霊界物語 第八一巻 天祥地瑞 申の巻
出口王仁三郎
--------------------
●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第八十一巻』天声社
1980(昭和55)年05月05日 五版発行
※総説に図表が二枚あるがテキストでは再現できないので省略した。
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年09月08日作成
2008年06月23日修正
-------------------------
●目次
|総説《そうせつ》 |天地開闢《てんちかいびやく》の|極元《きよくげん》
第一篇 |伊佐子《いさご》の|島《しま》
第一章 イドム|戦《せん》〔二〇二八〕
第二章 |月光山《つきみつやま》〔二〇二九〕
第三章 |月見《つきみ》の|池《いけ》〔二〇三〇〕
第四章 |遷座式《せんざしき》〔二〇三一〕
第五章 |心《こころ》の|禊《みそぎ》〔二〇三二〕
第六章 |月見《つきみ》の|宴《えん》〔二〇三三〕
第二篇 イドムの|嵐《あらし》
第七章 |月音《つきおと》し〔二〇三四〕
第八章 |人魚《にんぎよ》の|勝利《しようり》〔二〇三五〕
第九章 |維新《ゐしん》の|叫《さけ》び〔二〇三六〕
第一〇章 |復古運動《ふくこうんどう》〔二〇三七〕
第三篇 |木田山城《きたやまじやう》
第一一章 |五月闇《さつきやみ》〔二〇三八〕
第一二章 |木田山颪《きたやまおろし》〔二〇三九〕
第一三章 |思《おも》ひの|掛川《かけがは》〔二〇四〇〕
第一四章 |鷺《さぎ》と|烏《からす》〔二〇四一〕
第一五章 |厚顔無恥《こうがんむち》〔二〇四二〕
第四篇 |猛獣思想《まうじうしさう》
第一六章 |亀神《きしん》の|救《すく》ひ〔二〇四三〕
第一七章 |再生再会《さいせいさいくわい》〔二〇四四〕
第一八章 |蠑〓《いもり》の|精《せい》〔二〇四五〕
第一九章 |悪魔《あくま》の|滅亡《めつばう》〔二〇四六〕
第二〇章 |悔悟《くわいご》の|花《はな》〔二〇四七〕
------------------------------
|総説《そうせつ》 |天地開闢《てんちかいびやく》の|極元《きよくげん》
|至大浩々漂々恒々《しだいかうかうへうへうかうかう》として|撒霧《さんむ》たる|◎《ス》の|時《とき》に|於《おい》て、その|機約《きやく》の|両極端《りやうきよくたん》に|対照力《タタノチカラ》を|起《おこ》して、|恒々湛々《かうかうたんたん》たるが|故《ゆゑ》に、その|至大《しだい》の|両極端《りやうきよくたん》に|対照力《タタノチカラ》を|保《たも》ちて、|至大《しだい》|悉《ことごと》く|両々《りやうりやう》|相対照《あひたいせう》して|其《そ》の|機威《きゐ》の|中間《ちうかん》を|極微点《コゴコ》の|連珠絲《サヌキ》が|掛《か》け|繋《つな》ぎ、|比々隣々《ならびならびとなりて》ヒシト|充実《じつじつ》|極《きは》まり|居《を》る|也《なり》。|然《しか》れども|気形《きけい》|透明体《とうめいたい》なるが|故《ゆゑ》に|人《ひと》の|眼《まなこ》には|見《み》えざるなり。|見《み》えねども|此《こ》の|連珠絲《サヌキ》が|霊気《れいき》を|保《たも》ちて|初《はじ》めて|至大天球《たかあまはら》を|造《つく》る|時《とき》に、|対照力《タタノチカラ》を|以《もつ》て|至大《しだい》の|外面《ぐわいめん》を|全《まつた》く|張《は》り|詰《つま》りて|球《たま》と|成《な》りし|也《なり》。|蓋《けだ》し|極元《きよくげん》の|◎《ス》は|至大浩々漠々漂々恒々《しだいかうかうばくばくへうへうかうかう》として、|花形《はながた》を|如《な》して|凹凸《あふとつ》として|呼吸《こきふ》を|保《たも》てり。|然《しか》り|而《しかう》して|其《そ》の|平輪分《へいりんぶん》の|所《ところ》に|於《おい》て|対照力《タタノチカラ》を|起《おこ》して|其《そ》の|外面《ぐわいめん》を|対照力《タタノチカラ》にて|氷張《ひは》り、|全《まつた》く|張《は》り|詰《つ》めて|至大天球《たかあまはら》となりたる|也《なり》。
|故《ゆゑ》に|其《そ》の|凸所《とつしよ》に|居《ゐ》て|局珠外《たまのそとら》と|成《な》りて|鰭《ひれ》となりたる|極微点《コゴコ》は、|張《は》り|詰《つ》めたる|其《そ》の|珠《たま》を|塗《ぬ》りて|競《きそ》ひて|球内《きうない》に|入《い》らむと|欲《ほつ》し、|東岸部《とうがんぶ》、|西岸部《せいがんぶ》に|門《もん》を|得《え》て|局中《きよくちう》に|押入《おしい》らむと|欲《ほつ》し、|自然《しぜん》の|勢力《せいりよく》を|得《え》て|押入《おしい》る。ここに|於《おい》て|其《そ》の|初《はじ》めの|対照力《タタノチカラ》に|氷張《ひは》り|詰《つ》められて、|既《すで》に|球中《きうちう》に|固有《こいう》する|所《ところ》の|極微点《コゴコ》の|連珠絲《サヌキ》の|気《き》を|中央《ちうあう》に|押《お》す、その|押《お》されたる|気《き》は|北極《ほくきよく》、|南極《なんきよく》に|向《むか》ひて|走《はし》り|去《さ》る。その|走《はし》り|去《さ》り|出《で》たる|気《き》は|亦復《またまた》|球《たま》の|外面《ぐわいめん》を|塗《ぬ》りて、|東岸部《とうがんぶ》、|西岸部《せいがんぶ》に|来《きた》りて|亦復又《またまたまた》|球中《きうちう》に|入《い》りつつ、|端《はし》なく|循環運行《じゆんくわんうんかう》しつつ|永世無窮《えいせいむきう》に、|尾《を》なく|果《はて》なく|終《をは》りなく|本末《ほんまつ》もなくつららぎ|居《ゐ》る|也《なり》。
[#図表省略]
|蓋《けだ》しこれ|以上《いじやう》に|説《と》く|所《ところ》の|条々《でうでう》の|真説《しんせつ》の|如《ごと》きは、|釈迦《しやか》も|孔子《こうし》も|敢《あへ》て|以《もつ》て|知《し》らざる|所《ところ》の|極典説《きよくてんせつ》なるが|故《ゆゑ》に、|譬喩《ひゆ》、|寓言《ぐうげん》、|謎《なぞ》かけ|談《だん》の|如《ごと》き|不正《ふせい》|曖昧《あいまい》なる|妄談《まうだん》に|非《あら》ず。|復《また》|世間並《せけんなみ》なる|想像談《さうざうだん》に|非《あら》ず。|極乎正明《きよくこせいめい》なる|極典説《きよくてんせつ》なり。|故《ゆゑ》に|一句一言《いつくいちげん》|皆《みな》|悉《ことごと》く|正真《せいしん》|至大天球《たかあまはら》の|組織《そしき》、|紋理《もんり》、|大造化機《だいざうくわき》を|捉《つか》みて、|明細審密《めいさいしんみつ》に|証徴《しようちよう》したる|極典《きよくてん》|也《なり》。|大智慧《だいちゑ》を|照《てら》して|熟覧《じゆくらん》を|遂《と》ぐる|時《とき》は、|一切世界無比類《いつさいせかいむひるゐ》なる|極典《きよくてん》|矣《なり》と|称《たた》ふ|事《こと》を|感得《かんとく》すべし。|故《ゆゑ》に|謹読《きんどく》の|輩《はい》は|其《そ》の|目利《めきき》を|明《あき》らかにして|一切《いつさい》の|迷《まよ》ひを|一掃《いつさう》すべし。|愚蒙《ぐもう》にして|目利《めきき》を|誤《あやま》る|時《とき》は|譬喩《ひゆ》、|寓言《ぐうげん》、|謎《なぞ》かけ|想像談《さうざうだん》を|以《もつ》て、|契経《おきやう》|也《なり》、|哲学《てつがく》|也《なり》などと|思《おも》ひ、|愚案説《ぐあんせつ》、|比例説《ひれいせつ》、|愚考説《ぐかうせつ》を|陳述《ちんじゆつ》して|哲学《てつがく》|也《なり》と|信《しん》じ|居《ゐ》る|也《なり》。|乞《こ》ふ、|目利《めきき》を|正明《せいめい》に|極《きは》むる|事《こと》を|冀望《きばう》する|也《なり》。
|蓋《けだ》し|老子《らうし》は|此《こ》の|至大天球《たかあまはら》の|真《しん》を|明言《めいげん》する|事《こと》|不能《あたはず》、|玄之復玄衆妙《げんのまたげんしうめう》の|門《もん》と|言《い》ふ|也《なり》。|門《もん》といふ|者《もの》は|表半球《おもてはんきう》の|形《かたち》を|謎《なぞ》にかけたる|也《なり》。|若《も》し|明言《めいげん》して|天球《てんきう》|云々《うんぬん》と|言《い》ふ|時《とき》は、|種々《しゆじゆ》の|質問《しつもん》|起《おこ》る|也《なり》。|諸《もろもろ》に|答《こた》ふる|事《こと》|不能也故《あたはざるがゆゑに》|克々《よくよく》|思《おも》ひやるべし。|釈迦《しやか》は|無辺法界《むへんほふかい》といふ、|不思議界《ふしぎかい》といふ。|実《じつ》に|思《おも》ひ|議《はか》る|事《こと》|不能者《あたはざるもの》|也《なり》。|孔子《こうし》は|容《トルル》と|言《い》ひ|復《また》|一《ひと》ツと|言《い》ふ、|皆《みな》|謎談《なぞだん》のみ|也《なり》。|誠《まこと》に|以《もつ》て|不届《ふとどき》|千万《せんばん》なれども、|明言《めいげん》すれば|種々《しゆじゆ》の|質問《しつもん》|起《おこ》るを|恐《おそ》れて、|譬喩《ひゆ》、|寓言《ぐうげん》、|謎談《なぞだん》|等《とう》を|以《もつ》て|世《よ》を|籠絡《ろうらく》し、|神器《しんき》([#図表省略])を|持《も》ちたる|弥勒《みろく》の|出《い》づるを|相待《あひま》ち|居《を》る|也《なり》。|憫《あはれ》と|言《い》ふも|愚《おろか》なり。
されば|最第一《さいだいいち》なる|霊魂《れいこん》|精神《せいしん》は、|至大天球《たかあまはら》|一名《いちめい》は|至大霊魂球《おほみたま》にして、|一個人《いつこじん》の|神経《しんけい》は|此《こ》の|霊魂球中《みたまちう》の|一条脉《いちでうみやく》なる|即《すなは》ち|玉《たま》の|緒《を》と|言《い》ふ|物《もの》|也《なり》と|明言《めいげん》して、その|明細《めいさい》を|説明《せつめい》する|事《こと》|不能也《あたはざる》|也《なり》。|頑々《ぐわんぐわん》たる|謎談《なぞだん》を|作《つく》りて|愚拝《ぐはい》し|居《を》る|也《なり》。|故《ゆゑ》に|六識《ろくしき》|七識《しちしき》|八識《はつしき》|九識《くしき》|十識《じつしき》の|事《こと》は、|目録《もくろく》にも|足《た》らぬ|譬喩談《ひゆだん》を|演説《えんぜつ》したるのみ。|実明《じつめい》したる|契経《おきやう》とては|唯《ただ》の|一巻《いつくわん》も|無《な》き|也《なり》。|天親菩薩《てんじんぼさつ》が|七識《しちしき》|以上《いじやう》は|迚《とて》も|叶《かな》はぬ、|依《よ》つて|唯《ただ》|六識《ろくしき》を|説《と》くといひて|唯識論《ゆいしきろん》を|置《お》きたれども、|妄々《まうまう》たる|譬喩談《ひゆだん》にて|目録《もくろく》にも|足《た》らぬなり。|古今無双《ここんむさう》の|大学明信《だいがくめいしん》なる|天親《てんじん》にして|既《すで》に|妄々《まうまう》なる|事《こと》|如此《かくのごとく》|也《なり》。|況《いはん》やその|他《た》の|派下《はか》の|愚僧《ぐそう》をや。
|嗚呼《ああ》|霊魂《れいこん》|心性《しんせい》の|事《こと》を|最大一《さいだいいち》に|説《と》く|僧侶《そうりよ》にして、その|心性《しんせい》は|至大天球中《たかあまはらちう》の|真霊《しんれい》|即《すなは》ち|是《これ》|也《なり》と|明言《めいげん》して、その|明細造化《めいさいざうくわ》を|行《おこな》ひ|居《ゐ》る|始末柄《しまつがら》を|初《はじ》め、|億万劫々間《おくまんごふごふかん》の|年度《ねんど》を|生死往来《せいしわうらい》して|居《ゐ》る|一切《いつさい》の|事《こと》を、|明細《めいさい》に|教示《けうじ》する|事《こと》|不能《あたはず》、|妄々《まうまう》たる|謎《なぞ》をかけて|迷《まよ》ひ|居《ゐ》る|達磨《だるま》は、|実《じつ》に|憫然《びんぜん》|極《きは》まる|者《もの》|也《なり》。
|故《ゆゑ》に|現今《げんこん》|行《おこな》はれゐる|所《ところ》の|道統《だうとう》の|本元《ほんげん》は|何《なん》なりと|詰問《きつもん》すれば、|敢《あへ》て|一言《ひとこと》も|答《こた》ふる|者《もの》|無《な》し。|況《いはん》や|其《そ》の|本元《ほんげん》が|寄《より》て|来《きた》る|極元《きよくげん》の|事《こと》は、|夢《ゆめ》にも|思《おも》ひ|居《を》らざる|浅《あさ》ましき|餓鬼僧《がきそう》のみ|也《なり》。
ササ|有《あ》リと|知《し》る|人《ひと》あらば、【|道統《だうとう》】の|本元《ほんげん》|寄而《よりて》|来《きた》るの|極元《きよくげん》は|是《これ》|也《なり》と|一句《いつく》たりとも|説明《せつめい》して|見《み》よ。|釈迦《しやか》も|達磨《だるま》も|其《そ》の|道統《だうとう》の|本元《ほんげん》|因《より》て|来《きた》るの|極元《きよくげん》を|不知故《しらざるがゆゑ》に、|直接《ちよくせつ》|明言《めいげん》に|道法《だうほふ》を|説明《せつめい》する|事《こと》|不能《あたはざる》|也《なり》。|故《ゆゑ》に|譬喩《ひゆ》、|寓言《ぐうげん》、|謎談《なぞだん》のみにして、|弥勒如来《みろくによらい》の|当来《たうらい》を|待《ま》ちて|教《をしへ》を|楽《よろこ》び|奉《たてまつ》る|也《なり》。|故《ゆゑ》に|六識《ろくしき》|七識《しちしき》|八識《はつしき》|九識《くしき》|十識《じつしき》の|柄《がら》を|少《すくな》くも|説《と》く|事《こと》|不能《あたはざる》|也《なり》。|故《ゆゑ》に|識《しき》の|事《こと》を|記《しる》したる|経《きやう》は|一巻《いつくわん》だも|無《な》し。|天親菩薩《てんじんぼさつ》の|唯識論《ゆいしきろん》の|妄々《まうまう》たる|者《もの》が|極々《ごくごく》|珍書《ちんしよ》の|位《くらゐ》を|占《し》め|居《ゐ》る|実《じつ》に|憫然《びんぜん》の|至《いたり》|也《なり》。|速《すみやか》に|弥勒《みろく》の|出現《しゆつげん》を|乞《こ》ひ|奉《たてまつ》れ、|否《いな》|弥勒《みろく》を|請《しやう》ぜよ。
第一篇 |伊佐子《いさご》の|島《しま》
第一章 イドム|戦《せん》〔二〇二八〕
|高照山《たかてるやま》の|西南《せいなん》に|当《あた》る|万里《まで》の|海上《かいじやう》に、|相当《さうたう》|面積《めんせき》を|有《いう》する|島国《しまぐに》あり、|之《これ》を|伊佐子《いさご》の|島《しま》といふ。|此《こ》の|島《しま》の|中央《ちうあう》に|大山脈《だいさんみやく》|東西《とうざい》に|横《よこ》たはり、|之《これ》を|大栄山脈《おほさかさんみやく》といふ。|大栄山脈《おほさかさんみやく》|以南《いなん》をイドムの|国《くに》といひ、|以北《いほく》をサールの|国《くに》といふ。この|島《しま》は|万里ケ海《までがうみ》の|島々《しまじま》の|中《なか》にも、|最《もつと》も|古《ふる》く|成出《なりいで》し|島《しま》にして、|国津神等《くにつかみたち》は|数多《あまた》|棲息《せいそく》し、イドム、サールの|両国《りやうごく》は|互《たがひ》に|其《そ》の|領域《りやうゐき》を|占領《せんりやう》せむと、|数十年《すうじふねん》に|亘《わた》つて|戦争《せんさう》|止《や》む|時《とき》なく、|数多《あまた》の|国津神等《くにつかみたち》は|塗炭《とたん》の|苦《く》を|嘗《な》め、|救世神《きうせいしん》の|降臨《かうりん》を|待《ま》つこと|恰《あだか》も|大旱《たいかん》の|雲霓《うんげい》を|待《ま》つの|感《かん》ありける。
|大栄山《おほさかやま》の|中腹《ちうふく》に|大《だい》なる|湖水《こすい》ありて、|之《これ》を|真珠湖《しんじゆこ》といふ。|真珠湖《しんじゆこ》は|約《やく》|二十《にじふ》メートルの|山腹《さんぷく》に|展開《てんかい》したる|南北《なんぼく》|十里《じふり》、|東西《とうざい》|二十里《にじふり》の|大湖水《だいこすい》なるが、|不思議《ふしぎ》にも|海底《かいてい》より|涌出《ようしゆつ》せるものの|如《ごと》く、|湖水《こすい》|皆《みな》|濃厚《のうこう》なる|塩味《えんみ》を|含《ふく》み、|水上《すゐじやう》を|徒渉《とせふ》するも|僅《わづか》に|膝《ひざ》を|没《ぼつ》するに|過《す》ぎざる|湖水《こすい》なりけり。この|真珠湖《しんじゆこ》には|人面魚身《にんめんぎよしん》の|人魚《にんぎよ》|数多《あまた》|住居《ぢうきよ》し、|湖辺《こへん》の|汀辺《みぎはべ》に|国津神《くにつかみ》|同様《どうやう》|茅《かや》を|以《もつ》て|屋根《やね》を|葺《ふ》きたる|家居《かきよ》を|構《かま》へ、その|生活《せいくわつ》の|様《さま》も|殆《ほとん》ど|国津神《くにつかみ》に|酷似《こくじ》せり。
この|湖《みづうみ》は|大栄山《おほさかやま》の|南側《なんそく》にあるを|以《もつ》て|無論《むろん》イドムの|国《くに》の|領域《りやうゐき》なりけるが、イドムの|国津神《くにつかみ》は|人魚《にんぎよ》を|捕《とら》へ|来《きた》りて、|色々《いろいろ》と|苦《くる》しめ|泣《な》かしめる|時《とき》、|人魚《にんぎよ》は|悲《かな》しみて|涙《なみだ》を|滝《たき》の|如《ごと》く|流《なが》しけるに、|不思議《ふしぎ》や|其《そ》の|涙《なみだ》は|悉《ことごと》く|真珠《しんじゆ》の|玉《たま》となりて、その|美《うるは》しさ|言《い》はむ|方《かた》なし。|故《ゆゑ》にイドムの|国津神等《くにつかみたち》は|之《これ》を|唯一《ゆいつ》の|宝《たから》として|頭《かしら》に|飾《かざ》り、|胸《むね》に|飾《かざ》り、その|美《び》を|誇《ほこ》る。|又《また》|之《これ》を|内服《ないふく》する|時《とき》は|身体《しんたい》|忽《たちま》ち|光《ひかり》を|放《はな》ち、|且《かつ》|美《うるは》しき|子《こ》の|生《うま》るるを|以《もつ》て、|国津神《くにつかみ》は|競《きそ》ひて|之《これ》を|得《え》む|事《こと》を|欲《ほつ》し、|色々《いろいろ》の|計略《けいりやく》を|以《もつ》て|人魚《にんぎよ》を|奪《うば》ひ、|涙《なみだ》を|採《と》る|事《こと》を|唯一《ゆいつ》の|業務《げふむ》となしける。|故《ゆゑ》にイドムの|国津神《くにつかみ》は|何《いづ》れも|美男美女《びなんびぢよ》のみにして、|醜男醜女《しうなんしうぢよ》は|終《つひ》に|跡《あと》を|断《た》つに|至《いた》れるなり。|之《これ》に|反《はん》して|大栄山《おほさかやま》|以北《いほく》のサールの|国津神《くにつかみ》は|何《いづ》れも|肌《はだ》|黒《くろ》く、|髪《かみ》はちぢれ、|背《せ》は|低《ひく》く|且《かつ》|醜男醜女《しうなんしうぢよ》のみなりける。
|茲《ここ》にサールの|国王《こくわう》エールスは、|如何《いか》にもして|此《こ》の|真珠湖《しんじゆこ》を|占領《せんりやう》し|種族《しゆぞく》の|改良《かいりやう》を|計《はか》らむとし、|大軍隊《だいぐんたい》を|率《ひき》ゐて|大栄山《おほさかやま》を|南《みなみ》に|越《こ》え、|真珠湖《しんじゆこ》に|向《むか》つて|進軍《しんぐん》を|始《はじ》めける。|之《これ》を|聞《き》くよりイドムの|王《わう》アヅミは、|左守《さもり》、|右守《うもり》を|始《はじ》めとし、|軍師《ぐんし》の|神々《かみがみ》を|大広間《おほひろま》に|呼《よ》び|集《あつ》め、サール|国《こく》の|軍隊《ぐんたい》を|殲滅《せんめつ》すべく|軍議《ぐんぎ》を|凝《こ》らす|事《こと》となりける。
イドム|王《わう》の|名《な》はアヅミといふ。|王妃《わうひ》の|名《な》をムラジといふ。|左守《さもり》をナーマン、|右守《うもり》をターマンといふ。|軍師《ぐんし》をシウランといひ、アヅミ、ムラジの|間《あひだ》に|生《うま》れたる|娘《むすめ》をチンリウといひ、|侍女《じぢよ》をアララギといふ。イドム|王《わう》のアヅミは|軍神《ぐんしん》を|集《あつ》め、サール|国《こく》|征伐《せいばつ》の|軍議《ぐんぎ》を|凝《こ》らさむとして|歌《うた》ふ。
『イドムの|国《くに》は|昔《むかし》より
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御水火《みいき》にて
|現《あら》はれ|出《い》でし|美《うま》し|国《くに》
|春夏秋冬《しゆんかしうとう》|順序《じゆんじよ》よく
|五風十雨《ごふうじふう》は|永久《とこしへ》に
|国《くに》のことごと|霑《うるほ》して
|至治太平《しちたいへい》を|楽《たの》しみし
|世《よ》にも|目出度《めでた》きイドム|国《こく》
|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》の|幸《さち》はひに
|国津神等《くにつかみら》は|悉《ことごと》く
|優《すぐ》れて|清《きよ》く|美《うるは》しく
|霊魂《みたま》|身体《からたま》|諸共《もろとも》に
|長寿《ちやうじゆ》を|保《たも》ち|神徳《しんとく》を
|忝《かたじ》けなみて|来《きた》りしが
|日《ひ》は|行《ゆ》き|月《つき》は|流《なが》れつつ
|星《ほし》の|光《ひかり》も|移《うつ》ろひて
|年月《としつき》|経《へ》にし|其《その》|間《うち》に
|大栄山《おほさかやま》の|真北《まきた》なる
サールの|国《くに》の|国王《こくわう》は
|此《この》|善《よ》き|国《くに》を|怨《うら》みつつ
|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》を|占領《せんりやう》し
|人魚《にんぎよ》の|宝《たから》を|奪《うば》はむと
|数多《あまた》の|軍勢《ぐんぜい》|引具《ひきぐ》して
|襲《おそ》ひ|来《きた》るぞ|忌々《ゆゆ》しけれ
|吾等《われら》は|元《もと》より|戦《たたか》ひを
|好《この》むにあらねど|斯《か》くならば
この|神国《かみくに》を|守《まも》るため
|軍《いくさ》の|神《かみ》を|呼《よ》び|集《あつ》め
|敵《てき》の|悪事《あくじ》を|打《う》ち|懲《こら》し
|千里《せんり》の|外《そと》に|追《お》ひやりて
|昔《むかし》のままの|安国《やすくに》と
|治《おさ》め|守《まも》らむ|吾《わが》|心《こころ》
|左守《さもり》、|右守《うもり》を|始《はじ》めとし
|軍師《ぐんし》も|諸々《もろもろ》|国津神《くにつかみ》も
|吾《わが》|宣《の》り|言《ごと》をよく|守《まも》り
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|敵陣《てきぢん》に
|向《むか》つて|軍《いくさ》を|進《すす》むべし
それについては|色々《いろいろ》の
|手段《てだて》もあれば|国津神《くにつかみ》
|互《たがひ》に|力《ちから》を|協《あは》せつつ
|心《こころ》を|一《ひと》つに|相固《あひかた》め
サールに|向《むか》つて|戦《たたか》へよ
サールの|国《くに》の|国王《こくわう》を
|始《はじ》め|諸々《もろもろ》|軍等《いくさたち》
|残《のこ》らず|征伐《きた》め|平《たひら》げて
|国《くに》の|災《わざは》ひ|除《のぞ》けよや
|国《くに》の|災《わざは》ひ|除《のぞ》くべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|吾《わが》|言霊《ことたま》に|力《ちから》あれ
|吾《わが》|言霊《ことたま》に|光《ひかり》あれよ』
|軍師《ぐんし》シウランは|答《こた》へて|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|仰《おほ》せ|畏《かしこ》し|曲津神《まがかみ》を
|雲《くも》の|彼方《かなた》に|退《しりぞ》けやらむ
エールスは|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》を|奪《うば》はむと
|年《とし》ごろ|心《こころ》を|砕《くだ》き|居《ゐ》にけり
|一度《ひとたび》は|戦《いくさ》の|仰《おほ》せあるものと
|腕《うで》を|鍛《きた》へて|待《ま》ち|居《ゐ》たりけり
|我国《わがくに》は|優等人種《いうとうじんしゆ》サール|国《こく》は
|劣等人種《れつとうじんしゆ》|怖《お》ぢるに|足《た》らず
|吾《わが》|王《きみ》よ|心《こころ》|安《やす》かれ|今日《けふ》よりは
|軍《いくさ》を|集《あつ》めて|敵《てき》を|払《はら》はむ』
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『シウランの|言葉《ことば》に|吾《われ》は|力《ちから》|得《え》て
|早《はや》くも|勝《か》ちたる|心地《ここち》するなり
エールスが|軍《いくさ》は|数多《あまた》あるとても
|撓《たゆ》まず|屈《くつ》せず|進《すす》んで|亡《ほろ》ぼさむ
エールスの|率《ひき》ゆる|軍《いくさ》を|打破《うちやぶ》り
イドムの|国《くに》の|平和《へいわ》を|来《きた》さむ
シウランの|吾《われ》は|武勇《ぶゆう》を|頼《たの》みとし
|勝利《しようり》の|便《たよ》りを|楽《たの》しみ|待《ま》たむ』
|王妃《わうひ》のムラジ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『エールスは|道《みち》|弁《わきま》へぬ|代物《しろもの》よ
|心《こころ》を|配《くば》り|進《すす》めシウラン
|我国《わがくに》を|奪《うば》はむとして|攻《せ》め|寄《よ》する
エールス|王《わう》は|獣《けもの》に|似《に》たり
エールスの|獣《けもの》の|輩《やから》|悉《ことごと》く
|言向《ことむ》け|和《やは》せ|生命《いのち》|取《と》らずに
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》は|神《かみ》の|御賜《みたま》もの
むざむざ|殺《ころ》すべきにあらずや』
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|道《みち》|知《し》らぬ|輩《やから》|言霊《ことたま》|宣《の》るとても
|何《なん》の|要《えう》なし|亡《ほろ》ぼすに|如《し》かず
|弱《よわ》き|心《こころ》|持《も》ちてはこれの|戦《たたか》ひに
|如何《いか》で|勝《か》ち|得《え》む|飽《あ》くまで|戦《たたか》へ
ためらひの|心《こころ》|起《おこ》らば|曲津神《まがかみ》に
|忽《たちま》ち|生命《いのち》と|国《くに》を|奪《と》られむ』
|左守《さもり》のナーマンは|歌《うた》ふ。
『|昔《むかし》よりわが|領域《りやうゐき》に|忍《しの》び|入《い》り
|人魚《にんぎよ》を|奪《うば》ふサールの|醜国《しこくに》
サール|国《こく》|王《わう》|亡《ほろ》ぼさざれば|我国《わがくに》は
|終《つひ》に|亡《ほろ》びむ|戦《たたか》ふべき|時《とき》
さりながら|敵《てき》は|猛《たけ》しき|獅子王《ししわう》の
|性《さが》もち|居《を》れば|容易《ようい》に|亡《ほろ》びず
|計画《けいくわく》を|完全《くわんぜん》にして|進《すす》まずば
|敵《てき》の|謀計《たくみ》の|罠《わな》に|陥《おちい》らむ
|真珠湖《しんじゆこ》の|人魚《にんぎよ》の|宝《たから》|奪《うば》はむと
|永《なが》き|年月《としつき》|窺《うかが》へる|曲津《まが》よ
あくまでも|心《こころ》を|配《くば》り|武《ぶ》を|練《ね》りて
|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》を|討《う》ち|滅《ほろぼ》さむ』
|右守《うもり》のターマンは|歌《うた》ふ。
『|此《この》|時《とき》をはづせば|何時《いつ》の|日《ひ》|戦《たたか》はむ
|敵《てき》は|大栄山《おほさかやま》を|越《こ》えたり
|第一《だいいち》の|吾《われ》の|弱点《よわみ》は|敵軍《てきぐん》に
|大栄山《おほさかやま》を|越《こ》えられしにあり
|斯《か》くならば|短兵《たんぺい》|急《きふ》に|攻《せ》め|寄《よ》せて
|雌雄《しゆう》を|決《けつ》せむためらふ|事《こと》なく
|日頃《ひごろ》|武《ぶ》を|練《ね》り|鍛《きた》へしも|今日《けふ》の|日《ひ》の
|備《そな》へなりけりいざや|進《すす》まむ
|後《おく》れなば|敵《てき》に|敗《やぶ》れをとるならむ
|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》は|敵《てき》の|影《かげ》のみ
|強敵《きやうてき》は|高地《かうち》に|陣取《ぢんど》りわが|軍《ぐん》は
|下《した》より|攻《せ》むる|不利《ふり》の|地《ち》にあり
|斯《か》くならば|生命《いのち》を|捨《す》てて|戦《たたか》はむ
イドムの|国《くに》の|一大事《いちだいじ》なり』
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|司等《つかさら》の|心《こころ》|一《ひと》つに|定《さだ》まりぬ
いざや|進《すす》まむ|敵《てき》の|在処《ありか》へ』
|娘《むすめ》チンリウは|歌《うた》う。
『|父母《ちちはは》を|始《はじ》め|司《つかさ》の|魂《たましひ》の
|固《かた》まる|上《うへ》は|何《なに》をか|恐《おそ》れむ
|吾《われ》も|亦《また》|女《をんな》なれども|国《くに》の|為《ため》
|敵《てき》|亡《ほろ》ぶまで|戦《たたか》はむかな』
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|勇《いさ》ましきチンリウ|姫《ひめ》の|心《こころ》かな
|吾《わが》|勇気《ゆうき》|又《また》|次第《しだい》に|加《くは》はる』
チンリウの|侍女《じぢよ》アララギは|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》に|願《ねが》ひ|奉《まつ》るも|姫君《ひめぎみ》の
|軍《いくさ》の|御供《みとも》|許《ゆる》させ|給《たま》へ
|姫君《ひめぎみ》の|御身《おんみ》を|守《まも》り|敵軍《てきぐん》に
|向《むか》つて|吾《われ》は|死《し》すまで|戦《たたか》はむ』
|斯《か》く|評議《ひやうぎ》|一決《いつけつ》し、|国内《こくない》に|急使《きふし》を|派《は》し|数多《あまた》の|軍神《ぐんしん》を|城内《じやうない》に|集《あつ》め、|一斉《いつせい》に|敵軍《てきぐん》に|向《むか》つて|進《すす》み|戦《たたか》ふ|事《こと》とはなりぬ。|此《こ》の|時《とき》|遅《おそ》く|彼時《かのとき》|早《はや》く、エールス|王《わう》は|数多《あまた》の|軍《いくさ》を|指揮《しき》し、|連銭葦毛《れんぜんあしげ》の|馬《こま》に|跨《またが》り、|五色《ごしき》の|采配《さいはい》を|打振《うちふ》り|打振《うちふ》り|城下《じやうか》|近《ちか》く|攻《せ》め|寄《よ》せ|来《きた》る。アヅミ|王《わう》は|烈火《れつくわ》の|如《ごと》く|憤《いきどほ》り、|軍師《ぐんし》シウランと|共《とも》に|弓《ゆみ》を|満月《まんげつ》の|如《ごと》く|引《ひ》き|絞《しぼ》り|射向《いむか》ひけれども、|敵《てき》は|名《な》に|負《お》ふ|剽悍決死《へうかんけつし》の|士《し》のみにて、|一日一夜《いちにちいちや》の|戦《たたか》ひにて|脆《もろ》くもアヅミ|王《わう》の|軍隊《ぐんたい》は|敗戦《はいせん》し、|南方《なんばう》の|月光山《つきみつやま》を|指《さ》して|逃走《たうそう》せり。この|戦《たたか》ひに|娘《むすめ》のチンリウ、アララギを|始《はじ》め|数多《あまた》の|軍士《つはもの》は、|或《あるひ》は|討《う》たれ|或《あるひ》は|捕虜《ほりよ》となり、|繩目《なはめ》の|恥辱《ちじよく》を|受《う》ける|事《こと》とはなりぬ。|茲《ここ》にエールス|王《わう》はイドムの|城《しろ》を|占領《せんりやう》し、|数多《あまた》の|軍隊《ぐんたい》を|止《とど》めて|天下《てんか》を|睥睨《へいげい》する|事《こと》とはなりぬ。アヅミ|王《わう》は|百里《ひやくり》|南方《なんぱう》の|月光山《つきみつやま》に|立籠《たてこも》り|此処《ここ》に|城壁《じやうへき》を|構《かま》へ、イドム|国《こく》の|再興《さいこう》を|策《さく》しける。
エールス|王《わう》は|戦勝《せんしよう》の|祝賀《しゆくが》の|宴《えん》をイドム|城内《じやうない》に|開《ひら》き、|数多《あまた》の|従神《じうしん》を|集《あつ》めて|心地《ここち》よげに|歌《うた》ふ。
『|大栄山《おほさかやま》を|乗《の》り|越《こ》えて
|宝《たから》の|国《くに》と|聞《きこ》えたる
イドムの|国《くに》に|押渡《おしわた》り
アヅミの|王《わう》の|軍勢《ぐんぜい》を
|木端微塵《こつぱみぢん》と|踏《ふ》み|砕《くだ》き
イドムの|城《しろ》を|占領《せんりやう》し
いよいよサールの|我国《わがくに》は
|面積《めんせき》|以前《いぜん》に|倍加《ばいか》して
|国《くに》の|栄《さか》えは|豊栄《とよさか》|昇《のぼ》る
|天津日《あまつひ》の|如《ごと》|進《すす》むべし
|此《こ》の|凱旋《がいせん》の|賑《にぎは》ひは
|神《かみ》の|賜《たま》ひし|酒盛《さかもり》ぞ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|吾《わが》|言霊《ことたま》に|力《ちから》あれ
|吾《わが》|言霊《ことたま》に|幸《さち》あれや』
エールス|王《わう》の|左守《さもり》チクターは|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|御稜威《みいづ》の|御光《みひかり》|現《あら》はれて
イドムの|国《くに》を|握《にぎ》らせ|給《たま》ひぬ
この|国《くに》はサールの|国《くに》に|比《くら》ぶれば
|美《うま》し|御国《みくに》ぞ|瑞穂《みづほ》の|国《くに》ぞ
これよりはイドムの|国《くに》の|国津神《くにつかみ》を
サールの|国《くに》に|移《うつ》し|住《す》ませむ
みのり|悪《あ》しきサールの|国《くに》の|国津神《くにつかみ》は
イドムの|国《くに》に|安《やす》く|住《す》ませむ
|真珠湖《しんじゆこ》は|全《まつた》く|吾手《わがて》に|入《い》りにけり
|今日《けふ》より|善《よ》き|子《こ》|生《うま》れ|来《きた》らむ
|天地《あめつち》の|神《かみ》の|恵《めぐ》みと|吾《わが》|王《きみ》の
|厳《いづ》の|力《ちから》に|国《くに》|広《ひろ》まれり
|吾《わが》|王《きみ》の|賜《たま》ひし|貴《うづ》の|盃《さかづき》を
|歓《よろこ》び|受《う》けむ|国津神等《くにつかみら》と』
|右守《うもり》のナーリスは|歌《うた》ふ。
『|漸《やうや》くに|王《きみ》の|望《のぞ》みは|届《とど》きけり
イドムの|城《しろ》の|手《て》に|入《い》りし|今日《けふ》
|苦《くる》しみし|我《わが》|国津神《くにつかみ》も|今日《けふ》よりは
|歓《ゑら》ぎ|栄《さか》えむイドムに|移《うつ》りて
|果《は》てしなき|此《こ》の|広《ひろ》き|国《くに》を|手《て》に|入《い》れて
|臨《のぞ》ませ|給《たま》ふ|王《きみ》はいさまし
|今日《けふ》の|日《ひ》の|勝利《しようり》は|軍師《ぐんし》エーマンの
|計画《けいくわく》|全《まつた》く|宜《よろ》しきを|得《え》て
エーマンの|軍師《ぐんし》の|謀《はから》ひ|無《な》かりせば
|斯《か》く|容易《たやす》くは|勝《か》ち|得《え》ざるなむ』
エールス|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『ナーリスの|言葉《ことば》の|如《ごと》くエーマンの
|力《ちから》に|吾等《われら》の|軍《いくさ》は|勝《か》てり』
エーマンは|歌《うた》ふ。
『|天地《あめつち》の|恵《めぐみ》に|戦《いくさ》は|勝《か》ちにけり
|吾《われ》の|力《ちから》の|預《あづ》かり|知《し》るべき
この|上《うへ》は|兜《かぶと》の|緒《を》をば|締《し》め|直《なほ》し
|敵《てき》の|再来《さいらい》に|備《そな》へ|奉《まつ》らむ』
|茲《ここ》にエールスは|完全《くわんぜん》にイドム|城《じやう》を|占領《せんりやう》し、|凱歌《がいか》を|挙《あ》げて|暫《しば》し|此処《ここ》に|住《す》むこととはなりにける。|而《しか》してサールの|王城《わうじやう》を|北城《ほくじやう》と|称《とな》へ、イドム|城《じやう》を|南城《なんじやう》と|称《しよう》しける。
(昭和九・八・四 旧六・二四 於伊豆別院 森良仁謹録)
第二章 |月光山《つきみつやま》〔二〇二九〕
イドム|城《じやう》は|敵《てき》の|襲来《しふらい》に|破《やぶ》れて、|敗走《はいそう》したるアヅミ|王《わう》|初《はじ》め|妃《きさき》ムラジ、|左守《さもり》ナーマン、|右守《うもり》ターマン|及《およ》び|軍師《ぐんし》シウラン|其《そ》の|他《た》|討《う》ち|洩《も》らされし|軍人等《いくさびとら》は|遠《とほ》く|南《みなみ》に|逃《のが》れ、|月光山《つきみつやま》の|嶮所《けんしよ》を|扼《やく》し、ここに|城壁《じやうへき》を|造《つく》り、|南端《なんたん》の|国原《くにはら》を|治《をさ》めつつ|再挙《さいきよ》の|時《とき》を|待《ま》つ|事《こと》とせり。
|王《わう》の|一人《ひとり》|娘《むすめ》チンリウ|及《およ》び|侍女《じぢよ》のアララギの|両人《りやうにん》を|初《はじ》め|数多《あまた》の|勇士《ゆうし》は、|敵《てき》の|捕虜《ほりよ》となりて|遠《とほ》く|大栄山《おほさかやま》を|北《きた》に|越《こ》え、サールの|都《みやこ》の|城中《じやうちう》の|牢獄《らうごく》に|繋《つな》がれ、|悲《かな》しき|月日《つきひ》を|送《おく》る|事《こと》とはなりぬ。
アヅミ|王《わう》は|最愛《さいあい》の|娘《むすめ》チンリウの|姿《すがた》なきに|歎《なげ》きの|余《あま》り|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》ふ。
『|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より
|平和《へいわ》の|風《かぜ》に|包《つつ》まれて
|安《やす》く|楽《たの》しく|暮《くら》したる
イドムの|国《くに》は|果敢《はか》なくも
サールの|国《くに》のエールスが
|軍《いくさ》のために|奪《うば》はれて
|今《いま》ははかなき|南方《なんぱう》の
|月光山《つきみつやま》に|退《しりぞ》きて
|再挙《さいきよ》を|計《はか》るくるしさよ
|数多《あまた》の|味方《みかた》は|敵軍《てきぐん》に
|討《う》ち|滅《ほろぼ》されわが|軍《ぐん》は
もろくも|敗《やぶ》れを|取《と》りにけり
かかる|歎《なげ》きのその|中《なか》に
|我世《わがよ》を|継《つ》ぐべき|愛娘《まなむすめ》
チンリウ|姫《ひめ》の|姿《すがた》なく
たづぬる|由《よし》も|泣《な》くばかり
|或《あるひ》は|敵《てき》に|討《う》たれしか
|思《おも》へば|思《おも》へば|悲《かな》しもよ
|天地《てんち》の|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》に
|姫《ひめ》の|行方《ゆくへ》を|夢《ゆめ》になと
|知《し》らせ|給《たま》へと|祈《いの》れども
|何《なん》のしるしも|荒風《あらかぜ》の
|山野《やまの》を|吹《ふ》きゆく|音《おと》ばかり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|再《ふたた》び|軍《いくさ》を|調《ととの》へて
|祖先《そせん》の|賜《たま》ひしイドム|城《じやう》
|再《ふたた》びわが|手《て》に|取《と》りもどし
|姫《ひめ》の|在処《ありか》を|探《さぐ》らむと
|千々《ちぢ》に|心《こころ》を|砕《くだ》くなり
|思《おも》へば|思《おも》へば|味気《あぢき》なや
|月光山《つきみつやま》は|清《きよ》くとも
|川《かは》の|流《なが》れは|清《すが》しとも
|何《なん》の|楽《たの》しみなきままに
|月日《つきひ》を|暮《くら》す|果敢《はか》なさよ
|月《つき》は|御空《みそら》に|輝《かがや》けど
|星《ほし》は|黄金《こがね》とまたたけど
|吾目《わがめ》はくもりて|涙《なみだ》のみ
|救《すく》はせ|給《たま》へ|天津神《あまつかみ》
|国津御神《くにつみかみ》の|御前《おんまへ》に
はかなき|我世《わがよ》に|再生《さいせい》を
|偏《ひとへ》に|祈《いの》り|奉《たてまつ》る。
|月光《つきみつ》の|山《やま》に|漸《やうや》く|逃《のが》れ|来《き》て
|再挙《さいきよ》を|計《はか》る|吾《われ》は|苦《くる》しも
いとこやのチンリウ|姫《ひめ》は|今《いま》いづこ
|生命《いのち》|失《う》せしか|心《こころ》もとなや
|時《とき》を|得《え》てイドムの|城《しろ》を|取《と》り|返《かへ》し
|祖先《そせん》の|功《いさを》を|輝《かがや》かしみむ
エールスの|猛《たけ》き|軍《いくさ》に|破《やぶ》られて
もろくも|吾《われ》は|逃《に》げ|来《き》つるかも
わが|軍《いくさ》そなへ|破《やぶ》れて|敵軍《てきぐん》に
イドムの|城《しろ》は|奪《うば》はれにける
|如何《いか》にしてもイドムの|城《しろ》を|取《と》り|返《かへ》し
|国津神等《くにつかみら》を|安《やす》く|住《す》ませむ
エールスの|悪逆無道《あくぎやくぶだう》に|国津神《くにつかみ》は
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|歎《なげ》くなるべし
|国津神《くにつかみ》は|親《おや》を|奪《うば》はれ|子《こ》をとられ
|珍《うづ》の|宝《たから》も|奪《うば》はれにけむ
|諸《もろもろ》の|果実《このみ》ゆたかに|実《みの》るなる
イドムの|国《くに》はあらされにける
|国津神《くにつかみ》の|祖《おや》と|生《あ》れにし|吾《われ》にして
|朝夕《あさゆふ》|歎《なげ》く|浅《あさ》ましさかな』
ムラジ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|安《やす》らけきイドムの|国《くに》は|上《うへ》も|下《した》も
|驕《おご》りし|罪《つみ》に|斯《か》くは|滅《ほろ》びしか
|天地《あめつち》の|恵《めぐみ》になれて|昼夜《ひるよる》の
|恵《めぐ》み|忘《わす》れし|報《むく》いなるらむ
|今日《けふ》よりは|天地《てんち》の|神《かみ》をおそれみて
|厚《あつ》く|敬《うやま》ひ|仕《つか》へ|奉《まつ》らな
|神々《かみがみ》の|厚《あつ》き|恵《めぐみ》を|忘《わす》れたる
イドムの|国《くに》は|斯《か》くも|滅《ほろ》びぬ
|月光《つきみつ》の|山《やま》に|天地《てんち》の|神々《かみがみ》を
|斎《いつ》き|奉《まつ》りて|世《よ》を|開《ひら》くべし
|上《うへ》も|下《した》も|曇《くも》り|果《は》てたる|国《くに》|故《ゆゑ》に
|神《かみ》の|譴責《きため》に|滅《ほろ》びしならむ
|主《ス》の|神《かみ》の|守《まも》りなければ|国津神《くにつかみ》の
|力《ちから》に|国《くに》の|治《をさ》まるべしやは
|上《うへ》も|下《した》も|神《かみ》の|恵《めぐみ》を|悟《さと》りつつ
|心《こころ》|清《きよ》めて|務《つと》めはげまな
シウランの|軍《いくさ》のきみも|心《こころ》せよ
|人《ひと》の|力《ちから》に|戦《いくさ》は|勝《か》てず
|国津神《くにつかみ》の|名《な》は|称《たた》ふれど|人《ひと》の|身《み》よ
|人《ひと》の|力《ちから》は|限《かぎ》りあるなり
|限《かぎ》りなき|神《かみ》の|力《ちから》を|身《み》に|受《う》けて
のぞまむ|道《みち》に|仇神《あだがみ》はなし
|仇神《あだがみ》は|隙《すき》を|窺《うかが》ひ|攻《せ》め|来《きた》り
イドムの|国《くに》を|乱《みだ》しけるかな』
シウランは|歌《うた》ふ。
『|畏《かしこ》しやムラジの|姫《ひめ》の|御言宣《みことの》り
|吾《われ》は|宜《うべ》よとをののくのみなる
|今《いま》となりて|王《きみ》の|御国《みくに》をあやまりし
|吾《われ》は|世《よ》に|立《た》つ|顔《かむばせ》もなし
|吾《わが》|王《きみ》に|不明《ふめい》の|罪《つみ》を|詫《わ》び|奉《まつ》り
|軍師《ぐんし》の|司《つかさ》を|返《かへ》し|申《まう》さむ
|今日《けふ》よりは|凡人《ただびと》となりて|国《くに》の|為《ため》
|王《きみ》の|御為《みため》に|誠《まこと》を|捧《ささ》げむ
|大軍《たいぐん》を|抱《かか》へながらも|敵軍《てきぐん》に
|敗《やぶ》れし|思《おも》へば|吾《わが》|顔《かほ》|立《た》たじ
|願《ねが》はくば|軍師《ぐんし》の|司《つかさ》を|召《め》し|上《あ》げて
|凡人《ただびと》の|群《むれ》におとさせ|給《たま》へ』
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|勝敗《しようはい》は|時《とき》の|運《うん》なり|汝《なれ》のみか
|吾《われ》の|罪《つみ》なり|心《こころ》|安《やす》かれ
|君《きみ》なくばこれの|御国《みくに》は|治《をさ》まらじ
|心《こころ》の|駒《こま》を|立《た》て|直《なほ》すべし
エールスは|戦《いくさ》のそなへを|足《たら》はして
|再《ふたた》びここに|押《お》し|寄《よ》するらむ
|押《お》し|寄《よ》する|敵《てき》の|鉾先《ほこさき》くじきつつ
|月光山《つきみつやま》を|永久《とは》にささへむ
|歎《なげ》くとも|及《およ》ばざりけり|天地《あめつち》の
|神《かみ》を|祈《いの》りて|敵《てき》に|備《そな》へむ』
シウランは|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|御言《みこと》|畏《かしこ》み|吾《われ》は|只《ただ》
|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にくるるのみなり
|今日《けふ》よりは|神《かみ》の|力《ちから》を|力《ちから》とし
|王《きみ》の|恵《めぐみ》にむくい|奉《まつ》らむ
|吾《わが》|王《きみ》よ|御心《みこころ》|安《やす》くおはしませ
|敵《てき》を|千里《せんり》に|吾《われ》|退《しりぞ》けむ
この|広《ひろ》き|伊佐子《いさご》の|島《しま》の|隅々《すみずみ》まで
|王《きみ》の|領有《うしは》ぐ|御国《みくに》となさむ』
ムラジ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|蘇《よみがへ》る|心地《ここち》するかもシウランの
|軍師《ぐんし》の|言葉《ことば》|力《ちから》と|頼《たの》みて
|千載《せんざい》の|恨《うら》みはらすとイドム|城《じやう》に
|軍《いくさ》を|向《む》けて|奪《うば》ひ|返《かへ》さむ
さりながら|二年《ふたとせ》|三年《みとせ》の|備《そな》へして
エールス|王《わう》を|征討《きた》め|奉《まつ》れよ』
シウランは|歌《うた》ふ。
『ありがたしムラジの|姫《ひめ》の|御言葉《おんことば》
|吾《われ》は|必《かなら》ず|報《むく》い|奉《まつ》らむ
さりながらチンリウ|姫《ひめ》の|御行方《おんゆくへ》
ためらはずして|探《さが》し|求《もと》めむ
|軍人《いくさびと》の|中《なか》にも|雄々《をを》しき|武士《もののふ》を
|選《えら》びてサールに|遣《つか》はさむかな』
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『チンリウ|姫《ひめ》の|在処《ありか》を|吾《われ》はさぐりたし
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|軍《いくさ》を|遣《つか》はせ
|三柱《みはしら》の|武士《ぶし》を|遣《つか》はしひそやかに
|姫《ひめ》の|在処《ありか》を|求《もと》め|来《きた》れよ
チンリウの|姫《ひめ》の|行方《ゆくへ》の|判《わか》るまで
|吾《われ》|戦《たたか》ひを|起《おこ》さじと|思《おも》ふ
チンリウの|侍女《じぢよ》のアララギ|諸共《もろとも》に
|生命《いのち》|保《たも》つか|心《こころ》もとなし
アララギは|賢女《さかしめ》なればチンリウ|姫《ひめ》を
かばひていづくにか|潜《ひそ》みゐるらむ
アララギの|誠《まこと》を|一《ひと》つのたよりとし
|吾《われ》は|日夜《にちや》をなぐさめて|居《を》り』
|左守《さもり》のナーマンは|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|心《こころ》|思《おも》へばかなしもよ
|吾《わが》|身《み》の|力《ちから》|足《たら》はなくして
|王《きみ》いますイドムの|城《しろ》を|奪《うば》はれて
|吾《われ》は|生《い》きたる|心地《ここち》せざるも
|歎《なげ》くともせむすべなければ|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|堅《かた》めて|再挙《さいきよ》を|計《はか》らむ
|月光《つきみつ》の|山《やま》に|仕《つか》へて|夜《よ》もすがら
|涙《なみだ》にくるるは|姫《ひめ》の|御事《おんこと》
|亡《ほろ》びたる|国《くに》を|再《ふたた》び|生《い》かさむと
|心《こころ》は|闇《やみ》にさまよひにける』
|右守《うもり》のターマンは|歌《うた》ふ。
『|恥《はづ》かしや|吾《われ》は|右守《うもり》を|務《つと》めつつ
イドムの|国《くに》を|奪《うば》はれしとは
|如何《いか》にしても|元津御国《もとつみくに》を|取《と》り|返《かへ》し
|王《きみ》の|御稜威《みいづ》を|照《て》らさでおくべき
|国津神《くにつかみ》の|驕《おご》りの|罪《つみ》の|報《むく》い|来《き》て
|斯《か》くもかなしき|憂目《うきめ》にあひしか
|火《ひ》と|水《みづ》と|土《つち》を|尊《たふと》み|畏《かしこ》みて
|神《かみ》を|敬《うやま》ひ|世《よ》に|生《い》きむかも
|火《ひ》と|水《みづ》をおろそかにせし|報《むく》いにて
|吾《われ》|住《す》む|地《つち》も|奪《うば》はれにけり
|斯《か》くならばせむすべもなし|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|堅《かた》めて|再挙《さいきよ》せむのみ』
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|今日《けふ》よりは|月光山《つきみつやま》の|頂《いただき》に
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|宮居《みやゐ》|造《つく》らむ
|主《ス》の|神《かみ》の|恵《めぐみ》になれて|今《いま》までは
|朝夕《あしたゆふ》べを|務《つと》めせざりき
|朝夕《あさゆふ》を|神《かみ》の|御前《みまへ》に|額《ぬか》づきて
|国《くに》の|栄《さかえ》を|祈《いの》り|奉《まつ》らむ
|国津神《くにつかみ》を|呼《よ》び|集《つど》へ|来《こ》よ|主《ス》の|神《かみ》の
|御舎《みあらか》|急《いそ》ぎ|造《つく》り|奉《まつ》ると』
|左守《さもり》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|教《をしへ》|畏《かしこ》み|今日《けふ》よりは
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御舎《みあらか》|仕《つか》へむ』
これより|左守《さもり》の|神《かみ》は|附近《ふきん》の|国津神《くにつかみ》に|命令《めいれい》を|降《くだ》しけるにぞ、|国津神《くにつかみ》は|大《おほ》いに|喜《よろこ》び、|老《おい》も|若《わか》きも|男《をのこ》も|女《をみな》も|月光山《つきみつやま》に|集《あつま》り|来《きた》り、|大峡小峡《おほがひをがひ》の|良材《りやうざい》を|本《もと》|打《う》ち|伐《き》り|末《すゑ》|打《う》ち|断《た》ちて|柱梁《はしらはり》|等《など》|集《あつ》め、ここにいよいよ|主《ス》の|大神《おほかみ》の|宮殿《みやしろ》を|造営《ざうえい》の|運《はこ》びとはなりける。
|左守《さもり》の|神《かみ》は|先《ま》づ|地鎮祭《ぢちんさい》を|行《おこな》ひ、|石搗《いしつき》の|歌《うた》をうたふ。
『|月光山《つきみつやま》の|聖場《せいぢやう》に
アヅミの|王《きみ》の|御言《みこと》もて
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御舎《みあらか》を
|大宮柱太知《おほみやはしらふとし》りて
|高天原《たかあまはら》に|千木《ちぎ》|高《たか》く
|仕《つか》へ|奉《まつ》ると|今《いま》ここに
|国津神等《くにつかみたち》|集《あつま》りて
いと|勇《いさ》ましく|地《ぢ》かための
|珍《うづ》の|祭《まつ》りを|務《つと》むなり
|彼方此方《あなたこなた》の|岩座《いはくら》を
この|聖場《せいぢやう》に|持《も》ち|運《はこ》び
|槻《つき》の|大木《おほき》を|伐《き》り|採《と》りて
|石搗柱《いしつきばしら》と|定《さだ》めつつ
|大地《だいち》の|底《そこ》のわるるまで
|力《ちから》を|籠《こ》めて|打《う》つ|石《いし》の
|千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|動《ゆる》ぎなく
イドムの|国《くに》の|礎《いしずゑ》と
|御代《みよ》に|輝《かがや》けよこの|石《いし》は
|月光山《つきみつやま》の|溪間《たにま》より
|国津神等《くにつかみら》の|誠《まこと》もて
|集《あつ》まり|来《きた》りし|御魂石《みたまいし》
ああ|面白《おもしろ》や|面白《おもしろ》や
|打《う》てよ|打《う》て|打《う》て|石《いし》の|面《おも》
|大地《だいち》の|底《そこ》へととほるまで
|打《う》てよ|打《う》て|打《う》て|天地《あめつち》の
|一度《いちど》にどよむところまで
よーいとなあ、よーいとなあ』
|右守《うもり》のターマンは|歌《うた》ふ。
『ああ|有難《ありがた》や|有難《ありがた》や
|今日《けふ》の|吉《よ》き|日《ひ》の|吉《よ》き|辰《とき》に
アヅミの|王《きみ》の|御言《みこと》もて
|月光山《つきみつやま》の|頂上《いただき》に
いと|美《うるは》しき|主《ス》の|神《かみ》の
|御舎《みあらか》|建《た》つるいさましさ
この|大宮《おほみや》の|建《た》つ|上《うへ》は
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|謹《つつし》みて
|吾等《われら》は|仕《つか》へ|奉《まつ》るべし
|如何《いか》に|雄々《をを》しき|吾《わが》|王《きみ》の
いますと|言《い》へど|神《かみ》なくば
|永久《とは》の|御国《みくに》は|治《をさ》まらじ
イドムの|城《しろ》を|取《と》り|返《かへ》し
エールス|王《わう》を|平《たひら》げて
|神代《かみよ》のままのイドム|城《じやう》
|王《きみ》の|御稜威《みいづ》は|四方八方《よもやも》に
|輝《かがや》き|渡《わた》らむ|礎《いしずゑ》と
|思《おも》へば|今日《けふ》の|足《た》れる|日《ひ》の
この|石搗《いしつき》の|音《おと》のよき
|御空《みそら》に|天津日《あまつひ》|照《て》り|渡《わた》り
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》の|清《すが》しさに
|汗《あせ》さへ|出《い》でぬ|石搗《いしつき》の
この|働《はたら》きの|勇《いさ》ましさ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》ぞ|畏《かしこ》けれ』
|漸《やうや》くに|石搗《いしつき》の|儀式《ぎしき》は|終了《しうれう》し、|一同《いちどう》は|月光山《つきみつやま》の|聖場《せいぢやう》に|果実《このみ》の|酒《さけ》|等《など》を|酌《く》み|交《かは》し、あらゆる|馳走《ちそう》を|作《つく》りて、|祝宴《しゆくえん》は|小夜《さよ》|更《ふ》くるまで|開《ひら》かれにける。
アヅミ|王《わう》はこの|場《ば》に|静々《しづしづ》と|現《あら》はれ|来《きた》り、この|光景《くわうけい》を|眺《なが》めて|歌《うた》ふ。
『|月光《つきみつ》の|山《やま》は|八千代《やちよ》に|栄《さか》ゆべし
|国《くに》の|礎《いしずゑ》|固《かた》めし|今日《けふ》はも
|天地《あめつち》をゆるがせ|歌《うた》ふ|神々《かみがみ》の
|声《こゑ》いさましく|目出度《めでた》かりけり
|左守《さもり》、|右守《うもり》|其《そ》の|他《た》の|司《つかさ》の|神々《かみがみ》も
|今日《けふ》の|務《つと》めをよろしみ|思《おも》ふ
いと|早《はや》く|貴《うづ》の|御舎《みあらか》|仕《つか》へ|奉《まつ》れ
|主《ス》の|大神《おほかみ》を|斎《いつ》き|奉《まつ》ると』
ムラジ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『よみがへりよみがへりたり|月光山《つきみつやま》
|今日《けふ》の|歓《よろこ》び|天《てん》に|響《ひび》きて
|奪《うば》はれしイドムの|国《くに》の|礎《いしずゑ》を
|月光山《つきみつやま》に|搗《つ》き|固《かた》めたり
かくならば|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御稜威《みいづ》もて
イドムの|国《くに》を|再《ふたた》び|治《をさ》めむ
エールスの|悪魔《あくま》の|司《つかさ》を|言向《ことむ》けて
サールの|国《くに》に|追《お》ひ|返《かへ》さなむ』
シウランは|歌《うた》ふ。
『ありがたし|今日《けふ》の|吉《よ》き|日《ひ》のよろこびは
|神《かみ》もいさむか|天地《あめつち》|晴《は》れたり
|一片《いつぺん》の|雲《くも》さへもなき|大空《おほぞら》の
|蒼《あを》きは|神《かみ》の|心《こころ》なるらむ
|吾《わが》|心《こころ》|勇《いさ》み|勇《いさ》みて|大空《おほぞら》の
|雲井《くもゐ》の|蒼《あを》にとけ|入《い》りにけり
わが|国《くに》は|神《かみ》を|斎《いつ》きて|朝夕《あさゆふ》の
|御祭《みまつ》りせずば|治《をさ》まらざるべし
|兎《と》にもあれ|角《かく》にもあれや|吾《わが》|王《きみ》の
|神《かみ》を|祭《まつ》らす|御心《みこころ》|嬉《うれ》しも』
|左守《さもり》のナーマンは|歌《うた》ふ。
『|風《かぜ》|清《きよ》く|空《そら》|晴《は》れ|渡《わた》る|今日《けふ》の|日《ひ》の
|石搗祭《いしつきまつ》り|清《すが》しかりけり
|月光《つきみつ》の|山《やま》は|今日《けふ》よりかがやかむ
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|光《ひか》り|添《そ》ふれば
|常闇《とこやみ》の|世《よ》を|照《て》らさむと|主《ス》の|神《かみ》の
|御光《みひかり》|仰《あふ》ぐ|月光《つきみつ》の山』
|右守《うもり》のターマンは|歌《うた》ふ。
『うるはしき|月光山《つきみつやま》の|頂上《いただき》に
|神《かみ》|天降《あも》らすと|思《おも》へば|嬉《うれ》し
|天地《あめつち》の|神《かみ》を|祭《まつ》りて|国《くに》の|政《のり》
はげむは|王《きみ》の|務《つと》めなるらむ
|吾《わが》|王《きみ》は|真《まこと》の|務《つと》め|悟《さと》りましぬ
これの|御国《みくに》は|今日《けふ》より|栄《さか》えむ
|南《みんなみ》のはてなる|月光山《つきみつやま》の|上《へ》に
|神《かみ》を|祭《まつ》りて|再挙《さいきよ》|計《はか》らすも
|吾《わが》|心《こころ》とみにいさめり|月光《つきみつ》の
|山《やま》に|天降《あも》らす|神《かみ》を|思《おも》ひて』
その|他《た》|国津神等《くにつかみたち》の|祝歌《しゆくか》は|数多《あまた》あれども、|省略《しやうりやく》することとせり。
(昭和九・八・四 旧六・二四 於伊豆別院 谷前清子謹録)
第三章 |月見《つきみ》の|池《いけ》〔二〇三〇〕
|月光山《つきみつやま》の|聖場《せいぢやう》は、アヅミ|王《わう》の|発起《ほつき》により、|百日《ひやくにち》の|工程《こうてい》を|急《いそ》ぎ、|漸《やうや》く|美《うつく》しき|神殿《しんでん》の|建築《けんちく》を|終《をは》りければ、ここにアヅミ|王《わう》を|始《はじ》め|左守《さもり》、|右守《うもり》、|軍師《ぐんし》|其《その》|他《た》の|司等《つかさたち》は、|斎殿《いみどの》に|集《あつま》り、|七日七夜《なぬかななよ》の|修祓《しうばつ》を|終《をは》り、|主《ス》の|大神《おほかみ》の|遷座式《せんざしき》を|行《おこな》ふべき|段取《だんど》りとなりにける。
|月光山《つきみつやま》の|中腹《ちうふく》には|月見《つきみ》の|池《いけ》と|称《しよう》する|清泉《せいせん》|涌出《ゆうしゆつ》して、|蒼空《さうくう》の|月《つき》を|底《そこ》|深《ふか》く|写《うつ》せり。|恰《あだか》も|白銀《はくぎん》の|玉《たま》を|水底《みなそこ》に|沈《しづ》めし|如《ごと》く|見《み》えて、その|床《ゆか》しさ|限《かぎ》りなし。アヅミ|王《わう》|以下《いか》の|修祓修行者《しうばつしゆぎやうしや》は、|七日目《なぬかめ》の|夕《ゆふべ》|月見《つきみ》の|池《いけ》に|集《あつま》り|来《きた》り、|各自《おのもおのも》|清泉《せいせん》を|頭上《づじやう》より|引《ひ》きかぶりながら|歌《うた》ふ。
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|身体《からたま》も|霊魂《みたま》も|清《すが》しくなりにけり
|七日七夜《なぬかななよ》の|修祓《しうばつ》を|経《へ》て
|月光山《つきみつやま》|月見《つきみ》の|池《いけ》に|佇《たたず》めば
|水底《みなそこ》|深《ふか》く|月《つき》はかがよふ
|仰《あふ》ぎ|見《み》れば|月読《つきよみ》の|舟《ふね》|俯《ふ》して|見《み》れば
|水底《みそこ》の|月《つき》は|玉《たま》とかがよふ
|月《つき》と|月《つき》の|中《なか》に|佇《たたず》む|心地《ここち》して
|禊《みそぎ》をはりし|夕《ゆふ》べ|清《すが》しき
|主《ス》の|神《かみ》の|御霊《みたま》を|御殿《みとの》に|招《お》ぎ|奉《まつ》り
|明日《あす》はいよいよ|御祭《みまつり》|仕《つか》へむ
|果《は》てしなき|御空《みそら》の|蒼《あを》を|写《うつ》したる
|月見《つきみ》の|池《いけ》の|底《そこ》にも|月《つき》あり
|月《つき》も|星《ほし》も|水底《みそこ》に|清《きよ》く|輝《かがや》けり
われは|空《そら》ゆく|鳥《とり》にあらずや
|佇《たたず》みて|月見《つきみ》の|池《いけ》を|眺《なが》めつつ
|雲井《くもゐ》を|伊行《いゆ》く|心地《ここち》するかな
|春《はる》さりて|紫躑躅《むらさきつつじ》|紅躑躅《べにつつじ》
|月見《つきみ》の|池《いけ》の|汀《みぎは》に|匂《にほ》へり
|白《しろ》き|蝶《てふ》|花《はな》にたはむるやさしかげ
|月見《つきみ》の|池《いけ》の|底《そこ》にも|遊《あそ》べる
|常磐木《ときはぎ》の|松《まつ》の|木蔭《こかげ》に|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
|躑躅《つつじ》は|水底《みそこ》に|赤《あか》く|映《は》えたり
|天《てん》も|地《ち》も|澄《す》みきらひたる|今日《けふ》の|日《ひ》に
|禊《みそぎ》|終《をは》りしわれは|嬉《うれ》しも
|天地《あめつち》の|神《かみ》も|禊《みそぎ》しわが|魂《たま》を
|諾《うべな》ひまして|天降《あも》りますらむ
イドム|城《じやう》|敵《てき》に|奪《うば》はれわれは|今《いま》
|月光山《つきみつやま》に|禊《みそぎ》するかも
|昼夜《ひるよる》を|神《かみ》に|祈《いの》りて|魂《たま》を|練《ね》り
|力《ちから》を|強《つよ》めて|国《くに》を|守《まも》らむ
|仰《あふ》ぎ|見《み》れば|御空《みそら》に|月読《つきよみ》|光《かげ》|清《きよ》く
|星《ほし》の|真砂《まさご》のまたたけるかな
|月光山《つきみつやま》|吹《ふ》く|春風《はるかぜ》の|軟《やはら》かく
|夕《ゆふ》べの|林《はやし》に|小鳥《ことり》なくなり』
ムラジ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|歎《なげ》かひの|数《かず》を|重《かさ》ねて|今《いま》|此処《ここ》に
|水底《みそこ》にうつる|月《つき》を|見《み》るかな
|水底《みなそこ》の|澄《す》みきらひたる|月《つき》|見《み》れば
うべよ|月見《つきみ》の|池《いけ》と|称《とな》ふも
|水底《みなそこ》にかげを|沈《しづ》めて|月読《つきよみ》は
|夜《よる》の|守《まも》りとかがやき|給《たま》へり
|昼《ひる》の|守《まも》り|夜《よる》の|守《まも》りを|受《う》けながら
|月光山《つきみつやま》に|国《くに》を|守《まも》らむ
チンリウ|姫《ひめ》の|行方《ゆくへ》は|今《いま》にわからねど
|月《つき》をし|見《み》れば|心《こころ》やはらぐ
|大空《おほぞら》に|冴《さ》え|渡《わた》りたる|春《はる》の|夜《よ》の
|月《つき》|朧《おぼろ》なりわが|子《こ》を|思《おも》ふも
|大空《おほぞら》は|俄《にはか》に|霞《かすみ》|包《つつ》まひて
|水底《みそこ》の|月《つき》の|光《かげ》をぼかせり
|春《はる》の|夜《よ》の|月《つき》を|力《ちから》に|匂《にほ》ふらむ
|躑躅《つつじ》の|露《つゆ》は|玉《たま》と|照《て》りつつ
|静《しづ》かなる|夕《ゆふ》べなるかな|吹《ふ》く|風《かぜ》も
いとやはらかに|山雀《やまがら》の|鳴《な》く
|夕《ゆふ》されど|山雀《やまがら》の|鳴《な》くこの|山《やま》は
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|現《あら》はれなるかも
|水底《みなそこ》の|真砂《まさご》の|数《かず》も|見《み》ゆるまで
|月《つき》は|冴《さ》えたり|霞《かすみ》を|分《わ》けて
|吹《ふ》く|風《かぜ》に|御空《みそら》|覆《おほ》ひし|春霞《はるがすみ》
|忽《たちま》ち|晴《は》れて|空《そら》の|肌《はだ》|見《み》ゆ
|主《ス》の|神《かみ》の|御舎《みあらか》とならむ|此《こ》の|山《やま》に
|御魂《みたま》|清《きよ》めて|清《すが》しきわれなり
|大空《おほぞら》の|月《つき》も|流転《るてん》のかげなれば
われは|歎《なげ》かじ|移《うつ》りゆく|世《よ》を
|或《ある》は|虧《か》け|或《あるい》は|盈《み》つる|月光《つきかげ》は
わが|魂《たましひ》を|生《い》かせ|給《たま》へり
|光闇《ひかりやみ》ゆき|交《か》ふ|世《よ》ぞと|思《おも》へども
なほ|偲《しの》ばるるイドムの|城《しろ》かな
|朝夕《あさゆふ》に|恋《こ》ふる|娘《むすめ》の|行先《ゆくさき》を
|探《たづ》ねまほしき|月《つき》にぞありける
|祖々《おやおや》の|授《さづ》け|給《たま》ひしイドム|城《じやう》の
|木《こ》の|間《ま》の|月《つき》を|見《み》る|由《よし》もなし
わが|仰《あふ》ぐ|御空《みそら》の|月《つき》はイドム|城《じやう》の
|常磐木《ときはぎ》の|松《まつ》に|懸《か》かりし|光《かげ》かも
ここに|来《き》て|心《こころ》|清《すが》しくなりにけり
|朝夕《あしたゆふ》べを|風《かぜ》の|匂《にほ》へば
|月《つき》|冴《さ》ゆる|樹下《こした》の|蔭《かげ》に|丹躑躅《につつじ》は
|無心《むしん》の|色《いろ》を|湛《たた》へて|笑《わら》へり』
シウランは|歌《うた》ふ。
『わが|王《きみ》よ|喜《よろこ》び|給《たま》へイドム|城《じやう》に
|眺《なが》めし|月《つき》は|輝《かがや》き|給《たま》へり
|故郷《ふるさと》に|眺《なが》むる|月《つき》を|月光《つきみつ》の
|山《やま》に|仰《あふ》ぐと|思《おも》へば|床《ゆか》しき
|何国《いづくに》の|果《は》てにも|月日《つきひ》は|照《て》るものを
|如何《いか》で|歎《なげ》かむ|過《す》ぎにし|夢《ゆめ》を
|現世《うつしよ》は|夢《ゆめ》と|思《おも》へど|月読《つきよみ》の
かげをし|見《み》れば|現《うつつ》にかへる
|百余里《ひやくより》を|距《へだ》てて|仰《あふ》ぐ|月光《つきかげ》も
|変《かは》りなき|世《よ》と|思《おも》へば|楽《たの》し
|真珠湖《しんじゆこ》に|浮《うか》べる|月《つき》を|人魚等《にんぎよら》は
|歓《えら》ぎ|喜《よろこ》び|仰《あふ》ぎゐるらむ
|塩辛《しほから》き|人魚《にんぎよ》の|湖《うみ》に|比《くら》ぶれば
|月見《つきみ》の|池《いけ》は|一入《ひとしほ》|清《すが》しき
わが|王《きみ》よ|歎《なげ》き|給《たま》ふな|地《ち》の|上《うへ》に
|変《かは》らぬ|月日《つきひ》の|輝《かがや》き|給《たま》へば
かくの|如《ごと》|清《すが》しき|山《やま》に|籠《こも》らひて
|祭政一致《さいせいいつち》は|楽《たの》しかるべし
|先《ま》づ|神《かみ》を|斎《いつ》きまつりて|此《この》|国《くに》の
|政治《まつりごと》せむ|月日《つきひ》にならひて
|天津日《あまつひ》の|恵《めぐ》み|畏《かしこ》み|月読《つきよみ》の
|露《つゆ》を|力《ちから》に|世《よ》を|治《をさ》めませ
|七日七夜《なぬかななよ》|霊魂《みたま》|身体《からたま》|禊《みそぎ》して
|月見《つきみ》の|池《いけ》の|月《つき》に|親《した》しむ
|梢《こずゑ》|吹《ふ》く|風《かぜ》の|音《おと》さへ|静《しづ》かなり
|王《きみ》の|御心《みこころ》|現《あら》はれにつつ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》|静《しづ》かに|時《とき》|待《ま》ちて
イドムの|城《しろ》を|取《と》り|返《かへ》さばや
エールスの|醜《しこ》の|司《つかさ》は|強《つよ》くとも
|誠《まこと》の|神《かみ》の|力《ちから》に|及《およ》ばじ
わが|王《きみ》に|刃向《はむか》ひまつりしエールスの
|果《は》ては|必《かなら》ずよろしからまじ
エールスの|醜《しこ》の|魂《みたま》を|救《すく》ひやりて
|月光《つきかげ》の|如《ごと》|清《きよ》めたきもの
われとても|月《つき》の|光《ひかり》を|教《のり》として
|霊魂《みたま》|身体《からたま》|清《きよ》く|進《すす》まむ
|常闇《とこやみ》も|光《ひかり》の|力《ちから》に|引《ひ》きさかれ
|輝《かがや》く|世《よ》なり|神《かみ》に|任《まか》さむ
わが|王《きみ》の|軍《いくさ》の|司《つかさ》と|任《まけ》られて
もろくも|破《やぶ》れし|思《おも》へば|恥《はづ》かし
|月《つき》の|面《おも》|仰《あふ》ぐも|恥《はづ》かしわが|王《きみ》の
|上《うへ》を|守《まも》らで|破《やぶ》れし|思《おも》へば
|恥《はぢ》らひつ|御空《みそら》の|月《つき》を|眺《なが》むれば
|笑《ゑ》みておはせり|面《おもて》|穏《おだひ》に』
|左守《さもり》のナーマンは|歌《うた》ふ。
『|戦《たたか》ひに|敗《やぶ》れて|歎《なげ》きのわれながら
|冴《さ》えたる|今宵《こよひ》の|月《つき》を|見《み》るかな
|月《つき》|見《み》れば|千々《ちぢ》の|歎《なげ》きも|晴《は》れゆきて
|蘇《よみがへ》りたる|心地《ここち》こそすれ
イドム|城《じやう》は|失《うしな》ひたれどわが|王《きみ》の
まめやかにます|思《おも》へば|楽《たの》しき
|姫君《ひめぎみ》の|行方《ゆくへ》はいづくか|知《し》らねども
|生《い》きていまさむ|神《かみ》の|守《まも》りに
エールスの|醜《しこ》の|司《つかさ》を|征討《きた》めむと
|思《おも》ふ|心《こころ》は|永久《とは》に|晴《は》れずも
|左守《さもり》われ|国《くに》の|政治《まつり》を|誤《あやま》りて
|王《きみ》に|歎《なげ》きを|見《み》せまつりける
わが|王《きみ》の|心《こころ》なやませ|村肝《むらきも》の
|心《こころ》は|立《た》つても|居《ゐ》ても|居《ゐ》られず
|寛大《くわんだい》なる|王《きみ》の|心《こころ》にほだされて
われは|生命《いのち》を|今日《けふ》まで|保《たも》ちし
わが|国《くに》と|王《きみ》に|対《たい》して|申訳《まうしわけ》
|立《た》たざるわれは|死《し》なむと|思《おも》ひし
さりながら|死《し》するは|易《やす》く|生《うま》るるは
|難《かた》しと|思《おも》ひて|忍《しの》び|来《き》つるも
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|保《たも》ちて|王《きみ》のため
わが|敵《てき》|滅《ほろ》ぼすとながらへ|居《ゐ》るも
|心《こころ》|無《な》き|花《はな》|麗《うるは》しく|汀辺《みぎはべ》に
|春《はる》を|匂《にほ》へどわれは|淋《さび》しき
|大空《おほぞら》に|輝《かがや》く|月《つき》の|光《かげ》|見《み》れば
わが|愚《おろか》しさに|恥《はぢ》らひのわく
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》の|限《かぎ》り|王《きみ》のため
|恨《うらみ》|晴《は》らして|城《しろ》とりもどさむ』
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『ナーマンの|悲《かな》しき|心《こころ》はわれ|知《し》れり
|心《こころ》|安《やす》かれ|時《とき》を|待《ま》ちつつ
ナーマンの|罪《つみ》にはあらず|天地《あめつち》の
|神《かみ》に|離《はな》れしわれの|罪《つみ》ぞや』
ナーマンは|歌《うた》ふ。
『わが|王《きみ》の|優《やさ》しき|言葉《ことば》|聞《き》くにつけ
わが|目《め》の|涙《なみだ》しとど|降《ふ》るなり
わが|王《きみ》の|思《おも》ひを|何時《いつ》か|晴《は》らさむと
|朝夕《あしたゆふ》べを|神《かみ》に|祈《いの》りつ
|主《ス》の|神《かみ》の|御舎《みあらか》|漸《やうや》く|出来上《できあが》り
|御霊遷《みたまうつ》しの|吉《よ》き|日《ひ》|待《ま》たるる』
|右守《うもり》のターマンは|歌《うた》ふ。
『わが|王《きみ》の|御言《みこと》|畏《かしこ》しナーマンの
|心《こころ》いぢらしわれは|泣《な》くなり
|今《いま》までの|歎《なげ》きを|月《つき》にまかせつつ
|御国《みくに》|起《おこ》すと|御神《みかみ》に|祈《いの》らむ
|地《ち》の|上《うへ》の|業《わざ》はことごと|主《ス》の|神《かみ》の
|恵《めぐ》みに|離《はな》れて|成《な》るものはなし
|主《ス》の|神《かみ》を|厚《あつ》く|祭《まつ》りて|言霊《ことたま》の
|清《きよ》き|御稜威《みいづ》を|身《み》に|受《う》けむかも
|言霊《ことたま》の|軍《いくさ》を|用《もち》ゐず|現世《うつしよ》の
|弓矢《ゆみや》の|軍《いくさ》に|滅《ほろ》ぼされたり
この|上《うへ》は|人《ひと》を|傷《そこな》ふ|弓矢《ゆみや》を|捨《す》てて
|生言霊《いくことたま》に|戦《たたか》はむかな
|七日七夜《なぬかななよ》の|修祓《しうばつ》|終《をは》り|村肝《むらきも》の
|心《こころ》は|頓《とみ》に|冴《さ》え|渡《わた》りける
|春《はる》されば|花《はな》は|自然《しぜん》に|咲《さ》くものを
|何《なに》を|騒《さわ》がむ|今日《けふ》のわが|身《み》を
わが|王《きみ》を|栄《さかえ》の|君《きみ》とあがめつつ
|月光山《つきみつやま》に|時《とき》を|待《ま》つべし
|右守《うもり》われは|王《きみ》の|御国《みくに》をあやまりて
|曲《まが》の|司《つかさ》に|奪《うば》はれにけり
わが|罪《つみ》は|万死《ばんし》に|当《あた》り|重《おも》けれど
やがて|酬《むく》いむ|時《とき》の|力《ちから》に
しばらくを|心《こころ》|静《しづ》かに|待《ま》ち|給《たま》へ
エールス|王《わう》を|追《お》ひそけて|見《み》む
エールスの|司《つかさ》を|征討《きた》め|破《やぶ》らねば
わが|身《み》の|罪《つみ》は|亡《ほろ》びざるべし
|久方《ひさかた》の|御空《みそら》を|伊行《いゆ》く|月光《つきかげ》も
|虧《か》けてかくるる|例《ためし》ある|世《よ》ぞ
|闇《やみ》の|世《よ》は|久《ひさ》しからまじやがて|又《また》
|冴《さ》えたる|月《つき》は|輝《かがや》き|給《たま》はむ
|月光《つきかげ》は|次第々々《しだいしだい》に|太《ふと》りつつ
まだ|次《つ》ぎ|次《つ》ぎに|細《ほそ》りゆくなり
|細《ほそ》りつつ|御空《みそら》は|闇《やみ》となりぬれど
また|月光《つきかげ》の|出《い》づる|世《よ》なるよ』
アヅミ|王《わう》は|再《ふたた》び|歌《うた》ふ。
『|月《つき》|清《きよ》きこの|池《いけ》の|辺《べ》に|禊《みそぎ》して
|各自《おのもおのも》が|心《こころ》|照《て》らしぬ
われは|今《いま》|汝等《なれら》が|清《きよ》き|心根《こころね》を
|親《した》しく|聞《き》きて|蘇《よみがへ》りたり
|大空《おほぞら》の|月《つき》もかくるる|世《よ》なりけり
|何《なに》を|歎《なげ》かむ|汝等《なれら》を|力《ちから》に
われこそは|独身《ひとりみ》ならずたくましき
|汝等《なれら》を|力《ちから》と|頼《たの》む|身《み》なれば
|主《ス》の|神《かみ》の|貴《うづ》の|恵《めぐみ》をかがふりて
|静《しづ》かに|思《おも》ひを|晴《は》らさむと|思《おも》ふ
|今《いま》までの|心《こころ》の|襖《ふすま》|立《た》て|直《なほ》し
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|畏《かしこ》み|仕《つか》へむ
|主《ス》の|神《かみ》をよそになしつつわが|国《くに》の
|治《をさ》まるべしやはと|悟《さと》らひにけり』
|右守《うもり》は|歌《うた》ふ。
『わが|王《きみ》の|畏《かしこ》き|言霊《ことたま》|聞《き》くにつけ
|国《くに》の|栄《さかえ》を|今《いま》より|思《おも》ふ
わが|王《きみ》の|御言《みこと》|宜《うべ》なり|主《ス》の|神《かみ》の
|功績《いさをし》なくて|治《をさ》まるべきかは
エールスの|曲《まが》は|隙間《すきま》をうかがひて
イドムの|国《くに》を|奪《うば》ひたりけむ』
ムラジ|姫《ひめ》は|再《ふたた》び|歌《うた》ふ。
『|何時《いつ》となく|心《こころ》|驕《おご》りてわが|力《ちから》
|頼《たの》みし|事《こと》は|禍《わざはひ》なりしよ
|明日《あす》されば|主《ス》の|大神《おほかみ》を|招《お》ぎまつり
いとうるはしく|御祭《みまつり》|仕《つか》へむ』
(昭和九・八・四 旧六・二四 於伊豆別院 林弥生謹録)
第四章 |遷座式《せんざしき》〔二〇三一〕
アヅミ|王《わう》が|発起《ほつき》のもとに、|軍神等《ぐんしんら》が|百日百夜《ひやくにちひやくや》|丹精《たんせい》を|凝《こ》らしたる|結果《けつくわ》、|月光山《つきみつやま》の|頂上《ちやうじやう》にさも|荘厳《さうごん》なる|瑞《みづ》の|御舎《みあらか》は|建《た》てられにけり。
|茲《ここ》にアヅミ|王《わう》は、|七日七夜《なぬかななよ》の|修祓《しうばつ》を|終《をは》り、|恭《うやうや》しく|神殿《しんでん》に|昇《のぼ》り|祓《はら》ひの|式《しき》を|修《しう》し、|且《か》つ|遷宮式《せんぐうしき》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》しける。
|神々等《かみがみたち》は|此《こ》の|聖場《せいぢやう》に|襟《えり》を|正《ただ》し、|恐懼《きようく》して|控《ひか》へ|居《ゐ》る。|禊祓《はらひ》の|祝詞《のりと》の|文《ぶん》に|曰《い》ふ。
『|掛巻《かけま》くも|畏《かしこ》き、|紫微天界《しびてんかい》の|真秀良場《まほらば》|高日《たかひ》の|宮《みや》に、|大宮柱太敷《おほみやはしらふとし》きたて、|高天原《たかあまはら》に|千木高知《ちぎたかし》りて、|永久《とこしへ》に|鎮《しづ》まりいまし、|大宇宙《だいうちう》を|領有《うしは》ぎ|給《たま》ふ|主《ス》の|大御神《おほみかみ》、|高鉾《たかほこ》の|神《かみ》、|神鉾《かみほこ》の|神《かみ》の|貴《うづ》の|大前《おほまへ》に|斎主《いはひぬし》|元《もと》イドム|城《じやう》の|主《あるじ》アヅミ|王《わう》、|謹《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|畏《かしこ》み|畏《かしこ》みも|白《まを》さく。
アヅミの国は|大御神《おほみかみ》の|恵《めぐみ》|弥深《いやふか》く、|田畑《たはた》|繁《しげ》り|木《こ》の|実《み》|豊《ゆた》かに、|国津神《くにつかみ》は|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なの|厚《あつ》き|恵《めぐみ》に、|楽《たの》しく|世《よ》を|送《おく》りける|折《をり》もあれ、サールの|国《くに》の|国司《くにつかさ》エールスは、|数多《あまた》の|兵士《つはもの》を|率《ひき》ゐて|大栄山《おほさかやま》の|峰《みね》を|渡《わた》り、|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》を|占領《せんりやう》し、|進《すす》んで|平和《へいわ》の|楽土《らくど》と|聞《きこ》えたる、|吾《わが》|祖先《そせん》より|弥次々《いやつぎつぎ》に|守《まも》りたる、イドム|城《じやう》を|取《と》り|囲《かこ》み、|弓矢《ゆみや》をもちて|攻《せ》め|寄《よ》せ|来《きた》りけるにぞ、|吾《われ》も|此《この》|猛《たけ》き|仇《あだ》を|防《ふせ》がむとして|射向《いむか》ひたりけるに、|果敢《はか》なくも|味方《みかた》の|大方《おほかた》は|敵《てき》に|滅《ほろ》ぼされ、|吾《わが》|娘《むすめ》は|行方《ゆくへ》|分《わ》かずなりにける。かかる|禍《わざはひ》の|吾《われ》に|迫《せま》り|来《きた》るは、|全《まつた》く|祖々《おやおや》の|志《こころざし》を|軽《かろ》んずるの|余《あま》り、|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御恵《みめぐみ》を|忘《わす》れ、|恣《ほしいまま》なる|政治《まつりごと》を|為《な》せし|罪《つみ》|故《ゆゑ》と、ここに|前非《ぜんぴ》を|悔《く》い|真心《まごころ》より|改《あらた》めて、|大神《おほかみ》の|御子《みこ》たる|事《こと》を|悟《さと》らひにける。|吾《われ》ここをもて|悔《く》い|改《あらた》めの|心《こころ》の|千重《ちへ》の|一重《ひとへ》のしるしにもと、|月光山《つきみつやま》の|頂《いただき》の|最《いと》も|清《きよ》く|最《いと》も|涼《すず》しき、|常磐木《ときはぎ》|茂《しげ》る|上津岩根《うはついはね》に、|大宮柱太敷《おほみやはしらふとし》きたてて、|主《ス》の|大神《おほかみ》の|大御霊《おほみたま》を|招《お》ぎ|奉《まつ》るとして、|海川山野《うみかはやまぬ》の|種々《くさぐさ》の|美味物《うましもの》を、|八足《やたり》の|机代《つくゑしろ》に|置《お》き|足《たら》はし、|御酒《みき》|御饌《みけ》|御水《みもひ》|献《たてまつ》りて|願《ね》ぎ|奉《まつ》るさまを、|安《やす》らけく|平《たひ》らけく|聞食《きこしめ》し、|相諾《あひうづな》ひ|給《たま》ひて、|月光山《つきみつやま》のこれの|聖所《すがど》は、|弥益々《いやますます》も|常夏《とこなつ》の|国《くに》と|栄《さか》え、|神《かみ》の|恵《めぐみ》を|戴《いただ》きて|再《ふたた》びイドムの|城《しろ》を|奪《うば》ひ|返《かへ》さしめ|給《たま》へ。イドムの|城《しろ》の|再《ふたた》び|吾手《わがて》に|返《かへ》りし|上《うへ》は、|上下《しやうか》|共《とも》に|驕《おご》りの|心《こころ》を|戒《いまし》め、|火《ひ》、|水《みづ》、|土《つち》の|恵《めぐみ》を|悟《さと》らしめ、|大御神《おほみかみ》の|大御心《おほみこころ》に|叶《かな》ひ|奉《まつ》るべく|教《をし》へ|諭《さと》すべきを|誓《ちか》ひ|奉《たてまつ》る。|仰《あふ》ぎ|願《ねが》はくは|主《ス》の|大御神《おほみかみ》、これの|大殿《おほとの》に|天降《あも》りましまして、|貴《うづ》の|御霊《みたま》を|永久《とこしへ》に|止《とど》めさせ|給《たま》ひ、イドムの|国《くに》は|言《い》ふも|更《さら》なり、サールの|国《くに》も|悉《ことごと》く、|大御神《おほみかみ》の|恵《めぐみ》の|露《つゆ》に|潤《うるほ》はしめ、|直《なほ》く|正《ただ》しき|心《こころ》を|持《も》たしめ|給《たま》へと、|畏《かしこ》み|畏《かしこ》みも|祈願《こひのみ》|奉《まつ》らくと|白《まを》す。
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》
|千万《ちよろづ》の|栄《さか》えあれ
|八千万《やちよろづ》の|恵《めぐみ》あれ』
かく|歌《うた》ひ|終《をは》り、|再《ふたた》び|神前《しんぜん》に|敬礼《けいれい》しながら、
『|久方《ひさかた》の|天津御神《あまつみかみ》の|大御《おほみ》かげを
|吾《われ》はたしかに|拝《をが》みまつりぬ
ありがたき|神《かみ》の|天降《あも》りに|我国《わがくに》は
|弥《いや》ますますも|栄《さか》え|行《ゆ》くらむ
|主《ス》の|神《かみ》の|御霊《みたま》|天降《あも》らす|今日《けふ》よりは
|我《わが》|国原《くにはら》は|安《やす》けかるべし
|天《てん》を|仰《あふ》ぎ|地《つち》に|額《ぬか》づき|朝夕《あさゆふ》を
|主《ス》の|大神《おほかみ》に|仕《つか》へ|奉《まつ》らむ
|月光《つきみつ》の|山《やま》は|清《すが》しも|主《ス》の|神《かみ》の
|御霊《みたま》の|永久《とは》に|止《とど》まり|給《たま》へば
|草《くさ》も|木《き》も|色《いろ》|艶《つや》やかになりにけり
|神《かみ》の|天降《あも》りし|此《こ》のたまゆらに
|過《あやま》ちし|心《こころ》をとみに|清《きよ》めたる
|吾《われ》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》なり
|永久《とこしへ》にこれの|宮居《みやゐ》に|止《とど》まりて
|伊佐子《いさご》の|島根《しまね》を|照《て》らさせ|給《たま》へ』
と|拍手《はくしゆ》して|元《もと》の|座《ざ》に|直《なほ》りける。
ムラジ|姫《ひめ》は|神前《しんぜん》に|拝礼《はいれい》し|静《しづ》かに|歌《うた》ふ。
『|八十日日《やそかひ》はあれども|今日《けふ》の|吉《よ》き|日《ひ》こそ
わがたましひの|蘇《よみがへ》り|知《し》る
|主《ス》の|神《かみ》はこれの|聖所《すがど》に|天降《あも》りまして
わがたましひの|勇《いさ》みやまずも
|嘆《なげ》かひの|日数《ひかず》|重《かさ》ねて|嬉《うれ》しくも
|今日《けふ》の|吉《よ》き|日《ひ》にあひにけらしな
|愛娘《まなむすめ》チンリウ|姫《ひめ》の|行《ゆ》く|先《さき》を
|守《まも》らせ|給《たま》へ|主《ス》の|大御神《おほみかみ》
わが|娘《むすめ》|齢《よはひ》しあれば|一日《ひとひ》だも
|早《はや》く|吾目《わがめ》にうつさせ|給《たま》へ
|何《なん》となく|心《こころ》|嬉《うれ》しく|勇《いさ》みたちて
|吾手《わがて》|吾足《わがあし》|舞《ま》ひ|狂《くる》ふなり
|祖々《おやおや》の|守《まも》りし|城《しろ》に|立《た》ち|帰《かへ》り
|神《かみ》のまつりを|行《おこな》はせませ』
シウランは|歌《うた》ふ。
『|久方《ひさかた》の|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御霊《おんたま》を
|斎《いつ》きし|今日《けふ》は|喜《よろこ》びあふる
|厳《おごそ》かな|王《きみ》の|祝詞《のりと》の|言霊《ことたま》に
|主《ス》の|大御神《おほみかみ》|天降《あも》りましけむ
|言霊《ことたま》の|助《たす》くる|国《くに》と|知《し》りながら
|行《おこな》ひ|得《え》ざりし|事《こと》を|悔《く》ゆるも
|言霊《ことたま》を|朝夕《あさゆふ》|宣《の》りつつありしならば
イドムの|城《しろ》は|滅《ほろ》びざりけむ
|言霊《ことたま》の|厳《いづ》の|力《ちから》を|忘《わす》れたる
|報《むく》いは|滅《ほろ》びの|他《ほか》なかりけり
|武士《もののふ》を|数多《あまた》|引《ひ》き|連《つ》れ|敗《やぶ》れたる
われも|言霊《ことたま》|忘《わす》れ|居《ゐ》たりき』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|殿内《でんない》|忽《たちま》ち|鳴動《めいどう》して|地鳴《ぢなり》|震動《しんどう》|烈《はげ》しく、|新築《しんちく》の|社殿《しやでん》も|殆《ほとん》ど|覆《くつが》へらむばかり|思《おも》はれにける。
アヅミ|王《わう》は|恐《おそ》れ|畏《かしこ》み、|再《ふたた》び|神前《しんぜん》にひれ|伏《ふ》して|静《しづ》かに|歌《うた》ふ。
『|大神《おほかみ》の|御旨《みむね》にそむきし|為《ため》なるか
|天地《あめつち》|一度《いちど》に|揺《ゆる》ぎそめたる
|罪《つみ》あれば|吾《われ》を|譴責《きた》めよ|天津神《あまつかみ》
われに|倣《なら》ひしものにありせば
わが|教《をしへ》|曇《くも》りたるより|国津神《くにつかみ》
|神《かみ》を|忘《わす》れて|乱《みだ》れたりける
|吾《わが》|生命《いのち》|召《め》すも|厭《いと》はじ|国津神《くにつかみ》の
|罪《つみ》を|偏《ひとへ》に|許《ゆる》させ|給《たま》へ』
かく|歌《うた》ふ|折《をり》もあれ、|突然《とつぜん》として|神前《しんぜん》に|現《あら》はれ|給《たま》ひし|三柱《みはしら》の|大神《おほかみ》あり。
|一柱《ひとはしら》の|神《かみ》は|主《ス》の|大神《おほかみ》と|見《み》えて|御姿《おんすがた》いたく|光《ひか》らせ|給《たま》へば、|拝《をが》み|奉《まつ》るよしもなく、わづかにその|御影《おんかげ》を|想像《さうざう》するばかりなりけるが、|白衣《びやくえ》を|纒《まと》ひ|右手《めて》に|各自《おのもおのも》|鉾《ほこ》を|持《も》たして|立《た》ち|給《たま》ふ|神《かみ》は、|正《まさ》しく|高鉾《たかほこ》の|神《かみ》、|神鉾《かみほこ》の|神《かみ》にましましける。
|高鉾《たかほこ》の|神《かみ》は|厳《おごそ》かに|宣《の》らせ|給《たま》ふ。
『|吾《われ》こそは|高日《たかひ》の|宮《みや》ゆ|天降《あも》りてし
|高鉾《たかほこ》の|神《かみ》ぞ|心《こころ》|安《やす》かれ
この|国《くに》は|生言霊《いくことたま》の|死《し》せる|国《くに》
|神《かみ》の|助《たす》けのあらぬ|国《くに》ぞや
アヅミ|王《わう》|元津心《もとつこころ》に|立《た》ちかへり
|宮居《みやゐ》|造《つく》りしわざを|嘉《よみ》すも
|天地《あめつち》の|一度《いちど》に|揺《ゆ》りしは|主《ス》の|神《かみ》の
|天降《あも》り|給《たま》ひししるしなるぞや
アヅミ|王《わう》よ|恐《おそ》るるなかれ|主《ス》の|神《かみ》の
|御国《みくに》|助《たす》くと|天降《あも》りませしぞや』
|神鉾《かみほこ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へ|八重雲《やへくも》を
かき|分《わ》け|此処《ここ》に|天降《あも》りし|神《かみ》ぞや
|神鉾《かみほこ》の|神《かみ》はわれぞや|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|清《きよ》めてわが|面《おも》を|見《み》よ』
この|降臨《かうりん》にアヅミ|王《わう》をはじめ|左守《さもり》、|右守《うもり》、|軍師《ぐんし》|其《その》|他《た》の|神々《かみがみ》は|広庭《ひろには》にひれ|伏《ふ》し、|感謝《かんしや》と|喜《よろこ》びに|身《み》をふるはして|蹲《うづくま》り|居《ゐ》る。
アヅミ|王《わう》は|恐《おそ》る|恐《おそ》る|謹《つつし》み|歌《うた》ふ。
『|罪《つみ》|深《ふか》き|吾《わが》|身《み》の|願《ねが》ひ|聞召《きこしめ》し
|天降《あも》り|給《たま》ひし|神《かみ》ぞ|畏《かしこ》し
|今日《けふ》よりは|心《こころ》を|清《きよ》め|身《み》を|浄《きよ》め
|神《かみ》の|御旨《みむね》に|叶《かな》ひ|奉《まつ》らむ
|力《ちから》|弱《よわ》き|吾《われ》に|力《ちから》を|添《そ》へ|給《たま》へ
イドムの|国《くに》は|醜《しこ》はびこれば』
|高鉾《たかほこ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|醜神《しこがみ》は|汝《なれ》が|心《こころ》に|潜《ひそ》むなり
みたま|清《きよ》めて|追《お》ひ|出《いだ》すべし
|刈菰《かりごも》と|乱《みだ》れはてたる|此《こ》の|国《くに》も
|汝《なれ》が|心《こころ》の|汚《けが》れし|故《ゆゑ》ぞや
|今日《けふ》よりは|元津心《もとつこころ》にたちかへり
|誠《まこと》の|上《うへ》にも|誠《まこと》を|尽《つく》せよ』
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『ありがたき|仰《おほ》せなるかも|知《し》らず|知《し》らず
わが|魂《たましひ》に|曲津《まが》の|潜《ひそ》めるか
|主《ス》の|神《かみ》の|厳《いづ》の|力《ちから》にわが|魂《たま》の
|醜《しこ》の|鬼神《おにがみ》|退《やら》ひ|給《たま》はれ』
|神鉾《かみほこ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『ゐやなきは|汝《なれ》が|言葉《ことば》よ|魂《たましひ》の
|鬼《おに》は|自《みづか》らつくりしものを
|肝《きも》|向《むか》ふ|心《こころ》の|鬼《おに》を|退《やら》ふべき
|誠《まこと》の|力《ちから》は|真言《まこと》なるぞや』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|給《たま》ふや、|三柱《みはしら》の|神《かみ》は|消《き》ゆるが|如《ごと》く|御姿《みすがた》を|隠《かく》させ|給《たま》ひける。|再《ふたた》び|天地《てんち》|震動《しんどう》して|大空《おほぞら》の|雲《くも》は|左右《さいう》に|分《わか》れ、|虹《にじ》の|如《ごと》き|天《あめ》の|浮橋《うきはし》かかるよと|見《み》る|間《ま》に、|三柱《みはしら》の|神《かみ》は|荘厳《さうごん》なる|雄姿《ゆうし》を|現《あら》はし|給《たま》ふ|御姿《みすがた》、ほのかに|下界《げかい》より|拝《をが》むを|得《え》たりける。
アヅミ|王《わう》は|天《てん》を|仰《あふ》ぎ|拍手《はくしゆ》しながら、|謹《つつし》みの|色《いろ》を|面《おもて》に|漲《みなぎ》らして|歌《うた》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》は|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》を
われに|授《さづ》けて|帰《かへ》りましけり
|御教《おんをしへ》|委曲《つばら》に|聞《き》きてわが|魂《たま》の
|汚《けが》れはてたる|事《こと》を|悟《さと》りぬ
|大宮《おほみや》は|新《あら》たに|仕《つか》へ|奉《まつ》れども
|鎮《しづ》まりまさずて|帰《かへ》らせ|給《たま》ひぬ
|真心《まごころ》のあらむ|限《かぎ》りを|尽《つく》しつつ
われは|誠《まこと》をもちて|仕《つか》へむ
|主《ス》の|神《かみ》の|怒《いか》りに|触《ふ》れしか|吾《わが》|魂《たま》は
|穏《おだや》かならず|震《ふる》ひをののく
エールスに|城《しろ》|奪《うば》はれしも|吾《わが》|魂《たま》に
|潜《ひそ》む|曲津《まがつ》のわざなりしかな
|上下《うへした》の|序《ついで》を|乱《みだ》し|誇《ほこ》りたる
|国津神《くにつかみ》らの|罪《つみ》また|深《ふか》けむ
さりながら|吾《わが》|魂《たましひ》の|曇《くも》りゐて
|世《よ》の|乱《みだ》れをば|悟《さと》らず|居《ゐ》たるよ
|乱《みだ》れしと|悟《さと》りし|頃《ころ》は|早《は》や|既《すで》に
|吾《わが》|住《す》む|城《しろ》は|落《お》ちにけらしな
|掛《か》け|巻《ま》くも|綾《あや》に|畏《かしこ》き|大神《おほかみ》の
|恵《めぐみ》|賜《たま》はれこれの|御国《みくに》に』
ムラジの|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|三柱《みはしら》の|神《かみ》の|御姿《みすがた》|拝《をが》みてゆ
われは|頭《かしら》をもたげ|得《え》ざりき
|頭上《づじやう》より|押《お》しつぶさるる|心地《ここち》して
|御稜威《みいづ》|畏《かしこ》みふるへ|居《ゐ》たるも
|天地《あめつち》にかかる|尊《たふと》き|神《かみ》|坐《ま》すと
|知《し》らざる|罪《つみ》の|報《むく》い|来《き》しよな
エールスの|襲《おそ》ひ|来《きた》るも|宜《うべ》ようべ
|神《かみ》に|背《そむ》きしイドムの|城《しろ》は
|天地《あめつち》は|神《かみ》の|住処《すみか》と|知《し》らずして
|驕《おご》り|暮《くら》せし|罪《つみ》|恐《おそ》ろしも
|七日七夜《なぬかななよ》の|禊《みそぎ》はおろか|百日日《ももかひ》も
|身体《からたま》みたま|清《きよ》め|澄《す》まさむ
|主《ス》の|神《かみ》の|御霊《みたま》をこれの|新殿《にひどの》に
|迎《むか》へむとせし|罪《つみ》|恐《おそ》ろしも
|吾々《われわれ》がみたまの|曇《くも》り|晴《は》れざれば
|如何《いか》で|天降《あも》らむ|三柱神《みはしらがみ》は
|恐《おそ》れ|多《おほ》き|事《こと》をなしけり|曇《くも》りたる
みたまかかへて|神《かみ》|祀《まつ》るとは
|新殿《にひどの》は|厳《おごそ》かなれど|主《ス》の|神《かみ》は
|鎮《しづ》まりまさず|心《こころ》もとなや
|磨《みが》きたる|上《うへ》にもみたまみがきあげ
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|仕《つか》へ|奉《まつ》らな』
シウランは|歌《うた》ふ。
『|恐《おそ》れ|多《おほ》き|事《こと》をなしけり|汚《けが》れたる
|身《み》を|省《かへり》みず|神《かみ》を|招《お》ぎしは
|神殿《しんでん》も|毀《こは》れむばかり|唸《うな》りつつ
|動《うご》き|揺《ゆ》れしは|神罰《しんばつ》なるべし
|今日《けふ》よりは|弓矢《ゆみや》の|道《みち》を|改《あらた》めて
|言霊軍《ことたまいくさ》の|司《つかさ》とならむ』
ナーマンは|歌《うた》ふ。
『|年《とし》|古《ふる》く|左守《さもり》の|神《かみ》と|仕《つか》へつつ
この|過《あやま》ちを|悟《さと》らざりしよ
|吾《わが》|王《きみ》の|輔弼《ほひつ》の|役《やく》を|勤《つと》めつつ
|王《きみ》を|誤《あやま》らしめし|吾《われ》なり
|主《ス》の|神《かみ》よ|許《ゆる》し|給《たま》はれわが|生命《いのち》
よしや|召《め》すとも|厭《いと》はざりせば
チンリウ|姫《ひめ》|敵《てき》に|奪《うば》はれ|給《たま》ひしも
われらが|罪《つみ》と|思《おも》へば|悲《かな》しき』
ターマンは|歌《うた》ふ。
『|長《なが》からむ|月日《つきひ》を|王《きみ》に|仕《つか》へつつ
|神《かみ》の|恵《めぐみ》を|悟《さと》らずに|来《こ》し
|罪《つみ》といふ|罪《つみ》のことごと|集《あつ》まりて
イドムの|城《しろ》は|滅《ほろ》びしなるらむ
かくなるも|吾等《われら》が|神《かみ》を|忘《わす》れたる
|罪《つみ》と|思《おも》へば|身《み》の|置場《おきば》もなし』
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|汝《なれ》たちは|嘆《なげ》かふなかれ|皆《みな》われが
|神《かみ》をなみせし|罪《つみ》なりにける
|今日《けふ》よりは|心《こころ》あらため|愛善《あいぜん》の
|神《かみ》の|心《こころ》に|抱《いだ》かれ|進《すす》まむ
|如何《いか》ならむ|罪科《つみとが》あるも|愛善《あいぜん》の
|主《ス》の|大神《おほかみ》は|救《すく》ひ|給《たま》はむ』
シウランは|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|優《やさ》しき|心《こころ》|聞《き》くにつけ
われ|自《おのづか》ら|涙《なみだ》こぼるる
|今《いま》となり|歎《なげ》くも|詮《せん》なし|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|清《きよ》めて|仕《つか》ふるのみなる
|地《ち》の|上《うへ》の|慾《よく》に|離《はな》れて|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|誠《まこと》に|従《したが》はむかな』
ムラジ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|形《かたち》ある|宝《たから》を|捨《す》てて|形《かたち》なき
|宝《たから》|求《もと》むと|心《こころ》を|磨《みが》かむ
|吾《わが》|魂《たま》は|曇《くも》りて|居《ゐ》たり|主《ス》の|神《かみ》の
|貴《うづ》の|教《をしへ》を|聞《き》くまで|悟《さと》らず』
かく|各自《おのもおのも》|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》ひ、|神前《しんぜん》に|感謝《かんしや》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し|後《あと》しざりしながら、|月光山《つきみつやま》の|頂上《ちやうじやう》なる|神殿《しんでん》を|降《お》り、|俄造《にはかづく》りの|城内《じやうない》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|大空《おほぞら》の|月《つき》は|皎々《かうかう》として|輝《かがや》き|渡《わた》り、|時《とき》ならぬ|百鳥《ももどり》の|囀《さへづ》り|百花《ももばな》の|香《かを》り、|空中《くうちう》の|音楽《おんがく》|嚠喨《りうりやう》として|響《ひび》き|渡《わた》り、|短《みじか》き|春《はる》の|夜《よ》は|遂《つひ》に|明《あ》け|放《はな》れたり。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(昭和九・八・四 旧六・二四 於伊豆別院 白石恵子謹録)
第五章 |心《こころ》の|禊《みそぎ》〔二〇三二〕
アヅミ|王《わう》|以下《いか》の|国津神等《くにつかみたち》は|高鉾《たかほこ》の|神《かみ》、|神鉾《かみほこ》の|神《かみ》の|御宣示《みことのり》により|感激《かんげき》し、|七日七夜《なぬかななよ》の|禊《みそぎ》を|修《しう》し|再《ふたた》び|百日《ひやくにち》の|修祓《しうばつ》に|取《と》りかからむと、|今回《こんくわい》は|月見ケ池《つきみがいけ》の|聖場《せいぢやう》を|離《さ》けて、|山麓《さんろく》を|流《なが》るる|駒井川《こまゐがは》の|清流《せいりう》に|修祓式《しうばつしき》を|行《おこな》ひにける。|駒井川《こまゐがは》の|水《みづ》は|滔々《たうたう》として|蒼《あを》く|流《なが》れ、|川中《かはなか》の|巌《いはほ》を|噛《か》みて|立《た》ち|上《あが》る|飛沫《しぶき》は|霧《きり》の|如《ごと》く|日光《につくわう》に|映《えい》じ、|宛然《さながら》|白銀《はくぎん》の|錦《にしき》を|散《ち》らせし|如《ごと》く、その|壮観《さうくわん》さ|目《め》も|眩《くら》むばかりなりける。|一同《いちどう》は|川中《かはなか》の|大巌《おほいは》の|上《うへ》に|起立《きりつ》し、|或《あるひ》は|端坐《たんざ》し、|日夜《にちや》|心力《しんりよく》を|尽《つく》し、|禊《みそぎ》の|神事《みわざ》に|仕《つか》へ|奉《まつ》りける。
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|月見池《つきみいけ》|七日七夜《なぬかななよ》の|禊《みそぎ》さへ
|吾《わが》|魂《たましひ》の|垢《あか》は|取《と》れなく
|大神《おほかみ》の|大御言葉《おほみことば》に|省《かへり》みれば
|身体《からたま》|霊魂《みたま》は|未《ま》だ|清《きよ》まらず
|速川《はやかは》の|滝津瀬《たきつせ》|聞《き》けば|物凄《ものすご》し
|高鉾神《たかほこがみ》の|御声《みこゑ》にも|似《に》て
|魂《たましひ》を|打《う》ち|叩《たた》かるる|心地《ここち》かな
|駒井《こまゐ》の|川《かは》の|滝津瀬《たきつせ》の|音《ね》は
|速川《はやかは》の|中《なか》に|峙《そばだ》つ|巌ケ根《いはがね》に
|吾《われ》|立《た》ち|居《を》れば|水煙《みづけむり》|立《た》つも
|駒井川《こまゐがは》|速瀬《はやせ》に|立《た》ちて|身体《からたま》を
|洗《あら》ふ|禊《みそぎ》の|勇《いさ》ましきかも
|川底《かはそこ》の|真砂《まさご》の|白《しろ》も|見《み》えぬまで
|水《みづ》|蒼《あを》みたる|深《ふか》き|流《なが》れよ
|駒井川《こまゐがは》|深《ふか》き|流《なが》れの|底《そこ》よりも
なほまさるらむ|吾《わが》|身《み》の|汚《けが》れは
|月光山《つきみつやま》|聖所《すがど》に|城《しろ》を|構《かま》へつつ
|吾《わが》|曇《くも》りたる|心《こころ》を|嘆《なげ》かふ
|嘆《なげ》くべき|時《とき》にはあらじ|吾《わが》|魂《たま》を
|清《きよ》めてイドムの|城《しろ》をかへさむ
|形《かたち》ある|宝《たから》に|心《こころ》|引《ひ》かれつつ
|吾《わが》|魂《たましひ》の|曇《くも》りを|恐《おそ》るる
さはいへど|親《おや》の|賜《たま》ひしイドム|城《じやう》
やみやみ|人手《ひとで》に|渡《わた》すべきかは
|月《つき》も|日《ひ》も|流《なが》るる|駒井《こまゐ》の|川水《かはみづ》に
|吾《わが》|魂《たましひ》の|垢《あか》を|洗《あら》はむ
|勇《いさ》ましき|駒井《こまゐ》の|川《かは》の|水音《みなおと》は
|吾《わが》|魂《たましひ》を|蘇《よみがへ》らすも
|山《やま》と|山《やま》に|包《つつ》まれ|流《なが》るる|駒井川《こまゐがは》の
|水《みづ》|澄《す》み|切《き》りて|冷《ひ》え|渡《わた》るなり
|大魚小魚《おほなをな》あまた|集《つど》へる|谷川《たにがは》に
|禊《みそぎ》し|居《を》れば|足《あし》こそばゆき
|吾《わが》|足《あし》を|魚族《うろくづ》|来《きた》りつつくらし
|未《ま》だ|身体《からたま》の|垢《あか》の|取《と》れずや』
ムラジ|姫《ひめ》は|汀《みぎは》の|浅瀬《あさせ》に|立《た》ちながら、|半身《はんしん》を|浸《ひた》し|静《しづ》かに|歌《うた》ふ。
『|心地《ここち》よき|流《なが》れなるかな|吾《わが》|魂《たま》は
この|水音《みなおと》に|洗《あら》はれにける
|洗《あら》へども|身体《からたま》|霊魂《みたま》の|汚《けが》れをば
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|落《お》とす|術《すべ》なし
|吾《わが》|王《きみ》の|速瀬《はやせ》に|立《た》ちて|巌ケ根《いはがね》に
|禊《みそぎ》|給《たま》へる|御姿《みすがた》|雄々《をを》しも
|駒井川《こまゐがは》|速瀬《はやせ》を|見《み》れば|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|勇《いさ》みて|身体《からたま》|戦《をのの》く
|主《ス》の|神《かみ》の|御旨《みむね》に|叶《かな》ひ|奉《まつ》らむと
|百日百夜《ももかももよ》の|禊《みそぎ》に|立《た》つも
|百木々《ももきぎ》の|茂《しげ》みの|露《つゆ》のかたまりて
この|速川《はやかは》となりにけるかも
|川幅《かははば》は|広《ひろ》く|水底《みなそこ》|深《ふか》くして
|流《なが》れ|急《せは》しき|駒井《こまゐ》の|滝津瀬《たきつせ》
|岸《きし》の|辺《べ》の|木々《きぎ》の|梢《こずゑ》に|鶯《うぐひす》は
|春《はる》を|歌《うた》へど|吾《わが》|魂《たま》|寒《さむ》し
|庭躑躅《にはつつじ》|岸辺《きしべ》に|匂《にほ》ひて|水底《みなそこ》に
|赤《あか》|白《しろ》|紫《むらさき》の|花《はな》を|写《うつ》せり
|滝津瀬《たきつせ》の|音《おと》|高々《たかだか》と|夜《よ》もすがら
|響《ひび》かひながら|月《つき》を|流《なが》せり
|朝《あさ》されば|天津日《あまつひ》|流《なが》れ|夕《ゆふ》されば
|月《つき》の|流《なが》れる|駒井《こまゐ》の|川水《かはみづ》』
シウランは|歌《うた》ふ。
『|七日七夜《なぬかななよ》|禊《みそぎ》の|業《わざ》も|甲斐《かひ》なくて
|百日《ももか》の|禊《みそぎ》を|此処《ここ》にするかも
|吾《わが》|魂《たま》は|十重《とへ》に|二十重《はたへ》に|汚《けが》れしか
|月見《つきみ》の|池《いけ》の|水《みづ》にも|洗《あら》へず
|速川《はやかは》の|流《なが》れをあびて|吾《わが》|魂《たま》は
|軍《いくさ》の|司《つかさ》と|仕《つか》へ|得《う》べけむ
|今日《けふ》よりは|猛《たけ》き|心《こころ》を|洗《あら》ひ|去《さ》り
|言霊軍《ことたまいくさ》の|司《つかさ》とならばや
|岸《きし》の|辺《べ》に|清《すが》しく|鳴《な》ける|河鹿《かはしか》の
|声《こゑ》は|水面《みのも》に|慄《ふる》へて|流《なが》るる
|夜昼《よるひる》の|差別《けぢめ》もあらず|清《すが》しかる
|言霊《ことたま》|宣《の》れる|天晴《あは》れ|河鹿《かじか》よ
|河鹿《かじか》にも|劣《おと》れる|醜《しこ》の|言霊《ことたま》を
|持《も》てる|吾《わが》|身《み》の|愧《はづ》かしき|哉《かな》
|夜昼《よるひる》を|河鹿《かじか》は|駒井《こまゐ》の|川水《かはみづ》に
|洗《あら》ひて|言霊《ことたま》|澄《す》みたりにけむ
|桃《もも》|桜《さくら》|匂《にほ》へる|花《はな》のあかあかと
|水《みづ》にうつろふ|春《はる》は|長閑《のど》けし
|速川《はやかは》の|瀬筋《せすぢ》|流《なが》るる|桜花《さくらばな》は
|何処《いづく》の|海《うみ》に|息所《やすど》を|定《さだ》めむ
|吾《わが》|心《こころ》|瀬筋《せすぢ》|流《なが》るる|花《はな》の|如《ごと》
|果《はて》しも|知《し》らずなりにけりしな
|水《みづ》|冷《ひ》ゆる|此《こ》の|谷川《たにがは》に|禊《みそぎ》して
|蘇《よみがへ》らさむ|吾《わが》|魂《たましひ》を
|月光山《つきみつやま》|新《あらた》に|建《た》てし|宮内《みやうち》に
|神《かみ》や|天降《あも》らすを|待《ま》つ|禊《みそぎ》なり
|一度《ひとたび》は|天降《あも》りましたる|主《ス》の|神《かみ》の
|汚《けが》れを|忌《い》みて|帰《かへ》りましける
|世《よ》の|中《なか》に|神《かみ》の|守《まも》りのなかりせば
|片時《かたとき》だにも|生命《いのち》|保《たも》てじ
|谷々《たにだに》を|縫《ぬ》ひて|流《なが》るる|速川《はやかは》の
|水瀬《みなせ》の|水《みづ》は|冷《ひ》え|渡《わた》りけり
|川水《かはみづ》はよし|冷《ひ》ゆるとも|百日日《ももかひ》は
この|川中《かはなか》に|立《た》ちて|禊《そそ》がむ
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|消《き》ゆると|思《おも》ふまで
|冷《ひ》え|渡《わた》るなり|駒井《こまゐ》の|流《なが》れは』
|左守《さもり》のナーマンは|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|御後《みあと》に|従《したが》ひ|来《き》て|見《み》れば
|駒井《こまゐ》の|禊《みそぎ》は|冷《ひ》え|渡《わた》るなり
|冷《ひ》ゆるとも|何《なに》か|恐《おそ》れむ|王《きみ》のため
|御国《みくに》の|為《ため》と|思《おも》へば|安《やす》し
|王《きみ》の|為《ため》|国《くに》の|為《ため》にはあらずして
|吾《わが》|魂《たましひ》を|清《きよ》むる|為《ため》なり
|吾《わが》|魂《たま》の|汚《けが》れ|全《まつた》く|清《きよ》まらば
|国《くに》と|王《きみ》との|為《ため》となるべし
|吾《わが》|魂《たま》の|曇《くも》りし|故《ゆゑ》に|吾《わが》|王《きみ》を
|月光山《つきみつやま》に|忍《しの》ばせ|奉《まつ》るも
|思《おも》ひ|見《み》ればさも|恐《おそ》ろしき|吾《われ》なるよ
|王《きみ》を|悩《なや》ませ|国《くに》|失《うしな》ひて
|祭政一致《さいせいいつち》この|大道《だいだう》を|忘《わす》れしゆ
イドムの|国《くに》は|覆《くつが》へりたり
|政治《まつりごと》なさむと|思《おも》へば|身体《からたま》も
|霊魂《みたま》も|共《とも》に|清《きよ》むべきなり
|主《ス》の|神《かみ》の|生《う》ませ|給《たま》ひし|国原《くにはら》に
|禊《みそぎ》なくして|生命《いのち》|保《たも》たむ
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》は|神《かみ》の|賜物《たまもの》と
|思《おも》ひて|禊《みそぎ》の|業《わざ》にいそしむ
|政治《まつりごと》なさむと|思《おも》へば|真先《まつさき》に
|禊《みそぎ》の|祓《はら》ひ|勤《つと》むべきなり
|主《ス》の|神《かみ》の|恵《めぐ》みを|忘《わす》れ|吾《わが》|力《ちから》に
|国《くに》|治《をさ》むると|誤《あやま》りてゐし
|誤《あやま》てる|心《こころ》|抱《いだ》きて|政治《まつりごと》
|如何《いか》になすとも|治《をさ》まるべしやは
|政治《まつりごと》は|第一《だいいち》|神《かみ》を|祀《まつ》ることよ
|神《かみ》の|御国《みくに》は|神《かみ》の|任意《まま》なり
|百日《ひやくにち》の|禊《みそぎ》|終《をは》れば|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|改《あらた》めて|王事《わうじ》に|仕《つか》へむ
|言霊《ことたま》の|剣《つるぎ》を|右手《めて》に|振《ふ》りかざし
|王《きみ》が|政治《まつり》を|補《たす》け|奉《まつ》らむ
|滔々《たうたう》と|流《なが》るる|水《みづ》の|瀬《せ》をはやみ
|行方《ゆくへ》を|知《し》らぬ|駒井《こまゐ》の|川《かは》かな
|月光山《つきみつやま》|峯《みね》より|落《お》つる|木々《きぎ》の|葉《は》の
|露《つゆ》は|集《つど》ひて|川《かは》となりしか
|一人《いちにん》の|露《つゆ》の|力《ちから》も|重《かさ》なれば
|末《すゑ》に|誠《まこと》の|川《かは》となるべし』
ターマンは|歌《うた》ふ。
『|春霞《はるがすみ》|棚引《たなび》きそむる|谷間《たにあひ》に
|吾《われ》は|謹《つつし》み|禊《みそぎ》するかも
|巌《いは》を|噛《か》み|流《なが》るる|水《みづ》の|音《おと》|高《たか》く
|生言霊《いくことたま》を|非時《ときじく》|歌《うた》ふ
|巌《いは》を|打《う》つ|速瀬《はやせ》の|水《みづ》の|響《ひびき》さへ
|心《こころ》にかかる|国《くに》の|行末《ゆくすゑ》
|王《きみ》|思《おも》ひ|国《くに》を|思《おも》ひて|月光《つきみつ》の
|山《やま》に|朝夕《あさゆふ》|詣《まう》でけるかな
|汚《けが》れたる|吾《わが》|身体《からたま》を|主《ス》の|神《かみ》の
|御前《みまへ》に|運《はこ》ぶと|思《おも》へば|恐《おそ》ろし
|山《やま》は|裂《さ》け|海《うみ》はあせなむ|世《よ》ありとも
|誠《まこと》の|道《みち》は|踏《ふ》み|外《はづ》すまじ
|速川《はやかは》の|水《みづ》に|浸《ひた》れば|自《おのづか》ら
|吾《わが》|魂《たましひ》は|清《きよ》まる|心地《ここち》す
|主《ス》の|神《かみ》の|誠《まこと》の|道《みち》をあゆめども
|禊《みそぎ》の|業《わざ》は|始《はじ》めなりけり
|天地《あめつち》の|雲霧《くもきり》|汚《けが》れも|払《はら》ふべし
|禊《みそぎ》の|道《みち》の|功《いさを》ありせば』
かく|神々等《かみがみたち》は|禊《みそぎ》に|余念《よねん》なき|折《をり》もあれ、|上流《じやうりう》より|生命《いのち》を|助《たす》けて|呉《く》れいと|死物狂《しにものぐる》ひに|叫《さけ》びつつ|半死半生《はんしはんしやう》の|体《てい》となり、|彼方此方《あちらこちら》の|巌《いは》に|頭《あたま》を|打《う》ちつけながら、|全身《ぜんしん》|紅《あけ》に|染《そ》みつつ|流《なが》れ|来《きた》る|一人《ひとり》の|男《をとこ》あり。|禊《みそぎ》に|余念《よねん》なかりしアヅミ|王《わう》は|目《め》ざとくも|打《う》ち|見《み》やれば、|豈計《あにはか》らむや、|日頃《ひごろ》|敵《てき》とねらひしエールス|王《わう》の|無残《むざん》なる|姿《すがた》なりけるにぞ、アヅミ|王《わう》は|吾《わが》|身《み》の|危険《きけん》を|忘《わす》れて|激流《げきりう》に|飛《と》び|込《こ》み、|半死半生《はんしはんしやう》のエールス|王《わう》を|脇《わき》に|抱《かか》へ|下流《かりう》の|稍《やや》|水瀬《みなせ》|弱《よわ》き|処《ところ》へ|救《すく》ひ|来《きた》り、|川《かは》の|洲《す》へ|救《すく》ひ|上《あ》げ、|水《みづ》を|吐《は》かせ|種々様々《しゆじゆさまざま》と|介抱《かいはう》なしける。シウランを|始《はじ》めナーマン、ターマン、ムラジ|姫《ひめ》も、|何人《なんびと》ならむと|速瀬《はやせ》を|横切《よこぎ》り|近付《ちかづ》き|見《み》れば、|吾《わが》|本城《ほんじやう》を|攻《せ》め|落《おと》したるエールスなりければ、|怨《うら》みを|晴《は》らし、|城《しろ》を|取返《とりかへ》さむは|此《こ》の|時《とき》なりと|集《あつま》り|来《きた》り、|荒石《あらいし》を|掴《つか》んで|打《う》ち|殺《ころ》さむといきまき|居《ゐ》る。
ムラジ|姫《ひめ》は|声《こゑ》|高《たか》らかに|歌《うた》ふ。
『|我国《わがくに》に|仇《あだ》を|為《な》したるエールスの
|司《つかさ》の|知死期《ちしご》|心地《ここち》よきかな』
ナーマンは|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》を|悩《なや》まし|奉《まつ》りし|仇《あだ》なれば
|神《かみ》の|罰《きため》にあひしなるらむ
|今《いま》こそは|天《てん》の|与《あた》へよ|首《くび》|打《う》ちて
イドムの|城《しろ》を|奪《うば》ひ|還《かへ》さむ』
ターマンは|歌《うた》ふ。
『|荒川《あらかは》に|禊《みそぎ》なしたる|報《むく》いにて
|仇《あだ》は|吾手《わがて》に|入《い》りにけるかも
|川《かは》の|瀬《せ》の|石《いし》を|拾《ひろ》ひて|此《こ》の|仇《あだ》を
|打《う》ちて|殺《ころ》さむ|面白《おもしろ》きかな』
アヅミ|王《わう》は|右手《みぎて》を|差《さ》し|上《あ》げ、|空中《くうちう》を|押《おさ》へる|如《ごと》き|体《てい》をしながら、
『|待《ま》て|暫《しば》しエールス|王《わう》も|主《ス》の|神《かみ》の
|貴《うづ》の|御子《みこ》なりただに|許《ゆる》せよ
|吾《わが》|御霊《みたま》|神《かみ》に|離《はな》れし|罪《つみ》なれば
エールス|王《わう》を|怨《うら》むに|及《およ》ばじ』
エールス|王《わう》は|稍《やや》|正気付《しやうきづ》き、|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》しながら、アヅミ|王《わう》の|吾《わが》|前《まへ》に|立《た》ち|介抱《かいはう》せるを|見《み》て、|声《こゑ》|高《たか》らかに|笑《わら》ひ|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|生命《いのち》|何故《なにゆゑ》ならば|助《たす》けしぞ
|吾《わが》|荒行《あらぎやう》をよぎらむとするか
|吾《われ》こそはエールス|王《わう》よ|腰《こし》|弱《よわ》き
|汝《なれ》に|救《すく》はれ|顔《かほ》の|立《た》つべき』
ムラジ|姫《ひめ》は|目《め》を|釣《つ》り|上《あ》げて|歌《うた》ふ。
『|心《こころ》|弱《よわ》き|吾《わが》|王《きみ》なるかもイドム|城《じやう》
|奪《うば》ひし|仇《あだ》を|許《ゆる》し|給《たま》ふか
|生命《いのち》をば|救《すく》はれ|彼《かれ》は|逆《さか》しまに
|譏《そし》り|散《ち》らせり|許《ゆる》し|給《たま》ふな』
アヅミ|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|悪《にく》らしと|日頃《ひごろ》|思《おも》ひし|仇《あだ》ながら
|艱《なや》める|見《み》れば|助《たす》けたくなりぬ
とに|角《かく》に|仇《あだ》の|艱《なや》みにつけ|入《い》りて
|報《むく》ゆる|心《こころ》は|愧《は》づべきものぞや
|堂々《だうだう》と|表《おもて》に|立《た》ちて|戦《たたか》はむ
されど|吾等《われら》は|弓矢《ゆみや》の|要《えう》なし
|主《ス》の|神《かみ》の|生言霊《いくことたま》を|振《ふ》りかざし
|仇《あだ》を|言向《ことむ》け|和《やは》さむと|思《おも》ふ』
ナーマンは|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|仰《おほ》せ|宜《うべ》よと|思《おも》へども
|悪《にく》き|仇《あだ》をば|許《ゆる》すべきやは
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|救《すく》はれ|譏《そし》り|言《ごと》
|吐《は》くこの|仇《あだ》を|如何《いか》で|許《ゆる》さむ』
ターマンは|歌《うた》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》の|悪《にく》しみに|依《よ》りて|玉《たま》の|緒《を》の
|生命《いのち》|危《あやふ》き|汝《なれ》にあらずや
|救《すく》はれて|荒《あら》き|言葉《ことば》を|吐《は》き|散《ち》らす
|汝《なれ》は|誠《まこと》の|曲津神《まがつかみ》なり
いざさらば|石《いし》もて|打《う》たむエールスの
|玉《たま》の|生命《いのち》の|消《き》ゆる|処《とこ》まで』
|茲《ここ》にアヅミ|王《わう》はエールス|王《わう》の|生命《いのち》を|救《すく》へよと|頻《しき》りに|厳命《げんめい》すれども、|怨《うら》み|骨髄《こつずい》に|徹《てつ》したる|他《た》の|司等《つかさたち》は、この|機会《きくわい》に|打殺《うちころ》さむと|四方《しはう》|八方《はつぱう》より|石《いし》を|拾《ひろ》つて|投《な》げつけければ、|不思議《ふしぎ》やエールスの|姿《すがた》は|水煙《みづけむり》となりて|水中《すいちう》に|消《き》えにける。アヅミ|王《わう》を|始《はじ》め|一行《いつかう》|禊《みそぎ》の|面々《めんめん》は|此《こ》の|体《てい》を|見《み》て|不思議《ふしぎ》の|念《ねん》に|堪《た》へやらず、|茫然《ばうぜん》として|水中《すいちう》を|見詰《みつ》めけるが、|胴《どう》の|廻《まは》り|七八丈《しちはちぢやう》もあらむかと|思《おも》はるる|蛟竜《かうりう》、|大口《おほぐち》を|開《ひら》き|紅《あか》き|舌《した》を|吐《は》き|出《だ》しながら、|一行《いつかう》の|頭上《づじやう》に|鎌首《かまくび》を|立《た》て、|一呑《ひとの》みにせむず|勢《いきほひ》を|示《しめ》しける。
|茲《ここ》にアヅミ|王《わう》は|従容《しようよう》として|少《すこ》しも|騒《さわ》がず、|四人《よにん》の|狼狽《らうばい》せる|姿《すがた》を|静《しづ》かに|眺《なが》めながら、
『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》』
と|歌《うた》ひ|行《ゆ》くにつれ、|蛟竜《かうりう》の|姿《すがた》は|次第々々《しだいしだい》に|細《ほそ》り|行《ゆ》きて、|終《つひ》には|小《ちひ》さき|蠑〓《いもり》となり、アヅミ|王《わう》の|足許《あしもと》に|這《は》ひ|寄《よ》り|来《きた》る。アヅミ|王《わう》は|蠑〓《いもり》を|掌《てのひら》に|載《の》せ、|再《ふたた》び|天《あま》の|数歌《かずうた》を|宣《の》りければ、|掌《てのひら》よりシユーシユーと|煙《けむり》|立《た》ち|昇《のぼ》り、|見《み》る|見《み》る|天《てん》に|冲《ちう》し、|煙《けむり》の|中《なか》より|仄《ほの》かに|見《み》ゆる|竜《りう》の|姿《すがた》|以前《いぜん》に|優《まさ》る|巨体《きよたい》なりける。|何処《いづく》ともなく|神《かみ》の|声《こゑ》あり、|雷《いかづち》の|如《ごと》く|響《ひび》き|来《きた》る。
『|美《うつく》しきアヅミの|王《きみ》の|魂《たましひ》を
|主《ス》の|大神《おほかみ》は|諾《うべな》ひ|給《たま》へり
|汝《な》が|心《こころ》|清《きよ》まりぬれば|百日《ひやくにち》の
|禊《みそぎ》は|済《す》みぬはや|帰《かへ》りませよ
|吾《われ》こそは|高日《たかひ》の|宮《みや》より|天降《あも》りたる
|神鉾神《かみほこがみ》ぞ|心《こころ》|安《やす》かれ』
アヅミ|王《わう》は|恭《うやうや》しく|歌《うた》ふ。
『|有難《ありがた》し|吾《わが》|魂《たましひ》をみそなはす
|神《かみ》の|言葉《ことば》に|蘇《よみがへ》りたり』
|空中《くうちう》より|再《ふたた》び|神《かみ》の声あり。
『|高光《たかみつ》の|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》の|神苑《かみぞの》に
|神鉾《かみほこ》の|神《かみ》|御霊《みたま》とどめむ
アヅミ|王《わう》は|神《かみ》の|御殿《みとの》に|仕《つか》へつつ
イドムの|国《くに》の|基《もとゐ》を|定《さだ》めよ
ムラジ|姫《ひめ》の|心《こころ》は|未《いま》だ|汚《けが》れたり
|百日《ももか》の|禊《みそぎ》の|功《いさを》は|消《き》えたり
シウランやナーマン、ターマン|三柱《みはしら》の
|禊《みそぎ》は|水《みづ》の|泡《あわ》となりけり
|改《あらた》めて|百日《ももか》の|禊《みそぎ》に|仕《つか》ふべし
|月光山《つきみつやま》は|聖所《すがど》なりせば』
|茲《ここ》にアヅミ|王《わう》は|三日《みつか》の|禊《みそぎ》にて|許《ゆる》され、|月光山《つきみつやま》の|神殿《しんでん》に|奉仕《ほうし》し、|国政《こくせい》を|見《み》る|事《こと》となり、ムラジ|姫《ひめ》|以下《いか》は|改《あらた》めて|百日百夜《ももかももよ》の|荒行《あらぎやう》を|命《めい》ぜられ、|月光山《つきみつやま》の|神殿《しんでん》|及《およ》び|政務《せいむ》に|仕《つか》ふることを|許《ゆる》されにける。
(昭和九・八・四 旧六・二四 於伊豆別院 森良仁謹録)
第六章 |月見《つきみ》の|宴《えん》〔二〇三三〕
イドムの|城《しろ》は|風光絶佳《ふうくわうぜつか》の|勝地《しようち》にして、|東北《とうほく》を|流《なが》るる|水乃川《みなのがは》は|大栄山《おほさかやま》の|溪々《たにだに》の|流《なが》れを|集《あつ》めて|川幅《かははば》|広《ひろ》く|淙々《そうそう》たり。
サールの|国王《こくわう》エールスは、|大栄山《おほさかやま》を|乗《の》り|越《こ》え、|大兵《たいへい》を|率《ひき》ゐて|不意《ふい》にイドム|城《じやう》を|占領《せんりやう》し、|数多《あまた》の|従神《じうしん》と|共《とも》に|此処《ここ》に|住《す》みけるが、|大栄山《おほさかやま》|北面《ほくめん》のサールの|国《くに》の|風光《ふうくわう》に|比《くら》べて|住《す》み|心地《ここち》よく、|春夏秋冬《しゆんかしうとう》|恰《あたか》も|花園《はなぞの》に|住《す》む|心地《ここち》して、|地上《ちじやう》の|天国《てんごく》の|生活《せいくわつ》を|楽《たの》しみける。
|月《つき》は|蒼空《あをぞら》に|皎々《かうかう》として|輝《かがや》き、|虫《むし》の|音《ね》|清《すが》しき|夕《ゆふ》べ、|水乃川《みなのがは》に|面《めん》せる|大殿《おほとの》の|窓《まど》を|押《お》し|開《ひら》き、|川《かは》の|面《おもて》を|瞰下《かんか》しながら、|軍師《ぐんし》を|初《はじ》め|左守《さもり》、|右守《うもり》その|他《た》の|重臣等《ぢうしんたち》と|月見《つきみ》の|宴《えん》を|開《ひら》き、|水乃川《みなのがは》の|水面《すゐめん》に|浮《うか》ぶ|月《つき》をほめながら、|恍惚《くわうこつ》として|美酒《びしゆ》|美食《びしよく》にあきゐたりける。
エールス|王《わう》は|水乃川《みなのがは》の|夜《よる》の|流《なが》れを|見《み》やりながら|歌《うた》ふ。
『|北《きた》の|国《くに》サールの|都《みやこ》を|立《た》ち|出《い》でて
イドムの|城《しろ》に|吾《われ》は|酒《さけ》|酌《く》む
|春《はる》もよし|夏《なつ》も|亦《また》よし|秋《あき》もよし
イドムの|国《くに》は|地上《ちじやう》の|天国《てんごく》
イドム|城《じやう》|主《あるじ》アヅミを|追《お》ひ|散《ち》らし
|武勇《ぶゆう》を|天下《てんか》に|現《あら》はしにけり
|吾《わが》|武勇《ぶゆう》|伊佐子《いさご》の|島《しま》に|伝《つた》はりて
|四方《よも》の|木草《きくさ》も|吾《われ》になびけり
|村肝《むらきも》の|心《こころ》にかかるは|月光《つきみつ》の
|山《やま》にひそめるアヅミ|王《わう》なり
|待《ま》て|暫《しば》し|百《もも》の|軍《いくさ》をととのへて
|月光山《つきみつやま》の|砦《とりで》をはふらむ
|真珠《しんじゆ》を|涙《なみだ》に|造《つく》る|真珠湖《しんじゆこ》の
|人魚《にんぎよ》をとりてなぐさまむかな
|水乃川《みなのがは》|流《なが》るる|月日《つきひ》の|光《かげ》|見《み》れば
|真珠《しんじゆ》の|玉《たま》にさも|似《に》たるかな
|山《やま》も|野《の》も|青《あを》く|清《すが》しく|鳥《とり》の|声《こゑ》
|虫《むし》の|音《ね》|冴《さ》ゆるイドムの|城《しろ》かも
|世《よ》の|中《なか》に|楽《たの》しきものは|国《くに》ひろめ
|戦《いくさ》の|道《みち》の|勝利《しようり》なりけり
|吾《われ》は|今《いま》|伊佐子《いさご》の|島《しま》を|統《す》べ|守《まも》り
|国津神等《くにつかみら》の|王《きみ》となりけり』
サツクス|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|謀計《はかりごと》|皆《みな》|図《づ》に|当《あた》り
イドムの|城《しろ》は|吾手《わがて》に|入《い》れり
|春夏《はるなつ》の|眺《なが》め|妙《たへ》なるこの|国《くに》の
|主《あるじ》とならす|王《きみ》の|雄々《をを》しさ
アヅミ|王《わう》の|夢《ゆめ》を|覚《さま》して|水乃川《みなのがは》に
|静《しづ》かに|浮《うか》ぶ|月《つき》と|日《ひ》のかげ
|魚族《うろくづ》の|遊《あそ》べる|様《さま》の|明《あき》らかに
この|高殿《たかどの》ゆ|見《み》ゆる|広川《ひろかは》
|真珠湖《しんじゆこ》の|人魚《にんぎよ》をとりてこの|川《かは》に
|放《はな》ちて|見《み》れば|面白《おもしろ》かるらむ
さるにてもアヅミの|王《わう》は|必《かなら》ずや
イドムの|城《しろ》を|窺《うかが》ひゐるらむ
アヅミ|王《わう》の|砦《とりで》をはふり|月光《つきみつ》の
|山《やま》を|追《お》はずば|心《こころ》もとなし
|夜《よる》されば|枕《まくら》を|高《たか》く|安《やす》らかに
|寝《いね》むと|思《おも》へばアヅミ|王《わう》を|滅《ほろ》ぼせ
|豊《ゆた》かなるイドムの|国《くに》は|月光《つきみつ》の
|山《やま》の|砦《とりで》に|黒雲《くろくも》|迷《まよ》ふ
|月《つき》も|日《ひ》もさはやかに|照《て》るイドムの|国《くに》の
|黒雲《くろくも》なるよ|月光山《つきみつやま》は』
|左守《さもり》チクターは|歌《うた》ふ。
『|天ケ下《あめがした》の|風致《ふうち》にとめるイドム|城《じやう》に
|王《きみ》と|酒《さけ》|酌《く》む|今宵《こよひ》の|楽《たの》しさ
|月《つき》も|日《ひ》も|清《きよ》く|流《なが》るる|水乃川《みなのがは》
|瞰下《みおろ》すこれの|館《やかた》めでたき
|月《つき》も|日《ひ》も|真下《ました》を|流《なが》るるこの|城《しろ》は
|紫微《しび》の|宮居《みやゐ》にまがふべらなる
|紫微《しび》の|宮《みや》|如何《いか》に|清《すが》しくありとても
イドムの|城《しろ》に|及《およ》ばざるべし
|吾《わが》|王《きみ》は|主《ス》の|大神《おほかみ》よ|左守《さもり》|吾《われ》は
|高鉾《たかほこ》の|神《かみ》|右守《うもり》は|神鉾《かみほこ》
|主《ス》の|神《かみ》は|高鉾《たかほこ》|神鉾《かみほこ》|二柱《ふたはしら》
|従《したが》へイドムの|城《しろ》に|天降《あも》らせり
かかる|世《よ》にかかる|目出度《めでた》き|国《くに》を|得《え》て
|四海《しかい》に|臨《のぞ》む|王《きみ》は|主《ス》の|神《かみ》』
|右守《うもり》のナーリスは|歌《うた》ふ。
『|心得《こころえ》ぬ|左守《さもり》チクターの|言葉《ことば》かな
|神《かみ》を|無視《なみ》せることの|恐《おそ》ろし
|人《ひと》の|国《くに》|力《ちから》に|奪《うば》ひほこらかに
|神《かみ》に|擬《なぞら》ふは|畏《おそ》れ|多《おほ》きよ
|主《ス》の|神《かみ》を|斎《いつ》き|奉《まつ》りて|朝夕《あさゆふ》に
|仕《つか》へざりせば|国《くに》は|滅《ほろ》びむ
エールスの|吾《わが》|王《きみ》|始《はじ》めチクター|等《ら》
|心《こころ》かへずば|過《あやま》ちあらむ
|吾《わが》|言葉《ことば》|諾《うべな》ひ|給《たま》ひて|今日《けふ》よりは
|主《ス》の|大神《おほかみ》を|敬《うやま》ひ|給《たま》へ
|王《きみ》の|手《て》にイドムの|城《しろ》は|入《い》りたれど
|未《ま》だゑらぐべき|時《とき》は|来《きた》らじ
|国津神《くにつかみ》の|心《こころ》は|未《いま》だ|吾《わが》|王《きみ》の
|心《こころ》のままに|従《したが》はざるべし
|吾《わが》|王《きみ》の|威力《ゐりよく》に|服《ふく》したるのみぞ
|心《こころ》の|底《そこ》より|服《まつろ》ひ|居《を》らじ
この|城《しろ》は|美《うつく》しけれど|国津神《くにつかみ》の
|恨《うらみ》の|的《まと》となりしを|知《し》らずや』
エールス|王《わう》は|憤然《ふんぜん》として|面色《かほいろ》を|変《か》へながら|歌《うた》ふ。
『ナーリスの|礼《ゐや》なき|言葉《ことば》|聞《き》くにつけ
|吾《わが》|心持《こころもち》|尖《とが》り|初《そ》めたり
|大栄山《おほさかやま》の|嶮《けん》を|越《こ》えたる|吾《われ》なれば
|汝《なれ》が|言葉《ことば》は|杞憂《きいう》なるべし
イドム|城《じやう》は|吾《われ》にかなへりとこしへに
これの|勝地《しようち》に|住《す》まむと|思《おも》ふ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》にかかるは|故郷《ふるさと》の
サールの|国《くに》よ|吾子《わがこ》を|思《おも》へり
|明日《あす》よりはサールの|国《くに》に|立《た》ち|帰《かへ》り
|城《しろ》をかためて|固《かた》く|守《まも》れよ
|諸々《もろもろ》の|司《つかさ》を|束《つか》ねナーリスは
サールの|国《くに》の|安《やす》きを|守《まも》れ
この|国《くに》は|左守《さもり》のチクター、エーマンの
|軍師《ぐんし》のあれば|安《やす》けかるらむ』
|右守《うもり》のナーリスは|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|御言《みこと》|畏《かしこ》み|今《いま》よりは
サールの|国《くに》に|急《いそ》ぎ|帰《かへ》らむ
|吾《わが》|王《きみ》よサツクス|姫《ひめ》よゆるみなく
イドムの|国《くに》に|臨《のぞ》ませ|給《たま》へ
|王《きみ》の|威《ゐ》に|恐《おそ》れて|数多《あまた》の|司等《つかさら》は
|心《こころ》ならずも|従《したが》ひ|居《ゐ》るぞや
すきあらば|百《もも》の|司《つかさ》は|立《た》ち|上《あが》り
|王《きみ》を|襲《おそ》はむと|謀《はか》らひ|居《ゐ》るも
|村肝《むらきも》の|心《こころ》|驕《おご》りて|思《おも》はざる
なやみに|遇《あ》はせ|給《たま》ふまじ|王《きみ》』
エーマンは|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|軍《いくさ》を|率《ひき》ゐ|漸《やうや》くに
イドムの|国《くに》を|服《まつろ》へやはしぬ
|吾《わが》|王《きみ》の|御稜威《みいづ》と|吾等《われら》が|軍略《ぐんりやく》に
イドムの|城《しろ》は|陥《おちい》りにけり
イドム|王《わう》アヅミの|臣《けらい》|数多《かずおほ》く
ひそみてあれば|心《こころ》|許《ゆる》せじ
さりながら|軍師《ぐんし》エーマンのある|限《かぎ》り
|吾《わが》|王《きみ》|安《やす》く|穏《おだひ》にましませ
|幾万《いくまん》の|敵《てき》の|一度《いちど》に|攻《せ》め|来《く》とも
|吾《わが》|戦略《せんりやく》に|討《う》ちこらし|見《み》む』
エールス|王《わう》は|欣然《きんぜん》として|歌《うた》ふ。
『エーマンの|言葉《ことば》|吾意《わがい》にかなひたり
かたく|守《まも》れよイドムの|国《くに》を
|夜《よ》な|夜《よ》なに|月《つき》の|流《なが》るる|水乃川《みなのがは》
ながめて|吾《われ》は|酒《さけ》|酌《く》まむかな』
サツクス|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『エーマンの|厳《いづ》の|言霊《ことたま》|勇《いさ》ましし
|右守《うもり》の|心《こころ》と|裏表《うらおもて》なる
|吾《あが》|王《きみ》の|旨《むね》をそこなふナーリスは
|国《くに》に|帰《かへ》りて|世《よ》を|固《かた》めよや』
ナーリスは|歌《うた》ふ。
『いざさらば|国《くに》に|帰《かへ》らむ|吾《わが》|王《きみ》の
いますイドムの|城《しろ》を|離《はな》れて』
かくてナーリスはエールス|王《わう》|始《はじ》め|一同《いちどう》に|暇《いとま》を|告《つ》げ、|月下《げつか》の|原野《げんや》を|四五人《しごにん》の|従者《じうしや》と|共《とも》に|馬《うま》に|鞭《むち》うち、|大栄山《おほさかやま》の|頂《いただき》さしてサールの|故国《ここく》に|帰《かへ》らむと|急《いそ》ぎける。
エールス|王《わう》は|誠忠無比《せいちうむひ》なる|右守《うもり》のナーリスが|言葉《ことば》を|忌《い》み|嫌《きら》ひ、チクターやエーマンの|奸佞邪智《かんねいじやち》なる|贋忠臣《にせちうしん》の|言葉《ことば》を|喜《よろこ》び、|常《つね》にナーリスに|対《たい》して|心中《しんちう》おだやかならざりけるが、|余《あま》り|住心地《すみごこち》よからぬサールの|国《くに》の|守《まも》りとして|右守《うもり》を|追《お》ひ|帰《かへ》し、|故国《ここく》を|守《まも》らしむることとなり、|右守《うもり》は|遠《とほ》く|膝下《ひざもと》を|離《はな》れ|大栄山《おほさかやま》を|越《こ》えて|帰《かへ》りければ、|王《わう》の|機嫌《きげん》はこの|上《うへ》なく、|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なく|国内《こくない》の|美《うつく》しき|女神《めがみ》を|集《あつ》めて、|詩歌管絃《しいかくわんげん》の|快楽《けらく》に|耽《ふけ》る|事《こと》となりぬ。
|軍師《ぐんし》のエーマンも、|左守《さもり》のチクターも、|共《とも》に|国務《こくむ》を|忘《わす》れて|歓楽《くわんらく》に|耽《ふけ》り、|恰《あだか》もイドム|城《じやう》は|青楼《せいろう》の|如《ごと》き|感《かん》を|呈《てい》しけり。
|満月《まんげつ》の|空《そら》に|輝《かがや》く|夕《ゆふべ》、エールス|王《わう》はサツクス|姫《ひめ》を|始《はじ》め、|左守《さもり》のチクター、|軍師《ぐんし》エーマンその|他《た》の|司《つかさ》を|一堂《いちだう》に|集《あつ》め、|数多《あまた》の|美人《びじん》に|酌《しやく》をさせながら|心地《ここち》よげに|歌《うた》ふ。
『|僕《ぼく》はサールの|都《みやこ》の|主《あるじ》
|今《いま》はイドムの|王《きみ》となる
|月《つき》は|皎々《かうかう》|青空《あをぞら》|渡《わた》る
|吾《われ》はいういう|酒《さけ》を|酌《く》む
|月《つき》の|浮《う》かるる|水乃《みなの》の|川《かは》を
|見《み》つつ|酒《さけ》|酌《く》むイドム|城《じやう》
|右守《うもり》ナーリス|故国《ここく》へ|帰《かへ》し
|胸《むね》の|雲霧《くもきり》|晴《は》れ|渡《わた》る
|伊佐子島根《いさごしまね》を|二《ふた》つに|横《よ》ぎる
|大栄山脈《おほさかさんみやく》なけりやよい
|山《やま》がなければサールが|見《み》える
サール|恋《こひ》しく|姫《ひめ》|思《おも》ふ
|国《くに》に|残《のこ》せし|七人《しちにん》をとめ
さぞや|待《ま》つだろ|歎《なげ》くだろ
あまた|臣《けらい》をサールに|残《のこ》し
|吾《われ》はイドムの|城《しろ》に|住《す》む
|空《そら》は|青々《あをあを》|底《そこ》ひも|知《し》れぬ
|星《ほし》の|真砂《まさご》のきらきらと
イドム|城址《じやうし》のアヅミの|王《わう》は
|生命《いのち》からがら|月光山《つきみつやま》へ
|月光山《つきみつやま》にはアヅミがこもる
どうで|一度《いちど》は|涙雨《なみだあめ》
|人魚《にんぎよ》|棲《す》むてふ|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》へ
うかぶ|真珠《しんじゆ》の|月《つき》の|光《かげ》
|世《よ》にも|名高《なだか》きイドムの|城《しろ》も
|今《いま》は|吾等《われら》が|住《す》みどころ
|伊佐子島根《いさごしまね》は|広《ひろ》しと|言《い》へど
おなじ|月日《つきひ》の|光《かげ》|拝《をが》む』
と|頗《すこぶ》る|上機嫌《じやうきげん》である。
サツクス|姫《ひめ》は|又《また》|歌《うた》ふ。
『|真珠湖水《しんじゆこすゐ》の|人魚《にんぎよ》をとりて
|真珠《しんじゆ》|吐《は》かして|遊《あそ》びたい
|望《もち》の|月《つき》|照《て》るこの|高殿《たかどの》に
|真珠《しんじゆ》みたよな|星《ほし》が|照《て》る
|月《つき》は|追《お》ひ|追《お》ひ|御空《みそら》を|高《たか》く
|昇《のぼ》り|昇《のぼ》りて|夜《よ》が|更《ふ》ける
|水乃川《みなのがは》の|河鹿《かじか》の|声《こゑ》は
|王《きみ》の|威勢《ゐせい》をうたふてる
|王《きみ》の|威勢《ゐせい》にイドムの|城《しろ》は
|陥《お》ちて|涼《すず》しき|月《つき》が|照《て》る
|野辺《のべ》を|吹《ふ》き|来《く》る|夏夜《なつよ》の|風《かぜ》に
のりて|出《い》で|来《く》る|虫《むし》の|声《こゑ》
|花《はな》の|香《かを》りは|吹《ふ》く|夏風《なつかぜ》に
|城《しろ》の|中《なか》まで|吹《ふ》いて|来《く》る
|春《はる》は|花《はな》|咲《さ》き|夏《なつ》さり|来《く》れば
|月《つき》の|澄《す》みきるイドム|城《じやう》
|月《つき》の|流《なが》るる|水乃《みなの》の|川《かは》は
|朝夕《あしたゆふ》べに|虫《むし》が|啼《な》く
|清《きよ》き|流《なが》れの|水乃《みなの》の|川《かは》は
いく|日《ひ》|見《み》るともあきはせぬ
|秋《あき》の|月夜《つきよ》の|水乃《みなの》の|川《かは》は
さぞや|涼《すず》しかろ|清《すが》しかろ』
|左守《さもり》のチクターは|歌《うた》ふ。
『|王《きみ》の|御稜威《みいづ》の|御光《みひか》り|受《う》けて
|今日《けふ》はイドムの|月《つき》を|観《み》る
|山《やま》は|大栄《おほさか》|流《なが》れは|水乃《みなの》
|城《しろ》はイドムよ|空《そら》に|月《つき》
|月《つき》は|出《で》た|出《で》た|東《ひがし》の|山《やま》を
|雲《くも》が|悋気《りんき》で|影《かげ》かくす
|十重《とへ》に|二十重《はたへ》に|包《つつ》める|雲《くも》を
|分《わ》けてのぞいた|月《つき》の|顔《かほ》
|雲《くも》のとばりをそと|引《ひ》き|開《あ》けて
|月《つき》がのぞいたイドム|城《じやう》
|水《みづ》は|淙々《そうそう》|常磐《ときは》の|流《なが》れ
|王《きみ》は|隆々《りうりう》|世《よ》を|治《し》らす
この|世《よ》からなる|天国住《てんごくずま》ひ
|夢《ゆめ》か|現《うつつ》かおもしろや
|日頃《ひごろ》|企画《たくみ》し|思《おも》ひは|晴《は》れて
|今《いま》はイドムの|城《しろ》に|住《す》む
|虫《むし》の|啼《な》く|音《ね》も|小鳥《ことり》の|声《こゑ》も
|王《きみ》の|千歳《ちとせ》を|歌《うた》ふてる
|姿《すがた》|清《すが》しきサツクス|姫《ひめ》の
|花《はな》の|顔《かむばせ》|月《つき》が|照《て》る
|花《はな》は|桜《さくら》か|牡丹《ぼたん》か|百合《ゆり》か
|王《きみ》の|御側《みそば》の|花《はな》がよい
|蝉《せみ》のなく|音《ね》も|河鹿《かじか》の|声《こゑ》も
|今日《けふ》のお|酒《さけ》の|肴《さかな》ぞや』
エーマンは|歌《うた》ふ。
『|右守《うもり》ナーリス、サールに|帰《かへ》り
|今《いま》は|此《この》|世《よ》の|鬼《おに》はない
|右守司《うもりつかさ》の|日頃《ひごろ》の|言葉《ことば》
いつも|私《わたし》の|癪《しやく》となる
|雲《くも》を|払《はら》ふたイドムの|城《しろ》は
|晴《は》れて|清《すが》しき|秋《あき》の|月《つき》
|月《つき》は|御空《みそら》を|水乃《みなの》の|川《かは》に
|清《きよ》く|清《すが》しく|冴《さ》え|渡《わた》る
|上《うへ》と|下《した》とに|月影《つきかげ》ながめ
|王《きみ》の|御側《みそば》で|酒《さけ》を|酌《く》む
|戦争《いくさ》するより|働《はたら》くよりも
|月《つき》に|酒《さけ》|酌《く》むおもしろさ
|死《し》んで|花身《はなみ》が|咲《さ》かぬと|聞《き》けば
|生《い》きて|物言《ものい》ふ|花《はな》に|酔《よ》ふ
|宵《よひ》の|月光《つきかげ》ながめて|酒《さけ》に
|酔《よ》ふてよいよい|夜《よる》の|花《はな》
|夜《よる》の|花《はな》をば|手折《たを》りてここに
|天津御国《あまつみくに》の|酒《さけ》に|酔《よ》ふ
|空《そら》に|聳《そび》ゆる|大栄山《おほさかやま》の
|上《うへ》に|湧《わ》き|立《た》つ|雲《くも》の|峰《みね》
ながめゐる|間《ま》に|姿《すがた》の|変《かは》る
|雲《くも》の|峰《みね》かよ|吾《わが》|心《こころ》
|酒《さけ》と|物言《ものい》ふ|花《はな》さへあれば
たとへお|城《しろ》は|滅《ほろ》ぶとも
アヅミ、ムラジの|住《すま》ひし|城《しろ》に
|月《つき》を|見《み》ながら|酒《さけ》びたり』
エールス|王《わう》は|立《た》ち|上《あが》り、エーマンをしつかと|睨《にら》み、|酔眼朦朧《すいがんもうろう》として|歌《うた》ふ。
『エーマンの|言葉《ことば》|礼《ゐや》なしこの|城《しろ》の
|滅《ほろ》ぶと|言《い》ひしそのたはごとは
とこしへに|栄《さかえ》あれよと|祈《いの》るこそ
|汝《なれ》が|日頃《ひごろ》の|務《つと》めならずや
|斯《か》くの|如《ごと》き|心《こころ》を|持《も》ちて|吾《わが》|軍《ぐん》の
|司《つかさ》とするは|危《あやふ》かるべし』
エーマンは|恐《おそ》る|恐《おそ》る|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》よ|許《ゆる》し|給《たま》はれ|吾《わが》|宣《の》りし
|言葉《ことば》は|酒《さけ》の|戯言《たはごと》なりしよ
|酒《さけ》と|言《い》ふ|奴《やつ》に|心《こころ》を|奪《うぱ》はれて
あらぬ|事《こと》をば|口走《くちばし》りつつ
|吾《わが》|王《きみ》の|御代《みよ》|安《やす》かれと|朝夕《あさゆふ》に
|戦争《いくさ》の|業《わざ》をはげむ|吾《われ》なり
|願《ねが》はくば|広《ひろ》き|心《こころ》に|宣《の》り|直《なほ》し
|許《ゆる》させ|給《たま》へ|礼《ゐや》なき|言葉《ことば》を』
サツクス|姫《ひめ》は|仲《なか》をとりて|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》にこひのみ|申《まう》すエーマンが
|礼《ゐや》なき|言葉《ことば》を|許《ゆる》し|給《たま》はれ
エーマンは|酒癖《さけぐせ》|悪《わる》き|男《をとこ》|故《ゆゑ》
|心《こころ》にもなきことを|吐《は》くなり
エーマンの|清《きよ》き|心《こころ》は|予《かね》て|知《し》る
|吾《わが》|言《こと》わけを|許《ゆる》しませ|王《きみ》』
さしも|賑《にぎ》はひたる|月見《つきみ》の|宴席《えんせき》は、エーマンの|脱線歌《だつせんか》にエールス|王《わう》の|憤激《ふんげき》となり、|一座《いちざ》は|興《きよう》ざめ、しらけ|切《き》つたるまま|夜《よ》は|深々《しんしん》と|更《ふ》けわたり、|宴席《えんせき》は|閉《と》ぢられにける。
さりながらエールス|王《わう》の|怒《いか》りは|漸《やうや》くにとけ、エーマンは|何《なん》の|咎《とが》めもなく、|元《もと》の|軍師《ぐんし》の|職《しよく》に|異動《いどう》なかりける。
(昭和九・八・五 旧六・二五 於伊豆別院 谷前清子謹録)
第二篇 イドムの|嵐《あらし》
第七章 |月音《つきおと》し〔二〇三四〕
|地上《ちじやう》の|楽土《らくど》と|聞《きこ》えたる  イドムの|国《くに》も|秋《あき》さりて
|四方《よも》の|山野《やまの》は|錦《にしき》|織《お》り  |吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》は|爽《さはや》かに
|虫《むし》の|啼《な》く|音《ね》も|清《すが》しくて  |天津御国《あまつみくに》の|思《おも》ひあり
|大栄山《おほさかやま》の|百樹々《ももきぎ》は  |錦《にしき》の|衣《ころも》|着飾《きかざ》りて
|天津御空《あまつみそら》に|峙《そばだ》ちぬ  この|麗《うるは》しき|大栄《おほさか》の
|百谷千溪《ももだにちだに》の|清流《せいりう》を  |集《あつ》めて|流《なが》るる|水乃川《みなのがは》
|川幅《かははば》|広《ひろ》く|水《みづ》|蒼《あを》く  |底《そこ》ひも|知《し》らぬ|深淵《しんえん》の
|岸辺《きしべ》に|壁立《かべた》つ|巌ケ根《いはがね》は  |神《かみ》の|斧《をの》もてけづりたる
|如《ごと》き|奇勝《きしよう》の|其《そ》の|上《うへ》に  |映《は》ゆる|紅葉《もみぢ》の|麗《うるは》しさ
|松《まつ》の|緑《みどり》をちりばめて  |小鳥《ことり》|囀《さへづ》り|虫《むし》は|啼《な》き
|夕《ゆふ》さり|来《く》れば|月《つき》|宿《やど》る  イドム|唯一《ゆいつ》の|絶勝地《ぜつしようち》
ここに|遊《あそ》べる|艶人《あでびと》は  |新《あら》たにイドムの|城主《じやうしゆ》となりし
エールス|王《わう》を|初《はじ》めとし  サツクス|姫《ひめ》やチクターの
|外《ほか》に|供人《ともびと》なかりけり  |淵瀬《ふちせ》に|写《うつ》る|月光《つきかげ》を
あかなく|見《み》つつ|酒《さけ》|酌《く》み|交《かは》し  |歓喜《くわんき》を|尽《つく》しゐたりける。
エールス|王《わう》は、ほろ|酔《よ》ひ|機嫌《きげん》にて、|水面《みのも》に|写《うつ》る|月光《つきかげ》を|眺《なが》めながら|歌《うた》ふ。
『|宵々《よひよひ》を|酒《さけ》|酌《く》み|交《かは》し|宵《よひ》の|月《つき》
|酔《よひ》をさまして|流《なが》るる|川水《かはみづ》
この|淵《ふち》に|人魚《にんぎよ》の|棲《す》むと|人《ひと》のいふも
うべなり|水底《みそこ》も|見《み》えぬ|深淵《ふかぶち》
|紅《くれなゐ》に|照《て》る|紅葉《もみぢば》も|夕《ゆふ》されば
かげ|黒々《くろぐろ》と|水《みづ》にうつろふ
|月《つき》かげに|描《ゑが》ける|巌《いはほ》のかげ|見《み》れば
|淵《ふち》も|紅葉《もみぢ》も|一《ひと》つ|色《いろ》なり
|麗《うるは》しき|天国浄土《てんごくじやうど》に|住《す》む|心地《ここち》
しつつ|天地《てんち》の|恵《めぐ》みによふかな
|酌《く》む|酒《さけ》の|味《あぢ》も|一入《ひとしほ》かんばしし
|月《つき》の|流《なが》るる|水面《みのも》|眺《なが》めて
|泡立《あわだ》ちて|流《なが》るる|水《みづ》はしろじろと
|真玉《まだま》かがよふ|月《つき》の|光《ひか》りに
|小夜《さよ》|更《ふ》けて|虫《むし》の|音《ね》|細《ほそ》くなりつれど
|館《やかた》に|帰《かへ》らむ|心《こころ》|起《おこ》らず
|飲《の》めよ|飲《の》め|騒《さわ》げよ|騒《さわ》げ|世《よ》の|中《なか》は
|光《ひかり》と|闇《やみ》のゆき|交《か》ふ|世《よ》なれば
|月影《つきかげ》の|水《みづ》にうつろふ|清《すが》しさに
|恋《こひ》しくなりぬ|水乃《みなの》の|川《かは》なり
|大栄《おほさか》の|山《やま》より|落《お》つる|水乃川《みなのがは》の
|汀《みぎは》に|棲《す》める|河鹿《かじか》の|声々《こゑごゑ》
|星影《ほしかげ》を|流《なが》して|澄《す》める|水乃川《みなのがは》の
|真砂《まさご》は|白《しろ》し|月《つき》に|照《て》らひて』
サツクス|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『わが|王《きみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へて|水乃川《みなのがは》
|流《なが》るる|夜半《よは》の|月《つき》を|見《み》しかな
|春《はる》もよし|夏《なつ》もよけれど|秋月《あきづき》の
|流《なが》るるさまは|一入《ひとしほ》さやけし
|水乃川《みなのがは》|瀬筋《せすぢ》|流《なが》るる|月影《つきかげ》は
|千々《ちぢ》に|砕《くだ》けて|面白《おもしろ》きかな
|静《しづ》かなる|月《つき》にはあれど|瀬《せ》の|波《なみ》の
|谷間《たにま》に|砕《くだ》けてうつろふかげかな
|右《みぎ》|左《ひだり》|波《なみ》にさゆるる|月光《つきかげ》は
|世《よ》のさまざまのあかしなりけり』
チクターは|盃《さかづき》を|捧《ささ》げながら|歌《うた》ふ。
『|王《きみ》に|従《したが》ひ|壁立《かべた》つ|巌《いは》に
|坐《ざ》して|月見《つきみ》の|酒《さけ》を|酌《く》む
|虫《むし》は|啼《な》く|啼《な》く|河鹿《かじか》はうたふ
|月《つき》は|波間《なみま》に|舞踏《ぶたう》する
|山《やま》は|大栄《おほさか》|人魚《にんぎよ》は|真珠《しんじゆ》
|月《つき》の|流《なが》るる|水乃川《みなのがは》
|上《うへ》と|下《した》とに|秋月《あきづき》|眺《なが》め
|紅葉《もみぢ》|照《て》る|夜《よ》に|酒《さけ》を|酌《く》む
|松《まつ》も|紅葉《もみぢ》も|影《かげ》|黒々《くろぐろ》と
|川《かは》の|面《おもて》を|描《ゑが》いてる
|松《まつ》の|梢《こずゑ》に|月《つき》|澄《す》み|渡《わた》り
|酒《さけ》に|染《そ》まりし|顔紅葉《かほもみぢ》
|月《つき》は|皎々《かうかう》|御空《みそら》に|澄《す》めど
|恋《こひ》に|曇《くも》りしわが|心《こころ》
|恋《こひ》の|黒雲《くろくも》|吹《ふ》き|払《はら》はむと
|壁立《かべた》つ|巌根《いはね》に|月見酒《つきみざけ》
|吹《ふ》けよ|川風《かはかぜ》うたへよ|河鹿《かじか》
|月《つき》に|酒《さけ》|酌《く》む|男《をとこ》あり
|王《きみ》は|勇《いさ》まし|高山《たかやま》|越《こ》えて
イドムの|主《あるじ》と|住《す》み|給《たま》ふ
|澄《す》める|月光《つきかげ》|流《なが》るる|川《かは》の
|岸《きし》に|酒《さけ》|酌《く》みや|虫《むし》が|啼《な》く』
エールス|王《わう》は|機嫌《きげん》|斜《ななめ》ならず、チクターの|歌《うた》に|釣《つ》り|出《だ》され、|酒《さけ》に|足《あし》をとられ、よろよろしながら|常磐樹《ときはぎ》の|松《まつ》に|片手《かたて》を|掛《か》け、ロレツも|廻《まは》らぬ|舌《した》もて|歌《うた》ふ。
『|心地《ここち》よきかなイドムの|城《しろ》は
|花《はな》と|紅葉《もみぢ》のすみどころ
|花《はな》は|千《せん》|咲《さ》く|成《な》る|実《み》は|一《ひと》つ
|心《こころ》もむなよわが|妻《つま》よ
|酒《さけ》に|酔《よ》た|酔《よ》た|一升《いつしよう》の|酒《さけ》に
|川《かは》の|流《なが》れも|目《め》に|入《い》らぬ
|月《つき》は|照《て》れどもわれより|見《み》れば
|辺《あた》り|真暗《まつくら》|真《しん》の|闇《やみ》
|西《にし》も|東《ひがし》も|分《わか》らぬまでに
|酔《よ》ふて|苦《くる》しき|月見酒《つきみざけ》
|月《つき》の|露《つゆ》ほど|美味酒《うまざけ》|飲《の》んで
|酔《よ》ふて|苦《くる》しむ|川《かは》の|側《そば》
|小夜《さよ》|更《ふ》けて|虫《むし》の|啼《な》く|音《ね》も|細々《ほそぼそ》と
|早《はや》く|館《やかた》へ|帰《かへ》りたい』
サツクス|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|王《きみ》の|言葉《ことば》は|聞《きこ》えませぬよ
|此処《ここ》もあなたの|治《し》らす|国《くに》
|館《やかた》ばかりが|家《いへ》ではないに
|館《やかた》こがるる|王《きみ》をかし
|川《かは》の|瀬音《せおと》に|耳《みみ》すませつつ
|明日《あす》の|朝《あさ》まで|待《ま》ちませう』
チクターは|歌《うた》ふ。
『|前《まへ》も|後《うしろ》も|分《わか》らぬまでに
|王《きみ》は|酔《よ》はすか|面白《おもしろ》や
|姫様《ひめさま》よ|日頃《ひごろ》の|謀計《たくみ》|今《いま》|此《こ》の|場所《ばしよ》で
やつて|見《み》なされ|恋《こひ》の|為《ため》
|悪《わる》い|事《こと》とは|知《し》つては|居《を》れど
|恋《こひ》の|為《ため》には|是非《ぜひ》もない』
エールス|王《わう》は、|妻《つま》のサツクス|姫《ひめ》と|左守《さもり》のチクターとが|深《ふか》き|恋仲《こひなか》となつてゐる|事《こと》は|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、|両人《りやうにん》におびき|出《だ》され、|無性矢鱈《むしやうやたら》に|酒《さけ》を|飲《の》み、|前後《ぜんご》も|分《わか》らずなれるを|見澄《みす》まし、チクターはサツクスに|目配《めくば》せするや、|恋《こひ》の|悪魔《あくま》にとらはれしサツクス|姫《ひめ》は、|時《とき》こそ|到《いた》れりと、エールス|王《わう》の|背後《はいご》に|立《た》ち|廻《まは》り、|全身《ぜんしん》の|力《ちから》を|籠《こ》めてウンとばかり|突《つ》き|落《おと》せば、|何条《なんでう》|以《もつ》て|堪《たま》るべき、エールス|王《わう》は|壁立《かべた》つ|崖《がけ》よりザンブとばかり|突《つ》き|落《おと》され、|水泡《みなわ》となりて|消《き》えにけり。
サツクス|姫《ひめ》は、いやらしき|笑《ゑみ》を|浮《うか》べ、|水面《みのも》を|眺《なが》めながら、
『|天地《あめつち》も|一度《いちど》にひらくる|心地《ここち》かな
わが|仇雲《あだくも》は|水泡《みなわ》となれり
わが|王《きみ》と|敬《うやま》ひ|仕《つか》へまつりたる
|人《ひと》は|水泡《みなわ》となりにけらしな
|大空《おほぞら》に|輝《かがや》き|給《たま》ふ|月影《つきかげ》を
|仰《あふ》げば|何《なに》か|恐《おそ》ろしきわれ
さりながら|月《つき》は|語《かた》らじ|川水《かはみづ》は
|今宵《こよひ》のさまを|伝《つた》へざるべし
|虫《むし》の|音《ね》も|河鹿《かじか》の|声《こゑ》も|何《なん》となく
われは|寂《さび》しくなりにけるかも
さりながらチクターの|君《きみ》と|今日《けふ》よりは
|親《した》しく|住《す》まむと|思《おも》へば|楽《たの》し』
チクターは|歌《うた》ふ。
『|恐《おそ》ろしき|姫《ひめ》にますかも|背《せ》の|君《きみ》を
|川《かは》に|落《おと》して|微笑《ほほゑ》ますとは
われも|亦《また》|第二《だいに》のエールス|王《わう》なるかと
|思《おも》へばにはかに|恐《おそ》ろしくなりぬ
|如何《いか》にせむかくなる|上《うへ》はわが|王《きみ》の
|行方《ゆくへ》|知《し》れずと|世《よ》に|知《し》らすべきか
|病気《いたづき》に|打《う》ち|伏《ふ》し|給《たま》ふと|世《よ》の|中《なか》に
しばしのうちを|伝《つた》へ|置《お》かむか』
サツクス|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|心《こころ》|弱《よわ》き|事《こと》を|宣《の》らすなわが|王《きみ》を
|水泡《みなわ》とせしは|汝《なんぢ》ならずや
|直々《ぢきぢき》に|手《て》は|下《くだ》さねど|汝《な》が|心《こころ》
わが|手《て》をかりて|殺《ころ》したるなり
|天地《あめつち》の|神《かみ》の|御前《みまへ》に|恐《おそ》ろしと
|思《おも》ふ|心《こころ》を|打《う》ち|消《け》し|給《たま》へ』
チクターは|歌《うた》ふ。
『わが|王《きみ》は|酒《さけ》に|酔《よ》はせて|水乃川《みなのがは》の
|淵《ふち》に|落《お》ちしと|世《よ》に|知《し》らすべし
かくすれば|吾等《われら》に|疑《うたが》ひかかるまじ
|隠《かく》すは|却《かへ》りて|露《あら》はるるもとよ
いざさらば|急《いそ》ぎ|帰《かへ》りて|城内《じやうない》に
|王《きみ》の|溺死《できし》を|報告《ほうこく》|為《な》さむ』
サツクス|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『われわれの|謀計《たくみ》|全《まつた》く|図《づ》に|当《あた》り
|憐《あは》れエールス|水屑《みくづ》となりぬ
いざさらば|急《いそ》ぎ|帰《かへ》らむイドム|城《じやう》へ
|長居《ながゐ》は|恐《おそ》れよ|人目《ひとめ》なくとも』
かくて|両人《りやうにん》は、|何《なに》|喰《く》はぬ|顔《かほ》にてイドム|城《じやう》に|帰《かへ》り、|酒《さけ》に|酔《よ》ひつぶれたる|風《ふう》を|装《よそほ》ひ、|群臣《ぐんしん》を|一間《ひとま》に|集《あつ》めて、エールス|王《わう》の|訃音《ふいん》を|伝《つた》へむと|歌《うた》ふ。
サツクス|姫《ひめ》。
『|水乃川《みなのがは》|流《なが》るる|月《つき》を|見《み》ながらに
わが|背《せ》の|君《きみ》と|酒《さけ》を|酌《く》みつつ
|背《せ》の|君《きみ》は|月見《つきみ》の|酒《さけ》に|酔《よ》ひつぶれ
よろめき|淵瀬《ふちせ》におちさせ|給《たま》へり
チクターは|素裸体《すつぱだか》となり|深淵《ふかぶち》に
|飛《と》び|入《い》り|探《さが》せど|御影《おんかげ》|見《み》えず
|暇《ひま》どらばことぎれやせむと|吾《われ》も|亦《また》
|水中《みなか》に|飛《と》び|込《こ》み|王《きみ》をさがせり
|大空《おほぞら》に|月《つき》は|照《て》れども|夜《よる》なれや
|王《きみ》の|御影《おんかげ》|見《み》るよしもなし
|汝等《なれたち》に|知《し》らす|間《あひだ》にことぎれむと
|二人《ふたり》は|生命《いのち》からがら|探《たづ》ねし
わが|王《きみ》の|身《み》を|果敢《はか》なみて|涙《なみだ》ながら
|急《いそ》ぎ|館《やかた》にわれ|帰《かへ》り|来《こ》し
|汝等《なれたち》は|水乃《みなの》の|川《かは》に|立《た》ち|入《い》りて
|水底《みそこ》を|潜《くぐ》り|探《たづ》ね|来《きた》れよ
|平和《へいわ》なるイドムの|城《しろ》も|黒雲《くろくも》に
|包《つつ》まれし|如《ごと》われは|悲《かな》しき』
チクターは|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|仰《おほ》せの|如《ごと》く|川《かは》の|瀬《せ》を
|潜《くぐ》り|探《さが》せど|御影《おんかげ》なかりき
|生命《いのち》にもかへて|尊《たふと》き|吾《わが》|王《きみ》の
あはれ|行方《ゆくへ》は|見《み》えずなりけり
|如何《いか》にしてサツクス|姫《ひめ》の|御心《みこころ》を
|慰《なぐさ》めむかと|心《こころ》|砕《くだ》きぬ
|姫君《ひめぎみ》の|歎《なげ》き|思《おも》へばわれも|亦《また》
|生命《いのち》いらなく|思《おも》ひけらしな
|司等《つかさら》は|数多《あまた》の|人《ひと》を|水乃川《みなのがは》の
|上津瀬《かみつせ》|下津瀬《しもつせ》に|配《くば》り|探《さが》させよ』
|夜中《やちう》の|事《こと》ながら、|軍師《ぐんし》のエーマンは|急《いそ》ぎ|登城《とじやう》し、|二人《ふたり》の|様子《やうす》を|見《み》て|頭《かうべ》を|傾《かたむ》け、|無言《むごん》のまま|黙《もだ》し|居《ゐ》たりける。|諸々《もろもろ》の|司等《つかさたち》はエールス|王《わう》の|死体《したい》を|求《もと》めむと、|鉦《かね》や|太鼓《たいこ》を|打鳴《うちな》らし、|群集《ぐんしふ》を|集《あつ》め|水中《すいちう》|隈《くま》なく|捜索《そうさく》の|結果《けつくわ》、|壁立《かべた》つ|巌根《いはね》の|深淵《ふかぶち》に、|王《わう》の|死体《したい》を|発見《はつけん》し、|型《かた》の|如《ごと》く|盛大《せいだい》なる|土葬式《どさうしき》を|行《おこな》ひける。
これより、サツクス|姫《ひめ》は|女王《ぢよわう》として|君臨《くんりん》し、チクターは|依然《いぜん》として|左守《さもり》を|勤《つと》め、|両人《りやうにん》が|心《こころ》の|秘密《ひみつ》は|一人《ひとり》として|知《し》るもの|無《な》かりける。
(昭和九・八・五 旧六・二五 於伊豆別院 林弥生謹録)
第八章 |人魚《にんぎよ》の|勝利《しようり》〔二〇三五〕
|大栄山《おほさかやま》の|南面《なんめん》の|中腹《ちうふく》には|広《ひろ》き|平地《へいち》ありて、|東西《とうざい》|二十里《にじふり》、|南北《なんぼく》|十里《じふり》の|潮水《しほみづ》|漂《ただよ》ひ、|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》と|称《たた》へられて|居《ゐ》る。
|此《こ》の|湖水《こすい》の|周囲《しうゐ》には|数多《あまた》の|人魚《にんぎよ》|棲《す》み、|殆《ほと》んど|国津神《くにつかみ》と|同様《どうやう》の|生活《せいくわつ》を|為《な》し、よく|物《もの》を|言《い》ひ、|人魚郷《にんぎよきやう》をつくりて、|南《みなみ》にあるを|南郷《なんきやう》と|言《い》ひ、|北《きた》にあるを|北郷《ほくきやう》と|言《い》ひ、|東《ひがし》にあるを|東郷《とうきやう》と|称《しよう》し、|西《にし》を|西郷《せいきやう》と|称《とな》へ、|人魚《にんぎよ》の|群《むれ》は|此《こ》の|湖水《こすい》を|永久《とこしへ》の|棲処《すみか》として、|魚貝《ぎよかひ》を|餌食《ゑじき》とし、|他《た》よりの|国津神《くにつかみ》の|侵入《しんにふ》を|防《ふせ》ぎ、|天地《てんち》の|恩沢《おんたく》を|楽《たの》しみ|居《ゐ》たりける。
かかる|平和《へいわ》の|神仙郷《しんせんきやう》も、|時々《ときどき》イドム|王《わう》の|部下《ぶか》|襲来《しふらい》し|来《きた》りて、|人魚《にんぎよ》の|乙女《をとめ》を|捕《とら》へ|去《さ》る|事《こと》|一再《いつさい》ならざりければ、|茲《ここ》に|人魚《にんぎよ》の|王《わう》は|首《くび》を|鳩《あつ》めて|協議《けふぎ》を|凝《こ》らし、|国津神《くにつかみ》の|襲来《しふらい》に|備《そな》へむとして、|後先《あとさき》の|鋭《するど》く|尖《とが》りたる|貝殻《かひがら》を|空地《あきち》なくつきたて、|襲《おそ》ひ|来《きた》る|敵《てき》の|足《あし》を|傷《きず》つけむと|防禦線《ぼうぎよせん》を|張《は》り|居《ゐ》たりける。
|或時《あるとき》|人魚《にんぎよ》の|王《わう》は、|此《こ》の|湖水《こすい》の|中央《ちうあう》に|突出《とつしゆつ》せる|真珠島《しんじゆたう》に|集《あつま》りて、|湖面《こめん》に|浮《うか》ぶ|月《つき》を|眺《なが》めながら|一夜《いちや》を|明《あか》しつつ|互《たがひ》に|歌《うた》ふ。
|東郷《とうきやう》の|酋長《しうちやう》|春野《はるの》は|歌《うた》ふ。
『|天地《あめつち》の|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|生《な》り|出《い》でし
これの|湖水《こすい》は|永久《とは》の|苑《その》なり
|大空《おほぞら》の|月《つき》を|浮《うか》べて|波《なみ》|静《しづ》か
|輝《かがや》く|湖《うみ》の|広《ひろ》くもあるかな
かくの|如《ごと》|吾等《われら》は|清《きよ》き|湖《みづうみ》に
|人魚《にんぎよ》となりて|年《とし》ふりにけり
|風《かぜ》|吹《ふ》けど|雨《あめ》は|降《ふ》れども|此《こ》の|湖《うみ》は
|波《なみ》の|秀《ほ》さへも|立《た》たぬ|静《しづ》けさ
|春夏《はるなつ》の|眺《なが》め|妙《たへ》なる|此《こ》の|湖《うみ》に
|大栄山《おほさかやま》の|錦《にしき》うつろふ
|大栄山《おほさかやま》|溪《たに》の|清水《しみづ》は|此《こ》の|湖《うみ》に
|少《すこ》しも|入《い》らず|落《お》ちたぎつなり
|此《こ》の|湖《うみ》は|竜宮海《りうぐうかい》に|続《つづ》けるか
|湖水《こすい》ながらも|潮水《しほみづ》なりけり
|不思議《ふしぎ》なるこれの|高処《たかど》に|潮《うしほ》|湧《わ》く
|湖水《こすい》は|神《かみ》の|賜物《たまもの》なるらむ
|百年《ももとせ》をこの|湖《みづうみ》にやすらひて
|思《おも》ふ|事《こと》なき|吾等《われら》が|暮《くら》しよ
|折々《をりをり》は|神仙郷《しんせんきやう》なる|此《こ》の|湖《うみ》に
|襲《おそ》ひ|来《く》るなり|国津神等《くにつかみら》は
|国津神《くにつかみ》|仮令《たとへ》|幾万《いくまん》|寄《よ》せ|来《く》とも
|吾等《われら》は|飽《あ》くまで|戦《たたか》はむかも
|天津日《あまつひ》は|終日《ひねもす》|輝《かがや》き|月舟《つきふね》は
|終夜《よもすがら》|照《て》る|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》よ』
|南郷《なんきやう》の|酋長《しうちやう》|夏草《なつぐさ》は|歌《うた》ふ。
『|人《ひと》の|面《おも》|持《も》てども|未《いま》だ|身体《からたま》は
|浅《あさ》ましきかな|鱗《うろこ》|覆《おほ》へば
さりながら|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|抱《いだ》かれて
|煩《わづら》ひもなくすむは|嬉《うれ》しき
|安《やす》らかに|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》に|育《そだ》ちたる
|吾等《われら》は|悩《なや》み|知《し》らざりにけり
|恐《おそ》ろしきイドムの|王《わう》の|手下等《てしたら》は
|吾等《われら》が|輩《やから》を|奪《うば》ひて|帰《かへ》るも
|如何《いか》にして|吾等《われら》が|仇《あだ》を|防《ふせ》がむと
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|心《こころ》|砕《くだ》くも
さりながら|此《こ》の|湖《みづうみ》は|深《ふか》ければ
|吾等《われら》は|水底《みそこ》|潜《くぐ》りて|遁《のが》れむ
|時折《ときをり》は|陸《くが》に|上《のぼ》りて|眠《ねむ》る|間《ま》を
|忍《しの》び|来《きた》れる|仇《あだ》に|捕《とら》はる
|明日《あす》よりは|人魚《にんぎよ》は|汀《みぎは》に|眠《ねむ》らずて
|湖中《こちう》に|浮《うか》び|休《やす》らふべきかな
|悠々《いういう》と|波《なみ》に|浮《うか》びて|魚族《うろくづ》を
|食《く》ひて|生《い》くるは|恵《めぐみ》なりけり
|天地《あめつち》の|恵《めぐみ》|忘《わす》れし|輩《やから》のみ
|生命《いのち》|奪《うば》はれ|苦《くる》しむなるべし
|吾等《われら》とて|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御賜物《みたまもの》
|神《かみ》は|必《かなら》ず|守《まも》りますらむ
イドム|城《じやう》はサールの|王《わう》の|現《あら》はれて
|破《やぶ》れしと|聞《き》きぬ|吾等《われら》が|敵《かたき》は
わが|輩《やから》の|真珠《しんじゆ》|持《も》てりと|争《あらそ》ひて
|此《こ》の|湖《みづうみ》に|忍《しの》び|来《く》るなり
サール|国《こく》のエールス|王《わう》は|心《こころ》|荒《あら》き
|神《かみ》とし|聞《き》けば|安《やす》からず|思《おも》ふ
|兎《と》にもあれ|角《かく》にもあれや|波《なみ》の|上《へ》に
|澄《す》む|月光《つきかげ》を|眺《なが》めて|明《あ》かさむ
|月《つき》|見《み》れば|歎《なげ》かひ|心《こころ》|消《き》えゆきて
|春野《はるの》に|咲《さ》ける|花《はな》を|思《おも》ふも
|花見《はなみ》むと|陸《くが》に|上《のぼ》りて|捕《とら》はれし
|輩《やから》|思《おも》へば|悲《かな》しかりけり
|春《はる》さればわがともがらは|次々《つぎつぎ》に
|捕《とら》はれにけり|油断《ゆだん》の|心《こころ》に』
|西郷《せいきやう》の|酋長《しうちやう》|秋月《あきづき》は|歌《うた》ふ。
『|天《てん》|蒼《あを》く|湖《うみ》また|青《あを》き|真中《まんなか》に
|浮《うか》べる|真珠《しんじゆ》の|島《しま》に|酒《さけ》|酌《く》む
|御空《みそら》ゆく|月《つき》の|光《ひかり》に|照《て》らされて
|此《こ》の|湖原《うなばら》は|真白《ましろ》に|映《は》ゆるも
|波《なみ》の|間《ま》に|出没《しゆつぼつ》するはわが|輩《やから》
|御空《みそら》の|月《つき》を|仰《あふ》ぐなるらむ
|八千尋《やちひろ》の|湖底《うなぞこ》までも|照《て》り|透《とほ》す
|月《つき》の|光《ひかり》の|偉大《ゐだい》なるかな
|闇《やみ》の|夜《よ》は|汀辺《みぎはべ》に|輩《やから》|集《あつ》まりて
|歌《うた》と|踊《をど》りに|夜《よ》を|明《あか》すなり
|人魚等《にんぎよら》の|歌《うた》ふ|声々《こゑごゑ》|波《なみ》の|間《ま》に
こだまなしつつ|夜《よ》は|明《あ》けにける
|大栄《おほさか》の|山《やま》の|紅葉《もみぢ》を|仰《あふ》ぎつつ
|湖水《こすい》に|浸《ひた》る|秋《あき》は|楽《たの》しき
|秋月《あきづき》は|大栄山《おほさかやま》に|照《て》り|映《は》えて
|錦《にしき》に|映《は》ゆる|真珠《しんじゆ》の|湖原《うなばら》
|波《なみ》の|色《いろ》|朱《あけ》に|染《そ》めつつ|大栄《おほさか》の
|山《やま》の|紅葉《もみぢ》は|照《て》り|渡《わた》るなり』
|北郷《ほくきやう》の|酋長《しうちやう》|冬風《ふゆかぜ》は|歌《うた》ふ。
『|冬《ふゆ》されど|此《こ》の|仙郷《せんきやう》は|暖《あたた》かし
|大栄山《おほさかやま》は|北《きた》に|峙《そばだ》つ
|大栄《おほさか》の|山《やま》|嶮《けは》しければ|国津神《くにつかみ》は
|此《こ》の|仙郷《せんきやう》に|来《きた》る|少《すく》なし
|吾《わが》|棲《す》める|北《きた》の|郷《さと》には|人魚《にんぎよ》とる
|仇《あだ》も|来《きた》らず|安《やす》く|過《す》ぎ|行《ゆ》く
|若《も》しや|若《も》し|敵《てき》の|来《きた》らば|人魚等《にんぎよら》を
ことごと|吾等《われら》が|郷《さと》に|集《あつ》めよ』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》もあれ、イドム|城《じやう》の|女王《ぢよわう》サツクス|姫《ひめ》は、|数百《すうひやく》の|騎士《ナイト》を|従《したが》へ、|大栄山《おほさかやま》の|急坂《きふはん》を|鬨《とき》を|作《つく》りて|登《のぼ》り|来《きた》り、|一網打尽《いちまうだじん》に|人魚《にんぎよ》の|群《むれ》を|襲《おそ》ひ|捕獲《ほくわく》せむとのぼり|来《きた》る。
この|物音《ものおと》に|四人《よにん》の|酋長《しうちやう》は、スハ|一大事《いちだいじ》、|人魚《にんぎよ》の|輩《やから》|悉《ことごと》く|北郷《ほくきやう》に|集《あつ》めむと、|泳《およ》ぎの|早《はや》き|人魚《にんぎよ》を|東西南《とうざいなん》の|三郷《さんきやう》に|遣《つか》はし|急《きふ》を|報《ほう》じければ、|数万《すうまん》の|人魚《にんぎよ》はわれ|遅《おく》れじと|深《ふか》き|水底《みなそこ》を|潜《もぐ》りて、|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|北郷《ほくきやう》にかたまり、いづれも|声《こゑ》を|潜《ひそ》めて|敵《てき》の|襲来《しふらい》を|遥《はる》かに|眺《なが》めつつありける。
|四人《よにん》の|酋長《しうちやう》は|真珠島《しんじゆたう》の|巌頭《がんとう》に|立《た》ち、|悠然《いうぜん》として|敵《てき》の|襲来《しふらい》を|眺《なが》め|居《ゐ》たり。
サツクス|女王《ぢよわう》の|指揮《しき》のもとに、|数百《すうひやく》の|騎士《ナイト》は|東西南《とうざいなん》の|三郷《さんきやう》に|陣取《ぢんと》り、|湖水《こすい》を|囲《かこ》みて|擦鉦《すりがね》|太鼓《たいこ》を|打《う》ち|鳴《な》らしつつ、|山《やま》も|砕《くだ》けむばかりの|勢《いきほひ》にて|襲《おそ》ひ|来《きた》り、|人魚《にんぎよ》の|影《かげ》の|一《ひと》つも|湖面《こめん》になきに|失望《しつばう》し、|各々《おのおの》|馬上《ばじやう》ながら|湖中《こちう》に|飛《と》び|入《い》り、|馬《うま》をたよりに|捜索《そうさく》すれども、|東西南《とうざいなん》の|三郷《さんきやう》|附近《ふきん》には|一《ひと》つの|人魚《にんぎよ》も|見当《みあた》らず、|遂《つひ》には|馬《うま》|疲《つか》れ、|湖中《こちう》に|溺《おぼ》るるもの|多《おほ》くなりければ、さすがのサツクス|女王《ぢよわう》も、すごすごと|岸辺《きしべ》に|引《ひ》き|返《かへ》し、|馬《うま》の|疲《つか》れを|休《やす》め、|自分《じぶん》もまた|顔《かほ》|青《あを》ざめて|太《ふと》き|息《いき》を|吐《は》き|居《ゐ》たり。
サツクス|女王《ぢよわう》は|声《こゑ》も|細々《ほそぼそ》と|歌《うた》ふ。
『|月《つき》|澄《す》める|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》に|来《き》て|見《み》れば
|波《なみ》ばかりにて|人魚《にんぎよ》の|影《かげ》なし
|此《こ》の|湖《うみ》に|永久《とこしへ》に|棲《す》む|人魚等《にんぎよら》は
|如何《いかが》なりしか|吾《われ》いぶかしき
|潮水《しほみづ》に|飛《と》び|込《こ》み|進《すす》みしわが|騎士《ナイト》の
その|大方《おほかた》は|溺《おぼ》れ|死《し》したり
|人魚等《にんぎよら》は|水底《みなそこ》|深《ふか》く|潜《ひそ》みつつ
|駒《こま》の|脚《あし》をばひけるなるらむ
|斯《か》くならば|駒《こま》は|詮《せん》なし|木《き》を|伐《き》りて
|独木《まるき》の|舟《ふね》を|造《つく》り|進《すす》まむ』
|茲《ここ》に|生《い》き|残《のこ》りたる|騎士等《ナイトら》は、|湖辺《こへん》に|立《た》てる|数多《あまた》の|大木《たいぼく》を|伐《き》り|倒《たふ》し|独木舟《まるきぶね》を|造《つく》りて、|七日七夜《なぬかななよ》の|丹精《たんせい》をこめ|漸《やうや》く|数艘《すうさう》の|舟《ふね》を|造《つく》り、|真珠《しんじゆ》の|島《しま》に|渡《わた》り|酋長《しうちやう》を|捕縛《ほばく》し、|人魚《にんぎよ》の|在処《ありか》を|自白《じはく》させむと、|茲《ここ》に|数十人《すうじふにん》の|騎士《ナイト》は|独木舟《まるきぶね》に|棹《さを》をさし|櫂《かい》を|操《あやつ》りながら、|稍《やや》|広《ひろ》き|真珠《しんじゆ》の|島《しま》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。|勿論《もちろん》サツクス|女王《ぢよわう》もその|舟《ふね》に|安《やす》く|坐《ざ》してありける。
|四人《よにん》の|酋長《しうちやう》は|寄《よ》せ|来《きた》る|舟《ふね》を|遥《はる》かに|見《み》ながら、|悠々《いういう》として|騒《さわ》がず|急《あせ》らず|眺《なが》め|入《い》る。
|北郷《ほくきやう》の|酋長《しうちやう》|冬風《ふゆかぜ》は、|三人《さんにん》と|何《なに》か|諜《しめ》し|合《あは》せ|居《ゐ》たりしが、|忽《たちま》ち|湖中《こちう》に|飛《と》び|込《こ》み、|水底《みなそこ》を|潜《くぐ》つて|北郷《ほくきやう》に|急《いそ》ぎ|帰《かへ》り、|数万《すうまん》の|人魚《にんぎよ》に|急《きふ》を|告《つ》げ、|且《か》つ|一斉《いつせい》に|敵《てき》に|向《むか》つて|必死《ひつし》の|力《ちから》を|加《くは》へ|殲滅《せんめつ》せむ|事《こと》を|訓示《くんじ》した。
|酋長《しうちやう》の|言葉《ことば》に|数万《すうまん》の|人魚《にんぎよ》は|勢《いきほひ》を|得《え》、|日頃《ひごろ》の|仇《あだ》を|報《むく》い、|禍《わざはひ》の|根《ね》を|断《た》つは|此《こ》の|時《とき》と、|固唾《かたづ》を|呑《の》んで|控《ひか》へ|居《ゐ》る。
サツクス|女王《ぢよわう》は|勝《か》ち|誇《ほこ》りたる|面《おも》もちにて、|独木舟《まるきぶね》を|漕《こ》がせながら、|月《つき》|照《て》り|渡《わた》る|真珠《しんじゆ》の|湖原《うなばら》を|眺《なが》めて|歌《うた》ふ。
『あはれあはれ|心地《ここち》よきかな|吾《われ》は|今《いま》
|真珠《しんじゆ》の|島《しま》を|占領《せんりやう》せむとす
|人魚等《にんぎよら》の|宝《たから》の|真珠《しんじゆ》を|集《あつ》めたる
|島根《しまね》は|夜《よ》ながら|輝《かがや》きにけり
|幾万《いくまん》の|真珠《しんじゆ》の|光《ひかり》かたまりて
|月《つき》の|光《ひかり》も|褪《あ》せにけらしな
|幾万《いくまん》の|人魚《にんぎよ》はいづれに|逃《に》げしぞや
|吾等《われら》が|威勢《ゐせい》に|驚《おどろ》けるらし
|面白《おもしろ》し|月《つき》の|浮《うか》べる|湖原《うなばら》に
|真珠《しんじゆ》の|島《しま》を|取《と》らむと|出《い》で|行《ゆ》く』
|春野《はるの》は|遥《はる》かに|此《こ》の|体《てい》を|見《み》て|歌《うた》ふ。
『|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|知《し》らずの|出《い》で|立《た》ちを
|見《み》つつあはれを|催《もよほ》す|吾《われ》なり
|慾《よく》|深《ふか》く|真珠《しんじゆ》の|玉《たま》に|目《め》が|眩《くら》み
|生命《いのち》|捨《す》つると|思《おも》へばいぢらし
|北郷《ほくきやう》に|手具脛《てぐすね》ひきて|待《ま》ち|待《ま》てる
|人魚《にんぎよ》の|力《ちから》を|恐《おそ》れざるらし
|森閑《しんかん》としづまりかへる|湖原《うなばら》に
やがて|血汐《ちしほ》の|雨《あめ》は|降《ふ》るらむ
|心地《ここち》よき|今宵《こよひ》なるかも|祖々《おやおや》の
|仇《あだ》を|報《むく》ゆる|時《とき》は|来《き》にけり
サツクスはイドムの|国《くに》を|奪《うば》ひ|取《と》り
|夫《つま》の|生命《いのち》をとりしくせもの
サツクスの|悪魔《あくま》は|尚《なほ》も|飽《あ》きたらで
|吾等《われら》が|宝《たから》を|奪《うば》はむとすも
|限《かぎ》りなき|慾《よく》につられて|玉《たま》の|緒《を》の
|生命《いのち》を|捨《す》つるは|浅《あさ》はかなるかな』
|南郷《なんきやう》の|酋長《しうちやう》|夏草《なつぐさ》は|歌《うた》ふ。
『|夏草《なつぐさ》の|茂《しげ》みを|分《わ》けてのぼり|来《く》る
ナイトは|死出《しで》の|旅《たび》をするかも
わが|輩《やから》|影《かげ》なきを|見《み》てナイト|等《ら》は
|馬《うま》|諸共《もろとも》に|湖中《こちう》に|駈《か》け|入《い》りぬ
|駿馬《はやこま》は|疲《つか》れはてけむ|力《ちから》なく
|人《ひと》もろともに|溺《おぼ》れ|死《し》したり
|次々《つぎつぎ》に|溺《おぼ》るるを|見《み》てサツクスは
|陸《くが》に|向《むか》つて|逃《に》げゆくをかしさ
|駿馬《はやこま》の|嘶《いなな》きを|知《し》りてサツクスは
|汀《みぎは》に|並木《なみき》を|伐《き》り|倒《たふ》したり
|七日七夜《なぬかななよ》|独木《まるき》の|舟《ふね》を|造《つく》り|了《を》へて
|渡《わた》り|来《く》るかも|生命《いのち》|知《し》らずに
|近寄《ちかよ》らば|真珠《しんじゆ》の|岩《いは》を|投《な》げつけて
|仇《あだ》|悉《ことごと》く|打《う》ち|殺《ころ》すべし』
|西郷《せいきやう》の|酋長《しうちやう》|秋月《あきづき》は|歌《うた》ふ。
『|面白《おもしろ》き|世《よ》とはなりけり|居《ゐ》ながらに
|仇《あだ》を|滅《ほろ》ぼす|今宵《こよひ》とおもへば
|水中《すいちう》に|力《ちから》を|保《たも》つわが|輩《やから》
|捕《とら》へむとする|愚《おろか》さを|思《おも》ふ
|愚《おろか》なるサツクス|王《わう》の|手下等《てしたら》を
|水《みづ》の|藻屑《もくづ》と|葬《はうむ》り|去《さ》らむ
|面白《おもしろ》しああ|勇《いさ》ましし|吾《わが》|敵《てき》は
|真珠《しんじゆ》の|島根《しまね》|近《ちか》く|寄《よ》せたり』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、サツクス|女王《ぢよわう》の|一行《いつかう》|数十人《すうじふにん》は|島《しま》に|近寄《ちかよ》らむとするや、|三人《さんにん》の|酋長《しうちやう》は|此処《ここ》を|先途《せんど》と、|真珠《しんじゆ》の|岩《いは》を|頭上《づじやう》に|高《たか》くささげ、|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》に|向《むか》つて|岩石落《がんせきおと》しに|投《な》げつくれば、|何条《なんでう》|以《もつ》て|堪《たま》るべき、|舟《ふね》|諸共《もろとも》に|湖中《こちう》に|残《のこ》らず|沈没《ちんぼつ》し、|湖《うみ》の|水泡《みなわ》と|消《き》えにける。
|北郷《ほくきやう》に|集《あつま》りし|数万《すうまん》の|人魚《にんぎよ》は、「ウオーウオー」と|一斉《いつせい》に|歓声《くわんせい》を|挙《あ》げ、|為《ため》に|天地《てんち》も|崩《くづ》るるばかりなりける。
イドムの|城《しろ》を|占領《せんりやう》し、エールス|王《わう》を|謀殺《ぼうさつ》し、|恋《こひ》の|勝利者《しようりしや》とときめき|渡《わた》り、|豪奢《がうしや》を|極《きは》めたりし|悪虐無道《あくぎやくぶだう》の|張本《ちやうほん》サツクス|女王《ぢよわう》も、|天運《てんうん》いよいよ|尽《つ》きて|水《みづ》の|藻屑《もくづ》となりけるぞ|天命《てんめい》|恐《おそ》ろしき。
これより|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》の|人魚《にんぎよ》の|群《むれ》に|向《むか》つて|攻《せ》め|寄《よ》するもの|跡《あと》を|断《た》ち、|永遠《えいゑん》の|神仙郷《しんせんきやう》として|人魚《にんぎよ》の|群《むれ》は|栄《さか》えけるとなむ。
(昭和九・八・五 旧六・二五 於伊豆別院 白石恵子謹録)
第九章 |維新《ゐしん》の|叫《さけ》び〔二〇三六〕
|伊佐子《いさご》の|島《しま》の|北半《ほくはん》を  |暴力《ぼうりよく》もちて|治《をさ》めたる
サールの|国《くに》の|国王《こくわう》は  |大栄山《おほさかやま》をのり|越《こ》えて
|数多《あまた》の|兵士《つはもの》|引率《いんそつ》し  |地上《ちじやう》の|楽土《らくど》と|聞《きこ》えたる
イドムの|城《しろ》に|攻《せ》め|寄《よ》せて  |国王《こくわう》|其《そ》の|他《た》を|追《お》ひ|散《ち》らし
|鳥《とり》なき|里《さと》の|蝙蝠《かふもり》と  |羽振《はぶ》りをきかし|居《ゐ》たりしが
|天《てん》は|何時《いつ》まで|暴虐《ぼうぎやく》の  エールス|王《わう》を|許《ゆる》すべき
|忽《たちま》ちわが|身《み》の|膝下《しつか》より  |火焔《くわえん》の|炎《ほのほ》は|湧《わ》き|立《た》ちて
|流《なが》れも|清《きよ》き|水乃川《みなのがは》  |岸辺《きしべ》に|壁立《かべた》つ|巌《いは》の|上《うへ》
|心《こころ》|許《ゆる》せしその|妻《つま》に  きびしき|酒《さけ》を|進《すす》められ
|歩《あゆ》みもならぬたまゆらを  |妻《つま》の|命《みこと》に|背《せ》を|押《お》され
ザンブとばかり|水中《すいちう》の  |泡《あわ》と|消《き》えたるあさましさ
ここに|王妃《わうひ》のサツクスは  |左守《さもり》の|神《かみ》のチクターと
|人目《ひとめ》をさけて|忍《しの》び|会《あ》ひ  |恋《こひ》の|勝利《しようり》を|誇《ほこ》りしが
なほあき|足《た》らず|真珠湖《しんじゆこ》の  |人魚《にんぎよ》をとらむと|思《おも》ひ|立《た》ち
|数百《すひやく》のナイトを|引《ひ》き|具《ぐ》して  |真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》に|押《お》し|寄《よ》せつ
|旗鼓堂々《きこだうだう》と|迫《せま》りしが  |人魚《にんぎよ》の|酋長《しうちやう》の|計略《けいりやく》に
かかりて|脆《もろ》くも|失《う》せにける  サツクス|姫《ひめ》を|始《はじ》めとし
|左守《さもり》のチクター|言《い》ふも|更《さら》  |幾百《いくひやく》のナイトは|悉《ことごと》く
|真珠《しんじゆ》の|湖《うみ》の|魚族《うろくづ》の  |餌食《ゑじき》となりしぞあさましき
ここにイドムの|王城《わうじやう》は  |肝心要《かんじんかなめ》の|司《つかさ》をば
|失《うしな》ひ|忽《たちま》ち|常闇《とこやみ》の  さまを|詳《つぶさ》にあらはせり
|百《もも》の|司《つかさ》は|驚《おどろ》きて  |周章《あわ》てふためき|右《みぎ》|左《ひだり》
|騒《さわ》ぎまはれど|何《なん》とせむ  |国《くに》の|柱《はしら》を|失《うしな》ひし
イドムの|国《くに》の|騒擾《さうぜう》は  |目《め》も|当《あ》てられぬばかりなり
ここに|軍師《ぐんし》のエーマンは  |数多《あまた》のナイトを|引率《いんそつ》し
イドムの|城《しろ》に|陣取《ぢんど》りて  |国《くに》の|騒《さわ》ぎを|鎮《しづ》めむと
|計画《けいくわく》をさをさ|怠《おこた》らず  |朝夕《あしたゆふべ》に|肝《きも》|向《むか》ふ
|心《こころ》を|痛《いた》めゐたりける  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|天罰《てんばつ》|恐《おそ》ろしき。
エーマンは、サツクス|姫《ひめ》|及《およ》びチクター|等《ら》の|死体《したい》を|篤《あつ》く|葬《はうむ》り、|十日間《とをかかん》の|喪《も》に|服《ふく》しつつ|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》ふ。
『さびしさの|限《かぎ》りなるかもわが|国《くに》は
|国《くに》の|柱《はしら》を|失《うしな》ひにけり
|天地《あめつち》の|神《かみ》の|怒《いか》りに|触《ふ》れにけむ
かかる|歎《なげ》きは|世《よ》にためしなき
イドム|城《じやう》アヅミ、ムラジを|退《しりぞ》けし
|罪《つみ》の|酬《むく》いと|思《おも》へば|恐《おそ》ろし
|常世《とこよ》ゆく|闇《やみ》につつまるイドム|城《じやう》は
|何処《いづこ》にゆくか|心《こころ》もとなや
われは|今《いま》|軍《いくさ》の|司《つかさ》となりながら
|治《をさ》むる|由《よし》も|白浪《しらなみ》の|月《つき》よ
|大空《おほぞら》に|無心《むしん》の|月《つき》は|輝《かがや》きつ
われ|等《ら》が|歎《なげ》きを|笑《わら》ふがに|見《み》ゆ
|水乃川《みなのがは》|流《なが》るる|月《つき》もかすみたり
わが|目《め》の|涙《なみだ》|雨《あめ》と|降《ふ》れれば
|如何《いか》にしてイドムの|城《しろ》は|保《たも》たむと
|月《つき》に|祈《いの》れど|月《つき》は|答《こた》へず
|山川《やまかは》も|色《いろ》あせにけりわが|胸《むね》の
|闇《やみ》の|帳《とばり》は|晴《は》れやらずして
|国民《くにたみ》を|苦《くる》しめ|奢《おご》り|驕《たかぶ》りし
|王《きみ》の|行末《ゆくすゑ》おもへばおそろし
サツクスの|女王《ぢよわう》の|行《おこな》ひ|日《ひ》に|月《つき》に
いや|荒《すさ》みつつ|亡《ほろ》び|給《たま》へり
チクターの|卑《いや》しき|心《こころ》にさそはれて
あはれ|女王《ぢよわう》は|身罷《みまか》り|給《たま》へり
エールスの|王《きみ》の|最後《さいご》のいぶかしさ
わが|魂《たましひ》の|雲《くも》はまだはれず
|武力《ぶりよく》もて|人《ひと》の|国《くに》をば|奪《うば》ひたる
|報《むく》いなるらむ|今日《けふ》の|歎《なげ》きは
|山《やま》も|川《かは》も|草木《くさき》も|一度《いちど》に|声《こゑ》あげて
|傾《かたむ》く|国《くに》をなげくがに|見《み》ゆ
|見《み》るものも|聞《き》くものもみな|涙《なみだ》なり
われ|如何《いか》にしてこの|世《よ》を|活《い》かさむ
|力《ちから》ともたのみし|右守《うもり》のナーリスは
|遠《とほ》くサールにかへされて|居《を》り
せめて|今《いま》ナーリス|右守《うもり》のあるなれば
かほど|心《こころ》を|砕《くだ》かざるべし
|語《かた》らはむ|友《とも》さへもなき|今日《けふ》の|日《ひ》を
われは|淋《さび》しく|泣《な》くばかりなり
|三千《さんぜん》の|兵士《つはもの》あれど|王《きみ》のなき
イドムの|国《くに》は|統制《とうせい》とれずも
|彼方此方《あちこち》に|軍人等《いくさびとら》の|集《あつ》まりて
よからぬ|事《こと》を|企図《たくら》めりと|聞《き》く
|軍人《いくさびと》|一《ひと》つになりて|攻《せ》め|来《き》なば
イドムの|城《しろ》は|忽《たちま》ち|滅《ほろ》びむ
|如何《いか》にしてこの|世《よ》の|乱《みだ》れを|断《た》たむかと
|思《おも》へば|心《こころ》は|闇《やみ》につつまる
|今《いま》となりてアヅミ、ムラジを|退《しりぞ》けし
エールス|王《わう》の|仕業《しわざ》を|惜《を》しむ
|勢《いきほひ》の|強《つよ》きにまかせエールス|王《わう》は
イドムの|城《しろ》を|奪《うば》ひとりける
われもまたエールス|王《わう》に|従《したが》ひて
|軍《いくさ》|進《すす》めし|罪人《つみびと》なるよ
この|城《しろ》に|朝夕《あさゆふ》|仕《つか》ふる|司等《つかさら》の
|心《こころ》は|千々《ちぢ》に|乱《みだ》れゐるらし
|何処《どこ》までも|御国《みくに》のためにつくさむと
|思《おも》ふ|真人《まびと》のなきは|淋《さび》しき
かりごもの|乱《みだ》れたる|世《よ》を|治《をさ》めむと
|思《おも》ふも|詮《せん》なし|力《ちから》なき|吾《われ》に
|三千《さんぜん》の|軍人等《いくさびとら》はまちまちに
|事《こと》|計《はか》りつつ|従《したが》ひ|来《きた》らず
|今《いま》の|間《ま》にイドムの|城《しろ》を|遁《のが》れ|出《い》で
|元津御国《もとつみくに》にかへらまほしけれ』
イドム|城内《じやうない》は、エールス|王《わう》|始《はじ》めサツクス|姫《ひめ》|並《なら》びにチクターその|他《た》|重臣等《ぢゆうしんら》の|一時《いちじ》に|帰幽《きいう》せしより、|恰《あたか》も|火《ひ》の|消《き》えたる|如《ごと》く|寂然《せきぜん》として|声《こゑ》なく、|軍師《ぐんし》エーマン|一人《ひとり》|生《い》き|残《のこ》りて|国《くに》の|再興《さいこう》を|計《はか》らむと|昼夜《ちうや》|心魂《しんこん》を|砕《くだ》きゐたりける。
|話《はなし》|変《かは》りて|国津神《くにつかみ》の|諸々《もろもろ》は、エールス|王《わう》の|暴政《ぼうせい》に|苦《くる》しみ、|怨嗟《ゑんさ》の|声《こゑ》は|国内《こくない》に|充《み》ち|満《み》ちたりけるが、|王《わう》|以下《いか》の|帰幽《きいう》を|知《し》るや、|町々《まちまち》|村々《むらむら》より|愛国《あいこく》の|志士《しし》|奮起《ふんき》し、|到《いた》る|処《ところ》に|維新《ゐしん》の|声《こゑ》|潮《うしほ》の|寄《よ》する|如《ごと》く|湧《わ》き|立《た》ちにける。|中《なか》にも|愛国派《あいこくは》の|大頭目《だいとうもく》マークとラートの|両雄《りやうゆう》は、|時《とき》こそ|到《いた》れりと、|都鄙《とひ》|到《いた》る|処《ところ》に|立《た》ち|現《あら》はれ、|馬上《ばじやう》より|国津神《くにつかみ》の|奮起《ふんき》を|大声叱呼《たいせいしつこ》しつつ|促《うなが》しにける。
|群衆《ぐんしう》は|法螺貝《ほらがひ》を|吹《ふ》き、|磬盤《けいばん》を|打《う》ち、|太鼓《たいこ》を|鳴《な》らし、|到《いた》る|処《ところ》に|示威運動《じゐうんどう》|起《おこ》り、|山岳《さんがく》も|為《ため》に|崩《くづ》るるばかり|騒《さわ》がしき|光景《くわうけい》を|現出《げんしゆつ》したりける。マークはイドム|城外《じやうぐわい》の|広場《ひろば》に|群衆《ぐんしう》を|集《あつ》めて、|馬上《ばじやう》に|突立《つつた》ちながら、|声《こゑ》|高々《たかだか》と|維新《ゐしん》の|歌《うた》をうたふ。
『イドムの|国《くに》の|国人《くにびと》よ
|奮《ふる》ひ|立《た》つべき|秋《とき》は|来《き》ぬ
|天地《てんち》は|暗《くら》く|日月《じつげつ》の
|光《ひかり》は|地中《ちちう》に|没《ぼつ》したり
アヅミ、ムラジの|王《こきし》をば
|奪《うば》はれながら|敵王《てきわう》に
|従《したが》ひ|来《きた》りし|天罰《てんばつ》は
|報《むく》い|来《きた》りてわれわれは
|塗炭《とたん》の|苦《くる》しみ|味《あぢ》はへり
|斯《か》くなる|上《うへ》は|吾々《われわれ》は
|飢《う》ゑて|死《し》するの|外《ほか》はなし
わが|国民《くにたみ》よ|兄弟《きやうだい》よ
イドムの|国《くに》は|汝等《なんぢら》が
|祖先《そせん》の|神《かみ》より|受《う》け|継《つ》ぎし
|生命《いのち》を|助《たす》くる|楽土《らくど》ぞや
この|美《うるは》しきよき|国《くに》を
サールの|国《くに》のエールスに
|奪《うば》はれ|吾等《われら》は|日《ひ》に|夜《よる》に
|妻子《つまこ》を|奪《うば》はれ|家倉《いへくら》を
|焼《や》かれて|苦《くる》しみ|居《ゐ》たりけり
|奮《ふる》ひ|起《た》て|起《た》て|今《いま》や|秋《とき》
|祖国《そこく》を|守《まも》り|永遠《えいゑん》の
|国《くに》の|平和《へいわ》を|計《はか》れかし
われ|等《ら》はこれより|王城《わうじやう》に
|轡《くつわ》|並《なら》べて|進《すす》むべし
|汝等《なれら》ためらふことなかれ
イドムの|国《くに》を|永遠《とことは》に
|守《まも》るは|汝等《なれら》がためなるぞ
|進《すす》めよ|進《すす》めよいざ|進《すす》め
|国《くに》の|平和《へいわ》の|来《きた》るまで
|悪魔《あくま》のあとの|絶《た》ゆるまで』
ラートは|歌《うた》ふ。
『ああ|国人《くにびと》よ|国人《くにびと》よ
われ|等《ら》が|起《た》たむ|秋《とき》は|来《き》ぬ
|汝《なれ》が|生命《いのち》を|永遠《とこしへ》に
|託《たく》して|楽《たの》しむわが|国《くに》は
サールの|国《くに》に|奪《うば》はれて
|悲《かな》しき|憂目《うきめ》をみたりけり
|天《てん》は|必《かなら》ず|暴虐《ぼうぎやく》に
くみし|給《たま》はず|無道《ぶだう》なる
エールス|王《わう》の|生命《いのち》とり
つづいてサツクス、チクターや
その|他《た》の|曲津《まが》を|滅《ほろ》ぼして
|禊《みそぎ》を|始《はじ》め|給《たま》ひけり
|汝等《なれら》|国民《くにたみ》|諸々《もろもろ》よ
|日頃《ひごろ》の|恨《うら》み|晴《は》らすべき
|秋《とき》は|来《きた》れり|国民《くにたみ》の
|生命《いのち》を|守《まも》り|永遠《とこしへ》の
|平和《へいわ》を|来《きた》す|秋《とき》は|今《いま》
|勇《いさ》めよ|勇《いさ》めよ|奮《ふる》ひ|立《た》て
われは|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|進《すす》む|勇気《ゆうき》のあるならば
|決《けつ》して|戦《いくさ》に|負《ま》けはせじ
|軍師《ぐんし》のエーマン|只一人《ただひとり》
イドムの|城《しろ》に|頑張《ぐわんば》りて
われ|等《ら》|国民《くにたみ》を
|苦《くる》しめ|悩《なや》めむ|謀《はかりごと》
|企図《たくら》み|居《ゐ》るを|知《し》らざるか
|今《いま》この|秋《とき》ぞこの|秋《とき》ぞ
エーマン|軍師《ぐんし》を|滅《ほろ》ぼして
|国《くに》の|光《ひかり》を|輝《かがや》かし
|元《もと》の|昔《むかし》の|天国《てんごく》に
かへすは|汝等《なれら》が|責任《せきにん》ぞ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|正義《せいぎ》に|刃向《はむか》ふ|刃《やいば》なし
われ|等《ら》は|神《かみ》の|守《まも》りあり
|汝等《なれら》も|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|決《けつ》してためらふことなかれ
|進《すす》めよ|進《すす》めよいざ|進《すす》め
|国《くに》の|平和《へいわ》を|来《きた》すまで
|維新《ゐしん》の|大望《たいまう》|遂《と》ぐるまで
|悪魔《あくま》のエーマン|亡《ほろ》ぶまで
この|大敵《たいてき》の|亡《ほろ》ぶまで
ひるまずたゆまず|進《すす》めかし
マーク、ラートは|先頭《せんとう》に
|立《た》ちてすくすく|進《すす》むべし
|従《したが》ひ|来《きた》れ|国民《くにたみ》よ
|汝等《なれら》が|生命《いのち》を|守《まも》るべく
|汝等《なれら》が|仇《あだ》を|酬《むく》ゆべく
イドムの|城《しろ》に|攻《せ》め|寄《よ》せよ』
|斯《か》くて|群衆《ぐんしう》は|大挙《たいきよ》して、イドム|城《じやう》に|一斉《いつせい》に|攻《せ》め|寄《よ》せければ、|軍師《ぐんし》のエーマンは、この|光景《くわうけい》を|見《み》るより|驚《おどろ》きあわてふためきて、|高殿《たかどの》より|身《み》を|躍《をど》らせ、|水乃川《みなのがは》の|激流《げきりう》に|飛《と》び|込《こ》み、あと|白浪《しらなみ》と|消《き》えにける。
|国民《くにたみ》を|虐《しひた》げ|驕《おご》りしエールスの
|一族《いちぞく》ことごと|鬼《おに》となりけり
チクターは|女王《ぢよわう》に|悪事《あくじ》を|勧《すす》めつつ
|神《かみ》の|怒《いか》りに|滅《ほろ》ぼされける
アヅミ|王《わう》を|追《お》ひ|退《しりぞ》けし|後釜《あとがま》に
|据《すわ》りしエールス|夢《ゆめ》なりにけり
エールスの|栄華《えいぐわ》もわづか|一年《ひととせ》の
|夢《ゆめ》なりにけり|浅《あさ》ましの|世《よ》や
|国民《くにたみ》はここぞとばかり|奮《ふる》ひ|立《た》ち
イドムの|城《しろ》に|攻《せ》め|寄《よ》せにけり。
(昭和九・八・五 旧六・二五 於伊豆別院 内崎照代謹録)
第一〇章 |復古運動《ふくこうんどう》〔二〇三七〕
マークとラートの|引率《いんそつ》せる|軍人交《ぐんじんまじ》りの|群衆《ぐんしう》は、|恰《あたか》も|無人《むじん》の|境《きやう》を|行《ゆ》く|如《ごと》く、イドム|城《じやう》を|只《ただ》|一戦《いつせん》を|交《まじ》へずして|取返《とりかへ》し、|軍師《ぐんし》エーマンは|周章狼狽《しうしやうらうばい》の|結果《けつくわ》、|激流《げきりう》に|飛《と》び|込《こ》み|消《き》え|失《う》せければ、|風塵《ふうぢん》|全《まつた》く|治《をさ》まりて|更生《かうせい》の|気分《きぶん》|天地《てんち》に|漂《ただよ》ひにける。|此《こ》の|群衆《ぐんしう》の|中《なか》には、アヅミ|王《わう》の|右守《うもり》と|仕《つか》へたるターマン|司《つかさ》|変装《へんさう》して|忍《しの》び|居《ゐ》たりしが、この|光景《くわうけい》を|見《み》て|大《おほい》に|喜《よろこ》び、ラート、マークの|側《そば》|近《ちか》く|進《すす》みより、|堅《かた》く|握手《あくしゆ》を|交《かは》し|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|暮《く》れ|居《ゐ》たり。
ターマンはマーク、ラートに|向《むか》つて|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|失《うしな》ひ|給《たま》ひし|食国《をすくに》を
|生《い》かし|給《たま》ひし|君《きみ》は|神《かみ》なり
|吾《わが》|王《きみ》は|月光山《つきみつやま》に|籠《こも》らひて
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|祈《いの》り|給《たま》ひし
|主《ス》の|神《かみ》の|御霊《みたま》|懸《かか》りて|二柱《ふたはしら》の
|君《きみ》に|力《ちから》を|添《そ》へ|給《たま》ひけむ
|斯《か》くならばイドムの|国《くに》はアヅミ|王《わう》の
|再《ふたた》び|治下《ちか》に|蘇《よみがへ》るらむ
|汝《な》が|功《いさを》つぶさに|王《きみ》に|伝《つた》ふべし
|必《かなら》ず|嘉《よみ》し|給《たま》ふなるらむ
|吾《われ》こそはイドムの|城下《じやうか》に|潜《ひそ》みつつ
|今日《けふ》の|吉日《よきひ》を|待《ま》ち|居《ゐ》たりけり
|王《きみ》を|思《おも》ひ|国《くに》を|思《おも》ひて|真心《まごころ》を
|尽《つく》し|給《たま》ひし|尊《たふと》き|汝《なれ》かも』
マークは|歌《うた》ふ。
『|有難《ありがた》し|力《ちから》なき|身《み》も|主《ス》の|神《かみ》の
|恵《めぐみ》に|吾《われ》は|成《な》り|遂《と》げしはや
|王《きみ》の|為《ため》|御国《みくに》の|為《ため》に|尽《つく》したる
|吾《われ》は|報酬《むくい》を|望《のぞ》まざるべし
|国民《くにたみ》を|虐《しひた》げ|荒《すさ》びしエールス|王《わう》
|亡《ほろ》びたるこそ|天意《てんい》なるべし
|備《そな》へなきイドムの|城《しろ》に|攻《せ》め|寄《よ》せし
|吾《われ》には|何《なん》の|力《ちから》だもなし
|天《てん》の|時《とき》と|地《ち》の|理《り》と|人《ひと》の|和《わ》によりて
|維新《ゐしん》の|端緒《たんしよ》は|開《ひら》けたるかな
|国民《くにたみ》を|虐《しひた》げながら|血《ち》をしぼり
|驕《おご》りし|曲津《まが》は|亡《ほろ》び|失《う》せたり
|今日《けふ》よりはアヅミの|王《きみ》を|迎《むか》へ|来《き》て
|民《たみ》の|心《こころ》を|安《やす》めむと|思《おも》ふ』
ターマンは|歌《うた》ふ。
『|有難《ありがた》しマーク|司《つかさ》の|言《こと》の|葉《は》を
わが|王許《きみがり》に|早《はや》く|伝《つた》へむ
|吾《わが》|王《きみ》は|汝《なれ》が|心《こころ》を|聞召《きこしめ》し
|喜《よろこ》び|給《たま》はむ|思《おも》へば|嬉《うれ》しき』
マークは|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》も|亦《また》|傾《かたむ》く|国《くに》を|正《ただ》さむと
|年月《としつき》|心《こころ》を|砕《くだ》き|居《ゐ》たりき
|天《てん》の|時《とき》|到《いた》りて|漸《やうや》く|吾《わ》が|思《おも》ひ
|晴《は》れたる|今日《けふ》の|心地《ここち》よさかな
|力《ちから》なき|吾《われ》なりながら|真心《まごころ》の
|弓弦《ゆづる》は|容易《ようい》にきれざりにけり
|弓弦《ゆみづる》を|放《はな》れし|征矢《そや》は|何処《どこ》までも
|通《とほ》さでおかぬ|大丈夫《ますらを》のむね
イドム|城《じやう》|包《つつ》みし|黒雲《くろくも》|晴《は》れ|行《ゆ》きて
|虫《むし》の|啼《な》く|音《ね》も|冴《さ》え|渡《わた》りけり
|大空《おほぞら》を|包《つつ》みし|雲《くも》も|晴《は》れ|行《ゆ》きて
|御空《みそら》の|月《つき》は|輝《かがや》き|初《そ》めたり
|年月《としつき》を|重《かさ》ねて|維新《ゐしん》の|端緒《いとぐち》は
|開《ひら》け|初《そ》めたり|今日《けふ》の|吉日《よきひ》に
|朝夕《あさゆふ》に|神《かみ》を|祈《いの》りし|甲斐《かひ》ありて
|今日《けふ》|新《あたら》しき|月《つき》を|見《み》るかな
|此《こ》の|上《うへ》は|何《なに》をか|望《のぞ》まむ|吾《わが》|王《きみ》の
|心《こころ》のままに|従《したが》はむのみ
|露《つゆ》ほども|汚《きたな》き|心《こころ》|持《も》たぬ|吾《われ》
|司《つかさ》の|位《くらゐ》などは|望《のぞ》まじ
|月日《つきひ》|照《て》るイドムの|国《くに》の|更生《かうせい》を
|見《み》れば|望《のぞ》みのあらぬ|吾《われ》なり
|国民《くにたみ》の|歓呼《くわんこ》の|声《こゑ》は|山嶽《さんがく》も
|動《ゆる》ぐばかりに|轟《とどろ》き|渡《わた》るも
|国民《くにたみ》は|甦《よみがへ》りたる|心地《ここち》して
アヅミの|王《きみ》を|歓《ゑら》ぎ|迎《むか》へむ
|目附役《めつけやく》の|目《め》を|忍《しの》びつつ|年月《としつき》を
|維新《ゐしん》の|為《ため》に|計画《はから》ひ|来《こ》しはや
|斯《か》くの|如《ごと》|目出度《めでた》き|月日《つきひ》に|逢《あ》はむとは
|思《おも》はざりけり|一年《ひととせ》の|間《ま》に
|一年《ひととせ》の|短《みぢ》かき|月日《つきひ》|汚《けが》したる
エールス|王《わう》は|夢《ゆめ》と|消《き》えたり』
ターマンは|再《ふたた》び|歌《うた》ふ。
『|国民《くにたみ》の|誠心《まことごころ》の|集《あつ》まりて
イドムの|国《くに》の|雲《くも》は|晴《は》れたり
|吾《われ》も|亦《また》|死生《しせい》の|巷《ちまた》に|彷徨《さまよ》ひて
|今日《けふ》の|吉日《よきひ》を|待《ま》ち|居《ゐ》たりけり
|雄々《をを》しかるマークの|君《きみ》を|始《はじ》めとし
ラートの|君《きみ》に|感謝《ゐやひ》せむとす
|月光《つきみつ》の|山《やま》に|籠《こも》りて|吾《わが》|王《きみ》は
|嘆《なげ》きの|月日《つきひ》|送《おく》り|給《たま》ひつ
|有難《ありがた》き|御代《みよ》となりけり|主《ス》の|神《かみ》の
|厳《いづ》の|恵《めぐみ》はいやちこにして
|今日《けふ》よりは|主《ス》の|大神《おほかみ》を|斎《いつ》かひて
|国《くに》の|栄《さか》えを|祈《いの》り|奉《まつ》らむ
|例《ためし》なき|此《こ》の|喜《よろこ》びに|逢《あ》ひけるも
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》と|汝等《なれら》が|働《はたら》き
|国民《くにたみ》の|誠心《まことごころ》を|代表《だいへう》し
|立《た》たせ|給《たま》へる|君《きみ》の|尊《たふと》さ』
マークは|歌《うた》ふ。
『ターマンの|右守《うもり》の|君《きみ》の|御言葉《おんことば》
|聞《き》くにつけても|涙《なみだ》ぐまるる
|吾《わが》|王《きみ》の|御代《みよ》|安《やす》かれと|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|尽《つく》せし|甲斐《かひ》ありにけり
|幾度《いくたび》も|醜《しこ》の|目附《めつけ》に|捕《とら》へられ
|暗《くら》き|牢獄《ひとや》に|投《な》げ|込《こ》まれける
|食物《しよくもつ》も|碌《ろく》に|与《あた》へず|苦《くる》しめし
|目附《めつけ》の|心《こころ》は|曲鬼《まがおに》なりけり
|牢獄《ろうごく》に|投《な》げ|入《い》れられて|打《う》たれつつ
|無情《むじやう》に|泣《な》きし|日《ひ》もありにけり
|七度《ななたび》も|八度《やたび》も|牢獄《ひとや》にとぢられて
|世《よ》の|行末《ゆくすゑ》を|嘆《なげ》かひしはや
|主《ス》の|神《かみ》の|恵《めぐみ》によりて|漸《やうや》くに
|今日《けふ》の|吉日《よきひ》に|逢《あ》ひにけるかな
|過《す》ぎし|日《ひ》の|事《こと》を|思《おも》へば|自《おのづか》ら
|悲憤《ひふん》の|涙《なみだ》|頬《ほほ》に|伝《つた》はる
|一日《いちにち》も|安《やす》けき|日《ひ》とては|無《な》かりけり
|目附《めつけ》の|司《つかさ》に|睨《ねら》はれにつつ
|世《よ》の|人《ひと》にブラツクリストとけなされて
|悲憤《ひふん》の|涙《なみだ》に|幾日《いくひ》|嘆《なげ》きぬ』
ターマンは|憮然《ぶぜん》として|歌《うた》ふ。
『|雄々《をを》しもよマークの|君《きみ》の|物語《ものがたり》
|聞《き》くも|悲憤《ひふん》の|涙《なみだ》こぼるる
|身《み》を|捨《す》てて|王《きみ》と|国《くに》とに|尽《つく》したる
|雄々《をを》しきマークの|心《こころ》に|泣《な》くも
|種々《くさぐさ》の|悩《なや》みに|堪《た》へて|今《いま》|此処《ここ》に
|維新《ゐしん》の|望《のぞ》みを|遂《と》げし|君《きみ》かも』
ラートは|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》もまた|繩目《なはめ》の|恥《はぢ》を|幾度《いくたび》か
|受《う》けて|御国《みくに》に|尽《つく》し|来《き》にけり
|父母《ちちはは》の|生命《いのち》は|取《と》られ|妻《つま》や|子《こ》の
|行方《ゆくへ》は|知《し》れず|悩《なや》みたりけり
|王《きみ》の|為《ため》|国《くに》の|御為《おんため》|父母《ふぼ》の|為《ため》
|妻子《つまこ》の|為《ため》に|励《はげ》まされけり
わが|妻《つま》はいづらなるらむ|吾《わが》|御子《みこ》は
|如何《いかが》なりしと|思《おも》へば|悲《かな》しき
|父母《ちちはは》や|妻子《つまこ》を|忘《わす》れて|今日迄《けふまで》は
|御国《みくに》の|為《ため》に|働《はたら》きにけり』
ターマンは|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》は|今《いま》ラート|司《つかさ》の|物語《ものがたり》
|聞《き》きて|悲《かな》しくなりにけるかな
|吾《わが》|王《きみ》も|汝《なれ》に|劣《おと》らぬ|苦《くる》しみと
|艱《なや》みを|忍《しの》ばせ|過《す》ぎ|給《たま》ひける
|王民《きみたみ》は|一《ひと》つ|心《こころ》に|苦《くる》しみて
|維新《ゐしん》の|大業《たいげふ》|成《な》り|遂《と》げにける
|斯《か》くなれば|一日《ひとひ》も|早《はや》く|吾《わが》|王《きみ》に
|此《こ》の|瑞祥《ずゐしやう》を|知《し》らせ|奉《まつ》らむ
|武士《もののふ》よラートの|君《きみ》よ|此《こ》の|城《しろ》に
|待《ま》たせ|給《たま》はれ|吾《わが》|王《きみ》|来《き》ますまで
|吾《われ》は|今《いま》マーク|司《つかさ》を|伴《ともな》ひて
|月光山《つきみつやま》に|急《いそ》ぎ|帰《かへ》らむ』
ラートは|歌《うた》ふ。
『ターマンの|右守司《うもりつかさ》の|御言葉《おんことば》
|諾《うべな》ひ|吾《われ》は|城《しろ》を|守《まも》らむ』
ターマンは|歌《うた》ふ。
『いざさらばマークの|司《つかさ》と|諸共《もろとも》に
|急《いそ》ぎ|帰《かへ》らむ|月光《つきみつ》の|山《やま》に』
|茲《ここ》に|右守《うもり》のターマンはマークの|勇士《ゆうし》と|共《とも》に|栗毛《くりげ》の|馬《こま》に|跨《またが》りつ、|群衆《ぐんしう》が|歓呼《くわんこ》の|声《こゑ》に|送《おく》られて|蹄《ひづめ》の|音《おと》も|勇《いさ》ましく、|百里《ひやくり》を|隔《へだ》つる|月光山《つきみつやま》へと|急《いそ》ぎける。
ターマンは|馬上《ばじやう》ゆたかに|歌《うた》ふ。
『ああ|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御恵《みめぐみ》に
イドムの|城《しろ》を|包《つつ》みたる
|醜《しこ》の|黒雲《くろくも》|晴《は》れにけり
イドムの|城《しろ》は|昔《むかし》より
アヅミの|王《きみ》の|領有《うしは》げる
|伊佐子《いさご》の|島《しま》の|真秀良場《まほらば》よ
|至治太平《しちたいへい》の|夢《ゆめ》に|酔《よ》ひ
|軍《いくさ》の|備《そな》へを|等閑《なほざり》に
なしたる|隙《すき》を|窺《うかが》ひて
|悪逆無道《あくぎやくぶだう》のサール|国《こく》
エールス|王《わう》の|軍隊《ぐんたい》に
|取《と》り|囲《かこ》まれて|果敢《はか》なくも
|王《きみ》の|古城《こじやう》は|落《おと》されぬ
アヅミの|王《きみ》を|始《はじ》めとし
|右守《うもり》、|左守《さもり》や|軍師等《ぐんしら》は
|討《う》ち|洩《も》らされし|郎党《らうたう》を
かり|集《あつ》めつつ|野路《のぢ》を|越《こ》え
|山川《やまかは》|渉《わた》り|月光《つきみつ》の
|峻《さか》しき|山《やま》に|身《み》を|潜《ひそ》め
|天地《てんち》の|神《かみ》の|宮《みや》を|建《た》て
|禊《みそぎ》の|業《わざ》を|修《をさ》めつつ
|時《とき》の|到《いた》るを|待《ま》ちにけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》の|現《あら》はれて
|矢叫《やさけ》びの|声《こゑ》|鬨《とき》の|声《こゑ》
うら|吹《ふ》く|風《かぜ》となりにけり
ああ|有難《ありがた》や|楽《たの》もしや
|国民《くにたみ》|未《いま》だ|吾《わが》|王《きみ》を
|捨《す》てずに|国《くに》を|守《まも》れるか
マーク、ラートの|両雄《りやうゆう》は
|心《こころ》を|筑紫《つくし》の|甲斐《かひ》ありて
|忽《たちま》ちイドムの|天地《あめつち》は
|醜《しこ》の|黒雲《くろくも》|払《はら》はれぬ
|月日《つきひ》は|清《きよ》く|水《みづ》|清《きよ》く
|山野《やまの》は|爽《さや》かに|青《あを》みつつ
|諸《もも》の|果物《くだもの》よく|実《みの》る
イドムの|国《くに》の|楽園《らくゑん》に
|再《ふたた》び|王《きみ》を|迎《むか》へつつ
|千代《ちよ》を|楽《たの》しむ|今日《けふ》こそは
|神代《かみよ》も|聞《き》かぬ|喜《よろこ》びぞ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|尊《たふと》さよ
|吾《われ》も|是《これ》より|肝《きも》|向《むか》ふ
|心《こころ》を|改《あらた》め|研《と》ぎ|澄《す》まし
|主《ス》の|大神《おほかみ》を|朝夕《あさゆふ》に
|敬《うやま》ひ|奉《まつ》り|願《ね》ぎ|奉《まつ》り
イドムの|国《くに》の|隆盛《りうせい》と
|吾《わが》|国民《くにたみ》の|幸楽《かうらく》を
|真心《まごころ》|籠《こ》めて|計《はか》るべし
|馳《は》せ|行《ゆ》く|道《みち》は|遠《とほ》けれど
|千里《せんり》の|駒《こま》の|脚《あし》|速《はや》く
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》に|鬣《たてがみ》を
|靡《なび》かせながら|進《すす》み|行《ゆ》く
|駒《こま》は|地上《ちじやう》の|竜《りう》なれや
|道《みち》の|隈手《くまで》も|恙《つつが》なく
|難所《なんしよ》も|厭《いと》はず|走《はし》り|行《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|道《みち》の|行手《ゆくて》に|幸《さち》あれや
|吾《わが》|言霊《ことたま》に|光《ひかり》あれ』
マークは|馬上《ばじやう》ゆたかに|歌《うた》ふ。
『ターマン|右守《うもり》に|従《したが》ひて
|月光山《つきみつやま》におはします
アヅミの|王《きみ》に|国《くに》の|状態《さま》
|詳細《つぶさ》に|語《かた》ると|進《すす》み|行《ゆ》く
|今日《けふ》の|旅立《たびだ》ち|楽《たの》しけれ
|駒《こま》の|嘶《いなな》き|蹄《ひづめ》の|音《おと》も
|実《げ》に|勇《いさ》ましく|響《ひび》くなり
|秋《あき》の|山々《やまやま》|紅葉《もみぢ》して
|錦《にしき》|機《はた》|織《お》る|佐保姫《さほひめ》の
|袖《そで》の|香《か》こそは|床《ゆか》しけれ
|右《みぎ》と|左《ひだり》の|山峡《やまかひ》に
|妻《つま》|恋《こ》ふ|鹿《しか》の|声《こゑ》|冴《さ》えて
|谷間《たにま》を|照《てら》す|月光《つきかげ》は
|鏡《かがみ》の|如《ごと》く|冴《さ》え|渡《わた》る
|下道《したみち》|進《すす》む|吾《われ》こそは
|華胥《くわしよ》の|御国《みくに》に|行《ゆ》く|心地《ここち》
|勇《いさ》ましかりける|次第《しだい》なり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》の|幸《さち》はひて
|暴虐無道《ぼうぎやくぶだう》を|極《きは》めたる
エールス|王《わう》は|亡《ほろ》びたり
サツクス|姫《ひめ》は|殺《ころ》されぬ
|左守《さもり》のチクター|始《はじ》めとし
|強《つよ》き|騎士《ナイト》は|悉《ことごと》く
|人魚《にんぎよ》の|司《つかさ》の|計略《けいりやく》に
|水泡《みなわ》となりたる|浅《あさ》ましさ
|軍師《ぐんし》エーマン|只一人《ただひとり》
あとに|残《のこ》りて|其《そ》の|後《あと》を
|継《つ》がむと|謀《たく》める|折《をり》もあれ
|時《とき》こそよしと|吾々《われわれ》は
イドムの|城《しろ》の|郊外《かうぐわい》に
|憂国悲憤《いうこくひふん》の|同志等《どうしら》を
|呼《よ》び|集《あつ》めつつ|高《たか》らかに
|維新《ゐしん》の|壮挙《さうきよ》を|宣《の》りつれば
|群衆《ぐんしう》|一度《いちど》に|賛同《さんどう》し
|醜《しこ》の|潜《ひそ》める|城内《じやうない》に
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|押寄《おしよ》せぬ
|軍師《ぐんし》エーマン|驚《おどろ》きて
|忽《たちま》ち|水乃《みなの》の|激流《げきりう》に
|飛《と》び|込《こ》み|生命《いのち》を|失《う》せにけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|城《しろ》の|内《うち》には|敵将《てきしやう》の
|影《かげ》は|全《まつた》く|消《き》え|失《う》せて
|無人《むじん》の|原《はら》を|行《ゆ》く|如《ごと》し
|是《これ》も|全《まつた》く|主《ス》の|神《かみ》の
|公平無私《こうへいむし》なる|御裁《おんさば》き
|謹《つつし》み|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る
|斯《か》くなる|上《うへ》は|一日《ひとひ》だも
|早《はや》くアヅミの|吾《わが》|王《きみ》を
|迎《むか》へ|奉《まつ》りて|新《あたら》しく
|御代《みよ》を|建《た》てさせ|給《たま》ふべく
|乞《こ》ひのみ|奉《まつ》る|国民《くにたみ》の
|赤《あか》き|心《こころ》をまつぶさに
|申《まう》し|伝《つた》へよ|右守神《うもりがみ》
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|今日《けふ》の|喜《よろこ》び|限《かぎ》りなし
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》も|爽《さはや》かに
|天地更生《てんちかうせい》の|響《ひびき》あり
|月光山《つきみつやま》は|峻《さか》しとも
|谷《たに》の|流《なが》れは|深《ふか》くとも
|何《なに》かひるまむ|大丈夫《ますらを》の
|弥猛心《やたけごころ》に|突進《とつしん》し
|王《きみ》の|御前《みまへ》に|復命《かへりごと》
|申《まう》さむ|時《とき》こそ|楽《たの》しけれ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》|坐世《ましませ》』
(昭和九・八・五 旧六・二五 於伊豆別院 森良仁謹録)
第三篇 |木田山城《きたやまじやう》
第一一章 |五月闇《さつきやみ》〔二〇三八〕
サールの|国王《こくわう》エールスが、イドムの|国《くに》を|占領《せんりやう》せむとして|大兵《たいへい》を|募《つの》り、イドム|城《じやう》に|疾風迅雷的《しつぷうじんらいてき》に|攻《せ》め|寄《よ》せ、|一挙《いつきよ》にして|王城《わうじやう》を|占領《せんりやう》し、アヅミ|王《わう》を|始《はじ》めムラジ|妃《ひ》|及《およ》び|左守《さもり》、|右守《うもり》、|軍師《ぐんし》も|共《とも》に|月光山《つきみつやま》に|逃走《たうそう》せしめ、|数多《あまた》の|敵軍《てきぐん》を|捕虜《ほりよ》としてサールの|国《くに》の|牢獄《らうごく》に|繋《つな》ぐべく|騎士《ナイト》をして|護送《ごそう》せしめた。
サールの|国《くに》には|大栄山《おほさかやま》より|流《なが》れ|落《お》つる|木田川《きたがは》と|言《い》ふ|薄濁《うすにご》つた|流《なが》れがある。ここには|橋梁《けうりやう》もなければ|船《ふね》もないので、いづれも|水馬《すゐば》の|術《じゆつ》を|以《もつ》て|渡《わた》ることとなし、|木田川《きたがは》をへだて、|東《ひがし》の|丘陵《きうりよう》|木田山《きたやま》にエールスは|城壁《じやうへき》を|構《かま》へ、|要害堅固《えうがいけんご》の|陣地《ぢんち》とたのんでゐる。
エールス|王《わう》の|太子《たいし》エームスは|木田山城《きたやまじやう》の|留守師団長《るすしだんちやう》として|守《まも》つてゐたが、|数多《あまた》の|敵軍《てきぐん》の|捕虜《ほりよ》の|送《おく》られて|来《く》るのを|見《み》むと、|城内《じやうない》の|広場《ひろば》に|夕月《ゆふづき》、|朝月《あさづき》の|侍臣《じしん》を|従《したが》へ、その|状《さま》を|愉快《ゆくわい》げに|眺《なが》めてゐたるが、|其《そ》の|中《なか》に|気品《きひん》|優《すぐ》れて|高《たか》く、|面貌《めんばう》|麗《うるは》しき|三人連《さんにんづ》れの|美人《びじん》を|認《みと》め、|独《ひと》り|身《み》のエームスはたとへ|敵国《てきこく》の|女性《ぢよせい》にもせよ、|何《なん》とかして|吾《わが》|妻《つま》に|為《な》さむものと、それより|吾《わが》|館《やかた》に|帰《かへ》り、|忽《たちま》ち|恋慕《れんぼ》の|鬼《おに》に|捉《とら》はれ、|夜《よる》も|昼《ひる》も|煩悶苦悩《はんもんくなう》の|溜息《ためいき》ばかり|続《つづ》け|居《ゐ》たりける。
この|三人《さんにん》の|美女《びぢよ》は|言《い》ふ|迄《まで》もなく、アヅミ|王《わう》の|娘《むすめ》チンリウ|姫《ひめ》にして、|稍《やや》|年老《としお》いたるのは|侍女《じぢよ》のアララギ|及《およ》びチンリウ|姫《ひめ》の|乳兄弟《ちきやうだい》なる|乳母《うば》の|娘《むすめ》センリウの|三人《さんにん》なりける。
|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》はエームスの|日夜《にちや》の|様子《やうす》|只《ただ》ならざるに|心《こころ》をいため、|如何《いか》にもして|爽快《さうくわい》なる|太子《たいし》の|笑顔《ゑがほ》を|見《み》むものと、あらゆる|手段《しゆだん》をつくし、|声《こゑ》|美《うるは》しき|小鳥《ことり》も|集《あつ》め|或《あるひ》は|虫《むし》を|啼《な》かせ、|種々《しゆじゆ》の|禾本類《くわほんるゐ》を|太子《たいし》の|眼近《めぢか》き|所《ところ》に|陳列《ちんれつ》し、その|上《うへ》|歌《うた》を|歌《うた》ひ|或《あるひ》は|踊《をど》り|舞《ま》ひ、|種々《いろいろ》と|心力《しんりよく》をつくせども、|太子《たいし》の|身体《しんたい》は|日夜《にちや》に|憔悴《せうすゐ》するばかりなりければ、|或日《あるひ》|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》は|太子《たいし》に|花ケ丘《はながをか》の|清遊《せいいう》を|勧《すす》めむと、|側《そば》|近《ちか》く|参入《さんにふ》して|歌《うた》もて|勧《すす》めける。
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『|朝月《あさづき》の|光《かげ》はおぼろに|白《しら》けつつ
|花《はな》の|蕾《つぼみ》に|露《つゆ》を|宿《やど》せり
|花ケ丘《はながをか》の|百花《ももばな》|千花《ちばな》|悉《ことごと》く
|若王《きみ》が|情《なさけ》の|露《つゆ》に|濡《ぬ》れつつ
|若王《わかぎみ》の|心《こころ》の|蕾《つぼみ》|開《ひら》かむと
|涙《なみだ》の|露《つゆ》を|降《ふ》らす|朝月《あさづき》』
エームスはかすかに|朝月《あさづき》の|歌《うた》を|聞《き》いて、|稍《やや》|心《こころ》|動《うご》きたる|如《ごと》く、|二三歩《にさんぽ》|前《まへ》に|進《すす》み|来《きた》りて|歌《うた》ふ。
『|朝月《あさづき》の|光《かげ》は|白《しら》けて|大空《おほぞら》は
かすめり|吾《われ》が|心《こころ》にも|似《に》て
|吾《わが》|心《こころ》|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|晴《は》れやらず
|花鳥風月《くわてふふうげつ》|楽《たの》しみにならず
|百鳥《ももどり》の|囀《さへづ》る|声《こゑ》も|松虫《まつむし》の
|共啼《むたな》きさへもかなしき|吾《われ》なり
|吾《わが》|父《ちち》は|生死《せいし》の|巷《ちまた》に|戦《たたか》へり
されど|吾《われ》にはかかはりもなし
|吾《わが》|心《こころ》|戦《いくさ》に|出《い》でます|垂乳根《たらちね》に
いつか|離《はな》れて|花《はな》に|悩《なや》めり
|花ケ丘《はながをか》に|匂《にほ》へる|桃《もも》のよそほひも
|吾《われ》にはかなしき|便《たよ》りなりけり
|山《やま》も|川《かは》も|吾《われ》にはかなし|木田山《きたやま》の
|館《やかた》もさびし|思《おも》ひはれねば』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|若王《きみ》の|御心《みこころ》かすかに|悟《さと》りたり
|朝月《あさづき》|吾《われ》は|花便《はなだよ》りせむ』
エームスは|歌《うた》ふ。
『たらちねの|仇《あだ》なる|花《はな》にあこがれて
|吾《われ》はくるしき|夢《ゆめ》を|見《み》るなり
|斯《か》くならば|誉《ほまれ》も|位《くらゐ》も|玉《たま》の|緒《を》の
|吾《わが》|生命《いのち》さへ|惜《を》しけくはなし
ままならぬ|人《ひと》を|恋《こ》ひつつままならぬ
わが|世《よ》を|歎《なげ》きぬ|朝夕《あしたゆふ》べに
はてしなき|広《ひろ》きサールの|国中《くになか》に
かかる|目出度《めでた》き|花《はな》は|見《み》ざりき』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|欲《ほ》りする|花《はな》は|捕《とら》はれの
|花《はな》にあらずや|語《かた》らせ|給《たま》へ』
エームスは|歌《うた》ふ。
『|恥《はづ》かしと|思《おも》へど|吾《われ》は|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|明《あか》さむ|汝《な》が|言葉《ことば》あたれり
|捕《とら》はれの|女《をみな》の|姿《すがた》|気高《けだか》ければ
|正《まさ》しくアヅミの|娘《むすめ》なりけむ
|吾《わが》|父《ちち》はアヅミの|国《くに》を|滅《ほろ》ぼして
|恨《うら》みを|買《か》ひしことのかなしさ
|心安《うらやす》く|手折《たを》り|得《う》べけむその|花《はな》を
|父《ちち》の|嵐《あらし》に|散《ち》らされむとすも』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|若王《きみ》のかなしき|心《こころ》まつぶさに
|牢獄《ひとや》の|女《をみな》に|吾《われ》は|伝《つた》へむ
|言霊《ことたま》の|舌《した》の|剣《つるぎ》を|振《ふ》りかざし
|若王《きみ》の|心《こころ》をはらし|奉《まつ》らむ
|麗《うるは》しき|三人《みたり》の|女《をみな》のその|中《なか》に
すぐれてたかきを|若王《きみ》に|進《すす》めむ
どこまでも|吾《わが》|真心《まごころ》を|打《う》ち|明《あ》けて
イドムの|国《くに》の|花《はな》をなびかせむ』
エームスは|稍《やや》|面色《かほいろ》をやはらげながら|嬉《うれ》しげに|歌《うた》ふ。
『|朝月《あさづき》の|露《つゆ》の|情《なさけ》にうるほひて
|蘇《よみがへ》るらむ|朝顔《あさがほ》の|花《はな》は
|初恋《はつこひ》の|吾《わが》|初花《はつはな》を|手折《たを》らむと
|露《つゆ》の|涙《なみだ》に|朝夕《あさゆふ》くれけり』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『|木田川《きたがは》の|流《なが》れはよしや|涸《か》るるとも
|若王《きみ》の|依《よ》さしを|遂《と》げずにおくべき
|斯《か》くならば|吾《われ》は|今日《けふ》よりアヅミの|娘《むすめ》
|若王《わかぎみ》が|床《とこ》の|花《はな》と|咲《さ》かせむ』
エームスは|歌《うた》ふ。
『たのもしき|汝《なれ》が|言葉《ことば》よ|朝月《あさづき》の
|光《かげ》を|力《ちから》に|夕《ゆふ》べを|待《ま》たむ』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『|朝月《あさづき》の|光《かげ》|消《き》ゆるとも|夕月《ゆふづき》の
|光《かげ》|清《きよ》ければ|心《こころ》|安《やす》かれ』
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|若王《きみ》の|情《なさけ》の|露《つゆ》にほだされて
アヅミの|花《はな》は|御側《みそば》に|薫《かを》らむ
|夕月《ゆふづき》の|光《かげ》を|合図《あひづ》に|忍《しの》びよりて
|若王《きみ》が|真心《まごころ》|伝《つた》へ|奉《まつ》らむ
|朝月《あさづき》と|夕月《ゆふづき》|心《こころ》を|一《ひと》つにし
|露《つゆ》の|情《なさけ》になびかせ|奉《まつ》らむ
|三柱《みはしら》の|美《うるは》しき|姫《ひめ》|朝夕《あさゆふ》を
うなかぶしつつ|涙《なみだ》にしめれり
|朝夕《あさゆふ》に|涙《なみだ》の|露《つゆ》にうなだるる
|花《はな》をし|見《み》ればあはれもよほす
|若王《わかぎみ》の|真心《まごころ》つぶさに|伝《つた》へなむ
|物言《ものい》ふ|花《はな》も|笑《ゑ》みて|栄《さか》えむ
|兎《と》も|角《かく》も|善事《よごと》は|急《いそ》げと|昔《むかし》より
|世《よ》のことわざもありしを|思《おも》ふ
|一時《ひととき》も|早《はや》く|御心《みこころ》|安《やす》めむと
|心《こころ》の|駒《こま》は|勇《いさ》み|立《た》つなり』
エームスは|欣然《きんぜん》として|歌《うた》ふ。
『|朝月《あさづき》の|光《かげ》はさやけし|夕月《ゆふづき》の
|光《ひか》りは|強《つよ》し|夕顔《ゆふがほ》の|花《はな》
|夕顔《ゆふがほ》の|花《はな》の|白《しろ》きにあこがれて
|吾《われ》は|生命《いのち》をかけて|待《ま》つなり』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『いざさらば|三人《みたり》の|姫《ひめ》のこもりたる
|牢獄《ひとや》に|進《すす》みて|言霊《ことたま》|開《ひら》かむ』
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|生命《いのち》の|恋《こひ》をかなへむと
|真心《まごころ》の|駒《こま》に|鞭《むち》うち|進《すす》まむ』
エームスは|歌《うた》ふ。
『|恥《はづ》かしきかなしき|心《こころ》を|推《お》しはかり
|出《い》でゆく|汝《なれ》が|復命《かへりごと》|待《ま》たむ』
|斯《か》く|主従《しうじう》は|歌《うた》を|交《かは》しながら|暫《しば》し|袂《たもと》を|別《わか》ちける。|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》の|立出《たちい》でし|後《あと》に、エームスは|一時千秋《いつときせんしう》の|思《おも》ひしながら、|高殿《たかどの》より|眼下《がんか》を|流《なが》るる|木田川《きたがは》の|薄濁《うすにご》りを|瞰下《みおろ》しながら|静《しづ》かに|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》ふ。
『|木田川《きたがは》の|流《なが》れは|如何《いか》に|濁《にご》るとも
|吾《わが》|真心《まごころ》のうつらざらめや
|月《つき》も|日《ひ》も|浮《うか》びて|流《なが》るる|木田川《きたがは》の
|水《みづ》はかなしもかげくだけつつ
|百千々《ももちぢ》に|心《こころ》くだけど|口《くち》なしの
|花《はな》にも|似《に》たる|吾《われ》なりにけり
|大栄山《おほさかやま》|越《こ》えてはるばる|吾《わが》|父《ちち》は
なやみの|種《たね》を|蒔《ま》き|給《たま》ひける
|父《ちち》も|母《はは》もとほくイドムの|国《くに》に|在《あ》り
|吾《われ》さびしくも|恋《こひ》に|泣《な》くなり
ままならぬ|花《はな》を|恋《こ》ひつつ|手折《たを》るべき
よすがなき|身《み》のかなしき|吾《われ》なり
|朝月《あさづき》はいかがなしけむ|夕月《ゆふづき》は
いづらにあるか|御空《みそら》|曇《くも》らふ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|空《そら》の|雲霧《くもきり》を
いかに|晴《は》らさむ|五月雨《さみだれ》の|降《ふ》る
|五月雨《さみだれ》にしめり|勝《がち》なる|吾《わが》|袂《たもと》
|知《し》る|由《よし》もなくほととぎす|鳴《な》く
|百鳥《ももどり》も|必《かなら》ず|恋《こひ》を|叫《さけ》ぶらむ
|独《ひと》り|身《み》|吾《われ》の|心《こころ》にも|似《に》て
|妻《つま》|恋《こ》ふる|尾《を》の|上《へ》の|鹿《しか》のそれならで
|吾《わが》|面《おも》ざしに|散《ち》る|紅葉《もみぢ》かな
|朝夕《あさゆふ》に|青息吐息《あをいきといき》つきながら
|生命《いのち》の|恋《こひ》にあこがれにけり
|吾《わが》|父《ちち》に|恨《うら》みを|買《か》ひしアヅミ|王《わう》の
|娘《むすめ》と|思《おも》へば|一入《ひとしほ》かなしき
|晴《は》れやらぬ|五月《さつき》の|空《そら》に|吾《われ》は|只《ただ》
|空《そら》を|仰《あふ》ぎて|吐息《といき》するのみ
|庭《には》の|面《も》にあやめ、かきつばた|匂《にほ》へども
|吾《われ》には|何《なん》の|望《のぞ》みだになし
しとしとと|降《ふ》る|五月雨《さみだれ》は|吾《わが》|袖《そで》の
|乾《かわ》く|間《ま》もなき|涙《なみだ》ならずや
かかる|世《よ》に|生《うま》れてかかるかなしさを
|今日《けふ》が|日《ひ》までも|悟《さと》らざりけり
|木田川《きたがは》の|水《みづ》とこしへに|流《なが》るとも
|吾《われ》の|悩《なや》みを|洗《あら》ふすべなき
|捕《とら》はれし|清《きよ》き|女《をみな》はアヅミ|王《わう》の
|娘《むすめ》と|聞《き》きて|驚《おどろ》きしはや
|兎《と》も|角《かく》も|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》|言霊《ことたま》の
|露《つゆ》に|匂《にほ》はむ|朝顔《あさがほ》|夕顔《ゆふがほ》
|夕顔《ゆふがほ》の|花《はな》に|心《こころ》を|奪《うば》はれて
|吾《わが》|魂《たましひ》は|闇《やみ》となりける
|恋《こひ》すてふ|心《こころ》のかなしさ|悟《さと》りけり
アヅミの|王《きみ》の|娘《むすめ》に|会《あ》ひて
|一目《ひとめ》|見《み》て|吾《わが》|魂《たましひ》は|乱《みだ》れたり
|恋《こひ》の|悪魔《あくま》に|捕《とら》はれにけむ
よしやよし|吾《わが》|玉《たま》の|緒《を》は|消《き》ゆるとも
|一夜《いちや》の|語《かた》らひなさでおくべき
|国《くに》も|城《しろ》も|吾《わが》|身《み》も|総《すべ》てを|忘《わす》れたり
|只《ただ》あこがるる|夕顔《ゆふがほ》の|花《はな》
|夕暮《ゆふぐれ》にふと|眺《なが》めたる|花《はな》なれば
|吾《われ》|夕顔《ゆふがほ》と|名《な》づけてあこがる
|夕顔《ゆふがほ》の|心《こころ》|如何《いか》にと|案《あん》じつつ
|吾《わが》|垂乳根《たらちね》の|心《こころ》を|恨《うら》むも
いたづらに|平地《へいち》に|浪《なみ》を|起《おこ》したる
|父《ちち》のすさびをかなしく|思《おも》ふ
|父母《ちちはは》の|仇《あだ》なる|敵《てき》に|夕顔《ゆふがほ》の
|君《きみ》は|心《こころ》をまかさざるべし』
|斯《か》く|独《ひと》り|述懐《じゆつくわい》を|述《の》べ|居《ゐ》たる|折《をり》もあれ、|侍女《じぢよ》の|滝津瀬《たきつせ》、|山風《やまかぜ》の|両人《りやうにん》は、|各自《おのもおのも》|茶《ちや》を|汲《く》み|菓子《くわし》を|捧《ささ》げながら|恭《うやうや》しくエームスの|前《まへ》に|進《すす》み|来《きた》り、|憂《うれ》ひに|沈《しづ》める|太子《わかぎみ》の|態《てい》をいぶかりがら|滝津瀬《たきつせ》は|歌《うた》ふ。
『|滝津瀬《たきつせ》の|清水《しみづ》を|汲《く》みてわかしたる
お|湯《ゆ》|召《め》し|上《あが》れエームスの|君《きみ》』
|山風《やまかぜ》は|歌《うた》ふ。
『|大栄山《おほさかやま》なぞへに|実《みの》りし|果実《くだもの》よ
いざ|召《め》し|上《あが》れ|生命《いのち》の|桃《もも》の|実《み》』
エームスは|黙然《もくねん》として、|侍女《じぢよ》が|捧《ささ》ぐる|茶《ちや》の|湯《ゆ》にも、|果実《このみ》にも、|手《て》を|附《つ》けようともせず|俯《うつむ》いてゐる。
|滝津瀬《たきつせ》は|再《ふたた》び、
『|若王《わかぎみ》の|御面《おんおも》ざしのすぐれぬは
|身《み》にいたづきのおはしますにや
|若王《わかぎみ》の|今日《けふ》のよそほひ|見《み》るにつけて
かなしくなりぬ|滝津瀬《たきつせ》|吾《われ》は
|月《つき》も|日《ひ》も|隈《くま》なく|照《て》れる|世《よ》の|中《なか》に
|何《なに》|歎《なげ》かすか|太子《ひつぎ》の|君《きみ》は
|御心《みこころ》のなぐさむるならば|吾《わが》|生命《いのち》
|若王《きみ》に|捧《ささ》ぐもいとはざるべし
|朝夕《あさゆふ》に|若王《きみ》に|仕《つか》ふる|滝津瀬《たきつせ》も
|今日《けふ》はさびしき|思《おも》ひするなり
|若王《わかぎみ》のすぐれ|給《たま》はぬ|顔《かむばせ》を
|拝《をが》みて|吾《われ》はくだくる|思《おも》ひす
|一言《ひとこと》のいらへの|言葉《ことば》|願《ねが》はしや
|吾《われ》は|為《な》すべきすべもあらねば』
|山風《やまかぜ》は|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|御面《おんおも》いたく|曇《くも》らへり
いかなる|悩《なや》みを|持《も》たせ|給《たま》ふか
|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|花《はな》をつれなく|吹《ふ》き|散《ち》らし
|梢《こずゑ》|清《すが》しき|山風《やまかぜ》の|吾《われ》
いかならむ|悩《なや》みおはすか|知《し》らねども
|山風《やまかぜ》|吾《われ》は|吹《ふ》き|払《はら》ふべし
|大栄《おほさか》の|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》の|黒雲《くろくも》も
|吹《ふ》き|散《ち》らすべし|小夜《さよ》の|山風《やまかぜ》
|若王《わかぎみ》の|心《こころ》の|雲霧《くもきり》|払《はら》はむと
|山風《やまかぜ》|吾《われ》は|心《こころ》くだきつ』
エームスはかすかに|歌《うた》ふ。
『|滝津瀬《たきつせ》や|山風《やまかぜ》の|心《こころ》よみすれど
|吾《わが》|宣《の》る|言葉《ことば》なきがかなしき
|朝《あさ》されば|朝顔《あさがほ》|思《おも》ひ|夕《ゆふ》されば
|夕顔《ゆうがほ》|思《おも》ひてしめらふ|吾《われ》なり
|木田川《きたがは》の|水《みづ》とこしへに|流《なが》るれど
いつか|晴《は》れなむ|心《こころ》の|闇《やみ》は
ほととぎす|朝夕《あしたゆふ》べの|分《わか》ちなく
|鳴《な》きつる|空《そら》は|吾《わが》|心《こころ》かも
|月《つき》も|日《ひ》も|光《かげ》をかくせる|五月闇《さつきやみ》に
|鳴《な》くほととぐす|吾《われ》ならなくに
|滝津瀬《たきつせ》も|早《はや》く|寝《ね》よかし|山風《やまかぜ》も
|吾《わが》|前《まへ》を|去《さ》れ|小夜《さよ》|更《ふ》けぬれば
|吾《われ》は|只《ただ》|思《おも》ひの|淵《ふち》に|沈《しづ》みつつ
|闇《やみ》の|水音《みなおと》|聞《き》きて|明《あか》さむ』
|滝津瀬《たきつせ》は|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|御言《みこと》|畏《かしこ》みいざさらば
まかり|退《さが》らむ|貴《うづ》の|御前《みまへ》を』
|山風《やまかぜ》は|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|悲《かな》しき|心《こころ》ははかれども
せむすべもなき|吾《わが》|身《み》なりけり』
|斯《か》く|歌《うた》ひて|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》は|吾《わが》|居間《ゐま》にすごすごと|帰《かへ》りゆく。
|小夜更《さよふ》けの|空《そら》に|鳴《な》き|渡《わた》るほととぎすの|声《こゑ》、|四方《しはう》|八方《はつぱう》よりしきりに|木田山城《きたやまじやう》の|森《もり》をかすめて|響《ひび》き|来《きた》る。
(昭和九・八・一四 旧七・五 水明閣 谷前清子謹録)
第一二章 |木田山颪《きたやまおろし》〔二〇三九〕
アヅミ|王《わう》の|娘《むすめ》チンリウ|姫《ひめ》は、|乳母《うば》のアララギ|及《およ》びアララギの|娘《むすめ》センリウ|女《ぢよ》とともに|敵城《てきじやう》に|虜《とら》はれ、|第一《だいいち》の|牢獄《らうごく》に|繩目《なはめ》の|恥《はぢ》を|忍《しの》びながら、|世《よ》をはかなみつつ|互《たがひ》に|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》ふ。
チンリウ|姫《ひめ》の|歌《うた》。
『あぢきなき|浮世《うきよ》なるかなわれは|今《いま》
|繩目《なはめ》の|恥《はぢ》にあひて|苦《くる》しむ
|垂乳根《たらちね》は|如何《いかが》なりけむイドム|城《じやう》は
いづらに|行《ゆ》きしか|心許《こころもと》なや
|思《おも》はざる|敵《てき》の|軍《いくさ》に|攻《せ》められて
わが|垂乳根《たらちね》は|露《つゆ》と|消《き》えしか
|諸々《もろもろ》の|家臣《いへのこ》|軍人《いくさびと》あれど
いひ|甲斐《がひ》もなく|滅《ほろ》び|失《う》せけむ
|祖々《おやおや》の|賜《たま》ひし|国《くに》はエールスの
|暴虐《ぼうぎやく》の|手《て》に|奪《うば》はれにけむ
わが|力《ちから》|尽《つ》きて|敵《かたき》にとらへられ
|今《いま》は|涙《なみだ》の|淵《ふち》にただよふ
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》もいつか|量《はか》られずと
|思《おも》へば|悲《かな》しき|吾《わが》|身《み》なりけり
|如何《いか》にしてこの|苦《くる》しみを|逃《のが》れむと
|神《かみ》を|力《ちから》に|時《とき》の|間《ま》を|生《い》くる
|望《のぞ》みなき|吾《わが》|身《み》となりぬ|水乃川《みなのがは》の
|月《つき》に|親《した》しむ|術《すべ》もなければ
|罪《つみ》もなき|人魚《にんぎよ》を|捕《と》りし|酬《むく》いにて
わが|垂乳根《たらちね》の|国亡《くにほろ》びしか
|数百里《すひやくり》の|道《みち》をナイトに|送《おく》られて
|寒《さむ》き|牢獄《ひとや》に|世《よ》を|歎《なげ》くなり
|天地《あめつち》の|神《かみ》の|此《この》|世《よ》にいますならば
|再《ふたた》び|見《み》せよ|水乃川《みなのがは》の|月《つき》を
|垂乳根《たらちね》の|此《この》|世《よ》に|生命《いのち》|在《おは》すならば
|夢《ゆめ》になりとも|通《かよ》はせ|給《たま》へ
|望《のぞ》みなきわが|身《み》と|思《おも》へば|悲《かな》しけれ
|朝夕《あさゆふ》われは|淋《さび》しさに|泣《な》く』
アララギは|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|歎《なげ》き|言葉《ことば》を|聞《き》くにつけ
わが|身《み》の|置場《おきば》|無《な》きが|悲《かな》しき
|姫君《ひめぎみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へて|二十年《にじふねん》
われは|御側《みそば》を|離《はな》れざりける
はるばると|敵《てき》の|国《くに》まで|送《おく》られて
|姫《ひめ》の|憂目《うきめ》を|見《み》るが|悲《かな》しき
|情《なさけ》|深《ふか》きイドムの|王《わう》に|生《い》き|別《わか》れ
|苦《くる》しき|憂目《うきめ》を|敵城《てきじやう》に|見《み》るも
|天地《あめつち》の|神《かみ》を|祈《いの》りて|今日《けふ》の|日《ひ》の
わが|姫君《ひめぎみ》のなやみを|晴《は》らさむ
|姫君《ひめぎみ》を|守《まも》る|身《み》ながらかくの|如《ごと》
|憂目《うきめ》を|見《み》せしわが|愚《おろか》さよ
|姫君《ひめぎみ》よ|許《ゆる》させ|給《たま》へ|何事《なにごと》も
|時《とき》の|力《ちから》に|刃向《はむか》ふ|術《すべ》|無《な》き
さりながら|心《こころ》|安《やす》けくおはしませ
われには|一《ひと》つの|計略《たくらみ》|持《も》ちぬ
|吾《わが》|娘《むすめ》センリウも|亦《また》|虜《とら》はれの
|苦《くる》しき|身《み》ぞと|思《おも》へば|悲《かな》しも
|如何《いか》にしてアヅミの|王《きみ》に|詫《わ》びむかと
|心《こころ》を|砕《くだ》く|吾《わが》|身《み》の|悲《かな》しさ
|水乃川《みなのがは》の|水《みづ》は|無心《むしん》の|月光《つきかげ》を
|浮《うか》べて|清《きよ》く|流《なが》れゆくらむ
エールスはイドムの|城《しろ》の|高殿《たかどの》に
|月《つき》を|賞《ほ》めつつ|酒《さけ》を|酌《く》むらむ
エールスのふるまひ|思《おも》へば|憎《にく》らしし
イドムの|国《くに》を|手《て》もなく|奪《うば》ひて
エールスは|勝《か》ち|誇《ほこ》りたる|面《おも》もちに
イドムの|城《しろ》に|横暴《はば》り|居《を》るらむ
|邪《よこしま》は|正《ただ》しきに|勝《か》つ|道《みち》はなし
|必《かなら》ず|滅《ほろ》びむ|神《かみ》の|怒《いか》りに
|今《いま》しばし|繩目《なはめ》の|恥《はぢ》を|忍《しの》びつつ
|花《はな》|咲《さ》く|春《はる》を|待《ま》たせ|給《たま》はれ
|必《かなら》ずやエールス|王《わう》は|滅《ほろ》ぶべし
|道《みち》に|反《そむ》ける|曲業《まがわざ》なれば
|姫君《ひめぎみ》とともに|牢獄《ひとや》に|繋《つな》がれて
|朝夕《あさゆふ》|怨《うら》むはエールス|王《わう》なり
わが|王《きみ》はいづらなるらむ|妃《ひ》の|君《きみ》は
|御無事《ごぶじ》にますか|便《たよ》り|聞《き》きたし
|雁《かりがね》の|便《たよ》りもがもと|願《ねが》へども
|今《いま》は|詮《せん》なし|時鳥《ほととぎす》|鳴《な》く
しとしとと|五月雨《さみだ》るる|空《そら》に|時鳥《ほととぎす》
|鳴《な》き|渡《わた》るなり|一声《ひとこゑ》|落《おと》して
|時鳥《ほととぎす》|鳴《な》きつる|空《そら》を|眺《なが》むれば
あやめもわかぬ|五月闇《さつきやみ》なり
|姫君《ひめぎみ》はいふも|更《さら》なりわが|娘《むすめ》も
われも|闇夜《やみよ》の|時鳥《ほととぎす》なり
|力《ちから》あらばこれの|牢獄《ひとや》を|破《やぶ》らむと
|思《おも》へば|詮《せん》なし|女《をみな》の|腕《うで》には
|罪《つみ》も|無《な》きわが|姫君《ひめぎみ》をかくの|如《ごと》き
|牢獄《ひとや》に|繋《つな》ぐは|鬼《おに》か|大蛇《をろち》か
|鬼《おに》|大蛇《をろち》|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|世《よ》の|中《なか》は
|神《かみ》ぞ|誠《まこと》の|力《ちから》なりける
|木田川《きたがは》を|隔《へだ》てしこれの|牢獄《らうごく》に
|繋《つな》がれし|吾等《われら》は|袋《ふくろ》の|鼠《ねずみ》よ
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》は|敵《てき》に|握《にぎ》られて
|淋《さび》しき|吾《わが》|身《み》に|雨《あめ》の|音《おと》|聞《き》く』
センリウは|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|歎《なげ》き|宜《うべ》なりわが|母《はは》の
|怨《うら》みもうべよとわれも|泣《な》くなり
|平安《へいあん》の|城《しろ》を|屠《ほふ》りてエールスは
|悪魔《あくま》の|性《さが》を|現《あら》はしにけり
|悪神《あくがみ》の|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|世《よ》の|中《なか》と
|思《おも》へど|悲《かな》しき|吾等《われら》ならずや
|如何《いか》にして|今日《けふ》の|怨《うら》みを|晴《はら》さむと
|思《おも》へど|心《こころ》|曇《くも》るのみなる
|肝《きも》|向《むか》ふ|心《こころ》は|闇《やみ》にさまよひつ
|朝夕《あさゆふ》|悲《かな》しく|時鳥《ほととぎす》|聞《き》く
|姫君《ひめぎみ》の|生命《いのち》|助《たす》くるよしあらば
われは|生命《いのち》を|惜《を》しまざるべし
|姫君《ひめぎみ》と|母《はは》に|代《かは》りてわが|生命《いのち》
|捧《ささ》げむわれは|神《かみ》に|祈《いの》りて
わが|生命《いのち》は|軽《かる》し|姫君《ひめぎみ》の|御生命《おんいのち》
|大山《たいざん》よりも|重《おも》くいませり
イドム|国《こく》の|世継《よつぎ》といます|姫君《ひめぎみ》の
|今日《けふ》のなやみを|思《おも》へば|悲《かな》しき
|如何《いか》にして|吾《わが》|姫君《ひめぎみ》を|救《すく》はむと
|朝夕《あしたゆふ》べを|心《こころ》|砕《くだ》きつ
|五月闇《さつきやみ》この|牢獄《らうごく》に|迫《せま》り|来《き》て
|黒白《あやめ》もわかず|心《こころ》|狂《くる》ふも』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|天地《あめつち》に|神《かみ》はまさずや|在《おは》さずや
かかる|歎《なげ》きをみそなはさずや
わが|父《ちち》は|雄々《をを》しくませば|必《かなら》ずや
|生命《いのち》|保《たも》ちて|再《ふたた》び|立《た》たさむ
わが|父《ちち》の|輝《かがや》きましてこの|国《くに》を
|言向《ことむ》け|和《やは》せ|給《たま》はむと|思《おも》ふ
わが|父《ちち》の|軍《いくさ》|勝《か》ちなば|五月闇《さつきやみ》
|晴《は》れて|再《ふたた》び|月日《つきひ》を|拝《をが》まむ
あてもなき|望《のぞ》みながらも|何《なん》となく
わが|魂《たましひ》に|光《ひか》り|見《み》るなり
|罪《つみ》も|無《な》き|父《ちち》の|国《くに》をば|亡《ほろ》ぼして
|時《とき》めき|渡《わた》る|曲《まが》の|忌々《ゆゆ》しさ
エールスの|曲津《まがつ》の|王《わう》は|天地《あめつち》の
|神《かみ》の|光《ひかり》にふれて|滅《ほろ》びむ
|天地《あめつち》に|誠《まこと》の|神《かみ》のいますならば
|必《かなら》ず|父《ちち》を|助《たす》け|給《たま》はむ
|滅《ほろ》ぶべき|運命《うんめい》を|持《も》つエールスの
|行末《ゆくすゑ》|思《おも》へば|憐《あは》れなりけり
|今《いま》われは|繩目《なはめ》の|恥《はぢ》を|曝《さら》せども
やがて|光《ひかり》と|世《よ》に|現《あら》はれむ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|奥《おく》に|何《なに》か|知《し》らず
われには|一《ひと》つの|光《ひかり》ありけり
|来《きた》るべき|世《よ》を|楽《たの》しみて|今日《けふ》の|日《ひ》の
|恥《はぢ》となやみを|忍《しの》びまつべし』
アララギは|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|雄々《をを》しき|御心《みこころ》|聞《き》くにつけ
わが|魂《たましひ》は|輝《かがや》き|初《そ》めたり
|朝夕《あさゆふ》をなやみもだえしわが|魂《たま》も
|姫《ひめ》の|言葉《ことば》に|勇《いさ》み|初《そ》めたり
|闇《やみ》あれば|光《ひかり》ある|世《よ》と|知《し》りながら
|愚心《おろかごころ》に|朝夕《あさゆふ》なやみし』
センリウは|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|御心《みこころ》|聞《き》きてわれも|亦《また》
|心《こころ》の|駒《こま》は|勇《いさ》みたちけり
われも|亦《また》|月日《つきひ》の|駒《こま》に|跨《またが》りて
|永久《とは》の|安所《やすど》に|進《すす》まむと|思《おも》ふ
|虜《とら》はれの|悲《かな》しき|身《み》にも|天地《あめつち》の
|便《たよ》り|聞《き》くかな|風《かぜ》のまにまに
|身体《からたま》はよし|縛《しば》るとも|魂《たましひ》は
|自由自在《じいうじざい》に|天地《てんち》を|駆《か》けるも
|虜《とら》はれの|自由《じいう》|無《な》き|身《み》も|魂《たましひ》は
|自由《じいう》に|天地《てんち》を|駆《か》けめぐるなり』
かかるところへ、|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》の|両人《りやうにん》は|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせながら|静《しづ》かに|寄《よ》り|来《きた》り、|朝月《あさづき》は|先《ま》づ|歌《うた》ふ。
『われこそはエームス|王《わう》の|御側《みそば》|近《ちか》く
|仕《つか》ふる|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》なるぞや
これの|家《や》に|忍《しの》ばせ|給《たま》ふ|姫君《ひめぎみ》は
チンリウ|姫《ひめ》におはしまさずや
|品《しな》|高《たか》く|装《よそほ》ひ|清《すが》しき|姫君《ひめぎみ》は
チンリウ|姫《ひめ》と|察《さつ》しまつりぬ
ほの|暗《ぐら》き|牢獄《ひとや》のうちになやみ|給《たま》ふ
|姫《ひめ》をあはれみわれは|来《き》つるも
|魚心《うをごころ》あれば|必《かなら》ず|水心《みづごころ》
ありと|思《おぼ》せよわが|言《こと》の|葉《は》に
わが|宣《の》らむ|言葉《ことば》に|従《したが》ひ|給《たま》ひなば
|今日《けふ》の|憂目《うきめ》はさせまじものを
|果《はて》しなく|牢獄《ひとや》に|苦《くる》しみ|給《たま》ふよりも
|早《はや》く|安所《やすど》を|望《のぞ》み|給《たま》はずや
|若王《わかぎみ》は|姫《ひめ》に|心《こころ》を|寄《よ》せ|給《たま》ふ
なびかせ|給《たま》へチンリウ|姫《ひめ》の|君《きみ》』
チンリウ|姫《ひめ》は、|朝月《あさづき》の|歌《うた》に|憤慨《ふんがい》しながら、|儼然《げんぜん》として|歌《うた》ふ。
『|怨《うら》みなき|人《ひと》の|国《くに》をば|奪《うば》ひてし
|曲《まが》の|言葉《ことば》に|従《したが》ふべしやは
|玉《たま》の|緒《を》のよしや|生命《いのち》はとらるとも
|如何《いか》で|靡《なび》かむ|曲《まが》の|言葉《ことば》に
|千秋《せんしう》の|恨《うらみ》|重《かさ》なるエールスに
たとへ|死《し》すともまつろはざるべし
いらざらむ|繰《く》り|言《ごと》|宣《の》るないやしくも
われはアヅミの|王《わう》の|御子《みこ》ぞや
|汝《な》が|如《ごと》き|賤《いや》しき|司《つかさ》の|言《こと》の|葉《は》は
|耳《みみ》にするさへけがらはしと|思《おも》ふ
われは|今《いま》|生命《いのち》を|捨《す》つる|覚悟《かくご》なり
|仇《あだ》の|王《こきし》にまつろふべしやは』
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|言葉《ことば》うべよと|思《おも》へども
|此処《ここ》は|一先《ひとま》づ|見直《みなほ》し|給《たま》へ
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|死《し》すとも|及《およ》ぶまじ
|御身《おんみ》の|為《ため》と|聞《き》き|直《なほ》しませ
アヅミ|王《わう》の|御子《みこ》とあれます|君《きみ》なれば
われは|真心《まごころ》|捧《ささ》げて|仕《つか》へむ
わが|若王《きみ》の|妃《きさき》となりて|栄《さか》えませよ
|今日《けふ》のなやみは|直《ただ》にとけなむ』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|如何《いか》ほどに|言葉《ことば》|尽《つく》して|誘《いざな》ふも
われ|承知《うけが》はじ|曲《まが》の|言葉《ことば》に
エームスの|王妃《わうひ》となりて|栄《さか》ゆより
われは|牢獄《ひとや》の|鬼《おに》となるべし
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》を|捨《す》てて|鬼《おに》となり
|父《ちち》のうらみを|晴《は》らさむと|思《おも》ふ
わが|父《ちち》のなやみ|思《おも》へば|如何《いか》にして
|敵《てき》の|王妃《わうひ》となるべきものかは
わが|父《ちち》にイドムの|国《くに》を|奉還《ほうくわん》し
|而《しか》して|後《のち》にわれに|当《あた》れよ
イドム|城《じやう》|父《ちち》の|御手《おんて》に|帰《かへ》るまでは
|汝《なれ》が|言葉《ことば》をわれ|耳《みみ》にせじ
|望《のぞ》みなきわれに|言葉《ことば》をかくる|前《まへ》に
|父《ちち》に|御国《みくに》を|返《かへ》しまつれよ
わが|父《ちち》の|御許《みゆる》しあればわれとても
|王妃《わうひ》となるを|拒《いな》まざるべし』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|御言《みこと》|畏《かしこ》しさりながら
|今《いま》|暫時《しばらく》を|待《ま》たせ|給《たま》はれ
|姫君《ひめぎみ》はエームス|王《わう》の|妃《ひ》となりて
|和睦《わぼく》の|道《みち》を|計《はか》らせ|給《たま》へ
|姫君《ひめぎみ》が|王妃《わうひ》とならせ|給《たま》ひなば
|両国《りやうこく》|平和《へいわ》に|治《をさ》まるべきを』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|偽《いつは》りの|多《おほ》き|世《よ》なれば|如何《いか》にしても
|汝《なれ》が|言葉《ことば》に|従《したが》ふべしやは
わが|父《ちち》の|御許《みゆる》しあれば|何時《いつ》とても
|汝《なれ》が|勧《すす》めに|応《こた》へまつらむ
わが|父《ちち》の|消息《せうそく》|今《いま》にわからねば
エールス|王《わう》を|怨《うら》みこそすれ
エールス|王《わう》わが|前《まへ》に|来《き》て|詳細《まつぶさ》に
|父《ちち》の|消息《せうそく》|語《かた》れと|伝《つた》へよ
|父母《ちちはは》の|仇《あだ》にわが|身《み》を|任《まか》すべき
われは|人《ひと》の|子《こ》|獣《けもの》にあらず
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|惜《を》しまぬわれなれば
|栄華《えいぐわ》の|夢《ゆめ》は|望《のぞ》まざるべし
ともかくもわが|垂乳根《たらちね》を|本城《ほんじやう》へ
|返《かへ》しまつりし|其《そ》の|上《うへ》にせよ
われも|亦《また》サールの|国《くに》には|住《す》まはまじ
イドムの|国《くに》に|送《おく》りとどけよ
エームス|王《わう》われに|恋《こひ》すと|聞《き》きしより
わが|魂《たましひ》は|砕《くだ》けむとせり
|万斛《ばんこく》の|涙《なみだ》をのみてわれは|今《いま》
これの|牢獄《ひとや》に|父母《ふぼ》をしのぶも』
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|堅《かた》き|心《こころ》を|聞《き》くにつけ
われは|涙《なみだ》のとめどなきかな
|姫君《ひめぎみ》の|正《ただ》しき|言葉《ことば》|聞《き》くよしも
なきわれこそは|悲《かな》しかりけり
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|惜《を》しまぬ|姫君《ひめぎみ》の
|堅《かた》き|心《こころ》に|動《うご》かされたり
さりながらエームス|王《わう》の|御《おん》なやみ
|晴《は》らさむとしてわれは|来《き》つるも
|千秋《せんしう》の|恨《うらみ》しのびて|今《いま》|暫《しば》し
エームス|王《わう》になびかせ|給《たま》へ
|姫君《ひめぎみ》の|御心《みこころ》|知《し》らぬにあらねども
|御国《みくに》を|思《おも》ひてわれは|勧《すす》むる
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|限《かぎ》りに|姫君《ひめぎみ》を
|恋《こ》はすエームス|王《わう》の|憐《あは》れさ
|情心《なさけごころ》あらねば|人《ひと》も|木石《ぼくせき》に
|変《かは》らず|思《おも》ひて|靡《なび》かせ|給《たま》へ』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|無理遣《むりやり》に|小暗《をぐら》き|牢獄《ひとや》に|押《お》し|込《こ》めて
|恋《こひ》を|語《かた》らふ|不甲斐《ふがひ》なき|若王《きみ》よ
エームスに|情心《なさけごころ》のあるならば
なぜに|吾《わが》|身《み》を|牢獄《ひとや》に|苦《くる》しむる
|第一《だいいち》にこの|解決《かいけつ》をつけざれば
われは|否《いな》やの|応《いら》へなすまじ
わが|耳《みみ》は|汚《けが》れ|果《は》てたりエームスの
|敵《かたき》の|王《きみ》の|焦《こが》るると|聞《き》きて』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|心《こころ》の|誠《まこと》|察《さつ》すれど
われは|進《すす》まむ|道《みち》さへもなし
|姫君《ひめぎみ》のやさしき|言葉《ことば》|聞《き》くまでは
われは|此《こ》の|場《ば》を|去《さ》らずと|思《おも》ふ
くやしさをしばし|忍《しの》びて|姫君《ひめぎみ》よ
|末《すゑ》の|光《ひか》りと|諾《うべな》ひ|給《たま》はれ』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|如何《いか》ならむ|甘《あま》き|言葉《ことば》も|承知《うけが》はじ
われは|死《し》すべき|生命《いのち》なりせば
エームスの|王《きみ》の|言葉《ことば》を|聞《き》くにつけ
われは|一入《ひとしほ》|死《し》にたくなりぬ』
|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》は、|梃《てこ》でも|棒《ぼう》でも|動《うご》かぬチンリウ|姫《ひめ》の|強《つよ》き|心《こころ》に|返《かへ》す|言葉《ことば》も|無《な》く、すごすごとして|此《こ》の|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》り、いろいろと|相談《さうだん》の|結果《けつくわ》、|水責《みづぜ》め、|食責《しよくぜ》め、|火責《ひぜ》めをもつて、エームス|王《わう》の|恋心《こひごころ》に|靡《なび》かせむかと、|種々《しゆじゆ》|浅《あさ》はかなる|計画《けいくわく》をめぐらしつつありける。
(昭和九・八・一四 旧七・五 於水明閣 林弥生謹録)
第一三章 |思《おも》ひの|掛川《かけがは》〔二〇四〇〕
|木田山城《きたやまじやう》の|奥殿《おくでん》には、エームス|王《わう》|只一人《ただひとり》|黙然《もくねん》として|恋《こひ》に|悩《なや》みながら、|微《かすか》な|声《こゑ》にて|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》ひつつありぬ。
『この|世《よ》に|生《うま》れて|二十年《にじふねん》
|父《ちち》と|母《はは》との|膝下《ひざもと》に
|貴《うづ》の|御子《みこ》よと|育《はぐく》まれ
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|諸々《もろもろ》の
|司《つかさ》や|側女《そばめ》にかしづかれ
|楽《たの》しき|春秋《しゆんじう》おくり|来《き》て
ここに|二十年《はたち》の|春《はる》を|迎《むか》へ
もののあはれを|知《し》り|初《そ》めて
|悩《なや》みの|淵《ふち》に|沈《しづ》みつつ
あらぬ|恋路《こひぢ》にとらはれて
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なの|苦《くる》しみを
|語《かた》らふ|術《すべ》も|泣《な》くばかり
わが|身《み》は|恋《こひ》にとらはれて
|日《ひ》に|夜《よ》に|身体《からたま》|細《ほそ》りつつ
|玉《たま》の|生命《いのち》も|朦朧《もうろう》と
|行方《ゆくへ》|知《し》らずの|思《おも》ひなり
ああ|如何《いか》にせむわが|恋《こ》ふる
|姫《ひめ》はまさしく|敵国《てきこく》の
アヅミの|王《きみ》の|娘《むすめ》とかや
わが|父《ちち》の|力《ちから》は|如何《いか》に|勝《まさ》るとも
|情《なさけ》は|如何《いか》に|深《ふか》くとも
この|恋《こひ》のみは|如何《いか》にして
|成《な》りとげ|得《う》べき|由《よし》もなし
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|消《き》えむと|思《おも》ふまで
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なにこがれたる
|生命《いのち》をかけての|恋人《こひびと》は
げに|悲《かな》しもよ|敵国《てきこく》の
アヅミの|王《きみ》の|愛娘《まなむすめ》と
|思《おも》へば|如何《いか》にこがるとも
わが|思《おも》ひねのとどくべき
|斯《か》くなる|上《うへ》はわが|父《ちち》の
イドムの|国《くに》を|亡《ほろ》ぼせし
|礼《ゐや》なき|業《わざ》もにくらしく
|且《か》つ|恨《うら》めしく|思《おも》はるる
|生命《いのち》をかけて|焦《こが》れたる
|姫《ひめ》の|恨《うらみ》を|如何《いか》にして
はらはむ|由《よし》も|夏《なつ》の|夜《よ》の
|空《そら》をふさげる|五月闇《さつきやみ》
|鳴《な》く|時鳥《ほととぎす》|声《こゑ》かれて
|血《ち》を|吐《は》く|思《おも》ひのわが|身《み》なり
|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》|二柱《ふたはしら》
|心《こころ》づくしも|今《いま》となりて
|何《なん》の|答《いらへ》も|夏《なつ》の|夜《よ》の
|短《みじか》き|心《こころ》を|如何《いか》にして
われはつながむ|百鳥《ももとり》の
|清《きよ》きなく|音《ね》も|百花《ももばな》の
|香《かを》りも|吾《われ》には|醜《しこ》の|声《こゑ》
|醜《しこ》の|小草《をぐさ》の|花《はな》なれや
|見《み》るもの|聞《き》くもの|悉《ことごと》く
|悲《かな》しみの|種《たね》|憂《うさ》の|種《たね》
|歎《なげ》きの|種《たね》と|泣《な》くばかり
|斯《か》くなる|上《うへ》はわが|生命《いのち》
|生《い》きて|詮《せん》なし|木田川《きたがは》の
|水《みづ》の|藻屑《もくづ》になり|果《は》てて
|水底《みなそこ》|深《ふか》くひそみつつ
|恋《こひ》の|悩《なや》みを|流《なが》さむか
ああ|悲《かな》しけれわが|恋路《こひぢ》
ああ|恨《うら》めしもわが|父《ちち》の
|礼《ゐや》なき|振舞《ふるま》ひ|今《いま》となりて
|吾《われ》を|恋路《こひぢ》に|泣《な》かしむるか
|果敢《はか》なき|浮世《うきよ》のありさまや
|情《つれ》なきこの|世《よ》のたよりかな。
わが|恋《こ》ふる|人《ひと》は|敵《てき》ゆゑ|真心《まごころ》を
うたがひかへりて|恨《うら》みかへせり
|恋人《こひびと》はわが|敵国《てきこく》の|王《きみ》の|御子《みこ》と
|聞《き》けばきく|程《ほど》|悲《かな》しかりけり
かなはざる|恋《こひ》と|思《おも》へどわが|力《ちから》
もちて|靡《なび》けむ|心《こころ》ならずも
|心《こころ》なき|花《はな》の|香《か》|愛《め》づる|不甲斐《ふがひ》なさ
|思《おも》へば|恋《こひ》はかなしかりけり
わが|恋《こひ》を|許《ゆる》さぬ|娘《むすめ》の|真心《まごころ》を
|思《おも》へばふかく|憎《にく》まれもせず
われは|今《いま》|恋《こひ》の|悪魔《あくま》にとらはれて
|行《ゆ》く|手《て》も|見《み》えず|闇《やみ》にさまよふ
|手折《たを》るべき|花《はな》にあらずと|思《おも》へども
|思《おも》ひかへせぬ|術《すべ》なき|吾《われ》なり
よしや|身《み》は|川《かは》の|藻屑《もくづ》となるとても
この|恋心《こひごころ》|永久《とは》に|失《う》せざらむ
|朝月《あさづき》の|生言霊《いくことたま》も|夕月《ゆふづき》の
|情言葉《なさけことば》も|聞《き》かぬ|姫《ひめ》かな
|腰元《こしもと》のアララギうまくとりこみて
|姫《ひめ》の|心《こころ》を|動《うご》かさむかな』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》は|恭《うやうや》しくも|御前《みまへ》に|進《すす》み|来《きた》りて|歌《うた》ふ。
|朝月《あさづき》『いろいろと|言霊戦《ことたまいくさ》|射向《いむか》へど
|千引《ちびき》の|巌《いは》の|動《うご》くともせず
チンリウの|姫《ひめ》の|心《こころ》は|大岩《おほいは》の
|装《よそほ》ひなしてびくとも|動《うご》かず
|村肝《むらきも》の|心《こころ》つくしてかけ|合《あ》へど
よろしき|便《たより》なく|由《よし》もなき
わが|王《きみ》に|会《あ》はさむ|顔《かほ》もなきままに
|悩《なや》みて|居《を》りぬ|夕月《ゆふづき》と|共《とも》に』
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|清《きよ》き|心《こころ》を|照《て》らさむと
|思《おも》ひしことも|夢《ゆめ》となりける
|御父《おんちち》を|恨《うら》む|心《こころ》の|深《ふか》くして
チンリウ|姫《ひめ》は|少《すこ》しも|動《うご》かず
わが|力《ちから》|最早《もはや》|尽《つ》きたりこの|上《うへ》は
|手玉《てだま》を|替《か》へてのぞまむと|思《おも》ふ』
エームス|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『さまざまと|汝等《なれら》|二人《ふたり》が|働《はたら》きを
|吾《われ》よみすれど|心《こころ》さみしき
この|上《うへ》は|侍女《じぢよ》のアララギ|呼《よ》び|出《いだ》し
|先《ま》づは|言向《ことむ》け|和《やは》すべきかな
|利《り》を|以《もつ》てさそへば|侍女《じぢよ》のアララギは
|必《かなら》ず|靡《なび》かむ|如何《いか》に|思《おも》ふぞ』
|朝月《あさづき》は|手《て》を|拍《う》つて|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|御言《みこと》かしこみアララギを
|招《まね》きて|姫《ひめ》の|心《こころ》をさそはむ』
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『アララギの|心《こころ》|動《うご》かば|必《かなら》ずや
チンリウ|姫《ひめ》もまつろひ|来《きた》らむ』
|斯《か》くて|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》は|獄吏《ごくり》に|命《めい》じ、アララギを|縛《しば》りたるまま、|王《わう》の|前《まへ》に|引《ひ》き|来《きた》らしめければ、|万事《ばんじ》に|抜目《ぬけめ》なきアララギは、|斯《か》くやと|早合点《はやがてん》しつつエームス|王《わう》の|前《まへ》に|引出《ひきだ》され、|平然《へいぜん》として|控《ひか》へ|居《ゐ》る。|朝月《あさづき》は|先《ま》づアララギに|向《むか》ひて|歌《うた》ふ。
『チンリウの|姫《ひめ》に|仕《つか》ふる|汝《な》は|乳母《うば》の
アララギなるかいざ|言問《ことと》はむ
|苦《くる》しかる|獄舎《ひとや》につながれうごかぬ|姫《ひめ》は
|汝《なれ》を|力《ちから》にたのむなるらむ
さまざまの|責苦《せめく》にあふより|安《やす》らけく
|位《くらゐ》と|栄《さか》えをほりせざるにや
|汝《な》が|心《こころ》|一《ひと》つによりてチンリウ|姫《ひめ》
センリウ|姫《ひめ》も|花《はな》と|栄《さか》ゆべきを
チンリウの|姫《ひめ》を|殺《ころ》すも|永遠《とことは》に
|花《はな》と|活《い》かすも|汝《なれ》の|力《ちから》よ
アララギよ|心《こころ》しづめて|答《いら》へせよ
|汝《なれ》が|生死《せいし》の|境《さかひ》なるぞや
わが|王《きみ》の|厚《あつ》き|心《こころ》をなみすれば
|三人《みたり》の|生命《いのち》は|危《あや》ふかるべし』
アララギは|怖気《おそれげ》もなく|満面《まんめん》に|笑《ゑ》みを|湛《たた》へつつ|歌《うた》ふ。
『|及《およ》ばざる|吾《われ》なりながら|姫君《ひめぎみ》に
|王《きみ》の|心《こころ》を|伝《つた》へ|奉《まつ》らむ
|二十年《はたとせ》を|仕《つか》へ|来《きた》りし|姫《ひめ》なれば
わが|言霊《ことたま》をうべなひ|給《たま》はむ
さりながら|姫《ひめ》は|御父《おんちち》|御母《おんはは》を
|恨《うら》ませ|給《たま》へば|受《う》け|合《あ》ひがたし
|言霊《ことたま》のあらむ|限《かぎ》りを|打《う》ち|出《だ》して
|姫《ひめ》の|心《こころ》を|動《うご》かして|見《み》む』
|朝月《あさづき》は|面《おも》をやはらげながら、
『アララギの|言葉《ことば》よろしも|若王《わかぎみ》の
|御為《おんため》|誠《まこと》をつくし|給《たま》はれ
|若王《わかぎみ》の|心《こころ》にかなひ|奉《まつ》りなば
|汝《なれ》も|御国《みくに》の|花《はな》と|栄《さか》えむ
|永遠《とこしへ》の|生命《いのち》|保《たも》ちてこの|城《しろ》に
|花《はな》と|匂《にほ》ひつ|清《きよ》く|栄《さか》えよ』
エームス|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『さかしかる|汝《なれ》アララギを|力《ちから》とし
|姫《ひめ》のよろしき|便《たより》を|待《ま》たむ
わが|思《おも》ひ|汝《なれ》が|力《ちから》になるならば
|吾《われ》は|報《むく》いむ|位《くらゐ》を|与《あた》へて』
アララギは|歌《うた》ふ。
『ありがたし|若王様《わかぎみさま》の|御宣言《みことのり》
|生命《いのち》|捨《す》ててもかなはせ|奉《まつ》らむ』
これよりアララギは、|王《わう》の|御前《みまへ》をさがり、|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》の|従神《じうしん》に|送《おく》られ、チンリウ|姫《ひめ》が|押《お》し|込《こ》められて|居《ゐ》る|獄舎《ひとや》に|帰《かへ》り|来《きた》り、チンリウ|姫《ひめ》の|心《こころ》を|動《うご》かすべく、|言葉《ことば》をつくして|歌《うた》ふ。
『チンリウ|姫《ひめ》よ|聞《きこ》し|召《め》せ
われは|御前《みまへ》に|引《ひ》き|出《だ》され
さも|恐《おそ》ろしきくさぐさの
|王《きみ》の|御言《みこと》を|目《ま》のあたり
|宣《の》り|聞《き》かされて|驚《おどろ》きぬ
|吾等《われら》|三人《みたり》は|今宵限《こよひかぎ》り
|夕《ゆふ》べの|露《つゆ》と|消《き》ゆる|身《み》よ
|水責《みづぜ》め|火責《ひぜ》めは|未《ま》だ|愚《おろ》か
あらゆる|責苦《せめく》にあはされて
|嬲《なぶ》り|殺《ごろ》しにあふところ
わが|言霊《ことたま》を|善用《ぜんよう》し
エームス|王《わう》の|御心《おんこころ》
|和《なご》め|奉《まつ》ると|百千々《ももちぢ》に
|心《こころ》を|砕《くだ》きし|甲斐《かひ》ありて
|姫君様《ひめぎみさま》の|返辞《いらへごと》
|一《ひと》つによりて|生死《いきしに》の
|別《わか》るるきはとなりにけり
チンリウ|姫《ひめ》の|御君《おんきみ》よ
|生命《いのち》ありての|物種《ものだね》よ
|如何《いか》なる|恨《うら》みはおはすとも
|生命《いのち》なければ|報《むく》ゆべき
|術《すべ》は|絶対《ぜつたい》なかるべし
ここは|暫《しばら》く|御心《みこころ》を
|和《なご》め|給《たま》ひてエームスの
|王《きみ》の|心《こころ》にまつろひて
|惜《を》しき|生命《いのち》を|保《たも》ちませ
アララギ|吾《われ》も|姫君《ひめぎみ》と
|同《おな》じ|心《こころ》に|恨《うら》めども
|何《なん》とせむ|術《すべ》なきままに
|恐《おそ》れ|多《おほ》くも|姫様《ひめさま》を
エームス|王《わう》の|妃《ひ》の|君《きみ》に
|奉《たてまつ》らむと|誓《ちか》ひけり
|許《ゆる》させ|給《たま》へ|姫君《ひめぎみ》よ
|恋《こひ》しき|御父《おんちち》|御母《おんはは》に
|会《あ》はせ|奉《まつ》るとアララギが
|真心《まごころ》こめての|仕組《しぐみ》なり
|必《かなら》ず|悪《あ》しく|思《おぼ》すまじ
|忠義一途《ちうぎいちづ》に|固《かた》まりし
このアララギの|真心《まごころ》を
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|聞《きこ》し|召《め》し
エームス|王《わう》の|恋心《こひごころ》
|満《み》たさせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|仕組《しぐみ》と|思《おも》ふ|故《ゆゑ》
|真心《まごころ》こめて|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
|若《も》しも|諾《うべな》ひ|給《たま》はずば
アヅミの|王《きみ》の|御娘《おんむすめ》
|尊《たふと》き|御身《おんみ》は|忽《たちま》ちに
|重《おも》き|生命《いのち》を|奪《うば》はれて
|仇《あだ》をかへさむ|由《よし》もなく
|恨《うら》みの|鬼《おに》となり|下《さが》り
|千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|浮《うか》ぶ|瀬《せ》は
|泣《な》くなく|歎《なげ》きに|沈《しづ》むらむ
まげて|吾等《われら》が|願《ねが》ひをば
|許《ゆる》させ|給《たま》へと|願《ね》ぎ|奉《まつ》る。
|姫君《ひめぎみ》の|心《こころ》|知《し》らずにあらねども
|生命《いのち》のためにすすめ|奉《まつ》るも
|姫君《ひめぎみ》の|生命《いのち》を|無事《ぶじ》にささへつつ
|御親《みおや》の|恨《うら》みはらさむと|思《おも》ふ』
チンリウ|姫《ひめ》はわづかに|歌《うた》ふ。
『|情《なさけ》なき|乳母《うば》アララギの|言葉《ことば》かな
|敵《てき》にわが|身《み》を|任《まか》すべきやは
|武士《もののふ》の|娘《むすめ》と|生《うま》れし|吾《われ》なれば
よしや|死《し》すとも|惜《を》しまざるべし
アララギの|礼《ゐや》なき|言葉《ことば》|聞《き》くにつけ
わが|魂《たましひ》は|死《し》せむとするも
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|惜《を》しみて|父母《ちちはは》の
|仇《あだ》にまつらふ|不孝《ふかう》はなさじ
|千万《ちよろづ》の|甘《あま》き|言葉《ことば》も|吾《わが》|身《み》には
|濁《にご》れる|曲《まが》のささやきなりける』
センリウ|女《ぢよ》は|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|言葉《ことば》うべよと|思《おも》へども
ここ|暫《しばら》くを|忍《しの》ばせ|給《たま》へ
|姫君《ひめぎみ》の|心《こころ》|一《ひと》つにつながりし
|吾等《われら》が|生命《いのち》あはれみ|給《たま》へ
|姫君《ひめぎみ》の|答《いらへ》の|如何《いかん》は|三人《さんにん》の
|玉《たま》の|生命《いのち》にかかはるものぞや
わが|母《はは》と|吾等《われら》が|生命《いのち》|諸共《もろとも》に
|救《すく》はせ|給《たま》へチンリウの|姫君《ひめぎみ》』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|恨《うら》めしき|仇《あだ》なりながら|汝等《なれら》|母子《おやこ》の
|生命《いのち》|思《おも》へばためらひ|心《ごころ》|湧《わ》く
|如何《いか》にせむ|行《ゆ》きもかへりもならぬ|身《み》の
|吾《われ》は|死《し》すより|苦《くる》しかりけり
アララギやセンリウ|姫《ひめ》を|殺《ころ》すかと
|思《おも》へばかなしき|生命《いのち》のわが|身《み》よ
わが|心《こころ》かなはずまでも|今《いま》|暫《しば》し
エームス|王《わう》の|御言《みこと》にかなはむ』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|終《をは》るや、|朝月《あさづき》、|夕月《ゆふづき》は|物蔭《ものかげ》より|現《あら》はれ|来《きた》り、|声《こゑ》もさはやかに|歌《うた》ふ。
|朝月《あさづき》の|歌《うた》。
『あはれあはれ|姫《ひめ》の|心《こころ》の|大《おほ》きさに
|木田山城《きたやまじやう》は|甦《よみがへ》りたり
エームスの|王《きみ》はさぞかし|御心《みこころ》の
|清《きよ》きを|聞《き》きて|歓《ゑら》ぎ|給《たま》はむ
|吾《われ》もまたチンリウ|姫《ひめ》の|御言葉《おんことば》
|聞《き》きて|生命《いのち》の|栄《さか》えを|思《おも》ふ』
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『ありがたし|心《こころ》つくしの|海《うみ》の|面《も》に
|冴《さ》えたる|月《つき》は|浮《うか》ばせ|給《たま》へり
チンリウ|姫《ひめ》|雄々《をを》しき|心《こころ》|聞《き》くにつけ
|吾《われ》はかげより|男泣《をとこな》きせり
ありがたき|御代《みよ》の|栄《さか》えのためしかな
エームス|王《わう》に|妃《きさき》|迎《むか》へて
いざさらば|王《きみ》の|御前《みまへ》にまつぶさに
|姫《ひめ》の|真心《まごころ》|伝《つた》へ|奉《まつ》らむ
アララギよチンリウ|姫《ひめ》よセンリウよ
|心《こころ》|安《やす》かれやがて|迎《むか》へむ』
アララギは|歌《うた》ふ。
『ありがたしチンリウ|姫《ひめ》の|真心《まごころ》に
われ|等《ら》が|生命《いのち》|救《すく》はれしはや
エームスの|王《きみ》の|御前《みまへ》にわが|宣《の》りし
|生言霊《いくことたま》を|伝《つた》へ|給《たま》へよ』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『アララギの|心《こころ》づくしの|功績《いさをし》を
うまらに|王《きみ》に|伝《つた》へ|奉《まつ》らむ
よき|便《たよ》り|待《ま》たせ|給《たま》へよ|吾《われ》は|今《いま》
|王《きみ》の|御前《みまへ》にかへりごとせむ』
|斯《か》くしてエームス|王《わう》の|恋《こひ》は|漸《やうや》く|曙光《しよくわう》|見《み》えたれば、|王《わう》は|直《ただ》ちにチンリウ|姫《ひめ》|以下《いか》を|牢獄《らうごく》より|開放《かいはう》し、|立派《りつぱ》なる|衣裳《いしやう》に|着替《きか》へさせ、|王《わう》の|宮殿《きうでん》に|参入《さんにふ》せしむることとはなりぬ。
(昭和九・八・一四 旧七・五 於水明閣 内崎照代謹録)
第一四章 |鷺《さぎ》と|烏《からす》〔二〇四一〕
|茲《ここ》にチンリウ|姫《ひめ》は|乳母《うば》アララギの、ことを|解《わ》けての|懇願《こんぐわん》により、|敵《てき》の|大将《たいしやう》エールスの|太子《たいし》エームスの|妃《きさき》となる|事《こと》を|心《こころ》ならずも|承諾《しようだく》し、|一時《いちじ》の|難《なん》を|免《まぬが》れむとしたるこそ|憐《あは》れなれ。エームス|王《わう》は|欣喜雀躍《きんきじやくやく》しながら、|群臣《ぐんしん》に|命《めい》じ、|奥殿《おくでん》に|於《おい》て|目出度《めでた》く|結婚式《けつこんしき》を|行《おこな》ふ|事《こと》を|厳命《げんめい》せしにぞ、|木田山城内《きたやまじやうない》は|鼎《かなへ》の|沸《わ》くが|如《ごと》く、|上《うへ》を|下《した》への|大騒《おほさわ》ぎ、|若王《わかぎみ》の|目出度《めでた》き|結婚《けつこん》なりと、|尊《たか》きも|卑《ひく》きも|歓《ゑら》ぎ|喜《よろこ》ばむものはなかりけり。|中《なか》にもチンリウ|姫《ひめ》は|結婚《けつこん》の|花形役者《はながたやくしや》として、|今日《けふ》までの|牢獄住《らうごくずま》ひに|引替《ひきか》へ、|地獄《ぢごく》より|天国《てんごく》に|上《のぼ》りし|如《ごと》くなれど、|心中《しんちう》|稍《やや》|悲歎《ひたん》の|涙《なみだ》に|暮《く》れ|居《ゐ》たりけり。エームス|王《わう》はチンリウ|姫《ひめ》を|奥殿《おくでん》に|招《まね》き|温顔《をんがん》を|満面《まんめん》に|湛《たた》へながら|歌《うた》ふ。
エームス|王《わう》の|歌《うた》。
『|夕顔《ゆふがほ》の|匂《にほ》へる|庭《には》に|汝《な》が|姿《すがた》
|認《みと》めて|吾《われ》は|悩《なや》みに|落《お》ちたり
|何事《なにごと》も|時世時節《ときよじせつ》と|諦《あきら》めて
|吾《われ》に|許《ゆる》せし|君《きみ》は|愛《かな》しも
|君《きみ》が|心《こころ》|吾《われ》にあはずば|玉《たま》の|緒《を》の
|生命《いのち》|死《し》せむと|悩《なや》み|来《き》しよな
|天地《あめつち》の|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|露《つゆ》|浴《あ》びて
|今日《けふ》は|嬉《うれ》しく|君《きみ》に|会《あ》ふかも
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》も|吾《われ》は|惜《を》しむまじ
|君《きみ》の|心《こころ》に|抱《いだ》かるる|身《み》は
|父母《ちちはは》の|礼《ゐや》なき|業《わざ》を|許《ゆる》しませ
やがて|酬《むく》いむ|君《きみ》の|心《こころ》に
|汝《な》が|父《ちち》を|安《やす》きに|救《すく》ひまゐらせて
イドムの|城《しろ》に|迎《むか》へ|奉《まつ》らむ
|吾《わが》|心《こころ》|君《きみ》の|御前《みまへ》に|打《う》ち|明《あ》けて
|二心《ふたごころ》なきを|誓《ちか》ひ|置《お》くべし』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|大御心《おほみこころ》に|叶《かな》ひたる
|吾《わが》|幸《さち》はひを|神《かみ》に|感謝《ゐやひ》す
|永久《とこしへ》に|王《きみ》の|御側《みそば》に|仕《つか》へつつ
|吾《わが》|垂乳根《たらちね》に|会《あ》ふ|日《ひ》を|待《ま》たむ
|垂乳根《たらちね》の|心《こころ》の|悩《なや》み|思《おも》ひつつ
はからず|王《きみ》にいそひ|奉《まつ》るも』
エームス|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》をかけし|恋《こひ》|故《ゆゑ》に
|天《てん》にも|昇《のぼ》る|思《おも》ひするかな
|朝月《あさづき》や|夕月《ゆふづき》、アララギ、センリウの
|真心《まごころ》|照《て》りて|今日《けふ》は|楽《たの》しも』
アララギは|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|清《きよ》き|御前《みまへ》に|招《まね》かれて
|嬉《うれ》しさゆゑに|吾《わが》|魂《たま》|震《ふる》ふも
チンリウの|姫《ひめ》の|心《こころ》を|慰《なぐさ》めつ
|今日《けふ》の|吉日《よきひ》に|吾《われ》は|逢《あ》ひにき
|若王《わかぎみ》に|永久《とは》に|仕《つか》へて|吾《われ》も|亦《また》
|御国《みくに》の|栄《さか》えを|祈《いの》り|奉《まつ》らむ』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|御言《みこと》|畏《かしこ》みさまざまと
|言霊《ことたま》|打《う》ちて|破《やぶ》れけるかな
|如何《いか》にして|姫《ひめ》の|心《こころ》を|迎《むか》へむと
|千々《ちぢ》に|心《こころ》を|砕《くだ》きけるかや
チンリウ|姫《ひめ》|心《こころ》うごきて|吾《わが》|魂《たま》は
いや|新《あた》らしく|光《ひか》りそめたり』
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》も|亦《また》|如何《いかが》なるやと|危《あや》ぶみし
|姫《ひめ》の|心《こころ》は|動《うご》き|初《そ》めたり
アララギの|生言霊《いくことたま》の|助《たす》けにて
|今日《けふ》の|吉日《よきひ》に|逢《あ》ふぞ|嬉《うれ》しき』
いよいよ|茲《ここ》に|盛大《せいだい》なる|結婚《けつこん》の|式《しき》を|挙《あ》げることとなり、|城《しろ》の|内外《ないぐわい》には|国津神等《くにつかみたち》の|歓呼《くわんこ》の|声《こゑ》、|天地《てんち》を|動《ゆる》がすばかりなり。|殿中《でんちう》には|荘厳《さうごん》なる|結婚式《けつこんしき》が|開《ひら》かれてゐる。|媒介役《ばいかいやく》たるアララギは|祝歌《しゆくか》を|歌《うた》ふ。
『|天地《あめつち》の|開《ひら》き|初《そ》めてゆ|例《ためし》なき
|今日《けふ》の|吉日《よきひ》に|逢《あ》ふぞ|目出度《めでた》き。
|大栄山《おほさかやま》に|日《ひ》は|昇《のぼ》り
|木田川《きたがは》|面《おもて》に|月《つき》|浮《うか》ぶ
|木田山城《きたやまじやう》の|清庭《すがには》に
|大宮柱《おほみやばしら》|太知《ふとし》りて
|備《そな》へも|堅《かた》き|此《こ》の|城《しろ》に
エールス|王《わう》の|若王《わかぎみ》は
アヅミの|王《きみ》の|愛娘《まなむすめ》
チンリウ|姫《ひめ》を|迎《むか》へまし
|今日《けふ》の|夕《ゆふ》べの|吉時《よきとき》に
|華燭《くわしよく》の|典《てん》を|挙《あ》げ|給《たま》ひ
|夫婦《ふうふ》|仲《なか》よく|睦《むつ》まじく
|千代《ちよ》の|堅《かた》めを|永久《とこしへ》に
サールの|国《くに》の|国王《こくわう》と
|国津神等《くにつかみら》に|敬《うやま》はれ
|堅磐常磐《かきはときは》の|巌ケ根《いはがね》に
|果《はて》なき|広《ひろ》き|国原《くにはら》を
|領有《うしは》ぎ|給《たま》ふ|代《よ》となりぬ
|父大王《ちちだいわう》は|大栄《おほさか》の
|御山《みやま》を|越《こ》えて|今《いま》ははや
イドムの|国《くに》の|王《わう》となり
アヅミの|王《きみ》を|退《しりぞ》けて
|時《とき》めき|給《たま》ふ|尊《たふと》さよ
さはさりながら|吾《わが》|王《きみ》は
|仁慈無限《じんじむげん》にましまして
|国津神等《くにつかみら》を|愍《あは》れまし
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》に|霑《うるほ》ひて
|鳥獣虫魚《てうじうちうぎよ》にいたるまで
|王《きみ》の|御徳《みとく》に|服従《まつろ》ひて
|今日《けふ》の|吉日《よきひ》を|歌《うた》ふなり
|木田山城《きたやまじやう》の|茂森《しげもり》の
|梢《こずゑ》に|潜《ひそ》む|田鶴《たづ》の|声《こゑ》
いともさやかに|聞《きこ》ゆなり
|松《まつ》は|千歳《ちとせ》の|色《いろ》|深《ふか》く
|常磐《ときは》の|状《さま》を|現《あら》はせり
チンリウ|姫《ひめ》は|賢女《さかしめ》よ
|又《また》|細女《くはしめ》よ|此《こ》の|国《くに》の
|妃《きさき》の|君《きみ》と|現《あ》れまして
|四方《よも》に|輝《かがや》き|給《たま》ふべし
|吾《われ》は|二十年《はたとせ》|姫君《ひめぎみ》の
|御側《みそば》に|侍《はべ》り|仕《つか》へ|来《き》て
|今日《けふ》の|吉日《よきひ》に|逢《あ》ひけるも
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|露《つゆ》なれや
ああ|有難《ありがた》し|目出度《めでた》しと
|今日《けふ》の|吉日《よきひ》を|祝《ほ》ぎ|奉《まつ》る』
エームス|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|昔《むかし》より|例《ためし》も|聞《き》かぬ|喜《よろこ》びに
|逢《あ》ひにけらしな|姫《ひめ》を|娶《めと》りて
|天地《あめつち》は|清《きよ》く|晴《は》れつつ|吾《わが》|胸《むね》も
|御空《みそら》の|月《つき》と|晴《は》れ|渡《わた》りつつ
|大栄山《おほさかやま》|尾《を》の|上《へ》に|澄《す》める|月光《つきかげ》も
|今日《けふ》は|一入《ひとしほ》|清《すが》しかりけり
|野辺《のべ》を|吹《ふ》く|風《かぜ》の|響《ひびき》も|何《なん》となく
|今日《けふ》の|喜《よろこ》び|歌《うた》ふがに|聞《きこ》ゆ
|大栄山《おほさかやま》|尾根《をね》にかがよふ|月影《つきかげ》も
|木田《きた》の|流《なが》れに|浮《うか》びて|祝《いは》ふ
|小波《さざなみ》も|立《た》たぬ|夕《ゆふ》べの|川《かは》の|面《も》に
|月影《つきかげ》|円《まる》く|澄《す》みきらひたり
|吾《わが》|心《こころ》|頓《とみ》に|勇《いさ》みて|天地《あめつち》に
|生《いき》の|生命《いのち》の|尊《たふと》さ|思《おも》ふ
|吾《わが》|父《ちち》の|心《こころ》|和《なご》めて|妻《つま》の|為《ため》に
イドムの|国《くに》を|蘇《よみがへ》らせむ
|斯《か》くならばアヅミの|王《きみ》は|吾《わが》|父《ちち》よ
エールスも|亦《また》|父《ちち》なりにけり
イドム|国《こく》サールの|国《くに》と|手《て》を|引《ひ》きて
|伊佐子《いさご》の|島《しま》に|永《なが》く|栄《さか》えむ』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|何事《なにごと》も|皆《みな》|打《う》ち|忘《わす》れ|今日《けふ》の|日《ひ》の
|吾《われ》は|嫁《とつぎ》を|楽《たの》しむものなり
|時《とき》まちて|父《ちち》の|御国《みくに》を|返《かへ》さむと
|思《おも》ふは|吾《わが》|身《み》の|願《ねが》ひなりけり
|情《なさけ》あるエームス|王《わう》の|妃《ひ》となりて
|親《おや》に|孝養《かうやう》|尽《つく》さむと|思《おも》ふ
|木田山城《きたやまじやう》|照《て》らす|夕《ゆふ》べの|月《つき》|見《み》れば
|笑《ゑ》ませ|給《たま》へり|王《きみ》の|面《おも》に|似《に》て』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『|国津神《くにつかみ》|山《やま》の|如《ごと》くに|集《あつ》まりて
|今日《けふ》の|吉日《よきひ》を|歌《うた》ふ|声《こゑ》すも
|幾万《いくまん》の|国津神等《くにつかみら》の|鬨《とき》の|声《こゑ》
|天《あめ》と|地《つち》とに|響《ひび》き|渡《わた》れり』
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『|夕月《ゆふづき》の|光《ひかり》|冴《さ》えにつ|若王《わかぎみ》の
|今日《けふ》の|喜《よろこ》び|祝《いは》ふがに|見《み》ゆ
|吾《われ》も|亦《また》これの|蓆《むしろ》に|列《つら》ねられ
|嬉《うれ》しさあまりて|言《こと》の|葉《は》もなし
|山《やま》も|川《かは》も|歓《ゑら》ぎ|喜《よろこ》ぶ|状況《さま》|見《み》えて
|五月《さつき》の|雨《あめ》は|晴《は》れ|上《あが》りたり』
センリウは|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|雄々《をを》しき|心《こころ》の|幸《さち》はひに
|安《やす》けく|異邦《いはう》の|月《つき》を|見《み》しかな
|前《さき》の|日《ひ》にイドムの|城《しろ》に|眺《なが》めてし
|月《つき》にも|増《ま》して|清《すが》しかりけり
|吾《わが》|姿《すがた》|面《おも》ざしまでも|姫君《ひめぎみ》に
|似《に》たりと|人《ひと》の|言《い》ふぞあやしき』
アララギは|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》も|汝《なれ》も|吾乳《わがちち》|呑《の》み|足《た》りて
はぐくまれたる|為《ため》なりにけり
|賤女《はしため》といへども|汝《なれ》は|乳兄弟《ちきやうだい》
|姫《ひめ》にまがひて|美《うるは》しきかも』
いよいよチンリウ|姫《ひめ》は|結婚《けつこん》の|儀式《ぎしき》を|済《す》ませ、|是《これ》より|王《わう》の|寝室《しんしつ》に|進《すす》み|入《い》る|事《こと》となりけるが、|乳母《うば》のアララギは|勝《すぐ》れざる|面持《おももち》にて、|窃《ひそ》かにチンリウ|姫《ひめ》を|一間《ひとま》に|招《お》ぎ|語《かた》るらむ。
『|姫様《ひめさま》、|大変《たいへん》な|私《わたし》には|心配事《しんぱいごと》が|出来《でき》ました。|如何《いかが》|致《いた》しませうかと|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《を》りますが、どうか|御許《おゆる》し|下《くだ》さいませ。|乳母《うば》が|一生《いつしやう》の|過《あやま》ちですから』
と、チンリウ|姫《ひめ》は|意外《いぐわい》の|乳母《うば》の|言葉《ことば》に|胸《むね》を|轟《とどろ》かせながら、
『|今《いま》となり|怪《あや》しき|言葉《ことば》|聞《き》くものか
|汝《なれ》の|面《おもて》に|愁《うれ》ひ|漂《ただよ》ふ』
|乳母《うば》のアララギは|一入《ひとしほ》|声《こゑ》を|潜《ひそ》めて、
『|姫様《ひめさま》、これが|心配《しんぱい》せずに|居《を》られませうか。|滝津瀬《たきつせ》、|山風《やまかぜ》の|側女《そばめ》に|承《うけたまは》りますれば、|今《いま》まで|王様《わうさま》は|幾度《いくたび》も|美《うるは》しき|妃《きさき》をお|迎《むか》へになつたさうでありますが、|何《いづ》れも|一晩《ひとばん》きりでお|生命《いのち》がなくなるさうで、|其《そ》の|噂《うはさ》が|遠近《をちこち》に|伝《つた》はり、それゆゑに|此《こ》の|国《くに》では|王様《わうさま》の|妃《きさき》になるものはないさうで|御座《ござ》います。|如何《いか》に|高貴《かうき》な|身《み》になつても|生命《いのち》がなくてはなりませぬからなあー。かくなる|上《うへ》は|逃《に》げ|出《いだ》さうとしても|蟻《あり》の|這《は》ひ|出《で》る|隙間《すきま》もありませぬから』
と、|息《いき》はづませて|耳打《みみう》ちする。
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|恐《おそ》ろしき|事《こと》を|聞《き》くかもアララギの
|言葉《ことば》も|真言《まこと》と|思《おも》へば|恐《おそ》ろし
|如何《いか》にして|此《こ》の|場《ば》を|逃《のが》れ|永遠《とこしへ》の
|吾《われ》は|生命《いのち》をながらへむかな
アララギによき|智慧《ちゑ》あればかしてたべ
|吾《わが》|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》は|重《おも》し』
アララギは|一入《ひとしほ》|声《こゑ》を|潜《ひそ》めて|言《い》ふ。
『|姫様《ひめさま》、この|王様《わうさま》は|熊《くま》と|虎《とら》との|中《なか》から|出来《でき》た|猛獣《まうじう》の|化物《ばけもの》で、あんな|優《やさ》しい|姿《すがた》はして|居《ゐ》られますが、|夜分《やぶん》になつて|抱《だ》き|付《つ》かれますと、|余《あま》りに|腕《うで》の|力《ちから》が|強《つよ》いため、か|弱《よわ》き|姫君様《ひめぎみさま》は|一息《ひといき》に|締《し》め|殺《ころ》されて、なくなるとの|事《こと》、|私《わたし》も|廿年間《にじふねんかん》お|仕《つか》へしまして、|今《いま》|此《こ》の|所《ところ》で|大切《たいせつ》な|姫君様《ひめぎみさま》を|殺《ころ》されたら|申訳《まうしわけ》が|立《た》たず、いろいろ|考《かんが》へた|結果《けつくわ》、|一《ひと》つのよき|智慧《ちゑ》を|搾《しぼ》り|出《だ》しました。つまり|吾《わが》|娘《むすめ》センリウは|乳兄弟《ちきやうだい》の|間柄《あひだがら》|故《ゆゑ》、|姫様《ひめさま》と|面貌《おもざし》、|姿《すがた》|寸分《すんぶん》|違《たが》はず、|菖蒲《あやめ》と|燕子花《かきつばた》との|区別《くべつ》が|分《わか》らぬと|申《まう》しますから、|是《これ》を|幸《さいは》ひ|姫様《ひめさま》の|御装束《ごしやうぞく》を|着替《きか》へさせ、|姫様《ひめさま》はセンリウの|着物《きもの》を|召《め》して|暗《くら》がりに|隠《かく》れ、|今晩《こんばん》|一夜《いちや》だけ|様子《やうす》を|考《かんが》へる|事《こと》に|致《いた》しませう。センリウは|賤《いや》しき|私《わたし》の|娘《むすめ》で|御座《ござ》いますから、|貴賤《きせん》の|差《さ》は|天地《てんち》に|比《くら》ぶべきもので|御座《ござ》ります。それで|今夜《こんや》の|替玉《かへだま》を|御許《おゆる》し|下《くだ》さらば、|屹度《きつと》|姫様《ひめさま》の|危難《きなん》をお|救《すく》ひ|申《まう》し|上《あ》げます』
と、|言葉巧《ことばたく》みに|説《と》き|立《た》つれば、チンリウ|姫《ひめ》は|乳母《うば》アララギの|黒《くろ》き|心《こころ》を|少《すこ》しも|覚《さと》らず、|盛装《せいさう》を|脱《ぬ》ぎ|捨《す》てセンリウ|姫《ひめ》に|着替《きか》へさせ、|自分《じぶん》はセンリウ|女《ぢよ》の|着物《きもの》を|着《ちやく》し|一間《ひとま》に|潜《ひそ》み|待《ま》ち|居《ゐ》たりける。|然《しか》るに|其《そ》の|夜《よ》は|余《あま》り|変《かは》りたる|様《さま》もなく、センリウ|女《ぢよ》は|欣然《きんぜん》として|朝庭《あさには》を|逍遥《せうえう》して|居《ゐ》る。チンリウ|姫《ひめ》は|乳母《うば》の|袖《そで》を|引《ひ》きて|小声《こごゑ》になりながら、
『|乳母《うば》、|夜前《やぜん》は|何《なに》も|事《こと》がなかつたさうだが、|王様《わうさま》は|一体《いつたい》|何《なん》と|思召《おぼしめ》して|御座《ござ》らうぞ。|替玉《かへだま》を|使《つか》はれて|御心《みこころ》が|付《つ》かないのであろうか』
と、|稍《やや》|心配気《しんばいげ》に|言《い》ひければ、|乳母《うば》アララギはチンリウ|姫《ひめ》の|耳《みみ》に|口《くち》を|寄《よ》せ、
『|此《こ》の|祭壇《さいだん》に|飾《かざ》りある|水晶《すゐしやう》の|花瓶《くわびん》を|庭《には》に|持出《もちだ》し、|小石《こいし》を|持《も》ちて|静《しづ》かに|打《う》つ|時《とき》は、|忽《たちま》ち|王様《わうさま》の|歓心《くわんしん》を|得《え》て、|必《かなら》ず|姫様《ひめさま》を|愛《あい》し|給《たま》ふと|言《い》ふ|事《こと》で|御座《ござ》ります。|王様《わうさま》は|吾《わが》|娘《むすめ》センリウを|真正《まこと》の|姫様《ひめさま》と|思《おも》ふて|居《ゐ》られますさうですから、|夜前《やぜん》の|替玉《かへだま》を|恐《おそ》れ|多《おほ》くて|申《まう》されませぬから、|此《こ》の|花瓶《くわびん》を|庭《には》に|持《も》ち|出《だ》し、|少《すこ》しくお|打《う》ち|下《くだ》さいませ。|清《きよ》き|音《ね》が|出《で》ますから』
と、|最《い》と|懇切《ねんごろ》に|説《と》き|諭《さと》せば、おぼこ|娘《むすめ》のチンリウ|姫《ひめ》は|深《ふか》き|計略《けいりやく》のあるとは|知《し》らず、|水晶《すゐしやう》の|花瓶《くわびん》を|庭《には》に|持《も》ち|出《だ》し|打《う》ち|給《たま》ひければ、|水晶《すゐしやう》の|花瓶《くわびん》はポカリと|二《ふた》つに|破《やぶ》れたり。|之《これ》を|見《み》るより|乳母《うば》アララギは、チンリウ|姫《ひめ》の|髻《たぶさ》をグツと|握《にぎ》りて|引摺《ひきず》り|廻《まは》しながら、
『|汝《なんぢ》は|姫様《ひめさま》の|侍女《じぢよ》でありながら、お|家《いへ》の|重宝《たから》を|石《いし》をもつて|叩《たた》き|破《やぶ》るとは|言語道断《ごんごだうだん》、|吾子《わがこ》であつて|吾子《わがこ》でない。|皆様《みなさま》、|大罪人《だいざいにん》が|現《あら》はれました』
と、|大音声《だいおんじやう》に|呼《よ》ばはるや、|数多《あまた》の|司等《つかさたち》が|集《あつ》まり|来《きた》り、|十重二十重《とへはたへ》に|取巻《とりま》き、|狼藉者《らうぜきもの》を|逃《のが》すなと|手毎《てんで》に|得物《えもの》をもつて|攻《せ》め|来《きた》る。
チンリウ|姫《ひめ》は|事《こと》の|意外《いぐわい》に|驚《おどろ》き、|乳母《うば》アララギに|向《むか》ひ、
『|汝《なんぢ》の|娘《むすめ》にあらず』
と|呼《よ》ばはりければ、アララギは|発覚《はつかく》しては|大事《おほごと》と、|姫《ひめ》の|口《くち》に|真綿《まわた》を|含《ふく》ませ|猿轡《さるぐつわ》をかませ、|頭部《とうぶ》|面部《めんぶ》を|打《う》ち|据《す》ゑければ、|血《ち》にじみ|上《あが》り|似《に》ても|似《に》つかぬ|醜悪《しうあく》なる|面《おも》となりければ、|茲《ここ》に|憐《あは》れや|大罪人《だいざいにん》としてチンリウ|姫《ひめ》は|遠島《ゑんたう》の|刑《けい》に|処《しよ》せられけり。
(昭和九・八・一四 旧七・五 於水明閣 森良仁謹録)
第一五章 |厚顔無恥《こうがんむち》〔二〇四二〕
|大奥《おほおく》に|於《お》けるエームス|王《わう》とチンリウ|姫《ひめ》の|結婚式《けつこんしき》の|余《あま》り|荘厳《さうごん》なるに、|乳母《うば》のアララギは|俄《にはか》にねたましく|野心《やしん》むらむらと|起《おこ》り、|如何《いか》にもしてチンリウ|姫《ひめ》のセンリウに|酷似《こくじ》せるを|幸《さいは》ひ、|悪計《わるだくみ》を|捻《ひね》り|出《だ》し、うまうま|姫《ひめ》を|罠《わな》に|陥《おとしい》れ、これを|遠島《ゑんたう》の|刑《けい》に|処《しよ》せしめしは、|憎《にく》みても|余《あま》りある|奸佞邪智《かんねいじやち》の|曲者《くせもの》なりける。エームス|王《わう》は|姫《ひめ》の|替玉《かへだま》とは|知《し》らず、|贋物《にせもの》をつかまされ、チンリウ|姫《ひめ》と|深《ふか》く|思《おも》ひ|込《こ》み、|昼夜《ちうや》|心《こころ》を|用《もち》ひて|寵愛《ちようあい》してゐる。アララギは、しすましたりと|王妃《わうひ》となりしわが|娘《こ》と、|窃《ひそ》かに|顔《かほ》を|見合《みあ》はせ、|舌《した》を|吐《は》き|出《だ》し|微笑《ほほゑ》んでゐる。いよいよ|結婚式《けつこんしき》は|済《す》み、|十日《とをか》を|経《へ》たる|月明《げつめい》の|夜《よ》、|殿内《でんない》に|於《おい》て|重臣《ぢうしん》を|集《あつ》め、|祝賀会《しゆくがくわい》を|開《ひら》かるる|事《こと》となりぬ。
エームス|王《わう》|始《はじ》め|数多《あまた》の|重臣《ぢうしん》は、アララギの|公平《こうへい》なる|処置《しよち》に|感激《かんげき》し、|各《おのおの》|口《くち》を|極《きは》めて|讃辞《さんじ》を|呈《てい》し、エームス|王《わう》も|亦《また》、アララギの|公平《こうへい》なる|処置《しよち》に|感嘆《かんたん》の|余《あま》り、|一切万事《いつさいばんじ》を|委託《ゐたく》して|殿内《でんない》の|総《すべ》ての|事務《じむ》を|処理《しより》せしめたれば、アララギの|声望《せいばう》は|旭日昇天《きよくじつしようてん》の|如《ごと》く、|彼《かれ》が|意《い》に|少《すこ》しにても|逆《さか》らふ|者《もの》あらば、|悉《ことごと》く|手打《てう》ちにされ、|投獄《とうごく》され、|或《あるひ》は|遠島《ゑんたう》の|刑《けい》に|処《しよ》せらるるのおそれありければ、|何《いづ》れも|恐《おそ》れを|為《な》してアララギの|事《こと》を|口《くち》にする|者《もの》なかりける。
|祝賀《しゆくが》の|宴《えん》は|開《ひら》かれた。エームス|王《わう》は|立《た》つて|歌《うた》ふ。
『|公《おほやけ》の|心《こころ》を|持《も》ちて|私《わたくし》を
|捨《す》てしアララギいそしかりける
|最愛《さいあい》の|吾子《わがこ》の|罪《つみ》を|包《つつ》まずに
|島《しま》に|流《なが》せと|宣《の》りし|素直《すなほ》さ
アララギの|娘《むすめ》の|事《こと》を|思《おも》ひ|出《い》で
われは|憐《あは》れを|催《もよほ》しにけり』
アララギは|立《た》つて|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|御言葉《みことば》|畏《かしこ》しさりながら
|国《くに》の|掟《おきて》を|乱《みだ》し|給《たま》ふな
|吾子《わがこ》とはいへど|天地《てんち》の|罪人《つみびと》よ
|依怙《えこ》なき|王《きみ》は|許《ゆる》し|給《たま》ふな
|吾《わが》|娘《むすめ》|国《くに》の|宝《たから》を|打《う》ち|破《やぶ》り
|如何《いか》で|其《そ》の|罪《つみ》|逃《のが》るべしやは
|吾《わが》|王《きみ》はよし|許《ゆる》すとも|国津神《くにつかみ》は
この|過《あやま》ちを|許《ゆる》すべきかは
わが|娘《むすめ》|許《ゆる》さるる|事《こと》あるならば
われは|代《かは》りて|罪《つみ》に|服《ふく》せむ』
|王妃《わうひ》は|歌《うた》ふ。
『|二十年《はたとせ》をわれに|仕《つか》へしアララギの
|公心《おほやけごころ》を|神《かみ》は|知《し》るらむ
|二十年《はたとせ》の|長《なが》き|月日《つきひ》を|育《はぐく》みし
|吾子《わがこ》の|罪《つみ》をさばく|雄々《をを》しさ
センリウの|罪《つみ》|重《おも》ければ|何時《いつ》までも
かくれの|島《しま》に|閉《と》ぢこめ|置《お》かむ
|万死《ばんし》にも|値《あたひ》するなる|大罪《だいざい》を
|許《ゆる》さむ|掟《おきて》|我《わが》|国《くに》に|無《な》し
われは|今《いま》|聖《ひじり》の|君《きみ》に|伊添《いそ》ひつつ
サールの|闇《やみ》を|照《て》らさむと|思《おも》ふ
アララギよ|汝《なれ》が|清《きよ》けき|心《こころ》もて
わが|政治《まつりごと》|補《たす》けまつれよ
|男《を》の|子《こ》にも|勝《まさ》りて|雄々《をを》しきアララギは
サールの|国《くに》の|力《ちから》なるかも』
アララギは|歌《うた》ふ。
『ありがたしチンリウ|姫《ひめ》の|御宣言《みことのり》
たしに|守《まも》りて|違《たが》はざるべし
|今日《けふ》よりは|百《もも》の|司《つかさ》の|上《うへ》に|立《た》ち
|王《きみ》の|政治《せいぢ》を|補《おぎな》ひまつらむ
|吾《わが》|王《きみ》よ|罪《つみ》を|造《つく》りしセンリウに
|必《かなら》ず|心《こころ》|配《くば》らせ|給《たま》ふな
|血《ち》を|別《わ》けし|吾子《わがこ》なりとて|許《ゆる》しなば
サールの|国《くに》の|掟《おきて》は|乱《みだ》れむ
|王《きみ》|思《おも》ひ|御国《みくに》を|思《おも》ふ|誠心《まごころ》に
|歎《なげ》きの|涙《なみだ》われはしぼらじ』
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『けなげなるアララギの|君《きみ》ましまして
|王《きみ》の|御心《みこころ》|照《て》らし|給《たま》へり
チンリウ|姫《ひめ》|堅《かた》き|心《こころ》を|和《なご》めつつ
|今日《けふ》の|歓《よろこ》び|招《まね》きし|君《きみ》はも
チンリウ|姫《ひめ》の|崇高《けだか》き|御姿《みすがた》|朝夕《あさゆふ》に
|拝《をが》みまつりて|国《くに》の|秀《ほ》をおもふ
|若王《わかぎみ》はいと|健《すこや》かにおはしまして
|御機嫌《ごきげん》よきが|嬉《うれ》しかりけり
さりながらかくれの|島《しま》にやらはれし
センリウ|姫《ひめ》は|悲《かな》しかりけり
|大君《おほぎみ》の|清《きよ》き|心《こころ》に|宣《の》り|直《なほ》し
|許《ゆる》させ|給《たま》へセンリウ|姫《ひめ》を』
アララギは、むつくと|立《た》つて|歌《うた》ふ。
『わが|王《きみ》よ|必《かなら》ず|許《ゆる》し|給《たま》ふまじ
|国《くに》の|掟《おきて》は|厳《おごそ》かなりせば
|朝月《あさづき》の|司《つかさ》の|言葉《ことば》|聞《き》くにつけ
われは|御国《みくに》の|為《ため》に|悲《かな》しむ』
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『|過《あやま》ちて|国《くに》の|宝《たから》をこはしたる
センリウ|姫《ひめ》は|悲《かな》しき|人《ひと》かも
|国《くに》の|掟《おきて》|厳《おごそ》かなりとはいひなながら
|無心《むしん》の|過《あやま》ち|許《ゆる》すべきかは
|知《し》らず|知《し》らず|過《あやま》ちし|罪《つみ》をきためなば
かへりて|国《くに》は|治《をさ》まらざるべし
|夕月《ゆふづき》は|生命《いのち》をかけて|吾《わが》|王《きみ》に
センリウ|姫《ひめ》の|許《ゆる》しを|願《ねが》ふ』
|王妃《わうひ》は|歌《うた》ふ。
『|朝月《あさづき》や|夕月《ゆふづき》|二人《ふたり》の|言《こと》の|葉《は》は
|宜《うべ》よと|思《おも》へど|永久《とは》に|許《ゆる》さじ
|畏《おそ》れ|多《おほ》くも|国《くに》の|宝《たから》を|壊《こは》したる
|罪《つみ》に|勝《まさ》れる|罪《つみ》はなからむ
いや|古《ふる》きサールの|国《くに》の|魂《たましひ》を
|打《う》ち|砕《くだ》きたる|罪《つみ》は|重《おも》けれ
|祖々《おやおや》の|世《よ》より|伝《つた》はる|水晶《すゐしやう》の
|花瓶《くわびん》を|割《わ》りし|憎《にく》き|罪人《つみびと》
|手《て》に|触《ふ》るるさへも|畏《かしこ》き|御宝《おんたから》
|打《う》ち|砕《くだ》きたるセンリウ|憎《にく》しも
|吾《わが》|生命《いのち》あらむ|限《かぎ》りは|許《ゆる》すまじ
|国《くに》の|宝《たから》を|砕《くだ》きたる|罪《つみ》』
アララギは|歌《うた》ふ。
『|姫君《ひめぎみ》の|実《げ》にも|明《あか》るき|御宣言《みことのり》
サールの|国《くに》の|闇《やみ》を|照《て》らさむ
|夜《よる》の|鶴《つる》|焼野《やけの》の|雉《きぎす》わが|御子《みこ》を
|思《おも》はぬものは|世《よ》にあらじかし
さりながら|如何《いか》に|吾子《わがこ》といひつれど
この|罪《つみ》ばかりは|許《ゆる》す|術《すべ》なし』
|滝津瀬《たきつせ》は|歌《うた》ふ。
『アララギの|君《きみ》の|雄々《をを》しき|志《こころざし》
|聞《き》くにつけても|涙《なみだ》こぼるる
かくの|如《ごと》|公平無私《こうへいむし》のアララギの
たたす|御国《みくに》は|安《やす》けかるべし
たをやめの|女《をんな》ながらも|鬼《おに》まさり
|雄々《をを》しき|君《きみ》は|国《くに》の|光《ひか》りよ
|若王《わかぎみ》の|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なの|政治《まつりごと》
|補《たす》けて|君《きみ》は|永久《とは》にましませ
|常闇《とこやみ》のサールの|国《くに》も|今日《けふ》よりは
|天津日《あまつひ》の|如《ごと》|輝《かがや》き|渡《わた》らむ
|姫君《ひめぎみ》はイドムの|王《わう》の|愛娘《まなむすめ》
さかしく|雄々《をを》しく|世《よ》に|臨《のぞ》みますも
やがて|今《いま》イドム、サールの|両国《りやうごく》は
|至治太平《しちたいへい》の|御代《みよ》と|栄《さか》えむ
|木田川《きたがは》の|広《ひろ》き|流《なが》れも|今日《けふ》よりは
|澄《す》みきり|渡《わた》らむ|姫《ひめ》の|光《ひか》りに
|大栄《おほさか》の|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》ゆ|吹《ふ》き|下《おろ》す
|風《かぜ》|暖《あたた》かくなりにけらしな
|虎《とら》|熊《くま》や|獅子《しし》|狼《おほかみ》のやからまで
|王《きみ》の|恵《めぐ》みに|伊寄《いよ》り|集《つど》ふも
|有難《ありがた》き|御代《みよ》となりけりアララギの
|司《つかさ》のいますサールの|国原《くにはら》
|時鳥《ほととぎす》|雨《あめ》になきたる|国原《くにはら》も
|今《いま》は|隈《くま》なく|晴《は》れて|清《すが》しき
|大栄山《おほさかやま》|樹海《じゆかい》を|渡《わた》る|山風《やまかぜ》は
これの|館《やかた》に|涼《すず》しく|渡《わた》れり』
|山風《やまかぜ》は|歌《うた》ふ。
『|昔《むかし》より|例《ためし》も|知《し》らぬこの|国《くに》の
|栄《さかえ》を|見《み》たるわれぞ|嬉《うれ》しき
|野《の》も|山《やま》も|緑《みどり》の|衣《ころも》|着飾《きかざ》りて
サールの|国《くに》を|寿《ことほ》ぎ|渡《わた》らふ
さ|緑《みどり》の|樹海《じゆかい》を|渡《わた》る|山風《やまかぜ》の
|涼《すず》しき|心《こころ》|王《きみ》は|持《も》たせり』
|朝月《あさづき》は|再《ふたた》び|歌《うた》ふ。
『|波《なみ》の|奥《おく》かくれの|島《しま》に|送《おく》りてし
|姫《ひめ》の|心《こころ》を|思《おも》へば|悲《かな》し
|畏《おそ》れながら|誠《まこと》の|姫《ひめ》に|非《あら》ずやと
わが|魂《たましひ》はささやきて|居《を》り』
チンリウ|姫《ひめ》は|目《め》に|角《かど》を|立《た》てながら、|言葉《ことば》せはしく|歌《うた》ふ。
『|朝月《あさづき》のゐやなき|言葉《ことば》|聞《き》くにつけ
わが|魂《たましひ》は|打《う》ちふるふなり
|朝月《あさづき》のゐやなき|言葉《ことば》をきためませよ
|吾《わが》|王《きみ》われを|愛《めぐ》しと|思《おぽ》さば
|似《に》たりとはいへどもわれとセンリウは
|貴賤尊卑《きせんそんぴ》の|別《べつ》あるものを』
エームス|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『チンリウ|姫《ひめ》の|言葉《ことば》は|宜《うべ》よ|朝月《あさづき》の
ゐやなき|言葉《ことば》われはとがめむ
|朝月《あさづき》のかげは|真白《ましろ》に|薄《うす》れつつ
やがて|消《き》えなむわが|言《こと》の|葉《は》に
|朝月《あさづき》の|重《おも》き|罪《つみ》をば|負《お》はせつつ
|人《ひと》なき|島《しま》に|遠《とほ》く|流《なが》せよ』
ここに|王命《わうめい》もだし|難《がた》く、|朝月《あさづき》は|王《わう》と|王妃《わうひ》の|怒《いか》りにふれ、|忽《たちま》ち|宴会《えんくわい》の|席上《せきじやう》より|全身《ぜんしん》を|荒繩《あらなは》に|縛《しば》られながら、|大罪人《だいざいにん》として|遠島《ゑんたう》の|刑《けい》に|処《しよ》せられしこそ|是非《ぜひ》なけれ。
あはれ、|朝月《あさづき》はチンリウ|姫《ひめ》を|疑《うたが》ひし|廉《かど》により|即座《そくざ》に|重《おも》き|刑《けい》に|処《しよ》せられ、|衆人環視《しうじんくわんし》の|中《なか》を|引立《ひつた》てられ、|城外《じやうぐわい》におびき|出《だ》され、|遂《つひ》には|島流《しまなが》しの|憂目《うきめ》を|見《み》るに|到《いた》れり。
エームス|王《わう》、チンリウ、アララギはその|後姿《うしろすがた》を|打《う》ち|見《み》やりながら、|愉快《ゆくわい》げに|微笑《ほほゑ》みつつアララギは|歌《うた》ふ。
『|明《あき》らけき|王《きみ》のさばきに|朝月《あさづき》は
|返《かへ》す|言葉《ことば》もなかりけるかな
|姫君《ひめぎみ》を|陥《おとしい》れむと|朝月《あさづき》は
|言葉《ことば》かまへて|乱《みだ》さむとせし
|天地《あめつち》の|神《かみ》のきためは|眼《ま》のあたり
|朝月《あさづき》|今《いま》はかげだにもなし
|我《わが》|国《くに》の|掟《おきて》|厳《きび》しくなさざれば
やがて|乱《みだ》れむ|上《うへ》と|下《した》とに
|吾《わが》|王《きみ》の|正《ただ》しき|判決《さばき》|見《み》るにつけ
|末《すゑ》|頼《たの》もしく|思《おも》はるるかな』
チンリウ|姫《ひめ》は、
『|心地《ここち》よき|事《こと》を|見《み》るかなゐやなくも
われをなみせし|罪《つみ》|酬《むく》い|来《き》て
わが|前《まへ》に|疑《うたが》ひあれば|何事《なにごと》も
|言挙《ことあ》げせよや|直《ただ》に|判決《さば》かむ』
エームス|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|木田山城《きたやまじやう》の|内外《うちと》を|乱《みだ》し|破《やぶ》らむと
|謀《たく》みし|曲《まが》は|看破《みやぶ》られたり
|朝月《あさづき》は|表面《うはべ》に|誠《まこと》を|装《よそほ》ひつ
|爪《つめ》をかくせし|虎《とら》なりにけり
|曲神《まがかみ》はわが|館《やかた》より|追《お》ひ|出《だ》され
|荒浪《あらなみ》の|上《へ》にただよふなるらむ
チンリウ|姫《ひめ》の|身《み》の|上《うへ》につき|疑《うたが》ひの
|言葉《ことば》|出《いだ》さば|追《お》ひやらふべし
かくの|如《ごと》|正《ただ》しき|姫《ひめ》を|贋物《にせもの》と
|疑《うたが》ふやからの|心《こころ》は|曇《くも》れる』
|滝津瀬《たきつせ》は|歌《うた》ふ。
『われは|今《いま》|正《ただ》しき|判決《さばき》を|目《ま》のあたり
|眺《なが》めて|心《こころ》|戦《をのの》きしはや
|日月《じつげつ》は|空《そら》に|照《て》れども|中空《なかぞら》に
|黒雲《くろくも》|起《おこ》りて|地上《ちじやう》にとどかず
|黒雲《くろくも》を|払《はら》ひ|給《たま》ひしわが|王《きみ》の
|清《きよ》き|判決《さばき》は|尊《たふと》かりけり
|御姿《おんすがた》|崇高《けだか》くいます|姫君《ひめぎみ》を
|疑《うたが》ふ|司《つかさ》の|心《こころ》あやしも』
|山風《やまかぜ》は|歌《うた》ふ。
『かくの|如《ごと》|明《あか》るき|姫《ひめ》に|疑《うたがひ》を
かくる|心《こころ》は|曲津《まがつ》なりけり
わが|王《きみ》と|姫《ひめ》の|命《みこと》に|服従《まつろ》ひて
|身《み》も|魂《たましひ》も|千代《ちよ》に|仕《つか》へむ
アララギの|君《きみ》の|明《あか》るき|魂《たましひ》を
われは|力《ちから》と|謹《つつし》み|仕《つか》へむ』
これより|木田山城内《きたやまじやうない》はアララギが|権威《けんゐ》を|振《ふる》ひ、|奸佞邪智《かんねいじやち》の|輩《ともがら》を|重用《ぢゆうよう》し、|正義《せいぎ》の|士《し》は|悉《ことごと》く|難癖《なんくせ》をつけ、|或《あるひ》は|殺《ころ》し、|或《あるひ》は|流《なが》し、|或《あるひ》は|牢獄《らうごく》に|投《とう》じければ、|悪人《あくにん》|益々《ますます》|跋扈《ばつこ》して、サールの|国内《こくない》|各所《かくしよ》に|暴動《ぼうどう》|勃発《ぼつぱつ》し、|怨嗟《ゑんさ》の|声《こゑ》は|山野《さんや》に|満《み》ち、|国家《こくか》の|危《あやふ》き|情勢《じやうせい》を|馴致《じゆんち》したるぞ|是非《ぜひ》なけれ。
ここにチンリウ|姫《ひめ》は、|乳母《うば》アララギの|奸計《かんけい》にかかり、|吾子《わがこ》のセンリウと|強《し》ひられ、|且《か》つ|国宝《こくはう》|破壊《はくわい》の|罪《つみ》を|負《お》はされ、かくれ|島《じま》に|流《なが》されけるが、この|島《しま》は|夕《ゆふ》さり|来《きた》れば|荒浪《あらなみ》の|為《ため》に|全島《ぜんたう》|没《ぼつ》し、これにある|人畜《じんちく》は|溺死《できし》するといふ|魔《ま》の|島《しま》なりけり。アララギは|奸計《かんけい》の|発覚《はつかく》をおそれ、|特《とく》にこの|島《しま》に|主人《しゆじん》のチンリウ|姫《ひめ》を|送《おく》らせたるにぞありける。|又《また》|朝月《あさづき》は|王《わう》の|怒《いか》りにふれて、かくれ|島《じま》より|約《やく》|五十哩《ごじふまいる》ばかり|沖《おき》にある|荒島《あらしま》といふ|岩石《がんせき》のみにて|固《かた》まりし|一孤島《いちこたう》に|捨《す》てられ、|歎《なげ》きの|月日《つきひ》を|送《おく》りつつ|魚介《ぎよかい》を|餌食《ゑじき》として、|天《てん》の|時《とき》を|待《ま》ちゐたりける。
アララギの|悪《あ》しき|謀計《たくみ》に|乗《の》せられて
チンリウ|姫《ひめ》は|流《なが》されにけり
|朝月《あさづき》も|亦《また》アララギの|計略《けいりやく》に
|荒島《あらしま》さして|流《なが》されにけり
|悪神《あくがみ》は|一度《いちど》は|花《はな》|咲《さ》き|栄《さか》ゆとも
|時《とき》の|到《いた》ればもろく|亡《ほろ》びむ。
(昭和九・八・一四 旧七・五 於水明閣 林弥生謹録)
第四篇 |猛獣思想《まうじうしさう》
第一六章 |亀神《きしん》の|救《すく》ひ〔二〇四三〕
|山川《やまかは》は|清《きよ》く|爽《さや》けく|果実《くだもの》は  |豊《ゆた》かに|実《みの》る|伊佐子《いさご》の|島《しま》の|真秀良場《まほらば》や
|天国楽土《てんごくらくど》と|聞《きこ》えたる  イドムの|国《くに》に|名《な》も|高《たか》き
イドムの|城《しろ》の|御主《おんあるじ》  アヅミ、ムラジが|二人《ふたり》が|仲《なか》に
|昇《のぼ》る|朝日《あさひ》と|諸共《もろとも》に  |初声《うぶごゑ》|挙《あ》げしチンリウ|姫《ひめ》は
こよなき|宝《たから》と|両親《りやうしん》が  |日夜《にちや》|心《こころ》をつくしつつ
|育《はぐく》みここに|二十年《にじふねん》  |花《はな》の|盛《さか》りの|春《はる》の|宵《よひ》
サールの|国《くに》のエールスが  |暴虐無道《ぼうぎやくぶだう》の|魔軍《まいくさ》に
|攻《せ》め|破《やぶ》られて|父母《ちちはは》は  |遠《とほ》くイドムの|城《しろ》を|捨《す》て
|月光山《つきみつやま》に|逃《のが》れまし  |一陽来復《いちやうらいふく》|時《とき》|待《ま》ち|給《たま》ふ。
『かなしき|吾《われ》は|如何《いか》にして  かかる|憂目《うきめ》に|会《あ》ふものか
|天地《てんち》の|神《かみ》のいますならば  |吾等《われら》が|今日《けふ》の|悲《かな》しみを
|救《すく》はせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》  |偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る
|春《はる》の|夜《よ》の|暖《あたた》かき|夢《ゆめ》を|破《やぶ》られて  |敵《てき》に|捕《とら》はれ|繩目《なはめ》の|恥《はぢ》を
|主従《しうじう》|三人《みたり》|遇《あ》ひながら  さも|荒々《あらあら》しき|駿馬《はやこま》の
|背《せな》に|運《はこ》ばれはるばると  |恋《こひ》しき|故国《ここく》を|後《あと》にして
|大栄山《おほさかやま》の|嶮《けん》を|越《こ》え  |前《まへ》も|後《うしろ》も|魔軍《まいくさ》に
|囲《かこ》まれサールの|国中《くになか》の  |木田山城《きたやまじやう》の|牢獄《らうごく》に
|歎《なげ》きの|月日《つきひ》を|送《おく》る|折《をり》  |仇《かたき》の|太子《たいし》の|恋慕《れんぼ》より
|又《また》も|一《ひと》きは|悩《なや》みしが  |賢《さか》しき|乳母《うば》の|忠言《ちうげん》を
|心《こころ》ならずも|諾《うべな》ひて  |木田山城《きたやまじやう》の|奥《おく》の|間《ま》に
エームス|王《わう》と|結婚《けつこん》の  |儀式《ぎしき》を|挙《あ》ぐる|間《ま》もあらず
|乳母《うば》アララギの|奸計《かんけい》に  うまうまのせられ|忽《たちま》ちに
|大罪人《だいざいにん》にと|強《し》ひられて  |口《くち》には|嵌《は》ます|猿轡《さるぐつわ》
|撃《ぶ》ち|打擲《ちやうちやく》のその|揚句《あげく》  |血潮《ちしほ》したたり|面《おも》|破《やぶ》れ
|見《み》るかげもなき|吾《わが》|姿《すがた》  センリウ|侍女《じぢよ》とさげすまれ
|数多《あまた》の|騎士《ナイト》に|送《おく》られて  |荒浪《あらなみ》|猛《たけ》る|磯《いそ》ばたに
|送《おく》られ|是《これ》より|独木舟《まるきぶね》  |潮《しほ》の|流《なが》れのそのままに
|身《み》を|捨小舟《すてをぶね》|忽《たちま》ちに  |逆《さか》まく|波《なみ》のゆくままに
これのさびしき|島ケ根《しまがね》に  |知《し》らず|知《し》らずに|着《つ》きにけり
ああ|如何《いか》にせむ|今《いま》となりて  |言問《ことと》ふ|由《よし》も|泣《な》く|涙《なみだ》
|空《そら》ゆく|雁《かり》の|影《かげ》あらば  |吾《わが》|憂《う》きことを|垂乳根《たらちね》の
|御側《おんそば》|近《ちか》く|伝《つた》へむと  |思《おも》へど|望《のぞ》みは|水《みづ》の|泡《あわ》
|消《き》えてあとなき|泡沫《うたかた》の  |闇路《やみぢ》を|辿《たど》る|心地《ここち》かな
|闇路《やみぢ》にさまよふ|心地《ここち》かな』
|独木舟《まるきぶね》をあやつり、ここに|送《おく》り|来《きた》りし|一人《ひとり》の|毛武者《けむしや》の|騎士《ナイト》は、|隠《かくれ》の|島《しま》に|姫《ひめ》を|上陸《じやうりく》させ、|声《こゑ》もあらあらしく、
『こりや|尼《あま》つちよ、|端女《はしため》の|分際《ぶんざい》としてお|国《くに》の|宝《たから》を|打《う》ち|毀《こは》した|天罰《てんばつ》によつて、その|方《はう》はこの|隠島《かくれじま》に|捨《す》てられたのだ。もうかうなる|上《うへ》は、|今日《けふ》ぎりの|生命《いのち》だ、|覚悟《かくご》するがよからう。この|島《しま》は|隠《かくれ》の|島《しま》と|言《い》つて、|昼《ひる》は|水面《すゐめん》にポツカリと|浮《うか》んでゐるが、そろそろ|陽《ひ》が|沈《しづ》み|出《だ》すと|潮《しほ》が|高《たか》まり|来《きた》り、この|島《しま》は【ずんぼり】と|波《なみ》の|底《そこ》に|沈《しづ》んで|仕舞《しま》ふのだ。この|島《しま》に|捨《す》てられたが|最後《さいご》、|魚《さかな》でない|限《かぎ》り|到底《たうてい》|生命《いのち》の|助《たす》かりつこはない。てもさてもいぢらしいものだ。|俺《おれ》も|内密《ないみつ》で|貴様《きさま》の|様《やう》な|美人《びじん》を|助《たす》け|出《だ》し、|女房《にようばう》にしたいは|山々《やまやま》なれど、|磯端《いそばた》には|沢山《たくさん》の|目附《めつけ》が|騎士《ナイト》を|引《ひ》き|連《つ》れて|監視《かんし》してゐるから、それも|仕方《しかた》がない。|可哀《かはい》さうだが、もう|暫《しばら》くの|生命《いのち》だ。いづれ|鮫《さめ》がやつて|来《き》て|腹《はら》の|中《なか》へ|葬《はうむ》つてくれるだらう。まあ|感謝《かんしや》したがよからう。|泣《な》いても|叫《さけ》んでも、かうなりや|仕方《しかた》がない。|然《しか》しながら|貴様《きさま》をこの|島《しま》に|捨《す》てたと|言《い》ふ|標《しるし》がなくては|承知《しようち》せまい。|肉《にく》の|附《つ》いた|一握《ひとにぎ》りの|髪《かみ》の|毛《け》を|持《も》つて|帰《かへ》るか、お|前《まへ》の|耳《みみ》をそいで|帰《かへ》るか、それでなくちや|袖《そで》でも|捩《ね》ぢ|断《き》つて、|隠島《かくれじま》|特有《とくいう》の|貝《かひ》でも|持《も》ち|帰《かへ》り、|証拠《しようこ》にせなくつちや|今日《けふ》の|勤《つと》めが|果《はた》せぬのだ。|可哀想《かはいさう》だが、たつた|今《いま》|死《し》ぬる|生命《いのち》だ。|耳《みみ》の|一《ひと》つ|位《くらゐ》|取《と》つたつて|惜《を》しくもあるまい』
と|言《い》ひながら|石刀《いしがたな》を|懐《ふところ》より|取《と》り|出《だ》し、|姫《ひめ》を|矢場《やには》に|地上《ちじやう》に|打《う》ち|倒《たふ》し、しきりと|泣《な》き|叫《さけ》ぶ|姫《ひめ》に|目《め》もくれず、|鋸引《のこぎりび》きにして|左《ひだり》の|耳《みみ》を|切《き》りとり、|血《ち》の|滴《したた》る|姫《ひめ》の|顔《かほ》を|冷《ひや》やかに|打《う》ち|眺《なが》めながら、
『ヤアもう|時刻《じこく》が|迫《せま》つた、ぐづぐづしてゐると、|俺《おれ》の|舟《ふね》までどうなるか|解《わか》らない』
と|言《い》ひながら|足早《あしばや》に|独木舟《まるきぶね》に|飛《と》び|乗《の》り、|艪《ろ》をあやつり|夕靄《ゆふもや》の|包《つつ》む|海原《うなばら》を|急《いそ》ぎ|帰《かへ》りゆく。
|姫《ひめ》は|進退《しんたい》|維谷《これきは》まり|悲歎《ひたん》やる|方《かた》なく、|運《うん》を|天《てん》にまかせて、|死期《しき》を|待《ま》つより|何《なん》の|手段《てだて》もなかりける。
|姫《ひめ》は|刻々《こくこく》に|沈《しづ》みゆく|島《しま》の|頂上《ちやうじやう》に|立《た》ち|微《かす》かに|歌《うた》ふ。
『|思《おも》ひ|廻《まは》せば|廻《まは》す|程《ほど》
|吾《われ》ほど|悲《かな》しき|者《もの》は|世《よ》に
|又《また》とあらうか|父母《ちちはは》は
|敵《てき》に|城《しろ》をば|落《おと》されて
|今《いま》は|行方《ゆくへ》も|白雲《しらくも》の
|遥《はるか》の|国《くに》に|出《い》でましぬ
|妾《わらは》は|騎士《ナイト》に|送《おく》られて
|敵《てき》の|本城《ほんじやう》|木田山《きたやま》に
|繩目《なはめ》の|恥《はぢ》を|忍《しの》びつつ
|昼夜《ちうや》の|別《わか》ちもあら|涙《なみだ》
|泣《な》き|暮《くら》したる|折《をり》もあれ
エームス|王《わう》の|恋慕《れんぼ》より
|色々《いろいろ》|様々《さまざま》|言問《ことと》はれ
|止《や》むを|得《え》ざれば|本心《ほんしん》を
まげて|仇《あだ》なるエームスに
|仕《つか》へむとせしは|一生《いつしやう》の
あやまりなりしか|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|汚《きたな》き|乳母母子《うばおやこ》に
うまうま|計《はか》られ|今《いま》ここに
|吾《わが》|身《み》は|悲《かな》しき|捨小舟《すてをぶね》
|鳥《とり》の|声《こゑ》さへ|絶《た》へはてし
|隠《かくれ》の|島《しま》に|捨《す》てられて
|今《いま》に|知死期《ちしご》を|待《ま》たむより
|果敢《はか》なき|吾《わが》|身《み》となりにけり
この|世《よ》に|生《い》きて|仇人《あだびと》の
|牢獄《ひとや》に|繋《つな》がれ|朝夕《あさゆふ》を
|繩目《なはめ》の|恥《はぢ》をさらすより
いつそ|死《し》なむと|思《おも》ひつつ
また|父母《ちちはは》の|御上《おんうへ》に
|心《こころ》くばりて|再会《さいくわい》を
|望《のぞ》みしことも|仇《あだ》なれや
|浪《なみ》は|次《つ》ぎ|次《つ》ぎ|高《たか》まりて
|吾《わが》|立《た》つ|島《しま》は|荒潮《あらしほ》に
その|大方《おほかた》は|呑《の》まれたり
ああさびしもよ、かなしもよ
|夢《ゆめ》になりともこの|歎《なげ》き
|父《ちち》と|母《はは》とに|知《し》らせたや
|歎《なげ》きの|涙《なみだ》つきはてて
|今《いま》は|知死期《ちしご》を|待《ま》つのみぞ
|浪《なみ》の|音《おと》いや|高《たか》まりて|寄《よ》せ|来《く》るは
|吾《わが》|身《み》の|生命《いのち》を|奪《うば》ひ|去《さ》る
|猛《たけ》き|獣《けもの》の|声《こゑ》にして
さも|恐《おそ》ろしき|夕《ゆふべ》かな』
|斯《か》く|歎《なげ》きの|歌《うた》を|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|隠島《かくれじま》の|最頂上《さいちやうじやう》に|立《た》てる|姫《ひめ》の|膝《ひざ》を|没《ぼつ》するまで|水量《みづかさ》まさりけるが、|姫《ひめ》は|最早《もはや》これまでなりと|覚悟《かくご》を|極《きは》むる|折《をり》もあれ、|大《おほ》いなる|亀《かめ》いづくよりか|現《あら》はれ|来《きた》り、|姫《ひめ》の|前《まへ》にボツカリと|甲羅《かふら》を|浮《う》かせ、わが|背《せ》に|乗《の》り|給《たま》へと|言《い》はむばかり|頭《あたま》をもたげてひかへ|居《ゐ》る。チンリウ|姫《ひめ》はこれこそ|神《かみ》の|助《たす》けと|矢場《やには》に|亀《かめ》の|背《せ》に|打《う》ち|乗《の》れば、|亀《かめ》は|荒浪《あらなみ》をくぐりながら|南《みなみ》へ|南《みなみ》へと|泳《およ》ぎゆく。
チンリウ|姫《ひめ》は|亀《かめ》の|背《せ》に|立《た》ちながら|微《かす》かに|歌《うた》ふ。
『この|亀《かめ》は|神《かみ》の|使《つかひ》かわが|生命《いのち》
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|救《すく》ひたるはや
|大《おほ》いなる|海亀《うみがめ》の|背《せ》にのせられて
|故郷《くに》に|帰《かへ》ると|思《おも》へば|嬉《うれ》しも
|様々《さまざま》の|悩《なや》ひに|遇《あ》ひて|海亀《うみがめ》の
|助《たす》けの|舟《ふね》にのせられにける
|亀《かめ》よ|亀《かめ》よサールの|国《くに》に|近《ちか》よらず
イドムの|磯辺《いそべ》に|吾《われ》を|送《おく》れよ
|独木舟《まるきぶね》にまして|大《おほ》けきこの|亀《かめ》は
|海《うみ》の|旅路《たびぢ》も|安《やす》けかるべし
|海原《うなばら》に|立《た》ちのぼりたる|靄《もや》も|晴《は》れて
|御空《みそら》の|月《つき》は|輝《かがや》き|初《そ》めたり
|天地《あめつち》の|神《かみ》も|憐《あは》れみ|給《たま》ひしか
|助《たす》けの|舟《ふね》を|遣《つか》はし|給《たま》へり
|何事《なにごと》も|神《かみ》の|心《こころ》にまかせつつ
|浪路《なみぢ》を|渡《わた》りて|国《くに》に|帰《かへ》らむ
|曲神《まがかみ》の|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|醜国《しこぐに》に
|送《おく》られ|吾《われ》は|悩《なや》みてしかな
アララギの|深《ふか》き|奸計《たくみ》は|憎《にく》けれど
|吾《われ》は|忘《わす》れむ|今日《けふ》を|限《かぎ》りに
たのみなき|人《ひと》の|心《こころ》を|悟《さと》りけり
|乳母《うば》アララギの|為《な》せし|仕業《しわざ》に
センリウは|吾《わが》|身《み》に|全《まつた》くなりすまし
|妃《きさき》となりてゑらぎ|居《ゐ》るらむ
|外国《とつくに》の|仇《あだ》の|王《こきし》の|妻《つま》となる
センリウ|姫《ひめ》は|憐《あは》れなりけり
|吾《わが》|霊魂《みたま》|身体《からたま》|共《とも》に|汚《けが》さるる
|真際《まぎは》を|救《すく》ひし彼なりにけり
かく|思《おも》へばアララギとても|憎《にく》まれじ
|吾《わが》|操《みさを》をば|守《まも》りたる|彼《かれ》
|暫《しばら》くの|栄華《えいぐわ》の|夢《ゆめ》を|結《むす》ばむと
|仇《あだ》に|従《したが》ふ|心《こころ》の|憐《あは》れさ
|吾《われ》は|又《また》|心《こころ》の|弱《よわ》きそのままに
|仇《あだ》に|身魂《みたま》をまかさむとせし
ありがたし|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|深《ふか》くして
|吾《わが》|身体《からたま》は|汚《けが》さずありけり
|夕《ゆふ》されば|波間《なみま》に|沈《しづ》む|島ケ根《しまがね》に
|捨《す》てられし|吾《われ》も|救《すく》はれにけり
この|亀《かめ》は|次第々々《しだいしだい》に|太《ふと》りつつ
|海原《うなばら》|安《やす》くなりにけりしな
|大空《おほぞら》に|水底《みそこ》に|月《つき》は|輝《かがや》きて
|海原《うなばら》|明《あか》るく|真昼《まひる》の|如《ごと》し
|亀《かめ》よ|亀《かめ》イドムの|国《くに》に|送《おく》れかし
アヅミの|王《きみ》のいます|国《くに》まで』
|亀《かめ》は|無言《むごん》のまま|荒浪《あらなみ》を|分《わ》け、|一瀉千里《いつしやせんり》の|勢《いきほ》ひにてサールの|国《くに》の|方面《はうめん》へは|頭《かしら》を|向《む》けず、|南《みなみ》へ|南《みなみ》へと、イドムの|海岸《かいがん》さして|走《はし》りつつありける。
|暁《あかつき》|近《ちか》き|頃《ころ》、|大亀《おほかめ》は|数百《すうひやく》ノットの|海面《かいめん》を|乗《の》りきり、イドムの|国《くに》の|真砂ケ浜《まさごがはま》に|安着《あんちやく》した。
チンリウ|姫《ひめ》は|無事《ぶじ》|浜辺《はまべ》に|上陸《じやうりく》し、|亀《かめ》に|向《むか》つて|感謝《かんしや》の|心《こころ》を|歌《うた》ふ。
『|汝《なれ》こそは|尊《たふと》き|神《かみ》の|化身《けしん》かな
|玉《たま》の|生命《いのち》を|救《すく》ひ|給《たま》ひし
いつの|世《よ》か|汝《なれ》が|功《いさを》を|忘《わす》れまじ
|海原《うなばら》|守《まも》る|神《かみ》とあがめて
あぢ|気《き》なき|吾《わが》|身《み》をここに|送《おく》り|来《こ》し
|汝《なれ》は|生命《いのち》の|親《おや》なりにけり』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|終《をは》るや、|亀《かめ》は|二三回《にさんくわい》|頷《うなづ》きながら|水中《すいちう》にズボリと|沈《しづ》み、|跡白浪《あとしらなみ》となりにける。
この|地点《ちてん》は|月光山《つきみつやま》の|峰伝《みねづた》ひ、|遠《とほ》く|西方《せいはう》に|延長《えんちやう》したる|丘陵《きうりよう》|近《ちか》き|森林《しんりん》なりけるが、|姫《ひめ》はイドムの|国《くに》とは|略《ほぼ》|察《さつ》すれども、|現在《げんざい》|父母《ふぼ》の|隠生《いんせい》せる|月光山《つきみつやま》の|麓《ふもと》の|森林《しんりん》とは|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、|不案内《ふあんない》のまま|雨露《うろ》をしのぎ、|木《こ》の|実《み》を|探《さぐ》らむと|森林《しんりん》|深《ふか》く|忍《しの》び|入《い》りける。
(昭和九・八・一五 旧七・六 於水明閣 谷前清子謹録)
第一七章 |再生再会《さいせいさいくわい》〔二〇四四〕
エームス|王《わう》の|妃《きさき》チンリウ|姫《ひめ》は|贋物《にせもの》である。|其《そ》の|実《じつ》は、|侍女《じぢよ》のセンリウ|女《ぢよ》がアララギと|腹《はら》を|合《あは》せ、エームス|王《わう》|始《はじ》め|数多《あまた》の|重臣《ぢうしん》どもを|籠絡《ろうらく》してゐることを|覚《さと》つた|朝月《あさづき》は、|宴会《えんくわい》の|席《せき》に|於《おい》て|其《そ》の|事《こと》をほのめかしたので、|忽《たちま》ちアララギ、センリウ|等《ら》の|激怒《げきど》をかひ、|即座《そくざ》に|重罪《ぢゆうざい》に|処《しよ》せられ、|海洋万里《かいやうばんり》の|荒浪《あらなみ》にただよふ|荒島《あらしま》に|流《なが》された。|朝月《あさづき》は、|慷慨悲憤《かうがいひふん》のあまり|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》ふ。
|潮《しほ》のひびきは|滔々《たうたう》と|岩間《いはま》に|木霊《こだま》し、|寄《よ》せ|来《く》る|浪《なみ》は|白馬《はくば》の|鬣《たてがみ》を|打《う》ちふり、|岸辺《きしべ》の|岩石《がんせき》にかみつく|如《ごと》き|物凄《ものすさま》じき|光景《くわうけい》なりけり。|朝月《あさづき》はこの|島《しま》の|王者然《わうじやぜん》として|貝《かひ》などを|採集《さいしふ》し、|餓《うゑ》を|凌《しの》ぎつつ|運《うん》を|天《てん》に|任《まか》せながら|縹渺《へうべう》たる|海原《うなばら》を|眺《なが》めて|歌《うた》ふ。
『|仰《あふ》げば|高《たか》し|久方《ひさかた》の
|雲井《くもゐ》の|空《そら》は|果《は》てもなく
|青《あを》に|解《と》け|入《い》る|吾《わが》みたま
ふくれふくれて|月《つき》となり
|又《また》|別《わか》れては|星《ほし》となり
|極《きは》みも|知《し》らぬ|大宇宙《だいうちう》
わが|物顔《ものがほ》に|渡《わた》りゆく
われは|朝月《あさづき》のかげなれや
|波《なみ》を|分《わ》けつつ|昇《のぼ》りゆく
|朝日《あさひ》の|光《かげ》に|照《て》らされて
|昼《ひる》は|姿《すがた》をかくせども
|夜《よる》さり|来《く》れば|夕月《ゆふづき》の
|光《かげ》はきらきら|波間《なみま》を|照《て》らし
|千尋《ちひろ》の|海《うみ》の|底《そこ》ひには
|清《きよ》く|澄《す》みきる|夕月《ゆふづき》や
|朝《あした》の|月《つき》のゆらゆらに
|波《なみ》にたゆたふ|雄々《をを》しさよ
|伊佐子《いさご》の|島《しま》を|後《あと》にして
|千重《ちへ》の|荒浪《あらなみ》|渡《わた》りつつ
|独木《まるき》の|舟《ふね》に|来《き》て|見《み》れば
|音《おと》に|名高《なだか》き|荒島《あらしま》は
ただ|一本《いつぽぼん》の|木《き》も|草《くさ》も
|荒風浪《あらかぜなみ》に|吹《ふ》かれつつ
|生《お》ふるひまなき|岩《いは》の|島《しま》
|堅磐常磐《かきはときは》に|海中《わだなか》に
|浮《うか》ぶも|雄々《をを》しこの|島根《しまね》
|朝月《あさづき》はここに|流《なが》されて
|世塵《せぢん》を|知《し》らず|安々《やすやす》と
|堅磐常磐《かきはときは》に|栄《さか》ゆなり
|荒浪《あらなみ》|如何《いか》に|猛《たけ》るとも
|暑《あつ》さ|寒《さむ》さは|襲《おそ》ふとも
|何《なに》か|恐《おそ》れむ|大丈夫《ますらを》が
|弥猛心《やたけごころ》をくじくべき
ああ|面白《おもしろ》や|面白《おもしろ》や
この|荒島《あらしま》は|広《ひろ》ければ
|永久《とは》の|住家《すみか》と|定《さだ》めつつ
|百《もも》の|魚族《うろくづ》|友《とも》として
|竜宮《りうぐう》の|王《わう》とうたはれむ
さはさりながらあはれなるかな
チンリウ|姫《ひめ》は|曲者《くせもの》の
|奸計《たくみ》の|罠《わな》に|陥《おちい》りて
|似《に》ても|似《に》つかぬ|替玉《かへだま》の
センリウ|侍女《じぢよ》と|強《し》ひられて
|思《おも》はぬ|罪《つみ》をかぶせられ
|隠《かくれ》の|島《しま》に|流《なが》されし
|其《そ》の|憐《あは》れさの|身《み》に|迫《せま》り
|木田山城《きたやまじやう》に|開《ひら》かれし
|祝賀《しゆくが》の|宴《えん》に|出席《しゆつせき》し
うち|出《いだ》したる|言霊《ことたま》の
|激《はげ》しき|矢玉《やだま》に|怖《お》ぢおそれ
|心《こころ》きたなきアララギは
わが|言《こと》の|葉《は》をさへぎりつ
|疑惑《ぎわく》の|罪《つみ》と|強《し》ひながら
|恋《こひ》に|狂《くる》へる|若王《わかぎみ》や
|娘《むすめ》のセンリウ|女《ぢよ》とともに
わが|身《み》を|憎《にく》める|其《そ》のあまり
|高手《たかて》や|小手《こて》にいましめて
この|荒島《あらしま》に|流《なが》したり
われは|大丈夫《ますらを》|覚悟《かくご》はすれど
|隙間《すきま》の|風《かぜ》にもあてられず
|宮中《きうちう》|深《ふか》く|育《そだ》ちたる
チンリウ|姫《ひめ》を|魔《ま》の|島《しま》に
|流《なが》したるこそ|憎《にく》らしき
さはさりながら|魔《ま》の|島《しま》の
|名《な》を|負《お》ふ|隠《かくれ》の|島ケ根《しまがね》は
|夕《ゆふ》さり|来《く》れば|荒浪《あらなみ》に
|全島《ぜんたう》|姿《すがた》をかくすなる
|危険《きけん》の|島《しま》に|捨《す》てたるは
|姫《ひめ》が|生命《いのち》をとらむ|為《ため》の
アララギどもの|謀計《はかりごと》
|思《おも》へば|思《おも》へば|憎《にく》らしや
|今《いま》となりては
|泣《な》けど|悔《くや》めど|姫君《ひめぎみ》の
|姿《すがた》は|最早《もはや》|荒浪《あらなみ》の
|腹《はら》に|呑《の》まれて|影《かげ》もなし
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》はひて
|若《も》しも|此《こ》の|世《よ》に|在《おは》すならば
|水底《みそこ》を|潜《くぐ》りてこの|島《しま》に
|来《きた》らせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》
|天地《てんち》の|神《かみ》に|願《ね》ぎまつる
ああされど
|不思議《ふしぎ》なるかな
|昨夜《ゆふべ》の|夢《ゆめ》にチンリウ|姫《ひめ》は
|亀《かめ》の|背中《せなか》に|乗《の》せられて
とある|磯辺《いそべ》にたどりつき
|茂樹《しげき》の|森《もり》にささやけき
|庵《いほり》を|造《つく》りて|住《す》み|給《たま》ふ
|夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|幻《まぼろし》か
|心《こころ》にかかるは|姫《ひめ》の|上《うへ》
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|御在処《みありか》を
|知《し》らむと|思《おも》へど|是非《ぜひ》もなし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|恩頼《みたまのふゆ》を|賜《たま》へかし。
|天《てん》|青《あを》く|海原《うなばら》|青《あを》きこの|島《しま》に
|姫《ひめ》を|偲《しの》びて|青息《あをいき》つくも
|伊佐子島《いさごじま》|遠《とほ》く|離《さか》れる|荒島《あらしま》に
|一人《ひとり》|住《す》む|身《み》は|淋《さび》しかりけり
さりながら|世《よ》の|憂《う》さごとを|聞《き》かずして
|一人《ひとり》|楽《たの》しき|今日《けふ》のわれなり
|木田山《きたやま》の|城《しろ》は|間《ま》もなく|滅《ほろ》ぶべし
アララギ|母子《おやこ》の|暴虐《ぼうぎやく》の|手《て》に
チンリウ|姫《ひめ》|隠《かくれ》の|島《しま》に|流《なが》されて
|水泡《みなわ》と|消《き》えしは|果敢《はか》なかりけり
さりながら|姫《ひめ》は|生命《いのち》を|保《たも》たすと
われは|聞《き》けるも|夢《ゆめ》の|枕《まくら》に
|悪人《あくにん》の|栄《さか》えて|善人《ぜんにん》の|亡《ほろ》ぶべき
|例《ためし》は|神代《かみよ》にあらじとぞ|思《おも》ふ
|憎《にく》みても|余《あま》りありけりアララギの
いやしき|心《こころ》に|出《い》でし|曲業《まがわざ》』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、チンリウ|姫《ひめ》を|真砂《まさご》の|浜《はま》に|送《おく》りとどけたる|巨大《きよだい》なる|神亀《しんき》は、|波打《なみう》ち|際《ぎは》にボカリと|浮《う》き|上《あが》り、|頸《くび》を|上下《じやうげ》に|振《ふ》りながら|朝月《あさづき》を|招《まね》くものの|如《ごと》く|見《み》えける。|朝月《あさづき》はこれぞ|全《まつた》く|海《うみ》の|守護神《しゆごじん》|琴平別命《ことひらわけのみこと》の|化身《けしん》ぞと|勇《いさ》み|喜《よろこ》び、|直《ただち》に|丘《をか》を|下《くだ》りて|汀辺《みぎはべ》に|走《はし》りつき、
『|有難《ありがた》し|琴平別《ことひらわけ》の|御迎《おんむか》へ
|伊佐子《いさご》の|島《しま》に|送《おく》らせ|給《たま》へ』
と、|合掌《がつしやう》しながら|神亀《しんき》の|背《せ》に|飛《と》び|乗《の》れば、|亀《かめ》は|波上《はじやう》に|大《だい》なる|頭《あたま》をもたげ、|南《みなみ》へ|南《みなみ》へと|波《なみ》をかきわけながら、まつしぐらに|進《すす》みゆく。
|朝月《あさづき》は|歌《うた》ふ。
『|有難《ありがた》し|天地《てんち》の|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》に
|琴平別《ことひらわけ》は|現《あ》れましにけり
|一本《いつぽん》の|草《くさ》も|木《き》もなき|荒島《あらしま》に
われは|淋《さび》しく|暮《くら》し|居《ゐ》たるを
|琴平別《ことひらわけ》|神《かみ》の|化身《けしん》に|救《すく》はれて
|千重《ちへ》の|波路《なみぢ》を|渡《わた》らふ|今日《けふ》かな
|大栄《おほさか》の|山《やま》は|雲間《くもま》に|霞《かす》みつつ
|天津日《あまつひ》のかげ|朧《おぼろ》に|見《み》ゆるも
|北《きた》を|吹《ふ》く|風《かぜ》に|送《おく》られわれは|今《いま》
|神亀《しんき》の|背《せな》に|乗《の》りて|帰《かへ》るも
チンリウ|姫《ひめ》もわれと|同《おな》じくこの|亀《かめ》に
|救《すく》はれにけむ|聞《き》かまほしさよ』
|斯《か》く|歌《うた》ひつつ、|亀《かめ》のゆくままに|任《まか》せ|居《ゐ》たりしが|翌日《あくるひ》の|暁頃《あかつきごろ》、|空《そら》に|朝月《あさづき》|白《しら》けて、|海風《うなかぜ》|徐《おもむろ》に|袖《そで》を|吹《ふ》く|頃《ころ》、|真砂《まさご》の|浜辺《はまべ》に|着《つ》きにける。
|朝月《あさづき》は、|亀《かめ》の|背《せ》より|汀《みぎは》に|飛《と》び|下《お》り、|神亀《しんき》に|向《むか》つて|合掌《がつしやう》しながら|歌《うた》ふ。
『|波《なみ》|荒《あら》き|孤島《こたう》になげきし|朝月《あさづき》も
|汝《なれ》の|功《いさを》に|救《すく》はれにけり
|何時《いつ》までも|汝《なれ》の|恵《めぐ》みは|忘《わす》れまじ
わが|歎《なげ》かひはまたく|晴《は》れけり
|東北《とうほく》の|空《そら》に|霞《かす》める|高山《たかやま》は
|大栄山《おほさかやま》かなつかしき|山《やま》
この|聖所《すがど》イドムの|国《くに》の|浜《はま》ならむ
|大栄山《おほさかやま》の|北《きた》に|見《み》ゆれば』
ここに|朝月《あさづき》は|亀《かめ》に|感謝《かんしや》し、|別《わか》れを|告《つ》げて|汀《みぎは》の|真砂《まさご》をザクザクふみならしながら、|遥《はる》か|前方《ぜんぱう》にこんもりと|古木《こぼく》の|茂《しげ》りたる|茂樹《しげき》の|森《もり》を|目当《めあて》に|辿《たど》り|行《ゆ》く。
|朝月《あさづき》は|只一人《ただひとり》、|茂樹《しげき》の|森《もり》かげをあてどもなく|辿《たど》り|行《ゆ》くにぞ、|目立《めだ》ちて|太《ふと》き|槻《つき》の|根元《ねもと》に|萱《かや》を|以《もつ》て|結《むす》びたる|矮屋《わいをく》をみとめ、|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ|近《ちか》より、|中《なか》の|様子《やうす》を|窺《うかが》ひ|居《ゐ》たりける。|矮屋《わいをく》の|中《なか》よりは|微《かすか》なる|女《をんな》のうたふ|声《こゑ》|響《ひび》き|来《きた》る。
『わが|国《くに》は|敵《てき》に|奪《うば》はれわが|父母《ふぼ》は
|行方《ゆくへ》|知《し》れぬぞ|悲《かな》しかりけり
エールスの|醜《しこ》の|司《つかさ》にわが|父《ちち》は
|城《しろ》を|奪《うば》はれかくれましけむ
|妾《わらは》|亦《また》か|弱《よわ》き|身《み》もて|敵軍《てきぐん》に
とらはれ|遠《とほ》く|送《おく》られにけり
|水《みづ》|濁《にご》る|木田山城《きたやまじやう》にとらへられ
なげきの|月日《つきひ》を|泣《な》き|暮《くら》したり
|二十年《にじふねん》われに|仕《つか》へしアララギは
|悪魔《あくま》となりてわれに|反《そむ》きぬ
|如何《いか》ならむ|罪《つみ》|犯《をか》せしか|知《し》らねども
|今日《けふ》の|吾《わが》|身《み》は|淋《さび》しかりけり
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》とらむとアララギは
われを|隠《かくれ》の|島《しま》に|送《おく》りし
|荒浪《あらなみ》に|呑《の》まれむとする|折《をり》もあれ
|琴平別《ことひらわけ》に|救《すく》はれしはや
|大栄山《おほさかやま》|遥《はる》かに|高《たか》く|北《きた》の|空《そら》に
|霞《かす》むを|見《み》ればわが|国《くに》なるらむ
さりながらイドムの|国《くに》も|今《いま》ははや
サールの|配下《はいか》となれる|悲《かな》しさ
|隠島《かくれじま》|漸《やうや》く|逃《のが》れわれは|今《いま》
|茂樹《しげき》の|森《もり》にかくれ|泣《な》くかも
|父母《ちちはは》に|一度《いちど》|会《あ》はまく|欲《ほ》りすれど
|今日《けふ》の|吾《わが》|身《み》は|詮術《せんすべ》もなき
|万斛《ばんこく》の|涙《なみだ》|湛《たた》へてわれは|今《いま》
|泣《な》くより|外《ほか》に|術《すべ》なかりけり
いたづらに|森《もり》の|木蔭《こかげ》に|朽《く》ちむかと
|思《おも》へば|悲《かな》しき|吾《わが》|身《み》なりけり』
|朝月《あさづき》はこの|歌《うた》を|聞《き》き、|正《まさ》しく|隠島《かくれじま》に|流《なが》されしチンリウ|姫《ひめ》なることを|覚《さと》り、|雀躍《こをど》りしながら|声《こゑ》|高《たか》らかに|歌《うた》ふ。
『われこそは|木田山城《きたやまじやう》に|仕《つか》へたる
|朝月司《あさづきつかさ》のなれの|果《は》てぞや
この|家《いへ》に|忍《しの》ばせ|給《たま》ふは|正《まさ》しくも
チンリウ|姫《ひめ》と|覚《さと》らひにけり
アララギのきたなき|心《こころ》の|謀計《たくらみ》に
かくなりませし|姫《ひめ》を|悲《かな》しむ
われも|亦《また》チンリウ|姫《ひめ》を|贋物《にせもの》と
|言挙《ことあ》げなしてやらはれにけり
アララギやセンリウ|姫《ひめ》の|憤《いきどほ》りに
われ|荒島《あらしま》に|流《なが》されしはや
|姫君《ひめぎみ》を|案《あん》じわづらひ|荒島《あらしま》ゆ
|隠《かくれ》の|島ケ根《しまがね》|遥《はる》かに|仰《あふ》ぎぬ
|琴平別《ことひらわけ》|神《かみ》の|化身《けしん》に|送《おく》られて
われは|真砂《まさご》の|浜《はま》に|着《つ》きぬる』
|中《なか》よりチンリウ|姫《ひめ》の|声《こゑ》として、
『いぶかしや|茂樹《しげき》の|森《もり》に|人《ひと》の|声《こゑ》
|聞《きこ》ゆは|狐狸《こり》の|仕業《しわざ》なるらめ
わが|住家《すみか》|破屋《あばらや》なれど|表戸《おもてど》は
|魔神《まがみ》の|為《ため》には|開《ひら》かざるべし
|朝月《あさづき》は|木田山城《きたやまじやう》の|左守神《さもりがみ》
|此処《ここ》に|来《きた》らむ|理由《りいう》はあらじ
いろいろと|言葉《ことば》|構《かま》へてたぶらかす
|狐狸《こり》の|謀計《たくみ》の|浅《あさ》はかなるも
アララギやセンリウ|姫《ひめ》と|相共《あひとも》に
われをはかりし|朝月《あさづき》の|曲津《まが》
よしやよし|真《まこと》の|朝月《あさづき》なればとて
われは|死《し》すともまみえざるべし』
|朝月《あさづき》は|悲《かな》しげに、
『|思《おも》ひきや|茂樹《しげき》の|森《もり》にたどり|来《き》て
|姫《ひめ》の|怒《いか》りの|言葉《ことば》|聞《き》くとは
|姫君《ひめぎみ》を|陰《かげ》に|日向《ひなた》にかばひつつ
|誠《まこと》|尽《つく》せし|朝月《あさづき》なるよ
やさしげに|見《み》ゆるアララギ、センリウの
|類《たぐひ》と|思《おぼ》すが|悲《かな》しかりけり
|姫君《ひめぎみ》をかばひし|言葉《ことば》にたたられて
われ|荒島《あらしま》に|流《なが》されしはや
かくなればサールの|国《くに》へは|帰《かへ》れまじ
|忍《しの》びて|住《す》まむ|茂樹《しげき》の|森《もり》に
|木田山《きたやま》の|城《しろ》は|滅《ほろ》びむアララギの
|人《ひと》もなげなるその|振舞《ふるま》ひに
|城内《じやうない》の|司《つかさ》は|四分五裂《しぶんごれつ》して
アララギ|母子《おやこ》を|呪《のろ》はぬものなし
|隣国《りんこく》のイドムを|攻《せ》めたる|酬《むく》いにて
サールの|国《くに》は|今《いま》に|亡《ほろ》びむ
|御父《おんちち》のアヅミの|王《きみ》はやがて|今《いま》
|伊佐子《いさご》の|島根《しまね》を|領有《うしは》ぎ|給《たま》はむ
|朝月《あさづき》の|清《きよ》き|心《こころ》をさとりませ
|姫《ひめ》に|仕《つか》ふと|慕《した》ひ|来《き》しものを』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『いろいろの|汝《な》が|言霊《ことたま》にわが|胸《むね》の
|雲《くも》は|晴《は》れたりとく|入《い》りませよ
なよ|草《ぐさ》の|女《をみな》|一人《ひとり》のこの|庵《いほ》に
|汝《な》が|訪《と》ひ|来《き》しも|不思議《ふしぎ》なるかな
|汝《なれ》も|亦《また》|琴平別《ことひらわけ》に|救《すく》はれしか
われも|神亀《しんき》に|送《おく》られ|来《きた》りぬ』
|斯《か》く|歌《うた》ひながら、|柴《しば》の|戸《と》を|中《なか》よりパツと|押開《おしひら》けば、|朝月《あさづき》は|大地《だいち》にひれ|伏《ふ》し、ハラハラと|落涙《らくるい》しながら、
『|姫様《ひめさま》、|御懐《おなつ》かしう|御座《ござ》います。|私《わたし》は|貴女《あなた》の|御身《おみ》の|上《うへ》を|気《き》の|毒《どく》に|存《ぞん》じ、|大祝賀会《だいしゆくがくわい》の|席上《せきじやう》に|於《おい》て、|今《いま》のチンリウ|姫様《ひめさま》は|贋物《にせもの》にして、アララギの|奸計《かんけい》より|斯《か》くなれるものとの|諷刺《ふうし》を|歌《うた》ひましたため、アララギ|母子《おやこ》|及《およ》びエームス|王《わう》の|激怒《げきど》にふれ、|奸佞邪智《かんねいじやち》の|心《こころ》きたなき|司《つかさ》どもに|審判《さば》かれ、|遂《つひ》に|海中《かいちう》の|荒島《あらしま》という|無人島《むじんたう》に|流《なが》され、|孤独《こどく》を|託《かこ》ちつつあるところへ、|琴平別《ことひらわけ》の|神《かみ》、|亀《かめ》と|化《くわ》して|現《あら》はれ|給《たま》ひ、たつた|今《いま》の|先《さき》、|真砂《まさご》の|浜辺《はまべ》に|私《わたし》を|送《おく》りとどけて|下《くだ》さつたのです。|必《かなら》ずや|姫様《ひめさま》も|隠島《かくれじま》より|琴平別《ことひらわけ》の|神《かみ》に|救《すく》はれて、|此《こ》の|辺《あた》りにおしのびの|事《こと》と|察知《さつち》|致《いた》しまして、|森林《しんりん》を|彷徨《さまよ》ふうち、フツとこの|御住居《おすまゐ》が|目《め》にとまり、|足音《あしおと》をしのばせ|近《ちか》より、|屋内《をくない》の|様子《やうす》を|窺《うかが》へば、かすかに|聞《きこ》ゆる|御歌《おんうた》のふしに、てつきり|姫様《ひめさま》と|打《う》ち|喜《よろこ》び、|畏《おそ》れながら|屋外《をくぐわい》に|立《た》ち、|歌《うた》もて|御尋《おたづ》ね|致《いた》した|次第《しだい》で|御座《ござ》います。|何卒《なにとぞ》|姫様《ひめさま》の|御仁慈《ごじんじ》によりまして、|私《わたし》を|僕《しもべ》として|御使《おつか》ひ|下《くだ》さらうならば、|有難《ありがた》い|仕合《しあは》せと|存《ぞん》じます。|私《わたし》は|再《ふたた》びサールの|国《くに》に|足《あし》を|踏《ふ》み|入《い》れる|考《かんが》へは|御座《ござ》いませぬ。この|島《しま》も|御父《おんちち》の|領分《りやうぶん》とは|言《い》ひながら、サールの|国王《こくわう》エールスが|暴威《ぼうゐ》を|振《ふる》ふ|領域内《りやうゐきない》で|御座《ござ》いますれば、|彼等《かれら》が|手下《てした》の|奴輩《やつばら》に|見《み》つかつては|危険《きけん》で|御座《ござ》いますから、この|森林《しんりん》を|幸《さいは》ひ、|姫様《ひめさま》の|御側《おそば》に|仕《つか》へて|時《とき》|待《ま》つ|事《こと》と|致《いた》しませう。|一時《いちじ》は|御父王《おんちちぎみ》は|城《しろ》を|捨《す》てて|退却《たいきやく》されましたなれど、|賢明《けんめい》なるアヅミ|王様《わうさま》は|必《かなら》ず|軍備《ぐんび》を|整《ととの》へ、|捲土重来《けんどぢゆうらい》して、イドム|城《じやう》を|回復《くわいふく》し、|善政《ぜんせい》を|敷《し》き|給《たま》ふものと、|私《わたし》は|今《いま》より|期待《きたい》いたして|居《を》ります。|次《つぎ》にサールの|国《くに》は|最早《もは》や|滅亡《めつばう》の|徴《きざし》|現《あら》はれ|居《を》りますれば、|伊佐子《いさご》の|島《しま》は|全部《ぜんぶ》アヅミ|王様《わうさま》の|治下《ちか》に|復《ふく》する|事《こと》と|存《ぞん》じます。|姫様《ひめさま》、|御安心《ごあんしん》なさいませ』
と、いろいろと|言葉《ことば》を|尽《つく》して、|朝月《あさづき》はチンリウ|姫《ひめ》を|慰《なぐさ》めながら、|暫時《しばし》この|森林《しんりん》を|住家《すみか》として|時《とき》を|待《ま》ちゐたりける。
(昭和九・八・一五 旧七・六 於水明閣 林弥生謹録)
第一八章 |蠑〓《いもり》の|精《せい》〔二〇四五〕
|主人《しゆじん》のチンリウ|姫《ひめ》を|計略《けいりやく》を|以《もつ》て|退《しりぞ》け、|自《みづか》らチンリウ|姫《ひめ》と|名告《なの》りてエームス|王《わう》の|妃《きさき》となり、|母《はは》のアララギと|共《とも》に|権勢《けんせい》|並《なら》ぶものなく、|数多《あまた》の|群臣《ぐんしん》の|上《うへ》に|君臨《くんりん》して、|意気《いき》|揚々《やうやう》たりしチンリウ|姫《ひめ》は、|木田山城内《きたやまじやうない》の|森林《しんりん》を|徒然《つれづれ》のまま、|彼方此方《あなたこなた》に|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|花《はな》を|賞《ほ》めつつ|逍遥《せうえう》して|居《ゐ》る。
『|前《さき》や|後《あと》|右《みぎ》も|左《ひだり》も|芳《かんば》しき
|花《はな》に|包《つつ》まれ|吾《われ》は|遊《あそ》ぶも
|回天《くわいてん》の|望《のぞ》みを|遂《と》げて|吾《われ》は|今《いま》
|木田山城《きたやまじやう》の|花《はな》と|匂《にほ》ふも
|百千花《ももちばな》|咲《さ》けど|匂《にほ》へど|如何《いか》にして
わが|花《はな》の|香《か》に|及《およ》ぶべきかは
|燕子花《かきつばた》|花《はな》の|紫《むらさき》|水《みづ》の|面《も》に
|写《うつ》るを|見《み》れば|夏《なつ》さりにけり
|木田山《きたやま》の|城《しろ》は|広《ひろ》けし|山水《さんすゐ》の
|景色《けしき》あつめて|清《きよ》き|真秀良場《まほらば》
|此《こ》の|城《しろ》の|花《はな》と|世人《よびと》に|讃《たた》へられ
|吾《われ》は|楽《たの》しく|世《よ》に|生《い》くるかも
|天地《あめつち》は|残《のこ》らず|吾手《わがて》に|入《い》りしかと
|思《おも》へば|楽《たの》しき|吾《わが》|身《み》なるかも
エールスの|王《きみ》はイドムの|国《くに》にあり
われ|若王《わかぎみ》の|妃《きさき》となりぬ
|何《なに》ものの|制縛《せいばく》もなく|此《こ》の|城《しろ》に
|時《とき》じくかをると|思《おも》へば|楽《たの》し
|国津神《くにつかみ》のあらむ|限《かぎ》りを|統《す》べ|治《をさ》め
|王《きみ》に|仕《つか》へて|御代《みよ》を|照《て》らさむ
わが|母《はは》は|賢《さか》しくませばチンリウ|姫《ひめ》を
わが|身《み》となして|退《やら》ひましけり
|心地《ここち》よやチンリウ|姫《ひめ》は|魔《ま》の|島《しま》に
|漂《ただよ》ひながら|亡《ほろ》び|失《う》せけむ
かくならば|世《よ》に|恐《おそ》るべきものはなし
エームス|王《わう》を|力《ちから》とたのめば
エームス|王《わう》われに|恋《こ》ふるを|幸《さいは》ひに
|如何《いか》なる|事《こと》も|遂《と》げざるはなし
|朝風《あさかぜ》にゆらるる|百合《ゆり》の|花《はな》|見《み》れば
|清《すが》しきわれの|姿《すがた》なるかな
|赤《あか》に|白《しろ》に|匂《にほ》へる|花《はな》も|世《よ》の|人《ひと》は
あふひの|花《はな》と|称《たた》へ|来《き》にけり
チンリウ|姫《ひめ》の|贋《にせ》にはあれど|吾《われ》もまた
あふひに|匂《にほ》ふ|花《はな》にあらずや
|雪《ゆき》といふ|字《じ》も|黒々《くろぐろ》と|墨《すみ》で|書《か》く
|例《ためし》ある|世《よ》ぞ|何《なに》を|恐《おそ》れむ
|贋物《にせもの》と|看破《みやぶ》りたりし|朝月《あさづき》は
|王《きみ》の|威勢《ゐせい》に|退《やら》はれにけり
|朝月《あさづき》は|千里《せんり》の|海《うみ》の|島ケ根《しまがね》に
|流《なが》され|生命《いのち》|亡《う》せにけむかも
|妨《さまた》ぐる|何《なに》ものもなき|吾《われ》なれば
|心《こころ》のままに|世《よ》にふれまはむ
|水《みづ》|濁《にご》る|木田山城《きたやまじやう》の|司等《つかさら》は
|吾《わが》|言霊《ことたま》に|苦《く》もなくまつろふ
|吾《わが》|威勢《ゐせい》|日《ひ》に|日《ひ》に|高《たか》まりゆく|見《み》れば
|智慧《ちゑ》の|力《ちから》の|現《あら》はれなるべし
イドム|城《じやう》に|長《なが》く|仕《つか》へしわが|王《きみ》の
|行方《ゆくへ》はいづく|最早《もはや》|影《かげ》なし
わが|王《きみ》の|滅《ほろ》びによりて|今《いま》ここに
|木田山城《きたやまじやう》の|花《はな》と|匂《にほ》ふも
よき|事《こと》に|曲事《まがこと》いつき|曲事《まがこと》に
よき|事《こと》いつくは|吾《われ》の|身《み》にしる
かくならば|世《よ》に|恐《おそ》るべきものはなし
エームス|王《わう》を|操《あやつ》りゆきなば』
|斯《か》く|歌《うた》ひながら、|人《ひと》もなげに|逍遥《せうえう》して|居《ゐ》る。|後《うしろ》の|方《はう》より|容姿《ようし》|端麗《たんれい》なる|美男子《びだんし》、すつくと|現《あら》はれ、
『|姫様《ひめさま》のみあと|慕《した》ひて|来《きた》りけり
エームス|王《わう》の|吾《われ》は|従弟《いとこ》よ
|御姿《みすがた》の|気高《けだか》さ|美々《びび》しさに|見惚《みと》れつつ
|心《こころ》の|駒《こま》に|引《ひ》かれ|来《こ》しはや
|汝《な》が|姿《すがた》ふと|見初《みそ》めてゆ|朝夕《あさゆふ》を
うつつともなく|過《す》ぎにけらしな
|傍《かたはら》に|人影《ひとかげ》なければわが|思《おも》ひ
|君《きみ》の|御前《みまへ》に|匂《にほ》はせ|奉《まつ》らむ』
|此《こ》の|声《こゑ》に|贋《にせ》のチンリウ|姫《ひめ》は|驚《おどろ》き|振《ふ》り|返《かへ》れば、エームス|王《わう》に|幾倍《いくばい》とも|知《し》れぬ|美男子《びだんし》、チンリウ|姫《ひめ》は|恋《こひ》の|悪魔《あくま》にとらはれ、|恍惚《くわうこつ》として|男《をとこ》の|側《そば》に|進《すす》み|寄《よ》り、|右手《みぎて》をしつかと|握《にぎ》りながら、|頬《ほほ》を|赤《あか》らめて|歌《うた》ふ。
『|思《おも》ひきやかく|麗《うる》はしき|艶人《あでびと》の
|此《こ》の|国原《くにはら》におはしますとは
エームスの|王《きみ》に|仕《つか》へし|吾《われ》なれば
|汝《なれ》に|答《こた》ふる|言《こと》の|葉《は》もなし
さりながら|汝《なれ》が|愛《いと》しき|心根《こころね》を
われ|忝《かたじけ》なみて|胸《むね》にしるさむ
かかる|世《よ》に|此《こ》のうるはしき|大丈夫《ますらを》の
いますとは|夢《ゆめ》にも|知《し》らざりにけり
ままならば|君《きみ》と|千歳《ちとせ》を|契《ちぎ》りつつ
|木田山城《きたやまじやう》に|住《す》みたく|思《おも》ふ』
|美男《びなん》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》こそはエームス|王《わう》の|従弟《いとこ》にて
セームスといふ|軽《かる》きものなり
|御心《みこころ》に|叶《かな》ひ|奉《まつ》らば|今日《けふ》よりは
|人目《ひとめ》を|忍《しの》びて|千代《ちよ》を|語《かた》らむ
われは|今《いま》エームス|王《わう》の|目《め》を|忍《しの》び
|姫《ひめ》を|恋《こ》ひつつ|此処《ここ》に|来《きた》りし
|名《な》も|位《くら》も|生命《いのち》も|吾《われ》は|惜《を》しからじ
|君《きみ》と|会《あ》ふ|夜《よ》のありと|思《おも》へば』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|懐《なつ》かしの|君《きみ》に|会《あ》ひてゆわが|胸《むね》は
|高鳴《たかな》り|止《や》まず|面《おも》ほてりけり
|明日《あす》さればこの|森林《しんりん》に|君《きみ》と|吾《われ》と
|千代《ちよ》の|契《ちぎ》りを|語《かた》らはむかも』
セームスは|歌《うた》ふ。
『ありがたき|情《なさけ》の|言葉《ことば》|聞《き》くにつけ
|心《こころ》の|駒《こま》の|雄猛《をたけ》びやまずも』
|斯《か》く|歌《うた》ひつつ、|何処《いづこ》へか|煙《けむり》の|如《ごと》く|消《き》え|失《う》せにける。
チンリウ|姫《ひめ》は|茫然《ばうぜん》として|佇《たたず》みながら|歌《うた》ふ。
『いぶかしき|事《こと》の|限《かぎ》りよ|麗《うるは》しき
|恋《こひ》のセームス|煙《けむり》と|消《き》えたり
エームスの|王《きみ》にいやまし|麗《うるは》しき
セームスこそはわが|生命《いのち》かも』
|斯《か》く|歌《うた》ひながら、しづしづと|殿内《でんない》に|帰《かへ》り|来《きた》る。
アララギは|玄関《げんくわん》に|迎《むか》へながら、
『|汝《なれ》は|今《いま》いづらにありし|供人《ともびと》も
つれずひとり|身《み》|危《あや》ふからずや
|汝《な》が|姿《すがた》|見《み》えぬに|吾《われ》は|驚《おどろ》きて
|千々《ちぢ》に|心《こころ》を|砕《くだ》きたりしよ
|明日《あす》よりは|御供《みとも》をつれて|出《い》でませよ
|一人《ひとり》|歩《あゆ》みは|危《あや》ふかるらむ』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|百花《ももばな》の|清《きよ》きかをりに|誘《さそ》はれて
|知《し》らず|知《し》らずに|一人《ひとり》|遊《あそ》びぬ
|水《みづ》をもてめぐれる|木田山城内《きたやまじやうない》に
|恐《おそ》るべきもの|如何《いか》であるべき
|此《こ》の|城《しろ》は|吾等《われら》が|心《こころ》のままなれば
|心《こころ》|安《やす》んじ|遊《あそ》ぶともよし』
|斯《か》く|歌《うた》へる|折《をり》しも、エームス|王《わう》は|姫《ひめ》の|姿《すがた》なきに|稍《やや》|待《ま》ちかまへ|気味《ぎみ》なりしが、その|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》りて、
『|汝《なれ》は|今《いま》|帰《かへ》り|来《きた》るか|吾《わが》|心《こころ》
いたくさやぎてありけるものを
|明日《あす》よりは|侍女《じぢよ》を|伴《ともな》ひ|遊《あそ》ぶべし
|一人《ひとり》|歩《あゆ》みは|吾意《わがい》に|叶《かな》はじ』
チンリウ|姫《ひめ》は|微笑《ほほゑ》みながら|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|幸《さち》を|祈《いの》ると|裏庭《うらには》に
|佇《たたず》み|神言《かみごと》|白《まを》し|居《ゐ》たりき』
|斯《か》くて|其《そ》の|日《ひ》は|黄昏《たそがれ》の|闇《やみ》に|包《つつ》まれ、|夫婦《ふうふ》|睦《むつ》まじく|寝《しん》に|就《つ》きけるが、その|翌日《あくるひ》はチンリウ|姫《ひめ》の|提言《ていげん》として、|城内《じやうない》の|菖蒲池《あやめいけ》に|舟《ふね》を|浮《うか》べ、|半日《はんにち》の|清遊《せいいう》を|試《こころ》むる|事《こと》となりぬ。
|菖蒲池《あやめいけ》に|舟遊《ふなあそ》びの|準備《じゆんび》は|整《ととの》ふた。|然《しか》しながら|舟《ふね》と|言《い》つても|大木《たいぼく》の|幹《みき》を|石鑿《いしのみ》を|以《もつ》てゑぐりたるものなりければ、|余《あま》り|多《おほ》くの|人《ひと》の|乗《の》るべき|余地《よち》なく、エームス|王《わう》はじめ、チンリウ|姫《ひめ》、アララギ|其《そ》の|他《た》|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》のみなりける。
|王《わう》は|菖蒲池《あやめいけ》の|汀《みぎは》に|匂《にほ》へる|紫《むらさき》の|花《はな》を|打《う》ち|見《み》やりつつ|愉快《ゆくわい》げに|歌《うた》ふ。
『|菖蒲《あやめ》|咲《さ》く|此《こ》の|池水《いけみづ》に|棹《さを》さして
ものいふ|花《はな》と|遊《あそ》ぶ|楽《たの》しさ
|水底《みなそこ》にうつろふ|花《はな》の|紫《むらさき》を
|見《み》つつ|床《ゆか》しき|舟遊《ふなあそ》びかな
|八千尋《やちひろ》の|深《ふか》き|池底《ちてい》にひそむなる
|真鯉《まごひ》、|緋鯉《ひごひ》も|驚《おどろ》きにけむ
|此《こ》の|池《いけ》に|初《はじ》めて|舟《ふね》を|浮《うか》べつつ
|遊《あそ》ぶは|昔《むかし》ゆ|例《ためし》なきかな
|此《こ》の|池《いけ》に|魔神《まがみ》の|棲《す》むと|昔《むかし》より
|伝《つた》へ|来《きた》れど|今日《けふ》の|安《やす》けさ
アララギの|雄々《をを》しき|女《をみな》と|諸共《もろとも》に
|遊《あそ》ぶ|御舟《みふね》は|楽《たの》しかりけり』
アララギは|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|王《きみ》の|言葉《ことば》の|巧《たく》みさあきれたり
アララギならでチンリウならずや
|年《とし》|老《お》いし|此《こ》のアララギは|花《はな》の|香《か》も
はや|失《う》せぬればかをらひもなし』
エームス|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|春《はる》|匂《にほ》ふ|花《はな》もよけれどまた|秋《あき》の
|花《はな》のかをりも|捨《す》て|難《がた》く|思《おも》ふ
|五月雨《さみだれ》の|空《そら》|晴《は》れにつつ|燕子花《かきつばた》
|菖蒲《あやめ》|匂《にほ》へる|清《すが》しき|今日《けふ》なり
チンリウの|姫《ひめ》の|装《よそほ》ひ|清《きよ》ければ
|菖蒲《あやめ》もかきつも|恥《はぢ》らひ|顔《がほ》なる』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『わが|王《きみ》の|言葉《ことば》|嬉《うれ》しやたのもしや
われは|生命《いのち》を|捧《ささ》げて|仕《つか》へむ
わが|王《きみ》の|手活《ていけ》の|花《はな》と|匂《にほ》ひつつ
|木田山城《きたやまじやう》の|要《かなめ》と|仕《つか》へむ』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|不思議《ふしぎ》や|池水《いけみづ》は|俄《にはか》に|煮《に》えくり|返《かへ》り、|水柱《みづばしら》|各所《かくしよ》に|立《た》ち|狂乱怒濤《きやうらんどたう》のために|独木舟《まるきぶね》は|忽《たちま》ち|顛覆《てんぷく》し、エームス|王《わう》は|真逆様《まつさかさま》に|水中《すいちう》に|落《お》ちたるまま|遂《つひ》に|姿《すがた》を|現《あら》はさざりける。
|茲《ここ》に|生命《いのち》からがら、アララギ、チンリウ|其《そ》の|他《た》の|侍女《じぢよ》は|汀辺《みぎはべ》に|這《は》い|上《あが》り、|玉《たま》の|生命《いのち》をつなぎける。
|先《さき》の|日《ひ》チンリウ|姫《ひめ》の|前《まへ》に|現《あら》はれし、セームスといふ|美男《びなん》は|此《こ》の|池《いけ》の|主《ぬし》にして、|巨大《きよだい》なる|蠑〓《いもり》の|精《せい》なりけるが、|俄《にはか》に|池水《いけみづ》を|躍《をど》らせて|舟《ふね》を|顛覆《てんぷく》せしめ、|王《わう》の|生命《いのち》を|奪《うば》ひとり、チンリウ|姫《ひめ》の|夫《をつと》となりて|此《こ》の|城《しろ》にはばらむとする|計略《たくみ》なりける。
これより|不思議《ふしぎ》やアララギ|及《およ》び|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》は、|生命《いのち》は|助《たす》かりたれども、|眼《まなこ》|眩《くら》み|喉《のど》|塞《ふさ》がりて|何一《なにひと》つ|見《み》る|事《こと》を|得《え》ず、また|語《かた》らふ|事《こと》も|得《え》ずなりにける。それ|故《ゆゑ》|王《わう》の|水中《すいちう》に|陥《おちい》りて|溺死《できし》したる|事《こと》も|知《し》らずに|居《ゐ》たりしなり。
|茲《ここ》に|蠑〓《いもり》の|精《せい》は、エームス|王《わう》となりて|奥殿《おくでん》に|端然《たんぜん》と|控《ひか》へ、チンリウ|姫《ひめ》を|側《そば》|近《ちか》く|侍《はべ》らせ|不義《ふぎ》の|快楽《けらく》に|耽《ふけ》りつつ|国政《こくせい》|日《ひ》に|月《つき》に|乱《みだ》れゆくこそ|浅《あさ》ましかりける。
チンリウ|姫《ひめ》は、どこともなくエームス|王《わう》に|似《に》たれども、|稍《やや》|様子《やうす》の|異《こと》なれるに|不審《ふしん》の|眉《まゆ》をひそめながら|歌《うた》ふ。
『エームスの|王《きみ》は|池中《ちちう》に|陥《おちい》りて
|生命《いのち》|死《し》せしと|思《おも》ひたりしを
エームスの|王《きみ》と|思《おも》へどどこやらに
わが|腑《ふ》に|落《お》ちぬ|節《ふし》のあるかも
|先《さき》の|日《ひ》に|吾《われ》と|語《かた》りし|艶人《あでびと》に
|若《も》しあらずやと|疑《うたが》はれぬる』
|蠑〓《いもり》の|精《せい》は|歌《うた》ふ。
『|愚《おろか》なりチンリウ|姫《ひめ》よ|吾《われ》こそは
|先《さき》の|日《ひ》|会《あ》ひしセームスなるぞや
|幸《さいは》ひにエームス|王《わう》は|滅《ほろ》びたり
いざやこれより|汝《なれ》と|住《す》みなむ
|歎《なげ》くとも|逝《ゆ》きたる|人《ひと》は|帰《かへ》らまじ
|吾《われ》にいそひて|暮《くら》させ|給《たま》へ』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|思《おも》ひきや|汝《なれ》はセームス|優男《やさをとこ》
わがたましひを|蘇《よみがへ》らせり
われもまたエームス|王《わう》にあき|居《ゐ》たり
|汝《なれ》が|姿《すがた》を|見初《みそ》めてしより
|汝《なれ》こそは|常世《とこよ》の|夫《つま》よ|恋《こひ》の|夫《つま》よ
|生命《いのち》|捧《ささ》げて|吾《われ》は|仕《つか》へむ』
|蠑〓《いもり》の|精《せい》は|歌《うた》ふ。
『|汝《なれ》とても|誠《まこと》のチンリウ|姫《ひめ》ならず
センリウ|姫《ひめ》の|贋玉《にせだま》なりけむ
|吾《われ》もまた|誠《まこと》のエームス|王《わう》ならず
|従弟《いとこ》のセームス|優男《やさをとこ》なり
|贋物《にせもの》と|贋物《にせもの》|二人《ふたり》が|此《こ》の|城《しろ》に
|二世《にせ》を|契《ちぎ》るも|面白《おもしろ》からずや
アララギは|眼《まなこ》|失《うしな》ひ|唖《おし》となり
わがたくらみを|悟《さと》らであるらし
|今日《けふ》よりは|汝《なれ》に|免《めん》じてアララギの
|病《やまひ》は|癒《いや》し|永久《とは》に|救《すく》はむ』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|母《はは》を|救《すく》ひ|給《たま》ふかありがたし
さすがは|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》なりにけり
よき|事《こと》のいやつぎつぎに|重《かさ》なりて
|恋《こひ》しき|汝《なれ》にいそひ|居《ゐ》るかも
どこまでもエームス|王《わう》となりすまし
|木田山城《きたやまじやう》に|臨《のぞ》ませ|給《たま》へよ』
|蠑〓《いもり》の|精《せい》は|歌《うた》ふ。
『|汝《な》が|言葉《ことば》|宜《うべ》なり|吾《われ》はどこまでも
エームス|王《わう》となりて|臨《のぞ》まむ
|面白《おもしろ》き|吾世《わがよ》なるかも|木田山《きたやま》の
|城《しろ》の|主《あるじ》となれる|思《おも》へば』
|斯《か》くして|贋《にせ》のチンリウ|姫《ひめ》と、|蠑〓《いもり》の|精《せい》の|化身《けしん》なる|贋《にせ》のエームス|王《わう》は、|木田山城内《きたやまじやうない》|奥深《おくふか》く|住《す》み|込《こ》みて、|国政《こくせい》は|日《ひ》に|月《つき》に|乱《みだ》れ|衰《おとろ》へ、|遂《つひ》には|収拾《しうしふ》すべからざるに|至《いた》りたるこそ|是非《ぜひ》なけれ。
(昭和九・八・一五 旧七・六 於水明閣 白石恵子謹録)
第一九章 |悪魔《あくま》の|滅亡《めつばう》〔二〇四六〕
サールの|国王《こくわう》エールスは|大軍《たいぐん》|率《ひき》ゐて、|大栄山《おほさかやま》の|嶮《けん》を|越《こ》え、イドムの|城《しろ》に|一挙《いつきよ》に|攻《せ》め|寄《よ》せて、アヅミ|王《わう》、|其《そ》の|他《た》の|重臣共《ぢうしんども》を|追《お》ひ|散《ち》らし、|意気《いき》|揚々《やうやう》としてイドムの|城《しろ》の|主《あるじ》となり、|軍師《ぐんし》、|左守《さもり》を|残《のこ》し、サールの|国《くに》を|監督《かんとく》せしめむと|右守《うもり》のナーリスに|数多《あまた》のナイトを|従《したが》へさせ|帰国《きこく》を|命《めい》じけり。ナーリスは|意気《いき》|揚々《やうやう》として|数百《すうひやく》のナイトを|従《したが》へながら、|馬上《ばじやう》|豊《ゆた》かに|歌《うた》ふ。
『サールの|国《くに》の|御主《おんあるじ》
エールス|王《わう》に|従《したが》ひて
|数多《あまた》のナイトを|引率《いんそつ》し
|大栄山《おほさかやま》を|乗《の》り|越《こ》えて
|人魚《にんぎよ》の|里《さと》に|攻《せ》め|寄《よ》せつ
|難《なん》なくここを|占領《せんりやう》し
|勢《いきほ》ひあまつてイドム|城《じやう》
|数多《あまた》|軍《いくさ》の|守《まも》りたる
|要害堅固《えうがいけんご》の|鉄城《てつじやう》を
|何《なん》の|苦《く》もなく|占領《せんりやう》し
アヅミの|王《きみ》を|追《お》ひ|散《ち》らし
|風塵《ふうぢん》|全《まつた》く|治《をさ》まりて
|馬《うま》の|嘶《いなな》き|鬨《とき》の|声《こゑ》
|松《まつ》|吹《ふ》く|風《かぜ》となりにけり
エールス|王《わう》は|欣然《きんぜん》と
イドムの|城《しろ》におはしまし
|山河《さんが》の|景色《けしき》を|眺《なが》めつつ
|御代《みよ》|太平《たいへい》を|謳《うた》ひまし
|汝《なんぢ》|右守《うもり》のナーリスよ
イドムの|国《くに》は|治《をさ》まりぬ
|汝《なれ》はこれより|数百《すうひやく》の
ナイトを|従《したが》へ|堂々《だうだう》と
|大栄山《おほさかやま》を|乗《の》り|越《こ》えて
サールの|国《くに》にかへれよと
よさし|給《たま》ひし|畏《かしこ》さよ
|王《きみ》の|軍《いくさ》の|勝鬨《かちどき》を
みとめて|吾《われ》はかへりゆく
|駒《こま》の|嘶《いなな》き|勇《いさ》ましく
|蹄《ひづめ》の|音《おと》もかつかつと
|山路《やまぢ》を|分《わ》けて|進《すす》むなり
イドムの|国《くに》は|漸《やうや》くに
|平定《へいてい》したれど|村肝《むらきも》の
|心《こころ》にかかるはサールなり
サールの|国《くに》に|残《のこ》したる
エームス|太子《たいし》は|只一人《ただひとり》
|国《くに》の|政治《せいぢ》を|握《にぎ》りつつ
|心《こころ》を|悩《なや》ませ|給《たま》ふらむ
|数多《あまた》の|捕虜《ほりよ》は|木田山《きたやま》の
|城《しろ》の|牢獄《ひとや》に|満《み》ちぬらむ
この|制裁《せいさい》もなかなかに
|容易《ようい》のことにあらざらむ
|急《いそ》げよ|進《すす》めよナイト|等《たち》
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|木田山《きたやま》の
お|城《しろ》の|馬場《ばば》に|到《いた》るまで』
|斯《か》く|歌《うた》ひながら、|夜《よ》を|日《ひ》についで|漸《やうや》く|木田川《きたがは》を|打渡《うちわた》り、|城内《じやうない》に|旗鼓堂々《きこだうだう》とかへり|来《きた》りしさま|威風凛々《ゐふうりんりん》と|四辺《あたり》を|払《はら》ひ、|物々《ものもの》しさの|限《かぎ》りなりけり。|右守《うもり》のナーリスは、わが|出征《しゆつせい》の|後《あと》にエームス|太子《たいし》に|妃《ひ》の|定《さだ》まりたる|事《こと》も|知《し》らず、|城門《じやうもん》を|潜《くぐ》り、|太子《たいし》の|君《きみ》の|御前《ごぜん》に|罷《まか》り|出《い》で、|軍状《ぐんじやう》を|委《つぶさ》に|奏上《そうじやう》せむとして|歌《うた》ふ。
エームス|王《わう》は|王座《わうざ》にあらはれ、|儼然《げんぜん》としてナーリスを|打見《うちみ》やりながら、
『|親王《おやぎみ》に|仕《つか》へてイドムに|向《むか》ひたる
|汝《なれ》はナーリス|司《つかさ》ならずや』
この|歌《うた》にナーリスはハツと|頭《かうべ》を|下《さ》げながら、|歌《うた》もて|奏上《そうじやう》する。
『|親王《おやぎみ》の|功《いさを》|尊《たふと》く|御軍《みいくさ》は
イドムの|国《くに》を|打《う》ち|亡《ほろ》ぼしぬ
|寄《よ》せ|来《きた》る|数多《あまた》の|敵《てき》を|御軍《みいくさ》は
|斬《き》り|払《はら》ひつつ|進《すす》みたりけり
|石垣《いしがき》を|高《たか》く|廻《めぐ》らすイドム|城《じやう》は
|攻《せ》むるに|難《かた》く|守《まも》るにやすし
さりながらわが|親王《おやぎみ》の|功績《いさをし》に
|敵《てき》はもろくも|滅《ほろ》び|失《う》せたり
われこそは|右守《うもり》の|神《かみ》と|仕《つか》へつつ
|御側《おんそば》|近《ちか》くまもらひにけり
|御父《おんちち》の|功績《いさをし》|高《たか》くイドム|城《じやう》は
|平安無事《へいあんぶじ》の|今日《けふ》となりけり
まつぶさにこのありさまを|若王《わかぎみ》に
|伝《つた》へむとしてかへり|来《きた》りぬ
|左守《さもり》、|軍師《ぐんし》その|他《た》の|兵士《つはもの》|残《のこ》しおき
|吾《われ》はナイトを|率《ひき》ゐてかへりし
|若王《わかぎみ》のまめな|御顔《おんかほ》|拝《はい》しつつ
|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|吾《われ》くれにけり
|名《な》にし|負《お》ふイドムの|国《くに》の|真秀良場《まほらば》は
|親王《おやぎみ》|住《す》ますによろしき|国《くに》なり
|若王《わかぎみ》はサールの|国《くに》に|留《とど》まりて
|国《くに》につくせと|宣《の》らせ|給《たま》ひし
|親王《おやぎみ》の|仰《おほ》せなりせば|若王《わかぎみ》も
|必《かなら》ずうけがひ|給《たま》ふなるべし』
エームス|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|待《ま》ちわびしわが|親王《おやぎみ》の|消息《せうそく》を
つぶさに|聞《き》ける|今日《けふ》の|嬉《うれ》しさ
|親王《おやぎみ》のいまさぬうちに|止《や》むを|得《え》ず
|吾《われ》は|妻《つま》をば|娶《めと》りたりけり
|親王《おやぎみ》は|戦《いくさ》の|場《には》にましますと
|思《おも》ひて|一人《ひとり》こととりにけり
|親王《おやぎみ》の|御前《みまへ》よしなに|計《はか》らへよ
わが|新妻《にひづま》を|娶《めと》りたるよし』
ナーリスは|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|妻《つま》を|娶《めと》らす|目出度《めでた》さを
|如何《いか》で|親王《おやぎみ》さまたげ|給《たま》はむ
この|国《くに》も|若王《きみ》の|御稜威《みいづ》に|安々《やすやす》と
|治《をさ》まる|思《おも》へば|楽《たの》しかりけり
|今日《けふ》よりは|右守《うもり》の|吾《われ》はこの|国《くに》の
|左守《さもり》となりて|仕《つか》へまつらむ
|父王《ちちぎみ》の|依《よ》さし|言葉《ことば》にしたがひて
われは|左守《さもり》と|仕《つか》へまつるも』
チンリウ|姫《ひめ》は|始《はじ》めて|右守《うもり》のナーリスを|見《み》たるとて、|驚《おどろ》きの|色《いろ》を|見《み》せながら、さすが|曲者《くせもの》、|平然《へいぜん》として、そしらぬ|態《さま》を|装《よそほ》ひ、
『われこそはエームス|王《わう》の|妃《きさき》ぞや
|汝《なれ》は|左守《さもり》かよくもかへりし
アヅミ、ムラジ|二人《ふたり》が|仲《なか》に|生《うま》れたる
われはチンリウ|姫《ひめ》にぞありける』
ナーリスは、
『ありがたしサールの|国《くに》に|臨《のぞ》みます
|妃《きさき》の|君《きみ》の|雄々《をを》しき|御心《みこころ》
|今日《けふ》よりは|赤《あか》き|心《こころ》を|捧《ささ》げつつ
|若王《きみ》と|妃《きさき》に|仕《つか》へ|奉《まつ》らむ』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『ナーリスの|左守《さもり》の|言葉《ことば》|聞《き》くにつけ
わが|魂《たましひ》の|光《ひか》りかがよふ
わが|王《きみ》の|政治《せいぢ》をたすけ|今日《けふ》よりは
|国《くに》のことごと|眼《まなこ》くばれよ
|治《をさ》まれる|国《くに》にはあれど|彼方此方《あちこち》に
|波風《なみかぜ》|立《た》つと|聞《き》くが|忌々《ゆゆ》しき
|汝《な》が|帰《かへ》り|久《ひさ》しく|待《ま》ちぬ|今日《けふ》こそは
|盲亀《まうき》の|浮木《ふぼく》にあへるが|如《ごと》し』
|斯《か》かるところへ|乳母《うば》のアララギは、さも|横柄《わうへい》な|面《つら》がまへにて|出《い》で|来《きた》り、
『|吾《われ》こそはチンリウ|姫《ひめ》に|仕《つか》へたる
|乳母《うば》アララギよ、ナーリスの|君《きみ》
|陰《かげ》になり|日向《ひなた》になりて|若王《わかぎみ》の
|御身《おんみ》を|守《まも》るわが|身《み》なるぞや
|若王《わかぎみ》の|心《こころ》をくみて|今日《けふ》よりは
われは|汝《なんぢ》にこと|計《はか》るべし』
|左守《さもり》のナーリスは、
『|不思議《ふしぎ》なることを|聞《き》くかな|汝《なれ》こそは
チンリウ|姫《ひめ》の|乳母《うば》にあらずや
|汝《な》が|如《ごと》き|女《をみな》に|政治《せいぢ》かたらふも
|何《なん》の|詮《せん》なし|退《しりぞ》きて|居《を》れ
いやしくも|左守司《さもりつかさ》の|吾《われ》なれば
|汝《なんぢ》の|言葉《ことば》|聞《き》くに|及《およ》ばじ』
チンリウ|姫《ひめ》は|歌《うた》ふ。
『ナーリスの|言葉《ことば》もうべよさりながら
アララギの|言葉《ことば》なほざりにすな
アララギはサールの|国《くに》の|柱《はしら》ぞや
|汝《なれ》も|共々《ともども》|国《くに》に|尽《つく》せよ
アララギは|女《をみな》なれども|男《を》に|勝《まさ》り
さかしき|雄々《をを》しき|益良女《ますらめ》なるぞや』
ナーリスは|歌《うた》ふ。
『|妃《ひ》の|君《きみ》の|御言葉《みことば》うべよと|思《おも》へども
|女《をみな》ことさき|立《た》つは|悪《あ》しけむ』
アララギは|憤然《ふんぜん》として|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》の|妃《きさき》をすすめしアララギを
さげすむ|左守《さもり》は|国《くに》の|仇《あだ》なり
|何事《なにごと》もアララギ|吾《われ》の|言《こと》の|葉《は》に
したがはずして|治《をさ》まるべきかは』
エームス|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『アララギの|雄々《をを》しきさかしき|魂《たましひ》は
|左守《さもり》といへども|及《およ》ばざるべし』
|左守《さもり》は|憤然《ふんぜん》として、
『|左守《さもり》|吾《あ》は|鄙《ひな》に|退《しりぞ》き|奉《まつ》るべし
いやしきアララギ|用《もち》ひ|給《たま》はば』
と|歌《うた》ひつつ|足早《あしばや》に|御前《みまへ》を|退出《たいしゆつ》し、|何処《いづく》ともなく|消《き》え|失《う》せにける。
|斯《か》かるところへ|山岳《さんがく》も|崩《くづ》るるばかりの|矢叫《やさけ》びの|声《こゑ》、|鬨《とき》の|声《こゑ》、|城下《じやうか》に|轟《とどろ》き|渡《わた》り、|数多《あまた》の|暴徒《ぼうと》は|手《て》に|手《て》に|得物《えもの》を|携《たづさ》へ、|本城《ほんじやう》|目《め》がけて|阿修羅王《あしゆらわう》の|狂《くる》ひたる|如《ごと》く|攻《せ》め|寄《よ》せ|来《きた》る。その|勢《いきほ》ひに|城中《じやうちう》は|戦場《せんぢやう》の|如《ごと》く、|到底《たうてい》|寡《くわ》を|以《もつ》て|衆《しう》に|敵《てき》し|難《がた》しと、|贋《にせ》のエームス|王《わう》はチンリウ|姫《ひめ》を|小脇《こわき》に|抱《かか》へ、|菖蒲《あやめ》が|池《いけ》にざんぶとばかり|飛《と》び|込《こ》み、|二人《ふたり》の|姿《すがた》は|水泡《みなわ》となりて|消《き》え|失《う》せにける。
|斯《か》かる|所《ところ》へ、|暴徒《ぼうと》の|中心人物《ちうしんじんぶつ》たる|夕月《ゆふづき》は|弓《ゆみ》に|矢《や》をつがへながら、|殿中《でんちう》|深《ふか》く|入《い》り|来《きた》り、|王《わう》の|居間《ゐま》に|進《すす》みけるが、|二人《ふたり》の|影《かげ》の|見《み》えざるにぞ、|再《ふたた》び|引《ひ》き|返《かへ》し|玄関口《げんくわんぐち》に|来《きた》る|折《をり》しも、|髪《かみ》|振《ふ》り|乱《みだ》し、|血相《けつさう》|変《か》へてアララギは|馳《は》せ|来《きた》り、|大声《おほごゑ》にて、
『やあ、その|方《はう》は|夕月《ゆふづき》にあらざるか、|不届千万《ふとどきせんばん》な、|恐《おそ》れ|多《おほ》くもこの|城内《じやうない》に|群衆《ぐんしう》をおびき|寄《よ》せ、クーデターを|謀《たく》らむとは|不届千万《ふとどきせんばん》なるやり|方《かた》、|罪《つみ》は|万死《ばんし》に|値《あたひ》すべし、|退《さが》れ|退《さが》れ』
と|呼《よ》ばはるにぞ、|夕月《ゆふづき》は|弓《ゆみ》に|矢《や》をつがへながら、|儼然《げんぜん》として|答《こた》ふ。
『|奸佞邪智《かんねいじやち》の|曲者《くせもの》、|若王《わかぎみ》の|心《こころ》にとり|入《い》り、|真正《まこと》のチンリウ|姫様《ひめさま》を|吾子《わがこ》といたし、|大罪《だいざい》を|負《お》はせて|遠島《ゑんたう》の|刑《けい》に|処《しよ》し、|生《う》みの|吾子《わがこ》をチンリウ|姫様《ひめさま》と|称《しよう》し、|若王様《わかぎみさま》の|御目《おんめ》をくらませ、|暴政《ばうせい》をふるひ、|国津神《くにつかみ》を|塗炭《とたん》の|苦《くる》しみに|堕《おと》したるは|皆《みな》|汝《なんぢ》がなす|業《わざ》、|最早《もはや》|今日《こんにち》となりては|天命《てんめい》|逃《のが》れぬところ、|覚悟《かくご》いたして|自害《じがい》いたすか、さなくば|此《こ》の|方《はう》が|弓矢《ゆみや》の|錆《さび》となるか、|覚悟《かくご》はどうだ、|返答《へんたふ》を|聞《き》かむ』
と、|攻《せ》め|寄《よ》せれば、アララギは|慌《あわ》てふためき、|逃《に》げ|出《いだ》さむとするにぞ、|夕月《ゆふづき》は|弓《ゆみ》を|満月《まんげつ》にしぼり、|発止《はつし》と|放《はな》つ。|剛力《がうりき》の|征矢《そや》に|射抜《いぬ》かれて、アララギはもろくも|身《み》|失《う》せにける。
これより|城内《じやうない》は|統制機関《とうせいきくわん》なく、|左守《さもり》のナーリスも|何処《いづこ》へ|行《ゆ》きしか|皆目《かいもく》|分《わか》らず、|木田山城《きたやまじやう》はさながら|悪魔《あくま》の|跳梁《てうりやう》に|任《まか》せけるこそ|是非《ぜひ》なけれ。
(昭和九・八・一五 旧七・六 於水明閣 内崎照代謹録)
第二〇章 |悔悟《くわいご》の|花《はな》〔二〇四七〕
|贋《にせ》のエームス|王《わう》や、|贋《にせ》のチンリウ|姫《ひめ》を|始《はじ》め、|乳母《うば》アララギに|捨台詞《すてぜりふ》を|残《のこ》し|城内《じやうない》を|立《た》ち|出《い》でたる|左守司《さもりつかさ》のナーリスは、|群衆《ぐんしう》の|犇《ひしめ》き|立《た》てる|大混乱《だいこんらん》の|巷《ちまた》に|数百《すうひやく》の|騎士《ナイト》を|従《したが》へ、|隊伍《たいご》|整然《せいぜん》として|現《あら》はれ|来《きた》り、|十字路《じふじろ》に|立《た》ちて、|声《こゑ》|高《たか》らかに|歌《うた》ふ。
『サールの|国《くに》の|国津神《くにつかみ》
|木田山城《きたやまじやう》の|人々《ひとびと》よ
|鎮《しづ》まり|給《たま》へ|吾《われ》こそは
イドムの|国《くに》に|攻《せ》め|寄《よ》せて
|勝鬨《かちどき》あげしナーリスよ
|今《いま》は|左守《さもり》の|神《かみ》となり
|木田山城《きたやまじやう》に|帰《かへ》りしが
エームス|王《わう》は|悪神《あくがみ》に
|生命《いのち》|奪《うば》はれ|怪《あや》しかる
|贋《にせ》のエームス|君臨《くんりん》し
|悪逆無道《あくぎやくぶだう》のアララギが
|娘《むすめ》が|妃《きさき》となりすまし
|暴威《ぼうゐ》を|振《ふ》るひ|居《ゐ》たりしが
|愛国志士《あいこくしし》の|団体《だんたい》に
|攻《せ》め|立《た》てられし|悪魔等《あくまら》は
|忽《たちま》ち|煙《けむり》と|消《き》えにけり
かくなる|上《うへ》は|人々《ひとびと》よ
|最早《もはや》|騒《さわ》ぐに|及《およ》ぶまじ
サールの|国《くに》を|永久《とこしへ》に
|平安無事《へいあんぶじ》に|守《まも》りつつ
|各《おのおの》|業《げふ》に|安《やす》んじて
|其《そ》の|日《ひ》の|生活《くらし》を|楽《たの》しめよ
|吾《われ》は|之《これ》より|城内《じやうない》に
|騎士《ナイト》を|率《ひき》ゐて|立帰《たちかへ》り
|乱《みだ》れ|果《は》てたる|秩序《ちつじよ》をば
|全《まつた》く|元《もと》に|立《た》て|直《なほ》し
|善政《ぜんせい》を|布《し》かむ|覚悟《かくご》なり
|国津神等《くにつかみたち》|国人《くにびと》よ
|心《こころ》を|安《やす》んじ|給《たま》ふべし
|鎮《しづ》まり|給《たま》へ|諸人《もろびと》よ
|其《そ》の|他《ほか》|百《もも》の|国津神《くにつかみ》
|一先《ひとま》づ|鉾《ほこ》を|納《をさ》めませ
エールス|王《わう》は|遥々《はるばる》と
イドムの|国《くに》を|言向《ことむ》けて
|時《とき》めき|給《たま》ふ|功績《いさをし》を
|汝等《なれら》|国人《くにびと》|恐《おそ》れずや
エールス|王《わう》が|軍隊《ぐんたい》を
|数多《あまた》|引連《ひきつ》れ|此《こ》の|国《くに》に
|再《ふたた》び|帰《かへ》りますならば
|汝《なれ》が|生活《くらし》は|弥益《いやます》も
|安《やす》く|楽《たの》しくありぬべし
|一時《いちじ》に|鎮《しづ》まれ|疾《と》く|早《はや》く
|吾《われ》は|左守《さもり》のナーリスよ
|真《まこと》の|悪魔《あくま》は|亡《ほろ》びたり
|平地《へいち》に|波《なみ》を|起《おこ》すべき
|理由《りいう》は|無《な》からむ|速《すみや》かに
|元《もと》の|如《ごと》くに|鎮《しづ》まれよ
|後《あと》は|吾々《われわれ》|汝等《なんぢら》が
|望《のぞ》みを|詳細《つぶさ》に|聞《きこ》え|上《あ》げ
|其《そ》の|目的《もくてき》を|達《たつ》すべし』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|向《むか》ふの|方《はう》より|群衆《ぐんしう》に|押《お》されながら、|馬上《ばじやう》ゆたかに|進《すす》み|来《きた》る|勇士《ゆうし》は、|音《おと》に|名高《なだか》き|夕月《ゆふづき》なりけり。
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『|悪魔《あくま》の|昼夜《ちうや》にはびこりし
|木田山城《きたやまじやう》は|鎮《しづ》まりぬ
|吾等《われら》の|率《ひき》ゆる|大丈夫《ますらを》の
|御国《みくに》を|思《おも》ふ|真心《まごころ》は
|天《あめ》と|地《つち》とに|通《つう》じけむ
|暴逆無道《ぼうぎやくぶだう》のアララギも
|奸佞邪智《かんねいじやち》なるセンリウも
|蠑〓《いもり》の|精《せい》と|聞《きこ》えたる
|贋《にせ》のエームス|王《わう》までも
|今《いま》は|全《まつた》く|亡《ほろ》びたり
もう|此《こ》の|上《うへ》は|吾々《われわれ》は
|左守《さもり》の|神《かみ》を|力《ちから》とし
|乱《みだ》れ|果《は》てたる|国原《くにはら》を
|清《きよ》め|澄《す》まして|元《もと》の|如《ごと》
|至治太平《しちたいへい》の|世《よ》となさむ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|天地《てんち》の|神《かみ》の|御恵《みめぐ》みに
|国《くに》に|仇《あだ》なす|曲神《まがかみ》は
|全《まつた》く|影《かげ》を|隠《かく》しけり
|汝等《なれら》|心《こころ》を|安《やす》んぜよ
サールの|国《くに》は|生《うま》れたり
|亡《ほろ》び|行《ゆ》くなる|国原《くにはら》は
|汝等《なれら》|群衆《ぐんしう》の|真心《まごころ》に
|蘇《よみがへ》りたる|嬉《うれ》しさよ
いざ|是《これ》よりは|国人《くにびと》よ
ナーリス|左守《さもり》を|信頼《しんらい》し
|一切万事《いつさいばんじ》を|委《ゆだ》ねつつ
|心《こころ》|平穏《おだひ》に|引《ひ》けよかし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》の|御前《おんまへ》に
|感謝《かんしや》を|捧《ささ》げ|奉《たてまつ》る』
|斯《か》くて|左守《さもり》と|夕月《ゆふづき》は|十字街頭《じふじがいとう》に|大衆《たいしう》を|率《ひき》ゐたるままで|邂逅《かいこう》し、|互《たがひ》に|暴動《ぼうどう》の|無事《ぶじ》|治《をさ》まりしを|祝《しゆく》し|合《あ》ひつつ、|夕月《ゆふづき》は|先《ま》づ|歌《うた》ふ。
『|常暗《とこやみ》の|雲《くも》は|晴《は》れにつ|久方《ひさかた》の
|月日《つきひ》は|清《きよ》く|輝《かがや》き|渡《わた》れり
|汝《なれ》こそは|左守《さもり》の|神《かみ》よ|乱《みだ》れたる
|此《こ》の|世《よ》の|縺《もつ》れを|解《と》かせ|給《たま》へり
|曲神《まがかみ》は|残《のこ》らず|亡《ほろ》び|失《う》せにけり
いざ|是《これ》よりは|君《きみ》に|頼《たよ》らむ』
ナーリスは|歌《うた》ふ。
『|遥々《はるばる》とイドムの|国《くに》より|帰《かへ》り|来《こ》し
|間《ま》もあらなくに|此《こ》の|騒《さわ》ぎみし
|夕月《ゆふづき》の|君《きみ》の|真心《まごころ》|力《ちから》とし
|吾《われ》は|仕《つか》へむ|木田山城《きたやまじやう》に』
これより|左守《さもり》のナーリスは、|愛国団体《あいこくだんたい》の|隊長《たいちやう》|夕月《ゆふづき》と|共《とも》に|騎士《ナイト》に|守《まも》られ、|城内《じやうない》|深《ふか》く|浸入《しんにふ》し、|一切万事《いつさいばんじ》の|後片附《あとかたづけ》をなし、|重臣等《ぢゆうしんたち》を|一間《ひとま》に|集《あつ》めて|国乱鎮定《こくらんちんてい》の|祝賀会《しゆくがくわい》を|催《もよほ》しける。|重《おも》なる|参会者《さんくわいしや》はナーリスを|初《はじ》め|夕月《ゆふづき》、|滝津瀬《たきつせ》、|山風《やまかぜ》、|青山《あをやま》、|紫《むらさき》、|玉山《たまやま》|等《など》の|数十人《すうじふにん》の|重臣《ぢうしん》なりける。
|青山《あをやま》は|歌《うた》ふ。
『|天地《あめつち》の|神《かみ》の|御稜威《みいづ》と|左守司《さもりつかさ》
|夕月司《ゆふづきつかさ》に|治《をさ》まりしはや
|刈菰《かりごも》の|乱《みだ》れ|果《は》てたる|国原《くにはら》も
|君《きみ》の|力《ちから》に|治《をさ》まりにけり
|国津神《くにつかみ》|国人等《くにびとたち》は|悪政《あくせい》に
|苦《くる》しめられて|喘《あへ》ぎ|居《ゐ》しはや
かくならば|思《おも》ふことなしサールの|国《くに》は
いや|益々《ますます》に|栄《さか》え|行《ゆ》くらむ』
|紫《むらさき》は|歌《うた》ふ。
『|長《なが》き|日《ひ》を|鄙《ひな》に|潜《ひそ》みて|国《くに》の|状態《さま》
|吾《われ》は|細々《こまごま》|調査《しら》べ|来《き》にけり
|只《ただ》ならぬ|大事《だいじ》|起《おこ》ると|常々《つねづね》に
|忠告《ちうこく》せしも|聞《き》かれざりけり
|城内《じやうない》に|数多《あまた》の|曲津《まがつ》|潜《ひそ》み|居《ゐ》て
|益々《ますます》|国《くに》は|乱《みだ》れ|果《は》てけり
|怪《あや》しかる|女《をみな》アララギ|覇《は》をとなへ
|木田山城《きたやまじやう》は|闇《やみ》となりける
|紫《むらさき》の|雲《くも》は|御空《みそら》に|靡《なび》けども
|中空《なかぞら》の|雲《くも》|黒々《くろぐろ》|覆《おほ》ひし
|行先《ゆくさき》は|如何《いかが》ならむとわづらひし
|心遣《こころづか》ひも|夢《ゆめ》となりしか
エールスの|王《きみ》の|戦《いくさ》に|出《い》でしより
|一入《ひとしほ》サールの|国《くに》は|乱《みだ》れし』
|玉山《たまやま》は|歌《うた》ふ。
『イドムより|怪《あや》しき|女《をみな》|入《い》り|来《きた》り
サールの|国《くに》は|乱《みだ》されにけり
|捕虜《ほりよ》として|捕《とら》へ|帰《かへ》りし|魔《ま》の|女《をみな》に
|木田山城《きたやまじやう》は|傾《かたむ》きしはや
|今日《けふ》となりて|吾等《われら》の|心《こころ》|安《やす》まりぬ
|亡《ほろ》びむとする|国《くに》のいのちを
|如何《いか》にして|亡《ほろ》びむ|国《くに》を|生《い》かさむと
|朝夕《あさゆふ》|心《こころ》を|砕《くだ》きけるかな』
|山風《やまかぜ》は|歌《うた》ふ。
『エームスの|吾《わが》|若王《わかぎみ》の|御心《みこころ》を
|蕩《とろ》かせ|奉《まつ》りし|魔《ま》の|女《をみな》かな
エームスの|若王《わかぎみ》|魔性《ましやう》に|謀《たばか》られ
|生命《いのち》|果敢《はか》なくならせ|給《たま》ひぬ
|城内《じやうない》の|菖蒲《あやめ》の|池《いけ》の|主《ぬし》といふ
|蠑〓《いもり》は|王《きみ》を|失《うしな》ひしはや
これよりは|蠑〓《いもり》の|精《せい》を|言向《ことむ》けて
|国《くに》の|災《わざはひ》|清《きよ》く|払《はら》はせよ』
|滝津瀬《たきつせ》は|歌《うた》ふ。
『|木田川《きたがは》の|流《なが》れはいたく|濁《にご》りたり
|魔性《ましやう》の|女《をみな》を|捕《とら》へ|来《き》しより
|斯《か》くの|如《ごと》|安《やす》く|治《をさ》まりし|有様《ありさま》を
イドムの|王《きみ》に|知《し》らせたきかな
|吾《わが》|王《きみ》はイドムの|城《しろ》を|亡《ほろ》ぼして
|功《いさを》を|永久《とは》に|立《た》てさせ|給《たま》へり
|治《をさ》まりし|国《くに》の|姿《すがた》をイドムなる
|王《きみ》に|見《み》せなば|喜《よろこ》び|給《たま》はむ』
|夕月《ゆふづき》は|歌《うた》ふ。
『|木田城《きたじやう》に|吾《われ》は|久《ひさ》しく|仕《つか》へつつ
|乱《みだ》れ|行《ゆ》く|世《よ》を|歎《なげ》かひて|居《ゐ》し
アララギの|木田山城《きたやまじやう》に|入《い》りしより
|人《ひと》の|心《こころ》は|騒《さわ》ぎ|初《そ》めたり
アララギを|斬《き》つて|捨《す》てむと|幾度《いくたび》か
|思《おも》へど|詮《せん》なく|忍《しの》び|居《ゐ》たりき
|天《てん》の|時《とき》|漸《やうや》く|到《いた》り|群衆《ぐんしう》を
|率《ひき》ゐて|吾《われ》は|曲津《まが》を|討《う》ちたり
|神々《かみがみ》の|恵《めぐ》みに|吾《われ》は|守《まも》られて
|日頃《ひごろ》の|望《のぞ》み|遂《と》げし|嬉《うれ》しさ
|折《をり》も|折《をり》|左守《さもり》の|司《つかさ》|帰《かへ》りますと
|聞《き》きてゆ|吾《われ》は|勇《いさ》み|立《た》ちたり
|人《ひと》の|和《わ》を|得《え》たる|軍《いくさ》は|何処《どこ》までも
|亡《ほろ》ぶ|事《こと》なく|勝《か》ち|終《おほ》せたり
|城内《じやうない》を|騒《さわ》がせ|奉《まつ》りし|吾《わが》|罪《つみ》を
|身《み》に|引《ひ》き|受《う》けて|鄙《ひな》に|下《くだ》らむ』
|左守《さもり》の|司《つかさ》ナーリスは|歌《うた》ふ。
『|国人《くにびと》の|清《きよ》き|心《こころ》の|集《あつ》まりに
|曲《まが》は|影《かげ》なく|亡《ほろ》び|失《う》せたり
|刈菰《かりごも》の|乱《みだ》れ|漸《やうや》く|鎮《しづ》まりて
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|祝言《ほぎごと》|宣《の》るも
エールスの|王《きみ》の|言葉《ことば》に|従《したが》ひて
|急《いそ》ぎ|帰《かへ》れば|国《くに》|乱《みだ》れ|居《を》り
|今《いま》|暫《しば》し|帰国《きこく》|後《おく》るる|事《こと》あらば
サールの|国《くに》は|自滅《じめつ》し|居《ゐ》るらむ』
|斯《か》く|歌《うた》へる|折《をり》もあれ、|数千《すうせん》の|騎士《ナイト》を|率《ひき》ゐて|逃《に》げ|帰《かへ》りたる|副将《ふくしやう》チンリンは|奥殿《おくでん》|深《ふか》く|進《すす》み|来《きた》り、|左守《さもり》の|神《かみ》のナーリスに|向《むか》ひ、|挙手《きよしゆ》の|礼《れい》を|捧《ささ》げながら|歌《うた》ふ。
『エールスの|王《きみ》|悲《かな》しくも|帰幽《かく》れましぬ
サツクス|姫《ひめ》も|身《み》|失《う》せ|給《たま》ひぬ
チクターの|左守《さもり》を|始《はじ》めエーマンの
|軍師《ぐんし》も|共《とも》に|滅《ほろ》び|失《う》せたり
アヅミ|王《わう》の|勢《いきほひ》|強《つよ》く|盛《も》り|返《かへ》し
|吾等《われら》が|味方《みかた》は|脆《もろ》くも|破《やぶ》れぬ
かくならばイドムの|国《くに》に|用《よう》なしと
|騎士《ナイト》を|率《ひき》ゐて|急《いそ》ぎ|帰《かへ》りし』
|此《こ》の|報告《はうこく》に|左守《さもり》を|始《はじ》め|夕月《ゆふづき》|其《そ》の|他《た》の|面々《めんめん》は、|顔色《かほいろ》をサツと|変《か》へ、|茫然《ばうぜん》として|暫《しば》し|無言《むごん》の|幕《まく》を|続《つづ》け|居《ゐ》たりける。
ナーリスは|愕然《がくぜん》として|歌《うた》ふ。
『|思《おも》ひきや|武勇《ぶゆう》の|聞《きこ》え|高《たか》かりし
|吾等《われら》の|王《きみ》は|帰幽《かく》れ|給《たま》ふか
サツクスの|妃《きさき》の|君《きみ》も|身《み》うせしと
|聞《き》くにつけても|悲《かな》しさに|堪《た》へず
|左守《さもり》まで|軍師《ぐんし》の|君《きみ》まで|身《み》|罷《まか》りしは
|如何《いか》なる|事《こと》か|聞《き》かまほしけれ
|漸《やうや》くにサールの|国《くに》の|治《をさ》まりを
|喜《よろこ》ぶ|間《ま》もなく|此《こ》の|便《たよ》り|聞《き》くも』
チンリンは|歌《うた》ふ。
『|何故《なにゆゑ》か|訳《わけ》は|知《し》らねど|吾《わが》|王《きみ》は
|神《かみ》の|譴責《きため》にあひ|給《たま》ひけむ
|人々《ひとびと》の|語《かた》るを|聞《き》けば|主《ス》の|神《かみ》の
|皆《みな》いましめと|定《さだ》めゐるらし
|兎《と》に|角《かく》に|人《ひと》の|国《くに》をば|奪《うば》ひたる
|報《むく》いなりせば|詮術《せんすべ》なけむ』
|左守《さもり》は|歌《うた》ふ。
『|恐《おそ》ろしき|事《こと》を|聞《き》くかな|他《た》の|国《くに》を
|奪《うば》はむとする|戦《いくさ》の|有様《ありさま》
エールスの|王《きみ》の|血統《ちすぢ》は|亡《ほろ》びたり
サールの|国《くに》を|如何《いか》に|守《まも》らむ』
|夕月《ゆふづき》は|憮然《ぶぜん》として|歌《うた》ふ。
『|兎《と》にもあれ|角《かく》にもあれや|人《ひと》はただ
|誠《まこと》の|道《みち》をあゆむべきなり
|日月《じつげつ》の|威勢《ゐせい》|輝《かがや》く|吾《わが》|王《きみ》も
|亡《ほろ》ぶる|時《とき》のある|世《よ》なるかな
|今日《けふ》よりは|誠《まこと》|一《ひと》つを|力《ちから》とし
サールの|国《くに》を|安《やす》く|治《をさ》めむ』
|滝津瀬《たきつせ》は|歌《うた》ふ。
『|慾《よく》といふ|醜《しこ》の|曲津《まがつ》に|誘《いざな》はれ
|王《きみ》は|御国《みくに》を|失《うしな》ひ|給《たま》ひし
|此《こ》の|広《ひろ》きサールの|国《くに》にましまさば
|斯《か》かる|歎《なげ》きはあらざらましを
|吾《わが》|力《ちから》|頼《たの》み|過《す》ぎたる|報《むく》いにて
|王《きみ》は|生命《いのち》を|失《うしな》ひ|給《たま》ひぬ
|全滅《ぜんめつ》の|憂目《うきめ》にあひしエールスの
|王《きみ》の|行末《ゆくすゑ》|淋《さび》しかりけり
|愛善《あいぜん》の|誠《まこと》なければ|人《ひと》の|身《み》は
|身《み》も|魂《たましひ》も|終《つひ》に|亡《ほろ》びむ』
|山風《やまかぜ》は|歌《うた》ふ。
『|嶮《けは》しかる|大栄山《おほさかやま》を|乗《の》り|越《こ》えて
|生命《いのち》を|捨《す》てし|王《きみ》を|悲《かな》しむ
|吾《わが》|王《きみ》はイドムの|城《しろ》に|攻《せ》め|寄《よ》せて
|尊《たふと》き|生命《いのち》を|捨《す》てさせ|給《たま》へり
|歎《なげ》きても|及《およ》ばじものと|思《おも》へども
なほ|歎《なげ》かるる|今宵《こよひ》なりけり
|何事《なにごと》も|誠《まこと》|一《ひと》つに|進《すす》みなば
|世《よ》に|過《あやま》ちはあらじと|思《おも》ふ』
|左守《さもり》は|歌《うた》ふ。
『かくならば|最早《もはや》|是非《ぜひ》なし|吾々《われわれ》は
|誠《まこと》の|道《みち》を|進《すす》むのみなる
エールスの|王《きみ》は|吾等《われら》にいましめを
|永遠《とは》に|残《のこ》して|去《さ》りましにけり
|天地《あめつち》の|神《かみ》を|恐《おそ》れみ|謹《つつし》みて
|誠《まこと》の|道《みち》に|進《すす》み|行《ゆ》くべし』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|終《をは》り|左守《さもり》のナーリスは、|城内《じやうない》|一般《いつぱん》にエールス|王《わう》|一族《いちぞく》の|不幸《ふかう》を|発表《はつぺう》し、|国民《こくみん》の|代表者《だいへうしや》を|集《あつ》めて|盛大《せいだい》なる|葬《はふり》の|式《しき》を|執《と》り|行《おこな》ひ、|木田山《きたやま》の|城内《じやうない》に|荘厳《さうごん》なる|主《ス》の|神《かみ》の|御舎《みあらか》を|造営《ざうえい》し、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|正《ただ》しき|政治《せいぢ》を|行《おこな》はせ|給《たま》へと|祈願《きぐわん》|怠《をこた》りなかりける。
(昭和九・八・一五 旧七・六 於水明閣 森良仁謹録)
-----------------------------------
霊界物語 第八一巻 天祥地瑞 申の巻
終り