牒《ふちょう》さ。お万阿は、庄九郎だけをおぼえておればよい」
「いつ、将軍におなりあそばします?」
お万阿がいったのは、なにも庄九郎に将軍などになってもらいたい、というわけではない。将軍になれば京にもどる、むかしのようにお万阿と寝食をともにしてくれる、という約束を二人でとりかわしてある。
「さて、いつかな」
庄九郎は笑いだした。
「お万阿、考えてみると、将軍というものも退屈な暮らしだろうな」
「なぜでございます」
「わしが将軍になり、天下がおさまった以上、もはや、なにをすることもあるまい。わしもおそらく精気をもてあますだろう」
「旦那さま」
「なんだ」
「将軍におなりあそばさないのでございますか」
お万阿は、にわかに語気がはげしい。
「おなりあそばさぬというなら、早々に美濃から旦那さまをひきあげさせて、もとの油屋にしてしまいます」
「おいおい」
「旦那さまは、お万阿のものでございますから。なにやらうわさにきく美濃の深《み》芳《よし》野《の》さまや小見の方とやらには、ごく一時だけ、旦那さまをあずけてあるだけでございます」
「お万阿、そう申すな」
こんなやりとりで、日が暮れた。むろん、痴話のたぐいといっていい。
夜半まで、庄九郎はお万阿と床のなかで戯《たわむ》れた。年に二、三度もどってくるだけの亭主だが、戻《もど》ってきた数日というものは、世間の亭主の千夜にもあたるほどお万阿に男というものを堪能《たんのう》させてくれる。
夜半、月が出た。
枕《まくら》もとに射《さ》しこんでいる。お万阿は厠《かわや》へ立ち、そのあと庭へおりて、筧《かけい》で手をあらった。ふらり、とめまいがするほどに、体のしん《・・》がこころよく虚脱している。
寝所にもどった。
「問いわすれておりましたけれど」
と、お万阿は寝物語をはじめた。
「その斎藤左近大夫秀竜さまとやらは、どのようなご身分なのでございます」
「国主の代行者だ」
斎藤宗家は美濃の小守護(守護代)であり、土岐家の家老だが、事実上の国主といっていい。
「が、家名、家柄《いえがら》など古ぼけた世の亡霊よ。これが真っ昼間、美濃に出て美濃ではちゃんと人も怖《おそ》れるから、おかしなものだ。わしは美濃をわし好みに創《つく》りかえてやろうと思っている。その創り変えの世直しには、はじめは古い亡霊の力を借りねばならぬ。ゆえに、姓は斎藤よ」
「でも」
お万阿には、疑問がある。庄九郎が、守護職土岐頼芸の無能につけ入りその権威をかりてさまざま横道《おうどう》なことをしているが、美濃の国侍どもはおとなしくだまっているのか、ということである。
「美濃とは武強の国で、美濃衆といえば天下にひびいた強いお侍衆がいるというではございませぬか。斎藤家をお継ぎあそばされたことについても、その方々がおとなしくだまっているというのが、ふしぎでなりませぬ」
「よう見た」
庄九郎は、枕もとの酒器をひきよせた。杯に白《しろ》酒《き》を注ぎ、柏《かしわ》の葉にのせた味噌《みそ》を左手の小指でなめてから、右手で杯をもちあげて唇にふくみ、ぐっと干した。
「帰国すれば、大戦《おおいく》さがあるさ」
と、この蝮は、事もなげにいった。眼を、半眼に閉じている。
合戦の手だてを、ふと考えているらしい。
美濃では庄九郎の敵が、ひそかに戦備をととのえている。
その反庄九郎派の顔ぶれは、
国主頼芸の三人の弟――揖斐《いび》五郎光親《みつちか》、鷲《わし》巣《ず》六郎光敦《みつあつ》、土岐八郎頼香《よりよし》。
それに、斎藤一族のひとり斎藤彦九郎宗雄《むねかつ》。
らで、かれらの動員しうる国衆は、美濃八千騎の村落貴族どものうち、三百騎はまちがいなく、その動員兵力は、一騎に郎党五人ずつとみて千五百人はかたいであろう。
庄九郎は、自分の手勢、頼芸の命令に従順な国侍をふくめると、まず五千騎一万五千人はまちがいない。
あとは、中立ということになるであろう。
そこで反庄九郎派は、北方の隣国である越前王ともいうべき朝倉孝景《たかかげ》、西方の隣国の近江の六角定頼《ろっかくさだより》らにひそかに連絡し、
――蝮《・》が美濃をうばいとろうとしております。ねがわくは、わが美濃に出兵して、われらとともにかの者をお討ち取りねがいたい。
と要請した。朝倉、六角の両氏とも、
「お気の毒である」
色よく返事したのもむりはない。あわよくばこの内紛につけ入って美濃に乱入し、領地を分けどりしようとした。
越前朝倉、近江六角は、かれら同士のあいだで協議した。
ただちに美濃を分け取りできぬまでも、美濃の庄九郎を討ち倒すということは大いに意義があった。
かれらは、庄九郎によって美濃の態勢が一変し、国が富み、兵が強くなることをおそれていた。隣国の富強ほど、その国にとって不幸なことはない。
美濃を通って越前や近江へくる山伏《やまぶし》、行人《ぎょうにん》などのうちでは、庄九郎のことを、
「出頭人(にわかに立身をとげた者)ではありまするが、百年にひとり、出るか出ぬかの英傑」
とほめたたえる者もある。美濃の内紛をさいわい、出兵してうちほろぼしてしまう必要があった。
何度か、軍議がかさねられた。その情報は庄九郎の側にも入っている。
庄九郎は、斎藤左近大夫になってから、以前の軽海城《かるみじょう》、加納城のほかに、稲葉山城、別府城を所有し、かつ府城の川手城をあずかっているほか、頼芸のいる大《おお》桑《が》城にも伺《し》候《こう》して、いったいどこにいるかわからない。
「所在が転々としている男だ。いったいどの城に最も多くいるか、つきとめねばならぬ」
と、反庄九郎派は、情報あつめをはじめていた。
そのころ、庄九郎は京にゆき、京から帰ってきた。かれがひそかに京を往復しているなどは、腹心の者でも数人しか知らない。その点、平素、居所が転々としているだけに、一カ所から居なくなっても、
「では、あの城か」
と、家来さえそう思ってしまう。数カ城の城主をかねているくせに、けむりのような男であった。
庄九郎は本心、稲葉山(金華山城、のちの岐阜城)の峻嶮《しゅんけん》を大々的に修復してここを根拠地にしたいと思っていたが、ここしばらくは時期ではないとみて、ひかえていた。
京から美濃へ帰るなり、まずやったことは、
「別府城を本城にする」
ということであった。むろん本心ではなく国内の敵をあざむく手段である。
そのため、味方をもあざむき、とくに小見の方や深芳野をもあざむき、彼女らをさっさと別府城に住まわせた。
これには赤兵衛さえおどろき、
「正気でござるか」
といった。別府城は、いまの穂《ほ》積《づみ》町(岐阜市から西南二キロ)にあった城で、堀をうがち、土をかきあげて土塁をつくり、塀《へい》を一重にめぐらせただけの粗末な城館で、攻防の役にはたたない。
それに、一望見わたすかぎりの美濃平野のまんなかにあり、山城でないだけに大軍にかこまれれば半日で落ちるであろう。
敵が、包囲しやすい。
「卵のような城じゃ、敵に割られるのを待つつもりでござるか」
赤兵衛は反対し、「ぜひ山城の稲葉山城を本城とされますように」といった。
「ばかめ」
庄九郎は、笑っている。
かれの作戦計画では、別府城を囮《おとり》に、できるだけ大量の敵軍をひきつけておき、平々坦《たん》々《たん》たる野において大決戦をおこない、国外国内の敵を一挙に殲滅《せんめつ》することであった。
(好機だ)
とおもっている。
まず、募兵しなければならなかった。すぐ大桑城の頼芸のもとへゆき、
「揖斐五郎様、鷲巣六郎様、斎藤宗雄殿が、ご謀《む》反《ほん》でござりまする」
とかれらの計画を告げた。頼芸はおどろき蒼白《そうはく》になり、
「どうする」
というのみで、方策がうかばない。頭脳は庄九郎にまかせっきりというかっこうである。
「美濃一国の心ある衆にひそかに軍令をおくだしくださりませ」
と庄九郎は秘密動員を要求した。頼芸はさっそく自署の軍令状をかいた。
つぎに、いざ召集のとき、かれらが美濃平野の村々からできるだけ短時間に駈けつけてこられるように、国内二十カ所に烽火《のろし》設備をつくった。
それらの準備をおわると、庄九郎はあとは敵をまつだけの状態で別府城に入り、この城に毎日近在の地侍をよんでは、にぎやかに酒宴を催した。
「斎藤左近大夫は、別府城にあり」
ということを、内外に知らせておくためであった。庄九郎みずからが、城とともに囮になったわけである。
この年、九月。
庄九郎は京から連歌師を別府によぶことにし、すでにふた月前から国中にも布令《ふれ》ておき、
「当日、文雅の士は参集されよ」
と勧誘した。
このことは当然、揖斐五郎、鷲巣六郎らの耳に入った。
(素破《すわ》、その日は彼《か》の者、かならず別府城におるわ)
と見、越前と近江へそれぞれ密使を走らせて出兵の準備をさせた。
九月に入った。連歌興行の日は、十日である。
庄九郎は、その日を待った。
やがて、日が近づくにつれ、越前、近江に兵が動いているという諜報《ちょうほう》を得、ほどもない九日、越前兵は北国街道を南下し、近江兵は美濃街道を東進して、両街道の合する美濃関ケ原に集結した。
庄九郎はその報をきいても、別府城内でゆうゆうと碁を打っていた。
物見の報告はしきりと来るが、庄九郎は動ぜず、
「なにかの間違いだろう」
とつっぱね、なんの戦備もせず、かつ、
「五郎様、六郎様が、いかに政道に不満ありとはいえ、他国の兵を導きよせてくるような不忠はなさるまい」
と大声でいい、城内にまぎれ入っている敵方の間者の耳に入るようにした。自然、こうした庄九郎の言動は敵方につつぬけになり、
――さてはうつけ《・・・》者、油断をして籠城《ろうじょう》の支度すらせぬとみえる。
と五郎、六郎たちをよろこばせた。
いよいよ連歌興行という当日、庄九郎は城内を駈けまわってひとり支度の指揮をしていたが、はじまる寸前になって姿を掻《か》き消してしまった。
城外に出ている。
茶染めの麻衣《あさごろも》といった小百姓の姿に変え、東南へ走って稲葉山城に入り、兜《かぶと》をかぶり、具足をつけた。
が、なお烽火をあげない。
やがて、美濃、越前、近江の連合軍二万が関ケ原から移動して、別府城を押しかこんだとき、はじめて烽火をあげた。
たちまち烽火の逓伝《ていでん》は美濃平野を走り、在所々々から武者、小者がおどり出、予定どおり金華山のふもとに集結した。
庄九郎、馬上。
それらの人数のなかを駈けまわって部署し、人数がふえるごとに包囲線をのばして、ついに、別府城をかこんでいる連合軍をしずかに、しかも機敏に逆包囲してしまった。
馬《ば》鞭《べん》をあげて
歴史が、英傑を要求するときがある、ときに。――
時に、でしかない。なぜならば、英雄豪傑といった変格人は、安定した社会が必要としないからだ。むしろ、安定した秩序のなかでは百世にひとりという異常児は毒物でしかない。
が、秩序はつねに古びる。
秩序がふるび、ほころびて旧来の支配組織が担当能力をうしなったとき、その毒物が救世の薬物として翹望《ぎょうぼう》される。
庄九郎は、その毒物として美濃十数郡に頭角をあらわしつつある。ときに美濃は長良川の連年の氾濫《はんらん》と冷害、虫害などのために不作がつづき、端境《はざかい》期《き》などには地侍でさえ食うにこまるほどであった。それに隣国の尾張、近江の兵がたえず国境地方を侵《おか》し、農村を掠《かす》めては取り入れまえの作物を刈りとって自領へもって行ってしまう。
「おれが美濃を救《たす》けてやる」
と庄九郎はつねにいっている。その声は、農村に浸《し》みこみつつある。
農村、とくに庄九郎の知行地ではかれを尊崇すること神を見るようで、たれも、
斎藤様
とはよばない。かれが一時、頭をまるめたときに使った名をこのみ、
「道三《どうさん》様」
とよんでいる。なにやらそのほうが、救世主にふさわしい、ややなぞめいた響きをもっているからであろう。
庄九郎が農民にありがたがられるのもむりはない。例の長良川の大決潰《だいけっかい》のときも庄九郎は自分の知行地のうち、被害農村五カ村をかぎって年《ねん》貢《ぐ》をひと粒もとらなかった。
百姓たちは、蘇《そ》生《せい》のおもいがした。このうわさは、美濃一国の百姓にひろまり、他の地侍の支配百姓たちも、
「道三様のもとで犂鍬《すきくわ》をもちたい」
とささやきあった。
長良川決潰の翌年は冷害がおこったため庄九郎はこの年にかぎり、五公五民の年貢の率をわずか二公八民にまでひきさげた。
収穫高のうち、二割だけを庄九郎がとるのである。これでは城《しろ》普《ぶ》請《しん》もできぬばかりか、軍役《ぐんえき》もできなかった。郎党に食わせることもできず、武器をそろえることもできず、「公」である庄九郎のほうが干あがるような安い年貢だった。
「そのかわり」
と、そのとき庄九郎は農民に条件を出している。
「油は、京の山崎屋のものを買え」
と、庄九郎はぬけめがない。
それだけではない。軍役の人数の不足分をおぎなうために、無《む》足人《そくにん》というものをつくった。足が無い、つまり扶持《・・》がない。只働《ただばたら》きの兵である。
平素は農村で働いていて、城で陣貝が鳴れば犂鍬をすてて馳《は》せ参じ、足軽として働くのである。
「道三様のためなら」
というので、知行地の村々の若者はあらそって志願した。
庄九郎が、揖斐《いび》五郎、鷲《わし》巣《ず》六郎らの軍を包囲したについては、こういう出身の兵をふんだんに用いている。
さて。――
庄九郎は、五郎、六郎の軍を包囲し、その包囲陣を完成したのは、暁《あ》け方であった。
庄九郎は陣所々々を馬で駈けまわって激励し、またみずから敵前まで接近して敵情を偵《てい》察《さつ》しながら、
(殲滅《せんめつ》するか、どうか)
を決めかねていた。
このさい、戦場で根こそぎに討ちほろぼしてしまおうというのも、一策であった。
なぜならば、敵は美濃における旧支配階級を代表する頑《がん》固《こ》な連中で、かれらは打倒庄九郎の旗のもとに連合軍を組んでいる。このさいかれらの命を断ってしまえばあとの仕事がやりやすい。
反庄九郎派は、単に他国者の庄九郎がいくつかの非常手段をもって異数の立身を遂げつつあることをそねんだり憎んだりしているだけでない。
庄九郎が、美濃の旧秩序をこわす者であるということに、堪えられなかった。
まず、人材の登用である。庄九郎は門閥を考えず、百姓のなかからも有能な男をみつけるとまたたくまに士分にした。
旧勢力からいわせれば、これほど秩序破壊の行為はない。美濃および日本の中世的社会は血こそ尊いものである。支配階級の血をひいた者が支配階級になる。それでこそ秩序は維持できるのだ。
が、庄九郎は、守護職土岐頼芸の直轄領と小守護である自分の知行地にかぎってはこれを撤廃してしまったため、美濃の他領に対する影響が深刻なものとなった。
他領の百姓が動揺したのだ。
――道三様の御領内では能あれば作男《あらしこ》でも取りたてられて知行取りになる。
ということで、庄九郎の領内の者をうらやむようになり、おのれが地頭を憎んだ。
庄九郎の秩序破壊はそれだけではない。
かれはまだ断行はしていないが、かれの領内にだけ、
「楽市」
「楽座」
という自由市場をひらく準備をしているらしい。
当時は、天下のどこへ行っても、商業はいっさい許可営業制であった。専売制といってもさしつかえはない。
たとえば庄九郎の京における家業の油は大山崎八幡宮《はちまんぐう》が許可権をもっていた。漆《うるし》や蝋《ろう》は、石《いわ》清水《しみず》八幡宮である。綿は、京の三条、七条に綿座をもつ者が専売制を布《し》き、帯も京の帯《おび》問丸《といまる》と称せられる専売組合がもち、菅笠《すげがさ》は摂津の四天王寺がもっている、というぐあいで、もし勝手に販売する者があれば、その許可権(専売権)をもつ社寺その他がみずから人数を出して打ちこわしの制裁をくわえるか、将軍、地方の守護にたのんでその商品をうばい、ときには売人を殺した。
(これほど不合理なものはない)
と庄九郎は、油商人であったときからしみじみ感じていた。売上げの何割かを無条件で大山崎八幡宮におさめねばならないし、それに八幡宮から販売区域をきびしく制限されていてそれ以外では売ることができなかった。
「せめてわしが領内だけでも楽市楽座にしたい」
とかねがねいっていた。
打撃をうけるのは、諸物品の許可もとの社寺などである。
こうした旧秩序の商業機構の支配者たちはそのうわさをきいて驚き、美濃の旧勢力に頼みこみ、かれらを決起させ、打倒庄九郎の軍事行動をおこしたのが、こんどの合戦であるといえる。
かれら商業支配者たちは、主に京、摂津、奈良の社寺で、諸国の守護、豪族に対し、微妙な勢力をもっていた。
こんどの揖斐五郎、鷲巣六郎らが越前、近江といった「外国勢力」を頼んだのも、これら社寺からの側面的な働きかけもあったであろう。
要するに庄九郎の真の敵は、美濃国内の反対派地侍ではなく、すでに亡霊化しつつある中世的権威というものであった。
午後になった。
庄九郎は、合図の陣貝を吹かせ、徐々に包囲の輪をちぢめて行った。
かれの旗、旒《ふきながし》が、つよい西風にひるがえっている。
旗は、二頭波頭が黒々と染めだされていた。
寄せるときは怒《ど》濤《とう》のごとく、退《ひ》くときには声もなく、という庄九郎の戦術思想を象徴したものであった。
反庄九郎連合軍の大将揖斐五郎は、ほそい眉《まゆ》をもっている。
男には惜しいような眉であった。眼の上に朧《おぼ》ろに彎曲《わんきょく》し、かたちのいい額をかざっている。
「この眉を落したいものだ」
と、うかつに口をすべらせたことがある。
眉を落し、歯をおはぐろ《・・・・》で染め、唇《くちびる》に薄べにをさし、顔に白粉《おしろい》を刷《は》けば、それで美濃の守護職の顔ができるのである。たいていの国の守護職は、京の公卿《くげ》をまねて顔に粉黛《ふんたい》をほどこしていた。だから、「眉を落したい」という発言は重大な意味をもっていた。実兄である守護職土岐頼芸を追いおとして自分がその位置につくということである。
こんどの挙兵も、その含みがある。まず庄九郎を斃《たお》し、しかるのちに頼芸を追う。
弟の鷲巣六郎が、それをたすけている。六郎はみるからに狡猾《こうかつ》そうな容貌《ようぼう》をもった小男で、小才がきく。
――六郎、小智なり、雑兵《ぞうひょう》によし。
とかねて庄九郎があざけっていた男だ。雑兵の才覚しかない男が、名門にうまれたからといって一軍の大将になっているのが、庄九郎には腹だたしくてならない。
「弟」
と、揖斐五郎は度をうしなっていた。
「野も山も敵で満ちみちている。もはや戦さをしても詮《せん》あるまい。夜まで持ちこたえてこの場を落ちよう」
「馬鹿《ばか》な」
弟は、東を遠望した。そこに二頭波頭の油屋の旗がひるがえっている。
視線をあわただしく移して、すぐ目の前の城館を見た。
柵《さく》のむこうに申しわけ程度の堀があり、土塁が堆《うずたか》くあがり、その上に木の楯《たて》を立てならべ、古材をつかった櫓《やぐら》を組みあげてある。ひとひねりではないか。
「この城を押しつぶして城内にいるあの男の妻子をうばいとり、それを人質にし、その上で策を考えればよい」
「御曹《おんぞう》司《し》」
と、かれらと連合している斎藤彦九郎宗雄はいった。年も四十ちかく、五郎や六郎よりも老巧である。
「われらはかような小城がめあてではござらん。めざす敵は、あの旗の下にいる。越前、近江兵をこの場所に集結し、一丸となってあたれば敗けることはござらぬ。敵をひかえて無用の躊躇《ためらい》は士気をくさらすばかりでござるぞ。それに」
と言葉をついだ。
「敵は多勢とはいえ、ほとんどがあの者の知行地の百姓に長《なが》柄《え》槍《やり》をもたせただけの人数でござる。そこへゆけば御味方は打物とっては手だれぞろい、弓矢とっては精兵《せいびょう》ぞろいでござる、越前、近江の人数もいる。さあ、下知をしなされ、下知を」
されば、と五郎、六郎は陣容を決戦にむかって部署すべく、貝を吹き、鼓を鳴らし、あちこちに伝令将校《つかいばん》を走らせていそがしく掻《か》き働きはじめた。
一方、庄九郎。
馬を陣頭に立て、一軍を鎮《しず》まらせている。
(敵が動いている)
人数を一カ所に集めるつもりらしい、と見てとって、かれも下知した。
すでに敵がこう出ると見込んでいて、それぞれの物頭(隊長)に進退の合図を憶《おぼ》えさせてある。庄九郎は、烽火《のろし》をあげさせた。
すうっと一すじの黒い煙が、天にのぼった。
とみるま、庄九郎の作った包囲陣は泡《あわ》のように溶け、またたくまに遠近の諸隊があつまってきて、一団となった。
すべて、無言、無声であった。合戦の常例である貝、太鼓、鉦《かね》はこのばあい、いっさい使わせなかった。
無言の進退のほうが、敵の恐怖心理に対する効果が大きいことを庄九郎は知っている。
庄九郎の兵は、手はずどおりに動いた。それぞれが機敏に所定の部署についた。
たちまち陣ができた。鶴翼《かくよく》、という陣形である。鶴《つる》がつばさをひろげたようなかっこうになった。
かれの軍団の特色は、第一に足軽の数が多いことである。中世的な騎兵中心の戦法をかれは一擲《いってき》し、歩兵(足軽)中心とし、歩兵が騎兵の蹂躙《じゅうりん》を受けぬように槍《やり》を常識はずれの長さにし、それぞれ三間《さんげん》柄《え》をもたせた。
そのほかに、
「馬《うま》斬《き》り」
という特殊な隊を置いた。敵の騎馬武者が突っこんでくるとき、二十五人一組でいなご《・・・》のように飛びだしてゆく。手に手に六尺棒に三尺の刀をつけ、それをもって敵の馬の足を薙《な》ぎたてるのである。
「とき《・・》をあげよ」
と、庄九郎は下知した。
その合図の貝が鳴るや、美濃平野の天を突きぬけるばかりのとき《・・》の声がどよめいた。
どよめきがおわらぬうちに、
「鼓を打て」
と命ずると、太鼓が一音、地をふるわして鳴り、つづいて鼕鼕《とうとう》とひびき、諸隊、鶴翼の陣形のまま平《ひら》押《お》しに押しはじめた。
庄九郎は、中軍にある。
やがて、田を越え、松林をすぎ、一望茅《かや》の生《お》いしげった野に出た。
敵との距離は、すでに四、五十間しかない。
庄九郎は金の采配《さいはい》を振って、戦鼓を急調子に変えさせた。
一軍の足並は早くなった。さらに鼓は急調子へ。みないっせいに駈けだした。
先頭で弓組が五隊同時に草に折り敷き、矢を射はじめた。
敵の前列をくずすためであった。敵からもおびただしく矢が飛んできた。
戦鼓はますます急調子になった。
同時に庄九郎の陣から、三十騎、五十騎と騎馬武者がとび出した。それにつれて、長柄組などの足軽部隊がどっと突撃した。
敵からも、百騎、二百騎とすさまじい勢いで乗り入れてくる。
衝突した。
混戦になった。
庄九郎は、さらに騎馬隊を繰り出し、長槍隊を突撃させ、弓隊を動かして敵の側面を射させ、自在に指揮をした。
が、敵は天下に聞こえた美濃衆で、味方もまた美濃衆とはいえ、未熟な百姓が多い。
敵の一団は、十三段にかまえた庄九郎の陣を七段までやぶって突撃してきた。
「馬斬り。――」
と、命じた。
馬斬り隊がおびただしく飛びだしてきて、馬《ば》蹄《てい》の下をかいくぐりかいくぐりして、馬の脚をはらった。
落馬する敵武者をすかさず別隊が押しつつんで討ちとってしまう。
そのとき、庄九郎は、貝を三声、天にむかって吹かせた。
その合図は、敵の背後の別府城にとどき、赤兵衛の指揮のもとに城兵が柵をひらき、どっと打って出た。
敵は、背後を衝《つ》かれた。
「それ、敵は崩れるぞ。進めや」
と庄九郎はみずから槍をとり、馬を煽《あお》って中軍から前軍へ出た。
さらに敵中へ突き入った。
敵はどっと崩れた。
崩れれば、「外国兵」が入っているだけに早い。越前、近江兵は無用の戦場に命をおとすことをおそれ、北国街道にむかって逃げだした。
「追うな、逃げるにまかせよ」
といいつつ、戦場に踏みとどまった美濃兵の一団を火の出るように攻めたてた。
(美濃一国におれの怖《おそ》ろしさを知らしめるのだ)
それにはこの戦場ほど、かっこうな宣伝の機会はない。
敵の美濃衆はよく戦った。
が、なんといってもかれらも地侍の連合体にすぎず、勝負さだかならぬ切所《せっしょ》までは阿《あ》修《しゅ》羅《ら》のように荒れまわって働くが、いったん、
(敗け。――)
とわかればいちはやく在所々々の領地に逃げかえるのを習慣としていた。
敵は、一団、一団と逃げ落ち、やがて戦場を駈けまわっている数がまばらになった。
庄九郎は、いまだ、とおもったのだろう。馬腹を蹴《け》るや、ただ一騎、敵の本営にむかって駈けだした。
むかい打ってくる敵武者には、目もくれない。
駈けた。
小沼を越え、草をかすめ、まっしぐらに駈けてついに旗の群れが林立している敵本陣に駈け入るや、床几《しょうぎ》を立とうとした揖斐五郎にむかって突撃し、
「小僧、ようは推参せしぞ」
と、長鞭《ながむち》をふりあげ、
びしっ、
とその化粧《けわい》首《くび》を力まかせに打った。
わっと倒れるのを見すて、さらに手綱をしぼってトウトウと馬を後退させ、ふりむきざま、背後の鷲巣六郎の顔を、
びゅっ、
と鞭さきで切り裂いた。ぱっと鼻血がとび、その血におどろいて六郎は四つん這《ば》いになった。
旗本衆がおどろきさわぎ、槍をとりなおして庄九郎にむかおうとしたときは、庄九郎はすでに柵をとびこえ、
「お命は助けまいらせる。敵国たるべき越前、近江に通じ、その兵を国中にまねき入れたる罪は大なれども、御屋形様の御舎弟なるがゆえに、御首にはせぬ。さはさりながら」
と庄九郎は柵外で戞々《かつかつ》と輪乗りをしつつ、
「武士のおつもりならば、いますこし武《ぶ》辺《へん》を習わせられ候《そうら》え」
云《い》いおわると身を伏せ、一散に駈け去ってしまった。
庄九郎は、美濃守護職の二人の弟君を攻め殺すのは、国中の感情的世論を考えたうえでおもしろくないとおもったのであろう。
だからこそ、命がけで敵陣に突き入り、その生き首をはずかしめた。
このため、揖斐五郎、鷲巣六郎は、のちのち、
――あれほどの目にあっておめおめ生きてござるとは武士の風上にもおけぬ。
とあって、美濃一国での人気が、火の消えたように堕《お》ちてしまっている。
わが城
天文八年の三月、庄九郎は、稲葉山城(金華山城、岐阜城)の設計《なわばり》をはじめた。
設計をするには、実地踏査をしなければならない。毎日、この美濃平野にそびえている峻嶮《しゅんけん》にのぼり、山中を踏みあるき、必要なことは克明に記帳した。
いつも、素っ裸である。手甲脚絆《てっこうきゃはん》をつけあとはふんどし一つ。
そのすがたで、古木鬱然《うつぜん》たる林中を飛ぶようにして駈け、ときには谷へとびおり、ときには岩壁をよじのぼった。
この山で暮らす樵夫《きこり》のあいだで、
「ちかごろ天《てん》狗《ぐ》が舞いおりて、棲《す》んでいる」
といううわさが出たほどであった。事実、庄九郎は、美濃の国に舞いおりたいっぴきの天狗であることにはまちがいない。
やがて、踏査がおわると、設計図をかきはじめた。やりはじめてみると、ひどく楽しかった。
(わしには意外な才があるな)
と自分でもおどろくほど、奇想がつぎつぎと湧《わ》いてくる。人生、自分の才能を発見するほどの愉悦はない。
登山路は二本しか作らない。頂上の古塁を打ちこわして三層の本丸を築き、峰々に出《で》丸《まる》を築いて死角をなからしめ、それらは尾根道をもって連結し、谷は切り落しのままにしておく。
日を経るに従って構想はいよいよふくれあがり、絵図が何枚もできた。
「赤兵衛、みろ」
と山川を着色した図面を見せてやると、赤兵衛は声をのんだ。この男は、山陽道、畿《き》内《ない》、美濃、尾張、三河の城ならたいてい見ている。それがおどろいたのである。
「これは、城でござるか」
「なにに見える」
「はっははは、絵空ごとにみえる。唐土《から》の絵のようでありまするな」
「なるほど」
ひとつには、当時の城はほとんどわら《・・》屋根であるのにこの図面の城は、本城もやぐら《・・・》も出丸もみな銀色に焼きしめた瓦《かわら》をつかっているからであろう。
それに、本城と出丸、砦《とりで》などが、それぞれ孤立せず、場所によっては塗り籠《ご》めの武者走りで連結し、場所によっては巨材を組んだ柵《さく》をもって連結し、あたかも山そのものが一つの城になりおおせている。
「こういう城は見たこともござらぬな」
「わしもだ」
庄九郎は、苦笑した。
「殿の夢ではござりませぬかな」
「あたりまえだ。夢も見られぬようなやつにろくなやつはない。いますぐ実現できずともおいおい築きあげてゆく」
「とにかく」
赤兵衛は、息を吸いこんだ。
「天下第一の巨城でありまするなあ」
赤兵衛の歎声《たんせい》はけっして大げさではない。当時の城といえば、国主の居城でも館《やかた》といったほうが正確であった。普通、石垣《いしがき》もなく、堀を掘った土をかきあげた土居と柵程度の設備がかろうじて外敵をふせいでいるにすぎず、建物も多くは平屋であった。
庄九郎が山上に作っている本城は、楼または閣とよぶべき建物である。それだけでも天下の耳《じ》目《もく》をおどろかすだけのことはある。
「しかしこれを築く財がござるか」
「なんとかなる」
「はて?」
赤兵衛はくびをかしげた。
「あっははは、案ずるな」
庄九郎には成算があった。
とにかく、大要塞《だいようさい》をつくることが先決である。庄九郎は、美濃小守護斎藤秀竜《ひでたつ》になったといっても、いわば土岐家の家老にすぎず、国内的には美濃地侍団の一代表にすぎない。
その一地侍が、守護職も所持していないような巨城をつくろうというのである。
当然、――
「分《ぶん》に過ぎた僭上者《せんじょうもの》」
という悪評を買うだろうが、そういう蔭口《かげぐち》は言いたいやつに言わせておけというのがこの男の流儀であった。
作ってしまえば、こちらのものである。巨城を背景にすれば、国中への発言権はいままでとはくらべものにならぬほど大きいものになるであろう。
――要は力だ。
かねがねおもっている。庄九郎は徹頭徹尾力の信者であった。
(しかし)
こまったことがある。この設計をやれるだけの工匠が居るかどうか。
「赤兵衛、大工がおらぬな」
「それそれ、ご覧《ろう》じろ。じゃによって赤兵衛は、夢じゃ夢じゃと申しまする」
「愚人にとっては常に夢よ、偉大な設計というものは、――」
「おや、この赤兵衛が愚人でござるかな」
「鏡をみて考えてみろ。鼻が赤く、唇《くちびる》がたれている。利口者のつら《・・》か」
「申されることよ」
赤兵衛は泣き笑いした。この男は、いまでは斎藤家のお伽衆《とぎしゅう》(話し相手)の筆頭として、家臣団ではいい顔なのである。
さて、庄九郎は大工をさがした。たまたま耳次が、いいことを聞きこんできた。
「隣国の尾張におりまするげな」
というのだ。
尾張熱《あつ》田《た》大神宮の宮大工で、岡部又右衛門という人物である。まだ若いが、神社仏閣などの規《き》矩術《くじゅつ》にかけては天才的であるという。
「そういう評判か」
「しかし、難でござりまするな。隣国の尾張者でありまするゆえ、遠国《おんごく》ならともかく、仲のわるいこの美濃には来ることができますまい。もし美濃で築城する、などということがわかれば、織田信秀殿に打ち殺されてしまいましょう。殺されずとも、意をふくめられて新城の秘密を織田家に通じられれば、なにもかもしまいでござりまする」
「耳次、城に秘密などはないわ。あれは俗説よ。名将がまもれば土の掻《か》きあげ一《ひと》重《え》の砦も名城となり、愚将がまもれば金城湯《とう》池《ち》も一日で陥《お》ちる。城とはそんなものだ。城が戦うのではなく、人が戦うのだ」
「ではなぜ築城なさいます」
「馬鹿どもへのこけおどし《・・・・・》よ」
「ははあ」
それ以上は、耳次にはわからない。
とにかく、尾張の岡部又右衛門が来るものかどうか。
(使いを差し立てたところで、ことわられるだけだろう)
そう思い、庄九郎は単身、油売りに変装して尾張に出むいてみることにした。この男の身軽さは、いまもむかしもかわらない。
庄九郎は夜陰ひそかに加納城を出、美濃境の木曾《きそ》川《がわ》をこえて尾張に入った。
黒の油じみた頭《ず》巾《きん》に柿色《かきいろ》の麻服、下はくくり袴《ばかま》といったいでたちで、天秤棒《てんびんぼう》の前後に二荷の油桶《あぶらおけ》をつるし、馴《な》れた腰つきで村々を歩いてゆく。
「油は要らんかのう、大山崎のご神油《しんゆう》」
かつぎながら、よく光る眼が、村々の様子や道路の状態などを脳裏にやきつけようとしている。将来この国に攻め入るときにかならず役だつであろう。
泊りを重ねて、熱田に入った。なるほど伊勢、出雲《いずも》に次ぐ大神宮だけに神域が途方もなく大きい。
が、神域の森に足をふみ入れてみると、摂《せっ》社《しゃ》や末社《まっしゃ》の多くが腐朽して崩れおち、諸門や拝殿の屋根に春草がはびこって、極度に疲弊していることがわかった。この神宮をささえていた神領が、諸方の豪族に押し奪《と》られて修復する費用もないのであろう。
庄九郎は春敲門《しゅんこうもん》から入り、林間を縫いながら下馬《げば》鳥《とり》居《い》に出、御手洗《みたらし》川《がわ》にかかっている下馬橋をわたった。
渡れば、十軒ばかり宿坊がならんでいる。そのはしに、知行取りの住いをおもわせる構えの屋敷があり、そこが岡部又右衛門の家だとわかった。
門があいている。入ると、朽ちたわら《・・》ぶきの平屋があり、その横が菜園になっている。まだ若い男が、鍬《くわ》をもっていた。
こちらを見た。ひどく怜《れい》悧《り》な目をもっている。庄九郎は一瞥《いちべつ》してその男が岡部又右衛門であることを知った。
服装も、まずしい。神宮の疲弊とともにこういう工匠も仕事がなく、窮迫しきっているのであろう。
「岡部又右衛門殿でありまするな」
と庄九郎は親しげな微笑をうかべつつ寄って行った。
「そうだが。――」
と又右衛門も微笑した。庄九郎の人懐《ひとなつ》っこい笑顔につりこまれたのか、それとも人ずれせぬ工匠気質《かたぎ》がそうさせるのか、又右衛門ははじめから警戒心をなくしている。
「手前は、山城《やましろ》国大山崎の神《じ》人《にん》でござりまする」
辞《じ》こそ低いが、べつに頭もさげず、畑のふちにゆっくりと腰をおろした。よく見ればただの油神人でないことがわかるはずだが、又右衛門は頓着《とんじゃく》がない。
「油か、無用なことだな。ごらんのとおりの暮らしだ。油などは買えもせず、陽《ひ》が入るとあわてて寝、陽が出ると抜け目なく寝床から這《は》い出ている」
庄九郎は、にこにこしてかぶり《・・・》をふった。
「その油をさしあげに参ったのです。あの桶に入っているのは売れ残りでしかありませぬが、それでもひと月ほどの夜を照らしましょう。みな差しあげます」
「ほう、親切だな。呉れるのか」
よほどうれしかったらしく、桶のそばに駈け寄ってふたをあけ、
「いい油だ。顔がうつっている」
と、子供のようにはしゃいだ。そういう又右衛門の子供っぽさを庄九郎は気に入った。おそらく仕事となると子供のように夢中になるたちであろう。
「内儀はおわしますのかな」
「逃げたわ。わしが旅に出る。何月も帰らない。家には食い扶持《ぶち》もない。これではどんな女でも逃げだす、と人が言うた」
「はて、旅とは?」
「京や奈良の建物を見てあるくのよ。それだけがわしらの目の肥《こや》しだ」
「ところで」
庄九郎は、ふところから例の自筆の絵図面をとりだして、畑の上にひろげた。
「なんだ、それは」
と、又右衛門は寄ってきてのぞきこんだ。ながめているうちに、目が光ってきた。息をつめて、身じろぎもしない。やがて、目をあげ、庄九郎の顔をのぞきこんだ。
「これは、唐土《から》の山城か。どこで手に入れられた。みごとなものだ。唐土は唐土でも、どこの山であろう。羽があれば飛んで行ってこの目で見たいものだ」
「飛んで行かずとも、見ることができる」
「えっ、どこにある」
「どこにもない。いまから作るのだ。それもそなたとわしとの手でつくる」
「どこに作る」
と、又右衛門は、細めた目を、虚《こ》空《くう》にただよわせた、夢を見ている。現実、目の前の男が何者と疑うよりも、又右衛門は絵図の衝撃で、無邪気な夢のなかに入ってしまった。
「隣国の美濃よ。井ノ口(岐阜の旧称)の稲葉山に作ろうというのだ」
「ふむ?」
又右衛門は、自分の鼻をぱちんと指ではじいた。酢を飲んだような、変な顔になっている。やっと、現実にもどったらしい。
「油売り。そなたは、何者だ。名もきかなかった」
「岡部又右衛門」
庄九郎は、又右衛門の肩をたたいた。
「そなたを見こんで、はるばる国境いを越えてやってきた。この尾張でわしの身分が露《あら》われれば、命が百あっても足りぬ。いわば、命を賭《か》けてやってきた。そなたに惚《ほ》れこんだればこそだ。この気持、わかってもらえぬならば、名は明かさぬ。ただちにこの絵図を巻き、名もなき油売りとして去る。どうだ」
「巻くのは待て」
と、又右衛門は両掌《りょうて》で絵図面をおさえた。子供のようなしぐさである。
「木曾川を越えてきた気持、わかってくれるか」
「わからいでか」
鼻を撫《な》でた。顔がまた夢の中のひとになった。妙な男である。
「おれも工匠だ。よき仕事のみがおれの相手で、願主がたれであろうとかまわぬ。地獄の閻《えん》魔《ま》大王が閻魔堂を建てろといってやってきても、おれは建ててやる」
「それでこそ工匠だ」
庄九郎は、腰の瓢箪《ひさご》をとりだした、酒が入っている。
「飲むか」
「好物だ。が、陽が落ちはじめている。これなるあばらやのなかに入り、おぬしが呉れた油で灯をともし、あかあかと闇《やみ》をはらって酒《うた》宴《げ》をしよう」
と又右衛門が勇んで立ったのは、この油売りが何者であれ、自分に似たものを庄九郎の中に発見したのであろう。
「よき友を得た」
と足の裏の土をはらって縁にあがり、庄九郎を招じ入れるために、重々しく蔀《しとみ》をあげた。
やがて、酒宴をはじめた。ふたりのひざの前にころがっている肴《さかな》は、庄九郎がふところに用意してきた干魚である。香ばしくあぶられている。
「神人殿。しかしおぬしはどこからみても、油売りの神人だな」
「そうさ。これでもむかしは、街道を歩いては油を売ってまわっていた」
「あっ、それでは」
と、岡部又右衛門は身をのりだした。いかにこの男が世間知らずでも、隣国の美濃の小守護様が、むかしは油売りだったという奇話は聞きおよんでいる。
「しかし、……まさか」
と、又右衛門は庄九郎の顔をじっと見た。
「そう、見つめるな」
庄九郎は、この男にしてはめずらしく照れた。相手の目が、あまりにあけっぴろげな好奇心にあふれていたからだ。
「まさか」
「いや、そのまさかの人間だ。斎藤秀竜という。見知りおかれたい」
「こ、これは、不調法つかまつった」
と、又右衛門が居ずまいをただそうとするのを、庄九郎はおさえた。
「おぬしは天下の岡部又右衛門ではないか。たかが一国の小守護が来たからといって、居ずまいをただす必要はない。わしは一代で死ぬ。おぬしの仕事は百世に残る。どちらが上か」
「さ、さいとうさま」
と、又右衛門はこの一言で参ったようであった。むりもなかった。たれがいままで、この無名の若い工匠に「天下の岡部又右衛門」といってくれたか。
「あ、あぶら売りどの。わしはいままで感激薄く生きてきた。いまお前様がわしひとりをめあてに、命がけで尾張に忍び参られ、しかも天下の、と申してくだされた。もはやこれだけで命も要らぬ。この絵図はお前様の城か。いや、そうであろう。わしは即夜、尾張を逃《ちょう》散《さん》して美濃へ行ってもよい。能のあるかぎりを出して手伝いまする」
「ありがたい」
と、庄九郎は絵図に灯を近づけ、「物足らぬところはないか」とたずねた。
「ある」
又右衛門は、山頂の西北麓《せいほくろく》につき出た高地を指でたたいた。そこに美濃では有数の古社といわれる伊奈《いな》波明神《ばみょうじん》の社殿がある。
「これは、目ざわりだな」
と、又右衛門はいった。
「ああ、なるほど、北に大手門を設けるとすると目ざわりでもあり、要害もわるい。さればさっそく移そう」
余人がきけば、神威のおそろしさも知らぬ、と慄《ふる》えあがるような会話だが、二人は城作りの設計に夢中になってそれどころではないらしい。もっとも神仏などは人間の臆病《おくびょう》につけ入るものだ。この二ひきの鬼にかかっては、神のほうからへきえき《・・・・》して避けるかもしれない。
のち、庄九郎は伊奈波明神の神域を当時の井《い》ノ口洞《くちほら》(現在の岐阜市内伊奈波町)に移して壮麗な社殿を営んでいる。
工匠の岡部又右衛門はその後、美濃に居つき、庄九郎の建築はほとんどかれの手でおこなわれた。
たとえば、庄九郎は、又右衛門に美濃可児《かに》郡兼山《かねやま》の烏峰《からすみね》に、一城を建てさせた。
この城は後年、犬山に移され、その遺構はいま日本ラインの犬山城天守閣として残っている。
「百世に残る」
と庄九郎のいったことばは、あたったわけである。
なお、岡部又右衛門は、庄九郎の築城術を知っているということで、後年、信長の安《あ》土《ずち》城をも建てた。修辞ではなく、天下の岡部又右衛門になったわけである。
木《この》下《した》闇《やみ》
庄九郎は、注意ぶかく暮らしている。五感を研《と》ぎすましていささかの変化も見おとすまいとしていた。そういう日常のなかから、
(面妖《おか》しい。――)
とおもうことが、ちかごろ多い。
日に一度は、小さいながらも「異変」があるのだ。たとえば、筆の一件である。
このころになると、庄九郎は、すでに稲葉山山麓《さんろく》で工事中の新邸にすんでいた。山上の城《しろ》普《ぶ》請《しん》は工匠岡部又右衛門の努力で予定以上に進んでおり、この山麓の屋敷もほぼ完成し、いまは庭造りだけを残すのみになっている。
ついでだからいうが、庄九郎こと斎藤道三の作った稲葉山の居館は、いまはあとかたも残っていないが、この男のもっている芸術的能力をかたむけつくしたものといっていい。庭園はいわゆる東山式である。室町《むろまち》将軍がいとなんだという京の金閣、銀閣などの庭園をおもえばほぼ想像できるであろう。
すでに築山《つきやま》もでき、池も掘られ、庭木の大部分も植えこみをおわっている。
庄九郎は、知行地の村々に城館をいくつかもっている。そのおもなものは加納城、別府城、それにこの稲葉山城下の城館だが、夜はその城館のいずれかに寝ているために、所在がわからない。日没後は、居所をくらましているといっていいであろう。
昼は、たいてい、この稲葉山麓のあたらしい屋敷にいた。書院で書きものなどをしながら、障子越しに庭づくりの指揮をしているのである。
書院の窓ぎわに、硯《すずり》がおいてある。ある日筆をとりあげてから、
(………?)
と、くびをかしげた。やがて、
「赤兵衛、いるか」
と呼び、「台所にそう申せ、膾《なます》の残りでもあればこれへもって来るように」といった。
ほどなく赤兵衛が皿《さら》の上にその品をととのえて、運んできた。鯉《こい》の膾である。
庄九郎は左手で箸《はし》をもち、膾のひときれをつまみあげ、筆に墨はつけずに、くねくねとなにやら文字のようなものを書いた。
「ほほう」
赤兵衛には庄九郎の遊び《・・》の意味がわからないが、赤銅色《あかがねいろ》の顔をしゃくらせて感心している。膾の一片にかいた文字は、
南《な》無妙法蓮華経《むみょうほうれんげきょう》
という日蓮《にちれん》ばりのひげ文字であった。
「なんのおまじないでござる」
「落書きよ」
と庄九郎はねむそうにまぶたを垂れて答え、その箸でつまんだ一片を、
ぽい
と庭へ投げた。
膾が飛び、やがて、椿《つばき》の樹《き》の下にうずくまっていた三毛《みけ》猫《ねこ》の鼻さきへ、ぽとりと落ちた。
猫は、四肢《しし》をはねてとびついた。
赤兵衛はそれを見ている。と、すぐ、のど奥から叫び声を出した。
猫が死んだ。
「と、との。猫が……」
「死んだろう」
と庄九郎はそのほうを見ず、筆のさきをじっと見つめている。毒が塗られているのである。
塗った者は、庄九郎が、文字を書くとき筆さきを噛《か》みほぐし唾《つば》で毛《け》尖《さき》をそろえる奇癖のあるのを知っていたのであろう。
「猫が。――」
と、赤兵衛はまだ昂奮《こうふん》がさめないらしく、口のなかでぶつぶついっている。むりもない。猫は、深《み》芳《よし》野《の》がわが子のように可愛がっていることを赤兵衛は知っているのだ。
「殿、猫が」
「わかっている。死んだ、な」
庄九郎は物思いにふけっていた。
「どうなされまする。あれは深芳野様のご愛《あい》猫《びょう》でござりまするぞ」
「案じずともよい。法華経のお題目を書きしたためておいたゆえ、いまごろは極楽の蓮《はちす》の上であの猫はねむっている。――もっとも」
「もっとも?」
「事と次第によっては、あの猫のかわりにわしが蓮の上にねむっているところだった」
「さ、さては」
「そうよ、毒よ」
と、庄九郎は、顔をあげた。おどろくほど明るい表情をしていた。
「な、なに者が左様なことをしたのでござりまする」
「いま考えている」
「心あたりがござりまするか」
「あっははは、馬鹿《ばか》め」
と、庄九郎は、筆をすてた。
「心あたりの者が多すぎて、考えるだけでも頭がくらくらするほどだ」
「これはごもっともで」
赤兵衛も、つい吊《つ》りこまれて笑った。この庄九郎を亡《な》き者にしたい、と思い鬱《うっ》している者は、美濃一国に充満しているであろう。
異変は、それだけではない。
別府城の奥で寝たときである。夜中、ふと眼ざめ、醒《さ》めるとすぐ佩刀《はいとう》をつかみ、はねあがると同時に刀を抜き、うむっと斬《き》りさげた。唐紙を、である。袈裟《けさ》に九尺ばかり斬った。手ごたえはない。
「曲者《くせもの》」
とも庄九郎は叫ばない。
無言のまま体を跳躍させ、斬ったその破れ目からそとへ飛び出し、足をあげて蔀戸《しとみど》を蹴《け》りあげた。戸がはねあがったすきまから、風のようにぬけ出し、真暗な庭にとびおりた。駈《か》けた。
こういう場合、庄九郎は頭をつかわない。頭脳というものがいかに感覚をにぶらせるものかを知っている。すべて、かん《・・》である。かんの命ずるまま、反射的に跳ねあがり、右ひだりに駈け、跳びあがり、刀をぬき、斬り、飛びさがる。
そのかん《・・》で駈けている。
庭の東南のすみに、石組みがむらがって立っている。そこまで駈け寄るや、
「むっ」
と力まかせに斬り下ろした。
ぱっと火花がとび、石が割れた。石片が四方に飛んだ。その飛び散った石片と一緒に、一個の人影も虚《こ》空《くう》に散った。
ふわり、と塀《へい》の上へとびあがって、庄九郎を見おろしている様子である。
「何者だ」
と、庄九郎が低声《こごえ》で問いかけると、曲者はしばらく考えていたが、自分の名を誇示したい慾求をおさえかねたのであろう。
「木下闇《このしたやみ》という者さ」
と、つぶやくようにいった。
(どうせ、伊賀者か甲賀者かのあだなだ)
と庄九郎はおもって気にもとめず、耳次にそのような忍びがいるかどうか、調べることだけは命じておいた。庄九郎は忍びよりも、それを送りこんだ者に関心がある。
「それがわかれば、世話はないさ」
と、ある夜、稲葉山山麓の居館の奥で、深芳野のひざを枕《まくら》にしながら、いった。
「やはり、わかりませぬか」
と、深芳野はすっかりおびえている。というのは、彼女の居間でさえ、ほんのわずかの時間、空けておいても、そのあいだに人が忍んでいたらしい形跡が残されている。泥《どろ》、朽《くち》葉《ば》、ねずみの死体、男の下帯といったもので、どうやらいやがらせであるらしい。
「深芳野、案ずることはない。相手はそなたの命を取りはせぬ。ほしいのはおれの命よ」
と、庄九郎はわらったが、顔を笑《え》み崩しているあいだでも、耳だけはとぎすませている。
「しかし。……」
と庄九郎は考えている。忍びの傭《やと》い手は、美濃ではないかもしれない。
(京あたりから差しまわされてきた者か)
と考えた。なるほどそう思ってみると、庄九郎がいまやっている「事業」のなかでもっともひとに恨まれているのは、
「楽市」
「楽座」
であった。
かれは稲葉山の山上に城を営み、山麓に居館を建てただけではない。諸国のどの支配者もやったことのない、
「専売制の撤廃」
というものを、かれの城下に限って断行したのである。
城下を、商業都市にするつもりであった。そのために、商人宿を何軒も建て、遠国から売りこみ、買い入れにやってくる商人の便宜をはからった。
何度も「余談」としてのべたが、このころの商業というのは、物品のことごとくが、その販売を奈良、京都などの社寺や「座」におさえられ、勝手に売った者は、罰せられる。
罰する者は、国主である。つまり、社寺や座(同業組合)が、もはや形骸《けいがい》化している室町幕府に訴え出、幕府から国主に通牒《つうちょう》がまわって、国主が警察力を発動する、――というものであったが、庄九郎のころにはすでにそういうふるい秩序の力がなくなり、座みずからが直接制裁を加えるために武装して打ちこわしに行くことが多い。
要するに、座、という中世的商業組織は、国々の中世的支配者である守護職(国主)を保護者としてたよっているのだが、そのどちらの権威も古びきってしまっている。
庄九郎は、身分が美濃の守護代であるにもかかわらず、みずから裏切って、そういう商業機構の破壊者になった。
当然、制裁がくる。
品目も多い。
塩、綿、漆、紙、油、干魚、銅、絹糸、黒《くろ》布《ぬの》、菅笠《すげがさ》など指折れば十や二十ではきかないほどに多い。その一品《ひとしな》々々の背景には、「座」の権威がひかえている。ところが、かれらにとっても、相手がわるい。相手は、取り締まるべきはずの美濃の守護代なのである。「斎藤秀竜」は、強大な軍事力をもっている。
だからこそ、浮浪の刺客などを傭って放ったのであろう。
「なるほど、そうかえ」
と、庄九郎がつぶやいたのを、深芳野がききとがめた。
「いやさ、わからぬがな、ただ、大名地頭なら、たとえば戦場《いくさば》に立つとき先祖重代の緋縅《ひおどし》の大鎧《おおよろい》でも着、華やかに名乗りをあげておのれの綺羅《きら》をかざりたいという侍根性がある。乱《らっ》破《ぱ》水《すっ》破《ぱ》など人外《じんがい》の者を使って闇々《やみやみ》のうちに討ち取ろうなどということはすまい。ああいう者を使うのは、寺院か社《やしろ》の者であろう」
庄九郎は、大山崎油神人の仕組み、気質をもっともよく知っている。事が利害に関するどころか、こういう傾向がひろまっては、かれらの存亡にかかわるために、その恨みと復《ふく》讐《しゅう》、さらに妨害は、一筋縄《ひとすじなわ》でゆくまい。
「すると?」
深芳野にもぴんときた。庄九郎が断行した楽市楽座のさわぎは、深窓にいる彼女の耳にさえ入っている。
「そうさ、楽市楽座のことよ」
「あのようなことをなさらねばよろしゅうございましたのに」
「そうはいかぬ」
と、庄九郎は明るい声でいった。
「楽市楽座をやらねば、このような田舎城の城下は繁昌《はんじょう》せぬ。繁昌せねば、運上《うんじょう》(商工業税)がとれぬ。わしはこの山麓の屋敷と山上の城の普《ふ》請代《しんしろ》は、楽市楽座でかせぎ出すつもりよ」
「まあ」
深芳野は、気味わるそうに庄九郎を見た。考えもおよばぬことを、このあきんどあがりの侍はやるようである。商業の利益で城をたてたという話は、古今きいたこともないではないか。
「あっははは、刺客などにおびえて、いったんやりかけたことをやめられるか」
「神罰が、こわくございませぬか」
といったのは、たとえば蝋《ろう》を勝手に売ると八幡大《はちまんだい》菩《ぼ》薩《さつ》の神罰があたる、などというえたいの知れぬ迷信がずいぶん古くから民間に沁《し》みとおっている。蝋の営業許可権は、京の北野の北野天神の神人がもっているわけで、そういう商業秩序を無視する無法商人に対するおどしのための迷信であろう。
「なるほど、この城下で売られている品物は二十種類を越えるだろう。その一品々々に、神や仏がついている。罰があたるとすれば体がいくつあっても足るまいな」
やがて、城下で、流言がひろまった。
――斎藤さまは、楽市楽座のため、神罰、仏罰こもごも至って、ほどなく頓《とん》死《し》なさるにちがいない。
というものであった。
「なんの」
庄九郎は取りあわなかった。
「木下闇の手下共が苦心してひろめているのにちがいない」
そのうち、あれほど頻発《ひんぱつ》した異変が、ぱったりなくなった。
(神罰、仏罰のほうも、根《こん》くたびれしたか)
と、庄九郎はおもい、さすがに吻《ほっ》とするおもいもした。
冬がすぎて、春になった。
春になれば、百姓どもが冬仕事で作った菅《すげ》座《ざ》などの商品がどっと稲葉城下の楽市にあつまってきて、毎日、祭礼のようなにぎわいをみせた。
そのころ、京の山崎屋の杉丸から急飛脚がきて、
「夜盗が入り、御料人さまが連れ去られました」
という。しかも、京の市中には流《る》説《せつ》がおこなわれ、「山崎屋の主人は美濃で御禁制をやぶったため神罰がくだり、その妻が神隠しに遭った」といううわさが、しきりにささやかれているという。
これには、さすがの庄九郎も顔から血の気がひくほどに蒼《あお》ざめた。
(お万阿に復讐《あだ》をしたか)
世間への見せしめの効果は、おなじであるといっていい。
「赤兵衛、留守をせい」
と、庄九郎はその夜、赤兵衛にいいふくめた。
「わしが美濃にいるが如《ごと》くにしろ。わしが美濃におらぬ、とわかると、国中の恨みをもつ者が蜂《ほう》起《き》して、城を奪《と》りにくる」
「殿、お万阿さまの捜索にゆかれるのでございますか。それならば、屈強の者をおつかわしなされませ」
「わしがゆく」
と、庄九郎はきかない。
「しかし。――」
赤兵衛は、口ごもった。この庄九郎という人間に、いまだにわからない点があるのだ。
(お万阿様を、いわば半ば捨てて美濃へ来たくせに、なお愛憐《あいれん》があるのか)
と、ふしぎな思いがした。
「なんという表情《かお》をしておる」
「法蓮房《ほうれんぼう》さま」
と、赤兵衛は、わざと昔の名前でよんだ。
「どうやら、本当に惚《ほ》れていなさるのは、お万阿御料人さまのようでござるな」
「わるいかね」
と、庄九郎は、畳の上で脚絆《きゃはん》を締め、わらじをはいていた。装束は、わざと旅汚れた牢《ろう》人者《にんもの》の風体《ふうてい》に変えている。
「なにもわるいと申しているのではござりませぬが、あなた様らしくもござりませぬ」
「すると、なにかね。お万阿を見殺しにするのが、わしらしいというのか」
「まあね」
と、赤兵衛は、媚《こ》びるような笑いをうかべ、いかにも庄九郎の人間を知りぬいた仲間面《づら》でうなずいた。
「赤兵衛、もう一度いってみろ」
「まあね」
と、その表情でうなずいたとき、その横っ面を庄九郎が拳《こぶし》をかためて、力まかせになぐりつけた。
「あっ」
と、赤兵衛は二、三間すっ飛んで倒れた。
「赤兵衛、おのれは、所詮《しょせん》は悪党だな」
「あっ、それはお前様も」
と、赤兵衛は泣きそうになって、庄九郎を指さした。
「おれが悪党?」
庄九郎は意外な顔をした。
「そうみえるなら、不徳のいたりだ。人間、善人とか悪人とかいわれるような奴《やつ》におれはなりたくない。善悪を超絶したもう一段上の自《じ》然法《ねんほう》爾《に》のなかにおれの精神は住んでおるつもりだ」
「自然法爾のなかに。――」
赤兵衛も寺男だっただけに、そういう哲学用語はききかじっている。宇宙万物の動いている根本のすがた、といったような意味である。真理といってもいい。真理はつねに善悪を超絶したものである。
「そういうわしを、ただの悪党にまで引きさげるとは、おのれも眼のないやつだ」
「ただの悪党でございますからな」
と赤兵衛は拗《す》ね、
「すると、いまから京へお万阿様をさがしに参られるのも、自然法爾で?」
「あたりまえだ。わしはお万阿を愛《かな》しくおもっている。連れ去られた、ときいて、その愛しみで血も狂うばかりになっている。助けてやりたいと思った。それで、救《たす》けにゆく。わが心に素直に従っている。それだけのことだ。赤兵衛」
「へ、へい」
「おのれが危難に遭っても、わしは死を賭《と》して救ってやるぞ」
「それも、自然法爾で」
赤兵衛が問いかえしたときには、部屋からすでに庄九郎の姿が消えていた。
一剣、数珠《じゅず》丸《まる》を背負って、闇《やみ》のなかの街道を京にむかって駈けた。たった一人、供はつれている。
耳次である。
二条の館
京への街道は、雨に濡《ぬ》れている。
大津ではすでに、黄昏《たそが》れていた。山科《やましな》で、夜になった。蹴《け》上《あげ》の坂をだらだらとおりて粟《あわ》田《た》口《ぐち》に入ったとき、京の灯《ひ》がみえた。
(やはり京はいい)
灯《ともしび》さえ、鄙《ひな》とはちがって婉《えん》である。庄九郎は、灯を見ながら、いつ、この都に旗を樹《た》てるときがくるか、とおもった。
(男ならば、都のぬしになりたい)
鴨川《かもがわ》の板橋を渡った。
「耳次」
と、板橋のはしで、庄九郎は足をとめた。河原《かわら》の闇《やみ》を見おろしている。
「わしと喧《けん》嘩《か》をしろ」
「えっ」
「斬《き》って来い。力まかせに、太刀を打って打って打ちまくって来い」
「と、申しまするのは?」
耳次は、哀《かな》しげにささやいた。いつものことながら、この主人の頭の回転についてゆけないのである。
「そちはあぶれ者の群れに投ずるのだ。投じて、数日暮らせ。しかるのち、様子をさぐる。ちかごろの京では、夜盗、押し込み、打ちこわしの輩《やから》は、都のどこどこに巣をなして群れているか、と」
お万阿は、そのあぶれ者どものどの巣かに連れこまれているはずだ、と庄九郎はみていた。東《とう》寺《じ》界わいか、羅生門《らしょうもん》の門のあとか、それとも郊外へ行って西ノ京か、鷹《たか》ケ峰《みね》か雲ケ畑か、あるいは案外この足もとの河原の小屋か。
悪党の地図は、悪党の仲間に入らないとわからない。
(さればこそ)
と耳次はやっと合点がゆき、身を沈めるや、
「やあ、ここな牢人《ろうにん》。よくもわしを盗人よばわりしさらしたな。わしは備前弥太と申す野《の》伏《ぶせり》じゃ、成敗してくれるわ」
意外な太刀風で、打ちかかった。庄九郎、抜き打ちに耳次の太刀を、
戞《か》っ
と打ちはらい、
「猛《たけ》だけしや、盗賊」
びしっ、びしっと斬り込んでゆく。それを受けながら耳次は閉口した。つかを持つ手がしびれるほどの撃ちである。
「殿、八《や》百長《おちょう》でござるぞ」
と小声でたのんでみたが、庄九郎は真剣な形相《ぎょうそう》をし、板橋が、ずしずしと揺れるほどに踏みこんでくる。もともとこれがこの男の天性で、撃ち合いとなれば斬る寸前まで正気でやる男なのである。世間を相手に大芝居を打つほどの男は、なまなかな俳優《わざおぎ》の足もとにもよれぬほどの演技力があるのであろう。江戸時代の流行画家谷文晁《ぶんちょう》に、辞世の歌がある。
――ながき世を化けおほせたる古狸《ふるだぬき》
尾さきをな見せそ山の端《は》の月
その芸術だけの価値ではとても現世で流行するものではないらしい。売名の天才だった文晁は、さまざまな手で自分の芸術を世に売り、栄えさせ、画商、門人多数に看取《みと》られながら繁栄のなかで死んだ。死ぬ瞬間でさえ、
「いやいやまだ尻尾《しっぽ》は出せぬぞ、山の端の月」
とぺろりと舌を半分出しかけてあわててひっこめている。俗世間の達人といっていい。
しかし文晁とてもたかが芸術家である。おなじ「世間芸」をする役者でも、庄九郎にはとてもおよばないであろう。
小さな「芸」でも、真剣さがちがう。庄九郎はいま、耳次をなかば殺しかけていた。いや、殺す殺さぬまでも、耳次はもう、庄九郎の太刀のすさまじさに、気死《きし》しかけている。
最後に一刀呉れるや、
戞っ
と、耳次の太刀が物打のあたりから真二つに折れ、天空に飛び、河原におちた。
そのころ、橋の下ではあぶれ者がわらわらとあつまってきて、口々に叫びながら橋上の喧嘩をみている。
「こいつ。――」
庄九郎は足をあげて、耳次の腰を蹴《け》った。あっと耳次が虚《こ》空《くう》に素っとび、水音すさまじく流れにおちてしまった。
ぱちり、と太刀をおさめ、庄九郎は雨の中をすたすたとゆく。一寸さきも見えぬ闇だがこの男には多少眼が利《き》くらしい。化生《けしょう》か、――と、橋の下のあぶれ者は、おぞ毛をふるって、袖《そで》をひきあった。
山崎屋の奥で、庄九郎は、杉丸をはじめ手代、売り子、扶持《ふち》している牢人などをあつめ事情をきいていた。
いまから七日前のことである。今夜のように雨は降っていた。雨は夜半におよんで家鳴《やな》りするほどの吹き降りになり、雨戸がはげしくゆらいだ。余談だが、雨戸はこの庄九郎の時代に考案されたもので、まだあまり普及していない。普通蔀戸《しとみど》などが用いられていた。
ところが、風にむかっているその雨戸の一枚がぴしぴしと音をたてはじめ、掻《か》きとったような穴があいた。
「たれも、気づかなんだのか」
と庄九郎は、いった。
その穴は、牛が頭突きで突いたようなぐあいだったという。その証拠には、雨戸のまわりには、牛の毛、牛の古わらじなどが落ちていた。
とにかく、雨戸の破れから雨がすさまじく吹きこんできて内壁をぬらし、壁を塗りかえたばかりだったせいか、水気をふくんで、たちまち、どさり、と崩れ落ちた。
その音で、家中が起きたのだという。お万阿も、起きた。
お万阿は、大台所に人数をあつめ、廊下を通って押し出して行った瞬間、雨戸が倒れ、雨と一緒に牛が一頭入ってきた。
「北野天神の使わし者である」
と牛が人語を叫んだというから、ばかげている。これをきいたとき、庄九郎は、おもわず笑った。
(牛を連れて来るのは、北野天神の神《じ》人《にん》だ)
とおもった。北野天神は、蝋《ろう》の専売権をもっている。それを、庄九郎が美濃で自由販売(楽市・楽座)にしてしまったため、復讐《ふくしゅう》にきたのであろう。
むろん、当夜来たのは天神だけではない。
祇《ぎ》園社《おんしゃ》の神人もいたようだし、油の大山崎八幡宮の神人もいたようだが、とにかく、天神の牛でまずおどそうとしたのであろう。
その連中が、どっと押しこんでお万阿を羽《は》交《が》い締めにし、縄《なわ》をかけ、かつぎあげて風のように去ってしまった。
逃げ去るとき、一人がもどってきて、
「当家の旦《だん》那《な》が、美濃の斎藤秀竜(利政)じゃげな。楽市・楽座、もし廃《や》めるならば御料人をかえしてくれる。やめぬなら、なぶり殺しよ」
といい、闇の中に駈《か》け去った。
「神人のことでございます。むごい殺しかたをしましょう」
と杉丸が、ぶるぶる慄《ふる》えながらいった。
神人とは、何度も余談で説いた。社官ではない。時に平民以下に差別されていることもある。神社運営の上で、その雑役、徴税、商品の製造販売を担当し、一旦《いったん》緩急あれば兵士の役目をもつとめる。寺でいえば、僧兵に相当するであろう。要するに、始末のわるいあぶれ者が多く、戦国の風雲に乗じて、神社の社領を横取りし、その在所に居ついて地侍になってゆく者もある。
翌日、庄九郎は、
「二条の館《やかた》」
といわれている、ちかごろ新築された第館《だいかん》を訪れるべく、屋敷を出た。都の者は、この館をひどく怖《おそ》れている。
(京も、来るたびに変わる)
と庄九郎はおもうのだ。
庄九郎が京を出奔したころは、都はまったく無警察都市であった。足利幕府はあってなきがごとく、将軍といえば、自分の妾《めかけ》のお産の費用がなくて家重代の鎧《よろい》を売って金をつくったような時代である。
いまも、将軍家の衰弱していることはいよいよ然《しか》りだが、それにかわるあたらしい権力が勃興《ぼっこう》している。
その権力は、
「下剋上《げこくじょう》」
という自然な手続きを経て誕生した。
足利幕府の中期、細川管領家《かんりょうけ》は最大の実力をもち、事実上、天下を動かしていたのだが凡庸な当主が相次ぎ、しだいに勢いがおとろえてくるとともに、その家老の三《み》好《よし》氏が勢力をのばしてきた。
三好氏というのは、信州から阿波《あわ》へ流れてきた武士で、阿波の三好郷に住みついていた。
阿波は、細川家の領国である。三好氏は、細川家の家《か》僕《ぼく》となった。しだいに勢いを得たのは、細川の当主が、多くは京にいて領国の政治をかえりみなかったからであろう。三好氏は、主人の留守を切り盛りしてしだいに富力を得、主家をしのぐほどになり、ついには京にのぼって、二条に第館を建て、将軍家・細川家の家政を代行し、京の警察力にもなっている。
いまは家の当主は三好喜《き》雲《うん》という者で、有名な三好長慶《ながよし》の父にあたる。
「喜雲さまに、お会いあそばすので」
と、随行している杉丸がきいた。
「なんの、喜雲などはむかしは手を砕いて働きなかなかの武将といわれたそうだが、いまはそういう世事にも飽き、法名などを名乗り、なかば世を捨て、連《れん》歌《が》聞香《もんこう》などをして暮らしているそうだ。そういう支配者の下には、かならずおれのような男がいる」
「おれのような?」
杉丸は、まぶしげに仰いだ。
「頭のいい、度胸のあるやつがさ。それが一切を切り盛りしているはずだ」
「安田主水《もんど》という家老がおられまする」
「あははは、聞いている。評判のうつけ者だそうだ。魚釣りが好きで一竿斎《いっかんさい》と名乗っていい気になっているという。そんな馬鹿《ばか》には会わぬ。その安田の家老は、たれだえ?」
「クニマツというおひとだそうで」
「名か」
「はい、名でございます。姓はたしか松永と申されるそうで」
「おっ、聞いている。あっははは、これはおもしろい。あれは武士のあがりではない。商人の子だ。あの松永国松が、杉丸の耳にさえ入っているほど有能の評判をとっているのか」
「はい。ちかごろは安田家の家老を兼ねて、もう一段上の三好家の祐筆《ゆうひつ》(書記)をなされております。されば、分国《ぶんこく》の地侍や京の町人どもも、訴訟ごととなれば、そのお若いご祐筆に頼まねば事が進みませぬ。いうなれば、そのご祐筆が、幕府、三好家にかわってもろもろの政治をおこなっているようなものでございます」
「そうか、なかなか、やる」
庄九郎は、自分とおなじような「下剋上の雄」が芽をのばしはじめていることを知ってひどく愉快そうだった。
「あの、旦那さまは」
杉丸は、いった。
「その松永国松様をご存じなのでございますか」
「顔は知らぬわい。名はきいている。むこうもわしのことを、よく知っていよう」
「それは、つまり」
「あははは、同郷よ、おなじ村の出じゃ」
といったから、杉丸もおどろいた。庄九郎の出身地は、京の西のほうの郊外、西ノ岡という農村である。農村といっても、そばに山崎という堺《さかい》とならんで畿《き》内《ない》最大の商業地をひかえているから、みな商才に長《た》け、かつ土地が富裕だから文字に明るく、さらに京に近いせいで、天下の政治情勢にくわしい者が多い。庄九郎というような者が出るのはふしぎでないだろう。
ところが、その村から同型の若者が出て、三好家を動かしている。
「ふしぎなものでござりまするな」
杉丸は、首をふって感心している。
ところで庄九郎は、その松永国松という男に会う用件は、二つあった。
お万阿捜索について万一の場合は、三好家の軍勢を借りること。
ついでお万阿が見つかったあと、ふたたび復讐されぬように山崎屋の保護を頼むこと、
であった。
「おなじ村の出だ。やってくれるだろう」
と、庄九郎は三条内《だい》裏《り》の破れ築《つい》地《じ》を北へ折れた。
やがて、二条の館についた。
どこかの本山かとおもわれるほどの壮大な楼門があり、鉄鋲《てつびょう》打った扉が、おもおもしくとざされている。
左右は、軍勢も乗り越えにくいほどの高塀《たかべい》になっており、ところどころに、丸太を組みあげた櫓《やぐら》が立っていた。
庄九郎は、美濃の小守護斎藤秀竜でなく、京の油商人山崎屋庄九郎としての名を杉板に書きしたため、
「松永様におめにかかりたいので」
と、門番に銀を少々つかませた。
門内に入れられた。
入ってすぐ左へ行くと、門番小屋に毛のはえた程度の平屋が建っている。そこが松永国松の住いらしかった。玄関などはなく、縁からいきなりあがるような家である。
庄九郎が、刀を杉丸にあずけ、縁からあがろうとしたとき、背後の大きな高《こう》野《や》槙《まき》のかげから、若い武士があらわれた。
「斎藤様」
と、武士は庄九郎を美濃小守護の姓でよびいんぎんに腰をかがめた。
「そちらはむそう《・・・》ございます。主家の客殿に御案内つかまつりまする」
(これが、松永か)
と、庄九郎は一瞬で相手の人物を読みとろうとした。
年は、おどろくほど若い。顔に童臭をのこしていて、十九かせいぜい二十ぐらいにしかみえないのである。
小兵《こひょう》であった。が、腰がきりりと締まり、手足がいかにも機敏そうな男である。才智がからだ中に詰まっているという感じだった。
これが、後年の松永弾正《だんじょう》である。
ただしくは、松永弾正少弼久秀《しょうひつひさひで》。のち京に威をふるい、将軍義輝《よしてる》を殺したり、南蛮寺を焼いて宣教師を追放したり、さらには主筋の三好党と大和で戦い、大仏殿を焼き、ついで大和の国主となり、信長に降伏し、のち信長にそむき、ついには戦国の孤児のようになって居城信《し》貴山城《ぎさんじょう》にこもり、信長の攻撃をうけ城を焼いて自殺する男である。
後年、天下の英雄豪傑からさそり《・・・》のようにおもわれた松永弾正も、このころはまだ、よく働く若い書記でしかなかった。
松永国松は、少年のころから、
「庄九郎」
という名にあこがれていた。村の老人たちは、庄九郎が出たことを誇りにしている。京に出ては巨富を築き、美濃へくだっては武家の棟梁《とうりょう》になっている。往《ゆ》くとして可ならざるなき超人のような姿で、庄九郎という名は少年のころの松永国松につよく印象した。
(自分も松波庄九郎のような人間になってやろう)
と思いこがれ、その思いのあまり村をとびだして京に出、人のつてをたよって安田家につかえ、重宝がられていまは三好家の祐筆になっている。
(その伝説の人物が)
と、松永は、庄九郎をまじまじと見た。
(意外に若い)
「斎藤様、されば客殿へ」
「いや、当日は、油商人山崎屋庄九郎として参っております。お庭のはしなりとも拝借して、用件をきいていただきたい」
庄九郎は、首をふり、そのまま縁から松永の役宅へあがりこんでしまった。
六畳ほどの小間《こま》である。和漢の書が、堆《うずたか》く積まれていた。
やがて、あいさつがはじまった。松永は、室町風のくどくどとした拝礼を遂げてから、
「御高名は、早くから聞きおよんでおりました。いやさそれだけでは言葉が足りませぬ。はるかに許されざる弟子として私淑《ししゅく》し奉っていた、と申すべきでございます」
「痛み入る」
庄九郎は、微笑した。
そのあと、杉丸に持たせてきた銭五貫を、
「ほんの手みやげに」
と、進めた。
松永は狡《こう》吏《り》らしく、貰《もら》い馴《な》れた手つきでそれを受けとり、ふと気づいて、
「これは失礼つかまつりました」
と、三方のままそれを頭上に押し戴《いただ》いてみせた。こうすれば、わいろ《・・・》ではなく、目上からいただいた引《ひき》出《で》物《もの》という形式になる。
そのあと、故郷の話などをした。
「ところで」
と、松永は、さぐるような眼をして、
「どういうご用件なので」
「いや、用件というほどのことではありませんが、それがし京に妻を住まわせてござる」
「お万阿どの」
松永は、よく知っている。
「洛中《らくちゅう》、ならぶ者もない美人でござりまするな。おうらやましく存じまする」
「いや、うらやましがられることもござらぬわ。なぜならば、その妻、紛失し申した」
「おや」
軽くおどろいてみせた。
月の堂
この小男、見れば存外、可愛い顔をしている。利発そうな瞳《ひとみ》を動かしながら、
「よろしゅうございます。ほかならぬ斎藤さまのことでございます。誓ってお万阿さまを探索し、ついでに悪党どもを打ちこらしめてみせましょう」
「それはありがたい」
庄九郎は運ばれてきた干し柿《がき》をむしり、口の中に入れた。
奥歯に、甘い味がしみた。にちゃにちゃと噛《か》みながら、目の前の若者のことを考えている。なるほど想像したとおり、この松永クニマツという若者は、事実上の京の警視総監であるらしい。
(世は、おもしろい)
形式上の上下でいえば、
将軍家―三好家―安田家―クニマツ
という構造なのだ。つまり、将軍家の執事が三好家、三好家の執事が安田家、安田家の執事がクニマツ、という順だが、事実上は、この才覚あふれるような若僧が、幾層も上の権力までにぎってしまっている。というより、クニマツの才覚がなければ動きのとれぬ組織になってしまっているのだ。
「おもしろいな」
庄九郎は、笑いだしてしまった。この館の玄関番のような書生が、京都の行政・警察権をにぎっているとは、中国の妖怪譚《ようかいばなし》のようで愉快きわまりないではないか。
「斎藤さま、さきにも申しましたとおり、はるかに私淑をしている者でございます。氏素《うじす》姓《じょう》のないそれがし……」
「氏素姓は、わしとて無い」
「さればそのような者が天下の風雲に志そうとする場合、同村の先輩のあなたさましか頼りになるひとがありませぬ。都と美濃とは離れているとは申せ、万一のせつにはなにかとお援《たす》けくださりますように」
「兵が必要なら、美濃からさしのぼらせますゆえ、お使いありたい」
「ありがとうございます。そのかわり、斎藤さまが京で軍勢を必要とされるならば、どうぞお命じくださいますよう」
一種の攻守同盟である。
「頼みがござる」
と、庄九郎はいった。
「それがし、妙な男でござってな、京では商人、美濃では武官、体一つでくるくる化《な》り変わる行きかたをしております」
「よく存じております。一つ身で、日本一の武将と日本一の富商を兼ねておられるひとは古来、あなたさまよりおじゃるまい」
「痛み入る。そこで貴殿に頼み参らせたいのは、京の妻、店、手代、財富のことでござる。こんどのようなことも将来おこりかねませぬゆえ、ひとつ、お力によって保護ねがえまいか」
「おやすいことでございます。山崎屋の保護は、誓ってお引きうけいたしまする」
松永は、同郷同村の後輩として、実の弟のようにいんぎんな礼をとっている。
「これで、安《あん》堵《ど》しました。そのお礼といってはどうかと思われるが、美濃には美濃紙といわれる国産がござる。これをふんだんにお送りしますゆえ、京で売られれば如何《いかが》」
「斎藤さま」
松永は、笑いだした。
「商いの道にお明るいくせに、似げもないことを申されます。紙の販売は紙《かみ》座《ざ》がもっており、左様なものを拙者が京で売れば、こんどは拙者が女房《にょうぼう》をかどわかされるようなことになりまするわ」
美濃では庄九郎が、自分の領内だけ楽市・楽座(自由経済)を断行したとはいえ、京ではまだ中世的な特権経済のなかにある。
「かどわかされる」
とは冗談で、京の権力者は、かれら神人や問丸《といまる》と陰に陽に関係が入り組んでいて、とても美濃で庄九郎が断行したようなことはできない。もしやれば、寺社に飼っている何千という神人たちが蜂《ほう》起《き》して雑人どもやあぶれ者と合流し、一《いっ》揆《き》をおこし、それに不平の武士が参加して、京に駐屯《ちゅうとん》している三好家の軍隊などは打ち破られてしまうかもわからない。
「なるほど」
庄九郎は苦笑いしてその案をひっこめた。神人どもというのは、松永のような男にも手におえぬ存在なのだ。
「団結して騒がれると、こちらが敗《ま》けてしまい、将軍をかついで阿波《あわ》へでも逃げださねばなりませぬ」
それほど、新・京都権力はよわい。
余談だが、戦国期に京に居すわったまま大名になった三好や松永が、王城の地にいながらついに天下を取ることができなかったのは、かれらの成長をはばむ中世的な諸権威が、かえって京に根づよく生きつづけていたためであろう。庄九郎の娘むこ信長が出るにおよんで、松永を無条件降伏させて京に入り、天皇と将軍を擁して「天下布武」の旗をたてた。その瞬間から信長がやりはじめたのは、寺社などの中世権力の退治だった。かれらの利権を根だやしにしなければ、新権力は樹立できぬと信長はおもったのである。
「しかし、松永どの。これからは、昔のように米だけを作っておればよいという時代でなく、貨殖《かしょく》の時代になる。金銀あってこそ、武器武具もふんだんに買え、兵を多数養えることになる。その貨殖の利を、社寺などに独占されていては、大をなしませんぞ」
「美濃がおうらやましい」
松永は、笑った。美濃なればこそそういうこともいえるのだ、という意味である。しかし京はいわば旧時代の妖怪《ようかい》の巣窟《そうくつ》のような都市で、将軍、三好氏、松永のような男も、かれらとの妥協の上でかろうじて存在している、といっていい。
さて、お万阿さがしのことである。
庄九郎は、松永からきいた市政の現状や、耳次が、橋下のあぶれ者からききこんできた情報などを取捨して頭のなかでの京の暗黒街の地図をつくり、それらのなかで、とくに、
「どうも鷹《たか》ケ峰《みね》がくさい」
とみた。山賊、野伏《のぶせり》、剽盗《おいはぎ》、乱《らっ》破《ぱ》、牢人《ろうにん》の巣窟なのである。
真偽はさだかでないが、耳次があぶれ者のうわさを耳にしたところでは、
――さる分《ぶ》限者《げんしゃ》の妻が、鷹ケ峰に取り籠《こ》められている。
ということであった。
「耳次、山伏《やまぶし》の装束をせい。わしのもととのえておけ。今夜からでも出立しよう」
「われら主従ふたりだけでゆくのでございますか」
「そうよ。小人数がよい。松永の軍勢などをかりると、かえって相手を刺《し》戟《げき》してお万阿を殺されてしまう」
「せめて、後ろ巻きの兵でも、松永さまからお借りあそばしては?」
「松永には報《し》らさぬ。ああいう男のことだ、京のあぶれ者どもとどんな繋《つなが》りがあって、そっとわしらの行く一件を告げてしまうかもしれぬ。耳次、京は、こわいところよ」
庄九郎と耳次は、出かけた。
鷹ケ峰は、京の西北にあたり、王城の地からわずか二十数町というのに、人の住むことのまれな山麓《さんろく》の野である。
王朝のころから、賊といえばここに棲《す》み、市中へ出てゆく。この時代よりややくだるが、家康が大坂夏ノ陣で勝ちをおさめて京に入ったとき、
「本《ほん》阿弥《あみ》光悦《こうえつ》は、何としたるぞ」
と、その消息を京都所《しょ》司《し》代《だい》にきいた。家康は、かねてひいきにしているこの高名な刀剣鑑定家で市中きっての名士にも、戦勝のよろこびを分けてやりたかったのである。所司代板倉伊賀守は答え、
「光悦は達者にまかりありまするが、なにぶん風変りな人物のこととて、ちかごろは京住いにも飽いたによってどこぞ辺《へん》鄙《ぴ》な土地に移りたい、と申しております」
「鷹ケ峰を与えてとらせ」
と、家康はいった。そのころまで鷹ケ峰といえば盗賊の巣で、京の治安上、数百年来問題の土地であることを家康は知っている。光悦ほどの名望家にここを与えて住まわせれば、かれの名を慕う連中が多く移住するようになり、土地もひらけ、盗賊も棲まなくなるであろう、とみたのである。やがて光悦は、東西二百間、南北七町の地をもらい、間口六十間の屋敷をかまえて移住した。家康のもくろみどおり、光悦の一門眷族《けんぞく》、友人、およびかれの影響下にある茶人、蒔《まき》絵師《えし》、筆師、紙すき、陶工などがあらそって移住を希望してきたから、光悦はかれらに土地を分けあたえてやり、屋敷をつくらせた。たちまち五十七軒の屋敷が軒をならべることになり、一種の芸術村ができあがった。
以後、こんにちまで発展している。
が、庄九郎のころの鷹ケ峰はそうではない。
京から丹《たん》波《ば》へゆく道にあたり、背後に峰々を背負って高原の形状をなし、南はひろがって京の町を一望に見おろすことができる。
「道はこのさき、丹波街道さ」
と、庄九郎はてくてく歩いてゆく。ひと足ごとに、背後の京の灯が遠ざかっている。
月が、あかるい。
「二十町で、鷹ケ峰だ。耳次、ひとっぱしり様子を見てきてくれ。京見峠《きょうみとうげ》の妙見岩の上で待ちあわせしよう」
「かしこまりました」
耳次の影が、消えた。
庄九郎も、鷹ケ峰の怪しげな家々が見えはじめたころには、街道から消えた。あぜ道や沼のわき、森の中などを通って、姿を見られまいとした。
盗賊は、過敏である。京から来た、となれば警戒するであろう。まわり道して村を通りすごし、京見峠に出、あらためて逆に坂を降りてゆく、そうすれば、
丹波からきた山伏
ということで、相手に敵意や警戒心をあたえずにすむ。
やがて庄九郎は京見峠にのぼり、その崖上《がけうえ》の妙見岩に腰をおろした。
松が、ちょうど天蓋《てんがい》のように庄九郎を覆《おお》い、顔を、天風が吹きなでてゆく。
月は、背にあった。
(お万阿め、命は無事だろうな)
庄九郎は、さすがに祈る気持になった。命は無事としても、操は無事ではあるまい。その点、庄九郎は、
(操なんざ、犯されても洗えばすむことだ)
けろりとしていた。
夜半になって、耳次が崖の下から這《は》いあがってきた。
「どうだった」
と、手を貸してひきあげてやった。
一軒、一軒、忍びこんで人の密《みそ》か語まで聴きとったという。名代の地獄耳なのである。
「居そうにはないか」
「いいえ、たしかにいらっしゃいます」
「どこに?」
庄九郎は、乗り出した。
聞けば、北山の霊巌寺《りょうがんじ》の隠居庵が、朽ちたままで残っている。そこが何者とも知れぬ者の巣になっていて、耳次が床下へ忍びこんだところ、お万阿に似た声が、本堂のあたりから洩《も》れた、という。
「人数は」
「さて、五人も居ましたろうか」
「油断をしてやがる。まさかこのわしが美濃から出てきて蚤《のみ》取《と》り眼《まなこ》でさがしているとは、やつらも思うまい」
そういったとき、庄九郎は左腕をつかんで声もなく岩からころげ落ち、崖で一転し、そのあと、ざざざ、と砂けむりをあげて崖をずり落ちはじめた。
どん、と崖の根にころがったとき、
「木下闇《このしたやみ》よ」
という声が、頭上できこえた。庄九郎は、閉口した。うまく草むらにもぐりこんだつもりでも、相手の眼には、庄九郎のざまがみえるらしい。
左腕から血が流れている。岩の上にいたとき、半弓のようなもので、擦《かす》られた。あっと思って、みずから落ちたのである。
「木下闇、もうよいかげんにやめろ。金がほしくば呉れてやる。さもないと、京に軍勢をのぼらせて、うぬらが巣という巣は、残らずに焼いてしまうぞ」
ぶすっと、短い矢が、足もとの土に刺さった。それが返答だ、というのだろう。
(相手は化生《けしょう》だ、まともには戦えぬ)
庄九郎は、一気に本拠の寺を衝《つ》いてやろうと思い、ころがるように坂を駈けおりた。
背後から、ひたひたと足音が追ってくる。
「耳次か」
「はい、耳次でございます」
「おれは斬《き》りこむ、お前は寺に、火をかけろ」
「いやでござる」
相手が笑ったとき、庄九郎は気づき、ふりむきざまに刀を横にはらった。
相手は、すっと跳ねあがって右手の崖にとりついた。木下闇である。どこで耳次の声を聞きおぼえたのか、じつにうまい。
「木下闇、お万阿をかえせ」
「いいや、返さぬ。それよりお前様のお命を頂戴《ちょうだい》しとうござる」
「百年たてば、呉れてやる」
と、庄九郎は、われながら自分のせりふが気に入って、路上に立って笑いだした。
「どうだ、わしを百年だけは生かしておけ。わしがこの国に生きたがために後世の歴史がかわる。なんと、楽しみではないか」
すさまじい自信である。頭上の木下闇も、うまれてこうまでの自信家に出遭ったことはないであろう。
「おもしろい仁じゃな」
木下闇は、低い声でいった。
「それほどの仁なら、わしも殺し甲斐《がい》があるというものだ」
「なるほど、そうも言える。お前も容易なやつではなさそうだな」
庄九郎は、説得をあきらめて、月下の坂道をすたすた歩きはじめた。
背後に、足音がする。ときどきふりむくのだが、姿は見えない。
庄九郎は、崩れた築《つい》地《じ》塀《べい》の前にきた。これが、北山の霊巌寺の隠居寺なのであろう。いやいや、そうではないかもしれぬ。
(ちがうかな)
と庄九郎はおもったが、なにか一計がうかんだのであろう。
小さな門がある。その門に近づくなり、
ぐわぁん
と蹴《け》破《やぶ》った。
「お万阿、迎えにきたぞ」
凛々《りんりん》と数丁むこうまで聞こえそうな戦場鍛えの音声《おんじょう》である。
門の破れからぱっと跳びこむと、その前は庫裡《くり》。わらぶきである。紙障子がしらじらと月光の中に浮かんでいる。
庄九郎の背後に、どうしたわけか、木下闇の気配が消えていた。それに気づいて、
(うまい。わが策はあたりそうじゃ)
庄九郎は草むらにしゃがんで大きな石をかかえあげた。
「曲者《くせもの》ども」
と庄九郎はわめいた。
「なぜ出迎えぬ。出迎えねばこちらから踏みこむぞ」
言いながら、その石を頭上に持ちあげ、ぶん、と投げた。
石は大音響をたてて庫裡の障子をつきやぶり、なかの土間にころがった。聞く者があれば、庄九郎が庫裡へ踏みこんだと思うであろう。
その瞬間には庄九郎は突風のように草の上を走り、築地塀をとび越え、路上にとびおり、さらにそのあたりを駈けまわって、右の寺と似た荒れ寺を見つけるや、
(さてはこれか)
と、塀をかきのぼり、内側へとびこんだ。
やはり、庫裡がある。横に、持仏堂ほどの小さな本堂がある。
なかに人の気配がする。庄九郎は本堂にむかって足音を消して忍び寄った。
ばかなやつだ、橡《とち》ノ庵《あん》にあばれこんだらしい。
と、内部で声がした。ばかなやつ、というのは庄九郎のことであろう。内部では、五、六人がざわざわ歩きまわっている気配だったが、一人がそとの様子を知りたくなったらしく、蔀戸《しとみど》のさん《・・》をはずしている音がした。
庄九郎は、
ふわり、
と、濡《ぬ》れ縁にとびあがった。その足もとでぎいっと蔀戸が持ちあがり、首が一つ、ぬっと覗《のぞ》くようにして、せり出てきた。
庄九郎は太刀をしずかにあげ、その足もとの首を、すぽりと斬った。
ころり、と濡れ縁にころがって、首が、不審そうに庄九郎を見ている。突然なことで、まだ自分が死んだとは思っていないのかもしれない。
胴だけが、堂内に残った。内部の者も、この異変には気づかないのであろう。
庄九郎は蔀を持ちあげ、ごくさりげなく堂内に入った。
「どうだ、そとの様子は」
と、人影が、鼻さきまで寄ってきた。
「変わったこともない」
庄九郎は答えるや、無言で、その人影を車斬りに斬って放った。
にぶい、骨を断つ音がきこえたが、男は声も発せず、あたりの闇に血を撒《ま》きちらして倒れた。
(数珠《じゅず》丸《まる》の斬れることよ。――)
庄九郎は、舌を巻いてわが刀に感心している。
紙屋川
戦いは、奇襲にかぎる。
堂内の賊たちにとって、
(あっ)
というまの出来事だったろう。
庄九郎の手足は電光のようにうごき、大剣はきらきらと縦横に舞った。美濃で数千の兵を指揮して戦場を駈《か》けまわった庄九郎にとって、数人の草賊など物の数ではない。
一人は首をとばされ、一人は脳天をたたき割られ、一人はおどろいて立ちあがろうとしたところを、腹から背へ、串《くし》刺《ざ》しにされた。
残る二人は、堂のすみで竦《すく》みあがったまま声も出ず、身動きもできずにいる。
庄九郎はななめに剣をかまえるや、
「死ねっ」
とさけび、閃光《せんこう》を曳《ひ》いて斬《き》りあげ、首を飛ばすや、その太刀行きを逆にはねあげていま一人の首を刎《は》ねとばした。
「お万阿。――」
と、堂の中央で倒れている派手な小《こ》袖《そで》にちかづいたとき、その小袖が動いた。
だけでない。お万阿は宙空にはねあがり、わあっと叫び、その右手を天空につきあげ、白刃をふりかざし、
びいっ
と、庄九郎の脳天へ頭上からふりおろした。
「お万阿っ」
驚きのあまり、庄九郎はその白刃を受けるゆとりを失い、素っとんでころび、かろうじて第一撃を避けた。
が、避けきれず、右あごを二寸ばかり斬られ、血があごからのど《・・》へ流れた。
第二撃。
庄九郎は、とんぼがえりに堂のすみへ逃げ、かろうじて立とうとしたところを、目もとまらぬ早さで第三撃を受けた。
夢中で、数珠丸をあげた。
戞《かっ》と刃が鳴り、火花がとび、相手の太刀をようやくにして受けた。
「お万阿っ」
この瞬間ほど、生涯《しょうがい》のうちで庄九郎がおどろいたときはなかったであろう。
お万阿の首がない。
胴のまま、手足が動き、超人的な太刀わざで庄九郎に立ちむかってくるのである。
「お、おまあ。く、くびは、どうした」
「くびか」
と、剣をもつお万阿の声がありありといった。
「見たいか」
あっ、と小袖の胴から、お万阿の首が出現した。笑っている。能面のように。
「妖怪《あやかし》。――」
と叫んで、庄九郎は太刀を舞いあげた。が、そのまま腕が硬直した。斬れない。庄九郎はわかっている。相手はお万阿そのものではあるまい。木下闇《このしたやみ》の化身であろう。が、化身であろうと、お万阿の顔が、凄惨《せいさん》な微笑をうかべて迫ってくる。
斬れるものではない。
「木下闇。負けた」
剣をひき、隙《すき》だらけの身を露《あらわ》にした。庄九郎はそこは妙覚寺の修行僧くずれである。この切所《せっしょ》で、生死《しょうじ》の会《え》から一瞬離れた。仏家でいう、放《ほう》下《げ》といっていい。諸縁を放棄した。諸縁のモトになるおのれ《・・・》をも放棄した。
南《な》無妙法蓮華経《むみょうほうれんげきょう》、無《む》有生《うしょう》死《じ》、若退若出《にゃくたいにゃくしゅつ》、亦《やく》無《む》在《ざい》世《せ》、及滅度者《ぎゅうめつどしゃ》、非《ひ》実《じつ》非虚《ひこ》、非《ひ》如《にょ》非異《ひい》、不《ふ》如三界《にょさんがい》、……。
習《なら》い性《せい》になるとはおそろしいものだ。からだ中の血管が律動《リズム》を奏《かな》ではじめ、無声の法華経を誦《ず》しはじめたようだ。
庄九郎は無に化した。そこに仏具がある、仏具とおなじ物体に化した。そこに空気がある、空気に化した。
こういう相手を、斬れるものではない。
お万阿は、――いやお万阿の衣裳《いしょう》をかぶっている木下闇は、剣をふりあげたまま、ぶるぶる慄《ふる》えはじめた。
いやいや、と筆者はいう、この間の消息にながい説明を用いすぎた。双方にすれば、それもこれも、一瞬の心理の翳《かげ》にすぎない。
その次の瞬間、庄九郎の体腔《たいこう》のなかの法華経の律動は消えた。放下は去った。無が有に転じた。この男は、もとのなま《・・》のこの男にもどった。
もどったとたん、
「死ねっ」
と叫ぶや、大剣は天空に弧をえがき、目の前の女装の敵を、脳天から尻《しり》の穴まで真二つに斬り割るほどに斬りおろした。
どさっ、
と血みどろの肉塊がころがった。お万阿の顔が、縦に割れている。
面に、すぎない。
庄九郎は面を剥《は》ぎ、なま《・・》の顔をみた。薄あばたのある平凡な三十男の顔があらわれた。
(これが、木下闇か)
庄九郎は、燈明のあかりをたよりに、あたりを見まわした。
(どこにいるか)
――お万阿は、と、そこここを駈けまわってさがした。
須《しゅ》弥《み》壇《だん》の背後にまわった。
(おや)
暗い。のぞきこんで手をさし入れると、ずるずると人間の腕があがってきた。
「お万阿。――」
と、庄九郎は力をこめた。腕が、胴の重みをともなって引きあげられてきた。髪がさらさらと床を這《は》った。頭がある。足もあった。
全裸であった。
幸い、呼吸をしている。失神していた。庄九郎は、それを堂の中央にひき出し、仏前の燈明をおろしてきて、からだをしらべた。
皮膚に、傷が多い。さまざまの仕打ちのなかで抵抗《あらが》ったらしい。庄九郎はさらに燈明皿《とうみょうざら》を、お万阿の乳房から腹部へ移動し、さらにその下を照らした。
「お万阿、診て進ぜる」
と、庄九郎はやさしくつぶやいた。むろん、お万阿の意識は黒い天のかなたをさまよっているのであろう。
庄九郎は力をこめてふたつの脚をひらかせ、そのあいだに燈明皿をさし入れ、両脚のつけ根にある隆起と窪《くぼ》みに明りをあたえた。
宝冠のような品格がある。黒い鵞《が》毛《もう》を解きほぐしたようなやわらかい装飾が隆起をおおってその場所を荘厳《しょうごん》し、その下に濡《ぬ》れた褐色《かっしょく》の線が、下降している。庄九郎は幾百夜となく、この場所で随《ずい》喜《き》した。かれの京都時代の青春は、すべてこのなかにうずめられているといっていい。
かつてお万阿は、たわむれてこの場所を、
「のの《・・》さま」
とよんだ。仏さま、という意味の童女のことばである。庄九郎は、ふとそれをおもいだした。
念持仏が、むざんにこわされたようなおもいがした。かすかに、血がにじんでいる。男の、それもおびただしい体液が、そのあたりを濡らし、におっていた。
庄九郎は、お万阿を肩にかつぎ、堂のそとへ出、月の下を歩いた。寺の背後に、紙屋川が流れている。土手を降り、瀬のふちにお万阿を横たえた。
庄九郎は、当時まだめずらしかった「もめん」の布を一枚もっている。それを瀬にひたし、お万阿のその部分をたんねんに洗ってやった。
庄九郎は、洗う。
口に、経文をとなえている。「妙法蓮華経提《だい》婆《ば》達《だっ》多《た》品《ほん》第十二」のうち、女人を清浄にする、という功《く》徳《どく》の文言《もんごん》である。
庄九郎は経典の漢文を、訓読しながら、抑揚をつけ、哀《かな》しみをこめていう。
「女身は垢穢《くえ》にして、これ法器にあらず、いかにして能《よ》く無上の菩《ぼ》提《だい》を得ん。仏道ははるかなり。……女人の身にはなお五障《ごしょう》あり。一には梵天王《ぼんてんのう》になるを得ず。二には帝釈《たいしゃく》、三には魔王、四には転輪聖王《てんりんじょうおう》、五には仏身なり。いかにすれば女身、すみやかに仏になることを得ん。……」
そこへ、土手の茂みがざわめいて、耳次がおりてきた。
庄九郎を、さがしまわっていたらしい。その耳次に、庄九郎は事情を説明せず、
「京へ走れ」
と命じた。走って山崎屋へゆき、お万阿の衣装いっさいを持って駈けもどって来い、といった。耳次はかしこまって、紙屋川の土手道を南にむかい、風のように駈けだした。
庄九郎は、自分の衣装をぬいでお万阿に着せ、十分に肌《はだ》をおおってから、背をかえし、力をこめて活を入れた。
「あっ」
とお万阿は目をひらき、顔を恐怖でひきつらせ、なにか叫ぼうとしたが、
「おれだ」
と、庄九郎は、お万阿の頬《ほお》を両掌《りょうて》にはさみ、のぞきこんで言いきかせ、かつ、お前は救われている、といった。
お万阿は、なお混乱した。まだ堂の中にいるものとおもい、叫び、狂乱し、庄九郎の努力にもかかわらずふたたび失神した。
やがて、耳次が、馬を駆ってもどってきたのを、庄九郎は土手の上で迎えた。
庄九郎は、お万阿に小袖を着せ、馬上で抱き、手綱を口にくわえ、曲芸のようにして馬を歩ませた。
「耳次、もう一つ用がある」
「なんでございましょう」
「狐《きつね》を六頭」
と、意外なことをいった。
「このあたりの猟師の家々を駈けまわって集めてきてくれ。死《し》骸《がい》でいい」
お万阿が、奈良屋の奥で完全に意識をとりもどしたのは翌日の午後になってからである。
その時分には、庄九郎は美濃へ駈けもどるべく旅装をととのえている。
お万阿に、多くを言わない。
「見ろ、庭を」
と、あごでしゃくった。
中庭がある。西《にし》陽《び》があたっている。山桃の木、槙《まき》の木、松、そして萩《はぎ》、それらの根方々々に、点々と狐の死骸がころがされていた。
「六頭いる。そなたをだましにきた。残らず退治てやったから、もはや何事もなかったこととおもえ」
「狐が。――?」
お万阿は、おどろいた。たしかに犯された記憶がある。何人も何人もの男が、お万阿の真っ暗闇《くらやみ》のなかで、お万阿のからだに衝撃をあたえた。あれが、狐だったというのか。
「狐さ」
庄九郎は、翳《かげ》のない顔で笑っている。
「でも、狐が、わたくしを」
「犯したというのか。幻覚よ。おれは妙覚寺で学問をしたから知っている。狐というのは男に化けたところで、人間のおなごとは交われぬという。世《せ》尊《そん》がそういっている」
「世尊が?」
釈《しゃ》迦《か》のことだ。もっともいかに饒舌《じょうぜつ》な釈迦でも、そんなことまで言ったはずはない。
「お万阿、申しておくが、そなたの体にはわしの法華経が、五《ご》臓六《ぞうろっ》腑《ぷ》にまでしみ入っている。人間はおろか狐狸《こり》妖怪《ようかい》といえども、そなたを犯すことはできぬ。よいか、わが身はなお清浄だとおもえ」
庄九郎の言葉はつねに、論理ではない。ふしぎの音楽である。たれに対してもそうだが、この場合お万阿も、
(そうだったのか)
とつい信じこんでしまった。
しかしそれにしても、自分をたぶらかした悪ぎつねどもを、たちまちのうちに退治てしまった庄九郎とは、鬼神ではあるまいか。
「旦《だん》那《な》さまは、ほんにお強い」
「おお、微笑《わら》ったな」
と、庄九郎はよろこび、お万阿の肩をだいて、口を吸ってやった。
「こんど帰るまで、堅固でいろよ」
「もう、美濃へ?」
お万阿は、心細そうにいった。また悪ぎつねがだましに来ては、こまるではないか。
「お万阿は、京は狐程度で、まだいい。美濃には、いのししが出る」
「いのしし?」
「幼名を亥《いの》子《こ》法《ほう》師《し》といった男で、ちかごろ年《とし》頃《ごろ》の若者になり、通称小次郎、名乗りは頼秀《よりひで》。いまでは、おれの真っ向からの敵になっている」
「何者でございます」
「美濃の国主(守護職)頼芸様のご嫡男《ちゃくなん》にまします」
「主筋ではございませぬか」
そのとおりである。美濃王頼芸の皇太子でゆくゆくは頼芸のあとをつぎ、美濃一国のぬしになる人物である。
「なるほど、世間の流儀でいえば主筋だ。しかしお万阿も心得ておけ、この庄九郎には、本来、主人などはない」
「うそ、うそ」
いかに町家の女房でも、庄九郎の理屈がおかしいことぐらいはわかる。
庄九郎は、美濃の小守護。
つまり、土岐家の家老で、守護職頼芸につかえる身だ。とりもなおさず、頼芸が主人ではないか。
「ちがうわさ」
「では、どなたが旦那さまの主人でございます」
「時代だ。時代というものよ。時代のみがわしの主人だ。時代がわしに命じている。その命ずるところに従って、わしは動く。時代とは、なにか。天と言いかえてもいい」
「天」
「そう。唐土《から》には、そんな思想がある。王家が古びて時代を担当する能力を欠くようになれば、天命革《あらた》まり、天は英雄豪傑を選んで風雲のなかに剣をもって起《た》たしめ、王家を倒して新しい政治を布《し》く。これを革命という。革命児には本来、主人はない。あるのは、ただ天のみ」
「旦那さまは、天の申し子でございますか」
「そう信じている。天の申し子であるわしの前途をはばむ者は、お屋形様(頼芸)のご嫡男小次郎頼秀どのといえども、討滅するのみだ」
実は、その小次郎頼秀。
かれは庄九郎こそ国を奪う者だと見、父の頼芸にしきりと、
「あの者を信頼あそばすな、やがてはわが土岐家をほろぼして国土を強奪してしまうことは、火を見るよりもあきらかでございます」
と献言している。
が、この当時の貴族社会の父子というのは通常つめたいもので、頼芸は決してその子の小次郎を愛してはいない。
小次郎が諫言《かんげん》するたびに、
「わしは、あの者を信じている。あの者が稲葉山城で四方の国々を睥睨《へいげい》しているかぎり、近江の浅井も尾張の織田も怖《おそ》れて攻め寄せては来ぬ。あの者をもし放逐すればどうなるか、浅井、織田は、怒《ど》濤《とう》のごとく美濃に攻めよせてきて分けどりをしてしまうだろう」
「父上、あなたはだまされているのでございます。古来、国内で権力を得ようとする策謀家は、ありもせぬ隣国からの侵略の危機をしきりと説き、国中に危機感をあおり、その国難を乗り切りうるのは乃公《だいこう》(われ)のみと吹《ふい》聴《ちょう》し、いつのまにか一国の中枢《ちゅうすう》にすわりこんでしまうものでございます。唐土にもその例《ためし》あり。いわば、古い手でございます。父上はあの者に、乗せられていらっしゃるのでございます」
「乗せられている?」
と、頼芸は色をなした。貴族なのである。子供のような自尊心をもち、決して乗せられている、といった不甲斐《ふがい》ない自分であるとは思っていない。
「小次郎、そちこそ隣国の織田信秀に乗せられているのではないか」
小次郎頼秀の秀《・》という字は、隣国尾張との友好関係をたもつために、とくに信秀を烏帽《えぼ》子《し》親《おや》にたのみ、信秀の秀をもらってつけたものだ。
その縁で、小次郎は、仮想敵国である尾張織田家とは親しく、ときどき個人的に尾張へあそびにもゆく。
その間、信秀から、
「斎藤秀竜(庄九郎)こそ国泥棒《くにどろぼう》だ。いまにして追わねば、大事に至りますぞ」
とさかんに吹きこまれた。庄九郎のいない美濃ならば攻めるにしても無人の野をゆくようなものだ。信秀は、権謀術数に長《た》けた男だから、隣国のあまい若殿をたきつけている。
それだけではない。
「あなたのお父上は」
頼芸の攻撃もしている。
「かの者におだてられて酒池肉林の生活にふけっている。あのようなことでは、とうてい国は保てませぬ。いかがです。あなたは美濃の嫡子にまします。軍兵《ぐんぴょう》、兵糧《ひょうろう》を貸しますから、頼芸殿を追っぱらってあなた様がその位置につけばいかがです」
父親追放のクーデターをやれ、というのだ。つまり、美濃にカイライ政権をたて、やがては織田家のものにしようというこんたんなのであろう。
これには小次郎も食指が動き、
(ひとつ、やるか)
小次郎はおもった。
かといって父をのっけから追うのは遠慮したが、織田家の軍勢を借りて稲葉山城を包囲し、せめて庄九郎を討ちとってしまおうということにきめた。
これが庄九郎の耳に入った。
(いつかは、小次郎どのが父の守護職の地位をうばうべく織田軍の先頭に立って攻めよせてくる、とおもっていた)
(ところが。――)
意外にその時機が早かったのである。
京への逗留《とうりゅう》中、美濃からもどってくる山崎屋の油行商が、
「稲葉山城を、織田家の軍がとりかこみました」
と、急報してきた。
「帰れば、わしの半生にとってもっとも大きな戦さが待っている」
と、庄九郎はお万阿にいった。
「が、案ずることはない、おれのことだ」
庄九郎は落ちついている。
「これを機会に、織田勢を蹴《け》ちらし、たたきつぶすほかに、ついでに内通者の小次郎頼秀どのをも、戦場の露にしてやる」
「さすれば美濃では旦那さまがご帰国なされたとたん合戦が待っているのでございますね」
庄九郎が美濃へ急行すべく京をあとにしたのは、その日の夜であった。
若菜
庄九郎は京から美濃への山河を、夜を日についで駈《か》けつづけている。まるで西遊記の孫悟空のように。
妙なおとこだ。
ほんじつ、京の山崎屋にいるかとおもえば、数日後には美濃の城にいる。中世のひとの交通感覚からいえば、神わざといっていい。この男の神わざのような行動性がかれを戦国の雄にしたのであろう。
できる早わざではない。
「健脚」
ということもある。「たしかに健脚でござる」と庄九郎はいうであろう、「京から美濃の加納(岐阜市南部)まで勘定して三十里三十二町ござるわさ」と、ほざくにちがいない。
が、健脚だけでは、こうは神出鬼没の往復はできない。
秘密がある。
京から美濃までに通過する国は、近江である。街道は、びわ湖の東岸の野を走っている。このゆたかな野は、多くの大名、豪族をそだて、それらが、それぞれ、城砦《じょうさい》、関所をかまえて、通行人をあらためているのだ。
京を出れば、南近江は、鎌倉《かまくら》以来の家系をほこる六角《ろっかく》氏の領土になる。ついで蒲生《がもう》氏、京極《きょうごく》氏、浅井氏といった諸豪が、街道に多くの関所を設け、柵《さく》をたかだかと組み上げ、番所をおき、番士を詰めさせ、
「待て」
をかけるのである。目的は、ぜに《・・》である。通行税をとり、領主の現金収入にしている。室町政治の悪弊で、たとえば伊勢の桑名から日《ひ》永《なが》までの三里たらずのあいだに、関所が六十カ所もあった。少々な小金をもっていても三里も歩けば、だんだんぜにが減ってきて、六十番目の関所を通りすぎたころにはすっからかんの乞食になってしまう。
余談から余談になるが、この有料関所ひとつとりあげても、庶民にとって、この時代がいかに住みづらく、いかに暮らしづらく、ついつい庶民が、
「現世とはなんといやなものか」
とおもい、悲しみ、死を考え、来世を欣《ごん》求《ぐ》し、死ねば極楽というものがあるとおもい、その気持を導き入れてくれる浄土真宗や時宗《じしゅう》というものが爆発的に流行したか、ということがわかるであろう。
要するに、室町幕府の悪政につづく、戦国割拠の弊である。
「世を直す者は出ぬか」
と、時代の底流は、あこがれきっていた。
天下を斬《き》りなびかせて世を統一し、世を直し、新政を打開する強力な英雄が必要であった。しかしその易姓《えきせい》革命のあこがれは、庄九郎の女婿である織田信長の出現を待たねば、ついに実現しない。信長は、関所を撤廃した。
さて、庄九郎。
かれは京・美濃の往復に、このおびただしい数の有料関所を、するすると通りすぎてゆく。なぜならば、かれは、ただの人間ではない。「油商山崎屋庄九郎」といえば、油座のある大山崎の離宮八幡宮の「神《じ》人《にん》」として登録されている。神人の手形さえあれば、諸国の関所は無料で通過することができた。さらに、京と美濃のあいだのおびただしい数の関所には、京の山崎屋から、平素、多額なわい《・・》ろ《・》が贈られている。
どの関所の番士も、庄九郎の顔をみれば、
「あ、これは山崎屋の」
といんぎんに通してくれるし、日没後、関所の門がとじても、
「京の山崎屋でござりまする」
とさけんでたたけば、
「おや、山崎屋か、夜旅はご苦労だな」
と門をあけ、通してくれる。
むろんこれらの関所の番士どもは、この油あきんどが、じつは美濃の守護代(小守護)であり、稲葉山城の城主であり、四隣にその武威を怖《おそ》れられている武将であろうとは、つゆ知らない。
「神わざのような」
という庄九郎の、美濃の往還の秘密はそこにある。
庄九郎は、往還せねば美濃は奪《と》れぬ。山崎屋の巨大な現金を美濃に流しこむことによって、着々とその地歩をきずいてきた。なににしても、諸事、独創的なおとこである。
美濃へとびかえった庄九郎は、鷺山《さぎやま》(現在の岐阜市西郊)のあたりの百姓家に入って潜伏し、耳次を放って、稲葉山城包囲中の敵軍の様子を偵察《ていさつ》させた。
耳次はすぐ駈けもどってきて、
「敵の人数は、三千。そのうち織田信秀の軍は二千、小次郎(守護職頼芸の嫡子《ちゃくし》)がかきあつめた美濃兵は千。――それらが城下の井ノ口を焼きはらって、ひたひたと山麓《さんろく》をおしつつんでおりまする」
稲葉山城にこもっている庄九郎の留守部隊は、五百しかない。
「勝てますか」
と、耳次はさすがに真青になっていた。第一、大将の庄九郎は、城にさえ入れないではないか。
「心配するな」
と、庄九郎は、夜間に行動を開始するため、百姓家の納屋《なや》をかりて、横になった。身は、百姓姿にやつしている。
もっとも、ただ寝たわけではない。考えてもわかるであろう、大将ひとりで納屋で寝ておれば、この家《や》の百姓がどういう悪心《・・》をおこして、敵に通ぜぬともかぎらない。敵がやってきて納屋を包囲し、庄九郎は虫のように殺されてしまう。
だから寝る前に、百姓の老《ろう》爺《や》に、
「だまっておれよ」
と、懐中にしていた銀と永楽銭のすべてをあたえ、さらに、「そこに娘がいるな、名はなんという」ときいた。
「若菜と申しておりまする」
「よい名だ。ゆくすえわるいようにはせぬゆえ、納屋でわしの伽《とぎ》をさせよ」
とやさしく説いた。が本心はべつに優しくもない。密告防止のための人質である。
老爺としては、しかたがない。相手がいかに身一つの落人《おちゅうど》めかしい姿になっていても、この国の小守護さまであり、剣と槍《やり》の腕では国中におよぶ者がなく、かつ大軍を動かしては負けたことがないという男なのだ。それが猫《ねこ》なで声で説いている。
「娘も仕合せに存じましょう」
と、半泣きになってうなずいた。しかし、一方では不安があった。もし庄九郎が負けた場合、かれの敵からこの老爺はこの成りあがりの小守護をかくまったというかど《・・》で、斬り殺されるにきまっている。
「じじい、かなしいか」
と庄九郎は、この老爺の心情を察してやった。「案ずることはない。このおれが戦さに負けた、という話をきいたことがあるか」となだめ、立ちあがった。ときにはすでに若菜の手を曳《ひ》いている。
納屋に入った。さいわい、わらが積みあげられていた。庄九郎はごろりと寝ころがって娘をひきよせ、
「娘、そちに言い交した若者はあるか」
と、耳もとできいてやった。娘はふるえている。ふるえながら、ございませぬ、といった。
「されば、きょうからおれの女《め》だ。乱がすめば城へ来い。――おお、わるくない。よい肌《はだ》をしている」
と、腰のくびれを撫《な》でた。しかし、娘のふるえはとまらない。
「男というものは、馴《な》れれば何のこわさもない生きものだ。みてみろ」
と、庄九郎はずるりと短袴《みじかばかま》をおろして、自分のおかしな突起をみせた。
「どうだ、みればみるほど、滑稽《こっけい》なかたちをしている。変哲もないものさ。さて、お前のはどうだ」
と、若菜があっというまもなく、すそをはぐって、へそまでまくりあげてしまった。
黒い、小さな隆起が、庄九郎の目の前にあらわれた。
「あっはは」と笑いながらその隆起をなで、「お前のも妙な形状《かたち》をしているな。若菜、おれとお前のとを見くらべてみろ、笑えてくる」
庄九郎は立ちあがって、若菜に自分の股《こ》間《かん》をありありとみせた。妙な男であった。勝つか負けるかという合戦の、いわば始まる寸前に、せっせと村娘を口説いた。
「な、面白《おもしろ》かろう。しかし、この変哲もないおかしなものが、善にもなり魔にもなる。人の運命を浮沈させたり、時には世をさわがせたりする。だから、人や世は楽しい」
庄九郎は、どっこらしょ《・・・・・・》、とわらの上に腰をおろした。
その様子がおかしかったのか、若菜ははじめて笑った。庄九郎は娘の気持がほぐれたところを機敏にとらえ、
「さて、その楽しみをはじめるか」
声はのんびりしていたが、行動はおっそろしく機敏だった。一瞬で娘のからだを裂き、あとはしずかに愛《あい》撫《ぶ》してやった。
日が暮れた。
「若菜、わしと夫婦という体《てい》につくって、大《おお》桑城《がじょう》まで行ってくれ」
大桑城は、守護職頼芸の居城である。庄九郎が、さまざまな理由をつけて川手の府城から長良川の河畔の枝広城に移し、さらにそこが洪水《こうずい》で崩れたのを幸い、美濃の中心から遠い大桑の山城にうつしてしまった。現在でいえば、長良橋から北方三里の山中である。
「さあ、行こう」
と、ふたりは、いかにも百姓くさいかっこうに装束を変え、夜道を歩きだした。庄九郎が若菜におしえたとおり、男女とは妙なもので、かれのいう「変哲もないもの」を見せあったり触れあったりした瞬間から、寄りそって歩く影の風《ふ》情《ぜい》までかわるらしい。
耳次は、軒さきでふたり《・・・》を見送りながら、
(あざやかなお人じゃ。まるで十年つれ添った夫婦のようじゃな)
と舌をまいて感心した。
大桑城につくと、庄九郎はすぐに装束をあらため、頼芸に拝謁《はいえつ》した。
頼芸は、庄九郎の突然の失踪《しっそう》と、だしぬけな出現に、すっかりおどろいてしまっていた。
「どこへ参っていた」
「京に」
と平然と答えたから、いよいよ驚き、京へなにをしにのぼったか、とたずねると、「ひさしぶりで、都の歌舞音曲を楽しんでまいりました」という。
「そちの風雅にもこまったものだ。わしの風雅も病いじゃが、そちのは癒《ゆ》しがたい重態じゃ。なんと、のんきにも城を抜けて、京で歌舞音曲を楽しんでいたというのか」
あきれながらも、だからこそこの庄九郎が好きなのだ、と絵と女色だけに憑《つ》かれているこの田舎貴族はあらためておもった。
「京のみやげばなしでもいたしましょう」
「待てまて。どこまでのんきな男だ。そちの留守中、大変なことになっておるぞ」
「まったく、そのとおりで」
と庄九郎は苦笑し、
「空巣をねらわれたおかげで、城へ帰れませず、ねぐらがないまま、夜道をうろついておりました」
「そちは才智もある、武勇もある、ただひとつの欠点は、のんきなことだ」
と、頼芸は、つまり頼芸ほどに遊芸淫蕩《いんとう》にふやけきった貴族が、庄九郎のふやけぶりを説教したのだから、よほど心魂にひびいてそう思っているのだろう。
「しかしお屋形さま。それがしをお嗤《わら》いあそばしまするが、お屋形さまもこれが最後でございまするな」
と、意外なことをいった。
「なぜだ」
「あきらかに、御嫡子小次郎さまのご謀《む》反《ほん》でございます」
庄九郎がいうまでもなく、頼芸もそう考えていたればこそ、
――あの男めは、どこへ行った。
とここ数日、庄九郎が舞いもどってくるのを、首を長くして待っていたのである。庄九郎にいわれるまでもなく、嫡子小次郎頼秀の突然の軍事行動は「謀反」としかおもえない。
「わしも、謀反とみている」
と、頼芸はいった。頼芸はかれが十八のころに生まれた小次郎という長男を、好んではいなかった。
「いや、油断のならぬことだ」
と頼芸が青ざめていったのは、大名の家では長男が父を追って自分が支配者の座につくというのは、よくある例であった。この時期よりややくだるが、甲斐《かい》の守護職武田家でそういう事件がおこっている。当主が、その長男に放逐された。「謀反」をおこした長男が、のちの武田信玄である。
「もしご謀反でないとしても」
と、庄九郎はいった。
「小次郎さまはすでに隣国の織田信秀に通じ、その兵を国内にひき入れておられまする。織田信秀はこれを機会に美濃に入りこみ、領土をしだいにかじりとり、ついにはこの国を奪うでありましょう。いまや、亡国の危機だと申したのは、そのことでござりまする」
「よき策はあるか」
「ござりませぬ」
と、庄九郎は薄情なことをいった。
「しかしお屋形さま。いまそれがしが申すたった一つの策を、御採用くだされば、なんのあれしきの敵勢、一日で攻めくずしてみせまする」
「どういうことか」
「小次郎頼秀さまを、即刻、ご廃嫡あそばし、ただの地下《じげ》人《にん》におくだしなされませ。それを小次郎さま加担の美濃人にも知らせ、同時に時を移さず美濃中に知らせ布告するのでございます」
「なんだ、それだけのことか」
「なされまするな」
「する」
と頼芸がうなずくや、庄九郎は頼芸の祐筆《ゆうひつ》(書記)をよびあつめ、百枚以上の軍令状をかかせた。軍令状には廃嫡の旨《むね》を認《したた》めさせ、かつ、戦さ支度をして大桑城にあつまるように命じてある。
その夜、それを持って百人以上の使者が大桑城から四方に飛んだ。
暁《あ》け方近くなると、動員《じんぶれ》をうけた近在の地侍がばらばらと集まってきて、陽《ひ》が昇ったころには、三百騎近くなった。徒士《かち》、足軽をふくめて、六百人はあろう。
敵は、三千。
「きょう一日待てば五千は集まろう」
と頼芸はいったが、庄九郎は「これだけで駈け入りまする」という。時を移せばかんじんの稲葉山城が陥《お》ちるかもしれないのだ。
「大丈夫か」
と頼芸は不安がったが、庄九郎は「ご安心を」と、たのもしげにこたえた。
庄九郎は具足をつけ、二頭波頭ののぼり《・・・》十本をひるがえし、馬上の人になるや、
「わしの采配《さいはい》には、神仏が宿っている」
と、全軍に伝えさせた。
「その証拠に一度といえども敗《ま》けたことがあるか。小勢ゆえ死力をつくして戦え。恩賞は働きのままであるぞ」
全軍どよめいた。なるほどそういわれれば、庄九郎は常勝の記録のもちぬしであった。戦さの巧拙はべつとして、運わるく敗軍の記録の多い大将のもとでは、士卒はふるわない。不安があるからである。
「駈けよっ」
と進発し、庄九郎は大将でありながらただ一騎、流星のごとく士卒のあいだを駈けぬけて先頭に出、さらに駈けた。
一同、たまらずにかける。三里を駈けぬいて包囲軍の背後に出るや、美濃人の陣屋々々にむかって、矢文を射込ませた。
矢文には、頼芸自署の花《か》押《おう》が入っている。
小次郎はすでに廃嫡
加担人は謀反人とみとめる
改心せる者は、すぐわが陣に味方せよ。
という旨の言葉が、激越な文章でつづられている。
たちまち、包囲軍のなかの美濃軍が動揺した。駈けこんで来る者が出てきた。
時を移さず。――
庄九郎は、敵の美濃兵には手をつけず、左翼に布陣している織田軍にすさまじい突撃をかけた。
(まずい、あの男が出てきたのか)
とみたのは、長良川の南岸に床几《しょうぎ》をすえていた織田信秀である。庄九郎を怖れただけではない。敵地での合戦は速戦即決がよく、長陣になると不利であることを知っている。無用に兵を損傷させることを避けようとした。
「退《ひ》き鉦《がね》を鳴らせ」
と命じ、隊を部署して退却態勢をとり、たくみに諸隊をくりさげくりさげしつつ、ついに木曾《きそ》川《がわ》のかなたに消えてしまった。
その戦略眼、退却のうまさ、凡庸な将ではない。庄九郎は、舌をまいた。
かれが、自分の敵たるべき相手がもはや国内にはおらず、むしろ、いま木曾川のかなたに去ったあの男こそ好敵手になるのではないかとおもったのは、このときである。
織田の使者
少し雑談をしてみたい。
筆者は、浪華《なにわ》の東郊、小阪という小さい町に住んでいる。東に田園がひろがっている。田園のむこうが、生《い》駒連山《こまれんざん》である。生駒・信《し》貴《ぎ》・葛城《かつらぎ》といった峰がなだらかにつづき、そのむこうが、大和の国になる。
「小説家稼業《かぎょう》に不便でしょう」
と、はるばる東京からたずねてきてくれるひとに同情されるが、そうでもあり、そうでなくもある。元来、小説書きというものは、自分の住みやすい土地に住んでいる、つまり自分にとって人間観察のしやすい町角にすわっている、というのが自然なことだから、私はこの町がいい。
齢《とし》も、四十を一つ二つ、過ぎてしまった。若いころ、いのちをあきらめねばならぬ環境にいたから、自分がこんな齢まで生きていようとはおもわなかった。ふと思うと、この物語のいまの段階の庄九郎とよく似た齢ではあるまいか。
ぽっかり世の中に出て、つまり、戦争がおわって兵営から解放されるとき、私と仲のわるかった士官学校出の一級上の将校が、
「お前のような悪たれは、世の中に出ればきらわれて生きられんぞ」
と捨てぜりふのような悪態をついた。この将校は一見豪傑ふうであったが、ないしょう《・・・・・》はなかなか艶《えん》なところがあったらしく、ひそかに化粧品屋の娘に接近していて、帝国陸軍の解散とともにいきなり婿養子になり、転身した。なるほどこの男の言うとおり、好かれるということは、生きられる、ということのようであった。
しかしその捨てぜりふが気になって、私は戦後ずっと、ひとには嫌《きら》われまい、とおもって生きてきた。もともと憎体《にくてい》な男がにこにこ笑顔などをつくって、きょうまで生きてきた。ときどき、そういう自分がいやになり、
(この、なりそこないの、善人屋めが)
と、自分につば《・・》を吐いた。庄九郎こと斎藤道三という苛《か》烈《れつ》な「悪人屋」を書こうとしたのは、自分へのけいべつから出発しているらしい。
しかし四十を越えると、妙なことがある。他人《ひと》さまを平気できらいになってしまう。他人だけでなく、自分をふくめて、どれもこれも少しずつ峻烈《しゅんれつ》に気に入らなくなってきた。
いやな男に出会ったときなど、そのときの自分の如才ない態度などを思いあわせて、三日も四日も不愉快で、一カ月たってもなにかの拍子にそれを思いだすと、なにをするのもいやになり、あの一日だけ死ねばよかった、とおもうほどである。
むろん、憎《ぞう》悪《お》だけでなく、愛情もつよくなるようで、どうも四十を越えれば自制心のた《・》が《・》がゆるみ、愛憎ともに深くなりまさるものらしい。
庄九郎も、この齢、たが《・・》がはずれはじめている。
かれは、自分の留守中、自分に対して「反乱」をおこした守護職頼芸の嫡子小次郎頼秀を、稲葉山城の城外で打ち破って敗走させたが、以前の揖斐《いび》五郎(頼芸の庶弟)の反乱のときとはちがい、そのままでは許さず、
(攻めほろぼしてやる)
と決意した。考えてみれば、ほろぼす、と簡単にいっても、小次郎頼秀は主家の若君ではないか。国中の世論が承知するかどうか。
(我慢をする時期はすぎた)
と庄九郎はおもった。たが《・・》がはずれた、というのはそれである。筆者のような小市民のばあいは、せいぜい浮世の面倒から離れて、出来もせぬわび住いを夢に恋う程度にすぎないが、この男のばあいは、たが《・・》がパラリとはずれて、いっぴきの攻撃的生きものがうまれた。
頭のてっぺんから足のさきまで、渾身《・・》、戦闘的な男になった。
「もはや、どの者にも遠慮はせぬ」
というのは、かれが自分の周囲、美濃の国情をツラツラと打ちながめて、
「せずに済む」
と判断したからである。美濃八千騎といわれる美濃の村々に散在している地侍どもの八割は、
「いまや、小守護(庄九郎)どのこそ頼りじゃ」
と口々に言うようになっていた。
要は、力である。庄九郎には「外国勢力」を粉砕できる力がある。
美濃は、日本の衢地《くち》(辻《つじ》)といわれる。中《なか》山道《せんどう》をはじめ、北国街道、伊勢街道などが入りこんでいて、四ツ辻にも五ツ辻にもなっている。
戦国の世、このような地域は、四方八方の国々から軍隊が入ってきて、うかうかしていると土地をこまぎれに斬りとられてしまう。
西方の浅井(近江)、南方の織田(尾張)の異常な軍事的成長ぶりが、中世的眠りのなかにいた美濃の地侍たちをして、
(うかうかすると、隣国にわれらが在所を奪《と》られてしまう)
という危機感をおこさせた。
対外的な危機感こそ、その国に思わぬ指導者を生みあげるものだ。かつての中国における蒋介石《しょうかいせき》、かつてのドイツにおけるヒトラーなどが、それであろう。
旱天《かんてん》下《か》で雨を待つような気持で、英雄の出現を翹望《ぎょうぼう》する気運が、美濃一国におこりはじめた。
「かれこそは」
と美濃衆のほとんどは思う。
「このところ美濃の内紛につけ入って何度か侵略してきた隣国の兵を、そのつど破った。関ケ原では浅井、朝倉の連合軍を打ちくだき、こんどの稲葉山城下では織田軍を、戦わずして走らしめた。かくなった上は、盟主として押し立てざるをえないのではないか」
そういう気運である。
潮《うしお》にたとえていい。
ひたひたと上げ潮が、満ちはじめているのである。
「一気に。――」
と、庄九郎は考えた。一気に階段をかけあがらねばならない。
気運《しお》とはおそろしい。庄九郎の信ずるところでは、「気運が来るまでのあいだ、気ながく待ち、あらゆる下準備をととのえてゆく者が智者である」といい、「その気運がくるや、それをつかんでひと息に駈けあがる者を英雄」という。
庄九郎には、その時期がきた。西美濃三人衆といわれる安藤伊賀、氏家卜全《うじいえぼくぜん》、稲葉一鉄をはじめ、正妻小見《おみ》の方《かた》の実家明《あけ》智《ち》一族など国中に影響力のつよい武将たちが、
「貴殿と運命を共にする」
という態度をみせている。がらりと国をくつがえすときであろう。
運よく。
というほかない。頼芸の「若君」である小次郎頼秀は、稲葉山城下で破られたあと、現在の岐阜市から北北西七キロにある、
「鵜飼山城《うかいやまじょう》」
という城に逃げこんだ。この城の城主は村山出《で》羽守《わのかみ》という男で、小次郎頼秀の年少のころの御《お》守役《もりやく》だった人物である。
「出羽、たのむ」
と、小次郎頼秀は保護をたのみ、さらにあらためて庄九郎征伐の兵を挙げることを相談した。
「おれはあの男のために、父から廃嫡され、ただの平人《ひらびと》におとされてしまった。こうなった以上、国中に兵を募り、あの男と決戦し、破り、父頼芸をおしこめ、わしみずからが美濃の守護職に立つ以外、道はない。出羽、そうではないか」
「なるほど」
出羽も、考えこんでしまった。あの油屋はいまや旭日《きょくじつ》昇天の勢いである。国中を真二つにして戦って、はたして勝ち目があるかどうか。
「出羽、出羽」
と、小次郎頼秀は、こういう場合の彼の立場ならたれでも言うことをいった。
「おれが守護職になれば、そちを小守護にしてやるぞ」
(小守護に。――)
というのは、強烈な魅力である。現在の油屋をのぞいては、代々門閥でなければなれなかった、かがやかしい位置である。
「とにかく、どれだけの美濃衆があつまってくるか、それが問題でござる。それに、もう一度、尾張の織田信秀に応援をたのみましょう」
「出羽、それもこれも頼む」
と、小次郎頼秀はうれしさのあまり、かつての家来の村山出羽守にぺこぺこ頭をさげてしまった。その出羽は、実は、決しかねている。なんといっても、自分の生死存亡を賭《か》けた戦いになるはずであった。しかし、小次郎頼秀にたのまれた以上、それを断われば、「出羽はあれで男か」と美濃の武家社会でつまはじきにされてしまう。
起たざるをえない。
出羽は、さっそく密使を八方に出して、決戦準備をととのえはじめた。
その間、小次郎頼秀がやったことといえば自分が居候《いそうろう》している鵜飼山城を、
「御所」
という呼称にあらため、出羽の家来に、自分のことを「御屋形様」とよばせ、出羽に伽《とぎ》の女を要求したことだけである。すでに守護職を気取っていた。
「出羽も、家来に小守護様と呼ばせろ」
と無邪気に、この貴族の座から堕《お》ちた若者はいったが、さすがに村山出羽守は苦笑して、
「それは勝ってからでござるよ」
といった。出羽の心境とすれば、この美濃を真二つに割っての合戦を準備することによって、一方では一種の英雄的昂奮《こうふん》を感じていたし、一方では、えもいえぬ物哀《ものがな》しさを感じていた。若殿さえころがりこんで来なければ、自分は先祖代々の所領と城を保ち、春の花、秋の紅葉などを賞《め》でてぶじに世をおくれたはずである。
その挙兵計画をきいて、
「運やよし」
と手をうってよろこんだのは、庄九郎であった。おそらくこの決戦に、国中における自分の反対派の連中はすべて鵜飼山にあつまるであろう。
(殲滅《せんめつ》して、一挙に国を奪ってしまう)
その好機である。こういう好機は、人間の一生で何度も訪れるものではない。
(また、おれの名がかわるぞ)
ふとお万阿《まあ》の顔を思いだした。この決戦のあとお万阿に会ったら、「こんどはなんというお名前にお変りあそばしたのでございます」とあどけなく訊《き》くであろう。そして、例によって問うにちがいない、
「将軍さまになるのはいつ?」
いい女だ、と庄九郎は思った。あの女のために早く美濃を斬り従え、京に旗をたてて将軍になってやらねばならない。……
その庄九郎は、このところ稲葉山城から動かず、城に戦旗をたて、はるかに鵜飼山城をのぞんで、毎日敵方の情報をあつめている。
むろん、庄九郎がかつて戦って鞭《むち》をくわえただけで逃がしてやった頼芸の庶弟揖斐五郎や鷲《わし》巣《ず》六郎、土岐七郎頼満《よりみつ》、それに土岐八郎頼香《よりよし》などがぞくぞくとくわわり、いわば美濃の名門をこぞるようなものであった。
が、存外、かんじんの美濃衆ではせ参じてくる者がすくなく、
「ただいまのところ、人数はざっと千人でございます」
と耳次も報告していた。
問題は、隣国の織田信秀である。これがむこうに加担すれば、形勢は庄九郎に絶対不利になろう。
鵜飼山城の小次郎頼秀のほうから、さかんに出兵懇請の使者が行っているらしい。
「美濃半国を進呈する」
という条件さえ出した、といううわさがあり、これには庄九郎も驚いた。
(半国をもらえるなら、織田もこのばくち《・・・》に乗るだろう)
と思い、この流説を庄九郎は逆用し、かれの手で美濃中にばらまかせた。
――織田が、半国とるそうじゃ。
という情報ほど、美濃衆を仰天させたものはあるまい。
ぱっと国中にひろまるや、中立を保っていた連中までが、どっと庄九郎の側に入りこんだ。人数は毎日のようにふえ、対外的問題があるだけに士気もあがり、結束もかたかった。
――が。
これだけで庄九郎が、安閑《あんかん》とかまえていたわけではない。傘《さん》下《か》にあつまってきた美濃衆に対し、
「敵は、むしろ尾張の織田信秀である。いつ夜陰に乗じ、木曾川を渡って攻め入ってくるかもわからない。そういう気配が濃い。それゆえ」
と、かれらをけしかけ、毎日、五百人ずつ交代で木曾川国境を哨戒《しょうかい》させ、夜になれば沿岸数里にわたっておびただしいカガリ火を焚《た》かせた。
謀略といっていい。内に対しては士気をたかめさせ、そと織田方に対しては、
――来るとただちに叩《たた》くぞ。
という戦備の凄《すご》味《み》をきかせた。
これには尾張側の百姓がむしろ動揺し、
――美濃から大軍が攻めてくる。
という風説がとび、当の織田信秀が閉口してしまった。
信秀は、木曾川北岸のカガリ火は、単に庄九郎の牽制《けんせい》外交だとみているが、しかし捨てておいては、国内の不安がつのるばかりである。
(あの男は、やるわ)
と感心はしたが、こちらから出兵して美濃の哨戒兵団を撃ち散らすつもりはなかった。信秀は信秀で、国内の諸城切り取りにいそがしく、いまとても外征する余力はない。
(そこまであの男は見ぬいて、木曾川北岸のカガリ火で恫喝《どうかつ》しているのにちがいない)
と信秀は見ていた。
やむなく、このさい、やや屈辱的な外交態度ではあったが、稲葉山城の庄九郎に対し、尾張のほうから使者を送ることにした。
庄九郎は、城のふもとにある居館で、その者に謁見《えっけん》した。
平手政秀という男である。
「われらが主人申しまするには」
と、政秀はいった。
「鵜飼山城の小次郎頼秀どのには、いっさい加担せぬ、ということでございます」
「結構なことだ」
庄九郎は軽くわらい、別に加担しようがしまいが当方関心なし、という大きな態度をにおわせている。
(蝮《まむし》め。――)
と、政秀は、上座の男のあだな《・・・》を思いだし、その傲岸《ごうがん》さに腹が立った。
書院での正式の対面は、ほんの一、二分ですんでしまい、あと、
「茶など、ふるまおう」
と、茶道好きで有名な庄九郎は、政秀を自慢の茶室にみずから案内した。
政秀は、そのみごとさにおどろいた。庭園には稲葉山の谷川の水をひき入れて泉水をしつらえ、茶室にいたる露地には、さまざまの姿をした桜の古木を植えならべ、行くほどに茶室があるが、これも桜材一式でできあがっている。
「すべて、桜でございますな」
「桜だ」
と、庄九郎はみじかく答える。
「桜がお好きでござるのかな」
政秀は問いながら、蝮と桜とはどういう縁だ、とおかしかった。
「まあ、好きだな」
庄九郎はかるく答えたが、じつのところかれほど桜を愛した武将はいない。桜材というのは結局いや味がなくて、飽きが来ないからだ、というのが理由であった。
このとき茶室で、
「吉法《きっぽう》師《し》君《ぎみ》(信長の幼名)は、おいくつになられたかな」
とさりげなくたずねた。吉法師の御守役がこの平手政秀であることを知っているのである。
「おん年は八つでございます」
「なるほど、わしの娘(のちの濃姫《のうひめ》)とは一つちがいか」
「なるほど」
とうなずくと、
「美人だぞ」
それっきり、庄九郎は別の話題に転じた。政秀はなぜ吉法師君のことを蝮がもちだしたのか、わからなかった。
半刻《はんとき》ほどのち、政秀は居館を辞し去り、馬上、供をつれて尾張にむかったが、体が鞍壺《くらつぼ》に堪えられぬほどに疲れている。
(妙に、疲れる男だ)
政秀は、腑《ふ》のぬけたような表情《かお》をして、馬にゆられた。
美濃の蝮《まむし》
ひとは、
――美濃の蝮。
と、庄九郎のことをいう。はじめはずいぶんこの蔭口《かげぐち》には閉口し、
「蝮なんぞで、あるものか」
と、自分の家来を厚く遇し、領民に他領よりも租税をやすくし、堤防を築き、灌漑《かんがい》用水を掘り、病いにかかった百姓には医者をさしむけ、かつ領民のための薬草園をつくった。美濃はじまっていらいの善政家といっていい。
このため、ひとはみな庄九郎の家来になろうとし、百姓たちはかれの領民であることをよろこび、他領の百姓まで、
――なろうことなら、小守護様(庄九郎)のお屋形の見えるまわりで田を耕したい。
とのぞんだ。蝮は蝮でも、この男は人気のある蝮だったといっていい。
かれはつねづね、
「人間とはなにか」
と考えている。なるほど、善人もいる、悪人もいる。しかしおしなべて、
――飽くことを知らぬ慾望のかたまり《・・・・》。
として見ていた。かれは、自分が学んだ法《ほ》華経《けきょう》も、人間の慾望に訴えた経典であることを知っている。法華経にいう。
「この経はいっさいの人間を救いたまうものである。生存についての苦悩を救い、さらに人間の願いを満足させたまうものだ。たとえば、渇《かつ》えた者には水、寒い者には火、裸の者には衣、病める者には医、貧しい者には財宝、貿易商人には海、といったように与え、満足させ、いっさいの苦や病痛から、人間を離れしめたまうものである」と。
庄九郎は正直なところ、法華経の功《く》力《りき》などは信じていないが、しかしこの経典が説く、なまぐさい「人間の現実」は信じていた。人間とは慾のかたまりだ、と経典を書いた古代インド人は規定している。
「だからこそ」
庄九郎は善政を布《し》く。百姓には水をあたえ、武士には禄《ろく》をあたえ、能力や功績ある者には惜しみなく財物をあたえ、商人には市をたてて利を大きくしてやる。
(これでも蝮か)
と庄九郎はおもうのだ。なんと、法華経が説く「功力」そのもののような男ではあるまいか。
法華経は、仏を説いている。
(乱世では、ほとけもマムシの姿をしているものさ)
とおもっている。
が、庄九郎は、自分が蝮だといわれていることを気にする段階はすぎた、とおもっている。これからのちは、一方で善政を布きつつ、内外に対して、
――おれをみろ、蝮だ。
がらりとひらきなおるべき時期にきた、と庄九郎は見ている。
こういうひらきなおった心境で、庄九郎は主人頼芸の長男小次郎頼秀を討伐する軍勢を招集しはじめた。
ついでながら、この時代、武士はまだ中世的な段階にあり、城下町に住まず、それぞれの在所々々で住んでいる。これらを在所から移して城下町に集団居住せしめ、軍団としての機動性をもたせるにいたるのは庄九郎の後半期であり、それを完成させたのは、かれの女婿《むすめむこ》織田信長であった。
まあいい。
庄九郎は、こういう在郷武士のかきあつめにすべての力をそそいだ。
本来なら、困難な仕事である。なぜなら美濃八千騎といわれるこれら村落貴族どもは、すべてが守護職土岐家を本家としており、単一の血族集団であった。
その血族集団をもって、宗家の長男を討つというのは、なまやさしい仕事ではない。
だから。
「蝮」
としてひらきなおった、といっていい。
――人間とは、
と庄九郎とほぼ同時代のヨーロッパの戦国時代に出た策略家ニコロ・マキャヴェリは、五カ条をもって定義している。
一、恩を忘れやすく
二、移り気で
三、偽善的であり
四、危険に際しては臆病《おくびょう》で
五、利にのぞんでは、貪慾《どんよく》である
と。むろん庄九郎は、このイタリー半島のフィレンツェの貧乏貴族の名も思想も知らないが、まったくの同意見であった。
だから、第五条の利を与えるために、京の山崎屋の巨富をどんどん美濃へ運びこんで懐柔し、かつ、第四条の臆病という人間性に対しては、
「従わねば、敵として討つ」
というおどしをもってむかった。ついに蝮の本性をあらわした。なんといっても、美濃一国で庄九郎より強い武将はいないために、一国を戦慄《せんりつ》させた。
マキャヴェリはいう。
――君主というものは、愛せらるべきか、怖《おそ》れらるべきか。これは興味ある命題である。常識的に考えれば両方兼ねるがよいということになろうが、その域に達するのは困難なことだ。だから君主にしてそのどちらか一つを選べということになれば、愛せられるよりもむしろ怖れられるほうがよく、またそのほうが安全である。
「蝮のほうがいい」
とマキャヴェリはいうのだ。愛嬌《あいきょう》のある仔《こ》犬《いぬ》よりも、猛毒をもった蝮のほうが、風雲を叱《しっ》咤《た》するばあい、うまくゆくであろう。
第三条の「人間は本来、偽善的である」という性質を庄九郎は見ぬいていて、
「小次郎頼秀どのは、すでに守護職土岐家の長子ではなく、廃嫡されてしまっている。しかも、謀《む》反人《ほんにん》である。これを討つことは、土岐家に対する忠義である」
と、宣伝した。
人間は、つねに名分がほしい。行動の裏づけになる「正義」がほしいのである。慾ぼけで移り気で臆病な人間ほど、いざ新奇な行動に駆りたてられようとするとき、
――頼むからおれの行動は正しい、といってくれ。
という護符《おふだ》を、指導者に請求するのだ。
庄九郎はこの合戦を、
「謀反人討伐の義戦である」
との護符をばらまいた。人間の偽善性に訴えた。美濃の村落貴族どもは、よろこんだ。
この護符のおかげで、稲葉城下に馳《は》せ参ずることが、「蝮の武威におびえた」ことでもなくなり、また「蝮の富力に懐柔された」ことでもなくなった。
かれらは、ぞくぞく美濃十数郡から庄九郎の稲葉城下にあつまってきた。この一州八千騎のうち、六千騎以上が集まってきて、それらが率いてくる兵で城下は満ちみちた。
庄九郎は、頼芸を大桑城《おおがじょう》から迎え、山上に土岐家の白旗を林立させ、山麓《さんろく》には自分の二《に》頭波頭《とうなみがしら》の旗をひるがえし、軍勢を率いて出発した。
その日のうちに、鵜飼山城を包囲し、城攻めにとりかかった。
一方、小次郎頼秀がたは――。
兵の集りが予想以上にわるかったために籠《ろう》城《じょう》戦をとることにした。
「若さま、これ以上はどうしてもむりでございますな」
と、村山出《で》羽守《わのかみ》は、小次郎頼秀にいった。
「むりか」
小次郎は爪《つめ》を噛《か》んだ。
出羽守はすでに敗死を覚悟した様子であった。
「しかし」
小次郎頼秀はすっかりあおざめて、
「隣国の弾正忠《だんじょうのちゅう》どの(織田信秀)が、救援にきてくれるのではないか」
「それは望めませぬな。織田はいま、三《み》河《かわ》へ兵を出して戦っていて、救援どころか、自分のほうが手いっぱいの模様でござる」
「それはけしからぬ。弾正忠どのはわしの烏《え》帽子《ぼし》親《おや》で、名も自分の秀《・》を呉れて頼秀とつけてくれた。いわば親子に準ずべき間柄《あいだがら》ではないか」
「時勢でござるな」
「なにが時勢じゃ」
「左様な間柄など、この時勢では通用いたしませぬ。げんに、若様には御実父におわします頼芸さまが、蝮めの飾り物とはいえ、敵の御大将ではござりませぬか」
「しかし、弾正忠どのは、信義にあつい大将ときくぞ」
「信義などは」
村山出羽守は、この若い貴族の子をもてあつかいかねた。
「左様なものは、両者利害が一致しているとき、酒席かなんぞで吐く戯《ざ》れことばにすぎぬご時勢になっております。だいたい、弾正忠どのも、なかなかの忍人《にんじん》(酷薄な人)で、尾張にはかつては守護職斯波《しば》氏があり、織田家にも本家があるというのに、それらをしりぞけてのしあがってきたお人でござる。当方に勝ち目があればともかく、なければ参りませぬな」
「では、どうすればよい」
「城内の者、心を一つにし、死力をつくして、半年城をもちこたえれば、こちらに内応して来る者もあり、あるいは織田殿も、蝮めの兵の弱りをみて木曾川を越えて腹背から衝《つ》いてくるかもしれませぬ」
「敵は、籠城にきめたか」
とみるや、庄九郎は奇抜なことを考えた。
敵の籠城を利用して、稲葉山城下に、一大城下町をつくることであった。だけではない。それには一つのこんたんがある。
ある日、陣中で将士をあつめ、
「どうやら敵は長陣にもちこむつもりらしい。あれしきの城一つ、力攻めして陥《おと》せぬことはないが、兵を傷つけるのもばかげている。ために当方も、尻《しり》をおちつけて囲むことにしたい。おのおの、如何《いかに》」
と意見をきいた。みな異存はない。兵の損耗を避けるというのは古来名将の道なのである。
「されば」
庄九郎は、言葉をかさねた。
「全軍をもって囲んでおれば疲れるばかりであるから、諸将、交替で陣へ繰り出してゆく。それは如何」
「いや、これは小守護どののお言葉ともおぼえぬ」
と、事に老いた《・・・・・》(合戦に熟練した)といわれている西美濃三人衆の一人で大垣城主の氏《うじ》家卜全《いえぼくぜん》がいった。
「諸将交替で出陣というのはよいが、それでは、自然味方は手薄になる。その手薄のときに敵に打って出られては、味方の崩れになりまするぞ」
「さすがは、卜全どの」
と、庄九郎は、子供をほめるようにしてほめてやった。
「おおせのとおり、遠方の知行地に帰られる方は、いざ敵襲という場合、当方から早馬を打たせて催促しても、前後三日はかかり、とても合戦の間にあわぬ。そこでどうであろう、わしの稲葉山城からここまでわずかな里程じゃ。されば稲葉山城下に地割りしておのおのに土地を進ぜるゆえ、そこに屋敷をつくり、妻子をお呼びよせになっては?」
妻子は、体《てい》のよい人質である。
かつ、庄九郎の城下に屋敷をもてば、結局かれらは庄九郎の家来というかたちになり、期せずして美濃統一ができるわけだ。
「屋敷をつくる金穀《きんこく》が足りねばお貸し申す」
というと、みなざわめき、
「妙案じゃ」
と手を打って、反対する者がなかった。
さっそく庄九郎は、赤兵衛を奉行《ぶぎょう》とし、地割りをさせ、材木を集めさせた。
そこは、庄九郎流の楽市の便利さである。稲葉山城下に材木をもってゆけば儲《もう》かるというので、たちまち諸国から材木商人があつまってきた。
庄九郎は国中の大工を城下にあつめ、
「日当は、それぞれ抱えぬしからもらえ。しかし当方からも同額の日当を出してやるぞ」
といったから、みな大よろこびで仕事にとりかかり、またたくまに城下の武家屋敷町ができあがってゆく。
三月で、町は完成した。町の名を、旧名どおり井ノ口という。岐阜《ぎふ》という名がついたのは、信長の時代からである。
庄九郎は、事実上の美濃王になった。
これに閉口したのは、鵜飼山城の籠城軍である。士気は、とみに落ちた。
「井ノ口では、京から能役者などをよんで興行しているそうな」
とか、
「城外には、妓《おんな》を置いた宿が何十軒もできていて大層なさわぎじゃ」
「市は立つ、諸国から人は来る、もはや、京をのぞけば日本一の繁昌地《はんじょうち》というぞ」
といううわさが、雑兵《ぞうひょう》のはしばしにまでささやかれた。なにしろ、わずか七キロむこうの山麓に、夢のような一大軍都が出現したのである。その目もまばゆいばかりの繁昌ぶりを聞くにつけ、この鵜飼山城に籠《こも》る集団だけが、美濃の国内で孤立しているようにおもわれ、自分たちがひどくうらぶれてみえた。
庄九郎が、その形勢を察せぬはずがない。
「謀反《・・》加担を悔いて、当方に来る者は、こばまぬ。本領を安《あん》堵《ど》し、屋敷も作ってやる」
と、包囲軍の血縁者から籠城軍の血縁者に言わせると、せき《・・》を切ったように城内から脱走者が出た。
ところが、庄九郎はずるい。
最初の脱走者群に対しては、
「可愛気《かわいげ》がある」
としてなにもいわずに約束どおりの待遇をあたえてやったが、その後に内通したいとひそかに申し出てくる者には、
「城を出るな」
と、申し送った。
「誠心のあかしとして、謀反人小次郎頼秀どのの首を打ってみやげに持参せよ」
これは、極秘裏にいったわけではない。むしろ、公然と、城内へ矢文を送った。矢に文をつけて、毎日のように城内に射こんだのである。
このため、城内は混乱してしまった。味方同士のあいだで疑心暗鬼を生じ、
「あの男は、内通したのではないか」
とか、
「昨夜、奥の御廊下に人影が立ったが、どうやら小次郎さまのお首級《しるし》をねらう内通者らしい」
などといううわさがむらがるように出て、収拾がつかなくなった。
慄《ふる》えあがったのは、小次郎頼秀である。
ある夜、たまたま添《そ》い臥《ぶ》ししていた萩《はぎ》野《の》という女が、なにげなく寝返りをうったのに驚き、
――おのれもかっ。
と、枕《まくら》もとの大剣を掻《か》きよせた。萩野は仰天した。ころがるようにして廊下へ出たのが、かえって疑いを決定的なものにした。
追ってくる小次郎に背を割られ、さらに逃げたが、ついに杉《すぎ》戸《ど》のところで、背から胸にかけて刺しとおされて、絶命した。
そのさわぎに出てきた村山出羽守が、血みどろな現場にしばらくあ《・》然としていたが、やがて、
「若。これ以上の籠城は、むりでござるな」
といった。
「そうであろう、萩野まで内通しておった」
「いや、それはわかりませぬ。とにかく御大将である小次郎君がその乱れようでは、これ以上、一軍を率いてゆくことはできませぬ」
「出羽、おれは殺される」
と、小次郎は、とりとめもない。
「蝮めは、よう存じている」
村山出羽守は、嘆息していった。
「城というものは、城兵が結束さえしておれば、たとえ土掻きあげた土塁一重、堀一重の城でもたやすくは陥ちぬものでござる。ところが、内部の結束を崩せば、城などは雪のように融《と》けてしまう」
「どうすればよい」
「せめて、和議の仲介《なかだち》なりとも、織田弾正忠に頼みましょう。そのくらいのことなら、隣国の好《よし》みでやってくれましょう」
早速、使者を尾張に送ってその旨《むね》を交渉すると、
――左様なことなら。
と引き受けてくれ、庄九郎のほうに平手政秀を遣《つか》わせて交渉させた。
庄九郎は、時機《しお》だと思い、
「いかにも、ただならぬ織田弾正忠どののお仲介《なかだち》ゆえ和《わ》睦《ぼく》はいたしますが、しかしあくまでも村山出羽以下籠城軍一統との和議でござるぞ」
妙なことをいった。
「と、申しますると?」
平手政秀にはわからない。しかし庄九郎はそれには答えず、さっさと誓紙を書き、政秀に渡した。
とにかく、政秀はそれを持って鵜飼山城にゆき、和議を成立させた。
鵜飼山城籠城軍は、解散した。
が、庄九郎はそのあと、国内の辻々《つじつじ》に高札《こうさつ》を立て、
――小次郎頼秀のみは、あくまでも謀反人ゆえ、かの者の所在を報《し》らせた者、または誅《ちゅう》殺《さつ》した者には褒《ほう》美《び》をとらせる。
旨を書き、布告したため、この国の正当の相続者であるはずの小次郎頼秀はついに国内にいたたまれず、ある夜、乞《こ》食《じき》坊主に身をやつして越前へ逃亡した。
「蝮」
は、ついにその本性をあらわしたことになる。
淫《いん》府《ぷ》
美濃の皇太子というべき小次郎頼秀を国外に追っぱらった庄九郎は、
「斎藤山城守利政《やましろのかみとしまさ》」
と、名乗りをあらためた。これで何度目の改名になるのであろう。
改名のときにはいつも京へ馳《は》せもどってお万阿に報告するのがこの男の可愛い癖であったが、こんどは京へはもどらず、
大望あり、しばし待て。いずれゆるりと京へのぼり、そこもとと物語などする。
と手紙を送っただけであった。
大望とは、美濃征服の最後の仕上げとして大桑城で酒色にふけっている「お屋形様」こと土岐頼芸をほうりだすことであった。ほうりだせば、庄九郎は名実ともに美濃の国主になる。
(こんどは難事業だ)
と覚悟はしていた。
ひたすらにその思案をした。
思案の場所を、この男はきめている。邸内に建てた小さな持《じ》仏堂《ぶつどう》であった。お堂には法華経の本尊である釈《しゃ》迦牟尼《かむに》仏《ぶつ》の小さな像がおさめられている。
「釈迦よ、われを救《たす》けたまえ」
と、いつも法華経を転読し、そのあとで思案にふけるのだ。
一方、頼芸は、むろん、庄九郎が稲葉山城で宗教的荘厳につつまれつつ、そんな思案にふけっているとはゆめにも知らない。
頼芸は、荒淫の毎日を送っていた。このめぐまれた男は、男として、いま地上の極楽のなかにあるといっていい。
なみたいていな女好きではなかった。頼芸は女に接するとき、痴態愚戯のかぎりをつくし、ときには、
――みな、予のすがたをみよ。
と、侍女たちに自分の戯《たわむ》れを見せ、ときに児《こ》小姓《ごしょう》どもにも見せた。これがこの男の仕事のようになっていた。
それを一門の者が諫《いさ》めたりすると、
――予は百姓にうまれついておれば働きに働いて一枚の田地でもふやそうと思う。足軽にうまれついておれば、戦場で兜首《かぶとくび》をかせぎどうとでもして士分に取りたてられたいとおもう。しかし予は何か。守護職ではないか。これ以上のことがもはや望めず、人間として野望の楽しみのない不具同然の存在で、いわば翼をもぎとられて飛べぬ鳥とおなじだ。勢い、その吐け口が、女と酒と美食にゆくのが当然ではないか。
といった。
頼芸のからだは、ほぼ脂肪でできている。色白く、一見、京の公卿《くげ》をおもわせる形態だが、しかし外形に似ず生命力の旺《さか》んな男で、女を毎日御《ぎょ》しても、疲れも飽きもしなかった。この物語の時点よりのちのはなしになるが、頼芸はその後諸豪族の厄介《やっかい》になりつつ齢のみをかさね、ついに八十二という、この時代としてはおどろくべき高齢で世をおわった。これほど酒色にふけってもなおありあまる体力のもちぬしだったことは、これでもわかる。
鷹《たか》だけを、描いている。
この画技だけは年々すばらしくなり、京都あたりの茶人が、
「土岐の鷹」
として珍重するようになっていた。むろん頼芸は、金品で売っていたわけではない。側近の者などに描いて呉れてやる「鷹」が、自然と諸国へ流れてゆくのである。
もしこの画才がなければ、頼芸はなんのために地上にあらわれてきたか、わからない男であったであろう。
いや、こうも言える。酒色以外の関心は、すべて絵にあった。めずらしくそばに女がいず、酒杯を手にしていないときの頼芸は、一個の芸術家になっていた。かれのあたまは、絵のみが独占した。この絵のために政治的慾望も関心も皆無になっていた。かれに画才さえなければ、多少の政治的関心もうまれ、
――斎藤山城守は、あるいはおれをほろぼそうとしているのではないか。
という疑惑も、当然うまれていたかもしれない。
とにかく。
頼芸は、白粉《おしろい》と鉄漿《おはぐろ》をつけた天使のような男であった。なにも気づかない。
もっとも天使といっても、女には異常に移り気で、気に入っているかとおもえばすぐ飽き、つぎつぎと寵姫《ちょうき》を変えた。
――どこぞに、面白《おもしろ》いおなごはおらぬか。
というのが口ぐせであった。ある日、京の大徳寺から、世に名のきこえた老禅師がたずねてきた。
頼芸は歓待し、禅話などをさせ、――さてと身を乗りだして、
――ちかごろ京に、よきおなごはおりませぬか。
と訊《き》いた。老禅師は聞きしにまさるこの田舎大名の女好きにあきれ、
――淫楽は亡国のもとでござるぞ。
といさめた。
さらにこまったことには、頼芸は自分の国の美濃女を好まない。
――国の女と寝るほどなら、自分の手足をなめていたほうがましだ。
とつねづね言い、「女は都だ」ときめ、京女をのみどんどん仕入れさせた。教養人だけに都の文化へのあこがれがつよく、そういうふんい気を持った女でなければ、色慾が昂揚《こうよう》しないのであろう。
庄九郎は、京とのあいだに通商路をもっている。頼芸にねだられるたびに、京から女を仕入れていた。
しかしちかごろはかれのほうがうんざりしはじめ、
――もう先日の女は、お気に召さぬようになりましたか。
と、あまりいい顔をしなくなっていた。
先日もそれで、多少の言いあいをした。
「色深きはお屋形様のご体質でありますから詮《せん》ないとして、真の色好みの道は、一人二人のおなごを、奥深う愛することでございます。色を漁《あさ》っては、ついに色の面白味がわからずに世を終えましょう」
「賢《さかし》らなことをいう」
と、頼芸はあざわらった。
「戦さの道ならばともかく、その道ならばそちよりもわしのほうが、苦労を経ている。色のおもしろさは、漁色《ぎょしょく》するにある。わしは絵をかく。一枚描きあげてもつねに満足することがなく、さらによい絵をとねがう。描く鷹にしてもそうだ。よい鷹をもってきてくれたときなど、むらむらと描きたくなり、一気に描きあげてしまう。しかし描きあげてしまえば二度とその鷹をかく気がしない。見るのもいやになる。つぎの鷹を、と思う。たえず、新しい美しさを追求している。絵も鷹も女も、わしにあっては同じ一つのものだ。この気持は、絵という道楽をもたぬそちにはわかるまい」
といった。
上これを好めば下これに従う、で、頼芸の居城の大桑城は、近習《きんじゅう》、児小姓にいたるまで奥女中と通じ、淫楽の府のようになっていた。
(韓《かん》非子《ぴし》にあるとおりだ)
と、庄九郎は、むかし京の妙覚寺本山にいたころに読んだ唐土《から》の奇書を思いだした。
韓非子には、「人の君主たる者は、家来に物の好きこのみを見せてはならぬ」というくだりがある。家来がすぐそれに迎合するからだ。
たとえば、と韓非子にいう。――越王勾践《えつおうこうせん》は勇者が好きであった。このため越にはかるがるしく死ぬ者が多くなった。楚《そ》の霊王はふとった女がきらいで、細腰の女のみを愛した。このため楚では餓《が》人《じん》が多くなった。絶食して痩《や》せようと努めるからである。ひどい例になると、桓公《かんこう》は食道楽でつねにうまいものはないかと味を漁《あさ》っていたため、ついに易《えき》牙《が》という料理人は自分の子を蒸焼きにして桓公の食卓にすすめた。……
もともと頼芸の女色は、庄九郎が最初、
(このひと、色深し)
と見ぬいてすすめてきたところで、僻《へき》地《ち》の大桑城に移らせたのも、その世界に心おきなく惑溺《わくでき》させるためであった。
その作戦がみごとに的中してしまい、頼芸は、夜昼の区別さえつきかねる男になってしまった。
そうしたある日、斎藤山城守利政こと庄九郎は、邸内の持仏堂に赤兵衛をよんだ。
「なにか、それがしにご相談ごとで」
と、赤兵衛は神妙にかしこまった。
「相談などは、おのれらにするものか。わしの思案を口に出してまとめるために、話し相手として呼んだのだ」
「して、どのような」
「じつはお屋形様に国外へ出てもらおうか、とおもっている」
「いよいよ、来ましたな」
赤兵衛は、その一事が、ふたりでこの国に流れてきたときからの計画だから、
(もはや、仕上げか)
とおもい、感慨無量な顔をしたのである。
そうは思いつつ、ふと、ある一事が気になって、庄九郎に質問してみた。
「殿。なにしろ、お屋形様と殿とは、君臣水魚のまじわりをなされております。いざとなった今日、うしろめたくはござりませぬか」
そんな弱気が出れば、事はかならず失敗する、と赤兵衛なりに思ったのである。
「うしろめた……? 考えたこともない」
と、庄九郎はいった。
「わしはもともと、国を奪《と》るためにこの美濃にきた。人に仕えて忠義をつくすために来たのではない。ただの人間とは、人生の目的がちがっている。目的がちがっている以上、尋《た》常《だ》の人間の感傷などは、お屋形さまに対しては無い」
「ははあ」
やはりめずらしい人だ、と赤兵衛はあらためて庄九郎を仰ぐ思いであった。
「お屋形様は」
と庄九郎はいった。
「あの土岐頼芸という方は、わしにとって一個の道具にすぎない。ちょうど木地屋《きじや》における轆《ろく》轤《ろ》であり、大工における手斧《ちょうな》であり、陶工におけるへら《・・》であり、鍛冶屋《かじや》におけるふい《・・》ご《・》のようなものだ。わしは道具の家来になったのではないから、道具に対する義理だてはいらぬ。お屋形様は道具にすぎぬ。わしはその使用者であった。わしはその道具によってあたらしい国家をつくろうとしてきた」
「はい」
赤兵衛は、いつのまにか、偉大な教祖に接するようにひれ伏していた。
「赤兵衛は、陶器《やきもの》の作り方を知っているか。あれは、最初は泥《どろ》を轆轤台の上にでんと盛りあげ、轆轤をころころとまわして、泥をせりあげつつ、まるい茶わんをつくりあげてゆく。さて茶わんの形はできた。それが現在《いま》だ。いまの段階がそれだ。しかし轆轤台の上の茶わんはまだ、泥でしかない。この茶わんの形をした泥を本物の茶わんにするには、轆轤台から離し、かま《・・》に入れ、火をもって焼き締め、さらには釉薬《うわぐすり》をぬり、ふたたびかま《・・》に入れて火をもって焼き、それでできる。要するに、お屋形という轆轤台はもう不要なのだ。捨てられねばならぬ。あと、必要なのは、火である」
火とは、戦いのことであろう。
「その火に掛けるまでに、まず轆轤台を捨てねばならぬ」
庄九郎はすこしだまり、やがて、
「この捨てぎわが、むずかしい。そっと泥の茶わんを持ちあげて台から離さねば、茶わんまで崩れてしまう」
茶わんとは、庄九郎の考えている新国家のことであろう。
「この場合、敵味方に対する詐略《さりゃく》がいろいろと必要だな」
庄九郎は、その詐略を、一つずつ順序だてて赤兵衛に語りはじめた。
庄九郎は、大桑城にゆき、酒宴の真最中の頼芸に拝謁《はいえつ》した。
よいところへ来た、飲め、と頼芸が杯をすすめたが、庄九郎はいつになく拒み、
「お暇乞《いとまご》いに参りました」
といって、頼芸をおどろかせた。
「暇と申して、京へ帰るのか」
「お人払いを。――」
と庄九郎はいう。頼芸は仕方なく女どもや小姓を退らせた。
「それがし、京へは帰りませぬ。お屋形様に去って頂こうというわけでございます。あ、いや、お待ちを。去っていただく、と申してもこの美濃をではござりませぬ。守護職からご勇退ねがわしゅうございます。あ、お待ちを。つまり、ご隠居なされませ、と申すのでございます」
「隠居?」
愕然《がくぜん》とした。隠居すれば、僧形になって頭をまるめ、隠居号を名乗るだけでなく、生活が一変する。隠居料としてわずかな土地をもらって、ほそぼそと食うのである。もはやこんな豪奢《ごうしゃ》な生活はできない。
「わしはいやだ。そちはなんのためにそのようなことをいう」
「国が乱れております。国中の者は、お屋形様の度はずれたご遊興にあきれ、もはや心を寄せる者もなく、このままでは美濃の結束はやぶれ、隣国がもし攻めてくれば、侍どもはお屋形様につくよりも、織田、浅井、朝倉などの三方の敵国に奔《はし》りましょう。とにかく、お屋形様は、いまもしご隠居なさらねば、美濃はほろびまする。土岐家もほろび、お屋形様のお命も、敵の大将の手に落ちましょう。ご隠居は、救国の急務でござる。ご自分のおためでもありまするぞ」
と、朗々といった。
頼芸は度をうしない、
「せぬ、せぬ」
と叫び、
「隠居々々と申すが、身を隠居させてたれを守護職にしようというのだ」
「お屋形様の御《おん》子《こ》を、でござる」
「子?」
「お屋形様に、お覚えがございましょう。その御子、わが屋敷に十六年間、おあずかり申しておりまする」
「義竜《よしたつ》か」
といったのは、頼芸の不覚であった。その子が自分のたね《・・》であることをみとめたことになるのである。
思えば、ふるいことだ。
庄九郎が土岐家に仕官して六年目に、当時、鷺山《さぎやま》城主でしかなかった頼芸をなだめすかして、その愛妾《あいしょう》深《み》芳《よし》野《の》を貰《もら》いさげた。
「そのかわり、殿を美濃の守護職にしてさしあげまする」
と庄九郎がいったために、頼芸は慾心をおこして、つい深芳野をはなした。そのときその深芳野の腹に、頼芸のたね《・・》がかすかに息づいていることを、頼芸は、自分と深芳野以外は知らぬ、とおもっていた。
あのとき、深芳野に耳うちして、
――あの者には言うな。実の父をいうと、あの者はうまれて来る子を粗末にするでの。
といった。
事実、庄九郎は知らぬ様子であった。これほどに才智に長《た》けた男でも、この天然のふしぎだけはわからぬものか、と頼芸はひそかに庄九郎をあなどっていた。
それほど、その翌年の大永七年六月義竜がうまれたときの庄九郎のよろこびは、異常なばかりであった。
(深芳野を呉れてやったのは惜しくない)
と、その当時、頼芸は思った。
(あの者に、わしの子をあずけているようなものだ。かつあの者の身上《しんしょう》がいかに大きくなろうと、その身上をおれの子の義竜が継ぐ。世はうまく出来ている)
それもあって、頼芸は、あれよあれよというまに勢力を増大させて行った庄九郎を、
(害になる)
とは思わなかったのである。むしろ、頼芸から進んで、西村、長井、斎藤、という土岐一門の名家の名跡《みょうせき》を継がせて行ったのは、それもあってのことだった。
庄九郎は、百も承知していた。しかも庄九郎にすれば、その後、正妻として明智氏から小見《おみ》の方を迎えたが、あくまでも義竜の惣領《そうりょう》の位置をくずさなかったのは、一子「義竜」こそ、美濃では天涯《てんがい》の孤客である自分と守護職頼芸をむすんでいる見えざる紐帯《ちゅうたい》であると思っていたからである。
「そ、そちは、存じておったのか」
「いかにも。――義竜《よしたつ》君は」
と、庄九郎はわが子に敬称をつけた。
「りっぱに成人なされております。背は六尺五寸、体重は三十貫」
魔物かと思われるほどの大男であった。
「この義竜ぎみに、お譲りなされませ。美濃はご安泰になりましょう」
といったが、庄九郎はみずから国主になる肚《はら》だから、義竜は便宜上の道具《・・》にすぎない。
「いやだ」
と、頼芸はいった。
「ことわる。どうしてもわしに隠居をさせたければ、兵馬に問え」
「おそれ入る」
と、そのまま稲葉山城に帰り、その日、美濃でおもだつ豪族の招集を命じた。
庄九郎のいう、
「火」
の段階が近づいている。
漁《いさり》火《び》
「人の一生も、詩とおなじだ」
と、庄九郎はよくいった。人生にも詩とおなじく、起承転結の配列がある、と。
「なかでも、転《・》が大事である」
と、言う。
「この転《・》をうまくやれるかやれないかで、人生の勝利者であるか、ないかのわかれみちになる」
庄九郎の美濃の国を奪いとる「事業」も、一編の詩とみればみられるであろう。まず、「起」。ここで詩想をおこす。庄九郎の「起」というのは、当時不遇の公子であった土岐頼芸に智恵と力を貸して、その兄政頼を守護職の地位から追い、頼芸をその地位に据《す》え、みずから頼芸の執事になることであった。これはみごとに成功した。
ついで、「承」である。起の成功を拡大し、自分の執事としての権勢を高める一方、頼芸を酒色におぼれさせて、美濃人に国防上の不安をあたえる。庄九郎はそれをやった。これも成功した。しかし二十年かかっている。
第三段階は、「転」である。もっとも重要である。この転がなければ、庄九郎は単に、美濃の家老、次将、副次的存在、におわってしまう。
(田舎の侍大将で朽ちてたまるものか)
そう思った。庄九郎の考える「転」とは、頼芸を追って、一転して《・・・・》自分自身が美濃の国主になることであった。
「詩でも、転がもっともむずかしい。人の一生では、なおさらむずかしい」
天文十年から十一年にかけて、庄九郎はすべてのエネルギーをこの「転」に賭《か》けた。
まず、頼芸との絶縁。
なぜ絶縁するか、といえば、頼芸に隠居をすすめてもきかない、という単純な理由からである。「お屋形様、早々にご隠居なされ。いつまでもあなた様のような無能で淫乱《いんらん》で不人気な棟梁《とうりょう》を頂いては、美濃は敵国から押し入られ、亡《ほろ》びてしまいます。ご隠居なさらねば、美濃の敵はお屋形様である、ということになりまするぞ」
と、何度もなんども頼芸の居城大桑城に申し送っているが、頼芸はいっかな《・・・・》、きこうとしない。
ついで。――
国中の美濃侍にも、その趣旨を徹底させ、人心を一手に収攬《しゅうらん》しておく。しかも頼芸のあとがまには、頼芸の胤《たね》であり、同時に自分の長子でもあるという複雑な出生事情の義竜を据える。すくなくともそう宣伝すれば、血脈崇拝の信仰が根づよく残っている美濃侍のなっとくを得る。
しかるのち、一挙に頼芸を攻める。
あらゆる手を打ち、準備をととのえ、いよいよ庄九郎がクーデターを実施しようとしたのは、天文十一年五月一日の夜であった。
その数日前から、使者を四方八方に出し、
――国境に織田勢が攻め寄せてくる気配がある。いそぎ、軍勢を催して、稲葉山城に集結されよ。
と、在郷々々の美濃侍に陣触れした。たちまち三千騎があつまってきた。足軽、小者を勘定に入れれば、一万の人数である。
庄九郎はその頭立《かしらだ》つ者をあつめ、
「敵は織田勢ではない」
と、いった。
「お屋形である。お屋形を守護職の位置から追い、強力な軍事国家を建設せねば、織田勢にはとても勝つことができぬ。お屋形を追うことは、織田氏に勝つ唯一《ゆいいつ》の道であり、おのおのが先祖伝来の領地を保全する二なき道である」
集まった者すべては、
「なにもかも、山城守《やましろのかみ》どの(庄九郎)におまかせ申す。われら必死に働き、御家運を共に致しますゆえ、ご遠慮なく下知《げち》(命令)なされ候《そうら》え」
と頼もしげに答えた。
「されば、出陣の貝を吹き立てよ」
と庄九郎は、大声で命じた。城下は人馬で満ちみちている。それら軍勢を部署し、庄九郎みずから諸軍を総指揮し、その夜のうちに稲葉山城下を出発した。やがてクーデター部隊は馬《ば》蹄《てい》をとどろかせて、大桑街道を大桑城にむかって進んだ。
(おれの戦さの一生は、これからはじまる)
と、庄九郎は馬上、そうおもった。采配《さいはい》をとる手もふるえるような実感とともにそのことを思った。戦って戦って戦いつくしてやろうとおもった。事実、この男の天才的な戦歴は、このときからはじまる、といっていい。
一方、頼芸は、女を抱いたまま、酒と色の疲労で溶けたようにねむりこけていた。
この夜、丑《うし》ノ下《げ》刻《こく》(午前三時)をすぎたころである。不意に廊下をあわただしく駈《か》けてくる足音があり、宿直《とのい》の部屋になにごとかを注進した。
宿直では一同あっと総立ちになり、大さわぎになり、近習《きんじゅう》の一人が頼芸の部屋のフスマ一重のところまで駈けよった。
「お屋形さまあっ」
血を吐くように叫んだ。
「何事ぞ」
頼芸は女にゆりおこされて、不快そうに目をさました。
「お屋形さまあっ」
フスマのむこうで、どなっている。
「一大事でござりまする。城下の野は、松明《たいまつ》の火が満ちみちておりまする。敵は何者とも知れませぬが、当城に攻めよせたものに相違ありませぬ」
「なにかの間違いであろう」
頼芸は、ふとんをかぶり、ひくい声でぶつぶつと呟《つぶや》いた。この美濃で、自分に反逆する者があろうとはおもわれない。
「お屋形さま、起きてくださりませ」
と女がゆりおこした。
「無理じゃ。瞼《まぶた》がひらかぬわい。いつものようにそなたの唇《くちびる》にて瞼を噛《か》んで呉りゃれ」
と、頼芸はなおもそんなことをいって、寝床で戯《たわむ》れようとしたが、フスマ越しの声はいよいよ大きくなり、頼芸の名をよんでやまない。
「うるさいっ」
頼芸はどなった。
「美濃の国政は、稲葉山城の斎藤山城守(庄九郎)に代行させてある。変事があれば、かれのところに注進して始末させよ」
「はっ」
と、近習が平伏し、さっそく、使いが稲葉山城に走ったというから、この事件は悲劇でなく滑稽《こっけい》劇であった。
ほどなく、物見が帰ってきて、包囲している敵が何者であるかが頼芸にもわかると、
「あっ、敵はあの者か」
と、事の意外さにおどろくよりも、うろたえてしまい、
「あの者なら、敵《かな》わぬ。落ちる支度をせい、絵筆、絵《え》布《ぎぬ》、絵具を一ツ箱におさめて、たれぞ背負え。女どもも連れてゆく」
などと、あらぬことを口走った。
が、近習の者は、いまここで一戦もせずに落ちては、自分たちの家門に傷がつくとおもい、城の要所々々をかため、さらに城にちかい在所に使いを走らせて、かきあつめられるだけの地侍をあつめようとした。
庄九郎は、火の出るように攻めたてた。
クーデターというのは、あっというまに仕遂げなければ、水の入るものだ。
「もみつぶせっ、もみつぶせっ」
と、最前線を駈けまわって指揮をした。
そのうち、頼芸の名で招集された三千人ほどの人数が、土岐家一門の揖斐《いび》五郎(頼芸の庶弟)の居城揖斐城に集結し、その日の夕刻、どっと庄九郎軍の後方を突いて出た。
「来たか」
と庄九郎はまず千人の兵を城のそばに埋伏《まいふく》させ、他のすべてをもって揖斐五郎の軍に当たらせた。
城壁の上からこれをみていた頼芸方は、手を打ってよろこび、
「蝮《まむし》は後方へ退いてゆくぞ、いまのうちに城門をひらいて打って出、揖斐五郎さまと前後から蝮めを挾《はさ》み撃ちにせばや」
と、城門を八の字にひらき、橋をとどろかせて打って出た。
庄九郎は、擬装退却する。
それにひきこまれて、城兵が十分に野外に出たと思うとき、合図の陣太鼓を急霰《きゅうさん》のように打たせ、伏兵を一時におどり出させた。そのあたりの草木はことごとく庄九郎の兵に化したがごとくに動きはじめ、このため城方は半数討たれ、半数が城へ逃げこもうとしたところを、庄九郎は五百の兵を指揮して巧みに追尾し、そのままするすると城内に入りこんでしまった。この大桑城は庄九郎が設計したものだから、勝手はよく知っている。
庄九郎は、風むきをしらべ、
「火を掛けよ」
と命じた。
たちまち火炎があがり、城内で斬《き》り防ぐ敵の数もしだいにすくなくなったころ、
「猪《いの》子《こ》兵助はあるや」
と、本丸の下で侍大将の一人をよび、
「ここはそなたにまかせる。わしは一《ひと》駈《が》けして、野外にいる揖斐五郎どのの人数を、二度と立てぬように打ちくだいてくるわ」
そのあたりの人数をかきあつめて駈けだそうとすると、
「あっ、お待ちあれ」
と、猪子兵助は馬を寄せ、
「城内でお屋形がもし見つかれば、いかが取りあつかいます」
「お屋形さま?」
と、庄九郎は遠い目をした。美濃へ来てからのさまざまな思い出が脳裏を駈けすぎた。
(お屋形さまか)
多少の感傷はある。しかし、美濃経営のためには、もはや二度と自分の目の前に、あの化粧顔を現わしてもらいたくない。
「殺してはならぬ」
と、庄九郎はいった。かつて先代の「お屋形さま」の政頼を越前に追ったように、その弟の頼芸もできれば遠い国に去ってもらいたい。
「国外へ落し参らせよ」
と庄九郎は命じ捨てると、鞭《むち》をあてるや疾風のように城を下り、城外の野を駈けた。
陽《ひ》が、燦々《さんさん》と照った。野のむこう、白い雲の下で、庄九郎軍と揖斐五郎軍とが接戦しているのが遠望できた。
庄九郎は、城内からつれてきた百人の兵を十分に掌握しつつ、一気に駈けとおして、敵の横っ腹にとび出し、
「それ、突き崩せ」
と、みずから槍《やり》をとり、敵を突き伏せ突き伏せ、すさまじい突撃をくりかえした。揖斐方たまらずに浮足だつところを、庄九郎の本隊が勢いに乗って攻めかかったため、ついに総崩れになり、われ先にと潰走《かいそう》しはじめた。
庄九郎は、なお手をゆるめず、敵を三里にわたって執拗《しつよう》に追撃し、勝利を決定的なものにした。
この異能な男は、指揮ぶりについても風変りであった。大将であるかれが普通のように一定の場所に位置せずそこここを身軽にとびまわり、切所々々《せっしょせっしょ》にとびこんで行っては直接兵を叱《しっ》咤《た》し指揮した。そのため、
――あの男は、一体何人いるのだ。
と、敵軍だけでなく味方の諸将さえもとまどうほどだった。
頼芸は、尾張の織田信秀をたよるべく、国境の木曾川べりまでたどりついたのは、その日の夜ふけであった。
従う者は、近習が五人、女が三人、荷物は馬二頭の背にのせてある。
舟がない。
近習が、葦《あし》のあいだを駈けめぐってさがしたがついになく、みなぼう然としているときに、川上から一艘《そう》の漁舟《いさりぶね》が、へさきにかがり火を吊《つ》るして漕《こ》ぎくだってきた。
「あれに、舟が来た」
と頼芸が狂喜していうと、近習が葦をわけて水ぎわまでゆき、
「おーい」
と、闇《やみ》の河へむかってよばわった。さいわい、舟は気づいたらしく、ぎいっと櫓《ろ》がしない、ゆらゆらと漕ぎ寄せてくれた。
「酒《さか》代《て》は、はずむ。向う岸へつけてくれ」
と、近習は漁夫にいった。暗くてよくわからなかったが、ひどく長身な影で、その上、口が苦りついたほどに無口だった。
「どうぞ」
と、口ではいわず、身をかがめた。頼芸らは漁夫の詮索《せんさく》などをしているゆとりもなく、わらわらと舟に乗り移った。
ゆらり、と舟が岸を離れた。
「ひどいめに遭った」
と、頼芸は安《あん》堵《ど》したせいか、泣き声をたてはじめた。
「わしは信ずべからざるものを信じた。考えてみると二十年前、あの男が油売りとしてたった一人で美濃へ流れてきたとき、あの男を用心せよ、という者が多かった。それをきいておけば、こんにち今夜のような憂《う》き目はなかった」
むかしのことをくどくどといい、
「しかし皆の者、わしの行くすえは、どうなる。織田弾正忠(信秀)とは敵味方の仲だが、頼って行って庇護《ひご》してくれるだろうか」
「ご心配なさいますな。弾正忠どのは英雄ていの人、という評判が高うございます。自然、情にもあつうございましょう」
「しかし弾正忠も」
頼芸は、声をふるわせていった。
「鬼だと世間はいうぞ。たかだか奉行の家にうまれ、親族縁者の所領を切り取り、情け容赦もなく宗家を追い、いまは尾張半国を切りなびかせてしまっている。美濃の蝮とかわるまい」
「乱世でございますな」
近習も、つい涙声を出した。尾張も美濃も、世の秩序がひっくりかえろうとしている。無能にしてその地位にある者は、情け容赦なく追われ、亡びざるをえない。
「あっ」
と、女どもが崩れた。舟が、その底でがりがりと河床の砂を掻《か》いているらしい。
舟はしずしずと葦の間を入ってゆき、やがてとまった。
さあついた、と近習たちは浅瀬にとびおりて頼芸の体をだきかかえ、ついで女どもを背負い、砂地へ降り立たせた。
出かけようとすると、背後の漁夫の影が、
「待った」
と、低い声でいった。
「礼をいってもらおう」
「おお、そうじゃ、酒代をとらせるのをわすれた」
と近習の一人が駈け寄ろうとしたが、漁夫は押しとどめ、
「酒代はよい。そこの大将らしいお方に、口頭で礼を言っていただく」
「ああ、そうか」
と、頼芸は、気ぜわしくうなずき、葦の間に立ち、心もち腰までかがめて、
「そちのおかげで、たすかった。親切はわすれぬぞ」
といった。
背の高い漁夫の影は、ひどく威厳のある態度で答礼し、
「お屋形さま、それがしでござる」
と、かがり火の中からよく燃えている薪《たきぎ》をとりだし、自分の顔に近づけた。
一同、あっと魂《たま》消《げ》た。
庄九郎であった。
「そ、そちは」
「左様。斎藤山城でござる。お屋形をせめてお送り申そうと思い、小舟一そうを操って、木曾川べりで待っておりました」
まったく、この男の異能は戦術だけではなく、行動においても、どこをどう飛びまわるか、捉《とら》えようもない男だった。
頼芸を、こんな形で送ろうとしたのは、一片の感傷であろう。その感傷の表現も、他のばあいと同様、芝居っ気が多い。この男は自分の人生を、こういうかたちで楽しんでいるのかもしれなかった。
「さきほど、舟の中で」
と庄九郎はいった。
「信ずべからざる者を信じたために、かかる憂き目をみた、とおおせられましたが、間違いでございましょう。まず第一は、お屋形さまはそれがしのおかげで、望んでもなれぬ美濃守護職の地位におつきあそばされた。第二は、この乱世に十数年もその地位を保たれ、酒《しゅ》池《ち》肉林《にくりん》のお暮らしをなされた。いずれも、それがしの力によること。ゆめゆめお恨みあそばすな」
「おのれっ」
と近習が刀を抜きつれて、打ちかかったが、庄九郎はトンと棹《さお》を突いて舟を岸辺からはなし、ゆらゆらと波間にうかびつつ、
「それにしても、ながい御縁でござった。お屋形さまとそれがしの仲は、君臣水魚と申しまするか、深い御縁でござった。お名残《なご》り惜しく存じ、かかる舟で送らせていただいたわけでござりまする。さればこれにて」
と、庄九郎は舟の上で腰をかがめ、櫓を持ち、ぎいっと舟を旋回させ、闇のたれこめる流れにむかって消えて行った。
三段討
ながい坂だった。美濃に流れてきて以来、庄九郎は一歩々々、足場を踏みかため、ついにこの男の事業である「国《くに》盗《と》り」を完成した。
(ながかったわい)
と庄九郎はしみじみ思うのだが、かといって坂の上で汗をぬぐっているわけにはいかない。
まだまだ坂があった。
(天下をとらねばならぬ)
という野望だった。将軍にならねばならなかった。将軍になって京にもどりお万阿と暮らす、というのが、京の油商山崎屋をまもっている妻お万阿とのあいだの長い約束だった。――まず、それがある。
それだけではない。美濃をかれの奇抜な構想による新興国家に改造することであった。
(それには、城と町を)
と庄九郎は思い、居城の稲葉山城をさらに巨大な構想によって改造しはじめ、また城下町の井ノ口(岐阜)をかれ一流の都市計画によって建てなおしはじめた。
家来、被官を問わずことごとく城下に住まわせることを原則とし、みずから地割りしてどんどん武家屋敷を建てさせ、大きな屋敷は市街戦のときの小要塞《ようさい》になるように溝《みぞ》をめぐらせ、防火用に外壁をぬらせ、わらぶきを廃止し、できるだけ瓦《かわら》屋根《やね》とした。
城下の楽市《らくいち》の数をふやし、どんどん町人を呼び、かれらのための町割りも庄九郎自身がした。さらに人集めのために、よく流行《はや》る本尊をもった神社仏閣によびかけ、それらに土地を与え、城下に誘致した。
このため、京都以東におけるもっとも繁栄した都会が現出し、人は遠国《おんごく》からもやってきて、人口は毎日ふえた。
ところが、
この庄九郎の新興国家を打ちこわそうとする軍事勢力が、四方八方から群がりおこった。
天文十三年七月のことだ。城下では、どの町家、どの市、どの寺々でも、
「合戦がおこるらしい」
とうわさでもちきりになった。
「それも未曾有《みぞう》の大乱じゃ。なにしろ、国境いを越えて諸方の敵が斎藤山城守《やましろのかみ》さまを討つためになだれこんでくる。越前からは北国街道をつたって討ち入ってくるし、尾張からは木曾川を渡って乱入する、美濃は美濃で揖斐《いび》城主の揖斐五郎さまがこれらと呼応して軍勢を出す、いやもう、えらいさわぎになるぞ。せっかく美濃の国主になられた斎藤山城守さまは、これをどうなさるか」
事実であった。
むかし庄九郎に追われた美濃守護職土岐政頼はここ十数年のあいだ、亡命の身を越前一《いち》乗谷《じょうだに》の朝倉家に寄せていたが、こんどは弟の頼芸さえ守護職の座から追われたときき、
「おのれ、蝮《まむし》め、弟をさえもか」
と、激怒し、朝倉家にすがりつき、
「あの蝮めを討っていただきたい。そうなった暁には美濃のうちで十万石をご当家のために割《さ》きます」
とたのんだ。
朝倉家ではその好条件をよろこんだが、しかし単独では美濃攻撃の自信がなく、尾張の織田家をさそおうと思い、使者を出した。
「いやこれはふしぎな暗合じゃ」
と織田信秀も手を打ってよろこんだ。
「当家には、弟君の頼芸殿が、蝮めから追われて亡命の身を寄せられておる。しかもその頼芸殿も、お兄君同然、美濃の蝮を討ちとってくれれば十万石の地を割譲したい、と申されておる。されば、南北呼応して攻め入りましょう」
さらに工作は進み、美濃の国内では揖斐五郎がこの連合軍に参加することになった。
「いかに蝮めが合戦上手でも、こんどこそ音《ね》をあげるであろうかい」
と、織田信秀も、大満悦だった。
稲葉山城にいる庄九郎は、諜者《ちょうじゃ》を四方に放ってそれらの情報をかきあつめていたが、さすがのこの男も敵が三者同時に打ちかかってくるというのには閉口し、
「同時に、というのはいかん」
と、怒ったようにつぶやいた。この男が怒ったところで仕方がないであろう。庄九郎はいま書院にいる。深緑の季節のあかるい雨が、庭を音もなく濡《ぬ》らしていた。
「そうだろう、桃丸《ももまる》」
と、庄九郎はそばに控えているまだ元服前の、ひどく利発そうな少年の名をよんだ。
「はい」
と少年はこまったようにうなずいた。
色白で眼の裂《き》れが涼しく、唇《くちびる》が赤く、いかにも典雅な匂《にお》いをもった少年である。
「なあ、桃丸よ」
と庄九郎は目を細めた。この少年をわが子以上に愛しているらしいことは、その態度でも知れた。
少年は、正妻小見《おみ》の方の甥《おい》なのである。あるいは神の申し子ではないか、と評判されるほどに少年は聡《さと》い。事実、庄九郎もこれほど利口なこどもをみたことがなく、そのためわざわざ手もとにひきとって「猶《ゆう》子《し》」ということにしている。
猶子とは養子ではなく、
「猶《ナオ》、子ノゴトシ」
という一種の名誉的な待遇であった。
姓は、明《あけ》智《ち》。
のち十兵衛光秀《みつひで》と名乗り、織田家に仕えて日向守《ひゅうがのかみ》と称し、天下の武将のなかで学才双《なら》ぶなし、といわれた男になる。
庄九郎は、この桃丸の才を異常なばかりに愛し、手もとに置き、軍略政治のことなど手にとるようにして教えていた。庄九郎にはそういう癖があったのであろう、つまり教育好きな癖が。(とはいえ、この男がその教育癖《・・・》を傾けて愛しつくした「弟子」というのは、この光秀と、織田信長以外にはいなかったようだが。――)
「なあ、桃丸よ。屈強の大人がそなたに太刀をふるって三人、同時にうちかかって来たとしたら、どうする」
「答えるのでございますか」
「そうだ」
「小《こ》半刻《はんとき》、お時間をくださいませ。考えまする」
と少年は退出し、裏庭へゆき、非番の足軽三人をよびつけ、十分に言いきかせたあと、それぞれに木刀をもたせ、
――さあ、遠慮なく打ちかかって来い。
と、自分も木刀をかまえた。
「桃丸さま、痛うございまするぞ」
この時代の足軽どもだ。常時戦場に出ているから気性も荒い。桃丸を取りかこみ、それぞれ木刀を上段にふりあげ、手心も加えず、
「わっ」
と打ちかかった。桃丸は、頭上の木刀をカラカラと払いのけていたが、いかに防いでも敵は三人である。三人がとびかかってくるたびに一太刀二太刀と打ちこまれ、ついに足払いをかけられ地上に倒れた。
「それまで」
と、いつのまにきたのか、庄九郎が縁の上から声をかけた。
「桃丸、むりだ。いかに兵法練達の者でも、三人の敵を同時に受けては、防ぐに手いっぱいでついには斃《たお》される。策を用いろ」
と庄九郎は言い、台所の者に言いつけて鮮魚を二ひき、竹の皮につつませて持って来させた。
「それは、なんでございます」
「鮎《あゆ》だ」
と、桃丸の足もとに投げた。
「その鮎いっぴきでも、用い方によっては勝つ法がある。考えてみろ」
桃丸は、しばらく小首をひねっていたがやがて、あっそうか、とひどく明るい顔になり、その包みを足軽のうちで最も手ごわい大男に呉れてやった。
「あっ、頂戴《ちょうだい》できますンで」
「殿様からのほうびだ」
といってむりやりに懐《ふとこ》ろにねじこませ、「もう一試合する。しばらくこれにて待っておれ」と言いのこし、姿を消した。
庄九郎は、楽しそうに縁の上にあぐらをかいている。
やがて桃丸は、城内に飼い放しされている白犬を一頭、首につな《・・》をつけてひっぱってきた。
「おっ、しろ《・・》じゃござンせんか」
「そちが毎日餌《えさ》をやって可愛がっている犬だ。口笛でも吹いて呼んでやれ」
へい、とそこは足軽だけの智恵だから、つい乗って、ピーピーと口笛を吹いた。しろ《・・》は大よろこびで駈《か》け寄り、足軽に飛びつきはじめた。しかも懐ろには、生魚がある。その匂いに憑《つ》かれて絡《から》みついたまま離さない。
「さあ、勝負だ」
と桃丸が叫び、やにわに逃げ出し、蔵と蔵の間のほそい通路に走りこんだ。他の二人の足軽がそれを追い、一人ずつ通路にとびこみ、やがて通路をとおりぬけたあたりで、
――わっ。
と一人がひっくりかえった。大したカラクリではない。通路の出口で桃丸が待ち受けていて、
「見たか」
と、まず一人の向うずねをかっぱらったのである。つづいて飛び出してきた足軽の左腕を打ち、さらに木刀をたたいて、地に叩《たた》きおとした。
(一人対一人なら、負けるものではない)
と桃丸はかれらの上を跳びこえ、ふたたび通路を通りぬけ、裏庭に走りもどり、犬にからみつかれている足軽のそばにするすると近づくや、その腰を、
「勝負ぞ。怨《うら》むな」
と、容赦なく打ちすえた。
「そのとおり。――」
と、手を打ってよろこんだのは、縁の上の庄九郎である。桃丸をもとの座敷によび、
「あれが、武略の原型でもあるし、人生の原型でもある」
「あのようなものが?」
と、桃丸はおどろいた。単にいたずら半分に思いついた手が、人生万般に通ずる機略のモトだ、というのはどういうことであろう。
「うそだと思うなら、わしが数万の敵を相手にやってみせる。よく見ておくがよい」
庄九郎にとって、最も手ごわい敵は尾張の織田信秀だった。信秀という合戦上手が他の二者と相連繋《あいれんけい》しつつ打ちかかって来られては、庄九郎も手こずらざるをえない。
そこで、鮎と犬《・・・》を仕掛ける相手としてこの織田信秀をえらんだ。
信秀は、まだ尾張半国を平定したばかりであり、他の半国にはかれに抗戦している一族や諸豪族がいる。
庄九郎はこれらに使者を送り、
「いずれ、各々の共同の敵である織田信秀に対しては、わしが痛撃をくらわせてやる。これは固く約束する。によって、わしと同盟《よしみ》を結ばぬか」
とまず申し入れ、かれらが大よろこびで賛同すると、すかさず第二の提案をもちかけた。
「予言をするようだが、日ならず、織田信秀は尾張を留守にしてわしの美濃へ出兵してくる。各々はその留守の城々に攻めかかってもらいたい。ご承知ねがえるな」
留守城をねらうほど容易なことはない。かれらは一も二もなく承知し、ひそかに合戦支度をしはじめた。
この間、庄九郎は諸将を毎日のように城内に詰めさせ、かれ一流の戦法を十分に習熟させた。とくに、庄九郎の命令一つで数万の兵を一糸みだれずに進退させるべく、鉦《かね》、陣貝、陣太鼓による通信法をおぼえさせた。
「わしの紋をみよ」
と、諸将にいった。
「二頭波頭である。合戦の極意は波のごとし、とわしは信じている。寄せるときには怒《ど》濤《とう》が岩をくだくがごとくに寄せ、退《ひ》くときには声もなくさっと退く。軍が波のごとく運動し、一令のもとに颯々《さっさっ》と進退すれば合戦というものはかならず勝つ。物頭《ものがしら》以上によく言いきかせておくように」
ただ、敵は、北から来る者は先々代の守護職政頼を押し立てる越前朝倉氏であり、南から来る敵は、先代の守護職頼芸を押し立てる尾張勢である。
――もとのお屋形が二人も敵になって攻め寄せてくるのだ。美濃人は、人情として動揺するだろう。
と庄九郎は思い、自分は実質上の国主でありながら、形式的には、例の深《み》芳《よし》野《の》の子で頼芸の隠《かく》し胤《だね》である義竜《よしたつ》を立てて、
「左京大夫《さきょうのだいぶ》」
と名乗らせ、土岐家の宗家とし、自分はことさらに俗名を捨て、髪もおろして僧形《そうぎょう》となり、名はかつて一時的に使ったことのある
「道三《どうさん》」
を用いた。正式には、斎藤山城入道道三と称し、すべての印判もこの称を用いた。
さて。――
越前朝倉、尾張織田、美濃揖斐の連合軍がそれぞれ連絡しあって、美濃討入りの日を天文十三年八月十五日前後とした。
庄九郎は、その日付を、揖斐城に入れてある諜者《ちょうじゃ》から事前に知り、
「されば当方から行くのみじゃ」
と、軍容をまとめ、八月十二日、二頭波頭の旗をひるがえしてどっと揖斐城に攻め寄せ、火の出るような城攻めにとりかかった。
「二日でもみつぶせ」
と全軍に下知したが、城の防衛は固く、びくともしない。
そのうち、越前の朝倉孝景《たかかげ》が兵一万をひきいて北国街道を南下し、十五日には美濃に入り、揖斐軍と呼応して庄九郎の軍をひたひたと包囲しはじめた。
と同時に、尾張の織田信秀が動き、五千を率いて木曾川を渡りはじめたところ、かねて庄九郎と諜《しめ》しあわせてある尾張の反信秀側の諸豪族が立ちあがり、信秀の古渡城《ふるわたりじょう》、名古屋城をかこみはじめたから、信秀もたまらず、軍を旋回して尾張にもどり、これらいわば一《いっ》揆《き》のような連中を相手に悪戦苦闘しはじめた。犬《いぬ》にからみつかれた姿といっていい。
(されば織田はよし)
と、庄九郎は安《あん》堵《ど》し、すばやく行動に移った。
退却である。
揖斐軍、朝倉軍を同時に敵にまわすほどの愚はない。全軍に駈け足を命じて退却し、あっというまに稲葉山城に入ってしまった。城に入るや、ただちに山頂にのぼって庄九郎は戦況を観望した。
朝倉勢が、追《つい》尾《び》している。庄九郎の軍の最後尾と戦闘しつつ、どんどん追ってくる。
追ってきて、長良川北岸に夕暮を迎え、そこで野陣を張り、宿営した。
(しめた)
と、庄九郎は、眼下の敵をみた。北国兵は美濃の地理には暗い。
夜になった。庄九郎は夜陰にまぎれて城から諸隊を順次くり出し、馬には枚《ばい》をふくませ、鎧《よろい》の草摺《くさずり》には縄《なわ》をまかせて防音し、足音をしのばせてしずしずと包囲を完了してから、丑《うし》ノ下刻(午前三時)城門をひらき、みずから本隊をひきいて長良川の浅瀬をわたり、対岸に上陸するとともに、
「貝を吹けっ」
と叫び、全軍怒濤のように敵の宿営内に突入した。
朝倉勢は木《こ》っ端《ぱ》微《み》塵《じん》となり、川にとびこむ者、山を求めて逃げる者、さらには北国街道をめざして国に帰ろうとする者などもはや軍容を失い、十六日の陽《ひ》が美濃平野を照らしはじめたときには、数百の死《し》骸《がい》のほかは一兵の朝倉兵も美濃中央部からいなくなった。
庄九郎は、敵を深く追わず、退《ひ》き鉦《がね》を鳴らして兵をまとめ、さっと波のひくように稲葉山城にひきあげ、再び山頂の櫓《やぐら》から長良川、木曾川のうねる美濃平野を見おろした。
(織田信秀は、いつくるか)
というのが、この男の宿題であった。来れば敵の陣容の成らぬうち、電光石火のごとく山上から駈《か》けおりて木曾川畔で叩《たた》く、というのが、庄九郎の対織田戦法であった。
それまでのあいだ、国境線の木曾川畔に足軽兵をつねに駈けさせておいて、尾張へ渡ろうとする旅人を一人のこらず美濃へ追いかえした。理由は、朝倉軍が潰滅《かいめつ》した、という事実を、わざと織田方に報《し》らせなかったのである。
(信秀は、まさか同盟軍がつぶれ去ったとは思うまい。尾張の一揆が片づけば、朝倉との約束を果たすべく美濃へ入ってくるだろう)
そこをたたく。
と待ちかまえているうちに、八月十八日、信秀は後方の手当をようやくおわり、兵五千をひきいて全軍、木曾川を渡った。
「敵は渡ったか」
と知るや、庄九郎は陣貝をはげしく吹きたて、稲葉山城から電発して木曾川畔に急行し予定戦場につくや、兵を三手にわけて正面と左右から包囲した。その指揮ぶりは、七千の兵を掌《たなごころ》で動かすようであった。包囲するとともに、攻めたて攻めたてて敵を木曾川の河原まで押し詰め、あとは、敵の左翼を強く攻めれば右翼をゆるめ、敵がそのため右へ逃げると、頃《ころ》を見はからって逆に右を強化して左をゆるめ、といったぐあいに猫《ねこ》がねずみをなぶりごろしにするような戦法をとった。
織田勢はここで大半討死し、主将織田信秀はただ一人尾張古渡城に逃げもどった、というほどの敗北を喫した。
「蝮、おそるべし」
という戦慄《せんりつ》が波紋をひろげるようにして天下に伝わったのは、この三方の敵を、まるで名人の舞踊をみるようなあざやかさをもってつぎつぎに討ちとってからである。
いかに戦国でも類のないみごとさといっていい。
英雄の世
話は、となりの尾張(愛知県)に移る。
移らざるをえまい。なぜならば、この地方きっての出来《でき》物《ぶつ》とされた織田信秀が、美濃の庄九郎に完敗し、命からがら、国境の木曾川をただ一騎で渡り、居城の尾張古渡城にむかって逃げもどりつつあるからだ。
(おそるべきは、美濃の蝮よ)
信秀は、ふりかえりふりかえりしながら、尾張平野をめざして馬を駈けさせた。
全身、泥《どろ》まみれである。カブトの鉢形《はちがた》まで泥がはねあがり、陣羽織は乱軍のなかでぬぎすてて、いまはない。
馬が、駿逸《しゅんいつ》なればこそ逃げられた。息のよわい、脚のおそい馬なら、信秀はとっくに美濃勢の槍《やり》のさびになっていたろう。
信秀は、三十七。
栄光に満ちた前歴をもっている。いままで幾十回となく敵とたたかってきたが、対美濃戦のほかは敗れたことがなかった。
とくにこの男が、天下に売り出したのは、一昨年の天文十一年八月、駿河《するが》の大大名今川義元《よしもと》が京に旗をたてようとし、駿河、遠江《とおとうみ》、三《み》河《かわ》の三国の兵二万五千をひきいて尾張にむかって作戦行動を開始したときである。
この戦いでは信秀はわずか数千の兵をひきいて出撃し、矢作《やはぎ》川《がわ》を越えて三河に討ち入り、小豆《あずき》坂《ざか》(厚木坂・いま岡崎市羽根)で敵をむかえてたくみに戦闘し、ついに全軍を突撃せしめて十倍の敵をやぶった。
この勝利によって、尾張守護職斯波《しば》氏からみれば陪臣《またもの》にすぎぬ信秀が一躍尾張半国の王になり、東海地方で、
――弾正忠《だんじょうのちゅう》(信秀)ほどの弓取りはない。
と囃《はや》され、雷名は遠く京の天子の耳にまで入った。
この不敗の信秀が、どういうわけか、美濃の蝮だけがにが手で、さきには、木曾川の小《こ》競合《ぜりあい》でやぶれ、こんどは大将ただ一騎で逃げかえるというほどの惨敗を喫している。
(蝮めは、あれは幻戯《めくらまし》でも使いおるか)
と、敗《ま》けながらもなぜ敗けたかどうも解せない。
たとえば今日の戦闘では蝮めは千の人数を押しだしてきた。小《こ》勢《ぜい》ぞ掛かれ、と信秀が突撃を命じ、先鋒《せんぽう》を切りくずしかけると、いつのまにか敵は三千人になっている。ふと背後に軍《ぐん》鼓《こ》がとどろくのをみて、
――おお、揖斐《いび》の兵(味方)がきたか。
と鞍壺《くらつぼ》をたたいてよろこぶと、なんとそれはことごとく蝮めの軍勢だった。
(わからん)
敗因はあとでしらべてみることだ、とおもった。
馬を駈けさせるうちに、やがて見渡すかぎりの葦《あし》の原のむこうに居城古渡城の森がむくりとあらわれた。いまは名古屋市内東本願寺別院になっている。
この城は、信秀が十年ほど前にきずいたもので、まわりは池や沼が多く、人家もまばらでしかない。
そうした村々を突きぬけて信秀は駈けるのだが、行きかう農夫、漁夫のたれもが、この泥人形のような独り武者が殿様の織田弾正忠信秀とは気づかなかった。
やっと大手門まできたとき、信秀は堀のそばで手《た》綱《づな》をひきしぼり、馬を戞々《かつかつ》と輪《わ》廻《まわ》りしながら、
「門を開けよ、弾正忠であるわ」
と城内へ大声でわめいた。
ふとみると、堀の蓮《はす》の葉が一つ、生けるようにくるくると動いている。
(なんじゃ、あれは)
と、おどろいて目をみはるうち、蓮の葉はすいすいと堀の岸辺にちかづいて、水面から小さな腕が一本のびてきて、岸辺の草をつかんだ。
(ほほう、河童《かっぱ》がおるのか)
信秀は、剛腹《ごうふく》な男だ。さんざんにやぶれて帰ったくせに、この俳画的光景をたのしんでいる。
やがて河童の腕が二本になり、ぐいっと体を持ちあげるなり、泥だらけの体で岸辺にあがり、堀の草を掻《か》いつかんでは身をせせりあげぴょいと路《みち》に出た。
「なんだ、吉法《きっぽう》師《し》(信長)ではないか」
と馬上で笑い出した。
十一歳になるわが息子である。別居している。ここから遠くもない那古野《なごや》村《むら》の那古野城に住まわせてある。独立心を育てるために生まれてほどなく一城のあるじにしたもので、那古野城には守役《もりやく》として老臣の平手政秀、青山与左衛門、林通勝《みちかつ》、内藤新助らをつけておいた。きょうはあそびにきたのであろう。
「これ吉法師、その姿《なり》はなんじゃ」
素っぱだかであった。だけでなく、漁村の漁師がよくそうしているように、股《こ》間のもの《・・》をわらしべ《・・・・》でむすんでいる。
吉法師はよほど無愛想にうまれついているらしく、路上に立ったまま返事もせず、笑いもせず、ぷっと頬《ほお》をふくらませたまま股間のわら《・・》を解きはじめた。
「これ、なにをしている」
と、信秀はあきれて問うた。
「わらを解いておるわい」
「なぜ左様なことをする」
「これを解かぬと、小便《ゆばり》が出ぬわい」
やがて解きおわると、勢いよく小便を飛ばしはじめた。
「爺《じい》どもは、どこにいる」
「那古野にいる」
「ほう、そちは逃げてきたのか」
「ふむ」
小便が出盛っていた。いい気持なのだろう、小僧は目を半眼に閉じている。
「那古野は、窮屈か」
「爺どもがうるさい。那古野ではこういうことができぬ」
「そちは、若様だぞ」
馬上の信秀は、あきれてしまった。
そういう父親の笑顔を、吉法師はじろりと横目で見、
「お父《でい》は、負けて帰ったのう」
と、無表情にいった。
これには信秀はあきれ、噴《ふ》きあげるように高笑いをすると、
「負けたわい、命からがら帰ったわ」
「相手はたれじゃ」
と、小便をおさめ、たらたらと滴《しずく》をたらした。
「美濃の蝮というやつよ」
「斎藤道三か」
と笑わず、
「お父《でい》もつよいが、そいつも強いらしい」
そう言いすてて、すたすた歩きだした。
「おい、どこへ行く」
「那古野へ帰る。爺どもがいまごろ大騒ぎしとるじゃろう」
「帰るのは一人でか」
と、信秀は大手の橋へ馬を進め、ふりかえりながらいった。
「一人でだ。足がある」
(変な小僧だ)
わが子ながら、そう思わざるをえない。
信秀は城の奥に入ると、すぐ井戸端に行って水をかぶり、そのあと、素っ裸で縁側にすわり、
「湯漬《ゆづ》けを三椀《わん》」
と女どもに命じた。食いおわって、そのまま縁側に寝ころんだ。
女どもが、その裸体に掻巻《かいまき》をかけ、血を恋うて来る秋の蚊を追った。
縁の下で、萩《はぎ》が風にゆれる。日暮になると、虫が鳴いた。信秀は、ぐっすりねむった。
やがて日が暮れはてたころ、敗残の家来どもが三騎、六騎、十騎とこの古渡の里にもどってきた。
「殿は」
と、口々に留守の者にきき、信秀が無事帰城していることを知ると、みな安《あん》堵《ど》した。そのうち家老の織田因幡守《いなばのかみ》らの一隊が帰ってきて、城内を厳重にかためた。
その城内のざわめきで信秀は目をさまし、とびおきて庭へおり、侍どもの詰めている表へ行こうとした。
「あっ、殿さま、素裸で参られまするか」
と、侍女が衣服をもって追ってきた。
「おお、下帯も締めんじゃった」
信秀は、おろしたての下帯を締めさせた。
好色な男だ。すこし、異常かもしれない。小《こ》袖《そで》の着付けを手つだわせながら、手をまわして侍女の股間に手をさし入れている。
「あっ、人目もありまするのに」
「たれも抱いてやるとは申しておらぬ。手もち無沙汰《ぶさた》ゆえ、そこ《・・》なりとも触れておる」
信秀という男、尾張人にはめずらしく諧謔《かいぎゃく》家《か》でなにを言っても、どことなくおかしい。侍女たちはその言い草にきゃっきゃっと笑いながら、結局は触れさせてしまっている。
やがて、奥と表のあいだにある塀中門《へいじゅうもん》を押しあけ、わらぶきの書院にむかって歩きだした。歩きながら、そこここにうずくまっている武者どもに、
「やあ、半九郎は帰ったか、ほほう、権六《ごんろく》も元気じゃな、そこの軒端にうずくまっているのは新左衛門か、おのれは怪我をしたな」
高笑いをしながら、声をかけてゆく。これだけ手ひどい敗北を喫しながら、すこしも沈んだところがない。やがて、書院の正面にすわると、
「因州(家老)はどこにおる」
と、目で顔をさがした。
「因幡守どのは大手門をかためておりまする」
「ばかめ。門をかためるより、ここへきて酒でも飲めと申して来い」
「しかし、道三入道が、木曾川を越えて尾張に討ち入って参りましょう」
「あの男は、後追いをせぬわ。この戦勝をよいことにし、美濃を留守《から》にして国境をこえ尾張を侵略してくるような軽率な男なら、蝮もたいした男ではない」
「尾張に攻めこむのが軽率でございますか」
「美濃はまだかたまっておらぬ。いい気になって国を留守にすればたちまち蝮のしっぽに噛《か》みつくやつが出てくる。今夜はわしは酒盛り、しかしあの男の稲葉山城こそ、今夜はどんどんかがり火を焚《た》きあげてわしの巻きかえしに備えていることであろうよ」
そのあとすぐ首実検をし、戦功ある者には感状を出し、やがて酒盛りに移り、部将のそれぞれが目撃した庄九郎の戦立《いくさだ》てを聞きながら敵の勝因とわがほうの敗因をつぶさに検討した。
(なるほど、電光のような男だ)
と、信秀は感心し、敗因のすべては自分よりも美濃の蝮のほうがはるかに合戦がうまいという単純な結論に落ちつかざるをえなかった。
「まあよい。こんど美濃へ攻めこんだときは蝮めをたたきつぶしてくれるわ」
といい、その夜は痛飲し、泥酔《でいすい》し、児小姓にかつがれて寝所に運ばれた。
この帰城のあくる日。
朝から雨がふり、まだ中秋すぎというのに手あぶりがほしいほどに冷えた。
信秀は、発条《ばね》のようにつよい健康をもっている。昨夜はあれほど疲れていたのに寝床に正夫人土田御前をよび、朝は朝で、側室の某をよび入れて寝具の上でたわむれていた。
「戦さに敗けたあくる日に、今川殿は沈香《じんこう》をカ《た》いてうなだれていたそうだが、ばかな話よ。敗けいくさのあとは、そちどもと戯《たわむ》れていてこそ、あとの智恵も湧《わ》くものよ」
と、この異常な精力漢はいった。
やがて日が昇ったころ、取りつぎが、
「京の宗牧《そうぼく》と申される方が訪ねて参られました」
とあわただしく伝えてきた。
「宗牧。――」
といって、はね起きた。社交好きで客好きな男である。
「すぐ参る。小書院へ通して十分に接待し、まず腹がすいておらぬかと問え。ひもじいと申されれば支度をして進め参らせよ。酒は出しておけ。寒いゆえ、手あぶりに炭をたっぷり盛りあげて馳《ち》走《そう》せよ。おお、それよりも湯《ゆ》風呂《ぶろ》を召さぬかと問え」
と機敏に言いつつ、自分は寝巻をかなぐりすてて廊下を走り、湯殿へとびこんだ。
(宗牧はなんの用事じゃ)
あか《・・》をこすらせながら考えた。
宗牧は、都できこえた連《れん》歌師《がし》である。連歌好きの信秀はたびたび尾張へよんで興行し、つきあいはかなり古い。
信秀が、宗牧を好遇するのは、ひとつには実利もある。宗牧は都の貴顕紳士の邸《やしき》に出入りしているために京都の政情にあかるく、その上、旅行ずきの連歌師は、諸国の大小名を歴訪しているため、そういう方面の情勢にもあかるい。
やがて信秀は小書院で宗牧に対面した。宗牧は、灰色の瞳《ひとみ》とながい顔をもった五十がらみの男である。
馳走の酒には、手をつけていない。
「どうなされた」
と、信秀がすわるなり言うと、宗牧はひどく思わせぶりな顔で、
「大役がござるでな」
と言い、信秀の小姓をよび、目の前の膳《ぜん》部《ぶ》を片づけさせ、自分はいったん立って庭のつ《・》くばい《・・・》へゆき、手を洗った。
さて襟《えり》をととのえ、しずしずと席にもどり蒔《まき》絵《え》の文《ふ》箱《ばこ》をとりだし、
「これを」
と、信秀の前にすすめた。
「これは何でござる」
「申しあぐるもかしこきことながら、雲の上に在《ま》す当今《とうぎん》(天子)より、女房奉書《にょうぼうほうしょ》のかたちにて弾正忠どのにお言葉がさがりました。なにとぞ謹《つつし》まれますように」
「ほっ」
驚き、かつ信秀はすべてがわかった。
この男は、他の群雄とちがって、風変りな憧憬心《どうけいしん》をもっている。京の天皇をひどく尊崇していることだった。
将軍さえ、居るか居ないか、さだかでない時代である。まして諸国の庶民は、京に天子のあることさえわすれていた。
信秀には、歌道の教養がある。歌道をとおして王朝の典雅をあこがれていたし、天子の存在も知っていた。
「あれは尊ぶべきものじゃ」
とつねづね言っていたし、げんに去年も老臣の平手政秀を京に派遣して、
――これにて築《つい》地《じ》(塀《へい》)を御修理くださりまするように。
と銭四千貫文、御所に献じているだけではなく、天子の宗廟《そうびょう》である伊勢神宮が式年遷宮《せんぐう》の費用もないときき、あらためて伊勢へ使いを送ってその費用を献じていた。
尾張は、日本一の美国である。田園が肥え百姓が多く、このため信秀は非常に富裕でその程度の寄進はさほどでもなかったが、それにしてもこういう行為を思いつくというのが風変りであった。
隣国の「蝮」は、京うまれ、信秀以上に教養もふかいくせに王室に対する感覚がひどく鈍感なのは、都そだちであるためにかえって都ずれ《・・》し、そういうことがばかばかしかったのであろう。
げんに庄九郎は献金の一件を風説にきいたときも、
「田舎者めが」
と、あざわらった。
なるほど信秀は成りあがりの田舎紳士なのである。それだけに都への思いは強烈でもあり、朝廷に対するあこがれの気持に、邪気が無かった。
いや。――一片の邪気はある、と庄九郎などは隣国のこの英雄をみていた。
(弾正忠めは、田舎者のくせに大それた妄想《もうそう》を抱いておるのであろう。いずれは京に攻めのぼって天子を擁してその権威によって天下に号令しようと企んでおるのにちがいない。ばかな男だ。普通なら将軍を擁して天下に号令するのがあたりまえであるのに、神主同然の天子を擁して天下がとれるか)
と、こう見ている。
が、人は好きずきである。庄九郎は流亡の将軍こそ利用価値があるとみているかもしれないが、信秀は天子のほうが好きだった。
宗牧が、
「女房奉書でござる」
といってさしだしたのは、略式な勅語であると思っていい。天皇に仕える女官が、自分の筆で散らし書き《・・・・・》という独特の形式により天子の意思を伝える。
信秀に対する女房奉書は、去年の献金に対する礼と、「三河の者にも献金するように申し伝えよ」という意味が認《したた》められてあり、天子よりの礼物として古今集が添えられていた。
信秀は、京の天子にまで自分の武名を知られたことがうれしい。
「いやいや、これはおそれ入る」
と感激し、
「なにしろ濃州表《のうしゅうおもて》での合戦がさんざんの不首尾でござってな、きのう、身一つで帰城したばかりでござるよ。この敗けいくさの傷がなおりしだい、三河にもくだり、また京にものぼって、かさねて御修理の費用を献ずるつもりでござる」
と、いった。
敗戦を世間ばなしのように言う信秀の豪胆さに宗牧は内心舌を巻き、
(この男こそ、天下をとるかもしれぬ)
とおもい、京で、弾正忠は英雄の風。《ふうぼう》ありと頼まれもせぬのに吹聴《ふいちょう》してまわっている自分の目にくるいはないと思った。
尾張の虎《とら》
織田信秀は、色白で美《び》髯《ぜん》があり、ちょっと小首をかしげて物を言う癖がある。
信秀が古渡城にいると、その高笑いの声が付近の川で網を打っている漁師の耳にまでひびき渡り、
――殿様はきょうは御在館じゃな。
とわかったというが、はてどんなものか。
要するに、陰気な男ではない。
なるほどおそるべき陰謀もやる。なごや《・・・》城(那古野・名古屋)を奪いとったやり方もそうである。信秀はその城主と連歌友達であった。「ぜひなごや《・・・》にどうぞ」と招かれ、城内に滞在し、その滞在中に急病になり(仮病だが)生きるの死ぬの大さわぎを演じながら、「拙者の命も、もう幾日もありますまい。なろうことなら家来どもをよびよせて遺言をしとうござる」といって城主の許しをうけ、そのよびよせた家来と一団になって深夜城内を駈《か》けまわり斬《き》りまわり、あっというまに城を乗っ取ってしまった。
「弾正忠(信秀)は餓《う》えた虎じゃ」
と、尾張の国中がおぞ毛をふるった。餓えた虎は人間を食う、なにを仕出かすかわからない、という恐怖を国中にあたえた。
合戦もうまい。権謀にも長《た》けている。
「しかしおれは美濃の蝮《まむし》とはちがうぞよ」
と平素から言っていた。どの点がちがうかというと、
――朝廷に献金している。
ということであった。遠い京の、それもいまは有名無実のいわば権威の亡霊になりはてている京都朝廷に、たかだか尾張半国の領主のくせに金を送るなどというのは、どういう実際的利益があるのであろう。将来京に旗を樹《た》てるときに便利だ、といえば多少そうかもしれないが、それよりも、そんな金があればそれを軍費にして兵を傭《やと》い、武器を整え、すこしでも足もとの他人の領地を削りとるほうがはるかに得策ではないか。
「美濃の蝮なら、びた一文出すまい」
と、信秀は家来どもにいっていた。そのとおり庄九郎ならそういうつじつまのあわぬ金は出さない。
「しかし考えてみろ、そういう無駄《むだ》金《がね》をつかわなければ、お互い、単にぎすぎすした悪人いっぴきに過ぎんではないか」
と信秀はいうのである。悪人はついに悪人だけの小仕事しか出来ぬ、と信秀はいう。人を鼓舞させ世をこぞって動員できる力をもたない。
「おれは天下をとるのだ。天下をとるには善い響きをもつ人気が要る。人気を得るには、ずいぶん無駄が必要よ。無駄を平然としてやれる人間でなければ天下がとれるものか」
その、実利を期待せぬ無駄、というのが、たとえば朝廷への献金である、と信秀がいい、そういう種類のことをやらぬ斎藤道三は、しょせんは美濃一国のぬしだ、とみているのである。
その蝮《・》に追われた美濃の正統の主権者土岐頼芸を保護しているのも、いわば信秀の無駄であった。
なるほど、この高貴な亡命者を保護する実利は、多少はある。それを口実に美濃に攻め入って切り奪ってしまう、ということだが、
(それにはすこし時期が早い)
と思っている。信秀は、尾張守護職斯波《しば》家からみれば家来のその家来という分際から身をおこして、尾張半国を切りとった。しかし後の半国がそれぞれ反織田同盟を結んで猛烈に抗戦しているため、隣国の美濃を侵略する、というのは、二段階も三段階もあとであった。
それでも信秀は頼芸を保護し、頼芸のために美濃に出兵し、蝮のために足腰のたたぬほどに叩《たた》きつけられ、いわばそれほどまでしてこの男は「無駄」をやっている。
もっともこの頼芸応援の無駄《・・》は、
――いや、見あげたものじゃ、弾正忠どのは餓虎《がこ》というだけのお人ではない、侠気《きょうき》のあるお人よ。
という評判になり、まわりまわれば世間での信秀の像を巨《おお》きくするために役立ってはいた。
――なんとか、道三を破る手はないか。
と、信秀は美濃平野の合戦で破れて以来、ずっと考えつづけている。
が、表むきは、飯を食いながらでも側近に冗談を言いちらし、ときどき例の高笑いをあげて敗戦などになんの屈託《くったく》も感じていない様子だった。なかなか食えぬ役者なのである。
腰のかるい、勤勉な男でもあった。
この男を取りまいている環境は、敗けて帰ったからといってその手傷を日向《ひなた》で悠長《ゆうちょう》になめていられるようなものではなく、国内の敵どもがかれを一日も休息させない。彼等は野《の》伏《ぶせり》をやとって風のようにあらわれては信秀の所領の村々を焼きたてたり、出城を夜襲してきたりする。
そのつど信秀は、
――よしきた。
と手に唾《つばき》してかるがると出立し、軽兵をひきいて山野を駈け、敵に痛撃をあたえてはさっと帰城する。
人足頭《にんそくがしら》のような毎日である。
その多忙のなかで、美濃の蝮に殲滅《せんめつ》的打撃をうけた織田軍団の再編成をせねばならず、さらに復讐《ふくしゅう》の作戦計画も練らねばならない。
信秀が連歌師宗牧からきいた話では、宗牧が稲葉山城に蝮めをたずねたところ、蝮めは、
「ふん」
と小さく笑って、
「こんどの合戦ではわしも出精《しゅっせい》して、信秀の足腰の立たぬようにしておいたから、これに懲《こ》りて二、三年は手を出して来るまい」
といったという。
憎いではないか。
おそらく計算と読みの深い蝮めは、宗牧という恰好《かっこう》なうわさの伝《でん》播《ぱ》者《しゃ》の口をかりて信秀を挑発《ちょうはつ》し、信秀がかっとなって戦備不十分のまま美濃に乱入する、――そこを痛撃して半死半生の目にあわせてやろうと願っているのであろう。
(ばかめ)
と、信秀は蝮の智恵をあざわらった。
しかし、妙案はうかばない。この信秀を庄九郎こと斎藤道三は、
――尾張の短気者。
というぐあいに見ているが、信秀はそれほど短気でもなかった。待つことを知っていた。妙案が浮かばぬ以上、いらいらして傷を深めるよりもむしろ持久の策をとり、機が熟し条件が好転するのを待とうとした。
が、待つにも、待つ作戦がある。
(大垣城がいい)
とおもった。
大垣城は西美濃の主城をなし、この城は揖《い》斐《び》城とともに、美濃国内で庄九郎こと斎藤道三に征服されていない唯《ただ》二つの城だった。
(蝮めにとって大垣城は、鼻さきに出来た腫《はれ》物《もの》だ)
と、信秀はみていた。事実、道三の居城の稲葉山城から大垣城までは、たった四里半の距離なのである。
(この腫物を肥やして、蝮め吠《ほ》え面《づら》をかくまでいじめてやる)
と信秀はおもい、大垣城への応援をしぶとくつづけることにした。
尾張からどんどん兵糧を送りこむのだ。城というものは兵糧があるかぎり、いきいきと活動し、決して落ちないものである。
信秀は、この大垣城救援方について、近江《おうみ》の浅井氏や越前の朝倉氏にも、
――美濃の斎藤道三入道を制圧するきめ手は、大垣城であります。これは道三の泣きどころになりましょう。ぜひ後詰《ごづ》めの人数を送られることを勧めます。
と手紙をやった。
越前、近江両国は手を拍《う》って同意した。かれらは、隣国のぬしはつねに暗愚であることを望んでいる。道三という途方もない英雄が成長しきらぬうちに叩かぬと自国の国防がおびやかされるのである。
かくて、大垣救援同盟というものができた。
(合戦には負けたが外交で締めあげてやる)
と、信秀は大得意だった。さらにかれは、重臣の織田播磨守《はりまのかみ》、竹腰道鎮の二人に人数をつけて大垣城に派遣し、美濃衆に加勢させた。
かくて年の暮から、大垣城の活動はめだって活溌《かっぱつ》になった。
信秀は、
「もっぱら、道三の領内の野を焼き、村を掠《かす》め、青田を刈れ。道三の軍が出てきたら、いっさい戦わずにさっさと城に逃げこめ」
と命じてある。
稲葉山城から美濃平野を睥睨《へいげい》している道三こと庄九郎も、この野伏戦法には閉口した。
(信秀め、妙なことを考えだした)
と思い、はじめこそいちいち大部隊を出して追っていたが、兵が疲労するばかりで何の益もないことに気づき、大垣城をゆるやかに包囲するだけにとどめた。
積極的な城攻めもしない。
(大垣城は枝葉にすぎぬ。根もとは尾張にある。いずれ尾張の信秀めが図に乗って大挙侵入してくるときを待ち、叩きに叩いて信秀の息の根をとめてやる)
庄九郎は、無理をしない。普通なら積極的に尾張へ攻め入るところだが、この男は美濃の内政の確立にいそがしく、そういう外征はいっさいしなかった。
(蝮め、なかなか手に乗って来ぬようだ)
と信秀は、蝮の用心ぶかい性質にむしろあきれはて、むしろこちらが根《こん》くたびれしてきた。
年が明けて天文十四年になった。
この年いっぱい、大垣城を中心に小さな戦闘が根気よくくりかえされ、そのあいだに信秀の尾張軍団の傷がしだいに癒《い》えて、もはや大作戦をおこせるだけの体力を回復した。
が、信秀は動かない。
ただ、この天才的な外交感覚のもちぬしは、重要な手を一つ打った。
庄九郎に、
「どうであろう、こうして五月の長雨のような合戦をじめじめと続けていてもきりはなく互いに何の利益もない。もともと拙者は、頼芸殿から頼まれて起こした合戦である。もし頼芸殿を足《そっ》下《か》がひきとり、大《おお》桑《が》の隠居城の一つも与えてくれるなら、拙者も手をひく」
「承知した」
と、意外にも蝮はあっさり頼芸を引きとる旨《むね》を返事してきたから、信秀はかえって気味わるがった。
が、よく考えてみると、蝮の承諾は奇怪でもなんでもなかった。なるほどいまでは美濃八千騎のほとんどが斎藤道三の家来になってしまっているが、この家臣団が旧主頼芸に抱いている感傷の心も道三としては無視できず、いわばそういう内政上の顧慮から、
(あとはどう料理するかは別として、いまはとりあえず、美濃に居住権だけは与えよう)
という結論になったのであろう。
(そうにちがいない)
と信秀は、推測した。この推測はあたっていた。庄九郎はじつのところ、信秀が背後で糸をひいている大垣城のゲリラ活動には手を焼いていた。それから受ける経済的損害はばかにならない。
(頼芸の居住権との交換ならやすいものだ)
ともおもった。
頼芸は国境まで織田の兵に送られ、やがて大桑の城館に帰った。
ところが、信秀はずるい。頼芸だけは送りかえしておいて、停戦の義務を果たさなかっただけではない。
大垣城を守っている美濃衆に対し、
「このたび頼芸殿が大桑城にもどられたが、手勢というものを持たれない。されば、この大垣城は尾張衆がひきうけるゆえ、おのおのは頼芸殿をまもるために大桑城に詰められてはどうか」
といった。
城中の美濃衆は、
――尾張衆に美濃のこの城を渡すのか。
とはじめは難色を示したが、なにぶんここ一年あまり、尾張から送られる兵糧を食って籠城《ろうじょう》生活をしており、籠城兵の人数も尾張衆がいつのまにか倍以上にふくれあがっている。承知せざるを得なかった。
かくて信秀は、派遣隊長の織田播磨守と竹腰道鎮のふたりを正式の城代とし、うまうまと美濃の一城を奪ってしまった。
(蝮め、怒るだろう)
と信秀はひそかに様子をうかがっていたが、当の蝮は、これについてなんの抗議も申し入れて来ず、知らぬ顔で沈黙している。
信秀は、働き者である。
道三の沈黙が不安でたまらず、稲葉山城下につぎつぎに密偵《みってい》を送っては様子をしらべさせてみると、道三はこの一件について、
「信秀は小僧だな、智恵に酔っている」
と論評したのみであったという。
が、道三こと庄九郎は、信秀の美濃大垣城奪取を、むしろ好材料として使った。
すぐ近江の浅井氏と越前の朝倉氏に使者を送り、
「織田信秀はおもてむき頼芸殿を加勢すると称して、じつは美濃を略取しようとしている。その魂胆が、この一事で明白になった。これ以上織田に加勢なさればかえって貴家があぶなくなる。それとも貴家は織田を肥えふとらせて、やがてはその餌《えさ》になりたいのであるか」
と言わせた。わざわざ庄九郎からの使いがなくとも、浅井、朝倉の両氏は、織田信秀の意外な出方におどろいている。
「いや、わかった。われわれは美濃の内紛問題から手をひく」
と、それぞれ言った。かれらは、美濃の蝮より、尾張の虎が成長してゆくほうがよりこわくなったのであろう。
庄九郎はさらに浅井氏へ送った使者にこういわせた。
「いずれ当方は大垣城を攻めつぶすつもりであるが、そのとき後詰めの人数を出してもらえればありがたい」
近江浅井氏は、了承した。なぜならば大垣城は近江との国境にちかい。これを織田信秀に奪《と》られてしまった以上、当然、近江の国境がおびやかされる。このさい、浅井氏としては庄九郎と協力して信秀と戦うというほどの積極さはないにしても、大垣城攻防戦がはじまれば、国境警戒という意味の人数は出す必要があった。
信秀は、そういう工作がすすめられているとはゆめにも気づかない。
(蝮め、いまにみよ)
と、こんどは美濃の本拠の稲葉山城を衝《つ》く計画で準備をすすめていた。
その信秀のひざもとの尾張へ、庄九郎の密使がしきりに入っている。
この密使たちは、信秀の尾張における敵である清《きよ》洲《す》城主織田彦五郎、岩倉城主織田信賢《のぶかた》をたずね、
「日は未定であるが、当方では大垣城を攻撃する。信秀はあわてて大軍をひきいて救援にかけつけるだろう。その留守に信秀の古渡城を囲まれてはどうか」
という計画をもってきた。彦五郎と信賢は大いによろこび、
――攻撃の日がきまれば報《し》らせてもらいたい。当方も古渡城を衝く。
と返事し、その後、しばしばこの計画について打ちあわせした。
こうした数種類の計画を進行させながら、庄九郎は稲葉山城で沈黙していた。
天文十六年の冬、風が凪《な》ぎ、天が晴れわたった朝、庄九郎はにわかに稲葉山城に二頭波頭ののぼりを立て、軍鼓を打ち、陣貝を吹かせ、つぎつぎと駈けあつまってくる人数を機敏に部署し、やがて旗をすすめ、大垣城にむかった。
包囲を完了すると、火の出るような攻撃を開始した。
尾張古渡城でこの報に接した信秀は、
「蝮め、ついに出たか」
と軍勢を催し、木曾川を渡り、大垣城救援にむかう態勢をとりつつ、にわかに反転して庄九郎が出払ったあとの稲葉山城下をめざして疾風のように襲い、竹ケ鼻付近の村々を焼きはらいつつ、城下の南、茜部《あかなべ》に野戦陣地をきずいた。
が、そのころには信秀が空けて出てきた尾張古渡城の城下は、織田彦五郎、同信賢らの軍勢の来襲で炎々と燃えあがっていた。
(蝮め、また謀《はか》りおったか)
と信秀はその報に接するなり、陣をはらい、兵をまとめて尾張に駈けもどり、同姓の敵どもが跳梁《ちょうりょう》する古渡城外に至り、そこで彦五郎、信賢の軍をほとんど潰滅《かいめつ》させた。
この合戦では、双方、駈けちがったままで勝敗はない。
その数日後である。庄九郎は自軍の主力に大垣城攻撃を続行させつつ、自分は小部隊をひきい、わざと山間部を通って急行軍し、意外な方面に出た。
多方面作戦は、この男の芸である。
蝮《まむし》と虎《とら》
庄九郎の主力は、怒《ど》濤《とう》が沖の小岩に打ちよせてこなごなに噛《か》みくだくように攻めに攻めている。
大垣城の尾張衆は小勢ながらもよくふせぎ、この激しい攻防戦で西美濃の野は、鯨波《とき》、馬のいななき、鉦《かね》、太鼓の響きで割れかえるようなさわぎだった。
攻城三日目に、庄九郎の軍から五人の足軽が、それぞれ黒光りのする重い鉄製の棒状のものを持ってとびだした。
城壁にむらがっている城方は、
――あれは何ぞ。
と不審な目でみた。
五人の足軽は、あぜ道を駈け、草をとび越えて城の堀端ちかくまで接近すると、横隊になって折り敷いた。
「なんぞ、なんぞ」
城方ではさわいでいる。
そのうち、五人の足軽の手もとから五つの白煙があがり、
ぐわぁーん
と、天地をつん裂くような轟音《ごうおん》がおこったかとおもうと、城壁にいた五人の侍が同時にのけぞり、すーっと落ちてきた。
美濃から尾張、東海地方にかけてのこの戦乱の地に、はじめて鉄砲が出現したのである。
尾張衆ははじめ、
「蝮《まむし》め、魔法《げどう》を使うか」
とあきれたらしい。なぜなら四十間のむこうに白煙と轟音があがったかと思うと、味方の名ある者がうそのように斃《たお》れているのである。
――いや、あれは噂《うわさ》にきく鉄砲というものかもしれぬ。
という物知りもあったが、多くはただ恐怖した。
庄九郎は日没までのあいだに五回、この五人の鉄砲衆を繰り出し、そのつど、百発百中の効果をみせた。
城の士気はにわかに衰弱した。もう城壁の上に立って弓を射たり、石を落したりする者もいなくなった。
心なしか、風のなかで林立している旗幟《はたのぼり》までがにわかに勢いをうしなったようである。
(うむ、験《げん》がある)
庄九郎は、床几《しょうぎ》に腰をおろしながら、つめたい、実験者の眼でうなずいた。
わずか五挺《ちょう》しかない。
それがこれほどの効果をおさめようとは思わなかった。将来、鉄砲さえそろえば、もはや落ちぬ城というのはなくなるであろう。
(諸国に、幾千、幾万の城がある。城というものは由来、陥《お》ちにくいものだ。匹《ひっ》夫《ぷ》もこれに拠《よ》って防げば大軍でさえ攻めあぐむものだが、将来、この兵器が普及すれば小城などはまたたくまに打ち砕かれ、天下の統一は急速度に進むかもしれぬ。この鉄砲を大量に持ち、それをたくみにつかう者が、おそらく天下を取るだろう)
まだ鉄砲が伝来してほどもない。
伝来してほどもなく国産化がおこなわれ、堺《さかい》や紀州根来《ねごろ》で小規模に生産されているが、量を生むほどにはいたらなかった。
庄九郎は、風聞でこの兵器のことをきき、赤兵衛を堺に派遣し、山崎屋の金をもってやっと五挺買わせたのである。操法は庄九郎自身が修得し、みずから稲葉山城内で数百発を射撃し、
(さてはこうか)
とその効果的な射撃法を悟り、さらに工夫して、家来におしえた。とくに正妻小見の方の甥《おい》の十兵衛明智光秀には、
――これからの将は鉄砲を知らねば世に立てぬ。そなたも工夫せよ。
とすすめた。光秀はこのためのちに鉄砲の射術だけでもめしが食えるほどの名人になっている。筆者はいう、このことについては、いずれ後に触れることになるだろう。
話が、前後している。
庄九郎は大垣城攻撃がヤマをすぎた、とみるとみずから小部隊をひきいて別働隊となり、山間部を縫って駈けた、――というところで前章は終わっている。
忽然《こつぜん》と大桑城の正面に出たのだ。この城には、織田信秀との休戦条約によって、土岐頼芸がふたたび居住している。が、信秀がみずから休戦条約をやぶった以上、庄九郎にすれば頼芸を置いておく義務はない。
なんといっても頼芸は美濃の前守護職だから一種の勢力もあるし、その上、大桑城を中心に反庄九郎派が結束してゆくおそれもあった。
「一気にもみつぶせ」
と庄九郎ははげしく下知しつつ、大垣の陣中から連れてきた五人の鉄砲足軽を前進させ、はげしく射撃させた。
これには大桑城の城兵がきもをつぶし、搦《からめ》手《て》をひらいて逃げだした。そのなかにむろん土岐頼芸もまじっている。頼芸は山伝いに北へ北へと逃げ、ついに越前境いを越え、一乗谷に本拠をもつ朝倉氏に保護された。
一方、尾張の織田信秀は――
信秀は、美濃の蝮めに煽動《せんどう》された尾張の反信秀派の騒ぎをすばやく鎮定すると、
「蝮めっ」
と、出陣の前の最後の酒をのみ干し、杯を地面にたたきつけてこなごなに割り、そのまま駈けだして馬にまたがり、美濃にむかって進撃した。
途中、頼芸の遭難をきいた。血の気の多いこの男は鞍壺《くらつぼ》をたたいて憤慨し、
「天も照覧あれ。美濃の蝮の非道を許し給うか、給うまい。織田弾正忠信秀、ただいまよりかの者を討滅して天意に叶《かな》わんとする。弓矢八幡大《はちまんだい》菩《ぼ》薩《さつ》、梵天帝釈《ぼんてんたいしゃく》、四大天王、日光菩薩、月光《がっこう》菩薩、北斗、南斗、七曜、九曜、二十八宿、三千星宿、夜叉明王《やしゃみょうおう》、大黒尊天、毘《び》沙門天《しゃもんてん》、大弁財天女、日域宇廟天照皇大神宮《にちいきうびょうてんしょうこうたいじんぐう》、われをたすけよや」
と知りうるかぎりの神々の名を、ならべ、全軍に聞こえる豊かな声量で呼ばわったから、信秀につき従う織田家の将士は、
――われらこそ正義の軍ぞ。
と感奮し、湧《わ》きあがるような武者声でこれに応じた。
信秀は国境の木曾川べりまで来ると、鞭《むち》をあげて遠霞《とおがすみ》にかすむ稲葉山城を指し、
「蝮はいま大垣城外にある。いま一気に河を渡り、脚のつづくかぎり息のつづくかぎり駈けて一挙にあの稲葉山城を屠《ほふ》る」
と、信秀みずから先頭に立ち、水音もすさまじく馬を入れた。遅れじと将士がつづき、やがて一万余の軍勢がことごとく河に入り、人筏《ひといかだ》で河の流れもとまるほどに群れひしめきながら対岸へ押しあがった。
信秀の勇猛さは、類がない。勇猛な上にこの男ほど、戦士の心を知っている男はない。
戦いは、狂である。
というのが、信秀の定義であった。将士を打って一丸としてことごとく狂たらしめるのだ。狂の火を点ずるのは、信秀の得意とするところだった。馬上、全軍に正義を鼓《こ》吹《すい》したのもそうだし、知りうるかぎりの神々の名を呼ばわったのもそれである。これによって将士は平素に倍する力を発揮するであろう。
織田軍団は、隣国の野を切りさくように驀《ばく》進《しん》した。
稲葉山城が、しだいに近づいてくる。
「者共、駈けよ、駈けよ、蝮は留守ぞ」
と行軍中の信秀は、たえまなく使番《つかいばん》を繰り出しては諸隊の脚を鼓舞した。
「はるかに木曾川の方面にあたって、人馬の砂《さ》塵《じん》のあがるのがみえまする」
という注進を庄九郎がきいたのは、そのころであった。
「詳しく物見して来よ」
と物頭級の斥候《せっこう》を走らせ、おのれはやおら床几《しょうぎ》から腰をあげながら、
「ちぇっ」
と、目の前の大垣城を見て舌打ちをした。城はすでにあと半日猛攻をつづければ陥ちるところまで行っているのである。
(信秀というやつもよく働く奴《やつ》よ)
とうんざりしながら、すばやく軍を部署し半数を残して大垣城にあたらせ、あとの半数に対しては、
「一令あり次第、神速に稲葉山城に戻《もど》れ。遅れる者はゆるさぬ」
と命じ、退却の支度をさせた。
そのうち物見の騎馬隊が馬をあおって馳《は》せもどってきて、
「尾張の織田信秀どのに相違ありませぬ。信秀どのみずから中軍より前に乗り出し、全軍風のように駈けております。稲葉山の御城にむかうものと思われます。左様、人数は一万五千ほど」
「貝を吹け」
一声、天にひびきわたるや、庄九郎の軍団の半分は潮の退《ひ》くように陣をはらい、稲葉山城にむかって駈け出した。
庄九郎、先頭。
「駈けよ、駈けよ」
と人馬の足をはげまし、あっというまに全軍ことごとく稲葉山城に入ってしまった。
その直後、信秀の軍が城下に乱入し、息つく間もなく城下の民家、寺、武家屋敷を手あたり次第に焼きはじめた。
どっと猛炎が、稲葉山の山麓《さんろく》のあちこちにあがり、やがて一面の火の海となり、黒煙は天をおおって、すさまじい光景となった。
信秀はその火を縫って城を攻めに攻め、かつ火箭《ひや》をさんざんに山麓の城郭内に射込んだから、城郭のあちこちから火の手があがった。
「それっ、道三を城ごと火《ひ》炙《あぶ》りにせよ」
と信秀は、騎馬であちこち駈けまわりながら精力的な指揮をした。
感心したのは、当の蝮の庄九郎である。
「信秀め、なかなか精を出すわ」
とつぶやいたが、敵のこんどの戦さぶりが一兵にいたるまで以前とちがうように思われた。全軍、死力をつくしている感じなのである。
庄九郎は赤兵衛をよび、
「そちは、消火につとめよ」
と、足軽小者、それに城中の女にいたるまで組織して消火隊をつくらせ、これには消火に専念させた。戦闘員が消火に手をとられて防戦がゆるむことをおそれたのである。
防戦だけしていたのではない。
機をみては城門をひらき、人数を突出させ敵に小打撃をあたえてはすばやく退却させた。それを何度も繰りかえした。
決して、決戦はしない。
理由があった。
(信秀めは、短気者じゃ。火の玉になって攻めているようだが、やがて疲れる。疲れるのは、まず二日目か)
それまでのあいだ、「蝮」の戦法は、いかにも、
――弱し、弱し。
という印象を敵にあたえるように、受け身受け身で防戦した。
とにかく、火事がたまらない。ここを消せば隣りで火を発し、応接にいとまがなかった。
消火隊長の赤兵衛は、終日火をくぐって駈けまわっているために、日没を迎えたころには、髪は焼けそそけ、具足のおどし《・・・》糸もあちこち焦《こ》げて、すさまじい姿になった。
「殿、殿」
と、さすがのこの男も庄九郎のもとに駈けてきて、悲鳴をあげた。
「火の手の脹《ふくら》まぬうちにあちこちと駈けて消してまわっておりますものの、このぶんではやがて手がまわりかね、どっと大きい炎《やつ》があがってしまえば手に負えなくなりますぞ。このように手ぬるい戦さばかりなさらず、なぜどっと押し出すことをなさらぬ」
「そちは、火を消しておればよい」
「しかし、ご覧のとおりじゃ」
と、両腕を垂れて泣きそうな顔をした。
「なるほど」
庄九郎は横目でみて、くわっと口をあけ、声を立てて笑った。
「火炎地獄の赤鬼が、亡者《もうじゃ》に負けて逃げだしてきたような姿だな」
「ご、ご冗談を」
「いまから音《ね》を吐くな。今夜からあすいっぱいの昼夜、まだまだ火を消さねばなるまい」
「具足も台無しじゃ」
「火消しに具足が要るか。その具足をぬいで濡《ぬ》れむしろを一枚かぶれ。ただし、カブトをかぶり、籠手《こて》、革わらじだけは付け、それも間断なく濡らしておけ」
庄九郎の声は、平日とかわらない。錆《さ》びたよく透《とお》る声である。
夜に入っても、城下はあかあかと燃えているから、織田信秀はその照明をたよりに昼とおなじ勢いで猛攻をつづけた。
(やるやる。あの男は寝ぬのか)
と庄九郎は、織田信秀という男の異常な精力に舌をまいた。
信秀は――
むろん、諸隊をたくみに部署しつつ、半数は交代々々でひき退《さ》げて、路上や焼けあとの民家で仮眠をとらせている。
しかし、夜明け前になって総員を戦闘位置につかせ、
「敵も疲れておる。疲れは互いだ。こうなれば励む側が勝つ。しゃにむに突撃してきょうの昼までにあの城を踏み砕いてしまうぞ」
戦さのもっとも怖《おそ》るべき敵は、兵の疲労である。兵は疲労してくれば、そのへんにころがっている牛《ご》蒡《ぼう》か大根のようになりはててしまい、ついには逃げる体力だけを残して、戦線をうろつくだけの存在になってしまう。
信秀はそれを知りぬいている。
しかしこの男の戦争の仕方は、庄九郎などよりもより強烈に賭《と》博《ばく》師《し》の性格があった。敵味方の兵の疲労度を賭《か》けるのである。というより、戦闘二日目の午前中ならば、なお自軍の体力は残っている。この体力のかぎりをつくして攻め立て、一挙に勝敗を決してしまおうというのであった。賭博でいえば、自分の有り金を、最後の勝負に張ってしまうのと似ている。
が、庄九郎のやり方はちがっていた。兵の賭博性よりも計算性に富んでいるといっていい。疲労を小出しにし、体力をあとへあとへと残させて、最後に、
――かならず勝つ。
という機をみつけて、どっと体力を放出するのである。
そのために、戦闘員にはいっさい消火させず、赤兵衛の隊に専念させた。赤兵衛の隊はこの疲労で倒れる者が続出したが、庄九郎は眉《まゆ》一つ動かさなかった。消火隊など、いかに死ぬまで疲労させようとも、かれらが最後の戦闘に出るわけではなかったから、その体力を惜しいとはおもわなかった。
その日の陽《ひ》が昇った。
信秀はいよいよ振い、ついに大手門を打ち破った。
大手門のすぐ内側に、庄九郎が数寄《すき》をこらして造営した例の自慢の居館がある。信秀の重臣平手政秀がかつて使者となって訪ねてきたとき、庄九郎が引見した新館《しんやかた》であった。
大手門に乱入した織田軍は、その新館を攻め立て、おびただしい犠牲をはらいつつ何度も肉薄した。
すでに、山の中腹の櫓《やぐら》まで指揮所を後退させている庄九郎は、新館をまもっている猪《いの》子《こ》兵助に使者を走らせ、
「火を放って焼き、三ノ櫓まで後退せよ」
と命じた。
こんどは、庄九郎自身が自分の城に放火したことになる。焼いて、信秀に新館を城攻めの拠点につかわれることをふせいだのである。
とにかく、信秀は大手門の内側まで攻め入ったが、これからの攻撃が困難だった。胸突くような山路を、登っては落ち、這《は》っては落ちしながら攻めねばならなかった。
ついに午後になった。やがて日も傾いてきたころには、織田軍の疲労ぶりは中腹から見おろしている庄九郎の目にもはっきり見て取れるようになった。
庄九郎は、逐次、多人数を繰り出して行って、織田軍の打撃を大きくした。敵の一拠点を奪ったものの信秀はだんだん防戦する立場に追いこまれ、日暮近くになると、
(もはや、これまでか)
と、さすがの信秀もこれ以上の防戦が不可能なことを知り、いったん城外の野に退いて兵を休養させ、疲労の回復を待って攻撃を再興する決意をし、
「退《ひ》き鉦《がね》を打て」
と命ずるや、いったん奪った新館を捨てて兵をまとめ、さっさと城外の野に退いた。
が、賭博をあきらめたわけではない。この夜半、総攻撃をおこすつもりで、実は思いきった手を打った。
大垣城の籠城《ろうじょう》軍に対し、
――城を捨てて、われと合流せよ。
と命じたのである。
信秀の命により、大垣籠城軍は城を出て野外に突出した。
(見たぞ)
と、心中叫んだのは、山腹で美濃平野の夜を見おろしていた庄九郎であった。はるか大垣城の方角にあたっておびただしい松明《たいまつ》が動くのをみて、信秀の決戦意図を察したのである。
(信秀の本軍はまだ準備が出来ていまい。めしも食っていよう。仮眠をとっている者もあろう。頃《ころ》はいまだ)
と庄九郎は、陣貝も吹かせず、鉦太鼓も打たず、伝令を諸隊に走らせて隠密《おんみつ》のうちに作戦意図を徹底させ、全軍を八隊にわけ、しずかに、しかし津波の寄せるように信秀の軍を包囲し、どっと打ちかかり、一兵もあまさじと攻撃した。
この庄九郎が断行した全軍投入の夜襲で織田軍は文字どおり粉砕され、四散し、ほとんど三分の一が屍《しかばね》となり、あとは三騎、四騎と危地を脱出し、信秀も命からがら尾張へ逃げかえった。
このときの織田軍の戦死者は五千人といわれ、この規模の戦闘では戦国史上空前の敗北とされた。
織田兵の死体は二カ所に大穴を掘って埋められた。塚は現在、岐阜市神田町の円徳寺と同元町二丁目に残っている。通称、織田塚とよばれる。
信秀は、この敗戦でほとんど再起不能にちかい打撃をうけ、その後めだった活動が熄《や》んだ。
濃《のう》姫《ひめ》
(蝮めにはかなわぬ)
と、織田信秀はこんどほどそうおもったことはない。兵の三分の一をうしない、身一つで美濃平野から尾張古渡城に逃げかえった信秀は、まる二日、城内の寝所でごろごろ寝てばかりいた。
(この敗勢をどうするか)
という思案である。
敵は、美濃の蝮だけではない。国内にもいるし、東方にもいる。東方の敵は駿河《するが》・遠江《とおとうみ》を根拠地とする今川義元の大勢力であり、隣国三《み》河《かわ》の松平氏も今川と同盟して尾張の信秀に敵対している。
さいわい、信秀はこの東方の敵と戦ってはほとんどやぶれたことがないばかりか、すでにかれは三河の一部を侵略し、松平家数代の居城であった安祥城《あんじょうじょう》をうばい、この城を東方侵略の拠点として活動させていた。
いわば、東海の常勝将軍である。
(そのおれが美濃の蝮に)
とおもうと、腹が立つよりばかばかしくなる。なぜ兵を出すたびに負けるのか、自分でもよくわからない。
そのうち、美濃で敗れた家来どもが泥《どろ》と血でまみれた姿でもどってきた。
信秀はみずから城門まで出て、かれらにいちいち声をかけ、ときどき大声で笑い、
「あっはははは、怪我敗けじゃ、怪我敗けじゃ。いや、みなも大儀々々」
と唄《うた》うようにいった。
敗残の士卒どもも、自分たちの殿様がこの悲運のなかでも持前の陽気さをうしなっていないことにほっとし、沈みがちな士気が多少ともよみがえった。
この混雑のなかで信秀が怖《おそ》れていることが一つある。
(蝮めは、こんどこそ図に乗って尾張に攻めよせてくるのではあるまいか)
ということだった。蝮のふしぎさは、挑《いど》みかかってくる相手に噛《か》みつくばかりで、相手が半死半生になって逃げだしても、どういうわけか追ってこないことであった。
(しかし今度はわからぬ)
とおもい、信秀は敗退してもどって三日目に、にわかに軍勢を催した。さきほどの戦闘に出た者は休養せしめ、留守居をしていた人数をあつめて二千人の部隊を編成した。
「もう一度、稲葉山城に押し寄せる」
と、みずから先頭に立ち、木曾川を越えて美濃平野に入り、まだ味方の屍がころがされている新戦場にふたたびあらわれた。
夜である。
信秀は疾駆して稲葉山城下に突入すると、馬を駈けめぐらせて城下の家々に放火しはじめた。火の手があちこちにあがり、城内で急をつげる太鼓、半鐘が鳴りはじめると、
「退けえっ」
と絶叫しつつ信秀はまっさきに逃げ、木曾川までもどり、そこで馬をとめ、人数がそろうのを待って用意の船に分乗し、さっさと尾張に逃げもどった。
(こうしておけば、蝮めはまだ織田に力ありと思って攻めて来ないだろう)
という計算だったが、なににしてもこの男ほどの働き者はすくない。
それから数カ月、信秀は美濃の蝮が尾張に兵を動かすかどうかを、かたず《・・・》を呑《の》んで見まもっていたが、ふしぎなことに稲葉山城は鎮《しず》まりかえったまま、旗の動く様子もないのである。
(ぶきみなやつだ)
と信秀はつくづく思った。まるでひとり相撲をとらされているようなものであった。
が、蝮どころか、駿河の今川義元が信秀の敗報をきき、三河の松平広忠《ひろただ》とともに兵を動かして三河安祥城の奪いかえしに来る、という報をえた。
ただし、風聞である。
「ありそうなことだ、たしかめてみろ」
と、人に命じた。信秀はかねて今川氏の情勢をさぐるために数十人の間者を駿《すん》府《ぷ》(静岡)城下に入れ、商人、侍奉公人などの渡世をさせてある。
それらの何人かが帰ってきて、
「今川殿も、三河の松平からしばしば泣きつかれ、ついに安祥城の奪還を約束したげにござりまする。しかしいますぐには兵を動かしますまい。寒《かん》気《き》が去って、春、芽吹くころになりましょう」
ということであった。
信秀は、正直なところ安《あん》堵《ど》の胸をなでおろした。
そういう悪条件下でも信秀は好きな連歌をやめなかった。日課の馬責めもやめない。やめると、
――さすがの殿も、たびかさなる負けいくさで銷沈《しょうちん》なされたか。
と家中の者がおもうし、城下にそういううわさも立ち、ついには国中の者がそういう目で信秀を見、隣国にまで知れてしまう。
信秀は毎朝、暗いうちに起き、松明をともさせて城内の馬場へ出る。
ちょうどひと月ほど前、奥州の馬商人がみごとな青毛の駿馬《しゅんめ》をもってきたので、信秀は毎朝これに乗り、小《こ》半刻《はんとき》ばかり汗みずくになって責める日課が、このところつづいている。
この朝も陽の昇らぬうちから乗りまわし、東が白みはじめたころ、城内の「羽黒松」という根あがり松のところまできて鞍《くら》からおりようとすると、
「お父《でい》」
という声が、松の根方で湧《わ》いた。根の上に腰をかけている小僧がいる。
「なんじゃ、吉法師か」
信秀は口取りに手綱をわたし、大股《おおまた》でちかづいた。
「吉法師ではない。信長じゃ」
と、その小僧はいった。なるほど、小僧のいうとおりであった。かれは十四になる。すでに去年に元服させて、織田上総介《かずさのすけ》信長というしかつめらしい名乗りを名乗らせてあった。
数日前、この小僧が平素住んでいるなごや《・・・》城からやってきて城内であそんでいるということを、信秀は傅人《めのと》の平手政秀から聞いて知っていた。
会うのは、けさがはじめてである。
「あっははは、これは失礼した。つい口ぐせで吉法師といってしまう」
「お父《でい》は、呆《ぼ》けたな」
と、小僧は腰をおろしたまま、立ちもせずにいった。呆けるというような年ではない。信秀はまだ四十になったばかりである。苦笑しながら信秀が小僧の手もとをのぞきこむと、信長は両掌《りょうて》に大きな竹筒をかかえ、それを口にあててはしきりと啜《すす》りこんでいる様子であった。なかに粥《かゆ》が入っているらしい。
「そちは、一人か」
「ひとりだ」
と、信長はうなずいた。信秀はあきれ、
「中務《なかつかさ》 (平手政秀)の爺《じ》ィが泣いておったぞ、そちはすぐ城内をひとりで脱けだすそうではないか」
「城外《そと》のほうがよい。川や野や村には、おもしろいことがいっぱいある」
「なるほど」
信秀は笑ってとがめない。この男は、子供に対して放任主義というよりも、まるで躾《しつけ》をするというあたまをもっていないようであった。
「いまも、脱けてきたのか」
「夜中から脱けている。大手門の足軽衆とあそんでいた」
「それはなんだ、粥か」
と、信秀が竹筒をゆびさすと、信長ははじめて笑い、
「お父《でい》も飲め」
と、父親に竹筒を押しつけてきた。この小僧はその生母からさえうとまれ、小僧自身もたれにも懐《なつ》かぬたちだが、ふしぎと父親にだけは小僧なりに愛情をもっている。
竹筒は、その愛情の表現らしい。
信秀は、せっかくの粥をかわいそうだとおもったが、ちょうど馬責めでのど《・・》がかわいていたので、
「では、すこし貰《もら》おう」
と受けとり、ふちに口をつけ、いきなり傾けてのどに流しこんだが、流しこんでからげっと吐いた。粥ではない。くさい。たまらなく臭かった。
「な、なんだこれは」
「牛の乳よ」
と、信長は地面にこぼれた乳をもったいなそうにながめた。
「そちは、かようなものまで飲むのか。牛になるぞ」
「足軽衆もそう心配していた。牛になるかならぬか、飲んで試している」
「こいつ」
信秀はあきれてしまった。事情をきいてみると、夜中こっそり寝所をぬけだして大手門の足軽小屋へゆき、足軽をおどしつけて城外へ出、農家の牛小屋へ忍びこみ、足軽に授乳期の牛をおさえつけさせ、信長自身腹の下にもぐりこんで乳をしぼったのだという。
(こいつ、やはり痴呆《うつけ》かな?)
と信秀はしみじみ、この奇妙な小僧のつらを見た。家中ではひそかに、
――たわけ殿。
とよんでいる。そういう蔭口《かげぐち》も信秀はきいて知っている。生母の土田御前も、
――なぜあのようなうつけ者を世継ぎになされました。御子も多いことでありますのに、
といったこともある。精力漢の信秀は嫡子《ちゃくし》庶子ともに十二男七女という子福者で、この信長は次男であった。
――いや、吉法師は見込みがある。ただの狂児かも知れぬが、あるいは織田家を興す男になるかもしれぬ。
といっていた。もっとも世継ぎにするとき老臣のなかで難色を示す者が多く、家老の林佐渡守通勝も、
――吉法師さまは、よくはござりませぬ。御家の将来《すえ》をお思いくださるならば、勘十郎さまこそしかるべきか、と存じまする。
と諫《いさ》めた。勘十郎はすぐ下の弟で、行儀もよく、利口で評判の少年である。しかし信秀は首をふり、
――勘十郎は利口者だ。しかしただそれだけのことだ。
といって拒《しりぞ》けた。
「なあ、上総介よ」
と、信秀は友達のようにわが子をよんだ。
「ふむ?」
「ひどい服装《なり》をしている」
と信長の胸を指した。小《こ》袖《そで》はどろどろによごれ、いつも右袖をはずし、袴《はかま》は小者のはくような半袴《はんばかま》をつけていた。それだけでなく、どういうまじないなのか、腰のまわりに火打石を入れた袋やら、小石をつめこんだ袋やら、五つ六つ、ぶらさげている。
大小は、品のわるい朱鞘《しゅざや》であった。それをカンヌキに差している。
まげが、珍妙であった。この小僧の好みなのか、茶筅髷《ちゃせんまげ》なのである。元結《もとゆい》のひもも尋常でなく、真赤な糸でむすんでいた。
「その袋になにが入っているのかね」
「火打石などだ。便利でいい」
「なるほど」
なぜわざわざ火打石をもって歩かねばならぬのか、信秀には理解できなかったが、この子にはこの子なりの理由があるのであろう。
(思いもよらぬことを考える子だ)
感心はできないにしても、常識的でない、しかもなにかきわめて合理的な理由がありそうなこの扮装《ふんそう》に、信秀はこの少年の才能の可能性をぼんやりと感じとっていた。
「お父《でい》はまた蝮に敗けたか」
「まけた」
信秀は、正直にいった。
「蝮は、どうやらおでい《・・》よりつよいようだ。しかしおでい《・・》、どんなつよいやつでも、いくさの仕方によっては勝てるものだ。悲観することはない」
「べつに悲観はしておらぬ」
「それならばよい」
(ばかにするな)
と、信秀は苦笑した。
織田家の家老で信長の傅人《めのと》をも兼ねる平手中務大輔《なかつかさだゆう》政秀が、信秀の御前にすすみ出たのはその日のひる前である。
(はて、吉法師のことで泣き言でもいうのか)
とおもったが老人はべつなことをいった。
「美濃の一件でござる」
「ほう」
「殿には、山城《やましろ》入道どの(道三・庄九郎)に姫《ひめ》御前《ごぜ》がおわすことをごぞんじでござるか」
「知らん」
「以前、申したことがござる。いまはすでに十三歳になり、美濃の国中ではこの姫御前の美しさをたたえるうわさで持ちきりでござりまするわい」
「蝮めの子が?」
信秀は、意外な顔をした。
「なにを申される。山城入道どのはあれはあれで凛然《りんぜん》たる公達顔《きんだちがお》のおひとじゃ。それに正室の小見《おみ》の方は美男美女系といわれる明《あけ》智《ち》氏の出で婦人ながらも才あり、文雅の道に秀でておわす。そのお腹からでた姫御前ゆえ、才色国中《こくちゅう》にたぐいなしという評判もうそではありますまい」
「名は?」
「はて、存じませぬ」
政秀はくびをひねった。女子の名というのは家族のあいだのよび名で、公的なものではない。政秀の耳にまで入っていないのである。
姫は、帰蝶《きちょう》とよばれていた。
しかし政秀は、
「いま仮に、美濃の姫でありますゆえ、濃姫とおよびしておきましょう。天文四年三月のおうまれでございますから、若君より一つ下におわしまする」
「ほう、吉法師より一つ下か」
「左様」
と、平手政秀はそれだけ言い、あとはなにもいわず、じっと信秀の顔をみて口をつぐんだ。
(ふむ。……)
信秀は、首筋が真赤になった。政秀があたえた暗示は、信秀にとって多少の屈辱をともなうものだった。合戦ではとうてい蝮めに勝てぬため結婚政策によって和《わ》睦《ぼく》をはかるほうがよい、ということなのである。
「蝮めが、手ばなすかな?」
と信秀はわざと軽く言い、中指をまげて小鼻のあたりをことさらに掻《か》いた。
「左様、むずかしゅうござりまするな」
というのは、こちらが負けているのである。嫁取りの場合、つまり濃姫が美濃から人質として来るわけで、勝っている蝮としては寄越すはずがないだろう。
「そのうえ、山城入道どのにとってたった一人の娘御でござりまする。なにしろ非常な可《か》愛《わい》がりようでござってな、城に客がくるたびに連れてきて見せ、その利発ぶりを吹聴《ふいちょう》なされておるような狂態で」
「ほう、狂態か」
信秀には、目にみえるようであった。信秀は十二男七女も子供があるくせに、かれらを格別に可愛がるということがない。
(蝮らしいな)
とおもった。あく《・・》の強い人間ほど子を可愛がるという。つまり自己愛が強烈で、その自己愛の変形として子を溺愛《できあい》するのであろう。
「よし」
信秀は、右拳《みぎこぶし》でかるく掌《てのひら》を打った。
「政秀、その姫を若にもらおう。すぐ美濃へ発《た》つがよい。口上《こうじょう》はこうだ。両家の将来《すえ》ながい和睦《むつみ》のために、織田家の世《よ》嗣《つぎ》の室として濃姫をおむかえしたい、と。政秀、口上のときにわるびれてはならぬ。堂々というのだ」
「心得ましてござりまする」
政秀は信秀の前をひきさがり、なごや城内の屋敷にもどってすぐ出発の準備をととのえた。
まず、前触れとして人を美濃にやり、斎藤山城入道の取次ぎに会い、
――近く、織田弾正忠の家老職にて平手中務大輔政秀が主人の使いとして参りまするゆえ、よろしくお手くばりねがわしゅうござりまする。
と口上させた。
庄九郎は、
「はて、平手中務が」
と、くびをひねった。以前に信秀の使者として来たことのある武骨な老人である。それがなにをしに来るのか。
(あの老人は、たしか、以前にきたとき、自分は吉法師の傅人であると申していたな)
とふと思いだしたが、まさかあれほど叩《たた》きつけられた信秀が、ほうほうの体で尾張に逃げかえったあと、こんどはぬけぬけとこちらの姫を貰いたいなどと申してくることはあるまい、とおもった。
しかし諸事、周到な庄九郎のことである。
すぐ耳次をよび、
「伊賀者を何人か尾張に入りこませ、吉法師という世嗣がどんな者か、くわしくしらべて来させるように」
と、命じた。
京の灯
それからほどもない。
庄九郎が京のお万阿《まあ》に会うべく逢坂山《おうさかやま》を越えたのは、紙を漉《す》くころであった。
むろん微行《しのび》の旅である。山伏《やまぶし》に姿をやつし、耳次ひとりを連れている。庄九郎主従が鴨川《かもがわ》にかかる三条橋を西にわたったころに、冬の日が愛宕《あたご》の山にしずんだ。
庄九郎は板橋をほたほたとわたりながら、薄暮の河原をながめた。
河原には、そこに二つ、むこうに五つというぐあいに、赤く燃えさかる火が点々と薄暮にうかんでいる。紙漉きの職人たちが、河原に大釜《おおがま》をもち出して紙のもと《・・》の楮《こうぞ》やミツマタの木を煮ているのである。
「耳次、あの火をみよ。冬の夕暮らしい風《ふ》情《ぜい》であることよ」
「はい、左様で」
耳次は気のない返事をした。この飛騨《ひだ》うまれで美濃ずまいの男には、めずらしい風景ではない。美濃は天下でも鳴りひびいた紙の生産国で、げんにこんど出かけるときにも、木曾川や長良川のほとりでこれとおなじような光景をみてきた。
「以前は、冬になればもっと多くの釜がこの河原に出たものだ。それが、これほどすくなくなった」
「京の紙がおとろえましたので」
「ふむ」
庄九郎は満足そうにうなずいた。
「わしが衰えさせたのだ。美濃から京へ、安くて良質な紙をどんどん流れこませた。京の紙座の連中はわしを悪魔のように憎み、美濃の斎藤道三ほどの悪党は、三千世界をかけめぐってもまず居まい、というようなわるくちを言いふらした。紙地獄に堕《お》ちるともいった。紙地獄とはどんな地獄かは知らぬが、ともかくいま京でわしほど評判のわるい男も居ないだろう」
「美濃でもわるうございますな」
耳次は、クスリと笑った。悪い、というのが男の強さをあらわす一種の美学的なことばで、庄九郎には不快にひびかない。
「美濃どころか、近江《おうみ》、越前、尾張、三《み》河《かわ》、遠江《とおとうみ》、駿河《するが》、どこでもわるい。天下第一等の悪人ということになっている」
破壊者なのである。守護職を追放し、ふるくからの商業機構である「座」を美濃においてぶちこわした。魔法のようにあらゆる中世の神聖権威にいどみかかり、それを破壊した。それをこわすためには「悪」という力が必要であった。庄九郎は悪のかぎりをつくし、ようやくその破壊のなかから、「斎藤美濃」という戦国の世にふさわしい新生王国をつくりあげた。
(しかし、お万阿と約束した「天下」が、はたしてとれるかどうか)
とれる、とおもっていたのは、若年のころである。年を経《へ》るに従ってそれがいかに困難な事業であるかがわかってきた。なにしろ、美濃という国を盗《と》ることに二十年以上の歳月がかかってしまった。あとは東海地方を制圧し、近江を奪《と》り、京へ乗りこむ。それにはもう二十年の歳月が必要であろう。
(いつのまにか、老いた)
五十に近くなる。
(もう一つの一生が)
と、庄九郎はおもった。
(ほしい。天がもう一回一生を与えてくれるならば、わしはかならず天下をとる。とれる男だ)
が、のぞむべくもない。
それから小半刻のちに、庄九郎は油問屋山崎屋の奥座敷で、お万阿とさしむかいで物を飲み食いしていた。庄九郎は酒をのみ、お万阿は菓子を食った。
「どこぞお体がおわるいのでございますか」
と、お万阿がきいたのは、これで二度目である。いつものようではなかった。この男が京に帰ってくるときは、いつもこの男の人生がすごろくのように一《ひと》目《め》あがったときで、いつのときもお万阿が熱気にあてられそうになるほど、意気軒昂《けんこう》としていた。
「わるくない」
妙に気弱そうに口もとをほころばせた。その口もとにはえているひげに、急にしらが《・・・》がめだっている。年をとったようであった。
「お老《ふ》けなされましたな」
「それよ」
とひと息に酒を干し、ひげに残ったしずくを手の甲でぬぐった。
「老けた。そのわびに来た」
「わびに?」
お万阿はくびをかしげた。老年は自然現象ではないか。
「すまぬ。こうして詫《わ》びる」
と、庄九郎は手をついた。お万阿はおどろいた。この権力きちがいが、権力にあこがれるあまりとうとう気がくるったのではないかとおもった。
「京には、もどれそうにない」
「えっ」
「美濃はやっと奪ったが、日数がおもったよりかかりすぎた。このぶんでは東海、近江と征服して京に旗をたて、将軍になるなどは夢であろう」
「旦《だん》那《な》さま」
お万阿はあやまられてぼう然としている。なぐさめるべきか、それとも、お約束がちがう、として激怒すべきか。お万阿はとっさにまよい、菓子を一つ食った。
「京都を出て美濃へ旅立つとき、将軍になって帰ってくる、そのときはそなたが将軍の北ノ方だ、といった。……そなたは」
「馬鹿《ばか》ですから待ちました」
とお万阿は、菓子をぐちゃぐちゃ噛《か》みながらいった。いまさらそう言われても、怒りもできず、悲しみもできず、ひどく現実感のない話になっている。
ただお万阿は、庄九郎の突っ拍子もない野望のために、ここ二十余年、妻でありながら寡婦《かふ》同然の境遇におかれてきたことは、これだけは手ざわりのたしかな実感であった。
「では旦那さま、美濃をお捨てなさい」
と、お万阿はいった。
「捨てて、京にもどっていただきます。まさか、将軍になれなかったからこのまま京へかえらず美濃に居すわる、などとおっしゃらないでしょうね」
「ふむ。……」
にがい顔で、庄九郎は杯のなかの液体を見つめている。お万阿のいうことが、理屈としては正しい、とおもった。お万阿をさんざんに待たせ、店をまもらせ、その店のあがりをずいぶんと美濃へ送らせた、いまさら美濃から帰らぬ、というのはどうも言いづらいことであった。
「それとも、美濃が惜しいのですか」
「惜しい」
と叫ぼうと思ったが、庄九郎は声をおさえ、なお杯の中を見つめている。
「それとも美濃にいらっしゃる小見《おみ》の方《かた》や深《み》芳《よし》野《の》殿やそのお子達とわかれるのがつらいのでございますか」
「言うな」
小さな声でいった。
「あれらの事はいうな。あれは斎藤道三の妻子であって、山崎屋庄九郎の妻であるそなたとは赤の他人だ。あれらのことをいうと話がややこしくなる」
「山崎屋庄九郎さま」
「なんだ」
「もう二度と美濃へ帰り斎藤道三などというえたいの知れぬ悪党におなりあそばすことは、おやめなされませ」
「この地上から斎藤道三という者を掻《か》き消してしまえというのか。さすれば尾張の織田信秀めはよろこぶであろう」
「織田信秀かなにかは存じませぬが、この山崎屋は油問屋があきないでございます。左様な物々しい名前など、もはや要らざること」
「あっははは、信秀がよろこぶぞ」
庄九郎が力なく笑ったのは、なかばお万阿の言うとおりにしようかともおもったのである。これは想像するだけでもゆかいなことであった。この戦国の人間地図から、斎藤道三という天下でもっとも強豪な者が、こつねんと消え去るのである。尾張の織田信秀は、あわてて信長・濃姫《のうひめ》の縁談をとり消し、足音もとどろに美濃へ攻め入るであろう。尾張と美濃とは、日本列島のなかではあぶら肉といったような肥《ひ》沃《よく》広大の地である。この二国をあわせ持てば天下を取ることもむずかしくないであろう。
(されば織田信秀が天下を取るか)
庄九郎は、さまざまに想像し、その想像をむしろ楽しんだ。
「いかがでございます。このまま山崎屋庄九郎として世をおわって頂けませぬか」
「そうさな」
あごをなで、ざらざらと撫《な》でながら剃《そ》り残しのひげをクンと抜いた。それもよいかもしれぬとおもった。
「お万阿のすきな庄九郎さまというのは、さっぱりしたいい男であるはずです。天下を得られぬとわかれば、さっさと美濃などを捨てて京で隠棲《いんせい》をし、風月を友に、きょうは舞、あすは連歌というようなぐあいに世をすごされるかただとおもいます。ちがいますか」
「お万阿だけさ、そう思ってくれるのは。東海のあたりではわしは食いつけば離さぬ蝮《まむし》だといわれている。われながらしぶとい」
「うん、しぶとい。お万阿もそう思います」
と、お万阿は笑いだした。
「かくべつにしぶといお方だけに、いったん無駄《むだ》だとわかれば、存外、余の人よりもさばさばと捨ててしまう、そういうお人ではありませぬか、山崎屋庄九郎という方は」
「かもしれん」
庄九郎もそう思えてきた。
「幼少のころから薄ひげのはえるまで、わしは寺門で暮らした」
「妙覚寺の法蓮房《ほうれんぼう》」
「ふむ、そういう名だった。人間、最初に染《し》みついた暮らしのしきたり、物の考え方の習慣からついに終生はなれられぬものかもしれぬ。わしは寺門をきらって俗世間に出た。出た以上、強者にならねばならぬとおもい、できるだけ仏門のことをわすれようとした。仏法は所詮《しょせん》は敗者に都合よき思想だからな、あれをわすれねばなにもできぬとおもった。そう思っていままで来たが、齢《とし》かな」
「え?」
「齢だろう。ちかごろになって妙に諸事がわずらわしくなり、できればもう一度出家遁世《とんせい》したいと思うことが多い」
「だから京にもどられますか」
(それは別だ)
と言いたかったが、庄九郎はお万阿の語気に圧され、なんとなくあいまいにうなずいた。
「うれしい」
とお万阿はいったが、なおうたがわしそうでもあった。あのね、といった。すぐにはお覚悟がつきますまい、ともいった。
「されば」
お万阿は庄九郎の手をとった。
「こんどはとりあえずひと月ほど京におられますように。ゆるゆるお考えなされてそれからのことになさればいかがでございます」
「そうだな」
庄九郎はもう一度うなずいた。
が、その翌夜、庄九郎は逃げるようにして京を出、逢坂山を東に越えていた。お万阿の気づかぬあいだに脱け出たのである。
峠の上に足をとめ、ふりかえって京の灯を見た。
(もう、京へもどることはないかもしれぬ)
そう思うと、涙がにじんできた。こんどはお万阿にその旨《むね》を言い、詫びるつもりでもどってきた。その点、この悪党は、お万阿に対してだけはどこまでも律《りち》義《ぎ》だった。お万阿の人生を自分の野望の犠牲にしてしまったが、かといってこの男なりに粗略にはあつかっていないつもりだった。あれほど福相に富んだ縁起のいい女は、生涯《しょうがい》でふたりと会うことはないであろう。だから庄九郎は、あくまでも胸中ではお万阿を本妻であると念じてゆくつもりであった。いや本妻というよりも本尊といったほうが、適当なことばかもしれない。
(しかし、もう二度と会うことはあるまい)
すでに自分の人生が夕暮にさしかかっていることを庄九郎は知っている。いまや美濃を得、晩年にはあるいは尾張がとれるかもしれない。しかしそれで今生《こんじょう》はおわる。そう見通すことができる。そうとすれば、せっかく今生で得た領土を、どうしても捨てる気にはなれない。これは煩悩《ぼんのう》ではない。
と庄九郎はおもった。
美濃をすてれば、庄九郎の一生のしごとはなにもかも無に帰し、この男がなんのためにうまれてきたか、いや生まれてきたどころか、かれがこの世に生きたという証拠《あとかた》さえなくなるではないか。
(男の仕事とはそういうものだ、お万阿にはわからぬ)
と庄九郎はおもうのである。仏師が仏像をきざみあげてやっとそこに、
――自分がいる。
と感ずるように、庄九郎にとっては美濃は自分のいのちのしるしともいうべきかけがえのない作品なのである。
(捨てるどころか、しがみついてでもまもられねばならぬ)
とおもった。
庄九郎はもう一度京をふりかえった。京の灯は、すでに夜の靄《もや》のなかに消え、庄九郎が立っている道も、そして頭上の天も、塗りつぶしたような闇《やみ》にとざされてしまっている。
「耳次、松明《たいまつ》をかかげよ」
庄九郎はそう命じ、トントンと足ぶみをしてわらじのひもを馴《な》らしてから、くるりと京へ背をむけ、逢坂山を東国にむかって降りて行った。
三日後に美濃についた。稲葉山城に入り、庄九郎は「斎藤道三」としての日常の生活に入った。かれが、八日ばかり城の奥から消えていたことを知っているのは、身のまわりの数人でしかない。
「耳次」
と、あらためてこの男を奥の庭へよんだ。
「尾張へやった伊賀者、まだ帰らぬか」
といった。濃姫とのあいだに縁談がおこっている織田信秀の息子信長という若者の男としての骨柄《こつがら》をさぐりにゆかせたのである。
「まだでございます」
「遅いな」
待ちかねる思いであった。婿《むこ》たるべき信長は稀《き》代《だい》のうつけ《・・・》者であるという。
(それが事実なら、運がよい)
と庄九郎はおもった。その痴呆《うつけ》の若殿がうつけであるのを幸い、やがては尾張を併呑《へいどん》してしまえるからである。しかしはたしてそれが事実なのかどうか。
「待ちかねるな」
「申しわけござりませぬ。それがしがじきじき行けばよろしゅうございました」
「いや、よい。いそぐことではない」
庄九郎は美濃へ帰って数日たったある日、わずかな供まわりを連れて城外へ出た。
冬の、晴れた日である。
「寺へ詣《まい》る」
とのみ、近習の者に洩《も》らした。それ以上、近習の者は、このなぞの多い主人からなにもききだすことはできなかった。
やがて川手の里についた。数百年来美濃の首都だった城下町だが、庄九郎がこれを廃し、稲葉山城を美濃の中心にさだめてから、それに繁栄をうばわれ、いまは野の中のただの人里になりはててしまっている。
山門がある。
鉄鋲《てつびょう》を打ち、城門を思わせるような壮大な門で、門の前には堀があり、それがぐるりと寺域をかこみ、これまた城郭のような大寺であった。
正法寺である。
美濃きっての大寺で、この寺が、代々の斎藤家の菩《ぼ》提所《だいしょ》になっている。
(おや、墓まいりをなさるのか)
近習の者は意外におもった。斎藤家の菩提所といってもこの斎藤家は庄九郎の名乗る斎藤ではなく、かれがほろぼしたかつての美濃の小守護家の斎藤である。史家はこの斎藤を「前《ぜん》斎藤」といい、庄九郎からはじまる斎藤を「後《ご》斎藤」とよぶ。
が、庄九郎は墓参はしなかった。
この大きな寺域には、塔頭《たっちゅう》とよばれる多くの子寺があちこちにある。
そのうち持是《じぜ》院《いん》という子寺の小門を庄九郎はくぐり、しかしながら庫裡《くり》にはゆかず、そのまま小さな冠《かぶ》木《き》門《もん》をあけさせてじかに庭へ入った。庭ははやりの東山ふうで、苔《こけ》と石が多い。その苔を踏み、庄九郎は池のほとりを歩いた。
一殿があり、そのなかからよくとおる女性の声で、看経《かんきん》がきこえてきた。
声のぬしは、庭の侵入者に気づいたのか、ふと、経を誦《よ》む声をとだえさせた。
庄九郎は、ぬれ縁に腰をおろした。
それとほとんど同時に、カラリと明り障子がひらいた。
あっ、
と美しい尼僧が小さく声をあげ、しかしひどく迷惑そうに眉《まゆ》をひそめ、指をそろえ手だけはついた。深芳野である。
庄九郎が彼女のもとのあるじの頼芸を追ったとき、深芳野はかれにだまって落飾《らくしょく》してしまった。その後この持是院に住み、世を捨ててしまっている。
「息災かな」
庄九郎は庭を見ながらいった。
背後では、なんの声もない。ただ、こっくりとうなずいただけなのか、それとも庄九郎とは口をききたくないのか。おそらく後者であろう。深芳野にすれば自分を旧主頼芸からうばっておきながらついに妾《めかけ》の位置にすえつづけたまま正室を他からむかえ、しかも旧主頼芸を国外に放逐《ほうちく》した庄九郎の仕打ちを深くうらんでいる。その上、ここ数年、この男の閨室《ねや》によばれることさえなかった。
「よい住いだ。そなたと入れかわってわしのほうこそここに住みたい」
庄九郎は笑った。
深芳野は、だまっている。庄九郎は庭を見たまま、不自由なこと、ほしいものなどあるか、あれば気ままに申し出てくれ、といった。
「べつにござりませぬ」
深芳野は、やっと声を出した。
そうか、と庄九郎はうなずき、なおも庭を見たままであった。さすがにこの男も、深芳野と目をあわすことを気重く感ずるようになったのであろう。
どことなく、心に気弱さが出てきた証拠といっていい。
「また来る」
と庄九郎は立ち上がり、ふりかえらずにそのまま歩きだした。
広い、いかつい背が、深芳野の視野のなかにゆれ動いている。深芳野の眼にはおよそ人間の感情のかよわぬ、途方もない怪物の背のようにみえた。
背が冠木門から消えた。
……深芳野はひどく乾いた瞳《ひとみ》で、しかも一度もまたたきせずに見送った。庄九郎が消えるやいなや、彼女は身をひるがえし、音もなく障子を閉めた。
そのあと、白い障子のむこうにはじめて小さな異変があった。低い、聞きとれぬほどの忍び哭《な》きの声が、しばらくつづいた。
織田信長
三助
おかしな若君だった。
幼名は吉法《きっぽう》師《し》、名乗りは信長、というりっぱな呼称がありながらどちらも気に入らず、自分で、
「サンスケ」
という名前を勝手につけていた。サンスケ、などといえば、いなせ《・・・》できびきびしていて、喧《けん》嘩《か》とあれば水っぱなをかなぐりすて、尻端《しっぱし》折《よ》って駈《か》けだしそうな名前であった。ひどく軽やかで、こきみ《・・・》がいい。
「サンスケだぞ。汝《わい》らもわしをサンスケ様とよべ」
と命じていた。
われはサンスケなり。
と勇みだちながら、城外で村童をあつめては石合戦をしたり、水合戦をしたりした。まったくのところ、
「サンスケ」
という語感のなかにこそ、この少年の、
――われはこうありたい。
というえたい《・・・》の知れぬ美意識が籠《こ》められていた。この自称の名については、ある日父の信秀《のぶひで》は、
「吉法師、そちは自分のことをサンスケとよべと言っているそうだな」
ときいた。
ふむ、と少年は白い眼でうなずいた。信秀は笑いながら、
「サンスケ、とはどう書く」
といった。少年はだまって地面にしゃがみこみしばらく考えていたが、やがて、
「三助」
と枯枝で書いた。足軽にさえこんな名前の者はいないであろう。せいぜい雑人《ぞうにん》の名前である。
「その名が好きか」
「好きだ」
と言うようにうなずいた。余談だが、この少年はこの名前がよほど気に入っていたらしく、長じてから次男信雄《のぶかつ》(のち尾張清《きよ》洲《す》城主、内大臣)がうまれたときに、三介と名づけた。名前といえば信長は自分の子供の名もこの男らしい傾斜を帯びたものをつけた。長男信忠《のぶただ》は「奇妙」といい、三男信孝《のぶたか》は「三七」といい、九男の信貞《のぶさだ》にいたっては、人、という名だった。
尋常でない、傾いた美意識のもちぬしなのである。
服装、行動、日常生活のすべてが、尋常でなかった。服装などにしてもいっさい自分で考えだしたもので、このサンスケのあたまには、「世間では普通こうなっているから」とか、「それが慣例、習慣だから」というような常識感覚でその服装を身につけることはなかった。平素、山賊の子のようなかっこうをしている。小《こ》袖《そで》はいつも片肌《かたはだ》をぬぎ、下は小者のはくような半《はん》袴《こ》をつけ、腰のまわりに、小石や火打石を入れた袋を五つ六つぶらさげ、大小は品のわるい朱鞘《しゅざや》をさし、まげは非《ひ》人《にん》のような茶筅《ちゃせん》まげで、元結《もとゆい》は真赤なひもで巻いていた。なるほど織田の若殿にすれば奇妙《きみょう》奇《き》天《て》烈《れつ》な服装かもしれないが、ひどく身動きにべんりなイデタチなのである。鞘といい元結といい、燃えるような赤を好んだのは、この少年のやるせないほどに鬱屈《うっくつ》した自己を、そういう色で表現しているのであろう。こうしたこの少年の精神をどういう言葉でいいあらわせばいいのであろう。ない。無いながらも言うとすれば、前衛精神という意味あいまいの言葉を適用する以外に手がない。
が、少年自身、こういう奇矯《ききょう》な服装をして奇をてらっているわけではない。てらって自己を押しださねばならぬほど、かれはひくい身分のうまれではない。尾張の織田家という堂々たる貴族の御曹《おんぞう》司《し》で、どんなに平凡な服装をしていても、たれからもちやほやされる身分の子であった。
この少年は、野あそびするにしても、村童といっしょに泥《どろ》まみれになってあそんだ。自然かれの近習《きんじゅう》の少年もかれといっしょに泥まみれにならなければならなかった。
城下の町人や百姓たちは、この少年が通ると、目ひき袖ひきしてうわさした。
三助どのは、鴨《かも》の子か
水鳥か
ときどき川の
瀬におちやる
そんなふうに唄《うた》われていた。
城下を歩くにしても、異風であった。歩くときは近習の肩にぶらさがって歩き、歩きながら、瓜《うり》や柿《かき》などを食べた。町なかで一人立ち、夢中で餅《もち》に噛《か》みついているときもあった。
そういうこの少年を、家中《かちゅう》の者も城下の者も、
「うつけどの《・・・・・》」
とよんだ。馬鹿《ばか》か狂人かにしかみえなかったであろう。御《お》守役《もりやく》の家老平《ひら》手《て》政秀からして、
(この若殿が世をお継ぎなされるときには、織田家はほろびる)
と真剣に考えていた。かれが「美濃の蝮《まむし》」の愛娘《まなむすめ》をもらって信長の配偶者にしようとおもったのは、単に織田信秀と斎藤道三《どうさん》の和《わ》睦《ぼく》を意味しているだけではなかった。ゆくゆくあの蝮めの実力によって信長をまもり立てて行ってもらいたい、という遠い計画によるものであった。
それほど馬鹿《・・》だった。
ある年、忽然《こつぜん》とこの少年が尾張から掻《か》き消えてしまったことがある。さすがに平手政秀を心配させてはかわいそうだとおもったのか置き手紙して、
「爺《じい》、しばらく巡礼に出る」
と書きのこし、出奔した。あとで気づいて政秀はあやうく気絶しそうになるほどおどろき、主君の信秀の耳にだけ入れた。信秀はちょっとびっくりした様子だったが、すぐ、
「そうか」
と笑いだした。
「おかしなやつだから、なにかとくべつに思うことがあるのだろう。ひろく世間を見ておくのもわるくない。このことは家中にも知らせるな。近習の者たちにも口止めしておけ」
若殿ひとりで出奔した。ということが隣国にきこえたりすると、少年の身が危険だからである。
「こんどお帰りあそばしたとき、いちど、御父君の口から御説諭くださりませぬか」
「わしは吉法師の守役ではないぞ。単に父親にすぎぬわ」
「しかし」
「守役はそちにまかせてある。よきようにせよ」
と信秀はとりあわなかった。信秀はそんな風変りな父親だったが、しかしかといってこのうつけどの《・・・・・》をすこしでも理解している人間といえば、広い世間で信秀がただひとりかもしれなかった。
(あれは天才かもしれぬ)
と信秀はひそかに思っていたふしがある。
信長は道をいそいで上方《かみがた》に出た。
供はといえば、中間《ちゅうげん》ひとりである。この男にムシロを一枚、荷俵《にだわら》を一つ背負わせてあり、どうみても流《る》浪《ろう》の少年の姿である。
京を見物し、摂《せっ》津《つ》にくだった。
摂津の浪華《なにわ》というところに多少の人家があり、とほうもなく巨《おお》きな寺があった。
四天王寺であった。
信長はその四天王寺に詣《まい》ると、その堂舎の軒下で牢人《ろうにん》らしい男が四、五人群れて、なにやら文字を壁に書きつけては、がやがやと議論している。
(なんじゃ、あれは)
と近づいてみると、侍としての名乗りはどんな名前がよいか、ということを議論しているのであった。みな、気に入った名前をつけようとしているらしい。
「名はだいじなものだ」
とおもだつひげづら《・・・・》の男がいった。ひげづらはずいぶん文字の種類を知っていて、さまざまな名乗りを壁に書いていた。頼定、義政、清之《きよゆき》、興長《おきなが》、公明《きんあき》、道正、宗晴、忠之、などの名が書かれている。
ふとその壁をみて、少年はおどろいた。ひときわ大きく、
「信長」
と書かれているではないか。文字の組みあわせからいってめずらしい名乗りであったが、とにかく信長という名乗りは父親が自分につけてくれたものであった。
(であるのに、あんな素牢人につけられてたまるものか)
とおもい、奪ってやろうと思った。供の中間に口上を言いふくめ、ひげづらの牢人に交渉させた。
「そこな名乗りを」
と、信長の中間がぬれ縁まで進み出、手をあげて壁の一点を指さした。
「手前ども主人に頂戴《ちょうだい》できませぬか」
「うぬ《・・》はなに者だ」
牢人は、びっくりしたようである。
「へい、尾張からきた巡礼でござりまする。そこの信長という名乗りを、手前ども主人に頂戴しとうござりまする」
「主人とは、そこにいる童《わっぱ》か」
牢人は声をあげて笑いだし、これはだめだやれぬ、といった。ソノホウナドニハチクトシタル名乗リヨ、といったと、「祖父物語」にはある。チクトシタル名乗りとは「晴れがましくてもったいない」という意味だ。しかし中間はそこは下《げ》郎《ろう》だから押しふとく、
「いやいや、なにも名乗る、と申しているのではござりませぬ。国のみやげにしたいと申しているばかりでございまする」
としつっこくねだった。牢人はふむふむ、とうなずき、
「それならばよい。かまえて付けるではないぞ。なにしろこの信長という名乗りは、天下取りか国取りの者の名だ」
といった。
これには信長もおどろき、そんなものかと思った。上方からの帰路、みちみちこのことばかりを考えた。いままで、
「天下」
ということを考えたこともない。成人すれば父のあとを継ぐ、それだけのことを薄ぼんやり考えていたにすぎなかったが、天下が取れそうだ、という。天下を、である。天下とはどんなものかは実感として目にもみえず指にもさわりにくくてよくわからなかったが、とにかく自分というものが別なものに見えてきたことだけはたしかだった。
信長は、国に帰った。
城へもどると爺の平手政秀はおどりあがるほどによろこび、あとは幾日もかかってねちねちと説諭した。勝手に言え、とおもった。そんな叱言《こごと》を横《よこ》っ面《つら》できいているという点ではいつもとかわらなかったが、頭ではべつのことを考えていた。天下を取るにはどんなことをすればよいか。
(喧嘩につよくなるほうがよい)
というのはたしかであった。もともと体をうごかして飛びまわることは大すきで、弓や馬術、水練にはとくに精を出してきた。水練はかくべつに好きで、まだ水に入るには寒い三月にはもう信長は連日水中にいたし、毎年九月までは泳ぎまわって暮らしてきた。
(しかし、それだけでは天下はとれまい)
とおもった。取れるような自分を、自分で育ててゆかねばなるまいとおもった。なるほど陣の立て方、戦争のしかた、というものはこの平手政秀が教えてくれている。しかしいつ聴いても信長にとってはあたりまえのことを爺がもったいをつけて言っている、としかおもえず、なんの魅力もなかった。
(合戦のしかたも、おいおい、自分で考えてみねばなるまい)
とおもった。その服装とおなじように、このサンスケと自称する少年は、
「従来こうなっているからそうしなされ」
といわれることがにが手で、あたまから受けつけられぬたち《・・》だった。卑《ひ》賤《せん》の家にうまれればこの性格だけでかれは世に立てぬほどにいじめられたにちがいないが、その点、自分の無理を通せる権門にうまれ、なるほど守役の平手政秀こそ口うるさかったがそれも、わるかった、爾《じ》今《こん》気をつけよう、とさえ言ってやれば、政秀はよろこんで鳴りやむ。
帰国してから信長は、
「鷹《たか》野《の》(鷹狩り)」
をよろこんでやるようになった。いままでこれほどの運動ずきな男が鷹野をあまり好まなかったのは、この集団競技が室町《むろまち》幕府の手でひどく様式化されていたためで、服装、供の人数、役割り、その装束にいたるまでなかなか小うるさい競技になっていた。
(鳥を獲《と》ればよいだけのものではないか)
とかれはおもうのだが、守役の平手政秀などはその形式にうるさくこだわった。鷹野は天皇、将軍、公卿《くげ》、親王、諸国にあっては大名の競技である。それにふさわしい様式を持ち、威容をこらさねば人のあなどりを受ける、といって、信長に対し、いっこうにおもしろくもない鷹野を強制した。
(ああいう鷹野は、もうやめだ)
と信長はおもい、別の方法を工夫した。
無用のものはきりすて、実用的なやり方をどんどん加味し、ついには専門の鷹匠でさえとまどうほどの独創的な方法をつくりあげた。
実戦的なものなのである。まずなにげなしに野に出るのではなく、合戦とおなじように最初に斥候《せっこう》をはなつ。それも一人や二人でなく、二、三十人も放った。これを、
「鳥《とり》見《み》の衆《しゅう》」
とよばせた。鳥見の衆は二人で一組になり、遠く野山をかけまわってどこに鳥がいるかを偵察《ていさつ》し、鳥の多い場所を発見すると一人は見張りとして現場にのこり、一人がかけもどって信長に報告する。信長はすかさず出動する。
信長のまわりには、戦場における馬廻《うままわ》りの騎士のごとき者が六人、つねに従っている。六人衆とよばれ、半分は弓、半分は槍《やり》をもっている。
ほかに馬に乗った者が一人いる。これは現場にちかづくと、鳥に接近し、そのまわりをぐるぐる乗りまわしながらいよいよ近づいてゆく。大将の信長はどこにいる、といえば、その騎馬の者のかげにいる。徒歩である。手に鷹をもち、めざす鳥に見つからぬようにいつも馬のかげになり、馬がまわるにつれて信長もまわる。
いよいよ接近するや、
「さっ」
と信長は走り出て鷹をはなつ。
こうやればかならず獲れるということを信長は知った。もっとおもしろいことに、この若者は、現場付近に立たせてある人数には百姓のかっこうをさせておくことであった。服装だけではなく、現実にスキやクワをもち、田畑をたがやすまねをさせるのである。そうすれば小鳥どもは、
「あれは百姓だ」
とおもって安心してさえずっている、というわけだった。
ふつう、こんな鷹狩りはない。
本来ならば、犬を連れている者でも無文の布衣《ほい》に革ばかま烏帽子《えぼし》をつけ、右手には白木の杖《つえ》をつき、左手に犬のひもをもつ、というほどの大そうなものだ。百姓のかっこうをして小鳥をだます、などという法は、人皇《にんのう》第十六代仁徳《にんとく》天皇からはじまって以来、かつてないことであった。
殿様のお鷹野
といえばたいそうなものであったが、信長のそれは浮浪人が喧嘩に出かけてゆくようなかっこうで城を出た。城下の者は、
「まるで乞食の鷹野じゃ」
とあきれた。
一事が万事、そんな若者である。
「やはり、うわさにたがわぬうつけ《・・・》殿でござりまするな」
と尾張からかけもどって美濃稲葉山城で報告したのは、耳次のひきいる数人の伊賀者であった。庄九郎――いや、この織田信長編からは庄九郎とよばずかれの現在の名である斎藤道三とよぶことにしよう、信長がこの物語の中心になるためにそのほうが好都合である――は、どの密偵がかきあつめてきた話もおもしろかった。
いちいち、大声を出して笑った。あほう《・・・》のあほうばなしほどおもしろいものはない。
道三は、ひざを打ってよろこんだ。
「鷹野も乞食すがたでゆくのか」
これもおもしろかった。密偵の情報などはその男の器量相応の目でみてくるだけにいかに正確でもしょせんは信じきるわけにはいかないものだ、ということを道三は十分知りぬいているくせに、
(やはり、白痴《うつけ》なのか)
とよろこんだ。かれの密偵者たちは、信長が考案したその鷹野の方法まではしらべて来なかったのである。
この報告をうけたとき、かれは終日上機嫌《じょうきげん》であった。夕刻、重臣の西村備後守《びんごのかみ》をよび、
「やはり、帰蝶《きちょう》(濃姫《のうひめ》)を尾張にくれてやる」
といい、信長のうつけぶりの逸話を二つ三つ話した。
聞いた備後守は大口をあけて笑った。西村備後守とは、赤兵衛のことである。
「赤兵衛、よい婿《むこ》どのをもつおかげで、尾張もやがて併呑《へいどん》できそうじゃ。婚儀のことは、できるだけ派手にやろう。そちは織田家の平手中務《なかつかさ》(政秀)とよく相談し、よしなに奉行《ぶぎょう》するように」
といった。
忍び草
濃姫が父の道三から、尾張織田家との婚約の成立をしらされたのは、天文十七年の暮である。
この日のあさ、道三が、
「話がある。鴨東亭《おうとうてい》までそこもとひとりで参らっしゃるように。わしはそこで待っている」
と、侍女をもって報《し》らせてきた。
鷺山《さぎやま》城内でのことである。
このところ道三は稲葉山城は嗣子の義竜《よしたつ》(深《み》芳《よし》野《の》からうまれた子。じつは前《まえ》の屋《や》形《かた》土《と》岐《き》頼芸《よりよし》の胤《たね》)にゆずり、自分は鷺山の廃城を改造してそこを常住の城館としていた。庭が、みごとであった。わざわざ運河を掘らせて長《なが》良《ら》川《がわ》の水を城内にひき、さらに庭内にひき入れ、それを鴨川《かもがわ》となづけた。
築山《つきやま》がなだらかに起伏し、その姿を京の東山連峰になぞらえている。庭はすべて道三みずからが設計した。
庭ずきの茶人はふつう常緑樹をよろこぶものだが、道三が設計したこの庭には、桜樹が圧倒的に多い。桜を自然のすがたでながめるだけが好きなのではなく、建材としてもこの男は好きなのである。桜と道三というのは、精神としてどういうつながりがあるのであろう。
風がない。
杉《すぎ》戸《ど》をあけて濡《ぬ》れ縁に出た濃姫の目に、まっさおな空がひろがった。ひたひたと濃姫は濡れ縁をわたってゆく。濡れ縁を踏む足のつめたさが、むしろこころよいほどに暖かな冬晴れなのである。
濃姫は階《きざはし》を降り、階の下で侍女の各務《かがみ》野《の》がそろえてくれる庭草《にわぞう》履《り》に足の指を入れ、庭をながめた。
「まるで桜が咲きそうな陽気」
と、濃姫はいった。
が、満庭のどの桜樹も、濃姫の期待のわりにはひどく不愛想な姿態で、冬の枝を天にさしのべていた。
「もうすぐ参りましょう、春が」
と、各務野がいった。この侍女は、濃姫の縁談のことをすでに殿中のうわさで知っている。春が、――といったのは、桜樹にむかっていったのではなく、濃姫の匂《にお》いあげるような若さにむかっていったつもりだった。しかし濃姫にはわからない。当の彼女だけが、自分の運命についてまだなにも知らなかった。
濃姫は各務野とわかれ、庭のなかの小《こ》径《みち》をあるいて鴨東亭へ行った。
四阿《あずまや》である。
父親の道三入道が、あたたかそうな胴服《どうぶく》を着て腰をおろしている。
そばには道三の気に入りの近習で明《あけ》智《ち》城の世《よ》嗣《つぎ》明智十兵衛光秀《みつひで》がひかえていた。
少年のころから道三が実子同然に愛育してきたこの光秀は、すでににおやかな若者に成人していた。濃姫とは、母の小見《おみ》の方《かた》を通して血がつながっている。いとこ同士なのである。
「十兵衛、ちょっとはずせ」
と、道三は光秀にそういった。光秀ははっと頭をさげ、典雅な挙《きよ》措《そ》で後じさりしながらそのすきにちらりと濃姫をみた。
見て、光秀はすぐ視線をそらせた。濃姫の眼と偶然出あったことが、この若者をろうばいさせた。
「帰蝶《きちょう》」
と道三は光秀の去ったあと、その娘をよび名でよんだ。
「それへ腰をおろしなさい」
濃姫はいわれるとおりにした。腰をおろしたあと、なんのお話でございましょう、と問いかけるように小首をかしげた。ひどくあかるい眼をもっている。
「やはり、いとこだな」
と、道三は笑いだした。
「あらそわれぬものだ。眼もとや唇《くちびる》のあたりが、十兵衛に似ている」
なんの、すこしも似ていない、いとことはいえ、ふしぎなほど濃姫と光秀とは似ていないことを道三はつねづね思っている。そのくせ、このようにとりとめもないことを皮切りにいったのは、なんとなくこの父親は気はずかしかったからにちがいない。
濃姫は、去年からむすめ《・・・》になった。そのあとみるみる美しくなり、道三でさえ、この娘と対座しているとふと、まばゆいような、なにかしら顔の赤らむ面《おも》映《は》ゆさをおぼえて、眼をそらす瞬間がある。
(生涯《しょうがい》に女をずいぶん見てきた。しかし帰蝶ほどに美しい女はいなかった)
そんなときは、道三は父親というよりも、不覚にも男の眼をもって濃姫を見ている。いまもそうだった。
いま、濃姫は腰をおろした。おろすしぐさに腰のくびれが、ふと道三に父親であることを忘れさせた。狼狽《ろうばい》のあまり、
「十兵衛に似ている」
などと、あとかたもない妄誕《もうたん》を口走ってその場をごまかした。いや、自分の、うっかり陶然としそうになる心を蹂《にじ》り消した。
「以前には」
と、濃姫はいった。お父上は逆なことをおおせられました、そなたはいとこであるのに十兵衛とは似ておらぬ、色の白いところがせめてもの通うところか、などと。――そう濃姫は小さな抗議をした。
「はて、憶《おぼ》えぬことだ」
道三は楽しそうにいった。
「そのようなことを以前に申したかな」
「おわすれでございますか」
「こまった。わすれている」
「薄情でいらっしゃいますこと。帰蝶はそれが去年の何月の何日だったかまでおぼえております。帰蝶がお父上様をおもって差しあげるほどには、お父上様は帰蝶のことをおもってくださらぬ証拠かもしれませぬ」
「これは」
道三はひたいをたたいて、参ったな、と笑った。この男がこのような軽忽《けいこつ》な身ぶりをするのは、この地上では濃姫に対してだけであった。
「では、言いなおす。そなたも十兵衛も、おさないころには似ておった。ところがどちらも成人してからまるで似かよわぬ顔かたちになった。これで、どうか」
「申しわけございませぬ」と、濃姫はうつむいてくすくす笑った。「おいじめ申したようで」
急に日が翳《かげ》った。翳ると、正直なほどに庭の樹々《きぎ》や石の苔《こけ》が冬のいろあいに一変した。
「話がある」
と、道三は大ぶりに上体をかがめ、両腕をぬっとつき出した。掌をかざして、地面の火《ひ》桶《おけ》のうえにあてた。
「わしはそなたがいつまでも童女でいてくれることを望んでいたのに、そなたは勝手にそのような娘になってしまった」
「いたしかたがございませぬ」
濃姫は笑おうとしたが、すぐ真顔にもどった。ひどく真剣な表情になったのは、はなしが縁談だと直感したからであった。
「あの、お父上様、十兵衛どののもとに参るのでございますか」
と、口走ったのは濃姫の不覚だった。
「ほう、そなたは十兵衛が好きか」
道三は意外な顔をした。が、まさかとおもった。いとこ同士とはいえ、相手は斎藤家のいわば被《ひ》官《かん》の子ではないか。
「いいえ、べつに」
と、濃姫はもう赤くならなかった。明智十兵衛光秀という聡明《そうめい》で秀麗な容貌《ようぼう》をもった美濃の名族の子を、父の道三が、溺愛《できあい》するほどに愛していることを知っていたから、自然、自分もついそういうことにつられて童女のころから光秀には好意をもっていた。そのうえ、たったいままでの話題が光秀のことだったから、つい口走ってしまったのである。
「べつに、そのようなことでは……」
と、濃姫はおなじことを二度言いかさねてから、はじめて頬《ほお》に血をさしのぼらせた。正直なことばであった。光秀を恋うるほど、濃姫はそれほど数多くの接触を父の近習の光秀ともったわけではなかった。
「そなたが庶出《しょしゅつ》なら」
と、道三はいった。つまり側室の腹にうまれた子なら、という意味である。
「下《した》目《め》のところへやってもかまわない。しかしそなたは嫡出《ちゃくしゅつ》のむすめだ。そのうえ、わしにとってただひとりの娘である。自然、嫁《とつ》ぐさきはかぎられる。国持の大名でなければつりあいがとれぬ」
道三は言葉をとぎらせ、やがていった。
「尾張へゆく」
「え? 尾張の?」
「織田信秀の世《よ》嗣《つぎ》の信長という若者だ。そなたとは、年はひとつ上になる」
大げさにいえば、濃姫の輿《こし》入《い》れ準備は、美濃斎藤家をあげてのさわぎになった。道三は家臣の堀《ほっ》田《た》道空《どうくう》という者を奉行に命じ、
「いかほどに金銀をつかってもかまわぬ。できるだけの贅《ぜい》をつくすように」
と命じた。道空を奉行にえらんだのは、まずこの男は茶人で道具の美醜がわかる。さらにこの男は典礼に通じていた。それだけではない。とんでもない大《たい》気《き》者《もの》で金銀勘定のにがてな男だという評判を買ってとくに名指したのである。道三はこの道空に何度も、金に糸目をつけるな、といった。
道具好きの道空は、
「これは一代の果報」
とおどりあがってよろこび、さっそく家臣を京にやり、蒔《まき》絵師《えし》、指物《さしもの》師《し》などの道具職人を連れて来させた。
道三には、考えがあった。
(いかほどの入費をかけ、いかほどの贅沢な支度をしても、たかが知れている。織田家との合戦がこれでなくなるのだ)
ということであった。織田信秀が美濃の豊《ほう》饒《じょう》な田園を恋い、それをなんとかわがものにするためにここ数年、しつこく合戦を仕掛けてきた。そのつど道三は信秀をたたきつけてきたが、正直なところ、ほとほとわずらわしくてかなわぬ。道三にすれば、尾張と喧《けん》嘩《か》をしているよりも美濃を新体制につくりかえてゆくことのほうが急務だった。
(隣人に信秀のような精力的な好戦家をもっているのは、おれの最大の不幸だ)
と道三はおもっていた。そのためにおびただしい戦費が要る。士民は疲弊する。士民というものは疲弊すると、支配者へ憎《ぞう》悪《お》をむける。
(すべて道三がわるい、かつての土岐時代は楽土だった)
とおもうであろう。なににしても織田信秀の戦さずきは道三にとって大迷惑だった。
(それが、この婚姻でおさまる。やすいものだ)
とおもうし、かつ将来への希望もあった。むこの信長はとほうもないうつけ《・・・》殿だというのだ。信秀が死んだあと、棚《たな》からぼた餅《もち》がおちてくるように木曾《きそ》川《がわ》のむこうの尾張平野は自分のものになるかもしれない。
濃姫は、その外貌《がいぼう》に似合わず、反応のはやい活動的な性格をもっていた。
むろん、毎日部屋にいる。母の小見の方の相手をして茶を楽しんだり歌を詠《よ》んだりして、たまに庭あるきをするほか、ほぼ鷺山城の奥からはなれたことがない。
しかし、彼女の分身といっていいほどに気に入っている侍女の各務野は、すでに尾張にいる。物売《ものうり》女《め》に化け、信長のいるなごや《・・・》城の城下や、その父信秀のいる古渡《ふるわたり》城の城下などに出没して、自分のあるじの婿《むこ》どのになるべき信長という若者の評判をききまわっていた。
濃姫がそれを命じたのである。まだ見ぬ夫の予備知識を、できるだけ多くもちたかった。むろん重要な目的のある作業ではない。
「ただ、知りたいの」
と濃姫は各務野にいった。好奇心の旺盛《おうせい》なむすめだった。むろん、こういうばあい、まだ見ぬ夫に関心や好奇心をもたぬ娘は地上にいないであろう。ただ濃姫のばあい、他の大名の娘とちがっている点は、それを行動にうつせることだった。
「お父上には内緒よ」
と、各務野に言いふくめた。各務野は宿さがりする、というてい《・・》で御殿を去った。そのまま尾張へ行った。
やがてもどってきた。
「どのようなおひとだった?」
と、濃姫は各務野を自分の部屋につれこみ廊下には侍女に張り番をさせ、たれも入れぬようにしてきいた。
「水もしたたるような美しい若殿でございます」
と、各務野は息を詰めるような表情で最初にそれを言った。なごや《・・・》の路上で信長を見たという。五、六人の供をつれ、頭には鉢巻《はちまき》をし六尺棒をもち、珍妙な、いわば中間のようなかっこうをして歩いていた。
町家の者にきくと、若殿さまは野犬狩りをなされているのでござりまする、と教えてくれた。各務野ははじめは不用意にも噴《ふ》き出しそうになったが、よくよく信長の顔をみると、この十五歳の若者は彼女がかつてみたことがないほどに高貴な目鼻だちをもっている。各務野はまずそのことに打たれた。好意をもった。
(なるほど少々、傾《かぶ》いておられるが、あのお美しさならば、姫さまの婿どのとしていかにもお似合いじゃ)
とおもった。
そのあとさまざまのうわさをきいてまわったが、正直なところどのうわさもよくはなかった。しかし各務野は好意をもってそれらを解釈した。
自然、それらを総合してみると、かつて道三が耳次に命じて放った伊賀者どもの信長像とはひどくちがったものになった。
「たとえば平曲《へいきょく》に出てくる平家の公達《きんだち》のような」
と、各務野はいった。
「お美しい若殿でございます。しかし平家の公達のように柔弱でなく、いかにも武門のおん子にふさわしく武技がお好きでいらっしゃいます」
「どのようにお好き?」
「鉄砲をおならいあそばしております」
「まあ、鉄砲などを」
これは濃姫にとっても意外だった。鉄砲というものはまだ新奇な兵器でしかなく、諸国のどの大名にもさほどの持ち数はない。その上、そのような飛び道具を持たされているのは足軽であって士分の者はいっさいあつかわない。それを、信長は大名の子のくせに鉄砲がひどくすきで、橋本一《いっ》巴《ぱ》という名人をまねいて夢中で稽《けい》古《こ》しているという。
「そのほか馬がたいそうお好きで、毎朝馬場に出て荒稽古をなされております。むかし源氏武者は一ツ所でクルクルとまわる輪乗りという芸ができて平家武者はそれができなかったから源平合戦で平家が負けた、というはなしを聞かれ、それならばおれはそれをやる、と申されてひと月ほど馬場でそればかりに熱中なされておりましたが、ついにそれがお出来あそばすようになった、といううわさでございます」
「そのほかに?」
「喧嘩がおすきでございます」
「お強い?」
「それはもう。……」
と、各務野は手まねをまじえて語りはじめた。
あるときのことだ。信長が例のかっこうで城外の村へあそびに行ったとき、村の悪童どもが三十人ばかり群れていて口やかましくさわいでいる。
――どうした。
と信長が事情をきいた。村童は、このきたならしい装束の小僧がまさかお城主の若様だとは知らないから、
「隣り村とそこの野で喧嘩をする」
といった。ところが当村の子供はみな臆病《おくびょう》で人数はこれだけしか集まらない、という。
「二十九人か」
と、信長はあご《・・》でかぞえ、先方はなん人いる、ときいた。百人は集まっている、と村童のひとりが答えた。
よしおれが勝たせてやる、と信長は供に言いつけて青銭《あおせん》を何《なん》挿《さ》しか持って来させ、まずそのうちの二割をみなに公平にくばり、
「あとは働き次第で多寡《たか》をきめてほうびとしてやるぞ。ほうびを多くもらいたいと思えば必死に働け。喧嘩のコツは、やる前におのれはすでに死んだ、と思いこんでやることだ。さすれば怪我をしても痛くはないし、たとえ死んでもモトモトになる」
と教え、おれが指揮《げち》をする、と宣言し、かれらをひきつれて「戦場」におもむき、駈《か》けちがい駈けまわってさんざんに戦ったあげくみごとに勝った、という。
「利口なお人でございましょう?」
と、各務野の報告は、道三が知っている信長像とはだいぶちがっていた。
「だけど、それだけのおひと? 歌舞もなにもなさらないのですか」
と、濃姫がきいた。そういう芸事は、彼女は父の道三、母の小見の方の血と影響をうけてひどく好きだった。
「なさいますとも!」
と各務野は勢いこんでいったが、これは勢いこんで言わざるをえないほどに、少々自信のないことだった。
たしかに信長は舞と唄《うた》がひどく好きなことは好きであった。各務野もそのうわさはしか《・・》と耳に入れた。信長の舞の師匠は、清《きよ》洲《す》の町人で有閑《ゆうかん》という者だということもきいた。
そのくせに、信長は妙な若者だった。舞は「敦盛《あつもり》」の一番だけしか舞わないのである。それも「敦盛」のうちのただ一句だけを唄いながら舞うのが好きであった。
人間五十年
化《け》転《てん》の内にくらぶれば
夢幻《ゆめまぼろし》のごとくなり
と信長はかつ唄いかつ舞う。
うた《・・》もそうである。鼻唄をうたうほどにすきなのだが、これもただ一つのうたしかうたわない。
死なうは一定《いちじょう》
しのび草には何をしよぞ
一定語りおこすよの
というもので、それを鼻さきで唄いながら城下の町をあるいてゆく。
(妙なひと。――)
濃姫は目のさめるような驚きをもった。
彼女はそれだけの材料で懸命に信長という若者を理解しようとした。なにかしら自分の一生を五十年と見きわめてタカが五十年という態度で自暴自棄にあそびまわっているようでもあるし、逆に、まだおさない年齢でしかないくせにするどい哲学をもち、それを原動にして世のなかにいどみかかろうとしているような、そういう若者のようにもおもえた。
とにかく濃姫は、これだけの話のなかに、若者だけがもっている鮮烈な血のにおいを嗅《か》ぐような思いがして、その夜はあけがたまでねむれなかった。
ほどなく、婚儀の日どりがきまった。
あと二カ月あまりしかない。天文十八年二月二十四日であった。
華《か》燭《しょく》
にんげん五十年
化転のうちにくらぶれば
ゆめまぼろしのごとくなり
ひとたび生《しょう》を稟《う》け
滅せぬもののあるべしや
…………
くせとはこわいものだ。濃姫は、いつのまにか、たとえば厠《かわや》に立つときでも、ついついこのふしぎな謡文句《うたいもんく》を口ずさむようになってしまっている。厠のなかなどで、はっと自分のはしたなさに気づくときなど、
(おかしな若君だこと。……)
と、まだ見ぬ信長の罪にしてしまう。
とにかく、信長が尾張の城下の町をのし歩きながら鼻さきでうたっているという風景は、濃姫の目にみえるようであった。このうたを濃姫なりに幸若《こうわか》のふしをつけてうたうと、そこはかとなく織田信長という若者がうかんでくるから、妙なものであった。
「死なうは一定」
と、いまひとつの信長の愛唱歌を口ずさんでみることがある。
「……忍び草には何をしよぞ、一定語りおこすよの」
その日も、そうであった。濡《ぬ》れ縁の日だまりに端《はし》居《い》しながらぼんやり口ずさんでいると、侍女の各務《かがみ》野《の》が庭をまわってやってきて、やれやれという顔をした。
「お姫さまはちかごろどうなされたのでございましょう。ご婚儀もお近い、と申しますのに」
と、こぼした。婚儀がちかいというのに鼻うたなどという行儀のわるい癖がついてしまって、というのであった。
「そのようなお行儀では、さきさまにきらわれますぞ」
「あ、そうか」
と、濃姫はやめるのだが、よく考えてみるとさきさまの若様こそ、行儀のわるさでは三国一の異名をとっているという評判ではないか。
(適《あ》わせてゆく、ということで、少しぐらいお行儀をわるくして嫁《ゆ》くほうがよいのではないか)
と、濃姫は本気で考えてもみるのである。
それやこれやで、濃姫のまわりの日月がおどろくほど早くたち、もはや輿《こし》入《い》れの日にあと三日を残すのみとなった。
母の小見《おみ》の方《かた》は、縁談がきまってからはずっと濃姫の部屋で起居している。戦国のならいで、もはや隣国の大名に嫁《とつ》がせてしまえば、生涯《しょうがい》この娘と相見ることもないであろうと思い、そのことのみが悲しいらしく、折りにふれては涙をにじませたりした。
が、父の道三《どうさん》は風変りだった。ここ十日ほどのあいだはめったに奥に来ないばかりか、たまに来ても、なんとなく濃姫と顔をあわせることを避けているふうであった。
(あれほどわたくしを可愛《かわい》がってくだされたのに)
と濃姫はそれのみが不審で、とうとうこの日、母の小見の方に、
「お父上様はどうなされたのでござりましょう」
ときくと、小見の方にとっても不審だったらしい。
その夜、小見の方は寝所で道三にきくと、
「会えば、泣くのがこまる」
「帰蝶《きちょう》が、でございますか?」
とおどろいてききかえすと、いや、帰蝶ではない、わしがだ、と道三は苦っぽく答えた。
(この男《ひと》が?)
と小見の方はおもわず顔を見たくらいであった。道三は、いった。
「あれほどのよい娘を、むざむざ尾張のたわ《・・》け《・》殿に奪《と》られてしまうのかと思うと、胸のあたりが焼ける思いがするわ」
「なら、おやりにならなければよろしゅうございましたのに」
と、小見の方はまたしても涙になった。おとなしすぎるほどの婦人で、かつて夫の道三にうらみがましいことをいったことがないのだが、こんどの婚姻についてだけはべつだった。言って、すぐ、
「なぜ、十兵衛におやりなされませなんだ」
と、思いきっていった。明智十兵衛光秀ならば、おなじ美濃の被官で、自分の実家の子でもあるし、会おうと思えばいつなんどきでも会えるのである。
「言うな」
と、道三はいった。道三も同じ理由でそのことも考えたことがある。光秀ならば年少のころから猶《ゆう》子《し》同然にして可愛がってもきたし気心もよく知っていた。才智もすぐれ、婿《むこ》としてゆくゆく育て甲斐《がい》もあろう。
「しかし」
と、道三は、嫁取り婿取りは外交の重大事で国家防衛の最大の事業だ、親としてのなま《・・》な情をからめるわけにはいかぬ、と言い、
「そなたのつらさは、そなただけのものではない。わしも、ひょっとすると生涯、娘のむこの顔を見ることができぬかもしれぬ」
と、いった。戦国のならいである。つねにたがいに臨戦状態にある舅《しゅうと》と婿とが、一ツ屋根の下で対面するなどは、まずまず考えられぬことだった。
いよいよ、濃姫の輿が美濃鷺山《さぎやま》城を出るという当日になった。
朝、それも太陽はまだ昇っていない。殿中はくまなく燭《しょく》がともされ、庭、通路、諸門、城下の街路には真昼のようにカガリ火が焚《た》かれ、星の下を支度の者、行列の人数、見物の者など数千の人がうろうろと往《ゆ》き来《き》し、輿の出発の時刻を待った。
道三は、大広間にいる。
横に、小見の方。
やがて濃姫が各務野に介《かい》添《ぞ》えされて、別れのあいさつをするために両親の前に進み出た。
その美しさ、父の道三さえ、あっと声をのむほどの風《ふ》情《ぜい》であった。それにつけても、うめきたいほどの口惜しさである。
(この娘を、たわけ《・・・》殿にくれてやるのか)
道三は、おもわずわが袴《はかま》をつかんだ。
濃姫が、意外にはきはきとあいさつの言葉をのべはじめたが、道三の思いは宙にまよい、その言葉もききとれぬほどであった。
「帰蝶」
と、おもわず叫んだ。
「これへ来よ、これへ」
早う早う、と手でまねき寄せ、かねて用意してあった金襴《きんらん》の袋に包まれたものをつかみ、三方《さんぽう》にものせず、いきなり濃姫の膝《ひざ》にのせた。
短刀であった。美濃鍛冶関孫六《せきのまごろく》の作で、道三がこの日のためにとくに打たせたものであった。
慣例なのである。父親が、とつぐ娘に護身のための短刀をあたえ、いざというときにはこれにて自害せよ、という意味をも籠《こ》める。
道三も、なにか、言うべきであった。堅固で暮らせといってもよいし、あるいは婿殿を大切に、といってもいいであろう。が、道三の口から思わずついて出た言葉は、
「尾張の信長は、うつけ《・・・》者だ」
ということであった。
えっ、濃姫は目を見はった。道三はうなずき、低い声で、しかし微笑をたやさずに、
「おそらくそちは、婿殿がいやになるであろう。なるとおもう。そのときは容赦なくこれにて信長を刺せ」
と、いった。
が、道三はそのつぎの瞬間、濃姫の意外な返答に出くわさざるをえなかった。
「この短刀は」
と、濃姫は膝の上からとりあげ、
「お父上を刺す刃《やいば》になるかもしれませぬ」
利口な娘であった。そういうなり、きらきらと微笑し、笑顔で感情を掻《か》き消した。
道三は狼狽《ろうばい》し、すぐ大声で笑って、
「でかした。なによりの別れのあいさつであった。あっははは、それでこそ斎藤山城入道《やましろにゅうどう》道三のむすめじゃ」
といったが、この応酬はあわれなほどに道三の敗北におわった。道三は、ぐっぐっと咽《の》喉《ど》で笑いつづけ、笑顔のその奥底で、
(信長め、果報な嫁をもった)
と、おもい、吐きすてたくなるほどに腹だたしくもあり、哄笑《こうしょう》したくなるほどにうれしくもあり、哭《な》きだしたくなるほどに情けなくもあった。
時刻が来た。
尾張までゆく花嫁の輿が玄関の式台の上にかつぎあげられ、濃姫はその輿のなかの人になった。
やがて輿は城門のそばまで出た。
城門の内側には、尾張へ供奉《ぐぶ》する行列の人数三百人が堵《と》列《れつ》している。
荷物だけで、五十荷はあった。
婚礼奉行の堀田道空が礼装で馬上、先頭にあり、それに、道三の代理人として光秀のお《・》じ《・》明智光安が、略装のまま金蒔《きんまき》絵《え》の鞍《くら》をおいた馬にうちまたがり、光安自身の家来五十人をひきつれて行列の後尾にある。
星空の下で、数百のタイマツが音をたてて燃えている。やがてその炎の列がうごきはじめた。
ゆるゆると動く。十歩行ってとまり、二十歩行ってとまる。とつぐべきむすめが、父母の想《おも》いのために去りなやむ、という一種の様式であった。
濃姫の輿の前を、道三が彼女の終生の家来としてつけてくれた美濃山県郡《やまがたのこおり》福富の住人福富平太郎貞家がゆく。輿のうしろには、濃姫に終生つきしたがう各務野をはじめ五人の侍女がゆく。
道三と小見の方は、その行列を城門のわきで見送るのである。
やがて行列が見えなくなると、作法により花嫁の多幸を祈るために門の右がわで、門《かど》火《び》を焚《た》く。濃姫は去った。門火が燃えあがるころ、道三は黙然と城門のなかに消えた。
沿道の村々に、すでに梅が咲いている。行列は、尾張のなごや《・・・》城まで、はるかに四十キロの行程をゆかねばならなかった。
木曾川の国境まできたとき、川むこうに織田家のむかえの人数三百人が、家老平手政秀に指揮されて待っていた。
輿は船で川をわたり、対岸の尾張領につくと、これら尾張衆が、美濃衆にかわって輿をかつぐのである。
自然、行列は両家あわせて六百人になり、それがカガリ火の燃えさかるなごや《・・・》城下についたのは、すでに日没後であった。
濃姫は、城内に入った。
彼女のために新築された御殿のなかで衣裳《いしょう》をかえた。白の小《こ》袖《そで》に上着は幸菱《さいわいびし》、それにうちかけをまとい、すらりと立つと各務野さえ見とれるほどの美しさであった。
ほどなく、婚儀がとりおこなわれた。
その席上で、濃姫ははじめて自分が生涯連れ添うべき織田信長という若者をみた。
濃姫十五歳
信長十六歳
この若者は、白ずくめの衣裳をまとい、髪をつややかに結いあげ、唇《くち》もとがひきしまり、鼻筋とおり、どこから見ても絵にかいたような若君であった。
(まあ、これは噂《うわさ》のサンスケどのではない)
と、濃姫はまずそのことに安《あん》堵《ど》した。
が、目だけは、とんきょう《・・・・・》であった。濃姫とその盛装がひどくめずらしいらしく、きょときょとと見るのである。その点は変だな、と濃姫はちらりと思ったが、さすがにあがっていたために、さほど気にはならなかった。
杯ごとが済み、そのあと織田家の老女に案内されて仏間へゆき織田家代々の霊にあいさつし、さらにきょうから父母になるべき信秀とその正室土田御《ご》前《ぜん》にあいさつした。
が、婚儀はそれだけでは済まない。
三日もつづくのである。その間、濃姫はほとんど厠《かわや》にも立てずにじっとすわり、三日目に白装を色ものの衣裳にかえ、いわゆる色なおしをして織田家の侍女たちのあいさつを受け、それがおわってようやく濃姫は儀式上の花嫁であることから解きはなたれた。
夜になった。
三日目のきょうが、寝室で婿どのと新床《にいどこ》をともにすることになるのである。
濃姫は寝所に案内されて、そこで婿どのにあいさつをするために、信長を待った。
濃姫は三日にわたる婚儀で、もう思考力もなくなるほどに疲れきっている。
(おそれたほどには、こわくはない)
と頭のすみでおもったのは、疲労がさいわいしているせいであろう。
ただ、おかしいと思ったのは、この三日間信長の姿が、ほとんど無かったことである。
(きっと、あれかしら、窮屈なことがおきらいなたちなのかしら)
と濃姫はけだるい体のなかで、ぼんやりとそう想像した。
濃姫の想像は、あたっていた。きのうまでサンスケと呼称して町をのしあるいていた自分が、急に町からひっさらわれ、うまれて一度も経験したことのない窮屈きわまる席に引きすえられたとき、肝がつぶれるほど仰天した。
(これはかなわぬ)
とおもい、何度も脱走し、脱走しては廊下、庭、門わき、中間部屋などで傅人《めのと》の平手政秀につかまった。五度目につかまったときなどは腹が立ってしまい、
「爺《じい》、そちは何人いるんだ」
とおもわずどなった。まったくのところ、城内のどこに逃げても政秀老人はどこからともなくあらわれ出てきて信長をつかまえた。
「若、もうよいかげんになされ」
政秀は、いった。それまでも政秀は「きょうは若の大事な日じゃ」とか、「そのようなお挙措《そぶり》では隣国のお付衆にあなどられまするぞ」などと訓戒をたれてきた。この五度目につかまったときはちょうど三日目の色なおしの日だったが、政秀もさすがに涙をため、
「若よ。考えてみなされ。年はもゆかぬ娘御が親もとの城をはなれ、十里の道をあるき、知る人もない尾張の城に参られておる。たよるひとと申せば若おひとりじゃ。あわれとも愛《いと》しいともおぼしめさぬのか」
と、袖をとり、尻《しり》をたたかんばかりの勢いでいった。このことばに信長も、
「ホウ」
と感じ入った顔をした。自分ひとりをたよって来たとはあわれではあるまいか、とおもったのであろう。
(しかし、あいつは美しすぎる)
という奇妙な反感もあった。戸惑い、気はずかしさ、というものではない。美しい蝶《ちょう》でもみればひっとらえていじめてやりたい、という童《わらべ》くささが、まだ信長には残っている。
「爺、わしは石投げや水くぐりの連中ばかりを相手にしてきた。女《め》っこなどは相手にしたことはないぞ」
だからこまるのだ、と信長はそんな顔をしたが、政秀老人は別の意味にとりちがえ、
「わかっておりまする。だからこそ、先日、絵草紙やらなにやらをお見せして、若の申される女っこを相手にする法をお説ききかせ申したではござりませぬか。あのとおりにやりなされ」
「爺、汝《われ》は助平じゃな」
「えっ」
政秀は狼狽し、なんという馬鹿《ばか》だ、ともおもい、ため息をつきながら、
「なにも申しませぬ。絵草紙どおりにやりなされ」
といった。
それから一刻《とき》ばかり経《た》ったあとである。
濃姫が寝所で短檠《たんけい》にむかって所在なげにひとりですごろくをしていると、廊下を駈《か》けてくる足音がきこえ、いきなりふすまがカラリとひらき、
「おれは信長だ」
と、真赤に上気した顔してこのえたいの知れぬ若者が闖入《ちんにゅう》してきた。
濃姫はあわてて居ずまいをなおし、すごろくを横へのけ、
「帰蝶でござりまする。ふつつかでございますが、ゆくすえ、よろしくお導きくださりますように」
と、指をついてあいさつした。
「ふむ、信長だ、見知りおけ」
「いいえ、もう三日も前から存じあげておりまする」
と、濃姫は内心おかしかった。しかし信長は突っ立ったままであった。
(こまったな)
と、濃姫はおもった。すわってくれねば、教えられたとおりの新床の儀式ができないのである。こうなれば濃姫のほうが度胸がすわってしまった。
「おすわりくださりまするように」
といった。すると信長は意外に素直に、
「コウカ」
と、すわった。
すわるなり、「お濃よ」といった。信長が帰蝶という名をよばず、どういうわけか通称の濃姫の濃をとって、オノウとよんだ。これが、信長が濃姫を呼んだ最初であった。
「お濃、それへ寝よ」
というなり、くるくると着物をぬぎすて、素裸になった。
濃姫は、ぼう然となった。が、すぐ信長の次の言葉がふってきた。ひとのぐずぐずしているのを見るのが、よほどきらいなたちらしい。
「寝よ」
と命じ、さらに、教えて進ぜる、おれは知っておる、と言った。知っておる、というのは、平手政秀のいった例の絵草紙のことであろう。
蝮《まむし》の子
寝よ、といわれるから、濃姫は、仕方なく夜具のなかに入った。さすがに、身のうちがふるえている。
「なあお濃よ」
信長は、褌《まわし》ひとつの素っぱだかのままでなにやら妙な竹筒をとりだした。
四尺ばかりあるだろう。
「これはなんであるか、知っているか」
「存じませぬ」
「笑い絵よ」
信長は笑いもせずにいった。この時代の武士のあいだに流行した縁起モノである。春画を竹筒に入れ、それを背負って戦場にゆくと下手《へた》な怪我はしない、と信じられていた。
竹筒には、肩に背負えるように古びた革ひもがついている。信長はおそらく城内の蔵かなんぞで、見つけてきたのであろう。
(ああ、あれか)
と、濃姫も城中で成人したむすめである。そういうものが世に存在する程度には知っていた。
「どうじゃ」
信長は、パラリとひろげた。絹に極彩色の男女がえがかれている。
「お濃、このとおりするのじゃ」
と信長は、ぶらさげて濃姫にみせ、自分も小むずかしい顔でそれをのぞきこんだ。
濃姫はさすがに顔だけはむけたが、目だけは、
(みまい)
とつぶっている。
「見ろ」
「いやでございます」
後年、この夜の信長を思いだすごとにたまらぬほどの可笑《おか》しみを覚えるようになったが、濃姫のみるところ、要するに信長という男の風変りな性格が、こんなところにもあらわれている。なにごとも自分の手で研究し、自分で考え、自分なりの方法で行動せねば気のすまぬ、という、いわばこの男の異常さが、初夜の行動にも出ていた。
しかしこの夜の濃姫は、そこまで信長がわかっているわけではない。
(狂人か)
と、実のところ、こわくなった。やることも奇矯《ききょう》だし、面《つら》つきも、蛙《かえる》のように大まじめだった。蛙は、笑わない。そういえば、濃姫はここ三日間、この若者の笑顔をみたことがない。
それに、やることなすことに情感がないのである。
なにぶん、こういうことは男女の事柄《ことがら》だから、自然な情感がにじみ出てもよさそうなものだが、信長は右手にぶらりと笑い絵をぶらさげ、
「このとおりにやる」
と宣言しているだけである。
濃姫は、父の道三や母の小見の方のこのみで、早くから和歌を学ばされ、古《こ》今《きん》、新古今に集録されている名歌はほとんど暗誦《あんしょう》し、自分でも各務《かがみ》野《の》といっしょに架空の恋人を想定して恋歌などをずいぶんつくってきた。
(それとはずいぶんちがうなあ)
と、濃姫は頭のすみでおもった。しかし意識のほとんどは白っぽく混濁していて、体だけがむしょうにあつい。
ところで、信長にすればこれは親切のつもりだった。
(おれは、平手の爺《じい》におしえられてわかっておる)
と、自信もあり、落ちついてもいた。
ただ事前に笑い絵をみせてやれば、濃姫もあああのとおりにするのかと思い、気も落ちつき、やりやすくなるだろうと相手本位に考えてのことである。
この男なりの愛情だった。
やがて信長は掻巻《かいまき》をめくり、濃姫の横へ入ってきた。
「わしの首の根を抱け」
ときびしく命じたが、濃姫はくびをふってはずかしゅうございます、といった。「しかしお濃」と、信長はいった。
「笑い絵ではそうなっておる」
「厭《い》や、厭や」
「そなた、美濃を出るときになにも教わらなかったのか」
「いいえ」
「どう教えられた」
「なにごとも婿殿《むこどの》の申されるようにせよ、とそれだけでございます」
「ではないか」
信長はだんだん不機《ふき》嫌《げん》になってきた。自分の言うとおりに人がせぬと諸事、癇《かん》が立つのである。「せよ」といった。
濃姫はやむなく、白い腕を出し、信長の頸《くび》にからませ、
「こうでございますか!」
と、悲しげにいった。信長はふむ、と得意げにうなずき、「されば自分もこうだ、こう抱く」と右手を寝床のなかでのばし濃姫の腰のくびれにもって行ったから、濃姫はきゃっとからだを曲げた。
「どうした」
と信長は手をとめた。
「くすぐっとうございます」
「我慢せよ」
信長は、容赦なく事を進めてゆき、やがて眉《まゆ》を詰め、眼をつぶり、渋面《じゅうめん》をつくった。
濃姫も、渋面をつくっている。たがいにわけもわからぬうちに、平手中務政秀がおしえてくれたことの一切がおわったようであった。
そのあと信長はふとんの中からごそごそ這《は》い出ると、部屋のすみにあった革袋をとってきて、いま一度、ふとんへ入った。
腹ばいになって革袋をあけ、中から干し柿《がき》を二つ取り出してきて、
「お濃、たべろ」
と、一つくれた。どうやら噂《うわさ》にきく信長は、腰に革袋をぶらさげている、という評判の実体はこれらしい。
(べんりなものだ)
と濃姫はおかしくなった。
「革袋は、いくつ下げていらっしゃいます」
「二つか三つだ」
「どの袋にも、干し柿を入れていらっしゃるのでございますか」
「馬《ば》糞《ふん》のときもある」
「えっ」
この袋ももとは馬糞入れだったのか、と濃姫はおどろいたが、信長は、「ちがう」と言い、
「あたらしい袋だ」
といった。聞けば、この干し柿は濃姫にやるために数日前、城下の農家に忍びこんで盗《と》っておいたものだという。
「ありがとうございます」
「礼はいわんでもよい」
干し柿をむしってうまそうに食いはじめたあたり、どうみてもまだ十六の齢《とし》だけのものでしかなかった。
「お濃」
「帰蝶《きちょう》とよんでいただきます」
「どうでもよい。美濃から嫁《き》たからお濃だ」
(変な子)
腹が立った。そんな眼で信長をながめるだけの余裕が、濃姫にできはじめている。
「そなたの父親は、蝮《まむし》だそうだな」
「…………」
「美濃ではどうか知らんが、尾張ではもっぱらな評判だ。下民でも蝮、蝮とよんでいる。やっぱりあれか、まだらまむし《・・・・・・》のような顔か」
「ちがいます」
濃姫は、いやな顔をした。
「父は乱《らん》舞《ぶ》などさせると、背も高く、容貌《かお》も舞台に映えて、ゆゆしきお顔だ、と人は申します。わたくしもそう思います」
「なるほど」
信長は、蝮面をした怪物を空想していただけに、すくなからず落胆した。
「ただの顔か」
「はい。尋常以上のように思いますけれど」
「しかし、強いだろう」
「さあ」
濃姫は、父の評判が尾張ではよくないことを知っているから、こういう話題をできれば避けたかった。
「おれのお父《でい》は強い。尾張半国を切りなびかせて隣国の三《み》河《かわ》では安祥《あんじょう》まで切りとった。駿《すん》府《ぷ》の今川義元が駿遠参《かんえんさん》三国の大軍をこぞって攻めてきたが、お父のために苦もなく撃退されている。東海一の弓取りだな」
「左様でございましょう」
「ところが」
信長は口中の干し柿をのみこみ、
「そなたのお父のほうが強い。おれのお父は何度挑《いど》みかかっても、そのつど叩《たた》きつけられている。強い。日本一だな」
「そんなこと」
「おれは事実をいっている」
信長は、熱っぽい眼を濃姫にむけた。
「おれは強い人間が好きだ。そなたのお父をおれは好いていた。美濃の蝮というやつはなんと素敵なやつだと思っていた」
「父がよろこびましょう」
と、濃姫はいったが、早くこの話題をうちきりたい。しかし信長は、その切れながの眼をきらきらさせて、話に身を入れだした。
「だがお濃、言っておくが蝮よりおれのほうが強いぞ」
「そりゃもう……」
と口ごもりながら、なんとこれはこどもだろうと濃姫はうんざりした。濃姫は年こそ一つ下だが、父の素養をついで恋歌の一つや二つ、いますぐにでも詠《よ》める。しかし信長は、このあえかなるべき初夜に、喧《けん》嘩《か》の強弱しか話題がない。
「お濃」
信長は、顔をむけた。意外なほど澄んだ眼をもっている。
「はい?」
お濃は微笑して、
「いくさの事なら、お濃はおなごでございますから、わかりませぬけど」
「うそをつけ、蝮の子のくせに」
「でも」
と、口ごもると、信長はくるくると頭をふって、「ちがう」といった。
「いくさの話ではない。おれという男についてだ。おれはばかにされている」
「…………」
「家中の者にもだ。いま城下の町衆までが、おれをたわけ《・・・》殿とやら申しているらしい。このうわさ、きいたか」
「いいえ」
濃姫はこわくなってかぶりをふった。
「うそをつけ。美濃でも大評判だというはなしだ。美濃の蝮の子が、尾張のたわけ《・・・》殿のもとに輿《こし》入《い》れした、よい夫婦になるじゃろ、と人は囃《はや》しておる」
「…………」
「おれは馬鹿《ばか》かどうか、自分でもわからん。ただ、おれが善いと思ってやることが、世間のしきたりでは悪いことになるらしい。袋にしてもそうだ」
なるほど、腰に袋をぶらさげておけば、いつでも食べたい時に柿が食えるし、石を投げることもできる。便利である。便利だからそうするのだが、世間ではそういう便利が馬鹿にみえるのであろう。
「おれが馬鹿か、世間が馬鹿か、これは議論をしてもなにもならん。おれのやりかたで天下をひっくりかえしてみてから、さあどっちが馬鹿だ、と言ってみねばわからぬ」
「まあ、天下を」
「おれの眼からみれば天下は馬鹿でできあがっている。鷹《たか》狩《が》り一つでもそうではないか。むかしからの鷹狩りのやり方では一日野山を駈《か》けて山鳩《やまばと》や鴨《かも》を二、三羽とれるだけだが、おれのやり方でやれば三十羽でも四十羽でもとれる。しかし世間はおれの鷹狩り姿を見て、アレヨ、タワケドノヨという。そういう連中の天下だ、くつがえそうと思えば、くつがえせぬことはあるまい」
「…………」
「おれがそなたに申したいのは、なんの、た《・》わけ《・・》殿でもかまわん、しかしそなただけは、正気でそう思ってもらってはこまる」
「…………」
と、濃姫は忍び笑っている。「こまる」という信長の言いかたが、いかにもこまるような表情に満ちていたからだ。
「よろしゅうございます」
「もう一つある」
「どんな?」
濃姫はこの少年のために微笑してやった。しかし少年は、容易ならぬことをいった。
「おれを殺そうとしているやつがいる」
「うそ!」
と、濃姫はあやうく叫びそうになった。
「いや、そういう気がするだけだ。ただ、おれは馬鹿にされている上に、きらわれてもいる。人間、そんなことはわかる」
「まあ」
「べつに人に好かれようとは思わん。おれは大名の子だ、好かれずとも大名になれる。しかし殺そうという奴《やつ》がいるのはこまる」
「うそでしょう」
「かもしれぬ。しかしお濃、そなたはそんな仲間には入るな」
「あたりまえのこと!」
と、濃姫はこの信長の話をきいていると気が変になりそうだった。婚礼がおわっての新《にい》床《どこ》に、人殺しの仲間に入るな、と念を入れる婿どのがどこの国にあるのだろう。
「でも、どなた様が、殿をおきらいあそばしております」
「まず、母上だ」
と、信長はいった。
濃姫はもう驚くのには馴《な》れてしまって、
(そう、おかあさまが。――)
と、なにげなくうなずき、うなずいてからその異常な事柄《ことがら》にがく《・・》然とした。実の母が、わが子をきらったり殺そうとしたりすることが世にありうるだろうか。
母は、正室の土田御前である。濃姫はあいさつをして顔を覚えている。信長に似て面長《おもなが》の美人だが、どこかこわれやすい、感情が激すると自分で制限できないような、ある種の激しさをもった顔だった。
「勘十郎信行《のぶゆき》という弟がある」
濃姫は、婚礼の二日目にあいさつを受けて知っている。美《び》貌《ぼう》で行儀がよく、いかにも利発そうな少年だが、ちょっと小利口そうなにおいがあって、濃姫はあまり好きでなかった。およそ、信長とは似ても似つかぬ弟なのである。
「勘十郎は評判がいい」
と、信長はいった。濃姫は、その評判のほどは後日きいたのだが、家中でも城下でも非常なもので、母御前などは勘十郎を溺愛《できあい》しきっている。そのうえ、勘十郎付の守役《もりやく》である柴《しば》田《た》権六勝家《ごんろくかついえ》や佐久間大学盛重《もりしげ》が、
「勘十郎さまは、ゆくすえ御兄君をたすけてよい大将になり、織田家をいよいよ興されることでござりましょう」
と、正気で、つまりかれらは粗剛なほどに朴訥《ぼくとつ》な男どもだから、おべっかではなく、そう信じきって母御前にも申しあげている。
次弟の評判がよすぎる、というのはけっして好ましい現象ではない。
――ではいっそ家督は勘十郎様に。
という気持が、人にきざさぬともかぎらぬからである。
げんに土田御前はいつも、
「兄と弟とがふりかわってうまれていればよろしゅうございましたのに」
と、信秀にこぼしている。そのつど信秀は、
「賢《さかし》らなことを申すものではない。人のゆくすえなどわからぬ」
と、信長をかばってきた。
「いま城中で」
と、信長はいった。
「おれをおれと見てくれるのはお父《でい》のみだ。平手の爺も、どうかわからぬ」
「お濃は?」
と濃姫はせきこんでいった。
「お濃も、でございますよ」
「だから、わしも申しておる。おれぎらいの仲間に入るな、と」
それから二年。
濃姫には、あっというまに経《た》ったように思われる。ふたりは、体も心も未熟のままに、ただ遊び友達のようにしてすごした。
急変がおこった。
天文二十年三月三日、父の信秀がちかごろ築造した末森《すえもり》城で急死したのである。
四十二歳であった。
頓《とん》死《し》といっていい。
その前日の夕刻、城下の猫《ねこ》ケ洞《ほら》という池のまわりを駈けまわって馬を責め、夜はいつものように大声で笑いさざめきながら大酒をし、閨《ねや》にひきとってからちかごろあたらしく手をつけた女に腰をもませ、
「チクと頭がいたい」
と、いっていたが、やがて熟睡した。あけがた厠《かわや》に立ち、人が気づいたときは冷たくなっていた。
それを伝える急使が信長のなごや城に駈けこんだのは、朝の陽《ひ》も高くなってからである。
信長は、だまっていた。
終日ものをいわず、濃姫がくやみをいってもうなずきもしなかった。日が経っても、父の死について語ろうともしない。
それから八日後。――
美濃から濃姫のもとに使いがきて、こんどは濃姫の実母小見の方が死んだことを伝えてきた。このほうは三十九、死因は結核である。
このときだけは信長は、
「お濃、悲しいか」
と、ひとことだけ、それもどういうわけか、憎々しげな顔でいった。濃姫はさすがに腹が立った。人の親の死が、悲しからぬはずがないではないか。
くわっ
父の葬儀の前日、家老の平手政秀が信長をつかまえて、
「よろしゅうござりまするな」
といった。
「あすでござりまするぞ、またうろうろとどこぞへやらお消《う》せあそばしては、爺《じい》はこんどこそ腹を切らねばなりませぬ」
「心得ている」
と言えばよいのに、信長はぷいと横をむいて、赤犬の通るのを見ていた。
平手政秀はなおも気がかりだったらしく、あとで濃姫付の侍女各務《かがみ》野《の》をよび、
「よろしいか、奥方様に申しあげておいてくだされ。あすのこと、くれぐれも頼み入りまする、と」
濃姫は、夜、信長に、
「おかしゅうございますこと」
とシンからおかしそうに笑った。
「なにがだ」
「みなが、あなた様を、鴨《かも》の子かなんぞのように水にもぐりはせぬか、飛び立ちはせぬかと案じているようでございます」
「ばかなやつらだ」
信長は、笑いもせずにいった。
「世の中は、馬鹿《ばか》で満ちている」
「まあ」
「城中、何百の人間が駈けまわって葬儀の支度ばかりしている。僧侶《そうりょ》を三百人もよぶそうだが、僧侶を何百何千人よび、供華《くげ》を山ほどにかざってもお父《でい》の生命《いのち》はよみがえらぬ。ではないか、お濃」
「はい」
と濃姫はうなずいたが、信長は誤解しているらしい、とおもった。葬儀とは死者を悼《いた》むもので、生きかえらせる術ではあるまい。
「古来、何億の人が死んだが、いかに葬式をしても一人もよみがえった者はないわ」
「でも、葬儀は、蘇生術《そせいじゅつ》ではございませぬ」
「わかっておるわ!」
信長は、大声をあげた。
「だから無駄《むだ》じゃというのじゃ。何の役にもならぬものに熱中し、寺に駈け入り、坊主をよび、経をあげさせてぽろぽろと涙をこぼしおる。世の人間ほどあほう《・・・》なものはない」
なるほど理屈である。濃姫はなだめるように、
「それはわかりますけど、しかし殿様は喪《も》主《しゅ》でございますよ」
「おれはなったつもりはない」
「そのように駄々をこねられまするな。世の慣例に従わぬと、不孝の御子よ、と人々に蔭《かげ》口《ぐち》をたたかれます」
信長は、だまった。だまると、急に冷えたような顔になる。濃姫など、そこにいるか、というような顔になるのである。
この若者は、もともと言葉がみじかい。というより座談というものができない。ほとんど終日ものをいわず、自分の気持を表現するときは、言葉でなく、いきなり行動でやった。
(どうも、そういう人らしい)
と、濃姫もみていた。
が、彼女にも信長の胸底にうずまいている始末におえぬ憤《いきどお》り、うらみ、悲しみがどういう性質のものか、まるでわからなかった。
まず、四十二の若さで死んでしまった父をこの男はひどく憎んでいた。
(お父のばかっ。――)
と、どなりたい気持だった。信長は、この男なりに自分を鍛え、教育してきた。水にもぐることも、石投げをすることも、足軽に棒試合をさせることも、すべて将来天下を取るべき自分を、そういう方法でつくりあげているつもりだった。
それがまだ数えて十八である。われながら未熟で使いものにならぬと思っているのに、父はいきなり、その死によって彼に織田軍団の指揮者であることを強《し》いたのである。
(お父め、身勝手だ)
と、ののしりたかった。もともとこの男は、自分の思っている構想どおりに事がすすまぬと、物狂おしいほどに腹が立つ性癖がある。
いまひとつの腹立たしさは、一族一門、それに家中の者がことごとくかれの器量に絶望しているなかで、父の信秀のみが、
――蔭口などは気にするな、そちのことはわしだけが知っている。
というような眼《まな》差《ざ》しでつねに見まもってくれていた。信長はそれを幼童のころから鋭敏に嗅《か》ぎ知っており、
(わしの事はお父にしかわからぬ)
と思っていた。逆にいえば父が理解してくれている、とおもえばこそ、安心して奇矯《ききょう》な行動や服装で明け暮れすることができた、ともいえる。
いわば、信長は信秀によってこそ、はじめて孤独でなかったのである。その唯一《ゆいいつ》の理解者をうしなったことは、声をあげて哭《な》きさけびたいほどの衝撃だった。
(それをもわからず、馬鹿な一門の者や老臣どもは葬式のことのみにうつつ《・・・》をぬかしておるわ)
だから葬式が憎い、という論法なのである。つまり万松寺の葬式というのは、自分の無理解者どもの祭典のようなものであった。葬儀が盛大であればあるほど、信長にとっては「連中」が自分とは無縁の場所で馬鹿さわぎをしているようにしかみえないのである。
「でも、御《おん》喪《も》主《しゅ》さまというのは、べつにむずかしいお役もなく、ただその場にすわっていらっしゃるだけでよいのではございませぬか。ただ御焼香だけはせねばなりませぬけど」
「お濃はよく知っているな」
「式次第を、各務野にそういって、中務《なかつかさ》(政秀)にきかせたのでございます」
「子供のくせにくだらぬ心配をするおなごだ」
「でも、心配でございますもの」
「やる」
安心しろ、という表情で信長はうなずき、「焼香だけすればよいのなら簡単なことだ」といった。
葬儀の日がきた。
盛大なものだった。
境内のそとには、足軽やその家族たち、城下の町人、領内の大百姓、さらには庶人ども数千人が、むれあつまり、沿道にうずくまっている。
境内には松林に黒白の幔幕《まんまく》を縦横に張りめぐらし、士分以上の者が、そこに一団ここに一群とたむろし、それに山伏衆が弓弦《ゆみづる》を鳴らして魔物の侵入をふせぎ、本堂にはすでに三百の僧が座についている。
やがて、織田家一門が参着する。つぎつぎと山門へ入ってゆく。信長の次弟勘十郎が、折目高の肩衣《かたぎぬ》、袴《はかま》という姿で馬にゆられ、下ぶくれの顔をやや伏せ気味にしてあらわれた。
その前後を、勘十郎づきの家老柴《しば》田《た》権六《ごんろく》、佐久間大学、同次右衛門などがつき従ってゆく。
沿道の者は、
「勘十郎さまよ」
と互いに袖《そで》をひきあいながら囁《ささや》いた。美男で利発で気がやさしい、という点で末森城主織田勘十郎信行は家中だけでなく領内の男女にまで人気があり、
――世はままならぬ。あのおひとが御総領であれば、織田様も御安泰であるものを。
と言う者が多い。
それに、母親の土田御前生きうつしの眼もとで、まぶたが厚ぼったくふたえ《・・・》に重なり、まつげが長く、瞳《ひとみ》が黒く、微笑すれば男でさえはっとなるほどの艶《えん》があったため、家中の女どもの騒ぎ方も尋常でない。
その眼が俯《ふし》目《め》になっている。
それを仰ぐと沿道の女どもは胸をつかれ、
――勘十郎様はお悲しみじゃ。
と、もらい泣きに泣き伏す者もいた。
そのあとが、喪主である。
信長であった。
前後に従う家老は林佐渡守通勝《みちかつ》、平手中務《なかつかさ》大輔《だゆう》政秀、青山与三右衛門などで、いずれも徒歩でしずしずとすすむ。
信長は、馬である。沿道の者はその姿をあおぎ見て、あっと息をのんだ。
袴もはいていない。
すそみじか《・・・・・》の小袖を着、腰にはどういうわけかシメナワをぐるぐる巻きに巻き、それに大小をぶち込み、髪は茶筅《ちゃせん》に巻きたててぴんと天を指《さ》し、コトコトと馬をすすめてゆく。
(おお、評判のとおりよ)
と、沿道はざわめいた。
――やはり、たわけ《・・・》殿じゃ。
――あれではお国がもつまい。
などとささやく。
信長は山門わきでひらりと馬から降りた。そのあと、本堂までの長い石畳を一歩々々、踏みしめるような歩きかたであるいてゆく。
本堂では、すでに奏楽読経《どきょう》がはじまっていた。
「殿、こちらへ」
と、平手政秀が小声で堂内へ導こうとすると、信長は、
「香《こう》炉《ろ》はどこじゃ」
と、いった。
「あれにござりまする」
「デアルカ」
うなずくや、ツカツカとその大香炉の前に歩みより、制止する政秀を押しのけて抹香《まっこう》をわしづかみにし、その手をあげ、眼をらん《・・》と見ひらき、そのままの姿勢でしばらく正面をにらみすえていたかと思うと、
「くわっ」
と、その抹香を投げつけた。
一瞬、読経の声がとまり、奏楽がみだれ、重臣どもが狼狽《ろうばい》した。
が、信長は顔も変えず、くるりと背をかえし、いまきた参道をもどりはじめた。
「殿」
と、平手政秀が袖をとらえようとすると、信長はふりはらい、
「爺っ、見たぞ」
叫び一つを残して去り、山門わきで馬にとびのるや、びしっ、と一鞭《ひとむち》あてた。
街道を疾風のように駈け、やがて野に出、林を突ききった。そのうしろを近習《きんじゅう》の者が数騎、あわてて追おうとしたが、ついに追いつけず、日没前まで懸命に捜索した。
やっと発見したのは、城外から北東四里はなれたところにある櫟林《くぬきばやし》のなかだった。
信長は、樹間の下草の上に、あおむけざまになって寝ころんでいた。
「殿」
と声をかけても、この十八歳の若者は、天を見つめたきりであった。
この日の葬儀には、濃姫の実家《さとかた》の美濃国主斎藤道三方からも、重臣の堀田道空が参列していた。
堀田はそのあと濃姫にあいさつし、やがて美濃へかえり、鷺山《さぎやま》城に登城して道三に葬儀の日の異変をつぶさに報告した。
ところが、道三はひとわたり聴きおわっても、口をつぐんだままである。
ややあって、
「道空、信長を狂人とみたか」
「狂人としか思えませぬ」
「しかし貌《かお》はどうじゃ」
と、道三はいった。
道三のもとには、濃姫につけてやった福富平太郎や各務野からときどき密書がおくられてきているために、信長の動静はほぼわかっている。しかしまだ信長が何者であるか、すこしもわからない。
(おれの半生のうちで、あの若者と似た者にめぐりあったことがない)
類型がないために、判断しかねている。
「お貌でござりますか」
と道空はしばらく考えていたが、
「わかりませぬ。まだお若うございますゆえ、お貌がなま《・・》で、はたしてお尋常にましますのか、それとも狂人か愚人か、いっこうに外《そと》見《み》にはうかがえませぬ」
「わからぬか」
「しかし、ちょっと拝見したぶんには、すずやかなお眼と、ひきしまったお唇《くち》もとにて、暗愚どころか、非常な器量人にみえまする」
「それだ」
道三は思わず声をあげた。福富の報告も各務野の報告もそうなのである。
「そのためにわしは信長をどうみてよいか、判断にくるしんでいる」
「家中では、いや領内ことごとく、かの御《ご》仁《じん》を愚人狂人と見ておりまするようで」
「馬鹿を言え」
道三は笑った。万人がなんといおうと、見る眼をもった者が見ねば信用がならぬ、ということを道三は知りぬいている。
「考えてみよ、織田信秀ほどの男が、信長を廃嫡《はいちゃく》せずにあのまま据《す》えておいたのだ。尾張の侍どもの愚眼より、信秀一人の眼をわしは信ずる。だから、判断できずにくるしんでいる」
「廃嫡と申せば」
と、堀田道空は声をひそめた。
「家中の老臣のあいだには信長殿を廃し、勘十郎君をお立て申そうという陰謀があるやに聞いておりまする」
「その事は、わしもきいている」
むろん、道三も人の親である。信長が何者であるにせよ、その弟のために殺されるようなことがあっては、濃姫のために美濃軍団のすべてを動かしてでも救援せねばなるまい、と思っている。
「いちど、婿《むこ》どのに会うか」
と、道三はいった。
「ほほう、これは御妙案で。しかし、この御会見はむずかしゅうございましょうなあ」
「むずかしい」
舅《しゅうと》と婿とはいえ、戦国のならいである。会見に事よせて謀殺するという手があり、織田家もそれを疑うだろうし、こちらもそれに用心せねばならぬ。
「しかし双方、引《ひ》き具《ぐ》す人数をさだめ、場所は国境とすれば、いかがでございましょう」
「むこうが承知するかな」
と言ったあと、道三はくすくす笑って、
「わしは評判がわるいからな」
と、つぶやいた。織田家としては、蝮《まむし》の常用手段と見ておそらくは断わるだろう。
「気ながに、時期を待とう。いま信秀の死んだ直後に申し入れたりすれば、むこうが無用に疑うだろう」
その後も、信長の狂躁《きょうそう》はおさまらず、家中の人気はいよいよ冷えはじめ、次弟勘十郎を擁立しようとする動きが、なかば公然のものになっている。
信長の唯一の味方といっていい平手政秀の耳にさえその噂《うわさ》が入っていた。
いや、噂どころではない。生母の土田御前は葬儀のあと、政秀をよび、
「信長殿では国が保てますまい」
と露骨にいったのである。
暗に、勘十郎を立てる動きに参加せよ、といわんばかりであった。現に、土田御前は一番家老の林佐《さ》渡守《どのかみ》を信長のもとから離し、末森城の勘十郎付の老臣にしてしまっている。
(工作は、よほど進んでいるのではないか)
と、政秀は戦慄《せんりつ》する思いであった。なるほど政秀は信長を、
「たわけ《・・・》殿」
だとみていたし、織田家の重臣という立場から思えばこれを廃して勘十郎を立てるほうが、よいということもわかっている。
が、この老人に出来るはなしではなかった。政秀と信長のあいだには、すでに父子《おやこ》に似た感情が流れている。幼童のころから育ててきた信長を、鶏を絞めるように殺して、その弟をたてるなどは、政秀にできる芸ではない。
その後、政秀は事ごとに信長の袖をとらえ、
「殿っ、おやめなされ」
とか、
「左様なことは下《げ》賤《せん》の者でも致しませぬぞ」
などと以前にも増し、ほとんど狂気のような口やかましさで諫《いさ》めた。信長の没落が、老人の目にはありありと見えていたからである。
信長は政秀のいうことだけは、十に一つぐらいはきくようであったが、葬儀のあと政秀のうるささが狂気じみてくるようになってから、ついに不快になり、やがて疎《うと》んずるようになった。そのうち、小さな事件がおこった。
政秀の長男の五郎右衛門という者が、一頭の駿馬《しゅんめ》をもっていた。あるとき信長がそれをみて、
「五《ご》郎《ろう》右《え》、おれにくれ」
と詰め寄った。欲しい、となれば矢もたてもたまらなくなるのが、この男の性癖である。
が、五郎右衛門は、
「いやでござる」
と、にべもなくことわった。「某《それがし》、武道を心掛けております。御諚《ごじょう》とは申せ、馬だけは、お譲りできませぬ」というのが、五郎右衛門の理由であった。
このため信長は父親の政秀までを憎々しく思うようになり、政秀が目通りを申し出てもきらって会おうとしなくなった。
政秀は、窮した。
この老人は、天文二十二年の春、信長への忠諫状《ちゅうかんじょう》を書き残して自殺してしまっている。
信長は、衝撃を受けた。
父の死のときには人前で泣きはしなかったが、このときは異様だった。政秀の死体を掻《か》い抱き、
「爺《じい》っ、爺っ」
と、身をもむようにして泣いた。
その後、信長は寝所にいても、道を歩いていても、ふと政秀のことを思いだすと、突如声を放って泣いた。
急に河原へ駈けおり、瀬をぱっと蹴《け》あげて、
「爺っ、この水を飲め」
と叫ぶときもある。
あるとき、鷹《たか》狩《が》りの帰路、馬にゆられながら突如悲しみが襲ったらしく、獲《と》った雉《きじ》を両手でべりべりと裂き、
「爺っ、これを食えっ」
と、泣きながら虚《こ》空《くう》に投げ上げるときもあった。
奇妙な男だった。
これほど慟哭《どうこく》し、政秀の忠諫状も読み、それを諳誦《あんしょう》し、泣くときは一文一句まちがいなく咆《ほ》えわめきながら、そのくせ政秀がそのために死んだ素行をあらためようともしなかったのである。
相変らず、狂人のように城外にとび出しては村童をかきあつめて喧《けん》嘩《か》をし、腹が減れば畑の大根をぬいて齧《かじ》り、気に入らねば家来ののどを絞めあげて打擲《ちょうちゃく》し、野のどこで寝るか、しばしば城に帰らない夜もあった。
尾張のたわけ《・・・》殿の評判がいよいよ高くなったある日、木曾《きそ》川《がわ》をこえて、桜の老木の枝一《いっ》枝《し》を携えた使者がやってきた。
道三の使者である。
美濃の使者
「なに、美濃から蝮《まむし》の使者がきたと?」
と、信長はいった。
「どんなやつだ」
「堀田道空と申し、美濃の山城入道《やましろにゅうどう》さまのご重臣でござりまする。お頭《つむり》が、まるうござりまする」
「禿《はげ》か」
まだかぞえてハタチの信長は、妙なところに関心をもつらしい。取次ぎの者が、
(禿であろうとなかろうと、どちらでもよいではないか)
とおもいながら、
「いえいえ、毛を剃《そ》っておりまするゆえ、禿ではござりませぬ」
「その頭は、青いか」
「青くはござりませぬ。赤うござりまする」
「そちは馬鹿《ばか》だ」
と、家来をにらみつけた。
(馬鹿はこの殿ではないか)
と家来がおそれ入っていると、
「聞け、赤ければ、その頭は半ばは禿げておるのだ。なぜ、半ばは禿げ、半ば毛のあるところを剃っておりまする、と申さぬ」
(あっ、道理だ)
と家来は感心したが、ばかばかしくもあった。どちらでもよいことである。
「よいか、そちはいくさで偵察《ものみ》にゆく、敵のむらがっている様子をみて、そちはとんでかえってきて、『敵がおおぜいむらがっておりまする』と報告する。ただおおぜいではわからぬ。そういうときは『侍が何十人、足軽が何百人』という報告をすべきだ。頭一つをみても、ただ『禿でございます』ではわからぬ。おれはそんな不正確なおとこはきらいだ」
信長は、めずらしくながい言葉をいった。
この若者にすれば、家来を自分流に訓練しているつもりである。
平素、信長流の例の鷹《たか》狩《が》りなどに連れてゆく近習の悪童どもなら、信長にいわれなくても信長のやりかたを体で知っているから、その間の呼吸は心得ている。
が、この取次ぎの士は、信長の鷹狩りや石投げに供をしたことがなかったから、そんなことには通暁《つうぎょう》していない。
(たわけ《・・・》殿が、なにを申されることか)
というぐらいで、やや不快げなつらつきをぶらさげながら、ひきさがった。
ひとの顔色に機敏な信長は、その男のその面《つら》が気にくわなかった。
すぐ家老の青山与三右衛門を呼び、
「あの男を末森の勘十郎にやれ」
といった。分家した次弟の家来にしてしまえ、というのである。
青山与三右衛門がおどろき、その男のために弁解しようとすると、
「おれには要らぬ男だ」
と、大声を出した。青山はさらに口ごもっていると、
「言うとおりにせよ」
信長は、頭の地を掻《か》きながら、いらいらした声でいった。青山は怖《おそ》れた。それ以上抗弁すると、このたわけ《・・・》殿は、とびかかってきて頸《くび》を絞めあげてくるかもしれない。
「承知つかまつってござりまする」
と青山が平伏したときは、信長の姿は奥に消えてしまっている。
「お濃《のう》、お濃」
と廊下をよびながら歩き、濃姫の部屋に入ると、
「蝮から使いがきたぞ」
といった。
濃姫は、多少不愉快だった。女房《にょうぼう》の父をつかまえて蝮、蝮とはどういうことであろう。
「舅《しゅうと》とおおせられませ」
「蝮だ」
信長にすれば、舅殿とか道三殿とかいうよりも、蝮、というほうが響きのカラリと高い尊敬の心をこめている。
濃姫にはそれもわかるのだが、いちいち蝮といわれるのはやりきれない。
「なんという者でござりまする」
「堀田ドウクウという男だそうだ」
「ああ、それならば、わたくしが御当家に輿《こし》入《い》れして参りまするとき、道中を宰領して参った者でございます」
「わしは覚えておらぬぞ」
「はい、左様でございましょう。あなたさまは、あの婚礼の何日かはほとんど御座《おざ》にいらっしゃいませなんだ」
「愚劣だからな」
と、信長はひどく濃姫に気まずそうな、照れたような顔つきをしてみせた。この若者がこんな顔つきをしてみせるのは、濃姫に対してだけである。
「道空は、たしかお父上様のお葬儀のときにも参ったはずでございます」
「そうか」
そのときも信長は抹香《まっこう》をつかんで投げただけだから、参列者の顔など覚えていない。
信長は、廊下を渡り、小書院に出た。
太刀《たち》持ちの小姓を従え、ごく大ざっぱな平装のまま上段にあらわれ、むっつりとすわった。
背はやや高く痩《や》せがたで、鼻筋が通り、色がめだつほどに白い。表情はない。
視線はほかを見ている。
そこに平伏している美濃の使者堀田道空はまるで無視されたかっこうだった。およそ不愛想なつらつきだった。
堀田道空は、やや顔をあげ、
(相変らずのたわけ《・・・》殿だな)
とおもった。
道空はまず、三方《さんぽう》にのせた桜の老木を一《いっ》枝《し》信長の左右にまで進め、
「舅殿におわす手前主人山城入道が、鷺山《さぎやま》の庭で愛《いつくし》んでおりまする桜でござりまする。婿《むこ》殿のご見参《げんざん》に入れよ、ということでござりましたので」
「ふむ」
といった顔で信長はうなずいた。ありがとうとも忝《かたじけ》ないとも言わない。
その癖、内心、
(かねがね聞き及んでいる。蝮は桜がすきなそうな)
とおもっていた。(蝮にしてはやさしげな趣味だ)ともおもっている。しかし、顔にも言葉にも出さない。
ただ、左右を見て、
「活《い》けよ」
とのみ、高い声で、一声、叫ぶようにいった。道空はあやうく噴《ふ》きだすところだった。
さらに道空はながながと口上をのべ、「舅の道三が、娘婿である殿に会いたがっている、いかがでありましょうか」という旨《むね》のことを言った。
「ナニ?」
信長には、道空の言うことがわからないらしい。道空の言葉や態度が、修辞、装飾、礼譲にみちてまわりくどいため、かんじんの用件がなんであるか、わからないらしいのである。信長は、そばにいる老臣青山与三右衛門を膝《ひざ》もとにまでよびよせ、
「あの禿は何をいっている」
と、小声できいた。
青山は、手みじかにこれこれしかじかと解釈すると、やっとわかったらしく、
「心得た」
と、道空にむかって叫んだ。
道空はそのあと、ふたたび修辞をつらねつつ「場所はどこがよいか」という意味のことを言いだしたが、信長はめんどうになってきたらしく、
「あとの事は、与三右衛門と相談《はか》れ」
と言って立ちあがり、立ったときにはもう歩きだしていて、美濃からきた多弁で無意味な禿頭からのがれ去った。
会見の場所は、美濃と尾張の中間がいい、ということで、
富《とみ》田《た》の聖徳寺《しょうとくじ》
ということに、両国の重臣のあいだできまった。
妙案である。
これほどの場所はちょっとないであろう。
美濃と尾張の国境に木曾川が流れている。
信長の尾張なごや《・・・》城から北西へ四里半。
道三の美濃鷺山城から南西へ四里。
「富田」
という土地は、地理的には尾張寄りだが、この戦国の世における中立地帯なのである。
そんな土地が、どこの国にもある。
どの大名の行政権にも屈せず、どの大名もそこでは軍事行動ができない。
要するに、門前町であった。
この富田庄《とみたのしょう》に聖徳寺という一向宗《いっこうしゅう》(浄土真宗つまり本願寺)の大寺がある。近隣におびただしく小寺や門徒をもつ別院級の寺で、住職は摂津生玉庄《いくたまのしょう》 (いまの大阪)の本願寺からじきじき派遣されることになっていた。
自然、参詣人《さんけいにん》がたえない。
その参詣人のための宿屋、法具店などができ、さらに「守護不入《しゅごふにゅう》」(治外法権)ということで美濃・尾張の両国からさまざまな商人がさまざまな商品をもちこんでここで自由に販売するため、商業都市の性格をもっている。
戸数七百軒。
この当時としては、中都会である。
余談だが。――
いまは富田庄は、木曾川の流れがかわったために河底に沈んでいる。この信長にとっても道三にとっても記念すべき聖徳寺はこんにち名古屋市内に移されている。
使者の道空が織田家を辞したあと、信長の重臣のなかで異を立てる者があり、
「ご無用かと存じまする。道三殿は、なにぶん権《けん》詐《さ》の多きお方であり、おそれながら殿のお命をお縮めするこんたんかと存じまする」
といった。
信長は、けろりとしている。
勘十郎派の家老林佐渡守まで、末森城から駈《か》けつけてきて、そのようなことをいった。
「相手は、蝮でござるぞ」
と、佐渡守はいった。信長は笑って、
「その蝮にわしが噛《か》まれたほうが、そこもとの都合がよいのではないか」
といったため、林佐渡守は興ざめて末森城に帰ってしまった。夜、濃姫に、
「お濃よ、会見の日は四月二十日ときまったぞ」
といった。
「それはよろしゅうございました」
と、濃姫は信長に抱かれながら、しれしれ《・・・・》と言った。
「お濃は、平気でおるな」
「なぜでございます」
「蝮との会見の日が、わしの最《さい》期《ご》になるかもしれぬぞ」
びくっ、と濃姫は体をふるわせた。
「どうして?」
「蝮がわしを殺すさ」
「では、わたくしも殺されるではありませぬか」
「ほう、知っておるな」
と、信長は、薄く笑った。
濃姫は織田家の嫁である。が、同時に人質でもあった。信長が富田の聖徳寺で殺されれば、ただちに織田家の家来は濃姫をとらえ、その命を断ってしまう。
「しかしお濃よ。蝮めはわが娘のひとりやふたり、殺されても野望を遂げる男だ」
「ちがいます」
「なにがちがう」
「娘はひとりでございます。わたくしが父にとってただひとりの娘でございます」
「お濃、わしは数をいっているのではない」
「わかっています。殿は物事の不正確なことがおきらいでございますから、一人だ、と申したのでございます。父は、わたくしの身があぶなくなるようなことは決して致しませぬ」
濃姫には自信があった。ひとにさまざまな蔭口《かげぐち》をたたかれる父だが、自分を可愛《かわい》がってくれることだけは、ゆるぎもないことだった。濃姫は、父の自分に対する愛情を神仏以上にたしかなものとして信じている。
「父も老いております。その娘の婿殿をひと目でも見て、今生《こんじょう》の愉悦にしたいのでございましょう。それだけでございます」
信長は笑い、濃姫をからかうようにして、そのからだの露《あらわ》な部分をくすぐった。いつもの濃姫なら咽喉《のど》を鳴らしてくすぐったがるところだが、
「厭《い》やっ」
と、信長の手をおさえた。
「わかってくださらねば、そのようなことはいやでございます」
「これは許せ」
信長は、濃姫の唇《くちびる》を吸った。石投げも水あそびも面白《おもしろ》いが、これほどおもしろいおもちゃが世にあろうとは、じつのところ思わなかった。
「わかっておればこそ、おれは富田の聖徳寺へゆくのだ。おれは蝮がすきだ」
「まあ」
「おれには、うまれながら肉親や一門や老臣どもがついてまわっている。そういうやつらよりも、蝮のほうがはるかにすきだ」
かもしれない、と濃姫はおもった。うまく言えないが、父の道三とこの信長とは、どこか相響きあうところをもっていそうにおもうのである。
道三は鷺山城で、尾張から帰ってきた堀田道空を引見《いんけん》していた。
「信長は会うと申したか」
「左様で」
「どう申した。信長が申した言葉を、口うつしに申してみよ」
それによって信長の賢愚をうらなうつもりであった。
が、堀田道空は苦笑して、
「心得た――とのみで、そのほかの言葉はなにも吐かれませなんだ」
「そうか」
依然として、見当がつかない。
「帰蝶《きちょう》は元気にしておったか」
と、道三は、ひどく痴愚な顔になった。
「はい。おすこやかにお見受け申しました」
道空は信長に拝謁《はいえつ》したあと、濃姫にもあいさつのために会ったのである。
「なにか、申しておったか」
自分の健康や起居のことなどいろいろと訊《たず》ねてくれたかという意味である。
「否《いな》」
と首をふるしか、道空は話題をもちあわせていなかった。濃姫に拝謁しはしたが、濃姫はニコニコ笑っているばかりで、おそろしく口数がすくなかったのである。
「あの娘、信長めに似て来おったな」
道三は舌打ちしたくなるほどに腹だたしかった。さびしくもあった。
「道空、娘は嫁にやればしまいだな」
「御《ぎょ》意《い》のとおりで」
と、道空はうなずいた。道空も娘をひとり、おなじ斎藤家の家士のもとにやっている。しかしこれは、同じ家中だから会おうと思えば会えた。道三よりも恵まれているのである。
「おれはすこし、帰蝶を可愛がりすぎた」
と、道三はひとりごとのようにいった。たしかに可愛がりすぎた。
この時代の大名の子は、父親とは隔離されて育ってゆく。別の城で育てたり、家来の屋敷で育てたり、時に同じ城内で育てるにしても別棟《べつむね》で養育する。自然、情はうつらないかわり、それを婿や嫁や人質にやるときに思いきりよくやれたし、たとえ、大名間の確執のために他郷で殺されても悲しみは通りいっぺんで済む、というぐあいになっている。そういう、いわば仕組みなのである。
(帰蝶のばあいだけは、おれは膝《ひざ》の上でそだてた)
それが、思えばよくなかった。愛憐《あいれん》がいよいよつのるばかりになっている。
「こまったことだ」
と、道三は苦っぽく笑った。
「聖徳寺で、婿殿をどうなされます」
「わからん」
道三は、視線を庭の桜へむけた。
「養《よう》花《か》天《てん》」
と名づけている桜の老樹がある。その幹のなかほどのあたり、一点、なまなましい切《き》り痕《あと》があり、そこに伸びていた枝が、木曾川をこえて信長のもとに行った。
(あの枝のごとく信長を斬《き》るか)
ちらりと思ったが、すぐ、
「道空」
といった。
「なんでございましょう」
と道空に問いかえされてから、道三は、言いだしたものの、なんの話題もないことに気がついた。
(おれはどうかしている)
顔をつるりと撫《な》で、
「いや、なんでもないことだ」
と、笑った。
菜の花
その夜、美濃鷺山城で、道三は、ねむれなかった。
(あすだな)
と、つい思うのである。例のたわけ《・・・》殿に会う。木曾川べりの富田の聖徳寺に出かけねばならぬ。それにしても信長とはどういう男であろう。
(会えばわかることだ。そのためにこそ会うのではないか)
と自分にいいきかせてみたが、すぐそのし《・》り《・》から、
(はて、信長めは。――)
と、思うのである。道三は眼をつぶりながら、自分のおろかさがほとほとおかしくなってしまった。
(ながく、おれも人間稼業《かぎょう》をつづけてきた。しかも人を人臭いとも思ったことのないおれだ。そのおれが、これほどまでに隣国の若僧の存在が気になっている。……)
どういうわけだろう。
(相手が、むすめの婿殿であるせいかな?)
つまりひとなみな人情のせいか、と自問してみたが、そればかりではなさそうであった。
(あの若僧とおれは、ひょっとするとよほどふかい宿縁でつながっているのかもしれぬ)
と、いかにも坊主くさく思ったりした。宿《・》縁《・》という、わかったようなわからぬような、変にばく然とした宗教用語で説明するしか、この気持のしめくくりようがなかった。
朝になった。
道三ははね起きて近習を呼び、
「支度はできたか」
と大声でいった。城内は、大さわぎになった。
道三は、すでに触れ出している時間よりも半刻《はんとき》はやく出発をくりあげたのである。
供まわりは武装兵千人。
これは、申しあわせにより、信長の側と同数である。ただ、道三は十人の兵法達者をえらび、駕籠《かご》わきにひきつけ、徒歩でつきしたがわせた。
万一、織田家から襲撃されたばあいの用心のためである。また同時に、ふと道三自身が、
――信長を刺せ。
と、とっさに命じねばならぬような場合の用意のためでもあった。
この日、天文二十二年の春である。よく晴れ、野の菜種の黄がまばゆいばかりに眼に沁《し》みた。
道三の行列は、その菜種のなかの道を、うねうねと南下してゆく。
(時勢が、かわってゆくことよ)
と、その菜の花を見るにつけても、道三はおもうのである。
道三の若いころは、最高の燈油は荏胡麻《えごま》から搾《しぼ》ったものであった。道三の故郷の大山崎にある離宮八幡宮《はちまんぐう》の神官がその搾《さく》油《ゆ》機械を発明し、専売権を得、その利潤で兵(神《じ》人《にん》)をやしない、はなはだ豪勢であった。道三はその荏胡麻油を売りながらこの美濃へきた。
が、いまでは、菜種から油をとることが発見され、荏胡麻油は駆逐され、大山崎離宮八幡宮はさびれた。
荏胡麻が菜種にとってかわられたごとく、戦国の覇《は》者《しゃ》どもも、あたらしい覇者にとってかわられるときがくるかもしれない。
やがて、木曾川《か》畔《はん》の村々が、野のむこうにみえてきた。
その朝、信長は湯漬《ゆづ》けを食いおわると、濃姫の部屋にゆき、
「お濃、行ってくるわい」
と、いった。
「父にお会いなされましたならば、帰蝶《きちょう》は病みもせずに、達者でいる、とおおせてくださりませ」
「わすれるかもしれん」
と、干し豆を一つ、口に入れた。白い歯でがりがりと噛《か》みながら、
「ぶじに生きて戻《もど》れば、今夜、そなたを抱いてやる」
「不吉なことを」
「ばかめ。人の世はもともと、不吉なことだらけだ」
「変わったことをおおせられますこと」
「なんの、あたりまえの事をいっている。人の世が吉であれかしと祈っている世間の者こそよっぽど変人だ」
濃姫は笑うだけで、相手にならなかった。
信長は、表の間に出た。
家老《おとな》の青山与三右衛門をよび、
「申しつけたとおり、探索《くさ》者《もの》どもをくばったか」
といった。
青山は平伏し、
「みなことごとく行商《あきんど》に変装させ、富田の町の雑踏のなかに二十人ばかりばらまいてござりまする」
ふむ、と信長はうなずき、着替えをもってこさせてすばやく着替え、
「陣貝《かい》を吹け」
と、廊下へとびだした。
道三は、鷺山城から四里の道をゆき、ひる前、木曾川べりは富田の聖徳寺についた。
(まだ尾張衆はついておらぬな)
と、山門を見あげた。
聖徳寺は、三町四方の練塀《ねりべい》をめぐらせた城のような寺で、一向宗の寺らしく、白壁ぬりの太鼓楼をあげ、望楼、櫓《やぐら》の役目をさせている。
会見の場所は、本堂である。
方丈が、南北に二棟《ふたむね》あり、北の方丈が美濃の支度所にあてられている。
その方丈で道三はしばらく休息したあと、堀田道空をよび、
「会見の前に、信長をみたい。どこぞ、隙《すき》見《み》のできるような家を一軒さがすように」
と命じた。
ほどなく道空がもどってきて、「お供つかまつりまする」といった。
道三は、平服のまま山門を出、その百姓家に駈《か》けこんだ。
家は街道に面している。格《こう》子戸《しど》があって、その街道の様子が自在にみえた。しかも屋内が暗いため、そとからは見られる心配がない。
「これはいい」
と、道三はこの人のわるい趣向に、ひとり悦に入《い》った。が、そのいちぶ始終を、織田家から出ている探索者どもに見られてしまっていることを、道三は気づかない。
刻《とき》が移った。
街道はにわかにさわがしくなった。織田家の先触れがきて人を追いはらっている。
「殿っ、そろそろ尾張衆が参りまするぞ」
と、堀田道空がいい年をしてはしゃぎ声をあげた。道空だけでなく、美濃衆はみなきょうの馬鹿《ばか》見物がたのしみで、うかれ立っているのである。
「どれどれ」
と、道三は格子ぎわへ寄った。
陽《ひ》が、街道を照りつけている。走ってゆく先触れの足に、軽塵《けいじん》が舞いあがっていた。
やがてきた。
どどどど、と、踏みとどろかせるような、常識をやぶった速い歩きかたで尾張衆がやって来、道三の眼の前を通りすぎてゆく。
中軍に信長がいる。
やがて信長がきた。
(あっ)
と、道三は格子に顔をこすりつけ、眼を見はり、声をのんだ。
(なんだ、あれは)
馬上の信長は、うわさどおり、髪を茶筅髷《ちゃせんまげ》にむすび、はでな萌《もえ》黄《ぎ》のひもでまげを巻きたて、衣服はなんと浴衣《ゆかたびら》を着、その片袖《かたそで》をはずし、大小は横ざまにぶちこみ、鞘《さや》はのし《・・》付でそこはみごとだが、そのツカは、縄《なわ》で巻いている。
腰まわりにも縄をぐるぐると巻き、そこに瓢箪《ひょうたん》やら袋やらを七つ八つぶらさげ、袴《はかま》はこれも思いきったもので虎皮《とらがわ》、豹皮《ひょうがわ》を縫いまぜた半《はん》袴《こ》である。すそから、ながい足がにゅっとむき出ている。
狂人のいでたちだった。
それよりも道三のどぎも《・・・》をぬいたのは、信長の浴衣の背だった。背に、極彩色の大きな男根がえがかれているのである。
「うっ」
と、道空が笑いをこらえた。他の供の連中も、土間に顔をすりつけるようにして笑いをこらえている。
(なんという馬鹿だ)
と道三はおもったが、気になるのはその馬鹿がひきいている軍隊だった。信秀のころとは、装備が一変していた。第一、足軽槍《あしがるやり》がぐんと長くなり、ことごとく三間《さんげん》柄《え》で、ことごとく朱に塗られている。それが五百本。弓、鉄砲が五百挺《ちょう》。弓はいい。鉄砲である。この新兵器の数を、これほど多く装備しているのは、天下ひろしといえどもこの馬鹿だけではないか。
(いつ、あれほどそろえた)
しらずしらず、道三の眼が燃えはじめた。鉄砲の生産量が、それほどでもないころである。その実用性を疑問に思っている武将も多い。そのとき、この馬鹿は、平然とこれだけの鉄砲をそろえているのである。
(荏胡麻がほろび菜種の世になるのかな)
と、ふと道三はそんなことをおもった。
「殿、お早く、裏木戸のほうへ」
と、堀田道空が笑いをこらえながら、道三を裏口のほうへ案内した。
みな、畑道を走った。裏まわりで聖徳寺の裏木戸へ駈けぬけるのである。
北の方丈に入ると、礼装を用意していた小姓たちが待っていた。
「いや、裃《かみしも》、長袴などはいらん。おれはふだん着でよい」
と、道三は言った。相手の婿殿が猿《さる》マワシのような装束《いでたち》できているのに、舅《しゅうと》である自分が礼装をしているというのは妙なものだ、とおもったのである。
袖なし羽織に小袖の着ながし、それに扇子を一本、というかっこうで道三は本堂に出た。
座敷のすみに屏風《びょうぶ》をたてまわし、そのなかに道三はゆったりとすわった。
やがて、本堂のむこうから信長が入ってくるのを、道三は屏風のはしから見て、
(あっ)
と、顔から血がひいた。
さっきの猿マワシではない。
髪をつややかに結いあげて折髷《おりまげ》にし、褐色《かちん》の長袖に長袴をはき、小《ちい》さ刀《がたな》を前半《まえはん》にぴたりと帯び、みごとな若殿ぶりであらわれ、袴をゆうゆうとさばきつつ縁を渡り、やがてほどよいあたりをえらんですわり、すね者めかしく柱に背をもたせかけた。
顔を心もち上にむけている。
平服の道三はみじめだった。やむなく屏風のかげから這《は》い出てきて、座敷に着座した。
が、信長はそれを無視し、そっぽをむき、鼻さきを上にあげ、扇子をぱちぱち開閉させている。
「か、上総介《かずさのすけ》さま」
と堀田道空がたまりかねて信長のそばへにじり寄り、
「あれにわたらせられるのは、山城入道《やましろにゅうどう》でござりまする」
と注意すると、
「デアルカ」
と、信長はうなずいた。このデアルカがよほど印象的だったらしく、諸旧記がつたえている。
信長はゆっくりと立ち、敷居をまたぎ、道三の前へゆき、
「上総介でござる」
と尋常にあいさつし、自分の座についた。
道三と信長の座は、ざっと二十歩ばかりの間隔があったであろう。たがいに小声では話しあえない距離がある。
ふたりは、無言でいた。
信長は例によってやや眉《まゆ》のあたりに憂鬱《ゆううつ》な翳《かげ》をもち、無表情でいる。
道三は、不快げであった。この馬鹿にふりまわされて平服で着座している自分が、たまらなくみじめだったのであろう。
やがて湯漬けの膳《ぜん》が運ばれてきた。
寺の衆が、膳を進める。
ふたりは、無言で箸《はし》をとった。無言のままで食べ、ついにひとこともしゃべらず、たがいに箸を置いた。
そのまま、別れた。
道三は帰路、妙に疲れた。
途中、茜部《あかなべ》という部落があり、そこに茜部明神という社祠《やしろ》がある。その神主の屋敷で休息したとき、
「兵助《ひょうすけ》よ」
と、よんだ。
猪《いの》子《こ》兵助である。道三の侍大将のひとりで、近国に名のひびいた男であった。のち、信長、秀吉につかえた。余談だがこの家系は家康にもつかえ、旗本になっている。
「兵助、そちは眼がある。婿殿をどう思うぞ」
と、きいた。
兵助は、小首をひねった。
「申したくは存じまするが、殿の婿殿でありまするゆえ、はばかられまする」
と、そばの道空をかえり見、
「道空殿より申されませ」
といった。道空は膝《ひざ》をすすめ、
「まことに殿にとって御祝着《ごしゅうちゃく》なことで」
といった。
祝着、という言葉で、みなどっと笑った。美濃にとってもうけものだ、というのである。
「兵助も、道空とおなじか」
と道三がかさねてきくと、兵助ほどの男がひょうきんなしぐさで、
「はい、まことにおめでたく存じまする」
といった。
道三だけは笑わない。憂鬱そうな顔でいる。
「殿の御鑑定はいかがで」
と道空がいうと、扇子を投げ出し、
「めでたいのは、そのほうどもの頭よ。やがておれの子等は、あのたわけ《・・・》殿の門前に馬をつなぐことだろう」
といった。馬をつなぐとは、軍門にくだって家来になる、という意味である。
道三は夜ふけに帰城し、寝所にも入らず、燈火をひきよせ、すぐ信長へ手紙をかいた。
「よい婿殿をもって仕合せに思っている」
という旨《むね》の通りいっぺんの文章にするつもりだったが、書くうちに変に情熱が乗りうつってきて、思わぬ手紙になった。
「あなたを、わが子よりも愛《いと》しく思った」
とか、
「帰館してすぐ手紙をかくというのも妙だが、書きたくなる気持をおさえかねた」
とか、
「わしはすでに老いている。これ以上の望みはあっても、もはやかなえられぬ。あなたを見て、若いころのわしをおもった。さればわしが半生かかって得た体験、智恵、軍略の勘どころなどを、夜をこめてでも語りつくしたい」
とか、
「尾張は半国以上が織田家とはいえ、その鎮定が大変であろう。兵が足りねば美濃へ申し越されよ。いつなりとも即刻、お貸し申そう。あなたに対して、わしにできるだけのことを尽したい気持でいっぱいである」
とかいう、日ごろ沈《ちん》毅《き》な道三としては、あられもない手紙だった。
自分の人生は暮れようとしている。青雲のころから抱いてきた野望のなかばも遂げられそうにない。それを次代にゆずりたい、というのが、この老雄の感傷といっていい。
老工匠に似ている。この男は、半生、権謀術数にとり憑《つ》かれてきた。権力慾というよりも、芸術的な表現慾といったほうが、この男のばあい、あてはまっている。その「芸」だけが完成し作品が未完成のまま、肉体が老いてしまった。それを信長に継がせたい、とこの男は、なんと、筆さきをふるわせながら書いている。
信長は帰城し、例の男根の浴衣《ゆかたびら》をぬぎすて、湯殿に入った。
出てきて酒をもって来させ、三杯、立ったままであおると、濃姫の部屋に入った。
「蝮《まむし》に会ってきたぞ」
と、いった。
「いかがでございました」
「思ったとおりのやつであった。あらためて干し豆などをかじりながら、ゆっくり話をさせてみたいやつであったわ」
「それはよろしゅうございました」
と、濃姫は笑った。言いかたこそ妙だが、これは信長にとって最大の讃《さん》辞《じ》なのだということが、濃姫にはわかっている。
清《きよ》洲《す》攻略
隣国の道三は、妙に厚情を示しはじめた。
信長に、である。しばしば自筆の手紙がおくられてきたり、物品がとどいたりした。
はじめは信長も、
「蝮め、薄気味がわるい」
とつぶやいていたが、だんだん道三の愛情を疑わぬようになった。
(あの爺《じじ》イ、本気らしい)
とおもうようになったのは、道三から新工夫の雑兵《ぞうひょう》(足軽)用の簡易具足が一領《りょう》おくられてきたときである。
鉄砲の出現で、中世式の鎧兜《よろいかぶと》がすたれ、当世具足とよばれるものが流行している。
軍のたてまえも、侍の騎兵戦から、足軽の歩兵戦にうつった。鉄砲組、弓組、槍《やり》組の三つの兵科の足軽兵が、密集部隊となって敵と衝突する時代になった。
こまるのは、その足軽の肉体をまもる官給の具足である。むかし革で縅《おど》した程度の腹巻では、すぽりと鉄砲玉をとおしてしまう。
足軽が大量に死ねば、軍の前陣はくずれ立ち、喧《けん》嘩《か》は負けになってしまう。かれらのための簡易具足の研究は、どの国のどの大名も工夫をこらした。
その簡易具足の新工夫のものを、道三は信長に送りつけてきたのである。
「よければ、織田家でもつかいなされ」
と、手紙にある。いわば軍事機密を無償でくれたことになる。
信長がその具足を手にとってみると、なるほど、おもしろい。
織田家では鉄砲出現以来、雑兵には、桶皮《おけがわ》胴《どう》といわれるものを着用させている。打ちのべにした鉄板を四、五枚鋲《びょう》でつなぎとめたもので、簡便だが屈伸の自由がない。
道三からおくられてきたそれは、鉄板を革ひもでとめ、提灯《ちょうちん》のように屈伸できるのである。道三はそれを「胴丸《どうまる》」と名づけ、侍具足にも応用していた。
信長は念のためにそれを樹《き》の枝につるし、三十間はなれて鉄砲をかまえ、
ぐわーん
と射ちとばしてみたが、胴丸には穴があかなかった。
さらに足軽ひとりをよび、それを着せ、槍をもたせ、白洲をとんだりはねたりさせた。
「どうだ」
ときくと、「ぐあいがよろしゅうございまする」という。
そこで信長は、城下でそれとおなじものを五十領つくらせた。
それを五十人の足軽に着せ、他の五十人の足軽にはいままでの桶皮胴を着せ、棒たたきの試合をさせたところ、たちまち運動の軽快な胴丸のほうが勝った。
そこでやっと信長は、
(蝮めはよいものをくれたわい)
とおもった。性格なのであろう、万事、執念ぶかいほどにこの男は実証的だった。
実証のすえ、蝮の好意を感じた。
(蝮に野心があれば、こういうものはくれまい)
とおもうのだ。蝮は若いころ、美濃守護職土岐頼芸《よりよし》の位置をうばうために、京から女をつれてきてはあてがい、酒池肉林にのめりこませて性根をうばい、目的を達している。
が、信長には武具を贈っているのだ。しかも、大名道具の名刀などは贈らず、織田軍団を強化する新工夫の武具を、である。
(あいつ、おれがすきだな)
とおもうようになった。
この狂児を理解してくれた者は、亡父の信秀しかいない。自害した「爺《じ》ィ」の平手政秀はこの、万人に毛ぎらいされていた若者に愛情をもってくれた唯一《ゆいいつ》の人物だった。しかし、政秀はついに信長という若者がわからなかった。
(どうも薄気味がわるい)
と信長がおもったのは、ひともあろうに隣国の蝮が、あられもない打ちこみようで信長を可愛がりはじめたことである。
(まさか、おれを油断させておいてぺろりと呑《の》みこむつもりではあるまいな)
という疑いは、おかしなことに、まるでもたなかった。自分の父をあれほど手こずらせた蝮を、信長は少年のころから半身のようにみてきた、といえば言いすぎだが、わりあい気に入っている。そういう感情が、疑わせなかったのかもしれない。
研究もしている。
蝮の外交、謀略、軍事、民政というものを濃姫や濃姫づきの各務《かがみ》野《の》、それに美濃からきた福富平太郎などの口からできるだけききだそうとした。
それを実習する日がきた。
織田家には、宗家がある。
尾張清洲城にいる織田氏で、城は尾張随一の堅城だし、領地も多い。
――清洲をとってやる。
というのは亡父信秀の念願だったが、ついに果たさずに死んだ。
清洲方も、
――なごや《・・・》の織田(信長)をつぶしてしまわねば自分の家があぶない。
とおもい、父の代から戦闘をくりかえしている。が、信長の代になって、当方も信秀が死に、先方も織田常祐《つねすけ》という当主が死んだため、一時休戦のかたちになっていた。
ここに、斯波《しば》氏というのがある。
尾張における足利《あしかが》大名で、美濃の土岐氏、三《み》河《かわ》の吉良《きら》氏にあたり、いまは実力はおとろえきっているとはいえ、国中では最高の貴人として尊崇されている。
当代は、義統《よしむね》といい、茶の湯と連歌のすきな温和な中年男だった。
趣味がおなじだったから、信長の亡父信秀とは親しく、信秀の死後もときどき、なごや《・・・》城にあそびにきて、
「ぶじにすごしておるかな」
と、信長にいうのが口ぐせになっていた。
信秀の遺児がたわけ《・・・》殿であるだけに、義統には気になるのであろう。
義統は、清洲の織田宗家の城内に屋敷をたててもらって住んでいる。というのは逆で、もともと清洲は斯波氏の居館であったのだが、数代前に家老の織田家にとってかわられ、いまではその城内の一隅《いちぐう》に斯波義統がほそぼそとくらしている、といったかっこうである。
その義統が、
「清洲織田家が、そなたを攻めほろぼす計画をもっている」
という容易ならぬ情報を信長の耳に入れてくれたのは、信長が道三と聖徳寺で会見する前後だった。
その後、親切にもしばしば、情報を送ってくれた。信長がたのんだわけではないが、義統にすれば信長がたわけ《・・・》のゆえに身をほろぼすのがあわれであったのであろう。閑人《ひまじん》の道楽のようなものであった。
ところが、
「どうも城内の様子が、信長に洩《も》れているらしい」
と清洲織田家がかんづきはじめ、それとなく義統の挙動を監視しはじめた。
清洲織田家は、常祐の死後、彦五郎という養子が相続し、それを家老の織田三位入道《さんみにゅうどう》、坂井大膳《だいぜん》、河尻《かわじり》左馬《さま》の三人がたすけているが、この三家老が、
「武《ぶ》衛《えい》(斯波家の通称)は、なごや《・・・》信長に通じておられること、あきらかです。いまのうちに、誅戮《ちゅうりく》すべきでしょう」
と献言し、ひそかに準備をすすめていた。
たまたま義統の屋敷が、かれの嫡子《ちゃくし》岩竜丸が狩りに出て無《ぶ》人《にん》だった日がある。天文二十二年七月――信長が道三と会見してから三月目のことである。
清洲織田勢がどっと乱入し、義統を刺し、おもだった家来三十余をことごとく殺した。
狩りに出ていた岩竜丸はこれを知り、そのまま、なごや《・・・》城に走り、信長に救いを求めた。
岩竜丸の訴えをききながら、
(ここだな)
と信長はおもった。いまこそ道三学を実地におこなうべきときがきた、と思ったのだ。
「当城で遊んでいなされ」
と岩竜丸にはそれだけを言い、機をうつさず陣貝を吹かせ、兵をあつめ、
「敵は清洲ぞ」
と、家老の柴《しば》田《た》勝家ら七将に兵をさずけてゆるゆると清洲にむかって行軍させ、別に使者を美濃へむかって走らせ、道三に、
「兵千人ばかり拝借したい」
といわせた。
「なにに使う」
とも道三はきかず、
「おうさ、ほかならぬ婿《むこ》どのの無心じゃ。千が二千でももって行かれい」
さっそく美濃衆二千ばかりをととのえ、尾張へ駈《か》けさせた。
信長はその美濃部隊を城内に入れ、すでに清洲攻めにむかっている柴田勝家らの戦況を待った。
清洲城では、雀躍《こおど》りした、というより家老の坂井大膳などは、城外にあらわれた柴田らの軍勢をみてげらげら笑った。
「あれをみよ、やはりたわけ《・・・》殿のやることはよ」
あわれなほど小《こ》勢《ぜい》なのである。
その小勢が、数隊にわかれ、そこここのあぜ道をつたいながら城にむかって近づいてくるが、気勢のあがらぬことおびただしい。
「城攻めには寄せ手は三倍以上の人数が要るものだ」
と、尾張きってのいくさ上手といわれる坂井大膳がいった。
「であるのに、あの寄せ手をみよ、われわれ城方の三分の一もない」
坂井大膳は、これが信長の出兵能力のぎりぎりであり、これ以上の人数は繰り出せぬ、と踏んだ。
かれの献策で野外決戦をとることになり、清洲方は城門をひらいてどっと打って出た。
まず、鉄砲、弓を射ちあい、やがて田のあぜ、ねぎ畑のなか、池の堤、くぬぎの林などで格闘がはじまった。
そのころ、なごや《・・・》城内では信長が、
「みな、出いっ」
と、するどい声をあげていた。
さらに、奥にいる濃姫を表の広間へよび、
「お濃、わしにかわって留守を宰領せよ」
といった。
みなおどろいた。
要するに信長は、城内にいる織田兵を一兵のこらず連れて行こうというのである。あとに残るのは美濃兵だけではないか。
ばかげている。
戦国の世の常識として、城内に他家の者をわずかでも入れるのをきらう。蜂《ほう》起《き》して城を乗っ取られるのにきまっているからだ。げんに亡父信秀は、連歌の客となって友人の城へゆき、仮病をつかって城内で寝こみ、ある夜、人の寝しずまったところを見はからって自分の手まわりの家来とともに城内を斬《き》りまくってとうとう城をとった。そんな例がある。
いま、相手は美濃衆である。その方面では蝮といわれる道三の手の者たちではないか。盗賊に家の留守をたのむようなものであろう。
ところが信長は意に介せぬふうで、さっさと出てしまった。
(やはりたわけ《・・・》殿じゃ)
と、道三から兵をさずけられてこの城内にきている春日《かすが》丹波守《たんばのかみ》が、あきれた。
春日は城壁に立ち、砂《さ》塵《じん》をたてて遠ざかってゆく信長とその部隊を見送っている。
「城門を閉めろ」
と、春日が一令すれば、もはや織田部隊はこの城には帰れなくなる。
(なんと、無邪気な男だ)
と、春日はおもった。春日は自分の主人の斎藤道三が、いかにおそるべき男かを知っている。その道三をやすやすと信じて、あの若者ははたち《・・・》にもなって、城をからにして駈け出したのだ。
(この旨《むね》、美濃へ報《し》らせるかな)
とおもい、広間に入り、家来をよんで何事かを言いふくめていたとき、濃姫が立ちあらわれた。
筋金の入った鉢巻《はちまき》を締め、薙刀《なぎなた》を持ち、広間の正面にあらわれ、侍女に床几《しょうぎ》をすえさせた。
「丹波」
と、濃姫はよんだ。
「その者をどこへやるのです」
「美濃のお父君のおんもとへやりまする」
「なりませぬ」
と言った。あとはかるく、
「この城は、上総介《かずさのすけ》殿がおかえりあそばすまでわたくしが宰領しているのですから」
といった。
そのあと濃姫は侍女にすごろく《・・・・》をもって来させて、広間で興じはじめたのである。
(まだ子供だ)
と春日丹波守はおもい、濃姫の目のとどかぬ場所に指揮所をうつそうとして、
「お邪魔でございましょうから、われら別の棟《むね》に」
と言いかけると、濃姫は顔をあげ、
「いいのです。丹波は夜もここにおりますように」
とすかさず命じた。
夜ふけになって、信長はほこりまみれになって帰ってきた。
広間に入ってくるなり、例の憂鬱《ゆううつ》そうな貌《かお》つきで、
「お濃、湯漬《ゆづ》けだ」
と命じた。濃姫の甲斐々々《かいがい》しい武装すがたなど、いっこうに眼にもとまらない様子なのである。
児《こ》小姓《ごしょう》に具足をぬがせながら、
「丹波、あすもたのむぞ」
とそこに平伏している舅《しゅうと》の侍大将になんの翳《かげ》もなくいった。
(貴族のうまれなればこそだ)
と、春日はおもい、やや威にうたれるような思いがした。うまれつきの大名なればこそこうもすらりと言えるのであろう。
「いくさは勝った」
と、信長がいったのは、それからしばらくしたあと、広間の正面にあぐらをかいて湯漬けを掻《か》っこんでいるときである。
「それは祝着《しゅうちゃく》しごくでござりまする」
「そちのおかげでもある」
信長はめしを噛《か》みながらいった。
「ただ、かんじんの彦五郎めや坂井大膳は城のなかに逃げこんでしまったため、討ちもらした。このため、ちょっと手間がかかる」
「まだ御人数は、清洲城をかこんでいるのでございますな」
「そうだ」
懸命にめしをかきこんでいる。どうみても遊びつかれて家に帰ってきた悪童としかみえない。
「丹波、舅《しゅうと》殿にこの旨を報らせる使いを出さねばならぬ」
「よくお気づきで」
「あたりまえだ。そちなどは、わしが出て行ったあと使者を出そうとした。ああいう使者は無用だ」
「えっ」
(馬鹿《ばか》ではない)
春日は腹が立った。信長は先刻からこの広間を動いていないから、濃姫からその報告をきいているはずがないのである。
「いや、じつは、お留守居ばかりではつまりませぬ、それがしも一手をひきうけて働きたいと存じ、その旨を山城《やましろ》入道様にお伺いをたてようとしたまででございます」
「それも無用だ」
信長は、箸《はし》をおいた。
「ここの大将はおれだ。わしの陣にいる以上わしを唯一無二の大将と思え。でなければ美濃へ追いかえすぞ」
この戦闘は、謀略で信長が勝っている。
清洲織田方は信長の猛攻に閉口し、守山織田家という中立勢力に調停をたのんだ。
守山織田家の当主は、織田信光という。信光はすでに信長に通じていたから、
――いかがはからいましょう。
と相談してきた。
「だませ」
と、信長はいった。このため信光は、守山城にやってきた坂井大膳の兄大《おお》炊《い》を斬り、大膳を国外に追放した。
その直後、信長は清洲城をかこみ、火の出るように攻めたて、ついに陥《おと》して当主の彦五郎を、
「武衛様おんかたき」
として誅殺《ちゅうさつ》し、あっというまに清洲城をのっとり、これを居城とした。
これが、弘治元年四月。道三との会見から満二年目のことである。
尾張半国はほぼ、信長の手で征服された。ときに二十二歳。
猿《さる》の話
「清洲」
というのは、繁昌《はんじょう》の城下である。
城下のはずれ、街道に面する須賀《すが》口《ぐち》というところに、尾張第一の妓《ぎ》楼《ろう》の町がある。
そのころ、尾張のこどもたちは、
酒は酒屋に よい茶は茶屋に
女郎は清洲の須賀口に
と、うたって手まりなどをついたものだ。
信長も少年のころ村童たちとともに唄《うた》いあるいて、
(清洲とはよほどにぎやかな城下らしい)
と、いわば都をあこがれるような気持でこの町を想像していた。なにしろ、二百年ちかく尾張の国《こく》都《と》のような位置をつづけてきた町なのである。
信長はその清洲へ移る。
しかも草ぶかいなごや《・・・》からである。ついに田舎豪族が、国都のぬしになるのだ、というような昂奮《たかぶり》は、どういうわけか、この奇妙な若者のどこからも感じられない。
その前夜、にわかに侍屋敷に触れを出し、
「あすは清洲へ越すぞ」
と一声叫んだだけで、その朝には掻《か》きあつめただけの軍勢をひきいて、風のように家《や》移《うつ》りしてしまった。
「夜逃げか」とおもうほどの迅《はや》さである。
家財、武具、兵糧《ひょうろう》などは、なごや《・・・》城におき去りにしたままであった。それどころか、濃姫まで置きざられてしまった。
武士たちの家族も、そうはやばやとは移れず、結局、全員が移ったのは十日ほど経《た》ってからであった。
この報《し》らせを美濃鷺山《さぎやま》城できいた道三は、
「小僧、やるわい」
と、満足そうにつぶやき、「どうやらあの男はおれの鑑定《めきき》どおりだったようだ」といった。
そのとき道三は、
「清洲での婿殿の日常はどうじゃ」
と、尾張からかえってきた細作《さいさく》(間諜《かんちょう》)にきいた。
「相変らずでございます」
「とは?」
「毎日、お馬を責められます。馬のくびに顔を伏せてお馬場を狂うように駈けまわられ、かと思うと家来の者にいきなり角力《すもう》をいどまれたり、鷹《たか》野《の》(鷹狩り)をなされたり、日中は片時も畳の上におわすことはござりませぬ」
「例の姿か」
「いや、あれはどうやらおやめなされたようでございます。城下へ出て百姓家の柿《かき》をぬすんだり、水潜《みずくぐ》りをなされたりすることも、清洲ではききませぬ」
「大人になったのかな?」
と、道三はちょっと上眼で考えるふうをし、何か楽しそうであった。
大人になったかどうか。
なるほど信長は、ひとりで城の外に出るようなことはなくなった。これは、清洲攻めという初仕事をし、自分が加害者になってみてはじめて人の世はうかつに一人歩きできぬ、という大名としてあたり前のことを知ったのだろう。
しかし、奇行はやまない。
前回《さき》に、胴丸の話をかいた。道三がとどけてくれて、信長がためし、足軽用の官給具足として大量にこしらえたあれ《・・》である。
その胴丸にちなむ奇妙ばなしがある。
話の場所はとぶ。駿《すん》府《ぷ》今川家の被官で、遠州浜松付近の久能《くの》という村に城館をもつ松下嘉兵衛《かへえ》という武士がいる。ここに小者《やっこ》として奉公していた小男がいる。
尾張中村在のうまれだというが、少年時代食うやくわずの放浪をし、途中、盗賊のむれに入ったこともあるらしい。
「猿」
と、よばれていた。自分では名を、藤吉とか藤吉郎とか、つけているようだが、名をよばれるほどの分際ではない。
ある日、嘉兵衛はその藤吉郎を庭へよび、縁の上から、
「そちは尾張生れであったな」
と念を押した。
「左様でござります」
「尾張はここらあたりとちがい、諸事、物の道具がすすんでいる。ちかごろ織田家の足軽具足に胴丸というものがあるときくが、そちは見たことがあるか」
「ございますとも、便利なものでござりまする。あれが出ると、もはや桶皮胴《おけがわどう》などは廃《すた》れまするな。――なにしろ」
と、藤吉郎は自分の両脇《りょうわき》へ手をやり、
「ここで四枚の鉄板を、二カ所にて結び止めてありますゆえ、具足胴が伸び縮みし、体をかがめることも自在でござります。あれはまことに便利なものでござります」
「ほう」
「なんならこの猿めが尾張へ行って、二つばかり買いもとめて参りましょうか」
「そうだな」
と嘉兵衛は言い、黄金を何枚かあたえ、すぐ旅立たせた。
藤吉郎はその金をふところに入れ、さっさと街道をあるいて尾張清洲の城下に入り、宿をとって数日滞在した。
そのうち、かれがかつて尾張中村にいたころ、「たわけ《・・・》殿」といわれていた信長が、いま日の出の勢いであることを知った。
猿は、利口な男だ。
ひとの話をたくみに聞く。清洲攻めのやり方などを聞けば聞くほど、
(この大将こそ、将来、尾張はおろか隣国を切りとるほどの人になりなさるにちがいない)
と、直感した。
人の運命は、身を託す人によってひらけもすれば縮みもする、そんなことをこの小者は身についた智恵で知っている。第一、足軽にすべて胴丸を着用させているということだけでも容易ならぬ大将ではないか。
(えい、胴丸買いなどはやめた)
と思い、その金で小ましな古着、脇差などを買い、信長の外出を見はからって、
――おねがいつかまつりまする。一生のお願いでござりまする。
と路傍に身を投げ、平伏し、顔を土にこすりつけ、泣き声を出し、懇願し、ついに織田家の小者としてかかえられた。
その後、城の雑用をしている。
そんな男がいる、というのを信長はすっかり忘れていた。
ある日、信長は、奪《と》ってほどもない城内を悪童づらでうろついているうちに、この城で「松ノ木門」と通称している門のそばへきた。かや《・・》ぶきで、低い二階だてである。
(あの二階になにがあるのか)
と思い、のぼってみると、変哲もない二十畳敷ほどの板敷である。
(なんじゃ、これだけか)
と、矢狭間《やざま》からそとをのぞいてみた。なるほどすこし高いだけあって、そこここの景色がよくみえた。
むこうから、人がやってくる。竹箒《たけぼうき》をもった小男である。
「人カト思ヘバ猿、サルカト思ヘバ人也《なり》」
と、のちの伝記作者にかかれたほどの奇相を、この小男はもっていた。
(ああ、あいつか)
信長はおもいだし、そのまじめくさった猿づらが、ばかばかしいほどに、かれは気に入った。
(奇態のやつじゃ)
と、おもうと、矢もたてもたまらず、なにかしてやりたくなった。やむなく半袴《はんばかま》をたくしあげて、男根をとり出した。
うまいぐあいに、腰板にフシ穴があいている。そこへ男根をもってゆき、そのままそとにむかってさしこみ、びいっ、と小便をとばした。
それが、真っこうから猿のつら《・・》にしぶきをあげてかかった。
猿は、
「あっ」
と、とびあがり、腕《かいな》で顔の水をかなぐりすてつつ、小便のくる方向を見さだめると、目の前の腰板に男根が一つ出ている。
「おのれ、なにやつじゃ」
と猿はとびあがり、門の梯子《はしご》をつかむや、腰を波うたせて掻きあがった。そこになんと織田上総介《かずさのすけ》信長がいた。
「ゆるせ」
と、またぐらへ仕舞いこみつつ、眉《まゆ》にたてじわを寄せ、いつものにがい顔で立っている。
猿は平伏もせず、片膝《かたひざ》を立てたまま、胸をかきむしるようにして、
「殿様なりともゆるせませぬぞ」
と、顔を真赤にしてどなった。
「男のつらに尿《ゆばり》をふりかけるなどは法外なことじゃ。お手討にあうとも、これはかんべんなりませぬぞ」
この剣幕には信長も手がつけられず、ただむやみと顔をにがっぽくつくり、
「汝《ナンジ》ガ心ヲ見ントテ、シタル事也」
と、「祖父物語」を筆うつしにすればそんなことを言った。
「心を見るために、小便をおかけあそばしたのでござりまするか」
「おれはいつもその手だ」
「しかし、掛けられた者の身にもなってくださりませ」
「わかった」
信長は和《わ》睦《ぼく》のしるしとして、
「あすからおれの草履をとれ」
といった。おなじ小者でも、大将の草履取りともなれば出世の機会はいかほどでもあるだろう。
「それならば、堪忍《かんにん》つかまつりまする」
と藤吉郎は言い、信長がおもわず吊《つ》りこまれて笑いだしたほどのうれしそうな笑顔をみせた。
(これは、楽しみがふえた。この猿を毎日からかってやると、さぞおもしろいことになるだろう)
と、信長はもとの憂鬱《ゆううつ》げな顔にもどりながら、内心そうおもった。
要するに、清洲城主となった信長は、あいかわらずそんなことをやって暮らしているのである。
この清洲移転の当座、事件が多かった。
尾張春日《かすが》井《い》郡守山(現名古屋市東北郊、同市守山区)という土地がある。
土地は矢田川と玉野川にはさまれた野で、ひくい丘陵があり、竜泉寺山につながっている。そのひくい丘陵に城がある。
守山城という。織田家の同族で、信長からは叔父にあたる孫十郎信次が、付近の小領主として在城している。
(いずれ機会があれば守山城も当方におさめねばならぬ)
と信長はおもっていた。
ここに、信長がかわいがって清洲に住まわせている弟がある。喜六郎といい、まだ前髪のとれぬ少年で、容貌《ようぼう》は国中ですでに伝説化しているほど美しい。美男美女の家系といわれる信長のきょうだいのなかでも、喜六郎だけは格段にすぐれていた。
ひどく、おとなしい少年だが、ただひとつ信長に共通したところがある。馬がすきなことと、ひとりで城外に出たがることである。
信長の清洲移転から二カ月目の六月二十六日、喜六郎は単騎、城外へ出た。
馬を駈けさせ、ときに休み、ときに水馬を試みたりして楽しんでいたが、竜泉寺山の下の松川渡しというあたりまできたとき、さっと流れに馬を乗り入れた。
やや下流に、柳の巨樹がある、その下で川狩りをしていたのが、守山城主織田孫十郎信次と、その家来数人だった。
「あ、ばかめ、乗り打ちをやりおったわ」
と、かれらは流れを乱されたためにふんがいし、しかも遠目のため相手が喜六郎であることがわからず、「成敗《せいばい》してくれる」と、須賀才蔵という者が堤に駈けあがって弓矢をとって来、矢をつがえ、ひきしぼって矢《や》頃《ごろ》を見はからううちに頃合到来し、ひょう、と放った。
矢は十間を飛び、喜六郎の胸に突きささった。喜六郎、声もなく落馬し、水中に落ちたときは息がたえていた。
「殿、仕止め申した」
と侍どもは歓声をあげ、どっと瀬に入って喜六郎の死体に近づき、抱きおこしてみるとかくれもない織田の公子である。
「わっ、これは喜六郎ではないか」
と、織田孫十郎信次はおどろき、すぐこの死体の兄貴の信長の激怒を想《おも》った。
孫十郎信次は堤をかけあがり、すぐそばの居城守山城に入ると、
「汝《わい》らは勝手にさらせ。おれは逃げるぞ」
と、馬をひきだしてきてとびのるなり、国外にむかって逐電《ちくでん》してしまった。このままこの男の消息はついに知れない。
こうも叔父をして恐怖せしめたほど、信長という男の性格は激烈なものがあった。
信長は、喜六郎が殺された、という報告をきくや、広間正面から駈け出し、家来どもの頭上をとびこえ、玄関をとびだし、
「馬あ――っ」
と叫びながら徒歩で走り、口取りがあわてて手綱をひきつつ駈け寄ってくるや、ものもいわずに鞍上《あんじょう》の人となって駈けだした。
守山まで三里ある。
信長は、すさまじい速度で駈けさせた。あとに、二騎、五騎、二十騎とつづいてくるが、とうてい追っつかない。
馬も良い。
それに毎日この男は責めている。馬の息がつづくのである。侍どもの馬は、素質がわるいうえに平素厩《うまや》で飼いつめ置きの馬だから、一里も走れば動かなくなるのもあり、山田治郎左衛門という近習《きんじゅう》の馬など、前脚を折り、首をのばして絶命した。
信長は、守山口の矢田川のほとりまでくると河原へおりて馬の口を洗わせ、さらに堤へはねあがったとき、近在の郷士犬飼《いぬかい》内蔵《くら》という者が城のほうから走ってきて、
「申しあげます」
と、馬前に伏した。
「なんだ」
「御敵《おんてき》はおりませぬ」
「どけっ」
と蹴散《けち》らそうとしたが、犬飼は身をかわして口輪をおさえ、
「孫十郎様は、事の大事に気づかれるや、いずれともなく駈け落ちなされてござります。その他ご家来衆も逐電いたし、城はあき城になっております」
と、いううちに、信長の家来たちが駈けあつまってきたので、城内を検分させると、なるほどひとりもいないという。
「帰る」
と、信長は馬首をめぐらし、いま駈けてきた道をこんどはゆっくりと打たせはじめた。
この話も、道三はきいた。
「あの小僧は、よほど国中の者から怖《おそ》れられているものとみえる」
と、道三は、信長のうわさばなしのなかでこの話をもっとも興ぶかくきいた様子だった。
「まるで鬼《き》神《じん》だ」
と、微笑《わら》いながら、堀田道空にいった。
「狂人でございましょう」
堀田道空は相変らず信長に好意をもっていない。
「激情を発するとなにをするかわからぬところがございます。憎しみがはなはだしく、とくに自分に従わぬ者は、近臣なりとも手討にしかねまじいところがございます」
「それがよいのだ」
と、道三の尺度はちがうようであった。道三にすれば、人君たる者は怖れられねばならぬ、と思っている。懐《なつか》れてしかも威があるというのは万将に一人の器で、普通のうまれつきでは期しがたいものだ。それよりも、一言の号令が万雷のように部下に降《くだ》りおちるという将のほうがこの乱世では実用的である。
(あいつも、どうやら蝮《まむし》だな)
と道三はおもい、なにやら愛《まな》弟子《でし》の成長をみるような心地がして、わるい気がしなかったのである。
「つぎに何がおこるか、婿殿はわしを楽しませてくれる」
言いながらも、道三は信長を警戒し、その身辺や清洲城下、尾張領内におびただしい数の間諜《かんちょう》をはなってある。
お勝騒動
ある朝、信長がむちをあげ、馬場で悍《かん》馬《ば》をせめていると、むこうの木槿《むくけ》垣《がき》を乗りこえ、馬前にころがりこんだ若者がいる。
「なにやつだ」
と、あやうく手づな《・・》をひいた。若者は平伏し、顔を伏せたまま、
「佐久間の七郎《しちろう》左《ざ》(衛門)でござりまする」
といった。年はやっと二十をこえたばかりだが、喧《けん》嘩《か》達者な男で、信長は少年のころよりこの七郎左をつれて城下をのしあるいた。
「うぬァ、人を斬《き》ってきたな」
と、信長は馬上からいった。七郎左の肩に血がべっとりついているのである。
七郎左は、顔をあげた。佐久間といえば織田家の家中きっての名門で、七郎左は、その次男にあたり、とくに弟信行に請《こ》われて末森城に出仕していた。
妻は、まだない。
「斬りましてござりまする」
と平伏する七郎左のまわりを、信長は戞々《かつかつ》と輪乗りしながら、
「たれを斬った」
「朋輩《ほうばい》の津田八《はち》弥《や》でござりまする。今暁《こんぎょう》、津田の屋敷うちに斬りこみ、玄関で大音をあげ、とび出してきたところを斬り倒してトドメをさし、その足で参上つかまつりましてござりまする」
「なぜ斬った」
「恋のうらみでござりまする」
「ははあ、お勝じゃな」
と信長は家中のこういう次男、三男坊と泥《どろ》んこになって遊びまわっていただけに、妙な事情通になっている。
お勝というのは、佐久間の分家の娘で、織田家の家中きっての美人だった。それに、なまなかな娘ではなく、気がつよい。
――お勝とはそんなにきれいか。
と、信長も一時、近習にきいたりして、ちょっと興味を示したこともある。
――好きずきでござりまするな。手前などはああいう痩《や》せた色黒娘は好みませぬ。あれは癇《かん》病《や》みでござりましょう。
と、その近習はいった。癇病みとはヒステリーというほどの意味だろう。
そのお勝について、ちかごろ異変があった。信長の弟信行の近習で津田八弥という若者とのあいだに婚約が成立したのである。このうわさは、家中の若侍に衝撃をあたえた。
「八弥めが射落したとよ」
と、みなさわいだ。そのうちの一人が佐久間七郎左を満座の前で、
「おぬしはお勝に傍惚《おかぼ》れしておったが、ざまはないの」
とからかった。七郎左は屈辱にたえきれず席を立って分家を訪れ、ひそかにお勝の部屋に入りこみ、娘をなじった。
「ぬしァ、わしをあざむいたな」
と凄《すご》んだが、お勝にとって迷惑しごくだった。あざむくどころか、この七郎左の粗暴さがきらいで、本家を通して何度か縁談《はなし》を申し入れてきた者に対しても、父親にそういって断わりつづけてきたのである。
実際のところ、お勝は七郎左の顔をみるのもきらいだった。
二、三年前の夏、信長とこの七郎左が、亀《かめ》ケ瀬《せ》という急流で水馬をして戯《たわむ》れ、組み打ちをし、あやまって二人とも水中に落ち、溺《おぼ》れかかったというさわぎがあったときも、
「おふたりとも、亀ケ瀬で儚《はかな》くおなりあそばしたほうが、よろしゅうございましたな」
とお勝は父親に言い「叱《しつ》」と口もとをひねられたことがある。たわけ《・・・》の信長の評判はそれほどわるかったわけでもあるし、そのたわ《・・》け《・》の悪友の七郎左を、お勝はそれほどきらっていたことにもなる。だから、
「あざむいたな」
といわれるような身の覚えは、ちっともない。「とんだ言いがかりでございます」とお勝はそのように抗弁すると、七郎左は「言いがかりではない」といった。
「その証拠に、そなたは、わしの顔をみるたびに、笑顔をみせたではないか」
「それは御本家のお部屋《へや》住《ずみ》様でございますから、末の分家の娘のお勝としては不機《ふき》嫌《げん》な顔もみせられませぬ」
「それがわしを誤った。わしはうかつにもそなたを信じ、朋輩《ほうばい》にも、お勝はおれの嫁になると触れてしまっていた。それを、そなたは津田八弥のもとへ嫁《ゆ》くという。わしはもはや、朋輩にも顔むけができぬようになった。こうなれば色恋ではない」
「それはあなたさまのご勝手のことではありませぬか。あなたさまが、おなかま衆にどうお触れあそばしていようと、お勝の存じあげたことではございませぬ」
「わかっている。しかし男の一分《いちぶん》が立たぬ。すまぬが、津田八弥の一件、破談にしてわしのところへきてくれぬか」
「なりませぬ」
あなたさまがきらいでございます、とはお勝はいえなかった。「すでにきまってしまったことでございますから」とのみいった。お勝にすれば佐久間一族の宗家の息子に、その程度にしかいえなかった。それがわるかった。七郎左に、
(まんざらきらわれているわけでもない)
と自信をもたせた。あとは押しに押せばなんとかなると思い、毎日訪ねてきた。数日してお勝はついに、
「わたくしは八弥様が好きでございます」
と、きっぱりいった。それでも七郎左様は好きませぬ、とはいえなかった。
七郎左は、なおあきらめずに日参した。お勝を貰《もら》わねば、もはや家中の朋輩と、男としてまじわれぬ気にこの若者はなったのだ。
ところが、そういう七郎左の挙動が、ことこまかしく朋輩につたわり、物笑いのたねになっていた。ある日それを懇意の朋輩から注意され、
「笑われておるぞ」
と、いわれた。笑われる、ということはこの当時の武士かたぎ《・・・》にとってこれほどの恥辱はない。武士たちは笑われぬために戦場で勇をあらわし、卑怯《ひきょう》のまねはせず、平素は言動をつつしみ、もし笑われた、となると、相手を斬るか、自分が切腹するか、どちらかしかない。
余談だが、切腹は江戸時代の流行で、この時代はいくさに負けてのっぴきならぬ立場に追いこまれぬ以外は、あまり自殺などはしなかった。むしろ踏みこんで相手を殺し、逐電するほうが男らしいとされていた。
「うわさのたね《・・》はたれが播《ま》いた」
ときくと、津田八弥がそう言いふらしてまわっておると、朋輩はいった。
「八弥めかっ」
と、七郎左は言い、その夜帰宅すると身のまわりを整理し、津田八弥の屋敷へゆき、門前で剣を抱いて夜の明けるのを待ち、門がひらくや、とびこんで津田八弥を斬ったのである。
「たわけたことをする」
と、信長はいったが、声が小さかった。かれにはこの少年時代の悪友を、家来に対する感情以外の場所で愛していた。友情といっていい。
「七《・》、おれは家督をついで以来、町へも出あるかぬ。悪ふざけもせぬ」
「まじめにおなりあそばしたげでござりまするな」
「そちだけは、まだたわけ《・・・》か」
叱《しか》っているのではない。信長はむしろうらやましそうにいった。身分のかるい七郎左だけがまだ大人にならず、たわけ精神《ごころ》をつらぬいて乱痴気さわぎを演じているのだ。
「死ぬのか、逐電するのか」
「お家を退散つかまつりとうござりまする」
「と、きいた以上は、主人たるおれは斬らねばならん。しかし、斬られるのを承知でなぜわざわざやってきた」
「殿をひと目……」
といって、七郎左は声を放って泣きだした。
「ひと目でも御顔をおがみ奉り、お別れを申したかったのでござりまする」
信長は、馬上、天に顔をあげた。
(妙なおひとだ)
と、ひそかにおもったのは、そばでひざをついている草履取りの藤吉郎である。幼いころから浮世を素あしで歩き、このとしになるまで三十九回職業をかえたこの若者は、人の心というものがふしぎなほど読みとれた。
(むずかしい大将じゃと人はいうが、なんの一つ鍵《かぎ》がある。この大将を好いて好いて好きまくって、その方角からのみひとすじにあたってゆけば、意外に人情もろいところがある)
とおもったのだ。その証拠が、いま眼の前でくりひろげられている。
「七郎左、逐電せい。目をつぶってやる」
と、信長は、めずらしくこの男らしくない処置をとった。信長という大将は、終生、およそ家来を油断させず、つねに戦慄《せんりつ》させ、つめのあかほどの非曲もゆるさなかった。このため、非情、残忍といわれ、家来の旧悪、欠点をよく記憶しているために、後世、「隙《すき》間《ま》かぞえの大将」ともいわれた男である。
ところが、これは異例であった。家中の者を殺害して逃げようという七郎左を見のがしてやる、と叫んだのである。
藤吉郎が察するに、信長は幼少のころから人に理解され、それらの愛をうけることが薄かったせいであろう。たまに七郎左のように信長いちずに慕い寄ってくる者があると、はめをはずした処置をしてしまうようであった。
(この大将に仕えるのは、この手じゃな)
と、膝《ひざ》をつき、うなだれながら、しみじみと思った。
それだけではない。信長は七郎左に、
「美濃へ行って舅《しゅうと》殿にたよれ」
と、次の仕官さきまでいわば世話してやったのである。
お勝は、癇《かん》のつよい女だ。
七郎左が美濃鷺山《さぎやま》の斎藤道三の館《やかた》に仕えていることを知ると、家に書き置きをのこし、ひそかに尾張を去り、美濃に入った。むろん、いいなずけの仇《かたき》を討つためであった。
(道三様にねがい出ても、むりだろう)
と、お勝はみた。
逐電の事情は、うわさでは信長がこっそりおとしてやったのだという。しかも舅の道三に手紙を送り、七郎左の身の立つようにはからってやったのも、信長だという。
(片手落ちななされかたじゃ)
と、お勝は悲憤をおぼえた。だからこそ、女の身ながらも仇をうつことに思いをさだめたといっていい。
お勝は、隣国の尾張の娘だから、美濃の国情をよく知っている。
道三は、なるほど美濃の帝王ではある。しかしその帝王の座も、ちかごろはゆるみはじめているという風聞をきいていた。
事情はこうである。
道三は、はじめ、美濃に流れてきたとき、前の美濃守護職土岐頼芸に仕え、つかえて早々、まるで奇術のような手で頼芸の愛妾深芳野をまきあげた。そのとき、深芳野はすでに身ごもっていた。
当の頼芸さえはじめ気づかなかったことだから、道三が気づくはずがなかった。深芳野はその旨《むね》を頼芸にだけ打ちあけ、やがて道三のもとで月たらずの男児をうんだ。
不審な、と道三はおもったようである。しかしかれにとってはじめての子であった。その可愛さにまぎれ、深芳野にはなにもたずねず、その子を自分の家督相続者として育てた。
道三は美濃で支配権を拡大してゆくにつれて、問題の子も成人した。
いまでは、この若者の出生の秘密は美濃では周知のことになっており、知らぬは若者ひとりということになっていた。
道三も、もはや知っている。むしろわが子の出生の秘密を、かれは逆用した。美濃の主権を横領し去るとき、それを不義とする美濃衆の反抗に手を焼き、ついには、
「義竜《よしたつ》に家督をゆずる」
という体《てい》にして自分は隠居し、ついでに稲葉山城をも義竜にゆずり、自分は鷺山の城館を修復してそこに住んだ。むろん実権は道三の手にあるが、この思いきった策によって国中の反乱はあらかたしずまった。美濃の者は深芳野のうんだ義竜こそ土岐氏の正系とみているから、もはや異存はないわけである。
その深芳野の子義竜。
十五歳で元服し、はじめ新九郎高政と名乗り、天文十七年三月、家督をゆずられたあと、義竜と改名した。
いまは数えて二十九歳である。
異様な体格をもっている。身のたけ《・・》は六尺五寸はあり、体重は三十貫。
正座すれば、そのひざの高さが、扇子のながさほどあった。扇子は普通、一尺二寸である。怪物といっていい。
自然、腕力もつよく、家臣と力くらべをしても義竜にかなう者がない。そのうえ武芸がすきで、ほとんど道楽といってよかった。毎年、稲葉山城の守護神である山麓《さんろく》の伊奈波《いなば》明神の祭礼の日には、諸国から兵法者をまねき、奉納試合をさせていた。
このころ、剣術はすでに創成期をすぎ、天下に認識されはじめていたが、歴とした武士からは、
――あれは歩卒(足軽)のわざじゃ。
と、いやしまれ、戦場の強者たちからも、
――なんの戦場では役に立たぬ。
と、いわれていた時代である。それを、物ずきにも一国の国主たるものが主催して、かれら卑《ひ》賤《せん》の兵法者をあつめ奉納試合をやらせるというのだから、これは常人の趣味趣向ではない。
義竜の外貌《がいぼう》は、ほお《・・》がまりのようにふくらみ、眼がねむったようにほそく、表情のうごきもすくない。ひどく愚鈍な印象をあたえるのだが、馬鹿《ばか》ではない。
「あれは馬鹿だ」
といっているのは、道三ぐらいのものである。義竜の近臣たちは、
(そうではない。物事に聡《さと》いおひとだ)
と、みていた。貴族そだちだから、人との触れあいにおいて軽妙鋭敏な感覚がうまれつきにぶっている。そういうことと、肉体的な印象が、義竜を一見愚鈍にみせるのであろう。
道三は、この義竜をきらっていた。
いつのほどからきらいはじめたのか、道三にもわからない。おそらく、十五、六の育ちざかりになってからであろう。
急におとなの顔になる時期、
(これは)
と、道三は興ざめたことがある。いささかも自分に似たところがなかった。それがみるみる成長して十八、九で六尺五寸にまでなったとき、いよいよ興をさまし、
(ばけものじゃな)
とおもった。と思うだけでなく、義竜の巨獣をおもわせるような肉体が道三に無用の威圧感をあたえ、それがしだいに嫌《けん》悪《お》になった。
「あいつのあほうでかい体をみると、はきけ《・・・》をもよおす」
と、左右にも平気でいった。その蔭口《かげぐち》が、義竜の耳にも入る。
(父上は、わしを好いておらぬ)
と敏感に感じた。他の弟たちと同座しているときなど、父の道三の態度が、まるでちがうのである。自然、義竜も道三をきらうようになった。
稲葉山城主になって、形式の上ながらも美濃国主の位置につくと、実権者である「鷺山の御隠居」とのあいだに、ささいなことでも《・》つれ《・・》や行きちがいが多く、そのため、両者の対立は年ごとにするどくなっている。
(その義竜様をたよればよい)
とお勝がおもったのは、この間の事情をよく知っていたからである。
お勝は稲葉山城下にゆき、義竜の家老を通して訴状をさしだした。
義竜はさっそくお勝を謁《えつ》し、その口から事情をきいた。やがてうなずき、
「その佐久間七郎左という者、けしからぬ。鷺山の父上のもとで近《きん》侍《じ》しておるというが、なにかまうことはない。わしがみごと仇を討たせてやろう」
といった。お勝はよろこんだ。
が、このため、たかが尾張の若侍のあいだで発生した色恋事件が、当のお勝自身、予想もしなかった事変に発展するはめになった。
義竜の急使が、鷺山城の道三のもとに走ったのは、その翌日である。
秘事
さて、挿《そう》話《わ》のつづきである。つまり、お勝・七郎左騒動。――
お勝の訴えをきいた稲葉山城主の義竜は、鷺山の道三につかいを送り、
「父上がちかごろお召しかかえになった者でもと織田家の家中佐久間七郎左という者がおりましょう。あれは尾張で理不尽に人を斬り、退転した者でござる。討たれた者のいいなず《・・・・》け《・》がけなげにも仇を討とうとおもい、それがしをたよって参っております。されば七郎左をおひきわたしねがいたい」
と、口上をのべさせた。
道三は、ぎょろりと目をむいた。目ばかりが動き、唇《くちびる》がうごかない。
沈黙している。この男がだまると、一種の凄《せい》気《き》が座敷にただようようであった。稲葉山城の使者は平伏したままふるえている。
庄九郎こと道三は、六十を過ぎてめっきりと老いこんだ。痩《や》せた。皮膚の衰えが尋常でなく、なにか、からだの深い場所に病気をもちはじめているのではないかとおもわれる色つや《・・》のわるさであった。
そのくせ、大きな眼だけが、やや黄味をおびてぎょろぎょろとうごくのである。もはや道三の覇気《はき》も壮気も肉体のあらゆる部分から蒸発し去って眼だけに凝集してしまっているようであった。
「ばけもの《・・・・》がそう申したか」
と、道三はやっといった。眼に怒りがこもっている。義竜が、子であるぶんざいをわすれて父にそのような要求をするとは、なんという増上慢であろう。しかも義竜は、佐久間七郎左を道三が可愛がっているということを百も承知のうえでこう要求してきているのである。信長からのあずかりものであることも、義竜は知っているはずなのだ。
「佐久間七郎左はな」
と、道三は声をふるわせながらいった。
「婿《むこ》の上総介《かずさのすけ》の幼童のころからの遊び相手で、その寵臣《ちょうしん》であった。わしは上総介からたのまれて七郎左をあずかった。わたせぬ――とそう言え」
使者は稲葉山城にかえり、「鷺山のお屋形さまはこのように申されました」と義竜に報告すると、
「ばかな」
と、大きな顔を赤黒く染めた。
「父上はわが子であるこの義竜よりも、隣国の婿どののほうが可愛いのか」
と怒号し、
「父上が左様な理不尽を申されるならば、こちらも考えがある。七郎左を奪いとるばかりじゃ。――小牧源太をよべ」
といった。小牧源太というのは、尾張春日井郡小牧のうまれで事情あって牢人《ろうにん》し、美濃に流れてきて道三にひろわれた。
道三隠退後、いまは息子の義竜のほうに出仕し、義竜からその武勇を愛されている。やがて、
「源太めでござりまする」
と、小牧源太は、義竜の前に平伏した。義竜は待ちかねたように、
「おう、はやばやとよう来た。いま鷺山にいる佐久間七郎左とそちとは同郷のうまれであったな」
「おおせのとおりで」
「顔見知りか」
「御《ぎょ》意《い》」
「さればたばかって、七郎左をこの稲葉山城下につれてこい。事情はこうじゃ」
と、お勝騒動の一件を話した。
「しかし鷺山のお屋形さまが七郎左はひきわたさぬ、とおおせられているのでござりましょう」
「かまわぬ。鷺山さまがお怒りあそばせばわしが矢表に立ってやる。――源太」
「はっ」
「主命であるぞ。そちが後ろ楯《だて》になってお勝の介添えをしてやり、七郎左を討って、ぶじ本懐をとげさせてやれい。源太、わかったな」
はっ、と小牧源太は平伏し、この瞬間に決意した。主命である、となればやむをえぬ。道三を見かぎって義竜の命を奉じよう、と覚悟した。それに、仇討の介添役というのは武辺自慢の者としてこのうえもない名誉である。
主従の関係よりも自分の武辺と自分の名誉を第一とする当世風の道徳のなかに、渡り者の小牧源太はいた。
「承知つかまつりましてござりまする」
やがて、お勝が義竜の侍女につれられてあらわれ、はるか下座で平伏した。
「あれが貞女お勝じゃ」
と、義竜はみずから紹介した。
そのあと小牧源太とお勝は別室にひきとり、あらためて対面した。
(美人じゃな)
と、源太は息をのむ思いがした。貞女烈婦などというからどれほどに強いおなごかと想像していたが、どちらかといえば男好きのする、抱き寝をすればどうであろう、と思いをめぐらしたくなるような女である。
「お上意により、それがしが仇討の介添えをつかまつる」
と、小牧源太がいうと、お勝はその大きな眼でじっと源太を見つめ、やがて頭をさげ、ひとえにおすがり申しまする、と、ややかすれた、意外にふとい声でいった。源太はぞくりとした。お勝が頭をさげるとき、えりもとがすこしくつろいで、胸の肉づきがみえたのである。小牧源太は、
「かならずご本懐を遂げさせて進ぜる」
と、叫ぶようにいった。これほどの女にたよられては、源太ならずともふるいたたざるを得ないであろう。
源太はその足で鷺山へゆき、城の大手門のそばに屋敷をもつ佐久間七郎左をたずね、
「おれだ、小牧源太だ」
といった調子で玄関に入って行った。佐久間七郎左はよろこんで迎えた。美濃で仕官をしている尾張者の先輩といえばこの小牧源太だけである。それが訪ねてきてくれた。なつかしさが七郎左を夢中にさせ、
「いやいや、痛み入る。当方から足を運んであいさつにゆくべきであったが、事にとりまぎれて遅れていた。向《こう》後《ご》、同国のよしみでよろしくおひきまわしねがいたい」
と、酒肴《しゅこう》を出して接待した。小牧源太は大いに飲み食いし、
「いや、馳《ち》走《そう》になった。この返礼というわけではないが、明後日、稲葉山城下のわしが屋敷まで足労ねがえぬか。漁師どもに言いつけて、よい鮎《あゆ》を獲《と》らせておくわい」
「それは楽しみな」
と、佐久間七郎左はよろこんで承《う》けた。
七郎左は、わな《・・》にかかった。約束の日、小牧源太の屋敷へゆき、鮎の馳走をうけ、さんざんに飲んだ。足腰もさだまらぬほどに酔ったころ、
「上意である」
と、にわかに小牧源太がとびかかってきて組みふせ、源太の家来どもも、とびこんできてまたたくまに手足をしばりあげ、屋敷内にもうけられた仮牢《かりろう》にほうりこまれた。
その翌日ひき出され、伊奈波明神の境内に隣接してあき地に仕つらえられた竹矢来のなかで、お勝と対面させられた。七郎左は剣をもって闘わされたが、小牧源太とその家来三人の槍《やり》に追いまくられ、高股《たかもも》を突かれてひっくりかえったところを、お勝の薙刀《なぎなた》で頸《くび》をはらわれた。それが致命傷になった。お勝はとりみだしもせずに脇差《わきざし》をぬき、倒れている七郎左のそばにちかづき、胸をえぐってトドメをさした。
この仇討は、
「稲葉山の仇討」
として近国にまで評判になり、烈婦お勝と勇士小牧源太の名は遠江《とおとうみ》、駿河《するが》あたりまでひびきわたった。
が、激怒した者がふたりある。
道三と信長である。
信長の立腹はすさまじい。
(お勝を殺してやる)
と決意した。信長の感情のなかでは、お勝は十分殺されるにあたいした。信長が道三にあずけた七郎左を、勝手に国抜けして隣国で殺しているのである。しかもあてつけがましく隣国の若い国主の後援をたのみ、信長に恥をかかせた。お勝の評判があがればあがるほど、信長の恥辱は大きくなる。
「お濃《のう》、お濃」
と信長は風聞をきいたあと、奥へどなりながら入ってゆき、
「きいたか、あの女の一件」
といった。濃姫も実家《さと》方《かた》でおこったこの事件を聞き知っていた。
「お勝は稲葉山城下で名をあげたということでございますね」
と濃姫がなにげなくいうと、信長は「お濃そなたまでがお勝の味方をするか」とどなった。
「めっそうもございませぬ」
「面目玉をつぶされたのは、おれと舅《しゅうと》の道三殿であるぞ」
「でも、お勝は貞女ではございませぬか」
「馬鹿《ばか》者《もの》」
信長は濃姫をなぐりたおしそうになったが、やっと自制し、
「お勝などよりも、それをあてつけがましく後押しした義竜こそ憎いわ。おれに余力があればたったいまでも美濃に攻めこんで、稲葉山城をかこみたい」
といった。義竜は濃姫の兄だから、信長にとっては義兄になる。
「お濃、義竜とはどんなやつだ」
ときいた。信長はすでに、義竜を攻略する想像にとりつかれているのだろう。
濃姫は、義竜についてのあらましをかたった。体が異常に巨《おお》きいこと、気ちがいじみたほどの武芸好きであること、表情がにぶいわりにするどい神経をもっていること、などを話した。
「それが、そなたの兄か」
「いいえ」
と、濃姫はくびをふり、しかし信長を見つめたまま口をつぐんだ。言うべきかどうかを、とまどっている表情だった。
「どうした」
「あの、義竜どのはわたくしとは血のつながりはございませぬ」
と、思い決したように一気にいった。信長は、「ん?」と妙な貌《かお》をした。意外なことをきいたときのこの男のくせである。
「兄ではないのか」
「はい。兄ではございませぬ」
と、義竜出生の秘密をあかした。
「すると、深芳野なる女が、先代頼芸のたね《・・》を宿したまま 蝮《まむし》殿の側室になったわけであるな。義竜自身は、道三殿の子でないことを存じておるか」
「さあ、それはわかりませぬ。あのように表情のにぶいひとでありますゆえ」
「お濃」
信長は、するどくいった。
「その秘密を義竜自身が知れば、道三殿は殺されるだろう」
信長はそう言いすてて部屋をとび出し、表の間へ駈《か》け、すぐ美濃へ使者を出発させた。
「お勝の身《み》柄《がら》を当方へわたせ」
という使者である。さらに道三に対しても別に使者を立て、「義竜を説いてお勝を尾張へひきわたさせるように取りはからってもらいたい」と口上をのべさせた。
翌日遅く使者がもどってきて、義竜からはねつけられた旨《むね》を報告した。
「もう一度ゆけ」
と、信長は、人を変えて出発させた。義竜が拒絶をつづけるかぎり、毎日でも使者を送るつもりであった。
が、義竜はまたもはねつけた。
一方、道三である。
この男は、信長が陽気に殺気だったのとはちがい、この事件についてなにもいわなかった。事件でもっとも手ひどい傷をその感情にうけたのは、道三であるはずだった。婿からあずかっている家来を、義竜の詐略《さりやく》でひきだされ、なぶり殺し同然のやりかたで殺されているのである。
が、だまっていた。側近の堀田道空が、
「たいそうな評判でございますな」
と水をむけたときも、
「そうか」
と、いったなりで、話題をすぐ変えた。が、そのぎょろりとした眼だけは熱っぽい。たれの眼からみても、道三がこの事件について義竜をよほどはげしく憎みはじめていることが読みとれた。しかし道三は沈黙している。
この怒りを、どう表現すべきか、道三は思案をしていた。庄九郎、といっていた若いころから道三は、ほとんど怒りというものを他人にみせたことがなかった。かといって、その性情が温和である、というわけではない。この男はじつは怒りっぽい。しかし思慮のほうがはるかにふかい。その怒りを腹中ふかく沈め、思慮をかさねたあげく、それを他のものに転換してしまうのである。蝮といわれるゆえん《・・・》だろう。
いま、道三は、義竜にむかって怒号するよりも、
(義竜をどうしてくれるか)
という転換の方法《・・》に苦慮していた。
数日、無口な起居をつづけたあげく、
(廃嫡《はいちゃく》してくれよう)
と決意した。義竜の地位をとりあげ、それにかわって「義竜の弟」ということになっている自分の実子をその地位につけるのである。怒りの転換は、それしかない。
道三には、数人の実子がある。この鷺山城で同居していた。そのうち、孫四郎、喜平次という二人がすでに成人している。どちらもこの親にはおよそ似つかわしくなく、気がよわくて能力もなかった。道三自身、
(くだらぬやつらだ)
と絶望的な気持でかれらを見、ゆくゆく武将などにはしたくないと思っていた。武将という権謀術数の世界におれば、お人よしの貴族の子などはおだてられてやがては殺されるがおち《・・》であろう。頭を剃《そ》らせて僧門にでも入れるか――とまで考えていたのである。
(その孫四郎を、あとに就《つ》けよう)
と、道三は物《もの》憂《う》げにおもった。気のすすまぬことだが、義竜を稲葉山城に据《す》えているよりも感情が安まる。
そう思っていたやさき、信長から使者がきたわけである。
「お勝の一件でござりまする」
と使者は言い、主人信長の口上を伝えた。
道三はうなずき、
「佐久間七郎左はふびんな仕儀に相成った。婿殿から頼まれ甲斐《がい》もなく申しわけないとおもっている。しかし、お勝はここにはおらぬ。義竜の稲葉山城のほうにおる」
「存じておりまする。さればお父君の御威権をもって、稲葉山のお屋形さまに、お勝を織田家にひきわたすよう命じていただきたいのでござりまする」
「むりだな」
道三は苦笑した。
「義竜はちかごろ増上慢がつのって、もはやわしの手にも負えぬ。使いを出しても追いかえされるだけであろう」
「……しかし」
お父君ではありませぬか、と信長の使者がいおうとすると、道三はおさえ、
「わしには考えがある。しばらく待て」
といった。
使者はよろこんで帰った。このとき道三が尾張の使者にいった「考えがある」という言葉は、たちまち美濃一円を走り、稲葉山城にもきこえ、義竜の耳に入った。この男の耳に入ったときには、
「鷺山のお屋形さまは、お屋形さまを廃嫡して孫四郎様をお立てあそばすおつもりらしゅうござりまする」
という言葉に変わっていた。義竜はきくなり、
(さもあろう)
と、おもった。成人してこのかた、道三の自分に対する態度が異常につめたい。一方では弟たちを溺愛《できあい》している。その弟に自分の位置を譲らせようとの魂胆は、当然あの父ならばおこしそうである。
義竜はむろん、いまの地位から離れたくはない。
(いっそ)
と、おもった。こちらから決起してあの父と弟どもを追うか、とまで思いつめた。しかし父を追えば国中の信望をうしなうであろう。
思いあまって、ひそかに長井道利《みちとし》をよび、相談した。長井家は、かつて美濃の小守護として栄えた家だが、いまは所領の大半をなくし、当主道利は義竜のお咄衆《とぎしゅう》として禄《ろく》をもらい、飼いごろしのようなかっこうで世を送っている。
このいわば半生をほそぼそとあそんで暮らしてきた男が、義竜から余の家来にもいえぬ悩みをうちあけられたとき、しばらくとまどっている様子だったが、やがて思い決したような表情で口をひらき、義竜の世界を一変させるような秘事《・・》を、ぬるりと吐いた。
崩るる日
たった一言が、これほどの力で歴史を変えたことは例がないであろう。
「鷺山《さぎやま》のご隠居さまは、お屋形さまのご実父ではござりませぬ」
と、長井隼人佐《はやとのすけ》道利はいったのである。
だけではない。
「お屋形さまのマコトのおん父君は、先代美濃国主土岐頼芸さまでござりまするぞ」
「ま、まことか」
と、義竜は、全身の血の流れがとまり、手のさきまで真蒼《まっさお》になった。にわかには信ぜられぬ。いや、信じられることか。先代土岐頼芸は父《・》の道三によって追われた。その追放戦である大桑城《おおがじょう》攻めには、義竜は十六歳の初陣で従軍し、槍《やり》をふるって大手門からなだれ入っている。もはや喜劇といっていい。知らぬとはいえ偽父の指揮をうけて実父を国外に放逐する合戦に奮迅《ふんじん》のはたらきをしてしまった。
「信じられぬ」
と、ぼう然とした。
が、頬《ほお》に血の気がさしはじめるとともに、徐々に思考力が回復してきた。そういえば思いあたるふしが多い。父《・》道三が、数ある子のなかで自分のみにつめたい、ということが、なによりの証拠ではないか。それに、風聞によれば道三は自分を廃嫡《はいちゃく》して弟の孫四郎を美濃国主の座につけようとしているという。
「隼人佐、念をおす。この一件、まことであろうな」
「手前のみが申しておるのではござりませぬ。美濃国中で、知らぬはお屋形さまのみ、と申してもよき公然たる秘事でござりまする」
「事実ならば、鷺山殿は父どころか、実父の仇《かたき》ではないか。そうなる」
「左様」
とはいわず、密告者の長井道利は事の重大さに小さな肩をふるわせて平伏している。
「隼人佐、そうであろう」
「は、はい。左様に相成りまするようで」
「隼人佐、父の仇ならば子として討たねばならぬぞ、鷺山殿を。――」
と、義竜は言い、おもわずそう口に出してしまってから、自分の言葉の重大さに気づき、目をみはり、唇《くちびる》を垂れ、ふたたびわなわなと慄《ふる》えはじめた。
「さ、さようで」
と、長井道利もはげしくふるえた。
「仇討」
と義竜はつぶやいた。こういう場合、言葉は魔性を帯びるものらしい。義竜の内部は平衡をうしなっている。その崩れをかろうじて食いとめて自分のなかに別な統一を誕生させるにはよほど電磁性のつよい言葉をまさぐる必要があった。
仇討である。
これ以外に、すでにひきさかれてしまった過去の義竜をすくう道はない。でなければ義竜はこの場の戦慄《せんりつ》とおどろきを永久につづけていなければならないであろう。
「仇討。――」
ともう一度つぶやいたとき、よくきくまじ《・・》ない《・・》を得たように義竜のふるえはとまった。
「やるかな」
と、この男はいつものねむそうな、にぶい表情にもどり、自分に言いきかせるようにそうつぶやいた。
「ただしお屋形さま」
と、長井道利はまだふるえている。この男は、密告者《・・・》としての自分の責任をなんとか軽くしたかった。
「なんぞ」
「お屋形さまが頼芸様の御子か道三様の御子か、それを存じておられまするのは天地にただひとりしかおわしませぬ。川《かわ》手《で》の正法寺でお髪《ぐし》を切って尼《あま》御前《ごぜ》におなりあそばされておりまする御生母深《み》芳《よし》野《の》さまにこそ、その実否をおたずねあそばさるべきでござりましょう」
「ふむ」
と、義竜はうなずき、
「しかし隼人佐。母者《ははじゃ》が、いかにもそうである、と申されたあかつきはいかがする」
「……それは」
と、長井道利が畳を見つめながらいった。
「お屋形さまがお決めあそばすことでござりましょう」
「おう、わしが決めるわさ」
義竜はそのまま座を立ち、わずかな供まわりをつれ、稲葉山城を出て、川手の正法寺にむかった。
深芳野は、庭前の楓《かえで》から紅葉《もみじ》一枝を剪《き》り、仏前にそなえていたときに、義竜の不意の訪問をうけた。
すぐ座をもうけ、下座にすわった。
「母者人《ははじゃびと》」
と、義竜は上座からそういうよびかたをした。美濃の国母は、道三の正妻であった明《あけ》智《ち》氏小見《おみ》の方《かた》である。小見の方は先年病死していまは亡《な》い。いずれにしても、生涯《しょうがい》、道三の側室の位置しかあたえられなかった深芳野の位置はこの国では高いものではない。現国主の義竜がその腹から出た、ということで、俗体のころはお方様とよばれ、剃髪《ていはつ》後は、かろうじて正法寺のなかの持是《じぜ》院《いん》に住むことをゆるされている程度である。
「なんでございましょう」
と、深芳野は小さな声でいった。
「人ばらいつかまつる」
と義竜は言い、自分の家来や深芳野のまわりの者をしりぞけ、そのあと上座からくだり深芳野のそばへゆき、その膝《ひざ》に手をおいた。
「真実をおきかせねがいたいことがござる。それがしは道三殿の胤《たね》ではござらぬな」
「えっ」
深芳野の目が、瞬《またた》かなくなった。義竜を凝視した。やがて目を伏せ、つとめて表情をかくそうとしている様子だったが、内心がはげしく動揺していることは、膝の上の手のわななきでわかった。
「ま、まことでござったか。……」
と、義竜が叫ぶようにいうと、深芳野はとっさに目をあげた。
「申せませぬ」
と、低い声でいった。義竜はそういう母を憐《あわ》れむようにうなずき、深芳野の肩に手を置き、
「母者人、子として母のむかしの淫《いん》事《じ》をきくのがつらい。しかしいまはきかねばならぬ。母者人はもともと頼芸殿の側室であられたげな。その胤をやどしたまま、道三に奪いとられたげな。これはまちがいござるまい。それがしは、歴《れき》とした筋よりきいた」
義竜はすでに道三、とよびすてにしている。
「道三は、母者をむごい目にあわせた。正室にもせず、明智から小見殿をむかえて母者を側室のままに据えおいた。母者にとっても道三は呪《のろ》うべき男でござるぞ」
「お屋形様には男女のことなどおわかりになりませぬ」
「いつわりを申されるな。母者が若くして世をはかなみ、かようなお姿になられたのも道三に対するつらあてのお気持があってのことでござろう。そのお気持は、義竜は子なればこそわかっています」
と義竜がいったとき、深芳野は不意に袖《そで》をあげて顔に押しあてた。泣いている。
「さ、申してくだされ。義竜はさきの美濃守護職土岐頼芸の子であると」
と、義竜は生母の顔をのぞきこんだ。
深芳野の歔《きょ》欷《き》は深くなっている。そのほそいうなじ《・・・》のふるえは、子の目からみても異常に女くさい。義竜は生母に奇妙ななまなましさを感じ、異臭を嗅《か》いだような不快感がつきあげてきた。
「おんな。――」
と叫びたい衝動を義竜はおさえかねているようであったが、やがて目をそむけた。が、自分を生んだ女体はいよいよ歔欷をつづけてやまない。
義竜は、気長に深芳野の返事を待った。そのひとことで、道三こと若き日の通称庄九郎が美濃で営々として築きあげた権力という芸術作品は一挙に崩れ去るであろう。それも、庄九郎こと道三が、およそたか《・・》をくくって平然と不幸におとし入れたひとりの非力の女からである。
義竜はなおも生母の唇の動く瞬間を待ちつづけたが、深芳野の沈黙はそれ以上につづこうとした。義竜はついにたまりかねた。
「母者。答えてくださらねばそれでもよい。義竜は、そう信ずるのみです。わしの父君は鷺山城にある斎藤山城入道道三にはあらず、さきの美濃守護職、土岐源氏の嫡流、美濃守頼芸殿であることを。――」
「お屋形さま」
と、深芳野はやっと顔をあげた。
「そうとすれば、あなたさまはどうなさるのです」
「義竜は男でござる。男としてのとるべき道をゆくのみだ」
といって、座を立った。廊下に出、障子をしめ、一瞬その場に立ちどまって内部の気配をうかがったが、深芳野はなお泣きくずれているようであった。
義竜は濡《ぬ》れ縁を蹴《け》り、巨《きょ》躯《く》を宙にとばし、庭におり立った。そうする必要もないことだが、なにかしら、そうとでもしなければ自分を鎮《しず》めがたいものがあったのであろう。
鷺山の道三は、むろんそういうことは知らない。この男は、
――義竜を廃嫡する。
とは言明したことがない。お勝の仇討事件で日ごろの義竜への感情がなるほど募りはしたが、廃嫡、とまでは真底から考えているわけではなかった。正直なところ、廃嫡して事を荒だてるには、道三は年をとりすぎていた。
おだやかな毎日がほしい。
そういう慾望のほうがつよくなっている。すでに働き者の権謀家のかげがうすれ、平和をこのむ怠惰な老年をむかえようとしていた。
――それに。
道三にとって大事なことは義竜などは愚人でしかなかった。孫四郎以下の実子も、義竜に輪をかけたほどの不器量人である。変えたところで変えばえもしない。また義竜をその位置にすえておいたところで、あの年若い肥大漢になにほどのことができよう。
深芳野という、義竜の出生の秘密を知っている者がいる、ということも、ついぞ道三は考えたことがなかった。深芳野という女は、かつてその体を愛し、それをさまざまに利用した。道三の美濃における慾望の構築に、ある時期はそれなりの役に立った。その効用はおわった。効用のおわった深芳野は、尼になって川手の寺で世を捨てている。それだけのことである。その深芳野が、わが子の義竜に無言の告白をし、そのために義竜の心に思わぬ火がつく、というような珍事は、道三は空想にもおもったことがない。自分以外の者は、すべて無能でお人好しで自分に利用されるがためにのみ地上に存在していると思いこむ習慣を、この老いた英雄はもちすぎていた。
義竜が重病に陥《お》ちた。――
と、いうことをきいたときも、である。それを意外とも奇妙とも思わなかった。
(義竜が? あの化けものは巨《おお》きすぎた。巨きすぎるのは体のどこかにむりがあるということだ。そのむりが、裂け目をひらいた。死ぬかもしれぬ)
と、おもっただけである。義竜が死ぬ、ということで、実子の孫四郎をその跡目に立てるということも道三はしなかった。義竜には竜興《たつおき》という子がある。ごく当然のこととしてその竜興に継がせるつもりであった。されば道三の血統はついに美濃を継がなくなる。それでもよいわさ、というあきらめが、この男にはあった。無能の人間を跡目につければやがてはその無能のゆえにほろぶ、ということをこの老人は身をもって知りぬいてきている。
(どっちにしろ、おれ亡きあとは尾張の婿《むこ》どのが美濃を併呑《へいどん》してしまうにちがいない。あの若者はきっとやる。それだけの天分をもってうまれている。おれが営々ときずきあげた美濃一国は、あの者がふとってゆくこやしになるだけだろう。それはそれでよい)
と、道三はおもっている。こういういわばおそるべき諦観《ていかん》と虚無のなかにいる道三が、たかが義竜ごとき者の一挙手一投足にうたがいの視線をむける努力をはらわなかったのも、当然といえるであろう。
義竜の病状は、日一日と悪化しているらしい。すでに国中のうわさになっている。
その義竜から、使者として日根《ひね》野備中守《のびっちゅうのかみ》という侍臣が、鷺山城へやってきたのは弘治元年の十月なかばである。
「おそれながら稲葉山のお屋形さまの御《み》病状《けしき》はかようでござりまする」
と日根野備中守はのべ、すでに命旦夕《めいたんせき》にせまっている、といった。
「それほどに悪いか」
と、道三は正直におどろき、さすがに義竜が不《ふ》憫《びん》になってきた。
「不《ふ》日《じつ》、日をえらんで見舞うて進ぜるゆえ、気をたしかに持ち、病いに負けるなと申しつたえよ」
といった。
「左様に申しつたえまするでござりまする」
と平伏した使者日根野備中守は、すでに義竜からクーデターの秘謀をうちあけられており、むろん「命旦夕」の病態が仮病《けびょう》であることも知りぬいている。
日根野は、道三の前を退出してから、道三の実子孫四郎と喜平次にも拝謁《はいえつ》し、病状をのべ、かつ兄義竜からの伝言をつたえた。
自分の病態はもはやあすも知れぬ。命のあるうちに今生《こんじょう》の別れをつげたい。
というのが伝言である。孫四郎と喜平次は、
「兄上としてはそうもあろう。すぐゆく」
と支度をし、日根野備中守の人数に警固されながら稲葉山城に登城した。むろん、孫四郎・喜平次は、義竜を実の兄とおもっている。
義竜は病床にいた。
ふつうの二倍ほどもあるしとね《・・・》に臥《ふ》し、枕《まくら》からわずかに頭をあげ、
「よう来て賜《たも》ったな」
と、かぼそい声でいった。道三があほう《・・・》あつかいにしているこの巨人も、一世一代の重大事をやる前だけにその演技は真にせまっている。
「孫四郎、わしの子はまだおさない。わしの身が儚《はかな》くなれば、この家と国はそなたが継いでくれるか」
と、心にもないことを問うた。
孫四郎は、白い顔に意外な色をうかべ、
「父上は左様には申されませぬ。そなたは不器量者ゆえ武士にはなるな、武士で無能なるは身をほろぼすもとぞ、学問でもするか、それとも出家なとせよ、とのみ申されておりまする。されば孫四郎は命がおしゅうございますゆえ、将来《すえ》は武士にはなりませぬ」
と、いったから義竜は目をみはり、心中、勝手がちがう、とつぶやいたが、しかし事は進んでいる。計画どおりに進めるしかない、とおもい、表情をいっそうにぶくして、
「過去《こしかた》のことなども語りあいたい。一両日、城にとまって話の相手になってくれぬか」
「はい」
と、次弟の喜平次も元気よく答えた。
「そのつもりで参りましたゆえ、なにくれとお話しして兄上をお慰めしとうございます」
「それはよかった」
と、義竜はひどく疲れたふりをして目をつぶった。それを合図に、孫四郎・喜平次は病室を退出し、別室で休息した。
接待役は、日根野備中守兄弟である。酒肴《しゅこう》を出し、まだ元服のすまぬ喜平次のためにあまい菓子などもすすめた。
その夜は、城内で寝た。
夜中、日根野備中守は義竜の病室に入り、そのしとね《・・・》ぎわまで進み寄り、
「おやすみなされてござりまする」
と報告した。
日根野備中守としては、まだ大人にもならぬふたりの御曹《おんぞう》司《し》に不《ふ》憫《びん》を感じているが、主命とあればやむをえない。ただ、その主命に変りはないか、念を押しにきたのである。
「いかがつかまつりましょう」
と、きいた。が、表情のにぶい義竜はわずかに眼をひらいただけであった。
「命じたるとおりになせ」
とのみ言い、反転して屏風《びょうぶ》のほうに寝返った。備中守には表情をうかがうこともできなかった。備中守は廊下へ出た。
その弟が待っていた。
目顔で報《し》らせ、ふたりでかねて装束を用意している部屋に入った。そこに、日根野家の家来五人がいる。やがて主従ともに小《こ》袖《そで》、野《の》袴《ばかま》にきかえ、袴のすそはひもでくくり、黒布で顔をつつみ、廊下へ出た。
疾風のように走り、それぞれ手分けして孫四郎・喜平次の寝室へなだれこんだ。
「上意でござる」
と、備中守はさけぶや、その叫びの下をかいくぐって家来が走り、孫四郎の心臓を夜具の上から刺しつらぬいた。
喜平次もおなじ経緯で絶命した。
戦端
二児を殺された、ということを知った日、斎藤道三は、鷺山城外の野で鷹《たか》狩《が》りをしていた。
野に、秋の色が深くなっている。野を駈《か》けすぎ、森に入り、森のなかの小さな沼のほとりまできたとき、
「御屋形さまあーっ」
と、樹々《きぎ》のあいだを駈け近づいてきた一騎がある。よほど火急な報《し》らせをもってきたのか、鞍《くら》も置かぬ農耕馬に乗り、鞭《むち》ももたず、葉のついた生枝で馬の尻《しり》をたたきつづけていた。その生枝に深紅の葉がついている。うる《・・》し《・》である。
(うろたえ者め、かぶれるわ)
と、道三は小沼のそばで馬を立てながら、しずかにその騎馬の武士の近づくのを待っていた。
「お屋形っ」
と、武士は馬からとびおりるなり道三の馬前に平伏し、稲葉山城内で孫四郎・喜平次のふたりが討ちとられてしまったことを告げ、告げおわると大息を吐き、そのまま突っぷした。
道三にとって信ずべからざる大異変であった。子が殺されたことではない。偽子《ぎし》義竜はふたりの弟を殺した以上、稲葉山城に拠《よ》って国中の武士に檄《げき》をとばし、味方をつのり、道三の政権をたおして自立する覚悟であろう。いや覚悟の段階どころか、計画がよほど進んでいたればこそ、孫四郎・喜平次を殺したにちがいない。
道三は、無表情でいる。
こういうとき無用に取りみだせば部下が動揺し、国中にもきこえ、頼もしからざる大将として味方の動揺をまねくことになろう。道三は、人の親としてこれほど悲痛な報告をうけた瞬間も、なおそういう大将芸《・・・》を演技している。演技というより、庄九郎の時代から持ちこしてきたこの男の天性なのかもしれなかった。
「漆《うるし》を、捨てよ」
と、道三は馬上から注意した。報告者は真赤なうるしの生枝をなおもにぎりしめているのだ。
「手を洗ってやれ」
と左右にいった。
「沼へつれてゆくのだ」
と、さらにいった。口だけはそう動いているが、頭は、漆も報告者もみていない。自分が築きあげた天下第一の堅城稲葉山城が、脳裏にふとぶとしく立ちはだかっている。その城壁に義竜の戦旗がひるがえっている光景さえ、ありありとえがくことができた。
「与助」
と、死んだ孫四郎の近習《きんじゅう》だったこの報告者によびかけた。
「もう一度きく。稲葉山城の様子はどうか」
「申しわすれました。稲葉山城の城壁には、まあたらしき桔梗《ききょう》のノボリが九本、ひるがえっておりまする」
桔梗紋は先代土岐氏の家紋である。道三の斎藤家の旗ジルシは、道三の意匠による波頭《なみがしら》の二つある立波《たつなみ》の紋である。義竜が波紋《なみもん》をすて桔梗紋をたてたことで、
「土岐の姓にもどった」
ことを国中はおろか天下に布告しつつあるわけであろう。
(たれをうらむこともできぬ)
と、道三はにがい表情で、手綱をとりなおした。
(あの馬鹿《ばか》めを、みくびりすぎた。このおれともあろう者が。――)
空をみた。憎らしいほどに晴れ渡っている。
(ひさしぶりで、いくさの支度をせねばならぬ)
道三はゆるゆると馬をうたせ、森の下草を踏ませながら、思案した。わが子を相手にどのようないくさをしてよいのか、構想がうかばぬ。
ぼう然と道三は馬をうたせてゆく。その顔はハマグリのように無表情だった。頭のなかに、いかなる電流も通じていない状態である。むりもなかった。義竜ごとき者を相手に――というばかばかしさが、考えよりもまず先立ってしまうのである。
(おれの生涯《しょうがい》で、こんなばかげた瞬間をもとうとは思わなかった。義竜は躍起になって兵をつのるだろう。それはたれの兵か、みなおれの兵ではないか。義竜は城にこもるだろう、その稲葉山城というのもおれが智能をしぼり財力をかたむけて築いたおれの城ではないか。しかも敵の義竜自身――もっともばかげたことに、あれはおれの子だ。胤《たね》はちがうとはいえ、おれが子として育て、おれが国主の位置をゆずってやった男だ。なにもかもおれはおれの所有物《もの》といくさをしようとしている。おれほど利口な男が、これほどばかな目にあわされることがあってよいものだろうか)
道三は、顔をゆるめた。
いつのまにか、顔が笑ってしまっている。笑う以外に、なにをすることがあるだろう。
(おれは若いころから綿密に計算をたて、その計算のなかで自分を動かしてきた。さればこそ一介の浮浪人の身から美濃一国のぬしになった。計算とは、奇術といってもいい。奇術のたねは、前守護職土岐頼芸だった。頼芸にとり入り、頼芸を利用し、頼芸の権威をたねにあらゆる奇術を演じ、ついに美濃一国をとり、頼芸を追い出した。頼芸はおれにそうされるに値いした。なぜならばとほうもないあほうだったからさ。しかしそのあほうにも生殖能力だけがあることをおれはわすれていた。深芳野と交接し、その子宮に杯《さかずき》一ぱいのたねをのこした。深芳野は泣く以外になんの能もない女だったが、深芳野の子宮はふてぶてしくもその胤をのみこみ、温め、月日をかけて一個のいきものに仕立てあげてこの世へ出した。それが義竜だ。おれはそれを自分の子として育てた。そうすることに政治上の価値があったからだが、国主にまでする必要はなかった。それをおれはした。おれの心に頼芸への憐憫《れんびん》があったからだろう。その憐憫というやつが、おれの計算と奇術をあやまらせた。……)
ばかげている、と思った。人智のかぎりをつくした美濃経営という策謀の芸術が、なんの智恵も要らぬ男女の交接、受胎、出産という生物的結果のためにくずれ去ろうとは。
(崩れるだろう)
と、道三は自分の終末を予感した。これが、自分の生涯の幕をひかせる最後の狂言になるだろうとおもった。
森を出た。
街道に出るや、道三は森の中の道三とは人がかわったように活気を帯びた。鞭をあげ、馬を打った。馬は四肢に力をみなぎらせ、一散に鷺山城にむかって駈け出した。
鷺山城に帰るや、
「広間に老臣をあつめよ」
と命じ、庭へ出、茶室に入り、炉に火を入れさせて茶を点《た》て、茶を二服喫し、喫しおわると、覚悟がついた。
(おれの最後の戦いだ。ひとつ、はなばなしくやってやろう)
広間には石谷対馬守《いしがやつしまのかみ》、明《あけ》智《ち》光安、堀田道空、それに赤兵衛らがずらりと顔をならべていた。
「一件きいたか」
と、道三はすわるなりいった。
みな、うなずいた。どの男の顔も、目ばかりが光っている。道三はそれらをながめ、顔のひとつひとつを見、顔の奥の心底まで読みとるほどに熟視してから、
(この連中は、おれに命をくれそうだ)
と、おもった。たしかに、石谷、明智、堀田らの諸将は道三の風雅の友であり、道三と風雅を通じてふかく契《ちぎ》るところがあり、ゆめゆめ義竜方に走るようなことはないであろう。
が、なにぶん隠居城であった鷺山城に出仕している連中である。その数は平素から多くはない。道三は家臣団の八割までを義竜につけ、稲葉山に出仕させてあったのである。
「すぐ教書を発し、兵を駆りあつめよう」
と、道三は言い、かれらにその仕事を命じた。翌日になった。
稲葉山城のくわしい様子がわかった。義竜は斎藤の姓をすて、一色左京大夫《いっしきさきょうのだいぶ》という名乗りにあらためた。土岐姓を名乗らず、母深芳野の生家である丹後宮津の城主一色家の姓を冒したのは、土岐姓復帰は道三を討ってからのことにしようという魂胆なのであろう。
が、募兵の名目は、
「実父土岐頼芸の仇、道三入道を討つ」
ということにある。そう明記して国中の美濃侍を勧誘した。要するに数百年来、美濃における神聖血統である守護職土岐氏の当主として命令をくだしたのである。
このため、美濃侍は動揺した。土岐《・・》義竜の命とあれば駈けつけざるをえない習性をかれらはもっている。
それに利害から考えても、義竜方に圧倒的な利があった。まず現役国主であったために平素稲葉山城への常勤者が多い――ということは、常備軍の点で、道三の隠居城とは格段の兵力差がある。
それに、義竜はなんといっても美濃における主城の稲葉山城にいる。小山の上に居館をかまえた程度の鷺山城とはちがい、これは難攻不落の大要塞《ようさい》だった。大要塞に拠《よ》る義竜のほうが、攻防いずれにかけても有利なことは子供でもわかる。
……………………
(勧募はむりだぞ)
と、道三でさえおもった。
が、この男は最後まであきらめず、鷺山城の補強にとりかかった。
美濃に二人の主人ができた。国中の村々にふたりの国主の使者が入りみだれてやってきては、
「わがほうにつかぬか」
と、利と情をもって説いた。道三自身はこの見とおしを、
(義竜の十分の一もあつまればよいほうだ)
と、さほど期待もしていなかったが、あきらめもしなかった。しかしありがたいことに稲葉山城に道三の旧臣がぞくぞくと入城しているというのに、当の義竜は容易に道三攻めにかかろうとしなかったことであった。
道三の作戦能力が、義竜とその徒党をおそれさせていた。かれらは要慎《ようじん》の上にも要慎をかさねた。その無能な慎重さが、道三のいくさ支度に時間をかせがせた。
一方、木曾《きそ》川《がわ》ひとすじをへだてて隣国の信長の耳にも、道三の不幸の報が入った。
信長は、おどろいた。信長はちょうど、本家筋の岩倉城主織田信賢《のぶかた》を相手に泥《どろ》まみれの内戦を演じている最中でとうてい兵力に余裕はなかったが、すぐ救援をおもい立ち、
「援兵の用意がある。騒ぎの内実を教えてもらいたい」
と道三に密使を出し、同時に美濃の事情をさぐるために多数の諜者《ちょうじゃ》を送りこんだ。
諜者のほうが、さきに帰ってきた。それらの報告によると、道三の側にあつまっている兵数はおどろくほどすくなく、
「とうてい、入道様におん勝目はござりませぬ」
と異口同音にいった。
「すくないか」
と、信長は、裂くような語気でいった。
「それにひきかえ、稲葉山の義竜様のもとにあつまる人数は日に日にふえておりまする」
(蝮《まむし》めも、天命きわまったな)
と、信長もおもわざるをえない。道三が魔術師のような軍略家であったとしても、兵力差というのは時に絶対の壁になることがおおい。その差も敵の半数ならばまだしも戦術でおぎなうことができよう。しかし道三のばあいは稲葉山城の十分の一であるようだった。
「濃姫《のうひめ》にはいうな」
と、信長は奥の者に美濃情勢に関する箝口《かんこう》令《れい》をしいた。すでに母をうしなっている濃姫が、いま父をうしなうとなれば悩乱するかもしれなかった。
その信長の密使が道三の居城鷺山城に入ったのは、霜のふかい朝である。
道三は着ぶくれていた。
「婿《むこ》どのが、援助をと?」
と、道三はさすがにうれしかったのか目を大きく見ひらき、瞬きをせず、やがてその老人にしては長すぎるまつげにキラリと涙を宿したが、すぐ破顔一笑し、
「さてさて他人の疝《せん》気《き》が気にかかるとは、上《かず》総介《さのすけ》どのも若いに似あわず苦労性におわすことよ。せっかくだが、手は足っていると申せ」
と、事もなげにいった。
この報告をきいておどろいたのは、信長である。きいた直後は、
(蝮め、虚栄を張りくさるか)
と、おもった。あの男らしいやせがまんだと思った。そのあと、ふと、
(蝮はこれを最後に死ぬ気かな)
と思って、がくぜんとしたのである。死ぬ気なら尾張の人数もなにも要らぬであろう。されば道三のいくさ支度は、勝利のためでなく自分の幕を華々しく閉じるための最後の奇術なのか。
信長は、もはや濃姫に事情をいわざるをえなかった。
「そなたの父は自殺しようとしている」
と、そんな言い方をして、情勢の説明をした。自殺、とはつまり、ロマンティックな自殺的戦闘を準備している、という意味であった。
「わしの援兵の申し出をさえことわった。いい年をして錯乱している。そなたからも手紙をかいてなだめてやるがよい。使いは、福富平太郎がよかろう」
といった。福富平太郎は道三が可愛がっていた若侍で、濃姫の輿《こし》入《い》れのときに随臣として織田家に転籍した。福富がゆけば道三も心底をみせて語るだろうとおもったのである。
濃姫の使者として、福富平太郎は物売りの姿に変装し、夜陰にまぎれて木曾川を越えた。この国境線にはすでに義竜方から警戒兵が出ており、道三と信長との軍事連絡を絶とうとしていた。
福富は、途中、三人の警戒兵を斬《き》り、みずからも左肩を斬られ、血まみれになって鷺山城に駈けこみ、旧主と久しぶりの対面をした。
道三はひとわたりの話をきき、
「たわけ《・・・》殿は、やさしいことをいうわ」
と、前額《でこ》の発達した顔をくしゃくしゃにしてよろこんだが、援軍の件はがんとして受けようとしない。
平太郎のみるところ、道三は多分に感傷的になっているようだった。再起にあがくよりも自分の人生の退《ひ》きぎわをいさぎよくしたいという気持に逸《はや》っているようであった。これが、貪婪《どんらん》な野心家であり、冷血な策謀家であり、神のような計算能力をもった打算家であるかつての斎藤山城入道道三なのか、と、福富平太郎はかえって道三の変貌《へんぼう》がなさけなくなり、
「殿、左様なお気のよわいことを!」
と、その似つかわしからぬ感傷主義をののしるようにして諫《いさ》めた。
ところが道三は、
「ばかめ」
と、苦笑した。
おれの計算能力がおとろえるものか、と道三は言い、
「だからこそ、信長の援軍をことわっている」
「なぜでござりまする」
「美濃は大国だぞ」
「はて」
「火事も大きいわ」
「それがどうしたと申されるのでござりまする」
「信長はまだ尾張半国の小身上《こしんじょう》にすぎぬ」
「まことに」
「その信長もいま、岩倉織田氏と交戦中だ。考えてもみよ。手前の火事を消すにも手が足りぬというのに、おれのほうの火事にどれだけの人数が割《さ》けるか。割けるとしても、せいぜい千か千五百だろう。これも送れば、自分の清洲城があぶなくなってしまう。たとえ二千の人数をおれの火事に送ってくれたとしてもこっちにとっては焼け石に水だ。舅《しゅうと》と婿がうすみっともなく、共倒れになるだけさ」
「は?」
「勝つ見込みがないというのだよ」
と、道三ははっきりいった。だから道三は信長に、「よせ」というのである。計算能力が衰えたどころか、前途に跳梁《ちょうりょう》する死神の人数までかぞえきった結果の回答が、この男の「拒絶」だった。
「わかったか」
と、道三はむしろ、そういう自分の冷徹さをほこるような、ちょっとふしぎな明るさをおびた微笑を頬《ほお》にのぼらせ、
「おれは老いぼれてはおらぬ、とたわけ《・・・》殿に申せ」
「し、しかし殿」
と、福富平太郎は顔を涙でよごしながら拭《ふ》きもあえずにいった。
「このたびは義による援兵でござりまする。お受けなされませ。その援兵のなかに非力なれどもそれがしも加わり、殿の御馬前にて死にとうござりまする」
「義戦じゃと?」
道三は目をむいた。
「ふしぎなことを言うものかな。まさか信長ほどの男が、左様なうろたえた言葉はつかうまい。国に帰れば申し伝えておけ、いくさは利害でやるものぞ。されば必ず勝つという見込みがなければいくさを起こしてはならぬ。その心掛けがなければ天下はとれぬ。信長生《しょう》涯《がい》の心得としてよくよく伝えておけ」
「で、ではそれがしなどはどうなりまする」
「そちは平侍じゃ。いま申したのは大将の道徳、平侍の道は、おのずから別じゃ。そちら平侍は義のために死ね」
凛《りん》と言いはなって、淀《よど》みもない。福富平太郎は、一瞬威にうたれて、おもわず平伏した。
そのあと酒肴《しゅこう》を頂戴《ちょうだい》し、ふたたび町人に変装して美濃を脱出し、尾張に帰った。
道三と義竜の戦闘準備は、そのあと、信じられぬほどのゆるやかさで進行した。
年を越して弘治二年春。
義竜は、稲葉山城に一万二千人をあつめ得てようやく戦端をひらく決意をした。道三の鷺山城にあつまっている人数は、わずか二千数百にすぎない。
南泉寺の月
かず《・・》、がものを言う。
敵の義竜が一万二千、自分のほうの鷺山城にあつまってきたのがその六分の一では、さすがの道三も自分のあまりの落ちぶれぶりを笑ってしまうしかない。
(まあ、予期したとおりの数字ではある)
と、道三はおもった。
(しかし世間の愚夫愚婦が期待するように、奇跡というものがおこってもよいではないか)
堀田道空や赤兵衛なども、それを期待したようであった。かれらは毎日、城内にいる人間の数を祈るような面《おも》もちでかぞえ、もはやこれだけしか集まらぬと知ったとき、最後のたのみに、
「お屋形さま。貝を吹き立てましょう」
と、道三のゆるしを得、城壁の四方に貝のじょうずな者を立て、かわるがわる吹き立てさせた。
――道三様へお味方せよ。
という、村々への催促の法螺《ほら》貝《がい》であった。それが美濃平野のあちこちにむかって、びょうびょうと吹き鳴らされた。吹き手と風むきによっては、三里四里の遠くへもひびきわたった。
昼も夜も、貝を吹く兵は城壁に立ち、東へ吹き、西へ吹き、北へ吹いた。南には敵の稲葉山城があるために、この方角へは吹かなかった。
鷺山城はだだっぴろい美濃平野の真ん中にある。貝の音は天にひびき、野を駈《か》けめぐったが、野がひろいせいか、その音は妙に物哀《ものがな》しかった。
どの村にも春が訪れている。城壁から遠望すると、梅の多い村は白っぽく、桃の多い村は淡々《あわあわ》と紅《あか》く、ひどく童話的な風景にみえた。そういう春の村々にむかってむなしく貝を吹きたてている道三の兵もまた、一幅の童画のなかの人ではないか。
貝は、二昼夜、吹きつづけられた。
が、どの村からももう、一騎の地侍、一人の足軽もはせ参じて来なかった。夜陰寝床のなかでその貝のむなしい音をきいていると、道三はやりきれなくなった。自分の生涯《しょうがい》が、こういう物淋《ものさび》しい吹奏楽でかざられねばならぬとは、どうしたことであろう。
三日目の朝、道三は起きぬけるなり堀田道空をよび、
「あの貝を、やめい」
と、不機《ふき》嫌《げん》そうにいった。
道空は城壁へかけあがり、貝を吹く兵士たちに、もうよい、やめよ、ととめた。兵士たちは力尽きた表情で、唇《くちびる》から貝をはなした。
城も野も、静寂に戻《もど》った。
さて、戦術である。
味方の人数がこうすくないとなれば、平野での合戦はできない。いきおい、山に籠《こも》って天嶮《てんけん》を利用しつつ山岳戦をやらざるをえないであろう。堂々たる野外決戦のすきな道三は、猿《さる》のように山道をのぼりくだりする山岳戦など、このましい趣向ではなかったが。
四月のはじめ、道三は最後の軍議をひらき、基本方針をきめた。
「まず、風の夜を選んで稲葉山の城下町を焼く」
と、いうことがきまった。
稲葉山の城下町井ノ口(現在の岐阜市)は、楽市楽《らくいちらく》座《ざ》という、道三の独自の経済行政によって異常な繁栄をひらいた、いわばこの男の自慢の町である。その町を自分の手で焼きはらわねばならなくなるとは、この男は夢にも思っていなかった。
しかし焼かねばならない。城というのは、城下の侍屋敷の一軒々々がトーチカの役目をなしている。それを焼いて、本城を裸にしてしまわねばならなかった。
翌日、風が吹いた。
巳《み》ノ刻《こく》、道三は行動を開始した。みずから全軍をひきい、長《なが》良《ら》川《がわ》を渡り、まるで野盗の隊長のようなすばやさで稲葉山城下へ下り、
「焼けいっ」
と、命じたのである。道三の将士は、手に手に松明《たいまつ》をもち、それぞれいっぴきの火魔に化したごとく街路を走り、軒下を走り、手あたり次第に火をつけてまわった。
轟《ごう》っ、と諸所で大きく火の手があがった。
その火《ほ》明《あか》りに照らされながら、道三は恩明《おんみょう》ノ辻《つじ》といわれる辻に馬を立て、黙然と四方の夜景をながめている。
前面に稲葉山がそそり立ち、難攻不落といわれる道三築くところの稲葉山城が見えた。篝火《かがりび》が、星のように黒い峰々をかざり、敵兵は、本丸、二ノ丸、三ノ丸などでしきりと動いている様子であった。
しかし、敵の義竜は、小《こ》勢《ぜい》の道三に足もとを焼きはらわれながら、なお打って出ないのである。
偽父《ちち》の道三といえば、合戦にかけては半神的な名人であるという頭があった。わざわざ放火にやってきたのは、五段六段にも構えた深い作戦の結果であろうとみた。
むろん道三としてはそれだけの備え立てを用意している。敵が城門をひらいて突進してくれば横なぐりに叩《たた》きやぶる伏兵も準備していたし、退くとみせて長良川《か》畔《はん》の低湿地にさそいこみ、包囲して殲滅《せんめつ》する手も支度していた。なにぶん夜戦である。小部隊で大軍を相手にまわすにはうってつけであった。
が、敵は来ない。大軍を擁しながら道三の兵の跳梁《ちょうりょう》にまかせて、じっと巨体をすくめているのである。
道三は焼くだけ焼き、なお馬を立てて相手の出戦を待ったが、来ぬ、とわかると、
「つまらん」
と、地に唾《つば》を一つ吐きつけ、馬頭をひるがえし、さっさと野外に集結させ、稲葉山城下から北東四里の丘陵地帯にある北野城に入るべく、全軍の移動を開始した。
途中、兵を割き、自分が隠居城としてくらしてきた鷺山城を焼くように命じた。
大橋という部落をすぎるとき、後方の天にひとすじの黒煙があがった。鷺山城が炎をふきはじめたのである。
(よう燃えるわ)
と、道三は馬上、背後をふりかえり、乾いた眼で、野と、その上に立ちのぼる一条の煙を見た。
想《おも》い出のふかい城であった。はじめて美濃に流れてきたとき、土岐頼芸に拝謁《はいえつ》したのもあの城の広間においてであったし、深芳野を賭《か》け物にして長槍《ちょうそう》をとり、画虎《がこ》の瞳《ひとみ》を突いてみせたのもあの城であったし、頼芸を酒池肉林のなかに浸《つ》けて骨ぬきにしたのも、いま燃えている鷺山城においてである。美濃を奪ったのち、稲葉山の本城は義竜に与え、自分は身を退いて鷺山城に退隠し、あの城で濃姫らをそだてた。おもえば、自分の一代の絵巻が、鷺山城をもってはじまり、そこから展開し、ついにそこにおわっているといっていい。
(おれの一代が、燃える。――)
と、道三は思った。が、馬をとどめず、道三の旌《せい》旗《き》はなお北にむかって進んでいる。
やがて北野城に入った。
数日経《た》った。
道三は北野城の防衛第一線を、北野から二里南方の岩崎城とし、ここを部将の林道慶《どうけい》にまもらせていた。
北野城の出丸といっていい。この岩崎城はひくい丘陵上にある。丘陵の下を、北野への街道が北上している。敵がもし北野城を攻めようとすれば、その進攻路上にある岩崎城をつぶさねばならなかった。
四月十二日、義竜は大軍を催し、この岩崎城に攻めかかり、揉《も》みにもんでわずか一日で攻めおとしてしまった。守将林道慶は、北野城の道三へ最後のいとまごいの使者を出し、本丸に火を放ち、火炎のなかで腹に白刃をつきたて、命を絶った。
「道三の腕も、さほどのことはない。すでにあの大入道から、神通力が落ちている」
と義竜と、その部将たちが勇気づけられたのは、この岩崎城落城からである。
「あたりまえさ」
と、道三はその風聞をきいてあざ笑った。
「すでに憑《つ》きが落ちた以上、なるほど斎藤道三はなお生きてはいるが幽鬼と同然さ」
道三は山の尾根を伝って奥へ奥へと走り、かれがかつて頼芸のために築いた山城の大桑《おおが》城《じょう》に駈け入った。かといって籠城《ろうじょう》するためではない。
敵はここまで来るには多少の時間がかかるであろう。その間、自分の生涯の整理をしておくためである。
大桑の山里に入った翌朝、この季節にはめずらしくあられが降った。あられは二時間にわたって峰や谷に降り、ふり敷いて雪のようになった。
「天はおれに山里の雪景色をみせてくれるというのか」
と、道三はよろこび、その霰《あられ》の小《こ》径《みち》をふんで、南泉寺という山寺にのぼった。南泉寺へのながい石段をのぼっているうちに、霰は去り、四月の陽《ひ》が雲間から出た。陽はたちまち樹間に降りころがっていた霰のむれを融《と》かし、つかのまの雪景色を消した。そのはかなさ、人の世の栄華のようであった。
この南泉寺には、道三におわれて異郷で病没したふたりの美濃守護職の位《い》牌《はい》がまつられている。土岐政頼と同頼芸の兄弟である。道三は僧をよび、多額の金銀をやり、政頼と頼芸の供《く》養《よう》を命じた。なぜいまさら、このふたりの美濃王の霊に対して感傷的になったのか、道三自身も自分の気持を解しかねている。察するところ、道三の政治哲学は、「君主は無能こそ罪悪である」ということになっている。その無能即罪悪のゆえに道三に追われた先代・先々代の美濃王の系列に、道三自身も、
「あらためてお仲間に入れて頂きます」
と、あいさつしたかったにちがいない。道三自身、その油断のゆえに義竜からその地位を追われようとしている。ただこの男は、先代や先々代のように命からがら国外に亡命しようとはしなかった。女婿《じょせい》の織田信長の尾張亡命のすすめをしりぞけ、いま身ぎれいに最後の決戦をしようとしている。
道三には、孫四郎・喜平次を殺されたあと、なお二児がある。まだおさなかった。二児は、いま北野の奥の山里にかくまわれている。道三の仕事はまずその二児を国外に落さねばならぬ。
道三は、赤兵衛をよんだ。かつて京の妙覚寺本山の寺男であったこの兇相《きょうそう》の男は、道三の美濃征服とともに守《かみ》を名乗る身分になったが、ふたたびもとの木《もく》阿弥《あみ》にもどろうとしているようであった。
「おん前に」
と、赤兵衛は平伏し、やがて、このところめっきり老《ふ》けた顔をあげた。
「赤兵衛。ながい狂言はおわったようだ。そちは京へもどるがよい」
「えっ」
赤兵衛はポカリと唇をあけた。この男は当然なこととして、道三と運命を共にする覚悟でいるのである。
「そ、それはなりませぬ」
と、あわててなにか言おうとすると、道三は無言で顔をしかめた。元来、赤兵衛は、道三が庄九郎だったむかしから手足のように使ってきた。手足が余分なことをいうのを道三は好まない。
「行けというのだ。だまって行くがよい。ついでにわしの残された二児を伴うて行って貰《もら》おう。よいな」
赤兵衛は、うなだれた。
「美濃から落ちるに際して、あの者たちの頭を剃《そ》ってしまえ」
「えっ、僧になさるので」
「それが安穏《あんのん》な生き方だ。侍の大将などというあぶない世渡りは、わしほどの才覚があっても最後はこのとおりだ。京にのぼればまっすぐに妙覚寺本山に連れてゆけ。妙覚寺は、わしやそちの出た寺だ。その後も、美濃の常在寺を通じて多くの寄進をしている。わしはかつてあの寺をとびだした無頼破戒の仏弟子だが、いまは第一等の大旦《おおだん》那《な》である。寺もわるいようにはしないだろう」
「そりゃもう」
「その上、かつての寺男だったそちがつれてゆく。話がうまくできている」
「できすぎている」
赤兵衛は、泣きっ面《つら》で笑った。赤兵衛にとっては堂々めぐりのすえ、もとの寺にもどることになるのだ。
「あなた様についてあの寺を出たはずでございますが」
「もとのふりだしにもどるわけか」
「はい」
「くだらぬ双六《すごろく》だったと思うか」
「さあ」
「人の世はたいていそんなものさ。途中、おもしろい眺《なが》めが見られただけでも儲《もう》けものだったとおもえ」
「左様なものでござりますかな」
と、赤兵衛は狐《きつね》つきが落ちたような、うすぼんやりした顔で道三を見つめている。やがて気をとりなおし、
「お屋形さまはどうなさるので」
「おれか」
道三は経机《きょうづくえ》に寄りかかり、筆のさきを指さきでいじっている。
「おれかね」
「左様で」
「おれは美濃を織田信長にゆずろうとおもうのさ。美濃を制する者は天下を制する、とおれは思っている。あの男にこの国を進呈し、おれの築いた稲葉山城のぬしにし、あの城を足場に天下に兵を出し、ついには京へのぼって覇《は》者《しゃ》とならしめる。おれが夢みてついに果たさなかったものを、あの男にさせようというわけだ。あの男なら、きっとやるだろう」
「美濃を上総介《かずさのすけ》殿におゆずりあそばすので」
「そう」
「すると、お二人の若君には、もう相続権がないのでござりまするな」
「坊主になるはずのあの二人に、国や城などが要るものか。しかし長じて自分が斎藤道三の子であったことを思いだして、またまた義竜のように悶着《もんちゃく》をおこすかもしれぬな。のちのちの証拠に、一筆書いておこう」
道三は紙を展《の》べ、紙のはしに文鎮を置き、筆をとった。
わざわざ申し送り候《そうろう》いしゅ(意趣)は、
美濃はついには織田上総介の存分に
まかすべく
ゆずり状、信長に対し、
つかわしわたす、その筈《はず》なり。
下口《しもぐち》、出勢《しゅっせい》、眼前なり。
其方《そのほう》こと
堅約のごとく京の妙覚寺へのぼらる
べく候。
一子出家、九族天に生ず、といえり。かくの
ごとくととのい候。
一筆、
涙ばかり。
よしそれも夢。
斎藤山城《やましろ》、いたって法花妙諦《ほっけみょうたい》のうち、生《しょう》老《ろう》病
死の苦をば修羅場《しゅらじょう》にいて仏果をうる。
うれしいかな。
すでに明日一戦におよび、五体不具の成《じょう》仏《ぶつ》、
うたがいあるべからず。
げにや捨てたる
この世のはかなきものを、
いずくかつゆ(露)のすみかなりけん。
弘治二年四月十九日
斎藤山城入道道三
児《こ》 まいる
「赤兵衛、朱印を捺《お》せ」
と、道三は命じた。
赤兵衛は、机上にある「斎藤山城之印」と刻まれた角印をとりあげ、朱肉をたっぷりとふくませ、道三の署名の下にべたりと捺し、道三のための最後の仕事になるであろうこの小さな作業をおわった。
「苦労」
と、道三は、ねぎらった。そのみじかい言葉のなかに赤兵衛の半生の奉公を謝したつもりであった。
それをきくと、赤兵衛はこの男らしくもなく、わっと哭《な》きだした。
「おれはむかしから泣くやつはきらいだった」
と、道三はいった。
「この場になって泣けば、おれが半生、おれの存念の命ずるままに圧殺してきた亡霊どもが喚《おめ》きたって生きかえり、道三、ざまはなんだ、とよろこぶかもしれん」
「これは不覚でござりました」
「わかればよい。さ、早く発《た》て。今夜、おれには仕事がある」
「この夜ふけにて、もはやお寝《やす》みあそばすのではござりませぬので」
「寝るものか。夜半、月の出を待って軍を集め、山をくだって長良川畔で義竜と決戦をする」
げっ、と赤兵衛はおどろいたが、道三はすでに別の書きものにかかりはじめていた。
信長へのゆずり状である。
譲状は遺言状を兼ねている。
簡潔に書き、署名し、花《か》押《おう》をかいた。一国の将が他の将へ、たった一片の紙片で国をくれてしまうという例は、前にもない。後にもないことであろう。
短檠《たんけい》の輝きが、その道三の横顔を照らしていた。赤兵衛はじりじりとさがりつつ、やがてふすまのそばで道三の背へ一礼し、ふすまをあけ、廊下へ出、やがて閉じた。
道三は、耳次を呼んだ。
耳次がきた。
「これを、尾張の織田上総介までとどけるように」
と、道三はいっただけである。
耳次は赤兵衛とちがって寡《か》黙《もく》な男であった。命令には反問しない。
一礼し、部屋を去った。
あとは、道三にとってなすべきことは、武者わらじを取りよせ、それを穿《は》くことだけであった。
月が昇るまでに、すでに四《し》半刻《はんとき》もない。
長良川へ
月が馳《ち》走《そう》といっていい。
するどく利《と》鎌《がま》のすがたをなし、峰の上の天に翳《かげ》ろいのない光芒《こうぼう》をはなちつつ、山をくだる道三とその将士の足もとを照らしていた。
(この浮世でみる最後の月になるだろう)
と、馬上の道三はおもった。
「のう、道空よ」
と、堀田道空にいった。
「わしの声明《しょうみょう》をきいたことがあるか」
「声明?」
道空は、山路の手綱さばきに苦心しながら法体《ほったい》の主君をふりかえった。
「そう、声明梵唄《ぼんばい》の声明よ」
仏教声楽といっていい。
道三は、京の妙覚寺本山の学生《がくしょう》であったむかし、この声楽をまなび、音量のゆたかさと肺活量の強靱《きょうじん》さのために、指導教授が、
――いっそ、将来は学問よりも唄《ばい》師《し》、声明師として進んではどうか。
と、本気ですすめたものであった。
声明とは、経文を唐代の音で諷唱《ふうしょう》する術で遠いむかし、中央アジアの大月《だいげつ》氏《し》国《こく》でおこなわれていた声楽がシナにつたわり、日本伝来後、おもに叡山《えいざん》の僧侶《そうりょ》によって伝承された。西洋音楽でいう音階として、宮《きゅう》・商《しょう》・角《かく》・徴《ち》・羽《う》の五《ご》音《いん》があり、これを基礎として、調子、曲、拍子がついてゆく。のちの謡曲、浄瑠《じょうる》璃《り》など世俗の音曲はすべてこの声明が源流になっている。
「まだ聴かせていただいたことがございませぬ」
堀田道空はいった。なるほど道三は、妙覚寺をとびだして浮世に出てからは、声明などは唄《うた》ったことがない。
いま、ふとそれを、肺いっぱいの嵐《らん》気《き》を吸いこんで唄おうという気になったのは、最後の戦場への道を照らしてくれる月への感謝という意味もあったであろう。単に青春のころをおもいだした、ということでもある。
さらに、
(声明師になっておれば、この齢になってこの山中、このような孤軍をひきいて決戦場にむかうこともなかったであろう)
という感慨もある。
自分の声量で、全軍を鼓舞したい、ということもあったかもしれない。いや、自分自身が鼓舞されたいという気持もあった。声でも張りあげていなければ、夜陰、孤軍の山をくだるざまなど、陰々滅々として堪えられなかった。
「やるぞ」
と、道三は山《さん》気《き》をしずしずと吸いこみ、ついには肺に星屑《ほしくず》まで吸いこんでしまうほどに満たしおえたかとおもうと、それをふとぶとと吐きはじめた。
声とともにである。
咆哮《ほうこう》のようなたくましさで、声が抑揚しはじめた。
ゆるやかに、春の波がうねるようにうねりはじめ、やがてそれが怒《ど》濤《とう》のような急調にかわり、かと思うと地にひそむ虫の音のように嫋々《じょうじょう》と細まってゆき、さらには消え絶え、ついで興り、興りつつ急に噴《ふ》きのぼって夜天をおどろかせ、一転、地に落ちて律動的《リズミカル》にころげまわった。
(鬼神のわざか)
と、暗い山路をおりてゆく二千あまりの将士は、魂を空に飛ばせて、道三の声が現出する世界に酔い痴《し》れた。
すでに絶望的な戦場にむかう将士には未来をもたさせていなかったが、しかし道三の声は、かれらに別な《・・》未来へのあこがれをあたえるかのようであった。法悦の世界である。
聴き惚《ほ》れてゆくうちに、なにやら死の世界こそ甘美な彼《ひ》岸《がん》であるようにおもわれ、その世界へ、いまこそ脚をあげ戦鼓をならして歩武堂々と進軍入城してゆくようにも思われた。
堀田道空――つまり、道三のそば近くにつかえてこの魅力ある策謀家の策のかんどころを知りぬいている堀田道空でさえ、道三の独唱を聴きつづけるうちにわけもない涙があふれてきて、
「ありがたや」
と、何度もつぶやくほどであった。
道三は、さらに咆哮をつづけた。
咆哮しつつ、道三自身の体腔《みのうち》も、酸度のつよい感動で濡《ぬ》れはじめていた。
法悦というべきか。
いや、もっと激しいものだった。道三は自分の生涯《しょうがい》に別れをつげるための挽《ばん》歌《か》をうたっている。が、この挽歌は咆哮をつづけているうちに道三の心をゆさぶり、震盪《しんとう》させ、泡《あわ》立《だ》たせ、ついにはふつふつと闘志をわきたたせた。挽歌は同時に戦闘歌の作用をも持った。
道三の「偽子」義竜は、いまや一色左京大夫義竜と改称し、稲葉山城を中心とするクーデター政権の頂点にいた。
北方の山地から偵察者《ものみ》が馳《は》せもどってきて、
「入道様の軍が山をくだりつつあります」
と報《し》らせるや、ただちに貝を吹かせ、軍勢に進発の支度を命じた。
義竜自身も、武装し、馬に乗った。六尺五寸、三十貫の巨体で馬にのると、あぶみ《・・・》から足をはずせば、足が地につくほどであった。
家中は蔭《かげ》では、
「六尺五寸様」
と、よんでいた。口のわるい武《む》儀郡《ぎのこおり》あたりの出身の連中は、
「六尺五寸様が御馬にまたがられると、足が六本におなりあそばす」
と、いった。跨《また》がりながら、長い脚で地を漕《こ》いでゆく、という意味である。この当時の馬は三百数十年後に輸入された西洋馬からくらべると、ひどく小さく驢馬《ろば》のやや大きい程度でしかなかった。
このため、体が異常発育をとげてしまった義竜などは、むしろ馬に乗るより歩いたほうがましなのであったが、それでは一軍の大将の容儀にかかわるので、やはり世間なみに騎乗せざるをえなかった。
しかし、ものの三町も騎《の》りつづけると、馬の息づかいが荒くなり、眼のまわりから汗を噴きだした。義竜はやむなく乗りかえ馬を五頭用意し、三町ごとに馬をのりかえるのを常としていた。
軍勢の進発準備がととのった。
が、義竜はそれらを待機させたまま、稲葉山山麓《さんろく》の居館で、刻々と南下をつづける道三軍の状況を注意していた。
(いったい、どこへ出る気か)
というのが、義竜の懸《け》念《ねん》であった。道三の軍は、どこを衝《つ》く気なのか。
(まさか、決戦する気ではあるまい)
人数がちがいすぎるのである。道三ほどの練達の男が、巨岩に卵を投げつけるような、それほどの無謀をするとはおもえなかった。
(この美濃の中央部を突破して尾張に入り信長の城に逃げこむつもりか)
その公算が、もっともつよい。
むろん、その公算のもとに義竜は作戦計画をたて、尾張に逃がさず、木曾川以北で道三軍を殲滅《せんめつ》するつもりでいた。
尾張に対する警戒用の別働隊も出してある。この隊は二つの任務をもっている。信長が万一、道三救援のために北上してきたばあい、それをふせぐ役目、それと道三が美濃をぬけ出て尾張に走る場合、取りこぼさぬように網を張っておく役目、このふたつである。
この別働隊は、隊長を牧村主水助《もんどのすけ》、林半《はん》大《だ》夫《ゆう》のふたりとし、兵三千をあたえ、稲葉山城の西南方大浦《おおうら》(現在の羽島市)付近に逆《さか》茂木《もぎ》、堀、柵《さく》などをつかって堅固な野戦陣地をきずかせ、
「もし信長が突撃しても、柵から出て行っての合戦はするな。あくまでも防禦《ぼうぎょ》を専一とし、守りに守って信長の兵を一兵たりとも美濃に入れぬようにせよ」
と、防禦をのみ命じてある。
夜半、重要な報告が入った。
道三の軍は、まっすぐに稲葉山城にむかってくる様子である、という。
「さては決戦をするつもりか」
と、義竜はあきれ、かつ戦慄《せんりつ》した。
すぐ軍勢を部署し、稲葉山城の防衛第一線である長良川まで押し出させ、そこで数段の陣をかまえ、総大将の義竜自身は、稲葉山の西北方にある、
「丸山」
という小さな丘に本陣を据《す》えた。時に月は東に傾いている。
一方、信長のほうである。
その夜、道三の密使耳次は、大《おお》桑《が》の山をかけくだり、美濃平野を駈《か》けすぎ、木曾川をおよぎ渡り、尾張清《きよ》洲《す》城に入った。
なお夜が深いところをみると、大桑から十三里の道を、ほとんど五、六時間で耳次は駈けとおしたことになる。
信長は耳次を座敷にあげて対面し、そのたずさえてきた密書をひろげた。
遺書である。
しかも、美濃一国の譲状《ゆずりじょう》であった。読みおわるなり信長は、
「ま、まむしめっ」
と世にも奇怪な叫び声をあげた。信長は立ちあがった。蝮《まむし》の危機、蝮の悲《ひ》愴《そう》、蝮の末路、それは信長の心を動揺させた。それもある。しかし亡父のほかはたれも理解してくれる者のいなかった自分を、隣国の舅《しゅうと》だけはふしぎな感覚と論法で理解してくれ、気味のわるいほどに愛してくれた。その老入道が、悲運のはてになって自分に密書を送り、国を譲る、というおそるべき好意をみせたのである。これほどの処遇と愛情を、自分はかつて縁族家来他人から一度でも受けたことがあるか。ない。
と思った瞬間、
「けーえっ」
と意味不明な叫びをあげていた。かつて、自分に対して慈父同然であった平手政秀の自《じ》刃《じん》のときも、信長は錯乱した。
いまも、
「狂《きょう》した」
と、近習はおもった。
信長は、駈けだした。廊下の奥へ駈けた。駈けながら、
「けーえっ」
と、もう一度叫んでいた。みな狼狽《ろうばい》した。「馬を曳《ひ》け」ともとれるし、「陣貝《かい》を吹け」ともとれた。聞きかえせば怒号を受けるだけのことだったから、家来どもはただちにその二つのことを実施した。
その間、信長は濃姫の部屋にとびこみ、「お濃、お濃、お濃」と三度叫んだ。
濃姫は、先刻、美濃からの使者がきた、ということをきき、さては美濃の父にかかわる凶《わる》い報《し》らせか、と直感し、すぐ起床し、居ずまいをなおしていた。
廊下からきこえてくる信長の声に、
「お濃はここにおります」
と、ふすまに走り寄り、みずからそれをひらいた。
「おお居たか」
とも信長はいわない。
道三の遺言状一枚を、濃姫があけたふすまのあいだへほうりこみ、
「蝮を連れてもどる」
と、叫びすてて駈け去った。
廊下を駈けながら信長は衣裳《いしょう》を一枚ずつぬいでゆき広間にもどったときには褌《まわし》さえとり去った素裸《すはだか》であった。
児《こ》小姓《ごしょう》が駈け寄って、その信長の腰に、切りたての真新しい晒《さらし》を締めた。ついで晒の肌《はだ》着《ぎ》に同じく晒の肩衣《かたぎぬ》を着つけさせ、さらに袴《はかま》、烏帽子《えぼし》、直垂《ひたたれ》などをつけ、ついでてきぱきと具足をつけさせた。
あとは、この男は駈けだすことしかない。玄関をとび出して馬に乗るや、まだ五、六騎しかととのわないうちに、もう鞭《むち》をあげて城門からとびだしていた。
信長という男は、その生涯、出陣の号令をくだしたことが一度もなかった。つねにみずから一騎でとびだし、気づいた者があとを追うというやりかたであった。
海東村まできたとき、すでに二百騎ぐらいになっていた。清洲から海東までの街道を、信長のあとを追う松明《たいまつ》がおびただしく流れ走った。信長はこの海東村の鎮守の鳥居の前で手綱をしぼって馬を立て、後続する者を待った。みるみる三百、五百と人数がふえた。
道三は南下した。
伊佐見をとおって富岡に入り、粟《あわ》野《の》へ出、岩崎で敵の前哨《ぜんしょう》小部隊を蹴《け》ちらし、さらに南下をつづけた。
稲葉山城を衝《つ》くべく、長良川を押し渡るつもりであった。
渡河点がいくつかある。
道三は、稲葉山城への最短距離である「馬《ばん》場《ば》の渡し」をえらび、先鋒《せんぽう》部隊をその方向にむけさせた。
夜はまだ明けない。
物見が帰ってきて、
「馬場の渡しのむこう岸に、おびただしい大軍が布陣しております」
と報告した。
(義竜も、おれが馬場の渡しから渡河するとみたか)
道三は、片腹いたく思った。義竜は三十のこのとしまで、一軍の指揮官として合戦を指導した経験がない。おそらく、左右が智恵をつけたのであろう。
道三は、多数の物見を放った。
やがてそれらが帰ってきて、敵の軍容、人数、部署などを報告した。
それらを総合すると、予想される合戦の形態は、どうやら長良川をはさんでの決戦、ということになりそうであった。
道三はそれをすることを決心し、軍の行進を停止させ、長良川畔の野に軍を展開させるべく、諸将を部署した。
さて、本陣の位置である。
崇福《そうふく》寺《じ》という寺があり、その南西の方角に堤に沿って松林がひろがっている。
その林間を、陣所にきめた。
道三の兵は機敏に動いた。やがて陣所の前に逆《さか》茂木《もぎ》が植えこまれ、竹矢来が組まれ、幔《まん》幕《まく》がはりめぐらされ、親衛部隊が布陣した。
道三がその本陣に入るや、かれの旗ジルシである「二頭波頭《にとうなみがしら》」の紋を染めぬいた九本の白旗が打ちたてられた。
やがて夜があけ、朝霧のこめるなかを弘治二年四月二十日の陽《ひ》がのぼりはじめた。
道三は、床几《しょうぎ》に腰をおろしている。
「陣貝を吹け」
道三は、銹《さ》びた声でいった。
朝の陽の下に、対岸の風景がにぎやかに展《ひら》けはじめた。
雲《うん》霞《か》の軍勢といっていい。
おびただしい旗、指物《さしもの》が林立している。それらの背後、義竜の本陣のある丸山には、土岐源氏の嫡流《ちゃくりゅう》たることをあらわす藍色《あいいろ》に染められた桔梗《ききょう》の旗が九本、遠霞《とおがす》みにかすみつつひるがえっていた。
「やるわ」
と、道三は苦笑した。
その表情のまま顔をゆるやかにまわし、自分の兵たちの士気をみた。もはや生をあきらめた必死の相がどの将士の面上にもある。
(みな、おれと地獄にゆく気か)
と、道三は、一抹《いちまつ》のあわれを催した。同時に、三十数年前、美濃に流れてきた他所うまれの人間のために、その最《さい》期《ご》を共にしようという者が二千人もあるという事実は、道三にとっては感動すべきことでもあった。
ふと、
(信長は、どうしておるかな)
という想念が、あたまをかすめた。その援兵を断りはしたが、あの若者のことだ、来るかもしれない、と思った。
(来る、ということを、全軍《みな》に言いきかせてやろうか)
と思ったのは、一同に希望をもたせてやりたいという思いがきざしたからであった。援軍がくるときけば、戦闘にはげみも出る。崩れるところを必死に踏みとどまる気にもなろう。
が、道三はやめた。
どの男の顔にも、そういう気休めをいう余地がないほどに決死なものがみなぎっていたからである。
なまじい、援軍うんぬんを言えば、せっかくのその気組がくずれ、かえって依頼心が生じ、士気が落ち、この正念場《しょうねんば》をしくじるかもしれない。
時が流れた。
やがて、対岸の義竜の陣地から、陣貝《かい》、太鼓、陣鉦《かね》の音がすさまじく湧《わ》きおこり、先鋒部隊がひしめきながら渡河しはじめた。
「出よ」
道三の采《さい》が空中に鳴った。
同時に押し太鼓が鳴りわたり、堤防上に布陣していた道三の鉄砲隊が、撃っては詰めかえ撃っては詰めかえして、すさまじい射撃をはじめた。
その弾雨をしのぎつつ渡河してきたのは、義竜軍の先鋒竹腰道塵《どうじん》のひきいる六百人であった。
道塵は、道三がかわいがって大垣城主にしてやり、道三の道《・》の字を一字くれてやったほどの男である。
道三は、床几を立った。
血戦
陰暦四月といえば、樹《き》の種類の多い稲葉山は全山がさまざまな新緑でかがやく。
その稲葉山が霧でつつまれ、そこへ陽光がかっと射《さ》したために、長良川北岸に布陣する道三の側からみると、霧の粒子のひとつぶひとつぶが、真青に染められているようにみえた。
その青い霧がうごく。
西へ。
風は西に吹き、敵味方の旗はことごとく西にむかってはためいている。
その前面の青い霧のなかから、竹腰道塵のひきいる敵の先鋒六百が、銃を撃ち槍《やり》の穂をきらめかせて突撃してきたとき、
(ほう、美しくもあるかな)
と、道三は、敵の色とりどりの具足、形さまざまな旗指物をみて、極彩色の絵《え》屏風《びょうぶ》でもみるような実感をもった。美濃へきていらい、数かぎりとなく戦場をふんできたが、戦場の光景がうつくしいと思ったことはかつてない。
つねに必死に戦ってきた。それを色彩のある風景として観賞したことがなかった。心にゆとりがなかったのであろう。
いまは、それを観賞している。
(おれはどうやら変わったらしいな)
と、道三は、自分をあらためて眺《なが》めるようなおもいがした。
どうやら声明《しょうみょう》をうたいつつ北の山から降りくだってきたとき、すでに道三はそれ以前の自分とはまるでちがう者になりはてたようであった。
(勝負、ということを捨てたせいかな)
道三は、敵を見ながらそう思った。生涯、梯《はし》子《ご》をのぼるような生き方で送ってきた。梯子の頭上にはつねに敵がおり、それを斬《き》りはらいつつ一段々々のぼり、ついに梯子をのぼりつめたときには、こんどは逆に下からくる敵と戦わねばならぬ羽目になった。
防衛である。
防ぎには、勝負のたのしみがない。勝ってもともとである。生来、攻撃することだけに情熱をもやすことができたこの男は、なんとなくこの梯子の下から来る敵を斬りはらう作業に情熱がわかなかった。かつ、数量的に勝利をのぞむべくもない。それがこの男に勝負の意識をすてさせ、執着を去らせた。その拍子に、別の道三の顔が出た。
敵の突撃をながめている道三の顔つきは、なにやら紅葉狩りにでもきて四方《よも》の景色をうちながめている老風流人のようなのんきさがあり、とうてい、これから戦闘をしようという指揮官の顔ではない。
かといって、道三は、手をこまねいて眺めているわけではなかった。
すでに床几《しょうぎ》から立ちあがっている。
采《さい》を休みなく振り、五段に構えた人数をたくみに出し入れしつつ、最初は鉄砲で敵の前列をくずし、ついで敵の左右の側面を弓組で崩させ、その崩れをみるや、すかさず槍組に突撃させ、敵の中軍が崩れ立ったと見たとき、左右の母衣武《ほろむ》者《しゃ》のなかから誰々《だれだれ》と名指しして三人をえらび、
「道塵の首をあげてこい」
と、手なれた料理人のような落ちつきようで、ゆっくりと命じた。混戦のなかで敵将が孤立している、いまなら接近できる、と道三は老練な戦場眼でそうみたのであろう。
道三の眼にくるいはなかった。手もとから母衣武者三騎が、流星のように駈《か》けだした。かれらは乱軍のなかへ駈け入るや、一挙に敵の中軍に揉《も》み入り、するすると道塵にちかづき、まるで草を薙《な》ぐような容易さで、その首をあげてしまった。
あっというまの出来ごとである。
主将をうしなって敵は総崩れになり、長良川にむかって遁《に》げだした。
道三は声をあげて笑いだした。
「わが腕をみたか」
と笑いながら腰をたたき、どさりと床几に腰をおろした。わずかに疲れた。
たしかに勝った。
道三の兵たちは潰走《かいそう》する敵兵を、猟犬のように追っている。が、道三は、この一時的戦勝が、結局はなんの意味もなさないであろうことを知りぬいていた。
(しかし、多少は息がつける)
それだけの意味である。
やがて霧が晴れはじめ、対岸に密集していた敵の主力が、三隊にわかれて長良川を渡河しはじめた。
川を埋め地を蔽《おお》うほどのおびただしい人馬である。その敵の三隊のうち二隊は左右に迂《う》回《かい》しようとする気配をしめした。やがては道三の軍を大きく包囲しようとするのであろう。道三は知っている。なぜならば自分が常用してきた得意の戦法だからである。
(おれが、おれの戦法でほろぶのか)
と、道三はわれながらおかしかった。
道三は、退《ひ》き鉦《がね》をたたかせた。
この男の考えでは、戦場に散っている自軍を集結し、一隊とし、その結束力によって敵が大きく打とうとする包囲の網をずたずたに破ってやるつもりであった。
一方、信長は北進をつづけた。
途中、何度か馬をとめて家来の追いつくのを待ち、待っては駈けた。やがて富田の大浦の部落に入った。この地には聖徳寺がある。三年前、道三が婿《むこ》の信長とこの地で落ちあい、劇的な対面をとげた。その場所が、聖徳寺だったのだ。信長は、その寺の山門の前を駈けぬけながら、さすがに感傷的になったのか、
「蝮、生きていろっ」
と、闇《やみ》にむかって叫んだ。
叫びながら、信長は奇妙なことに気がついた。あの日は天文二十二年四月二十日であった。いまは年号こそ変われ、その三年後の、しかもおなじ四月二十日ではないか。
偶然かも知れない。
しかし信長には偶然とも思えず、
(どこまで芸のこまかい男か)
と驚嘆した。蝮は、自分と会った四月二十日を選び、おのれの命日にしたかったのではあるまいか。いやそうにちがいない。四月二十日を命日にしておけば道三のあとを弔《とむら》うべき信長にとって二重に意味のある祥月《しょうつき》命日になるのであった。されば信長は生涯道三を忘れぬであろう。
(あの男は、そこまでおれを思っている)
若い信長にとって、この発見は堪えられぬほどの感傷をそそった。
夜風を衝いて駈けながら、信長は馬上で何度も涙を掻《か》いぬぐった。
木曾川の支流の足《あ》近川《ぢかがわ》の土手まできたとき急にあたりが明るくなった。
陽が昇った。
背後をみれば、すでに追いついた人数はざっと三千人はあろう。
「殿、お耳をお澄ましあそばせ」
と、駈け寄ってきた者がある。織田家の侍大将の柴《しば》田《た》権六勝家《ごんろくかついえ》であった。
聞こえる。
霧のむこう、美濃平野のかなたで、陣貝、太鼓、銃声の遠鳴りが、にわかにひびきわたってきたのである。道三はもはや決戦をはじめたようであった。音の方角は北であった。北には稲葉山がある。だとすれば、戦場は長良川の渡河点付近であろう。
遠い。
「何里あるか」
「はて、四里はありましょう」
と柴田権六はいった。
信長は、土手に馬を立てていた。眼下に足近川が流れている。
「渡せ――えっ」
と、信長は鞭《むち》をあげて長い叫びをあげたかと思うと馬を駈けおろして河原へ進み、さらにざぶりと流れに入れた。
三千の織田軍が渡った。難なく押しわたってさらに進むと、眼の前に低い丘陵がうねうねと展開している。
おどろいたことにその丘陵のことごとくが、敵の野戦陣地になっており、無数の旗がひるがえっていた。
義竜の支隊である。
支隊ながら人数は信長軍よりも多い。
――おそらく信長が救援にくる。
という想定のもとに義竜は、牧村主水助《もんどのすけ》、林半大夫らを将とする一軍をこの方面に配置し、戦場への参加をこばもうとしているのである。
かれら丘陵陣地の将は、
――あくまで防禦《ぼうぎょ》に終始せよ。信長が仕かけてきても固くまもって押しかえすな。
という命令をうけていた。
そのため、陣地の前に濠《ほり》を掘り、柵《さく》をめぐらせ、逆《さか》茂木《もぎ》を植えこみ、堅固な野戦築城をきずきあげている。
城塞《じょうさい》を攻略するには、その守備兵の十倍の人数で攻撃するというのが、合戦の常識になっていた。信長のばあい、人数は逆に守備兵よりもすくない。
信長は兵を部署し、ただちに鉄砲隊、弓隊を前進させて、射撃を開始させた。
敵は動く様子もない。
整然と応射しはじめた。信長はさらに先鋒《せんぽう》を前進させた。
敵は柵のなかで鉄砲をかまえ、織田の先鋒が射程内に入ると、正確に狙《そ》撃《げき》した。
信長は鞍《くら》の上でとびあがり、
「踏みやぶれーっ」
と叫びつつ馬を駆って射程内に突撃し、何度もそれをくりかえしたが、馬廻《うままわ》りの士をばたばたと倒されるばかりで何の効もない。
やむなく柵の前から一町後退し、銃陣を布《し》き、射撃戦を再開した。
その間も、稲葉山城下の長良川の方角にあたって、すさまじい合戦のひびきが遠鳴りにきこえてくる。
(蝮め、苦戦しているであろう)
と、おもえば気が気ではない。信長は、一ツ所で馬をぐるぐると駈けまわしながら、
「蝮め、死ぬか、死ぬか」
と、何度も叫んだ。
当の道三は、硝煙のなかにいた。
敵の包囲は、すでに完了した。
道三は残る手兵をあつめ、何度か突撃して敵の包囲網をやぶった。
が、破ってもやぶっても、敵の人数は湧《わ》くように出てきて、その破れ目をうずめ、うずめるごとに包囲の輪はいよいよちぢまった。
敵は、包囲陣のなかを駈けまわっている道三の兵を、できるだけ鉄砲でうちとろうとした。この戦法は効果的だった。
道三の兵は、敵と組み打たぬうちに、鉛の弾《たま》をくらってばたばたとたおされた。
道三はその弾を避けさせるために兵を松林のなかに入れた。
松の幹が、防弾の楯《たて》になった。
その松と松のあいだを縫って、敵の騎馬隊が、勇敢に肉薄してきた。
敵の目標は、いまや道三ひとりである。
すでに道三の身辺には数人の母衣武者がひかえているにすぎない。
が、道三は、あくまでも床几に腰をおろしたまま、動こうともしない。
若いころは軍中で床几を用いず、つねに馬上で指揮をし、つねに戦場を動きまわり、ときには長槍をふるって大将みずから敵陣に突撃したものだが、いまの道三はことさらにそれをしたくなる衝動をおさえていた。
どうせ、死ぬのである。軽躁《けいそう》にはねまわって見ぐるしく死にたくない。美濃の国主らしく、どっしりと床几に腰をおろしたまま、最後の時間を迎えたいとおもっていた。
そこへ、道三の風雅の友であり亡妻小見《おみ》の方《かた》の実家《さと》の当主であり今日の合戦の一手の将でもある明《あけ》智《ち》光安が駈けてきた。
頬《ほお》に銃創をうけたらしく、半顔が血だらけになっている。
「お屋形、退《ひ》かせ候《そうら》え」
と、明智光安はどなった。光安は、自分が血路をひらくによって城《き》田《たい》寺《じ》まで退却なされ、というのである。
「明智殿こそお退きなされ」
と道三は微笑し、自分は少々疲れたによってここは動かぬ覚悟でいる、卿《けい》は明智城にもどられよ、はやばやと退かれよ、これはわしの最後の下知《げち》である、と言い、
「城へもどれば、十兵衛光秀に言伝《ことづて》をしてもらいたい」
といった。光秀は、道三の命でこの戦場には出ず、明智城を守っているのである。道三敗北となれば光秀は城をすてて国外に逃亡せねばならぬであろう。
「光秀は、ゆくゆくは天下の軍を動かす器量がある。わしは一生のうちずいぶんと男というものを見てきたが、そのなかで大器量の者は、尾張の婿の信長とわが甥《おい》(義理の)光秀しかない。光秀を、この馬鹿《ばか》さわぎのために死なせてはならぬ。城をぬけ、国外に走り、ひろく天下を歩き、見聞をひろめ、わしがなさんとしたところを継げ、と申し伝えてもらえまいか」
さらに――と道三は言葉を継いだ。
「光秀は京にのぼることがあろう。京には、わしが見捨てたお万阿《まあ》という妻がいる。わしが一生、見ながめてきた女どものなかで、ずばぬけてよき者であったよ」
「そのお万阿殿を? つまり光秀に、お万阿殿をお訪ね申せと伝えるのでござるか」
明智光安は、せきこんでいった。
「ふむ。……」
道三は、奇妙にはにかんだような、少年のような微笑をうかべ、
「そのように頼む。すでに人をやって手紙は送ってあるが、光秀の口からわしの最《さい》期《ご》などをお万阿に物語ってもらえばありがたい」
時がすぎた。
明智光安は去った。
すでに戦場を見わたせば道三方の兵はほとんど生き残っておらず、硝煙のなかで駈けまわっている者といえばほとんどが敵軍だった。
かれらは道三をさがしている。
ついに義竜方の侍大将で美濃きっての豪勇といわれる小牧源太が、数間むこうの老松のあいだを駈けぬけようとしたとき、ふとふりかえり、おどろいて馬からとびおりた。
旧主道三を見たのである。
道三は、松の根方に床几をよせ、なお三軍を指揮しているような、傲然《ごうぜん》としたつら構えで腰をおろしていた。
小牧源太については、お勝騒動のくだりですでにふれた。尾張の出身で道三に仕え、道三によって一手の将に仕立てあげられた男である。
「お屋形っ」
と、源太は膝《ひざ》をつこうとしてここが戦場であることを思いだし、膝をまげたそのままの姿勢で槍をかまえ、じりじりと進んできた。
「なんじゃ、源太か」
道三は、蠅《はえ》でも見るような目で、この美濃第一の豪傑を見た。
「み、みしるし《・・・・》を頂戴《ちょうだい》つかまつりとうござりまする」
「獲《と》れるものなら獲ってみることだ」
と、道三はゆっくりと立ちあがり、陣《じん》太刀《だち》に拵《こしら》えた数珠《じゅず》丸《まる》のツカに手をかけ、やや眼をほそめて源太の動きを見さだめてから、
しゃっ
と、鞘走《さやばし》らせた。
同時に、源太の槍が伸びた。その穂を道三は、太刀でかっと叩《たた》きはらい、さらに踏みこんだ。源太はすばやくとびさがり、槍をみじかく繰りこんだ。
道三が右足をあげ、大きく踏みこもうとすると、源太の槍が横なぐりにその足をはらった。
道三はとびあがった。
そのときである。背後から一騎、疾風のように駈けてきた者がある。道三があっと気づいたときには、その肩さきを跳びこえ、跳びこえる瞬間、
「ご免っ」
と、馬上から大太刀をふるって道三の首の付け根をざくりと斬った。
義竜軍の部将林主水《もんど》である。
キ《どう》と道三が横だおしにたおれるところを、義竜軍の物頭《ものがしら》長井忠左衛門という者が駈け寄って、道三に組みついた。
が、長井がのしかかったときは、この美濃王の霊はすでに天へ飛び去っていた。
長井はやむなく死体の首を掻き切り、持ちあげようとしたが、どうしたはずみか、首をかかえたまま足を苔《こけ》にすべらせて地に手をついた。この挿《そう》話《わ》、べつに意味はない。
道三の首はそれほど重かった、武者一人をころばすほどに重かったという、のちの風聞がでるたね《・・》になった。
道三の討死の刻限、狐穴《きつねあな》付近の丘陵地帯で北上をさまたげられている信長には、むろんその死はわからなかった。
ただ、いままで北方の天にひびいていた銃声が急にやんだことで、その事態を察することができた。
信長は敵中で孤立した。
退却に移ったが、追いすがる美濃兵のためにこの退却は困難をきわめ、一戦ごとに尾張兵の死体を遺棄し、陽も高くなったころ、かろうじて足近川を渡り、ほとんど潰走同然のすがたで尾張に逃げもどった。
道三の首は義竜によって実検されたあと長良川付近にさらされ、ほどなく消えた。小牧源太の手でぬすまれたのである。源太はその首を、道三の最後の戦場だった松林のなかに葬《ほうむ》り、長良川から自然石を一つかかえてきて、その盛り土の上に据《す》えた。
お万阿《まあ》の庵《いお》
道三の死を京のお万阿が知ったのは、この年の初夏であった。
報告者は、赤兵衛である。
赤兵衛は、道三の晩年にも年に何度かは美濃と京を往復し、道三の手紙をとどけたり、金銀を持って行ってやったりしていた。
なぜか道三は北野の山中で赤兵衛とわかれるとき、
「お万阿にわが死を報《し》らせよ」
と、いうことだけはいわなかった。どういうわけであろう、赤兵衛にはいつもながら道三という男の気持がつかみにくい。
赤兵衛は、道三から託された二人の遺児を連れ、美濃を脱出し、とにもかくにも京へのぼり、妙覚寺本山のなかの塔頭《たっちゅう》に宿をとって、数日、鳴りをひそめて京にあつまる風聞に耳を立てているうちに、はたして美濃の政変がきこえてきた。
「斎藤山城入道道三殿は長良川畔で土岐義竜と決戦し、奮戦のすえ相果てた」
ということであった。
(はたして、そうであったか)
なおも赤兵衛は一《いち》縷《る》ののぞみを捨てきれずにいただけに、齢《よわい》が十も老《ふ》け果てるほどに落胆した。京の風聞によると、尾張の織田信長は救援におもむくべく美濃へ乱入したが、途中、美濃兵に扼《やく》され、ついに戦場に到着できなかったという。
(そこはたわけ《・・・》大将だ。元気はよくても、智恵も力もなかったのであろう)
赤兵衛には、信長のそういう不甲斐《ふがい》なさが腹だたしく思われたが、いまやなにを言っても詮《せん》がない。こうなれば、道三から託されたとおり、ふたりの少年を妙覚寺本山に入れ、僧にすることだけであった。
「山城入道様の御遺言でござれば」
と頼み入ると、道三の生前、しばしば土地の寄進などを受けていた妙覚寺ではそれを快諾し、師匠をえらび、ゆくゆく得《とく》度《ど》せしむべく寺の稚児《ちご》とした。
同時に赤兵衛の晩年も、この日から出発した。この男だけが俗体でいるわけにはいかないから、二人の若殿が稚児になる日に頭をまるめ、墨染の衣をまとい、俄《にわ》か道心になり、稚児たちの従者として後半生に入った。
僧になった翌日、赤兵衛は、京の町を西へ歩き、嵯峨野《さがの》をめざした。
そこに、お万阿が住んでいる。
お万阿は、すでに油問屋の御料人ではない。七年前に店をたたみ、嵯峨の天竜寺のそばに庵《いお》をたて、尼の姿になって暮らしている。
油屋の廃業は、道三とは関係がない。近年、菜種から油をしぼりとる方法が開発されて以来、お万阿らふるい油業者が「大山崎神《じ》人《にん》」という資格によって座仲間の独占のようにして取りあつかってきた荏胡《えご》麻油《まあぶら》が、その油としての首座を安くて大量に生産できる菜種油にうばわれ、このためふるい荏胡麻油の業者は軒なみに没落した。
もっともお万阿は、没落する前に荏胡麻油の将来に見きりをつけ、店をたたみ、嵯峨野に庵をたて、田畑を買い、老後の安全を期したために、彼女自身はべつだん没落したわけではなく、あいかわらず尼僧ながらも贅沢《ぜいたく》な暮らしを送っていて、
「嵯峨野の妙鴦《みょうおう》さま」
といえば、お国《くに》歌舞伎《かぶき》などを庵によんで興行させるほどに派手ずきな尼さまとして洛中《らくちゅう》洛外に知られていた。
赤兵衛は、その庵をたずねた。
庵とはいっても、まわりに堂々たる練塀《ねりべい》をめぐらし、小さいながらも四脚門をあけ、なかに入ると、使用人のための住居が二棟《ふたむね》ばかりあり、不自由ったらしい構えではない。
赤兵衛は門を入ってまず杉丸《すぎまる》を訪ね、道三の最期などをこまごまと語った。
聞きおわると、杉丸は溜《た》め息をつき、
「やはり、うわさは本当であったのじゃな」
といった。
「うわさで聞いておったのか」
「かような京の田舎でも、洛中からの人の往《ゆ》き来があるゆえ、自然と伝わる。しかし、なにぶん不確かな風聞であるゆえ、御料人様には申しあげておらぬ」
「申しあげれば、驚かれるであろうな」
「さて、どんなものか」
杉丸は、この男の昔からの癖で、しさい《・・・》らしく小首をひねった。むりもないであろう。ここ十年、道三は京には帰って来ず、夫婦の事実上の縁は絶えたも同然になっていた。お万阿御料人は、そういう不実な、いわば奇妙すぎるほどに奇妙な道三という夫の存在について、どう思っているのであろう。
(もう、お腹だちなさる根気もなくなって、御自分は御自分というふうに割りきって暮らしていなさるのであろう)
ここ十年、杉丸はそうみていた。
「では杉丸」
と、赤兵衛はこの男の持ち前の無神経な調子でいった。
「わしから申しあげてもかまわぬな」
「はて、それはどうか」
杉丸は、困《こう》じはてた。半生、お万阿御料人が機《き》嫌《げん》よく暮らすことだけを念じて身辺につかえてきた杉丸には、ことが重大すぎて即答できるような事柄《ことがら》ではない。
「聞くが」
杉丸はいった。
「美濃の旦《だん》那《な》様が、その最期をとげられる前に、おぬしに、京の御料人様に報らせよ、と言い置きなされたか」
「おうさ、言い置きなされたぞ」
と、赤兵衛は、事の勢いでうそをついた。赤兵衛にすれば、道三がお万阿のことを言わなかったのは、言わずとも赤兵衛がそれを語りにゆくだろうと思ったからにちがいない、とそう解釈していた。
「それならばやむを得ぬ」
杉丸はお万阿にその旨《むね》を伝えたのち、赤兵衛を女主人の居間に案内し、その次室にすわらせ、閉ざされた襖《ふすま》にむかい、
「赤兵衛殿が参りましてござりまする」
と声をかけた。
居室にいるお万阿は、くずしていた膝《ひざ》を正面にむけ、右膝を立てた。
が、ふすまを開けなさい、とは言わない。しばらくだまっていたが、やがて、
「庄九郎殿の身に、異変があったのですか」
と、おびえたような声できいた。なにか、予感をもったのであろう。
「なぜご存じでございました」
「十日ばかり前、あけ方にお帰りあそばしたような気配がして、おどろいて声をかけると、そのままお消えなされた。夢だったような気もする」
「もう、討死を、あそばされましてござりまする。去月の二十日、長良川畔にて、義竜殿のために。……」
赤兵衛は手短く事情を語り、語りおわるとさすがに感きわまったのか、そのまま両掌《りょうて》で顔をおおって泣きだした。
「義竜殿とは、深《み》芳《よし》野《の》とやら申されるおなごのお腹からうまれたお人でありますな」
「は、はい。左様で」
と、赤兵衛はいったが、お万阿はふすまを閉ざしたまま、なにもいわない。
居室が静まりかえっている。
四《し》半刻《はんとき》あまりも赤兵衛はお万阿からなにか言葉がかかるとおもって、うずくまったまま待ちつづけたが、ついに咳《しわぶき》ひとつ聞こえて来ぬために、
――どうしよう。
と、いうような眼を杉丸にむけた。杉丸は悲しげな表情でうなずき、
「退《さ》がるほうがいい」
と、小声でいった。
その秋、この嵯峨野の草を踏んでお万阿の庵をたずねてきた旅の武士がある。
まだ若い。
やや栗色《くりいろ》にちかい髪をきれいに束ね、薄い眉《まゆ》の下に一重瞼《ひとえまぶた》の目が、ふかぶかと澄んでいる。一種の美男といっていい。
めだたぬこしらえの大小に、茜《あかね》の袖無《そでなし》羽《ば》織《おり》、籠《かご》目《め》の模様の入った小袖に染革《そめがわ》の裁着袴《たっつけばかま》をはき、しずかに塀《へい》ぎわを歩んできて、門前に立った。
杉丸が出て応対すると、この気品のありすぎるほどの容貌《ようぼう》をもった武士は、
「ここが、妙鴦《みょうおう》様の御《ご》庵室《あんしつ》でござるか」
と、鄭重《ていちょう》な物腰できいた。
杉丸が、左様でござりまする、と答えると、ひとめなりとも尼御前にお目にかかりたい、と武士はいう。
「して、あなた様は?」
「申し遅れました。美濃の明智の住人にて、明智十兵衛光秀と申す者」
そう名乗って、自分は故斎藤道三のつながりの者であることを明かし、道三の最期のことなどをその遺言によって伝えに参った、と申しのべた。
杉丸はその旨をお万阿に取りつぐと、ぜひお会いしたい、とお万阿はいった。
光秀は、南庭の見える一室に通され、そこでしばらく待たされた。
(おもしろい女人らしい)
と、美濃にいるとき薄々きいていたが、こんど京にきてお万阿の所在をさがし、それが妙鴦という法名を名乗って嵯峨で侘《わ》び暮らしていることを知ったとき、
(妙鴦とは。――)
と、この文字にあかるい男は、訪ねる女人の類のない法名にまず興味をもった。おしど《・・・》り《・》のおす《・・》を鴛《えん》といい、めす《・・》を鴦という。髪をおろして尼になっても、俗世のころの夫をなおも恋うている、という名ではないか。
(道三殿も、罪のふかいお人であったな)
と、おもわざるをえない。なるほど自分の叔母の小見の方は美濃での妻であったが、聞けば、当庵のぬしこそ本来の妻であるという。
やがて、お万阿が出てきた。
白ぎぬを頭にまとい、おなじく白ぎぬの小袖を白ずくめで襲《かさ》ねに着、嵯峨野で枯れはてているとは思えぬほどに豊かな肉付きをもっている。
「十兵衛殿と申されましたな」
と、この尼は会釈《えしゃく》もせずにすわった。
十兵衛が型どおりにあいさつしようとすると、お万阿はまるい掌をあげ、
「ああ、それはごかんべんを」
と、こぼれるような笑みをたたえていった。
「このとおり、一生、行儀作法などせずに気《き》儘《まま》で生き暮らしてきたおなごでございます。当庵に参られれば固くるしいごあいさつなど、してくださりますな」
謹直な光秀はどぎもをぬかれ、どう理解してよいのかわからず、しばらく庵主《あんじゅ》の顔を見つめていたが、やがて、
(これは、うまれたままの、まだ産《うぶ》湯《ゆ》の匂《にお》いさえにおっているような女人だな)
ともおもい、それに馴《な》れるにつれて、お万阿の前で、常になく多弁なほどに喋《しゃべ》っている自分を発見した。
光秀の叔父光安は、道三に殉じた。
光安は、あの長良川畔の戦場を脱出して明智城にもどり、城の防備を固くしつつ、しばらく鳴りをひそめた。
新国主になった義竜は、しばしば使者を出して光安の降伏をすすめたが、そのつど、
「自分は、亡《な》き道三と姻戚《いんせき》であるだけでなく古い風雅の友で、半生の思い出は道三と分ちあっている。その道三を攻め殺した義竜の下に帰服することは、自分の感情がゆるさない」
と、依怙地《いこじ》な態度を持し、どう勧告しても、城を出て稲葉山城に出仕しようとしない。やむなく義竜はこの九月十八日討伐軍をおこし、長井隼人佐道利《はやとのすけみちとし》という者を大将にして三千七百人の人数でもって明智城をかこみ、攻城二日間で陥落させた。
その落城の前、光安は光秀を説き、
「道三への節義に殉ずるのは、これはいわばおれの好みで、この好みをもって明智一族を絶やしたくはない。おこと《・・・》らは、ここから落ちのびよ」
と、いった。光秀は、やむなくその意見に屈し、光安から頼まれたその遺児たちをまもりつつ城から落ちのび、一時は西美濃の府内の領主山岸光信をたよってその城館に潜伏し、遺児たちをあずけ、とりあえず京にのぼってきた、というのである。
「このような血なまぐさい話、ご興味のないことでありましょうな」
と、十兵衛光秀はいった。
「しかしそれを申さぬと、それがしが亡き道三殿とどういう因縁の者であったかをわかって頂けぬと思い、申したまででござる」
そのあと、光秀は、自分でも自分がどうかしたのではないかと思うほどに喋り続けた。
少年のころから道三のそば近くに仕え、道三に愛され、学問、武芸、戦術、遊芸までを直々《じきじき》に伝授されたこと、もはや道三の被官の子というよりも弟子のようなものであったこと、などを語った。
「そういえば、あなた様の物の言い方、お行儀、顔かたちまで、どことなくお若かったころの旦那様に似通うたところがござりまするな」
と、お万阿は、感慨ぶかそうにこの光秀という若者の顔をのぞきこんだ。
「彼の人は、尾張の信長殿とやらも、ひどく可愛がっておられましたとか」
「左様」
光秀は、みじかくうなずき、それ以上は言わず、ただ、信長ときいて、ふと従妹《いとこ》の濃姫《のうひめ》の顔をおもいうかべたが、牢人《ろうにん》になりはててしまったこんにち、それらはひどく現実感のうすい彼方《かなた》にとび去ってしまったような気がした。
やがて陽が翳《かげ》りはじめたので、光秀は思わぬ長居におどろき、
「道三殿のお話をもっとすべきところ、自分の長ばなしなど、ついよい気になって申しあげすぎたがために、刻限が移ってしまいました」
「ご遠慮には及ばぬことでございます」
と、お万阿はいった。
「あなた様の御自身のお身の上話のほうが、ずっと面白うございました」
「いやいや、道三殿は」
「その道三殿とやらが、美濃でどうおし遊ばして、そのためにどうなったとやらのお話は、わたくしはお聞きしたくはございませぬ」
「え?」
光秀は、けげんな色をうかべた。
「それはまた、なぜでありましょう」
「斎藤道三と申されるお人は、わたくしにとってなんの覚えもない真赤な他人でございますもの。ましては夫ではありませぬ」
「それは」
「ええ、違うのです。このお万阿の旦那様は山崎屋庄九郎といわれる油屋で、若いころから美濃にさしくだり、ときどき京に戻《もど》って参られました。出先の美濃でなにをなさっていたか、お万阿には縁のないことでございます。それゆえ、山崎屋庄九郎の話ならききとうございますが、その斎藤、――はてなんという名でしたか」
「道三」
「そうそう。そのような名のひとは、たとえ山崎屋庄九郎と同一人物であろうと、お万阿の一生にとってどういう意味もないお人でございます」
「おどろきましたな」
「ただ、その山崎屋庄九郎殿は、京に帰るたびに、お万阿いまに将軍《くぼう》になる、そのときはそなたを御所にむかえるなどと申しておりましたが、おもえば、この世に二人とない、おもしろいお人でございましたな」
この世に二人とない……とまで言ったとき、お万阿は光秀を見つめ微笑したままの表情で、どっと眼に涙をあふれさせた。
この日から数日、光秀はお万阿にひきとめられるままに、この庵に逗留《とうりゅう》したが、やがて発《た》つとき、門前まで見送りに出たお万阿が、
「これからどこへ参られます」
と、きいた。
「あてどはござらぬ」
ただ心にまかせて諸国を流《る》浪《ろう》し見聞を深めてみたい、と光秀が答えると、お万阿は微笑を消し、じっと光秀の顔をながめ、
「男とは難儀なものじゃな」
と、いった。
「あなた様も、そのお顔つきでは、天下とやらがほしいのであろう」
「いやいや、そのような大望はござらぬ。なにぶん美濃を離れれば木から落ちた猿《さる》も同然、一尺の土地もない素牢人でありますゆえ」
「その素牢人がこわい。山崎屋庄九郎殿も、もとはといえば妙覚寺の法蓮房《ほうれんぼう》、寺を逃げだして還俗《げんぞく》したときは、青銭《あおぜに》一枚ももたずに京の町を歩いておりました」
「願うらくは」
光秀は、微笑をうかべ、
「その法蓮房にあやかりたい」
と言い、くるりと背をむけ、門前の道を東へ、あとをふりむかず、すたすたと歩きだした。
朽《くつ》木《き》谷《だに》
光秀は、落葉を踏んで、琵琶湖《びわこ》の西の山岳地帯を、北へ北へと分け入っている。
弘治二年の冬。
このとし、師父ともいうべき道三が戦死し、明智氏が没落し、光秀自身は牢人になりはてた。
(なんと多難な年であったことよ)
光秀はそれを思い、これを想《おも》えば、うたた、ぼうぜんたらざるをえない。
(今後、どうする)
たれかをたよって主《しゅ》取《ど》りをすべきであろう。しかし乱世のことだ、凡庸の主には仕えたくはない。できればひろく天下を歩いて英傑の人をもとめ、その下に仕えて自分の運命をひらきたい。
が、――
光秀という男の情熱はそれだけを求めているのではない。この、武士としては史書や文学書を読みすぎている男は、たとえば諸葛孔《しょかつこう》明《めい》のような、たとえば文天祥《ぶんてんしょう》のような、そういう生涯《しょうがい》を欲した。かれらは王室の復興や防衛にすべての情熱をそそぎこみ、その生涯そのものが光芒燦然《こうぼうさんぜん》たる一編の詩と化している。
(諸葛孔明、文天祥をみよ)
と、光秀はおもうのだ。
(その名、そのものが、格調の高い詩のひびきをもっているではないか。男とうまれた以上、そういう生涯をもつべきだ)
この男を、どう理解すればよいか。自分の生涯を詩にしたいという願望は、つまりそういう願望をもつ気質は――男のなかでは、志士的気質というべきであろう。明智十兵衛光秀は、自分がそういう気質の人間であることを、むろん気づいている。
だから単なる主取りやその意味での立身では満足しない。もっと緊張感のある、もっと壮大な、もっと碧落《へきらく》の高鳴りわたるような、そういう将来を夢見ていた。
(おれだけの男だ)
と、いう自負がある。
(単なる主取りを望むだけなら、千石、二千石の俸禄《ほうろく》ぐらいはたちどころに、ころがってくるだろう)
法螺《ほら》ではない。
この男のもっている技術のうち、火術だけでも十分に二千石の価値はあった。少年のころから道三が、
「これからは鉄砲だ」
と言い、堺《さかい》から購入した鉄砲を光秀にあたえ、その術を練《れん》磨《ま》させた。いまでは二十間を離れて、枝につるした木綿針を射《う》ちとばすことさえできる。火薬の配合法はおろか、戦場における鉄砲隊の使用法など、この新兵器についてのあらゆる知識と抱負をもっている。具眼の大名があれば光秀のこの才能を一万石に評価しても損はないであろう。
そのほか、槍術《そうじゅつ》、剣術に長じ、さらに古今の軍書についての造詣《ぞうけい》、城の設計法《なわばりほう》など、どの一芸をとっても光秀ほどの者は、天下に十人とはないであろう。
そういう自信がある。
(そのおれを、安く売れるか)
と、いう気持もあるし、それだけの資質にうまれてきた以上、たかだか大名の夢をみるより為《な》しうべくんば、百世ののちまで敬慕されるような志士的業績をこの地上に残したかった。
その対象はないか。
つまり、志士的情熱の。――
と、光秀は美濃を脱出して以来あれこれと想いをこの一点にひそめてきたが、ここに打ってつけの対象がある。
足利将軍家であった。
京に出て数日滞留した光秀は、将軍の居館である室町《むろまち》御所や二条の館《やかた》などのあたりをうろついたが、そこは廃墟《はいきょ》でしかない。廃墟であれば、そこには素姓も知れぬ田舎武士が住んでいた。
京は、三《み》好長慶《よしながよし》に握られ、その幕下の阿波《あわ》兵が市中をわが物顔で横行している。三好長慶といえば、将軍家からみれば素姓もさだかでない陪臣《ばいしん》であった。
将軍は、京にいない。
追われて、流亡していた。
「将軍《くぼう》様はどこにおわすか」
と、光秀は京に滞在中、機会あるごとに人にきいたが、満足に答えられる者もひとりもいなかった。ただお万阿だけは、さすがに、もと幕府機関に油を納入していた縁があるだけに、
「近江《おうみ》の朽《くつ》木《き》谷《だに》ときいていますけど」
と言ってくれた。
「朽木谷と申すところは、よほどの足達者でないと踏み入れぬ山奥じゃげな」とも、お万阿はいった。
(その朽木谷とやらに行ってみよう)
と光秀がおもい立ったのは、このときである。猿《さる》や鹿《しか》の棲《す》むような鄙《ひな》びた山奥に将軍が流寓《りゅうぐう》している、というだけでも、光秀の好みにあう想像であった。
朽木谷
というのは、琵琶湖の西岸の奥地にある。この近江の大半を占める大湖《おおうみ》は、東岸を平野とし、西岸を山岳重畳《ちょうじょう》の地帯としている。
その連山を安曇《あど》川《がわ》が渓谷《けいこく》を穿《うが》ちつつ流れている。この川の上流を、朽木谷という。
なるほど途方もない山奥だが、京からの道路もあり、若狭《わかさ》へぬける山道もあって、はやくからひとに地名だけは知られていた。
ここに、近江源氏の一流と称する朽木氏が城館を構え、ふるくから家系を伝えてきている。
(ここまでは時代の波は押し寄せぬらしい)
と思いながら、光秀は、安曇川の渓谷の光を北へさして踏みわけてゆく。すでに満山の落葉樹は冬の姿態になりはてているが、秋に来れば華麗な紅葉がみられるのであろう。
(まるで桃源郷だな)
と、光秀はおもう。この山間に居ればこそ朽木氏は世の興亡の波にあらわれずに所領を全《まっと》うしてきたのであろう。
余談だが、この朽木氏。
光秀の実感どおり、この後も戦国の風雲のなかを生きつづけ、徳川時代には本家は諸侯に列せられ、その分家も数軒、旗本になり、六千石の旗本寄合席《よりあいせき》を筆頭に明治に至っている。
足利将軍は、京で乱がおこって追われるたびに朽木谷に走った、といっていい。光秀の生まれた年の享禄《きょうろく》元年には将軍義晴《よしはる》が、さらに道三が稲葉山城を造営した天文八年には将軍義晴・義藤(のちに義輝)の父子が流寓し、いまは十三代将軍義輝が、わずかな近臣をつれて朽木氏の居館に身を寄せている。
朽木氏の当主は稙綱《たねつな》という老人で、いかに落魄《らくはく》したとはいえ日本の武家の頭領である将軍を自分の手で保護するという栄誉に感激し、城内に小さいながらも公方館《くぼうのやかた》をつくり、そこに義輝将軍を住まわせていた。
光秀は、朽木谷に入った。
ここは「市場」という聚落《しゅうらく》で、山中ながらも、炊煙があちこちに立ちのぼり、朽木谷の首邑《しゅゆう》をなしているらしい。
すでに日暮に近くなっている。
一軒の農家に入り、銭《ぜに》をとらせ、
「これは旅の者であるが、今夜、一夜の宿は借れぬか」
というと、人情のあつい土地らしく、手をとるようにしてなかへ入れ、家のあるじは、炉端の首座を光秀のためにゆずってくれた。
「どこから渡《わ》せられました」
「美濃だよ」
光秀はだいぶ旅なれてきて、微笑を絶やさない。旅をする者には不愛想は禁物で、無用の疑いをうけるからである。
それに娯楽のすくない山村では、諸国の噺《はなし》がもっともよろこばれることも知っていて、光秀は美濃のはなしや京のはなしなどをした。
やがて、炉に猪汁《ししじる》の鍋《なべ》がかかった。
「朽木殿の御館《おやかた》に、くぼうさまが身を寄せておられるそうだな」
「お気の毒なことで」
と、家のあるじは、将軍の日常などをこまかく話した。ご家来といえばわずか五人いらっしゃるだけであるという。
「五人か」
光秀は、凝然と宙に眼をすえた。その眼にみるみる涙があふれた。
多感な男である。
「日本の総国主であり、征《せい》夷《い》大将軍《たいしょうぐん》である将軍が、住まわれる屋敷もなく流《る》浪《ろう》なされておるばかりか、従う者はわずか五人とは」
「ご時勢でござりまするな」
宿のあるじも、光秀の涙にさそわれてついつい鼻をつまらせた。
「朽木殿の御館とは、どこにある」
「ほんのそこの藪《やぶ》のむこうでござりまする」
「近いのか」
はい、とあるじは答えた。
「武士と生まれた以上は、一度はくぼう様に拝謁《はいえつ》したいものだ」
「さあ、それは」
さすが人の好いあるじも言い淀《よど》んで光秀の風体《ふうてい》をじろじろみた。将軍といえば、人というよりも神に近い。いかに落魄《らくはく》しているとはいえ大名でなければ謁見なさらぬものを、美濃から流れてきた素牢人風《ふ》情《ぜい》では、その御《み》影《えい》などはとてものこと、おがめたものではないのだ。
「いやこれは、よしなき痴語《たわごと》を申した。わすれてくれい」
「あなた様はよいお人でござりまするな」
と、家のあるじは光秀の顔をじっと見た。この当節、諸国の武士は京に将軍あることなどもわすれて互いに攻伐しあっている。それを物好きにも朽木谷にやってきて、将軍の不幸な御境涯に涙をながしている、などはよほどの善人でなければこうはいかぬであろうと、家のあるじは思ったのである。
宿の家族は一様にそう思ったらしい。
光秀の横にすわって、酒を注《つ》いだり、汁《しる》のおかわりをしてくれたりしている娘も、光秀のそういう人柄《ひとがら》には打たれたようだった。
「お酒を沢山《たんと》おあがりくださりませ」
と、鄙《ひな》びた言いかたで寄り添ってきては、徳利をかたむけてくれる。
光秀は謹直な男である。
こういう賤《しず》が家《や》の炉端にすわっていても、まるで貴人の館に伺《し》候《こう》しているようになり姿《・・・》を崩さない。酒を注がれるたびに、
「かたじけない」
と、会釈《えしゃく》して受けている。その挙《きょ》措《そ》、声《こわ》音《ね》が娘の心に滲《し》み入って、からだのなかにただごとでない音律をかなでさせはじめていた。
娘は、志乃《しの》といった。
この里の、いやこの里だけでなく、どの土地のどの里にもある風習《ならい》のとおり、今夜はこの旅人のために一夜の伽《とぎ》をすることになっている。
その刻限がきた。
光秀は、炉の間の北側の部屋を寝所にあてがわれていたが、やがて板戸がひらき、手燭《てしょく》をもった志乃が入ってきた。
「志乃どのか」
光秀は、ふしど《・・・》のなかで動く光を見た。志乃はだまってひざまずいた。やがて、
「御伽をさせていただきまする」
と、いったが、光秀は、答えなかった。
この男はこういう点でも謹直で、旅をかさねていてこういう好意をうけることがあっても、つねに婉曲《えんきょく》にこばんでいる。が、今夜はややちがっていた。無性に女が欲しい。というより、この朽木谷の土を踏んでいよいよ高まってきた流亡の将軍への詩的情感が、ふしどに入っても体を火照《ほて》らせ、心が濡《ぬ》れ、眼が冴《さ》えきってしまっている。なにやら孤独《ひとり》でふしどの冷たさのなかに息をひそめているには堪《た》えきれなくなっていた。
「これへ、参られよ」
よく透る、静かな声で光秀はいった。娘はその横に身をさし入れてきた。
「足が、冷とうございましょう?」
娘は、気の毒そうにいった。
「温めて進ぜよう。わしの体は、冬でも肌《はだ》着《き》ひとえ《・・・》でおれるほどにあつい」
「お姿に似気《にげ》もござりませぬな」
「印象《そとみ》は、冷たいか」
「はじめはそのように。――しかし炉端でお話をうかがうにつれて善《よ》い兄様のように思えて参りました」
娘は、股《もも》をつと《・・》すぼめた。
光秀の手が、そこへ行ったのである。
「物語などしてくりゃれ」
「明智様こそ聞かせくださりませ」
「閨《ねや》では男はだまるものだ。目をとじておなごが奏《かな》でるさまざまな妙音を聴くのが楽しい」
問われるままに、娘は里の話などした。
「おそろしい話もございます」
「どのような」
「物怪《もののけ》」
と、志乃はいった。
「出るんです、村の明神さまのお社に、見た者が何人もいるのです」
旅をしているとよく聞く話である。まじめに聞いていれば一つの里にいっぴきずつは物怪がいて、諸国あわせれば何百万びきという物怪が、天下の夜を横行していることになるだろう。
「どういう物怪かね」
「侍の姿をした猫《ねこ》の妖《ばけもの》だと申します。毎夜社頭にあらわれては油をなめるのです」
「油を、かね」
怪物譚《かいぶつたん》としても、独創性がない。光秀は笑いだして、
「その種のはなしはすべて嘘《うそ》だ」
と言い、はなしにも倦《あ》きたのか、あとは沈黙して娘の体をさぐりはじめた。
その所作が、娘を沈黙させた。娘の口が沈黙するとともに、その体が濡れはじめた。
「志乃」
と、光秀は抱きよせた。
「あらためていうようだが、わしは美濃明智の里の住人で明智十兵衛光秀という。美濃ではついことしの九月までは小さいながらも一城のぬしで、この家は、一族郎党をあわせれば七百人ばかりの人数を掻《か》きあつめることができる程度の家だ。いまはない。牢人にすぎぬ。しかし他日、どこかでこの名を聞くことがあろう」
「………?」
「血すじはいい」
光秀はつづけた。
「土岐源氏の流れを汲《く》んでいる。家紋は桔梗《ききょう》」
「…………」
すでに体を開かされている志乃は、なぜこの期《ご》におよんで武者が合戦で名乗りをあげるような名乗りを、この男は言うのだろうかと不審に思った。
「覚えていてもらいたい」
「はい」
「他日、万一、子供がうまれたときに、わしをたずねてくることだ。忘れずに」
と、光秀はいった。娘はようやく名乗りの意味がわかった。なんと周到な男であろう。子供がうまれるかもしれぬということを想定し、そのときは父としての責めを負うことを言明したうえで、体のつながりに入ろうというのである。思慮が周到な、というより性格がよほど律《りち》義《ぎ》なのかもしれない。
「志乃、罷《まか》るぞ」
と、そう光秀は言い、志乃は暗闇《くらやみ》でかすかにうなずいた。念の入った男だ、と志乃がおもったのは、後年、志乃も女として成熟してからのことである。とにかく、志乃にとって光秀は、一見行儀のよい公達風《きんだちふう》の男であったが、よくよく思えば、どことなく風変りな男であった。
夜明けに志乃が眼をさますと、光秀はまた志乃を抱いた。おとなしくみえていて、よほどの情炎をもっている男なのであろう。
その翌日、光秀は発《た》とうともせず、
「この里が気に入ったゆえ、しばらく逗留《とうりゅう》させてくれぬか」
と、銀を樫《かし》の葉ほどの大きさに打ち伸ばしたものを、家のあるじに渡した。
家人たちも、光秀が滞留することにいなや《・・・》はない。
その夕刻ふと、
「志乃殿、昨夜のはなし。物怪のことだが、あれは明神の社だと申したな」
と念を押した。
光秀は左様な現象を信じてはいないが、その正体をあばいて評判をとることによって、朽木館に近づくなにかの足しにはならぬか、とおもったのである。
「今夜、出かけてみる」
森の怪異
光秀は、明神の石段をのぼった。
森の梢《こずえ》にキラリと片鎌月《かたかまづき》がかかっている。
(はて)
と、光秀は石段の途中で身をかがめた。たいした理由もない。わらじのひもがゆるんだのである。
ごう、とその背を風が吹きすぎた。そのつど樹々《きぎ》の枯葉が夜空にまきあげられ、それがふたたび森にたたきつけられるときは、まるで大粒の雨でもふりはじめたかと思われるような音をたてた。
(ご苦労なことだ)
この夜ふけに無人の森のなかに入ってゆく自分が、である。
(運よく妖怪《ようかい》がおってくれればよいが)
光秀は再び石段をのぼりはじめた。妖怪を見つけ、その正体をあばくか、退治することによって、光秀はこの朽木谷の館《やかた》にいる流亡の足利将軍に接近することができる、いや接近できずとも、その機会をつかむことができる、と思っていた。
(素牢人には、そういうてだて《・・・》しかない)
ともかくも若い間は行動することだ。めったやたらと行動しているうちに機会というものはつかめる――と、亡《な》き道三は光秀に語ったことがある。光秀はその教訓を信じたればこそこの朽木谷へきた。ここには将軍がいる。それに近づくがために妖怪退治という奇妙な行動を開始した。
(将軍の日常には話題がすくないにちがいない。旅の牢人が妖怪を退治した――ということになればきっと明智十兵衛光秀という名がお耳にとどくにちがいない)
(妖怪よ、出よかし)と、光秀は、石段を踏んでゆく。妖怪といえども、光秀の人生を決定する得がたき機縁にならぬともかぎらぬ。
社頭に入った。
一穂《いっすい》の神燈が、社殿から洩《も》れている。
光秀は苔《こけ》を踏んで社前にちかづき、しばらく剣を撫《ぶ》しつつあたりの気配をうかがっていたが、やがて、
(出そうには、ないな)
と、剣《けん》 《ぱ》から手をはなし、つかつかと社殿に進み、ぬれ縁にとびあがって格《こう》子戸《しど》をあけた。
灯が、ゆらめいている。
(今夜は、ここで寝るか)
何様が祀《まつ》られているかは知らぬが、光秀は祭壇の背後にまわり、むしろを敷いて横になった。
うとうととまどろむうちに夜があけた。
朝、志乃の家にもどった。
「いかがでございました」
と志乃は、この物好きな牢人に結果をきいた。出ぬさ、と光秀はやさしい微笑をうかべて、
「あれは毎晩出るのか」
「ほとんど毎晩だと申しますけど。そりゃあ、御神燈の油をなめにくるのでございますから、あの者にしても一日も欠かせられぬはずではありませぬか」
「なぜだ」
「お腹がすくではありませぬか」
光秀は笑った。志乃は、体は大人でも心はまだ子供であるようだ。
「そりゃ、妖怪でも腹がへるだろうな」
「だと思いますけど」
志乃は、まじめにうなずいた。
「今夜も出かけてみる」
「えっ」
志乃はうらめしそうな顔をした。今夜も自分と寝てはくれぬのか、と言いたいのであろう。
「そんなに物怪《もののけ》がお好きでございますか」
「いまは好きだな」
「なぜでございます」
「おれは国を追われた天涯《てんがい》の孤客だ。世間を踏みはずしたこのような素牢人を相手にしてくれるのは妖怪だけかもしれぬ」
「志乃もおりまするのに」
「なるほど」
あごの下に、ちょっと掌をあててやった。
「まことに志乃も、おれを厭《いと》わずに相手にしてくれる。しかし男は夜だけでは生きられぬ」
その夜も、光秀は社殿に入った。
(今夜は寝入らぬぞ)
と思って祭壇の背後ですわった。やがて、初更《しょこう》の鐘がきこえてきて、それが鳴りおわったころ、カサコソと落葉を踏む音がきこえた。
(きたか)
と、息をこらし、剣を抱きよせた。
ぎいっ、と格子戸が持ちあげられ、どん、と踏みこむ足音がした。やがてそのもの《・・・・》はあらあらしく入ってきた。
(思ったより大きい)
物音、気配、気づかいの柄《がら》がよほど大きいのである。カチカチと物音がするのは、油皿《あぶらざら》に手を触れているのであろう。
やがて、蔀《しとみ》の格子戸がばたりと落ちて、妖怪は社殿を出たようであった。
光秀はすばやく祭壇の前に出、格子ごしに去ってゆく妖怪を見すかした。
妖怪の背を見た。
その背は、侍の風をしていた。ずいぶんの大兵《だいひょう》である。
「待った」
と光秀は叫んだ。
侍は、ぎょっ、とふりむいた。
「そこを動くな」
光秀は言いつつ、格子戸をはねあげ、そとへとびだした。
「夜な夜な社殿にて油を舐《な》めるという妖怪はそのほうか」
「そちは何者である」
と妖怪らしい者が言い、油皿を用心ぶかく地上に置き、スラリと剣をぬいた。
光秀も縁の上で剣をぬき、トンと地上にとびおりた。
斬《き》るつもりであった。
光秀は、度胸がある。剣尖《けんさき》を天にあげ、八《はっ》双《そう》にかまえつつジリジリと進み、やがて跳躍し、
びゅっ
と、相手の首すじをめがけて振った。その太刀行きのすさまじさ、ただ者ならそのまま首を天空に刎《は》ねとばされていたであろう。
が、妖怪はかわしもせずそれを剣で受けとめた。戞《かつ》と火花が飛んだ。
鍔《つば》ぜりあいになっている。相手はよほど膂《りょ》力《りょく》に自信があるのか、そのまま退《ひ》きもせず、刀をもって光秀の刀を押し、そのまま押し斬ろうという勢いをみせた。
相手はのしかかろうとした。上背はあり、膂力はあり、あきらかに光秀の不利であった。光秀は退こうとした。が、相手の刀に圧せられて身動きもできない。
法は一つある。
相手の手元を、左斜めに押しあげてみることだ。光秀はそれをした。相手は不覚にも――おそらく兵法《ひょうほう》では光秀に劣るのであろう――それに応じて右斜めに強く押しかえしてきた。光秀にとって思う壺《つぼ》といっていい。光秀はその相手の力を利用しつつ利用しざま、自分の体を左に躱《かわ》し、躱しつつぱっと離れて左斜めから相手の面を短切《たんせつ》に襲った。
相手も、ぬかりはない。剣を立ててそれを受けたが、光秀をば逃がしている。
光秀は、六尺の間合いのそとへ脱した。そこで正眼《せいがん》に太刀を構えた。
と同時に、
(待てよ)
と、自分に問いかけた。鍔競合《つばぜりあ》いのときちらりと見た相手の容貌《ようぼう》が、ひどく人間臭く思えたのである。
「おぬしは、人間か」
と、光秀にしては間のぬけた問いを発してしまった。
「人間だ」
相手は落ちついて、その愚問に答えた。人間とすればよほど出来た男であろう。
「里には妖怪のうわさが立っている」
と、光秀はいそいで言った。
「妖怪は、神前で油をなめるという。思いあわせてみれば最前おぬしは」
「左様、油を盗んだ」
武士は、答えた。
「なぜ盗む」
光秀はさらに問いかけたが、語気ががらりと変わって弱い。すでに自分の愚行に気づいた声である。
相手にもそれがわかったのであろう。剣尖をしずしずと下におろした。
光秀も機敏にそれを察し、自分から刀を鞘《さや》におさめ、
「申しわけなかった」
と、かるく頭をさげた。そのときは相手も刀をおさめている。
「いや、わかった」
と相手は光秀から事情をきいて、淡泊に諒《りょう》解《かい》してくれた。
こうなれば過失をおかした側の光秀から名乗らざるをえない。
美濃の名家の出だけに、それを相手にわからせるために荘重な名乗りをおこなおうとした。そこは天涯の素牢人である。自分の存在を誇示するのは彼の場合、家系だけであった。
明智氏はむろん土岐氏の支族である。上は清和天皇より出ている。源頼光《よりみつ》からかぞえて十世の孫土岐頼基の子彦九郎という者が美濃明智郷に住んではじめて明智姓を名乗った。その彦九郎からかぞえて四代目が光秀であった。
ところが光秀が、
「美濃明智郷の住人にて明智十兵衛光秀」
といっただけで、
「ああ、土岐の明智か」
相手は、うなずいた。明智氏がどんな家系であるかをよく知っているのである。
「このたびは道三殿が没落して気の毒であったな」
とまで、この男はいった。諸国の武家の家系や盛衰に通じているとは、いったい何者であろう。
「されば貴殿は?」
「将軍のおそばに仕えている者で、細川兵部《ひょうぶ》大輔《だゆう》藤孝《ふじたか》という者だ」
「これは左様なお方とは存ぜず、ご無礼つかまつった」
(よい者に出会った)
と、光秀は思った。
「しかし、なぜ将軍御側近ともあろうお方がかかる田舎社の油などをお盗みあそばす」
「夜分、燈火の料《しろ》乏しゅうてな」
と、細川藤孝は若々しい声で笑った。
「盗んでいる。それにて書物を読み、後日なすところあらば、神明もゆるしたまわるであろうが」
「いかにも」
よほどの読書家らしい。
二人は、石段をくだりはじめた。
聞けば、細川藤孝は昼間は将軍のお側用《そばよう》でいそがしく読書もできないため、将軍が寝《しん》につかれてから書見するのだという。
「夜の書見は金が要る」
細川藤孝は屈託なげに笑った。その費用がないため明神の燈油をぬすむのだというのである。
(将軍は想像以上の窮迫ぶりらしい)
この一事でもわかることであった。将軍をかくまっている朽木家も、さほど力のある豪族でもないため、潤沢《じゅんたく》な生活費も出していないのであろう。
光秀は多感な男だ。
もうそれだけで涙ぐみ、
「申すも畏《おそ》れ多きことでござるな」
といった。
「それがし、将軍家が朽木谷に難を避けておられるときき、そのお館を遠《とお》見《み》ながらも拝みたいと思って参ったのでござるが、そこまで御窮迫なされているとは思いませなんだ」
「なげかわしいことだ」
細川藤孝はいった。
「まことに」
光秀はうなずいた。
「征夷大将軍と申せば、われわれ日本の武士の御頭領《おんとうりょう》におわします。その御頭領がかほどまでの御窮状におわすこと、聞くだに胸のふさがる思いがいたしまする」
「乱世なのだ」
「その世の乱れを、なんとかおさめて将軍家の御栄《おんさか》えを昔日にもどし、下《しも》万民が鼓《こ》腹撃壌《ふくげきじょう》できる太平の世を将来したいものでありまするな」
「めずらしいことをきくものだ」
細川藤孝は、真実驚いたらしい。光秀の顔をのぞきこむようにして三嘆した。この戦国の世で、こうも烈々と将軍家の復興をこいねがっている者が居ようとは思わなかったのである。
それにただの田舎武士ではなく、よほどの教養があるらしいことが、言葉のはしばしで察せられる。
(ただ者ではない)
と、細川藤孝はおもった。
山を降りて往還に出たとき、
「なにやら、同志を得たような気がする」
と、細川藤孝は言い、
「どうであろう、あす、わしがもとに訪ねてきて賜《たまわ》らぬか。よもやまの物語など聞かせていただきたい」
「いや、それはこちらこそ望むところ、ぜひ参上つかまつりまする」
と約して別れた。
志乃の家まで帰る途上、光秀は大げさにいえば天にものぼる気持であった。
(とんだ妖怪退治になった)
と思い、さらにはこの二人の結びつきがそもそも油であったことに思い至り、
(ふしぎな縁であるな。道三殿もはじめは油商奈良屋に婿《むこ》入《い》りして山崎屋を興し、その油を売りつつ美濃へ来られたという。義理の叔父甥《おい》の仲とはいえ、おなじ油がとりもつ縁でなにやら妙なことになったわい)
ただ道三とは野望の方向がちがっている。道三は古びてどうにもならなかった足利的秩序をこわそうとし、事実美濃で実力によるあたらしい国家を築きあげたが、光秀はこれとは逆に衰弱して見るかげもない足利幕府をこの乱世のなかで再興しようというのである。
宿の戸をたたくと、志乃があけてくれた。光秀の意外に早かった帰りをいぶかしみ、
「どうなさいました」
ときくや、いやさ出るか出ぬかわかりもせぬ妖怪などを待っていては寒さで凍《こご》え死ぬわいと思い直し、あきらめて帰ってきたよ――と笑いながらいった。
ひどく上機嫌《じょうきげん》である。
(おかしなひと)
と志乃には、男というものがまだふしぎな生きものとしかみえない。
光秀は志乃に湯をわかしてもらい手足を洗って、寝所に入った。
ほどなく志乃が入ってきて、臥《ふし》床《ど》のはしをめくり身を差し入れてきた。
「足が、冷とうございましょう?」
と、先夜とおなじことをいった。なるほど志乃の足はつめたい。光秀は先夜とはちがいひどく気さくに、
「わしが温めて進ぜよう」
と、その足を自分の足ではさんでやった。べつに卑《ひ》猥《わい》な情でそうしたのではなく、光秀という男は、そういう優しみがある。
「将軍《くぼう》様の側近衆のなかで、細川兵部大輔藤孝という仁を存じておるか」
と、光秀は、志乃を抱くよりもむしろそのことで頭がいっぱいであった。
「若いお人?」
「そう、若い。大柄《おおがら》だな」
ああ、と、志乃には思いあたったらしい。
大層な歌人で学者で、しかも大力無双の人物だという。
「ある日」
と、志乃は小さな事件を話した。ある日、将軍が五人の近習とともに山歩きをなされ、その帰路、牛が路上に寝そべっていた。近習が牛を立たせようとしてさまざまに操ったがどうしたことか牛が動かない。
「それをあの殿が」
牛の左右の角をつかみ、ずるずると腹《はら》這《ば》わせたままひきずって田のふちまで移し、そのあとぱんぱんと袴《ほこり》のちりをはらって息切れもしていなかったという。
「面白《おもしろ》いな」
と、光秀がいったのは、大力に感心したわけではない。牛を腹這いのまま引きずるといういわばはしたない、奇矯《ききょう》な、おっちょこちょいとでもいうべき行動を人前でやるあの男の精神がおもしろいと思ったのである。そういう精神がなければ、細川藤孝はただの学問好きな武士というだけで、光秀にとって語るに足りない男であった。
(生涯つきあってもよさそうな男だな)
と、光秀は、昂奮《こうふん》しきった気持のなかで、それを思った。
細川藤孝。
のち、幽斎《ゆうさい》と号し、その子忠興《ただおき》とともに、江戸時代肥後《ひご》熊本《くまもと》で五十四万石を食《は》む細川家を興すにいたる。その忠興の妻が光秀の娘で、洗礼名ガラシャと言い、のちに別の事件で世に知られるにいたるのだが、いまの光秀にはこのときの因縁が遠い将来《さき》にどう発展するかまでは、むろんわからない。
桶狭《おけはざ》間《ま》
光秀が諸国を放浪しているあいだ、信長は尾張清《きよ》洲《す》にいる。
痴者《こけ》の一念に似た、ちょっと類のない勤勉さで国内の諸豪族を相手の小競《こぜ》りあいに没頭していた。
そういうこの若者を濃姫《のうひめ》などは、
(このひとは天才であるかどうかはわからないが、とほうもない働き者であることだけはたしかだ)
とおもうようになっていた。しかしかれが口癖のようにいう、
「美濃に侵攻して蝮《まむし》の仇《かたき》をうつ」
という一事だけはまだ夢の段階であるようだった。なにしろ美濃は兵強く将すぐれ、しかも濃姫の義兄であり同時に親の仇でもある斎藤義竜を頂点とする国内統一はみごとにとれていて、とても尾張から這《は》い出して稲葉山城を攻める実力は信長になかった。
信長のこのころの版《はん》図《と》は、
「尾張半国」
と通称されていたが、厳密には半国はもっていない。五分の二であろう。豊臣《とよとみ》期の石高計算でゆくと、尾張の総高四十三、四万石のうちの十六、七万石を占めているにすぎない。兵力でいえば、四千人程度であった。弱小といっていい。
当然なことながら、蝮の復仇戦《ふっきゅうせん》など、当分、諦《あきら》めざるをえなかった。
ところが美濃攻めどころか、織田家にとって戦慄《せんりつ》すべき脅威が、東からきた。
駿《すん》府《ぷ》(静岡市)の今川義元が動きはじめたのである。巨竜が眠りから醒《さ》めて活動を開始した、という印象であった。
今川義元は、駿府を都城とし、駿・遠・参《さん》の三国を版図にもち、総高百万石という大勢力で、その兵力は二万五千とみていい。
義元は、四十二である。
もともと今川家は、足利尊氏《たかうじ》創業のころからの大名で、将軍につぐ名族であった。出来《でき》星《ぼし》大名の織田家などとはちがい、東海筋の士民から受けている尊敬というのはくらべようもないほどに深い。
――もし京の将軍家の血統が絶えた場合、吉良《きら》家がこれを相続し、吉良家に適当な男子がいない場合は、駿府の今川家が継ぐ。
という足利隆盛の伝説を、海道の士民たちはなおも信じていた。
名家であると同時に、ぼう大な領土と軍事力を擁している。おそらく、この時期における天下最大最強の大名の一つであろう。
自然、駿府は小京都といっていい。
この城下には、京から多くの公卿《くげ》が流寓《りゅうぐう》してきている。義元自身も、その母は中《なか》御《み》門宣《かどのぶ》胤《たね》の娘で、かつ義元の妹は山科《やましな》家《け》に嫁《か》した。山科家をもふくめてこの時代のかれら宮廷人は京では食えないため、大挙して駿府に来、今川家の庇護《ひご》のもとで暮らしている。
義元は、その小京都の主宰者である。この城下で町人のあいだにさえ流行しているものといえば、囲碁であった。信長などはその打ち方も知らない遊戯であった。
そのうえ、和歌、蹴《け》鞠《まり》、楊弓《ようきゅう》、闘香といった会が駿府城内でさかんに催され、酒宴のごときはほとんど毎日のように行なわれていた。
義元は、凡庸な男ではない。
教養もあり、気宇もなみはずれて大きいところがあり、駿・遠・参の大領主としては十分な資質をもっていたが、ただ京風のこのみを持ちすぎていた。
公卿の姿形《なりかたち》をよろこび、武家でありながら月代《さかやき》を剃《そ》らず公卿まげを結い、眉《まゆ》を剃って天《てん》上眉《じょうまゆ》を置き、歯は鉄漿《かね》で染め、しかも薄化粧をしている。
前述のとおり、四十二になった。
「歌舞音曲にも飽きたわ」
とおもったのであろう。齢《とし》がそういう時期だけに権勢がほしくなった。
「京へ旗をすすめて天子将軍を擁し、天下の政治《しおき》をしたい」
といいだしたのである。あってなき存在になっている天子、将軍の勢威を再興し、みずから執権となろうとした。かれを取りまいている流寓の公卿人《びと》や文人墨客が、
「京都を再興してくだされ」
とすすめたのであろう。かれらもいつまでも田舎ぐらしでいるよりも京で暮らしたい。それには義元をおだてて天下を統一させるのがもっとも近道だった。
「わしの実力なら容易なことだ」
と、義元はおもった。事実そうであろう。かれはこの権勢遊びというかれの年齢にふさわしい遊戯に熱中しはじめ、その計画を断《だん》乎《こ》とした決意のもとに発表したのは、永禄《えいろく》三年五月一日であった。
新暦でいえば六月四日である。すでに海道の天は猛暑の季節に入ろうとしている。
信長の領土は、その沿道にある。たれがみても十倍近い兵力をもつ今川軍に踏みつぶされてゆくであろう。
――駿府の今川義元がいよいよ武力上洛《じょうらく》を開始するらしい。
ということを信長がきいたとき、かれはさほど驚かなかった。かれが持つ材料はすべて悲観的なものばかりだったが、ただ一つ、かれを恐怖から救っている自信がある。
――亡父《おでい》が、義元に勝っている。
という先代信秀の頃《ころ》の記録だった。天文十一年、信長がまだ九つのとき、信秀は三河《みかわ》の小豆《あずき》坂《ざか》で今川義元の大軍と戦ってみごとに撃退しているのである。この記録がなければ多分に恐怖感覚の薄いこの若者でも、おそらく意気を喪《うしな》ったにちがいない。
「勝てますか」
と濃姫がたずねたとき、
「わからん。ただ亡父は勝っている」
と、信長はみじかくいった。
が、おでい《・・・》のときとは情勢がちがう。織田信秀は尾張で武威を張り、その活動力と戦さの仕ぶりは定評があり、自然それが人気になって尾張の国中でも織田家に加担する豪族が多く、多少は今川と太刀打ちできるほどの兵力をもっていた。
しかしいまはそうではない。
「たわけ《・・・》殿」
の不人気がかれを患《わざわ》いしている。
「あんな男を旗頭に戴《いただ》いては家がつぶれる」
と思うのが人情であろう。このため尾張一国のなかでの非織田色の豪族はことごとくといっていいほど今川方に通じてしまっていた。これを今川義元の側からいえば、義元が駿府から足をあげる前に、すでにその前線は尾張にあるといっていい。
永禄三年五月十二日、義元は兵力二万五千をひきいて駿府を発した。その先鋒《せんぽう》や捜索隊は、
十五日には池鯉鮒《ちりふ》で出没
十六日には岡崎に本隊到着
十七日には鳴《なる》海《み》に出没
十八日には沓掛《くつかけ》に本隊到着
この尾張沓掛の西方に、織田家の最前線の砦《とりで》である丸根砦と鷲《わし》津《づ》砦がある。明十九日は最初の接触をするであろう。
義元はこの沓掛で軍の行進をとどめ、軍を部署して、明十九日の攻撃準備をおこなった。
「織田の砦と申しても、蝿《はえ》のようなものだ」
と義元はその程度にしかみていなかった。
義元は、軍を四つにわけた。二つの砦を無視して織田の本拠清洲城へ直進する部隊は五千で、これが信長の直接の脅威になるであろう。義元の本軍五千はこれにつづく。二つの砦にはそれぞれ兵二千余をさしむける。そのうちの丸根砦攻撃部隊二千五百の司令官が、まだ松平元康《もとやす》といったころの年若な徳川家康だった。ほかに予備隊三千、それに今川軍の前線要塞《ようさい》である鳴海城、沓掛城にそれぞれ十分な守備を置いている。この作戦部署や兵数をみれば、どれほどの戦術家がみても今川軍の勝利をうたがわないであろう。
――今川方が、沓掛まできて軍をとどめ、攻撃準備をととのえつつある。あす早朝から総攻撃をはじめるであろう。
との物見の情報が清洲の信長のもとに入ったのは、この日の夜であった。
「来たかえ」
信長はその情報を、濃姫の部屋できいた。
まだ、平装のままである。
「すぐ重臣《おとな》どもをあつめろ」
と命じ、部屋を出ようとした。濃姫はすわりなおし、ちょっと頭を下げつつその姿を見送った。信長の腰つきはどの若者よりもしなやかで機敏そうだったが、しかし勝算はあるのか。そういう智謀というものが、これほど信長を理解しているつもりの彼女でさえ、あるのかないのか疑わしかった。
(どうなさるのかしら)
と、この道三の女《むすめ》はおもっている。
信長は、表座敷に出た。重臣《おとな》たちがすでに集まっていて、薄暗い燭台《しょくだい》のあかりのなかで顔を群れさせていた。
信長は上段にすわった。
「存念を申せ」
と、一声叫んだ。
申さいでか、という表情で老臣の林通勝《みちかつ》が進み出、しわがれた声で意見をのべた。
籠城《ろうじょう》論である。
常識といっていい。敵が沿道で言いふらしている兵数は四万(実数二万五千)である。これにひきかえ、味方は前線の丸根・鷲津の両砦に兵を割《さ》いているため三千に満たない。
「野において敵と戦うのはもとより不利でござる。よろしくこの清洲城に籠《こも》って敵の進撃を阻《はば》むべきかと存じまする」
信長は、そっぽをむいてだまっている。
他の重臣には意見がなかった。林案をとるしか方法がないのではないか、というのが、大方の気持であるようだった。
信長は、尻《しり》を動かした。
食い物がはさまっているのか、シーッと歯を鳴らし、
「おれは反対だな」
といった。
「古来、城を恃《たの》んで戦った者にろくな末路がなく、ほとんどが破れている。籠城というのは士気がうすれ、怯気《きょうき》がおこり、志を変ずる者も出てくる。されば合戦は国内の城をたよるべからず、国境のそとに出てやれ、と亡父も申された」
事実、亡父信秀の遺訓である。
「死生は命《めい》だ。おれの心はすでに出る《・・》ということに決している、おれと志を一つにする者はおれとともに駈《か》けよ」
が、「されば出発する」とはこの男はいわない。諸将を部署することもしない。自分の決心を述べただけで軍議を解散し、それぞれ城内の屋敷にひきとらせ、自分ももう一度濃姫の部屋にひきとってごろりと横になった。
夜は更《ふ》けている。
(なにをなされているのかしら)
と、濃姫も不審だった。
この間、信長がやった行動といえば、ごろりとねころがって鼻と眼を天井にむけたことだけだった。思案している様子だった。
いや、思案というものではあるまい。もはや思案するようなどういう材料もなかった。信長は眼を見ひらいたまま、胸中、自分を納得させようとしていた。
(生きようと思うな)
ということをであった。信長の顔が、濃姫の側から見ると、ひどく奇妙な顔にみえた。なにか、白蝋《はくろう》でつくった仏像のように、白くすき透ってみえるのである。
(美しいお貌《かお》をなされている)
と濃姫は声をあげたくなるほどの実感でそれを見た。信長は全身の気根をただ死、という一点に凝集させようとしていた。若者の顔がこれほど荘厳にみえる瞬間というものがこの地上にあってよいものだろうか。濃姫は息を詰めてそれを見つづけている。天に属するもの《・・》を、天の許しもなく盗み見しているような、そんな空怖《そらおそ》ろしさが、濃姫の体を支配した。彼女は小刻みに体をふるわせつづけている。
やがて信長は、信長の顔にもどった。その次の間に濃姫がいたことにおどろいた様子で、
「お濃、用があれば起こせ」
と言い、力が尽きたような表情でまどろみはじめた。
午前二時ごろである。
「丸根砦に今川が攻めかかりました」
という報が城にとどき、人は走って信長のもとに報《し》らせた。
「来たか」
とこの若者ははね起きた。
飛ぶようにして廊下を駈けながら、
「陣触れ(出陣)の貝を吹かせよ」
と叫び、途中、廊下にうずくまっていたさ《・》い《・》という老女に、
「いまは何時《なんどき》ぞ」
ときいた。「夜中過ぎでござりまする」と老女はばく然とした表現で答えた。本来なら正確な数字をいわねば機《き》嫌《げん》のわるいこの若者が、この夜ばかりは、
「ふむ、夜中すぎか」
と、うなずきながら駈けた。もはや若者にとってどういう数字も意味をなさず用をなさなかったのであろう。兵数をあげればみじめなほどの兵数しかこの若者はもっていない。
「具足を出せえっ、馬に鞍《くら》を置かせよ、湯漬《ゆづ》けを持て」
と叫びながら駈け、表座敷にとびこんだ。
「小鼓《こづつみ》を打て」
と、信長は命じ、座敷の中央にするすると進み出るや、東向きになり、ハラリと銀扇をひらいた。
例の得意の謡《うたい》と舞がはじまったのである。たれにみせるためでもない。すでに死を決したこの若者が、いま死にむかって突撃しようとする自分の全身の躍動を、こういうかたちで表現したかったのであろう。
信長は、かつ謡い、かつ舞った。
人間五十年、化《け》転《てん》のうちに較《くら》ぶれば、夢まぼろしのごとくなり、一度生《ひとたびしょう》を稟《う》け、滅せぬもののあるべしや。
三たび舞い、それを舞いおさめると、小姓たちが六《ろく》具《ぐ》をとって信長の体にとびつき、甲《かっ》冑《ちゅう》を着せはじめた。やがて着けおわった。
信長、上段へ進む。そこに軍用の床几《しょうぎ》がおかれている。それへすわった。
三方《さんぼう》が運ばれてきた。その上に、出陣の縁起物の昆《こん》布《ぶ》、勝栗《かちぐり》が載せられている。信長はそれをつかむなり、ぱくりと口にほうりこんだ。そのときにはもう駈け出していた。
「つづけえっ」
と叫ぶなり、玄関を出、馬にとびのり、戞《かつ》々《かつ》と駈け出した。あとに従う者は小姓の七、八騎しかない。
城内を駈けぬけ大手口に出たときに、そこで柴《しば》田《た》権六《ごんろく》勝家、森三左衛門可成《よしなり》その他が百人ほどの人数で信長を待っていた。
「権六、三左衛門、早し早し」
と信長はほめながら彼等の群れを駈けぬけた。かれらはおくれじと駈けた。
道は暗い。
松明《たいまつ》の火が尾を曳《ひ》き、熱《あつ》田《た》への街道を駈けてゆく。沿道の町家は駈けすぎてゆく一団の足音のとどろきが何を意味するものであるかはむろん知らない。
この若者は、市政というものにさほどの関心を示さなかったが、「信長ノ威ハ言語ニ及バズシテ妙アリ」と国の内外でいわれていた。法に背く者に対して秋毫《しゅうごう》もゆるさないというこの男の性格が、家中、領民のはしばしにまで知られており、他国からの旅人は信長の分《ぶん》国《こく》に入ってくると荷物をおろして道端で熟睡しても盗まれるおそれがなく、商家農家も夜も戸を鎖《とざ》さずに眠ることができた。乱世のなかで稀有《けう》な治安の状態といっていい。
それに尾張は豊饒《ほうじょう》の地で、しかも近年尾張南部は海を埋めたてての水田開発がしきりとすすんでおり、民は他領にくらべれば生活がゆたかであった。自然、その面からの治安もよく、軍事力経済力の点でもめぐまれている。もっともそれらは信長の力ではなく、かれがたまたまうまれ落ちた尾張という国土そのものの自然力であった。そういう恵まれた国土の上を、いま懸命に走っている。
信長は例によって途中馬をとどめ、輪乗りをしながら追いついてくる自分の兵を待ち、待っては走った。信長の肩にいつのまにか大《おお》数珠《じゅず》がななめにかかっている。
夜はどこで明けたか、熱田大明神についたときは午前八時になっていた。そこで信長は大休止した。ほどなく蹄《ひづめ》の音がとどろき、二百人ほどが追いついてきた。待てばさらにふえるであろう。
一方、沓掛城で一泊した今川義元は夜明けとともに起き、ここではじめて甲冑をとりよせて着用した。
その軍装はかがやくばかりのもので、胸白《むなじろ》の鎧《よろい》の上に赤地錦《あかじにしき》の陣羽織をはおり、兜《かぶと》は黄金の八竜《はちりゅう》の前立《まえだて》を打った五枚錣《しころ》、腰には今川家重代の二尺八寸松倉郷の太刀に一尺八寸の大《だい》左《さ》文字《もじ》の脇差《わきざし》を帯びている。そのいでたちで金履輪《きんぷくりん》の鞍をおいた青の肥馬《ひば》にまたがり、沓掛城内を出ようとしたとき、不覚にも落馬した。
この人、極端に脚がみじかく胴が長い。少年のころその姿をみてひとが、
「はて。異な。――」
とうわさしたとさえいわれる。脚がみじかいため大馬ではまたがりにくく両脚で馬の胴を締めにくくもあり、そのために落馬したのであろう。
そのころ、熱田で休止している信長の手もとには、遅れ馳《ば》せの者がつぎつぎと集まってきて、ついに千人にのぼった。
風雨
織田軍の最前線陣地、といえばきこえはいいが、粗末なものだ。丸根砦《とりで》というのは、ここらあたりの古寺を改造したもので、塀《へい》には舟底板のようなものを打ちつけ、柵《さく》には生木を底浅く打ちこみ、砦のまわりにたった二間幅の堀を、それも一重にめぐらしただけのもので、富強な今川軍からみれば、
――これが尾張織田の関門か。
と笑いたくなったであろう。
その丸根砦の攻撃にむかった今川軍の支隊長が、十九歳の徳川家康(松平元康)であった。
二千五百人の大部隊がひたひたと丘陵地帯の街道をすすんで丸根砦の包囲を完了したのは十九日の陽が昇ろうとする刻限であった。この日、日ノ出は午前四時二十七分である。
丸根砦には、四百の人数しかいない。
「揉《も》みつぶすがよろしかろ」
と、家康の先鋒《せんぽう》たちは刀槍《とうそう》をきらめかせてわめき進んだが、たちまち城方の弓鉄砲のため堀ぎわで打ちたおされ、先鋒隊長の松平喜兵衛、筧《かけい》又蔵らが戦死した。包囲軍の崩れをみた砦の主将佐久間大学は、
「いまぞ。続けや」
と城門をひらいて突撃してきたため、徳川方の足軽が塵《ちり》のように蹴《け》ちらされ、将校《ものがしら》の高《こう》力《りき》新九郎、能《のう》見《み》庄左衛門が戦死した。
打撃をあたえたとみるや、砦方はさっとなかに入って城門をとざしてしまう。
「無理だ」
と、馬上で朱具足の家康はつぶやいた。この物事に慎重すぎるほどの人物は、その性格とは反対に、生涯《しょうがい》、野外決戦を得意とし、気長を要する城攻めを最大のにが手とした。このときも、かれにとっては愉快な戦闘ではなかったであろう。
「かえせ。遠巻きにせよ」
といって陣容をたてなおし、弓隊、鉄砲隊を進出させて射撃で敵の気勢を削《そ》ぎ、機会をみて突撃にうつろうとした。
その間、砦の守将佐久間大学はしばしば城門をひらいて突撃しようとしたが、そのつど射撃をくらって味方をうしない、ついに彼みずからも城門外で銃弾を受けて馬からさかさまに落ち、絶命した。砦方がその死体を城門内に運び入れようとしたとき、徳川方がすかさずそれに追尾し、城門になだれこみ、城内の者をほとんど皆殺しにして城を陥《おと》し、さらに陥落を敵味方に知らさしめるために火を放ってさかんな黒煙を天にあげた。
やや遅れて、丸根砦とともに織田軍の前線のおさえだった鷲津砦も、今川軍の支隊長朝《あさ》比奈《ひな》泰能二千の兵によって陥落した。
一方、清洲城を午前二時すぎにとびだした信長が、三里を駈《か》けて熱《あつ》田《た》明神に入り、ここで大休止をしたのは、最後の攻撃準備をととのえるためだった。
春敲門《しゅんこうもん》から入るや、
「熱田の者に申しきかせよ」
とどなった。
「よいか。子供の菖蒲幟《しょうぶのぼり》でもよいわ、ありあわせの染下地の木綿、白絹の端《は》物《もの》、なければ白い紙でもよいぞ。何にてもあれ、敵からみれば旗指物《はたざしもの》と見まがう白い物を、この熱田の高所の木《この》間《ま》々々に棹《さお》にて突き出し、おびただしくひるがえらしめよ」
これが信長が発した最初の軍令であった。
擬《ぎ》兵《へい》をつくるのである。今川軍から遠望すれば、
「信長の本隊は熱田の森にあり、容易に動かない」
と見えるであろう。信長はそれによって敵を油断させ、時をかせごうとした。
つぎに信長が熱田でやったことは、このおよそ神仏ぎらいな男が、家臣をひきいて神前に進み、戦勝祈願をしたことだった。
「殊勝なお心掛けじゃ」
と、あとで追いついてきた老臣たちは内心おどろいた。父の葬式のときでさえ、棺にむかって喚《おめ》きながら抹香《まっこう》を投げつけたこの風狂な若者が、どういう心境の変りであろう。
「運の末ともなれば神仏にすがる気持もおこり、遅まきながら、常人に立ちかえるものか。あわれなことよ」
そんなことをささやいている老臣もある。
信長は、祐筆《ゆうひつ》の武井夕庵《せきあん》をよんで、
「願文《がんもん》を書け」
と命じ、ほぼ口頭で大意をのべた。夕庵はたちどころに長文の漢文をつくりあげた。
やがて信長はひとり社殿に入り、扉《とびら》を締め、祈願をこらすふうであった。
ほどなく出てきて社殿の濡《ぬ》れ縁に立ち、
「ふしぎヤナ」
と叫んだ。
「おれが祈《き》祷《とう》をこめていると、ほの暗き社殿の奥のほう、神明坐《しんめいいま》すあたりに黒い気がうごき、鎧の金具の擦《す》れあう音が聞こえたわい。神明、わが祈りを聞召《きこしめ》したりと見たぞ」
(ほほう)
林通勝など老臣はまた驚いた。痴者《たわけ》がなにを言うやらと思ったが、あのたわけ《・・・》にしてかようなことを言うとすれば真実、神が甲冑《かっちゅう》を召して揺らぎ出《い》でられたのかもしれない、ともおもいなおしたりした。むしろそう思いたい。老臣たちも、
(勝ちたい)
と思う一念にかわりはない。敗《ま》ければ命も所領もうばわれ、一族は流《る》浪《ろう》せねばならぬであろう。
信長のこの一言が、沈みきっていた織田勢に多少とも希望を与えた。
「者ども」
と、信長はさらに叫んだ。
「人間、一度死ねば二度とは死なぬ。このたびは、おれに命をくれい。生きて熱田明神にもどれるとは思うな」
やがて信長は一千の軍勢をひきいて海蔵門を出た。
ここまでは古名将のふるまいにも似ていたが、海蔵門を出発して街道に入った信長の馬上の姿は、なんともいえず奇妙なもので、鞍の前《まえ》輪《わ》と後輪《しずわ》へ両手を掛け、体を横ざまにしてゆらゆらと揺られ、鼻さきに虻《あぶ》の羽音のような音をたてて心覚えの小《こ》謡《うた》をうたっている。
熱田の町の者はそれを見、
ヌルク馬鹿《ばか》々々しき体《てい》なり。アレにては
勝ち給ふ事は成るまじ。
と譏《そし》り笑った、と山澄本《やまずみぼん》の桶狭《おけはざ》間《ま》合戦記註《がっせんきちゅう》にはある。信長にすればそんなジダラクな乗り方のほうが楽だったのであろう。
熱田明神のほんのわずか南にある上《かみ》知我麻《ちかま》の祠《ほこら》から東方の三《み》河《かわ》の山野が遠望できた。
そのはるかなる遠景のなかで、二すじの黒煙が天を染めているのを見た。
(陥《お》ちたか)
信長は知ったが、表情はかわらない。将士が立ちさわぎ、老臣の一人が馬を寄せてきて、
――はや、丸根・鷲津の両砦は落ちたげにござりまする。
と教えると、信長は、
「おれにも眼がある」
無愛想にいった。言いおわると、「私語をするな、隊《たい》伍《ご》を乱すな、敵味方の強弱を論ずべからず。犯す者は斬《き》る」と手きびしく命じた。たちまち隊伍は粛然《しゅくぜん》とした。
やがて前方から埃《ほこり》と血と汗にまみれた兵が駈けてきて信長の馬前にひざをつき、佐久間大学らの討死を伝えると、信長は鞍の上で姿勢をただし、
「大学はおれより一刻《いっとき》さきに死んだぞ」
と天にむかって叫んだ。
信長は鞭《むち》をあげ、一軍に疾風のような行軍速度を命じた。信長が駈け、兵が駈けた。みちみち、諸砦の兵を合しつつ、井戸田、新《あら》屋《や》敷《しき》をすぎ、黒末川を渡って古《こ》鳴《なる》海《み》に出、そこから馬頭を南に向けた。道はすでに三河に近づいている。このあたりから地形は、低いなだらかな丘陵になってゆく。
敵情はわからない。今川義元の本陣がどこにあるかもわからない。とにかく、
(敵にむかって駈けよ)
というだけが、信長の作戦原理だった。それしかなかった。敵に接近するにつれて運がよければ敵の本陣の所在がわかるであろう。そのときは面《おもて》もふらず突き入ればよい。
暑い。
烈日が、具足を灼《や》き、人馬は汗みどろになりつつ、ただ夢中で足を動かしていた。山坂で息を切らして倒れる者もあったが、すぐ槍《やり》を杖《つえ》に起きあがり部隊のあとを追った。
余談だが、徳川初期、この日の信長の馬丁をつとめたという男がなお鳴《なる》海《み》の村で生きていて、それを尾張徳川家の臣山澄淡路守《やまずみあわじのかみ》と成瀬隼人正《はやとのしょう》がたずね、当時の模様を語らせた談話が、山澄本桶狭間合戦記註にある。その記述を意訳すると、
手前どもの記憶と申しましても、あの日は、信長公は、御馬でやたらと山を乗りあげ乗り下《くだ》し給うたことぐらいしか残っておりませぬ。ただはっきりと覚えておりますことは、あの五月十九日の暑さのことで、まるで猛火のそばに居るがようでございました。この齢《とし》になるまであれほどの暑気は知りませぬ。
鳴海の東方に善照寺という織田方の砦がある。信長がこの善照寺の東方台地に対したのが、午前十一時ごろであった。急いだようでも途中諸砦の兵を呼び集めながらの行軍だったため、熱田から善照寺までが三時間近くかかったことになる。
この善照寺東方台地で、信長は最後の攻撃準備をするため行軍を一時とめた。すでに諸方から兵が合流してきているため、三千人に達していた。信長が決戦場に投入しうるかぎりのぎりぎりの兵数といっていい。
熱田出発以来、信長はおびただしい数の斥候を放って今川義元の所在を執拗《しつよう》に探索させつづけているが、いまなお確報が入らない。そのうち、急報が入った。
またしても敗報であった。鳴海方面へ進んでいた信長の右翼隊五百人が敵の大部隊と遭遇戦を演じ潰滅《かいめつ》した、というものであった。このため右翼隊長である佐《さつ》々《さ》隼人正と軍中にあった熱田の大宮《だいぐう》司千《じち》秋《あき》加賀守季忠《すえただ》が戦死した。
「死んだか」
信長はそういっただけであった。そのうち右翼隊の敗兵が合流してきた。その敗兵のなかから、前田孫四郎(のちの利家《としいえ》)という二十歳の将校《ものがしら》が、自分の獲《と》った首を高くかかげつつ走り出てきて、
「殿、一番首でござりましたぞ」
と叫んだが、信長は、
「阿《あ》呆《ほう》っ」
そう言っただけでそっぽをむいた。孫四郎はそういう信長に腹が立ち、御前を駈け去るや、首を沼のなかにたたきこんでしまった。
そのとき、信長の生涯《しょうがい》と日本史を一変せしめた偵察《ていさつ》報告がとどいた。
「義元殿は、ただいま田楽狭《でんがくはざ》間《ま》に幔幕《まんまく》を張りめぐらして昼弁当をお使いなされておりまする」
というものであった。この報告をもたらした者は、沓掛村の豪族で織田信秀のころから織田家に属している梁《やな》田《だ》四郎左衛門政綱という者であった。梁田はこの日、かれ自身の手もとから諜者《ちょうじゃ》を放ち敵情をさぐっていたが、そのうちの一人が田楽狭間の付近まで忍び入り、この重大な情報を得たわけである。信長は梁田にのち三千貫の領地をあたえて、その功にむくいている。
ちなみにいう。後世、この決戦の場所を「桶狭間」と言いならわしているが、地理を正確にいえば「田楽狭間」である。桶狭間は田楽狭間より一キロ半南方にある部落で、この戦いとは直接関係はない。
「さてこそ!」
叫ぶなり信長は身をひるがえして馬上にあり、敵の本陣に突撃する旨《むね》を明示し、
「名を挙げ家を興すはこの一戦にあるぞ。みな、奮え」
と駈け出しながら、「目的は全軍の勝利にあるぞ。各自《めいめい》の功名にとらわれるな。首は挙ぐべからず、突き捨てにせよ」と叫んだ。
この善照寺から田楽狭間までの道はふたとおりある。信長は、山中の迂《う》回《かい》路《ろ》をとった。距離は、六キロであった。
このとき、太陽のそばに一《いち》朶《だ》の黒雲があらわれ、たちまち一天にひろがり天地が陰々として参りました。
と、山澄淡路守が会った信長の馬丁は語っている。夕立の気配が満ちてきたのである。
これより前、今川義元は沓掛《くつかけ》村から大高村へ馬を進め、その途中、前線から丸根・鷲津の敵砦を攻めつぶした旨の勝報をきき、
「さもあろう。わが旗の押し進むところ鬼神も避けることよ。まして信長づれが」
と大きく笑い、前線から送られてきた織田家の諸将の首をみて子供のようによろこんだ。
この今川方の戦勝の報が戦場付近の村々にもつたわり、近在の寺院の僧、神社の神官がひきもきらず戦勝祝いにやってきた。かれらにすればやがて来《きた》るべき今川方の大勝利によって東海地方の政治地図が大きく変わることを見越し、そのせつは寺領社領を安《あん》堵《ど》してもらうために義元の機《き》嫌《げん》をとっておこうというのが本音だった。そのため酒、魚介など、おびただしい祝い品をもってやってきている。
義元は機嫌よくかれらのあいさつを受けつつ馬を打たせ、かれらが持ってきた酒肴《しゅこう》の処分方を考えた。運ぶのは重い。捨てるのはもったいない。結局、軍を大休止せしめて昼弁当をつかい、あわせて戦勝の小宴を張ろうとした。この当時、まだ二食の風習がつよく残っており、昼はたとえ腰兵糧《こしびょうろう》をとるにしても本隊のことごとくを止めてめしを食う、というような大げさな食事はしない。義元にすれば、戦勝の祝い気分と、酒肴献上という二つがかさなったために、ついこういう処置をとったのである。
「よい場所はないか」
「このさきに田楽狭間と申し、松林にかこまれた窪《くぼ》地《ち》がござりまする」
「それ、そこにせよ」
と義元は命じ、馬を進ませた。部下が走って義元のために設営した。
義元の御座所は、松林のなかの芝生の上に敷皮をひろげて設けられ、まわりを、桐《きり》の紋を染め出した幔幕でかこまれていた。
義元は、敷皮の上にすわった。色白でやや肥満しそのうえ胴が長大なためにすわるとどうみても見事な東海の帝王であった。もっとも顔は、流れる汗で、化粧がすっかり剥《は》げ落ちてしまっている。
義元は、盃《さかずき》をあげて飲みはじめ、ほどよく酒がまわったあたりで近習《きんじゅう》に小鼓をうたせ、謡《うたい》をやや高めの声でうたった。
二万五千の今川軍のうち、義元を親衛する本軍は五千で、これが田楽狭間という小さな盆地にすっぽりとおさまっている。むろん義元の幔幕をかこむ警備は十分なもので、街道の要所々々には諸隊が出ていた。ただ不幸なことにそれが一せいに昼食をとっていた。
「雨よ」
とたれかが叫んだのは、正午ごろであったか。天が暗くなったかと思うと、たちまち砂《さ》礫《れき》を飛ばすほどの暴風になり、雨が横なぐりに降りはじめた。
付近には恰好《かっこう》な民家がなかったため、雨はこの松林の松の根方で避けるほかなかった。が、松林の周囲にいる身分の軽い士卒たちは四方に散って、山の蔭《かげ》、野小屋などに走りこんだ。
このころ信長は、山を越えきってすでに谷に入っていたが、途中この嵐《あらし》に遭い、
(天佑《てんゆう》か。――)
と狂喜したが、しかしいかにこの無法な男でも軍を前進せしめられるようななまやさしい風雨ではなかった。地を這《は》わなければ吹きとばされそうになるほどの風速で、しかも滝のように降ってくる雨のために視界はほとんどなかった。部隊は細い谷川のなかを進んでいる。忽《たちま》ち水かさがふえ、足をとられる者が多い。それでも信長は進んだ。
途中、六百メートルほどの平野を横切ったが、この部隊行動が風雨の幕のために今川方からついに見えなかった。信長はさらに山に入って南下した。山には道がない。木の枝、草の根をつかんで全軍がのぼりくだりした。が、信長は馬から降りない。子供のころから異常なほどの乗馬好きだったこの男は、蹄《ひずめ》の置ける場所さえあれば楽々と馬を御《ぎょ》することができた。
善照寺を出発して以来、道もない山のなかを六キロ、二時間たらずで踏みやぶり、田楽狭間を見おろす太《たい》子《し》ケ根《ね》についたのは午後一時すぎであったろう。風雨がさらに強くなったためにここで小歇《こや》みを待った。
天がやや霽《は》れ、風が残った。その風とともに全軍、田楽狭間に突撃したのは、午後二時ごろであった。
敵の警衛陣は、風雨を避けるために四散していた。雨のなかから躍りこんできた織田兵に気づいた者も、風雨のために友軍との連絡が断たれているため有機的活動ができず、ただ逃げるしか仕方がなかった。それにこの乱軍のなかで、最大の不幸がおこった。
「裏切りぞ」
という叫び声があがったことであった。今川軍では信長がまだ熱田か、せいぜい善照寺あたりに居るものと思っていたため、味方の反乱としか思えなかったのであろう。この混乱のなかでそういう疑惑がおこった以上、もはや味方同士を信ずることが出来なくなった。互いに互いと衝突しては打ち合い、逃げ合い、たちまち軍組織が崩壊した。
義元は、松の根方でひとり置き去りにされた。小姓どもは周囲のどこかで戦っているのであろうが、みな義元をかまうゆとりがない。
「駿《すん》府《ぷ》のお屋形っ」
と叫んで、義元にむかい、まっすぐに槍を入れてきた者がある。織田方の服部《はっとり》小平太であった。
「下《げ》郎《ろう》、推参《すいさん》なり」
と義元は、今川家重代の「松倉郷の太刀」二尺八寸をひきぬくや、剣をあげて小平太の青貝の槍の柄《え》を戞《かつ》と切り飛ばし、跳びこんで小平太の左膝《ひざ》を斬った。
わっ、と小平太が倒れようとすると、そのそばから飛びだしてきた朋輩《ほうばい》の毛利新助が太刀をふるって義元の首の付け根に撃ちこみ、義元がひるむすきに組みつき、さらに組み伏せ、雨中で両人狂おしくころがりまわっていたが、やがて新助は義元を刺し、首をあげた。首は、首のままで歯噛《はが》みしており、その口中に新助の人差指が入っていた。
戦闘が終結したのは、午後三時前である。四時に信長は兵をまとめ、戦場にとどまることなく風のように駈けて熱田に帰り、日没後、清洲城に入った。
「お濃《のう》、勝ったぞ」
と、この男は、濃姫にひと言いった。
須賀口
近江《おうみ》木《き》ノ本《もと》から北国街道の山坂をゆるゆるとのぼると、左手に賤《しず》ケ岳《たけ》が見え、そのむこうに余呉《よご》の湖《うみ》が光っている。
峠に茶屋がある。
山肌《やまはだ》を背にして建てられ、茶屋のまわりに五月躑躅《さつき》がみごとに群落しているところから、さつき茶屋ともよばれていた。
さきほどから茶屋に腰をおろしている旅僧が商人《あきんど》らしい男を相手に、東海地方でおこった信ずべからざる政治的激変について語っていた。話の様子では、旅僧は駿河《するが》から三《み》河《かわ》、尾張、美濃、北近江を経てきて、いまから若《わか》狭《さ》へ行こうとしているらしく、東海地方の最近の政情についてはじつにくわしい。
「尾張の織田上総介《かずさのすけ》殿といえばとほうもない阿《あ》呆《ほう》といわれ、土地では女子供までたわけ《・・・》殿とよんでいた。そのたわけ《・・・》殿が、なんと東海一円の覇《は》王《おう》今川治部大《じぶだ》輔《ゆう》殿(義元)を田楽狭《でんがくはざ》間《ま》においてみごと討ちとった。今川殿も相手に事欠き、清洲のあほう《・・・》殿に討たれるとは死んでも死にきれぬほどに無念であったろう」
「いつのことでござりまする」
「五月の十九日であったか」
「あ」
ごく最近の風聞である。
「ほんの三日前のことでござりまするな」
と、商人はうれしそうにいった。この風聞を次の宿場にもって行ってやればひとによろこばれるであろう。
「聞けば今川殿は大軍をもって京にのぼり、天子・将軍を擁して天下に号令せんとなされたそうな」
(そのこと、聞いていた)
と、ひとりうなずいたのは、すみで茶をのんでいた色白の武士である。
「東海の覇王が」
と、旅僧はいった。
「京にのぼれば天子、将軍家の御日用は豊かになる。公卿《くげ》や将軍側近の武士たちは今川殿の上洛《じょうらく》をどれほど待ちわびたことであったろう」
(左様、待ちわびていた)
と、旅の武士は、心中、自分にささやいた。
「哀れやな」
旅僧はいった。
「そのことも画《が》餅《べい》に帰した。今川殿不慮の討死の風聞は今日あたり京にきこえているであろうが、都の貴顕紳士のなげきはいかばかりであろう」
「御坊」
旅の武士は立ちあがった。
「いまのお話、まことでござるか」
「うそではない。わしはその戦場を通って尾張に入り、美濃を経ていまここにある。この目で見、この耳できいたことに、なんのまや《・・》かし《・・》がござろうかい」
「ごもっともでござる」
武士は鄭重《ていちょう》に詫《わ》び、茶代を置き、編笠《あみがさ》をかぶりなおして街道へ出た。
武士の足もとに、五月躑躅の紅が、陽《ひ》のなかで燃えるように咲きみだれている。武士はしばらく佇《たたず》んで考えている風《ふ》情《ぜい》だったが、やがて思いを決したように踵《きびす》をひるがえし、もときた道をくだりはじめた。
「あの牢人《ろうにん》、越前方面にゆくつもりではなかったのか。引きかえしたぞよ」
と、旅僧は茶屋の老婆にいった。
武士は、明智十兵衛光秀である。
実は京から越前一乗谷《いちじょうだに》にゆくつもりで湖北を通り、この峠にさしかかったのである。が、あまりにも衝撃的なうわさをきき、急に思いかえして尾張へ行こうとした。
ここ数年、光秀は諸国の豪族の動静を知るために天下を遍歴していた。
(足利幕府を再興したい)
とおもう一念にはかわりがない。乱世を一つにおさめて秩序をつくるためには、日本中の武家の頭領《とうりょう》である将軍の威権を回復する以外に方法がないと信じ、諸国の城下へゆき、その志を説いてまわっている。
例えば、中国の毛利氏の領国内にも入って重臣の桂能登守《かつらのとのかみ》の屋敷に逗留《とうりゅう》し、
「毛利氏の富強は天下にひびいています。いまにして志を大にし、山陽道を鎮《ちん》撫《ぶ》しつつ京に兵馬をすすめ、将軍を擁して立つあらば天下の諸豪は風をのぞんで帰服しましょう。将軍家との橋渡しは不肖《ふしょう》光秀がつかまつりましょう」
と説いた。
「貴殿が、将軍家との橋渡しを」
と、たいていの者がおどろく。
「いつわりはござらぬ」
将軍側近には光秀の親友であり、この世における唯一《ゆいいつ》の同志といっていい細川藤孝がいる。藤孝は将軍の館にあり光秀は外を担当し、たがいに幕府復興のために連繋《れんけい》をとりあっているから、光秀いかに、無位無官の牢人とはいえ、将軍の手代と同様の機能《はたらき》はもっていた。
しかし光秀がいかに諸国の大名を説いても、
「お説はまことに結構であるが、いまのところはとても」
と敬遠された。どの大名も近隣の大名とたがいに攻伐しあって片時もゆだんのならぬ情勢にある。京にのぼれるような余裕など、たれももっていない。
それでもこの遊説《ゆうぜい》は無駄《むだ》ではなかった。諸国を巡歴する行動そのものに列強の動静を知りうるという余得があったし、また将軍家にとってもむだではない。大名たちのなかには、光秀に説かれたがために将軍家の衰微に同情し、
「せめて将軍家の御日用の料でも」
と、金穀《きんこく》を上方《かみがた》へ送るような大名も出てきているからである。もっとも大名によっては、
「そこもと、天子、将軍などと、迂《う》遠《えん》なことを申し立てておるより、いっそわしに仕えぬか」
と、仕官をすすめるむきもある。光秀はそのつど惜しげもなくことわった。理由は簡単である。将軍を擁立する意思も実力もない大名に仕えたところで、たかだか田舎大名の家老程度でおわることになろう。
――自分は、明智氏という美濃源氏を代表する名族の出である。
という頭が、光秀にある。落ちぶれたりといえども足利将軍家の支族である以上、千石や二千石の禄《ろく》に目がくらんで田舎武士になるより、天下の機軸を動かすような場を独力で創《つく》りあげたい。さればこそ、いまは古わらじにもひとしい将軍家をかつぎまわり、その明日の価値を田舎大名どもに説いてまわっているのではないか。
(これがおれの志だ)
行動の原理といっていい。光秀はこの時代にはめずらしくそういうものをもっている。また持たねば行動をおこせぬたちの男でもあった。
そういうところへ、光秀は今川義元上洛の一件をきいた。光秀はこの一件を将軍側近の細川藤孝からきいたのである。
「いよいよ将軍家にも御運がむいてきたらしい」
と細川藤孝はいった。
「しかし十兵衛殿、今川義元はうまく上洛できるかどうか」
「さればさ」
光秀は、その豊富な諸国事情の知識から今川家の軍事力や沿道諸大名の実力をあれこれと論じ、
「今川義元はなるほど京にのぼって三《み》好《よし》一党を追い、将軍の御館《おやかた》などを造営してくれるだろう。そこまでは成功する。問題は義元の実力から考えていつまでその権勢をたもち得るかだ。これはあやうい」
「さればどうすればよい」
「越前の朝倉氏も京へよぶことだ」
この二大大名の連立によって京の足利政権を擁護してゆく――というのが、この事態に即応する光秀の幕府復興構想であった。
その案おもしろい、ということになり、あとから将軍家の御教書《みぎょうしょ》を差しくだすとして、とりあえず朝倉氏を打診し説得するために光秀自身が、単身、越前の首都一乗谷にゆくことになった。
(こんどこそ、積年の志に芽がふくぞ)
と光秀は心もかるがると京を発《た》ち、湖北を北上し、近江木ノ本から山坂をのぼり、峠でひと息入れるべく茶屋に入ったとき、なんとかんじんの今川義元が田楽狭間で落命したというはなしをきいたのである。光秀は鼓動がとまるほどの驚きを覚えた。
(なんと、将軍様も御運のないことよ)
と暗然としたが、悲嘆に暮れているばあいではない。その風聞がまことかどうか尾張清洲の城下でたしかめてみることであった。そのうえで、あらたなる構想をたてねばならない。
清洲へ。
と、この行動力に満ちた男は五月の湖北の風に旅衣《たびごろも》をひるがえしながら木ノ本へ降りて行った。
近江から美濃関ケ原に出、大垣の城下を通り、そこから墨股《すのまた》、竹鼻《たけがはな》を経て、木曾川を渡った。
(まさか、あの信長が)
と疑いが光秀の脳裏を去らない。あれはた《・》わけ《・・》ではないか、という信長伝説が光秀の先入主にある。だからこそ今川義元の上洛を、
――やすやすと京までのぼれるだろう。
と光秀は判断し、細川藤孝にもそういったのである。
光秀は、間接ながら信長と縁が濃い。亡《な》き道三が、
「将来《さきざき》、見込みのある者といえば、美濃ではわが妻の甥《おい》光秀、尾張ではわが婿《むこ》の信長だ」
といっていたし、かつ道三は、自分が身をもって学びとった「戦国策」を、光秀に教え、また光秀が聞くところでは信長にもそれを教えていた形跡がある。いわば相弟子の関係ではないか。かつ、信長の妻濃姫は道三・小見の方の娘であり、小見の方の甥である光秀は、濃姫といとこ《・・・》の血縁になる。
だからこそ、光秀の信長に対する心情は複雑といっていい。
(なんの、信長づれが)
とおもう競争意識に似たものがある。むしろ信長の噂《うわさ》のなかでその欠点をのみよろこんで記憶にとどめ、
(あんな阿《あ》呆《ほう》のどこがいいというのか。おれの器量とくらべるなど、亡き道三殿も、晩年は智恵の鏡が曇っていたようにおもえる)
と奥歯で歯ぎしりをするような思いで、それをおもっていた。その思いのなかから、こんどの今川義元上洛の成否を判断し、清洲の信長などはどうせ田《た》螺《にし》のように踏みつぶされるであろうと考えていた。
その田螺が、なんと三河境いまで進撃して、田楽狭間とやらで義元の首を刎《は》ねてしまったというのである。
「いや、本当らしゅうございますよ」
という言葉を最初にきいたのは、美濃の大垣城下の旅籠《はたご》の主人からであった。主人も隣国の大名の批評だからそこは遠慮はなく、
「死にものぐるいのねずみが、猫《ねこ》を噛《か》んだようなものでございましょう。それにしても人は見かけによらぬものでございますな」
と、あまり好意的でない批評をくだした。
ところが、木曾川を越えて尾張に入ると、まだ戦後十日も経《た》っていないだけに領内は戦勝気分で沸き立っており、光秀が通ってゆくどの村、どの市《いち》でも田楽狭間の戦さばなしで持ちきりで、信長の人気も当然ながら、かつてとは一変していた。
「あれはうつけ《・・・》者よ」
といっていた同じ人の口が、
「軍神摩利支《まりし》天《てん》の御再来ではあるまいか」
と、掌《たなごころ》をかえすように評価をかえていた。馬鹿《ばか》が一夜で生神になった、という例は、さすが諸国の珍談を見聞している光秀も、きいたことがない。かれが読み知った本朝異朝の史書にも、これほど極端なことがなかったようであった。
(しかしなぜ信長は田楽狭間で義元の首を獲《と》ったあと、その勢いを駆って追撃戦にうつり敵の本軍を潰滅《かいめつ》せしめなかったのか。おれならそうしている)
という疑問をもったが、次第に合戦の詳細を知るにつれて、信長があの奇襲に全軍を投入したこと、奇襲の目的は義元の首を刎ねるというただ一点にしぼっていたこと、刎ねたあとは今川軍を追撃するだけの余力がなかったことなどがわかってきた。むしろあれだけの奇功をおさめていながら、その戦果を拡大することなく、首一つに満足してさっと兵をひきあげた抑制力は、尋常のものではない。
(が、それだけのことだ)
光秀は村々を過ぎて、やがて信長の主城である清洲の城下に入った。
ここでも光秀は小さなおどろきをもった。なるほど尾張領内の他の村々では戦勝気分で沸き立っていたが、この首都の城下はまるで様子がちがっていた。街に秩序があり、むしろ粛然、という言葉があたるほどのにおいをもっている。街路をゆく侍どもの容儀もじだらくでなく、町家の者も合戦の評判などはせず、連れ立って歩いている足軽までが、その足どりに節度がある。
(みな、なにものかを怖《おそ》れている)
そのなにものとは信長その人であろう。この病的なほどに規律好きな男は、自分は思うままにふるまうくせに、家来、領民に対しては統制への絶対服従を強《し》いていた。自然、この性格が織田の家風になっているのであろう。
「尾張衆は弱い」
というのが、東海地方の定評であった。東海地方では一に美濃、二に三河、という。この両国の兵は強い。が、尾張は土地が豊饒《ほうじょう》で百姓に貧農はすくなく、そのうえ海陸の交通の便がいいために商業が早くから発達し、猛兵を育てるような条件からほど遠い。そういう弱兵をひきいて、駿遠参《すんえんさん》三カ国の今川軍をうちやぶったのは、まったく信長の統率力によるといっていいであろう。
(あるいは怖るべき男かもしれぬ)
光秀は、宿をとった。
さっそく織田家の家中の猪《いの》子《こ》兵助《ひょうすけ》という者に手紙を書き、宿の主人に持ってやらせた。
別に深い理由はない。他国の牢人が城下に滞在する場合、無用の疑いをうけぬよう、家中の知人を保証人にしておくのである。
猪子兵助は、故道三が可愛《かわい》がっていた美濃武士で、道三崩れのあと、美濃を脱走していまは尾張織田家に仕えている。光秀は、猪子兵助程度の身分の者とは直接《じか》のつきあいなどはなかったが、それでも、
「明智十兵衛光秀」
と当方が名乗れば、猪子は這《は》いつくばうようにしてやって来るであろう。
やがて猪子兵助が宿にやって来、光秀に対し十分な会釈《えしゃく》をして帰った。
その翌日である。
光秀が街へ出、清洲の須賀口のあたりを歩いていると、むこうから馬《ば》蹄《てい》のとどろく音がきこえ、見るうちに往還の人々が夕立に遭ったように軒端《のきばた》へ散って膝《ひざ》まずいた。
「何事ぞ」
ときくと、殿様がお通りになられまする、と町人がいう。光秀はおどろいた。町人たちは信長に戦慄《せんりつ》し、その馬蹄のとどろきを遠くからでも聞きわける能力をもっているようであった。
「あなた様もお早く」
と袖《そで》をひかれたために光秀は編笠《あみがさ》をとり、身を後じさりさせて軒端にたたずみ、わずかに小腰をかがめて信長の通るのを待った。やがて信長は鷹《たか》野《の》の装束で馬を打たせつつやってきた。供まわりは五騎三十人ほどもいたであろう。今川義元を討ちとった尾張の大将としては軽すぎる容儀であった。
(これが信長か)
光秀は、はじめて見た。異様に感じたのは信長は顔を心持あげ、天の一角を凝視したまま、視線も動かさず、まばたきさえせぬ表情で駈《か》け来《きた》り、駈け去ったことであった。
信長は半町ばかり行ったとき、かたわらの猪子兵助に声をかけ、
「いま、須賀口で妙なやつを見た」
といった。信長の視線は一瞬光秀をとらえたようだったが、当の光秀は見られたことに気づかなかった。むしろ信長を見た《・・》つもりであった。見る《・・》のはむろん不敬といっていい。顔を伏せ視線を地に落しつつ領主の通りすぎるのを待つのが、路上の礼儀であるべきだった。信長のいう「妙なやつ」とは、
「おれを見たやつがある」
という意味であった。あれは誰《たれ》か、と猪子兵助にきいたのである。
猪子兵助も、軒下の光秀に気づいていた。
「あれは」
と、小さな決断をこめていった。
「奥方様にはいとこ《・・・》にあたられまする美濃明智の住人、十兵衛光秀と申す者でござりまする」
「美濃者か」
信長は無表情でいった。
「何をしにきたのか、調べておけ」
兵助はすぐ馬をかえして須賀口にもどったが、もう光秀はいなかった。さらに馬を駆って光秀の宿にゆくと、宿では、
「もはや出立なされました」
という。どこへ――と兵助が問いかさねると、「はて」と宿の主人は小首をかしげ、「越前へ、と申されていたようでござりますが、シカとはわかりませぬ」と答えた。
一乗谷《いちじょうだに》
光秀は、真夏の山風に袂《たもと》をふくらませつつ越前一乗谷にむかって歩いていた。
(今川義元は田楽狭《でんがくはざ》間《ま》で落命した。東海の政情はがらりとかわった。おれの構想も修正をくわえねばならぬであろうが、とりあえず越前一乗谷へゆこう。後《こう》図《と》を考えるのはそれからだ)
一乗谷。
越前の覇《は》王《おう》朝倉氏の都府である。北陸の雄都といってよく、光秀の希望もまたそこでひらけるであろう。
敦賀《つるが》から東は、七里ばかりのあいだ、えんえんと山坂がつづく。一条の小《こ》径《みち》が樹海のなかを縫ってつづき、その樹海に陽光があふれ、手足まで青く染まるような緑の氾濫《はんらん》のなかを歩きながら、
(来る年も来る年もこのように歩きつづけていて、ついにおれはどうなるのだろうか)
と、ふと空《むな》しさをおぼえぬこともない。人の一生というのは、ときに襲ってくるそういう虚無とのたたかいといってもいい。
木《き》ノ芽峠《めとうげ》にさしかかると、一人の旅商人と道連れになった。いかにも旅なれた中年の男で一乗谷の者だという。
「わしも一乗谷へゆくのだ」
光秀は、自分の姓名と生国《しょうごく》とをいった。相手の商人が一乗谷の者だというので、これから乗りこむべき都府の様子をきいておくのもわるくはない、とおもったのである。
「一乗谷とは、にぎやかか」
「そりゃもう、朝倉様五世百年のお城下でございますからな。御城塁《ごじょうるい》、社寺、お武家屋敷、町家、鍛冶場《かじば》などがびっしりと、谷にひしめきまして京のにぎわいに劣りませぬ」
「谷間にある町か」
それが光秀にもおもしろい。
一里ばかりの細ながい谷で、その谷にただ一本だけの公道がついている。その公道の左右に町がながながと伸びており、防衛としては、公道の前後をおさえるだけで町は難攻不落のものとなる。
(そんな地形のところをえらんで都府を築いた例は唐土《から》にもない。本朝にもない。はじめて一乗谷をひらいた朝倉氏の中興の祖敏景《としかげ》とは天才的な人物だったのであろう)
朝倉氏の祖は、むかしは但馬《たじま》にいたようである。足利尊氏《たかうじ》の天下統一事業に参加して武功があり、越前の守護代になった。のち守護職斯波《しば》氏にかわって守護職になったのが一乗谷に都城をひらいた朝倉敏景である。
「敏景様は、御当代より五世前のお方でござりまするが、神のような智謀のもちぬしでありましたそうな」
「そうときいている」
敏景は人心収攬《しゅうらん》にもっとも才があったらしく、越前の言いつたえでは、「一粒の豆を得ても掌《たなごころ》を連ねて士とともにこれを食い、一樽《いっそん》の酒を受けても流れを濺《そそ》いで卒とひとしくこれを飲んだ」といわれている。
敏景が書きのこした家憲というのは、のちの朝倉家繁栄のもとになった、といわれているもので、光秀もそれを知っていた。
「宿老制をとらない」
というものである。門閥血統によって重職につかしめず、すべて実力によって要職を任用せよ、というものであった。
これは門閥主義の足利時代にあっては信じがたいほどにめずらしい組織思想で、この体制あるがために戦国期に突入してからも朝倉家は天下の風雲に堪えてこられた、と光秀は思っている。とくに天下放浪の士である光秀にとっては、この体制は魅力にみちたもので、
(おれのような放浪の士でも、朝倉家をたよればあるいは重用されるかもしれない)
と思っていた。人材を愛するという風聞をきいておればこそ、かれの足は北方の覇府《はふ》にむかっているのである。
だけではなく、越前は京に近い。軍事力は強大である。流亡の将軍をたすけて幕府を再興せしめる可能性は、ゆたかに満ちあふれているであろう。
ただひとつ欠点はある。
当主義景《よしかげ》という人物が、先祖の敏景に似気《にげ》もなく凡庸だということであった。これはあるいは致命的な欠陥であるかもしれない。
「御当主義景殿はどうだ」
と光秀が水をむけると、旅の商人はさすがに批評をつつしんで無言でいたが、やがて、
「宗滴《そうてき》様はお偉うございましたな」
と、別人のことをいった。宗滴とは朝倉氏の一族で名を朝倉教景《のりかげ》と言い、当主義景の補佐官として軍事に政治に大いに活躍し、朝倉氏の勢威を、むしろ敏景時代以上にあげた人物であった。
「ところが惜しくも先年、お亡《な》くなりあそばしましてな。弘《こう》治《じ》元年九月でありましたか」
道三が死んだ前年である。まだほどもない過去であった。
「それよりは御家は振いませぬ」
商人は物やわらかくそう言ったが、実際は振わぬどころか、宗滴なきあとの朝倉家は、本尊のない大《だい》伽《が》藍《らん》にひとしい、とまで京都あたりでは酷評されている。当主義景はよほど無能なのであろう。
(なんの、おれを亡き宗滴の位置につかせてくれるならば、朝倉の勢威はりゅうりゅうたるものになり、ついに近隣を合併しつつ京にのぼり、将軍を擁して天下に号令できるようになるであろう)
義景が無能でもいい。いやむしろ無能なほうが、光秀の才が縦横無尽にふるえていい、とこの男はおもっていた。
一乗谷そのものには知る辺《べ》がなかったが、そこから二十キロ北方に長崎(現丸岡町)という部落があり、そこに称念寺という時宗《じしゅう》の大寺がある。
そこに光秀は、いったん草鞋《わらじ》をぬいだ。この寺は京で知りあいになった禅道という僧が紹介してくれたもので、その紹介状に、
「明智十兵衛、美濃の貴種なり」
という言葉があったため、称念寺でも粗略にはあつかわなかった。
称念寺の住持は、一念という。一念は一乗谷の高級官僚のあいだに知人も多く、当主義景にもしばしばまねかれてお咄《はなし》の座に侍している。
「越前での御希望はなんでござろう。お力になれるならば、なってさしあげたい」
と、対面そうそう、光秀のよき後ろ楯《だて》になることを約してくれた。一念はおそらく、光秀のもっている貴族的な風ラ《ふうぼう》、作法にかなったふるまい、それに卓抜した教養に惚《ほ》れこんだものであろう。
「御仕官がおのぞみでござるのなら、橋渡しもつかまつろう」
「左様さな」
まさか、空席になっている宗滴のあとがまにすわりたい、とはいえない。
「かようなことを申しては、一介の素《す》牢人《ろうにん》がなにをほざくとお笑いでありましょうが、しばらく一乗谷城下に住み、朝倉家の人士ともつきあい、御当家の情勢も見、はたして光秀が生涯《しょうがい》を託することができる家かどうかをトクと見さだめてから、身のふりかたをきめとうござる」
正直な本音である。
「ああ、士は左様になくてはならぬ」
と、一念は、光秀がいささかもおのれを安く見ない点に感動し、いよいよ光秀という器量を大きく評価した。
「さればさしあたって、一乗谷城下で文武教授の道場をひらきたい」
「道場」
一念は手をうった。
「これはよいことを思いつかれた。左様なものが一乗谷にはござらぬのじゃ」
諸国にもない。武士は大半が文字を習わぬが、習う者もせいぜい寺の僧について習学する程度で、その方面の専門施設というものはない。まして「武」のほうもそうである。兵《ひょう》法者《ほうしゃ》を自邸によぶか、その師の自宅に押しかけて技をまなぶというのが普通であった。
「教授する内容は」
と、光秀はいった。
「兵法、槍術《そうじゅつ》、火術(鉄砲)、それに儒学一通り、唐《とう》土《ど》の軍書」
「ほほう」
一念はついに顔をふりたてて感嘆してしまった。これほど絢爛《けんらん》多彩な各分野にわたって一人で教授できる人物もまずないし、第一、これほど広範囲な種目を一堂で教えてくれる私立学校は天下ひろしといえどもないであろう。
「これはきっと繁昌《はんじょう》いたしまするぞ」
「繁昌させてみたいものです」
「いや、わしが吹聴《ふいちょう》する。どこか一乗谷で屋敷の一角なりとも借らねばなるまいが、それも拙僧が奔走いたしましょう」
「なにぶんとも」
と、光秀は頭をさげた。
そのあとよもやまの話をし、一念は、光秀が幕府の再興の志に燃えていることを知って、いよいよ感動し、
「御当代の将軍家とはどのようなお方でござる」
と、無邪気な質問をした。
「つまり、義輝将軍は」
実のところ、光秀は、無官であるがために拝謁《はいえつ》したことがない。しかし将軍近習の細川藤孝を通じて堪能《たんのう》するくらい聞かされているから、まるで京でいつも将軍と膝《ひざ》をつきあわせて暮らしているような、はなしかたをした。これには一念はまたまた感心し、光秀に対する評価をいよいよ大きくした。
(気の毒だが、やむをえぬ)
光秀には多少のうしろめたさがある。しかし天下放浪の孤客が、他郷で人とのつながりを求めるとき、この程度の法螺《ほら》はやむをえないことであろうとわが心を励まし、いかにもつつしみ深そうな口調で、義輝将軍の御日常を話した。
「兵法者上泉伊勢守《かみいずみいせのかみ》の門人塚原卜伝《ぼくでん》という者について兵法をまなび、印《いん》可《か》までお受けなされたお腕前でござる」
「兵法を!」
一念は驚いた。よく驚く男である。
「将軍家が兵法などという歩卒の芸を。――もはやそれほどまでにおちぶれなされておりまするか」
と、一念は噴《ふ》きだすように涙をあふれさせた。兵法などという個人の芸は、まだまだ名のある武士から卑《いや》しまれている現状だが、人もあろうに将軍家がそれを学ぶとはどういうことであろう。将軍の暮らしが窮迫して庶人に近くなっているという印象のようにもうけとれて、一念はにわかに涙をながしたのである。
「それもありましょう」
光秀は、一念をもてあました。
「ひとつにはお好みにもよるかもしれませぬ。しかし最も大きな理由は、将軍家にはお手勢というものはなく、ご身辺をお護《まも》りするのは近習数人という状態であるため、ついつい護身のために兵法修行をなさるお気持になられたのでありましょう。しかしながら印可をお受けあそばすほどのお腕といえば、これは容易ならぬ」
「左様、容易ならぬ」
お腕だ、と一念はうなずくのである。
いずれにせよ、一念はあす、光秀の一乗谷居住のための下準備に出かけよう、と言い、
「これはよいお人が越前に来られたものよ。先刻からのお話を、あす一乗谷でふり撒《ま》くだけでも人々によろこばれましょう」
と、ほくほくと笑った。
翌日、一念は一乗谷にゆき、この町で、
「土佐様」
とよばれている武士に会い、称念寺に舞いこんできた明智光秀という牢人のことを大いに吹聴した。土佐様とは、朝倉の家老で朝倉土佐守という人物である。
が、土佐守は、一念が昂奮《こうふん》するほどには驚かず、
「左様な有芸な者であれば、屋敷の小屋を一つ提供するゆえ、それにて足軽などに兵法でも授けてもらえればありがたい」
というのみであった。
数日して光秀は土佐守家に入り、その執事に会い、邸外の小屋を一つ貰《もら》った。
(なんだ)
と失望したが、この種の冷遇には馴《な》れてきている。せめて土佐守に拝謁できればとおもい、その旨《むね》を執事に申し出ると、
「正気か」
という顔を執事はした。土佐守といえば朝倉王国の家老である。流浪の芸者に会うような身分の人物ではない。
「いずれ、機《おり》をみて申しあげておく」
と、執事はつめたくいった。
光秀は小屋で暮らすようになった。小屋といえばまったくの牛小屋同然のもので、床《ゆか》さえなく、五坪ほどの土間があるだけである。
光秀は、百姓家に行ってわらを貰って来、それを一隅《いちぐう》に積みあげて寝具とした。かつては明智城の城主の子であり、美濃の村落貴族として裕福な暮らしをしていた昔をおもえばなんという落ちぶれようであろう。とりあえず、
「諸芸教授所」
という看板をかかげ、入門を志願してくる者を待った。が、その日の糧《かて》が手に入らない。それについては、称念寺に足を運んでは一念から銭を借りた。
それが度《たび》かさなるにつれて、称念寺の一念も、だんだん光秀に昂奮しなくなってきた。
むしろ、
(将軍家の御側衆《おそばしゅう》のように申しておるが、こうも貧乏とはどういうことであろう)
食わせ者ではないか、とまでは思わなかったが、借銭が重なるにつれ軽侮するようになってきた。あるとき、何度目かに小銭を借りにきた光秀に、
「十兵衛殿、まだ門人が来ぬか」
と、一念はいった。言葉までぞんざいになっている。
「いや、参らぬな」
「それではこまる」
「だが、来ぬもの仕方がない」
光秀は、借銭がかさなるにつれていよいよ高くおのれを持した。
(ここが瀬戸ぎわだ)
と、光秀は思っている。旅から旅へあるいて苦労をかさねてきたこの男は、こういう場合のおのれの処し方を心得ていた。この瀬戸ぎわで卑屈になれば、ただの乞《こ》食《じき》とかわらなくなるのであろう。
「こういう噂《うわさ》をきいた」
と、一念はいった。
一乗谷の城下に、武田家の牢人で六角浪《ろっかくなみ》右《え》衛門《 もん》という牢人が早くから流れてきている。
これが家士某の家に寄食しつつ、家中の士に兵法を教授していた。兵法の流儀は、常州鹿《か》島《しま》明神の松本備前守《びぜんのかみ》から学んだと称し、その精妙さは城下でおよぶ者はない。
「その浪右衛門が、しきりと悪声を放って十兵衛殿のもとに門人がゆこうとするのをさまたげているらしい」
「なるほど」
光秀も、そういう噂は聞き及んでいた。
もともと兵法者の社会は偏狭なもので、一つ城下に二人の剣客は双《なら》び立たぬ、といわれている。光秀が一乗谷で師範の門を張ろうとすれば、まず六角浪右衛門を試合でもって打ち倒すほか道はないであろう。
「試合われればどうか」
「それは愚かじゃ」
光秀は、しずかに笑った。
「なぜであろう」
「剣の試合など、根っからの優劣で勝負がつくのではなく、勝負はまぐれが多い。たとえそれがしが技倆《ぎりょう》まさると言っても、その場の運と呼吸一つで負けになるかもしれぬ。この命を、たかが剣技で落したくはない」
「思いもよらぬことを言われる。さればお手前は門人を取り立てぬおつもりか。門人を取り立てねば、さきざきまで当山にご無心にお出《い》でなさらねばならなくなる」
迷惑だ、といわんばかりの不機《ふき》嫌《げん》さで一念はいった。
光秀は、一乗谷に戻《もど》った。
一乗谷に戻った翌日のことである。朝、小屋のなかで煮物をしていると、戸を叩《たた》く者がある。
(入門の願い人か)
と期待しつつ戸をあけると、すね《・・》が三尺ほどもありそうな大兵《だいひょう》の男が立っていた。
「わしは六角浪右衛門」
薄ら笑いをうかべている。
「お手前は、明智十兵衛殿であるな」
「いかにも」
「当御城下で兵法を教授なさるという噂をきいたが、さきに当地にきて門を張っている拙者のもとには、待てども待てどもなんの御《ご》挨《あい》拶《さつ》もない。とうとう待ちかねて拙者のほうからまかり越した。一手、御教授ねがえるか」
「御教授とは?」
「立ちあって頂こうということよ」
試合の申し入れである。
光秀は、内心こまったと思ったが、すぐ笑顔になり、ゆっくりとうなずいた。
「おのぞみのとおりにしよう」
六角斬《ぎ》り
「試合は十三日辰《たつ》ノ刻《こく》、場所は楓《かえで》の馬場《ばば》、よろしいな」
「よろしい」
光秀は、うなずいた。
「検分役はどなたを望まれる」
六角浪右衛門はきく。
「どなたでも結構」
当然なことだ。誰《たれ》、と名指しできるほど光秀は朝倉家の家中の顔ぶれを知っているわけではない。
「されば」
――物頭にて鯖《さば》江《え》源蔵殿、天流をおつかいなさる、拙者のほうにて頼みおく、よろしゅうござるな、と六角浪右衛門はいった。
「御念にはおよばぬ」
「当日まで十日のゆとり《・・・》がある。ゆめゆめお逃げなさるなよ」
浪右衛門がいったのは、むしろ光秀に逃げてほしいというのが本音だったのかもしれない。六角にすれば職業的兵法者の看板の手前、試合を申し入れたものの、どういう結果になるかもわからぬ試合を、この男も好きこのんでしたいわけではなかろう。(逃げよ)と言わんばかりに、十日という、ひどく悠暢《ゆうちょう》な準備期間をかれの側から指定してきたのである。
光秀にも、六角の気持がわかる。
(逃げてしまおうか)
ふと思わぬことはなかったが、ここで逃げて汚名を残せば将来《ゆくすえ》の名にかかわる。
「逃げは致さぬ」
と物やわらかくいって六角を帰した。
その日から七日たった夕、光秀が小屋の前を掃いていると、街道の西のかたに夕靄《ゆうもや》が淡く流れている。その夕靄のなかから、旅姿の男女がこちらに近づいてくるのが見えた。
逆光なために、影のように見える。影が茜《あかね》に染まりつつ近づいてきた。
(お槙《まき》と、弥平次ではないか)
妻である。
弥平次光春は、従弟《いとこ》であった。
ふたりは光秀を見つけて小走りに駈《か》けてきた。どちらも、泣きそうな顔をしていた。
……………………
光秀には、そういう名の妻がある。
美濃にいたころ、娶《めと》った。一族の土岐頼定の娘でまき《・・》。於《お》牧《まき》とも於槙とも書く。ひかえめな性格だが、才智のすぐれた女性として娘のころから美濃では評判だった。小《こ》柄《がら》で器量にもめぐまれている。後年、天下第一の美《び》貌《ぼう》といわれた細川ガラシャ夫人を生む婦人である。
光秀も、生涯《しょうがい》側室といえるほどのものを置かなかったほどにこの妻を愛したが、なにぶん、この夫婦の若いころは世間なみからみれば悲惨といっていい。
婚儀をあげてほどなく道三は没落し、明智氏は新国主の斎藤義竜に攻められ、城は陥《お》ち、当主の叔父は戦死し、光秀は、妻と叔父の子弥平次光春を連れて国外にのがれ、流亡の生活を送らねばならなかった。
食える暮らしではない。
京都の天竜寺に禅道という老僧がいる。禅道はかつて諸国を行脚していたころ美濃明智城に錫《しゃく》をとどめ、三年ばかり城内で暮らしていたことがあり、その縁で、光秀はこの禅道に妻と弥平次の世話を頼んだ。
禅道はこころよく世話をひきうけてくれ、門前の借家にかれらを住まわせ、米塩だけを提供してくれていたのである。
「越前にゆく」
といって光秀が京を出るとき、
「もし越前朝倉家で、しかるべき処遇をしてくれるようになればそなた達を迎えにくる」
と言い残して発《た》った。いつまでも禅道の好意にあまえて居られぬと思う気持が、光秀の念頭をいつも去らない。
(それがなぜいまごろ、この越前に)
不審におもった。来よ、と手紙で申し送ってやったおぼえはないのである。
とりあえず二人を、小屋に入れた。すでに昏《くら》くなっていたが、光秀には燈火の代《しろ》がなく小屋のなかは真暗だった。
「このような暮らしだ。まだまだそなた達を呼びよせられるような事情ではないのだが、いったい、どうしたのか」
お槙が、顔をあげた。
「禅道殿が、遷《せん》化《げ》なされたのでございます」
「えっ亡《な》くなられたのか」
「それでやむなく」
京を離れざるをえなかったのであろう。お槙は、暗闇《くらやみ》のなかで髪を垂れ、白い顔を伏せている。光秀の眼にはさだかではないが、泣いているのではあるまいかと思われた。
「槙、心を気丈にすることだ。いつかは笑って暮らせるようになる」
「なげいてなぞおりませぬ」
「それならばよい」
光秀はこのお槙を賞讃《しょうさん》したい気持になることがある。美濃にあるときは土岐頼定の姫君として、おおぜいの女奉公人にかしずかれて日を送った。それがいまでは、乞食同然の生活に落ちているが、この妻は愚痴ひとつ言ったことがない。
「はらがすいているだろう。めしにしよう」
と光秀は立ちあがったが、果して米があるのか、心もとなかった。米櫃《こめびつ》をしらべてみると、雑炊にするほどならある。
「わたくしが致します」
と、お槙は立ちあがり、裏口へ出た。小屋に炉がないために煮たきはそとでしなければならない。
弥平次は、機転のきく者だ。松明《たいまつ》をつくり、釣《つ》り竿《ざお》をもってそとへ出た。道中、饑《ひもじ》さをふせぐために渓谷《けいこく》をみつけては魚を釣りながら、この越前まできたのである。
半刻ほどして、夕《ゆう》餉《げ》の支度ができた。
弥平次は松明を土間のすみに据え、その煙と火を唯一《ゆいいつ》のあかりに、三人は鍋《なべ》をかこんで食事をはじめた。
「こんな暮らしもおもしろいな」
光秀がいった。世が世なれば、十兵衛光秀も弥平次光春も、明智の若様である。お槙にいたっては美濃で神格的な尊崇をうけている土岐一族の姫君であった。
「槙、どうだ」
「槙はひもじいことなどすこしも辛《つら》くはありませぬが、御亭主殿と別れて暮らさねばならぬことが淋《さび》しゅうございます」
「考えてみれば」
この若夫婦は、明智落城以来、ともに暮らした月日は二十日ほどもないのではないか。
「もう、離れて暮らせ、とは言わぬ」
「ま」
お槙は小さな叫びをあげた。
「では、槙はここで住んでよいのでございますか」
「ここで」
というお槙の言葉に、光秀は胸を突かれる思いがした。ここで、というが、此処《ここ》は乞食も住まぬような物置小屋ではないか。
「うれしゅうございますわ」
(女とは、そのようなものかな)
光秀は、あやうく涙ぐみそうになるのをおさえて、箸《はし》を動かしている。
食事がおわると弥平次が、
「さきほど川へ降りたときに、よい瀬をみつけておきました。いま一度釣りにゆき、あすの朝の魚を獲《え》てきたく思います」
と、松明をにぎって立ちかけた。
「よいではないか」
光秀が言ったが、弥平次はまだ前髪をのこした顔をにこにこさせて、
「好きなのです」
と、出てしまった。後年、光秀の部将として坂本城の湖水渡りなどという、さわやかな武《ぶ》辺譚《へんだん》をのこすこの若者は、そのような勇将になるとは思えぬほどに、おとなの心の機微を知りぬいたような感受性をもっている。
「妙な思いやりをするやつだ」
あとで、光秀は苦笑した。弥平次の、若い夫婦を二人きりにしてやりたいという思いやりが、光秀の胸にもひびいている。
その意味を知ってお槙は、暗闇のなかで赤くなった。
「こどもだとばかり思っていたが、いつのまにか、あんな出すぎた心づかいをするやつになっている」
「でも」
お槙の眼には、まだまだ少年に映っているらしい。
「子供っぽうございますよ、お齢《とし》よりも。道中をしていても、魚を獲《と》ったり鳥を刺したりすることばかりに執心で、わたくしを置きざりにしたまま森や川に入って、日が暮れそうになっても出て来ぬことが多うございましたわ」
「すると、いまのもごく無邪気にそうしたのかな」
光秀はお槙を抱きあげ、寝わらの上まで運んでゆき、そっと藁《わら》のなかに埋もれさせた。
お槙の小さな顔を両掌《りょうて》でかこい、かがみこんで唇《くちびる》を吸ってやった。
そこまでは、たがいに貴族育ちらしいつつしみも抑制もあるふるまいだったが、お槙がたまりかねたように夫の首の根にかいな《・・・》を巻きつけたときから、光秀の呼吸が物狂おしくなった。
「お会い致しとうございました」
とお槙があえいだ。わらのなかでお槙の白い脛《はぎ》が、ゆるやかに、むしろ典雅なほどのゆるやかさで動きはじめたとき、光秀にはもういつもの彼がいない。ただひたすらな身動きを、お槙のなかで果たしつづけた。
刻《とき》が経《た》ち、光秀はお槙をおこしてやり、その長い髪を指でと《・》いてわらくずを落してやった。
ふたりは、土間にもどった。
「もっと早くきくべきであったが、京では患《わずら》わなんだか」
「一度、風邪をひきました」
やくたいもない夫婦の会話がつづいたあと、ふと光秀は、
「おれは野心を、しばらく縮めたい」
といった。光秀にすれば、できれば朝倉家の軍師になり、窮乏している将軍家と結びつけ、朝倉氏執権のもとで足利《あしかが》幕府を再興するということであったが、いざこの一乗谷にきてみて、一足とびに朝倉氏軍師という高い立場が得られそうにないことがわかってきている。
「かといって軽い身分で仕官をしてしまえば、石高相応の軽い評価しか得られなくなるおそれがあり、そのことで悩んでいた」
しかしお槙と弥平次がこうして来てしまった以上、いつまでも小屋ずまいのその日暮らしでは済まされない。だから高望みは捨て、暮らしにそこそこの知行を取れるならば取ってみたい、と光秀はいった。
「あの……」
お槙は、眼をあげた。自分が越前にきたことは光秀にとってやはり邪魔だったのか、という意味のことを、声の表情でいった。
光秀には、感じとれたらしい。
「ちがう」
と否定した。が、すぐ、
「男を酔わしめるものは、胸中に鬱勃《うつぼつ》と湧《わ》いている野望という酒だ。わしはつねにその酒に酔ってきた。いまも酔っている」
と、関係《かかわり》のないことをいった。
「しかし」
光秀は、話題にもどった。
「酒に酔うだけでは人の世はわたれぬということを、近頃《ちかごろ》、やっとわかってきた。男はお槙、妻子を養わねばならぬ」
(まあ)
お槙は笑いだした。こんな簡単なことを、諸国流浪のあげくやっとわかったというのは、やはり、苦労知らずな育ちのせいかもしれぬ。
(というより)
この亭主殿のえもいわれぬよいところであろうと、お槙はおもうのである。
「おれはじつは、数日後に、兵法《ひょうほう》の試合をせねばならぬ。負ければ死ぬ」
「えっ」
「おれはな」
光秀は、他人《ひと》事《ごと》のようにいった。
「逃げようか、と思っていた。この越前一乗谷をだ。他愛《たわい》もない兵法者と打ち合いをして落命するには、この明智光秀が惜しすぎる」
「お、おやめなされませ」
「左様、しかしそなたがここへ来た。退転する気は消《う》せたわ」
「わたくしが来たために?」
なぜでございますか、わたくしが、もしお志の邪魔をしているならいまから京へ帰りまする、とお槙がせきこんでいうと、
「いやさ、そうではない。そなたが来たことによって、わしは力いっぱい、その兵法者と打ち合ってみる気になった。打ち合って勝てば、朝倉家のほうでわしを見捨ててはおくまい。二百石か三百石、その程度の物頭に取り立ててくれるはずだ」
それも妻をして飢えさせぬためだ、そのために戦うことも男の栄光の一つだということがわかった、と光秀はいうのである。
(そのような卑《ひ》賤《せん》の兵法者づれと)
お槙は、この場合どのようなことを光秀にいっていいかわからない。
お槙は、光秀の少年時代の、美濃明智郷ではほとんど神話的にまでなっている逸話を、胸の痛むような思いでおもいだした。
光秀の十二、三歳のころだ。
その夏、城のそばの河であそんでいて、葦《あし》の根に大黒天の木像が流れついているのを見つけ、城にもち帰った。
明智城の若侍たちが、
「大黒天を拾えば千人の頭《かしら》になる、という言い伝えがございます。若君様はかならず、御出世あそばしましょう」
と言うと、光秀はだまって鉈《なた》をもち出し、その大黒天を打ちくだいて火中に投じてしまった。
叔父の光安、つまり弥平次の父がこれをきいてよろこび、
「よくぞやった。さすが亡き兄の子だ。将来、万人の頭になり、大名《たいめい》をあげるであろう」
とほめると、光秀は冴《さ》えぬ顔をした。万人の頭、ということさえ、かれには不満だったのである。
(それほどのお人が、兵法者づれとたかが刀技を争うために命を賭《か》けねばならぬとは)
光秀の不遇と逆境をおもうと、お槙はどういう言葉でこれに酬《むく》いていいかわからない。
光秀の剣技そのものに対しては、お槙はふしぎと不安の気持がなかった。
槍術《そうじゅつ》と兵法は、明智城に流寓《りゅうぐう》していた中村閑雲斎《かんうんさい》という者が、光秀の幼少のころから付きっきりで教授し、長じてからは、閑雲斎でさえ敗れた西国牢人《ろうにん》の中川右《う》近《こん》という兵法者を、光秀は師匠にかわって稽《けい》古《こ》槍《やり》で立ちむかい、一合《いちごう》して相手の咽《の》喉仏《どぼとけ》を砕いている。
「だいじょうぶでございましょうか」
お槙が念のためにいうと、
「だいじょうぶだ」
とは光秀はいわない。着実な、実証的な思考を好むこの男は、その種の景気のいい法螺《ほら》がいえないのである。
「勝負は、そのときの運とそのときの気だ。腕など、二ノ次といっていい。それゆえわしにはなんとも言えぬ」
「――でも」
「案ずることはない。六角浪右衛門なる兵法使いを倒しても本来なにもならぬが、この際は、わしが食えるか食えぬかにかかっている」
自然、必死の気組がある。その点、防衛する側の浪右衛門よりも利があろう、と光秀はいうのである。
試合は、詳述してもつまらない。
光秀は握《にぎ》り太《ぶと》の黒《くろ》木《き》一本をぶらさげ、その刻限、楓《かえで》の下に立っている。
南側の幔幕《まんまく》のかげから、浪右衛門が四尺ばかりの木太刀をもってあらわれた。
ゆったり歩み寄ってくる。
その腰のさま《・・》、歩の運びよう、眼のくばりなど、さすがに尋常でない。
(おれよりも、技倆《わざ》はすぐれている)
と光秀は見てとったとき、いきなり自分の黒木の棒をすて、
「真剣で参ろう」
と、地を三歩、 《つか》に手をかけたまま歩み寄った。
真剣、ときいて浪右衛門には意外だったらしい。無用のたじろぎが、その眼に出た。
心に、混乱がある。
が、意を決して四尺の木太刀をすて、 に手をかけたとき、光秀が飛びこんだ。
浪右衛門の刀がすでに鞘《さや》をはなれ、光秀の頭に及んでいたが、光秀の抜刀はそれよりも早く袈裟《けさ》に一閃《いっせん》し、浪右衛門の右高胴《みぎたかどう》ににぶい音を立てていた。
瞬間、光秀は飛びちがえ、十数歩走ってふりむき、刀をおさめた。浪右衛門は死んでいる。
堺《さかい》と京
さて、信長のほうである。
このとし永禄《えいろく》四年の正月、信長は清《きよ》洲《す》城で新春の賀宴を張ったあと、
「すこし酔った」
と、つぶやきながら立ちあがり、奥へ引っこんでしまった。
――殿は酒にお弱い。
ということを広間に居ならぶ家臣どもは知っている。たれも怪しまなかった。
信長は、廊下をひどくゆるゆると渡ってゆく。
右手の庭の苔《こけ》に昨夜の雪が消え残っている。臥竜梅《がりょうばい》に、蕾《つぼみ》がほころびかけていた。
桜樹もある。
むろん枝はまだ春寒に堪えていて、蕾にはよほど間があろう。
(亡《な》き舅《しゅうと》の道三は、桜が好きであったな。あれほど桜の好きな男もめずらしかった)
ふと、そんなことをおもった。
(道三は、物好きな。――)
と、そんなことを思ったのは、尾張であれほど阿《あ》呆《ほう》あつかいにされていた自分を、奇妙なほどに愛し、器量をみとめ、ついにはその死にのぞんで、
「美濃一国をゆずる」
という譲状《ゆずりじょう》さえあたえてくれたのである。
(せっかく道三から美濃の譲状をもらっていながら、なおまだ一片の紙きれにすぎない)
新国主の斎藤義竜が、意外なほど美濃侍の信望を得ていて、容易には美濃に攻めこめそうにないのである。
(道三の仇《かたき》を討たねばならぬ)
とおもいつつも、月日が過ぎている。
空《むな》しく過ぎているわけではない。その間、桶狭《おけはざ》間《ま》(田楽《でんがく》狭間)に進襲して今川義元を討ち、東方からの脅威をのぞいた。
(あとは北方の美濃への進攻だ)
と思うが、まだまだそれだけの自信はなかった。
妙な男だ。
動けば電光石火の行動をするくせに、それまでは偵察《ていさつ》、政治工作のかぎりをつくし、万《ばん》々《ばん》負けることはない、という計算が確立してからでなければ、この男は容易に手を出さないのである。
「機敏」
という文字に臓《ぞう》腑《ふ》を入れて作られたような男であるくせに、「軽率」という類似性格を置きわすれてうまれついている。
が、宴席を脱け、廊下を渡っている信長は、べつだん、道三への懐旧の情にひたろうと思ってそうしているのではなかった。
奇想を思いついた。
だから家臣団の目の前を去ったのである。
(清洲のこの城から消えてやろう)
と、いうことを思い立ったのだ。
やがて濃姫《のうひめ》の部屋に入り、
「お濃よ、膝《ひざ》を貸せ」
と、それを枕《まくら》にごろりと寝ころがった。目をつぶり、思案をしはじめた。
「おねむいのでございますか」
「眠いといえば、いつも眠いわ」
うるさそうに手をふった。だまって居よ、という合図である。やがて、
「お濃よ、三十日ばかり、おれが城から居なくなっても騒ぐな」
「騒ぎませぬ」
「奥で風邪をひいてひきこもっている、と侍《おん》女《な》どもにはそう申しておけ。おんなどものうち、心確かな者にだけは明かしておけ。おれはしばらくなごや《・・・》の城に居ると」
「なごや《・・・》の城に渡《わ》らせまするのでございますか」
「聞くな」
余計なことは、というふうに信長は目をあけ、下から濃姫をみた。
すぐそのあと信長は茶亭にふたりの家老をよんだ。
柴《しば》田《た》勝家《かついえ》と丹羽《にわ》長秀《ながひで》である。
「京へのぼる」
と、いきなりいったから、二人とも身をのけぞらせて驚いた。
「なにを仰《おお》せられまする。四面敵にかこまれ、国中にもなお殿に服せぬ者がいると申しまするのに、京へなどと」
「堺へもゆく」
信長は、命ずるだけである。
「権六《ごんろく》(勝家)は城に残って留守を治めよ。五郎左(長秀)は供をせい。供は平服、行装《こうそう》はめだたぬように。田舎小名《いなかしょうみょう》が都見物にでもゆくようにこしらえるのだ。人数は八十人を超えてはならぬ」
「いったい、なんの目的で京や堺に参られるのでござりまする」
「見物だ」
例の叫ぶような口調でいった。それっきり口を噤《つぐ》んだ。
「シテ、御出立は?」
「いまからだ。馬に鞍《くら》をおかせておけ」
ぐずぐずすれば雷が落ちる。柴田と丹羽は跳ねとぶようにして消えた。
(京にいる将軍に会いたい)
それが目的の一つ。
(堺で、南蛮の文物《ぶんぶつ》を見たい)
それが目的の二つ目である。
むろんかれを駆りたてているエネルギーはこの男の度外れて烈《はげ》しい好奇心であるが、その好奇心を裏付けているずっしりとした底意もある。他日、天下を取るときのために中央の形勢を見、今後の思考材料にしたいのだ。
時期はいい。
人が屠蘇《とそ》酒《ざけ》に酔っている正月である。それに今川氏からの脅威が消滅したいま、この束《つか》の間の安全期間中を利用するしかない。
夜陰、清洲城を騎乗《うまのり》二十騎、徒歩《かち》六十人の人数が風のように去り、無名の海浜から船に乗り、伊勢へ渡った。
伊賀を駈《か》けぬけ、大和に入り、葛城《かつらぎ》山脈をこえて河内に出、羽《は》曳《びき》野《の》の丘を越えて和泉《いずみ》に入り、ついに堺の口に出た。
「これが堺か」
信長は馬をとどめて、前面の天を劃《かく》する一大都城の景観を見た。
まるで南蛮や唐土《から》の都市のように、町のまわりに濠《ほり》をめぐらし、土塁をきずき、その土塁の上には巨木を惜しげもなく使って柵《さく》を組みあげている。
(都市《まち》そのものが城なのだ)
日本の富はここに集まり、政治もことごとく町衆の自治でおこなわれている。諸国の武将も堺には兵を入れることができず、まして町中で戦争はおろか、喧《けん》嘩《か》口論をすることもできない。仇敵《きゅうてき》の仲といった武士なども、剣をぬいてたたかうためには都市《まち》の門を出てからでなければならない。
他の地方で交戦中の大名たちも、たまたまこの堺で顔をあわせれば友人のごとく談笑するのが普通、とされている。
「ベニス市のごとく市政官によって治められている」
と、信長がこの堺へきた年、やはりここを訪れた宣教師が報告している。
富商の多くは海外貿易を業としているため牢人《ろうにん》をかかえて兵士とし、船に乗りこませて海賊と戦う。それらの傭兵《ようへい》が町にあるときには、この自由都市の富と自治を守るための警備軍になっている。
「五郎左、十騎のみわしに従って入れ」
と信長は命じた。八十人もの侍を市中に入れることを堺は嫌《きら》うであろうと思ったのである。七十人は市外に分宿させた。
信長は蹄《ひづめ》をとどろかせながら濠にかかった板橋を渡り、大門へ入った。この門は日没後にとざされ、内側から巨大な吊錠《つりじょう》がおろされる、ということを信長は聞き知っている。
市中に入ると信長は馬を降り、徒歩になった。町並の華麗さは、尾張の田舎衆どもの目を奪うばかりであった。
信長は、宿場町に泊まった。妓《おんな》がいる。酒もある。酒は、客が望めば、赤や黄の南蛮酒も出した。
調度も唐風、南蛮風などがふんだんに用いられ、日本にいる思いがしない。
信長は、天性、伝統的な古くささがきらいで、新奇な文物を好む性質があったから、たちまち南蛮の品々のとりこになった。
翌日、商家の店さきをのぞきつつ、かれらが如何《いか》にしてこれほどの富を得たかを知ろうとした。
海外との交易である。
(かほどまで富が集まるものか)
交易というもののふしぎさに感嘆した。
ついで、港に出た。
唐船がいる。城のような南蛮船も、港の内外に碇《いかり》をおろしている。
「あの舷側《ふなばた》の大砲《いしびや》数の多さを見よ」
と、信長はとうとう声を放っていった。
港のあちこちを、絨製《じゅうせい》の衣服で身をまとった南蛮人がうろうろしている。
「あれらに餅《もち》をやれ」
と、信長は丹羽長秀にいった。
丹羽長秀はやむなくかれらを信長の前にあつめ、地に片膝《かたひざ》をつかせ、命ぜられたとおり餅をくばってやった。
南蛮人は、餅を掌《てのひら》にのせ信長を見あげながらひどく当惑している。
「汝《わい》らの国は遠いか」
信長は、突き刺すようにきいた。
言葉が通ぜず、南蛮人たちは首を振るばかりであったが、そこへかれらの船の通訳をしている唐人(中国人)がやってきて、信長とのやりとりを通訳した。
「ときに一年も海上に浮かばねばこの港市《まち》に来ることができませぬ」
「ほう」
信長は、かれらの驚嘆すべき冒険精神とそれを駆り進めている野心の壮大さに目をあらわれるような心地がした。
(おれも左様であらねばならぬ)
とチラリと思いながら、なおも、彼等の国の模様、政体、風俗などをきいた。
信長は数日、堺に滞在した。堺は、かれの気宇と世界知識を育てるための学校の役割りをはたしたであろう。
それまでの信長にとっては、
――日本を制《せい》覇《は》する。
ということは途方もなく大きな望みのように思われたが、この町の華麗な潮風に吹かれてみると、日本制覇などはひどく小さな野望にすぎぬようにおもわれはじめた。というより、
「日本制覇」
という概念が、この若者の空想のなかからぬけ出して、あたりまえの、ごく現実くさい志望としてかれの心に定着した。
数日たった朝、信長は堺を去るべく南荘の大門を出、そこに待っていた供の人数をひきつれ、街道を北にとった。
「殿、もはや国をお留守になされてずいぶんと相成ります。道をいそいでお帰りあそばさぬとどのような大事がおこっているやも知れませぬぞ」
「京へのぼるのだ」
信長は馬を打たせてゆく。
京で、将軍の義輝の寓居《ぐうきょ》を訪ね拝謁《はいえつ》を乞《こ》いたい。これは堺で膨《ふくら》ませた日本制覇への野望を現実化するための輝ける下調査なのだ。将軍と面識を通じておき、他日近国を切り取って実力を備えたとき、一挙に京にのぼって将軍を戴《いただ》き、その御教書《みぎょうしょ》によって、自分に従わぬ諸国の大名を打ちたいらげねばならぬ。堺の夢と京の現実、このふたつを見て肝に銘ずることが、こんどの信長の旅行の二大目的であった。京にはのぼらねばならぬ。
京に入ると、信長は二条にある日蓮宗《にちれんしゅう》の寺院に宿をとり、義輝将軍に使者を出した。
義輝は、居館がない。
ちかごろは足利家歴代の菩《ぼ》提《だい》寺《じ》である等《とう》持《じ》院《いん》に仮《か》寓《ぐう》しているが、いつどこから義輝の命を狙《ねら》う大名が押し寄せて来ぬともかぎらぬため、寺では、
――そんな巻き添えを食って焼かれてはかなわぬ。
と思い、義輝の滞在を迷惑がっている現状だった。
信長の家来が訪ねてきたとき、将軍側近の若い細川藤孝《ふじたか》が応対した。
「目通りを許す、とおおせられておる」
と、藤孝は答えて使者を帰した。田舎の大名がのぼって来れば手土産の金品を置いてゆくであろうし、朝廷への官位昇格の奏請権を将軍はにぎっているから、もしそれが希望ならばいくばくかの冥加金《みょうがきん》もとれるのである。来訪は決して迷惑ではない。
信長はきた。
室町《むろまち》風の礼式どおり信長はふるまい、はるかにシキイをへだてて将軍に拝礼した。
「織田上総介《かずさのすけ》でござりまする」
と、将軍側近の者が、はるか下座に平伏している信長を紹介した。
将軍義輝は、わずかにうなずいた。
数えて二十六歳の若者である。色黒く顔長く、眼光に異彩がある。
傑物の相《そう》ともおもわれぬが、首筋ふとく腕たくましく、信長が想像していた日本最高の貴族という印象からほど遠かった。
当然なことで、義輝はいま流行《はやり》の兵法きちがいで朝夕木刀をふるい、塚原卜伝《ぼくでん》からその奥義を皆伝されるまでになっている。
信長は無口な男だ。
将軍も当然、無口である。
拝謁はそれっきりでおわり、あとは別室で休息し、細川藤孝から懇切なもてなしをうけつつ、等持院を去った。
その夜、藤孝が信長の宿所にやってきて丹羽長秀に会い、
「お耳に入れておきたいことがござる」
と、意外な事実を教えた。
美濃の斎藤義竜からも家臣団が京にのぼっていて、数日前、将軍への贈りものを持ってきたという。それだけではない。
「噂《うわさ》では」
信長の上洛《じょうらく》をかれらは知っており、京で待ち受けて刺殺する密計だというのである。
細川藤孝はよほど織田家に好意をもっているらしく、斎藤家の家臣団の宿所まで教えて辞し去った。
さっそく丹羽長秀が信長に言上すると、
「デアルカ」
と、例の口癖でうなずいたきりである。
しかし夜明け前、信長はにわかに出発を命じ、路上に出、
「美濃の刺客どもが泊まり居る旅宿にゆく」
と寺僧を道案内に立たせた。
二条西洞院《にしのとういん》の臨済寺まで寺僧が案内してきたとき夜が明けた。
「寺をかこめ」
言うなり信長はただひとり、鞭《むち》をもって寺の門を入り、小僧をよんで彼等の宿所の庫裡《くり》に案内させた。
美濃衆は、庫裡のなかの三室ばかりを借りきって、いま床を離れたばかりであった。
まだ床のなかにいる者もある。
手洗《ちょうず》に立った者もあった。
信長は土足のままズカズカと室内に入り、仁王立ちに立って、
「身は、上総介である」
と、大喝《だいかつ》した。
室内にいる十二、三人の美濃侍どもは、この瞬間ほどおどろいたことはないであろう。みな跳ねあがって居ずまいを正し、その場その場で不覚にも平伏してしまった。
「巷間《まち》の噂では、そのほうどもは義竜の密命をうけて身を害せんとしているときく。王城の地にあって、不《ふ》埓《らち》のふるまい」
金を斫《き》るように鋭い声である。
「左様なことがあっては差しゆるさぬぞ」
彼等が頭をあげたときは、信長の姿はもう無かった。あわてて剣をとりに走る者、信長のあとを追って廊下を駈け出す者など騒然となったが彼等が二度目に信長を見たときは、信長が、背をむけて山門を出ようとしているところであった。
ふりむきもしない。
やがて門前で馬《ば》蹄《てい》のとどろく音が聞こえ、それが北へ消え去った。
信長は、尾張清洲へ帰った。
「信長が、ひそかに将軍に拝謁した」
という報《し》らせを、越前一乗谷の明智光秀が京の細川藤孝の手紙で知ったのは、北国の雪が解けようとしているころであった。
(尾張の信長が?)
従妹の濃姫の婿《むこ》だけに、光秀がつねにその名を意識の一隅《いちぐう》に入れている相手である。
(あの男にも、京に旗を樹《た》てる野望があるのか)
嘲笑《あざわら》って笑い捨てたい気持と、有能な競争相手に対する軽い嫉《しっ》妬《と》、
(あるいは道三殿が申したように、意外な器量の持ちぬしかもしれぬ)
というあらためて見直してみたい気持と、複雑にいりまじった感慨を味わった。
浮沈
六角浪右衛門との兵法試合に勝ちはしたが光秀の人気はいっこうに騰《あが》らなかった。
「食い詰め牢人《ろうにん》がふたり、楓《かえで》の馬場のすみで試合をし、一人が斃《たお》れ、一人が生きのこったそうな」
そんな程度の反響である。なんということであろう。
(これは意外な)
と、光秀も思わざるをえない。六角も光秀も命を賭《か》けて試合をしたのはおのが人気を得るがためだ。これでは死んだ六角でさえ浮かばれないではないか。
(六角もいい面《つら》の皮だ)
光秀は、あばら家のなかで思案にのめりこんでしまった。あれこれと理由を考えてみたのである。
まず。朝倉家は、越前の老大国である。なるほど五代前の朝倉敏景《としかげ》は近隣を切りとって覇府《はふ》を一乗谷に置き、家憲をさだめ、軍法、人材の登用法、武器の選択法、それに衣服、調度、放鷹《ほうよう》、猿楽《さるがく》などの日常の暮らしや娯楽にいたるまでの項目にわたって朝倉家の運営の基本方針をのこした。このころの朝倉家は、北国の太陽ともいうべき、かがやかしい存在だった。
それから五代経《た》っている。当主義景《よしかげ》は凡庸であり、重臣は偸安《とうあん》の暮らしに馴《な》れ、家臣団は安泰そのものの秩序のなかでねむっている。
(驚かぬのだ)
と、光秀はおもった。物に驚くという、若々しさと弾みにみちた精神をこの一乗谷の人々はうしなってしまっているのである。
(さればこそ、ふたりの牢人が兵法試合をして一方が勝ったということも、乞《こ》食《じき》の喧《けん》嘩《か》程度にしかみていないのであろう)
朝倉一乗谷という老朽した社会そのものの感受性が、老人のようににぶくなっている。こういう城下でいかにあがいてみたところで、
――一躍名をあげる。
という牢人の夢は遂げにくいであろう。
もっとも、光秀のかすかなる名声をききつたえて入門して来る者もある。
数人にすぎなかった。
それも、足軽かせいぜい足軽組頭、それに陪臣《ばいしん》といった雑人《ぞうにん》なみの連中ばかりで、このような門人を土台にして朝倉家に驥《き》足《そく》を伸ばすというようなことは一場の滑稽《こっけい》ばなしにすぎない。
かつ、かれらに刀術、槍術といった闘技を教えはしたが、光秀が真に教授したいと思っている戦略戦術の学問をかれらに教えるわけにはいかない。足軽に大将の軍略を教えたところで仕方がないではないか。
生活も、窮迫した。
なぜといえば、光秀はかれらから教授料《そくしゅう》をとらなかった。とればただの牢人師匠になりさがってしまう。ただでさえこの谷の尊大な人々は、光秀を、
――食い詰め者よ。
とみている。光秀は、かれの気位を維持するためにはたとえ餓死しようとも教授料はとれぬと覚悟していた。
それでも、なにがしかの米塩は、たれが持ってくるともなしに家に入る。それに、お槙《まき》が土岐一門の姫君あがりにしては工面が上手であったし、従弟の弥平次も、山に猟に行ったり川で魚介を獲《と》ったりして働くため、なんとか食いつないでゆくことはできた。
そこへ光秀が病気になった。
風邪がこじれたらしい。熱がとれず、食も細くなり、みるみる痩《や》せ衰えてしまった。肋《ろく》膜炎《まくえん》のようなものであったろう。
「それがしが代わって教授をつとめまするゆえ、ご安心して御療治くだされ」
と弥平次が甲斐々々《かいがい》しく言い、光秀に学んだ兵法や槍術を門人に教えたが、門人のほうでは、
――代稽古では。
という不満があって足が遠のき、ついに一人も来なくなった。
例の越前長崎、称念寺のそばに考庵《こうあん》という在郷《ざいごう》で知られた医者がいる。光秀とは多少の面識があり、わざわざ一乗谷に見舞にきてくれたが、その考庵が脈をとって、
「これはいかん。早々にそれがしの家の近所に引越されよ。薬代などは要りませぬゆえ、わが一心をもってなおしてみせまする」
と申し出てくれた。
光秀は一乗谷を去り、その郊外の長崎に移って称念寺の門前で小さな家を借りた。
(なんと運の悪《あ》しきことよ)
と思わざるをえない。
美濃を去ってから諸方を廻国修行し、足利家の若い幕僚である細川藤孝とも莫逆《ばくぎゃく》の契《ちぎ》りをむすび、たがいに幕府再興をはかろうとちかいあって彼は越前朝倉家にきた。義景を説得して京に兵を出させ、その軍事力と富力をもって義輝将軍を押したてて貰《もら》わんがためであった。
その野望たるや、平原の天にかかる虹《にじ》のように壮大華麗といっていい。が、現実は、朝倉家の家老にさえ近づき得ず、さらには一乗谷をさえ離れ、その草深い郊外で病熱と貧窮とに打ちひしがれている。
従弟の弥平次にしてもそうだ。光秀はつねづね弥平次に、
「わしが他日、大軍の采《さい》をとる身になったあかつきは、そちは家老筆頭になり、一城を守り、大領の鎮《ちん》撫《ぶ》もし、いざ合戦のときにはわしにかわって一軍の指揮もせねばならぬ。そのときになって器量不足をなげかぬよう、素養を積むことを怠ってはならぬぞ」
と言いきかせているのだが、現実の弥平次は、素養を積む《・・・・・》どころか、近郷の百姓にやとわれて行っては、畑打ちや草取り、縄《なわ》ないなどをして、わずかな玄米《くろごめ》をもらって帰ってくる。
お槙もそうである。
医師の考庵があるときお槙に耳打ちして、
「十兵衛殿の病いに効く薬は一つしかござりませぬ。申しかねるが、朝鮮人蔘《にんじん》でござる」
一匁《もんめ》が黄金一両という、とほうもない高貴薬である。
が、お槙は金を工面し、人蔘を買い、光秀にすすめた。光秀が病床から仰ぐと、お槙は寒念仏《かんねんぶつ》の尼がかぶるような白麻の炮烙《ほうろく》頭《ず》巾《きん》をかぶっている。
(髪を売ったのか)
と、光秀は気づき、この暮らしの悲惨さに慟哭《どうこく》したい思いがした。
(壮夫の貧はむしろ凜冽《りんれつ》としている。しかしその壮夫も妻をもち子をなし、その家族が貧に落ちるとき、もはや凜冽たる気は保てぬ。本当の貧が、志、気節をむしばみ、ついにただの貧夫になりさがってしまう)
とおもった。そういうとき、
(かならず他日、天下を取ってやる)
という思い以外に、この惨状のなかで自分の精神の毅《き》然《ぜん》とした姿勢をまもる手はなかった。光秀は、気持がみじめになればなるほど、そのことを想《おも》った。念仏僧が念仏をとなえ西方浄土の阿弥陀《あみだ》如来《にょらい》を欣《ごん》求《ぐ》する気持に似ている。弥陀の御名を唱えつづけるようにそのことに憧憬《あくが》れ、そのことを念じ、そのことを成《じょう》就《じゅ》できる道を考えつづけた。
一年で、病いは去った。
が、まだ病後の衰えが回復せず、本復とまではいかない。
そのとき、越前に戦雲がおこった。
越前の隣国は、加賀である。
加賀はもともと富《と》樫《がし》氏が守護大名で、二十三世五百年あまりもつづいてきていた。
富樫氏というのは、勧進帳《かんじんちょう》に出てくるあの富樫氏である。「平家物語」には富樫入道とあり、「義《ぎ》経《けい》記《き》」には、義経《よしつね》主従の道行をえがきつつ、
加賀の国の富樫と言ふ所も近くなり。富樫ノ介《すけ》と申すは、当国の大名なり。
とある。
その伝統のふるい加賀大名の家も、この物語の前編の主人公斎藤道三のうまれる数年前にほろび去っている。
ほろぼしたのは、宗教である。浄土真宗をとなえる本願寺の門徒が一《いっ》揆《き》をおこし、加賀の地侍と連合して富樫氏をほろぼした。
以後七十数年、加賀一国には統一大名がなく、地侍と本願寺僧侶《そうりょ》、門徒の三者合議によってなる一種の共和国家のようなかたちになっている。本願寺国家といってもいい。
この加賀本願寺国家も、つねに内部分裂や能登《のと》、越後、越前などとの交戦をくりかえして七十余年は決して安泰ではなかったが、とにかく後に信長の本願寺征伐まではこの「共和体制」はつづく。
「共和」といっても複雑なものだ。地侍がたがいに権力をのばそうとして国中がまとまりにくく、その間、さまざまな野心家が出ては消えている。
当節、加賀に、
坪坂《つぼざか》伯耆《ほうき》
という者がいる。
加賀の石川郡鶴《つる》来《ぎ》の地侍で、天才的な戦術家であり権謀家でもあり、にわかにこの「共和国」のなかで勢威をふるいはじめている。
売り出し中といっていい。
坪坂は、国内で権力をにぎるには野戦司令官として外征し、国外で勝つことによって国内での名声を確立しようとしているらしい。
「その坪坂伯耆が越前へ来襲する」
ときこえたのは、永禄《えいろく》五年の初秋で、しきりと間者を一乗谷付近に出没させていたが、いよいよ兵をひきいて国境付近を掠《かす》めはじめたのはこの年の九月であった。
「坪坂伯耆といえば智勇北陸道に冠絶した男だときいている。朝倉家はどうするか」
と、光秀は、称念寺門前の陋居《ろうきょ》にあって人のうわさをしきりと聞きあつめていた。
いよいよ出兵という。
言うほどに、朝倉義景は、家老朝倉土佐守に四千の兵をあたえ、みずからも一千の後詰《ごづ》めをひきい、加賀・越前の国境にちかい加賀大聖寺城《だいしょうじじょう》まで出陣して、そこに本陣をかまえた、という話をきいた。
「お槙、弥平次、秋《とき》はきたぞ」
光秀は弥平次にいそぎ旅支度をさせ、槍一筋、白扇一本をもって称念寺門前の陋居をぶらりと出た。
北へ。
大聖寺へゆく。
九《く》頭竜川《ずりゅうがわ》をわたると国境への道は、朝倉勢の荷駄《にだ》方《かた》の往来で混雑していた。
光秀は大聖寺に入ると、朝倉の本営付近に宿をとり、敵味方の様子を観望した。
敵の坪坂伯耆の人数は意外にすくなく、わずか千五百人だという。
朝倉勢は、五千である。
が、朝倉の陣中では敵の坪坂伯耆の作戦能力におびえ、士気があがらない。それに坪坂伯耆のひきいる加賀門徒兵は念仏信仰でこりかたまった決死の猛兵で、カブトの内側に南無阿弥陀仏の名号《みょうごう》を貼《は》り、
進めば極楽
退《ひ》けば地獄
という、宗祖親鸞《しんらん》も言った覚えのない奇妙な信仰をもっている。戦場で進む者のみが極楽で往生し、退却する者は地獄に堕《お》ちる、というこの時代の本願寺の出先僧侶が考案した非親鸞的な俗信であった。この信仰のもとに戦場を馳駆《ちく》するため、五千の朝倉兵は、少数の加賀兵に戦慄《せんりつ》し、前哨《ぜんしょう》戦ではことごとく破れていた。
(あすはどうやら決戦があるらしい)
という夜、光秀は弥平次をつれて最前線へ忍び入り、闇《やみ》にまぎれて敵陣に接近し、地に耳をつけて人馬のざわめきを聴いたり、前方の闇を見すかして異変を見わけようとしたりしていたが、やがて、
「坪坂はあすは朝《あさ》駈《が》けする、な」
と、つぶやいた。
やがて田畑や山林を横ぎって大聖寺にもどり、威儀をただして朝倉の本営を訪ねた。
軍営の門で朝倉の人数にとらえられたが、
「決して怪しい者ではござらぬ。美濃明智の出の者にて明智十兵衛光秀と申す者。朝倉土佐守殿に謁《えつ》を乞《こ》いたい。火急に申しあぐべきことがござる。御陣存亡の急に関することでござるぞ」
と、凜《りん》乎《こ》といった。兵は気押《けお》されて順をふんで朝倉土佐守まで取り次いだ。光秀は、陣中によばれた。
陣中を歩きながら、
(これはこのままでは朝倉の負けじゃ)
という確信を深めた。陣中が弛《ゆる》みにゆるんで、諸陣との連絡もわるく、どの陣幕の中、陣小屋のうちも、士卒が眠りほうけている。未明に坪坂伯耆に奇襲されれば、たちまちに混乱し、ひとたまりもないであろう。
朝倉の家老土佐守は、光秀を引見した。
縁の下にすわっている光秀を見て、
(わが屋敷の門前の小屋にて武芸、学問を教授しておった美濃牢人とはこの男か)
と、そのことをやっと思いだした。なんぞ申し立てたきことがあるのか――と土佐守は尊大にきいた。
光秀は沈《ちん》毅《き》な表情をつくって、
「御陣の危急がせまっておりまする」
明朝、陽《ひ》の昇るまでに坪坂伯耆は全軍をもって奇襲してくるであろう、と光秀は言い、相手の反応を見るためにしばらく沈黙した。
「加賀勢が朝駈けを?」
「左様」
「なぜそのようなことがわかる」
(馬鹿《ばか》な。兵学の初歩ではないか。それをも気づかずにのったり《・・・・》と眠りをむさぼろうというのは、どこまでこの家は阿《あ》呆《ほう》にできていることか)
敵は寡《か》兵《へい》である。すでに両軍は五里の間にまで接近している。敵が寡をもって衆を破ろうとすれば夜討か朝駈けしかないではないか。そのうち夜討のうごきは光秀が偵察《ていさつ》したところではまず無い。とすれば朝駈けである。坪坂伯耆が智将ならば当然やるであろう。
が、兵学というものは、右のような理をもって説けば有難《ありがた》味《み》がうすくなるものだ。とくに朝倉土佐守のような庸人《ようじん》に対しては、である。光秀はこういった。
「お疑いとあらば、高楼におのぼりくださりまするように」
といった。
土佐守は、手まわりの人数をつれて櫓《やぐら》の上にのぼり、敵陣の方角を遠望した。
闇である。
星がわずかに見えるほか、何もみえない。
「これなる方角が」
と、光秀は漠々《ばくばく》たる闇の一角を指さした。
「加賀の陣でござる。その御《み》幸塚《ゆきづか》の東の天に月の暈《かさ》のごとき茫《ぼう》っとしたる赤《せっ》気《き》が立っているのがみえませぬか。見えましょう」
「見えぬ」
「凡眼では見えませぬ」
とは、光秀はいわない。兵書によれば敵陣に赤気が立つときは朝駈けの兆《きざし》、という旨《むね》をつつましく言い、
「なおなおお見つめくだされ。御覧になれるはずでござりまする」
土佐守は、なおも見つめているうちに光秀がかけた暗示のせいか、なにやら赤い気がたちのぼっているようにもみえる。
「見えた」
「されば御用意をなされませ」
備えをして悪かろうはずがない。土佐守はすぐ陣に触れを出したあと、光秀に、
「もし的中したとき、恩賞には何を望む」
といった。
光秀はなにも望まぬ、といった。
「ただ、御陣のはしをお借り申して合戦をつかまつりたい」
とのべた。牢人が、合戦のあるときに、一方の将に頼み入って「陣借り」をし、功名のしだいでは取り立てを受ける、というのはこの道の常道である。
土佐守は、ゆるした。
果然、丑《うし》ノ下《げ》刻《こく》をすぎたころ、朝倉陣のまわりの草木がにわかに人と化して坪坂伯耆が奇襲してきた。
奇襲部隊は指物《さしもの》もつけず、たいまつ《・・・・》ももたず、具足の上に白い紙の肩衣《かたぎぬ》をつけて味方の目印とし、しきりと合言葉を呼びかわしながらやってきたが、すでに朝倉軍は数段の構えをしてこれを待ちうけていたため難なく撃退し、陽がのぼるとともに、はげしく追撃して敵に殲滅《せんめつ》的な打撃をあたえた。
光秀の功といっていい。
こうなれば朝倉土佐守といった田舎大名の家老などの場合、無邪気なほどの傾倒を示しはじめるものだ。
「ぜひ、推挙したい」
と言い、光秀を一乗谷につれて行って、わが屋敷に泊まらせ、数日して義景に拝謁《はいえつ》させた。
義景は光秀の都びた物腰や相貌《そうぼう》をひと目みて気に入り、当家に仕えぬかといった。禄《ろく》、わずか二百石である。
美濃攻略
さて尾張の信長のことである。
弘治二年四月二十日、舅《しゅうと》の道三が死んでからすでに五年経《た》っている。
その間、信長は何度か、
――舅の弔合戦《とむらいがっせん》をする。
と呼号していながら、木曾川むこうの強国「美濃」を攻めとることができなかった。
道三を謀殺した美濃の斎藤義竜が、意外なほど有能な統治者であることが、信長の野望をくじけさせつつあったといっていい。信長はこの五年のあいだ、ときに美濃領へ手を出したことがあるが、そのつど、義竜の巧妙な指揮と武強をもって知られる美濃衆のために撃退された。自然、信長のかかげている「舅の弔合戦」という旗はいたずらに歳月に古びはじめている。
ある日、信長は濃姫の部屋でごろ寝をしながら、
「おれは道三にだまされたのかもしれぬな」
といった。
「そうだろう、お濃。道三殿はかねがねわが義子《こ》の義竜のことを大男の薄のろ《・・》とののしっておった」
そのとおりだった。義竜は背が六尺五寸、体重が三十貫ある。常人ではない。
――ばけものめ。
と、道三は平素、義竜の名をよばずそんなぐあいに蔭口《かげぐち》を言い、事ごとにあほう《・・・》あつかいにしていた。
その義竜が、内実はともかく世間的には父であるはずの道三をほろぼして美濃の統治権をにぎってからというものは、どうみてもあ《・》ほう《・・》ではない。
国はよくおさまっている。美濃衆も、土岐家の血を受けている義竜に心服し、敬愛しきっている様子だった。
その上、兵は強く国は富んでいる。隣国の信長としてはつけ入るすきがなかった。
「どうやら蝮《まむし》のとんだ鑑定《めきき》ちがいであったようだ」
「そうでしょうか」
と、濃姫は是とも非ともいわない。美濃斎藤家は彼女の実家であり、当主の義竜は父をほろぼしたとはいえ、彼女はあの六尺五寸殿を真実の兄とおもって成長したのである。どちらかといえば彼女は、大男で人が好くて笑顔に愛嬌《あいきょう》のあるあの「兄」が好きであった。
信長は、濃姫に、義竜のことをこまごまときいた。そのいずれもが、「お庭でわらびをとってくれた」とか、「京塗りの小箱をくれた」とかいったたぐいの他愛ない話《わ》柄《へい》ばかりであったが、そのいずれもが、義竜のもっている人間味を知る上での好材料といえなくはない。そういう男なればこそ、美濃衆もかれに心服しているのであろう。
またあるとき。――
信長は、濃姫にこうきいた。
「義竜の娘で馬場殿と申される女《ひと》、国中でも評判の容姿であるそうな。そなたもきいているか」
「はい、左様に」
「そうか、聞いているか。さればそのむすめにわしの子をうませたいとふと思案したが、この思案、お濃はどう思う」
と、とほうもないことを信長はいった。まじめな顔つきである。
濃姫には、子がうまれない。子を得ねばならぬ必要上、ちかごろ信長は数人の女に手をつけ、何人かの子を生ませている。
濃姫は、答えなかった。
が、信長は濃姫の返答如何《いかん》にかかわらず、この「妙案」に熱中した。すぐ使者を美濃の稲葉山城にやり、義竜にこの旨《むね》を言わせた。
義竜にとって、物心ついてからこれほど不快な目にあわされたことはないであろう。
「尾張の小せがれが何をいう」
と、髯《ひげ》をふるわせて怒った。
「気でもくるったか。おれの家は美濃の守護職土岐家の嫡流《ちゃくりゅう》だ。信長の家は、もとをただせば尾張守護職斯波《しば》家の家来のさらに家来の家柄《いえがら》である。正妻として欲しいという望みでも高望みでありすぎるのに、妾《めかけ》とは何事だ」
と言い、使者を追いかえしてしまった。
使者が帰ってきてこの旨を信長に復命すると、信長も表面上は義竜の無礼な言いざまに腹を立てたふりをしたが、内心、
(六尺五寸も、やはりあほう《・・・》でないらしい)
と、感心した。信長の真意は、ひとつは面《おも》白《しろ》半分、ひとつは斎藤義竜という男の器量をはかってみたかったのであろう。
そのあと、
「お濃、妾の一件は不調であったぞよ。六尺五寸めはえらく腹を立ておったらしい」
と言うと、濃姫はさすがに眉《まゆ》をひらき、うれしそうに、
「まあ左様でございましたか。殿様にはお気の毒さまなことでございましたこと」
と言いおわったあと、ことさらに気の毒な顔をつくった。
(このひとは、何を考えているのか)
正直なところ、濃姫にも信長の腹の底がつかめぬことが多い。
こんな話もある。ある時期、信長は夜なかになると奥をぬけ出て本丸の最上の階にのぼり、窓から美濃の方角を見ている。それが夜ごとの習慣のようになった。
濃姫は不審におもい、ある日、
「殿様は夜になると美濃の方角をご覧あそばしていらっしゃるようでございますが、なにかあるのでございますか」
「火を見ているのだ」
信長は、無造作にいった。
「火を?」
「じつは美濃の宿老の者が、ひそかに義竜の前途を見かぎり、わしのほうに慇懃《いんぎん》を通じてきている。わしはその者に、もしその志がまことならば稲葉山城に火を放て、と申してやった。その火が、きょうあがるか、あすあがるか、と思って見ているのよ」
信長は、必要以上に癇高《かんだか》い声でいった。
濃姫付の侍女には、美濃から来ている者が多い。当然なことながら、尾張の情勢をなんらかの手段で美濃へ報《し》らせ送っている。
この者たちの耳にわざときこえるように信長はそんなうそをついたのである。
それが美濃に流れ、義竜の耳に入った。義竜は自然、重臣のたれかれを猜《さい》疑《ぎ》の目で見ざるをえなくなった。
が、美濃はそうたやすく崩れない。
意外なことで、崩れ初《そ》めた。
信長が、堺・京の視察からひそかにもどってきて、四カ月目のことである。
義竜が死んだ、という。
「まことか」
謀略家の信長自身、はじめはなかなか信ぜられなかった。
(おれを美濃におびきよせる策略ではあるまいか)
と疑った。なにしろついさきごろ、旅さきの京で信長は義竜の刺客に出くわしている。それほどまでして信長を討ち殺そうとしていた義竜が、自身はやばやと地上から消滅するとはどういうことであろう。
「真偽をさぐってこい」
と、信長は諜者《ちょうじゃ》を発したり、その他幾通りもの方面からの情報を得ようとした。その結果、事実だということがわかった。永禄《えいろく》四年五月十一日、義竜は稲葉山城内で急逝《きゅうせい》した。年三十五。
「かの持病で死んだか」
信長は、報告者にきいた。義竜には難治の持病があった。
「いいえ、卒中とのことでござりまする」
と、報告者は辞世まで写しとってきて信長にみせた。
三十余年
人天を守護す
刹《せつ》那《な》の一句
仏祖不伝
という禅臭い偈《げ》である。義竜は生前禅にこ《・》って別伝和尚《おしょう》という禅僧に帰依《きえ》していたからそういう辞世をつくったのであろう。禅にはなんの興味ももたぬ信長には、この文句の意味などわからない。
わかろうともしなかった。信長に鮮明にわかったことは、
(おれの前途が展《ひら》けた)
ということであった。
「喜太郎は馬鹿だ」
と、信長は、義竜の後継者のことをそのように評価していた。喜太郎、名は竜興《たつおき》、十四歳である。
義竜が死んだのは十一日、信長が確報を得たのはその翌日の十二日。
義竜の死の翌々日の十三日には、信長はにわかに甲冑《かっちゅう》に身をかため、出陣の陣貝《かい》を吹き鳴らさせ、清洲城の城門をとびだした。
(この機に美濃を討つ)
という性根であった。隣国の不幸ほど、当国にとっての幸福はない。美濃一国は悲しんでいようし土岐家の老臣たちも度をうしなっていよう。葬儀の支度でいそがしくもあるにちがいない。それが信長のつけめだった。信長は悪魔のような機敏さで行動した。
信長は国境の墨股《すのまた》付近に六千の兵を集結し、どっと西美濃へ押しだした。
付近の美濃衆の頭目である日比野《ひびの》下野守《しもつけのかみ》、長井甲《か》斐守《いのかみ》らは、信長の不意の来襲を稲葉山城に急報する一方、西美濃の村々へ陣貝を吹きならして屯集《とんしゅう》をもとめたが、怒《ど》濤《とう》のような織田軍の侵略に抗しきれず、いずれも首を織田方にあたえてしまった。
稲葉山城では宿老があつまっていそぎ軍団を編成し、一万をもって押し出してきたため信長はあっさり陣をひきはらって尾張へかえった。
美濃侍はつよい。その上、戦さ上手で知られている。同数以下の尾張勢の力ではとても歯が立たないことを信長は知りぬいていた。父の信秀の代から美濃・尾張の対戦で尾張勢が勝ったためしはほとんどなかった。
尾張にひきあげてから信長は、美濃衆への切りくずし工作を十分にしたあと、
「こんどこそ。――」
と、七月二十一日、一万の大軍を動員し、国境の木曾川に押し出し、川を人馬で埋めつつ美濃平野に侵入した。美濃に入るや、非常な勢いで稲葉山城下にせまった。
このときも、信長は惨敗《ざんぱい》している。
信長は木曾川を河田渡《こうだのわた》しから渡りおわるとすぐ柴田勝家を先鋒《せんぽう》大将として第一陣をひきいさせ、第二陣は池田信輝《のぶてる》、第三陣は丹羽長秀、みずからは第四陣をひきい、烈日の下を進撃させた。この渡河点から稲葉山城まではわずか十二、三キロしかなく、猛攻すれば一挙に稲葉山城下に攻め入れるであろう。
防戦に出た美濃軍は意外にも弱く、いたるところで破れた。それを追尾しつつ織田軍は揉《も》みにもんで進んでゆく。
(あらそえぬものだ。義竜の死後、美濃兵はこうも弱くなったか)
信長も内心おどろいた。美濃軍のにわかな弱さには十分の理由と解釈がつく。義竜の死、というその理由と解釈に信長はみずからまどわされた、判断力が曇った、といっていい。
信長はのちに戦略戦術の天才といわれたが、この当時まだ満二十七歳でしかない。いままでの経験といえば多くは国内の小《こ》競《ぜり》合《あ》いばかりで、わずかに奇襲戦をもって今川義元を屠《ほふ》った桶狭間(田楽狭間)の一戦だけが、かれの唯一《ゆいいつ》といっていい大軍団との衝突の経験であった。
(その桶狭間でおれは勝った)
という自信が信長にある。その自信が信長をしゃにむに《・・・・・》前進させた。
余談だが、戦術家としての信長の特色は、その驚嘆すべき速力にあった。必要な時期と場所に最大の人数を迅速《じんそく》に集結させ、快速をもって攻め、戦勢不利とみればあっというまにひきあげてしまう。その戦法はナポレオンに似ている。
手のこんだ、巧《こう》緻《ち》で変幻きわまりない型の戦術家ではない。その種の工芸的なまでの戦術家の型は、多くは甲州、信州、美濃北部といった地形の複雑な地方に多く輩出している。武田信玄、真田昌幸《まさゆき》、同幸村、竹中重治《しげはる》といった例がそうであろう。
信長は、一望鏡のように平坦《へいたん》な尾張平野で成長し、その平野での戦闘経験によって自分をつくりあげている。尾張は道路網が発展しているため兵力の機動にはうってつけだが、一面、地形が単純なため、ここで育った信長は山河や地形地物を利用する小味な戦術思想に欠けている。
美濃の地勢はその点、小味で陰性な戦術家を多くそだてている。
陽気《・・》な尾張の平野人たちは勢いに乗って猛進した。
ついに稲葉山城が目の前にせまっている長森まできたとき、天地が逆転したかとおもわれるほどの異変がおきた。
まわりの森、藪《やぶ》、土手、部落からおびただしい数の美濃兵が湧《わ》き出てきて、信長軍の両側を突き、かつ退路を遮断《しゃだん》し、さらにいままで退却をつづけていた美濃軍が、いっせいに旋回して織田軍の先鋒を突きくずしはじめたのである。
美濃風の戦鼓、陣鉦《じんがね》、陣貝が天地に満ち、織田軍は完全に包囲された。
(いかん)
とおもったときは信長は馬を尾張にむけさせ、戦場からの脱出をはかったが、美濃軍のなかでも猛将で知られる日根野備中守《ひねのびっちゅうのかみ》兄弟が信長の旗本をめがけて火の出るように攻め立ててくるため動きがとれない。
織田方の崩れを見て、稲葉山城から美濃軍の主力がどっと攻めかかり、織田軍を分断しつつ包囲殲滅《せんめつ》にとりかかった。
信長は身一つで血路をひらき、やっと尾張に逃げ落ちたが、対岸の美濃では羅《ら》刹《せつ》に追われる地獄の亡者《もうじゃ》のように織田兵が逃げまどって惨澹《さんたん》たる戦況になっている。
やがて陽《ひ》が落ち、暮色が濃くなるにつれて織田兵は救われた。闇《やみ》にまぎれてかれらは南へと退《ひ》きはじめた。
夜が、退却軍を救っただけではない。織田軍の一将校が、かねて野伏《のぶせり》の群れを稲葉山の峰つづきである瑞竜寺山《ずいりゅうじやま》の山麓《さんろく》に伏せさせておいた。かれらがかねての手はずどおり、山麓でおびただしく松明《たいまつ》を焚《た》き動かしたため、城を空けて野を駈《か》けまわっている美濃軍が、
「さては本城に織田方の別働隊がとりついたか」
と錯覚し、いそぎ包囲陣を解いて稲葉山にひきあげたため、織田軍はあやうく虎《こ》口《こう》を脱することができた。
この松明の虚陣を張らせて全軍を潰滅《かいめつ》から救った織田方の一将校というのは、この日一隊を率いて殿軍《しんがり》にいた木下藤吉郎秀吉であった。
さらに、信長を危地におとし入れた美濃軍の巧妙きわまるこの戦術は、
「十面埋伏《じゅうめんまいふく》の陣」
と、いわれるもので、その立案者――だと尾張方面に伝聞された人物は満十七歳の若者でしかない。
若者は美濃不《ふ》破郡《わのこおり》にある菩《ぼ》提山城《だいさんじょう》の城主で、竹中半兵衛重治といった。のちに半兵衛は織田家にまねかれ、秀吉の参謀となり、諸方の作戦に参画し、天正七年、播州《ばんしゅう》三木城攻めの陣中で病死する。いずれにせよ信長はこの合戦で、敵の半兵衛、味方の藤吉郎によって、智謀智略というものの価値の高さを知ったのであろう。
一方、明智十兵衛光秀はこれらのうわさを越前の一乗谷で聞き、
「さても信長とは働き者であることよ」
と、従弟の弥平次をつかまえて感心した。光秀にすれば、敗れても敗れても「美濃」という富強の土地に武者ぶりついてゆく信長のぶきみなほどのしぶとさにあきれるおもいもし、同時に、
(あの執念ならついには美濃を併呑《へいどん》するのではあるまいか)
とおもいもした。信長はすでにこの年五月に三河の徳川家康と同盟して東方の脅威を去っている。北方の美濃攻略に専念できるはずであった。
(もし美濃をとれば、天下を望むこともできるのではないか)
朝倉家に身を寄せている光秀としては、信長の成長は決してうれしい話題ではない。
光秀奔走
光秀の野望は、一つである。
「幕府を中興せねばならぬ」
ということのみであった。京で虚位を擁するにすぎぬ足利将軍家に天下の権をとりもどさせ、むかしどおりの武家の頭領としての威信を回復し、諸国の兵馬を統一し、それによって戦乱をおのが手におさめてみたい。
そういうことである。
(たかが、一介の匹《ひっ》夫《ぷ》の身で)
と、この光秀の野望のとほうもない大きさにお槙《まき》や弥平次でさえ、光秀のあたまを疑わしく思うことがある。
が、光秀とは妙な男だ。この男が、越前一乗谷の家の一隅《いちぐう》で荘重にこのことを語りだすと、聴いているお槙も弥平次も、自然と気持が高揚してきて心気おどり、眼前に極彩色の泰平の絵巻があらわれ出るような錯覚にとらわれるのである。
光秀、朝倉家で二百石。
かれが、独力をもって地上で得た最初の収入であった。
ところがその二百石の身代も、天下を志すかれにとっては大したよろこびではないらしい。
げんに朝倉家の家老朝倉土佐守にともなわれてはじめて義景に拝謁《はいえつ》したときも、
「思うところがござれば、御当家の客分にして頂きとうござりまする」
と言い、二百石の知行を辞退した。光秀の希望は、二百石の身分だけはもらい、知行地は要らない。家族が衣食できるだけのものを御《お》蔵米《くらまい》から受けとらせていただく。そのかわり進退の自由な客分にして頂ければ。
というものであった。
越前の王朝倉義景は、よほど凡庸な男であるらしい。こういう光秀の申し出について、
「なぜ左様なことを申す」
と疑問を投げるべきであった。下問してやれば光秀はここぞとばかりに「幕府中興の素志がござれば」と、答えたであろう。が、義景はなにもたずねず、
「それでよいのか」
と、格は二百石、客分とし、家老土佐守の預りとするなど、拍子ぬけするほど簡単に光秀の希望を容《い》れてしまった。
(ばかな屋形だ、なぜ理由をたずねぬかよ)
光秀は多少あせり、ある日、朝倉家の粟《ぞく》を食《は》んだ早々ながら、家老の土佐守のもとに衣服をあらため罷《まか》り越し、
「おねがいの儀がござる」
「どういうことか」
「京の将軍家がもとに参りたく思いますゆえ少々のお休暇《いとま》を頂戴《ちょうだい》したい」
田舎大名の家老の土佐守は驚いた。将軍家は衰えきっているとはいえ、天下第一の貴人である。その将軍のもとに、このあいだまでの牢人《ろうにん》がまるで実家《さと》帰りでもするようにらくらくと遊びにゆくとはどういうわけであろう。
「じつは」
と、光秀はいった。
「将軍家御《ご》奏者番《そうじゃばん》細川兵部《ひょうぶ》大輔《だゆう》藤孝《ふじたか》殿から、かようなごとき手紙が参っております。されば、いそぎ京へのぼらねばなりませぬ」
うそでない証拠にその手紙をひろげてみせた。その手紙をみて土佐守はまるで魔法にかかったように仰天し、
「人というのは、わかっているようでわからぬものだ。いったい十兵衛殿は何人《なにびと》であるのか」
と、言葉づかいまであらためた。
「左様」
光秀は口をひらいた。内実は将軍側近の友人であるにすぎぬ。しかし越前のような田舎で自分の楽屋を正直にいったところで仕方がない。
「手前はどういうわけか将軍に信頼されております。先年の秋、連歌の御催しにも伴席させて頂いたこともあり、いろいろと枢密《すうみつ》な相談にもあずかっておりまする」
「ほう、枢密なこと」
土佐守は小さな顔をふりたてて感服しきったような顔をした。
「シテ、このたびの御召しも、なんぞそのような大事なことか」
「察するに」
と、光秀は、細川藤孝からの毎度の手紙で読み知っている京の情勢をおもしろく話してやった。
京の将軍義輝は、三好《みよし》・松永といった阿波《あわ》と山城《やましろ》を地盤とする大名のために食いもの同然になっている。ところが二条の館《やかた》にすむ義輝将軍というのは年が若いうえに兵法の免許皆伝をうけたほどに気概のある人物だから、いつまでも三好長慶《ながよし》や松永久秀《ひさひで》のあやつり人形にはなっていない。
先年、越後の長尾輝虎《てるとら》の上洛《じょうらく》をもとめ、その力添えをたのんだことなども、三好・松永の徒と縁をきりたいという一念のあらわれであった。
輝虎は北越の猛兵をひきいて上洛し、おびただしい金品を献上した上、将軍に忠誠をちかい、しかも京を去るにあたって言上した。
「それがし京にあって三好・松永の徒を見ておりまするに、おそれながら彼等は将軍《くぼう》様《さま》を尊崇せぬばかりか逆意をさえ抱いていることはまぎれもござりませぬ。もしいま御命令さえ頂ければ、たちどころにかれら奸《かん》徒《と》を誅殺《ちゅうさつ》し、京を去る置きみやげにつかまつりましょう。いかがでござりまする」
輝虎は滞京中に将軍から、名家上杉《うえすぎ》の姓をつぐことをゆるされ、関東管領《かんれい》の名誉職まで頂戴し、形式だけながらも幕府の「重職」についている。その御恩がえしの意味と、輝虎の性格的な正義感からそういったのであろう。輝虎、のちの上杉謙信である。かれの軍事的能力をもってすれば三好・松永の徒など蠅《はえ》をたたくほどの苦労も要るまい。現に松永弾正少弼《しょうひつ》久秀などは、輝虎の滞京中は奴婢《ぬひ》のごとき態度で輝虎の旅館を毎日のように訪ね、その機《き》嫌《げん》をとることに夢中になっていたのだ。
「いかがでござりまする」
輝虎は、かさねていった。このとき、将軍義輝がただひとこと、
「されば殺せ」
といっておれば、のちの大害はなかったであろう。そこは利口で勇気があるようでも貴族育ちであった。ためらった。ついに、
「そこまでせずとも」
と、輝虎のすすめをしりぞけた。
輝虎と北越の軍団は京を去った。そのあと三好・松永の横暴はもとに復し、義輝の心楽しまぬ毎日がつづいた。
といって義輝はこの間《かん》、手をつかねたままで悶《もだ》えていたわけではない。義輝には謀才もあり、しかも細川藤孝のような謀臣がいる。
(いつかは三好・松永の徒を)
と思いつつ、京に近い、たとえば近江《おうみ》あたりの豪族のうちで将軍好きの者をそれとなくひきよせておく秘密工作をつづけていた。なにぶん越後の上杉は地理的に遠く、いざ軍事行動というときには間にあわないのである。
「将軍様も、ご苦労なことであるな」
と、土佐守は、光秀の噺《はなし》につい身を入れ、涙さえうかべていった。
「おそらく、細川藤孝殿がそれがしに相談したきことありと申されるのは、その一事でござりましょう。天下に頼むべき大名はたれとたれか、ということかと存じまする」
「わが朝倉家はどうだ」
と、土佐守はつい言った。
光秀はなぜか苦笑して答えない。土佐守は光秀の煮えきらぬ微笑が気になり、かさねて、
「どうだ」
といった。光秀はわざと視線をそらせ、
「いまは戦乱の世とはいえ、ここ十数年のあいだには統一の機運が出て参りましょう。はたしてたれが統一するか」
「たれだ」
「それがし案ずるに、いちはやく将軍に志を通じ将軍を協《たす》け、将軍の命のもとに諸大名を糾合し、将軍の命によって服せぬ諸大名を討ち平げる大名のみ、天下を統一する者かと存じまする」
(将軍にそれほどの権威があるものかな?)
土佐守は、光秀の天下統一方式にやや疑問をもったのはそのことだった。将軍の命をきくぐらいならとっくにこの乱世はおさまっているはずではないか。そう疑問を発すると、
「左様、おおせのとおりです」
と、光秀は微笑した。
「いまは将軍の権威はありませぬ。しかし天下に統一へのきざしがあらわれたとき、ふたたび将軍の存在は光芒《こうぼう》を放ちます。統一にはシンが要るものでございます。そのシンは将軍でなければならず、具眼の諸侯は当然そこに目をつけましょう。尾張の織田信長などはその最たる者かと存じまする」
「信長?」
朝倉土佐守はあざ笑った。織田家はその遠祖さえさだかでない家で、流《る》説《せつ》では先祖はこの越前の丹《に》生郡《ぶのこおり》織田荘の神官で、それがいつのほどか尾張へ流れて行った者の末裔《まつえい》がいまの信長であると土佐守はきいている。信長がちかごろどれほど東海地方で頭を出しはじめているにせよ、名家の朝倉家からすれば、わが領内から流れて行った者の末裔《すえ》にすぎない。
「信長が、それほどの者か」
「いや、存じませぬ。ただ、若年のくせにちかごろ京へみずから情勢探索に出かけたとのことを耳にし、怖《おそ》るべき時勢眼《がん》の者かな、と感じ入りましてござりまする」
「京へ。将軍様に拝謁したか」
「なんの。信長は上総介《かずさのすけ》を自称しているものの正式の官位もない卑《ひ》賤《せん》の出来《でき》星《ぼし》大名。将軍に晴れ晴れと拝謁できる資格などはございませぬ」
「そうであろう。そこへゆくとわが朝倉家などはちがう。歴《れき》とした越前の守護職であり、お屋形様が帯びておられる従《じゅ》四位左兵衛督《さひょうえのかみ》の官位官職もいまどき流行《はやり》の自称ではなく、ちゃんと京から拝領したものだ。わがお屋形様ならば、京にのぼれば天子にも将軍にも拝謁できる」
「されば、のぼられますか」
と、光秀は、いよいよ問題の核心をつくつもりで、じっと土佐守を見つめた。
「御上洛あそばすとすれば、拙者およばずながら京へ飛び、将軍、公卿《くげ》衆に工作し、お迎えの準備を万端ととのえまするが」
「いや、それは」
家老は、あわれなほどあわてた。義景が兵をひきいて京にのぼるとすれば、東方の加賀の本願寺門徒とも和《わ》睦《ぼく》をしておかねばならぬし、沿道に立ちふさがる近江の浅井、六角といった強力な大名と一戦するか、和睦をしてからでないと到底国を留守にすることはできない。またその度胸も、朝倉家にはなかった。
「いかがでござる」
「いまのところは、その気持はあっても近隣に足をとられて一歩も越前から出るわけにはいかぬ。気持は万々あるが」
「ござるな、お気持が」
「いかにも」
「されば左様な志のあることのみ将軍家にお伝え申しあげましょう。されど言葉のみでは意が通じませぬ。お屋形様の御書状を一通と、朝倉家の誠意をこめた献上の金品などをそれがしにお持たせなされませ」
光秀の将軍家や細川藤孝への面目《かお》も、それで晴ればれしくなるというものである。
「よいことを教えてくれた」
土佐守はむしろよろこび、それらを光秀の出発までに整えることを約束した。
ごく自然に、光秀は自分の独特の地位をつくりあげた。このときは、かれは最初の公式上洛でもあり、ごく短期間で越前へ帰ってきたが、このとき以後、越前朝倉家の連絡将校としてしきりと一乗谷・京のあいだを往来し、将軍家と朝倉家をむすぶ紐帯《ちゅうたい》となった。
当然なことだが、将軍義輝にも名と顔を記憶してもらえるようになった。それどころか三度目の上洛のとき、将軍義輝から、
「予はそちを直参《じきさん》のように思うぞ。そう思うてかまわぬか」
という破格な言葉さえたまわった。
光秀は無位無官の身だから、萩《はぎ》の花の咲く庭さきに土下座し、将軍は通りかかり、という体《てい》で濡《ぬ》れ縁に立っていた。この言葉が頭上から降ってきたとき、策謀家のわりには多感な光秀はがば《・・》と地に体をなげうち、噴《ふ》きあげるような涙で顔をよごしながら、
「御奏者番細川兵部大輔殿まで申しあげまする。光秀、生あるかぎり、いや、たとえこの身滅しまするとも、七度《たび》うまれかわって上様の御為《おんため》に身を粉にし骨を砕いてお尽し申しあげる覚悟でござりまする」
真実、とめどもなく涙がこぼれ、ついに光秀は草の上に泣き伏してしまった。光秀にはそんなところがある。この男のもっている意外な可《か》憐《れん》さに将軍義輝は当然感じ入った。だけではなく、そばに侍している細川藤孝さえ、袖《そで》をあてて目頭をぬぐった。
しかし藤孝は才覚のまわる男で、こういうさなかにも、明智光秀というこよない友人を将軍に売りこんでおいてやる親切と努力をわすれない。
「光秀殿は、朝倉家に禄《ろく》仕《し》しているのではなく客分であるそうな。そのこと、この際、大きに都合がよい。城池《じょうち》をうしなったとは申せ、もとをただせば美濃明智郷の住人にて土岐源氏の名流であり、根をたどればおそれ多くも将軍家の御血統と同根になる。当然、将軍家御直参と申してもさしつかえない。いまからはその御心組でおられまするように」
と、義輝の言葉に念をかさね、むしろその念を義輝にきかせるようにいったから、義輝もふと気づき、光秀に狩衣一襲《かりぎぬひとかさね》と白桐《しろぎり》の御紋入りの飾太刀一口《ひとふり》をあたえた。
光秀は押しいただき、
「おそれながらこの御品々は、光秀を御郎従のおんはしにお加えくだされましたるおん証拠と存じ、拝領つかまつりまする」
といった。
このことは、朝倉家における光秀の位置を一変させた。むろん給与される蔵米の高はかわらなかったが、家中の光秀を見る目が、「京の将軍家からの派遣者」というふうに変わり、義景に対しても家老同然の発言権をもつようになった。この変化も当然であったろう。他日、朝倉家が将軍を擁して立つことがあれば、光秀は将軍家派遣の軍監の役目につくことになるからである。
永禄《えいろく》七年になった。
この間《かん》、尾張の信長は美濃奪取の夢がわすれられず、いや忘れられぬどころか、美濃に食いついては美濃衆の逆襲によって叩《たた》きつけられ、追いかえされして執念ぶかい攻略をくりかえしていた。永禄四年以来、連年、連戦連敗をつづけて勝ったためしもないのに侵攻をくりかえしている。
(倦《あ》きもせずよくやることだ)
と越前の地で光秀は思い、信長の体質に身の毛もよだつほどの異常な執念ぶかさを発見し、考えこまざるをえなかった。
(あの執念ぶかさをみれば、あるいは信長こそ英雄といえる者かもしれぬ)
信長の性格を、その逸話から単に短気者とみていた光秀は、意外な思いがしはじめたのである。美濃攻略に関するかぎり信長の性格は、まずその貪婪《どんらん》さ、その執拗《しつよう》さ、この二つが世間に濃厚に印象づけられはじめている。いずれも英雄の重要な資質といっていい。さらに二敗三敗してもくじけぬ神経というのも、常人ではないであろう。さらに大きなことは、三敗四敗をかさねるにつれて信長の戦法が巧妙になってくることであった。
(あの男は、失敗するごとに成長している)
いや、光秀の越前からの観察では、信長は、成長するためにわざと失敗している、としか思えぬほどのすさまじさがある。
最近の情報では、信長は美濃侵略のために長年の居城の清洲を置きすて、美濃境によりちかい小《こ》牧山《まきやま》に城をきずき、急造の城下町をつくり、そこへ家臣の屋敷も移してしまったという。家臣団は生活の不便からこの移転をよろこばなかったが、信長は強行した。
(稲葉山城の咽喉《のど》の下から食いつこうとする算段だ)
などと、光秀はあきれたり怖《おそ》れたりしながら、尾張からの情報に異常な関心をもちつづけていた。
翌永禄八年、信長は相変らず美濃侵攻作戦を断念せず、いままで西濃を進攻路にしていたのを一転して東濃に刃《やいば》を転じ、この夏ついに東濃の一部に斬《き》り入り、その後一進一退しつつあるという噂《うわさ》を光秀はきいた。
ところが、この年五月、光秀の身にも重大な異変がおきた。
将軍義輝が、松永久秀の手で殺されたのである。
剣と将軍
この、京を戦慄《せんりつ》せしめた永禄八年の事件を、どこから物語ってよいか。
「弾正殿《だんじょうどの》」
と通称されている者がいる。官は弾正少弼《しょうひつ》で、名は松永久秀。
史上、斎藤道三《どうさん》とならんで悪人の代表のようにいわれている男だ。この物語のあるくだりで道三が弾正と会ったことがある。その当時、弾正は、京をおさえている大名の三好長慶の一介の執事にすぎなかった。
それが次第に成長し、いまでは三好家の家老ながら事実上三好家のぬしのようになり、阿波《あわ》、河内《かわち》、山城《やましろ》、京、といった、日本の中枢部をおさえている。
「弾正殿は悪人」
ということはたれ知らぬ者はないが、たれもこの弾正に手も足も出ない。強大な軍隊をもつ上に、智謀すぐれ、海千山千といった外交能力をもち、それに、近《きん》畿《き》地方のどの大小名よりもいくさがうまい。
三好家の吏員あがりだけに、文書にもあかるい。風雅の道も心得ている。京の公卿《くげ》、堺《さかい》の富商などと格別なつきあいを持っているのは、かれが当代有数の風流人であることにも大きにあずかって力がある。
かれの才能を証拠だてる一つは、かれの居城である信貴《しぎ》山城《さんじょう》である。
信貴山は、河内と大和の両国を屏風《びょうぶ》のようにへだてている生《い》駒《こま》・信貴山脈の一峰で、標高四八〇メートルある。
城は、大和側の山腹にあり、弾正はこれを永禄三年に築いた。永禄三年といえば信長が桶狭《おけはざ》間《ま》で今川義元を急襲して討った年で、弾正はこのころ、河内・大和の斬り取りにいそがしかった。
城に天守閣がある。
高く天空に屹立《きつりつ》し、大和平野を一望で見おろすことができた。城に天守閣をきずいた最初の例で、
「弾正殿は、一大楼閣を築かれたそうな」
という評判は、京の公卿、堺の町人のあいだで大評判となり、わざわざ見物にゆく者が多かった。そのうわさが尾張まできこえてきて、信長の耳に入った。
「面白《おもしろ》いことをする男だ」
すべて新規なものを好み、独創的な才能を愛する信長はよほどこの風聞に興味をもったらしい。が、かれがその「天守閣」をもつにいたるのは、このときから十六年後の安《あ》土《づち》城を築きあげるときまで待たねばならない。
「天守閣」
といっても、さほど実戦的な役に立つものではなく、むしろその壮麗な楼閣を天空に築きあげることによって、城主の威福を天下に示す、という、いわば宣伝の効果のほうが大きい。
当然、世人の心にも、
「さすがは弾正殿じゃ」
と、実力以上にこの男の像が大きく映り、その印象が諸国にまきちらされてゆく。
信貴山城をつくってから二年後に、弾正は主人三好長慶の世《せい》子《し》義興《よしおき》が意外に英明で自分をうとんじはじめていることに気づき、
(この若殿がいては、主家を自由にできぬ)
と、ひそかに毒殺してしまった。
父親の長慶はこのところひどくもうろく《・・・・》しはじめている。世間では、
――義興様を弾正殿が殺した。
ということを噂《うわさ》しているのに彼のみは病死したと思いこみ、悲《ひ》歎《たん》に暮れ、急に世をはかなみ、河内飯盛山《いいもりやま》城にひきこもって政務も弾正にまかせきりにし、からだもめっきり衰えた。このため弾正の独壇場になった。
弾正にはまだ一人邪魔者がいる。長慶の実弟の三好冬康《ふゆやす》であった。冬康は摂津茨木《いばらき》城の城主で連歌の名人として知られ、「集外三十六歌仙」の一人としてかぞえられている。
弾正は、耄碌《もうろく》した長慶に、
冬康殿にご謀《む》反《ほん》のお企てあり。
と讒言《ざんげん》し、長慶の同意を得、にわかに兵をおこして冬康を殺してしまった。長慶はあとで冬康の潔白を知ったがどうにもならず、憂《ゆう》悶《もん》のうちに衰死した。義興、冬康、長慶、という三人が相ついで死んだため、三好家はぬ《・》けがら《・・・》同然になった。弾正は三好義継《よしつぐ》という長慶の養子に主家を相続させ、それを擁していよいよ威をふるった。
長慶の死後、弾正にとってまだひとり、邪魔な男がいた。
将軍義輝である。
義輝は、なまじい気概をもってうまれついているために、弾正の意のままにはならない。
(なんとか工夫はないか)
と、弾正は思案した。
幸い、現将軍の叔父にあたる義維の子で、三好家に養育されている足利家の血すじの者がいる。十四代将軍義栄《よしひで》である。これを擁立すれば弾正の自由になり、ついには天下を掌握できるであろうとおもった。
(されば義輝将軍を殺さねばならぬ)
と、弾正は日夜思案をかさねた。
その不穏の気配は、当然、義輝にもわかった。義輝は乱世に生まれおちた将軍だけにわが身を護《まも》る神経だけは病的にするどい。ときどき弾正が、二条の将軍館にやってきて義輝の御機《き》嫌《げん》をうかがう。その弾正の顔つきをみただけで義輝は、
(弾正め)
と、異様さを嗅《か》ぎとった。
松永弾正は、美男である。
年少のころは少女にも見まがう美童で、長慶に閨《ねや》で可愛《かわい》がられたこともあったらしい。いまもその面形《おもがた》が豊かすぎるほどの頬《ほお》にのこっている。
齢《とし》にしては色が白く、眼が大きく、張りがあり、それに五十を過ぎた男のわりには唇《くちびる》の姿が可《か》憐《れん》であった。この一見、陽気で美しい顔立ちの男が、つぎつぎと主筋の者を謀殺して行ったとはとても思われない。
その弾正が、このところしばしば義輝に拝《はい》謁《えつ》を乞《こ》うては無用の風流ばなしをし、義輝の側近たちにも気味わるいほどの愛嬌《あいきょう》をふりまきはじめたのである。
それが義輝を警戒させた。
「あの男の笑顔が気味わるい」
弾正の笑顔が義輝の夢にまであらわれてそれがために義輝はしばしばうなされた。
「いっそ弾正を討伐なされましては」
と、細川藤孝はいった。討伐、といっても義輝には軍隊がない。近国の諸大名を頼むしかないのである。その計画も極秘でなければならない。もしその密謀が洩《も》れれば逆に将軍が弾正に殺されてしまうのだ。
「うまくゆくか」
「それがしが近国を駈《か》けまわってみましょう」
細川藤孝は密使となり、将軍の御教書を持って、さまざまの姿に変装して近国を駈けあるき、将軍に同情的な大小名を歴訪しはじめた。むろん越前朝倉家にいる明智光秀にも手紙をやり、
――いざというときには朝倉義景を説いて軍勢を京にさしのぼらせてもらいたい。
と頼んだ。光秀にまだ朝倉義景を動かすだけの勢力がないことは藤孝にもわかっているが、藁《わら》をもつかむ、というあの気持である。
むろん。――
万一の攻防にそなえて、将軍の二条の館の堀を深くし、塀《へい》を高くあげ、隅々《すみずみ》には櫓《やぐら》を組みあげる普《ふ》請《しん》にとりかかった。
この情報が、信貴山城にいた松永弾正の耳に入った。
(将軍《くぼう》にあっては、はや当方の意中をさとられしか)
猶《ゆう》予《よ》はできぬ、城普請のすまぬうちにこちらから仕掛けようと弾正は思い、腹心の林久大夫という者をよび、
「将軍の御日常をさぐって参れ」
と、探索にのぼらせた。
久大夫はさっそく京にのぼり、七条の朱雀《すざく》のあたりの裏町に住むなじみの妓《おんな》の家に逗留《とうりゅう》し、毎日外出しては、二条館のあたりをうろうろした。
時は、陰暦五月である。おりから梅雨どきで毎日霖《りん》雨《う》が降りつづき、二条館の普請もいったん中止になり、堀端には人影はない。京の市中の者にきくと、
「将軍様は、長雨のご退屈しのぎに、毎日、ご遊興なされている」
という。
久大夫は信貴山城に走りもどってその旨《むね》を弾正に報告した。
弾正は、襲撃計画の実施にとりかかった。むろん、河内飯盛山城にいる三好家の当主義継を総大将とし、いわゆる「三好三人衆」をも語らい、兵を発した。
といって、軍勢の形をとらず、人数を三十人、五十人ずつに分け、ばらばらにして京へ発向させ、それも道中、「西国のさる大名の家来が清水寺参詣《きよみずでらさんけい》のため京へのぼる」という体裁をとって世間の目をごまかした。
五月十九日の日没後、これらの人数は京の市中の要所々々に屯集《とんしゅう》した。総大将三好義継は兵四百五十をひきいて鴨川《かもがわ》べりの三本木に陣を布《し》き、松永弾正は烏丸《からすま》春日《かすが》正面、室町《むろまち》には十《と》河一存《ごうかずまさ》、西大路には三好笑岸《しょうがん》、勘解由《かげゆ》小《こう》路《じ》のあたりには岩城主税助《ちからのすけ》がそれぞれ陣を布き、二条館のまわりに犬一ぴきも通さぬ包囲網を完了した。
この夜、雨が降っている。
二条館ではすでに側近の武士が退出し、それぞれの屋敷にもどっていた。
邸内には、小姓と頭のまるい同朋衆《どうぼうしゅう》のほか戦闘力のある者はほとんどいない。
義輝の謀臣細川藤孝は、ここ数日来、京の郊外の乙訓郡勝竜寺《おとくにのこおりしょうりゅうじ》という土地にいた。ここに藤孝のわずかばかりの知行所と屋敷があったのである。むろん藤孝はこの夜の異変を夢にも知らない。
二条館の正門は、室町通に面しており、この門の改築だけは終了していて、城らしく櫓《やぐら》門《もん》になっていた。
雨がやや小降りになったのは、夜七時すぎである。夜八時、包囲軍はいっせいに松明《たいまつ》をともし、それぞれの街路をひしめきながら進み、堀端に来るや、弾正の手もとで打ち鳴らす太鼓を合図に喚《おめ》きながら堀にとびこみ、塀にとりつきはじめた。
「なんの物音ぞ」
と、奥の寝所ではね起きたのは、将軍義輝である。
(さては三好松永の党の謀《む》反《ほん》か)
と、さとり、念のため側近の沼田上総介《かずさのすけ》(細川藤孝の舅《しゅうと》)を走らせて偵察《ていさつ》させた。
上総介が館内を走って大手門にあたる室町口の櫓の上にのぼり、あたりを見まわすと、大路小路に松明の火がみちみちている。
「何者ぞ、謀反のやつらは。寄せ手の大将はこれへ名乗りをあげよ」
と、わめきおろすと、室町口の攻撃をうけもっていた十河一存が兵を静め、馬を堀端まで進ませ、
「三好修理大《しゅりのだい》夫《ふ》(義継)の手の者でござる。年来の遺恨を散ぜんがために今《こ》宵《よい》まかり参って候《そうろう》ぞ」
とどなりあげた。
沼田上総介は櫓門をかけおりて義輝のもとにその旨急報し、言いすてるなり宿直《とのい》の部屋に入って甲冑《かっちゅう》をつけ、二《に》人張《にんばり》の弓をとって櫓門にもどろうとすると、すでに門が打ちやぶられ、敵勢がわめきながら乱入するところだった。
義輝の小姓たちは真暗な邸内で手さぐりで具足をつけ、義輝のもとにあつまってきた。いずれも幕臣のうちの名家の子らで、畠山、一色《いっしき》、杉原、脇《わき》屋《や》、大脇、加持《かじ》、岡部といった、武家としては由縁《ゆかり》のある姓をもつめんめんである。
義輝は、この日がわが最《さい》期《ご》と覚悟したらしく、
「もっと燭台《しょくだい》を持て。座敷をあかあかと照らせ。酒はあるか。いそぎこれへ持て。肴《さかな》はす《・》るめ《・・》でよし。女官《にょうぼう》どもも集《つど》え。これにて最後の酒宴を張ろう」
と言い、その用意をさせた。
城館のあちこちから敵方の武者声、打ちこわしの物音がきこえてくるなかで、あわただしい酒宴がひらかれた。
小姓どもはみな若いせいか、すずしげな覚悟がどの面上にもある。そのうち細川藤孝の縁つづきの細川隆是《たかよし》という若者がするすると進み出て、
「ご酒興を添え奉る」
と言うや、女官からあでやかな小《こ》袖《そで》を借り、それを頭からかぶって舞を一さし舞った。
義輝は手を打ってそれを賞《ほ》め、
「その小袖をかせ」
といって、筆硯《ひっけん》をとりよせ、その小袖の上に墨くろぐろと辞世の歌を書きつけた。
五月雨《さみだれ》は
露か涙かほととぎす
わが名をあげよ雲の上まで
歌はさほどのものではないが、数え年三十のこの剣術好きの将軍の気概が、なまなましいまでに出ている。
「されば斬って出る。者ども名を惜しめ」
義輝は、剣をとって、立ちあがった。小姓たちは応《おう》、と武者声をあげるや廊下へとびだし四方に敵をもとめて走った。
義輝はその間に足利家重代の着背《きせ》長《なが》の鎧《よろい》をつけ、五枚錣《しころ》のカブトをかぶり、座敷の床の間に大刀十数本を積みかさね、単身、廊下を走って玄関の式台まで出、飛びかかってきた敵の首を剣光一閃《いっせん》、みごとにはねあげた。
剣は上泉《かみいずみ》伊勢守から手ほどきをうけ、塚原卜伝《ぼくでん》から一ノ太刀の奥義まで受けた達人である。義輝ほどの名人は、当代、そう幾人とはいないであろう。
玄関口はせまい。
一人々々が打ちかかってくる。その槍《やり》をはずし薙刀《なぎなた》をたたき落し、飛びこんでは敵の具足のすきまをねらって斬り、突き伏せ、あるいは首を刎《は》ね、すさまじい働きを示しはじめた。
(将軍は鬼か)
と、寄せ手はさすがにひるみ、遠巻きにして容易に踏みこまない。そのうち義輝は座敷に駈け込んでは数本の刀をかかえこみ、ふたたび玄関口にもどって、飛びかかる敵を斬った。
刀はいずれも足利家秘蔵の名刀である。ときには袈裟《けさ》にふりおろすと具足もろとも骨まで斬れる業物《わざもの》あり、そのつど義輝は、
「斬れる」
と、血しぶきをあげつつ高笑し、具足斬りをした刀はその場で投げ捨てた。金具を斬った刀は刃こぼれがして次の敵を両断することができないからだ。
義輝はもはやいっぴきの殺人鬼に化したといっていい。腕はある。死は覚悟している。征《せい》夷《い》大将軍の身でみずから剣闘をした男は鎌《かま》倉《くら》以来、明治維新にいたるまでこの義輝のほかはなかったであろう。さらには一剣客としても兵法《ひょうほう》(剣術)勃興《ぼっこう》いらい、これほどの働きをした男もなかった。
やがて城館の四方から火が出、火は次第に燃えあがって、玄関に移ったため義輝はしりぞいて座敷をトリデに奮戦するうち、敵方に池田某という者がいて背後から槍をもって義輝の足をはらった。
義輝はころんだ。
「すわ、おころびあそばされたぞ」
とその上から杉《すぎ》戸《ど》をかぶせ、義輝の自由をうばい、隙《すき》間《ま》から槍を突き入れ、くどいばかりに突き入れ突き入れしてついに殺した。
この変報を光秀がきいたのは、偶然なことながらかれが京にむかってのぼりつつある道中においてであった。
江州《ごうしゅう》草津の宿《しゅく》の旅館で、たまたま同宿した出雲《いずも》の御符《ごふ》売りからきいた。
(止《や》んぬるかな)
と、一時は自分の運のわるさに暗澹《あんたん》とする思いだった。光秀が朝倉家で占めている特異な位置はといえば、義輝将軍の知遇を得ている、ということだけのことではないか。その義輝が死んだとなれば、戦国策士をもって任ずる彼としては、魔法のたね《・・》を失ったようなものであった。
が、すぐ、この友情あつい男は、友人の細川藤孝の安危が気になってきた。
(共に、殉じたか)
藤孝は勇者である。十に九つまでは、将軍とともに斬り死したにちがいない。
光秀は、草津から六里二十四町の道を飛ぶようにいそぎ、京に入るやすぐ室町通を北上し、二条の館をたずねた。
すでに焼けあとでしかない。
光秀はつぎつぎに町の者をつかまえては当夜、将軍に殉じた人の名をきいてまわった。次第に様子がわかってきて、事件の当夜は、お側衆《そばしゅう》はほとんど下城していて、居合わさなかったことも知った。さらに藤孝が都を離れて知行地の勝竜寺にいることも知った。
(天命なるかな。細川藤孝ひとり生きてあるかぎり幕府はほろびぬ)
光秀は狂喜し、まず藤孝をさがさねばと思い、藤孝の所領である乙訓郡勝竜寺を訪ねるべく京をはなれた。
(きっと、藤孝はあの在所にもどっている)
そう確信したのは、松永弾正の一党は、つぎの将軍の位置にかれらの持駒《もちごま》である義栄《よしひで》を据《す》えねばならぬ必要上、幕臣の生命、身分、領地は保障するという布告を出しているからである。当然、藤孝は逃げもかくれもしていまい。
(藤孝に会って、幕府再建の方途をきめねばならぬ。松永弾正らは義栄様をおし立てるかもしれぬが、そうはさせぬ。おれは藤孝とふたりで別の将軍を擁立するのだ)
みちみち、そう思案した。思案しつつ気持が晴れてきた。考えようによっては、義輝の死によって、自分の前途が洋々とひらけてきた、ともいえるのではないか。
(おれの一生も、おもしろくなる)
光秀は懸命に足を動かし、若葉につつまれた南山城《やましろ》の野を南にくだった。
奈良一乗院
(暮れぬうちに)
とおもいながら、光秀は歩きつづけた。
暑い季節で、汗が下着から帷子《かたびら》まで、ぐっしょりと濡《ぬ》らし、それがしぼるばかりになったが、光秀はかまわずに歩いた。
(生涯《しょうがい》、おれはこの日、この野《の》面《づら》を歩きつづけている自分を忘れぬだろう)
南山城の野には、竹藪《たけやぶ》が多い。すでに竹は葉を新しくし、めざめるばかりの青さで、野面のところどころに叢《むらが》っていた。
やっと勝竜寺という部落に入り、
「細川兵部大輔(藤孝)殿のお屋敷はどこにあるか」
ときくと、守護の館《やかた》のことだから、村人は丁寧な物腰でおしえてくれた。
「あのむこうに、椋《むく》の木がございまするな」
なるほど、椋の大樹が、枝を天に栄えさせていた。
「あの椋をめあてにお行きなされまし」
行ってみると、藤孝の屋敷はさすがに守護の館らしく浅堀を掘りめぐらし、土《ど》塀《べい》を取りまわして四方一町ほどはある。
(荒れている)
門も屋敷もわらぶきで、そのわら屋根に青草がぼうぼうと茂っていた。
光秀は椋の木の下に立ち、門を丁々《ちょうちょう》とたたいた。
人は、出て来ない。
すでに、あたりは黄昏《たそがれ》はじめ、東の空に宵《よい》の月がかかっている。光秀は低徊《ていかい》趣味のある男だ。
(こうして黄昏のなかで門を叩《たた》いている自分を、いつかは思いだすだろう)
と、そんなふうに自分を一幅の大和絵のなかの人物に擬しながら、なおも丁々とたたきつづけた。
やっと門がひらき、郎党風の男が用心ぶかく野太刀を握って顔を出した。京の変事があっていらい、不意の来訪者にはここまで用心しているのであろう。
「兵部大輔殿に申し伝えられよ。越前一乗谷の明智十兵衛光秀がご安否を気づかい、京から駈《か》けに駈けてただいま参着した、と」
「あ、明智様で」
郎党は、光秀の噂《うわさ》などを主人から聞き知っているらしい。ほっとして、
「主人もよろこぶでござりましょう。これにてしばらく」
と、いってひっこんだが、待つほどもなくこんどは主人の細川藤孝みずから飛び出してきて、
「十兵衛殿」
と、声をつまらせ、手をとった。よほど感動したものであろう。宵闇《よいやみ》で表情《かお》こそさだかに見えなかったが、泣いているようであった。
「さ、ここではなんともならぬ。破れ屋敷ながらどうぞ内へ。さ、お入りくだされ」
と藤孝は導き入れ、客間に通し、小女《こおんな》をひとりつけて汗ばんだ衣服を着かえさせた。
その間、藤孝は姿を消している。
(どうしたか)
光秀は、風の通る縁に出、ぼんやりと端《はい》居《し》して藤孝を待った。
部屋は、見まわすのも気の毒なほどに荒れはてている。
(世が世ならば従《じゅ》四位下、兵部大輔の官位をもつ幕臣といえば大そうなものであるのに、この惨澹《さんたん》たる住いはどうであろう)
やがて藤孝が、衣服をあらため、髪をと《・》きあげて出てきた。この点、行儀のいい男で、さすがは室町風の殿中作法のなかで育った男らしくて光秀には好ましかった。
「ただいま、茶の用意をしております」
と、藤孝はいった。
(これはこれは)
と、光秀は思わざるをえない。細川藤孝は茶道の本場の京の、さらにその本場の室町御所(将軍館《やかた》)で風雅をきたえ、そのなかでも錚々《そうそう》たる若茶人としてきこえている。
(暮らしも苦しいであろうに、客を遇するに茶道をもってするとは、なかなかできぬことだ。しかも一介の田舎侍のおれに)
とおもえば、光秀の胸に感動と畏《い》敬《けい》がわきあがってくる。
「支度ができるまでのあいだ、兄弟同然のお手前に、わが妻を引きあわせたい。さしつかえはござるまいか」
「なんの差しつかえがございましょう。藤孝殿のご内儀と申せば、先日、二条館の松永弾正討ち入りのときにみごと討死あそばされた沼田上総介《かずさのすけ》殿のお娘御であられましたな。公《く》方《ぼう》(将軍)様のことはさることながら、ご愁傷しごくに存じ奉ります」
「いやいや、そのこと、いまは申されるな。別屋にてゆるりと愚痴もきいて頂き、ご意見もうかがわねばなりませぬ」
ほどもなく、藤孝の妻があらわれ、光秀にあいさつをした。
まだ未婚の姫御前のように稚《わか》い。光秀も、鄭重《ていちょう》にあいさつをかえした。
やがて乳母らしい女があらわれ、満一歳になったかならぬかの男の児を抱いていた。
「惣領《そうりょう》でござる」
と、藤孝は、その幼児を紹介した。光秀はにじり寄って、幼な顔をのぞきこんだ。
眠っている。
「あどけないなかにも眉騰《まゆあが》り、唇ひきしまりみごと武者所《むしゃどころ》の別当(長官)といったお骨柄《こつがら》のように見うけられます。ゆくすえあっぱれな大将におなりあそばすでございましょう」
この子が、のちの細川忠興《ただおき》である。光秀の娘お玉(ガラシャ夫人)をめとり、関ケ原の陣で活躍し、肥後熊本五十四万石に封ぜられる。が、この幼児とそういう因縁をむすぶに至ろうとは、のぞきこんでいる光秀にはむろんわからない。
茶室の支度ができた。
案内されて客の座にすわると、茶ではなく、一椀《わん》のとろろ《・・・》が出た。
(心憎い)
と、光秀は椀をとりあげながらおもった。茶とは客を接待する心術であるとすれば、遠道を駈けてきた空腹の光秀にいきなり茶をのませるよりもまずとろろ《・・・》で胃の腑《ふ》にやわらぎをあたえさせ、ゆるゆると精気を回復させる心づかいこそ、茶の道というべきであろう。
「いかが、いま一椀」
といって、藤孝はくすくす笑っている。茶室に案内し、客を炉の前にすわらせながら、茶ではなくとろろ《・・・》をすすめている自分がおかしかったのであろう。
「これは、とろろ《・・・》茶でござるな」
光秀も、めずらしく下手な冗談をいって笑った。光秀の特徴は諧謔《かいぎゃく》を解さないところであったが、この場のおかしさだけはどうにかわかったに相違ない。
やがて山菜、鯉《こい》のなます《・・・》が運ばれてきて酒になった。
その間、京の変事についての情報はたがいに交換しあっている。
「弾正ほど悪虐《あくぎゃく》な男はいない」
と、藤孝はいった。
将軍義輝を殺しただけではないのである。
義輝の弟で鹿苑《ろくおん》寺《じ》(通称金閣寺)の院主になっている僧名周リ《しゅうこう》という者がいる。あの夜、平田和泉守という者に別働隊をひきいさせ、鹿苑寺にやって周リに拝謁《はいえつ》し、
「おそれながら、御兄君の将軍様が、二条のおん館にて連歌を興行あそばされておりまする。その席へ早々におよびし奉れ、というお下知《げち》にて、手前、お迎えに参上つかまつりましてござりまする」
といわせ、周リをひきださせた。
周リは、数えて十七歳である。疑うこともなく平田和泉守に導かれて鹿苑寺門前から輿《こし》に乗り、人数にかこまれつつ坂をおりた。
人数は、ゆるゆると進む。
紙屋川のあたりで日が暮れたが、奇妙なことに人数は先導二人が松明《たいまつ》をもつのみで、いっさい燈火を用いない。すでに雨がふりはじめている。
紙屋川の土手ぎわにさしかかったときにさすがに周リはふしぎに思い、
「泉州《せんしゅう》、泉州」
と、平田和泉守をよんだ。といって周リはこの阿波《あわ》うまれの三好家の重臣をよく知っているわけではない。
「泉州、なぜ灯をつけぬ」
「おそれながら」
と、平田和泉守は輿《こし》に近づき、阿波なまりでこのようにいった。
「念仏をおとなえくださりませ」
「なに?」
「念仏こそ無明長夜《むみょうちょうや》の炬燈《あかり》と申しまするゆえに」
と、悲痛な声調子《こわぢょうし》でいう。無明長夜とは死んだあとたどるべき黄泉《よみじ》の暗さ、長さを表現することばである。その無明長夜をゆく死者の松明こそ念仏である、という思想が、当節はやりの一向宗によってひろめられ、一種の流行語のようになっているのである。
「されば御免」
と平田和泉守は叫ぶや、周リをひきよせ、その胸元を短刀で一突きに突き、すばやく首を掻《か》き切った。
輿は死《し》骸《がい》と首をのせたまま進んだ。
そばに平田和泉守がつき従ってゆく。が、さすがに後生のわるいことをしたと思ったのか、しきりと念仏をとなえ輿の上の首にむかって、
「お恨みくださりますな。あなたさまが武門の頭領の家におうまれあそばされたことがわるいのでござりまする。種《しゅ》(血筋)貴ければ殃《わざわい》多し、なにとぞ来世は、庶人凡《しょにんぼん》下《げ》の家におうまれあそばしますように」
と口説きつづけた。
人の運など、わからない。ほんの数分後、この念仏好きの平田和泉守みずからが、不覚にも周リのあとを追って黄泉へ急いでしまった。
亀助《かめすけ》という者がいる。上京《かみぎょう》の小川に商い屋敷をもつ美濃屋常哲《じょうてつ》という者のせがれで、世話する者があって周リの雑色《ぞうしき》となり、外出のときには荷をかついだり、傘《かさ》などさしかけてこまめに仕えていた。
それが輿わきに従っていて、暗夜ながらもこの異変に気づいた。豪胆な男で、叫びも逃げもせず息をひそめて歩きつつ、加害者平田和泉守の様子をうかがっていたが、和泉守は周リを討ってから影まで細るほどに気落ちしている。
(いまぞ)
とおもい、腰に帯びた二尺の打物を音もなくひきぬき、和泉守のそばに忍び寄るなり、背から腹にかけて突き通し、声もあげさせずに斃《たお》してしまった。
「奸人《かんじん》、覚えたか」
と叫んだのがわるかった。人数がさわいで和泉守のそばに近づき、
「松明、松明」
と火をよびよせてみると、たったいま念仏を唱えていた男が、地上で長くなっている。
「下手人はたれぞ」
と、松明をたかだかとかかげてあたりをみると、亀助がいた。
亀助は小者の身でこれほどの武士を討ちとったあととて、なにやらぼう然としている。
「おのれか」
と問い詰められてからわれにかえり、ぱっと逃げた。うしろが、農家の軒だった。
その農家の戸を後ろ楯《だて》にとって亀助は剣をかまえ、斬《き》りふせいだ。亀助はすでに死を決している。奮迅《ふんじん》の勢いでたたかった。
「近所の衆に申しあげる。三好殿の家来平田和泉守、たばかって、鹿苑寺院主周リ様を弑《しい》し奉ったぞ。されど周リ様家来美濃屋の亀助、その場にて仇《あだ》を報じたり」
と、市中にひびけとばかりにどなった。
その声をめあてに一人が真二つとばかりに斬りおろしたが、その太刀が軒先をざくり割ったがために胴が空き、その胴を亀助が力まかせに斬り割った。
が、やがて亀助は乱刃《らんじん》のなかで死んだ。この噂は翌朝市中にひろがり、三条のほとり夷《えびす》川《がわ》の辻《つじ》に落首がかかげられた。
滾《たぎ》りたる泉(和泉守)といへど
美濃亀が、ただ一口に飲み干しぞする
その落首は、事件直後、京に馳《は》せのぼった細川藤孝が、ひそかに三条夷川の辻に行って写しとってきた。
それを、この席で光秀にみせた。
「美濃屋?」
光秀は自分の生国だけに、まず亀助の実家の家号が気になった。
「亀助の父は、何者でござるか」
「市中の噂では美濃屋常哲というあきんどのせがれであるそうで」
「あ、美濃屋常哲といえば通称を小四郎と申し、京の上、小川町に住む者ではありませぬか」
「左様、そのように聞きました。お知る辺《べ》の者でござるか」
「いかにも」
光秀は縁のふしぎさに驚いた。美濃屋常哲はもともと武儀《むぎ》小三郎と言い、明智家の家来であった。明智城が陥《お》ちてから斎藤義竜《よしたつ》の追手をのがれて京に出、両刀をすてて商人になった。光秀は常哲が旧臣であるところから、京にのぼったときはときどき宿として使っていたのである。しかし亀助という若者には会ったことがない。
「左様か、お手前の旧臣のせがれでありましたか。これは奇妙不可思議な」
と藤孝も息をのむような表情である。
「それにしても美濃人のけなげなることよ。お手前は美濃源氏の名家の出とはいえ、すでに城も奪われ家もほろんで天下を牢浪《ろうろう》なされながらなおかつ幕府の再興に望みをおかけくだされている。それさえ奇特と存じていますのに、いまお手前の旧臣のせがれが、雑色の身で太刀をふるって周リ様の仇《かたき》をとった。われわれ幕臣としてはむしろ恥じ入らねばなりませぬ」
亀助の事件は、いよいよ藤孝の光秀に対する気持を深めたようであった。
「して、ほかに?」
と、光秀はきいた。ほかにこの京都事件の情報はないか、というのである。
「左様、御所もお慌《あわ》てなされたらしい」
「そうであろう、一夜にして征《せい》夷《い》大将軍がお亡《な》くなりあそばしたゆえ、公卿《くげ》衆は狼狽《ろうばい》したことでありましょう」
「関白以下が、大騒ぎをなされた」
二条の義輝将軍の館は、御所に近い。この突然の夜戦に公卿衆は大さわぎし、万一の場合に帝《みかど》を叡山《えいざん》に御動座申しあげる支度をしつつ、御所の諸門をかためたが、暁《あ》けがたになってみごとな甲冑《かっちゅぅ》に身をかためた若い武士が三十人ばかりの人数をひきつれて御所の門外まで近づき、大音をあげて昨夜の始末を語り、
「されば将軍家はもはやこの世におわしませぬ。向《こう》後《ご》、朝廷の御用はそれがしがうけたまわることに相成りまする」
御所内から蔵人《くろうど》(宮中の庶務をあつかう職員)が出てきて小門をあけ、
「そなたは、どなたでおじゃるか」
とおそるおそる聞くと、その武士は、
「さん候《そうろう》。それがしは三好修理大夫義継という者でござる」
と言い、馬首をめぐらして去った。三好義継というのは、松永弾正が自分の言いなりになる主人として三好家を継がせた男である。
「三好・松永の徒は、本国の阿波で養育してきた義栄殿を奉じて将軍とし、天下の権をほしいままにする狼心《ろうしん》のようでござるな」
「その狼心、粉砕せねばなりませぬ」
と、光秀は言下にいった。
「当然」
藤孝はうなずき、さらに、
「それには、御先代義晴公の御《おん》次《じ》男《なん》の君にて幼いころに僧におなりあそばされ、いまは奈良一乗院の御《ご》門跡《もんぜき》としておすごしあそばしている御方を、将軍として奉ぜねばなりませぬ」
「あ」
光秀は、そういう嫡流《ちゃくりゅう》が僧になっているということを知らなかった。亡き義輝の弟で、路上で殺された周リの兄である。
「その一乗院門跡は、三好・松永の毒手におかかり遊ばされなんだのでございますか」
「左様、幸いにも」
と細川藤孝はうなずいたが、憂《うれ》いの色が濃い。毒手にこそかかっていないが、三好・松永の徒は義輝を殺すと同時に奈良に別働隊をさしむけ、一乗院を包囲し、その門跡が脱出せぬように厳重な監視をしているという。
門跡は、僧名は、覚慶《かくけい》。
のちの十五代将軍義昭《よしあき》である。
「いかに」
と、光秀がいった。声が思わず慄《ふる》えた。
「敵方の警固が厳重であろうとも、それがし、一乗院に乗りこみ、命を賭《と》して御門跡を奪還し奉りましょう」
言ってから光秀の両眼が、ぎらぎらと異様に光った。いかにそれが難事であろうとも、わが身が世に躍り出る機会はこの奪還の一挙にしかない、と光秀はおもった。
「やってくださるか」
藤孝はにじり寄って光秀の手をとり、
「天下ひろしといえども、この将軍後継者の奪還に命をすてようとしているのはわれら二人しかない」
藤孝の顔に、噴《ふ》き出るほどの血がさしのぼった。
奈良坂
奪還。――
という冒険は、光秀の血をはげしく燃えたたせたようである。
(この挙こそ、生死を賭《か》けるに値いする)
光秀は、そうおもい、才智のかぎりをつくして、毎日毎夜、細川藤孝とその作戦を練った。
まず、奈良の情勢をさぐらねばならぬ。ふたりは奈良にくだった。
奈良の油坂に、鎌倉《かまくら》屋という、茶道具などを商う店がある。主人は柏斎《はくさい》といい、京にも往来して藤孝とも懇意であった。この時代、武士は反覆常なく、その節義など頼りにならないが、むしろ商人《あきんど》のなかにこそ侠気《きょうき》のつよい者が多い。鎌倉屋柏斎などは、その典型的なひとりであった。
ふたりはこの油坂の鎌倉屋に足をとどめ、秘謀をうちあけて頼み入ると、
「それがしを男と見てくだされたか」
と、柏斎はよろこび、身をくだいても協力つかまつろう、と言いきってくれた。
鎌倉屋柏斎は、かねて一乗院門跡《もんぜき》に出入りをゆるされており、覚慶門跡にも可愛がられている。
その縁で、
「御門跡様への、密書の使いをたのまれていただきたい」
というのが、光秀と藤孝の頼みであった。
「お安いこと」
鎌倉屋柏斎は二人に心配をかけぬようにわざと気軽にいったが、じつのところ、なまやさしい仕事ではない。三好・松永の兵が、一乗院の門という門にびっしり屯《たむ》ろし、あやしいものは猫《ねこ》いっぴきといえども出入りさせない。
が、柏斎はそこは奈良では知られきっている顔である。賄賂《まいない》などもつかい、門内に入り、やがて奥へ通されて覚慶門跡に拝謁《はいえつ》することもできた。
「柏斎か、なんの用でまかり越した」
ひどい吃音癖《きつおんへき》があり、いらいらと長い眉《まゆ》を動かしながら、そういった。
覚慶、数えて二十九。
さすが足利将軍家の嫡流だけに気品のある顔だちをしているが、この日は眼が血走り、頬《ほお》に毛穴が黒ずんでみえる。三好・松永の徒に、いつ殺されるかわからぬ自分の運命に、すっかり参ってしまっているらしい。
「御所さま」
と、柏斎はいった。覚慶門跡は、奈良の市中の者にそう尊称されている。
「京からめずらしいお道具が到着いたしましたので、おそれながらかように」
と、道具類をひろげてみせた。
そのなかに、唐渡《からわた》りの茶入《ちゃいれ》がひとつある。肩衝《かたつき》といわれる肩を張った姿の黒釉《こくゆう》の小《こ》壺《つぼ》で、出来はさほどのものではない。
が、覚慶は黒の釉《うわぐすり》のすきな癖があり、手にとってながめながら、
「この品、おいてゆけ」
と、どもりながらいった。柏斎は平伏し、
「お気に召しましたならば、おそれながらその品、献上させて頂きとうござりまする」
「左様か」
といったとき、覚慶の顔色がかわった。無代であることにおどろいたわけではない。その小壺から、小さく折りたたんだ紙片が出てきたのである。密書であった。
兄義輝の侍臣だった細川藤孝の文字で、意外なことが書かれていた。
「脱出なさるがよい」
と、すすめている。大意は、「義輝様、周《しゅう》リ《こう》様亡《な》きあとは、足利将軍家の正当のお血すじは申すまでもなくあなたさまだけであります。もし脱出して将軍職をお嗣《つ》ぎあそばすお気持ならば、きょうより御仮病《けびょう》をおつかいあそばしますよう。御病《おんいたつき》ならば、当然、医師が参上せねばなりませぬ。医師として米田求政《よねだきゅうせい》を当方から遣《つか》わせましょう。その米田求政の供として一人の眼もと涼しき人物が参ります。これは明智十兵衛光秀と申し、土岐《とき》源《げん》氏《じ》の流れを汲《く》む者。すべてはこの十兵衛光秀におまかせくだされますように」というものであった。
覚慶の顔に、みるみる血の気がのぼり、眼がらん《・・》と光った。
「なりたい」
と、押し殺したような声で、つぶやいた。――将軍職に、である。この僧形の貴公子の心に、にわかに野心の灯がともった。
「鎌倉屋柏斎」
覚慶の言葉に、ふしぎと吃音が消え去った。よほどの衝撃を受けたせいか、もしくは自分の運命に巨大な光明を見出したせいか、それはよくわからない。
「この茶入には、鎌倉黒《かまくらぐろ》という名をあたえよう。鎌倉黒、縁起がよい」
足利家は、源氏の長者である。遠いむかし源氏の嫡流であった源頼朝《みなもとのよりとも》が、伊豆蛭《ひる》ケ島《しま》での流《る》人《にん》の境遇から脱出し、変転のすえ、諸国の源氏に令をくだしてついに平家をほろぼし、征《せい》夷《い》大将軍となり、鎌倉に幕府をおこした。覚慶は、その頼朝の「鎌倉」におもいをかけて、この茶入にそういう名称をつけたのであろう。
柏斎は一乗院の門を出るや、飛ぶように油坂の家にもどって、藤孝と光秀にその旨《むね》を報告した。
「柏斎どの、御礼のことばもござらぬ」
と藤孝は手をとって感謝し、そのあとも柏斎の家に潜伏しつつ、覚慶脱出のための工作を八方めぐらせた。
藤孝は、京都付近に散らばっている幕臣の有志にもひそかに連絡をとった。が、かれらのほとんどはこの危険な作業に加盟することをよろこばず、ただ一人、一色藤長《いっしきふじなが》という前将軍の小姓だった若者が、身を牢人姿にやつしてひそかに油坂の柏斎屋敷に訪ねてきたのみであった。
「勇なき者はかえって足手まといになる。われら三人で十分ではござらぬか」
光秀はそういった。
一色藤長は意外に機転のきく若者で、密使としてひどく役に立った。まず覚慶脱出後、どこへ潜伏するかを考えねばならぬ。
「近江《おうみ》甲賀郷の郷《ごう》士《し》で、和田惟政《これまさ》が足利家に寄せる志もあつく、武略すぐれた者である。それに甲賀は山中でもあり容易に世間には洩《も》れまい」
と細川藤孝が提案し、一色藤長がその密使になって甲賀へ発《た》った。ほどなく帰ってきて、
「和田殿は一族郎党をあげて覚慶様をおかくまい申す、と申しております」
と、藤孝と光秀に報告した。和田惟政はのちに信長によって摂津高槻《たかつき》城主になった人物である。
京の医師、米田求政にも連絡がつき、すべての膳《ぜん》立《だ》てがおわった。あとは三好・松永の兵の重囲をやぶって覚慶門跡を脱出せしめるという、荒仕事のみが残った。
陽《ひ》は、まだ沈まない。
この日、――くわしくいえば永禄《えいろく》八年七月二十八日、春日《かすが》の森にこの地方特有の夕靄《ゆうもや》が立ちはじめたころ、一乗院の門前に、
「法眼《ほうげん》、米田求政」
と、いかめしく官名を名乗る医師が立った。門わきの小屋に詰める武者が長《なが》柄《え》の刃をきらめかせて尋問すると、医師の供侍がいきなり進み出て、
「無礼あるな」
と、一喝《いっかつ》した。光秀である。
「医師《くすし》とは申せ、尋常のお人ではおわさぬ。法眼におわすぞ」
光秀の声はやや癇高《かんだか》いが、ふしぎに威がある。その威に、三好・松永の兵どもはおもわず小腰をかがめ、
「御用は」
「御所様の御見舞に」
足利家の侍医が京からくだったのである。警固の武士どもはやむなく通した。
門は、四足門である。
まわりに築《つい》地《じ》がめぐらされ、内部は、寺とはいえ公卿《くげ》屋敷の様式をとり、寝殿造りの常《つね》御《ご》殿《てん》、雑舎《ぞうしゃ》、湯屋、武者所《むしゃどころ》、厩舎《うまや》、など京風のたたずまいをとっている。
光秀は、無官の身である。
本来ならば供待《ともまち》部屋で待つのがふつうだったが、とくに、
「薬箱持」
という名目で、常御殿にあがり、覚慶の寝所にまで入り、次室でひかえた。
米田求政はしかるべく御脈《おみゃく》をとり、ほどなく退出した。それが第一日である。
翌日、翌々日、さらにその翌日、とおなじ刻限にあらわれ、常御殿で脈をとり、投薬をし、帰ってゆく。
五日目。
「きょうは法眼殿はおそいな」
と、警戒の武士たちがささやくころ、光秀に松明《たいまつ》をもたせて、米田求政はやってきた。
「罷《まか》る」
「通られよ」
武士どもは、すっかり馴《な》れている。
法眼はいつものように診察と投薬をおわると、あたりに人がないのを見すまし、
「御所様、今夜こそ。――」
と、耳うちした。
脱出の策は、すでにきめてある。覚慶門跡自身が、触れを出し、
――全快した。
と称し、その本復祝いに、門わきの詰め所の警備の侍どもに酒を下賜する。
そのとおり、事がはこばれた。酒樽《さかだる》が三つの門にそれぞれくばられ、
「存分におすごしなされませ。内祝いでござりまする」
と、稚児《ちご》どもが肴《さかな》までくばって歩いた。三好・松永の兵は、いまでこそ京をおさえているとはいえ、元来は阿波《あわ》の田舎侍である。
酒には意地がきたない。
それぞれの屯《たむ》ろ屯ろで呑《の》みはじめ、夜半をすぎるころには宿直《とのい》でさえ酔い痴《し》れた。
(いまこそ。――)
と、常御殿に詰めている光秀はそう判断し、足音もしめやかに次室から閾《しきい》を踏みこえて覚慶門跡の病床ににじり寄り、
「十兵衛光秀にござりまする」
と、覚慶にはじめて言上し、「おそれながら」と、この貴人の手をとった。
「御覚悟あそばしますよう。ただいまよりこの御所の内から落しまいらせまするゆえ、すべてはこの光秀にお頼りくださりませ」
「心得た」
と、覚慶はうなずいたが、さすが、おそろしいのか、歯の根があわぬ様子である。光秀は覚慶の手をとった。
掌がやわらかい。
外は、風である。
覚慶、求政、光秀の三人は、茶室の庭から垣根をこえ、這《は》うようにして乾門《いぬいもん》のわきの築《つい》地《じ》塀の下まで接近し、そこであたりの人の気配をうかがった。光秀は、地に耳をつけた。
(酔いくらって、寝ている)
思うなり、光秀は身をおこした。身がかるい。
ひらり、
と、塀の上に飛びあがった。やがて手をのばして覚慶、求政という順で塀の上にひきあげ、つぎつぎと路上にとびおりた。
月は、ない。
夜目に馴れぬ覚慶には、半歩も足をうごかすこともできない。
「おそれながら、背負い奉る」
かるがると背負い、足音を消して忍び走りに走りはじめた。
「光秀、苦労」
と、のちに十五代将軍になるにいたる覚慶は、光秀の耳もとでささやいた。おそらく覚慶にすれば、このときの光秀こそ、仏天を守護する神将のように思えたであろう。
光秀は足が早い。
(この男は、夜も目がみえるのか)
と、覚慶があきれるほどの正確さで、光秀は闇《やみ》のなかを飛ぶように走った。
森を通りぬけると、やがて前方に、二月堂の燈明がみえてきた。
「いましばしのご辛抱でござりまする」
光秀が言い、二月堂の下についた。闇のなかから、細川藤孝と一色藤長が走り出てきて路上に平伏した。
「そのほうどものこのたびの忠節、過分におもうぞ」
と、覚慶は、声を湿らせた。
光秀は、背負い役を、藤孝と交代した。やがて、一同駈《か》けだした。
(これで、世がかわる)
ひた走りながら、光秀は、まるで自分たちこのひと群れが、神話をつくる神々のような気がした。
が、その感慨も、長くつづかなかった。奈良坂までさしかかったとき、
「十兵衛殿」
と、藤孝は、足をとめた。眼下の夜景をゆびさしている。一団の松明の群れが、すさまじい速さでこちらへ迫ってくるのだ。
追手は、騎馬であるらしい。歩卒もいるであろう。炎をかぞえてみると、およそ二十ばかりとみた。
「藤孝殿、ここはそれがしが斬《き》りふせぐ。この坂を越えれば山城《やましろ》だ。木津川に沿って川上へのぼり、笠《かさ》置《ぎ》へ出、山越えの間道をとおって近江甲賀にぬけられるがよい」
「しかし」
「問答しているゆとりはない。命あらば、甲賀の和田館《やかた》で会おう。いそがれよ」
光秀は、逆に坂をおりた。
松林に身をひそめ、近づく騎馬の群れを待った。胸中、感懐がある。
(これぞ、男子、功名の場。――)
細川藤孝ら幕臣の立場とちがって、光秀は朝倉家の客分、身は牢人《ろうにん》にすぎない。よほどの危険を買って出ねば、将来、将軍の幕下で身をのしあげてゆくことはできない。
ふと。
脈絡もなく、尾張の信長のことを思った。
(あの男も、桶狭《おけはざ》間《ま》に進襲するときは、もはや一か八かの正念場《しょうねんば》であったろう。人の一生には、そういうときが必要なのだ)
馬《ば》蹄《てい》が近づいてきた。
騎馬は将校であり、歩行者は、下士か兵卒である。打ち取るとすれば将校をこそ斃《たお》すべきであったが、光秀はどう思ったのか、最初の二騎、三騎をわざとやりすごした。
(鉄砲を奪う)
それが目的である。
光秀の鉄砲芸は、少年のころ、まだそれが兵器として新奇であったころ道三にさとされて学びはじめ、いまではその腕はほとんど天下に比類がない。
越前一乗谷で昨年、朝倉義景《よしかげ》に所望され、その御前で、鉄砲の射芸を御覧に供した。
もともと鉄砲はそれまでの戦術を一変せしめたほどの威力をもつものだが、実際にはなかなかあたりにくい。
光秀は、射撃場を一乗谷の安養寺境内にさだめ、四十間むこうに射ア《あずち》を盛りあげ、午前八時から射ちはじめて正午までに百発を発射し、そのうち黒点を六十八度射ちぬき、他の三十二も、みな的内《まとうち》に射ちあげた。義景は凡庸な大将ながらさすがに光秀の神技に舌をまいた。
その腕がある。
光秀は闇からおどり出るや、路上の左右に飛びちがえ、剣を一閃《いっせん》、二閃、三閃して、瞬時に三人の銃卒を斬り斃した。
(鉄砲)
それが目的である。
銃を三挺《ちょう》、それに火《ひ》縄《なわ》、弾袋《たまぶくろ》などをうばい、奪うと同時に路上に突っ立ち、三挺、つぎつぎに取りかえて発射し、またたくうちに前をゆく三騎を射ちたおした。
戦いは、それからはじまった。
甲賀へ
光秀は三挺《ちょう》の鉄砲を小《こ》脇《わき》にかかえ、闇の中をあちこちと駈けまわった。
「それ、松林に入ったぞ」
と、追手は口々に叫びながら、光秀のあとを追った。
光秀は、くるくると逃げまわる。これもこの男の作戦である。
まず、追手を手間どらせて、覚慶門跡《もんぜき》一行をできるだけ遠くへ逃がすことが目的である。さらには、この奈良坂で斬り防いでいるのは光秀一人ではなく、
――五、六人はいる。
という錯覚を敵にあたえるためだ。とにかく松林の中をくるくるまわっては、時に突出して、
「見たか」
と、追手を斬った。
光秀の作戦は、それだけではない。敵の松《たい》明《まつ》の群れがかれを遠巻きにして包囲しはじめたと知ると、一息つき、
(そろそろ脱出するか)
と思い、一計を案じた。手に、三筋の火《ひ》縄《なわ》がぶらさがっている。
光秀はそれを三挺の鉄砲の「火挾《ひばさみ》」にとりつけ、とりつけおわると足音もなく駈け、一挺ずつ、五間の間隔をおきつつ、別々の松の木に立て掛けて行った。
(用意はできた。風があるから火縄は消えることはなかろう)
光秀は三挺の鉄砲を持ち上げ、火《ひ》蓋《ぶた》をはずし、火《ひ》皿《ざら》に導《くち》火薬《ぐすり》をサラサラと流しこみ、馴《な》れた手つきでパチリと火蓋を閉じた。
(どれを撃つかな)
光秀は、松明の群れをながめた。その白煙の流れるなかで、影絵のように往《ゆ》き来している騎馬武者がいる。
光秀は鉄砲をあげ、銃身を松の幹にもたせかけつつ騎馬武者に照準し、息をとめた。
すでに引金に指がかかっている。が、がちりと引いてはあたらない。すでに光秀の時代の射術にも、
「暗夜に霜のおりるがごとく静かに自然に、引金をおとせ」
という言葉が、流布《るふ》している。この撃発心得の言葉は、その後数百年を経てなお、日本軍隊の射撃操練に使われつづけた。
光秀は照準し、いつのほどか、引金をひきおとした。火挟にはさまれた火縄が、火皿の上の火薬粉を撃ち、つづいて装薬に引火し、轟然《ごうぜん》と火を噴いた。
鉛弾がとび、闇中《あんちゅう》三十間を飛びわたって、騎馬武者を落馬させた。
そのときは光秀はすでに駈け、二本目の松の根方にうずくまり、こんどは膝《ひざ》射《う》ちでもって、轟発した。
射撃がおわると鉄砲をすててころがり、三本目の松の木にゆき、さらに射撃した。
追手は騒然となり、包囲陣がくずれ、あらそって鉄砲の射程外にのがれ出ようとした。
(いまぞ)
と、光秀は地を蹴《け》った。
松林を駈けぬけて路上に出、背をまるめて奈良坂を駈けのぼりはじめた。
五町ばかり駈けてゆくと、真暗な闇のなかから、巨《おお》きなものが飛び出した。
ぎょっとしたが、よくみると馬である。騎《のり》手《て》をうしなった馬が、ここまで放《ほう》馬《ば》してきたものであろう。
(これこそ手《た》向山《むけやま》明神のご加護)
と光秀は手綱をとって馬をひきよせつつはるか興福寺の方角、手向山の森にむかい、ちょっと祈るしぐさ《・・・》をした。神仏にさえ、律《りち》義《ぎ》な男だ。
祈ってから馬にまたがり、北の天をめざして一散に駈け出した。
光秀は、そのまま十キロ駈けとおして山城《やましろ》(京都府)の木津の聚落《まち》に入り、馬を捨てた。すでに夜は明けている。とある寺の門に入って、
「一椀《わん》の粥《かゆ》など頂戴《ちょうだい》したい。できれば、日暮まで寝かせていただけぬか」
と、銭《ぜに》を渡して寺僧に頼みこんだ。
寺僧はうろん《・・・》臭げに光秀の血しぶきをあびた小《こ》袖《そで》を見ていたが、やがて、
「どうぞ」
と、庫裡《くり》へ通した。光秀は台所の板敷で冷《ひや》粥《がゆ》を食い、そのあとその板敷の上でころがって眠りをむさぼった。夜にならぬと街道はあぶない、と思ったのである。
日が傾きはじめたころ、まわりに人の気配がするのに驚き、光秀は薄目をあけた。
台所に、武士五人が突っ立って、光秀の寝姿を窺《うかが》っている。
(寺僧め、訴えたか)
武士どもはおそらく検分のためにやってきたのであろう。
(機敏を要する)
光秀は寝入っているふりをしながら呼吸をととのえ、やがて息を大きく吸いこむなり、跳ねあがって土間に飛びおり、飛びおりざま、一人を叩《たた》っ切って庫裡のそとに駈けだした。栗鼠《りす》のようにすばやい。
山門に出た。
馬が、つながれている。それに飛びのるなり馬腹を蹴って木津の聚落を走りぬけ、木津川沿いの街道を伊賀へむかって駈けた。
追手が光秀を追った。
(日よ、暮れよ)
と、光秀は必死で祈念しつつ逃げた。闇にまぎれる以外、逃げのびようがない。
やがて加茂まできたとき、陽《ひ》が暮れ、山河は闇一色になった。
光秀は馬から降り、足跡をくらますため、馬を渓流《けいりゅう》へ突き落し、あとは、徒歩で東へむかった。ほどなく笠《かさ》置《ぎ》に入った。
ここから間道に入るべく崖《かげ》をとびおりて渓谷に降り、急流を泳ぎ渡り、対岸の崖《がけ》にとりつき、崖道を這《は》いのぼって山上に出、そこから、杣道《そまみち》を歩きはじめた。
(もう、追手は来ぬ)
この樹海は、東は伊賀につづき、北は甲賀までつづいている。山林はほとんど原生林といってよく、巨木の枝が天を蔽《おお》い、ときに剣を抜いて木を薙《な》ぎながら進まねばならない。
光秀は山中で二日野宿し、三日目にようやく近江甲賀郡の信楽《しがらき》の里に入った。
信楽は山中の里で、土地では「信楽谷」といっているとおり、まわりを山にかこまれ、茶碗《ちゃわん》の底のような小盆地である。奈良朝のころ、聖武《しょうむ》帝が一時、ここに離宮を営まれたことで知られている。
(もはや、歩けぬ)
と、さすが、美濃脱出以来、天下を放浪してきた光秀も、飢えと疲れで、倒れそうになった。
一軒の百姓家を訪ね、腰の袋をひろげて銭を見せ、
「なにか、食わせてくれぬか」
と、いんぎんに頼んだ。
なにしろ、すさまじい姿である。衣服はやぶれ、ところどころ返り血が飛び、草鞋《わらじ》は右足しかはいていなかった。
「どなた様で」
「美濃の者、明智十兵衛という者だ。山中で熊《くま》に襲われ、かような姿になった」
百姓は光秀を家のなかに入れ、カマチにすわらせて、食物を与えてくれた。
百姓は、中年の小男である。ことばはやわらかで、京言葉にちかい。
「ここは、甲賀郡か」
「はい、甲賀のうちでござりまする。殿様はどこまで行《い》らせられまする」
「和田だ」
甲賀郡のうちである。
「ここから、近いか」
「いやいや甲賀は山郷《やまざと》なれど、ずいぶんと広うございましてな。ここから山中八里(三十キロ)はございましょう。和田ではどなたをお訪ねなされまする」
「和田殿だ」
「ああ伊賀守様でござりまするか」
と、百姓はいっそうに言葉を鄭重《ていちょう》にした。
この甲賀の山郷は、五十三家の世にいう「甲賀郷士」によって分割支配され、その五十三家の郷士はそれぞれ仲がよく、同盟して結束し、郷外からの軍事・政治的圧力に対抗している。
「このあたりは、たれの支配かな」
「多羅尾四郎兵衛尉《たらおしろうひょうえのじょう》さまでござります。お館はこのむこうの多羅尾にござりまする」
「どのような仁《じん》だ」
「お人柄《ひとがら》もよく、御武《ごぶ》辺《へん》なかなか健《すこや》かなお人とうけたまわっております」
(会ってみよう)
と思ったのは、光秀の機敏さだ。次の将軍たるべき覚慶門跡が奈良を脱出してこの甲賀の和田惟政《これまさ》の館《やかた》に身を寄せるとなれば、一人でも合力《ごうりき》する武士がほしい。
(説いて、味方にしてしまえ)
と思い、百姓に道案内させ、多羅尾の多羅尾屋敷に行ってみた。
屋敷の前に、大きな杉《すぎ》の木がある。多羅尾家はこの当代四郎兵衛尉光俊《みつとし》まで十三代つづいてきた古い豪族で、屋敷も堀や土塁をめぐらして城塞《じょうさい》ふうには構えているものの、門や殿舎は、どこか京の公卿《くげ》屋敷に似せている。
「美濃の住人、明智十兵衛と申す者」
と、光秀はいんぎんに家来衆にまで頼み入り、面会を申し出た。
多羅尾四郎兵衛尉は土地では最高の権力者だが、光秀という、どこの馬の骨ともわからない旅の者に、こころよく会ってくれた。
意外に若い。
身長五尺七寸ばかり、筋骨堂々として偉丈夫だが容貌《ようぼう》はむしろ公卿風の目鼻だちで、思慮深そうな男である。
光秀は、いきなり用件を話すことはせず、さりげなく諸国の情勢などを語った。
多羅尾四郎兵衛尉は、いかにも智恵深そうな表情でいちいちうなずき、そのつど、
「なるほど」
とか、
「ああ、さもござろうか」
などと、相槌《あいづち》のことばをさしはさんだ。
この当時、地方の豪族というのは、旅僧、武者修行者を好んで屋敷に泊め、諸国の情勢を聴くことにつとめたものだ。山中にいる多羅尾四郎兵衛尉としては、光秀の豊富な見聞、明晰《めいせき》な解説が、うれしからぬはずがない。
(これは、尋常な人物ではない)
と次第に思いはじめたのか、時がたつにつれて言葉づかいがいよいよ丁寧になった。
話題は当然、さきに京でおこった驚天動地の将軍弑逆《しいぎゃく》事件に触れた。
「弟君までお殺されあそばしたそうでありますな」
と、多羅尾はいった。
その模様を光秀がくわしく話すと、おどろいたことに多羅尾はそれ以上にくわしく知っていた。
(さすが、甲賀郷士)
と、光秀もおもわざるをえない。甲賀侍は、この山むこうの伊賀の郷士たちとならんで、いわゆる忍衆《しのびしゅう》の名が高い。世の動きや情報に対する感覚のするどさは、尋常ではない。
「甲賀衆は」
と、光秀はいった。
「京も近く、しかも山中に兵を秘めて他から侵されにくうございます。そのため代々の将軍の信頼があつく、しばしばこの郷の士をお頼みなされることが多うござった」
「いやいや、逆の場合もありましたな」
九代将軍義尚《よしひさ》のとき、義尚がみずから幕軍をひきいてこの近江の大名六角高頼《ろっかくたかより》を攻めたとき、甲賀郷士団は六角方に加担し、将軍義尚が在陣する鈎《まがり》の城を単独夜襲し、将軍に戦傷を負わせ、ついに死にいたらしめたこともある。多羅尾はそのことをいっているらしい。
「有名な鈎ノ陣のことでござるな」
と、光秀は苦笑した。この夜襲は甲賀衆の名を高からしめ、
――甲賀者は魔法をつかうのか。
とさえ、世上で取り沙汰《ざた》された。べつに魔法をつかうわけでなく、甲賀は山国で小豪族が割拠しているため、自然、戦法の芸がこまかくなり、平野そだちの侍どもの思いもつかぬことをやる。
「前将軍には」
と、多羅尾四郎兵衛尉はいった。
「いまひとり、弟君がおられるはずでござるな。たしか、奈良の一乗院門跡の」
「左様」
光秀は、うなずいた。
「そのご門跡は、いかがなされています」
と、多羅尾はきいた。さすが甲賀郷士とはいえ、数日前におこった門跡失踪《しっそう》事件までは耳に入っていないらしい。
(言うべきか)
光秀は、迷った。
(いや、さらにこの人物の心底を見きわめたうえで)
と思い、巧みに話題をそらし、話をさりげなく詩《しい》歌《か》管弦《かんげん》にもって行った。
おどろいたことに、この多羅尾四郎兵衛尉はそのほうにもあかるい。甲賀郷士は家系が古いだけに、教養の累積《るいせき》というものがあるのかもしれない。
多羅尾も、光秀の教養の深さにおどろき、まるで手をとらんばかりの態度になり、
「ぜひ、今夜、当屋敷に泊まってくださらぬか。願い入ります」
と思う壺《つぼ》に入ってくれた。
夜、ともに酒を酌《く》みかわし、さまざまの物語をするうち、
(この人物、信ずべし)
という気に、光秀はなってきた。多羅尾四郎兵衛尉は、どうやら光秀と同質の男で、伝統的な権威に対する愛着や憧憬《どうけい》がつよいたちのようだ。
「将軍家があっての武家」
とか、
「いまの世は下の者が上を剋《こく》し、秩序もなにもあったものではない。これというのも室町《むろまち》様(将軍)のお力が衰えているからだ」
とかいったような、幕権再興論にもうけとれることをいったりした。
光秀はこの夜、屋敷の客殿で泊まり、寝床であれこれと考えぬいたすえ、翌朝、
「実は次の将軍たるべき覚慶御門跡は、ここから八里むこうのおなじ甲賀のうち、和田の館に身をひそめておられる」
と、声をひそめていった。
「ただし、天下の秘事でござるぞ」
「当然なこと」
多羅尾は、さわやかにうなずき、
「お手前が尋常《ただ》人《びと》でないと思うていたが、はたして覚慶御門跡のお側衆でござったか。それがし、さほどの秘事を打ちあけられた以上、非力ながらも御門跡のために尽したい」
と、目もとも涼やかにいった。
光秀は、その日も、多羅尾にひきとめられるまま、泊まった。
縁とは奇妙というほかない。多羅尾四郎兵衛尉は、このとき光秀と親交をむすんだことによって世に出た、といっていい。
のちに光秀の手引きで織田信長に仕え、甲賀信楽に在館のまま山城・伊賀で飛《とび》地《ち》領をもらい、総計六万石の大名となり、のち秀吉に仕え、豊臣秀次《とよとみひでつぐ》の事件に連座して領地の大部分をとりあげられたが、のち家康につかえ、甲賀郡の代官となり、代々代官を世襲しつつ幕末におよんでいる。
三日目の朝、光秀は、多羅尾館を発《た》ち、八里の山道をあるいて、甲賀郡和田(現・甲賀町内)の和田惟政の館に入った。
光秀の姿をみて狂喜したのは、幕臣細川藤孝である。
「ごぶじだったか」
と、手をとって玄関からあげ、さっそく覚慶に言上した。
「わしを」
と、覚慶ははげしく吃《ども》りながらいった。
「背負って、十兵衛は駈けてくれた。追手を一人で斬りふせぐと申して奈良坂で別れたが無事であったか」
「十兵衛殿、よほど奮戦したものでござりましょう」
「忠なる者よ」
と、覚慶は、涙をこぼした。
「さっそく御前に罷《まか》らせましょうと存じましたが、なにぶん十兵衛光秀は無位無官。この御前にまかり出ることができませぬ」
「なんの、わしとて流寓《りゅうぐう》の身よ。格式などどうでもよいではないか」
「しかし」
藤孝はなおも遠慮したが、覚慶はいらだたしく手をふり、
「十兵衛はわが恩人ではないか。早うこれへ」
と、せきこんだ。覚慶はよほど光秀が気に入っているのであろう。
和田《わだ》館《やかた》
和田館は西に正門があり、背後と両側は、ひくい松山にかこまれている。
光秀は、門外の供待《ともまち》部屋のようなところで待たされていた。いかに戦国の世とはいえ、無位無官の分際ではその程度の待遇しか受けられない。
庭一つ隔てた母《おも》屋《や》では、その棟《むね》の下に覚慶御門跡がおわすのか、まだ日暮前後というのに煌々《こうこう》と灯《あか》りがつき、人の声が笑いさざめいているようだ。
(わしも、早く世に出たい)
光秀は、夕闇《ゆうやみ》につつまれながら、物哀《ものがな》しくなるような感情のなかで、その一事を想《おも》った。それを想うにつけてもおもい出されるのは、尾張の織田信長のことであった。
(ついに信長は美濃の稲葉山城を陥《おと》したらしい)
このことはまだ真偽はさだかでないが、そのような風聞がこのあたりに伝わってきている。事実とすれば、尾張の富と美濃の強兵を手に入れた信長は、まるで野望に翼をつけたようなものだ。もはや天下を狙《ねら》う志をたてても、おかしくはないであろう。
(信長は、恵まれている。父親の死とともに尾張半国の領土と織田軍団をひきついだ。それさえあれば、あとは能力次第でどんな野望も遂げられぬということはない)
うらやましい男だ、と思う。人間、志をたてる場合に、光秀のように徒《と》手空拳《しゅくうけん》の分際の者と、信長のように最初から地盤のある者とでは、たいそうな相違だ。
(おれはいまだに、小城一つ持ち得ずしてこのように放浪同然の境涯《きょうがい》にいる。おれほどの者が、なんと悲しいことではないか)
光秀は、自分の能力が信長よりもはるかにすぐれていることを、うぬぼれではなく信じきっている。
(おれと信長とを裸にして秤《はかり》にかければ、一も二もなくおれのほうがすぐれていることがわかるはずだ)
しかし徒手空拳の身では、いかんともしがたい。
(男子、志を立てるとき、徒手空拳ほどつらいものはない。死んだ道三殿は一介の油売りとして美濃に来られたがために、あれだけの才幹、あれだけの努力、あれだけの悪謀をふるってさえ、美濃一国をとるのに生涯かかった。もし道三殿をして最初から美濃半国程度の領主の家に生まれしめておれば、おそらく天下をとったであろう)
人のつながりというのは妙なものだ。道三の娘濃姫《のうひめ》こそ光秀の弱年のころの理想の女性であり、しかもイトコ同士というつながりから光秀の許《もと》へ、という佳《よ》き縁談《はなし》も一時はあったと光秀は聞き及んでいる。それが「尾張のたわけ殿」といわれていた信長のもとに輿《こし》入《こ》れしてしまった。以来、信長は光秀にとってある種の感情を通してしか考えられぬ存在になった。ある種の感情とは、嫉《しっ》妬《と》ともいえるし、必要以上の競争心ともいえるし、そのふたつを搗《つ》きまぜたもの、ともいえる。とにかく事にふれ物にふれて、尾張の織田信長を意識せずにはいられない。
(もう、虫が鳴いている)
まだ秋には早いが、山里だけに陽《ひ》が落ちると、にわかに風がつめたくなるようであった。
夕闇が、濃くなった。
庭前に、大きな樟《くすのき》がそびえ立っている。
その樟のむこうから、手燭《てしょく》の灯が一つ、ゆらゆらと揺れ近づいてきて、沓脱石《くつぬぎいし》のあたりでとまった。細川藤孝である。
「十兵衛殿、お待たせいたしましたな。蚊が大変でござったろう」
「ああ、蚊」
物想いにふけっていたせいか、それには気づかなかった。そういえば臑《すね》や腕のあちこちがかゆい。この和田館の者は、光秀のために蚊いぶし《・・・》ひとつの心くばりもしてくれなかったのである。
「十兵衛殿、およろこびくだされ。御門跡にあられては、命の恩人の十兵衛にぜひとも会って礼を申したい、座敷にあげよ、酒肴《しゅこう》を用意せよ、と大そうな御機《ごき》嫌《げん》でござる」
「それはありがたいこと」
光秀は、行儀よく頭をさげた。なにしろ覚慶のために命を的にしてここまでやってきたのだ。それぐらいによろこばれて当然なことであった。
「されば、案《あ》内《ない》つかまつる」
と、藤孝は手燭をかざした。光秀は庭に降り、藤孝とともに庭を横切った。
「虫が鳴いておりますな」
と、藤孝は言い、この館に入って詠《よ》んだという近詠の歌一首を光秀に披《ひ》露《ろう》した。相変らず、古人にもまれなほどの巧みさである。
光秀は、覚慶門跡にあてがわれているこの城館のなかの書院に入った。ついでながらこの城館のあとは、覚慶が流寓《りゅうぐう》していたということで、いまも滋賀県甲賀郡和田の小《こ》字《あざ》である門田という在所に「公《く》方《ぼう》(将軍)屋敷」として槙《まき》の垣をめぐらせて保存されている。
光秀は、板敷の次室にすわった。
平伏すると、座敷の覚慶は、やや軽率なほどの躁《はしゃ》ぎかたで手をあげ、
「十兵衛参ったか、待ちかねたぞ」
と言い、「あがれ、あがれ」とさわがしくいった。座敷にあがって覚慶と座を共にするのはそれだけの官位がなければならない。が覚慶はそんな格式は無視した。
「十兵衛、遠慮はいらぬ。わしが将軍職を嗣《つ》げば、そちを四位《しい》にも三《さん》位《み》にもしてつかわすぞ。それだけの功のあるそちではないか」
(すこし騒々しいお方じゃな)
と、光秀は意外な感じがしながら、つぎつぎに頭上に飛んでくる覚慶、のちの義昭の声をきいている。
「十兵衛殿」
と、藤孝は落ちついて言った。
「お上《かみ》にあっては、あのようにおおせられておる。いまは無位無官ながら、三位になったようなお心持で、お座敷に入られよ」
「されば、お慈悲に甘え」
と、光秀は野袴《のばかま》を鳴らして膝《ひざ》をすすめ、座敷のはしで再び平伏した。
「頭をあげよ。直答《じきとう》もゆるす」
と、覚慶はいった。
「顔がみたい。奈良坂では三十人ほどの兵《つわもの》を斬《き》ったそうな」
「いや、せいぜい七、八人でございました」
光秀は、眼を伏せていった。
「予を見よ」
と、顔を見ることもゆるされた。
声が癇高《かんだか》いわりには据《す》わりのずっしりした顔で、輪郭だけはなかなか頼もしげである。が、輪郭のりっぱさとは逆に目鼻がちまちまと小さく、なにやら人物が小さげにみえた。
(まだ数えて二十九の御齢《おんよわい》だ。これからさきどのように器量をあげられるか、それはわからない)
人物がどうであろうと、覚慶の偉大なのは足利将軍の正系の血をうけているということである。この地上に次の足利将軍たるべきひとは、この人を措《お》いていない。
(おれの運命を託するに足る)
と、光秀は激しい感動とともにそれをおもった。
(信長に追いつくには、将軍に取り入ってその幕僚になる以外に道はない)
なるほど将軍には実力はないが、燦然《さんぜん》たる権威がある。天下の諸大名や豪族に官位をあたえる(天子に奏請して)栄誉授与権ももっている。光秀にすればこの将軍のその側近になり、将軍を動かすことによって天下の風雲に臨むという、いまだかつてたれもやったことのない経路で天下の権を夢見ていた。
(信長、何するものぞ)
光秀の脳裏に、ふたたびそれが去来した。
光秀は、和田館に滞留した。覚慶はよほど光秀が気に入ったらしく、
「十兵衛、十兵衛」
と呼んで、側《そば》から離さない。なにしろ光秀は諸国の地理風俗、政治情勢にあかるく、その解説と分析は掌《たなごころ》を指すがごとく明晰《めいせき》で、覚慶にすれば地上でこれほどの頭脳があろうかと驚嘆する思いでみているのだ。
その上、光秀は武技に長じている。
覚慶は幼くして僧門に入れられたために亡兄の義輝将軍とちがって武技は習いおぼえていない。当節、流《る》浪《ろう》の身である。なによりもほしいのは、護衛者であった。身辺心もとない覚慶が光秀を頼りにするのは当然な心情であったろう。
さて。――
光秀が和田館に入った翌日、これからどうすべきか、という評定《ひょうじょう》がおこなわれた。
「ひろく天下の諸大名に救援を乞《こ》いたい」
と、覚慶はいった。
問題はそこである。天下は乱れに乱れている。その群雄のうちで、将軍家に心を寄せてくれる者はたれとたれか。
「まず越後の上杉輝虎《うえすぎてるとら》(謙信)でござりましょう」
と、お側衆の一色藤長がいった。なるほどこれは第一であろう。いま天下の諸雄のなかで上杉輝虎ほど将軍を崇敬している者はいないし、その誠実さ、その義侠心《ぎきょうしん》、その実力、どの点をとりあげても、後援者としては彼におよぶ者はない。
ただ、遠い。
「それに、輝虎殿には、隣国に武田信玄という年来の敵手をひかえておりまする。信玄がおるかぎり、輝虎殿は本国を留守できませぬ。されば早《さ》速《そく》の御用には立ちかねましょう」
と光秀は言い、
「しかし輝虎をこそ第一の者と思う、との御《み》教書《ぎょうしょ》と使者をお出しになることは必要かと存じまする」
といった。覚慶以下、大いにうなずいた。
「遠国《おんごく》と申せば、薩《さつ》摩《ま》の島津家も頼朝公以来の名家たることを誇りにしており、しかも当代の島津貴久《たかひさ》、義久父子は、類《たぐ》いまれなる将軍家思いにて、御使者を下せば大いに感激いたしましょう。手前、諸国回遊のみぎり鹿児《かご》島《しま》城下に入り、親しく謁《えつ》を受けたことがござりまする」
光秀の見聞は、遠く鹿児島にまでおよんでいる。一同、ひたすらにうなずいて聴き入るしかない。
「しかしながら遥《はる》かなる遠国。これまた兵を出さしめることはできませぬ。御教書だけは下しおき、将来に、お備えあるがよろしかろうかと存じ奉りまする」
そのほか、中国の毛利氏の話も出た。出雲《いずも》の尼《あま》子《こ》氏、土佐の長曾《ちょうそ》我部《かべ》氏なども話題にのぼった。しかしそれらはいずれも遠国の上、いずれも近隣に強敵をひかえて攻伐に明け暮れており、本国を抜け出して上方《かみがた》にのぼって来ることはできない。
とにかく、覚慶は後ろ楯《だて》がほしい。
強大な後ろ楯とその兵力をもって京に押しのぼり、三好・松永の勢力を駆逐する以外に、覚慶は、将軍の位につくことはできないのである。第一、三好・松永の徒は、阿波で保護している足利義栄《よしひで》を立てて将軍にしようという策謀をすすめているというではないか。光秀ら覚慶擁立派にすれば、事をいそがねばならぬ。
「尾張の織田信長はどうじゃ。ちかごろ、旭《きょく》日《じつ》昇天の勢いじゃと申すではないか」
と、覚慶でさえ、その名を知っていた。が光秀は露骨に首をかしげた。
「信長はまだ、海のものとも山のものともわかりませぬ。それに家系が悪《あ》しゅうござりまする」
譏《そし》るわけではなく、光秀は事実そうおもっている。信長の織田家では家系がわるい。
将軍を擁立しようというほどの熱意をもつ大名は、一つの点で共通している。名家意識である。越後の上杉輝虎のばあいは出身こそ素姓《すじょう》のわるい長尾家だが、足利管領家の上杉氏を嗣《つ》いだために、宗家である将軍家の擁立にいよいよ熱心になったし、薩摩の島津家にしてもそうである。島津家は遠く鎌倉幕府とともに興った家柄《いえがら》で、頼朝によって守護職を命ぜられた。かれらはいま出来の実力大名でないという誇りをもっていればこそ、武門の頭領である足利家を大事にしてゆこうという意識がつよい。
そこへゆくと、織田家はどうか。数代前は越前から流れてきた神主にすぎぬというのではないか。
「なるほど当節は、力の世でござりまする。氏素姓などをとやかく申すのは愚のいたりのように見えまするが、将軍家擁立というこの場合にかぎってはそうではござりませぬ。いま流行《はやり》の“素姓卑《いや》しけれども実力あり”という出来《でき》星《ぼし》(成上り)大名などの心底はわかったものではござりませぬ。将軍家を護《まも》り奉ると称して虎《こ》狼《ろう》の悪心を抱き、おのれの野望の具に供し奉らんとするやも知れず。その例は遠からず。三好・松永の徒こそ、まずその好き例ではござりませぬか」
光秀の論は、そのとおりであろう。しかし言葉に無用の激越さが帯びはじめたのは、信長に対する感情があるからに相違ない。
「なるほど」
僧形《そうぎょう》の貴人は素直にうなずいた。
「されば策としては」
と、光秀はいう。
「遠国の良き大名には御教書を遣《つか》わすにとどめ、兵を近国であつめるがよろしきかと存じまする」
しかし近《きん》畿《き》の大名小名は、いずれも小振りで兵も弱く、力頼みにはならない。そのなかで辛うじて近江南部で十数万石を領する六角《ろっかく》承禎《じょうてい》がまずまずの力になってくれるであろう。それに紀州の根《ね》来《ごろ》寺《じ》に巣をかまえる僧兵集団の「根来衆」もいい。かれらは鉄砲を多く貯《たくわ》え、その射撃の精巧さにかけては海内《かいだい》に定評がある。
それに越前の朝倉氏。
これは光秀が客分として禄《ろく》をもらっている家だ。当主義景《よしかげ》は凡庸といっても、光秀のいう素姓論からいえば正式の越前守護家で、覚慶に頼られれば感激はするであろう。
「朝倉家には、それがしが参って説き、たとえ当主義景がみずから大兵をひきいて参上できぬとしても、とりあえず百や二百の御警固の武士を当御所に差しのぼらせるよう、説得いたしまする」
「なにぶんとも頼む」
と、覚慶は涙ぐむばかりにしていった。覚慶にすれば寺をとびだせばすぐ将軍になれると思いこんでいたのに、天下の情勢はそうは甘くはないことを知るにおよんで、心細くなりはじめている。
そのうち、覚慶が近江の甲賀郡の土豪の館に潜んでいるということを京の幕臣らが聞き伝えて、おいおい馳《は》せ集まってきた。
「お歴々が」と、光秀は次のような意味のことをいった。
「この山中に無為徒食していても仕方がない。みな、御門跡の内書や御教書を携えて四方に飛びなされ」
その路用の金もなかった。
「兵を出さぬ遠国の大名には、金品を出させるのです。往き《・・》の路銀だけをもってくだれば、帰路はその献上金でなんとか帰れる」
と光秀はいった。
当の光秀は、和田館に十日ほど足をとどめただけで、細川藤孝とともに朝倉家を説くべく越前一乗谷へ発《た》った。
一乗谷に着くと光秀はすぐ登城し、義景以下重臣の前で懸《けん》河《が》の弁をふるい、覚慶救援の対策を一挙にきめさせた。
護衛兵の派遣、金品の献納の二つである。
その帰路、近江小《お》谷《だに》の浅井氏、近江観音寺の六角氏を訪ね、それぞれ覚慶応援の約束をとって、和田館にもどった。
ほどなく覚慶は、和田の在所が交通上不便すぎるため、同じ近江の矢《や》島《しま》(守山付近)の少林寺という寺に移り、ここで髪を貯え、名を足利義秋(義昭)と名乗った。
矢島は、野洲《やす》・守山・草津といった街道の要衝に近いため、諸国の情報がきこえやすい。この矢島に移ってから、
「尾張の織田信長の勢いはいよいよ熾《さか》んなそうな」
という風聞がしきりと入ってくるため、光秀も捨てておけなくなり、
「いちど、探索に参りとうござりまする」
と義秋まで申し出、そのゆるしを得て尾張にむかって発った。このところ、光秀の才覚と活躍だけが、この将軍家相続者の存在をささえているようなものであった。
光秀は、尾張に入った。
半兵衛
妙なものだ。
筆者はこのところ光秀に夢中になりすぎているようである。人情で、ついつい孤剣の光秀に憐憫《れんびん》がかかりすぎたのであろう。
しかしその光秀も、多少の成功をおさめた。つまり、かれの人生のためには魔法の杖《・・・・》ともいうべき覚慶門跡を掌中におさめることができた。あとは八方駈《か》けまわって、覚慶の後援者をかきあつめ、この足利家出身の僧侶《そうりょ》を将軍に仕立てあげてゆく仕事だけが残っている。
かれほどこの仕事に性《しょう》が適《あ》っている男もめずらしい。この男は、「奔走家」という型に属する。余談だが、後世ならこの種の人物は出てくる。とくに徳川末期がそうである。幕末、諸藩の脱藩浪士は、はちきれるような夢を尊王攘夷《そんのうじょうい》と天皇政権の樹立に託しつつ天下を奔走した。しかし戦国中期にあっては、志士・奔走家といえる人物は明智十兵衛光秀しかない。
その光秀は、諸国を駈けまわりつつも、
(尾張の信長の動静はどうか)
との懸《け》念《ねん》が脳裏から離れない。信長め《・》はどこまで伸びるか、それともどこで潰《つぶ》れ去るか、その一事を注目しつづけた。
注目、といっても、光秀は、当の信長が伸びることを希望しているのか、それともあっさり潰れ去ることを祈っているのか、かれ自身でもよくわからない。
とにかく、光秀は信長の近況をさぐるために、尾張に入った。
さて、その信長。――
ここ数年、光秀のいう「信長め」は、美濃攻略に熱中してきた。軍事・謀略・国境放火などあらゆる方法を信長は用いてきたが、結果はなお思わしくない。
「美濃と稲葉山城がほしい」
と、何度、濃姫の前でつぶやいたことか。
濃姫はたまりかねて、
「どうぞ。お奪《と》り遊ばせるなら」
と、皮肉をいってしまったことがある。彼女にとっては信長の攻撃対象は実家《さと》方《かた》の国である。いかに亡父道三が信長に「譲状」を遺《のこ》して死んだとはいえ、そうむざむざと美濃が崩れてはたまらぬという感情もある。
ところが。――
「なんの、稲葉山城はとっくに陥落しておりまするぞ。国守の竜興《たつおき》殿は、城を落ちて身を草深い片田舎に隠しておられまする」
との信ずべからざる情報をもちかえった細《さい》作《さく》(間諜《かんちょう》)がある。
「たわけ《・・・》を申すな」
と、最初信長はいった。信じられることではなかった。尾張軍数万の間断なき攻撃にもびくともしていない稲葉山城が、
――じつは陥《お》ちている。
とはどういうことであろう。竜興は陥ちてどこへ行ったのか。そもそもたれがその城を陥《おと》し、誰《たれ》がその城にいるのか。
「いま一度、くわしく調べてみよ」
と細作を多数放ったところ、かれらがぞくぞくと戻《もど》ってきて、口をそろえていうのは、
「まぎれもなく陥ちておりまする」
という驚くべき事実だった。しかし、尾張領へは一発の銃声もきこえてこなかったではないか。
(まるで、怪談《もののけばなし》のようだ)
と信長は思い、陥した人物の名をきいた。
「竹中半兵衛重治《しげはる》という人物でござりまする」
その城を陥した話というのは、ちょっと浮世ばなれがしているほど、ふしぎな話なのである。
竹中家は、光秀の明智氏と同族で、美濃の小豪族の一つであり、不《ふ》破郡《わのこおり》の菩《ぼ》提《だい》という村に小さな城館を持っていた。菩提は、関ケ原から二キロばかり北方にある山間の村である。
半兵衛重治、この後世、天才的な軍略家として名を残した男は、少年のころはさほどの人物であるとの評判はなかった。
「菩提の半兵衛は呆気《うつけ》者《もの》である」
との評判さえあった。半兵衛は早く父を亡《な》くしたため少年の身で城主になっている。小《こ》賢《ざか》しく喋《しゃべ》りちらしては近隣の大人の城主どもから切り取られてしまう、と用心していたのかもしれない。戦国期にはめずらしく読書家で、軍書や兵書に精通していた。
おだやかで、無口な男だ。稲葉山城内での諸将の寄り合いのときも、
「おや、半兵衛はそこにいたか」
と、ひとびとが改めて気づかねばならぬほどに、人中でも物静かな男である。
乗用の馬まで静かであった。悍《かん》馬《ば》を好まず肥馬、大馬も好まない。痩《や》せておだやかな馬を好み、しずしずと打たせてゆく。
ふだんは年若なくせに隠居のような服装を好み、色合いも地味なものしか用いない。
合戦にはむろん、具足を着る。その具足は現今《いま》でも岐阜県関ケ原町の町役場に保存されている。革具足で、革は馬の裏皮を用い、それに粒漆《つぶうるし》を塗り、青と黄の中間色(萌《もえ》黄《ぎ》色《いろ》)の糸で縅《おど》した好みのしぶいものである。兜《かぶと》には一ノ谷の立物《たてもの》を打ち、腰に佩《は》く太刀は、「虎《とら》御《ご》前《ぜん》」という家重代の名刀を常用していた。
十七、八歳のころから、野戦に参加し、とくに南方から侵入してくる織田軍との戦闘に従軍し、しばしば武功をたて、
「退却のとき、半兵衛が殿《しんがり》をつとめてくれると、これほど安心なことはない」
という評判が、ぼつぼつうまれてきた。退却戦などのときの指揮ぶりがいかにも静かで、しかも軍配の一つ一つが神のように的確で誤るところがなかった。
平素、軍略を芸術のように考えているところがあり、たまに喋っても軍略のことばかりで、軍事以外は俗事にすぎぬ、と思っているようであった。
二十で、妻を娶《めと》った。
妻の実家は、美濃でも大豪族である。本巣《もとすの》郡芝原《こおりしばはら》の城主の安藤氏で、当主は、半兵衛の舅《しゅうと》にあたる安藤伊賀守守就《もりなり》であった。
舅の伊賀守は、土豪としては厄介《やっかい》な性格をもっている。能弁で活動家で、片時もじっとしていられない。自然、やることに策が多い。
「半兵衛、お屋形にはこまる。あれでは美濃は信長に食われてしまう」
と、つねづね、若い国守の竜興の荒淫《こういん》ぶりや投げやりな性格をこぼし、こぼすだけでなく稲葉山城に登城しては竜興に拝謁《はいえつ》を乞い、
「お屋形様のこの御乱行ぶりでは、美濃も長くはござりませぬぞ」
とずけずけいったり、さらにはもっと言葉に毒を含ませて、
「さぞ、隣国の信長はよろこんでいることでござろう。お屋形様は、信長を喜ばせるために美濃の国守になられたようなものじゃ」
といった。その言い方がいかにも嫌《いや》味《み》なために竜興はついには伊賀守を憎《ぞう》悪《お》するようになり、ある日、酒興の席で、
「伊賀、汝《うぬ》の口は!」
と飛びあがりざま、扇子で伊賀守の大頭をびしりと打ち、
「退《さが》れ、二度とその面《つら》を見せるな」
と、謹慎を命じた。
安藤伊賀守はこれを恨み、女婿《むすめむこ》の竹中半兵衛にぐずぐずとかき口説いた。
「なるほど、いかに人君たりとも、美濃三人衆の一《いつ》である舅上《ちちうえ》を打たれるとは、竜興様も悪性《あくしょう》な」
「悪性で済むか。いやさ、わしは頭を打たれようと出仕を止《と》められようともかまわぬ。この君を戴《いただ》いては美濃がほろびる。織田に奪《と》られてしまえば、かつての明智と同様、美濃衆はことごとく領土を離れ、諸国に流《る》浪《ろう》せねばならぬ」
「ではお屋形様のお目を醒《さ》ませ奉って進ぜましょう」
「どうするのじゃ」
「稲葉山城を乗っ取るのでござる。なに、城を奪るだけで、国を盗《と》るとは申しませぬ。お屋形様を追っぱらい、それでお目が醒めたならばお迎えし奉る」
「半兵衛、似合わぬ大言を吐くわ」
伊賀守はかつ驚きかつあきれたが、やがて半兵衛が即座に立てた乗っ取りの秘策を聴くにおよんで、膝《ひざ》を乗り出してきた。
「ふむ、出来そうじゃな」
「さればそれがしにお任せくだされますか」
「応《おう》さ、まかせいでか」
と、伊賀守は、いっぱしの悪謀家になったように昂奮《こうふん》し、顔を火照《ほて》らせた。
それからほどもない。正確にいえば、永禄七年二月七日のことだ。
朝からめずらしいほどの晴天で、ひどく寒い。野に風の立つなかを、半兵衛は騎馬で出かけた。例によって軽装で、物静かな馬に乗り、身内と郎党わずか十六人しか従えていない。そのままずっと稲葉山城の大手門を入った。
「斎藤飛《ひ》騨守《だのかみ》殿に会いたい」
と、殿中に入り、一室にすわった。斎藤飛騨守というのは竜興のお気に入りの男で、年の頃《ころ》もあまりかわらない。ひたすらに竜興に迎合し、安藤伊賀守打擲《ちょうちゃく》事件のときも、
「ようこそなされた」
と、竜興をむしろけしかけ、ころげながら退出してゆく安藤伊賀守に、後ろから嘲罵《ちょうば》をはなった男である。
「半兵衛殿、なにか御用か」
と、斎藤飛騨守が入ってくると、竹中半兵衛はうなずき、低い声でぼそぼそと話しかけた。その声が飛騨守には聞こえない。
「もそっと、大きな声を出されよ」
と言いながら膝をすすめて耳を傾けたとき、やにわに半兵衛がその襟《えり》をつかんだ。
「あっ、なにをする」
と飛騨守が叫ぼうとしたときはすでに遅く半兵衛の脇差《わきざし》が抜かれ、
「極楽《よいところ》へ参られよ」
と、心《しん》ノ臓《ぞう》を一突きに突き刺していた。
「気の毒だが、やむを得ぬ。軍は必ずしも幾千幾万の兵をもって野戦攻城をするものとはかぎらぬ。匕《ひ》首《しゅ》を飛ばして瞬時に事を決する場合もありうる」
と、静かに廊下に出た。そのときには半兵衛の手まわりの者十六人が四方に飛んで竜興の側近の者五人を斬《き》り殺していた。
白昼の出来事である。
まさか白昼、殿中でかようなことを仕出かす者があるとは思えぬため、殿中の人々はいたずらに狼狽《ろうばい》するのみでどうすることもできない。
なにしろ荒淫に明けくれている竜興のそばには役に立つ士もおらず、さらにこの若い国守にとって不幸だったのは、稲葉山城警備を担当している家老日根野備中守が、自分の領地の厚見郡《あつみのこおり》中島ノ庄へ帰ってしまっている留守中の出来事だった。備中守以外に、この殿中の混乱を収拾する人物はいない。
半兵衛にとっては、そこがつけめ《・・・》だった。斎藤飛騨守を刺殺するや、すぐ人を走らせて城内の鐘楼にのぼらせ、最初は静かに、つぎは激しく、最後は捨鐘《すてがね》を一つ撞《つ》いて城外に合図した。
城外には、安藤の人数二千人ほどを伏せてある。それが一時に立ちあがり、鬨《とき》の声をあげて城門からなだれ込み、たちまち城内の要所々々を占拠してしまった。
乗っ取りは、うそのような手ぎわよさで、すらすらと運んだ。
さて、当の竜興である。
この騒ぎの最中、御座所で女どもを相手に酒を飲んでいたが、やがて事態を知り、茶坊主を走らせて様子をさぐらせると、西美濃衆一万が城内に入りこんでしまったという。
「一万」
むろん、半兵衛の流した流言である。竜興はその数に恐怖し、もはやかなわぬとみて城を脱け出した。竜興が城をぬけ出せるよう、半兵衛は勢子《せこ》が獣を追い立てるようにたくみに仕掛けを作ってある。竜興は美濃の野を駈《か》けに駈けて、本巣郡文殊村《もんじゅむら》の祐向山まで逃げこんだ。
「これでよし」
と、半兵衛は城門をとざし城下に高札《こうさつ》を立て、
「悪心から城を奪ったわけではなく、竜興殿を諫《いさ》めんがために非常手段に訴えたものである。されば士《し》庶《しょ》は鎮《しず》まるべし。ただし御城は当分のあいだ、竹中半兵衛がお預りする」
美濃の諸将にも、同様の使いをやった。美濃衆たちはかねて竜興の乱行に不安を抱いていた上、半兵衛の人柄《ひとがら》もよく知っている。
「よくぞやった」
とかえってほめる者もあり、ほめぬまでも兵を動かそうとする者はなく、ことごとく鎮まって成り行きを観望する態度をとった。
この急変が、勃発《ぼっぱつ》後何日目かで信長の耳に入ったのである。
「半兵衛とは、どのような男だ」
と美濃通の家来をよびあつめて聞くと、ひどく評判がいい。おだやかな君子肌《はだ》の若者、ということに、どの評も一致した。
「齢《とし》は」
「たしか、二十一でござりまする」
信長は、その若さに驚嘆した。しかし信長には半兵衛の人柄までは理解できない。半兵衛が一種の義憤と酔狂で竜興を追った、などというようなお伽話《とぎばなし》めいたことは、当節、信じられることではない。
(慾心があってのことだ)
と見た。第二の道三が美濃に出現したか、と信長は思った。その見方の上に立って、使者を、稲葉山城頭の竹中半兵衛のもとにやった。口上《こうじょう》は、
「この城はわしに譲れ」
ということである。
「わしの手もとには、故道三殿からの譲状もある。されば稲葉山城はわしのものである。しかしながら半兵衛、せっかくの骨折りゆえ、当方に譲り渡しの上は美濃半国を進ぜる」
と、使者に口上させた。
(その手には乗らぬ)
半兵衛は、深沈とした表情できいている。
この若者にはむろん信長の申し出を受ける気は金輪際《こんりんざい》なかったが、もし受けたばあい、そのあとどんな光景になるかという見通しさえありありと見えている。信長は稲葉山城を取りあげたあと、美濃半国を与えるどころか、
――主を追った不届者《ふとどきもの》
という名目で半兵衛を殺してしまうであろう。
「せっかくですが、お受け致しかねる。上総《かずさの》介《すけ》殿は、なにかかん《・・》ちがいあそばされているのではないか。拙者がこういう仕打ちを主に加えたのは義のためであって私利によるものではありませぬ」
そう返答すると尾張の使者を追いかえし、その日のうちに文殊村から竜興を迎えてさっさと城を返し、わが自領の不破郡菩提の山城にひきあげてしまった。
(水ぎわだったことをする男だ)
と、信長はこの始末を尾張小牧山城できき、この乱世に、竹中半兵衛のような男がいることをむしろよろこんだ。信長には、こういう無慾な酔狂人というのが、たまらなく好きなところがあるらしい。
「あの男をわが家来にしたい」
といってそのころすでに織田家の部将になっている木下藤吉郎秀吉を美濃菩提村にゆかせ、さんざんに口説かせたのは、このあとである。
藤吉郎は六度、菩提の城館を訪ね、六度とも半兵衛にことわられた。
半兵衛の拒絶には、竜興への節義を立てるという理由もあったが、ひとつには、信長の苛《か》烈《れつ》な性格を怖《おそ》れた。
(あの殿は人を許せぬ性格《たち》だ。いずれ長いあいだには機《き》嫌《げん》を損ずることがあろう。そのときは自分の身のほろぶときだ)
とみて、あくまでも承諾しない。
が、半兵衛の内心、織田信長という若い武将を高く買うところがある。
(いずれ美濃はほろび、自分は止り木をうしなうことになるだろう。それとは逆に信長は大いに伸び、ついに天下に威をふるうときがくるかもしれない。されば自分の軍才をこのまま朽ち枯らせるよりも、信長によって大いに表現の場を得てみたい)
という気持もあった。木下藤吉郎はそこを刺《し》戟《げき》し、さんざんに口説いたすえ、七度目についに承諾させた。
信長の直臣《じきしん》になるということではない。藤吉郎の参謀になる、という契約である。これは半兵衛が持ちかけた条件だった。
半兵衛の信長観は、不幸なかたちで的中した。このとき半兵衛とともに帰属した舅の安藤伊賀守守就についてである。信長は伊賀守の策謀癖をきらい、重用しなかった。
伊賀守もそれを察し、織田家に帰属した美濃の二、三の将と謀《む》反《ほん》を企てて失敗し、領地を没収されて武儀郡の山中に蟄居《ちつきょ》した。
さて、この半兵衛事件の半年後のことである。
(半兵衛でさえ奪った稲葉山城を、おれがとれぬことがあるか)
と信長は発奮し、美濃国内に十分謀略の手を打ったあと、この年の七月三十日、にわかに軍をおこした。
藤吉郎
美濃攻めには、木下藤吉郎秀吉という尾張の浮浪児あがりの将校が演じた役割りがもっとも大きい。
秀吉は、この年、満で二十八歳。信長よりもふたつ年下である。
「猿《さる》はなかなかやる」
と、信長はつねにそういう目でこの秀吉を見ている。
信長には、稀有《けう》な性格がある。人間を機能としてしか見ないことだ。織田軍団を強化し、他国を掠《かす》め、ついには天下を取る、という利《と》ぎすました剣の尖《さき》のようにするどいこの「目的」のためにかれは親類縁者、家来のすべてを凝集しようとしていた。
かれら――といっても、彼等の肉体を信長は凝集しようとしているのではない。
かれらの門地でもない。かれらの血統でもない。かれらの父の名声でもない。信長にとってはそういう「属性」はなんの意味もなかった。
機能である。
その男は何が出来るか、どれほど出来るか、という能力だけで部下を使い、抜擢《ばってき》し、ときには除外し、ひどいばあいは追放したり殺したりした。すさまじい人事である。
このすさまじい人事に堪えぬいたのが、秀吉である。いや、むしろ織田家の方針・家風がそうであったればこそ、この男のような氏も素姓もない人間でも抜擢につぐ抜擢の幸運にあうことができた。門閥主義の他国には類のないことである。
能力だけではない。
信長の家来になるには働き者でなければならない。それも尋常一様な働きぶりでは信長はよろこばなかった。身を粉にするような働きぶりを、信長は要求した。
それだけではない。
可愛《かわい》気《げ》のある働き者を好んだ。能力があっても、謀《む》反《ほん》気《ぎ》のつよい理屈屋を信長は好まず、それらの者は織田家の尖鋭《せんえい》きわまりない「目的」に適《あ》わぬ者として、追放されたり、ときには殺されたりした。
そんな家風である。だから他国では、
「上総介《かずさのすけ》殿は残忍である。家来に対して容赦をせぬ」
とか、
「織田家では、ただの侍はつとまらぬ」
などと取《と》り沙汰《ざた》された。現に、織田家から勧誘された知名の牢人《ろうにん》でも、
「織田家だけは」
と尻《しり》ごみして断わる例が多い。最近では竹中半兵衛がそうである。
そういう信長の方針に、小者のときから堪えぬき、堪えぬくだけではなく信長の方針に適《かな》うみごとな模範として頭角をぬきん出てきたのが、木下藤吉郎秀吉である。
竹中半兵衛が、
「織田家の直参はいやだが、あなたの家来ならば」
と秀吉を見込んだのも、ひとつはそういう点である。
信長の苛《か》烈《れつ》きわまりない方針に堪えて中級将校になるまで立身した男というだけでも、異常である。なぜならば信長という男は口先でごまかされる男ではなく、家来の骨髄まで見ぬいてその人間を評価する男だ。
(それだけに秀吉はいよいよ立身するにちがいない)
と、半兵衛は見た。立身すれば大軍を動かす。その大軍の軍師を半兵衛はつとめる。軍師としてこれほどおもしろく、やりがいのあることはない。
だからこそ、半兵衛は秀吉に仕えた。
さて、秀吉である。
この男は、人の心を読むことに長《た》けている。名人といっていい。信長の関心が、一にも二にも美濃攻略以外にないと見、自分自身も一将校の身分ながら、かれの範囲内で美濃攻めのことに没頭しぬいた。
いや、範囲外にまで出た。
美濃攻めの橋頭堡《きょうとうほ》(足掛りの野戦要塞《ようさい》)を築くにあたって、
「ぜひやつがれ《・・・・》に」
と、志願し、危険をおかして国境線の河中の洲《す》で築城作業をし、ついに築きあげた。世に「墨股《すのまた》の一夜城」といわれる手《て》柄《がら》である。
信長はよろこび、
「藤吉郎、汝《われ》が番をせい」
と命じたので、一躍、秀吉は野戦要塞の指揮官になった。この要塞にはかれの才覚でかきあつめた野武士を多数入れておいた。蜂《はち》須《す》賀小《かこ》六《ろく》らである。
この墨股に駐屯《ちゅうとん》したことは秀吉の前途を大いにひらかせた。なぜといえば、美濃への最前線である。
「よく守っておれ」
と信長はそれだけの任務をあたえただけだが秀吉は任務を拡大した。美濃への秘密工作に乗り出したのである。
美濃侍の竹中半兵衛を口説いて自分の家来にしたのもその一例であった。
半兵衛には、利用価値がある。
かれを通じて、美濃衆の切り崩しを秀吉ははじめた。さらに情報もあつめた。
「猿は、美濃の政情にあかるい」
と、信長に認められるようになった。事実織田軍のなかで秀吉はずばぬけた美濃通になり、信長は何事も秀吉に相談せざるをえなくなった。
秀吉の秘密工作は、すさまじい。
一例をあげると、こうだ。
美濃の本城である稲葉山城のことである。
「稲葉山城はさすがに故道三殿の居城だっただけに兵糧蔵《ひょうろうぐら》の米がおびただしゅうござる。あれならば二年、三年の籠城《ろうじょう》にも堪えられましょう」
と竹中半兵衛がいったので、秀吉はなるほどと思い、半兵衛と一策を講じて、それをなんとか分散させようとした。
そこで半兵衛を通じて、すでに織田方に内通を確約している美濃三人衆を口説き、一策をさずけた。
美濃三人衆はさっそく稲葉山城に登城し、お屋形様である竜興に説き、
「将来、織田軍は、多方面から美濃に侵略してまいりましょう。兵や兵糧を、稲葉山城に集中しておいては国内各所での防戦ができかねます。よろしく分散あそばすのが、得策かと存じまする」
といった。
竜興は、愚物である。「ああそれも一理である」とその説を容《い》れ、ただちに城から兵糧米を運び出させ、守備兵も各地に分散した。
策は成功した。
秀吉はこの旨《むね》を信長に報告すると、
「猿、やったわ」
と膝《ひざ》をうち、いま一度念を押した。
「たしかに兵糧米は分散したか。人数も手薄になっておるか。間違いはないな」
「間違いござりませぬ。手前、稲葉山城下に諜者《ちょうじゃ》を放って、シカと相確かめましてござりまする。されば間違いはござりませぬ」
信長は、不確実な仕事をきらう。秀吉はその気質をよく知っている。
秀吉は退出した。
その翌日の未明である。信長は、美濃への前線指揮所である小牧山城に、にわかに大軍をあつめた。
夜は、まだ明けない。
しかも前夜来からの雨が風をともない、道を掘りくだくような豪雨になった。
(桶狭《おけはざ》間《ま》のときも、このような風雨だった)
この雨に、信長は気をよくしていた。いや、この風雨なればこそ、信長はにわかに決意し、突如の軍令をくだし、不意の作戦をおこそうという気になったのである。
「敵は、三《み》河《かわ》である」
と、信長は全軍に布告し、まず味方をあざむいた。三河ならば、東である。
美濃稲葉山城は北であった。城門をとび出した信長は路上でくるくると輪乗りし、やがて手綱をぐっとひくや、馬首を北にむけ、
「美濃へ」
と、一声さけんで、鞭《むち》をあげた。
尾張小牧から美濃稲葉山城(岐阜市)へは二十キロある。
道路は、あぜ道をひろげた程度の粗末なものだ。兵はときには三列になり、ときには一列にならざるをえない。その狭い北進路を揉《も》みに揉んで進んだ。
風雨は衰えず、滝のなかをくぐるような行軍になった。ときに人馬が泥濘《でいねい》のなかでころび、あとにつづく馬《ば》蹄《てい》に踏みくだかれる者もある。
「めざすは稲葉山城ぞ」
ということは、すでに雑兵《ぞうひょう》のはしばしにいたるまで知りはじめていた。
稲葉山城は、先代信秀のころからあくことなく攻撃をくりかえし、累計《るいけい》幾千の尾張兵がそのために命をおとし、しかもなお巍《ぎ》然《ぜん》として陥落を知らぬ城である。
信長も、雨に打たれている。
雨は兜《かぶと》の目庇《まびさし》から流れ落ち、その雨の条《すじ》を通してかろうじて前方を進む前衛部隊のタイマツの炎がみえるほどである。
「藤吉、藤吉」
と、信長はよんだ。使番が走り、その旨が前衛軍にいる秀吉に伝わった。
秀吉はさがってきて、馬を降り、手綱を曳《ひ》きながら、馬上の信長を見あげた。
「藤吉郎、おん前に」
「工夫がついたか」
と、信長は、唐突にいった。信長はほとんど前置きをいわない。ときに言語の主格をさえはずして、藪《やぶ》から棒にいう。よほど機敏な頭脳とかん《・・》をもった男でなければ、この男の家来にはなれない。
秀吉は馴《な》れている。
(おれに、独自の稲葉山城攻めの工夫があるかというお言葉か。殿様はそれを省略なされている。いきなり、その工夫がついたか、とおおせられているのであろう)
むろん、秀吉はぬけ目がない。工夫はついている。ついているどころか、この男はすでに手も打っていた。
秀吉の細心は、それだけではない。あまり独断を用いると、信長の嫉《しっ》妬《と》を買う。それを知っている。これを嫉妬というべきかどうか。
とにかく秀吉は信長の天才であることを知りぬいている。才能というものは才能をときに嫉《そね》むものだ。秀吉は嫉まれたくない。
それに、家来があまりに才走りすぎると、鋭敏な将ほど、
(はて?)
と、用心の心をおこすものだ。将来、自分の位置を狙《ねら》うのではないか、という警戒と怖れである。幼いころから人中《ひとなか》で苦労してきた秀吉は、そういう人情の機微をよく知っている。
例がある。秀吉自身の例である。秀吉がのちに立身したとき、創業の功臣である竹中半兵衛にはほんのわずかな知行をあたえ、その功に値いするような大領をあたえなかった。
――なぜ半兵衛をあのような少禄《しょうろく》におとどめなされておるのでございます。
と側近がきいたとき、秀吉は笑って、
「半兵衛に五万石も与えれば天下を取るであろう」
といったことがある。秀吉の参謀筆頭ともいうべき黒田官兵衛(如水《じょすい》)に対しても、ほんのわずかな領地をあたえたにすぎなかった。秀吉の用心といっていい。
秀吉は、信長という気むずかしい大将に仕えるのに、細心の心くばりをしていた。
この、
「工夫」
についても、かつて信長にこれこれの思案がございますがその実施にはどうすればよろしゅうございましょう、とむしろ信長から智恵を拝借するというかたちで言上したことがある。すると信長は、よろこんで指示をした。
そのことを、いま雨中を行進している信長はわすれているらしい。
「殿、以前に御《お》指《さし》図《ず》を頂戴《ちょうだい》しましたる一件」
「指図?」
馬を進ませている。
「したか」
信長の言葉はつねにみじかい。
「はい。なされました。稲葉山城下に野ぶし《・・・》を多数埋めておけ、と。藤吉郎、御指図どおり、ここ十日ばかり前から、かれら墨股の野ぶしを、百姓、物売り、雲水、山伏《やまぶし》、乞食、高野聖《こうやひじり》、川人夫などに化けさせ、小人数ずつ、目だたぬように美濃へ入れてござりまする」
「ようやったぞ」
信長は、秀吉の才気よりもむしろ、その蔭《かげ》日向《ひなた》のない精励ぶりに感心した。秀吉がねらったのも、才気をほめられるよりその精励ぶりをほめられたかったのである。
「それで、その乱《らっ》破《ぱ》(野ぶし)どもには、この突如なる美濃攻めがわかっておるか。わかっておらねば、呼応できぬぞ」
「さん候《そうろう》」
秀吉は小気味よく答えた。
「蜂須賀小六、すでに駈《か》け走りましてござりまする」
小六は秀吉が家来分にした野ぶしのかしら《・・・》である。すでに美濃へ駈けこんでかれらを掻《か》きあつめつつあるというのだ。
「どこへ集めるつもりだ」
「おそれながら独断ではござりまするが、瑞《ずい》竜寺山《りゅうじやま》の裏に」
瑞竜寺山とは、稲葉山の一峰である。その裏山に隠密《おんみつ》裏《り》に集合させつつあるという。
「されば、お願いの筋がござりまする」
「なんだ」
「それがしの部署のことでござりまする。瑞竜寺山方面の寄せに加わらせていただきとうござりまする」
「よかろう」
信長はこころよくうなずいた。
夜あけとともに雨はあがったが、風は衰えない。午前十一時ごろ信長は稲葉山城下に入り、城下を大きく包囲した。
兵、一万二千人である。
稲葉山城のほうは例の調略に乗って守備兵をすくなくしてしまっているため、ほとんど城外での防戦ができず、ことごとく本城に逃げこんでしまった。
信長は、全軍に布告した。
「勝負は、二度はない」
それだけの言葉である。父の代以来、十数度この城にピストン攻撃をくわえてきたがことごとく失敗した。しかしこのたびこそ最後の勝負であるという意味である。
風は西風になっている。
その風に乗って、まず、火《か》攻《こう》を施した。敵の防戦の拠点を灰にするため、城下一帯に火を放ち、とくに神社仏閣や目ぼしい建築物をことごとく焼きはらわせた。その黒煙は宙天に渦《うず》をまき、稲葉山の山容をさえかくすほどであった。この火攻めのために、午後になると稲葉山城は裸城同然の姿になった。
が、天下の堅城である。それでもなお力攻めでは陥《お》ちない。
信長は、城をとりまいて城外に二重・三重の鹿垣《ししかぎ》をつくり、敵の援軍の来襲をふせぎつつ、持久戦にとりかかり、稲葉山城を兵糧攻めにして干しあげようとした。
滞陣十四日目のことだ。
秀吉はその間、配下の野ぶしをつかい、
「本丸への間道《かんどう》はないか」
と、稲葉山周辺の地理を探索させていたが、ある日、一人の猟師をとらえた。堀尾茂助という若者である。
人間の運命とは妙なものだ。この稲葉山住いの若い猟師が、このあと秀吉の家来になり、累進して豊臣家の中老職をつとめ、遠州浜松十二万石の大名になるにいたる。
この茂助が、
「この山麓《さんろく》の一角に、達目洞《だちぼくどう》という小さな山ひだ《・・》がございます。そこから崖登《がけのぼ》りすればわけなく二ノ丸に登りつけます」
といった。この一言が、稲葉山城の運命を変えた。秀吉はこの茂助を道案内とし、新規にかかえた野ぶしあがりの蜂須賀小六ほか五人をつれて夜陰、崖のぼりし、二ノ丸に忍びこんで兵糧蔵に放火し、ついで自分の弟(秀長)に指揮させている本隊七百人をよび入れ、さらに間道を進んで天守閣の石垣にとりつき、陥落の糸口をつくった。
その翌日、竜興は降伏し、信長によって助命され、近江へ逃げた。
城は陥ちた。
信長は、ここを居城にしようとした。
が、美濃の戦後情勢がなお不穏であったことと、城の修築のため城番を置いて、みずからは尾張にしりぞき、あいかわらず小牧山城を指揮所として美濃の戦後経営にあたった。
とにかく信長はこの占領した稲葉山城には居住していない。このため諸国で、
――美濃稲葉山城はまだ陥ちていない。
という風聞がおこなわれ、その点がひどくあいまいな流《る》説《せつ》になっていた。
(はたしてどうか)
と、それを確かめるために明智光秀が尾張に入ってきたのは、そのころである。
探索
光秀は、尾張の国内をひそかに視察し、信長の美濃《みの》稲葉山城《いなばやまじょう》奪取が事実であることを知った。
(あのたわけ《・・・》殿め、たわけ《・・・》にしてはやったものよ)
光秀は、不快ながらも信長への認識をすこしずつあらためざるを得なかった。
(桶狭《おけはざ》間《ま》の奇襲成功はまぐれとしても、こんどの稲葉山城奪取はまぐれではない)
道三《どうさん》がその才と財をかたむけ、屈強の天嶮《てんけん》をたのんで築きあげた天下の名城である。それをまぐれで陥《おと》せるとは光秀も考えていなかった。信長はその器量で陥したといっていい。
(どのようにして陥したか)
軍事専門家としての光秀の興味あるところである。それを跡づけてゆけば、信長という、光秀にとって疑問の人物の能力のほどがわかるのではあるまいか。
美濃に入った。
光秀にとって故郷の地である。尾張領河《こう》渡《ど》の渡しから舟に乗って美濃領に入り、稲葉山城下に入ったとき、この多感な男は、涙があふれてくるのをどうすることもできなかった。
(……国破れて山河あり城春にして草木深し、とはこういう感傷をいうのであろう)
光秀は城下の辻《つじ》にたたずみ、夕映えのなかで編笠《あみがさ》をあげ、すでに織田家のものになりはてている稲葉山城を仰ぎみた。
(道三殿の栄華もいまは夢か。あの城頭に道三殿自慢の二《に》頭波頭《とうなみがしら》の旗がひるがえっていたのはきのうのことのように思えるが)
町の名称も、陥落後、信長によって、
岐阜《ぎふ》
とあらためられた。城の名もすでに稲葉山城ではなく岐阜城であった。
(岐阜か)
美濃の名族の家にうまれた光秀にとっては旧名の稲葉山城のほうがどれだけよいかわからない。岐阜、などという唐音《とうおん》の名称ではなにやらよその土地のように思えるのである。
(信長は、改称によって美濃の人心を一新しようとしているのにちがいない。それにしても岐阜とはつけもつけたるものよ)
光秀が途々《みちみち》きいたところでは、古代中国を統一した王朝である周帝国のそもそもの発祥は、陝西省《せんせいしょう》の岐《き》山《ざん》であった。信長はその岐山の岐《・》をとり、岐阜という文字をえらんだ。むろん信長自身がそういう典拠を知っていたわけではない。沢彦《たくげん》という禅僧をよび、その僧に新しい地名の案をいくつか出させ、「岐《ぎ》」の縁起をきき、
「ソウカ、左様ナ意デアルカ」
と即座に岐阜の名をえらんだ。
(信長は、周王朝をおこす気か)
その壮大な野望を、この地名に託したとしかおもえない。天下に英雄豪傑が雲のごとくむらがり出ているとはいえ、信長ほど端的で率直に天下統一の野望をもっている男はあるいはいないかもしれない。
(痴《こけ》の一念というか。あほう《・・・》だけに、志には夢中だ。余念がないのであろう)
光秀は、悪意をこめてそう思った。
岐阜《・・》城下を、光秀はさまよいあるいた。
以前はこの城下の町名を「井ノ口」といったのだが、岐阜と改まって以来、城下の景色までが一変したような気がする。
(どこもかしこも、普《ふ》請《しん》中だ)
単なる復興工事ではない。信長はあたらしい町割り(都市計画)をもって岐阜という町をあらたに生みあげようとしているようである。
光秀が聞いたところでは、信長は城を陥したあと、すぐ尾張へ帰った。あれほどほしがったこの城に入ろうとはしない。
この信長の行動は奇妙であった。
(なぜか)
ということを、光秀は、尾張・美濃の現地でさぐろうとした。
現地で、ようやくわかった。信長は城を陥したあと、城内の片づけを前田利家《としいえ》に命じ、さらに城下の行政と建設指揮を家老の柴《しば》田《た》勝《かつ》家《いえ》・林通勝《みちかつ》のふたりに命じた。
(どうやら)
と、光秀はおもった。計画的な城下町の建設に、信長は乗り出したようである。その完成まで二、三年はかかると信長は見、みずからは身をひいて尾張にすわりつづけているのであろう。
(岐阜という名をつけたことと言い、この大規模な町普請の様子といい、信長は将来ここを根拠地として勢力を四方に伸ばそうとしているのにちがいない)
岐阜を織田家の首都にするつもりであろうと光秀はみた。
それにしても、町はすさまじいばかりの混雑ぶりである。美濃・尾張の各地から大工、左官、人夫が数千人も入りこみ、織田家の侍の指揮に従ってあらゆる現場で働いていた。
道路も道三当時よりもひろくしつつあることは、両側の溝《みぞ》切《き》りの間隔でも察せられた。
それに、大小の武家屋敷が、軒をならべて新築されつつあり、この様子からみれば全織田軍をこの城下に集中しようとしていることはたしかだった。
さらに光秀は辻々を歩いた。
この男がもっともおどろいたのは、山麓《さんろく》で普請をすすめられている御殿を見たときだった。
(これは将来信長が入るべき居館か)
と、光秀は作《さく》事場《じば》に近づいて行った。敷地は、道三の居館のあとである。道三がその好みで設計し、名匠岡部又右衛門に建てさせた居館は、戦火で焼失していまはあとかたもない。
その道三居館の焼けあとはきれいに整地され、その上にすでにあたらしい建築の骨組みがつくられつつある。
(世は動いてゆく)
と、思わざるを得ない。
「ちと、ものをききたいが」
と、光秀は、路上に休息している石運びの人夫の群れに近づき、物やわらかに話しかけた。
「この作事場は、どなたが棟梁《とうりょう》かね」
「へえ」
人夫は、促音《そくおん》の多い三《み》河《かわ》言葉で喋《しゃべ》りはじめた。光秀にはひどく聞きとりにくい。
まず、人夫が三河者だということが、光秀にひとつの感銘をあたえた。三河は、信長より八つ年下の徳川家康の領国である。数年前、信長と同盟し、その結束は当節めずらしく固いという評判が世上行なわれている。
(事実だ)
と、光秀は人夫を見ておもった。家康は信長の都市建設のために人夫を自国から出しているのである。この結束の固さは、織田家の実力を測定する上で重要な要素になるであろう。
光秀は何度もききかえして、一つの名前を聞き取った。岡部又右衛門である。
(なるほど、岡部にやらせているのか)
岡部又右衛門は、道三が発見し、道三がひきたてて城郭建築の巨匠に仕立てて行った棟梁で、以前この敷地にあった道三館《やかた》も、この人物の手で建てられたものであった。
「それは名匠だ」
と、光秀は人夫にお世辞をいいつつ、作事場の光景を見た。
(どういう館が出来あがるのか)
信長には信長の好みがあるにちがいない。それはまだこの作事場からは窺《うかが》い知ることはできない。
かつての道三の建築と造園というものは東山風のしぶいもので城主の教養の深さを十分にしのぶことができた。
「どのような御殿ができるのかね」
「さあね、そいつは、われわれ風《ふ》情《ぜい》にわかるこっちゃねえが、棟梁の岡部様が大そうおこまりだというこった」
「ほう、なにを」
「南蛮風というのかね、そういうめずらしい御殿ができるってこった」
聞けば、信長は、道三風の閑寂な美をすて建物は三階建てとし、黄金、朱漆《しゅうるし》、黒漆などをふんだんに使え、と岡部に命じ、岡部はそのために頭を痛めているという。
(なんたる無智)
光秀は、この現地にきてはじめて信長の軽《けい》蔑《べつ》すべき欠陥を見たような気がした。
(やはり、たわけ《・・・》殿はたわけ《・・・》殿にすぎぬ)
光秀は、うれしくなった。合戦《かっせん》には強くても無教養はおおうべくもない、と思った。南蛮風の建物をつくれ、とはなんという突飛さであろう。
(あの男は、数年前は、しばしば微行して堺《さかい》にゆき、南蛮の文物を見てきている。ああいう華麗なものにあこがれるというのは、所詮《しょせん》は田舎者にすぎぬからだ)
光秀は、教養主義者である。粗野で無教養な男というものを頭から軽侮する癖をもっている。信長を、その軽侮の対象として見た。
(所詮は、出来《でき》星《ぼし》大名か)
としか思えない。
(あの男は、道三殿の娘を室にしている。道三殿に愛されもした。しかし所詮は道三殿の衣《い》鉢《はつ》を継げぬ男であるらしい)
この場合、光秀が考えている「道三殿の衣鉢」というのは、道三がもっていた東山文化風な洗練された趣味と教養である。それのない信長は、光秀にはなにやら野蛮国の王のようにおもえた。
光秀は、さらに美濃の国内を歩いた。うまれ故郷であるだけに、勝手は知っている。親類縁者や旧知も多い。
それらの土豪の屋敷にとめてもらい、土地の事情や美濃の国情をきいてまわった。
とくに西美濃最大の土豪のひとりである安藤伊《い》賀守守就《がのかみもりなり》を訪問したことは、光秀にとって大きな収穫があった。
安藤伊賀守という人物は、この編で先刻登場した。繰りかえしていうと、竹中半兵衛の舅《しゅうと》で、半兵衛とともに織田方に寝返った人物である。
生来、叛骨《はんこつ》がある。そのうえに不平家で、策士で、つねに小さな地方的策謀のなかで生きている男だ。織田方に寝返ったものの、織田家の処遇が期待したほどでもないことに、あたらしい不満を覚えている。
「明《あけ》智《ち》の十兵衛ではないか」
と、ひょっこり訪ねてきた光秀をみて、安藤伊賀守はおどろき、かつ懐《なつか》しがった。
「おじ上も、おつつがなきご様子、祝着《しゅうちゃく》に存じます」
と、光秀は、多少の血のつながりがあるためことさらに、おじ上、と敬称でよんだ。
「十兵衛、幽霊かと思うたぞ。弘治二年の明智城の落城のとき、そなたは死んだという説があった、京をめざして落ちのびたという説もあった。そうか、生きていたのか」
策謀好きな男にしては、精力がのど《・・》からほとばしり出ているように声が大きい。
「いまなにをしている」
と、安藤は、光秀の風体《ふうてい》を見た。柿色《かきいろ》染めの袖無《そでなし》羽《ば》織《おり》がところどころ破れ、大小の柄巻《つかまき》もすり切れて、さほどよい暮らしをしているとはおもわれない。
光秀は、自分の境遇を恥じた。
「牢人《ろうにん》同然の境涯《きょうがい》です。越前朝倉家にて扶持《ふち》を頂戴《ちょうだい》し、客分の処遇は受けておりますが」
「そうか、そなたほどの才のある者がのう。才といえばわしの娘婿《むこ》の竹中半兵衛も若いがなかなかの男じゃ。しかし公平にみて、明智十兵衛にはおよぶまい」
「おそれ入ります」
「して、織田家に仕官の希望があって参ったのか」
「いやいや」
光秀は、わざと一笑に付した。風体こそ貧しいがそうは安手に見てもらうまい、という気位《きぐらい》の高さが、笑顔に出ている。
「そうではありませぬ」
と光秀は言い、「じつはそれがし、あすにも将軍家をお継ぎあそばされるはずのさきの一乗院門跡《もんぜき》覚慶様のご信任を得ております関係上、織田家には仕官できませぬ」と、それとなく自分の現在の地位のようなものをほのめかせた。
「ほう」
安藤はその一言に興味を示した。
「いま一度、くわしく言ってくれ。そなた、将軍家に縁故のある身じゃと?」
「そのことはいずれ世上にわかりましょう。いまは残念ながら申せませぬ」
「これこれ水くさい。左様に言わずと、いまの話、もう一度聞かせてくれい」
安藤伊賀守づれのこの里の地侍にそういう雲の上の情報など無用の沙汰《さた》だが、情報好きのこの男は、性癖としてそんなはなしが好きなのである。
「ただ申せることは」
と、光秀はいった。
「覚慶御門跡はいま足利義秋《あしかがよしあき》(義昭)と名乗りをあらためられ、さる田舎にて雌《し》伏《ふく》しておられます。ほしいのは保護者でござる。義秋様を守《も》り立てて将軍の位についていただくには、義もあり力もある後援者が必要であります。さればこの十兵衛」
未来の将軍の密命を受け、諸国を歩き、それにふさわしい大名を物色している、と光秀は言葉さわやかにいった。
「当地に参ったのは」
と、光秀はいう。
「織田殿はどうかと、その下調べに参ったわけでありますが、さて当国の形勢は」
「悪いのう」
と、安藤伊賀守はいった。
「悪い悪い。わしが骨折って工作し、この西美濃の諸豪を抱きこんで織田方に寝返ってやったが、信長め、そのあとのやり方がまずい」
「しかし稲葉山城は織田家がおさえたではありませぬか」
「それだけよ。わしが信長ならばすぐ稲葉山城を居城とし、美濃の経営に乗り出している。ところが信長は臆病《おくびょう》にも美濃には来ぬ」
「それはまた、なぜ」
「臆病だからよ」
「はい、臆病はわかっております。なぜ信長はすぐ稲葉山城にすわって美濃の鎮定をやりませぬ」
「美濃国内がまだ動揺しているからよ」
そのとおりである。西美濃は寝返ったが、東美濃はなお信長に対して抗戦をつづけている。その代表的な者は、刀鍛《かたなか》冶《じ》で有名な関に城をもつ長井隼人佐《はやとのすけ》、加茂郡の坂祝《さかほぎ》に「猿《さる》ばみ城」という山城をもつ多治見修《しゅ》理《り》、堂洞城の岸勘解由《かげゆ》、加治田城の佐藤紀伊守らで、それぞれ山野に出没して頑強《がんきょう》な抵抗をつづけている。
「うかうかすると、情勢はまたくつがえるかもしれぬ。せっかくわしが信長に勝たせてやったのに、この調子ではどうにもならぬ。信長は所詮は愚将だな」
(この老人、織田家の恩賞に不満があるな)
と、光秀は見たが、さりげなく、
「おじ上が信長なら、どうなされます」
「稲葉山城で軍配をとる」
つまりは臆病なのだ、と安藤はいった。
(いや、その臆病がこわい)
と、光秀は逆の感想をもった。
(性格からいえば信長は、その軍を行《や》ること電光石火で、なにごとにつけ激しい男だ。桶狭間の急襲がそれを証拠だてている。しかしその面だけではない。この美濃攻めの事前工作についても、自重に自重をかさね、十分すぎるほどの裏工作をしてから、風雨をついて稲葉山城下に入っている。しかも短兵急《たんぺいきゅう》に力攻めにすることなく、城下の町に放火してまる裸にし、城外を柵《さく》でかこって持久態勢をとり、あたかも熟柿《じゅくし》が枝から落ちるがごとくにして自然に落してしまった。いわば臆病すぎるほどの理詰めの攻略法である)
あの苛《か》烈《れつ》火のごとき信長にこういう反面があるとは、光秀にとって意外であった。信長は待つことも知っている。屈することも知っている。むしろ桶狭間で冒険的成功をおさめた信長は、それに味をしめず、逆に冒険とば《・》くち《・・》のひどくきらいな男になったようであった。
(桶狭間のような成功は、人生に二度とない)
と、信長は決めこんでいるかのごとくである。
(とすれば、容易ならぬ男だ)
とも、光秀には思える。安藤伊賀守程度の田舎策士の目からみれば臆病にみえる信長のいまの態度が、むしろ信長の器量の複雑さと巨大さを証拠だてるものではないか。その証拠に、東美濃が抗戦しているというのに、信長は数年もかかるような「岐阜」の建設に乗り出しているのである。
(わからぬ男だ)
と、光秀は思い、あわてて首をふった。
(さしたることはない)
そう思いこもうとした。信長の欠点に対する手きびしい批評家でありつづけてきた光秀は、いまさら信長の長所に拡大鏡をあてようとは思わない。
「いやさ」
と、安藤はいう。
「将軍の保護者になるほど、将来のある男ではない」
そう断定した安藤伊賀守の結論に光秀も感情的に同調し、その夜はこの屋敷に一泊し、翌日、美濃関ケ原へ出、北国街道を北にとってかれの妻子のいる越前一乗谷《えちぜんいちじょうだに》にむかった。
(結局は、越前朝倉家を説いて義秋公の保護者たらしめるほかはない)
これはおそらく成功するであろう。なぜならば朝倉家は名家意識がつよく、次期将軍を保護し奉る、という光栄を無邪気によろこぶであろうからである。
光秀は、北国街道を夜を日についで北上しつづけた。すでに北陸の山風が、この男の旅《たび》衣《ごろも》に冷たい。
秋は、光秀が山を越えかさねて北に征《ゆ》くほど深くなりまさるようであった。
花籠《はなかご》
越前へ。
光秀の足はいそいでいる。覚悟のほぞ《・・》もきまっていた。
ぜひとも国主の朝倉義景《よしかげ》を説いて、義秋の保護者たらしめるだけでなく、信長に先んじて朝倉軍を京に進めしめ、三《み》好《よし》・松永の徒を討ち、義秋を将軍の座にお付け申さねばならぬ……。
(この舌がちぎれるほどに説きに説けば、なまけ者の義景様もその気になるであろう)
信長の先を越すことだ。そのことのみが光秀の情熱を駆り立てている。
やがて越前朝倉家の首都一乗谷に入った。光秀は、わが屋敷の前を通った。
垣《かき》根《ね》の木槿《むくげ》の葉がすでになかばまで枯れ落ち、粗末な母《おも》屋《や》が透けてみえた。
(お槙《まき》がいる)
井戸のそばでしきりと水音を立てながらすすぎものをしている様子であった。
(お槙よ)
胸中つぶやきながら光秀は立ち寄りもせず、声もかけずに通りすぎてゆく。
(新しい小《こ》袖《そで》の一つもほしいであろう)
垣《かい》間《ま》みたお槙の小袖の古びようが、光秀にはいたいたしいばかりであった。
むこうの辻《つじ》のあたりから、従弟《いとこ》の弥平次光《みつ》春《はる》が魚籃《びく》をさげてやってきた。しばらく見なかったあいだに、見ちがえるばかりのいい若者に成長している。
「あっ、これは」
と、弥平次光春が駈《か》け寄ってきた。光秀は歩みをとめもせず、
「いま帰った。京、奈良、近江《おうみ》、尾張、美濃を歩き、さまざまなことがあった。いずれ帰宅のうえ話すであろう」
「お屋敷にお寄りも遊ばされずに?」
「おうさ、いますぐお屋形へ参上する。夜に入って帰ることになろう」
「されば酒を買いもとめて参りましょう。肴《さかな》はこれにございます」
と、魚籃をかかげてみせた。
「鮒《ふな》か」
「いやいやアメノウオでござりまするよ」
「それは馳《ち》走《そう》だ」
光秀は足早やに歩きだした。弥平次光春は立ちどまり、しばらく光秀の後ろ姿を見送っていたが、やがてくるりときびす《・・・》をかえすと屋敷にむかって走りだした。一時もはやく光秀の妻女にそれを告げたいのであろう。
井戸端で、お槙はそれを知った。
みるみる頬《ほお》を染めながら、
「まこと?」
と、三度ばかり念を押し、弥平次が気の毒に思うほどお槙はあわてた。しかしなにもあわてる必要もない。
すぐ屋内に入り髪をと《・》き、化粧《けわい》を直そうとした。が、それもやめた。
窓のそとをみた。
隣家の楓《かえで》が枝をのばしてお槙の視野のなかにある。一枝は枯れ、一枝は赤い。それをながめるともなくながめつつ、お槙はぼうぜんとすわりつくした。
そのころ、光秀は殿中にある。
控の間で待つあいだ、懇意の奥医師から意外なことをきいた。
「土佐守様、お病《いたつ》きでござりましてな」
光秀を陰に陽に応援してくれている家老の朝倉土佐守のことである。ここ二十日ばかり、ほとんど食餌《しょくじ》ものどに通らず、床に伏したきりであるという。
光秀は根掘り葉掘りに病状を問い、問いかさねるうちに悲しみがこみあげてきた。朝倉家家中では、土佐守のみが頼りであった。こんどの工作も、土佐守を通して義景に口説いてもらおうと思って戻《もど》ってきたのである。
(なぜこうも事がうまくゆかぬのであろう)
「それで、土佐守殿の御病中は、どなたがお屋形様の補佐をなされております」
「刑部《ぎょうぶ》どのが」
「ほう、刑部どのが」
光秀が驚くと、この奥医師はその刑部というあたらしい権勢家に好意をもっていないらしく、光秀の耳もとに口を寄せ、
「お屋形様のご機《き》嫌《げん》よりも刑部殿のご機嫌を損ずるな、と家中では申しております。ずいぶんとお気をつけ遊ばしますよう」
と、忠告してくれた。
「刑部どの」というのは、鞍谷刑部《くらたにぎょうぶ》大輔《だゆう》嗣知《つぐとも》というのが正称である。この人物の朝倉家における位置をどう説明してよいか。
家来ではない。
義景でさえ敬語をつかい、まるで貴人のあつかいをしている人物である。家中ではこの嗣知のことを、「御所」と敬称していた。なにしろ血統からいえば越前国主朝倉家よりもはるかにいい。
京で例の「金閣」を営んだ足利三代将軍義《よし》満《みつ》の次男大《だい》納《な》言義嗣《ごんよしつぐ》の子嗣俊《つぐとし》が、ゆえあってこの越前に流され、今立郡鞍谷《いまだちごおりくらたに》に住み、その後、嗣時、嗣知とつづいている。
国主の朝倉家は名家好きだからこの鞍谷家に所領をあたえて保護しつづけていたが、当代の義景にいたってさらに縁が深くなった。
義景の内室は、この鞍谷家からきているのである。
このため鞍谷嗣知は国主の舅《しゅうと》となり、しだいに政治むきにまで嘴《くちばし》を容《い》れるようになり、土佐守の病気退隠後は、まるで家老同然の権力者になりおおせている。
(あのあばた《・・・》殿がのう)
光秀は言葉をかけられたことはないが、かつて遠目でみたとき、その軽忽《けいこつ》そうな歩きざまから察して、常人以下の人物のように思った記憶がある。
(左様なひとに国政をゆだねているとは、朝倉家もゆくすえ心細いものだな)
尾張の新興織田家は極端すぎるほどの人材主義をとっているが、この越前朝倉家は多分に血統尊重の旧習からぬけきれない。
(それはそれでよいのだ)
とも、光秀は、半ば思っている。血統尊重主義なればこそ、足利家の擁立をこの朝倉家に頼みうるのだ。人を機能としか見ていない信長などに足利家の保護はあぶなくて頼めたものではないのである。
光秀は、だから朝倉家のそういう血統《ちすじ》好みがきらいではない。光秀自身、尾張の藤吉郎などとやらとはちがい、美濃の名家の出であり、それを誇りにも思っているのである。
(しかし庸劣《ようれつ》無能の宰相はこまる)
とも、思う。国主の補佐役はあくまで有能でなければならない。宰相の無能は亡国につながっている。とすれば無能ほど大きな罪はないというのが光秀の持論であり、その考えの源流は故道三から得ている。
「十兵衛殿、これへ」
と、申次《もうしつ》ぎの者があらわれ、案内した。光秀は廊下に出、やや小腰をかがめ、この男らしい慇懃《いんぎん》な作法でひそひそと渡ってゆく。
御前に出た。
義景は、児《こ》小姓《ごしょう》五、六人を相手に昼酒を飲んでいた。他に宿老の者がふたりいる。
(鞍谷御所はいない)
ということが、光秀を安《あん》堵《ど》させた。光秀はすでに衣服をあらためており、ものしずかに平伏している。
「なんの用ぞ」
と義景がいったのには、光秀も驚いた。自分は朝倉家の外交をうけもって諸方を奔走してきたつもりである。その奔走なかばで帰国したというのに、
「なんの用ぞ」
とはどういうことであろう。別に義景に悪意があってのことでないのはわかっているが、それにしても光秀は甚《はなは》だしく気落ちした。
「例の義秋様の一件なら、そちの勧めのとおりご身辺警護の人数もさしのぼらせたし、金品も献上し奉ったぞ」
「はい」
「ほかになんぞ、また思いついたか」
「思いつきは致しませぬが、御当家存亡の心配があり、いそぎ帰国いたしましてござりまする」
「大げさな」
義景は笑いだした。
「いったい、何をいいたいのだ」
「このたび、尾張・美濃のあたりを歩き、織田家の様子をつぶさに見聞して参りました」
と、光秀は、信長のすさまじい膨脹《ぼうちょう》ぶりをつぶさに物語った。
「妙なことをいう」
義景は、賢《さかし》らげに冷笑した。
「そちはさきに帰国した折り、信長はさほどの人物にあらず、織田家の勢いは青竹で岩をたたいているようなものだ、勢いすさまじき音こそ出ているがいずれ青竹がささら《・・・》のように割れてくだける、と申したばかりではないか」
「いかにも左様に」
光秀は、言葉を失った。そう報告したことはたしかである。しかしそれとこれとは言葉の意味がちがうのだ。
「信長の勢いは青竹である、さきでかならず割れる」といったのは、遠い将来を遠望しての信長観をのべたにすぎない。
いま言っているのは、足許《あしもと》に火が燃えはじめているその現況を語っているのだ。言葉にいささかの矛盾もないのである。
「信長は美濃を手に入れた以上、あとは近江に進出して義秋様を擁立し義秋様の御教書《みぎょうしょ》をもって京に軍を進め、三好・松永の徒を追いはらい、足利将軍家を擁立するでありましょう。あの火の付いたるがごとき働き者のことゆえ、かならずそれを致すに相違ございませぬ。されば、御当家は」
光秀は、いった。
「織田家に遅れをとることに相成ります。越前は北、尾張は南、南北の方角こそ違え、近江をはさんでの京への距離はほぼ同じような近さでございます。こうなれば、ご当家と織田家は競馬《くらべうま》も同然、どちらが早く京へ達するかということで存亡が相きまります」
「どうせよというのだ」
「幸い、御当家は北近江の浅井家と御《おん》友誼《よしみ》がお深うございます。浅井家と盟約し、はやばやと大軍を発せられ、近江の湖畔に在《い》ます義秋様を擁立なされ、京にお旗を立てられまするように」
「その留守をねらい東隣の加賀(本願寺一《いっ》揆《き》団)が攻め込んで来ればどうするのじゃ」
「さればこのさい、越後の上杉《うえすぎ》(謙信)家と同盟を結ばれるがよろしゅうございます。上杉家は義秋様に御同情申しあげておりますゆえ、この同盟はやすやすと成立するに相違ございませぬ」
光秀は、さらに快弁をふるい、義景に説いた。義景はあきらかに気持を動かした。
ついに承知した。
「十兵衛、相わかった」
とめずらしく煮え切り「さればさ、京に入って都の酒をのみ、都のおなご《・・・》を掻《か》い抱くのが楽しみになってきたわ」といった。
光秀は、退出した。
が、城門を出ようとしたとき、義景から使いがきて「待て」という。光秀は何ごとか、と思ったが、とにかくあてがわれた詰め間に入り、義景の命《めい》を待つことにした。
二時間ばかり待つうちに日が暮れ、腹が減ってきた。が、なんの命もない。
(いったい、どういうことか)
光秀は、行儀よく端座している。朝倉家のしきたりで家臣には湯茶を出さない。乾きと餓《ひもじ》さで視力までが霞《かす》みはじめたが、なおも光秀は膝《ひざ》をそろえ、背をのばして待ちつづけた。
その間の義景のことは、待っている光秀は当然知らなかったが、あとで聞いた。
愚劣なことが、奥でおこなわれていた。
先刻、光秀が退出したあと、義景はいまにも京にのぼれるような気になり、座を立ち、廊下を走り、奥へ駈け入って酔ったまぎれに法螺《ほら》を吹きちらし、例の「都のおなごが楽しみぞ」という言葉も、ついつい口走った。
それが、奥方の耳に入った。奥方は使いを走らせて城内の装束《しょうぞく》屋敷にいる実父の鞍谷刑部大輔嗣知に訴えた。
嗣知はさっそく義景に拝謁《はいえつ》し、
「なにをおうろたえなされておる」
と、一喝《いっかつ》した。
嗣知のいうのは、朝倉家が京に旗を立てるなどは夢の夢である。もし義景が国を離れれば加賀の本願寺勢が越前に一揆をおこさせ国はたちどころに亡《ほろ》びてしまう。
「もともと」
と、嗣知はいった。
「一国の国主たるお人が、流れ者の才弁に踊らされるとはなげかわしい。それに、さほどの大事を、この刑部にひとことの御相談さえないのはどういうことでござる」
「刑部、わかった、あれは座興じゃ」
「酒の座の?」
「左様、酔ったまぎれに」
「さればただいまのこと座興であったと十兵衛にお伝えなされ。あのような者は、城下でどのように言いふらすかわかりませぬし、それに国外へも越前朝倉家出勢、などという訛《か》伝《でん》を撒《ま》きちらすかもしれませぬ。世間への影響が大きゅうござるゆえ、たったいま呼びとめて、その旨《むね》ご念を押されよ」
このようないきさつで、近習《きんじゅう》が走ってきて光秀に「待った」を伝えたのである。
やがて義景の旨を受けた宿老の朝倉左《さ》膳《ぜん》という老人が光秀の詰め間にやってきて、
「なにやらくわしいことはわからぬが、お屋形様はただいまの一件、あれは座興よ、そう申し伝えよ、ということであった。御用はそれのみじゃ。相わかったか」
といった。
光秀にはわからない。なにかこの言葉の意味に裏があるのかと思い、懇意の申次衆《もうしつぎしゅう》にきくと、別に裏も表もない。
(これはまるで狂言じゃ)
光秀は嗤《わら》う気力もない。命を賭《と》して奔走した天下の大事が、一乗谷の殿中では酒の座の座興でしかない。
光秀は、屋敷にもどった。
湯殿で旅塵《りょじん》をおとし、小座敷に出、妻子と弥平次のあいさつを受けた。
やがてお槙がととのえた膳部が運ばれてきたが、光秀は浮かぬ顔でいる。
みな、息をひそめるような表情で、光秀の重い沈黙を見守っていた。
やがて光秀は気をとりなおし、
「弥平次もすごせ」
と、杯をあたえた。弥平次は、酒をたしなまぬ明智家の血すじとしてはめずらしく酒量のある若者である。
光秀は数杯かさね、顔が赤くなった。
「聞け、弥平次」
と、光秀はむせぶような声でいった。
「男子の体には嵬《かい》という石がある」
「石が」
「嵬、と書く。形状、石のごとし。わが嵬は育たんと欲して育たず、夜、ひそかにすすり泣いている」
弥平次は顔を伏せて酒をすすっている。事情はわからないが、光秀の心底の慄《ふる》えは、お槙と弥平次の胸に痛いばかりに響きつたわっていた。
「ほう」
と、光秀は、一座の気分を変えるため、いまさら気づいたように床の間をふりかえった。
そこに、さきほどの魚籃がかざられている。その魚籃に紅葉一枝を活《い》けてあるのが、花活けの壺《つぼ》のないせいでもあったが、かえって侘《わ》びに叶《かな》っていて雅趣がある。
「この心憎さは、お槙か弥平次か」
といいながら光秀は手をのばしてその魚籃をとりあげ、
「よい花籠《はなかご》」
と、弥平次に渡した。
「弥平次、いまわしが今様《いまよう》をうたうほどに、そちは手の動くまま、足の動くままに、ほどよく舞え」
弥平次は、左小《こ》脇《わき》に籠、右手に扇子をとって立ちあがった。
「謡《うた》おうぞ」
光秀は、ひくい声でうたいはじめた。
花籠に
水をば入れて
月影《つき》宿《やど》し
漏らさじと
漏らさじと
持つが大事ぞ
京ではやっている今様らしい。歌詞の意味は、叶わぬ恋の恨みをうたっている。花籠には当然ながら水は入れられないし、ましてや月影をやどせるわけのものではない。しかしそれでもなお、仇《あだ》し男《おとこ》は籠に水を満たそうとし、月影を宿そうとしている。
その志のむなしさ。
謡っている光秀はわが志の満たされずに啾《しゅう》々《しゅう》と哭《な》く声を、この恋の今様に託そうとしているのであろう。
舞いながら、弥平次の胸にもそれがつたわってきている。泣くまいと懸命にこらえているこの若者の表情が、ふと天の人のように美しい。
夕《ゆう》陽《ひ》
光秀は朝倉家には失望したが、なおもかれの野望をやめたわけではない。
説きに説いて、やっと、
「京へ出兵はせぬが、義秋公《く》方《ぼう》のご身辺があぶなければこの越前一乗谷におひきとり申してもかまわない。つつしんでお身をお護《まも》りしたてまつる」
という方針を決めさせるところまで漕《こ》ぎつけた。消極的な朝倉家としては、これをきめただけでも大出来なことである。
しかしその説得も光秀だけの手《て》柄《がら》ではなかった。義秋の幕僚細川藤孝という才気すぐれた友人の力を借りてはじめてこの越前の老大国が動いた。
細川藤孝が、光秀ひとりでは朝倉家は口説きにくかろうとおもい、義秋の正式の使者として一乗谷へきてくれたのである。
なにしろ藤孝は、漂泊の身ながら兵部《ひょうぶ》大輔《だゆう》の官名をもつ幕臣である。朝倉家も大いに歓待したし、その言葉も傾聴した。一介の美濃からの流れ者の光秀とは、やはり信用の度合がちがうのである。
もっとも、細川藤孝は友情にあつい男だ。
「十兵衛光秀殿は、偉材でござる」
とか、
「こう申しては何ながら、ご当家はよいご仁《じん》を扶持《ふち》されている」
とか、
「なにしろ、義秋公方様におかれては、十兵衛光秀殿を手足のごとく頼りになされている」
などということを、朝倉義景やその重臣たちに吹きこむことを忘れなかった。
しかも細川藤孝は、一乗谷滞在中、他の重臣の家にとまらず、ずっと光秀のあばら家を宿舎としつづけたのである。
これは影響が大きい。
「公方様のご直臣《じきしん》が、光秀ごとき者の屋敷に泊まられる」
ということで、朝倉家中での光秀の立場がよほどよくなった。
屋敷といっても明智家のそれは、壁が落ち柱の根の朽ちたひどい建物なのである。それに藤孝のような貴人をもてなす財力がない。
それでも光秀は、藤孝の滞留中、毎日酒肴《しゅこう》をととのえてもてなした。魚は、弥平次光春が渓川《たにがわ》で釣《つ》ってくるし、酒は、妻のお槙《まき》がときには髪を売り、ときには衣料を売って買いととのえた。
光秀には、満三つの女児がいる。光秀が東奔西走中にうまれた子で、こんど一乗谷に帰ったとき、この児の成長ぶりに光秀自身がおどろいた。
(うつくしい子だ)
光秀は父親ながら舌を巻くような思いでその児を見つめてしまうことがある。無口なくせに瞳《ひとみ》の動きの活溌《かっぱつ》な娘で、容貌《ようぼう》は母に似、才智は父に似たのではないかとおもわれる。
「これは、比類のないお児だ」
と、藤孝も最初みたとき、声をあげてしまったほどであった。比類がない、と藤孝がいったのは可愛《かわい》さだけではない。幼女のくせに犯しがたい気品がある。
「姫よ、このおじ《・・》めに抱かせて呉《く》りゃらぬかえ」
と藤孝が、両掌《りょうて》をさしのばしたことがある。女児は、かぶりを振った。
「おや、いかぬのか」
「いいえ、抱いてくりゃるなら、そのお袖《そで》に包んで抱いてくりゃれ」
と、女児はいった。素のままの手でなく手を袖で包み、袖をとおして抱きあげよ、というのである。とりようによっては意味もない女童《めわらべ》のことばかもしれないが、それが藤孝には天性そなわった気位の高さのようにおもわれ、
「この高貴さ」
と、藤孝は、親の光秀がみてさえ滑稽《こっけい》なほどに感心してしまった。
「これは千万人に一人の子じゃ。十兵衛殿、どうであろう、この姫をわしの長子与一郎の嫁御に呉れぬか」
むろん、固い約束ではない。おたがい乱世のなかに生きている身で将来《ゆくすえ》などどうなるかわかったものではないが、この女児には、藤孝をしてふとそう叫ばしめる光芒《こうぼう》のようなものがあるようであった。
「与一郎殿は、たしかこの子と一つちがいであったな」
「おおさ、一つ弟よ。どうであろう」
「よいとも」
ただそれだけの戯《ざ》れごとに似た約束になったが、運命はそれをざれごと《・・・・》にはしなかった。この娘はのちに幼名与一郎、細川忠興《ただおき》の室になり、洗礼名をガラシャとよばれ、関ケ原ノ役の前夜、大坂玉造《たまつくり》の細川屋敷にみずから火を放って死ぬ運命になる。
藤孝が帰って、春がきた。
光秀の朝倉家における待遇が、それ以前とくらべものにならぬほどによくなった。
朝倉家にしてもまるっきり外交感覚がないというわけではなく、実は近江《おうみ》矢島で流寓《りゅうぐう》している将軍後継者義秋の存在をしだいに大きく評価しはじめたのである。義秋自身こまめな男で、諸方の有力大名に使者を派遣し、もはや事実上の将軍としての外交をしはじめたのだ。越後の上杉輝虎《うえすぎてるとら》(謙信)とはじつに昵《じっ》懇《こん》になったし、尾張の織田信長とも親しくなった。
朝倉家としても、近隣の諸大国との張りあい上、義秋を軽視するわけにはいかない。このため何度となく、おびただしい金品を義秋の流寓さきに送り、義秋もこの援助のおかげで矢島の流寓に、二町四方の堀をめぐらせた新館をたてたほどであった。
この義秋の天下における位置が高まってくるにしたがって、朝倉家における光秀の待遇もめだってよくなってきたのである。
夏になった。
光秀はふたたび願いを出し、
「近江の新館にも参上し、また京にも足をのばして三好・松永の形勢を見てきとうござる」
と申し出た。
朝倉家ではゆるした。
光秀は騎馬で発《た》った。
こんどの旅は、分限相応に弥平次光春以下五人の人数をつれている。六人分の旅費というのは容易なものではない。
(贅沢《ぜいたく》だ)
とはおもったが、行くさきざきから本国に情報を持ち帰らせるためには、これだけの人数は必要であった。
まず近江に入り、草津の手前の野《や》洲宿《すじゅく》から湖畔にむかって折れ、野洲川の堤道をくだりつつ矢島にむかった。
この湖畔のあたりは近《きん》畿《き》でももっとも水田の発展した地方で、数里四方、ほれぼれするような美田がひろがっている。
道は、日ざかりである。
「弥平次、息が苦しくなるような暑さだな」
「はい、まことに」
弥平次は、光秀の前を騎乗ですすみながらふりかえった。その風貌《ふうぼう》は、今様のものでなく、物語に出てくる鎌倉《かまくら》の時代《ころ》の頼もしげな若武者にも似ている。
(いい若者だ)
と思った。弥平次の風姿には、いちずに光秀を信じ、光秀が万一のときにはためらいもなく殉じようとする頼もしさが、匂《にお》い立っているようだ。
「弥平次よ」
光秀は馬腹を蹴《け》り、駒《こま》をならべていった。
「軍書を読めよ」
「はい、そのように心掛けております」
「いまはこの光秀も貧窮しているが、ゆくゆくは馬上天下の乱を鎮《しず》めたい。そのときはそちは大軍の采配《さいはい》をとらねばならぬ」
「そのときが楽しみでございます」
「あっははは、よい度胸だ」
光秀は、好ましげにこの従弟をみた。
「と申しますると?」
「すこしは謙遜《けんそん》するかと思うたが、そのときが楽しみだとは申したものよ。それほどに自信があるのか」
「軍法については殿のご伝授を得ております。日本一の軍法達者であられる殿からじきじきのご伝授を得ている弥平次が、十万百万の大軍が動かせぬはずがございませぬ」
「日本一の軍法達者か」
光秀は、急に沈んだ。
(日本一の軍法達者が、十万百万どころか、わずか五人の人数をひきいて近江の片田舎を歩いている)
滑稽でもあり、物悲しくもある。
「弥平次、野望というものは」
と、光秀はいった。
「一種のおかしみのあるものだな」
「よくわかりませぬ。殿の申されることは、ときどき了解《りょうげ》のつきかねることがございます」
やがて、矢島の御所についた。
光秀ひとり門に入り、細川藤孝をよび出すと、藤孝はいなかった。
「どこへ」
と、光秀がきくと、応対に出た義秋の小姓の一色《いっしき》藤長が、
「藤孝殿はおりあしく尾張の織田家へお使者として参っておられます。二、三日中には、お帰りでありましょう」
と答えた。
矢島の御所の幕臣たちは、足利家再興の恩人である光秀に対して鄭重《ていちょう》すぎるくらい鄭重だった。つぎつぎに出てきては光秀に会釈《えしゃく》し、
「とまれ、おくつろぎくだされ。部屋を一つ作らせましょう。ご家来の方々の宿割りも当方でいたします」
と、口々にいった。その好意が、光秀には涙の出るほどうれしく思われた。朝倉家にあってはこれほどの温かい処遇を受けたことがないのである。
「さればお言葉に甘えます」
と言うと、幕臣のひとりの細川左京大夫《さきょうのだいぶ》という若者が気さくに立ちあがり、さきに立って光秀を案内した。
その夕、光秀は侍烏帽子《さむらいえぼし》を頭にいただき、桔梗《ききょう》の紋を染め出した素《す》襖《おう》を着用し、義秋の御前に出た。
「やあ十兵衛か、懐《なつか》しや」
と義秋は声をかけながら出てきて、上段の間にすわった。髪はすっかりのびているし、態度や風貌も、いくぶん闊達《かつたつ》になったようである。ただすこし軽々しく騒がしい様子は、かつてとかわらない。
それに相変らずのひどい吃音《どもり》である。
光秀は義秋の健康を賀すると、
「いやいや、体などはどうでもよい。つぎつぎと事が各地で起こって目がまわりそうじゃ」
と、まるで奔走家のようにいった。
事実、義秋はこの近江矢島村に居ながら諸方に使者や手紙を出し、諸方の名だたる群雄を手玉にとるような政治活動をつづけているらしい。
「越後の上杉輝虎に早う出てこいと催促をしているが、あれも口ほどにもなくふんぎりがつかぬらしい。なにしろ、輝虎が、領国を出ようとすれば甲斐《かい》の武田晴信(信玄)が出てきて裾《すそ》に噛《か》みつく。かと思うと、関東の北条氏がさわぐ。もっともわしのほうから武田や北条に使者を出して、上杉輝虎は予にとって無二の者ゆえあまり咆《ほ》えつくなと申し入れてはあるが」
「なるほど」
「それで武田や北条もだいぶ恐れ入っている様子じゃ」
(お甘いのう)
と、光秀は思いながら、義秋の景気のいい法螺《ほら》をきいている。
「しかし京の情勢がわるい」
義秋は急に、顔を曇らせた。軽躁《けいそう》と憂鬱《ゆううつ》がかわるがわるに義秋の表情にあらわれるようである。
「三好・松永の徒がなかなかの強勢ぶりでありますそうな」
「ふむ」
光秀が越前できいた情報では、京を占領中の三好三人衆と松永弾正少弼《だんじょうしょうひつ》久秀とのあいだに仲間割れが生じつつあるという。
「その点は、いかがでございましょう」
「自壊する」
義秋は断《だん》乎《こ》とした口調で言いきったが、どうやらそれも希望的観測らしいと光秀は見た。
「自壊いたしまするか」
「悪は栄えぬ」
「そうとも参りませぬでありましょう。それがし、このたびは京へも潜入し、その様子をこの目、この耳で探ってきたいと存じております」
「そうか、頼む」
義秋は、うつろにいった。
かれの心痛は、現実の軍事情勢よりも、いま摂《せっ》津《つ》富《とん》田《だ》(現・大阪府高槻《たかつき》市内)にまで出てきて京に入りかねている一人の貴族についてである。
その人物は、足利義栄《よしひで》という。
阿波《あわ》(徳島県)を根拠地とする三好党がかついでいる将軍候補者である。この義栄はいよいよ将軍になるために京にのぼるべく、阿波から海を渡って摂津富田まで出て来、その地の普門寺という寺を仮御所にして機会をうかがっているというのである。
「義栄が出てきたのだ」
「左様でありまするそうな」
「あの田舎育ちのうつけ《・・・》者は、正気で将軍になろうとしている」
うつけ《・・・》者かもしれないが、その足利義栄をかついでいる勢力が京都をおさえて山城《やましろ》、摂津、河内《かわち》方面に威をふるっている三好党なのである。これは有利といわざるをえない。
「しかし、いまなお摂津富田からむこうへ進まれませぬのは?」
摂津富田から京までわずか二十キロそこそこの距離である。三好党の将軍候補者が、その二十キロむこうの京に入れず、むざむざと田舎寺で日をすごしているとはどういうわけであろう。
「わけ《・・》か」
義秋の顔が急に晴れやかになった。
「三好と松永が、この場におよんで急に仲間喧《げん》嘩《か》をはじめたからさ」
(なるほどそのために義栄は、摂津富田にほっぽらかされたわけか)
「しかし」
義秋は、つめ《・・》を噛《か》んだ。かりかりと音を立てて噛みながら、
「うかうかすると、わしは義栄に先を越されてしまう。将軍になれぬ」
「左様」
そうなれば、光秀にとっても事は重大である。血統的にいえば義秋こそ万人がなっとくする将軍継承者であるとはいえ、なにぶんその後援者は、越後の上杉、越前の朝倉、尾張の織田といったぐあいに遠国の勢力であり、かつそれらは互いに仲がよくない。
「わしの足もとに火がついている」
と、義秋はいった。
「ああそれで」
光秀は、細川藤孝の尾張くだりの使命がやっとわかった。
「織田上総介《かずさのすけ》(信長)にご催促あそばすべく兵部大輔殿(藤孝)を尾張に差し立てられたのでござりまするな」
「そうだ」
「見通しはいかがでござりまする」
「上総介も美濃のあと始末に手こずっているらしい。かれが軍勢をひきいてわしを迎え京にのぼり、三好・松永の徒を追い出すとすれば、城を陥《おと》したばかりの美濃が騒動をおこし近江の浅井などと手をにぎって上総介の留守を擾《みだ》さぬともかぎらぬ。あの尾張者はそれを恐れているらしい」
光秀はこのあと酒をたまわり、さらにお話し相手をつとめてから、あたえられた居間にひきとった。
光秀は、いそがしい。
翌日、弥平次らをこの矢島村に残したまま京へ発ち、翌々日には京に潜入した。
つぶさに、市中を見聞して歩き、三好党がいかに強大な勢力をもっているかを知った。
(これは、容易ならぬ)
光秀は克明な男だ。さらに三好・松永の勢力地帯を見るために、山城《やましろ》(京都府)から摂津(大阪府)、河内(同)、大和にまで入り、松永の根拠地である奈良には五日も潜伏して脱出し、二十日のちに近江の矢島村に帰った。
細川藤孝が、すでに帰っていた。光秀の顔をみるや、
「形勢が切迫している」
と、御所のなかを指さした。侍が駈《か》けまわり人夫が働き、荷物を作り、それらをかつぎ出している。
「湖水を渡って若狭《わかさ》か越前へ逃げ出すのだ」
「わけは」
と、光秀がせきこんできいたが、藤孝はそれどころではない様子で、
「十兵衛殿、公方様のご警固をたのむ。わしは船の手配りをせねばならぬ」
と、駈け出して行った。
(有為転変とはこのことか)
光秀は、背に夕陽を浴びつつ立ちつくした。
湖水渡り
まったく、転変。
将軍後継者足利義秋らがこの湖畔の村を立ちのかざるをえなくなったのは、頼みにしていたこの南近江の大名六角氏が、にわかに寝返ったからである。
(そうか、六角が。――)
光秀はぼう然とする思いで、おもった。
人の心は頼みにならぬ。近江半国の国主六角氏は、京で日に日に成長しつつある三好三人衆の勢力におそれをなし、(いまのように義秋さまを保護していては、わが身のためにならぬ。三好のために義秋もろともほろぼされてしまう)と恐怖したのであろう。
恐怖しただけではない。
寝返ったのである。三好三人衆がかついでいる将軍後継者の義栄を支持することに決するや剣をさかさまにひるがえし、こんどは義秋を追おうとしたのである。
六角の軍勢はすでに琵琶湖《びわこ》の南端の坂本に集結しているという。
しかも。
この矢島村の地侍の「矢島同名衆」という小集団も六角氏に内通し、今夜にも義秋の館《やかた》に攻めこもうとしている、という情報も入っている。
一刻の猶《ゆう》予《よ》もならない。
というわけで、この夜逃げさわぎがおこっているという次第である。
(事情はわかった)
光秀は、働きはじめた。弥平次以下の自分の家来を指揮して、荷物を作らせたり運ばせたりした。
弥平次は、甲斐々々《かいがい》しい若者である。立ち働きながら、
「殿」
と、光秀にいった。
「それがしはこのお館に残ります。もし義秋様を討たんずる敵が押し寄せてきたとき、ここにて斬《き》り防ぎをなし、みごと討死つかまつりとうございます」
「そちも逃げるのだ」
光秀にとっては、義秋も大事だが、将来の自分の侍大将ともなるべきこの若者の命も惜しい。
「命をむざ《・・》と捨てるな。人間、志への道はながいのだ。いま、われわれはそのながい坂の登り口にさしかかったばかりにすぎない。弥平次、まだ命を捨てるときではないぞ」
「はい」
しかし弥平次には、別なことで疑問があった。この荷物である。つまり、義秋の家財道具であった。最初、無一文だった義秋も、諸国の大名が送りつけてきた贈りものが貯《た》まりに貯まって、ちょっとした物持になっているのである。弥平次の疑問は、
(これだけの武具や家財を運びつつ逃げるのか)
ということであった。荷物が邪魔になってとうてい逃げられぬであろう。
「殿はどう思われます」
「捨てるのだ」
光秀は、独断でいった。
「わしに一計がある。弥平次、このあたり一面にころがっているめぼしい荷物を船に運び入れて一足さきに堅《かた》田《た》(対岸)へ舟出せよ。堅田で捨ててしまえ」
「と申されますると?」
「堅田衆は、源平のころいらい、この琵琶湖の水上をおさえている海賊衆だ」
それを荷物で手なずけてしまえ、と光秀はいうのである。
「そうときまれば早くせい。わしは義秋様をおまもりしつつ後刻、舟出する」
そう言いのこして光秀はその場を離れた。
義秋のそばにゆくと、側近の幕臣たちは育ちがいいだけにすでに顔色がない。顔ぶれをみると、一色藤長、三淵藤英《ふじひで》、飯河信堅《いいかわのぶかた》、智光院頼慶《らいけい》らである。
細川藤孝だけが、落ちついてあれこれの指揮をしていた。指揮されている小侍どもは、甲賀の豪族和田惟政《これまさ》の配下の甲賀衆である。
「甲賀衆は平素山坂を駈《か》けまわって山仕事をしているだけに、手器用、足器用でよいな」
と、光秀がつぶやくと、細川藤孝があゆみ寄ってきて、
「荷物が多すぎる」
と、当惑顔でささやいた。
義秋が、荷物に執着しているらしいのである。無一文で寺から逃げ出した貴公子だけに財宝というものには人一倍の関心があるのであろう。
「藤孝殿、捨てていただくのだ」
「いやいやわれわれ近侍する者の言葉をなかなかお用いにならぬ。そこへゆくとおぬしは自由な立場にある。しかもお気に入りでもある。おぬしの口からお説き申してくれぬか」
「さあ、できるかな」
光秀は自信がなかったが、とにかく階の上にのぼってみた。
「やあ、十兵衛か」
と、義秋は光秀を見てよほどうれしかったのか、かるがるしいほどの挙措《そぶり》でひさしの下へ出てきた。光秀はあわてて濡《ぬ》れ縁にひざまずいた。
「まったく」
と義秋はいった。
「わしには仏天の御加護があるのかもしれぬ」
「とは?」
「その証拠にわしの危難のときにはつねにそちがあらわれる。そちは毘《び》沙門天《しゃもんてん》の化《け》身《しん》ではあるまいか」
「おそれ入ります。――しかしながら」
と、光秀はせきこんでいった。
「このたびの御危難は奈良の一乗院を脱出あそばされたときとは大ちがいのようでござりまする。坂本には六角勢が一万ばかりもあつまっていると申すではござりませぬか」
「そちに妙案があるか」
「事、ここまで窮しますると、少々な妙案妙手は通用いたしませぬ。小細工を用いるより、裸身ひとつを天にまかせ、禅家でいう大勇猛心をふるって一直線に御退去あそばす以外にございませぬ」
「そちは奈良でわしを脱出させてくれた。こんどもすべてそちの宰領《さいりょう》にまかせよう」
「おまかせくだされまするか。さればあれなるおびただしい御什宝《ごじゅうほう》をお捨てあそばしますように」
「什宝を」
義秋はいやな顔をした。せっかく無一物の境涯《きょうがい》からぬけ出して、やっとこれだけの什宝で身分を飾れるようになったのではないか。
「こまる」
というと、光秀は声をはげまし、
「後日、日本国をその御手におつかみあそばす公《く》方《ぼう》様(義秋)ではござりませぬか。これしきの什宝など、それからみれば塵芥《ちりあくた》のようなものでござりまする」
(なんと器量にとぼしい公方さまよ)
と、光秀はなさけなくなった。
「まかせる」
「あっ、おまかせくだされまするか」
光秀は階を駈けおり、細川藤孝と相談のうえ、荷物の半分は対岸の堅田海賊にくれてやり、あとの半分はこの場に捨てちらかしておくことにした。
「この場に捨てておくのは」
と、光秀はいった。
「この土地の地侍に掠奪《りゃくだつ》させるのだ。かれらが掠奪しているあいだ、刻《とき》がかせげる。たとえ一町でも遠くへのがれることができる」
脱出は、夜、決行した。
一艘《そう》の船が野洲《やす》川《がわ》の河口をはなれて湖上にうかんだとき、岸辺に点々と松明《たいまつ》がうごきはじめた。
(矢島の地侍どもだな)
光秀の計略が図にあたった。この男は、義秋に脱出の宰領をまかされたあと、すぐ矢島同名衆に手紙を書き、
「公方様はすでにお落ちあそばした。われわれがそのあとの御什器を管理している。しかし夜に入って陸路、逃散《ちょうさん》するつもりだ。そのあとの御什器はそこもとらの掠奪にまかせるゆえ、後追いはするな。たがいに命を惜しみ、戦いを避けようではないか」
と申しつかわせてある。地侍などは存外その手でころぶものだ。
船は、湖心に出た。
「そろそろ、月の出でござりまするな」
と、歌人の細川藤孝はいった。今夜はどういうめぐりあわせか、八月の十五夜にあたっているのである。
言うほどに、東天がにぶい金色に燻《いぶ》されはじめたかとおもうと、野のはてに満月がのぞいた。それがみるみる昇りはじめ、湖上は昼のようにあかるくなった。
波が立っている。海の波とは異なり、この湖の波は三角の形状をなしていた。その無数の三角波が、黄色にかがやいた。
「なんとみごとな」
と、藤孝は、詩心をおさえかねたようにうめいた。
「これが落ちゆく身でなければ」
と、いったのは、船のとも《・・》にいる智光院頼慶であった。落人《おちゅうど》の境涯でなければみごとな風趣であろう、という意味なのであろう。
それをきいて細川藤孝が、歌人にしては野太すぎるほどの不敵な声で笑った。
「落人の身なればこそ興趣があるのだ」
(藤孝の面魂《つらだましい》よ)
光秀は、月光のなかで、細川藤孝という武門貴族にそだった盟友をあらためて見なおす気になった。
藤孝の豪気な一言で、一座がそれぞれ性根をすえたらしく船中の空気がひどく落ちついてきた。
義秋までが、
「善哉《ぜんざい》、善哉」
と、坊主くさい囃《はやし》を入れて気持を浮き立たせはじめ、
「どうじゃ、みな一首ずつ、風懐《ふうかい》を歌いあげては」
といった。
「それはおもしろうございますな」
若い一色藤長がふなばた《・・・・》をたたいてことさらにはしゃいでみせ、即興の一首を作った。
みなあらそって作った。
その巧拙さまざまな歌を、几帳面《きちょうめん》な細川藤孝は矢《や》立《たて》の筆をとり出して手帳に書きとめている。
最後に、光秀と藤孝が披《ひ》露《ろう》した。どちらも当然ながら群をぬいた出来ばえであった。
一巡おわってから義秋が、
「詩ができた」
といった。漢詩である。
「こういう怱忙《そうぼう》の間《かん》だから、平仄《ひょうそく》もろくにととのっておらぬかもしれぬが、とりあえず披露してみよう。藤孝、光秀、笑うなよ」
(どんな詩なのか)
光秀は、はげしい興味に駆られた。古語にも詩は志であるという。志とは男子の心情のひびきのことだ。義秋という男の器量の底が、あるいはわかるかもしれない。
義秋は、ひくく吟じはじめた。
それを聴くうちに、光秀はしだいに驚きの気持を高めて行った。
江《こう》湖《こ》に落魄《らくはく》し、暗《ひそか》に愁を結ぶ
孤舟一夜、思悠々《おもいゆうゆう》
天公《てんこう》もまたわが生を慰むるやいなや
月は白し蘆花《ろか》浅水《せんすい》の秋
格調の高鳴りというものはないが、かといってこれだけの詩をつくれる者は、都でもまずまずすくないであろう。
(人間としての品はややさがる人物におわすが、頭の働きは小器用に出来ておわす)
これが、光秀がひそかにいだいた、詩を通しての義秋評である。しかしほめるとすれば義秋は自分というものを客観視できる能力をもっている。さらにはその客観視した自分に適度のもののあわれ《・・・・・・》を感ずる情緒感覚をもっている。
(信長よりはいい)
と、この場合、なんの関係もないはずの濃《のう》姫《ひめ》の亭主を比較にもちだした。光秀は寡《か》聞《ぶん》にして信長が詩歌をつくったというはなしをきいたことがない。
(およそ情緒のない男なのだ)
おそらく合理主義一点ばりの男なのであろうと光秀はおもった。理詰めで、理に適《かな》うことなら人のはらわたを裂くことも平気でやるであろうし、理に適わぬことなら、人が眼前で溺《おぼ》れかかっていても見過ごしてゆく男なのであろう。
「十兵衛殿」
と、藤孝が横から袖《そで》をひいたことで、光秀の想《おも》いが杜《と》絶《ぜつ》した。
「あれをご覧《ろう》じあれ」
と、沖合をゆびさした。なるほどその方角の沖合から船《ふな》篝火《かがり》が七つ八つ、こちらに近づいてくるのである。
「敵か」
義秋は叫ぶような、黄色い声をあげた。みな色めき立って刀をひきよせた。
「落ちつき召され。あれはおそらく味方でありましょう」
光秀がいった。
「なぜわかる」
「じつは堅田衆のもとへ、ひと足さきにそれがしの一門にて明智弥平次光春という者を使いに出してあります。おそらく、それがお迎えに参ったのでございましょう」
「さすがは光秀」
義秋は、気の毒なほどよろこんだ。
「さればこちらも篝火をあかあかとつけ、所在を知らせてやるがよい」
「いや、念には念を入れますために」
と、光秀は、和田惟政の配下で伊賀黒田ノ荘の住人服部《はっとり》要介という者をまねき、
「泳げるか」
と、たずねた。
「申されるまでもなく」
「されば、わしとともにさぐりにゆこう」
光秀はくるくると衣装をぬぎ、背中へ大刀を一本くくりつけ、御免、と一同に声をかけて水のなかにおりた。
泳ぎはじめた。
服部要介も、水音をたてずにしずしずと泳いでゆく。
やがて怪船のあたりに近づき、耳を水面に出して話し声をききはじめた。
わからない。
が、服部要介は、光秀のそばに泳いできて光秀の耳に唇《くちびる》をよせ、
「敵でござる」
と、みじかくいった。理由は、と光秀がきいたが、これは伊賀者の勘、と要介がいうのみで証拠がない。
「わかった。それでは要介、そちはこの水面にうかんでおれ。わしはあの船に乗りこみ敵か味方かを、じかに確かめてみる」
「そ、それは」
要介は光秀の腕をつよく握った。大胆すぎる、というのである。
「お、お命があぶのうござる」
「伊賀者は命を惜しむ。要介、古来、伊賀の出の者で天下に名をなした者がいないのはたったその一事によるものだ」
光秀は抜き手を切って泳ぎはじめ、やがてしかるべき声を発し、
「船へあげてくれ」
と、いった。
船の上の者が水面を照らしつつさお《・・》を突き出した。光秀はその竿《さお》につかまり、大刀を背から鞘《さや》ぐるみはずして、まずそれを船のなかへほうりこみ、
「害意はないぞ」
と安心させ、ふなばたにとりつき、勢いよく船のなかへ跳ねあがった。
「明智光秀という者だ」
と、まず名乗り、「堅田の衆であろうな」と畳みかけた。さらにいった、「公方様のお味方につくと迷わずに決心をかためよ」
船の者は、堅田衆である。勢いに呑《の》まれたような表情で光秀を見つめている。
かれらは、なるほど義秋を迎えるために船を出してここまでやってきたが、櫓《ろ》を漕《こ》いでいる途中にもさまざまに迷ったらしい。
(義秋を殺してその御《お》首級《しるし》を京の三好氏にとどけるのが得か、それともお迎えして恩を売り奉り、将来を楽しむほうが得か)
と、かれらは思った。その迷いが、水中にいる服部要介の勘にわるくひびいたのであろう。
が、堅田衆にしても、素裸の使者にいきなり飛びこまれてしまっては、決心をかためる以外に手がない。
党首の堅田多左衛門という髭《ひげ》づらの男が槍《やり》を伏せて光秀に一礼し、
「謹んでお味方に」
と、ひくい声でいった。
「殊勝である」
光秀はすぐ水中の服部要介に合図し、義秋の船へ報告させた。
ぶじ、一行は湖水を渡った。
当夜、この一行は夜明け前に堅田に上陸したが、用心のため一泊もせず、そのまま若狭への街道を北上しはじめた。
転身
流《る》浪《ろう》の将軍後継者と光秀らの一行は、日本海岸に出、道中の宿代りということもあって若狭は武田義統《よしむね》をたよった。
若狭武田氏は、遠くは甲斐《かい》の武田信玄と血統をおなじくする名族で、げんに当主の義統は足利家から妻をめとり、武家貴族としては典型的な存在だが、なにぶん弱小大名で、戦国の風雲に堪えられるような軍団をもっていない。
足利義秋も、
「若狭は仮の宿」
と、いっさい期待しなかった。
問題は、北国の雄ともいうべき越前の朝倉氏である。これはいささか頼りになる。
そのため、光秀は細川藤孝とともにすでに先発し、朝倉家に義秋を迎える工作をすべく、その首都越前一乗谷に入っていた。
受入れの話はうまくすすんだ。
「そうか、若狭にまで参られておるか」
と、国主の朝倉義景は、むしろそのことをきいてあわててくれた。義景は政治的才能もない。軍事的才能もない。かれがあわてたのは旧家の当主の人の好さによるもので(畏《おそ》れ多いことよ、ゆくゆくは将軍の位につかれるべき貴人を、隣国若狭の弱小大名の小城に仮泊させておくに忍びない)という感情がさきに立った。
「光秀、すぐお連れ申せ」
と、いった。
ただ朝倉家で評定《ひょうじょう》をこらしたところ、住んで頂く場所が問題である。首都の一乗谷が保護にはもっとも適当だが、なにぶん、細ながい谷間で、ゆったりと暮らしていただく土地もなく建物もない。
「敦賀《つるが》がよい」
ということになった。敦賀は一乗谷とはちがい、海岸に面して万一の場合海上への脱出が可能であり、それに陸上交通の要衝でもあり、義秋が諸国の大名に使いをやったり使いを受けたりするのに便利がよい。
かつ、敦賀の金ケ崎城というのは海に突出した岬《みさき》をそのまま城郭にした要害で、二万や三万の人数では陥《お》ちる心配のない城である。
「なるほど敦賀ならば」
と、光秀も藤孝も承知したため、朝倉家では、九月のはじめ、堂々たる儀仗用《ぎじょうよう》の軍勢をととのえて若狭まで義秋をむかえにゆくことになった。
その儀仗用の軍勢の先駆として明智十兵衛光秀はすすんだ。ときに齢《よわい》、かぞえて三十九歳であった。
もはや、若くもない。成すところもなくいたずらに齢のみかさねてしまったことは光秀の居ても立ってもいられぬ焦燥《しょうそう》であったが、しかしその風姿は若く、目の涼やかさ、眉《まゆ》の清さは、青雲の志に燃える洛陽《らくよう》の青書生にもさも似ていた。
が、光秀の軍容は、もはや書生のそれではない。二百人の騎士・歩士《かち》をひきつれ、美濃の土岐《とき》一族の象徴である桔梗《ききょう》の旗をひるがえし、堂々たる一手の大将の軍容をもって若狭への街道をすすんでいた。
これには多少のからくり《・・・・》はある。光秀がひきいた手《て》勢《ぜい》のうち、直属兵というのは弥平次以下十数人にすぎず、他は、光秀の後ろ楯《だて》になってくれている朝倉家老の朝倉土佐守から借りた借り武者であった。
(光秀は朝倉家ではそれくらいの待遇をうけているのか)
と言われたい見栄がある。
足利義秋に対しても、友人細川藤孝に対しても、そのようにおもわれたい。
光秀は颯爽《さっそう》と若狭へあらわれ、武田家から義秋をひきとり、敦賀湾の海岸線を通りつつ金ケ崎城に入った。
そのあとの光秀の仕事は、義秋と朝倉家との間に立って連絡官をつとめることであった。
敦賀の金ケ崎城に落ちついた翌日、気の早い小動物のようなところのある足利義秋は、
「光秀、朝倉家は、わしのために京へ軍勢を出してくれるか」
と、念を押した。
「さあ、いかがでございましょう。光秀は極力それを説いておりまするが、朝倉家の家風は進取をこのまず、古井戸に棲《す》む金目蛙《きんめがえる》のごとくひたすらに風を避け、烈日を避け、事無かれで過ごしたいという思いで凝りかたまっているようでございます。数日後に、一乗谷からお屋形様(義景)みずからが馳《ち》走《そう》に参られるはずでありますれば、公方様おんみずからお説きくだされればいかがでござりましょう」
「説くには説くが」
義秋はいった。義秋は、小《こ》商人《あきんど》のように息せき切った物の売り方をする男だ。説くなといっても説くであろう。
数日後に、朝倉義景が、はるばると木ノ芽峠の嶮《けん》路《ろ》をこえて敦賀の野に入り、金ケ崎に登城して義秋の御機《ごき》嫌《げん》をうかがった。
朝倉義景は城の月見御殿で酒宴を用意し、一乗谷からつれてきた美女二十人に義秋を接待させ、大いにもてなした。
朝倉義景は、酒の好きな男だ。豪酒でしかも酔態がおもしろい。
酔えば、舞うのである。
「それ、鼓《つづみ》を打て、笛を吹けや」
とさわがしく舞い、ついに舞いくるって自分でもどこでなにを舞っているのかわからなくなる男だ。
そのあいま、あいまに、杯をささげて行っては義秋の御前にすすみ、
「御酒を頂戴《ちょうだい》なしくだされたし」
と、酒をせがむのである。こういう手の男にあっては、義秋も、天下国家の問題をきりだすすきがない。
ついにたまりかねて、
「義景、ちと話がある。女どもをさがらせてくれ。鳴り物はやめよ」
と、黄色い声を出した。
朝倉のお屋形は、びっくりした。なにか接待でお気に召さぬことがあったのかと思い、
「酒《さけ》よ酒よ、これ女ども。なにを白々しくすわっておるか。お酒を捧《ささ》げ奉れ。それ、捧げ奉れ」
とさわぐ始末で、義秋も手がつけられず、ついに光秀を膝近《ひざぢか》にまねきよせ、
「あの男、あの酔態は本性か手か」
と、小声できいてみた。
光秀は、恥ずかしげにうつむき、
「手でござりませぬ、本性でござりまする。あのお人様はあれだけのことで裏も表もござりませぬ」
と答えた。この酔態に裏も表もあって、酔態そのものが義秋の要求をくらます手だとすれば、朝倉義景もまんざら捨てた男でもないであろう。残念にも、これが素のままなのである。
「あれが、素か」
義秋も失望したらしい。
翌日、朝倉義景は、酒の気のぬけぬ顔を真青にしながら、一乗谷へ帰って行った。
「素か」
義秋は、あとで何度も笑った。もうしんぞ《・・・》こ《・》から朝倉義景を見限りはてたのであろう。
夕刻から、側近ばかりの評定をひらき、
「朝倉義景はあのざまだ。いつまでもこの朝倉領敦賀に居てよいものかどうか。居たところでなんの利もあるまい」
と気ぜわしい提案を出した。
ちなみにこの評定には、光秀が朝倉家の家来であるということで、座をはずさせられていた。
「もとより、朝倉義景ごときは頼りになりませぬ。最初からわかっていたところでございます」
といったのは、細川藤孝である。
「問題は朝倉ではござりませぬ。越前のむこうは加賀(本願寺領)、加賀のむこうは越後、その越後の上杉輝虎《うえすぎてるとら》(謙信)でございます」
藤孝の説くところは、明晰《めいせき》である。
越後の上杉氏こそ軍事力といい誠実さといい、頼りになる存在だが、いまのところ、甲斐の武田氏と川中島を戦場にいく度となく大合戦をくりかえし、上洛《じょうらく》どころのさわぎではない。武田氏をほろぼすか、講和を遂げるか、いずれかのかたちで事がおさまり次第、義秋を奉じて上洛するということは、輝虎が何度も言ってよこしている。
いざ上杉上洛となれば、越前朝倉氏はとこ《・・》ろてん《・・・》のように後ろから押し出され、物理的にその先鋒《せんぽう》として上洛せざるを得ないだろう。
「その時がまだ至りませぬ。時をお待ちあそばすことでございます。お待ちあそばすには、この敦賀金ケ崎城が、なによりの要害ではありませぬか」
「上杉と武田の戦いはいつ終わるのだ。まるで果てしもないではないか。そのような甲越《こうえつ》の騒乱を、この敦賀で待てというのか。待つうちに義栄《よしひで》(三好・松永がかついでいる将軍候補者)が将軍の位についてしまう」
「しかし」
細川藤孝は、絶句した。
(それしかないではないか。待つ、待ちつづける、それ以外にこの無力な将軍後継者にどういう手があるのだろう)
藤孝はおもった。実のところ藤孝は、かれ自身が世間にひっぱり出してきたこの義秋という僧侶《そうりょ》あがりの貴人が、あまりにも軽躁《けいそう》な性格であることに多少、いやけがさしはじめている。が、それでも義秋をかつぎあげてゆかねばならないとも観念していた。藤孝は幕臣なのである。それ以外に、どういう道もない、と、藤孝は臍《ほぞ》をきめていた。
評定は、一日でおわったわけではない。
金ケ崎城の奥の一室で、何日も、繰りかえし繰りかえしつづけられた。その間、光秀は室内に入れてもらえなかった。
「決して疎《うと》んずるわけではない」
と、藤孝は気の毒そうにいった。議題が議題だけに朝倉家の悪口も出るのだ。光秀が同席しては光秀自身もつらかろうし、他の者も思うままの発言ができない、という理由を、光秀に語ってきかせた。
「わかっている」
光秀はわざと明るく笑い、相手に気を使わせまいとしたが、内心は憂鬱《ゆううつ》であった。除《の》け者のさびしさもある。
(なにもかも、朝倉義景の優柔不断の性格、不決断が、わしの立場を卑小にしてしまっている)
光秀も、じっとしていたわけではない。敦賀と一乗谷のあいだを往復しては、朝倉義景やその老臣に、上洛進発の決意をうながしてはみた。
そのつど、朝倉家の態度は、
「気狂《きちが》いじみた妄想《もうそう》よ。このちっぽけな越前朝倉家が、畿《き》内《ない》(近畿)をおさえる三好・松永に対抗できると思うか。いやさ、京にたどりつくまで、近江《おうみ》で木《こっ》端微《ぱみ》塵《じん》の敗亡をとげてしまうのがおちだ」
ということであった。
が、朝倉家も、
「上杉が動けば動く」
という逃げ口上はもっていた。日本最強の軍団である上杉氏さえ動けば、その征《ゆ》くところ群小大名はあらそって味方に参じ、京都での合戦は勝利にきまっている。
(その上杉が、動けぬのだ。武田信玄に食いつかれている以上、動けるのは十年さきか、二十年さきか、めど《・・》もつかぬことだ)
とすれば朝倉氏は、近い将来にとうてい京へ出ることは絶対ない、といえる。同時に朝倉氏に頼っている以上、足利義秋は将軍になれる見込みはまずない。義秋が将軍になれぬとすれば、それにわが身の将来を託している光秀は、志を天下に展《の》べる機会はもはや訪れて来ぬ、ということになる。
(しかも自分は老いてゆく。来年は数えて四十になる身ではないか)
一乗谷と敦賀との間の山路を往復しつつ、光秀のあせりは日に高まるようであった。
そうしたある日、光秀は、一乗谷の屋敷の一室に妻のお槙《まき》と弥平次光春をよび、
「生涯《しょうがい》の決意をのべたい」
と言い、障子のそとに人はおらぬか、と弥平次に念を入れさせ、静かに語りはじめた。
語りながら、自分の気持を整理する、という様子である。
「朝倉家はだめだ」
と、まず光秀は言い、右の理由をのべ、この朝倉家の下にいてはついに自分は埋《うも》れ木《ぎ》になってしまうであろうといった。
そのあと、しばらくだまった。その沈黙に堪えかねたのか、若い弥平次光春は、光秀の気持をそそるようにいった。
「尾張の上総介《かずさのすけ》(信長)殿は、いまや東海道を制し、美濃を略取し、年若ながらも古今の名将のように思われまするな」
「そちは、信長がすきか」
「好きでございます。まだ年若でありますせいか、尾張・織田・信長などの言葉をきくと目の前に光彩がかがやくような思いがいたしまする」
「申しておく」
光秀は、暗鬱《あんうつ》な表情でいった。
「わしは、信長がきらいだ。わしにしてもし信長がすきなれば、事は早い。わしは織田家の奥方にとって従兄でもあり、いわば織田家と姻戚《いんせき》の身である。いつなりとも身を寄せさえすれば大禄《たいろく》でかかえられるであろう。にもかかわらず、つねに織田家を避けて今日まできたのは、かの信長とは肌《はだ》合《あ》いがあわぬからだ」
光秀は、さらにいった。
「弥平次、いま信長こそ名将と申したな。しかしこの光秀の目からみれば、どうみても大した人物のようにも思えぬ。いまここにこの光秀に三千の兵があれば、信長などおそるるに足らぬ」
が、声を落した。
表情はいよいよ暗い。心中、逆《さから》うものがあるのを無理に押し殺そうとするような口調で、
「その信長に」
と、光秀はいった。
「わしは仕えようと思う。朝倉義景にくらべれば信長は巍《ぎ》然《ぜん》たる英雄児である。良き鳥は良き樹《き》をえらぶと古語にもある。織田家は良き樹とはおもわぬが、しかし朝倉家にくらべれば亭々《ていてい》として天にそびえたつ巨樹になるであろうことはまちがいない」
しばらくだまり、やがて、
「わしの決意とは、そのことだ」
と、胃の腑《ふ》のものをどっと吐きだすような口調でいった。
(お苦しげな)
弥平次光春は、光秀のその様子に同情を覚えたが、それとはべつに身のうちに湧《わ》きあがってくる明るい感動をおさえきれない。信長という存在は、なにかしら若者の気持を昂奮《こうふん》せしめるような、明日への希望といった華やかな印象がある。
「殿、ご決意、めでたく存じまする」
と思わずさけび、つづけて、
「つて《・・》はあるのでございますか」
と、おさえきれぬ高声でいった。
「いくらでもある。奥方の濃姫様に手紙をさしあげてもよいし、旧知の美濃人猪《いの》子《こ》兵助を通してもよい。しかしそのような手は、わしは用いぬ」
「と申されますのは?」
「左様な伝手《つて》では、身上が小さくなる。最初から一手の大将をつとめたい。一手の大将でなければ大功を望めず、大功を樹《た》てねば天下を睥睨《へいげい》する存在にはなれぬ」
「しかし最初から一手の大将とは」
「なれるのだ」
光秀は、この点には自信がある。信長が人材の評価に天才的な眼力をもっていることも光秀は知っているし、また餓《う》えた者が食を求めるように人材を求めていることも知っている。
「だから」
と、光秀はいった。
足利義秋の頼りゆくさきを、織田家に決定させるのである。織田家はいま現在ではすぐの上洛はむりだが、その成長の速さからみれば、上杉氏の動くのを待つより、より早く上洛を実現するであろう。
いまのところ足利義秋の幕《ばつ》下《か》では、織田を頼ることに積極的に反対しているのは、この光秀だけである。その光秀が、信長コースに一転すれば、義秋の幕下は義秋をふくめて織田依頼に急傾斜するだろう。
その織田工作のために、光秀は、足利義秋推薦の将として織田家へゆく。
推薦人は、足利義秋なのである。
「信長は、将来、将軍を擁して天下に号令しようとしている。その将軍後継者から派遣されてきた将、ということになれば、当然、粗略にはあつかわぬ。粗略どころか、黄金をあつかうようにしてあつかうだろう」
語りながら、光秀の肚《はら》はきまり、方寸もきまった。
あとは、義秋を説くだけである。が、物欲しく説こうとはしない。
その機会を待った。
豹《ひょう》の皮
美濃の稲葉山城を陥《おと》してからの信長のうごきは、ややゆるやかになったようである。
京や諸国のあいだでも、
「信長、信長」
という声はあまり聞かれなくなった。桶狭《おけはざ》間《ま》での今川義元討滅、さらに美濃稲葉山城の陥落、このふたつの衝撃的な事件が、信長の名を大きく世にあげさせたが、その後、信長は世間をあっといわせるようなことはしていない。
美濃が、安定しないからである。
この国は源平争乱以来の源氏(土岐氏)の根拠地で鎌倉士風がつよく、本城が陥《お》ちたからといって在郷の地侍がすぐ隣国の征服者に平身低頭するわけでなく、意外に頑《がん》固《こ》な抗戦主義者が多かった。それらが山城に立てこもって、絶望的な抗戦をつづけた。
信長は、その掃蕩《そうとう》に没頭した。その占領地の安定のために忙殺され、華やかな大作戦をやるようなゆとりは、信長にはなかった。
自然、世間の口の端にのぼらない。
「美濃を固めねば」
信長はつねにそういった。美濃を固めねばいかなる大仕事もできない。
逆に美濃を固めたあかつきは、いかなる大仕事でもできるであろう。国は富み、兵は強く、しかも交通は四通八達している。
たとえば西美濃の関ケ原という地点ひとつを例にとってもそうである。この関ケ原村付近から、放射状に大街道が天下に向かってのびている。上方《かみがた》と関東をつなぐ中山道《なかせんどう》、伊勢へ出る伊勢街道、さらには北国へゆく北国街道が走っている。天下に兵を動かすには美濃ほどいい根拠地はない。
「美濃を制する者は天下を制す」
とは、信長の舅《しゅうと》斎藤道三《どうさん》が言いのこしたことばだ。道三はこの地に来たり、この地を制したが、ついに見果てぬ天下への夢を実現せぬまま長《なが》良川《らか》畔《はん》で非《ひ》業《ごう》に果てた。
美濃
いまは岐阜県。
その信長が選んだ「岐阜」という新名称の旧稲葉山、新岐阜城は、いまかれのあたらしい設計によって新装をいそぎつつある。
この間、信長は、軍隊を、尾張清《きよ》洲《す》城、同小《こ》牧《まき》城、岐阜の新城下、美濃大垣城などに分駐させつつ、岐阜城の落成を待っている。
じっと待っているわけではない。
そこは稀有《けう》の働き者である。このいわば待ち時間を、外交にそそいだ。
信長の最終目的は、京に織田家の旗を立てることだ。そのための前進路にいる強敵が、北近江の浅井氏である。
かといって浅井氏を討伐できるほどの武力は信長にないため、手をつくしてこれと友好《よしみ》をむすび、美人の噂の高い妹お市御料人《ごりょうにん》を、浅井家の若当主長政《ながまさ》に嫁がせた。浅井家とは姻戚の間柄《あいだがら》になった。
(いざ京へ入るときには、浅井は同盟してくれるか、くれなくとも友好的に軍隊輸送の安全を保障してくれるだろう)
というのが、そのねらいであった。
信長は浅井氏のほか、必要とおもわれる方面に外交の手をのばしたが、かれの最も怖《おそ》れたのは甲斐《かい》の武田信玄であった。
(信玄にはかなわぬ)
ということは、信長が彼我《ひが》の軍事力を冷静に分析してわかっている。単なる理解ではない。戦慄《せんりつ》といっていい。
兵力は織田軍の倍である。信玄はゆうに三万人以上を国外に派遣することができるであろう。兵数だけでなく、兵の素質が、織田兵と武田兵では格段の差があった。
信長の尾張兵は、もともと東海一の弱兵とされてきた。東隣の三《み》河《かわ》兵に遠く及ばず、北隣の美濃兵にはるかに及ばない。その弱兵の尾張衆が天下の風雲のなかで疾駆しはじめたのは織田家の先代信秀の鍛練と、信長の天才的能力があってこそのことだ。
信長を得てはじめて尾張衆は動きはじめたが、それでも天下最強といわれる武田の甲州軍にはとても及ばない。
兵馬が強いうえに、越後の上杉謙信とならんで信玄は、もはや神にちかいほどの戦さ上手とされている。作戦が卓絶しているだけでなく、軍制、戦法が独創的で、将士は信玄の一令のもと手足のように動き、死を怖れず、むしろ信玄の下知《げち》のもとで死ぬことをよろこんでいるような連中である。
(とてもかなわない)
と信長がみているのは、むりもなかった。
しかも始末のわるいことに、その信玄の終生の目的は、信長と同様、京に武《たけ》田《だ》菱《びし》の旗をたてることであった。
その信玄の雄図は、北方の越後から謙信がつねに挑戦《ちょうせん》してくることによって、不幸にも実現がながびいている。もし北方の謙信さえいなければ、信玄はらくらくと東海道へ南下し、海道筋の家康、信長を踏みつぶしつつゆうゆうと京へ入れたであろう。
信長の幸運といっていい。もし謙信という、戦さを芸術家が芸術を愛するような気持で愛している奇妙な天才が信玄の北方にいなければ、信長などはとっくに戦場の露と消えているか、それとも信玄の馬の口輪をとっていなければならなかったであろう。
(おれは悪運がいい)
と信長は思ったかどうか。もともとこの無神論者は、運などを信じたことがなかった。運などはいつ変転するかもわからない。いつ謙信が戦さをやめるかもわからない。そのときはあの猛獣の群れのような甲州武田軍が、怒《ど》濤《とう》のように尾張・美濃に進み入ってくるであろう。
(信玄を手なずける以外にない)
信長は、対武田の態度を、その一点にしぼった。手なずける、といっても、相手は、どれほどの智謀があるか想像もつかぬ巨人である。しかも劫《こう》を経ている。信玄はすでに四十の半ばを越えていた。
手なずける、というのはこうとなっては懐柔ではない。屈辱のかぎりをつくしておべっかと媚《び》態《たい》外交をする以外にない。むしろ、こっちが手なずけられて《・・・・・・・》しまわなければ危険であった。手なずけるのも手なずけられるのも、要はおなじ結果である。危険は去る。
この場合、
「信玄に可愛がってもらう」
ということだ。猫《ねこ》のように相手の毛ずね《・・》に頭をこすりつけ、じゃれ《・・・》てゆくのである。じゃれれば、相手も憎くは思うまい。
(猫でゆく)
と、信長は心魂をさだめた。猫はじゃれてゆくが、もともと不《ふ》逞《てい》な小動物だ。猫の心中、人間に手なずけられているとは思っていないかもしれない。存外、じゃれることによって人間を手なずけたと猫は思っているかもしれない。信長は、その方法をとった。
ひんぴんと、贈り物をした。国力を傾けての財宝が、三国の境を越えて甲斐の国へしばしば運ばれて行った。
(妙な小僧だ)
と信玄は最初おもった。ついで、
(油断はできぬ)
と、信玄は警戒した。武田信玄という稀《き》代《だい》の策謀家はその半生のうち、かぞえきれぬほどに人を欺《だま》してきたが、いまだかつて人にだまされたことがない。
(尾張の小僧にはなにか魂胆がある)
とみて、用心した。
そこはぬかりのない信玄のことだ。何人もの諜者《ちょうじゃ》を尾張に放って信長の言動を窺《うかが》わせたが、あやしい様子はない。
ないどころか、
「甲斐大僧正《だいそうじょう》(信玄)ほど慕わしいお人はいない。ことごとくわが手本である」
と平素、左右にいっているふうである。この言葉のいいまわし、およそ信長らしからぬ咏歎調《えいたんちょう》だが、武田の諜者たちはそこまで見ぬくほどの頭はない。
戻《もど》って、信玄に報告した。かれらの報告はことごとく信長の自分への誠実さ、友《ゆう》誼《ぎ》を示すもので、わるい情報はひとつとしてない。
(妙な小僧だ)
と思う信玄の述懐が、ややその「小僧」に愛嬌《あいきょう》を感じはじめるようになった。
信長も、抜からない。信玄への親善使節には、家中きっての雄弁家を使った。織田掃部《かもんの》助《すけ》という一族の者で、かつて尾張から流れて武田家に仕えていた者が、つねに使節として音物《いんもつ》(進物)をはこび、そのつど信玄に、
「上総介《かずさのすけ》(信長)が、お屋形(信玄)様を尊仰申しあげておりまする様子は、乳児が母を慕うがごときものがござりまする」
などといった。
信玄はもとより巧弁の者をその弁口によって信ずるということはしない。むしろ、言葉が甘ければ甘いほど警戒し、
(いよいよ油断ならぬ)
と、気持をひきしめていた。しかし尾張は幾つかの国をへだてているため、いまの信玄にとって信長という小僧は直接利害関係がない。このため、さほど神経をとがらすというほどのことはなかった。ただ油断ならぬという底意地のすわった目で信玄は信長を見ていたのである。
あるときふと、
「信長からの音物を、これへもって来よ」
とかたわらの者に命じた。中身だけではなく、梱包《こんぽう》ごともって来よ、と信玄はいった。
信長の音物は、豪華なものだ。なにしろ、その梱包の箱からして、漆塗りなのである。類がないといっていい。梱包など、粗末な板でつくった箱で結構ではないか。
漆塗りの高価さは、いつの時代でもかわらない。それが高価である理由は、気が遠くなるほどに手間がかかるためだ。塗っては乾かし、乾かしては塗り、十分に作りあげようとすれば七度も十度もそれを繰りかえさねばならず、このため小さな椀《わん》をつくるのでも、物によっては半年、一年はかかる。
が、簡略な方法もある。
現今《こんにち》もその簡略が安漆器には用いられているが、糊《のり》付《づ》けの方法である。漆を糊で固定させてぺろりと一度塗りぐらいでごまかしてしまう方法だ。
外見は、かわらない。
が、使ってみると、すぐ剥《は》げてしまって赤《あか》肌《はだ》が出、見るもむざんな姿になる。
(それにちがいない)
と信玄はにらんだ。すぐその梱包の一箱を御前に進めさせ、やおら腰をさぐって脇差《わきざし》から小《こ》柄《づか》をぬきとった。
さくり
と、箱のかどを削った。削りあとを、信玄はしさいにのぞきこんだ。
やがて顔をあげたときの信玄の目に、感動が浮かんでいた。
削りあとに漆の層があり、極上品というべき七度塗りの漆であった。本来なら松材の木箱で足りる荷造り用の箱に、これほどの高価な漆器を用いるとはどういうことであろう。
答えは、一つである。
(誠実な男だ)
ということであった。信玄ほどの者が、念には念を入れた「尾張の小僧」の欺しの手にみごとに乗った。
「信長とは、信実《しんじつ》深き者よ。あれがつねづね言って寄こす巧弁な口上は、あるいはうそでないかもしれぬ。これが証拠よ」
と、左右にも、その削りあとを見せた。左右も、息を呑《の》んで感嘆した。
信長には、魂胆がある。将来《さき》のことは別としてまずまず、武田家と姻戚関係をむすびたいということであった。
程を見はからって、それを申し入れた。
美濃、といっても木曾に近いあたりの苗《なえ》木《ぎ》に遠山勘太郎という城主がいる。苗木とは、現今、観光地の恵《え》那峡《なきょう》のあたりである。遠山氏は南北朝以来の名族で、近国で知らぬ者はない。余談ながら、江戸期の名奉行で「遠山の金さん」として講釈や映画で知られている遠山左衛門尉景元《さえもんのじょうかげもと》という人物はその子孫である。遠山家の本家は徳川家の大名に列しており、苗木で一万二十一石を領し、維新までつづいている。
この遠山家に、死んだ道三の正室小見《おみ》の方(明智氏)の妹が嫁いでいる。遠山勘太郎の妻女である。
それに雪姫という娘がある。
濃姫のいとこ、ということで、信長は美濃経略の初期に遠山氏に工作し、味方にひき入れ、その雪姫を養女として尾張にひきとっていた。
美《び》貌《ぼう》である。
明智氏の血をひく者は美男美女が多いといわれているが、雪姫はその代表的な存在であった。そのうつくしさは、人口に乗って甲斐まで知られている。
「その雪姫を、なにとぞ勝頼《かつより》様に」
と、信長の使者織田掃部助が、信玄にもちかけた。雪姫は織田家の実子ではない。勝頼は武田家の世《よ》嗣《つぎ》である。断わられるかと思ったが信玄は存外あっさりと、
「よかろう」
といった。この点、信長の外交は、みごとに成功している。もっともこの雪姫は信勝《のぶかつ》を生んだが、この産後に死んだ。これが永禄《えいろく》九年の末である。
雪姫の死で縁が切れた、というので、信長はさらに別な縁談をもちこみはじめた。
もちこんだのは、この物語のほんのわずか後のはなしになる。
永禄十年の秋のことだ。こんどの縁談は、前のよりもさらに武田家にとってぶ《・》がわるかった。
信長の申し出は、
「姫御の菊姫さまを」
というのである。菊姫は信玄の娘で、まだかぞえて七つでしかない。もっとも花婿《はなむこ》となるべき信長の長男信忠《のぶただ》はまだ数えて十一歳である。その嫁に、というのだ。
嫁に、というのは、わるく解釈すれば人質ということでもある。下《した》目《め》の織田家から申し出られる縁談ではないのだ。
このときこそ断わられると覚悟したが、この一件も、
「よかろう」
と、信玄は快諾した。
このころには信玄にとって信長の利用価値は大いに出はじめている。いざ京都へ、というとき、沿道の信長を先鋒《せんぽう》に立て、逆らう者どもを蹴散《けち》らさせようと考えはじめていた。
信長も、そこは心得ている。
「京に上られるそのみぎりは、この上総介、必死に働いてお道筋の掃除をつかまつりまする」
と何度も言い送っていた。この言葉を、信玄ほどの者が、幼児のような素直さで信じるようになっていた。
「信長は自分にとって無二の者である」
と、左右にもいった。その「無二」の関係を、信玄はさらに結婚政策によって固めようとした。その愛娘《まなむすめ》を、いわば人質になるかもしれぬ危険をおかして織田家に呉れてやる約束をしたのである。
(信玄も存外あまい)
と、信長は、虎《とら》のひげをもてあそぶような思いを感じつつそう思ったであろう。が、表むきは、大きによろこんだ。
幼童と童女の婚約が結ばれたのは、永禄十年十一月である。信長はさっそくその御礼として、例のぼう大な進物を甲斐へ送った。虎の皮五枚それに豹《ひょう》の皮が五枚、さらに緞《どん》子《す》五百反という途方もない珍品ばかりであった。
武田信玄からも、それへのお返しの品々が送られてきた。甲斐は山国であり、尾張のように商業地でなく土地も痩《や》せている。精いっぱいのお返しとして獣皮がおくられてきたが、熊《くま》の皮であった。それに蝋燭《ろうそく》、漆、馬などである。尾張という先進経済圏にいる織田家としてはべつにめずらしい品ではない。
しかし信長はよろこび、武田家の使者である信州飯田の城主秋山伯耆守晴近《ほうきのかみはるちか》を大いに歓待し、
「わが美濃の長《なが》良《ら》川《がわ》には世にめずらしいものがござる。鵜《う》飼《かい》でござる」
といって、この不愛想者が秋山の手をひくようにして見物にともない、御座《ござ》船《ぶね》に乗って長良川で歓を尽した。
そういう信長は、一方では、つぎの飛躍にそなえてしきりと人材を召しかかえていた。
新占領地の美濃ではめぼしい者はどんどん高禄《こうろく》で召しかかえ、重職を与えた。なにしろ才能のない者を極度にきらう男である。才能がなければ譜《ふ》代《だい》の家来でもさほどに重用しなかったが、才能さえあれば新参の者でも重く用いた。
そのころ、
「明智光秀」
という名を、もと道三に仕えていまは織田家の侍大将の一人になっている猪《いの》子《こ》兵助からきいた。猪子はそのころ越前の光秀から手紙をもらい、光秀の近況を知っていたのである。
が、光秀の手紙には、
「推挙してくれ」
とは一字も書いていない。ただ、「朝倉家の客分であることに倦《あ》きあきしてきた。いずれ公《く》方《ぼう》様(義秋)のお指図によって、自分の才幹のふるえる地に行くつもりである」とのみ書かれていた。こう書いておけば、いつかは信長の耳に入るであろうと光秀はおもったのである。
文中、
「公方様」
という文字を何カ所かで使った。安くは見られまいという細心の配慮であった。
「めいち・こうしゅう、か」
信長はつぶやいた。
明《めい》智《ち》光秀《こうしゅう》、天下にこれほどいい名をもった者もすくないであろう。明智が光り秀《ひい》でている、というまるで詩の一章を姓と名にしたようななまえである。
信長は、関心をもった。
桔梗《ききょう》の花
さて越前の光秀。
一乗谷の朝倉館《やかた》と金ケ崎城の公《く》方《ぼう》館(足利義秋の宿所)に、かわるがわる伺《し》候《こう》している。
秋になった。
一乗谷の自邸の垣《かき》根《ね》に、桔梗のひとむらがある。空の碧《あお》さが滴《したた》りおちたような、小さな花を咲かせた。
「桔梗が花をつけたな」
光秀は、この朝、縁側でつぶやいた。妻のお槙《まき》が、
「まことに」
と、小さなよろこびの声をあげた。べつだんこの雑草に花がついたところでなんの変哲もないことだが、ただ明智家の家紋は桔梗の花であった。
この花は、光秀とお槙の故郷美濃の象徴的な花でもある。美濃の土岐氏は、宗家も、明智家のような支流の家もほとんどが桔梗を定《じょう》紋《もん》としていた。
この紋には伝説があり、むかし土岐源氏が他郷で戦ったとき、味方の合印《あいじるし》のためにみな兜《かぶと》に桔梗の花をはさんで戦い、たまたま大勝利を得た。その縁起によって、美濃の土岐源氏は本家も支流もこの花を紋に使うようになったという。
「桔梗の花で思いだしたが」
と、光秀はこの機会にお槙にいっておこうとおもった。
「わしもそろそろ、花を咲かせたい」
「と申されまするのは?」
「朝倉家がいやになった」
そのことは、お槙も察している。ちかごろ朝倉家で勢力を得ている当主義景の舅鞍谷刑《しゅうとくらたにぎょう》部《ぶ》大輔《だゆう》嗣知《つぐとも》という人物が、光秀に事ごとにつらくあたり、義景にもさまざまな告げ口をしているということは、お槙の耳にも入っている。
「鞍谷刑部などは、朝倉という古井戸に湧《わ》いたぼうふら《・・・・》のような者だ。そのぼうふらがああも権勢をふるっているようでは、この家も将来《さき》がない」
鞍谷は、光秀とは政見がちがう。光秀は近江から将軍(正式にはまだ将軍ではないが)義秋をひっぱってきて、
「この公方様を奉じて朝倉の旗を京にたてよう」
というのに対し、鞍谷はあくまでも保守的だった。義秋のような者に来られては乱のもとになる。
「光秀は、朝倉家を火中に投ずる気か」
というのであった。
が、当主の義景は、公方様という武家の頭領がわが家を頼ってきてくれたことについて無邪気によろこび、この件についてだけは鞍谷の意見を用いない。
鞍谷はそこで光秀を讒《ざん》訴《そ》し、できれば国外へ追放しようと考えた。将軍の連絡官ともいうべき光秀さえ朝倉家から追い出せば、自然、足利義秋も居心地がわるくなって、越後の上杉家あたりへでも流れてゆくだろう。
「鞍谷刑部の指金《さしがね》がきいたのか、ちかごろ御殿にのぼっても、茶坊主でさえわしに会釈《えしゃく》せぬようになった」
光秀は、垣根の桔梗をじっとみつめている。
「この越前にいては、わしは枯れるのを待つばかりだ」
「されば、以前も申されましたように?」
「さよう、織田家へゆく」
光秀は言い、「さほど好まぬが」とひくくいった。「好まぬとはいえ、朝倉家とくらべれば織田家は夜と昼ほどのちがいはあろう」
この翌朝、光秀は義秋の機《き》嫌奉《げんほう》伺《し》のために、越前敦賀《つるが》にある金ケ崎城にいった。
公方様の義秋は、ひさしぶりでやってきた光秀をよろこび、酒を用意してさまざまの話をした。
義秋は、つねに焦燥感《しょうそうかん》をもっている男である。早くも朝倉家に不満をもちはじめたようであった。
「なるほど、よく尽してはくれる。しかし上《じょう》洛《らく》してわしを将軍にしてくれる気力も実力もないとみたが、そちはどう思うか」
光秀も同感である。
しかし当座、扶持《ふち》をもらっている朝倉家の悪口を、満座の前では言いにくい。
義秋はそうと察したらしく、光秀を庭へともない、四阿《あずまや》の一隅《いちぐう》にすわらせた。
「ここはたれも来ぬ。遠慮のない意見をいうがいい」
光秀はまず、義秋の観測に同感であると言い、このうえは織田信長をたよるほかはございませぬ、といった。
「信長は、危険な男だ」
義秋はよく見ている。なにしろ信長の性格、日常、実力、動きなどに関する集められるだけの情報を義秋はもっていた。
「藤孝(細川)もはじめは信長を買っておったが、ちかごろは首をひねっているようだ」
危険、というのは、信長の性格である。はたして足利幕府を再興しようというような物優しい感傷的心情がかれにあるだろうかということであった。
なるほど義秋が信長に頼れば信長は当座はよろこぶであろう。出来星大名の織田家にとって箔《はく》のつくことであるし、
「義秋の御上洛に供奉《ぐふ》する」
という大義名分によって京への沿道の諸大名を砕くことができるし、砕く前に、それを名目に懐柔してしまうこともできる。一個の義秋は考えようによっては、織田家にとって無形の大いなる戦力になるはずであった。
しかし危険である。
実利に徹しきったような信長の性格からすれば、いざ京を征服したあと、義秋が要らなくなれば古《ふる》草鞋《わらじ》のように捨て去るのではあるまいか。
「だいぶ酷烈な性情の持主であるように思われる」
「まことに」
光秀もこの観測には異存がない。光秀自身はやくからこの見方を持ち、「織田家をお頼りあそばすのは危《き》殆《たい》この上もありませぬ」と主張してきたところだった。
「しかし、それがしの見るところ、天下を取る者はあの尾張者であるかもしれませぬ」
「わしもそう見る」
とすれば、義秋とすれば好《こう》悪《お》ばかりをいっていられない。天下を取りそうな者に頼るというのが、この流《る》浪《ろう》の将軍にとって唯一《ゆいいつ》無二の生きる道であるはずだ。
「一策がござりまする」
と、光秀は息を詰めていった。
「いやさ、策と申しまするより、これは上様へのおねがいでござりまする」
「なんなりとも申せ。そちの一身についてはわしはできるだけのことをしたい」
「されば」
信長に自分を推挙してくだされ、と光秀はいった。公方の義秋自身の推挙とあれば、天下にこれほど豪華な紹介者はいない。信長は当然、光秀を厚遇するであろう。
「朝倉家を退転するか」
「見きりをつけましてござりまする。譜代重恩の主家ならいざ知らず、朝倉家におけるこの光秀は、蔵米で養われている食客にすぎませぬ。退転しても、自他ともにいっこうにさしつかえありませぬ」
「そうか、そちを織田家にな」
義秋は慧《さと》い男だ。この光秀の提案の真意を底の底まで察しぬくことができた。
織田家へ光秀を、いわば義秋が「派遣」するのだ。「あずける」といってもいい。平俗なことばでいえば足利将軍義秋のひもつき《・・・・》で光秀は織田家へゆく。その重臣になる。
「されば安心じゃの」
義秋の表情があかるくなった。信長がもし将来、足利将軍家に非曲暴慢《ひきょくぼうまん》をはたらくとすれば、光秀がそれを制止してくれるであろう。いや「あろう」ではない。そのために光秀は織田家にゆくわけだし、光秀が信長の左右にあって信長を補佐するかぎり、そういう暴慢の沙汰《さた》も将来おこらぬであろう。
「妙案じゃ」
義秋はひざを打った。
「光秀、この一件、わしにまかせるか」
と、この策謀ずきな将軍後継者は蜻蛉《とんぼ》をねらった少年のような顔になった。性格に鷹揚《おうよう》さはあまりなく、いつもせかせかと智恵をめぐらしては策に熱中しているところがある。
「――おまかせつかまつるなどと」
とんでもない、という顔を光秀はした。
「光秀は孤客の身、上様におすがりするほか生きるすべのない身でござりますれば」
追従《ついしょう》のいえない男だ。この言葉は光秀の物《もの》哀《がな》しい実感がこもっている。
「されば、まずわしの旗本になれい」
義秋はいった。ちょっと無理かもしれなかった。義秋の直参《じきさん》になるには位官が要るし、その位官の奏請権(朝廷への)は、まだ正式の将軍ではない義秋にはなかった。
「とりあえず、わしの昵懇衆《じっこんしゅう》の一人ということにしておく。そうとなれば信長もそちを粗略にあつかうまい」
義秋はすぐ朝倉家に使いを出し、「光秀を予が直々《じきじき》の者に貰《もら》いうけたい」と申し送ると、朝倉家ではごく簡単に承知した。
(すこしは反対するかと思うたが)
そう思うと光秀はものさびしくもあり、同時に朝倉家への気持の整理もできた。
義秋の金ケ崎御所には、諸国の有力大名から使いがきたり、当方から使いが送られたりしていて、織田家もその例外ではない。
義秋は、そういう使者に手紙をもたせて光秀のことを信長に申し送った。
「わが昵懇衆に、美濃の出の明智光秀という者がいる。風雅にあかるく、典礼に通じている点、代々の幕臣でさえ及ばない。そのうえ諸国を行脚《あんぎゃ》して情勢に通じている点、無類の者である。しかしなによりもこの人物は器量、兵馬にあかるく、抜群の勇あることだ。なにさま予は流寓《りゅうぐう》の身ゆえこれほどの者を、それに値いするだけ扶持できぬ。哀れにも思い、惜しくもあるゆえ、そちのもとに引きとってはくれぬか」
という文面であった。
信長は、決断が早い。
すぐ猪子兵助をよび、
「越前敦賀の金ケ崎御所に使いせよ。用というのは、承知つかまつった、というだけのことだ。人を貰う」
「たれをでござりまする」
「わからぬか。そちの昵懇の者だ。いま公方のお側《そば》にいる」
「あっ」
と、猪子兵助は喜色をうかべた。猪子兵助は亡《な》き道三の側に仕えていたころ、光秀という若者に常に感服していた。道三が、自分の正室の甥《おい》であるあの若者にどれだけの期待をかけていたかということもよく知っている。
「では、早速に」
兵助をさがらせたあと、信長は勘定奉行をよび、
「領内に闕所《けっしょ》はあるか」
ときいた。たれの知行所でもなくなっている地があるか、ときいたのである。「ござりまする」と、奉行は答えた。
「美濃の安八《あんぱち》郡に、五百貫文の知行所があいておりまする」
石高になおすとざっと五千石の地である。侍大将の待遇といってよい。
(とりあえず、それを与えよう)
信長にすれば、光秀の経歴をきいただけでそれだけのねうちがあると思った。
足利家への橋渡し役にするのである。天下を収めるには、形式的にはぜひとも足利家を擁立せねばならぬ、ということは信長も知っていた。それが橋渡しのためには、光秀はうってつけの役者であろう。
さらに、室町風の典礼故実にくわしいという。将来、信長が将軍や宮廷に関係をもつばあい、貴族階級の習慣にあかるい家来はぜひとも必要であった。
信長の家来には、野戦攻城の荒武者はいても、その種のことはたれも知らない。無教養者が多く、他家へ使いにも出せないような連中ばかりである。
(よい者を見つけた)
信長は、光秀を、その種の文官として評価し、値踏みしていた。
(将才はあるか、せめて武者働きでもできるか)
そこまでは、わからない。なるほど義秋公方の手紙には「その点は抜群である」と書かれていたが、信長は信用していなかった。軍事能力があるかないかは、実見した上で、さらには使ってみた上でわかることだ。
(もし公方がいうようにその能もあれば、さらに知行をふやしてやろう)
信長は、奥へ入った。
「奥、奥はいるか」
わめきながら廊下を渡り、濃姫《のうひめ》が住まっている一郭に入った。
「越前から、そちの従兄がくる」
と、信長はいった。
「光秀だ、明智の。懐《なつか》しいか」
「はい。……」
濃姫は、いつにない信長のはしゃぎようにびっくりしている。
「蝮《まむし》が、可愛がっていたそうだな。蝮の目ならまず間違いない。もっとも蝮は、光秀の学問遊芸にのみ感心していたのかもしれぬが」
「鉄砲のお上手でございます」
「ほう、それは意外な」
「ほかのことは存じませぬ」
濃姫は、小さなうそをついた。濃姫が少女のころ、亡父の道三がまるで弟子のようにしてそばに引きつけて物事を教えていたあの従兄の輝くような若衆ぶりが、いまも目を閉じるとありありとあらわれてくる。
「なににしても」
と、信長は別なことをいった。
「光秀は、譜代も同然の者である」
なぜならば、信長の舅の道三が長《なが》良川《らか》畔《はん》のほとりで討死したあと、「道三への友《ゆう》誼《ぎ》がある」といって明智城に立て籠《こも》り、節に殉じて戦死した明智入道光安《みつやす》の甥が光秀である。信長にとっては、道三の供《く》養《よう》のためにもその遺族を扶持《ふち》せねばならぬところだ。
もっとも、信長は、そういう湿った感情で光秀のことを考えているわけではなかったが、濃姫をよろこばせてやりたいために、そのこともいった。
濃姫は、そこは女である。みるみる涙ぐんで、「むかしのことを、思い出させてくださいますな」といった。
「悲しくなるか」
「当然なことでございましょう」
「感謝しろ」
と、自分の顔を指した。
「おれにだ。そちの亡父の仇《あだ》をこうもみごとに討ってやったわ」
「光秀殿は、いつ来るのでございます」
「わからん」
信長は、部屋を出ようとしてからふりむき、
「道三の旧臣であった猪子兵助が使いとして金ケ崎御所へゆく。公方に拝謁《はいえつ》する。ついでに光秀に会う。そういう段取りだ。猪子に、そちの侍女からということで、なにか物でも持たせてやれ」
存外、信長は濃《こま》やかな心づかいをみせた。
濃姫から下目の光秀に物を贈ることはできないから、濃姫の侍女からという名目にせよと信長はいうのである。
むろん、濃姫付の老女は美濃の旧斎藤家から従ってきた者が多く、そのたいていは光秀を知っていた。
各務《かがみ》野《の》がいい、と思った。濃姫はすぐ各務野にそのことをいった。
「なにがよろしゅうございましょう」
「鯉《こい》がよいのではないか」
この魚は急流をさかのぼって滝をさえ跳ね昇るという。織田家に仕えて立身せい、という意味を託するには鯉がもっともいい。
すぐ鯉をさがさせた。
幸い、みごとな鯉がみつかったので、それを黒塗りの水槽《すいそう》に入れ、越前へ出発する猪子兵助にことづけた。
謁見《えっけん》
光秀は決意に時間がかかる。
が、いったん決意したとなると、そのあとのこの男の行動は、構図のたしかな絵師の筆のように、運筆が颯々《さつさつ》としている。
越前朝倉家を牢人《ろうにん》したあと、すぐあわただしく織田家へ走りこむというようなことはしなかった。
(あわてては、人間に、目減《めべ》りがするわ)
と思い、いったん朝倉家の首都一乗谷をひきはらったあとも、越前にいた。
居場所は、最初、越前に流れてきたときに足をとどめた越前長崎の称念寺《しょうねんじ》である。
ここで織田家からの使者猪子兵助に面接し織田家に奉公することを約束した。
「いずれ、支度のととのい次第、参る。上総介様にも濃姫様にもよしなに伝えてくれ」
と、この同郷の旧友にいった。
故道三の話も出た。
「道三殿については、こういうはなしがある」
と、兵助はいった。
「おれの若いころだ。濃姫様が織田家に輿《こし》入《い》れをなされたあと、道三殿が婿殿をみたいとおおせられて、国境いの聖徳寺を会見場所になされ、舅《しゅうと》、婿のおふたりがお会いあそばしたことがある。そのときおれも道三殿につき従ってあの聖徳寺に行っていた」
「有名な話じゃな」
光秀はいった。この劇的な会見譚《かいけんばなし》については、いまでは美濃・尾張あたりで知らぬ者がない。
この物語でもすでに述べた。
道三側の供の連中は、信長のたわけた服装や挙動にあきれ、
(このあほう《・・・》の君では、いずれは尾張も道三殿のものになる)
と、ことごとく思い、むしろ喜色をうかべて帰路についた。道三ひとりだけが、なにやら憂鬱《ゆううつ》げであった。その道三が、帰路、茜部《あかなべ》の里で休息したとき、そばにいた猪子兵助に、「あの若僧をどう思うた」ときいた。
このとき猪子兵助ほどの者でも、信長の印象を一笑で片づけ、
「なんともたわけ《・・・》の殿にござりまするな」
というと、道三は吐息をつき、
「たわけ《・・・》なものか。いずれおれの子供たちはあのたわけ《・・・》の門に馬を繋《つな》ぎ、この美濃は、信長への婿引出物《むこひきいでもの》になるだろう」
といった。
光秀も、この話はくわしく知っていたが、そのとき現場にいた猪子兵助の口からあらためて聞かされると、道三、信長の顔つき、口ぶりがいきいきと再現されて、はじめて聞くような新鮮さを覚えた。
「おそらく、百世ののちにも伝わってゆく話になるだろう」
「いやいや、まったくばかげた話よ」
と、兵助は苦笑した。自分の身にひきかえて皮肉な感想が湧《わ》きおこってきたらしい。
「この猪子兵助にとってはよい恥っ掻《か》きばなしだ。上総介殿への目がくるってたわけ《・・・》の殿といっていながら、いまはみよ、その殿の家来になっている。美濃も、道三殿の予言のとおり、引出物になってしまった。なにもかも道三殿の予言どおりになった」
「悔やむことはあるまい」
光秀は、ゆるやかに微笑《わら》いはじめた。
「人間がちがう、というだけの話さ」
光秀は、亡《な》き道三を師のように慕いつづけている。兵助ごときが道三の眼識に及ばなかったといま悔やんでも、それは、恥じることさえ不《ふ》遜《そん》なほどの当然事にすぎない。
兵助が帰ったあと、光秀は家財の整理にいそがしくなった。不用のものはことごとく金銀にかえた。
手持ちの金銀がふえた。
幸い、朝倉家では客分であったため、扶持《ふち》のわりには扶養する家来がすくなく、そのぶんだけを金銀にかえて貯《たくわ》えてある。
(北国に雪が来ぬうちに)
と、光秀はそれらを荷駄《にだ》に積み、一族郎党をひきいて越前長崎の称念寺を去ったのは、秋の暮、風のつよい日であった。
「敦賀へ」
と、光秀は行くさきを示した。なにはともあれ敦賀の金ケ崎城に行って義昭(義秋はこのころ、義昭と改名していた)に暇乞《いとまご》いするつもりであった。
途中、ところどころで寄り道をした。
織田家へのみやげを買うためである。
(できるだけ豪華なほうがいい)
と、光秀は思っていた。ただの牢人ならば献上品などはいらない。が、この自負心のつよい男はそういう姿で織田家に入ってゆきたくはなかった。信長夫人といとこ《・・・》である以上、織田家の姻戚《いんせき》のつもりであった。さらには「幕臣」という手前もある。かれは自分の織田家入りにできるだけの華美をかざりたいと思った。
いったん三国湊《みくにみなと》に出た。
ここは北陸路有数の名港で、日本海岸の物資の多くあつまるところだ。
ここで、葡《ぶ》萄《どう》の樽《たる》を五荷《か》、塩びき鮭《ざけ》の簀《す》巻《まき》を二十買った。信長へのみやげにするつもりであった。
余談ながら三国湊の付近の汐越《しおこし》という漁村で、光秀は有名な汐越の松原を見物した。どの松も磯《いそ》の潮風に堪えて根がたかだかとあがり、そのあがり根《・・・・》のむこうに白浪の立つ日本海がみえてみごとな眺望《ちょうぼう》をつくっていた。この「汐越の松」は、むかし 源義経《みなもとのよしつね》が奥州へ落ちてゆくときに観賞し去りがたい風《ふ》情《ぜい》を示した、という伝説が残っており、義経ずきの光秀はそれをきいてひとしおの感興をもち、王朝風の繊細な歌をつくっている。
満ち潮の
越してや洗ふ あらがねの
土もあらはに根あがりの松
(みやげは濃姫様にも)
と思い、買物行脚《あんぎゃ》の道中をつづけた。
府中(福井県武《たけ》生《ふ》市)に出、ここで越前大滝の名産といわれる髪結紙《かみゆいがみ》を三十帖《じょう》、府中名物の雲紙千枚を買い、ついで戸口《とのくち》へ人を走らせて、戸口名産の網《あ》代組《じろぐみ》の硯箱《すずりばこ》、文《ふ》箱《ばこ》を買いにやらせ、ついで敦賀に出たとき、銀製の香炉を一つ買い、さらに雑品五十個ばかりを買った。ことごとく濃姫へ贈るためのものであった。
光秀は、岐阜城下に入った。
すぐ、猪子兵助に連絡すると、兵助は光秀一行のために宿舎をさがし、結局、この新興都市の町なか《・・》にある日蓮宗《にちれんしゅう》常在寺がそれにきまった。
「常在寺とは、懐《なつか》しや」
と、光秀はいった。
常在寺は、京の油屋「山崎屋庄九郎」といったころの故道三が、野望を秘めつつ美濃へ流れてきて最初にわらじをぬいだ寺である。
「兵助よ、おぬしと言い、常在寺といい、故道三殿の縁がかさなることよ」
「おそらくは道三殿のおひきあわせではあるまいか」
兵助は小さく笑った。
光秀はさっそく常在寺に入り、その門前に、
「明智十兵衛光秀宿」
との札をかけさせた。
自分の居間として書院を借り受け、住持にあいさつした。当代の住持は日《にち》威《い》といい、道三の友人だった開山日護上人《しょうにん》から三代目になっていた。
寺にも、道三についての言い伝えが多い。
「ごぞんじのごとく」
住持はいった。
「道三殿はお若いころ、京の妙覚寺本山にて僧となるべく修行され、僧名を法蓮房《ほうれんぽう》と申されました。智恵第一との評判がありましたそうな。そのころ当山の開山日護上人も妙覚寺本山で修行なされ、兄弟のようにお仲がよろしかったと申します。その後、道三殿は還俗《げんぞく》して本山を出奔なされ、牢人暮らしをしたり、奈良屋(のち山崎屋)に入婿をしたりしてなかなか忙しげでありましたが、野望おさえきれずこの美濃に、日護上人をたよって参られたのでございます。武士になりたいと申されるゆえ、日護上人はお実家《さと》の長井家に推挙したのが、道三殿の御立身のはじまり、と申すより美濃争乱の発端でござりましたな」
「まるで阿《あ》修《しゅ》羅《ら》のような生活であったな。あの人がこの常在寺にわらじをぬがなかったならば、美濃はおそらくいまとちがったものになっておりましたろう」
「つまり、いまなお美濃国主の土岐《とき》家がつづいていた、と申されるので」
「いやいや、道三殿が美濃にあらわれてこの国を作りなおしたればこそ、ながい歳月、他国に侵掠《おか》されることなく風雪に堪えたのでござるよ。道三殿がもし美濃にあらわれなんだら、この国は上総介殿の先代信秀殿のときに織田家のものになっていたでありましょう」
「なるほどの」
住持には、まだ道三僧が、魔か仏か、いずれに理解していいのかわからぬ風情だった。
しかし常在寺そのものについては、道三は何度も寺領を寄進して、かつて自分がわらじをぬいだころとは面目《めんぼく》をあらためるほどの大寺に仕立てあげた。自分の運をきりひらいてくれた日護上人への感謝のつもりであったらしい。
道三の死後、寺は一時おとろえたが、いまはその娘濃姫がしばしば侍女をこの寺に遣わし、道三の供養料をおさめているから、多少息はつけるようになっている。
信長は、尾張の小牧城にいた。光秀が岐阜に来ている旨《むね》の報《し》らせをうけると、
「あの男、越前から来たそうな」
と、濃姫にも教えてやった。
「わしは明後日、岐阜にゆかねばならぬことがある。そのとき、光秀にも会おう。そののち光秀をここに寄越すから、そなたも顔を見てやれ」
信長は、光秀に期待していた。公《く》方《ぼう》の側近である光秀を手もとにひきとることは、自分の天下への夢に、夢ならぬ現実の石をひとつ置いたことになる。
(どのような男か。軍陣のことから詩《しい》歌《か》管弦《かんげん》まであかるい人物ときいているが)
翌々日、信長は、竣工《しゅんこう》もま近い岐阜城に入った。
父の信秀のころから二代にわたってあこがれぬいた稲葉山城である。
(ついに獲《え》た)
という信長のよろこびが、あれこれと城の造作を変えさせた。
この濃尾平野をひと目で見おろす城を手に入れたとき、信長はつくづく道三の地《ち》相眼《そうがん》や築城のたくみさに驚嘆した。
長《なが》良《ら》川《がわ》を天然の外堀にし、稲葉山そのものをことごとく 城塞《じょうさい》化し、城門と城外の道路をたくみに結合させて守るにも押し出すにも絶妙の機能性を発揮できるようにつくられている。自然、この城塞そのものについては、信長がことさらに新工夫を加えるという点はほとんどない。
城塞は修築するだけにとどめ、むしろ山麓《さんろく》の居館の新築と、城下の構造変えに信長は意をつくした。
ところがこの城を得、この城にときどき泊まるようになってから、
(道三はさほどの人物ではなかったな)
と、信長は思うようになった。山上の城塞は不便すぎるのである。なるほど堅牢そのものだが、いざ住んでみると、堅牢すぎることが城主としての心の活動《はたらき》をにぶくするのではないかと思われた。
防衛にはいい。
そのよすぎることが、殻《から》の中にいるさざえ《・・・》のように清新溌剌《はつらつ》の気分を失《う》せさせ、心を鈍重にし、気持を退嬰《たいえい》させ、天下を取るという気象を後退させる。そのように思われた。
(蝮《まむし》めはこの城を作ったときから、守成《しゅせい》の立場にまわったのではないか)
逆にいえば道三の退嬰の気持が、この城を作らせたともいえなくはない。また同情的にみてやれば道三は、人生の半ばから風雲に身を投じ、その晩年にいたって、ようやく美濃一国を手に入れた。手に入れたときにはすでに自分の一生は暮れようとしていた。いきおい、守成にまわらざるをえなかったのであろう。
(おれは若い。若いおれが、これほどの金城湯池を持つ必要がない。持てば気持がおのずと殻にひっこむようになる。つねに他領に踏み出し踏み出しして戦う気持がなくなればもはや、おれはおれではない)
そのような気持をもった。
だから信長は、岐阜城改修にあたっては、城よりもむしろ住居に力を入れた。
壮麗な居館が出来あがりつつあった。宮殿は四階建てであった。
一階には二十の座敷があり、釘隠《くぎかく》しはことごとく黄金を用いさせてある。
二階は、濃姫の部屋を中心に侍女のための部屋がならび、座敷は金襴《きんらん》の布を張り、望台を作って、城下と稲葉山がみえるように工夫されている。三階は、茶事のために用い、四階は軍事上の望楼として用いられる。
「自分はポルトガル、印度《インド》、日本の各地を知っているが、これほどの精巧美麗な宮殿をみたことがない」
と、のちに岐阜城下にやってきた宣教師ルイス・フロイスがその書簡に書いている。
この「宮殿」は、ほぼ完成していた。信長は岐阜到着の夜、ここに泊まり、翌朝、一階の大広間で光秀を謁見した。
光秀は、下座で平伏していた。
(頭髪《あたま》のうすい男だな)
と、ひとの身体的特徴に過敏な信長は、最初にそう思った。
(金柑《きんかん》に似ている)
頭が小さくてさきがとがり、地《じ》肌《はだ》に赤味を帯びたつやがあって、みればみるほど金柑に似ていた。信長は好奇心に満ちた眼で、その光秀の頭だけをじっとみつめた。
少年の眼である。この信長のなかには、悪童のころのかれがつねに同居していた。
(あの頭に触りたい)
とさえ思った。十年前のかれなら容赦もなく降りて行って光秀をするすると撫《な》でたであろう。が、いまの信長はさすがにその衝動をおさえるまでに大人になっている。
「光秀、よう来た」
と、信長は叫んだ。
光秀は、作法どおりあっと肩を動かしていよいよ深く平伏した。むろん、この室町《むろまち》風の作法に長じた男は、信長の顔をぬすみ見るような不作法はしない。
(たいへんな声だ)
と、内心思った。樹間を走り渡る猿《さる》の声にどこか似ていた。大名の子だと思った。自分の声調子《こわぢょうし》を自分で抑制する必要を経験したことのない男の声である。
一見、たわけ《・・・》の声であった。しかし桶狭《おけはざ》間《ま》以後、信長がやってきたことはたわけ《・・・》ではない。
とにかく常人の声でないとすれば、
(やはり信長は天才かもしれぬ)
と、光秀は思おうとした。
「物を呉《く》れたな」
例の猿の叫びが飛んできた。
「奥にも呉れた。すべて佳《よ》きものだ。わしはよろこんでいる」
なま《・・》な言いかたをする男だと思った。木《き》樵《こり》が喋《しゃべ》っているようで、典雅とは程遠い。おそらく言葉のつかい方を知らないか、天性その能力を欠いた人物なのであろう。
「近う寄れやい」
光秀は一礼し、顔を俯《ふ》せたまま腰をわずかに立て、すこし進もうとした。しかし進むふりをして進みかねているという姿で、これが室町幕府の礼法なのであった。上《かみ》を畏《おそ》れて萎《い》縮《しゅく》しているという礼式上の演技である。
が、尾張の奉行職から成りあがった織田家にはそんな礼法などはない。
信長は光秀のその姿をめずらしそうに見つめていたが、ついに、
「そちゃ、足がわるいのか」
と、あふれるような好奇心でいった。
光秀は、汗が出てきた。
(このあほう《・・・》め)
と思うと、こういう京風《みやこふう》の礼儀作法をしている自分までがばかばかしくなり、「足萎《な》えではない」ということを示すために膝《ひざ》を立て、すらすらと進み、畳二枚進んだあたりで平伏した。
「面《おもて》をあげい」
信長は、命じた。光秀は、(もはやかまうまい)と思い、ぐっと顔をあげた。
(奥に似ている)
と、信長はおもった。
道三桜《どうさんざくら》
信長は、光秀と言葉をかわしているうちに、すっかり惚《ほ》れこんでしまった。
(これは思わぬ買物をした)
とおもうと、口もとが自然とほころびてきた。この男が顔を崩して笑うなどということはめったにないことである。
まず光秀のもっている典雅さ、これは勇猛一点張りの織田家の諸将にはない美徳である。将来、織田家の外交官としては最適であろう。
外交官といえば、光秀は将軍義昭の信任が厚いだけでなく、京都の公卿《くげ》、僧侶《そうりょ》のあいだにもずいぶんと顔がひろいようだった。これも田舎大名の外交を担当させるにはうってつけの無形財産といっていい。
以上だけならば、単に信長の使いとしての外交技術者の能力にすぎない。それよりも光秀は織田家の外交そのものを決定できる能力をもっていると信長はにらんだ。
なぜといえば、光秀は諸国をくまなく歩いており、人物、交通、城郭、人情にあかるく、天下の情勢を語らせると、豊かな見聞を材料にして明晰《めいせき》そのものの判断を加えてみせた。
(まず、天下第一の才幹か)
と信長は舌をまく思いで光秀を見た。
しかも光秀の才能はこれだけではない。以上のあれこれは、明智光秀という男のほんの一部にすぎない。
光秀はなににもまして軍人であった。刀槍《とうそう》鉄砲の術に長じているというだけではなく、大軍を駈《か》け退《ひ》きさせる将帥《しょうすい》としての稀有《けう》な才能がありそうであった。信長もそうみた。
しかも態度は粗野でなく穏雅な風貌《ふうぼう》をもち、埃《ほこり》も鎮《しず》めるような静かさですわっている。
(これはいよいよ、よい買物をした)
信長は思い、初のお目見得《めみえ》にしては長時間にわたる謁見を遂げ、夕刻になってからやっと光秀を退出させた。
翌々日、信長は小牧城にかえって、濃姫の部屋にゆき、
「光秀めを見てやったぞ」
といった。
濃姫ははっと頬《ほお》を染めたが、すぐ、どのようなお人でございました、とおだやかに訊《き》いた。
「きんかん頭さ」
と、信長はいった。
「おつむり《・・・》が」
「ああ、薄禿《うすはげ》よ」
(まさか)
濃姫は思いたかった。彼女の記憶にある光秀は輝くような若衆で、その整いすぎるほどの顔だちは殿中の女どもの話題をほとんど独占していた。
(齢《とし》だろうか)
と思って胸のうちで指を繰ってみると、光秀は濃姫より七つ上だからまだ四十にはなったかならぬかの年齢である。さほどではない。
「使えそうなやつだ」
信長は、濃姫の膝をひきよせて寝ころがった。
「そなたのいとこ《・・・》だったな?」
「はい」
「どこか、面《おも》差《ざ》しが似ている。その点は多少気にくわぬ」
「わたくしの貌《かお》がお気に召さぬのでございますか」
濃姫は微笑を含みながらいった。このところ信長はしきりと侍女に手をつけては子を生ませているのが、濃姫の心の痛みになっている。
「ちがう」
信長はするどく言った。いやだ、というのは自分の女房《にょうぼう》の血縁で面差しまで似ている男というのは、見ていい気持のものではないという意味だったが、面倒だから説明はしなかった。幼少のころからたれに対しても、自分を説明したり行動の理由を弁解したりする習慣をもっていない男である。
「そなたも見てやれ」
信長はいった。身内の者がすべて亡くなった濃姫のために、彼女の数すくない血縁者と対面させてやろうというのが、信長の親切心だった。
「来年になればな」
「なぜ来年になれば、でございましょう」
「本拠を岐阜城に移す。そのときにあの男の面をみてやれ。おれは忘れるかもしれぬゆえ福富平太郎爺《じい》に憶《おぼ》えさせておこう」
福富平太郎はもと道三が愛していた家来で濃姫の織田家輿《こ》入《し》れのときに付き従ってやって来、以後奥むきの執事になっていた。その子の平左衛門は驍勇《ぎょうゆう》の士で、いまは信長の親《うま》衛隊士《まわり》として諸国に勇名を馳《は》せている。
「岐阜のお城はもはやそれほどまでに?」
「ああ出来た」
信長はいった。
「あとは稲葉山山頂の本丸の屋根ふきと、山麓の館《やかた》の庭を作ることだけが残っている。移るのは来年になる」
(来年。――)
には、濃姫は、自分の亡父の国と城に戻《もど》れるのである。すでに父はなく国は亡《ほろ》び城も様相が変わっているとはいえ、自分の実家の本城とされていた旧稲葉山城(岐阜城)にもどるのである。しかし、このようなかたちで実《さ》家《と》方《かた》の城に戻ろうとは夢にも思っていなかったことだった。
「お濃、なつかしいか」
「いいえ、別に」
濃姫は、すこし不機《ふき》嫌《げん》そうにかぶり《・・・》をふった。父母も昔の家臣や侍女たちもいない城に戻ったところでなにになるだろう。
ただ一つだけ、この暗い感慨のなかに光射す楽しみはあった。その城で、光秀という故旧に会えるのである。思えばあのころに睦《むつま》じんだ一族や家臣たちのなかで生きているのは光秀だけではないか。
織田家の家臣団の移動がおこなわれたのは翌《あく》る年の九月十八日である。
尾張清《きよ》洲《す》城から美濃岐阜城までの三十二キロの道を、一万余の武者が、旗指物《はたさしもの》をはためかせつつえんえんと行進した。
織田家の家臣の甲冑《かっちゅう》は、尾張の豊かさを反映して華麗なことは海内《かいだい》一といわれた。銃器の数も多い。それらが砂《さ》塵《じん》をあげて濃尾平野を北上してゆく景は壮観そのものだった。
濃姫は、小牧城から出発した。女どもの行列が数町もつづいた。
すべてが、岐阜城に入った。この日から、織田家の本拠は、美濃の岐阜に移る。
光秀は、城門のそとで、入城してくる尾張兵を迎えた。濃姫の女駕《おんなか》籠《ご》も通った。その朱と金で装飾された華麗な乗物を、光秀は謹直な表情で見送った。
が、多感なこの男の内心は、表情のように謹直ではなかった。
(まかりまちがえば自分の女房になっていたかもしれぬ女性。――)
という感慨なしではこの女駕籠を見ることはできない。むかし、鷺山城《さぎやまじょう》の道三に近《きん》侍《じ》していたころ、道三の言葉のはしばしではこの姫を自分に呉れるような気がしてならなかった。それが尾張へやられ、いまは天下の織田信長夫人になっている。
(人の運とはわからぬものだな)
と光秀も思わざるをえない。
織田勢の岐阜入りののち十日ばかり経《た》って濃姫付の老臣福富平太郎が光秀のもとにやってきて、
「殿の格別の思召《おぼしめし》でござる。御奥において奥方様のお目通りをゆるされます」
と、鄭重《ていちょう》にいった。福富老人は美濃出身であるため光秀のむかしの家柄《いえがら》を知っており、そのせいかまるで主筋《しゅすじ》の者に対するようないんぎんさであった。
光秀は、伺《し》候《こう》した。男臣の作法として庭に面した廊下まで進み、そこですわった。
濃姫は、室内にいる。この日彼女は入念に化粧《けわい》をしたせいか、二十三、四ほどにしか見えなかった。
「十兵衛殿、懐《なつか》しゅうある」
と、濃姫は、まるい湿りを帯びた声で、ひくくいった。
光秀は平伏した。やがて上体をややあげ、よく透《とお》る声で濃姫の息災を祝い、このたびの推挙の礼をのべた。
「なんの推挙はわたくしのみが致したわけではありませぬ。そなたの名はすでに高く、尾張でもよき目や耳を持つほどの者はみなそなたの名を口に致しておりました」
(薄禿ではない)
と、濃姫は言いながらおもった。髪の毛が細いほうだから信長の目には光線のかげんでそう見えたのであろう。濃姫のみるところ、光秀は相変らず唇《くちびる》の姿にえもいえぬ雅趣があり、目は涼やかで眉《まゆ》がのびのびと長い。その点、年若いころとすこしも変わっていないのである。
「そなたも、変わりませぬな」
「それは」
光秀は苦笑した。
「士に対する賞《ほ》め言葉ではございませぬ。士は三日見ざれば刮目《かつもく》して見るべしと古典《ほんもん》にもございます。変わるこそ漢《おとこ》たる者の本望でございましょう」
「いいえ、容貌《かおかたち》のことを申しているのです。すこしも変わりやらぬ」
そのあと、ふたりは斎藤山城入道(道三)の思い出について語りあった。
「あれに」
と、濃姫は袖《そで》をあげて庭を指した。
「桜の老いた樹《き》がありましょう。亡き父が青《せい》嵐《らん》と名づけて愛《かな》しんでいたものです。あの桜だけが、いまは遺《のこ》っている」
「山城入道様と申せば」
と光秀はいってから、言うべきかどうかをためらっている様子だったが、やがて思い決したように、
「京でお万阿《まあ》様にお目にかかったことが二度ばかりございまする。大変、もてなしをお受けいたしました」
「お万阿様とは、父上が京に住まわせていた真正《まこと》の御内儀、というお方ですか」
「はい、油問屋山崎屋庄九郎の妻」
「聞いています」
濃姫は、楽しそうに微笑《わら》いはじめた。
「父上がよくわたくしに話してくれましたので」
「山城入道様が?」
光秀は驚いた。自分の京での隠妻《かくしづま》のことをぬけぬけと娘に語ってきかせるとはいかにも道三らしい。
光秀が思い旋《めぐ》らせてみるに、濃姫は道三の唯一《ゆいいつ》の娘であった。おそらく濃姫が女であるがために安《あん》堵《ど》して自分の女どもの話を語って聞かせたのであろう。
「それも織田家に嫁《とつ》ぐ日が近づくにつれて、毎日のようにお万阿様のことを語ってきかせました。あの方は」
濃姫は、ふと涙ぐんだ。「父が生涯《しょうがい》愛しぬいたのはお万阿様だった」ということを言おうとして、感情が胸に堰《せ》きあげてしまった。
「お万阿様とはどのようなお方で、どのようなお暮らしのたたずまいでありました?」
濃姫は身を乗り出すようにして聞きたがった。父の愛した人についていささかでも知りたかったのであろう。
光秀は、簡潔にその人柄《ひとがら》の様子を語りつつやがて、「お万阿様ほどおもしろい女人はまたとござりませぬな」といった。
「どのように?」
「それがしに、美濃の国主斎藤山城入道道三などという仁は存ぜぬ。名も存ぜぬ。わたくしの夫は油商人《あきゆうど》にて山崎屋庄九郎と言い、長旅をしてはときどき京に帰ってきた、その夫しか知らぬ、と申されました」
「まあ」
濃姫には理解のできぬ面持《おももち》である。しばらく庭の桜樹を見つめて思いをしずめている様子だったが、やがて会《え》得《とく》が行ったのか急に頬を上気させて、
「浮世のひととは思えぬほどおもしろいお方でございますね」
と弾みすぎるほどの声でいった。光秀は濃姫の弾んだ感情を受けて微笑していたが、すぐ、
「世にもふしぎなお人と申せば、山城入道道三さまこそそうでござりましょう。美濃では国主、京では山崎屋庄九郎、一人にて同時に二人の人生を送ったお人など、古《こ》往今来《おうこんらい》、地に存在したためしがござりませぬ」
「男の理想《ゆめ》でありましょうね」
と、濃姫は軽く言い、光秀が感動する地点まではさすがに女の心情が邪魔してついてゆけぬらしい。
「まことに」
と、光秀は、濃姫のいう言葉を正面から受けてうなずいた。男の夢とはいうが、魔神の通力でももっていないかぎり、道三のように一人で二人分の人生を送るという変幻自在な生き方は不可能であった。そのことを思うと、道三の思い出が過去になればなるほど、その人柄の奇妙さ、驚嘆すべき人間力、さらには英雄という以外言いようのないそのふてぶてしさが、いまや神のように思われてくるのである。
「わたくしにとって、山城入道様は、師とも神ともいうべきお人でございました。この心持はいまも変わりませぬ。生涯かわらぬことでございましょう」
「そなたも」
濃姫は微笑した。
「二人の正室《つま》をお持ちですか」
「いえいえ、その点はとても真似《まね》はできませず、真似の仕様もござりませぬ。それがしめの妻はお槙《まき》と申し、それがしに愛されることをのみ仕合せと存じている哀《かな》しき者にござりまする」
「お槙殿と申しまするか」
濃姫は微笑をひそめ、すぐもとの表情にもどし、さぞ佳《よ》い者でありましょう、遊びに見えるようにお伝えなさい、といった。
「こどもは幾人あります」
「娘ばかりにて」
光秀は苦笑した。三人ある。娘ばかりでは武家のあとつぎに不便なのであるが、かといって光秀は側室をつくろうとはしなかった。その点、女というものを飽くなく好きだったかれの「先師」とはちがう。
「十兵衛殿は穏和でありまするな」
と、濃姫は声をたてて笑った。それが光秀には気に入らなかったらしく、声をやや荒《あら》らげて、
「なんの、世に志のある者が穏和でありますものか」
といった。別段、ふかい意味をこめていったわけではなかったが、この言葉がやがて十五年後に自他ともに思い知らねばならぬときがくるとは、光秀も気づかない。
ただ、翳《かげ》のない、おだやかな微笑でいま秋の陽《ひ》ざしのなかにある。
光秀は、退出した。
このころの光秀の仕事は、軍事官としてよりむしろ外交官として忙殺されていた。とくに対義昭外交である。
光秀は、この当時としてはひどくめずらしいことに信長から知行地をもらっていながら同時に公方の足利義昭からもわずかながら扶《ふ》持《ち》をうけていた。一人で二人の主人をもっているという点、珍奇といっていい。
もっとも、厳密には二人の主持とはいえないかもしれない。義昭は日本国の武家の頭領という雲の上の身分であり、岐阜の信長とは格差がありすぎるし、それに義昭は「武家の頭領」といってももはや装飾的存在で、この家から扶持をうけているといっても普通の主人・郎党の関係ではありにくい。
むしろそういう家来がいるというのは、織田家にとって名誉なことであった。信長はそれを歓迎したし、そういう光秀なればこそかれを珍重したともいえる。
光秀の当面の仕事は、越前金ケ崎で朝倉家の保護をうけている義昭をいっそ岐阜の織田家に連れてくるということであった。
織田家で義昭を保護する。さらに信長がこの将軍後継者を京に連れて行って将軍の位につけ、その権威によって天下に望む。この方法以外に、短時間で天下をとる良策がない、と光秀は信長に献策し、信長も大いにそれに賛同し、
「ぜひ、公方様をこの岐阜城に連れて参れ。わしを措《お》いて天下にあの方を将軍職におつけ申しあげる者があるか」
と言い、できるだけ早く義昭の移座を実現するように命じた。
光秀はこのため、岐阜と越前金ケ崎城を飛脚のように往来して、まったく寧日《ねいじつ》がなかった。光秀はこの足利・織田の結盟に、自分の将来への野望をも一《いち》途《ず》に賭《か》けている。
天下布武
義昭は一日も早く将軍になりたい。そのくせ、身を敦賀《つるが》湾に突き出た小さな田舎城の奥でくすぶらせている。海景にも倦《あ》きた。
いらだつのはむりもない。
「まだか」
と、日に何度も口走った。織田家からの迎えの使者は――という意味である。いったん織田家を頼ってゆくと決めた以上、矢も楯《たて》もたまらなくなる性格だ。
「いましばらくご辛抱を。藤孝(細川)殿や明智十兵衛光秀が奔走しておりまするゆえに」
と側近の者がそのつどなだめた。
事実、かれらは奔走している。
かれらだけではない。信長自身がそうであった。織田家で外交能力のある部将をことごとく駆り出して義昭迎え入れの外交工作に追いつかっていた。
信長は戦国諸豪のなかでもいわば新興勢力に属している。その実力からいって、甲斐《かい》の武田氏や越後の上杉氏に、
「分際《ぶんざい》から申せば差し出たことでございますが、公方(義昭)様をわが岐阜にお迎えしたいと存じます。いちずに忠義から出た志でありますゆえ、誤解くださいませぬよう」
という意味のことを申しのべて、かれらの了解を得ておかねばならなかった。
それに北近江の小《お》谷《だに》には、浅井氏という強剛の新興大名がいる。ここは交通上、義昭が敦賀からくだってくる通過国であり、かつ、信長が義昭を奉じて上洛《じょうらく》するにしても通過せねばならぬ領国であった。このため浅井氏に対しては十分以上に懐柔しておかねばならなかった。
幸い、浅井氏は、永禄《えいろく》八年に信長の妹お市が嫁《か》して姻戚《いんせき》関係を結んでいる。自然、交渉がしやすかった。ただ南近江の六角承禎《ろっかくじょうてい》のみは京の三好党と同盟を結び、信長のさそいに応じそうになかった。
とまれ、そういう情勢である。
「まだか」
と義昭は言いつづけていたが、ついに信長の外交がほぼ目鼻がつき、義昭が岐阜へ動座できるようになったのは永禄十一年七月である。同月十三日に義昭は敦賀を出発し、北国街道を南下し、三日目には近江小谷城に入り、ここを中宿として数日、城主浅井長政から鄭《てい》重《ちょう》な饗応《きょうおう》を受けた。
近侍の細川兵部大輔藤孝も義昭に離れずに従っている。
岐阜の織田家からは、家老柴田勝家が出迎えの指揮官として小谷城にやってきていた。その勝家の補佐官として木下藤吉郎秀吉がおり、足利家への連絡官兼儀典係として明智光秀が来ている。
一日、細川藤孝は、幕臣の立場として盟友の光秀にそっときいた。
「信長の本音はどうだ」
ということである。
「本気だ」
と、光秀は内密な場だから友達言葉で答えた。
「織田家に仕えてみてやっとわかったことだが、あの上総介殿というのはどうやら常人ではない」
「というと?」
「すべてが本気だ、ということだ。こういう仁もめずらしい」
つまり、義昭をひきとる、となれば必死の勢いでその工作をする。朝倉義景のような儀礼的な態度ではない。本気だ、と光秀はいうのである。さらに義昭を上洛させるという、いまの情勢では、放れわざに近い至難のことも「本気で考えている」という。
光秀のいう「本気」というのは、
――目的にむかって無我夢中、
という意味らしい。
「諸事、そういうところがある」
勁烈《けいれつ》な目的意識をもった男で、自分のもつあらゆるものをその目的のために集中する、つまり「つねに本気でいる」男だ、と光秀はいった。
「女さえも」
と、光秀は生真面目《きまじめ》な表情でいった。
つまり閨《ねや》で女と寝ているときでさえも、戯《たわむ》れつつも本気《・・》でいる。本気とは子を生ませることを考えている。さらに生まれるであろうその子が女であればそれをどの方面の政略に用いるかということをさえ考えて閨で戯れている、といったような人物だというのである。
「ほう」
と、まず藤孝がおどろいたのは、いつも端正な顔つきをした光秀が、めずらしく男女の生《なま》な事柄《ことがら》を持ちだしたことであった。
「尾《び》籠《ろう》な例で、おそれ入る」
「いやいや、その例えで上総介殿というお人柄がよくわかる。ところで」
と、藤孝は声をひそめた。
「上総介殿はちかごろおかしな印を用いられているそうだな」
「いん《・・》とは?」
「これのことよ」
と、藤孝は、左の掌《てのひら》をひらき、そこへ印を捺《お》すまねをした。朱印、黒印のあの印のことである。「おかしな」と藤孝がいったのは、その印に彫られている文字のことらしい。
光秀はうなずき、
「天下布武」
といった。
「左様、その天下布武、――いや古来まれというべきみごとな印文であるが、これについておぬしはどう思う。なにか感想はないか」
「さあ」
光秀はさすがに批評をさしひかえた。
ちなみに、印に文字を彫って自分の理想を表現するということが、諸国の武将のあいだではやっている。ちかごろの流行である。
関東の覇《は》王《おう》ともいうべき小田原の北条氏康《うじやす》は「禄寿応穏《ろくじゅおうおん》」という印である。
意味は、「禄寿まさに穏やかなるべし」ということであろう。氏康は謙信、信玄にも比すべき名将とはいえ、北条家開運の雄早雲《そううん》からかぞえて三代目である。結局その理想は、父祖がひらいた家運をたもち天寿を全うする、といういわば無事平穏を祈るという心境にあるらしい。
みずからを軍神の申し子と心得ている上杉謙信の印は、把《は》手《しゅ》に獅子《しし》像をつけ、印文は、
「地帝妙」
の三字であった。地《・》蔵・帝《・》釈・妙《・》見、というインドの三神の文字を一字ずつとってその加護を願い、かつ信じている。宗教的性格のつよい謙信らしい印文である。
「とすると上総介(信長)殿は、天下を取ろうという野望をもっているわけだな」
と、藤孝はいった。当然なことでこんにちいかなる武将といえども天下の主になることを夢想せぬ者はいまい。が、それは夢想にとどまり、中国の毛利氏は中国を一歩も出ぬという保守主義を家法のようにしているし、関東の北条家も、領国の安全をのみねがい、天下取りに対する具体的動きは示さない。
はっきりとそれを持ち、その計画の基礎を着実にかためているのは甲斐の武田信玄ぐらいのものであろう。
「天下布武、とは驚いたな」
と、藤孝は言いかさねた。天下ニ武ヲ布《シ》ク、というのは征《せい》夷《い》大将軍のことではないか、つまり足利将軍のことではないか、具体的にいえば義昭こそその栄職につくべきひとであろう。
「となると、上総介殿は、陽《あらわ》には義昭様を将軍の位置につけると称していながら、内心、機を見て自分がその地位につこうとしているのではあるまいか」
とにかく幕臣としての細川藤孝にすれば、信長の親切はありがたいが、ひょっとすると虎《こ》狼《ろう》の心が隠されているのではあるまいかとそれのみが気になる。
「これは兵部大輔殿とも思われぬ」
と、光秀は笑いだした。藤孝が驚いたのは、この心配に光秀が同意してくれるかと思ったのだが、光秀は意外にも、
「男子とはそうあるべきものではないか」
といったのだ。
「ほう、あるべきもの《・・・・・・》か」
「左様、男の志とはそういうものだ。寸尺の地に住んでいても海内《かいだい》を呑《の》む気概がなければ男子とはいえまい」
「つまり足利家の天下であるべきこの日本国の武権を、信長が奪おうとするのがよいことだと十兵衛殿は言われるのか」
「気概だ」
光秀はいらだたしくいった。
「気概の表現なのだ、天下布武とは。――上総介殿が現実に足利家の世を奪おうとするわけではない」
「それならばよいが」
「いや、かえって私が驚いた。怜《れい》悧《り》な兵部大輔殿にも似気《にげ》なく、わけのわからぬことを申される」
「立場上、心配なのだ。この点、足利家の扶持をも頂戴《ちょうだい》している十兵衛殿もおなじはずであろうに」
「いかにも」
光秀はそのことには異存はない。
「しかし気概ということは諒《りょう》とされよ。私でさえこの世に生を享《う》けた以上、天下布武の気概をひそかに持っている」
「篤実《とくじつ》な十兵衛殿でさえも?」
と、藤孝はおよそ光秀らしからぬ気《き》焔《えん》を聞いて声を立てて笑いだした。
(笑え)
と、光秀は思ったが、その表情は相変らずつつましい。
美濃の西ノ庄(現岐阜市内)に立政寺《りゅうしょうじ》という寺がある。浄土宗の名刹《めいさつ》で、境内に開山《かいさん》智《ち》通《つう》の植えた桜があるところから俗に、
「桜寺」
とよばれている。
この岐阜郊外の寺が、越前から近江小谷を経てはるばるとやってきた足利義昭の仮御所にあてられた。
義昭の美濃入りの日は朝からの快晴で、城下のひとびとは、
「公方晴れじゃ」
と騒ぎ、この快晴を奇《き》瑞《ずい》のように言い囃《はや》した。なにしろ美濃の国に義昭ほどの貴人が来ること自体がほとんど奇跡的なことであり、人々はただそれを思うだけで常軌をうしなうほどに陽気になっていた。この田舎では、公方といえばほとんど神に近いような存在だった。
信長も例外ではない。
この朝、この男はいつものように暁闇《ぎょうあん》の刻限から馬場に出たが、一時間ばかりのあいだ、鞭《むち》をあげつづけてまるで狂気したように馬を駈《か》けまわらせた。
(公方が来る)
この一事が、信長ほどの不愛想者を、ここまでに奇妙にさせた。これほど弾みきったところをみると、この時期での信長は、やはり一介の田舎者であったにちがいない。
城下の者などは、
「公方様のお使い古しの御湯をなんとか手に入れる工夫はあるまいか」
と騒いでいた。公方が入浴したあとの湯を呑《の》むと諸病に効《き》くということを、正気で信じていた。
むろん信長は少年のころからはっきりと意識をもった唯物論者《ゆいぶつろんしゃ》だったから、そういう迷信は信じなかった。
が、うれしさには変わらない。
(おれも公方を招《よ》べるほどになった)
という充足感があった。
さらにかれを昂奮《こうふん》させていたものは、公方招待によって「美濃人は完全におれに心服することだろう」ということだった。占領後はじめて人心が落ちつく。
(上総介様はそれほどおえらいのか)
と美濃の士民はおもうはずであった。この快挙は、土岐家の時代も、道三の時代も、斎藤義竜《よしたつ》・竜興《たつおき》の時代もついになしとげられなかったことではないか。
信長は正午すぎ、大軍をひきいて関ケ原まで行き、義昭一行を迎えた。
さらに先駆して岐阜の西南郊に入り、立政寺に義昭を招じ入れた。
ついで、正式の拝謁《はいえつ》をすることになり、別室で室町風の礼装である大紋《だいもん》に着更《きが》えた。
「十兵衛はあるか、明智の」
と、信長は小姓たちに着更えを手伝わせながらせかせかと叫んだ。やがて光秀が参上した。
「教えろ」
と信長はいった。
癖で、言葉がみじかい。その信長の言葉癖を理解するにはよほど機転のきいた男か、よほど古くから近侍していなければわかるものではなかった。
光秀はとまどった。
たまたまそこに居合わせた木下藤吉郎秀吉が小声で光秀にささやき、
「拝謁の礼式をでござる」
と、たすけ舟を出してくれた。この藤吉郎という小者あがりの高級将校は、どういうわけか信長の叫び声が即座に理解できるようであった。
「十兵衛、聞こえぬか」
と、信長はもういらいらしていた。この光秀の場合のような一拍子《いちびょうし》も二拍子も遅い反応を、信長は相手がたれであれ、ひどくきらった。
「はっ、仕《つこ》う奉りまする」
と光秀もつい高声になり、大いそぎで拝謁の心得を言上した。
「客殿では殿様は公方様のあられますお座敷にずかずかとお入り遊ばしてはなりませぬ」
「わしはどこへすわるのだ」
信長は視線をまわし、細い目で光秀を見おろした。
「お廊下でござりまする」
「なんと?」
やや、険悪になった。光秀はあわてて、
「それが礼法でござりまする。公方様が入れと申されてもなお遠慮の体《てい》をお示し遊ばされよ。三度申されてはじめてお膝《ひざ》をそろりとにじり入れるのでござりまする」
「そろり《・・・》とか」
信長は光秀の口《くち》真似《まね》をした。もう機《き》嫌《げん》がなおっている証拠であった。
拝謁の儀がはじまった。
信長は諸事型破りな男だが、この場合はそういうところをいっさい出さなかった。卓抜した運動神経と勘のよさをもった男だけに、みごとな室町風の所作をやってのけた。
「織田上総介でござりまする」
と、義昭に近侍している細川藤孝が上段の義昭にむかって紹介した。
信長ははるかに下段にいる。
やがてやや膝を進めて、細川藤孝にまで献上品の目録をさしだした。
藤孝、かるく拝礼しそれを受けとる。この兵部大輔細川藤孝というほどの幕臣が、いま下座に平伏している信長の家来にやがてなろうとは双方思いもよらなかったであろう。
藤孝、上段へかるく頭をさげ、やがてその目録を読みあげた。
一、太刀一腰《ひとこし》、銘は国綱
一、馬いっぴき、蘆《あし》毛《げ》
一、鎧《よろい》二領
一、沈香《じんこう》一器
一、縮緬《ちりめん》百反
一、鳥目《ちょうもく》千貫
「殊勝である」
と、義昭は型どおりにいった。これが献上に対する礼言葉であった。こういう型は、義昭自身、あまり知らない。
なにしろほんの三年前まで奈良一乗院の貴族坊主であった男だ。公方としての作法は知らなかったが、こういう点は前日に、細川藤孝からいろいろ教えられている。その点、信長とあまりかわらない。
途中、義昭は型をやぶった。居たたまれなくなったのだ。
「上総介、いろいろの心づくし、感謝のことばもない。なかんずく、幕府再興のわが悲願を、さっそく諒解《りょうげ》してくれてありがたい」
さらにいった。
「そなたをわが家の守護神とも思うぞ」
この種の極端な表現は、義昭のくせであった。性格に根ざした癖なのであろう。
さらに言いかさねた。
「いつ、京にもどれる」
それがききたかった。二年さきか、三年さきか、とにかく期限をきめて待ちたい。
ところが信長は、義昭がのけぞるほどのことを、さらりと言ったのである。
「来月か、さ《・》来月には」
信長は平伏しながらいった。
「公方様を奉戴《ほうたい》していそぎ軍をおこし、道中の逆賊どもを蹴散《けち》らしつつ京にのぼり、京にあっては三好・松永の徒を討滅し、その首をはねて前将軍のお恨みを晴らし奉り、同時に公方様を征夷大将軍の御座にお誘い申すでありましょう」
「そ、そりゃ、まことか。――」
義昭は軽忽《けいこつ》な男だ。座からすべり落ちそうになるほどのよろこびを示した。
信長は、虚飾のことばをつらねたわけではない。本気であった。
この男が三万五千の大軍をひきい、義昭を奉じつつ西上を開始したのは、この年の九月である。
この無鉄砲さに、天下が戦慄《せんりつ》した。戦国の本格的な統一戦がはじまったのはこのときからといっていい。
上洛軍《じょうらくぐん》
光秀は織田家につかえてから、信長についてのさまざまなことを、朋輩《ほうばい》からきいた。
若いころの話も、である。
(変わったお人だ)
とおもうほかない。
もともと大名とか、大名の子というのは室町風の壮麗きわまりない儀飾と容儀のなかにいるものだ。家臣が拝謁《はいえつ》してもめったにものはいわないし、その日常についてはほんの一部の側近の者しか知らない。そういう仕組みになっている。
(が、あの仁はちがうらしい)
と、光秀はおもうのである。光秀の理解力ではとらえにくい、不可解なところが信長にはあった。
若いころ、堀田某の屋敷のまわりで領内津島村の盆踊りがあった。信長は女装して出掛けてゆき、踊りの群れのなかにまじってあざやかに踊ってみせ、みずから小鼓《こつづみ》もうった。
津島村の領民は大いによろこび、あとで踊り子の列を連《つら》ねて城下までゆき、お礼踊りをしてみせた。
信長は城からとび出してきて、
「あいつはうまい」
とか、
「こやつは、へただ」
とかいって、気むずかしい顔でいちいち批評した。顔つきは気むずかしいが、よほど楽しかったのであろう。
(それにしても、そのように軽々しい男が、諸国諸大名にいるだろうか)
と、光秀はおもうのである。
また光秀のきいた話では、ある夏、信長は古池のそばを通ったそうだ。
「この池には主がおります。大蛇《おろち》でございます」
と、土地の年寄り衆が説明した。信長は、こういう変《へん》化《げ》、亡霊、神霊、鬼神などに関する話をきくと、異常な関心を示す。
「左様なものはおらん」
というのが、この男の信念であった。かれはそういう「目に見えざるもの」というのをいっさい否定し、神仏も人間が作ったものだ、左様なものは無い、霊魂もない、「死ねば単に土に帰し、すべてが無くなるのだ。ただそれだけだ」という世にもめずらしい無神論をつねづね言っていた。
だから、この古池の主に興味をもち、実証してやる、と思い、
「池の水を掻《か》い出せ」
と命じた。村々が総動員して桶《おけ》で水を掻い出しはじめた。この場合池の堤を切れば水量は減るが、それでは田畑がたちまち水《みず》浸《づ》きになってしまう。このため、掻い出した水はいちいち遠くの川へ捨てにゆかねばならなかった。それでも信長はやらせた。徹底的な実証精神である。
ついに底まで掻い出せぬとわかると、信長はくるくると裸になり、刀を一本背にくくりつけて水音高く飛びこみ、水中で目をくわっとひらき、藻《も》をかきわけ、岩間を通りぬけ、底の底まで見確かめてやっとあがってきた。
「おらん」
これが信長という人物を成立せしめている基本的な精神であった。同時にこの男のやり方でもあった。
(これは心得ておかねばならない)
と光秀はおもったが、なにぶん、仕えにくい相手であった。およそ、普通人とは発想の場所からしてちがうのである。調子をあわせようと思っても、思いもよらぬ場所から信長は発想してくるようだし、その行動も常識的ではない。
常識ではない、といっても「非合理」という意味ではない。むしろ世間の常識、というもののほうが非合理なことが多い。たとえば神仏崇拝のことなどもそうである。見たこともない神仏を人間は信じ、畏《おそ》れている。これが常識というものであった。しかし信長はそうではなかった。徹底的な合理主義と実証精神をもっていた。
(それだけでも仕えにくい)
光秀はそう思うのである。光秀は、迷信家ではなかったが、神仏の崇敬者であった。神仏を崇敬する世間の慣習、常識をも尊重し、それに異をたてようとは思わない。
神仏
といえば、道三もそれを信じてはいなかったであろう。しかし妙覚寺の学生《がくしょう》あがりのあの人物は、神仏を巧みに利用した。自分に法《ほ》華経《けきょう》の功《く》力《りき》がそなわっていると人に信じさせ、それを信ずる人間の愚かさや弱さを利用した。
信長はあたまから無視している。光秀はすこしちがっていた。神仏に対し、道三のように不《ふ》逞《てい》ではなく、信長のように苛《か》烈《れつ》でもない。むしろ光秀は敬虔《けいけん》であった。
(自分とは根底からちがった人間らしい)
ということは、光秀にもわかった。
敬虔さ
というものが、信長にはうまれつき無いようであった。たとえば義昭に対してもそうであるかもしれない。
神仏に対する敬虔のない人間が、はたして天皇や将軍といった、それに近い尊貴の血に対して敬虔でありうるかどうか。
(ありえない)
光秀はそう思った。将来は、義昭を捨てるのではあるまいか。義昭はいまの信長にとって道具にすぎないのではなかろうか。
が、それにしても信長のみごとさは、この道具をあざやかに使いきったことであった。
信長は、上洛軍を発するについて、京都までの沿道の諸豪に対して、
「それがし僭越《せんえつ》ながら義昭様を奉じて京へのぼり、将軍の位におつけ奉る。私心はござらぬ。なにとぞこの微衷を汲《く》まれ、お力添えありたい」
と、外交の手を打った。
沿道最大の強豪である浅井氏に対しては、信長はみずからわずかの親衛隊をひきつれてその根拠地小谷城にゆき、妹婿《いもうとむこ》の浅井長政に面会し、
「ともどもに手をたずさえて上洛しようではないか」
と、将軍護衛に関する軍事同盟を結んだ。浅井家としては、事柄《ことがら》が義昭のことだからむろん異存はない。義昭の血統に対する神聖観は、若い長政でさえつよくもっていた。
余談だが、信長はじつのところ、自分の妹お市の婿であるこの浅井長政とこのときはじめて顔を合わせた。
長政は、大男である。戦略感覚にはとぼしいが、戦闘指揮官としては第一級の若大将であろう。
「このさい、信長殿を」
と、長政の謀臣である遠藤喜左衛門は耳うちした。城内で信長が酒食の馳《ち》走《そう》をうけているときである。
「刺殺なされては?」
と、喜左衛門はいった。長政は、馬鹿《ばか》をいえ、と一笑に付した。笑うと髭面《ひげづら》ながら愛嬌《あいきょう》のある顔になる男であった。
「お市の兄だ。出来ることか」
とにかく、浅井氏は、信長軍とともに上洛することに決した。
北近江はこれで片づいた。
南近江の山岳部も帰順している。この山岳部は、甲賀衆が群居していた。甲賀衆はむかしから将軍家に忠実だったし、それに甲賀衆筆頭の和田伊賀守惟政《これまさ》が、いまでは義昭のそばに仕えている。この惟政がみずから甲賀郷へ行ってかれらを帰服させた。
が、頑《がん》として信長の申し出をはねつけた者がある。南近江を領し、観音寺城を根拠地としている六角承禎《ろっかくじょうてい》であった。
「わしは義栄《よしひで》様以外に将軍はみとめぬ」
と、承禎はいった。
この男は、正しくは佐々木氏である。六角は通称であった。名は義賢《よしかた》といい、入道して承禎といった。源頼朝以来の近江の守護職で、この時代きっての名家である。
家老の浅井氏が、数代前に主家にそむき、自立して北近江の大名になった。六角承禎はいまは南近江を占有している。
「信長とは何者か」
と、この名家意識のつよい男は、織田家などを歯牙《しが》にもかけていなかった。第一、事情からいっても同盟ができるはずがない。六角承禎は早くから三好党と通謀し、三好党が奉《もう》戴《たい》する足利義栄を支持していたのである。
「わが領内を通りたければ、弓矢であいさつせよ」
と、織田家の使者をにべもなく追いかえしてしまった。使者は岐阜《ぎふ》へ帰り、承禎の言葉どおりに信長に報告した。
「承禎入道、そう申したか」
信長はあまり表情を変えない。ただこのとき声に変化があった。高く叫んだ。
信長が上洛軍をひきいて岐阜を進発したのは、この年、九月五日である。運命的にいえば信長が栄光への階段をひとあし踏み登ったというべきであろう。
織田軍は譜代の尾張兵を中心に、新《しん》付《ぷ》の美濃、伊勢衆を加え、さらに東方の同盟者である三《み》河《かわ》の徳川家康もその部将松平信一を代理に派遣して軍勢に加わらしめ、その総数三万五千にのぼった。
北近江を通過するとき、浅井長政の軍八千がこれに加わり、四万を越えた。
この四万が琵琶湖《びわこ》の東岸を南下し、数日のうちに六角方の十八個の城を将棋倒しに潰滅《かいめつ》させるというすさまじい進撃ぶりをみせ、最後に湖畔の観音寺城に対し、信長みずから陣頭で突撃して攻めつぶしてしまった。
承禎入道は城を出て奔《はし》り、甲賀から山伝いで伊賀にのがれ、頼朝以来の名家は、ほとんど瞬時に、といっていいほどのあっけなさでつぶれた。
(驚嘆すべきものだ)
と、軍中にある光秀はおもった。光秀も専門家である以上、この圧倒的戦勝におどろいたのではなかった。信長という人物を再認識する気になったのである。
(あの男は、勝てるまで準備をする)
ということに驚いた。
この進攻戦をはじめるまでに信長はあらゆる外交の手をつくして近隣の諸豪を静まらせておき、さらに同盟軍をふやし、ついには四万を越える大軍団を整えるまでに漕《こ》ぎつけてから、やっと足をあげている。
足をあげるや、疾風のごとく近江を席巻《せっけん》し、驚異的な戦勝をとげた。味方さえ、自軍の強さにぼう然とするほどであった。
(勝つのはあたりまえのことだ。信長は必ず勝てるというところまで条件をつみかさねて行っている。その我慢づよさ)
おどろくほかない。これが、あの桶狭《おけはざ》間《ま》のときに小部隊をひきい、風雨をついて今川軍を奇襲した信長とは思えない。
(信長は自分の先例を真似《まね》ない)
ということに光秀は感心した。常人のできることではなかった。普通なら、自分の若いころの奇功を誇り、その戦法がよいと思い、それを模倣し、百戦そのやり方でやりそうなものだが、信長というのはそうではなかった。
――桶狭間の奇功は、窮鼠《きゅうそ》たまたま猫《ねこ》を噛《か》んだにすぎない。
と、自分でもそれをよく知っているようであった。かれは自分の桶狭間での成功を、かれ自身がもっとも過小に評価していた。その後は、骨の髄からの合理主義精神で戦争というものをやりはじめた。この上洛作戦がいい例であった。
「戦さは敵より人数の倍以上という側が勝つ」
という、もっとも平凡な、素人《しろうと》が考える戦術思想の上に信長は立っていた。このことにじつは光秀はおどろいたのである。
(おれの考え方とはちがう)
と思った。光秀は戦術の玄人《くろうと》をもってみずから任じていた。戦術の玄人というのは寡《か》兵《へい》をもって大軍を破る、ということに、芸術的なほどの意慾をもっている。それでこそ戦術であり、素人とはちがう点であった。それができてこそ専門家といえるのではないか。光秀はそのことを専心研鑽《けんさん》し、古今の戦例をしらべ、古代中国の兵学書を読んだ。
(ところが信長は素人のやり方をやる)
(わからぬ男だ)
と、湖畔での宿営中、光秀は、弥平次光春にそっといった。
「六角承禎入道といえば、若いころから戦さの名人として知られた男だ。事実名人であった。だからこそ信長ごとき、とおもい、その使者を追いかえしたのだろう。承禎は自分が勝つと信じていたはずだ」
ところが負けた。
「妙なものさ」
承禎は玄人である。巧《こう》緻《ち》きわまりない戦術を立て、準備をし、諸陣を配置した。ふつうならここで芸術的な攻防戦が展開されるはずである。
が、信長のやり方はそんなものではない。洪水《こうずい》のようなものであった。待ち構えた承禎入道の諸陣をあっというまに押し流してしまった。承禎はその「芸」をつかう場もゆとりもなく泡《あわ》をくって伊賀へ奔った。
「これが軍法かね」
光秀にはふしぎでしかたがない。光秀は、承禎入道を弓矢の玄人だと思い、尊敬もしていた。なぜならば、かれの戦術思想は承禎の側に属している。そのほうの系統は承禎だけではなかった。信玄も謙信も、その系統のうちの巨大なものであろう。
(が、信長はちがうらしい)
そういう信長のやり方を認めれば、自分の戦術思想が古色蒼然《そうぜん》たる反故《ほご》に化してしまうからである。
しかしその信長が、洪水のごとく近江平野に押しよせ、すべてを押し流してしまったではないか。
現実は、信長の勝ちであった。
「芸がほろび、素人風のやり方がいい時代になったのかもしれない」
と、光秀は弥平次にいった。
信長は、岐阜出発後二十一日目で京に入った。信長は京に入る直前、光秀をよび、
「先鋒《せんぽう》となり、市中を安《あん》堵《ど》せしめよ」
と命じた。
先鋒、といっても、かんじんの敵である三好・松永の徒は、近江での惨敗におどろいて京を去り、摂津、河内、大和に退き、市中には一兵の敵影も見られないはずであった。この場合の光秀の役目は、いわば京都の治安司令官ともいうべき内容であろう。
が、とにかく、光秀は、都へ一番乗りに入りうる栄誉を与えられたのである。
(わが材をみとめられた)
と、光秀はおもった。事実、近江進攻戦でみせた光秀のあざやかな戦さぶり、その功は、抜群といってよかった。観音寺城の陥落については木下藤吉郎の奇略が功を奏しているため、これを武功第一とすれば、城攻めの先鋒で奮迅《ふんじん》した光秀はそれに次ぐものであった。
(光秀は、やる)
と、天才的な人物眼をもっていた信長はそう見抜いたのであろう。
光秀は、その隊をひきいて先発し、粟《あわ》田《た》口《ぐち》から三条河原を渡って王城の域内に入った。
光秀はすぐ弥平次をよび市中の各所に「濫《らん》妨停止《ぼうちょうじ》」の制札を立てしめた。信長の命によるものであった。信長は自軍の兵が市民の迷惑になることを病的なほどきらった。
制札の効はあった。
織田家の士卒は、信長の性格を知っている。軍令をみだせばどうなるかを、体で知っていた。みなこの制札に書かれた軍令をことごとくまもった。
信長は京の南郊の東《とう》寺《じ》に入り、足利義昭をとりあえず京の東郊の清水寺《きよみずでら》に入れた。
将軍宣《せん》下《げ》には、手続の日数が要る。その朝廷に対する交渉には、この方面に面識の多い細川藤孝が主としてあたり、和田惟政と光秀がそれをたすけた。いずれも永禄八年、奈良一乗院から義昭を脱走せしめて以来、風雪をともに凌《しの》ぎあってきた同志であった。
光秀は公卿《くげ》屋敷を歴訪しながら、その感慨をおさえることができない。
(よくぞ、ここまで漕ぎつけたものだ)
往時、幕府の再興を志して草莽《そうもう》の身ながら奔走していたころのことをおもうと、いまのこの急速にやってきた現実が夢のようにしか思われない。
京の人々
信長は、さほどの軍事的実力のない時期に天兵《てんぺい》の舞いおりるような唐突さで、義昭を奉じ、京にのぼり、軍政を布《し》いた。
すさまじい行動力である。
しかも、粗豪ではない。
その行動力には緻《ち》密《みつ》な計算と準備がほどこされていることを、織田家の帷《い》幕《ばく》にいる光秀はつぶさに知った。
(おどろくべき男だ)
とおもわざるをえない。
天下をとれる男だ、と光秀がおもったのはその上洛後の信長の態度である。
軍律が、峻烈《しゅんれつ》をきわめた。
たとえば、織田家の小者で某という者がおり、市中で物売りに乱暴した。
その態度がいかにも占領軍の威をかりた憎《にく》体《てい》のものであったので、通りかかった信長の馬廻《うままわ》りの士岩越藤蔵という者が、
「おのれ、殿のお顔に泥《どろ》をぬるやつ」
と、群衆の前でなぐりつけ、縄《なわ》をかけて信長の宿館の東寺につれて行った。
そのあとの信長の処置が、この男にしかできぬ率直さと、当意即妙な政治的配慮に富んだものであった。
「件《くだん》のやつを、門前の木にしばりつけい」
と命じた。
くだんのやつ《・・・・・・》は、あわれにも門前の大木に縛られ、生き曝《ざら》しになり、信長を訪問してくる都の貴顕紳士の目にことごとく触れた。
(さすがは織田殿)
と、都の知識階級も庶民も、たったこれだけの一事で、信長の人格に大きな信頼感をもった。
遠いむかしの木曾《きそ》義仲《よしなか》の例をひくまでもなく、都にきて乱暴をはたらいた占領軍で、ながく天下を保ったものはいないのである。
信長の行動は、そういう先例を知ってのうえかどうかは、光秀にもわからない。とにかく信長が、その軍律の峻厳さで非常な人気を得たことはたしかだし、その人気はやがては地方に流れ、尾張清洲の一土豪の子にうまれたこの男の印象を、大いによくすることに役立った。
天下を取ろうとするものは、これだけに手きびしい秩序感覚をもっていなければならない、ということを、光秀は知っていた。それが最も重要な資格のひとつであった。
(信長にはそれがある)
あるいは、天性のものかもしれない。とにかく昔から信長の織田軍というのは軍規が厳正で、織田軍だけでなく織田家の領民たちも罪を犯すということを、他領とはくらべものにならぬほど怖《おそ》れていた。かれらは、首領の信長がこわいのである。
かといって、織田家の刑罰が手きびしすぎるというようなことはなかった。ただ将士も領民も信長の性格をよく知っていた。
(ゆるみ、みだれ《・・・》がおきらい)
ということを、肌《はだ》身《み》で知っている。つまり信長はうまれつき、秩序感覚に鋭敏すぎるほどの性格なのであろう。
(――いや、信長こそは)
乱世を鎮《しず》めてあたらしい秩序を興すのにうってつけの人格かもしれぬ、と、光秀はみた。そういう人格の者をこそ、京の市民だけでなく、津々浦々が待ちこがれているのではあるまいか。
信長の上洛以来、信長の宿館には、祝賀に参上する都の人士で玄関が満ちあふれていた。
連《れん》歌師《がし》の紹巴《しょうは》もやってきた。この里村紹巴という日本第一の連歌師は、かつて尾張清洲城にあそびにきて、信長はよく知っている。
紹巴は、進物を献上した。扇子二本であった。扇子は末広といってめでたいものとされている。
むろん、連歌師のことだから、この二本の扇子に意味を託している。かん《・・》のいい信長はすぐ解き、
二《に》本《ほん》(日本)手に入る今日の悦《よろこ》び
と出吟した。次の句は、平伏している紹巴がつけねばならない。そこは玄人であった。笑顔をかしげながら、
「舞ひつゞる千代よろづ代の扇にて」
と申しあげた。
上段の信長は上機嫌《じょうきげん》で、ふむ、ふむ、と三度うなずいた。
祝賀にやってくる者は、連日、ひきもきらない。公卿、門跡《もんぜき》、神官だけでなく、町の医師や商人もやって来、職人なども、自分のこしらえたものを捧《ささ》げつつやってきた。
信長は、それらを面倒がらずにいちいち対面してやり、一人々々のそれぞれにあいさつをしてやった。
これが非常な評判になった。
「鬼神かと思うたが、存外じゃの」
と、京の町のひとびとはよろこびあいながらうわさをした。
ある日、この信長の宿館に、ひとりの老尼がやってきた。
「どなたでござる」
門前の番所で、織田家の家来が鄭重《ていちょう》にきいた。供に連れている侍女ふたりの衣装があまりに豪華なのと、男衆にかつがせている吊《つ》り台の上の献上品が立派なのとで、よほど門地の高い尼門跡《あまもんぜき》かなにかであろうとおもったのである。
「嵯峨《さが》の天竜寺のそばに住みます妙鴦《みょうおう》と申す尼でございます」
と、肥《ふと》り気味の老尼は色白の顔に微笑をうかべて答えた。
「妙鴦とはどういう文字で」
「妙とは妙法蓮華経《みょうほうれんげきょう》の妙。鴦とは、――左様、おしどり《・・・・》のことを鴛鴦《えんおう》と申しまするが、その鴛はおす《・・》のおしどり、鴦はめす《・・》のおしどり、そのめすのほうの鴦がわたしの鴦でございます」
「ほほう」
記帳している武士にはわからぬまま、吊りこまれるようにして笑った。この老尼のもっているふんいきがあかるく、その声に奏《かな》でるようなひびきがあるために、武士はおもわず楽しげな気持になったのであろう。
「かように」
と、老尼は武士に掌を出させ、わが指をもって、
「鴦」
とかいた。
武士は了解し、記帳をはじめたが、その陽《ひ》にやけた頬《ほお》のあたりにうずうずと微笑が渦《うず》をまいているのは、いまの掌の感触がこの武士の心を溶かしてしまったものらしい。
「して、御位《くらい》は?」
「位などはございませぬ。ただの町尼でございます」
「当織田家とのおゆかり《・・・》は?」
「べつに」
と、語尾をちょっと上げ気味にして、老尼はふくよかに笑った。
その姿を、ほんの七、八間はなれたところから明智十兵衛光秀がみていた。
(お万阿《まあ》様ではないか?)
が、その妙鴦という老尼は、番所からゆるされて門内に姿を消してしまった。
光秀は待った。
四《し》半刻《はんとき》ほどしてからその老尼は出てきた。
「あなたは、お万阿様では」
と、光秀は声をかけた。
お万阿は立ちどまり、光秀の顔をじっとみつめていたが、やがて微笑した。
「明智十兵衛光秀殿でございますな」
「その節は」
と、光秀はかつて嵯峨野のお万阿の庵《いおり》をたずねて行ったときの馳《ち》走《そう》の礼を言い、
「ここでは御無礼」
と言いつつ、お万阿を、光秀の借りあげている大きな民家へ案内した。
「そうでございましたか」
と、その後の光秀の変転をききおわったお万阿は、ゆっくりとうなずいた。
(美しさが、そのまま老いの清らかさになっている)
と、光秀は感嘆する思いでお万阿を見た。
「して今日は、わざわざの御参賀」
光秀はいった。
「どういうお気持にて?」
ときくと、お万阿は急に陽の翳《かげ》ったような表情になり、目をふせた。
「どうなされた」
光秀は、感受性の鋭敏な男だ。お万阿の心境がなんとなくわかるような気がした。
が、お万阿はそういう光秀の想像を裏切って、意外なことをいった。
「あまりにお天気がいいので」
――それで都に出たついでに参賀にやってきたのだという。
光秀は声を立てて笑った。
「うそでしょう」
「いいえ、うそではありませぬ。理由はうんとあるような気がするのですけど、一つ一つ理由をいおうとすると、そのほうがむしろう《・》そ《・》に思われて。まあお天気がよかったから、というほうが本当のような気がします。雨ならば出てきてはおりませんから」
「なるほど」
光秀はお万阿の顔を見つめつつ、思いを凝《こら》している。
(この女性は、夫の道三を語るにしても、山崎屋庄九郎は知っているが美濃の斎藤道三とやらは知らない、という言い方をする。見かけよりも心の屈折の複雑なお人らしい)
酒と菓子と鮨《すし》が出た。
お万阿は光秀の手ずから酒を注《つ》いでもらい何杯かかさねるうちにほろほろと酔ってきた。
「思えば」
と光秀はいった。
「織田家とお万阿様との縁というのは深い。上総介(信長)殿の御正室濃姫様は、お万阿様のご亭主のおたね《・・・》であられる。番所でそのように申されれば、一同うち驚いて、おあつかいも一変したでありましょうに」
「左様なことはわたくしとなんの関係もありませぬ。死んだ亭主は京の油商人で、ときどき美濃へ行っていた。それしか存じませぬ」
「おもしろい仁であった」
「まことに」
お万阿はうなずき、遠い目をした。
「京を出てはじめて美濃へ旅《・》に発《た》つとき、お万阿なんねん《・・・・》か待てやい、きっと将軍《くぼう》になって帰ってくる、と申しました」
「お万阿様、それを本気にして送り出したのでありますか」
「なんの、あのような奇態なおひとでございますもの。本気かうそか。しかしうそ《・・》はうそで命がけでいく人でございましたから、騙《だま》されているとわかっていても、それがえ《・》もいえず楽しゅうございました。あのような不思議な人は二度とこの世に出ませぬな」
「お万阿様もふしぎな方だ」
「それが」
と、お万阿は庄九郎のことを回想しているらしく、光秀の言葉も耳に入らぬようであった。
「それが、あの人はときどき風のように京に舞いもどってきてはわたくしを抱き、お万阿よ、いまに軍勢をひきいて京にのぼる、それまで待てやい、と申し、申し申し《・・・・》してとうとう一生をすごしてしまいました」
光秀は、うなだれて聴いている。
「あの人にすれば」
お万阿は、顔をわずかにそむけた。
「このたびの信長様のような美々しくも雄々しい上洛の姿を自分の夢に夢見ていたのでございましょう。それがあのひとにとって見果てぬ夢になってしまいました」
「それで」
光秀は顔をあげた。それで、信長の館まで祝いに参上なされたのか、といいたかったのである。
お万阿は敏感に光秀の言葉を感じてうなずいた。死んだ亭主が見果てなかった上洛の夢を、その娘婿《むすめむこ》がみごとにはたしたのを、お万阿は複雑な感傷をこめてよろこんだのであろう。
「上洛、上洛、と申していたことがこのことだったのか、というそのきらびやかな光景を、この目で見確かめたかったのでございます」
「なるほど」
「人の世は儚《はかの》うございますけれども、妙諦《みょうたい》深いものでございますな。お万阿などは、まるで山崎屋庄九郎という亭主の狂言を見物するためにうまれてきたようなものでございます。その狂言は、あの亭主殿が美濃の長《なが》良川《らか》畔《はん》とやらで亡《な》くなったあともこうして続いている」
「左様、道三殿が地上でもっとも目にかけられた男によって続けられている」
「信長殿のことですか」
「はい」
「光秀殿はいかがだったのです」
と、お万阿は光秀の顔をのぞきこんだ。この男ならば死んだ山崎屋庄九郎も、よほど目にかけたであろうと思ったのである。
「それがしなど」
光秀はかぶりを振り、自分のことを語ろうとしない。お万阿はそういう光秀を見つめていたが、やがて、
「なににしても、修《しゅ》羅《ら》道《どう》ですね」
と、かすかにいった。修羅道とは阿修羅道の略である。仏典でいう六種類の迷界――地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、――六趣のひとつである。修羅道には、自我のつよい、諸事にうたぐりぶかい人間がゆく。その世界には阿修羅という悪鬼が群れをなして住んでおり、阿修羅王が支配し、善神である梵《ぼん》天《てん》・帝釈《たいしゃく》と闘争してその闘争が永劫《えいごう》に絶えない。そういう世界が、死んだ亭主や信長、光秀の世界だとお万阿はいうのである。
「そうでしょうか」
光秀は不満だった。
「わたくしにとっては、この道以外に世の乱を救う菩薩行《ぼさつぎょう》はないと信じておりますが」
「信長様もそのように自分の道を思っていらっしゃいますか」
「だと信じますが」
くすっ、とお万阿は笑った。
「どうなされたのです」
「いいえ、お万阿もいずれは亭主殿の住む彼《ひ》岸《がん》に参ります。そのとき彼岸の河原で亭主殿とめぐり会い、浮世のころに会った信長殿や光秀殿のことをいろいろと物語しましょう。あのふたりは自分の道を菩薩行だと信じているらしい、と」
「道三殿は、どう申されるでしょう」
「わかりませぬ。あの人は修羅道のみに生きついに菩薩行の光明《こうみょう》に至らずじまいで世を終えたのですから」
お万阿はそのあと、二つ三つ物語してひきあげて行った。
(幾つなのか)
光秀は玄関まで見送りながらおもったが、見当もつかなかった。しかしあの老齢ではもう次に会うこともあるまいと思った。
信長はなるほど京にはのぼったが、長く滞在できるような情勢ではなかった。いずれ、事が片づきしだい、岐阜にもどらねばならなかった。
この間、信長は多忙だった。降伏してきた松永久秀をゆるし、一方、抵抗する山城《やましろ》、摂津の三好勢を掃蕩《そうとう》した。
摂津富田城《とんだじょう》で三好党に擁立されていた足利義栄は阿波《あわ》へのがれたが、ほどなく病死した。
松永久秀の降伏をゆるすことについては義昭に難色があった。
「上総介、かれは兄の義輝を弑《しい》した大逆人ではないか」
といったが、信長の目にはこの場合、順逆などはない。利害だけがあった。松永久秀は畿《き》内《ない》における有力な軍事勢力である。この男を敵にまわして討伐に手を焼くよりも、味方にしてむしろ討伐せしめたほうがはるかに有利であった。
「毒には使いかたがござる」
と信長は義昭に言い、当の松永久秀に対しては、
「大和一国を呉れてやる、斬《き》りとり次第にせよ」
と、一万人の兵を貸しあたえた。
摂津の諸城はばたばたと片づいた。空城《あきじろ》になった摂津芥川《あくたがわ》城は義昭付の甲賀郷士和田惟《これ》政《まさ》にあたえ、摂津伊丹城《いたみじょう》の伊丹親興《ちかおき》はかねて室町幕府復興の志のあった男だからよろこんで味方につき、摂津池田勝政は旗を巻いて降伏した。
また山城の長岡にある勝竜寺城は、かつては細川家代々の持城であったが、いまでは三好党の岩成主税助《いわなりちからのすけ》という牢人《ろうにん》あがりの男が占拠している。それを信長は攻め、岩成を降伏せしめてその城を以前の持ちぬしである幕臣細川藤孝にくれてやった。
光秀はこのとき、京都の市政を担当していたため山城勝竜寺城攻撃に参加できなかったが、その回復を、この友人のためによろこんだ。
山城の勝竜寺城は、現今の地理でいえば阪急電車向日町《むこうまち》付近にあり、こんにちその遺跡は竹藪《たけやぶ》になっている。城下の一帯を、せまい呼称では「長岡」とよび、ひろい呼称では「西ノ岡」という。偶然ながら、故道三の故郷である。
大願成就《たいがんじょうじゅ》
この年、永禄十一年。
京に冬をおもわせるような氷《ひ》雨《さめ》のふった十月十八日、流《る》浪《ろう》の武家貴族足利義昭は、信長の介添えによって将軍に任ぜられた。
御所でのその儀式の警固のために兵をひきいて堵《と》列《れつ》していた光秀は、
(わが半生にこれほどうれしい日がありえようとはおもわなかった)
と、涙がせきあげてきてとまらないのである。
(従《じゅ》四《し》位《いの》下《げ》に叙せられ、参議・左近衛権中将《さこんえごんのちゅうじょう》に任じ、征《せい》夷《い》大将軍に宣下さる、か)
光秀は、足利義昭があらたについた官位や官職を何度もつぶやき、つぶやくごとに感があらたにおこって、涙がにじんだ。
むこうから武装姿でやってきた織田家の高級将校木下藤吉郎秀吉が、
「おや、十兵衛殿」
と、光秀の顔をちょっとのぞきこみ、くすっと明るい微笑でわらった。
――なにを泣いてござる。
と、藤吉郎はからかいたかったのであろうが、光秀は藤吉郎のような当意即妙の諧謔《ユーモア》で応酬できるたちではなかったから、あわてて懐紙をとりだし、生まじめな顔で洟《はな》をかむ様子をした。このため藤吉郎は間がわるくなり、玉砂利をふんでむこうへ行ってしまった。
(あんな男にはわからぬ)
という気持が光秀にある。
(あの男には、志というものがない)
光秀はそのように藤吉郎をみていた。なるほどその場その時期での絶妙な才覚人であるにはちがいなかったが、人間としての遠大な志をもっている男とはみえなかった。
(人間としての値うちは、志を持っているかいないかにかかっている)
光秀はそのように思い、その点でみずからを大きく評価していた。
(おれはここ数年、牢人の境涯《きょうがい》ながら、足利幕府再興の大志をたて、諸国を歩き、風に梳《くしけず》り雨に浴《ゆあみ》し、ついにこんにち大願を成就し去った。この感慨は、きょうの盛儀を警固する織田家三万の軍兵《ぐんぴょう》のうち、おれだけが独り占めしているものだ。おれ以外にわかる者はいない)
一介の京都奉行としてこの盛儀を警戒している光秀などよりは、当の足利義昭のほうが、このよろこびは何倍か大きいことはたしかであった。
義昭は征夷大将軍になった以上、当然、頼朝以来の先例によって幕府をひらくことをゆるされる。義昭はそのつもりであったし、それがかれの夢でもあった。
この間、かれは仮御所を清水寺から本圀《ほんこく》寺《じ》に移していた。本圀寺は日蓮宗の京都における一本山である。
将軍宣下の翌日、義昭はその仮御所の本圀寺に信長をよび、うれしさのあまり、
「かように流寓《りゅうぐう》の身から征夷大将軍を相続できるようになったのは、すべてそのほうのおかげである。爾《じ》今《こん》、そのほうを父とよぶぞ」
といった。信長は義昭よりもわずか三つ上である。ほとんど同年配にちかい義昭から父とよばれることは、信長にすればどうも感覚的に奇妙な感じであった。
「これは恐れ入り奉る」
と、口ごもって迷惑そうにいった。信長にすれば義昭の有頂天なよろこびぶりについてゆけぬような気がする。
義昭は義昭で、自分のよろこびと感謝をどのように表現していいかわからなかった。考えたあげく、
「副将軍になってたもれ」
といった。
冗談ではなかった。信長にすれば、義昭のような素っ頓狂《とんきょう》な坊主あがりの小才子の家来になるために野戦攻城の苦労をかさねてきたわけではない。
(義昭は、かんちがいしている)
とおもわざるをえない。信長にすれば、天下の武家から尊崇されている義昭の「血」こそ尊重すべきであった。だからこそ苦心惨澹《さんたん》のあげくこの上洛を遂げ、義昭をしてその「血」にふさわしい征夷大将軍職につけたのである。
――されば幕府をひらく。
となると、これは別であった。幕府という古めかしい、中世の化けもののような統治機構をいま再現し、自分がその番頭になるというのは、なんともなっとくできない。
(義昭の血は大いに尊重し、利用もしたい。だからこそ将軍職にもつけた。しかし幕府はひらかせない。ひらくとすればそれはおれ自身だろう)
信長はばくぜんとそう思っている。この人物を動かしているものは、単なる権力慾や領土慾ではなく、中世的な混沌《こんとん》を打《だ》通《つう》してあたらしい統一国家をつくろうとする革命家的な慾望であった。革命家といえば信長の場合ほど明確な革命家があらわれた例は、日本史上、稀《まれ》といっていい。かれは、政治上の変革だけでなく、経済、宗教上の変革までばくぜんと意識していたし、そのある部分は着々と実現した。
が、義昭はちがう。
義昭は、中世的な最大の権威である「室町幕府の復興」ということのみに情熱をかけ、そのことにしか関心をもたない。この三十二歳の貴人はすでに生きながらの過去の亡霊であったが、信長は未来のみを考えている、しかもその考えはたれにも窺《うかが》えない一個の革命児であった。
思想があうはずがない。
が、いまのところ、たがいに利用価値があるという点で、握手が成立していた。そういう関係であることを、義昭はよろこびのあまり気づいていなかった。
(副将軍なら、躍りあがってよろこぶと思うたのに)
と、義昭は、信長の辞退の本意がわからなかった。よほど謙譲な男だろうとおもった。
「はて」
と、義昭は思案していたが、
「されば管領《かんれい》はどうじゃ」
弾んだ声でいった。管領というのは幕臣の最高の職である。のちの徳川幕府の職における大老とわずかに似ている。室町幕府の隆盛期にあっては、斯波《しば》、細川、畠山の三家が交替してこの職につくことになっていた。
「どうじゃ」
「いや、辞退し奉る」
と、信長は言上し、将軍側近の細川藤孝をさしまねいて、
「公《く》方《ぼう》はあのようにおおせられるが、信長には官職官位の野心はない。ただ天《あめ》が下《もと》、公方に仇《あだ》なす者を討ちたいらげることのみにわしの志はかかっている。公方に二度とそのようなお気遣いのないよう、とくと申しあげよ」
と、低声《こごえ》でいった。
藤孝は将軍の御座ちかくにすすみ寄り、信長のその意中をつたえた。
「なるほど」
義昭は感動し、大きくうなずいた。義昭は越前金ケ崎城で諸国の情勢をながめていたころ、信長のあまりにも策謀の多い性格に不安をもったことがあったが、聞くと見るとでは大ちがいであった。
(なんと謙虚なおとこだ)
と、おもった。
その日、信長が退出したあと、義昭は側近をよび、信長に対する優遇策を講じた。
「領土をあたえるか」
義昭は妙案のように叫んだ。このあたりが義昭のおかしなところであった。
(与えようにも、公方様には一尺の領地もないではないか)
と、側近筆頭の細川藤孝は、当惑するおもいでこの新将軍をあおぎ見た。
やはり中世の亡霊なのである。
むかしはなるほど将軍は天下の主《あるじ》であり、大名の配置転換もでき、また将軍家の直轄領《ちょっかつりょう》というものはあった。
が、それは百年まえのことだ。戦国乱世の世になってからは、諸国は強い者の斬《き》りとり次第になり、将軍領などというようなものは草の根をかきわけてさがしても、どこにもあろうはずがない。
(将軍になれば、そういう身分になったとおぼしめしている)
が、義昭はこの思いつきに有頂天になっていた。
「どうだ、よい案ではないか」
と言い、
「信長には京都付近の国を一国与えよう。近江、山城、摂津、和泉《いずみ》、河内、どれでもよいから望みの国を知行《ちぎょう》せよと申して参れ」
翌日、その使者に藤孝が立った。
(こまる)
と、このすぐれた常識家はおもうのである。
(こまったことだ。新公方様は幼少のころから僧院におられたゆえ、時勢というものがおわかりでないのではないか)
たとえば義昭のあげた国の一つを頂戴《ちょうだい》するにしても、義昭が斬りとるわけではない。信長が兵馬を動かして血みどろになって斬りとらねばならないのである。である以上、
――呉れてやる。
ということにはならない。
藤孝は、信長の宿館へゆき、その旨《むね》を言上した。
「国を?」
信長は、はたして妙な顔をした。藤孝はそれをみて、汗が出た。
「おそれ入り奉る」
と、柔和に藤孝は微笑した。
「公方様は、ながい僧房のお暮らしのすえ、俗世間にお出ましあそばされましたゆえ、いまひとつ、物事がおわかりあそばさぬところがございます」
「なるほど」
信長は、すばやくうなずいた。あまりの浮世ばなれしたお沙汰《さた》だから、さすがに怒りはしない。
「わかっている。そのお沙汰は御辞退申しあげたい、とそうお取次ぎ申せ」
「かしこまりましてござりまする」
「ところで」
と、信長はいった。
「それほどに、おおせくださるならば、無心申しあげたいことがある」
「とは?」
「堺《さかい》、大津、草津に代官を置くことをゆるされたい」
「それは」
お安い御用でござりまする、と藤孝はあやうく即答しかけたほどに、これは僅少《きんしょう》すぎる望みであった。
藤孝はさっそく公方仮御所にもどり、そのことを義昭に言上すると、義昭は小さな体を小刻みにゆすりながら、
「むろんそうさせるとも。それにしても彼《かれ》信長というのは、慾のすくない男よ」
と感心した。
この夕、光秀は、本圀寺の塔頭《たっちゅう》にある細川藤孝の宿陣をたずねた。
「いや、用はありませぬ」
と、光秀は供にもたせた干し魚と酒をもちこみ、藤孝に部屋を一つ空けさせ、ふたり水いらずの小宴を張った。
「上洛以来、たがいに兵馬の間を駈《か》けまわっていると語りあうことがなかった」
というのが、この小宴の目的である。
二人のふるい同志は、まず将軍家復興という大願成就を祝しあった。
「むかし、朽《くつ》木《き》谷《だに》の一穂《いっすい》の燈火のもとで語りあったとき、まさかかようにはやく将軍家が復興するとはおもわざりしことよ」
藤孝は言い、光秀の手をとり、
「貴殿のおかげだ」
といった。光秀はあわててかぶりをふり、自分はなにも功はなかった、と言い、
「貴殿をはじめ幕臣の方々のご努力による。いやいや、なによりも新将軍の御果報によるものだ」
といった。
「弾正忠《だんじょうちゅう》(信長の新しい官名)殿のおかげであることは申すまでもない」
「左様、それは申すまでもない」
と、光秀もうなずいた。このたびの快挙は信長の天才的な軍略、政略のたまものであることは、ふたりとも、驚きの気持をもってそれを感じている。
「ところで」
と、藤孝は、きょう信長は国を所望せず、三つの都会の管理をすることを所望したはなしをした。
「三つとは?」
「草津、大津、堺です。いったい、弾正忠殿にはどういうご意図があるのであろう」
「草津は」
これはわかる。近江草津の宿《しゅく》は、中山道《なかせんどう》と東海道の分岐点にあたっており、ここに代官所を設置しておくことは、岐阜の信長が京都を遠距離支配する上において、軍事上必要な処置であった。これは藤孝にもわかる。
「大津は?」
と、藤孝は光秀に感想をもとめた。
光秀は首をひねってしばらく考えていた。この光秀という男は、藤孝がこの世に生をうけて以来見つづけてきた人間のなかで群をぬいて秀抜な頭脳をもった男だが、ただ直感力の点ですぐれず、ずいぶん思慮をかさねるくせがあった。
やがて顔をあげたとき、光秀の顔はほとんど桃色といっていいほどに紅潮していた。
「大津には、物と銭《ぜに》があつまる」
琵琶湖の極南にあたるこの宿場は、湖港として知られている。湖上交通の要衝で、近江だけでなく若狭、越前などの北国、美濃などの東国の物資も、いったんはこの湖にうかび、ついには大津の湖港にあつまる。
(なるほど運上金(商品税)をとるためか)
と、光秀は、信長の着眼のよさにうめくおもいであった。
これはほとんど、天才的な着眼といえた。いま諸国に覇《は》をとなえている上杉謙信や武田信玄、北条氏康などにしても、すべてその経済的見識は農業にとどまっている。信長のように商業に目をつけるような感覚のもちぬしは、たれひとりない。
(信長の生国《しょうごく》の尾張が、熱《あつ》田《た》のあたりを中心に早くから商いがさかんだったせいでもあろう。それとも、商人《あきんど》あがりだった道三の影響なのかどうか)
大津の疑問が解ければ、堺はなお容易である。堺という海港はすでに中国大陸や東南アジア、遠くはヨーロッパにまで知られた日本の代表的港市である。
(米でしか勘定のできぬ大名とちがい、信長は金銭というものを知っている)
光秀は以上のような感想をのべると、藤孝はなるほどとうなずいた。
「風変りなお人ではある」
藤孝はまだ、その程度の理解力しか示さなかった。
信長は、義昭の将軍宣下から四日目に、参《さん》内《だい》をゆるされた。
むろん官位が卑《ひく》いため昇殿はゆるされなかったが、とにかく、御簾《みす》のむこうに天子がいるという距離にまで接近しえた光栄は、武将としてはざらに持ちうる栄誉ではない。
その参内をおわっての午後、義昭は本圀寺の館に信長をまねき、信長のために祝賀の宴を張った。
「めでたや」
と、義昭は言い、きょうの祝宴の趣向を信長に告げた。観《かん》世《ぜ》大夫《たゆう》をよんで能興行をするというのである。
「慶事の興行には、十三番の能をするのが吉例になっている。ゆるりと観《み》よ」
と義昭がいうと、信長はにがい顔で、
「まだ天下を平定したわけではありませぬ。諸国に諸豪がきそい立っているこんにち、わずかにこの平安京(京都)をおさえ得たというだけでは、なんの安心のたねにもなりませぬ。それに三好衆はわれらに追われて阿波へ逃げかえったとはいえ、虎視《こし》眈々《たんたん》と京都回復の機をねらっております。かようなことでよろこんで十三番の能を興行するなどは児戯に類しましょう。ただの五番で結構でござる」
といったため、興行の模様はにわかに変更され、数は五番のみにとどまった。
さらに興行中、義昭は上機嫌《じょうきげん》で、
「弾正忠は、鼓《つづみ》の名手であるそうな。ひとつ所望したい」
といってきたが、信長はさすがに義昭の軽《けい》忽《こつ》さについてゆけぬ気がしたのか、ひどく不機嫌そうに手をふった。
「できませぬ」
と答えたが、義昭はしつこくすすめた。信長はついに腹を立て、光秀をよび、
「出来ぬものは出来ぬといってこい」
と、粗暴な尾張言葉で、とって投げるようにいった。
これが、二十二日である。
二十五日には信長は義昭を京に残し、岐阜へ帰るべく大軍をひきいて京をあとにしてしまった。信長の在京は、わずか一ト月たらずであった。
「弾正忠は予を捨てるのか」
と義昭は、信長のこの急な決定におどろいて掻《か》きくどくようにいったが、信長はいったんきめたこの方針を変えなかった。
ただ、多少の留守部隊をのこした。
その留守部隊の将領は、木下藤吉郎をはじめ、佐久間信盛《のぶもり》、村井貞勝《さだかつ》、丹羽《にわ》長秀などで、その兵は五千であった。
光秀の身分は、これらの将領よりやや下に属する。光秀も残された。光秀に命ぜられた任務は、義昭の宿館本圀寺の直接警備であった。
――信長の留守を三好党が襲うのでは?
という不安が、たれの胸にもあったが、わずか二カ月足らずで、その疑惧《ぎぐ》が事実になってあらわれた。
正月五日、三好党がざっと一万の兵をもって、にわかに京に入り、本圀寺の義昭の館《やかた》を包囲したのである。
守備隊長の光秀は死守を決し、勇戦を開始した。
洛中合戦《らくちゅうかっせん》
「三好党の来襲」
という報をきいたとき、光秀は、本圀寺の境内の子院で臥《ふ》せていた。
寝床を蹴《け》って跳ねおきるなり、床の間の具足にむかって突進した。
(わが軍才をあらわすべきときだ)
という気負いこみが、光秀の手足、指のさきまで、ぴちぴちと支配している。
「男子の功業は、その手はじめが大事ぞ。みな死力をつくせ」
と、廊下に居ならぶ弥平次光春ら諸隊長に言い、それに的確な指示をあたえると、すぐ駈《か》け出させた。
織田軍にとって、不幸な時期にあたっている。信長はすでに主力軍をひきいて岐阜に帰ってしまっているし、京都警備のために残留した諸将も、堺、大津、山城勝竜寺、摂津芥《あくた》川《がわ》などの新占領地に散り、京都警備は光秀とその支配下にある二千の軍兵だけになっている。
しかしそれだけに、光秀の軍事的才能を発揮する絶好の機会といってよかった。もっとも負ければ死があるのみであろう。
光秀は大《おお》梯子《ばしご》を本堂に懸けさせ、するすると大屋根にのぼった。
満天に星がかがやいている。
その星数よりもおびただしいたいまつ《・・・・》が、寺のまわりに満ちみち、その後方ははるか桂《かつら》川《がわ》のあたりにおよんでいた。
(一万。――)
と光秀はみた。その一万の大軍に、すでに包囲されてしまっている。この包囲陣がちぢまって先方の攻撃が開始されるのはおそらく一時間後であろう。
そうみた。
(三好党もばかにならぬ)
いったん信長に京を追われたとはいえ、地から湧《わ》きあがったようにこうも隠密《おんみつ》裏《り》に京都南部を包囲するとはなみなみならぬ作戦指導者がいる証拠であろう。そのあまりのみごとさに、
「敵軍は松永弾正(久秀)によって指導されている」
といううわさが一時飛んだほどであった。が、これは訛《か》伝《でん》にすぎなかった。松永久秀は信長に降《くだ》ったあと、いまのところはおとなしく大和平定事業に従事している。そのほうが自分にとって得策である、と、この札つきの食わせ者は思っているようであった。
あとでわかったことだが、敵軍の指揮者は戦さ上手で知られた三好長閑《ちょうかん》であり、そのほかに三好日向守《ひゅうがのかみ》、三好下野守《しもつけのかみ》、篠原玄《しのはらげん》蕃《ぱ》、奈良左近といったこの当時天下にひびいた三好党の豪傑たちが指揮官として参加していた。
(目的は、義昭将軍を弑《しい》し奉らんという一事であろう)
と光秀はみた。敵の作戦の第一目標は全力をあげて義昭の居館であるこの本圀寺に突撃することにちがいない。義昭を殺してから京の占領作戦にかかるというのが、第二段階の行動であろう。
光秀は屋根から降り、大方丈の義昭の座所の濡《ぬ》れ縁に膝《ひざ》をついた。
膝をすすめて座敷に入ると、義昭はいらだって言った。
「光秀、どうなる」
「ご安心ありますように。あすいっぱいには撃退してお目にかけまする」
「二千の兵でか」
と義昭は、ゆとりのない声でいった。光秀は落ちついてうなずき、
「勝敗は兵の多寡《たか》にあらず」
「何にある」
「将の能力にあります」
と光秀がいつにない高調子で言いきると、義昭はさすがに安《あん》堵《ど》したらしく、
「さすが、光秀だ」
と、自分を奈良一乗院からすくい出してくれて以来の光秀のあざやかな働きぶりを思い出して、そういった。
光秀は、義昭の座所の濡れ縁を指揮所とし、つぎつぎに命令をくだした。
四《し》半刻《はんとき》ほどして捜索兵がぞくぞくともどってきて敵情の報告をした。
密使も、四方に走らせてある。まず、岐阜の信長のもとに。さらには近畿の各地に散在している織田軍の諸将にも……。
(後詰《ごづ》めはある)
ということが、光秀の作戦を樹《た》てやすくしていた。兵は五分の一とはいえ、この点だけが敵よりも有利であろう。
さて、作戦である。
――籠城《ろうじょう》策をとる。
というのが、この場合、ふつうにとられる戦術であった。この本圀寺の塀《へい》一枚、堀一《ひと》重《え》を防壁にしてふせぎにふせぐうちに近畿の各地から味方があつまってくる。
が、光秀はそれをとらなかった。この男の戦術は、常識を飛躍した。
(ぜひわが一手で武功をたてたい)
という躍起の気持のあらわれである。光秀は防戦側でありながら攻撃性をも加味しようとした。
二千の兵を三手に分け、本隊は自分が掌握して本圀寺の防衛につかう。他の二隊は外部にはなち、一隊は敵正面を攻撃し、一隊は迂《う》回《かい》して敵の背後をつかせようとするものであった。
背後を攻撃する遊撃隊の隊長は、弥平次光春である。この弥平次には、同時に山城勝竜寺城から救援にかけつけてくるであろう細川藤孝の軍との連絡の使命を負わしめた。
すでに、兵は動いた。
敵の銃撃戦がはじまったのは、夜明け前である。敵の一隊は壁ぎわ百メートルのところまでせまっていた。
光秀は、指揮所を、山門わきに組みあげられた急造の高櫓《たかやぐら》の上に移した。
「みな、振え」
と、何度か櫓の上からどなった。すさまじい声であった。この男の声は、顔に似あわず大きいらしい。
光秀のいる櫓の上には、明智家代々の陣のシルシである源氏の白地に土岐《とき》桔梗《ききょう》を染めた旗が暁闇《ぎょうあん》の風にひるがえっている。
寄せ手の連中は、
「やあ大将はあれにあるぞ」
と、あまりにも露呈しすぎている指揮官の位置になかばあきれつつ、弓、鉄砲の組をつぎつぎと進出させ、射撃を集中させた。
弾が、光秀の身辺に集中しはじめたが、この男はよほど豪胆にできているようだった。凝然として動かない。
「奥へおさがりあれ」
と、家来の者や与《よ》力《りき》の士が何度かどなったが、光秀はそれらに微笑で会釈《えしゃく》するだけだった。所沢《ところざわ》三助という者が、ついに光秀の具足の草摺《くさずり》をつかんで姿勢をひくくさせようとしたが、光秀はふりはらって、
「思うところがあるのだ。懸《け》念《ねん》するな」
といった。
光秀の思うところというのは、自分がこの門脇《もんわき》の高櫓にいるのはみずからをオトリにして敵の主力をここに集中させようとしているのである。敵の主力が集中すれば、そのなかには名ある部将級も当然いるであろう。それらを、光秀自身の射撃の腕をもって射《う》ちとり、将をうしなって崩れるところを開門して突きあげようというのが、かれの考えている構想だった。
「弾は、わしを避けてゆく。わしには弾も矢もあたらぬ」
と、所沢三助にいった。
(あたるかもしれぬ)
とも、光秀は内心おもっている。光秀は自分の天運というものを、この矢《や》弾《だま》のなかで考えようとしていた。
(おれには天運があるかないか)
天運というものほど大事なものはないであろう。光秀の願望は、この乱世のなかで自分を英雄として育ててゆくことであった。
はたして英雄になれるかどうか。英雄には当然ながら器量才幹が要る。それは自分に備わっていると光秀は信じている。しかし器量才幹だけでは英雄にはならぬものだ。運のよさが必要であった。天運が憑《つ》いているかどうか、ということでついにきまるものであると光秀は信じている。
であるのに、
(これしきの矢弾のなかに身を置いただけであたるようでは、この明智十兵衛光秀にもともと天運がない証拠である。その程度の自分ならばこの櫓の上で亡《ほろ》びよ)
とおもっていた。
さて、この門。
寺では唐門《とうもん》と称し、西に面して寺ではもっとも重要な門になっている。柱は巨材をつかい、門《もん》扉《ぴ》はあつく、このまま城門につかってもかまわぬほどの豪壮な建造物である。
ついでながら本圀寺は、日蓮宗の四大本山のひとつで、東西二町、南北六町、京でも有数の大寺である。おもな建造物だけでも、本堂、唐門、出仕門《しゅっしもん》、高麗門《こうらいもん》、庫裡《くり》、居間、対面所、書院、玄関、五重塔などあり、このまま平城として使えるほどのものであった。
さらに余談ながら、足利家の縁はふかい。足利尊氏《たかうじ》の叔父にあたる日静《にちじょう》が、尊氏の後援を得て建てたということになっており、その後、貿易ずきな足利義満《よしみつ》が高価な代償をもって朝鮮から買い入れた一切経《いっさいきょう》をこの寺に奉納している。当代義昭が、この本圀寺を臨時の居館としているのは、そういう因縁によるものだった。
(明けたな)
と光秀は、正面の西山連峰が藍色《あいいろ》の大気のなかに浮かびあがりはじめたのをみた。
本圀寺の南隣りは七条道場といわれる空《くう》也《や》念仏道場になっている。その塀ぎわまで敵が押し寄せてきたとき、光秀は無造作に鉄砲をかまえた。
この時代、士分一般はむろんのこと、一手の大将みずからが鉄砲をとるなどはありえぬことだが、光秀の場合は日本一の鉄砲の名手ということになっていたため、たれもそれを奇異にはおもわなかった。
(恰好《かっこう》な騎馬武者はおらぬか)
と光秀は眼下に展開している敵の隊列を見まわしたが、やがて銃をかまえると、さりげなく撃発した。
轟然《ごうぜん》と爆発音がおこり、白煙が光秀の体をつつんだ。弾は強薬《つよぐすり》に送られ、六十間を飛びわたって、敵の鉄砲足軽の大将をたおした。
「つぎ」
と、光秀は白煙のなかで手をのばした。かたわらではすでに装填《そうてん》をおわった銃をささげている者がある。光秀はそれをとった。
轟発し、つぎつぎに轟発しては敵の騎馬武者をたおした。
その間、門がひらかれ、光秀の旗本隊が槍《やり》の穂をそろえて突撃を開始した。
敵は崩れ立った。
そのとき、さきに光秀が放《はな》っておいた遊撃隊が敵の中軍の側面を突きくずしはじめた。
(やったり)
と光秀が胸中で叫んだとき、はるか敵の後方で砂《さ》塵《じん》があがり、弥平次光春の遊撃隊が敵に突入してゆくのが望見できた。
(弥平次は若いが、いくさはうまい)
とおもったのは、弥平次の隊のはるか背後に濛々《もうもう》たる砂塵があがっているのを光秀はみたからだ。勝竜寺からかけつけてきた細川藤孝の援軍にちがいなかった。弥平次は藤孝の援軍とうまく連繋《れんけい》をたもちつつその到着寸前に敵陣へ突入したのだろう。
やがて藤孝の隊も戦場に参加した。兵四百にすぎなかった。
相手は一万の大軍である。光秀、藤孝の隊がいかに駈けまわったところで、敵を混乱せしめても潰滅《かいめつ》させることはできない。
「半鐘《はんしょう》を打て」
と、光秀はいった。かねてうちあわせ済みの合図で、光秀が半鐘を打てば敵中にある遊撃隊は藤孝の隊もろとも本圀寺にひきあげることになっていた。
光秀の隊は、高櫓の上の光秀の合図どおりに動いた。敵中にありながら、水ぎわだった進退ぶりだった。その進退を光秀はじっと観察しながら、
(どうやら、わしのやり方が成功した)
とおもった。
兵の訓練のことである。この男は、この時代の指揮官としてはめずらしく兵の訓練に力をそそぎ、指揮のままに動くように士卒をしつけてきた。それがみごとに成功した。
(やがて明智の兵は強い、という評価を得るようになるだろう)
と光秀は眼下の戦場で整然と進退する明智隊をみながら将来に大きな希望をもった。
やがて光秀は諸隊を本圀寺に収容しおわったあと、櫓をおりた。
細川藤孝が、本堂の縁側でカブトをぬいで汗をぬぐっている。
「やあ、藤孝殿」
と光秀は、あゆみ寄った。
藤孝は微笑し、光秀のために、縁のほこりをはらった。
「痛み入る」
と、光秀は腰をおろし、すぐ作戦のうちあわせにとりかかった。光秀の見通しでは、正午までに味方は五千人にふえるだろうということであった。それら諸将が参集し次第、攻勢に出て敵を一挙に桂川へ追い落してしまいたいと光秀はいった。
「できるかな」
大男の藤孝はくびをひねった。
そのうち、北野天神から村井吉兵衛貞勝が兵五百をひきいて駈けつけ、摂津芥川城から和田惟政が兵四百をひきいて本圀寺に入った。
それら諸将が将軍義昭の御前にあつまり、作戦会議をひらいた。
「詮《せん》議《ぎ》の前に」
と、義昭は意外なことをいった。
「信長が来着するまでのあいだ、仮に光秀を大将とせよ」
みなおどろいた。当の光秀自身が唖《あ》然《ぜん》としたくらいであった。
(たれの細工か)
顔を見わたすと、義昭の側《そば》ちかくにいる細川藤孝の表情だけが冷静であった。
(なるほど、藤孝の智恵か)
光秀は察した。
藤孝が将軍にそう入れ智恵したのは適切だったといっていい。いま敵を迎えて諸将が無統制に行動したばあい、敗北は必至であろう。
(それにしてもこのわしを、仮の大将にえらぶとは)
光秀は、むしろ諸将の末席といってよかった。それを藤孝は将軍の権威を藉《か》りて軍令の中核にすえてくれたのである。
(持つべきは友だな)
と光秀はおもった。同時に、物事の調整者としての藤孝の才能を高く評価した。
光秀はすぐ作戦をたて、諸将を配置につかせ、機が熟するとともに攻勢に出て日没までに敵を桂川に押しつめ、大津方面から駈けつけた丹羽長秀の援軍を得て一挙に潰走させてしまった。
この変報を岐阜できいた信長がいそぎ京に入ったのは、事変発生後五日目の永禄十二年正月十日であった。
すぐ残敵を掃蕩《そうとう》し、乱しずまるや、論功行賞をおこない、光秀の武功を第一等とした。
光秀の織田家における位置は、この一戦をさかいに飛躍的に重くなったといっていい。
九つの蛤《はまぐり》
京の乱がひとまず落着《らくちゃく》したあと、光秀は信長という人物について考えた。
(無類な男《おの》子《こ》じゃ)
とおもわざるをえない。
なにしろ、京の本圀寺の将軍館が敵軍にかこまれているという変報が信長の岐阜城に入ったのは、正月の八日である。
「京にのぼるぞ」
と、信長は跳びあがるようにしていった。つねに織田軍は、出陣支度のまま平時も待機しているというのが特徴だったから、この一声はそのまま軍令となった。
が、この日、前夜来からすさまじい吹雪で、軍を出せるような天候ではない。野山は白一色に化し、街道も、膝《ひざ》を没するほどに積もっていた。
こういう場合、謙信や信玄でも、
(しばし京の戦況を見てから)
とひと思案して悪天候の回復を待つであろう。出兵するにしても部将を派遣するにちがいない。
この点、信長は風変りであった。桶狭《おけはざ》間《ま》以来、つねにかれは、彼みずから駈け出し、全軍の先登《せんとう》にあった。行動力のかたまりのような男といっていい。
すぐ甲冑《かっちゅう》を着け、その上から蓑《みの》を着た。玄関からとびだすと、馬が待っていた。
例の一声をあげたばかりだから、全軍の出発支度などはとてもできていない。
玄関で待っていたのは、わずかに旗本の衆十騎ほどと、信長自身の大将用の荷物を馬十頭に積んだ荷駄《にだ》部隊だけだった。
この信長の粗雑でないのは、その荷駄の様子を一頭ずつ点検しはじめたことである。
「その駄馬から荷を一つおろせ」
と、三頭目の馬を鞭《むち》でさした。
「おろした荷は、この駄馬に積め」
荷を、均等化させているのである。京までの雪中行軍に馬が耐えられるかどうかを、信長の目は、仔《し》細《さい》にみている。げんにこの猛速度の雪中行軍で、織田軍の他の荷駄隊がどんどんとりのこされ、近江《おうみ》路《じ》で数人の人夫が凍死した。
信長はむち《・・》をあげて雪の天地にとびだし、駈けに駈けて京に入ったのは、なんと二日後であった。岐阜・京都間は、好天の日でも三日の行程である。
逢坂山《おうさかやま》を越えて京に入ると雪が雨にかわりはじめた。このとき信長に従う者はわずかに十騎でしかなく、その全軍が到着したのは、まる一日たってからである。
(神速というのは信長のためにある言葉か)
と光秀はおもった。
乱後、光秀は信長に拝謁《はいえつ》し、
「これも将軍《くぼう》さまにお館《やかた》がなきため」
と将軍館の建設方を具申した。むろんこれは光秀のみの発案《はつあん》ではなく、信長も早くからそう考えていた。
光秀はこういう場合、言葉づかいが入念で行きとどきすぎている。
「早う、物を言え」
と、信長がいらいらするほどであった。
光秀のいうのは、将軍館をつくることと、皇居を大修復することが織田家の権威を天下にあげる道である、ということであった。
「それも、急務でござりまする。この二つをいそぎなされば、天下の英雄豪傑より一歩先んじることに相成りましょう」
将軍と天子という、日本における二大権威を回復することによって、信長は「それらの次なる者」という位置を天下に印象づけることになるであろうというのが光秀の論旨であった。
「心得ている」
信長は、光秀の入念な物言いにいらだちながらも、そういう教養と感覚を身につけた光秀の存在をこのましくおもっていた。
(権六《ごんろく》らに無いところだ)
筆頭家老の柴田勝家のことである。柴田だけでなく、林、佐久間といった「織田家の三老」といわれた譜代の重臣たちがもたぬ感覚であった。三老以下の部将連中も、野戦攻城の豪傑衆ばかりで、かれらのなかには、文字の書けぬ者さえあり「天子とはなにか」といわれても即答できぬ者もあった。
「将軍の新館をどこへつくる」
と、信長はいった。つねにこの男は具体的なことを要求した。
そこは、光秀は心得ている。用意の京都絵図をとり出して信長の前にひろげた。畳二枚ほどもある大きなものであった。
「ここが」
と、光秀はそのなかの一地点をさした。そこだけ四角い空白になっている。
前将軍義輝の「二条ノ御所」といわれた場所である。永禄八年、三好・松永のために義輝が攻め殺されたとき、この御所も焼け、以来、焼けあとになっている。そこは、くわしい町名でいえば、烏丸《からすま》通り丸《まる》太《た》町《まち》上ルということになる。
「そこだ」
と、信長はいった。その一言で、将軍館の新築の一件はきまった。
信長は、この将軍の屋敷を、前時代よりも壮麗なものにしたいとおもった。なぜならば将軍こそ乱世の秩序を回復する政治的中心だとみたからである。
(雄大華麗な将軍館を建てれば、天下の人心はおちつく)
この建築は乱世の鎮静剤としての効用はあるであろう。信長は将軍に対しても、その程度の実用価値しかみとめていない。この点、宋学《そうがく》をまなんだ光秀は皇室や将軍という存在に対してひどく思想的であった。
(が、目的が適《あ》えばそれでいい)
そのように光秀はおもっていた。光秀と信長の皇室、将軍に対する態度は、いま形の上では完全に合致している。
合致しているどころか、実利以外の幻影的な観念をみとめぬ信長のほうが、行動者としてよりすさまじかった。光秀がたとえいま信長の位置にあっても、信長ほどの行動能力をもたなかったであろう。
「わしが総奉行になる」
と、信長はいった。みずから室町御所(将軍館)の建設長官を買って出たのである。その実務的な奉行には、村井民《みん》部《ぶ》と島田新之助がついた。
信長はまず既存の敷地を、東に北に一町ずつ拡張し、そのまわりにあった真正極楽寺や民家を取りはらわせた。敷地のまわりに堀を掘りまわし、その周囲を二丈五尺の高さの石《いし》垣《がき》でかこんだ。
これに必要な人夫は、尾張、美濃、伊勢、近江、伊賀、若狭《わかさ》、山城《やましろ》、丹《たん》波《ば》、摂津、河内《かわち》、和泉《いずみ》、播《はり》磨《ま》から徴募し、およそ二万人にのぼった。
「二カ月でやれ」
というのが、信長の至上命令であった。その工事現場をみたポルトガルの宣教師は、
「これだけの宮殿をつくるには、われわれのヨーロッパなら、どれだけの金が要るかわからない。ところが日本では労働力がおどろくばかりに廉《やす》く、人夫たちは、一日六、七合の米さえやればいくらでも集まってくる」
と、妙な点に感心した。
信長は突貫工事のために思いきった便法もやってのけた。
石垣の石は、普通なら摂津の山々から切り出したり、瀬戸内海の島々から運ばねばならないが、
「手ぬるい」
と信長はみた。村井、島田の両奉行に対し、
「石などは、その辺の寺を駈けまわって石仏《いしぼとけ》をもってこい。割って、石垣に積みあげよ」
信長にとって、石仏は単に石でしかなく、仏とは認めていなかった。かれは死後の世界などについても「霊魂などはない」と断定し、神仏の存在などは否定していた。それを濃厚にみとめている古典的教養人である光秀よりも信長のほうが、思想人としてははるかに革命的な存在であるといえる。
(石仏を)
と光秀はにがにがしくおもい、そういう信長の物の考え方に危険を感じた。石仏の権威をみとめないとすれば、やがては将軍の権威をみとめなくなるのではないか。
(こわい男だ)
と光秀はおもう。光秀は仏教という思想美にあこがれをもっている男である。仏教の宗教的権威を尊崇する男でもあった。ひょっとすると光秀は、光秀自身気づいていない点かもしれないが、旧来のすべての権威を尊崇したい性格にうまれついているのかもしれない。
むろん信長は、光秀の心痛などとんじゃくもしていない。
城内の建造物についてもそうであった。あらたに建てるよりも、その辺の大寺の玄関とか、書院とかを解体して運んでくるほうが早い。信長はそれをやってのけた。むろん、将軍自身の居住区や儀礼をする建物は新築したが、そうでない部分はどんどん既存のものを運んできた。
(無茶だ)
と光秀はおもうが、信長にすればこうでもしなければ二カ月でこれだけの大宮殿は建たないであろう。信長にとっていま必要なことはできるだけ早く将軍の御所を建て、天下の鎮静剤たらしめることであった。それが必要であるとすれば信長は鞭《むち》をあげて驀進《ばくしん》するおとこである。
庭が要る、となれば、
「どこぞで庭をさがして来い」
と命じた。慈照寺(銀閣寺)の庭がいいというので、それをひっぱがして普《ふ》請《しん》現場に運んで来させた。
むろん、庭石は一、二の寺だけでは足りそうにない。これを感じとったのは、幕臣として普請現場を手伝っている細川藤孝であった。藤孝は、武勇、政略、文雅という三つの才能を過不足なく持ちあわせている、いわば絵にかいたような器量人である。
(信長とは懇意になっておきたい)
と以前からおもっていたし、現に光秀を通じ、つねづね藤孝らしい温和な方法で信長に必要以上の接近をしていた。
「それがしの旧邸に大石があるが」
と、ある日、光秀にいった。細川藤孝の旧邸というのは、むかしから京における代表的な武家屋敷として知られているものである。
その庭に「藤戸石」と名づけられている小山のように大きな庭石がある。藤孝はそれをこんどの普請に寄付するという。
「申しあげてはくれまいか」
と藤孝がいうので光秀はそのとおりのことを信長に言上した。
「運べ」
信長は言い、それだけではなく近習《きんじゅう》数騎をつれ、馬を駆ってみずから藤孝の旧邸へ乗りこんで、その「小山ほどもある」という庭石をみた。こういう物に珍しがる性格は少年のころからのものであり、それをこの目でたしかめたいという異常なばかりの実証精神も、少年のころからのものであった。
その巍々《ぎぎ》とした大石をみると、
「なるほど、小山のようだ」
と感心し、すぐ運搬の手はずをとらせた。
だけではなかった。信長はこの石の大きさに感心したあげく、運搬の指揮までとった。
(風変りな男だ)
と容儀を重んずる光秀にはそういう信長が理解できない。大将たる者としてはかるがるしすぎはしまいか。
信長は少年のころから祭礼がすきでたまらぬ男である。この石の運搬を祭礼にしようと思い、まず石を綾錦《あやにしき》でつつませた。それを二月に咲くあらゆる花で飾った。
さらに何本もの大綱をつけ、綱は紅白の布で装飾し、自分の部将や京の富商などに曳《ひ》かせた。光秀も曳かされた。藤孝もむろん曳いた。
藤戸石が通る道には丸太を敷きならべてある。その上を石はすべってゆく。
その運搬に景気をつけるために、信長は四、五十人の笛、太鼓の連中をあつめて、石の前後で囃《はや》させた。
(ばかばかしい)
と光秀はおもったが、この珍妙な石運びは京の市中で爆発的な人気をよんだ。市民にとってここ数百年来にない観《み》物《もの》であるかもしれなかった。
「さすがは織田様、とほうもないことをなさる」
といって、洛外《らくがい》の愛宕《おたぎ》や桂《かつら》あたりからさえ人がやってきて見物の衆は十万を越え、そのために人死《ひとじに》が出るという騒ぎになった。それらの者どもが、
(これで泰平がきたのではないか)
と、ふと錯覚をおぼえたりした。そういう社会心理まで信長は計算したのではなく、この場合信長は、かれがやりたいことをやっているにすぎなかった。こういう点、信長自身があたらしい時代を創造する性格としてうまれついていたとみるしか仕方がないであろう。
余談ながら、信長が創造したこの巨石運びの新様式は、のちに秀吉もまねをし、さらにのちに加藤清正が徳川家の名古屋城普請を手つだったときに用いている。
とにかく工事はおどろくほどの早さですすんだ。
「これだけの工事なら、四、五年はかかる」
とポルトガルの宣教師ルイス・フロイスさえ踏んでいたのに、二カ月目にはほぼ完成に近くなった。この普請の記録的なはやさが、信長の能力を神秘的にさえ世間に印象づけた。
工事は、信長自身が、現場の監督にさえ立った。かれ一流のやり方であった。
白刃《はくじん》をぬいて、現場を歩きまわった。作業軍規の厳粛こそ、信長のもっともつよく要求するところだった。
ある日、信長が石段をおりつつ、広大な工事現場を見はるかしていると、一人の小者が通行中の若い婦人をからかっているのがみえた。小者は、その婦人のそばに戯れ寄り、被《かつ》衣《ぎ》をあげて顔をみようとした。
小者は、不幸であった。
信長はすでに石段をとびおり、小者のそばまで駈け寄ってきている。大喝《だいかつ》するなり、その小者の首を刎《は》ねた。小者の首は、被衣をあげて相好《そうごう》をくずしたその卑《ひ》猥《わい》な笑顔のまま、宙にとんだ。
信長は無言で現場を去っている。
この男の治安と秩序に対する強烈な態度がこの行動にもあらわれていた。
かれは、京都市中に充満している織田家の軍勢に対し、
「一銭切《いっせんぎり》」
という刑罰を布告していた。市中で市民からたとえ一銭を盗んでも斬《き》る、という類のない刑罰である。この場合この刑罰令どおりを、信長みずから実行したにすぎない。
ついに四月に入って、室町御所は完成し、同月十四日、将軍義昭は本圀寺の仮ずまいをきりあげ、このあたらしい御所に移った。
光秀はその日から、御所警備の隊長として昼夜の警戒にあたることになった。
ある朝、まだ暁闇《ぎょうあん》のころに御所のまわりを巡視していると、門前に妙な物品がおきならべられているのを発見した。
蛤《はまぐり》の殻《から》である。
九つあった。九つとも殻がすこしずつ欠けていた。
(なんだろう)
と光秀はひろわせ、思案した。たれかのいたずらであることはたしかだった。京都人は内々辛辣《しんらつ》だときいている。この九つの欠け蛤はなにか、将軍か信長に対する批評だと光秀はみた。
(九つの貝。九《く》貝《がい》。……)
と反芻《はんすう》しているうちに、公《く》界《がい》の意味だとわかってきた。くがい《・・・》というのはこの当時よく使われた言葉で、公《おおやけ》、公式な場所、世間、世間体《てい》といった意味につかわれる。
「公界者」
といえば、世間に出してはずかしくない立派な男、という意味である。
(そのくがい《・・・》が欠けている)
となれば、公界者の反対のことである。要するに、
「甲《か》斐性《いしょう》なし」
という意味であろう。とすれば、このあたらしい御所のぬしになった新将軍義昭のことであるらしい。
――いまの将軍は馬鹿《ばか》で、自分の住宅もひとに建ててもらっている。
という批評であろう。
光秀はそう解くと、これをどう始末したものかとおもった。やはり信長に報告せざるをえまい。あまり気がすすまなかったが、この日、信長に報告した。
光秀の重い口から解説をききおわると、信長ははじけるように笑いだした。
「そのとおりだ」
あとはなにもいわなかった。
葉桜
将軍義昭は、その館を信長に普請してもらっている間、退屈だった。鷹《たか》狩《が》りをしたりして日をすごしていたが、女がほしくなった。
「いい女がほしい」
と、光秀にいった。光秀は、法的には幕臣でもあり織田家の家臣でもあるという関係上、ほとんど毎日のように仮御所に伺《し》候《こう》していた。
「それは」
と、当惑した。むりもなかった。光秀ほど自分を一個の英雄とおもっている漢《おとこ》はすくない。女の世話などは、他のお側衆《そばしゅう》にやらせればよいのだ、という肚《はら》がある。
(おれを、どう思召しているのであろう)
牢人《ろうにん》あがりの分際であるため、つい便利使いしようというのであろうか。かつて光秀は流亡の将軍のために身を挺《てい》して奔走し、ときには義昭の身をまもるために白刃をふるって敵を斬ったこともある。所詮《しょせん》は、そういう用心棒程度にしか自分を評価していてくれぬのであろうか。
(おれの価値を、この人は卑《ひく》く見ている)
そうとしか思えない。光秀は元来、そういうことに過敏すぎるほどの神経のもちぬしである。
「女衆のことは、光秀にはわかりませぬ」
というと、義昭はどう勘ちがいしたか、薄い唇《くちびる》を裂けるほどにひらいて笑い、
「そちは、妻女を大切にするあまり、遊女とも寝ぬそうじゃな」
といってからかった。光秀が無類の堅物という評判は、織田家の家中にもある。
「女はきらいか」
「好きでござりまする。しかし多数の妻妾《さいしょう》をもち、それを手なずけて奥を穏便にしてゆく器量はこの光秀にはござりませぬ。されば苦手なことをせぬように心掛けておりまする」
「そちほどの豪傑にも似合わぬことだ」
義昭は言いすてて光秀を退出させ、そのあと、直臣の細川藤孝をよんで同じことを命じた。
「はい。……」
藤孝は考えこんでいる。この思慮ぶかい男はつねに即答をさけるのが癖だった。
(将軍《くぼう》様も、貪慾《どんよく》な)
とおもった。女に対してである。
義昭は、少年のころから頭を剃《そ》られて寺に入れられ、長く一乗院門跡《もんぜき》をしていた。女人を禁断した生活のなかで成人している。
しかし流浪中、髪の伸びはじめのころから、その慾が貪婪《どんらん》になり、転々と居所をかえる暮らしのなかで、その地その地の女を召しては伽《とぎ》させた。ときに人妻をさえ所望して、その亭主の地侍から、
「流浪人のくせに」
と罵《ば》倒《とう》をされ、あやうく所を追われそうになったことさえある。ながい禁断の暮らしのあげく人の世に出てきたために、この種の慾がとめどもなくなったのであろう。
京に入って将軍の職についてからも、侍女はほとんど手をつけていた。が、義昭にはもともと艶福《えんぷく》がないのであろう。女どもは藤孝の目からみてもろくな者がいなかった。
「おかしなものよ」
義昭も、そのことをいった。
「わしはながく僧房にいた。そのため女をみる目が曇っていたらしい。いま世に出て将軍の職についた。つくと同時に、隙《すき》間《ま》風《かぜ》が脇腹《わきばら》に吹く」
「いまのご境遇にご満足なさらぬというわけでござりますな」
「満足はしている。しかしこの位置にふさわしいものが幾つか欠けている」
そのもっとも大きな欠け《・・》は、武家の頭領としての権力をもたぬということであった。ついで、
「女よ」
といった。むろん、正夫人のことではなかった。正夫人は、義昭の位置に適《かな》うような家《いえ》柄《がら》から、いずれは選んで来なくてはならない。
「だから、いい女がほしい」
その女は、美人であることが第一条件である。ついで家柄も要る。才気も要る。なぜならば雑多な女をかかえている義昭の後宮《こうきゅう》を取り締まってゆかねばならないからである。正夫人をもたぬ足利将軍家の私生活面の主婦たるべき者が必要であった。
「なるほど」
藤孝は利口にも私見をさしはさむことなく、しきりにうなずいている。
が、腹の中ではそうではない。
(その程度の選びを、自分ではできぬのか)
という思いがある。義昭への失望といってよかった。藤孝はこの公方の兄の故義輝につかえてきたが、義輝はなにごとも自分でできる男であった。剣を学んでも精妙の域に達し、その亡《ほろ》びるときも、手ずから何人の敵を斬ったか数えることができないほどである。
(乱世の将軍はそうあるべきだ)
と藤孝も思い、だからこそ義輝を慕い、同情し、義輝のために幕府再興の運動をすべく必死に奔走した。
(兄君とは、ずいぶんお品《ひん》のさがることだ)
思いつつ、結局は義昭の命令を婉曲《えんきょく》にことわった。
そのあと、藤孝はさすがにやりきれなくなり、家来に酒をもたせて光秀の陣所に訪ねた。光秀以外、この苦情がわかってもらえる相手はない。
「われらは、艱難辛《かんなんしん》苦《く》をともにして室町将軍家の再興に奔走した。いま再興の事は成った。しかしあの公方様では」
と、藤孝は酔いがまわるにつれ、声に涙が帯びてきた。義昭への思いやりで涙を催したのではなく、自分の青春をささげた相手が、あまりにもその位置にふさわしくない人物であったことがなげかわしいのである。
「光秀殿は、どう思われる」
「左様さな」
光秀は、口が重い。かれも「将軍家の再興」という点では自分の情熱をそそぎ入れた甲斐《かい》があったとおもっているが、当の義昭については、
(こまったお人)
とおもうほかない。頭がよくて、しかも人間が軽躁《けいそう》すぎるのである。将軍の位置につく者としてこれほどの不適格者はない。
「将軍というものは、よほどの器量人か、よほどの阿《あ》呆《ほう》の君でなければつとまらぬ職だ。その中間はない」
光秀や藤孝の憂《うれ》えるところは、いまのままの義昭ではいずれその地位を追われるか、殺されるか、どちらかであろう。むろん、義昭を将軍の座につけた信長によってである。
「そのときにわれらはこまる」
と、藤孝も光秀もおもうのである。立場上、足利家と織田家のあいだで板ばさみにならざるをえないであろう。
「まだ、あなたはいい」
と、光秀はいった。藤孝は、素《す》のままの幕臣であって光秀のように織田家と掛けもちしているわけではないからである。
「私など、将軍家からも御扶持《おふち》を頂戴《ちょうだい》し、織田家からも知行地をもらい、双方の侍帳に名をのせている者にとっては、万一のことがあればどうにもならぬ」
「私の立場も、かわらない」
藤孝はいった。藤孝は信長から扶持こそもらっていないが、信長の武力によって先祖代々の居城である勝竜寺城をとりもどしてもらい、そこの城主にさせてもらっているのである。事実上の信長の外《と》様《ざま》大名といってもいいほどである。
義昭は、他の者に命じ、いまの自分にふさわしい側室をさがさせ、それを得た。
お慶という女である。
出身は、播州《ばんしゅう》(兵庫県)であった。この播州から備前(岡山県)にかけて版《はん》図《と》をもっている大名に、浦上氏というのがある。
その被《ひ》官《かん》で、播州での名門といわれた宇野氏が、お慶の家門であった。ふるい家柄の娘だけに、お慶は、音曲、詩《しい》歌《か》の素養がゆたかで、この点でも、田舎女ばかりを抱いてきた義昭をよろこばせた。
「わしは、女にはじめて接したぞ」
と、お慶との最初の閨《ねや》で義昭は言い、まるで王朝のころの青《あお》公卿《くげ》が、想《おも》い女《め》のところへ忍んで行ったように、夜が白むまで物語をした。女の教養は、相手をさえ得れば、その魅力を増すために重要なはたらきをするものなのであろう。
義昭に教養があるというわけではない。すくなくとも教養へのあこがれはあった。その必要もあった。かれは今後、武官の最高職の者として公卿とつきあってゆかねばならなかった。公卿の会話は古歌や中国の故事をふまえたものが多く、もしそれを解せなければ、それだけでかれらからあざけりを買う。
「側室にはいい女を」
と、かれが光秀や藤孝にいったのは、義昭なりに理由はあったのである。いい女とは単に美人というだけではないということを、武人としては稀有《けう》な知識人であるはずのかれら二人が、どういうわけか理解してくれなかっただけのことだ。
毎夜、閨をともにした。
このお慶がのちに官位を得て足利将軍家の上臈《じょうろう》の局《つぼね》になるにいたるのだが、これはここでは関係がない。
お慶がこの館《やかた》にきて五日ほど経《た》った夜から、義昭の閨中《けいちゅう》での様子がかわった。
少年のようにお慶にあまえるようになったのである。閨中での義昭には、将軍の威厳というものがまるでなかった。
(どういうわけだろう)
と、十九歳のお慶が、この三十三歳の武門の皇帝ともいうべき男をふしぎに思った。
(自分が頼りに思われている)
ということがうれしくもあったが、返答にこまることがあった。
「男というものは油断がならぬ。女のそちのみが頼りである」
ということを言いだしたのは、信長がつくってくれた新館に移って三日目のことである。
むろん、隣室の宿直《とのい》にきこえぬよう、お慶の耳たぶに唇《くちびる》をつけての囁《ささや》きであった。
「そちのみが、頼りじゃ」
と、もう一度いった。義昭という人物は奇妙な男で、この言葉がよほど好きらしい。女のお慶だけでなく、信長にも、鬚《ひげ》っ面《つら》の武田信玄にも、男色家の上杉謙信にも、書面で書き送ったことがある。武力で自立できぬ義昭の境遇からすれば、この言葉をささやくことが唯一《ゆいいつ》の処世法だったのだろう。
信長に対しては、信長が将軍の職につけてくれた去年の十月十八日、御所からさがってきてから、
「そのほうの恩は生々代々《しょうじょうよよ》、わしは忘れぬ。そのほうを父ともおもうぞ」
といって自分の感動をそういう最大級のことばで表現した。そういう性格なのである。言葉だけでなく、公文書にも私信にも、
「父、織田弾正忠殿」
と書いた。信長はこのころ、従《じゅ》五《ご》位《いの》下《げ》弾正忠を朝廷からもらっていた。
(父か)
信長はこのとき、そうつぶやくような顔つきでくすぐったそうにしていたのみであった。義昭はまばらな口ひげがはえている。信長よりわずかに三つ年下だけなのである。その男から、
「父」
と甘えられては、信長も、応対する顔つきにこまったであろう。
ところが、その「父」とよんだ日からまだ半年しか経っていない。
「信長めは、魂胆が知れぬ」
と、義昭は新館の閨でお慶に言いはじめたのである。お慶も内心おどろいた。
「おれを、飾り物にしている」
義昭はいった。これは事実であった。信長は義昭を将軍にはしたが、幕府をひらかせようとはしないのである。
「征夷大将軍は幕府をひらくことになっている。天下の将軍にしては幕府をもたぬというようなことは、人にして顔を持たぬようなものだ」
幕府をひらくことが、義昭ののぞみであった。義昭は単に将軍になるだけのつもりで、いままであくせくと苦しい流《る》浪《ろう》をつづけてきたわけではなかった。将軍という名誉職だけがほしいのなら、以前の奈良一乗院の門跡だけでも十分栄職であった。義昭のやっかいな点は、幕府という権力機関がほしいということである。
信長にすれば、
(なにをたわけたことを)
ということであろう。権力をとるには、それだけの武力がなければならず、それだけの武力をつくるには、天下に蟠踞《ばんきょ》している英雄豪傑を平らげてからでなければならなかった。この点になると、義昭は没落貴族特有の、夢と現実の区別がどうにもわからぬような頭の構造になっているらしい。
「信長は、おれの権威を利用するだけが魂胆の男であるらしい」
「でも、弾正忠(信長)殿は、上様のおためにこれほどの御館をおつくりあそばしましたのに」
「そなたは信長の密偵《みってい》か」
義昭は本気で顔をこわばらせ、お慶の顔をのぞきこんだ。
「いいえ、そのような」
「そうであろう。そなたのような優しい女《もの》が密偵であろうはずがない」
「上様は、お疑りぶかいおたち《・・》でござりまするな」
お慶は、肌《はだ》をまかせきっている貴人に、きわどい批評をこころみた。むろん重要な意味をもたせていったのではなく、ごく刺《し》戟《げき》的な睦言《むつごと》のひとつだったにすぎない。
「言うわ」
義昭は、からりと笑った。こういう他愛《たわい》もない一言《ひとこと》にも、お慶なればこそ才気があらわれていると、この世間知らずな、僧侶《そうりょ》あがりの新将軍はおもうのである。
「いずれ、信長を見返してやらねばならぬ」
「と申されますのは?」
お慶は、まだ天下の政治情勢というものがよくわからない。
「世には、信長以上の者がいる。甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信がそうだ。かれらは成りあがり者の信長とちがい、将軍というものを心から尊崇している」
「それで?」
「かれらに手紙を出す。使いを出す。されば上洛《じょうらく》してくる。信長などは、半日一日で追いはらわれるにちがいない」
(そんなものか)
お慶はおもった。義昭の閨中での気《き》焔《えん》をきいていると、天下の事はことごとく義昭の掌《たなごころ》のうえでころがっているような気がしてきた。
「みな、犬さ」
義昭はいった。
「強い犬もあれば弱い犬もある。どの犬をひっぱってくるにせよ、その選択権はわしにある」
という意味のことを、義昭はくどくどとお慶に言ってきかせた。自慢のようでもあり泣きごとのようでもある不思議な口《く》説《ぜつ》だった。
その信長は……。つねにいそがしい男であった。新しい将軍館ができあがると、もう、
「岐阜へ帰ります」
と言いだしていた。いつものことながら、奇妙な男であった。京にながく居ることを怖《おそ》れるがごとくであった。
事実、信長はいそがしい。根拠地の尾張から伊勢海ひとつ隔ててむこうの伊勢をこの男は攻略中であった。
「やはり、帰るのか」
と、義昭は、ほとんど涙声で叫んだのは、信長が暇乞《いとまご》いにやってきた日のことである。義昭が新居にうつってから、わずか七日しか経っていない。
「都の花も済んだが、葉桜もまたひとしおの風《ふ》情《ぜい》というのに、もう馬を返すのか」
「葉桜」
信長は、義昭の顔を穴のあくほどに見つめた。景色を見物するために信長は京にのぼってきたのではない。ここ半年の間、信長は雪中行軍をし、三好党の侵入軍を蹴《け》ちらし、義昭の新館を築城し、一人三役ほどのいそがしさで動きまわった。
「いまから伊勢征伐でござる」
信長はさっさと御前を辞した。その体《てい》をみて義昭は、
(なにか気にさわったのか)
と思い、あわてて信長のあとを追った。将軍の姿ではなかった。
義昭は、信長を門前まで出て見送った。信長は一礼し、馬上の人になった。
ふりかえると、義昭の両眼にあふれるような涙がたまっている。「父」との別離を悲しんでいるようであった。
義昭は別れを惜しみ、そのまま門外にたたずみ、信長の軍列が粟《あわ》田《た》口《ぐち》のほうへまがってゆくまで見送った。
この惜別の姿の異常さも、義昭の本心であった。信長が去ることによって当然、京は空白になる。これをねらって、ふたたび京を窺《うかが》う者が押しよせて来ぬかと義昭は不安でたまらぬのである。
そういう義昭の姿を、京都警備隊長の光秀は、一種の哀《かな》しみを帯びた目でみつめていた。この哀しみは、ながい流浪のあいだの同志であった藤孝以外にわからぬであろう。
秀吉
ここに、一大事がある。
光秀は、信長が京を去る数日前、
(お留守中の京都守護職には自分が任命されるのであろうな)
という期待が、脳裏を去来していた。
(なりたい)
とおもう念が、光秀にはつよい。
当然でもあった。光秀の名はすでに京で知らぬ者はなく、公卿や将軍、それをとりまく京の貴人たちは、
「明智殿ほどこころよいお人はない。武人に似あわず、典礼にあかるく文雅に深く、物腰は閑雅で、まるで京育ちのようである。田舎武士の織田の家中としては貴重な存在であろう」
と、評判は鳴るようによかった。評判のよいことは、ながい不遇のなかにあった光秀にとってうれしからぬことではない。
せっせと公卿、幕臣とのあいだの社交につとめ、信長の勢力が自然にこの王城の土壌に根をおろすよう努力しつづけていた。京都の社交界における織田家のもっとも華麗な外交官のつもりで光秀はふるまった。
(おかしなやつだ)
と、敏感な信長はそういう光秀の動きを、じっとみていたが、口には出さない。
(あれはあれでいい)
ともおもっている。儀礼社会への外交官のつもりで光秀を召しかかえたわけであったし、その能力と軍事的才能を買って抜擢《ばってき》につぐ抜擢を信長はこころみてきた。が、信長はどうも、光秀のそういう動きを、
――でかした。
と膝《ひざ》をたたいて賞《ほ》めあげる気もしないのである。
(ああいう手の男は好かぬ)
という感情が、どこか心の奥底にある。信長の好きな型は、からりとして性格の粗野ながらも実直で律《りち》義《ぎ》な武《ぶ》辺者肌《へんしゃはだ》の男なのである。
もともと世の儀礼や教養に反抗し、腰のまわりに礫《つぶて》を詰めた袋などをいっぱいぶらさげて歩いていた信長である。長じても、その種の型の人間が好きになるはずがない。
――いやなやつだ。
とまでは光秀を思わなかったが、しかし光秀のいかにも教養ありげな顔だち、言葉つき、物腰をみると、さほど愉快ではなかった。
さて、京都守護職の件である。
「当然、光秀殿がなられるのであろう」
と公卿や幕臣たちはうわさしていた。
かれら京都人は不安でもあった。信長が留守中、また何がおこるかもしれない。
光秀なら軍事能力は卓抜だし、それに気心もわかっていてつきあいやすくもある。
「ぜひ、光秀殿に」
と祈るようにそれを望んでいたし、光秀自身にも、
「貴殿がなられるわけでありますな」
と、露骨に念をおす者もあった。
「いやいやすべて弾正忠様のご意中に存すること」
光秀はとりあわなかったが、こうまで期待されてしまうと、もし任命されなかった場合いちじるしく男を下げることにもなる。
(どうすべきか)
光秀はずいぶん考えたが、これはもう、売りこむ以外にないと思った。
まだ信長在洛《ざいらく》中のある日、将軍義昭に内謁《ないえつ》を乞《こ》い、
「余の儀ではござりませぬが」
と、その京都守護職人選の一件をきり出した。義昭の口を通して信長に言ってもらおうとおもったのである。
猟官運動ともいうべきものだが、この時代の武士にはそれほどの意識はなく、
「自分こそその職にふさわしい。だから任命されるのは当然である」
という、比較的からりとした習慣がある。
「いや、どうせそちを信長は任命するであろう」
義昭も、ごく自然にいった。しかし、光秀はなおも、
「ぜひお一言、お口添えを賜わりますれば」
と押したので義昭もその気になり、信長が新館に登営《とうえい》した日、
「あとの留守のことだが」
と、信長にきりだした。
「ぜひ、最高官を一人選んでもらいたい。それには武骨一辺の男ではこまる。文武兼備の男こそのぞましい。とすれば、明智光秀こそ然《しか》るかとおもうが、どうであろう」
「…………」
信長は、沈黙した。自分の家の人事に介入されたくないという気持がある。まして「飾り物」であるべき将軍に、そういう権能をもたせ、そういう前例をつくってしまえば、あとあと始末にこまることがでてくる。
「それは、しかるべく」
――考慮したい、という言葉はのど《・・》奥に呑《の》みこみ、信長は多少不機《ふき》嫌《げん》そうに御前を退出した。
じつは、このことは、昨日、朝廷からも久《く》我《が》大《だい》納《な》言《ごん》を通して、
「王城守護の任に堪えうる者を留《とど》めよ」
という勅諚《ちょくじょう》をもらっている。信長はそれを考慮しつづけていた。
(光秀はなるほど適材である)
と、信長もおもっている。信長は、人間の才能を見ぬく点では、ほとんど神にちかいほどの能力をもっていた。
(光秀を残せば、将軍や公家《くげ》はよろこぶであろう)
とも思っていた。しかし信長にすれば、かれらを単に悦《よろこ》ばせるために京都守護職をおくのではないとも思っている。織田家の威武、威権をかれらに示さなければならない。
(それには、光秀はふさわしくない)
なぜならば、あまりにも彼は京都人士に密着し愛されすぎているからである。愛されすぎては、
「威権」
ということが立たない。
場合によっては、京都に可愛《かわい》がられすぎる存在は、信長にとって危険であった。鎌倉幕府をひらいた頼朝《よりとも》が、京都に駐留している弟義経《よしつね》があまりにも朝廷に愛されすぎ、朝廷に密着しすぎたことを嫉《しっ》妬《と》し、猜《さい》疑《ぎ》し、
(ひょっとすると、京都の権威のとりこになって謀《む》反《ほん》をおこすのではないか)
と観察し、ついに断定して義経を駆逐する決意をもった。この場合、頼朝の立場と、信長の立場はおなじである。
(京都には、いっそ木強漢《ぼっきょうかん》を置く必要がある)
と信長は考えた。
かといって、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀といった連中はふさわしくない。みな織田家譜代の重臣で、戦場では猛勇果敢な軍人どもだが、かれらが京で軍政をやれば事ごとに京都人士の反感を買い、ついには人心は織田家を離れてしまうであろう。
(剛と柔を兼ねそなえた者といえば)
至難な人選であるが、ただひとり適任の者はいる。その名はすでに信長の意中にある。
信長は京都を離れる二日前「その名」を久我大納言を経て禁《きん》裡《り》に言上《ごんじょう》し、さらに信長みずから将軍館に伺《し》候《こう》して義昭に拝謁《はいえつ》し、
「それがしの代官を、相決めました」
といった。義昭は身を乗りだした。
「たれじゃ」
「木下藤吉郎秀吉と申す者でござる」
義昭はあっという表情をみせ、
「これは意外な。きくところによれば木下藤吉郎秀吉というそちの侍大将は氏も素姓《すじょう》もなく、卒《そつ》伍《ご》のなかよりあがった無学な武士であるという。左様な人物が、京都守護とは意外な」
「ご不服でござるか」
「いや」
義昭は、酢をのんだような顔で沈黙している。自分や天子の身辺をまもるべき役目に、まるで見当もつかぬ男がつくというのは、不愉快でもあり、気味がわるくもあった。
「木下藤吉郎の腕前は、この信長、シカと存じておる」
信長は敬語を用いず、ぴしゃりといった。自分の人事権に介入するな、という語気が、言外にある。
「さればこそ命じ申した。以後、藤吉郎京都に在《あ》るは、なおこの信長の京都にあるがごとし。左様お心得召されよ」
そのまま、退出してしまっている。
光秀はこの座に陪席して、この意外な発表を信長そのひとの声できいた。
(藤吉郎か)
思いもよらぬ人選である。
織田家の譜代家老である柴田、丹羽、林、佐久間のいずれかならば光秀は、
(やはり門閥か)
と、人選の理由をなっとくしたであろう。
しかし信長というのは門閥主義でなく人材主義の男である。そこが光秀が信長に感じつづけている魅力であったし、現に、そういう新気風の織田家であればこそ、新参者の光秀や草履取りあがりの秀吉でさえ、ときには家老職なみの重い役目につかされてきている。
(藤吉郎とはのう)
光秀は、信長がなにを考えているのか、わからなくなった。
光秀は、藤吉郎の軍才、機略は卓抜なものとしてみとめている。しかし、それでも自分以上だとは思っていない。
(まして儀典のことはなにも知るまい)
そのうえ、光秀は、藤吉郎の性格を、あまり好もしいものとは思っていなかった。
道や殿中ですれちがっても、藤吉郎は顔いっぱいで笑い、持ち前の大声で、
「やあ十兵衛殿、よい天気じゃな」
と闊達《かったつ》に声をかけてくるが、光秀はいつも物静かに会釈《えしゃく》をかえすだけで済ませている。
(闊達は無智のせいだ)
無教養な男ほどおそろしいものはないと光秀はおもっていた。藤吉郎が、主人信長の意を迎えることの機敏さ、ぬけめなさ、さらにはぬけぬけとしたお追従《ついしょう》、それらも、無教養な者のみがもっている強さというものであろう。光秀にはとても真似《まね》はできない。
(あの男が)
やはり信長ほどの男でも追従ということは必要か、と光秀はおもった。
この日、宿陣にもどってから弥平次光春をよび、酒の相手をさせた。
「不快なことがあった」
と、この話をした。秀吉が京都守護の最高官で、光秀と村井貞勝が、その補佐ということになった、というのである。
「お槙《まき》をよびたいな」
光秀は、別なことをいった。妻女のお槙は岐阜の城下にいる。
「わしはすこし疲れた」
光秀は、虚《こ》空《くう》に目をやった。京都に入って以来、軍事に市政に日夜奔走し、神経を休め得た日というのがない。
そのうえ、光秀は他の武将のようにその地その地で女を得るということができないたちであった。かつて諸国遊行《ゆぎょう》中近江《おうみ》の朽《くつ》木《き》谷《だに》で村の娘と一夜を共にしたという一事をのぞいては、お槙のほかにほとんど女というものを知らない。
「よびたい」
と光秀は杯を唇許《くちもと》にあてながら呟《つぶや》いた。
お槙の肌、においまでが、光秀の脳裏にうかんでくるようである。
「左様なご無理をおおせられますな」
弥平次はいった。武将にとって、妻子を主家の城下に置くのは一種の法習慣である。反逆はせぬ、という誓いのしるしであり、その人質という意味でもある。
「殿は、お固くるしい」
弥平次は、若々しい顔をほころばせ、ことさらに高声をたてて笑った。光秀の気分を、なんとか晴らそうというのであろう。
「女は、京にもおるではありませぬか」
「遊女が、か」
「左様、遊女でござりまする。家中の諸将、物頭《ものがしら》は、陣所陣所に浮《う》かれ女《め》をよび、ずいぶんに面白《おもしろ》おかしそうでござりまするぞ」
「遊女は、いやだ」
「時にとって薬でございます。お疲れもほぐれ、お気持も晴れましょう」
そういえば、光秀のこの陰気さや神経の高ぶりは、久しく女に接していないことにもよるのであろう。
このため、光秀の家来たちも気詰りであった。主人が女遊びをしないため、物頭格の者まで遠慮し、さらに下々にまで及んで、どことなく常に重苦しい。
「桔梗紋《ききょうもん》(光秀の紋)の陣屋は、戦さには強いが、平素、陣屋の前を通ってもどことなく暗い」
といわれていた。からっと躁《はしゃ》ぐところがないのである。このせいか、ときに足軽同士が剣をぬきあってすさまじい大喧《おおげん》嘩《か》をするのもきまって「桔梗紋の陣屋」であった。
「殿、わたくしがよき女《もの》をお連れして参りましょうか」
と弥平次はこの機会にすすめた。弥平次は明智家の気分を一新させるのは、光秀が気軽に女遊びをしてくれるほかにないと思っている。
「いかがでございましょう」
「結構だが、またのことにする」
光秀は、酔ってきた。深く酔えば、お槙を恋う気持もすこしはまぎれることを光秀は知っている。
その翌々日、信長は京を去った。
信長が京を去ると同時に、その留守居の代官である木下藤吉郎の職務がはじまる。
藤吉郎は、信長の隊列を粟田口まで見送ったあと、京へひきかえし、
(さて、室町殿へゆくか)
と馬を二条へすすめた。室町殿とは将軍館の通称である。
藤吉郎はあらたに就任した、
京都守護職
の資格で登営し、将軍家執事の上野中務少《うえのなかつかさしょう》輔《ゆう》をよび出し、
「将軍様に拝謁したい」
と申し出た。藤吉郎一個が、一個の資格で拝謁するのはこれが最初である。この拝謁ねがいは、ひとつには京都守護職という職のうれしさを味わってみたかったのであろう。
「しばらく」
と、幕臣上野中務少輔は藤吉郎を待たせておき、義昭に内意をきいた。
「ならぬ」
義昭は、光秀が選ばれなかったこの人事に不愉快であった。素姓も知れぬ木下藤吉郎などに、いま会いたくもない。
それに藤吉郎にもの《・・》を教えてやるつもりでもあった。
「あの下郎あがりは、将軍のなんたるかを知らぬのであろう。将軍の拝謁には先例格式があり、だしぬけの拝謁はできぬものだ。そのようにとくと教えてやれ」
と、義昭は執事にいった。
執事上野中務少輔は藤吉郎のもとにもどり、そのとおりのことを言い、
「追って日を定めて、なにぶんのお沙汰《さた》があるであろう」
と、いった。
それをきくなり、藤吉郎はすかさずいった。
「そのお言葉は、中務殿のご意見か、それとも将軍家のお言葉であるのか」
とほうもない大声である。
「申されよ、仔《し》細《さい》によってはこの藤吉郎、そのままではおきませぬぞ」
藤吉郎は、智恵ぶかい男だ。京都に残された自分を将軍や公卿がどうみるかも予知していたし、また彼等に対する信長の意中もよく見ぬいている。
(円転滑脱のなかに、よく威権を維持せよ)
というのが信長の自分に対する期待であろうと思い、就任のその日に、わざわざこの喧嘩を吹っかけたのである。
それも、両眼から火を発するようなすさまじい顔つきで、執事をどなりつけた。将軍家執事といえば「中務少輔」という大名格の官位をもっているが、藤吉郎は無位無官の分際にすぎない。
「如何《いかに》」
と問いつめると、執事はふるえあがり、
「むろん、将軍家の御諚《ごじょう》でござる」
といった。
「それはけしからぬ。将軍家のおおせられる先例格式とは何事でござるか。この藤吉郎は信長の代官として京都守護をつとめる身。となれば、将軍家は信長に対し格式よばわりをなさるか。信長が京を離れればさっそくその恩をお忘れなされたか」
膝《ひざ》を立て、相手を斬《き》りかねまじい勢いでいったから、上野中務少輔は動転し、廊下をころぶように走ってその旨《むね》を義昭に言上した。
「そう申したか」
義昭も、ふるえあがってしまった。
すぐ鄭重《ていちょう》に藤吉郎を通し、義昭はあたふたと上段の間にあらわれてすわった。
「先刻は、執事が無礼を働いたらしいが」
と義昭がいうと、藤吉郎はかぶりをふり、
「物には思いちがいが多いものでござりまする」
と、忘れたような顔をした。
このあと義昭は酒をくだして座をやわらげると、藤吉郎は戦場の滑稽譚《こっけいたん》などや市井の女ばなしなどを持ち出して大いに義昭を笑わせ、二時間ほど歓談して退出した。
この最初の拝謁に陪席した義昭の近侍までが、この藤吉郎の評判でもちきりになった。
義昭も、藤吉郎が退出したあと、何度もうなり、むしろ怖《おそ》れるように、
「信長は、容易ならぬ家臣をもっている」
とつぶやいた。自然、光秀との対比が、何度も義昭の脳裏に去来したことであろう。
身の運
「京都守護職」
という重職に、木下藤吉郎秀吉が抜擢《ばってき》されて就任したものの、長くは続かなかった。
藤吉郎はあくまでも軍人である。すくなくとも信長はそうみていた。
「猿《さる》めがおらぬと不便じゃ」
と、岐阜の根拠地で信長はおもうようになった。
(猿めに都へのぼらせて、公卿や将軍側近などと交わらせていても仕方がない)
不経済というものである。藤吉郎は戦場に置いてこそ朝《あした》に敵陣を破り、夕《ゆうべ》に敵城を降《くだ》す能力を発揮するであろう。
(京はむしろ光秀がよい)
これは最適任であった。
信長は、気がかわった。気がかわるとすぐ藤吉郎に召喚状を発した。
「京には光秀が残れ」
むろん明智光秀だけでなく、村井貞勝や朝山日乗《にちじょう》といった文官も残っている。藤吉郎は去り、この永禄十二年の夏から開始された信長の伊勢征伐に従軍した。
光秀は、京に残った。
……………………
「おれはな、信長が信じられぬ」
と、義昭が、かれがもっとも信頼している光秀に打ちあけたのは、室町館《やかた》の庭の楓《かえで》が血のように色づきはじめたころである。
光秀は、はっとした。義昭がいつかこの言葉を吐くであろうとひそかに怖れていたことであった。
「近う寄れ、そちと低声《こごえ》で話したい」
義昭は脇息《きょうそく》から身をのり出し、声をひそめていった。その義昭の声を、庭の日《ひ》溜《だま》りに群れている雀《すずめ》の躁《はしゃ》ぎ声が掻《か》き消した。
「雀めが、うるさいの」
義昭は庭をみて、癇《かん》を立てた。その義昭の顔が、どこか雀に似ていた。
「密談《はなし》もできぬ」
耳ざわりで神経が立つ。
「ははあ、雀が」
光秀は庭を見、そのうちの黄楊《つげ》の老樹に目をこらした。その黄楊の葉の茂みのなかに、雀が五、六羽、しきりともぐったり出たりしている。
「あの黄楊の樹《き》に」
と、光秀が笑った。
「黒い実が実っております。雀めはそれをよろこんでいるのでありましょう」
「追え」
「拙者が?」
「明智十兵衛光秀ともあろう者に雀を追わせるのは人の主の道ではないが、わしはそちを頼りにしている。一事が万事――たとえば雀であろうと鷲《わし》であろうと、そのそちの手で追ってくれることを望む」
(鷲であろうと?)
暗に信長を指しているらしいことが、光秀にもわかりそうな気がした。そのことに気づくと光秀はあわてて、
「鷲は手前には追えませぬ。雀なら追ってさしあげましょう」
わざとあわてた風を作って庭へとび出し、雀を追った。
「あっはははは」
義昭は、真面目《まじめ》くさった光秀のそのあわてぶりがよほどおかしかったらしく、光秀が席に戻《もど》ってからでも笑っていた。
「そちは小心者じゃな」
それほど「鷲」がこわいのか、謀《む》反《ほん》ができぬのか、ということをからかったのである。
「左様、主を持ちます侍の心はつねに小心なものでござります。主に対しては日夜こまかく心配りをしております」
「これこれ、わしもそちの主だぞ」
「いかにも、将軍《くぼう》様に対しては、心のかぎりをつくして御身の上に障《さわ》りの無きよう思いをめぐらして」
「おるか」
義昭は、さらに身をのりだした。
「わしは幕府をひらくつもりだ」
(あっ)
と光秀は思った。信長は義昭を将軍にし、館までつくったが、かれに幕府をひらかせようとする気配がない。
(たしかに信長には、その気はない)
義昭に幕府をひらかせてしまえば、天下は義昭のものになる。信長がなんのために大汗かいて京都を鎮定したか、意味がない。
(信長は信長自身が織田幕府をはじめようとしているのだ。それを樹立するまでの人心収《しゅう》攬《らん》の便法《べんぽう》として義昭を将軍にしているにすぎない。義昭は、将軍になったことに満足しているべきなのだ。たとえば小児が玩具《おもちゃ》をあたえられてよろこんでいるように)
義昭は、将軍にしてもらった。
かれが住む館さえ造営して貰《もら》っている。すべて当の義昭が懐《ふとこ》ろ手《で》をしているまに事が運んだ。
(それで満足すべきだ。この上、なお幕府をひらいて政権をもちたい、と言いだせば信長はがらりと態度を変えてくるにちがいない)
「虫が好すぎます」
と光秀はたしなめようとしたが、そこまでは言えず、ただ、
「いますこし、時期をお待ちあそばしますように」
といった。
光秀の煮えきらぬ態度をみて、義昭は、みるみる不快な顔をした。
「なにごとぞ光秀、そちは予を奈良一乗院から脱出せしめたとき、光秀草莽《そうもう》の士ながら幕府を再興して天下を鎮《しず》めとうござります――と申したではないか。あれはうそか」
「いえ」
光秀は、額に汗をにじませた。
「うそではござりませぬ。しかし、ものには自然々々とやってくる時運というものがござりまする」
(奈良一乗院からこの足利将軍の血をひく者を盗み出したときには、おれはまだ一介の素《す》牢人《ろうにん》にすぎなかった。責任もない、現実も知らぬ。しかし、いまは織田家の家臣である。現実から飛躍した、少年が夢を謳《うた》いあげているようなわけには参らぬ。義昭が幕府をひらくとなれば、いままで足利家の無二の忠臣だった信長は仏相をかなぐり捨てて魔王になるにちがいない)
光秀にはそれが、手にとるようにわかる。
「御無理をなさいませぬように」
「なにが無理だ」
義昭はむっとしたらしい。
「征《せい》夷《い》大将軍という官職は、どなたから宣《せん》下《げ》されていると思うか」
「おそれながら、九重《ここのえ》の内に在《ま》しますお方から」
「そのとおりである。そこまでわかっていて、なにを躊躇《ちゅうちょ》することやある。なにを遠慮することやある。将軍になった以上、わしは幕府をひらくぞ」
「…………」
光秀の立場はくるしい。将軍家の家来である一方、織田家の家来でもあるのだ。
「光秀、なぜだまっておる」
「それがしの立場としては、この場合、石のごとくだまっているほかござりませぬ」
「心得た」
義昭は、急にあかるい声を出した。義昭にすれば自分の幕府樹立活動を、織田家の京都代官である光秀が「黙認する」という意味にとったのである。
義昭の行動は活溌《かっぱつ》化した。
信長には無断で、しきりと諸国の強豪たちに「将軍御教書《みぎょうしょ》」といったものを発送しはじめたのである。
内容は要するに、
「乱をやめよ」
ということであった。もはや戦乱もひさしい、今後、他国と交戦しあうことをやめよということである。とくに元来、義昭に好意的な越後の上杉氏、豊《ぶん》後《ご》の大友氏、安芸《あき》の毛利氏には蜜《みつ》のごとく濃厚な態度で申し送った。
「不和があるなら私が調停する」
と言い送った。調停ぐらいではおさまらぬことは義昭は知っていたが、なににしてもこう天降《あまくだ》りの態度で出てゆくことによって、
「世に将軍あり」
ということを知らせたかったし、もはや事実上室町幕府は存在するぞ、ということを印象づけたかった。
義昭は、この「陰謀」に没頭した。大坂の本願寺や越前の朝倉氏とも渡りをつけた。みな旧権威に随喜する感性をもった家々であった。旧権威そのものの叡山《えいざん》とも結んだ。かれらはみな、
「信長はくさい」
とみている。
「信長が将軍を立てたのは天下を奪いとる狼《ろう》心《しん》を秘してのことだ」
そうみているし、さらに信長が義昭擁立を名目にいちはやく京都をおさえたことに嫉《しっ》妬《と》し、危険視し、あすはわが身があぶないと戦《せん》慄《りつ》し、
「こうとなれば、義昭将軍を信長から離間させねばならぬ」
と、一様に見て、一様に義昭に答礼の使者を送って親交を深めようとした。
ついには。――
義昭は大胆にも、幕府造営の費用を諸国の豪族に課したのである。越前の朝倉氏などはいちはやく、その費用を送りつけてきた。
すべて信長を、無視したままである。
(これは大変なことになる)
光秀は、信長の性格を知っている。
ある日、幕臣細川藤孝の屋敷にゆき、藤孝に会ってそのことを相談した。
「私も、こまっている」
藤孝はいった。
「何度も、お諫《いさ》め申した。しかし、どうやら御性格らしい。すこしのことで図にお乗りあそばす。その上、いつも炮烙《ほうろく》で炒《い》られている豆のようにお心に落ちつきがなく、小まめ《・・》に策を弄《ろう》しなさる」
「そのとおりだが、いまの御様子がこれ以上つづけば岐阜殿(信長)の大鉄槌《だいてつつい》が落ちてくるのは必至。なぜもっと貴殿がお諫めなさらぬ」
「だめだ」
藤孝はいった。
「すでにわしは煙たがられ、御前をなかば遠ざけられている」
この間も信長は、岐阜や伊勢の戦場から機会をみては風のように上洛《じょうらく》し、数日滞留しては去っている。
この年の十二月十一日、信長は伊勢平定の報告のために上洛し、義昭に拝謁《はいえつ》し、いきなり、
「自《じ》儘《まま》をなされるな」
と、苦言を呈した。
義昭はさすがにむっとした。
「なにが自儘ぞ。わしは征夷大将軍ではないか。その職に忠実なだけである」
そう言いかえした。
信長は、沈黙した。この男は、もともと弁口が達者ではない。むしろかれにとって沈黙こそもっとも恐るべき雄弁であった。
だまって、退出した。
(将軍何者ぞ)
という気持がむらむらとおこっている。信長は、あの義昭を樹《た》てた自分の失敗を思わざるを得ない。
馬上、寒風をついて妙覚寺の宿館へむかったが、馬を進めつつも、
(どうしてくれる)
という思いが胸中の炎になって燃えさかっている。
(失敗《しくじ》った)
という意味は、なぜ将軍などを擁立せずに天子を押し立てなかったか、ということであった。
(天子のほうがえらい)
という知識は、亡父の織田信秀が無類の天子好きだったため、少年のころから信長にはあった。信秀のような田舎の土豪がめずらしくそういう知識をもっていたのは、信秀が連歌好きで、都からくだってくる連歌師どもから仕入れたものであろう。
信長の少年のころ、父から、
「吉法師よ、日本国でたれが一番えらい」
ときかれ、即座に、
「将軍《くぼう》」
と答えたが、父は意外にもかぶりを振り、
「京の天子よ」
といった。
この知識は父信秀の自慢のひとつで、よく家臣にも同じ質問をしては、「天子よ」と得意げに教えていた。これほどのことを知っている者は、諸国の諸大名でも類がすくない。
「偉いという証拠があるか」
と信長は父にきいたことがある。信長はなにごとも実証がなければ信じない。
「官位をみろ。伊勢守とか弾正忠という官は、われら田舎の者が、金を将軍家に運んでくださるものだ。しかし、その将軍家も、左様か、されば武蔵守《むさしのかみ》という官位を呉《く》れてやる、というわけにはいかない。将軍家から天子に奏上してはじめて除《じ》目《もく》される。されば将軍家は天子の申次ぎ《・・・》にすぎぬ」
「天子は戦さが強いか」
と信長がきくと、
「天子は兵を用いられぬ。平素はただ神に仕えておられる」
(神主の大親玉か)
という程度に信長は理解していた。
ところが、こうして、都へのぼってくるたびに思うことは、都の者は、
「将軍よりも天子のほうがえらい」
ということを、ごく常識のようにしてもっていることである。これには信長も、思想を一変せざるを得ない。
配下の藤吉郎などはいちはやくこの間のことを察知し、
「将軍より天子のほうがはるかにお偉うございますぞ。都では花売り、土かつぎでさえそれを知っておりまする」
と献言していた。藤吉郎のいうところでは同じ担《かつ》ぐなら天子を担げ、ということであった。より偉いほうが、より利用価値が多い。
それに天子は、いかに担いでも、
――されば幕府をひらく。
とは言わないのである。その点、神のようなもので、地上の支配権は望まない。これほどありがたいものはなさそうであった。
ただ信長がおもうのは、
(果して天子が、日本統一の中核的存在になりうるかどうか)
であった。将軍ならば「武家の頭領」ということで大名はおそれかしこむ。しかし天子はどうであろう。「日本万民の宗家」というだけでは、人はおそれないのではないか。第一天子こそ偉い、という知識が、満天下の諸大名になければ天子の利用価値は薄い。
おもえば天子は、破れ築《つい》地《じ》の屋敷に住み、毎日の供御《くご》さえ事欠かれるありさまである。これでは世の軽侮をまねくのは当然であろう。
(むしろ将軍館よりも、天子の御所を立派にする必要がある。それだけで一目《いちもく》、世の者は天子の尊さを知る)
信長の発想はつねに具体的であった。
しかもその思ったことをすぐさま実行する力も、苛《か》烈《れつ》なばかりである。この男はすでに将軍館が竣工《しゅんこう》したこの四月、時をうつさずに一万貫の巨費を投じて御所を大修復しつつある。その完成にはおそらく来年いっぱいはかかるであろう。
信長は将軍館を辞し妙覚寺へむかう途次、不意に、
「御所へ」
と、行列を曲げさせた。工事現場を見るためであった。
やがて御所の工事現場をぐるぐるとまわったあと、かたわらの光秀に、
「天子はなぜ偉いか知っておるか」
といった。光秀がかしこまり、王者と覇《は》者《しゃ》のちがいを学問的にいおうとすると、
「よい。天子は偉いのだ。なぜならば、おれは将軍にはいつでも会えるが、いまだかつて天子を拝したことがない」
といった。信長はまだまだ位官がひくいため、昇殿する資格をもたないのである。
「わかったか」
信長は、横目で光秀を見た。その目は、光秀が将軍の家来でもあることを十分に意識している様子であった。
信長は、年を京で越した。
明けて正月の二十三日、信長は光秀ら京都の司政官をよび、
「将軍に申しあげよ」
といって義昭の行動を制約する断固たる方針をあきらかにした。信長は有無《うむ》をいわせることなく喋《しゃべ》り、光秀らはただひたすらに拝聴し、最後にはそれを条文にせざるをえなかった。
条文は五カ条より成っている。
「いままで諸国にくだされた命令書は、すべて破棄されよ」
「諸国へ御内書をくだされるときにはかならず信長に下相談をなされ、信長の添状《そえじょう》を付すること」
などであった。
光秀らはやむなく信長の意を体し、義昭の館に伺《し》候《こう》し、その旨《むね》を申しあげた。
「もしお聴きとどけなきときは、御《お》為《ため》よろしからずと思召されよ」
と、日蓮宗僧侶《にちれんしゅうそうりょ》で織田家の文官をしている朝山日乗はいった。光秀は面《おもて》を伏せたままひたすらに沈黙していた。
「聴く」
義昭は、蒼《あお》ざめ、むしろ日乗の機《き》嫌《げん》をとるように微笑し、
「父弾正忠(信長)によしなに取り繕ってくれよ」
と言いながら、書状の右肩にみずから印判をとって黒印を捺《お》した。
(幕府再興の望みも、去った)
光秀は顔を伏せながら思った。往年、幕府再興のためにあれほど奔走した自分が、いま皮肉にも「幕府を開くな」という誓約を義昭から取り付けている。
(すまじきものは宮仕えというが、まことに穿《うが》ち得たことばよ)
と思い、身の運を傷《いた》まざるをえない。
梅一枝
(よし。信長を斃《たお》してやる)
と、将軍義昭が本格的に覚悟をきめたのはその直後である。
余談ながらこの年、つまり永禄十三年は改元されて「元《げん》亀《き》元年」となった。元亀さらに天正とつづくこの歴史的季節は、戦国統一をめざす諸豪たちのすさまじい格闘期にとなる。元亀元年はその突入の年といっていい。
「信長を斃す」
と決意した義昭将軍こそ、諸豪の格闘に火をつけたひとであった。
義昭は諸国に密使を走らせて、
「反織田同盟」
ともいうべき巨大な全国組織をまたたくまにつくりあげた。
越後・上杉謙信
越前・朝倉義景《よしかげ》
甲斐《かい》・武田信玄
安芸《あき》・毛利元就《もとなり》
摂津・本願寺
近江《おうみ》・叡山《えいざん》
これらが、その同盟員であった。むろん同盟は、信長に対してはあくまでも秘密裏におこなわれている。
その同盟員のうち、地理的にも京に進出しやすい軍事勢力である越前の朝倉義景を、将軍義昭はとくに期待し、しきりと密使を送った。
(越前こそは立ちあがってくれる)
というのが、義昭の期待であった。事実、越前一乗谷に首都を置く朝倉氏は、信長のやり方を激怒し、
「いつかは報復を」
と、その機会をうかがっていた。朝倉家にすればむりもなかった。先年、自分の家を頼ってきた義昭を信長はたくみにさらって京につれてゆき、将軍の位につけてしまった。
「騙《たばか》られた」
という怒りがある。
その上、信長はその義昭将軍に幕府をひらかせず、まるで操り人形のようにあつかい、義昭を利用しておのれの野心をたくましゅうしている……という義憤もある。
……………………
それらの雲行きを敏感に察しつづけているのは、当の信長であった。
が、信長はいそがしい。かれ自身が、いちいち義昭の暗躍を監視しているわけにはいかない。
この正月も、京にわずかの期間滞留しただけで根拠地の岐阜へひきあげてしまった。そのひきあげるときも、光秀ら在京官をあつめ、
「将軍は、放馬《はなちうま》をなさるらしい」
と、いった。放馬とは、馬が手綱をはなれて勝手にうろうろすることだ。
「手綱を、よくひきしめよ」
信長は厳命した。
光秀にすれば、自分が織田家に連れてきた将軍だけに、信長から皮肉をいわれているような気もし、この点がひどくつらかった。そのつらい分だけ、他人よりも懸命に信長のためにはたらいた。
が、信長のために尽しすぎるとなると、義昭にわるい。
げんに義昭は、
「光秀、そちはどちらに心があるか」
と、信長が岐阜に帰った留守中、光秀を責めぬいている。
「御双方の御為よろしかれ、とのみ祈り奉るのがこの光秀の立場でござりまする」
「御双方?」
義昭は、その言葉にひっかかった。双方といえば、将軍である自分と、ただの弾正忠にすぎぬ信長と同格あつかいではないか。
謹直な光秀は自分の失言におどろき、それを詫《わ》びた。
数日して義昭の機《き》嫌《げん》がなおり、
「光秀、よいものを呉れてやろう」
と、朱印状を一枚くれた。みると、山城《やましろ》(京都市とその郊外)の下《しも》久《く》世荘《ぜのしょう》を呉れてやるという書きつけである。
「信長に無断で、わしから加護をうけた、となればかれは怒るであろう。いやいや気づかいするな、信長にはわしからよく話しておいてやる」
と、義昭は光秀の立場を理解して親切にいってくれた。
「お心づかい、ありがたき仕合せに存じまする」
「そのかわり、わしの恩を忘れるなよ。そちはもともと足利家の家来でもあり織田家の家来でもある。さればわしの利を先にし、織田家の利をあとにせよ。そのつもりで奉公せよ。わかったか」
義昭も、光秀の存在が無視できない。場合によってはこの光秀を抱きこんで信長に反旗をひるがえす、という手もありうる。だからこそ、所領をふやしてくれたのである。
が、光秀は退出したあと、自分の屋敷にそなえている山城国の土地台帳をみると、下久世荘は足利将軍家の土地ではない。
(おやおや)
とおもった。他人の土地である。
下久世荘の領主は、京都における最大の真言密教の大寺である東《とう》寺《じ》(教王護国寺)であった。
念のために家来を現地と東寺にやってしらべさせると、このことは間違いなかった。
(あの義昭《くぼう》様らしい。……)
腹も立たなかった。義昭は光秀をだましたのではなく、性格が粗《そ》忽《こつ》なのであろう。
(これで忠義をせよ、とは恩着せがましい)
言葉に綴《つづ》ってはっきりとそう思ったわけではないが、光秀はそういう義昭のかるがるしさに、次第に愛想がつきてゆく気持をなんともすることができない。
このとし二月のはじめ、岐阜の信長はまたまた琵琶湖《びわこ》東畔の道をとおって京にのぼってきた。
信長は大津の宿場をすぎるとき、
「京での宿は、明智屋敷にするぞ」
と、にわかにそばの福富平左衛門にいった。福富はおどろいた。家来の屋敷にとまるなどは、異例のことであった。
「十兵衛の屋敷でござりまするな」
「二度言わすな」
信長は、家来に、命令の念を押されるのがなによりもいやな男であった。言葉をかえていえば、念を押してやっと命令を理解するような、いわば鈍感な家来にいらいらするたちである。
この命令はすぐ具体化され、先触れの者が数騎、京へ走った。
(めずらしいこともおわすものよ)
と、軍中、小首をかしげていたのは、木下藤吉郎秀吉である。藤吉郎は梅を一枝、沿道の農家で折り、それを口にくわえつつ馬を打たせていた。
(殿には、七不思議がある)
そのひとつは、信長は京に屋敷をもとうとしないことであった。将軍館《やかた》をつくり、御所を造営しても、この男は自分の京都屋敷をもとうとしなかった。
(御志が大きい証拠だ)
藤吉郎はそう理解している。ひとつには京都屋敷をつくれば諸国の豪雄たちが、
――さてこそ信長め、化けの皮をぬいだか。京に永住して、政権をとる気か。
と見、大いに騒ぐであろう。かれらに無用の敵意をあたえるのは外交上のぞましくない。
いまひとつの理由は、京都屋敷をつくれば当然、将軍館よりも小さく造らねばならぬ。となれば京童《きょうわらべ》の印象が、
――やはり将軍様はえらいものよ。
ということになるであろう。将軍の権威を自分以上に大きくすることは、社会心理を操作するうえで好もしいことではない。
いま一つの理由は、経済問題である。京に無用の屋敷をつくる費用があれば、それを軍事費として投入すべきであった。
(いずれ天下をおとりなされば、京の城館などはたちどころにできる。それまで無用の綺《き》羅《ら》を飾ろうとはなさらぬようだ)
それにしても、こうたびたび上洛するのに、いつも宿住いというのは、よほど強靱《きょうじん》な意志がなければそうなりがたい。
(殿様は、さすがに)
藤吉郎は、そう思うのである。
信長の常宿は、京における日蓮宗本山である妙覚寺であった。のち、本能寺を増築させてそこを常宿にすることになる。信長は終生、京にわが屋敷をもたなかった。
妙覚寺本山を常宿にしたのは、この寺が京の中心部近くにある便利さと、それと、舅《しゅうと》 斎藤道三が少青年期をここで送ったというゆ《・》かり《・・》に懐《なつか》しさを覚えたためであろう。
当初、信長は、
「この寺に、法蓮房《ほうれんぼう》という智弁第一の学生《がくしょう》がいた。それが寺をとびだして油屋になり、さらに美濃へくだって、国を奪ったのが、わが舅斎藤山城入道道三だ」
と、妙覚寺の庭の暮色のなかを散策しつつ左右にいったことがある。そういう類《たぐ》いの追憶ばなしのきらいな信長にしては、めずらしい述懐だった。
が、こんどは妙覚寺を用いない。
光秀の屋敷だという。
(あの若禿《わかはげ》の運のよきことよ)
と、藤吉郎は光秀の幸運を、なんとなくうらやましいような思いもした。
光秀はちかごろ、信長のゆるしをえて、もと三《み》好長慶《よしながよし》の別邸だったという宏壮《こうそう》な屋敷を修復し、そこを表向きの役所兼私邸にしていた。屋敷は、前時代の京都の支配者がもっていたものだけに塀《へい》も堀も堂々たるもので、それに屋敷うちの茶亭《ちゃてい》や茶庭も数寄《すき》がこらされている。
(茶好きの殿は、そこに目をつけられたのであろう)
藤吉郎は、そう思った。
「わが屋敷に、殿が。――」
使者の急報をきいて光秀はおどろいた。
「して、殿はいまどのあたりを」
「すでに大津をお過ぎあそばされておりまするゆえ、おっつけ御着《ごちゃく》遊ばしましょう」
(これはいかん)
光秀は使者を帰したあと、家来を手配し、機敏に信長を迎える支度をととのえた。
(茶の支度もしようか)
と思ったが、それは越階《おっかい》沙汰《ざた》になるだろうと思いなおしてやめた。信長は、家来に茶道をすることをゆるしていないのである。
(支度は、武骨で簡素なほうがいい)
そう思い、その方針に統一した。屋敷うちの自分の家来をことごとく邸外に出し、光秀みずからも屋敷を去り、門前に屯《たむ》ろした。
(なににしても)
と、信長の来着を待ちながら、心中、浮き立つ気持をおさえきれない。
(おれの屋敷を宿にする、とおおせだされる以上は、よほどおれという者を)
……信長は気に入っているのであろう。危険な者か、もしくはきらいな者の屋敷に泊まるはずがない。
(そうではあるまいか)
やがて信長の行列が来着し、信長は門前で馬をおりた。
光秀は、弥平次ら重臣とともに土下座して平伏している。
「十兵衛、案内せよ」
信長は、叫んだ。
光秀は立ちあがり、先導して門内に入った。その間、信長は上機嫌であった。
信長の上機嫌は夜半におよんでもかわらない。光秀を召し、京の情勢、義昭の近状を報告させた。
「かの人の淫奔《いたずら》はまだやまぬか」
と、光秀にきいた。義昭の例の陰謀癖のことである。
「ちかごろは、だいぶ」
光秀はいった。おとなしくなった、という旨《むね》のことを、小さな具体例をあげていった。
「そちは、甘い」
信長は、なおも上機嫌でいった。
「そちが将軍家の給人《きゅうにん》でもある、という立場上やむをえぬことかもしれぬが、どうやらそちの見方は甘いようだ」
「おそれ入りまする」
「証拠がある」
と、信長はいった。義昭が、越前の朝倉家に出した密使を、信長の部将が、南近江でひとり、北近江で一人、見つけだして斬り、その密書を手に入れているのである。
「しかも最近のことだ」
(朝倉への密使が?)
光秀にとって、意外ではなかった。義昭がちかごろいよいよ朝倉と深くむすんでいるらしい、ということは光秀の嗅覚《きゅうかく》にも匂《にお》いはじめている。しかし、その程度のあいまいな印象を信長に告げ口することは、義昭のためにはばかられた。
「癖のわるい公方じゃ」
信長はそう言い、べつに光秀の在京官としての手落ちを責めはしなかった。
光秀は、吻《ほ》っとした。ふだんの信長なら、この種の鈍感さを、
「怠慢」
としてどれほど責め、どれほど怒るかわからない。こんどという今度にかぎって、ばかにおだやかなのである。
入洛《じゅらく》した翌日、信長は将軍館へ伺《し》候《こう》し、義昭の機嫌を奉伺した。
(気味わるい。……)
と義昭がおもったほど、信長の機嫌がよくて、いつも笑ったことのないこの岐阜の豪雄が終始唇許《くちもと》を綻《ほころ》ばせ、茶道のはなしなど罪のない話題をもち出しては歓談した。
そのまま在京二日で京を去った。
(なにをしにきたのか)
と、京の消息通はみなくびをひねった。むろん義昭にも光秀にもわからなかった。
信長が帰ってから義昭は光秀を召した。この日は茶室に通された。
(折り入ってのお話があるのか)
光秀は、むしろそれを怖れた。陰謀家の義昭と人払いをした茶室で話しあうことは、時が時だけに光秀は他《た》聞《ぶん》を怖れた。
「上様、せめて、茶道の者でもこの中に入れて頂きとうございます」
「なぜだ。わしとそちの間柄《あいだがら》ではないか」
つるりとした円い顔で、義昭はいった。微《わ》笑《ら》うとこの将軍はほとんど五、六歳の幼児のような顔になる。
義昭はみずから亭主になって光秀のために茶を点《た》てた。光秀がそれを拝領して一服喫しおわると、
「かげんはどうだ」
というかわりに義昭は声をひそめ、
「信長はほろぶぞ」
と、小声でいった。
光秀はおどろいた。が、義昭は光秀の心境などには頓着《とんじゃく》なく、
「摂津石山(大阪)では本願寺が立ちあがる。それを中国の毛利があと押しをする。同時に北方から越前兵が攻めくだる」
「上様」
光秀は声を押し殺した。
「さ、左様な火遊びはおやめなされませ」
「火遊びなものか。信長めに、将軍とはいかにおそろしいものかを見せてやる」
「上様」
光秀は右手をついた。が、光秀がいうより早く義昭は、
「そちは、殺すのだ、信長を」
と、自分の言葉の刺《し》戟《げき》性を楽しむような表情でいった。
「そのことを、藤孝(細川)殿にお洩《も》らし遊ばしましたか」
「いや、洩らさぬ。藤孝は幕臣の名家にうまれながら、ちかごろわしを疎《うと》み、信長にしきりと接近しておる。あのような男にあぶなくて洩らせるものではない」
(…………)
光秀は沈黙して義昭を見あげた。義昭の奇妙さは、明智十兵衛光秀という素《す》牢人《ろうにん》あがりの身分の心情をいささかも疑っていないことだった。
(なにしろ、奈良一乗院脱出いらい、このひとを護衛するために自分は命を賭《と》し、文字どおり槍《やり》の雨が降るようななかを掻《か》いくぐってきた)
自然、義昭はおのれの生命をまもってくれた光秀に理屈をこえた信頼の感情をもっているのであろう。
(その御心情をおもえば)
……お愛《いと》しくある、と光秀は一種、父性愛のようなものを義昭に感ずるのである。
「信長を、諸国の英雄豪傑がことごとく立ちあがって討伐する。幸いそちは信長の側近である。機をみて刺せ」
(これを、信長に報じたものかどうか)
光秀は、うなだれながら体が冷えてくるのを覚えた。背、脇《わき》、胸にじとりと汗が流れはじめている。
「光秀、顔が蒼《あお》い」
「さ、左様、茶に中傷《あた》り申したのでありましょう」
光秀は言いおわって、懐紙をとりだした。唇《くちびる》を、ゆっくりとぬぐった。
目の前の床の暗がりに一枝、白梅が活《い》けられている。
花は五輪であった。
(義昭《くぼう》か、信長か。……)
どちらかを裏切ることなしに、光秀は今後を生きつづけることはできないであろう。
遊楽
この夜、明智弥平次光春が、光秀の部屋によばれた。
「殿、どうあそばしました」
と弥平次がおどろいたほど、光秀の様子に生気がなかった。目のふちが黒ずみ、肩が落ちて、病人のようであった。
「お体が?」
「わるくはない。弥平次、ごくろうではあるが、今夜京を発《た》って岐阜表に使いに行ってくれぬか」
「いと易《やす》きこと」
「持ってゆくのは手紙だ。かまえて途中、人に奪《と》られるな」
「万一のときは焼き捨てましょう。出来れば内容をお明かし願いとうございます」
「義昭様は、御謀《む》反《ほん》をおこされる」
「えっ」
「驚くな。義昭様の御謀反については岐阜の殿もうすうすお気付きである。しかしそちが携行するわしの密書によって御謀反のことは」
……決定的事実になるであろう、と光秀はいった。
「義昭様は、岐阜殿がおきらいなのだ。このため上杉、武田、北条、毛利、本願寺、朝倉、叡山《えいざん》などと連繋《れんけい》され、それらの勢力を京によびあつめて、一挙に織田勢を駆逐なさる。義昭様のなによりの頼みは越前の朝倉だ」
「殿。……」
と、弥平次はにじり寄った。この敏感な若者には光秀の立場とその心境がすべてわかった。
「殿は、お苦しいことでありましょうな」
「わしか。苦しいわ」
光秀は、笑った。
弥平次には泣いているようにみえた。
思えば、将軍義昭という存在は、光秀の作品のようなものであった。多年、精魂をかたむけて、ようやく将軍の位置につけ、こんにちの室町殿の繁栄をみるにいたった。その築きあげた楼閣を、みずからの手で崩さねばならぬのである。
「これが、密書だ。この密書がそちの手で岐阜にとどいたとき、おれの多年の夢はくずれる」
「されば、届けますまい」
弥平次はいった。
「左様、そういう手もある。届けずに置き、義昭様の御陰謀に加担すれば、おれは来《きた》るべき室町幕府体制での最大の大名になるだろう。義昭様も、それを約束なされているようである。きっと、そうなる」
「殿は、織田家の譜代ではござりませぬ。しかも、二君にお仕えなされておる天下にまれな不思議人におわす。されば足利・織田どちらの主君をお立てなさろうとも、どちらかに忠。ご遠慮あそばすことはありますまい」
「弥平次」
光秀はいった。
「織田をすて、足利家を立てよというのか」
「それが、殿のお若いころからの御宿志であったのではありませぬか。孤剣天下を奔走なされていたのも、室町幕府の再興のためでござった」
弥平次の本心は、織田をすてて足利につくほうが有利であるというのではない。人間若年のころの志を遂げるほうが幸福である、というのである。
「たとえ、失敗しましょうとも、うまれてきた甲斐《かい》があるというものではありませぬか」
「そのとおりだ」
光秀は、いった。
「そのとおりであるゆえ、わしはその書簡を書くまでずいぶんくるしんだ」
「ついに幕府への夢をお捨てなさるわけで」
「義昭様は、器《うつわ》ではない」
光秀はいった。
「それに、岐阜殿がわしの考えていた以上の人物であるらしい。それが越前の朝倉義景殿程度の愚物ならば、義昭様はのんべんだらりと将軍になっていれば、それですむし、室町幕府も再興できるかもしれない。しかし、岐阜殿はそうではない」
光秀は、暗い表情になった。
「岐阜殿は京にのぼられて、世のなかには将軍以上の存在があるということを知られた。言うにや及ぶ、天子である」
信長の亡父信秀は無類の天子好きだったから、その存在は信長もかねて知っていたが、いざ京にのぼってみると、将軍などははるかに下だということを信長は知った。
「岐阜殿は、おそかれ早かれ、義昭様をすてて天子を直接《じか》に立て奉るだろう。そのほうが日本万民を畏《い》服《ふく》せしめるに足る」
……将軍の権威時代はもはや去ったのだ、と光秀は思わざるをえない。
「もはや今日となっては、おれは岐阜殿を選ばざるをえぬ」
と、光秀はくるしげにいった。光秀の古典的教養からいえば、将軍と幕府の統制のもとに諸国の武士が整然と天下に位置しているという政体こそ望ましいが、それはあくまでも好みにすぎぬ。事態は、好みをいっていられる段階ではない。
(あの小ざかしいだけが能の義昭将軍についていれば、おれはほろびるのだ)
という利害の計算をせねばならぬところまできている。
「明智光秀は、亡《ほろ》びたくはない」
「殿はさてさて御不自由な」
弥平次は、笑いだした。世の常の武将なら利害の打算だけで行動するのである。光秀にはつねに形而上《けいじじょう》の思案があった。さんざん観念論をこねたあげく、結局は世の常の武将とおなじ利害論に落ちつくのである。
「それを最初におっしゃって頂きますれば、拙者も有無《うむ》の論なく岐阜表へ打ち発《た》ちまするものを」
「おれはからり《・・・》とせぬな」
光秀は、苦笑した。
「御学問がありすぎるのでありましょう」
「そんなものはないが、どうもあの藤吉郎のように、からりからりと行動できぬのがおれのわるいところだ」
「藤吉郎殿は所詮《しょせん》は下郎のあがり、殿とはくらべものになりませぬ」
(そうかな)
光秀はくびをかしげざるをえない。
(育ちがわるく無教養な男というものほど、乱世で勁《つよ》いものはない。おれが一思案しているあいだに、あの男はもう行動している。信長に対しおれが言えぬような追従《ついしょう》でもあの男は言える)
「では、早速に」
弥平次は立ちあがった。
それから四《し》半刻《はんとき》後、弥平次は部下のなかから屈強の者十騎をえらび、岐阜へ発った。
岐阜城内で、信長はその密書をみた。
見るなり、
「来たか」
と、つぶやき、勢いよく顔をあげた。こういう事態を信長は早くから察していた。
察していただけではない。確報があり次第行動に移る予定をととのえていた。
「平《へい》、平」
と、叫んだ。信長の有能な伝令将校である福富平左衛門が、平伏した。
「遠州浜松へゆけ」
「なにをしに参るのでござる」
「徳川殿に会うのだ」
「謁《えつ》しまして?」
「それだけでよい。すべては以前に徳川殿に申してある。行け」
と、信長はいった。
信長の同盟者である「三《み》河《かわ》殿」は、去年、旧称松平家康をあらため、あらたに徳川家康という名乗りに変えていた。この改姓はわざわざ信長に仲介をたのみ、将軍を経て天子に勅許を得る、という異例の手間をふんでいる。自分の苗字《みょうじ》を変えるのに勅許を得るという例はちょっとないであろう。
家康はこのころ、
――自分は源氏の流れを汲《く》んでいる。
と称しはじめていた。むろんたしかな根拠のあることではなく、そう私称していたにすぎない。その私称をいわば公称にするために「勅許によって改姓した」という手続をふんだ。三河松平郷の土豪あがりの氏素姓《うじすじょう》も知れぬ出来《でき》星《ぼし》大名、というのでは、足利将軍に拝謁したり御所へ参内《さんだい》したりする手前、体裁がわるいとおもったのであろう。前時代の足利大名である尾張斯波《しば》氏、美濃土岐《とき》氏、三河吉《き》良《ら》氏、駿河《するが》今川氏などは、系譜血統のはっきりした源氏の流れの家だったから、
「松平とはどこのなりあがり者か」
などと将軍やその側近からいわれたくなかったのであろう。
いずれにせよ、福富平左衛門は家康のあたらしい居城である遠州浜松城に急行した。
「弾正忠(信長)殿は、左様に申されたか。さればできるだけ早く支度をととのえて参ると御返事せよ」
と、家康は福富平左衛門にいった。使者の福富は話の内容がなんであるかはついにつかめなかった。
福富だけではない。
信長の重臣たちにもわからなかった。
「京へのぼるぞ」
と信長は触れだしただけのことである。
――さてはまた京で将軍拝謁か。
と、重臣たちもおもった。毎度のことでめずらしくもなかった。
岐阜出発まぎわになって信長は、
「将軍館の落成の祝いを京でする。できるだけ賑々《にぎにぎ》しくやりたい」
といった。この祝賀行事の準備のために奉行どもが京へ先発した。
「できるだけ賑々しく」
という趣旨で、織田家と同盟関係にある諸大名にも令をくだした。
「京に参集せよ」
というのである。徳川家康、飛騨《ひだ》の姉小路《あねのこうじ》中納言《ちゅうなごん》、伊勢の北畠《きたばたけ》中将、河内の三好義継《よしつぐ》、大和の松永久秀などである。
ただその日は、
「四月十四日に。――」
というのであった。なるほどそのころの都は気候もよく、落成の祝賀行事をするにはもっともいい日《ひ》柄《がら》であろう。
が、信長が自分の軍団に出発を命じたのは二月二十五日である。当日までに一月あまりもゆとりがある。
(なにか、ある)
信長の重臣たちはやや不審をおぼえ、信長の真意をはかりかねていた。
しかもいつもの信長なら、神速果敢な急行軍をするのに、
「春ぞ。ゆるやかに駒《こま》を打たせよ」
と、全軍に悠長《ゆうちょう》な速度を命じた。変幻自在でつねになにを考えているのか、この男はまったくわからない。
織田軍団は、ゆるゆると琵琶湖《びわこ》の東岸をすすみ、行軍二日目は常楽寺に宿営した。
のちの安《あ》土《づち》である。
安土郷は、琵琶湖が大きく彎入《わんにゅう》したその岸辺にあり、水郷としての風景は湖国随一といっていいであろう。
「この里の春色はいい」
と、信長は京の行きかえりに常に飽かずにながめてきた風景である。
そこに、常楽寺という巨《おお》きな寺がある。僧房などが多くあって、軍団の宿営にはつごうがいい。
信長は、ここに腰をおろした。
「どうせ、いそがぬ旅である。徳川殿が参着するまでゆるりと泊まるぞ」
といった。かれはこの常楽寺(安土)付近がよほど気に入ったらしく、のちにここに安土城を築いている。
(どんな御料簡《ごりょうけん》か)
と、みながあきれるほど、信長はゆるやかに逗留《とうりゅう》した。日が経《た》って三月に入っても腰をあげない。京へゆこうともしないのである。
(なぜ、このような田舎に)
足軽までが、不審をおぼえた。
やがて彼等は、信長が正真正銘、遊《ゆ》山《さん》のつもりで逗留していることを知った。
「角力《すもう》の興行をする。近在の力ある者を召しあつめよ」
と言いだしたのである。
(なるほど、多年戦場を駈《か》けまわられた御骨休めをなさるのじゃ。たまのお遊びもよいであろう)
と、家来たちも気持が駘蕩《たいとう》としてきた。
角力興行のための臨時奉行に木《きの》瀬《せ》蔵春庵《ぞうしゅんあん》という同朋頭《どうぼうがしら》がえらばれた。木瀬は角力通である。大いに勇み立ち、近江一国の村々に使いを出し、街頭には高札をたてて、選手をかりあつめた。
予選をし、強豪をえらびぬいて、常楽寺境内で本角力をさせた。
信長は、高欄《こうらん》のむこうで見物している。少年のころから無類の角力好きだけに、顔色を変えて勝負のこまごましたところまで観《み》ていた。
力士の名がおもしろい。
百済《くだら》寺《でら》の鹿《しか》
百済寺の小鹿
は兄弟力士で、めっぽう強かった。
たいとう
正権《まさごん》
長光《ながみつ》
宮居眼左衛門
この眼左衛門などは、信長がなるほどと感心したほどに目が大きかった。
河原寺の大進《だいしん》
はし小僧
深尾又次郎
鯰江《なまずえ》の又一郎
青地の与右衛門
このなかでも、鯰江と青地の強さは抜群だったため、信長は高欄の下まで召して高声でほめ、
「汝《わい》ら二人を抱え力士にするぞ。きょうより家中に加わり、角力奉行をつとめい」
といった。この名誉にそれぞれの出身村までが大いに面目をほどこし、村中踊りながら常楽寺の宿陣まで御礼にきた。このため、いよいよ近江の街道筋は沸きにわき、
「岐阜様は、よい遊楽をなされておる」
と、近国までの評判になった。ときが戦乱のさなかだけに、この信長のふるまいは、街道をゆく旅人たちの目によほど鮮かな印象にうつったのであろう。
信長が近江常楽寺から腰をあげたのは、三月四日のことである。
五日、京に入った。
宿舎が、変わっている。こんどはいつもの妙覚寺ではなかった。
個人の屋敷であった。京の医者で、半井《なからい》驢《ろ》庵《あん》という者の屋敷である。
「驢庵の家にとまりたい。支度をしておけ」
という命令が、在京官の光秀のもとにきたのはその前日であった。
光秀は、あわてざるをえなかった。すぐ半井驢庵の家にゆき、その用意をととのえたが、
(なぜかような医者の家に)
と思わざるをえなかった。
もっとも医者とはいえ、半井家は天子の侍医で官位も高く、それに将軍や富豪の脈もみるから、富裕でもある。屋敷はほどほどに広かったが、かといって大寺のようにはいかない。
(どこにでも泊まりたがる御人だ)
と、光秀はあきれる思いだった。
やがて信長が到着すると、
「驢庵、茶道具をみたい」
といったから、光秀にも信長の真意がわかってきた。驢庵は畿《き》内《ない》でも有名な茶人で、その所蔵している道具には逸品が多い。
信長は、極端な茶好きであった。とくに道具には目がない。
驢庵はすぐ堺《さかい》の茶道仲間に使いをはしらせ、信長にみせる自慢の品々をもってあつまるように通報した。
すぐそれらが集まった。
信長はほしくなり、それらを売れと命じ、それぞれ相応の代金をあたえた。
家康も、入洛《じゅらく》した。
やがて四月に入ると、織田系の大名小名が京に雲のごとくあつまり、その十四日、将軍館で盛大な落成の行事がおこなわれ、能の興行などがあった。
信長は、天下を油断させた。
その数日後に京を発し、琵琶湖畔を急進し北へむかい、越前に入り、朝倉方の手筒城《てづつじょう》を攻撃し、京で能興行をした翌日から十日目にその城を奪い去っている。
朝倉家にしては、まったくの寝耳に水で、防衛態勢でさえ十分でなかった。
(なるほど琵琶湖畔や京での遊楽は、こういうこんたんがあってのことか)
と、軍中で立ちはたらいている光秀でさえ敵城を攻撃しながら、それをおもうと呆然《ぼうぜん》たる思いがした。
信長は、義昭を責めず、義昭がたよりにしている越前朝倉氏を討ちとろうとしたのである。
敦賀
越前敦賀の平野に襲来した織田の大軍をみて、越前朝倉衆は、
「天兵が舞いおりたか」
と、仰天した。
信長の突然の侵入におどろいたこともあるが、織田軍の軍装のまばゆいばかりの美しさに、
――天兵か。
とおどろいたのである。
越前朝倉は大国とはいえ、所詮《しょせん》は生産力にとぼしい北国であり、かつ太平洋岸の諸国よりも具足の進歩の点で遅れている。
その点、織田軍の本拠である尾張(愛知県)はおそらく日本第一の富裕地であるといっていいだろう。とくに信長の父の代になってから灌漑《かんがい》が進んで、寸尺も荒《こう》蕪《ぶ》の地はなく、かつ伊勢湾にむかってすさまじい勢いで干拓事業がすすんでいる。
それだけではなく、尾張は海路の交通の要衝で商業が大いに進み、現金の保有量の点で日本海岸の越前とはくらべものにならなかったであろう。
武具の華麗さに、越前兵が驚嘆したのもむりはない。
しかも主将の信長は、たれにもまして好みの派手やかな男である。
(なんと傾《かぶ》いたるお人か)
と、織田軍の一将である明智十兵衛光秀でさえ、信長の大将としての姿におどろいたくらいであった。傾《かぶ》く、とは、衣装の好みが正統的でなく、伊達《だて》でしゃれている、もしくは不良っぽい、という意味だ。
信長自身の軍装は、紺《こん》地《じ》に金襴《きんらん》の包具足《つつみぐそく》、頭には銀の星でおおった三枚兜《かぶと》、腰には黄金づくりの太刀をはき、馬は黒竜かとおもわれるような「利《り》刀黒《とうぐろ》」。
その馬まわりに、総大将のシルシとされる十本ノボリの大旗をひるがえさせ、旗の地はことごとく朽《くち》葉《ば》色《いろ》である。
その信長の親衛部隊は、まず足軽隊は弓、鉄砲、三間《さんげん》柄《え》の皆朱《かいしゅ》の槍《やり》が三百本、騎士隊はそろいの具足をつけた武者五百騎という華麗さだ。そろいの軍装、という着想は、この信長をもって最初とするであろう。
信長は音楽がわからない。
しかし絵画・工芸などの造形芸術については天才的な眼識をもっていた。そういう男なるがために、自分の軍隊の軍容については、それを芸術品のように思っていたのであろう。
手筒城などは、一瞬で落ちた。この織田軍の軍容をみただけで、朝倉兵の戦意は萎《な》えてしまったのにちがいない。
つぎは、敦賀平野の本城である金ケ崎城である。
攻撃にさきだち、信長は光秀をよび、
「そちは、金ケ崎をよう知っておるな」
といった。
知っている段ではない。光秀は朝倉家の旧臣である。その支城である金ケ崎城には将軍義昭の流《る》浪《ろう》当時、義昭も滞留し、その義昭を接待するために、しばしば越前一乗谷の首都から出かけて行って、この城に泊まったものだ。
「絵図を描け」
と、信長はいった。
光秀はやむなく紙をのべ、従軍の絵師からえのぐ《・・・》を借りてすばやく描いた。すばやさをつねに信長は要求した。
「おもしろい絵だ」
信長は、めずらしく声をたてて笑った。
金ケ崎城は、ほそい岬《みさき》を要塞《ようさい》化したものである。岬の根もとが、大手門になっている。堀は大手門の前に二重にあるのみで、城の三方は海であり、断崖《だんがい》であった。
その海には浪がえがかれ、二つ三つ、白帆さえ浮かんでいるのである。その白帆をかいた光秀の洒落《しゃれ》っ気《け》が、信長の気に入ったらしい。
「そちにすりゃ、旧主家を討つことになる。どんな気持だ」
と、信長は真顔できいた。
「別段の愛憎はござりませぬ。ただ侍としての武辺を立てることのみが存念でござりまする」
「憎くも可愛《かわ》ゆくもないとは、酢でもなく酒でもなく、水のような気持か」
「はい、水のような」
と、光秀はいわざるをえない。そんな心境などは、人間ありえぬではないか。光秀にとって越前の山河は流浪時代最後の思い出ふかいところであり、しかもこの期間、朝倉家の米塩《べいえん》をもらって妻子の口をやしなってきたのだ。
また旧知の人々も多い。
軍学をおしえた門人もいる。にがい思い出も多かったが、また陰に陽に光秀のためにかばってくれた朝倉家の老臣もいたことだ。ゆらい、越前人は情誼《じょうぎ》にあつい。
(かれらと戦場で遭いたくない)
という感情が敦賀平野に入った光秀の脳裏をつねに占めている。決して水のごとき心境ではない。
攻撃がはじまった。
光秀は、最前線に進出した。目の前の金ケ崎城の外柵《がいさく》に鉄砲をもたせかけてさんざんに撃ち出してくる。
織田軍はさすがに萎縮《いしゅく》し、全軍、遠撃ちに鉄砲を撃ったが、みな堀の手前で弾が落ちて一弾も敵にあたらない。
光秀は業《ごう》をにやして馬から降り、みずから鉄砲足軽五十人をひきい、
「鉄砲は敵の三十間、四十間の手前まで進まねば験《げん》のないものぞ」
と叱《しっ》咤《た》し、かれ自身も鉄砲をもち、草の上を駈《か》けて敵に近づき、
「鉄砲とはこうぞ」
と、二発撃って放った。
その勇気に鉄砲足軽が進出し、さらに他の隊の足軽も寄せに寄せはじめた。
となれば、火力において織田軍は絶対の優勢になった。
なにしろこの攻撃正面に出ている鉄砲だけで二千挺《ちょう》はあるであろう。それが、狭い金ケ崎城の柵と大手門、櫓《やぐら》に集中するのだ。小城は鉛弾の夕立をあびて息つくひまもない。
(妙なことがある)
攻撃指揮をとりながら、光秀は思った。城の東に、木ノ芽峠の高《たか》嶺《ね》が屏風《びょうぶ》のようによこたわっている。その屏風をなす山脈をこえてむこう側の越前本軍が支城の救援に来そうなものだが、敵本軍はいっこうにあらわれないのである。
(一乗谷はなにをしている)
光秀は、敵のことながらその作戦のまずさにいらだつ思いがした。奇妙な感情というべきだった。
(やはり、古巣への故旧の情というものだ。水のごとき心境ではない)
と、ひそかにおもった。
城は一日で落ちた。
守将朝倉景恒《かげつね》は、一乗谷の本軍の救援のないことにたまりかね、信長に開城降伏を申し入れてきたのである。
信長はゆるした。信長がここで殲滅《せんめつ》主義をとらなかったのは、越前攻略の根拠地として一刻も早くこの金ケ崎城がほしかったのである。
降将朝倉景恒は敗兵をひきいて木ノ芽峠の東へ去った。
(なんともろい)
と、光秀はその夜、陣中でこの北方の老大国のふがいなさに腹が立った。
「明智殿は、もと朝倉家におられたな」
と、この陣中、他の将校がよく話しかけてくる。もし朝倉勢が強ければ、
「居申した」
と、光秀は胸を張って答えることができたであろう。武門は強ければいよいよ強いほうがよく、そこにかつて士籍を置いたという光秀の履歴も冴《さ》えてくるのである。しかしこの場合、逆であった。
織田方の探索の報告では、越前の首都一乗谷ではこの事変でさすがに色めき立っているという話だが、当の総大将の朝倉義景《よしかげ》はほとんどなんの反応も示さず、
「どうであろう、敦賀くんだりまでわしみずからが馬を出さねばならぬか」
と、老臣たちにきいたという。自分自身出馬するのが、どうも億劫《おっくう》であるようだった。
かれを補佐する老臣の質がよくない。一族門閥でかため、たれひとり器量のある男がいないことは、光秀はよく知っていた。知っているばかりでなく光秀の朝倉家勤《ごん》仕《し》の当時、新参者のかれはその門閥の壁のあつさにほとほと泣かされた苦い思い出がある。
「なにを申される」
と、義景をしかりつける老人もいない。ただ「総大将の御《お》馬《うま》出《だ》しは故例でござる。故例どおりなされよ」という者があり、義景はそれが「故例」という儀式であるかのような気持でやむなく出馬した。
が、行軍の途中でさまざまの理由をつけて一乗谷にひきかえしてしまった。
全軍の士気は、一時に堕《お》ちた。
救援軍の指揮は一族の朝倉景鏡《かげます》にゆだねられたが、景鏡もみずから火中の栗《くり》をひろう気がせず、府中(武《たけ》生《ふ》)までゆき、そこに軍をとどめて動かなくなった。
そんな情報がすでに織田軍の野戦陣地にとどいており、光秀もそれを聞き知っている。
金ケ崎城が開城した夜、光秀は信長の本営によばれ、信長自身から、
「そちは、木ノ芽峠から以東一乗谷までの地理にあかるい。先鋒《せんぽう》の三河守殿をたすけよ」
と、命ぜられた。
越前の本《ほん》野《や》に乱入するための戦闘行軍の部署割りが、先頭ときまったのである。光秀は自分の武運のよさによろこび、
「ありがたき仕合せに存じまする」
と御礼を申しのべた。
先鋒軍は、織田家の同盟軍である徳川家康である。家康は三河兵五千をひきいていた。
その三河の友軍に同行して光秀は全軍のまっさきを進むことができるのだ。危険が多いかわり、功名を樹《た》てる機会も無数にあるであろう。
「おうらやましいことだ」
と、そんな表情で祝意をのべてくれた男がいる。
光秀は忘れもしない、日は命令を受けた翌朝で、場所は本営の柵のそばの根あがり松のあたりである。朝から暑い日で、天が染めたように青かった。
「ああ、藤吉郎殿か」
と、背の高い光秀は、ほとんど見おろすような近さで、小男の木下藤吉郎とむかいあった。
小男だが、藤吉郎は織田家の将校としての容儀はわるくはない。洒落《しゃれ》た紗《しゃ》の陣羽織を紺糸具足の上からはおり、その紺が紗をとおして透けてみえて、いかにも涼しげだった。
「いや、ごぞんじのとおり、私は多少越前の山河にあかるい。殿はそれをお買いくだされたのであろう」
「木ノ芽峠をこえて一乗谷まで、道のりはどれほどある」
「十六里」
「その間、城かずはいかほど」
「砦《とりで》まであわせると、十六城か」
「一里に一城とは、これまた堅固な国よの」
藤吉郎は首をふり、
「そのなかでめぼしい城は」
「府中城じゃな」
と言い、光秀はあることを察した。藤吉郎は光秀からできるだけの兵要《へいよう》地誌《ちし》を仕入れておき、自分の功名の場所をあらかじめ予定しておこうとしているらしい。
(抜けめのない心掛けだ)
と、内心、舌を巻いた。武士たる者で功名を心掛けぬ者はないが、ほとんどの武士は、戦場の成り行きのなかで成り行きにまかせ、いい功名のたね《・・》をさがそうとする。
が、藤吉郎はちがっていた。信長の戦略をあらかじめ想定し、その想定のなかで積極的に自分の功名の場所を創《つく》りだそうとするたちの男らしい。
「そういうことか」
と、光秀は、訊《き》いてみた。
藤吉郎は陽気に笑い、
「さすがは十兵衛殿、よくぞ見ぬかれた。府中城のことを教えてくだされ」
と、掌《て》をあわすまねをした。そんなふざけたまねをしても、この男の場合、ちっとも卑《いや》しい感じがしないのである。
「では、それにおしゃがみなされ」
と、光秀は自分もしゃがみ、地面に折れ釘《くぎ》で図を描きはじめた。
「ここが本丸、これが二ノ丸」
と、描きつづけてゆくうちに、精密そのものの城郭図が地面に現出して行った。
(この男、よくここまで精《くわ》しく)
と、藤吉郎は眉《まゆ》をあげて光秀をみた。瓦《かわら》の数までおぼえているのではあるまいかと思われるほどの記憶力である。
が、藤吉郎は、じつのところ光秀の説明などはあまりきいていない。このすぐれてかん《・・》のいい下郎あがりの将校は、すでに府中城の城攻めの場合での自分の打ち出すべき角度と行動がひらめいたようだった。
「いや、ありがたし」
藤吉郎は立ちあがり「それにしても徳川殿とともに先陣というのはおうらやましい。銭《ぜに》で買いたいような御運だ」と言いのこして、立ち去った。
藤吉郎に別れたあと、光秀は自分の隊と小《こ》荷駄《にだ》をまとめて敦賀を出発した。
すでに先鋒の徳川軍は、木ノ芽峠のふもとの深山寺という山村のあたりまで前進しているのである。光秀は日のあるうちに追いつかなければならなかった。
烈日の下を、明智隊は急行軍した。坂はけわしく、ときに馬さえ蹄《ひずめ》をすべらせて横倒しになり、難渋をきわめた。
四里の山坂を行軍して新保という部落の下までついたとき、徳川軍が休息していた。
光秀はただちに馬を降り、徒歩で三河兵の群れをかきわけながら家康の床几《しょうぎ》をさがし、鄭重《ていちょう》にあいさつした。
「これは明智殿」
家康は、ゆっくりとした物の言い方で、光秀以上に丁寧に会釈《えしゃく》した。
家康は、この元《げん》亀《き》元年で満二十八になる。下ぶくれで目のまるい童顔のもちぬしで、この若者の物腰の鄭重さは織田家の将校のあいだでも評判のものだった。光秀のような織田家の中級将校に対しても、この三河の国主はおろそかな態度を示さない。
「道案内を相つとめます」
と、光秀がいうと、家康は肉のあつい小ぶりな掌をふり、
「もったいない、明智殿ともあろう御仁に。しかし拙者は越前は不案内ゆえ、いろいろと御指図をおねがい申す」
といった。家康にすれば、信長派遣の連絡将校に、信長に対する態度とよく似たへりくだりようで接するのである。
この夜は、新保付近で宿営した。
翌日、光秀は敵情偵察《ていさつ》をも兼ねて先発し、峠の上までゆき、そこで休止した。
(このさきは、あぶない)
とみたのである。すでに峠のむこうには朝倉の小部隊がしきりと出没しているようであった。
「今夜は、このあたりで宿営するがよろしかろう」
家康にもすすめ、さらに物見を出して前方を偵察した。
その二十八日夜、織田軍は、この軍団がかつて経験したことがない異変に見舞われた。これまで織田家の同盟関係にあった北近江の浅井氏三十九万石がにわかに越前朝倉氏に呼応し、織田軍の退路を断ち、敦賀にとじこめ、包囲殲滅《せんめつ》をしようという挙に出た。敦賀の陣中でこの変報をきいた信長は、
「まさか浅井が。――」
と、最初は信じられぬ面持《おももち》だった。浅井家の若い当主長政に、信長は自分の妹のお市をとつがせているのである。長政は篤実《とくじつ》な性格の男で、裏切りをするような男ではない。
が、すぐ事実とわかった。
そのとき信長はもはや敦賀にいなかった。
神のような早わざである。この遁走《とんそう》を全軍団に告げたわけではなく、わずかに後を追う馬廻りの人数をひきいたまま闇《やみ》にまぎれて脱出し、浅井領ではない琵琶湖西岸の山岳地帯を縫って京都への遁走を開始した。
置きざりにされた軍団はつぎつぎにこの総《そう》帥《すい》蒸発の異変を知り、退却部署もそこそこに敦賀を去りはじめた。
あけ方になって大半の織田軍が、せまい敦賀平野から消えた。
知らぬのは、最前線まで出ている光秀と家康である。
その徳川軍のもとに、なんと木下藤吉郎から伝令がきてこの変事を報《し》らせた。
「ほ、弾正忠殿が早や。――」
と、家康は目をまるくし、すぐ退却部署をととのえ、坂をくだりはじめた。
光秀は、最後尾である。
藤吉郎の伝令は、親切にも光秀のもとにもきた。この伝令は藤吉郎の好意によるもので、信長の命令によるものではない。
「感謝していた、と伝えよ」
と、光秀は馬上で会釈し、
「さてその藤吉郎殿はどこにおられるか」
と、きいた。
「金ケ崎城に」
と、伝令は答えた。なんと藤吉郎はこの退却戦の殿《しんがり》を買って出て、金ケ崎城の守備についたという。全軍が退却したあとはじめて藤吉郎隊は退却するのだが、そのときはおそらく朝倉・浅井の兵が満ちみちて、待ちうけている運命は死しかないであろう。
(あの男、妙な役目を買って出たものだ)
光秀は、おもった。
藤吉郎という功名好きな男は、ついに九割九分の死を賭《か》けて、あとの一《いち》分《ぶ》の功名を買おうとするらしかった。
(あの男は死ぬだろう)
光秀は馬をいそがせた。すでに山上に朝倉の追撃部隊があらわれはじめているのである。
退却
太陽が、光秀の背にある。
山上の朝倉軍からみれば、退却してゆく織田軍は絶好の射撃目標だったろう。
(ひどい戦さになったものよ)
手綱をひきしめひきしめ、光秀はおもった。坂がけわしくなっている。坂道に岩の骨が露《あらわ》れ、馬の蹄《ひづめ》を立てにくい。
陽《ひ》がのぼるにつれて、兜《かぶと》が灼《や》けはじめた。
「いったい、どこまで退くのでござりましょう」
と、弥平次光春がきいた。退却戦というのはどこか防戦しやすい場所までくれば踏みとどまるのが普通なのだ。弥平次はその退却終止点をきいたのである。
「そんなものがあるかよ」
光秀は、あごに滴《したた》る汗を、籠手《こて》で拭《ぬぐ》った。籠手の鉄片が、あごの皮膚を灼いた。
「あるかよ、とおおせられますのは?」
「ない、ということだ。よくよく考えてみれば、われらが殿ほど風変りなお人はない」
「とは?」
「殿は、はろけくも京までお逃げあそばすのだ」
「この越前から?」
「そうよ、この越前からよ」
光秀は、信長の思考法というものが、まったく解《げ》せない。戦術家としての発想が、である。
(おれなら、もっとちがう戦さをする)
と思うのだ。
なるほど信長は神のごとく疾《はや》い。たったいま京にいたかと思うと、日本海に面した越前の野に舞いおりたかのごとくやってくるのである。
それはいい。それなればこそ、朝倉の支城である手筒城、金ケ崎城は、一日二日の間で陥《お》ちた。城がこうも早く陥ちる例というのは古今まれなことだ。
ところが、北近江の浅井氏が寝返った。織田軍の後方を遮断《しゃだん》し、信長を狭い敦賀の野にとじこめ、朝倉軍とともに包囲殲滅しようという挙に出た。みごとな戦術といえた。
なぜならば、信長とその麾下《きか》数万の軍勢のひしめいている敦賀平野というのは、三方は山壁にかこまれ、前面は海である。そこに数万の織田軍がひしめいた状態は、ちょうどざ《・》る《・》に魚を盛りあげたようなかっこうで、みなごろしにするにはこれほど絶好な地理的条件はない。
信長は自分の危地に気づいた。
気づくと同時に消えたのである。味方をすて、単騎で消えた。
しかも京へ。
その退路距離のながさは、これまた古今未《み》曾有《ぞう》であろう。敦賀平野に舞いおりたあざやかさもさることながら、その逃げっぷりの徹底している点でも、常人ではない。
(だから、変わっている)
光秀はおもった。普通の戦術家なら、こうはやらない。弥平次光春のいうように、戦場をいったん離脱し、適当な場所で防戦し、小あたりにあたって敵の出ぐあいを見、弱しとみれば逆襲し、強しとみればさらにしりぞく、その芸が巧《こう》緻《ち》であればあるほど名将といえるわけだ。
(おれならばそうする)
光秀はおもったが、しかし信長のやり方に対して自信があるわけではない。あるいは信長のやり方は戦術上の既成概念を破っているだけに、天才的といえるかもしれない。
(思いたくはないが、そうかもしれぬ)
敦賀平野で後方の浅井氏の寝返りを知ったときに信長は、
(この遠征、やめた)
と、とっさに決心した。戦おうと思えばなんとか押しつ押されつして首数稼《くびかずかせ》ぎの戦闘はできるが、信長という男はそういう助平ったらしい未練のない男らしい。一戦もまじえずに逃げた。
戦略的にいえば、もともと京都に軍団を集結していて越前(福井県)の朝倉を奇襲するなどは無理の無理である。
ただし、無理をまげて可能性を見《み》出《いだ》す道は絶無とはいえない。あればこそ信長はやった。その可能性は、ただ一つのかぼそい条件でささえられていた。北近江の浅井氏が友軍であるということだ。浅井氏は積極的に戦闘に参加こそしないが、織田軍の領内通過をゆるし、態度は予想どおり友《ゆう》誼《ぎ》的であった。だから浅井氏は後方の脅威にはならない。
さればこそ信長は、京都からはるばる越前を奇襲するという奇略に踏みきった。この奇略の成功は、絹糸のようなかぼそいただひとすじの条件でささえられていた。
「浅井氏は裏切りをせぬ」という条件であった。
が、その条件は崩れた。
条件が崩れても、すでに行動をおこしてしまった以上、普通は未練がのこるものだ。げんに勝ちいくさである。越前領の一部をたった二日で占領し、城を二つも陥《おと》した。普通ならばこの戦果とすでに行動してしまった体温の熱っぽさにひきずられて次々と行動を重ねるにちがいない。
(普通なら、そうする)
光秀はおもった。そして普通ならば、その行動を積みかさねればかさねるほど裏目々々と出て没落に身をころがしてゆくものだ。
(左様、裏目々々と出る。普通ならばそう出る。そうは出さぬのが芸というものだ。おれならばこういう場面でこそ芸を発揮する)
が、信長は勝負をやめた。
とっさに逃げたのである。逃げれば無傷であり、一戦もまじえぬ以上「負けた」という噂《うわさ》を天下にふりまかずに済む。いまの時期の信長にとっては、
――越前で負けた。
という悪評がすこしでもでれば、畿内であらたに味方になった地侍どもは織田家に加担していることを不安とし、動揺し、他の敵、たとえば摂津の本願寺を頼り去るだろう。その悪評が信長にはこわい。
(となると、この信長の煙のような身隠しと全軍の京への総退却は、諸葛孔明《しょかつこうめい》でさえ思いつかぬ芸の最大なるものかもしれぬな)
光秀は、いろいろと反芻《はんすう》した。
その間も、退却戦にいそがしい。
一町退《しりぞ》いては踏みとどまって鉄砲を後方へ乱射させ、さらに一町をしりぞく。このたくみさでは、織田軍の諸将のなかでも光秀ほどの芸達者はいなかったであろう。
芸達者、といえば家康もそうである。
この若い三《み》河《かわ》の国主は、同盟者の信長に置き捨てにされながらも不平さえいわない。
(三河殿もまた風変りな。――)
と光秀は、信長に対する目とはまたちがった目で、徳川家康という若者をみた。
(あほう《・・・》のように丸いお人だ)
とおもうのである。
置きざりにされるなどというひどい仕打ちを受けながら、家康が洩《も》らした感想といえば、
「ほ、弾正忠殿はもはやおられぬか」
ということだけであった。
家康は色白の脂肪質で、両眼がくるりとまるい。
顔が大きく足のみじかいその一見楽天的な感じのする肉体的条件も手伝って、その驚きようは、どちらかといえば好もしい滑稽《こっけい》さを伴った。
(いい若者だな)
光秀は、家康の背をみながら思った。人間窮地に立つと思わぬ弱点が出るものだが、この若者はそのうまれついての長者の風ぼう《・・》をすこしも崩さない。
山麓《さんろく》を駈《か》けおりて平野に出たあたりで、敵の追撃が激しくなった。
光秀は馬上で機敏に指揮をしたが、家康もこの点はかわらない。
家康のごときは追いすがってくる敵武者に対しみずから鞍壺《くらつぼ》の上で鉄砲をとり、何発か轟発《ごうはつ》した。
大将みずから鉄砲をとるということはこの当時の慣習にはないことだ。家康は好んでそうしたのではなく、そうせざるをえないほどに敵の追撃が激しかった。
家康と光秀の隊は、一団になって駈けた。
やがて敦賀金ケ崎城の柵《さく》が目の前にみえてきた。
この城はすすんで全軍の殿軍《しんがり》を買って出た木下藤吉郎がまもっているはずであった。
(あの男のすさまじい忠義ぶりよ)
光秀は悪意でなくそう思った。おそらく藤吉郎は大潮《おおしお》のような朝倉軍に呑《の》まれて死ぬであろう。
いや、たれもがそう思った。
思った証拠に、最後尾の家康・光秀が来るまでに、かずかずの美談が、この柵を通過する諸将によって作られた。
諸将は感動したのだ。信長および自分たちをぶじ退却させるために藤吉郎は死ぬのである。
「ご苦労でござる。ご武運をお祈り申す」
と諸将はみな馬からおり、柵の中にいる藤吉郎にむかって敬礼した。
それだけではない。
藤吉郎は、家来が二、三百といった程度の将校だから、戦力はあまりない。それをみかねて諸将が、三騎五騎七騎と、自分の家来のなかから最も役に立つ武者をえらんで藤吉郎に付け残して行った。それがいまの藤吉郎に対してはなによりの馳《ち》走《そう》であった。
やがて家康の軍および織田家の連絡将校である光秀の隊がやってきた。
「やあ三河殿、それに十兵衛殿」
と、藤吉郎は柵の中から叫んでいる。
「ご無事に京へ帰られませよ。御武運を祈りあげておりまするぞ」
陽気な声だが、場合が場合だけに、光秀には悲痛にきこえた。
その間も、坂をかけ落して追撃してくる朝倉勢はいよいよふえてきた。
家康・光秀はそれに相手にならざるをえない。ときには全軍反転して押しかえし、そのすきに退いてゆく。
その退却の支援を、藤吉郎は柵内からやってくれるのである。ありったけの鉄砲をならべて轟々と朝倉勢へ放った。
(これはありがたし)
光秀は、藤吉郎の処置をどれほどありがたく思ったことであろう。
家康も同様だったにちがいない。
ただ家康という男は、晩年のかれの印象とはちがい、三河の篤実《とくじつ》な農夫といった面があり、ひどく律《りち》義《ぎ》で、こぼれるほどの人の好さをもっていた。
「十兵衛殿、あれは捨ておけませぬな」
と家康は、弾雨のなかでいったのである。
「あれ《・・》とは?」
「木下殿のことでござるよ」
家康のいうのは藤吉郎をこの戦場に置きすてて自分たちだけが退却するに忍びないというのだ。
(自分こそ信長に置きすてられた男ではないか)
光秀はちらりと思った。家康はそのことを恨みがましく言わないばかりか、藤吉郎をさえ拾っていこうというのである。
「どうであろう、ともに城に入りませぬか」
「いかにも左様に」
と光秀も賛成した。
戦術的にもわるい方法ではない。捨て残された者がばらばらで逃げるよりも、三者力をあわせて一ツになって逃げるほうが、より損害はすくないであろう。
家康は、藤吉郎にその旨《むね》申し入れた。
柵内の藤吉郎はおどりあがってよろこび、
「かたじけなし」
と、家来に柵の戸をひらかせた。家康、光秀の隊はどっと入った。
このため防禦《ぼうぎょ》火力がふえた。
徳川、明智、木下の三隊の鉄砲隊は筒口をそろえて撃ちまくり、鉄肌《てつはだ》が熱くなると水桶《みずおけ》につっこんで冷やしては撃った。
むろん、射撃だけではない。
射撃のあいまに柵をひらいて突撃し、ときに敵を十町むこうに追いかえした。
この一戦は、
信長一生の難儀たりしに、家康公の御加勢を被返候《かえされそうろう》て、秀吉が勢に御加り、御一戦の刻《とき》、御自身御鉄砲を取らせられ朝倉勢を御防ぎあそばさる。
といったように、「東照軍鑑」をはじめ家康一代の記録には熱っぽく書かれている。徳川家としては忘れがたい体験だったのであろう。
藤吉郎秀吉にとっても、一代のうちの忘《ぼう》じがたい一日だった。星霜をへて秀吉が天下をとり、家康と和《わ》睦《ぼく》し、家康を上洛《じょうらく》せしめてはじめて主従の関係を結んだとき、秀吉は家康の手をとり、
「むかし金ケ崎の退口《のきぐち》で徳川殿にたすけられ九死に一生を得申した。あのときのこと、ゆめにも忘れてはおりませぬぞ」
といったほどである。
やがて、朝倉勢が遠のいた。
「いまぞ」
藤吉郎も家康、光秀も、同時にそうおもった。いまをおいて、柵をひらいて逃げだす機会はないと見、順次、部署によって退却を開始した。
半里も行軍するうちに、ふたたび朝倉勢が追いすがってきた。
そのつど、家康隊、秀吉隊、光秀隊が整然と動いて後方の敵と戦い、戦っては退き、ときに展開し、ときに駈け足の退却をした。もっとも困難といわれている退却戦で、この三隊ほどみごとにそれをやった隊はない。
先行している他の織田軍の諸隊のうち、士卒が四散してしまった者もある。隊形が崩れたために無用の死傷をおびただしく出したが、最後尾の三隊のみはほとんど無傷にちかかった。
やっと越前・若狭《わかさ》の国境にたどりついたときには日が暮れた。
この三隊は、途中先行諸隊の落《らく》伍《ご》者《しゃ》を収容しつつ闇中《あんちゅう》を進んでゆく。
「殿はごぶじか」
と藤吉郎は落伍者をひろうたびに毎度そのことをきいたが、たれも答えられる者がいなかった。
じつのところ、信長の一命がぶじだったことをこの三人が知ったのは、京にもどってからのことであった。
信長の逃げっぷりは、じつにかるがるとしたものであった。
敦賀の陣で、
――逃げる。
ときめたときには、とっさに具足をぬぎすてた。具足が重ければ馬の負担になる。京までの長途の退却行に馬がまず参るのだ。信長は小《こ》袖《そで》のみを着、その上に真っ白の薄羽織をはおって馬に乗った。
薄羽織には、蝶《ちょう》の紋所がついている。本来織田家は木瓜《もっこう》の紋である。木瓜を輪ぎりにしてその断面を図案化した紋だ。この蝶の華麗な紋はこの時期、信長がむやみに好んだ意匠で、このときの薄羽織の紋がそうだった。信長が馬を駈けさせると薄羽織が風にはためき、蝶がはたはたと動いた。
若狭境で家来がだいぶ追いついてきた。
なにしろ、道は山中にうねっている。琵琶《びわ》湖《こ》東岸の平野は浅井氏の領土であるため、わざわざ西岸の嶮《けん》路《ろ》をえらんだのだ。
惨澹《さんたん》たる退却行だった。
途中、敵味方さだかならぬ豪族が、城砦《じょうさい》をかまえて道をはばんでいる。
信長はまず若狭佐《さ》柿《かき》の城に立ち寄り、城主粟《あわ》屋《や》越中守を頼み、それに案内させてついで朽《くつ》木《き》谷《だに》に入った。
朽木谷の領主は朽木信濃守元綱である。
「いやさ、朽木谷城にはそれがしが参って説きましょう。かの城主の信濃守とはふるい知りあいでござる」
といって説得役を買って出たのは、たまたま信長の陣にいた松永弾正久秀であった。弾正はかつて将軍義輝を殺した悪名の高い男だが、このときはなんとしても信長の役に立ちたかったのであろう。
「もし朽木信濃守が異心をもちますならば、拙者はその場で刺し違えて死にまするまで」
と言いすてて朽木谷へ先行した。その後ろ姿を見て信長は、
「おれの運はまだ衰えぬとみえる」
と、ひとり高笑いした。
なぜといえば、松永弾正久秀ほどに利に敏感な男が、敗軍の将である信長のために一命を賭《か》けて朽木を説こうというのである。あの悪党の久秀に、この状態でなお見こまれている以上、まだまだ安心という意味で信長は笑った。
朽木氏は、ぶじ協力した。
信長が京へ駈けもどったのは四月三十日であった。その後ぞくぞくと織田軍は帰京し、最後の家康、秀吉、光秀が帰ったのは、信長よりはるかに遅れて、五月六日のことであった。
清水坂《きよみずざか》
五月《さつき》の頃《ころ》といえば、四季の色の鮮かな京でも最も匂《にお》やかな季節である。
越前から逃げ帰った信長は、東山の翠巒《すいらん》につつまれながら、旅宿の清水寺に静まっている。
(この都の深緑のうつくしさ、越前での敗軍はまるでうそのような気がする)
と、清水坂をのぼって信長のもとに伺《し》候《こう》するたびに光秀は思うのである。光秀には多少の詠嘆趣味がある。この感情の習慣は、この時代に生きる者にとって余分のものであった。光秀は坂をのぼってゆく。
登りながら、数日前のことを思い出している。
その日、越前から京に戻《もど》ってはじめて室町《むろまち》の館《やかた》に伺候し、将軍義昭に謁《えつ》した。京都守護職として当然なあいさつである。
「やあ、光秀もどってきたか」
義昭は手をたたきかねまじき上機嫌《じょうきげん》ぶりでいった。血色がよく、微笑が絶えない。まるで織田軍の未曾有《みぞう》の敗軍をわが福としてよろこんでいるかのようであった。
むりもない。
光秀には、この将軍の意中が手にとるようにわかるのである。信長のこんどの思わぬ退却は、秘密裏に反織田同盟を誘いかけつつある義昭の書いた筋と言えなくはない。その効能の直接なあらわれでないとしても、すくなくとも義昭が願望しつづけていた結果が、眼前に現われたのである。
(将来《さき》に希望がもてる)
と義昭はおもっているであろう。これを機に信長の運はくだり坂になり、やがては衰滅ということになれば、この信長の装飾品にしかすぎぬ足利将軍は名実ともに征《せい》夷《い》大将軍になり、ながい念願であった室町幕府をひらくことができる。
(光秀、よろこべ)
と、義昭は叫びたいほどだ。室町幕府再興という華やかな夢を、かつては共に見つづけた同志だったではないか。
いや、いまも義昭は光秀を同志として見つづけている。だからこそ、織田軍の稀有《けう》の敗戦に、義昭は光秀にしか見せぬむきだしの笑顔をみせたのだ。
(迷惑なことだ)
光秀は、思わぬではない。義昭の側近には多数の幕臣がいる。その幕臣たちはちかごろすでに信長の家臣同然になっており、どんな蔭口《かげぐち》を囁《ささや》かぬともかぎらない。
「越前での戦さばなしをせよ。そちの、いつものあの鮮かな手並を聞かせい」
「いや、他の戦さならばいざ知らず、今《こ》度《たび》は御味方総崩れにて、御聞かせ申しあげたところで名誉なことではござりませぬ」
「そちのみが、勝ったか。そう聞いている」
「いやいや」
光秀は、心中慄《ふる》えあがってしまった。義昭のいまの言葉がそっくり信長の耳に入りなどすれば大変な誤解を生むことになる。
(この御方にも、こまったものだ)
頭はわるくないのだが、軽率で短慮でしかも軽口なのだ。義昭のこの性質とこの存在は、いまや光秀の重荷になりつつある。
「金ケ崎の退口《ひきぐち》のことでござりまするか」
「おうさ、その殿戦《しんがりいく》さよ」
「その功はそれがしではござりませぬ。功の第一は木下藤吉郎殿、第二は三河の殿(徳川家康)、それがしはただただこのお二人の驥《き》尾《び》に付していたにすぎませぬ」
「謙遜《けんそん》することだ」
「いやいや上様、それは本当のことでござりまする。そのように御記憶願わしゅうござりまする。この段、伏して願いあげまする」
光秀は平伏した。必死である。事実、謙遜ではないのだ。驥尾に付したというのが正直なところで、功名など取り立てていうべきものはない。が、義昭はそうは受けとらない。
「自分をひけらかさぬというのは、そちの昔からの美徳だな」
義昭は光秀の保護者をもって任じている。贔屓《ひいき》でもあった。義昭にすれば、藤吉郎秀吉や徳川家康などに負けさせたくはない。
「このことは、信長に申しておいてやるぞ」
といったから、光秀は仰天し、畳の上に顔をこすりつけて号泣したくなった。
顔をあげ、血相を変えて、
「私には手《て》柄《がら》はなかった」
と言おうとしたが、これ以上は抗弁になる。貴人に対する態度ではない。
光秀はとっさに思案し、自分の心境をよみこんだ歌を一首、申しあげた。意味はたいしたことではない。越前の海辺まで行ったが成すこともなく戻ってきた。しかし歌の名所である気比《けひ》の松原を見ただけでも収穫であった、という意味のことを古《こ》今《きん》振《ぶ》りに言葉をつらね、みごとに詠《よ》みあげた。
「さすがは光秀」
と義昭は、膝《ひざ》を打ってよろこんだ。
(いやさ、こまったもの)
と、いま清水坂をのぼりながら、光秀は思うのである。
(人間の運とはむずかしいものだな)
――運は、つくるべきものだ。
と、むかし道三はいった。光秀はそれを肝に銘じて今日までの指針としてきた。道三は事実、作った。奈良屋のお万阿《まあ》も、クーデターによって国主の位置に押しあげた土岐頼芸《よりよし》も、道三の手作りの作品であった。それらの作品群が、道三を開運させてゆき、そのはてに道三は美濃の国主になった。
(おれの手作りは、将軍義昭様だ)
たしかにそうである。へんてつ《・・・・》もない奈良一乗院の僧であった義昭を掘り出してきて諸国を頼みあるき、ついに信長と結ばせることによって将軍の位置につけた。そのおかげで光秀はこんにちの運をひらいた。
(道三の場合の手作りは数多くあったが、おれは義昭様ひとつでしかない。しかもその一つにいま手こずっている)
こんな場合、道三ならば、すでに不用の作品になった義昭をどうするであろう。あるいはこれ以上はむしろ邪魔とみて叩《たた》っ殺すかもしれない。
(しかし、おれには出来ぬな)
光秀は坂をのぼってゆく。
信長は上段から、光秀を見た。
(こいつ、先日、将軍《くぼう》の御座の前で妙な歌を詠んだそうだな)
信長はその歌を、義昭からきいた。その歌は信長の越前攻めの不成功を嘲笑《ちょうしょう》しているようにも取れる。
「十兵衛、そちは松が好きか」
「と申しますると?」
「気比の松原のことよ。越前敦賀まで行ったのはそれを見たかったからだ、と将軍に申しあげたそうではないか」
「あれは歌でござりまする」
歌のあや《・・》というものだ、という意味のことをいったのだが、信長はその言いぐさが気に食わない。
「殿は歌道をおわかりになりませぬか」
というふうに聞こえる。もともと信長にはそういう中世的な詞華《ことば》の遊戯は体質にあわないし、ぞっとするほどきらいでもある。信長の感受性はつねに過去と断絶した前衛的な文物を好み、それを全身で楽しもうとする風がある。
「そちは、歌坊主か」
といった。
響きに、多少の憎《ぞう》悪《お》がこもっている。信長の嫌《けん》悪《お》する伝統芸術は信長の嫌悪する約束事でできあがっている。歌の場合、約束事とは、たとえば歌枕《うたまくら》であり、典拠となる名歌のことばなどである。そういう約束事を踏まえることによって伝統芸術は成立しており、それをふんだんに記憶していることが、都ぶりの教養ということになっている。
信長はそんなものはなにも知らない。体質的に受けつけないのである。
受けつけないだけでなく、憎悪し、できれば破壊したいと思っていた。
いわば、信長の敵であった。歌道だけでなく、すべての中世的権威が、である。むろん南都北嶺《ほくれい》の仏教もそれにふくまれている。
「歌坊主か」
といった言葉に「うぬは、おれの敵であるそういう者共の仲間か」という響きがこもっていた。あくまでも響きである。この語を発した信長自身、はっきりとそのように意識して言ったわけではない。
「話を変える」
と、信長はいった。
「いまから旅に発《た》て。北へむかえ。北近江にゆき、浅井の陣の配りようを見て来よ。十日後には帰れ」
といった。北近江の敵情偵察《ていさつ》にゆけというのである。むろん浅井氏の陣立ての偵察には信長は多くの細作《さいさく》を放っているはずであったが、それだけでは物足りない。できれば大合戦を指導しうる将領級の能力者に偵察させる必要があった。信長は、光秀をその役に抜擢《ばってき》したのである。
その証拠に信長は、
「おれの目で、浅井の陣を見よ」
といった。おれの目で、というのは総司令官である信長になったつもりで対浅井作戦の偵察をせよ、という意味である。
(信頼されている)
光秀は安《あん》堵《ど》した。
すぐ退出し、自分の京都屋敷にもどり、山《やま》伏《ぶし》に変装した。
柿衣《かきごろも》をつけながら、
(結局、織田家の家中で、いざというときに信長のかわりになりうる者は、自分と木下藤吉郎だけではないか)
譜代の家老の柴田勝家などに対しては、信長は単に戦闘指揮官としてしか期待していない、と光秀は見ていた。光秀と藤吉郎にかぎり、戦闘もでき、戦略の頭脳もあると信長は観察しているらしい。
「弥平次」
と手をたたいて弥平次光春をよんだ。弥平次が廊下に跪《ひざまず》いたときには、光秀は山伏の姿になっている。
弥平次は驚いて、わけをきいた。聞いていよいよおどろいた。
「殿は、織田家の一将ではありませぬか。なぜそのような伊賀者づれの真似《まね》をしなさる」
「そこが、かのひと《・・・・》の面白《おもしろ》さだ」
信長は、つねに慣例を無視する。必要とあれば虎《とら》にねずみを獲《と》らせたり、茶釜《ちゃがま》で飯をたくことも、らくらくと発想してのける頭脳である。
「十日目に帰る。それ以上帰らねば浅井領で命を落した、と心得よ」
「殿、それは。――」
弥平次は、この近江ゆきをとめようとした。が、光秀はすでに濡《ぬ》れ縁から庭へとびおりている。
「安堵せよ。おれが一度でも、人のあやつる刀槍《とうそう》に傷をつけられたことがあるか」
そっと裏門から抜け出た。
粟《あわ》田《た》口《ぐち》から逢坂山《おうさかやま》を越え、夕刻、琵琶湖のみえる坂をくだり、夜陰、大津についた。
大津は近江ながら、織田領である。この町では懇意の臨済禅養禅寺という小寺にとまった。この寺には道三も二、三度泊まったことがあり、いまの老住持の宗源は、道三の風姿をよく覚えているという。
宗源は、光秀の突然の来訪とその行装《ぎょうそう》の意外さにおどろいたらしいが、なにもいわない。
夜食のとき、
「浅井は三代になる。初代の浅井亮政《すけまさ》殿という仁が、道三同様、なかなか食えない」
初代亮政は明応四年のうまれというから、道三と同年に近い出生である。
やったことも、道三に似ている。
亮政は、北近江の守護大名京極家の下級の侍の家にうまれ、権謀術数のかぎりをつくして主家の京極家を乗っ取ってしまい、ついに近江北部三十九万石の領土に君臨した男である。
それだけに逸話も多い。
かれは二十三のとき、主家の家老上坂泰舜を武力で駆逐してその領土を奪ったのだが、それ以後の新興浅井家の軍隊の強さはすさまじいほどのものだった。
家柄《いえがら》によって武士を使わない。
武勇のある者なら百姓でもその日から馬に乗れる士官の身分にした。臆病者《おくびょうもの》は家柄の者でも知行をとりあげ、蔵米《くらまい》で給与した。蔵米というのは足軽にあたえる給与方式で、石をもって数えない。人々はこれを恥とし、あらそって武功を稼《かせ》いだ。
人間をあつかうことのうまさは絶妙といってよく、浅井家の領内は百姓まで、すき《・・》鍬《くわ》の持ちかたがちがうといわれた。亮政は、百姓・商人を問わず十六歳になると城内に召して一人ずつ拝謁《はいえつ》をゆるした。言葉をかけてやるのである。
言葉は、きまっている。
「何を好む」
という一語である。人間十六になれば自分の将来に希望や志をもつ。何を好む、とはそちは何になりたいか、という意味であった。
「武芸を好みまする」
と答えるものがあると、亮政はうなずき、
「来年、汝《なんじ》の武芸を見よう」
という。つまり一年間励ませ、一年後に使えるかどうか試験をしてやる、という意味である。試験に合格すれば家中に組み入れる。このため浅井領はつねに階級が固定せず、能力さえあればたれでも武士になれた。
「田仕事のほか、能も希《のぞ》みもござりませぬ」
と答えれば、亮政は同じくうなずき「秋になればそちの田を見にゆこう」という。いい百姓になれという意味である。
「わたくしは商いをするほか、ありませぬ」
と答えれば、亮政は、いまは何が値が高く、何が値がやすい、などときいてやる。こう言葉をかけられれば商人の子でも奮起するものだ。亮政は、人の心を心得ている。
人の心といえば、亮政は浅井新三郎といった若年のころ、ある日、近江の木之本の地蔵堂へ参詣《さんけい》した。この地蔵堂は正称を浄信寺と言い、京極家の侍が代々信仰している寺である。
「ずいぶん、この地《じ》蔵《ぞう》菩《ぼ》薩《さつ》はありがたい霊験《れいげん》がありますそうな」
と、堂守《どうもり》の僧の機嫌をとり、その霊験のかずかずを語らせた。
「証拠がございますか」
「あるわ」
と堂守は信者の名簿をとりだし「どこそこの何様は何の病いにかかってあぶなかったが、この地蔵菩薩に願《がん》をかけなされたによって快《かい》癒《ゆ》なされた」というたぐいの話を、飽きずに語った。浅井新三郎亮政も、それを飽きずに聞き、残らず記憶した。
かれが、旧主家京極家の内部で勢力を扶植してゆくにあたってこの話をつかい、例の信徒名簿に記載されている武士に会うと、
「御《ご》辺《へん》の母御は古くから地蔵菩薩を信仰し給うている。御辺はその地蔵の願でおうまれなされたお人でありますゆえ、御自分を御大切になさらねばならぬ」
などといった。人々は、彼がここまで自分のことを知ってくれていることに驚き、かつ急速に親しみ、彼の与党になった。
むろん、亮政は地蔵の一手だけでなく、あらゆる人心収攬《しゅうらん》の術を複合して用いていたにちがいない。
が、地蔵堂の堂守にすれば、自分が語ってきかせた信徒帳の条々を記憶することによって亮政が北近江三十九万石の大名に成りあがってしまったと信じている。
参詣するごとに愚痴をこぼし、
「わしなんぞはどうだ。この地蔵さまに三十年お仕え申し、燈明《みあかし》をあげ御花をそなえ、お堂の屋根が洩《も》ればそれを直し、朝夕は宝前《ほうぜん》を拭《ふ》き清めてひたすらに奉仕しているというのに、二度の飯も食いかねる物乞僧《ものごいそう》の境涯《きょうがい》をぬけ出すことはできない。ところが新三郎の小《こ》冠者《かんじゃ》めは、ただの一度参詣し、わしをだまして信徒帳をとりださせ、それをたねにあれほどの大身代になりおった」
と言い言いした。
亮政が死に、久政が立った。
久政は凡庸で、浅井家の侍たちは不平をいだき、ついに久政に迫って隠居させ、久政の子長政を立てた。
長政は若いながらも英姿颯爽《さっそう》とした人物で、祖父亮政の祖業を継ぐ者と家中から期待されている。
――その浅井家は、対織田戦争をひかえてどのような軍備を整えているか。
というのが、光秀の偵察の目的であった。
千《ち》種越《ぐさごえ》
山伏《やまぶし》に変装した光秀は、鉄作《くろがねづく》りの太刀を佩《は》き、柿衣《かきごろも》を風にふくらませながら、近江路をあちこちと歩いた。
表街道には、浅井方の関所が多い。とくにいまは臨戦態勢にあるだけに人の出入りの監視はきびしかった。
いちいち呼びとめられ、
「御坊はいずかたの寺に属し、何の目的で、いずれへ参られる」
ということを、しつこく質問された。
「御役目、ご苦労に存ずる」
光秀はつねに落ちついたものだ。それにこの男は長いあいだ諸国を流《る》浪《ろう》しただけに関所役人をあしらうことに馴《な》れており、そのうえ変装した山伏の挙措動作についても堂に入ったものだった。
「それがしは大和国吉野山の蔵《ざ》王堂《おうどう》に籍をもつ修験《しゅげん》にして、金《きん》峰《ぷ》山《せん》寺《じ》の屋根修復の浄財をあつめんがため諸国を勧進《かんじん》する者。これより美濃へくだり、三河へ罷《まか》り、遠州路の浜辺を経て駿《すん》府《ぷ》に参り、そこで四十九日の勧進をなして大和に帰らんと存ずる」
山伏の作法や修《ず》法《ほう》をさせても、本物の山伏よりも達者で音《おん》吐《と》に力があり、聞いている関所役人のなかで「有難《ありがた》や」と叫びだした者があるほどだった。
北近江の木之本の関所では、たまたま北から他の山伏がやってきたので、
「御坊、かの者を試して頂けませぬか」
と番士が光秀に頼んだくらいであった。
光秀は、浅井領を転々とした。
主城である小谷城《おだにじょう》も仔《し》細《さい》に見、その支城のすべても見聞し、その他あらゆる戦略的な場所を遠望し、ときには接近して見た。
その結果、
(浅井氏は思った以上に強い。信長の実力をもってしてもやみやみとは負けまい)
という結論に達した。
老大国である越前の朝倉氏とはちがい、浅井氏はまだ三代目の新興国家だけに足軽や百姓までが国主の危難をみてふるい立っているところがある。兵は強く、諸将の団結もかたい。光秀の見たところ、浅井家の重臣のなかで調略《ちょうりゃく》を用いれば織田方へ脱走しそうな者はひとりも居そうになかった。
(さすがだな)
敵ながらも光秀は感嘆したくなるほどのみずみずしい戦意が領内に充溢《じゅういつ》している。三代前の浅井亮政の個性的な統治法がいまもすみずみにまで生きているようであった。
浅井は三十九万石。兵はほぼ一万。
さほど大きな大名ではないが、その実力は百万石に匹敵するであろう。
それに、浅井氏は単独ではない。北方の朝倉と同盟し、共同作戦をとっている。朝倉家は無能の指揮官が多いとはいえ、八十七万石の大領と二万以上の軍勢をもつ日本海の強国である。朝倉・浅井が連合すれば信長といえども容易ではない。
光秀は大胆にも浅井領の北方の奥地というべき北国街道の木之本、余呉《よご》、柳《やな》ケ瀬《せ》まで潜入し、越前朝倉勢がどの程度来ているかもつぶさに見た。
やがて南にくだり、野洲《やす》までさがって、ここに宿をとった。野洲はおなじ近江ながら織田勢力下にあり、まずここまでくれば身の危険はないといっていい。
宿は、土地の長者で立入閑斎《たちいりかんさい》という者の屋敷である。閑斎は流浪時代の光秀や、将軍義昭が覚慶《かくけい》の当時、覚慶を背負うようにしてこのあたりを転々としていたころの光秀をよく知っている。
「十兵衛殿も、なかなかの御出頭ぶりで」
と、光秀の出世を祝福してくれた。
「いやさ、これが出世かな」
光秀はこういう点、面白《おもしろ》味《み》のない男だ。ひとが祝ってくれれば素直によろこんでこそ可《か》愛《わい》気《げ》があるのに、水のような表情でいった。
「結構ではありませぬか」
「いや、結構というのは閑斎殿のようなお人をいうのであろう」
「なぜわたくし如《ごと》きが?」
「あの三《み》上山《かみやま》を御《ご》覧《ろう》じられよ。世の治乱興亡にはおかかわりなく、あれほど美しい山を庭の遠景にとり入れて、毎日、飽かずにながめておられる。浮世の過ごし上手とは、閑斎殿のことではないか」
「これは風雅なことを申してくださる」
(相変らず、気障《きざ》な男だな)
と、閑斎はおもったらしく、小鼻の小じわ《・・》ですこし笑った。
閑斎の驚いたことに、その微妙な笑いに光秀は気づいたらしい。そういう機敏さ、というより反省癖がありすぎるのも光秀の特徴であろう。
「これはすこし気障な言い様であったかな」
と、光秀は笑った。
「なかなか以《も》ちまして」
閑斎はあわてて話題をそらし、
「せっかくの御光来でありまするゆえ、田舎道具など持ち出して茶でも馳《ち》走《そう》つかまつりましょうか」
「それはありがたい」
邸内に茶室がある。
すでに陽《ひ》が暮れていたが、閑斎は庭のあちこちに灯を入れさせ、光秀を炉の前に招じ入れた。
「岐阜様(信長)はたいそうな茶好きであられまするそうで」
「左様、なかなかの御道楽である」
光秀は、神妙にうなずいた。
信長の教養といえば茶であろう。その道具への眼識もなみなみなものではない。
(あれは濃姫《のうひめ》の直伝《じきでん》だ)
と、光秀はおもっている。
信長の父信秀は連歌だけは好んだが、他にとりたてて趣味のある男ではなく、清洲織田家の家風は殺伐としていた。が、信長は濃姫を貰《もら》ってから茶道に病みつき、先年京にのぼるや、まるで餓《う》えた人が食い物をあさるように茶道具をあさった。
(濃姫は父の道三殿から茶道の薫陶《くんとう》をうけている。信長はそれを受けついだ。信長は多くを道三から受け継いだが、その最大なるものは美濃一国と茶ではあるまいか)
戦争のやり方も、時に酷似している。道三の戦術思想を一言でいえば、大波が寄せるがごとく寄せ、大波が退《ひ》くがごとく退く、というもので、道三はそれを象徴するがために二つの波頭を立てた大波を図案化し、家紋にも用い、旗の紋章にも用いていた。信長の先般の越前金ケ崎攻めはまるでそれを地で行ったようなやり方で、京からの長途、大波のように押し寄せ、さらに大波の退くがごとく退いた。
(あれは、道三の流《りゅう》じゃな)
と、光秀は思いつつ茶を喫した。そう思いつつも光秀の脳裏にある映像は道三の姿ではなく、濃姫のそれであった。
(幼な恋の、名残《なご》りかな)
そう苦笑しつつも、同時にあの濃姫を得た信長へのねたましさが、こう時を経たいまなお失《う》せないのである。
「なにしろ岐阜様は」
と、閑斎はいった。
「あれほどの御道楽でござりますゆえ、御家中の御歴々のあいだではさぞ茶道がお盛んでござりましょうな」
「それが、そうではない」
「ほほう」
閑斎は、理由をききたがった。
「織田家にあっては、茶道具を持つのは主人信長のみでござる」
信長が、それを決めたのである。部将には自前の道具を持たさず、自分が亭主になるような茶会をひらかせない。
きびしく停止《ちょうじ》していた。
「なるほど」
閑斎は、すぐ信長の理由を覚ったらしい。織田軍団は天下取りのために常住、臨戦状態にあるべきで、その緊張のほぐれるのを信長はきらっているのであろう。
「まったく織田家のように厳しい御家風の御大名も、他にござりませぬな」
「左様」
光秀は、相変らず水のような表情でうなずく。考えていることは、信長の運である。
(信長には、今後運があるか)
運、というのは諸国の大名の器量の判定法としては重要な観測法であった。器量があっても運のない者は、ついには英雄的事業を成しとげられない。
(なるほど桶狭《おけはざ》間《ま》以後、信長は運の憑《つ》きに憑いた大将であった。が、こんどの金ケ崎退却から将来はどうか。運が、信長を離れたのではないか)
「十兵衛殿」
と、閑斎はいった。
「いま一服、いかがでござりまする」
「いや、もう」
光秀は頭をさげた。
「足りましてござる」
光秀は京に帰って、北近江の偵察結果を信長に報告した。
その報告のみごとさは、類がない。
「まず、ありのままに」
と前置きして見聞した事実を細大もらさずにのべ、しかも光秀がつぎつぎに取り出す事実は、いずれも無味無臭で、水のようにそっけない。判断を信長にまかせるためであった。
つぎに、
「光秀が思いまするに」
と、同じ材料を濃厚な主観で説明し、その真実を伝えようとした。
(むなしい。……)
と、途中、光秀が何度か言う気力をなくしてしまいそうになったほど、信長という男は話しづらい大将だった。
そっぽをむいているのである。
ときどき庭を見たり、児《こ》小姓《ごしょう》からチリ紙をうけとったり、顔をなでたりしている。光秀はたれに喋《しゃべ》っているのか、我ながらわからなくなってしまう。
が、信長の内心はちがう。
(この金柑頭《きんかんあたま》めほどに物が見えるやつは、家中でも居まいな、まず、藤吉郎か)
さらに、
(こんどの浅井・朝倉へむかって馬を出すとき、この金柑頭に一手の大将をつとめさせてやろう)
と、胸中、光秀にとって運命的な思案をつぎつぎに重ねていた。やがて信長ははじめて気づいたように、光秀を見た。
光秀は、沈黙している。
「なぜ鳴りやむ」
信長は、笛か笙《しょう》のようにいった。その言いざまはいかにもこの男らしいが、信長に馴《な》れぬ光秀には愉快なものではなかった。
「すでに、おわりましてござりまする」
「終わったか」
信長は立ちあがり、そのまま言葉もかけず奥にひきさがった。
(なにか、お気に召さなんだのか)
光秀の心は当然不安に戦《おのの》いたが、同時に手痛く自尊心を傷つけられもした。
(あの男が織田家の当主であり、わしがその家臣であるのは天の配したところであって、それ以上のものではない)
能力は同等か、もしくは自分のほうが上である、と光秀は思った。主客は天運でしかない。その天運に、あの男ほどの尊大さを持ってよいものかどうか。
光秀は思いつづけた。
が、信長にすれば尊大といえば尊大かもしれないが、彼は自分の挙動が人にどれほどの傷をつけるかなどを、かつて考えたことがない。この男はうまれつきその種のことをあれこれ考える感覚を持たずにこの世に出てきたようであった。
信長が奥に入ったのは、単に腹が減ったというだけの理由であった。奥で湯漬《ゆづ》けの支度をさせ、三杯、さらさらと食った。
箸《はし》を動かしながらも、光秀の報告が脳裏にある。その報告を基礎に、次の行動を決しようとしていた。
食いおわると信長はふたたび出てきて、上段の間にすわった。
その間、明智十兵衛光秀が苦渋を噛《か》んで平伏しているのを、信長はむろん気づかなかったであろう。すわるなり信長は光秀に二、三質問し、その答えを得ると、
「よし、さがれ」
と、蠅《はえ》を追うような手つきでいった。光秀はさがった。
(おのれ。……)
という気持が、廊下をさがってゆく光秀の胸中に蟠《わだかま》っている。信長のふるまい、人あしらいは、織田家はえぬきの譜代の家来なら馴れていて、なんの感情も持たぬところでも、新参の光秀の場合はそうはいかなかった。
そのあと信長は、木下藤吉郎らをよび、
「あす岐阜へ発《た》つ。道を先導せよ」
と、にわかに触れだした。事に俄《にわ》かな信長の癖はかれらはよく心得ている。
――道を先導せよ。
というのは短かすぎる命令だが、彼等は信長が聞き返しをきらうことを知っており、
「はっ、早速に」
と、準備にとりかかった。「先導せよ」という短い命令には重大な内容がこめられている。信長は岐阜にかえる途中の近江を浅井方に遮断《しゃだん》されていて通過できないかもしれない。この点をながながと言うなら「間道をさがし、沿道の地侍にも渡りをつけておけ」ということになるであろう。
藤吉郎らは、それぞれ軍勢をひきいて近江へ走り、信長を通過させるべき間道をさがした。
当初、近江の織田方の地侍どもは、みな思案首を投げ、
「左様な道はなさそうに思われます」といったが、
「なるほど、無いか」
などとは言っていられない。なにしろ藤吉郎らが近江草津についたときには信長は京を出発しているのである。
八方、調べて、
千《ち》種越《ぐさごえ》
という、近江神崎《かんざき》郡から伊勢三重郡にぬけるおどろくべき嶮《けん》路《ろ》を発見した。せいぜい近江の東部山岳地帯の木《き》樵《こり》か猪《しし》追《お》いが知っている程度で、道も道といえるほどのものではなく、谷川を伝い、山の鞍《あん》部《ぶ》を越えてゆく、いわば鹿《しか》の通り道のような経路である。現今の地誌でいえばこの千種越の付近にある一二一○メートルの御《ご》在所山《ざいしょやま》がロープウェイで多少知られている。
この道が、信長の近江通過路にえらばれ、土地の織田系地侍が、道の案内と警固にあたることになった。その地侍は、余談ながらのちに大きく家運を興す蒲《がも》生《う》家のこの当時の当主蒲生賢秀《かたひで》らである。
信長は、この道をとった。
旧暦五月二十日のことで山中の密林は蒸せるように暑く、このため馬上の信長は半裸の上に帷子《かたびら》の薄羽織をまとっただけの姿になり、道を頻繁《ひんぱん》にのぼりくだりして嶮路をわけ入った。
この山中、かつて南近江の国主でいまは近江甲賀郷に流亡している六角承禎《じょうてい》(佐々木義賢)が放った男が、信長を狙《そ》撃《げき》している。
男は、鉄砲集団で知られた紀州根来《ねごろ》の行人《ぎょうにん》で、頭は有《う》髪《はつ》、白衣を着、笈《おい》を負った扮装《ふんそう》をし、得意の鉄砲に二つ弾をこめて樹間にかくれていた。名は杉谷善住坊といった。
狙《ねら》いをさだめて轟発《ごうはつ》したところ、弾は二つとも信長の姿に吸いこまれたが信長のからだにはあたらず、袖《そで》に穴をあけた。
このとき信長は騒ぐことなく通過し、下手人捜索には直接の指示はしなかった。あとで配下の軍勢が、善住坊をとらえた。
……………………
光秀は、このときこの一行に加わっておらず、京都守護職として京にいた。
その珍事をあとできいたとき、
(信長の運は、そこまで強勢か)
と、あきれる思いがした。杉谷善住坊といえば根来衆のなかでも鉄砲の名手として知られているし、その狙撃の距離たるや、わずか十二、三間という間近さだった。射止められぬのがむしろふしぎだというべきであろう。
(信長は、浅井・朝倉に勝つだろう。勝っていよいよ彼の運はのぼりつづけるだろう)
と、光秀は思った。
寝《ね》物語《ものがたり》ノ里《さと》
「五月二十一日、濃州岐《のうしゅうぎ》阜《ふ》へ御帰陣」
とは「信長公記《しんちょうこうき》」の簡潔な文章である。
千種越での危難も、信長にあっては別段のことはなく、忘れたようにこの男は岐阜へ帰った。
「お濃よ、帰ったぞよ」
と、奥の入り口でむかえた濃姫のほお《・・》に手をのばし、
ぴちっ
と指でその頬《ほお》をはねた。
(痛いっ――)
とおもったが、濃姫は堪えなければならない。どうせ信長なりの愛情の表現なのであろう。
その夜、
「お濃、こちらに泊まりゃれ」
と信長が廊下まで出、廊下のはしまでとどろくほどの大声でいった。部屋にいた濃姫はさすがに侍女たちにはずかしかったが、すぐ座を立ち、信長の言いつけに従った。
寝て、物語をした。
「近江の千種越とやらにて」
と、濃姫があの危難の一件をくわしくきこうとすると、信長は遮《さえぎ》った。
「おもしろくもない話だ」
普通ならこれほどの話題はないのに、信長にとっては何の面白味もない。もともとそうであった。信長は、わが身の過ぎにし事をふりかえってあれこれと物語る趣味は皆無であった。つねにこの男は、次におこるべき事象に夢中になっている。
「お濃も」
と、信長はいった。
「つまらぬ事をいう女子になりはてた」
「はてた《・・・》とは驚き入ります」
濃姫は不足そうにいった。彼女は信長とは一つちがいだから満で三十五である。はてた《・・・》とはひどかろうと思った。
「せっかく気《き》遣《づこ》うて参らせておりましたのに」
「わからぬおなごだ」
「なぜ」
「あっての人間だ」
と、信長はいった。例によって短かすぎる言葉だから意味はよくわからないが、人間の一生にはいろんなことがある、それがあって《・・・》の人間《・・・》だという意味であろう。
「それが五十年の楽しみよ」
と信長はいった。人生を一場の夢のようにみているこの男は、このつぎ何事がおこるかということが、新作の狂言を期待するようにおもしろいのであろう。その意味らしい。
「近江といえば」
信長はむき《・・》をかえて濃姫のくびすじに息をあてた。濃姫は静かに息づいている。
「寝物語ノ里という村があるな」
「村の名でございますか」
「そうよ」
信長は笑わずにうなずいた。
美濃(岐阜県)から近江(滋賀県)へ入るには美濃関ケ原を通って山間を抜けながら越えてゆく。その国境の近江側の小さな村落が寝物語ノ里というのだ。
「なんと艶々《つやつや》しい」
と濃姫はいった。
余談ながら、信長よりもやや後年《のち》になって千家の三代目だったかの宗匠が、茶杓《ちゃしゃく》をつくって評判になった。
その銘が、
――寝物語
というのである。事実、茶杓にはめずらしく二本一組になっており、それを竹の筒におさめてある。茶杓が二つ、一つ筒で仲よく寝ているためにこの銘をつけた、とひとは想像したが、そうではない。それだと茶には「艶々し」すぎるであろう。銘をつけた洒《しゃ》落《れ》はもっとこみ入っている。
その筒の裏に銘をつけた理由が刻まれてあり、
近江と美濃の竹で作りしなれば
とある。これが落ち《・・》である。一本を近江の竹でつくり、他の一本を美濃の竹でつくった。その国境の村が「寝物語ノ里」である。
が、濃姫のころにはこの洒落はない。
なぜこのような奇妙な村名がついたのかという事のおこりは、べつに色っぽいものではなさそうだった。
その村の民家には長屋が多い。壁一つで隣家と仕切られている。だから隣人同士が互いに寝ながら物語ができた、ということであるらしい。
この村は、いま一つの村名をもっている。その村名も風変りだった。
たけくらべ
というのである。文字を長競《たけくらべ》とかく。長競村といった。その名のおこりもやや洒落めいていて、旅人がゆく。
美濃からゆく。近江へ越えてゆく。この国境の村にさしかかると、街道の左右の山の高さがおなじ程度になる。
――どちらの山が高いか。
と、道中、退屈のあまり見くらべながら歩いてゆくために「たけくらべ」ともいうのである。
が、信長の頭脳にはそんな悠暢《ゆうちょう》な字義の詮《せん》索《さく》はない。信長は対浅井氏作戦をのみ考えている。
長競村とその付近の刈安村《かりやすむら》の二つの山に、近江の浅井氏がにわかに城を築いたのである。厳密には砦《とりで》の規模だが、とにかく軍兵《ぐんぴょう》を入れ、鉄砲を多数配置し、眼下の街道を通って近江へ入る信長の軍勢をここで制圧しようとしていた。要するに長競砦・刈安砦は、浅井氏の国境陣地というべきであろう。
(この二つの砦が邪魔だな)
というのが、信長の寝物語だった。濃姫にはむろんそこまではわからない。
(弓矢で奪《と》ろうとすれば、失敗する)
と信長は思った。この国境の狭隘部《きょうあいぶ》に多数の軍兵を入れて街道にひしめきあわせれば、浅井・朝倉の連合軍はえたりかしこしと突撃してくるであろう。狭い路上の戦闘で兵は当然一対一の戦いになる。
(一対一になれば、尾張兵は負けるかもしれぬ)
と信長は思った。兵は文明の段階が進んで、しかも土地の豊かな尾張よりも、北国の朝倉や北近江の浅井の兵のほうがつよいにきまっている。織田軍がつよいのは、いつに総帥《そうすい》の信長と信長が採用し養成した各級指揮官のすぐれていることによるものだ。それを信長は痛いほど知っているのである。
(調略で奪ってやろう)
と、当然ながら信長の思案はそうきまったが、さてそれを担当する人物である。
(藤吉郎がいい)
即座にそうきめた。藤吉郎の才覚ならばあの二つの砦の守将を、たくみにこちらへ寝返らせていざという場合に使いものにならなくしてしまうだろう。
「寝物語ノ里のお話はいかが相成りました」
「あれか」
信長は沈黙から醒《さ》めた。
「調略で奪る」
「まあ、調略で」
濃姫は笑いだした。なにがなんであるかよくわからなかったが、男女の寝物語を調略でぬすみとるというのは、古来、歌人も茶人も考えたことのない発想である。
「おもしろうございますこと」
「あたりまえだ」
翌日、信長は木下藤吉郎をよび、その旨《むね》を命じた。この二つの砦は浅井家の被官堀氏、樋《ひ》口《ぐち》氏がまもっている。口説け、というのである。
「承知つかまつりましてござりまする」
藤吉郎は、まるで掌をたたくような陽気さで返答した。この男の返事はいつもながら頼もしげであった。
「すぐ発《た》つか」
「早速に」
と、藤吉郎は去った。
そのあと、信長は、長競・刈安砦のことについてはいっさい考えなくなった。たとえわすれていても藤吉郎はうまくやってのけてくれるであろう。
そのあと、戦場のことを考えた。浅井氏の本拠小谷城を中心とした北近江の山河が主決戦場になるはずだが、信長の脳《のう》裡《り》にはすでに鮮かな戦略・戦術の地図ができあがっていた。その地図は戦場ではなく大城小城に旗や幟《のぼり》がひるがえり、城壁の上には人数が動き、その人数の概略の数まで書きこまれている。それらはことごとく光秀の頭脳を通してできあがった地図であった。その地図を基盤に信長は思案を構築してゆく。
(藤吉郎と光秀だな、所詮《しょせん》。――)
と普通の男ならこう述懐するところであろう。――が、信長にはつねにその種の閑人《ひまじん》の述懐めいた無用の感想はない。呼吸するとき二つの鼻の孔《あな》の有難《ありがた》味《み》を人は意識しないように信長はこの二人の有難味を意識しない。ただ工匠の手斧《ちょうな》のようにいよいよ彼等の能力を砥《と》ぎ、柄《え》を手あか《・・・》で磨《みが》きこみ、ますます使えるように使いこなしてゆくだけであった。
この岐阜城での日常、挿《そう》話《わ》がある。
合戦のことではない。
……………………
信長の身辺にあって秘書のような役をしている男に菅《すが》屋《や》九右衛門という男がいる。じつに庶務の処理に長《た》けた人物で、信長はこの人物をも手あか《・・・》で磨くほど使っている。
余談ながら菅屋は、織田家の一門織田信辰《のぶたつ》の子で、いわば当家中の名族の子だが、かといって信長は他の大名のように、菅屋を大将として使おうとはしない。
秘書としてしか、使わない。菅屋は庶務なら何事もこなせるが合戦のことになると、からっきし能がないからである。菅屋九右衛門はのちに本能寺の火のなかで死ぬ。
その菅屋に、ある日、信長とその家族の食事を担当する御賄頭《おまかないがしら》の市原五右衛門という男がやってきて、
「おそれながら話をお聞きねがえませぬか」
という。相談したい、というのである。
「何事ぞ」
「坪内石斎のことでござりまする」
と御賄頭がいったが、菅屋はすぐに石斎が何者であるかが思いだせなかった。
「思い出せぬ」
「御牢《ろう》に入っている京の石斎でござりまするよ、料理では京随一といわれた。……」
とまでいわれて、菅屋はアアと言い、あの石斎はまだ生きておるか、といった。
「左様、生きておりまする。御牢に入れられて四年目に相成りまするが、病いひとつつかまつりませぬ」
「人間、保《も》つものだな」
菅屋は感心した。
坪内石斎は罪があったわけではない。この男は京の前時代の支配者であった三好家の御賄頭をつとめた男で、織田軍が京から三好衆を駆逐したとき、不幸にも捕虜になった。かといって料理人のことだから殺すまでのことはない。それを岐阜に送って、城内の牢に入れておいたのである。信長もおそらくそのことを忘れているのであろう。
御賄頭の市原にいわせれば、石斎ほどの料理人を牢に入れておくのはもったいないというのである。
「石斎は日本国の宝でござりまするよ」
京料理に長じ、とくに武家の頭領である将軍家の料理作法にあかるく、室町風の鶴《つる》・鯉《こい》の料理はいうにおよばず、七五三饗《きょう》の膳《ぜん》などどういう庖丁《ほうちょう》でもこなせる男である。
「いかがでありましょう。牢から出し、あらためて御当家に召し出され、織田家の御賄方としてお使いなされては」
「もっとも」
と菅屋も思ったので、さっそく信長に言上した。信長はうなずき、
「旨《うま》ければ使ってやる」
といった。日本第一の京料理の名人といっても、信長は驚きもせず、ありがたがりもしなかった。
早速、石斎は牢から出され、すずやかな装束をあたえられ、台所に立たされた。この料理をしくじれば再び牢に逆もどりするのである。自然、台所方の者まで、石斎のために緊張した。
やがて膳は出来た。
それを係々《かかりかかり》がささげて信長のもとにもってゆく。信長は箸《はし》をとった。
吸物をぐっと呑《の》んで妙な顔をした。やがて焼き魚を食い、煮魚を食い、野菜を食い、ことごとく平らげた。
そのあと菅屋が入ってきて、いかがでござりました――ときくと、信長は大喝《だいかつ》し、
「あんなものが食えるか。よくぞ石斎めは食わせおったものよ。料理人にて料理悪《あ》しきは世に在る理由なし、――殺せ」
といった。
菅屋も、仕方なくひきさがり、その旨を石斎に伝えた。
石斎は大きな坊主頭をもった、とびきり小《こ》柄《がら》な老人である。ゆっくりとうなずき、動ずる風もない。
「どうした、石斎」
「いや、相わかりましてござりまする。しかしながらいま一度だけ、御料理をさしあげさせて頂けませぬか。それにて御まずうござりましたならば、これは石斎の不器量、いさぎよく頭を刎《は》ねてくださりませ」
といったから、菅屋ももっともと思い、その旨を信長に取り次いだ。
信長も、強《し》いてはしりぞけない。
「されば明朝の膳も作れ」
と、わずかに折れて出た。
明朝になり、信長は石斎の料理にむかった。吸物をひと口すすると、首をかしげた。
「これは石斎か」
「左様にござりまする」
と、給仕の児小姓が指をついた。信長はさらに食った。もともと大食漢だけに膳の上の物はことごとく平らげ、箸を置き、
「石斎をゆるし、市原五右衛門同様賄頭として召し出してやる。滅法、旨かった」
と、機《き》嫌《げん》がなおった。料理のうまさもさることながら、人の有能なところを見るのが信長の最も好むところなのである。
菅屋は、そのとおり石斎に伝えた。石斎はおどろきもせず、
「左様でござりましたか。御沙汰《ごさた》ありがたき仕合せに存じ奉りまする」
と通りいっぺんの会釈《えしゃく》をし、退《さが》った。
あとで台所役人たちが疑問に思った。なぜ最初の料理があれほどまずかったか、ということである。
「石斎殿にも似気《にげ》のないことだ」
と囁《ささや》いたが、やがて石斎が他の者にこう語ったという噂《うわさ》がきこえてきた。
「最初の膳こそ、わが腕により《・・》をかけ料理参らせた京の味よ」
だから薄味であった。なるべく材料そのものの味を生かし、塩、醤《ひしお》などの調味料で殺さない。すらりとした風味をこそ、都の貴顕紳士は好むのである。
ところが、二度目に信長のお気に召した料理こそ、厚化粧をしたような濃味で、塩や醤や甘味料をたっぷり加え、芋なども色が変わるほどに煮しめてある。
「田舎風に仕立てたのよ」
と、石斎はいった。所詮は信長は尾張の土豪出身の田舎者にすぎぬということを、石斎は暗に言いたかったのである。
この噂が、まわりまわって信長の耳にとどいた。
意外に信長は怒らなかった。
「あたりまえだ」
と、信長はいった。
この男は、都の味を知らずに言ったわけではなく、将軍《くぼう》の義昭や公卿《くげ》、医師、茶人などにつきあってかれらの馳《ち》走《そう》にもあずかり、その経験でよく知っている。知っているだけでなくそのばかばかしいほどの薄味を、信長は憎《ぞう》悪《お》していた。
だからこそ石斎の薄味を舌にのせたとき、
(あいつもこうか)
と腹を立て、殺せといった。理由は無能だというのである。いかに京洛《けいらく》随一の料理人でも、信長の役に立たねば無能でしかない。
「おれの料理人ではないか」
信長の舌を悦《よろこ》ばせ、信長の食慾をそそり、その血肉を作るに役立ってこそ信長の料理人として有能なのである。
「翌朝、味を変えた。それでこそ石斎はおれのもとで働きうる」
信長はいった。
この有能、無能の評価の仕方は、他の武官、文官についてもいえるであろう。
藤吉郎は有能であった。
光秀もまた信長にとって、有能であった。しかし石斎の変転の器用さは同時に藤吉郎の持味でもあったが、光秀にもその臨機の転換ができるかどうかまでは、まだわからない。
姉川
信長は、鞭《むち》をあげて岐阜城を出、西のかた近江にむかった。
元《げん》亀《き》元年六月十九日である。率いる兵は三万であった。
信長は城門を出るなり使番《つかいばん》を馬側によび、
「今日の泊りは寝物語ノ里ぞ」
と叫び、その用意を命じた。寝物語ノ里は別名長競《たけくらべ》村。いわれは前章の情景のなかで、すでに書いた。この奇妙な名をもつ国境の村の城砦《じょうさい》は、すでに織田方に寝返っている。
予定どおりこの日、寝物語ノ里で宿営し、翌二十日、電撃的に敵領内に侵入した。
浅井方は、動かない。銃発すらせず、小部隊の兵をも出さない。全軍城々にこもり、沈黙し、ただ飄風《ひょうふう》のなかに旗のみを弄《なぶ》らせている。この日、近江の天は晴れわたり、風のみが湖と野に吹き荒れていた。
「浅井は動かぬな」
信長は何度かつぶやいた。
敵の動かぬなかを、三万の織田軍が地を這《は》う巨竜のように国中を練りまわった。
全軍による威力偵察というべきであろう。敵国への侵入戦の形態としてはめずらしいかたちになった。侵入されている浅井方は亀《かめ》のように首をすくめ、ひたすらに敵が領内見物するままにまかせている。
もっとも手をつかねていたわけではない。
主城小谷城にあっては、信長の岐阜出発をきくや、同盟国の越前朝倉にむかって急使を発した。伝騎は十九日夕、小谷城の城門を電光のように駈《か》け出し、北国街道をひた走りに走った。朝倉家の援軍を乞《こ》うためであった。
「朝倉勢が来着するまで動くな」
というのが、浅井方の方針であった。若い将校たちはあせったが、首脳部は一発の銃弾もうたせない。
一方、信長は浅井方の第二城ともいうべき横山城の山麓《さんろく》をゆるゆると偵察し、十分に眺《なが》めおわったあとここに抑えの部隊をのこし、さらに北方に進み、敵の主城である小谷城にせまった。
小谷城は山の一峰に本丸を据《す》え、峰々に出丸などをつくり、尾根で連繋《れんけい》して全山を要塞《ようさい》化し、不落というべき城であった。
「麓《ふもと》を焼いてみろ」
と、信長は命じた。麓の武家屋敷街を焼きはらえばあるいは城兵が駈けおりてくるかもしれない。信長は試した。
が、敵は動かない。
「堅固なことよ」
と、信長は虎《とら》御前《ごぜ》山《やま》の山頂の陣でつぶやいた。この虎御前山は小谷城とナナメにむかいあい、標高は二一九メートルである。かつて光秀がこの敵地を偵察したとき、
――御陣は虎御前山にお据えあそばすのが恰好《かっこう》かと存じまする。しかし、小谷城は急攻あそばすと、手ひどい御損がございましょう。
と、報告した山であった。小谷城に対しては直線距離一二○○メートルほどにすぎず、遠目のきく男が望めば敵城の城塁上の人の動きまでがわかるほどであった。
「どうするか」
と、信長は軍議を召集した。諸将があつまった。秀吉、光秀もこの群れのなかにあつまっていた。
重臣の佐久間信盛が進み出、
「殿は小谷城を急攻あそばしますか」
ときいた。
信長は無表情で沈黙している。この点、家来としては物の言いにくい男であった。
が、佐久間は織田家譜代の重臣だから、そこは光秀などとちがって物は言いやすい。
信長は、やっと口をひらいた。
「遊ばしますか、とはなんだ」
「それならば当を得ませぬ。いま急に城を抜こうとなされば、わが兵の三分の一をうしないましょう。しかもその攻城中に、越前から朝倉の大軍が押しかけ、わが軍の背後から襲いかかれば、いよいよ難戦に陥ります」
「早く言え」
信長は無表情にいった。そんな解説をきかされなくとも信長は百もわかっている。どうする、という結論だけ聞けば信長にとって十分だった。
「いそぎ、この虎御前山から撤退し、敵の小谷城から遠ざかり、十分に距離を置いて敵の動きを見るにしかず」
というのが、佐久間信盛の結論の要旨だった。信長はうなずき、
「おれの意見と同じだ」
といった。信長の軍議の仕方はつねにこうであった。諸将に意見を出させ、自分の最も気に入った意見が出ると、
――おれの思いと同じだ。
とうなずき、すぐ採用し、ただちに会議を散会させてしまう。やはりこの男は天才なのであろう。
翌二十二日、信長は虎御前山を降り、行軍序列をきめ、小谷城から遠ざかり、ほとんど国境近くの弥高村までひきさがった。
この信長の退陣を小谷城から見おろしていた浅井方の若い将校たちは、
「いま出戦すべし」
と騒ぎだした。敵は背をむけて引きあげてゆくのである。追尾して討てば、討《う》ち得《どく》の追撃戦になることはたしかだった。
が、老臣たちは、
「いやいや、御自重、御自重。すべては朝倉勢が来援してからのことでござる」
と主張し、ゆずらない。
若い当主の浅井長政はさすがに怒気を発し、
「追うべきではないか」
と板敷をたたいて叫んだが、老臣たちは頑《がん》として自重説をゆずらない。浅井家の不幸は、老臣たちが当主の長政を、
――御若年
とみてその能力を信用せず、かといって先代の当主久政を愚物とみて隠居させ、すべての方針は重臣の群議によって立ててゆくというところにあった。しかも重臣に英才の者がなく、すべて経験主義者ばかりで、出てくる意見に閃《ひらめ》きのあるものがない。凡庸な経験説ばかりが群議を占め、しかも決定までに時間がかかった。到底、合戦の急場には間にあわない。
「群臣《みな》の申すとおりだ。長政、自重せよ」
と、隠居の久政までが凡庸な重臣たちにまじって口を出し、長政の気負い立ちをおさえた。
長政は、あきらめざるを得ない。
が、少壮血気の麾下《きか》の士は、それだけではおさまらなかった。かれらは首脳部の能力を信用せず、従ってつねに軍令に不信をいだいている。
「ちっ、臆病《おくびょう》な」
と沸騰《ふっとう》した。若い連中はもはや軍令をきかず、自分の手まわりの者をかきあつめて山を駈け降りはじめた。抜け駈けで戦おうとするのである。
五百人ばかり山を降り、街道を疾駆して織田軍のあとを追った。
織田軍の殿《しんがり》(後衛部隊)は、梁《やな》田《だ》政辰《まさたつ》、中条季長《すえなが》、佐《さつ》々《さ》成政《なりまさ》の三将である。
ちなみに梁田政辰は、もともと尾張沓掛《くつかけ》の庄屋程度の家の者だが、父政綱が信長の開運のもとになった桶狭《おけはざ》間《ま》の一戦に従軍し、途中かれが放った斥候《せっこう》によって、
――今川義元は田楽《でんがく》狭間に休息して昼の小宴をひらいている。
という情報を得、信長に報告し、報告しおわって、
――いま急襲なされば如何《いかに》。
と意見をのべた。信長は勇躍して田楽狭間に殺到して義元の首をあげた。
「彼こそ、功名第一である」
と戦後、信長は梁田政綱に沓掛城と三千貫の知行《ちぎょう》をあたえた。政辰はその子である。信長は縁起をかつがぬ男ではあったが、この梁田家だけは大事にしていた。
浅井兵が、追尾してきた。梁田の兵はさんざんに戦ったが、浅井兵のほうがはるかにつよい。またたくまに混乱した。
他の中条、佐々の二将も部隊を旋回させて追撃兵と戦い、ようやく午後になって彼等をふりきって信長の本隊に合した。
その翌二十三日、信長は竜《たつ》ケ鼻《はな》という丘陵上に本営を移し、敵の第二城である横山城をおとすべく全力をあげて包囲した。
が、陥ちない。
(横山城は、敵のオトリではあるまいか)
と、攻撃軍に属している光秀はふと疑念をもった。敵の戦術は、横山城の山麓に織田軍を集めておき、朝倉軍の来援とともに織田軍の背後を大きく包囲しようと考えているのではないか、と思った。
「そうではあるまいか」
と、たまたま光秀の陣の前を通った木下藤吉郎に話しかけた。
藤吉郎はうなずき、
「まことにもってそのとおりだ」
と、毒にも薬にもならぬ返事をして立ち去った。
(利口ぶるやつだ)
と、藤吉郎はおもった。藤吉郎はつねにそのように光秀を見ていた。
信長がその程度のことに気づかぬはずはない、と藤吉郎は見ている。戦さとはつねに絹糸一筋をもって石をぶらさげているようなものだ。風で石が動くたびに絹糸は切れそうになる。当然である。藤吉郎にすれば光秀の言葉はその当然を言っているだけのことだ。戦さとはその切れるか切れぬかの際《きわ》どい切所《せっしょ》でどれだけの仕事をするかにかかっている。信長は危険を賭《か》けつつ、その切所で横山城攻めの仕事をいそいでいるのにすぎない。藤吉郎はそうみている。
が、光秀の心配は的中した。
二十七日夜半過ぎになって、織田軍の背後におびただしい松明《たいまつ》があらわれたのである。
ただし遠い。
光秀のいる場所から、二キロないし三キロの北方の丘陵の麓にあらわれている。麓一帯は火の海のようであった。
(ついに朝倉勢が来着したな)
と思った。
察するところ、朝倉軍の来援とともに小谷城の浅井軍は城を降りて合体し、野に動き、野戦活動を開始したものであろう。しかも夜間に動いているところをみると、あす夜明け前に織田軍の背後を襲おうとする企図に相違ない。
(信長はどうするか)
と、光秀は批評者の心でそれを思った。
同刻、竜ケ鼻の山上の本営にいた信長も当然、その火を望見した。だけでなく斥候がつぎつぎと帰ってきて、それを報じた。
「五万」
という者もあれば、一万、という者もある。五万、というのは浅井・朝倉の動員能力からみて過大すぎるが、かといって一万は過少すぎるであろう。
「この横山城が陥ちぬ間に、早やばやと来おったか」
と、信長はつぶやいた。絹糸は切れたということになるであろう。傍《かたわ》らに、柴田権六勝《しばたごんろくかつ》家《いえ》、木下藤吉郎秀吉などがいる。
「おれはどうやら敵の術策に陥ったようだ。あの敵は明朝、川(姉川)を渡って襲ってくる」
ここで動かずに滞陣しているかぎり、自滅だった。信長は構想を一変させてあたらしい運をひらかねばならなかった。
「逆に襲うまでよ」
と決心し、母衣武《ほろむ》者《しゃ》をあつめた。
母衣武者とは伝令将校のことである。信長の手まわりには十九人いた。いずれも選びぬかれた名誉の者で、武勇だけでなく軍略の才がなければこの役はつとまらない。
その母衣武者は、二組に分けられていた。一組は背に黒母衣を掛け、他の一組は背に赤母衣を掛けている。
「諸陣に伝えよ」
と、信長はいった。その一声のあと柴田勝家が代わって信長の命令をこまごまと取り次いだ。
諸陣の陣替えをするのである。攻城用の態勢から、野戦用の態勢に切りかえねばならなかった。この夜間、この切りかえはほとんど至難といっていい仕事だった。
母衣武者が、それぞれ大松明をかかげ、四方に飛んだ。
信長は横山城抑えの兵を五千人残し、他の織田軍二万三千を六隊に分け、その六人の将にそれぞれ三千人から五千人の兵を授けた。他は信長の直衛隊とした。
その六将のなかに、木下藤吉郎が入っている。すでに柴田勝家、佐久間信盛など織田家の家老と同格の指揮官になっていた。が光秀は入っていない。それよりも下級の指揮官である。
さらに織田軍には、一つ幸運なことがあった。この日の昼間、三《み》河《かわ》の徳川家康が兵五千をひきいて、戦場に参加したのである。この年、家康は数えて二十九歳でしかない。
信長が野戦用の部署を考えているとき、家康は進み出て、
「私は、どの部署をうけもちましょう。御指図くだされ」
ときくと、信長は、
「もう決めた」
と無愛想にいった。部署はすでにきまったあとで徳川軍の受けもつ場所がない、というのである。
「されば」
と信長はいう。予備軍になれ、と命じたのである。予備軍とは後方に仕置《しお》きし、戦況が進んできてさらに新《あら》手《て》を必要としたときに投入されるもので、家康としては名誉なことではない。
「それは迷惑つかまつります。せっかくはるばる三河から駈けつけましたのに、そのようなことでは弓矢の瑕瑾《きず》に相成ります」
と、家康は懇願した。
信長は、この三河の若い働き者の性格をよく知っている。予備軍を命ずればかならず気負い立ってくるであろうことを見ぬいていた。
「されば御《ご》辺《へん》は、朝倉勢に当たられよ」
と、信長は意外なことをいった。左右で聞く者、ひそかに驚いた。敵は浅井・朝倉連合軍とはいえ、朝倉軍のほうが人数が多いのである。それに個々の兵も朝倉のほうが強いであろう。
家康がこれにあたる、となればすくなくとも一万、二万の兵数を必要としたが、家康の三河兵は五千人しかいない。
信長の左右の者は、家康がことわるか、とみたが、家康はむしろ喜色をうかべ、
「ありがたき御指図に存じまする」
と即座に承知した。このあたりが、この丸顔の若者が信長に見せつづけてきた誠実さというものであろう。
「しかし敵は多い」
と、信長はいった。
「欲しいだけの人数を申されよ。将の名を名ざしされよ」
「――左様」
家康は考え、しばらくして美濃出身の織田家の侍大将稲葉良通《よしみち》ただ一人を指名した。稲葉は千人の将にすぎない。家康はわずかに五千の手持ちから六千にふえたにすぎないのである。
「それだけでよろしいのか」
信長は、さすがに意外そうにいった。家康は実体《じってい》に頭をさげ、
「それだけでよろしゅうございます。私は小国の者で小《こ》勢《ぜい》をのみ使いなれております。大軍をお貸しくだされても使いこなせませぬ」
といった。家康は若年ながら、信長という気むずかしい同盟者に対する仕え方を十分に心得ていた。
それに三河兵は強い。この戦場では越前、近江、尾張、美濃、三河の五カ国の兵が相戦うが、三河兵はおそらく最強であろう。それを家康は知っていた。
「たとえ越前朝倉の勢が何名あろうとも、それがし手持ちの人数で討ち破って見参《げんざん》に入れ奉るでありましょう」
と、家康はいった。
「頼もしや」
信長は一言いったのみでそれ以上はいわなかった。
時が移った。午前三時、信長はふたたび母衣武者を放ち、諸隊の進撃を命じた。
織田軍は、北へむかった。
北には、姉川が西にむかって堤を横たえている。
戦塵《せんじん》
姉川は、琵琶湖にそそいでいる。美濃・近江の国境の山に源を発し、その途中、山中の岩場で瀑《ばく》布《ふ》となって落ちている場所もあるが、ひとたび伊《い》吹山西麓《ぶきやませいろく》をめぐって琵琶湖東岸の人里に出ると、川のすがたは、にわかにやさしくなる。
戦場を西へ、姉川はゆるやかに流れている。その川堤にむかい、光秀は兵を指揮しつつ進んだ。暗い。
夜はまだあけていない。
「弥平次、ぬかるな。生涯《しょうがい》の功名の日ぞ」
と、かたわらの弥平次光春にいった。馬と馬、兵と兵が、揉《も》みあうように北へ押してゆく。
光秀は、二番隊の池田信輝《のぶてる》に属し、兵千人を指揮していた。光秀がこれほどの大規模な会戦に参加するのははじめてであった。
ちなみに、北進する織田軍の野戦隊形は一番から六番まで六つの隊にわかれている。が、かぞえようによっては十二段ともいえた。最後尾の信長の本隊を入れれば十三段の構えである。光秀は最前列からかぞえて第四段目の横隊を指揮していた。
(わが腕を、天下に披《ひ》露《ろう》してくれる)
と、光秀は心ひそかに決している。いままで織田家ではどちらかといえば司政官としての技能をひとに高く評価されてきた。しかし文官の仕事は自分の本領ではない。
(わが本領は、兵の駈け引きにある)
と、光秀は思っている。
夜の霧が次第に霽《は》れ、対岸の敵の松明《たいまつ》が、ようやく鮮かにみえはじめた。敵も、近づいている。
その間に、姉川が横たわっている。太陽が伊吹山にあがるとき、戦闘が開始されるであろう。
時に六月二十八日である。午前四時すぎ、にわかに天が白み、野が展《ひら》けた。
「押せや」
光秀は叫んだ。東西一里にわたる戦場のあちこちから、鉦《かね》、太鼓、陣貝《かい》がにわかに湧《わ》きあがり、やがて銃声、武者押しの声が天地に満ちた。
「押せや」
光秀は、叫びつづけた。が、駈け出すことは無理だった。前面に五千人の味方が進んでいる。
太陽はいよいよ高くなり、敵味方は姉川の両岸に達し、ついに川をはさんで銃戦を開始した。
もっとも深く突き出しつつあるのは、左翼をうけもつ徳川軍で、これは対岸の朝倉軍と銃戦した。
北国の兵は強悍《きょうかん》である。銃戦をあまり好まず、いらだつようにして河中にとびこみ、群がり進んできた。川の水深は一メートル程度で、流れも急ではない。
彼等は水からあがって、つぎつぎと徳川軍に挑《いど》みかかり、ついにすさまじい混戦状態になり、徳川軍は押されはじめた。
光秀はそれよりも一キロばかり東方の戦場にいる。
が、優勢ではない。
ここでも、正面の敵である浅井軍は無類の勇敢さを発揮し、織田軍の銃火の下をかいくぐって渡河し、またたくまに織田軍の一番備えを突き破って二番備えに突入してきた。
(これはもろい)
光秀は心中うろたえるほどに織田軍というのは弱い。前面の阪井政尚《まさひさ》の一番備えが崩れ立って潰走《かいそう》してくるのに光秀の隊が巻きこまれ支えることもできない。
「弥平次、兵を旗のもとにまとめよ」
と、光秀はこうとなれば、異常なほどに冷静になる男だった。桔梗《ききょう》の旗を動かさず、ひたすらに静まりかえり、馬を乱戦のなかに立て、兵をまずまとめることに専念した。
兵を六分どおりまとめおわるや、
「死ねや」
と馬腹を蹴《け》り、旗を進めた。ねらうのは砂塵をあげて突入しつつある浅井軍の側面であった。
激突し、混戦になった。光秀自身、槍《やり》をふるって、突き伏せ突き伏せして進み、ついに浅井軍の後方へ突きぬけ、そこで反転した。
浅井軍は信長の本陣を襲うつもりであろう、織田軍の壁を突きやぶっては奥へ奥へとすすんでゆく。光秀は手まわりの小部隊をまとめてその後方を遮断《しゃだん》し、敵の後ろから攻め立てた。
その光秀の旗の動きを、本陣の丘陵上から信長は望見している。
(十兵衛は、戦さを知っている)
信長は、桔梗の旗の動きの小気味よさに感心した。
戦勢は、織田軍に非だった。備えは一番から三番まで破られ、四番の柴田勝家がかろうじて支えているにすぎない。
が、信長は落ちついている。越前敦賀《つるが》の金ケ崎から遁走《とんそう》したあの信長とは別人のようだった。
(勝つ)
と、この男は冷静に計算している。味方にはなお十分の予備隊があるが、敵は手持ちの人数のほとんどを戦場に投入しきってしまったようだった。この戦場では予備隊の多寡《たか》が勝敗を決定するであろうことを信長はみていた。
ついに五番備えの森可成《よしなり》の隊までが崩れ立ちはじめた。森可成は斎藤道三の家来で、斎藤家滅亡後、信長がまねき、美濃兼山《かねやま》の城主とした。ちなみにのちに信長の寵愛《ちょうあい》を受ける森蘭丸《らんまる》はこの可成の二男である。
浅井軍の討ち込みはいよいよすさまじく、ついにこの森可成の五番備えも崩れがめだちはじめた。すでに織田勢は最初の前線から十数町もひきさがっている。
(敗れたか)
と、さすがに信長はおもったが、もはや戦場にはそっぽをむき、顔をあげて空を見たり、右手の伊吹山を見たりした。この状態の戦況にあっては総帥《そうすい》自身が、
――敗けた。
と思った瞬間から敗北がはじまることを信長は知っている。信長は思うまいとした。
このとき、奇跡がおこった。
奇跡を呼びよせた人物は、織田軍左翼で朝倉軍と戦っている家康であった。
ここも崩しに崩され、朝倉の兵はほとんど家康の馬前にせまるほどの勢いで討ちこんできている。
家康は、馬上采《さい》をふり、鼓を打たせ、懸命の防ぎをしていたが、ふと、
(いま朝倉の側面を突く兵があれば)
と思った。人数は敵が倍以上に多く、しかもこの手いっぱいの防戦の最中にそれだけの人数を割《さ》くことは不可能にちかい。
(しかし、やらねば斃《たお》れる)
とおもう一念が、家康の行動を飛躍させた。家康は乱戦のなかで榊原康政《さかきばらやすまさ》をよび、その策をさずけ、
「すぐ行け」
とどなった。康政は兵をかきあつめて水田を突ききり、はるか下流のほうへ駈け、そこから姉川を渡った。このあたりは戦場ではない。
むこう岸は、三メートル以上の断崖《だんがい》になっていたが、それを掻《か》きのぼり、岸の上で兵をまとめ長駆、朝倉軍の右側を突いた。
朝倉軍は動揺した。
敵正面の家康は機を失せず、
「押せっ、押せっ」
と諸隊をはげまして突撃に突撃をかさねたため朝倉軍は浮足立ち、やがて潰走しはじめた。
信長は山上でこれをみていたが、
(いまが機だ)
と思い、使番を走らせて横山城備えの隊を繰り出し、浅井軍の左翼を突かせた。
さらに家康の加勢に出ていた稲葉良通は兵を旋回させて浅井軍の右翼を突いた。
浅井軍は一挙に崩壊し、潰走しはじめた。
「行け」
と信長はいっせいに陣貝を吹かせ、さらに本軍の一部をさいて追撃させると、戦場周辺に散らばっていた味方の敗兵は一時に勢いを盛りかえし、田の中を走って追撃軍に参加した。
戦勢は逆転した。
信長はみずから先頭に立つ勢いで敵を追い、姉川を渡り、さらに追撃した。
敵はついに小谷城に逃げこんだが、信長はそこまでは追わない。追えば城下の盆地のなかで逆に包囲されることを怖《おそ》れた。
すぐ兵をまとめ、はるか後方にさがり、そこで戦後処置をした。
「このさい、勢いを駆って小谷城を攻め、浅井の息をとめるべきでございましょう」
と柴田権六勝家などが献言したが、信長はうなずかなかった。
(京へのぼらねばならぬ)
事実、それが必要であった。京のむこうの摂津・河内方面に、四国の阿波《あわ》から三好党が上陸し、信長の占領地をあらしまわっているという報が入っている。
信長にすればいまここで決定的な戦いをするよりも、
「姉川大勝利」
という評判だけをつかんで、他の行動に出る必要があった。出なければ、ここまで築きあげた信長の地盤は崩れ去るであろう。
近江での信長は、つぎつぎと処置をした。まず浅井方の第二城である横山城を包囲してこれを開城させ、これに木下藤吉郎を守将として残留させ、敵の第三城ともいうべき佐和山城には抑えの砦《とりで》を築いて丹羽《にわ》長秀を置き、浅井領内の山々に守備隊をのこして七月四日、京に入った。
すぐ将軍義昭に謁《えつ》し、姉川における戦勝を報告した。
「それは祝着《しゅうちゃく》であった」
と義昭は手を拍《う》ち大いによろこぶ風《ふ》情《ぜい》をみせたが、内心はちがっている。信長の戦勝は義昭の不幸であった。義昭の構想からすれば、このたびの一戦で信長こそ敗亡すべきであった。
(この男、どこまで運があるのか)
と憎々しかったが、表面はひたすらに微笑して、
「祝宴を張らねばなるまいな」
といった。が、信長は無愛想な口調でことわった。
「また他日」
それだけが断り文句である。
信長は退出し、四日目には京を発《た》ち、例によって風のような疾《はや》さで岐阜に帰った。
光秀は、京都守護として残された。
信長が京を去った翌日、光秀は義昭に召され、茶室にまねかれ、手ずから茶を賜わった。
「密談には、茶室がよい」
と、義昭はいった。謁見の間であれば儀礼上の人数が居ならんでいる。無用心で機微な話がしにくい。
「光秀、そちのかさねがさねの武功、さぞ信長の覚えがめでたかろう」
「いえいえ、それがしごときが」
「遠慮をするな。そちの評判のよさは聞いておるわ」
「上様御庇護《ごひご》のおかげでござりまする」
「光秀、心底からそう思うか」
と、義昭は口をゆがめ真顔になった。
(あぶない)
光秀は警戒した。義昭がこの表情をするとき胸中かならず陰謀が湧《わ》いている。
「わしも、そちを二なき者として頼りに思うている」
と言い、しばらくだまってから、
「光秀、そちは将軍であるわしの旗本であることを忘れていまいな」
といった。身分は将軍直参の身で、禄《ろく》は織田家から受けている、というのが光秀の立場であった。
「わしには、そちに割いてやるだけの知行地がない。さればこそ、そちに禄を得させんがため、仮に織田家にあずけてある。そのことは忘れるな」
光秀は、頭をさげるしかない。
「ところで、こんどは姉川で大敗を喫した朝倉家、浅井家は、将軍家存立のためには在来律《りち》義《ぎ》を尽してきた大名だ。これからも大いに忠義をつくしてくれるであろう。この二大名は、ゆめゆめ滅亡させてはならない。室町将軍の威信にかけても存続させたい」
「どうなさるのでございます」
光秀はおどろいた。
「わからぬか。信長と和《わ》睦《ぼく》させたい」
(出来ることか)
光秀は叫びたかった。浅井・朝倉家と織田家とはもはや 仇敵《きゅうてき》以上の仲で、どちらかが食い殺す以外にこの関係の終末はありえない。
「ご無理でござる。上様が朝倉・浅井を立て、それを存続させてやろうという御仁慈は尊ききわみでござりまするが、いまとなっては浅井・朝倉の存続は織田家を滅亡させるということと同じ意味《こころ》に相成ります。すでに二年前の情勢ではござりませぬ」
「わかっている」
「と申されるのは、織田家をお滅ぼしあそばそうということでござりまするか」
「将軍というものはな」
と、義昭はいった。
「どちらが自分に忠かということで、大名を賞罰せねばならぬ職だ」
「ところで」
光秀はひらきなおった。実は光秀にも義昭への重大な要請事項がある。それを信長から、その退京直前に命ぜられているのである。
「なにか。申せ」
「日ならず、あらたなる合戦がおこりましょう。敵は京の北方の浅井・朝倉か、それとも京の南方の三好勢か、それは相わかりませぬ。とにかくその合戦のときに、上様の御親征を仰ぎたい、というのが、信長のたっての望みでござりまする」
「光秀」
義昭は絶句した。いま義昭が光秀を通して信長に要請せしめようとした浅井・朝倉との和睦案と、たったいま光秀がもち出してきた「彼等を親征せよ」という要請事項とはまるで相反するものではないか。
「そちは正気で申しているのか」
「上様、おそれながら」
光秀はうなだれた。
「正気でござりまする。にがい薬をおのみあそばすおつもりで、信長の要請をお受けくださりますように」
「そちはどちらの家来だ」
「それを申してくださりますな。光秀は辛うござりまする」
「そちを苛《いじ》めまい」
義昭は、急に力を喪《うしな》った。
「しかし、親征とはこれはまた」
「左様。そのことを考えましたる信長の意中は別にありましょう。信長は、上様がひそかに何をなされているかを、十分承知の上でござりまする。浅井・朝倉と密通あそばされていることも、阿波から三好党をよびよせられてひそかに摂津に上陸せしめられたことも、信長はすでに存じあげておりまする。さればこそ彼等を討つ織田軍の上に、上様を戴《いただ》いてゆこうというわけでござりまする」
「わかった、もう言うな。――承知した、と岐阜表へ申し送れ」
と、義昭の声はいよいよ小さくなった。義昭はほとんど体質的なまでの陰謀家ではあったが、しかし陰謀の同調者である浅井や朝倉が可愛いわけではない。つねに自分の身のほうが愛《いと》しい。
「こんどの戦さには、足利家の白旗を陣頭に進めて朝倉や浅井を討とう。そのように信長に申し伝えよ。よろこんで旗を樹《た》てると申し伝えよ」
その声《こわ》音《ね》までがしおらしい。義昭にあっては変節は掌を翻《たなごごろ ひるがえ》すよりも自然なのである。
(この人の下では、正気には働けぬな)
光秀も、物哀《ものがな》しくなった。
「上様、これは光秀、上様の御家来として申しあげまする。足利家の御為《おんため》には、ここ当分、嬰《えい》児《じ》のごとく無心に信長の腕にかい抱かれておわしますほうが、よろしかろうと存じまする」
「いつまでだ」
「時期はわかりませぬ。予測すべきものでもありませぬ。しかしいつかは、上様にとってよき日も参りましょう。その日を、ただ無心でお待ちあそばしますように」
「待つのか」
義昭は、ぼう然たる目を、茶室の薄暗い空間のなかで見ひらいた。
孫八郎
義昭の暮らしを、多少のべたい。
信長に擁立されて将軍になったころ、かれの最大の関心事のひとつは、女であった。
「よき女《め》を得たい。どこぞにおらぬか」
と、近臣に命じて漁《あさ》らせた。将軍になったというこのすばらしい現実は、衣冠束帯のおもおもしさだけでは、いまひとつ実感が充実しない。
女だ、と義昭はおもった。佳《よ》き女を自由自在に得られることこそ、人臣最高の権威である将軍の地位についたこの実感を自分自身に納得させ、堪能《たんのう》させ、歓喜させるもっとも現実的な方法であろう。
じつをいえば、義昭は、覚慶《かくけい》といっていた奈良一乗院門跡当時には男色家であった。僧《そう》侶《りょ》が女色をもてあそぶわけにはいかないからである。
その覚慶のころ、義昭は「善王」という呼び名の稚児《ちご》を寵愛《ちょうあい》していた。義昭は溺《おぼ》れやすい性格で、善王を寵愛すること、日夜の区別がない。
その後、一乗院を脱走し、天下を流《る》浪《ろう》し、ついに信長に拾われ、信長に擁せられて足利十五代の将軍職を継いだとき、
「善王はどこにいる。さがし出せ」
と、近臣に命じた。将軍になった自分のよろこびと幸福を、かつての寵童にも分けあたえてやりたかったのであろう。
善王は、身分ある者の子ではない。
山城《やましろ》の駒《こま》野《の》という在所の百姓の子である。しかし美《び》貌《ぼう》というのはかならずしも貴族だけの独占物ではない。
稚児当時の善王の美しさ、嫋《たお》やかさは、女人にも類がなかろうと義昭はおもっていた。
やがて近臣が、その後、在所に逃げもどっていた善王をさがし出してきた。
善王は身分がないから、将軍の公的な謁見の場所である表書院《おもてしょいん》では対面できない。夜、奥の寝所で対面した。
善王は、次ノ間で平伏した。
「おお、善王か。なつかしや、疾《と》くとく、面《おもて》をあげよ」
義昭がせきこんでいうと、善王もむかしの狎《な》れ馴染《なじ》んだ関係をおもいだしたのであろう、つい嬌態《しな》をつくって面をあげた。
(なんじゃ、こいつ月代《さかやき》を剃《そ》りおったか)
すでに唐《から》輪《わ》の稚児まげ《・・》でもなく、児《こ》小姓《ごしょう》風の可《か》憐《れん》な前髪でもない。あおあおと月代を剃りあげた立派な壮漢である。頸《くび》もふとく肩の骨格もがっしりと成長し、どこを見てもむかしの善王の面影《おもかげ》がない。
「そ、そちは、まことに善王か」
「はい、善王でござりまする。おなつかしゅう存じあげ奉りまする」
その声のふとぶとしさ、義昭は両掌《りょうて》で耳をおおいたいほどであった。
(なるほど、人は成長するわい)
義昭が奈良一乗院を脱出してから足掛け五年になるのである。義昭自身、あのときは数えて二十九歳、いまは三十四歳であった。善王のみ齢《とし》をとらずにいるわけにはいかない。
「あれから、どうしたか」
「はい、門跡《もんぜき》さまが」
「これこれ、上様とよべ。いまは足利家第十五世の将軍であるぞ」
「はい、上様が奈良一乗院をお脱けあそばしたあと、手前は置き捨てられました」
「あのとき、なにぶん事は秘計を要するゆえ、余儀ないことであった。しかしふびん《・・・》なことをしたとあとあとまで後悔した。ゆるせ」
「お恨み申しあげております」
と微笑したが、しかし昔のような婉然《えんぜん》たる嬌態《きょうたい》にはなりにくい。
「これこれ、あやまっておる。申すな。それからどうしたか」
「門跡さまのござらっしゃらぬ一乗院にしばらくおりましたが、人の心は頼りにならぬものでござります」
「なぜだ」
「御侍僧であった常海どのが、上様のござらっしゃらぬのを幸い、しつこく言い寄り……」
「常海め、左様なことをしおったか」
義昭は、身を揉《も》むようにいった。
「手籠《てご》めにされかかったこともございましたが、従いませなんだ。たまりかねて寺を逃げ出したのでござります。逃げると申しましても、上様をうしなった手前は、止り木をうしなった鳥も同然、あてど《・・・》はござりませぬ。やむなくうまれ在所の山城駒野にもどり、そこではずかしながら山仕事、田仕事をいたしております」
むろん、とっくに元服を済ませ、いまは堀孫八郎と名乗っているという。
「ふびんなことをした。こちらへ寄れ」
と手をあげ、さしまねいた。このあたりが義昭の情もろいところであろう。すでに善王のかわり果てた姿をみて興を醒《さ》ましているものの、かといってすげなくしてやる気になれないのである。
「ありがたき仕合せに存じまする」
堀孫八郎も善王のむかしを思い出し、昔どおりの立《たち》居《い》振舞で義昭に接近した。
義昭は、手をまわし、肩を抱いてやった。なんと、岩を抱いているようであった。
「そちゃ、チト田仕事をしすぎたの」
それでも気の弱い義昭は「さがれ」とはいえず、なおもこの壮漢を抱こうとしたが、これでは義昭が抱かれたほうが似つかわしいようであった。
(衆道《しゅうどう》は、やめたわ)
と、義昭はこのときほとんど衝撃的にその決意をした。衆道とは男色のことである。すでに寺門の僧ではない義昭が、なにを不自由して衆道に義理を立てる必要があろう。義昭はそろそろと堀孫八郎を放し、
「わしはかように」
と、自分のまげ《・・》を指さし、
「髪を得ている。このためすでにこの道を断ってひさしい。しかし孫八郎、そちを捨てはせぬ。一人前の男にしてやるゆえ、しばらくこの館《やかた》に住んでおれ」
「お取り立てくだされまするか」
孫八郎にしても、伽《とぎ》をさせられるよりもそのほうがいい。
「しかし、かといって、わしは信長に押し立てられた飾り物ゆえ、いますぐそちに知行地を呉《く》れてやる力がない。すこし時期を待て」
「待ちまするとも」
「ところで孫八郎、聞くが」
と、義昭は身を乗り出してきた。
「そちに妹はいるか、妹がいなければ従妹《いとこ》でもよいぞ」
そこが義昭の虫のいいところだった。さすがに孫八郎も不快な顔をして、
「おりませぬ」
といった。事実いなかった。
「そうか、それは残念な」
孫八郎の妹か従妹ならあるいは美しかろうと思ったのである。
その後、ずいぶんと女を得た。しかし女に飽きやすい義昭はその満足を持続させるほどの女をまだ得ていない。
「どこぞ、よい女はおらぬか」
義昭はおなじ質問を、細川藤孝にも光秀にも発したことがある。
「手前ども、その道は昏《くろ》うござる」
藤孝も光秀も、同じ言葉で拒絶した。彼等は、武将としての技能的な誇りと自信があるから、女の世話をして将軍の機《き》嫌《げん》を取り結ぼうとはおもわなかった。
(こまったお人ではある)
と、この点でも光秀は思っている。義昭は二十九歳までは僧房に居て女を知らなかったために、女とはよほどすぐれた悦楽をもたらしてくれる生きものであろうと過大におもい憬《こが》れている。このため自分が手に入れた女につぎつぎと失望し、
――このようなはずはない。世にはもっとよい女が居よう。
と歯ぎしりするような思いで望みをかけ、しかもその望みにとめど《・・・》がなくなっている。
細川藤孝はいつか、
「女とは、さほどのものではありませぬ」
と諫《いさ》めたことがある。藤孝は光秀にたのまれたのである。
実際、京都守護職の光秀にとっては、たまらなかった。光秀は同役の村井貞勝とともに足利家の家計の帳簿を監査しているが、後房の費用がだんだん大きくなってゆくことにある種の怖《おそ》れを抱いていた。
「藤孝殿、実は将軍《くぼう》様の女色のことだが。いやいやこう申しても女色は人の癖ゆえ、女色そのものをとやかく申そうとは思うておらぬ。しかし将軍様の場合、あれは女色ではない」
「なるほど、たしかに。――」
藤孝は、光秀のいう意味がわかった。義昭の場合は女に惑溺《わくでき》するわけでなく、衣装道楽の者が衣装をつぎつぎと変えるように女を変えているにすぎない。しかも仮にも将軍家だから気に入らなくなった女を捨てるわけにはいかず、そのまま後房で養わねばならぬ。後房はそのような女が、溜《た》まりに溜まってゆく一方である。
「将軍家の経費は、織田家が提供した二万貫の土地からあがる収益でまかなっている。ところがいまの調子では」
破産をするしかない、と光秀はいうのだ。
その経済的逼迫《ひっぱく》は義昭も十分感じていて、光秀の顔をみるたびに、
「将軍家の料を、もそっとふやしてもらうわけにはいかぬか」
とねだるのである。虫がよすぎるというものであろう。いまの将軍家御料は、岐阜の信長が各地の戦場で大はたらきに働いてその分から提供している。信長自身べつに天下をとったわけではなく、その版《はん》図《と》も、尾張、美濃に近畿諸国をやっと加えた程度の一大名にすぎない。
が、義昭はうまれついての貴族である。物は下にねだれば呉れるものと思っていた。
「光秀、いまの料では、将軍としての体面がととのえられぬ。信長やそちに忠義の心映《こころば》えがあれば、なんとかして呉りゃれ」
といった。――後房の御人数が多すぎまする、と光秀は言おうとするのだが、譜《ふ》代《だい》の臣ではないから、そこまでは立ち入れない。
このためこの諫言方《かんげんがた》を細川藤孝にたのんだのである。
それを藤孝にたのむとき、
「将軍様にはつねに逼迫の心をお持ちだ。自分は不自由しているという不足感をつねにお持ちになっている。この御気持が、結局は織田家を捨てて他を頼もうという御謀《ごむ》反心《ほんしん》を大きくしてゆく。単に女の問題ではなくなるのだ」
それが、義昭の漁色について光秀がいだいている恐怖である。単なる漁色には終わらないというのだ。
藤孝は、頼まれた以上、何度も義昭に諫言したが、義昭はあらためない。
ついに、
「兵部《ひょうぶ》大輔《だゆう》(藤孝)のあの分別くさい顔をみるのもいやだ」
と言い出し、藤孝が参上しても辞をかまえて会わぬようになった。
そのうち、義昭の漁色がやんだ。義昭は堪能するに足る女を得たのである。
意外に近くにいた。
義昭には、上野中務少輔清信《なかつかさしょうゆうきよのぶ》という寵臣がいる。上野家も、代々の幕臣である。その祖は武蔵の住人上野太郎頼遠《よりとお》と言い、足利幕府の創業者尊氏《たかうじ》の近臣だった。代々幕府につかえ、いまの清信にいたっている。清信は、義昭の意を迎えるほか何の能もない男だ。
――女をさがせ。
といわれてほうぼう心あたりをさがしているうちに、ふと自分の娘を差しあげてみた。
痩《や》せた小《こ》柄《がら》な女で、さほど美人ではないが、これが意外に義昭の気に入ったのである。
後房では、
「少輔ノ局《つぼね》」
といわれ、義昭の寵を一身にあつめた。義昭は漁色をやめた。
(わからぬものよ)
と、光秀は、足利御所のそとにあってひそかにこの異変《・・》に目をみはっていたが、異常はそれだけではおわらなかった。例の孫八郎である。
義昭は、この往年の寵童をすてておけるような情のこわさがない。
「のう、中務よ」
と、ある日、上野中務少輔清信にいった。
「相談じゃ」
「はっ、何事でもおおせつけられまするように」
清信は、娘をさしあげてから義昭の寵愛第一の者となり、義昭から事の公私となく大小となく、相談される立場になっている。
「そちには嫡男《ちゃくなん》がなかったな」
「ござりませぬ」
「そこでじゃ。あの堀孫八郎をそちの養子にせぬかよ」
清信は驚いたが、しかし将軍のかつての寵童を養子にすることは自分の栄達の道であろうと思い、つらくはあったが承知した。
が、孫八郎は百姓の子である。そのままでは足利幕下の名家の婿養《むこよう》子《し》になるわけにはいかない。このため義昭は孫八郎をまず幕臣の一色《いっしき》家の養子とし、しかるのちに義昭自身の、
猶《ゆう》子《し》
ということにした。猶《なお》、子ノゴトシ、という意味である。猶子は養子よりははるかに軽い関係だが、足利将軍の猶子ともなれば大したものだ。その猶子ということで、上野中務少輔清信のもとに孫八郎を縁付けた。
孫八郎は、上野政信になった。
それだけでなく、義昭は宮中に乞《こ》うて官位も貰《もら》ってやった。
従《じゅ》五《ご》位《いの》下《げ》 大和守
である。
まるで義昭にとって政治は遊びであった。
都下の者も、さすがにこのばかばかしさには驚き、
山城の
駒野あたりの瓜《うり》つくり
上野になりて
ぶらつきにけり
という落首《らくしゅ》が、将軍館《やかた》のそばの松の木にかかげられた。
「駒野あたりの瓜つくり」というのは、孫八郎が駒野で瓜をつくっていたからである。
そこで、上野中務少輔清信の位置はいよいよ重くなった。
義昭の例の、ほとんど病気といっていいほどの陰謀好きの片棒をになったのは、この上野中務少輔清信であった。
清信は、義昭の手紙を運搬する担当者となった。清信自身は旅に出られないが、自分の家来を四方にやって諸国の大名に使いさせたのである。こんなことで、反織田同盟は次第に活溌《かっぱつ》になってきた。
前章で、光秀が信長の言葉であるとして、
「近く、摂津で蠢動《しゅんどう》している三好党を退治するつもりであるが、ついては上様みずから御馬を進めていただきたい」
との旨《むね》を、義昭に言上した。親征といっても義昭は形ばかり戦陣に馬を立てるだけだが、それにしても敵の三好党の背後にあってひそかに糸をひいているのは義昭自身なのである。その義昭が三好征伐の陣頭に立つとなればどうであろう。
それが、信長の皮肉だった。
――やむを得ぬ。
ということで、義昭は承知した。
光秀が退出したあと、上野中務少輔清信がひそかに拝謁《はいえつ》して、
「上様、およろこびくださりますよう。甲斐《かい》の武田信玄がちかぢか、その麾下《きか》の軍をこぞり、大挙西上し、京に旗を樹《た》て奉らんと申して参りましたぞ。信玄来《きた》らば、信長ごときはたちどころに粉砕されましょう。いましばしの御辛抱でござりまする」
といった。
実は、武田信玄からの密書は、一ト月前にも義昭の手もとにとどいている。
容易ならぬ文面だった。
一、来年には、京にのぼりたい。のぼり次第、一万疋《びき》の御料をさしあげたい。
二、愚息に、四郎勝頼に、御名前の一字と官を頂戴《ちょうだい》したい。
三、なお、信長という男は諸国に手紙を出す場合、将軍《くぼう》の命による、と称しているようだが、どうせうそであろう。将軍様にあっては重々お気をつけていただきたい。
というのが、およその文章だった。それについての詳細な手紙が、いま上野中務少輔清信のもとに送られてきたのである。
「そうか、信玄の西上準備はそれほどにすすんでいるか」
義昭は頬《ほお》をみるみる紅《あか》くした。先刻、光秀と対面したときの陰鬱《いんうつ》さとは、まるで別人のようであった。
事実、義昭を喜悦させるに足るものだった。武田信玄の軍事能力は、信長のそれを数段上廻るものであろうことは、義昭だけでなく世間が認めている。
変報
信長の生涯《しょうがい》には、休息がない。
なかでももっとも多忙をきわめたのは、この時期であろう。
姉川で浅井・朝倉の連合軍を破って岐阜に帰着するや、摂津石山(大阪)の本願寺が反信長の戦旗をひるがえしたことを知った。
「坊主まで――か」
急報をきいたとき、とっさにそう叫んだが声は湿っていない。
かれはただちに軍令を発し、兵三万をひきい、岐阜を出発した。
琵琶湖畔を通って三日目に京に入り、本能寺の宿館に一泊した。
「京の三人をよべ」
と、すぐ命じた。京の三人とは、京都の市政をあずかる明智光秀、村井貞勝、朝山日乗《にちじょう》である。日乗のみが、僧であった。出雲《いずも》のうまれで、信長の珍重する文官の一人である。
三人が伺《し》候《こう》すると、
「室町の小蕪《こかぶら》殿にかわったことはないか」
といった。小蕪とは、将軍義昭のことだ。なるほど顔がどことなく貧相な蕪に似ているから、信長はそうつけたのであろう。
信長は、人にあだなをつけることに絶妙の才があり、藤吉郎秀吉に対しては、
「禿《はげ》ねずみ」
とよんでいる。猿《さる》とも呼ぶ。しかし、禿ねずみのほうがはるかに藤吉郎の風ラ《ふうぼう》を活写している。
光秀には、
「金柑頭《きんかんあたま》っ」
と叫ぶ。藤吉郎も光秀も髪の質のやわらかすぎるたちで、両人ともすでに髪が薄くなっていたが、その薄くなりかたがひどくちがう。藤吉郎は髪が擦《す》りきれたようにまばらに薄くなり、その点、禿ねずみとは言い得て妙であろう。
光秀の若禿(もはや若くもないが)はその点、頭のてっぺんがほとんど地《じ》肌《はだ》をみせ、月《さか》代《やき》を剃《す》らずにすむほどである。その地肌が赤く艶《つや》めいて、その色といい形といい、金柑にそっくりであった。
さて、義昭将軍は、小蕪である。
「日乗、どうだ」
と、信長は、この日蓮宗《にちれんしゅう》の僧にいった。わざと光秀を無視したのは、光秀が幕臣でもあることを顧慮したからである。
日乗が、義昭の日常についてさしさわりのないことを言上すると、
「もっと、悪口を言え。いまききたいのは、小蕪殿がいかに食えぬ男かということだ」
信長は、不審だったのだ。
いまや、反織田同盟は本願寺、三好、叡山《えいざん》、浅井、朝倉、武田とみごとに出来あがり、信長が琵琶湖畔の姉川で浅井・朝倉を叩《たた》いたかと思うと、すかさず阿波《あわ》から三好党の者が大坂湾に上陸し、ついで本願寺が戦旗をひるがえし、同時に東方では武田信玄の動きがおかしくなる、といったぐあいで、信長を袋叩きにしようとするその動きがいかにも組織的で機能性にみちている。
(小蕪めが、あやしい)
と、信長はおもわざるをえない。義昭が四方八方に密使を出していればこそ、このように機能的な活躍ができるのであろう。
(そうとみた)
とおもえばこそ、信長はなにか確証をつかみたかったのである。
「さればお許しを頂き」
「もったいぶらずに、早くいえ」
「申しあげまする」
日乗は義昭に関する二、三の行跡をあげ、信長とおなじ観測をした。
村井貞勝も、それに和した。
「十兵衛はどうだ」
とは信長は光秀にきかず、話頭を一転して、
「小蕪殿は、承知したか」
ときいた。言葉がみじかすぎるためその内容を推測しなければならないが、要するに「承知」とは「織田軍の陣頭に立つことを義昭将軍は承知したか」という意味であろう。
「はっ」
光秀が平伏すると、信長は、
「余計な口《く》説《ぜつ》は要らぬぞ。承知したか、せなんだかを言え」
「承知、なされましてござりまする」
「さればこのわしは明朝摂津へ出発する。ともどもに出陣なされよ、と伝えよ」
(明朝。――)
これはまた急なことだ。いまから出陣支度をしてはたして間にあうかどうか。
「手前、いまから室町御所へ」
飛んで行ってその旨《むね》を伝えたい、というと信長はわずかにあご《・・》をひいた。
光秀は退出し、門前から馬にとびのると、西へ駈《か》け出した。
やがて室町の将軍館へゆき、取次ぎの上野中務少輔清信をよびだし、信長の要求を伝えた。
「な、ならぬわ」
と、上野清信は事の意外さに惑乱し、居丈《いたけ》高《だか》になった。
「ならぬ、とは、どういう意味でござる」
光秀は冷やかにいった。光秀はこの上野清信という、娘を貢物《みつぎもの》にして義昭の寵《ちょう》を一身にあつめている小男がなんとしても好きになれなかった。
「問われるまでもない」
清信は、声高《こわだか》にいった。
「いまから御支度をなされてあす御出陣、とは何事ぞ。将軍を田《でん》夫野《ぷや》人《じん》と御心得あるか。いったい、将軍をどのようにお心得ある。将軍御出陣となれば、内裏に参内して御報告申しあげねばならず、時と場合によっては節刀《せっとう》を頂かねばならず、さらには将軍御出陣の故実を調べ、故実による御道具、人数をととのえねばならぬ」
「愚かなことだ」
光秀もつい、信長の威権を藉《か》りる態度になった。
「いまは乱世ではないか。もし仮に、たったいまこの御所に敵勢が押し寄せ奉ったりとされよ。それでもなお、故実を調べてから御出陣なさるか」
「現に、敵はどこにいる」
「摂津」
「京より十三里の南じゃ。その敵が京に押し寄せてきたわけではあるまい。時間に十分のゆとりがある。当然、将軍は儀容をととのえられねばならぬ」
「どのくらい、お待ち申し上げればよい」
「まず、十日」
と、上野清信が口辺に薄ら笑いをうかべていったから、さすが温厚で通った光秀も嚇《かつ》となった。
「中務、とくとく取り次ぐべし。明朝の御出陣、半刻《はんとき》なりとも遅れれば貴殿の首はそのままにしておかぬぞ」
と言うなり、一尺五寸はある脇差《わきざし》をすぱりと抜いた。
仰天したのは、上野清信である。「十兵衛光秀、ら、乱心しおったか、ここをどこと心得るぞ。殿中であるぞ」とわめいたから、
「うろたえるなっ」
と、光秀は抜いた脇差の白刃の中どころをつかみ、ぴしっとへし折った。
「竹の銀箔《きんぱく》ぞ」
光秀は脇差を捨て、さらに清信に詰め寄ったから、清信もたまりかねて奥へ駈けこんだ。
そのまま義昭の御座所に入り、この旨をいそぎ言上すると、義昭のほうがむしろ慄《ふる》えあがった。
「光秀が血相を変えおったか」
義昭が感じとっている光秀とは、温和で思慮ぶかい紳士なのである。それが殿中で刀を抜いて将軍側近を脅迫するとは、どういうことであろう。
義昭にすれば、織田家というのは信長以下虎《こ》狼《ろう》のあつまりのようなものだ。光秀のみが物わかりがよくおだやかな君子であると思っていたのに、
(その光秀までが)
という意外さが、驚きになり、衝撃になり、ついには織田家のおそろしさを義昭の皮膚にまで感じさせる結果に戦慄《せんりつ》したのであろう。
「かの光秀を、死罪になされませ。殿中で抜刀したること、ゆゆしき罪でござりまする」
「刃《やいば》は、銀《ぎん》箔《ぬ》りの竹べらというではないか」
「いかにも左様で」
「考えてみよ。竹べらで死罪にできるか。光秀というのは、そういう周到な男だ」
結局、出陣支度をすることになり、将軍館はそのため大騒ぎになった。
将軍義昭が軍をひきいて京を出発した日は、元《げん》亀《き》元年八月三十日である。その日は、細川藤孝の居城である京都南郊の勝竜寺城に一泊し、翌日摂津に入った。
摂津における織田軍の要塞《ようさい》のひとつは、中ノ島城であった。城は、右の細川藤孝が守っている。
義昭は、この城に入った。城頭に、足利家の二《ふた》ツ引両《びきりょう》の定紋《じょうもん》を染めた源氏の白旗がたかだかとあがると、戦場に微妙な変化がおこった。
「将軍の御親征じゃ」
ということで織田軍の将士の士気にわかにあがり、遠くこれを聞き伝えた紀州根《ね》来《ごろ》の僧兵団が、
――将軍の御親征なれば。
ということで従軍を申し入れてきた。彼等は信長の名による誘い状だけではとうてい参戦しなかったであろう。
(さすがは、将軍家。御威光は衰えぬ)
と、古典的権威のすきな光秀は、中ノ島城にひるがえる白旗をみてほとんど涙のにじむ思いさえした。
信長は、本願寺の巨郭と淀川《よどがわ》一筋をへだてて向かいあう天満宮の森を本陣として、活溌な戦闘活動を開始した。
この戦場では、光秀はすでに柴田、佐久間、丹羽《にわ》、木下といった織田家の師団長格と肩をならべて一手の大将に抜擢《ばってき》されている。
すでに信長は光秀を、
(使える)
と見ぬいていた。その戦場における卓抜な指揮能力は、南近江攻め、北国攻め、姉川の合戦で十分に実証し得ていた。
織田家の家中でも、
「鉄砲組のあつかいのうまさと城攻め法にかけては、明智殿は日本一ではあるまいか」
という評判も高かった。このころ、戦場の主役になりつつある鉄砲については、その効果的な使い方を知らぬ者が多い。その点、光秀の火力使用法というのは、信長でさえ内心畏怖《いふ》を覚えるほどにすぐれていた。
(あの男には、気に入らぬところが多い。しかし使える)
と、信長は思っていた。信長は徹頭徹尾、人間を機能的に見ようとしている男で、その信長の思想こそこんにちの日本一の織田軍団をつくりあげているといっていいであろう。
光秀にとっても、悲しいことではない。織田家にきてわずか数年にしかならぬのに、抜擢につぐ抜擢をうけて、往年の牢人《ろうにん》の境涯からみれば夢のような立身をとげている。自分の才能・技術が高く評価されるほど人生での幸福はないであろう。
(働かねばならぬ)
と思っていた。事実、この摂津平野における戦場では、光秀は懸命に働き、その存在はつねに敵味方に輝ける印象をあたえた。
「ただ、多少身をかばう傾向がある」
と、後年、光秀の娘婿《むすめむこ》になった細川忠興《ただおき》は岳《がく》父《ふ》光秀について語っている。戦略戦術および戦闘指揮に名人芸を発揮するものの、兵をひきいて乱軍に突入するとき、他の織田家の部将のような猪突《ちょとつ》さがない。
「多少、身をかばう」
のである。知的に計算しぬいた指揮には長《た》けているが、自分の死を多少おそれるところがあるという印象を、わずかに人に与えた。
そのうち、北方で異変がおこった。
「浅井・朝倉が、ふたたび戦闘活動を開始した」
という急報が、天満宮の森にいる信長のもとに入ったのである。
近江の姉川であれほどの打撃をうけた浅井・朝倉軍だが、しかし潰滅《かいめつ》はしておらず、いまその傷を癒《いや》し、ようやく軍を動かせるまでになり、信長が摂津(大阪)で三好党と本願寺に釘《くぎ》付《づ》けになっているのを幸い、南下して信長の後方をおびやかそうとする模様だった。信長にとって、これほどの危機はないであろう。
さらに信長にとって不快だったのは、情報があいまいでそれ以上のことがわからないことだった。
(たれに、偵察《ていさつ》せしめるか)
と考えたとき、とっさに光秀の名がうかんだ。光秀か木下藤吉郎以外に、戦略偵察のできる者はいないと信長はみていた。
「十兵衛をよべ」
と、信長は命じた。
光秀は、摂津の野田方面の前線にいたが、すぐ本営にもどってきた。
「近江でまた、死にぞこないが蠢《うごめ》いている」
「浅井・朝倉でございますか」
と、光秀が念を押したが、信長はそれには返事をせず、
「すぐ行け」
と命じた。
信長の斬新《ざんしん》な戦術といってよかった。この偵察行は、単に偵察将校として光秀個人を出発させるのではなく、光秀に一軍をひきいさせ、敵地に強行侵入させてその情況を肉眼で見て来させるのである。後世の西洋戦術でいう威力偵察というべきもので、信長の天才的創意というべきであった。
「されば」
と、光秀は退出し、野田方面の陣をただちに撤収し、兵二千をひきい、そのまま京にむかった。
(浅井・朝倉は、信長の留守を幸い、京を占領するつもりに相違ない)
と、光秀は敵の意図をそうにらみ、この想定に沿って敵情を観察しようとしていた。
翌日、光秀は京に入った。
都大路を駈けぬけながら、
(意外に静かだな)
と安心したが、すでに先行させてあった偵察員たちの報告によると、市民の動揺は相当深刻で、今日明日にも財貨をまとめて逃げようとしている者が多いという。
(織田軍への信用が薄れつつあるな)
と見た。以前の織田軍の信用は非常なもので、京を窺《うかが》う他の勢力が出てきても、
――織田弾正忠様にはかなうまい。
と見て、家財をかかえて逃げ出そうというような空気はなかった。ところが織田軍の敵が東西南北に蜂《ほう》起《き》してしまったこんにち、もはや評価が一変した。あすにも信長の没落があると見ているのではないか。
さらに市中の流言は、
「くぼうさま《・・・・・》も、信長を見かぎってござるげな」
ということであった。当のくぼうさま《・・・・・》である義昭は、摂津の戦場からすでに京へ帰っている。信長自身、義昭の出馬が政略として成功したとみて戦場からひきさがらせたのである。
(あるいはその流言、義昭様みずからが放った言葉かもしれぬ)
そうと思ったが、それらにかかずらわっている余裕が光秀にはない。京を抜けて逢坂《おうさか》越《ご》えから大津へ出、そこでいったん軍をとどめたとき、街道を敗兵が潰走してきた。
光秀は、驚いた。
敗兵はことごとく、近江守備の織田兵である。
聞けば、近江一帯で跳梁《ちょうりょう》しはじめた浅井・朝倉の兵は二万八千という大軍で、織田軍の占領地をつぎつぎに攻め崩し、ついに宇佐《うさ》山《やま》城(滋賀郡)を攻め、これを陥《おと》したという。
宇佐山城の守備隊長は、信長の実弟の織田信治《のぶはる》と森可成《よしなり》のふたりである。その二人が、落城とともに戦死したというのである。
(これは、よほどの事態だな)
と、光秀は見た。
とりあえず、その敗兵をひきとめ、自軍のなかに加えた。彼等が京に入ってまたまた流言のたね《・・》になることを光秀はおそれたのである。
光秀は翌日、敵の大軍との接触を注意ぶかく避けつつさらに近江国内深く侵入して様子をみるに、浅井・朝倉軍は、琵琶湖周辺の八王子、比《ひ》叡辻《えのつじ》、堅《かた》田《た》、和爾《わに》などの織田軍拠点を占領し、一隊ははるかに南下して山城《やましろ》にまであらわれ、醍《だい》醐《ご》や山科《やましな》の部落を焼きはらって退散したりしていることがわかった。
光秀は、十分に偵察した。
これ以上近江に駐《とどま》ることを避け、いそぎ南下し、摂津にもどり、信長に報告した。
光秀は、つぶさに述べた。
信長はじっと光秀を見つめ、反問せず、うなずかず聴き入っていたが、やがて聴きおわると、
「デアルカ」
と、この男の奇妙な口癖言葉を発し、すぐ前線諸将をあつめ、
「兵を旋《めぐ》らせて近江の敵を討つ」
とあたらしい決心をのべ、軍議し、新局面への部署を編成しなおした。
そのあと、信長は電光のような疾《はや》さで京にあらわれ、近江に入り、叡山の琵琶湖側のふもとにある坂本城に布陣し、浅井・朝倉に対する戦闘行動を開始した。
が、浅井・朝倉側は信長の来着をみておそれ、織田軍との決戦を避け、本営を叡山の山上にすえた。
戦況は、山岳戦を予想させるにいたったが、浅井・朝倉軍はあくまでも決戦を避けて各地に小部隊を出しては放火し、織田軍をその奔命に疲れさせようとしている。
信長は全軍の部署を変えて、叡山そのものを包囲し、諸方に砦《とりで》をきずき、信長自身は宇佐山城に入り、ここを本営として叡山の高峻《こうしゅん》を望んだ。
雪
秋が深まっている。
が、琵琶湖南岸の山々では滞陣がつづき、戦局は動かず、信長の没落はいまやたれの目からみてもあきらかになりつつあった。
(没落か。――)
と、陣中の光秀でさえおもった。天下は反織田同盟の動きでみちみちているのに、当の信長はこの叡山山麓《さんろく》に釘《くぎ》付《づ》けされたまま動きもとれないのである。
(このままでは亡《ほろ》びを待つばかりだ)
と光秀は思った。
浅井・朝倉の主力は、叡山の峰や谷々にこもって防塞《ぼうさい》を築き、堂塔を臨時の砦に仕立てて眼下の織田軍に対《たい》峙《じ》し、しかも要塞戦を覚悟して動かないのだ。
(かれらの利口なことよ)
光秀は、浅井・朝倉の将たちの戦略頭脳に驚嘆するおもいだった。いまの天下の情勢においては、叡山の浅井・朝倉は、
――動かぬ。
ということこそ、最良の戦略だった。織田家の大軍をこの近江の叡山山麓に釘付けにしておくことこそ、彼等の勝利への道だった。
いずれ、甲斐《かい》の武田信玄が日本最強の軍団をひきいて駿河《するが》路《じ》に出、織田家の本拠である尾張・美濃を衝《つ》くであろう。
さらに摂津では本願寺の支援によって、三好党がいよいよ戦場を拡大し、ついには信長の占領下にある京を衝くにちがいない。
「四面楚歌《そか》」
という古代中国の言葉を、光秀はおもいだした。信長の周囲は、敵軍の軍歌でみちみちている。信長には三河の徳川家康以外、天下に友軍とする大名は一人もいないのである。
(あの怜《れい》悧《り》な三河どのが、よくぞ裏切らずに付いていることよ)
と、光秀はむしろ感嘆する思いで、年若い家康のことをおもった。もともと家康は織田家の諸将のあいだで、
――徳川殿はお若いにもかかわらず、諸事律《りち》義《ぎ》におわす。
とほめられていたが、これはべつに深い意味があってのことではなかった。家康は年若ながら織田家の諸将に対してひどくいんぎんで、路上で出会っても鄭重《ていちょう》すぎるほどの会釈《えしゃく》をするところがあり、諸将はこの主家の同盟者の辞儀の深さにかえって恐縮し、それが人々の家康の人間評価のめど《・・》になっていた。
(辞儀が深いだけでなく、心根までが篤実《とくじつ》らしい)
こうとなっては、光秀もそうおもわざるを得なかった。
(翻《ひるがえ》って考えてみれば、三河の徳川殿は織田家とのつながりがここまで深間に入った以上、もはや一蓮托生《いちれんたくしょう》の運命を覚悟せねばならないのであろう。興亡ともに信長とともにする心底を、徳川殿は決めおおせているのにちがいない)
それにしても、当の信長である。
(信長は、どうするつもりか)
と、光秀はなかばこの現状を憂《うれ》え、なかば興味をもって、光秀自身がその秘《ひそ》かなる才能の競争相手としている信長の出方を見守っていた。
ところで。――
三日に一度は、光秀は自陣を離れ、信長の本陣に伺候してさまざまの下知《げち》を貰《もら》う。
そのつど、
(落ちついてはいない)
という印象を、光秀は信長から受けた。こういういわば絶体絶命の場合、伝説的な英雄ならば焦燥《しょうそう》をふかく蔵して外貌《がいぼう》は泰然自若《じじゃく》としているのであろう。が、信長はそうではなかった。
たえず、気ぜわしく動いていた。
「もっと、仕掛けよ」
と、つねにまわりを怒鳴りつけていた。仕掛ける、とは織田軍を山岳戦にひき入れた浅井・朝倉軍に対して絶えざる陣地攻撃を仕掛けよということである。
が、その仕掛けが、つねに無駄《むだ》におわっていた。どの山砦《さんさい》の敵も、栄螺《さざえ》が殻《から》を閉じたようにして挑発《ちょうはつ》に乗って来ないのである。
(もはや、だめか)
とは、信長は思わないらしく、しくじっても無駄でも、とにかくその芸のない物理的刺《し》戟《げき》法をくりかえさせていた。
が、それだけではない。
一方では、無駄とは知りつつも、考えられるかぎりの芸を、信長は試みていた。
たとえば、大時代な挑戦状である。
信長は秘書官の菅《すが》屋《や》九右衛門を使者として山頂の朝倉方の本陣へやらせ、
「このように滞陣していても、互いの士卒が疲れるのみでらち《・・》はあかぬ。よろしく山を降りられよ。広闊《こうかつ》な野で互いに陣を張り全軍を馳《は》せちがわせて雌雄を決しよう」
と申し入れさせた。
が、朝倉方の諸将は嘲笑《ちょうしょう》したのみである。
「信長は、あせりはじめている」
かれらはよろこび、前途に希望をもち、むろんのこと、信長の申し入れを一蹴《いっしゅう》した。
(――信長は)
と、このときも光秀は思った。
(愚策であろうが下策であろうが、とにかく打てるかぎりの手を、休みなく隙《すき》間《ま》なく打とうとしている)
その焦燥は気の毒なばかりである。光秀の思うのに、信長ほどの天才をもってしても、この八方ふさがりな現況を打開する手は思いつかないのであろう。
(信長は、石牢《いしろう》に入れられたと同然だな)
光秀は思った。むろん、光秀がもし信長の立場になったとしても、信長がいまやっているように、ただ虚《むな》しく石牢の石壁をこぶしで乱打する下策をくりかえすだけだろう。
(あの男の、運だめし、智恵だめしだな)
その信長は、彼がくりかえしている壁叩《かべたた》きの下策のひとつとして叡山延暦寺《えんりゃくじ》にも使者をのぼらせた。
「浅井・朝倉と手を切れ。彼らを山から追い出せ」
という要求を、寺側に申し入れた。
叡山延暦寺は、日本におけるもっとも強大な武装宗教団体として平安時代以来しばしば地上の権力と対抗し、ほとんど不敗の歴史を刻んできている。
「山法師」
という通称で知られているその僧兵は、僧にて僧にあらず、
「諸国の窃盗《せっとう》、強盗、山賊、海賊と同様、慾心非常にして死生知らずの奴原《やつばら》なり」
といわれてきた。
彼等の勢力も戦国期に入ってから、諸国の延暦寺領が所在の大名たちに横領されたため経済的に衰微してきているが、それでも山上に三千の僧俗が住み、十六の谷々にある三千の堂塔・僧房は依然として健在で、かれらの城塞になっている。
その山法師の暮らしは、
「魚鳥・女人まで上せ、恣《ほしいまま》の悪逆や」
と、信長の祐筆《ゆうひつ》だった太田牛一《うしかず》がその著「信長公記《しんちょうこうき》」で憎々しげに書いているとおり、僧形《そうぎょう》の無頼漢というべき存在であろう。
その叡山が、浅井・朝倉と同盟し、かれらにこの山岳を提供しているのである。
信長の使者に立ったのは、その家老の佐久間信盛であった。
「浅井・朝倉の人数を追い出すにおいては、多少の寺領も寄進してやろう。しかしながら申しつけをきかぬ場合は、三千の堂塔僧房をことごとく焼くが、よろしいか」
とおどしたが、寺側は驚きもせず、
「浅井・朝倉の両家は、わが延暦寺の大檀越《だいだんおつ》である。寺が檀家のためをはかるのになんの遠慮があろう。残念ながら貴意には添いがたい」
と突っぱねた。
(さもあろう)
と、古典主義者の光秀は叡山延暦寺の態度をむしろ自然とし、信長の要求を非常識だと思った。山門には山門の歴史的権威があり、王朝以来、帝王でさえ叡山の権威にはさからえず、さからおうともしなかった。古来、この国の権力者たちは、王法(地上の支配権)は仏法を侵犯すべからずという思想をもって伝統的に叡山を恐れ、ときにはひれ伏すような態度で遠慮してきている。
(物知らずにも、ほどがある)
と、光秀は思うのだ。叡山の権威にさからって成功した例は古今にない。
信長も、佐久間信盛の復命をうけたとき、
「そうか」
といったきり、あとは目をあげて宇佐山本陣の杉《すぎ》木《こ》立《だち》を見あげたまま、無口になった。信長がこのとき何を考えたか、側《そば》にいた光秀も窺《うかが》うすべがなかった。
信長は、なお滞陣をつづけた。おそるべき気長さというべきであろう。
十一月に入って天地が凍《こご》えはじめ、山上、山麓に雪が降り積もり、両軍の滞陣はいよいよ困難をきわめた。
「雪ぞ、雪ぞ」
と、このころになって毎日のように信長はつぶやきはじめた。
光秀も何度かこの呟《つぶや》きをきいた。積雪は戦場の交通を最悪の状態にし、とりわけ歩卒の労苦はなみたいていではない。
その雪を、信長のみがよろこび、この雪の季節の到来を待ちに待っていたかのごとくであった。事実、信長はこの雪をかれの持っている最大限の忍耐力をもって待ちに待っていた。雪こそ彼を、光秀のいう「石牢」から出してくれるであろう。
このころ、信長は、光秀をよんだ。
光秀は使いに接し、穴太《あのう》の自陣から宇佐山の信長本陣まで降りしきる雪をついて馬を駈《か》けさせた。
「十兵衛、すぐ京へゆけ」
と信長はひさしく見なかった上機嫌《じょうきげん》の表情であった。
「みろ、雪がふっている。そちのもっともらしい面《つら》が、役に立つときがきた」
(はて)
信長のいうことは、常に捕《ほ》捉《そく》しがたい。雪と光秀の面が、どうなのであろう。
ちなみに、
――もっともらしい面。
と信長はいったが、信長はなにがきらいだといっても、この種の面ほどきらいなものはない。
逆の変てこな人間は、好きなのである。
織田家に某という豪傑がいて、平素酔狂できこえていた。ある日、他の大名家から使者がきてもっともらしく座っている。
この某には使者のもっともらしさがおかしくてたまらなかったらしく、使者が待つ部屋の襖《ふすま》をそろりとあけて、
「これよ、これよ」
と、いきなり自分の睾丸《こうがん》をほうり出し、ぴしゃりぴしゃりとたたいてからかった。使者は大いに当惑した。
普通の大名家なら、この某の悪戯《いたずら》は切腹ものであろう。ところが信長は大ちがいで、あとでそれを聞き、ころげるほどに笑い、
「そうか、それで、かのもっともらしい奴《やつ》らはどんな面をしおった」
と、夢中になってその悪戯者にきいた。
信長は、年少のころ狂童といわれた男だが、長じてそれがおさまったかのごとくみえる。
が、根底にはその異風の物好みがいきいきと生きているらしく、京にはじめて入ってその占領司令官になったときなども、
「きょうからは、この織田信長が京の貴顕や庶民の保護者になるぞ。治安をみだす悪者は首を刎《は》ねてくれるゆえ、善人ばら《・・》は安《あん》堵《ど》せよ」
ということを宣布するつもりであろう、馬に乗って都大路を練ったときの扮装《ふんそう》こそ異様であった。刀の鞘《さや》に足半《あしなか》(草鞋《わらじ》の一種)をむすびつけ、腰には少年のころのように袋をぶらさげてある。もっともその袋も緞《どん》子《す》の打替《うちかえ》袋《ぶくろ》で、なかに米を入れてある。しかも別に焚《た》きたての飯を入れた袋も結びつけ、さらに自分の飯だけでなく鞍《くら》の後輪《しずわ》に馬の飼料袋をぶらさげるという風体《ふうてい》である。要するに、悪者をみつければ一散に駈けて行ってひっ捕えるぞ、という意志を姿形でみせているのだ。
こんな男が、つねに深沈とした表情をみせている光秀の行儀よさ、したり《・・・》顔を好むはずがない。
が、その異風は服装の好みだけでなく、言葉づかいにまで出るのは、家来にとって厄介《やっかい》だった。
いま光秀にいった言葉は、三段にわかれている。
すぐ京へゆけ。
みろ、雪がふっている。
そちのもっともらしい面が役だつときがきた。
(なんの意味だろう)
光秀は、いそがしく頭を回転させた。これがぐずぐずしているようでは、たちまち頭上から罵《ば》声《せい》をくらうのだ。この信長流の判じ物のような命令の解読にもっともすぐれた機智を働かせるのは木下藤吉郎であったが、光秀は藤吉郎ほどの機転はきかない。
が、解読できた。
(京へゆけ、というのは将軍義昭のもとにゆけということか。雪で、山上の朝倉軍は難渋している。朝倉軍の本国は越前である。すでに越前は大雪であろう。越前から琵琶湖西岸の山岳道路を利用して叡山の前線陣地に送られてくる兵糧《ひょうろう》、弾薬も、その補給路にふりつもる雪のために杜《と》絶《ぜつ》しているであろう。このさき冬にむかい、叡山の朝倉軍は自然に飢えてゆくにちがいない。結局、将軍義昭が調停に入るということになれば、朝倉軍も渡りに舟とばかりに本国へ帰るに相違ない。そこでおれの――もっともらしい《・・・・・・・》面を義昭将軍の前に出して、義昭にこの調停役をつとめさせよ、ということであろう)
光秀はそこまで解読しきると、
「承知つかまつりましてござりまする。さっそく発足し、京の室町館(義昭の城館)まで急行いたしまする」
と、さわやかに答えた。信長は満足し、
「ただし、当方の弱音は吐くな」
念を押した。
光秀はすぐ宇佐山城を降り、穴太の自陣の指揮は弥平次光春にまかせ、自分は軽騎数騎をひきつれて吹雪を衝《つ》き京へ駈けた。
京も、雪である。
光秀は大《おお》路《じ》の雪を蹴立《けた》てて将軍の館に伺候すると、さっそく内謁《ないえつ》をゆるされた。光秀は気ぜわしく義昭の御前にまかり進んだ。
「おお、光秀か」
と、まず義昭の声がきこえ、御簾《みす》があがった。義昭は、洟《はなみず》を垂らしそうな顔で、寒そうにすわっている。
「近江の戦陣も、さぞや雪景色であろうな」
と義昭は目で笑った。義昭の脳裏では雪中で四苦八苦している信長の様子がありありとみえるのであろう。この戦線の膠着《こうちゃく》がつづくかぎり信長の運命は没落しかない。
「上様」
光秀はそうと察して、声をはげました。声に自然な張りを籠《こ》めた。
「上様ごひいき《・・・》の朝倉も浅井も、もはや近江の雪の中で自滅いたしまするぞ」
「えっ」
義昭は、唇《くちびる》をあけた。他愛《たわい》がない。
「どういうわけだ。なぜ朝倉・浅井が雪でほろびる」
「兵糧の補給がつづきませぬ。春の雪どけまでに半数が死に、半数は降伏しましょう」
光秀は、義昭の利害の側に立って、この戦いの前途を解説した。朝倉の運命が絶望的だということを、光秀一流の明晰《めいせき》な論理で説き、
「いま、和《わ》睦《ぼく》を仲介なされませ。されば朝倉や浅井にも恩を売ることになります。信長にも将軍家の威権を示すことになりましょう」
さらにその「将軍威権論」をるる《・・》と説くと、義昭はついにその説に乗り、最後には腰を浮きあがらせるようにして、
「光秀、そちの申すとおりである」
と掌をたたくようにして賛同した。
光秀はその夜、将軍の御教書《みぎょうしょ》を二通起草し、翌日それに黒印を捺《お》させ、義昭のえらんだ使臣に携行させた。
朝倉への使臣は雲母《きらら》坂《ざか》から叡山にのぼり、信長への使臣の近江入りには光秀が同行した。
和睦は十二月十三日をもって成立し、信長はまず兵を撤し、ついで浅井・朝倉軍が叡山を去り、おのおの本国へ撤退した。
信長は和睦成立の三日後、大雪を冒して琵琶湖東岸の佐和山城に入り、ついで翌々十八日、岐阜へ帰った。信長は天候を戦略化することによってあやうく虎《こ》口《くう》を脱したというべきであろう。
猛炎
信長がふたたび大軍をひきいて近江にあらわれたのは、翌元亀二年八月であった。
去年の暮、大雪をおかして岐阜へ帰って以来、信長は多忙をきわめた。伊勢に兵を出し、長島地方に籠《こも》る本願寺一《いっ》揆《き》を討伐して失敗したり、また、木下藤吉郎らにまかせてある近江の対浅井の持久戦を岐阜から指導したり、さらにこの間、松永久秀にそむかれたりして、どの一事をとっても、この期間の信長にとって惨澹《さんたん》たる事実でないものはない。
が、この男はどういう神経でできあがっているのか、つねにおなじ表情のしゃっ《・・・》面《つら》をぶらさげていっこうに動じた様子もなかった。
しかも彼の運命の破滅をにおわせるような風説が、事実の彩色を濃くしはじめていた。
――武田信玄の西上。
である。東海道から甲州にかけてばらまかれている織田家の密偵《みってい》の報告は、岐阜の信長の手に入るごとに現実性のつよいものになっていた。
東海道のおさえは、もはや家康にまかせるほかない。このため家康はこの五月から三河の防衛に専念し、すすんで駿河《するが》に兵を出し、信玄の遊撃部隊としばしば接触しつつある。
信長は、逆に西にむかった。
元亀二年八月十八日、五万の兵をもって近江路に入り、浅井軍をその本拠の小《お》谷《だに》城に釘《くぎ》付《づ》けしつつ国中の小城をつぎつぎと屠《ほふ》り、九月十一日、琵琶湖南岸まですすみ、山岡玉林という地に野戦本陣を据《す》えた。
「単に掃蕩戦《そうとうせん》だったのか」
と、京の噂《うわさ》好きの者たちもおもい、織田家の将士もおもった。このたびの近江入りの敵は、ことごとく小部隊、小城、一揆にすぎなかったからである。
「例によって岐阜にお帰りあそばす」
と、将士はみな思った。信長はほとんどの場合、自分の意中をたれにも明かさない。
翌十二日、出立。
陣貝《かい》が鳴り、先発部隊が動いた。本陣はなお動かない。
(いよいよ、御帰国か)
と、軍中にある光秀もおもった。光秀も岐阜にいる妻のお槙《まき》にひさしぶりで会えるであろう。
ところが行軍を開始したとたん、信長の本陣からの母衣武《ほむろ》者《しゃ》(伝令将校)の群れが飛び、その一騎が光秀のもとにも来た。
「明智殿は、坂本へゆき、日吉《ひえ》大社を包囲されよ」
光秀は、がく然とした。方角がちがうではないか。
「敵は何者である」
「追って沙汰《さた》す、とおおせらる」
母衣武者は去った。光秀は隊頭を転じて叡《えい》山麓《ざんふもと》の坂本にむかう途中、ふたたび母衣武者が駈けてきて、
「敵は叡山である」
といった。光秀の包囲部署が坂本であるように、諸将はそれぞれ部署をもらい、それらをつなぎあわせれば蟻《あり》の這《は》い出るすきまもないほどの叡山包囲陣ができあがる。
「して?」
「堂塔《どうとう》伽《が》藍《らん》のことごとくを灰にせよ、人という人は僧侶《そうりょ》男女をえらばず生ける者を無からしめよ。そういうおおせでござる。明智殿、おぬかりありまするな」
「待った」
「何でござる」
「それだけか」
光秀は手綱をひいて母衣武者を見た。
「それだけでござる」
「………!」
光秀は、あやうく鞍壺《くらつぼ》から落ちそうになった。叡山は王城鎮護の至高至尊の巨刹《きょさつ》ではないか。日本国にあっては千年このかた、王法は天子に仏法は叡山に、ということになっており、歴代の天子がどれほど叡山を尊崇し、同時に畏怖《いふ》してきたかわからない。遠く王朝の世で、もっとも我意の強烈な法皇であるといわれた白河法皇でさえ、「朕《ちん》の意のままにならぬのは鴨川《かもがわ》の流れと山法師」と嘆いたという。
(信長は、叡山の歴史、伝統、権威というものを知らないのだ)
光秀はおもった。
叡山の権威は単に日本の精神界の支配者というだけではなく、桓《かん》武《む》天皇以来歴代の天子の霊位をそこに祀《まつ》り、それらこの世を去った霊の群れが極楽に常住することを保証し、かつ生身《しょうじん》の天子や貴族の身にわざわいがおこらぬよう日夜不断に祈《き》祷《とう》している霊場である。その霊場を焚《た》き、僧を殺すということはどういうことであろう。
「諫《かん》止《し》してくる」
光秀は弥平次光春に言いのこし、単騎、馬頭を旋《めぐ》らせて行軍方角と逆行しはじめた。
(あってよいことか)
鞍の上の光秀は、胴の慄《ふる》うような思いで、そうおもった。光秀のような尚古《しょうこ》趣味の持ちぬしからみれば、信長のなすことと考えることは、野蛮人の所行としか思えない。
光秀が信長の隊列に近づくと、運よく信長は隊列から離れ、道路わきの田のあぜに腰をおろして大あぐらをかき、餅《もち》をつかんでは食っているところであった。
背後、左右に近習《きんじゅう》の士、使番《つかいばん》、児《こ》小姓《ごしょう》などが神妙な顔で居ならび、児小姓の一人が朱の柄《え》長傘《なががさ》をさしかけて信長の頭上の烈日を防いでいる。
(なんと。――)
あきれる思いでその光景をみた。信長の左右の美々しさからみれば、なるほど絢爛《けんらん》たる王侯のたたずまいだったが、餅を食っている当の信長のなまなましさは、どうみても蛮人としか思えない。
「なんぞ」
信長は、目の前に膝《ひざ》をついた光秀をみて眉《まゆ》をしかめた。この慧敏《けいびん》な男は、すでに光秀が何を言いにきたのか察していた。
いきなり、
「わかりきったことなら、言うな」
と叫んだ。光秀の戦争と行政技能の卓抜さはたれよりも認めている信長だったが、一面、わかりきったことをもったいぶってくどくど口説したがる光秀の癖が、殺したいほどにやりきれない。
「言え」
「叡山延暦寺の焼き打ちのことでござりまする」
「言うな」
「いいえ、申しあげねばなりませぬ。そもそも叡山延暦寺とは七百年のむかし、伝教《でんぎょう》大師が天台の顕密を伝えんがため勅命をもってひらかれし山にて、爾《じ》来《らい》朝廷の尊崇があつく」
「十兵衛、汝《なんじ》は坊主か」
信長のほうが、あきれ顔で光秀をみた。
「いいえ、僧ではござりませぬ」
「それとも悪人に加担する気か」
「悪人とは」
「叡山の坊主どもよ」
そう言われると、光秀は一言もない。現実の叡山の僧というのは槍《やり》・刀をたずさえて殺《せっ》生《しょう》を好み、魚鳥を食い、女人を近づけ、学問はせず、寺の本尊をおがまず、仏の宝前に供《く》花《げ》燈明《とうみょう》さえあげずに破戒三昧《ざんまい》の暮らしをしているということは京都あたりの常識になっている。さらに近頃《ちかごろ》では山麓の坂本で僧が女と同居したり、公設の浴場に女をひき入れて俗人でさえ顔を赤らめるほど悪ふざけをしていることもよく知られていた。
「そういう奴らが国家を鎮護し、王法を冥護《みょうご》し、かつは天子の玉体の御無事を祈《き》祷《とう》したところで験《げん》のあるはずがないわ」
「しかしながら」
光秀は汗をかいていた。
「法師どもがいかに淫乱《いんらん》破戒なりとは申せ、叡山《やま》には三千の仏がまします。仏には罪がございますまい」
「罪がある。左様な無頼の坊主どもを眼前に見ていながら仏罰も当てずに七百年このかた過ごしてきたというのは、仏どもの怠慢ではないか。わしはその仏どもに大鉄槌《だいてつつい》をくだしてやるのだ」
「しかし」
光秀は、素養のかぎりをつくして叡山の仏のために弁じた。信長はそういう光秀を、ふしぎな動物をでも見るように見ていたが、ふとのぞきこんで、
「十兵衛、そちゃ、本気で仏を信じているのか」
「信じる信ぜぬというより、他人の尊ぶものを尊べということがございます」
「そちは知らぬと見えるな、あれは」
と、さらにふかぶかと光秀をのぞきこみ、
「金属《かね》と木で造ったものぞな」
真顔でいった。
「木とかね《・・》で造ったものなれども」
「木は木、かね《・・》はかね《・・》じゃ。木や金属でつくったものを仏なりと世をうそぶきだましたやつがまず第一等の悪人よ。つぎにその仏をかつぎまわって世々の天子以下をだましつづけてきたやつらが第二等の悪人じゃ」
「しかしなにぶん古き世より伝わりきたりしものでござりますれば」
「十兵衛、血迷うたか。汝《うぬ》がことごとに好みたがる古きばけものどもを叩《たた》きこわし摺《す》り潰《つぶ》して新しい世を招きよせることこそ、この弾正忠(信長)の大仕事である。そのためには仏も死ね」
言葉短かな信長にしては、常にない長広舌《ちょうこうぜつ》であった。光秀はやむなくうなずき、
「しかし世の御評判が悪《あ》しゅう悪しゅうに相成りましょう。このたびの一件、光秀におまかせくださりませ」
「どうする」
「堂塔も焼かず僧も殺さず、かれらを叡山から追うのみで事を片づけまする」
「金柑頭《きんかんあたま》」
信長は、この次元のちがう会話をくりかえしているのが面倒になったのだろう。やにわに光秀の頭の天辺をつかんでふりまわした。
(うっ)
と、光秀は堪《こら》えた。
「汝《うぬ》にわからせるのは、これしかない」
「殿」
「百年、汝と話していても結着はつくまい」
信長にとって、光秀の頭を掴《つか》み砕きたいほどにやりきれないのは、光秀が平俗きわまりない次元の住人のくせに、言葉を装飾し、容儀にもったいを付け、文字のあることを誇りに、賢《さかし》らにも自分を説きたがるところである。
「阿《あ》呆《ほう》っ」
信長は光秀の頭をつかんだまま、力まかせにころがした。これが、信長の「言葉」であった。信長は、つねに言葉をもたない。
が、この場合、信長の精神は卓犖《たくらく》として光秀より高々とした次元にいた。信長は、もし雄弁ならば彼が抱懐するこの国の思想史上最初の無神論を光秀にむかって展開し、光秀がもっている因循《いんじゅん》な教養主義を嘲笑《ちょうしょう》すべきであったろう。あわせて、無益有害な中世の魑魅《ちみ》魍魎《もうりょう》どもを退治して信長の好きな理に適《あ》う世を招来する革命思想をも、光秀に対して説くべきであった。
が。――
信長は、論破すべきこの論敵を穫《と》り入れの済んだ田の土にころがしたにすぎない。光秀は大ころびにころび、髷《まげ》の元結《もとゆい》まで泥《どろ》まみれになった。
叡山の虐殺《ぎゃくさつ》は、酸《さん》鼻《び》をきわめた。
織田軍五万が山上、山腹、谷々に跳梁《ちょうりょう》し、手あたり次第に堂塔伽藍を焼き、走り出る僧をつかまえては殺し、死体を火中に投じた。黒煙は山を蔽《おお》い、天に冲《ちゅう》し、肉の焦《こ》げるにおいが十里四方にひろがった。
「摺《す》りつぶせ」
と信長は命じた。一人も生かすことをゆるさなかった。もともと非合理というものを病的なほどに憎む信長にとって、坊主どもは手足のついた怪物としかみえなかった。
「この者どもを人と思うな。ばけものであるぞ。神仏どもは怠慢にして彼等を地獄に堕《おと》すことをおこたった。神仏・坊主、ともに殺せ。信長がかわって地獄がどういうものかを見せてやらんず」
といった。
信長の命令はつねに具体的で、虐殺の進行中、「山には洞窟《どうくつ》があろう。一穴々々、くまなくさがせ」といった。なるほど洞窟に逃げこんだ者も多かった。それらは一人のこらずひき出され、首を刎《は》ねられた。
光秀も、この指揮のために煙のなかを歩いている。根本中堂《こんぽんちゅうどう》をはじめ四百幾つの建物の炎上するこの奇妙な戦場では、あちこちで噴《ふ》きあがる猛煙のためにときには呼吸することさえ困難であった。
戦場といえばたしかにこの虐殺は信長にとって戦さであったろう。信長はその果断すぎる性格をもって、いま歴史の過去《・・》との戦いを挑《いど》み、その過去《・・》を掃蕩《そうとう》し去ろうとしていた。
光秀にはその理由がわからない。ただ信長の忠実な軍事官僚として、他の諸将とともにこの虐殺の業務を遂行しつつある。
「女は、どう仕りまする」
と、信長のもとにききにくる部将がある。
「殺せ」
女は、この聖域に居てはならぬはずだのに現実にはいちいち数えきれぬほどに出てきた。それらはことごとく首をきられた。
光秀は、目を蔽わざるをえない。
それに光秀にとって無量の思いをもったのは、この叡山で、智者・上人《しょうにん》、といわれている高僧たちだった。そのなかには、光秀も名や顔を知っている名僧もいるが、彼等が、いわゆる悪僧たちの類《たぐい》ではないことを光秀はたれよりもよく知っている。
そうしたなかで光秀が現場を歩いていたとき、部卒にひき据《す》えられている一人の老僧が光秀を見つけ、悲鳴をあげて助命を乞《こ》うた。
「湛空《たんくう》でござるよ、かねてお見知りの湛空でござるよ」
と、僧は絶叫した。知っている段ではなく、湛空上人といえば天子の師で、光秀も近《この》衛《え》家の屋敷で会い、その学風を敬慕していた。
光秀は顔をそむけ、きこえぬふりをしていそぎ通りすぎた。頼まれても光秀の力ではどうすることもできないのである。光秀は十数歩行き、しかしふりかえった。が、そのときには、いままで叫んでいた湛空の首が、地の苔《こけ》にまみれてころがっている。
(信長は、魔神か。――)
と、この瞬間ほど光秀は信長を憎んだことはなかった。
その信長は本陣に居つづけ、この大規模な虐殺業務が水ももらさずに行なわれるよう、周到な指示をあたえつづけていた。ときに現場から将領格の男が駈けつけてきて、
「何某は当代きっての学匠でありまするゆえ、助け置きの段、嘆願つかまつりまする」
と頼むことがあっても、信長は顔色も変えず、
「玉石ともに砕く」
といった。むしろ信長にいわせれば、この悪徳の府を助長してきたのは、そういう道心堅固な名僧、高僧のたぐいであった。かれらの名声が、腐敗者流の不評判を防衛してきたともいえるのである。
ついにこの元亀二年九月十二日のわずか一日で叡山は一堂をのこすこともなく焼きはらわれ、僧俗男女三千人が殺し尽された。
「折りからこの日は聖《セイント》ミッセルの祭日であった」
と、この仏教僧侶の虐殺をよろこんだ滞日中の南蛮僧が、躍るような文章で本国にむかって報告しているが、むろん信長の知るところではない。
この虐殺の直後、光秀は信長から意外な地歩を与えられた。
「坂本城主になれ」
というのである。坂本というのは叡山の近江側の山麓にあり、延暦寺が地上にあった数日前までは数百年来、叡山のいわば宗門行政府として栄えてきた町であった。信長は光秀をしてこの坂本に城を築かしめ、旧叡山領を管理する一方、南近江と京の鎮守の将たらしめようとした。
そのためには、領地も要る。信長は光秀に南近江の滋賀郡をあたえた。石高にしておそらく十万石以上はあるであろう。
異数の抜擢《ばってき》といっていい。
このころ、信長がもっとも寵用《ちょうよう》している木下藤吉郎秀吉でさえ、自分が統治すべき所領はもたされていない。なるほど藤吉郎は北近江の横山城の城将であったが、これは野戦用の要塞《ようさい》で浅井氏に対する野戦司令官として在城しているにすぎなかった。
(一体、どういうことか)
光秀自身が、織田家の古参重臣よりも優遇される自分の立場にとまどった。
(そこが、信長の信長たるところかもしれない)
と、光秀はおもった。信長はあきらかに自分を厭《いと》いつつも、しかしながら明智十兵衛光秀という一個の才能の評価についてはむしろ冷酷、といっていいほどの態度で量りきっていた。
唐崎《からさき》の松
光秀は、築城家でもある。
この男は一個の頭脳のなかに、ほとんど奇跡的なまでの多種類な才能を詰めこんでいる男だが、そのなかでも城郭の設計の才能は尋常ではなかった。
信長は家来の才能を発見することに長じている。単に発見者であるだけでなく、いったん発見すれば餓《が》狼《ろう》が肉を食いつくすような容赦ない貪婪《どんらん》さで家来たちの才能を使いきる達人であった。彼は明智光秀の多種類な才能のなかで、光秀の戦術能力や鉄砲使用のあたらしい戦術、それに行政の才能や貴族社会との接触のうまさなどをいままで使用してきたが、光秀の築城の才を食いちぎったことは一度もない。
「叡山東麓の坂本に城を築け。築きあげればその坂本城の城主にしてくれる」
と命じたのは、光秀のその方面の才能を評価したからである。でなければ新参の光秀に対し、他の老臣をさしおいて一躍城主にするというようなことはなかったであろう。
なにぶん、この新城は小城とはいえ、織田家が最初に築く城らしい城であった。信長はいままで既存の城は奪ってきたが、あらたに本格的な城を築くということはなかったのである。
それだけに信長は慎重で、
「出来るか」
と光秀に念を押した。
「できまする」
と、光秀は簡潔に答えた。
光秀は築城をいそいだ。
急がねばならぬのは、主人の信長がつねに速度を愛する男だったからである。
叡山の東麓、つまり近江側の山脚が琵琶湖に落ちこむところに坂本がある。
「水城にしたい」
と、光秀はこの築城の主題を考えた。琵琶湖の湖面に石塁をつきだし、水をもって城の三方を防禦《ぼうぎょ》できるようにするとともに、城内から船を出入りさせるようにし、琵琶湖の制海《・》権をおさめようとした。中世以来、琵琶湖は湖賊の巣で、その跳梁《ちょうりょう》に信長も手をやいてきたのである。
主題がきまると、設計はほとんど一夜で立て、人をあつめて工事にとりかからせた。
場所は、現今地理でいえば下坂本の松林の浜辺にあたる。規模は、小さい。なにぶんこの城は光秀の考えによって城主の居住性をあまり考慮に入れず、純然たる攻防の要塞《ようさい》にしたかったからである。
さいわい、光秀は建築材料を、うそのような簡単さで手に入れることができた。なぜならば、この坂本の地に、叡山関係の旧寺院がふんだんにあったからである。
里坊《さとぼう》
とよばれていた。
王朝以来、僧たちは本来なら山上の延暦寺に全員が住むべきであったが、山の上は異常に湿気がつよく、結核になる者が多かったため、ほとんどの僧が山での修行がおわると、この坂本の「里坊」で住む習慣をもっていた。
その里坊がふんだんにある。
しかも信長の叡山焼き打ちで僧たちは殺されるか逃げるかして、すべての里坊が無住になっていた。
「その材をつかえ」
と光秀は奉行たちに命じた。梁《はり》、柱、建具それに瓦《かわら》などはそのままで役に立った。
工事中、光秀は、妻のお槙《まき》や子供たちを岐阜からよびよせて坂本に住まわせた。
「古女房《ふるにょうぼう》のどこがよいのかよ」
と織田家では蔭口《かげぐち》をたたく者があったが、この極端に女房好きな男は、お槙が移ってくると顔色まで見ちがえるほどに元気になった。
お槙は、空家になっている里坊の一軒に仮住いしたが、住居として、これほど快適な屋敷にお槙は住んだことがない。
たとえば、庭である。
庭といっても禅林ふうの枯淡な造形ではなく、この叡山の僧たちのつくった林泉はどこか女体をおもわせる艶《えん》冶《や》なにおいが満ちており、王朝以来のかれら宗教貴族の心情がどのようなものであったかを想像することができた。
「まるでお大名の館《やかた》みたい」
と、お槙は声を放った。これには光秀も失笑せざるをえない。
すでに光秀は、城と領地をもつ大名なのである。
「われらこそ、すでに大名ではないか」
というと、お槙は不審な顔をした。
「ちがいましょう」
「なぜかね」
「ちがうように思われます」
お槙の言う意味が正確かもしれない。もともと大名といえば、甲斐《かい》の武田家、常陸《ひたち》の佐竹家、薩摩《さつま》の島津家といった鎌倉・室町体制以来の守護大名のことを指すのが正確な言葉の意味であろう。ついで、それら諸国の守護大名がほろび、新興大名が盛りあがってきて、それをも世間では便宜上、「大名」といっている。関東の北条家、三河の徳川家、大和の筒井家、土佐の長曾《ちょうそ》我部《かべ》家などがそうで織田家もその最大のものである。お槙の論理は、信長が大名である以上、その家来の光秀が大名であろうはずがない。
「弾正忠《だんじょうのちゅう》さまが上にいらっしゃるかぎり、あなた様はお大名ではありますまい」
お槙は何気なくいったのだが、光秀はその言葉に異常な響きを感じた。信長が上にいるかぎり――という表現は、それを聞く耳によっては重大な意味に受けとらぬともかぎらない。
「お槙、あまりそのような言いまわしを、他《ひ》人《と》の前でするな。他《ひ》人《と》というものは、どのような噂《うわさ》を立てぬともかぎらない」
光秀は噂に対して極度に小心な男であった。というよりも、信長の鋭敏すぎる神経を、光秀という男は鋭敏すぎるほどに感ずるたちなのである。
「申しませぬ」
お槙は、夫の小心すぎる性格を、ちょっとからかうような微笑を漂わせていった。
「もともと、わたくしはひと前では無口すぎるほうでございますから」
「いやさ」
光秀は気分を変えていった。
「弾正忠様は、将軍《くぼう》様が御父《おんちち》、とおおせられているし、天下の人々もただの大名ではなく副将軍、准《じゅん》将軍として見ている。さればその家来のわれらも、准大名という程度のことは言えるかもしれない」
光秀が妙に大名という言葉に固執しているのは、むろん本気で言っているわけではない。ながい牢浪《ろうろう》と窮迫の果てに得たいまの地位を、せめて大名という華麗な言葉で飾ってお槙とともによろこびあいたかったのである。
光秀は、この築城中も信長の動員令によってさまざまな戦場に従軍しなければならなかったし、また京の市政をみたり、将軍義昭のもとに伺《し》候《こう》したりしなければならなかったから、坂本にいるときはすくなかった。
ある時期、摂津の戦場から戻《もど》ってきて、いそがしく工事現場の進捗《しんちょく》状態を見てまわったとき、ふと、
「唐崎に松があったはず」
といった。
城外に、唐崎という土地がある。この湖岸に、
唐崎の一つ松
という一幹《ひともと》で大景観をなす有名な松があったはずだということを思いだしたのである。
「さあ、いっこうに存じませぬが」
と、普《ふ》請《しん》場《ば》ではたらいている里の若者がいった。どの若者もそれを知らなかった。
「なければならぬはずだ」
古今集や新古今集などにも詠《よ》まれている歌の名所なのである。
唐崎やかすかに見ゆる真《ま》砂《さご》地《じ》に
まがふ色なき一本《ひともと》の松
という古歌もある。
光秀は里の故老をよびだして確かめると、なるほどたしかにあるにはあったが、老人などがうまれぬ前にすでに枯れはててしまい、すでに伝説的なものになっているという。
おそらく樹齢千年というような老松で、その栄えていたころは蒼竜《そうりゅう》のような幹が白砂の浜をのたうつようにして這《は》い、数百の枝が青々と地をおおい、天に伸び、その盛観を湖水から遠望すればあたかも丘陵のようであったという。
(植えるべきだ)
とこの復古趣味の豊かすぎる男は、この松を継植《けいしょく》することに激しい情熱を感じた。が、植える、といっても往年のそれほどの松がどこにあるだろう。
光秀はこの点、奇人といってよかった。この松さがしのために、この多忙のなかで人数を割き、湖畔や山林のなかを踏みあるかせ、遠くは比良《ひら》の山頂にのぼらせたり、まだ敵地である北近江の湖岸にまで遠《とお》出《で》させた。
ついに彼等は北方の余呉《よご》の湖《うみ》の近くで姿のいい松をみつけ、近在の農夫に化けて根を掘りはじめたまではよかったが、作業中、小谷城の浅井軍に発見され、襲撃を受けてしまった。
松掘り連中は鍬《くわ》をすてて船に乗り、湖心に逃げたが、三人が銃弾のために負傷した。
が、光秀はあきらめず、付近の横山城の陣地司令官である木下藤吉郎に使いをやり、松掘り作業の援護を乞《こ》うた。現場へ兵を出してくれ、というのである。
「――なんだと?」
藤吉郎は事情をきいてあきれた。いま織田軍は西に東に蜂《ほう》起《き》した敵のために各地で悪戦苦闘しているというのに、松掘りのために兵を出してくれとはどういう神経であろう。
が、藤吉郎は本来、気軽な男だ。
同僚の頼みにはいつもかるがると引きうけてきた男だし、それに洒落《しゃれ》っ気もある。
「百人ばかり、出してやろう」
と約束し、日をうちあわせした。
当日、藤吉郎の側から兵が湖岸へ出、はるか湖南のほうの光秀の側からは船で人夫が急行してきて、松を掘りはじめた。
やっと掘りおわり、根巻きをして船に積みこもうとした。その船も大そうなもので、二《に》挺《ちよう》櫓《ろ》の船を五そう《・・》、横につなぎとめた船筏《ふないかだ》に松を寝かせた。ようやく積みこんで岸を離れたとき、
ぐわあーん
と天地のはじけるような轟音《ごうおん》がきこえ、浅井方の部隊が銃撃を加えてきた。浅井方としては、この湖岸に砦《とりで》でも作られるのかと思って兵を出したのであろう。
藤吉郎の部隊はそれに応戦し、日暮前にはようやく撃退して横山城にひきあげたが、この愚にもつかぬ戦闘で数人の損害を出した。
このことが、岐阜の信長に聞こえぬはずはない。前線におけるもっとも有能な二人の司令官が、松一本を敵地から盗む競技にあそび呆《ほう》けているように思った。
「馬鹿《ばか》めっ」
と叫び、その叱《しっ》咤《た》の声を伝えさせるために、それぞれの城へ使者を急派した。
が、その程度にしか信長が怒らなかったのは、この男の奇人好みのせいであろう。
(光秀とは妙な男だ)
と、一面では変に感心したのである。
使者がやがて岐阜に帰ってきた。藤吉郎のもとに行った使者は、
「木下殿はたいそうな恐縮ぶりで、これは腹を切らねばならぬと飛びあがり、真赤な顔でこの岐阜の方角にむかってさんざん叩頭《こうとう》なされました」
と報告したから、信長はわっと大口をあけて笑い、まるで猿《さる》めの動作がみえるようだ――といった。その使者とともに藤吉郎からも使者が同行しており、近江でとれた山菜、魚介などを信長に進上した。
が、光秀に差しむけた使者は、ひどく理屈っぽいことを報告した。
「明智殿の言葉でござりまする」
として唐崎の松がいかに古歌に名高きものであるかを説き、それを復活して天下に評判を広めしめることこそ殿の御威光、御仁慈を世に知らしめる良策であると存じまする、というものであった。
この口上には信長は激怒し、
「わしにものを教える気か」
とどなった。せっかく光秀の毒気のない情熱に愛嬌《あいきょう》を感じていた信長も、その奇行の釈明がこうも理屈っぽく、とりようによってはこうも憎々しげでは、光秀を愛してやれる余地がない。
――可愛《かわい》げがない。
というのが、信長の本音であったろう。もっとつき詰めて言えば、
(あの小《こ》面憎《づらにく》さでは、あの男から、器量才能だけを抽《ぬ》き出して使ってゆくしか仕方がない)
という実感であった。むろん、光秀からはその心根の可愛らしさをあらわすような進物は、蜆《しじみ》一折もとどかない。
……………………
当の光秀は、自分の言動がそのようなかたちで信長に反射しているとは、つゆ気づかなかった。
湖水の敵地から運ばれてきた松が唐崎の浜に着くと、光秀はわざわざ砂上に馬を立てて迎えた。
人夫がやがて百人もむらがってきて船筏を浜にひきよせ、やがて松の下に数十本の大丸太をさし入れたり、梃《てこ》や滑車をつかったりして砂の上を移動させた。
作業は存外むずかしく、城作りよりも大事になった。光秀はみずから現場を指揮し、三日三晩をついやしてようやく四日目の朝、浜にそれを植え据えた。
湖に陽《ひ》がのぼって松の翠《みどり》が暁光《ぎょうこう》のなかであおあおと息づきはじめたとき、光秀はその美しさと自分の成しとげた仕事への感動のために言葉をうしなった。
この男のこの種の情熱は、たとえばかつて将軍義昭を奈良一乗院の僧房からぬすみ出し、それを背に背負うようにして諸国を流《る》浪《ろう》し、ついに信長を頼って京の室町第《むろまちだい》に移し植え、足利家を復活した当時の情熱とまったく同種類のものであった。
松はやや小ぶりである。
しかし歳月が経《た》ち、光秀の寿命も過去のものになり去ったころには、この松は伝説の唐崎の松とおなじ規模に成長して湖畔の大景観になってくれるであろう。
光秀はまるで小児《しょうに》に化《な》ったように馬をくるくるとまわして松の姿を楽しみ、ついには砂上を駈《か》けさせて馬を水に入れ、しばらく馬を湖水で泳がせつつ、湖面から見た松の景観を味わい、さらに前景に松をひかえた坂本城の威観をも眺《なが》め楽しんだ。
やがて、即興の歌を詠《よ》んだ。
我ならで
誰《たれ》かは植ゑむ 一つ松
こころして吹け
滋賀の浦風
俺《おれ》でなくてたれが植えるか一つ松よ、という歌い出しに光秀の胸中の子供っぽいほどの気負いだちを汲《く》んでやるべきであろう。
が、光秀にはこれ以上この松を楽しんでいるゆとりはない。
翌元亀三年、風雲はいよいよ大きく動き、甲州の武田信玄の西上が確実なものになってきた。それにつれて近江の浅井軍の動きが活《かっ》溌《ぱつ》になり、さらに浅井氏への助勢のために越前から朝倉の大軍が南下し、湖北の山岳地帯に要塞《ようさい》をかまえた。
信長はただちに大軍をひきい、累年《るいねん》何度目かの近江入りをし、浅井・朝倉軍と対《たい》峙《じ》するうち、東方の武田信玄がついに東海道に出た。
信長はおどろき、すぐ軍をまとめて岐阜にもどった。
十二月、海道に出た武田信玄は正面の敵である徳川軍を連破し、ついに遠州三方《みかた》ケ原《はら》で家康と決戦し、巨鯨が小魚を一撃するような勢いでこれを破った。
しかし信長は岐阜を動かない。
四面に敵を受けている以上、動けなかった。
信玄
「天下の士庶、ことごとく戦慄《せんりつ》している」
と、光秀は琵琶湖畔の坂本城を築城しつつ、そのことを考えつづけていた。あす、たれが天下の支配者になるのかわからない。何者がなるかということによって、京都の貴族をはじめ、諸国の大名、豪族、武者、足軽、果ては僧侶《そうりょ》や神主にいたるまでの個々の運命が一変するのである。
「信長にはその幸運を与えぬ」
という立場の者が人数でいえば圧倒的に多い。かれらはそのために智謀のかぎりをつくして謀略し、死力をつくして抗戦している。信長がもし世の支配者になれば、かれらはほろび去るしかない。
その反織田同盟のなかで、信長と直接戦闘をまじえているものは、
摂津石山の本願寺とその全国の門徒
越前の朝倉義景《よしかげ》
近江《おうみ》北部の浅井長政
美濃で所領をうしなって牢人《ろうにん》している斎藤竜興《たつおき》とその徒党
近江南部で信長のために覆滅された六角(佐々木)承禎《じょうてい》とその徒党
三好党
であった。
さらにかれらを外援者として支援してきているのが、東は甲斐の武田信玄であり、西は瀬戸内海の制海権をおさえる中国の毛利氏である。しかもそれらの背後にあって秘密の謀主になっているのは、京の足利将軍義昭であった。
この連中が、勝利への希望としてほとんどひとすじに期待をつないでいたのは、甲斐の武田信玄であった。
武田信玄と、かれが精練に精練をかさねたその甲州軍団の強さは、かろうじて越後の上杉謙信をのぞいては日本史上最強のものであることは、京の図子《ずし》(袋小路《ふくろこうじ》)で遊ぶ三歳の児童でさえ知っている。
「信玄が起《た》てば」
というのが、もはや、反織田同盟の者たちにとっては、悲鳴をあげたいほどの希望であり期待であった。信玄の武力はそれほど強烈であり、さらに反織田同盟者にとってもっとも魅力のあることは、武田信玄という人物の人間としての思想が、前世紀にうまれてもいささかも不自由せぬほどに古いことであった。信玄はたとえば叡山という古典的権威を尊重し、尊重するのあまり、金を出して権大僧正《ごんだいそうじょう》の僧位を買い、みずから緋《ひ》の衣を着てよろこんだ。さらに叡山が信長に焼きはらわれたとき、信玄のもとに泣きついてきた僧に対し、
「されば叡山を甲斐に引越しさせよ」
と不気味なほどの肩入れの仕方をした。叡山の僧はさすがにこの勧誘には有難迷惑《ありがためいわく》を感じ、ことわりはした。
信玄の頭脳は、その軍隊指導と経済行政にかけては一点の非合理もみとめぬほどに科学的感覚に満ちたものだったが、その社会的思想にいたっては、源平以来の最も古い家柄《いえがら》の当主らしく、いかにも保守的であった。その保守性が、かれの支持者をよろこばせた。反織田同盟の面々は、まず前時代の亡霊のような室町将軍であり、叡山、本願寺であり、しかも武将たちも、ふるい室町体制からの旧家を誇る者が多い。
「武田信玄ならば、古き権威、階級を温存し神仏を崇《あが》めてくれるであろう」
という期待が、いかにも大きい。
信玄が、その天下の保守勢力からそれほどまでも期待されていながら起つか起つかの気配のみで容易に起たなかったのは、背後に関八州の王者ともいうべき小田原の北条氏がいたからである。当主北条氏康《うじやす》は家祖早雲を凌《しの》ぐといわれるほどの人物で、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が何度か侵略をかさねてきたが、氏康はそのつど、政略と戦闘でかれらの野望をくじいてきた。その氏康が、織田信長の叡山焼き打ちの翌月、病死した。
子の氏政は凡庸である。
武田信玄はさっそく、かれのもっとも得意とした外交策をもちいてこの氏政をあざやかに籠絡《ろうらく》し、同盟を結び、これによって関東からの宿命的な脅威を一時に去らしめた。
信玄は、安《あん》堵《ど》した。
「西上」
が、信玄にとって可能になった。なお北方の越後には上杉謙信がいるが、謙信には不幸な事態があった。北陸一円に本願寺一《いっ》揆《き》が猖《しょう》獗《けつ》し、このためとうてい信玄の領国を侵すような余裕はない。
信玄は動いた。
当然、正面の敵は、遠江《とおとうみ》と三河を版図とする家康である。家康はこのころ彼のひさしい根拠地であった三河の岡崎城を出、信玄に対してより近い遠州浜松城に入り、そこを策源地としていた。
「浜松は敵に近すぎる。もとの岡崎城に本営を後退されよ」
と岐阜の信長はわざわざ使者を送って忠告したが、家康は、
「忝《かたじけ》のうござる。しかし存念がござれば」
と、その忠告を容《い》れなかった。信長の忠告は、戦術的には妥当だが、しかし家康の環境状態はそれをゆるさなかったのである。
徳川勢といっても、譜代と国衆(土着豪族)とよばれる外《と》様《ざま》がいる。その遠江や三河における国衆が、
――もはや、家康のほろびは近い。
とみて、信玄に寝返りはじめたのである。
その形勢下で家康が本城後退の弱気策をとれば、動揺はさらに大きくなり、足もとが崩れ去ることになろう。家康としては、いかに敗北がせまっているとはいえ、浜松城頭にひるがえっている葵紋《あおいもん》の白旗を後退させることはできなかった。
元亀三年晩秋の吉日、信玄は甲府を出発した。その動員した軍勢は、二万七千である。遠州における徳川方の城をつぎつぎに陥《おと》し、一城陥《お》ちるごとにその噂《うわさ》が天下にとび、それが信長の声望にひびき、とくに京都における世論は信長に対してしだいに冷淡になってきた。
この間、光秀がその守備を担当している南近江地方(北近江は木下藤吉郎)では、本願寺門徒や六角氏の残党などが勢いを得てそこここで一揆をおこし、村を焼き、野を荒し、手に負えぬ騒ぎになった。光秀はその間、その討伐のために日夜駈《か》けまわった。
岐阜にいる信長はこの間、
(家康は、勝てまい)
と見た。むろん、信長自身がその主力をあげて東海に進出し、信玄と決戦したところで、勝利はおぼつかない。まして信長の状況は麾《き》下《か》の軍が摂津、山城、近江、伊勢の各戦線に散在し、しかもそれらの各戦線はどの一つも撤兵させる余裕がなかったため、東方で信玄と決戦することなどは空想すらできなかった。
(家康は、捨て殺しじゃ)
と、信長は計算し、ほとんど金属製のような心でそれを思った。家康は信長のもっとも古い、しかも唯一《ゆいいつ》の――同盟者である。信長に対してはかつて毛ほどの異心もみせず、律義に戦ってきた。
しかも、こんどの対信玄戦でもそうであった。家康がその気になれば信玄に寝返り、武田軍の先鋒《せんぽう》となって信長を攻めることさえできるのである。彼が武田軍の先鋒となれば、武田軍はついに京にのぼり、信玄は天下を統一することができたであろう。
が、ことし三十歳になる下ぶくれ長者顔をもった男は、このとき、戦国期を通じて稀有《けう》といっていいほどの律義さを発揮した。信長との同盟を守り、信玄と戦い、自滅を覚悟した。ほとんど信じられぬほどのふしぎな誠実さであった。この若年のころの律義者が、晩年、まるで人変りしたようにまったく逆の評価を受けるにいたるが、それでも豊臣《とよとみ》家の諸侯が秀吉の死後、
――徳川殿は律義におわす。約束をお破りになったことがない。われら徳川殿に加担してもその功には酬《むく》いてくださるであろう。
と信じ、この男を押し立てて関ケ原で豊臣政府軍を破り、ついには天下の主に押しあげてしまった。家康のその個性を天下に印象づけたのは、この時期のこの男の行動にあるといっていい。
信長は、別の立場をとった。
織田方の援軍三千を送るとき、その指揮官の平手汎秀《ひろひで》、佐久間信盛、滝川一益《かずます》をひそかによび、
「守勢々々に立て。進んで手を出すな」
といった。信長にすれば、進んで戦ったところで、負けることは負ける以上、士卒の損害だけがむだであった。三千の援兵派遣は、家康への義理立てだけにすぎない。
信長には、別の構想がある。信玄の来襲をきいて信長はにわかに越後の上杉謙信と同盟を結んだが、謙信を使って、家康敗亡後、何等かのかたちの決戦をするか、それとも、外交の巧《こう》緻《ち》をつくして信玄との間に不戦状態を成立させるか(もはや魔術といっていいほど不可能なことだが)、どちらかの主題を懸命に考えていた。しかし妙案は浮かばない。
その段階で、武田信玄は家康の版図に悠々《ゆうゆう》進入し、家康のもっとも重要な城の一つである二俣城《ふたまたじょう》を陥し、さらに家康の本貫《ほんがん》の地である三河に入ろうとした。
信玄の眼中、もはや家康はない。
という行動を、信玄はとった。その証拠に、信玄は家康の居城である浜松城を黙殺し、軍勢をも送らず、浜松より二十キロ北方の道路を利用し、ただひたすらに西へ行軍しようとしている。信玄の目的は京にあり、その途中にいる家康と戦闘をまじえるなどは、信玄にとって時間の浪費になるだけであった。
(馬鹿《ばか》にされた――)
と、家康は、複雑な気持をあじわったことであろう。しかし沈黙さえしていればあのおそるべき甲州の巨獣群はひたひたと西へ去ってゆくだけのことである。
「どうするか」
という軍議を、家康は浜松城でひらいた。席上、信長派遣の三人の将もまじっていた。その三人をはじめ家康手飼いの諸将をふくめてすべてが、
「不戦」
を主張した。この浜松城に息をひそめているかぎり、道をいそぐ巨獣群は黙殺してくれるのである。戦って百に一つも勝てる見込みがあれば挑戦《ちょうせん》ということもありうるであろう。が、それが夢想にちかいかぎり、この場は息を殺しているしかない。
が、意外なことがおこった。席上、ただ一人の男が、狂気したように挑戦案を主張しはじめたのである。
家康であった。
徳川家の諸将も、織田家の将校も唖《あ》然《ぜん》とした。もともと思慮ぶかい、物事に入念すぎる性格の家康としてはありうべからざることだった。
(気が、狂われたか)
と、家康の譜代の老臣たちは思った。事実家康はこの苛《か》酷《こく》すぎる運命を前にして、平静を失っていたことは確かであった。そのいちいち吐く理屈はもはや戦術論ではなく、
「いまや敵が領内を通ってゆく。いかに武田が優勢であれ、その蹂躪《じゅうりん》を傍観して為《な》すところがなければ、世にも人にも臆病者《おくびょうもの》とあざけられ、もはやこの世間で人がましく立つことができない」
という意味の感情論であった。が、よく考えてみれば単に感情論ではない。家康が死を賭《と》して一《いっ》矢《し》だけでも酬いようとしたのは、かれが自分の今後の声望を考えてのことであった。勇者の声望があれば今後政戦ともに仕事がしやすいが、臆病といわれればいかに智略をもっていても人は軽侮し、その智略をほどこすことさえできない。
(死をもって今後の声望を購《あがな》おう)
と、家康はおもった。この気負い立った決意はこの男の思慮よりもこの男の若さがそれをきめさせたものであろう。
が、群議は総反対した。しかし家康はあくまでも主張し、ついに群議をねじ伏せ、翌朝の出撃を決定した。
翌朝、家康は浜松城を出た。
北方へむかった。家康の軍は信玄の三分の一の一万人である。
三方ケ原に出た。
ここで、ほどなくこの原を通過するであろう武田勢を待ったのである。
やがて、武田勢はきた。信玄は十分に予定戦場の地理を見きわめ、行軍隊形を解き、戦闘隊形を編成した。ときに、夕刻四時である。信玄はまず、かれの独創になる、
「水股《みなまた》の者」
という特殊な足軽部隊を繰り出した。人数三百人ほどの礫《つぶて》を打つことに長じた足軽で、全軍のまっさきに進んで無数の礫を打ちこみ、敵に面《おもて》をあげる余裕をなからしめるための部隊であった。その部隊が退くと、これまた武田勢の独特の密集した数団の大軍が、押太鼓を鳴らし、歩武整々として津波のごとく、しかし一歩のゆるぎもなく押し寄せてきた。
徳川軍は、鎧袖一触《がいしゅういっしょく》だったといっていい。織田の協力部隊も大将の平手汎秀が戦死するほどに奮戦したが潰《つい》え、徳川軍も力戦のすえ、三百人の戦死体をのこして潰走《かいそう》し、家康は乱軍のなかでただ一騎になり、途中、何度か武田勢の追跡をうけ、夢中で駈け、その緊張と恐怖のあまり鞍壺《くらつぼ》で脱糞《だっぷん》し、それさえ気づかずに浜松城に逃げこんだ。
この家康の敗北は、数日して京に伝わり、京の山むこうの坂本城にいる光秀の耳にも入った。
「京の市中の人気はどうか」
と、光秀は、京に住まわせてある情報の収集者にその収集を命じたが、予想したように信長びいきの多い宮廷では色を失い、反信長のいまや天下周知の策源地である将軍館では、
「すわこそ――」
と色めきたつ気配で、将軍館から僧侶、行《ぎょう》人《にん》、あきんどなどに変装した密使どもが何人となく出発して行ったという。
この信玄の戦勝が世を一変するかと思われたが、事態はすぐ微妙なものになった。
信玄の動きが、どういうわけかにわかに緩慢になってきたのである。かれは、全軍の行軍を停止した。
十二月二十二日、三方ケ原で勝つや、それ以上は前進せずに兵をまとめ、そのまま遠州に駐留し、彼自身は同国刑部郷《おさかべのごう》に宿営して越《おつ》年《ねん》してしまったのである。動く気配もなかった。
越えて、元亀四年(七月二十八日で天正と改元)になった。
京では、
――どういう料簡《りょうけん》か。
という取り沙汰《ざた》がやかましく、義昭をはじめ、その系統の同盟者はようやくいらだちはじめてきた。
もっとも当惑したのは、越前の朝倉氏であった。信玄が信長の本国に攻め入ると同時に朝倉勢は北国街道を駈けくだって北方と東方から美濃を衝《つ》くという戦略構想が、将軍義昭を仲介としてすでに出来あがっており、朝倉家はその家の浮沈をこの一挙に賭《か》けている。
このため朝倉家から密使が遠州へ急行し、信玄の宿営をたずね、
「いかなる御所存か」
と、ほとんど詰問せんばかりの勢いでその真意をただした。
信玄は、はかばかしくは返答せず、
「いずれ信長の首を見るであろう」
と言い、使者を帰した。
その後ほどなく腰をあげ、三河に入り、家康の支城である野田城を包囲した。しかし攻城に活気がなく、これほどの小城をおとすのに一月をついやした。
陥してさらに全軍を西へ進発させるかと思われたが、ふたたび滞陣し、自分は長篠《ながしの》にしりぞき、さらに付近の鳳来《ほうらい》寺《じ》に移った。
「病気ではないか」
という情報を、岐阜の信長がうけとったのはこのころであった。もしそれが事実なら、信長はほとんど天の恩寵《おんちょう》を受けているとしか思えぬほどの幸運である。
結局、信玄は四月十二日、信州伊《い》那郡駒場《なのこおりこまんば》の旅営で死ぬ。
(不幸な男だ)
と、光秀はその噂をきいたとき、敵将ながらも悵然《ちょうぜん》とする思いがした。結局、人の運命を最後に決定するのは器量以外の何かであろうと光秀は思うのである。
山崎の雪
歳末以来、光秀は摂津の石山本願寺を攻めていたが、年がかわって正月、近江に転戦を命ぜられた。
光秀は兵をまとめ、いそぎ淀川堤《よどがわづづみ》を北上した。信長の将校は、鈍重な者にはつとまらない。
途中、摂津をすぎ、山城の境あたりで雪になった。雪は吹きおろす風に舞い、道さえ見さだめがたい。おりから陽《ひ》も暮れようとしていたため、光秀は軍を駐《とど》め、人を走らせ、いそぎ天王山麓《てんのうさんろく》の山崎で宿営する支度をさせた。
山崎といえば、すでに遠い昔の話《わ》柄《へい》になった道三の故地である。彼はこのあたりにうまれ、僧になり、さらに寺をとびだして流《る》浪《ろう》するうち、京の油問屋奈良屋の婿《むこ》になった。当時、荏胡《えご》麻油《まあぶら》の座元はこの山崎にある離宮八《はち》幡宮《まんぐう》であったため、八幡宮の繁昌《はんじょう》もさることながら、この付近一帯は大小商家が軒をならべ、川港はにぎわい、大商都の観をなしていた。
が、いま光秀が馬を立てているその山崎は往年の繁栄のかげもない。道三の晩年、菜種から油をしぼる方法が考案され、普及したために荏胡麻油の需要がなくなり、このため山崎の商業は没落し、もとの草深い宿場にもどった。光秀はこの山崎の里を通過するたびに、世の移りかわりのはげしさを思い、道三をしのび、人間の栄華のはかなさを思うのである。
光秀はこの日、道三ゆかりの離宮八幡宮のそばの馬借《ばしゃく》長者といわれる者の屋敷に泊まった。
夕《ゆう》餉《げ》を終えたとき、この宿に意外な者の訪問をうけた。細川藤孝である。
「兵部大輔が?」
光秀はちょっと信じかねた。藤孝はなるほどこのむこうの山城長岡の領主だが、いま京にいるはずであった。
「どういう行装《ぎょうそう》だ」
「平装にて蓑笠《みのかさ》を着、馬上、雪を冒しておいでなされたようでござりまする。お供は二人しかお連れなされておりませぬ」
様子が、いかにも切迫している。
(よほどの急用か、よほど思いつめた相談事か、どちらかであろう。いずれにせよ私用に相違ない)
幸い、この長者の屋敷には茶室がある。光秀はそれへ炭火をふんだんに入れさせ、藤孝を招じ入れさせた。
(彼とも、古い因縁になった)
光秀はこの山崎の土地《とち》柄《がら》のせいか、ともすれば気持が懐古的になってくる。
(もう十年、――それ以上になるか)
一介の浪人の身で足利将軍家を再興すべく無我夢中になって奔走していたころのことをおもえば、わずか十数年前というのに茫々《ぼうぼう》として遠い時代のように思える。あのころ、流浪の幕臣細川藤孝を知り、かれとその夢を語りあい、ついに義昭をさそいだして諸国をかつぎまわり、あげくのはてに尾張の織田信長に頼み入ってこんにちの室町将軍家ができ上がった。
光秀はその将軍の家来という身分で、織田家に出向《しゅっこう》し、その禄《ろく》を受けた。
細川兵部大輔藤孝も同様である。かれは先祖以来の山城の所領を信長によって回復してもらい、かつ細川家代々がそこに住んできた勝竜寺村の城館の堀を深くし、高櫓《たかやぐら》をあげ、織田軍の南山城における戦略単位のひとつになった。足利家に仕えるとともに、藤孝は織田家の部将でもあった。あのころの同志だった近江甲賀郡の国衆の和田惟政《これまさ》もそうであった。かれは幕臣であると同時に織田家の版図の摂津高槻《たかつき》城主になったが、一昨年、戦死した。
その足利系の織田家武将のなかでは、光秀がいまや信長の五人の軍団司令官にあげられるほどになっているため、いわば出世頭であった。
「光秀めは、織田家に走りおった」
と、将軍義昭はちかごろになってひどく光秀を憎むようになっているらしいが、これは責めるほうが無理であろう。光秀はその才能によって次第に重用されているだけのことである。
細川藤孝の立場は、やや複雑だった。
おなじ足利家の家来といっても、浪人あがりの光秀のような一代抱えの無官の者とはちがい、藤孝の場合は幕臣のにおいが濃厚であった。なにしろ譜代の幕臣であり、しかも足利幕下における代表的な名家であり、かつ従《じゅ》五《ご》位《いの》下《げ》兵部大輔という国持大名なみの官位までもつ重い身分である。自然、光秀のようにかるがると織田家のつとめができるという立場ではない。
自然、藤孝はかけもちで出仕していた。ところが義昭が信長をきらいはじめるとともに織田色の濃い藤孝の存在がうとましくなってきた。
この間、何度か、義昭・藤孝のあいだで気まずいことがあり、近頃《ちかごろ》では藤孝は将軍館にも出仕できないような、いわば蟄居《ちっきょ》同然の身になっている。
光秀は、そのすべてを知っている。おそらく話はそのことに関係があろうと思い、雪の庭へ降り、いそいで茶室へ行った。
炉の前にすわると、
「十兵衛、袂別《べいべつ》にきた」
いきなり藤孝は、顔をにがく歪《ゆが》めていった。
「ふむ?」
「ながらく世話になった。思うことあってわしは室町殿の仕えをやめる。しかし細川家が譜代の幕臣である以上勝手の退散はできぬので、わしは隠居をすることにした。頭を剃《そ》って勝竜寺城に退隠し、風月を友とし、歌道をきわめることであとの半生を送りたい」
光秀が驚きのあまり沈黙しつづけていると、藤孝はその沈黙に堪えかねたように火《ひ》箸《ばし》をとりあげ、灰の上に、
「幽斎《ゆうさい》」
という文字を書き、すぐ「どうであろう」と顔をあげた。
「隠居名として考えたのだが」
藤孝はことし四十歳になる。隠居にはいかにも早すぎるし、この軍事・政略の能力に富んだ男が、これからが活動期というときに世を捨てるなどは考えるだに惜しい。
「ほ、ほんとうか」
光秀が沈黙のあげく最初に発した音《ね》は、ほとんど無邪気な、といっていいほどの言葉だった。光秀は、相手の、
「退隠」
という言葉の響きを、単純にうけとった。裏も表もなく信じ、本気でおどろき、驚きのあまり沈黙した。光秀には、こういういわば相手の機微の察しにくいまっとうさ《・・・・・》がある。
藤孝はいま寝《ね》技《わざ》で来ている。この点、受けている光秀は立技《たちわざ》の感覚のみの男であった。これを――寝技も立技も利《き》く木下藤吉郎がきけばとっさに理解し、別な反応を示したであろう。
(正直な男だ)
藤孝は、好意をもっておもった。公卿《くげ》化した京都武家である藤孝の目からみれば、光秀にいかに才華があろうと所詮《しょせん》は田舎者であった。
藤孝の本心は、このあたりで義昭に見切りをつけ、専一なかたちで織田家の武将になりたいのである。そのために光秀を動かそうとした。
「いったい、なぜ退隠する」
「わしは秘事を知った」
「たれの」
「義昭《うえ》さまの。おそろしいことだが、義昭さまはちかぢか御謀《ごむ》反《ほん》をなさる。いやさ、いままでも怪しげなお振舞が多かったのはお手前も御存じのとおりだ。ところがこんどはそれどころではない。京を脱け出し、近江へ走り、石山あたりの城にこもって、公然と岐阜殿討滅の旗頭《はたがしら》におなりあそばす秘計をお進めなされておる」
「えっ」
光秀は、おどろいた。早晩、そうなるかもしれぬと怖《おそ》れてはいたのだが、一面まさか義昭もそこまで軽率ではあるまいとも思っていた。
(信玄の出馬に気をよくなされたのだ。信玄は遠州三方ケ原において徳川・織田の連合軍を鎧袖一触《がいしゅういっしょく》でしりぞけた。その報をきき、将《く》軍《ぼう》さまは気が触れんばかりのよろこびをもって、もはや信長滅亡近しと判断なされたのであろう)
ところがその頼みの武田信玄がその戦勝後、陣中で死の病いの床にあるという秘事は、不幸にも義昭は知らない。むろん、光秀や藤孝が知るよしもない。
しかし、細川藤孝には、この男をその後の乱世のなかをも生かせつづけて行った生来の勘のするどさがある。
――義昭は亡《ほろ》び、信長は栄える。
という予感だった。信長はなるほどいま反織田同盟の鉄環のなかで四苦八苦しているが、しかしいずれ機敏に活路を見つけては各個にその敵を撃破してゆくであろう。信長にはそれだけの運もあり、運以上に才覚もあるとみている。その才覚という点では、藤孝のみるところ、甲州の信玄など信長にくらべれば遠く及ばないであろう。
なぜなら、武田信玄がいかに戦さ上手とはいえ、今日までに彼が働きに働いてやっと自在にした版図といえば甲斐と駿河の二国にすぎないではないか。
それにくらべれば信長は条件のちがいがあるとはいえ、すでに日本の中央において十カ国内外を切りとりつつある。
(信長をこそ)
と、藤孝は思っていた。信長によって自分の身を立て運をひらきたいと藤孝はそのおだやかな表情の蔭《かげ》でおもっている。
が、藤孝の場合、立場が複雑だった。足利将軍家が、累代《るいだい》の主家なのである。将軍義昭が信長と手を切れば当然、藤孝も将軍とともに信長と戦わねばならない。
もしそれをきらって織田方に加担し、信長の下知のもとに累代の主人を攻め立てれば、藤孝がいままで築いてきた温厚な徳人《とくじん》――という評判は消え、主家に弓をひく裏切り者の不評を買ってしまう。
(よほど、巧妙に身を処せねば)
と思い、退隠ということを思いついたのである。藤孝はその先も読んでいた。人材に貪《どん》婪《らん》な信長は藤孝が退隠したことをきくと、岐阜から人を走らせ、やっきになって思いとどまることを説得するであろう。
しかもその理由《わけ》を、使者にきかせるにちがいない。
そのときこそ、義昭の密事を明かすのである。――将来、足利・織田の戦いになれば自分は身の置きどころがない、それゆえ退隠することにした――としおらしく答えれば、義昭挙兵の秘謀を信長に密告した《・・・・》というにおいが消え、しかも密告の功績は得られる。結局、藤孝は密告の手《て》柄《がら》をたてたうえに君子徳人の評判も得、しかも裏切り者の汚名を着ることなく、さらには最終の目的である織田家への随身《ずいしん》という目的もきれいに遂げられるはずであった。
藤孝には、歌道、茶道などの余技が多いが、そのなかでもきわだってみごとなのは、庖丁《ほうちょう》芸《げい》といわれていた。とくに鯉《こい》を料理《りよう》らせれば藤孝ほどの者はその道の玄人《くろうと》にもいないといわれている。この処世の芸のこまかさは、かれの庖丁芸のあざやかさを思わせた。
が、その芸が、光秀にはわからない。ただひたすらに退隠をとめたが、藤孝はその顔に雅《みや》びた微笑をうかべつつかぶり《・・・》をふるばかりであった。
「士たる者がいったん覚悟したことを、ひるがえすわけには参らぬ」
「となれば」
と、光秀は、いった。あとの問題は義昭の謀反ということである。光秀ももはや織田家の城持になるほどに深入りした以上、織田家の利益のために働かねばならなかった。
「岐阜へ急報せねばならぬ」
「どうぞ貴殿の手で」
と、藤孝は言い、扇子を収め、雪のなかを帰って行った。
そのあと、光秀は筆をとり、信長に報告書を書きはじめた。細川藤孝のにわかな退隠を報じ、その原因が義昭謀反にあるらしい、と書いた。それを光秀の手で信長に急報させるのが、藤孝の最初からのもくろみであった。まさか藤孝が自分自身で自分のことを信長に報ずるわけにはいかない。
光秀の役割りは、藤孝にとっていわば飛脚にすぎぬということは、光秀は気づかない。
「将軍様御謀反の詳しくは、藤孝が存じておりましょう。藤孝におただしあそばしますように」
と、光秀は加筆した。このことを光秀が書くであろうということも、藤孝のもくろみのなかにあった。密告の手柄は光秀でなく自分が得なければならない。
光秀のばかばかしさは、この手紙を書きながら、涙がとめどもなくあふれるのを、どうすることもできない。近習の者がその尋常《ただ》ならぬ様子におどろき、弥平次光春まで注進に行ったほどであった。
やがて弥平次がやってきて次室から光秀を仰ぐと、経机《きょうづくえ》にうつぶせている。
「どうなされました」
御免、と言い、弥平次は膝《ひざ》をあげて閾《しきい》を越え「殿――」と声をかけると、光秀ははっと顔をあげた。弥平次と気づき、あわてて腕をあげ、力まかせに涙をはらった。
「弥平次、ついに将軍は御謀反ぞ。わしは岐阜殿のお下知でそれを討たねばならぬであろう」
「殿、お忘れあるな。殿は岐阜殿の御家来でござりまする。たとえ敵が仏天神明《ぶってんしんめい》・天魔鬼神でありましょうとも侍であるかぎりは討ち参らせねばなりませぬぞ」
「ちがうのだ」
光秀は、まだぼう然としている。自分の気持が、この子飼いの若い侍大将にさえわかってもらえないのかと思った。
「どこが、どうちがいます」
「将軍は、おれが立て参らせた。おれがこの背に背負い参らせ、永禄《えいろく》八年のあの暑い夜、奈良一乗院から脱出させ奉った。そのときの重みが、いまなおおれの背に残っている」
(わかっている)
と、弥平次はおもった。自分のあるじの光秀は、将軍に宣《せん》下《げ》されてからの義昭のほとんど病的なまでの陰謀癖《へき》に手こずり、ついには義昭に絶望し、見放す気持にまでなってきているが、しかし光秀の気持はそれだけではないらしい。光秀は牢浪《ろうろう》のころ、その夢のすべてを足利将軍の再興に賭《か》け、何度か絶望し、何度か生死の境をくぐった。光秀の胸中には、生き身の義昭とはべつの、光秀の放浪期の偶像ともいうべき義昭がいまなお棲《す》みつづけている。それを討ち、さらに足利将軍家をつぶすとなれば、光秀のこれまでが何のためにあったのか、わからない。
(おれ自身の過去を討つことになる)
その感傷が光秀を哭《な》かせているのであろうことは、弥平次にも推察できた。
槙島《まきのしま》
城内の庭に、臥竜《がりょう》の梅がある。
すでに蕾《つぼみ》がふくらみ、南にのびた枝には、ただ一輪のみではあったが、すでに花がひらきそめていた。
信長はこの朝、あふれるような陽《ひ》ざしのなかを、庭に出た。しばらくあるき、やがてひらいた一輪の梅の前に立ちどまり、息を詰めるようにして凝視した。
(将軍を、殺すか)
想《おも》いは、その一事である。その信長のただならぬ様子を、近習の者は遠くから仰いでいる。
(なにをなされておるのやら)
彼等は、陽ざしのなかでおもった。信長の平素には花鳥風月をたのしむ趣味はほとんどないのである。それが、梅花一輪を凝視している。身動きもしない。
(やはり、これは春というものか)
近習の者は、ほのかにおもった。春の気が動けば、信長のような苛《か》烈《れつ》な働き者でもふと梅花に心を奪われることがあるのであろう。
が、信長の目には、一輪の梅が将軍義昭の首にみえてきているのである。いままで義昭の密計を見て見ぬふりをしてきた。ばかりか、義昭の作った落し穴に何度も足をすべらせて落ちこみ、ときには命を失いかけたこともあったが、そのつど手足を無我夢中に動かして懸命にはいあがった。
(そこまで我慢した。しかし限りがある。これ以上我慢すれば自滅しかない)
光秀から今暁《こんぎょう》、手紙がとどいた。内容は細川藤孝の密告である。将軍義昭は京を出て近江で公然と信長打倒の兵をあげるという。
――殺すか。
と最初におもったのはいわば衝動である。殺せば、主殺しとして舅《しゅうと》の斎藤道三や松永久秀のような悪名を天下に流すであろう。
(おれが目的は天下の統一にある。そのために必要とあれば主といえども殺さねばならぬ。しかし殺せば悪名を着る。往年、道三はそのために蝮《まむし》の異名をとり、ついに美濃一国の主人でおわり、天下を心服させるような男になれなかった。おれは道三のへま《・・》をくりかえしてはならぬ。悪名は避けねばならぬ)
その方法が、容易ではない。が、梅を凝視しているうちにやがて信長の意中にその構想が成った。
信長は指をもって鞭《むち》をたわめ、やがて気合をこめてはじいた。梅の花が飛び、はなびらを空中に散らし、やがてはらはらと苔《こけ》の上に落ちた。
信長はすでに顔をあげている。やがて床几《しょうぎ》に腰をおろし、祐筆《ゆうひつ》をよんだ。
「条々」
といったのは、将軍義昭に発する諫状《いさめじょう》の題であった。十七カ条から成るその長大な文章を一気にしゃべった。諫めるの書とはいえ、事実上、義昭の十七の罪を鳴らす弾劾状《だんがいじょう》である。さらには弾劾状というより、宣伝書であった。義昭その人とめざして言うのではなく、信長は天下の諸侯や人心に義昭の悪を訴えようとしていた。
――かかる悪将軍である。
ということを天下に宣伝し、その後多少の期間を置き「義昭改心せず」としてこれを討つのである。人は納得するであろう。
「おれを陥《おと》し入れようとした」
ということは、一語も書かない。まずその第一条に、くれぐれも天皇を尊崇し奉れとあれほど申しあげておいたのに、ちかごろは参内も怠っておられる。けしからぬ、というのである。
すでに信長は将軍を復活し、その権威によって諸大名に号令し天下を統一しようという気持をうしなってしまっている。将軍は使いにくい。
――道具になりきらぬ。
と信長はつくづく思った。将軍もまた武人である以上、兵力をほしがったり権力をほしがったりするのである。こういう生臭さがあるかぎり、道具になりきらぬ。
その点、天皇はいい。その存在の尊さを天下の大名どもは忘れているが、信長はあらためて価値《・・》として発見した。天皇は兵馬を欲しがらず、権力も欲しがらない。
衣冠束帯して先祖を祀《まつ》っているだけのただひたすらに無害な存在である。統一の道具につかうにはうってつけであろう。天皇を上に頂き、その権威をもって天下に号令すれば人心も服するのではないか。
ただ天皇の存在の欠点は、その偉さを天下の者は知らないことであった。天下の者は天皇を大神主《おおかんぬし》程度にしか思っておらず、地上最高の尊貴は将軍であると思っている。信長はまずこの道具《・・》の偉さを天下に知らしめる必要があった。
そのために、往年義昭を将軍の位につけたとき、義昭に、
「しばしば参内して天子の御機《ごき》嫌《げん》を奉《ほう》伺《し》なされまするように」
と要求した。世間に対する現物教育といっていい。将軍が天皇のもとに御機嫌奉伺をなされているとなれば、天下の者は天皇のえらさを知るであろう。ところが、義昭はそれをつづけているうちに信長の魂胆を見ぬいた。
(いかさま、信長という男のあざとさ《・・・・》よ。かの者の肚《はら》の底は、ゆくゆく天皇をかつごうとしているように思える。その天皇に綺羅《きら》を飾らせるためにおれという将軍を利用しているのではないか)
義昭は、この種の事柄《ことがら》を嗅《か》ぎわける感覚が異常にするどい。信長の言いなりになって御所に参内しているかぎり、義昭は天皇という道具《・・》の荘厳を増すだけのための、滑稽《こっけい》きわまりない道具になる。義昭はそのばかばかしさに気づき、ある時期から参内をやめた。
信長は第一条でそれを責めたのである。
ちなみにこの「諫状」は義昭に渡ったあと、ほどなく天下に流布《るふ》された。甲州の武田信玄も死の床でそれを手に入れ、
「信長はおそるべき智謀をもっている」
と、敵ながら感嘆した。
「諫状」は義昭の手に渡った。
義昭はこれをみてついに信長と絶縁することを決心し、信長にほろぼされた南近江の六角氏の残党に指令し、琵琶湖の西岸の湖港堅《かた》田《た》と、南岸の石山寺で有名な石山に城を築きあげて公然対抗した。
が、信長は意表に出た。
あやまったのである。義昭に和議を申し入れ、自分の子を質に送ろうとさえ提案した。舅の道三の轍《てつ》を踏むことをあくまでも怖《おそ》れたのである。
が、義昭は一蹴《いっしゅう》した。
城内の梅が咲きそろったころ、信長は近畿に駐留中の諸司令官に討伐令をくだした。
(光秀めが、どう出るか)
ということは、信長の関心事だった。光秀が織田家で禄《ろく》を受けつつも同時に足利家の奉公人であることは、細川藤孝の場合とかわらない。藤孝はただ高位の幕臣というだけのことであった。その藤孝は二人の主人の相剋《そうこく》をおそれ、わが所領に隠棲《いんせい》したというではないか。
(はて、光秀めが)
と思いつつ、信長は、丹羽長秀、柴田勝家に指令すると同時に、光秀にも指令した。
光秀はたまたま坂本城に戻《もど》っていたが、信長からの使者を上座にむかえ、目を伏せ、心もち顔を蒼《あお》ざめさせながら、
「お受けつかまつりまする」
といった。光秀はことここに至ればもはややむをえぬと思った。自分が奔走して立てた将軍を、どうせほろぼさねばならぬというなら他人を借りず、自分の銃火を使いたかった。
使者が岐阜に帰ったとき、信長は、
「光秀はどう申していた」
と、さすがに光秀のその瞬間の態度が気になった。使者がありのままに話すと、信長はにわかに顔色を変え、
「キンカン頭め、左様に申しおったか」
と叫び、使者を慄《ふる》えあがらせた。信長の気にさわった光秀の文句は、
――お受けつかまつりまする。
ということであった。なるほど、これは奇妙な回答だった。信長の軍勢をあずかる司令官なら、信長の命令を受ける受けぬという立場は持たない。命令をかしこみ、ただ行動すればいいのである。
(あいつ、おれの将軍退治に不服があるらしい)
信長はこの将軍退治に神経を配りすぎてきただけに、心がするどくなっている。光秀の腹中をそう読んだ。
が、当の光秀は、攻城司令官としてはみごとな腕を発揮した。二月二十六日に近江石山城を陥し、三日後に堅田城を包囲し、四時間で陥落させた。
(光秀は、やる)
と信長は思ったが、反面、憎いとも思った。旧主の義昭の城をあのようにさばさばと陥せる神経というのはどういうことであろう。信長でさえあれほど四方に気を配り、討とうか討つまいかと心を悩ましたあげく、かろうじて断をくだしたことではないか。
ともあれ、義昭の前線要塞《ようさい》はつぶれた。その後義昭は京にあり、京都市街の防衛をかためる一方、四方の大名に信長討滅の教書をとばしつつある。信長はもはやみずから出馬してそれを討つべきであったが、しかし岐阜を動かない。
東方の武田信玄の動きを気づかっているのである。信長はここ数カ月来の信玄のふしぎな停滞に疑問をいだき、織田家の諜報《ちょうほう》能力をあげてその実情をつかもうとしているが、なおよくわからない。
「御病《おんいたつき》におわす」
という情報は得ている。しかしそれも確実ではない。
(将軍《くぼう》は必死になって信玄のもとに使いを送っている。もし信玄が達者ならば遠州の宿営地をひきはらってかるがると発《た》つはずだ)
と思い、ひと月待った。しかしいっこうに遠州から足をあげぬのを見て、
(あるいは、罹病《りびょう》は本当かもしれぬ。しかも本国にさえ帰らぬというのは、よほど重いのにちがいない)
と判断し、堅田の落城後一カ月目で信長は大軍をひきいて岐阜を発足し、京にむかった。
近江の湖畔を南下し、三月二十九日いよいよ京に入るべく逢坂山《おうさかやま》にさしかかると、むこうから肩衣《かたぎぬ》をつけた武士が供三人をつれてひたひたと近づいてくる。甲冑《かっちゅう》は供にも持たせていない。
「あれは藤孝ではないか」
信長は、まわりの者にたしかめた。たしかに細川兵部大輔藤孝に相違ない。
(あの風体《ふうてい》、藤孝らしいことよ)
信長は、好感をもった。主人の義昭から捨てられたが、かといって信長の軍勢に加わって累代《るいだい》の主人を討つ気にもなれず、それに悩みぬいたあげくついに所領にひき籠《こも》ったという藤孝の苦悩が、扇子一本を持ったあの姿にありありと出ているのである。すくなくとも信長はそう受けとり、藤孝もそう受けとられることがこの出迎えの目的であった。
「やあ、兵部大輔か」
信長は馬上声をかけ、みながおどろいたことに馬をおりた。
信長はこの幕臣を鄭重《ていちょう》にあつかうのが、いまとなれば重要な政治であった。譜代の幕臣の藤孝でさえ義昭を見かぎったということが、諸国への重要な宣伝のたねになるであろう。
信長は路傍の松の下に床几をすえさせ、藤孝には毛氈《もうせん》をあたえ、煎茶《せんちゃ》をふるまった。話をきこうというのである。
「藤孝、将軍の苦情を申せ」
というと、藤孝は憔悴《しょうすい》しきった顔でかぶりを振った。
「いかにおおせでありましょうとも、それは藤孝の口から申しあげられませぬ。将軍はいかにも類《たぐ》いなき不器量人におわし、かつは岐阜殿に対して大忘恩人にましまするが、しかしながらそれがしにとっては重代の主家でござりまする」
そうかぶりを振りながらも藤孝は奇妙な話術をもっており、かぶりをふる合間々々に義昭の悪謀をならべたてはじめた。
「ふむ、ふむ」
信長は鼻を鳴らし、うなずきながらきいている。藤孝のこの密告こそ義昭討伐の最も強力な理由になるものだった。
密告者、というには藤孝の表情はあまりにも苦渋に満ち、声は終始悲しみでふるえつづけている。そのくるしげな表情に信長さえおもわず同情し、
「よく長年辛抱なされたぞ」
と、いたわったほどであった。そこで信長は藤孝に一言《ひとこと》ききたいことがある。
――討ってよいか。
ということであった。信長の胸中すでに解決していることではあったが、この幕臣の口からひとこと言わせたかったのである。
「どうだ」
と信長は、さりげなくきくと、藤孝もさりげなく、
「拙者の口から申せませぬ。しかしかの御人の御所業はついに天の相許さざるところ。天《てん》譴《けん》たちどころに至りましょう。これをもって足利家がほろびましょうとも、ほろぼした者は余人にあらず、かの御人でござりまする」
藤孝は、討て、という言葉はひとことも使わなかったが、信長が欲している答えをすべてあたえた。
信長はうなずき、最後に「わが家に専心つかえよ」といったが、藤孝は当分そういう気持にはなれないと固辞した。この態度が、信長に好感をあたえた。
(光秀とは、ちがう)
としみじみ思ったのである。
信長は藤孝のこのときの出現をよほど喜んだらしく、愛蔵の貞宗《さだむね》の短刀をとりだし、藤孝にあたえ、最後に、
「わしに仕えよ。待つ」
といった。待つ、といったのは傷心の癒《い》える日まで待つという意味である。
信長は馬上の人になった。
軍は動き、京に入り、しかしすぐには戦闘を開始せず、四日目にようやく二条の将軍館を包囲した。義昭は頼みの信玄が動かぬため落胆し、ついに和議を乞《こ》うた。
信長はその和議を受け、なおも義昭の身《み》柄《がら》も身分もそのままにし、軍をかえして岐阜へもどっている。
信長はあくまでも慎重な態度をとった。しかし義昭に最後の鉄槌《てっつい》をくだす準備だけはおこたらなかった。いざというときには京都にできるだけ早くのぼれるよう琵琶湖の水運を利用しようとし、佐和山(彦根)のふもとの浜で、とほうもない巨船を建造させた。
船の長さ百メートルあまり、櫓《ろ》は百挺《ちょう》という巨船で、それを四十数日で完成させた。
ほどなく義昭が京を脱走し、南郊の宇治の槙島城《まきのしまじょう》にこもり、ふたたび信長退治の旗をかかげたという報に接したとき、信長はおりからの風浪を突いて船を出させ、岐阜から二日の旅程で京に入り、さらに雨中宇治に進出し、槙島城を包囲した。
義昭はふたたび命乞いをした。
「追え」
と、信長は命じた。ここまで手をつくした以上、これで義昭を追放しても世間はそれを諒《りょう》とするであろう。
義昭は追われ、光秀や藤孝があれほど奔走して再興した室町将軍家はここにほろんだ。その後この義昭は、河内、紀州、備前を転々としたあげく最後には中国の毛利氏に身を寄せたが、すでに政治的には廃人とかわらない。
箔濃《はくだみ》
――将軍を追った。
というたったいま断行したわが行跡はどうであろう。信長はこの男にしてはめずらしくその行動のあとにまで懸《け》念《ねん》が尾をひいた。
かといって、後悔ではない。
後味の悪さでもなかった。信長はもともと倫理で行動しているのではなく利害で行動している。問題は、将軍追放の影響であった。
(天下六十余州に割拠する大小名は、おれの将軍追放で衝撃をうけるであろう。おれをえ《・》たり《・・》と罵《ののし》るであろう。さらにおれに抵抗するための結束をいよいよ固めるであろう)
それでもかまわない。刃むかう者は力をもって撃砕してゆけばいいのだが、しかし部下の諸将は心底どうおもっているか。その代表者が、かつて足利家の臣籍にあった明智光秀である。
宇治の槙島攻撃のときも、光秀は川が連日の雨で流れが早すぎるという理由で容易に宇治川を渡らなかった。信長はそれをいらだち、
――渡らねばおれが渡るぞ。
と後方から叱責《しっせき》の使者を送ると、光秀はやっと河中に馬を入れた。
(あいつは、何か思っている)
信長は、そのことが気になった。となれば、ついでに光秀も追放していいのだが、光秀の軍才の卓抜さはたれよりも信長が知っている。いまや織田家の軍事力をささえているのは林、佐久間といった先代からの門閥家老ではなく、信長が抜きあげた光秀と藤吉郎のふたりなのである。この二人の才幹を今後いよいよ使いに使ってゆく以外に六十余州の斬《き》り取りはできない。
義昭追放後、信長は近江南部、西部の掃蕩《そうとう》戦をし、義昭加担の二つの城を手もなく抜きとり、
「光秀、おのれにこの両城を呉《く》れてやろう」
といって信長自身が奪ったその城を、光秀にあたえてとらせた。
湖西の田中(現・安曇《あど》川《がわ》町)城と、木戸城である。どちらも小城ながら比良《ひら》山山麓《さんさんろく》にあって険《けん》阻《そ》をたのみ、堅城の評判が高かった。
この思わぬ恩賞に、
――明智殿を、偏愛なされておる。
という評判が家中でささやかれたほどであった。むりもなかったであろう。光秀のみがすでに城主であったのに、あれほど外交に軍事に駈けまわっている藤吉郎秀吉でさえ、いまなお横山城の守備隊長であって城主ではないのである。
……………………
このころになると甲州の武田信玄の死はいよいよ確実なものとして岐阜へもたらされた。
「天、われに与《くみ》す」
と信長はむしろ自分におどろいた。自分の運の強さを知り、彼自身が自分の運の信奉者になり、その果断と周到さを織りまぜた複雑な行動力にいよいよ光沢《つやめき》が出てきた。
このとし八月なかば、越前に乱入している。光秀はこの遠征軍の先鋒《せんぽう》司令官であった。朝倉軍を連破し、ついに他の諸将とともに義景《よしかげ》を大野郡の賢正寺に追いつめ、自殺せしめた。光秀にとってこの朝倉義景も旧主である。が、当時の光秀は朝倉家に渡り奉公をしただけのことでもあり、義景からかくべつな恩情をかけられた覚えもなかったため、足利義昭の場合とちがい、さほどの感傷はなかった。
「光秀、このたびはよう働いた」
と、信長はいつもの皮肉はいわず、素直にほめてくれ、この占領早々の越前の司政官として光秀を残留させた。光秀はさっそく北《きた》ノ庄《しょう》(福井)城に入り、戦後の庶政にあたった。
国中の人々は、
「あの明智なるお人を覚えている者もあろう。美濃のうまれで諸国を流《る》浪《ろう》し、やがて当国に流れてきて長崎村や一乗谷に足をとどめ、軍略、兵法などを教えていた牢人《ろうにん》であるらしい。その後、一時朝倉家の禄《ろく》を食《は》まれたが、朝倉家では厚遇せぬため将軍をかついで織田家に入った。織田家では大きに優遇され、いまでは三本の指に入る大出頭人《だいしゅっとうにん》よ」
とうわさし、光秀の材幹を用いきれなかった朝倉義景こそほろぶべくして亡《ほろ》んだ大将である、とみな言った。
占領地司政官としての光秀の評はよかった。この男の才能の第一は、民政の能力であるらしい。かれが朝倉家にいたころに彼をいじめた連中も、いまとなってはひざまずいて自分の窮状を陳情しにきたが、いずれもこころよく応対してやった。
その間、信長は南下している。
越前から北近江に入り、朝倉氏の片われである浅井氏をその本拠小谷城に包囲した。この方面の先鋒司令官は木下藤吉郎秀吉であった。
すでに浅井氏には往年の実力はない。北近江一帯の支城は歯をぬくように抜き去られ、いまでは奥歯ともいうべき小谷城ひとつで防戦している。しかし浅井の兵はつよく城は堅固で、その攻めにくさについては信長は元亀元年の開戦いらい足かけ四年の経験で知りつくしていたため、調略をつかおうとした。
敵将長政へ申し入れた。
「ゆるしてやる」
というのである。だけでなく城を退去すればそのあと大和一国を当ておこなうであろうという夢のような条件を出した。
浅井家の将士は、動揺し、にわかに戦意がおとろえた。それが信長のねらいであった。しかもこの提案には、まんざらうそではなさそうな根拠がある。浅井長政の夫人お市は信長の実妹であり、そのお市に対する情にひかれて信長がこういった、ともとれそうであった。
「やはり御兄妹のお血はあらそえぬ」
と城内の人情家たちは言い、厭戦《・・》家たちは、
「もはや頼みの朝倉がほろびて御当家は孤立無援である。どうぞこの信長の申し入れを殿様(長政)は素直にお受けなされまするように」
そう祈った。
が、当の長政は一笑に付した。
「信長のやりそうな手よ」
長政は見ぬいた。もともと長政はそのまるまると肥った若ぶとりの体《たい》躯《く》でもわかるように、権謀家の資質をもっていない。どちらかといえば名門の子らしい生《き》一本《いっぽん》さと素直さをもっていたために、まだ織田家と友好関係にあったころ、信長は長政の性格を愛した。たとえば将軍義昭を奉じて京に入ったときも、あいさつにやってくる京の富豪、神主、門跡《もんぜき》たちに、
「このたびの上洛《じょうらく》には近江小谷の備前守殿(浅井長政)もともに来ている。かれはわが妹婿《いもうとむこ》であるゆえ、わが旅館にあいさつにくるより、かれの旅館に行ってやれ」
といちいち言っていたほどだった。信長はあの体躯堂々たる若者の性格の純情さを見ぬき、ぜひこの西隣の近江を版図とする長政を弟分にして東隣の家康とともに織田家の動かぬ同盟者にしたかったのであろう。もしそのまま長政が同盟者でありつづけたならば信長の近畿統一は三年は早くなったにちがいない。
が、浅井氏は反覆した。信長にとって意外なことに北方の朝倉氏と組み、あくまでも信長に抵抗した。抗戦四年で、頼りの信玄は死に、同盟者の朝倉氏はほろび、いまや小谷は孤城になった。
「信長の手なのだ」
長政が信長の開城勧告をそのようにみたのは、長政に謀略の才能があったわけではなく、信長の研究をそこまで仕尽したからであった。この満二十八になる浅井家の若当主は、二十代の前半は信長を義兄として交際し、後半は信長を敵として戦っている。善悪ともに信長に対する長政の見方が深まらざるをえなかった。
(抗戦すればほろびる。しかし名こそ惜しみたい)
と、長政はかつて信長がその点を愛した生一本さをもって決意し、一族郎党もろとも名のために全滅することにかぎりない陶酔をおぼえた。
が、城内には動揺がおこっている。すでに一族や重臣のなかにも内通した者があり、志操のたしかな者もたがいに疑惑しあって結束が日に日に崩れようとしていた。
長政は、ついに自分の死をもっとも華やかなものにするために一策を講じた。
すぐ浅井家の菩《ぼ》提《だい》寺《じ》である木之本の浄信寺地蔵堂の別当雄山という僧をよび、
「わしの葬儀を出したい」
と説得し、城内の曲谷というところから石材を切り出させ、二日がかりで石塔をつくらせ、碑面に自分の戒名を刻ませた。
徳勝院殿《でん》天英宗清大居士《こじ》
というものである。それを城内の馬場にすえさせ、やがて三日目の夜が明けるとともに、城内の士格以上をよびあつめ、
「焼香せよ」
と命じたのである。当の長政は死者の装束を着て石塔の背後にすわり、二十人ばかりの僧が読経《どきょう》をはじめたため、みなやむなく焼香した。そのあと長政は木村久太郎という大力の士に石塔を背負わせて城を脱出させ、石塔を湖底に沈めさせた。このため城中の士はみな必死を覚悟した。
力戦のすえ、二十八日長政は切腹し、城は陥ち、浅井家は滅亡した。
信長は小谷城をおさめ、この城を木下藤吉郎にあたえてはじめて城主とした。光秀より遅れること一年半である。
浅井・朝倉がほろび、信長は多少休息することができた。この年も暮れ、天正二年になった。この年の元旦《がんたん》現在、近畿で織田軍と交戦中の敵は、もはや摂津石山の本願寺と、その与党である伊勢長島一《いっ》揆《き》だけになった。
信長は、岐阜城内で大《おお》晦日《みそか》を送り、ここ数年来もっとも安全な正月を迎えた。もはや北方から美濃をおびやかしていた朝倉氏はなく、岐阜から京へ往来する信長の軍用道路を終始おびやかしつづけていた浅井氏もない。
この元旦、岐阜城下のにぎわいというのは、道三が稲葉山城(岐阜城)を居城としていらい空前絶後のものであった。近畿の各地に在陣している諸将が、年賀のために岐阜城下にあつまってきたのである。かれらがその前線陣地を留守できるのは、風雲が、つかの間ながらも一休みしたかたちだったからである。
信長も、かつてないほど上機嫌《じょうきげん》だった。譜代、外様の大小名が居ならぶうちに屠蘇《とそ》を三《さん》献《こん》祝い、やがて外様衆が退出した。
残ったのは、たがいに遠慮のない譜代の大小名ばかりである。柴田、林、佐久間、池田、佐《さっ》々《さ》という五人の先代からの家老、物頭《ものがしら》のほかに家老以上の大兵力をまかされている木下秀吉、明智光秀、荒木村重《むらしげ》などが居ならぶ。さらに、
「いやさ、おめでたき君が春でありますることよ」
と、筆頭の柴田権六勝家が賀をのべた。
そのとおりであった。きょうこの日、織田家の主従が岐阜で顔をそろえて天正二年の初春を寿《ことほ》げようとは、正直なところ、ここ数年、かれらはおもったこともないであろう。幾度か、死神が織田家に侵入し、そのつど信長は死神を叱《しっ》咤《た》し、その撃退法を考えこの場の司令官どもを駈《か》けまわらせてつねにきわどい一瞬、一瞬でたたき出した。
(あのときこのときといったふうに思いだすと、信長もわが首筋が冷たくなるにちがいない)
光秀は、神妙にひかえながら思った。信長のいつにないはしゃぎようも、虎《こ》口《こう》を脱した安《あん》堵《ど》感《かん》がそうさせているのであろう。やがて酒が出た。
「おう、みな」
信長は、腕白小僧のように叫んだ。
「きょう春の寿ぎに、よい肴《さかな》があるわ」
と近習に命じ三個の桐箱《きりばこ》をはこばせてきた。
(茶碗《ちゃわん》か)
光秀はおもった。みなもそうおもったにちがいない。信長は子供のようにくっ、くっ、と笑いながら、
「権六、あけてみい」
筆頭の柴田勝家に命じた。権六はかしこまってあけ、なかのものをとりだした。
黒漆に黄金をあしらった漆器のような器物である。どうやら椀《わん》か、杯のようであった。
「なんじゃと思う」
「はて、はて」
勝家は、くびをひねっている。
「朝倉義景、浅井久政、同長政の三人からぶんどったものだ」
「ほほう、彼《か》の両家のお蔵から?」
「ばかめ、それはあの死神どもの頭《こうべ》よ」
と信長はいった。
みなあっと声をのみ、のぞきみると、なるほど頭《ず》蓋骨《がいこつ》の鉢《はち》のようである。それに漆を何度もかけ、頭の縫い目には金粉をあつくたたいて、いわゆる箔濃《はくだみ》にしてある。持つと黄金の重味で存外重い。
「わっはははは、これはよい御趣向」
権六勝家が、笑った。柴田は元来軽薄という印象からおよそ遠い男だが、わが主人のあまりにもすさまじい敵愾心《てきがいしん》に毒気をぬかれ、心の平衡をうしない、それをかくすために、とりあえず哄笑《こうしょう》せざるをえなかったのであろう。
他の将も、とっさに哄笑するが身のためと思った。わっと笑いだし、どの男の上体もはげしくゆれた。ただ藤吉郎だけは哄笑せず、ニコニコ笑っている。出来るだけ感情を消した、幼児のように無邪気な笑顔を作っていた。これも当然、内心の動揺を見すかされぬための演技にちがいない。
が、ひとり別の表情《かお》がある。
光秀であった。
(笑え。――)
と光秀は自分に懸命に命じていたが、どうしても笑顔にならない。この演技力の乏しい男は、無能な狂言師のように素顔でぼう然とすわっている。
その光秀の表情に、信長の視線が走った。がすぐ他に転じ、
「それに酒を汲《く》んでくれるほどに、みなわが身の命冥加《いのちみょうが》を祝え」
と言い、近習に酒を注がせた。
「これは結構なお味」
後年、信長の性行《せいこう》を怖れて謀《む》反《ほん》をおこす荒木村重でさえ、軽薄に躁《はしゃ》いだ。
やがて光秀の前に、それが運ばれてきた。光秀は一礼した自分の頭上に信長の視線が突きささっていることを、痛いほどに感じつづけている。が、光秀は飲まない。
この頭蓋骨は、旧主朝倉義景のものであった。流浪時代、この男に希望を見《み》出《いだ》して越前にゆき、しかもこの男に失望して越前を去った。いま、なんという不幸で滑稽《こっけい》な再会を遂げていることであろう。
「十兵衛っ」
叫び、信長が立ち、上段をとびおりた。信長にすれば、せっかく自分が、この独創的な方法で幸福と充足感を味わっているのに、光秀は腐れ儒者のようにひややかに座し、自分を批判し、嫌《けん》悪《お》している。そうと信長はとった。
「なぜ飲まぬ。キンカン頭っ」
信長はその異風な杯をつかみ、光秀の口もとに持ってゆき、唇《くちびる》をひらかせようとした。
「こ、これはそれがしが旧主左京大夫《さきょうのだいぶ》(朝倉義景)殿でござりまする」
「旧主が恋しいか、信長が大事か」
信長は光秀の頭をおさえ、唇を割らせ、むりやりにその酒を流しこんだ。
「どうじゃ、旧主の味は」
「おそれ入り奉りまする」
「光秀、この杯《・》をうらめ。この杯《・》はそちに何をしてくれた。信長なればこそそちをいまの分《ぶ》限《げん》に取り立てたぞ」
信長には、そんな狂気がある。
日向守《ひゅうがのかみ》
それほど残忍で狂暴かとおもうと、意外な面もこの男にはある。
信長は美濃と近江の国境は何度となく越えてきているが、そのあたりに、
山中
という中山道《なかせんどう》ぞいの山村がある。関ケ原の西方にあたり、今須峠《いますとうげ》という峠道に沿っている。信長はそこを通るたびに、いつも同じ場所にすわっている一人の乞《こ》食《じき》をみた。
(なんだろう)
好奇心のつよいこの男は、それが気になった。なぜならば乞食は元来放浪するもので一つ所にすわっているものではない。
――理にあわぬ。
ということが、信長のもっとも気になるところだった。なぜこの乞食が、その本性であるべき放浪をせずにここに根がはえたように何年もすわっているのか、信長は通るたびに気になっていた。あるとき、
「村の年寄りをよべ」
と、手綱をひき、馬をとめた。やがて年寄りがふるえながらやってくると、信長は馬上からこの乞食の奇妙な生態について質問を発した。
「あっ、それは」
年寄りは安《あん》堵《ど》し、乞食についての豊富な知識を披《ひ》瀝《れき》した。この土地では右の乞食を、
――山中の猿《さる》。
とよび、人間扱いにはせず、家に住むことも許さないのだという。なぜといえば乞食の先祖が源平争乱のころ常盤《ときわ》御《ご》前《ぜん》を殺し奉り、そのむくいで代々あの一つ所ですわらざるをえぬはめになっているのだという。
「常盤御前をな」
信長はうなずいた。むかし源家の棟梁源義《とうりょうみなもとのよし》朝《とも》の妾《めかけ》だった常盤は義経《よしつね》を生んだことで史上に名を残したが、べつに殺されもせず大病にもかからず他家に再婚して平凡な生涯《しょうがい》を送っている。しかし聞く信長も話す村の年寄りも、史家の教養などはない。
「仏家の申す因果応報でござりまする」
「そうか、因果応報か」
信長は、感心したように頭をふった。この男は、来世の霊魂の存在を信ぜず、迷信を憎み、祈《き》祷《とう》を嘲笑《ちょうしょう》し、病的なほどに合理主義を信条としているくせに、因果応報という思想だけは耳に快くひびくたちだった。悪にはかならず報いがくる、という思想である。信長はそれを信じはしないが、しかし他人の不正を見れば奥歯をきりきりと噛《か》み鳴らして憎《ぞう》悪《お》するこの男には、小気味のいい言葉だったといっていい。
が、いまの場合、この「山中の猿」に興味がある。元来、少年のころから城下の庶民に立ちまじって遊ぶことのすきだったこの男は、庶民への関心が、尋常の大将とはくらべものにならぬほどに強い。
「可哀《かわい》そうなやつだ」
信長は叫び、やがて鞭《むち》を鳴らして去った。敵に対しては、たとえば朝倉義景・浅井長政の頭蓋骨を細工して酒杯にこしらえさせるほどに憎悪の深いこの男が、自分が庇護《ひご》すべき庶民に対してはそれとおなじ奥深い場所で憐《あわ》れみを感ずるたちであるらしい。
つぎにこの山中村を通ったとき、信長は馬から降り、小人頭《こびとがしら》の荷駄《にだ》を自分で解き、岐阜で用意した木綿二十反を馬の背からとりおろし、あきれたことに自分でかかえて歩きだした。
「村の者、男女とも、よう聞け」
と、信長は抱え歩きながら叫んだ。
「この木綿のうち、十反はあの猿にやれ。あとの十反で猿のために小屋を作ってやれ」
ぱっと路上に投げだし、そのまま馬に乗って過ぎ去った。
この木綿二十反を「山中の猿」に呉れてやったときの上洛《じょうらく》は、信長の生涯《しょうがい》のなかで劃《かっ》期《き》的なことがはじまろうとしていた。
京で、公卿《くげ》になるのである。くげ《・・》とは武家との対比の場合、公家《くげ》という。公卿という場合は三《さん》位《み》以上の朝臣をさし、摂政《せっしょう》、関白、大臣、大《だい》納《な》言《ごん》、中納言、参議を言う。信長はこのたびの上洛で、
「参議」
になるのである。平家以来、武家の出身で公卿そのものになる例はない。武家が天下の政治をとる場合、源頼朝の先例によって征《せい》夷《い》大将軍になり、幕府をひらき、それに付属して大臣の官称を得たりするが、じかに廷臣に列し公卿になってしまう例は、平家以外にはなかった。
信長は自身の権力をそのようにして合理化しようとしている。
(巧妙だ)
と、このとき、近江坂本城から織田家の上洛軍にくわわった光秀はおもった。なぜならば信長は征夷大将軍足利義昭を追って幕府をつぶした以上、いまここで織田幕府を樹《た》てることは六十余州の大名どもがゆるすまい。それに信長はかつては藤原氏を称していたが、いまは気がかわって平氏を称している。宮中の先例主義によれば征夷大将軍は源氏の出の者にしか授けられない。平氏を称してしまった以上、信長にはその資格がなく、資格がある者といえば、信長の同盟者の徳川家康であった。家康はかつて、藤原氏を私称していたが、いまでは新《にっ》田《た》義貞《よしさだ》の子孫と称し、源氏を公称しているのである。家康でなければ、明智光秀である。光秀の場合は信長や家康の家系のようなあいまいなものではなく、美濃源氏の嫡流《ちゃくりゅう》土岐家の支流として、かれが源氏であることは天下にかくれもない事実であった。
それはいい。光秀が信長の智謀に感心するのは、足利将軍家の大名であることをやめて天皇家の公卿になったことであった。往古、この国の統治者であったという天皇家の神聖をいまふたたび天下に知らしめ、天皇の神聖を背景に日本統一の事業を信長は進めようとしているらしくおもわれる。
織田軍は、上洛した。
信長はすぐ旅宿の相国寺《しょうこくじ》に入り、任官受爵《じゅしゃく》の準備にとりかかった。
朝廷ではすでに信長除《じ》目《もく》の準備はできている。この三月十二日、天皇は飛鳥《あすか》井《い》雅教《まさのり》を勅使として信長を従三位に叙し、参議に任じた。だけでなく信長の三人の子(信忠《のぶただ》、信雄《のぶかつ》、信《のぶ》孝《たか》)をそれぞれ正五位上《しょうごいのじょう》に叙した。
その翌日、すでにうわさにも聞こえ、光秀なども耳にしていたが、光秀ら十八人の織田家の幕将に対しても、それぞれ任官の沙汰《さた》があり、位がさずけられた。みな一様に従五位上である。むろん、信長自身の奏請によるものであった。
織田家譜代の家老では、
柴田権六勝家が、修理亮《しゅりのすけ》
林新五郎通勝《みちかつ》が、佐渡守
佐久間信盛が、右《う》衛門尉《えもんのじょう》
丹羽五郎左衛門長秀が、越前守
ということになり、新参の出頭人としては近江甲賀郡の賤《せん》士《し》のあがりの滝川一益《かずます》が、左《さ》近将監《こんしょうげん》になった。
十八人の将たちは、信長が選びぬいてこの位置まで昇《のぼ》せた者だけに、それぞれ軍事・政治の練達者だが、乱世の田舎育ちだけに、無学の者も多く、
「わが官名はなんと訓《よ》むのじゃ」
とさわぎまわって公卿たちの失笑を買っている手合いもある。
織田家の出頭人第一の木下藤吉郎は、このたび浅井家敗亡のあとの北近江の大半――二十数万石を信長からもらい、すでに南近江の領主である光秀と伍《ご》して、すでに堂々たる大名になっていたが、この男は、
筑前守
をもらった。なににせよ、田舎豪族どもが何の守《かみ》、何の尉《じょう》、何の将監《しょうげん》などと勝手に称しているのとはちがい、織田家の場合は天子から正式に頂戴《ちょうだい》した官位だけに、その値うち陸離として光っている。藤吉郎のばあいはこれほどの官位のつく身になった以上、木下の姓では軽すぎると思い、織田家の譜代の老臣の姓である柴田氏と丹羽氏の一字ずつをとり、羽《は》柴《しば》と改姓した。羽柴筑前守秀吉である。
明智十兵衛光秀は、
日向守
をもらった。しかも光秀の場合、信長が朝廷に奏請して姓を変えさせた。
惟任《これとう》
である。「惟任日向守源光秀《これとうひゅうがのかみみなもとのみつひで》」が光秀の正式の呼称になった。惟任というのは九州の古い豪族の姓で、戦国のこんにちではすでに存在していないが、九州の者がきけば、
――さほどの由緒《ゆいしょ》あるお血筋のお方か。
と錯覚するであろう。信長は将来九州征服を考えていたために、あらかじめその配慮で光秀に惟任を名乗らせたのである。その配慮による改姓は光秀だけではなかった。丹羽長秀には惟住《これずみ》と名乗らせ、中条将監には山澄《やまずみ》、塙《はなわ》九郎兵衛には原田姓を名乗らせた。もっともこの改姓は平素実際に用いよというものではない。
信長はこの相国寺滞在中、光秀をひそかに別室によび、重大なことを洩《も》らした。
「改姓、気に入ったか」
と、まず問うた。相変らず刺すような声調子だが、べつに悪気はないのであろう。光秀ははっと平伏し、重ねて礼をのべた。
そのくどくどしい礼の言上など、信長はきいていない。光秀の言葉の腰を折り、
「その改姓を祝して、そちに丹《たん》波《ば》一国を呉れてやろう」
といった。へへッ、と光秀は平伏したが、呉れてやるといっても丹波は無人の国ではなく、一国を統《す》べる者としてはまず波多野《はたの》氏が不抜の勢力をもっており、その他大小の豪族が山々谷々に蟠踞《ばんきょ》して、抜くべき城の数でも二十以上はあろう。信長はそれを斬り取りにせよ、というのである。
「何年かかるか」
「まず五、六年はかかろうかと存じまする」
「ふむ」
信長は、可とも不可ともいわなかった。織田家の全力をあげた近江平定戦でもあれだけの手間ひまがかかったのである。丹波平定戦は光秀一手となればそれだけの年数はかかるであろう。
それに、織田家の人の使い方からいけば光秀を丹波攻略に専念させておくはずがなく、その間ひんぱんに他の戦線へ転じさせるにちがいないため、光秀のいうがごとく最小限五、六年は必要とするであろう。
「帰って、支度せよ。それまでは口外するな」
と、信長はいった。当然なことで、この新方面への作戦が丹波に洩《も》れれば外交や作戦に支障をきたすにちがいない。
「心得ましてござりまする」
「申しておくが」
と、信長はいった。
「筑州(藤吉郎)には播州《ばんしゅう》から討ち入って中国一円を切り取れと命じてある」
(ほう)
光秀は、秀吉がいまや織田家の事実上の筆頭大将になっていると思った。中国の毛利氏といえば、かつての朝倉・浅井などと違い、山陽山陰十カ国の大領主であり、宛然《えんぜん》西の帝王の観をなしている。それを攻略する担当官が秀吉であるとすれば、たかだか丹波一国を担当させられる光秀とのあいだに大きな差がつけられているといっていい。すでに信長の才能評価は、一に羽柴秀吉、二に明智光秀、三に柴田勝家、四に滝川一益というところであろう。
「猿《さる》めは」
と、信長はくすくす笑った。
「五、六年で中国十カ国を降《くだ》してみせますると申しおった」
(猿め)
と、光秀は胸中、うめきあげた、光秀の見積りは一国で五、六年、秀吉の見積りは十国で五、六年――法螺《ほら》もいいかげんにせぬかと叫びたい。
「あれは大《たい》気《き》者《もの》よ。そちのような陰気者ではない。おそらく五、六年で片づけるだろう」
「上様」
参議になって、信長の尊称がかわった。
「それがしは、間違いなきところを申しあげたばかりでござりまする。それに陰気はそれがしの生れつきにて、いまさら筑前守の大気の真似《まね》はできませぬ。――真似をすれば」
「真似をすれば?」
信長は、あごをむけた。どうもこの光秀の長《なが》口《く》説《ぜつ》が、信長の気に入らない。
「どうだというのだ」
「とほうもない踏み外しをせぬともかぎりませぬ」
光秀は泣くようにいった。光秀にすれば堅実と緻《ち》密《みつ》さが持ち味なのである。それをわすれて鵜《う》が鷺《さぎ》のまねをすれば、とんでもないことを仕出かしかねぬ、というのだ。だから御容赦ありたいと光秀は懇願している。
信長はもう聴いていない。信長にすれば、自分が卒《そつ》伍《ご》のなかからひろいあげた秀吉、光秀という天才を、いやがうえにも煽《あお》りたてて競争場裡《じょうり》に立たせたいと思うだけである。
光秀は退出した。
ほどなく軍勢をまとめて京を去り、居城の近江坂本城に帰った。
帰城したその夜、妻のお槙《まき》に京でのさまざまな出来事を話した。日向守に任官したこと、丹波を斬り取りにせよと命じられたことなどを話すと、お槙は涙をこぼした。
「どうしたのだ」
「うれしいのでございます。昔の苦しい暮らしを偲《しの》びますると、いまは夢のようにしか思えませぬ」
「なんの、これしきは小功ぞ。かようなことで嬉《うれ》し涙をながしていては明智十兵衛の妻とはいえまい」
光秀は、妻にだけは大気者であるらしい。
この夜、光秀は閨《ねや》でお槙と寝物語をするうちに、わが身の評価が次第に大きくなってきた。
「考えてもみよ」
と、光秀はいうのである。織田家十八将はそれぞれ天下の豪傑ではあるが、所詮《しょせん》は戦場を馳駆《ちく》するだけの才にすぎない。自分のみはちがっている。美濃を出て諸国を流《る》浪《ろう》しているころから、へんぺんたる大名豪族に仕えて食禄《しょくろく》を得ることなどを考えず、いちずに、
――天下をどうするか。
ということをのみ考えてきた。何ごとを考えるについても、発想はつねに天下であった。足利幕府を復興させようとしたこともそうであった。そのようなことを、柴田、佐久間、滝川、羽柴のともがら《・・・・》は考えたことがあるか。
「もし考えた者があるとすれば、織田家では信長以外にない」
と、光秀はほとんど昂奮《こうふん》しきっていた。
「お槙よ」
光秀はいうのである。食禄とは所詮は餌《えさ》にすぎぬ。食禄を得んとして汲々《きゅうきゅう》たる者は鳥獣とかわらない。世間の多くは鳥獣である。織田家の十八将のほとんどもそうである。ただし自分のみはちがう。英雄とはわが食禄を思わず、天下を思うものをいうのだ、と光秀は言いつづけた。
「お槙、そうではないか」
「そうでございますとも」
お槙はさからわずにうなずいた。この夫は外で心気を労しきるために、内でこのような大言壮語を吐いてかろうじて心の平静を保とうとしているのであろう。
(聴いてやらねばならない)
と思い、お槙は光秀のいうどの言葉にもふかぶかとあいづちを打った。
光秀は、誰《たれ》にも洩らせぬ信長への憤懣《ふんまん》もお槙にだけは掻《か》き口説くように訴えた。藤吉郎を大気者といい、自分を陰気者といった信長の言葉も、お槙に伝えた。
「筑州めは、例のあいつの人蕩《ひとたら》しの一手で、中国十州を五、六年で奪《と》ると言上しおった。信長にはそれが好《う》いやつにみえるらしい。このおれが正直なことをいうと陰気、という。それほど大気者が好きなら、おれも筑州のやりざまで」
とまでいったとき、お槙はちょっと顔をあげた。この光秀が、その性格で筑前守のような手をやりだせば、どういう過誤を犯すかわからない。
「それだけはおやめなされませ。人はわが身の生まれついた性分々々で芸をしてゆくしか仕方がございませぬ」
お槙は、光秀を見た。
淡い行燈《あんどん》のあかりに照らし出された光秀の相貌《そうぼう》に、隈《くま》どったような濃い翳《かげ》がある。
「なんだ、お槙」
急に隈どりが崩れ、光秀はもとのこの男の顔にもどって微笑《わら》った。
「いや、お槙のいうとおりだ。わかっている」
小さな声で、光秀はいった。
丹《たん》波《ば》
丹波は、現今《いま》、京都府と兵庫県に属している。面積およそ二百方里。
「山《やま》家《が》の猿《さる》」
と隣国の京童《きょうわらわ》からあざけられてきたように、山々谷々が複雑な地勢をつくり、その山々谷々ごとに小豪族が住みつき、しかもその小豪族どもの共通した性格は偏狭で頑《がん》固《こ》で外界の情勢にくらい。
(攻めづらい)
というのが、光秀の実感であった。光秀の感想では平野地方の敵は蠅《はえ》のようなもので、大軍をもっておしよせれば飛び散ってしまうが、山国の敵は毛のなかのしらみのようなもので、一つ一つ潰《つぶ》してゆかねばならない。しかしそういう作業をしていては五年が十年でも追っつかないであろう。
(工夫が要る)
光秀は慎重な性格をもっている。せっかちな軍事行動はひかえ、無数の諜者《ちょうじゃ》を送って山々谷々の小豪族どもの性格、能力、相互の利害関係、縁戚《えんせき》関係をしらべさせた。
その間、光秀は丹波には一度もあらわれず、織田家の各戦線を転々として一つ所に三月もとどまったことがない。
(信長は骨までしゃぶるわ)
と、使われる光秀自身が小気味よくなるほど信長は光秀の才能を酷使した。美濃に侵入した甲州の信玄の子武田勝頼《かつより》の軍と合戦するために美濃にやられたかと思うと大和に転出して多聞山城《たもんやまじょう》の防備を指《さし》図《ず》し、さらに河内《かわち》で転戦して三好党の城々を攻め、かと思うと大坂の本願寺攻めに参加し、その間京都の市政を担当するなど、その多忙は、言語に絶した。
もっとも、総大将の信長自身がそうであった。かれの駈《か》けまわりぶりは光秀以上で、
――織田殿は天《てん》狗《ぐ》か。
と京童に感嘆されているほどに神出鬼没であった。多方面化したどの戦線にも信長はあらわれ、直接指揮し、河内の城攻めのときなどは戦跡を見て前線に出、前線の足軽をみずから下知《げち》した。
何事も自分で手をくだすというのは信長の性格でもあろう。しかしそれだけではない。織田家で体力智力とももっともすぐれた者は信長自身であった。
そう信長は信じていたし、事実そうであろう。もっともすぐれた者を、すりきれるまで使うというのは、信長の方式であった。信長は自分自身をもっとも酷使し、ついで秀吉、光秀を酷使した。
信長が河内の陣にいるとき、光秀の丹波攻略の計画は成った。
(一度、御耳に入れておかねば)
と光秀は思い、陣中で拝謁《はいえつ》した。信長は光秀の説明をききおわると、
「よかろう」
と、満足した。それほど光秀が立案した計画はよくできていた。が、一つ足りない。
「兵部大輔(細川藤孝)を連れてゆけ」
と、信長はいった。
信長は理由をいわない。
いわなくても光秀はわかっていた。細川家は足利中期に出た頼元《よりもと》以後、数代にわたって丹波の守護大名であった。もっとも現地に居たことはなく、京に政庁を持って数代つづいたが、戦国初頭、土地で波多野氏が擡頭《たいとう》し、このため細川家は丹波とは縁が切れた。その細川家と、藤孝の細川家とは血脈こそつづいていないが、家号は相続している。藤孝が丹波へゆけば、美濃における土岐氏、尾張における斯波《しば》氏、三河における吉良《きら》氏のように、
「むかしの御館《おやかた》様」
ということで、大いに尊崇を受けるであろう。自然、政治工作がしやすい。
光秀もじつはそれを考えた。しかし信長の癖として部下に人事の口出しをされることを好まない。それに細川藤孝という足利家での旧同僚とあまりに濃い結びつきを持つと一見党派を結成するようで、信長がきらうであろうと思い、遠慮をしたのである。
が、信長から言いだした。
(油断のならぬお人だ)
光秀は思った。まず、丹波が半世紀以上も前に細川家の管轄国《かんかつこく》であったことを信長が知っていることにおどろいたのである。それに、部下の持ち味をしゃぶるようにして使う信長の巧みさは、光秀の目からみても天才としか思えない。
「兵部大輔をこれへよべ」
信長は、近習に命じた。藤孝はこのころすでに織田家に正式に仕え、南山城《やましろ》の勝竜寺城を居城としつつ、つねに信長の陣列にあり、光秀や秀吉などより一格下の部将として働きはじめている。
藤孝が参上すると信長はそのことを命じ、命じおわると、
「そのほうども、姻戚《いんせき》になれ」
といった。藤孝の子忠興《ただおき》はまだ十代の半ばだが、こんど初陣《ういじん》として父に従っており、骨《こつ》柄《がら》はなかなか逞《たくま》しい。光秀の娘は、お玉である。のちに洗礼名ガラシャといわれる。お玉は忠興よりも一歳上だが、その容色の美しさは織田家の家中でも評判であった。
(むかし、互いにそういう約束をしたことがある)
光秀と藤孝は顔を見あわせながら、志士奔走のころをふと思った。むろん互いに異存はない。
「ありがたき仕合せに存じまする」
と光秀はつつましげに御礼を言上しながら、信長の性格をふしぎに思った。信長は批判力がするどく、人のあら《・・》を観察するぶんには微細なきずも見のがさず、それを指摘するときは骨を刺すようにむごく、ときに、批判が高《こう》じてくると家臣の数十年の過去を言いたてて切腹させたり追放したりする。それほど容赦ない男だが、ただ一つの盲点は家臣のほうからは自分を裏切らぬという信念を持っているらしいことであった。でなければおなじ幕臣系の二人を縁組で結ばせようという発想はおこるまい。
やがて信長は東へ去った。
光秀は、京に残った。
京を策源地とし、丹波へ人を出しては大小の豪族を懐柔しつつあった時期――つまり天正三年五月の暮、光秀は一世を驚倒させる風聞をきいた。やがてその確報を得た。
信長が、三河の長篠《ながしの》で武田勝頼の大軍と合戦し、その日本最強といわれる故信玄の大軍団を完膚なきまでに破った、というしらせである。
(あの信長が。――)
光秀は胴のふるえるような、異常な衝撃におそわれた。よろこび、というようななまやさしい感情ではない。恐怖かもしれなかった。いままで光秀は信長の思想、性行を好まず、さらにその才能についても、
(自分のほうがすぐれている)
とひそかに思い、そう思うことによって信長から受けるたびたびの侮辱に堪えてきたのだが、長篠での一戦は光秀のその自信を根の底からゆるがせた。信長を、光秀ははじめて畏怖《いふ》した。
(あの男はひょっとすると、自分などの及びもつかぬ天才なのかもしれぬ)
この会戦地の長篠設楽原《しだらがはら》は東三河の山谷《さんこく》地帯にある小高原で、ここに展開した両軍の人数をいうと、
武田軍 一万二千
織田・徳川軍 三万八千
であった。
が、武田軍は故信玄の軍法ゆきとどき、その精強さは一騎で他国の四、五騎に相当するといわれた。兵の強弱でいえば織田家の母体である尾張兵はとりわけ弱いとされている。このため三倍の人数があっても、ようやく互角の戦い、というのが常識であった。
その証拠に、戦わぬ前から織田家の士卒は恐怖し、敵陣を窺《うかが》いに行った斥候《せっこう》たちは馳《は》せ帰るとことごとく武田軍の偉容を、戦慄《せんりつ》するような口ぶりで報告した。
その模様をあとできいたとき光秀も、
(さもあろう)
と思った。光秀でさえ武田軍の正々堂々の軍容とその鬼神も避けるような勇猛さを思うとき、ほのかな戦慄を覚えざるをえない。
が、現地の信長にはすでにこれを破砕する構想があった。かれは岐阜を進発するときから、すべての足軽に材木を一本、縄《なわ》を一《いち》把《わ》ずつ持たせ、現地につくとそれをもって予定戦場に長大な柵《さく》を構築し、ところどころに木戸さえつくった。
かつ、織田軍の執銃兵一万人のなかから射撃上手を三千人選び、それを柵内に入れ、千人ずつ三段に展開させ、武田軍のもっとも得意とする騎馬隊の猛襲を待った。ついに計略は図にあたり、柵にむかって怒《ど》濤《とう》のように突撃してくる騎馬集団は信長の考案した「一斉射撃」という世界史上最初の戦法の前にうそのように砕け去った。
(なんという男だ)
と、京で光秀はおもった。
光秀は鉄砲という、三十年前にこの国に渡来したあたらしい兵器については、その機械としての研究においても、その用兵法の研究においても日本第一という定評があり、当初、信長が光秀を抱えたのも、
火術家
という点で魅力を感じたからであった。
光秀には当然その戦法に自信があったが、その光秀でさえ信長が長篠で演出した「三段入れかわりの一斉射撃法」というのは思いもつかなかった。信長のやったその方法では、戦場の空間内で、千発の銃弾が間断なく飛びつづけていることになるのである。
(思いも、及ばなんだ)
光秀は、劣敗の思いをもった。筑前守秀吉のような男なら、この劣敗感はただちに信長への畏敬という質に転化し、無邪気に信長を学ぼうとの姿勢に移るであろう。しかし光秀にとっては自信のひたすらな敗北でしかない。その結果、光秀の場合、信長畏敬という気の楽な転化を遂げず――遂げればどれほど気が軽かったであろう――相手の金銅仏《こんどうぶつ》のように重々しい像に威圧され、あやうく自信を圧殺されそうになった。
光秀と藤孝の丹波工作はすすみ、国中のほぼ半ばが織田方になびいたころ、光秀は兵三千をひきい洛西《らくせい》の桂《かつら》に集結した。藤孝も兵三百をもって来会し、ともに鞭《むち》をあげて丹波路にむかい、東丹波の亀山《かめやま》城をかこんだ(亀山、現今は改称し、亀岡)。
光秀は急攻方針をとり、三日三晩、火の出るように攻めたててついに陥し、降伏者を収容し、その戦勝を信長に報ずるとともに、ここを本拠として丹波攻略に乗り出した。
亀の尾の翠《みどり》も山の茂るかな
と細川藤孝は詠《よ》み、朋友《ほうゆう》と自分の成功を祝した。
このあと、織田家の威武、光秀の徳望、藤孝の家柄、という三つの要素が、この山国のひとびとを大いにゆさぶり、あらそって帰服した。
光秀は、外交に専念した。それが信長の方針で、信長の場合、その苛《か》烈《れつ》な戦闘も外交の一部といっていい。光秀は陰翳《いんえい》のちがいはあるとはいえ、いつのまにか信長の方法を忠実に踏襲しはじめていた。
それに信長の貪婪《どんらん》なほどの嗜《し》好《こう》は、人材に対する興味であった。信長は人材とみるとひっさらうようにその傘《さん》下《か》に入れたが、光秀もこの方式をとった。
丹波にも、人材は居た。早くから帰服していた者、途中多少反抗の色を立てた者、あくまで抗戦した者をふくめて光秀はこれはという男を見ると、
「わが家に仕えませぬか」
と、この男の口癖で相手を十分に尊重しつつ、降人をも招聘《しょうへい》のかたちで持ちかけた。その光秀の態度に感激し、
(このひとこそ)
と、よろこんで桔梗紋《ききょうもん》の軍旗の下に馳《は》せ参じた者は、
四《し》王天《おうてん》又兵衛、並河掃部助《かもんのすけ》、萩野彦兵衛、波々伯《ははか》部権頭《べごんのかみ》、中沢豊《ぶん》後《ご》、酒井孫左衛門、加《か》治《じ》石《いわ》見《み》などであった。
光秀はこれらをそれぞれ侍大将格に起用し、とくに四王天又兵衛を重用した。
四王天又兵衛は、正しい家名は四《し》方田《ほうでん》と書き、但馬守《たじまのかみ》とも称した。無類の戦さ上手で、以前から光秀の下にあった明智弥平次光春、斎藤内《く》蔵助利三《らのすけとしみつ》とともに、
「明智の槍神《やりがみ》」
といわれた。
むろんこれらの帰服者の採用についてはいちいち信長に伺いを立てた。信長は機《き》嫌《げん》よくゆるした。明智軍団の強化は信長の統一事業に好影響をもたらすのである。
余談ながら、右の「槍神」の一人の斎藤利三は、光秀と同郷の美濃の人である。
斎藤道三は、一時利政《としまさ》と名乗っていた。いかにも似た姓名だが、むしろ道三のほうが美濃の名家斎藤家の家号を奪《と》ったわけだから、この斎藤利三のほうが美濃斎藤のいわば正札《しょうふだ》といっていい。
かつては、美濃安八《あんぱち》郡で五、六万石を領していた曾根《そね》城の城主稲葉一鉄《いってつ》に仕え、その侍大将をつとめていた。一鉄の稲葉家と斎藤利三とはもともと同族で、利三はその娘をさえもらっていたのである。
一鉄は最初は土岐家に、ついで道三に仕え、さらにいまでは信長に仕えている。織田家の家中では頑《がん》固《こ》者《もの》のことを、
「一鉄」
という。これが諸国に流布し「一徹者」という言葉を日本語に加えたといわれているほどだから、稲葉一鉄の性格は推して知られるであろう。斎藤利三はこの同族で舅《しゅうと》で主人でもある一鉄をきらい、走っておなじ美濃出身の織田家の部将である光秀につかえた。光秀はこれを優遇し、明智家の中核的な司令官とし、つねに先鋒《せんぽう》をうけもたせた。
ところが斎藤利三に逃げられた一鉄は、おさまらない。例の性格で信長に訴えた。
信長は一鉄を敬遠しつつも、その頑固さを可笑《おか》しがるところがある。「承知した。光秀に言って返すようにしてやろう」と言い、光秀の顔をみるたびにそれを言った。
が、光秀も、斎藤利三ほどの才能を放したくないため、いい加減にその場をごまかし、信長のいうことをきかなかった。その間歳月が流れたが、稲葉一鉄はなおもあきらめず、信長のもとに伺《し》候《こう》するたびにそのことをいった。
信長はついにうるさくなった。一鉄の執拗《しつよう》さにも腹が立ったが、自分の言葉を用いぬ光秀にはより激しく腹が立った。
(あの仔《し》細顔《さいがお》め)
と思い、それを根にもった。
光秀が、進行中の丹波攻略の中間報告のため安《あ》土《ずち》城(すでに信長は、この琵琶湖東岸の地に南蛮風を加味した日本最大の巨城を築きつつあった)に行って信長に拝謁したとき、信長は情勢の進展については大いに上機嫌であった。丹波の諸士を新規に抱えたことについても大いに機嫌がよく、
「それはどんなやつだ」
と、顔つき、特技、性癖にいたるまで問いただし、大いにこの男の人間への興味を満足させたが、その直後、
「それほどおもしろい連中がそろった以上、内蔵助(斎藤利三)はもうよかろう。あいつを一鉄に返せ」
といった。
光秀はふたたび例の煮えきらぬ顔つきで、意味のないことをくどくど言いはじめた。
信長は、ついに激怒した。飛びあがるなり、
「十兵衛、汝《われ》は主《しゅう》の言うことがきけぬか」
と光秀の頭をつかみ、髻《もとどり》をとり、力まかせに突きとばした。光秀はあおむけざまにころび、しかしながら起きあがろうとした。そこを信長は脇差《わきざし》に手をかけて抜き打ちにしようとしたので、光秀は人に介添えされてその場を逃げた。
それでも光秀は、斎藤利三を放そうとはしなかった。
「生死は、汝とともにある。殺されてもそこもとを放さぬ」
と、利三にもいった。利三もこのことに感動し、光秀の言葉どおりの生涯《しょうがい》を終えた。
この光秀の家老斎藤利三の末娘が、徳川三代将軍の乳母《うば》として威福をふるった春日局《かすがのつぼね》であることは、以前に触れた。ちなみに稲葉正《まさ》則《のり》がかいた「春日局譜略」には、「春日局、幼名福。斎藤内蔵助利三の末女。母は稲葉刑《ぎょう》部少輔《ぶしょうゆう》通明の女也《むすめなり》」とある。
伊丹《いたみ》城
織田家の将領のなかで、
荒木摂津守村重《せつつのかみむらしげ》
という高官がいる。後世の用語でいえば方面軍司令官というべきであろう。このせつ、織田家の方面軍司令官といえば、北陸攻めの柴田勝家、中国攻めの羽柴秀吉、近畿を鎮《ちん》撫《ぶ》しつつ丹波を攻略する明智光秀、伊勢を鎮定しつつある滝川一益、大坂本願寺を囲む佐久間信盛、さらには摂津一国を担当する荒木村重、それに遊軍的存在の譜代の家老丹羽長秀などがいる。それぞれ信長から織田家直属の大小名を分けてもらい、それらを統轄《とうかつ》する高位置に立ち、いまやそれらの武名は天下を風《ふう》靡《び》しつつある。
素姓《すじょう》は、さまざまであった。
荒木村重も、
「一僕《いちぼく》の境涯《きょうがい》から取り立てられて」
と世間でいわれているほどだから、いわば夢のような出世を遂げている。
その荒木村重が謀《む》反《ほん》をくわだてている、という急報が信長のもとにきたのは、天正六年の秋、信長が北陸戦線を督励中のときであった。
「ふむ?」
上方《かみがた》からの急使の報告をききおわっても、平素反応の敏感な信長が、この一事にかぎって顔色も変えず、ただ小くびをひねりつづけている。
「なにかの間違いだろう。あの男がわしにむかってむほん《・・・》をおこすはずがない」
信長は信じかねている風《ふ》情《ぜい》だった。
とりあえず安土城に帰るべく北国街道を南下しているとき、近畿、山陽道担当にある諸将から村重の動静を知らせてきた。それらのいずれもが、
「謀反」
という結論であった。
(わからぬ。いったい、謀反をおこしそうな事情が村重にあるのか)
信長は、あれこれと考えてみた。が、よくわからない。あれほどよくしてやったのに謀反というのはどういうことであろう。事情がなっとくできぬとあれば、このするどすぎる感情のもちぬしにしてはめずらしく腹も立って来ないのである。
「何に不足があるのか、聞いてやれ」
と、丹波の戦線にいる光秀、京都の宮廷関係を担当している宮内卿《くないきょう》法印松井友閑《ゆうかん》に指令し、いそぎ荒木村重の居城伊丹城に信長名代として下《げ》向《こう》するように命じた。
その命を受けとった光秀は、いそぎ戦線をはなれ、京にゆき、松井友閑と連れ立って伊丹(兵庫県)へむかった。
「いったいどういう事情でござろう」
と松井友閑はいったが、光秀にもわからない。謀反をおこさねばならぬ材料は、荒木村重にはないのである。
たしかにわかっていることは、荒木村重は天文四年のうまれで生後四十三年になる。摂津の池田のあたりに住む牢人《ろうにん》の子だったと光秀はきいている。
摂津は、西国《さいごく》街道に面した名邑《めいゆう》である。この池田城主は遠い昔から地名を名乗る池田氏で、村重はこの家に仕え、二十代で頭角をあらわし、三十代で家老になり、みずから兵をひきいて近隣を切り取り、摂津茨木《いばらき》、摂津尼《あま》崎《がさき》の両城をうばい、この城の城主になり、勢いは主家を圧倒した。
足利義昭が信長の庇護《ひご》をうけた前後、池田家は在来足利将軍家と因縁がふかかったため、池田家の当主勝正は義昭をたすけ、その傘《さん》下《か》に入った。自然、荒木村重も義昭の系列に入り、幕臣になった。この点、村重は「新参の幕臣」という点で光秀と似ている。
信長は、池田・荒木の主従をみて家臣の荒木村重のほうがはるかに器量があると見、池田勝正の没後、その領地を村重にひきつがせ、京都から後援してその領土拡張を援《たす》けつつ、ついに摂津一国の宰領をさせるにいたった。この間《かん》、村重は信長の命により、旧主の遺族池田備後守《びんごのかみ》重成を麾下《きか》に組み入れている。
さらにこの間、村重は織田の援軍を借りて摂津伊丹城を攻め、伊丹氏を追い、この城下をもって摂津の首府とし、ここに居住した。
(たいそうな軍略家だ)
と、光秀は、旧幕臣系の同僚として村重をたのもしく思うようになっていた。
摂津における村重の家臣団には、高槻《たかつき》城主でクリスチャン名「ドン・ジュスト」で知られた高山右《う》近重友《こんしげとも》、槍《やり》の瀬兵衛として知られた茨木城主中川清秀など世にきこえた人材が多い。
(もしむほん《・・・》が確実とすれば、これはたいそうなことになる)
光秀は、織田家の戦略の立場から、この事態を心配した。
織田家は、多方面で作戦している。たとえば光秀が担当する丹波も、秀吉が担当する中国(さしあたっては播州)も佐久間信盛が担当する大坂本願寺も、摂津国(現在の大阪市、北摂地方、阪神間、神戸市の範囲)とそれぞれ境を接しており、あらゆる作戦に支障をきたすことになる。
かつ、積極的におびやかされる。
信長はこれより前に村重に命じて摂津花隈《はなくま》に海浜城を築かせ、大坂本願寺と播州の反織田勢力である三木氏との連絡を遮断《しゃだん》させたが、この花隈城が逆に織田戦略の脅威になってはねかえってくるであろう。
それだけではない。
「謀反」
というのは要するに、中国の毛利氏に寝返ることなのである。広島に本拠をもつこの山陰山陽の巨大な勢力は、播州の三木氏を最前線として織田氏と接触し、戦っている。いま摂津の荒木村重が寝返れば摂津が毛利氏の最前線となり、大坂の本願寺と連繋《れんけい》して毛利氏の戦力はとほうもなく巨大になるわけであった。
(毛利氏にはいい策士がいるらしい。荒木村重を寝返らせたというのは、あざやかすぎるほどの腕前だ)
光秀と松井友閑は、摂津伊丹の小さな城下町に入った。町の東に丘陵があり、土地の人は有岡山とよんでいる。城郭はその丘陵上にある。
「ご病気をなされたか」
光秀が思わず口走ったほど、この対面の座に出てきた荒木村重はやつれきっていた。
村重は元来戦さ上手な男だが、かといって粗豪な人物ではなく、茶道では利休七高足《しちこうそく》の一人に数えられるほどに堪能《たんのう》な男である。
「いや、病気はせぬ」
強《し》いて笑顔を作ろうとするのだが、それが微笑になりきらない。
(よほど、懊悩《おうのう》している)
とすれば、やはり謀反の風説はうそではなかったかもしれない。ちなみにこの風説の第一報を北陸の信長のもとに送ったのは、細川藤孝であった。
(謀反を思い立ったにしても、まだ決心がつかぬ段階らしい。決心がつけば、こうもやつれては居まい)
光秀はそう見、できれば思いとどまらせたかった。なぜかといえば、光秀の長女が、この荒木家の嫡男《ちゃくなん》新五郎村次のもとに昨年嫁《とつ》いでおり、姻戚《いんせき》関係にある。この荒木が寝返れば光秀は娘を敵として攻めなければならない。
「いろいろ風説が出ている」
光秀は、いった。
「しかし安土様(信長)は左様な風説はお信じもなされず、ご機《き》嫌《げん》もやわらかである。ただいちど見舞うてやれとおおせあったゆえ、このようにまかりこした。人の口の端《は》にのぼる不審の条々は一刻も早くお晴らしなさるがよい」
低い声で、じゅんじゅんと説いた。
「人の口の端にのぼる不審の条々」というのは、一つには村重の家来で、利をむさぼる者があり、兵糧《ひょうろう》にこまっている敵方の本願寺に米を売った者があること、それと、本願寺攻めの一角を村重が担当していながら、最近勝手にその陣を撤収してしまったことなどである。
「人の口には、戸が立てられぬ」
村重は苦笑していったが、実のところすでに毛利・本願寺方への加担を七分どおり心に決めかけている。
が、光秀は説いた。
たとえ謀反の風説が出たとて貴殿を信任しきっておられる安土様はなんとも思われぬ。以前、あれほどお気に入りの筑州(秀吉)でさえ御勘気をこうむったことがあり、そのときも謀反の風説が飛んだが、例の筑州流であ《・》っけらかん《・・・・・》とすごしていたために風説もやみ、安土様も御勘気を解かれた。その伝を用いられよ。
そのように説くと、まだ心がはげしく振幅している村重は、
(なるほどそうか)
とも思いはじめた。実のところ毛利方から密使がしきりと来ているが、いまならばもとの道へもどれそうである。信長がそういう機嫌なら戻《もど》ろうか、と思った。
ついに、
「身に覚えがございませぬ。逆心のお疑い、心外に存じまする、と、そのように申しあげてくれ」
といった。
光秀は吻《ほっ》とした。そのまま伊丹では一泊もせず、娘にも会わず、いそぎ城下を去り、途中、安土の信長まで急使を走らせた。
翌日、信長はその報告をうけとり、
「祝着《しゅうちゃく》」
と、左右にも笑顔をむけた。その笑顔が、やがては噂《うわさ》になって村重の耳に入ることを計算している。信長は北国で第一報を受けたときから、すでに一個の演技者であった。
(荒木村重はいずれは退治をする。しかしいま裏切らせてはすべての戦略が崩壊する。この時期、なんとしてでもつなぎとめなければならぬ)
例の激怒癖を発揮すれば、それが荒木の耳に伝わって彼は戦慄《せんりつ》し、彼をして一も二もなく敵へ走らせる結果になるであろう。
(そうはさせられぬ)
と、信長にすれば、この上機嫌は躍起の演技であった。この男の生涯《しょうがい》で天正六年秋の一時期ほど微笑をうかべつづけたことはなかったかもしれない。
信長が、その名代として光秀を伊丹城にやったことも、十分に計算しぬいた人選であった。光秀の性格は思慮ぶかく温和で小心である。そのうえ村重が姻戚とある以上、娘可愛さで必死にその謀反をとめようとするであろう。
「とにかく祝着である。疑いが晴れた以上、さっそくに安土へ参れ。物語などせよ。そう伝えよ」
と、伊丹の村重あて急使を差し立てた。さらに村重の母を人質として差し出せとも言いそえた。
その使いが伊丹へくだり、村重に口上を伝えると、村重は即座に、
「おおせのとおり、つかまつる」
と返事し、早速嫡子新五郎を連れて伊丹を出発し、途中茨木まできたとき、村重の家来茨木城主中川清秀が、
「それはどうでありましょうかな」
と、従弟《いとこ》の間柄《あいだがら》という心安さから機微に立ち入って忠告した。
「信長公の御性格は、人の非曲をあくまでもおゆるしにならぬ」
いったん謀反の疑いを持たれた以上、どのように陳弁しても無駄《むだ》である。安土へゆけば殺されるだけであろう。たとえいま殺されなくても、功を樹《た》て、用が済んだあと、昔の非曲をあばかれてついには殺されてしまう。
「こうなった以上、思いきって毛利氏に頼られよ」
そう言った。おりから茨木城にあつまっていた他の重臣の池田久左衛門、藤井加賀守、高山右近らも、清秀の意見に賛同した。
「なるほど」
村重はついに心を決し、そのまま伊丹城に帰り、籠城《ろうじょう》の支度をした。
そのとき、村重は嫡男の嫁である光秀の娘を離別し、人をつけて近江坂本の明智家まで送りかえしている。村重にすれば自分にあれほどの好意をみせてくれた光秀を、この謀逆《ぼうぎゃく》の巻きぞえにしたくなかったのである。
村重の叛《はん》意《い》は、あきらかになった。
(なぜ、あの男は織田家を裏切るのか)
と、光秀はなおもわからない。ただわかっていることは村重が顔つきに似あわず小心なことであった。風説に神経を労し、耐えきれなくなったのかもしれない。神経といえば、光秀同様織田家の外様である村重は、かねがね信長の性格に必要以上に気をつかい、ほとんど疲労しきっていたようにも思える。この点、子飼いの秀吉や柴田勝家は、信長の気質もよく知っており、甘えられるところは十分に甘えているようであるが、村重や光秀にはそれができない。
それにくらべると、中国の毛利家は、律《りち》義《ぎ》と大《たい》度《ど》をもって知られ、新参や降伏者に対しても、誠実で寛大であった。村重の疲労しきった神経では、つい毛利氏の寛闊《ひろやか》な家風に安らぎを覚える気持をおこしたのかもしれない……としか、傍観者の光秀には解釈の仕様がない。
一方、安土の信長は村重寝返りの報をきいても、なおも寛大さ《・・・》をつづけた。
播州姫路城にいる秀吉に対して、
「村重を慰留せよ」
と、指示した。秀吉はさっそく謀臣黒田官兵衛を伊丹城につかわしたが、すでに決心をかためている村重は翻心せず、かえって官兵衛を抑留し、城内の牢に投じた。
信長が兵をひきいて立ちあがったのは、第一報をきいた日から二カ月目の天正六年十一月の初旬であった。
が、なお兵力でこの「反乱」を解決することを避けた。織田家そのものが多方面作戦しているおりから、版図内での無用の戦火は外敵を利するだけであろう。
村重の幕下を、懐柔しようとした。高槻城主高山右近が無二の天主教徒であるところから、宣教師オルガンチノを派遣して説かせた。茨木城主の中川清秀に対しては、その親友たちを派遣して説得させた。
このため高山、中川のふたりは翻心して信長のもとに走り、村重は捨てられた。
このあと伊丹城は織田軍の重囲に落ち、やがて荒木村重のみは単身城を脱した。尼崎にゆき、さらに諸方を転々し、やがて中国の毛利氏のもとに奔《はし》った。主に捨てられた将士も、自然、城から消える者が多い。
光秀は一時期、この伊丹城包囲に参加していたが、途中信長の許しを得て丹波の戦線へ去り、この事変の後《ご》日譚《じつたん》を知ったのは、山々に雪が降りつもりはじめた翌年の十二月のことであった。
信長は、
「荒木村重の族類をみなごろしにせよ」
という命令によって、それまでおさえにおさえていた村重への憎しみをやっと表現した。
虐殺《ぎゃくさつ》の場所にえらばれたのは、摂津尼崎であった。その七松《ななまつ》という海浜に百以上の磔柱《はりつけばしら》を押し立てて臨時の刑場とし、その刑場へ伊丹城に籠《こも》っていた百二十二人の女房《にょうぼう》どもをひきだし、いっせいに磔柱にかけて刺殺した。
さらに彼女らが使用していた女奉公人三百八十八人、男奉公人百二十四人、計五百十二人を海岸の四軒の家に押しこめ、乾草を積みあげて焼き殺した。
(稀《き》代《だい》の悪王)
と、丹波高原の雪のなかにいる光秀はおもった。もし荒木村重があの娘を離別してくれなかったならば、娘もまた尼崎七松の浜で惨《ざん》殺《さつ》されていたことであろう。それを思うと、余人とはちがい、光秀には伊丹城の女どもの叫喚と怨《うら》みがそのままのなまなましさでひびきわたってくるようである。
同時にその加害者である信長の狂気を思うと、
(やりきれぬ)
という気持が募ってくる。荒木村重をしてあの不可解な謀反を思い立たせた言いようのない疲労が、光秀の心を滅入《めい》らせてくるようであった。
その夜、光秀は陣中に弥平次光春をよび、
「静を、どうであろう」
といった。静とは、荒木家に嫁《か》していた娘の名である。いま近江坂本にいるあの娘がこの事件をどう感じているか、光秀のいまの神経ではそれを臆測《おくそく》することに堪えられなかった。せめて静を、その幼少のころから知っているこの弥平次に嫁がせ、弥平次のいたわりのなかであとの半生を送らせたいと思うのみである。それを、光秀はむしろこの従弟《いとこ》に懇願するように頼んだ。
「殿の御《ぎょ》意《い》のままに」
弥平次は、自分のこの突然のよろこびをそのままに感ずるより、光秀と静御料人《ごりょうにん》の胸中を思う気持が先立つのか、顔をあげられずにいる。
竹《ちく》生《ぶ》島《じま》
いつのほどか、安土城下に、
無辺
と称する山伏《やまぶし》が住みつき、寺を借り、あやしげな修《ず》法《ほう》をおこなって城下の男女を多数集めている。
無辺は超人であるらしい。目《ま》のあたりに奇跡も顕《げん》じてみせるし、盲人でさえ無辺にかかってたちどころに目があいた、という評判がある。その修法は「丑《うし》ノ時《とき》大事の秘法」と称して深夜にやるらしく、日没ごろから男女が門前に詰めかけて小屋掛けまでできるという騒ぎだった。
「そんなに不思議の男か」
信長は、うわさをきいて首をひねった。信長の思想には霊魂もなく神仏もなく、まして不思議、奇妙、霊験《れいげん》ということがない。
が、探求心のつよすぎるこの男は、その無辺という超人に興味をもった。
「その者を、城へよべ」
と命じた。
無辺は、石場寺という山伏寺に身を寄せている。院主の名は、栄《えい》螺《ら》坊《ぼう》といった。使者を受けた栄螺坊は無辺をつれて安土山にのぼった。
むろん両人には身分がないため座敷はあたえられず、厩《うまや》の前の広場で待たされた。
やがて信長が出てきた。無辺を見てそろそろと近づき、やがて、
「無辺か」
問い、首をひねった。「つくづく御《ご》覧《ろう》じ、御思案の様体なり」と記録者は書いている。
(普通《ただ》の人間ではないか)
信長にはそう思えた。神仏ならばすこしでも異なったところがあるだろうと思い、無辺の顔の道具、皮膚の色、肩まで垂れた髪などをじろじろ見たり、背後にまわって背中をながめたりしたが、べつだん変わったところはない。
「生国《しょうごく》はどこだ」
信長はいった。無辺はここが自分の存在の売りどころと思い、
「生国など、ござりませぬ」
尊大に答えた。なみな人間ではないということを思わせたいがためであった。
「不審《いぶか》しきことを申すものかな。人間の生国はこの日本国の者でなければ唐人、さもなければ天竺《てんじく》人、この三国のどの生れでもないとすると、御坊はばけものであるか」
信長は怒っているわけではなく、小首をひねり好奇心をもって質《たず》ねている。無辺は乗じやすいとおもったのであろう、
――左様。
といわんばかりに微笑した。信長はついに実験してみようと思い、
「それならば炙《あぶ》ってみよう」
とつぶやき、左右の者に火刑の支度を命じた。ばけものなら当然、焼死することはないであろうと思ったのである。
無辺は、信長の研究が不足であった。火あぶりにされるのはかなわないと思い、あわてて、
「生国はござりまする。出羽《でわ》の羽黒と申すところでござりまする」
と言い直した。
「なんだ、汝《うぬ》はただのまやかし者か」
信長はここではじめて怒りだした。この点でも無辺は信長を知らなすぎた。信長のなによりも嫌《きら》いなのは、まやかし《・・・・》である。しかもそのまやかしをひっぱがすことに強烈な正義感をもっていた。叡山《えいざん》を「偽の仏法である」として伽《が》藍《らん》を焼きはらい、その僧俗三千人を斬《き》り殺したのも、この精神の発作であった。
しかも、信長の心はいささかも傷つかず、後悔もしていない。なぜならばすべては正義の行動であり、その正義は信長のもっともすきな言葉である、
――天下万民のため。
という政治的理想に根ざしている。すくなくとも信長はそう信じていた。
無辺に対する行動は、そのささやかなあらわれであった。
「こいつが神仏でも化物でもない証拠を、万民に見せてやれ」
と、信長は命じた。その見せしめの企画を信長は即座に考えた。髪をイガグリにし、頭のところどころを剃《そ》り散らして瘡《かさ》(梅毒)のように仕立てることであった。
それが仕あがると、
「へっ」
と、信長は悪童のように笑った。
無辺はその頭のままはだかにされ、足軽に縄尻《なわじり》をとられて城下を引きまわされた。そのあと命だけは助けられて放逐された。
ところが、あとでわかったことに無辺の悪事はそれだけではなかった。例の「丑《うし》ノ時《とき》大事の秘法」で、相手が女の場合、
――臍《へそ》くらべ。
というふざけた行《ぎょう》をしていたことが信長の耳に入った。信長にはそういうふざけかたが堪えられない。
「草の根を分けても無辺をさがし、この安土へ曳《ひ》いて来い」
と、諸国攻略中の司令官に対し、いっせいに命令をくだした。光秀も当然、その命令を受けとった。
(たかが、売僧《まいす》いっぴきの事に)
この異常さはどうであろう。光秀には、信長のそういう悪への憎《ぞう》悪《お》や、追及の執拗《しつよう》さに、神経の病む思いがした。まだ無辺程度の乞《こ》食《じき》坊主ならよいが、この同じ精神が織田家の武将にも発動されるおそれが十分ある。
げんに去年、つまり天正八年七月、信長はそのおそるべき発動を、譜代の家老である林通勝《みちかつ》にくだしている。通勝は信長が少年のころ、家中《かちゅう》の重臣《おとな》どもと諜《しめ》しあわせて弟の織田信行《のぶゆき》を立てようとした老臣だが、その後信長はゆるし、部将として休みもなく追い使い、朝廷に奏請して佐渡守にも任官させてやった。覚えめでたいはずであるのに、信長は去年、にわかにその世間も忘れたはずの通勝の古傷をあばき立て、
「二十四年前の旧悪だが、おれはいままで堪《かん》忍《にん》していた。もはや我慢しかねるゆえ、今日かぎり当家を出てゆけ」
と、身一つで追放してしまった。これには織田家の諸将は一様に鳴りをひそめ、
(いつ、われらも)
と、首のすくむ思いがした。
思えば、去年の天正八年は織田家にとってひさしぶりに雪の融《と》けたような年であった。ながい歳月、信長の恐怖であった上杉謙信はその前々年に死に、その前年には光秀の丹波攻略が完了し、この天正八年の四月には信長のもっともうるさい敵であった大坂の本願寺が降伏し、近畿は隈《くま》なく平定した。
――もはや林通勝も要らぬ。
というところであったろう。
(信長にすれば、諸将は道具にすぎない。不用になれば捨ててしまう)
光秀は、この林通勝事件のときに思った。
「道具にすぎぬ」
という光秀の観察はあたっているというべきであろう。なぜなら、あの跡目相続のとき(思いだすのも古すぎる話だが)、林通勝とともに織田信行擁立運動をしたという点では、いま北陸攻略の司令官をつとめている柴田勝家もそうであった。勝家が同罪であるにもかかわらず勝家のみがゆるされているのは、ただ一つの理由しか考えられない。勝家が有能な道具であり、通勝が無能な道具であっただけのことである。勝家はこのあといよいよ使われつづけるであろう。しかしやがては使い道がなくなるときがくる。
(そのときは、勝家も捨てられる)
そう光秀は思わざるをえない。いや、そのことは柴田勝家自身がもっともよく知っているであろう。
この信長の天下征服戦がやや一段落した天正八年には、いま一つ椿《ちん》事《じ》がおこっている。
林通勝、柴田勝家とならんで織田家の譜代の老臣であった佐久間信盛もにわかに禄《ろく》を剥《は》がれ、陣中から高《こう》野《や》山《さん》へ追放されたことである。
――どういうことか。
と、佐久間信盛もぼう然としたらしい。
この老将も、信長から酷使されてきた。元《げん》亀《き》三年には織田軍をひきいて三《み》方《かた》ケ原《はら》で武田信玄と戦い、天正三年には長篠《ながしの》の戦さに参加して武田勝頼と戦い、その前後は大坂本願寺攻囲戦の主務者として城外の付城《つけじろ》に籠《こも》って攻城戦を指揮しつづけてきた。
その本願寺攻めも、ぶじ落着した。むろんその功は、信盛などよりもときどき攻城戦を手伝わされた秀吉や光秀のほうがはるかに大きかったかもしれないが、とにかく信盛は攻城の主務者である。当然、落城とともにその前後五カ年の戦塵《せんじん》の苦労をねぎらわれてもいいであろう。
が、信長は労《ねぎら》わず、かわりにみずから筆をとって長文の「折檻書《せっかんしょ》」を書き、それを信盛父子(子は正勝)にたたきつけた。
この折檻書の写しは、光秀も読み、信長が人間のどの部分を愛し、どの部分を憎むかを、ありありと知った。
信長の文章はのっけから、
「お前たち父子は、五カ年も付城に在城していながら、善悪の働き、これ無し」
とある。「善悪の働き」というのは成功もせず失敗もせず、要するになにもしなかったということであろう。事実、信盛には多少怠惰な性格があり、そのうえくだらぬ不満をぼやく癖があった。信長の好《こう》悪《お》からいえば、働き嫌いの愚痴屋ほどきらいなものはない。
信長は文中、
「光秀、秀吉をみよ」
と、信長のもっとも好む働き者の典型としてまずこの二人をあげている。
「光秀の丹波における働きは、天下に面目を施したものである。次に」
と、秀吉は二番目に書かれている。「藤吉郎は数カ国を相手にまわしての働き、比類がない」とつづく。
さらに池田恒興《つねおき》(勝入《しょうにゅう》)の花隈城《はなくまじょう》での功績をたたえ、柴田勝家の北陸攻略のめざましい活躍ぶりに触れている。
「しかるにお前はなにもせぬ。合戦が下手なら調略(謀略)という手もある。調略にはむろん工夫が必要だ。その工夫が思いつかねばおれのもとに来れば教えてやるのに、過去五カ年のあいだ、一度もそれを相談しにきたこともない」
この点、秀吉は早くから信長のこの気質を見ぬき、前線から大小となく相談を持ちかけてきている。佐久間信盛は織田家代々の老臣だけに信長をつい軽んじ、それをしなかったのであろう。
信長はさらに佐久間信盛の性格を攻撃した。けちんぼう《・・・・・》で金を愛する、というのである。
「悋《しわ》き貯《たくわ》えばかりを本《もと》とする」
と、信長は書いた。
なるほど信盛はその癖があった。信長が領地をふやしてやっても、侍を召し抱えない。抱えると、その分だけ信盛の減収になるからである。
信長は、いう。
「お前は吝嗇《りんしょく》なために古い家来に加増もしてやらぬ。そのため人もあつまって来ない。人数もそろい、有能な家来を多く持っておれば、少々お前が無能でもこれほどの落度もあるまいのに、貯えこむばかりが能なために天下の面目を失うた。こういうぶざまで、不名誉は、唐土、高麗《こうらい》、南蛮にも例がないであろう」
さらに信長は、信盛の息子の甚九郎正勝に対しても言及しているが、もはや筆もくたびれたのか「その愚行をいちいち書き並べてもよいが、もう筆にも墨にも及びがたい」書くのもめんどうである――というのであろう。
「大まわしに積り候《そうら》えば(大ざっぱにのベると)第一、慾深く気むさく、よき人をも抱えず」
と、息子に対しても親の信盛への言葉と似た批判をくだしている。
この判決が、
「父子とも、頭を剃って高野山へゆけ」
というのであった。この処置で信盛父子は高野山に追いあげられたが、信長の憎しみはさらに深くなり、
「高野山にも住んではならぬ。どこへとも足にまかせて逐電《ちくでん》せよ」
と、命令を変えた。信盛父子は草履一足をはいて熊《くま》野《の》の奥に逃げこんでいる。
この信盛に対する処置も、乞食坊主の無辺に対する処置もおなじであった。
諸国在陣の諸将にさがさせ、ついに無辺を捕り搦《から》めて安土に送って来させた。
この愚にもつかぬ臍くらべの売僧《まいす》を信長みずからが取り調べ、面《めん》罵《ば》し、
「斬れ」
と命じ、首を刎《は》ねさせている。「天下万民の道徳をただす」というところに信長の気持があるにしても、そのしつこさは世の常とはいえない。
さらに。
と、光秀は思う。この天正九年三月におこった事件についてである。
信長は三月十日、急に思い立って小姓五、六騎を連れ、それだけの人数で安土城の城門を飛び出し、三十キロ北方の長浜にむかって騎走した。
この騎走こそ信長の少年のころからの娯楽であったが、満四十七になってもこの楽しみだけは衰えない。
長浜は秀吉の居城である。信長は城下に入るや、
「竹《ちく》生《ぶ》島《じま》に詣《まい》るゆえ、船を支度せよ」
と、城に命じた。城主秀吉は中国の陣に出征して不在であったが、その妻の寧々《ねね》が宰領して船を出した。
竹生島までは、湖上十二キロである。羽柴では信長の快速好きを心得ているため、とくに櫓《ろ》数《かず》の多い船を出し、選《え》りぬきの漕《こ》ぎ手に漕がせた。
信長は竹生島につくや、島内でほんのわずか休息し、再び船で長浜に戻《もど》った。
――長浜ではお城にお泊りであろう。
と思ったのは、安土城の信長付の女中たちである。彼女らはこの日を幸い、御殿を出て二ノ丸で遊んだり、城下の桑実《そうじつ》寺《じ》や薬師寺などに物詣《ものもう》でに出たりした。
当然であろう。安土から湖上の竹生島まで水陸あわせて往復八十余キロある。まさか信長が日帰りで帰城するとは思わなかった。
が、信長は長浜に上陸するや、ふたたび鞭《むち》をあげて南下し、陽《ひ》のあるうちに城門に駈《か》けこんだ。
が、女中たちは居ない。
「その懈《げ》怠《たい》、ゆるせぬ」
と、信長は幕下に命じ、無断で外出した女中のすべてを捕縛させようとした。この種のまやかし《・・・・》、暇盗みほど信長の好まざるところはない。
捕縛したことごとくを斬罪《ざんざい》に処したが、なお桑実寺に出かけた者たちは帰らず、寺の長老が彼女らのために詫《わ》びにやってきた。
「かような罪を詫びるなら、御坊も同罪である」
といって長老の首を刎ね、寺に籠《こも》る女中どもをひきださせ、同じく首を刎ねた。
この変事を光秀がきいたのは、彼が細川藤孝に招かれて丹後(京都府北部)に遊びに出かけている旅先においてであった。
藤孝はこのころには信長から丹後を貰《もら》い、宮津城を居城としていた。
「丹後は名勝が多い。一度ゆるりとあそびに来られよ」
と藤孝はかねがね光秀を誘っていたが、この三月の京の馬揃《うまぞろ》え(観兵式)もぶじに済んだので、光秀は連歌師の里村紹巴《しょうは》をさそい、日本海岸に旅行したのである。
多年、諸国を駈けまわり戦場から戦場へ転々としてきた織田家の武将とすれば、このつかのまの遊《ゆ》山《さん》こそかつてない閑日月であった。
藤孝は光秀を宮津湾のなかの景勝天《あま》ノ橋立《はしだて》にさそい、そこで連歌の宴を催した。
宴なかばでその風聞をきいたのである。
そのあと、光秀は急に歌を詠《よ》みやめ、暗い表情で思案した。
「どうなされました」
宗匠の紹巴がいった。
「いや」
光秀は言葉を濁した。光秀がふとおそれたのは、このように居城を離れ、他人の領地で連歌などを作っている所行を信長に知られればどうなるであろうということであった。女中が信長の不在中、御殿をわずかに離れたというだけでも殺されるとすれば、光秀の罪はさらに大きい。
(信長は、どう言いがかりをつけてくるかわからぬ)
光秀の神経は、すでに病んでいる。
「急に用を思いだしたので」
と、ひどくおびえた表情で藤孝や紹巴に言いわけし、その夜のうちに発《た》って丹後・丹波百キロの山中を踏破しつつ、三日目に亀山《かめやま》に帰城した。
甲斐《かい》
その翌年の天正十年、光秀はすでに数えて五十五になる。織田家に仕えて十数年、兵《へい》馬《ば》倥偬《こうそう》の間《かん》にあけくれて自分の齢《よわい》を思うひまさえなかったが、ちかごろ心気の衰えを感ずるにつけて、
(もう、そのような齢か)
と、わが身のことながらおどろかざるをえない。もともと、健康なほうでもなかった。天正四年五月には大坂石山本願寺攻めの陣中で病み、一時は重態におちいり、京へ後送されたこともある。このとき日本一の名医といわれる曲名瀬《まなせ》道三《どうさん》の治療を受け、あやうく一命をとりとめた。この年の暮、妻のお槙《まき》も病み、光秀の予後も思わしくなかったが、翌年春には病みあがりの身で、紀州攻めに参加している。その後、五、六年たつが、この大病のあとの養生のわるさと、なが年の野戦生活がたたったのか、このごろの衰えは尋常ともおもえない。
心気が衰えたためか、熟睡できたと思えることが一夜もなく、夜中、絶えず夢を見、声を発し、うつつ《・・・》とも知れない。
(そのせいか。――)
と思われる奇妙なことがあった。はじめは、夢のなかの出来事かと思った。
前《さきの》将軍義昭が、光秀の丹波亀山城に忍んできたのである。
その来訪を光秀の寝所まで取り次いだのは、弥平次光春であった。
「客殿へお迎え申せ」
光秀は床の上に起きあがり、そう命じた。そのまま再び倒れ、浅いねむりを続けた。朝、目が醒《さ》めてから激しく頭痛がし、昨夜の夢見をおもいだした。
(将軍《くぼう》様の夢をみた)
床の上で、ぼう然とした。天正元年、義昭が信長に追われ、将軍の地位からおちて以来ひと昔になる。義昭は、その後広島に奔《はし》り、毛利家に身をよせているが、なおも天下の夢がわすれられず、諸方に密使を出して反織田同盟結成に躍起となった。
が、そのせっかくの構想もつぎつぎとくずれた。武田信玄、上杉謙信が相ついで死に、本願寺は膝《ひざ》を屈して信長と和《わ》睦《ぼく》し、紀州雑《さい》賀《が》の地侍集団も力弱まり、いまや頼むは中国十州の王者というべき毛利家だけであった。
その毛利家には、覇気《はき》がない。創業者元就《もとなり》の遺言によって覇気を禁物としている家風でもある。
いま毛利家はその自衛上、信長の中国担当司令官である羽柴秀吉と播州《ばんしゅう》(兵庫県)で戦っているが、もともと天下を争う気がないため戦いぶりに伸びがなく、信長・秀吉の打つ手からみれば、後手《ごて》々々にまわっているかっこうであった。
義昭は、その毛利家の督戦者になっている。居候《いそうろう》ながらも城内に御殿をあたえられ、当主の輝元をよびつけ、ずけずけと命令をくだしていた。毛利家にしても名目もなしに防戦をつづけているよりも、「将軍の御教書を拝し、逆賊信長を討つ」というほうが幾分なりとも有利であり、戦士たちの精神的支柱にもなりえている。義昭はこの機微を察し、二十九歳の毛利家の当主輝元を、
「副将軍」
と称せしめていた。毛利家の将士にすれば、それは多少とも誇らかなことであったろう。
(お気の毒なお人だ)
と、光秀も、義昭のそういう近況をきくにつけ、そう思っていた。事に破れた以上、世を捨てて、もとの僧になればいいのに、義昭の執拗《しつよう》さは、もはや体質的なものであるらしい。
(あの方にとっては、休みなく陰謀をつづけるということが、生き甲斐なのかもしれない)
その点で、おもしろい人物だと思う。しかし光秀当人にすれば面白《おもしろ》がれる相手ではない。以前の主人であり、いまの主人信長の最も厄《やっ》介《かい》な敵なのである。信長にすれば足利義昭が山陽道の一角で陰謀活動をつづけているかぎり、主を放逐した罪の痛みは当然あってしかるべきであろう。
義昭をすてて信長に与《くみ》せざるをえなかった光秀の心の痛みも歳月とともに薄らぎはしたが、それでもできるだけ義昭のことを思い出さぬようにしていた。
が、夢には見る。
夢には容赦なく義昭は現われてきた。それも、齢をかさねるにつれて頻《しき》りと見るようになったのは、どういうことであろう。
「弥平次、将軍様がお出ましになった夢をみた」
と、光秀は居室でいった。
弥平次は、首をひねっている。実はそのことについて督促にやってきたのである。
「殿、お夢ではございませぬ。昨夜、将軍様のお使いが忍んで見えられ、その旨《むね》を殿に申しあげますると、客殿にお迎え申せ、とたしかにおおせられましてござりまする」
「わしが?」
光秀は信じられぬ様子であった。が、だんだん弥平次からそのときの様子をきくと、どうやら現実《うつつ》で、光秀は起きあがって指示したらしい。
「うつつ《・・・》か。わしは疲れているらしい」
「御休養こそ」
かんじんである、と弥平次は痛ましそうにいったが、光秀に休養のゆとりがありえようとは思えなかった。なぜならば、すでに信長から武田勝頼討滅のために甲州へ出兵する陣触れを受けており、あすにもこの丹波亀山を出発せねばならなかった。織田家の司令官であるかぎり、これからも酷使されつづけるだろう。
(この酷使の果てには、林通勝や佐久間信盛の場合のように放逐か、荒木村重の場合のような一族焚殺《ふんさつ》の運命が待っている)
体のせいか、思案もつい暗くなるのか、光秀もつい思わざるをえない。光秀だけでなく織田家の将はみなそうであろう。
「お使いとは、どなただ」
「弁観と申される僧でございます。安芸《あき》広島で将軍様に近侍している者であると申されます」
「安芸の人だな」
光秀には、記憶のない名前である。
「どうなされます」
「とは?」
光秀の顔が、青ざめはじめている。
「お会いなされますか」
弥平次は念を押したが、光秀の顔はもう先刻と一変していた。うなじを垂れ、だまりこくったまま沈思している。
(会えば、大変なことになる)
腹の底の凍るような恐怖とともに、いまあらためて事の重大さに気づいた。用件の想像はつく。謀《む》反《ほん》のすすめにちがいない。なにしろ義昭という人はたれかれなしに密使を送る癖のある人で、以前は徳川家康にさえ、
――予に忠ならんと思えば、信長を討て。
と御教書を送った人である。
まして光秀は義昭擁立の功臣であり、かつての幕臣であった。かつ、現在も光秀を頂点とする指揮組織には、信長の命によって旧幕臣系の諸将は、ことごとく組下に入れられている。いわば光秀は、織田家における旧幕閥の総帥《そうすい》のような存在であった。当然、義昭は光秀に密使を送ってきてもふしぎではない。
それにおなじ旧幕臣系でも、義昭は細川藤孝を憎んでいるが、光秀にはさほど悪意をもっている様子ではない。
(光秀は、頼みになる)
と、義昭がいかにも期待しそうであった。さらに光秀が温厚な徳人で、叡山《えいざん》焼き打ちなど、信長のふるい諸権威に対する容赦ない破壊行動に批判的である、という定評は、公卿《くげ》や門跡《もんぜき》のあいだで一般化しつつあった。
(こまる)
そのようになおも義昭から期待されては光秀は自滅せざるをえない。近い例に荒木村重がある。
「会わぬ」
光秀はいった。
「引きとって貰《もら》え。その僧がもし御教書のようなものを置こうとしたら、中身は見ず、その僧の目の前で灰にせよ」
弥平次は、その処置をした。
幸い、僧が義昭の密使であることを知る者は弥平次のほか一人もいない。
(おそらく洩《も》れることはあるまい。しかし洩れれば村重の二の舞になる)
お槙も、娘たちも猛火のなかで炙《あぶ》り殺されるだろう。光秀の子は、浅井長政の子息がそうであったように大《おお》火《ひ》箸《ばし》をもって串《くし》刺《ざ》しにされるはずであった。
光秀は、甲州征伐に参陣した。
甲州の勢力圏は武田信玄の死後十年、その子勝頼によって継承されてきたが、長篠《ながしの》の合戦で信長に破れて以来家勢はしだいに衰え、老臣、被官の心は離れている。
信長は、長篠ノ役《えき》であれほどの大勝をおさめたにもかかわらず、追撃を避け、兵をいっせいに西へひきあげてしまったのは、なお武田軍の強靱《きょうじん》さを恐れたがためであった。その後七年、手をつけていない。
信長は、無理押しを避けた。すでに勝頼が人心を失っていると信長は見ぬき、腐熟した柿《かき》の自然に落ちるのを待つように、武田軍の内部崩壊の進行を気長に待ちつづけた。この点、信長の緩急のみごとさは、光秀などの遠く及ぶところではなく、光秀自身信長の器量機略のおそるべき一面をあらためて知らされる思いがしている。
信州諏訪《すわ》に、法《ほっ》華寺《けじ》という寺がある。織田軍が信州における武田方の属城を撃砕しつつ諏訪郡に入ったとき、信長はここを本営とした。
それまで諏訪郡は武田家の属領だったが、土地の地侍どもは勝頼を裏切って織田方につき、信長の本営に会釈《えしゃく》を賜わるべくぞくぞくと駈けあつまってきた。
「あれを御《ご》覧《ろう》ぜよ」
と、光秀はこの壮観を見、思わず傍《かたわ》らの同僚にいった。織田家の武威をこの光景ほど如実にあらわすものはないであろう。
(信長も、運がひらけたものよ)
と思わざるをえない。ここ十年、信長は何度も窮地に落ち、もはや武運も尽きたとおもわれる時期が年に数度もあったが、そのつど信長は神気をふるいおこし、智謀のかぎりをつくして脱出してきた。ここ一、二年来ようやく信長に曙光《しょこう》がひろがりはじめ、かつて武田家についていた信濃勢も、勝頼を見かぎって信長のもとに馳《は》せあつまろうとしている。
(一幅の絵ではないか)
ここまで漕《こ》ぎつけたのは、九割九分まで信長の非凡な力というほかない。光秀はそうは思うが、しかし同時にそうは思えない。こんにちの信長の開運は自分のような脇役《わきやく》の努力の結実とも思えるのである。
その自意識があるうえに、光秀自身ちかごろ心気の衰えのせいか多分に回顧的になっている。
つい、
「われらも多年、山野に起き伏し、智恵をしぼり、勇を振るった骨折りの甲斐、いまこそあったというものよ」
といった。
わるいことにこの光秀の述懐を信長がきいていた。やにわに立ちあがった。
「十兵衛ッ」
もう光秀のそばに来ている。信長のもっとも悪質な発作がはじまった。信長にすればもともと光秀のそういう賢《さかし》ら面《づら》がきらいであったし、それに虫の居どころも悪かった。信長は、佐久間、林、荒木といった多年の功臣をここ一、二年のあいだにつぎつぎと放逐したことについて内心豁然《かつぜん》とはしていない。それを光秀が皮肉っているのであろうとも受けとれた。
「もう一度言え。――おのれが」
と、光秀の首筋をつかんだ。
「おのれがいつ、どこにて骨を折り、武辺を働いたか。いえるなら、言え。骨を折ったのは誰《たれ》あろう、このおれのことぞ」
信長は光秀を押し倒し、高欄《こうらん》の欄干にぐわっとその頭を打ちつけ、さらに離しては打ちつづけた。
(殺されるか)
と思った。目がくらみ衣《え》紋《もん》がくずれたが、しかし耐えた。耐えられぬのは、衆人のなかでこれほどの目に遭わされる屈辱である。
(こ、こいつを、殺してやる)
この屈辱からかろうじて自分を支えてくれる思いはその一事しかない。光秀は耐えた。それを思いつつ懸命に耐え、やがて打撃から解放されたときはむしろ自分でも気づくほどに凄《すご》味《み》のある、静まりかえった表情に戻《もど》っている。
光秀は、さらに甲信の各地に転戦した。
ついに織田軍はこの年の三月十一日武田勝頼を追いつめて自害させ、永禄《えいろく》年間いらいあれほど信長を苦しめつづけてきた武田家は滅亡した。
信長は逃げ散った者のなかに、足利義昭の密使がまじっていることを知っている。その者こそ、義昭の反織田同盟の奔走者であり、信長を幾度か危地におとし入れてきた魔物ともいうべき存在であった。
通称を、佐々木次郎という。信長にほろぼされた南近江の旧守護職六角(本姓・佐々木)承禎《じょうてい》の子で、国ほろんでのちは義昭の帷《い》幕《ばく》に参じ、諸方に使いしてその敏腕を知られていた。その者のほかに光秀も知っている義昭側近の大和《やまと》淡路守《あわじのかみ》、僧上福院などがいる。
やがてそれらが、武田家の菩《ぼ》提《だい》寺《じ》である甲斐国山梨郡松里村の恵《え》林《りん》寺《じ》に逃げこんでいることがわかった。
恵林寺は夢《む》窓国《そうこく》師《し》を開山とし、寺領三百貫、雲水二百人が常住する臨済禅の大刹《たいさつ》である。
快川紹喜《かいせんしょうき》
という、国師号をもつ高名の禅僧がこの寺の長老になっている。故信玄が礼をつくして美濃の崇福寺から招聘《しょうへい》した僧で豪俊な禅風をもって知られ、信玄との間柄《あいだがら》はほとんど心友というにちかい。
この快川が、峻拒《しゅんきょ》した。
「渡せぬ」
というのである。織田家では三度まで使者を出したが快川の返答はかわらず、その間、右の三人を遁《にが》してしまった。
信長は怒り、
「寺も僧も、共に焼け」
と命じた。その執行者が選ばれた。織田九郎次郎、長谷川与次、関十郎右衛門、赤座七郎右衛門の四人である。彼等は足軽数百人を指揮し、一山僧侶《いっさんそうりょ》百五十余人を楼門の階上に追いあげ、階下に籠草《かごぐさ》をつみあげ、火を放ち、猛火《みょうか》を噴《ふ》きあげさせて生身《しょうじん》のまま炙《あぶ》った。
快川は、その首座にいる。曲ィ《きょくろく》にもたれかけ、足もとから火にあぶられながら、
安禅《あんぜん》かならずしも山水を須《もち》いず
心頭を滅却すれば火も亦《また》涼し
という、のちにこの事件を有名にした最《さい》期《ご》の偈《げ》をとなえたのは、このときである。
やがて楼門は焼け落ち、百五十余人の肉を焼く異臭があたりにただよい、この村から半里さきの光秀の陣中にまで漂った。
(なぜそこまでする必要があるのか)
光秀には余人以上の痛恨がある。快川紹喜は武家の出で、しかも美濃土岐氏であり、光秀とは同族にあたる。同族の肉が焼かれている臭気を、光秀はこれ以上嗅《か》がされつづけていることに堪えられない。光秀は幕を垂れて香《こう》を焚《た》き、かつ経を誦《ず》そうとしたが、そのことが信長に洩れることをおそれて思いとどまった。そういう自分の小心さにふと、
(それで、信長が殺せるか)
と自嘲《じちょう》し、殺す、という言葉を口中で数度つぶやいてみたが、しかしいずれの呟《つぶや》きもそらぞらしく、自分がそれほど飛躍を為《な》しうる人間だとはとうてい思えない。
翌月――。
光秀は信長とともに甲州を去り、安土を経て近江坂本城に帰り、信長から命ぜられたあたらしい任務を遂行するためにふたたび安土城下の明智屋敷に入った。あいかわらず忠実で勤勉な織田家きっての能吏、という以外、光秀は自分を見《み》出《いだ》すことができない。
備中へ
信長が甲州から安土に帰ると、天はすでに夏になっている。
暑い。
例年にない酷暑であった。が、この暑気のなかを、人は相変らずいそがしい。天下はようやくあたらしい時代に動きはじめたようであった。
信長の天下統一の事業は、甲州平定後、にわかに新段階に入った。信長は一国を攻めとるごとに、かれの法律、経済の施策を布《し》いた。たとえば商業活動には座を撤廃し、庶民のなげきであった通行税を廃止していった。信長の征服事業が進むにつれて、ふるい室町体制は土塊《つちくれ》のように崩れてゆき、信長風の合理性に富んだ社会ができあがってゆくようであった。その革命の版《はん》図《と》は、すでに東海、近畿、北陸、甲信地方におよんだ。
つぎは、四国、関東、そしてここ数年交戦中の中国地方であった。信長は安土を大本営とし、すでに四方に軍勢を派遣している。
中国 羽柴秀吉
四国 織田信孝(副将・丹羽長秀)
関東 滝川一益
であった。すでに関東担当の滝川一益は上《こう》野《ずけ》に入っており、西のほう、四国遠征軍の織田信孝・丹羽長秀は、渡海作戦のために、軍勢を大坂に集結しつつあった。
光秀は、ひさしぶりに戦務から離れている。なぜならば近畿平定の担当官だった光秀は、近畿が落着したため、さしあたって兵馬を動かす場所がなかった。しかし信長はその光秀に休息をあたえなかった。
「三河殿(家康)の接待を奉行せよ」
と命じたのである。
東海の家康も武田氏の脅威が去り、ひさしぶりに戦争から解放されていた。信長はこの家康に駿河《するが》一国をあたえた。家康は自分で切り取った三河、遠江《とおとうみ》の両国に、いま一国が加わったのである。ながい歳月、織田家のために東方の防壁となり、武田氏の西進をささえ、幾度か滅亡の危機に見舞われつつも信長との盟約を裏切ることがなかった家康に対し、信長があたえた報礼はわずか一国であった。
(上様の出し吝《おし》みなさることよ)
人々は、心中おもった。信長の功業をたすけてきたふるい同盟者に対し、あまりにも謝礼が薄すぎるではないかというのだが、一面、信長にも内々理屈があるであろう。家康に大きな領国をあたえると、織田家をしのぐようになるかもしれない。信長の死後、織田家の子らは家康によって亡《ほろ》ぼされるかもしれず、その危険をふせぐために信長は家康を東海三国の領主にとどめておこうという肚《はら》であるようだった。
(信長公の御心情は複雑である)
と、このころになって見ぬいたのは、中国担当官の羽柴秀吉であった。信長にすれば天下平定のために、諸将に恩賞の希望をあたえつつ働かさねばならぬ。現実、天下を平定したとき、徳川家康、柴田勝家、丹波長秀、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益の六人の高官には、それぞれ数カ国を連ねる大領土をあたえねばなるまい。現に信長は日本国を分けあたえるような気前のいい話を洩《も》らすときさえある。が、それが現実化すれば、織田家の天下は成立しない。大大名が多すぎて将軍の手綱がきかなかった室町体制がいい例であった。自然、創業の功臣を罪におとし入れて、つぎつぎに殺してゆかねばならない。古代シナの漢帝国の成立のときも功臣潰《つぶ》しがおこなわれたし、彼《か》の地には「狩り場の兎《うさぎ》をとりつくしてしまうと猟犬が不必要になり、主人に食われてしまう。国の功業の臣の運命もこれとおなじだ」という意味の諺《ことわざ》さえあり、この間の真実をついている。すでに林通勝、佐久間信盛は整理されたが、とりようによってはこの事実こそ織田帝国の樹立後の功臣たちの運命を示唆《しさ》するものであろう。
(おれも、働きに働いたあげく、ついには殺されるだろう)
という慢性的な不安を、ちかごろ光秀も感ずることが多い。羽柴秀吉などは機敏にこれを感じとっている。このために子のないのを幸い、信長に乞《こ》うてその第四子の於《お》次丸《つぎまる》を養子にもらい、元服させて秀勝と名乗らせ、それを世《せい》嗣《し》としていた。信長にすれば、秀吉にいかほどの領地をあたえても結局は織田家の子が相続する。この点、秀吉はするどく信長の心情を見ぬいていた。
さらに秀吉は、いま進行中の中国征伐の戦場から安土城に連絡のため帰ったとき、
「自分には将来、朝鮮を下されとうござりまする」
と半分真顔でいって、恩賞としての領国をいっさい望まないことを言明した。もっともこの場合の秀吉の言い方は巧妙で、
やがて中国も片付きます。この征伐が完了すれば中国諸州は上様のお側衆の野々村、福富、矢部、森などに賜わりとうございます。自分はいっさい所望いたしませぬ。そのあと、九州の征伐をお申しつけ下さいませ。これを平らげれば一年間だけ九州を支配させていただきとうございます。その一年間で兵糧をたくわえ、軍船をつくり、九州は上様に返納し奉って朝鮮へ押し渡ります。その朝鮮を頂戴《ちょうだい》できればありがたき幸せに存じます。
ということであった。信長は大いに笑い、
「筑前は大《たい》気《き》者《もの》ぞ」
といった。
さて、家康の駿河一国拝領の件である。家康はこの薄賞を不満としない。信長の心情について肚深く考え、大いによろこぶふうを見せ、さっそく家臣を安土へのぼらせて、
「いそぎ浜松を発し、御礼に参上つかまつりまする」
と言上させた。この程度の恩賞でこれほど大げさによろこぶふうをみせたのは、家康の心術というべきであろう。このように躁《はしゃ》げば、
――存外、家康とは気の小さい、可愛《かわい》いやつである。
と信長は思うにちがいない。家康は信長にそう思われねば、今後、身の危険はかぎりない。いまたとえば嬉《うれ》しがりもせずにのっそり構えていれば、
――家康めは、不足なのか。
と信長は疑うであろう。となれば、信長は家康を慾深い野心家と見、今後そういう角度から家康を判断してついには除く算段を工夫するにちがいない。
この家康が、五月十五日に安土城に入ることになった。
光秀がその接待役に命ぜられたとき、信長は城をあげて歓待したい、そのつもりで準備をせよ、と命じた。信長にすれば一カ国しか家康にあたえなかったが、いかに織田家としては家康の多年の活動に感謝しているかということを、この接待をもってあらわしたい、というつもりであった。
接待の構想はすべて信長の発想で、それを執行官である光秀にいちいち指示した。
信長は、家康のために安土城であたらしい道路さえ作った。さらに家康が領国を出発したあと、毎夜泊りをかさねてゆく場所には付近の大名を伺《し》候《こう》させ、接待させた。
近江番《ばん》場《ば》の場合、信長は丹羽長秀を派遣し、その地に一夜だけの御殿を急造させて家康を泊めさせた。
安土の城内では四座の名手をそろえて能狂言があり、このほか丹《たん》波《ば》猿楽《さるがく》の梅若《うめわか》太《だ》夫《ゆう》にも能をさせた。この梅若太夫の芸がひどく見劣りしたので、
「おのれは、三河殿の前で恥をかかせたな」
と、信長は座から走りだしてこの能役者を家康の眼前にひきずってゆき、こぶしをあげてなぐりつけた。それほど懸命に信長は家康を饗応《きょうおう》した。
(あれは、狂気か正気か)
と、接待役の光秀は、この信長の大人とも思えぬふるまいを冷やかな目で見ていた。正気とすれば、信長の家康に対する異常なもてなしようはどうであろう。おそらく信長は、家康に対する駿河一国の薄賞を、彼自身、うしろめたく思っているからであろう。家康に対する感謝を、領地でなく接待の心づくしであらわそうと信長は思っているにちがいない。
(ずるいお人だ)
光秀は、もはや信長という男をそういう悪意でしか見られなくなっている。
それにしても信長の応接ぶりはすさまじいばかりで、二十日の(このときはすでに光秀は安土にいない)高雲寺殿での宴会のときは、信長みずから家康のための御《お》膳《ぜん》をはこんできたほどであった。
この家康の安土滞在中の十七日、備中在陣中の秀吉から信長のもとに急使がきた。
「上様の御出馬を乞い奉る」
というものであった。ここ数年、毛利方に対して戦闘と調略をかさねてきた羽柴秀吉が、ついに毛利本軍を備中にひき出し、雌雄を決する形にまで状況をもってきた、というのである。この上は拙者の手には及ばず、上様おんみずから御出馬くだされ、合戦をすみずみまで御《おん》下知《げち》(指揮)くださいますように、と秀吉は懇請してきているのである。
――拙者の手には及ばず。
などというのは、秀吉のうそであった。
秀吉の兵は三万、毛利の兵は三万、双方ほぼ同数であった。しかし秀吉はこの決戦までのあいだに、毛利方の備中高松城のまわりに二十六町に及ぶ長堤を築き、足《あ》守川《もりがわ》の水をおとし入れて水攻めにしつつあり、かつ秀吉方は地の利を占め、勢いにも乗っており、すべての点で有利であった。秀吉がその気になれば独力で勝てるであろう。
が、信長の性格を知りぬいている秀吉は独力で勝つことを怖《おそ》れた。一司令官の分際で毛利ほどの大敵を攻め潰すような巨功を樹《た》てれば、あとあと織田家での調和がまずくなり、信長がどのような想像をめぐらさぬともかぎらない。この場合、敵に潰滅《かいめつ》をあたえる功は、信長自身にたてさせるべきであろう。いままでの主要戦場では、つねに信長自身が指揮をとってきているのである。
「ぜひ」
と、秀吉の急使は懇願した。信長はこの急使を家康接待の席でうけとったのだが、
「おお、行かずばなるまい」
膝《ひざ》を、たたいた。信長の決断は早く、その場から堀久太郎を上使にして備中へくだらせ、
「不日、馬を出す」
と、秀吉に告げにやらせた。
一方、諸将に動員をくだした。まっさきに光秀に進発の令がくだった。家康が安土に入って三日目であった。光秀はこの間《かん》、家康の旅宿である大宝坊《だいほうぼう》に毎日顔を出し、その他、接待の指図で夜もねむられぬほどにいそがしかったのであるが、いまは戦場に立てという。が、信長の命にはいつの場合でも異を立てぬのが、織田家の家風であった。
それに、信長の本軍以外で織田家でいま遊んでいる司令官としては、光秀以外にはなかった。
光秀は、その組下大名である細川忠興《ただおき》、池田恒興、塩川吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛に命じ、それぞれ城に帰って出陣の支度をするように指示した。
光秀自身、居城に帰って支度をせねばならない。即日安土を発《た》つつもりで、まず家康にあいさつし、ついで城下の装束屋敷にもどると、信長の上使がやってきた。
「申しきかせる」
というのである。下座で光秀がきいていると、驚くべき内容であった。
「そのほうに、出雲《いずも》・石《いわ》見《み》(島根県)の二国をあたえる。しかしながら、いまの近江と丹波の両国は召しあげる」
というのであった。光秀は、ぼう然とし、問いかえした。が、上使は「それだけでござる」と言い、さっさと辞去した。
丹波と近江の現在の領国については、民治のすきな光秀は、いま磨《みが》きあげるようにして統治に熱中している。それを取りあげるというのである。いや、すでに取りあげられてしまった。
その代替《かわり》として、
「あたえる」
と、信長がいっている出雲と石見は、敵の毛利家の領国ではないか。光秀がぼう然としたのは、むりもなかった。この男は事実上、無《む》禄《ろく》になった。光秀だけでなく、光秀の家臣団の知行地も、この一瞬で消え、彼等は無禄になってしまった。
信長にすれば、
「出雲と石見を斬《き》り取りにせよ」
ということであろう。しかし、その征服が完了するまで一年はかかる。その一年のあいだ、無禄の光秀は一万数千にのぼる家臣を食わせてゆくことができないし、弾薬の補充もできない。なるほど数日で山陰に進出し、数日で征服するなら飢えることもあるまいが、それは神業《かみわざ》でなければできない。
奇妙な処置であった。
信長の本音はどこにあるのか。
わからない。
なるほど近江・丹波という京をとりまく二つの国は、織田家としては直領《じきりょう》にするのが妥当であろう。しかしいまのいまになって召しあげるという魂胆がわからない。
取りあげて、敵地に襲いかからせる。光秀もその家臣も無禄の長びくのをおそれて火のように毛利軍に攻めかかるであろう。となれば信長の中国平定計画はそのぶんだけ早くなる。
(……その魂胆か)
それが理由とすれば、人間の尻《しり》に油火をかけて走らせるようなものではないか。
(人を、道具としてしか見ておらぬ)
光秀は思った。それが信長をこんにちまで仕立てあげた大いなる美点であった。信長は大工が鑿《のみ》を道具として愛し、鑿を厳選し、かつ鑿の機能に通暁《つうぎょう》し、それをみごとに使いきるようにして家臣をあつかってきた。そういう男であったればこそ、牢人《ろうにん》あがりの光秀やなんの門閥もない秀吉のような者を抜擢《ばってき》し、その才能のあらゆる角度を縦横無尽に使ってきた。光秀のこんにちあるのは信長のその偏執的なまでの道具好みのおかげではあるが、
(しかしおれという道具も、そろそろ邪魔になってきたのかもしれない)
光秀は、そう思った。信長は同盟者の家康にさえ分け前を駿河一国しかやらない男なのである。自分がひろいあげた光秀という道具に、国をやるのが惜しくなったのではないか。
毛利が片づけば、もはや織田家は苦闘時代の織田家ではない。光秀のような大きすぎる道具を必要としないであろう。すでに四、五十万という大軍を動かしうる織田家ともなれば、九州、奥州は、大軍のおどしをもって来降するはずであった。
(どうやら、狡《こう》兎《と》死シテ走《そう》狗烹《くに》ラルという古言のとおりになってきたらしい)
織田家譜代の宿将林通勝や佐久間信盛が消えたあと、光秀に同じ運命がまわってきたらしい。信長は、前記両人の追放の場合は、罪目にもならぬことをならべ立てて召し放ったが、光秀にはその手を用いず「敵国領をやる」ということで領国を召しあげてしまった。
(もはや、予言できる。織田家では、信長の子秀勝を養子にしている秀吉のみが、生き残るだろう)
十七日の夕、光秀は馬を馳《は》せて安土城下を去り、終夜駈《か》けとおしてその居城の琵琶湖南岸の城に帰った。
「備中へゆく」
お槙には、そういった。
備中、という地名以外の場所もすでに光秀の脳裏で明滅していたが、しかし心が定まらず、お槙にも言わなかった。
(もしお槙や子供達が)
という危惧《きぐ》だけが光秀の心をくるしめている。彼等が、荒木村重の一族が受けたようなあの業《ごう》苦《く》に遭いはしまいかという惧《おそ》れのみが、光秀の決心をにぶらせていた。
「どうなされたのでございますか」
と、お槙が声をひそめていったほど、光秀の顔に血の気がない。
「いや、なんでもない。わしは備中にゆく」
光秀は、なかば自分に言いきかせるようにうなずき、お槙を見た。
「備中へだ」
光秀はかすかにうなずき、語尾を呑《の》みこんだ。――行くつもりか、と自分に自問しているような、そんな声《こわ》音《ね》があった。
参籠《さんろう》
京都盆地と丹波高原をへだてている山嶺《さんれい》のひとつに、愛《あた》宕《ご》山《さん》がある。
愛宕権現《ごんげん》鎮座の霊地である。
京都盆地からあおぐと、この山が西のほうにあるため、東山に対比して西山という。毎夕、入り陽《ひ》がこの山をあかあかと荘厳《しょうごん》するため、人々はこの霊山に対して宗教的幻想をふかめ、愛宕崇拝は京者《きょうもの》の日常生活になっている。
千日詣《まい》りでは、ことさらににぎわう。
例年、四月の中の亥《い》の日に行なわれ、山麓《さんろく》の一ノ鳥居から八キロほどの嶮《けん》路《ろ》は、物詣《ものもう》での男女が蟻《あり》のようにつらなって登ってゆく。山麓に清滝《きよたき》の渓流《けいりゅう》がながれ、ゆくほどに試《こころみ》ノ峠《とうげ》があり、さらに渡猿橋《とえんきょう》を渡れば檜杉《ひのきすぎ》が天をおおい、道は昼なお暗い。
が、光秀の側から登れば、おもむきはまるでちがう。
光秀は、安土城、坂本城をへて、いまかれの所領丹波亀山にいる。亀山城から北東をのぞむと、天を遮《さえぎ》っているのが愛宕山である。
「愛宕へ参籠する」
と光秀がいったのは、丹波亀山城に帰った翌々日であった。光秀は自分の十三人の隊将をあつめて備中への遠征を告げ、その支度を命じたあと、
「所願のことあり、予ひとり、山に籠《こも》りたい」
といったのである。
隊将たちは、その光秀の表情のかげりにただならぬものを感じた。
(あるいは)
と直感した者も、数人にとどまらない。むろんこの想像は飛躍的でありすぎる。
しかし光秀の表情から、それを想像させるだけの多少の根拠はあった。諸将はすでに光秀が、その所領のすべてを信長から巻きあげられてしまっていることを知っている。
かわりに信長は、山陰の出雲・石見二国をあたえるという。その両国は敵国で、それを斬り取るまで明智家の一万余の将士は、不安と窮乏と焦燥《しょうそう》のなかですごさねばなるまい。
この不安が、隊将たちにある。その不安が、数人の直感力のある隊将の想像に根拠をあたえた。
(殿は、まさか)
ということであった。
御謀《む》反《ほん》を、ということである。しかしかれらの理性はそれを否定した。生真面目《きまじめ》すぎるほどのかれらの主人が、そういう発想の飛躍ができるはずがないとも思ったのである。この連中は、明智左《さ》馬助《まのすけ》(弥平次)光春、斎藤内蔵《くらの》助利三《すけとしみつ》などであった。かれらは光秀に仕えてもっとも古く、光秀の性格も知りつくしており、光秀と信長の関係や、織田家の殿中でのおよそ常軌でない事件の種々《くさぐさ》もよく知っている。
(しかし殿は、堪えていなさる)
彼等も、一面では光秀は堪えるべきだと思う。一介の牢人《ろうにん》の分際からひきたてられて仕官後十年そこそこで五十余万石の大大名にのしあがるという奇跡は、この国の歴史はじまって以来そうざらにないであろう。その魔術を演じたのは信長であった。光秀は魔術師信長の道具であるにすぎない。その道具が、人並な感情を持つべきではなかった。魔術師の信長自身が、道具に感情を要求しておらず、機能性をのみ要求している。その代償として五十余万石の大領である以上、道具としては我慢をしつづけてゆかねばならない。
が、その道具《・・》が、
「参籠」
をするという。参籠とは、道具のなすべからざる精神作業である。参籠は社寺に昼夜ひきこもって祈願をすることだ。当然、願《がん》がなければならない。道具が願をもつとはどういうことであろう。自分に病気でもあるならともかく、参籠などする必要はないではないか。――かれらの想像は、この点で飛躍したのである。
とはいえ、
「なにを御祈願あそばされます」
とは、光秀に聞けなかった。そういう質問をかるがると発するには、平素光秀はあまりにも閉鎖的な男で、孤独なにおいがつよく、家来の付け入るふんい気を持っていない。これが羽柴秀吉ならば秀吉の家来たちはかるがると物が言えたであろう。もっとも秀吉ならば神仏などは信ぜず、参籠などという古典的な精神作業をするはずはなかったが。――
二十五日朝、光秀はわずかな供まわりをつれただけで居城の亀山城を出た。
天に、光があふれている。亀山の小盆地の緑はことごとくあたらしく、そのなかを一すじの赫土《あかつち》のこみちが保津《ほづ》川《がわ》にむかって走っている。光秀は騎馬で、その道を打たせた。
百姓が、水田のなかにいた。水田のあちこちで動いている。彼等は、小《こ》径《みち》をうちすぎてゆく騎馬の武士が、まさか国主の惟任日向守《これとうひゅうがのかみ》光秀であるとは気づかない。
光秀は、丹波入部いらい、この国の百姓を愛した。この男の行政好きはほとんど淫《いん》するほどで、従来の弊政を一掃し、かれらの暮らしをあかるくすることにつとめた。
あるとき、郡部の代官が、この国の村々には租税をまぬがれるための隠し田が多い、ということを光秀に訴えると、
「むずかしいところだ。官人たる者がそういうことにこまごまと気を配りすぎると、国が暗くなる」
と、光秀はたしなめた。代官はそれを不服とし、
「世に百姓の言葉ほど油断ならぬものはござりませぬ、彼等ほど、うそとごまかしの多いものはござりませぬ」
と、光秀に教えようとした。
このとき、光秀はいった。
「仏のうそは方便といい、武士のうそは武略という。百姓のうそは美しく装飾しようにも装飾する名分がない。世に百姓のうそほど可愛いものはない」
その光秀が、馬を打たせている。彼等を警《けい》蹕《ひつ》すれば彼等は泥《どろ》田《た》から這《は》いあがって土下座するであろう。しかし光秀はそれをこのまなかった。
行きすぎ、保津川べりに着き、軽舟をもって川を渡った。保津川もこれよりややくだると山間の渓流になって容易に渡れないが、この上流の亀山(亀岡)盆地のあたりは、かえって流れがゆるやかなのである。
対岸から、山路に入った。
光秀は山を登った。次第に足もとの亀山盆地が小さくなり、やがて百年檜《ひのき》といわれるあたりで下界は見えなくなった。あとは山中を這うように進んだ。この山は丹波からの登り口が、ひどく嶮《けわ》しいのである。
途中、何度も息が切れ、何度も休んだ。光秀は一見虚弱そうにみえるが、往昔《おうじゃく》血気のころはこの程度の坂でこういうことはなかった。やはり体が老いに近づきはじめているのであろう。
途中、岩角に腰をおろして弁当を喫《きっ》した。
「わしなどの若いころは」
と、急に昔のはなしをした。
「昼飯などは食わぬ」
ぽつん、と言い、それっきりであった。光秀がなぜ昼飯を食わなかったのか、近習の者には理解できない。
光秀のうまれた美濃は、海道筋の尾張に接しているため準先進地帯とでもいうべきところで、日に三食を食う京風の習慣は早くから定着していた。むろん村落貴族の子であった光秀も三食の京風に育っている。ところが美濃を落去してから、なが年辺地を流《る》浪《ろう》し、二食の国にも足をとめた。越前などはそうであった。このため光秀は若いころはずっと二食で通し、織田家にきてから三食に戻《もど》ったのである。光秀にすれば昼弁当を使いつつ、
――こうして昼食をとるようになってから、何年になるか。
ということで織田家にきてからの歳月を追想したのであろう。
やがて山上の愛宕権現の一院である威徳院に入った。この子院は威徳明王がまつられているところからその称があり、山では西坊《にしのぼう》と通称されている。
光秀の突如の参籠で山僧たちは大いに狼狽《ろうばい》したが、光秀はかれらを鎮《しず》め、
「国主としての処遇は無用のことである。ただの庶人として遇されよ」
といった。理由は、大ぎょうな接待を受けるよりも、光秀はひとりになることを望んでいた。独居して考えたいことがある。
「そのようになし下されよ」
と、とくに望んだ。
まず、入浴をした。近習の少年が、光秀の体を洗った。
光秀は、うなだれながら背中を流されている。息を忘れて思案をし、ときどき深い溜《た》め息をついた。
(殿様はどうなされたのであろう)
少年には、大人の心がわからない。大人という、生きがたい世を生きぬいている人間を理解できるには、少年の顔はあまりにもあどけなさすぎた。
「独居して考えたい」
と光秀は思い、さればこそこの丹波・山城《やましろ》の国境の天にある愛宕山に登ったのだが、しかし現実には光秀は何事をも考えていない。
懊悩《おうのう》しているだけであった。
光秀の頭脳はすでに停止し、光秀の神経だけが光秀を支配している。気が病みきったときは、すでに思考は停頓《ていとん》するものなのであろう。まがりきった背骨、伸びきったうなじ《・・・》、冴《さ》えぬ血色だけが、そこにある。これは、考《・》える《・・》という陽気で能動的な作業の姿勢ではなく、考えることをやめた男の姿勢だった。
しかも光秀は考えようとしているし、考えているつもりでもあった。
「殿様」
少年は、声をかけた。光秀ははっと驚き、少年をみた。少年のあどけなさすぎる顔が、生命そのもののようにそこにあった。その顔をみるにつけても、
(この少童をも、地獄におとし入れねばならぬか)
という反応だけが、光秀にある。思考ではなく、詠嘆であった。光秀は考えていない。
ぼう然としていただけのことであった。
すでに少年は光秀の体をぬぐいおわっているのである。そのくせ光秀は立ちあがりもせず、腰をおろし、首をうなだれさせている。少年が声をかけたのは、光秀に注意をうながすためであった。
「なんだ」
光秀は驚いたまま、少年の顔を見つめつづけている。
「御身をお浄《きよ》めおわりましてござりまする」
「そうか」
浴室を出た。
出て帷子《かたびら》に着かえたときは、すでに樹々《きぎ》のあいだの闇《やみ》が濃くなりはじめている。
(本堂、奥ノ院にゆかねばならぬ)
と思いつつ、つい気が重くなり、縁に端《はし》居《い》して樹々をながめた。光秀の胸中、決断をするとすれば今しかない。
(時は今)
という思いのみがある。
山陽道へ出征する信長は、四日後、安土を発し、その日のうちに京に入り、夜は本能寺を旅館として二泊する。その手勢はわずかで守りはうすい。信長に同行する嫡子《ちゃくし》信忠は本能寺からやや離れた妙覚寺に旅宿するが、その守りもせいぜい旗本五百騎程度で、さしたる人数ではない。
討つとすれば、卵の殻《から》をにぎりつぶすがごとく容易であろう。
しかも、織田家の軍団司令官たちはすべて遠方にいた。柴田勝家は北国にあり、滝川一益は関東にあり、羽柴秀吉は備中にあり、丹羽長秀は軍勢を大坂に集結させつつあり、徳川家康にいたってはわずかの供まわりをつれて堺《さかい》見物に出かけつつある。
京は、空白であった。
その軍事的空白地帯の京に、信長は二十九日の夜、少数の旗本とともにすごすのである。
このような機会はない。
これほどの稀有《けう》な機会が光秀の眼前にあらわれて来なければ、光秀はおそらく平凡な後半生を送ったであろう。機会が、光秀に発想させた。これまで正気で考えたことのないことを、光秀は考えはじめた。
光秀は、あわれなほど狼狽している。
(やるか)
と考える自分についてであった。思考の出発は、機会がそこに来た、ということだけのことである。機会は、突如きた。ながい歳月をかけて周到に計画したことではないだけに、光秀は度をうしなっていた。ついに疲れ、自分をうしない、この決断を神仏にまかせようとした。
そのための参籠であった。権現の宝前にすすみ、みくじ《・・・》を引き、その吉凶によって自分の行動を決しようとした。
いま、端居している。
樹々の群れ立つ黒い翳《かげ》をながめ、ながめたまま動かなかったのは、宝前で、みくじ《・・・》をひくことがおそろしかったのである。みくじを引く行動をさえ、光秀は渋っていた。ひいて吉と出れば光秀は本能寺に殺到せねばならぬであろう。凶と出れば、むなしく兵をひきいて備中へ去らねばならない。しかし備中へむなしく去るということも、光秀は物《もの》憂《う》かった。物憂いというよりも、生きてゆく方途さえ見失うような思いである。
決しかねて、縁側にいる。
が、立たねばならなかった。光秀は足を掻《か》き、やがて立ちあがった。足もとに血ぶくれた蚊が、飛びたちもせずにころがっていた。
「行く」
と、縁を飛びおり、足にわら草履をうがった。苔《こけ》を踏み、杉木立ちのなかに入った。足もとの前後を、近習のもつ三本の松明《たいまつ》が照らしていた。
再び、岩間の嶮路を攀《よ》じてゆく。
本堂に、詣《まい》った。
この本堂にまつられている勝軍地蔵というのが、武人たちの尊崇をあつめている。光秀は本堂にはあがらず階下に佇立《ちょりつ》したまま数珠《じゅず》の玉をさぐりつつ経を誦《ず》し、やがて去り、奥ノ院への道をのぼった。
奥ノ院はもっとも霊験《れいげん》顕著とされている。
岩頭にあり、まわりは深い杉木立ちにかこまれ、嵐《らん》気《き》は物凄《ものすご》いばかりにしずまっている。
年のうち何度か、この奥ノ院の峰に、天竺《てんじく》唐土《もろこし》日本の天《てん》狗《ぐ》があつまるという。天竺の天狗の首領は大夫日良《たゆうにちりょう》であり、唐土の天狗の首領は大夫善界であり、本朝の天狗の首領は太郎坊大僧正であった。その三頭があつまるとき、この峰は魔界になり、樹々の梢《こずえ》にはかれらの眷族《けんぞく》九億四万余ひきの小天狗がとまるという。
光秀は、宝前に進んだ。
鰐口《わにぐち》を鳴らし、神式で手を拍《う》ち、仏式で数珠をかぞえ、経を念じた。
やがて階《きざはし》をのぼり、格《こう》子《し》戸《ど》をあけ、燈明をつけ、みくじの匣《はこ》をとりあげ、偈《げ》言《ごん》を諷誦《ふうじゅ》した。
自我《じが》得仏来《とくぶつらい》 所経諸劫数《しょきょうしょこうしゅ》
無量百千万《むりょうひゃくせんまん》 億載《おくさい》阿《あ》僧《そう》祇《ぎ》
常説法教化《じょうせつぽうきょうげ》 無数億衆生《むすうおくしゅじょう》
令入於仏道《りょうにゅうおぶつどう》 爾《に》来無量劫《らいむりょうこう》
為度《いど》衆生故《しゅじょうこ》 方便現《ほうべんげん》涅《ね》槃《はん》
……………
やがて光秀は座したままみくじ匣を頭上にあげ、頭上でふりつつその小《こ》孔《あな》から一本の串《くし》をとりだした。目をひらき、その串のはし《・・》を見た。
凶であった。
光秀は、燈前で首をかしげた。血の気がうせ、息がかぼそくなりつつある。
「ちがう」
光秀は、つぶやいた。呟《つぶや》きつつ串をとり、この男のもつ意思力をふるいおこしてそれをぴしりと折った。
(いま一度)
と思い、匣をとりあげ、気ぜわしく振ってさらに一本の串をとりだした。
凶であった。
光秀は、乱心したようになった。神仏をも蹴《け》殺《ころ》したくなるほど凶暴な気持になり、さらにがらがらと匣をふった。振っても串は出ず、しかも、串の群れは内部《なか》で鳴っている。
やがて膝《ひざ》の上に、串一本、こぼれ出た。
光秀はそれを見、その串を手ではらい、そのあと気が抜けたように両肩の力をおとした。しばらくその姿勢のまま、息を吐きつづけた。
串は、吉であった。
しかし何度も振りたてて出た吉になんの験《げん》があろう。光秀は串をひろいあつめ、まとめてぴしりと折った。
さらに指に力を入れ、ぴしぴしと折り、ついにはこなごなにしたが、それでもおさまらず、最後には爪《つめ》をもって折った。
光秀は、堂の中から出た。
縁側からとびおり、ふたたびもとの坂をくだりはじめた。しかし、足どりは重く、呼吸はさわやかではなかった。しかし、その重さに耐えて、決意はひそかに息づきはじめている。神仏がたとえ加護せぬとあっても、やるべきことはやらねばならぬであろう。
光秀は、やろうとしていた。
運はもはや考えず、ただ行動をすることをのみ考えようとしていた。その行動の結末《すえ》がなんであろうとも、光秀は考えない。
(たとえ非運になっても、この身がほろぶだけのことではないか)
光秀は、ひたひたと歩いている。いそぎもせず、かといって揺蕩《たゆた》いもしない。行くところへ行く、というだけの足どりであった。
時は今
その翌日、京都側の登り口から、連歌師の里村紹巴《しょうは》、同昌叱《しょうしつ》らの一行がのぼってきた。
光秀がきのう、京の紹巴のもとに急使を出し、
「愛《あた》宕《ご》山《さん》の西坊にて連歌を興行したい」
という旨《むね》を申し入れてあったのである。紹巴、昌叱はほかならぬ光秀のことだからということでとるものもとりあえず清滝口《きよたきぐち》から山へのぼってきた。
その宗匠一行が午後に到着し、夕刻から西坊の書院で連歌の百韻興行をとりおこなった。
連歌の歴史はふるい。とくに室町時代になってこの京都貴族の文芸あそびは地方大名にまで普及したが、ちかごろはやや衰えはじめた。茶にとってかわられはじめたのである。連歌も茶もおなじくサロンのあそびだが、連歌は文芸的で茶は美術的というべきであろう。
信長は、連歌より茶を好んだ。文芸より美術趣味がつよかったともいえるであろう。織田家では先代の信秀が京からわざわざ連歌師の宗《そう》祇《ぎ》をまねいたりしてなかなかの凝りようであったが、信長は父のその趣味の系譜は積極的には継がなかった。
信長の茶道好みは、体質的なものであろう。たとえば絵師の永楽《えいらく》を発掘してその保護者になったり、異国の異風な服飾をこのんだり、安土城のような前代未《み》聞《もん》の大建築をつくりあげたりする好みとおなじ基盤のものらしい。
その茶道好きは、道三の系譜をひいているというべきであった。道三のもとから濃姫が嫁いできたとき、織田家の家庭にはじめて茶道がもちこまれたといっていい。
信長の好みが、時代に反映した。茶道は京と堺を中心に空前の盛況を示しつつある。
が、一方、連歌は衰えはじめた。信長は茶会を主催しても連歌の興行をあまり主催したがらないからであった。信長の武将たちも多くは茶の席に出ることを好んで連歌には見むきもしない。
光秀と、細川藤孝ぐらいのものであった。自然、宗匠の里村紹巴も、光秀をこの世界の二なき保護者とたのんでいる。
紹巴は、信長にひどい目にあっている。かつて信長が美濃侵略に熱中していたころ、尾張の小牧に城をつくった。そのころ紹巴は京からくだってこの新城落成の祝賀をのべている。そのとき信長から、
「なんぞ一句祝え」
と求められ、即座に、
あさ戸《と》あけ 麓《ふもと》は柳桜《やなぎざくら》かな
そう詠《よ》みあげると、信長は大いに怒り、
「武門の新城を、開けるとは何ごとぞ」
と手討にしかねまじい見幕だったので、紹巴はほうほうのてい《・・》で京に逃げもどったことがあった。それ以来、紹巴は信長がにが手であった。
「これはまた、突如なるお思い立ちで、いかがあそばしました」
と、紹巴は光秀にたずねた。
「左様さ」
光秀は、どう説明したものだろうとおもった。突如、京と丹波の国境の山で連歌興行をもよおすなど、異常といえば異常であった。
「このたび上様から備中の陣へ参る旨《むね》、おおせつかった。征《ゆ》けば数年になるかもしれぬと思い、京の名残《なご》りに連歌をもよおしたくなった。――もっとも」
光秀は、憂《うれ》い顔でいった。
「足下《そこもと》に会い、ぜひぜひお頼みしたいこともござってな」
「手前などに――」
頼むとはどういうことか。
光秀はそれについてなにも語らない。紹巴は沈みきった光秀の顔色をみて、次第に不安になってきた。
里村紹巴は連歌師であると同時に、政界人でもある。連歌の席を通じて、親王、公卿《くげ》、大名などと交友がふかく、自然、政界の情報通であった。ときにはその顔を見込まれて打診役をたのまれたり、伝達役をたのまれたりすることが多い。
(日向守《ひゅうがのかみ》は、なにを頼もうとするのか)
そうおもいつつ光秀の顔色をうかがうのだが、そのあせりと不安は読みとれるにしても、なにがその背景になっているかがわからない。
やがて酒肴《しゅこう》がならべられ、筆硯《ひっけん》が一人ずつの膝《ひざ》のまえにくばられた。
「まず、日向守様から発《ほっ》句《く》を」
と、紹巴はいった。
居ならぶ連衆《れんしゅう》は七、八人はいるであろう。専門文士側は、紹巴のほかに養子の昌叱が次席である。ついで兼如《けんにょ》、心前《しんぜん》など、光秀にはおなじみの連中であった。ほかにこの西坊威徳院の院主行祐《ぎょうゆう》、上坊大善院の院主宥源《ゆうげん》などである。
発句をいうべき光秀は、苦吟した。連歌のばあい、うたい出しの発句の出来がよければ、その興行は成功するといわれている。
席は、
光秀
威徳院行祐
紹巴
大善院宥源
昌叱
という順でならんでいる。第三席の紹巴は、光秀の苦吟の様子をみて、
(妙だな)
とおもった。光秀の目の据《す》わりようが異様で、たかが発句の詩想をもとめて苦しんでいるにしては凄《すご》味《み》がありすぎた。
やがて、光秀は、自作をよみあげた。
時は今 天《あめ》が下《した》しる五月《さつき》哉《かな》
(あっ)
と、紹巴は目をあげた。あげると同時に、光秀は紹巴の視線を避けるようにうつむいた。そのために作者の表情が窺《うかが》い知れない。が、文意は十分に紹巴に理解できる。
「時は今」
ということは、決起の決意をあらわす言葉であろう。しかも光秀の巧《こう》緻《ち》さは、それに、
土岐《とき》は今
という裏の意味をかけている。光秀の明智氏は、美濃の土岐源氏であった。その筋目を誇るがごとく光秀の胸間にあでやかに染めぬかれている定紋は、土岐の桔梗紋《ききょうもん》であった。
天が下しる
とは、五月の雨がふる、ということより、天下を治《し》る、統治するという寓《ぐう》意《い》をふくんでいるとしかおもえない。
(さては、ご謀《む》反《ほん》か)
耳のそばで巨大な戦鼓が鳴ったような思いがし、紹巴の持つ筆のさきが、めだつほどにふるえてきた。
が、それを紹巴のように理解したのは紹巴ひとりで、他はすべていまの季節の五月雨《さみだれ》を詠んだものとしか思っていない。五月雨をよんだ句としても平凡の出来映えではなかった。言葉のひとつひとつが響きを発するような、そういう気おいだちがある。
受けたのは、威徳院行祐であった。この僧は発句を素直に解釈し、おだやかに受けた。
水上《みなかみ》まさる庭の夏山
というものであった。五月雨がまさに到来しようという季節、すでに川の源あたりで水量がふえ、庭の夏山にも新緑があざやかである、という意味になるであろう。
「おみごと」
紹巴は、宗匠として職業的な嘆声をあげ、ついで自分の第三句をよみあげた。
花落つる流れの末をせきとめて
というものであった。紹巴にすれば、光秀の反逆の決意をはばむ、という意味を託している。この会話《・・》は、光秀にだけ通じた。
光秀は目をあげて、自分の風流の友である紹巴の顔をじっと見つめている。
紹巴は、目をそらせた。
「おつぎを」
と、かれは言わでもの言葉を、第四句をつけるべき大善院宥源にかけた。
「さん候《そうろう》」
宥源は言い「風はかすみを吹き送る暮」と、平凡に受け流した。
そのあと、光秀は紹巴のみを部屋に召し、思春期の少年のようなことをいった。
頃来《けいらい》、淋《さび》しさに堪えかねている。この参《さん》籠《ろう》をさいわい、今夜、語りあかしの相手をつとめてくれぬか。
というのであった。紹巴は、そういう光秀があわれでたまらない。自分のような者でもおよろしければ、とひくい声で答えた。
二人の前に、酒が置かれている。肴《さかな》はするめと煎《い》り豆だけであった。
「先刻の発句の寓意、わかってくれたか」
と、光秀はしずかにいった。しかし紹巴は答えなかった。
「足下を、友として話している。いまからなにを喋《しゃべ》りだすかわからないが、ここだけの話にしておいて貰《もら》いたい」
「それはもう」
紹巴は、やむなくうなずいた。紹巴にしても度胸の要ることであった。もし光秀が反逆に失敗すれば自分も同罪とみられて焚殺《ふんさつ》されてしまうであろう。
「ここ数日後に、天下は一転する。平氏から源氏にうつる」
光秀はいった。信長は、平氏を称している。光秀は美濃の土岐源氏の歴然たる家系である。信長を斃《たお》して天下をとる、という意味である。
「左様な、おそろしきことを」
紹巴は、両手で耳をふさぎたいようなそぶりを示した。
光秀は、そういう紹巴を気の毒だと思ったが、しかし光秀にも理由はあった。この紹巴に自分の内心をうちあけることによって自分自身を決心へ踏みきりたかったのである。
紹巴は、サロンの游泳家であった。この男に打ちあけることは全世界に放送してしまったことと同然であった。いったん口外した以上、光秀はもはやあとにはひけない。そういう立場に、自分を追いこもうとした。
「拙者が平氏を倒したと聞けば」
と、光秀はいった。
「朝廷のほうぼうに吹聴《ふいちょう》してくだされ。拙者は源氏である以上、征《せい》夷《い》大将軍に宣《せん》下《げ》していただきたい。将軍の名によって残る敵を討滅し、天下を平定したあと、政権を朝廷にもどし、律令《りつりょう》の世におかえし申したい。それが光秀の素志であるとお告げくだされよ」
「心得ましてござりまする」
と紹巴はうなずいたが、光秀のいうことの稚《おさな》さには内心おどろいている。信長をたおして政権をうばったあと、朝廷におかえし申すというのである。かえされても朝廷はすでに政治担当能力はなく、有難迷惑《ありがためいわく》というだけのことではないか。
(それが人心収攬《しゅうらん》の手か)
とも、紹巴はおもう。手にしても、あまりにも芸がなさすぎるのである。日本の政治を律令のむかしにかえすなどは、ほとんど感傷的な幻想にすぎない。信長は室町体制をうちやぶって現実に適《あ》うあたらしい政治経済体制をつくりだそうとしているが、その信長をたおす光秀には政治の理想像というほどのものはなく、あるのは懐古趣味的な幻想のみである、というのはどういうことであろう。
(――要するに)
と、紹巴はおもった。光秀にはそれほど烈々たる政権慾はないのかもしれない。政権をうばうよりは信長にうらみをむくいるというのが、第一目的であろう。信長が斃れれば当然ころがりこんでくる政権は、光秀の心象のなかではごく副次的なものとしてあつかわれているにすぎないのではないか。
なににしても、紹巴はこの話題にはあまりかかわりあいたくない。ほどを見はからって寝所にひきあげてしまった。
そのあと光秀も寝床に入ったが、容易にねむれず、ついに一睡もせずに朝をむかえた。
連歌はこの日もひきつづき興行された。つぎつぎと句をつけられてゆくなかで、光秀のみが筆先を遊ばせ、ぼう然としている。
付句がうかびようもないほどの寝不足であった。その疲れきったあたまのなかに明滅しているのは、本能寺の白塗り塀《べい》に銀色のいら《・・》か《・》であった。
「殿のお順番でござりまする」
と、昌叱が声をかけた。
光秀は、はっと目が覚めた。このとき思案のなかにある事柄《ことがら》が、あとさきもなく口を衝《つ》いて出てしまった。
「本能寺の堀の深さは」
という、後世、頼山陽《らいさんよう》の詩で有名になった情景を、光秀は劇中の人のように演じねばならなかった。呟《つぶや》いた言葉は、本能寺の堀のふかさはどのくらいあるのだろう、ということであった。
そのとき紹巴が、
「あら、もったいなや」
と声をはげまして叫ばなかったならば、光秀はどこまでたわごとをつづけていたかわからない。
連歌はつぎつぎと進み、
「色も香も、酔をすすむる花の下」
と昌叱がつけたあと、紹巴がすかさず、
「国はなほ長閑《のどか》なるとき」
と揚《あげ》句《く》をつけ、これで百句の満座になった。
おわって寺僧が盆を持ってあらわれ、
「寺の名物でござる」
といって、笹粽《ささちまき》をすすめた。まず上座の光秀のまえにおいた。
「これは馳《ち》走《そう》にあずかります」
と光秀はこの男らしく丁寧に一礼したが、しかし頭のなかでは別なことを考えていた。手だけが動き、盆に盛られた笹粽をとりあげた。
盆は、つぎへまわる。
光秀はそれを口中に入れた。一同、唖《あ》然《ぜん》として光秀をみつめた。光秀は粽をむ《・》かず、笹のままを噛《か》んでいるのである。
やがて光秀は気づき、粽をすてた。
(どういうことであろう)
紹巴は、光秀をあやうんだ。この放心は心の繊弱なゆえであろう。この繊弱さで、はたして天下がとれるのだろうか。
午後になった。
光秀は、山上に黄金を持ってきていた。それを気前よく分与した。
愛宕権現《ごんげん》には黄金三十枚と鳥目《ちょうもく》五百貫を、参籠《さんろう》した西坊威徳院には五百両を、紹巴以下の連歌師にそれぞれ五十両ずつを分けあたえた。
光秀は下山した。
すぐ丹波亀山城に戻り、その夜は夢もみずにねむった。
翌二十八日、城下に人馬のざわめきがやかましくなった。さきごろの動員令によって、国中の知行所にもどっている家来、被官が城下に集まってきているのである。
「いま、何人いる」
光秀は、ひどくいらだちながら、その人数をきいた。二千、五千、七千、と刻々人数はふえた。あと一日か二日で明智家の全動員人数である一万余に達するであろう。
光秀は、なお思案をつづけていた。起《た》つか起たぬかということを、である。この期《ご》におよんでも嫋々《じょうじょう》として光秀の心はさだまらない。
その翌夜、光秀は意を決し、自分の寝所に左馬助光春と斎藤内蔵助利三をよびよせた。
かれらが来ると、
「これへ、はいれ」
と、自分が入っている蚊帳《かや》へかれらをまねきよせた。この一事だけで、両人は光秀がいまからうちあけようとしている事柄が容易なものではないことを察した。
叛《はん》旗《き》
亀山城における光秀の寝所は、廊下と杉《すぎ》戸《ど》をもって仕切られ、なかは八畳と六畳二間しかない。諸事質素なのはこの時代の風であった。大名が華美なくらしをするようになるのは、万事派手ずきの秀吉が天下をとっていわゆる桃山時代の建築景気をおこしてからのことである。
光秀はいつもこの八畳の間に青蚊帳を吊《つ》り、そのなかで寝ている。
「蚊帳のなかに入れ」
といったのは、この蚊帳のなかであった。四畳敷ほどの蚊帳で、そのなかに寝具がないのは、光秀が自分の手で片づけたのである。
燭台《しょくだい》が三基、蚊帳のそとで小さく燃えている。その灯《ほ》明《あか》りが暗いかげをつくってゆれつつ、かろうじて青染めの麻地をとおして蚊帳のなかに光をもちこんでいた。
明智左馬助(弥平次)光春
斎藤内蔵助利三
このふたりの顔が、青黒く染められたこのひかりのなかで浮かんでいる。
弥平次光春は、このところ相貌《そうぼう》の痩《や》せがめだっている。
斎藤利三は、初老の域をこえている。よくふとった赫《あか》ら顔で顔も頭も油光りにひかっている点、いかにも帷《い》幕《ばく》での思索よりも実戦の指揮にむく能動的な性格をよくあらわしている。
「かようなところによんだのは、自分の気持がそうなったからである。いまから打ちあけることを、家来の立場として聴かず、この光秀と同体のつもりできいてくれ。いやさ、上下の会釈《えしゃく》遠慮などは無用である。めいめい自分を日向守光秀であると思い、そのつもりで聴き、かつ喋《しゃべ》ってくれ」
言いおわると、光秀は口をつぐんだ。ながい沈黙がつづき、蚊帳のなかで光秀の息づかいのみがあおあおとつづいたが、光秀はなにもいわない。
やがて、光秀は顔をあげた。
「言えぬ」
口に出して言うことがおそろしくもあり、自分の気持を言いあらわす適当な言葉を見つけかねてもいた。光秀はやむなく硯《すずり》をひきよせ、短冊《たんざく》に歌をかいた。いまの自分の胸中を論理でもって明かすことは不可能だと気づいたのである。詩をもって相手の詩情に訴える以外には手がなかった。それしかない。光秀がくわだてていることの十中八九は、自分の家臣とその家族を煉獄《れんごく》のなかにたたきこむことになるであろう。それを強《し》いる権利は、いかに主人といえども持ってはいない。
詩によるしかなかった。光秀は詩想したが、いざ詩想してみれば逆に散文的なことばのみが脳裏にうかび、歌にならない。
ついに、筆をおろした。
心知らぬ人は何とも言はば言へ
身をも惜しまじ名をも惜しまじ
光秀にしては、拙《つたな》すぎるほどの歌である。が、光秀にすれば自分の意思をかれらにさとらせれば事は足りる。
弥平次は、それを受けとり、読みくだしたあと、だまって斎藤利三にまわした。利三はそれをよみ、ちょっと首をかしげたが、やがて光秀には返さず、自分の襟《えり》のあいだへはさみこんだ。
「承りましてござりまする」
と、利三はいった。これだけですべてわかったというのは、かれらがそれとなく察していた証拠であろう。
「わかっていたのか」
と光秀は愚にもつかぬ質問を発した。
「お主《しゅう》のお胸のうちが察しられいで、家来はつとまりませぬ。……が」
「が?」
「まさかと存じ」
弥平次光春はうなだれた。弥平次にせよ斎藤利三にせよ、この一挙は光秀のために賛成しがたく思われる。
政略論からみても失敗の公算のほうがつよい。なるほど信長を本能寺に襲えばそれを殺すことは容易であろう。京を占領しさえすれば公卿衆は光秀になびき、征夷大将軍の宣下も容易かもしれない。しかし織田家の諸豪は光秀になびくか。なびかぬであろう。羽柴秀吉は備中で毛利軍と交戦中のため足がぬけぬとしても、北陸の柴田勝家はただちに南下し、天下に檄《げき》をとばす。勝家は織田家の筆頭家老であり、光秀は新参にすぎないために、双方にあつまる大名の数はむこうのほうが圧倒的に多いにちがいない。光秀にはせいぜい細川藤孝と筒井順慶《じゅんけい》が、年来の友《ゆう》誼《ぎ》と姻戚《いんせき》関係ということで参加してくれる程度だとおもわれる。
大坂で兵を集結中の信長の第三子織田信孝も強力な反撃勢力になるであろうし、織田家の年来の同盟者徳川家康も、いま堺見物中ながらも、もし命あればその本国に逃げかえり、弔《とむらい》合戦の名目で諸大名を勧誘する。どの連中も光秀を斃《たお》せば天下がとれるという、強烈な希望と利慾に燃え、天下の四方八方から競争で京へ攻めのぼり、大働きに働くであろう。光秀はそれを一手でふせがねばならぬ。人間の業《わざ》としてできることではない。
ついで、世間の評判である。
これはよくないにちがいない。たとえば家康が反乱をおこすとすればこれは政略であり世間は是認する。なぜならば徳川家は織田家と大小の差こそあれ、もともと同盟者の間柄《あいだがら》である。源頼朝が平家を制して天下をとったとおなじ次元で論ぜられる。しかし光秀が信長を制するのは反乱ではなく謀《む》反《ほん》であった。なぜならば光秀はもとからの大名ではなく、はだか身で織田家につかえ、信長によってとりたてられた、いわば家ノ子の出身に属する。世間は当然、この行動を政略として見ず、道徳上の問題としてみるであろう。これは光秀に不利であった。むろん光秀を打倒して天下を得ようとする連中も、それを進軍の陣頭にかかげ、世間の同感を惹《ひ》き、それによって小身大名をかきあつめようとするにちがいない。
(利は、かれらが得る。殿は信長を斃したがためにかれらの餌《え》食《じき》になるだけだ)
弥平次光春はおもった。
が、光春はだまっていた。その程度のことは光秀も考えぬいたあとであろうとおもったからである。
斎藤利三は、反対した。理由は、光春のそれとおなじであった。声をひくめ、しかし語気するどく反対した。
「なりませぬ」
と、最後にいった。
光秀は、青蚊帳のむこうの燭台の焔《ほのお》をながめながらだまりつづけている。やがて、
「それもこれも、考えた。考えぬいたすえの覚悟である。もはや、どうにもならぬ。もし不賛成なら、いますぐわしの首を討て」
「御首を?」
「わしを殺せ。要らぬ、遠慮は」
光秀は、脇差《わきざし》を鞘《さや》ぐるみとって、かれらの膝《ひざ》もとに押しやった。それが、光秀がかれらに話したかった用件の主要内容の一つである。
じつのところ、理屈ではもはや、かれらに対抗できるだけのものを光秀はもっていない。光秀自身、かれらの反対論に同感であった。頭ではなるほどそのとおりであろう。しかし気持はどうにもならない。
「わしを討たぬというなら、そこもとたちの命をわしにくれ」
その二つに一つしかない、と光秀は、むしろ哀願するようにして彼等にいった。
弥平次光春は、ながい吐息をついた。自分の命は光秀とともにある、と叫ぼうとしたが、横に斎藤利三がいる。利三にまず言わせるべきであった。利三は途中から随身した男で、主従の感情は弥平次とはまたちがうであろう。
「殿」
斎藤内蔵助利三は、声をひそめた。
「そのおん《・・》胸のうち、われら二人のほかにたれかにお洩《も》らしなされましたか」
「洩らした」
光秀は、言いづらそうにいった。京の宮廷工作をさせるためと、自分自身を覚悟の底へ追いこむために連歌師の里村紹巴《しょうは》にそれとなく洩らした、とうちあけた。
「――されば」
利三は、大息した。
「やむをえませぬ。いまたとえ殿を諫《いさ》め奉り、殿が翻心なされたところで人の舌は駟馬《しば》(四頭立ての馬車)も及ばず、ということがござりまする。噂《うわさ》はかけめぐって安土殿の御耳に入りましょう。とあらば殿の運命《さだめ》は摂州殿(荒木村重)の二の舞、こうとなればかえって拙者の心もさだまりました。殿の先手を駈《か》けてたとえ地獄にでも討って出ましょうず」
「よう申してくれた」
光秀は小さく頭をさげ、ついで弥平次を見た。弥平次はうなずき、
「内蔵助殿と同心でござりまする」
と、小さな声でいった。
光秀は安《あん》堵《ど》し、しばらく目をつぶっていたが、多少惑乱したのか、
「内蔵助は先刻、世間への悪評のことを申したが、自分には私心はないのだ」
と、妙なことを言いだし、前《さきの》将軍義昭のことに触れた。流亡の義昭はいま中国にあり、毛利軍の精神的支柱として対織田戦の名目上の元帥《げんすい》になっている。義昭の執念はあくまでも足利幕府の再興にかかっていた。
その義昭のために働く、と光秀は言いだしたのである。光秀は年少客気のころをおもいだしつつ、
「自分の前半生は足利幕府の再興のためにささげつくしたようなものであった。その後世が変転し、心ならずも別途を歩んだが、いまとなっては青春のころの気持に立ちかえり、天下を信長から奪ったあとは中国に在《ま》す義昭様にお返し申したい」
というのである。光秀のいうことは転々としていた。前日、愛宕山上で里村紹巴に掻《か》きくどいたときは朝廷に返上し、日本の政道を律令のむかしにもどす、といったかとおもえば、いまは足利家にもどすといっている。そのいずれもが光秀の感情を反映していることは、愛宕山上でも、この青蚊帳のなかでも、光秀は語りつつ涙をにじませていることでわかる。要するに光秀はこの一挙をなんとか正当づけ、弑逆《しいぎゃく》による悪名から自分をのがれさせたい一念なのであろう。
それを、斎藤利三は察した。目を据《す》え、下《した》唇《くちびる》を縮め、
「ご無用でござろう」
と、語気あらくいった。
「男子の行動は明快であらねばなりませぬ。左様に遅疑《ちぎ》し逡巡《しゅんじゅん》し、かつ小刀細工を用いて人目を小ぎたなくお飾りなさるよりも、いさぎよく天下をお取りあそばせ。殿は源氏におわす。征夷大将軍は当然宣《せん》下《げ》相成ります。弑逆であれ簒奪《さんだつ》であれ、堂々天下のぬしになり、民を慰撫《いぶ》し、泰平をひらかるべきでありましょう。御思案のあいだならば、左右前後のことをお考えあそばすのは当然なれど、いったんお覚悟あそばされたる以上、物にお怯《おび》えなさるべきではござりませぬ」
(天下を取る。――)
光秀はあらためてその概念を、自分の感情のなかで自分のものとして考えてみた。自然、泡《あわ》立《だ》つような思いが血のなかに溢《あふ》れ、善悪成否の思いを超えた感動が湧《わ》きあがってきた。
「それが男だな」
光秀はつぶやき、自分に言いきかせようとした。同時に、自分の少年期から思春期にかけてあれほど可愛がってくれた斎藤道三のすさまじいばかりの生涯《しょうがい》をおもいだした。
(道三山城入道こそ、風雲の化《け》身《しん》のようなものだった。道三は自分と信長を愛し、その衣《い》鉢《はつ》を継がせようとし、すくなくとも芸の師匠のごとき気持をもってくれていた。その山城入道の相弟子同士が、やがて本能寺で見《まみ》えることになる。これもあれも、宿命というほかない)
道三一代の風雲の悪業《あくごう》をおもえば、いま自分が信長を討滅して天下をうばうなどのことは感傷にも値いしない。
道三はそれ以上のことをやり、しかも数えきれないほどにやってのけている。そのすべては、美濃の国を外敵からまもり、中世の迷《めい》妄《もう》と無用の権威をこわして近代化するという美名のもとでおこなわれた。道三はその理想をかかげて、そのつどそのつど悪業を浄化してゆき、美濃人の批判をねむらせた。
(できれば道三山城入道のごとくありたい)
と光秀はおもい、そう思うことによって自分を鼓舞しようとした。しかし、光秀は聡明《そうめい》すぎた。自分が道三とは柄《がら》合《あ》いがちがうことを知っているし、時代もちがうことを知っている。道三の時代ならば道三の生涯は成り立ち得た。しかしいまは乱世の色が年々褪《あ》せ、あざやかな色合いをもって世が統一にむかいつつある。世が統一にむかいつつあるときは人は秩序を思い、秩序をおもうときにはそれを維持する道徳を思いこがれる。光秀はそれがわかっている。指弾されるのではないかという怯えが、つねに光秀の脳裏にあり、光秀の思考に弾みをあたえない。
光秀は、ふたりをさがらせた。
翌朝、城内表書院に出た光秀は、すでに有能な指揮官である自分を取りもどしていた。光秀は荷駄《にだ》のみを、西国の戦場にむけて先発させた。
荷駄は、百荷ほどもある。おもに兵糧《ひょうろう》、馬《ば》糧《りょう》、鉄砲の玉薬《たまぐすり》などであった。これらの輜重《しちょう》部隊は、信長に命ぜられたとおりの備中の戦場にゆく。されば家臣たちも世間も、光秀が当然備中へゆくことを疑いもしないであろう。
同時に光秀は京都方面にさぐりを入れ、信長の本能寺宿営がまちがいないことを確かめようとした。
かれの頭脳は機能的に働きはじめたが、しかしやらなかった準備行動もあった。当然、光秀のもとに馳《は》せ参じてくれるであろう丹後宮津城の細川藤孝や、大和の筒井順慶に手紙を書かなかったことである。彼等の参軍を確実にするため、よほど密計を予告しておこうとおもったが、しかし思い決してそれをやめた。予告することによって洩れては、せっかくの計画もくずれ去るからである。あくまでも光秀は共助者をつくらず、単独に決行しようとした。
いよいよ亀山城を出発する日がきた。天正十年六月一日であった。
むろん、斎藤利三、明智弥平次のほか、たれもこの発向《はっこう》の日が巨大な運命の坂をのぼることになろうとは気づかない。
「夜中、出発する。夜なかの何刻《なんどき》になるか、まだわからない。されば陣触れの貝を、聞きもらすな」
という旨《むね》を、朝から通達しておいた。こういう事務的次第も、平素の出陣の場合とかわらない。
暗くなって、光秀は最初の行動を開始した。城内の広間に物頭《ものがしら》(諸隊長)をあつめたのである。
「京の森蘭丸《らんまる》(信長の側近)のもとから、ただいま飛脚が参った。そのため予定がすこしかわるゆえ、ゆめ手違いのないように」
といった。予定の一部変更というのは、出陣の支度ができれば信長がそれを検閲する、そのため直接備中にゆかず、京に立ち寄るように、ということであった。
物頭たちは、承知した。
やがて陣触れの貝が鳴り、兵が動き、城外の野で集結した。
その数、一万三千である。光秀はこの人数を三段にわけた。第一段の隊将は明智左馬助光春であった。これに四王天但馬《たじま》、村上和泉《いずみ》、妻木主計《かずえ》、三《み》宅《やけ》式部など名うての勇将を付属させた。
この夜、月はない。夜半、この軍の中軍に、明智家の象徴である水色桔梗《みずいろききょう》の旗九本がひるがえり、松明《たいまつ》に映えた。
やがて――織田家のなかでもっとも秩序があるといわれているこの一軍が動きだした。
本能寺
光秀の軍が丹波亀山を発したのは、夜十時すぎであった。隊頭は、東へゆく。
「西へむかわぬのか」
という、行軍の方角についての疑問が士卒のあいだに最初からあった。亀山から備中(岡山県)へゆく道は、ふつう、三《み》草越《くさごえ》をとる。三草越とは大阪府北部の能勢《のせ》のあたりの峠で、これを越えて播州《ばんしゅう》(兵庫県)に出るのが、ふつうの経路であった。むろんそのためには丹波亀山を西に発しなければならない。
しかし軍は東に進んでいる。老《おい》ノ坂《さか》を東に越えれば京都盆地である。
士卒たちの疑問は、物頭によってほどなく解けた。本能寺において信長の閲兵を受けるのだという。それを説明する物頭たちも、無邪気に信じきっていた。
真実を知っているのは、光秀をのぞいて五人であった。光秀は明智左馬助、斎藤内蔵助に明かしたあと、さらに三人の重臣に明かしていた。
道は、ほそい。
徒歩者は二列で歩き、騎乗者は一騎ずつ打たせた。ときどき伝騎が隊列を道わきに押しのけて走った。亀山のひがし、王子で亀山盆地は尽き、森林のなかに入った。道は急坂であった。森の上に星が無数にきらめき、あすの晴天をおもわせた。
ついに老ノ坂を越えた。時刻は零時をすぎているであろう。
(越えた)
という実感が、馬上の光秀の状態を、心理的なものから物理的なものに変えた。越えた以上、もはや光秀はこの物理的勢いに自分の運命をゆだねてゆくしかない。
老ノ坂をくだってゆく光秀は、革命家でもなければ武将でもない。自分の生命を一個の匕《ひ》首《しゅ》に変えて他の生命へ直進する単純勁烈《けいれつ》な暗殺者であった。ただこの暗殺者は一万数千という大軍をひきいている点が、他の類型と異なっている。
坂をくだってしばらくゆくと、中腹に沓掛《くつかけ》という部落がある。家々の軒に馬の沓やわらじを掛けて旅人に売るためにこの称があり、宿駅としては古い。
光秀はここで休止を命じ、全軍に腰兵糧をつかわせた。光秀は村内のふるい神社の境内に入り、そこで矢野源右衛門という物頭をよび意中をうちあけた。
源右衛門は遠江《とおとうみ》の人、はやくからその朴直《ぼくちょく》さを光秀に愛された。光秀からこれほどの大事をうちあけられても、源右衛門は顔色も変えない。自分が何をすればよいのか、この男は知りたいだけであった。光秀は、先兵《せんぺい》隊長として一軍のさきを進め、といった。その目的は、この一軍のなかで光秀の意図に気づき抜け駈《が》けて本能寺へ内応する者があるかもしれない。また行軍の途次、在郷の者が時ならぬ大軍の行軍をあやしみ、本能寺へ速報することもありうる。それらをふせぐためであった。
矢野源右衛門は、先発した。
やがて休止がおわり、隊列はふたたび坂をくだりはじめた。
坂が尽き、野に出た。このあたりの野が、桂《かつら》である。
桂に河があり、桂川という。その桂の渡しを東へわたれば路幅はひろがり、道はひたひたと京の七条に通じてゆく。本能寺までは、七、八キロというところであろう。
夜はなお深い。
司令官としての光秀は緻《ち》密《みつ》であった。この桂をもって攻撃準備地にすることを最初から思案に組み入れ、いまそれを実行した。光秀は軍令をくだした。
「馬の沓を切りすてよ」
行軍中でこそ馬わらじ《・・・》は必要だが、戦闘に入るとかえって邪魔になる。それを捨てよというのは戦場が近い証拠であろう。しかし、どこに戦場があるのか、とみな不審に思った。
「徒歩《かちだち》の者は、あたらしいわらじ《・・・》にはきかえよ」
と、光秀の軍令はこまかい。
「鉄砲の者は火《ひ》縄《なわ》を一尺五寸に切って五本を手に持て。五本とも、火をつけよ。火の消えぬよう、さかさにさげよ」
本格的な戦闘行軍の支度であった。
一同、桂川を押し渡った。渡りおわったとき、士卒はおどろくべきことを知らされた。
「敵は本能寺にあり」
という思ってもみなかった攻撃目標であった。本能寺には信長がいる。その右大臣家をこそ討ち奉る、というのである。斎藤内蔵助は士卒をはげますために、
「今日よりして殿様は天下様におなり遊ばす。しもじも草履取りにいたるまで、このめでたさを勇みよろこべ。侍どもは今日を先《せん》途《ど》とはたらき、家運を興すべし。討死つかまつり候《そうろう》ときは、兄弟、子に家を継がせ、兄弟、子のなきものにはその筋々をさがし出し、その跡を継がせることゆめまちがいはない。されば力《つと》めよ」
と、軍中に触れさせた。その間も一万数千の人数は東にうごいてゆく。
斎藤内蔵助の隊が京都市中に入ったのは午前五時ごろであったろう。
この老練の指揮官は、京都の町内々々の木戸の押しあけ方まで兵に指示した。そのほか、大軍が道路一筋のみを使用するのは時間的な無駄《むだ》であると考え、組ごとにめいめいが道をえらび、本能寺を目標に分進する方法をとった。
さらに内蔵助の指示はゆきとどいている。本能寺のあらかたの位置を教えるだけでなく、闇《やみ》をすかせばこう見えるであろうというその形状までおしえた。本能寺は樹木が鬱然《うつぜん》としているために夜目には森に見え、なかでもサイカチの木が亭々《ていてい》として天に枝を張っている。それが目印だ、と内蔵助はいうのである。
本能寺は、日蓮《にちれん》を宗祖とする本門法華宗《ほっけしゅう》五大本山のひとつである。足利中期に創建され、その後京の市中を転々とし、信長のこのころは四条西洞院《にしのとういん》にある。
信長のふしぎは、これほどひんぱんに京にくるくせに、京に城館をつくらぬことであった。かつては将軍義昭に館《やかた》を建ててやったが、信長自身の宿所ではない。最近、ようやく押《おしの》小路室町《こうじむろまち》に通称二条ノ館というものを造営したが、できあがってから気がかわり、皇太子誠仁《さねひと》親王に進呈してしまった。二条新御所といわれるものがそれである。
信長自身は、つねに寺で泊まった。斎藤道三がその僧侶《そうりょ》時代を送った妙覚寺が定宿であったが、最近はもっぱら本能寺を用いた。
信長の経済感覚が、そうさせているようにおもわれる。建物は建造費もさることながら維持費が大きい。いささかの金でも天下経略のためにつかおうというこの合理主義者にとっては、無用の費《つい》えであった。
そのかわり、本能寺を大きく城郭式に改造している。それも最近であった。最近工事を命じ、付近の民家を立ちのかせ、まわりにあらたに堀を掘り、その土を掻《か》きあげて土居《どい》をきずき、ところどころに城戸《きど》を設け、出入りを警戒していた。信長の経済観でいえば、この程度の設備なら、信長不在中は寺がその維持を受けもつであろうというところであったろう。堀、土居、塀《へい》はできあがっているが、塀はまだ塗装されていない。
この日の日中、右大臣信長は公卿《くげ》衆の来訪を受け、夜に入って嫡子《ちゃくし》の左中将《さちゅうじょう》信忠があそびにきた。信忠は二十五歳で、この時期信長とともに入洛《じゅらく》し、かれは信長の定宿であった妙覚寺に手の者五百人とともに宿営していた。ちなみに信長の本能寺における人数は、わずか二百人である。
信長はこの夜、ひとも首をかしげるほどに機《き》嫌《げん》がよく、歓談に時を移し、信忠が辞し去ろうとしても、
「まあよいではないか」
と押しとどめた。
信長は、満で四十八になる。その齢《とし》とは思えぬほどのよく撓《しな》う筋骨と張りのある声、鋭気に満ちた目をもっており、一瞬間といえども老いを人に感じさせたことがない。ところがこの夜にかぎって話が古い。かつてないことであった。その苛《か》烈《れつ》すぎる前半生を回顧しつつ、その追想のなかに登場する人物をこきおろしたり、嘲弄《ちょうろう》したり、かとおもうと激賞したりして、時のたつのをわすれているふぜいであった。この男が越し方を回想するなどはかつてないことだし、またこれほど長く喋《しゃべ》ることもまれなことであったろう。
夜ばなしの相手は、信忠のほかに信長の文官の村井貞勝以下の側近たちで、かれらはそういう信長を、ときどき不審におもった。
夜ふけになって、信忠は辞し、宿所の妙覚寺に帰って行った。
信長は、快く疲れた。やがて侍女にも手伝わさずに白綾《しろあや》の寝巻に着更《きか》え、寝所に入った。次室には宿直《とのい》の小姓がおり、そのなかに信長の寵童《ちょうどう》森蘭丸がいる。ことし数えて十八歳で、すでに童《わらわ》ともいえないが、信長の命令で髪、衣服をいまなお大人にしていない。森家は美濃の名門の出で、亡父可成《よしなり》はかつて斎藤道三に仕え、ついで織田家に転仕し、美濃兼山《かねやま》の城主であったが、浅井・朝倉との戦さで討死した。信長はその可成の遺児をあわれみ、とくに蘭丸を愛し、美濃岩村五万石をあたえ、童形《どうぎょう》のままで加《か》判《はん》奉行にも任じさせていた。
夜明け前、にわかに人の群れのどよめきと銃声をきいたとき、目ざとい信長は目をさました。
「蘭丸、あれは何ぞ」
襖《ふすま》ごしでいった。信長は、おそらく足軽どもの喧《けん》嘩《か》であろうとおもった。蘭丸も同時に気づき、「されば物見に」と一声残し、廊下をかけて高欄に足をかけた。東天に雲が多く、雲がひかりを帯び、夜がようやく明け初めようとしている。
その暁天《ぎょうてん》を背に兵気が動き、旗が群れ、その旗は、いまどき京にあらわるべくもない水色桔梗の明智光秀の旗であった。
蘭丸は高欄からとび降り、信長の寝所に駈けもどった。
信長はすでに寝所に灯をつけていた。
「謀反でござりまする」
蘭丸は、指をついた。そばに堺《さかい》の商人で信長気に入りの茶人でもある長谷川宗仁《そうにん》がいたが、宗仁のみるところ、信長はいささかもさわがない。両眼が、らん《・・》と光っている。
「相手は、何者ぞ」
「惟任《これとう》光秀に候」
と蘭丸がいったとき、信長はその癖でちょっと首をかしげた。が、すぐ、
「是非に及ばず」
とのみいった。信長がこの事態に対して発したただ一言のことばであった。どういうことであろう。相変らず言葉が短かすぎ、その意味はよくはわからない。反乱軍の包囲をうけた以上もはやどうにもならぬという意味なのか、それともさらに深い響きを信長は籠《こ》めたのか。人間五十年化《け》転《てん》ノウチニクラブレバ夢マボロシノゴトクナリという小謡《うたい》の一章を愛唱し、霊魂を否定し、無神論を奉じているこの虚無主義者は、まるで仕事をするためにのみうまれてきたような生涯《しょうがい》を送り、いまその完成途上で死ぬ。是非もなし、と瞬時、すべてを能動的にあきらめ去ったのであろう。
そのあと信長の働きはすさまじい。
まず弓をとって高欄に出、二矢《し》三矢《し》とつがえては射放ったが、すぐ音を発して弦《つる》がきれた。信長は弓を捨て、機敏に槍《やり》をとり、濡《ぬ》れ縁をかけまわり、あちこちから高欄へよじのぼろうとする武者をまたたくまに二、三人突き落した。
この働きは、事態の解決にはなんの役にもたたないが、信長は弾みきったその筋肉を動かしつつ奮戦した。この全身が弾機《ばね》でできているような不可思議なほどの働き者は最後まで働きつづけようとするのか、それとも自分の最後の生をもっとも勇敢なかたちで飾ろうというこの男の美意識によるものか、おそらくはそのいずれもの織りまざったものであろう。
信長は、自分の美意識を尊重し、それを人にも押しつけ、そのために数えきれぬほどの人間を殺してきたが、かれ自身が自分を殺すこの最期《いまわ》にあたってもっともそれを重んじた。
駈け入るなり、宗仁をよび、
「汝《うぬ》は武士ではないゆえ、死ぬな。死なずに女どもを取りまとめて落せ。信長が最後に、女どもを道連れにして死んだとあれば、世間に対してきたなし」
と言い、ひるむ宗仁を叱《しか》りつけ、その命令どおりにさせた。信長はそのあと殿舎に火をかけさせた。ふたたび濡れ縁に出ると、明智の兵は庭にみちみちている。
その大軍に対し、信長の側近はよく戦い、厩中間《うまやちゅうげん》でさえことごとく武器をとって奮戦してつぎつぎと討たれ、また町方に宿舎をとっていた者も駈けつけて乱軍のなかで死んだ。
そのとき、濡れ縁を伝って信長のそばに駈け寄ってきた者があり、自分の名を名乗った。明智家で槍をとっては無双といわれた美濃石津郡出身の安田作兵衛国次であった。槍の穂を沈め、息をはずませ、
「右大臣家、御免候え」
と叫んだとき、信長はふりむき、蹴《け》あげるような声で一喝《いっかつ》した。安田は威にうたれたのであろう、両膝《ひざ》を折り、不覚にも信長を拝《はい》跪《き》した。
信長は、あとをも見ずに奥へ駈け入り、納《なん》戸《ど》の重い戸を立てきり、さらに障子を閉じ、室内にすわるや、燭台《しょくだい》をひき寄せた。
もはや、信長がこの世でなすべきことは、自分を殺すこと以外にはなかった。この自尊心のつよすぎる男にとっては、自分を殺す者は自分のほかにありえないであろう。
信長は、腹を掻《か》き切った。たれが介錯《かいしゃく》をしたのか、よくわからない。首が落ち、活動をようやく停止したその体は、ほどなく炎で焼かれ、灰になった。
この信長の死よりもわずか以前に、その夫人濃姫が庭さきで死んだ。濃姫はかつてその居城の奥を離れたことがなかったが、このたび信長にすすめられ、共に安土を出、京に入り、この本能寺にいた。
「敵は光秀」
ときいたとき、濃姫の胸はどうであったであろう。彼女は即座に身支度をし、二重に鉢《はち》巻《まき》を結び、辻《つじ》ノ花という大模様を染めた小《こ》袖《そで》に花《はな》田《だ》色《いろ》の襷《たすき》をかけ、白《しら》柄《え》の薙刀《なぎなた》をとって殿舎の広庭へ出、そこで戦ううちに明智方の山本三右衛門という者の槍にかかって崩れ、そのまま果てた。濃姫は子がなく、彼女もまた実父道三の血をあとに残さなかった。
死が、さらにつづいている。
妙覚寺宿所の嫡子信忠であった。
この寺は、室町薬師寺町にあり、二条新御所はすぐそばに石垣をそびえさせている。
信忠は妙覚寺が要害でないと見、同勢をひきいて打って出、包囲軍を打ち崩しつつこの二条新御所に移った。
移ってから、信忠はこの新御所の居住者である誠仁親王を戦火にひき入れることをおそれ、包囲軍に対して軍使を送った。その言うところは、親王が他の場所に移座されるまで戦いをやめよ、ということであった。
このとき、光秀は三条堀川に本営をかまえていたが、即座にそれを承知した。
親王は、東の城門から荷輿《にないこし》で出られた。この荷輿は、たまたまこの夜親王のそばにあった連歌師里村紹巴が町家をかけまわって手に入れてきたもので、粗末な板輿であった。
親王は去り、銃声がおこり、戦闘は開始された。
信忠付の士には、高知な者が多かった。かつて斎藤道三の家来だった者で、猪子兵助《いのこひょうすけ》という者がいる。信長若年のころ、道三と信長が富《とみ》田《た》の聖徳寺で舅婿《しゅうとむこ》の対面をした帰路、道三が、「兵助、信長をどう見たぞ」とたずねたあのときの猪子兵助である。兵助はそのとき、「ききしにまさるうつけ者でござりまするな」といった。が、道三はかぶりを振り、
「あの者の門に、おれの子らは馬をつなぐことになるだろう」
といった。
その道三も長《なが》良《ら》川《がわ》の河《か》畔《はん》で義子のため殺され、あのとき道三が将来を予言した婿の信長は予言された以上の生涯を生き、しかも道三がむかし、夫人小見《おみ》の方《かた》の甥《おい》ということもあってその才智を愛した光秀によって今暁殺された。その三代の乱を、兵助は見た。余談ながら、兵助はなお生きつづけている。二条新御所陥落のあと乱軍のなかを斬《き》りぬけて落ち、その後秀吉につかえて余生を全うした。
信忠は午前十時まで戦い、やがて二条新御所に火を放ち、腹を切り、短刀を突きたててから、
「死体はあの縁の下にほうり入れよ」
と命じ、鎌《かま》田《た》新介という者に首を打たせて果てた。そのあと火炎が御所を蔽《おお》い、この信長の嫡子の死体をふくめてことごとくを灰にした。
幽斎
細川藤孝は、丹後宮津城にいる。
城は若狭《わかさ》湾に面して海光あかるく、このあたりに歌の名所の天ノ橋立があり、風雅の道に長《た》けたこの男の居城にふさわしい。
藤孝はいまでは丹後一国十二万三千五百石を領している。長岡玄《げん》蕃《ば》、松井康之といった有能の子飼いを家老とし、そのうえ嫡子忠興《ただおき》の器量も大名のあとつぎとしては申しぶんがない。藤孝ことしは四十八になるが、その前半生をかえりみて、いまほど幸福な時期はないであろう。
藤孝は風雅のあらゆる道に通じ、それぞれ独特の境地をひらいていたが、しかし伝統を愛することのこの男よりはなはだしい者はちょっといない。
歌道についても藤孝は公卿の三条西実枝《さんじょうにしさねえだ》から古《こ》今伝授《きんでんじゅ》という秘伝を相続して、その家元になっているし、書道についても、御《お》家《いえ》流がほろびるのをおそれ、それを相続するために家来の清原秋共という旧幕臣をわざわざ越前までつかわしている。越前の草深い里に姓不詳孝成《よしなり》という者が、尊円《そんえん》法親王いらいの筆法をつたえていたのを知ったからである。京の公卿の烏丸光広《からすまるみつひろ》や飛鳥《あすか》井《い》雅宣《まさのぶ》がこの藤孝の美挙に感激し、
――かの殿を書道の守り神とせん。
とまでいったほどであった。
藤孝のこの異常な伝統擁護の情熱は、ひとつには性格であろう。ひとつには京都的伝統が応仁《おうにん》いらいの戦乱のためにほろびようとしている。それを再発掘し後世にうけつぐのは自分しかいない、というはなはだしい使命感があったからに相違ない。藤孝が、旧幕臣ということとはべつに、一個の知性としても足利幕府の再興をのぞんでいたのは、こういう伝統維持の使命感につながるものであったろう。
その足利幕府を信長がほろぼした。
そのほろぼしたことを、藤孝は是認した。これは藤孝にあっては矛盾ではない。
「信長公は、天子・公卿という伝統を回復してくれた」
と、藤孝はよろこんだ。思ってみれば足利の伝統よりも天子・公卿の伝統のほうがはるかにふるく、はるかに醇美《じゅんび》である。そうおもって、藤孝は信長の政治的方向を、なんの抵抗もなく自分のなかに受け入れた。
それに信長は、かれ一個のためにはかりがたい幸福をもたらしてくれた。
十二万余石の大名になれた。信長は巨大な福の神であったといっていい。
むかしの藤孝の窮乏は、おもうだに身のすくむようなすさまじさである。流亡の将軍を奉じて近江《おうみ》朽《くつ》木《き》谷《だに》に身をひそめていた若年のころ、夜の読書のために神社から燈油をぬすんだこともあったし、なにかのときに弁当をつくる金さえなく、妻の髪を切って売ったこともある。
流亡し、転々し、ついに信長という不世出の伯楽《はくらく》を得て織田家の大名になった。
もっとも、厳密には藤孝は大名ではない。子の忠興が大名である。
これには理由がある。一昨年、信長から丹後一国十二万余石を拝領したとき、藤孝はこれを遠慮した。子の忠興の名義で頂戴《ちょうだい》した。
「律《りち》義《ぎ》な男だ」
と、信長はそのとき感心した。藤孝は足利家の旧臣である。二君に仕えず、という教養人らしいところを藤孝はみせたのである。
実質的には、おなじことであった。藤孝はあくまでもこの新領国の支配者であり、細川家の当主であり、官は従《じゅ》四《し》位下《いのげの》侍従であり、いささかも実質にかわりはない。
名義だけが、忠興である。
この聡明な男にはそういう巧妙さがあり、見方によっては保身にかけては奸佞《かんねい》といえるほどの智恵をもっている。
この藤孝は、安土で備中出陣の命をうけるや、その出陣準備のためにただちに丹後宮津に帰った。
細川藤孝は、つねに明智軍団に属する。それが織田家の軍制であった。織田家は五大軍団にわかれ、柴田、丹羽、羽柴、滝川、明智がそれぞれの長で、小さな大名はそのどこかの軍団に属していた。これを、与《よ》力《りき》大名とよばれる。細川藤孝や筒井順慶は、光秀の与力大名であった。
藤孝は、丹後宮津からじかに備中の陣へゆく。そこで信長や光秀と落ちあう。
天正十年六月三日。
これが、藤孝の宮津出発の予定の日であった。すでにその前日、信長が本能寺で死んでいることを、藤孝は知らない。
当然ながら、出陣のことは予定どおりにはこばれた。子の忠興が、前隊を指揮する。親の藤孝は、後隊を指揮してゆく。
当日、前隊が忠興とともに城門を出た。
後隊の藤孝は出発までに多少余裕があり、奥の一室で煎茶《せんちゃ》をのんでいた。
話し相手は、大津からきた十四《じゅうし》屋《や》という町人である。十四屋は、かねがね藤孝の金銭感覚の無さをふしぎにおもっていた。藤孝は、実力のともなわぬ名門の家にうまれ窮乏を身に沁《し》みてあじわったせいか、極度な倹約家であった。衣服も具足も黒しか用いない。黒ほど高雅な色はないとおもっているせいでもあったろうが、一つはよごれがめだたぬためでもあった。またこれほどの趣味人でありながら、城内のふすまはいっさい白で、絵ぶすまなぞは用いない。そのように諸事倹約にはげんでいながら、おかしいほどに金が貯《た》まらないのである。
「今日はひとつ、いかにして金をためるかというお話をいたしましょう」
と、十四屋はいった。藤孝はひざをたたき、
「それそれ。その秘伝を教えてくれれば、すぐにでも銀百枚を呉れてやろう」
というと、十四屋はすかさず、
「そこでございます。すぐそのようなことを申されますゆえ、いつもお貧乏であられまする。秘伝はそのあたりでございます」
といった。藤孝は大笑いしたが、このぬけ目のない男にも、これほどの大穴があいていればこそ、家来にも慕われ、同僚にもよく、一軍の将にもなれたのであろう。
そんな雑談をしているうちに、城門を出たはずの忠興があわただしく戻《もど》ってきた。もともと感情の不安定な若者だが、血相がすっかり変わっている。
「父上、お人ばらいを」
と言った。藤孝は異変を察し、十四屋を退出させた。そのあと庭に飛脚がまわって、うずくまった。
藤孝は、手紙をよんだ。藤孝がかねて懇意にしていた愛宕山下坊《しものぼう》の僧正幸朝からの急使で、おどろくべき事実がかかれていた。昨暁《さくぎょう》、信長は本能寺で討たれたという。
討った男は、なんと光秀だというではないか。
「し、信じられませぬ」
と、忠興は狼狽《ろうばい》しきっていた。
光秀は、忠興の舅《しゅうと》である。この若者が家中の評判になるほどに溺愛《できあい》しぬいているお玉《たま》、のちの洗礼名伽羅奢《ガラシャ》――の父が、光秀であった。忠興の立場は、微妙というほかない。
それに忠興は、たぐいのまれな器量人を、実父と舅に持った。父の藤孝を尊敬することはふかいが、舅の光秀に対してもあおぐべき人間の一典型と思いなしている。
若い忠興は、人間の行動を倫理的に見たがるかたよりがある。主殺しとは八虐《はちぎゃく》の大罪悪ではないか。とおもうと同時に、忠興には、あの謹直で思慮ぶかい光秀が、このようなことを仕出かすとは想像もつかぬ。信じられませぬ、と叫んだのはそのことであり、忠興はできれば誤報であるとおもいたい。
「与一郎」
と、藤孝は忠興を通称でよんだ。
「この世には、信じられぬことがいかほどもある。わしの前半生は、そのようなことの連続であった。まず、人数を城にかえせ」
忠興は退出し、そう処置した。
そのあいだ、藤孝は沈思している。いずれ光秀から飛報がくるであろう。光秀は藤孝をこそ頼りにしているにちがいない。
藤孝は、考えた。藤孝の考えるところ、忠興のような倫理的判断ではない。ひたすらに、政治的判断である。
(光秀は、保《も》つか)
ということであった。保つまい、と見た。保つはずがない。光秀の行動はあくまでも衝動的であり、そのためのなんの下工作もしていなかった。藤孝にも下相談に来なかったところをみると、他の将に対してもそうであろう。みな、寝耳に水にちがいない。織田家の将も世間も、横《よこ》っ面《つら》をはりとばされたような衝撃を受け、同時にかぎりなく不愉快に思うであろう。
(光秀は、人気をうしなう)
となれば、他の四人の旗頭《はたがしら》、柴田、丹羽、滝川、羽柴に人気があつまり、かれらのうちのたれかが京の光秀を攻めれば、その旗のもとに諸将も人気もあつまる。
(光秀は、ほろびる)
と、藤孝は見た。
やがて忠興が庭さきの処置を終えてふたたび入ってきたとき、藤孝の決心はさだまっていた。
「わしは光秀に与《くみ》しない」
忠興には、藤孝は倫理的に自分の心境を説明した。
「自分は信長公の御恩をこうむることふかく高く、海山ともたとえきれぬほどである。されば追善のために髪を切る」
と言い、その場で児《こ》小姓《ごしょう》をよび、髻《もとどり》を切らせた。
髪は大童《おおわらわ》になり、同時に俗名をやめ、かねて用意していたゆうさい《・・・・》という号を用いることにした。
幽斎
と、紙片に書いた。
藤孝のこの処置は、三日を経ずして京へつたわるであろう。単に光秀の挙に加盟せぬというだけでなく、光秀の立場を決定的にわるくすることになるであろう。なぜならば、光秀と肝胆《かんたん》相照らした藤孝でさえ信長の追善供《く》養《よう》のために髪を切ったとなれば、世間は、
――藤孝どのまでが。
とあって、光秀への批判、不人気、悪感情はいよいよ増すにちがいない。光秀に味方しようという大名までが、二ノ足を踏むのではないか。藤孝は、この髻を切った政治的影響を、そこまで見ぬいている。
「おことは別だ」
と、忠興にいった。
「おことは、光秀とは婿舅《むこしゅうと》の仲になる。光秀に与すのもよし。勝手にせよ」
「冗談ではござらぬ」
感情家の忠興は、かっとなった。藤孝は、子の忠興の性格を、知っている。察したとおり、忠興は短刀をぬき、左手をあげて自分の髻をつかみ、自分の手で切りはらってしまった。
「号は、さんさい《・・・・》と致しまする」
「どういう文字ぞ」
「三斎」
と、忠興は書いた。
(これは、光秀にとって痛手になる)
婿にまで見捨てられた、という評判が立つであろう。しかし藤孝にしてみれば、亡《ほろ》ぶべきものは迅速《じんそく》に亡ぶがよい、でなければ細川家が、この事変から思わぬ火の粉をかぶらねばならぬかもしれない。
(しかし、たれが光秀打倒の旗頭として中原《ちゅうげん》にあらわれ出てくるか)
それまで、日本海岸若狭湾に面したこの僻《へき》地《ち》の城で情勢を静観していたほうが利口であろう。
その翌日、京の光秀から急使がきた。使者は、この役目には最適任の人物であった。
沼田光友という旧幕臣で、幕府瓦《が》解《かい》後、明智家の客分になっている人物である。むろん、幽斎《・・》とは懇意であった。懇意どころか、姻戚《いんせき》である。幽斎の妻、つまり忠興の母は沼田上《こう》野介《ずけのすけ》光兼という幕臣の娘で、光友はこの沼田家の係累《けいるい》のひとりであった。
光友は、光秀の手紙を携行している。
幽斎は受けとって読んだ。
信長、われにたびたび面目を失わせ、わがままのふるまいのみこれあるにつき、父子(信長・信忠)ともに討ち、なが年の鬱積《うっせき》を散じた。貴殿にあってはさっそく人数を召し連れられ、早々に御上洛《じょうらく》あれかし。摂津(大阪府)がさいわい闕国でありますれば、ここを御《ご》知行《ちぎょう》なされよ。
幽斎が意外におもうほど、簡単で、ごく事務的な文面である。光秀にすれば、幽斎が自分に反対の意見をもっていようとは、おもいもよらぬのであろう。
(なんと人の好い、うかつ《・・・》な男であることか)
幽斎の感情は、複雑であった。敵としてではなく、友として光秀の政治感覚の欠如を歯がゆくおもった。所詮《しょせん》は光秀は最も優れた官僚であり最も卓《すぐ》れた軍人であっても、第三流の政治家ですらないのであろう。幽斎はかねがねそうおもっていたが、この手紙のあまさをみて、つくづくとそう思った。
(あの男は、前後の見さかいもなく激情のあまり、信長を殺した。それだけのことだ。天下を保《も》てる男ではない)
そういう光秀を憐《あわ》れとも思い、あわれとも思えばつい正気で涙ぐむことさえできる幽斎である。
その幽斎の涙をみて、沼田光友は、
「ご加担くだされましょうな」
と、勢いこんでいった。
幽斎は、政治家にもどった。頭《ず》巾《きん》をとり、頭を撫《な》でた。
「これに、気づかぬか」
他は、いわない。光友も、さとった。
なにごとも徹底せねばやまぬ忠興のごときは沼田光友を殺そうとまで父に献言したが、父はおだやかにとめた。
「使者まで、殺さずともよい」
光友はほうほうの体で宮津を去った。
沼田光友が京にもどって復命したのであろう。光秀からあわただしく飛脚便がとどいた。
幽斎は、その書信をひろげた。書体までが蒼《あお》ざめているような書きぶりだった。
「信長公を悼《いた》んで髻をお払いなされたとのこと、驚いている。それをきき、自分もいったんは腹が立ったが、それも人情で致し方がないとも思った。しかし事態がこうなった以上、自分に味方をしてもらいたい。貴殿にさしあげる国としては、摂津を用意している。いや、但馬《たじま》と若狭を望まれるならそのお望みどおりにする」
と、急に辞色をやわらげ、むしろ哀願するような文臭さえある。人気のあつまらぬ光秀の窮状が目にみえるようである。本能寺ノ変後、たれよりも困惑しているのは光秀自身ではないかと幽斎にはおもわれた。
「われら不慮の儀、存じ立て候事《そうろうこと》」
と、光秀の手紙はつづく。「自分がこの不慮の儀(本能寺の一件)を思い立ったのは」という意味である。
「自分の婿であり貴殿の嫡子である忠興を取り立てて大身にしたかったためで、それ以外に他意はない。五十日、百日のうちには近畿を平定することになろう。近畿平定後は、自分は隠居をし、天下を忠興にゆずり渡したい」
とまでへりくだって書いている。この哀切きわまりない手紙が、二十世紀ののちにいたるまで細川旧侯爵《こうしゃく》家に所蔵されて人目に触れつづけてゆくであろうとは、光秀はむろん思わなかったであろう。光秀は、ひたすらに哀願した。
(あまい)
幽斎の心はうごかず、むしろこの場合、光秀と義絶することによって、世間に自分の立場を鮮明にし、つぎの天下に生きのびるための布石にする必要があるとおもい、断交の手紙を送った。
同時に、光秀の娘である忠興の嫁お玉を一時離縁し、丹後国三戸野《みどの》に幽居させた。
ほどなく備中にあった羽柴秀吉が兵を旋回し、光秀を討つべく山陽道を駈《か》けのぼっていることを幽斎は知り、急進中の秀吉に誓書を送ってその隷《れい》下《か》に入るべき旨《むね》を誓った。
(秀吉の世が来る)
と、幽斎はおもったのである。事実、亡君のうらみを晴らすという、この場合もっとも絢爛《けんらん》たる名分をかかげた秀吉の陣頭には、時代の熱気があつまっていたし、それを支持する織田家の群小大名は、秀吉をかつぎあげることによって家運を拓《ひら》こうとしていた。
(北陸の柴田勝家は、早急には京に到着できまい。関東の滝川一益は遠くはなれすぎているうえに人気がない。丹羽長秀は織田家の老臣であるというにとどまる。才略徳望ともにそなわって、しかも京に近い場所にいるのは、羽柴秀吉である)
幽斎は、そうみていた。丹後宮津の幽斎の観望するところ、光秀はすでに天下取りの者どものための、哀れな餌《え》食《じき》としてころがっているにすぎない。
小《お》栗《ぐる》栖《す》
光秀は謹直な男だが、陽気さがない。洛中《らくちゅう》のひとびとも、
「この人がはたして天下を保てるだろうか」
と疑問におもった。
時勢の人気に投じ、あたらしい時代をひらく人格の機微は、人々の心をおのずと明るくする陽気というものであろう。光秀は怜《れい》悧《り》で小《こ》律《りち》義《ぎ》な印象をひとにあたえていたが、六十余州をおさえて立つほどの人物かといえば、人々は多分に疑問を感じた。
この疑惑は、光秀の人気に微妙に影響し、洛中の人心は新時代が到来したといっても、気味わるいほどに沸かなかった。
――織田家には、信長によって取り立てられ、信長によって磨《みが》きあげられた豪邁《ごうまい》の将が多い。
いずれかれらのうちの何者かが惟任《これとう》殿(光秀)を追って京の主人になるのではないか。
そんな観測が、たれの胸中にもあり、京の者は屋内に身をひそめ息を殺して時間の経過を見まもっているという感じであった。
光秀は、その自分に不利な空気を敏感に察しられるたちの男であった。不利な要素に過敏な性格というのは光秀の欠陥であるにちがいない。そのぶんだけ光秀の言動に爽快《そうかい》さを欠き、そのぶんだけ勇断さがなくなり、自然、小さく暗くなった。
光秀は京を制したあと、すかさず信長の根拠地である近江に行動し、短時間でこれを制した。本能寺ノ変後、三日で安土、長浜、佐和山の諸城を接収している。
五日、光秀は安土城に入り、天守閣にのぼり、信長が多年にわたって貯蔵した高価な茶道具や金銀珠玉を、家来や新付の諸将に惜しげもなくわかちあたえた。
(人の心を沸かせたい)
と、光秀はひたすらに願望した。この男の小心さといえた。かれの眼前には天下を決すべき決戦が刻々近づきつつあるというのに、金銀を、それへの軍資金にあてず、味方や世間への人気とりに使わざるをえなかった。そのことに、不自然なほどの浪費を光秀はした。
――惟任殿は、大《たい》気《き》者《もの》である。
という評価を光秀はとりたかった。この金銀で人気を買い、いままでの暗いばかりに堅実な光秀の印象を世間に忘れさせたかった。
安土滞在中の七日、京の朝廷から吉田兼《かね》見《み》が勅使となって賀意をのべにきた。朝廷は歴世、勝者にのみ微笑する。
吉田兼見は従二位の高位にはあったが、職は神祇職《じんぎしょく》であり、正統的な公卿《くげ》ではない。その兼見がことさら勅使にえらばれたのは、光秀と懇意であるためであった。
兼見は、光秀に友情をもっている。姻戚《いんせき》でもあった。細川幽斎の娘を、兼見はもらっているのである。兼見は光秀の本能寺襲撃の直後、光秀のために宮廷工作を担当し、光秀のこんどの行動を公卿たちに理解させるべく骨を折ってきた。光秀のためには蔭《かげ》の人気工作者というべきであろう。
「洛中の人気はいかがです」
光秀は、怖《おそ》れるような表情できいた。
兼見は首をかしげ、しばらく答えなかった。やがて、
「禁《きん》裡《り》奉仕の者も洛中の者も、川蜷《かわにな》のようにだまっています」
といった。
光秀はこの男のくせで、ふと悲しげな表情を片頬《かたほお》に泛《うか》べた。世間が沈黙しがちだというのは、光秀に対する倫理的不快感が瀰《び》漫《まん》しているためか、それともつぎの時代がすぐ来るという見通しがあるためであろう。人々はつぎの主権者の時代にも生きねばならない。自然、光秀に心やすく迎合する気になれないのではあるまいか。
「私は、ここで孤《ひとり》でいる」
光秀は、ふと洩《も》らした。時代のなかで孤独であるという意味であろう。ここで《・・・》というのは、安土城のことである。光秀は日本の中心であるこの安土城を得、ここにすわったが、しかしかつての居住者の信長とはちがい、光秀は時代の中心に安定せず、漂《たゆと》うている観があった。
「なにぶん、京のことはよろしくおたのみ申します」
光秀は、兼見に慇懃《いんぎん》すぎるほどの礼をし、そのあと兼見におびただしい金銀をあたえた。
翌日、兼見の京へ帰るのを見送ったあと、光秀はその根拠地のひとつである琵琶湖畔の坂本城に帰り、この城を明智左馬助光春にまかせ、その翌九日、兼見のあとを追うようにして京に入った。
坂本から京へ入る口は白河口だが、京の鬼門にあたる。光秀はそれをさけ、わざわざ遠まわりをして京の玄関口ともいうべき粟《あわ》田《た》口《ぐち》に入った。道は三条大橋に通じている。その沿道に朝廷の百官が出むかえて、凱旋《がいせん》将軍の光秀を出迎えた。
(兼見の配慮だ)
と思い、光秀はうれしくもあり、淋《さび》しくもある。兼見が懸命に煽《あお》ってやっとこれだけの公卿があつまったのであろう。公卿や門跡《もんぜき》たちは口々に賀辞をのべた。
「いや、痛み入ります」
光秀はいちいち鄭重《ていちょう》に答礼した。信長の、公卿を公卿ともおもわぬ傲岸《ごうがん》不《ふ》遜《そん》さからみれば非常なちがいであり、光秀はしんぞこから公卿・門跡という歴史的権威を尊敬しているようであった。
光秀はこのあと、思いきった金銀くばりを断行した。京雀《きょうすずめ》、都童《みやこわらべ》という言葉があるように、京は世論の醸成地であり、京での評判が諸国へひろがって天下の世論になる。口のうるさい京都知識人の口を買収できるなら、どんなに金をつかってもいまの場合惜しくはない。そんな心境であった。
まず、銀五百枚を禁中に献じた。さらにもっともうるさい知識人の巣窟《そうくつ》である臨済禅の五山と大徳寺にもそれぞれ銀百枚ずつ贈り、合計千百枚をこれに費《つか》った。
ついで京都市民に対しては平等に地子《じし》(土地税)を免除した。
「左様に金銀を撒《ま》かれては、このさき軍費が手詰りになるのではありませぬか」
と老臣のなかには諫《いさ》める者もあった。なるほど金銀を撒くことも大事だが、旧織田軍団との決戦のあとで撒けばよい。いまは戦備専一に金穀をつかうべきではないか、というのが老臣たちの心配であった。
が、光秀は、とりあわない。
このころ光秀は、丹後宮津城にいる盟友細川藤孝の髻《もとどり》を切った事実を知り、恨みと憂愁をこめた手紙を送っている。
「このような一挙に出たのは、ひとえに忠興《ただおき》の末よからんと思ったがためだ。近畿を平定し次第、あとは忠興や十五郎(自分の嫡子《ちゃくし》)にゆずって隠居するつもりである」
だから味方をしてくれ、という結論であったが、しかし文章のにおいは懇請よりも哀願に似ていた。光秀は形勢が自分に日に日に非であることをさとっている。大和の筒井順慶もそうであった。
縁戚にありしかも組下大名であるという点では細川藤孝とかわらない。その上、順慶にとって光秀は筒井家復興の恩人であった。大和の領主であった筒井家が、松永久秀のために所領を斬《き》りとられてしまっていたのを、信長の松永退治ののち光秀が口をきいて筒井家の所領を復活させてやったのである。光秀にとって、たれが参加して来なくても細川藤孝と筒井順慶だけは加盟してくるものと信じきっていた。
事実、筒井順慶は味方をしてくれた。それも微妙すぎるほどの参加であった。ほんの一部だけを光秀の軍に従軍させ、形ばかり近江平定戦に参加したが、当の順慶は大和郡山《こおりやま》城から出て来なかった。ばかりか、順慶は羽柴秀吉を盟主とする旧織田系の連合軍が山陽道を猛進しつつあるという報をきき、態度をさらに変えた。明智軍に与力させている隊をも大和へひきあげさせてしまったのである。彼等は、光秀にあいさつさえせず、京都郊外から消えた。
(筒井でさえ、そむいたか)
光秀は、自分の人気の凋落《ちょうらく》をまざまざと見せつけられたような気がした。
この形勢と心境のなかで、光秀は金蔵から金銀を掃き出すような勢いでそれをくばっている。もはやこの段階では人気とりというようなものではなかった。
光秀としては、浮世での望みを絶ちはじめている。むしろ望みが絶え、肉体がほろんだあとの人気を後世に買おうとしていた。そのために金をまいている。金銀をもらった天子、親王、公卿、門跡、五山の僧たちは、光秀の心境や立場を、おそらくはその死後において弁明してくれるであろう。
山陽道を駈《か》けのぼっている羽柴秀吉の猛進はすさまじい。ある日などは泥濘《でいねい》のなかを一日二十里(八十キロ)という、ほとんど記録的な行軍速度で進んだ。
進軍しつつも、みちみち四方に軍使を発しては織田家の諸将の従軍をもとめた。かれらはあらそって秀吉に誓書を出し、秀吉を押したてることによって家運をひらこうとし、従軍をちかった。秀吉はその気運をつかまえ、気運を自分の手で沸騰《ふっとう》させつつ自分の未来にむかって馳《は》せのぼりつつあった。天は秀吉に微笑をあたえた。秀吉が信長から与えられていた軍勢は、敵が毛利氏だけに圧倒的に多い。
――秀吉が勝つ。
という計算は、たれの目にもあきらかであった。自然、人は勝つほうに参加し、その人数はいよいよふくれあがった。羽柴秀吉がついに摂津尼崎城に到着し、
「精のつくものを呉れよ」
といって大蒜《にんにく》をなま焼きに焼いて喫した六月十一日の段階で、その人数は三万二千余にまでなっていた。
孤軍の明智軍は、一万数千でしかない。
当然、光秀はあせった。
(せめて順慶だけなりとも)
と思い、家来の藤田伝五という者を大和郡山城にやって詰問させ、出勢を催促した。口だけでは順慶は動くまいとおもい、威圧を加えようとした。光秀は六月十日、みずから軍を指揮して京を出発し、南下して男山《おとこやま》(石清《いわしみ》水《ず》八幡《はちまん》)の裏を通って洞《ほら》ケ峠《とうげ》に進出し、ここに陣を布《し》いた。
洞ケ峠から順慶の居城の大和郡山までわずかに二十キロである。
「きかねば、郡山を攻める」
という恫喝《どうかつ》の姿勢であった。しかもこの峠は、足もとに京都・大坂間の平野をひろげ、それを一望におさめることができた。その野に、数日も経《た》てば羽柴秀吉の大軍が北進してくるであろう。ちなみに筒井順慶が洞ケ峠に陣し、眼下に展開する明智・羽柴両軍の勝敗を観望したといわれるのはなにかのまちがいであろう。光秀がこの峠に陣した。峠は、大阪府北河内郡の最北端にあり、京都府に接している。
光秀はこの日、終日峠の上で順慶を待ち、ついに夜営した。その夜があけても順慶は来ない。陽《ひ》が高くなったが、筒井順慶はついに郡山城を出て来なかった。
「望みは絶えたか」
光秀はつぶやき、峠の天をあおいだ。抜けるほど青かった。すでに梅雨があけ、山河は青葉でいろどられ、四季のなかで京都郊外のもっとも美しい季節になっていた。
光秀は、落胆した。峠に出てきたのも、青葉を見物するだけのことになった。順慶が来ぬとなれば、こんなところでぐずぐずしてはいられない。京都南郊にもどって羽柴軍を迎撃すべき布陣をしなければならなかった。
正午、光秀は坂をおりた。降りつつ、自分の運命が時代から転落してしまっていることを知った。
(それにしても、あっけなさすぎる)
と、光秀はおもわざるをえない。どこに手違いがあったのであろう。光秀の計算では、計算として精《せい》緻《ち》なつもりであった。しかしあくまでも計算は現実ではない。計算は計算にすぎなかった。
(そういうことらしい。最初から、間違いのうえに立って算用を立てた。あやまりは根本にある)
光秀は、うすうす気づいていた。計算の根本にある自分についてである。どうやら新時代の主人になるにはむいていないようであった。
(そうらしい)
かつての道三は適《む》いていたのであろう。信長は、刻薄、残忍という類のない欠点をもちながら、その欠点が、旧弊を破壊し、あたらしい時代を創造しあげるのに神のような資質になった。光秀は、考えた。かれには、時代の翹望《ぎょうぼう》にこたえる資質はないようであった。ひとびとは光秀を望まず、秀吉を望みつつある。
光秀は、坂をくだった。
陣を下《しも》鳥羽《とば》方面に布き、しかも純粋の野戦陣形をとらなかった。勝竜寺城、淀《よど》城をいそぎ修繕し、要塞《ようさい》戦の要素を加味した。城の防衛力を恃《たの》まざるをえないほど光秀の人数はすくなかった。
この戦術形態こそ、光秀の心情のあらわれであろう。決戦と防衛のいずれかに主題を統一すべきであるのに、両者が模糊《もこ》として混濁していた。
この、やや尻《しり》ごみして剣を抜こうとする光秀の戦術思想を、宿将の斎藤内蔵助利三《としみつ》が批判し、反対し、
「味方のこの小勢では、防衛に徹底すべきでありましょう。思いきって近江坂本城にしりぞき、今後の形勢を観察なされてはいかがでありましょう」
と内蔵助はいった。内蔵助のいうところはもっともであった。光秀はこの期《ご》にいたっても全力をこの野外に投入せず、兵力の四分の一を近江の坂本、安土、長浜、佐和山の四城に置き据《す》えているのである。光秀にすれば野外で敗けたときに近江へ逃げるつもりであるらしい。
「いつもの殿らしからぬ」
と斎藤内蔵助は、その不徹底ぶりをついたのである。光秀はたしかに心が萎《な》え、はつらつとした気鋭の精神をうしなっていた。すでにみずからを敗北のかたちにもちこんでいた。貧すれば鈍す、という江戸時代の諺《ことわざ》はこのころにはまだなかったが、あれば斎藤内蔵助はそう言って主人をののしったであろう。
十二日、雨。
この夜、秀吉軍の接近を光秀は知り、むしろこれを進んで迎え撃とうとした。斎藤内蔵助はふたたび諫《いさ》めた。
――この小人数で、なにができる。
とどなりたかった。ところが光秀は全体の戦術構想においては攻守いずれにも鈍感な陣形をたてているくせに、この進襲迎撃については異常なほど勇敢で頑《がん》固《こ》であった。あくまで固執し、進撃隊形をきめ、それぞれの隊長に、
「あすの夜明け、山崎の付近に参集せよ」
と命じた。光秀がきめた予定戦場は山崎であった。
雨はやまず、光秀はそのやむのを待たなかった。豪雨をついて下鳥羽を出発し、桂川《かつらがわ》を渉《わた》った。この渡河のときに、明智軍が携行していた鉄砲の火薬はほとんど湿り、濡《ぬ》れ、物の役にたたなくなった。
(なんということだ)
光秀は、唇《くちびる》を噛《か》み、いっそ噛みちぎりたくおもった。鉄砲の操作と用兵については若年のころから名を馳せ、織田家につかえたのもその特技があったからであり、その後も織田軍団の鉄砲陣の向上に大きな功績をのこした。いまなお鉄砲陣のつかい方にかけては日本で比類がないといわれているのに、この手落ちはどういうことであろう。
(あすは、十分の一も鉄砲陣が使えぬ)
そのあすが、来た。
天正十年六月十三日である。戦いは午後四時すぎ、淀川畔の天地をとどろかせて開始され、明智軍は二時間余にわたって秀吉の北進軍を食いとめたが、日没前、ついにささえきれず大いに散乱潰走《かいそう》した。光秀は戦場を脱出した。
いったんは、細川藤孝の旧城である勝竜寺城にのがれたが、さらに近江坂本にむかおうとし、暗夜、城を脱して間道を縫った。従う者、溝《みぞ》尾《お》庄兵衛以下五、六騎である。大亀谷をへて桃山高地の東裏の小《お》栗《ぐる》栖《す》の里《さと》にさしかかった。このあたりは竹藪《たけやぶ》が多い。里はずれの藪の径《みち》を通りつつあったとき、光秀はすでに手綱を持ちきれぬまでに疲労しきっていた。
「小野の里は、まだか」
小声でいったとき、風が鳴り、藪の露が散りかかった。
不意に、光秀の最《さい》期《ご》がきた。左腹部に激痛を覚え、たてがみをつかんだ。が、すぐ意識が遠くなった。
「殿っ」
と溝尾庄兵衛がわめきつつ駈けよってきたとき、光秀の体は鞍《くら》をはなれ、地にころげ落ちた。槍《やり》がその腹をつらぬいていた。藪のなかにひそんでいたこのあたりの土民の仕業であった。
幽斎細川藤孝は、このときなお丹後宮津城にあり、この戦闘には参加していない。
戦後ほどなく丹後から上洛し、本能寺の焼けあとに仮屋を設け、京の貴顕紳商をよび、信長追善のための百韻連歌の会を興行した。
この日、光秀を粟田口に出迎えた公卿たちの過半はこの連歌会に参加してきたし、むろんそのなかに連歌師紹巴《しょうは》もまじっていた。
このときの追善連歌が遺《のこ》っている。
墨染の夕《ゆうべ》や名残《なご》り袖《そで》の露 幽斎
魂《たま》まつる野の月のあき風 道澄
分け帰る道の松虫音《ね》に啼《な》きて 紹巴
あとがき
――国《くに》盗《と》り物語を書き終えて――
光秀がほろび、本能寺は焼けあとのままである。その焼けあとへ、丹後宮津の居城から出てきた幽斎細川藤孝が、仮屋を建て、洛中《らくちゅう》の文人をあつめて信長追善の連《れん》歌《が》興行をする。乱世でぶじ生き残るためには、これほどあざやかな生き方はないであろう。
「さすがは幽斎殿」
と洛中のひとびとからほめられ、筋目よきひとはなさることがちがう、と秀吉与力の荒大名たちからも賞讃《しょうさん》された。幽斎には、フランス革命からナポレオン政権まで生きて、つねに権力の中枢《ちゅうすう》にすわりつづけたジョセフ・フーシェを思わせるものがある。
幽斎は、秀吉とは懇意ではない。幽斎は織田家に仕えて以来、つねに旧友の明《あけ》智《ち》光秀の与力大名でありつづけた。その経歴が幽斎が新時代に生きるためには不利であった。それもあって、焼けあとでの追善連歌興行というもっとも劇的な、しかも政治色のない催しの主催者になることによって、自分の心情のさわやかさを証拠だてようとしたのであろう。幽斎の演出はつねに典雅であった。
秀吉はそういう幽斎に対し、終生慇懃《いんぎん》な態度をうしなわなかった。所領は織田時代のままであったが、朝廷に奏請して幽斎の官位を二位法印にすすめた。これほどの高位をもった大名は豊臣《とよとみ》家にはない。
秀吉は、幽斎の風雅を愛した。自分の歌道の添削者にさせたし、また気の張る宴遊には幽斎を相伴役《しょうばんやく》とした。秀吉が家康と和《わ》睦《ぼく》したときの宴席にも幽斎が相伴し、ともすれば殺気立つ席の空気をやわらげさせている。
秀吉が晩年、朝鮮出兵の計画を立てたとき幽斎はそれをたたえ、
日の本のひかりを見せてはるかなる
もろこしまでも春や立つらん
と、讃美している。しかし明敏な幽斎は、内心でこの出兵のために豊臣政権は人心をうしなうかもしれぬと思ったであろう。それに秀吉には後継者がない。幽斎は、洞察《どうさつ》したはずである。このころから、幽斎は、前田利家《としいえ》と徳川家康に濃厚に接近している。前田家とは姻戚《いんせき》関係をむすび、家康とは個人的に昵懇《じっこん》にした。これよりさき、家康も幽斎に接近しようとしていた。明智事件のあと、離縁蟄居《ちつきょ》させていた光秀の娘・忠興《ただおき》の妻を、家康が秀吉にとりなして復縁させている。このことから両者の親交は深まった。幽斎にすれば、つぎの天下が前田氏であれ、徳川家であれ、十分生きうる素地を秀吉在世のころからつくっていた。
秀吉が死に、世が暗転しようとした。この間《かん》、利家は家康の野望を見ぬき、これと兵を構えようとした。幽斎の嫡子《ちゃくし》細川忠興は大いにおどろき、両者のあいだを奔走して仲をとりもっている。忠興は、つぎの天下は家康だと見さだめ、豊臣家の諸侯を家康に味方させるよう懸命の内部工作をおこなった。やがて関ケ原の役がおこった。
忠興は細川家の主力部隊をひきいて家康とともにあり、幽斎は丹後宮津の居城にいる。西軍の大軍が、宮津城を攻囲した。幽斎には、兵五百しかない。城の大橋を落して籠城《ろうじょう》し、激戦七日間を戦いぬいた。幽斎の武略はこの当時でも天下第一流であった。
敵も攻めあぐみ、七日目から長期包囲に移った。このことが京都にきこえ、幽斎びいきの後《ご》陽成《ようぜい》天皇や公卿《くげ》たちはなんとか幽斎の生命を救おうとおもい、「幽斎が死んでは歌道のもとだね《・・・・》が絶える」という理由で何度も勅使を送り、開城をすすめた。そのつど、幽斎はことわった。朝廷ではさらに西軍にも勅使を送り、丹後宮津の局地戦にかぎって和《わ》睦《ぼく》するように申し入れ、ついに成立させた。公卿たちにはそれほどの智恵があるわけではないから、おそらくこの筋は幽斎自身が書いたのであろう。幽斎は世の賞讃をあびつつ開城した。それにしても、一万五千の敵に対し、わずか五百人で六十余日を戦いつづけたというのは、尋常な武略ではない。
幽斎は、徳川政権にも生き、細川家は肥後熊本《くまもと》五十四万石の大藩として巍《ぎ》然《ぜん》たる位置をしめた。二つの時代には生きられないというのは菊池寛の言葉だが、幽斎は、その一代で、足利《あしかが》、織田、豊臣、徳川の四時代に生き、しかもそのどの時代にも特別席にすわりつづけた。もはや至芸といっていい生き方の名人であろう。
この小説を書き終えて旧稿をふりかえると、この小説に登場した人物たちの生きる環境がいかに苛《か》烈《れつ》であったかを思い、悚然《しょうぜん》たる思いがある。その思いが、ふと、幽斎のことを思わせた。道三《どうさん》、信長、光秀の三人はすべてほろんだが、主役ではない幽斎は生きつづけた。この「あとがき」の稿の筆がつい、幽斎からはじまってしまったのはそのためである。
「サンデー毎日」に連載したこの長い小説は、当初これほど長くなる予定ではなかった。斎藤道三をのみ書こうと思い、題も「国盗り物語」とした。それを途中で編集部が、
「もっと続けては」
と、しきりとそそのかせた。
続けることはできる。道三が中世の崩壊期に美濃《みの》にあらわれ美濃の中世体制のなかで近世を予想させる徒花《あだばな》を咲かせたが、その種子が婿《むこ》の信長と、稲葉山城の道三の近習《きんじゅう》であり、道三の妻小見《おみ》の方の甥《おい》であった光秀にひきつがれた。信長と光秀という、道三からみれば、相弟子のふたりが本能寺で激突するところで、道三を書きおこしたときの主題が完結する。このために、道三の死後、稿をあらたにして後半を書いた。書き終えた今、自分なりに主題を十分に燃焼させえたとおもう気持があるので、いま体のなかには快い肉体の疲労のみがある。
かれらはすべて非《ひ》業《ごう》に死んだ。道三と光秀にいたっては、死後の悪名まで着た。岐阜《ぎふ》県で取材中にきいたところによると、道三の子孫といわれる家が静岡にあるという。しかし徳川期からいまにいたるまで子孫であることをその家の人々はあらわにしたがらぬという。
光秀についても、同然である。光秀の男系の子孫は残っていない。女系は、その娘伽羅《ガラ》奢《シャ》を通して細川家に流れている。
江戸時代、大名や武士、地方の郷《ごう》士《し》などのあいだで系図作りが流行した。他家の系図を買ったり、盗んだり、または御用学者にたのんで作らせたりした。このためさまざまな英雄豪傑の名を、人々はその先祖としたが、かといって道三と光秀だけはたれも先祖として買おうとはしなかった。ちなみにこの流行は、幕府が政府事業として諸家の系図を編纂《へんさん》したことからおこった。完成して「寛政重修諸家譜」と名づけた。大名と旗本の家が主対象だったが、諸藩でもそれをまね、藩士に系図を書いて出させた。多くは戦国乱世に身をおこした家系であるため、先祖が何者であるかも分明ではない。このため幕府の御用学者の林道春《どうしゅん》などは諸大名から頼まれてずいぶん作ったという。それで系図がブームになり、のちに落語のたねにまでなった。その流行期でさえ、斎藤道三と明智光秀だけは禁忌であった。
さらについでながら、幕末の坂本竜馬は明智左馬助(弥平次)光春(秀満《ひでみつ》)の子孫であるという。左馬助は光秀没後、近江《おうみ》坂本城に籠城《ろうじょう》し、やぶれて自害した。その娘が乳母にともなわれて土佐へ落ち、長岡郡植田郷才谷《さいたに》村に土着したのが祖であるという。
むろんこの種の家系伝説というのはほとんどが付《ふ》会《かい》説か作りばなしだし、竜馬自身がそのことを公言したことがなさそうに思えるから、かれ自身も信じてもいないことだったのであろう。しかし坂本家の紋が光秀の桔梗紋《ききょうもん》を継いでいることを思うと、坂本家ではたてまえとしては左馬助の子孫を称していたことになる。光秀は禁忌であっても、その部将の左馬助ならかまわぬというわけであろう。
連載中、多くのひとびとから手紙をいただいたことが、この長い小説を書きつづけることにずいぶんとはげましになった。ここにつつしんでお礼を申しあげます。
昭和四十一年六月
司馬遼太郎
解説
奈良《なら》本辰《もとたつ》也《や》
戦国という時代は、わが国の歴史のなかでも最も精彩に富んた時代であった。それは、古い時代の規制がとれて、その時代と新しい時代をつなぐ割れ目のようなところから、人間のあらゆる可能性がふき出るのをみてとることができるからである。
そこでは、昨日まで一介の商人に過ぎなかったものが一国の城主となり、何人扶持《ぶち》というような低い身分のものが、いつの間にか数万の軍勢をひきつれてこれに号令する部将になっていたりする。徳川時代のような身分の固定した社会では夢にも考えられなかったことだ。
いや、現在のような類型化した時代においてもまるで夢のような話である。幼稚園から小学校、そして中学・高校と進んで大学を出る。そしてその大学の如何《いかん》によって就職がきまる。結婚する。一つの家庭ができ上がる。就職先では、大体において年齢給だ。昇進の順序も前途も凡《およ》その見当がつく。適当に人生を楽しみながら、やがて年老い、そして墓のなかに入ってゆく。
ところが、戦国に生れた人間はそのようにはゆかない。彼らは生れるとすぐ、激甚《げきじん》な生活環境のなかにたたき込まれる。油断をしていると、その環境が一変していることがある。自分の意志ではなくて、昨日まで尼《あま》子《こ》の領民であったものが明日には毛利の領民にならないとも限らないのだ。そして、そのような変化のなか、人間の運命は思うさま翻弄《ほんろう》される。
あるいは攻め、あるいは守る戦いのなかで思わぬ手《て》柄《がら》をたてるものもあれば、不覚の槍《やり》先《さき》にかかって身を滅ぼすものもある。そこでは、生きるということはそのきびしい流《る》転《てん》の世界をきり開いてゆくことなのだ。運命を甘受することではなくして、それに挑戦《ちょうせん》してゆくことなのである。運命に挑戦するということは、人間が全力をつくさなければできるものではない。それは、知力も体力も気力も、そして動物的な勘のようなものさえも動員しなければならない。
私は、その戦国という時代の人間の生き方に大きな魅力を感じる。それは、人間がそのあらゆる力を発揮して、時代の中にすべての可能性を引出そうと動いているからだ、そして彼らは、その意味では人間そのものである。現在のように部分的な人間に成りさがってはいない。獣のように素早い反射神経をもっているかと思えば、詩人のように優雅で繊細な感情を持つ。
この『国《くに》盗《と》り物語』のなかに出てくる主人公たちを考えたらよいであろう。斉藤道三《どうさん》、明《あけ》智《ち》光秀、織田信長等々、それらはあるときは残忍に、あるときは慈愛にみちて、その人生をつきすすんだ。酷薄なほどに計算する男が、愛情のためには生命をも惜しまないのである。人間とは、所詮《しょせん》そのように矛盾に充《み》ちたものなのだ。
矛盾のない人間というのはお化けである。私は、この長編小説を読みながら、戦国が示した苛《か》烈《れつ》な人間の生き方に、人間それ自体をまざまざとみたような気がする。斉藤道三、は「美濃《みの》の蝮《まむし》」と言われた男だ。一介の油商人から身を起して、ついに美濃の斉藤家の姓をつぎ、主君土岐《とき》頼芸《よりよし》を助けて、その兄政頼を追放したかと思うと、つぎにはその頼芸を追って、美濃の国主としてその実権を握ってしまう。その間に弄《ろう》した権謀術数の策が、彼を不気味な人間と思わせている。
しかし、ただの「蝮」であったら、どうして彼に、一介の油商人にしか過ぎなかった男に美濃の国侍たちが心服してついてきたであろうか。あるいは、その主君たる頼芸が気を許してその政治をまかせたであろうか。
それは、織田信長にとっても同じである。浅井長政や朝倉義景《よしかげ》などという敵将の骸骨《がいこつ》を箔濃《はくだみ》にして、それで酒を呑《の》ませるというような酷薄さは普通の神経で耐えられるものではない。しかし、一方ではまことに優しい一面があるのである。その優しさが、秀吉などの部将をつなぎとめているのだ。
人間を全体像において把《とら》えるということは、作家としては当然なことであろう。しかし一般的にいって、それがどこまで成功しているか、疑問のところもある。だが、私はこの『国盗り物語』では、まことによくそれがなされているように思う。私がとくに感心したのは、明智光秀であった。明智光秀という人物を、ここまで見事に形象化した作品を私は知らない。もちろん、斎藤道三もそうであるが、私の頭のなかには、司馬遼太郎の明智光秀像が定着したような感じさえもする。
ところで、その明智光秀は斎藤道三の分身である。彼は、斎藤道三から古典的な教養の面をうけつぐ、そして歴史とか伝統とかいうものに深い関心を持ちながら、一方では天下に対する野望を抱いている。彼のその伝統に依拠する姿勢が正統的であるゆえに、そこに悲劇がはらまれている。
明智が道三のその一方の分身であるに対して、いま一つの分身がある。それが娘むこの織田信長だ。彼には、道三の戦争や政治における奇略と決断がうけつがれる。そしてそれが一つの独創性となり、歴史や伝統を打ち破る力ともなってゆく。その個性は、道三以上に強烈であるかもしれない。彼もまた天下の統一を夢にみている。
道三においても「国を盗る」ということは、始めから美濃の一国ということではなかった。彼にも天下統一の夢があったのだ。しかし、油売りの商人として出発した彼は、その一国を手にするまでに時間がかかり過ぎた。つまり、スタートラインが一国の城主として生れたものよりもはるかに後方にあったということである。
その意味では、織田信長は道三の到着点から始めた利点をもあわせ持っていた。作者のこのあたりの読みはまことに深い。しかも、時代は伝統破壊の時代だ。伝統を破壊するということは、伝統を利用しながら、あるいはそれに十二分に依《よ》りかかりながら、これを壊してゆくことなのである。そこに光秀の活躍する舞台があり、信長が光秀の手をかりなければならない理由があった。
一つの根から生れた二つの分身は、一時的に血縁関係を主従の関係に結びあう。しかしそれはともに傑出した個性であるがゆえに、どうしても対立しなければならない運命におちてゆく。その対立は、なまじ一つのものの分身であるがゆえに、極めて根深いものを持つ。
ついに光秀は、道三の託した天下統一の夢の実現者信長を本能寺で攻め殺してしまう。そして自らもまた、天王山に敗れて、敗走の途中を土民の槍《やり》にかかって死んでしまうのである。この二人が死んだあとに、豊臣《とよとみ》秀吉の天下統一がなる。『国盗り物語』の大団円がくるのである。しかし、秀吉のそれは、すでに熟しきったものの結末であって、方向づけができた歴史の進行なのである。
ところで、この小説は、その一番興味のある二人の最後のときで終わっている。私は、この作者が、色々なところで主人公たちに語らせている言葉に、時代を解くもろもろの鍵《かぎ》がかくされているのを知る。実に示唆《しさ》に富んでいる。一つ二つの例をあげると、道三が主君頼芸を追放するときの言葉だ。
「時代だ。時代というものよ。時代のみがわしの主人だ。時代がわしに命じている。その命ずるところに従ってわしは動く。時代とは何か。天と言いかえてもよい」
あるいは、信長の父信秀がいう。
「おれは天下をとるのだ。天下をとるには善い響きをもつ人気がいる。人気を得るにはずいぶん無駄《むだ》が必要よ。無駄を平然としてやれる人間でなければ天下がとれるものか」
さらにもう一つ。これは、信長が「義によって」道三に援兵を送るといったことに対して、
「ふしぎなことを言うものかな。まさか信長ほどの男が、左様なうろたえ言葉はつかうまい。国に帰れば申し伝えておけ、いくさは利害でやるものぞ。されば勝つという見込みがなければいくさを起してはならぬ。その心掛けがなければ天下はとれぬ。信長生涯《しょうがい》の心得としてよくよく伝えておけ」
いかにも道三らしい言葉だが、しかし信長には、そのことが分りながらもそれを超《こ》えて義のためという戦いの理念がある。それが、弁証法的に統一されて、天下の統一が形成されてゆくのだ。そうした関係を、鋭い言葉のやりとりのなかに読みとってゆくのも面白《おもしろ》いであろう。
それから最後に、人々はこれまでの歴史を結果から読み直してゆくことに馴《な》れている。つまり、歴史にはいつも結果が先行しているので、そこから原因と結果をさぐるような考え方になってしまっているのだ。だから、桶《おけ》狭《はざ》間《ま》の戦いも、織田信長の勝利が頭にあって、なぜ、あのような見事な勝利がなされたのか、それを検討するというようになってしまう。
そして、織田信長は軍事の天才だったということくらいで片づけるのだが、これは大きな間違いということである。歴史の偶然は、その敗戦の見通しを一瞬にして勝戦にかえてしまうこともあるのだ。ここで、そのことをくわしく述べる必要はない。この本の第三巻を読めばそのことが実に見事に書かれている。
歴史は人間がつくるものである以上、すべての結果が、一つの原因から構成されて、予定された線の上しか走れないというものではないのだ。そうした意味でも、この本に書かれた時代と人間のかかわり方は、限りない興味を湧《わ》きおこさせる。私は、司馬遼太郎の数々の作品のなかでも、極めてすぐれたものの一つとしてこの『国盗り物語』を考えている。
(昭和四十六年十二月、評論家)