霊界物語 特別篇 山河草木 入蒙記
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 入蒙記』愛善世界社
2004(平成16)年04月04日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2005年12月30日作成
2008年06月23日修正
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●目次
第一篇 |日本《につぽん》より|奉天《ほうてん》まで
第一章 |水火訓《すゐくわくん》
第二章 |神示《しんじ》の|経綸《けいりん》
第三章 |金剛心《こんがうしん》
第四章 |微燈《びとう》の|影《かげ》
第五章 |心《こころ》の|奥《おく》
第六章 |出征《しゆつせい》の|辞《じ》
第七章 |奉天《ほうてん》の|夕《ゆふべ》
第二篇 |奉天《ほうてん》より|〓南《たうなん》へ
第八章 |聖雄《せいいう》と|英雄《えいいう》
第九章 |司令公館《しれいこうくわん》
第一〇章 |奉天《ほうてん》|出発《しゆつぱつ》
第一一章 |安宅《あたか》の|関《せき》
第一二章 |焦頭爛額《せうとうらんがく》
第一三章 |〓南旅館《たうなんりよくわん》
第一四章 |〓南《たうなん》の|雲《くも》
第三篇 |〓南《たうなん》より|索倫《さうろん》へ
第一五章 |公爺府入《コンイエフいり》
第一六章 |蒙古《もうこ》の|人情《にんじやう》
第一七章 |明暗交々《めいあんこもごも》
第一八章 |蒙古《もうこ》|気質《きしつ》
第一九章 |仮司令部《かりスーリンフ》
第二〇章 |春軍完備《しゆんぐんくわんび》
第二一章 |索倫本営《ソーロンほんえい》
第四篇 |神軍躍動《しんぐんやくどう》
第二二章 |木局収ケ原《ムチズがはら》
第二三章 |下木局子《しもムチヅ》
第二四章 |木局《ムチ》の|月《つき》
第二五章 |風雨叱咤《ふううしつた》
第二六章 |天《あま》の|安河《やすかは》
第二七章 |奉天《ほうてん》の|渦《うづ》
第二八章 |行軍《かうぐん》|開始《かいし》
第二九章 |端午《たんご》の|日《ひ》
第三〇章 |岩窟《がんくつ》の|奇兆《きてう》
第五篇 |雨後月明《うごげつめい》
第三一章 |強行軍《きやうかうぐん》
第三二章 |弾丸雨飛《だんぐわんうひ》
第三三章 |武装解除《ぶさうかいぢよ》
第三四章 |竜口《たつのくち》の|難《なん》
第三五章 |黄泉帰《よみがへり》
第三六章 |天《あま》の|岩戸《いはと》
第三七章 |大本天恩郷《おほもとてんおんきやう》
第三八章 |世界宗教聯合会《せかいしうけうれんがふくわい》
第三九章 |入蒙拾遺《にふもうしふゐ》
|入蒙余録《にふもうよろく》
|大本《おほもと》の|経綸《けいりん》と|満蒙《まんもう》
|世界経綸《せかいけいりん》の|第一歩《だいいつぽ》
|蒙古建国《もうこけんこく》
|蒙古《もうこ》の|夢《ゆめ》
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第一篇 |日本《につぽん》より|奉天《ほうてん》まで
第一章 |水火訓《すゐくわくん》
|神《かみ》の|稜威《みいづ》も|高熊山《たかくまやま》の  |山《やま》の|麓《ふもと》に|生《うま》れたる
|神徳《しんとく》|四方《よも》に|三葉彦《みつばひこ》  |神《かみ》の|精霊《せいれい》を|相宿《あひやど》し
|黄金《わうごん》|世界《せかい》を|開《ひら》かむと  こがねの|鶏《にはとり》|黎明《れいめい》を
|告《つ》ぐる|夕《ゆふべ》の|月《つき》の|空《そら》  |干支《えと》に|因《ちな》みし|十二《じふに》の|日《ひ》
|小判《こばん》|千両《せんりやう》|掘出《ほりだ》して  |神《かみ》の|御国《みくに》に|献《たてまつ》り
|三千世界《さんぜんせかい》の|蒼生《さうせい》を  |浦安国《うらやすくに》の|心安《うらやす》き
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》に|救《すく》はむと  |一《ひと》|二《ふた》|三《みい》|四《よ》|五《いつ》つ|六《む》つ
|七《なな》つの|春《はる》の|弥生空《やよひぞら》  |富士《ふじ》の|高根《たかね》に|仕《つか》へたる
|松岡神使《まつをかしんし》が|現《あら》はれて  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|身魂《みたま》をば
|守《まも》らせ|玉《たま》ひ|二十《はたち》まり  |八《やつ》つの|御年《みとし》も|如月《きさらぎ》の
|白梅《しらうめ》かをる|夕月夜《ゆふづくよ》  うづの|霊地《れいち》に|伴《ともな》ひて
|現幽神《げんいうしん》の|三界《さんかい》の  |其《その》|真相《しんさう》をつばらかに
すべての|業《なりはひ》|放擲《はうてき》し  |不二《ふじ》の|神山《みやま》に|参《まひ》まうで
|神《かみ》のみいづを|身《み》に|受《う》けて  |心《こころ》の|色《いろ》も|丹波《あかなみ》の
|再《ふたた》び|郷里《くに》に|立返《たちかへ》り  |西《にし》や|東《ひがし》や|北《きた》|南《みなみ》
|神《かみ》のまにまに|全国《ぜんこく》に  |教《をしへ》を|伝達《でんたつ》したりけり
|明治《めいぢ》は|三十一年《さんじふいちねん》の  |文月《ふみづき》|下旬《げじゆん》となりければ
|神《かみ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて  |西北《せいほく》さして|出《い》でてゆく
|西《にし》の|御空《みそら》を|眺《なが》むれば  |半国山《はんごくさん》は|巍然《すくすく》と
|雲《くも》を|圧《あつ》して|聳《そび》えたち  |東《ひがし》に|愛宕《あたご》の|霊峰《れいほう》は
|城丹《じやうたん》|両国《りやうごく》|睥睨《へいげい》し  |南《みなみ》に|妙見《めうけん》|聳《そび》え|立《た》ち
|北《きた》に|帝釈《たいしやく》|大悲山《だいひざん》  などの|峻峯《しゆんぽう》|青垣《あをがき》を
めぐらす|中《なか》の|穴太《あなを》より  |北《きた》へ|北《きた》へと|歩《ほ》を|運《はこ》ぶ
|浮世《うきよ》はなれし|坊主池《ばうずいけ》  |心《こころ》も|高砂池《たかさごいけ》の|辺《べ》を
|辿《たど》りて|数多《あまた》の|信徒《まめひと》を  |救《すく》ひやらむと|只《ただ》|一人《ひとり》
|小松林《こまつばやし》の|神霊《しんれい》に  |送《おく》られ|乍《なが》ら|進《すす》み|行《ゆ》く
|小林《こばやし》|小河《をがは》|鷹林《たかばやし》  |千原《ちはら》|川関《かはぜき》のりこえて
|虎天堰《とらてんぜき》に|来《き》てみれば  |並木《なみき》の|松《まつ》の|片《かた》ほとり
いとも|小《ちひ》さき|一《ひと》つ|家《や》が  |物淋《ものさび》しげに|建《た》つてゐる
|渇《かつ》を|医《い》せむと|門《もん》の|戸《と》を  くぐつて|茶湯《ちやゆ》を|求《もと》むれば
|此《この》|家《や》の|妻《つま》と|思《おも》はしき  |一人《ひとり》の|婦人《ふじん》が|現《あら》はれて
かけた|茶碗《ちやわん》を|揺《ゆ》る|様《やう》に  ガチヤガチヤガチヤと|喋《しやべ》り|出《だ》す
ガチヤガチヤ|話《ばなし》を|聞《き》きつけて  やおら|腰掛《こしかけ》はなれつつ
|船井《ふなゐ》の|都会《とくわい》|八木《やぎ》の|町《まち》  |道《みち》の|広瀬《ひろせ》や|鳥羽《とば》の|里《さと》
|風《かぜ》さへ|暑《あつ》き|室河原《むろがはら》  |小山《こやま》|松原《まつばら》|乗越《のりこ》えて
|花《はな》の|園部《そのべ》に|安着《あんちやく》し  |暫《しば》しはここに|歩《ほ》をとどめ
|観音坂《くわんのんざか》や|須知町《しうちまち》  |蒲生野《がまふの》こえて|桧山《ひのきやま》
|歩《あゆ》みも|一《いち》|二《に》|三《さん》の|宮《みや》  |神歌《しんか》を|歌《うた》ひ|声《こゑ》さへも
|枯木峠《かれきたうげ》や|榎山《えのきやま》  |大原神社《おほはらじんじや》を|伏拝《ふしをが》み
|台頭《だいとう》|須知山《すちやま》|乗《のり》こえて  |風《かぜ》|吹《ふ》きわたる|小雲川《こくもがは》
|風《かぜ》にゆらるる|並木松《なみきまつ》  |水無月神社《みなつきじんじや》を|右《みぎ》に|見《み》て
|国照姫《くにてるひめ》のあれませる  |裏町館《うらまちやかた》に|着《つ》きにけり
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|使命《しめい》の|重《おも》くして
|二十五年《にじふごねん》の|其《その》|間《あひだ》  |艱難辛苦《かんなんしんく》を|堪《た》へ|忍《しの》び
|時節《じせつ》|来《きた》りて|神業《しんげふ》の  |実現《じつげん》|間際《まぎは》となりければ
|言霊別《ことたまわけ》の|精霊《せいれい》を  |身魂《みたま》にみたし|真澄別《ますみわけ》
|名田彦《なだひこ》|守高《もりたか》|両人《りやうにん》を  |添《そ》へていよいよ|大海《たいかい》を
|渡《わた》り|蒙古《もうこ》の|大原野《だいげんや》  |神政成就《しんせいじやうじゆ》の|先駆《さきがけ》と
|大活躍《だいくわつやく》を|始《はじ》めたる  |神霊界《しんれいかい》の|物語《ものがたり》
|時節《じせつ》|来《きた》りて|説《と》きそむる  |大国常立大御神《おほくにとこたちおほみかみ》
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大御神《おほみかみ》  |恩頼《みたまのふゆ》をくだしまし
うまらにつばらに|真相《しんさう》を  |述《の》べさせ|玉《たま》へと|願《ね》ぎ|奉《まつ》る。
|国照姫《くにてるひめ》は|国祖大神《こくそおほかみ》の|勅《ちよく》を|受《う》け、|水《みづ》を|以《もつ》て|所在《あらゆる》|天下《てんか》の|蒼生《さうせい》にバプテスマを|施《ほどこ》さむと、|明治《めいぢ》の|二十五年《にじふごねん》より、|神定《しんてい》の|霊地《れいち》|綾部《あやべ》の|里《さと》に|於《おい》て、|人間界《にんげんかい》の|誤《あやま》れる|行為《かうゐ》を|矯正《けうせい》し、|地上天国《ちじやうてんごく》を|建設《けんせつ》すべく、|其《その》|先駆《せんく》として|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なく、|営々孜々《えいえいしし》として、|神教《しんけう》を|伝達《でんたつ》された。|水《みづ》を|以《もつ》て|洗礼《せんれい》を|施《ほどこ》すといふは、|決《けつ》して|朝夕《てうせき》|清水《しみづ》を|頭上《づじやう》よりあびる|計《ばか》りを|云《い》ふのではない。|自然界《しぜんかい》は|凡《すべ》て|形体《けいたい》の|世界《せかい》であり、|生物《せいぶつ》は|凡《すべ》て|水《みづ》に|仍《よ》つて|発育《はついく》を|遂《と》げてゐる。|水《みづ》は|動植物《どうしよくぶつ》にとつて|欠《か》く|可《べ》からざる|資料《しれう》であり、|生活《せいくわつ》の|必要品《ひつえうひん》である。|現代《げんだい》は|仁義《じんぎ》|道徳《だうとく》|廃頽《はいたい》し、|五倫五常《ごりんごじやう》の|道《みち》は|盛《さかん》に|叫《さけ》ばるると|雖《いへど》も、|其《その》|実行《じつかう》を|企《くはだ》てたる|者《もの》は|絶《た》えてない。|神界《しんかい》に|於《おい》ては|先《ま》づ|天界《てんかい》の|基礎《きそ》たる|現実界《げんじつかい》に|向《むか》つて、|改造《かいざう》の|叫《さけ》びをあげられたのである。|国常立尊《くにとこたちのみこと》の|大神霊《だいしんれい》は|精霊界《せいれいかい》にまします|稚姫君命《わかひめぎみのみこと》の|精霊《せいれい》に|御霊《おんみたま》を|充《み》たし、|予言者《よげんしや》|国照姫《くにてるひめ》の|肉体《にくたい》に|来《きた》らしめ、|所謂《いはゆる》|大神《おほかみ》は|間接内流《かんせつないりう》の|法式《はふしき》に|依《よ》つて、|過去《くわこ》|現在《げんざい》|未来《みらい》の|有様《ありさま》を|概括的《がいくわつてき》に|伝達《でんたつ》せしめ|玉《たま》ふたのが、|一万巻《いちまんぐわん》の|筆先《ふでさき》となつて|現《あら》はれたのである。|此《この》|神諭《しんゆ》は|自然界《しぜんかい》に|対《たい》し、|先《ま》づ|第一《だいいち》|人間《にんげん》の|言語動作《げんごどうさ》を|改《あらた》めしめ、|而《しか》して|後《のち》|深遠《しんゑん》|微妙《びめう》なる|真理《しんり》を|万民《ばんみん》に|伝《つた》へむが|為《ため》の|準備《じゆんび》をなさしめられたのである。|凡《すべ》て|現世界《げんせかい》の|肉体人《にくたいじん》を|教《をし》へ|導《みちび》き、|安逸《あんいつ》なる|生活《せいくわつ》を|送《おく》らしめ、|風水火《ふうすゐくわ》の|災《わざは》ひも|饑病戦《きびやうせん》の|憂《うれひ》もなき|様《やう》、|所謂《いはゆる》|黄金世界《わうごんせかい》を|建造《けんざう》せむとするの|神業《かむわざ》を|称《しよう》して|水洗礼《みづせんれい》といふのである。
|国照姫《くにてるひめ》の|肉体《にくたい》は|其《その》|肉体《にくたい》の|智慧証覚《ちゑしようかく》の|度合《どあひ》によつて、|救世主《きうせいしゆ》|出現《しゆつげん》の|基礎《きそ》を|造《つく》るべく、|且《かつ》|其《その》|先駆者《せんくしや》として、|神命《しんめい》のまにまに|地上《ちじやう》に|出現《しゆつげん》されたのである。|国照姫《くにてるひめ》の|命《みこと》のみならず、|今日《こんにち》|迄《まで》|世《よ》の|中《なか》に|現《あら》はれたる|救世主《きうせいしゆ》|又《また》は|予言者《よげんしや》などは、|何《いづ》れも|自然界《しぜんかい》を|主《しゆ》となし、|霊界《れいかい》を|従《じゆう》として、|地上《ちじやう》の|人間《にんげん》に|天界《てんかい》の|教《をしへ》の|一部《いちぶ》を|伝達《でんたつ》してゐたのである。|釈迦《しやか》、キリスト、マホメツト、|孔子《こうし》、|孟子《もうし》|其《その》|他《た》|世界《せかい》の|所在《あらゆる》|先哲《せんてつ》も、|皆《みな》|神界《しんかい》の|命《めい》をうけて|地上《ちじやう》に|現《あら》はれた|者《もの》であるが、|霊界《れいかい》の|真相《しんさう》は|何時《いつ》も|説《と》いてゐない。|釈迦《しやか》の|如《ごと》きは|稍《やや》|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》を|綿密《めんみつ》に|説《と》いてゐるやうではあるが、|何《いづ》れも|比喩《ひゆ》や|偶言《ぐうげん》、|謎《なぞ》|等《とう》にて|茫漠《ばうばく》たるものである。|其《その》|実《じつ》、|未《いま》だ|釈迦《しやか》と|雖《いへど》も、|天界《てんかい》の|真相《しんさう》を|説《と》くことを|許《ゆる》されてゐなかつたのである。キリストは、|吾《わ》が|弟子《でし》|共《ども》より|天国《てんごく》の|状態《じやうたい》は|如何《いか》に……と|尋《たづ》ねられた|時《とき》『|地上《ちじやう》にあつて|地上《ちじやう》のことさへも|知《わか》らない|人間《にんげん》に|対《たい》し、|天国《てんごく》をといたとて、どうして|天国《てんごく》のことが|受入《うけい》れられうぞ』と|答《こた》へてゐる。|神《かみ》は|時代《じだい》|相応《さうおう》、|必要《ひつえう》に|仍《よ》つて、|教《をしへ》を|伝達《でんたつ》されるのであるから、|未《いま》だキリストに|対《たい》して、|天国《てんごく》の|真相《しんさう》を|伝《つた》へられなかつたのである。|又《また》|其《その》|必要《ひつえう》を|認《みと》めなかつたのである。|然《しか》るに|今日《こんにち》は|人智《じんち》|漸《やうや》く|進《すす》み、|物質的《ぶつしつてき》|科学《くわがく》は|殆《ほとん》ど|終点《しうてん》に|達《たつ》し、|人心《じんしん》|益々《ますます》|不安《ふあん》に|陥《おちい》り、|宇宙《うちう》の|神霊《しんれい》を|認《みと》めない|者《もの》、|又《また》は|神霊《しんれい》の|有無《うむ》を|疑《うたが》ふ|者《もの》、|及《および》|無神論《むしんろん》さへも|称《とな》ふる|様《やう》になつて|来《き》た。かかる|精神界《せいしんかい》の|混乱《こんらん》|時代《じだい》に|対《たい》し、|水洗礼《みづせんれい》たる|今迄《いままで》の|予言者《よげんしや》や|救世主《きうせいしゆ》の|教理《けうり》を|以《もつ》ては、|到底《たうてい》|成神成仏《じやうしんじやうぶつ》の|域《いき》に|達《たつ》し、|安心立命《あんしんりつめい》を|心《こころ》から|得《う》ることが|出来《でき》なくなつたのである。|故《ゆゑ》に|神《かみ》は|現幽相応《げんいうさうおう》の|理《り》に|仍《よ》つて、|火《ひ》の|洗礼《せんれい》たる|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》を|最《もつと》も|適確《てきかく》に|如実《によじつ》に|顕彰《けんしやう》して、|世界《せかい》|人類《じんるゐ》を|覚醒《かくせい》せしむる|必要《ひつえう》に|迫《せま》られたので、|言霊別《ことたまわけ》の|精霊《せいれい》を|地上《ちじやう》の|予言者《よげんしや》の|体《からだ》に|降《くだ》されたのである。
|曾《かつ》てヨハネはヨルダン|川《かは》に|於《おい》て、|水《みづ》を|以《もつ》て|下民《げみん》に|洗礼《せんれい》を|施《ほどこ》してゐた|時《とき》、|今後《こんご》|来《きた》るべき|者《もの》は|吾《われ》よりも|大《だい》なる|者《もの》である。そして|吾《われ》は|水《みづ》を|以《もつ》て|洗礼《せんれい》を|施《ほどこ》し、|彼《かれ》は|火《ひ》を|以《もつ》て|洗礼《せんれい》を|施《ほどこ》すと|予言《よげん》してゐた。それは|所謂《いはゆる》キリストを|指《さ》したのである。|併《しか》し|乍《なが》らキリストはヨハネより|水《みづ》の|洗礼《せんれい》を|受《う》け、|之《これ》より|進《すす》んで|天下《てんか》に|向《むか》つて|火《ひ》の|洗礼《せんれい》を|施《ほどこ》すべく|準備《じゆんび》してゐた|時《とき》、|天意《てんい》に|依《よ》つて、|火《ひ》の|洗礼《せんれい》を|施《ほどこ》すに|至《いた》らず、|遂《つひ》に|十字架上《じふじかじやう》の|露《つゆ》と|消《き》えて|了《しま》つたのである。|彼《かれ》は|死後《しご》|弟子《でし》|共《ども》の|前《まへ》に|姿《すがた》を|現《あら》はし、|山上《さんじやう》の|遺訓《ゐくん》なるものを|遺《のこ》したといふ。しかし|此《この》|遺訓《ゐくん》は|何《いづ》れも|現界人《げんかいじん》を|信仰《しんかう》に|導《みちび》く|為《ため》の|神諭《しんゆ》であつて、|決《けつ》して|火《ひ》の|洗礼《せんれい》ではない。|故《ゆゑ》に|彼《かれ》は|再《ふたた》び|地上《ちじやう》に|再臨《さいりん》して|火《ひ》の|洗礼《せんれい》を|施《ほどこ》すべく|誓《ちか》つて|昇天《しようてん》したのである。|火《ひ》の|洗礼《せんれい》と|云《い》つても|東京《とうきやう》の|大震災《だいしんさい》、|大火災《だいくわさい》の|如《ごと》きものを|云《い》ふのではない。|大火災《だいくわさい》は|物質界《ぶつしつかい》の|洗礼《せんれい》であるから、|之《これ》は|矢張《やは》り|水《みづ》の|洗礼《せんれい》といふべきものである。|火《ひ》の|洗礼《せんれい》は|霊主体従的《れいしゆたいじうてき》|神業《しんげふ》であつて、|霊界《れいかい》を|主《しゆ》となし、|現界《げんかい》を|従《じゆう》となしたる|教理《けうり》であり、|水《みづ》の|洗礼《せんれい》は|体主霊従《たいしゆれいじう》といつて、|現界人《げんかいじん》の|行為《かうゐ》を|主《しゆ》とし、|死後《しご》の|霊界《れいかい》を|従《じゆう》となして|説《と》き|初《はじ》めた|教《をしへ》である。|故《ゆゑ》に|水洗礼《すゐせんれい》に|偏《へん》するも|正鵠《せいかう》を|得《え》たものでないと|共《とも》に、|火洗礼《ひせんれい》の|教《をしへ》に|偏《へん》するも|亦《また》|正鵠《せいかう》を|得《え》たものでない。|要《えう》するに|霊《れい》が|主《しゆ》となるか、|体《たい》が|主《しゆ》となるかの|差異《さゐ》があるのみである。
|茲《ここ》にいよいよ|火《ひ》の|洗礼《せんれい》を|施《ほどこ》すべき|源《みなもと》|日出雄《ひでを》の|肉体《にくたい》は|言霊別《ことたまわけ》の|精霊《せいれい》を|宿《やど》し、|真澄別《ますみわけ》は|治国別《はるくにわけ》の|精霊《せいれい》を|其《その》|肉体《にくたい》に|充《み》たし、|神業《しんげふ》|完成《くわんせい》の|為《ため》に、|野蛮《やばん》|未開《みかい》の|地《ち》より|神教《しんけう》の|種子《たね》を|植付《うゑつ》けむと、|神命《しんめい》に|仍《よ》つて|活動《くわつどう》したのである。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸《ち》はへませ。
(大正一四・八・一五 松村真澄筆録)
第二章 |神示《しんじ》の|経綸《けいりん》
|明治《めいぢ》の|末葉《まつえう》|大正《たいしやう》の|初期《しよき》にかけ、|思想《しさう》|混乱《こんらん》の|極《きよく》に|達《たつ》せる|現実界《げんじつかい》に|向《む》かつて、|一大獅子吼《いちだいししく》をなし、|神教《しんけう》を|四方《よも》に|伝達《でんたつ》したる|結果《けつくわ》、|恰《あたか》も|洪水《こうずゐ》の|氾濫《はんらん》して|大堤防《だいていばう》を|破壊《はくわい》するが|如《ごと》き|勢《いきほひ》を|以《もつ》て|勃興《ぼつこう》したる|天授《てんじゆ》の|聖教《せいけう》、|三五《あななひ》の|聖団《せいだん》、|其《その》|大本《おほもと》|所在地《しよざいち》と|聞《きこ》えたる|綾《あや》の|聖地《せいち》──|仏徒《ぶつと》の|所謂《いはゆる》|霊山会場《れいざんゑぢやう》の|蓮華台《れんげだい》、キリスト|教徒《けうと》の|最《もつと》も|憧憬《どうけい》して|已《や》まざるパレスチナの|聖場《せいぢやう》、オレブ|山《さん》、エルサレムの|聖地《せいち》にも|比《ひ》すべき──|神《かみ》の|本宮《ほんぐう》、|桶伏山《をけぶせやま》を|中心《ちうしん》とし、|宏壮《かうさう》なる|殿堂《でんだう》、|錦《にしき》の|宮《みや》を|建設《けんせつ》し、|四百四十四坪《しひやくしじふよつぼ》の|八尋殿《やひろどの》に|於《おい》て、|盛《さかん》に|主神《すしん》の|聖教《せいけう》を|伝達《でんたつ》し、|既成《きせい》|宗教《しうけう》の|上《うへ》に|卓越《たくえつ》して、|世界万有愛《せかいばんいうあい》の|教旗《けうき》を|飜《ひるが》へし、|自転倒島《おのころじま》を|初《はじ》め、|地上《ちじやう》の|世界《せかい》に|無数《むすう》の|崇信者《すうしんじや》を|有《いう》する|三五教《あななひけう》の|根源地《こんげんち》、|八尋殿《やひろどの》に|於《おい》て、|恆例《こうれい》の|節分祭《せつぶんさい》が|執行《しつかう》された。|此《この》|節分祭《せつぶんさい》はキリスト|教《けう》の|所謂《いはゆる》|逾越祭《すぎこしさい》の|如《ごと》きものである。|此《この》|殿堂《でんどう》は|五六七《みろく》|神政《しんせい》に|因《ちな》みて|五六七殿《みろくでん》と|称《とな》へられてゐる。|国照姫《くにてるひめ》は|地上《ちじやう》に|肉体《にくたい》を|以《もつ》て|生存《せいぞん》すること|八十余年《はちじふよねん》、|大正《たいしやう》|七年《しちねん》|陰暦《いんれき》|十月《じふぐわつ》|三日《みつか》|神諭《しんゆ》を|書《か》き|了《をは》つて|昇天《しようてん》し、|其《その》|聖霊《せいれい》は|稚姫君命《わかひめぎみのみこと》と|復帰《ふくき》し、|天界《てんかい》に|於《おい》て|神政《しんせい》を|行《おこな》ひ、|其《その》|遺骸《ゐがい》は|天王平《てんのうだひら》の|奥津城《おくつき》に|永眠《えいみん》してゐる。|国照姫《くにてるひめ》の|後継者《こうけいしや》はすでに|二代《にだい》|三代《さんだい》と|立並《たちなら》び、|神教《しんけう》を|伝達《でんたつ》することとなつてゐる。
|源《みなもと》|日出雄《ひでを》は|神示《しんじ》によつて、|明治《めいぢ》|三十二年《さんじふにねん》|聖地《せいち》に|来《きた》り、|水洗礼《みづせんれい》の|教務《けうむ》を|補佐《ほさ》し、|大正《たいしやう》|十年《じふねん》|迄《まで》|神業《かむわざ》を|続《つづ》けてゐた。|此《この》|間《かん》|殆《ほとん》ど|二十四年《にじふよねん》、|高姫《たかひめ》の|精霊《せいれい》の|宿《やど》りたる|徳島《とくしま》お|福《ふく》、|菖蒲《あやめ》のお|花《はな》、|高村《たかむら》|高造《たかざう》、|四方《しかた》|与多平《よたへい》、|鷹巣《たかのす》|文助《ぶんすけ》、|其《その》|他《た》|数多《あまた》の|体主霊従派《たいしゆれいじうは》に|極力《きよくりよく》|妨害《ばうがい》されつつも、|凡《すべ》ての|障壁《しやうへき》を|蹴破《しうは》して、|十年一日《じふねんいちじつ》の|如《ごと》く、|神教《しんけう》に|従事《じゆうじ》した。
|梅村《うめむら》|信行《のぶゆき》、|湯浅《ゆあさ》|仁斎《じんさい》、|西田《にしだ》|元教《もとのり》などの|輔《たす》けはあつたが、|分《わか》らずやの|妨害《ばうがい》|最《もつと》も|甚《はなは》だしく、|大《おほ》いに|神業《しんげふ》の|進展《しんてん》を|阻害《そがい》した。
|大正《たいしやう》|五年《ごねん》の|末《すゑ》|頃《ごろ》から|鼻高学者《はなだかがくしや》|等《ら》が|続々《ぞくぞく》と|聖地《せいち》に|来《きた》り、|大正《たいしやう》|十年《じふねん》に|世界《せかい》|全滅《ぜんめつ》の|却託《ごふたく》を|並《なら》べ、|一夜作《いちやづく》りの|霊学《れいがく》を|称導《しようだう》し、|三五《あななひ》の|声望《せいばう》をして、|一時《いちじ》は|天下《てんか》に|失墜《しつつゐ》せしめた。|其《その》|結果《けつくわ》は|大正《たいしやう》|十年《じふねん》に|於《おい》て、|有名《いうめい》なる|大本事件《おほもとじけん》を|勃発《ぼつぱつ》し、|次《つ》いで|桶伏山《をけぶせやま》、|錦《にしき》の|宮《みや》の、|乱暴《らんばう》|至極《しごく》な|取毀《とりこぼ》ちとなり、|源《みなもと》|日出雄《ひでを》|等《ら》は|一時《いちじ》|獄《ごく》に|投《とう》ぜられ、いかめしき|閻魔《えんま》の|庁《ちやう》に|引出《ひきだ》されて、|善悪邪正《ぜんあくじやせい》を|審判《しんぱん》さるることとなつた。|此《この》|事件《じけん》に|肝《きも》をつぶし|睾丸《かうぐわん》の|宿換《やどがへ》さした|学者連《がくしやれん》は、|数十万円《すうじふまんゑん》の|負債《ふさい》を|投付《なげつ》け、|日出雄《ひでを》|以下《いか》の|純真《じゆんしん》なる|神《かみ》の|子《こ》を、|千丈《せんじやう》の|谷間《たにま》につきおとし、|知《し》らぬ|顔《かほ》の|半兵衛《はんべゑ》をきめこみ、|第二《だいに》の|計画《けいくわく》を|立《た》て、|迷《まよ》へる|少年《せうねん》をかり|集《あつ》めむとし、|心霊会《しんれいくわい》なるものを|組織《そしき》したが、|天《てん》は|斯《か》かる|暴虐《ばうぎやく》を|許《ゆる》さず、|一時《いちじ》|其《その》|傘下《さんか》に|集《あつ》まれる|猛者連《もされん》は|四方《しはう》に|散逸《さんいつ》し、|今《いま》や|孤立《こりつ》|無援《むゑん》の|境地《きやうち》に|立《た》ち|心霊《しんれい》と|人生《じんせい》なる|孤城《こじやう》に|隠《かく》れて、|切《しき》りに|三五《あななひ》の|本城《ほんじやう》に|向《むか》つて|征矢《そや》を|放《はな》つてゐる。|此《この》|間《かん》|日出雄《ひでを》は|桶伏山《をけぶせやま》の|山下《やました》、|祥雲閣《しやううんかく》に|於《おい》て、|万有愛《ばんいうあい》の|教旗《けうき》を|飜《ひるがへ》し、|三五《あななひ》の|神教《しんけう》を|伝《つた》ふべく、|神示《しんじ》の|霊界物語《れいかいものがたり》を|口述《こうじゆつ》|発行《はつかう》し、|天下《てんか》に|宣伝《せんでん》せしより、|教勢《けうせい》|頓《とみ》に|回復《くわいふく》し、|何《いづ》れも|其《その》|教理《けうり》に|歓喜雀躍《くわんきじやくやく》し、|洋《やう》の|内外《ないぐわい》を|問《と》はず|信者《しんじや》は|日《ひ》に|月《つき》に|蝟集《ゐしふ》し|来《きた》り、|昔日《せきじつ》に|優《まさ》る|大勢力《だいせいりよく》を|醸成《じやうせい》した。|源《みなもと》|日出雄《ひでを》は|節分祭《せつぶんさい》の|済《す》んだ|後《のち》、|壇上《だんじやう》に|立《た》ちて|一場《いちぢやう》の|演説《えんぜつ》を|試《こころ》みた。
『|天地万有《てんちばんいう》を|創造《さうざう》し|玉《たま》ひし|独一真神《どくいつしんしん》|主《す》の|神《かみ》を|斎《いつ》きまつる|今日《けふ》は、|一年《いちねん》|一回《いつくわい》の|最《もつと》も|聖《きよ》き|祭典日《さいてんび》であります。|殊《こと》に|大正《たいしやう》|十三年《じふさんねん》|二月《にぐわつ》|四日《よつか》の|節分祭《せつぶんさい》は、|天運循環《てんうんじゆんくわん》して、|甲子《きのえね》の|聖日《せいじつ》でありまして、|吾々《われわれ》|人間《にんげん》としては、|十万年《じふまんねん》に|一度《いちど》より|際会《さいくわい》することの|出来《でき》ない、|最《もつと》も|意義《いぎ》ある|主《しゆ》の|日《ひ》であります。|大神《おほかみ》の|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|信真《しんしん》の|光《ひかり》に|充《み》たされたる|各国《かくこく》|各地《かくち》の|役員《やくゐん》|信徒《しんと》|諸氏《しよし》が、|神縁《しんえん》|相熟《あひじゆく》して、|此《この》|八尋殿《やひろどの》にお|集《あつ》まりになり、|吾等《われら》と|共《とも》に|芽出度《めでた》き|大祭典《だいさいてん》に、|奉仕《ほうし》さるることを|得《え》られましたのは、|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|主《す》の|神様《かみさま》の|御恵《みめぐ》みに|外《ほか》ならないことを、|皆様《みなさま》と|共《とも》に|感謝《かんしや》せなくてはなりませぬ。|御承知《ごしようち》の|通《とほ》り、|教祖《けうそ》|国照姫命《くにてるひめのみこと》に|懸《かか》らせ|玉《たま》ふた|神様《かみさま》は、|宇宙《うちう》の|創造者《さうざうしや》、|天地《てんち》の|祖神《そしん》|大国常立尊《おほくにとこたちのみこと》でありまして、|明治《めいぢ》|廿五年《にじふごねん》|正月《しやうぐわつ》|元旦《ぐわんたん》、|心身《しんしん》|共《とも》に|浄化《じやうくわ》したる|教祖《けうそ》は|稚姫君命《わかひめぎみのみこと》の|精霊《せいれい》を|宿《やど》され、|前後《ぜんご》|未曾有《みぞう》の|聖教《せいけう》を、|一切《いつさい》の|衆生《しゆじやう》に|向《むか》つて|伝達《でんたつ》されたのは、|吾々《われわれ》|人類《じんるゐ》の|為《ため》には、|実《じつ》に|無限絶大《むげんぜつだい》の|賜物《たまもの》であります。|主《す》の|神様《かみさま》は|厳霊《げんれい》|稚姫君命《わかひめぎみのみこと》の|御精霊《ごせいれい》に|其《その》|神格《しんかく》をみたされ、|地上《ちじやう》の|神人《しんじん》たる|清浄無垢《せいじやうむく》の|霊身《れいしん》|三五《あななひ》の|教祖《けうそ》の|肉体《にくたい》を|終局点《しうきよくてん》として|来《きた》らせ|玉《たま》ひ、|間接内流《かんせつないりう》の|形式《けいしき》に|仍《よ》つて、|大地《だいち》の|修理固成《しうりこせい》の|神業《しんげふ》を、|三界《さんかい》の|衆生《しゆじやう》に|対《たい》し|洽《あまね》く|伝達《でんたつ》すべく|現《あら》はれ|玉《たま》ふたのであります。|其《その》|初発《しよつぱつ》の|神諭《しんゆ》には『|三千世界一度《さんぜんせかいいちど》に|開《ひら》く|梅《うめ》の|花《はな》、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|構《かま》ふ|世《よ》になりたぞよ、|須弥仙山《しゆみせんざん》に|腰《こし》をかけ、|三千世界《さんぜんせかい》を|守《まも》るぞよ』と|大獅子吼《だいししく》をされてゐます。|此《この》|神示《しんじ》を|略解《りやくかい》すれば、|三千世界《さんぜんせかい》とは、|神界《しんかい》|幽界《いうかい》|現界《げんかい》の|三大境界《きやうかい》であり、|過去《くわこ》|現在《げんざい》|未来《みらい》をも|指《さ》して|居《を》ります。|梅《うめ》の|花《はな》の|梅《うめ》は|言霊学上《げんれいがくじやう》、エと|云《い》ふことになる、エは|万物《ばんぶつ》の|始《はじめ》、|生命《せいめい》の|源泉《げんせん》であり、|用《よう》は【ス】といふことになり、スは|一切統一《いつさいとういつ》の|意味《いみ》であります。|又《また》スは|清浄《せいじやう》|潔白《けつぱく》スミキリの|意味《いみ》ともなる。|花《はな》とは|初《はじ》めて|成《な》るの|意《い》であり、|最初《さいしよ》の|意味《いみ》であり、|教祖《けうそ》の|意味《いみ》ともなる。|主《す》の|神《かみ》が|空前絶後《くうぜんぜつご》の|大神業《だいしんげふ》をいよいよ|開始《かいし》し、|最初《さいしよ》の|御理想《ごりさう》たる|黄金世界《わうごんせかい》を|地上《ちじやう》に|完全《くわんぜん》に|建設《けんせつ》し|玉《たま》ふといふ|芽出度《めでた》き|意味《いみ》であります。|艮《うしとら》といへば|東北《とうほく》を|意味《いみ》し|神典《しんてん》にては|日《ひ》の|若宮《わかみや》の|方位《はうゐ》であり、|万物《ばんぶつ》|発生《はつせい》の|根源《こんげん》であつて|太陽《たいやう》の|昇《のぼ》り|玉《たま》ふ|方位《はうゐ》であります。また|艮《うしとら》といふ|字義《じぎ》は|艮《とど》めとなり|初《はじめ》となり|固《かた》めとなり|永《なが》しとなり、|世《よ》の|終《をは》りの|世《よ》の|初《はじ》まりの|意味《いみ》となります。|金神《こんじん》といふ|意味《いみ》は|売卜者《ばいぼくしや》の|云《い》つてゐる|方除《はうよ》けをせられたり、|祟《たた》り|神《がみ》として|排斥《はいせき》せられてゐるやうな|人間《にんげん》の|仮《か》りに|造《つく》つた|神《かみ》の|意味《いみ》ではなく、|尊厳無比《そんげんむひ》|金剛不壊《こんがうふえ》の|意味《いみ》を|有《いう》し、|三界《さんかい》をして|黄金世界《わうごんせかい》に|完成《くわんせい》し|玉《たま》ふ|救《すく》ひの|神《かみ》といふ、|約《つづま》り|言葉《ことば》であります。
|須弥仙山《しゆみせんざん》といふのは、|仏経《ぶつきやう》にある|仮想的《かさうてき》の|山《やま》であつて|所謂《いはゆる》|宇宙《うちう》の|中心《ちうしん》を|指《さ》したものであります。|日月星辰《じつげつせいしん》が|此《この》|須弥仙山《しゆみせんざん》を|中心《ちうしん》に|進行《しんかう》し、|須弥仙山《しゆみせんざん》には|三十三《さんじふさん》の|天《てん》があるといつてゐるのを|見《み》ても、|無限絶対《むげんぜつたい》なる|大宇宙《だいうちう》の|意味《いみ》であることが|明瞭《めいれう》となつて|来《き》ます。|此《この》|須弥仙山《しゆみせんざん》に|腰《こし》をかけ|艮《うしとら》の|金神《こんじん》が|守《まも》ると|宣示《せんじ》されたのは、|実《じつ》に|驚嘆《きやうたん》すべき|大神業《だいしんげふ》の|大完成《だいくわんせい》を|予示《よじ》されたもので、|万有一切《ばんいういつさい》は|此《この》|大神《おほかみ》の|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|信真《しんしん》の|光《ひかり》に|浴《よく》し、|現幽神《げんいうしん》|三界《さんかい》に|亘《わた》り、|永遠無窮《えいゑんむきう》に|真生命《しんせいめい》を|保《たも》ち、|歓喜《くわんき》に|浴《よく》することを|得《う》るのであります。|太古《たいこ》に|於《お》ける|現世界《げんせかい》の|住民《ぢゆうみん》は|何《いづ》れも、|清浄無垢《せいじやうむく》にして、|智慧証覚《ちゑしようかく》にすぐれ、|愛《あい》の|善《ぜん》と|信《しん》の|真《しん》をよく|体得《たいとく》し、|直接《ちよくせつ》|天人《てんにん》と|交《まじ》はり、|霊界《れいかい》も|現界《げんかい》も|合《あは》せ|鏡《かがみ》の|如《ごと》く、|実《じつ》に|明《あきら》かな|荘厳《さうごん》な|世界《せかい》であつたのであります。それより|追々《おひおひ》と|世《よ》は|降《くだ》つて|白銀時代《しろがねじだい》となり、|八岐大蛇《やまたをろち》や|醜狐《しこぎつね》が|跋扈《ばつこ》し|始《はじ》め、|智慧証覚《ちゑしようかく》は|漸《やうや》くにしてにぶり|出《だ》し、|降《くだ》つて|赤銅時代《あかがねじだい》|黒鉄時代《くろがねじだい》と|益々《ますます》|現実化《げんじつくわ》し、|妖邪《えうじや》の|空気《くうき》は|天地《てんち》に|充満《じゆうまん》し、|三界《さんかい》に|紛争《ふんさう》|絶間《たえま》なく、|今《いま》や|泥海時代《どろうみじだい》と|堕落《だらく》して|了《しま》つたのです。|仏者《ぶつしや》は|之《これ》を|末法《まつぽふ》の|世《よ》といひ、|基督教《キリストけう》は|地獄《ぢごく》といひ、|神道家《しんだうか》は|常暗《とこやみ》の|世《よ》と|称《とな》へてゐます。|地上《ちじやう》|一切《いつさい》の|民《たみ》は|仁慈無限《じんじむげん》の|大神《おほかみ》の|恩恵《おんけい》を|忘却《ばうきやく》し、|自己愛的《じこあいてき》|行動《かうどう》を|敢《あへ》てなし、|互《たがひ》に|覇《は》を|争《あらそ》ひ、|権利《けんり》を|獲得《くわくとく》せむとし、|排他《はいた》と|猜疑《さいぎ》と、|呪咀《じゆそ》と|悪口《あくこう》のみを|之《こ》れ|事《こと》とし、|仏者《ぶつしや》の|所謂《いはゆる》|地獄《ぢごく》|餓鬼《がき》|畜生《ちくしやう》|修羅《しゆら》の|惨状《さんじやう》を|現出《げんしゆつ》することとなりました。|此《ここ》に|於《おい》て|国祖《こくそ》の|神霊《しんれい》は|此《この》|惨状《さんじやう》を|座視《ざし》するに|忍《しの》びず、|神《かみ》より|選《えら》まれたる|清浄無垢《せいじやうむく》なる|霊身《れいしん》|国照姫命《くにてるひめのみこと》をして|神意《しんい》|伝達《でんたつ》の|機関《きくわん》となし、|万有救済《ばんいうきうさい》の|聖業《せいげふ》を|托《たく》されたのであります。|故《ゆゑ》に|三五《あななひ》の|教《をしへ》は|根本《こんぽん》の|大神《おほかみ》の|聖慮《せいりよ》を|奉戴《ほうたい》し、|神界《しんかい》より|此《この》|地上《ちじやう》に|天降《あまくだ》し|玉《たま》へる|十二《じふに》の|神柱《かむばしら》を|集《あつ》め、|霊主体従的《れいしゆたいじうてき》|国土《こくど》を|建設《けんせつ》し、|常暗《とこやみ》の|世《よ》をして|最初《さいしよ》の|黄金世界《わうごんせかい》に|復帰《ふくき》せしむる|御神業《ごしんげふ》に|仕《つか》へまつるべき|大責任《だいせきにん》をお|任《まか》せになつたのであります。|今《いま》や|天運循環《てんうんじゆんくわん》の|神律《しんりつ》によつて、|世界《せかい》|各地《かくち》に|精神的《せいしんてき》|救世主《きうせいしゆ》が|現《あら》はれてをります。|就《つ》いては|日出雄《ひでを》も|主《す》の|神《かみ》の|神示《しんじ》に|従《したが》ひ、|到底《たうてい》|此《この》|小《ちひ》さき|教団《けうだん》のみの|神柱《かむばしら》となつてゐることは|出来《でき》ない|様《やう》になりました。|今日《こんにち》の|人間《にんげん》は|口先《くちさき》では|実《じつ》に|勇壮活溌《ゆうさうくわつぱつ》な、|鬼神《きじん》も|跣足《はだし》で|逃《に》げるやうな|大気焔《だいきえん》をはき、メートルを|上《あ》げてる|者《もの》もありますが、|愈々《いよいよ》|実地《じつち》となつた|時《とき》は|竜頭蛇尾《りうとうだび》に|終《をは》るのが|一般《いつぱん》の|傾向《けいかう》であります。|今日《こんにち》の|人間《にんげん》は|凡《すべ》てが|卑劣《ひれつ》で|柔弱《にふじやく》で、|小心《せうしん》で|貪慾《どんよく》で、|我利我利亡者《がりがりまうじや》で、|排他的《はいたてき》で、|真《しん》の|勇気《ゆうき》がありませぬ。かかる|汚穢《をえ》|陀羅《だら》|昏迷《こんめい》の|極度《きよくど》に|達《たつ》した|人心《じんしん》に|活気《くわつき》を|与《あた》へ、|神《かみ》の|聖霊《せいれい》の|宿《やど》つた|活《い》きた|機関《きくわん》として、|天晴《あつぱ》れ|活動《くわつどう》せしめむとするには、|先《ま》づ|第一《だいいち》に|勇壮活溌《ゆうさうくわつぱつ》なる|模範《もはん》を|示《しめ》し、|各《かく》|人間《にんげん》の|心《こころ》の|岩戸《いはと》を|開《ひら》いてやる|必要《ひつえう》がありますので、|国照姫命《くにてるひめのみこと》は|荒波《あらなみ》|猛《たけ》る|絶海《ぜつかい》の|孤島《こたう》|冠島《をしま》、|沓島《めしま》などに、|小舟《こぶね》で|渡《わた》り、|荒行《あらぎやう》をなし、|或《あるひ》は|鞍馬山《くらまやま》の|幽谷《いうこく》|其《その》|他《た》の|霊山霊地《れいざんれいち》へ|自《みづか》ら|出修《しゆつしう》して、|信徒《しんと》の|肝《きも》を|大《だい》ならしめ、|有為《いうゐ》なる|信者《しんじや》を|作《つく》り、|社会《しやくわい》の|為《ため》に|至誠《しせい》を|尽《つく》さしめむと|努《つと》められたのであります。|乍併《しかしながら》|元来《ぐわんらい》|臆病神《おくびやうがみ》の|巣窟《さうくつ》となつてゐる|人間《にんげん》は|盲《めくら》|聾《つんぼ》|同様《どうやう》で、|国照姫命《くにてるひめのみこと》の|聖跡《せいせき》をふんで、|其《その》|実行《じつかう》を|試《こころ》みた|者《もの》は|一人《ひとり》もなかつたのであります。|勿論《もちろん》|開祖《かいそ》の|行《ゆ》かれた|冠島《をしま》|沓島《めしま》や|鞍馬山《くらまやま》へ|参拝《さんぱい》して|御神業《ごしんげふ》が|勤《つと》まつたと|思《おも》つてゐる|分《わか》らずやは|相当《さうたう》にありました。けれども|其《その》|精神《せいしん》を|汲取《くみと》つて|其《その》|道《みち》に|大活動《だいくわつどう》を|続《つづ》けようとする|勇者《ゆうしや》は|一人《ひとり》も|出《で》なかつたのであります。|此《この》|体《てい》をみて|憤慨《ふんがい》した|日出雄《ひでを》は|三五《あななひ》の|信徒《しんと》を|始《はじ》め|自転倒島《おのころじま》の|人間《にんげん》|及《および》|世界《せかい》の|人間《にんげん》に|模範《もはん》を|示《しめ》す|為《ため》に、|神示《しんじ》を|畏《かしこ》み、|蒙古《もうこ》の|大原野《だいげんや》を|先《ま》づ|第一《だいいち》に|開拓《かいたく》すべく、|大正《たいしやう》|六年《ろくねん》の|春《はる》より、|秘《ひそ》かに|其《その》|準備《じゆんび》に|着手《ちやくしゆ》して|居《を》りました。|古語《こご》にも|南船北馬《なんせんほくば》といふ|語《ご》があります。どうしても|東北《とうほく》に|進《すす》むのには|馬《うま》に|乗《の》ることが|必要《ひつえう》である。|故《ゆゑ》に|日出雄《ひでを》は|此《この》|年《とし》より|準備《じゆんび》の|一端《いつたん》として、|四頭《しとう》の|馬《うま》を|飼育《しいく》し、|背《せ》の|高《たか》き|馬《うま》、|低《ひく》き|馬《うま》、おとなしき|馬《うま》、はげしき|馬《うま》を|乗《のり》こなし、|時《とき》の|到《いた》るを|待《ま》ちつつあつた。そこへ|神示《しんじ》の|如《ごと》く、|大正《たいしやう》|十年《じふねん》|辛酉《かのととり》の|年《とし》に|至《いた》つて、|事件《じけん》の|為《ため》|再《ふたた》び|天下《てんか》の|大誤解《だいごかい》をうけ、|行動《かうどう》の|自由《じいう》を|失《うしな》つたので、|意《い》を|決《けつ》し、|此《この》|世界《せかい》の|源《みなもと》|日出雄《ひでを》として|活動《くわつどう》せむと|思《おも》つてゐます。どうか|諸子《しよし》は|其《そ》の|考《かんが》へを|以《もつ》て|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》されむことを|希望《きばう》|致《いた》します。』
と|結《むす》んで|降壇《かうだん》した。|源《みなもと》|日出雄《ひでを》の|心中《しんちう》には|既《すで》に|既《すで》に|神命《しんめい》を|奉戴《ほうたい》し、|空前絶後《くうぜんぜつご》の|大神業《だいしんげふ》を|今《いま》や|企《くはだ》てむとし、|満月《まんげつ》の|如《ごと》く|絞《しぼ》つた|弓《ゆみ》の|矢《や》は|近《ちか》く|放《はな》たれむとしてゐたのである。
(大正一四・八・一五 松村真澄筆録)
第三章 |金剛心《こんがうしん》
|錐《きり》|襄中《のうちう》にあれば|必《かなら》ず|頴脱《えいだつ》し、|空気球《くうきまり》に|熱《ねつ》を|加《くは》ふれば|膨張《ばうちよう》して|破裂《はれつ》せざれば|止《や》まず、|熱烈《ねつれつ》なる|信仰《しんかう》と|燃《も》ゆるが|如《ごと》き|希望《きばう》と|抱負《はうふ》は、|日出雄《ひでを》の|肉体《にくたい》をかつて|遂《つひ》に|大本《おほもと》と|云《い》ふ|殻《から》を|打破《うちやぶ》つて|脱出《だつしゆつ》せざるを|得《え》ざらしめた。
ポンプも|強力《きやうりよく》なる|圧迫《あつぱく》によつて|滝《たき》の|如《ごと》く|空中《くうちう》に|水柱《みづばしら》を|立《た》て、|油《あぶら》は|圧搾器《あつさくき》に|押《おさ》へつけられて|滲《し》み|出《で》る、|僅《わづ》かに|五尺《ごしやく》の|空殻《くうがい》に|宇宙《うちう》|我《われ》にあり|的《てき》の|精魂《せいこん》を|宿《やど》しその|放出《はうしゆつ》を|防《ふせ》ぐに|苦心《くしん》すること、ここに|五十年《ごじふねん》。|山《やま》も|裂《さ》けよ、|岩《いは》も|飛《と》べよ、|天《てん》を|地《ち》となし、|地《ち》を|天《てん》となす|日出雄《ひでを》が|心中《しんちう》の|抱負《はうふ》の|一端《いつたん》は、ここに|蒙古入《もうこいり》となつて|現《あら》はれたのである。
|明治《めいぢ》|三十一年《さんじふいちねん》|以来《いらい》、|教養《けうやう》して|来《き》た|役員《やくゐん》|信徒《しんと》の|霊性《れいせい》を|一々《いちいち》|点検《てんけん》すれば、|愚直《ぐちよく》と|因循《いんじゆん》|固陋《ころう》|排他《はいた》と|誇大妄想狂《こだいまうさうきやう》と|罵詈讒謗《ばりざんばう》|等《とう》、あらゆる|悪徳《あくとく》の|暗影《あんえい》を|現《あら》はすのみにて、|真《しん》の|勇《ゆう》なく|智《ち》なく|愛《あい》なく|親《しん》なし。あゝ|斯如《かくのごとく》ならば|蜆貝《しじみがひ》を|以《も》つて|大海《だいかい》の|水《みづ》を|汲《く》み|出《だ》し、その|干《ひ》るを|待《ま》つが|如《ごと》く、|駱駝《らくだ》を|針《はり》の|穴《あな》に|通《とほ》すが|如《ごと》く、たとへ|数万年《すうまんねん》を|費《つひや》すと|雖《いへど》も、その|獲得《くわくとく》する|所《ところ》は|苦労《くらう》と|失敗《しつぱい》とにして|寸効《すんかう》なきを|看破《かんぱ》した|日出雄《ひでを》は、|先《ま》づ|第一《だいいち》に|神《かみ》の|島《しま》と|聞《きこ》えたる|筑紫島《つくしじま》に|渡《わた》りて|阿蘇《あそ》の|噴火口《ふんくわこう》を|探《さぐ》り、|三韓征伐《さんかんせいばつ》に|由緒《ゆいしよ》ある|息長帯比女命《おきながたらしひめのみこと》の|入浴《にふよく》されしと|伝《つた》ふる|杖立《つゑたて》の|霊泉《れいせん》に|心魂《しんこん》を|清《きよ》め、|志賀瀬川《しがせがは》の|清流《せいりう》に|禊《みそぎ》をなし、|鏡《かがみ》の|池《いけ》の|清泉《せいせん》に|己《おのれ》が|姿《すがた》を|写《うつ》し|眺《なが》め、|阿蘇《あそ》の|噴煙《ふんえん》の|如《ごと》く|大気焔《だいきえん》を|吐《は》き|乍《なが》ら|九州一《きうしういち》の|都会《とくわい》|熊本城外《くまもとじやうぐわい》に|立帰《たちかへ》るや|否《いな》や、|山本権兵衛《やまもとごんべゑ》|内閣《ないかく》の|出現《しゆつげん》、|東都《とうと》の|大震災《だいしんさい》|大火災《だいくわさい》のいたるに|会《あ》ふ。あゝ|世界《せかい》|改善《かいぜん》の|狼火《のろし》は|天地《てんち》の|神霊《しんれい》によりて|揚《あ》げられたり。|奮起《ふんき》すべきは|今《いま》なり。|重大《ぢうだい》なる|天命《てんめい》を|負《お》ひ|乍《なが》ら、|何《なに》を|躊躇逡巡《ちうちよしゆんじゆん》するか、|日本男子《やまとをのこ》の|生命《せいめい》は|何処《いづこ》にあるかと、|日出雄《ひでを》の|精霊《せいれい》は|彼《かれ》の|肉体《にくたい》を|叱咤《しつた》するのであつた。|日出雄《ひでを》は|匆々《さうさう》として|従者《じゆうしや》と|共《とも》に|聖地《せいち》に|帰《かへ》り、|世上《せじやう》の|毀誉褒貶《きよはうへん》を|度外《どぐわい》におき、|一切《いつさい》の|因《とらは》れより|離《はな》れ、|人界《じんかい》を|超越《てうゑつ》して|愈《いよいよ》|神業遂行《しんげふすゐかう》の|腸《はら》をきめた。その|結果《けつくわ》、|支那《しな》|五大教《ごだいけう》の|提携《ていけい》となり、|朝鮮《てうせん》|普天教《ふてんけう》との|提携《ていけい》となり、|国際語《こくさいご》エスペラントの|宣伝《せんでん》となり、|精神的《せいしんてき》|世界統一《せかいとういつ》の|一歩《いつぽ》を|走《はし》り|出《だ》した。|旧習《きうしふ》に|因《とら》はれ|不徹底《ふてつてい》なる|信仰上《しんかうじやう》よつぱらつた|役員《やくゐん》|信徒《しんと》の|中《なか》には、|男《をとこ》らしくもない、|蔭《かげ》に|潜《ひそ》んで、ブツブツ|小言《こごと》を|云《い》つてゐるものも|沢山《たくさん》に|現《あら》はれた。|今迄《いままで》|独断的《どくだんてき》|排他的《はいたてき》|気分《きぶん》に|漂《ただよ》ひ、|高《たか》き|障壁《しやうへき》や|深《ふか》き|溝渠《こうきよ》を|繞《めぐ》らしてゐた|大本《おほもと》の|信徒《しんと》|団体《だんたい》も、|此《この》|時《とき》よりやや|解放《かいはう》|気分《きぶん》となり、|圏外《けんぐわい》の|空気《くうき》を|多少《たせう》|吸収《きふしう》することとなつたのも、|全《まつた》く|日出雄《ひでを》の|英断的《えいだんてき》|行動《かうどう》によるものであつた。|開祖《かいそ》の|神諭《しんゆ》に|曰《いは》く、
『|三千世界《さんぜんせかい》の|立替立直《たてかへたてなほ》し、|天《あま》の|岩戸開《いはとびら》き、|神《かみ》は|小《ちひ》さい|事《こと》は|嫌《きら》ひである、|大《おほ》きな|事《こと》を|致《いた》す|神《かみ》であるぞよ。|役員《やくゐん》|信者《しんじや》は|胴《どう》|据《す》ゑ、|大《おほ》きな|腹《はら》で|居《を》らねば|到底《たうてい》|神《かみ》の|思惑《おもわく》は|立《た》たぬぞよ。サツパリ|世《よ》の|洗替《あらひかへ》であるから、|小《ちひ》さい|事《こと》を|申《まう》して|居《を》つては、いつ|迄《まで》も|世《よ》は|開《ひら》けぬぞよ。|此《この》ものと|思《おも》ふて|神《かみ》が|綱《つな》かけて|引寄《ひきよ》して|見《み》ても、|心《こころ》が|小《ちひ》さいから、|肝腎《かんじん》の|御用《ごよう》の|間《ま》に|合《あ》はぬぞよ。|誠《まこと》のものが|三人《さんにん》あつたならば、|三千世界《さんぜんせかい》の|大望《たいまう》は|成就《じやうじゆ》いたすぞよ』
と|示《しめ》されてある。あゝ|偉大《ゐだい》なるかな、|高遠《かうゑん》なるかな、|神《かみ》の|宣示《せんじ》よ。|大神《おほかみ》の|神示《しんじ》を|徹底的《てつていてき》に|理解《りかい》したる|日出雄《ひでを》の|身《み》は、|有司《いうし》の|誤認《ごにん》によつて|極刑《きよくけい》|五年《ごねん》の|懲役《ちようえき》を|云《い》ひ|渡《わた》され、|大阪控訴院《おほさかこうそゐん》に|控訴《こうそ》し、|厳正《げんせい》なる|裁判《さいばん》を|受《う》け、|厳重《げんぢう》なるその|筋《すぢ》の|監視《かんし》を|受《う》けてゐた。|新聞《しんぶん》|雑誌《ざつし》の|日々《ひび》の|銃先《つつさき》|揃《そろ》へての|大攻撃《だいこうげき》、|世間《せけん》の|非難《ひなん》、|役員《やくゐん》|信者《しんじや》の|反抗《はんかう》|離背《りはい》、|加《くは》ふるに|財政《ざいせい》の|圧迫《あつぱく》、かてて|加《くは》へて|大国賊《だいこくぞく》、|乱臣賊子《らんしんぞくし》、|大山師《おほやまし》、|大馬鹿者《おほばかもの》、|曰《いは》く|何《なに》、|曰《いは》く|何《なに》、あらゆる|悪名《あくめい》を|附与《ふよ》せられ|天下《てんか》|皆《みな》|是《こ》れ|敵《てき》たるの|境涯《きやうがい》にあつた。されど|日出雄《ひでを》の|肉体《にくたい》は|小《せう》なりと|雖《いへど》、|彼《かれ》が|心中《しんちう》にかかへたる|天下《てんか》|救済《きうさい》の|抱負《はうふ》と|信念《しんねん》は|火《ひ》も|焼《や》く|能《あた》はず、|水《みづ》も|溺《おぼ》らす|能《あた》はず、|巨砲《きよはう》も|之《これ》を|粉砕《ふんさい》し|得《え》ず、|鬼《おに》、|大蛇《だいぢや》、|虎《とら》、|熊《くま》、|唐獅子《からじし》、|駒《こま》、|数百千《すうひやくせん》の|攻撃《こうげき》も|意《い》に|介《かい》するに|足《た》らなかつた。|現代人《げんだいじん》より|見《み》て|如何《いか》なる|悲運《ひうん》の|域《ゐき》に|沈淪《ちんりん》するとも|大困難《だいこんなん》に|陥《おちい》るとも、その|精神《せいしん》を|飜《ひるがへ》さず、|強《つよ》き|者《もの》には|強敵《きやうてき》あり、|大《だい》なる|器《うつは》には|大《だい》なる|影《かげ》のさすの|見地《けんち》に|立《た》ち、|寧《むし》ろ|之《これ》を|壮快《さうくわい》となし|天下《てんか》を|睥睨《へいげい》してゐた。
|凡《すべ》ての|人間《にんげん》には、|何《いづ》れも|長所《ちやうしよ》と|短所《たんしよ》とがある。|各人《かくじん》は|各《おのおの》|人《ひと》の|短所《たんしよ》を|見《み》て|口《くち》を|極《きは》めて|非難《ひなん》|攻撃《こうげき》し、|吾《わが》|意《い》に|合《あ》はざるを|見《み》て|罵詈《ばり》し|排斥《はいせき》するものである。|人《ひと》はその|面貌《めんばう》の|異《こと》なる|如《ごと》く|愛善《あいぜん》の|徳《とく》も|信真《しんしん》の|光《ひかり》もその|度合《どあひ》がある。|従《したが》つて|智慧証覚《ちゑしようかく》も|優劣等差《いうれつとうさ》がある。おのが|小《ちひ》さき|意志《いし》に|従《したが》はしめむとして、|之《これ》に|和《わ》するものを|善人《ぜんにん》となし、|和《わ》せざるものを|悪人《あくにん》と|見《み》なすのは|凡人《ぼんじん》の|常《つね》である。|大本《おほもと》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》にも、|世間《せけん》の|御多分《ごたぶん》に|洩《も》れず|此《この》|種《しゆ》の|人物《じんぶつ》が|蝟集《ゐしふ》して|居《ゐ》た。|日出雄《ひでを》は|各人《かくじん》|特有《とくいう》の|長所《ちやうしよ》|短所《たんしよ》を|知悉《ちしつ》してゐる。|故《ゆゑ》にその|長所《ちやうしよ》を|見《み》て|適材《てきざい》を|適所《てきしよ》に|用《もち》ゐむとした。|頑迷固陋《ぐわんめいころう》にして|小心翼々《せうしんよくよく》たる|凡俗的《ぼんぞくてき》|役員《やくゐん》|信者《しんじや》の|目《め》には、|日出雄《ひでを》が|人《ひと》を|用《もち》ゆる|点《てん》に|於《おい》て|大《おほ》いに|不平《ふへい》を|漏《もら》してゐる。|故《ゆゑ》に|日出雄《ひでを》が|近《ちか》く|用《よう》を|命《めい》ずる|役員《やくゐん》は|一般《いつぱん》の|目《め》より|不正者《ふせいしや》|或《あるひ》は|悪人《あくにん》と|見《み》えたのである。|乍然《しかしながら》|神界《しんかい》の|御用《ごよう》は|人間《にんげん》の|意志《いし》に|従《したが》ふべきものでない。|神《かみ》の|命《めい》じ|玉《たま》ふ|人物《じんぶつ》こそ|神《かみ》の|御用《ごよう》をつとむるに|適《てき》したものである。|因襲《いんしう》や|情実《じやうじつ》や|外形的《ぐわいけいてき》|行為《かうゐ》を|見《み》て|人《ひと》を|左右《さいう》すべきものでない、|敢然《かんぜん》として|所信《しよしん》を|遂行《すゐかう》してこそ|初《はじ》めて|神業《しんげふ》の|一端《いつたん》に|奉仕《ほうし》し|得《え》らるるのである。
|多数者《たすうしや》の|非難《ひなん》を|斥《しりぞ》け、エス|語《ご》を|採用《さいよう》しブラバーサを|以《もつ》て|之《これ》が|普及《ふきふ》の|主任《しゆにん》に|任《にん》じ|日支《につし》|親善《しんぜん》の|楔《くさび》たる|五大教《ごだいけう》|道院《だうゐん》を|神戸《かうべ》に|開《ひら》き、|隆光彦《たかてるひこ》を|以《もつ》て|主任者《しゆにんしや》となし、|蒙古《もうこ》の|開発《かいはつ》には|真澄別《ますみわけ》を|参謀長《さんぼうちやう》となして|時代《じだい》|進展《しんてん》の|挙《きよ》を|進《すす》めたのである。
|扨《さ》て|蒙古入《もうこいり》に|就《つ》いては、|昨冬《さくとう》|王仁蒙古入記《おにもうこにふき》と|題《だい》し|霊界物語《れいかいものがたり》|第六十七巻《だいろくじふしちくわん》に|編入《へんにふ》した。|乍然《しかしながら》|飜《ひるがへ》つて|考《かんがへ》ふれば|種々《しゆじゆ》の|障害《しやうがい》のため、|事実《じじつ》を|闡明《せんめい》するの|便《べん》を|得《え》ず、|不得已《やむをえず》|上野公園《うへのこうゑん》|著《ちよ》として|天下《てんか》に|発表《はつぺう》する|事《こと》としたのである。|故《ゆゑ》に|本巻《ほんくわん》は|六十七巻《ろくじふしちくわん》の|代著《だいちよ》として|口述《こうじゆつ》し|専《もつぱ》ら|内面的《ないめんてき》|方面《はうめん》の|事情《じじやう》を|詳記《しやうき》する|考《かんが》へである。|文中《ぶんちう》|変名《へんめい》を|用《もち》ゐたのも|思《おも》ふ|所《ところ》あつての|故《ゆゑ》である。
|読者《どくしや》|幸《さいはひ》に|諒《れう》せられむ|事《こと》を。
(大正一四・八・一五 北村隆光筆録)
第四章 |微燈《びとう》の|影《かげ》
|大正《たいしやう》|十三年《じふさんねん》|新《しん》|二月《にぐわつ》|四日《よつか》は|大本《おほもと》の|年中《ねんぢう》|行事《ぎやうじ》の|一《ひとつ》なる|節分祭《せつぶんさい》に|相当《さうたう》し、|翌《よく》|五日《いつか》は|旧暦《きうれき》|甲子《きのえね》の|正月《しやうぐわつ》|元日《ぐわんじつ》に|相当《さうたう》する|吉辰《きちしん》である。|然《しか》し|中国暦《ちうごくれき》に|従《したが》へば|二月《にぐわつ》|四日《よつか》が|正月《しやうぐわつ》|元日《ぐわんじつ》となつてゐる、この|方《はう》が|正当《せいたう》らしい。そして|本年《ほんねん》の|甲子《きのえね》は|中国暦《ちうごくれき》によれば|十二万年《じふにまんねん》に|只一度《ただいちど》|循環《じゆんくわん》し|来《きた》ると|云《い》ふ|稀有《けう》の|日柄《ひがら》であつた。|二月《にぐわつ》|五日《いつか》|即《すなは》ち|旧《きう》|正月《しやうぐわつ》|元日《ぐわんじつ》|早朝《さうてう》より|元朝祭《ぐわんてうさい》を|行《おこな》ひ、|天地《てんち》|四方《しはう》を|拝《はい》し、|聖天子《せいてんし》の|仁徳《じんとく》を|感謝《かんしや》するのを|恒例《こうれい》としてゐる。そして|甲子《きのえね》は|即《すなは》ち|更始《かうし》に|国音《こくおん》|相通《あひつう》じ、|百度《ひやくど》|維《こ》れ|新《あらた》なる|年《とし》だと|云《い》はれてゐる。この|日《ひ》|各国《かくこく》|各地《かくち》より|集《あつ》まり|来《きた》つた|役員《やくゐん》|信徒《しんと》は|元朝祭《ぐわんてうさい》を|終《を》へ、|殆《ほとん》ど|人《ひと》に|対《たい》し|障壁《しやうへき》のない|日出雄《ひでを》の|身辺《しんぺん》を、|夜《よ》の|更《ふ》くる|迄《まで》|取《と》りかこんで|神界《しんかい》の|経綸談《けいりんだん》を|聞《き》いて|居《ゐ》た。|下《くだ》つて|正月《しやうぐわつ》|五日《いつか》|信者《しんじや》も|追々《おひおひ》と|帰国《きこく》し、さしもに|広《ひろ》き|教主殿《けうしゆでん》も|洪水《こうずゐ》のひいた|跡《あと》のやうに|閑寂《かんじやく》の|気《き》が|漂《ただよ》うた。|午後《ごご》|八時《はちじ》|頃《ごろ》、|教主殿《けうしゆでん》の|奥《おく》の|間《ま》、ランプの|光《ひか》り|幽《かす》かなる|一室《いつしつ》に|金泰籃《きんたいらん》の|机《つくゑ》をとりまいて|真澄別《ますみわけ》、|隆光彦《たかてるひこ》、|唐国別《からくにわけ》の|三人《さんにん》と|共《とも》にヒソヒソと|海外《かいぐわい》|宣伝《せんでん》の|評議《ひやうぎ》をやつてゐた。|明晃々《めいくわうくわう》たる|三日月《みかづき》は|四尾山《よつをやま》の|頂《いただき》に|沈《しづ》んで、|何処《いづこ》ともなく|膚寒《はださむ》い|風《かぜ》が|裸木《はだかぎ》の|立《た》ち|並《なら》んだ|神苑《しんゑん》を|吹《ふ》き|渡《わた》つて|居《ゐ》る。|唐国別《からくにわけ》は|且《かつ》て|海軍《かいぐん》に|奉仕《ほうし》し、その|官《くわん》は|大佐《たいさ》であつた。|日出雄《ひでを》は|陶器《たうき》の|火鉢《ひばち》に|手《て》をあぶり|乍《なが》ら、
『|真澄別《ますみわけ》さん、|朝鮮《てうせん》|普天教《ふてんけう》の|方《はう》や|北京行《ペキンゆき》の|結果《けつくわ》は、どうなりましたか|聞《き》かして|貰《もら》ひたいものですな』
|真澄別《ますみわけ》『ハイ、|御命令《ごめいれい》を|頂《いただ》きまして|唯夫別《ただをわけ》を|伴《ともな》ひ|先《ま》ず|朝鮮《てうせん》へ|神《かみ》の|使節《しせつ》として|往来《わうらい》せる|金勝〓《きんしようぶん》、|田炳徳《でんへいとく》その|他《た》|二三《にさん》の|普天教《ふてんけう》|信徒《しんと》に|迎《むか》へられ、|朝鮮鉄道《てうせんてつだう》に|乗《の》つて|大田駅《たいでんえき》につき、ここにて|普天教《ふてんけう》|幹部《かんぶ》|金正坤《きんしやうこん》|氏《し》と|布教《ふけう》|伝道《でんだう》の|件《けん》につき|懇々《こんこん》と|談《だん》じ、|金《きん》、|田《でん》|二氏《にし》の|案内《あんない》にて|井邑《せいいふ》なる|同教《どうけう》|本部《ほんぶ》に|参着《さんちやく》、|教主《けうしゆ》|車潤洪《しやじゆんこう》|氏《し》と|徹夜《てつや》|快談《くわいだん》|致《いた》しましたが、|車《しや》|氏《し》は、かねて|聞《き》き|及《およ》びしに|違《たが》はざる|立派《りつぱ》な|神柱《かむばしら》で、|同教《どうけう》の|動機《どうき》や|教理《けうり》|等《とう》は、その|活動舞台《くわつどうぶたい》を|朝鮮《てうせん》においた|迄《まで》で、|全《まつた》く|大国常立尊《おほくにとこたちのみこと》|様《さま》の|御経綸《ごけいりん》に|奉仕《ほうし》してゐる|人《ひと》ですから、その|教理《けうり》や|事情《じじやう》に|於《おい》ては|今《いま》|改《あらた》めて|御報告《ごはうこく》|申上《まをしあ》げる|迄《まで》もなく、|貴方《あなた》は|御存《ごぞん》じの|事《こと》と|思《おも》ひます。ただ|車《しや》|氏《し》は|神界《しんかい》の|御都合《ごつがふ》により|因縁上《いんねんじやう》の|関係《くわんけい》とでも|申《まを》すものか、あつぱれ|表面《へうめん》に|立《た》つて|社会的《しやくわいてき》に|活動《くわつどう》するは|甲子《きのえね》の|年《とし》と|同教《どうけう》の|神示《しんじ》に|定《さだ》められてあるさうですが、|之《これ》と|同時《どうじ》に|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》にお|目《め》にかかり|御意見《ごいけん》を|聞《き》いた|上《うへ》でなくては、|公然《こうぜん》|神業《しんげふ》の|完成《くわんせい》に|向《むか》つて|進《すす》まれる|訳《わけ》には|行《ゆ》かない|事《こと》になつてゐるさうです。その|筋《すぢ》の|誤解《ごかい》や|俗人《ぞくじん》の|中傷《ちうしやう》|等《とう》もあつて、|朝鮮《てうせん》|独立《どくりつ》の|陰謀団《いんぼうだん》のやうに|見做《みな》され、|聖地《せいち》の|如《ごと》く|数多《あまた》の|警官《けいくわん》に|踏《ふ》み|込《こ》まれ、|非常《ひじやう》な|迷惑《めいわく》を|感《かん》じた|経緯《いきさつ》もあり、それ|故《ゆゑ》|車《しや》|氏《し》は|時節《じせつ》の|到来《たうらい》する|迄《まで》|多数《たすう》の|信者《しんじや》にでも|顔《かほ》を|見《み》せないやうに、|山《やま》|深《ふか》く|分《わ》け|入《い》り、|世間《せけん》にかくれて|神界《しんかい》の|経綸《けいりん》を|進《すす》めつつあると|云《い》ふ|状態《じやうたい》でありますが、|右《みぎ》の|次第《しだい》で|兎《と》に|角《かく》|当分《たうぶん》の|処《ところ》、|大本《おほもと》と|云《い》ひ|普天《ふてん》と|云《い》ふのも、|各《おのおの》その|出現地《しゆつげんち》に|於《おい》ての|称《とな》へであつて|畢竟《ひつきやう》|同一《どういつ》の|神《かみ》の|教《をしへ》でありますから、|相互間《さうごかん》の|諒解《りやうかい》も|十分《じふぶん》に|出来《でき》たので|精神的《せいしんてき》、|内分的《ないぶんてき》に|提携《ていけい》|聯合《れんがふ》して|帰国《きこく》しました。|又《また》|北京《ペキン》では|主《しゆ》として|大学《だいがく》|教授《けうじゆ》やその|他《た》の|思想家《しさうか》|達《たち》と|交遊《かういう》し、|互《たがひ》に|意見《いけん》の|交換《かうくわん》をなし|大本《おほもと》の|教理《けうり》を|詳細《しやうさい》に|述《の》べた|所《ところ》、|彼等《かれら》も|非常《ひじやう》に|感服《かんぷく》し、|再会《さいくわい》を|約《やく》して|一旦《いつたん》|袂《たもと》を|別《わか》つて|帰《かへ》りました。|五大教《ごだいけう》|道院《だうゐん》、|悟善社《ごぜんしや》その|他《た》の|宗教団体《しうけうだんたい》は|隆光彦《たかてるひこ》さまが|交渉《かうせふ》の|任《にん》に|当《あた》つて|居《を》られるので、|私《わたし》は|手《て》をつけないで|置《お》きました。|只《ただ》|将来《しやうらい》の|参考《さんかう》に|資《し》するために、|北京《ペキン》の|宮城《きうじやう》や|万寿山《まんじゆざん》ラマ|寺《でら》|等《とう》を|興味《きようみ》を|以《もつ》て|調《しら》べて|参《まゐ》りましたが、|実《じつ》に|立派《りつぱ》なものでありました。|又《また》|唯夫別《ただをわけ》は|車《しや》|教主《けうしゆ》と|相談《さうだん》の|上《うへ》|普天教《ふてんけう》の|役員格《やくゐんかく》として|姓名《せいめい》を|金仁沢《きんじんたく》と|改《あらた》めて|残留《ざんりう》させる|事《こと》と|致《いた》し、|当分《たうぶん》|金《きん》|氏《し》|指導《しだう》のもとに|朝鮮語《てうせんご》を|修得《しうとく》し、|交換的《かうくわんてき》にエスペラントを|教《をし》ふる|事《こと》に|取計《とりはか》つておきました。|申《まを》しおくれましたが、|普天教々主《ふてんけうけうしゆ》の|方《はう》から|日本《にほん》の|方《はう》へ|伺《うかが》ひますのが|神様《かみさま》の|経綸《けいりん》から|云《い》つても|本意《ほんい》ですけれども、|当分《たうぶん》は|前陳《ぜんちん》の|通《とほ》りの|事情《じじやう》でございますから、|恐入《おそれい》りますが|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》に|何《なん》とか|御都合《ごつがふ》をつけて、|一度《いちど》お|越《こ》しを|願《ねが》はれますやう、|頼《たの》んでは|下《くだ》さいませぬか。さうせなくては|表立《おもてだ》つて|活動《くわつどう》するを|許《ゆる》されませぬですからと|云《い》つて、|鶴首《かくしゆ》して|待《ま》つてゐます』
|日出雄《ひでを》『|自分《じぶん》も|一度《いちど》|侍天教《じてんけう》の|教主《けうしゆ》|宋秉駿伯《そうへいしゆんはく》と|大正《たいしやう》|六年《ろくねん》の|夏《なつ》|提携《ていけい》して|以来《いらい》、|会《あ》ふてゐないから|機会《きくわい》を|得《え》たら|一度《いちど》|会《あ》ふて|今後《こんご》の|宗教的《しうけうてき》|活動《くわつどう》|方法《はうはふ》につき|懇々《こんこん》と|相談《さうだん》して|見《み》たいと、かねて|思《おも》つてゐた|矢先《やさき》、|朝鮮《てうせん》|普天教《ふてんけう》と|提携《ていけい》の|出来《でき》たのを|幸《さいは》ひ、|万障《ばんしやう》を|繰合《くりあは》して|渡鮮《とせん》して|見《み》たいと|思《おも》つてゐるが、|何分《なにぶん》|御承知《ごしようち》の|通《とほ》りの|身《み》の|上《うへ》だからその|機《き》を|得《え》ず|今《いま》までグヅグヅしてゐたのだ。|乍然《しかしながら》|人間《にんげん》には|一日《いちにち》も|暇《いとま》と|云《い》ふ|事《こと》がないものだから、|思《おも》ひきつて|渡鮮《とせん》しようかとも|考《かんが》へてゐる。|支那《しな》の|五大教《ごだいけう》との|提携《ていけい》が|完成《くわんせい》した|暁《あかつき》だから、|済南母院《さいなんぼゐん》の|参拝《さんぱい》をかね|悟善社《ごぜんしや》へも|行《い》つて|見《み》たいと|考《かんが》へてゐる。|幸《さいは》ひ|隆光彦《たかてるひこ》さんが|帰《かへ》つて|来《き》たから|同教《どうけう》の|内情《ないじやう》も|聞《き》いた|上《うへ》、|断行《だんかう》してもいい』
|隆光彦《たかてるひこ》『|節分祭《せつぶんさい》をあてに|倉皇《さうくわう》として|支那《しな》から|帰《かへ》つて|以来《いらい》、|節分祭《せつぶんさい》のため|各地《かくち》|信徒《しんと》の|来訪《らいほう》で|寸暇《いとま》を|得《え》ず|復命《ふくめい》をおくれてゐました。|昨冬《さくとう》|十一月《じふいちぐわつ》|参綾《さんりよう》した|五大教《ごだいけう》の|代表者《だいへうしや》|侯延爽《こうえんさう》|氏《し》と|一緒《いつしよ》に|支那《しな》に|渡《わた》り、|先《ま》づ|北京道院《ペキンだうゐん》を|訪《たづ》ねました。|道院《だうゐん》のすぐ|近《ちか》くのガーデンホテルで|盛大《せいだい》な|歓迎会《くわんげいくわい》を|開《ひら》いて|呉《く》れ、その|席《せき》で|侯《こう》|氏《し》は|大本《おほもと》と|開祖様《かいそさま》の|事《こと》から、|相共《あひとも》に|思想《しさう》|善導《ぜんだう》の|大道《だいだう》に|相握手《あひあくしゆ》するに|至《いた》つた|経緯《いきさつ》を|語《かた》り、|私《わたくし》も|亦《また》|大本《おほもと》の|歴史《れきし》から|聖師様《せいしさま》の|事《こと》を|語《かた》り、|日支《につし》|親善《しんぜん》や|共存共栄《きようぞんきようえい》の|根本義《こんぽんぎ》は|精神的《せいしんてき》に|両国民《りやうこくみん》の|結合《けつがふ》を|見《み》なければならぬと|答辞《たふじ》をかねて|述《の》べておきました。|道院《だうゐん》は|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|仏教《ぶつけう》、|儒教《じゆけう》、|道教《だうけう》、|基督教《キリストけう》、|回回教《ふいふいけう》の|五大教《ごだいけう》の|統一《とういつ》|親和《しんわ》を|図《はか》るもので、その|宗旨《しうし》の|教義《けうぎ》は|我《わが》|大本《おほもと》と|全然《ぜんぜん》|相似《あひに》たものでありますから、|要《えう》するに|同《おな》じ|主《す》の|神様《かみさま》の|御経綸《ごけいりん》になつたものと|考《かんが》へます。|前国務総理《ぜんこくむそうり》たりし|銭能訓《せんのうくん》|氏《し》や|陸軍元帥《りくぐんげんすゐ》、|国務総理代理《こくむそうりだいり》|江朝宗《こうてうそう》|氏《し》、|王芝祥《わうししやう》|氏《し》|等《とう》の|高官《かうくわん》を|始《はじ》め、|各《かく》|方面《はうめん》|人士《じんし》の|歓迎《くわんげい》を|受《う》け、|又《また》|悟善総社《ごぜんそうしや》の|幹部《かんぶ》や|万教大同会《ばんけうだいどうくわい》の|袁華瀛《ゑんくわえい》|氏《し》とも|会見《くわいけん》した|処《ところ》、|何《いづ》れも|皆《みな》|是非《ぜひ》|一度《いちど》|聖師様《せいしさま》に|渡支《とし》を|願《ねが》はれますまいか、|幸《さいはひ》にお|越《こし》を|願《ねが》ふ|事《こと》を|得《う》れば|道院《だうゐん》は|勿論《もちろん》|悟善社《ごぜんしや》の|建物《たてもの》を|提供《ていきよう》し|度《た》いからと|云《い》つて、やみませぬでした。どうか|綾部《あやべ》の|御都合《ごつがふ》さへつきますれば、|一度《いちど》お|越《こ》しになれば、|嘸《さぞ》、|皆《みな》が|満足《まんぞく》される|事《こと》と|存《ぞん》じます。お|待《ま》ちしてゐるのは|五大教《ごだいけう》|計《ばか》りぢやありませぬ。|済南《さいなん》、|南京《ナンキン》、|上海《シヤンハイ》と|私《わたし》の|通過《つうくわ》した|処《ところ》どこも|聖師《せいし》の|名《な》を|聞《き》いて|御渡支《ごとし》を|渇望《かつばう》して|居《を》ります。|私《わたくし》は|主《しゆ》として|北京《ペキン》と|済南本部《さいなんほんぶ》に|滞在《たいざい》し、|支那《しな》|五大霊山《ごだいれいざん》の|一《いち》たる|泰山《たいざん》に|登《のぼ》り、|曲阜《きよくふ》の|孔子廟《こうしべう》に|詣《まう》でて|帰国《きこく》|致《いた》しました。|北京道院《ペキンだうゐん》の|〓示《けいじ》によりますれば|来《きた》る|旧《きう》|二月《にぐわつ》|朔日《ついたち》に|神戸市外《かうべしぐわい》|六甲村《ろくかふむら》で|開院式《かいゐんしき》を|開《ひら》く|事《こと》になつてゐますから、その|前《まへ》に|聖師様《せいしさま》のお|供《とも》をして|再《ふたた》び|支那《しな》へ|行《ゆ》き|度《た》いと|思《おも》つてゐます』
|日出雄《ひでを》『それは|非常《ひじやう》に|好都合《かうつがふ》だつた。|支那《しな》、|朝鮮《てうせん》を、それでは|一度《いちど》|旅行《りよかう》してその|道《みち》の|主《おも》なる|人々《ひとびと》と|世界《せかい》|平和《へいわ》のため、|人類愛《じんるゐあい》のため、|深《ふか》き|御神慮《ごしんりよ》のある|処《ところ》を|語《かた》り|合《あ》ひ、|世界《せかい》|宗教《しうけう》|統一《とういつ》の|第一歩《だいいつぽ》を|踏《ふ》み|出《だ》すことにしよう、その|時《とき》は|是非《ぜひ》|真澄別《ますみわけ》、|隆光彦《たかてるひこ》|両氏《りやうし》も|同道《どうだう》して|欲《ほ》しいものだ』
|真澄別《ますみわけ》『|普天教《ふてんけう》の|話《はなし》もあり、|又《また》|私《わたし》も|一度《いちど》|道院《だうゐん》の|幹部連《かんぶれん》と|熟議《じゆくぎ》を|凝《こ》らして|見《み》たいから|是非《ぜひ》|同行《どうかう》を|願《ねが》ひませう』
|日出雄《ひでを》『これで|教主輔《けうしゆほ》に|法学士《はふがくし》、|支那語学者《しなごがくしや》と|三拍子《さんびやうし》|揃《そろ》つた、|鬼《おに》に|鉄棒《かなぼう》だ。あゝ|前途《ぜんと》の|光明《くわうみやう》は|確《たしか》に|輝《かがや》いてゐる。|時《とき》に|唐国別《からくにわけ》さん、|奉天《ほうてん》に|水也商会《みづやしやうくわい》と|云《い》ふ|軍器店《ぐんきてん》を|出《だ》してゐられるさうですが、|支那《しな》の|事情《じじやう》は|余程《よほど》|詳《くは》しいでせうな』
|唐国別《からくにわけ》『|海軍《かいぐん》を|退職《たいしよく》してから|何《なん》でも|支那大陸《しなたいりく》で|一儲《ひとまうけ》をしようと|思《おも》ひ、|先《ま》づ|上海《シヤンハイ》に|商館《しやうくわん》を|開《ひら》いて|見《み》た|処《ところ》、いろいろの|事情《じじやう》があつて|百万円《ひやくまんゑん》の|金《かね》を|儲《まう》け|損《そこな》ひ、|間《ま》もなく|上海《シヤンハイ》の|商店《しやうてん》を|閉鎖《へいさ》し、|張作霖《ちやうさくりん》の|眤懇者《じつこんしや》と|称《しよう》する|者《もの》よりすすめられ、|張作霖《ちやうさくりん》の|軍隊《ぐんたい》に|武器《ぶき》を|供給《きようきふ》するため|奉天《ほうてん》|平安通《へいあんどほ》りに|水也商会《みづやしやうくわい》を|開設《かいせつ》する|事《こと》になりました。|然《しか》し|之《これ》も、どうやら|自分《じぶん》の|技術《ぎじゆつ》を|盗《ぬす》まれる|位《くらゐ》が|落《おち》かも|知《し》れませぬ。ついては|聖師《せいし》がいよいよ|渡支《とし》されるとなれば|一《ひと》つここに|面白《おもしろ》い|事業《じげふ》が|横《よこ》たはつてゐますが、|一応《いちおう》|聞《き》いて|下《くだ》さいますまいか、|今晩《こんばん》|伺《うかが》つたのはこの|件《けん》につき|御意見《ごいけん》を|承《うけたまは》り|度《た》いと|思《おも》つたからです』
|日出雄《ひでを》『|臍《へそ》の|緒《を》きつて|初《はじ》めての|海外旅行《かいぐわいりよかう》であり、|奉天市街《ほうてんしがい》も|日本人《にほんじん》が|行《い》つてから|非常《ひじやう》に|開《ひら》けたやうに|聞《き》いても|居《ゐ》るし、|同地《どうち》の|支部《しぶ》へも|立寄《たちよ》つて|見《み》たいとも|思《おも》つてゐる。|丁度《ちやうど》よい|都合《つがふ》だ。そして|貴下《あなた》の|話《はなし》と|云《い》ふのは、どう|云《い》ふことですか』
|唐国別《からくにわけ》『|私《わたし》は|此《この》|大晦日《おほみそか》の|夜《よ》に|聖師《せいし》に|書《か》いて|頂《いただ》いた、
|日地月《につちげつ》|合《あは》せて|作《つく》る|串団子《くしだんご》|星《ほし》の|胡麻《ごま》かけ|喰《くら》ふ|王仁口《わにぐち》
と|云《い》ふ|半折《はんせつ》の|書《しよ》を|表装《へうさう》して|商会《しやうくわい》の|床《とこ》の|間《ま》にかけておいた|所《ところ》、|河南督軍《かなんとくぐん》|趙〓《てうてき》の|軍事《ぐんじ》|顧問《こもん》をつとめてゐた|岡崎《をかざき》|鉄首《てつしゆ》と|云《い》ふ|日本人《にほんじん》がやつて|来《き》て、その|掛物《かけもの》に|目《め》をつけ、|大変《たいへん》に|喜《よろこ》び、こんな|大《おほ》きな|事《こと》を|書《か》く|人《ひと》はよほど|変《かは》つてゐる。この|歌《うた》が|大変《たいへん》|気《き》に|入《い》つた。|今《いま》|私《わたし》は|張作霖《ちやうさくりん》の|内意《ないい》で|裕東印刷所《ゆうとういんさつじよ》を|開設《かいせつ》しその|技師長《ぎしちやう》となつて|勤《つと》めてゐるが、|印刷所《いんさつじよ》の|開設《かいせつ》された|動機《どうき》は、|実《じつ》に|注意深《ちういぶか》い|酢《す》にも|蒟蒻《こんにやく》にも|行《ゆ》かない|張作霖《ちやうさくりん》の|大秘密《だいひみつ》に|属《ぞく》するもので、やがて|雪解《ゆきど》けともなれば|奉直戦《ほうちよくせん》が|再《ふたた》び|起《おこ》る|形勢《けいせい》だから、その|時《とき》に|必要《ひつえう》なる|軍票《ぐんぺう》を|三千万円《さんぜんまんゑん》ばかり|印刷《いんさつ》するためです。|然《しか》し|吾々《われわれ》は|奉直戦《ほうちよくせん》などは|如何《どう》でもいいです。|日本《にほん》の|国威《こくい》が|上《あが》り|満蒙《まんもう》に|流浪《るらう》してゐる|不逞鮮人《ふていせんじん》を|安気《あんき》に|生活《せいくわつ》させてやりさへすればいいのです。|犬養先生《いぬかひせんせい》や|頭山先生《とうやませんせい》、|内田先生《うちだせんせい》、|末永節《すゑながせつ》その|他《た》の|名士連《めいしれん》と|謀《はか》り|肇国会《てうこくくわい》と|云《い》ふ|高麗国《かうらいこく》の|建設《けんせつ》を|図《はか》り、|末永《すゑなが》は|東京《とうきやう》|方面《はうめん》での|事務《じむ》をとり、|私《わたし》は|満州《まんしう》に|渡《わた》つて|内密《ないみつ》にその|準備《じゆんび》をやつてゐるのです。|此《この》|際《さい》|蒙古《もうこ》の|大広野《だいくわうや》を|開拓《かいたく》し|日本《につぽん》の|大植民地《だいしよくみんち》を|作《つく》つたら|国家《こくか》の|為《ため》になるだらうと|思《おも》ひます。こんな|大事業《だいじげふ》は|吾々《われわれ》|凡夫《ぼんぷ》が|何程《なにほど》よつても|到底《たうてい》|着手《ちやくしゆ》することも|出来《でき》ない。そして|最《もつと》も|人心《じんしん》を|収攪《しうらん》するものは|宗教《しうけう》より|外《ほか》ないと|考《かんが》へ、|内地《ないち》の|既成宗教家《きせいしうけうか》の|頭《かしら》を|説《と》いたが、|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|口先《くちさき》ばかりで|実行《じつかう》する|勇気《ゆうき》のない|糞坊主《くそばうず》や|偽《にせ》キリストばかりだ。|大谷《おほたに》|光瑞《くわうずゐ》でも|内地《ないち》では|豪僧《がうそう》のやうに|云《い》はれてゐるが、|南洋《なんやう》へ|行《い》つては|失敗《しつぱい》し、|印度《いんど》からは|追払《おひはら》はれ、|本願寺《ほんぐわんじ》を|追出《おひだ》され、|船《ふね》を|作《つく》つて|天津《てんしん》と|上海《シヤンハイ》の|間《あひだ》を|往復《わうふく》してゐるが、それも|在留《ざいりう》|日本人《につぽんじん》の|一部《いちぶ》に|信用《しんよう》を|保《たも》つて|居《ゐ》る|丈《だけ》で、|評判《ひやうばん》|程《ほど》の|事《こと》もない|憐《あは》れ|至極《しごく》の|状態《じやうたい》です。どうです|唐国別《からくにわけ》さま、|貴下《あなた》は|大本信徒《おほもとしんと》の|一人《ひとり》でもあり|幹部《かんぶ》の|方《かた》でもあるやうですから、|私《わたし》の|意図《いと》を|日出雄《ひでを》|聖師《せいし》に|会《あ》つて|相談《さうだん》しては|呉《く》れませぬか|等《とう》と、いろいろの|面白《おもしろ》い|計画《けいくわく》を|話《はな》しました。さて|聖師様《せいしさま》、|兎《と》も|角《かく》も|今度《こんど》|渡支《とし》されたら|水也商会《みづやしやうくわい》に|立寄《たちよ》つて|鉄首《てつしゆ》に|会《あ》つて|貰《もら》へますまいか』
|日出雄《ひでを》『ヤア|兎《と》も|角《かく》も|鉄首《てつしゆ》は|面白《おもしろ》い|事《こと》を|云《い》ふ|男《をとこ》だ。|自分《じぶん》も|実《じつ》は|紅卍字会《こうまんじくわい》へ|行《ゆ》くとはホンのつけたりだ。|広袤千里《くわうぼうせんり》に|連《つら》なる|蒙古《もうこ》の|大原野《だいげんや》に|一大王国《いちだいわうこく》を|建設《けんせつ》し|度《た》いと|思《おも》つてゐるのだ。|乍然《しかしながら》|表面《へうめん》は|紅卍字会《こうまんじくわい》、|普天教行《ふてんけうゆき》としておかう』
|唐国別《からくにわけ》『|鉄首《てつしゆ》も|今《いま》のお|言葉《ことば》を|聞《き》いたら|喜《よろこ》ぶでせう。|蒙古《もうこ》の|大原野《だいげんや》に|新王国《しんわうこく》を|建設《けんせつ》するについては、|今《いま》から|十年《じふねん》|以前《いぜん》に|七万《しちまん》の|精兵《せいへい》をつれて|内外蒙古《ないぐわいもうこ》に|進出《しんしゆつ》し、|庫倫《クーロン》をついて|一時《いちじ》|驍名《げうめい》を|馳《は》せた|盧占魁《ろせんくわい》と|云《い》ふ|大英雄《だいえいゆう》が|一度《いちど》|聖師《せいし》に|会見《くわいけん》し、|意見《いけん》が|合《あ》ふたら|天下《てんか》のために|大活動《だいくわつどう》をやつて|貰《もら》ひ|度《た》いものだと|渇望《かつばう》してゐます。|大神《おほかみ》の|御経綸《ごけいりん》の|一端《いつたん》を|実行《じつかう》するには|実《じつ》に|絶好《ぜつかう》の|機会《きくわい》と|思《おも》ひますが、|聖師《せいし》のお|考《かんが》へは|如何《いかが》でせうかな』
|日出雄《ひでを》『|盧占魁《ろせんくわい》は|蒙古《もうこ》の|英雄《えいゆう》、|馬賊《ばぞく》の|大巨頭《だいきよとう》と|云《い》ふ|事《こと》は|世間《せけん》|周知《しうち》の|事実《じじつ》だ。|乍然《しかしながら》|大本《おほもと》の|教主輔《けうしゆほ》、しかも|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》を|標榜《ひやうばう》して|万有愛《ばんいうあい》の|実行《じつかう》を|天下《てんか》に|示《しめ》さむとする|自分《じぶん》としては、|馬賊《ばぞく》の|大巨頭《だいきよとう》と|提携《ていけい》するのは|考《かんが》へ|物《もの》だと|思《おも》ふ。|小胆《せうたん》なる|大本信者《おほもとしんじや》の|誤解《ごかい》を|受《う》け、|教団《けうだん》の|破壊者《はくわいしや》と|睨《にら》まれるかも|知《し》れない。なるべくはそんな|危険《きけん》な|方法《はうはふ》を|採《と》らずに|精神《せいしん》|方面《はうめん》のみでやつて|見《み》ようと|思《おも》ふ。|第一《だいいち》|馬賊《ばぞく》と|云《い》ふ|名《な》が|大変《たいへん》|面白《おもしろ》くない|感《かん》じを|与《あた》へるぢやないか』
(大正一四・八・一五 北村隆光筆録)
第五章 |心《こころ》の|奥《おく》
|日出雄《ひでを》は|唐国別《からくにわけ》の|談《はなし》を|聞《き》いて|暫《しばら》く|俯《うつむ》いて|考《かんが》へ|込《こ》んだ。|日出雄《ひでを》の|心天《しんてん》に|忽《たちま》ち|大光明《だいくわうみやう》が|輝《かがや》いた。|満州《まんしう》や|蒙古《もうこ》に|活動《くわつどう》して|居《ゐ》る|馬賊《ばぞく》といつても、|決《けつ》して|一般人《いつぱんじん》の|考《かんが》へて|居《ゐ》るやうな|兇悪乱暴《きようあくらんばう》の|者《もの》|計《ばか》りでもあるまい。|中古《ちうこ》|我《わが》|国《くに》の|元亀《げんき》|天正《てんしやう》の|頃《ころ》の|群雄《ぐんゆう》が|割拠《かつきよ》して|居《ゐ》たやうなもので、|規律《きりつ》|整然《せいぜん》たるものであらう。|決《けつ》して|人《ひと》の|財宝《ざいほう》を|掠奪《りやくだつ》したり、|殺人《さつじん》|強姦《がうかん》などを|行《おこな》ふものではあるまい。|兎《と》に|角《かく》|徳《とく》を|以《もつ》て|馴《な》づけたなら、|虎《とら》でも|狼《おほかみ》でも|心《こころ》の|底《そこ》より|帰順《きじゆん》するものだ。|殊《こと》に|蒙古《もうこ》の|馬賊《ばぞく》に|至《いた》つては、|弱者《じやくしや》を|助《たす》け|狂暴《きやうばう》なる|者《もの》を|誡《いまし》め、|社会《しやくわい》の|弱《よわ》き|人民《じんみん》を|保護《ほご》する|任《にん》に|当《あた》ると|聞《き》いて|居《ゐ》る。|政治《せいぢ》の|行届《ゆきとど》かない|蒙古《もうこ》の|広野《くわうや》では|馬賊《ばぞく》も|一《ひと》つの|政治的《せいぢてき》|機関《きくわん》だ。|今日《こんにち》|満州王《まんしうわう》をもつて|自任《じにん》して|居《ゐ》る|東三省《とうさんしやう》の|保安総司令《ほあんそうしれい》である|張作霖《ちやうさくりん》だつて、|張宗昌《ちやうそうしやう》だつて、|其《その》|他《た》の|名《な》ある|督軍達《とくぐんたち》は|皆《みな》|馬賊《ばぞく》から|出《で》て|居《ゐ》るのだ。これを|考《かんが》へても|馬賊《ばぞく》は|決《けつ》して|日本《につぽん》の|山賊《さんぞく》や|泥棒《どろばう》のやうなものではあるまい。|一層《いつそ》のこと|盧占魁《ろせんくわい》と|提携《ていけい》して|蒙古《もうこ》に|新彊《しんきやう》に|王国《わうこく》を|建設《けんせつ》し、|日本魂《やまとだましひ》の|本領《ほんりやう》を|世界《せかい》に|輝《かがや》かすのも|男子《だんし》として|面白《おもしろ》い|事業《じげふ》だ。|併《しか》し|馬賊《ばぞく》といつても|種々《しゆじゆ》の|種類《しゆるゐ》があつて、|掠奪《りやくだつ》のみを|以《もつ》て|事《こと》とする|小《せう》トルの|団体《だんたい》もある。|善悪正邪《ぜんあくせいじや》の|混淆《こんかう》して|居《ゐ》る|世《よ》の|中《なか》だ、|天下《てんか》の|大事《だいじ》と|思《おも》へば|小《ちひ》さいことに|齷齪《あくせく》して|居《ゐ》る|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬ。|盧占魁《ろせんくわい》の|如《ごと》き|天下《てんか》に|驍名《げうめい》を|馳《は》せた|馬賊《ばぞく》の|頭目《とうもく》は、|決《けつ》して|人民《じんみん》を|苦《くる》しめるやうなことはせないだらう。|彼《かれ》と|宗教家《しうけうか》とが|提携《ていけい》したつて|別《べつ》に|不都合《ふつがふ》はあるまい。|大神業《だいしんげふ》の|御経綸《ごけいりん》に|奉仕《ほうし》する|一歩《いつぽ》としては|止《や》むを|得《え》ない|今日《こんにち》の|場合《ばあひ》だ。|広大《くわうだい》なる|地域《ちゐき》を|有《いう》する|蒙古《もうこ》に|一大王国《いちだいわうこく》を|建設《けんせつ》すると|云《い》ふ|計画《けいくわく》は、|事《こと》の|成否《せいひ》は|別《べつ》として、|日本男子《につぽんだんし》としては|実《じつ》に|壮快《さうくわい》|極《きは》まる|試《こころ》みだ、|宗教家《しうけうか》だと|云《い》つて|神前《しんぜん》に|拍手《はくしゆ》し|祝詞《のりと》のみを|上《あ》げて|居《ゐ》るが|芸《げい》でもあるまい。|万有愛《ばんいうあい》の|主義《しゆぎ》から|是非《ぜひ》|決行《けつかう》して|見《み》よう。|心境《しんきやう》を|一変《いつぺん》し、|宗教的《しうけうてき》に|世界《せかい》の|統一《とういつ》を|図《はか》り|地上《ちじやう》に|天国《てんごく》を|建設《けんせつ》する|準備《じゆんび》として|先《ま》づ|新王国《しんわうこく》を|作《つく》り、|東亜《とうあ》の|聯盟《れんめい》を|計《はか》るのが|順序《じゆんじよ》だらう。あゝ|思《おも》へば|実《じつ》に|壮快《さうくわい》だ。|腕《うで》が|鳴《な》り|血《ち》が|踊《をど》るやうだ。|言語学《げんごがく》の|上《うへ》から|見《み》ても、|古事記《こじき》の|本文《ほんぶん》から|見《み》ても、|蒙古《もうこ》は|東亜《とうあ》の|根元地《こんげんち》であり、|経綸地《けいりんち》である。|日本人《につぽんじん》は|昔《むかし》から、|義勇《ぎゆう》の|民《たみ》が|開国《かいこく》|以来《いらい》|未《いま》だ|一寸《いつすん》の|地《ち》も|外敵《ぐわいてき》に|侵《をか》されないと|云《い》つて|自慢《じまん》して|居《ゐ》るものがあるが、|併《しか》し|吾々《われわれ》の|祖先《そせん》は|蒙古軍《もうこぐん》の|為《た》めに|拭《ぬぐ》ふべからざる|大国辱《だいこくじよく》を|受《う》けて|居《ゐ》るのだ。|元寇《げんこう》の|役《えき》はどうだつた。|国内《こくない》|上下《じやうげ》|挙《こぞ》つて|蒙古《もうこ》|襲来《しふらい》の|声《こゑ》に|震駭《しんがい》し|恐怖《きようふ》し、|其《その》|度《ど》を|失《うしな》ひ、|畏多《おそれおほ》くも|亀山上皇《かめやまじやうくわう》は|身《み》を|以《もつ》て|国難《こくなん》に|当《あた》らむことを|岩清水八幡《いはしみづはちまん》に|祈願《きぐわん》し|給《たま》ふた|結果《けつくわ》、|全国《ぜんこく》の|各大社《かくたいしや》には|奇瑞《きずゐ》|続出《ぞくしゆつ》して|遂《つひ》に|伊勢《いせ》の|神風《かみかぜ》となり、|蒙古《もうこ》は|十万《じふまん》の|軍《ぐん》を|西海《せいかい》の|浪《なみ》に|沈《しづ》めた|事《こと》は|元明史略《げんみんしりやく》|其《その》|他《た》の|史実《しじつ》にも|明記《めいき》され、|生命《せいめい》を|全《まつた》ふして|帰《かへ》り|得《え》たるもの|僅《わづか》に|三人《さんにん》といふことだ。|併《しか》し|乍《なが》ら|我国《わがくに》は|是《これ》をもつて|日本男子《につぽんだんし》の|武勇《ぶゆう》を|誇《ほこ》る|事《こと》は|出来《でき》まい。|日本《につぽん》を|守《まも》りたまふ|神明《しんめい》の|加護《かご》と|畏多《おそれおほ》くも|亀山上皇《かめやまじやうくわう》の|宸襟《しんきん》を|悩《なや》まされたその|結果《けつくわ》である。|日本《につぽん》は|神国《しんこく》、|神《かみ》の|守《まも》りたまふ|国《くに》で、|決《けつ》して|外敵《ぐわいてき》の|窺《うかが》ふことの|出来《でき》ない|磯輪垣《しわがき》の|秀津間《ほつま》の|国《くに》、|細矛千足《くはしほこちたる》の|国《くに》と|誇《ほこ》つて|居《ゐ》るが、|今日《こんにち》の|日本《につぽん》の|現状《げんじやう》は|外敵《ぐわいてき》に|対《たい》しさう|楽観《らくくわん》して|居《を》られるだらうか、|軍器《ぐんき》の|改良《かいりやう》された|今日《こんにち》では、|少々《せうせう》の|神風《かみかぜ》|位《ぐらゐ》で|敵艦《てきかん》を|覆《くつがへ》すと|云《い》ふ|事《こと》は|到底《たうてい》|不可能《ふかのう》であらう。|又《また》そんな|神頼《かみだの》み|計《ばか》りやつて|居《ゐ》て|実行《じつかう》せないならば、|到底《たうてい》|国《くに》を|保《たも》つ|事《こと》は|出来《でき》ないだらう。|扨《さ》て|吾々《われわれ》の|祖先《そせん》が|蒙古《もうこ》|十万《じふまん》の|大軍《たいぐん》に|脅《おびや》かされた|末代《まつだい》の|大国辱《だいこくじよく》を|回復《くわいふく》し、|建国《けんこく》の|精神《せいしん》と|国威《こくい》をどうしても|一度《いちど》|中外《ちうぐわい》に|発揚《はつやう》して|我《わが》|歴史《れきし》の|汚点《をてん》を|拭《ぬぐ》はねばなるまい。|宗教的《しうけうてき》、|平和的《へいわてき》に|蒙古《もうこ》を|統一《とういつ》し、|東亜聯盟《とうあれんめい》|実現《じつげん》の|基礎《きそ》を|立《たて》て|見《み》たいものだ。|自分《じぶん》は|今日《こんにち》|黒雲《こくうん》のかかつた、|世人《せじん》から|疑《うたがひ》を|受《う》けて|居《ゐ》る|身《み》の|上《うへ》である。|此《この》|際《さい》グヅグヅせず|思《おも》ひ|切《き》つて、|驚天動地《きやうてんどうち》の|大活動《だいくわつどう》をやつて|見《み》たいものだ。|盧占魁《ろせんくわい》に|会《あ》つたらば|屹度《きつと》|自分《じぶん》の|意志《いし》を|受《う》け|入《い》れるであらう。|自分《じぶん》は|今《いま》|裁判《さいばん》の|事件中《じけんちう》だが|弁護士《べんごし》の|話《はなし》によると、|本問題《ほんもんだい》は|神霊問題《しんれいもんだい》だから|二年《にねん》や|三年《さんねん》の|中《うち》には|到底《たうてい》|解決《かいけつ》がつくまいとのことだ。これの|解決《かいけつ》を|待《ま》つて|居《ゐ》ようものなら、|我《わが》|民族《みんぞく》は|日《ひ》に|月《つき》に|窮地《きうち》に|陥《おちゐ》るばかりだ。|世界《せかい》|到《いた》る|所《ところ》|排日《はいにち》|問題《もんだい》は|勃起《ぼつき》し|外交《ぐわいかう》は|殆《ほとん》ど|孤立《こりつ》して|居《ゐ》る。|今《いま》の|中《うち》に|我《わが》|同胞《どうはう》の|為《ため》に|新植民地《しんしよくみんち》でも|造《つく》つておかねば|我《わが》|同胞《どうはう》は|遂《つひ》に|亡《ほろ》ぶより|外《ほか》はない。|併《しか》し|乍《なが》ら|大本信徒《おほもとしんと》にこんな|事《こと》を|云《い》はふものならそれこそ|大騒動《だいさうどう》だ。|併《しか》し|面白《おもしろ》い、ひとつやつて|見《み》よう|乗《の》るか|反《そ》るかぢや。|元《もと》より|身命《しんめい》を|神《かみ》に|捧《ささ》げた|自分《じぶん》だと|大覚悟《だいかくご》を|究《きは》めたのである。
|大本《おほもと》は|野火《のび》の|燃《も》え|立《た》つ|如《ごと》くなり|風《かぜ》|吹《ふ》く|度《たび》に|拡《ひろ》がりてゆく
この|度《たび》の|深《ふか》き|経綸《しぐみ》は|惟神《かむながら》|只《ただ》|一息《ひといき》の|人心《ひとごころ》なし
|神《かみ》の|世《よ》の|審判《さばき》に|今《いま》や|逢坂《あふさか》の|人《ひと》は|知《し》らずに|日《ひ》を|送《おく》りつつ
いつ|迄《まで》も|醜《しこ》の|曲神《まがみ》の|荒《すさ》びなば|危《あや》ふからまし|葦原《あしはら》の|国《くに》
|世《よ》の|中《なか》の|移《うつ》らふ|状《さま》をながめては|起《た》つべき|時《とき》の|来《きた》るを|悟《さと》る
|排他的《はいたてき》|既成宗教《きせいしうけう》はあとにして|開《ひら》き|行《ゆ》かなむ|海《うみ》の|外《そと》まで
|吹《ふ》かば|吹《ふ》け|醜《しこ》の|木枯《こがらし》|強《つよ》くともわれには|春《はる》の|備《そな》へこそあれ
|白妙《しろたへ》の|衣《ころも》の|袖《そで》をしぼりつつ|世《よ》を|歎《なげ》くかな|隠《かく》れたる|身《み》も
|思《おも》ひきや|御国《みくに》の|為《ため》に|尽《つく》す|身《み》をあしさまに|云《い》ふ|醜《しこ》のたぶれら
|身《み》も|魂《たま》も|囚《とら》へられたる|吾《われ》なれど|心《こころ》は|広《ひろ》し|天国《てんごく》の|春《はる》
|機《はた》の|緯《よこ》|織《お》る|身魂《みたま》こそ|苦《くる》しけれ|一《ひと》つ|通《とほ》せば|一《ひと》つ|打《う》たれつ
|神業《かむわざ》をなすのが|原《はら》の|玉草《たまくさ》は|踏《ふ》まれ|蹂《にじ》られ|乍《なが》ら|花《はな》|咲《さ》く
|天地《あめつち》の|神《かみ》に|仕《つか》へて|日《ひ》の|御子《みこ》に|赤《あか》き|心《こころ》を|尽《つく》し|奉《まつ》らむ
|身《み》はよしや|虎《とら》|伏《ふ》す|野辺《のべ》に|果《は》つるとも|御国《みくに》の|為《ため》に|命《いのち》|惜《をし》まず
|故郷《ふるさと》にのこせし|母《はは》を|思《おも》ふ|間《ま》もなくなく|尽《つく》す|神国《しんこく》の|為《ため》
|月《つき》は|今《いま》|地平線下《ちへいせんか》に|潜《ひそ》みつつ|世《よ》の|黎明《れいめい》を|待《ま》つぞ|床《ゆか》しき
|惟神《かむながら》|真《まこと》の|神《かみ》の|定《さだ》めてし|人《ひと》の|出《い》でずば|国《くに》は|危《あや》ふし
|花《はな》|見《み》むと|出《い》でしにあらず|野《の》の|桜《さくら》|吾《わが》|衣手《ころもで》に|香《か》をな|送《おく》りそ
|言霊《ことたま》の|助《たす》け|天照《あまて》る|日《ひ》の|本《もと》はすべての|国《くに》を|知《し》らす|神国《かみくに》
|天津日《あまつひ》も|只《ただ》|一《ひと》つなり|地《ち》の|上《うへ》も|一《ひと》つの|王《きみ》で|治《をさ》まりて|行《ゆ》く
|皆《みな》|人《ひと》の|眠《ねむ》りにつける|真夜中《まよなか》にさめよと|来鳴《きな》く|山郭公《やまほととぎす》
|郭公《ほととぎす》|声《こゑ》は|御空《みそら》に|鳴《な》きかれて|月《つき》の|影《かげ》のみあとにふるへる
|国《くに》のため|尽《つく》す|谷間《たにま》の|真人《まさびと》を|雲井《くもゐ》に|告《つ》げよ|山郭公《やまほととぎす》
|心《こころ》のみ|誠《まこと》の|道《みち》にかなふとも|行《おこな》ひせずば|神《かみ》は|守《まも》らじ
|言挙《ことあ》げの|条《すぢ》は|数々《かずかず》ありながら|暗夜《やみよ》をおしのわれぞ|甲斐《かひ》なき
|君《きみ》の|為《ため》|御国《みくに》の|為《ため》に|真心《まごころ》を|尽《つく》して|後《あと》は|津見《つみ》に|問《と》はれぬ
|吾《われ》を|知《し》る|人《ひと》こそ|数多《あまた》ありぬれど|我《わが》|魂《たま》を|知《し》る|人《ひと》は|世《よ》になし
|西《にし》|東《ひがし》|南《みなみ》も|北《きた》も|天地《あめつち》も|担《に》なうて|立《た》てる|神《かみ》の|御柱《みはしら》
|世《よ》の|為《ため》に|尽《つく》す|心《こころ》の|数々《かずかず》を|誰《た》も|白波《しらなみ》の|立《た》ちさわぐなり
|現《うつ》し|世《よ》に|生《いく》るも|神《かみ》の|御心《みこころ》ぞまかるも|神《かみ》の|恵《めぐみ》とぞ|知《し》れ
そよと|吹《ふ》く|風《かぜ》にも|声《こゑ》のあるものを|神《かみ》の|御声《みこゑ》の|聞《きこ》えざらめや
|夜《よ》な|夜《よ》なに|詣《ま》うでてあつき|涙《なみだ》しぬ|神座山《かみくらやま》の|荒《あら》されし|跡《あと》に
わが|涙《なみだ》こりては|霖雨《ながあめ》|雪《ゆき》となり|泉《いづみ》となりて|御代《みよ》を|清《きよ》めむ
|神《かみ》の|御名《みな》を|世界《せかい》に|広《ひろ》く|現《あら》はして|永久《とは》に|生《い》きなむ|律《のり》に|死《し》すとも
|古《いにしへ》のエスキリストも|甞《な》めまじきその|苦《くる》しみを|吾《われ》に|見《み》る|哉《かな》
|足乳根《たらちね》の|老《お》います|母《はは》を|偲《しの》びつつ|出《い》で|行《ゆ》く|吾《われ》は|涙《なみだ》こぼるる
|濡衣《ぬれぎぬ》のひる|由《よし》もなき|悲《かな》しさに|霧島山《きりしまやま》の|火《ひ》こそ|恋《こひ》しき
|月《つき》|一《ひと》つ|御空《みそら》にふるひ|地《ち》に|一人《ひとり》|友《とも》なくふるふ|吾《われ》ぞわびしき
|退《しりぞ》きも|進《すす》みもならぬ|今《いま》の|世《よ》は|神《かみ》のみ|独《ひと》り|力《ちから》なりけり
(大正一四・八・一五 加藤明子筆録)
第六章 |出征《しゆつせい》の|辞《じ》
|大正《たいしやう》|十年《じふねん》|二月《にぐわつ》|十二日《じふににち》、|陰暦《いんれき》|正月《しやうぐわつ》|五日《いつか》|晴天白日《せいてんはくじつ》の|空《そら》に|上弦《じやうげん》の|月《つき》と、|太白星《たいはくせい》は|白昼《はくちう》|燦然《さんぜん》として|浪花《なには》の|空《そら》に|異様《いやう》の|光輝《くわうき》を|放《はな》ち、|天地《てんち》の|変動《へんどう》を|示《しめ》してゐる。|此《この》|日《ひ》|日出雄《ひでを》は|大阪市《おほさかし》の|玄関口《げんくわんぐち》|梅田駅頭《うめだえきとう》に、|大正日々新聞社長《たいしやうにちにちしんぶんしやちやう》として|社務《しやむ》を|総理《そうり》してゐた。
|此《この》|日《ひ》は|例《れい》の|大本事件《おほもとじけん》の|勃発《ぼつぱつ》した|日《ひ》であつて、|日出雄《ひでを》は|同新聞社《どうしんぶんしや》より|京都府《きやうとふ》|警察部《けいさつぶ》へ|招致《せうち》され、|次《つ》いで|京都地方裁判所《きやうとちはうさいばんしよ》|予審判事《よしんはんじ》の|形式的《けいしきてき》|取調《とりしらべ》を|受《う》けて|京都監獄《きやうとかんごく》に|投《とう》ぜられた──|大本《おほもと》にとつて|実《じつ》に|印象《いんしやう》|深《ふか》い|日《ひ》であつた。|此《この》|天空《てんくう》に|於《お》ける|異様《いやう》の|現象《げんしやう》は|之《これ》に|止《とど》まらず、|下《くだ》つて|大正《たいしやう》|十三年《じふさんねん》|二月《にぐわつ》|十二日《じふににち》、|而《しか》も|同日《どうじつ》の|天空《てんくう》に|楕円形《だゑんけい》の|月《つき》と|太白星《たいはくせい》が|白昼《はくちう》|燦然《さんぜん》と|輝《かがや》き|出《だ》した。|日出雄《ひでを》は|天空《てんくう》を|仰《あふ》いで|去《さ》る|大正《たいしやう》|十年《じふねん》の|二月《にぐわつ》|十二日《じふににち》を|追懐《つゐくわい》せずには|居《を》られなかつた。|而《しか》も|満《まん》|三ケ年《さんかねん》を|経《へ》た|同月《どうげつ》|同日《どうじつ》の|白昼《はくちう》に、|天空《てんくう》に|同様《どうやう》の|異変《いへん》あるは|決《けつ》して|只事《ただごと》ではあるまい。|愈々《いよいよ》|自分《じぶん》が|神命《しんめい》を|奉《ほう》じ|万民《ばんみん》|救済《きうさい》の|為《ため》、|人類愛《じんるゐあい》|実行《じつかう》の|為《ため》、|天《てん》より|我《われ》にその|実行《じつかう》を|促《うなが》すものと|考《かんが》へたのである。これより|彼《かれ》は|俄《にはか》に|渡支《とし》の|決心《けつしん》を|定《さだ》め、|今夜《こんや》の|中《うち》に|出発《しゆつぱつ》せむことを|数名《すうめい》の|側近《そばちか》く|侍《じ》する|役員《やくゐん》に|告《つ》げた。あまり|急激《きふげき》な|彼《かれ》の|宣言《せんげん》に|侍者《じしや》は|稍《やや》|狼狽《らうばい》の|気味《きみ》であつた。けれ|共《ども》|彼《かれ》は|神命《しんめい》を|信《しん》じ、|是非《ぜひ》|今夜《こんや》|出発《しゆつぱつ》せむと|決心《けつしん》した|上《うへ》は、|彼《かれ》の|平素《へいそ》のやり|方《かた》に|対《たい》し|到底《たうてい》その|考《かんが》へをひるがへすことは|出来《でき》ない|事《こと》を|知《し》つてゐた。
|和知川《わちがは》の|清流《せいりう》、|並木《なみき》の|松《まつ》を|逆《さかしま》に|映《うつ》し、|魚《うを》は|松樹《しようじゆ》の|枝《えだ》に|躍《をど》つてゐる。|颯々《さつさつ》たる|松風《まつかぜ》の|音《おと》、|水面《すゐめん》に|魚鱗《ぎよりん》の|波《なみ》をただよはしてゐる。その|傍《かたはら》に|悄然《せうぜん》として|建《た》てる|祥雲閣《しやううんかく》は、|彼《かれ》が|病躯《びやうく》を|横《よこた》へて|十万枚《じふまんまい》の|原稿《げんかう》を|口述《こうじゆつ》したる|霊界物語《れいかいものがたり》の|発祥地《はつしやうち》であつた。
|此《この》|日《ひ》|彼《かれ》は|俄《にはか》に|旅行《りよかう》の|決心《けつしん》を|定《さだ》め、|祥雲閣《しやううんかく》の|主人《しゆじん》|中野岩太《なかのいはた》|氏《し》に|別《わか》れを|告《つ》ぐる|為《ため》、|二三《にさん》の|従者《じゆうしや》と|共《とも》に|訪《たづ》ねて|来《き》た。|東京《とうきやう》より|来《き》|合《あは》せてゐた|佐藤《さとう》|六合雄《くにを》、|米倉《よねくら》|嘉兵衛《かへゑ》、|米倉《よねくら》|範治《はんぢ》を|初《はじ》め、|十数人《じふすうにん》の|熱心《ねつしん》なる|信者《しんじや》が|期《き》せずして|集《あつま》つて|来《き》た。|此《この》|時《とき》|彼《かれ》は|神示《しんじ》の|経綸《けいりん》|実行《じつかう》の|一歩《いつぽ》を|進《すす》むべく|蒙古入《もうこいり》の|決心《けつしん》を|打明《うちあ》け、|且《か》つ|一場《いちぢやう》の|演説《えんぜつ》を|試《こころ》みた。|彼《かれ》の|演説《えんぜつ》、
『|神縁《しんえん》に|依《よ》つて|私《わたし》が|茲《ここ》に|神《かみ》の|経綸《けいりん》の|一端《いつたん》に|奉仕《ほうし》し、|今晩《こんばん》を|期《き》して|愈々《いよいよ》|渡支《とし》|渡蒙《ともう》を|決行《けつかう》せむとするに|当《あた》り、|招《まね》かずしてお|集《あつま》りになつた|諸氏《しよし》は|必《かなら》ずや|神界《しんかい》の|深《ふか》き|経綸《しぐみ》の|糸《いと》に|引《ひ》かれて、お|出《いで》になつた|方々《かたがた》と|固《かた》く|信《しん》じます。|我《わが》|大本《おほもと》は|既成宗教《きせいしうけう》の|如《ごと》く、|現界《げんかい》を|厭離穢土《えんりえど》となし|未来《みらい》の|天国《てんごく》や|極楽浄土《ごくらくじやうど》を|希求《ききう》するのみの|宗教《しうけう》ではありませぬ。|国祖《こくそ》の|神《かみ》の|仁慈無限《じんじむげん》なる|神勅《しんちよく》に|依《よ》り、|日本神州《につぽんしんしう》の|民《たみ》と|生《うま》れたる|我々《われわれ》|皇国《くわうこく》の|臣民《しんみん》は、|此《こ》の|尊《たふと》き|大神様《おほかみさま》の|御神示《ごしんじ》を|拝《はい》し、|上《かみ》は|御一人《ごいちにん》に|対《たい》し|奉《たてまつ》り、|下《しも》は|同胞《どうはう》の|平和《へいわ》と|幸福《かうふく》の|為《た》めのみならず、|東亜諸国《とうあしよこく》|並《ならび》に|世界《せかい》の|平和《へいわ》と|幸福《かうふく》を|来《きた》すべき|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》せなくてはならない|責任《せきにん》を|持《も》つてゐるのは|大本信者《おほもとしんじや》でありませう。|御神示《ごしんじ》にある|通《とほ》り「|大正《たいしやう》|十年《じふねん》の|節分《せつぶん》が|済《す》みたら、|変性女子《へんじやうによし》の|身魂《みたま》を|神《かみ》が|人《ひと》の|行《ゆ》かない|処《ところ》に|連《つ》れ|行《ゆ》くぞよ」とお|示《しめ》しになつて|居《ゐ》ることは、|皆《みな》さま|御承知《ごしようち》のことと|思《おも》ひます。その|神示《しんじ》は|毫末《がうまつ》の|間違《まちが》ひもなく、|二月《にぐわつ》|十二日《じふににち》|私《わたし》は|御承知《ごしようち》の|京都監獄《きやうとかんごく》に|投《とう》ぜられたのでありました。そして|又《また》|本回《ほんくわい》も|節分祭《せつぶんさい》のすみた|十二日《じふににち》に、|人《ひと》のよう|行《ゆ》かない|処《ところ》へ|行《ゆ》かねばならぬ|神《かみ》の|使命《しめい》が|下《くだ》つて|来《き》たやうに|考《かんが》へられてなりませぬ。|私《わたし》は|日本《につぽん》|建国《けんこく》の|大精神《だいせいしん》を|天下《てんか》に|明《あきらか》にし、|万世一系《ばんせいいつけい》の|皇室《くわうしつ》の|尊厳無比《そんげんむひ》なる|事《こと》を|洽《あまね》く|天下《てんか》に|示《しめ》し、|且《か》つ|日本《につぽん》の|建国《けんこく》の|精神《せいしん》は|征伐《せいばつ》に|非《あら》ず、|侵略《しんりやく》に|非《あら》ず、|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》を|以《もつ》て|万国《ばんこく》の|民《たみ》を|神《かみ》の|大道《だいだう》に|言向和《ことむけやは》すにある|事《こと》を|固《かた》く|信《しん》じます。|凡《すべ》て|世界《せかい》の|人民《じんみん》を|治《をさ》むるは|武力《ぶりよく》や|智力《ちりよく》では|到底《たうてい》|駄目《だめ》です。|結局《けつきよく》は|精神的《せいしんてき》|結合《けつがふ》の|要素《えうそ》たる、|凡《すべ》ての|旧慣《きうくわん》に|囚《とら》はれざる|新宗教《しんしうけう》の|力《ちから》に|依《よ》るより|外《ほか》はないと|信《しん》じます。
つらつら|現今《げんこん》の|我《わが》|国情《こくじやう》を|考《かんが》へて|見《み》まするに、|我国《わがくに》の|人口《じんこう》は|年々《ねんねん》|七十万《しちじふまん》|宛《づつ》の|増加《ぞうか》を|以《もつ》て|進《すす》みつつあると|統計学者《とうけいがくしや》は|云《い》つて|居《を》ります。|此《この》|割合《わりあひ》で|進《すす》んで|行《ゆ》けば|大正《たいしやう》|三十一年《さんじふいちねん》には|七千《ななせん》|七百万《ななひやくまん》の|同胞《どうはう》となり、|同《おな》じく|五十一年《ごじふいちねん》には|一億余万人《いちおくよまんにん》に|達《たつ》すると|云《い》ふ|計算《けいさん》になります。|兎《と》に|角《かく》|我国《わがくに》|人口《じんこう》の|増加《ぞうか》は|年々《ねんねん》の|事実《じじつ》の|証明《しようめい》する|処《ところ》であつて、|之《これ》に|要《えう》する|食糧品《しよくりやうひん》たる|米麦《こめむぎ》が、|現《げん》に|年々《ねんねん》|七八十万石《しちはちじふまんごく》の|不足《ふそく》を|告《つ》げつつある|事《こと》も|亦《また》|事実《じじつ》である|以上《いじやう》、|此《この》|人口《じんこう》と|食糧《しよくりやう》との|不均衡《ふきんかう》は、|我国《わがくに》|存立《そんりつ》の|上《うへ》に|於《おい》て|一問題《いちもんだい》たらねばなりませぬ。|国内《こくない》|現在《げんざい》の|未墾地《みこんち》を|開拓《かいたく》し|耕地《かうち》の|整理《せいり》を|徹底的《てつていてき》に|断行《だんかう》すれば、|約《やく》|二百万《にひやくまん》|町歩《ちやうぶ》の|水田《すゐでん》|火田《くわでん》が|得《え》られ、|二千万石《にせんまんごく》の|米麦《こめむぎ》の|増収《ぞうしう》が|出来《でき》るとの|説《せつ》もありますが、|乍然《しかしながら》|此《この》|開墾《かいこん》や|整理《せいり》は|何時《いつ》になつたら|完成《くわんせい》されるでせうか。|仮令《たとへ》|我《わが》|官民《くわんみん》が|熱誠《ねつせい》|努力《どりよく》の|結果《けつくわ》、|幾十年《いくじふねん》かの|後《のち》にそれが|完成《くわんせい》されるものとしても、その|時《とき》には|人口《じんこう》は|既《すで》に|一億《いちおく》|以上《いじやう》になつてゐる|筈《はづ》であります。|此《こ》の|人口《じんこう》と|食糧《しよくりやう》との|均衡《きんかう》が|依然《いぜん》として|保《たも》たれるでせうか。|国家《こくか》の|前途《ぜんと》を|案《あん》ずれば|百千年《ひやくせんねん》の|長計《ちやうけい》を|目途《もくと》とせねばならぬ。|一時《いちじ》の|糊塗策《ことさく》は|決《けつ》して|国家《こくか》|永遠《ゑいゑん》の|存立《そんりつ》を|保障《ほしやう》することは|出来得《できえ》ないでせう。|乍然《しかしながら》|我国《わがくに》の|植民《しよくみん》|政策《せいさく》はかかる|基調《きてう》から|発足《はつそく》してゐるやうであります。|殊《こと》に|我《わが》|国家《こくか》|将来《しやうらい》の|存立《そんりつ》|及《および》|発展《はつてん》に|就《つい》ては|単《たん》に|米麦《こめむぎ》が|満足《まんぞく》に|得《え》らるるのみではすまされませぬ。|日進月歩《につしんげつぽ》の|世界《せかい》の|前途《ぜんと》には、|鋼鉄《かうてつ》や|綿類《わたるゐ》や|毛布《まうふ》|皮革《ひかく》|等《とう》を|主《しゆ》として|幾多《いくた》の|物資《ぶつし》が|無限《むげん》に|需要《じゆえう》さるる|事《こと》は、|今日《こんにち》に|於《おい》ても|明《あきらか》なる|題目《だいもく》であるのに、|我国《わがくに》に|於《おい》ては|之《これ》を|将来《しやうらい》に|充実《じゆうじつ》せしむべき|安全《あんぜん》なる|政策《せいさく》が|立《た》つて|居《を》りますか、|実《じつ》に|思《おも》ふて|見《み》れば|心細《こころぼそ》い|次第《しだい》であります。|一朝有事《いつてういうじ》の|時《とき》に、|海外《かいぐわい》からその|供給《きようきふ》を|断《た》たれたならば、|我国《わがくに》は|如何《いか》なる|方法《はうはふ》を|以《もつ》てその|需要《じゆえう》を|充《み》たす|事《こと》が|出来《でき》やうか、|思《おも》うて|此処《ここ》に|至《いた》れば、|実《じつ》に|慄然《りつぜん》たらざるを|得《え》ないのであります。|我国《わがくに》|為政《ゐせい》の|局《きよく》に|当《あた》る|人々《ひとびと》は|国家《こくか》の|前途《ぜんと》を|焦慮《せうりよ》した|結果《けつくわ》、|植民《しよくみん》|政策《せいさく》なるものを|立《た》て、|過剰《くわじよう》の|人口《じんこう》を|他《た》に|移《うつ》して、その|移住者《いぢゆうしや》の|生活《せいくわつ》の|安定《あんてい》を|得《え》せしめむとして|居《を》ります。
|先《ま》づ|第一《だいいち》に|合衆国《がつしゆうこく》の|如《ごと》き|異人種《いじんしゆ》|憎悪《ぞうを》に|富《と》んでゐる|国土《こくど》の|外《ほか》、メキシコや、|南米《なんべい》や、|南洋《なんやう》|諸島《しよたう》を|目的《もくてき》としてゐるやうですが、|国家《こくか》|万年《まんねん》の|長計《ちやうけい》からすれば、|此等《これら》の|遠隔《ゑんかく》の|諸地方《しよちはう》へ|農耕移民《のうかういみん》を|送《おく》つた|計《ばか》りでは|済《す》みますまい。|我《わが》|接境《せつきやう》の|比隣《ひりん》には|国家《こくか》としての|支那《しな》や|露西亜《ろしあ》があり、|相互《さうご》の|関係《くわんけい》は|善《ぜん》にもあれ、|悪《あく》にもあれ|到底《たうてい》|離《はな》るべからざるものがあるのであります。|又《また》|我《わが》|領土内《りやうどない》には|朝鮮《てうせん》あり、その|将来《しやうらい》については|所謂《いはゆる》|識者《しきしや》と|云《い》はるる|人々《ひとびと》が|不断《ふだん》に|頭《あたま》をなやましてゐるやうです。|我《わが》|皇国《くわうこく》がその|永遠存立《えいゑんそんりつ》を|安全《あんぜん》ならしめ、|関係《くわんけい》|諸国《しよこく》と|共《とも》に|共存共栄《きようぞんきようえい》の|福利《ふくり》を|楽《たの》しまむとすれば、|是非《ぜひ》とも|之《これ》に|添《そ》ふべき|一大《いちだい》|国策《こくさく》を|樹立《じゆりつ》せなくてはなりませぬ。|所謂《いはゆる》|帝国《ていこく》の|満蒙《まんもう》|政策《せいさく》は|即《すなは》ち|此《この》|目的《もくてき》|精神《せいしん》から|立《た》てられたものであります。|蓋《けだ》し|満蒙《まんもう》の|地《ち》はその|位置《ゐち》が|支那《しな》|本部《ほんぶ》と|露領《ろりやう》シベリアとの|中間《ちうかん》にはさまり、|我《わが》|朝鮮《てうせん》とは|鴨緑《あひなれ》の|水《みづ》を|隔《へだ》てて|相連《あひつらな》つてゐるのみならず、あらゆる|産業《さんげふ》の|資源《しげん》|備《そな》はらざるなく、|開発《かいはつ》の|前途《ぜんと》は|実《じつ》に|春風《しゆんぷう》|洋々《やうやう》の|感《かん》があり、|而《しか》も|近世《きんせい》の|歴史的《れきしてき》|関係《くわんけい》は|必然的《ひつぜんてき》に|我《わが》|皇国《くわうこく》がその|開発《かいはつ》|任務《にんむ》を|負《お》はねばならぬやうになつたのであります。|故《ゆゑ》に|今《いま》|我国《わがくに》が|上下《じやうげ》|一致《いつち》|努力《どりよく》して|既定《きてい》の|開発策《かいはつさく》を|徹底《てつてい》せしむるには、|我《わが》|対支政策《たいしせいさく》|全部《ぜんぶ》の|基調《きてう》を|満蒙《まんもう》におくことにより、|行詰《ゆきつま》つた|日支《につし》|関係《くわんけい》の|現状《げんじやう》を|相互的《さうごてき》に|善導《ぜんだう》し|得《う》ると|共《とも》に、|将来《しやうらい》|永遠《ゑいゑん》の|円満策《ゑんまんさく》を|樹立《じゆりつ》する|事《こと》が|出来《でき》るでせう。|又《また》ロシアとの|交渉《かうせふ》の|中継点《ちうけいてん》とする|事《こと》が|出来《でき》るでせう。|鮮人《せんじん》|多数《たすう》に|生活《せいくわつ》の|安定《あんてい》を|得《え》せしめて、|朝鮮《てうせん》|統治上《とうちじやう》の|有力《いうりよく》なる|補助《ほじよ》とする|事《こと》も|出来《でき》るでせう。|人口《じんこう》|食糧《しよくりやう》|調節《てうせつ》の|上《うへ》にも|実《じつ》に|偉大《ゐだい》なる|効験《かうけん》をなし|得《え》らるるでせう。|又《また》|我《わが》|重要《ぢうえう》|物資《ぶつし》の|供給地《きようきふち》たらしむる|事《こと》も|出来《でき》るでせう。|我《わが》|皇国《くわうこく》|国防《こくばう》の|第一線《だいいつせん》|要地《えうち》たらしむる|事《こと》も|出来《でき》るでせう。|乍然《しかしながら》|満蒙《まんもう》の|経営《けいえい》は|議論《ぎろん》と|実地《じつち》は|大変《たいへん》に|径庭《けいてい》がある。|如何《いか》なる|有識者《いうしきしや》の|徹底《てつてい》せる|立策《りつさく》と|雖《いへど》も、|肝腎要《かんじんかなめ》のその|人《ひと》を|得《え》ざれば|到底《たうてい》|完成《くわんせい》するものでは|無《な》い。|渺々《べうべう》として|天《てん》に|連《つらな》る|満蒙《まんもう》の|大沙漠《だいさばく》、|此処《ここ》には|無限《むげん》の|富源《ふげん》が|天地開闢《てんちかいびやく》の|当初《たうしよ》より|委棄《ゐき》されてある。|此《こ》の|蒙古《もうこ》の|大平原《だいへいげん》こそ|天《てん》が|我国《わがくに》に|与《あた》へたる|唯一《ゆいつ》の|賜物《たまもの》でなければならぬ。
|我国《わがくに》の|為政者《ゐせいしや》が|満蒙《まんもう》|開発策《かいはつさく》として|満鉄《まんてつ》を|敷設《ふせつ》し、|鄭家屯《ていかとん》や、|〓南府《たうなんふ》や、パインタラの|東蒙古《ひがしもうこ》の|一部《いちぶ》に|少《すこ》し|計《ばか》り|手《て》をつけてゐる|位《くらゐ》では、|到底《たうてい》|此《この》|開発策《かいはつさく》は|物《もの》にはならないであらう。どうしても|我《わが》|皇国《くわうこく》|存立《そんりつ》の|為《ため》、|東亜《とうあ》|安全《あんぜん》の|為《ため》、|世界《せかい》|平和《へいわ》の|為《ため》に、|我国《わがくに》が|率先《そつせん》して|天与《てんよ》の|大蒙古《だいもうこ》を|開拓《かいたく》せなくてはならない|位置《ゐち》にある|事《こと》を|私《わたし》は|固《かた》く|信《しん》じます。そしてその|目的《もくてき》を|達《たつ》するには、|旧慣《きうくわん》に|囚《とら》はれざる|新宗教《しんしうけう》の|宣伝《せんでん》を|以《もつ》て|第一《だいいち》の|手段《しゆだん》|方法《はうはふ》と|考《かんが》へるのであります。|我国《わがくに》に|於《お》ける|既成宗教《きせいしうけう》の|現状《げんじやう》を|見《み》れば、|宗教《しうけう》の|発展《はつてん》どころか、|現状維持《げんじやうゐぢ》に|汲々《きふきふ》たる|有様《ありさま》ではありませぬ|乎《か》。|気息奄々《きそくえんえん》として|瀕死《ひんし》の|境《さかひ》にある|我国《わがくに》の|既成宗教《きせいしうけう》が、|如何《いか》にして|此《この》|大事業《だいじげふ》に|着手《ちやくしゆ》するの|余裕《よゆう》がありませう。|又《また》|一人《ひとり》の|英雄的《えいゆうてき》|宗教家《しうけうか》の|輩出《はいしゆつ》せむとする|気配《けはい》もなき、|我国《わがくに》の|瀕死的《ひんしてき》|宗教《しうけう》に|頼《たよ》るの|愚《ぐ》なる|事《こと》は|言《げん》をまたないでありませう。|故《ゆゑ》に|私《わたし》は|日本人口《につぽんじんこう》の|増加《ぞうか》に|伴《ともな》ひ|発生《はつせい》する|生活《せいくわつ》の|不安定《ふあんてい》を|憂慮《いうりよ》し、|朝鮮《てうせん》に|於《お》ける|同胞《どうはう》の|安危《あんき》を|憂《うれ》ひ、|次《つ》いで|東亜《とうあ》の|動乱《どうらん》の|発生《はつせい》せむ|事《こと》を|恐《おそ》るるのあまり、|愈々《いよいよ》|神勅《しんちよく》を|奉《ほう》じて|徒手空拳《としゆくうけん》|二三《にさん》の|同志《どうし》と|共《とも》に|長途《ちやうと》の|旅《たび》に|上《のぼ》らむとするのであります。|私《わたし》は|御承知《ごしようち》の|通《とほ》り|支那語《しなご》も|蒙古語《もうこご》も|皆目《かいもく》|知《し》りませぬ。さうして|蒙古《もうこ》は|我国《わがくに》の|面積《めんせき》に|比《くら》べて|殆《ほとん》ど|十六倍《じふろくばい》の|面積《めんせき》があり、その|民《たみ》は|慓悍《へうかん》にして|支那《しな》|民衆《みんしう》の|古来《こらい》|恐怖《きようふ》する|獰猛《だうもう》の|民《たみ》である。|加《くは》ふるに|馬賊《ばぞく》の|横行《わうかう》|甚《はなはだ》しく、|旅人《たびびと》を|掠《かす》め|生命《せいめい》を|奪《うば》ひ、|日支人《につしじん》の|奥地《おくち》に|入《い》るものは|一人《ひとり》の|生還者《せいくわんしや》もないと|伝《つた》へられてゐる|蒙古《もうこ》の|地《ち》に、|大胆《だいたん》と|云《い》はふか、|無謀《むぼう》と|云《い》はふか、|殆《ほとん》ど|夢《ゆめ》に|等《ひと》しい|経綸《けいりん》を|胸《むね》に|描《ゑが》いて|出《で》て|行《ゆ》く|私《わたし》としては、|実《じつ》に|名状《めいじやう》すべからざる|感慨《かんがい》に|打《う》たれるのであります。|然《しか》し|乍《なが》ら|私《わたし》は|天地創造《てんちさうざう》の|神《かみ》を|信《しん》じます。|天下万民《てんかばんみん》の|為《ため》に|十字架《じふじか》を|負《お》ひあらゆる|艱難《かんなん》を|嘗《な》め、|生死《せいし》の|境《さかひ》に|出入《しゆつにふ》することを|寧《むし》ろ|本懐《ほんくわい》とするものであります。|今《いま》の|時《とき》に|於《おい》て|満蒙《まんもう》|開発《かいはつ》の|実行《じつかう》に|着手《ちやくしゆ》せなくては、|金甌無欠《きんわうむけつ》の|我《わが》|皇国《くわうこく》も|前途《ぜんと》|甚《はなは》だ|心細《こころぼそ》い|事《こと》になるであらうと|憂慮《いうりよ》に|堪《た》へないのであります。|吾々《われわれ》は|神《かみ》の|国《くに》に|生《うま》れ、|神《かみ》の|国《くに》の|粟《あは》を|喰《は》み、|神《かみ》の|国《くに》の|大君《おほぎみ》に|仕《つか》へ、|神《かみ》に|選《えら》まれたる|民《たみ》として、|今日《こんにち》の|世界《せかい》の|現状《げんじやう》を|坐視《ざし》するに|忍《しの》びないのであります。どうか|今《いま》|此《こ》の|席《せき》にお|集《あつま》りになつた|神縁《しんえん》|深《ふか》き|諸氏《しよし》は、|今回《こんくわい》の|私《わたし》の|遠征《ゑんせい》の|首途《かどで》に|対《たい》し|御諒解《ごりやうかい》あらむことを|希望《きばう》|致《いた》します。|云々《うんぬん》』
と|述《の》べ|終《をは》り、|記念《きねん》の|為《ため》とて|祥雲閣《しやううんかく》の|襖《ふすま》に|左《さ》の|如《ごと》き|文章《ぶんしやう》ともつかず、|詩《し》ともつかないやうな|文字《もじ》を|書《か》いた。
|推倒全身之智勇《ぜんしんのちゆうをすゐたうし》。|開拓万里之荒原《ばんりのくわうげんをかいたくす》。|神竜雖潜淵《しんりゆうふちにひそむといへども》。|曷池中物《いづくんぞちちゆうのものならむや》。|天運茲循環来而《てんうんここにじゆんかんしきたり》。|代天地樹立鴻業《てんちにかははりてこうげふをじゆりつす》。|嗚呼北蒙之仙境《ああほくもうのせんきやう》。|山河草木凝盛装《さんがさうもくせいさうをこらし》。|歓呼而待望我神軍到矣《くわんこしてわがしんぐんのいたるをたいばうす》。|英雄之心事亦々非壮快哉《えいゆうのしんじまたまたさうくわいにあらずや》。
|又《また》|彼《かれ》は|発車《はつしや》の|間際《まぎは》まで、|〓々《きき》として|快活《くわいくわつ》に|東亜《とうあ》の|経綸《けいりん》を|談《だん》じつつ|頻《しき》りに|筆紙《ひつし》を|動《うご》かして|居《ゐ》た。|傍《かたはら》より|伺《うかが》ふ|者《もの》の|目《め》には、|寸時《すんじ》の|後《のち》に|海外万里《かいぐわいばんり》の|未開国《みかいこく》に|向《むか》つて|出発《しゆつぱつ》する|人《ひと》の|態度《たいど》とは|見《み》えなかつた。|彼《かれ》が|出発《しゆつぱつ》の|際《さい》に|詠《よ》んだ|沢山《たくさん》な|歌《うた》がある。その|中《なか》の|一首《いつしゆ》を|左《さ》に|紹介《せうかい》しやう。
|日地月《につちげつ》|星《ほし》の|団子《だんご》も|食《く》ひ|飽《あ》きて|今《いま》や|宇宙《うちう》の|天海《てんかい》を|呑《の》む
ここに|至《いた》つて|彼《かれ》の|心理状態《しんりじやうたい》の|益々《ますます》|異状《ゐじやう》なるに|驚《おどろ》かざるを|得《え》ない。|神《かみ》か、|魔《ま》か、|人《ひと》か、|誇大妄想狂《こだいまうさうきやう》か、|二重人格者《にぢうじんかくしや》か、|将《はた》|又《また》|変態心理《へんたいしんり》の|極地《きよくち》に|達《たつ》せる|狂人《きやうじん》か、|殆《ほとん》ど|評《ひやう》するの|言葉《ことば》も|出《で》ない。
(大正一四・八・一五 加藤明子筆録)
第七章 |奉天《ほうてん》の|夕《ゆふべ》
|東魚《とうぎよ》|来《きた》つて|西海《せいかい》を|呑《の》む。|日《ひ》|西天《せいてん》に|没《ぼつ》すること|三百七十余日《さんびやくしちじふよじつ》、|西鳥《せいてう》|来《きた》りて|東魚《とうぎよ》を|喰《は》む。
|右《みぎ》の|言葉《ことば》は、|聖徳太子《しやうとくたいし》の|当初《たうしよ》|百王治天《ひやくわうぢてん》の|安危《あんき》を|鑒考《かんかう》されて|我《わ》が|日本一州《につぽんいつしう》の|未来記《みらいき》を|書《か》きおかれたのだと|称《しよう》せられ、|我国《わがくに》|古来《こらい》|聖哲《せいてつ》が|千古《せんこ》の|疑問《ぎもん》として|此《この》|解決《かいけつ》に|苦《くるし》みて|居《ゐ》たのである。|日出雄《ひでを》は|右《みぎ》の|言葉《ことば》に|対《たい》し、|我《わが》|国家《こくか》の|前途《ぜんと》に|横《よこ》たはれる|或物《あるもの》を|認《みと》めて、|之《これ》が|対応策《たいおうさく》を|講《かう》ぜねばならぬことを|深《ふか》く|慮《おもんぱか》つた。
|彼《かれ》は|真澄別《ますみわけ》と|唯《ただ》|二人《ふたり》、|二月《にぐわつ》|十三日《じふさんにち》|午前《ごぜん》|三時《さんじ》|二十八分《にじふはちふん》|聖地発《せいちはつ》|列車上《れつしやじやう》の|人《ひと》となつた。|駅《えき》に|見送《みおく》るものは|湯浅《ゆあさ》|研三《けんざう》、|奥村《おくむら》|某《ぼう》の|二人《ふたり》のみであつた。いつも|彼《かれ》が|旅行《りよかう》には|大本《おほもと》の|役員《やくゐん》|信徒《しんと》|数十人《すうじふにん》|或《あるひ》は|数百人《すうひやくにん》の|送《おく》り|迎《むか》へのあるのを|常《つね》として|居《ゐ》た。|然《しか》るに|此《この》|日《ひ》は|唯《ただ》|二人《ふたり》の|信徒《しんと》に|送《おく》られて|行《い》つた|事《こと》は、|此《この》|計画《けいくわく》の|暫時《ざんじ》|他《た》に|漏《も》れむ|事《こと》を|躊躇《ちうちよ》したからであらう。|列車《れつしや》は|容赦《ようしや》なく|亀岡駅《かめをかえき》に|着《つ》いた。|前日《ぜんじつ》から|亀岡《かめをか》の|大道場《だいだうぢやう》|瑞祥閣《ずゐしやうかく》に|出張《しゆつちやう》し|諸般《しよはん》の|準備《じゆんび》を|調《ととの》へて|居《ゐ》た|名田彦《なだひこ》、|守高《もりたか》の|両氏《りやうし》は、|此処《ここ》に|搭乗《たふじよう》して|同行《どうかう》|四人《よにん》|相携《あひたづさ》へて|京都駅《きやうとえき》に|着《つ》いた。|而《しか》して|米倉《よねくら》|嘉兵衛《かへゑ》、|米倉《よねくら》|範治《はんぢ》が|列車《れつしや》に|乗込《のりこ》んで|居《ゐ》た。|京都駅《きやうとえき》に|着《つ》いて|朝飯《あさはん》を|喫《きつ》し、|吹雪《ふぶき》に|曝《さら》されて|一時間《いちじかん》|余《あま》り|西行《にしゆき》|列車《れつしや》を|待《ま》つた。|茲《ここ》には|唐国別《からくにわけ》|夫妻《ふさい》が|先着《せんちやく》して|居《ゐ》た。|各《かく》|望遠鏡《ばうゑんきやう》を|一個宛《いつこづつ》|携帯《けいたい》し、|手荷物《てにもつ》を|大《だい》トランクに|納《をさ》め、|茲《ここ》に|一行《いつかう》|五人《ごにん》は|唐国別《からくにわけ》|夫人《ふじん》や、|米倉《よねくら》|嘉兵衛《かへゑ》、|範治《はんぢ》に|袂《たもと》を|分《わか》ち、|汽笛《きてき》の|声《こゑ》も|勇《いさ》ましく|西下《せいか》する|事《こと》となつた。
|十三日《じふさんにち》|午後《ごご》|八時《はちじ》|関釜連絡船《くわんぷれんらくせん》|昌慶丸《しやうけいまる》に|搭乗《たふじよう》した。|天地《てんち》の|神明《しんめい》はこの|一行《いつかう》の|壮図《さうと》を|擁護《えうご》するものの|如《ごと》く、|関釜間《くわんぷかん》の|航海《かうかい》は|極《きは》めて|平穏《へいおん》であつた。|翌《よく》|十四日《じふよつか》|午前《ごぜん》|八時《はちじ》|釜山港《ふざんかう》に|無事《ぶじ》|上陸《じやうりく》し、|十時《じふじ》|発《はつ》|朝鮮鉄道《てうせんてつだう》の|一等室《いつとうしつ》に|納《をさ》まりかへつて|奉天《ほうてん》に|向《むか》ふ|事《こと》となつた。|車中《しやちう》には|本荘少将《ほんじやうせうしやう》|及《およ》び|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》、|唐国別《からくにわけ》の|三人《さんにん》であつた。|而《しか》して|名田彦《なだひこ》、|守高《もりたか》の|両人《りやうにん》は|二等室《にとうしつ》の|客《きやく》となつた。|二月《にぐわつ》|十五日《じふごにち》|安東県《あんとうけん》の|税関《ぜいくわん》も|無事《ぶじ》|通過《つうくわ》して、|午後《ごご》|六時《ろくじ》|三十分《さんじつぷん》|奉天《ほうてん》|平安通《へいあんどほ》りの|水也商会《みづやしやうくわい》に|入《い》る|事《こと》を|得《え》た。|彼《かれ》が|車中《しやちう》に|於《お》ける|和歌《わか》の|一二首《いちにしゆ》を|紹介《せうかい》する。
|蓬来《ほうらい》の|島《しま》をやうやく|立出《たちい》でて|見《み》なれぬ|国《くに》の|旅《たび》をなすかな
|水也商会《みづやしやうくわい》に|到着《たうちやく》すると、|先着《せんちやく》の|隆光彦《たかてるひこ》、|萩原《はぎはら》|敏明《びんめい》|及《およ》び|数名《すうめい》の|店員《てんゐん》が|停車場《ていしやぢやう》に|出迎《でむか》へた。|待設《まちまう》けて|居《ゐ》た|満州浪人《まんしうらうにん》の|岡崎《をかざき》|鉄首《てつしゆ》や|佐々木《ささき》|弥市《やいち》、|大倉《おほくら》|伍一《ごいち》の|三名《さんめい》と、|揚萃廷《やうすゐてい》と|云《い》ふ|人《ひと》が|訪《たづ》ねて|来《き》た。|三人《さんにん》は|日出雄《ひでを》に|対《たい》し、|先《ま》づ|初《はつ》|対面《たいめん》の|挨拶《あいさつ》を|了《を》はり、|十年《じふねん》の|知己《ちき》の|如《ごと》き|打《う》ち|解《と》けた|態度《たいど》にて、|満蒙《まんもう》の|現状《げんじやう》や、|肇国会《てうこくくわい》の|主意《しゆい》や|蒙古《もうこ》|事情《じじやう》などを|滔々《たうたう》と|弁《べん》じ|立《た》てたのである。
|岡崎《をかざき》『|私《わたし》は|日露戦争《にちろせんそう》に|従軍《じゆうぐん》したきり|支那《しな》に|留《とど》まつて、|第一革命《だいいちかくめい》から|引続《ひきつづ》き|東亜《とうあ》の|為《ため》に、|革命《かくめい》|事業《じげふ》にのみ|熱中《ねつちゆう》して|居《ゐ》る|者《もの》です。|併《しか》し|支那人《しなじん》は|個人《こじん》としては|生活《せいくわつ》して|行《ゆ》くだけの|力《ちから》は|持《も》つて|居《を》るが、|国家《こくか》とか|国体《こくたい》とかとして|生存《せいぞん》する|資質《ししつ》が|具《そな》はつて|居《を》りませぬ。それ|故《ゆゑ》に|幾度《いくど》|革命《かくめい》を|行《や》つても、|骨折損《ほねをりぞん》の|疲労儲《くたびれまう》けとなつて|了《しま》ひ、|実効《じつかう》を|収《をさ》むる|事《こと》が|出来《でき》ないのであります。|支那《しな》と|云《い》ふ|国《くに》は|頭《あたま》から|日本《につぽん》を|馬鹿《ばか》にして|居《ゐ》る、さうして|自分《じぶん》に|利益《りえき》のある|事業《じげふ》と|見《み》れば|喉《のど》を|鳴《な》らして|飛《と》びつくが、|其《その》|利益《りえき》と|相反《あひはん》する|場合《ばあひ》は|義理《ぎり》も|人情《にんじやう》も|捨《す》てて|直《す》ぐ|離《はな》れ|去《さ》つて|了《しま》ひます。|併《しか》しながら|日本《につぽん》と|支那《しな》は|唇歯輔車《しんしほしや》の|関係《くわんけい》があり、|何《ど》うしても|互《たがひ》に|手《て》を|携《たづさ》へて|国運《こくうん》の|発展《はつてん》を|図《はか》らねばならないのです。|日本《につぽん》の|為政者《ゐせいしや》の|中《なか》では|日支親善《につししんぜん》とか、|共存共栄《きようぞんきようえい》とか|種々《しゆじゆ》の|支那《しな》の|御機嫌取《ごきげんと》りの|文句《もんく》を|並《なら》べて|居《ゐ》るものがありますが、|支那人《しなじん》は|却《かへ》つて|此《この》|言葉《ことば》に|対《たい》し|嫌忌《けんき》の|情《じやう》を|抱《いだ》き|且《か》つ|侮辱《ぶじよく》するやうな|傾向《けいかう》を|持《も》つて|居《を》ります。|何《ど》うしても|支那人《しなじん》の|目《め》を|醒《さ》まし、|日本《につぽん》と|相提携《あひていけい》して|行《ゆ》かねばならぬと|云《い》ふ|理由《りいう》を|徹底的《てつていてき》に|悟《さと》らしむるには、|普通《ふつう》の|計画《けいくわく》では|駄目《だめ》です。|東三省《とうさんしやう》の|張作霖《ちやうさくりん》だつて、|直隷《ちよくれい》の|呉佩孚《ごはいふ》だつて、|表《おもて》に|親日派《しんにちは》を|標榜《へうばう》して|居《ゐ》るが、|其《その》|内心《ないしん》は|決《けつ》して|然《さ》うではない、|政治上《せいぢじやう》の|便宜《べんぎ》の|為《ため》に|或《ある》|時機《じき》|迄《まで》|親日《しんにち》を|装《よそほ》ふて|居《ゐ》るのです。|現《げん》に|張作霖《ちやうさくりん》の|顧問《こもん》となつて|居《ゐ》る|日本人《につぽんじん》も|沢山《たくさん》ありますが、|肝腎《かんじん》の|相談事《さうだんごと》は|日本人《につぽんじん》|以外《いぐわい》の|顧問《こもん》と|密議《みつぎ》し、|義理一遍《ぎりいつぺん》の|報告《はうこく》を|日本《につぽん》の|顧問《こもん》にする|位《くらゐ》のものであります。|是《これ》を|見《み》ても|癪《しやく》に|触《さは》るのは|支那《しな》の|日本《につぽん》に|対《たい》する|遣《や》り|方《かた》であります。
それだから|支那人《しなじん》を|心底《しんてい》より|我《わが》|帝国《ていこく》に|倚《よ》らしむるには、|彼《かれ》の|最《もつと》も|難治《なんぢ》として|居《ゐ》る|蒙古《もうこ》に|於《おい》て|一大《いちだい》|新王国《しんわうこく》を|建設《けんせつ》し|日本《につぽん》の|威力《ゐりよく》を|現《あら》はしてからでなくては、|何時《いつ》までかかつても|支那《しな》は|日本《につぽん》に|信頼《しんらい》しないだらうと|思《おも》ひます。
それ|故《ゆゑ》|自分等《じぶんら》は|犬養先生《いぬがひせんせい》や、|頭山先生《とうやませんせい》、|内田先生《うちだせんせい》、|末永《すゑなが》|節《せつ》|等《とう》の|国士《こくし》と|計《はか》つて、|肇国会《てうこくくわい》なるものを|創立《さうりつ》し、|肇国会《てうこくくわい》の|徽章《きしやう》を|二十万個《にじふまんこ》|許《ばか》り|朝鮮《てうせん》、|満州《まんしう》、|西比利亜《シベリア》|方面《はうめん》にバラ|撒《ま》いて|大《おほい》に|画策《くわくさく》して|居《ゐ》るのです。|大体《だいたい》|日本政府《につぽんせいふ》|殊《こと》に|外務省《ぐわいむしやう》の|腰《こし》が|弱《よわ》いものだから、|到底《とうてい》|吾々《われわれ》の|計画《けいくわく》は|成功《せいこう》しない。そこで|何《ど》うしても|東亜《とうあ》の|聯盟《れんめい》を|計《はか》るには|蒙古《もうこ》に|根拠《こんきよ》を|置《お》かねばならぬ。|蒙古《もうこ》は|最《もつと》も|古《ふる》い|国《くに》で|喇嘛教《らまけう》の|盛《さか》んな|土地《とち》です。|而《そ》して|蒙古人《もうこじん》は|支那人《しなじん》や|露西亜人《ろしあじん》を|非常《ひじやう》に|嫌《きら》つて|居《ゐ》る。|彼等《かれら》は|日本人《につぽんじん》と|何《ど》うかして|完全《くわんぜん》な|提携《ていけい》をなし、|殆《ほと》んど|亡国《ばうこく》に|瀕《ひん》せる|蒙古《もうこ》を|再興《さいこう》せむと|焦慮《せうりよ》して|居《ゐ》るのです。|吾々《われわれ》|満州浪人《まんしうらうにん》の|生命《せいめい》とする|所《ところ》は、|蒙古《もうこ》の|大平野《だいへいや》に|新王国《しんわうこく》を|建設《けんせつ》するにあるのです。|慓悍《へうかん》なる|蒙古人《もうこじん》を|心服《しんぷく》させるには|何《ど》うしても|宗教《しうけう》で|無《な》くては|駄目《だめ》です。|何《ど》うか|先生《せんせい》|済南《さいなん》|行《ゆ》きも|結構《けつこう》でせうが、それは|後《あと》に|廻《まは》して|兎《と》も|角《かく》|蒙古《もうこ》の|一部《いちぶ》なりとも|探検《たんけん》して|貰《もら》ふ|訳《わけ》には|行《ゆ》きますまいか。|決《けつ》して|之《これ》は|一個人《いつこじん》の|為《た》めではない、|我《わが》|同胞《どうはう》|一般《いつぱん》の|安全《あんぜん》の|為《た》め、|東亜《とうあ》の|民衆《みんしう》の|為《た》めですから』
|日出雄《ひでを》『お|説《せつ》を|承《うけたま》はつて|私《わたし》は|益々《ますます》|入蒙《にふもう》の|決心《けつしん》が|固《かた》まつたやうです。|併《しか》し|乍《なが》ら|五大教《ごだいけう》|道院《だうゐん》|紅卍字会《こうまんじくわい》や、|悟善社《ごぜんしや》から|迎《むか》ひに|来《き》て|居《ゐ》ますので、|隆光彦《たかてるひこ》さんに|一歩先《ひとあしさき》へ|行《い》つて|貰《もら》ひ、|準備《じゆんび》の|整《ととの》つた|上《うへ》|先《ま》づ|北京《ペキン》|済南《さいなん》に|出張《しゆつちやう》したいのです。|而《そ》して|何《ど》うしても|神戸道院《かうべどうゐん》の|開院式《かいゐんしき》には|帰《かへ》らなくてはなりませぬ。|僅《わづ》か|半月《はんつき》|斗《ばか》りの|間《あひだ》に|蒙古《もうこ》にも|行《ゆ》き、|北京《ペキン》、|済南《さいなん》にも|行《ゆ》くと|云《い》ふ|事《こと》は|到底《たうてい》|出来《でき》ますまい。|今回《こんくわい》は|蒙古《もうこ》のお|話《はなし》を|聞《き》いただけに|止《と》めておいて、|最初《さいしよ》の|目的《もくてき》たる|北京《ペキン》、|済南《さいなん》に|旅行《りよかう》したいと|思《おも》います』
|隆光彦《たかてるひこ》『|先生《せんせい》、|是非《ぜひ》|北京《ペキン》|済南《さいなん》の|方《かた》から|片附《かたづ》けて|貰《もら》ひたいものです。|侯延爽《こうえんさう》に|先生《せんせい》のお|出《いで》になる|事《こと》を、|前以《まへもつ》て|発電《はつでん》しておきました、|此処《ここ》で|貴方《あなた》を|取《と》り|逃《に》がし|蒙古《もうこ》にやつては、|紅卍字会《こうまんじくわい》の|諸氏《しよし》に|対《たい》し|私《わたくし》の|顔《かほ》が|立《た》ちませぬから、|蒙古《もうこ》は|後《あと》に|廻《まは》して|貰《もら》ひたいものです。|道院《だうゐん》の|開院式《かいゐんしき》には|先生《せんせい》が|帰《かへ》つて|居《を》られねば|遠近《ゑんきん》の|信者《しんじや》が|非常《ひじやう》に|力《ちから》を|落《おと》しますから』
|日出雄《ひでを》『それもさうだな。|〓示《けいじ》によつて|神戸道院《かうべだうゐん》の|責任統掌《せきにんとうしやう》に|任《にん》ぜられて|居《ゐ》るのだから、|此方《こつち》を|後《あと》にする|事《こと》は|出来《でき》ないだらう』
|岡崎《をかざき》『それもさうでせうが、|北村《きたむら》さまは|副統掌《ふくとうしやう》ぢやありませぬか、|統掌《とうしやう》に|差支《さしつかへ》のあつた|時《とき》|事務《じむ》を|代弁《だいべん》するための|副統掌《ふくとうしやう》でせう。|国家《こくか》の|一大事《いちだいじ》には|代《か》へられますまい、まげて|蒙古入《もうこいり》を|願《ねが》ひたいのです。そして|蒙古《もうこ》の|英雄《えいゆう》、|馬賊《ばぞく》の|大頭目《だいとうもく》たる|盧占魁《ろせんくわい》が、もう|既《すで》に|既《すで》に|先生《せんせい》のお|出《いで》を|待《ま》つて|居《ゐ》ますから、|是非《ぜひ》|共《とも》|今晩《こんばん》の|中《うち》に|面会《めんくわい》して|頂《いただ》きたいものです。|此処《ここ》に|居《を》られる|揚萃廷《やうすいてい》|氏《し》は|旧《もと》は|某県《ぼうけん》の|知事《ちじ》を|勤《つと》めて|居《ゐ》た|人《ひと》で、|今《いま》は|某新聞記者《ぼうしんぶんきしや》です。|此《この》|人《ひと》が|盧占魁《ろせんくわい》の|代理《だいり》として|見《み》えたのですから、|盧《ろ》|氏《し》の|心《こころ》も|酌《く》み|取《と》つて|抂《ま》げて|入蒙《にふもう》して|頂《いただ》きたいものです』
|日出雄《ひでを》『|盧《ろ》は|蒙古《もうこ》の|英雄《えいゆう》だと|云《い》ふ|事《こと》は|予《か》ねて|聞《き》いて|居《ゐ》ますが、|満蒙《まんもう》に|於《お》ける|盧《ろ》の|勢力《せいりよく》は|何《ど》んなものでせうか』
|岡崎《をかざき》『|盧《ろ》の|位置《ゐち》は|日本人《につぽんじん》で|云《い》へば|伊藤《いとう》|博文《はくぶん》の|様《やう》な|名望家《めいばうか》です。そして|蒙古《もうこ》の|王族《わうぞく》や、|住民《ぢゆうみん》や、|馬賊《ばぞく》などは|盧占魁《ろせんくわい》を|救世主《きうせいしゆ》の|如《ごと》く|尊敬《そんけい》して|居《ゐ》ます。|子供《こども》が|泣《な》いた|時《とき》、|盧《ろ》が|来《く》ると|云《い》へば|子供《こども》が|泣《な》きやむと|云《い》ふ|如《ごと》き|勢力《せいりよく》で、|沢山《たくさん》の|部下《ぶか》を|有《いう》し、|其《その》|部下《ぶか》は|盧《ろ》の|為《た》めには|一《ひと》つよりない|命《いのち》を|捨《す》てても|構《かま》はないと|云《い》ふ|位《くらゐ》ですから、|彼《かれ》をお|使《つか》ひになつて、マホメツト|式《しき》に|蒙古《もうこ》に|大本王国《おほもとわうこく》を|建設《けんせつ》し、|帝国《ていこく》の|新植民地《しんしよくみんち》を|拓《ひら》く|事《こと》に|努力《どりよく》せられたならば|屹度《きつと》|成功《せいこう》するでせう。|肇国会《てうこくくわい》に|於《おい》ても|此《この》|事業《じげふ》に|付《つ》いては|全力《ぜんりよく》を|傾注《けいちう》して|居《ゐ》ますが、|何分《なにぶん》|中堅《ちうけん》となつて|蒙古《もうこ》に|進出《しんしゆつ》する|人物《じんぶつ》が|無《な》いので|困《こま》つて|居《ゐ》るのです』
|日出雄《ひでを》『|私《わたし》は|単《たん》なる|宗教家《しうけうか》であつて|政治《せいぢ》に|疎《うと》く、|且《か》つ|軍隊《ぐんたい》に|関《くわん》する|知識《ちしき》はゼロですから|駄目《だめ》だらうと|思《おも》ひます』
|岡崎《をかざき》『|先生《せんせい》そんな|御心配《ごしんぱい》はいりますまい。|何《なん》と|云《い》つても|数万《すうまん》の|部下《ぶか》を|有《いう》する|蒙古《もうこ》の|英雄《えいゆう》を|従《した》がへて|行《ゆ》くのですから、|屹度《きつと》|目的《もくてき》は|成就《じやうじゆ》するでせう。|先《ま》づ|大庫倫《だいクウロン》を|根拠《こんきよ》とし|新彊《しんきやう》を|手《て》に|入《い》れ|赤軍《せきぐん》を|言向《ことむ》け|和《や》はすには、|盧占魁《ろせんくわい》|位《ぐらゐ》|適当《てきたう》な|人物《じんぶつ》はありますまい。ナア|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》、さうぢやないか』
と|二人《ふたり》の|満州浪人《まんしうらうにん》を|顧《かへり》みた。
|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》の|両人《りやうにん》は、
『|成程《なるほど》|君《きみ》の|云《い》ふ|通《とほ》りだ。|是非《ぜひ》|共《とも》|先生《せんせい》と|盧占魁《ろせんくわい》との|提携《ていけい》を|願《ねが》ひたいものだ。|世間《せけん》の|奴《やつ》は|吾々《われわれ》が|先生《せんせい》と|共《とも》に|行動《かうどう》するのを|見《み》て、|満州浪人《まんしうらうにん》が|又《また》|日本《につぽん》の|宗教家《しうけうか》を|喰物《くひもの》にしよると|云《い》ふ|連中《れんぢう》があるかも|知《し》れないが、|吾々《われわれ》は|決《けつ》して|左様《さやう》な|人物《じんぶつ》ではありませぬ。|其処等《そこら》にゴロついて|居《ゐ》る|満州《まんしう》ゴロとは|些《すこ》し|違《ちが》つた|考《かんが》へを|持《も》つて|居《ゐ》ます。|何《ど》うか|岡崎《をかざき》の|説《せつ》に|賛成《さんせい》して|貰《もら》へますまいか』
|日出雄《ひでを》は|暫《しばら》く|考《かんが》へた|後《のち》、|面《おもて》を|輝《かがや》かし|乍《なが》ら、
『|実《じつ》は|私《わたし》も|日本《につぽん》の|官憲《くわんけん》や|有識階級《いうしきかいきふ》|及《およ》び|日本人《につぽんじん》の|大多数《だいたすう》から、|大本事件《おほもとじけん》の|突発《とつぱつ》によつて|大《おほい》なる|誤解《ごかい》を|受《う》け|且《か》つ|圧迫《あつぱく》を|加《くは》へられて|居《ゐ》るのです。|夫《そ》れ|故《ゆゑ》|是非《ぜひ》|共《とも》|私《わたし》は|此《この》|際《さい》|一《ひと》つ|国家《こくか》の|為《た》めになる|大事業《だいじげふ》を|完成《くわんせい》して、|日頃《ひごろ》|主張《しゆちやう》せる|愛神《あいしん》、|勤王《きんわう》、|報国《はうこく》の|至誠《しせい》を|天下《てんか》に|発表《はつぺう》し、|今迄《いままで》の|疑惑《ぎわく》を|解《と》くべき|必要《ひつえう》に|迫《せま》られて|居《を》ります。|現代《げんだい》の|内憂《ないいう》|外患《ぐわいくわん》|交々《こもごも》|到《いた》り、|国難来《こくなんらい》の|声《こゑ》|喧《かま》びすしき|我《わが》|皇国《くわうこく》の|為《た》め、|東亜《とうあ》の|平和的聯盟《へいわてきれんめい》を|実現《じつげん》する|為《た》め、|神様《かみさま》の|御経綸《ごけいりん》を|遂行《すゐかう》せなくてはならないのです。|今《いま》の|時《とき》に|当《あた》つて|帝国《ていこく》の|為《た》め、|一身一家《いつしんいつか》を|賭《と》して|大経綸《だいけいりん》を|行《おこな》はねば、|我《わが》|国家《こくか》の|前途《ぜんと》は|実《じつ》に|憂《うれ》ふべき|運命《うんめい》に|見舞《みま》はれはしないかと|憂慮《いうりよ》して|居《ゐ》るのです。|兎《と》に|角《かく》|其《その》|盧占魁《ろせんくわい》の|宅《たく》に|参《まゐ》り|同氏《どうし》の|意見《いけん》を|聞《き》いた|上《うへ》で|決定《けつてい》する|事《こと》に|致《いた》しませう』
|一同《いちどう》は|同夜《どうや》|八時半《はちじはん》|二台《にだい》の|自動車《じどうしや》を|連《つら》ねて|奉天城《ほうてんじやう》|小南辺門外《せうなんへんもんぐわい》、|盧《ろ》の|公館《こうくわん》へと|馳《は》せつけた。
(大正一四・八・一五 筆録)
第二篇 |奉天《ほうてん》より|〓南《たうなん》へ
第八章 |聖雄《せいいう》と|英雄《えいいう》
|寒月《かんげつ》|冴渡《さえわた》り、|烈風《れつぷう》|吹荒《ふきすさ》ぶ|奉天日本租界《ほうてんにつぽんそかい》を|離《はな》れて|二台《にだい》の|自動車《じどうしや》は、まつしぐらに|東三省《とうさんしやう》|陸軍中将《りくぐんちうじやう》|盧占魁《ろせんくわい》が|公館《こうくわん》に|着《つ》いた。|一方《いつぱう》は|大本《おほもと》の|前教主輔《ぜんけうしゆほ》|大怪物《だいくわいぶつ》と|仇名《あだな》をとつた|源《みなもと》|日出雄《ひでを》、|一方《いつぱう》は|陸軍中将《りくぐんちうじやう》で|蒙古《もうこ》の|英雄《えいいう》、|馬賊《ばぞく》の|大巨頭《だいきよとう》|盧占魁《ろせんくわい》との|会見《くわいけん》である。|真澄別《ますみわけ》、|岡崎《をかざき》|鉄首《てつしゆ》、|唐国別《からくにわけ》、|佐々木《ささき》|弥市《やいち》、|大倉《おほくら》|伍一《ごいち》、|揚萃廷《やうすゐてい》、|守高《もりたか》、|名田彦《なだひこ》の|面々《めんめん》は、|盧《ろ》|氏《し》の|公館《こうくわん》にストーブを|中《なか》に|置《お》き、|円形《ゑんけい》の|座《ざ》を|作《つく》つて|椅子《いす》に|腰打掛《こしうちか》け、|蒙古《もうこ》|進出《しんしゆつ》の|英雄的《えいゆうてき》|協議《けふぎ》に|耽《ふけ》つた。|佐々木《ささき》は|支那語《しなご》を|能《よ》くするので、|彼《かれ》が|日出雄《ひでを》と|盧《ろ》との|通弁《つうべん》を|勤《つと》めた。
|佐々木《ささき》は|盧占魁《ろせんくわい》を|指《ゆび》さし、
『|先生《せんせい》、|此《この》|方《かた》が|盧占魁《ろせんくわい》さんです』
|日出雄《ひでを》『|成程《なるほど》、|一見《いつけん》しても|目元《めもと》の|凛《りん》とした|英雄的《えいゆうてき》|人物《じんぶつ》だ。|此《この》|男《をとこ》ならば|何《なに》も|云《い》ふに|及《およ》ばぬ、|一切万事《いつさいばんじ》を|委任《まか》せやう。|真澄別《ますみわけ》さん、あなた|何《ど》う|考《かんが》へますか』
と|真澄別《ますみわけ》を|顧《かへり》みた。|真澄別《ますみわけ》は|微笑《びせう》し|乍《なが》ら『|宜《よろ》しからう』と|答《こた》へた。|盧《ろ》は|日出雄《ひでを》に|向《むか》つて|云《い》ふ。
『|私《わたくし》は|十年前《じふねんぜん》に|七万《しちまん》の|精兵《せいへい》を|引率《いんそつ》して、|大庫倫市《だいクウロンし》を|占領《せんりやう》しました。|其《その》|時《とき》は|二十九歳《にじふきうさい》でした。それから|新彊《しんきやう》を|取《と》り|雲南《うんなん》|迄《まで》|活動《くわつどう》しました。それから|奉直戦争《ほうちよくせんさう》にも|参加《さんか》した|事《こと》もあります。|私《わたくし》が|上海《シヤンハイ》にゐる|時《とき》|孫逸仙《そんいつせん》に|会《あ》ひ、|先生《せんせい》の|御高名《ごかうめい》を|承《うけたま》はり、|機会《きくわい》があらば|御面会《ごめんくわい》を|願《ねが》ひたいと|常《つね》に|憧憬《どうけい》して|居《を》りましたが、|機縁《きえん》が|熟《じゆく》したと|見《み》えて、|今日《こんにち》|拙宅《せつたく》に|於《おい》て|先生《せんせい》に|面会《めんくわい》する|事《こと》を|得《え》たのは、|私《わたくし》に|取《と》つては|光栄《くわうえい》の|至《いた》りです。どうか|私《わたくし》をあなたの|下《した》に|使《つか》つて|下《くだ》さい。|屹度《きつと》|貴方《あなた》の|目的《もくてき》に|叶《かな》ふべく|活動《くわつどう》をしてお|目《め》に|掛《か》けるでせう』
|日出雄《ひでを》『|相互《さうご》に|協心戮力《けふしんりくりよく》、|東亜存立《とうあそんりつ》と|開発《かいはつ》の|為《ため》に|尽《つく》しませう』
|二人《ふたり》の|応答《おうたふ》は|之《これ》にて|済《す》んだのである。|宗教界《しうけうかい》の|英雄《えいいう》と|馬賊界《ばぞくかい》の|英雄《えいいう》とが|肝胆《かんたん》|相照《あひてら》して|空前絶後《くうぜんぜつご》の|大業《たいげふ》を|企図《きと》したのは、|実《じつ》に|小説的《せうせつてき》|趣味《しゆみ》を|帯《お》びて|居《ゐ》るやうだ。
|日出雄《ひでを》と|守高《もりたか》、|通訳《つうやく》の|王元祺《わうげんき》は|盧《ろ》|氏《し》の|公館《こうくわん》に|宿泊《しゆくはく》する|事《こと》となり、|其《その》|他《た》の|人々《ひとびと》は|水也商会《みづやしやうくわい》|其《その》|他《た》を|指《さ》して|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|正月《しやうぐわつ》|十一日《じふいちにち》の|月光《げつくわう》は|西《にし》の|空《そら》に|傾《かたむ》いてゐる。
|二月《にぐわつ》|十六日《じふろくにち》|盧《ろ》の|公館《こうくわん》に|於《おい》て|内外蒙古《ないぐわいもうこ》の|救援軍《きうゑんぐん》|組織《そしき》に|付《つ》き、|志士《しし》の|会合《くわいがふ》があつた。|午後《ごご》|八時《はちじ》|頃《ごろ》|唐国別《からくにわけ》、|真澄別《ますみわけ》|其《その》|他《た》の|志士《しし》は|会議《くわいぎ》の|大略《たいりやく》を|報《はう》じて|来《き》た。|其《その》|会議《くわいぎ》の|結果《けつくわ》は、|先《ま》づ|張作霖《ちやうさくりん》の|諒解《れうかい》を|得《う》ること、|武器《ぶき》を|購入《かうにふ》する|事《こと》|及《およ》び|大本喇嘛教《おほもとらまけう》を|創立《さうりつ》し、|日地月星《につちげつせい》の|教旗《けうき》を|飜《ひるが》へして|日出雄《ひでを》は|達頼喇嘛《だあらいらま》となり、|真澄別《ますみわけ》は|班善喇嘛《はんぜんらま》となり、|盧占魁《ろせんくわい》を|従《したが》へて|蒙古《もうこ》に|進入《しんにふ》する|事《こと》であつた。
|元来《ぐわんらい》|蒙古《もうこ》は|支那《しな》の|属邦《ぞくはう》である。そして|一百六名《いつぴやくろくめい》の|蒙古王《もうこわう》は|北京《ペキン》に|参勤交代《さんきんかうたい》を|行《おこな》つてゐる。|日本人《につぽんじん》が|支那《しな》の|領地《りやうち》に|日本《につぽん》|宗教《しうけう》を|開《ひら》く|事《こと》は|条約上《でうやくじやう》|許《ゆる》されてゐない。|併《しか》しながら|彼《かれ》は|支那《しな》の|新宗教《しんしゆうけう》|五大教《ごだいけう》の|高級《かうきふ》|宣伝使《せんでんし》である。それ|故《ゆゑ》|彼《かれ》が|蒙古《もうこ》に|宗教《しうけう》を|宣布《せんぷ》するのは|公然《こうぜん》の|権利《けんり》であつた。|日本《につぽん》は|仏教家《ぶつけうか》や|神道家《しんだうか》が|支那《しな》に|渡《わた》つて|布教《ふけう》|宣伝《せんでん》をやつて|居《ゐ》る|者《もの》も|沢山《たくさん》あるが、それは|在留《ざいりう》|日本人《につぽんじん》に|限《かぎ》られてゐる。|支那人《しなじん》に|宗教《しうけう》を|宣伝《せんでん》する|事《こと》は|許《ゆる》されてゐない。そして|日本《につぽん》|在留民《ざいりうみん》の|一部《いちぶ》に|宗教《しうけう》を|吹込《ふきこ》んでゐる|位《くらゐ》が|関《せき》の|山《やま》である。|彼《かれ》|日出雄《ひでを》は|五大教《ごだいけう》の|宣伝使《せんでんし》たるを|以《もつ》て|容易《たやす》く|宗教《しうけう》|宣布《せんぷ》をなす|事《こと》を|得《う》る|地位《ちゐ》にあつたのは、|今回《こんくわい》の|企《くはだて》に|対《たい》して|最《もつと》も|好都合《かうつがふ》であつた。|協議《けふぎ》の|結果《けつくわ》|盧占魁《ろせんくわい》の|命《めい》に|依《よ》つて、|揚萃廷《やうすゐてい》は|喇嘛服《らまふく》や|附属品《ふぞくひん》を|調製《てうせい》すべく、|急遽《きふきよ》|北京《ペキン》に|赴《おもむ》いた。|日本人《につぽんじん》|井上《ゐのうへ》|兼吉《かねきち》は|盧占魁《ろせんくわい》|等《とう》の|命《めい》に|依《よ》つて、|哥老会《からうくわい》の|残党《ざんたう》|揚成業《やうせいげふ》|其《その》|他《た》の|大頭株《おほあたまかぶ》に|対《たい》し、|盧《ろ》|氏《し》が|挙兵《きよへい》|入蒙《にふもう》の|報告《はうこく》を|兼《か》ね|応援《おうゑん》を|求《もと》むべく、|綏遠《すゐゑん》ならびに|帰化城《きくわじやう》|方面《はうめん》へと|出《で》て|行《い》つた。|揚成業《やうせいげふ》は|哥老会《からうくわい》の|大頭株《おほあたまかぶ》であつて、|一万《いちまん》|七八千《しちはつせん》の|部下《ぶか》を|有《いう》し、|盧《ろ》の|今回《こんくわい》の|壮挙《さうきよ》に|対《たい》し|極力《きよくりよく》|後援《こうゑん》せむ|事《こと》を|誓《ちか》つたのである。
|有志《いうし》は|蒙古《もうこ》|進出《しんしゆつ》の|準備《じゆんび》の|為《ため》|東奔西走《とうほんせいそう》し、|北京《ペキン》に|走《はし》る|者《もの》、|蒙古《もうこ》に|使《つかひ》する|者《もの》、|日本《につぽん》に|帰《かへ》る|者《もの》など|大活気《だいくわつき》が|湧《わ》いて|来《き》た。|越《こ》えて|二月《にぐわつ》|二十八日《にじふはちにち》|民国《みんごく》|十三年《じふさんねん》|正月《しやうぐわつ》|廿四日《にじふよつか》、|愈々《いよいよ》|東三省《とうさんしやう》|保安総司令《ほあんそうしれい》|張作霖《ちやうさくりん》より、|盧占魁《ろせんくわい》|将軍《しやうぐん》に|対《たい》し、|内外蒙古《ないぐわいもうこ》|出征《しゆつせい》の|命《めい》が|下《くだ》つて|来《き》た。|同志《どうし》の|面々《めんめん》は|欣喜雀躍《きんきじやくやく》して|今更《いまさら》の|如《ごと》く|早速《さつそく》|諸般《しよはん》の|準備《じゆんび》に|着手《ちやくしゆ》せむと|揚々《やうやう》として|四方《しはう》に|飛《と》んだ。|軍隊《ぐんたい》を|十個《じつこ》|旅団《りよだん》となし、|日地月星《につちげつせい》を|染抜《そめぬ》いたる|大本更始会《おほもとかうしくわい》の|徽章《きしやう》を|旗印《はたじるし》となし、それに|第一旅団《だいいちりよだん》より|第十旅団《だいじふりよだん》|迄《まで》の|刺繍《ししう》を|施《ほどこ》したる|軍旗《ぐんき》や|司令旗《しれいき》を|誂《あつら》へる|事《こと》となつた。そして|大本喇嘛教旗《おほもとらまけうき》として|日地月星《につちげつせい》を|染抜《そめぬ》いた|文字無《もじな》しの|神旗《しんき》も|共《とも》に|調製《てうせい》する|事《こと》と|定《さだ》めたのである。|何《いづ》れも|意気《いき》|天《てん》を|衝《つ》き|已《すで》に|満蒙《まんもう》の|天地《てんち》を|併呑《へいどん》して|了《しま》つた|様《やう》な|慨《がい》があつた。|彼《かれ》|源《みなもと》|日出雄《ひでを》が|盧《ろ》の|公館《こうくわん》に|滞在中《たいざいちう》、|試《こころみ》に|作《つく》つた|詩《し》がある。|此《この》|詩《し》は|彼《かれ》の|計画《けいくわく》の|一部《いちぶ》を|現《あら》はして|居《ゐ》る|如《や》うだから、|左《さ》に|摘載《てきさい》しておかう。
天時地利得人和  今丈夫救民立覇
是宇宙神聖之命  義軍嚮処若破竹
王仁有一万精兵  樹仁義旗進故州
嗚盛哉神軍陣形  山河草木靡威風
防寒旅装漸調了  奥蒙荒原将跋渉
神兵猛虎破竹勢  旗鼓堂々進庫府
内外蒙古惟神州  正義軍旅有天佑
勿躊躇蒙古丈夫  勝利都城在庫府
山河千里奉天空  日月星辰同蜻州
神雄連馬為出陣  蒙古荒原靡英風
|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善悪正邪《ぜんあくせいじや》を|立別《たてわ》ける
|高天原《たかあまはら》より|降《くだ》り|来《き》て  |寒風《かんぷう》|荒《すさ》ぶ|荒野原《あれのはら》
|神馬《しんめ》に|鞭《むちう》ち|進《すす》み|行《ゆ》く  |仁義《じんぎ》の|軍《いくさ》に|敵《てき》は|無《な》し
|進《すす》めよ|進《すす》めいざ|進《すす》め  |神《かみ》は|汝《なんぢ》と|倶《とも》に|在《あ》り
|神《かみ》に|叶《かな》ひし|汝等《なんぢら》の  |勇気《ゆうき》は|天地《てんち》に|充満《じゆうまん》し
|山河草木《さんかさうもく》ことごとく  |靡《なび》き|伏《ふ》すなり|神軍《みいくさ》に。
|仁義《じんぎ》の|旗《はた》を|押立《おした》てて  |進《すす》む|吾等《われら》は|神軍《みいくさ》ぞ
|来《きた》れよ|来《きた》れ|皆《みな》|来《きた》れ  |故国《ここく》に|仇《あだ》なす|曲神《まがかみ》を
|千里《せんり》の|外《そと》に|追散《おひち》らし  |祖先《そせん》の|造《つく》りし|神州《かみくに》を
|神《かみ》の|稜威《みいづ》に|回復《くわいふく》し  |都《みやこ》を|中央《なか》に|奠《さだ》めつつ
|上《かみ》は|活仏《くわつぶつ》|諸王《しよわう》より  |下《しも》|蒼生《さうせい》に|至《いた》る|迄《まで》
|救《すく》はむ|為《た》めの|此《この》|軍《いくさ》  |神《かみ》は|吾等《われら》と|倶《とも》にあり
|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》  |神《かみ》に|従《したが》ひ|進《すす》む|身《み》は
|如何《いか》なる|曲《まが》も|障《さや》らむや  |進《すす》めよ|進《すす》めいざ|進《すす》め
|仁義《じんぎ》の|軍《いくさ》に|敵《てき》はなし。
|路《みち》は|三千《さんぜん》|六百里《ろくぴやくり》  |奉天城《ほうてんじやう》を|後《あと》にして
|王仁《おに》の|率《ひき》ゐる|義勇軍《ぎゆうぐん》  |獅子奮迅《ししふんじん》の|勢《いきほひ》で
|悍馬《かんば》に|鞭《むちう》ち|進《すす》み|行《ゆ》く。
|我《われ》は|神軍《しんぐん》|王天竜《わうてんりう》  |皇天皇土《くわうてんくわうど》の|勅《ちよく》を|受《う》け
|獅子奮迅《ししふんじん》の|勢《いきほひ》で  |仁義《じんぎ》の|軍《ぐん》を|守《まも》りつつ
|神《かみ》のまにまに|進《すす》み|行《ゆ》く。
|道《みち》は|九千《きうせん》|八百里《はつぴやくり》  |奉天城《ほうてんじやう》をあとにして
|一万有余《いちまんいうよ》の|神卒《しんそつ》は  |轡《くつわ》を|並《なら》べて|進《すす》み|行《ゆ》く
|寒風《かんぷう》|烈《はげ》しき|外蒙地《ぐわいもうち》  |如何《いか》なる|敵《てき》の|来《きた》る|共《とも》
|我《われ》には|神《かみ》の|守護《まもり》あり  |進《すす》めよ|進《すす》め|快男児《くわいだんじ》
|勇《いさ》めよ|勇《いさ》め|神軍士《しんぐんし》。
|日出雄《ひでを》は|大本喇嘛教《おほもとらまけう》の|経文《きやうもん》を、|盧公館内《ろこうくわんない》に|於《おい》て|神示《しんじ》に|依《よ》り|認《したた》めた。
弥勒如来精霊下生印度霊鷲山成長顕現東瀛天教山将以五拾弐歳対衆生説明苦集滅道開示道法礼節再臨而顕現仏縁深蒙古為達頼喇嘛済度普一切衆生年将五拾四歳。
ヒマラヤの|山《やま》より|降《くだ》り|霊《ひ》の|本《もと》に|育《そだ》ちて|今《いま》や|蒙古《もうこ》に|現《あら》はる
|三柱《みはしら》の|御子《みこ》を|引連《ひきつ》れ|降《くだ》りたる|達頼《だあらい》は|弥勒《みろく》の|下生《げしやう》なりけり
|興安嶺《こうあんれい》|山秀《さんしう》|生《う》み|出《だ》す|瑞御霊《みづみたま》|蒙古《もうこ》に|再《ふたた》び|現《あら》はれにけり
|観世音《くわんぜおん》|最勝妙智大如来《さいしようめうちだいによらい》|救世《きうせい》の|為《ため》に|達頼《だあらい》と|化現《けげん》す
|掌中《しやうちう》に|五大天紋《ごだいてんもん》|皆流紋《かいりうもん》|固《かた》く|握《にぎ》りて|降《くだ》る|救世主《きうせいしゆ》
|基督《キリスト》の|聖痕《せいこん》|迄《まで》も|手《て》に|印《しる》し|天降《あまくだ》りたる|救世《ぐぜ》の|活仏《くわつぶつ》
|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|聖霊《せいれい》、|万有愛護《ばんいうあいご》の|為《た》め|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》と|顕現《けんげん》し、|更《さら》に|化生《けしやう》して|釈迦如来《しやかによらい》と|成《な》り、|印度《インド》に|降臨《かうりん》し、|再《ふたた》び|昇天《しようてん》して|其《その》|聖霊《せいれい》|蒙古《もうこ》|興安嶺《こうあんれい》に|降《くだ》り、|瑞霊化生《ずゐれいけしやう》の|肉体《にくたい》に|宿《やど》り、|地教山《ちけうざん》に|於《おい》て|仏果《ぶつくわ》を|修了《しうれう》し、|蜻州《せいしう》|出生《しゆつしやう》の|肉体《にくたい》を|藉《か》りて、|高熊山《たかくまやま》に|現《あら》はれ、|衆生《しゆじやう》を|救《すく》ふ。|時《とき》に|年歯《ねんし》|将《まさ》に|二十有八歳《にじふいうはつさい》なり。|二十九歳《にじふきうさい》の|秋《あき》|九月《くぐわつ》|八日《やうか》|更《さら》に|聖地《せいち》|桶伏山《をけぶせやま》に|坤金神《ひつじさるのこんじん》|豊国主命《とよくにぬしのみこと》と|現《あら》はれ、|天教山《てんけうざん》に|修《しう》して|観世音菩薩《くわんぜおんぼさつ》|木花姫命《このはなひめのみこと》と|現《げん》じ、|五拾弐歳《ごじふにさい》を|以《もつ》て|伊都能売御魂《いづのめのみたま》(|弥勒最勝妙如来《みろくさいしようめうによらい》)となり、|普《あまね》く|衆生済度《しゆじやうさいど》の|為《た》め|更《さら》に|蒙古《もうこ》に|降《くだ》り、|活仏《くわつぶつ》として、|万有愛護《ばんいうあいご》の|誓願《せいぐわん》を|成就《じやうじゆ》し、|五六七《みろく》の|神世《かみよ》を|建設《けんせつ》す。
|南無弥勒最勝妙如来《なむみろくさいしようめうによらい》|謹請再拝《ごんじやうさいはい》
|瑞霊《ずゐれい》|弐拾八歳《にじふはちさい》にして|成道《じやうだう》し、|日州《につしう》|霊鷲山《りやうしうざん》に|顕現《けんげん》し、|三拾歳《さんじつさい》にして|弥仙山《みせんざん》に|再臨《さいりん》し、|三十三相《さんじふさんさう》|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》と|現《げん》じ、|天教山《てんけうざん》の|秀霊《しうれい》と|現《げん》じ|最勝妙如来《さいしようめうによらい》として、|五拾弐歳《ごじふにさい》|円山《まるやま》にて|苦集滅道《くしふめつだう》を|説《と》き|道法礼節《だうほふれいせつ》を|開示《かいじ》す。|教章《けうしやう》|将《まさ》に|三千三百三十三章《さんぜんさんびやくさんじふさんしやう》|也《なり》。|五拾四歳《ごじふしさい》|仏縁《ぶつえん》|最《もつと》も|深《ふか》き|蒙古《もうこ》に|顕現《けんげん》し、|現代仏法《げんだいぶつぽふ》の|邪曲《じやきよく》を|正《ただ》し、|真正《しんせい》の|仏教《ぶつけう》を|樹立《じゆりつ》し、|普《あまね》く|一切《いつさい》の|衆生《しゆじやう》をして|天国浄土《てんごくじやうど》に|安住《あんぢゆう》せしむ、|阿難尊者《あなんそんじや》|其《その》|他《た》の|仏弟子《ぶつでし》の|精霊《せいれい》|随従《ずゐじゆう》す。|将《まさ》に|五六七《みろく》の|祥代《しやうだい》|完成《くわんせい》|万民和楽《ばんみんわらく》の|大本《たいほん》なり。
|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》
|南無最勝妙如来《なむさいしようめうによらい》
|斯《か》かる|大活劇《だいくわつげき》の|脚色《きやくしよく》|最中《さいちう》に|日出雄《ひでを》は|優美《いうび》なる|詩句《しく》に|筆《ふで》を|動《うご》かす|余裕《よゆう》を|綽々《しやくしやく》として|有《も》つて|居《ゐ》た。
|静《しづ》かなる|夜《よ》
|静《しづ》かな|夜《よ》なり  メリメリと
|氷《こほり》の|解《と》くる|音《おと》に  |暖《あたたか》い|春《はる》が|流《なが》れる
あゝ|何《なん》といふ  |嬉《うれ》しい|音《おと》だらう
|花《はな》|笑《わら》ひ  |蝶《てふ》|舞《ま》ふ
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》の  |出現《しゆつげん》も
やがて|近《ちか》いだらう。
|渤海湾《ぼつかいわん》の|氷《こほり》  |日々《ひび》に|解《と》けて
|海神《かいしん》の|奏《かな》づる  |神秘《しんぴ》の|曲《きよく》
|浪《なみ》の|中《なか》から  |長閑《のどか》に|聞《きこ》える
あゝ|嬉《うれ》しい  |勇《いさ》ましい
|春《はる》の|曲《きよく》  |陽炎《かげろふ》が|静《しづか》に|燃《も》える。
|私《わたくし》の|昨今《さくこん》
|私《わたし》の|脳裡《なうり》の  |暗黒《あんこく》から|明《あか》るみへ
|勇《いさ》ましく|雄々《をを》しく  |煙《けむり》の|様《やう》な
|期待《きたい》が|流《なが》れて  ぐるぐる|廻《まは》る
|走馬燈《そうまとう》のやうに  |聖地《せいち》|母上《ははうへ》|妻子《つまこ》
|弟妹《ていまい》|愛児《あいじ》  |数多《あまた》の|信徒《しんと》
あゝそれは  |私《わたし》の|過去《くわこ》の|断片《だんぺん》だ
|半世《はんせい》の|俤《おもかげ》だ  |現世《げんせ》の|縮図《しゆくづ》だ
さて|今日《けふ》から  |張《は》り|替《か》へる
|走馬燈《そうまとう》は  |随分《ずゐぶん》|世界《せかい》の
|見物《みもの》だらう。
(大正一四・八 筆録)
第九章 |司令公館《しれいこうくわん》
|蒙古《もうこ》の|英雄《えいいう》|盧中将《ろちうじやう》の|公館《こうくわん》には|源《みなもと》|日出雄《ひでを》、|守高《もりたか》、|支那語《しなご》の|通訳《つうやく》|王元祺《わうげんき》の|三名《さんめい》が|日夜《にちや》|立籠《たてこも》り、|盧《ろ》の|副官《ふくくわん》|温長興《をんちやうこう》、|何全英《かぜんえい》、|秦宣《しんせん》、|盧重廷《ろぢうてい》の|幹部連《かんぶれん》が|日出雄《ひでを》の|接待役《せつたいやく》として、|盧《ろ》の|命《めい》に|依《よ》つて|懇切《こんせつ》なる|忠勤振《ちうきんぶ》りを|発揮《はつき》してゐた。|真澄別《ますみわけ》や|其《その》|他《た》の|満州浪人連《まんしうらうにんれん》は、|水也商会《みづやしやうくわい》|其《その》|他《た》を|策源地《さくげんち》として|種々《しゆじゆ》の|協議《けふぎ》をこらし、|張作霖《ちやうさくりん》の|諒解《れうかい》を|求《もと》むる|事《こと》に|奔走《ほんそう》してゐた。|日出雄《ひでを》は|日々《ひび》|訪《たづ》ね|来《く》る|支那《しな》の|軍人《ぐんじん》に|対《たい》し、|通訳《つうやく》を|介《かい》して|神《かみ》の|道《みち》を|説《と》き、|難病《なんびやう》に|苦《くる》しめる|人等《ひとら》を|救《すく》ふてゐた。|注意深《ちういぶか》い|盧占魁《ろせんくわい》は|稍《やや》|迷信《めいしん》に|深《ふか》い|傾《かたむ》きがあり、|日々《ひび》|三回《さんくわい》|計《ばか》り|一厘銭《いちりんせん》を|六枚《ろくまい》|掌《てのひら》にのせて|素人流《しろうとりう》の|易占《えきせん》をやつて、|其《その》|吉凶《きつきよう》によりて|自分《じぶん》の|行動《かうどう》を|決定《けつてい》するのだから、|何事《なにごと》にも|緩慢《くわんまん》たるを|免《まぬが》れなかつた。|日本側《につぽんがは》の|同志《どうし》が|首《くび》を|鳩《あつ》めて|定《き》めておいた|事《こと》でも、|易占《うらない》が|面白《おもしろ》くないと|彼《かれ》|盧占魁《ろせんくわい》は、|一《いち》も|二《に》もなく|否認《ひにん》して|採用《さいよう》しない。|之《これ》には|一同《いちどう》も|大変《たいへん》に|迷惑《めいわく》を|感《かん》じてゐた。|最後《さいご》の|解決《かいけつ》は|日出雄《ひでを》の|断定《だんてい》によるより|道《みち》はなかつた。
|日出雄《ひでを》は|支那人《しなじん》の|近侍者《きんじしや》や、|日本側《につぽんがは》に|一々《いちいち》|支那服《しなふく》を|調《しら》べて|之《これ》を|着用《ちやくよう》せしめ、|姓名《せいめい》も|支那風《しなふう》に|変《か》へてしまつた。|日出雄《ひでを》は|王文祥《わうぶんしやう》、|真澄別《ますみわけ》は|王文真《わうぶんしん》、|守高《もりたか》は|王守高《わうしゆかう》、|名田彦《なだひこ》は|趙徹《てうてつ》、|岡崎《をかざき》は|侯成勲《こうせいくん》、|大倉《おほくら》は|石大良《せきだいりやう》、|萩原《はぎはら》は|王敏明《わうびんめい》、|唐国別《からくにわけ》は|王天海《わうてんかい》、|佐々木《ささき》は|王昌輝《わうしやうき》|等《とう》と|改名《かいめい》し、|支那人《しなじん》に|化《ば》け|済《す》まして|蒙古入《もうこいり》を|決行《けつかう》する|準備《じゆんび》に|取掛《とりかか》つた。|盧占魁《ろせんくわい》は|日出雄《ひでを》が|支那服《しなふく》を|誂《あつら》へた|時《とき》、ソツと|被服商《ひふくしやう》の|主人《しゆじん》に|云《い》ひ|含《ふく》め、|支那《しな》にて|有名《いうめい》なる|観相学者《くわんさうがくしや》を|呼《よ》んで|来《き》て|古来《こらい》|伝説《でんせつ》にある|救世主《きうせいしゆ》の|資格《しかく》の|有無《うむ》を|調《しら》べむため、|日出雄《ひでを》の|骨格《こつかく》や|容貌《ようばう》や、|目《め》、|口《くち》、|鼻《はな》、|耳《みみ》|等《とう》の|形《かたち》から|胸《むね》のまはり、|手足《てあし》の|長短《ちやうたん》|等《とう》から、|指《ゆび》の|節々《ふしぶし》、|指紋《しもん》|等《とう》に|至《いた》る|迄《まで》を|仔細《しさい》に|調《しら》べさせた|結果《けつくわ》、|所謂《いはゆる》|三十三相《さんじふさんさう》を|具備《ぐび》した|天来《てんらい》の|救世主《きうせいしゆ》だと|云《い》つた|観相家《くわんさうか》の|説《せつ》に、|随喜《ずゐき》の|涙《なみだ》をこぼし、|愈々《いよいよ》|蒙古王国《もうこわうこく》|建設《けんせつ》の|真柱《まはしら》と|仰《あふ》ぐに|至《いた》つたのである。かかる|注意《ちうい》の|下《もと》に|盧占魁《ろせんくわい》が|日出雄《ひでを》の|身体《しんたい》を|調《しら》べてゐるに|拘《かかは》らず、|日出雄《ひでを》は|索倫山《さうろんざん》の|本営《ほんえい》に|行《い》つて|盧占魁《ろせんくわい》が|自白《じはく》するまで、そんな|事《こと》とは|気《き》が|付《つ》かなかつたのである。|観相者《くわんさうしや》は|特《とく》に|日出雄《ひでを》の|掌中《しやうちう》の|四天紋《してんもん》と|指頭《しとう》の|皆流紋《かいりうもん》を|見《み》て|左《さ》の|如《ごと》き|断定《だんてい》を|下《くだ》した。
掌中四天紋=乾為天
大哉乾元万物資始乃統天雲行雨施品物流形大明終始六位時成時、時乗六竜以御天乾道変化各正性命保合太和乃利貞出庶物万国咸寧。
指紋皆流=坤為地
至哉坤元万物資生乃順承天、坤厚載物徳合旡彊、含弘光大品物亨牡馬地類行地旡彊柔順利貞君子攸行、光迷失道、後順得常西南得明乃与類行東北喪明乃終有慶安貞之吉応地旡彊。
|盧占魁《ろせんくわい》は|更《さら》に|日出雄《ひでを》の|掌中《しやうちう》に|現《あら》はれたるキリストが|十字架上《じふじかじやう》に|於《お》ける|釘《くぎ》の|聖痕《せいこん》や、|背《せ》に|印《しる》せるオリオン|星座《せいざ》の|形《かたち》をなせる|黒子《ほくろ》|等《とう》を|見《み》て|非常《ひじやう》に|驚喜《きやうき》した。そして|此《この》|次第《しだい》を|哥老会《からうくわい》の|耆宿《きしゆく》|揚成業《やうせいげふ》や|蒙古王《もうこわう》の|貝勒《ばいろく》、|貝子鎮国公《ばいしちんこくこう》を|初《はじ》め、|張彦三《ちやうけんさん》、|張桂林《ちやうけいりん》、|鄒秀明《すうしうめい》、|何全孝《かぜんこう》、|劉陞三《りうしようさん》、|大英子児《タアインヅル》、|賈孟卿《ジヤムチン》|等《とう》の|馬賊《ばぞく》の|頭目《とうもく》や、|張作霖《ちやうさくりん》|部下《ぶか》の|将校連《しやうかうれん》にも|之《これ》を|示《しめ》し、|天来《てんらい》の|救世主《きうせいしゆ》だ、|此《この》|救世主《きうせいしゆ》を|頭《かしら》に|戴《いただ》いて|内外《ないぐわい》|蒙古《もうこ》に|活躍《くわつやく》すれば|成功《せいかう》|疑《うたが》ひなしと、|確信《かくしん》してゐたのである。それ|故《ゆゑ》|日出雄《ひでを》は|蒙古《もうこ》に|入《はい》つても|凡《すべ》ての|上下《じやうげ》の|人々《ひとびと》より、|非常《ひじやう》な|尊敬《そんけい》と|信用《しんよう》とを|受《う》けたのである。
ここに|日出雄《ひでを》と|盧占魁《ろせんくわい》と|張作霖《ちやうさくりん》との|関係《くわんけい》について|少《すこ》し|述《の》べる|必要《ひつえう》がある。|張作霖《ちやうさくりん》は|最近《さいきん》の|奉直戦《ほうちよくせん》によつて、|自分《じぶん》の|兵力《へいりよく》の|足《た》らない|事《こと》を|非常《ひじやう》に|憂慮《いうりよ》してゐた。|万々一《まんまんいち》|再《ふたた》び|奉直戦《ほうちよくせん》が|始《はじ》まらうものなら、|軍備《ぐんび》の|整《ととの》はない|東三省《とうさんしやう》は|忽《たちま》ち|敗北《はいぼく》の|運命《うんめい》に|陥《おちい》り、|満州王《まんしうわう》として|東三省《とうさんしやう》に|君臨《くんりん》する|事《こと》の|不可能《ふかのう》なるを|知《し》つてゐた。そこで|張作霖《ちやうさくりん》は|何《なん》とかして、|自分《じぶん》の|勢力《せいりよく》を|内外《ないぐわい》|蒙古《もうこ》に|張《は》つて|北京《ペキン》を|背面《はいめん》から|圧迫《あつぱく》し、|脅威《けふゐ》し、|奉直戦《ほうちよくせん》の|勃発《ぼつぱつ》を|防《ふせ》がうと|内々《ないない》|思《おも》つてゐたのである。そこで|彼《かれ》は|盧占魁《ろせんくわい》を|利用《りよう》して、|内外《ないぐわい》|蒙古《もうこ》に|進出《しんしゆつ》せしめ、アワよくば|内外《ないぐわい》|蒙古《もうこ》を|完全《くわんぜん》に|吾《わが》|手《て》に|入《い》れて|見《み》たいと|思《おも》ふ|野心《やしん》を|持《も》つてゐた。|今回《こんくわい》|盧《ろ》が|日出雄《ひでを》と|提携《ていけい》して|蒙古《もうこ》に|大本王国《おほもとわうこく》を|建設《けんせつ》するについても、|宗教心《しうけうしん》の|尠《すくな》い|馬賊《ばぞく》|上《あが》りの|張作霖《ちやうさくりん》は|日出雄《ひでを》に|対《たい》しては、あまり|尊敬《そんけい》を|払《はら》はなかつた。|只《ただ》うまく|盧《ろ》を|介《かい》して|自分《じぶん》の|目的《もくてき》のために|利用《りよう》しようと|思《おも》つたのみである。さうして|狡猾《かうくわつ》な|張作霖《ちやうさくりん》は|盧占魁《ろせんくわい》|自身《じしん》の|金《かね》にて|武器《ぶき》を|調達《てうたつ》せよと|云《い》つて、|自分《じぶん》は|手《て》ぬらさずに|内外《ないぐわい》|蒙古《もうこ》を|手《て》に|入《い》れようとしたのである。|盧占魁《ろせんくわい》も|張作霖《ちやうさくりん》の|遣《や》り|方《かた》に|対《たい》しては、|内心《ないしん》|非常《ひじやう》に|憤慨《ふんがい》し、|応援《おうゑん》をしてくれた|日出雄《ひでを》に|対《たい》し、|張作霖《ちやうさくりん》に|対《たい》する|尊敬《そんけい》と|帰依《きえ》とを|移《うつ》して|傾注《けいちう》する|事《こと》となつた。そして|日出雄《ひでを》に|向《むか》つて|盧《ろ》は|一切万事《いつさいばんじ》その|指揮《しき》に|服従《ふくじゆう》する|事《こと》を|誓《ちか》つたのである。|奉天管内《ほうてんくわんない》に|於《おい》ては|西北自治軍《せいほくじちぐん》と|云《い》ふ|名称《めいしよう》を|旗印《はたじるし》となし、|愈《いよいよ》|索倫山《さうろんざん》に|行《い》つて|陣営《ぢんえい》が|整《ととの》つた|上《うへ》は、|内外《ないぐわい》|蒙古《もうこ》|救援軍《きうゑんぐん》と|改称《かいしよう》し、|日出雄《ひでを》を|総大将《そうだいしやう》として|大経綸《だいけいりん》を|行《おこな》ふ|計画《けいくわく》を|以《もつ》て、|索倫《さうろん》に|進出《しんしゆつ》する|事《こと》を|企《くはだ》てたのである。
|日出雄《ひでを》は|盧《ろ》の|公館《こうくわん》に|滞在中《たいざいちう》、|又《また》もや|数百《すうひやく》の|詩歌《しいか》を|詠《よ》んだ。|其《その》|一部《いちぶ》、
路遠蜻蛉州  企回天鴻業
同志僅数名  頭戴大神教
部下十万兵  皆是決死士
志節簡直強  神命奉頭進
|国《くに》のため|世人《よびと》のために|吾《われ》は|今《いま》|海外万里《かいぐわいばんり》の|旅《たび》にたつかな
|言葉《ことのは》の|通《かよ》はぬ|国《くに》に|渡《わた》り|来《き》て|生《うま》れもつかぬ|唖《おし》となりぬる
|聖地《せいち》にて|見《み》たる|月影《つきかげ》|奉天《ほうてん》に|眺《なが》むる|空《そら》は|殊《こと》にさやけし
|大空《おほぞら》に|澄《す》み|渡《わた》りつつ|高光《たかひか》る|奉天《ほうてん》の|月《つき》|殊《こと》にさやけし
|小夜《さよ》|更《ふ》けて|月《つき》のみ|独《ひと》り|大空《おほぞら》に|澄《す》み|渡《わた》りつつ|霜《しも》に|宿《やど》かる
|澄《す》みきりし|月《つき》の|鏡《かがみ》を|眺《なが》めつつ|心《こころ》うつして|暫《しば》し|佇《たたづ》む
|吾《わが》|友《とも》は|自転倒島《おのころじま》にあり|乍《なが》ら|仰《あふ》ぎ|見《み》るらむ|瑞月《ずゐげつ》の|空《そら》
|月《つき》|見《み》れば|益々《ますます》|心《こころ》|勇《いさ》み|立《た》つ|清《きよ》き|姿《すがた》のたぐひなければ
|東天《とうてん》の|空《そら》に|輝《かがや》く|満月《まんげつ》は|吾《わが》|行末《ゆくすゑ》の|光《ひかり》とぞ|思《おも》ふ
|天《あま》の|原《はら》|打仰《うちあふ》ぎつつ|眺《なが》むれば|日本《につぽん》に|同《おな》じ|月《つき》のかかれる
|東天《とうてん》の|大空《おほぞら》|高《たか》く|澄《す》む|月《つき》は|吾《わが》|魂《たましひ》の|鏡《かがみ》なるらむ
|澄《す》み|渡《わた》る|今宵《こよひ》の|月《つき》のさやけさに|吾《わが》|魂《たましひ》のささやきを|聞《き》く
|明《あき》らけき|清《きよ》けき|今宵《こよひ》の|月影《つきかげ》を|吾《わが》|恋《こ》ふ|人《ひと》の|姿《すがた》とや|見《み》む
|吾《わが》|恋《こ》ふる|人《ひと》の|姿《すがた》の|映《うつ》れかしと|月《つき》の|鏡《かがみ》を|打仰《うちあふ》ぎ|見《み》る
|吾《わが》|思《おも》ふ|人《ひと》の|姿《すがた》のうつれるかと|月《つき》の|中《なか》なる|黒点《こくてん》を|見《み》る
(大正一四・八 筆録)
第一〇章 |奉天《ほうてん》|出発《しゆつぱつ》
|三月《さんぐわつ》|一日《いちじつ》(|中国暦《ちうごくれき》の|正月《しやうぐわつ》|二十六日《にじふろくにち》)|盧公館《ろこうくわん》に|於《おい》て、|日出雄《ひでを》、|盧占魁《ろせんくわい》、|真澄別《ますみわけ》、|岡崎《をかざき》、|揚巨芳《やうきよはう》、|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》、|唐国別《からくにわけ》、|守高《もりたか》|等《とう》の|面々《めんめん》が|打《う》ち|揃《そろ》ひ|蒙古経営談《もうこけいえいだん》の|花《はな》を|咲《さ》かした。
|大倉《おほくら》『|先生《せんせい》、|弥々《いよいよ》|張作霖《ちやうさくりん》から|盧《ろ》さんに|対《たい》して|西北自治軍《せいほくじちぐん》|総司令《そうしれい》の|内命《ないめい》が|下《くだ》りました。|張作霖《ちやうさくりん》の|意見《いけん》に|依《よ》れば|先生《せんせい》の|御計画《ごけいくわく》の|通《とほ》り、|先《ま》づ|索倫山《そうろんざん》に|於《おい》て|兵《へい》を|募集《ぼしふ》し、|司令部《しれいぶ》を|設《まう》けて|活動《くわつどう》せよとのことです。|之《これ》に|就《つい》ては|岸少将《きしせうしやう》も|非常《ひじやう》に|骨《ほね》を|折《を》つて|呉《く》れました。|之《こ》れで|一先《ひとま》づ|安心《あんしん》です。|佐々木《ささき》さんも|大変《たいへん》|心配《しんぱい》しましたが、|愈々《いよいよ》|大願《たいぐわん》|成就《じやうじゆ》の|曙光《しよくわう》を|認《みと》めましたから|安心《あんしん》して|下《くだ》さい』
|日出雄《ひでを》『それは|大変《たいへん》にお|骨折《ほねを》りでした。|御神助《ごしんじよ》に|依《よ》つて|意外《いぐわい》にも|早《はや》く|話《はなし》が|纏《まとま》つた|事《こと》を|喜《よろこ》びます。|併《しか》し|佐々木《ささき》さん、|随分《ずゐぶん》|此《こ》の|交渉《かうせふ》は|困難《こんなん》でしただらう』
|佐々木《ささき》『ハイ、|何《なん》と|云《い》つても|支那《しな》と|言《い》ふ|所《ところ》は|金《かね》で|動《うご》く|所《ところ》ですから、|張作霖《ちやうさくりん》の|側近《そばちか》く|仕《つか》へて|居《ゐ》る|連中《れんちう》に、|金銭《きんせん》の|轡《くつわ》をはめて|反対《はんたい》しない|様《やう》にして|置《お》きました。|之《こ》れから|私《わたし》は|軍備《ぐんび》に|着手《ちやくしゆ》|致《いた》します。そして|輸送《ゆそう》も|大連《だいれん》から|〓南《たうなん》|迄《まで》は|非常《ひじやう》に|楽《らく》になりました。|武器《ぶき》の|輸送《ゆそう》は|張作霖《ちやうさくりん》が|引《ひ》き|受《う》けて|送《おく》つて|呉《く》れる|事《こと》になりましたから|安心《あんしん》して|下《くだ》さい』
|日出雄《ひでを》『さうなれば|私《わたし》は|一歩先《ひとあしさ》きに|蒙古入《もうこい》りをして|見《み》ようと|思《おも》ふ。|君等《きみら》は|総《すべ》ての|準備《じゆんび》を|整《ととの》へて|後《あと》からやつて|来《き》て|貰《もら》ひたい。|王爺廟《ワンイエメウ》から|三百《さんびやく》|計《ばか》りの|喇嘛僧《らまそう》が|迎《むか》へに|来《く》ると|云《い》ふ|事《こと》だから、グヅグヅしては|居《ゐ》られますまいから』
|佐々木《ささき》『まあ|二三日《にさんにち》|待《ま》つて|下《くだ》さい、さうすれば|喇嘛服《らまふく》を|誂《あつら》へに|行《い》つた|揚萃廷《やうすゐてい》さんも|北京《ペキン》から|帰《かへ》つて|来《き》ませうし、|張作霖《ちやうさくりん》の|護照《ごせう》も|取《と》れますから、|其《その》|上《うへ》になさつた|方《はう》が|安全《あんぜん》でせう』
|岡崎《をかざき》『|何《なに》、|護照《ごせう》が|何《なん》になるか。|僕《ぼく》は|東三省《とうさんしやう》の|高等官《かうとうくわん》だ、|僕《ぼく》が|先生《せんせい》のお|供《とも》すれば|護照《ごせう》もヘツタクレも|要《い》るものか。|何事《なにごと》も|神命《しんめい》に|従《したが》つてやるのが|吾等《われら》の|趣旨《しゆし》だ。|先生《せんせい》の|言葉《ことば》は|神様《かみさま》の|言葉《ことば》だ。|此《この》|間《あひだ》から|〓南府《たうなんふ》|迄《まで》|沿道《えんだう》の|視察《しさつ》をして|来《き》たが、|行先々《ゆくさきざき》に|日本人《につぽんじん》が|居《を》つて|何彼《なにか》の|世話《せわ》をして|呉《く》れる|事《こと》に|約束《やくそく》して|置《お》いたから、|君達《きみたち》は|後《あと》に|残《のこ》つて|準備《じゆんび》をしたがよい。|僕《ぼく》は|是非《ぜひ》|二三日《にさんにち》の|中《うち》に|自動車《じどうしや》を|雇《やと》つて|鄭家屯《ていかとん》|迄《まで》|疾走《しつそう》する|積《つも》りだ』
|佐々木《ささき》『|奉天《ほうてん》から|汽車《きしや》が|通《つう》じて|居《ゐ》るのに|高《たか》い|金《かね》を|出《だ》して|自動車《じどうしや》に|乗《の》る|必要《ひつえう》があるか、|三十人《さんじふにん》|計《ばか》りの|護衛兵《ごゑいへい》をつけるから、|先生《せんせい》に|奉天駅《ほうてんえき》から|御苦労《ごくらう》になつたらどうだ、|其《それ》が|安全《あんぜん》でよからうと|思《おも》ふ』
|岡崎《をかざき》『それもさうだが、|神様《かみさま》に|護衛兵《ごゑいへい》などが|要《い》るものか、|僕《ぼく》がお|供《とも》すれば|大盤石《だいばんじやく》だ。|未《いま》だ|嘗《かつ》て|奉天《ほうてん》から|鄭家屯《ていかとん》まで|自動車《じどうしや》を|飛《と》ばした|者《もの》が|無《な》いのだから、|自動車《じどうしや》|旅行《りよかう》も|地理《ちり》を|知《し》る|上《うへ》に|於《おい》て|面白《おもしろ》からう。|日本人《につぽんじん》はいつも|満蒙《まんもう》|視察《しさつ》をして|来《き》たと|偉《えら》さうに|言《い》つて|居《ゐ》るが、|唯《ただ》|汽車《きしや》に|乗《の》つて|沿道《えんだう》を|視察《しさつ》した|位《ぐらゐ》では|駄目《だめ》だ、|是非《ぜひ》|共《とも》|自動車《じどうしや》で|行《い》つた|方《はう》が|面白《おもしろ》いだらう』
|佐々木《ささき》『|此《こ》の|道《みち》の|悪《わる》いのに、|山《やま》や|畑《はた》を|突破《とつぱ》し、|遼河《れうが》を|渡《わた》らねばならぬ|大危険《だいきけん》がある。そんな|危険《きけん》の|道《みち》を|通《とほ》る|必要《ひつえう》がどこにあるか。|悪《わる》い|事《こと》は|云《い》はないから、|是非《ぜひ》|汽車旅行《きしやりよかう》にして|欲《ほ》しいものだ。|吾々《われわれ》も|心配《しんぱい》でならないからなあ』
|日出雄《ひでを》『|満州《まんしう》の|事情《じじやう》も|調《しら》べたいから、|別《べつ》に|急《いそ》ぐ|旅《たび》でもなし、|自動車《じどうしや》|旅行《りよかう》を|試《こころ》みたいものだ。|人《ひと》の|通《とほ》らない|所《ところ》を|通《とほ》つて|見《み》るのも|面白《おもしろ》いだらう』
|岡崎《をかざき》『|佐々木《ささき》や|大倉《おほくら》は|臆病《おくびやう》だから、そんな|事《こと》を|云《い》ふが、|何《なに》、|心配《しんぱい》|要《い》るものか、|自動車《じどうしや》|旅行《りよかう》と|決定《けつてい》しようぢやないか』
|佐々木《ささき》『|先生《せんせい》が|其《その》|御意見《ごいけん》なら|仕方《しかた》が|無《な》い、|之《これ》から|自動車屋《じどうしやや》に|照会《せうくわい》して|見《み》よう』
|揚巨芳《やうきよはう》『|私《わたし》の|知己《ちき》で|盧《ろ》さんの|恩顧《おんこ》を|受《う》けて|居《ゐ》る|王樹棠《わうじゆだう》と|云《い》ふ、|昔《むかし》|直隷軍《ちよくれいぐん》の|連長《れんちやう》をして|居《ゐ》た|男《をとこ》が、|城内《じやうない》に|自動車《じどうしや》|会社《くわいしや》をやつて|居《ゐ》るから、それに|云《い》ひつけませう。|彼《かれ》は|義侠心《ぎけふしん》の|強《つよ》い|剛胆《がうたん》な|男《をとこ》ですから、|少々《せうせう》の|馬賊《ばぞく》|位《ぐらゐ》|出《で》た|所《ところ》でこたえない|奴《やつ》ですから』
|日出雄《ひでを》『それは|好都合《かうつがふ》だ、そんならそれに|定《き》めて|仕舞《しま》はう。|愈々《いよいよ》|三月《さんぐわつ》|三日《みつか》|此《この》|地《ち》を|出立《しゆつたつ》しよう』
|盧《ろ》『|一切万事《いつさいばんじ》|先生《せんせい》の|御意志《ごいし》に|従《したが》ふ|決心《けつしん》だからお|望《のぞ》みの|通《とほ》り|自動車《じどうしや》を|誂《あつら》へませう』
かくの|如《ごと》く|相談《さうだん》が|纏《まとま》つたので、|日出雄《ひでを》は|愈々《いよいよ》|奉天《ほうてん》から|鄭家屯《ていかとん》に|向《むか》つて|自動車《じどうしや》を|駆《か》る|事《こと》となつた。さうして|真澄別《ますみわけ》、|大倉《おほくら》、|名田彦《なだひこ》の|三名《さんめい》は|奉天《ほうてん》より|汽車《きしや》に|乗《の》つて|蒙古《もうこ》の|〓南府《たうなんふ》に|先着《せんちやく》し、|〓南《たうなん》ホテルに|於《おい》て|諸般《しよはん》の|準備《じゆんび》を|調《ととの》へて|待《ま》つ|事《こと》に|相談《さうだん》がまとまつた。
|愈々《いよいよ》|三月《さんぐわつ》|三日《みつか》(|旧《きう》|正月《しやうぐわつ》|廿八日《にじふはちにち》)|午後《ごご》|四時《よじ》から|王樹棠《わうじゆだう》の|自動車《じどうしや》|二台《にだい》に|日出雄《ひでを》、|岡崎《をかざき》、|守高《もりたか》、|王元祺《わうげんき》の|四名《よめい》は|分乗《ぶんじやう》して|奉天《ほうてん》を|出発《しゆつぱつ》する|事《こと》となつた。|自動車屋《じどうしやや》の|主人《しゆじん》|王樹棠《わうじゆだう》は|道路《だうろ》の|険悪《けんあく》なるを|気《き》づかひ|自《みづか》ら|運転手《うんてんしゆ》となり|三人《さんにん》の|部下《ぶか》と|共《とも》に|随《したが》ふ|事《こと》となつた。|道路《だうろ》は|極《きは》めて|険悪《けんあく》にして|運転《うんてん》|意《い》の|如《ごと》くならず、|時々《ときどき》|機関《きくわん》に|損障《そんしやう》を|来《きた》し、|一時間《いちじかん》|許《ばか》り|走《はし》ると|又《また》|一時間《いちじかん》|許《ばか》り|停車《ていしや》して|車《くるま》の|修繕《しうぜん》を|為《な》し、|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なく|川《かは》の|中《なか》や|畑《はた》の|中《なか》、|小山《こやま》などを|無理《むり》やりに|進《すす》む|事《こと》となつた。|寒気《かんき》|凛烈《りんれつ》にして、|手《て》も|足《あし》も|殆《ほと》んど|知覚《ちかく》を|失《うしな》つて|居《ゐ》る。|奉天《ほうてん》から|鄭家屯《ていかとん》|迄《まで》の|間《あひだ》は|馬賊《ばぞく》の|横行《わうかう》が|特《とく》に|甚《はなは》だしいので、|自動車《じどうしや》の|停車中《ていしやちう》はヘツドライトを|消《け》し、|懐中電燈《くわいちゆうでんとう》を|持《も》つて|修繕《しうぜん》に|着手《ちやくしゆ》する|事《こと》とした。|水《みづ》が|切《き》れると|其処辺《そこらへん》の|氷《こほり》を|割《わ》つて|機関《きくわん》に|詰《つ》め|込《こ》むなど、いろいろの|難苦《なんく》ををかし、|北《きた》へ|北《きた》へと|星《ほし》の|光《ひかり》を|力《ちから》に|進《すす》んで|行《ゆ》く。
|幸《さいはひ》に|官兵《くわんぺい》や|巡警《じゆんけい》、|馬賊《ばぞく》の|網《あみ》を|突破《とつぱ》して、|鉄嶺《てつれい》の|前方《ぜんぱう》|竜首山《りうしゆざん》の|麓《ふもと》なる|遼河畔《れうがはん》に|進《すす》んだ。|河辺《かはべ》の|急坂《きふはん》を|下《くだ》つて|自動車《じどうしや》は|将《まさ》に|遼河《れうが》を|横《よこ》ぎらうとした|時《とき》、|運転手《うんてんしゆ》は『アツ』と|驚《おどろ》きの|声《こゑ》を|発《はつ》した。|其《その》|刹那《せつな》に|不思議《ふしぎ》にも|自動車《じどうしや》は|止《とま》つた。よくよく|見《み》れば、|一二尺《いちにしやく》|前方《ぜんぱう》には、さしもに|厚《あつ》い|氷《こほり》が|解《と》けて|蒼味《あをみ》だつた|水《みづ》が|漂《ただよ》うて|居《ゐ》る、|実《じつ》に|危険《きけん》な|場合《ばあひ》であつた。|此《こ》の|自動車《じどうしや》には|通訳《つうやく》の|王元祺《わうげんき》と|守高《もりたか》が|乗《の》つて|居《ゐ》たが、|何《いづ》れも|神明《しんめい》の|御加護《ごかご》として|神恩《しんおん》を|謝《しや》した。|此《この》|地点《ちてん》は|西北《せいほく》に|竜首山《りうしゆざん》が|高《たか》く|聳《そび》え、|且《か》つ|河《かは》の|堤《つつみ》が|非常《ひじやう》に|高《たか》かつた|為《た》め、|西北《せいほく》の|寒風《かんぷう》を|遮《さへぎ》り、|氷結《ひようけつ》して|居《ゐ》なかつたためである。|是非《ぜひ》なく|二三支里《にさんしり》|後《あと》へ|戻《もど》つて|人家《じんか》を|叩《たた》き|起《おこ》し、|案内者《あんないしや》を|雇《やと》うて、|小山《こやま》の|上《うへ》や|畑《はた》の|中《なか》を|危《あやふ》くも|馳駆《ちく》して|大道《だいだう》に|出《で》た。|満州広野《まんしうくわうや》を|走《はし》る|列車《れつしや》は、|遥《はるか》の|遠方《ゑんぱう》に|細長《ほそなが》く|薄《うす》い|光《ひかり》を|放《はな》つて|走《はし》つて|居《ゐ》た。|翌《よく》|四日《よつか》|午前《ごぜん》|七時《しちじ》|開原《かいげん》の|城内《じやうない》に|着《つ》いた。|飲食店《いんしよくてん》に|入《はい》つて|油濃《あぶらこ》い|支那食《しなしよく》を|喫《きつ》し、|此処《ここ》で|一時間《いちじかん》|許《ばか》りも|車体《しやたい》の|修繕《しうぜん》をした。|此《この》|地方《ちはう》では|自動車《じどうしや》の|通行《つうかう》した|事《こと》が|無《な》いので、|妙《めう》な|車《くるま》が|来《き》たと|云《い》ふので|次《つぎ》から|次《つぎ》へ|言《い》ひ|伝《つた》へ、|老若男女《らうにやくなんによ》が|真黒《まつくろ》に|蝟集《ゐしふ》してワイワイと|騒《さわ》ぎ|立《た》てて|居《ゐ》る。|其《その》|間《あひだ》|牛《うし》や|驢馬《ろば》などが|四頭曳《しとうひ》き、|五頭曳《ごとうひ》きで|大車《おほぐるま》を|引《ひ》いて|通《とほ》る。|其《その》|混雑《こんざつ》は|到底《たうてい》|筆紙《ひつし》に|尽《つく》し|難《がた》い。|漸《やうや》く|修繕《しうぜん》が|済《す》んだので、|二台《にだい》の|自動車《じどうしや》は、ブウブウと|警笛《けいてき》を|鳴《な》らし、|群集《ぐんしふ》を|押《お》しわけ、|大速力《だいそくりよく》でかけ|出《だ》し、|午後《ごご》|一時《いちじ》|頃《ごろ》には|昌図府《しやうとふ》の|手前《てまへ》|迄《まで》|安着《あんちやく》した。|一台《いちだい》の|自動車《じどうしや》は|大破損《だいはそん》を|来《き》たし|運転《うんてん》|不能《ふのう》となつて|仕舞《しま》つたので、|是非《ぜひ》なく|昌図府《しやうとふ》の|木賃《もくちん》ホテル|三号店《さんがうてん》に|宿泊《しゆくはく》し、|奉天《ほうてん》へ|人《ひと》を|派《は》して|機械《きかい》を|取《と》り|寄《よ》せる|事《こと》にした。|二百四十支里《にひやくしじふしり》の|高原《かうげん》を|未《いま》だ|何人《なんびと》も|試《こころ》みし|事《こと》なき|冒険的《ばうけんてき》|旅行《りよかう》をやつたのは、|開闢以来《かいびやくいらい》の|壮挙《さうきよ》だ。|源《みなもと》の|義経《よしつね》の|都落《みやこおち》にも|比《ひ》して|偉大《ゐだい》なる|放《はな》れ|業《わざ》だと、|岡崎《をかざき》の|気焔《きえん》|当《あた》るべからざるものがあつた。
(大正一四・八 筆録)
第一一章 |安宅《あたか》の|関《せき》
|自動車《じどうしや》|破損《はそん》の|為《ため》、|代用《だいよう》|機械《きかい》の|奉天《ほうてん》より|到着《たうちやく》するまで、|昌図府《しやうとふ》の|三号店《さんがうてん》に|待《ま》つ|事《こと》とし、|午後《ごご》|一時《いちじ》から|粗末《そまつ》なる|一室《いつしつ》を|与《あた》へられ、|〓《かん》を|焚《た》いて|一行《いつかう》|四人《よにん》は|横臥《わうぐわ》し、|前途《ぜんと》の|光明談《くわうみやうだん》に|耽《ふけ》つてゐた。|午後《ごご》|六時《ろくじ》|過《す》ぎ|支那《しな》の|巡警《じゆんけい》|二名《にめい》は、|宿泊人《しゆくはくにん》|調査《てうさ》の|為《ため》に|出張《しゆつちやう》した。|岡崎《をかざき》は|日本人《につぽんじん》、|外《ほか》|三人《さんにん》は|支那人《しなじん》と|云《い》ふ|触《ふ》れ|込《こ》みで、|支那服《しなふく》を|纏《まと》ふて|横臥《わうぐわ》してゐた。|巡警《じゆんけい》は|岡崎《をかざき》に|向《むか》つて|云《い》ふ。
|巡警《じゆんけい》『|貴下《あなた》は|日本人《につぽんじん》と|聞《き》きましたが、|支那《しな》の|内地《ないち》を|旅行《りよかう》するには|護照《ごせう》が|必要《ひつえう》ですが、|失礼《しつれい》ながら、|護照《ごせう》を|見《み》せて|貰《もら》ひませう』
|岡崎《をかざき》『|僕《ぼく》は|張作霖《ちやうさくりん》の|命令《めいれい》を|受《う》けて|視察《しさつ》に|出《で》て|来《き》たのだ。|支那《しな》の|官吏《くわんり》が|支那《しな》を|旅行《りよかう》するのに|護照《ごせう》の|必要《ひつえう》があるか、|分《わか》らねば|証拠《しようこ》を|見《み》せてやらう』
と|威丈高《ゐたけだか》になり、|得意然《とくいぜん》として|自分《じぶん》の|鞄《かばん》から……|東三省《とうさんしやう》|裕東印刷所《ゆうとういんさつしよ》|技師長《ぎしちやう》を|命《めい》ず、|月俸《げつぽう》|三百六十元《さんびやくろくじふげん》……と|云《い》ふ|辞令書《じれいしよ》を|振廻《ふりま》はし、|其《その》|上《うへ》、|前河南督軍《ぜんかなんとくぐん》|軍事顧問《ぐんじこもん》|岡崎《をかざき》|鉄首《てつしゆ》と|云《い》ふ|大名刺《だいめいし》を|振《ふり》まはし、|支那巡警《じゆんけい》の|調査《てうさ》を|受《う》ける|必要《ひつえう》はないと|刎《は》ねつけた。|巡警《じゆんけい》は|呆気《あつけ》に|取《と》られた|様《やう》な|顔《かほ》して、|日出雄《ひでを》、|守高《もりたか》、|王元祺《わうげんき》を|顧《かへり》み、|岡崎《をかざき》に|向《むか》つて、
|巡警《じゆんけい》『|此《この》|三人《さんにん》の|方《かた》は|何用《なによう》あつて、|汽車《きしや》のあるのにも|拘《かかは》らず|自動車《じどうしや》|旅行《りよかう》をされるのですか』
と|稍《やや》|詰問的《きつもんてき》に|出《で》た。|岡崎《をかざき》は|平然《へいぜん》として、『アハヽヽヽ』と|他愛《たあい》なく|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、
|岡崎《をかざき》『そんなことを|尋《たづ》ねて|何《なん》にする? |此《この》|方々《かたがた》は|南清方面《なんしんはうめん》の|豪商《がうしやう》だ。|一遍《いつぺん》|満州《まんしう》が|旅行《りよかう》して|見《み》たいから|案内《あんない》して|呉《く》れぬかと|云《い》はれるので、|僕《ぼく》が|視察《しさつ》を|兼《か》ねて、|自動車《じどうしや》|旅行《りよかう》を|試《こころ》みたのだ』
|巡警《じゆんけい》は|三人《さんにん》を|熟視《じゆくし》し|乍《なが》ら、|立派《りつぱ》な|支那服《しなふく》を|着《つ》けてゐるのに、ヤツと|安心《あんしん》したと|見《み》え、
『ヤアこれはお|邪魔《じやま》|致《いた》しました』
と|丁寧《ていねい》に|挨拶《あいさつ》をして|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|其《その》|後《あと》で|岡崎《をかざき》は|又《また》もや|例《れい》のメートルを|上《あ》げ|出《だ》した。
『アハヽヽヽ|先生《せんせい》、|私《わたし》は|偉《えら》い|者《もの》でせうがな、|佐々木《ささき》や|大倉《おほくら》が|何程《なにほど》|偉《えら》|相《さう》に|吐《ぬ》かしたつて|到底《たうてい》こんな|放《はな》れ|業《げふ》は|出来《でき》ますまい。こういふ|時《とき》には|此《この》|名刺《めいし》が|護照《ごせう》の|代理《だいり》をするのですからなア。|支那《しな》の|巡警《じゆんけい》が|何程《なにほど》|調《しら》べようとしても、|先生《せんせい》に|一言《ひとこと》も|言葉《ことば》をかけささなかつた|所《ところ》は|偉《えら》い|者《もの》でせう。エツヘヽヽ』
|日出雄《ひでを》『|満蒙旅行《まんもうりよかう》は|君《きみ》に|限《かぎ》るよ。|君《きみ》のおかげで、|先《ま》づ|安宅《あたか》の|関《せき》を|無事《ぶじ》|通過《つうくわ》することが|出来《でき》るのだ。|感謝《かんしや》しますよ』
|岡崎《をかざき》『|何《なん》と|云《い》つても|日露戦争《にちろせんそう》|以来《いらい》、|支那《しな》|各地《かくち》を|往来《わうらい》して、|支那《しな》|満州《まんしう》の|事情《じじやう》に|通《つう》じて|居《ゐ》るのだから……なア|先生《せんせい》、|安心《あんしん》なものですよ』
と|頻《しき》りに|得意《とくい》な|面《おもて》を|曝《さら》してゐる。だんだんと|時《とき》が|移《うつ》つて、|午後《ごご》|九時《くじ》|頃《ごろ》となつた。|三号店《さんがうてん》の|門口《かどぐち》に|四五人《しごにん》の|靴音《くつおと》や、サーベルの|音《おと》がチヤラついて|聞《きこ》えて|来《き》た。……と|思《おも》ふ|刹那《せつな》、うす|汚《きたな》い|板戸《いたど》を|開《あ》けて|突然《とつぜん》|日出雄《ひでを》の|居間《ゐま》へ|這入《はい》つて|来《き》たのは|支那《しな》の|官兵《くわんぺい》であつた。|一人《ひとり》は|軍曹《ぐんさう》で|四名《よめい》の|兵士《へいし》を|従《したが》へ、|警察署《けいさつしよ》の|報告《はうこく》に|依《よ》つて|日本人《につぽんじん》が|泊《とま》つてゐると|云《い》ふことを|知《し》り、わざわざ|査《しら》べに|来《き》たのであつた。|日出雄《ひでを》と|守高《もりたか》は|支那服《しなふく》を|着《つ》けたまま|素知《そし》らぬ|顔《かほ》して|横《よこ》になり、|岡崎《をかざき》と|軍曹《ぐんさう》との|応接《おうせつ》を|聞《き》いてゐた。
|軍曹《ぐんさう》『|深夜《しんや》に|御邪魔《おじやま》を|致《いた》しましたが、|貴下《きか》は、|東三省《とうさんしやう》の|高等官《かうとうくわん》だと|承《うけたま》はりましたが、|支那《しな》|内地《ないち》を|旅行《りよかう》されるには|護照《ごせう》が|必要《ひつえう》ですが、|御携帯《ごけいたい》になつてゐますか』
|岡崎《をかざき》は|例《れい》の|名刺《めいし》や|辞令《じれい》を|鞄《かばん》から|取《と》り|出《だ》して|見《み》せ、
『アツハヽヽヽ』
と|無造作《むざうさ》に|体《からだ》をゆすつて|笑《わら》ひ、
『それ、|此《この》|通《とほ》りだ、|此《この》|度《たび》|南清地方《なんしんちはう》の|富豪《ふがう》なる|僕《ぼく》の|友人《いうじん》が、|一遍《いつぺん》|満州《まんしう》の|自動車《じどうしや》|旅行《りよかう》がして|見《み》たいから|案内《あんない》してくれぬかと|言《い》はれるので、|何《なん》でも|奇抜《きばつ》なことをやつて、|支那《しな》|官民《くわんみん》を|驚《おどろ》かしてやらうと|思《おも》ひ、|自動車《じどうしや》を|雇《やと》ひ、やつて|来《き》た|所《ところ》、|大体《だいたい》|支那《しな》の|道路《だうろ》はなつてゐないものだから、|堅牢《けんらう》な|自動車《じどうしや》も|滅茶苦茶《めちやくちや》になり、|運転《うんてん》|不能《ふのう》となつたので|奉天《ほうてん》から|機械《きかい》が|来《く》る|迄《まで》、こんな|汚《きたな》い|木賃《もくちん》ホテルに|宿泊《しゆくはく》してゐるのだ。アハヽヽヽ、|要《い》らざる|構《かま》ひ|立《だ》てをすると、|張作霖《ちやうさくりん》に|報告《はうこく》するぞ』
と|頭《あたま》から|抑《おさ》へつける。|軍曹《ぐんさう》は|極《きは》めて|慇懃《いんぎん》に|言葉《ことば》もやさしく、|岡崎《をかざき》に|向《むか》つて|云《い》ふ。
『|貴下《きか》は|東三省《とうさんしやう》の|高等官《かうとうくわん》なることは|此《この》|辞令書《じれいしよ》にて|判明《はんめい》しました。|併《しか》し|満州《まんしう》の|旅行《りよかう》は|馬賊《ばぞく》が|横行《わうかう》して|大変《たいへん》|危険《きけん》ですから、|途中《とちう》に|於《おい》ていろいろの|障害《しやうがい》が|起《おこ》つては|日本《につぽん》|政府《せいふ》へ|対《たい》しても|済《す》みますまいから、お|出《いで》になる|所《ところ》まで|護衛兵《ごゑいへい》をつけませう』
|岡崎《をかざき》『アツハヽヽヽ、イヤ|大《おほ》きに|有難《ありがた》う。|併《しか》し|吾々《われわれ》は|日本男子《につぽんだんし》だ。|乞食《こじき》の|様《やう》な|支那《しな》の|雇兵《やとひへい》の|二十人《にじふにん》や|三十人《さんじふにん》|送《おく》つて|貰《もら》つた|所《ところ》で、|何《なん》の|役《やく》にも|立《た》ちますまい。|御親切《ごしんせつ》は|有難《ありがた》いが、お|断《ことわ》り|申《まを》しませう。|必要《ひつえう》があれば|地方《ちはう》の|官憲《くわんけん》に|依頼《いらい》しますから……』
|軍曹《ぐんさう》は|王元祺《わうげんき》に|向《むか》つていろいろの|質問《しつもん》をした。|王元祺《わうげんき》は|性来《しやうらい》の|支那人《しなじん》だから、|何《なん》だかピチヤピチヤと|得意《とくい》の|支那語《しなご》で|応答《おうたふ》してゐた。|軍曹《ぐんさう》は|日出雄《ひでを》、|守高《もりたか》の|両人《りやうにん》を|怪《あや》しげな|視線《しせん》を|投《な》げ|乍《なが》ら、
『|夜中《やちう》|驚《おどろ》かせまして|済《す》みませぬ』
と|慇懃《いんぎん》に|挨拶《あいさつ》を|残《のこ》し|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|岡崎《をかざき》は|益々《ますます》|得意《とくい》になつて|大《おほ》いに|気焔《きえん》を|上《あ》げ、|肇国会《てうこくくわい》の|話《はなし》や、|犬養先生《いぬかひせんせい》を|無性《むしやう》|矢鱈《やたら》に|振《ふ》りまはし、|外務省《ぐわいむしやう》の|腰《こし》の|弱《よわ》い|話《はなし》などを|喋々喃々《てふてふなんなん》と|喋舌《しやべ》り|立《た》て、
『|吾《わが》|眼《まなこ》|霞《かすみ》が|関《せき》の|門《かど》にかけ|国《くに》の|行末《ゆくすゑ》みむとぞ|思《おも》ふ
アハヽヽヽこれは|私《わたし》の|作《つく》つた|歌《うた》です。|吾々《われわれ》が|支那《しな》で|何《なに》か|日本《につぽん》の|為《ため》になることをやらうと|思《おも》ふと、|弱腰《よわごし》の|日本《につぽん》|外交官《ぐわいかうくわん》は|直《す》ぐに|頭《あたま》を|抑《おさ》へる。それだから、|支那《しな》|開発《かいはつ》も|満蒙《まんもう》の|経営《けいえい》も|何時《いつ》も|九分九厘《くぶくりん》で|画餅《ぐわへい》になつて|了《しま》ふのだ。|今度《こんど》といふ|今度《こんど》は|思《おも》ひ|切《き》つて|満蒙《まんもう》|政策《せいさく》の|実行《じつかう》をやつつけてみる|覚悟《かくご》です。|先生《せんせい》は|支那道院《しなだうゐん》の|宣伝使《せんでんし》なり、|私《わたし》は|東三省《とうさんしやう》の|高等官《かうとうくわん》だから、|日本《につぽん》|政府《せいふ》がゴテゴテと|干渉《かんせう》する|権利《けんり》はない|筈《はず》だ。アハヽヽヽ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、|前途《ぜんと》|有望《いうばう》だ』
と|切《しき》りに|顔面《がんめん》|筋肉《きんにく》を|活躍《くわつやく》させ、|車輪《しやりん》の|如《ごと》く|舌《した》を|運転《うんてん》させてゐる。そこへ|又《また》もや|靴《くつ》やサーベルの|音《おと》がして|来《き》た。
『|御免《ごめん》なさい』
と|這入《はい》つて|来《き》たのは|昌図府《しやうとふ》の|日本《につぽん》|領事館員《りやうじくわんゐん》が|巡査《じゆんさ》を|二名《にめい》|引連《ひきつ》れて、|身許調《みもとしら》べに|来《き》たのである。
|日巡《にちじゆん》『|岡崎《をかざき》|鉄首《てつしゆ》といふ|人《ひと》は|貴下《きか》ですか』
と|軍服姿《ぐんぷくすがた》の|岡崎《をかざき》に|向《むか》つて、|怪《あや》しげな|視線《しせん》を|向《む》け|口《くち》を|切《き》つた。|岡崎《をかざき》は|例《れい》の|名刺《めいし》や|辞令《じれい》を|見《み》せつけて、|例《れい》の|大口《おほぐち》をあけて『アハヽヽヽ』と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、
『モウ|夜《よ》も|更《ふ》け|十二時《じふにじ》|前《まへ》でありませぬか、|今頃《いまごろ》に|来《こ》られちや|実《じつ》に|迷惑《めいわく》です。|何《なん》の|御用《ごよう》ですかなア』
|日巡《にちじゆん》『エー、|只今《ただいま》|支那《しな》の|警察《けいさつ》から|日本人《につぽんじん》が|泊《とま》つてゐるといふ|報告《はうこく》が|来《き》ましたから、|一応《いちおう》|伺《うかが》つてみたいと|思《おも》ひ|出張《しゆつちやう》したのです』
|岡崎《をかざき》『ヤア、そりや|御苦労《ごくらう》でした。|別《べつ》に|心配《しんぱい》して|下《くだ》さるな、|私《わたし》は|日本人《につぽんじん》でゐながら|東三省《とうさんしやう》の|張作霖《ちやうさくりん》の|命令《めいれい》で|支那《しな》|内地《ないち》の|視察《しさつ》をなすべく、やつて|来《き》たのですから、|日本《につぽん》|領事館《りやうじくわん》に|御心配《ごしんぱい》は|決《けつ》して|掛《か》けませぬ』
|日巡《にちじゆん》『|此《この》|三人《さんにん》の|方《かた》はどこの|人《ひと》ですか、どうも|支那人《しなじん》のやうにありませぬがね』
|岡崎《をかざき》は|日出雄《ひでを》を|指《さ》して、
『|此《この》|方《かた》は|奉天《ほうてん》|平安通《へいあんどほり》|水也商会《みづやしやうくわい》の|主人《しゆじん》です、|商業《しやうげふ》|視察《しさつ》の|為《ため》にお|出《い》でになつたのですよ』
|日巡《にちじゆん》『あゝさうですか、さうすると|日本人《につぽんじん》ですな、|何時《いつ》お|発《た》ちになりますか』
|岡崎《をかざき》『ハイ、|自動車《じどうしや》が|破損《はそん》しましたので|動《うご》きが|取《と》れないのです。|奉天《ほうてん》まで|機械《きかい》を|取《と》りにやつたから、|使《つかひ》が|帰《かへ》つた|上《うへ》|修繕《しうぜん》を|施《ほどこ》し|出立《しゆつたつ》する|考《かんが》へです。|先《ま》づ|明日《みやうにち》の|午後《ごご》|二時《にじ》|頃《ごろ》です。それ|迄《まで》は|此《こ》の|木賃《もくちん》ホテルで|燻《くす》ぼつてゐる|考《かんが》へです。アハヽヽヽ』
|日巡《にちじゆん》『|護照《ごせう》はありますか』
|岡崎《をかざき》『|護照《ごせう》なんか|要《い》るものか、|東三省《とうさんしやう》の|役人《やくにん》が|東三省内《とうさんしやうない》を|旅行《りよかう》するのだからな、アハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひに|紛《まぎ》らす。|日本《につぽん》|巡査《じゆんさ》は、
『ヤ、|御邪魔《おじやま》|致《いた》しました』
と|帰《かへ》つて|行《ゆ》く、|日出雄《ひでを》は|稍《やや》|心配《しんぱい》|相《さう》な|顔《かほ》して、
|日出雄《ひでを》『|岡崎《をかざき》さん、|支那《しな》の|巡警《じゆんけい》や|軍曹《ぐんさう》に|向《むか》つて、|南清方面《なんしんはうめん》の|豪商《がうしやう》だといひ、|日本《につぽん》の|官憲《くわんけん》に|向《むか》つては|日本人《につぽんじん》だと|云《い》はれましたが、これは|屹度《きつと》|領事館《りやうじくわん》で|不審《ふしん》を|起《おこ》し、|明朝《みやうてう》|更《あらた》めて|調査《てうさ》に|来《く》るかも|知《し》れませぬよ。|何《なん》とか|考《かんが》へねばなりますまい』
|岡崎《をかざき》は|頭《あたま》をかき|乍《なが》ら、
『あまり|喋舌《しやべ》り|過《す》ぎたものだから、|拙劣《へた》なことをいつてしまつた。ナアニ|構《かま》ふものか、|明日《みやうにち》|領事館《りやうじくわん》から|来《き》よつたら、|三寸《さんずん》の|舌鋒《ぜつぽう》で|吹《ふ》き|飛《と》ばせば|宜《よろ》しい。|先生《せんせい》、|岡崎《をかざき》に|任《まか》しておいて|下《くだ》さい、メツタに|御迷惑《ごめいわく》はかけませぬからな。アハアハヽヽヽ』
と|小《ちひ》さく|笑《わら》ふ。
|日出雄《ひでを》『|兎《と》も|角《かく》|領事館員《りやうじくわんゐん》が|来《く》ると|面倒《めんだう》だから|明早朝《みやうさうてう》|一台《いちだい》|丈《だけ》は|先《さき》へ|出発《しゆつぱつ》する|事《こと》としようぢやないか』
|岡崎《をかざき》『それなら|先生《せんせい》と|私《わたし》は|二十支里《にじふしり》|程《ほど》|北《きた》の|大四家子《だいしかし》といふ|所《ところ》|迄《まで》、|先発《せんぱつ》しませう、|守高《もりたか》さまや|王君《わうくん》は|修繕《しうぜん》が|出来《でき》|次第《しだい》、|後《あと》から|追《お》つかけて|来《く》るといふことに|定《き》めておきませう』
『それが|宜《よろ》しからう』
と|言《い》つたきり、ゴロリ|横《よこ》になり|忽《たちま》ち|雷《かみなり》の|如《ごと》き|鼾《いびき》をかいて|眠《ねむ》つて|了《しま》つた。|岡崎《をかざき》も|外《ほか》|二人《ふたり》も|旅《たび》の|疲《つか》れで|前後《ぜんご》|不覚《ふかく》になつて、|夜《よ》のホンノリと|明《あ》くる|迄《まで》|他愛《たあい》もなく|熟睡《じゆくすゐ》した。
(大正一四・八 筆録)
第一二章 |焦頭爛額《せうとうらんがく》
|翌《よく》|五日《いつか》の|午前《ごぜん》|三時《さんじ》|頃《ごろ》|奉天《ほうてん》から|機械《きかい》を|持《も》つて|帰《かへ》つて|来《き》たので、|直様《すぐさま》|自動車《じどうしや》の|修繕《しうぜん》に|着手《ちやくしゆ》した。|何分《なにぶん》|破損《はそん》が|甚《はなは》だしいので|容易《ようい》に|修繕《しうぜん》が|出来《でき》なかつた。|日出雄《ひでを》と|岡崎《をかざき》とは|七時半《しちじはん》|一台《いちだい》の|自動車《じどうしや》を|王樹棠《わうじゆだう》に|操縦《さうじう》させ|乍《なが》ら、|二十支里《にじふしり》の|地点《ちてん》なる|昌図《しやうと》の|北《きた》、|大四家子《だいしかし》の|王昌紳《わうしやうしん》の|宅《たく》に|安着《あんちやく》し、|自動車《じどうしや》を|門内《もんない》|深《ふか》く|入《い》れおき、|守高《もりたか》|等《ら》の|自動車《じどうしや》を|一時間《いちじかん》|許《ばか》り|待《ま》つてゐた。あまり|遅《おそ》いので|自動車《じどうしや》の|荷物《にもつ》を|全部《ぜんぶ》|下《おろ》し、|王樹棠《わうじゆだう》は|一名《いちめい》の|運転手《うんてんしゆ》をつれて|再《ふたた》び|昌図《しやうと》|三号《さんがう》の|木賃《もくちん》ホテルに|引返《ひきかへ》した。|恰度《ちやうど》|大破損《だいはそん》した|自動車《じどうしや》の|修繕《しうぜん》を|全《まつた》く|終《をは》り、|荷物《にもつ》を|積《つ》み|込《こ》んだ|所《ところ》へ|日本《につぽん》|領事館員《りやうじくわんゐん》が|警官《けいくわん》を|二三名《にさんめい》|引連《ひきつ》れて|臨検《りんけん》に|来《き》た。そして|王樹棠《わうじゆだう》の|自動車《じどうしや》と|共《とも》に|三号店《さんがうてん》の|門《もん》へ|這入《はい》つた。|日本《につぽん》|官吏《くわんり》は|直《ただ》ちに|三号店内《さんがうてんない》に|進《すす》み|入《い》り、|調査《てうさ》して|居《ゐ》る|間《あひだ》に、|王樹棠《わうじゆだう》は|全速力《ぜんそくりよく》を|出《だ》して|自動車《じどうしや》を|駆《か》け|出《だ》し、|日出雄《ひでを》が|待《ま》つてゐる|大四家子《だいしかし》の|館《やかた》を|指《さ》して|驀地《まつしぐら》に|二台《にだい》ともやつて|来《き》た。
|王昌紳《わうしやうしん》の|宅《たく》は|十数人《じふすうにん》の|大家族《だいかぞく》で|何処《どこ》となく|気品《きひん》の|高《たか》い|風貌《ふうばう》をしてゐた。|此処《ここ》の|家族《かぞく》は|日本《につぽん》の|救世主《きうせいしゆ》|来《きた》れりと|云《い》つて、|大《おほ》いに|歓待《くわんたい》し、|高粱《かうりやう》や|支那米《しなまい》のお|粥《かゆ》や|鶏卵《けいらん》|等《とう》を|煮《に》て|饗応《きやうおう》した。|一同《いちどう》は|互《たがひ》に|無事《ぶじ》を|喜《よろこ》び|当家《たうけ》に|別《わか》れを|告《つ》げ、|茫漠《ばうばく》たる|大荒原《だいくわうげん》を|十支里《じふしり》|許《ばか》り|疾走《しつそう》すると、|二百名《にひやくめい》|許《ばか》りの|支那兵《しなへい》の|一隊《いつたい》に|出会《でつくは》した。|王樹棠《わうじゆだう》は|一切《いつさい》|構《かま》はず|兵隊《へいたい》の|列《れつ》を|目《め》あてに、|一目散《いちもくさん》に|駆《かけ》り|行《ゆ》く。|殆《ほと》んど|三十分《さんじつぷん》|許《ばか》り|駆《か》け|出《だ》した|時《とき》に、|又《また》もや|機械《きかい》の|損傷《そんしやう》を|来《きた》し、|一時間《いちじかん》|許《ばか》り|時間《じかん》を|費《つひや》して|修繕《しうぜん》に|取掛《とりかか》かつた。
|丘陵《きうりよう》や|畑《はた》や|川《かは》の|区別《くべつ》なく、|西北《せいほく》の|空《そら》を|目《め》あてに|難路《なんろ》を|進《すす》み|行《ゆ》く|豪胆不敵《がうたんふてき》の|行動《かうどう》に、|旅行《たびゆ》く|人馬《じんば》が|驚《おどろ》いて|右往左往《うわうさわう》に|逃《に》げ|廻《まは》る。|大車《だいしや》を|曳《ひ》いてゐる|馬《うま》の|群《むれ》は|驚《おどろ》いて|溝《みぞ》の|中《なか》に|顛倒《てんたう》する。|其《その》|中《うち》に|次《つぎ》から|次《つぎ》へ|来《く》る|牛車《ぎうしや》や|馬車《ばしや》が|折重《をりかさ》なつて|顛倒《てんたう》する|有様《ありさま》は、|実《じつ》に|可笑《をか》しくもあれば|気《き》の|毒《どく》でもある。|車《くるま》の|動揺《どうえう》につれて|日出雄《ひでを》|等《ら》は|幾度《いくど》となく|頭《あたま》を|打《う》ち|臀《しり》を|打《う》ち、|時々《ときどき》|後《あと》の|自動車《じどうしや》が、|前《まへ》の|自動車《じどうしや》に|衝突《しようとつ》したり、|車体《しやたい》のガラスが|破壊《はくわい》して|守高《もりたか》は|破片《はへん》の|雨《あめ》を|全面《ぜんめん》に|浴《あ》び、|眼辺《がんぺん》に|負傷《ふしやう》し、ダラダラと|血《ち》を|流《なが》してゐる。かくして|漸《やうや》く|旧四平街《きうしへいがい》に|安着《あんちやく》したのは|午後《ごご》|三時《さんじ》|半《はん》|頃《ごろ》であつた。|自動車《じどうしや》が|再《ふたた》び|大破損《だいはそん》を|為《な》し、|最早《もは》や|動《うご》く|事《こと》が|出来《でき》ぬので、|止《や》むを|得《え》ず|荷馬車《にばしや》|二台《にだい》を|雇《やと》ひ|寒風《かんぷう》に|曝《さら》され|乍《なが》ら|新四平街《しんしへいがい》の|貿易商《ぼうえきしやう》|奥村《おくむら》|幹造《かんざう》|氏《し》の|宅《たく》に|安着《あんちやく》したのは|午後《ごご》|五時《ごじ》|三十分《さんじつぷん》|頃《ごろ》であつた。
|此処《ここ》の|宅《たく》で|日出雄《ひでを》|等《ら》は|久《ひさ》し|振《ぶ》りで|日本食《につぽんしよく》を|饗《きやう》せられ、|鶏肉《とりにく》の|鍋《なべ》を|囲《かこ》んで|舌鼓《したつづみ》を|打《う》つた。|途中《とちう》|開原《かいげん》で|朝飯《てうはん》を|食《く》つたきり|今日《けふ》まで|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》も|車掌《しやしやう》|四人《よにん》も|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なく、|碌《ろく》に|飯《めし》も|食《く》はなかつたが|元気《げんき》は|益々《ますます》|旺盛《わうせい》であつた。|当夜《たうや》は|奥村方《おくむらかた》に|一泊《いつぱく》し|〓南府《たうなんふ》の|日本居留民会長《につぽんきよりうみんくわいちやう》|平馬《へいま》|慎太郎《しんたらう》|氏《し》の|案内《あんない》で、|四平街駅《しへいがいえき》から|鄭家屯《ていかとん》に|向《むか》ふ|事《こと》と|決《きま》つた。|当家《たうけ》にて|久《ひさ》々にて|日本風呂《につぽんぶろ》に|入浴《にふよく》し、|汗《あせ》や|垢《あか》を|落《おと》し|翌早朝《よくさうてう》|四平街《しへいがい》より|列車《れつしや》の|客《きやく》となつた。|此《この》|日《ひ》は|非常《ひじやう》に|陽気《やうき》|暖《あたた》かく|支那服《しなふく》の|上着《うはぎ》を|一枚《いちまい》|二枚《にまい》と|次々《つぎつぎ》に|脱《ぬ》ぎ、|窓《まど》を|開《あ》けて|茫々《ばうばう》たる|大原野《だいげんや》の|風《かぜ》に|当《あた》りつつ|進《すす》んで|行《ゆ》く。|午後《ごご》|六時《ろくじ》|五十分《ごじつぷん》|鄭家屯駅《ていかとんえき》|下車《げしや》、|山本《やまもと》|熊之《くまゆき》|氏《し》|方《かた》に|一泊《いつぱく》する|事《こと》となつた。|岡崎《をかざき》、|平馬《へいま》、|守高《もりたか》、|王元祺《わうげんき》の|四人《よにん》は、|日本《につぽん》の|東屋《あづまや》と|云《い》ふ|料理店《れうりてん》に|於《おい》て、|牛飲馬食会《ぎういんばしよくくわい》を|開《ひら》き|大変《たいへん》なメートルを|上《あ》げ、お|多福仲居《たふくなかゐ》や、|豚芸者《ぶたげいしや》が|盃盤《はいばん》の|間《あひだ》を|斡旋《あつせん》し、|大《おほ》いに|豪傑振《がうけつぶ》りを|発揮《はつき》したが、|翌早朝《よくさうてう》|日出雄《ひでを》が|泊《とま》つて|居《ゐ》る|山本方《やまもとかた》に|入《い》り|来《きた》り|直《ただ》ちに|停車場《ていしやぢやう》へと|駆《か》けつけた。|正《まさ》に|午前《ごぜん》|六時《ろくじ》|三十分《さんじつぷん》である。
|臥虎屯駅《がことんえき》の|西北《せいほく》の|方《はう》に|土饅頭形《つちまんぢうがた》の|宝裏山《ほうりざん》が、|大原野《だいげんや》の|寂寞《じやくばく》を|破《やぶ》つて|端然《たんぜん》として|立《た》つて|居《ゐ》る。|饅頭《まんぢう》を|伏《ふ》せた|様《やう》な|山《やま》で|蒙古七山《もうこしちざん》の|一《いち》なりと|云《い》ふ|事《こと》である。|此《この》|〓南鉄道《たうなんてつだう》は|去《さ》る|一月《いちぐわつ》|初《はじ》めて|試運転《しうんてん》を|行《おこな》ひ|漸《やうや》く|鉄路《てつろ》が|固《かた》まつた|所《ところ》で、|殊《こと》にその|汽車《きしや》は|満鉄《まんてつ》の|古物《ふるもの》|許《ばか》りで|途中《とちう》|機関《きくわん》に|損傷《そんしやう》を|来《き》たし、|茂林駅《もりんえき》の|手前《てまへ》で|七時間《しちじかん》|許《ばか》りも|立往生《たちわうじやう》をした。|岡崎《をかざき》は|支那《しな》の|将校《しやうかう》|四人《よにん》を|相手《あひて》に|談論風発《だんろんふうはつ》|盛《さか》んにメートルを|挙《あ》げ、|三蔵法師《さんざうほふし》について|行《い》つた|猪八戒式《ちよはつかいしき》を|発揮《はつき》し、|日出雄《ひでを》を|煙《けむ》に|巻《ま》いた。|蒙古《もうこ》|名物《めいぶつ》の|黄塵万丈《くわうぢんばんぢやう》も|岡崎《をかざき》の|鼻息《はないき》には|跣足《はだし》で|逃《に》げ|出《だ》しさうであつた。
|汽車《きしや》の|途中《とちう》|停車《ていしや》を|怪《あや》しんで、|附近《ふきん》の|村落《そんらく》より|蒙古人《もうこじん》の|老若男女《らうにやくなんによ》が|数十人《すうじふにん》|許《ばか》り|物珍《ものめづ》しさうに|集《あつ》まつて|来《き》た。そして|呑気《のんき》さうに|長《なが》い|煙管《きせる》で|煙草《たばこ》をパクついて|居《ゐ》た。|之《これ》を|見《み》ても|日本《につぽん》の|神代《かみよ》は|斯《か》くの|如《ごと》く|呑気《のんき》であつたらう|等《など》と、|歴史《れきし》を|遡《さかのぼ》つて|日出雄《ひでを》は|冥想《めいさう》に|耽《ふけ》つた。|日出雄《ひでを》は|車中《しやちう》に|於《おい》て|数十首《すうじつしゆ》の|和歌《わか》を|詠《えい》じた。その|内《うち》の|一部《いちぶ》を|左《さ》に|録《ろく》する。
|際《はて》しなき|大野ケ原《おほのがはら》を|進《すす》み|行《ゆ》く|吾《わが》|魂《たましひ》の|勇《いさ》みけるかな
|天《あめ》も|地《つち》も|一《ひと》つになりて|国津神《くにつかみ》|広野《ひろの》の|蓆《むしろ》|敷《し》きて|吾《われ》|待《ま》つ
|漸《やうや》くに|安宅《あたか》の|関《せき》をくぐり|抜《ぬ》け|今《いま》は|蒙古《もうこ》の|広野《くわうや》を|走《はし》る
|早《は》や|已《すで》に|蒙古《もうこ》の|国《くに》を|握《にぎ》りたる|如《ごと》き|心地《ここち》し|意気《いき》|天《てん》を|衝《つ》く
|風《かぜ》|清《きよ》く|日《ひ》はうららかに|枯野原《かれのはら》|春《はる》めき|立《た》ちて|陽炎《かげろふ》|燃《も》ゆる
|事《こと》ならば|我《わが》|同胞《はらから》を|招《まね》き|寄《よ》せ|新楽園《しんらくゑん》に|救《すく》ひ|助《たす》けむ
|五五《ごご》と|云《い》ふ|日数《ひかず》|重《かさ》ねて|漸《やうや》くに|宝《たから》の|国《くに》に|入《い》りし|吾《われ》かな
|際限《さいげん》も|知《し》らぬ|原野《げんや》の|真中《まんなか》に|蒙古《もうこ》の|人家《じんか》チラチラ|見《み》ゆる
|一点《いつてん》の|曇《くも》りさへなき|大空《おほぞら》は|地平線上《ちへいせんじやう》に|下《くだ》りて|見《み》ゆる
|木《き》も|草《くさ》も|見《み》る|事《こと》を|得《え》ぬ|蒙古人《もうこじん》は|空《そら》の|月星《つきほし》|花《はな》と|見《み》るらむ
|積《つ》む|雪《ゆき》の|凍《こほ》れる|上《うへ》を|日《ひ》の|照《て》りて|大野ケ原《おほのがはら》も|大海《だいかい》と|見《み》ゆ
|海《うみ》の|潮《しほ》|光《ひか》ると|許《ばか》り|疑《うたが》はる|大野ケ原《おほのがはら》の|雪《ゆき》に|日《ひ》は|照《て》り
|際限《さいげん》もなき|大荒原《だいくわうげん》の|中《なか》に|土室《つちむろ》の|如《ごと》き|人家《じんか》がポツリポツリと|建並《たちなら》び、|車窓《しやさう》より|眺《ながむ》れば|陸《りく》の|大洋《たいやう》に|舟《ふね》の|浮《うか》んだ|様《やう》である。|遠《とほ》く|眼《め》を|放《はな》てば|楊柳《やうりう》の|立木《たちき》が|大原野《だいげんや》の|単調《たんてう》を|破《やぶ》つて、コンモリと|黒《くろ》ずんだ|森《もり》をなしてゐる。|大平川駅《たいへいせんえき》にて|又《また》もや|汽車《きしや》は|停車《ていしや》し、|給水《きふすゐ》やなんかでゴテゴテと|約《やく》|一時間《いちじかん》|余《よ》を|費《つひや》した。|岡崎《をかざき》は、
『エー、|此《この》ボロ|汽車《きしや》|奴《め》、まるで|蛞蝓《なめくぢら》の|江戸行《えどゆき》|見《み》たやうだ』
と|口角《こうかく》に|泡《あわ》を|飛《と》ばして|怒《おこ》り|出《だ》した。|日出雄《ひでを》は|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、
『|岡崎《をかざき》さん、|汽車《きしや》が|動《うご》かなけりや|仕方《しかた》がないから|気《き》を|利《き》かして|徒歩《かち》と|出掛《でか》け、|次《つぎ》の|駅《えき》で|汽車《きしや》を|待《ま》つて|乗《の》り|換《か》へたら、それ|丈《だ》け|早《はや》く|〓南駅《たうなんえき》に|着《つ》くだらう。アハヽヽヽ』
と|馬鹿口《ばかぐち》をたたく。|支那《しな》の|商人《せうにん》が|岡崎《をかざき》を|見《み》て、
『|貴下《きか》は|何処《どこ》まで|行《ゆ》かるるか、|何《なん》の|用《よう》があつて|旅行《りよかう》されるか』
と|不思議《ふしぎ》さうに|問《と》ふ。
|岡崎《をかざき》『|馬鹿《ばか》を|云《い》ふな、|用《よう》のない|者《もの》が|汽車《きしや》に|乗《の》つて|旅《たび》をするか、|余計《よけい》な|世話《せわ》を|焼《や》くと|張《は》りとばすぞ、|貴様《きさま》のやうな|俺《おれ》は|商人《せうにん》ではないぞ、|金箔付《きんぱくつき》の|東三省《とうさんしやう》の|高等官《かうとうくわん》だ』
とエライ|馬力《ばりき》で|叱《しか》り|飛《と》ばす。
『|日本人《につぽんじん》は|支那人《しなじん》に|対《たい》し、|凡《すべ》てがこんな|調子《てうし》だから|何程《なにほど》|日支親善《につししんぜん》を|叫《さけ》んでも|駄目《だめ》だなア』
と|日出雄《ひでを》は|独語《どくご》した。
|〓南《たうなん》|着《ちやく》の|時間《じかん》は|午後《ごご》|四時《よじ》|二十分《にじふぶん》である。|然《しか》るに|汽車《きしや》はまだ|大平川駅《たいへいせんえき》に|焦《こ》げついてゐる。
『|真澄別《ますみわけ》|一行《いつかう》は|寒《さむ》い|停車場《ていしやぢやう》に|自分等《じぶんら》を|阿呆待《あはうま》ちしてゐるだらう。|僕《ぼく》は|〓南《たうなん》|着《ちやく》で|初《はじ》めて|三日月《みかづき》を|見《み》る|積《つも》りだから、|一寸《ちよつと》【まじない】をして|汽車《きしや》を|止《と》めてゐるのだ、アハヽヽヽ』
と|阿呆口《あはうぐち》を|云《い》つてゐるのは|守高《もりたか》であつた。
|通訳《つうやく》の|王元祺《わうげんき》は|何処《どこ》ともなく|元気《げんき》がない。|青白《あをじろ》い|顔《かほ》して|横《よこ》になり、|鼻《はな》を|掻《か》き|撫《な》でてはウンウンと|大声《おほごゑ》に|唸《うな》り、|暫《しばら》くしては|又《また》キヨロリと|目《め》を|開《あ》け、|窓外《さうぐわい》を|不足相《ふそくさう》な|顔《かほ》をして|眺《なが》めてゐる。|持病《ぢびやう》の|睾丸炎《かうぐわんえん》が|再発《さいはつ》したからであつた。
|太陽《たいやう》は|地平線上《ちへいせんじやう》に|近《ちか》づけどまだ|〓南《たうなん》は|遥《はる》かなりけり
ぐづ|汽車《きしや》に|乗《の》りて|荒原《くわうげん》|馳《は》せ|行《ゆ》けば|欠伸《あくび》の|玉《たま》の|連発《れんぱつ》となる
|車上《しやじやう》の|懐古《くわいこ》
|汽車破壊昌図街《きしやははくわいすしやうとがい》  |危険刻々我隊迫《こくこくわがたいにせまる》
|巡警兵士日警官《じゆんけいへいしにちけいくわん》  |窺間一行急遁晦《かんをうかがひていつかうきふにとんくわいす》
|因《ちなみ》に|真澄別《ますみわけ》|一行《いつかう》は、|三月《さんぐわつ》|三日《みつか》|午後《ごご》|十一時《じふいちじ》|十分《じふぶん》|奉天駅《ほうてんえき》|発《はつ》|長春《ちやうしゆん》|行《ゆき》|列車《れつしや》に|搭乗《たふじよう》し、|四日《よつか》|午前《ごぜん》|五時《ごじ》|半《はん》|四平街《しへいがい》|着《ちやく》、|植半旅館《うゑはんりよくわん》にて|朝餐《てうさん》を|喫《きつ》し、|同日《どうじつ》|午前《ごぜん》|八時《はちじ》|半《はん》|四平街《しへいがい》|発《はつ》、|正午前《しやうごまへ》|鄭家屯《ていかとん》|着《ちやく》、ホテルに|投宿《とうしゆく》した。そして|三月《さんぐわつ》|五日《いつか》|午前《ごぜん》|六時《ろくじ》|半《はん》|発《はつ》|列車《れつしや》にて|〓南《たうなん》に|向《むか》つた。|中途《ちうと》|三林駅《さんりんえき》を|発《はつ》し|間《ま》もなく、|機関車《きくわんしや》に|故障《こしやう》を|起《おこ》し、|列車《れつしや》は|荒野《くわうや》の|真中《まんなか》に|立往生《たちわうじやう》した。|係員《かかりゐん》は|東奔西走《とうほんせいそう》して|遂《つひ》に|鄭家屯《ていかとん》より|救援《きうゑん》|機関車《きくわんしや》を|引張《ひつぱ》つて|来《き》て|漸《やうや》く|進行《しんかう》し|始《はじ》めた。|時《とき》に|午後《ごご》|四時《よじ》、|沿道《えんだう》の|馬賊《ばぞく》の|襲来《しふらい》に|対《たい》する|警戒《けいかい》|物々《ものもの》しき|中《なか》を|列車《れつしや》は|遅々《ちち》として|運転《うんてん》し、|夜《よ》|十二時《じふにじ》を|過《す》ぐる|二十分《にじふぶん》|〓南駅《たうなんえき》に|到着《たうちやく》した。|一行《いつかう》は|〓南旅館《たうなんりよくわん》のボーイに|迎《むか》へられ|支那《しな》|馬車《ばしや》|二台《にだい》に|分乗《ぶんじやう》し、|銃剣《じゆうけん》をつけたる|兵隊《へいたい》に|護《まも》られつつ|特《とく》に|開《ひら》かれたる|城門《じやうもん》を|潜《くぐ》つて|〓南旅館《たうなんりよくわん》に|投《とう》じた。
(大正一四・八 筆録)
第一三章 |〓南旅館《たうなんりよくわん》
|日出雄《ひでを》はやうやくにして|三月《さんぐわつ》|八日《やうか》(|陰暦《いんれき》|二月《にぐわつ》|三日《みつか》)|午後《ごご》|九時《くじ》|三十分《さんじつぷん》、|〓南駅《たうなんえき》に|無事《ぶじ》|安着《あんちやく》し、|乞食《こじき》の|様《やう》な|支那兵《しなへい》に|送《おく》られ、ガタ|馬車《ばしや》|二台《にだい》に|分乗《ぶんじやう》して|〓南旅館《たうなんりよくわん》に|入《い》る。|真澄別《ますみわけ》、|大倉《おほくら》、|名田彦《なだひこ》の|三人《さんにん》は|鶴首《かくしゆ》して|待《ま》つて|居《ゐ》た。さうして|〓南府《たうなんふ》は|日本《につぽん》|官憲《くわんけん》の|勢力《せいりよく》なく、|領事館員《りやうじくわんゐん》と|雖《いへど》も|護照《ごせう》がなければ|入〓《にふたう》を|許《ゆる》さないので、|日本人《につぽんじん》が|停車場《ていしやぢやう》に|迎《むか》へに|出《で》るのは|最《もつと》も|危険《きけん》だから|失礼《しつれい》をしましたと、|三人《さんにん》は|弁解《べんかい》して|居《ゐ》た。|王元祺《わうげんき》の|睾丸炎《かうぐわんえん》は|益々《ますます》|激痛《げきつう》を|感《かん》じ、|病床《びやうしやう》に|入《はい》つたまま|起《お》きず、|飯《めし》も|食《く》はず|弱《よわ》りきつて|居《ゐ》る。
|明《あ》くれば|三月《さんぐわつ》|九日《ここのか》、|奉天《ほうてん》の|同志《どうし》へ|安着《あんちやく》の|電報《でんぱう》を|発《はつ》した。|此《この》|〓南旅館《たうなんりよくわん》は|満鉄《まんてつ》の|御用旅館《ごようりよくわん》と|云《い》ふ|名義《めいぎ》で、|辛《から》うじて|支那官憲《しなくわんけん》の|許可《きよか》を|受《う》けて|居《ゐ》るのである。|一時《いちじ》は|〓南府内《たうなんふない》に|百七八十人《ひやくしちはちじふにん》の|日本人《につぽんじん》が|滞留《たいりう》して|居《ゐ》たが、|支那官憲《しなくわんけん》の|圧迫《あつぱく》により、|何《いづ》れも|退去《たいきよ》を|命《めい》ぜられ、|特殊《とくしゆ》の|関係《くわんけい》あるもののみ|二十五人《にじふごにん》|在留《ざいりう》して|居《ゐ》るだけである。さうして、|日本人《につぽんじん》の|女《をんな》と|云《い》へば|僅《わづ》かに|五人《ごにん》と|云《い》ふことで、|一行《いつかう》|七人《しちにん》は|此《この》|旅館《りよくわん》に|宿泊《しゆくはく》して|種々《しゆじゆ》の|計画《けいくわく》に|着手《ちやくしゆ》して|居《ゐ》た。|平馬氏宅《へいましたく》から|猪野《ゐの》、|大川《おほかは》の|二人《ふたり》が|来訪《らいほう》して|蒙古入《もうこい》りの|壮挙《さうきよ》を|聞《き》き、|我《わ》が|国家《こくか》|前途《ぜんと》の|為《ため》に|慶賀《けいが》に|堪《た》へないと|云《い》ふて|賛意《さんい》を|表《へう》して|居《ゐ》る。|次《つぎ》に|満鉄《まんてつ》|関係者《くわんけいしや》の|三井《みつゐ》|貫之助《くわんのすけ》|氏《し》が|来訪《らいほう》した。|併《しか》し|乍《なが》ら|日出雄《ひでを》や|真澄別《ますみわけ》は|一室《いつしつ》に|閉《と》ぢ|籠《こも》り、|岡崎《をかざき》、|大倉《おほくら》の|両人《りやうにん》が|接見《せつけん》する|事《こと》となつた。|大倉《おほくら》は|三井《みつゐ》と|共《とも》に|城内《じやうない》の|支那料理店《しなれうりてん》へ|出《で》かけ、|種々《しゆじゆ》の|運動《うんどう》を|開始《かいし》した。|夜分《やぶん》になると|東西南北《とうざいなんぼく》から|銃砲《じゆうはう》の|音《おと》が|頻《しき》りに|聞《きこ》えて|来《く》る。|之《これ》は|〓南府《たうなんふ》の|周囲《しうゐ》に|散在《さんざい》して|居《ゐ》る|十数団《じふすうだん》の|馬賊《ばぞく》|二千余名《にせんよめい》が、|何時《いつ》|〓南府《たうなんふ》を|襲《おそ》ふかも|知《し》れないので、|夜《よ》になると|兵士《へいし》が|馬賊《ばぞく》|威喝《ゐかつ》の|為《ため》に|発砲《はつぱう》するのだと|云《い》ふ|事《こと》である。|実《じつ》に|官憲《くわんけん》の|威力《ゐりよく》も|及《およ》ばず、|物騒《ぶつそう》|千万《せんばん》の|土地《とち》である。
|此《この》|〓南府《たうなんふ》は|鄭家屯《ていかとん》を|北《きた》に|去《さ》る|鉄路《てつろ》|百四十哩《ひやくよんじふマイル》の|地点《ちてん》にあつて、|東蒙古《ひがしもうこ》に|於《お》ける|唯一《ゆゐいつ》の|大市街《だいしがい》である。|支那人《しなじん》が|蒙古《もうこ》に|発展《はつてん》した|根拠地《こんきよち》は|即《すなは》ち|此《こ》の|地《ち》である。|四方《しはう》は|土《つち》の|城壁《じやうへき》をもつて|囲《かこ》み、|東西南北《とうざいなんぼく》に|六個《ろくこ》の|通行門《つうかうもん》があつて、|住民《ぢゆうみん》は|此処《ここ》から|出入《しゆつにふ》する。|門《もん》の|入口《いりぐち》には|支那《しな》の|官兵《くわんぺい》や|巡警《じゆんけい》が|控《ひか》へて|居《ゐ》て、|一々《いちいち》|護照《ごせう》の|検査《けんさ》を|為《な》し、|携帯品《けいたいひん》や|出入《しゆつにふ》の|荷物《にもつ》に|対《たい》しては、|幾何《いくら》かの|税金《ぜいきん》を|現場《げんぢやう》で|徴収《ちやうしう》する。|〓南《たうなん》の|市街《しがい》は|南北《なんぽく》|五支里《ごしり》、|東西《とうざい》|五支里《ごしり》の|正方形《せいほうけい》の|面積《めんせき》を|有《いう》し、|此《この》|城壁内《じやうへきない》には|官公署《くわんこうしよ》や|各商店《かくしやうてん》が|軒《のき》を|並《なら》べて|居《ゐ》る。|純然《じゆんぜん》たる|蒙古《もうこ》の|土地《とち》でありながら、|其《その》|勢力《せいりよく》も、|政治関係《せいぢくわんけい》も|全《まつた》く|支那《しな》の|主権《しゆけん》に|属《ぞく》し、|奉天省《ほうてんしやう》が|管轄《くわんかつ》して|居《ゐ》る。|二十年《にじふねん》|以前《いぜん》、|初《はじ》めて|支那人《しなじん》が|此《この》|地《ち》に|市街《しがい》を|築《きづ》いた|時《とき》は、|僅《わづ》かに|三四十戸《さんしじつこ》に|過《す》ぎなかつたが、|其《その》|時《とき》から|道尹衙門《だういんがもん》を|設置《せつち》して|土地《とち》の|発展《はつてん》に|努《つと》めて|居《ゐ》る。|其《その》|後《ご》|〓南《たうなん》の|道尹衙門《だういんがもん》は|鄭家屯《ていかとん》に|引《ひ》き|移《うつ》り、|現在《げんざい》の|官公署《くわんこうしよ》、|県公署《けんこうしよ》、|第二十九師司令部《だいにじふくししれいぶ》や、|監獄《かんごく》や、|警察署《けいさつしよ》、|審判庁《しんぱんちやう》、|捐務局《えんむきよく》、|兵営《へいえい》、|郵政局《いうせいきよく》、|電報局《でんぱうきよく》、|学校《がつかう》|等《とう》がある。|国民小学校《こくみんせうがくかう》が|三ケ所《さんかしよ》、|国民女学校《こくみんぢよがくかう》が|二ケ所《にかしよ》と|県立高等小学校《けんりつかうとうせうがくかう》が|一ケ所《いつかしよ》ある。|当地《たうち》の|支那官憲《しなくわんけん》は|総《すべ》ての|日本人《につぽんじん》に|対《たい》して|極力《きよくりよく》|圧迫《あつぱく》を|加《くは》へ、|排日思想《はいにちしさう》の|最《もつと》も|盛《さか》んな|所《ところ》である。それ|故《ゆゑ》、|鄭家屯《ていかとん》の|日本領事館《につぽんりやうじくわん》から|館員《くわんゐん》が|視察《しさつ》に|来《き》ても、|護照《ごせう》がなければ|通《とほ》さないと|云《い》つて、|入城《にふじやう》を|拒《こば》むと|云《い》ふ|有様《ありさま》である。
かういふ|状況《じやうきやう》に|在《あ》る|〓南府《たうなんふ》へ|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》は|入《い》り|込《こ》んだから、|中々《なかなか》|晏如《あんじよ》たる|訳《わけ》には|行《ゆ》かないのである。|〓南《たうなん》へ|日出雄《ひでを》が|着《つ》いた|三日目《みつかめ》に、|秦宣《しんせん》|及《およ》び|山田《やまだ》|文治郎《ぶんぢらう》の|両人《りやうにん》が|佐々木《ささき》の|手紙《てがみ》を|持《も》つてやつて|来《き》た。それは|帰化城《きくわじやう》|方面《はうめん》の|支那人《しなじん》|哥老会《からうくわい》の|耆宿《きしゆく》|揚成業《やうせいげふ》が、|一万《いちまん》|数千《すうせん》の|兵《へい》を|率《ひき》ゐて|参加《さんか》すると|云《い》ふ|事《こと》であつた。|此《この》|時《とき》|関東庁《くわんとんちやう》の|陸軍三等主計正《りくぐんさんとうしゆけいせい》なる|日本人《につぽんじん》|某《ぼう》が|〓南《たうなん》|視察《しさつ》にやつて|来《き》て|一夜《いちや》|宿泊《しゆくはく》した|上《うへ》、|翌朝《よくてう》|八時《はちじ》の|汽車《きしや》で|帰《かへ》つて|行《い》つた。
|夜分《やぶん》になると、|鉦《かね》や|太鼓《たいこ》や|笛《ふえ》などの|楽器《がくき》で|賑々《にぎにぎ》しく|葬式《さうしき》の|行列《ぎやうれつ》が|街道《かいだう》を|通過《つうくわ》する|音《おと》が|聞《きこ》えるかと|思《おも》へば、|今度《こんど》は|又《また》|嫁入《よめいり》の|行列《ぎやうれつ》が|同《おな》じやうな|鳴物《なりもの》で|通《とほ》つて|行《ゆ》く。さうして|爆竹《ばくちく》の|音《おと》が|四方《しはう》から|聞《きこ》えて|来《く》る。|室内《しつない》で|音《おと》ばかり|聞《き》いて|居《ゐ》ると|葬式《さうしき》も|嫁入《よめいり》も|同《おな》じやうに|聞《きこ》える。|有名《いうめい》な|論評家《ろんぴやうか》の|黒頭巾《くろづきん》|横山《よこやま》|健堂《けんだう》が、|日出雄《ひでを》と|入《い》れ|違《ちが》ひに|此《この》ホテルを|辞《じ》し|帰《かへ》つて|行《い》つた。|此処《ここ》で|健堂《けんだう》の|揮毫《きがう》した|立派《りつぱ》な|書《しよ》をホテルの|支配人《しはいにん》から|示《しめ》され、|且《か》つ|揮毫《きがう》を|依頼《いらい》されたので、|日出雄《ひでを》は|之《これ》に|応《おう》じ|日本人《につぽんじん》に|書画《しよぐわ》を|描《か》き|与《あた》へた。
|三月《さんぐわつ》|十一日《じふいちにち》の|未明《みめい》から|機関銃《きくわんじゆう》や|小銃《せうじゆう》の|音《おと》が|頻《しき》りに|聞《きこ》え、|何《なん》となく|不穏《ふをん》の|空気《くうき》が|漂《ただよ》うて|居《ゐ》る。|〓南府《たうなんふ》|一個《いつこ》|旅団《りよだん》|約《やく》|四千人《よんせんにん》の|常備兵《じやうびへい》があつて、|東三省《とうさんしやう》の|北門《ほくもん》を|守《まも》つて|居《ゐ》るのだが、ホテルの|支配人《しはいにん》に|聞《き》くと、|馬賊《ばぞく》の|一隊《いつたい》が|襲来《しふらい》したので|応戦《おうせん》して|居《ゐ》るものだとの|事《こと》であつた。
|明《あ》くれば|三月《さんぐわつ》|十二日《じふににち》、|鄭家屯《ていかとん》の|日本領事館《につぽんりやうじくわん》|書記生《しよきせい》|某《ぼう》、|〓南《たうなん》|視察《しさつ》の|為《ため》に|入《い》り|来《きた》り、ホテルに|宿泊《しゆくはく》し、|満鉄《まんてつ》|関係《くわんけい》の|三井《みつゐ》|氏《し》が|調査《てうさ》した|書類《しよるゐ》を|書《か》き|写《うつ》し、|四五日間《しごにちかん》|滞在《たいざい》して|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|日本《につぽん》|官吏《くわんり》の|調査《てうさ》はすべてこんな|具合《ぐあひ》に|行《おこな》はれて|居《ゐ》るのだ。|此《この》|日《ひ》|城内《じやうない》の|春山医院《はるやまいゐん》|猪野《ゐの》|敏夫《としを》|氏《し》|宅《たく》、|及《およ》び|平馬《へいま》|慎太郎《しんたらう》|氏《し》|宅《たく》に|日本人《につぽんじん》|全部《ぜんぶ》|移転《いてん》することとなつた。|岡崎《をかざき》は|大変《たいへん》な|不気嫌《ふきげん》で|傍人《ばうじん》に|八《や》つ|当《あた》りの|態《てい》である。それは|名田彦《なだひこ》が──|僕《ぼく》は|柔術《じうじゆつ》の|達人《たつじん》だとか、|米国《べいこく》の|理髪学士《りはつがくし》だとか、|刀《かたな》|一本《いつぽん》あれば|数十人《すうじふにん》の|相手《あひて》を|瞬《またた》く|間《ま》に|斬《き》りなびけて|見《み》せるとか──|大法螺《おほぼら》を|吹《ふ》いて|威張《ゐば》り|散《ち》らすのが|癪《しやく》に|触《さは》つたのである。|支那《しな》では|理髪師《りはつし》と|云《い》へば|下職《げしよく》とみなされて|居《ゐ》るのに、|名田彦《なだひこ》が|得々《とくとく》として|理髪《りはつ》の|妙技《めうぎ》を|誇《ほこ》つたり、|又《また》ノコノコと|城内《じやうない》の|理髪店《りはつてん》に|出《で》かけて|行《い》つて、|剃刀《かみそり》の|使《つか》ひ|方《かた》がどうだの、かうだのと|理窟《りくつ》を|云《い》ひ、|支那《しな》の|理髪師《りはつし》に|教《をし》へてやり、いらざるお|節介《せつかい》をやつたと|云《い》ふのである。
おまけに|日本人《につぽんじん》が|〓南府《たうなんふ》に|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》を|秘密《ひみつ》にしておかねばならぬのに、『|自分《じぶん》は|三五信者中《あななひしんじやちう》の|全体《ぜんたい》から|選《えら》ばれて|来《き》た|神《かみ》の|寵児《ちようじ》だ』とか、『|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》の|一番《いちばん》の|弟子《でし》だ』とか|法螺《ほら》を|吹《ふ》くので、|岡崎《をかざき》が|憤慨《ふんがい》したのである。そこへ|秦宣《しんせん》と|山田《やまだ》とが|佐々木《ささき》の|手紙《てがみ》をもつて|使《つか》ひに|来《き》たので、|岡崎《をかざき》の|機嫌《きげん》は|益々《ますます》|悪《わる》い。
|岡崎《をかざき》『|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》の|奴《やつ》、|乞食《こじき》のやうな|人足《にんそく》を|使《つか》ひに|寄《よ》こしよつた。あんなものが|何《なん》になるか、|大倉《おほくら》の|奴《やつ》、|何《なに》も|彼《か》も|自分《じぶん》|一人《ひとり》で|出来《でき》るやうに|吐《ぬ》かしよつて……|何《なん》だ|俺《おれ》が|居《ゐ》なければ|此《この》|危険《きけん》な|〓南府《たうなんふ》へ|来《き》て|今日《けふ》のやうな|事《こと》があつたらどうするか、マサカ|三井《みつゐ》の|小《ち》つぽけな|借家《しやくや》へ|八人《はちにん》も|日本人《につぽんじん》が|宿《とま》る|訳《わけ》には|行《ゆ》くまい。それだから|俺《おれ》が、|平馬君《へいまくん》を|手《て》に|入《い》れておいたのだ。|何《なん》と|云《い》つても|佐々木《ささき》や|大倉《おほくら》では|駄目《だめ》だ。|趙〓《てうてき》や|憑占元《ひようせんげん》の|方《はう》から|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》を|引張《ひつぱ》りに|来《き》て|居《を》つたのに、|佐々木《ささき》の|奴《やつ》|盧占魁《ろせんくわい》と|一緒《いつしよ》に|頼《たの》みやがるものだから|先生《せんせい》を|御依頼《ごいらい》して|盧占魁《ろせんくわい》の|方《はう》の|援助《ゑんじよ》をして|貰《もら》つたのだ。|本当《ほんたう》に|彼奴《あいつ》は|馬鹿《ばか》だからなア。|岡崎《をかざき》の|腹中《ふくちう》が|分《わか》らぬのだから』
と|大気焔《だいきえん》と|大憤慨《だいふんがい》の|呼吸《いき》で|室内《しつない》を|包《つつ》むで|仕舞《しま》つた。
|名田彦《なだひこ》は|猪野《ゐの》、|大川《おほかは》の|在留《ざいりう》|日本人《につぽんじん》に|向《むか》つて|滔々《たうたう》と|自慢話《じまんばなし》を|吹《ふ》きかけて|居《ゐ》る。
『|自分《じぶん》は|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》の|中《なか》から|選抜《せんばつ》せられて|居《ゐ》る|純信者《じゆんしんじや》だが、|今回《こんくわい》の|先生《せんせい》のお|供《とも》にぬけ|駆《が》けしてやつて|来《き》たのも、|今年《ことし》は|何《なん》でも|神勅《しんちよく》に|依《よ》つて|一億円《いちおくゑん》の|財産《ざいさん》を|拵《こしら》へるつもりだからだ。|蒙古《もうこ》には|金銀銅鉄《きんぎんどうてつ》の|鉱山《くわうざん》が|沢山《たくさん》にあると|云《い》ふ|事《こと》だから、|此《こ》の|通《とほ》り|検鉱器《けんくわうき》|迄《まで》|持《も》つて|来《き》て|居《ゐ》るのだ。|此《この》|器械《きかい》さへあれば|一目《ひとめ》に|金《きん》か、|鉄《てつ》か、|銅《どう》か、|又《また》|含有量《がんいうりやう》が|幾何《いくら》あるかと|云《い》ふ|事《こと》が|即座《そくざ》に|分《わか》る。|此《この》|検鉱器《けんくわうき》は|独逸製《どいつせい》で、|日本《につぽん》の|鉱山師《くわうざんし》は|誰《たれ》も|持《も》つて|居《ゐ》ない|貴重品《きちようひん》だ。それに|先生《せんせい》の|話《はなし》に|聞《き》くと|大庫倫《だいクウロン》|迄《まで》|神軍《しんぐん》を|進《すす》めると|云《い》ふお|話《はなし》だが、|大庫倫《だいクウロン》|迄《まで》は|八千支里《はちせんしり》もあると|云《い》ふのぢやないか。こんな|事《こと》なら|来《く》るのぢやなかつたに、チエツ……もう|帰《かへ》つてやらうか』
なぞと|不機嫌《ふきげん》な|顔《かほ》つきをして|呟《つぶや》く。かと|思《おも》へば、|又《また》|顔色《かほいろ》を|変《か》へて、|大本《おほもと》の|信者《しんじや》の|中《なか》でも|此《この》|度《たび》のお|供《とも》をするやうな|精神《せいしん》の|研《みが》けた|人間《にんげん》は、|一万人《いちまんにん》の|中《なか》に|一人《ひとり》もあるまい。それを|思《おも》へば|此《この》|度《たび》のお|供《とも》は|不足《ふそく》ぢやない。|神様《かみさま》の|御命令《ごめいれい》だと|思《おも》へば|実《じつ》に|私《わたし》は|幸福《かうふく》なものだ。などと|一人免許《ひとりめんきよ》で|喜《よろこ》んで|居《ゐ》る。|其処《そこ》へ|日出雄《ひでを》が|何気《なにげ》なくやつて|来《き》て|名田彦《なだひこ》の|法螺《ほら》を|聞《き》き、
『|大本《おほもと》の|信者《しんじや》は|千人《せんにん》が|千人《せんにん》|乍《なが》ら|皆《みな》|僕《ぼく》について|来《く》る|者《もの》ばかりぢや。さう|自惚《うぬぼれ》するものぢやないよ』
と|云《い》つたので|名田彦《なだひこ》は|変《へん》な|顔《かほ》して|黙言込《だまりこ》んで|仕舞《しま》つた。
(大正一四・八 筆録)
第一四章 |〓南《たうなん》の|雲《くも》
|当地《たうち》の|家屋《かをく》は|内地《ないち》に|比《ひ》して|非常《ひじやう》に|変《かは》つてゐる。|何《いづ》れの|民家《みんか》も|皆《みな》|家《いへ》の|周囲《しうゐ》に|高《たか》き|土塀《どべい》をめぐらし、|馬賊《ばぞく》の|襲来《しふらい》に|備《そな》へ、|屋内《をくない》は|室《へや》|毎《ごと》に|入口《いりぐち》のみあつて|一方口《いつぱうぐち》である。|中《なか》から|鍵《かぎ》をかけて|寝《ね》る|構造《こうざう》となつてゐる。|一尺《いつしやく》|以上《いじやう》もある|様《やう》な|厚《あつ》い|壁《かべ》で|間《ま》を|仕切《しき》り、そして|鰻《うなぎ》の|寝所《ねどこ》のやうな|細長《ほそなが》い|間取《まどり》になつてゐる。|冬季《とうき》は|昼夜《ちうや》|温突《をんどる》に|火《ひ》を|入《い》れてあるから|室内《しつない》は|暖《あたた》かい。|之《これ》に|反《はん》し|一歩《いつぽ》|屋外《をくぐわい》に|出《い》づれば|寒気《かんき》|厳《きび》しく|身《み》に|迫《せま》り、うつかりしてゐると、|直《す》ぐに|咽喉《いんこう》を|害《がい》して|了《しま》ふ。それから|道《みち》|行《ゆ》く|車馬《ばしや》を|見《み》ると、|例《れい》の|支那式《しなしき》の|床《とこ》の|低《ひく》い|梶棒《かぢぼう》の|篦棒《べらぼう》に|長《なが》い|人力車《じんりきしや》は|見《み》られないが、|不恰好《ぶかつかう》な|牛車《ぎうしや》や|馬車《ばしや》が|灰《はひ》の|様《やう》な|道路《だうろ》を|駆《か》け|廻《めぐ》り、|防砂眼鏡《ばうしやめがね》をかけねば|一歩《いつぽ》も|先《さき》を|通行《つうかう》することが|出来《でき》ない。|何《いづ》れの|家《いへ》も|入口《いりぐち》に|赤《あか》い|紙《かみ》を|張《は》り、|富貴《ふうき》だとか|幸福《かうふく》だとか、|瑞祥《ずゐしやう》だとか、|目出度《めでた》さうな|文字《もじ》を|誌《しる》してゐる。そして|夕方《ゆふがた》から|城門《じやうもん》を|固《かた》く|閉《とざ》し、|夜分《やぶん》は|他《た》の|地方《ちはう》へ|出《で》られない|事《こと》になつてゐる。|当城内《たうじやうない》にいる|数千《すうせん》の|兵士《へいし》も|数多《あまた》の|巡警《じゆんけい》も|大部分《だいぶぶん》|馬賊上《ばぞくあが》りだから、|夜《よ》の|帳《とばり》がおりると|同時《どうじ》に、|平気《へいき》の|平左《へいざ》で、|軍服《ぐんぷく》の|儘《まま》|泥棒《どろばう》をやると|云《い》ふのだから、|生命《せいめい》|財産《ざいさん》の|保証《ほしよう》などは|到底《たうてい》|駄目《だめ》である。そして|城内《じやうない》の|三分《さんぶ》の|一《いち》|迄《まで》は|馬賊《ばぞく》の|頭目《たうもく》や|小盗児連《せうトルれん》が|大小各店《だいせうかくてん》を|開《ひら》いてそ|知《し》らぬ|顔《かほ》してゐるのだからこれ|程《ほど》|危険《きけん》|極《きは》まる|話《はなし》はない。|此《この》|附近《ふきん》の|馬賊《ばぞく》の|団体《だんたい》は|三十人《さんじふにん》|或《あるひ》は|五十人《ごじふにん》の|小勢《せいぜい》で|村落《そんらく》に|入《い》り|来《きた》り、|三日間《みつかかん》|位《ぐらゐ》|其《そ》の|村《むら》に|逗留《とうりう》して、|能《よ》く|食《く》ひ、|能《よ》く|飲《の》み、|女《をんな》と|見《み》れば|老若《らうにやく》の|別《べつ》なく|強姦《がうかん》をなし、|飲食物《いんしよくぶつ》がなくなると、|悠々《いういう》として|又《また》|次《つぎ》の|村《むら》へ|行《い》つて|同《おな》じことを|繰返《くりかへ》すといふ|呑気《のんき》|千万《せんばん》な|泥棒団《どろばうだん》が|横行《わうかう》し、|蒙古《もうこ》の|住民《ぢゆうみん》は|実《じつ》に|枕《まくら》を|高《たか》くする|事《こと》が|出来《でき》ないと|云《い》ふ|有様《ありさま》である。それから|東蒙古地方《ひがしもうこちはう》の|俗称《ぞくしよう》|活仏《くわつぶつ》の|名望《めいばう》と|信用《しんよう》は|全然《ぜんぜん》|地《ち》に|墜《お》ち、|蒙古人《もうこじん》の|信仰《しんかう》が|動《うご》き|出《だ》したといふ。|現《げん》にパインタラの|活仏《くわつぶつ》は|麻雀《マージヤン》に|負《ま》けて、|十万余《じふまんよ》の|負債《ふさい》が|出来《でき》、|広大《くわうだい》な|土地《とち》は|支那人《しなじん》にボツたくられ、|且《か》つ|婦女子《ふぢよし》を|小口《こぐち》から|引《ひ》つかけて、|今《いま》は|梅毒《ばいどく》に|罹《かか》り|苦《くる》しんでゐるといふ|有様《ありさま》だ。|王爺廟《ワンイエメウ》の|活仏《くわつぶつ》も|又《また》いろいろ|面白《おもしろ》からぬ|評判《ひやうばん》が|立《た》つてゐる。|昨年《さくねん》の|三月《さんぐわつ》|十四日《じふよつか》|満鉄《まんてつ》の|上村《かみむら》|某《ぼう》が|当地《たうち》にて|馬賊《ばぞく》に|擲《なぐ》り|殺《ころ》された|一周忌《いつしうき》に|当《あた》るといふので、|其《その》|追悼会《つゐたうゑ》が|日本人間《につぽんじんかん》で|行《おこな》はれた。|上村《かみむら》は|剣道《けんだう》の|達人《たつじん》であつたが、|暗夜《やみよ》に|後《うしろ》から|棍棒《こんぼう》で|脳天《なうてん》を|擲《なぐ》りつけられて|一堪《ひとたま》りもなく|斃《たほ》れたとの|事《こと》である。
|寒風《かんぷう》|烈《はげ》しく|吹《ふ》きまくり、|黄塵万丈《くわうぢんばんじやう》の|巷《ちまた》をいろいろの|鳴物入《なりものい》りで|葬式《さうしき》の|行列《ぎやうれつ》が|通《とほ》つて|行《ゆ》く。|窓内《さうない》より|眺《なが》むれば|喇嘛僧《らまそう》が|二十人《にじふにん》|許《ばか》り、|黄《き》や|赤《あか》の|衣《ころも》を|着《つ》け、|面白《おもしろ》い|旗《はた》を|沢山《たくさん》|押立《おした》て、|死骸《しがい》を|輿《こし》に|載《の》せ、|五六間《ごろくけん》もあるやうな|長《なが》い|棒《ぼう》でかついで、チワチワさせ|乍《なが》ら、|馬車《ばしや》|数台《すうだい》に|豚《ぶた》や|羊《ひつじ》などを|縛《しば》りつけて|長《なが》い|行列《ぎやうれつ》を|作《つく》つて|通《とほ》る。|恰《あたか》も|氏神《うぢがみ》の|祭礼《さいれい》の|神輿渡御《みこしとぎよ》の|様《やう》な|光景《くわうけい》である。|斯《かか》る|立派《りつぱ》な|葬式《さうしき》は|此《この》|土地《とち》でも|余程《よほど》|名《な》の|売《う》れた|人士《じんし》だと|云《い》ふことだ。
|岡崎《をかざき》は|日出雄《ひでを》の|手《て》から|運動費《うんどうひ》を|受取《うけと》りニコニコし|乍《なが》ら、|〓南府知事《たうなんふちじ》の|縁類《えんるゐ》なる|将校《しやうかう》と|共《とも》に|五六人《ごろくにん》の|支那官吏《しなくわんり》を|招《まね》き|底抜散財《そこぬけさんざい》をやり、|且《か》つ|小遣《こづかひ》を|与《あた》へて|彼等《かれら》の|歓心《くわんしん》を|買《か》ひ、まさかの|時《とき》の|用意《ようい》にと|極力《きよくりよく》|運動《うんどう》をやつてゐた。|日出雄《ひでを》の|宿泊《しゆくはく》してゐる|平馬氏《へいまし》と|同《おな》じ|邸内《ていない》に|〓南府《たうなんふ》の|将校《しやうかう》|某連長《ぼうれんちやう》が|住《す》んでゐる。|岡崎《をかざき》は|此《この》|連長《れんちやう》と|懇意《こんい》になり、|互《たがひ》に|往復《わうふく》してゐた。|連長《れんちやう》|夫婦《ふうふ》が|大喧嘩《おほけんくわ》をおつ|初《ぱじ》め、|死《し》ぬの|走《はし》るの、|暇《ひま》くれの、|殺《ころ》すの|殺《ころ》せのと、|悋気喧嘩《りんきげんくわ》が|起《おこ》る|度《たび》|毎《ごと》に、|下女《げぢよ》が|驚《おどろ》いて|岡崎《をかざき》を|呼《よ》びに|来《く》るといふ|深《ふか》い|仲《なか》になり、|遂《つひ》には|兄弟分《きやうだいぶん》となつて|了《しま》つた。|岡崎《をかざき》は|得意然《とくいぜん》として|大《おほ》きな|声《こゑ》で|辺《あた》り|構《かま》はず、|遂《つひ》には|〓南府《たうなんふ》を○○しようと|云《い》ふやうな|事《こと》まで|主張《しゆちやう》し|出《だ》し、それが|支那官憲《しなくわんけん》の|耳《みみ》に|入《はい》つたとか、|日本官憲《につぽんくわんけん》の|耳《みみ》に|這入《はい》つたとか|云《い》ふので、|日本人側《につぽんじんがは》は|非常《ひじやう》に|気《き》を|揉《も》んだ。それでなくても|排日思想《はいにちしさう》の|烈《はげ》しい|〓南府《たうなんふ》に|潜伏《せんぷく》してゐるのだから、こんな|事《こと》が|仮令《たとへ》|冗談《じようだん》にもせよ、|日本人《につぽんじん》の|口《くち》から|出《で》たと|云《い》ふ|事《こと》が|支那官憲《しなくわんけん》に|聞《きこ》えようものなら、|何《ど》んな|事《こと》になるかも|知《し》れないと、|岡崎《をかざき》の|失言《しつげん》が|奉天《ほうてん》の|同志《どうし》に|伝《つた》はつたので、|唐国別《からくにわけ》、|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》は|顔色《かほいろ》を|変《か》へ、|狼狽《らうばい》し、|岡崎君《をかざきくん》を|奉天《ほうてん》に|返《かへ》さないやうにして|貰《もら》ひたい。そして|一日《いちにち》も|早《はや》く|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》が|岡崎《をかざき》を|引張《ひつぱ》つて|公爺府《コンエフ》へ|行《い》つて|貰《もら》ひたいなどと|言《い》ふ|手紙《てがみ》を|坂本《さかもと》|広一《くわういち》に|持《も》たせて|依頼《いらい》して|来《き》た。|岡崎《をかざき》はそんな|事《こと》には|少《すこ》しも|頓着《とんちやく》なく……|国家《こくか》の|為《ため》、|社会《しやくわい》の|為《ため》に|吾々《われわれ》は|最善《さいぜん》の|方法《はうはふ》を|講《かう》じてゐるのだ。|大体《だいたい》|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》の|奴《やつ》|肝玉《きもたま》の|小《ちひ》さい|腰抜《こしぬ》けだから、|何《なん》でもない|事《こと》を|心配《しんぱい》しよつて、そんな|事《こと》で、こんな|大事《だいじ》が|成就《じやうじゆ》するものか、ヘン、|馬鹿《ばか》|馬鹿《ばか》しい……と|鼻《はな》の|先《さき》で|吹《ふ》き|散《ち》らしてゐる。|日出雄《ひでを》は|岡崎《をかざき》に|向《むか》つて……『|今《いま》の|場合《ばあひ》は|可成《なるべく》|秘密《ひみつ》を|守《まも》り、|余《あま》り|大事《だいじ》なことは|口外《こうぐわい》せないよう』……と|注意《ちうい》すると、|誰《たれ》のいふことも|聞《き》かない|岡崎《をかざき》も|二三日間《にさんにちかん》は|神妙《しんめう》に|沈黙《ちんもく》を|守《まも》つてゐた。すると|一日《いちにち》|四平街《しへいがい》の|奥村《おくむら》|幹造《かんざう》|氏《し》が|倉皇《さうくわう》としてやつて|来《き》た。|岡崎《をかざき》の|大言壮語《たいげんさうご》が|祟《たた》り、|日支官憲《につしくわんけん》の|耳《みみ》に|這入《はい》つた|様《やう》なので|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》の|身《み》の|上《うへ》を|案《あん》じ、|親切《しんせつ》に|見舞《みまひ》に|来《き》たのである。|其処《そこ》へ|岡崎《をかざき》が|這入《はい》つて|来《き》て、|支那《しな》の|各将校《かくしやうかう》と|前夜《ぜんや》|青楼《せいろう》に|上《あが》り|一緒《いつしよ》に|麻雀《マージヤン》や|散財《さんざい》をして|彼等《かれら》を|全《まつた》く|買収《ばいしう》しておいたからモウ|安心《あんしん》だと、|意気《いき》|揚々《やうやう》として|語《かた》る。|奥村《おくむら》は|岡崎《をかざき》の|平気《へいき》な|顔《かほ》を|見《み》て|意外《いぐわい》の|感《かん》に|打《う》たれてゐた。
|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》は|愈《いよいよ》|蒙古《もうこ》|奥地《おくち》へ|入《い》るに|付《つい》て、|万事《ばんじ》|便宜《べんぎ》の|為《ため》|支那《しな》の|家屋《かをく》を|王元祺《わうげんき》の|名義《めいぎ》にて|一ケ年《いつかねん》|百五十円《ひやくごじふゑん》の|家賃《やちん》で|借入《かりい》るることとなつた。|温突付《をんどるつき》|四間《よま》の|家屋《かをく》で、|長栄号《ちやうえいがう》と|命名《めいめい》し|表面《へうめん》は|貿易商《ぼうえきしやう》といふことになし、|軍器《ぐんき》や|糧食《りやうしよく》の|中継場《ちうけいぢやう》とした。
|日出雄《ひでを》が|守高《もりたか》と|共《とも》に|平馬氏《へいまし》の|宅《たく》に|書見《しよけん》をしてゐると、|日本領事館員《につぽんりやうじくわんゐん》|月川《つきかは》|左門《さもん》|氏《し》がやつて|来《き》た。そして|猪野《ゐの》|敏夫《としを》と|長《なが》い|間《あひだ》|種々《しゆじゆ》の|談話《だんわ》を|交換《かうくわん》し、|結局《けつきよく》|日本《につぽん》と|支那《しな》との|関係《くわんけい》を|円滑《ゑんくわつ》ならしむるには|日本《につぽん》の|実力《じつりよく》を|示《しめ》すより|仕様《しやう》がないと、|満蒙《まんもう》|経営談《けいえいだん》に|耽《ふけ》つてゐた。|日出雄《ひでを》は|次《つぎ》の|間《ま》から|両人《りやうにん》の|談話《だんわ》を|聞《き》いてゐた。|暫時《しばらく》すると|支那将校《しなしやうかう》がやつて|来《き》て、|一《ひと》つの|卓子《テーブル》を|囲《かこ》み、|嬉《うれ》し|相《さう》に|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、|麻雀《マーヂヤン》と|云《い》ふ|博奕《ばくち》を|深更《しんかう》|迄《まで》やつてゐる。|平馬氏《へいまし》|夫人《ふじん》の|二葉子《ふたばこ》も|一緒《いつしよ》に|麻雀《マーヂヤン》に|耽《ふけ》つてゐた。|文学《ぶんがく》|趣味《しゆみ》を|有《も》つた|日出雄《ひでを》は|幾日間《いくにちかん》|一室《いつしつ》に|閉籠《とじこも》つてゐても|少《すこ》しも|苦痛《くつう》を|感《かん》じないのみならず、いろいろな|思想《しさう》の|泉《いづみ》が|湧《わ》いて|来《く》ると|云《い》つて、|面白《おもしろ》く|楽《たの》しく|日《ひ》を|送《おく》り|詩歌《しいか》などに|耽《ふけ》つてゐる。|其《その》|中《なか》の|数首《すうしゆ》を|左《さ》に、
|十二夜《じふにや》の|月《つき》|見《み》る|度《たび》に|思《おも》ふかな|吾《わが》|生《うま》れたる|夜半《よは》はいかにと
|日《ひ》の|本《もと》を|立出《たちい》で|再《ふたた》び|十二夜《じふにや》の|月《つき》を|蒙古《もうこ》の|空《そら》に|見《み》るかな
|大空《おほぞら》に|月《つき》は|慄《ふる》ひて|風《かぜ》|寒《さむ》しされど|吾《わが》|身《み》は|神《かみ》の|懐《ふところ》
|鈴《すず》の|音《おと》いと|賑《にぎ》はしく|聞《きこ》えけり|又《また》もや|馬車《ばしや》の|路《みち》を|行《ゆ》くらむ
|潜竜《せんりう》の|潜《ひそ》む|此《この》|家《や》は|神界《しんかい》の|深《ふか》き|仕組《しぐみ》の|館《やかた》なるらむ
|三月《さんぐわつ》|十六日《じふろくにち》(|旧《きう》|二月《にぐわつ》|十三日《じふさんにち》)|満鉄《まんてつ》|社員《しやゐん》の|山崎《やまざき》|某《ぼう》が|四平街《しへいがい》の|日本《につぽん》|憲兵隊《けんぺいたい》へ、|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》が|〓南府《たうなんふ》へ|来《き》た|事《こと》を|密告《みつこく》したので、|支那側《しながは》の|官憲《くわんけん》が|活動《くわつどう》を|始《はじ》め|出《だ》したと|云《い》ふ|噂《うはさ》が|耳《みみ》に|入《い》り、|一行《いつかう》は|薄氷《はくひよう》を|踏《ふ》むが|如《ごと》き|思《おも》ひに|悩《なや》んでゐた。そして|月川《つきかは》|書記生《しよきせい》や|満鉄《まんてつ》の|佐藤《さとう》|某《ぼう》が|代《かは》る|代《がは》る|平馬氏《へいまし》の|宅《たく》を|窺《うかが》つてゐた。
|〓南《たうなん》へ|来《きた》りて|安心《あんしん》する|間《ま》もなく|又《また》もや|深《ふか》き|悩《なや》みするかな
と|日出雄《ひでを》は|口誦《くちずさ》んだ。|併《しか》し|彼《かれ》は、|危険《きけん》なる|家《いへ》に|留《とど》まり|居《ゐ》るも|却《かへ》つて|安全《あんぜん》なるべし、|窮鳥《きうてふ》|懐《ふところ》に|入《い》れば|猟夫《れふふ》も|之《これ》を|殺《ころ》さずとの|金言《きんげん》と|神力《しんりき》とを|頼《たの》みとして|日《ひ》を|送《おく》つて|居《ゐ》たのである。|其《その》|当時《たうじ》の|日出雄《ひでを》の|述懐《じゆつくわい》に|左《さ》の|如《ごと》き|一節《いつせつ》がある。
『|日出雄《ひでを》が|天下万民《てんかばんみん》の|為《ため》に|正々堂々《せいせいだうだう》と|天地《てんち》に|愧《は》ぢざる|行動《かうどう》を|採《と》つて|居《ゐ》ながらも、|斯《か》くの|如《ごと》く|身《み》を|忍《しの》ばせ、|秘密《ひみつ》の|行動《かうどう》を|採《と》らねばならないといふのは、|要《えう》するに|上《うへ》に|卑怯《ひけふ》なる|為政者《ゐせいしや》が|居《ゐ》るからである。|内強外弱《ないきやうぐわいじやく》|唯々諾々《ゐゐだくだく》として|外人《ぐわいじん》の|鼻息《はないき》のみを|伺《うかが》つて|居《ゐ》る|日本《につぽん》|外交官《ぐわいかうくわん》|及《および》|内閣員《ないかくゐん》の|少《すこ》しでも|心配《しんぱい》せない|様《やう》との|慮《おもんぱか》りからである。|其《その》|癖《くせ》|日本《につぽん》の|官憲《くわんけん》は|支那《しな》や|朝鮮《てうせん》、|露国《ろこく》に|対《たい》しては、|随分《ずゐぶん》|鼻意気《はないき》|荒《あら》く|凡《すべ》てが|威圧的《ゐあつてき》であるに|拘《かかは》らず、|英米《えいべい》に|対《たい》しては、|頭《あたま》から|青痰《あをたん》を|吐《は》きかけられても|小言《こごと》|一《ひと》つ|言《い》ひ|得《え》ない|腰抜《こしぬ》けばかりだ。|皇道大本《くわうだうおほもと》の|勢力《せいりよく》が|大《おほ》きいと|云《い》つて、|所在《あらゆる》|圧迫《あつぱく》を|加《くは》へ|遂《つひ》には|純忠無二《じゆんちうむに》の|大思想家《だいしさうか》に、|無理槍《むりやり》に|冤罪《ゑんざい》を|被《かむ》らせたり、|天地《てんち》の|大神《おほかみ》の|宮《みや》を|毀《こぼ》つたり、|色々《いろいろ》|雑多《ざつた》の|悪政暴虐《あくせいばうぎやく》を|加《くは》へ、|正義《せいぎ》の|団体《だんたい》を|見《み》るに|悪逆無道《あくぎやくむだう》を|以《もつ》てする、|実《じつ》に|呆《あき》れ|果《は》てたるものである。|而《しか》も|東洋《とうやう》の|君子国《くんしこく》、|浦安国《うらやすくに》と|自惚《うぬぼ》れて|居《ゐ》るのだから|堪《たま》らない。|自分《じぶん》が|警戒線《けいかいせん》を|悠々《いういう》と|破《やぶ》つて、|神界《しんかい》の|経綸《けいりん》を|行《おこな》ふべく|遥々《はるばる》やつて|来《き》たのに|対《たい》して、|上下狼狽《しやうからうばい》、|一千円《いつせんゑん》の|懸賞附《けんしやうつき》で|捜索《そうさく》を|始《はじ》めかけたと|云《い》ふ、|実《じつ》に|気《き》の|毒《どく》なものだ。|然《しか》し|決《けつ》して|心配《しんぱい》|下《くだ》さるな、|滅多《めつた》に|諸君《しよくん》|等《ら》の|為《ため》にならない|様《やう》な|拙劣《へた》な|事《こと》はせないから、|世界《せかい》|平和《へいわ》|共栄《きようえい》の|大理想《だいりさう》を|実行《じつかう》|実現《じつげん》の|為《ため》だ。|君等《きみら》の|様《やう》な|尻《しり》の|穴《あな》や|睾丸《かうぐわん》で、|一体《いつたい》|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》に|於《おい》て|何《なに》が|出来《でき》ると|思《おも》ふか、どうして|万世一系《ばんせいいつけい》の|国家《こくか》が|守《まも》つて|行《い》けるか、|不義《ふぎ》と|罪悪《ざいあく》との|淵源《えんげん》たる|君等《きみら》から、|少《すこ》しは|眼《め》を|覚《さ》まして|呉《く》れねば、|東洋《とうやう》に|国《くに》を|安全《あんぜん》に|建《た》てて|行《ゆ》く|事《こと》は|不可能《ふかのう》だ、|現《げん》に|今日《こんにち》の|状態《じやうたい》は|何《な》んだい……』
|又《また》|張作霖《ちやうさくりん》に|関《くわん》しては|左《さ》の|如《ごと》く|評《ひやう》してゐた。
『|東三省《とうさんしやう》の|張作霖《ちやうさくりん》も|随分《ずゐぶん》|支那人《しなじん》としては|豪《えら》い|男《をとこ》だ、コソコソと|画策《くわくさく》を|廻《めぐ》らすのも|中々《なかなか》|上手《じやうず》だ。そして|自分《じぶん》は|肝心《かんじん》の|金《かね》を|出《だ》さず、|人《ひと》に|苦労《くらう》さして|自分《じぶん》がそつと|甘《あま》い|汁《しる》を|吸《す》はふといふのだから|堪《たま》らぬ。|併《しか》し|資本《しほん》なしの|商売《しやうばい》は|結局《けつきよく》|駄目《だめ》に|了《をは》るだらう。|利《り》は|元《もと》にありだ。|資本主《しほんぬし》が|最後《さいご》の|勝利《しようり》だ。|盧《ろ》|氏《し》|果《はた》して|永遠《ゑいゑん》に|張《ちやう》の|頤使《いし》に|甘《あま》んずるで|在《あ》らうか、|直奉間《ちよくほうかん》の|引掛合《ひきかけあひ》も|久《ひさ》しいものだが、|何《いづ》れ|遠《とほ》からぬ|中《うち》に|何《なん》とか|一幕《ひとまく》の|芝居《しばゐ》が|打《う》たれるだらう。|云々《うんぬん》』
(大正一四・八 筆録)
第三篇 |〓南《たうなん》より|索倫《さうろん》へ
第一五章 |公爺府入《コンイエフいり》
|日出雄《ひでを》と|守高《もりたか》は|平馬氏《へいまし》の|宅《たく》に|暴風《ばうふう》を|避《さ》け、|真澄別《ますみわけ》|以下《いか》|五人《ごにん》は|猪野《ゐの》|敏夫《としを》|氏《し》の|春山医院《はるやまいゐん》に|陣取《ぢんど》つていろいろの|豪傑話《がうけつばなし》に|耽《ふけ》り、|守高《もりたか》は|柔術《じうじゆつ》の|実習《じつしふ》や|講演《かうえん》をやつて、|大《おほい》にメートルを|上《あ》げてゐる。そして|守高《もりたか》は|摩利支天《まりしてん》、|名田彦《なだひこ》は|一億円《いちおくゑん》、|真澄別《ますみわけ》は|泰然自若《たいぜんじじやく》、|岡崎《をかざき》は|霞ケ関《かすみがせき》と|云《い》ふ|仇名《あだな》をつけられた。|猪野《ゐの》は|鄭家屯《ていかとん》の|日本坊主《につぽんばうづ》を|殴《なぐ》つた|話《はなし》や、|大川《おほかは》|金作《きんさく》のローマンスの|追懐談《つゐくわいだん》に|花《はな》が|咲《さ》いて|居《ゐ》る。そして|東三省一《とうさんしやういち》の|美人《びじん》と|云《い》ふ|支那芸者《しなげいしや》が|猪野《ゐの》に|秋波《しうは》を|送《おく》つた|事《こと》などを|気楽《きらく》さうに|喋舌《しやべ》り|立《た》て、|春《はる》の|陽気《やうき》を|漂《ただよ》はしてゐる。|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|摩利支天《まりしてん》に|一億円《いちおくゑん》、|山田《やまだ》に|王元祺《わうげんき》|等《とう》の|豪傑連《がうけつれん》が|柔道《じうだう》の|練習《れんしふ》をやつてゐたが、|日出雄《ひでを》が|行《ゆ》くと|直《す》ぐに|中止《ちゆうし》して|了《しま》つた。|副官《ふくくわん》の|秦宣《しんせん》は【オチコ】の|棒《ぼう》に|吹出物《ふきでもの》が|発生《はつせい》し、|膿汁《うみ》を|拭《ふ》いた|手《て》も|洗《あら》はずに|食器《しよくき》をいぢるので|病毒《びやうどく》が|感染《かんせん》する|等《など》と|云《い》つて|日本人側《につぽんじんがは》に|嫌《きら》はれてゐた。
|愈《いよいよ》|公爺府《コンエフ》|入《い》りが|定《き》まり、|順路《じゆんろ》の|地図《ちづ》を、|支那《しな》の|某将校《ぼうしやうかう》から|借《か》り|来《きた》り、|王府《わうふ》まで|二百支里《にひやくしり》、|最高山《さいかうざん》の|北《きた》だなどと、|頻《しき》りに|地図《ちづ》に|眼《め》を|注《そそ》いだ。|眼鬼将軍《がんきしやうぐん》の|岡崎《をかざき》は|佐々木《ささき》や|大倉《おほくら》のやり|方《かた》について|大変《たいへん》な|不平《ふへい》を|洩《も》らし、
『|先生《せんせい》を|中途《ちうと》まで|送《おく》りとどけた|上《うへ》、|一度《いちど》|奉天《ほうてん》へ|帰《かへ》つて|彼等《かれら》|二人《ふたり》のやり|方《かた》を|調査《てうさ》する|積《つも》りだ。|万一《まんいち》|彼奴等《あいつら》がようやらぬのなら、|自分《じぶん》は|北京《ペキン》へ|行《い》つて|呉佩孚《ごはいふ》や|趙〓《てうてき》と|会《あ》つて|此《この》|大事業《だいじげふ》を|成功《せいこう》させる……』
|等《など》と|捨鉢《すてばち》を|云《い》つてゐる。|時々《ときどき》|風《かぜ》の|吹廻《ふきまは》しが|悪《わる》いと|変《へん》な|事《こと》を|云《い》ふので|日出雄《ひでを》も|困《こま》つてゐた。
|葛根廟《かつこんめう》には|馬賊《ばぞく》の|根拠地《こんきよち》があつて|大集団《だいしふだん》をなしてゐるさうだ。|近日《きんじつ》の|中《うち》に|女《をんな》の|隊長《たいちやう》が|〓南《たうなん》に|向《むか》つて|襲来《しふらい》するとの|急報《きふはう》に、|支那《しな》の|官憲《くわんけん》や|駐屯軍《ちうとんぐん》が|驚《おどろ》いて、|騒々《さうざう》しく|動揺《どうえう》し|初《はじ》めた。
|三月《さんぐわつ》|二十二日《にじふににち》の|午後《ごご》|四時《よじ》|頃《ごろ》、|王天海《わうてんかい》は|蒙古《もうこ》の|隊長《たいちやう》|張貴林《チヤンクイリン》や|公爺府《コンエフ》の|協理《けふり》|老印君《らういんくん》と|共《とも》に|着〓《ちやくたう》した。そして|愈《いよいよ》|奥地入《おくちい》りの|準備《じゆんび》にとりかかつた。|張貴林《チヤンクイリン》は|日出雄《ひでを》に|向《むか》つて|云《い》ふ。
『|此《この》|先《さき》には|数千《すうせん》の|馬賊団《ばぞくだん》が|横行《わうかう》してゐますが、|何《いづ》れも|自分《じぶん》の|部下《ぶか》|許《ばか》りだから、|決《けつ》して|先生《せんせい》に|害《がい》を|与《あた》へませぬ。|私《わたし》は|今回《こんくわい》|自治軍《じちぐん》の|旅団長《りよだんちやう》に|選《えら》まれましたから、|安心《あんしん》して|下《くだ》さい。|蒙古男子《もうこだんし》の|一言《いちごん》は|金鉄《きんてつ》より|堅《かた》う|御座《ござ》います。|先生《せんせい》の|為《ため》には|一《ひと》つよりない|生命《いのち》を|擲《なげ》うつてゐるのですから』
|等《など》と|云《い》つて|勇《いさ》ましく|腕《うで》を|撫《ぶ》してゐる。
|暫《しば》らくすると|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》の|両人《りやうにん》が|日出雄《ひでを》の|奥地入《おくちい》りを|送《おく》るべく、|遥々《はるばる》|奉天《ほうてん》からやつて|来《き》た。さうして|岡崎《をかざき》と|議論《ぎろん》の|衝突《しようとつ》を|来《き》たし、|岡崎《をかざき》の|機嫌《きげん》がグレツと|一変《いつぺん》し、
『|俺《おれ》はこれから|奉天《ほうてん》へ|帰《かへ》つて|張作霖《ちやうさくりん》を|叱《しか》りつけ、|自由行動《じいうかうどう》を|採《と》つて|見《み》せる……』
と|頑張《ぐわんば》り、サツサと|停車場《ていしやぢやう》を|指《さ》して|出《で》て|行《い》つた。|佐々木《ささき》が|驚《おどろ》いて|停車場《ていしやぢやう》へ|駆《か》けつけ、|危機一発《ききいつぱつ》の|発車《はつしや》|間隙《まぎは》に|漸《やうや》く|岡崎《をかざき》を|和《なだ》め、|連《つ》れて|帰《かへ》つて|来《き》たので|一同《いちどう》は|漸《やうや》く|安心《あんしん》した。
『|乾坤一擲《けんこんいつてき》の|大事業《だいじげふ》を|策《さく》し|乍《なが》ら、|今《いま》から|内輪揉《うちわも》めが|出来《でき》ては|到底《たうてい》|駄目《だめ》だ。|満州浪人《まんしうらうにん》は|大和魂《やまとだましひ》が|欠《か》けてゐる。あゝ|自転倒島《おのころじま》では|思慮浅《しりよあさ》きものの|為《ため》に|過《あやま》られて|身《み》の|置所《おきどころ》なき|破目《はめ》に|陥《おちゐ》り、|今《いま》|又《また》|蒙古《もうこ》の|野《の》に|来《き》て|日本人《につぽんじん》の|為《ため》に|過《あやま》られ、|千仭《せんじん》の|功《こう》を|一簣《いつき》に|欠《か》くやうな|形勢《けいせい》になつて|来《き》たのも、|小人物《せうじんぶつ》の|小胆《せうたん》と|高慢心《かうまんしん》と|自己《じこ》|本位《ほんゐ》の|衝突《しようとつ》からである。|少《すこ》し|位《ぐらゐ》の|残念《ざんねん》|口惜《くや》しさが|隠忍《いんにん》|出来得《できえ》ない|様《やう》な|事《こと》で、|何《ど》うして|此《この》|大事業《だいじげふ》が|成功《せいこう》するか。|真澄別《ますみわけ》もあまり|泰然自若《たいぜんじじやく》すぎはせぬか。|此《この》|際《さい》|両方《りやうはう》の|調停《てうてい》を|計《はか》らねばなるまい……』
と|日出雄《ひでを》は|吾知《われし》らず|呟《つぶや》いた。|真澄別《ますみわけ》の|仲裁《ちうさい》によつて|同志《どうし》の|間《あひだ》は、もとの|平和《へいわ》に|帰《き》し、|岡崎《をかざき》も|再《ふたた》び|駒《こま》の|首《くび》を|立直《たてなほ》し、|奉天帰《ほうてんがへ》りを|思《おも》ひ|切《き》り|蒙古《もうこ》の|奥地《おくち》へ|侵入《しんにふ》する|事《こと》をやつと|承諾《しようだく》したのである。
|待《ま》ち|佗《わ》びし|吉《よ》き|日《ひ》は|今《いま》や|来《きた》りけりいざ|起《た》ち|行《ゆ》かむ|蒙古《もうこ》の|奥《おく》へ
|日出雄《ひでを》が|〓南《たうなん》|在留中《ざいりうちう》|沢山《たくさん》の|詩歌《しいか》を|詠《よ》んだ。その|中《なか》の|数首《すうしゆ》を|左《さ》に、
|十二日《じふににち》|過《す》ぎてゆ|陽気《やうき》|一変《いつぺん》し|春《はる》|立《た》ち|初《そ》めし|心地《ここち》しにけり
|〓南《たうなん》は|安全地帯《あんぜんちたい》と|思《おも》ひきや|馬賊《ばぞく》の|横行《わうかう》いとも|烈《はげ》しき
|総司令《そうしれい》|一日《ひとひ》も|早《はや》く|来《きた》れかし|汝《なれ》を|待《ま》つ|間《ま》の|吾《われ》ぞ|淋《さび》しき
|十四夜《いざよひ》の|月《つき》|照《て》る|下《した》の|蒙古野《もうこの》に|円《ゑん》を|描《ゑが》いて|小便《せうべん》をひる
|国人《くにびと》に|一目《ひとめ》|見《み》せばや|蒙古地《もうこち》を|照《て》らす|御空《みそら》の|珍《うづ》の|月影《つきかげ》
|山《やま》も|海《うみ》も|見《み》えねど|蒙古《もうこ》の|大野原《おほのはら》|行《ゆ》く|身《み》は|独《ひと》り|魂《たましひ》|躍《をど》る
|天《てん》か|地《ち》か|海《うみ》かとばかり|疑《うたが》はる|蒙古《もうこ》の|広野《くわうや》にひとり|月《つき》|澄《す》む
|月《つき》|見《み》れば|心《こころ》の|空《そら》も|晴《は》れ|渡《わた》り|天国《てんごく》にある|心地《ここち》こそすれ
スバル|星《ぼし》|西《にし》に|傾《かたむ》き|初《そ》めてより|早《は》や|地《ち》の|上《うへ》に|霜《しも》は|降《ふ》りける
ドンヨリと|曇《くも》りし|空《そら》に|日《ひ》は|鈍《にぶ》し|小鳥《ことり》の|声《こゑ》も|頓《とみ》に|静《しづ》まる
|支那《しな》|蒙古《もうこ》|日本《につぽん》の|人《ひと》も|吾《わが》|為《ため》に|心《こころ》|砕《くだ》きて|守《まも》る|嬉《うれ》しさ
|三月《さんぐわつ》|二十五日《にじふごにち》の|早朝《さうてう》、|支那旅宿《しなりよしゆく》|義和粮棧《ぎわりやうさん》から|老印君《らういんくん》、|日出雄《ひでを》、|岡崎《をかざき》、|守高《もりたか》、|王通訳《わうつうやく》は|三台《さんだい》の|轎車《けうしや》に|分乗《ぶんじやう》し|〓南北門《たうなんほくもん》より|馳走《ちそう》し、|〓児河《トールがは》の|橋《はし》を|渡《わた》つて|北《きた》へ|北《きた》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。|寒風《かんぷう》|烈《はげ》しく|吹《ふ》き|来《きた》り|轎車《けうしや》は|顛覆《てんぷく》しさうな|危険《きけん》を|感《かん》じて|来《き》た。|副官《ふくくわん》|温長興《をんちやうこう》は|数名《すうめい》の|兵士《へいし》と|共《とも》に|騎馬《きば》にて|前後《ぜんご》を|守《まも》り|行《ゆ》く。|途中《とちう》|守高《もりたか》の|乗《の》つてゐる|轎車《けうしや》が|路傍《ろばう》の|溝《みぞ》の|中《なか》へ|顛覆《てんぷく》し、|守高《もりたか》、|王通訳《わうつうやく》は|溝《みぞ》の|中《なか》へ|投《な》げ|落《おと》され、|馬夫《ばふ》と|共《とも》に|轎車《けうしや》を|道路《だうろ》へ|引《ひ》き|上《あ》げてゐる。|其《その》|日《ひ》の|午前《ごぜん》|十一時《じふいちじ》に|六十支里《ろくじふしり》を|経《へ》た|三十戸村《さんじつこそん》に|着《つ》き、|此処《ここ》にて|昼飯《ちうはん》を|為《な》す|事《こと》とした。ここには|支那《しな》の|警察《けいさつ》もあり、|兵営《へいえい》も|建《た》つてゐる。|旅宿《りよしゆく》の|家《いへ》の|柱《はしら》には「|莫談国政《ばくだんこくせい》」と|云《い》ふ|赤紙《あかがみ》が|貼《は》りつけてある。|之《これ》も|専制政治《せんせいせいぢ》の|遺物《ゐぶつ》だらう……。|此処《ここ》まで|来《く》る|途上《とじやう》、|轎車《けうしや》の|中《なか》で|日出雄《ひでを》はセスセーナ(|放尿《はうねう》)を|煙草《たばこ》の|空罐《あきくわん》になし、|車外《しやぐわい》に|捨《す》てようとして、|岡崎《をかざき》の|支那服《しなふく》の|上《うへ》に|零《こぼ》した。あまり|寒気《かんき》が|酷《はげ》しいので、|忽《たちま》ち|膝《ひざ》の|上《うへ》で|凍《こほ》つて|了《しま》つた。|岡崎《をかざき》は|小便《せうべん》の|氷《こほり》を|手《て》に|掴《つか》んでゲラゲラ|笑《わら》ひ|乍《なが》ら|道路《だうろ》に|投《な》げ|捨《す》てた。|旅宿《りよしゆく》に|着《つ》いて|雲天井《くもてんじやう》の|大便所《だいべんじよ》へ|行《ゆ》くと、|毛《け》の|荒《あら》い|汚《きたな》い|豚《ぶた》の|子《こ》が|半《はん》ダース|許《ばか》りも|集《あつ》まつて|来《き》て|肥取人足《こえとりにんそく》の|役《やく》をつとめ、|遂《つひ》には|尻《しり》まで|嘗《な》めあげる。その|可笑《をか》しさに|日出雄《ひでを》はゲラゲラ|吹《ふ》き|出《だ》してゐる。|午後《ごご》|十二時《じふにじ》|四十分《よんじつぷん》|再《ふたた》び|乗車《じやうしや》、|何十間《なんじつけん》とも|知《し》れぬ|広《ひろ》い|幅《はば》の|大道《だいだう》を|愉快《ゆくわい》さうに|進《すす》んで|行《ゆ》くと、|茫漠《ばうばく》たる|大荒原《だいくわうげん》の|前方《ぜんぱう》に|当《あた》つて|黒《くろ》ずんだ|一《ひとつ》の|山《やま》が|見《み》えた。|之《これ》は|北清山《ほくしんざん》と|云《い》ふ、さうして|此《この》|辺《へん》には|半坪《はんつぼ》か|一坪《ひとつぼ》|許《ばか》りの|神仏《しんぶつ》の|館《やかた》が、|彼方此方《あつちこつち》に|建《た》つてゐる。|之《これ》は|蒙古人《もうこじん》が|信仰《しんかう》の|表徴《へうちよう》となつてゐるのだと|云《い》ふ。
|同日《どうじつ》|午後《ごご》|五時《ごじ》、|七十戸村《しちじつこそん》の|催家店《さいかてん》と|云《い》ふ|牛馬宿《ぎうばやど》に|足《あし》を|停《と》めた。|〓南《たうなん》からは|百二十《ひやくにじふ》|支里《しり》を|離《はな》れてゐる。|沢山《たくさん》の|支那人《しなじん》の|合客《あひきやく》が|泊《とま》つてゐて|喋々喃々《てふてふなんなん》として|賭博《とばく》をやつて|居《ゐ》る。|翌《よく》|三月《さんぐわつ》|二十六日《にじふろくにち》|朝《あさ》|五時《ごじ》|出発《しゆつぱつ》の|予定《よてい》であつたが、|二十支里《にじふしり》ほど|前方《ぜんぱう》に|当《あた》つて|官兵《くわんぺい》と|馬賊《ばぞく》との|戦《たたか》ひがあり、|連長《れんちやう》が|戦死《せんし》した|場所《ばしよ》であるから、|朝《あさ》|早《はや》く|出立《しゆつたつ》するのは|極《きは》めて|危険《きけん》だとの|宿《やど》の|主人《しゆじん》の|注意《ちうい》に|依《よ》つて、|八時《はちじ》に|此処《ここ》を|出発《しゆつぱつ》する|事《こと》とした。
|正午前《しやうごまへ》|八十支里《はちじふしり》を|馳駆《ちく》して|王爺廟《ワンイエメウ》の|張文海《ちやうぶんかい》の|宅《たく》に|着《つ》いた。|王爺廟《ワンイエメウ》の|喇嘛僧《らまそう》は|三百人《さんびやくにん》|許《ばか》り|居《ゐ》る。|珍《めづ》らしき|日本《につぽん》の|喇嘛僧《らまそう》|来《きた》れりとて|三百《さんびやく》の|喇嘛《らま》が、|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|日出雄《ひでを》に|挨拶《あいさつ》に|出《で》て|来《く》る。そして|里人《さとびと》や|子供《こども》が|珍《めづ》らしげに|集《あつ》まつて|来《き》た。|日出雄《ひでを》は|携帯《けいたい》して|来《き》た|飴《あめ》を|一粒《ひとつぶ》づつ|与《あた》へた。|喇嘛《らま》も|里人《さとびと》も|地上《ちじやう》に|跪《ひざまづ》いて|之《これ》を|受《う》けた。|大喇嘛《だいらま》は|部下《ぶか》に|命《めい》じ|〓児河《トールがは》の|鯉《こひ》を|漁《と》らせ、|七八寸《しちはちすん》から|一尺《いつしやく》|五六寸《ごろくすん》|位《ぐらゐ》のものを|八尾《はちび》|許《ばか》り|持《も》つて|来《き》て|日出雄《ひでを》に|進呈《しんてい》した。|是《こ》れが|本年《ほんねん》に|入《はい》つて|初《はじ》めての|漁獲《ぎよくわく》だと|云《い》ふ|事《こと》である。
|午後《ごご》|二時《にじ》|日出雄《ひでを》が|王爺廟《ワンイエメウ》を|出発《しゆつぱつ》せむと|轎車《けうしや》に|乗《の》つてゐると、|大喇嘛《だいらま》が|牛乳《ぎうにう》の|煎餅《せんべい》|十枚《じふまい》|許《ばか》り|持《も》つて|来《き》て|日出雄《ひでを》に|贈《おく》つた。|釈迦《しやか》が|出立《しゆつたつ》の|時《とき》、|若《わか》い|女《をんな》に|牛乳《ぎうにう》を|貰《もら》つて|飲《の》んだ|事《こと》を|思《おも》ひ|出《だ》し、|日出雄《ひでを》は|蒙古《もうこ》の|奥地《おくち》へ|来《き》て|直《す》ぐに|喇嘛《らま》から|牛乳《ぎうにう》の|煎餅《せんべい》を|貰《もら》つた|事《こと》を|非常《ひじやう》に|奇縁《きえん》として|喜《よろこ》んだ。|此《この》|時《とき》|日出雄《ひでを》の|左《ひだり》の|掌《てのひら》から|釘《くぎ》の|聖痕《せいこん》が|現《あら》はれ、|盛《さか》んに|出血《しゆつけつ》し|淋漓《りんり》として|腕《かひな》に|滴《したた》つた。|然《しか》し|日出雄《ひでを》は|少《すこ》しの|痛痒《つうやう》も|感《かん》じなかつた。
|〓児河《トールがは》の|氷《こほり》は|処々《ところどころ》|解《と》け|初《はじ》め、|其《そ》の|上《うへ》を|轎車《けうしや》が|通過《つうくわ》する|危険《きけん》さは|実《じつ》に|名状《めいじやう》すべからざるものがあつたが、|何《なん》の|故障《こしやう》もなく|天佑《てんいう》の|下《もと》に|無事《ぶじ》|通過《つうくわ》し、|王爺廟《ワンイエメウ》の|兵士《へいし》や|張桂林《ちやうけいりん》の|馬隊《ばたい》に|送《おく》られ|且《か》つ|張文海《ちやうぶんかい》の|弟《おとうと》の|部下《ぶか》に|騎馬《きば》にて|公爺府《コンエフ》まで|見送《みおく》られた。|王爺廟《ワンイエメウ》|以東《いとう》は|赤旗《あかはた》を|戸々《ここ》に|立《た》て、|以西《いせい》は|白旗《しろはた》を|戸々《ここ》に|立《た》ててゐる。|公爺府《コンエフ》は|已《すで》に|白旗《しろはた》|区域《くゐき》である。ここは|鎮国公《ちんこくこう》、|巴彦那木爾《パエンナムル》と|云《い》ふ|王様《わうさま》が|二百名《にひやくめい》の|兵士《へいし》を|抱《かか》へて|守《まも》つてゐる|所《ところ》である。|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》が|公爺府《コンエフ》の|近《ちか》く|迄《まで》|行《ゆ》くと、|公爺府《コンエフ》の|兵士《へいし》が|二十人《にじふにん》|許《ばか》り|捧《ささ》げ|銃《つつ》の|礼《れい》をして|慇懃《いんぎん》に|迎《むか》へてゐた。|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》は|公爺府《コンエフ》の|傍《かたはら》なる|老印君《らういんくん》の|館《やかた》に|午後《ごご》|六時《ろくじ》|頃《ごろ》|無事《ぶじ》に|着《つ》いた。
(大正一四・八 筆録)
第一六章 |蒙古《もうこ》の|人情《にんじやう》
|蒙古人《もうこじん》は|昔《むかし》から|慓悍勇武《へうかんゆうぶ》であり、|成吉思汗《ジンギスカン》の|鉄騎《てつき》が|天地《てんち》を|震撼《しんかん》せしめた|事《こと》は|誰《たれ》も|知《し》る|所《ところ》である。|現今《げんこん》に|於《おい》ても|其《その》|容貌《ようばう》や|風俗《ふうぞく》には|昔《むかし》の|面影《おもかげ》を|残《のこ》して|居《ゐ》るやうである。|朴直《ぼくちよく》で|慇懃《いんぎん》で|親《した》しみやすいと|同時《どうじ》に、|又《また》|感情的《かんじやうてき》にして|喜怒哀楽《きどあいらく》は|忽《たちま》ち|色《いろ》に|現《あら》はし、|其《そ》の|一面《いちめん》に|於《おい》ては|愚鈍《ぐどん》にして、|行蔵《かうざう》|頗《すこぶ》る|粗野淡白《そやたんぱく》で、さながら|小児《せうに》の|様《やう》である。|併《しか》し|乍《なが》ら|近年《きんねん》|支那人《しなじん》や|露西亜人《ろしあじん》にいろいろと|圧迫《あつぱく》せられたので、|両国人《りやうこくじん》を|見《み》ること|蛇蝎《だかつ》の|如《ごと》く|嫌《きら》ひ、|支那人《しなじん》|露西亜人《ろしあじん》の|奥地《おくち》に|入《い》るものは、|何《いづ》れも|無事《ぶじ》に|帰《かへ》る|事《こと》は|出来《でき》ないのである。|彼《かれ》|蒙古人《もうこじん》は|支那人《しなじん》、|露西亜人《ろしあじん》に|対《たい》しては|不倶戴天《ふぐたいてん》の|仇《あだ》の|様《やう》に|思《おも》ふて|居《ゐ》るが、|之《これ》に|反《はん》して|日本人《につぽんじん》に|憧憬《どうけい》することは|実《じつ》に|案外《あんぐわい》である。|彼等《かれら》は|大部分《だいぶぶん》は|今《いま》や|全《まつた》く|生存競争《せいぞんきやうそう》の|圏外《けんぐわい》に|超然《てうぜん》として、|更《さら》に|利害《りがい》の|観念《かんねん》なく、|牛馬《ぎうば》、|羊豚《やうとん》、|駱駝《らくだ》などを|唯一《ゆゐいつ》の|伴侶《はんりよ》として、|茶《ちや》を|呑《の》み、|煙草《たばこ》を|吸《す》ひ、|年《ねん》が|年中《ねんぢう》ねむつたり、|食《く》つたり、|或《あるひ》は|経《きやう》を|読《よ》み、|仏《ほとけ》を|念《ねん》じ、|死後《しご》の|冥福《めいふく》を|祈《いの》る|外《ほか》|余念《よねん》なきが|如《ごと》く、|敢《あへ》て|複雑《ふくざつ》な|人生《じんせい》の|苦難《くなん》を|知《し》らぬのである。|然《しか》し|乍《なが》らもし|何等《なんら》かの|動機《どうき》に|依《よ》つて、|之《これ》を|刺戟《しげき》し、|其《その》|性情《せいじやう》を|反撥《はんぱつ》するものがあれば、|其処《そこ》に|必《かなら》ず|祖先《そせん》の|遺伝的《いでんてき》|性情《せいじやう》を|喚発《くわんぱつ》するであらう。|彼等《かれら》が|駻馬《かんば》に|鞭《むちう》つて|際限《さいげん》もなき|広野《くわうや》を|疾駆《しつく》し、|男《をとこ》も|女《をんな》も|縦横無尽《じうわうむじん》に|鞍《くら》に|跨《またが》り|勇壮《ゆうさう》なる|活動《くわつどう》をやつて|居《ゐ》るのを|見《み》れば、|転《うた》た|古《いにしへ》の|勇敢《ゆうかん》なる|民族《みんぞく》の|気象《きしやう》を|偲《しの》ばせるものがある。|蒙古人《もうこじん》は|人《ひと》に|接《せつ》する|甚《はなは》だ|親切《しんせつ》で、|其《その》|同族知己《どうぞくちき》の|間《あひだ》に|於《おい》ては|勿論《もちろん》、|外来未知《ぐわいらいみち》の|日本人《につぽんじん》に|対《たい》しても|一度《いちど》|相識《あひし》るや|一家《いつか》|挙《こぞ》つて|之《これ》を|款待《くわんたい》するの|風《ふう》がある。|日本人《につぽんじん》と|聞《き》けば|仮令《たとへ》|一人旅《ひとりたび》でも|親切《しんせつ》に|宿泊《しゆくはく》せしめ、|一家《いつか》|挙《こぞ》つて|同情《どうじやう》|歓迎《くわんげい》し、|些《すこ》しも|障壁《しやうへき》を|設《まう》けない。|併《しか》し|乍《なが》ら|西洋人《せいやうじん》や|支那人《しなじん》に|対《たい》しては|或《あるひ》は|恐怖《きようふ》し、|或《あるひ》は|卑下《ひげ》し、|容易《ようい》に|家《いへ》へ|入《い》るを|許《ゆる》さない。
|日出雄《ひでを》が|公爺府《コンエフ》に|入《い》るや|公府《こうふ》の|兵士《へいし》を|初《はじ》め、|役人《やくにん》や|村民《そんみん》などが|〓々《きき》として|集《あつま》り|来《きた》り、|隔意《かくい》なく|親切《しんせつ》に|茶《ちや》を|汲《く》んだり、|煙草《たばこ》をすすめたり、|又《また》|炊事《すゐじ》の|手伝《てつだ》ひをしたりして、|非常《ひじやう》に|款待《くわんたい》し、|村人《むらびと》は|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|日々《ひび》|訪《たづ》ねきて、|言語《げんご》が|通《つう》ぜないにも|拘《かか》はらず、|鶏肉《けいにく》や|鶏卵《けいらん》や|牛乳《ぎうにう》の|煎餅《せんべい》や、|炒米《チヨオミイ》などを|携《たづさ》へて|来《き》て|親切《しんせつ》に|世話《せわ》をした。|公爺府《コンエフ》の|喇嘛僧《らまそう》は|日々《ひび》|日出雄《ひでを》の|傍《かたはら》に|出《で》て|来《き》て、|鎮魂《ちんこん》を|受《う》けたり、|日本服《につぽんふく》を|珍《めづ》らしさうに|眺《なが》めたりして|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。さうして|蒙古《もうこ》の|婦人《ふじん》は|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|日出雄《ひでを》の|身辺《しんぺん》を|取《と》り|巻《ま》いて|嬉《うれ》しさうに|遊《あそ》んで|居《ゐ》る。|日出雄《ひでを》は|公爺府王《コンイエフわう》の|親戚《しんせき》に|当《あた》る|白凌閣《パイリンク》と|云《い》ふ|十九歳《じふきうさい》になつた|青年《せいねん》を、|王《わう》の|承諾《しようだく》を|得《え》て|弟子《でし》となし、|此《この》|男《をとこ》に|就《つい》て|蒙古語《もうこご》の|研究《けんきう》を|始《はじ》めた。|白凌閣《パイリンク》は|蒙古人《もうこじん》に|似《に》ず|公爺府《コンエフ》の|役人《やくにん》から|学問《がくもん》を|習《なら》ひ、|支那字《しなじ》や|蒙古字《もうこじ》をよく|知《し》り、|且《か》つ|支那語《しなご》をもよくした。|日出雄《ひでを》は|此《この》|白凌閣《パイリンク》や|村人《むらびと》と|十日間《とをかかん》|程《ほど》|遊《あそ》んで|居《ゐ》る|間《あひだ》に|蒙古語《もうこご》を|大略《たいりやく》|覚《おぼ》え、|蒙古人《もうこじん》と|談話《だんわ》を|交換《かうくわん》するには|余《あま》り|差支《さしつか》へない|程度《ていど》に|迄《まで》|進《すす》んだのである。
|日出雄《ひでを》が|公爺府《コンエフ》に|着《つ》いた|二三日目《にさんにちめ》の|正午頃《しやうごごろ》、|協理《けふり》|老印君《らういんくん》の|館《やかた》に|遊《あそ》んで|居《ゐ》ると、|王様《わうさま》が|管内《くわんない》の|巡視《じゆんし》を|終《を》へて|数十人《すうじふにん》の|兵士《へいし》と|共《とも》にラツパを|吹《ふ》かせて|帰《かへ》つて|来《き》た。さうして|王様《わうさま》の|方《はう》から|老印君《らういんくん》の|宅《たく》へ|出張《しゆつちやう》し、|日出雄《ひでを》に|面会《めんくわい》し、|通訳《つうやく》を|介《かい》し|種々《しゆじゆ》と|挨拶《あいさつ》をした。|此《この》|王《わう》は|宝算《はうさん》|正《まさ》に|二十三歳《にじふさんさい》、さうして|位《くらゐ》は|鎮国公《ちんこくこう》で、|巴彦那木爾《パエンナムル》と|云《い》ふ|人《ひと》である。|色《いろ》の|白《しろ》い|凛々《りり》しい|好男子《かうだんし》であつた。|日出雄《ひでを》は|王様《わうさま》に|土産《みやげ》として|懐中電燈《くわいちゆうでんとう》|一個《いつこ》を|贈《おく》つた。|王《わう》は|珍《めづ》らしがつて|幾度《いくど》も|押戴《おしいただ》き|〓々《きき》として|受《う》け|取《と》つた。|此《こ》の|王様《わうさま》は|未《いま》だ|独身《どくしん》で|奥《おく》さまが|定《きま》つて|居《ゐ》ない。|先年《せんねん》|巴布札布《パプチヤフ》の|挙兵《きよへい》の|時《とき》に|其《その》|居城《きよじやう》を|支那兵《しなへい》に|荒《あら》され、|且《か》つ|財産《ざいさん》を|奪《うば》はれ、|今《いま》は|非常《ひじやう》に|財政《ざいせい》|困難《こんなん》に|陥《おちい》つて|居《ゐ》るので、それ|故《ゆゑ》|妻君《さいくん》を|娶《めと》るとなれば、|王《わう》として|非常《ひじやう》な|費用《ひよう》が|要《い》るので|見合《みあは》せて|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》である。それに|此《こ》の|若《わか》い|王様《わうさま》は|北京《ペキン》へ|参勤《さんきん》した|際《さい》、|支那芸者《しなげいしや》から|梅毒《ばいどく》をうつされ、|大変《たいへん》|困《こま》つて|居《ゐ》るとか|云《い》ふ|話《はなし》であつた。それから|二三日《にさんにち》たつと|公爺廟《コンエメウ》の|活仏《くわつぶつ》が|巡錫《じゆんしやく》して|来《き》て|日出雄《ひでを》に|面会《めんくわい》したいと|云《い》ふので、|日出雄《ひでを》は|老印君《らういんくん》の|宅《たく》で|会見《くわいけん》した。|此《こ》の|活仏《くわつぶつ》は|三十《さんじふ》|前後《ぜんご》の|男《をとこ》で、|公爺府《コンエフ》の|王様《わうさま》の|姉《あね》や|妹《いもうと》|三人《さんにん》|迄《まで》|妙《みやう》な|関係《くわんけい》をつけて|居《ゐ》ると|云《い》ふ|生臭坊主《なまぐさばうず》である。|此《この》|活仏《くわつぶつ》は|日出雄《ひでを》が|蒙古《もうこ》の|救世主《きうせいしゆ》として|現《あら》はれたと|云《い》ふので|敬意《けいい》を|表《へう》しに|来《き》たのである。|四五日《しごにち》すると|蒙古《もうこ》の|各地《かくち》から、|救世主《きうせいしゆ》|来《きた》れりと|云《い》ふ|噂《うはさ》を|聞《き》いて、|遠《とほ》きは|二百支里《にひやくしり》|位《ぐらゐ》の|所《ところ》から、|大車《だいしや》や|轎車《けうしや》に|乗《の》つて|老若男女《らうじやくだんぢよ》が|救《すく》ひを|求《もと》めに|来《く》る。|余《あま》り|忙《いそが》しいので|守高《もりたか》が|俄喇嘛《にはかラマ》になり、|澄《す》ました|顔《かほ》で|彼等《かれら》に|鎮魂《ちんこん》の|手伝《てつだひ》ひをして|居《ゐ》た。
|蒙古《もうこ》の|此《この》|地方《ちはう》の|家屋《かをく》は|総《すべ》て|矮小《わいせう》で|不潔《ふけつ》である。さうして|男《をとこ》も|女《をんな》も|若布《わかめ》の|行列《ぎやうれつ》か|襁褓《しめし》の|親分《おやぶん》か、|雑巾屋《ざふきんや》の|看板尻《かんばんしり》でも|喰《くら》へと|云《い》ふ|様《やう》なボロを|身《み》に|纏《まと》ひ、|平気《へいき》の|平左《へいざ》でやつて|来《く》る。|又《また》|女《をんな》は|前頭部《ぜんとうぶ》にいろいろの|宝石《ほうせき》を|飾《かざ》り、|耳《みみ》には|宝石《ほうせき》の|環《わ》をぶら|下《さ》げて|居《ゐ》る。さうして|家柄《いへがら》の|良《よ》い|所《ところ》の|女《をんな》は|環《わ》を|三条《みすぢ》|下《さ》げ、|中流《ちうりう》は|二条《ふたすぢ》、|下流《かりう》は|一条《ひとすぢ》の|環《わ》をブラ|下《さ》げて|居《ゐ》る。|娘《むすめ》は|皆《みな》|下《さ》げ|髪《がみ》であるが、|結婚《けつこん》すると|同時《どうじ》に|髪《かみ》を|巻《ま》いて|頭《あたま》の|上《うへ》にクルクルと|束《たば》ねて|居《ゐ》る。さうして|下女《げぢよ》には|耳《みみ》に|環《わ》が|無《な》いので、|一見《いつけん》して|其《その》|婢《はしため》たる|事《こと》が|判《わか》る。|蒙古人《もうこじん》は|家《いへ》の|中《なか》であらうが|門口《かどぐち》であらうが、|痰唾《たんつば》を|吐《は》き、|手涕《てばな》をかみ、|手《て》についた|涕《はな》を|自分《じぶん》の|着衣《ちやくい》に|無造作《むざうさ》にこすりつけて|居《ゐ》る。|何《いづ》れの|家《いへ》にも|牛馬《ぎうば》、|羊豚《やうとん》、|鶏《とり》などが|沢山《たくさん》に|飼《か》うてあり、|朝《あさ》になると|家《いへ》の|周囲《まはり》に|寝《ね》て|居《ゐ》る|牛馬《ぎうば》などは、|蒙古犬《もうこいぬ》に|導《みちび》かれて|遠《とほ》い|遠《とほ》い|山野《さんや》に|草《くさ》を|食《く》ひに|行《ゆ》き、|日没前《にちぼつまへ》になると|又《また》|犬《いぬ》に|守《まも》られてノソリノソリと|家《いへ》の|周囲《まはり》に|帰《かへ》つて|来《き》て|寝《ね》て|了《しま》ふ。|沢山《たくさん》の|牛馬《ぎうば》が|処構《ところかま》はず|糞《くそ》をひるので、|蒙古人《もうこじん》は|牛馬《ぎうば》の|糞《くそ》をかき|集《あつ》めて|大《おほ》きな|山《やま》を|作《つく》るのが|何《なに》よりの|仕事《しごと》である。そして|家《いへ》の|壁《かべ》や|垣《かき》などに|牛糞《ぎうふん》をベタリと|塗《ぬ》り、|又《また》|高粱《かうりやう》や|炒米《チヨオミイ》の|容器《ようき》は|楊《やなぎ》の|枝《えだ》を|編《あ》んで|籠《かご》を|作《つく》り、|牛糞《ぎうふん》で|目《め》をつめて、|食糧品《しよくりやうひん》の|容器《ようき》として|居《ゐ》る。|温突《をんどる》を|焚《た》くのも|茶《ちや》を|沸《わ》かすのも、|高粱《かうりやう》の|粥《かゆ》を|煮《に》るのも、|皆《みな》|牛糞《ぎうふん》である。これだけ|牧畜《ぼくちく》の|盛《さか》んな|蒙古《もうこ》に|於《おい》て、|牛糞《ぎうふん》を|焚《た》かなかつたら、|蒙古《もうこ》の|民家《みんか》は|牛糞《ぎうふん》で|埋《うづ》まるであらう。|牛糞《ぎうふん》の|山《やま》は|到《いた》る|所《ところ》に|築《きづ》かれてある。さうして|内地《ないち》の|牛糞《ぎうふん》のやうに|妙《めう》な|臭気《しうき》はない。|羊肉《やうにく》をあぶつて|食《く》らふのも|鶏肉《とりにく》をあぶつて|食《く》らふのも、|皆《みな》|牛糞《ぎうふん》の|火《ひ》を|用《もち》ゐるのである。|潔癖《けつぺき》な|日本人《につぽんじん》は|土地《とち》に|慣《な》れる|迄《まで》は、|何《いづ》れも|顔《かほ》をしかめ|鼻《はな》をつまんで|困《こま》つて|居《ゐ》る|有様《ありさま》だ。
|蒙古人《もうこじん》は|日本《につぽん》の|古代人《こだいじん》のやうな|魂《たましひ》が|残《のこ》つてゐて、|嘘《うそ》と|云《い》ふ|事《こと》は|決《けつ》して|知《し》らない。それ|故《ゆゑ》に|嘘《うそ》と|云《い》ふ|言葉《ことば》もなければ、|違《ちが》やしないかと|云《い》ふ|疑問詞《ぎもんし》もない。|此《この》|点《てん》に|於《おい》ては|実《じつ》に|気持《きもち》の|好《よ》い|国人《くにびと》である。だから|蒙古人《もうこじん》は|一度《いちど》|此《この》|人《ひと》と|信《しん》じたならば、|其《その》|人《ひと》が|如何《いか》なる|悪人《あくにん》であらうとも、そんな|事《こと》には|頓着《とんちやく》なく|因縁《いんねん》だとあきらめて、|終身《しうしん》|其《その》|人《ひと》の|為《ため》に|生命《せいめい》までも|擲出《なげだ》すと|云《い》ふ|健気《けなげ》な|人種《じんしゆ》である。|之《これ》に|反《はん》して|最初《さいしよ》に|此《この》|人《ひと》はいけないと|思《おも》つたならば、|其《その》|人《ひと》が|後《のち》に|如何《いか》|程《ほど》|改心《かいしん》して|善人《ぜんにん》となつても|信用《しんよう》しない。|日出雄《ひでを》は|彼所此所《あちらこちら》から|招《まね》かれて|公爺府《コンエフ》の|民家《みんか》を|一戸《いつこ》も|残《のこ》らず|訪問《はうもん》し、|種々《しゆじゆ》の|款待《くわんたい》を|受《う》けて、|面従腹背《めんじうふくはい》、|阿諛諂侫《あゆてんねい》の|内地人《ないちじん》に|日夜《にちや》|接近《せつきん》し、|不快《ふくわい》でたまらなかつた|日出雄《ひでを》は、|此《この》|蒙古人《もうこじん》の|潔白《けつぱく》な|精神《せいしん》に|非常《ひじやう》な|満足《まんぞく》を|覚《おぼ》えた。|蒙古人《もうこじん》に|小《ちひ》さい|飴《あめ》|一個《いつこ》を|与《あた》ふれば|大《おほ》きな|男《をとこ》が|喜《よろこ》んで|頂《いただ》き、|嬉《うれ》しさうに|舌鼓《したつづみ》を|打《う》つて|幾度《いくど》も|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《へう》し、まるで|内地《ないち》の|三《み》つ|子《ご》のやうである。さうして|空気《くうき》は|非常《ひじやう》に|乾燥《かんさう》し、|寒国《かんごく》にも|似《に》ず|雪《ゆき》は|余《あま》り|沢山《たくさん》|降《ふ》らない、|何程《なにほど》|深雪《ふかゆき》だといつても|高《たか》が|一寸《いつすん》|位《ぐらゐ》|積《つも》るのが|通例《つうれい》である。さうして|風《かぜ》は|非常《ひじやう》に|寒《さむ》いが|其《その》|割《わり》には|身体《からだ》を|害《がい》せない、また|呼吸器《こきふき》を|傷《きず》つけないのが|妙《めう》である。
|蒙古《もうこ》の|喇嘛《らま》や|貴人《きじん》はハムロタマガと|云《い》ふ|宝石製《はうせきせい》の|径《けい》|一寸《いつすん》|位《ぐらゐ》な|香器《かうき》を|携帯《けいたい》し、|初《はじ》めての|人《ひと》に|接《せつ》する|時《とき》には、|其《その》|器《うつは》の|中《なか》から|非常《ひじやう》に|香《かをり》の|好《よ》い|粉末《ふんまつ》を|取《と》り|出《だ》して|客《きやく》に|嗅《か》がすのを|非常《ひじやう》の|待遇《たいぐう》として|居《ゐ》る。|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|風《かぜ》は|激《はげ》しく、|黄塵《くわうぢん》の|立《た》ち|上《のぼ》る|蒙古《もうこ》では|第一《だいいち》|鼻《はな》がつまつて|困《こま》る。|然《しか》るにこのハムロタマガの|香粉《かうふん》を|鼻《はな》に|塗《ぬ》りつけると、|不思議《ふしぎ》にも|鼻《はな》が|透《す》き|通《とほ》り|気分《きぶん》がよくなる。|蒙古人《もうこじん》は|非常《ひじやう》に|柄《え》の|長《なが》い|太《ふと》い|煙管《きせる》を|携帯《けいたい》し、|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》|茶《ちや》を|飲《の》んだ【あいま】には|煙草《たばこ》をくすべて|居《ゐ》る。|小《ちひ》さい|盃《さかづき》の|様《やう》な|雁首《がんくび》の|皿《さら》で、|銀製《ぎんせい》、|真鍮製《しんちうせい》のものが|多《おほ》い。さうして|吸口《すひくち》の|方《はう》はシヤコ、|瑪瑙《めなう》、|翡翠《ひすゐ》などの|宝石《ほうせき》をもつて|作《つく》つて|居《ゐ》る。|蒙古人《もうこじん》は|此《こ》の|煙管《きせる》に|最《もつと》も|金《かね》を|費《つひや》すと|云《い》ふ|事《こと》である。
|蒙古人《もうこじん》は|一夫多妻主義《いつぷたさいしゆぎ》である。|長男《ちやうなん》を|太子《たいし》と|云《い》ふ、|太子《たいし》のみが|妻帯《さいたい》して|家《いへ》を|継《つ》ぎ、|次子《じし》|以下《いか》は|残《のこ》らず|喇嘛《ラマ》になつて|了《しま》ふ、これは|仏教《ぶつけう》の|信仰《しんかう》からだと|云《い》ふ。それ|故《ゆゑ》|止《や》むを|得《え》ず|一夫多妻《いつぷたさい》となり、|老印君《らういんくん》の|如《ごと》き|六十七八歳《ろくじふしちはつさい》になつても|七人《しちにん》の|妻君《さいくん》を|持《も》つて|居《ゐ》る。さうして|妻君《さいくん》を|貰《もら》ふのには|牛《うし》を|五頭《ごとう》|或《あるひ》は|六頭《ろくとう》、|極上等《ごくじやうとう》の|美人《びじん》になると|十頭《じつとう》と|交換《かうくわん》する|風習《ふうしふ》である。|白凌閣《パイリンク》の|妻君《さいくん》は|牛《うし》|五頭《ごとう》と|交換《かうくわん》されたと|云《い》ふ|事《こと》であつた。|男子《だんし》は|十八歳《じふはちさい》でなければ|蒙古《もうこ》の|人数《にんず》に|入《い》れない。さうして|女《をんな》は|残《のこ》らず|人口《じんこう》から|除外《ぢよぐわい》されてゐる。|夫《それ》|故《ゆゑ》|蒙古《もうこ》の|人口《じんこう》は|完全《くわんぜん》に|調査《てうさ》する|事《こと》は|六ケ敷《むつかし》い。|葬式《さうしき》など|至《いた》つて|簡単《かんたん》で、|親《おや》や|兄弟《きやうだい》を|後《あと》に|残《のこ》して|死《し》んだものは|不孝者《ふかうもの》だと|云《い》ふて|山《やま》の|谷《たに》に|棄《す》てに|行《ゆ》き、|沢山《たくさん》の|喇嘛《ラマ》がゴロついて|居《ゐ》ても|御経《おきやう》|一《ひと》つ|上《あ》げてやらない|風習《ふうしふ》である。|蒙古人《もうこじん》の|容貌《ようばう》は|男女《だんぢよ》|共《とも》|日本人《につぽんじん》に|酷似《こくじ》し、|些《すこ》しも|支那人《しなじん》に|似《に》てゐないのは|不思議《ふしぎ》である。|支那人《しなじん》は|妻《つま》が|男客《だんきやく》の|傍《かたはら》へ|行《ゆ》く|事《こと》を|非常《ひじやう》に|嫌《きら》ふが、|蒙古《もうこ》の|男子《だんし》は|一切《いつさい》|無頓着《むとんちやく》である。それ|故《ゆゑ》|自分《じぶん》の|家内《かない》や|娘《むすめ》を|安心《あんしん》して|外来《ぐわいらい》の|客《きやく》の|世話《せわ》をさせる。その|代《かは》り|蒙古《もうこ》の|婦人《ふじん》は|極《きは》めて|朴直《ぼくちよく》で|夫《をつと》を|持《も》つた|以上《いじやう》は|決《けつ》してその|他《ほか》の|男《をとこ》に|関係《くわんけい》しない。それ|故《ゆゑ》いつも|蒙古《もうこ》の|婦人《ふじん》が|交《かは》る|代《がは》る|日出雄《ひでを》の|無聊《ぶれう》を|慰《なぐさ》めむと|毎日《まいにち》|胡琴《フウチン》を|弾《だん》じ、|美声《びせい》を|張《は》り|上《あ》げて|面白《おもしろ》き|歌《うた》を|謡《うた》ひ、|日出雄《ひでを》の|身辺《しんぺん》には|何時《いつ》も|春陽《しゆんやう》の|気《き》が|漂《ただよ》うて|居《ゐ》た。|又《また》|日出雄《ひでを》の|書生《しよせい》|白凌閣《パイリンク》や|蒙古兵《もうこへい》|等《とう》も|日々《ひび》|胡琴《フウチン》を|弾《だん》じ、|歌《うた》を|謡《うた》ひ|軍旅《ぐんりよ》にある|日出雄《ひでを》を|慰《なぐさ》むる|事《こと》に|勉《つと》めたのである。
(大正一四・八 筆録)
第一七章 |明暗交々《めいあんこもごも》
|日出雄《ひでを》が|公爺府《コンエフ》の|協理《けふり》|老印君《らういんくん》の|包《はう》に|宿泊《しゆくはく》する|事《こと》|三日《みつか》の|後《のち》、|隣家《りんか》の|丑他那寸止《ウタナスト》と|云《い》ふ|人《ひと》の|家《いへ》を|開放《かいはう》して|一行《いつかう》の|宿泊所《しゆくはくじよ》に|宛《あ》てられた。
|遠近《ゑんきん》の|淳朴《じゆんぼく》なる|蒙古人《もうこじん》は『ナラヌオロスン、イホエミトポロハナ、イルヂエー イルヂエー イルヂエー』と|云《い》つて|慕《した》つて|来《く》る|者《もの》|日々《ひび》に|其《その》|数《すう》を|増加《ぞうか》するのみである。
|右《みぎ》の|蒙古語《もうこご》を|訳《やく》すれば、|日出国《ひいづるくに》の|大活神《だいくわつしん》|来《きた》れり、との|意味《いみ》である。
|各人《かくじん》|喜《よろこ》んで|鎮魂《ちんこん》を|乞《こ》ひ、|此《この》|国《くに》にて|最《もつと》も|多《おほ》い|眼病《がんびやう》、|皮膚病《ひふびやう》を|初《はじ》め|胃病《ゐびやう》、|梅毒《ばいどく》、|歯痛《しつう》、|脳病《なうびやう》の|治療《ちれう》を|受《う》け、|全快《ぜんくわい》して|神徳《しんとく》を|感謝《かんしや》し|大活神《だいくわつしん》と|崇敬《すうけい》して|居《ゐ》る。|眼病《がんびやう》、|皮膚病《ひふびやう》、|梅毒《ばいどく》|等《とう》は|共《とも》に|不潔《ふけつ》から|来《き》たのが|多《おほ》く、|又《また》|花柳病《くわりうびやう》の|伝染《でんせん》するものと|云《い》ふ|事《こと》は|少《すこ》しも|悟《さと》らない。|単《たん》に|乗馬《じやうば》の|結果《けつくわ》と|心得《こころえ》、|病毒《びやうどく》の|伝染《でんせん》に|任《まか》せて|居《ゐ》るのである。|殊《こと》に|喇嘛僧《ラマそう》の|梅毒《ばいどく》に|罹《かか》つて|居《ゐ》るものは|殊《こと》の|外《ほか》|多《おほ》い。|蒙古《もうこ》の|婦人《ふじん》は|沢山《たくさん》に|宝石《ほうせき》や|大《おほ》きな|真珠《しんじゆ》を|頭《あたま》に|飾《かざ》つて|居《ゐ》るが、|何《いづ》れも|遼河《れうが》や|黒竜江中《こくりうこうちう》に|蕃殖《はんしよく》した|直径《ちよくけい》|一尺《いつしやく》|余《あま》りもある|烏貝《からすがひ》の|中《なか》から|採取《さいしゆ》したものである。|蒙古人《もうこじん》は|貝類《かひるゐ》を|食料《しよくれう》とせないので、|幾百千年《いくひやくせんねん》を|経《へ》た|烏貝《からすがひ》が|棲息《せいそく》して|居《ゐ》るのである。|蒙古人《もうこじん》の|食料《しよくれう》は|支那《しな》|内地《ないち》に|接近《せつきん》した|東蒙古《ひがしもうこ》|方面《はうめん》では、|高粱《かうりやう》に|大豆《だいづ》、|粟《あは》、|豚《ぶた》など|支那人《しなじん》に|似《に》た|食物《しよくもつ》を|摂《と》つて|居《ゐ》るが、|奥地《おくち》の|純蒙古地帯《じゆんもうこちたい》|公爺府《コンエフ》あたりでは|牛乳《ぎうにう》と|炒米《チヨオミイ》を|常食《じやうしよく》にして|居《ゐ》る。|之《これ》に|肉《にく》を|加《くは》へ|雑炊《ざふすゐ》にして|食《くら》ふ|事《こと》もあるが、|肉《にく》を|混《ま》ぜるは|最《もつと》も|上等《じやうとう》の|部《ぶ》である。|普通《ふつう》|一般《いつぱん》の|家《いへ》では|肉《にく》なぞの|贅沢品《ぜいたくひん》は|滅多《めつた》に|食《く》はないのである。|米利堅粉《メリケンコ》でウドンを|拵《こしら》へ|羊《ひつじ》の|肉《にく》を|混《ま》ぜて|食《くら》ふのが|第一番《だいいちばん》の|馳走《ちさう》である。|牧畜《ぼくちく》が|祖先《そせん》|以来《いらい》|唯一《ゆゐいつ》の|事業《じげふ》で、|随《したが》つて|牛《うし》や|羊《ひつじ》の|乳汁《ちち》が|豊富《ほうふ》であり、|日々《ひび》の|食料《しよくれう》に|供《きよう》して|居《ゐ》る|家《いへ》も|多《おほ》い。|彼等《かれら》は|日本人《につぽんじん》の|如《ごと》く|牛乳《ぎうにう》を|沸《わ》かしては|呑《の》まず、|冷《つめ》たい|儘《まま》で|呑《の》み、|又《また》|色々《いろいろ》の|料理《れうり》に|作《つく》り|分《わ》けてゐる。|先《ま》づ|牛乳壺《ぎうにうつぼ》の|上部《じやうぶ》に|浮《う》いた|脂肪分《しばうぶん》からバターを|採《と》り、|下部《かぶ》に|沈澱《ちんでん》したものは|之《これ》を|布《ぬの》の|袋《ふくろ》に|入《い》れて|汁《しる》を|壺《つぼ》に|落《おと》し、|袋《ふくろ》の|中《なか》に|溜《たま》つた|糟《かす》を|固《かた》めて|牛乳餅《ぎうにうもち》を|作《つく》る。|之《これ》を|〓豆腐《ないとうふ》と|称《とな》へて|居《ゐ》る。|保存《ほぞん》に|便《べん》なる|所《ところ》から|或《ある》|地方《ちはう》では|主食物《しゆしよくぶつ》となり、|菓子《くわし》の|代用品《だいようひん》ともなり、|時《とき》としては|貨幣《くわへい》の|代《かは》りとし|物々交換《ぶつぶつかうくわん》の|単位《たんゐ》ともなり、|実《じつ》に|重宝《ちようほう》なものである。|又《また》バターと|〓豆腐《ないとうふ》とを|採《と》つた|残《のこ》りから|酸乳《さんにゆう》が|取《と》れ、|炒米《チヨオミイ》に|注《そそ》いで|食《くら》ふべき|唯一《ゆゐいつ》の|調味料《てうみれう》となるのである。|右《みぎ》の|外《ほか》|牛乳《ぎうにゆう》を|蒸発《じようはつ》せしめて|牛乳酒《ぎうにゆうしゆ》を|造《つく》る。|牛乳《ぎうにゆう》と|炒米《チヨオミイ》ばかりを|年中《ねんぢう》|食《く》つて|居《ゐ》ながらも|蒙古人《もうこじん》は|体格《たいかく》が|頗《すこぶ》る|立派《りつぱ》である。|又《また》|蒙古人《もうこじん》は|支那人《しなじん》の|如《ごと》く|一切《いつさい》|野菜《やさい》を|食《く》はない、|家畜《かちく》が|多《おほ》いため|野菜《やさい》が|育《そだ》たないのが|一《ひと》つの|原因《げんいん》かとも|思《おも》はれる。|而《し》かも|壊血病《くわいけつびやう》に|罹《かか》らぬのは|草《くさ》を|常食《じやうしよく》とする|牛《うし》の|乳《ちち》を|主食《しゆしよく》としてゐる|結果《けつくわ》である。|斯《かく》の|如《ごと》く|牛《うし》は|蒙古人《もうこじん》に|取《と》つての|生命《せいめい》の|母《はは》であり、|馬《うま》は|総《すべ》ての|交通機関《かうつうきくわん》である。|南船北馬《なんせんほくば》といふ|言《げん》は|北大陸《きたたいりく》の|蒙古《もうこ》へ|来《き》て|初《はじ》めて|知《し》らるる|言葉《ことば》である。
|一日《いちにち》|蒙古人《もうこじん》の|丑他那寸止《ウタナスト》や|王得勝《ワントウシン》など|云《い》ふ|公爺府《コンエフ》の|兵士《へいし》や、|副官《ふくくわん》の|温長興《をんちやうこう》と|倶《とも》に|公爺府《コンエフ》の|裏山《うらやま》へ|兎狩《うさぎがり》に|出掛《でか》けた。|兎狩《うさぎがり》の|道具《だうぐ》は|一尺《いつしやく》|五寸《ごすん》|許《ばか》りの|先《さき》の|曲《まが》つた|棒《ぼう》で、その|尖端《せんたん》に|三寸《さんずん》|許《ばか》りの|紐《ひも》を|結《むす》び|着《つ》け|紐《ひも》の|尖《さき》に|一塊《いつくわい》の|鉄《てつ》の|重《おも》りが|付《つ》いて|居《ゐ》る。|兎《うさぎ》の|飛《と》び|出《だ》すのを|待《ま》つて|此《こ》の|棒《ぼう》を|巧妙《かうめう》に|投《な》げ|付《つ》ける。さうすると|棒《ぼう》の|尖《さき》にブラ|下《さが》つて|居《ゐ》る|鉄片《てつぺん》が、グルグル|舞《ま》ひ|乍《なが》ら|兎《うさぎ》に|当《あた》ると|紐《ひも》が|捲《ま》きつく|仕組《しくみ》である。|蒙古人《もうこじん》は|煙管《きせる》や|火打石《ひうちいし》と|共《とも》に|七《なな》ツ|道具《だうぐ》の|一《ひとつ》として|常《つね》に|此《この》|棒《ぼう》を|携帯《けいたい》して|居《ゐ》るのである。|併《しか》し|蒙古犬《もうこいぬ》の|四五匹《しごひき》を|以《もつ》て|兎《うさぎ》を|囲《かこ》む|時《とき》は|容易《ようい》に|捕《とら》へる|事《こと》が|出来《でき》るのである。
|日出雄《ひでを》は|温長興《をんちやうこう》、|岡崎《をかざき》|鉄首《てつしゆ》と|倶《とも》に|国見山《くにみやま》に|登《のぼ》らむとした|時《とき》、シーゴーと|称《しよう》する|蒙古《もうこ》|特有《とくいう》の|猛犬《まうけん》に|包囲《はうゐ》され、|噛《か》み|付《つ》かれようとしたので、|副官《ふくくわん》の|温長興《をんちやうこう》、|岡崎《をかざき》|鉄首《てつしゆ》の|二人《ふたり》が、|洋杖《ステツキ》を|振《ふ》り|上《あ》げたり|石《いし》を|拾《ひろ》つて|打《う》ち|付《つ》けたりなど|防戦《ばうせん》に|努《つと》めた。ワンワンと|吠《ほ》ゆる|猛犬《まうけん》の|声《こゑ》を|聞《き》き|付《つ》けて|瞬《またた》く|間《ま》に|遠近《をちこち》より|数十頭《すうじつとう》の|猛犬《まうけん》|集《あつま》り|来《きた》り、|三人《さんにん》を|十重二十重《とへはたへ》に|取巻《とりま》き|牙《きば》をむき|出《だ》して|飛《と》びかかつて|来《く》るその|恐《おそ》ろしき|勢《いきほひ》を|物《もの》ともせず、|二人《ふたり》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|闘《たたか》つて|居《ゐ》る。|日出雄《ひでを》も|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|祝詞《のりと》を|大声《おほごゑ》で|唱《とな》へると、|大《おほ》きな|日本人《につぽんじん》の|声音《せいおん》に|辟易《へきえき》してか、さしもの|猛犬《まうけん》も|尾《を》を|下《さ》げて|四方《しはう》に|散乱《さんらん》して|了《しま》つた。|是《これ》より|当地《たうち》の|犬《いぬ》は|三人《さんにん》を|見《み》ると|尾《を》を|下《さ》げて|小《ちひ》さくなつて|逃《に》げる|様《やう》になつて|了《しま》つた。
|守高《もりたか》は|公府《こうふ》の|役人《やくにん》の|家《いへ》へ|病気《びやうき》|鎮魂《ちんこん》の|為《ため》、|稍《やや》|遠方《ゑんぱう》の|家《いへ》へ|出掛《でか》けた、|其処《そこ》へ|鎮国公《ちんこくこう》より|重役《ぢうやく》が|来《き》て、|失礼《しつれい》ながら|日出国《ひいづるくに》の|大活仏様《だいくわつぶつさま》に|来館《らいくわん》を|願《ねが》ひ|度《た》いと|申込《まをしこ》んで|来《き》た。|日出雄《ひでを》は|通訳《つうやく》と|共《とも》に|早速《さつそく》|公爺府内《コンエフない》に|出《で》て|行《い》つた。|鎮国公《ちんこくこう》は|大《おほい》に|喜《よろこ》んで|通訳《つうやく》を|介《かい》して|種々《しゆじゆ》の|談話《だんわ》を|試《こころ》み、|且《か》つ|今回《こんくわい》の|入蒙《にふもう》に|就《つい》ての|経緯《いきさつ》を|尋《たづ》ねるのであつた。|王元祺《わうげんき》は|内外《ないぐわい》|蒙古《もうこ》|救援《きうゑん》の|義軍《ぎぐん》を|起《おこ》す|事《こと》を|諄々《じゆんじゆん》として|説《と》いた。|王《わう》は|非常《ひじやう》に|喜《よろこ》び|其《その》|好意《かうい》を|深《ふか》く|感謝《かんしや》した。そして|力《ちから》|一杯《いつぱい》の|馳走《ちそう》をして|日出雄《ひでを》を|待遇《たいぐう》したのである。|東西《とうざい》|二百里《にひやくり》、|南北《なんぽく》|八百里《はつぴやくり》の|地積《ちせき》を|主管《しゆくわん》する|公府《こうふ》の|王様《わうさま》が|態々《わざわざ》|日出雄《ひでを》の|住居《すまゐ》を|訪《と》ひ、|今《いま》|又《また》|再《ふたた》び|慇懃《いんぎん》に|日本国《につぽんこく》の|大宗教家《だいしうけうか》として|且《かつ》|貴人《きじん》として|迎《むか》へられた|事《こと》は、|日出雄《ひでを》に|取《と》つて|異様《いやう》の|感《かん》に|打《う》たれた。|内地《ないち》であつたならば|地方《ちはう》の|官吏《くわんり》さへ、なかなか|威張《いば》り|散《ち》らして|日出雄《ひでを》を|馬鹿《ばか》にして|居《ゐ》る|傾向《けいかう》があるのに|比《くら》べて、|感慨無量《かんがいむりやう》であつた。|蒙古《もうこ》は|未開国《みかいこく》とは|言《い》ひ|乍《なが》ら、|上下《じやうげ》の|民《たみ》が|能《よ》く|親和《しんわ》し、|恰《あたか》も|神代《かみよ》の|俤《おもかげ》を|偲《しの》ばせる、その|容貌《ようばう》も|日本人《につぽんじん》に|酷似《こくじ》し|日本人《につぽんじん》を|唯一《ゆゐいつ》の|力《ちから》と|頼《たの》む|風《ふう》がある。|日本人《につぽんじん》は|蒙古人《もうこじん》と|其《その》|祖先《そせん》を|一《いつ》にし、|源義経《みなもとよしつね》の|子孫《しそん》が|皆《みな》|蒙古《もうこ》|一百六人《いつぴやくろくにん》の|王《わう》に|成《な》つて|居《ゐ》るのだと|彼等《かれら》は|信《しん》じ|切《き》つてゐるのである。
|岡崎《をかざき》は|蒙古人《もうこじん》に|対《たい》し、|支那語《しなご》を|以《もつ》て、|愈《いよいよ》|蒙古《もうこ》を|亡国的《ばうこくてき》|運命《うんめい》より|救《すく》ひ|出《だ》し、|大庫倫《アルホラ》に|駐屯《ちうとん》せる|赤軍《せきぐん》を|兎《うさぎ》を|逐《お》ふやうに|追《お》ひまくり、|大庫倫《アルホラ》に|於《おい》て|新蒙古王国《しんもうこわうこく》を|建設《けんせつ》し、|支那《しな》、|満州《まんしう》、|西比利亜《シベリア》を|席捲《せきけん》して、|日本《につぽん》|及《および》|蒙古男子《もうこだんし》の|真価《しんか》を|天下《てんか》に|発表《はつぺう》する|積《つも》りだ。なアに、|大鼻子《タアビイヅ》だつて、|支那人《しなじん》だつて、|日蒙《にちもう》|両国民《りやうこくみん》が|一致《いつち》すれば|直《す》ぐに|凹《くぼ》んで|了《しま》ひますよ、アハヽヽヽ……。などと|万丈《ばんぢやう》の|気焔《きえん》を|吐《は》いて|独《ひと》り|悦《えつ》に|入《い》つてゐる。|此《この》|話《はなし》を|公爺府《コンエフ》の|重役《ぢうやく》が|心配《しんぱい》|相《さう》な|面《かほ》して|側《そば》に|聞《き》いてゐたが、すぐに|老印君《らういんくん》を|招《まね》いて、|鎮国公《ちんこくこう》の|館《やかた》にあわただしく|駆《か》けつけて|行《い》つた。|二三時間《にさんじかん》ばかりして、|老印君《らういんくん》は|六ケ《むつか》しい|面《かほ》をして|帰《かへ》つて|来《き》た。そして|岡崎《をかざき》に|向《むか》ひ、
『|日本《につぽん》の|方々《かたがた》は|東三省《とうさんしやう》の|護照《ごせう》を|有《も》つてゐますか、|護照《ごせう》の|無《な》い|方《かた》は|一日《いちにち》も|此処《ここ》に|居《を》つて|貰《もら》ふことは|出来《でき》ませぬ。|殊《こと》に|蒙古《もうこ》の|独立《どくりつ》などを|企《くはだ》てる|人《ひと》を|世話《せわ》することは|出来《でき》ぬ、|王様《わうさま》|初《はじ》め|此《この》|白髪首《しらがくび》|迄《まで》|飛《と》んで|了《しま》ひますから……。|蒙古《もうこ》へお|出《い》でになるのなら|一度《いちど》|奉天《ほうてん》|迄《まで》|帰《かへ》つて|護照《ごせう》を|貰《もら》つて|来《き》て|下《くだ》さい』
と|態度《たいど》をガラリと|変《か》へてしまつた。|温長興《をんちやうこう》は|之《これ》を|聞《き》くや|大《おほい》に|怒《いか》り、
『|怪《け》しからぬ|事《こと》をいふ|爺《ぢぢい》だ。|盧《ろ》|司令《しれい》から|吾々《われわれ》|一行《いつかう》を|世話《せわ》する|為《ため》に|沢山《たくさん》の|金《かね》を|頂《いただ》いて|来《き》|乍《なが》ら、|今《いま》となつて|斯様《かやう》なことを|老爺《おやぢ》の|口《くち》から|聞《き》くとは|不都合千万《ふつがふせんばん》だ。その|上《うへ》|吾々《われわれ》をこんな|陋屋《ろうをく》につツ|込《こ》み、|南京虫責《なんきんむしぜ》めにあはしよるとは|何《なん》の|事《こと》だ。|兎《と》も|角《かく》|一応《いちおう》|奉天《ほうてん》まで|帰《かへ》つて、|司令《しれい》と|談判《だんぱん》して|来《く》る』
と|息巻《いきま》いてゐる。|老印君《らういんくん》の|態度《たいど》が|一変《いつぺん》したのは|岡崎《をかざき》の|大言壮語《だいげんさうご》が|祟《たた》つたのである。|鎮国公《ちんこくこう》はじめ|重役連《ぢうやくれん》は|支那政府《しなせいふ》や|張作霖《ちやうさくりん》を|怖《おそ》れたからであつた。|岡崎《をかざき》はまたソロソロ|不平《ふへい》を|洩《も》らし|出《だ》した。
『|一体《いつたい》|盧占魁《ろせんくわい》といふ|餓鬼《がき》や、|俺《おれ》をこんな|奥《おく》の|方《はう》へ|突込《つつこ》みよつて、|佐々木《ささき》や|大倉《おほくら》と|腹《はら》を|合《あは》せ、|先生《せんせい》はじめ|吾々《われわれ》|日本人《につぽんじん》をペテンに|掛《か》けよつたのだらう、ようしツ、|俺《おれ》にも|考《かんが》へがある。|之《これ》から|奉天《ほうてん》へ|帰《かへ》つて|何《なに》も|彼《か》も|盧《ろ》の|秘密《ひみつ》をすつぱ|抜《ぬ》いてきます。|又《また》|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》の|奴《やつ》め、|〓南《たうなん》|以西《いせい》は|馬賊《ばぞく》が|徘徊《はいくわい》するから、|一切《いつさい》の|荷物《にもつ》や|金銭《きんせん》などは|一銭《いつせん》も|携帯《けいたい》してはならぬ、|曼陀汗《マンダハン》や|老印君《らういんくん》に|金子《かね》が|渡《わた》してあるから、|一切万事《いつさいばんじ》|不自由《ふじゆう》のない|様《やう》にしてくれると|吐《ぬ》かしよつたが、|此《この》ザマは|何《なん》だ。|毛布《もうふ》|一枚《いちまい》あるでなし、|南京虫《なんきんむし》の|巣窟《さうくつ》にアンペラ|一枚《いちまい》|布《し》いて|寝《ね》られるか、そして|金子《かね》を|一文《いちもん》も|持《も》つて|行《ゆ》くな、など|吐《ぬか》しよつたが、|先生《せんせい》がそれでもチツト|許《ばか》り|懐《ふところ》にソツと|入《い》れて|持《も》つて|来《き》て|下《くだ》さつたお|蔭《かげ》で、|鶏卵《けいらん》も|買《か》ひ|又《また》|旅費《りよひ》も|出来《でき》たのだ。|彼奴等《きやつら》の|云《い》ふ|通《とほ》りにして|居《を》つたなら、|自分等《じぶんら》は|蒙古《もうこ》の|奥《おく》で|餓死《がし》するより|仕様《しやう》がないのだ』
とブウブウ|云《い》ふて|怒《おこ》り|出《だ》す。|併《しか》し|岡崎《をかざき》の|怒《おこ》るのも|無理《むり》はない。|温突《をんどる》は|焚《た》いてあつても|毛布《もうふ》|一枚《いちまい》ないので、|外套《ぐわいたう》をかぶつて、|夜《よ》は|寝《ね》るといふみじめな|有様《ありさま》であつた。|日出雄《ひでを》が|〓南府《たうなんふ》で|二万円《にまんゑん》の|旅費《りよひ》を|懐中《くわいちう》し、|日本人《につぽんじん》|一行《いつかう》の|費用《ひよう》に|充《あ》てむとしたのを|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》、|唐国別《からくにわけ》から|色々《いろいろ》と|説《と》きつけられ、|遂《つひ》に|彼等《かれら》に|渡《わた》して|終《しま》つたのであつた。|兎《と》も|角《かく》|温長興《をんちやうこう》を|馬《うま》で|走《はし》らせ、|〓南府《たうなんふ》の|真澄別《ますみわけ》|一行《いつかう》に|面会《めんくわい》させ、|公爺府《コンエフ》に|於《お》ける|一行《いつかう》の|現状《げんじやう》を|報告《はうこく》せしめ、|一日《いちにち》も|早《はや》く|荷物《にもつ》|一切《いつさい》を|送《おく》つて|来《き》て|貰《もら》はねば、|何《ど》うする|事《こと》も|出来《でき》ないといふ|手紙《てがみ》を|持《も》たせて|出発《しゆつぱつ》せしむる|事《こと》に|定《き》めた。
|王元祺《わうげんき》は|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|蒙古人《もうこじん》の|家《いへ》に|行《い》つて|麻雀《マージヤン》と|云《い》ふ|賭博《とばく》に|耽《ふけ》り、|少《すこ》しも|通訳《つうやく》の|用《よう》をしない、|一言《ひとこと》いつても|直《す》ぐに|腹《はら》を|立《た》て、
『|私《わたし》はお|間《ま》に|合《あ》ひませぬから|帰《かへ》らして|貰《もら》ひます』
など、|足許《あしもと》を|見込《みこ》んで|駄々《だだ》をこねるので、|日出雄《ひでを》も|大《おほい》に|困《こま》り、|筆談《ひつだん》を|以《もつ》て|白凌閣《パイリンク》を|介《かい》し、|蒙古人《もうこじん》との|一切《いつさい》の|交渉《かうせふ》に|当《あた》らしめてゐた。|守高《もりたか》は|得意《とくい》の|柔術《じうじゆつ》を|蒙古人《もうこじん》に|寒《さむ》い|風《かぜ》の|吹《ふ》く|戸外《こぐわい》で|教《をし》へてゐた。|一見《いつけん》しても|一癖《ひとくせ》あり|相《さう》な|武術面《ぶじゆつづら》をしてゐるので、|蒙古人《もうこじん》は|薄気味《うすきみ》|悪《わる》く|感《かん》じてゐたけれ|共《ども》、|物珍《ものめづ》らしさに|一二回《いちにくわい》の|柔術《じうじゆつ》の|稽古《けいこ》をやつて|見《み》た。|守高《もりたか》は……こんな|野蛮国《やばんこく》の|人間《にんげん》には|自分《じぶん》の|力《ちから》を|見《み》せておかねば|軽蔑《けいべつ》されると|云《い》ふ|考《かんが》へから、|蒙古人《もうこじん》の|手首《てくび》の|急所《きふしよ》を|力一杯《ちからいつぱい》|掴《つか》み|締《し》めたので、|蒙古人《もうこじん》は|青《あを》くなつてヘタバつた。それを|蒙古人《もうこじん》は|柔術《じうじゆつ》の|手《て》といふ|事《こと》は|知《し》らず、|且《か》つ|言葉《ことば》の|通《つう》じない|所《ところ》より|非常《ひじやう》に|守高《もりたか》を|悪党《あくたう》と|誤解《ごかい》し、|村中《むらぢう》の|蒙古男子《もうこだんし》が|王得勝《ワントウシン》の|家《いへ》に|集《あつ》まつて、|暗夜《あんや》に|乗《じやう》じ|守高《もりたか》を|鉄砲《てつぱう》で|討《う》ち|殺《ころ》さうといふ|相談《さうだん》を|定《き》めた。|白凌閣《パイリンク》は|蒙古人《もうこじん》の|事《こと》でもあり、|其《その》|相談《さうだん》の|結果《けつくわ》を|心配《しんぱい》して|日出雄《ひでを》に|密告《みつこく》した。そこで|日出雄《ひでを》は|王得勝《ワントウシン》に|腕時計《うでどけい》や|若干《じやくかん》の|金子《かね》を|与《あた》へ、|白凌閣《パイリンク》を|介《かい》して|柔道《じうだう》の|大略《たいりやく》や|守高《もりたか》の|好人物《かうじんぶつ》たる|事《こと》を|云《い》ひ|聞《き》かせたので、|蒙古人《もうこじん》も|漸《やうや》く|了解《れうかい》して、|守高《もりたか》に|対《たい》する|悪感《あくかん》は|稍《やや》|薄《うす》らぎ、|幸《さいはひ》に|無事《ぶじ》なるを|得《え》たのである。|此《この》|時《とき》の|日出雄《ひでを》の|心配《しんぱい》は|一通《ひととほ》りではなかつたのである。
|老印君《らういんくん》は|温長興《をんちやうこう》のきびしき|追撃《ついげき》に|堪《た》へかねて、|俄《にはか》に|自分《じぶん》|所有《しよいう》の|新宅《しんたく》に|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》を|移転《いてん》させる|事《こと》とした。|老印君《らういんくん》の|宅《たく》から|西南《せいなん》に|当《あた》り|殆《ほとん》ど|五丁《ごちやう》|許《ばか》りの|距離《きより》がある。まだ|壁《かべ》も|十分《じふぶん》|乾《かは》いてゐないので、|盛《さか》んに|楊《やなぎ》の|枯枝《かれえだ》を|燃《も》やして|室内《しつない》の|乾燥《かんさう》を|図《はか》つた。そして|牛車《ぎうしや》|一台《いちだい》の|薪《まき》は|五十銭《ごじつせん》であつたが、|壁《かべ》を|乾《かわ》かすのに|二台《にだい》|許《ばか》りの|薪《たきぎ》をくすべて|了《しま》つた。|漸《やうや》くにして|四月《しぐわつ》|四日《よつか》(|旧《きう》|三月《さんぐわつ》|二日《ふつか》)|新宅《しんたく》に|移転《いてん》し、ヤツト|一安心《ひとあんしん》した。そして|温長興《をんちやうこう》に|手紙《てがみ》を|持《も》たせて、|盧占魁《ろせんくわい》や|日本人側《につぽんじんがは》へ|公爺府《コンエフ》に|於《お》ける|困難《こんなん》の|事情《じじやう》を|報告《はうこく》せしめ、|且《かつ》|真澄別《ますみわけ》|一行《いつかう》の|一日《いちにち》も|早《はや》く|着府《ちやくふ》するのを|待《ま》つてゐる|事《こと》を|伝《つた》へしめた。|温長興《をんちやうこう》は|駒《こま》に|鞭《むちう》ち|勢《いきほ》ひよく|〓南《たうなん》を|指《さ》して|駆《か》け|出《だ》した。ところが|其《その》|日《ひ》の|午後《ごご》|六時《ろくじ》|頃《ごろ》|望遠鏡《ばうゑんきやう》を|以《もつ》て|〓南《たうなん》|方面《はうめん》の|原野《げんや》を|眺《なが》めてゐると、|四台《よんだい》の|轎車《けうしや》がまつしぐらに|馳《か》けて|来《く》るのが|目《め》についた、よくよく|見《み》れば|真澄別《ますみわけ》の|一行《いつかう》が|沢山《たくさん》な|荷物《にもつ》や|食料《しよくれう》を|満載《まんさい》して|来《く》るのであつた。|此《この》|時《とき》の|日出雄《ひでを》、|岡崎《をかざき》の|喜《よろこ》びは|一通《ひととほ》りではなかつた。
|一同《いちどう》は|地獄《ぢごく》で|仏《ほとけ》に|会《あ》ふたやうな|心持《こころもち》になつて|打喜《うちよろこ》び、|互《たがひ》に|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|眼《め》を|曇《くも》らした。|沢山《たくさん》の|荷物《にもつ》や|食料《しよくれう》が|来《き》たので|老印君《らういんくん》は|驚《おどろ》いたと|見《み》え|俄《には》かに|日本人《につぽんじん》に|対《たい》する|態度《たいど》がガラリと|変《かは》つて|来《き》た。|考《かんが》へて|見《み》れば|老印君《らういんくん》の|日本人《につぽんじん》|一行《いつかう》を|疑《うたが》つたのも|無理《むり》はない。|何《いづ》れも|北国雷《ほつこくかみなり》で|何一《なにひと》つ|目《め》ぼしい|携帯品《けいたいひん》もなく、どこの|落人《おちうど》が|出《で》て|来《き》たか|分《わか》らぬ|様《やう》な|体裁《ていさい》だつたからである。|老印君《らういんくん》が|狡猾《かうくわつ》で|知《し》らぬ|顔《かほ》をしたのか、|但《ただ》しは|日本側《につぽんがは》の|三人組《さんにんぐみ》が|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》をだまして|奥《おく》へやつたのか|合点《がつてん》が|行《い》かぬと、|一行《いつかう》は|怪《あや》しみに|堪《た》へなかつた。そして|老印君《らういんくん》に|対《たい》する|悪《わる》い|感情《かんじやう》も|次第《しだい》に|剥《は》げて|来《き》た。|真澄別《ますみわけ》に|従《したが》つてやつて|来《き》た|日本人《につぽんじん》は|名田彦《なだひこ》、|猪野《ゐの》|敏夫《としを》の|両人《りやうにん》であつた。
|之《これ》より|先《さ》き|黒竜江《こくりうこう》|方面《はうめん》の|馬賊団《ばぞくだん》の|頭目《とうもく》と|称《しよう》する|団栗眼《どんぐりまなこ》の|物騒《ぶつさう》な|面《かほ》した|男《をとこ》が|三人《さんにん》|岡崎《をかざき》の|許《もと》へ|尋《たづ》ねて|来《き》て、|自治軍《じちぐん》に|参加《さんか》させてくれないかと|掛合《かけあ》つた。|岡崎《をかざき》は|早速《さつそく》|手紙《てがみ》を|認《したた》めて|盧占魁《ろせんくわい》と|佐々木《ささき》へ|宛《あ》て|相談《さうだん》に|向《むか》はしめた。
(大正一四・八 筆録)
第一八章 |蒙古《もうこ》|気質《きしつ》
|蒙古《もうこ》の|宗教《しうけう》は|皆《みな》|喇嘛教《ラマけう》で|戸毎《こごと》に|仏壇《ぶつだん》を|鄭重《ていちよう》に|祀《まつ》つてゐる。そして|喇嘛寺《ラマでら》は|凡《すべ》て|西蔵式《チベツトしき》に|建《た》てられ、|矮小《わいせう》な|貧弱《ひんじやく》な|蒙古人《もうこじん》に|似《に》ず、|巍然《きぜん》として|雲《くも》に|聳《そび》へ、|遠方《ゑんぱう》より|凝視《ぎようし》すれば|恰《あだか》も|立派《りつぱ》な|洋館《やうくわん》が|立並《たちなら》んだやうに|見《み》える。さうして|一《ひと》つの|喇嘛廟《ラマメウ》には、|最《もつと》も|少《すくな》いのが|三百人《さんびやくにん》、|多《おほ》いのになると|七八万人《しちはちまんにん》の|喇嘛《ラマ》が|廟《メウ》を|中心《ちうしん》として、|普通民家《ふつうみんか》とは|変《かは》つた|立派《りつぱ》な|居宅《きよたく》を|構《かま》へて|大市街《だいしがい》をなしてゐる。|先年《せんねん》|支那政府《しなせいふ》に|背《そむ》いて|独立《どくりつ》を|宣言《せんげん》し、|蒙古皇帝《もうこくわうてい》となつた|大庫倫《だいクーロン》の|活仏《くわつぶつ》が|住《す》んで|居《ゐ》る|喇嘛廟《ラマメウ》の|如《ごと》きは、|三十万《さんじふまん》の|喇嘛僧《ラマそう》が|沢山《たくさん》な|住宅《ぢゆうたく》を|並《なら》べて|住《す》んでゐる。|現今《げんこん》では|皇帝《くわうてい》の|位《くらゐ》も|大活仏《だいくわつぶつ》の|権威《けんゐ》も|全然《ぜんぜん》|有名無実《いうめいむじつ》になつて|了《しま》ひ、|露西亜《ロシア》の|赤軍《せきぐん》が|自由自在《じいうじざい》に|我儘《わがまま》を|振舞《ふるま》つてゐる。さうして|大庫倫《だいクーロン》には|一百七八十万《いつぴやくしちはちじふまん》の|人口《じんこう》があつて、|日本人《につぽんじん》も|数名《すうめい》|住《すま》つてゐると|云《い》ふ|事《こと》である。それから|英《えい》、|米《べい》、|仏《ふつ》、|露《ろ》の|人間《にんげん》が|二万《にまん》|許《ばか》り|住居《ぢうきよ》し、ヤソ|教《けう》の|教会堂《けうくわいだう》も|建《た》つて|居《ゐ》るが、|蒙古人《もうこじん》の|信者《しんじや》は|一人《ひとり》もないと|云《い》ふ|事《こと》である。|喇嘛教《ラマけう》と|云《い》ふのは|俗称《ぞくしよう》であつて、|喇嘛《ラマ》は|蒙古語《もうこご》の|僧侶《そうりよ》といふ|意味《いみ》で、その|実《じつ》は|仏陀教《ぶつだけう》と|云《い》ふのが|正当《せいたう》である。|蒙古《もうこ》では|各地《かくち》の|王様《わうさま》よりも|活仏《くわつぶつ》の|方《はう》が|上位《じやうゐ》に|居《を》り、|国民《こくみん》の|信用《しんよう》も|尊敬《そんけい》も|王様《わうさま》に|比《ひ》して|非常《ひじやう》に|高《たか》い。|蒙古《もうこ》は|喇嘛《ラマ》の|国《くに》と|云《い》はれる|程《ほど》あつて、|総人口《そうじんこう》の|四分《よんぶん》の|一《いち》|以上《いじやう》は|喇嘛《ラマ》である。|何《いづ》れも|暗愚《あんぐ》な|無学《むがく》な|売主坊主《まいすばうず》|計《ばか》りであつて、|蒙古人《もうこじん》の|尊敬《そんけい》の|的《まと》となつてゐる|活仏《くわつぶつ》でさへも、|自分《じぶん》の|地位《ちゐ》を|利用《りよう》し、|沢山《たくさん》な|女《をんな》を|姦《かん》し、|梅毒《ばいどく》に|悩《なや》んで、|病毒《びやうどく》の|伝播《でんぱ》を|行《や》つて|居《ゐ》るのが|多《おほ》い。
|一般《いつぱん》の|蒙古人《もうこじん》は|貞操《ていさう》の|念《ねん》|強《つよ》く、|有夫姦《いうふかん》|等《など》の|忌《いま》はしい|醜行《しうかう》は|微塵《みぢん》も|無《な》い。さうして|一夫多妻《いつぷたさい》であり|乍《なが》ら、|狭《せま》い|一《ひと》つの|家《いへ》に|沢山《たくさん》の|女房《にようばう》が|一所《いつしよ》に|暮《くら》して|居《ゐ》て、|少《すこ》しも|悋気喧嘩《りんきけんくわ》が|起《おこ》らないのである。|気候《きこう》の|故《ゆゑ》と|淡白《たんぱく》な|食物《しよくもつ》の|影響《えいきやう》であらうが、|蒙古人《もうこじん》は|余《あま》り|色情《しきじやう》|等《とう》には|趣味《しゆみ》を|有《も》たぬ|人間《にんげん》らしい。
それに|引替《ひきか》へ|衆生済度《しゆじやうさいど》の|地位《ちゐ》にある|高僧連《かうそうれん》は|盛《さか》んに|醜行《しうかう》をなし、|風俗《ふうぞく》|壊乱《くわいらん》の|首魁者《しゆくわいしや》となつてゐる。|然《しか》し|乍《なが》ら|蒙古人《もうこじん》は|活仏《くわつぶつ》の|醜行《しうかう》に|対《たい》しては|少《すこ》しも|咎《とが》めない。|活仏《くわつぶつ》のお|手《て》が|掛《かか》つた|娘《むすめ》は|仏縁《ぶつえん》に|依《よ》つて|立派《りつぱ》な|夫《をつと》に|嫁《か》しづく|事《こと》が|出来《でき》ると|云《い》つて|寧《むし》ろ|歓迎《くわんげい》してゐる|風《ふう》である。
|日出雄《ひでを》は|数千里《すうせんり》を|隔《へだ》てた|蒙古《もうこ》の|奥《おく》へ|来《き》て、|其《その》|人民《じんみん》からは|神《かみ》の|如《ごと》くに|尊敬《そんけい》され、|心限《こころかぎ》りの|待遇《たいぐう》を|受《う》けて、|全《まつた》く|大神様《おほかみさま》のおかげだと|喜《よろこ》んで|居《ゐ》た。|日出雄《ひでを》の|神徳《しんとく》は|赫々《かくかく》として|旭日昇天《きよくじつしようてん》の|如《ごと》く、|遠近《ゑんきん》の|蒙古人《もうこじん》に|取囲《とりかこ》まれて|面白《おもしろ》き|月日《つきひ》を|送《おく》つてゐた。|一時《いちじ》|老印君《らういんくん》|等《とう》の|支那政府《しなせいふ》に|憚《はばか》つて|稍《やや》|冷遇《れいぐう》をされた|傾《かたむ》きがあつたが、|之《これ》は|老印君《らういんくん》|其《その》|外《ほか》|公爺府《コンエフ》に|仕《つか》へて|居《ゐ》る|二三《にさん》の|役員《やくゐん》のみに|限《かぎ》つたので、|一般人《いつぱんじん》からは|少《すこ》しも|冷遇《れいぐう》は|受《う》けなかつた。|又《また》|内地人《ないちじん》や|支那人《しなじん》の|狡猾《かうくわつ》なるに|比《くら》べて|蒙古人《もうこじん》は|真《しん》に|天真爛漫《てんしんらんまん》、その|性情《せいじやう》は|子供《こども》の|如《ごと》く、|神代《かみよ》の|人《ひと》の|如《ごと》くである。|現代《げんだい》の|如《ごと》き|悪化《あくくわ》した|世《よ》の|中《なか》に、こんな|天国《てんごく》があるかと|思《おも》へば、まだ|世《よ》の|中《なか》に|活《い》きた|生命《せいめい》のある|事《こと》を|楽《たの》しく|思《おも》はれるのである。
さて|四月《しぐわつ》|十四日《じふよつか》、|西北自治軍《せいほくじちぐん》|総司令《そうしれい》|上将《じやうしやう》として|盧占魁《ろせんくわい》は|二百人《にひやくにん》の|手兵《しゆへい》を|引率《いんそつ》し、|轎車《けうしや》に|乗《の》つて|無事《ぶじ》|公爺府《コンエフ》に|到着《たうちやく》した。|盧《ろ》は|直《す》ぐ|様《さま》|仮司令部《かりしれいぶ》に|入《い》り、|其《その》|足《あし》で|日出雄《ひでを》の|宿舎《しゆくしや》を|訪《たづ》ねて|来《き》た。|日出雄《ひでを》は|盧《ろ》が|来《き》たと|云《い》ふので|門口《かどぐち》に|出迎《でむか》へると、|盧占魁《ろせんくわい》は|大勢《おほぜい》の|兵士《へいし》の|前《まへ》で|日出雄《ひでを》に|抱《だ》きついて|嬉《うれ》し|泣《な》きに|泣《な》いた。|日出雄《ひでを》の|目《め》にも|感慨無量《かんがいむりやう》の|涙《なみだ》が|浮《うか》んでゐた。それから|盧占魁《ろせんくわい》は|鎮国公《ちんこくこう》から|送《おく》られた|純白《じゆんぱく》の|乗馬《じやうば》を|日出雄《ひでを》に|送《おく》り、|且《か》つ|沢山《たくさん》の|菓子《くわし》や|果物《くだもの》をすすめて|旅情《りよじやう》を|慰《なぐさ》めた。
|其《その》|後《ご》は|真澄別《ますみわけ》が|代《かは》つて|凡《すべ》ての|事務《じむ》を|盧《ろ》と|協議《けふぎ》する|事《こと》となつた、|日出雄《ひでを》は|歌《うた》を|詠《よ》んだり、|詩《し》を|作《つく》つたり、|日記《につき》を|書《か》いたり、|喇嘛《ラマ》や|村人《むらびと》に|覚束《おぼつか》ない|蒙古語《もうこご》で|神《かみ》の|教《をしへ》を|説《と》き|諭《さと》してゐた。
|公爺府《コンエフ》の|傍《かたはら》に|小《ささ》やかな|家《いへ》があつて、そこの|主人《しゆじん》は|丑他阿里太《ウツタアリタ》と|云《い》ひ|二人《ふたり》の|妻君《さいくん》を|持《も》つてゐる。さうして|一男二女《いちなんにぢよ》があり、|長女《ちやうぢよ》を|丑他倶喇《ウツタグラ》と|云《い》ひ、|日出雄《ひでを》が|門前《もんぜん》を|通《とほ》ると|主人《しゆじん》が、
『モンドユー、イホエミト、ポロハナ、イルジー イルジー』
と|頻《しき》りに|招《まね》くので|白凌閣《パイリンク》と|共《とも》に|小《ちひ》さい|蒙古包《もうこはう》の|中《なか》に|這入《はい》ると、
『|今日《けふ》は|喇嘛僧《ラマそう》を|二十人《にじふにん》|許《ばか》り|呼《よ》んで、|御馳走《ごちそう》をするのですから、ナラヌオロスのポロハナに|先《さき》に|食《く》つて|頂《いただ》き|度《た》い』
と|云《い》つて、メリケン|粉《こ》の|団子《だんご》に|羊《ひつじ》の|肉《にく》を|餡《あん》とし、|爐《ホープン》の|上《うへ》で|牛糞《ぎうふん》の|火《ひ》で|茹《ゆ》でた|団子《だんご》を|食《く》へとすすめる。|日出雄《ひでを》は|妙《めう》な|臭《にほひ》のする|団子《だんご》を|勧《すす》められ|迷惑《めいわく》したが、|蒙古人《もうこじん》の|好意《かうい》を|否《いな》む|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|感謝《かんしや》して|二《ふた》つ|三《みつ》つ|頬張《ほほば》つた。|其《そ》の|家《いへ》の|妻《つま》は|頻《しき》りに|茶《ちや》を|汲《く》んだり、|団子《だんご》を|持《も》つて|来《き》て|勧《すす》める。|日出雄《ひでを》は、
『|此《こ》の|上《うへ》|団子《だんご》は|腹《はら》が|大《おほ》きくて|食《く》へない』
と|云《い》つて|体《てい》よく|断《ことわ》り、|茶《ちや》と|煙草《たばこ》を|頻《しき》りに|乾燥《かんさう》した|口《くち》の|中《なか》へ|放《はう》り|込《こ》んでゐた。|此処《ここ》の|娘《むすめ》の|丑他倶喇《ウツタグラ》は|当年《たうねん》|十四歳《じふしさい》で|珍《めづ》らしい|美人《びじん》であり、|年《とし》に|似合《にあ》はぬ|大柄《おほがら》であつた。
ウツタグラと|云《い》ふ|名義《めいぎ》は|東洋一《とうやういち》の|美人《びじん》と|云《い》ふ|意味《いみ》である。どこともなく|威厳《ゐげん》が|備《そな》はり、|色《いろ》が|白《しろ》くて|目元《めもと》が|涼《すず》しく、|丁度《ちやうど》|観世音菩薩《くわんぜおんぼさつ》の|様《やう》な|姿《すがた》である。|日出雄《ひでを》は|此《こ》の|少女《せうぢよ》に|向《むか》つて、
『チンニ セーナ ホンモン(|汝《なんぢ》、|美人《びじん》)』
と|称揚《しようやう》すると、その|父親《てておや》が|直《す》ぐに|日出雄《ひでを》に|向《むか》つて、
『ピーシヤ、ムツトルテ、チンニン、ウツタグラ、シヤルトゲヤ』
と|云《い》つた。|此《この》|意味《いみ》は、
『|貴下《きか》は|立派《りつぱ》な|人《ひと》である。|私《わたし》の|娘《むすめ》ウツタグラを|貴下《きか》にあげませう』
と|云《い》ふのである。そこで|日出雄《ひでを》は|何《なん》とも|答《こた》へず|笑《わら》つて|帰《かへ》つて|来《き》た。さうすると|其《その》|翌日《よくじつ》から|少女《せうぢよ》がボロボロの|着物《きもの》を|立派《りつぱ》な|衣服《いふく》に|着換《きか》へて、|日出雄《ひでを》の|側《そば》へやつて|来《き》て、|茶《ちや》を|汲《く》んだり、ハンケチを|湯《ゆ》に|絞《しぼ》つたりして、|身《み》を|忘《わす》れて|世話《せわ》をした。よくよく|聞《き》いて|見《み》ると『|日本《につぽん》の|活仏《くわつぶつ》だから|決《けつ》して|妻子《さいし》は|無《な》いであらう。|此《この》|娘《むすめ》を|上《あ》げたならば、|屹度《きつと》|自分《じぶん》の|子《こ》として|相当《さうたう》の|処《ところ》へ|嫁《かしづ》けてくれるだらう』と|親心《おやごころ》から|思《おも》つたのだと|云《い》ふ。|蒙古人《もうこじん》は|日本人《につぽんじん》を|見《み》ると『|自分《じぶん》の|子《こ》をやらうやらう』と|云《い》ふ|癖《くせ》がある。|一行《いつかう》の|日本人《につぽんじん》も、あちらや、こちらで『|子《こ》をやらうか』と|云《い》はれて|有難迷惑《ありがためいわく》を|感《かん》じてゐた。
|或日《あるひ》ウツタナストの|隣家《りんか》に|三十人《さんじふにん》|許《ばか》りの|喇嘛《ラマ》が|集《あつま》つて|朝《あさ》の|六時《ろくじ》|頃《ごろ》から|夕方《ゆふがた》まで|陀々仏陀々々仏陀《ダダブダダダブダ》とのべつ|幕《まく》なしに|経文《きやうもん》を|挙《あ》げてゐるので|日出雄《ひでを》は|怪《あや》しんで|其《そ》の|家《いへ》に|這入《はい》り|覗《のぞ》いて|見《み》ると、|一人《ひとり》の|大病人《だいびやうにん》を|真中《まんなか》に|置《お》いて|喇嘛《ラマ》が|一生懸命《いつしやうけんめい》の|祈願《きぐわん》をやつて|居《ゐ》た。|病人《びやうにん》はダンダンと|苦《くる》しむ|許《ばか》りで|少《すこ》しも|快方《くわいはう》に|向《むか》はない。|喇嘛《ラマ》の|云《い》ふのには、
『|一日《いちにち》も|早《はや》く|国替《くにがへ》さして|天国《てんごく》に|救《すく》ひ、|病気《びやうき》の|苦《く》を|救《すく》ふ|為《ため》に|臨終《りんじゆう》の|早《はや》くなる|様《やう》に|祈願《きぐわん》してゐるのだ』
と|云《い》つてゐる。そこで|日出雄《ひでを》は|家《いへ》の|主人《しゆじん》に|向《むか》ひ、
『|即座《そくざ》に|此《この》|病気《びやうき》をなほしてやらうか』
と|云《い》つたら、|主人《しゆじん》は|低頭平身《ていとうへいしん》して|祈祷《きたう》を|頼《たの》むだ。|日出雄《ひでを》は|直《ただち》に|数多《あまた》の|喇嘛《ラマ》に|会釈《ゑしやく》し、|病人《びやうにん》の|額《ひたひ》に|軽《かる》く|手《て》をのせ『|悪魔《あくま》よ、|去《さ》れツ』と|一喝《いつかつ》した。|忽《たちま》ち|大熱《だいねつ》は|醒《さ》め、|其《その》|場《ば》で|病人《びやうにん》がムクムクと|起上《おきあが》り、|嬉《うれ》しさうにゲラゲラ|笑《わら》ひ|出《だ》した。
あまりの|奇瑞《きずゐ》に|喇嘛僧《ラマそう》は|驚《おどろ》いて、|益々《ますます》|日出雄《ひでを》を|大活仏《だいくわつぶつ》として|尊敬《そんけい》するやうになつた。|守高《もりたか》と|名田彦《なだひこ》とが|柔術《じうじゆつ》の|自慢《じまん》を|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|引《ひ》つきりなしにやるので、|岡崎《をかざき》や|王元祺《わうげんき》が|立腹《りつぷく》してゐる|処《ところ》へ、|名田彦《なだひこ》が|岡崎《をかざき》の|手《て》を|握《にぎ》つて|自慢《じまん》げに『|柔術《じうじゆつ》はこんなものだ』と|云《い》つた|所《ところ》、|岡崎《をかざき》はカツと|怒《いか》つて|小便《せうべん》のしてあつた|金盥《かなだらひ》を|名田彦《なだひこ》の|顔《かほ》にぶつつけた。|名田彦《なだひこ》は|非常《ひじやう》に|口惜《くやし》がつたが、|岡崎《をかざき》の|権幕《けんまく》に|恐《おそ》れ、|且《か》つ|日出雄《ひでを》になだめられて|歯切《はぎ》しりし|乍《なが》らヤツと|胸《むね》ををさめた。それから|日本人側《につぽんじんがは》は|白凌閣《パイリンク》が|日出雄《ひでを》と|真澄別《ますみわけ》に|対《たい》してはいろいろの|用《よう》を|聴《き》くが、|他《ほか》の|者《もの》の|云《い》ふ|事《こと》を|聴《き》かないと|云《い》ふので|大変《たいへん》に|白凌閣《パイリンク》を|憎《にく》み、|猪野《ゐの》|敏夫《としを》|等《ら》は|木片《もくへん》を|以《も》つて|白凌閣《パイリンク》の|横《よこ》ツ|面《つら》を|厳《きび》しく|殴《なぐ》りつけた。|忽《たちま》ち|顔面《がんめん》|脹《は》れ|上《あが》り、|血《ち》が|滲《にじ》み|出《で》た。|白凌閣《パイリンク》は|顔《かほ》を|抱《かか》へて、|蹲《うづく》まり、|涙《なみだ》を|流《なが》して|気張《きば》つてゐた。|白凌閣《パイリンク》の|父《ちち》は|同《おな》じ|公爺府《コンエフ》の|近《ちか》い|所《ところ》にゐるけれども、|白《パイ》は|此《この》|乱暴《らんばう》な|日本人《につぽんじん》の|仕打《しうち》を|父《ちち》に|告《つ》げ|様《やう》ともせず|一歩《いつぽ》も|動《うご》かずに|泣《な》いてゐた。|日出雄《ひでを》は|見兼《みか》ねて|白《パイ》の|顔《かほ》に|焼酎《せうちう》を|吹《ふ》きかけてやり、|且《かつ》|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》した|処《ところ》、|三十分間《さんじつぷんかん》|程《ほど》の|間《あひだ》に|脹《はれ》は|直《なほ》り、|顔《かほ》も|元《もと》に|復《ふく》して|了《しま》つた。|日出雄《ひでを》は|白《パイ》を|裏山《うらやま》に|散歩《さんぽ》を|名《な》として|連《つ》れて|行《ゆ》き、|覚束《おぼつか》ない|蒙古語《もうこご》で、
『お|前《まへ》は|猪野君《ゐのくん》にあんなひどい|目《め》に|会《あ》はされても、|自分《じぶん》の|親《おや》に|知《し》らしに|行《ゆ》かなかつたのは|感心《かんしん》だ』
と|云《い》つて|褒《ほ》めた|処《ところ》、|白《パイ》は|喜《よろこ》んで|言《い》ふやう、
『|私《わたし》は|大先生《だいせんせい》の|家来《けらい》になつたのですから、|最早《もは》や|父《ちち》に|頼《たよ》る|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。さうして|私《わたし》は|先生《せんせい》のお|弟子《でし》となり|喇嘛《ラマ》になる|積《つも》りですから、|先生《せんせい》の|代理《だいり》たる|真澄別《ますみわけ》さまの|命令《めいれい》は|聴《き》きますが、|其《その》|他《た》の|日本人《につぽんじん》の|命令《めいれい》に|服従《ふくじゆう》する|義務《ぎむ》はありませぬ。|仮令《たとへ》|日本人《につぽんじん》が|怒《いか》つて|殺《ころ》すとも|道《みち》ならぬ|人《ひと》の|命令《めいれい》は|諾《き》きませぬ。そんな|事《こと》をしますと|蒙古男子《もうこだんし》の|恥《はぢ》になります』
と|云《い》つた。|日出雄《ひでを》は|感心《かんしん》して|白《パイ》を|褒《ほ》めてやり、さうして|日本《につぽん》の|風俗《ふうぞく》や|習慣《しふくわん》を|語《かた》り|聞《き》かせ、
『お|前《まへ》の|云《い》ふのも|蒙古人《もうこじん》としては|尤《もつと》もだらうが、|日本人《につぽんじん》にはそんな|理窟《りくつ》は|通《とほ》らないから、|間《ま》のある|時《とき》は|他《た》の|日本人《につぽんじん》の|言《い》ふ|事《こと》も|聴《き》き、|世話《せわ》もして|貰《もら》ひたい』
と|語《かた》つた|所《ところ》、|白《パイ》は|諾《き》いて|其《その》|後《ご》は|誰彼《たれかれ》の|区別《くべつ》なく|言《い》ふ|事《こと》を|諾《き》く|様《やう》になつた。|白《パイ》の|父《ちち》|白厘九《パイリチウ》がやつて|来《き》て、
『|此《こ》の|伜《せがれ》は|一人息子《ひとりむすこ》ですから、あまり|遠《とほ》い|所《ところ》へはやり|度《た》くありませぬ。そして|白凌閣《パイリンク》には|隣村《りんそん》から|嫁《よめ》を|貰《もら》ふ|事《こと》に|決《き》まつて|居《を》りますから、|何《なん》とかして|体《からだ》をあけて|貰《もら》ふ|事《こと》は|出来《でき》ますまいか』
と|丁寧《ていねい》に|依頼《いらい》して|来《き》た。|日出雄《ひでを》は|父《ちち》の|言《げん》を|聞《き》いて|気《き》の|毒《どく》に|思《おも》ひ、|白凌閣《パイリンク》に、
『お|前《まへ》は|一人息子《ひとりむすこ》でもあり、お|前《まへ》の|父《ちち》は|老年《らうねん》でもあるから|大庫倫《だいクーロン》|迄《まで》|従軍《じゆうぐん》することは|親《おや》に|不孝《ふかう》になるかも|知《し》れぬ。そして|親《おや》と|妻君《さいくん》を|残《のこ》して|遠征《ゑんせい》に|上《のぼ》つても、お|前《まへ》も|気《き》が|気《き》であるまいから、|父《ちち》の|言葉《ことば》に|従《したが》へ』
と|云《い》つた|所《ところ》、|白《パイ》は|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》つて、
『イエイエ|一旦《いつたん》|蒙古男子《もうこだんし》が|誓《ちか》つた|言葉《ことば》は|金鉄《きんてつ》です。|父《ちち》や|妻《つま》は|神様《かみさま》に|任《まか》せておけば|宜《よろ》しい。|私《わたし》は|大先生《だいせんせい》の|行《ゆ》かるる|所《ところ》は|何処《どこ》|迄《まで》もお|供《とも》|致《いた》します』
と|云《い》つて|聞《き》かないので、|父《ちち》も|観念《かんねん》したと|見《み》え、『アハヽヽヽヽ』と|大《おほ》きく|笑《わら》つて、
『どうか|伜《せがれ》を|宜《よろ》しく|頼《たの》みます』
と|挨拶《あいさつ》して|帰《かへ》つたきり、|日出雄《ひでを》が|公爺府《コンエフ》を|出立《しゆつたつ》する|朝《あさ》|迄《まで》、その|父《ちち》は|訪《たづ》ねて|来《こ》なかつた。|之《これ》を|見《み》ても|蒙古人《もうこじん》の|男性的《だんせいてき》|気性《きしやう》が|知《し》れるのである。
|彼《かれ》|白《パイ》はかう|云《い》ふ|心掛《こころがけ》を|有《も》つて|居《ゐ》たから|神《かみ》の|保護《ほご》を|受《う》けたものか、|六月《ろくぐわつ》|二十一日《にじふいちにち》の|白音太拉《パインタラ》の|遭難《さうなん》の|時《とき》も|支那兵《しなへい》に|捕《とら》へられ、|銃殺《じうさつ》の|場《ば》に|立《た》たされた|一刹那《いつせつな》、|参謀長《さんぼうちやう》が|出《で》て|来《き》て、
『こんな|子供《こども》を|殺《ころ》した|所《ところ》が|仕方《しかた》が|無《な》い』
と|云《い》つて|白《パイ》を|逃《に》がしてやつた。それより|白《パイ》は|色々《いろいろ》と|艱難辛苦《かんなんしんく》して、|無一物《むいちぶつ》で|公爺府《コンエフ》へ|無事《ぶじ》|帰《かへ》る|事《こと》を|得《え》たのである。
(大正一四・八 筆録)
第一九章 |仮司令部《かりスーリンフ》
|寒風《かんぷう》|吹《ふ》き|荒《すさ》ぶ|黄塵万丈《くわうぢんばんじやう》の|蒙古《もうこ》の|住居《すまゐ》は、|実《じつ》に|惨澹《さんたん》たるものであつた。|〓南《たうなん》|以来《いらい》|二十日間《はつかかん》も|湯《ゆ》に|入《はい》らないので、|顔《かほ》は|鍋墨《なべすみ》の|如《ごと》く、|鼻《はな》の|穴《あな》や|耳《みみ》の|穴《あな》は|細《こま》かい|土埃《つちほこり》に|埋《うづ》まつて|居《ゐ》る。|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》のみならず、|蒙古人《もうこじん》の|顔《かほ》は|年《ねん》が|年中《ねんぢう》|入浴《にふよく》しないのだから、|実《じつ》に|垢《あか》まみれになつて|醜《みぐる》しい。|蒙古人《もうこじん》は|生《うま》れた|時《とき》|一度《いちど》|水《みづ》で|身体《からだ》を|洗《あら》つたきり、|終身《しゆうしん》|湯水《ゆみづ》で|体《からだ》を|洗《あら》ふと|云《い》ふ|事《こと》はない。|夏《なつ》になると|暑《あつ》さ|凌《しの》ぎに|河中《かちう》に|唯《ただ》の|一回《いつくわい》|位《ぐらゐ》|飛《と》び|込《こ》むこともあるが、|決《けつ》して|体《からだ》の|垢《あか》を|落《おと》さうとはしないのである。|蒙古《もうこ》の|婦人《ふじん》の|歩行《ほかう》する|様《さま》は|何《いづ》れも|外輪《そとわ》に|大手《おほて》を|振《ふ》つて|歩《ある》き、|遠方《ゑんぱう》から|見《み》てゐると|男女《だんぢよ》の|区別《くべつ》が|判《わか》らない。|唯《ただ》|耳《みみ》に|環《わ》が|下《さが》つて|居《ゐ》るのと|頭《かしら》に|宝石《ほうせき》が|光《ひか》つてゐるので、|其《その》|女《をんな》たるを|知《し》るのみである。|或時《あるとき》|日出雄《ひでを》が|屋外《をくぐわい》に|出《で》て|望遠鏡《ばうゑんきやう》をもつて|曠原《くわうげん》を|望《のぞ》んでゐると、|二町《にちやう》|許《ばか》り|向《むか》ふから|五十《ごじふ》|許《ばか》りの|色《いろ》の|黒《くろ》い、ポロを|下《さ》げた|蒙古婦人《もうこふじん》が|日出雄《ひでを》の|方《はう》に|向《むか》つて|進《すす》んで|来《き》た。|日出雄《ひでを》は|男《をとこ》か|女《をんな》か|老人《らうじん》か、|但《ただ》しは|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》かと|一生懸命《いつしやうけんめい》にのぞいてゐると、|其《その》|女《をんな》は|日出雄《ひでを》の|望遠鏡《ばうゑんきやう》でもつて|覗《のぞ》いてゐるとは|少《すこ》しも|気《き》がつかず、|忽《たちま》ち|裾《すそ》を|捲《まく》つて【ウツトコ】を|現《あらは》し、|無造作《むざうさ》に|道《みち》の|中央《ちうあう》で【シエスアンテイナ】をやりプイプイと|二三度《にさんど》|尻《しり》を|振《ふ》つて、|着衣《きもの》の|裾《すそ》で【ウツトコ】をこすり、|平然《へいぜん》として|日出雄《ひでを》の|前《まへ》にやつて|来《き》た。|日出雄《ひでを》が|望遠鏡《ばうゑんきやう》で|覗《のぞ》いてゐる|時《とき》|真澄別《ますみわけ》が|傍《そば》へやつて|来《き》て、『|一寸《ちよつと》|其《その》|望遠鏡《ばうゑんきやう》を|私《わたし》に|貸《か》して|下《くだ》さい』と|頼《たの》む、|日出雄《ひでを》は|笑《わら》ひ|乍《なが》ら『ナニ|今《いま》が|肝心要《かんじんかなめ》の|正念場《しやうねんば》だ。|蒙古婦人《もうこふじん》の【ウツトコ】を|実見《じつけん》してゐるのだ、こんな|機会《きくわい》は|又《また》とないから|先《ま》づ|御免《ごめん》|蒙《かふむ》りませう』と|云《い》つてゐる|間《あひだ》に【シエスアンテイナ】の|行事《ぎやうじ》は|済《す》んで|了《しま》つた。|後《あと》で|日出雄《ひでを》と|松村《まつむら》は|大声《おほごゑ》を|上《あ》げて|芝草《しばくさ》の|上《うへ》に|倒《たふ》れて|笑《わら》つた。
|公爺府《コンエフ》の|鎮国公《ちんこくこう》から|日本《につぽん》の|大先生《だいせんせい》にと|云《い》つて、|大《おほ》きな|豚《ぶた》を|一頭《いつとう》|割《わ》つて|其《その》|肉《にく》を|贈《おく》つて|来《き》た。|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》は|其《その》|厚意《こうい》を|謝《しや》し、|直様《すぐさま》|之《これ》を|煮《に》て|食膳《しよくぜん》に|上《のぼ》した。|所《ところ》が|公爺府《コンエフ》の|豚《ぶた》は|梅毒《ばいどく》|患者《くわんじや》の【ひつた】|糞《くそ》を|食《く》つてゐるので|豚《ぶた》までが|梅毒性《ばいどくせい》になつてゐると|見《み》え、|日出雄《ひでを》は|其《その》|毒《どく》に|当《あ》てられて|面部《めんぶ》を|除《のぞ》くの|外《ほか》|身体《からだ》|一面《いちめん》に|泡《あは》のやうな|痒疣《かゆいぼ》が|発生《はつせい》し、|夜《よ》も|昼《ひる》もガシガシとかいて|苦《くる》しんだ。|二先生《アルセンシヨン》の|真澄別《ますみわけ》も|亦《また》|豚《ぶた》の|毒《どく》にあてられ|顔《かほ》|一面《いちめん》に|疣《いぼ》が|発生《はつせい》した。|其《その》かはりに|日出雄《ひでを》とは|反対《はんたい》に|首《くび》から|下《した》はどつこも|犯《をか》されなかつた。あまり|痒《かゆ》いのでガシガシと|爪《つめ》で|掻《か》きむしつたから|堪《たま》らない、|忽《たちま》ち|顔面《がんめん》|脹《は》れあがり、|澄《す》みきつた|液汁《えきじう》がボトボトと|雨《あめ》の|如《ごと》くに|落《お》ちるやうになつた。さうして|日出雄《ひでを》が|鎮魂《ちんこん》して|癒《いや》さうとすれども、|真澄別《ますみわけ》は|寝《ね》てゐる|間《あひだ》に|知《し》らず|識《し》らず|顔《かほ》を|掻《か》くので、|益々《ますます》|顔《かほ》が|破《やぶ》れただれ、|牡丹餅《ぼたもち》のやうな|面相《めんさう》になつて|了《しま》つた。されど|真澄別《ますみわけ》は|何事《なにごと》も|神《かみ》の|御心《みこころ》だといつて|意《い》に|介《かい》せず|自然《しぜん》に|任《まか》してゐた。|漸《やうや》く|一ケ月《いつかげつ》の|後《のち》に|元《もと》の|如《ごと》く|綺麗《きれい》な|顔《かほ》になつたのは|幸《さいはひ》である。|一時《いちじ》は|到底《たうてい》|元《もと》のものにならないだらうといつて、|盧占魁《ろせんくわい》|初《はじ》め|日本人側《につぽんじんがは》も|非常《ひじやう》に|心配《しんぱい》したのである。
|公爺府《コンエフ》の|天空《てんくう》には|数百《すうひやく》の|鶴《つる》の|群《むれ》が|前後左右《ぜんごさいう》に|舞《ま》ひ|遊《あそ》び、|雪《ゆき》の|原野《げんや》を|飛《と》び|交《か》ひ|妙《めう》な|声《こゑ》を|出《だ》して|鳴《な》き|渡《わた》つてゐる。|到底《たうてい》|内地《ないち》ではこんな|事《こと》は|見《み》られないだらうと|云《い》つて、|日出雄《ひでを》は|其《その》|前途《ぜんと》の|幸運《かううん》を|祝《しゆく》した。|此《この》|辺《へん》は|楊柳《やうりう》の|木《き》や|錦木《にしきぎ》|及《およ》び|杏《あんず》の|木《き》などが、|山《やま》や|野《の》に|沢山《たくさん》|生《は》えてゐる。|雀《すずめ》はチユンチユンと|鳴《な》き、|鶏《とり》は|澄《す》み|切《き》つた|声《こゑ》でコケコツコーと|長《なが》く|謳《うた》ひ、|牛《うし》はモウモウ、|馬《うま》はヒンヒン、|猫《ねこ》はニヤンニヤン、|犬《いぬ》はワンワン、|日本並《につぽんな》みに|声《こゑ》を|放《はな》つて|鳴《な》いてゐる。|名田彦《なだひこ》はこれを|聞《き》いて『|鳥《とり》、|獣《けもの》は|偉《えら》いものだ、|蒙古《もうこ》の|奴《やつ》は|日本語《につぽんご》を|些《ちつ》とも|知《し》らないが、|鳥《とり》、|獣《けもの》は|日本語《につぽんご》を|使《つか》つてゐる』と|云《い》つて|笑《わら》つた。
|日出雄《ひでを》は|公爺府《コンエフ》|滞在中《たいざいちう》、|記憶便法和蒙作歌字典《きおくべんはふわもうさくかじてん》の|著作《ちよさく》に|着手《ちやくしゆ》し、|数千《すうせん》の|蒙古語交《もうこごまじ》りの|和歌《わか》を|作《つく》つた。さうして|其《その》|外《ほか》に|数百《すうひやく》の|述懐歌《じゆつくわいか》を|詠《よ》んだ。|左《さ》に|其《その》|一部《いちぶ》を|紹介《せうかい》する。
|容貌《ようばう》は|日人《にちじん》に|似《に》て|逞《たく》ましき|人《ひと》の|住《す》むなる|蒙古《もうこ》|楽《たの》しき
|冬籠《ふゆごも》りのみに|月日《つきひ》を|送《おく》るより|外《ほか》にすべなき|蒙古人《もうこじん》かな
|十年《じふねん》の|知己《ちき》に|遇《あ》ひたる|心地《ここち》して|清《きよ》く|交《まじ》はる|蒙古人《もうこじん》かな
|牛《うし》|馬《うま》や|犬《いぬ》|豚《ぶた》|驢馬《ろば》の|糞攻《くそぜ》めに|遇《あ》ひて|一日《ひとひ》を|今日《けふ》も|送《おく》りぬ
|朝戸出《あさとで》に|四方《よも》の|山々《やまやま》|見渡《みわた》せばいづれも|雪《ゆき》の|薄絹《うすぎぬ》よそふ
|今日《けふ》も|亦《また》つめたき|粉雪《こなゆき》ちらちらとふりつつ|吾《わが》|顔《かほ》なめてとほるも
|人《ひと》|見《み》れば|三《み》つ|四《よ》つ|五《いつ》つ|寄《よ》り|来《きた》りしきりに|吠《ほ》ゆる|蒙古犬《もうこいぬ》かな
|蒙古犬《もうこいぬ》|吠《ほ》ゆる|声《こゑ》きき|朝《あさ》まだき|窓《まど》をのぞけば|騎馬兵《きばへい》|来《きた》る
|公爺府《コンエフ》のしげこき|小屋《こや》にラハンテルハ|破《やぶ》れしを|敷《し》きて|一人《ひとり》|寝《ね》しかな
|蒙古女《もうこをみな》|耳《みみ》にかけたるスイハ(|耳環《みみわ》)|見《み》れば|印度《インド》の|国《くに》の|昔《むかし》|偲《しの》ばゆ
|蒙古路《もうこぢ》に|日《ひ》は|照《て》り|渡《わた》り|真白《ましろ》なる|山野《やまの》の|雪《ゆき》はとけそめにけり
|奉天《ほうてん》から|坂本《さかもと》|広一《くわういち》が|轎車《けうしや》に|乗《の》り|手紙《てがみ》を|持《も》つてやつて|来《き》た。それは|総《すべ》ての|計画《けいくわく》の|進行《しんかう》を|報告《はうこく》の|為《ため》である。|坂本《さかもと》は|熱心《ねつしん》な|日蓮宗《にちれんしう》の|信者《しんじや》であつた。|一時《いちじ》は|僧籍《そうせき》に|入《い》り|満州《まんしう》に|日蓮宗《にちれんしゆう》の|宣伝《せんでん》を|企《くわだ》てた|男《をとこ》である。|坂本《さかもと》は|暗夜《あんや》に|日出雄《ひでを》の|身体《しんたい》から|黄金色《わうごんしよく》の|光《ひかり》が|放射《はうしや》してゐたのを|霊眼《れいがん》で|認《みと》めて、|日出雄《ひでを》の|神格《しんかく》を|知《し》り、|俄《にはか》に|大本信者《おほもとしんじや》となつた。|彼《かれ》は|佐々木《ささき》や|大倉《おほくら》|等《ら》の|総《すべ》ての|行動《かうどう》を|熟知《じゆくち》してゐるので|邪魔者扱《じやまものあつか》ひをされ、|唐国別《からくにわけ》の|口《くち》を|通《つう》じて|唯一人《ただひとり》|入蒙《にふもう》を|命《めい》ぜられたのである。|次《つい》で|永《なが》らく|支那《しな》、|満州《まんしう》、|西比利亜《シベリア》|方面《はうめん》に|或《ある》|事業《じげふ》の|為《た》め|活躍《くわつやく》して|居《ゐ》た|井上《ゐのうへ》|兼吉《かねきち》が|奉天《ほうてん》からやつて|来《き》た。|此《この》|男《をとこ》は|盧占魁《ろせんくわい》の|命《めい》によつて、|危険《きけん》を|冒《をか》し、|綏遠《スヰヱン》や|張家口《ちやうかこう》|方面《はうめん》に|哥老会《からうくわい》の|楊成業《やうせいげふ》|其《その》|他《た》|馬賊《ばぞく》の|頭目《とうもく》に|密旨《みつし》を|伝《つた》へに|行《い》つた|剛胆《がうたん》な|男《をとこ》である。|支那《しな》の|革命戦争《かくめいせんさう》|等《とう》にも|加《くは》はり、|巴布札布《パプチヤツプ》の|戦争《せんそう》にも|参加《さんか》して|其《その》|名《な》を|轟《とどろ》かし、|満州《まんしう》や|蒙古《もうこ》の|馬賊《ばぞく》の|頭目《とうもく》に|沢山《たくさん》の|知己《ちき》を|持《も》つてゐる。|彼《かれ》は|盧占魁《ろせんくわい》の|仮司令部《かりしれいぶ》に|入《はい》つて|金銭出納係《きんせんすゐたふがかり》を|勤《つと》める|事《こと》となつた。
|老印君《らういんくん》から|〓児河《トールがは》で|捕獲《ほくわく》した、トーラボーと|云《い》ふ|長《なが》さ|二尺《にしやく》|許《ばか》りの|魚《うを》を|四尾《しひき》|送《おく》つて|来《き》た。|名田彦《なだひこ》の|巧妙《かうめう》な|料理法《れうりはふ》で|一同《いちどう》は|舌鼓《したづつみ》を|打《う》ち|賞玩《しやうぐわん》した。|今年《ことし》に|入《はい》つて|初《はじ》めての|魚獲《ぎよくわく》だから、|先《ま》づ|第一《だいいち》に|日出雄《ひでを》に|進呈《しんてい》したのであつた。
|四月《しぐわつ》|十三日《じふさんにち》|馬隊《ばたい》の|頭目《とうもく》|賈孟卿《ヂヤムチン》と|云《い》ふ|男《をとこ》が|日出雄《ひでを》を|訪《と》うた。|彼《かれ》は|二千人《にせんにん》の|部下《ぶか》を|有《いう》してゐるが、|盧占魁《ろせんくわい》の|義軍《ぎぐん》に|参加《さんか》すべく、|単身《たんしん》|此《この》|地《ち》|迄《まで》|忍《しの》んでやつて|来《き》たのである。|彼《かれ》は|新《あたら》しい|思想《しさう》の|男《をとこ》で、|其《その》|論旨《ろんし》も|極《きは》めて|明晰《めいせき》である。|背《せ》の|高《たか》い|逞《たくま》しい|男《をとこ》で、|年齢《ねんれい》|二十九歳《にじふきうさい》である。
|四月《しぐわつ》|十五日《じふごにち》|張作霖《ちやうさくりん》の|副官《ふくくわん》、|張華宣《ちやうくわせん》がやつて|来《き》て|盧占魁《ろせんくわい》を|伴《ともな》ひ|日出雄《ひでを》の|住居《ぢゆうきよ》を|訪《と》うた。|彼《かれ》は|支那人《しなじん》で|明治《めいぢ》|三十八年《さんじふはちねん》|東京《とうきやう》の|早稲田大学《わせだだいがく》を|卒業《そつげふ》した|男《をとこ》で|日本語《につぽんご》を|良《よ》くするので、|大変《たいへん》|話《はなし》が|面白《おもしろ》かつた。|元《もと》の|蒙古王《もうこわう》|曼陀汗《マンダハン》も|訪《たづ》ねて|来《き》て|蒙古《もうこ》|独立《どくりつ》の|人気《にんき》の|良《よ》い|話《はなし》を|交換《かうくわん》して|二人《ふたり》|司令部《しれいぶ》へかへつていつた。|日出雄《ひでを》が|奉天《ほうてん》を|自動車《じどうしや》で|出発《しゆつぱつ》の|際《さい》、|何《なに》くれと|世話《せわ》をして|見送《みおく》り|守《まも》つて|呉《く》れた|楊巨芳《やうきよはう》|氏《し》が|来訪《らいほう》し、|種々《しゆじゆ》|面白《おもしろ》き|話《はなし》を|交換《かうくわん》して|居《ゐ》ると、|前方《ぜんぱう》|原野《げんや》に|当《あた》つて|牛車《ぎうしや》、|馬車《ばしや》|数十台《すうじふだい》に|食糧《しよくりやう》、|寝具《しんぐ》|等《とう》を|積《つ》み|込《こ》み、|数十人《すうじふにん》の|騎馬《きば》の|兵卒《へいそつ》が|前後《ぜんご》を|守《まも》つて|来《く》るのが|見《み》えた。さうして|弥々《いよいよ》|本日《ほんじつ》|十連発《じふれんぱつ》のモーゼル|銃《じゆう》や|機関銃《きくわんじゆう》が|〓南《たうなん》を|発《はつ》すると|云《い》ふ|報告《はうこく》があつた。|日出雄《ひでを》が|渡満《とまん》|以来《いらい》|僅《わづ》か|二ケ月《にかげつ》|許《ばか》りにして|軍《ぐん》の|編成《へんせい》の|端緒《たんちよ》を|開《ひら》くに|至《いた》つたのも|全《まつた》く|人間業《にんげんわざ》ではないと|云《い》つて|喜《よろこ》んだ。|日夜《にちや》|四方《しはう》の|山々《やまやま》に|山火事《やまくわじ》があり、|雲《くも》の|焼《や》けてゐる|光景《くわうけい》は|実《じつ》に|壮観《さうくわん》である。|日出雄《ひでを》は|毎夜《まいよ》|戸外《こぐわい》に|出《い》で|楊《やなぎ》の|枝《えだ》を|地上《ちじやう》に|敷《し》き、|横臥《わうぐわ》して|大《おほ》きな|声《こゑ》で|音頭《おんど》を|取《と》りながら、|蒙古《もうこ》の|真赤《まつか》な|月《つき》を|眺《なが》めてゐる。
|老印君《らういんくん》は|支那《しな》の|将校《しやうかう》|馬鵬挙《ばほうきよ》と|共《とも》に|日出雄《ひでを》の|住宅《ぢゆうたく》を|訪《と》ひ、『|先日《せんじつ》は|誤解《ごかい》より|不行届《ふゆきとどき》の|事《こと》を|致《いた》しました。|私《わたし》もこれから|総司令《そうしれい》に|従《したが》つて|索倫《ソーロン》に|参《まゐ》りますから、|何分《なにぶん》にも|宜敷《よろし》く|願《ねが》ひます。|今迄《いままで》の|無礼《ぶれい》をお|詫《わ》びに|参《まゐ》りました』と|打《う》つてかはつた|挨拶《あいさつ》をした。|日出雄《ひでを》が|神軍《しんぐん》の|初陣《うひぢん》に|当《あた》つて|公爺府《コンエフ》|最高将官《さいかうしやうくわん》、|協理《けふり》、|老印君《らういんくん》を|従《したが》はしたのは|実《じつ》に|幸先《さいさき》がよいと|云《い》つて|喜《よろこ》び、|神明《しんめい》に|感謝《かんしや》の|辞《じ》を|捧《ささ》げた。
|盧《ろ》|総司令《そうしれい》が|公爺府《コンエフ》に|着《つ》いてからは|日々《ひび》|夕方《ゆふがた》になると|口令《こうれい》が|発布《はつぷ》された。これは|敵味方《てきみかた》を|暗夜《あんや》に|悟《さと》るべき|合言葉《あひことば》であつて、|軍探《ぐんたん》|警戒《けいかい》の|為《ため》である。
|四月《しぐわつ》|二十日《はつか》|神勅《しんちよく》により、|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》は|左記《さき》の|如《ごと》き|蒙古人名《もうこじんめい》を|与《あた》へられた。
|出口王仁三郎《でぐちおにさぶらう》|源日出雄《みなもとひでを》
|弥勒下生達頼喇嘛《みろくげしやうターライラマ》
|素尊汗《スーツンハン》(|言霊別命《ことたまわけのみこと》)
『|蒙古《もうこ》|姓名《せいめい》』
|那爾薩林喀斉拉額都《ナルザリンカチラオト》
|松村仙造《まつむらせんざう》|源真澄《みなもとますみ》
|班善喇嘛《ハンゼンラマ》
|真澄別《ますみわけ》|治国別命《はるくにわけのみこと》
|伊忽薩林伯勒額羅斯《イボサリンポロオロス》
(大正一四・八 筆録)
第二〇章 |春軍完備《しゆんぐんくわんび》
|四月《しぐわつ》|二十四日《にじふよつか》|午後《ごご》|〓南府《たうなんふ》|第二十七師長《だいにじふしちしちやう》|張海鵬《ちやうかいほう》の|副官《ふくくわん》が|二十二名《にじふにめい》の|騎馬兵《きばへい》を|従《したが》へ、|五台《ごだい》の|大車《だいしや》に|武器《ぶき》を|満載《まんさい》し|送《おく》り|来《きた》る。|又《また》|轎車《けうしや》|三台《さんだい》を|列《つら》ねて|奉天側《ほうてんがは》の|参謀《さんぼう》がやつて|来《き》た。
『|王元祺《わうげんき》が|麻雀《マージヤン》に|耽《ふけ》り、|阿片《あへん》を|喰《くら》ひ、ゴロゴロと|寝《ね》てばつかりゐよる。|盧《ろ》の|奴《やつ》ア|仮司令部《かりしれいぶ》で、|此奴《こいつ》も|亦《また》|武器《ぶき》も|到着《たうちやく》せないのに|気楽相《きらくさう》に|阿片《あへん》を|喰《くら》つてゐる。|其《その》|外《ほか》の|参謀《さんぼう》の|奴《やつ》ア、ど|奴《いつ》も|此奴《こいつ》も|阿片《あへん》を|喰《くら》ふ|位《くらゐ》だから、|碌《ろく》な|奴《やつ》ア|一匹《いつぴき》もけつからぬ。こんな|事《こと》で|何《ど》うして|軍隊《ぐんたい》の|操縦《さうじう》が|出来《でき》るか……』
と|口角泡《こうかくあわ》を|飛《と》ばし|真赤《まつか》な|面《かほ》で|怒《おこ》つてゐた|岡崎将軍《をかざきしやうぐん》も、|〓南府《たうなんふ》から|武器《ぶき》が|来《き》たのを|見《み》て、|俄《にはか》に|機嫌《きげん》が|直《なほ》り|直《ただち》に|仮司令部《かりしれいぶ》に|走《はし》つて|行《い》つた。
|茲《ここ》に|於《おい》て|公爺府《コンエフ》|滞在《たいざい》の|将卒《しやうそつ》は|頓《とみ》に|活気《くわつき》づき、|鼻息《はないき》が|荒《あら》くなつて、|歩《ある》き|振《ぶり》|迄《まで》が|変《かは》つて|来《き》た。|何《いづ》れの|兵士《へいし》も|武器《ぶき》が|来《き》たのを|見《み》て、あゝ|力《ちから》が|来《き》たのだ……と|喜《よろこ》んだ。|岡崎《をかざき》は|笑壺《えつぼ》に|入《い》り|乍《なが》ら、ソロソロ|鼻息《はないき》が|高《たか》うなり、
『|公爺府《コンエフ》の|餓鬼《がき》や、|老印君《らういんくん》の|爺《おやじ》|奴《め》、ゴテゴテ|吐《ぬか》すとモウ|承知《しようち》せぬぞ。|今迄《いままで》|吾々《われわれ》を|馬鹿《ばか》にしよつた』
と|傍若無人《ばうじやくぶじん》の|言語《げんご》を|放《はな》つてゐる。|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》|其《その》|他《た》の|日本人側《につぽんじんがは》もヤツと|安心《あんしん》して|愁眉《しうび》を|開《ひら》いた。
|翌《よく》|二十五日《にじふごにち》|正午頃《しやうごごろ》|盧占魁《ろせんくわい》を|招《まね》いて|奥地行《おくちゆき》の|相談《さうだん》をした。|曼陀汗《マンダハン》が|一緒《いつしよ》にやつて|来《き》て、
『|奥地《おくち》は|大変《たいへん》に|難所《なんしよ》が|多《おほ》いから、|沢山《たくさん》の|荷物《にもつ》は|到底《たうてい》|携帯《けいたい》することは|出来《でき》ませぬ。それ|故《ゆゑ》|必要品《ひつえうひん》のみを|持《も》つて|行《ゆ》くこととし、|其《その》|他《た》の|物《もの》は|奉天《ほうてん》へ|送《おく》り|返《かへ》す|方《はう》が|安全《あんぜん》です』
と|云《い》つた。そこで|日出雄《ひでを》は|沢山《たくさん》の|霊界物語《れいかいものがたり》を|初《はじ》め、|支那服《しなふく》や|日本服《につぽんふく》|全部《ぜんぶ》を|轎車《けうしや》に|積《つ》んで、|先《ま》づ|〓南《たうなん》の|長栄号《ちやうえいがう》に|送《おく》り|届《とど》け、|喇嘛《ラマ》の|法衣《ほふえ》のみを|着《き》て|行《ゆ》くことになつた。|盧占魁《ろせんくわい》は|索倫山《ソーロンざん》の|奥《おく》、|興安嶺《こうあんれい》には|七千人《しちせんにん》の|赤軍《せきぐん》が|割拠《かつきよ》してゐるから、|必《かなら》ず|衝突戦《しようとつせん》が|起《おこ》るであらう、それだから|凡《すべ》ての|荷物《にもつ》を|軽《かる》うしておかねばならぬのだ……と|口《くち》を|添《そ》へた。
|此《この》|日《ひ》|午後《ごご》|盧占魁《ろせんくわい》は|大事《だいじ》な|物《もの》を|日出雄《ひでを》に|預《あづ》けおき|張桂林《ちやうけいりん》|事《こと》|曼陀汗《マンダハン》の|先頭《せんとう》が|数十騎《すうじつき》|及《およ》び|二百《にひやく》の|歩兵《ほへい》を|率《ひき》ひ|索倫《ソーロン》へ|向《むか》つて|進《すす》む|事《こと》となつた。|守高《もりたか》、|名田彦《なだひこ》の|両人《りやうにん》には|十連発《じふれんぱつ》のモーゼル|銃《じゆう》を|一挺《いつてう》づつ|携帯《けいたい》せしめ、|坂本《さかもと》には|軽機関銃《けいきくわんじゆう》とモーゼル|銃《じゆう》を|携帯《けいたい》せしめ、|其《その》|他《た》の|日本人《につぽんじん》にも|一々《いちいち》|武器《ぶき》を|与《あた》へて|出発《しゆつぱつ》の|用意《ようい》をなさしめた。|但《ただ》し|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》は|宗教家《しうけうか》として|武器《ぶき》は|携帯《けいたい》しなかつたのである。それから|岡崎《をかざき》は|一先《ひとま》づ|猪野《ゐの》を|従《したが》へ|奉天《ほうてん》へ|帰《かへ》り、|後《あと》の|準備《じゆんび》を|整《ととの》へて|再《ふたた》び|索倫山《ソーロンざん》に|向《むか》ふ|事《こと》とした。
あくれば|二十六日《にじふろくにち》、|何全孝《かぜんかう》を|団長《だんちやう》となし、|馮虎臣《ひようこしん》を|護衛長《ごゑいちやう》となし、|二百《にひやく》の|将卒《しやうそつ》を|引《ひ》きつれ、|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》の|両人《りやうにん》は|二台《にだい》の|轎車《けうしや》に|分乗《ぶんじやう》し、|公爺府《コンエフ》を|出発《しゆつぱつ》した。|此《この》|日《ひ》は|旧暦《きうれき》の|三月《さんぐわつ》|二十三日《にじふさんにち》で|大本《おほもと》の|月並祭《つきなみさい》|当日《たうじつ》である。|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》が|公爺府《コンエフ》を|去《さ》らむとする|時《とき》、|数多《あまた》の|老若男女《らうにやくなんによ》が|見送《みおく》つて|来《き》て、|別《わか》れを|惜《をし》み、|中《なか》には|地《ち》に|伏《ふ》して|涕泣《ていきふ》する|者《もの》さへあつた。|臍《へそ》の|緒《を》|切《き》つてから|初《はじ》めて|軍隊《ぐんたい》を|引率《いんそつ》し、|蒙古救援軍《もうこきうゑんぐん》の|総督太上将《そうとくたいじやうしやう》に|推《お》されて|索倫山《ソーロンざん》に|向《むか》ふ|日出雄《ひでを》の|感想《かんさう》は、|果《はた》して|何《ど》んなものであつたらう。|彼方《かなた》|此方《こなた》の|楊柳《やなぎ》の|樹《き》は、|或《あるひ》は|紅《あか》く、|或《あるひ》は|黄《きいろ》く、|金赤《きんあか》の|水引《みづひ》きを|立《た》てた|如《や》うに|梢《こずゑ》を|飾《かざ》つてゐる。|四十支里《しじふしり》を|経《へ》たる|桑〓爾巴《サンカルパ》と|云《い》ふ|部落《ぶらく》の、ウフンシークの|家《いへ》に|休《やす》んで|昼食《ちうしよく》を|喫《きつ》し、|一時間《いちじかん》|許《ばか》り|息《いき》を|休《やす》め|全部隊《ぜんぶたい》の|到着《たうちやく》を|待《ま》つた。それより|轎車《けうしや》を|走《はし》らせて|午後《ごご》|五時《ごじ》|三十分《さんじつぷん》|阿布具伊拉《アフグイラ》に|安着《あんちやく》し、|農家《のうか》を|徴発《ちやうはつ》して|宿営《しゆくえい》することとなつた。|四五名《しごめい》の|家族《かぞく》で|比較的《ひかくてき》|富裕《ふいう》な|家庭《かてい》と|見《み》えた。|家人《かじん》|四五名《しごめい》が|代《かは》る|代《がは》る|日出雄《ひでを》や|真澄別《ますみわけ》の|前《まへ》にやつて|来《き》て、|活仏《くわつぶつ》の|来臨《らいりん》と|崇敬《すうけい》し、|土《つち》に|跪《ひざまづ》いて|礼拝《れいはい》するのであつた。|当家《たうけ》に|宿泊《しゆくはく》した|者《もの》は|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》、|守高《もりたか》、|名田彦《なだひこ》、|秦宣《しんせん》、|王元祺《わうげんき》、|坂本《さかもと》、|白凌閣《パイリンク》、|温長興《をんちやうこう》、|馮虎臣《ひようこしん》|等《ら》である。|其《その》|他《た》の|将卒《しやうそつ》は|附近《ふきん》の|部落《ぶらく》の|民家《みんか》を|徴発《ちやうはつ》して|宿営《しゆくえい》することとなつた。|此《この》|夜《よ》の|口令《こうれい》は|【春軍】《しゆんぐん》と|発布《はつぷ》した。|公爺府《コンエフ》を|去《さ》ること|正《まさ》に|八十支里《はちじふしり》の|地点《ちてん》である。|見渡《みわた》す|限《かぎ》り|目《め》も|届《とど》かぬ|大原野《だいげんや》を|巡《めぐ》らす|風景《ふうけい》よき|四方《しはう》の|岩山《いはやま》に|楊柳《やなぎ》、|楡《にれ》の|古木《こぼく》が|密生《みつせい》し、|楡《にれ》の|古木《こぼく》には|白《しろ》き|花《はな》が|咲《さ》きほこり、|楊《やなぎ》の|芽《め》は|紅《あか》く|得《え》も|言《い》はれぬ|風情《ふぜい》である。|西北《せいほく》に|当《あた》つて|〓児河《トールがは》の|清流《せいりう》を|隔《へだ》て、|風光《ふうくわう》の|佳《よ》い|古木《こぼく》の|交《まじ》つた|岩山《いはやま》に|金鉱《きんくわう》を|掘出《ほりだ》した|跡《あと》があり、|其《その》|稍《やや》|横《よこ》の|方《はう》には|喇嘛教《ラマけう》の|金廟《アルタメウ》の|壁《かべ》が|白《しろ》く|夕日《ゆふひ》に|輝《かがや》いてゐる。|何《なん》とも|彼《か》とも|言《い》はれない|気分《きぶん》の|良《よ》い|風《かぜ》が|吹《ふ》いて|来《き》て、|珍《めづ》らしい|鳥《とり》は|林間《りんかん》に|囀《さへづ》り、|牛馬《ぎうば》、|山羊《やぎ》の|群《むれ》は|安《やす》らかに|愉快《ゆくわい》|相《さう》に|遊《あそ》んでゐる。
|古人《こじん》の|言《い》つた『|初春柳含烟《しよしゆんりうがんえん》』の|句《く》も|当地《たうち》に|於《おい》ては|適用《てきよう》しない|様《やう》である。|凡《すべ》ての|柳《やなぎ》は|紅《あか》い|小枝《こえだ》を|真直《まつすぐ》に|天《てん》に|向《むか》つて|伸《の》ばし、|遠目《とほめ》には|秋《あき》の|紅葉《もみぢ》の|林《はやし》を|見《み》るやうである。『|春来柳含火《しゆんらいりうがんくわ》』と|言《い》つた|方《はう》が|適当《てきたう》であらう。|日出雄《ひでを》は|嘗《かつ》て|霊界《れいかい》に|於《おい》て|見聞《けんぶん》したる|第三天国《だいさんてんごく》の|光景《くわうけい》にそつくりだと|言《い》つて|喜《よろこ》んだ。『|春《はる》の|山姫《やまひめ》は|緑《みどり》|紅《くれなゐ》こき|交《ま》ぜて|我《わが》|神軍《しんぐん》を|迎《むか》へ|玉《たま》ふ』と|云《い》つて|真澄別《ますみわけ》は|勇《いさ》んでゐる。|日出雄《ひでを》はこの|曠原《くわうげん》を|天《あま》の|原《はら》と|命名《めいめい》し、|裏山《うらやま》の|大《だい》なる|岩窟《がんくつ》を|天《あま》の|岩戸《いはと》と|命名《めいめい》した。
|翌日《よくじつ》|午前《ごぜん》|八時《はちじ》|天《あま》の|原《はら》を|轎車《けうしや》に|乗《の》り、|二百《にひやく》の|兵士《へいし》を|引率《いんそつ》して|出発《しゆつぱつ》した。|蒙古《もうこ》の|河《かは》には|一《ひと》つも|橋《はし》が|架《かか》つてゐない。それ|故《ゆゑ》、|広《ひろ》い|深《ふか》い|河《かは》を|騎馬《きば》にて|渡《わた》らねばならぬ。|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》の|乗《の》つた|轎車《けうしや》は|浅瀬《あさせ》を|考《かんが》へて、やつとのことで|幾《いく》つも|幾《いく》つも|河《かは》を|渡《わた》り、|四十支里《しじふしり》を|経《へ》たるヘルンウルホに|宿営《しゆくえい》することとなつた。|斯《か》かる|所《ところ》へ|〓南《たうなん》から|後《あと》を|追《お》つて|来《き》た|轎車《けうしや》が|三台《さんだい》、|又《また》もや|色々《いろいろ》の|食料品《しよくれうひん》を|積《つ》んで|来《き》たのに|途中《とちう》で|会《あ》つた。|此《この》|間《かん》の|道筋《みちすぢ》は|実《じつ》に|麗《うるは》しく|大公園《だいこうゑん》の|中《なか》を|通過《つうくわ》する|様《やう》であつた。|途中《とちう》で|唐国別《からくにわけ》からの|手紙《てがみ》|五通《ごつう》を|受取《うけと》つて、|奉天《ほうてん》や|日本《につぽん》の|情報《じやうほう》|及《およ》び|新聞《しんぶん》の|切抜《きりぬ》きにて、|露《ろ》、|支《し》、|蒙《もう》の|関係《くわんけい》を|知《し》つた。
|公爺府《コンエフ》|以西北《いせいほく》の|日出雄《ひでを》が|通過《つうくわ》した|地点《ちてん》は、|沢山《たくさん》な|木材《もくざい》が|天然《てんねん》の|儘《まま》に|遺棄《ゐき》されてあり、|水田《すいでん》に|適当《てきたう》な|沃野《よくや》が|開闢以来《かいびやくいらい》、|手持無沙汰《てもちぶさた》に|際限《さいげん》もなく|横《よこた》はつてゐる。こんな|所《ところ》を|開墾《かいこん》して|穀類《こくるゐ》を|植付《うゑつ》け、|又《また》は|鉄路《てつろ》を|布《し》いて|樹木《じゆもく》を|伐《き》り|出《だ》し|鉱物《くわうぶつ》を|採掘《さいくつ》したならば、|実《じつ》に|大《だい》なる|国家《こくか》の|富源《ふげん》を|得《え》られるであらうと、|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》は|道々《みちみち》|話《はな》しつつ|進《すす》んで|行《い》つた。|此《この》|日《ひ》は|都合《つがふ》によつて|僅《わづ》か|四十支里《しじふしり》の|行軍《かうぐん》にとどめ、|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》はヘルンウルホの|公園《こうゑん》のごとき|麗《うるは》しき|原野《げんや》の|中《なか》を|衛兵《ゑいへい》|等《ら》に|先綱《さきづな》を|取《と》らせ、|騎馬《きば》にて|愉快気《ゆくわいげ》に|駆《か》け|廻《まは》りなどして、|半日《はんにち》を|費《つひや》した。|山羊《やぎ》、|豚《ぶた》、|犬《いぬ》、|牛馬《ぎうば》なども|沢山《たくさん》に|飼《か》つてある。|此等《これら》の|家畜《かちく》を|友《とも》として、|暖《あたた》かき|春《はる》の|日《ひ》を|送《おく》つた。|此処《ここ》には|露人《ろじん》と|蒙古人《もうこじん》との|中《なか》に|生《うま》れた|十歳《じつさい》|位《ぐらゐ》な|愛《あい》らしい|色《いろ》の|白《しろ》い|混血児《こんけつじ》が|一人《ひとり》あつた。そして|其《その》|母親《ははおや》といふのは、|少《すこ》し|許《ばか》り|垢抜《あかぬ》けのした|女《をんな》であつた。|此《この》|夜《よ》の|口令《こうれい》は|完備《くわんび》と|発布《はつぷ》された。|東西南北《とうざいなんぼく》の|山々《やまやま》は|火事《くわじ》を|起《おこ》し、|都合《つがふ》|五ケ所《ごかしよ》から|天《てん》を|焦《こが》して|燃《も》え|上《あが》り、|炎《ほのほ》の|先《さき》がチラチラと|雲《くも》を|舐《な》めてゐるのが|見《み》える。そして|此《この》|夜《よ》は|満天《まんてん》|墨《すみ》を|流《なが》した|如《ごと》く|曇《くも》り、|一点《いつてん》の|星影《ほしかげ》も|見《み》えず、|犬《いぬ》の|吠《ほ》ゆる|声《こゑ》、|殊更《ことさら》かしましく|聴《き》こえて|来《く》る。|坂本氏《さかもとし》のオチコ、ウツトコに|関《くわん》する|無邪気《むじやき》な|話《はなし》や、|名田彦《なだひこ》が|内地《ないち》にある|妻《つま》を|追想《つゐさう》して、オチコ、ウツトコ、ハテナの|話《はなし》に|面白《おもしろ》く|一夜《いちや》を|明《あ》かした。
あくれば|四月《しぐわつ》|二十八日《にじふはちにち》|午前《ごぜん》|五時《ごじ》|半《はん》、ヘルンウルホの|宿営《しゆくえい》を|出発《しゆつぱつ》し、|幾度《いくど》も|河《かは》を|横切《よこぎ》りて|下木局子《しももくきよくし》に|向《むか》つて|進《すす》むこととなつた。|世界《せかい》|各国《かくこく》の|言語《げんご》に|通《つう》じ、|柔術《じうじゆつ》の|達人《たつじん》、|米国《べいこく》|理髪学士《りはつがくし》、|乗馬《じやうば》の|達人《たつじん》と|言《い》ふてゐた|名田彦《なだひこ》の|騎馬姿《きばすがた》は|却《かへ》つて|危《あやふ》く|見《み》え、まだ|一度《いちど》も|馬《うま》に|跨《またが》つた|事《こと》の|無《な》い|真澄別《ますみわけ》、|守高《もりたか》の|両人《りやうにん》は、チヤンと|姿勢《しせい》が|備《そな》はつて|今迄《いままで》に|乗馬《じやうば》を|練習《れんしふ》した|人《ひと》と|見《み》えるなどと、|兵士《へいし》が|口々《くちぐち》に|評《ひやう》し|乍《なが》ら、|長《なが》い|行列《ぎやうれつ》を|作《つく》つて|西北《せいほく》の|空《そら》を|目当《めあ》てに|進《すす》み|行《ゆ》く。|索倫山《ソーロンざん》|迄《まで》|行《ゆ》かねば|乗馬《じやうば》が|揃《そろ》はないので、|徒歩《とほ》の|兵士《へいし》が|沢山《たくさん》あつた。そこらに|遊《あそ》んで|居《ゐ》る|驢馬《ろば》を|引《ひ》つ|張《ぱ》つて|来《き》て|之《これ》に|跨《またが》り、|木局子《もくきよくし》の|近辺《きんぺん》|迄《まで》|行《い》つて|驢馬《ろば》の|首《くび》を|東南《とうなん》へ|立直《たてなほ》し、|尻《しり》をポンと|叩《たた》いて|放《はな》ちやつた。|驢馬《ろば》は|一目散《いちもくさん》に|元来《もとき》し|道《みち》へ|馳《は》せ|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|二十支里《にじふしり》|程《ほど》の|此方《こつち》から|索倫山《ソーロンざん》の|頂《いただき》が|見《み》えて、|白《しろ》く|雪《ゆき》が|光《ひか》つてゐた。|護衛兵《ごゑいへい》の|馮虎臣《ひようこしん》は|日出雄《ひでを》に|山頂《さんちやう》の|雪《ゆき》を|指《ゆびさ》し、
『あの|山《やま》の|麓《ふもと》が|最早《もは》や|木局子《もくきよくし》で|厶《ござ》います。モウ|少時《しばらく》で|御座《ござ》いますから|御安心《ごあんしん》なさいませ』
と|云《い》ふ|意味《いみ》を|支那語《しなご》で|語《かた》り|聞《き》かせた。|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》は|勇気《ゆうき》|頓《とみ》に|加《くは》はり、|轎車《けうしや》を|出《い》でて|駒《こま》に|鞭《むちう》ちつつ|午前《ごぜん》|九時《くじ》|二十分《にじつぷん》に|無事《ぶじ》|下木局子《しももくきよくし》に|安着《あんちやく》する|事《こと》を|得《え》た。|総司令《そうしれい》|盧占魁《ろせんくわい》は|二百《にひやく》|許《ばか》りの|兵士《へいし》を|引《ひ》きつれて|我《わが》|一行《いつかう》を|迎《むか》へ、|直《ただち》に|手《て》を|取《と》つて|司令部《しれいぶ》へ|案内《あんない》した。|此《こ》の|司令部《しれいぶ》は|広大《くわうだい》なる|城廓構《じやうくわくかま》へで、|四五年前《しごねんまへ》|迄《まで》は|露国兵《ろこくへい》が|駐屯《ちうとん》し|木材《もくざい》の|税金《ぜいきん》を|取《と》つて|居《ゐ》た|所《ところ》だと|云《い》ふ。|普通《ふつう》の|蒙古《もうこ》の|家屋《かをく》と|異《ことな》り、|建築物《けんちくぶつ》も|余程《よほど》|宏荘《くわうさう》であり、|美麗《びれい》である。|今《いま》は|黒竜江省《こくりうこうしやう》の|管轄《くわんかつ》に|属《ぞく》し、|黒竜江《こくりうこう》から|官吏《くわんり》が|出張《しゆつちやう》して|事務《じむ》を|執《と》つて|居《ゐ》る。
(大正一四・八 筆録)
第二一章 |索倫本営《ソーロンほんえい》
|索倫山《ソーロンざん》|木局子《もくきよくし》は、|一時《いちじ》|露国《ろこく》が|占領《せんりやう》して|採木《さいぼく》の|税金《ぜいきん》を|取《と》る|為《た》め|木局署《もくきよくしよ》と|云《い》ふ|役所《やくしよ》を|作《つく》り、|多《おほ》くの|大鼻子《タービーヅ》がここに|悠然《いうぜん》と|割拠《かつきよ》したのである。|此《この》|地点《ちてん》は|黒竜江省《こくりうこうしやう》と|熱河《ねつか》と|外蒙《ぐわいもう》との|連鎖点《れんさてん》であり|露国《ろこく》が|占領《せんりやう》してから|索倫山《ソーロンざん》と|命名《めいめい》されたのである。|興安嶺山脈《こうあんれいさんみやく》の|支脈《しみやく》であつて、|日本里程《につぽんりてい》|一百里《いつぴやくり》|四方《しはう》の|間《あひだ》を|索倫地帯《ソーロンちたい》と|称《しよう》してゐる。その|後《ご》|蒙古馬賊《もうこばぞく》の|隊長《たいちやう》が|露兵《ろへい》を|追払《おつぱら》つて、ここに|根拠《こんきよ》を|構《かま》へ、|蒙古《もうこ》|独立《どくりつ》の|準備《じゆんび》をしてゐた。その|後《ご》|民国《みんごく》|七年《しちねん》|清朝復辟問題《しんてうふくへきもんだい》の|起《おこ》つた|時《とき》、|兵燹《へいせん》に|罹《かか》つて|家屋《かをく》は|殆《ほと》んど|滅亡《めつぼう》したのである。|今《いま》は|黒竜江省《こくりうこうしやう》の|管轄《くわんかつ》となり、|十数人《じふすうにん》の|官吏《くわんり》や|数十人《すうじふにん》の|兵士《へいし》が|守《まも》つてゐる。|行《ゆく》ゆくは|人口《じんこう》|増加《ぞうか》と|共《とも》に|索倫県《ソーロンけん》を|置《お》くと|云《い》ふ|事《こと》である。|曼陀汗《マンダハン》は|此《この》|辺《へん》の|馬隊《ばぞく》の|大頭目《だいとうもく》として|附近《ふきん》|数千名《すうせんめい》の|馬賊《ばぞく》を|率《ひき》ゐて|此処《ここ》に|根拠《こんきよ》を|固《かた》めてゐたが、|其《その》|部下《ぶか》は|今回《こんくわい》の|蒙古救援軍《もうこきうゑんぐん》の|為《ため》に、|外蒙《ぐわいもう》や|特別区域《とくべつくゐき》の|方《はう》へ|手分《てわ》けして|準備《じゆんび》のために|出《で》て|行《い》つて|了《しま》ひ、|僅《わづ》かに|数十名《すうじふめい》の|部下《ぶか》が|御大《おんたい》の|身辺《しんぺん》を|守《まも》つてゐる。
|日出雄《ひでを》|及《およ》び|盧占魁《ろせんくわい》が、|要害堅固《えうがいけんご》にして|難攻不落《なんこうふらく》と|称《とな》へらるる|此《この》|地点《ちてん》に|仮本営《かりほんえい》を|構《かま》へ|悠々《いういう》として|軍《ぐん》の|編成《へんせい》を|図《はか》つたのも、|地《ち》の|利《り》を|選《えら》んだ|為《た》めである。|〓南《たうなん》より|西北《せいほく》の|曠野《くわうや》は|到《いた》る|所《ところ》に|慓悍《へうかん》なる|馬賊団《ばぞくだん》が|沢山《たくさん》に|出没《しゆつぼつ》して、|支那人《しなじん》でさへも|這入《はひ》る|事《こと》の|出来《でき》ない|危険区域《きけんくゐき》であるが、|何《なん》と|云《い》つても|蒙古《もうこ》の|英雄《えいいう》|馬賊《ばぞく》の|大巨頭《だいきよとう》を|引連《ひきつ》れて|進《すす》んだのだから、|危険至極《きけんしごく》なる|馬賊《ばぞく》は|暗夜《あんや》に|太陽《たいやう》の|出《で》た|如《ごと》く|歓迎《くわんげい》の|至誠《しせい》を|尽《つく》して|従軍《じゆうぐん》すると|云《い》ふ|次第《しだい》であるから、|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》の|索倫入《ソーロンい》りは|極《きは》めて|易々《いい》たるものであつた。
|此《この》|度《たび》|日出《ひので》の|国《くに》の|大救世主《だいきうせいしゆ》を|盧《ろ》が|奉戴《ほうたい》して|蒙古救援軍《もうこきうゑんぐん》を|起《おこ》すと|云《い》ふので、|国民《こくみん》は|上下《じやうげ》を|挙《あ》げて|大《おほい》に|歓喜《くわんき》し、|素晴《すば》らしい|人気《にんき》であつた。|蒙古《もうこ》の|王《わう》、|喇嘛《ラマ》|及《およ》び|馬隊《ばたい》|等《とう》が|次《つぎ》から|次《つぎ》へと|噂《うはさ》を|聞《き》いて|集《あつま》り|来《きた》り、|部下《ぶか》を|率《ひき》ゐて|参加《さんか》するので、|瞬《またた》く|間《ま》に|左《さ》の|如《ごと》き|幹部《かんぶ》の|編成《へんせい》が|出来上《できあが》つた。
内外蒙古独立救援軍
(西北自治軍)
太上将 達頼喇嘛  素尊汗(日出雄)
上将  班善喇嘛  王文真(真澄別)
同   総司令   盧占魁
中将旅長      張彦三
中将参謀      侯成勲(岡崎)
中将旅長      劉仲元
中将旅長      張桂林(曼陀汗)
中将 副司令兼旅長 楊崇山
少将 同      鄒秀明
同  同      大英子児
同  同      何全孝
同  同      包金山(貝勒)
|尚《なほ》|司令部《しれいぶ》|各部官《かくぶくわん》は|左《さ》の|如《ごと》し。
軍法処長   李錫麟
秘書     王鐘元
繙訳官    王元祺
副官     魏元慶
営長     孫景堂
同      鄭秀峰
書記官    李阜麟
連長     馮萬徳
秘書     陳占元
連長     趙恩凱
書記長    張恵臣
排長     崔玉祥
同      金維棟
司務長    王〓璋
稽査長    〓鵬吉
偵探     高鳴九
連長     桑永剛
同      戦明武
副官     張順
排長     閏青山
連長     馮殿文
営長     馮佐臣
連長     程玉山
連長     王松林
盧占魁 謹呈
民国十三年五月九日
軍事顧問
王天海(日人)  王昌輝(日人)
王敬義(日人)  石大良(日人)
巴彦隆(蒙古王貝子)
|軍事《ぐんじ》に|関《くわん》する|往復《わうふく》|文書《ぶんしよ》の|一二《いちに》を|左《さ》に|紹介《せうかい》する。
(一)|盧占魁《ろせんくわい》より|〓遼鎮守使《たうれうちんじゆし》|〓朝爾《かんてうじ》に|宛《あ》てたるもの
敬寄遼源県
〓遼鎮守使署呈
〓鎮帥 鈎啓
自索倫山謹爾 四月二十九日
鎮帥鈎鑒敬稟者占魁於月之九日率部下北来蒙鎮帥格外照払諸事分神莫名感激二十七日即到索倫山刻下随帯人員共五百余名一路厳守秩序秋毫不犯趙副官走後劉省三即派人到索報称己招募隊伍七八百名於月之二十二日起程北来約三五日即能到索惟蒙旗高爾蘇公会経親密派妥員来索面允所属十旗毎旗各出兵百名其槍機甚不完全占魁又与蒙古徳王商議允為於伊所属十旗毎旗出兵二百名槍馬斉備一侯人馬到斉編制妥協後即行作速西発槍馬均属斉惟子弾不甚充足又不易購買将来恐有接済不上実属一大難点万蒙
鎮帥愈允格外分神代為設法購買至於需款若干占魁自己担承並懇或興
大師交渉請為発給以済軍実将来大事有成皆出
鎮帥之玉成矣粛此謹稟敬請鉤安伏乞
垂鑒   慮占魁   謹稟四月二十九日
(二)|盧占魁《ろせんくわい》より|楊《やう》|総参議《そうさんぎ》(|東三省《とうさんしやう》)に|宛《あて》たるもの
敬呈
楊総参議 鉤啓
白黒竜江索倫山謹粛 五月八日
総参議鉤鑒 違
範日久景仰弥深万具無函已将入手弁理情形報告諒邀
青鑒矣、刻下現有隊伍五百余名槍械馬匹完全整備正在防址訓練之初尚有一千余名大約五六日必到索倫惟此際槍械炮弾需用甚急即請選派妥員将械弾早日運輸来索以備応用占魁惟有仰頼
鉤座設法維持期収完全効果以符下忱至於労涜清神之処銘諸心版永矣弗〓而巳再者曾選派隊伍五六十名前往熱地購買馬匹預備編隊之用以後隊伍到斉如何編制之処均請鼎力維持俾便進行嗣後如何弁理随時陸続報吾粛此敬請
公安並信
覆示為盻 慮占魁 頓上 五月八日
(三)|盧占魁《ろせんくわい》より|吉林省《きちりんしやう》|張輔帥《ちやうほすゐ》に|宛《あて》たるもの
吉林督軍署
呈張輔帥 鉤啓
自江省拝緘
輔翁師長麾下遥違
英字時切葭思
竜門在望景仰何極近聞消息
栄膺吉督保障封疆長材得展下風欽佩鼎祝莫名遥為繻慕抃舞遠道預賀也占魁泰蒙
知遇感佩殊深北来兼句招募隊伍前已稟陳梗概事在創建頭緒紛如現已粗具規摸編成人数已有五六百之多其未到索者尚有一千余名大約一星期内必能到索嗣後招募竣事如何編制謹信我公指点略以便遵従並希多費金神鼎力設法維持一切将来編制就諸完成之処悉頼我公之賜也此後尚希不吝金玉遇事
教正以便遵寸為命是聴諒厚我者必不棄置也
粛此謹稟敬請
鉤安並叩
栄禧余維
斉照 虞占魁 謹粛 五月八日
敬再詢者占魁自前月初旬来索忽逾月余省城新聞均無従探息昨閲報載省中内有更変未知確否
再者 叙翁在京有無回奉確息主座対於叙帥之地位迄是否表決千里相隔諸多鬱悶統請不吝教言時示
南針以匡不達
占魁 又及
(四)|盧占魁《ろせんくわい》より|東三省《とうさんしやう》|張《ちやう》|副官《ふくくわん》に|宛《あ》てたるもの
面呈
張副官 慇啓
以黒竜江索倫山 拝緘 五月八日
華宣仁兄閣下前函諒蒙
収閲勿庸瑣涜現在内部已竟略目下規模招募隊伍計有五六百之譜刻間正在編制訓練之際其未到人数尚有一千余名大約五六日内必克到索但人数斉備而軍械尤為要緊急待応用甚至刻不容緩以期早日完全成立万祈速為設法運送来索務祈面向総参議婉詞核愈速愈妙勿使弟遠道盻望心旌揺之諒愛我者心能体念弟之衷趣也再懇者前在奉垣呈報属員家眷接済一項早蒙金諾批示在案此次随弟北来人員恐請
兄台一併費神佑照前情亦理庶免此視之誚茲特随函附呈人員名単一紙均祈早日批示施行不勝感〓之至〓此特懇致請
公安 弟 慮占魁 拝啓 五月八日
(大正一四・八 筆録)
第四篇 |神軍躍動《しんぐんやくどう》
第二二章 |木局収ケ原《ムチズがはら》
|王仁《おに》(|日出雄《ひでを》)、|松村《まつむら》(|真澄別《ますみわけ》)、|矢野《やの》(|唐国別《からくにわけ》)、|植芝《うゑしば》(|守高《もりたか》)、|名田《なだ》|音吉《おときち》(|名田彦《なだひこ》)、|佐々木《ささき》(|榊《さかき》)、|大石《おほいし》(|大倉《おほくら》)
|日出雄《ひでを》は|軍《ぐん》の|編成後《へんせいご》、|護衛長《ごゑいちやう》|馮巨臣《へうきよしん》|以下《いか》|十数名《じふすうめい》の|兵卒《へいそつ》を|伴《ともな》ひ、|北方《ほくほう》の|野山《のやま》に|兎狩《うさぎがり》を|催《もよほ》し、|或《ある》|時《とき》は|野生《やせい》の|韮《にら》や|蒜《にんにく》を|採集《さいしふ》し、|枯草《かれくさ》の|芒々《ばうばう》たる|原野《げんや》に|向《む》かつてテンムリチエブナをなし、|愉快《ゆくわい》に|索倫《ソーロン》の|日《ひ》を|送《おく》つて|居《ゐ》た。|岡崎《をかざき》|鉄首《てつしゆ》、|萩原《はぎはら》|敏明《としあき》、|猪野《ゐの》|敏夫《としを》の|三名《さんめい》は、|数十人《すうじふにん》の|兵士《へいし》に|送《おく》られ|馬《うま》に|跨《またが》りて、|途中《とちう》|馬賊《ばぞく》や|官兵《くわんぺい》の|囲《かこみ》を|衝《つ》いて|無事《ぶじ》|日出雄《ひでを》の|許《もと》に|着《つ》いた。|名田彦《なだひこ》は|日出雄《ひでを》|及《および》|盧《ろ》の|命《めい》に|依《よ》つて、|数名《すうめい》の|衛兵《ゑいへい》を|従《したが》へ|軍使《ぐんし》として|奉天《ほうてん》の|水也商会《みづやしやうくわい》へ|引《ひ》き|返《かへ》した。
|蒙古《もうこ》の|家屋《かをく》は|前述《ぜんじゆつ》の|通《とほ》り|極《きは》めて|不潔《ふけつ》で、|南京虫《なんきんむし》の|横行《わうかう》|甚《はなは》だしく、|加之《おまけ》に|幾十日《いくじふにち》も|湯《ゆ》を|使《つか》はない|為《た》めに|衣服《いふく》には|虱《しらみ》|発生《はつせい》し、|一行《いつかう》は|日々《ひび》|南京虫《なんきんむし》と|虱《しらみ》|退治《たいぢ》に|日《ひ》を|費《つひや》し、|南京虫《なんきんむし》の|予防《よばう》の|為《た》めにとて、いやな|香《にほひ》のする|蒜《にんにく》を|顔《かほ》をしかめて|食事《じよくじ》|毎《ごと》に|喰《く》つて|居《ゐ》た。|日出雄《ひでを》も|蒜《にんにく》を|喰《く》ひ|慣《な》れて|遂《つひ》には、|葱《ねぎ》や|野菜《やさい》の|生《なま》を|平気《へいき》で|嗜食《ししよく》するやうになつた。|温長興《をんちやうこう》は|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》の|炊事長《すゐじちやう》となり、|王〓璋《わうさんしやう》は|馬夫長《ばふちやう》となり、|王盛明《わうせいめい》は|随従長《ずいじうちやう》、|守高《もりたか》は|近侍長《きんじちやう》、|名田彦《なだひこ》は|近侍《きんじ》となつて|日出雄《ひでを》の|身辺《しんぺん》の|凡《すべ》ての|用務《ようむ》に|仕《つか》へ、|真澄別《ますみわけ》は|一切《いつさい》の|代理権《だいりけん》を|行使《かうし》する|事《こと》となつた。|又《また》|萩原《はぎはら》|敏明《としあき》は|写真係《しやしんがかり》、|坂本《さかもと》|広一《くわういち》は|近侍《きんじ》、|外《ほか》に|李連長《りれんちやう》|以下《いか》|二十名《にじふめい》の|兵士《へいし》が|直接《ちよくせつ》|保護《ほご》の|任《にん》に|当《あた》つて|居《ゐ》た。|総《すべ》ての|制度《せいど》がせせこましかつた|国《くに》から|十六倍《じふろくばい》の|面積《めんせき》を|有《いう》すると|云《い》ふ|蒙古《もうこ》へ|出《で》て|来《き》て、|沢山《たくさん》の|兵士《へいし》や|畜類《ちくるゐ》を|相手《あひて》に|自由自在《じいうじざい》に|勝手《かつて》な|事《こと》をして|飛《と》び|廻《まは》るのは、|生《うま》れて|以来《いらい》|五十四年間《ごじふよねんかん》|未《いま》だ|嘗《かつ》て|経験《けいけん》した|事《こと》のない|愉快《ゆくわい》さ|呑気《のんき》さだ。|大丈夫《だいぢやうぶ》たるもの|現世《げんせ》に|生《うま》れて|狭《せま》い|国《くに》で|強《つよ》い|圧迫《あつぱく》を|受《う》けて|居《ゐ》るよりも、|勝手気儘《かつてきまま》に|知《し》らぬ|外国《ぐわいこく》の|空《そら》で、|外国人《ぐわいこくじん》と|面白《おもしろ》く|遊《あそ》ぶのは|実《じつ》に|壮快《さうくわい》だと|日出雄《ひでを》は|喜《よろこ》んでゐた。
|索倫山《ソーロンざん》の|本営《ほんえい》には|馬隊《ばたい》の|頭目《とうもく》が|日々《ひび》|二百人《にひやくにん》|三百人《さんびやくにん》と|部下《ぶか》を|率《ひき》ゐて、|喇叭《ラツパ》の|声《こゑ》も|勇《いさ》ましく|参加《さんか》し|軍気《ぐんき》|大《おほい》に|振《ふる》つた。|盧《ろ》|総司令《そうしれい》は|五月《ごぐわつ》|一日《ついたち》|日出雄《ひでを》の|館《やかた》に|出《い》で|来《きた》り、
『|大庫倫《だいクーロン》に|進出《しんしゆつ》せむとすれば、|此処《ここ》より|二百支里《にひやくしり》を|隔《へだ》てたる|興安嶺《こうあんれい》の|或《ある》|地点《ちてん》に|赤軍《せきぐん》|七千人《しちせんにん》|駐屯《ちうとん》し、|警戒《けいかい》なかなか|厳重《げんぢう》なる|事《こと》が|斥候《せきこう》に|依《よ》つて|判明《はんめい》|致《いた》しました。それ|故《ゆゑ》、|貴下《きか》の|命《めい》に|従《したが》つて、|此《この》|儘《まま》|大庫倫《だいクーロン》へ|直進《ちよくしん》するは、|兵《へい》を|損《そん》じ|弾薬《だんやく》を|消費《せうひ》するばかりで、|且《か》つ|熱《ねつ》、|察《さつ》、|綏《すゐ》|三区域《さんくゐき》の|我《わ》が|数万《すうまん》の|参加軍《さんかぐん》の|到達《たうたつ》するは、|道《みち》|遠《とほ》くして|容易《ようい》でない。それ|故《ゆゑ》、|貴下《きか》の|意《い》に|背《そむ》くかは|知《し》りませぬが、|軍事《ぐんじ》の|経験上《けいけんじやう》、|熱《ねつ》、|察《さつ》、|綏《すゐ》の|特別区域《とくべつくゐき》に|進出《しんしゆつ》し、|本年《ほんねん》はこの|区域《くゐき》に|於《おい》て|冬籠《ふゆごも》りをなし、|完全《くわんぜん》な|兵備《へいび》を|整《ととの》へ|諸王《しよわう》を|招撫《せうぶ》し、|来春《らいしゆん》を|待《ま》つて|大庫倫《だいクーロン》に|進《すす》み|赤軍《せきぐん》と|交渉《かうせふ》を|開始《かいし》し、|若《も》し|和議《わぎ》|成《な》らざれば|止《や》むを|得《え》ず|開戦《かいせん》の|挙《きよ》に|出《い》づるを|可《か》とすべく、|大庫倫《だいクーロン》には|約《やく》|一万《いちまん》の|赤兵《せきへい》|駐屯《ちうとん》し、|戒厳令《かいげんれい》を|布《し》き|居《を》れば、|小数《せうすう》の|軍隊《ぐんたい》にては|容易《ようい》に|目的《もくてき》を|達《たつ》すべからず、|来春《らいしゆん》ならば|些《すく》なくとも|十万《じふまん》の|兵《へい》が|麾下《きか》に|集《あつ》まるは|確《たしか》なる|事実《じじつ》でありますから、|其《その》|上《うへ》にて|大庫倫入《だいクーロンいり》を|為《な》し、|茲《ここ》に|根拠《こんきよ》を|定《さだ》め、|勢《いきほひ》に|乗《じやう》じて|新彊《しんきやう》を|合《あは》せ、|西比利亜《シベリア》の|赤軍《せきぐん》を|帰順《きじゆん》させ、|飽迄《あくまで》も|人類愛《じんるゐあい》の|為《た》め、|貴下《きか》の|為《た》め、|一身《いつしん》を|捧《ささ》げ、|此《この》|上《うへ》|如何《いか》になり|行《ゆ》くとも|神《かみ》の|思召《おぼしめし》と|信《しん》じ|蒙古男子《もうこだんし》の|初志《しよし》を|貫徹《くわんてつ》さす|考《かんが》へです。|此《この》|目的《もくてき》を|達《たつ》した|暁《あかつき》は|支那《しな》|四百余州《しひやくよしう》は|言《い》ふに|及《およ》ばず、|東三省《とうさんしやう》も|必《かなら》ず|貴下《きか》の|命《めい》に|服《ふく》するでせう』
と|誠意《せいい》を|面《おもて》に|現《あら》はして|軍《ぐん》の|行動《かうどう》につき|命令《めいれい》を|乞《こ》うた。
|日出雄《ひでを》は|遠《とほ》く|故国《ここく》を|去《さ》つて|不知案内《ふちあんない》の|奥蒙《おくもう》の|地《ち》、しかも|言語《げんご》|不通《ふつう》の|支蒙人《しもうじん》を|相手《あひて》に|開闢《かいびやく》|以来《いらい》の|大神業《だいしんげふ》に|従事《じゆうじ》する──|彼《かれ》の|得意《とくい》は|果《はた》して|如何《いかが》であつただらう。|各地《かくち》の|王《わう》や|馬隊《ばたい》の|頭目《とうもく》、|活仏《くわつぶつ》などよりは|見舞《みまひ》として、|豚《ぶた》や|野羊《やぎ》、|炒米《チヨオミイ》などを|日出雄《ひでを》|及《およ》び|盧《ろ》|総司令《そうしれい》に|送《おく》つて|来《く》る。|日出雄《ひでを》は|盧《ろ》と|共《とも》に|日々《ひび》|感謝《かんしや》の|生活《せいくわつ》を|送《おく》つて|居《ゐ》た。|万有愛護《ばんいうあいご》の|教《をしへ》を|立《た》てて|居《ゐ》る|日出雄《ひでを》も、かかる|国《くに》へ|来《き》ては|否《いや》でも|応《おう》でも|豚《ぶた》や|羊《ひつじ》、|鶏肉《けいにく》などを|喰《く》はねばならなかつた。|真澄別《ますみわけ》はヌール、チヤカンナ、マチナ(|顔面《がんめん》の|吹腫物《ふきでもの》)に|苦《くるし》み、|守高《もりたか》は|出国《しゆつこく》|以来《いらい》の|風邪《かぜ》|未《いま》だ|癒《い》えず、|坂本《さかもと》も|亦《また》|風邪《かぜ》の|気味《きみ》にて|全身《ぜんしん》|痛《いた》み、|日出雄《ひでを》は|南京虫《なんきんむし》に|攻《せ》められて|居《ゐ》た。|一日《いちにち》、|蒙《もう》|秘書長《ひしよちやう》|来《きた》り、|支那語《しなご》を|以《もつ》て|左《さ》の|如《ごと》く|談《だん》じた。
『昨天到来、二百槍馬完全今日送給肥猪両口肥羊二隻、不出五日又来隊伍六百槍馬完全的。司令近非常歓喜所愁的款項無有的又苦於告貸将来隊伍均到来的無款的怎麼必実在投法子。
閣下不愁不遇現状況難一点的事作到張作霖必能付給款項俟将隊伍招斉款就不困難了』
|要《えう》するにその|主旨《しゆし》は、|兵備《へいび》が|整《ととの》つた|上《うへ》は|張作霖《ちやうさくりん》より|相当《さうたう》の|軍資金《ぐんしきん》|及《およ》び|武器《ぶき》を|送《おく》つて|来《く》るが、それ|迄《まで》は|仕方《しかた》がない、|暫《しばら》く|辛抱《しんばう》してくれと|云《い》ふ|意味《いみ》である。さうして|今日《こんにち》も|武器《ぶき》を|携帯《けいたい》して|参加兵《さんかへい》が|二百名《にひやくめい》|豚《ぶた》や|羊《ひつじ》を|送《おく》つて|来《き》た。|又《また》|五日《いつか》の|後《のち》には|六百《ろくぴやく》の|馬隊《ばたい》が|此処《ここ》に|到着《たうちやく》するとも|云《い》ふた。
|広大無辺《くわうだいむへん》の|肥《こ》えた|原野《げんや》を|雑草《ざつさう》の|生《お》ふるに|任《まか》せ|乍《なが》ら、|而《しか》も|他国人《たこくじん》の|入《い》り|来《きた》るを|嫌《きら》ひ、|怖《おそ》れて|外国人《ぐわいこくじん》と|見《み》れば|直《ただち》に|銃《じゆう》を|以《もつ》て|打《う》ち|殺《ころ》すと|云《い》ふ、|蒙古人《もうこじん》ともつかず|支那人《しなじん》ともつかぬ|又《また》|露西亜人《ろしあじん》でもないチヨロマン|人種《じんしゆ》が、|十年《じふねん》|以前《いぜん》|迄《まで》|此《この》|地《ち》に|割拠《かつきよ》して|居《ゐ》たが、|今《いま》は|数百支里《すうひやくしり》の|北方《ほくほう》の|森林《しんりん》に|退却《たいきやく》して|居《ゐ》る。|兎《うさぎ》や|雉《きじ》などは|此《この》|方面《はうめん》は|特《とく》に|多《おほ》く、|幾抱《いくかか》えもあるやうな|楊《やう》、|柳《りう》、|楡《にれ》の|大木《たいぼく》は|山野《さんや》に|繁茂《はんも》し、|〓児川《トールがは》の|曹達《そうだ》を|含《ふく》んだ|清流《せいりう》はゆるやかに|流《なが》れ、|天然《てんねん》の|恩恵《おんけい》は|無限《むげん》に|遺棄《ゐき》されて|居《ゐ》る|稀有《けう》の|宝庫《はうこ》である。|日出雄《ひでを》は|日本《につぽん》の|当局《たうきよく》や|政治家《せいぢか》が、|何故《なにゆゑ》|此《この》|地《ち》に|目《め》をつけないのであらうかと|怪《あや》しんだ。オンクス、アルテナ、ウンヌルテー(|放屁臭《へくさい》)など|云《い》つて、|蒙古人《もうこじん》を|相手《あひて》に|日出雄《ひでを》が|戯《たはむ》れて|居《ゐ》ると、|盧占魁《ろせんくわい》は|御機嫌《ごきげん》|伺《うかが》ひだと|云《い》つて、|〓南《たうなん》から|送《おく》つて|来《き》た|珍《めづ》らしい|菓子《くわし》や|果物《くだもの》などを|持《も》つて|来《き》た。さうして|盧《ろ》の|話《はなし》によれば、|成吉思汗《ジンギスカン》が|蒙古《もうこ》の|原野《げんや》に|兵《へい》を|挙《あ》げてから|六百六十六年《ろくぴやくろくじふろくねん》となり、|頭字《かしらじ》の|三《みつ》つ|揃《そろ》うたのを|見《み》れば、|愈々《いよいよ》|本年《ほんねん》は|三六《みろく》の|年《とし》だと|言《い》つて|勇《いさ》んで|居《ゐ》た。
|春《はる》の|野《の》にコルギーホアラ(|野生《やせい》|福寿草《ふくじゆさう》)あちこちとボルンガチチク(|紫色《むらさきいろ》の|花《はな》)|咲《さ》き|出《い》でにけり
|五月《ごぐわつ》の|上旬《じやうじゆん》であり|乍《なが》ら、|蒙古《もうこ》の|奥地《おくち》では|野生《やせい》の|福寿草《ふくじゆさう》が|白《しろ》や|紫《むらさき》に|咲《さ》き|誇《ほこ》つて、|殆《ほとん》ど|花莚《はなむしろ》を|敷《し》き|詰《つ》めた|如《ごと》く|美《うつく》しい。|日出雄《ひでを》は|此《この》|花莚《はなむしろ》の|中《なか》に|馬《うま》を|縦横無尽《じうわうむじん》に|鞭《むちう》ちながら、|数多《あまた》の|支蒙兵《しもうへい》を|指揮《しき》して|野遊《のあそび》を|試《こころ》みた。ケンケンと|雉子《きじ》の|声《こゑ》が|彼方《かなた》|此方《こなた》の|枯草《かれくさ》の|中《なか》から|聞《きこ》えて|来《く》る、|其処《そこ》へ|三匹《さんびき》の|山兎《やまうさぎ》が|飛《と》び|出《だ》した。|蒙古兵《もうこへい》は|直《ただ》ちにモーゼル|銃《じゆう》を|擬《ぎ》し、ポンポンポンと|三発《さんぱつ》|続《つづ》け|打《う》ちに|三匹《さんびき》の|兎《うさぎ》を|頭《あたま》|許《ばか》り|撃《う》つて|捕獲《ほくわく》した。|総《すべ》て|蒙古人《もうこじん》は|楊《やう》の|枝《えだ》で|弓《ゆみ》を|拵《こしら》へ、|細《ほそ》いので|矢《や》を|造《つく》り、|矢《や》の|先《さき》に|石《いし》を|縛付《しばりつ》けて|荒《あら》き|麻《あさ》の|繩《なは》を|弦《つる》となし、|空立《そらた》つ|鳥《とり》を|撃《う》つに|滅多《めつた》に|外《はづ》れた|事《こと》がない。|支那《しな》や|露西亜《ロシア》で|廃物《はいぶつ》になつたやうな|銃器《じゆうき》でも、|蒙古人《もうこじん》が|使《つか》ふと|一々《いちいち》|命中《めいちう》するのは|実《じつ》に|不思議《ふしぎ》な|程《ほど》である。|殆《ほと》んど|神様《かみさま》ではないかと|思《おも》ふ|程《ほど》、|天性的《てんせいてき》|射術《しやじゆつ》の|技能《ぎのう》が|備《そな》はつてゐる。|一日《いちにち》、|日出雄《ひでを》が|喇嘛服《ラマふく》を|着《つ》けた|儘《まま》|司令部《しれいぶ》の|遥《はる》か|前方《ぜんぱう》で、パサパーナ(|吐糞《とふん》)をやつて|居《ゐ》ると、シーゴーと|云《い》ふ|蒙古名物《もうこめいぶつ》の|猛犬《まうけん》がパサを|食《く》はむとして|七八頭《しちはつとう》も|集《あつま》つて|来《き》た。このシーゴーは|蒙古犬《もうこいぬ》と|狼《おほかみ》との|混血児《こんけつじ》で、|非常《ひじやう》に|強《つよ》く|如何《いか》なる|猛獣《まうじう》と|雖《いへど》も|噛《か》み|殺《ころ》すと|云《い》ふ|牧畜国《ぼくちくこく》の|蒙古《もうこ》にあつては|天与《てんよ》の|貴獣《きじう》である。|日出雄《ひでを》がポホラを|捲《まく》つてウンウンと|気張《きば》つてゐると、シーゴーがやつて|来《き》た。|草原《くさはら》の|穴《あな》の|中《なか》に|住《す》んでゐた|大眼子《ターエンズ》(チヨロマ)がパサの|臭《にほひ》を|嗅《か》いで|穴《あな》から|首《くび》をつき|出《だ》した|処《ところ》、|嗅覚《しうかく》の|鋭《するど》いシーゴーが|直様《すぐさま》|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|其《その》|穴《あな》を|前足《まへあし》で|掘《ほ》り、|見《み》る|見《み》るチヨロマを|捕獲《ほくわく》して|了《しま》つた。|其《そ》の|敏捷《すばし》こい|事《こと》は|実《じつ》に|驚歎《きやうたん》に|価《あたひ》する。
すると|折柄《をりから》|蒙古名物《もうこめいぶつ》の|大風《おほかぜ》が|吹《ふ》いて|来《き》た。|萩原《はぎはら》や|坂本《さかもと》が|馬《うま》に|遠乗《とほのり》して|原野《げんや》に|火《ひ》を|放《はな》つたので、|火《ひ》は|風《かぜ》に|煽《あふ》られ|一瀉千里《いつしやせんり》の|勢《いきほひ》で|黒煙《こくえん》|濛々《もうもう》と|日出雄《ひでを》の|身辺《しんぺん》|迄《まで》|迫《せま》つて|来《き》た。|茫々《ばうばう》たる|枯草《かれくさ》の|中《なか》|到底《たうてい》|逃《のが》れる|事《こと》は|出来《でき》ぬ。シーゴーは|盛《さか》んに|吠《ほ》え|立《た》てる。|日出雄《ひでを》は|昔《むかし》|日本武尊《やまとたけるのみこと》が|東夷征伐《とういせいばつ》の|時《とき》|駿河《するが》の|焼津《やいづ》で|賊軍《ぞくぐん》の|計略《けいりやく》にかかり|火《ひ》に|包《つつ》まれ、|燧《ひうち》を|取《と》り|出《だ》して|向《むか》へ|火《び》をつけ、|且《かつ》|叢雲《むらくも》の|神剣《つるぎ》にて|草《くさ》を|薙《な》ぎ|払《はら》ひ|大勝利《だいしようり》を|得《え》られた|故事《こじ》を|思《おも》ひ|出《だ》し、|直《ただち》に|佩刀《はいとう》を|抜《ぬ》き|放《はな》ち|身辺《しんぺん》の|草《くさ》を|薙《な》ぎ、|懐中《くわいちう》よりマツチを|取出《とりだ》して|向《むか》ひ|火《び》をつけ、さうして|天《あま》の|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》した。|不思議《ふしぎ》にも|風《かぜ》は|俄《には》かに|南方《なんぱう》に|変《へん》じ、|日出雄《ひでを》も|兵士《へいし》も|焼死《しやうし》の|難《なん》を|免《まぬ》かれた。|蒙古《もうこ》の|野《の》に|火《ひ》を|放《はな》つて|遊《あそ》ぶのは|実《じつ》に|剣呑《けんのん》である。
(大正一四・八 筆録)
第二三章 |下木局子《しもムチヅ》
|五月《ごぐわつ》|六日《むいか》(|旧《きう》|四月《しぐわつ》|三日《みつか》)|日出雄《ひでを》は|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|達頼喇嘛《タアライラマ》の|法服《ほふふく》をつけて|悍馬《かんば》に|跨《またが》り、|大原野《だいげんや》を|馳駆《ちく》した|結果《けつくわ》にや、|腰《こし》を|痛《いた》め、|午前中《ごぜんちう》は|臥床《ぐわしやう》してゐたが、|俄《にはか》に|便通《べんつう》を|催《もよほ》し、パサパーナの|為《た》めに|陣営《ぢんえい》の|北方《ほくほう》なる|枯草《かれくさ》の|野《の》に|出《い》で『イリチーカ』(|驢馬《ろば》)の|交尾《かうび》する|様《さま》を|面白《おもしろ》く|笑《わら》ひ|乍《なが》ら|打眺《うちなが》め、|其《その》オチコの|大《だい》なること、|馬《うま》の|如《ごと》くなるに|呆《あき》れ、|従卒《じゆうそつ》と|共《とも》に|広野《くわうや》に|横臥《わうぐわ》して|大笑《おほわら》ひをしてゐると、そこへ|萩原《はぎはら》|敏明《としあき》、|井上《ゐのうへ》|兼吉《かねきち》の|二名《にめい》が|軍用品《ぐんようひん》を|数台《すうだい》の|大車《だいしや》に|満載《まんさい》し、|悍馬《かんば》に|鞭《むちう》ち|驀地《まつしぐら》に|走《はし》つて|来《き》た。|萩原《はぎはら》が|蒙古入《もうこいり》をしたのは|此《この》|日《ひ》が|初《はじ》めてである。|萩原《はぎはら》は|〓南《たうなん》より|索倫《ソーロン》に|来《きた》る|途中《とちう》、|三回《さんくわい》も|落馬《らくば》した|失敗談《しつぱいだん》を|繰返《くりかへ》して|語《かた》つた。そこへ|三名《さんめい》の|騎兵《きへい》に|追《お》はれて、|上木局子《かみもくきよくし》|方面《はうめん》から|数百頭《すうひやくとう》の|荒馬《あらうま》が|司令部《しれいぶ》へ|着《つ》いた。これは|馬《うま》の|操縦《さうじう》に|妙《めう》を|得《え》たる|蒙古人《もうこじん》であつて、|其《その》|後《あと》から|十数名《じふすうめい》の|騎兵《きへい》が|之《これ》を|守《まも》りつつ|進《すす》んで|来《き》た。|萩原《はぎはら》、|井上《ゐのうへ》の|送《おく》つて|来《き》た|軍需品《ぐんじゆひん》の|中《なか》には|西王母《せいわうぼ》の|服《ふく》や、|数珠《じゆず》、|払子《ほつす》、|宣伝使服《せんでんしふく》|等《とう》、|日出雄《ひでを》の|必要品《ひつえうひん》が|這入《はい》つて|居《ゐ》た。
|萩原《はぎはら》はその|翌日《よくじつ》から|公爺府《コンエフ》|以西《いせい》で|撮影《さつえい》した|写真《しやしん》の|現像《げんぞう》を|始《はじ》めた。|夜《よ》に|入《い》つて|日出雄《ひでを》は|真澄別《ますみわけ》と|共《とも》に|四五《しご》の|護衛兵《ごゑいへい》を|引連《ひきつ》れ、|衛門《ゐいもん》を|出《で》て|空《そら》を|眺《なが》めてゐると、|忽然《こつぜん》として|西北《せいほく》の|空《そら》に|大彗星《だいすゐせい》が|出現《しゆつげん》した。|不思議《ふしぎ》にも|此《この》|彗星《すゐせい》は|三四十分《さんしじつぷん》の|間《あひだ》に|跡《あと》もなく|消《き》えて|了《しま》つた。|護衛長《ごゑいちやう》の|馮巨臣《ひやうきよしん》は|此《この》|現象《げんしやう》を|見《み》て、『|屹度《きつと》|明日《みやうにち》は|大暴風《だいばうふう》が|起《おこ》ります。あの|彗星《すゐせい》が|出《で》ますと|昔《むかし》から|蒙古《もうこ》では|大暴風《だいばうふう》があるのです。さうして|此《この》|彗星《すゐせい》は|御覧《ごらん》の|如《ごと》く|低空《ていくう》に|懸《かか》つて|居《を》ります。それ|故《ゆゑ》|支那《しな》や|朝鮮《てうせん》からは|仰《あふ》ぎ|見《み》ることは|出来《でき》ませぬ|云々《うんぬん》』と|説明《せつめい》した。
|軍司令部《ぐんしれいぶ》の|編成《へんせい》が|成《な》つたので|日出雄《ひでを》は|暫《しばら》く|小閑《せうかん》を|得《え》、|盧占魁《ろせんくわい》、|何全孝《かぜんかう》、|温長興《をんちやうこう》、|真澄別《ますみわけ》|其《その》|他《た》|十数名《じふすうめい》の|衛兵《ゑいへい》を|伴《ともな》ひ、|北方《ほくほう》の|丘陵《きうりよう》に|上《のぼ》り、|地図《ちづ》を|披《ひら》いて|地形《ちけい》を|調《しら》べてゐた。|日出雄《ひでを》と|盧占魁《ろせんくわい》は|山下《やました》の|原野《げんや》に|数多《あまた》の|兵士《へいし》が|調練《てうれん》をやつてゐるのを|望遠鏡《ばうゑんきやう》を|以《もつ》て|瞰下《かんか》してゐたが、|忽《たちま》ち|盧占魁《ろせんくわい》は「ブウブウブウブウ」と|七八弾《しちはちだん》|連発的《れんぱつてき》に|放屁《はうひ》をなし、ニツコリともせず|真面目《まじめ》な|顔《かほ》をしてゐる。|日出雄《ひでを》も|負《ま》けぬ|気《き》になり、|盧占魁《ろせんくわい》の|前《まへ》に|立《た》つて|八九発《はちくはつ》|機関銃《きくわんじう》のやうに|連発《れんぱつ》したが、それでも|盧占魁《ろせんくわい》はニコリともせず、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》をしてゐる。|蒙古人《もうこじん》は|人《ひと》の|前《まへ》で|屁《へ》を|放《ひ》ることは|何《なん》とも|思《おも》つてゐない。|又《また》|人《ひと》が|屁《へ》を|放《はな》つても|意《い》に|介《かい》せず、|日本人《につぽんじん》のやうに|可笑《をか》しがつて|笑《わら》ふと|云《い》ふ|事《こと》はない。|屁《へ》は|出物《でもの》、|腫物《はれもの》、|処嫌《ところきら》はずだ。|三宝《さんぽう》さんが|欠伸《あくび》した|位《くらゐ》に|感《かん》じてゐると|云《い》ふ|事《こと》だ。|之《これ》に|反《はん》して|人《ひと》の|前《まへ》で|欠伸《あくび》をすることは|大変《たいへん》な|失礼《しつれい》になり、|侮辱《ぶぢよく》したと|云《い》つて|怒《いか》ると|云《い》ふ。|処《ところ》|変《かは》れば|品《しな》|変《かは》るとは、よく|云《い》つたものである。
|一同《いちどう》は|山《やま》を|下《くだ》つて|或《ある》|民家《みんか》に|立寄《たちよ》ると|沢山《たくさん》の|鶏《とり》が|飼《か》つてあつた、|今《いま》|生《う》んだ|計《ばか》りの|皮《かは》の|柔《やはらか》い|鶏卵《けいらん》が|二《ふた》つ|三《みつ》つあつた。それを|其《その》|家《いへ》の|主人《しゆじん》が|直《す》ぐに|手《て》に|載《の》せて|日出雄《ひでを》の|前《まへ》に|跪《ひざまづ》き、イオエミトポロハナ、テーハウントコ、シヤルトゲア(|大活仏《だいくわつぶつ》、|鶏卵《けいらん》|献上《けんじやう》)と|云《い》つて|日出雄《ひでを》に|与《あた》へた。|日出雄《ひでを》は|喜《よろこ》んで|真澄別《ますみわけ》と|共《とも》に|一個《いつこ》づつ|其《その》|場《ば》で|吸《す》うた。これより|沢山《たくさん》の|兵士《へいし》は|鶏《とり》の|卵《たまご》の|生《う》みたてがあれば、|騎馬《きば》に|跨《またが》り|五六支里《ごろくしり》の|処《ところ》も|遠《とほ》しとせず、|日出雄《ひでを》が|好《す》きだと|云《い》ふので|持《も》つて|来《く》るやうになつた。|夜《よ》になると『カツコーカツコー』と|云《い》ふて|彼方此方《あちこち》からの|山林《さんりん》から|妙《めう》な|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》る。|此《この》|鳥《とり》が|鳴《な》き|出《だ》すと|蒙古人《もうこじん》は|粟《あは》や|高粱《かうりやう》の|種《たね》を|蒔《ま》き|初《はじ》めるのである。|昼《ひる》は|真澄別《ますみわけ》が|日出雄《ひでを》の|認《したた》めておいた|日記《につき》や|支那字《しなじ》で|作《つく》つた|小説《せうせつ》|等《とう》を|読《よ》んで|日出雄《ひでを》の|無聊《ぶれう》を|慰《なぐさ》め、|守高《もりたか》、|坂本《さかもと》は|日出雄《ひでを》の|手足《てあし》を|揉《も》んだり、|日出雄《ひでを》の|日記《につき》を|浄写《じやうしや》したりしてゐた。|名田彦《なだひこ》は|公爺府《コンエフ》|以来《いらい》、|日出雄《ひでを》の|頭髪《とうはつ》を|揃《そろ》へたり、|顔《かほ》を|剃《そ》つたり、|〓児河《トールがは》で|捕獲《ほくわく》して|兵士《へいし》が|送《おく》つて|来《き》た『トーラボー』と|云《い》ふ|魚《うを》を|料理《れうり》し|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》に|勧《すす》めて|居《ゐ》た。
|蒙古兵《もうこへい》、|支那兵《しなへい》は|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なく、|交《かは》る|代《がは》る、|日出雄《ひでを》が|住宅《ぢゆうたく》の|入口《いりぐち》に|二名《にめい》づつ|立《た》つて|護衛《ごゑい》してゐた。|時々《ときどき》|角砂糖《かくざたう》や|飴《あめ》を|日出雄《ひでを》の|手《て》から|貰《もら》つて|子供《こども》の|如《ごと》くに|喜《よろこ》んでゐる。|日出雄《ひでを》は|沢山《たくさん》な|腕時計《うでどけい》を|奉天《ほうてん》より|送《おく》らせ、|護衛兵《ごゑいへい》|一般《いつぱん》に|一個《いつこ》づつ|与《あた》へ、|支那製《しなせい》の|巻煙草《まきたばこ》|二十本《にじつぽん》|入《い》りを|一人《ひとり》に|二個《にこ》づつ|日々《ひび》に|与《あた》へてゐた。さうして|食料《しよくれう》は|支那米《しなまい》や|其《その》|外《ほか》|昆布《こんぶ》、|和布《わかめ》、いろいろの|缶詰《かんづめ》、|鯣《するめ》|等《とう》を|沢山《たくさん》に|持《も》つてゐたので、|盧占魁《ろせんくわい》の|司令部《しれいぶ》に|居《を》つて|不味《まづ》い|高粱《かうりやう》の|粥《かゆ》を|食《く》はされてゐるのに|比《ひ》し、|非常《ひじやう》に|結構《けつこう》だと|云《い》ふので|日出雄《ひでを》の|護衛《ごゑい》にならむ|事《こと》を|希望《きばう》する|者《もの》、|日々《ひび》に|殖《ふ》えて|来《き》て、|盧占魁《ろせんくわい》も|大《おほ》いに|閉口《へいこう》したと|云《い》ふ。そして|日出雄《ひでを》の|希望《きばう》に|依《よ》つて|白馬《はくば》のみを|集《あつ》め、|護衛兵《ごゑいへい》|全部《ぜんぶ》は|白馬隊《はくばたい》の|如《ごと》き|感《かん》があつた。
|五月《ごぐわつ》|十一日《じふいちにち》(|旧《きう》|四月《しぐわつ》|八日《やうか》)は|日出雄《ひでを》が|出国《しゆつこく》|以来《いらい》、|満《まん》|三ケ月《さんかげつ》に|当《あた》る|吉日《きちにち》である。|日出雄《ひでを》の|元気《げんき》は|最《もつと》も|旺盛《わうせい》にして、|朝《あさ》|早《はや》くから|原野《げんや》に|出《い》で、|乗馬姿《じやうばすがた》の|写真《しやしん》を|撮影《さつえい》したり、|又《また》は|野《の》に|火《ひ》を|放《はな》つて|興《きよう》に|入《い》つたり、コルギーホワラ、チチクの|咲《さ》き|誇《ほこ》つた|花《はな》の|野《の》に|寝転《ねころ》んだり、|兎《うさぎ》を|追《お》ひ|出《だ》したり、|太陽《たいやう》の|傾《かたむ》く|頃《ころ》まで|遊《あそ》んで|帰《かへ》つて|来《く》ると、|蒙古《もうこ》の|土人《どじん》が|鶏《にはとり》を|四五羽《しごは》|持《も》つて|日出雄《ひでを》に|面会《めんくわい》を|求《もと》めて|来《き》た。|日出雄《ひでを》は|鶏《にはとり》を|贈《おく》られた|厚意《かうい》を|謝《しや》し、|蒙古人《もうこじん》の|額《ひたひ》に|手《て》を|軽《かる》くあて、|洗礼《せんれい》を|施《ほどこ》してゐると、そこへ|公爺府《コンエフ》の|協理《けふり》や|主事《しゆじ》が|二十人《にじふにん》の|騎兵《きへい》を|引率《いんそつ》し、|日出雄《ひでを》|及《および》|盧占魁《ろせんくわい》に|挨拶《あいさつ》の|為《た》めに|訪《たづ》ねて|来《き》た。さうして|老印君《らういんくん》|等《ら》は|何処《どこ》までも|盧《ろ》に|従軍《じゆうぐん》せむ|事《こと》を|願《ねが》つて|已《や》まなかつた。|日出雄《ひでを》は|此処《ここ》でも|沢山《たくさん》の|歌《うた》を|詠《よ》んだ。|其《その》|一部《いちぶ》を|左《さ》に|紹介《せうかい》する。
|駒《こま》|並《な》めて|木局《ムチ》の|荒野《あれの》を|進《すす》み|行《ゆ》く|吾《わが》|軍卒《ぐんそつ》の|姿《すがた》|雄々《をを》しき
シヤカンメラ(|白馬《はくば》)|轡《くつわ》|並《なら》べて|進《すす》み|行《ゆ》けば|神代《かみよ》に|住《す》める|人《ひと》の|心地《ここち》す
|村肝《むらきも》の|心《こころ》もみつつ|吾《わが》|軍師《ぐんし》|〓南《たうなん》あたり|進《すす》むなるらむ
|官兵《くわんぺい》の|出馬《しゆつば》と|聞《き》いて|吾《わが》|同志《どうし》|索倫入《ソーロンい》りに|悩《なや》むなるらむ
|数千里《すうせんり》|山河《さんが》|隔《へだ》てて|吾《われ》は|今《いま》|木局子《ムチズ》の|野辺《のべ》に|駒《こま》に|鞭《むち》うつ
バカホンナお|留守《るす》にお|山《やま》の|大将《たいしやう》を|気取《きど》りて|神《かみ》を|汚《けが》す|枉《まが》あり
|新緑《しんりよく》の|絹《きぬ》をまとひて|今頃《いまごろ》は|日本《につぽん》の|山野《さんや》|栄《さか》えぬるらむ
はや|初夏《しよか》の|頃《ころ》とはなれど|蒙古地《もうこぢ》は|春《はる》の|初《はじ》めの|姿《すがた》なりけり
|雲《くも》の|窓《まど》|明《あ》けて|覗《のぞ》きし|月影《つきかげ》は|一入《ひとしほ》|清《きよ》く|神軍《いくさ》を|照《て》らす
バラガーサ、ホントルモトの|茂《しげ》りたる|林《はやし》に|駒《こま》を|鞭《むちう》ち|遊《あそ》ぶ
|雪《ゆき》|解《と》けて|川水《かはみず》|日々《ひび》に|増《ま》し|行《ゆ》けば|少時《しばし》|木局子《ムチズ》に|駒《こま》を|駐《とど》むる
|枯山《かれやま》は|日々《ひび》に|青《あを》みて|水《みづ》ぬるみオブスレブチもホラに|茂《しげ》り|行《ゆ》く
|五月《ごぐわつ》|十三日《じふさんにち》|仏爺喇嘛《フエラマ》|部下《ぶか》の|喇嘛僧《ラマそう》|三人《さんにん》と|兵士《へいし》|数名《すうめい》を|従《したが》へ、|司令部《しれいぶ》に|日出雄《ひでを》を|来訪《らいほう》したので、|日出雄《ひでを》は|真澄別《ますみわけ》をして|接見《せつけん》せしめ、|喇嘛教《ラマけう》との|提携《ていけい》を|約《やく》さしめた。|旅長《りよちやう》|張彦三《ちやうけんさん》は|数多《あまた》の|兵《へい》を|率《ひき》ゐて|上木局子《かみもくきよくし》に|進軍《しんぐん》した。|之《これ》は|日出雄《ひでを》の|宿営地《しゆくえいち》を|調査《てうさ》せむが|為《ため》であつた。|蒙古《もうこ》には|仏爺喇嘛《フエラマ》|即《すなは》ち|活仏《くわつぶつ》と|称《しよう》するもの|約一千人《やくいつせんにん》ありと|云《い》ふ。|同日《どうじつ》|〓南府《たうなんふ》|長栄号《ちやうえいがう》|主任《しゆにん》|三井《みつゐ》|寛之助《くわんのすけ》|及《および》|佐々木《ささき》より、|一千《いつせん》の|官兵《くわんぺい》、|馬賊討伐《ばぞくたうばつ》のため|進軍中《しんぐんちう》なれば|日本人《につぽんじん》の|索倫入《ソーロンいり》は|大困難《だいこんなん》なりと|報《はう》じ|来《きた》る。|盧占魁《ろせんくわい》の|進言《しんげん》に|依《よ》り|日出雄《ひでを》は|上木局子《かみもくきよくし》へ|進出《しんしゆつ》する|事《こと》に|決定《けつてい》した。
|此《この》|時《とき》|王元祺《わうげんき》は|左《さ》の|詩《し》を|作《つく》つて|日出雄《ひでを》を|讃歎《さんたん》した。
救世至尊  弥勒為心
無分貴賤  一視同仁
(大正一四・八 筆録)
第二四章 |木局《ムチ》の|月《つき》
|五月《ごぐわつ》|十四日《じふよつか》|即《すなは》ち|王日《わうじつ》|午前《ごぜん》|九時《くじ》|上将《じやうしやう》|盧占魁《ろせんくわい》は|太上将《たいじやうしやう》|日出雄《ひでを》の|陣営《ぢんえい》に|来《きた》り、|午前《ごぜん》|十時《じふじ》|半《はん》、|下木局収《しももくきよくしう》の|兵営《へいえい》の|出発《しゆつぱつ》を|見送《みおく》つた。|轎車《けうしや》|二台《にだい》、|大車《だいしや》|一台《いちだい》に|荷物《にもつ》を|積《つ》み|数多《あまた》の|兵士《へいし》を|前後《ぜんご》に|従《したが》へ、|蜒蜿《えんえん》として|大原野《だいげんや》を|流《なが》るる|〓児河《トールがは》の|激流《げきりう》を|幾度《いくど》となく|騎馬《きば》にて|渡《わた》り、|午後《ごご》|三時《さんじ》|半《はん》、|無事《ぶじ》|上木局収《かみもくきよくしう》の|仮殿《かりどの》に|安着《あんちやく》した。|蒙古《もうこ》の|馬《うま》は|体躯《たいく》|日本《につぽん》の|乗馬《じようば》に|比《ひ》して|稍《やや》|小《せう》なれども|極寒《ごくかん》|極暑《ごくしよ》に|耐《た》へ|且《か》つ|忍耐力《にんたいりよく》|強《つよ》く|柔順《じうじゆん》である。|河水《かすゐ》を|見《み》れば|何《いづ》れの|馬《うま》も|頭《かしら》を|振《ふ》つて|勇《いさ》み|立《た》ち、|青味《あをみ》だつた|激流《げきりう》を|平然《へいぜん》として|渡《わた》る|様《さま》は|殆《ほとん》ど|平地《へいち》を|行《ゆ》くやうである。|井上《ゐのうへ》|兼吉《かねきち》は|馬賊《ばぞく》の|頭目《とうもく》|曼陀汗《マンダハン》|等《ら》と|旧《ふる》くより|交際《かうさい》して|居《ゐ》ただけあつて、|満蒙《まんもう》の|事情《じじやう》によく|通《つう》じて|居《ゐ》た。|彼《かれ》は|道々《みちみち》|馬上《ばじやう》にて|日本《につぽん》|馬賊《ばぞく》の|作《つく》つたと|云《い》ふ|勇《いさ》ましい|歌《うた》を|歌《うた》ひつつ|進《すす》む。
|嵐《あらし》|吹《ふ》け|吹《ふ》けマーカツ|颪《おろし》  |雪《ゆき》の|蒙古《もうこ》に|日《ひ》は|暮《く》れて
|征鞍《せいあん》|照《て》らす|月影《つきかげ》に  |仰《あふ》げば|高《たか》し|雁《かり》の|群《むれ》
|吾《われ》には|家《いへ》なし|妻《つま》もなし  |国《くに》を|離《はな》れて|十余年《じふよねん》
|家《いへ》は|有《あ》れ|共《ども》|岩《いは》の|洞《ほら》  |従《したが》ふ|手下《てした》は|二千余騎《にせんよき》
|馬上《ばじやう》|叱咤《しつた》の|戯《たはむ》れに  |鎗《やり》をしごけばスルスルと
|延《の》びて|一丈《いちぢやう》|穂《ほ》の|光《ひか》り  |電光《でんくわう》|閃《ひらめ》く|玉《たま》を|為《な》す
|興安嶺《こうあんれい》のかくれ|家《が》に  |剣《つるぎ》の|小尻《こじり》を|鞭《むちう》ちて
|闇《やみ》をすかせば|二千人《にせんにん》  |轡《くつわ》|並《なら》べて|忍《しの》び|寄《よ》る
|殺気《さつき》|立《た》ちたる|馬賊《ばぞく》の|群《むれ》は  |何処《どこ》で|呑《の》んだか|酒《さけ》|臭《くさ》い
|無聊《むれう》に|苦《くる》しみ|酒《さけ》を|呑《の》む  |山《やま》と|積《つ》みにし|虎《とら》の|肉《にく》
|肌《はだ》|押《お》し|脱《ぬ》げば|一面《いちめん》に  |日頃《ひごろ》|自慢《じまん》の|刀傷《かたなきず》
|今日《けふ》の|獲物《えもの》は|五万両《ごまんりやう》  |明日《あす》は|襲《おそ》はむ|蒙古《もうこ》の|地《ち》
イザヤまどろまむ|一時《ひととき》を  |取《と》り|出《だ》す|枕《まくら》は|髑髏《しやりかうべ》
ホンニ|忘《わす》らりよか|古郷《ふるさと》の  |可愛《かあい》|稚児《ちご》さんが|目《め》に|躍《をど》る。
|上木局収《かみもくきよくしう》の|仮殿《かりどの》なる|日出雄《ひでを》を|護衛《ごゑい》の|為《た》め、|僅《わづ》か|十五支里《じふごしり》の|間《あひだ》に|三ケ所《さんかしよ》の|兵営《へいえい》を|設《まう》けられた。|其《その》|配置《はいち》は|最前方《さいぜんぱう》|即《すなは》ち|西北方《せいほくはう》には|鄒《すう》|団長《だんちやう》が|二百《にひやく》の|兵《へい》を|引《ひ》きつれ|警護《けいご》し、|中央《ちうあう》には|何《か》|団長《だんちやう》|又《また》|百数十名《ひやくすうじふめい》にて|警固《けいご》し、|最後《さいご》|即《すなは》ち|東南方《とうなんはう》の|営所《えいしよ》には|中将《ちうじやう》|張彦三《ちやうげんさん》|旅長《りよちやう》として|之《これ》を|警固《けいご》して|居《ゐ》た。|日出雄《ひでを》は|此《この》|間《かん》を|悠々《いういう》として|何《なん》の|憚《はばか》る|所《ところ》もなく|部下《ぶか》の|兵士《へいし》と|共《とも》に|馳駆《ちく》して|馬術《ばじゆつ》を|錬《ね》つた。|日出雄《ひでを》が|各兵営《かくへいえい》を|訪《おと》づるるや、|各《かく》|団長《だんちやう》は|兵《へい》を|門外《もんぐわい》に|整列《せいれつ》させ、|一斉《いつせい》に|捧《ささ》げ|銃《つつ》の|礼《れい》を|施《ほど》こし、|先頭《せんとう》に|立《た》つて|兵営《へいえい》に|入《い》るのが|常《つね》であつた。|張《ちやう》|旅長《りよちやう》はモーゼル|銃《じゆう》を|自《みづか》ら|修繕《しうぜん》する|際《さい》、|誤《あやま》つて|自分《じぶん》の|脛《はぎ》を|討《う》ち、|其《そ》の|弾丸《だんぐわん》は|骨《ほね》に|当《あた》つて|肉《にく》|深《ふか》く|残留《ざんりう》し|苦痛《くつう》を|訴《うつた》へた。|急報《きふはう》により|日出雄《ひでを》は|医務処長《いむしよちやう》|猪野大佐《ゐのたいさ》|及《およ》び|真澄別《ますみわけ》、|守高《もりたか》|其《その》|他《た》を|引《ひ》きつれ、|旅長《りよちやう》の|陣営《ぢんえい》に|馳《は》せつけ、|局所《きよくしよ》に|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》し|激痛《げきつう》を|其《その》|場《ば》で|止《と》め、|猪野大佐《ゐのたいさ》は|直《ただ》ちに|刀《とう》を|取《と》つて|弾丸《だんぐわん》の|抉出《けつしゆつ》に|尽瘁《じんすゐ》した。されど|弾丸《だんぐわん》は|骨《ほね》に|深《ふか》くうち|込《こ》んで|居《ゐ》るので|抉出《けつしゆつ》することは|出来《でき》なかつたので、|已《や》むを|得《え》ず|日出雄《ひでを》は|其《その》|儘《まま》|平癒《へいゆ》すべく|神《かみ》に|祈《いの》つた。|所《ところ》が|不思議《ふしぎ》にも|旅長《りよちやう》は|俄《にはか》に|苦痛《くつう》を|忘《わす》れ、|平然《へいぜん》として|馬《うま》に|跨《またが》り|部下《ぶか》を|指揮《しき》するを|得《え》たので、|将卒《しやうそつ》|一同《いちどう》は|其《そ》の|奇瑞《きずゐ》に|感歎《かんたん》の|声《こゑ》を|放《はな》つた。|日本人側《につぽんじんがは》|数名《すうめい》と|白凌閣《パイリンク》、|温長興《をんちやうこう》、|大師文《たいしぶん》、|康国宝《かうこくはう》|等《ら》は|或《ある》|日《ひ》|兵営《へいえい》と|兵営《へいえい》との|間《あひだ》を|馬《うま》をかけて|居《ゐ》た|所《ところ》、|何《なに》に|驚《おどろ》いたか|萩原《はぎはら》|敏明《としあき》の|馬《うま》は|突然《とつぜん》|直立《ちよくりつ》した|刹那《せつな》、|萩原《はぎはら》は|大地《だいち》へ|真逆様《まつさかさま》に|落《おと》され|大《だい》の|字《じ》になつて|倒《たふ》れた。|萩原《はぎはら》の|乗馬《じやうば》は|雲《くも》を|霞《かすみ》と|駆《か》け|出《だ》して|了《しま》つた。|後《あと》から|来《き》た|日出雄《ひでを》は|吾《わが》|脚下《きやくか》に|萩原《はぎはら》が|倒《たふ》れてゐるのを|見《み》て、|俄《にはか》に|馬腹《ばふく》に|鞭《むち》を|加《くは》へ|其《その》|上《うへ》を|一足飛《いつそくと》びに|飛《と》んで|馬蹄蹂躙《ばていじうりん》の|難《なん》をさけたが、|今度《こんど》は|又《また》もや|白凌閣《パイリンク》の|馬《うま》は|白《パイ》を|地上《ちじやう》に|投《な》げすて|雲《くも》を|霞《かすみ》とかけ|出《だ》す。|数多《あまた》の|騎馬兵《きばへい》を|四方《しはう》に|出《だ》して|幸《さいは》ひ|両馬《りやうば》とも|捕獲《ほくわく》することを|得《え》た。|二三日《にさんにち》すると|奉天《ほうてん》に|軍使《ぐんし》に|行《い》つた|名田彦《なだひこ》が、|支那兵《しなへい》|数名《すうめい》と|共《とも》に|上木局収《かみもくきよくしう》の|仮殿《かりどの》に|無事《ぶじ》|帰《かへ》つて|来《き》た。|名田彦《なだひこ》は|日出雄《ひでを》を|見《み》るより|声《こゑ》をあげて|懐《なつ》かしさに|泣《な》いた。|彼《かれ》は|幾度《いくど》も|途中《とちう》|危難《きなん》に|遭遇《さうぐう》し、|漸《やうや》くにして|生命《せいめい》を|全《まつた》うして|帰《かへ》つて|来《き》た|嬉《うれ》しさが|一時《いちじ》に|込《こ》み|上《あ》げて|来《き》たのである。|守高《もりたか》と|名田彦《なだひこ》はそれより|日々《ひび》|乗馬《じやうば》の|練習《れんしふ》に|余念《よねん》がなかつた。さうして|守高《もりたか》は|王《わう》|連長《れんちやう》や|王《わう》|参謀《さんぼう》に|暇《ひま》ある|毎《ごと》に|柔術《じうじゆつ》を|教授《けうじゆ》して|居《ゐ》た。|守高《もりたか》に|柔術《じうじゆつ》を|学《まな》ぶものは|支那将校《しなしやうかう》の|中《うち》|四五名《しごめい》はあつた。|併《しか》し|大部分《だいぶぶん》の|将卒《しやうそつ》は|柔術《じうじゆつ》を|蔑視《べつし》して|居《ゐ》た。|彼等《かれら》は|云《い》ふ『|何程《いかほど》|柔術《じうじゆつ》が|達者《たつしや》でも|飛《と》び|道具《だうぐ》には|叶《かな》ふまい、|今日《こんにち》の|戦争《せんそう》は|銃砲《じゆうはう》より|外《ほか》に|力《ちから》になるものはない、|柔術《じうじゆつ》などと|云《い》ふものは|一種《いつしゆ》の|遊芸《いうげい》だ』と。|守高《もりたか》は|或日《あるひ》|騎馬《きば》にて|郊外《かうぐわい》を|散策《さんさく》する|時《とき》、|例《れい》のシーゴーに|吠《ほ》えつかれ、|乗馬《じやうば》が|驚《おどろ》いて|馳《か》け|出《だ》す|途端《とたん》に|落馬《らくば》したが、|彼《かれ》は|落馬《らくば》したのではない|無事《ぶじ》|着陸《ちやくりく》したのだと|不減口《へらずぐち》を|云《い》つて|笑《わら》つて|居《ゐ》た。|名田彦《なだひこ》も|自《みづか》ら|乗馬《じやうば》の|達人《たつじん》と|称《しよう》して|居《ゐ》たが、これもシーゴー|数十頭《すうじつとう》に|取囲《とりかこ》まれ|馬《うま》が|驚《おどろ》いて|馳《か》け|出《だ》す|途端《とたん》に|地上《ちじやう》に|遺棄《ゐき》され、|驚《おどろ》いて|起《お》き|上《あが》つた|時分《じぶん》には、|乗馬《じやうば》は|影《かげ》の|見《み》えない|所《ところ》|迄《まで》|遠《とほ》く|逃《に》げ|去《さ》つて|居《ゐ》た。|日出雄《ひでを》は|此《この》|報告《はうこく》を|聞《き》くなり|数名《すうめい》の|士官《しくわん》や|兵卒《へいそつ》に|命《めい》じ|遁馬《にげうま》を|捕獲《ほくわく》すべく|命《めい》じた。|温《をん》|少佐《せうさ》は|六名《ろくめい》の|兵士《へいし》と|共《とも》に|際限《さいげん》なき|荒野《くわうや》を|駆《か》け|廻《めぐ》り、|日《ひ》の|暮《く》るる|頃《ころ》|漸《やうや》く|馬《うま》を|捉《とら》へて|帰《かへ》つて|来《き》たので、|日出雄《ひでを》は|温《をん》|以下《いか》の|労苦《らうく》を|謝《しや》し|種々《しゆじゆ》と|菓子《くわし》や|煙草《たばこ》などを|与《あた》へて|慰《なぐさ》めた。さうして|名田彦《なだひこ》に|向《むか》ひ、
『オイ、|名田彦《なだひこ》、|乗馬《じやうば》の|達人《たつじん》が|落馬《らくば》するとは|何《なん》の|事《こと》だい』
と|一本《いつぽん》|参《まゐ》つた。すると|名田彦《なだひこ》は|頭《あたま》をガシガシ|掻《か》き|乍《なが》ら、
『ハイ、|弘法《かうぼふ》も|筆《ふで》の|誤《あやま》りです』
と|相変《あひかは》らずの|負《ま》け|惜《をし》みである。|上木局収《かみもくきよくしう》の|仮殿《かりどの》にゐる|日本人《につぽんじん》は|何《いづ》れも|気楽《きらく》なもので、
『オチココテノ、ウツトコハテナ、ボホラヌボ、オンクスアルテチ、ウンヌルテ、オホノトルテ、ピーシヤムツトルテ、マラカウンスナ、コトラアンテイナ、パサパーナ、シエスシエーナ』
などと|他愛《たあい》もない|下《しも》がかつた|話《はなし》|計《ばか》りして|暮《くら》して|居《ゐ》た。|日出雄《ひでを》は|上木局収《かみもくきよくしう》の|仮殿《かりどの》に|起臥《きぐわ》して|居《ゐ》る|中《うち》、|沢山《たくさん》の|歌《うた》や|俳句《はいく》を|詠《よ》んだが|其《その》|中《なか》の|一部《いちぶ》を|茲《ここ》に|紹介《せうかい》する。
|国《くに》を|出《で》て|四《よ》つの|月《つき》をば|重《かさ》ねつつ|吾《わが》|生《うま》れたる|月夜《つきよ》に|会《あ》ふかな
|夕暮《ゆふぐれ》の|東《ひがし》の|空《そら》を|眺《なが》むれば|神島《かみしま》に|似《に》し|雲《くも》の|浮《うか》べる
|昨夜《よべ》|降《ふ》りし|雨《あめ》の|大空《おほぞら》|晴《は》れ|渡《わた》り|十二日《じふににち》の|月《つき》|光《ひかり》|目出度《めでた》し
|東方《とうはう》の|空《そら》のみ|村雲《むらくも》|立《た》ち|昇《のぼ》るいかなる|神《かみ》の|示《しめ》しなるらむ
|野雪隠《のせつちん》|掘《ほ》りて|日々《にちにち》パサパーナ|為《な》さむ|為《た》め|守高《もりたか》|鍬《くは》を|手《て》にする
|温突《オンドル》の|暖気《だんき》を|避《さ》けむと|庭《には》の|面《も》に|今日《けふ》|改《あらた》めて|久土《くど》|築《つ》きにけり
|山火事《やまくわじ》と|吾《わが》|出発《しゆつぱつ》の|写真《しやしん》をば|仕上《しあ》げの|際《さい》に|焦《こが》せし|惜《を》しさよ
|静《しづか》なる|月《つき》の|姿《すがた》を|見《み》る|毎《ごと》にナラヌオロスの|信徒《まめひと》|思《おも》ふ
ホイモール|眼《まなこ》は|弥々《いよいよ》|丸《まる》くなりて|夕日《ゆふひ》の|空《そら》に|月《つき》は|輝《かがや》く
|窓《まど》|明《あ》けて|月《つき》の|面《おも》をば|眺《なが》めつつ|心《こころ》|静《しづ》かに|行末《ゆくすゑ》おもふ
バラモンの|醜《しこ》の|鋭鋒《えいほう》|避《さ》けながら|蒙古《もうこ》の|空《そら》に|月《つき》を|眺《なが》むる
|十二夜《じふにや》の|月《つき》の|光《ひかり》に|照《て》らされて|樺《かば》の|幹《みき》のみ|山《やま》に|光《ひか》れる
|司令部《しれいぶ》を|駒《こま》に|鞭《むちう》ち|立《た》ち|出《い》でて|今日《けふ》|上木局収《かみムチヅ》の|月《つき》を|見《み》るかな
|忽《たちま》ちに|魚鱗《ぎよりん》の|雲《くも》の|塞《ふさ》がりて|可惜《あたら》|月影《つきかげ》|呑《の》まむとぞする
|野《の》の|中《なか》に|放《はな》ちやりたる|馬《うま》の|群《む》れ|寝屋《ねや》に|帰《かへ》るを|厭《いと》ひて|走《はし》る
|日《ひ》の|出《い》づる|国《くに》にて|見《み》たる|月《つき》よりも|蒙古《もうこ》の|空《そら》は|珍《めづ》らしく|見《み》る
|雨雲《あまぐも》は|空《そら》|一面《いちめん》に|塞《ふさ》がりぬ|今宵《こよひ》の|月《つき》の|別《わか》れをしさよ
|瑞月《ずゐげつ》の|雲《くも》かくれせしを|守《まも》らむと|十二夜《じふにや》の|月《つき》かくれしならむ
|浮雲《うきぐも》の|薄《うす》き|衣《きぬ》をば|通《とほ》してゆほのかに|見《み》えし|今《いま》の|月《つき》かげ
すがすがし|祝詞《のりと》の|声《こゑ》の|聞《きこ》えけり|守高《もりたか》のホラの|雄《を》たけびならむ
|河辺《かはべり》に|立出《たちい》で|団長《だんちやう》|等《ら》と|共《とも》に|騎馬《きば》の|照相《せうさう》|写《うつ》し|撮《と》りけり
|暫時《しばらく》は|此《この》|地《ち》にありて|外蒙《ぐわいもう》に|進《すす》まむ|時《とき》の|英気《えいき》|養《やしな》ふ
|林間《りんかん》に|駒《こま》を|並《なら》べて|勇《いさ》ましく|涼《すず》しき|風《かぜ》を|受《う》けつつすすむ
|吾《われ》は|今《いま》|万里《ばんり》の|原野《げんや》を|乗《の》り|越《こ》えて|草野《くさの》の|小村《こむら》に|経綸《けいりん》を|立《た》つ
|九十六《くじふろく》の|日《ひ》を|重《かさ》ねつつ|吾《われ》は|今《いま》|蒙古《もうこ》の|奥《おく》に|駒《こま》に|鞭打《むちう》つ
|時々《ときどき》に|国《くに》の|事《こと》など|思《おも》ひ|出《い》でて|今日《けふ》の|吾《わが》|身《み》の|幸《さち》をよろこぶ
|蒙古語《もうこご》を|学《まな》ばむとして|今日《けふ》も|亦《また》|肩《かた》こらしつつペンを|走《はし》らす
|窓障子《まどしやうじ》|破《やぶ》れて|風《かぜ》のあたるたび|猶《なほ》ペラペラと|言《い》ひさやぐかな
|桃太郎《ももたらう》|誕生《たんじやう》したる|照相《せうさう》を|馬飼《うまかひ》が|原《はら》に|撮《と》りし|今日《けふ》かな
|大空《おほぞら》の|雲《くも》|掻《か》き|分《わ》けて|三五《あななひ》の|月《つき》の|光《ひかり》もあきらかに|照《て》る
|雲《くも》の|戸《と》を|明《あ》けて|今宵《こよひ》の|月影《つきかげ》は|吾《わが》|賤《しづ》の|家《や》を|照《てら》したまひぬ
|肩《かた》|痛《いた》み|腰《こし》|張《は》り|頭痛《づつう》|鉢巻《はちまき》でペンを|執《と》りつつ|窓《まど》の|月《つき》|見《み》る
トルコノロホルまで|痛《いた》む|今宵《こよひ》こそ|曲神《まがみ》の|吾《われ》を|窺《うかが》ふなるらむ
ナルンオロス|曲《まが》の|関所《せきしよ》を|潜《くぐ》り|来《き》て|又《また》もや|蒙古《もうこ》の|曲《まが》に|襲《おそ》はる
|背《せな》に|肩《かた》|脚《あし》|腕《うで》までも|痛《いた》みてゆ|已《や》むを|得《え》ずして|昼寝《ひるね》せし|哉《かな》
|木局《ムチ》の|野《の》に|駒《こま》|嘶《いなな》きて|草《くさ》|萌《も》ゆる
|木局《ムチ》の|野《の》の|初夏《しよか》の|夕《ゆふ》べや|杜鵑《ほととぎす》|啼《な》く
|人心《ひとごころ》|荒《あら》き|木局収《ムチヅ》の|宿営《しゆくえい》かな
|無頼《ぶらい》の|徒《と》|集《あつ》まりて|住《す》む|木局収《もくきよくしう》
|陽《ひ》は|清《きよ》く|風《かぜ》|暖《あたた》かに|草《くさ》|萌《も》ゆる
|豚《ぶた》の|児《こ》に|石《いし》を|投《な》げつつ|野遊《やいう》かな
|食物《しよくもつ》に|乏《とぼ》しき|木局収《ムチヅ》の|仮寝《かりね》かな
ハタハタと|白旗《しらはた》の|鳴《な》る|初夏《しよか》の|風《かぜ》
|山《やま》|低《ひく》く|雲《くも》また|低《ひく》し|木局《ムチ》の|野辺《のべ》
|牧草《ぼくさう》の|乏《とぼ》しき|木局収《ムチヅ》|駒《こま》|細《ほそ》り
|駒《こま》|止《と》めて|少時《しばし》|見入《みい》りぬ|河《かは》の|面《おも》
|河水《かはみづ》の|音《おと》|高々《たかだか》と|夢《ゆめ》に|入《い》る
|身《み》を|忍《しの》び|気力《きりよく》|養《やしな》ひ|時《とき》を|待《ま》ち
コルギーホワラ、チチクさへ|無《な》き|上木局収《かみムチヅ》
オンクスアルテチ、ウンヌルテと|鼻《はな》|摘《つま》み
|来客《らいきやく》にモンタラパンナと|席《せき》|譲《ゆづ》り
|夜《よ》な|夜《よ》なに|啼《な》く|杜鵑《ほととぎす》|気《き》に|懸《かか》り
|雨雲《あまぐも》や|瞬《またた》く|中《うち》に|空《そら》|塞《ふさ》ぎ
|空《そら》に|雲《くも》|覆《おほ》ひて|忽《たちま》ち|風《かぜ》|寒《さむ》し
イリチーカ|最《いと》も|悲《かな》しげな|声《こゑ》|搾《しぼ》り
ガーガーとガーハイの|声《こゑ》|耳《みみ》に|立《た》ち
|喇嘛服《ラマふく》に|着替《きか》へて|馬上《ばじやう》の|照相《すがた》|撮《と》り
|千万里《せんまんり》|荒野《くわうや》の|奥《おく》の|馬遊《ばいう》かな
|寝《ね》そべりつ|窓《まど》の|側《そば》にてペンを|執《と》り
ペン|先《さき》は|早《はや》くも|坊主《ばうず》となりにけり
|山《やま》も|野《の》も|吾《われ》も|坊主《ばうず》の|蒙古《もうこ》かな
ポロハナの|力《ちから》も|薄《うす》き|蒙古喇嘛《もうこラマ》
どの|山《やま》も|金字形《きんじがた》なり|上木局収《かみムチヅ》
|駒《こま》|並《な》べて|軍《いくさ》の|司《つかさ》|来《きた》りけり
|紅《くれなゐ》の|夕日《ゆふひ》の|空《そら》に|月《つき》|清《きよ》し
|夕日影《ゆふひかげ》|山野《さんや》をボルに|染《そ》めにけり
|紫《むらさき》の|雲《くも》たなびきて|入日《いりひ》|近《ちか》し
|十四夜《いざよひ》の|月《つき》は|日《ひ》の|内《うち》|輝《かがや》けり
|窓《まど》|明《あ》けて|初夏《しよか》の|満月《まんげつ》|拝《をが》みけり
|初夏《しよか》の|月《つき》|初《はじ》めて|見《み》たり|蒙古地《もうこち》に
|月《つき》|清《きよ》く|星《ほし》|稀《まれ》にして|風《かぜ》|寒《さむ》し
|吾《わが》|友《とも》は|今宵《こよひ》の|月《つき》を|吾《われ》と|見《み》む
|月次《つきなみ》の|今日《けふ》の|祭《まつ》りや|月《つき》|丸《まる》し
|雪《ゆき》|解《と》けて|河水《かはみず》|日々《ひび》に|増《まさ》りけり
|草《くさ》も|木《き》も|青《あを》み|出《い》でけり|初夏《しよか》の|雨《あめ》
|大空《おほぞら》の|月《つき》を|包《つつ》みし|雲《くも》|散《ち》りぬ
|雪《ゆき》|解《と》けて|三五《あななひ》の|月《つき》|空《そら》に|照《て》り
|日人《にちじん》の|夢《ゆめ》にも|知《し》らぬ|吾《わが》|神業《しんげふ》
(大正一四・八 筆録)
第二五章 |風雨叱咤《ふううしつた》
|五月《ごぐわつ》|二十一日《にじふいちにち》(|陰暦《いんれき》|四月《しぐわつ》|十八日《じふはちにち》)|上木局収《かみもくきよくしう》の|仮殿《かりどの》に、|日出雄《ひでを》は|真澄別《ますみわけ》|等《ら》と|西漸《せいぜん》の|時機《じき》に|就《つい》て|種々《しゆじゆ》|協議《けふぎ》を|凝《こら》してゐた。|折柄《をりから》|護衛《ごゑい》の|温長興《をんちやうこう》は、|夥《おびただ》しき|馬隊《ばたい》|並《ならび》に|轎車《けうしや》が|砂塵《さぢん》を|蹴立《けた》てて、|此方《こちら》へ|向《むか》つて|来《く》る|事《こと》を|報《はう》じた。それは|盧《ろ》|司令《しれい》が|蒙古《もうこ》の|貝勒貝子《バイロクバイシ》、|劉陞三《りうしようさん》、|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》、|其《その》|他《た》|幹部《かんぶ》|参謀連《さんぼうれん》を|引具《ひきぐ》し、|日出雄《ひでを》|訪問《はうもん》の|為《ため》に|来《き》たのであつた。
|盧《ろ》は|佐々木《ささき》を|介《かい》して|日出雄《ひでを》に|請《こ》ふやう『だんだん|蒙古兵《もうこへい》も|集《あつ》まつて|来《く》るし、|救世主《きうせいしゆ》|来降《らいかう》の|噂《うはさ》が|益々《ますます》|盛《さかん》に|宣伝《せんでん》せられつつある|際《さい》なれば、|此《この》|際《さい》|彼等《かれら》の|肝玉《きもたま》を|奪《うば》ふ|為《ため》、|風雨《ふうう》を|喚《よ》び|起《おこ》して|貰《もら》ひたい』といふのである。
|日出雄《ひでを》『|私《わたし》に|風雨雷霆《ふううらいてい》を|叱咤《しつた》し|得《う》る|自信《じしん》は|経験上《けいけんじやう》から|言《い》つてもありますが、|併《しか》しそれは|神界《しんかい》から|見《み》て|真実《しんじつ》|必要《ひつえう》と|認《みと》むる|場合《ばあひ》|以外《いぐわい》には|用《もち》ゆる|事《こと》は|出来《でき》ない|事《こと》になつてゐます。|必要《ひつえう》のない……|言《い》はば|奇術《きじゆつ》かなぞの|様《やう》に|濫用《らんよう》するのは|兇党界《きようたうかい》に|属《ぞく》する|仕事《しごと》であるので、|一寸《ちよつと》|困《こま》るなア』
|大倉《おほくら》『|併《しか》し|先生《せんせい》、|皆《みな》が|渇望《かつばう》してゐるし、|蒙古人《もうこじん》|等《ら》が|更《さら》に|信仰《しんかう》の|度《ど》を|高《たか》める|材料《ざいれう》になるのですから、|神界《しんかい》から|見《み》て|必要《ひつえう》な|場合《ばあひ》と|認《みと》めてやつて|頂《いただ》く|訳《わけ》にはいかぬでせうか』
|日出雄《ひでを》『|困《こま》るなア、|鎮魂《ちんこん》で|各自相応《かくじさうおう》の|霊界《れいかい》でも|見《み》せてやればそれで|可《い》いぢやないか』
|大倉《おほくら》『|併《しか》し|部分的《ぶぶんてき》でなく、|大勢《おほぜい》|一緒《いつしよ》に|見《み》られる|様《やう》な|不思議《ふしぎ》を、|一《ひと》つ|現《あら》はして|頂《いただ》きたいものですなア。|司令《しれい》も|熱心《ねつしん》にあゝ|云《い》ふてゐるのですから……』
|日出雄《ひでを》『キリストですら、|奇蹟《きせき》を|請《こ》はれて|怒《いか》つたではないか……』
|真澄別《ますみわけ》『|奇蹟《きせき》を|見《み》ずして|神《かみ》を|信《しん》ずる|者《もの》は|幸《さいはひ》なり……といふ|神言《しんげん》もありますけれど、|現今《げんこん》で|言《い》はば、|朦昧《もうまい》の|人々《ひとびと》の|間《あひだ》に|出《で》かけて|来《き》てるのですから、|何《なん》とか|工夫《くふう》せねばなるまいと|思《おも》ひます。|私《わたし》は|永久《えいきう》|兇党界《きようたうかい》へ|堕落《だらく》しても、それがお|道《みち》の|為《ため》になるなら|構《かま》ひませぬから、|先生《せんせい》さへ|御許《おゆる》し|下《くだ》されば、|私《わたし》をお|使《つか》ひ|下《くだ》さつて|彼等《かれら》の|肝玉《きもつたま》を|挫《ひし》いでおくのも|満更《まんざら》|無駄《むだ》ではありますまい。|奇蹟《きせき》を|見《み》たがる|者《もの》は|強《あなが》ち|蒙古人《もうこじん》|許《ばか》りぢやありますまいから……』
|日出雄《ひでを》は|少時《しばらく》|沈思黙考《ちんしもくかう》して、
『では、|潔斎修行《けつさいしうぎやう》して|見《み》るが|可《よ》い、|真澄別《ますみわけ》が|行《や》る|事《こと》になれば|構《かま》はぬだらう』
|盧占魁《ろせんくわい》は、
『|実《じつ》は|全隊《ぜんたい》へ|布告《ふこく》して、|一同《いちどう》|一週間《いつしうかん》の|精進《しやうじん》を|命《めい》じ|置《お》き、|此《この》|二十三日《にじふさんにち》を|以《もつ》て|終《をは》ります。|其《その》|日《ひ》には|先生《せんせい》が|奇蹟《きせき》を|見《み》せて|下《くだ》さると|申渡《まをしわた》して|了《しま》つたのです。|何《いづ》れ|更《あらた》めてお|迎《むか》へに|参《まゐ》りますから、|是非《ぜひ》|御願《おねが》ひ|致《いた》します。|序《ついで》に|記念《きねん》の|撮影《さつえい》も|致《いた》したう|御座《ござ》いますから』
との|意《い》を|述《の》べて、|雑談《ざつだん》の|後《のち》|嬉々《きき》[#愛世版「嬉々」]として|一同《いちどう》|駒《こま》の|足並《あしなみ》も|勇《いさ》ましく、|下木局子《しももくきよくし》の|司令部《しれいぶ》|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|日出雄《ひでを》は|止《や》むを|得《え》ず、|真澄別《ますみわけ》をして|其《その》|衝《しよう》に|当《あた》らしむべく、|〓児河畔《トールかはん》に|聖域《せいゐき》を|卜《ぼく》し、|自《みづか》らも|出張《しゆつちやう》して|真澄別《ますみわけ》の|修業《しうげふ》を|指導《しだう》した。
|五月《ごぐわつ》|二十三日《にじふさんにち》(|陰暦《いんれき》|四月《しぐわつ》|二十日《はつか》)|朝暾《てうとん》|殊《こと》の|外《ほか》|麗《うる》はしき|光《ひかり》を|地上《ちじやう》に|投《な》げ、|蒼空《さうくう》|一点《いつてん》の|雲翳《うんえい》なく、|樹々《きぎ》に|飛交《とびか》ふ|鳥《とり》の|声《こゑ》は|恰《あだか》も|天国《てんごく》の|春《はる》を|歌《うた》ふが|如《ごと》く、|庭前《ていぜん》に|休《やす》らふ|馬《うま》の|嘶《いなな》きも|一層《いつそう》|勇《いさ》ましさを|加《くは》へて|聞《きこ》え|来《きた》る。|午前《ごぜん》|八時《はちじ》|頃《ごろ》|魏《ぎ》|副官《ふくくわん》は|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》を|迎《むか》ふべく|馬車《ばしや》を|急《いそ》がしてやつて|来《き》た。|折《をり》しも|日出雄《ひでを》に|扈従《こじう》すべく|準備《じゆんび》せし|温長興《をんちやうこう》は、|俄《にはか》に|頭痛《づつう》|烈《はげ》しく、|乗馬《じやうば》に|堪《た》へずと|愬《うつた》ふ。|日出雄《ひでを》は|思《おも》ふ|所《ところ》ありと|見《み》え、|温長興《をんちやうこう》を|轎車《けうしや》に|乗《の》らしめ、|自《みづか》らは|真澄別《ますみわけ》|其《その》|他《た》の|護衛兵《ごゑいへい》と|共《とも》に|馬《うま》に|鞭《むちう》ち、|法衣《はふい》を|風《かぜ》に|靡《なび》かせつつ|下木局子《しももくきよくし》に|向《むか》ひ、|仮殿《かりどの》を|出発《しゆつぱつ》した。|一方《いつぱう》|下木局子《しももくきよくし》の|西北自治軍《せいほくじちぐん》|司令部《しれいぶ》にては、|各分営《かくぶんえい》の|団長《だんちやう》|以下《いか》|悉《ことごと》く|来集《らいしふ》し、『|斯《か》くの|如《ごと》き|蒙古晴《もうこばれ》の|空《そら》より|雨《あめ》を|降《ふ》らすなど、|幾《いく》ら|神様《かみさま》でも|嘸《さぞ》|困難《こんなん》であらう』などと、とりどりに|噂《うはさ》をし|乍《なが》ら、|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》の|来着《らいちやく》を|待《ま》ち|兼《か》ねて|居《ゐ》た。|時《とき》しもあれ、|魏《ぎ》|副官《ふくくわん》の|先導《せんだう》にて|日出雄《ひでを》の|一行《いつかう》は|総員《そうゐん》|整列《せいれつ》|出迎《でむか》への|中《なか》を|堂々《だうだう》と|乗込《のりこ》んで|来《き》た。|少憩《せうけい》の|後《のち》、|日出雄《ひでを》の|目配《めくば》せを|合図《あひづ》に、|真澄別《ますみわけ》が|何事《なにごと》か|黙祷《もくたう》すると|見《み》るや、|司令部《しれいぶ》の|上天《じやうてん》|俄《にはか》に|薄暗《うすぐら》くなり、|瞬《またた》く|間《ま》に|全天《ぜんてん》|雨雲《あまぐも》に|蔽《おほ》われ|一陣《いちぢん》の|怪風《くわいふう》|吹《ふ》き|来《きた》ると|共《とも》に、|激《はげ》しき|暴風雨《ばうふうう》|窓《まど》を|破《やぶ》らむず|計《ばか》りに|襲来《しふらい》して|来《き》た。|一同《いちどう》|驚《おどろ》きあわて、|窓《まど》を|閉《し》めるやら、|記念撮影《きねんさつえい》の|為《ため》とて|庭《には》に|列《なら》べてあつた|椅子《いす》を|持込《もちこ》むやら|混雑《こんざつ》|一方《ひとかた》ならず、|皆々《みなみな》|呆気《あつけ》に|取《と》られて、|暫《しば》し|言葉《ことば》もなかつたのである。|稍《やや》あつて『|大先生《タアセンシヨン》、|二先生《アルセンシヨン》、|今日《けふ》は|写真《しやしん》は|駄目《だめ》でせう』と、さも|失望《しつばう》らしい|声《こゑ》が|聞《きこ》える。|真澄別《ますみわけ》は|日出雄《ひでを》の|顔《かほ》を|見《み》て『ナアニ|五分間《ごふんかん》|経《た》てば|大丈夫《だいぢやうぶ》だ』と|云《い》へば、|日出雄《ひでを》はやおら|身《み》を|起《おこ》して|雨中《うちう》に|降《お》り|立《た》ち、|天《てん》に|向《むか》つて『ウー』と|大喝《だいかつ》すれば、|風勢《ふうせい》|頓《とみ》に|衰《おとろ》へ|雨《あめ》は|漸次《ぜんじ》|小降《こぶ》りとなり、|果《はた》して|向《むか》ふ|五分間《ごふんかん》てふ|真澄別《ますみわけ》の|宣言《せんげん》に|違《たが》はず、|如何《いか》に|成《な》り|行《ゆ》くかと|案《あん》ぜられし|暴風雨《ばうふうう》は、|夢《ゆめ》の|如《ごと》く|消《き》え|去《さ》り、|再《ふたた》び|日《ひ》は|赫々《かくかく》と|輝《かがや》きわたり、|空《そら》は|元《もと》の|如《ごと》く|晴朗《せいらう》に|澄《す》み|切《き》つたのである。|盧占魁《ろせんくわい》は|嬉《うれ》しさの|余《あま》り、|驚嘆自失《きやうたんじしつ》せる|人々《ひとびと》の|間《あひだ》を|立廻《たちまは》り、|自己《じこ》の|宣伝《せんでん》の|誇大《こだい》にも|虚偽《きよぎ》にもあらざるを|誇《ほこ》つたといふも|真《しん》に|無理《むり》ならぬ|事《こと》である。
|茲《ここ》で|各営《かくえい》の|幹部《かんぶ》|一同《いちどう》|芽出度《めでたく》|撮影《さつえい》の|後《のち》、|卓《たく》を|囲《かこ》んで|会食《くわいしよく》し、|談《はなし》は|徹頭徹尾《てつとうてつび》|此《この》|日《ひ》の|奇蹟《きせき》に|関《くわん》する|驚嘆《きやうたん》と|讃美《さんび》に|終始《しうし》し、|真澄別《ますみわけ》は、|此《この》|時《とき》|已《すで》に|朝来《てうらい》の|頭痛《づつう》は|忘《わす》れた|様《やう》に|平癒《へいゆ》しニコニコして|何《なに》くれとなく|斡旋《あつせん》の|労《らう》を|執《と》りつつありし|温長興《をんちやうこう》を|指《さ》し、『|実《じつ》は|今朝《こんてう》|出発《しゆつぱつ》の|際《さい》|大先生《だいせんせい》が|今日《けふ》の|役目《やくめ》を|承《うけたまは》るべき|竜神《りうじん》を、|温《をん》さんに|取《と》り|懸《か》けられたので、それで|温《をん》さんは|頭《あたま》が|痛《いた》かつたのですよ。つまりあの|轎車《けうしや》に|竜神《りうじん》が|乗《の》つて|来《き》たのです』と|云《い》へば、|科学万能《くわがくばんのう》かぶれの|人《ひと》も、|虚妄《きよまう》と|感《かん》ずる|余裕《よゆう》もなく|思《おも》はず|感嘆《かんたん》の|詞《ことば》を|漏《も》らす|外《ほか》はなかつたのである。
|日《ひ》は|漸《やうや》く|西天《せいてん》に|傾《かたむ》き、|日出雄《ひでを》|等《ら》の|辞《じ》し|去《さ》らむとする|頃《ころ》は|天候《てんこう》|変《かは》りて|又《また》もや|雨模様《あめもやう》となり、|今《いま》にも|空《そら》は|綻《ほころ》び|相《さう》に|見《み》えて|居《ゐ》た。|盧占魁《ろせんくわい》|等《ら》は『|今晩《こんばん》は|此処《ここ》にお|泊《とま》りになつては|如何《いかが》です。|強《た》つてお|帰《かへ》りなさるなら、こんな|空模様《そらもやう》ですから、|雨具《あまぐ》を|差上《さしあ》げませう』といふのを、|日出雄《ひでを》は『ナアニ|俺《おれ》が|旅立《たびだ》ちすれば|降《ふ》つてゐる|雨《あめ》も|歇《や》むのだ』と|微笑《びせう》し|乍《なが》ら、|上木局子《かみもくきよくし》の|仮殿《かりどの》|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|果《はた》して|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》の|帰着《きちやく》|迄《まで》は|雨《あめ》の|神様《かみさま》も|遠慮《ゑんりよ》されたのか、|其《その》|帰着《きちやく》と|同時《どうじ》に|沛然《はいぜん》として、|地上《ちじやう》の|塵《ちり》を|一時《いちじ》に|流《なが》し|去《さ》るかの|如《ごと》く|強雨《がうう》が|降《ふ》り|注《そそ》いだのである。
(大正一四・八 筆録)
第二六章 |天《あま》の|安河《やすかは》
|何時《いつ》の|間《ま》に|盧占魁《ろせんくわい》が|宣伝《せんでん》したものか、|蒙古人《もうこじん》|等《ら》は|日出雄《ひでを》の|生立《おひた》ちに|就《つい》て|左《さ》の|如《ごと》き|信念《しんねん》を|有《いう》してゐた。
『|日出雄《ひでを》は|蒙古《もうこ》|興安嶺中《こうあんれいちう》の|部落《ぶらく》に|生《うま》れ、|幼《えう》にして|父《ちち》を|失《うしな》ひ、|母《はは》は|日出雄《ひでを》を|抱《いだ》いて、|各地《かくち》を|流転《るてん》の|揚句《あげく》、|日本人《につぽんじん》と|結婚《けつこん》し、|遂《つひ》に|日本《につぽん》へ|伴《ともな》ひ|行《ゆ》かれしは|日出雄《ひでを》|六歳《ろくさい》の|時《とき》であつた。|其《その》|後《ご》|日出雄《ひでを》は|日本《につぽん》にて|成長《せいちやう》し|神《かみ》の|使命《しめい》を|覚《さと》つて、|一派《いつぱ》の|宗教《しうけう》を|樹立《じゆりつ》しつつも、|故国《ここく》たる|蒙古《もうこ》は|常《つね》に|彼《かれ》の|念頭《ねんとう》を|支配《しはい》し、|漸《やうや》く|時《とき》を|得《え》て、|滅亡《めつぼう》に|瀕《ひん》せる|蒙古《もうこ》を|救治済度《きうぢさいど》すべく|帰来《きらい》したのである。そして|真澄別《ますみわけ》は|彼《かれ》の|母《はは》が|後添《のちぞひ》の|夫《をつと》|即《すなは》ち|日本人《につぽんじん》との|間《あひだ》に|出来《でき》た|異父弟《いふてい》である』
といふのだ。それかあらぬか、|蒙古《もうこ》の|元老《げんらう》は|日出雄《ひでを》を|成吉思汗《ジンギスカン》の|再来《さいらい》と|信《しん》じ、|且《か》つ|源義経汗《ジンギスカン》|蒙古平定後《もうこへいていご》、|世界《せかい》を|統一《とういつ》し、|其《その》|根拠《こんきよ》を|蒙古外《もうこぐわい》に|移《うつ》せし|為《ため》、|蒙古《もうこ》は|再《ふたた》び|今日《こんにち》の|如《ごと》き|衰微《すゐび》を|来《きた》す|結果《けつくわ》となつたのだから、|今回《こんくわい》は|蒙古《もうこ》|平定《へいてい》|独立《どくりつ》の|上《うへ》は、|蒙古《もうこ》の|地《ち》を|離《はな》れて|下《くだ》さるなと、|折《をり》に|触《ふ》れて|日出雄《ひでを》に|哀願《あいぐわん》すること|屡々《しばしば》であつた。そこで|日出雄《ひでを》は、|若《も》し|自分《じぶん》が|国外《こくぐわい》に|出《で》かける|場合《ばあひ》は、|異父弟《いふてい》の|真澄別《ますみわけ》を|置《お》いて|行《ゆ》くから|心配《しんぱい》するなと|答《こた》へて、|彼等《かれら》を|慰《なぐさ》めてゐた。|故《ゆゑ》に|索倫《ソーロン》に|引移《ひきうつ》りて|以来《いらい》は、|活仏《くわつぶつ》|其《その》|他《た》の|人々《ひとびと》に|応接《おうせつ》|交渉《かうせふ》の|必要《ひつえう》の|時《とき》は、|何時《いつ》も|真澄別《ますみわけ》が|日出雄《ひでを》に|代《かは》つて|其《その》|任《にん》に|当《あた》つてゐた。|下木局子《しももくきよくし》|滞在中《たいざいちう》|曼陀汗《マンダハン》に|親交《しんかう》ある|活仏《くわつぶつ》|等《ら》が|来訪《らいほう》した|場合《ばあひ》も、|日出雄《ひでを》には|単《たん》に|敬意《けいい》を|表《へう》して|引下《ひきさが》り、|真澄別《ますみわけ》に|対《たい》し、|蒙古《もうこ》の|窮状《きうじやう》を|告《つ》げ、|赤軍《せきぐん》の|横暴《わうばう》などを|訴《うつた》へ、|真澄別《ますみわけ》は|経典《コーラン》と|剣《つるぎ》とを|両手《りやうて》にして|故国救援《ここくきうゑん》の|第一行動《だいいちかうどう》とすることや、|蒙古喇嘛《もうこラマ》の|妻帯論《さいたいろん》などをまくし|立《た》て、|彼等《かれら》を|喜《よろこ》ばせて|居《ゐ》た。そして|病人《びやうにん》の|鎮魂《ちんこん》なども|主《しゆ》として|真澄別《ますみわけ》が|之《これ》に|当《あた》り、|日出雄《ひでを》は|活神《いきがみ》として|尊敬《そんけい》せられ、|妄《みだ》りに|之《これ》を|煩《わづら》はさぬ|様《やう》にする|事《こと》が|一般《いつぱん》の|傾向《けいかう》となつて|来《き》た。
|上木局子《かみもくきよくし》の|仮殿《かりどの》に|護衛団長《ごゑいだんちやう》|何全孝《かぜんかう》は、|或日《あるひ》|一人《ひとり》の|活仏《くわつぶつ》を|伴《ともな》ひやつて|来《き》た。|此《この》|活仏《くわつぶつ》は|北京《ペキン》を|振出《ふりだ》しに|外蒙《ぐわいもう》を|横断《わうだん》|勧請《くわんじやう》しつつ、|興安嶺地帯《こうあんれいちたい》に、|宏大《くわうだい》なる|喇嘛廟《ラマメウ》を|建立《こんりう》すべく|運動《うんどう》してゐる|者《もの》で、|救世主《きうせいしゆ》|来降《らいかう》を|伝聞《でんぶん》し|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで|来訪《らいほう》したのであつた。|何《か》|団長《だんちやう》は|真澄別《ますみわけ》と|筆談《ひつだん》にて|活仏《くわつぶつ》の|来意《らいい》を|敷衍《ふえん》し、|更《さら》に|盧《ろ》の|人物《じんぶつ》に|就《つい》て|左《さ》の|如《ごと》く|語《かた》つた。
『|自分《じぶん》は|察哈爾《チヤハル》の|生《うま》れで、|多年《たねん》|盧占魁《ろせんくわい》に|従《したが》つて|戦場《せんぢやう》を|馳駆《ちく》|致《いた》しましたが、|今日《こんにち》|騎兵戦争《きへいせんさう》に|於《おい》て|盧《ろ》|司令《しれい》の|右《みぎ》に|出《い》づる|者《もの》はありませぬ。|先年《せんねん》も|察哈爾《チヤハル》より|大山脈《だいさんみやく》|並《ならび》に|大沙漠《だいさばく》を|横切《よこぎ》つて|外蒙《ぐわいもう》を|斬《き》り|従《したが》へ、|一時《いちじ》|大庫倫《だいクーロン》に|根拠《こんきよ》を|構《かま》へ、|更《さら》に|転《てん》じて|綏遠《スヰヱン》、|山西《さんせい》、|雲南《うんなん》|迄《まで》|兵《へい》を|進《すす》めて|支那《しな》の|天地《てんち》を|震撼《しんかん》せしめましたが、|盧《ろ》の|居《ゐ》る|間《あひだ》は|其《その》|地《ち》は|平定《へいてい》してゐますが、|一度《いちど》|盧《ろ》の|去《さ》つた|跡《あと》は|復《また》|元《もと》の|如《ごと》く、|何時《いつ》しか|盧《ろ》の|制令区域《せいれいくゐき》を|自然《しぜん》に|脱《だつ》した|状態《じやうたい》になつて|了《しま》つて、|全《まつた》く|骨折損《ほねをりぞん》に|終《をは》つてゐます。これは|盧《ろ》|司令《しれい》に|政治的《せいぢてき》|手腕《しゆわん》が|欠《か》けてゐる|為《ため》であります。|実際《じつさい》|盧《ろ》|司令《しれい》は|武力《ぶりよく》|征服《せいふく》|一方《いつぱう》の|人《ひと》ですから、|今回《こんくわい》は|征服《せいふく》の|跡《あと》の|政治《せいぢ》|方面《はうめん》を|是非《ぜひ》|貴方《あなた》|方《がた》に|御願《おねが》ひ|致《いた》しました|様《やう》な|次第《しだい》です。これは|私《わたし》|丈《だけ》の|希望《きばう》ではありませぬ、|司令《しれい》|以下《いか》|吾々《われわれ》|同志《どうし》の|者《もの》の|等《ひと》しく|希望《きばう》する|所《ところ》で|御座《ござ》います』
|此《この》|木局子《もくきよくし》|一帯《いつたい》の|地《ち》に、|盧占魁《ろせんくわい》は|所有権《しよいうけん》を|設定《せつてい》し、|上木局子《かみもくきよくし》に|仮神殿《かりしんでん》を|建立《こんりう》し、|之《これ》を|日出雄《ひでを》の|仮寓《かぐう》とする|計劃《けいくわく》が|進《すす》んでゐたが、|軍容整頓事務《ぐんようせいとんじむ》に|逐《お》はれて|中々《なかなか》|捗《はかど》らぬので、|取敢《とりあ》へず|上木局子《かみもくきよくし》|部落中《ぶらくちう》の|最《もつと》も|瀟洒《せうしや》と|見受《みう》けられる|民家《みんか》を|徴発《ちようはつ》して、|日出雄《ひでを》の|仮殿《かりどの》に|当《あ》てたのである。
|上木局子《かみもくきよくし》は|最近《さいきん》|例《れい》のチヨロマン|民族《みんぞく》の|根拠地《こんきよち》であつたので、|現住《げんぢゆう》の|部落民《ぶらくみん》も|公爺府《コンエフ》|以西《いせい》の|沿道筋《えんだうすぢ》の|住民《ぢゆうみん》に|比《ひ》し|特《とく》に|獰猛《だうまう》の|気《き》が|漲《みなぎ》つて|居《ゐ》る。|盧《ろ》も|此《この》|地点《ちてん》に|気《き》を|配《くば》りしものか、|張彦三《ちやうけんさん》、|何全孝《かぜんかう》、|鄒秀明《すうしうめい》の|三団長《さんだんちやう》をして、|各々《おのおの》|其《その》|部下《ぶか》を|率《ひき》ゐて、|之《これ》を|護衛《ごゑい》|警戒《けいかい》せしめて|居《ゐ》たのである。|併《しか》し|如何《いか》に|獰猛《だうまう》な|民《たみ》とはいへ、|妄《みだり》に|威圧《ゐあつ》すべきものにあらずして、|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》は|十数戸《じふすうこ》の|民家《みんか》を|時々《ときどき》|訪問《はうもん》し、|親《した》しく|交《まじ》はり、|或《あるひ》は|戯《たはむ》れ、|或《あるひ》は|病人《びやうにん》を|治《なほ》し、|徳化教育《とくくわけういく》を|怠《おこた》らなかつた。|随《したが》つて|護衛《ごゑい》の|将卒《しやうそつ》も|武威《ぶゐ》を|揮《ふる》ふの|要《えう》なく、|実《じつ》に|平和《へいわ》な|自治体《じちたい》が|自然《しぜん》に|形成《けいせい》されてゐたのである。
|斯《か》かる|中《なか》に|〓児河畔《トールかはん》の|霊的修行《れいてきしうぎやう》は、|日課《につくわ》の|如《ごと》く、|上木局子《かみもくきよくし》|出発《しゆつぱつ》|迄《まで》|継続《けいぞく》された。|修行場《しうぎやうぢやう》は|〓児河《トールがは》の|支流《しりう》|三筋《みすぢ》|落合《おちあひ》の|岸辺《きしべ》に|約《やく》|一間半《いつけんはん》|四方《しはう》の|地《ち》を|卜《ぼく》し、|四隅《よすみ》に|楊《やなぎ》を|樹《た》てて|堺《さかひ》とし、|外蒙地帯《ぐわいもうちたい》に|豊富《ほうふ》なる|岩塩《がんえん》を|以《もつ》て|之《これ》を|浄《きよ》め、|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|神《かみ》に|祈《いの》りて|濫《みだ》りに|冒《をか》すべからざる|聖域《せいゐき》と|定《さだ》められたのである。|〓児《トール》の|流《なが》れは|清《きよ》きこと|水晶《すゐしやう》の|如《ごと》く、|冷《つめ》たきこと|氷《こほり》の|如《ごと》しで、|曹達分《ソーダぶん》の|含有量《がんいうりやう》|豊富《ほうふ》で、|洗濯《せんたく》には|石鹸《せつけん》|不用《ふよう》である。|内蒙一帯《ないもういつたい》の|地《ち》はすべて|曹達分《ソーダぶん》に|富《と》み、|宝裏山《はうりざん》|附近《ふきん》の|砂漠地帯《さばくちたい》の|下《した》の|如《ごと》きは|全部《ぜんぶ》|曹達《ソーダ》が|地層《ちそう》をなしてゐると|云《い》つて|可《い》い|位《くらゐ》である。
|修行者《しうぎやうしや》は|日々《ひび》|此《この》|〓児《トール》の|清冽《せいれつ》な|水《みづ》で|身体《しんたい》を|清《きよ》めるを|例《れい》とし、|守高《もりたか》、|萩原《はぎはら》、|坂本《さかもと》、|名田彦《なだひこ》の|面々《めんめん》も|時々《ときどき》|参加《さんか》して|居《ゐ》た。|修行《しうぎやう》|開始《かいし》|五日目《いつかめ》の|事《こと》であつた。|日出雄《ひでを》は|帰神《かむがか》りとなり|身体《しんたい》より|霊光《れいくわう》を|放射《はうしや》し、|左《さ》の|意《い》の|神言《しんげん》が|其《その》|口《くち》を|破《やぶ》つて|出《で》た。
『ウツフヽヽヽアハツハヽヽヽ|面白《おもしろ》し|面白《おもしろ》し、|秋津洲《あきつしま》より|渡《わた》り|来《きた》りし、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》、|武速素盞嗚《たけはやすさのを》と|現《あら》はれて|将《まさ》に|滅《ほろ》び|行《ゆ》かむとする、|神《かみ》の|造《つく》りし|神《かみ》の|国《くに》の|立替《たてかへ》|立直《たてなほし》を|行《おこな》はむとす。|小人《せうじん》|共《ども》がガヤガヤと|立騒《たちさわ》げ|共《ども》、|凡《すべ》て|神《かみ》の|仕組《しぐ》みし|神業《かむわざ》なれば、|如何《いか》なる|事変《じへん》の|起《おこ》るとも、|神《かみ》に|任《まか》せて|心《こころ》を|煩《わづら》はす|事《こと》|勿《なか》れ。|武速素盞嗚尊《たけはやすさのをのみこと》|先頭《せんとう》に|立《た》ち、|落着《おちつ》く|場所《ばしよ》は|大庫倫《だいクーロン》なり。されど|途中《とちう》は|迂余曲折《うよきよくせつ》|多《おほ》し、|必要《ひつえう》と|認《みと》むる|事《こと》は|此《この》|肉体《にくたい》に|懸《かか》りて|其《その》|都度《つど》|説《と》き|示《しめ》すべし。|真澄別《ますみわけ》は|木花姫命《このはなひめのみこと》|並《ならび》に|二体《にたい》の|竜神《りうじん》を|以《もつ》て|守護《しゆご》せしめ、|又《また》|守高《もりたか》は|天《あま》の|手力男《たぢからを》|並《ならび》に|二体《にたい》の|竜神《りうじん》を|以《もつ》て|守護《しゆご》せしめあれば、|必《かなら》ず|其《その》|身《み》を|汚《けが》す|事《こと》|勿《なか》れ。|又《また》|坂本《さかもと》|広一《くわういち》には|法華教《ほけきやう》を|守護《しゆご》する|持国天《じこくてん》をして|守護《しゆご》せしめ、|名田彦《なだひこ》は|白狐《びやくこ》を|以《もつ》て|守護《しゆご》しあれ|共《ども》、|未《いま》だ|修業《しうげふ》|足《た》らざるを|以《もつ》て、|表《おもて》に|現《あら》はるるに|至《いた》らず|云々《うんぬん》』
|之《これ》に|依《よ》り|観察《くわんさつ》すれば、|日出雄《ひでを》は|今日《こんにち》|未《いま》だ|大庫倫《だいクーロン》に|向《むか》ふ|途中《とちう》の|曲折中《きよくせつちう》に|身《み》を|置《お》けるものとなるのである。|尚《なほ》|此《この》|修業中《しうげふちう》、|真澄別《ますみわけ》の|霊眼《れいがん》|霊耳《れいじ》に|前途《ぜんと》に|関《くわん》する|種々《しゆじゆ》なる|問題《もんだい》が|映《えい》じ|或《あるひ》は|聞《きこ》えた|相《さう》で、|其《その》|都度《つど》|之《これ》を|日出雄《ひでを》に|報告《はうこく》すると、|日出雄《ひでを》は|微笑《びせう》しながら|肯《うなづ》くのが|例《れい》であつた。|其《その》|中《うち》|既《すで》に|実現《じつげん》せるは|左《さ》の|二《ふた》つである。
(|其《その》|一《いち》)|日出雄《ひでを》は|一旦《いつたん》|日本《につぽん》|内地《ないち》に|帰還《きくわん》して|陣容《ぢんよう》を|直《なほ》さねばならぬ|事《こと》。
(|其《その》|二《に》)|六七回《ろくしちくわい》、|倉庫《さうこ》とも|感《かん》ぜられる|鉄窓《てつさう》の|建物《たてもの》が|或《あるひ》は|大《おほ》きく|或《あるひ》は|小《ちひ》さく|映《えい》じ、|最後《さいご》には|鉄窓内《てつさうない》より|女神《めがみ》の|覗《のぞ》く|図《づ》が|見《み》えたと|云《い》ふ。
|後《のち》に|至《いた》りて|勘考《かんかう》すれば、|日出雄《ひでを》は|白音太拉《パインタラ》の|支那留置場《しなりうちぢやう》、|鄭家屯《ていかとん》の|支那留置場《しなりうちぢやう》、|並《ならび》に|日本領事館《りやうじくわん》|留置場《りうちぢやう》、|奉天《ほうてん》|日本領事館《につぽんりやうじくわん》|監獄《かんごく》、|広島県《ひろしまけん》|大竹警察《おほたけけいさつ》|留置場《りうちぢやう》、|兵庫県《ひやうごけん》|上郡警察《かみごほりけいさつ》|留置場《りうちぢやう》を|経《へ》て、|最後《さいご》に|大阪刑務所生活《おほさかけいむしよせいくわつ》を|以《もつ》て|身体《しんたい》の|自由《じいう》を|得《え》たる|事《こと》の|予告《よこく》であつたと|見《み》る|外《ほか》はなからう。|殊《こと》に|最後《さいご》のは|大阪刑務所《おほさかけいむしよ》の|外観《ぐわいくわん》|其《その》|儘《まま》であつたと|云《い》ふのだから|不思議《ふしぎ》といふも|愚《おろ》かである。
|因《ちなみ》に|名田彦《なだひこ》は|此《この》|修業《しうげふ》の|際《さい》|冷水《れいすい》に|身《み》を|浸《ひた》した|結果《けつくわ》|宿痾《しゆくあ》を|再発《さいはつ》し、|終《つひ》に|中途《ちうと》|帰国《きこく》の|途《と》に|就《つ》かねばならぬ|事《こと》となつた。
(大正一四・八 筆録)
第二七章 |奉天《ほうてん》の|渦《うづ》
|日出雄《ひでを》が|大志《たいし》を|懐《いだ》いて|綾《あや》の|聖地《せいち》を|出発《しゆつぱつ》して|以来《いらい》、|満蒙《まんもう》の|空《そら》を|眺《なが》めては、|日夜《にちや》|憧憬《どうけい》の|思《おも》ひを|抱《いだ》きつつ、|軍資金《ぐんしきん》の|調達《てうたつ》に|苦労《くらう》してゐた|加藤《かとう》|明子《はるこ》は、|日出雄《ひでを》|出発後《しゆつぱつご》|三週間《さんしうかん》を|経《へ》た|頃《ころ》、|日出雄《ひでを》よりの|密書《みつしよ》を|受取《うけと》つた。それには|旧《きう》|三月《さんぐわつ》|三日《みつか》|迄《まで》に|横尾《よこを》|敬義《ゆきよし》、|西村《にしむら》|輝雄《てるを》、|国分《こくぶ》|義一《ぎいち》、|藤田《ふぢた》|武寿《たけとし》、|佐藤《さとう》|六合雄《くにを》|其《その》|他《た》|之《こ》れを|思《おも》ふ|人々《ひとびと》の|中《うち》、|四五名《しごめい》|同道《どうだう》して|吾《わが》|滞在《たいざい》の|場所《ばしよ》|迄《まで》|来《きた》れとの|命令《めいれい》が|認《したた》めてあつた。|加藤《かとう》は|天《てん》にも|昇《のぼ》る|心地《ここち》し|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで|右《みぎ》の|人々《ひとびと》に|其《その》|旨《むね》を|伝《つた》へた。|此《この》|中《うち》|佐藤《さとう》は|用務《ようむ》の|為《た》め、|内地《ないち》に|残留《ざんりう》し、|西村《にしむら》は|大庫倫《だいクーロン》へ|一行《いつかう》|到着《たうちやく》|迄《まで》|待《ま》つと|云《い》ひ、|横尾《よこを》は|他《た》に|要件《えうけん》があるので|先《さき》んじて|奉天《ほうてん》へ|向《むか》ひ、|国分《こくぶ》、|藤田《ふぢた》の|両人《りやうにん》は|早速《さつそく》|関係《くわんけい》|事業《じげふ》の|整理《せいり》に|取掛《とりかか》つた。|尚《なほ》|加藤《かとう》の|通告《つうこく》に|依《よ》り|是非《ぜひ》|此《この》|一行《いつかう》に|加《くは》はらむと|決心《けつしん》した|広瀬《ひろせ》|義邦《よしくに》は、|万難《ばんなん》を|排《はい》して|渡満《とまん》し、|場合《ばあひ》に|依《よ》つては|大連《だいれん》|若《も》しくは|奉天《ほうてん》に|職《しよく》を|求《もと》めて|時機《じき》の|至《いた》るを|待《ま》つ|事《こと》とした。
|加藤《かとう》も|蝟集《ゐしふ》し|来《きた》る|故障《こしやう》を|凌《しの》いで|出発準備《しゆつぱつじゆんび》を|急《いそ》いでゐる|折柄《をりから》、|先《さき》に|渡満《とまん》した|横尾《よこを》が|帰来《きらい》し、
『|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》は|既《すで》に|入蒙《にふもう》せしこと、|唐国別《からくにわけ》の|言《げん》に|依《よ》れば|後《あと》の|連中《れんちう》は|大庫倫《だいクーロン》|到着後《たうちやくご》、|来《く》る|様《やう》に』
との|事《こと》などを|伝《つた》へた。|加藤《かとう》は|予期《よき》に|反《はん》したので、|取敢《とりあ》へず|国分《こくぶ》、|藤田《ふぢた》に|其《その》|旨《むね》を|通《つう》ずると、|二人《ふたり》は|既《すで》に|準備《じゆんび》|全《まつた》くなり、|今更《いまさら》|如何《どう》することも|出来《でき》ぬといふ|始末《しまつ》なので、|已《や》むなく|其《その》|処置《しよち》を|大本二代教主《おほもとにだいけうしゆ》に|謀《はか》り、|遂《つひ》に|国分《こくぶ》、|藤田《ふぢた》、|加藤《かとう》の|三人《さんにん》は、|一命《いちめい》を|賭《と》して|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》の|跡《あと》を|逐《お》ふ|事《こと》に|決定《けつてい》したのである。
|四月《しぐわつ》|十六日《じふろくにち》|奉天《ほうてん》なる|唐国別《からくにわけ》より|西王母《せいわうぼ》の|服装《ふくさう》を|携行《けいかう》せよとの|来電《らいでん》があつたので、|其《そ》の|用務《ようむ》をも|兼《か》ね、|右《みぎ》|三人《さんにん》は|四月《しぐわつ》|十八日《じふはちにち》|奉天《ほうてん》に|向《むか》つて|出発《しゆつぱつ》し、|門司《もじ》よりは|偶々《たまたま》|満韓視察《まんかんしさつ》の|途次《とじ》にありし|大谷《おほたに》|恭平《きようへい》が|加《くは》はつて|一行《いつかう》|四人《よにん》となり、|心《こころ》は|既《すで》に|蒙古《もうこ》の|大原野《だいげんや》に|馳《は》せ、|汽船《きせん》や|汽車《きしや》も|間《ま》ドロキ|心地《ここち》で|二十日《はつか》|夕《ゆふ》|奉天駅《ほうてんえき》に|着《ちやく》した。|予《かね》て|打電《だでん》してあつたので、|萩原《はぎはら》、|西島《にしじま》|並《ならび》に|折柄《をりから》|在奉中《ざいほうちう》の|唐国別夫人《からくにわけふじん》|等《とう》が|一行《いつかう》を|出迎《でむか》へ、|其《その》|筋《すぢ》の|警戒《けいかい》|厳《げん》なればとて、|四辺《あたり》を|憚《はばか》り|乍《なが》ら|稲葉町《いなばちやう》の|中野《なかの》といふ|宅《たく》に|案内《あんない》された。|翌《よく》|二十一日《にじふいちにち》|一行《いつかう》は|水也商会《みづやしやうくわい》に|趣《おもむ》き、|王天海《わうてんかい》なる|唐国別《からくにわけ》と|会見《くわいけん》したところが、|王《わう》は|不機嫌《ふきげん》な|面色《おももち》で、|藤田《ふぢた》に|向《むか》ひ、
|唐国別《からくにわけ》『|君等《きみら》は|一体《いつたい》|奥地《おくち》へ|入《はい》る|積《つも》りで|来《こ》られたのですか』
|藤田《ふぢた》『|左様《さやう》です、|勿論《もちろん》』
|唐国別《からくにわけ》『|左様《さやう》です……なんて……|冗談《じようだん》ぢやないよ。|君等《きみら》はさう|容易々々《やすやす》と|奥地《おくち》へ|這入《はい》れると|思《おも》はれるのか。そりや|誰《たれ》だつて|先生《せんせい》の|側《そば》へ|行《ゆ》きたいのは|当然《たうぜん》だよ、|君等《きみら》だけぢやない。しかし|張作霖《ちやうさくりん》との|複雑《ふくざつ》な|関係《くわんけい》を|知《し》りもしないで、ヤレ|吾《われ》もソレ|私《わし》もとやつて|来《こ》られて|耐《たま》るものか、|僕《ぼく》の|苦心《くしん》は|並大抵《なみたいてい》ぢやないよ』
と|前置《まへおき》して|日出雄《ひでを》|来奉《らいほう》|以後《いご》の|事情《じじやう》を|縷々《るる》と|弁《べん》じ、|此《この》|際《さい》|日本人《につぽんじん》の|入蒙《にふもう》することは|絶対《ぜつたい》に|断《ことわ》ると|云《い》ふ、|甚《はなは》だ|意外《いぐわい》な|言葉《ことば》であつた。
|加藤《かとう》『|妾達《わたしたち》は|決《けつ》して|自分勝手《じぶんかつて》に|先生《せんせい》のお|側《そば》へ|行《ゆ》かうと|云《い》ふのではありませぬ。|先生《せんせい》の|御命令《ごめいれい》で|参《まゐ》りましたのです。|貴方《あなた》も|御存《ごぞん》じの|筈《はず》ですが……』
とて|日出雄《ひでを》より|来《き》た|親展書《しんてんしよ》と、|二代教主《にだいけうしゆ》よりの|三人《さんにん》の|入蒙依頼書《にふもういらいしよ》を|差出《さしだ》した。|唐国別《からくにわけ》は、
『あゝさうですか、|私《わたし》は|些《ち》つとも|知《し》らなかつた。さうすると|又《また》|新《あらた》に|三人《さんにん》の|大先生《だいせんせい》を|引受《ひきう》けた|様《やう》なものだ。|中々《なかなか》の|大任《たいにん》だ。|先生《せんせい》の|入蒙《にふもう》に|就《つい》ては、どんな|苦心《くしん》をしたか|分《わか》りやしない』
とてこれから|入蒙苦心談《にふもうくしんだん》に|夜《よ》を|更《ふ》かし、|更《かう》|闌《た》けてから|一行《いつかう》は|宿《やど》に|引取《ひきと》つた。|然《しか》るに|其《その》|後《ご》|第二回《だいにくわい》の|会見《くわいけん》に|於《おい》ては|唐国別《からくにわけ》の|態度《たいど》|激変《げきへん》し、
『|先生《せんせい》の|現在《げんざい》の|御在所《ございしよ》は|自分《じぶん》には|分《わか》りませぬ。また|仮令《たとへ》|大先生《だいせんせい》、|二代様《にだいさま》のお|言葉《ことば》でも、|自分《じぶん》の|考《かんが》へに|反《はん》した|事《こと》は|聞《き》き|容《い》れる|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬ』
とて|断乎《だんこ》として|三人《さんにん》に|入蒙《にふもう》を|拒絶《きよぜつ》した。|三人《さんにん》は|其《その》|傍若無人《ばうじやくぶじん》の|言辞《げんじ》に|驚《おどろ》き|呆《あき》れ、|且《かつ》|憤慨《ふんがい》したが、|扨《さて》|何《なん》と|詮術《せんすべ》もないので、スゴスゴと|引取《ひきと》る|外《ほか》はなかつた。
|四月《しぐわつ》|二十六日《にじふろくにち》に|至《いた》り、|大倉《おほくら》|奥地《おくち》より|日出雄《ひでを》の|消息《せうそく》を|齎《もた》らし|帰《かへ》れりとの|報告《はうこく》を|唐国別《からくにわけ》より|受《う》けたので、|一縷《いちる》の|望《のぞ》みもやと、|三人《さんにん》は|急《いそ》いで|唐国別《からくにわけ》の|店舗《てんぽ》を|訪《おとづ》れ|大倉《おほくら》に|面会《めんくわい》した。|大倉《おほくら》は|愛想《あいそ》よく|口《くち》を|開《ひら》いて|語《かた》る。
『|先生《せんせい》は|非常《ひじやう》に|御元気《おげんき》ですから|御安心《ごあんしん》なさい。|併《しか》し|現在《げんざい》|入蒙《にふもう》は|余程《よほど》|困難《こんなん》ですが、|先生《せんせい》より|来《こ》いとのお|言葉《ことば》なれば、|万難《ばんなん》を|排《はい》して|奥地《おくち》へお|送《おく》り|申《まを》しませう。|又《また》|先生《せんせい》のお|言葉《ことば》なく|共《とも》、|強《し》ひて|入蒙《にふもう》せられると|云《い》ふのなら、|同胞《どうはう》の|誼《よしみ》として|捨《す》ておく|訳《わけ》にも|行《ゆ》きませぬでなア』
|加藤《かとう》|等《ら》|三人《さんにん》は|大倉《おほくら》の|此《この》|言葉《ことば》に|稍《やや》|心《こころ》|勇《いさ》み、|先《さき》に|唐国別夫人《からくにわけふじん》が『|強《し》ひて|入蒙《にふもう》する|者《もの》は|途中《とちう》で|殺《や》つて|了《しま》ふと|某浪人《ぼうらうにん》が|言《い》つてますよ』との|話《はなし》の|裏切《うらぎ》られた|嬉《うれ》しさと、『|先生《せんせい》のお|言葉《ことば》なら|万難《ばんなん》を|排《はい》して|云々《うんぬん》』といふ|信者《しんじや》ならでは|聴《き》く|事《こと》の|出来《でき》ぬ|言葉《ことば》を|大倉《おほくら》の|口《くち》から|発《はつ》せられた|嬉《うれ》しさに、|此《こ》の|機《き》を|外《はづ》してはと|思《おも》ふ|矢先《やさき》、|唐国別《からくにわけ》は、
『|当地《たうち》に|居《ゐ》て|一切《いつさい》の|事情《じじやう》に|精通《せいつう》してゐる|吾輩《わがはい》の|言《げん》に|従《したが》はず、まだ|入蒙《にふもう》を|主張《しゆちやう》するのは|不都合《ふつがふ》だ』
と|詰《なじ》る。|今迄《いままで》|口《くち》を|噤《つぐ》んで|一言《いちごん》も|挟《はさ》まなかつた|国分《こくぶ》は|此《この》|時《とき》|初《はじ》めて|口《くち》を|開《ひら》き、
『|此《この》|先生《せんせい》からの|御手紙《おてがみ》が|貴方《あなた》の|手《て》を|経《へ》て|来《き》たのなら|貴方《あなた》のお|言葉《ことば》に|従《したが》ひもしませうが、|之《こ》れはさうぢやないのですから、|一応《いちおう》|先生《せんせい》に|御照会《ごせうくわい》|願《ねが》ひたいものですな』
と|言《い》へば|唐国別《からくにわけ》は|頗《すこぶ》る|昂奮《かうふん》の|態度《たいど》であつたが、|翌日《よくじつ》|自分《じぶん》を|訪問《はうもん》した|藤田《ふぢた》を|介《かい》し、|左《さ》の|如《ごと》き|意味《いみ》の|通告《つうこく》を|三人《さんにん》に|与《あた》へたのである。
『|三人《さんにん》の|入蒙《にふもう》は|絶対《ぜつたい》に|拒絶《きよぜつ》する。|自分《じぶん》から|手紙《てがみ》で|先生《せんせい》の|方《はう》へ……|来奉者《らいほうしや》は|追《お》ひ|返《かへ》しますから|御承知《ごしようち》ありたし……と|申遣《まうしつか》はし、|盧占魁《ろせんくわい》には……|軍《ぐん》の|行動《かうどう》の|邪魔《じやま》になる|事《こと》は|先生《せんせい》の|言《げん》と|雖《いへど》も|聴従《ちやうじゆう》するな……と|伝《つた》へ、|尚《なほ》|使者《ししや》に|対《たい》しては……|万一《まんいち》|先生《せんせい》から|自分《じぶん》の|考《かんが》へと|違《ちが》つた|御返辞《ごへんじ》のある|場合《ばあひ》には|途中《とちう》で|握《にぎ》り|潰《つぶ》せ……と|命《めい》じて|置《お》いた。それでも|尚《なほ》|自由行動《じいうかうどう》を|取《と》り|入蒙《にふもう》せられるなら、|途中《とちう》の|危険《きけん》に|対《たい》して|吾々《われわれ》は|責任《せきにん》を|負《お》はない』
|此《こ》の|通告《つうこく》を|受《う》けた|三人《さんにん》は|熟議《じゆくぎ》の|結果《けつくわ》、|唐国別《からくにわけ》の|口吻《こうふん》に|女子《ぢよし》の|従軍禁制《じゆうぐんきんせい》の|旨《むね》もあつた|様《やう》だから、|此《この》|際《さい》|加藤《かとう》は|断念《だんねん》し、|国分《こくぶ》、|藤田《ふぢた》の|二人《ふたり》だけ|入蒙《にふもう》を|取計《とりはから》つて|貰《もら》ふ|事《こと》にしようと|一決《いつけつ》し、|加藤《かとう》は|大倉《おほくら》を|訪問《はうもん》して|之《これ》を|語《かた》つた|所《ところ》が|大倉《おほくら》は|同情《どうじやう》して『|兎《と》に|角《かく》|先生《せんせい》の|御指図《おさしづ》を|仰《あふ》ぐ|迄《まで》、|地方見物《ちはうけんぶつ》でもなさいませ』との|事《こと》に|一縷《いちる》の|望《のぞ》みを|残《のこ》し、|四月《しぐわつ》|廿九日《にじふくにち》から|五月《ごぐわつ》|二日《ふつか》まで、|三人《さんにん》は|撫順《ぶじゆん》、|大連《だいれん》、|旅順《りよじゆん》などを|巡覧《じゆんらん》した。|此《この》|間《かん》に|萩原《はぎはら》は|写真機《しやしんき》を|携帯《けいたい》して|入蒙《にふもう》の|途《と》に|就《つ》いたのである。
|三人《さんにん》が|再《ふたた》び|奉天《ほうてん》へ|帰来《きらい》した|日《ひ》、|王敬義《わうけいぎ》は|唐国別《からくにわけ》の|旨《むね》を|含《ふく》んで|来訪《らいほう》し、
『|唐国別《からくにわけ》に|無断《むだん》で|何故《なぜ》|大倉《おほくら》を|訪問《はうもん》したか、それから|旅順《りよじゆん》、|大連《だいれん》などと|出歩《である》くのは|不謹慎《ふきんしん》ぢやないですか』
と|詰《なじ》る。|三人《さんにん》は|王敬義《わうけいぎ》を|同情者《どうじやうしや》と|信《しん》じて|居《ゐ》たので、
『|唐国別《からくにわけ》より|最後《さいご》の|通牒《つうてふ》を|受《う》けましたので|已《や》むを|得《え》ず|大倉《おほくら》さんに|縋《すが》つたのです、そして|大倉《おほくら》さんのお|勧《すす》めに|依《よ》つて|見物《けんぶつ》に|行《い》つて|参《まゐ》りました』
と|答《こた》ふれば、
|王敬義《わうけいぎ》『|唐国別《からくにわけ》の|言《げん》は|一《ひと》つの|試練《しれん》とは|考《かんが》へないですか』
|加藤《かとう》『さう|思《おも》ひませぬでした』
|王敬義《わうけいぎ》『|唐国別《からくにわけ》の|言《げん》は|瑞霊《ずゐれい》の|神懸《かむがかり》と|認《みと》めませぬか』
|加藤《かとう》は『ハイ、さうは|思《おも》ひませぬ』とて|今日《けふ》|迄《まで》の|経過《けいくわ》を|精《くは》しく|述《の》べたので、|王敬義《わうけいぎ》も|漸《やうや》く|心《こころ》|解《と》けて、|種々《しゆじゆ》の|便宜《べんぎ》を|計《はか》らふ|事《こと》となつた。|此《この》|時《とき》|国分《こくぶ》は|憤然色《ふんぜんいろ》をなして|言《い》ふ、
『|唐国別《からくにわけ》の|言《げん》を|瑞霊《ずゐれい》の|神懸《かむがかり》とは|何《なん》のこつた。|王敬義《わうけいぎ》の|価値《かち》も|茲《ここ》に|至《いた》つては|零《ゼロ》だね、|共《とも》に|語《かた》るに|足《た》る|信仰《しんかう》ぢやないね。|若《も》しあの|時《とき》|加藤《かとう》さんが……|承認《しようにん》します……とでも|云《い》はうものなら、|今後《こんご》|断然《だんぜん》|事《こと》を|共《とも》にせない|積《つも》りだつた』
と|意気軒昂《いきけんかう》たるものがあつた。|隠《かく》して|奥地《おくち》よりの|消息《せうそく》を|待《ま》つ|中《うち》に、|日出雄《ひでを》より『|此《この》|際《さい》|女子《ぢよし》の|入蒙《にふもう》は|困難《こんなん》なれば、|日奉間《につぽうかん》を|往復《わうふく》して|連絡《れんらく》の|用務《ようむ》を|勤《つと》めよ』との|伝達《でんたつ》あり、|国分《こくぶ》、|藤田《ふぢた》に|関《くわん》しては|何等《なんら》の|伝言《でんごん》なく、|大倉《おほくら》の|同情《どうじやう》は|全《まつた》く|一時《いちじ》の|気安《きやす》めであつた|事《こと》|判明《はんめい》し、|藤田《ふぢた》は『ナアニ、|構《かま》ふものか、それでは|飛行機《ひかうき》を|用意《ようい》して|来《く》る』とて|単身《たんしん》|帰国《きこく》して|了《しま》つた。|其《その》|後《ご》へ|名田彦《なだひこ》が|使者《ししや》として|奥地《おくち》より|来奉《らいほう》し、|種々《しゆじゆ》|消息《せうそく》を|伝《つた》へたが、|主《しゆ》として|自身《じしん》の|苦心談《くしんだん》や、|愚痴《ぐち》のみにて|要領《えうりやう》を|得《え》ず、|只《ただ》|僅《わづか》に『|暫《しばら》く|自由行動《じいうかうどう》を|採《と》つて|時機《じき》を|待《ま》て』との|伝言《でんごん》が|含《ふく》まれてゐるらしく|思《おも》はれたので、|加藤《かとう》、|国分《こくぶ》の|両人《りやうにん》も|遂《つひ》に|時機《じき》の|到来《たうらい》せざるを|察《さつ》し、|五月《ごぐわつ》|八日《やうか》|意《い》を|決《けつ》して|帰国《きこく》の|途《と》に|就《つ》いたのである。|途々《みちみち》|国分《こくぶ》は|微笑《びせう》しながら、
『|藤田君《ふぢたくん》の|飛行機入蒙計劃《ひかうきにふもうけいくわく》もよからうが、|今《いま》の|世《よ》の|中《なか》は|黄金《こがね》の|弾丸《だんぐわん》に|限《かぎ》るよ、|金《かね》さへあれば|浪人《らうにん》の|鬼面《きめん》も|直《す》ぐ|恵比須顔《ゑびすがほ》に|変《かは》るよ。さうすりや|門番神《もんばんがみ》を|出《だ》しぬいて、|道案内《みちあんない》させる|位《ぐらゐ》は|朝飯前《あさめしまへ》の|仕事《しごと》だ』
と|加藤《かとう》を|顧《かへり》みて|笑《わら》つた。|帰来後《きらいご》|三人《さんにん》は|三様《さんやう》の|活動方針《くわつどうはうしん》を|取《と》つたが、|其《その》|後《ご》|加藤《かとう》は|米倉《よねくら》|範治《はんぢ》の|紹介《せうかい》で|嘗《かつ》て|満蒙《まんもう》の|野《の》に|驍名《げうめい》を|轟《とどろ》かせた|劉武林《りうぶりん》|事《こと》|緑川《みどりかは》|貞司《ていじ》に|師事《しじ》し、|馬術《ばじゆつ》の|稽古《けいこ》をはじめ、|緑川《みどりかは》を|案内者《あんないしや》として|入蒙《にふもう》の|意《い》を|果《はた》すべく|湯浅《ゆあさ》|清高《きよたか》、|谷前《たにまへ》|清子《きよこ》、|松村《まつむら》|清香《きよか》、|東尾《ひがしを》|輝子《てるこ》|等《ら》を|招集《せうしふ》すべく|準備中《じゆんびちう》、|通遼《つうれう》の|異変《いへん》に|接《せつ》したのである。
|唐国別《からくにわけ》|等《ら》が|加藤《かとう》|等《ら》の|入蒙《にふもう》を|拒《こば》んだのは、|加藤《かとう》|等《ら》の|入蒙《にふもう》は|大庫倫着《だいクーロンちやく》の|後《のち》と、|予《かね》て|日出雄《ひでを》から|聴《き》いてゐた|外《ほか》、|何等《なんら》の|命令《めいれい》を|受《う》けなかつたからであつた。
(大正一四・八 筆録)
第二八章 |行軍《かうぐん》|開始《かいし》
これより|曩《さき》、|〓南《たうなん》より|三井《みつゐ》|及《およ》び|佐々木《ささき》が|密使《みつし》を|遣《つか》はし『|〓南附近《たうなんふきん》|盧《ろ》の|名《な》を|騙《かた》る|小馬賊《せうばぞく》の|横行《わうかう》|甚《はなはだ》しく、|官民《くわんみん》|共《とも》に|困苦《こんく》の|結果《けつくわ》、|張作霖《ちやうさくりん》よりも|此《この》|際《さい》|盧《ろ》が|東三省《とうさんしやう》|圏外《けんぐわい》に|出《い》でざる|限《かぎ》り、|大々的《だいだいてき》に|討伐軍《たうばつぐん》を|差向《さしむ》くべし』と|報《はう》じて|来《き》たが、|盧《ろ》|司令《しれい》は|事《こと》もなげに、
『それは|自分《じぶん》が|予《かね》て|張大師《ちやうたいし》(|張作霖《ちやうさくりん》の|敬称《けいしやう》)と|約束《やくそく》した|計略《けいりやく》で、|東三省内《とうさんしやうない》の|馬賊《ばぞく》を|討伐《たうばつ》の|名《な》に|於《おい》て|索倫《ソーロン》へ|向《む》け|追《お》ひ|放《はな》ち、|自分《じぶん》は|之《これ》を|全部《ぜんぶ》|糾合《きうがふ》して|部下《ぶか》となすべき、|一挙両得《いつきよりやうとく》の|妙案《めうあん》なのだ』
と|云《い》つてゐた。|然《しか》るに|爾後《じご》|引続《ひきつづ》き|後方《こうはう》より|輸送《ゆそう》せらるべき|筈《はず》の|弾薬《だんやく》|武器《ぶき》は|来《きた》らず、|又《また》|所要《しよえう》のため|帰奉《きほう》した|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》、|楊崇山《やうすうざん》|等《ら》より|何等《なんら》の|消息《せうそく》も|到達《たうたつ》しないといふ|情況《じやうきやう》なので、|盧《ろ》も|稍《やや》|不安《ふあん》を|感《かん》じたのか、|六月《ろくぐわつ》|二日《ふつか》|腹心《ふくしん》の|部下《ぶか》|数騎《すうき》を|率《ひき》ゐて、|上木局子《かみもくきよくし》なる|日出雄《ひでを》の|仮殿《かりどの》を|訪《おと》づれ、|茲《ここ》に|密議《みつぎ》は|凝《こ》らされた。|秘密事項《ひみつじかう》|又《また》は|特《とく》に|緊要《きんえう》なる|問題《もんだい》は、|何時《いつ》も|日出雄《ひでを》の|意《い》を|受《う》けたる|真澄別《ますみわけ》と|盧占魁《ろせんくわい》と|筆談《ひつだん》にて|解決《かいけつ》するのが|例《れい》であつたから、|無論《むろん》|此《この》|日《ひ》も|筆談《ひつだん》に|依《よ》つて|両者間《りやうしやかん》に|問題《もんだい》が|議《ぎ》せられたのであるが、|其《その》|要点《えうてん》は|凡《およ》そ|左《さ》の|如《ごと》き|問答《もんだふ》であつたと、|著者《ちよしや》は|推断《すゐだん》すべき|理由《りいう》を|有《も》つてゐる。
|真澄別《ますみわけ》『|何時《いつ》|迄《まで》も、|此処《ここ》に|駐屯《ちうとん》して|居《ゐ》た|所《ところ》で|仕方《しかた》がないぢやありませぬか。|張作霖《ちやうさくりん》は|貴方《あなた》の|思《おも》ふてる|程《ほど》、|貴方《あなた》を|決《けつ》して|後援《こうゑん》しませぬよ。それよりも|独立《どくりつ》|開発《かいはつ》の|計《けい》を|立《た》て、|先《ま》づ|源義経《ジンギス》が|初《はじ》めて|王旗《わうき》を|飜《ひるがへ》したと|伝《つた》へられてる|興安嶺《こうあんれい》の|聖地《せいち》|迄《まで》|進軍《しんぐん》したら|何《ど》うですか、|興安嶺《こうあんれい》には|七千《しちせん》の|赤軍《せきぐん》が|居《ゐ》ると|貴方《あなた》は|謂《い》はれましたが、|霊眼《れいがん》で|見《み》ると、|乗馬《じやうば》は|四五百頭《しごひやくとう》ある|様《やう》だけれど、|人《ひと》は|二百《にひやく》|足《た》らずですよ。|通訳官《つうやくくわん》さへ|付《つ》けて|呉《く》れれば、|私《わたし》|一人《ひとり》|先発《せんぱつ》して|立派《りつぱ》に|妥協《だけふ》して|見《み》せますがなア』
|盧《ろ》『イヤ、|誠《まこと》に|遅延《ちえん》して|済《す》みませぬ。|長銃《ちやうじゆう》が|不足《ふそく》だものですから、あれでもと|思《おも》ふて|待《ま》つて|居《ゐ》ましたが、モウ|決心《けつしん》|致《いた》します。|併《しか》し|興安嶺《こうあんれい》のあの|地帯《ちたい》は|食料《しよくれう》がなく、これ|丈《だけ》の|人数《にんずう》が|繰込《くりこ》んでは|忽《たちま》ち|物資《ぶつし》に|困《こま》ります。それよりも|先《ま》づ|綏遠《スヰヱン》、|察哈爾地方《チヤハルちはう》より|当方《たうはう》へ|参加《さんか》する|大部隊《だいぶたい》に|早《はや》く|合《がつ》する|様《やう》、|其《その》|方向《はうかう》に|向《むか》ひ、|充分《じゆうぶん》|物資《ぶつし》を|豊富《ほうふ》にして、それから|外蒙《ぐわいもう》へ|向《むか》ひませう。|兎《と》に|角《かく》|二三日《にさんにち》の|内《うち》には|出発《しゆつぱつ》する|様《やう》に|取計《とりはか》らひますから……』
|斯《かか》る|折柄《をりから》、|下木局子《しももくきよくし》に|留守居《るすゐ》をして|居《ゐ》た|馬《ば》|副官《ふくくわん》は|顔色《かほいろ》を|変《か》へ、|全速力《ぜんそくりよく》で|馬《うま》を|飛《と》ばしてやつて|来《き》て、|何事《なにごと》か|慌《あわただ》しく|報告《はうこく》した。これを|聴《き》くと|盧《ろ》は|決心《けつしん》の|色《いろ》を|面《おもて》に|浮《うか》べて|立上《たちあが》り、|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》に|出発《しゆつぱつ》の|準備《じゆんび》を|請《こ》ひおき、|直《ただ》ちに|司令部《しれいぶ》|指《さ》して|急《いそ》ぎ|帰《かへ》つた。
|司令部《しれいぶ》の|東南方《とうなんはう》|約三十支里《やくさんじふしり》の|地点《ちてん》に|殿《しんがり》として、|満州馬賊《まんしうばぞく》の|大頭目《だいとうもく》|大英子児《タアインヅル》が|手兵《しゆへい》の|一部《いちぶ》|六十余騎《ろくじふよき》を|率《ひき》ゐて|駐屯《ちうとん》して|居《ゐ》たが、|此《この》|日《ひ》|恰《あだか》も|大英子児《タアインヅル》は|司令部《しれいぶ》へ|出頭《しゆつとう》し|不在中《ふざいちゆう》|部下《ぶか》の|者《もの》|共《ども》は、|寛《くつろ》いで|昼寝《ひるね》の|夢《ゆめ》を|貪《むさぼ》つてゐる|最中《さいちう》、|〓南《たうなん》の|官兵《くわんぺい》|約《やく》|三百余騎《さんびやくよき》が|突然《とつぜん》|襲撃《しふげき》したのである。|大英子児《タアインヅル》の|部下《ぶか》は|少数《せうすう》なりと|雖《いへど》も、|皆《みな》|一騎当千《いつきたうせん》の|粒揃《つぶぞろ》ひの|事《こと》なれば、|直《ただ》ちに|裸《はだか》の|儘《まま》|銃《じゆう》を|取《と》つて|応戦《おうせん》し、|数百《すうひやく》の|官兵《くわんぺい》を|一歩《いつぽ》も|寄《よ》せつけず、|一方《いつばう》|急《きふ》を|司令部《しれいぶ》に|報《はう》じた。|司令部《しれいぶ》にては|戦非戦《せんひせん》|両派《りやうは》|対立《たいりつ》して|議《はかりごと》|容易《ようい》に|纏《まとま》らずといふ|有様《ありさま》なので、|大英子児《タアインヅル》は|単身《たんしん》|馬《うま》を|飛《と》ばして、|自分《じぶん》の|屯営《とんえい》に|立帰《たちかへ》り、|部下《ぶか》を|引纏《ひきまと》め|悠々《いういう》として|司令部《しれいぶ》|迄《まで》|引揚《ひきあ》げた。|其《その》|敏活《びんくわつ》さ、|豪胆《がうたん》さに|官兵《くわんぺい》は|肝《きも》を|奪《うば》はれてか、|敢《あへ》て|追撃《つゐげき》もしなかつたのである。
|此《この》|時《とき》|司令部《しれいぶ》の|一室《いつしつ》に|控《ひか》へて|居《ゐ》た|岡崎将軍《をかざきしやうぐん》は|参謀連《さんぼうれん》の|不甲斐《ふがひ》なきを|怒《いか》り、
『こんな|連中《れんちう》と|一緒《いつしよ》に|居《ゐ》ては|先生《せんせい》の|御身《おみ》が|案《あん》ぜられる』
とて|手近《てぢか》にあつた|兵糧《ひやうらう》を|取纏《とりまと》め、|牛車《ぎうしや》|数台《すうだい》を|徴発《ちようはつ》して|之《これ》を|積載《せきさい》し、|急《いそ》ぎ|上木局子《かみもくきよくし》の|仮殿《かりどの》に|向《むか》つた。|之《これ》と|入《い》れ|違《ちが》ひに、|盧《ろ》|司令《しれい》は|司令部《しれいぶ》に|帰《かへ》つて|来《き》たが、|彼《かれ》は|参謀《さんぼう》|揚萃廷《やうすゐてい》の『|討伐隊《とうばつたい》は|大英子児《タアインヅル》を|撃《う》ちに|来《き》たものだ』との|言《げん》を|信《しん》じたものか、|或《あるひ》は|東三省《とうさんしやう》の|兵《へい》と|戦《たたか》ふのは|自分《じぶん》で|自分《じぶん》の|立場《たちば》を|危《あやふ》くするものと|解《かい》したか、|議論《ぎろん》|百出《ひやくしゆつ》の|間《あひだ》に|西北《せいほく》へ|向《むか》つて|移動《いどう》の|命令《めいれい》を|下《くだ》し、|車輪《しやりん》|不足《ふそく》の|為《ため》|積載《せきさい》|出来《でき》ぬ|兵糧《ひやうらう》などは、|黒竜江《こくりうこう》の|木局署《もくきよくしよ》へ|処分《しよぶん》を|委託《いたく》し、|西北《せいほく》|指《さ》して|行動《かうどう》を|起《おこ》す|事《こと》とした。
|夜《よる》の|帳《とばり》がスツポリと|卸《おろ》された|頃《ころ》、|上木局子《かみもくきよくし》なる|日出雄《ひでを》の|仮殿《かりどの》の|周囲《しうゐ》は、|下木局子《しももくきよくし》を|徹退《てつたい》した|軍兵《ぐんへい》を|以《もつ》て|幾重《いくへ》にも|取巻《とりま》かれ、|馬《うま》の|嘶《いななき》、|犬《いぬ》の|遠吠《とほぼえ》、|篝火《かがりび》の|焔《ほのほ》、|今迄《いままで》|静寂《せいじやく》なりし|上木局子《かみもくきよくし》の|天地《てんち》は|俄《には》かに|殺気《さつき》が|漲《みなぎ》つた。
|仮殿内《かりどのない》にては|盧《ろ》|以下《いか》|数名《すうめい》の|幹部《かんぶ》が|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》、|岡崎《をかざき》に|向《むか》ひ|前途《ぜんと》に|関《くわん》する|行動《かうどう》に|就《つ》き|説明《せつめい》を|重《かさ》ねつつ|夜《よ》を|更《ふ》かしてゐたが、|結局《けつきよく》|地理不案内《ちりふあんない》なる|日本人側《につぽんじんがは》は|進路《しんろ》を|盧《ろ》に|一任《いちにん》する|事《こと》となつた。|折柄《をりから》|暗《やみ》の|一遇《いちぐう》に|銃声《じゆうせい》|一発《いつぱつ》と、|断末魔《だんまつま》の|声《こゑ》が|聞《きこ》えた。|哀《あは》れなる|一兵卒《いつぺいそつ》は|上官《じやうくわん》に|反抗《はんかう》せるの|故《ゆゑ》を|以《もつ》て、|即座《そくざ》に|銃殺《じゆうさつ》されたのであつた。
|兎角《とかく》する|内《うち》|翌《よく》|六月《ろくぐわつ》|三日《みつか》|午前《ごぜん》|三時《さんじ》となつた。|鄒《すう》|団長《だんちやう》の|部隊《ぶたい》、|先鋒《せんぽう》となり、|盧《ろ》は|自《みづか》ら|日出雄《ひでを》|護衛《ごゑい》の|任《にん》に|当《あた》り、|曼陀汗《マンダハン》は|殿《しんが》り、|大英子児《タアインヅル》は|全隊《ぜんたい》の|見廻《みまは》り、|張彦三《ちやうけんさん》は|牛車隊《ぎうしやたい》の|監督《かんとく》など、|夫《そ》れ|夫《ぞ》れ|役割《やくわり》を|定《さだ》め、|西北《せいほく》|興安嶺《こうあんれい》の|聖地《せいち》を|指《さ》して|行軍《かうぐん》を|開始《かいし》する|事《こと》となつた。|道路《だうろ》とて|別《べつ》に|定《さだ》まつたものはなく、|唯《ただ》|樹木《じゆもく》|点綴《てんてつ》せる|大高原《だいかうげん》を|〓児《トール》の|流《ながれ》を|標準《へうじゆん》に|縫《ぬ》うて|進《すす》むのである。|途中《とちう》|黄楊《くわうやう》の|大木《たいぼく》があると、|坂本《さかもと》は|馬上《ばじやう》より|指《ゆびさ》して、
『|二先生《アルセンシヨン》、こんな|黄楊《くわうやう》|一本《いつぽん》あれば、|築前琵琶《ちくぜんびわ》が|幾《いく》つも|出来《でき》ますなア』
と|歎声《たんせい》を|漏《も》らす|程《ほど》のが|数知《かずし》れず|樹立《じゆりつ》してゐるのは、|特《とく》に|日本人《につぽんじん》|連中《れんちう》には|珍《めづ》らしかつた。
|此《この》|日《ひ》|暮《くれ》|近《ちか》き|頃《ころ》、|〓児《トール》の|上流《じやうりう》、|河畔《かはん》の|森影《もりかげ》を|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》の|陣営《ぢんえい》と|見計《みはか》らひ、|露営《ろえい》の|夢《ゆめ》を|辿《たど》る|事《こと》とした。
『モウ|上木局子《かみもくきよくし》を|離《はな》れては|当分《たうぶん》|人家《じんか》は|素《もと》より|家畜《かちく》も|見《み》られない』
と|曼陀汗《マンダハン》が|説明《せつめい》する。|狼《おほかみ》|其《その》|他《た》|猛獣《まうじう》の|襲来《しふらい》を|防《ふせ》ぐ|為《ため》とて、|所々《しよしよ》に|揚《あが》る|焚火《のろし》の|紅煙《こうえん》は|天《てん》を|焦《こが》さむ|許《ばか》り|森《もり》を|真赤《まつか》に|照《てら》して|居《ゐ》た。|此《この》|夜半《やはん》|頃《ころ》|大英子児《タアインヅル》は|窃《ひそ》かに|日出雄《ひでを》を|訪問《はうもん》し、|岡崎《をかざき》を|介《かい》して『|私《わたくし》はどこ|迄《まで》も|貴方方《あなたがた》を|御保護《ごほご》|申上《まうしあげ》ます』と|誓《ちか》ひ、|日出雄《ひでを》の|手《て》づから|与《あた》ふる|鯣《するめ》を|再三《さいさん》|推《お》し|戴《いただ》き『|言語《げんご》さへ|通《つう》ずれば……』てふ|物足《ものた》らぬ|心《こころ》を|面《おもて》に|現《あら》はしつつも、ニコニコとして|辞《じ》し|去《さ》つたが、|彼《かれ》は|前日《ぜんじつ》|下木局子《しももくきよくし》に|於《お》ける|盧《ろ》の|処置《しよち》を|快《こころよ》しとせず、|窃《ひそ》かに|期《き》する|所《ところ》あつて、|此《この》|夜《よ》|脱出《だつしゆつ》し、|部下《ぶか》|諸共《もろとも》|何《いづ》れへか|姿《すがた》を|消《け》して|了《しま》つた。|果《はた》せるかな|彼《かれ》は|今日《こんにち》|熱河《ねつか》の|奥地《おくち》に|本拠《ほんきよ》を|構《かま》へ、|已《すで》に|三千《さんぜん》の|精兵《せいへい》を|引具《ひきぐ》して|紅帽軍《こうばうぐん》を|組織《そしき》し、|日出雄《ひでを》の|弔合戦《ともらひがつせん》をするのだ……と|堂々《だうだう》の|陣《ぢん》を|張《は》り、|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》の|再渡来《さいとらい》を|待《ま》つてゐるさうである。|大英子児《タアインヅル》|脱退《だつたい》と|同時《どうじ》に、|予《かね》て|非戦論《ひせんろん》を|潔《いさぎよ》しとせざる|勇士《ゆうし》は|続々《ぞくぞく》として|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つたので、|翌朝《よくてう》|出立《しゆつたつ》の|際《さい》は、|騎馬兵《きばへい》|五百騎《ごひやくき》、|馬《うま》|整《ととの》はずして|牛車《ぎうしや》に|便乗《びんじよう》せるもの|三百有余《さんびやくいうよ》と|算《さん》せられた。
(大正一四・八 筆録)
第二九章 |端午《たんご》の|日《ひ》
|西北《せいほく》に|向《むか》つて|続《つづ》けられた|行軍《かうぐん》は、|山《やま》を|越《こ》え|谷《たに》を|渡《わた》り|高原《かうげん》を|横切《よこぎ》りつつ|進《すす》み|行《ゆ》く。ふと|見《み》れば|前方《ぜんぱう》に|素晴《すば》らしい|高山《かうざん》が|横《よこ》たはつてゐる。あの|山《やま》が|馬《うま》で|越《こ》えられやうかなと|案《あん》じつつ|進《すす》む|間《うち》に、|何時《いつ》しか|其《その》|頂《いただき》に|達《たつ》してゐるといふ|様《やう》な|緩勾配《くわんこうばい》は、|全《まつた》く|大陸《たいりく》の|特徴《とくちやう》であらう。|六月《ろくぐわつ》|五日《いつか》になると|如何《いか》なる|都合《つがふ》か、|針路《しんろ》は|俄《には》かに|南方《なんぱう》へ|転《てん》ぜられて|居《ゐ》た。|方向《はうかう》が|違《ちが》ふぢやないか|一体《いつたい》|何処《どこ》へ|行《い》くのだ、|興安嶺《こうあんれい》の|聖地《せいち》へ|行《ゆ》くのぢやないか、などと|日本人側《につぽんじんがは》から|不審《ふしん》の|声《こゑ》が|出《で》たが、|既《すで》に|先鋒《せんぽう》は|遠《とほ》く|進《すす》んでゐる|事《こと》とて、|地理不案内《ちりふあんない》の|者《もの》の|自由行動《じいうかうどう》は|困難《こんなん》である。|四囲《しゐ》の|景色《けしき》は|何時《いつ》しか|変《かは》つて、|眼《め》の|届《とど》く|限《かぎ》り|火山爆発《くわざんばくはつ》の|跡《あと》らしく、|熔岩《ようがん》|或《あるひ》は|火山灰《くわざんばい》|凝固《ぎようこ》の|中《なか》を|通《とほ》り|抜《ぬ》けて、|其《その》|壮観《さうくわん》|筆紙《ひつし》の|能《よ》く|尽《つく》す|所《ところ》でない。|岡崎《をかざき》は|馬上《ばじやう》|乍《なが》ら|日出雄《ひでを》に|声《こゑ》をかけ、
|岡崎《をかざき》『|先生《せんせい》、|何《なん》と|大《おほ》きな|火山《くわざん》ぢやありませぬか』
|日出雄《ひでを》『さうです|実《じつ》に|雄大《ゆうだい》なものです』
|真澄《ますみ》『|先生《せんせい》、|阿蘇《あそ》の|火山《くわざん》も|大規模《だいきぼ》で、|世界一《せかいいち》の|大火山《だいくわざん》と|地文学者《ちもんがくしや》から|言《い》はれる|丈《だけ》あつて|実際《じつさい》|壮観《さうくわん》ですが、|此処《ここ》はモ|一《ひと》つ|大規模《だいきぼ》ぢやないでせうか、|何《なに》か|曰《いは》くのありさうな|所《ところ》ですな』
|日出雄《ひでを》『さうです、|之《こ》れが|霊界物語《れいかいものがたり》の|第一巻《だいいつくわん》にある|天保山《てんぱうざん》の|一部《いちぶ》ですよ、|地文学者《ちもんがくしや》の|足跡《あしあと》が|至《いた》らないので、まだ|世間《せけん》へ|紹介《せうかい》されて|居《ゐ》ないのだらう』
|真澄《ますみ》『|今度《こんど》の|蒙古入《もうこいり》には|霊界物語中《れいかいものがたりちう》の|実現《じつげん》が|大分《だいぶん》|含《ふく》まれて|居《ゐ》ると、|腹《はら》の|中《なか》で|数《かぞ》へて|居《ゐ》ましたが、お|蔭《かげ》でモ|一《ひと》つ|判《わか》りました』
など|語《かた》り|合《あ》ひつつ、|草《くさ》の|褥《しとね》に|星蒲団《ほしぶとん》の|大陸自由《たいりくじいう》ホテルを|目指《めざ》して|行《ゆ》く。
|六月《ろくぐわつ》|六日《むいか》|陰暦《いんれき》|五月《ごぐわつ》|五日《いつか》の|正午《しやうご》|頃《ごろ》、|遠《とほ》く|山屏風《やまびやうぶ》を|引廻《ひきめぐら》した|広大《くわうだい》な|草野《さうや》の|中《なか》に、|缶詰《くわんづめ》やメリケン|粉製《こせい》の|餅《もち》などくさぐさの|食料《しよくれう》を|口《くち》にし|乍《なが》ら|雑談《ざつだん》に|耽《ふけ》つて|居《ゐ》るのは、|云《い》ふ|迄《まで》もなく|日出雄《ひでを》の|一行《いつかう》である。
|此《この》|日《ひ》|五月《ごぐわつ》|五日《いつか》の|吉日《きちにち》とて|幹部連《かんぶれん》は|記念撮影《きねんさつえい》をなし、|各兵団《かくへいだん》はそれぞれ|適当《てきたう》の|地位《ちゐ》を|卜《ぼく》し、|団旗《だんき》の|下《もと》に|集《あつ》まつて|遥《はるか》に|護衛《ごゑい》の|任務《にんむ》を|尽《つく》してゐる。
|岡崎《をかざき》『なんとこれ|丈《だけ》|広《ひろ》い|野原《のはら》に、|真中《まんなか》を|河《かは》が|流《なが》れてゐるし、|草《くさ》の|出来《でき》|按配《あんばい》から|見《み》ても|地味《ちみ》が|佳《よ》さ|相《さう》だが、|立派《りつぱ》な|水田《すいでん》が|出来《でき》るやうに|思《おも》ふね』
|守高《もりたか》『|私《わたし》が|北海道《ほくかいだう》に|居《を》つて|開懇《かいこん》に|従事《じゆうじ》した|経験《けいけん》から|考《かんが》へても、|立派《りつぱ》な|水田《すいでん》ができます。|今日《けふ》|迄《まで》|旅行《りよかう》した|蒙古《もうこ》の|中《なか》で|公爺府《コンエフ》|以西《いせい》は|素晴《すば》らしい|沃野《よくや》が|遊《あそ》んでゐますなア。|気候《きこう》|風土《ふうど》の|感《かん》じから|云《い》つても、|北海道《ほくかいだう》に|出来《でき》る|物《もの》は|何《なん》でも|作《つく》れますよ、|惜《をし》いものですな』
|坂本《さかもと》『これ|丈《だけ》|私《わたし》に|頂《いただ》けたらモウ|満足《まんぞく》です。|半分《はんぶん》は|水田《すいでん》や|畑《はたけ》にし、|半分《はんぶん》は|牧場《ぼくぢやう》にして|好《す》きなナイスと、|羊《ひつじ》の|皮《かは》の|天幕張《てんとばり》の|蒙古包《もうこはう》で|十分《じふぶん》だから、|一緒《いつしよ》に|暮《くら》して|見《み》たいなア』
|真澄《ますみ》『|坂本《さかもと》さん、【ナイス】は|後《あと》から|送《おく》り|届《とど》けるとして、|先《ま》づ|君《きみ》|一人《ひとり》|此処《ここ》へ|残《のこ》つて|準備《じゆんび》に|取掛《とりかか》つたら|何《ど》うです、アハヽヽ』
|坂本《さかもと》『アハヽヽヽマア|優先権《いうせんけん》さへ|認《みと》めて|頂《いただ》けりや|結構《けつこう》です』
|真澄《ますみ》『|実際《じつさい》|何等《なんら》|束縛《そくばく》も|干渉《かんせふ》もないこんな|大天地《だいてんち》が|豊《ゆたか》に|横《よこた》はつて、|人間《にんげん》さまのお|越《こ》しを|待《ま》つてゐるのに、|狭苦《せまくる》しい|所《ところ》で|啀《いが》み|合《あ》ひしてゐるのは|気《き》の|毒《どく》なものだ。|時《とき》に|曼陀汗《マンダハン》さん、|此《この》|附近《ふきん》に|鉱山《くわうざん》の|良《よ》いのはありませぬか、|早《はや》く|趙徹《てうてつ》さんに|一億円《いちおくゑん》|儲《まう》けて|貰《もら》ひたいですからな、アハツハヽ』
|曼陀汗《マンダハン》『サアよく|存《ぞん》じませぬが、|外蒙《ぐわいもう》の|砂漠《さばく》の|中《なか》には|水晶洞《すゐしやうどう》がチヨイチヨイあります。|又《また》|中央《ちうあう》の|火山脈《くわざんみやく》の|水源地《すいげんち》の|樹木《じゆもく》|鬱蒼《うつさう》たる|所《ところ》にルビーの|岩《いは》があると|聞《き》いてゐますが、まだ|私《わたし》は|行《い》つた|事《こと》はありませぬ』
|坂本《さかもと》『|外蒙《ぐわいもう》の|喇嘛廟《ラマメウ》には|十二三《じふにさん》の|子供《こども》|位《ぐらゐ》の|大《おほ》きさの|金無垢《きんむく》の|仏像《ぶつざう》があるさうだから、それ|一体《いつたい》|丈《だけ》せめて|頂戴《ちやうだい》したいものだなア』
|井上《ゐのうへ》『|坂本《さかもと》さん、|今《いま》そんな|重《おも》い|物《もの》を|貰《もら》つたつて|運搬《うんぱん》に|困《こま》るよ。それよりも|新彊《シンキヤン》へでも|行《い》つて|見《み》ろ、|砂金《しやきん》の|大粒《おほつぶ》が|幾《いく》らでも|転《ころ》がつて|居《ゐ》るサ』
|盧占魁《ろせんくわい》『|新彊《シンキヤン》は|世界《せかい》の|宝庫《はうこ》だと|私《わたし》は|思《おも》ひます。|山間《さんかん》の|堅《かた》い|氷《こほり》の|様《やう》な|雪《ゆき》を|欠《か》いで|引起《ひきおこ》すと、|雪《ゆき》の|裏《うら》に|十八金《じふはちきん》|程度《ていど》の|砂金《しやきん》がベツタリくつついて|居《ゐ》るやうな|所《ところ》は|珍《めづ》らしくない|位《くらゐ》です』
|日出雄《ひでを》『|私《わたくし》の|霊界《れいかい》で|見《み》てる|所《ところ》では、|安爾泰地方《アルタイちはう》から|新彊《シンキヤン》の|西蔵境《チベツトざかひ》の|方面《はうめん》には、|砂金《しやきん》と|云《い》ふより|寧《むし》ろ|金《きん》の|岩《いは》とも|云《い》ふべき|程《ほど》の|物《もの》が|沢山《たくさん》|隠《かく》されてゐる。|鉱物《くわうぶつ》のみでなく、|新彊《シンキヤン》は|神《かみ》の|経綸《けいりん》に|枢要《すうえう》な|場所《ばしよ》で、|一般《いつぱん》に|天恵《てんけい》の|豊富《ほうふ》な|土地《とち》なのだ』
|真澄《ますみ》『|先生《せんせい》、|御神諭《ごしんゆ》に|示《しめ》されてる|通《とほ》りですがな。|実地《じつち》を|見《み》る|迄《まで》|神《かみ》を|信《しん》じない|人《ひと》が|多《おほ》いのだから|随分《ずゐぶん》|面倒《めんだう》ですなア』
|日出雄《ひでを》『だから|神様《かみさま》は|骨《ほね》が|折《を》れるのだ』
|盧占魁《ろせんくわい》『|併《しか》し|新彊《シンキヤン》へ|入《い》り|込《こ》むには|勝手《かつて》を|知《し》つた|者《もの》に|案内《あんない》させないと、|妙《めう》な|砂漠《さばく》がありまして、うつかり|踏《ふ》み|込《こま》うものなら|人馬《じんば》|諸共《もろとも》ズブズブと|滅入《めい》り|込《こ》んで|了《しま》ひます』
|真澄《ますみ》『|先生《せんせい》、|今《いま》|盧《ろ》さんの|言《い》つた|場所《ばしよ》は|霊界物語《れいかいものがたり》|第十巻《だいじつくわん》の|安爾泰地方《アルタイちはう》の|章《しやう》に|説明《せつめい》されてる|場所《ばしよ》に|当《あた》るぢやないでせうか』
|日出雄《ひでを》『さうらしいなア』
それからそれへと|談話《はなし》が|交換《かうくわん》されてる|時《とき》、|猪野軍医長《ゐのぐんいちやう》は|手《て》に|大《おほ》きな|氷塊《ひやうくわい》を|掴《つか》み|乍《なが》ら|走《はし》つて|来《き》た。
『|先生《せんせい》、こんな|氷《こほり》を|見《み》つけて|来《き》ました、|地下《ちか》|三尺《さんじやく》|位《ぐらゐ》までは|十分《じふぶん》|解氷《かいひやう》してゐますが、|六七尺《ろくしちしやく》の|所《ところ》はまだ|此《この》|通《とほ》りです。|河《かは》の|縁《ふち》の|地《ち》の|割《わ》れ|目《め》に|這入《はい》り|込《こ》んで、|辛苦《しんく》して|割《わ》つて|参《まゐ》りました』
|一同《いちどう》|猪野軍医《ゐのぐんい》の|心尽《こころづく》しの|氷《こほり》の|破片《はへん》に|渇《かつ》を|癒《い》やし、|再《ふたた》び|行軍《かうぐん》を|続《つづ》けた。|青野ケ原《あをのがはら》の|尽《つ》くる|辺《あた》りから|見渡《みわた》す|限《かぎ》り|一面《いちめん》の|花野《はなの》を|進《すす》む。|福寿草《ふくじゆさう》に|似《に》た|黄色《きいろ》い|花《はな》や|紫雲英《げんげ》に|似《に》た|花《はな》、|菖蒲《しやうぶ》に|似《に》た|紫《むらさき》など、|紅《あか》|黄《き》|白《しろ》|紫《むらさき》|各々《おのおの》|艶《えん》を|競《きそ》うてゐる。
『|月光《げつくわう》|愈《いよいよ》|世《よ》に|出《い》でて  |精神界《せいしんかい》の|王国《わうごく》は
|東《あづま》の|国《くに》に|開《ひら》かれぬ  |真理《しんり》の|太陽《たいやう》|晃々《くわうくわう》と
|輝《かがや》き|渡《わた》り|永遠《とことは》に  |尽《つ》きぬ|生命《いのち》の|真清水《ましみづ》は
|下津岩根《したついはね》にあふれつつ  |慈愛《じあい》の|雨《あめ》は|降《ふ》り|注《そそ》ぐ
|荘厳無比《さうごんむひ》の|光明《くわうみやう》は  |世人《よびと》の|身魂《みたま》を|照《てら》すべく
|現《あら》はれませり|人々《ひとびと》よ  |一日《ひとひ》も|早《はや》く|目《め》をさませ
|四方《よも》の|国《くに》より|聞《きこ》え|来《く》る  |真《まこと》の|神《かみ》の|声《こゑ》を|聞《き》け
|霊《たま》の|清水《しみづ》に|渇《かは》く|人《ひと》  |瑞《みづ》の|御霊《みたま》にうるほへよ』
と|歌《うた》ひつつ|本部隊《ほんぶたい》より|十数町《じふすうちやう》|遅《おく》れて、|此《この》|広《ひろ》き|花野《はなの》を|吾物顔《わがものがほ》に|馬上豊《ばじやうゆた》かに|進《すす》み|行《ゆ》くのは|真澄別《ますみわけ》であつた。|坂本《さかもと》は|後《あと》に|引添《ひきそ》ひ|乍《なが》ら『|全《まつた》くですなア』と|感嘆《かんたん》の|声《こゑ》を|漏《も》らし|乍《なが》ら|近頃《ちかごろ》|内地《ないち》で|流行《りうかう》する|唄《うた》だとて|節面白《ふしおもしろ》く|唄《うた》ひ|出《だ》した。
『|僕《ぼく》も|行《ゆ》くから|君《きみ》も|行《ゆ》け  |狭《せま》い|日本《につぽん》にや|住《す》み|飽《あ》いた
|波《なみ》の|彼方《あなた》に|支那《しな》がある  |支那《しな》には|四億《しおく》の|民《たみ》が|待《ま》つ
|昨日《きのふ》は|東《ひがし》|今日《けふ》は|西《にし》  |身《み》は|浮草《うきぐさ》のそれの|如《ごと》
|果《はて》しなき|野《の》に|唯一人《ただひとり》  |月《つき》を|仰《あふ》いで|草枕《くさまくら》
|玉《たま》の|肌《はだ》なる|此《この》|体《からだ》  |今《いま》ぢや|鎗創《やりきず》|刀傷《かたなきず》
これぞ|誠《まこと》の|男《をとこ》ぢやと  ほほ|笑《え》む|顔《かほ》に|針《はり》の|髭《ひげ》
|僕《ぼく》には|父《ちち》も|母《はは》もなく  |生《うま》れ|故郷《こきやう》に|家《いへ》もなし
|幾年《いくとせ》|馴《な》れし|山《やま》あれど  |別《わか》れを|惜《を》しむ|者《もの》もなし
|唯《ただ》|悼《いた》はしの|恋人《こひびと》や  |幼《をさな》き|頃《ころ》の|友達《ともだち》は
|何処《いづこ》に|住《す》むのか|今《いま》は|只《ただ》  |夢路《ゆめぢ》に|姿《すがた》を|偲《しの》ぶのみ
|興安嶺《こうあんれい》の|朝風《あさかぜ》に  |剣《つるぎ》をかざして|俯《ふ》し|見《み》れば
|北満州《きたまんしう》の|大平野《だいへいや》  |僕《ぼく》の|住家《すみか》にやまだ|狭《せま》い
|国《くに》を|出《で》てから|十余年《じふよねん》  |今《いま》ぢや|蒙古《もうこ》の|大馬賊《だいばぞく》
|亜細亜高根《あじあたかね》の|間《あひだ》より  |繰《く》り|出《だ》す|部下《てした》が|五千人《ごせんにん》
|駒《こま》の|蹄《ひづめ》も|忍《しの》ばせつ  |月《つき》は|雲間《くもま》を|抜《ぬ》け|出《い》でて
|明日《あす》は|襲《おそ》はむ|奉天府《ほうてんふ》  ゴビの|砂漠《さばく》を|照《て》らすなり』
|花野《はなの》も|尽《つ》きて|三方《さんぱう》|山《やま》の|谷間《たにま》に|着《つ》いた|頃《ころ》、|空《そら》はどんよりと|曇《くも》り|始《はじ》め、|遂《つひ》に|雲《くも》は|綻《ほころ》びて|雨《あめ》となつた。|日《ひ》は|既《すで》に|傾《かたむ》きかけた|上《うへ》、|前途《ぜんと》は|山《やま》|又《また》|山《やま》が|重畳《ちようでふ》と|折重《をりかさ》なつて|見《み》えてゐる。|併《しか》し|此《この》|雨《あめ》では|野営《やえい》の|夢《ゆめ》を|結《むす》ぶなどは|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|事《こと》である。|此《この》|時《とき》こそはと、|日出雄《ひでを》は|小高《こだか》き|岩上《がんじやう》に|登《のぼ》り|立《た》ち|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し|初《はじ》むるや、|一天《いつてん》ガラリと|晴《は》れ|渡《わた》り、|五日《いつか》の|月《つき》|西天《せいてん》に|玲瓏《れいろう》たる|慈光《じくわう》を|放《はな》ち|初《はじ》めた。|茲《ここ》に|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》も|心《こころ》を|安《やすん》じ、|就寝《しうしん》の|準備《じゆんび》にかかると、|如何《いか》なる|軍議《ぐんぎ》が|参謀《さんぼう》の|間《あひだ》に|纏《まとま》りしか、|引続《ひきつづ》き|夜間《やかん》|行軍《かうぐん》|開始《かいし》の|報告《はうこく》が|来《き》たので、|一行《いつかう》は|呟《つぶや》き|乍《なが》ら|又《また》|行進《かうしん》し|始《はじ》めると、|間《ま》もなく|再《ふたた》び|小雨《こさめ》そぼ|降《ふ》る|空《そら》となつた。|日出雄《ひでを》は『|最早《もはや》|吾々《われわれ》の|責任《せきにん》でない』と|云《い》ひ、|真澄別《ますみわけ》も|別《べつ》に|祈願《きぐわん》しようとしない、|終《つひ》に|豪雨《がうう》に|見舞《みま》はれて、|全軍《ぜんぐん》|山間《さんかん》の|岩影《いはかげ》に|夜《よ》を|明《あか》すの|已《や》むを|得《え》ざる|事《こと》となつた。|此《この》|時《とき》|張彦三《ちやうけんさん》は『|先生《せんせい》が|折角《せつかく》|雨《あめ》を|止《と》めて|下《くだ》さつたのに|司令《しれい》が|無断《むだん》で|宿営地《しゆくえいち》を|変更《へんかう》したから|神罰《しんばつ》を|受《う》けたのだ』と|吐息《といき》を|漏《も》らして|大《おほい》に|歎《たん》じた。
(大正一四・八 筆録)
第三〇章 |岩窟《がんくつ》の|奇兆《きてう》
|夏期《かき》に|相当《さうたう》する|二三ケ月《にさんかげつ》の|間《あひだ》は、|蒙古奥地《もうこおくち》は|西比利亜方面《シベリアはうめん》と|同《おな》じく|夜《よ》が|非常《ひじやう》に|短《みじか》い。|西北《せいほく》の|空《そら》に|夕焼《ゆふやけ》の|名残《なごり》が|消《き》えたかと|思《おも》ふと、|間《ま》もなく|早《は》や|東天《とうてん》|紅《くれなゐ》を|潮《てう》すると|云《い》つた|調子《てうし》である。|月《つき》なき|夜《よ》でも|午前《ごぜん》|二時《にじ》|過《す》ぎる|頃《ころ》から、|危険《きけん》な|山路《やまぢ》でも|安全《あんぜん》に|旅行《りよかう》が|出来《でき》るのである。|張彦三《ちやうけんさん》の|所謂《いはゆる》|神譴《しんけん》の|雨《あめ》を|岩影《いはかげ》に|避《さ》けた|全軍《ぜんぐん》も、|其《その》|中《うち》|雨《あめ》が|小歇《こや》みになつたのでヤツと|胸《むね》を|撫《な》で|下《おろ》し、|六月《ろくぐわつ》|七日《なぬか》(|陰暦《いんれき》|五月《ごぐわつ》|六日《むいか》)|午前《ごぜん》|二時《にじ》|半《はん》|頃《ごろ》|全軍《ぜんぐん》に|出発命令《しゆつぱつめいれい》が|伝《つた》はつた。|騎馬《きば》にての|旅行《りよかう》は|兎《と》も|角《かく》、|二頭《にとう》|或《あるひ》は|三頭立《さんとうだて》の|牛車《ぎうしや》や|騾馬《らば》と(|馬《うま》と|驢馬《ろば》との|混血《あひのこ》にて|牽引力《けんいんりよく》|最《もつと》も|強《つよ》き|種類《しゆるゐ》)|三四頭立《さんしとうだて》の|轎車《けうしや》が、|山《やま》と|云《い》はず|川《かは》と|云《い》はず|岩石《がんせき》|崎嶇《きく》たる|難路《なんろ》を、|相当《さうたう》の|重量《ぢうりやう》を|積《つ》んで|無茶苦茶《むちやくちや》に|進《すす》み|行《ゆ》くのだから、|便乗《びんじよう》した|人《ひと》は|中々《なかなか》|安《やす》き|心《こころ》もなかつた。|頭《あたま》を|打《う》ち、|肱《ひぢ》を|打《う》ち、|時《とき》には|転落《てんらく》の|犠牲《ぎせい》も|払《はら》はねばならぬと|云《い》ふのだから……|荷物《にもつ》があつては|黄金《こがね》の|大橋《おほはし》は|渡《わた》れんぞよ……といふ|大本《おほもと》の|警告《けいこく》の|如《ごと》く、|人生《じんせい》の|行路《かうろ》はヤハリ|身軽《みがる》に|限《かぎ》るてふ|感《かん》を|禁《きん》ずるを|得《え》ない。|此《この》|日《ひ》|岩山《いはやま》を|乗《の》り|切《き》つて|次第《しだい》|次第《しだい》に|高原地帯《かうげんちたい》を、|山《やま》と|山《やま》との|間《あひだ》を|縫《ぬ》ふて|進《すす》んでゆく。|空《そら》は|漸《やうや》く|晴《は》れて|赫々《かくかく》たる|太陽《たいやう》は|冬服《ふゆふく》その|儘《まま》の|全軍《ぜんぐん》を|照《てら》しつける。|而《しか》も|行《ゆ》けども|行《ゆ》けども|牧草《ぼくさう》はあつても、|一滴《いつてき》の|溜水《たまりみづ》も|見付《みつ》からない。|携帯《けいたい》の|食糧《しよくりやう》は|已《すで》に|残《のこ》り|少《すくな》くなつてゐる。|無論《むろん》|人家《じんか》は|見付《みつ》からず『アーア』と|云《い》ふ|歎息《たんそく》の|声《こゑ》が|何処《どこ》からともなく|聞《きこ》えて|来《く》る。|水《みづ》を|探《たづ》ねて|馬《うま》を|急《いそ》がす|者《もの》、|食糧車《しよくりやうしや》を|待《ま》ち|合《あは》す|者《もの》、|隊《たい》は|遂《つひ》に|三々五々《さんさんごご》となつた。|此《この》|時《とき》|日出雄《ひでを》の|側《そば》には|真澄別《ますみわけ》、|守高《もりたか》、|坂本《さかもと》、|白凌閣《パイリンク》、|温長興《をんちやうこう》、|王〓璋《わうさんしやう》、|康国宝《かうこくほう》の|七人《しちにん》が|轡《くつわ》を|列《つら》ねて|居《ゐ》た。|坂本《さかもと》は|堪《た》へかねて、
|坂本《さかもと》『|先生《せんせい》|皆《みな》|先《さき》へ|行《い》つて|了《しま》つた|様《やう》ですけれども、|先生《せんせい》のお|荷物《にもつ》や|食糧品《しよくりやうひん》を|積《つ》んだ|轎車《けうしや》はまだ|遅《おく》れてますから、どつかそこらで|一服《いつぷく》したらどうでせう。|人《ひと》も|馬《うま》もこれではヘトヘトになつて|了《しま》ひますよ』
|日出雄《ひでを》『さうだね、では|此処《ここ》は|可《か》なり|牧草《ぼくさう》もある|様《やう》だから|一休《ひとやす》みしやう』
|坂本《さかもと》『|先生《せんせい》、|私《わたし》は|今少《いますこ》し|位《ぐらひ》|辛抱《しんばう》も|致《いた》しませうが、|富士《ふじ》ちやんが|可愛相《かあいさう》です』
|富士《ふじ》と|云《い》ふのは|坂本《さかもと》の|乗馬《じようば》の|名《な》で、|実際《じつさい》|交通機関《かうつうきくわん》|不備《ふび》の|地方《ちはう》を|旅行《りよかう》すると|馬《うま》が|唯一《ゆゐいつ》の|友《とも》であり、|馬《うま》|亦《また》|騎乗者《のりて》を|慕《した》ひ、|人間《にんげん》|同士《どうし》に|此《この》|情愛《じやうあい》が|保《たも》てさへすれば、|喧嘩《けんくわ》など|夢《ゆめ》にも|起《おこ》らないであらうと|思《おも》はれる|位《くらゐ》だ。|而《しか》して|日出雄《ひでを》の|馬《うま》は|白金竜《はくきんりう》、|真澄別《ますみわけ》の|馬《うま》は|白銀竜《はくぎんりう》、|守高《もりたか》の|馬《うま》は|金剛《こんがう》と|命名《めいめい》され|皆《みな》|白馬《はくば》であつた。|馬《うま》は|鞍《くら》を|外《はづ》されて|牧草《ぼくさう》の|間《あひだ》に|放《はな》たれ、|人《ひと》はポケツトに|残《のこ》つた|煙草《たばこ》を|譲《ゆづ》り|合《あ》ひつつ|青草《あをくさ》の|上《うへ》に|寝《ね》ころび、|紫《むらさき》の|煙《けむ》りを|天《てん》に|向《むか》つて|吹《ふ》き|出《だ》し|乍《なが》ら、|相変《あひかは》らず|減《へ》らず|口《ぐち》の|叩合《たたきあひ》をして|轎車《けうしや》を|待《ま》つてゐる。|併《しか》し|轎車《けうしや》は|何等《なんら》か|故障《こしやう》の|起《おこ》つたものか、|中々《なかなか》|追《お》ひついて|来《こ》ない。|遅《おく》れ|来《きた》る|兵士《へいし》に|訊《き》いても『まだまだ|大分《だいぶん》|後方《こうはう》だ』と|云《い》ふ。|日出雄《ひでを》は『ナアニ|牛《うし》や|馬《うま》の|喰《く》ふ|物《もの》が|人間《にんげん》に|喰《く》へない|筈《はず》はない』とて、|其処等《そこら》の|草《くさ》を|引抜《ひきぬ》いては|美味《うま》い|美味《うま》いと|喰《た》べ|初《はじ》める。|附添《つきそ》ふ|人々《ひとびと》も『なる|程《ほど》そらさうだ』とムシヤリムシヤリとやり|出《だ》した。
|坂本《さかもと》『|併《しか》し|盧占魁《ろせんくわい》は|怪《け》しからぬ|奴《やつ》ですな、|先生《せんせい》に|何《なん》の|答《こたへ》もなしで|自分《じぶん》が|大将面《たいしやうづら》をして|轎車《けうしや》に|乗《の》つて|先《さき》へ|行《い》つて|了《しま》ひよつた。|自分《じぶん》が|護衛《ごゑい》を|直接《ちよくせつ》に|申《まを》し|上《あ》げるから、|外《ほか》の|者《もの》の|側《そば》へ|御越《おこ》しにならぬ|様《やう》になんて|云《い》つておき|乍《なが》ら……』
|守高《もりたか》『|何《なん》でも|劉陞三《りうしようさん》と|盧占魁《ろせんくわい》との|間《あひだ》に、|先生《せんせい》を|中心《ちうしん》として|勢力争《せいりよくあらそ》ひが|起《おこ》つてるといふ|評判《ひやうばん》もあるがね』
|坂本《さかもと》『それなら|尚《なほ》|更《さら》|先生《せんせい》のお|側《そば》を|離《はな》れなきや|可《い》いぢやありませぬか』
|真澄別《ますみわけ》『マアそれはそれとして|兎《と》に|角《かく》、も|少《すこ》し|位《ぐらゐ》|水《みづ》のある|場所《ばしよ》がないとも|限《かぎ》らぬから、モウ|一息《ひといき》|進《すす》みませう。|其《その》|間《うち》|轎車《けうしや》も|参《まゐ》りませうから』
|日出雄《ひでを》『それが|宜《よ》からう』
と|再《ふたた》び|鞍上《あんじやう》の|人《ひと》となり、|宣伝歌《せんでんか》やら|出鱈目歌《でたらめうた》を|唄《うた》ひ|乍《なが》ら|行《かう》を|続《つづ》けた。|日《ひ》は|益々《ますます》|照《て》り|渡《わた》り|綿入《わたいれ》の|肌着《はだぎ》は|愈々《いよいよ》|熱《ねつ》して|来《く》る。|雨《あめ》|少《すく》なく|空気《くうき》が|乾燥《かんさう》してゐる|地方《ちはう》だから|余《あま》り|汗《あせ》は|出《で》ないが、|喉《のど》の|渇《かは》く|事《こと》|夥《おびただ》しい。|何《ど》うしたものか|此《この》|日《ひ》に|限《かぎ》つて|水《みづ》らしい|物《もの》は|馬《うま》の|小便《せうべん》の|溜《たまり》すら|見付《みつ》からぬ、さりとて|他《た》に|取《と》るべき|手段《しゆだん》もない、|行路《ゆくて》を|馬《うま》に|任《まか》せつつ|進《すす》むうち、|奇岩《きがん》を|折《を》り|重《かさ》ねた|如《や》うな|岩山《いはやま》の|麓《ふもと》に|達《たつ》した。|時《とき》|既《すで》に|午後《ごご》|五時《ごじ》を|過《す》ぐる|頃《ころ》であつた。|岩山《いはやま》を|取《と》り|巻《ま》く|麓《ふもと》の|青野原《あをのはら》の|一部《いちぶ》に、|土地《とち》の|一間《いつけん》|許《ばか》り|陥落《かんらく》した|場所《ばしよ》があり、|地下層《ちかそう》|解氷《かいひやう》の|為《ため》か|真黒《まつくろ》い|水《みづ》が|湧《わ》きこぼれてゐる。|馬《うま》を|其《その》|畔《あぜ》に|近付《ちかづ》けて|見《み》ると、|馬《うま》は|喜《よろこ》び|先《さき》を|争《あらそ》うてガブガブと|呑《の》み|出《だ》した。すると|如何《いか》にしけん|日出雄《ひでを》は『|俺《わし》はモウ|此処《ここ》から|動《うご》かぬのだ』と|大喝《だいかつ》したかと|思《おも》へば、もう|其《その》|姿《すがた》は|見《み》えず、|其《その》|馬《うま》は|素知《そし》らぬ|面《かほ》で|草《くさ》を|食《は》むでゐる。|坂本《さかもと》は|早速《さつそく》|下馬《げば》してウロウロと|捜《さが》し|廻《まは》り、|軈《やが》て|走《は》せ|来《きた》つて|真澄別《ますみわけ》に|向《むか》ひ、
|坂本《さかもと》『|先生《せんせい》は|彼《あ》の|山《やま》の|腹《はら》に|岩窟《がんくつ》がありますが、|其《その》|中《なか》に|瞑目《めいもく》|静坐《せいざ》してゐられます。|何《ど》うしたら|可《よ》いでせう』
|真澄別《ますみわけ》は|守高《もりたか》と|共《とも》に|直《ただ》ちに|岩窟《がんくつ》に|到《いた》り|見《み》れば、|日出雄《ひでを》は|神懸《かむがかり》となつてゐる。|真澄別《ますみわけ》はその|意《い》を|悟《さと》り、
|真澄《ますみ》『|守高《もりたか》さん、|今《いま》の|進路《しんろ》は|吾々《われわれ》の|想《おも》うて|居《ゐ》るのと|違《ちが》ふ|様《やう》だし、|大分《だいぶん》|怪《あや》しい|点《てん》もあるから、|暫《しばら》く|此処《ここ》を|根城《ねじろ》とする|事《こと》にしようぢやないか』
|守高《もりたか》『さうだ、|僕《ぼく》も|賛成《さんせい》だ、|此処《ここ》は|高熊山《たかくまやま》の|岩窟《がんくつ》に|能《よ》く|似《に》てもゐるし、|尋常事《ただごと》ぢやなからう』
|一行《いつかう》は|此処《ここ》に|当分《たうぶん》|宿営《しゆくえい》の|決心《けつしん》を|定《き》め、|王〓璋《わうさんしやう》をして|此《この》|事《こと》を|報告《はうこく》せしむべく|盧占魁《ろせんくわい》の|後《あと》を|追《お》はしめた。|日出雄《ひでを》の|荷物《にもつ》|即《すなは》ち|西王母《せいわうぼ》の|服《ふく》、|宣伝師服《せんでんしふく》その|他《た》|手廻《てまは》り|品《ひん》|並《ならび》に|食糧《しよくりやう》の|残品《ざんぴん》を|積《つ》んだ|二台《にだい》の|轎車《けうしや》は、|約《やく》|一時間《いちじかん》|半《はん》|遅《おく》れて|此処《ここ》に|到着《たうちやく》した。|此《この》|二台《にだい》の|轎車《けうしや》は|山田《やまだ》|文次郎《ぶんじらう》が|便乗《びんじよう》|監督《かんとく》し、|〓南《たうなん》より|軍需品《ぐんじゆひん》|等《とう》を|積載《せきさい》して|索倫《ソーロン》に|来《きた》り、|其《その》|儘《まま》|帰途《きと》の|危険《きけん》を|慮《おもんぱか》つて|随伴《ずいはん》したのである。|轎車《けうしや》より|材料《ざいれう》を|取出《とりだ》して|野営《やえい》の|準備《じゆんび》に|着手《ちやくしゆ》される、|一方《いつぱう》、|馬《うま》の|渇《かつ》を|医《い》やした|真黒《まつくろ》の|水《みづ》は、|明礬《みやうばん》を|利用《りよう》して|飲料用《いんれうよう》に|浄化《じやうくわ》せられる。|枯木《かれき》の|枝《えだ》を|集《あつ》めて|之《これ》を|沸《わ》かす、『|茶《ちや》を|入《い》れたら|黒《くろ》インキになつたから、こら|鉄鉱泉《てつくわうせん》ですよ』と|騒《さわ》ぎ|立《た》てるのは|坂本《さかもと》である。
|日《ひ》は|漸《やうや》く|西《にし》に|臼搗《うすづ》き|空《そら》に|星《ほし》の|輝《かがや》き|初《そ》むる|頃《ころ》、|張彦三《ちやうけんさん》の|部隊《ぶたい》が|殿《しんが》りとして|到着《たうちやく》し|来《きた》り、|真澄別《ますみわけ》より|事情《じじやう》を|聴取《ききと》り、
『それでは|私《わたくし》が|盧《ろ》に|代《かは》つて|御保護《ごほご》|申上《まをしあ》げます、|私《わたし》の|方《はう》には|未《ま》だ|米《こめ》も|牛肉《ぎうにく》も|幾《いく》らかあります、|先生《せんせい》がお|動《うご》きにならねば、|私《わたし》も|何時《いつ》|迄《まで》もお|側《そば》に|止《とど》まつて|御保護《ごほご》いたします』
とて|部下《ぶか》に|命《めい》じて|炊《た》き|出《だ》しを|開始《かいし》し、スツカリ|腰《こし》を|据《す》ゑて|了《しま》つた。やがて|日出雄《ひでを》も|岩窟《がんくつ》より|出《い》で|来《きた》り、|賑《にぎ》やかな|野天食堂《のてんしよくだう》が|開《ひら》かれた。
|此《この》|時《とき》|王〓璋《わうさんしやう》|馳《は》せ|帰《かへ》り、|盧《ろ》|以下《いか》|全部隊《ぜんぶたい》は|約五十支里《やくごじふしり》|前方《ぜんぱう》に|屯営《とんえい》し|居《を》り、|其処《そこ》には|人家《じんか》|四五軒《しごけん》あれど|飲料水《いんれうすゐ》の|不足《ふそく》なる|事《こと》や、|盧《ろ》は|水《みづ》を|索《もと》めて|急《いそ》いだのであるが|部隊《ぶたい》|整理《せいり》|次第《しだい》|直《す》ぐ|迎《むか》ひに|来《く》る|事《こと》など|報告《はうこく》した。|真澄別《ますみわけ》は|更《さら》に|岡崎《をかざき》と|萩原《はぎはら》に|対《たい》し|何事《なにごと》か|名刺《めいし》の|裏《うら》に|認《したた》め、|温長興《をんちやうこう》を|使《つかひ》として|前方《ぜんぱう》の|駐屯所《ちうとんしよ》に|向《むか》ひ|馬《うま》を|急《いそ》がしめ、|茲《ここ》に|一同《いちどう》|寝《しん》に|就《つ》くこととなつた。
(大正一四・八 筆録)
第五篇 |雨後月明《うごげつめい》
第三一章 |強行軍《きやうかうぐん》
|岩窟《がんくつ》の|附近《ふきん》もホノボノと|明《あ》け|初《そ》めた|頃《ころ》、|馬《うま》を|飛《と》ばしてやつて|来《き》たのは|萩原《はぎはら》である。
|萩原《はぎはら》『|昨晩《さくばん》|真澄《ますみ》さんからのお|知《し》らせに|依《よ》つて|早速《さつそく》|引返《ひきかへ》さうかと|思《おも》ひましたが、どう|云《い》ふものか|道筋《みちすぢ》が|真暗《まつくら》で|馬《うま》が|一寸《ちよつと》も|進《すす》みませぬので、|漸《やうや》く|只今《ただいま》|参《まゐ》りました。|昨晩《さくばん》は|人家《じんか》が|四五軒《しごけん》あつた|為《ため》、|却《かへ》つて|混雑《こんざつ》してゴタゴタしてゐましたから、お|越《こ》しにならなかつた|方《はう》が|好都合《かうつがふ》でした』
|坂本《さかもと》『ヤツパリ|神様《かみさま》は|前途《さき》が|見《み》える|哩《わい》』
|萩原《はぎはら》『|岡崎《をかざき》さんは|非常《ひじやう》に|憤慨《ふんがい》して|盧占魁《ろせんくわい》に|当《あた》り|散《ち》らしてゐましたよ。それから|名田彦《なだひこ》さんは|病気《びやうき》で|困《こま》つて|心細《こころぼそ》がつて|居《ゐ》ましたが、|何《なん》でもポツポツ|歩行《ある》いて|引返《ひきかへ》して|来《く》るらしかつたですよ』
|日出雄《ひでを》『そら|可愛相《かあいさう》だ。オイ|白凌閣《パイリンク》、|馬《うま》を|曳《も》つて|名田彦《なだひこ》さんを|迎《むか》へて|来《こ》い』
|白凌閣《パイリンク》は|直《ただ》ちに|駒《こま》に|跨《またが》り、|守高《もりたか》の|乗馬《じようば》を|名田彦《なだひこ》の|迎《むか》へ|馬《うま》として|引具《ひきぐ》し|駆《か》け|出《だ》した。それと|入《い》れ|違《ちが》ひに、|五六頭《ごろくとう》|駒《こま》の|頭《あたま》を|立《た》て|並《なら》べて|疾駆《しつく》し|来《き》たのは、|盧占魁《ろせんくわい》と|其《その》|副官連《ふくくわんれん》とであつた。|盧《ろ》は|直《ただ》ちに|日出雄《ひでを》の|側《そば》に|行《い》き|叩頭《かうとう》して|何事《なにごと》か|弁《べん》じたが、|生憎《あひにく》|此《この》|場《ば》には|山西省訛《さんせいしやうなま》りの|彼《かれ》の|支那語《しなご》を|通訳《つうやく》し|得《う》る|者《もの》がなかつたが、|要《えう》するに『|露営《ろえい》に|適当《てきたう》の|場所《ばしよ》を|選定《せんてい》する|為《ため》に|急《いそ》いだので、|無断《むだん》で|行《い》つたのは|誠《まこと》に|済《す》まなかつた。|軍《ぐん》の|整理《せいり》もせねばならず、|混雑《こんざつ》してゐるから、|自分《じぶん》の|心裡《しんり》を|察《さつ》して|一緒《いつしよ》に|進《すす》んで|貰《もら》いたい』といふ|意味《いみ》であつたらしい。|日出雄《ひでを》は|唯《ただ》、
『|御苦労《ごくろう》であつた』
との|一言《いちごん》を|残《のこ》し、|真澄別《ますみわけ》、|守高《もりたか》を|伴《ともな》ひ|岩山《いはやま》の|頂上《ちやうじやう》に|登《のぼ》り、|東天《とうてん》に|向《むか》つて|祝詞《のりと》を|合奏《がつさう》し、|萩原《はぎはら》をして|記念《きねん》の|撮影《さつえい》をなさしめ、|悠々《いういう》として|朝食《てうしよく》を|喫《きつ》した。|盧《ろ》は|再《ふたた》び|日出雄《ひでを》の|側《そば》に|寄《よ》り|懇願《こんぐわん》の|意《い》を|表《へう》すると、|日出雄《ひでを》も|諾《うなづ》き|乍《なが》ら|馬《うま》に|跨《またが》つた。
|真澄別《ますみわけ》『|先生《せんせい》、またお|進《すす》みなさるのですか、|巧《うま》く|話《はな》して|別行動《べつかうどう》を|取《と》らうではありませぬか』
と|引止《ひきと》むれば、
|日出雄《ひでを》『|折角《せつかく》|盧《ろ》も|懇願《こんぐわん》するから|皆《みな》の|居《ゐ》る|所《ところ》まで|行《い》つて|其《その》|上《うへ》の|事《こと》にしよう』
と|出発《しゆつぱつ》を|急《いそ》ぐ。|名田彦《なだひこ》は|山田《やまだ》と|共《とも》に|轎車《けうしや》に|便乗《びんじよう》し、|司令部《しれいぶ》|駐屯所《ちうとんじよ》|迄《まで》|進《すす》む|事《こと》となつた。
|真澄別《ますみわけ》『チエツ|盧《ろ》|氏《し》に|曳《ひ》かれて|善光寺参《ぜんくわうじまゐ》りか』
と|呟《つぶや》き|乍《なが》ら、|日出雄《ひでを》が|盧《ろ》に|促《うなが》され|砂煙《すなけむ》りを|立《た》てて|馬《うま》を|急《いそ》がすのを|見送《みおく》つた。|途中《とちう》まで|出迎《でむか》へに|来《き》た|猪野軍医長《ゐのぐんいちやう》と|轡《くつわ》を|並《なら》べ、|何事《なにごと》か|語《かた》り|合《あ》ひつつボツボツ|進《すす》み|行《ゆ》く。
|猪野《ゐの》『|二先生《アルセンシヨン》、|盧占魁《ろせんくわい》を|力《ちから》にして|居《ゐ》ては|前途《ぜんと》|心細《こころぼそ》い|事《こと》はありますまいか。|岡崎《をかざき》さんは、|現状《げんじやう》では|危《あやふ》くて|仕方《しかた》がないから、|何《なん》とか|方法《はうはふ》を|講《かう》じて|来《く》ると|云《い》つて、|包《はう》|団長《だんちやう》の|轎車《けうしや》に|同乗《どうじやう》して|先程《さきほど》|出発《しゆつぱつ》しましたよ』
|真澄別《ますみわけ》『|兎《と》に|角《かく》|神様《かみさま》からの|第一命令《だいいちめいれい》が|盧占魁《ろせんくわい》に|下《くだ》つたのだから、|安全《あんぜん》に|入蒙《にふもう》|出来《でき》たのは|盧占魁《ろせんくわい》の|活動《くわつどう》ぢやないか』
|猪野《ゐの》『|昨晩《さくばん》から|段々《だんだん》|兵隊《へいたい》も|減《へ》る|様《やう》だ……|盧《ろ》の|命令《めいれい》は|少《すこ》しも|権威《けんゐ》がありませぬ。これ|位《くらゐ》な|部隊《ぶたい》の|統一《とういつ》が|出来《でき》ない|様《やう》では|不安《ふあん》で|堪《たま》りませぬ。ヤハリ|最初《さいしよ》|岡崎《をかざき》さんの|計画《けいくわく》で|奉天《ほうてん》へ|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》のお|住居《すまゐ》まで|用意《ようい》して|居《を》つたと|云《い》ふ|趙〓《てうてき》や|趙傑《てうけつ》をお|利用《つかひ》になつた|方《はう》が|良《よ》かつたらうと|思《おも》ひますが、|何《ど》うでせう。|岡崎《をかざき》さんも|切《しき》りにさう|言《い》つて|居《を》られましたよ』
|真澄別《ますみわけ》『|神様《かみさま》の|思《おも》ひと|人間《にんげん》の|想《おも》ひとは|大変《たいへん》な|相違《さうゐ》のあるもので、|実際《じつさい》|人間《にんげん》には|善悪正邪《ぜんあくせいじや》を|批判《ひはん》する|資格《しかく》もないのだから、|要《えう》するに|盧占魁《ろせんくわい》は|盧占魁《ろせんくわい》としての|使命《しめい》があり、|劉陞山《りうしようさん》には|劉陞山《りうしようさん》としての|使命《しめい》があつて|従軍《じゆうぐん》してゐるのだから、|最後《さいご》|迄《まで》|行《ゆ》かなきや|其《その》|真相《しんさう》は|分《わか》るものでないよ。マア|行《ゆ》く|所《ところ》まで|行《ゆ》くのさ』
|猪野《ゐの》『|全《まつた》く|劉《りう》が|却《かへ》つて|盧《ろ》に|命令《めいれい》する|様《やう》な|傾向《けいかう》ですよ。|劉《りう》の|隊《たい》は|人数《にんずう》も|一番《いちばん》|多《おほ》いし|武器《ぶき》も|揃《そろ》ふてますからなア。|私《わたし》は|何《なん》だか|危険味《きけんみ》を|感《かん》ずるので、|一度《いちど》|〓南《たうなん》へ|帰《かへ》つてみたい|様《やう》な|気《き》が|致《いた》しますが|如何《いかが》でせう』
|真澄別《ますみわけ》『それは|大先生《だいせんせい》に|伺《うかが》つてお|定《き》めなさい。|私《わたし》としては|何《いづ》れとも|御勧《おすす》めする|訳《わけ》には|行《ゆ》かない。|私《わたし》は|大先生《だいせんせい》|自身《じしん》を|神《かみ》と|信《しん》じて|居《ゐ》るので、|仮令《たとへ》|自分《じぶん》の|考《かんが》へと|違《ちが》つた|言行《げんかう》が|大先生《だいせんせい》にあつても、|何事《なにごと》も|其《その》|舞台々々《ぶたいぶたい》の|筋書《すぢがき》は|神様《かみさま》でなくては|判《わか》らぬから、|大先生《だいせんせい》に|対《たい》し|維《こ》れ|命《めい》|維《こ》れ|従《したが》つて|行《ゆ》くのだ。|何《なん》だか|最前《さいぜん》の|岩窟《がんくつ》から|前進《ぜんしん》するのは|厭《いや》で|仕方《しかた》がないけれども、|大先生《だいせんせい》がああして|盧《ろ》と|一緒《いつしよ》に|進《すす》まれるのだから|神《かみ》に|任《まか》せて|行《ゆ》くのですよ』
|猪野《ゐの》『そんなものですかなア』
と|腑《ふ》に|落《お》ちぬ|顔色《かほいろ》で|従《したが》ひ|行《ゆ》く。|此《この》|時《とき》の|司令部《しれいぶ》の|駐屯所《ちうとんじよ》は|熱河《ねつか》の|最北部《さいほくぶ》に|在《あ》る|民家《みんか》で、|輓近《ばんきん》|大英子児《タアインヅル》が|活動《くわつどう》の|根拠《こんきよ》は、|右《みぎ》の|岩窟《がんくつ》の|附近《ふきん》だといふのも|何等《なんら》かの|因縁事《いんねんごと》であらう。さて|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》の|到着《たうちやく》した|司令部《しれいぶ》は|兵員《へいゐん》|整理《せいり》の|為《ため》|如何《いか》にも|混雑中《こんざつちう》で、|岡崎《をかざき》は|包金山《はうきんざん》と|共《とも》に|応援軍《おうゑんぐん》|組織《そしき》の|為《ため》|奉天《ほうてん》に|向《むか》つた|後《あと》であつた。|茲《ここ》で|陣容《ぢんよう》は|一新《いつしん》され、|乗馬《じやうば》や|銃器《じゆうき》の|調《とと》のはざるものは、それぞれ|旅費《りよひ》|手当《てあて》を|給与《きふよ》して|帰還《きくわん》の|途《と》に|就《つ》かしめる|事《こと》となつた。|盧《ろ》の|実弟《じつてい》|盧秉徳《ろへいとく》、|名田彦《なだひこ》、|山田《やまだ》、|小林《こばやし》|善吉《ぜんきち》|其《その》|他《た》|支那人《しなじん》|二名《にめい》は、|〓南《たうなん》より|来《きた》れる|二台《にだい》の|轎車《けうしや》に|分乗《ぶんじやう》し、|強行軍《きやうかうぐん》に|邪魔《じやま》になる|様《やう》な|携帯品《けいたいひん》をも|積《つ》み|込《こ》み、|四百余支里《しひやくしり》の|距離《きより》と|称《しよう》せらるる|〓南《たうなん》に|向《むか》つて|帰奉《きほう》の|途《と》に|就《つ》いた。|此《この》|一行《いつかう》は|後《のち》に|至《いた》り|突泉《とつせん》にて|支那官憲《しなくわんけん》の|手《て》に|捕《とら》へられ、|盧秉徳《ろへいとく》は|〓南《たうなん》に|於《おい》て|銃殺《じゆうさつ》せられ、|日本側《につぽんがは》|三名《さんめい》は|領事館渡《りやうじくわんわた》しとなつたのである。
|或《あ》る|民家《みんか》の|一室《いつしつ》には、|真澄別《ますみわけ》が|日出雄《ひでを》の|意《い》を|受《う》けて|劉陞山《りうしようさん》と|筆談《ひつだん》を|交換《かうくわん》してゐる。|其《その》|意味《いみ》は|左《さ》の|通《とほ》りである。
|真澄別《ますみわけ》『|一体《いつたい》|此《この》|部隊《ぶたい》は|之《これ》から|何方《どちら》へ|行《ゆ》く|事《こと》になつてゐますか』
|劉《りう》『|物資《ぶつし》の|豊《ゆた》かな|綏遠《すゐえん》で|冬籠《ふゆごも》りをするのだと|云《い》つてゐますから、|先《ま》づ|察哈爾《チヤハル》へ|向《むか》ふのでせう。それに|就《つい》てはこれから|三百支里《さんびやくしり》|程《ほど》|行《い》つた|所《ところ》で、|開魯《かいろ》の|兵《へい》と|一戦《ひといくさ》せねばなりませぬから、|此処《ここ》で|可成《かな》り|手足纏《てあしまと》ひを|少《すく》なくする|様《やう》に|計《はか》つたのです』
|真澄別《ますみわけ》『あなたは|何処《どこ》|迄《まで》も|盧《ろ》|司令《しれい》と|行動《かうどう》を|共《とも》にするお|考《かんが》へですか』
|劉《りう》『|大体《だいたい》|私《わたし》は|何《なに》も|知《し》らずに|参加《さんか》したのです。|奉天《ほうてん》|第一師長《だいいちしちやう》の|李景林《りけいりん》から、|鄭家屯《ていかとん》の|〓旅長《かんりよちやう》に|手紙《てがみ》をやつた|結果《けつくわ》、|〓中将《かんちうじやう》も|君等《きみら》を|保護《ほご》すると|云《い》つてるから、|早《はや》く|索倫《ソーロン》へ|行《い》つて|盧占魁《ろせんくわい》の|軍《ぐん》に|参加《さんか》せよとの|事《こと》でしたから、|実《じつ》は|盧軍《ろぐん》の|目的《もくてき》も|何《なに》も|聞《き》かず、|好《す》きな|道《みち》だから、|早速《さつそく》|手兵《しゆへい》を|率《つ》れて|参加《さんか》した|次第《しだい》ですが、|私《わたし》は|兎《と》に|角《かく》|大先生《だいせんせい》を|中心《ちうしん》にして|何処《どこ》|迄《まで》も|押立《おした》てる|考《かんが》へで|居《を》ります。おゝ|司令《しれい》も|其処《そこ》へ|見《み》えました』
|盧《ろ》は|此《この》|時《とき》|微笑《びせう》し|乍《なが》ら|入《い》り|来《きた》り、
|盧《ろ》『これで|武器《ぶき》を|携帯《けいたい》した|騎兵《きへい》のみ|五百騎《ごひやくき》となりました。こんな|所《ところ》に|駐屯《ちうとん》して|居《ゐ》ても|仕方《しかた》がありませぬから、|今少《いますこ》し|兵糧《ひやうらう》の|得《え》られる|所《ところ》まで|参《まゐ》りませう。|大先生《だいせんせい》は|今日《けふ》から|轎車《けうしや》に|乗《の》つて|戴《いただ》く|事《こと》に|致《いた》します』
とて|直《ただ》ちに|出動《しゆつどう》の|用意《ようい》を|整《ととの》へた。|劉陞山《りうしようさん》の|部隊《ぶたい》は|先鋒《せんぽう》に|立《た》ち、|日出雄《ひでを》は|自分《じぶん》の|手廻《てまは》り|品《ひん》と|盧《ろ》の|貴重品《きちようひん》を|積《つ》み|合《あ》はした|轎車《けうしや》に|乗《の》り、|盧占魁《ろせんくわい》|自《みづか》ら|馬《うま》を|馭《ぎよ》し、|守高《もりたか》|並《ならび》に|二三《にさん》の|支那将校《しなしやうかう》は|日出雄《ひでを》の|轎車《けうしや》に|附添《つきそ》ひ|護《まも》り、|真澄別《ますみわけ》は|或《あるひ》は|先頭《せんとう》に|或《あるひ》は|後方《こうはう》に|出没《しゆつぼつ》して|全軍《ぜんぐん》を|見守《みまも》り、|萩原《はぎはら》は|写真機《しやしんき》を|肩《かた》にして|自由《じいう》に|飛《と》び|廻《まは》り、|茲《ここ》に|西南《せいなん》に|向《むか》ふて|強行軍《きやうかうぐん》が|開始《かいし》せられることとなつた。|但《ただ》し|宿営《しゆくえい》の|場合《ばあひ》には、|日本人《につぽんじん》|一同《いちどう》|日出雄《ひでを》の|側《そば》に|集《あつま》り|一団《いちだん》となる|事《こと》は|忘《わす》れなかつた。
|六月《ろくぐわつ》|十一日《じふいちにち》(|陰暦《いんれき》|五月《ごぐわつ》|十日《とをか》)の|朝《あさ》、|熱河区内《ねつかくない》の|喇嘛廟《ラマベウ》へ|到着《たうちやく》する|迄《まで》は、|時《とき》に|数戸《すうこ》の|民家《みんか》を|中心《ちうしん》として|休息《きうそく》する|外《ほか》|殆《ほとん》ど|昼夜兼行《ちうやけんかう》の|強行軍《きやうかうぐん》で、|索倫《ソーロン》より|携帯《けいたい》せし|食料《しよくれう》は|已《すで》に|尽《つ》き、|巻煙草《まきたばこ》|一本《いつぽん》の|喫《の》み|廻《まは》しも|元《もと》が|切《き》れて|了《しま》ふ。|盧《ろ》|其《その》|他《た》|阿片《アヘン》の|嗜好者《しかうしや》は|顔色《がんしよく》|憔悴《せうすゐ》して|勇気《ゆうき》|頓《とみ》に|衰《おとろ》へ、|馬《うま》の|斃《たふ》るる|者《もの》|或《あるひ》は|落伍《らくご》する|者《もの》|漸次《ぜんじ》|増加《ぞうか》の|窮境《きうきやう》に|陥《おちい》つた。|漸《やうや》くにして|喇嘛廟《ラマベウ》において|炒米《チヨオミイ》の|供給《きようきふ》を|得《え》、|附近《ふきん》|民家《みんか》より|羊《ひつじ》を|購《もと》めて|全員《ぜんゐん》|腹《はら》を|充《み》たす|事《こと》が|出来《でき》たのである。|蒙古内地《もうこないち》の|喇嘛廟《ラマベウ》は|概《がい》して|小高《こだか》き|丘上《きうじやう》|又《また》は|山腹《さんぷく》に|建立《こんりふ》せられ、|本堂《ほんだう》を|最上《さいじやう》|中心《ちうしん》として|数多《あまた》の|僧坊《そうばう》が、それぞれ|西蔵本山《チベツトほんざん》を|模《も》して|羅列《られつ》し、|之《これ》を|遠望《ゑんばう》すれば|宛《さなが》ら|一大城廓《いちだいじやうくわく》の|観《くわん》がある。|地方《ちはう》に|依《よ》りて|美観《びくわん》|壮観《さうくわん》に|程度《ていど》はあるが、|一般《いつぱん》|民家《みんか》の|茅屋《あばらや》|若《も》しくは|羊皮天幕住居《やうひてんとすまゐ》に|対照《たいせう》して、|調和《てうわ》の|取《と》れない|事《こと》|夥《おびただ》しい。|尤《もつと》も|之《こ》れは|蒙古民族《もうこみんぞく》|信仰《しんかう》の|結晶《けつしやう》として|現《あら》はれてゐるのだから|批判《ひはん》の|限《かぎ》りではあるまい。|又《また》|炒米《チヨオミイ》は|日本《につぽん》の|粟《あは》を|煎《い》つた|様《やう》なもので、|其《その》|儘《まま》|食《た》べても|香《かん》ばしい|味《あぢ》がある。お|茶《ちや》|若《も》しくは|牛乳《ぎうにう》を【ブツ】かければ|猶更《なほさら》|喰《た》べ|易《やす》い|蒙古《もうこ》|唯一《ゆゐいつ》の|穀物《こくもつ》である。|此《この》|日《ひ》より|更《さら》に|方向《はうかう》は|一転《いつてん》されて|東南《とうなん》|指《さ》して|進《すす》む|事《こと》となつた。|局面《きよくめん》は|展開《てんかい》して、|或《あるひ》は|小砂漠《せうさばく》、|或《あるひ》は|砂山《すなやま》の|僅《わづ》かに|草木《さうもく》の|生《お》ひ|茂《しげ》れる|所《ところ》を|横断《わうだん》せねばならなかつた。
|六月《ろくぐわつ》|十三日《じふさんにち》(|陰暦《いんれき》|五月《ごぐわつ》|十二日《じふににち》)|又《また》もや|喇嘛廟《ラマベウ》に|宿泊《しゆくはく》する|事《こと》を|得《え》たが、|方向《はうかう》は|依然《いぜん》|東南《とうなん》に|向《むか》ひ|奉天省《ほうてんしやう》の|勢力範囲《せいりよくはんゐ》に|近《ちか》づく|様子《やうす》なので、|真澄別《ますみわけ》が|盧《ろ》に|糺《ただ》すと、
『|民家《みんか》の|多《おほ》い|所《ところ》へ|行《ゆ》かねば、|兵糧《ひやうらう》と|馬糧《ばりやう》が|不足《ふそく》して、|何《ど》うする|事《こと》も|出来《でき》ませぬ』
と|力《ちから》なげに|答《こた》ふる|許《ばか》りであつた。|漸《やうや》くにして|十四日《じふよつか》の|夕暮《ゆふぐれ》に|近《ちか》き|頃《ころ》、|達頼汗王府《タアライハンわうふ》の|一族《いちぞく》と|称《しよう》する|管内《くわんない》に|入《い》ると、|輪奐《りんくわん》の|美《び》を|極《きは》めた|朱欄碧瓦《しゆらんへきぐわ》の|形容詞《けいようし》が|相当《さうたう》しさうな|喇嘛廟《ラマベウ》と|王府《わうふ》が、|約《やく》|十丁《じつちやう》|許《ばか》り|離《はな》れて|対立《たいりつ》し、|外《ほか》に|支那風《しなふう》|建築《けんちく》の|民家《みんか》が|十数戸《じふすうこ》|建《た》ち|並《なら》んで|居《ゐ》る。|盧《ろ》|司令《しれい》は|王府《わうふ》へ|使《つかひ》を|遣《つか》はし|面会《めんくわい》を|申込《まをしこ》むと、|王《わう》は|不在《ふざい》なりとて|数人《すうにん》の|留守居《るすゐ》が|誠《まこと》に|無愛想《ぶあいさう》な|挨拶《あいさつ》なのに、|盧《ろ》も|不審《ふしん》の|思《おも》ひをし|乍《なが》ら、|西南方《せいなんぱう》の|谷間《たにま》に|民家《みんか》を|捜《さが》し|当《あ》て、|一同《いちどう》の|宿泊所《しゆくはくじよ》と|定《き》めた。|此処《ここ》の|喇嘛廟《ラマベウ》は|全部《ぜんぶ》|戸《と》を|鎖《とざ》し、|猫《ねこ》の|子《こ》|一匹《いつぴき》ゐない|静寂《せいじやく》さであつたのは、|頗《すこぶ》る|一同《いちどう》の|眉《まゆ》をひそめしめた。
|此《この》|夜《よ》|薄暗《うすぐら》き|宿営《しゆくえい》の|一遇《いちぐう》に、|日出雄《ひでを》は|何事《なにごと》かヒソヒソと|真澄別《ますみわけ》に|向《むか》ひ|囁《ささや》いてゐたが、|唯《ただ》|最後《さいご》に|真澄別《ますみわけ》の|声《こゑ》として、
『|〓南《たうなん》の|御神勅《ごしんちよく》に、|今度《こんど》の|挙《きよ》に|必要《ひつえう》な|金《かね》は|十万円《じふまんゑん》だと|承《うけたまは》つて|居《ゐ》ましたから、|其《そ》れ|以上《いじやう》の|金額《きんがく》は|早《はや》く|言《い》へば|死金《しにがね》だと|私《わたし》は|信《しん》じてゐます。そして|最後《さいご》に|上木局子《かみもくきよくし》で|大石氏《おほいしし》に|迫《せま》られて、|先生《せんせい》が|矢野《やの》さんへ|送金《そうきん》する|様《やう》|依頼状《いらいじやう》をお|書《か》きに|成《な》つたなどは、|全《まつた》く|一種《いつしゆ》の|脅迫《けふはく》でしたね』
と|聞《きこ》えたのみで、あとは|犬《いぬ》のけたたましき|鳴《な》き|声《ごゑ》に|夜《よ》は|森閑《しんかん》と|更《ふ》け|行《ゆ》くのであつた。
(大正一四・八 筆録)
第三二章 |弾丸雨飛《だんぐわんうひ》
|谷間《たにま》を|通《とほ》り|抜《ぬ》けて|広大《くわうだい》な|草野《くさの》に|面《めん》した|山裾《やますそ》に、|一台《いちだい》の|轎車《けうしや》を|取《と》り|巻《ま》いて|守高《もりたか》、|萩原《はぎはら》、|坂本《さかもと》、|白凌閣《パイリンク》|其《その》|他日出雄《たひでを》に|近侍《きんじ》せる|支那将校《しなしやうかう》|以下《いか》|一団《いちだん》の|部隊《ぶたい》が、|不安《ふあん》の|色《いろ》を|現《あら》はし|乍《なが》ら|後続部隊《こうぞくぶたい》を|待合《まちあは》せて|居《ゐ》る。そして|銃声《じゆうせい》が|盛《さか》んに|谺《こだま》に|響《ひび》き|亘《わた》るにも|係《かかは》らず、|轎車《けうしや》の|中《なか》には|雷《らい》の|如《ごと》き|鼾声《かんせい》が|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。|折柄《をりから》|猪野軍医長《ゐのぐんいちやう》は|顔色《がんしよく》を|変《か》へて|飛《と》び|来《きた》り、|倉皇《さうくわう》として|下馬《げば》し、|轎車《けうしや》を|覗《のぞ》き|込《こ》み、
『|先生《せんせい》|大変《たいへん》です』
と|叫《さけ》ぶ。
『アヽホンに|銃砲《てつぱう》の|音《おと》が|聞《きこ》えるなア』
とやをら|身《み》を|起《おこ》したのは|日出雄《ひでを》である。
|猪野《ゐの》『|先生《せんせい》どうやら|開魯《かいろ》の|兵隊《へいたい》が|盧《ろ》の|軍《ぐん》を|迎撃《むかへうち》する|為《ため》に|来《き》て|居《ゐ》たらしいです。|左側《ひだりがは》の|山《やま》から|射撃《しやげき》し|始《はじ》めました。|真澄別《ますみわけ》さんに|早《はや》く|逃《に》げなけりや|危《あぶな》いですよと|注意《ちうい》したのですけれど、|真澄別《ますみわけ》さんは|先《さき》に|行《い》つても|後方《あと》に|居《を》つても|弾丸《だんぐわん》は|飛《と》んでるんだ……なんて|悟《さと》つたらしい|事《こと》を|云《い》つて|見物《けんぶつ》して|居《を》られますが、あれや|駄目《だめ》ですよ』
|日出雄《ひでを》『アヽさうか、モウ|直《すぐ》に|追《お》ひ|付《つ》くだらう』
と|之《こ》れ|亦《また》|悟《さと》つたらしく|寝《ね》ころんで|了《しま》つた。|此《この》|時《とき》|真澄別《ますみわけ》は|井上《ゐのうへ》|兼吉《けんきち》を|従《したが》へ、|悠々《いういう》と|弾丸雨飛《だんぐわんうひ》の|間《あひだ》を|進《すす》みつつ、
|真澄別《ますみわけ》『|井上《ゐのうへ》さん、|吾々《われわれ》を|狙撃《そげき》する|連中《れんちう》は|一体《いつたい》|何《なん》だい』
|井上《ゐのうへ》『|此処《ここ》の|王府《わうふ》の|兵《へい》でせう。|弾丸《だんぐわん》が|上《うへ》の|方《かた》を|通《とほ》る|所《ところ》から|察《さつ》すると、|早《はや》く|此《この》|管内《くわんない》を|立退《たちの》いて|呉《く》れ、|迷惑《めいわく》が|掛《かか》ると|困《こま》るからと|云《い》ふ|合図《あひづ》かも|知《し》れませぬなア。アハヽヽヽ』
|真澄別《ますみわけ》『|併《しか》し|昨日《きのふ》|喇嘛廟《ラマメウ》も|王府《わうふ》もがら|空《あき》だつたのが|曲者《くせもの》だよ。|盧《ろ》を|馬賊《ばぞく》としての|討伐令《たうばつれい》でも|廻《まは》つて|来《き》てるのぢやなからうか』
|井上《ゐのうへ》『まさか……と|思《おも》ひますが……おゝあれ|御覧《ごらん》なさい。|猪野《ゐの》の|奴《やつ》、|衛生材料《ゑいせいざいれう》を|放《ほ》つたらかして|逃《に》げ|出《だ》しましたよアハヽヽヽ』
|斯《か》かる|折《を》りしも、|真澄別《ますみわけ》と|井上《ゐのうへ》との|中間《ちうかん》へピチーンと|銃弾《じゆうだん》が|落下《らくか》した。|井上《ゐのうへ》は|平気《へいき》な|顔《かほ》で、
|井上《ゐのうへ》『オヤこん|畜生《ちくしやう》|狙《ねら》ひ|撃《う》ちを|始《はじ》めよつたぞ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|真澄別《ますみわけ》と|轡《くつわ》を|並《なら》べて|見物《けんぶつ》|気分《きぶん》で|日出雄《ひでを》の|轎車《けうしや》を|目当《めあて》に|辿《たど》り|行《ゆ》く。
|盧占魁《ろせんくわい》は|前後《ぜんご》に|馬《うま》を|飛《と》ばし|乍《なが》ら|声《こゑ》を|励《はげ》まして、
『|応戦《おうせん》するな、|応戦《おうせん》するな』
と|叫《さけ》び|廻《まは》つて|居《ゐ》る。|全隊《ぜんたい》が|青野ケ原《あをのがはら》を|進《すす》む|頃《ころ》には、|最早《もはや》|銃声《じゆうせい》も|聞《きこ》えずなつてゐたが、それでも|二名《にめい》の|負傷者《ふしやうしや》は|出来《でき》たのである。|銃声《じゆうせい》を|他所《よそ》に|眠《ねむ》れる|日出雄《ひでを》と、|弾丸雨飛《だんぐわんうひ》を|平気《へいき》で|眺《なが》めてゐた|真澄別《ますみわけ》との|大胆《だいたん》さは、|盧《ろ》|以下《いか》|各将卒《かくしやうそつ》の|賞讃《しやうさん》の|的《まと》となつた。|是《これ》より|周囲《しうゐ》の|警戒《けいかい》を|益々《ますます》|厳重《げんぢう》にして|進《すす》むこととなつたが、|十五日《じふごにち》|又々《またまた》|山間《さんかん》の|通路《つうろ》に|於《おい》て|王府《わうふ》の|兵《へい》が|要撃《えうげき》を|開始《かいし》せむとするや、|盧占魁《ろせんくわい》は|単身《たんしん》|馬《うま》に|鞭打《むちう》ち|両手《りやうて》にモーゼル|銃《じゆう》を|提《さ》げて|走《は》せ|向《むか》ひ、|劉陞山《りうしようさん》の|部隊《ぶたい》また|機関銃《きくわんじゆう》の|火蓋《ひぶた》を|切《き》つたので、|王府《わうふ》の|兵《へい》は|銘旗《めいき》と|若干《じやくかん》の|馬具《ばぐ》を|遺《のこ》し|地《ち》の|理《り》に|通《つう》ぜるだけあつて、|逸早《いちはや》く|何《いづ》れへか|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つた。|相変《あひかは》らず|強行軍《きやうかうぐん》は|南方《なんぱう》もしくは|東南方《とうなんぱう》に|向《むか》つて|続《つづ》けられた。|馬《うま》が|斃《たふ》れて|自然《しぜん》に|落伍《らくご》する|者《もの》もあれば、|中《なか》には|又《また》|野馬《やば》を|捉《とら》へて|乗《の》り|移《うつ》る|者《もの》もあり、|劉《りう》の|部隊《ぶたい》には|十数頭《じふすうとう》の|駱駝《らくだ》を|徴発《ちようはつ》して|乗《の》り|廻《まは》して|居《ゐ》る|者《もの》さへあつた。
|六月《ろくぐわつ》|十六日《じふろくにち》(|陰暦《いんれき》|五月《ごぐわつ》|十五日《じふごにち》)|青草《あをくさ》のまばらに|生《は》え|茂《しげ》つた|高原《かうげん》に|三々五々《さんさんごご》|建《た》ち|並《なら》んでゐる|民家《みんか》の|附近《ふきん》に|腰《こし》を|下《お》ろして|朝食《てうしよく》を|喫《きつ》した。|前日来《ぜんじつらい》|人馬《じんば》|共《とも》に|食料《しよくれう》|欠乏《けつぼう》の|為《ため》|休《やす》む|間《ま》とて|与《あた》へられず、|民家《みんか》を|求《もと》めて|此処《ここ》まで|急《いそ》いだのである。|民家《みんか》より|炒米《チヨオミイ》と|鶏《とり》を|徴発《ちようはつ》|補充《ほじゆう》し、|一同《いちどう》|元気《げんき》|漸《やうや》く|回復《くわいふく》した。|炊事《すゐじ》|道具《だうぐ》は|何時《いつ》も|洗面器《せんめんき》と|鉄鍋《てつなべ》を|利用《りよう》するのだが、|調味料《てうみれう》は|塩《しほ》のみで、それも|有《あ》つたり|無《な》かつたりと|云《い》ふ|状態《じやうたい》であつた。|此処《ここ》の|附近《ふきん》には|畑《はた》らしい|場所《ばしよ》があり、|其処《そこ》にたまたま|葱《ねぎ》や|菜《な》つ|葉《ぱ》が|見付《みつ》かつた|時《とき》には、|皆々《みなみな》|先《さき》を|争《あらそ》ひ、ちぎつては|土《つち》を|手《て》で|擦《こす》り|取《と》り|貪《むさぼ》り|喰《く》ふた。|食事後《しよくじご》|日出雄《ひでを》は|轎車《けうしや》の|中《なか》に|眠《ねむ》り、|其《その》|他《た》の|随員《ずいいん》は|之《これ》を|取巻《とりま》いて|大地《だいち》の|上《うへ》にゴロリと|昼寝《ひるね》の|夢《ゆめ》を|貪《むさぼ》つてゐると、|遥《はる》か|後方《こうはう》に|当《あた》り|一時《いちじ》|盛《さか》んに|銃声《じゆうせい》が|聞《きこ》えた。|盧占魁《ろせんくわい》は|直《ただ》ちに|二三《にさん》の|従卒《じゆうそつ》と|共《とも》に|駆出《かけだ》し、|一時間《いちじかん》|許《ばか》り|経《た》つた|後《のち》、|萎々《しほしほ》と|帰《かへ》り|来《き》て|涙《なみだ》ながらに|語《かた》る。
『あの|王府《わうふ》の|兵《へい》が|数十名《すうじふめい》|執念深《しふねんぶか》くも、|沿道《えんだう》の|民家《みんか》に|潜《ひそ》み|居《を》り、|最後方部隊《さいこうはうぶたい》の|曼陀汗《マンダハン》を|狙撃《そげき》したので、|曼陀汗《マンダハン》は|部下《ぶか》を|前進《ぜんしん》せしめおき、|単身《ひとり》で|之《これ》に|向《むか》つて|近寄《ちかよ》る|途端《とたん》に|馬《うま》が|銃弾《たま》に|斃《たふ》れる、|第二《だいに》の|弾丸《だんぐわん》で|曼陀汗《マンダハン》は|太腿《ふともも》を|撃《う》ち|抜《ぬ》かれ、バツタリ|倒《たふ》れたさうです。それでも|部下《ぶか》に|向《むか》ひ……お|前等《まへら》は|進《すす》め|進《すす》め|心配《しんぱい》するな|大丈夫《だいぢやうぶ》だ……と|云《い》つて|居《ゐ》る|間《ま》に、|人家《じんか》より|六七名《ろくしちめい》の|王府《わうふ》の|兵《へい》が|曼陀汗《マンダハン》の|側近《そばちか》く|走《は》せ|寄《よ》り、|銃先《じゆうさき》を|揃《そろ》へて|撃《う》ち|込《こ》み、|曼陀汗《マンダハン》はあへなき|最期《さいご》を|遂《と》げました。|曼陀汗《マンダハン》の|副将《ふくしやう》は|振返《ふりかへ》つてみて|驚《おどろ》き、|矢庭《やには》に|二三人《にさんにん》を|撃殺《うちころ》した|相《さう》ですが、これも|胸部《きようぶ》を|射貫《いぬ》かれて|倒《たふ》れる。|其《その》|間《あひだ》に|王府兵《わうふへい》は|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つたさうです。|張彦三《ちやうけんさん》は|私《わたし》の|左《ひだり》の|腕《うで》、|曼陀汗《マンダハン》は|私《わたし》の|右《みぎ》の|腕《うで》です。|今日《けふ》の|私《わたし》は|右《みぎ》の|腕《うで》を|取《と》られました、お|察《さつ》し|願《ねが》ひます』
と|涙《なみだ》|滂沱《ばうだ》として|腮辺《しへん》を|伝《つた》ふ。|聴《き》き|居《ゐ》る|者《もの》|皆《みな》|貰《もら》ひ|泣《な》きをし、
『|惜《を》しき|英雄《えいいう》を|殺《ころ》したものだ』
『それだから|最初《さいしよ》にあの|王府《わうふ》をやつつけて|了《しま》へば|良《よ》かつたのに』
など|口々《くちぐち》に|呟《つぶや》き|乍《なが》ら|切歯扼腕《せつしやくわん》する。|斯《かか》る|折《をり》しも|胸《むね》に|貫通銃創《くわんつうじうさう》を|受《う》けた|曼陀汗《マンダハン》の|副将《ふくしやう》は|運《はこ》ばれて|来《き》た。|猪野軍医《ゐのぐんい》は|繃帯手当《はうたいてあて》をし、|真澄別《ますみわけ》は|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》して|痛《いた》みを|止《と》め、|食料《しよくれう》を|積《つ》んだ|空車《くうしや》の|轎車《けうしや》に|乗《の》らしめ、|全体《ぜんたい》の|行進《かうしん》が|開始《かいし》された。|此《この》|時《とき》|盧《ろ》は|日出雄《ひでを》に|向《むか》ひ、
『|大先生《だいせんせい》、|茲《ここ》|二三日《にさんにち》の|中《うち》に|戦争《せんそう》はありませぬか、|神様《かみさま》に|伺《うかが》つて|下《くだ》さい』
と|云《い》ふ。|日出雄《ひでを》は|真澄別《ますみわけ》に|命《めい》じて|神勅《しんちよく》を|請《こ》はしめた。|神勅《しんちよく》は、
『|二三日中《にさんにちちう》に|戦争《せんそう》は|無《な》い、|但《ただ》し|当方《たうはう》から|手出《てだ》しすれば|此《この》|限《かぎ》りに|非《あら》ず』
との|意《い》であつた。そして|真澄別《ますみわけ》は|盧《ろ》に|向《むか》ひ、
『|最初《さいしよ》と|大分《だいぶ》|方面《はうめん》が|違《ちが》つた|様《やう》ですが、|何処《どこ》へ|落付《おちつ》く|積《つも》りですか』
と|問《と》ふ。
|盧占魁《ろせんくわい》『どうも|張作霖《ちやうさくりん》の|方《はう》に|何《なに》か|誤解《ごかい》がある|様《やう》ですから、|先生《せんせい》|方《がた》は|青溝《チンカヲ》と|云《い》ふ|安全地帯《あんぜんちたい》へ|御滞在《ごたいざい》を|願《ねが》ひ、|其《その》|間《あひだ》に|私《わたくし》は|奉天《ほうてん》へ|行《い》つて|万事《ばんじ》|都合《つがふ》|好《よ》く|解決《かいけつ》してまゐります』
と|答《こた》へ、|日出雄《ひでを》の|轎車《けうしや》にヒラリと|飛乗《とびの》り、|長《なが》い|鞭《むち》を|動《うご》かし|始《はじ》めた。
|露営《ろえい》に|体躯《からだ》を|休《やす》めて|行《かう》を|続《つづ》けた|十七日《じふしちにち》、|又復《またまた》|銃声《じゆうせい》が|盛《さか》んに|聞《きこ》えたが、|之《こ》れは|次《つぎ》の|王府《わうふ》の|兵《へい》が|其《その》|国境《こくきやう》まで|見送《みおく》り|来《きた》り、|双方《さうはう》|礼砲交換《れいはうかうくわん》の|響《ひびき》であつた。
|翌《よく》|十八日《じふはちにち》(|陰暦《いんれき》|五月《ごぐわつ》|十七日《じふしちにち》)|進軍中《しんぐんちう》、|周囲《しうゐ》|二三里《にさんり》|位《ぐらゐ》と|思《おぼ》しき|大沼地《おほぬまち》に|出会《でつくは》した。|水《みづ》は|全面《ぜんめん》に|漲《みなぎ》らず、|所々《ところどころ》に|大池《おほいけ》|小池《こいけ》が|形作《かたちづく》られてゐる。|其《その》|間《あひだ》に|介在《かいざい》せる|沼草《ぬまくさ》の|生《は》え|茂《しげ》つた|部分《ぶぶん》を|選《えら》んで|横断《わうだん》する|事《こと》となつたが、|微細《びさい》な|灰《はひ》の|如《ごと》き|砂《すな》の|稍《やや》|湿気《しつき》を|帯《お》びた|所《ところ》とて、|馬《うま》の|歩行困難《ほこうこんなん》|一方《ひとかた》でない。|折《をり》しも|日出雄《ひでを》の|搭乗《たふじよう》せる|轎車《けうしや》は|相変《あひかは》らず、|盧占魁《ろせんくわい》が|自《みづか》ら|馭者《ぎよしや》となつて、|近路《ちかみち》を|選《えら》んで|約《やく》|央過《なかばす》ぎまで|巧《たく》みに|進《すす》んで|来《き》たが、|如何《いかが》はしけむ、|其《その》|轎車《けうしや》はヅブヅブと|半《なか》ば|土中《どちう》に|滅入《めい》り|込《こ》んで|了《しま》つた。|鞭打《むちう》てど|馬《うま》の|動《うご》かばこそ、
『サア|事《こと》だ』
と|応援馬《おうゑんば》を|派遣《はけん》しても|足場《あしば》|悪《わる》く、|車体《しやたい》を|引上《ひきあ》げることが|出来《でき》ない。|遂《つひ》に|車体《しやたい》の|全部《ぜんぶ》|解体《かいたい》して|漸《やうや》く|安全地帯《あんぜんちたい》に|運《はこ》び、|再《ふたた》び|組立《くみた》てらるる|迄《まで》には|可《か》なり|時間《じかん》を|費《つひ》やしたのである。|日出雄《ひでを》、|盧占魁《ろせんくわい》|等《ら》は|応援《おうゑん》に|向《むか》ひし|白銀竜《はくぎんりう》|其《その》|他《た》の|馬《うま》に|跨《またが》り、|漸《やうや》くにして|対岸《たいがん》の|丘上《きうじやう》に|待《ま》ち|合《あは》せてゐた|張彦三《ちやうけんさん》の|部隊《ぶたい》に|到達《たうたつ》する|事《こと》を|得《え》た。|守高《もりたか》は|泥塗《どろまみ》れの|靴《くつ》を|掃除《さうじ》し|乍《なが》ら、
『これは|今度《こんど》の|神業《しんげふ》の|暗示《あんじ》だ。|一変《いつぺん》|解体《かいたい》して、|新規蒔直《しんきまきなほ》しに|組立《くみた》てよといふ|事《こと》に|違《ちが》ひない』
と|呟《つぶや》く。
|真澄別《ますみわけ》『まあ、そこらの|見当《けんたう》だ』
|日出雄《ひでを》『|時《とき》に|盧《ろ》さん、|只今《ただいま》|神勅《しんちよく》があつて、あなたが|奉天《ほうてん》へ|行《ゆ》くべく|白音太拉《パインタラ》に|向《むか》はれるのは、|薪《まき》を|抱《いだ》いて|火《ひ》に|飛込《とびこ》む|様《やう》なものだとの|事《こと》でしたよ』
|盧《ろ》は|深《ふか》く|意《い》に|留《と》めざる|面色《おももち》で、
|盧《ろ》『ナニ、|大丈夫《だいぢやうぶ》です。|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
|張彦三《ちやうけんさん》『|察哈爾《チヤハル》|迄《まで》|参《まゐ》りますと、|私《わたくし》の|部下《ぶか》が|二万《にまん》|許《ばか》り|準備《じゆんび》して|待《ま》つて|居《を》りますから、|早《はや》く|其処《そこ》まで|行《ゆ》きたいのです。けれど|途中《とちう》|一度《いちど》や|二度《にど》|戦争《せんそう》の|必要《ひつえう》があるかも|知《し》れませぬので、|盧《ろ》|司令《しれい》は|今少《いますこ》し|武器《ぶき》を|手《て》に|入《い》れたいと|云《い》つてますから、|奉天《ほうてん》へ|行《ゆ》きたいと|申《まを》してゐるのです』
|真澄別《ますみわけ》『|神勅《しんちよく》をたよらぬ|様《やう》になれば、モウ|駄目《だめ》だ|駄目《だめ》だ』
と|小声《こごゑ》に|囁《ささや》いた。
|此《この》|夜《よ》|露営所《ろえいしよ》の|一室《いつしつ》には|日本人側《につぽんじんがは》|全部《ぜんぶ》|集合《しふがふ》し、|雑談交《ざつだんまじ》りに|評議《ひやうぎ》が|凝《こ》らされた。
|坂本《さかもと》『どなたか|紙《かみ》をお|持《も》ちぢやありませぬか。|支那人《しなじん》や|蒙古人《もうこじん》は、|其処等《そこら》に|転《ころ》がつてゐる|小石《こいし》や|木《き》の|枯枝《かれえだ》なんかで、|便用《べんよう》を|達《た》しますから|構《かま》ひませぬが、|私等《わたしら》はまだ、そこ|迄《まで》|勉強《べんきやう》が|出来《でき》てゐませぬからなア』
|真澄別《ますみわけ》『そんな|事《こと》もあらうと|思《おも》つて、|持《も》てる|丈《だけ》ポケツトへ|捻《ね》ぢ|込《こ》んでおいたが|四五日前《しごにちまへ》だつた。あの……ソレ|沢山《たくさん》の|牛乳《ぎうにう》にありついた|時《とき》、|喉《のど》の|渇《かわ》いてるに|任《まか》せてガブガブやつた|所《ところ》が|間《ま》もなく、|大先生《だいせんせい》と|萩原《はぎはら》さんと|揃《そろ》ひも|揃《そろ》うて、|牛乳《ぎうにう》|其《その》|儘《まま》のパサパーナを【シヤア】とやつた|時《とき》、|大分《だいぶ》|減《へ》らして|了《しま》つたが、まだ|二三日間《にさんにちかん》は|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。アハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら|二三枚《にさんまい》の|塵紙《ちりがみ》を|渡《わた》す。
|猪野《ゐの》『|先生《せんせい》そんな|呑気《のんき》な|話《はなし》|所《どころ》ですかい。|私《わたくし》の|従卒《じゆうそつ》にしてゐる|蒙古人《もうこじん》に|村民《そんみん》の|噂《うはさ》を|調《しら》べさして|見《み》ましたが|大変《たいへん》ですよ。|白音太拉《パインタラ》では|盧《ろ》を|討伐《たうばつ》すると|云《い》つて、|数千《すうせん》の|軍隊《ぐんたい》が|出動《しゆつどう》|準備《じゆんび》をしてゐるさうですよ、|隙《すき》を|伺《うかが》つて|遁《に》げようぢやありませぬか。こんな|所《ところ》で|生命《いのち》を|捨《す》てるのは|馬鹿々々《ばかばか》しいですからなア』
|日出雄《ひでを》『|遁《に》げるつて|何処《どこ》へ|行《ゆ》くのだ』
|猪野《ゐの》『|私《わたし》は|此処《ここ》から|白音太拉《パインタラ》|方面《はうめん》の|地理《ちり》は|能《よ》く|存《ぞん》じてゐます。|白音太拉《パインタラ》は|出動準備《しゆつどうじゆんび》で|危《あぶな》いかも|知《し》れませぬから、|銭家店《せんかてん》までは|責任《せきにん》を|以《もつ》て|御案内《ごあんない》|致《いた》します』
|井上《ゐのうへ》『さうだ。|猪野君《ゐのくん》が|其処《そこ》まで|責任《せきにん》を|持《も》つて|呉《く》れれば、|哈爾賓《ハルピン》から|東支鉄道《とうしてつだう》を|利用《りよう》して|興安嶺《こうあんれい》に|乗《の》り|込《こ》む|順路《じゆんろ》は|僕《ぼく》が|責任《せきにん》を|持《も》つ』
|猪野《ゐの》『|先生《せんせい》、さうして|頂《いただ》いて|興安嶺《こうあんれい》へ|行《い》つて|修業《しうげふ》さして|頂《いただ》くのでしたら、|私《わたくし》も|永久《えいきう》にお|伴《とも》|致《いた》します。|実際《じつさい》の|事《こと》、|私《わたくし》は|国《くに》には|両親《りやうしん》も|妻《つま》もありますから、|生命《いのち》が|惜《を》しいです』
|真澄別《ますみわけ》『それは|非常《ひじやう》に|結構《けつこう》な|計画《けいくわく》だが、うつかりすると|味方《みかた》に|敵《てき》が|出来《でき》るよ』
|日出雄《ひでを》『さうだ、|兎《と》に|角《かく》|盧占魁《ろせんくわい》に|相談《さうだん》して|同意《どうい》を|得《え》その|上《うへ》にするがよからう』
|猪野《ゐの》は|直《ただ》ちに|盧占魁《ろせんくわい》を|迎《むか》へ|来《きた》り、|白音太拉軍《パインタラぐん》の|出動準備《しゆつどうじゆんび》の|事《こと》や、|自分《じぶん》の|提案《ていあん》を|逐一《ちくいち》|話《はな》した。|盧《ろ》は、『|猪野《ゐの》|奴《め》、|余計《よけい》なことを|云《い》ふ』といふ|顔付《かほつき》にて、
|盧《ろ》『|吾々《われわれ》を|討伐《たうばつ》なんて、そんな|事《こと》があるものですか。そして|哈爾賓行《ハルピンゆき》なんて、|却《かへ》つて|危険《きけん》です。それよりも|私《わたくし》がお|供《とも》を|致《いた》しますから|営口《えいこう》の|悦来棧《えつらいさん》で|御待《おま》ち|願《ねが》ひ、|私《わたくし》は|張作霖《ちやうさくりん》と|話《はなし》を|纏《まと》めて|直《す》ぐ|伺《うかが》ひます。そして|上海《シヤンハイ》に|私《わたし》の|親友《しんいう》が|居《を》りますから、|其処《そこ》で|私《わたし》が|陣容《ぢんよう》を|立直《たてなほ》し、|根拠地《こんきよち》を|定《さだ》めてお|迎《むか》へに|参《まゐ》ります|迄《まで》、|御滞在《ごたいざい》を|願《ねが》ひます。|何《いづ》れ|上海《シヤンハイ》へも|先生《せんせい》の|為《ため》に|大喇嘛廟《だいラマメウ》を|建《た》てて|差上《さしあ》げますから、|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》なさいますな』
とて|臨時司令部《りんじしれいぶ》と|定《さだ》められた|喇嘛廟《ラマメウ》の|一坊《いちばう》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|六月《ろくぐわつ》|十九日《じふくにち》(|陰暦《いんれき》|五月《ごぐわつ》|十八日《じふはちにち》)|喇嘛廟《ラマメウ》に|暇《いとま》を|告《つ》げて|白音太拉《パインタラ》に|向《むか》つた|日《ひ》の|午後《ごご》は、|茫々《ばうばう》として|見渡《みわた》す|限《かぎ》り|山《やま》の|影《かげ》も|見《み》えない|大草野原《おほくさのはら》を|進《すす》むのであつた。|進《すす》むにつれて|白音太拉《パインタラ》|方面《はうめん》より|吹来《ふききた》る|風《かぜ》は|益々《ますます》|強《つよ》くなり、|帽子《ばうし》を|飛《と》ばす|者《もの》、|紐《ひも》を|切《き》つて|笠《かさ》の|空中《くうちう》に|舞《ま》ひ|上《あが》る|者《もの》、|姿勢《しせい》|正《ただ》しく|馬上《ばじやう》に|居《ゐ》る|事《こと》の|危険《きけん》を|感《かん》ずる|程《ほど》である。
|草《くさ》より|出《い》でたる|太陽《たいやう》のまた|草《くさ》に|入《はい》る|頃《ころ》、|風《かぜ》は|愈々《いよいよ》|其《その》|力《ちから》を|添《そ》へて|来《き》た。|真澄別《ますみわけ》は|猪野《ゐの》を|顧《かへり》みて、
『|意味深長《いみしんちやう》な|風《かぜ》が|吹《ふ》くね』
と|云《い》へば|猪野《ゐの》は、
『|私《わたし》もさう|感《かん》じます。|白音太拉《パインタラ》へ|行《ゆ》くなと|云《い》ふ|神様《かみさま》の|御警告《ごけいこく》でせう』
と|答《こた》へ|乍《なが》ら|共《とも》に|日出雄《ひでを》の|轎車《けうしや》を|追《お》ふて|疾駆《しつく》する。|行《ゆ》け|共《ども》|行《ゆ》け|共《ども》|草野《くさの》は|尽《つ》きず、|宵闇《よひやみ》の|頃《ころ》、|草原中《さうげんちう》に|並《なら》ぶ|五六戸《ごろくこ》の|民団《みんだん》に|着《つ》いて、|真澄別《ますみわけ》は|日出雄《ひでを》に|向《むか》ひ|声《こゑ》をかけた。
|真澄別《ますみわけ》『|先生《せんせい》、|萩原《はぎはら》さんは|馬《うま》が|痛《いた》んだので、|大分《だいぶ》|遅《おく》れてる|様《やう》ですから、|暫《しばら》く|待《ま》つてやらうぢやありませぬか』
|日出雄《ひでを》『さうか、そりや|待《ま》つてやらねば|可《い》かぬ』
|温長興《をんちやうきよう》『|併《しか》し|盧《ろ》|司令《しれい》は|今日《けふ》は|馬《うま》でモウ|大分《だいぶ》|先《さき》へ|行《い》きました。|早《はや》く|進《すす》まねば|道《みち》が|分《わか》らなくなりますよ』
|坂本《さかもと》『こラ|温《をん》、|余計《よけい》な|事《こと》を|言《い》ふな、|先生《せんせい》が|待《ま》てと|仰有《おつしや》つたら|黙《だま》つて|待《ま》たぬか』
|十八日《じふはちにち》の|月《つき》は|雲《くも》に|蔽《おほ》はれて|薄《うす》き|光《ひかり》を|草野《くさの》に|洩《も》らすのみである。|萩原《はぎはら》の|到着《たうちやく》と|共《とも》に|日出雄《ひでを》の|轎車《けうしや》は|動《うご》き|始《はじ》めた。
『|他《ほか》の|部隊《ぶたい》の|進《すす》んだのは、|確《たし》か|此《この》|見当《けんたう》』
と|数十分間《すうじつぷんかん》|進《すす》んだと|思《おも》ふ|頃《ころ》、|民家《みんか》の|脇《わき》へ|出《で》て|来《き》た。
『|何《なん》だ、|狐《きつね》に|魅《つま》まれたのぢやないか、|又《また》|後帰《あとがへ》りだ』
と|坂本《さかもと》が|叫《さけ》んだのも|道理《だうり》、|此《この》|一隊《いつたい》は|草野《くさの》の|一部《いちぶ》を|廻《まは》つて|又《また》|元《もと》の|民家《みんか》に|立帰《たちかへ》つたのである。|護衛《ごゑい》の|兵士《へいし》は|呆気《あつけ》に|取《と》られて、|他《た》の|部隊《ぶたい》と|連絡《れんらく》を|計《はか》る|為《ため》、|空《そら》に|向《むか》つて|発砲《はつぱう》すれば|前方《ぜんぱう》より|合図《あひづ》の|銃声《じゆうせい》が|聞《きこ》える。|銃声《じゆうせい》を|便《たよ》りに|進行《しんかう》し|始《はじ》めると|何時《いつ》しか|又《また》|元《もと》の|民家《みんか》の|傍《かたはら》へ|帰《かへ》つて|来《く》る。|草野《くさの》の|小路《こみち》は|幾筋《いくすぢ》もあるのにも|係《かかは》らず|前進《ぜんしん》することが|出来《でき》ぬ。そして|風《かぜ》は|既《すで》に|其《その》|勢《いきほひ》を|減《げん》じてゐる。
|真澄《ますみ》『|先生《せんせい》、|白狐《びやくこ》が|之《こ》れだけ|気《き》を|付《つ》けるのですから、モウ|危険地帯《きけんちたい》へ|進《すす》むのは|止《や》めやうぢやありませぬか』
|日出雄《ひでを》『|中止《や》めたつて|仕方《しかた》がないぢやないか』
|真澄別《ますみわけ》『ハハア、|大神《おほかみ》さまの|御都合《ごつがふ》は|又《また》|別《べつ》ですなア、それぢや|兎《と》に|角《かく》|此処《ここ》で|一時《いちじ》|停電《ていでん》しませう』
|露《つゆ》を|浴《あ》び|乍《なが》ら|日出雄《ひでを》の|轎車《けうしや》を|中心《ちうしん》に|思《おも》ひ|思《おも》ひの|夢路《ゆめぢ》を|辿《たど》つた。|此《この》|一隊《いつたい》は|草野《くさの》のホノボノと|明《あ》け|渡《わた》る|頃《ころ》、|盧占魁《ろせんくわい》よりの|伝令《でんれい》に|喚《よ》び|起《おこ》されたのである。
(大正一四・八 筆録)
第三三章 |武装解除《ぶさうかいぢよ》
|盧《ろ》の|伝令騎《でんれいき》に|夢《ゆめ》を|驚《おどろ》かされた|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》が|盧《ろ》の|宿営民家《しゆくえいみんか》に|到着《たうちやく》するや、|盧《ろ》は|不機嫌《ふきげん》な|面色《かほいろ》で|坂本《さかもと》や|白凌閣《パイリンク》に|散々《さんざん》に|当《あた》り|散《ち》らし|乍《なが》ら、|直《ただ》ちに|日出雄《ひでを》の|轎車《けうしや》に|同乗《どうじやう》し、|漸《やうや》く|笑顔《えがほ》を|作《つく》つて|進発《しんぱつ》の|合図《あひづ》をした。|猪野《ゐの》は|前夜《ぜんや》の|中《うち》に|蒙古人《もうこじん》の|従卒《じゆうそつ》を|引《ひ》きつれ、|勝手《かつて》|知《し》つたる|白音太拉《パインタラ》に|向《むか》つて|脱走《だつそう》したのであつた。|此《この》|地方《ちはう》は|最早《もはや》|白音太拉《パインタラ》へ|七八十支里《しちはちじふしり》の|距離《きより》なれば、|支那《しな》よりの|移住者《いぢゆうしや》も|多《おほ》く、|耕地《かうち》|開《ひら》け、|広大《くわうだい》なる|高粱畑《かうりやんばたけ》の|耕作《かうさく》|最中《さいちう》である。|其《その》|中《うち》を|通《とほ》り|過《す》ぎて|山地《やまぢ》に|掛《かか》る|頃《ころ》、|左手《ひだりて》の|谷間《たにま》に|当《あた》り、|六七十騎《ろくしちじふき》の|支那兵《しなへい》が|並行《へいかう》して|進《すす》むのが|目《め》に|付《つ》いた。|之《これ》を|見《み》るや|盧占魁《ろせんくわい》は|轎車《けうしや》より|飛《と》び|下《お》り、|馬《うま》に|跨《またが》つて|先頭部隊《せんとうぶたい》を|追《お》つかけた。|日出雄《ひでを》の|轎車《けうしや》が|丘陵《きうりよう》の|頂上《ちやうじやう》|近《ちか》く|進《すす》んだ|頃《ころ》は、|盧《ろ》が|劉陞山《りうしようさん》|其《その》|他《た》|重《おも》なる|部将《ぶしやう》と|密議《みつぎ》を|凝《こ》らしてゐる|最中《さいちう》であつた。
やがて|全部隊《ぜんぶたい》は|右方《うはう》に|向《むか》つて|丘《をか》を|駆《か》け|下《お》り、|村落《そんらく》の|民家《みんか》にそれぞれ|宿営《しゆくえい》することとなり、|盧《ろ》の|司令部《しれいぶ》は|日出雄《ひでを》の|仮寓所《かりぐうしよ》|構内《かうない》の|別館《べつくわん》と|定《さだ》められた。|稍《やや》|暫《しばら》くして|盧《ろ》は|井上《ゐのうへ》|兼吉《かねきち》を|通訳《つうやく》として|伴《ともな》ひ、|日出雄《ひでを》|及《および》|真澄別《ますみわけ》に|人払《ひとばら》ひの|上《うへ》|面会《めんくわい》を|請《こ》ふた。
|盧《ろ》『|私《わたくし》は|何《ど》うしても|張彦三《ちやうけんさん》に|跡《あと》を|任《まか》せて、|一度《いちど》|奉天《ほうてん》へ|行《い》つて|談判《だんぱん》せねば|虫《むし》が|治《をさ》まりませぬ。|尤《もつと》も|白音太拉《パインタラ》まで|行《い》つて、|佐々木《ささき》を|呼《よ》び|寄《よ》せ、|奉天《ほうてん》の|模様《もやう》を|一応《いちおう》|聞《き》いた|上《うへ》でも|構《かま》ひませぬが、|一《ひと》つ|神勅《しんちよく》を|伺《うかが》つて|下《くだ》さいませ』
|日出雄《ひでを》『|真澄別《ますみわけ》さま、|神勅《しんちよく》は|先般《せんぱん》の|通《とほ》りだから、さう|言《い》ふてな』
|真澄別《ますみわけ》『ハイ、|承知《しようち》いたしました。……|盧《ろ》さま、|神《かみ》に|二言《にごん》なしで、|薪《まき》を|抱《いだ》いて|火《ひ》に|飛《と》び|込《こ》むが|如《ごと》し……と|言《い》ふのが|貴下《あなた》の|白音太拉行《パインタラゆき》の|運命《うんめい》ですよ』
|盧《ろ》『そんな|筈《はず》はありませぬ。|最前《さいぜん》|吾々《われわれ》と|並行《へいかう》して|進《すす》んだ|騎兵《きへい》は|通遼旅団《つうれうりよだん》の|部下《ぶか》です。|若《も》しそんな|傾向《けいかう》があるのなら、あの|時《とき》に|大先生《だいせんせい》の|轎車《けうしや》に|向《むか》つて|発砲《はつぱう》する|筈《はず》です』
|真澄別《ますみわけ》『|盧《ろ》さん、|貴下《あなた》のお|考《かんが》へは|間違《まちが》つてる|様《やう》に|思《おも》ひます』
と|真澄別《ますみわけ》が|何事《なにごと》か|語《かた》らむとする|時《とき》、|盧《ろ》の|副官《ふくくわん》は|厳封《げんぷう》せる|手紙《てがみ》を|齎《もた》らしたので、|盧《ろ》は|直《ただ》ちに|開封《かいふう》して|読《よ》み|下《くだ》した。|此《この》|手紙《てがみ》は、|盧《ろ》が|急使《きふし》を|以《もつ》て|此《この》|時《とき》|白音太拉《パインタラ》|方面《はうめん》に|出発《しゆつぱつ》して|居《ゐ》た|〓中将《かんちうじやう》の|参謀長《さんぼうちやう》へ|何事《なにごと》か|照会《せうくわい》した|返書《へんしよ》で、それには|武装解除《ぶさうかいぢよ》の|上《うへ》でなくては|白音太拉《パインタラ》|方面《はうめん》へ|来《き》て|下《くだ》さるなとの|意味《いみ》が|認《したた》めてあつた。|盧《ろ》は|之《これ》を|見《み》るより、
『|万一《まんいち》の|事《こと》が|有《あ》りましたら、|白音太拉《パインタラ》に|暴風雨《ばうふうう》か|大洪水《だいこうずゐ》が|起《おこ》る|様《やう》に|御祈願《ごきぐわん》を|願《ねが》ひます』
と|云《い》ひ|棄《す》て|慌《あわ》ただしく|駆《か》け|出《だ》した。|日出雄《ひでを》は|止《や》むを|得《え》ず、|真澄別《ますみわけ》と|共《とも》に|庭前《ていぜん》に|趺座《ふざ》し、|神《かみ》に|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らした。|此《この》|時《とき》に|神示《しんじ》は|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》|共《とも》に|同一様《どういちやう》に|感《かん》じ、|当日《たうじつ》|午後《ごご》|六時《ろくじ》|以後《いご》より|異変《いへん》|打《う》ち|続《つづ》くべし、されど|洪水《こうずゐ》などは|妄《みだ》りに|起《おこ》すべきものに|非《あら》ず、|皆《みな》それぞれの|人心《じんしん》、|時機《じき》に|応《おう》ず……との|旨《むね》であつた。|日出雄《ひでを》|等《ら》が|白音太拉《パインタラ》の|獄舎《ごくしや》を|立出《たちい》でて|後《のち》、|白音太拉《パインタラ》は|二回《にくわい》|迄《まで》|大洪水《だいこうずゐ》に|見舞《みま》はれ|惨憺《さんたん》たる|光景《くわうけい》を|呈《てい》して|了《しま》つた。|若《も》し|此《この》|洪水《こうずゐ》が|早《はや》かりせば、|日出雄《ひでを》|等《ら》も|其《その》|渦中《くわちう》に|投《たう》ぜられたに|違《ちが》ひない。|吁《ああ》|実《じつ》に|神《かみ》の|摂理《せつり》は|毛筋《けすぢ》の|横幅《よこはば》|程《ほど》も|隙《すき》がない。
|斯《か》かる|折柄《をりから》|五六丁《ごろくちやう》|西方《せいはう》に|陣取《ぢんど》つて|居《ゐ》た|張彦三《ちやうけんさん》の|許《もと》から、|従卒《じゆうそつ》が|激《はげ》しい|腹痛《ふくつう》を|起《おこ》してるからとて|真澄別《ますみわけ》を|迎《むか》へに|来《き》た。|真澄別《ますみわけ》は|早速《さつそく》|赴《おもむ》いて|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》し、|病人《びやうにん》は|直《ただ》ちに|平癒《へいゆ》し|馬《うま》を|曳《ひ》いて|野外《やぐわい》に|出《で》た。|其《その》|時《とき》|張彦三《ちやうけんさん》の|副官《ふくくわん》|王増祥《わうぞうしやう》は|真澄別《ますみわけ》を|一室《いつしつ》に|招《まね》き、|食膳《しよくぜん》をすすめながら、
|王増祥《わうぞうしやう》『いろいろ|有難《ありがた》う|厶《ござ》いました。あなたも|司令《しれい》と|同道《どうだう》に|奉天《ほうてん》へお|越《こ》しになるのですか』
|真澄別《ますみわけ》『イヽエ、|併《しか》し|道筋《みちすぢ》は|何《ど》うなるか|分《わか》らないが、|結局《けつきよく》|大庫倫《だいクーロン》へ|行《ゆ》く|積《つも》りです』
|王増祥《わうぞうしやう》『それならば|何処《どこ》|迄《まで》もお|使《つか》ひ|下《くだ》さいませ。|実《じつ》は|綏遠《すゐゑん》に|私《わたし》の|部下《ぶか》が|血気盛《けつきざか》りの|青年《せいねん》のみで|一千人《いつせんにん》|程《ほど》|居《を》りますから、|大丈夫《だいぢやうぶ》お|役《やく》に|立《た》てます。どうぞ、これで|暫《しばら》くお|別《わか》れ|致《いた》しましても、|連絡《れんらく》を|断《た》たない|様《やう》|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
|真澄別《ますみわけ》は|名刺《めいし》に|何事《なにごと》か|記《しる》して|之《これ》を|渡《わた》した。|王増祥《わうぞうしやう》は|名残《なご》り|惜《を》しげに|真澄別《ますみわけ》の|影《かげ》の|見《み》えなくなる|迄《まで》|見送《みおく》つて|居《ゐ》た。
|一方《いつぱう》|日出雄《ひでを》の|仮本営《かりほんえい》には、|既《すで》に|支那官兵《しなくわんぺい》の|幾部《いくぶ》が|入込《いりこ》み|来《きた》り、|双方《さうはう》に|打解《うちと》けて|談笑《だんせう》してゐる。|煙草《たばこ》に|焦《こ》がれてゐた|連中《れんちう》は、|支那官兵《しなくわんぺい》から|煙草《たばこ》の|寄贈《きぞう》を|受《う》けて、|彼方《あつち》にも|此方《こつち》にも|小《ちひ》さな|煙突《えんとつ》が|立並《たちなら》んだ。|日出雄《ひでを》は|真澄別《ますみわけ》を|呼《よ》び|迎《むか》へ、
|日出雄《ひでを》『|先程《さきほど》|盧《ろ》が|来《き》て、|俺《おれ》と|井上《ゐのうへ》とを|同伴《どうはん》して|今夜《こんや》の|中《うち》に、|今《いま》|来《き》てる|官兵《くわんぺい》の|案内《あんない》で|白音太拉《パインタラ》へ|行《ゆ》くことに|話《はなし》が|纏《まとま》つた。|貴方《あなた》は|明日《みやうにち》|轎車《けうしや》に|乗《の》つて|皆《みな》と|同道《いつしよ》に|行《ゆ》くのださうな。|矢張《やは》り|官兵《くわんぺい》が|護衛《ごゑい》して|行《ゆ》くと|云《い》ふこつちや』
と|万一《まんいち》の|用意《ようい》にと|残《のこ》してあつた|金子《きんす》を|日出雄《ひでを》はそれぞれ|分与《ぶんよ》|携帯《けいたい》せしめた。|此《この》|夜《よ》|日出雄《ひでを》が|盧《ろ》に|伴《ともな》はれて|白金竜《はくきんりう》に|跨《またが》り|出立《しゆつたつ》した|跡《あと》の|光景《くわうけい》は、|実《じつ》に|惨憺《さんたん》たるものであつた。|噂《うはさ》は|噂《うはさ》を|生《う》み、|不安《ふあん》の|空気《くうき》は|各宿営《かくしゆくえい》に|漲《みなぎ》り、|劉陞山《りうしようさん》の|部隊《ぶたい》は|何時《いつ》の|間《ま》にか|影《かげ》を|没《ぼつ》し、|或《あるひ》は|泣声《なきごゑ》を|出《だ》して|愚痴《ぐち》をこぼす|者《もの》、|脱営《だつえい》を|企《くわだ》つる|者《もの》を|引止《ひきと》むる|声《こゑ》、|或《あるひ》は|変装《へんさう》して|宿営《しゆくえい》を|脱《だつ》する|者《もの》など、|斯《か》かる|状態《じやうたい》は|夜《よ》の|明《あ》くる|迄《まで》|継続《けいぞく》した。|併《しか》し|日出雄《ひでを》に|直属《ちよくぞく》して|居《ゐ》た|白凌閣《パイリンク》は|日本《につぽん》|迄《まで》も|従《したが》つて|行《ゆ》くと|言《い》ひ、|温長興《をんちやうこう》は|心臓《しんざう》を|損《そこ》ねてゐるから|奉天《ほうてん》|迄《まで》|帰《かへ》りたいと|言《い》ひ、|共《とも》に|真澄別《ますみわけ》|一行《いつかう》に|随行《ずゐかう》する|事《こと》となつた。|王〓璋《わうさんしやう》、|康国宝《かうこくほう》は|心細《こころぼそ》がつて|別《わか》れを|惜《を》しむ。|真澄別《ますみわけ》は|他《た》の|人々《ひとびと》と|協議《けふぎ》の|上《うへ》、それぞれ|手当《てあて》を|与《あた》へ|夜《よ》の|明《あ》くるを|待《ま》つて|真澄別《ますみわけ》、|萩原《はぎはら》、|坂本《さかもと》は|轎車《けうしや》に|乗《の》り、|守高《もりたか》は|真澄別《ますみわけ》の|乗馬《じようば》|白銀竜《はくぎんりう》に|跨《またが》り、|白音太拉《パインタラ》に|向《むか》ふ|事《こと》とした。|守高《もりたか》は|馬《うま》を|萩原《はぎはら》に|譲《ゆず》つて|轎車《けうしや》に|乗《の》り|込《こ》み、|今《いま》|正《まさ》に|華胥《くわしよ》の|国《くに》に|遊楽中《いうらくちう》の|真澄別《ますみわけ》を|揺《ゆ》り|起《おこ》し、
『あれ|見給《みたま》へ、|大変《たいへん》な|兵隊《へいたい》だよ』
|真澄別《ますみわけ》『さうか、モウ|白音太拉《パインタラ》に|着《つ》いたのか』
|守高《もりたか》『|何《なに》を|言《い》ふのだ、|元《もと》の|場所《ばしよ》へ|追《お》ひ|返《かへ》されたのだ、|馬《ば》|副官《ふくくわん》の|奴《やつ》|馬鹿《ばか》だから、|先頭《せんとう》に|立《た》つて|向方《むかふ》の|軍隊《ぐんたい》の|正中《まんなか》へ|割込《わりこ》んだからだよ』
|真澄別《ますみわけ》『|君《きみ》は|何《ど》うして|馬《うま》をやめたのだ』
|守高《もりたか》『|兵隊《へいたい》の|奴《やつ》、|此《この》|長靴《ながぐつ》に|目《め》をつけたのか、|足《あし》を|引張《ひつぱ》つて|仕様《しやう》がないから|下馬《お》りたのだ、|砲兵《はうへい》まで|引出《ひきだ》してるが……どうしても|一個師団《いつこしだん》は|十分《じふぶん》|居《ゐ》る』
|坂本《さかもと》『|猪野《ゐの》の|奴《やつ》、|巧《うま》い|事《こと》をしましたなア、|温長興《をんちやうこう》は|反対《はんたい》の|方向《はうかう》へ|全速力《ぜんそくりよく》で、|先刻《さつき》|逃《に》げ|出《だ》したが、|何《ど》うでせうなア』
|守高《もりたか》『|包囲《はうゐ》される|前《まへ》だつたから、|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。|吾々《われわれ》だつて|先生《せんせい》さへ|居《を》られなけりやなア……』
|萩原《はぎはら》『どうです|真澄別《ますみわけ》さん、|斯《か》うなりや|領事館渡《りやうじくわんわた》しでせう』
|真澄別《ますみわけ》『|結局《けつきよく》さうなるだらう』
|一同《いちどう》、|支那官兵《しなくわんぺい》に|促《うなが》されて|下車《げしや》した。すると|数多《あまた》の|官兵《くわんぺい》が|集《つど》ひ|来《きた》り、|目星《めぼ》しい|物《もの》を|片《かた》つ|端《ぱし》から|没収《ぼつしう》するやら、|真澄別《ますみわけ》と|守高《もりたか》を|指《さ》して、
『これは|韓国人《ハンゴレン》だ』
と|評《ひやう》するやら、|思《おも》ひ|思《おも》ひの|行動《かうどう》に|混雑《こんざつ》の|最中《さいちう》、|日出雄《ひでを》を|白音太拉《パインタラ》へ|送《おく》つた|盧占魁《ろせんくわい》は|官兵《くわんぺい》に|送《おく》られて|帰《かへ》り|来《きた》り、|茲《ここ》に|〓中将《かんちうじやう》との|間《あひだ》に|武装解除《ぶさうかいぢよ》に|関《くわん》する|協約《けふやく》が|議《ぎ》せられた。|其《その》|間《かん》に|基督教《キリストけう》|信者《しんじや》と|称《しよう》する|軍曹《ぐんさう》は、|一旦《いつたん》|没収《ぼつしう》した|銀貨包《ぎんくわづつみ》を|真澄別《ますみわけ》に|返《かへ》し|領収書《りやうしうしよ》を|請求《せいきう》する、|一方《いつぱう》には|萩原《はぎはら》が|腕時計《うでどけい》を|奪《と》られたとて、
『|何《なん》だ、|支那兵《しなへい》は|皆《みな》|泥棒《どろばう》だ、|見《み》せろと|言《い》ふから、|腕時計《うでどけい》を|見《み》せてやつたら、|外《はづ》して|持逃《もちに》げしやがつた』
と|小言《こごと》たらたらである。
|長時間《ちやうじかん》の|協議《けふぎ》の|結果《けつくわ》、|盧軍《ろぐん》|全部《ぜんぶ》の|武器《ぶき》は|官兵《くわんぺい》|持参《ぢさん》の|大車《だいしや》|数台《すうだい》に|積《つ》みこまれ、|真澄別《ますみわけ》、|守高《もりたか》、|坂本《さかもと》は|轎車《けうしや》に|乗《の》り、|萩原《はぎはら》は|白銀竜《はくぎんりう》に|跨《またが》り、|馬《うま》を|失《うしな》ひたる|者《もの》は|牛馬《ぎうば》に|便乗《びんじよう》し、|〓旅団《かんりよだん》に|前後《ぜんご》を|護《まも》られつつ|白音太拉《パインタラ》に|進《すす》み|行《ゆ》くこととなつた。|途中《とちう》|騎兵聯隊《きへいれんたい》に|於《おい》て、|茶湯《ちやゆ》の|饗応《きやうおう》を|受《う》け、|白音太拉《パインタラ》の|市街《しがい》|人垣《ひとがき》の|中《なか》を|辿《たど》り|行《ゆ》くと、|日出雄《ひでを》と|井上《ゐのうへ》との|無事《ぶじ》な|顔《かほ》が|馬車《ばしや》の|中《なか》に|見《み》えたのに|一同《いちどう》|心《こころ》を|安《あん》んじ|乍《なが》ら、|兵営内《へいえいない》に|導《みちび》かれて|行《ゆ》く。|兵営《へいえい》には|芸者《げいしや》が|繰込《くりこ》む、|御馳走《ごちそう》が|運《はこ》ばれるといふ|混雑《こんざつ》で、|盧占魁《ろせんくわい》|以下《いか》の|歓迎宴《くわんげいえん》|準備《じゆんび》の|最中《さいちう》を、|支那旅団《しなりよだん》の|少佐《せうさ》に|案内《あんない》せられて、|日出雄《ひでを》の|宿所《しゆくしよ》なる|鴻賓旅館《こうひんりよくわん》に|向《むか》つたのである。
(大正一四・八 筆録)
第三四章 |竜口《たつのくち》の|難《なん》
|是《これ》より|先《さ》き|日出雄《ひでを》は|井上《ゐのうへ》|兼吉《かねきち》を|従者《じゆうしや》とし、|盧占魁《ろせんくわい》、|外《ほか》|十数名《じふすうめい》を|伴《ともな》ひ、|二十名《にじふめい》の|支那官兵《しなくわんぺい》に|前後《ぜんご》を|守《まも》られ|乍《なが》ら、|五十支里《ごじふしり》を|隔《へだ》つる|白音太拉《パインタラ》に|向《むか》つたが、|彼《かれ》は|七月《しちぐわつ》|二十日《はつか》の|大本裁判《おほもとさいばん》に|出頭《しゆつとう》する|為《ため》に、|白音太拉《パインタラ》に|於《おい》て|武器《ぶき》の|授受《じゆじゆ》|終了《しうれう》の|上《うへ》、|一先《ひとま》づ|日本《につぽん》へ|帰国《きこく》し|再《ふたた》び|出国《しゆつこく》する|覚悟《かくご》で、|勇《いさ》み|進《すす》んで|白音太拉《パインタラ》に|向《むか》つたのである。
|三十支里《さんじふしり》|許《ばか》り|来《き》た|所《ところ》に|通遼県《つうれうけん》の|兵営分隊《へいえいぶんたい》|駐屯所《ちうとんじよ》があつた(|通遼《つうれう》は|白音太拉《パインタラ》の|支那名《しなめい》である)。|支那《しな》の|将校《しやうかう》と|共《とも》に|此《この》|兵営《へいえい》に|暫《しば》し|休息《きうそく》し、|盧《ろ》は|兵営長《へいえいちやう》と|少時《しばらく》|談合《だんがふ》の|上《うへ》|再《ふたた》び|東《ひがし》に|向《むか》つて|進《すす》んだ。|殆《ほとん》ど|夜《よ》の|明《あ》けむとする|頃《ころ》、|前方《ぜんぱう》より|数百《すうひやく》の|騎兵隊《きへいたい》が|進《すす》み|来《きた》り、|盧占魁《ろせんくわい》と|再《ふたた》び|何事《なにごと》か|交渉《かうせふ》の|上《うへ》、もとの|軍営《ぐんえい》に|引帰《ひきかへ》し|行《ゆ》く。|此《この》|時《とき》|盧《ろ》は|井上《ゐのうへ》に|向《むか》つて、
『|大先生《だいせんせい》を|宜《よろ》しく|頼《たの》む』
と|幾度《いくど》も|繰返《くりかへ》し|繰返《くりかへ》し|言残《いひのこ》して|行《ゆ》く。|日出雄《ひでを》は|井上《ゐのうへ》と|共《とも》に|馬《うま》を|下《お》り|傍《かたはら》の|青草《あをくさ》を|喰《は》ませてゐたが、|一時間《いちじかん》|許《ばか》りすると|通遼旅団《つうれうりよだん》の|参謀長《さんぼうちやう》が|十数名《じふすうめい》の|騎兵《きへい》を|引連《ひきつ》れ|来《きた》り、|日出雄《ひでを》に|向《むか》つて|日本語《につぽんご》にて、
『|貴方《あなた》は|日本人《につぽんじん》、|一時《いちじ》も|早《はや》くお|逃《に》げなさい お|逃《に》げなさい』
と|手《て》を|振《ふ》つて|南《みなみ》の|方《はう》を|指《さ》して|教《をし》ふる。|日出雄《ひでを》は、
『|真澄別《ますみわけ》|其《その》|他《た》の|日本人《につぽんじん》を|後《あと》に|残《のこ》して|遁走《とんそう》するは|日本男子《につぽんだんし》の|恥辱《ちじよく》だ、|兎《と》も|角《かく》どうなるも|神様《かみさま》の|御経綸《ごけいりん》だ、|寧《むし》ろ|自分《じぶん》の|方《はう》より|兵営《へいえい》に|飛込《とびこ》んで|武器《ぶき》|受取《うけとり》の|談判《だんぱん》をやらう、その|間《うち》に|盧《ろ》が|出《で》て|来《く》るだらうし|又《また》|後《あと》に|残《のこ》つた|日本人《につぽんじん》の|消息《せうそく》も|分《わか》るだらう』
と|又《また》もや|駒《こま》に|鞭《むちう》ち、|白音太拉《パインタラ》に|向《む》け|駆《か》け|出《だ》した。|後《あと》より|孟《まう》|秘書長《ひしよちやう》は|一人《ひとり》の|従者《じゆうしや》と|追《おひ》かけ|来《きた》り、|一行《いつかう》|四騎《よんき》は|轡《くつわ》を|並《なら》べて|堂々《だうだう》と|通遼県《つうれうけん》の|西門《せいもん》に|進《すす》んだ。
|城門《じやうもん》の|前《まへ》|迄《まで》|進《すす》んで|行《ゆ》くと、|太陽《たいやう》は|草《くさ》の|中《なか》から|赤《あか》い|顔《かほ》をして|昇《のぼ》りかけた。|門《もん》の|両方《りやうはう》には|厳《いか》めしく|武装《ぶさう》した|兵士《へいし》が|数名《すうめい》|立番《たちばん》をして|居《ゐ》て、|一人《ひとり》につき|五十銭《ごじつせん》|宛《づつ》の|通行税《つうかうぜい》を|徴収《ちようしう》した。|日出雄《ひでを》と|井上《ゐのうへ》は|旅団《りよだん》の|所在地《しよざいち》を|尋《たづ》ねると、|衛兵《ゑいへい》|四名《よめい》が|前後《ぜんご》となつて|兵営《へいえい》へ|案内《あんない》した。
|日出雄《ひでを》は|営内《えいない》に|入《い》り、|高等武官《かうとうぶくわん》らしきものに|井上《ゐのうへ》の|通訳《つうやく》を|介《かい》して|挨拶《あいさつ》をなし、|且《か》つ、
『|盧占魁《ろせんくわい》の|来《きた》るまで|当営《たうえい》に|休息《きうそく》したし』
と|申込《まをしこ》んだ。|将校《しやうかう》はいと|慇懃《いんぎん》に|美《うつく》しい|座敷《ざしき》を|与《あた》へ、|茶菓子《ちやくわし》を|出《だ》して|饗応《きようおう》し、|柔《やはら》かい|毛布《まうふ》を|敷《し》いて、
『|先《ま》づお|休《やす》みなさい』
と|勧《すす》めた。|日出雄《ひでを》も|井上《ゐのうへ》も|夜中《やちう》|強行軍《きやうかうぐん》の|為《ため》|身体《からだ》が|疲《つか》れてゐるので、|其《その》|好意《かうい》を|感謝《かんしや》し|乍《なが》ら、|前後《ぜんご》も|知《し》らず|寝《しん》に|就《つ》いた。|殆《ほとん》ど|三四時間《さんよじかん》も|眠《ねむ》つたと|思《おも》ふ|頃《ころ》、|参謀官《さんぼうくわん》は|四五名《しごめい》の|兵士《へいし》と|共《とも》に|銃口《つつぐち》を|向《む》け|乍《なが》ら、|井上《ゐのうへ》|兼吉《かねきち》を|揺《ゆ》り|動《うご》かし|懐中《くわいちう》の|十連発《じふれんぱつ》のモーゼルや|六連発《ろくれんぱつ》のピストルを|捲《ま》き|上《あ》げ、|且《か》つ|所持品《しよぢひん》を|調《しら》べた|上《うへ》、|後手《うしろで》に|麻繩《あさなは》を|以《もつ》て|縛《しば》り|上《あ》げ、|次《つぎ》に|日出雄《ひでを》を|揺《ゆ》り|起《おこ》した。|日出雄《ひでを》は|安《やす》らかな|夢《ゆめ》を|結《むす》んでゐた|所《ところ》を|起《おこ》されて、|目《め》を|擦《こす》り|乍《なが》ら|四辺《あたり》を|見《み》れば、|井上《ゐのうへ》が|已《すで》に|縛《ばく》されてゐた。|参謀官《さんぼうくわん》は|金盥《かなだらひ》に|湯《ゆ》を|汲《く》みタオルを|浸《ひた》し、
『|先《ま》づ|之《これ》にて|顔《かほ》を|洗《あら》ひなさい』
と|日本語《につぽんご》にて|親切《しんせつ》に|云《い》ふ。|日出雄《ひでを》は、
『ハイ|有難《ありがた》う』
と|其《その》|湯《ゆ》に|浸《ひた》したる|手拭《てぬぐひ》にて|顔《かほ》を|拭《ぬぐ》ふた。|兵士《へいし》は|代《かは》る|代《がは》る|湯《ゆ》に|浸《ひた》しては|絞《しぼ》り|日出雄《ひでを》に|渡《わた》し、|首筋《くびすぢ》や|手《て》を|洗《あら》つてくれた。さうして|日出雄《ひでを》の|所持品《しよぢひん》を|調《しら》べ、『|天国《てんごく》』の|銘刀《めいたう》や|如意《によい》の|宝玉《はうぎよく》|並《なら》びに|白金《プラチナ》の|時計《とけい》、|所持金《しよぢきん》|八百七十円《はつぴやくしちじふゑん》を|目《め》の|前《まへ》で|調《しら》べて、
『|盧占魁《ろせんくわい》が|来《く》る|迄《まで》お|預《あづか》りします』
と|云《い》つて|持《も》つて|行《い》つた。|次《つぎ》の|室《しつ》を|見《み》ると、|孟《まう》|秘書長《ひしよちやう》|及《およ》び|一人《ひとり》の|支那兵《しなへい》が|井上《ゐのうへ》|同様《どうやう》に|縛《しば》られてゐる。|日出雄《ひでを》は|意外《いぐわい》の|出来事《できごと》に|訝《いぶ》かり|乍《なが》ら|参謀《さんぼう》に|向《むか》つて、
『|何故《なぜ》|井上《ゐのうへ》を|縛《しば》りましたか』
と|尋《たづ》ねた|所《ところ》、
『|井上《ゐのうへ》は|武器《ぶき》を|携帯《けいたい》してゐたから|馬賊《ばぞく》と|認《みと》めて|縛《しば》つたのだ。|彼等《かれら》|二名《にめい》の|支那人《しなじん》も|馬賊《ばぞく》だから|縛《いま》しめたのだ。そして|盧占魁《ろせんくわい》が|来《く》る|迄《まで》|貴方《あなた》もホンの|形式《けいしき》|乍《なが》ら|縛《しば》ります』
と|云《い》ふので、|日出雄《ひでを》は、
『|御自由《ごじいう》になさい』
と|手《て》を|後《うしろ》へ|廻《まは》した。|参謀《さんぼう》は|形式的《けいしきてき》に|極《ごく》ゆるやかに|手《て》を|縛《しば》り、|日人《にちじん》|二名《にめい》|支那人《しなじん》|二名《にめい》と|共《とも》に|兵営《へいえい》に|坐《すわ》らせて|置《お》き、いろいろと|日出雄《ひでを》に|向《むか》つて|日本語《につぽんご》にて|話《はなし》を|交換《かうくわん》した。さうして、
『|貴方《あなた》は|武器《ぶき》を|携帯《けいたい》せず|且《か》つ|宗教家《しうけうか》であるから、|貴方《あなた》は|直《す》ぐに|放免《はうめん》されませう』
と|云《い》つて|慰《なぐさ》めた。ここで|日出雄《ひでを》は|愛馬《あいば》に|涙《なみだ》と|共《とも》に|別《わか》れた。|愛馬《あいば》も|亦《また》|日出雄《ひでを》の|心中《しんちう》を|解《かい》するものの|如《ごと》く|落涙《らくるゐ》したと|云《い》ふ|事《こと》である。
|其《その》|日《ひ》の|午後《ごご》|四時《よじ》|頃《ごろ》、|盧占魁《ろせんくわい》は|二十数名《にじふすうめい》の|幹部連《かんぶれん》と|共《とも》に|支那軍隊《しなぐんたい》に|送《おく》られて、|日出雄《ひでを》の|繋《つな》がれて|居《ゐ》る|旅団《りよだん》|司令部《しれいぶ》に|到着《たうちやく》した。そして|盧占魁《ろせんくわい》と|参謀長《さんぼうちやう》と|交渉《かうせふ》の|結果《けつくわ》、|日出雄《ひでを》|外《ほか》|三人《さんにん》の|縛《いましめ》を|解《と》き|茶菓《さか》|等《とう》を|運《はこ》び、|又《また》もや|親切《しんせつ》に|饗応《きやうおう》し|始《はじ》めた。|参謀長《さんぼうちやう》は、
『|今晩《こんばん》は|是非《ぜひ》|貴方《あなた》|方《がた》の|歓迎《くわんげい》の|宴《えん》を|催《もよほ》し|度《た》いから、|兵営《へいえい》に|泊《とま》つて|下《くだ》さい』
と|勧《すす》める。そこへ|盧占魁《ろせんくわい》、|何全孝《かぜんかう》がやつて|来《き》て、|日出雄《ひでを》を|旅団長室《りよだんちやうしつ》へ|誘《さそ》つて|行《ゆ》き|筆談《ひつだん》を|以《もつ》て、
『|愈々《いよいよ》|武装解除《ぶさうかいぢよ》の|止《や》むなきに|立到《たちいた》りました。|乍然《しかしながら》、ここの|旅長《りよちやう》も|自分《じぶん》の|義兄弟《ぎきやうだい》でもあり、|又《また》|自分《じぶん》の|部下《ぶか》もここに|沢山《たくさん》ありますから|大丈夫《だいぢやうぶ》です。|安心《あんしん》して|下《くだ》さい。|万一《まんいち》|非常《ひじやう》な|事《こと》が|起《おこ》つても|私等《わたしら》は|生命《せいめい》に|別条《べつでう》はない、さうして|日本人《につぽんじん》は|猶更《なほさら》|安心《あんしん》して|宜《よろ》しい。|私《わたし》は|王祥義《わうしやうぎ》と|変名《へんめい》し|盧占魁《ろせんくわい》と|云《い》ふ|名《な》は|今日限《けふかぎ》り|葬《はうむ》つて|了《しま》ひます。もし|私《わたし》が|殺《ころ》されるやうな|事《こと》があつたら、|此《この》|際《さい》|貴方《あなた》の|生命《せいめい》もないでせう。|兎《と》も|角《かく》|明日《みやうにち》は|私《わたし》と|奉天《ほうてん》に|参《まゐ》りませう』
と|云《い》つた。|日出雄《ひでを》は
『フンフンフンフン』
と|首《くび》を|竪《たて》に|二《ふた》つ|三《みつ》つ|振《ふ》り|乍《なが》ら、|再《ふたた》び|参謀長《さんぼうちやう》の|室《しつ》に|這入《はい》つて、
『|今晩《こんばん》はあまり|疲《つか》れたから|何処《どこ》か|好《よ》い|日本《につぽん》のホテルに|案内《あんない》して|欲《ほ》しい、そして|久振《ひさしぶ》りに|日本料理《につぽんれうり》を|食《た》べたいから』
と|云《い》つた。さうすると|参謀《さんぼう》は|答《こた》へて|言《い》ふには、
『|一昨年頃《いつさくねんごろ》|迄《まで》は|日本人《につぽんじん》の|旅館《りよくわん》がありましたが、|今《いま》はもうありませぬ。|鴻賓館《こうひんくわん》と|云《い》ふ|支那《しな》の|一等旅館《いつとうりよくわん》がありますから、それに|案内《あんない》させませう』
と|日本語《につぽんご》の|解《わか》る|若《わか》い|兵士《へいし》を|案内役《あんないやく》として|馬車《ばしや》を|命《めい》じ、|日出雄《ひでを》、|井上《ゐのうへ》を|鴻賓館《こうひんくわん》に|送《おく》り|届《とど》けた。|白音太拉《パインタラ》の|街《まち》は|人山《ひとやま》を|築《きづ》いて、|日出雄《ひでを》の|通行《つうかう》を|物珍《ものめづ》らしげに|眺《なが》めてゐる。そこへ|数千《すうせん》の|兵士《へいし》が|盧占魁《ろせんくわい》の|残部隊《ざんぶたい》を|引連《ひきつ》れて、ラツパの|声《こゑ》も|勇《いさ》ましく|帰《かへ》つて|来《き》た。|真澄別《ますみわけ》、|守高《もりたか》、|坂本《さかもと》の|三人《さんにん》は|日出雄《ひでを》の|荷物《にもつ》を|積《つ》んだ|轎車《けうしや》に|乗《の》り、|萩原《はぎはら》は|騎馬《きば》にて|帰《かへ》つて|来《く》るのに|途中《とちう》で|出会《しゆつくわい》した。|日出雄《ひでを》は|車上《しやじやう》より|声《こゑ》をかけ、
『|今晩《こんばん》は|鴻賓旅館《こうひんりよくわん》に|泊《とま》るから|白凌閣《パイリンク》と|共《とも》にホテルに|来《き》てくれ』
と|呼《よ》ばはりつつ、|日《ひ》の|暮《く》るる|頃《ころ》|旅館《りよくわん》につき|一室《いつしつ》に|入《はい》つて|休息《きうそく》してゐた。
|一時間《いちじかん》|許《ばか》り|経《た》つと|真澄別《ますみわけ》|一行《いつかう》|四人《よにん》と|蒙古人《もうこじん》|一名《いちめい》、|支那人《しなじん》|一名《いちめい》と|共《とも》に|旅館《りよくわん》に|着《つ》いた。|此《この》|蒙古人《もうこじん》は|張貴林《ちやうきりん》の|片腕《かたうで》の|副団長《ふくだんちやう》であつた。|彼《かれ》は|銃弾《じゆうだん》を|胸《むね》に|受《う》けて|居《ゐ》たが、|平気《へいき》な|顔《かほ》で|坐《すわ》つてゐた。|支那《しな》の|将校《しやうかう》で|少佐《せうさ》の|肩章《けんしやう》をつけた|軍人《ぐんじん》が、|非常《ひじやう》な|愛嬌《あいけう》を|振《ふ》りまいて|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》を|歓待《くわんたい》した。|膏《あぶら》の|多《おほ》い|支那《しな》の|料理《れうり》に|何《いづ》れも|舌鼓《したづつみ》を|打《う》つた。|然《しか》るに|日出雄《ひでを》は|其《その》|日《ひ》に|限《かぎ》りて|気分《きぶん》が|進《すす》まず、|食事《しよくじ》は|箸《はし》もつけなかつた。|今《いま》や|寝《しん》に|就《つ》かむとする|時《とき》、|盧占魁《ろせんくわい》は|二人《ふたり》の|副官《ふくくわん》と|共《とも》に|日出雄《ひでを》を|訪《たづ》ねて|来《き》て|筆談《ひつだん》を|始《はじ》め、
『|今晩《こんばん》は|何《なん》だか|怪《あや》しいやうだ、|乍然《しかしながら》|自分《じぶん》は|先刻《せんこく》|申上《まをしあ》げた|通《とほ》り|大丈夫《だいぢやうぶ》だと|思《おも》ふ。|之《これ》から|熱《ねつ》、|察《さつ》、|綏《すゐ》の|特別区域《とくべつくゐき》に|部下《ぶか》と|共《とも》に|身《み》を|以《もつ》て|逃《のが》れ|再挙《さいきよ》を|図《はか》る|考《かんが》へです。|之《これ》は|日本《につぽん》への|旅費《りよひ》の|足《た》しに……』
と|云《い》つて|一百円《いつぴやくゑん》を|差出《さしだ》したが、|日出雄《ひでを》は|固《かた》く|辞《じ》して|受取《うけと》らなかつた。そして|盧占魁《ろせんくわい》は|日出雄《ひでを》と|握手《あくしゆ》を|交換《かうくわん》し|涙《なみだ》を|払《はら》つて|別《わか》れて|行《ゆ》く。|其《その》|夜《よ》|旅団《りよだん》の|兵営《へいえい》では|数十人《すうじふにん》の|妓《キイ》チヤンを|呼《よ》んで|芝居《しばゐ》をしたり、いろいろの|面白《おもしろ》い|事《こと》をして|盧《ろ》|以下《いか》を|歓待《くわんたい》し、|阿片《あへん》をふるまひ、|沢山《たくさん》の|馳走《ちそう》を|饗応《きようおう》したのであつた。|大勢《おほぜい》の|将卒《しやうそつ》は『|一先《ひとま》づ|安心《あんしん》』と|酒《さけ》を|飲《の》み、|馳走《ちそう》を|喰《く》ひ、|妓《キイ》チヤンの|芝居《しばゐ》を|見《み》て、|十二分《じふにぶん》の|歓《くわん》を|尽《つく》し|寝《しん》についた。
|其《その》|真夜中頃《まよなかごろ》|下着《したぎ》|一枚《いちまい》になつて|寝《ね》てゐる|所《ところ》を、|一人々々《ひとりひとり》|営門外《えいもんぐわい》へ|引出《ひきだ》し、|機関銃《きくわんじゆう》を|以《もつ》て、|小口《こぐち》から|射殺《しやさつ》を|始《はじ》めたのである。
|支那《しな》の|少佐《せうさ》は、
『|今晩《こんばん》はお|湯《ゆ》に|御案内《ごあんない》が|致《いた》したいのですが、あまり|遅《おそ》くて|汚《けが》れてゐますから、|明朝《みやうてう》|新《あたら》しい|綺麗《きれい》な|湯《ゆ》に|案内《あんない》しませう。|散髪《さんぱつ》は|如何《いかが》ですか、|大分《だいぶん》に|髪《かみ》が|延《の》びてゐますが、|理髪師《りはつし》を|呼《よ》びませうか』
と|親切《しんせつ》に|云《い》ふ。そこで|萩原《はぎはら》、|井上《ゐのうへ》の|二人《ふたり》は|理髪師《りはつし》を|呼《よ》んで|貰《もら》ひ|散髪《さんぱつ》した。|日出雄《ひでを》|其《その》|他《た》は、
『|明日《あす》にする』
と|云《い》つて|眠《ねむ》つて|了《しま》つた。|表門《おもてもん》には|官兵《くわんぺい》|数名《すうめい》、|巡警《じゆんけい》|数名《すうめい》が|固《かた》く|警護《けいご》してゐた。|此《この》|少佐《せうさ》は|蜜峰《みつばち》の|如《や》うな|男《をとこ》で|口《くち》に|甘《あま》き|汁《しる》を|含《ふく》み、|尻《しり》に|鋭《するど》き|剣《けん》を|隠《かく》してゐた。|夜半《やはん》|一時《いちじ》|頃《ごろ》になると、ドヤドヤと|室内《しつない》に|沢山《たくさん》な|足音《あしおと》がしたと|思《おも》ふと|矢庭《やには》に|兵士《へいし》が|室内《しつない》に|闖入《ちんにふ》し、|先《ま》づ|第一《だいいち》に|萩原《はぎはら》を|揺《ゆ》り|動《うご》かし、|五六《ごろく》の|兵士《へいし》がピストルを|向《む》けて、
『|神妙《しんめう》に|繩《なは》にかかれ』
と|云《い》ふ。|次《つぎ》に|守高《もりたか》、|井上《ゐのうへ》、|坂本《さかもと》、|真澄別《ますみわけ》、|日出雄《ひでを》と|云《い》ふ|順《じゆん》に、ガタガタ|慄《ふる》へながら|漸《やうや》く|日本人《につぽんじん》|六名《ろくめい》、|支蒙人《しもうじん》|二名《にめい》を|捕縛《ほばく》して|了《しま》つた。よくよく|見《み》れば|此《この》|宿《やど》に|一行《いつかう》が|泊《とま》つた|時《とき》、|親切《しんせつ》さうにお|世辞《せじ》を|振《ふ》り|廻《まは》してゐた|少佐《せうさ》が|指揮《しき》をやつて|居《ゐ》た。|日出雄《ひでを》は|少佐《せうさ》に|向《むか》つて、
『|何故《なぜ》こんな|事《こと》をするか』
と|詰問《きつもん》すれば、
『|俺《おれ》は|何《なに》も|知《し》らぬ|知《し》らぬ』
と|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》るばかりだ。そして|十数名《じふすうめい》の|銃《じゆう》を|擬《ぎ》した|兵《へい》が|身構《みがま》へをして|居《ゐ》る。そして|最後《さいご》に|此《この》|旅館《りよくわん》の|庭前《ていぜん》に|引出《ひきだ》され|一列《いちれつ》に|立《た》たされた。|日出雄《ひでを》と|真澄別《ますみわけ》、|井上《ゐのうへ》と|萩原《はぎはら》、|守高《もりたか》と|坂本《さかもと》と|云《い》ふ|組合《くみあは》せに、|二人《ふたり》づつ|綱《つな》にかけ、|一行《いつかう》の|携帯品《けいたいひん》は|残《のこ》らず、|少佐《せうさ》|始《はじ》め|部下《ぶか》の|兵士《へいし》が|先《さき》を|争《あらそ》ふて|分捕《わけどり》し、|只《ただ》ラマ|服《ふく》のみを|轎車《けうしや》に|乗《の》せ、|何処《どこ》かへ|持《も》つて|行《い》つた。|此《この》|騒《さわ》ぎの|中《なか》に、|支那語《しなご》に|通《つう》じた|井上《ゐのうへ》は|支那兵《しなへい》の|囁《ささや》きや|罵《ののし》り|声《ごゑ》を|聞《き》き、|日出雄《ひでを》に|向《むか》ひ、
『|先生《せんせい》、|只今《ただいま》|支那兵《しなへい》が|吾々《われわれ》|一同《いちどう》を|銃殺《じゆうさつ》すると|云《い》つて|居《を》りますぞ、もう|仕方《しかた》がありませぬな』
と|泰然自若《たいぜんじじやく》として|叫《さけ》んだ。|此《この》|声《こゑ》に|応《おう》じて|日出雄《ひでを》は、
『ウン、さうだらう。|支那《しな》の|奴《やつ》は|御馳走政策《ごちそうせいさく》で|卑怯《ひけふ》にも|騙討《だましうち》をせうとするのだらう、それでは|私《わたし》は|愈々《いよいよ》キリストとなつて|昇天《しようてん》すべき|時期《じき》が|来《き》たのだらう。|君達《きみたち》も|盧《ろ》の|部下《ぶか》も|皆《みな》|天国《てんごく》に|連《つ》れて|行《ゆ》くから、|君達《きみたち》は|霊《れい》が|離《はな》れないやうにするが|良《よ》い』
と|二三回《にさんくわい》|繰返《くりかへ》し、|且《か》つ|死後《しご》の|世界《せかい》の|壮厳《さうごん》なる|事《こと》を|説《と》いた。|井上《ゐのうへ》、|坂本《さかもと》は|之《これ》に|答《こた》へて、
『どうか、|宜《よろ》しくお|願《ねが》ひ|致《いた》します。|仮令《たとへ》|地獄《ぢごく》の|底《そこ》へでもお|伴《とも》を|致《いた》します』
と|答《こた》へた。|他《た》の|四名《よめい》は|平然《へいぜん》として|沈黙《ちんもく》してゐた。|此《この》|時《とき》|日出雄《ひでを》は、
『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|三唱《さんしやう》し、|真澄別《ますみわけ》は|天《あま》の|数歌《かずうた》を|大《おほ》きな|声《こゑ》で|唱《とな》へ|出《だ》した。|支那兵《しなへい》はビツクリして、
『|八釜《やかま》しく|云《い》ふな』
と|叱《しか》りつけたので、|両人《りやうにん》は|更《さら》に|中声《ちうせい》になつて、『ワイワイ』と|騒《さわ》いでゐる|沢山《たくさん》の|兵《へい》の|中《なか》を、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|白音太拉《パインタラ》の|長《なが》い|町《まち》を|引廻《ひきまは》され|再《ふたた》び|兵営《へいえい》の|門内《もんない》に|送《おく》られた。|其《その》|中《うち》|支蒙人《しもうじん》|二名《にめい》は|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》と|離《はな》され、|銃殺場《じうさつば》へ|送《おく》られる。|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》|六人《ろくにん》は|再《ふたた》び|営所《えいしよ》の|門《もん》を|出《い》で、|北《きた》へ|北《きた》へと|引《ひ》かれて|行《ゆ》くと、|道《みち》の|両端《りやうばた》には|盧《ろ》の|部下《ぶか》が|大《だい》の|字《じ》になつて|血潮《ちしほ》に|染《そ》まつて|倒《たふ》れてゐるのが|沢山《たくさん》にある。そして|大車《だいしや》を|持《も》つて|来《き》て|兵士《へいし》が|運《はこ》んでゐる。|日出雄《ひでを》は|一々《いちいち》|其《その》|大車《だいしや》の|死骸《しがい》を|電燈《でんとう》の|光《ひかり》に|査《しら》べ|乍《なが》ら|進《すす》んで|行《ゆ》くと、やがて|一列《いちれつ》に|並《なら》べられた。
|真澄別《ますみわけ》、|日出雄《ひでを》、|萩原《はぎはら》、|井上《ゐのうへ》、|坂本《さかもと》、|守高《もりたか》と|順《じゆん》に|並《なら》べられ、|今《いま》や|機関銃《きくわんじゆう》の|弾丸《たま》が|此等《これら》|日本人《につぽんじん》の|胸先《むなさき》に|飛《と》んで|来《く》ると|思《おも》ふ|矢先《やさき》、|射手《しやしゆ》は|銃《じゆう》の|反動《はんどう》を|受《う》けて|後方《こうはう》に|倒《たふ》れた|為《ため》|数分《すうふん》を|要《えう》した。|日出雄《ひでを》は|日本人《につぽんじん》|一同《いちどう》に|向《むか》つて|云《い》ふ、
『|最早《もはや》かくなる|上《うへ》は|昇天《しようてん》の|時《とき》が|来《き》たのだ、|自分《じぶん》は|之《これ》から|天国《てんごく》へ|上《のぼ》り、|霊国天人《れいごくてんにん》となつて|日本《につぽん》は|云《い》ふに|及《およ》ばず、|世界《せかい》の|守護《しゆご》をする|考《かんが》へだ。|君達《きみたち》も|俺《わし》について|来《こ》い、そして|男《をとこ》らしう|討《う》たれて|死《し》なうぢやないか。|日本男子《につぽんだんし》の|名《な》を|汚《けが》すやうな、|卑怯《ひけふ》な|真似《まね》はしともないからのう』
と|諭《さと》すやうに|云《い》つた。|坂本《さかもと》は|涙声《なみだごゑ》を|出《だ》して、
『どうか、よろしくお|見捨《みす》てなきやう』
と|云《い》つた。|真澄別《ますみわけ》は|日出雄《ひでを》の|言葉《ことば》を|遮《さへぎ》つて|云《い》ふ、
『|先生《せんせい》、|決《けつ》して|貴方《あなた》は|生命《いのち》を|取《と》られる|気遣《きづかひ》はありませぬよ。|貴方《あなた》は|今《いま》|天国《てんごく》へ|行《ゆ》くと|云《い》はれましたが、|今度《こんど》の|世《よ》の|立替《たてかへ》は|肉体《にくたい》がなくては|出来《でき》ないのです。|若《も》し|貴方《あなた》がここで|生命《いのち》を|取《と》られるやうな|事《こと》があれば、|神様《かみさま》が|人間《にんげん》を|騙《だま》したことになります。|私《わたし》は|屹度《きつと》お|助《たす》かりになると|思《おも》ひますから……』
と|確信《かくしん》あるものの|如《ごと》く|主張《しゆちやう》する。
『それでも|真澄別《ますみわけ》さん、|何程《なにほど》|神《かみ》の|道《みち》に|仕《つか》へてゐると|云《い》つても、|日出雄《ひでを》の|体《からだ》は|肉体《にくたい》だ。|鉄砲《てつぱう》が|中《あた》れば|死《し》ぬのが|当然《たうぜん》だ。あんたも|死《し》なないと|思《おも》つて|安心《あんしん》して|居《ゐ》る|途端《とたん》に|一発《いつぱつ》|食《く》つたならば、あなたの|霊魂《れいこん》は|予想《よさう》に|反《はん》して|中有《ちうう》に|迷《まよ》ふだらう。それだから|死《し》ぬものと|覚悟《かくご》して|居《を》ればよいぢやないか』
と|諭《さと》す。|真澄別《ますみわけ》は|頑《ぐわん》として|其《その》|説《せつ》をまげず、
『イエイエどうあつても|先生《せんせい》は|死《し》んで|貰《もら》ふ|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。もし|貴方《あなた》が|生命《いのち》が|無《な》くなる|事《こと》があれば、|神様《かみさま》は|私《わたし》を|身代《みがは》りに|立《た》てられるでせう。|私《わたし》は|初《はじ》めから|貴方《あなた》の|身代《みがは》りと|云《い》ふ|名義《めいぎ》で|来《き》て|居《を》りますから、そんな|心配《しんぱい》は|要《い》りませぬ』
と|云《い》ふ。|日出雄《ひでを》は、
『|何《なに》も|心配《しんぱい》はして|居《ゐ》ないよ。|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》と|諦《あきら》めてゐるのだ。|畳《たたみ》の|上《うへ》でも|死《し》ぬ|時《とき》は|死《し》ぬのだ。|日本男子《につぽんだんし》が|蒙古《もうこ》の|野辺《のべ》に|骸《かばね》を|曝《さら》すのも|愉快《ゆくわい》だ。|然《しか》し|死後《しご》の|生活《せいくわつ》が|肝腎《かんじん》だから……』
と|一同《いちどう》の|霊魂《れいこん》を|救《すく》ふべく、それのみに|心《こころ》を|集注《しふちう》してゐた。それから|日出雄《ひでを》は、
『よしや|身《み》は|蒙古《もうこ》のあら|野《の》に|朽《く》つるとも|日本男子《やまとをのこ》の|品《しな》は|落《おと》さじ』
と|辞世《じせい》を|詠《よ》み、|銃弾《じゆうだん》の|吾《わが》|胸《むね》に|飛来《ひらい》するを|待《ま》つた。それから|井上《ゐのうへ》|兼吉《かねきち》は、
『|早《はや》く|討《う》たぬか、|俺《おれ》の|胸《むね》を|討《う》て、|下手《へた》な|打《う》ちやうをすると|弾丸《たま》が|余計《よけい》いつて|損《そん》がいくぞ、|見事《みごと》|一発《いつぱつ》で|俺《おれ》を|打殺《うちころ》せ』
|等《など》と|怒鳴《どな》つてゐる。|日出雄《ひでを》は|又《また》、
『いざさらば|天津御国《あまつみくに》にかけ|上《のぼ》り|日《ひ》の|本《もと》のみか|世界《せかい》を|守《まも》らむ
|日《ひ》の|本《もと》を|遠《とほ》く|離《はな》れて|我《われ》は|今《いま》|蒙古《もうこ》の|空《そら》に|神《かみ》となりなむ』
|等《など》と|辞世《じせい》を|七回《しちくわい》|迄《まで》|詠《よ》み、|大日本帝国《だいにつぽんていこく》|万歳《ばんざい》、|大本《おほもと》|万歳《ばんざい》を|三唱《さんしやう》した。|真澄別《ますみわけ》は、
『どうか|止《やむ》を|得《え》ざれば|大先生《だいせんせい》と|井上《ゐのうへ》とを|助《たす》けて|下《くだ》さい。|井上《ゐのうへ》は|屹度《きつと》|先生《せんせい》を|目的地《もくてきち》へ|連《つ》れて|行《ゆ》く|事《こと》が|出来《でき》ませう。|私《わたし》が|身代《みがは》りになります』
と|祈願《きぐわん》してゐた。さうかうするうち|銃殺《じゆうさつ》は|止《や》めになつて、|又《また》もや|兵士《へいし》が|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》を|引立《ひきた》てて|通遼公署《つうれうこうしよ》|付属《ふぞく》の|監獄《かんごく》へ|連《つ》れて|行《い》つた。|一々《いちいち》|堅固《けんご》なる|足枷《あしかせ》をはめ、|手《て》には|手枷《てかせ》をはめ、|二人《ふたり》づつ|繋《つな》いで|尚《なほ》|其《その》|上《うへ》に|麻繩《あさなは》にて|六人《ろくにん》を|一《ひと》つに|縛《しば》り、|窓《まど》を|通《とほ》して|外《そと》の|材木《ざいもく》に|括《くく》りつけ、|厳重《げんぢゆう》な|死刑囚《しけいしう》の|取扱《とりあつか》ひをした。
(大正一四・八 筆録)
第三五章 |黄泉帰《よみがへり》
|日出雄《ひでを》が|六月《ろくぐわつ》|二十一日《にじふいちにち》の|夜《よ》、|白音太拉《パインタラ》の|鴻賓旅館《こうひんりよくわん》で|寝込《ねこみ》を|捕縛《ほばく》された|時《とき》、|折《をり》よく|其処《そこ》に|宿《とま》つて|居《ゐ》た|日本人《につぽんじん》|某《ぼう》が、|朝《あさ》になつてふと|庭《には》を|見《み》ると、|皇道大本《くわうだうおほもと》の|神器《しんき》として|病者《びやうしや》の|祈願《きぐわん》に|用《もち》ゆる|杓子《しやくし》が|一本《いつぽん》|遺棄《ゐき》されてあつた。
|其《その》|杓子《しやくし》には、
|天地《あめつち》の|身魂《みたま》を|救《すく》ふ|此《この》|杓子《しやくし》|心《こころ》のままに|世人《よびと》|救《すく》はむ
と|表《おもて》に|誌《しる》し|其《その》|裏《うら》には、
この|杓子《しやくし》|我《わが》|生《うま》れたる|十二夜《じふにや》の|月《つき》の|姿《すがた》にさも|似《に》たるかな
|王仁《おに》
と|誌《しる》し、【ス】の|拇印《ぼいん》が|押捺《お》してあつたのを|見《み》つけ|出《だ》し、|驚《おどろ》いて|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》の|遭難《さうなん》を|知《し》り、|白音太拉《パインタラ》から|一番《いちばん》|汽車《きしや》に|乗《の》り、|鄭家屯《ていかとん》の|日本領事館《につぽんりやうじくわん》に|届《とど》けて|出《で》た。|領事館《りやうじくわん》では|驚《おどろ》いて|土屋《つちや》|書記生《しよきせい》を|急行《きふかう》せしむる|事《こと》となつた。|扨《さ》て|日出雄《ひでを》は|総《すべ》ての|所持品《しよぢひん》を|兵営《へいえい》に|預《あづけ》ると|云《い》ふ|名《な》の|下《もと》に|没収《ぼつしう》され、|真澄別《ますみわけ》|外《ほか》|一同《いちどう》は|所持金《しよぢきん》から|帽子《ばうし》、|靴《くつ》、|帯革《おびかは》|其《その》|他《た》|所有《しよいう》|携帯品《けいたいひん》を|支那巡警《しなじゆんけい》から|掠奪《りやくだつ》されて|仕舞《しま》つたさうである。|彼《かれ》|巡警《じゆんけい》|等《ら》は|今晩《こんばん》|日本人《につぽんじん》|全部《ぜんぶ》|銃殺《じゆうさつ》の|刑《けい》に|処《しよ》せらるると|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて|居《ゐ》たから、|取《と》つたら|取得《とりどく》だと|云《い》ふ|考《かんがへ》で、|真裸体《まつぱだか》として|了《しま》つたのである。|一方《いつぱう》|土屋《つちや》|書記生《しよきせい》は|二十二日《にじふににち》の|夕頃《ゆふごろ》に|白音太拉《パインタラ》に|着《つ》き、|通遼公署《つうれうこうしよ》に|到《いた》り、|知事《ちじ》に|面会《めんくわい》し、|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》の|引渡《ひきわた》しを|交渉《かうせふ》した。さうして|翌《よく》|早朝《さうてう》|土屋氏《つちやし》は|日出雄《ひでを》の|繋《つな》がれて|居《ゐ》る|監獄《かんごく》へ|見舞《みまひ》に|来《き》て、|親切《しんせつ》に|慰《なぐさ》め、もう|領事館《りやうじくわん》から|出《で》て|来《き》た|上《うへ》は、|生命《せいめい》は|大丈夫《だいぢやうぶ》です|安心《あんしん》なさいと|云《い》ふて|帰《かへ》つて|往《い》つた。
|書記生《しよきせい》が|白音太拉《パインタラ》に|着《つ》いた|二十二日《にじふににち》の|夜《よ》は、|何《なん》となく|騒《さわ》がしく、|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|数百千《すうひやくせん》とも|知《し》れぬ|犬《いぬ》の|声《こゑ》が|聞《きこ》え、|何事《なにごと》か|勃発《ぼつぱつ》しさうな|形勢《けいせい》であつた。|後《あと》から|聞《き》いて|見《み》れば、|書記生《しよきせい》が|日出雄《ひでを》に|面会《めんくわい》する|前《まへ》、|蒙古人《もうこじん》として|銃殺《じゆうさつ》する|準備《じゆんび》をして|居《ゐ》たと|云《い》ふ|事《こと》である。|併《しか》し|乍《なが》ら|最早《もはや》|日本領事館《につぽんりやうじくわん》に|判《わか》つた|以上《いじやう》、|国際上《こくさいじやう》|後難《こうなん》を|怖《おそ》れ、|其《その》|夜《よ》は|決行《けつかう》に|至《いた》らなかつた。|書記生《しよきせい》が|日出雄《ひでを》|等《ら》に|面会《めんくわい》してより|漸《やうや》くにして|繩《なは》を|解《と》き、|各々《おのおの》|足枷《あしかせ》を|入《い》れられ、|日出雄《ひでを》と|守高《もりたか》、|井上《ゐのうへ》と|萩原《はぎはら》、|真澄別《ますみわけ》と|坂本《さかもと》と|三組《さんくみ》、|二人《ふたり》づつ|手枷《てかせ》で|連《つな》がれ、|便所《べんじよ》へ|行《ゆ》くにも|弾丸《たま》をこめた|兵《へい》が|銃剣《じゆうけん》を|擬《ぎ》して|警戒《けいかい》し、|巡警《じゆんけい》は|弾込《たまこ》め|銃《じゆう》を|持《も》つて、|大小便《だいせうべん》ともついて|来《き》た。
|其《その》|翌日《よくじつ》、|居留日本人会長《きよりうにつぽんじんくわいちやう》|太田《おほた》|勤《つとむ》|及《およ》び|満鉄公所《まんてつこうしよ》の|志賀《しが》|秀二《ひでじ》の|二氏《にし》が|面会《めんくわい》に|来《き》て、|種々《しゆじゆ》|支那官憲《しなくわんけん》と|交渉《かうせふ》した|結果《けつくわ》、|漸《やうや》くにして|手枷《てかせ》のみを|解《と》かれる|事《こと》となつた。|四五日《しごにち》|経《た》つた|時《とき》、|日本《につぽん》より|広瀬《ひろせ》|義邦《よしくに》が|水也商会《みづやしやうくわい》の|小野《をの》|某《ぼう》と|共《とも》に|公署《こうしよ》を|訪《と》ひ|日出雄《ひでを》に|面会《めんくわい》し、かつ|太田《おほた》、|志賀《しが》の|両氏《りやうし》に|金《かね》を|預《あづ》けて|日出雄《ひでを》|等《ら》|一行《いつかう》の|凡《すべ》ての|差入《さしい》れを|依頼《いらい》した。それ|迄《まで》は|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》は|支那食《しなしよく》の|高粱飯《かうりやうめし》に|不味《まづ》い|味噌《みそ》をそへて|食《く》ひ、|不自由《ふじゆう》な|獄舎生活《ごくしやせいくわつ》を|送《おく》つて|居《ゐ》たのである。|種々《しゆじゆ》の|差入《さしいれ》ものが|出《で》て|来《く》ると、|支那《しな》の|巡警部長《じゆんけいぶちやう》は|一々《いちいち》|折箱《をりばこ》などを|開《あ》けて|見《み》ては、|之《これ》は|美味《うまい》だらうとか、|不味《まづい》だらうとか|云《い》つては|一口《ひとくち》|食《く》ひ、|二口《ふたくち》|食《く》ひ、|弁当《べんたう》の|余剰《あま》つたのは|餓鬼《がき》の|如《ごと》く|争《あらそ》ひて|食《くつ》て|了《しま》ふ。|又《また》ビールやサイダー、|葡萄酒《ぶだうしゆ》などの|空瓶《あきびん》が|出来《でき》ると|私《わたし》に|呉《く》れ|呉《く》れと、|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》に|頼《たの》み|込《こ》んで|持《も》つて|帰《かへ》るのであつた。
さうして|知事《ちじ》や|監獄長《かんごくちやう》、|其《その》|他《た》から、|吾々《われわれ》にも|相当《さうたう》の|謝礼《しやれい》を|貰《もら》ひ|度《た》い、|貴方《あなた》|方《がた》が|殺《ころ》される|所《ところ》であつたのを、|知事《ちじ》や|監獄長《かんごくちやう》の|斡旋《あつせん》で|生命《いのち》が|助《たす》かつたのだ、と|公然《こうぜん》|賄賂《わいろ》を|要求《えうきう》する。|日本《につぽん》の|警察官《けいさつくわん》に|比《くら》ぶれば|其《その》|卑《いや》しい|事《こと》、|品格《ひんかく》の|下劣《げれつ》なること、|口卑《くちいや》しい|事《こと》など、|到底《たうてい》|内地人《ないちじん》の|想像《さうざう》せられぬ|程《ほど》である。|巡警部長《じゆんけいぶちやう》の|王某《わうぼう》は|親切《しんせつ》に|日出雄《ひでを》の|垢《あか》の|付《つ》いた|足《あし》を|湯《ゆ》で|洗《あら》ひ、|肩《かた》を|揉《も》みなどして|親切《しんせつ》に|介抱《かいほう》をし、
『|大人《たいじん》が|日本《につぽん》に|帰《かへ》らるる|時《とき》は|私《わたし》も|連《つ》れて|帰《かへ》つて|下《くだ》さい、|巡警《じゆんけい》を|止《や》めて|大本《おほもと》の|信者《しんじや》となり、お|庭掃除《にはさうじ》でもさして|頂《いただ》き|度《た》い』
と|頼《たの》み|込《こ》むのであつた。|日出雄《ひでを》は、
『|奉天《ほうてん》に|着《つ》いた|上《うへ》、|模様《もやう》に|依《よ》つて|電報《でんぱう》を|打《う》つから、|電報《でんぱう》が|届《とど》いたら|奉天《ほうてん》|迄《まで》|出《で》て|来《こ》い、|日本《につぽん》へ|同道《どうだう》する』
と|云《い》つてやつたら、|王部長《わうぶちやう》は|非常《ひじやう》に|喜《よろこ》んだ。|国際法《こくさいはふ》に|依《よ》つて|領事館《りやうじくわん》から|引渡《ひきわた》しを|要求《えうきう》した|時《とき》は、|二十四時間内《にじふよじかんない》に|引渡《ひきわた》すべきものなるに、|二十一日《にじふいちにち》の|夜《よ》から|三十日《さんじふにち》|迄《まで》|十日間《とをかかん》パインタラに|繋《つな》いで|置《お》いたのは、|余程《よほど》|日本領事館《につぽんりやうじくわん》と|支那官憲《しなくわんけん》との|交渉《かうせふ》が|六ケ敷《むつかし》かつた|為《ため》であつたとの|事《こと》である。
|四五日《しごにち》|経《た》つてから|日本人《につぽんじん》|一同《いちどう》は|通遼県知事《つうれうけんちじ》の|法廷《はふてい》に|引出《ひきだ》され、|日本語《につぽんご》の|通訳官《つうやくくわん》を|介《かい》して|取調《とりしら》べを|受《う》けた。|此《この》|取調《とりしらべ》の|要点《えうてん》は、|日出雄《ひでを》の|名刺《めいし》に|素尊汗《スーツンハン》と|書《か》いてあるが、|汗《ハン》と|云《い》へば|蒙古《もうこ》|第一《だいいち》の|王《わう》の|名称《めいしよう》である。|又《また》|出生地《しゆつしやうち》が|蒙古《もうこ》の|国《くに》としてあるが、|蒙古《もうこ》は|支那《しな》の|版図《はんと》であつて、|蒙古国《もうここく》と|云《い》ふ|国名《こくめい》は|無《な》い|筈《はず》だ。|汝《なんぢ》は|盧占魁《ろせんくわい》を|使嗾《しそう》して|宗教《しうけう》を|表《おもて》に|蒙古独立《もうこどくりつ》を|企《くはだ》てたのであらう、と|云《い》ふのである。|日出雄《ひでを》は|平然《へいぜん》として、
『|自分《じぶん》は|支那《しな》の|新宗教《しんしうけう》|道院《だうゐん》の|宣伝使《せんでんし》だ。|蒙古《もうこ》の|地《ち》に|宗教《しうけう》を|宣伝《せんでん》するの|特権《とくけん》を|持《も》つてゐる。さうして|蒙古《もうこ》の|国《くに》と|云《い》つたのは|別《べつ》に|深《ふか》い|意味《いみ》があるのでは|無《な》い。|我々《われわれ》|日本《につぽん》の|国《くに》には|八十余個《はちじふよこ》の|国名《こくめい》があり、|丹波《たんば》の|国《くに》、|丹後《たんご》の|国《くに》、|山城《やましろ》の|国《くに》などと|小区劃《せうくくわく》に|国名《こくめい》を|呼《よ》んで|居《ゐ》る。さうだから|支那《しな》の|一区域《いちくくわく》たる|蒙古《もうこ》を|蒙古《もうこ》の|国《くに》と|書《か》いたのだ。|自分《じぶん》は|蒙古《もうこ》のみならず、|新彊《しんきやう》、|印度《インド》、|西蔵《チベツト》、|支那《しな》は|云《い》ふに|及《およ》ばず、|露西亜《ロシア》、|西比利亜《シベリア》を|経《へ》て|欧羅巴《ヨーロツパ》の|天地《てんち》に|迄《まで》|宗教的王国《しうけうてきわうこく》を|建設《けんせつ》するのだから、|小《ちひ》さい|蒙古《もうこ》などに|執着《しふちやく》して|居《ゐ》るのではない。さうして|宗教《しうけう》は|国境《こくきよう》を|超越《てうゑつ》して|居《ゐ》るのだ』
と|述《の》べた|所《ところ》、|知事《ちじ》は|二三回《にさんくわい》うなづいて、|日出雄《ひでを》を|獄舎《ごくしや》に|帰《かへ》した。|次《つぎ》には|真澄別《ますみわけ》|以下《いか》の|五名《ごめい》は|一人《ひとり》づつ|引《ひ》き|出《だ》されて|取調《とりしら》べを|受《う》けたが、|真澄別《ますみわけ》は|憤然《ふんぜん》として|知事《ちじ》|其《その》|他《た》の|訊問官《じんもんくわん》に|向《むか》ひ、
『|吾々《われわれ》を|馬賊《ばぞく》とは|怪《け》しからぬ、|貴官《きくわん》は|盧占魁《ろせんくわい》を|馬賊《ばぞく》と|云《い》はれるが、|彼《かれ》と|久《ひさ》しく|行動《かうどう》を|共《とも》にして|見《み》て|居《ゐ》たが、|彼《かれ》には|少《すこ》しも|馬賊的《ばぞくてき》|行為《かうゐ》は|無《な》かつた。それよりも|支那官兵《しなくわんぺい》は|自分等《じぶんら》の|所持金《しよぢきん》を|掠奪《りやくだつ》し、|其《その》|他《た》|一切《いつさい》の|所持品《しよぢひん》を|盗《ぬす》み|取《と》つたではないか。|泥棒《どろばう》する|者《もの》を|官兵《くわんぺい》と|云《い》ひ、|泥棒《どろばう》せない|者《もの》を|馬賊《ばぞく》と|云《い》ふのか、|張作霖《ちやうさくりん》だつて、|其《その》|他《た》|有名《いうめい》の|督軍《とくぐん》だつて|元《もと》は|馬賊《ばぞく》ぢやないか、|自分《じぶん》を|馬賊《ばぞく》と|云《い》ふのならそれでよい。まづ|馬賊《ばぞく》の|定義《ていぎ》から|聴《き》かして|貰《もら》ひ|度《た》い』
と|云《い》ふ。|萩原《はぎはら》も|亦《また》|真澄別《ますみわけ》と|同《おな》じ|事《こと》を|云《い》ふて|知事《ちじ》|其《その》|他《た》を|手《て》こずらす。
|次《つぎ》に|守高《もりたか》、|井上《ゐのうへ》、|坂本《さかもと》の|三人《さんにん》に|対《たい》し、|武器《ぶき》を|携帯《けいたい》して|居《ゐ》ただらうと|厳《きび》しく|訊問《じんもん》した。|何《いづ》れも|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》のお|弟子《でし》であつて|宗教家《しうけうか》だと|云《い》ひ|抜《ぬ》け、やつと|公署《こうしよ》の|調《しら》べも|済《す》んだ。それから|一行《いつかう》|六人《ろくにん》は|足枷《あしかせ》を|篏《は》められた|儘《まま》、|門口《かどぐち》に|並《なら》べられ|一葉《いちえう》の|写真《しやしん》を|取《と》られた|上《うへ》、|其《その》|翌日《よくじつ》|六月《ろくぐわつ》|三十日《さんじふにち》|荷車《にぐるま》|三台《さんだい》に|載《の》せられ、|銃剣《じゆうけん》をつけた|兵士《へいし》|六名《ろくめい》に|送《おく》られて|汽車《きしや》に|乗《の》り、|鄭家屯道尹《ていかとんだういん》に|護送《ごそう》され、|次《つい》で|同地《どうち》の|警官教習所《けいくわんけうしふじよ》の|拘留所《かうりうじよ》や|警官室《けいくわんしつ》に|足枷《あしかせ》を|篏《は》められた|儘《まま》|分置《ぶんち》せられた。|其処《そこ》へ|横尾《よこを》|敬義《ゆきよし》、|井口《ゐぐち》|藤五郎《とうごらう》の|両人《りやうにん》が|見舞《みまひ》に|来《き》て|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》を|慰《なぐさ》めた。|其処《そこ》で|再《ふたた》び|道尹《だういん》の|取調《とりしら》べを|受《う》けたが、|尋《たづ》ねる|事《こと》も、|答《こた》へる|事《こと》も、|白音太拉《パインタラ》と|同様《どうやう》であつた。
|七月《しちぐわつ》|五日《いつか》の|夕暮《ゆふぐれ》、|鄭家屯《ていかとん》の|日本領事館《につぽんりやうじくわん》に|引《ひ》き|渡《わた》さるる|事《こと》になつた。|別《わか》れに|臨《のぞ》んで|道尹《だういん》の|高等官《かうとうくわん》|以下《いか》|十数名《じふすうめい》は、|墨《すみ》と|筆《ふで》とを|用意《ようい》して|日出雄《ひでを》の|揮毫《きがう》を|乞《こ》ふた。|日出雄《ひでを》は|快《こころよ》く|彼等《かれら》の|請求《せいきう》に|応《おう》じ、|腕《うで》を|揮《ふる》ふて|大小《だいせう》|数十《すうじふ》の|文字《もんじ》を|書《か》き|与《あた》へた。|夜《よ》の|十二時《じふにじ》|頃《ごろ》|日本領事館《につぽんりやうじくわん》の|手《て》に|渡《わた》り、|一応《いちおう》の|取調《とりしら》べを|受《う》け、|領事館《りやうじくわん》にて|久《ひさ》し|振《ぶ》りで|湯《ゆ》を|使《つか》ひ|垢《あか》を|落《おと》し、|監房《かんばう》に|一夜《いちや》を|明《あか》し、|翌《よく》|六日《むいか》|通常服《つうじやうふく》の|領事館《りやうじくわん》の|警察署長《けいさつしよちやう》|以下《いか》|五人《ごにん》に|送《おく》られ|奉天総領事館《ほうてんそうりやうじくわん》に|収容《しうよう》された。|其《その》|時《とき》|既《すで》に|名田彦《なだひこ》、|山田《やまだ》、|小林《こばやし》の|三人《さんにん》は|収容《しうよう》されて|居《を》り、|暫《しばら》くして|大倉《おほくら》が|這入《はい》つて|来《き》て|都合《つがふ》|十人《じふにん》になつた。|取調《とりしら》べの|結果《けつくわ》|三ケ年《さんかねん》の|退支処分《たいししよぶん》で|一件落着《いつけんらくちやく》した。
|是《これ》より|先《さき》、|日本《につぽん》から|中野《なかの》|岩太《いはた》、|隆光彦《たかてるひこ》の|二人《ふたり》が|役員《やくゐん》|信者《しんじや》|代表《だいへう》として|出張《しゆつちやう》し、|差入《さしい》れ|物《もの》|其《その》|他《た》について|奉天支部《ほうてんしぶ》の|西島《にしじま》と|共《とも》に|奔走《ほんそう》した。
|七月《しちぐわつ》|二十一日《にじふいちにち》|三浦検事《みうらけんじ》|外《ほか》|三名《さんめい》の|警察官《けいさつくわん》に|送《おく》られ|大連《だいれん》の|水上署《すゐじやうしよ》に|着《つ》き、|此《この》|地《ち》より|又《また》|二名《にめい》の|警官《けいくわん》に|送《おく》られ、ハルピン|丸《まる》にて|門司《もじ》に|着《つ》いた。|航海中《かうかいちう》|日出雄《ひでを》は|船長《せんちやう》|以下《いか》|乗客《じやうきやく》の|依頼《いらい》に|応《おう》じて|大本教義《おほもとけうぎ》に|関《くわん》する|演説《えんぜつ》を|為《な》し、|沢山《たくさん》の|揮毫《きがう》をし、|数多《あまた》の|信者《しんじや》に|迎《むか》へられ、|日本《につぽん》の|玄関口《げんくわんぐち》に|安着《あんちやく》したのは|七月《しちぐわつ》|二十五日《にじふごにち》の|午前《ごぜん》であつた。|其《その》|光景《くわうけい》は|恰《あだか》も|凱旋将軍《がいせんしやうぐん》を|迎《むか》ふるが|如《ごと》き|有様《ありさま》であつた。
(大正一四・八 筆録)
第三六章 |天《あま》の|岩戸《いはと》
|異境万里《いきやうばんり》の|旅《たび》を|終《を》へ、|不敬《ふけい》|並《ならび》に|新聞紙法違反《しんぶんしはふゐはん》の|責付取消《せきふとりけし》と|云《い》ふ、あんまり|有難《ありがた》からぬ|悪名《あくめい》を|負《を》ひ、|漸《やうや》くにして|再《ふたた》び|日本《につぽん》の|風光《ふうくわう》に|接《せつ》し、|純真《じゆんしん》なる|役員《やくゐん》|信徒《しんと》に|遥々《はるばる》|迎《むか》へられ、|門司水上警察署《もじすゐじやうけいさつしよ》に|送《おく》られ|形式《けいしき》ばかりの|質問《しつもん》を|受《う》け、|門司署《もじしよ》の|三階《さんかい》の|風当《かぜあた》りよき|北側《きたがは》の|窓《まど》にそふて|椅子《いす》にかかり|煙草《たばこ》をくゆらし|乍《なが》ら、|階下《かいか》の|街道《かいだう》を|見《み》れば、|数多《あまた》の|信徒《しんと》は|羽織袴《はおりはかま》|又《また》は|洋服姿《ようふくすがた》にて|大道《だいだう》に|列《れつ》を|作《つく》り、|自分等《じぶんら》を|見上《みあ》げてゐる。|中《なか》には|嬉《うれ》しさの|余《あま》り、|歔欷《きよき》するものさへあつた。|日出雄《ひでを》、|心《こころ》の|中《なか》にて|思《おも》ふやう、
『あゝ、ああして|信徒《しんと》が|自分《じぶん》を|迎《むか》へて|呉《く》れて|居《ゐ》るが、ゆつくりと|蒙古《もうこ》の|話《はなし》をする|時間《じかん》も|与《あた》へられず、|諸所《しよしよ》の|警察《けいさつ》から|警察《けいさつ》へと|送《おく》られ、|二三日《にさんにち》の|中《うち》には、|目出度目出度《めでためでた》の|若松《わかまつ》さまでは|無《な》うて、よしもあしきも|難波江《なにはえ》の|若松監獄《わかまつかんごく》に|未決収監《みけつしうかん》の|身《み》とならねばならぬ。|自分《じぶん》は|空前絶後《くうぜんぜつご》の|大業《たいげふ》を|企《くはだ》て、|不幸《ふかう》にして|中途《ちうと》に|帰国《きこく》するの|止《や》むを|得《え》ざるに|立到《たちいた》つたのも、|神界《しんかい》の|御経綸《ごけいりん》として|是非《ぜひ》なき|事《こと》である。|又《また》|別《べつ》に|大《おほ》きい|心配《しんぱい》もしてゐない。|乍然《しかしながら》|妻子《さいし》、|兄弟《きやうだい》、|役員《やくゐん》|信者《しんじや》の|心《こころ》の|裡《うち》はどんなであらう』
|等《など》と|思《おも》へば|万感《ばんかん》|胸《むね》に|充《み》ち、|不思不知《おもはずしらず》|両眼《りやうがん》に|涙《なみだ》がにじみ|出《で》た。|吾《われ》と|吾《わが》|手《て》に|心《こころ》を、とり|直《なほ》し、
『エー、|馬鹿々々《ばかばか》しい、こんな|気《き》の|弱《よわ》い|事《こと》でどうして|天下《てんか》を|救《すく》ふ|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》する|事《こと》が|出来《でき》やうか、|比較的《ひかくてき》……|人間《にんげん》と|云《い》ふものは|強《つよ》いやうでも|弱《よわ》いものだなア』
と|自分《じぶん》の|心《こころ》をたしなめたり|嘲《あざけ》つたりもし|乍《なが》ら、|時《とき》の|移《うつ》るを|待《ま》つてゐると、|門司署《もじしよ》は|又《また》|逃《に》げられては|大変《たいへん》だとでも|思《おも》つたものか、|数多《あまた》の|信者《しんじや》を|駅《えき》の|方《はう》へ|追《お》ひやり、|倉皇《さうくわう》として|日出雄《ひでを》、|真澄別《ますみわけ》|其《その》|他《た》を|小蒸汽《こじようき》に|乗《の》せ、|下関署《しものせきしよ》へ|送《おく》り|届《とど》けた。|下関署《しものせきしよ》へ|行《い》つて|見《み》ると|信者《しんじや》らしいものは|一人《ひとり》も|来《き》てゐない。|暫《しば》らく|休憩《きうけい》の|後《のち》、|下関署員《しものせきしよいん》|三名《さんめい》に|送《おく》られて|自動車《じどうしや》の|客《きやく》となると、|直霊《なほひ》が|警察《けいさつ》の|門口《かどぐち》に|待《ま》つてゐた。
|内地《ないち》へ|帰《かへ》つてから|初《はじ》めて|見《み》た|青物店屋《あをものや》の|西瓜《すゐくわ》や|甜瓜《うり》、バナナ、|林檎《りんご》|等《とう》が、うまさうに|芳《かむば》しい|香《かをり》を|立《た》てて|蒙古《もうこ》の|荒野《くわうや》をさまようた|鼻《はな》を|非常《ひじやう》に|刺戟《しげき》する。『|久振《ひさしぶ》りで|一《ひと》つ|西瓜《すゐくわ》を|喰《く》つて|見《み》たらなア』と|思《おも》へど、そんな|気儘《きまま》を|云《い》ふては|悪《わる》からうと|遠慮《ゑんりよ》した。
|駅《えき》につくと|汗《あせ》をタラタラ|流《なが》し|乍《なが》ら|柴田《しばた》|健次郎《けんじらう》|氏《し》が|只《ただ》|一人《ひとり》、あわてて|飛《と》んで|来《き》た。|護送《ごそう》の|警官《けいくわん》と|共《とも》に|三等室《さんとうしつ》に|乗《の》つて|見《み》ると、|直霊《なほひ》、|井上会長《ゐのうへくわいちやう》、|東尾《ひがしを》、|湯浅《ゆあさ》|其《その》|他《た》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》が|満載《まんさい》されてゐた。|次《つ》いで|大竹《おほたけ》、|上郡《かみごほり》|等《とう》の|警察《けいさつ》の|拘留所《かうりうじよ》に|一泊《いつぱく》し|乍《なが》ら|大阪《おほさか》へと|向《むか》ふのであつた。|大竹警察署《おほたけけいさつしよ》で|湯《ゆ》を|沸《わ》かして|貰《もら》ひ、|盥《たらひ》で|行水《ぎやうずゐ》をやつた。|体量《たいりやう》|頓《とみ》に|減《げん》じて|十五貫《じふごくわん》|五百目《ごひやくめ》、|肩《かた》の|骨《ほね》が|尖《とが》り、|肋骨《ろくこつ》は|高《たか》く|現《あら》はれてゐるのを|見《み》て、|背中《せなか》を|流《なが》しに|来《き》た|加藤《かとう》|明子《はるこ》が あた|外聞《ぐわいぶん》の|悪《わる》い──|泣《な》くのには|一寸《ちよつと》|面喰《めんく》らはざるを|得《え》なかつた。|上郡《かみごほり》では|真澄別《ますみわけ》と|一所《いつしよ》に|新《あたら》しい|拘留所《かうりうじよ》で|一夜《いちや》を|明《あ》かし、|神戸駅《かうべえき》へ|着《つ》くと|沢山《たくさん》な|出迎人《でむかへにん》がやつて|来《き》て|一々《いちいち》|挨拶《あいさつ》をする。|二代《にだい》、|宇知丸《うちまる》は|上郡駅《かみごほりえき》から|一所《いつしよ》であつた。|相生橋署《あひおひばししよ》を|経《へ》て|大阪駅《おほさかえき》に|下車《げしや》するや、|見物人《けんぶつにん》は|蟻《あり》の|山《やま》の|如《ごと》く、|毎日新聞《まいにちしんぶん》の|活動写真隊《くわつどうしやしんたい》や|各新聞社《かくしんぶんしや》がレンズを|向《む》けて|待《ま》ち|構《かま》へてゐる|中《なか》を、|人波《ひとなみ》を|分《わ》けて|人力車《じんりきしや》に|乗《の》り、|曽根崎署《そねざきしよ》へと|送《おく》られ、|次《つ》いで|天満署《てんましよ》の|拘留所《かうりうじよ》へ|三十分《さんじつぷん》ばかり|投《な》げ|込《こ》まれ、|同署《どうしよ》の|裏門《うらもん》から|徒歩《とほ》にて|若松支所《わかまつししよ》へ|行《ゆ》かむとするや、|大本《おほもと》|役員《やくゐん》|信者《しんじや》|及《およ》び|見物人《けんぶつにん》は|山《やま》の|如《ごと》く|雑踏《ざつたふ》を|極《きは》めた。|支所《ししよ》の|入口《いりぐち》には|又《また》もや|沢山《たくさん》な|新聞社《しんぶんしや》の|写真班《しやしんはん》が|待《ま》ち|構《かま》へてゐて、|盛《さか》んにシヤツターの|音《おと》をさせてゐる。|此《この》|門《もん》を|潜《くぐ》るや|否《いな》や、|信愛《しんあい》なる|役員《やくゐん》|信者《しんじや》に|別《わか》れねばならぬ。|殆《ほとん》ど|暗《くら》い|穴《あな》へでも、もぐり|込《こ》むやうな|気分《きぶん》が|漂《ただよ》ふてゐた。|直《ただち》に|支所長《ししよちやう》の|室《しつ》に|導《みちび》かれ、|先《ま》づ|第一《だいいち》に|背《せ》の|高《たか》さや、|体《からだ》の|目方《めかた》や、|身体《しんたい》の|特徴《とくちやう》などを|調《しら》べた|上《うへ》、|前以《まへもつ》て|差入《さしい》れてあつた|軽《かる》い|浴衣《ゆかた》と|着換《きか》へ、|支所長《ししよちやう》の|役人気離《やくにんぎはな》れての|打解話《うちとけばなし》に、|蒙古《もうこ》に|於《お》ける|奮戦苦闘《ふんせんくたう》の|状況《じやうきやう》を|面白《おもしろ》く|聞《き》かせ|署長《しよちやう》をアツと|云《い》はせ、|直《ただ》ちに、|同所《どうしよ》の|二階《にかい》の|九十八号《きうじふはちがう》に|収容《しうよう》されて|終《しま》つた。|此《この》|室《しつ》は|北《きた》に|窓《まど》があけてあり、さうして|建物《たてもの》が|立《た》つてゐないので|風当《かぜあた》りが|非常《ひじやう》によい、そして|窓《まど》からのぞけば|梅田《うめだ》の|停車場《ていしやば》|附近《ふきん》まで|見《み》られる、|支所内《ししよない》|第一《だいいち》の|上等室《じやうとうしつ》であつた。どの|室《しつ》もどの|室《しつ》も|独房《どくばう》は|横巾《よこはば》|四尺《よんしやく》、|縦《たて》|七尺《しちしやく》|強《きやう》にて|殆《ほと》んど|一坪《ひとつぼ》に|足《た》らない|狭隘《けふあい》なる|西洋式《せいやうしき》の|監房《かんばう》である。その|中《なか》で|布団《ふとん》も|布《し》き、|手水《てふづ》も|使《つか》ひ、|荷物《にもつ》も|置《お》き|大小便《だいせうべん》もやらねばならぬ。おきて|半畳《はんでふ》、|寝《ね》て|一畳《いちでふ》といつも|悟《さと》つた|顔《かほ》して|云《い》つて|居《を》つても、|実際《じつさい》、こんな|所《ところ》に|突込《つつこ》まれたのは|可《か》なりつらかつた。|渺茫《べうばう》として|天《てん》につらなる|蒙古《もうこ》の|野辺《のべ》に、ツツパリのない|空《そら》を|屋根《やね》となし|際限《さいげん》もない|大地《だいち》を|褥《しとね》となしてグウグウと|寝《ね》てゐた|事《こと》を|思《おも》へば、|俄《にはか》に、|象《ざう》が|黴菌《ばいきん》に|変化《へんくわ》したやうな|気分《きぶん》になつた。|当年《たうねん》は|特別《とくべつ》|暑熱《しよねつ》|烈《はげ》しく、|殆《ほと》んど|堪《た》へきれない|程《ほど》で、|身体《からだ》|一面《いちめん》から|油《あぶら》のやうな|汗《あせ》が|滲《に》じみ|出《で》る、|窓《まど》はあつても|六尺《ろくしやく》も|上《うへ》にあいてゐるのだから、あまり|涼《すず》しくもない。|乍然《しかしながら》パインタラの|遭難《さうなん》の|事《こと》を|思《おも》へば、
『マアマア|結構《けつこう》だ、ここに|居《ゐ》れば|生命《いのち》は|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、|今《いま》こそ、こんな|狭《せま》い|所《ところ》に|蚕《かひこ》の|蛹《さなぎ》のやうに|繭《まゆ》の|中《なか》にすつこんでゐるが、メツタに|熱湯《にえゆ》の|中《なか》に|放《はう》り|込《こ》まれて|殺《ころ》される|心配《しんぱい》も|要《い》らず、やがて|此《この》|殻《から》を|破《やぶ》つて|蝶《てふ》と|孵化《ふくわ》し、|沢山《たくさん》の|子《こ》を|産《う》んで|再《ふたた》び|再生《さいせい》の|春《はる》に|会《あ》ふ』
のを|唯一《ゆゐいつ》の|楽《たの》しみとなし|二日《ふつか》|三日《みつか》と|日《ひ》を|送《おく》つた。|今迄《いままで》|刑務所《けいむしよ》へは|法律《はふりつ》に|関《くわん》する|書籍《しよせき》と|宗教《しうけう》に|関《くわん》する|書籍《しよせき》の|外《ほか》|差入《さしいれ》を|許《ゆる》されなかつたのが、|一ケ月《いつかげつ》|以前《いぜん》から|肩《かた》のこらぬ|講談《かうだん》|雑誌《ざつし》や|面白倶楽部《おもしろくらぶ》その|他《た》|時事《じじ》に|関《くわん》するものも|差入《さしいれ》を|許《ゆる》す|事《こと》となり、|非常《ひじやう》に|無聊《ぶれう》を|慰《なぐさ》むるに|都合《つがふ》よくなつてゐた。|又《また》『|神《かみ》の|国《くに》』や『|霊界物語《れいかいものがたり》』の|差入《さしいれ》が|許《ゆる》されたので、ゐながらにして|大本《おほもと》の|状況《じやうきやう》を|知《し》る|事《こと》を|得《え》た。が|然《しか》し、いい|事《こと》があればその|反面《はんめん》に|悪《わる》い|事《こと》のあるものだ。|大本《おほもと》|役員《やくゐん》が|債権問題《さいけんもんだい》について|青《あを》くなつてゐる|事《こと》や、|新《あらた》に|債権者《さいけんしや》が、きびしい|請求《せいきう》を|始《はじ》めた|事《こと》が|分《わか》つて|非常《ひじやう》に|歯《は》がゆく|思《おも》つたが、|何《なん》と|云《い》つても|囚《とらは》れの|身《み》、|自由《じいう》が|利《き》かぬのに|少《すこ》しく|当惑《たうわく》せざるを|得《え》なかつた。|役員《やくゐん》|信者《しんじや》の|面会《めんくわい》、|弁護士《べんごし》の|面会《めんくわい》にて|午前中《ごぜんちう》は|相当《さうたう》に|忙《いそが》しく、|隔日《かくじつ》に|葉書《はがき》を|書《か》く、|一週間目《いつしうかんめ》に|散髪《さんぱつ》をする、|四日目《よつかめ》|位《ぐらゐ》に|風呂《ふろ》に|這入《はい》る、|医者《いしや》の|診察《しんさつ》を|受《う》ける、その|間《あひだ》に|筆硯《ひつけん》を|握《にぎ》つて|詩歌《しいか》を|書《か》きつける、|面白《おもしろ》い|小説《せうせつ》を|読《よ》む、|随分《ずゐぶん》|日《ひ》を|経《ふ》るに|従《したが》つて|手紙《てがみ》の|数《すう》も|殖《ふ》えて|来《く》るなり、|忙《いそが》しさを|感《かん》じて|来《き》た。その|為《た》め|九十八日間《きうじふはちにちかん》の|収監《しうかん》もあまり|長《なが》くは|感《かん》じなかつたのである。|殺人犯《さつじんはん》や|暴動罪《ばうどうざい》や|詐欺《さぎ》、|泥棒《どろぼう》|等《とう》の|未決囚《みけつしう》と|共《とも》に、|日曜《にちえう》を|除《のぞ》く|外《ほか》は|毎日《まいにち》|看守《かんしゆ》に|送《おく》られて|長《なが》い|廊下《らうか》を|渡《わた》り|面会所《めんくわいじよ》に|順番《じゆんばん》の|来《く》るのを|待《ま》つてゐた。その|間《あひだ》には|種々《しゆじゆ》の|面白《おもしろ》い|話《はなし》を|聞《き》き、|彼等《かれら》の|心理状態《しんりじやうたい》を|知悉《ちしつ》する|事《こと》を|得《え》た。|足立弁護士《あだちべんごし》がやつて|来《き》て、その|筋《すぢ》の|諒解《りやうかい》を|得《え》て|置《お》いたから、|直《す》ぐに|保釈《ほしやく》の|許可《きよか》になるだらうから|安心《あんしん》せよと|云《い》つた。|自分《じぶん》も|是非《ぜひ》|一度《いちど》|帰《かへ》つて|早《はや》く|蒙古事情《もうこじじやう》を|役員《やくゐん》|信者《しんじや》に|話《はな》して|安心《あんしん》させ|度《た》いと|思《おも》つた|矢先《やさき》だから、|一日《いちにち》も|早《はや》く|出監《しゆつかん》し|度《た》いと|思《おも》つてゐると、○|原《はら》○|嶺《れい》|氏《し》より|大変《たいへん》|都合《つがふ》の|悪《わる》い|長《なが》たらしい|書面《しよめん》が|日出雄《ひでを》|名《な》|宛《あて》に|舞《ま》ひ|込《こ》んで|来《き》た、その|結果《けつくわ》はたうとう|保釈《ほしやく》もオジヤンになり、|九十八日間《きうじふはちにちかん》|入牢《にふろう》せなくてはならぬやうな|破目《はめ》になつたのである。|乍然《しかしながら》その|間《かん》に|精神《せいしん》の|修養《しうやう》をなし、|今《いま》|日蓮《にちれん》の|予言録《よげんろく》や|蒙古王国《もうこわうこく》の|夢《ゆめ》|等《など》と|云《い》ふ|日出雄《ひでを》の|記事《きじ》を|読《よ》み、|沢山《たくさん》の|信徒《しんと》から|送《おく》つて|来《く》る|名所《めいしよ》ハガキを|見《み》て、|非常《ひじやう》に|面白《おもしろ》く|楽《たの》しく|入獄《にふごく》の|身《み》たる|事《こと》を|忘《わす》れ、|夏《なつ》と|秋《あき》とを|知《し》らぬ|間《ま》に|送《おく》つて|終《しま》つたのである。|入監中《にふかんちう》に|沢山《たくさん》の|面白《おもしろ》い|夢《ゆめ》を|見《み》た。その|一二《いちに》をここに|書《か》き|止《と》めておかう。
|旧《きう》|七月《しちぐわつ》|十五日《じふごにち》の|夜《よ》、|十七八歳《じふしちはつさい》の|女神《めがみ》が|忽然《こつぜん》と|現《あら》はれて|自分《じぶん》に|朝日煙草《あさひたばこ》|一ケ《いつこ》を|手渡《てわた》し……|莞爾《くわんじ》として|姿《すがた》を|消《け》し|玉《たま》ふた。|自分《じぶん》は|目《め》が|覚《さ》めてから、やがて|岩戸《いはと》が|開《ひら》くだらう、|朝日《あさひ》の|煙草《たばこ》を|賜《たま》はつたから。|然《しか》しユツクリ|一服《いつぷく》して|時節《じせつ》を|待《ま》てとの|事《こと》だらう、|到底《たうてい》ここ|五日《いつか》や|十日《とをか》の|中《うち》に|出獄《しゆつごく》する|事《こと》は|出来《でき》ないだらうと|感《かん》じたのであつた。
それから|四五日《しごにち》すると、|北海道《ほくかいだう》に|自分《じぶん》は|巡教《じゆんけう》に|行《ゆ》くと|大《おほ》きな|南瓜畑《かぼちやばたけ》があり、|南瓜《かぼちや》の|作《つく》り|主《ぬし》は|自分《じぶん》にその|中《うち》の|最《もつと》も|大《だい》なるものを、むしり|採《と》り、|二個《にこ》|呉《く》れた|夢《ゆめ》を|見《み》た。|出獄《しゆつごく》して|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|居《ゐ》ると、|四五日《しごにち》してから|北海道《ほくかいだう》の|信者《しんじや》が、|日出雄《ひでを》が|夢《ゆめ》に|見《み》た|同様《どうやう》の|南瓜《かぼちや》を|二個《にこ》|持《も》つて|来《き》てくれたのには、|夢《ゆめ》の|適中《てきちう》した|事《こと》を|感歎《かんたん》せずには|居《ゐ》られなかつた。
|新《しん》|十月《じふぐわつ》の|中頃《なかごろ》、|本宮山《ほんぐうやま》のやうな|丘陵《きうりよう》があつて、その|山麓《さんろく》を|自分《じぶん》の|母《はは》と|二人《ふたり》|歩《ある》いてゐると、|母《はは》の|姿《すがた》は|俄《にはか》に|見《み》えなくなつた。|自分《じぶん》は|山《やま》の|中《なか》へでも|母《はは》が|隠《かく》れたのではないかと|思《おも》ひ、|小山《こやま》の|南麓《なんろく》から|青々《あをあを》とした|萱草《かやくさ》を|分《わ》けつつ|上《のぼ》つて|見《み》ると、|大本信者《おほもとしんじや》の|一人《ひとり》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|一丁《いつちやう》ばかりの|間《あひだ》|雑木《ざふき》を|伐《き》り、|土《つち》を|引《ひ》きならして|三間《さんげん》|許《ばか》りの|道《みち》を|開《ひら》いてゐる。そこを|歩《ある》いて|上《あが》つて|行《ゆ》くと、|十字形《じふじがた》に|大道《だいだう》が|貫通《くわんつう》してゐた。つまり|塞《ふさ》がつてゐたのは|五六十間《ごろくじつけん》|許《ばか》りの|間《あひだ》であつた。こりや|屹度《きつと》|保釈《ほしやく》を|許《ゆる》されて|近《ちか》い|中《うち》に|出《で》られだらうと|感《かん》じた。
その|次《つぎ》は|自分《じぶん》が|非常《ひじやう》な|高《たか》い|尖《とが》つた|岩山《いはやま》の|上《うへ》に、いつしか|上《のぼ》つてゐたが、|何処《どこ》からも|下《くだ》る|道《みち》がない、どうしやうかと|思《おも》つてゐると、|白馬《はくば》が|二頭《にとう》|現《あら》はれて、|鉄《てつ》のくさりを|銜《くは》へて|自分《じぶん》の|居《ゐ》る|岩《いは》の|上《うへ》にガチリと|音《おと》をさせて|掛《か》けおき、|山《やま》の|横腹《よこはら》を|一瀉千里《いつしやせんり》の|勢《いきほひ》で|帰《かへ》つて|終《しま》つた。|目《め》が|覚《さ》めてから、|自分《じぶん》の|為《ため》に|活路《くわつろ》を|開《ひら》くべく|獅子奮迅《ししふんじん》の|活躍《くわつやく》をしてゐる|信者《しんじや》のある|事《こと》を|感《かん》じた。
|次《つぎ》に|本宮山《ほんぐうやま》の|東麓《とうろく》の|傾斜地《けいしやち》を、|中野《なかの》|岩太《いはた》|氏《し》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|引《ひ》きならし、|行儀《ぎやうぎ》よく|小松《こまつ》を|植《う》ゑてゐた|夢《ゆめ》を|見《み》た。
|或《ある》|日《ひ》|真澄別《ますみわけ》が|面会《めんくわい》に|来《き》て|云《い》ふのは、
『|先生《せんせい》、|私《わたし》は|霊眼《れいがん》で|十一《じふいち》と|云《い》ふ|事《こと》を|見《み》せて|頂《いただ》きましたが、どう|云《い》ふ|事《こと》でせうか』
と|尋《たづ》ねたので|日出雄《ひでを》は、
『フン、|大方《おほかた》|十《じふ》に|一《いち》と|云《い》ふ|事《こと》だらう、|十中《じつちう》の|九《く》まで|保釈《ほしやく》が|許《ゆる》されないのかも|知《し》れない。|又《また》|考《かんが》へて|見《み》れば|十中《じつちう》の|十一《じふいち》|迄《まで》|無罪《むざい》になる|事《こと》かも|知《し》れぬ』
と|云《い》つて|笑《わら》つて|別《わか》れた。|然《しか》るに|日出雄《ひでを》の|保釈《ほしやく》が|決定《けつてい》したのは|旧《きう》|十月《じふぐわつ》|一日《いちにち》であり、|若松支所《わかまつししよ》を|出《で》たのは|新暦《しんれき》|十一月《じふいちぐわつ》|一日《いちにち》の|午前《ごぜん》|十一時《じふいちじ》|十一分《じふいつぷん》であつた。|十五貫《じふごくわん》|五百目《ごひやくめ》の|体量《たいりやう》に|減《げん》じてゐた|自分《じぶん》は、|九十八日間《きうじふはちにちかん》の|監房生活《かんばうせいくわつ》の|結果《けつくわ》|十七貫《じふしちくわん》|六百目《ろつぴやくめ》に|体量《たいりやう》が|増《ま》してゐた。|支所長《ししよちやう》|始《はじ》め|所内《しよない》の|役人《やくにん》|全部《ぜんぶ》に|見送《みおく》られて|門内《もんない》を|出《で》ると、|大本《おほもと》|役員《やくゐん》|信者《しんじや》|数百名《すうひやくめい》、|其《その》|他《た》|新聞記者《しんぶんきしや》|及《およ》び|大阪市内《おほさかしない》の|見物人《けんぶつにん》が|黒山《くろやま》の|如《ごと》くに|沿道《えんだう》に|堵列《とれつ》してゐる。|小雨《こさめ》がシヨボシヨボと|降《ふ》つてゐる|中《なか》を、さぬきや|旅館《りよくわん》に|這入《はい》り、ここにて|数多《あまた》の|信者《しんじや》と|食卓《しよくたく》を|共《とも》にし、|無事《ぶじ》|帰綾《きりよう》する|事《こと》となつた。
これより|先《さき》、|聖地《せいち》では|秋季大祭《しうきたいさい》があり、|分所支部長会議《ぶんしよしぶちやうくわいぎ》が|始《はじ》まり|財政整理問題《ざいせいせいりもんだい》について、かなりの|激論《げきろん》が|始《はじ》まつてゐた。そこへ|保釈許可《ほしやくきよか》の|電報《でんぱう》が|大阪《おほさか》の|弁護士《べんごし》からついたので、|今迄《いままで》の|争論《そうろん》は|水《みづ》の|泡《あわ》の|如《ごと》く|消《き》え、|何《いづ》れも|一斉《いつせい》に|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、それより|一同《いちどう》|打揃《うちそろ》ふて|大阪《おほさか》に|迎《むか》へに|来《き》たのであつた。
これで|蒙古入《もうこいり》の|大芝居《おほしばゐ》も|一寸《ちよつと》|黒幕《くろまく》が|下《お》りたやうなものである。
(大正一四・八・一六 北村隆光筆録)
第三七章 |大本天恩郷《おほもとてんおんきやう》
|財政問題《ざいせいもんだい》や|日出雄《ひでを》の|保釈問題《ほしやくもんだい》に|関《くわん》する、|小田原評議《をだはらひやうぎ》で|低迷《ていめい》せし|周章狼狽《しうしやうらうばい》の|空気《くうき》は、|日出雄《ひでを》の|保釈《ほしやく》|帰綾《きりよう》と|共《とも》に|一掃《いつさう》され、|全《まつた》くの|嵐《あらし》の|跡《あと》の|夫《そ》れの|如《ごと》く、|天地清明《てんちせいめい》の|聖地《せいち》と|復活《ふくくわつ》したのである。
|爾来《じらい》|進展主義《しんてんしゆぎ》の|日出雄《ひでを》は、|負債《ふさい》や|世評《せひやう》に|屈《くつ》することなく、|瑞祥会本部《ずゐしやうくわいほんぶ》を|亀岡《かめをか》より|綾部《あやべ》に|移《うつ》して|諸務《しよむ》の|総攬《そうらん》を|宇知麿《うちまる》に|一任《いちにん》し、|自《みづか》らは|真澄別《ますみわけ》|其《その》|他《た》を|率《ひき》ゐて、|万寿苑《まんじゆゑん》に|根拠《こんきよ》を|定《さだ》め、|入蒙《にふもう》|出発《しゆつぱつ》の|際《さい》|宣言《せんげん》せし|如《ごと》く、|単《たん》に|三五聖団《あななひせいだん》の|日出雄《ひでを》としてでなく、|世界《せかい》の|源《みなもと》|日出雄《ひでを》として、|万界《ばんかい》の|暗《やみ》を|照破《せうは》すべき、|神界経綸《しんかいけいりん》の|実現《じつげん》に|着手《ちやくしゆ》したのである。
|先《ま》づ|以《もつ》て|万寿苑《まんじゆゑん》は|天恩郷《てんおんきやう》と|命名《めいめい》され、|日出雄《ひでを》の|居館《きよくわん》たる|光照殿《くわうせうでん》が|新築《しんちく》される|事《こと》となつた。|久《ひさ》しく|寂寥《せきりやう》を|感《かん》じて|居《ゐ》た|万寿苑《まんじゆゑん》は|頓《とみ》に|活気《くわつき》|横溢《わういつ》し、|数多《あまた》の|信者《しんじや》は|各地《かくち》より、|吾《わ》れも|吾《わ》れもと|先《さき》を|争《あらそ》つて|参集《さんしふ》し、|光照殿《くわうせうでん》|造営《ざうえい》に|奉仕《ほうし》する|事《こと》となり、|亀山城趾《かめやまじやうし》の|基礎石《きそいし》は|夫《そ》れ|夫《ぞ》れ|掘《ほ》り|起《おこ》されて、|誂《あつら》へた|如《ごと》く|神業《しんげふ》に|役立《やくだ》つ|奇縁《きえん》に、|弥永久世弥永《やあとこせいよういやなあ》の|掛声《かけごゑ》も|勇《いさ》ましく、|四辺《あたり》の|空気《くうき》を|震撼《しんかん》せしむる|盛況《せいきやう》に、|驚嘆《きやうたん》の|眼《め》を|〓《みは》るは|亀岡町《かめをかちやう》の|人々《ひとびと》のみならず、|日出雄《ひでを》が|天下無敵《てんかむてき》の|経綸振《けいりんぶり》と|其《その》|説示《せつじ》の|絶対《ぜつたい》なるに、|今更《いまさら》の|如《ごと》く|耳目《じもく》を|欹《そばた》て、|或《あるひ》は|教《をしへ》を|請《こ》ふべく、|或《あるひ》は|事業《じげふ》|経営《けいえい》の|主宰《しゆさい》と|仰《あふ》ぐべく、|往来《わうらい》する|人々《ひとびと》|引《ひ》きも|切《き》らず、|更《さら》に|欧文印刷所《おうぶんいんさつじよ》の|新設《しんせつ》、|海外宣伝部《かいぐわいせんでんぶ》の|移転《いてん》などで、|月照山《げつせうざん》の|弥勒塔《みろくたふ》|日《ひ》に|日《ひ》に|其《その》|光輝《くわうき》を|増《ま》す|瑞祥《ずゐしやう》に、|月宮殿《げつきうでん》|造営《ざうえい》の|日《ひ》をも|鶴首《かくしゆ》して|待《ま》つのは、|敢《あへ》て|信徒《しんと》のみではないのである。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一四・八・一七 筆録)
第三八章 |世界宗教聯合会《せかいしうけうれんがふくわい》
|天恩郷《てんおんきやう》に|新築《しんちく》せられる|光照殿《くわうせうでん》の|礎石《そせき》は、|道義的《だうぎてき》|世界統一《せかいとういつ》の|基礎《きそ》たるべき|世界宗教聯合《せかいしうけうれんがふ》の|証兆《しようてう》なれば、|一石塊《いちせきくわい》を|積《つ》み|重《かさ》ぬるにも、|心《こころ》せざる|可《べ》からずとて、|源《みなもと》|日出雄《ひでを》は|親《した》しく|基礎《きそ》|工事《こうじ》|監督《かんとく》の|任《にん》に|当《あた》り、|一方《いつぱう》|岡崎《をかざき》|鉄首《てつしゆ》の|報告《はうこく》に|基《もとづ》き、|同人《どうにん》が|同道《どうだう》して|綾《あや》の|聖地《せいち》に|参拝《さんぱい》せし、|李松年《りしようねん》を|先駆者《せんくしや》となし、|真澄別《ますみわけ》に|全権《ぜんけん》を|委《ゆだ》ねて、|世界宗教聯合《せかいしうけうれんがふ》の|成立《せいりつ》を|促《うなが》すべく|之《これ》を|北京《ペキン》に|派遣《はけん》する|事《こと》とした。
|真澄別《ますみわけ》は|神命《しんめい》を|畏《かしこ》み、|隆光彦《たかてるひこ》、|岡崎《をかざき》|鉄首《てつしゆ》|並《ならび》に|頭山《とうやま》|満《みつる》|及《および》|内田《うちだ》|良平《りやうへい》|両氏《りやうし》の|代表者《だいへうしや》たる|岡《をか》|貞吉《ていきち》|氏《し》の|三名《さんめい》を|伴《ともな》ひ、|陰暦《いんれき》|四月《しぐわつ》|十二日《じふににち》、|天恩郷《てんおんきやう》を|後《あと》に|船路《ふなぢ》を|北京《ペキン》に|向《むか》ふ|事《こと》となつた。
|北京《ペキン》にては|熱心《ねつしん》なる|仏教家《ぶつけうか》として|知《し》られたる|洪徳滋《こうとくじ》が、|李松年《りしようねん》より|伝《つた》へられたる|使命《しめい》を|知得《ちとく》し、|出来得《できう》る|限《かぎ》りの|準備《じゆんび》を|整《ととの》へ、|真澄別《ますみわけ》|一行《いつかう》の|来着《らいちやく》を|待《ま》つて|居《ゐ》た。
|真澄別《ますみわけ》は|先《ま》づ|以《もつ》て、|折柄《をりから》|北京《ペキン》に|滞在《たいざい》し|一行《いつかう》の|来意《らいい》を|伝聞《でんぶん》して|歓迎《くわんげい》の|意《い》を|表《へう》すべく|心待《こころまち》に|待《ま》つて|居《ゐ》た|章嘉活仏《しやうかくわつぶつ》と|会見《くわいけん》し、|将来《しやうらい》を|約《やく》し、|且《かつ》|此《この》|際《さい》|支那《しな》に|於《おい》て|世界宗教聯合会《せかいしうけうれんがふくわい》の|発起《ほつき》せられる|事《こと》の、|機宜《きぎ》に|適《てき》した|事《こと》、|昨春《さくしゆん》|蒙古入《もうこいり》の|神意《しんい》など、|神界経綸《しんかいけいりん》|一部《いちぶ》の|消息《せうそく》を|伝《つた》へた。|章嘉《しやうか》は|怡々《いい》として、|自分《じぶん》の|本懐《ほんくわい》も|実《じつ》に|此《ここ》に|存《そん》するとて|固《かた》き|握手《あくしゆ》を|交換《かうくわん》した。
|昨春《さくしゆん》|盧占魁《ろせんくわい》は|大庫倫《だいクーロン》に|進《すす》むに|先立《さきだ》ち、|内蒙《ないもう》を|横断《わうだん》し|章嘉《しやうか》の|許《もと》に|日出雄《ひでを》|一行《いつかう》を|導《みちび》き、|内蒙《ないもう》に|於《お》ける|根拠《こんきよ》を|之《これ》に|依《よ》つて|堅《かた》めたいと|声明《せいめい》してゐたが、|一箇年《いつかねん》を|経《へ》し|今日《こんにち》、|神《かみ》は|真澄別《ますみわけ》を|遣《つか》はしてこれを|実現《じつげん》せしめられたのである。|茲《ここ》に|活仏《くわつぶつ》の|現状《げんじやう》に|関《くわん》し|簡単《かんたん》なる|説明《せつめい》を|添《そ》へる|事《こと》とする。
|喇嘛教《ラマけう》|即《すなは》ち|仏陀教《ぶつだけう》が|国教《こくけう》となつてゐるのは、|西蔵《チベツト》、|内蒙《ないもう》|及《およ》び|外蒙《ぐわいもう》の|大庫倫地方《だいクーロンちはう》|以西《いせい》である。|其《その》|他《た》に|喇嘛廟《ラマメウ》のある|主《おも》なる|地方《ちはう》は、|山西省《さんせいしやう》の|五台山《ごだいざん》|及《およ》び|北京《ペキン》である。|而《しか》して|四人《よにん》の|活仏《くわつぶつ》がこれを|四分《しぶん》して、|各《かく》|其《その》|管内《くわんない》を|統轄《とうかつ》してゐる。|活仏《くわつぶつ》の|下《した》には、ザスク、カンブ、|大喇嘛《だいラマ》、ツオングワン、クワンジヤ|等《とう》の|階級《かいきふ》があり、|各《かく》|王公爺廟《わんこんえべう》の|主宰者《しゆさいしや》は|主《しゆ》としてカンブ|以下《いか》であるが、|俗《ぞく》に|此等《これら》をも|活仏《くわつぶつ》と|称《しよう》するのである。
|西蔵《チベツト》の|前蔵《ぜんざう》は|達頼活仏《タアライくわつぶつ》、|後蔵《こうざう》は|班禅活仏《ハンゼンくわつぶつ》の|管掌《くわんしやう》に|属《ぞく》し、|猶《なほ》|山西省《さんせいしやう》|五台山《ごだいざん》にも|所管廟《しよくわんべう》を|各《おのおの》|有《いう》してゐる。
|章嘉活仏《しやうかくわつぶつ》は|内蒙《ないもう》|全部《ぜんぶ》、|外蒙《ぐわいもう》の|十個廟《じつこべう》、|五台山《ごだいざん》の|五個廟《ごこべう》|並《ならび》に|北京《ペキン》の|喇嘛廟《ラマメウ》を|統掌《とうしやう》し、|支那《しな》の|大国師《だいこくし》として|尊崇《そんすう》せられてゐる。そして|本来《ほんらい》|察哈爾《チヤハル》の|多倫《ターロン》に|居《を》るべきであるが、|地方巡錫《ちはうじゆんしやく》の|時《とき》|以外《いぐわい》は、|便宜上《べんぎじやう》|暑季《しよき》は|五台山《ごだいざん》に、|寒季《かんき》は|北京《ペキン》に|駐在《ちうざい》してゐる。
また|外蒙《ぐわいもう》を|管掌《くわんしやう》してゐる──|先年《せんねん》|皇帝《くわうてい》の|宣言《せんげん》した|大庫倫《だいクーロン》の|活仏《くわつぶつ》は、|昨年《さくねん》|帰幽《きいう》して、|今《いま》は|欠員《けつゐん》となつてゐる。|欠員中《けつゐんちう》は|他《ほか》の|三活仏《さんくわつぶつ》の|中《うち》、|何《いづ》れかが|兼掌《けんしやう》する|慣例《くわんれい》であるが、|外蒙《ぐわいもう》は|未《いま》だ|赤露《せきろ》の|勢力範囲《せいりよくはんゐ》を|脱《だつ》せず、|如何《いかん》とも|施《ほどこ》すべき|策《さく》なき|状態《じやうたい》である。|而《しか》して|活仏《くわつぶつ》の|後継者《こうけいしや》は、|各《かく》|其《その》|遺言《ゆゐごん》に|従《したが》ひ、|帰幽後《きいうご》|三年《さんねん》|以内《いない》に|再生《さいせい》するのを|待《ま》たねばならぬから、|今後《こんご》|大庫倫《だいクーロン》に|如何《いか》なる|神《かみ》の|経綸《けいりん》が|行《おこな》はれるか、それは|神業《しんげふ》の|進展《しんてん》と|共《とも》に|自《おのづか》ら|闡明《せんめい》すべき|問題《もんだい》である。
|斯《か》くして|真澄別《ますみわけ》|一行《いつかう》は、|支那《しな》に|於《お》ける|各宗教《かくしうけう》の|本部《ほんぶ》を|訪《と》ひ、|各代表者《かくだいへうしや》に|神意《しんい》を|伝《つた》へ、|機《き》は|熟《じゆく》して、|大正《たいしやう》|十四年《じふよねん》|五月《ごぐわつ》|二十日《はつか》|陰暦《いんれき》|四月《しぐわつ》|二十八日《にじふはちにち》、|北京悟善社《ペキンごぜんしや》に|於《おい》て、|世界宗教聯合会《せかいしうけうれんがふくわい》は|発会式《はつくわいしき》を|挙《あ》げ、|先《ま》づ|東亜《とうあ》の|聯盟《れんめい》を|確実《かくじつ》にし|而《しか》して|後《のち》|西漸《せいざん》することに|方針《はうしん》が|定《さだ》められたのである。|従来《じゆうらい》|三五教《あななひけう》と|提携《ていけい》し|居《を》りし、|普天教《ふてんけう》、|五大教《ごだいけう》の|外《ほか》、|今回《こんくわい》の|聯合会《れんがふくわい》に|依《よ》り、|三五教《あななひけう》に|結《むす》びしは、|道教《だうけう》、|救世新教《きうせいしんけう》、|仏陀教《ぶつだけう》、|支那仏教《しなぶつけう》、|支那回教《しなくわいけう》、|支那基督教《しなキリストけう》、|儒教《じゆけう》などである。
|更《さら》に|真澄別《ますみわけ》は|支那《しな》に|於《お》ける|因縁《いんねん》の|霊地《れいち》|五台山《ごだいざん》を|訪問《はうもん》して|神勅《しんちよく》を|仰《あふ》ぎ、|日出雄《ひでを》の|許《もと》に|復命《ふくめい》したのは、|日出雄《ひでを》が|昨年《さくねん》|大阪刑務所《おほさかけいむしよ》に|到着《たうちやく》した|時《とき》より|十一ケ月《じふいつかげつ》を|経《へ》し|六月《ろくぐわつ》|二十七日《にじふしちにち》であつたのも|奇《き》と|云《い》ふべしである。
(大正一四・八 筆録)
第三九章 |入蒙拾遺《にふもうしふゐ》
|日出雄《ひでを》が|〓南《たうなん》の|平馬邸《へいまてい》にて|微笑《びせう》し|乍《なが》ら|真澄別《ますみわけ》に|示《しめ》した、
『|呉佩孚《ごはいふ》をつかれ|曹〓《さうこん》と|逃《に》げ|出《い》だし』
てふ|一句《いつく》は、|半年《はんとし》|経《た》つか|経《た》たぬ|間《ま》に|実現《じつげん》された。|張作霖《ちやうさくりん》が|盧占魁《ろせんくわい》を|利用《りよう》しようと|企《くわだ》てた|第二回《だいにくわい》|奉直戦《ほうちよくせん》は、|其《その》|予期《よき》に|反《はん》して|意外《いぐわい》に|早《はや》く|火蓋《ひぶた》を|切《き》る|事《こと》になり、|今更《いまさら》の|如《ごと》く|盧《ろ》を|追懐《つゐくわい》したとさへ|伝《つた》へられた。|幸《かう》か|不幸《ふかう》か○○|人《じん》の|従軍《じゆうぐん》と|馮玉祥《ひようぎよくしやう》のクーデターのお|蔭《かげ》で|張作霖《ちやうさくりん》は|戦《たたかひ》に|負《ま》けて、|勝負《しようぶ》に|勝《か》つた|結果《けつくわ》となり、|呉佩孚《ごはいふ》は|一時《いちじ》|失脚《しつきやく》し、|曹〓《さうこん》は|一旦《いつたん》は|逃出《にげだ》し、|今《いま》は|捉《とら》はれの|身《み》となつてゐる。
|昨夏《さくか》|白音太拉《パインタラ》に|於《お》ける|惨劇《さんげき》の|前夕《ぜんゆふ》、|形勢《けいせい》|非《ひ》なりと|感《かん》じ、|部下《ぶか》を|取纏《とりまと》めて|逸出《にげだ》し、|途中《とちう》|王府《わうふ》の|兵《へい》に|包囲《はうゐ》せられ、|数十名《すうじふめい》の|部下《ぶか》を|失《うしな》ひ、|身《み》を|以《もつ》て|免《まぬが》れたる|劉陞山《りうしようさん》は、|右《みぎ》|奉直戦《ほうちよくせん》の|混雑中《こんざつちう》|大連《だいれん》に|身《み》を|遁《のが》れ、|更《さら》に|自転倒島《おのころじま》に|渡《わた》り、|暫《しば》し|綾《あや》の|聖地《せいち》に|身《み》を|寄《よ》せ|再挙《さいきよ》の|時期《じき》をまつてゐたが、|神《かみ》の|摂理《せつり》を|計《はか》りかね、|今《いま》は|奉天《ほうてん》の|日本租界《につぽんそかい》に|身《み》を|潜《ひそ》めて|使命《しめい》の|降下《かうか》を|鶴首《かくしゆ》してゐる。|隆光彦《たかてるひこ》が|渡支《とし》の|途次《とじ》|訪問《はうもん》すると、|劉《りう》は|夫人《ふじん》と|共《とも》に|款待《くわんたい》を|極《きは》めたといふ。
|真澄別《ますみわけ》が|北京《ペキン》に|滞在《たいざい》せるを|伝《つた》へ|聞《き》き、|懐《なつ》かしさと|憧憬《あこがれ》の|余《あま》り|訪《たづ》ね|来《き》た|中《うち》に、|王昌輝《わうしやうき》、|揚巨芳《やうきよはう》、|包春亭《はうしゆんてい》、|金翔宇《きんしやうう》などがある。|皆《みな》|索倫山《ソーロンさん》の|司令部《しれいぶ》に|参《さん》じてゐた|人々《ひとびと》で、|各自《かくじ》|思《おも》ひ|思《おも》ひの|述懐《じゆつくわい》を|語《かた》る。
|王昌輝《わうしやうき》は|其《その》|後《ご》|井上《ゐのうへ》|兼吉《かねきち》を|伴《ともな》ひ、|胡景翼軍《こけいよくぐん》に|顧問《こもん》として|馳《は》せ|参《さん》じ、|胡《こ》の|役後《えきご》、|岳維峻《がくゐしゆん》を|輔《たす》けて、|依然《いぜん》|河南軍中《かなんぐんちう》に|居《ゐ》る。|彼《かれ》は|曰《いは》く、
『|実際《じつさい》あんな|馬鹿《ばか》な|結果《けつくわ》になつて、|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》に|申訳《まうしわけ》がありませぬ。|私《わたし》が|胡景翼《こけいよく》の|許《もと》へ|身《み》を|寄《よ》せると、|胡《こ》が……|君《きみ》は|何故《なぜ》|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》を|自分《じぶん》の|処《ところ》へ|御案内《ごあんない》せなかつたか、|自分《じぶん》ならば|飽《あ》く|迄《まで》も|安全《あんぜん》に|護衛《ごゑい》し、|且《かつ》|自由《じいう》に|活動《くわつどう》して|頂《いただ》けるのに……と|叱《しか》られました。|本当《ほんたう》に|多数《たすう》の|犠牲者《ぎせいしや》を|出《だ》し、|残念《ざんねん》で|堪《たま》りませぬ。|兎《と》に|角《かく》|暫時《ざんじ》|放任《はうにん》しておいて|下《くだ》さい。|必《かなら》ず|目醒《めざま》しい|結果《けつくわ》を|招来《せうらい》して|御覧《ごらん》に|入《い》れますから……|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》に|然《しか》るべく|御取《おとり》なし|願《ねが》ひます』
と|腕《うで》を|撫《ぶ》し、|更《さら》に|白音太拉事件《パインタラじけん》を|追懐《ついくわい》し、
『|無事《ぶじ》に|免《ゆる》されて|帰《かへ》つた|馬《ば》|副官《ふくくわん》の|話《はなし》に|依《よ》ると、|盧占魁《ろせんくわい》は|就寝中《しうしんちう》|用事《ようじ》ありとて|二名《にめい》の|兵士《へいし》に|引起《ひきおこ》され、|玄関口《げんくわんぐち》に|待構《まちかま》へて|居《ゐ》た|四名《よめい》の|兵士《へいし》に|短銃《ピストル》を|向《む》けられ、|悔《くや》しさに|地団駄《ぢだんだ》を|踏《ふ》み|乍《なが》ら、|営庭《えいてい》の|露《つゆ》と|消《き》えたさうです。|他《た》の|連中《れんちう》は|身《み》に|寸鉄《すんてつ》も|帯《お》びざる|事《こと》とて|何《いづ》れも|狼狽《らうばい》し、|中《なか》には|見苦《みぐる》しく|逃《に》げ|惑《まど》うた|者《もの》もあつたさうですが、|例《れい》の|賈孟卿《ヂヤムチン》は|未《ま》だ|寝《ね》もせで、|手紙《てがみ》を|認《したた》めてゐる|最中《さいちう》だつたさうですが、|取囲《とりかこ》む|兵士《へいし》を|睥睨《へいげい》し、……|騒《さわ》ぐな|手紙《てがみ》を|書《か》き|了《をは》る|迄《まで》|待《ま》てつ……と|大喝《だいかつ》し、|悠々《いういう》として|銃殺《じゆうさつ》を|受《う》けたさうです。|惜《を》しい|男《をとこ》でしたなア。……それから|盧占魁《ろせんくわい》の|奴《やつ》、|噂《うはさ》の|如《ごと》く|御用金《ごようきん》を|隠《かく》して|居《を》つたと|見《み》え、|昨秋《さくしう》|鄒秀明《すうしうめい》が|憲兵隊《けんぺいたい》や|警察署長《けいさつしよちやう》と|打合《うちあは》せ、|北京《ペキン》の|盧夫人《ろふじん》の|隠家《かくれや》を|取調《とりしら》べ、|数万円《すうまんゑん》を|没収《ぼつしう》し、|入蒙《にふもう》の|結果《けつくわ》|未亡人《みばうじん》となつて、|北京《ペキン》に|佗《わび》しく|寄食《きしよく》してる|連中《れんちう》に|夫《そ》れ|夫《ぞ》れ、|数百円《すうひやくゑん》|宛《あて》|分配《ぶんぱい》し、|残金《ざんきん》は|私《わたくし》したらしいです。|其《その》|報《むく》いでせう、|鄒《すう》は|今年《ことし》の|正月《しやうぐわつ》、|奉天軍《ほうてんぐん》の|連長《れんちやう》となつて|居《ゐ》|乍《なが》ら、|仏租界《ふつそかい》にある|武器《ぶき》を|押収《おうしう》しようとし、|条約違反《でうやくゐはん》で|銃殺《じゆうさつ》された|相《さう》です。|云々《うんぬん》』
と|憮然《ぶぜん》たること|久《ひさ》しかつた。また|揚巨芳《やうきよはう》は|索倫本営《ソーロンほんえい》に|於《おい》て、|盧《ろ》の|参謀長《さんぼうちやう》|揚萃廷《やうすゐてい》と|衝突《しようとつ》し、|恨《うらみ》を|遺《のこ》して|引上《ひきあ》げ、|今《いま》は|奉天軍《ほうてんぐん》の|憲兵《けんぺい》|少佐《せうさ》に|任《にん》ぜられ、|奉直間《ほうちよくかん》の|列車監督長《れつしやかんとくちやう》となつてゐる。
|揚巨芳《やうきよはう》『|大先生《タアセンシヨン》は|何《どう》して|居《ゐ》られますか、|昨年《さくねん》は|苛《ひど》い|目《め》にお|会《あ》ひでしたなア。|大体《だいたい》|揚萃廷《やうすゐてい》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|密偵《みつてい》|同様《どうやう》で、|盧《ろ》|司令《しれい》が|情実《じやうじつ》に|絡《から》まれ、あんな|者《もの》を|参謀長《さんぼうちやう》にしたのが|破綻《はたん》の|大原因《だいげんいん》です。……|張作霖《ちやうさくりん》は|盧《ろ》|司令《しれい》|等《ら》を|銃殺《じゆうさつ》の|意志《いし》は|実際《じつさい》なかつたのです。あれは|〓旅長《かんりよちやう》の|越権《ゑつけん》の|処置《しよち》でした。しかし|劉陞山《りうしようさん》に|対《たい》しては|好感情《かうかんじやう》を|持《も》つて|居《を》りませぬ。|実際《じつさい》|劉団《りうだん》の|趙《てう》|営長《えいちやう》が|部下《ぶか》を|使嗾《しさう》し、|蒙古地内《もうこちない》で|強姦《がうかん》、|掠奪《りやくだつ》などを|逞《たくま》しうして、|討伐令《たうばつれい》の|原因《げんいん》を|作《つく》つたのですから|仕方《しかた》がありませぬ。|種々《しゆじゆ》の|点《てん》から|私《わたし》は|入蒙事業《にふもうじげふ》の|破綻《はたん》の|責任者《せきにんしや》は|揚萃廷《やうすゐてい》、|劉《りう》、|趙《てう》、|佐々木《ささき》、|大倉《おほくら》の|五人《ごにん》だと|思《おも》つてゐます。どうか|日出雄《ひでを》|先生《せんせい》に|宜《よろ》しく|御取《おとり》なしを|願《ねが》ひます。|当方面《たうはうめん》で|御用《ごよう》の|節《せつ》は|何時《いつ》でもお|使《つか》ひ|下《くだ》さいませ』
と|丸々《まるまる》した、そして|脂切《あぶらぎ》つた|面《おも》に|笑《えみ》を|湛《たた》へてゐた。
|包春亭《はうしゆんてい》は|包金山《はうきんざん》の|代理《だいり》として|金翔宇《きんしやうう》と|共《とも》に|真澄別《ますみわけ》を|訪問《はうもん》したのである。|包春亭《はうしゆんてい》は、
『|大先生《タアセンシヨン》|外《ほか》|皆様《みなさま》|御壮健《ごさうけん》で|結構《けつこう》で|厶《ござ》います。|二先生《アルセンシヨン》がお|越《こ》しと|聞《き》き|包金山《はうきんざん》が|伺《うかが》ふ|積《つもり》で|居《を》りましたが、|拠所《よんどころ》ない|都合《つがふ》で、|私《わたくし》を|代理《だいり》に|寄越《よこ》しました。|包金山《はうきんざん》も|一時《いちじ》は|奉天側《ほうてんがは》から|疑《うたがひ》の|眼《め》で|睨《にら》まれ、|困《こま》つてゐましたが、|間《ま》もなく|諒解《りやうかい》され、|今《いま》は|黒竜江省督軍《こくりうこうしやうとくぐん》|呉峻陞《ごしゆんしよう》の|顧問《こもん》をしてゐます。|併《しか》し|御用《ごよう》とあれば、|少《すくな》くも|三千《さんぜん》の|蒙古兵《もうこへい》を|率《ひき》ゐて、|何時《いつ》でも|立《た》ちます。……|包金山《はうきんざん》は|昨年《さくねん》|索倫《ソーロン》|出発《しゆつぱつ》|以来《いらい》、|盧《ろ》|司令《しれい》の|方針《はうしん》が|危険味《きけんみ》を|帯《お》びてゐるのを|気遣《きづか》ひ、|岡崎《をかざき》|先生《せんせい》と|相談《さうだん》して、|応援軍《おうゑんぐん》を|組織《そしき》する|為《た》め、|六月《ろくぐわつ》|八日《やうか》|途中《とちう》から|手兵《しゆへい》の|大部《だいぶ》を|劉陞山《りうしようさん》に|預《あづ》け、|奉天《ほうてん》へ|向《むか》つた|折《をり》、|私《わたくし》は|其《その》|後《ご》|護衛長《ごゑいちやう》として|随行《ずゐかう》し、|途中《とちう》|屡々《しばしば》|危険《きけん》に|遭遇《さうぐう》し|乍《なが》ら、|漸《やうや》く|奉天《ほうてん》に|着《つ》くと|間《ま》もなく、あの|悲報《ひはう》に|接《せつ》しましたので、|包金山《はうきんざん》|共々《ともども》|声《こゑ》をあげて|泣《な》きました』
と|今更《いまさら》の|如《ごと》く|涙《なみだ》ぐむ。|金翔宇《きんしやうう》は|後《あと》を|受《う》けて、
『|私《わたくし》は|索倫《ソーロン》から、|募兵《ぼへい》の|為《た》め|黒竜江《こくりうこう》へ|派遣《はけん》せられたのですが、|盧《ろ》|司令《しれい》の|旅費手当《りよひてあて》が|余《あま》り|少額《せうがく》で|困《こま》つてゐると、|岡崎《をかざき》|先生《せんせい》が|別《べつ》に|心付《こころづ》けをして|下《くだ》さつた|時《とき》の|嬉《うれ》しさは|今《いま》に|忘《わす》れませぬ』
と|言《い》へば、|傍《かたはら》に|居《ゐ》た|岡崎《をかざき》は、
『あれは|皆《みな》|大先生《だいせんせい》から|頂《いただ》いたのを、|君《きみ》|方《がた》に|取次《とりつ》いだまでだ』
と|言葉《ことば》を|挟《はさ》む。|金翔宇《きんしやうう》は|更《さら》に|語《ご》を|継《つ》ぎ、
『あゝさうでせう、|兎《と》に|角《かく》あれで|漸《やうや》く|使命《しめい》を|達《たつ》し|〓南《たうなん》|迄《まで》|帰《かへ》ると、|既《すで》に|討伐隊《たうばつたい》が|索倫山《ソーロンざん》へ|向《むか》つた|所《ところ》なので、|私《わたくし》も|其《その》|一味《いちみ》として|投獄《たうごく》せられ、|危《あやふ》く|銃殺《じゆうさつ》せられる|所《ところ》を、|予《かね》て|〓南《たうなん》の|旅長《りよちやう》|張海鵬《ちやうかいほう》と|知合《しりあひ》であつた|為《ため》、|首《くび》がつながりました。|併《しか》し|大先生《タアセンシヨン》のお|側近《そばちか》く|仕《つか》へてゐた|者《もの》は|皆《みな》|助《たす》かりましたね。|白凌閣《パイリンク》は|素《もと》より、|温長興《をんちやうこう》、|秦宣《しんせん》、|王〓璋《わうさんしやう》、|王通訳《わうつうやく》|等《とう》|皆《みな》さうです。それが|夫々《それぞれ》|危地《きち》を|脱《のが》れたのは、|畢竟《ひつきやう》|大先生《タアセンシヨン》の|特別《とくべつ》の|御加護《ごかご》としか|思《おも》へませぬ。|時《とき》に|蒙古《もうこ》の|青年《せいねん》も|追々《おひおひ》|目醒《めざ》めて|来《き》ますから、お|役《やく》に|立《た》つ|者《もの》も|漸次《ぜんじ》|殖《ふ》えて|参《まゐ》ります』
と|意気軒昂《いきけんかう》たるものがある。|真澄別《ますみわけ》は|何《いづ》れの|人《ひと》にも──|昨年《さくねん》の|蒙古入《もうこいり》は|君方《きみがた》の|思《おも》ふ|様《やう》、|単純《たんじゆん》な|失敗《しつぱい》でない|事《こと》、|神様《かみさま》の|方《はう》から|云《い》へば|深《ふか》いお|思召《ぼしめし》のある|事《こと》や、|世界的神劇《せかいてきしんげき》の|序幕《じよまく》とも|云《い》ふべきもので、|其《その》|後《ご》|引続《ひきつづ》いての|活動《くわつどう》の|結果《けつくわ》、|今回《こんくわい》|世界宗教聯合会《せかいしうけうれんがふくわい》が|成立《せいりつ》した|事《こと》などを|説明《せつめい》し、|発起人連名簿《ほつきにんれんめいぼ》や|写真《しやしん》など|見《み》せると、|各人《かくじん》|一様《いちやう》に|感歎《かんたん》の|声《こゑ》を|洩《も》らし、|前途《ぜんと》の|祝福《しゆくふく》を|忘《わす》れなかつた。|殊《こと》に|蒙古人《もうこじん》は|章嘉《しやうか》との|提携《ていけい》を|非常《ひじやう》に|喜《よろ》こんだ。
(大正一四・八 筆録)
|入蒙余録《にふもうよろく》
|大本《おほもと》の|経綸《けいりん》と|満蒙《まんもう》
|愈々《いよいよ》|大本《おほもと》は|開教《かいけう》|四十周年《よんじつしうねん》を|迎《むか》へる|様《やう》になりました。|教祖様《けうそさま》の|御筆先《おふでさき》には、|三十年《さんじふねん》で|世《よ》のきり|替《か》へをすると|出《で》てゐますが、それが|余《あま》り|世《よ》の|乱《みだ》れ|様《やう》がひどいので|更《さら》に|十年《じふねん》|延《の》びたといふ|事《こと》が|書《か》いてあります。|本年《ほんねん》が|開教《かいけう》|四十年《よんじふねん》に|相当《さうたう》しますから、|十年《じふねん》|引《ひ》いて|見《み》ると|本年《ほんねん》がまる|卅年《さんじふねん》であるから、|立替立直《たてかへたてなほ》しの|時期《じき》になつた|事《こと》と|信《しん》ずるのであります。
|卅《さんじふ》と|書《か》くと|世界《せかい》の『|世《せ》』といふ|字《じ》になる。|外国《ぐわいこく》では|百年一世紀《ひやくねんいつせいき》といつて|居《ゐ》るが、|日本《につぽん》では|卅年《さんじふねん》が|一世紀《いつせいき》であります。|世界《せかい》の『|世《せ》』といふ|字《じ》は|十《じふ》を|三《み》ツよせたのである。で|人間《にんげん》の|一代《いちだい》といふのは|約《つま》り|卅年《さんじふねん》で、|三十歳《さんじつさい》で|世帯《しよたい》を|持《も》つて|六十《ろくじふ》になつて|隠居《いんきよ》するといふ|事《こと》になる。|隠居《いんきよ》する|時分《じぶん》には|殆《ほとん》ど|子《こ》が|三十歳《さんじつさい》になる。かういふ|工合《ぐあひ》に|人間《にんげん》の|一世紀《いつせいき》といふものは、|文字《もじ》の|上《うへ》から|見《み》ても|卅年《さんじふねん》ときまつて|居《ゐ》るのであります。
|本年《ほんねん》は|壬申《みづのえさる》の|年《とし》であります。|結婚《けつこん》なんかに|就《つい》てよく|迷信家《めいしんか》は|今年《ことし》は|申《さる》の|年《とし》で『|去《さ》る』だからいかぬと|云《い》ふ。|然《しか》しこれは|総《すべ》ての|禍《わざはひ》をみづのえさる──|水《みづ》に|流《なが》し|去《さ》る|年《とし》であつて|非常《ひじやう》に|結構《けつこう》な|年《とし》である。|仏法《ぶつぽふ》の|法《ほふ》は|水偏《みづへん》に|去《さる》である。|今年《ことし》は|壬申《みづのえさる》の|年《とし》であるから、|仏法《ぶつぽふ》がすたれて|神《かみ》の|御教《みをしへ》の|発展《はつてん》すべき|時《とき》になつたのであります。
|印度《いんど》の|言葉《ことば》で|法《ほふ》のことをダルマと|云《い》ひますが、|達磨《だるま》さまといふのは、|本来《ほんらい》|抽象的《ちうしやうてき》の|仏《ほとけ》であつて、|眼《め》を|大《おほ》きく|描《か》くのはこの|法《ほふ》を|表徴《へうちよう》したものである。そして|無茶苦茶《むちやくちや》に|大《おほ》きな|眼《め》を|描《か》くのは|日月《じつげつ》に|譬《たと》へたのである。これは|天地日月《てんちじつげつ》の|法《はふ》であるといふ|意《い》から|達磨《だるま》といふので、ダルマは|即《すなは》ち|印度《いんど》の|言葉《ことば》である。|今年《ことし》は|所謂《いはゆる》ダルマの|年《とし》であり、|弥勒《みろく》の|年《とし》であるのであります。この|満《まん》|四十周年《よんじつしうねん》に|際《さい》して、|神様《かみさま》が|予《かね》て|御警告《ごけいこく》になつて|居《を》りましたシベリヤ|線《せん》を|花道《はなみち》とするといふ|事《こと》が|愈々《いよいよ》|実現《じつげん》して|来《き》たのでありますから、|吾々《われわれ》はジツとして|居《を》られない、|日本臣民《につぽんしんみん》として|袖手傍観《しうしゆばうくわん》する|事《こと》が|出来《でき》ない|場合《ばあひ》になつて|来《き》たのであります。|兎《と》も|角《かく》|吾々《われわれ》の|頭《あたま》の|上《うへ》に|火《ひ》の|粉《こ》が|落《お》ちて|来《き》たのであります。この|火《ひ》の|粉《こ》をどうしても|払《はら》はねばならぬ。この|事《こと》あるを|私《わたし》は|神様《かみさま》から|始終《しじう》|聞《き》いて|居《を》りましたので、|大正《たいしやう》|元年《ぐわんねん》|頃《ごろ》から|今《いま》の|中《うち》に|蒙古《もうこ》を|日本《につぽん》のものにして|置《お》きたい。|蒙古《もうこ》に|行《い》つて|蒙古《もうこ》を|独立《どくりつ》さして|置《お》いたならば、|日本《につぽん》は|仮令《たとへ》|外国《ぐわいこく》から|経済封鎖《けいざいふうさ》をやられやうが、|或《あるひ》は|外国《ぐわいこく》から|攻《せ》めて|来《こ》られようが、|自給自足《じきふじそく》、|何処《どこ》|迄《まで》も|日本《につぽん》の|本国《ほんごく》を|保《たも》つ|事《こと》が|出来《でき》る。──かういふ|考《かんが》へをもつて|大正《たいしやう》|元年《ぐわんねん》から|馬《うま》の|稽古《けいこ》をやつたのであります。|本当《ほんたう》にやりかけたのは|大正《たいしやう》|五年《ごねん》からでありますが、|何故《なぜ》|馬《うま》の|稽古《けいこ》を|始《はじ》めたかと|云《い》ふと、|昔《むかし》から|支那《しな》では|南船北馬《なんせんほくば》と|申《まを》してゐる|通《とほ》り|南《みなみ》に|行《ゆ》くには|船《ふね》でなければならず、|北《きた》に|行《ゆ》くには|馬《うま》でなければならぬので、|蒙古《もうこ》の|大平原《だいへいげん》を|行《ゆ》くのにはどうしても|馬術《ばじゆつ》を|知《し》つて|置《お》くのが|肝腎《かんじん》であると|思《おも》つたがためであります。|一時《いちじ》は|金竜《きんりう》、|銀竜《ぎんりう》、|金剛《こんがう》、|千早《ちはや》といふ|馬《うま》を|四頭《よんとう》も|置《お》き、その|他《た》の|馬《うま》にも|乗《の》り|廻《まは》して|馬術《ばじゆつ》を|稽古《けいこ》して|居《を》りましたが、|愈々《いよいよ》|大正《たいしやう》|十年《じふねん》になつてこれから|入蒙《にふもう》を|決行《けつかう》しよう、|節分祭《せつぶんさい》から|行《ゆ》かうと|思《おも》つて|居《を》つた|時《とき》に、あの|十年事件《じふねんじけん》が|突発《とつぱつ》したため、|満州《まんしう》でなくて|人《ひと》の|来《こ》られぬ|様《やう》な|所《ところ》に|一寸《ちよつと》はいつて|来《き》たのであります。
それから|大正《たいしやう》|十三年《じふさんねん》に|愈々《いよいよ》|年来《ねんらい》の|素志《そし》を|決行《けつかう》したのであります。|所《ところ》が、その|時《とき》|恰度《ちやうど》|蒙古《もうこ》のタークロンと|云《い》ふ|所《ところ》に|偉《えら》い|喇嘛《ラマ》が|居《を》つて、|昔《むかし》|成吉斯汗《ジンギスカン》が|蒙古《もうこ》に|兵《へい》を|挙《あ》げてから|六百六十六年目《ろくぴやくろくじふろくねんめ》に、ナランオロスからイホエミトポロハナが|出《で》て|蒙古《もうこ》を|助《たす》ける。|即《すなは》ちナランオロス(|日出《ひい》づる|国《くに》)から|生神《いきがみ》が|出《で》て|来《き》て|蒙古《もうこ》を|救《すく》ふといふ|予言《よげん》があつたのであります。それが|恰度《ちやうど》|甲子《かふし》の|年《とし》、|大正《たいしやう》|十三年《じふさんねん》が|六百六十六年目《ろくぴやくろくじふろくねんめ》に|当《あた》つて|居《を》つたのであります。|吾々《われわれ》はさういふ|事《こと》は|知《し》らなかつたけれども、|恰度《ちやうど》さうなつて|居《を》つたのであります。しかもこの|蒙古《もうこ》を|救《すく》ふ|人《ひと》は|年《とし》|五十四歳《ごじふよんさい》と|云《い》ふのでありましたが、|当時《たうじ》|私《わたし》は|五十四歳《ごじふよんさい》であつたからこれも|符号《ふがう》したのであります。その|外《ほか》|色々《いろいろ》な|事《こと》が|符号《ふがう》した|為《ため》に|蒙古人《もうこじん》に|歓迎《くわんげい》されまして、|思《おも》ひの|外《ほか》にどんどんと|進《すす》んだのであります。けれども|結局《けつきよく》は|張作霖《ちやうさくりん》の|裏切《うらぎ》り|及《およ》び|赤軍《せきぐん》との|戦《たたか》ひの|疲《つか》れ、|呉佩孚軍《ごはいふぐん》との|戦《たたか》ひによつて|携帯《けいたい》した|所《ところ》の|食料《しよくれう》も|弾丸《だんぐわん》もなくなつて|了《しま》ひ、|已《や》むを|得《え》ず|白音太拉《パインタラ》で|吾々《われわれ》は|捕《とら》へられ、|銃殺《じゆうさつ》されむとする|迄《まで》に|至《いた》つたのでありましたが、その|当時《たうじ》には|世間《せけん》の|人々《ひとびと》|及《およ》び|大本《おほもと》の|信者《しんじや》の|人《ひと》は|大変《たいへん》に|失敗《しつぱい》をして|来《き》た|様《やう》に|感《かん》じて|居《を》つた。その|時《とき》|私《わたし》|一人《ひとり》が|大成功《だいせいこう》だと|云《い》つて、|自分《じぶん》|一人《ひとり》で|平気《へいき》で|居《を》りましたので、|皆《みな》が|負《ま》けをしみが|強《つよ》いと|云《い》つて|笑《わら》つて|居《を》つたのであります。けれどもこれが|一《ひと》ツの|種蒔《たねま》きとなつて|恰度《ちやうど》|今《いま》|時《とき》がめぐつて|来《き》たのであります。
|今《いま》|皇軍《くわうぐん》は|連戦連勝《れんせんれんしよう》で|東三省《とうさんしやう》は|殆《ほとん》ど|平定《へいてい》された|様《やう》な|形《かたち》でありますが、この|東三省《とうさんしやう》の|民衆《みんしう》の|心《こころ》は|未《ま》だ|未《ま》だ|服従《ふくじゆう》して|居《を》らぬ。これをさせるのにはどうしても|宗教《しうけう》をもつて|行《ゆ》かねばいけないのであります。
|愛《あい》といふ|事《こと》は|基督《キリスト》も、マホメツトも|説《と》いて|居《ゐ》る。|仏教《ぶつけう》は|慈悲心《じひしん》を|説《と》き、|或《あるひ》は|十善《じふぜん》といふ|事《こと》を|説《と》いてゐる。|各神道《かくしんだう》、|各仏教《かくぶつけう》は|皆《みな》|愛《あい》と|善《ぜん》との|外《ほか》に|出《で》てゐないのであります。|併《しか》し|今迄《いままで》の|宗教《しうけう》は|国《くに》によつて|皆《みな》|垣《かき》を|造《つく》つて|居《ゐ》る、|出雲八重垣《いづもやへがき》を|造《つく》つて|居《ゐ》る。|即《すなは》ち|猶太《ユダヤ》は|猶太《ユダヤ》の|神《かみ》、|支那《しな》は|支那《しな》の|神《かみ》といふ|風《ふう》に|自分《じぶん》|一国《いつこく》の|神様《かみさま》にして|居《ゐ》る。この|垣《かき》を、この|出雲八重垣《いづもやへがき》を|破《やぶ》るのには、|人類愛善《じんるいあいぜん》といふ|大風呂敷《おほぶろしき》を|頭《あたま》から|被《かぶ》せて|行《ゆ》くのが|一番《いちばん》よいのであります。
ラテン|語《ご》で|云《い》ふと『|人類愛善《じんるいあいぜん》』と|云《い》ふ|言葉《ことば》は『|大本《おほもと》』といふ|事《こと》になる。それで『|人類愛善《じんるいあいぜん》』も『|大本《おほもと》』も|精神《せいしん》は|少《すこ》しも|違《ちが》はない。|併《しか》し|乍《なが》ら『|大本《おほもと》』は|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》なる|日本《につぽん》の|神様《かみさま》、|日本《につぽん》の|国体《こくたい》を|闡明《せんめい》する|所《ところ》のものであり、『|人類愛善会《じんるゐあいぜんくわい》』は|各思想団体《かくしさうだんたい》|及《およ》び|各宗教一切《かくしうけういつさい》の|融合統一《ゆうがふとういつ》する|所《ところ》のもので、|同《おな》じ|名《な》であつても|異《こと》なつた|働《はたら》きをして|居《ゐ》るのであります。で|先般《せんぱん》|満州《まんしう》へ|日出麿《ひでまる》をやりましたのも、さういふ|精神《せいしん》からであります。|先《ま》づ|東三省《とうさんしやう》の|人心《じんしん》を|統一《とういつ》する|事《こと》が|肝腎《かんじん》である。あらゆる|宗教《しうけう》を|人類愛善《じんるいあいぜん》の|大風呂敷《おほぶろしき》で|包《つつ》んで|了《しま》はねばならぬといふ|考《かんが》へで、|人類愛善旗《じんるいあいぜんき》を|飜《ひるがへ》して|満州《まんしう》の|天地《てんち》に|活躍《くわつやく》をして|居《ゐ》るのであります。|私《わたし》|自身《じしん》でも|満州《まんしう》へ|行《い》つて|活動《くわつどう》したいと|思《おも》つて|居《ゐ》ますが、それも|余《あま》り|慌《あわ》ててもいかぬし|落付《おちつ》きすぎて|機《き》を|逸《いつ》してもいかぬ。|恰度《ちやうど》|六月《ろくぐわつ》|時分《じぶん》の|柿《かき》は|未《ま》だ|渋《しぶ》いが、|九月《くぐわつ》から|十月《じふぐわつ》|頃《ごろ》になると|熟《じゆく》して|美味《おい》しくなつて|柿《かき》の|木《き》の|下《した》に|行《ゆ》くと、|何《なに》もしないでも|味《あぢ》のよいのが|落《お》ちて|来《く》る。|約《つま》り|熟柿《じゆくし》の|落《お》ちる|迄《まで》|待《ま》つのが|一番《いちばん》|賢明《けんめい》なやり|方《かた》である、と|云《い》つても|只《ただ》ジツとして|居《ゐ》るのではない。それ|迄《まで》に|総《すべ》ての|準備《じゆんび》を|整《ととの》へて|置《お》かぬと|熟柿《じゆくし》も|拾《ひろ》へないのであります。
それで|信者《しんじや》の|中《なか》には『もう|行《ゆ》かれさうなものである。|何時《いつ》|行《ゆ》かれるか|何時《いつ》|行《ゆ》かれるか』と|尋《たづ》ねる|人《ひと》があるが、さう|簡単《かんたん》なものではない、|大《おほ》きな|仕事《しごと》である。|日本《につぽん》の|明治維新《めいぢゐしん》でも|当時《たうじ》|内地人《ないちじん》は|三千万《さんぜんまん》であつたが、|矢張《やは》り|憲法《けんばふ》|発布《はつぷ》|迄《まで》には|廿三年《にじふさんねん》かかつて|居《ゐ》るのであります。|同《おな》じく|不思議《ふしぎ》にも|三千万人《さんぜんまんにん》の|東三省《とうさんしやう》の|人《ひと》──|此処《ここ》にはロシア|人《じん》も|居《ゐ》れば|支那人《しなじん》も|居《ゐ》る。|西洋人《せいやうじん》も|居《を》れば|日本人《につぽんじん》も|居《ゐ》る、|又《また》|朝鮮人《てうせんじん》も|居《ゐ》る。かういふ|様《やう》なゴチヤゴチヤの|人種《じんしゆ》が|集《あつま》り|面積《めんせき》は|殆《ほとん》ど|東三省《とうさんしやう》だけで|日本《につぽん》の|三倍《さんばい》もありますが、|日本《につぽん》の|同《おな》じ|人種《じんしゆ》、|同胞《どうはう》で|廿年《にじふねん》かかつた、それに|今《いま》|満蒙《まんもう》を|統一《とういつ》しようとするのですから、|神様《かみさま》の|徳《とく》によつて|割《わり》とたやすく|出来《でき》るとは|思《おも》ふのでありますが、|皆様《みなさま》が|考《かんが》へて|居《を》られる|様《やう》な|容易《ようい》な|事《こと》ではないのであります。それに|就《つい》ては|私《わたし》は|非常《ひじやう》に|責任《せきにん》を|感《かん》じて|居《ゐ》るのであります。|心《こころ》は|千々《ちぢ》にはやつて|居《を》ります。|心《こころ》の|駒《こま》は|足掻《あがき》してゐます。けれどもこの|手綱《たづな》を|引《ひ》きしめて|愈々《いよいよ》といふ|時《とき》を|考《かんが》へるといふ|事《こと》が|最《もつと》も|必要《ひつえう》な|事《こと》でありますから、|落付《おちつ》いて|時《とき》の|来《く》るのを|待《ま》つて|居《ゐ》るのであります。
|今日《けふ》は|出口《でぐち》|澄子《すみこ》の|誕生祭《たんじやうさい》でもあります。|又《また》|節分祭《せつぶんさい》でもあります。この|節分《せつぶん》といふ|事《こと》はこれは|冬《ふゆ》から|春《はる》にかはるのであるが、|天《てん》の|陽気《やうき》は|節分《せつぶん》が|冬《ふゆ》の|真中《まんなか》になつてゐるのであります。|節分《せつぶん》がすめば|大寒《たいかん》になつて|来《く》る。|皆《みな》は|節分《せつぶん》が|来《く》れば|春《はる》と|思《おも》ふけれども|少《すこ》しも|暖《あたた》かくならぬ。|旧《きう》の|二月《にぐわつ》にならぬと、|梅《うめ》の|花《はな》が|咲《さ》かぬ|様《やう》に、|矢張《やはり》|未《ま》だこれから|寒《さむ》くなる。|然《しか》し、この|冬《ふゆ》といふものは|万物《ばんぶつ》|雌伏《しふく》の|時代《じだい》である。|人間《にんげん》も|矢張《やは》り|雌伏《しふく》する|時代《じだい》であつて|大《おほ》いに|考《かんが》へねばならぬ|時《とき》である。|軽挙妄動《けいきよまうどう》をつつしんで|極《ご》く|着実《ちやくじつ》に|一年中《いちねんぢう》の|事《こと》|或《あるひ》は|将来《しやうらい》の|事《こと》を|考《かんが》へるのには|今《いま》が|最《もつと》も|適当《てきたう》な|時期《じき》だと|思《おも》ふのであります。で|私《わたし》もそれに|倣《なら》つて|非常《ひじやう》に──|若槻《わかつき》さんぢやないが|深甚《しんじん》の|考慮《かうりよ》を|払《はら》つて|居《ゐ》るのであります。|今迄《いままで》は|若槻《わかつき》さんを|嘘《うそ》つき|礼次郎《れいじらう》と|云《い》つて|居《ゐ》るものがあつたが、|今度《こんど》は|犬養首相《いぬかひしゆしやう》は|修練《しうれん》による|心境《しんきやう》の|変化《へんくわ》と|云《い》つて|居《ゐ》る。|嘘《うそ》を|云《い》つても|心境《しんきやう》の|変化《へんくわ》と|云《い》へばすんでゐるといふ|事《こと》は、|今日《こんにち》の|日本《につぽん》としては|面白《おもしろ》くない|事《こと》と|思《おも》ひますけれども、|併《しか》しさういふ|大臣《だいじん》の|言葉《ことば》は|今《いま》の|日本国民《につぽんこくみん》の|精神《せいしん》を|代表《だいへう》して|居《ゐ》るのであります。|併《しか》し|吾々《われわれ》は|始《はじ》めから|終始一貫《しゆうしいつくわん》|何処《どこ》|迄《まで》も|心境《しんきやう》の|変化《へんくわ》をせない|様《やう》に|貫徹《くわんてつ》したいものであります。
かう|云《い》つて|居《を》りましても、|時期《じき》の|変化《へんくわ》によつて、|約《つま》り|心境《しんきやう》の|変化《へんくわ》ではなく|時期《じき》の|変化《へんくわ》によつて|三月《さんぐわつ》に|飛《と》び|出《だ》すか、|五月《ごぐわつ》に|飛《と》び|出《だ》すか、それとも|本年中《ほんねんぢう》|飛《と》び|出《だ》さないかも|知《し》れませぬ。そこをよく|考《かんが》へて|貰《もら》はぬと、もどかしがつて|貰《もら》ふと|困《こま》ります。|今度《こんど》の|事《こと》は|重大《ぢうだい》であるから|沈黙《ちんもく》を|守《まも》つて|居《ゐ》る。よい|加減《かげん》な|事《こと》であつたならば、とうに|騒《さわ》いで|行《い》つたのである。この|前《まへ》に|蒙古《もうこ》に|行《い》つた|時《とき》と|今度《こんど》は|違《ちが》ふ。あの|時《とき》は|兎《と》も|角《かく》|先鞭《せんべん》をつけて|置《お》きたい、|成功《せいこう》するせぬは|別《べつ》として、|日本国民《につぽんこくみん》に|満蒙《まんもう》といふ|事《こと》を|今《いま》の|中《うち》に|力強《ちからづよ》く|意識《いしき》させておかねば|日本《につぽん》は|滅《ほろ》びると|思《おも》つたのであります。この|点《てん》|満蒙問題《まんもうもんだい》に|先鞭《せんべん》をつけた|事《こと》は|非常《ひじやう》に|効力《かうりよく》があつたのであります。
|蒙古人《もうこじん》はかういふ|事《こと》を|云《い》つて|居《ゐ》る、『|黒蛇《くろへび》が|世界中《せかいぢう》を|取巻《とりま》くその|時《とき》に|愈々《いよいよ》|世《よ》の|立替《たてかへ》があつて|弥勒仏《マイダレポロハナ》が|現《あらは》れ|蒙古《もうこ》の|国《くに》を|救《すく》はれる。その|時《とき》は|禽獣草木《きんじうさうもく》が|人語《じんご》を|囀《さへづ》る』と。|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》は|木《き》や|草《くさ》──|民草《たみぐさ》と|云《い》へばこれは|人間《にんげん》の|事《こと》であります。|木《き》や|草《くさ》がものを|云《い》ふ、|所謂《いはゆる》|普選《ふせん》になつて|蛙切《かはずき》りでも、|田子作《たごさく》でも、|議員《ぎゐん》とかなんとかいふものになつて、ものを|云《い》ふ|時《とき》になつて|居《ゐ》る。|黒蛇《くろへび》といふ|事《こと》は|鉄道《てつだう》といふ|謎《なぞ》で、|已《すで》にシベリヤ|線《せん》が|出来《でき》て|蒙古《もうこ》を|取《と》り|巻《ま》いて|了《しま》つてゐる。かういふ|予言《よげん》があり、|然《しか》も|初《はじ》めて|私《わたし》が|行《い》つた|時《とき》は|六百六十六年目《ろくぴやくろくじふろくねんめ》に|当《あた》つてゐた。|六百六十六《ろくぴやくろくじふろく》の|獣《けだもの》といふ|事《こと》がありますが、|六六六《ろくろくろく》といふ|事《こと》は|非常《ひじやう》に|意義《いぎ》のある|事《こと》であります。|六六六《ろくろくろく》はミロクであるから──|家《いへ》を|建《た》てるのにも|天地《てんち》|上下《じやうげ》が|揃《そろ》はないと|駄目《だめ》である。その|時《とき》から|本年《ほんねん》は|恰度《ちやうど》|八年《はちねん》になつて|居《を》ります。|六百六十六年《ろくぴやくろくじふろくねん》──|六百七十四年《ろくぴやくしちじふよねん》になつて|居《ゐ》る。|吾々《われわれ》|大本信者《おほもとしんじや》は|云《い》ふに|及《およ》ばず、|日本国民《につぽんこくみん》|全体《ぜんたい》が|鉢巻《はちまき》をして|大《おほ》いに|考《かんが》へ、|大《おほ》いに|尽《つく》さねばならぬ|時《とき》が|来《き》たのでありますから、|吾々《われわれ》は|世界《せかい》の|戦争《せんそう》が|起《おこ》る、|或《あるひ》は|日本《につぽん》は|世界《せかい》を|相手《あひて》に|戦《たたか》はねばならぬといふ|悲壮《ひさう》なる|覚悟《かくご》を|要《えう》する|時《とき》だと|思《おも》ふのであります。
(昭和七・二・四 みろく殿に於ける講演──三月号「神の国」誌)
|世界経綸《せかいけいりん》の|第一歩《だいいつぽ》
|愈々《いよいよ》|本年《ほんねん》は|十二万年《じふにまんねん》に|一度《いちど》の|甲子《きのえね》の|年《とし》であります。|人類《じんるい》が|発生《はつせい》してから、|学者《がくしや》の|説《せつ》によれば、|十万年《じふまんねん》とか|五十万年《ごじふまんねん》とか|色々《いろいろ》|言《い》つてゐる|様《やう》ですが、|実際《じつさい》は|地球《ちきう》の|修理固成《しうりこせい》が|出来《でき》て|最初《さいしよ》に|人間《にんげん》の|形《かたち》を|以《もつ》て|現《あら》はれ|玉《たま》ふたのが|大国常立尊《おほくにとこたちのみこと》であります。|甲子《かふし》はすべてが|更始《かうし》となり|元《もと》へもどることであり、|艮《うしとら》は|初《はじ》めであり|艮《かた》めでありまして、|愈々《いよいよ》|大神様《おほかみさま》の|神徳《しんとく》が|顕現《けんげん》される|時期《じき》であります。|今日《こんにち》|迄《まで》は|魂研《たまみが》きの|時代《じだい》であり、|練習《れんしふ》の|時代《じだい》でありましたが、|愈々《いよいよ》|甲子《かふし》の|年《とし》からは|挙国一致《きよこくいつち》して|事《こと》に|当《あた》らねばならぬのであります。|大本《おほもと》に|因縁《いんねん》あつて|集《あつ》まられた|人々《ひとびと》から、|先《ま》づ|世界《せかい》の|大立替《おほたてかへ》|大立直《おほたてなほ》しの|型《かた》を|出《だ》さねばならぬ|事《こと》になつて|参《まゐ》つたのであります。|併《しか》し|皆《みな》さまが|協力《けふりよく》|一致《いつち》せなくては|大神業《だいしんげふ》は|成就《じやうじゆ》せない。たとへば|一本《いつぽん》の|矢《や》はごく|弱《よわ》いものであり、すぐ|折《を》れるが、|何本《なんぼん》か|固《かた》まれば|中々《なかなか》|強《つよ》く|容易《ようい》に|挫折《ざせつ》せないものです。|今日《こんにち》|迄《まで》の|大本《おほもと》は|世界《せかい》の|状態《じやうたい》が|映《うつ》つて|個々分立《ここぶんりつ》し、|祝詞文中《のりとぶんちう》の『|己《おの》が|向々《むきむき》』で|上《うへ》を|向《む》いたもの、|下《した》を|向《む》いたもの、|或《あるひ》は|右《みぎ》を、|左《ひだり》を、|天国《てんごく》を、|地獄《ぢごく》を、|艮《うしとら》を、|坤《ひつじさる》をと|云《い》つた|具合《ぐあひ》に|個々別々《ここべつべつ》に|向《むか》つてゐたが、|之《これ》では|神業《しんげふ》の|完成《くわんせい》どころか|却《かへつ》て|妨害《ばうがい》になる。|祝詞文《のりとぶん》の|中《なか》の『|己《おの》が|向々《むきむき》|有《あ》らしめず』の|聖句《せいく》の|通《とほ》り、|信者《しんじや》|一般《いつぱん》が|協同《けふどう》|一致《いつち》して|事《こと》に|当《あた》らねばなりませぬ。
|神諭《しんゆ》に『|誠《まこと》の|分《わか》つた|役員《やくいん》|三人《さんにん》あれば|立派《りつぱ》に|神業《しんげふ》が|完成《くわんせい》される』とお|示《しめ》しになつてゐますが、|小《ちひ》さい|胡麻粒《ごまつぶ》|一《ひと》つが|元子《げんし》となつて|金米糖《こんぺいたう》が|出来《でき》るやうに、|役員《やくゐん》|三人《さんにん》の|心《こころ》が|合《あ》ひさへすれば、それが|元《もと》になつて|正義《せいぎ》の|団体《だんたい》が|固《かた》まり|追々《おひおひ》と|大《おほ》きなものになり、どんなことでも|成就《じやうじゆ》するでせう。|併《しか》し|単《たん》に|只《ただ》|三人《さんにん》だけでは|最後《さいご》の|艮《とど》めは|刺《さ》せないので、|神様《かみさま》は|止《や》むを|得《え》ざる|場合《ばあひ》を|慮《おもむばか》り|玉《たま》ふて、|三人《さんにん》でもとの|意味《いみ》をお|示《しめ》しになつてゐるのであります。
|大本《おほもと》の|内部《ないぶ》も|今迄《いままで》は|個々分立《ここぶんりつ》であつたが、|今後《こんご》は|協同《けふどう》|一致《いつち》の|習慣《しふくわん》をつけねば|一朝《いつてう》|事《こと》が|起《おこ》つた|場合《ばあひ》に|頤《あご》を|外《はづ》す|様《やう》な|事《こと》が|出来《でき》てはつまらない。|夫《それ》|故《ゆゑ》いよいよ|今回《こんくわい》の|大改革《だいかいかく》が|断行《だんかう》されたのであります。
|本年《ほんねん》(|十三年《じふさんねん》)は|甲子《きのえね》の|年《とし》で、|神様《かみさま》の|仕組《しぐ》まれたる|世界経綸《せかいけいりん》の|初《はじ》まりとして、|私《わたし》は|今春《こんしゆん》|早々《さうさう》|三人《さんにん》を|引連《ひきつ》れて|遥々《はるばる》と|蒙古入《もうこいり》を|始《はじ》めたのであります。|此《この》|事業《じげふ》は|大《おほ》きな|仕事《しごと》であつて、|神様《かみさま》は|少《すくな》くとも|一ケ年《いつかねん》|位《くらゐ》は|帰国《きこく》さして|下《くだ》さらないと|思《おも》つてゐましたが、|百二十六日《ひやくにじふろくにち》で|日本《につぽん》へ|再《ふたた》び|帰《かへ》ることになつたのは|神界《しんかい》の|思召《おぼしめし》のある|事《こと》で、|大本《おほもと》が|統一《とういつ》して|居《を》らぬ|故《ゆゑ》、これを|統一《とういつ》しておいて|世界《せかい》の|経綸《けいりん》に|着手《ちやくしゆ》すべく|経綸《けいりん》されたものと|考《かんが》へます。|私《わたし》は|帰国後《きこくご》|神様《かみさま》に|伺《うかが》ひ、|今日《こんにち》|迄《まで》の|諸種《しよしゆ》の|陋習《ろうしふ》を|打破《だは》して|適材《てきざい》を|適所《てきしよ》に|配《くば》し、|出来《でき》る|丈《だけ》|新《あたら》しい|空気《くうき》をつくる|事《こと》につとめました。|適材《てきざい》|適所《てきしよ》と|言《い》つても|絶対的《ぜつたいてき》に|適当《てきたう》とは|云《い》へぬ。|神様《かみさま》から|見《み》れば|皆《みな》|一様《いちやう》に|不完全《ふくわんぜん》であるから、|神様《かみさま》の|命令《めいれい》で|選《えら》まれた|人々《ひとびと》が、|何《なに》も|出来《でき》ない、|神様《かみさま》も|目《め》が|見《み》えないとか|何《なん》とか|不平《ふへい》や|小言《こごと》を|云《い》はないで、|少時《しばらく》|時節《じせつ》を|待《ま》つて|頂《いただ》きたい。|凡《すべ》て|物《もの》は|不完全《ふくわんぜん》から|段々《だんだん》と|進《すす》むものでありますから、|御神業《ごしんげふ》が|完成《くわんせい》する|様《やう》に|努《つと》めてほしい。ついては|責任《せきにん》の|地位《ちゐ》に|立《た》つ|人《ひと》をそれぞれお|願《ねが》ひしたのでありますから、|皆《みな》それぞれ|助《たす》け|合《あ》つてつとめて|頂《いただ》き|度《た》いものであります。
(大正一四・一・二五号「神の国」誌)
|蒙古建国《もうこけんこく》
ものいはぬ|畜生《ちくしやう》ながら|愛《あい》されし|人《ひと》のなやみを|案《あん》じ|居《を》るらし
|金竜《きんりう》は|行儀《ぎやうぎ》よき|馬《うま》|銀竜《ぎんりう》は|道《みち》かけりつつ|屁《へ》をひり|放《はな》つ
|写真機《しやしんき》を|携《たづさ》へ|奉天城《ほうてんじやう》たちて|萩原《はぎはら》|敏明《としあき》|進《すす》み|来《きた》れり
|素人《しろうと》の|萩原《はぎはら》|敏明《としあき》わがために|後《のち》の|記念《きねん》と|写真《しやしん》にいそしむ
|白凌閣《パイリンク》|松村《まつむら》|伴《ともな》ひ|〓児河畔《トールかはん》の|森林《しんりん》|深《ふか》く|入《い》りて|遊《あそ》べり
|折《をり》もあれ|人喰人種《ひとくひじんしゆ》の|一隊《いつたい》はわが|目路《めぢ》|近《ちか》く|騎乗《きじやう》すすみ|来《く》
|三人《さんにん》は|柳《やなぎ》の|古木《こぼく》の|朽穴《くちあな》に|身《み》をかくしつつ|難《なん》を|逃《のが》れし
|三人《さんにん》はてんでにモーゼルかざしつつよらばうたむと|身《み》がまへて|居《を》り
|食人種《しよくじんしゆ》われらのあるを|知《し》らざるか|五十騎《ごじつき》ばかり|通《とほ》り|過《す》ぎゆく
|朽穴《くちあな》ゆわれと|松村《まつむら》|顔出《かほだ》して|萩原技手《はぎはらぎしゆ》のカメラに|入《い》りたり
ゆけどゆけど|際限《さいげん》もなきさ|緑《みどり》の|山《やま》に|匂《にほ》へるあんずの|紅花《べにばな》
あかあかと|匂《にほ》ふあんずの|花《はな》|見《み》つつ|知《し》らず|知《し》らずに|山《やま》|深《ふか》く|入《い》る
|白凌閣《パイリンク》|温長興《ワンチヤンシン》を|従《したが》へてひづめの|音《おと》も|勇《いさ》ましき|夏《なつ》
|新緑《しんりよく》のもゆる|川辺《かはべ》に|大《おほ》いなる|館《やかた》|七《なな》|八《や》つ|並《なら》びてありけり
|騎上《きじやう》ながら|川《かは》を|横《よこ》ぎり|何人《なにびと》の|館《やかた》か|知《し》らず|門《もん》たたき|見《み》し
|白凌閣《パイリンク》を|通訳《つうやく》としておとなへば|女馬賊《をんなばぞく》の|頭目《とうもく》の|館《やかた》
このあたり|保安《ほあん》の|権《けん》を|握《にぎ》りたる|女馬賊《をんなばぞく》の|蘿龍《ラリウ》が|家《いへ》なり
|日支蒙《につしもう》の|三人連《さんにんづ》れの|遠《とほ》の|旅《たび》|茶《ちや》を|与《あた》へよとかけ|合《あ》ひにけり
|獰猛《だうもう》な|面《おも》ざししたる|馬賊連《ばぞくれん》|銃剣《じゆうけん》|携《たづさ》へわれをとりまく
|大銀貨《たいあん》を|百枚《ひやくまい》|出《だ》して|与《あた》ふればにはかに|変《かは》る|馬賊《ばぞく》のたいど
この|人《ひと》は|日出《ひい》づる|国《くに》の|聖者《せいじや》よと|蒙古語《もうこご》もちて|白凌閣《パイリンク》のれり
|日本《につぽん》より|聖者《せいじや》の|来《きた》るこの|年《とし》をまちしと|馬賊《ばぞく》|合掌《がつしやう》を|為《な》す
|三千《さんぜん》の|馬賊《ばぞく》|率《ひき》ゆる|頭目《とうもく》はわが|前《まへ》にたちピストルを|向《む》くる
|其《そ》の|方《はう》は|日本人《につぽんじん》に|非《あら》ずやと|容易《ようい》に|日本語《にほんご》|使《つか》ふ|頭目《とうもく》
われこそは|日本《につぽん》の|出口《でぐち》と|答《こた》ふれば|面《おも》くもらせてうつむく|頭目《とうもく》
ともかくもわが|居間《ゐま》に|来《きた》れと|頭目《とうもく》はわれを|導《みちび》き|一間《ひとま》に|入《い》れり
うらわかき|女馬賊《をんなばぞく》の|頭目《とうもく》に|導《みちび》かれつつ|奥《おく》の|間《ま》に|入《い》る
|白凌閣《パイリンク》|温長興《ワンチヤンシン》を|待《ま》たせおきて|頭目《とうもく》とわれ|語《かた》らひにけり
|日《ひ》の|本《もと》の|声名《せいめい》|高《たか》き|君《きみ》にして|蒙古《もうこ》に|来《き》ますは|何故《なにゆゑ》と|問《と》ふ
|日《ひ》の|本《もと》の|国《くに》の|司《つかさ》にいれられず|蒙古《もうこ》に|国《くに》を|建《た》てむと|来《きた》れり
なつかしも|日本人《につぽんじん》と|聞《き》く|上《うへ》はわが|素性《すじやう》をば|明《あか》さむといふ
わが|父《ちち》は|王文泰《わうぶんたい》と|名乗《なの》りつつ|北清事変《ほくしんじへん》に|働《はたら》きし|人《ひと》
われもまた|王文泰《わうぶんたい》と|仮名《かめい》すと|名刺《めいし》を|出《だ》して|彼《かれ》に|示《しめ》せり
|不思議《ふしぎ》なる|事《こと》よと|女頭目《をんなとうもく》はつくづく|名刺《めいし》に|目《め》を|注《そそ》ぎ|居《を》り
わが|父《ちち》は|日本《につぽん》の|生《うま》れ|事情《じじやう》ありて|日《ひ》かげの|身《み》よとうち|伏《ふ》して|泣《な》く
わが|父《ちち》は|日清戦争《につしんせんそう》のありし|時《とき》|台湾島《たいわんたう》より|逃《のが》れ|来《き》し|人《ひと》
わが|父《ちち》は|蘿《ひかりかづら》の|身《み》にしあれば|蘿清吉《ラシンキツ》とぞ|名乗《なの》りゐたりき
わが|胸《むね》にあたるは|日清戦争《につしんせんそう》と|清吉《せいきち》といふ|名《な》にぞありける
|若《も》しや|若《も》しわれの|尋《たづ》ぬる|人《ひと》にもやと|思《おも》へば|胸《むね》はかき|乱《みだ》れつつ
わが|父《ちち》は|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|日《ひ》の|本《もと》の|空《そら》に|向《むか》ひて|合掌《がつしやう》したりき
われも|亦《また》|日本《につぽん》の|空《そら》のなつかしく|朝陽《あさひ》に|向《むか》ひ|手《て》を|合《あは》すなり
わが|母《はは》は|蒙古《もうこ》の|生《うま》れ|蘿水玉《ラスイギヨク》よ|七年以前《しちねんいぜん》にこの|世《よ》を|去《さ》れり
|巴布札布《パプチヤツプ》の|独立軍《どくりつぐん》に|三千騎《さんぜんき》|父《ちち》は|率《ひき》ゐて|加勢《かせい》なしたり
わが|父《ちち》は|張作霖《ちやうさくりん》の|奸計《かんけい》にあざむかれつつ|殺《ころ》されにけり
わが|父《ちち》の|殺《ころ》されし|時《とき》は|苗草《なへぐさ》の|未《ま》だ|十六《じふろく》の|春《はる》なりにけり
|三千騎《さんぜんき》の|部下《ぶか》を|率《ひき》ゐてわが|父《ちち》のあとおそひつつ|頭目《とうもく》となりぬ
|何処《どこ》となく|初《はじ》めて|見《み》たる|心地《ここち》せず|語《かた》らふうちに|親《した》しくなりぬ
われこそは|未《ま》だ|二十一《にじふいち》の|女盛《をんなざか》り|父《ちち》の|仇《かたき》を|打《う》たむとてなく
|滅《ほろ》び|行《ゆ》く|蒙古《もうこ》を|興《おこ》し|国《くに》|建《た》つる|雄々《をを》しき|君《きみ》に|従《したが》はむと|願《ねが》ふ
|蒙古《もうこ》には|生《うま》れたれども|父《ちち》の|血《ち》の|流《なが》るる|大和撫子《やまとなでしこ》といふ
いろいろと|心尽《こころづく》しの|御馳走《ごちそう》にわれほだされて|一夜《いちや》を|泊《とま》れり
|白凌閣《パイリンク》|温長興《ワンチヤンシン》も|諸共《もろとも》にわが|隣室《りんしつ》を|守《まも》りつつねむる
|軍犬《ぐんけん》の|声《こゑ》|裏山《うらやま》にこだましていと|騒《さわ》がしき|夜半《よは》を|起《お》き|出《い》づ
|何事《なにごと》とわれたづぬれば|微笑《ほほゑ》みつ|蘿龍《ラリウ》は|部下《ぶか》の|帰《かへ》りしと|答《こた》ふ
|月《つき》|清《きよ》き|庭《には》にたち|出《い》で|蘿龍《ラリウ》とわれ|日出国《ナランオロス》の|話《はなし》にふける
|夏《なつ》の|夜《よ》は|忽《たちま》ちあけて|向《むか》つ|尾《を》のあんずの|花《はな》に|輝《かがや》く|朝津陽《あさつひ》
あかあかと|山《やま》|一面《いちめん》に|咲《さ》き|匂《にほ》ふあんずの|花《はな》の|目《め》にさゆる|朝《あさ》
|庭先《にはさき》の|限《かぎ》りも|知《し》らぬ|芝《しば》の|生《ふ》に|蘿龍《ラリウ》は|観兵式《くわんぺいしき》を|行《おこな》ふ
|三千騎《さんぜんき》の|駒《こま》のいななき|高々《たかだか》と|四囲《よも》の|山々《やまやま》どよもしにけり
|頭目《とうもく》の|蘿龍《ラリウ》は|馬上《ばじやう》|高《たか》くたちて|吾《われ》に|誓《ちか》ひし|事《こと》を|伝《つた》へり
わが|帰《かへ》り|送《おく》らむとしていや|先《さき》に|頭目《とうもく》はたち|部下《ぶか》と|送《おく》り|来《く》る
|一斉《いつせい》に|馬賊《ばぞく》のうたをうたひつつ|数百《すうひやく》の|騎士《きし》はわれを|送《おく》れり
わが|前《まへ》に|進《すす》む|蘿龍《ラリウ》はふり|返《かへ》り|日本《にほん》は|神《かみ》の|国《くに》よと|叫《さけ》べり
|何《なん》となく|雄々《をを》しき|君《きみ》よなつかしと|開《あ》けつ|放《ぱな》しの|蘿龍《ラリウ》の|言《こと》の|葉《は》
われも|亦《また》|蘿龍《ラリウ》のやさしき|言《こと》の|葉《は》に|心《こころ》の|綱《つな》はゆるみ|初《そ》めたり
|待《ま》てしばしわれは|益良夫《ますらを》|国《くに》|建《た》つるまでは|動《うご》かじこの|雄心《をごころ》を
|数百騎《すうひやくき》を|従《したが》へ|花《はな》の|野辺《のべ》をゆく|蒙古《もうこ》のわれは|華《はな》やかなりけり
|頭目《とうもく》の|日本語《にほんご》|覚《おぼ》えし|馬賊《ばぞく》|等《ら》は|声《こゑ》も|清《すが》しく|歌《うた》ひ|従《したが》ふ
|国《くに》|遠《とほ》み|蒙古《もうこ》の|空《そら》に|日本語《にほんご》の|歌《うた》|聞《き》くわれは|心《こころ》|強《つよ》かり
みめかたち|衆《しう》にすぐれてうるはしき|蘿龍《ラリウ》の|案内《あない》を|愛《め》ぐしと|思《おも》へり
わが|父《ちち》に|似《に》ませる|君《きみ》とこの|蘿龍《ラリウ》つくづく|見《み》つつ|涙《なみだ》ぐみ|居《を》り
|回天《くわいてん》の|君《きみ》が|事業《じげふ》に|仕《つか》へむと|胸《むね》を|打《う》ちつつ|雄猛《をたけ》ぶ|蘿龍《ラリウ》
|君《きみ》が|辺《べ》をしばし|離《はな》れて|従軍《じゆうぐん》の|用意《ようい》|為《な》さむと|駒《こま》にまたがる
|駒《こま》の|上《うへ》にまたがり|後《あと》をふり|返《かへ》り|名残《なご》り|惜《を》しげにわかれゆきけり
|六月《ろくぐわつ》の|一日《いちじつ》|軍事行動《ぐんじかうどう》をいよいよわれは|開始《かいし》なしたり
この|蘿龍《ラリウ》|三千余騎《さんぜんよき》を|従《したが》へて|別働隊《べつどうたい》となりて|働《はたら》く
パインタラにわれ|破《やぶ》れしと|聞《き》くよりも|蘿龍《ラリウ》は|〓南県《たうなんけん》を|襲《おそ》へり
|〓南県《たうなんけん》|縦横無尽《じうわうむじん》に|荒《あ》れ|廻《まは》り|遂《つひ》に|白音太拉《パインタラ》に|進《すす》めり
|蘿龍軍《ラリウぐん》の|馮河暴虎《ひようかばうこ》の|勢《いきほひ》も|運命《うんめい》|尽《つ》きて|捕《とら》へられたり
|二十二《にじふに》の|春《はる》も|迎《むか》へずこの|蘿龍《ラリウ》|甲子《かふし》の|冬《ふゆ》を|散《ち》り|失《う》せにけり
|蒙古馬賊《もうこばぞく》|頭目《とうもく》|部下《ぶか》を|引《ひ》きつれて|索倫山《ソーロンざん》に|集《あつま》り|来《きた》る
|軍事一切《ぐんじいつさい》|盧占魁《ろせんくわい》|中将《ちうじやう》に|任《まか》せおきてわれ|奥蒙《おくもう》の|山野《さんや》に|遊《あそ》べり
|枯草《かれくさ》の|野《の》に|火《ひ》を|放《はな》てば|山孔雀《やまくじやく》|野兎《のうさぎ》|驚《おどろ》き|数多《あまた》|飛《と》び|出《だ》す
|奥蒙古《おくもうこ》の|春《はる》はたけたり|山野《さんや》|一面《いちめん》コルギホワラの|花《はな》|咲《さ》きみちて
コルギホワラ|処《ところ》せきまで|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|蒙古《もうこ》の|野辺《のべ》は|楽《たの》しかりけり
|金竜《きんりう》にわれはまたがり|名田大佐《なだたいさ》|銀竜《ぎんりう》に|乗《の》りて|山野《さんや》に|遊《あそ》ぶ
|名田大佐《なだたいさ》|騎馬《きば》の|達者《たつしや》をほこらひて|蒙古《もうこ》の|部落《ぶらく》にひとりかけ|入《い》る
かけ|入《い》りし|名田氏《なだし》の|姿《すがた》|見《み》るよりも|数十頭《すうじつとう》のシーゴーにかこまる
|狼《おほかみ》と|犬《いぬ》と|番《つが》ひしあひのこのシーゴーこそは|猛犬《まうけん》なりけり
シーゴーは|馬《うま》の|尻尾《しつぽ》にかみつきて|名田氏《なだし》|一人《ひとり》を|取《と》りまき|吠《ほ》ゆる
|群犬《ぐんけん》の|吠《ほ》えたつ|声《こゑ》に|驚《おどろ》きて|白凌閣《パイリンク》したがへわれかけつけたり
シーゴーは|鬼歯《おにば》むき|出《だ》し|大口《おほぐち》をあけて|名田氏《なだし》をとりまきにけり
|人《ひと》を|喰《く》ふ|猛犬《まうけん》シーゴーはわが|姿《すがた》|見《み》るより|又《また》も|飛《と》びつき|来《きた》る
|金竜《きんりう》に|鞭《むち》うちわれは|猛犬《まうけん》の|中《なか》にかけ|入《い》りふみにじらせり
つぎつぎに|声《こゑ》をききつけシーゴーは|波《なみ》の|如《ごと》くに|集《あつま》り|来《きた》る
あやまちて|名田氏《なだし》は|馬上《ばじやう》より|転落《てんらく》しあやふく|犬《いぬ》にかまれむとせり
|白凌閣《パイリンク》|猛犬《まうけん》の|上《うへ》に|駒《こま》|飛《と》ばせかけり|狂《くる》へるさま|勇《いさ》ましき
|漸《やうや》くに|名田氏《なだし》あやふく|馬《うま》に|乗《の》り|一目散《いちもくさん》に|逃《に》げ|出《いだ》しけり
|吾《わ》が|駒《こま》は|勇《いさ》みに|勇《いさ》みわが|指揮《しき》のまま|猛犬《まうけん》をけ|散《ち》らし|戦《たたか》ふ
シーゴーもわが|勢《いきほひ》におそれけむ|次第々々《しだいしだい》に|後《あと》しざりする
シーゴーの|群《むれ》をのがれて|白凌閣《パイリンク》と|一目散《いちもくさん》に|駒《こま》かけ|帰《かへ》る
|上木局子《シヤンモチズ》わが|仮営《かりえい》に|帰《かへ》り|見《み》れば|金竜《きんりう》の|脚《あし》に|犬《いぬ》のかみしあと
シーゴーにかみつかれたる|脚《あし》のきず|血潮《ちしほ》したたるさまのあはれさ
|金竜《きんりう》を|引《ひき》つれ|〓児河《トールボー》の|水《みづ》に|血潮《ちしほ》|洗《あら》ひて|繃帯《はうたい》をなせり
|金竜《きんりう》は|清《きよ》き|川水《かはみず》|呑《の》みながら|声《こゑ》|勇《いさ》ましくいななき|初《そ》めたり
|金竜《きんりう》は|勇《いさ》ましき|馬《うま》はしき|馬《うま》よわが|身辺《しんぺん》に|眼《まなこ》|放《はな》たず
|言問《ことと》ひはせねど|雄々《をを》しき|金竜《きんりう》はわが|朝夕《あさゆふ》を|仕《つか》へ|怠《をこた》らず
ひそみゆくわが|足音《あしおと》を|聞《き》きつけていななき|喜《よろこ》ぶさま|愛《め》ぐしかり
|名田大佐《なだたいさ》|馬上《ばじやう》ゆ|落《お》ちたるその|刹那《せつな》|臀部《でんぶ》を|打《う》ちて|痛《いた》みに|悩《なや》めり
|銀竜《ぎんりう》は|名田氏《なだし》のなやめるさまを|見《み》て|只《ただ》|悲《かな》しげにうつむきて|居《を》り
|蒙古野《もうこの》に|屍《かばね》さらすもいとはまじ|天津乙女《あまつをとめ》のしに|行《ゆ》く|思《おも》へば
|男子《をのこ》われ|蒙古《もうこ》の|荒野《あらの》に|果《は》てむこそ|大和魂《やまとみたま》の|誉《ほまれ》と|思《おも》へり
|朝夕《あさゆふ》をわれ|日《ひ》の|本《もと》に|打《う》ち|向《むか》ひ|御国《みくに》の|栄《さか》へ|祈《いの》りつつゐし
(昭和七・一〇・一五 一〇月号「昭和」誌)
|蒙古《もうこ》の|夢《ゆめ》
その|昔《むかし》  |忽必烈《クブライ》なる
|蒙古《もうこ》の|英雄《えいいう》  |数千隻《すうせんせき》の|戦艦《せんかん》と
|十万《じふまん》の|精兵《せいへい》を|以《もつ》て  |我《わが》|辺境《へんきやう》を|脅《おびや》かし
|其《その》|勢《いきほ》ひ|当《あた》る|可《べか》らず  |神州《しんしう》の|上下《しやうか》
|一時《いちじ》に|震撼《しんかん》し  |畏《かしこ》くも|亀山上皇《かめやまじやうくわう》の
|宸襟《しんきん》を|悩《なや》ませ|奉《たてまつ》る  |時《とき》の|執権《しつけん》|北条時宗《ほうでうときむね》の|勇《ゆう》
|力戦苦闘《りきせんくとう》すれ|共《ども》  |目《め》に|余《あま》る|大軍《たいぐん》
|容易《ようい》に|退陣《たいぢん》の|気配《けはい》|無《な》し  |日本《にほん》|全国《ぜんこく》の|神明《しんめい》
|膺懲《ようちよう》の|神軍《しんぐん》を|起《おこ》して  |敵《てき》を|西海《せいかい》の|波《なみ》に|没《ぼつ》せしむ
アヽ|日本《ひのもと》の|稜威《みいづ》  |神明《しんめい》の|威力《ゐりよく》
|遂《つひ》に|大国難《だいこくなん》を|排除《はいじよ》し|玉《たま》ふ  アヽありがたきかな
|皇天皇土《くわうてんくわうど》の|守護《しゆご》  |敵軍《てきぐん》の|無事《ぶじ》
|帰還《きくわん》せしもの  |僅《わづか》に|三人《さんにん》と|伝《つた》ふ
|蒙古《もうこ》|十万《じふまん》の|精兵《せいへい》  |大敗《たいはい》して|僅《わづか》に|三人《さんにん》を|余《あま》したるは|是《これ》
|日本武人《につぽんぶじん》の|勇《ゆう》にはあらで  |畏《かしこ》くも|亀山上皇《かめやまじやうくわう》の
|岩清水八幡宮《いはしみづはちまんぐう》へ  |御祈願《ごきぐわん》の|結果《けつくわ》
|伊勢《いせ》の|神風《かみかぜ》の|佑助《いうじよ》なりと|云《い》ふ  |吁《ああ》いづこに|日本武人《につぽんぶじん》の|力《ちから》あるか
この|大国辱《だいこくじよく》|大国難《だいこくなん》  |何《いづ》れも|主上《しゆじやう》と|神明《しんめい》の|力《ちから》のみ
|日本男子《につぽんだんし》としての|武勇《ぶゆう》にあらず  |吾等《われら》の|祖先《そせん》は
この|一大侮辱《いちだいぶじよく》を|受《う》けて  |我《わが》|国民《こくみん》の|卑怯《ひけふ》さを
|遺憾《ゐかん》なく|発揮《はつき》せり  |後世《こうせい》の|子孫《しそん》たるもの
|豈《あに》この|侮辱《ぶじよく》に|対《たい》して  |会稽《くわいけい》の|恥《はぢ》を
|雪《そそ》がざる|可《べ》けむや
|日本男子《につぽんだんし》の|気骨《きこつ》を|示《しめ》し  |神国臣民《しんこくしんみん》の
|勇侠心《ゆうけふしん》を|発揮《はつき》し  |歴史《れきし》の|汚点《をてん》を
|払拭《ふつしき》せざるべからず  |吾《われ》|少年《せうねん》の|頃《ころ》より
|此《この》|蒙古襲来《もうこしふらい》に|対《たい》して  |雪辱《せつじよく》の|挙《きよ》に
|出《い》でむと|計《はか》るや  |実《じつ》に|年《とし》|久《ひさ》し
アヽ|日本男子《につぽんだんし》の|本領《ほんりやう》に|対《たい》して
|徒手空拳《としゆくうけん》  |吾《われ》は|三人《みたり》の|同志《どうし》と|共《とも》に
|回天《くわいてん》の|鴻図《こうと》を|抱《いだ》いて  |我《わが》|国威《こくゐ》を|顕彰《けんしやう》し
|神州男子《しんしうだんし》の|精神《せいしん》を  |中外《ちうぐわい》に|暉《かがやか》さむが|為《ため》
|万里遠征《ばんりゑんせい》の|途《と》に|上《のぼ》りぬ  |漠々《ばくばく》たる|内外蒙古《ないぐわいもうこ》の|大原野《だいげんや》
|三軍《さんぐん》を|叱咤《しつた》して  |東亜存栄《とうあそんえい》の|為《ため》に
|雄図《ゆうと》に|就《つ》き  |一時《いちじ》は
|敵軍《てきぐん》の|為《ため》に  |空《むな》しく|帰国《きこく》の|止《や》むなきに|至《いた》りぬ
アヽ|去《さ》れど|去《さ》れど  |吾《われ》は|再《ふたた》び
アヽ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》
(大正一三・一二・一〇号「神の国」誌)
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霊界物語 特別篇 山河草木 入蒙記
終り