霊界物語 第八〇巻 天祥地瑞 未の巻
出口王仁三郎
--------------------
●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第八十巻』天声社
1980(昭和55)年05月05日 五版発行
※附録に図表が一枚あるがテキストでは再現できないので省略した。
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年09月08日作成
2008年06月23日修正
-------------------------
●目次
|序文《じよぶん》
|総説《そうせつ》 |言霊《ことたま》の|活用《くわつよう》
第一篇 |忍ケ丘《しのぶがをか》
第一章 |独《ひと》り|旅《たび》〔二〇〇五〕
第二章 |行倒《ゆきだふれ》〔二〇〇六〕
第三章 |復活《ふくくわつ》〔二〇〇七〕
第四章 |姉妹婆《しまいばば》〔二〇〇八〕
第五章 |三《み》つ|盃《さかづき》〔二〇〇九〕
第六章 |秋野《あきの》の|旅《たび》〔二〇一〇〕
第二篇 |秋夜《しうや》の|月《つき》
第七章 |月見ケ丘《つきみがをか》〔二〇一一〕
第八章 |月《つき》と|闇《やみ》〔二〇一二〕
第九章 |露《つゆ》の|路《みち》〔二〇一三〕
第一〇章 |五乙女《いつをとめ》〔二〇一四〕
第一一章 |火炎山《くわえんざん》〔二〇一五〕
第一二章 |夜見還《よみがへり》〔二〇一六〕
第一三章 |樹下《じゆか》の|囁《ささや》き〔二〇一七〕
第一四章 |報哭婆《ほうこくばば》〔二〇一八〕
第一五章 |憤死《ふんし》〔二〇一九〕
第三篇 |天地変遷《てんちへんせん》
第一六章 |火《ひ》の|湖《みづうみ》〔二〇二〇〕
第一七章 |水火垣《いきがき》〔二〇二一〕
第一八章 |大挙出発《たいきよしゆつぱつ》〔二〇二二〕
第一九章 |笑譏怒泣《ゑきどきう》〔二〇二三〕
第二〇章 |復命《かへりごと》〔二〇二四〕
第二一章 |青木ケ原《あをきがはら》〔二〇二五〕
第二二章 |迎《むか》への|鳥船《とりふね》〔二〇二六〕
第二三章 |野火《のび》の|壮観《さうくわん》〔二〇二七〕
------------------------------
|序文《じよぶん》
|本巻《ほんくわん》は|霊界物語《れいかいものがたり》の|順次《じゆんじ》によれば|第八十巻《だいはちじつくわん》に|相当《さうたう》し、|天祥地瑞《てんしやうちずゐ》にては|第八巻《だいはちくわん》に|当《あた》るなり。|昭和《せうわ》|九年《くねん》|七月《しちぐわつ》|三十一日《さんじふいちにち》|口述《こうじゆつ》を|終《をは》る。|今後《こんご》|未《ま》だ|四十巻《よんじつくわん》の|口述《こうじゆつ》あり、|前途《ぜんと》|遼遠《れうゑん》にして|多忙《たばう》なる|口述者《こうじゆつしや》に|取《と》りては、|中々《なかなか》の|重荷《おもに》なりと|言《い》ふべし。
|本巻《ほんくわん》|載《の》する|所《ところ》の|大要《たいえう》は、|葭原《よしはら》の|国土《くに》に|棲息《せいそく》して|悪事《あくじ》を|為《な》す|猛獣邪鬼《まうじうじやき》を|払《はら》ひて、|新《あたら》しき|国土《くに》を|御樋代神《みひしろがみ》の|熱誠《ねつせい》に|由《よ》りて|樹立《じゆりつ》し|給《たま》ふ|物語《ものがたり》にして、|趣味《しゆみ》|深《ふか》きものなり。
|漸《やうや》くに|八十《やそ》の|坂道《さかみち》|越《こ》えにつつ
|息《いき》つきにけり|昭九《せうく》の|七月《しちぐわつ》
昭和九年七月三十一日 旧六月二十日 於関東別院南風閣 出口王仁識
|附録《ふろく》
|君《きみ》が|代《よ》の|国歌《こくか》を、|韻律《ゐんりつ》の|法則《はふそく》に|由《よ》りて|表示《へうじ》すれば|左図《さづ》の|如《ごと》く、その|母音《ぼおん》が|左右《さいう》|相対的《さうたいてき》に|対照《たいせう》して|居《ゐ》て、|韻律《ゐんりつ》の|美《び》なる|事《こと》は、|皇国日本《くわうこくにつぽん》の|厳正中立《げんせいちうりつ》の|精神《せいしん》を|如実《によじつ》に|表徴《へうちよう》するものたるを|知《し》り|得《う》べし。
XXを|中心《ちうしん》に、|同《おな》じ|母音《ぼおん》が|対照《たいせう》せるを|見《み》るべし。
[#図表省略]
|総説《そうせつ》 |言霊《ことたま》の|活用《くわつよう》
|皇道《くわうだう》に|顕《あらは》れたる|神《かみ》といふ|意義《いぎ》に|就《つい》ては|四種《よんしゆ》の|大区別《だいくべつ》がある。|曰《いは》く|幽《いう》の|幽《いう》、|曰《いは》く|幽《いう》の|顕《けん》、|曰《いは》く|顕《けん》の|幽《いう》、|曰《いは》く|顕《けん》の|顕《けん》、|之《これ》なり。
|而《しかう》して|幽《いう》の|幽神《いうしん》は|天之峰火夫《あまのみねひを》の|神《かみ》|以下《いか》|皇典《くわうてん》|所載《しよさい》の|天之御中主神《あめのみなかぬしのかみ》|及《およ》び|別天神《ことあまつかみ》|迄《まで》の|称号《しようがう》にして、|幽《いう》の|顕《けん》なる|神《かみ》は|天照大神《あまてらすおほかみ》、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》|等《たち》の|神位《しんゐ》に|坐《ま》します|神霊《しんれい》を|称《しよう》するなり。|天照大神《あまてらすおほかみ》、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|等《たち》は、|幽《いう》の|幽神《いうしん》の|御水火《みいき》より|出生《しゆつしやう》されたる|体神《たいしん》(|現体《げんたい》)なるが|故《ゆゑ》にして、|尊貴《そんき》|極《きは》まりなき|神格《しんかく》なり。
|次《つぎ》に|顕《けん》の|幽《いう》なる|神《かみ》は|大己貴命《おほなむちのみこと》、|少彦名命《すくなひこなのみこと》|等《たち》の|称号《しようがう》にして、|一旦《いつたん》|地上《ちじやう》の|現界《げんかい》にその|尊姿《そんし》を|顕現《けんげん》して|顕実界《けんじつかい》を|主宰《しゆさい》し|給《たま》ひたるが、|定命《ぢやうみやう》|尽《つ》きて|神界《しんかい》に|復活《ふくくわつ》され|幽体《いうたい》となられたる|意義《いぎ》の|称号《しようがう》にして、|菅公《くわんこう》、|楠公《なんこう》、|豊公《ほうこう》、|其《その》|他《た》の|現人《げんじん》|没後《ぼつご》の|神霊《しんれい》の|称号《しようがう》なり。
|次《つぎ》に|顕《けん》の|顕《けん》なる|神《かみ》は|則《すなは》ち|畏《かしこ》くも|万世一系《ばんせいいつけい》の|皇統《くわうとう》を|垂《た》れさせ|給《たま》ひて、|世界《せかい》に|君臨《くんりん》し|給《たま》ふ|現人神《あらひとがみ》に|坐《ま》しまして、|天津日継天皇《あまつひつぎてんわう》の|御玉体《おんぎよくたい》に|坐《ま》しませるなり。|故《ゆゑ》に|皇道日本国《くわうだうにつぽんこく》の|神《かみ》なる|意義《いぎ》は|頗《すこぶ》る|広汎《くわうはん》に|亘《わた》りて、|外国人《ぐわいこくじん》の|唱導《しやうだう》する|如《ごと》き|単純《たんじゆん》なる|神《かみ》にあらざるを|知《し》るべきなり。
|凡《すべ》て|宇宙《うちう》も、|神《かみ》も、|万物《ばんぶつ》も、その|大原《たいげん》は|天之峰火夫《あまのみねひを》の|神《かみ》|即《すなは》ち|大宇宙《だいうちう》の|大極元《だいきよくげん》の|言霊《ことたま》|幸《さち》はひ|坐《ま》して|成《な》り|出《い》でませるなれば、|実《じつ》に|至貴《しき》|至尊《しそん》なるものは|此《この》|言霊《ことたま》をおきて|何物《なにもの》も|無《な》しと|知《し》るべし。
|著者《ちよしや》は|天祥地瑞《てんしやうちずゐ》|未《ひつじ》の|巻《まき》を|口述《こうじゆつ》するに|当《あた》り、|皇道|言霊《ことたま》学上《くわうだうことたまがくじやう》より|見《み》たる|声音《せいおん》の|一部《いちぶ》を|略解《りやくかい》しおかむと|欲《ほつ》するなり。
ワ声の言霊活用
ワ|声《ごゑ》は、|子《ね》の|方面《はうめん》に|活用《くわつよう》して「|分《わか》れ|去《さ》る|義《ぎ》」あり、|北東《ほくとう》には|活用《はたらき》なく、|東北《とうほく》に|活用《はたら》きて「|子《こ》の|世《よ》|也《なり》」、|東《ひがし》に|活用《はたら》きて「|親《おや》を|省《かへり》みる|也《なり》」、|東南《とうなん》に|活用《はたら》きて「|人《ひと》の|起《おこり》|也《なり》」、|南東《なんとう》に|活用《はたら》きて「|輪《わ》となり、|一箇《いつこ》の|体《たい》となり、また|我身《わがみ》の|輪《わ》となる」、|南《みなみ》に|活用《はたら》きて「|締《し》め|寄《よ》する|言霊《ことたま》となる」、また|南西《なんせい》に|活用《はたら》きて「ウアの|結《むすび》となり、|世界《せかい》の|輪《わ》となる|也《なり》」、|西南《せいなん》に|活用《はたら》きて「|物《もの》の|起《おこ》り|也《なり》」、|西《にし》に|活用《はたら》きて「|世《よ》を|知《し》る|初《はじめ》となり」、|西北《せいほく》に|活用《はたら》きて「|遂《つひ》に|親《おや》の|位《くらゐ》を|践《ふ》む|也《なり》」の|言霊《ことたま》となる。|北西《ほくせい》に|活用《はたら》きて「|分《わか》れ|出《い》づる|也《なり》」の|言霊《ことたま》あり、また「|輪《わ》は|群類《もろもろ》|也《なり》」「|紋理之起《あやのおこり》|也《なり》」「われを|責《せ》むる|声《こゑ》にして、|又《また》わめく|声《こゑ》なり」「|友《とも》に|並《なら》び|居《を》り」「|世《よ》に|涵《つか》り|居《を》る|也《なり》」「|親《おや》なり|子《こ》なり」「|順々《じゆんじゆん》に|世《よ》を|保《たも》つなり」「|生《うま》れ|初《そ》むるなり」「|分子《われ》の|形《かたち》なり」。|斯《かく》の|如《ごと》くにしてワ|声《ごゑ》の|言霊《ことたま》は|世《よ》に|生《い》きて|活用《はたら》くを|知《し》るべし。
ヲ声の言霊活用
ヲ|声《ごゑ》の|言霊《ことたま》は、|北《きた》に|活用《はたら》きて「|解分《ときわ》け|掌《つかさど》る|意義《いぎ》なり」、|北東《ほくとう》に|活用《はたら》きて「|劣《おと》り|降《くだ》る|也《なり》、|別派《べつぱ》の|形《かたち》|也《なり》」、|東北《とうほく》に|活用《はたら》きて「|大気《を》の|一条《ひとすぢ》|也《なり》、|青《あを》|也《なり》」、|東《ひがし》に|活用《はたら》きて「|長《をさ》|也《なり》、|治《をさまる》|也《なり》、|教《をしへ》|也《なり》、|躍《をどる》|也《なり》」、|東南《とうなん》に|活用《はたら》きて「|形《かたち》を|使役《しえき》|為《な》す|也《なり》」、|東南《とうなん》に|活用《はたら》きて「シシモノナリ、|食《を》|也《なり》」、|南《みなみ》に|活用《はたら》きて「|結而一《むすびていつ》となる|言霊《ことたま》|也《なり》」、|南西《なんせい》に|活用《はたら》きて「ウオの|結《むすび》|也《なり》、|霊《たま》の|緒《を》|也《なり》、|霊魂脈管《たましひ》|也《なり》」、|西南《せいなん》に|活用《はたら》きて「|自在《じざい》に|使役為《しえきなす》|也《なり》」、|西《にし》に|活用《はたら》きて「をめく|声《こゑ》、|喚声《よびごゑ》|也《なり》、|向《むか》ふものを|緒《を》を|以《もつ》て|繋《つな》ぎ|引寄《ひきよ》する|義《ぎ》なり」、|西北《せいほく》に|活用《はたら》きて「|生《お》ふる|也《なり》、|生《は》え|出《いづ》る|也《なり》」、|北西《ほくせい》に|活用《はたら》きて「|遠《とほ》く|至《いた》る|所《ところ》なり、|息《いき》|也《なり》」、また「|男《を》なり、|陰茎《を》|也《なり》、|居《を》る|也《なり》、|己《おのれ》|也《なり》、|上命《お》、|下諾《お》、|唯唯《おを》|也《なり》、|尾《を》なり、|祭《まつ》り|守《まも》らしむ|也《なり》、まつをれつく|也《なり》、|細長《ほそなが》き|形《かたち》|也《なり》、|緒《を》なり」|等《とう》の|言霊活用《ことたまくわつよう》あり。
ウ声の言霊活用
ウ|声《ごゑ》は、|北《きた》に|活用《はたら》きて「|後《しりへ》に|豊《と》む|義《ぎ》となり」、|北東《ほくとう》に|活用《はたら》きて「|籠《こも》り|据《すわ》る|也《なり》、|据《すわ》り|見《み》る|也《なり》」、|東北《とうほく》に|活用《はたら》きて「|潤《うるほ》ふ|也《なり》」、|東《ひがし》に|活用《はたら》きて「|謡《うた》ふ|也《なり》、|売《う》れる|也《なり》、|結《むす》び|成《な》り|上《あが》る|也《なり》」、|東南《とうなん》に|活用《はたら》きて「|失《う》する|也《なり》、|疑《うたが》ひ|初《そ》むる|也《なり》」、|南東《なんとう》に|活用《はたら》きて「|動《うご》き|働《はたら》く|也《なり》、|浮《う》き|出《で》る|也《なり》、|上《うへ》|也《なり》」、|南《みなみ》に|活用《はたら》きて「|上《うへ》に|成《な》り|移《うつ》る|言霊《ことたま》となり、|寿《いのち》の|所在《しよざい》|也《なり》」、|南西《なんせい》に|活用《はたら》きて「ワウの|結《むすび》|也《なり》、|生《うま》れ|出《いづ》る|也《なり》」、|西南《せいなん》に|活用《はたら》きて「|子《こ》の|働《はたら》き|也《なり》」、|西《にし》に|活用《はたら》きて「|生死《せいし》を|顕《あら》はす|也《なり》、|働移行飢《ううる》|也《なり》」、|西北《せいほく》に|活用《はたら》きて「|移《うつ》る|也《なり》、|写《うつ》す|也《なり》」、|北西《ほくせい》に|活用《はたら》きて「|転《うたた》|也《なり》、|蛆虫《うじむし》|也《なり》」、また「|心《こころ》の|結《むすび》|也《なり》、|植《う》ゑ|立《た》つる|也《なり》、|薄《うす》き|也《なり》、|倦《う》む|也《なり》、|結《むす》び|立《た》つ|也《なり》、|中《なか》に|立《た》ち|結《むす》ぶ|也《なり》、|心痛《こころいたむ》|也《なり》、|憂《う》き|也《なり》、|醜《みにく》き|也《なり》」|等《とう》の|活用《はたらき》ある|言霊《ことたま》なり。
ヱ声の言霊活用
ヱ|声《ごゑ》の|活用《はたらき》は、|北《きた》に|活用《はたら》きて「|刺劇《ゑぐ》る|義《ぎ》となり、また|掘《ほ》り|行《ゆ》く|也《なり》」、|北東《ほくとう》に|活用《はたら》きて「|刳《ゑぐ》り|返《かへ》す|也《なり》、|片寄《かたよ》る|也《なり》」、|東北《とうほく》に|活用《はたら》きて「|兼《か》ね|合《あ》ふ|也《なり》」、|東《ひがし》に|活用《はたら》きて「|事照《ことて》り|輝《かがや》く|也《なり》」、|東南《とうなん》に|活用《はたら》きて「|織《お》り|照《て》らす|也《なり》」、|南東《なんとう》に|活用《はたら》きて「|刺《さ》し|込《こ》む|所《ところ》|也《なり》、|餌《ゑ》|也《なり》」、|南《みなみ》に|活用《はたら》きて「|幸《さち》はひ|進《すす》み|玉《たま》ふ|言霊《ことたま》|也《なり》、|又《また》|楽《たの》しむ|所《ところ》|也《なり》」、|南西《なんせい》に|活用《はたら》きて「ウエの|結《むす》び|也《なり》、|恵《めぐ》み|盛《さかん》|也《なり》」、|西南《せいなん》に|活用《はたら》きて「|保《たも》ち|見《み》る|也《なり》」、|西《にし》に|活用《はたら》きて「|事《こと》を|執《と》る|也《なり》」、|西北《せいほく》に|活用《はたら》きて「|含《ふく》み|思《おも》ふ|也《なり》」、|北西《ほくせい》に|活用《はたら》きて「|役《ゑ》|也《なり》」、また「|笑《ゑ》む|也《なり》、|腹中之真《なかわたにまことある》|也《なり》、|乳垂《ちちた》る|也《なり》、|中腹《なかわた》に|成就《なりつく》|也《なり》、|必《かなら》ず|出《いづ》る|也《なり》、|黜陟之権有《つかふかてあ》る|也《なり》、|尚《たか》く|行《ゆ》く|也《なり》」|等《とう》の|言霊妙用《ことたまめうよう》あるなり。
ヰ声の言霊活用
ヰ|声《ごゑ》の|活用《はたらき》は、|北《きた》に「|移転之中央《いてんのちうあう》を|束《つか》ね|居《ゐ》る|義《ぎ》|也《なり》」、|北東《ほくとう》に|活用《はたら》きて「|前後《ぜんご》、|大小《だいせう》、|上下《じやうげ》、|左右《さいう》、|新古《しんこ》、|善悪《ぜんあく》、|正邪《せいじや》、|美醜《びしう》、|軽重《けいぢゆう》、|長短《ちやうたん》、|好悪《かうを》、|内外等《ないぐわいとう》の|対照的《たいせうてき》|言義《げんぎ》|也《なり》」、|東北《とうほく》に|活用《はたら》きて「|三世《さんぜ》を|一貫《いつくわん》する|也《なり》、|忽《たちま》ち|来《きた》り|忽《たちま》ち|行《ゆ》く|也《なり》」、|東南《とうなん》には|活用《はたらき》なし。|南東《なんとう》に|活用《はたら》きて「|呼吸《こきふ》|也《なり》、|不止居《とどまりをらざる》|也《なり》」、|南《みなみ》に|活用《はたら》きて「|世《よ》に|立《た》ち|盛《さか》る|言霊《ことたま》|也《なり》」、|南西《なんせい》に|活用《はたら》きて「ワイの|結《むす》び|也《なり》、|通《かよ》ひ|直居《つつを》る|也《なり》」、|西南《せいなん》に|活用《はたら》きて「|何《いづ》れ|也《なり》」、|西《にし》に|活用《くわつよう》して「|霊魂脈管《たましひ》の|全象《ぜんしやう》|也《なり》」、|西北《せいほく》に|活用《はたら》きて「ヰを|以《もつ》てイイを|知《し》る|也《なり》」、|北西《ほくせい》に|活用《はたら》きて「|差別《さべつ》、|往来《わうらい》、|生死《せいし》の|類《るい》、|一切《いつさい》の|事《こと》|皆《みな》|悉《ことごと》く|其《その》|中《なか》に|立《た》ちて|両端《りやうたん》を|釣《つ》り|居《を》る|也《なり》」、また「|三世《さんぜ》の|瀬戸《せと》|也《なり》、|寿《いのち》|也《なり》、|呼吸之内《いのち》|也《なり》、|今《いま》|也《なり》、|現在《げんざい》|電光《でんくわう》の|機関《きくわん》|也《なり》、|枝葉《しえう》|無《な》き|也《なり》、|流《ながれ》に|立《た》つ|也《なり》、|火《ひ》の|燈《とも》る|形《かたち》|也《なり》、|世《よ》の|階段《かいだん》に|立《た》ち|居《を》る|也《なり》、|日ノ川《ひのかは》|也《なり》」|等《とう》の|言霊妙用《ことたまめうよう》ありと|知《し》るべし。|凡《すべ》て|猪《ゐのしし》は|一直線《いつちよくせん》に|走《はし》りて|傍見《わきみ》を|為《せ》ざる|性《さが》なり、また「|猪首《ゐくび》|也《なり》、|糸《いと》、|藺《ゐ》」|等《とう》の|言霊《ことたま》なり。
ヤ声の言霊活用
ヤ|声《ごゑ》の|言霊《ことたま》は、|北《きた》に|活用《はたら》きて「|内《うち》を|貫《つらぬ》く|義《ぎ》|也《なり》」、|北東《ほくとう》に|活用《はたら》きて「|宿《やど》る|也《なり》」、|東北《とうほく》に|活用《はたら》きて「|遣《や》る|也《なり》」、|東《ひがし》に|活用《はたら》きて「|透明《とうめい》にして|見《み》えざる|也《なり》、|経綸《けいりん》の|形《かたち》|也《なり》、|天《てん》に|帰《かへ》る|也《なり》、|指《さ》し|難《がた》き|也《なり》」、|東南《とうなん》に|活用《はたら》きて「|天上《てんじやう》より|直射《ちよくしや》する|光線《くわうせん》|也《なり》、|指《さ》し|込《こ》む|也《なり》」、|南東《なんとう》に|活用《はたら》きて「|極《きはめ》て|敏《はや》く|見《み》えざる|也《なり》、|屋《や》|也《なり》」、|南《みなみ》に|活用《はたら》きて「|外《そと》を|覆《おほ》ふ|言霊《ことたま》|也《なり》」、|南西《なんせい》に|活用《はたら》きて「イアの|結《むす》び|也《なり》、|重《かさな》り|騰《あが》る|也《なり》」、|西南《せいなん》に|活用《はたら》きて「|走《はし》り|飛《と》ぶ|也《なり》」、|西《にし》に|活用《はたら》きて「|地球《ちきう》を|親《した》しく|包裏《はうり》し|居《を》る|也《なり》、|我《われ》を|覆《おほ》ひ|渡《わた》りて|常世《とこよ》の|天《てん》を|照《てら》し|居《を》る|也《なり》、|裏面《とこよ》の|天地《そこ》|也《なり》」、|西北《せいほく》に|活用《くわつよう》して「|三《み》つ|重《かさ》なる|也《なり》、|八《や》つ|也《なり》」、|北西《ほくせい》には|活用《くわつよう》|無《な》し。またヤの|言霊《ことたま》には「|矢《や》|也《なり》、|焼《やく》|也《なり》、|透明体《とうめいたい》なる|天中固有《てんちうこいう》の|紋理《あや》|也《なり》、|蒼洞《さうどう》|也《なり》、|先天《あめ》の|真気《そこたち》|也《なり》、|固有《こいう》の|大父《たいふ》|也《なり》、|親《おや》の|謂《イハレ》|也《なり》、|左旋《させん》|也《なり》、|大輪《たいりん》の|覆蓋《ほや》|也《なり》、|居《を》る|也《なり》」|等《とう》の|言霊妙用《ことたまめうよう》ありと|知《し》るべし。
ヨ声の言霊活用
ヨ|声《ごゑ》の|言霊《ことたま》は、|北《きた》に|活用《はたら》きて「|離《はな》れ|散《ち》る|也《なり》」、|北東《ほくとう》に|活用《はたら》きて「|重《かさ》なり|下《さが》る|也《なり》、|分《わか》れ|散《ち》る|也《なり》」、|東北《とうほく》に|活用《はたら》きて「|生而後知《うまれてのちし》る|所《ところ》|也《なり》」、|東《ひがし》に|活用《はたら》きて「|善美《よ》|也《なり》、|能《よ》く|張《は》り|合《あ》ふ|也《なり》、|矢《や》の|道《みち》|備《そな》ふ|也《なり》、|祖先億兆《そせんおくてう》、|子孫億兆《しそんおくてう》、|却々却《ごふごふごふ》を|現在《げんざい》|明《あき》らかに|保《たも》ち|居《を》る|也《なり》」、|東南《とうなん》に|活用《はたら》きて「|東西南北《とうざいなんぼく》|現《あら》はるる|也《なり》」、|南東《なんとう》に|活用《はたら》きて「|必《かなら》ず|四間《よま》に|成《な》る|也《なり》、|四《よ》ツに|組《く》む|也《なり》、|四《よ》ツ|也《なり》」、|南《みなみ》に|活用《はたら》きて「|寄《よ》り|結《むす》ぶ|言霊《ことたま》|也《なり》」、|南西《なんせい》に|活用《はたら》きて「ヤオの|結《むす》び|也《なり》、|天《あめ》の|下《した》|也《なり》、|世《よ》の|中《なか》|也《なり》」、|西南《せいなん》に|活用《はたら》きて「|必《かなら》ず|正約存《ちかひ》|也《なり》」、|西《にし》に|活用《はたら》きて「|螺旋備《らせんそな》はる|也《なり》、|経緯《たてよこ》に|樋入《ひい》る|也《なり》、|驚《おどろ》き|呼《よ》ぶ|声《こゑ》|也《なり》、ヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨ|也《なり》」、|西北《せいほく》に|活用《はたら》きて「|一極輪《ひときはり》|也《なり》、|是《これ》をヨと|言《い》ふ|也《なり》」、|北西《ほくせい》に|活用《はたら》きて「|縦《よし》|也《なり》、|廃《よ》する|也《なり》」、またヨ|声《ごゑ》には「|半《なかば》|也《なり》、|呼《よ》び|出《だ》す|形《かたち》|也《なり》、|寄《よ》り|合《あ》ふ|也《なり》、|億兆《おくてう》の|現在所《げんざいしよ》|也《なり》、|漂《ただよ》ふ|形《かたち》|也《なり》、(オヲ|之《の》|棚引《たなびく》|也《なり》)、|天地火水《てんちくわすゐ》|纏《まと》まる|形《かたち》|也《なり》、|能《よ》く|指令《さしづ》する|也《なり》、オヲ|既《すで》に|起《おこ》り|備《そなは》る|時《とき》は、|二二《にに》が|四《し》の|方面《はうめん》|必《かなら》ず|備《そなは》り|在《あ》る|也《なり》」|等《とう》の|妙用《めうよう》あるべし。
ユ声の言霊活用
ユ|声《ごゑ》の|言霊活用《ことたまくわつよう》は、|北《きた》に「|指《さ》し|集《あつ》まる|義《ぎ》|也《なり》」、|北東《ほくとう》に「|震《ゆす》り|鎮《しづ》むる|也《なり》」、|東北《とうほく》に|活用《はたら》きて「|機気《きき》の|通《かよひ》は|敏速《するどき》|也《なり》、|電気《でんき》の|類《るい》|也《なり》」、|東《ひがし》に|活用《はたら》きて「|彼《かれ》より|是《これ》に|伸《の》び|立《た》ち|来《きた》る|也《なり》、|揺蕩《たゆたふ》|也《なり》」、|東南《とうなん》に|活用《はたら》きて「|釣合《つりあ》ふ|力《ちから》|也《なり》、|平均力《へいきんりよく》の|元《もと》|也《なり》、|床《ゆか》|也《なり》」、|南東《なんとう》に|活用《はたら》きて「|湯《ゆ》の|働《はたら》き|也《なり》、|沸《わ》き|返《かへ》る|也《なり》」、|南《みなみ》に|活用《はたら》きて「|起《おこ》り|行《ゆ》く|言霊《ことたま》となり」、|南西《なんせい》に|活用《はたら》きて「ヤウの|結《むす》び|也《なり》、|行《ゆ》き|通《かよ》ふ|也《なり》」、|西《にし》に|活用《はたら》きて「|幽顕《イウけん》|也《なり》、|気質相交換《きしつあひかうくわん》する|也《なり》、|寛《ゆるやか》に|漂《ただよ》ふ|也《なり》」、|西北《せいほく》に|活用《くわつよう》して「|体質《たいしつ》の|通《かよひ》は|寛慢《くわんまん》|也《なり》(ミノカヨヒハ寛也)、|火脈《くわみやく》、|腺脈《せんみやく》、|流水《りうすい》の|類《るい》|也《なり》」、|北西《ほくせい》に|活用《くわつよう》して「ヤヨの|現在《げんざい》なり」、また「|天《てん》の|結姿《むすぶすがた》|也《なり》、|蒸騰《むせのぼ》る|也《なり》、|行《ゆ》き|届《とど》く|也《なり》、|努力《ゆめえた》|也《なり》、|忌々《ゆゆ》|也《なり》、|往来為《わうらいなす》|也《なり》、|総《す》べ|震《ゆる》る|也《なり》、|夢《ゆめ》|也《なり》、|是《これ》より|彼《かれ》に|到《いた》り|見《み》る|也《なり》、|是《これ》より|彼《かれ》を|顧《かへり》みる|也《なり》、|弓《ゆみ》の|活用《はたらき》|也《なり》」、|以上《いじやう》の|妙用《めうよう》あるを|知《し》るべし。
エ声の言霊活用
エ|声《ごゑ》の|言霊活用《ことたまくわつよう》は、|北《きた》に|活用《はたら》きて「|本蔭《もとかげ》る|義《ぎ》となり」、|北東《ほくとう》に|活用《くわつよう》して「|窄《つぼ》の|動《うご》く|也《なり》」、|東北《とうほく》に|活用《はたら》きて「|痿《な》える|也《なり》」、|東《ひがし》に|活用《くわつよう》して「|廉目立《かどめだつ》|也《なり》、|太大《えらき》|也《なり》」、|東南《とうなん》に|活用《くわつよう》して「|愛《え》なり、|能《えお》|也《なり》」、|南東《なんとう》に|活用《はたら》きて「|頻《しき》りに|集《あつま》り|来《きた》る|也《なり》、|上《のぼり》|栄《さか》ゆる|也《なり》、|枝《えだ》|也《なり》」、|南《みなみ》に|活用《くわつよう》して「|末《すゑ》|栄《さか》ゆる|言霊《ことたま》|也《なり》」、|南西《なんせい》に|活用《くわつよう》して「|幸《さち》の|力《ちから》|也《なり》」、|西南《せいなん》に|活用《くわつよう》して「ヱエの|登《みの》り|也《なり》」、またエの|言霊《ことたま》には「|猶《なほ》|普《あまね》き|也《なり》、|既《すで》に|移転《いてん》|也《なり》、|編《え》む|也《なり》、えらむは|撰《える》の|公《おほやけ》なる|也《なり》、ウウユル|也《なり》、ウウエル|也《なり》、|飢《ううる》|也《なり》、|悦《よろこ》び|合《あ》ふ|也《なり》、|恋《こが》れつく|也《なり》」の|活用《くわつよう》あるなり。
イ声の言霊活用
イ|声《ごゑ》の|言霊《ことたま》は、|北《きた》に|活用《くわつよう》して「|心動而不定義《こころうごきてさだまらざるぎ》|也《なり》」、|北東《ほくとう》に|活用《くわつよう》して「|揺《ゆ》り|定《さだ》むる|也《なり》、|考《かんが》へ|定《さだ》むる|也《なり》」、|東北《とうほく》に|活用《くわつよう》して「|遠《とほ》く|恋《こ》ひ|行《ゆ》く|也《なり》」、|東《ひがし》に|活用《くわつよう》して「|結《むす》び|溜《たま》る|也《なり》」、|東南《とうなん》に|活用《くわつよう》して「|矢《や》の|収《ゐ》る|所《ところ》なり」、|南東《なんとう》に|活用《くわつよう》して「|淪澱《イトコイル》|也《なり》、|鎔《いがた》に|行《ゆ》き|渡《わた》る|也《なり》、|身《み》|也《なり》」、|南《みなみ》に|活用《くわつよう》して「|身《み》を|定《さだ》めて|動《うご》かざる|言霊《ことたま》|也《なり》」、|南西《なんせい》に|活用《くわつよう》して「ヤイの|結《むす》び|也《なり》、|鋳定《いさだ》まる|也《なり》」、|西南《せいなん》に|活用《くわつよう》して「|至《いた》り|止《とどま》る|也《なり》」、|西《にし》に|活用《くわつよう》して「|九族一身《きうぞくいつしん》の|証《あかし》|也《なり》、|指《ゆび》の|名《な》を|兼持《かねも》つ|也《なり》」、|西北《せいほく》に|活用《くわつよう》して「|指《ゆび》の|活用《はたらき》|也《なり》」、|北西《ほくせい》に|活用《くわつよう》して「|心《こころ》|也《なり》」、またイ|声《ごゑ》の|言霊《ことたま》には「|天井《イハリ》|也《なり》、|遂《つひ》に|身《み》に|従《したが》ひ|成《な》る|也《なり》、|射中《イアツ》る|也《なり》、|心《こころ》の|形《かたち》|也《なり》、|興《おこ》り|伸《の》び|立《た》ち|止《とどま》る|也《なり》、|父《ちち》の|孫《まご》|也《なり》、|母《はは》の|子《こ》|也《なり》、|親《おや》の|心《こころ》を|稟《う》け|持《も》つ|也《なり》」|等《とう》の|妙用《めうよう》あるを|知《し》るべし。
第一篇 |忍ケ丘《しのぶがをか》
第一章 |独《ひと》り|旅《たび》〔二〇〇五〕
|人《ひと》を|喜《よろこ》ばせ、|人《ひと》を|泣《な》かせ、|人《ひと》を|怒《いか》らせ、|人《ひと》を|死《し》なしめ、|山野《さんや》を|滅尽《めつじん》し、|大廈高楼《たいかかうろう》を|覆《くつが》へして|修羅《しゆら》の|巷《ちまた》と|世《よ》を|化《くわ》す|魔物《まもの》は、|大三災《だいさんさい》の|風水火《ふうすゐくわ》ならずとも、|小三災《せうさんさい》の|飢病戦《きびやうせん》の|災《わざはひ》ならずとも、|表面《へうめん》より|見《み》れば、さも|美《うるは》しく|味《あぢ》はひよく、|春陽《しゆんやう》の|気《き》を|四辺《しへん》に|漂《ただよ》はしむる|恋愛《れんあい》そのものである。|雲《くも》の|上人《うへびと》も、|農工商《のうこうしやう》も、ルンペンも、|禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》も、|恋《こひ》のためには、|生命《せいめい》を|賭《と》して|戦《たたか》ふものである。
|茲《ここ》に|水上山《みなかみやま》の|館《やかた》に、|国土《くに》の|司《つかさ》として|鎮《しづ》まれる|艶男《あでやか》は、|竜《たつ》の|島根《しまね》にゆくりなくも|救《すく》ひ|上《あ》げられ、|恋《こひ》の|嵐《あらし》、|愛《あい》の|雨《あめ》、|情《なさけ》の|礫《つぶて》に|取《と》りまかれ、|不知不識《しらずしらず》に|落城《らくじやう》して、|人面竜身《にんめんりうしん》の|燕子花《かきつばた》の|恋《こひ》に|囚《とら》はれたるが、|数多《あまた》の|女竜神等《ぢよりうしんたち》の|羨望《せんばう》の|的《まと》となり、|竜《たつ》の|島ケ根《しまがね》に|居《ゐ》たたまらず、|燕子花《かきつばた》と|諜《しめ》し|合《あ》はせ、|月夜《つきよ》を|幸《さいは》ひ、|窃《ひそ》かに|竜《たつ》の|都《みやこ》の|表門《おもてもん》を|忍《しの》び|出《い》で、|八尋鰐《やひろわに》や|水火土《しほつち》の|神《かみ》の|舟《ふね》に|助《たす》けられ、|水上山《みなかみやま》の|父母《ふぼ》の|館《やかた》に|帰《かへ》り、|燕子花《かきつばた》を|妻《つま》となし、|琴瑟《きんしつ》|相和《あひわ》して|楽《たの》しき|月日《つきひ》を|送《おく》りけるが、|好事《かうず》|魔《ま》|多《おほ》しとの|譬《たとへ》に|洩《も》れず、|竜《たつ》の|島根《しまね》の|女神《めがみ》、|白萩《しらはぎ》、|白菊《しらぎく》、|女郎花《をみなへし》の|三人《さんにん》は|元《もと》の|竜体《りうたい》と|変《へん》じ、|玉耶湖《たまやこ》の|波《なみ》を|渡《わた》りて、|艶男《あでやか》の|住《す》まへる|水上山《みなかみやま》の|麓《ふもと》を|流《なが》るる|大井川《おほゐがは》の|対岸《たいがん》、|藤ケ丘《ふぢがをか》に|身《み》を|潜《ひそ》め、|艶男《あでやか》の|日夜《にちや》の|声《こゑ》を|聞《き》きて|楽《たの》しみ|居《ゐ》たりけるが、|茲《ここ》に|艶男《あでやか》の|妻《つま》|燕子花《かきつばた》の|子《こ》を|生《う》める|苦《くる》しさに、|元《もと》の|竜体《りうたい》となりて|玉《たま》の|御子《みこ》を|抱《いだ》き|寝《ね》れるを|垣間見《かいまみ》され、その|恐《おそ》ろしき|姿《すがた》に|仰天《ぎやうてん》して、|艶男《あでやか》は|吾《わが》|館《やかた》に|逃《に》げ|入《い》りて|震《ふる》へ|居《ゐ》たりける。
さて|燕子花《かきつばた》は、その|浅《あさ》ましき|竜体《りうたい》を|夫《をつと》に|見付《みつ》けられしを|恥《は》ぢ、|御子《みこ》を|産屋《うぶや》に|残《のこ》し|置《お》き、|大井川《おほゐがは》の|深淵《ふかぶち》に|身《み》を|投《とう》じて|淵《ふち》の|鬼《おに》となりけるを、|妻《つま》の|愛情《あいじやう》|忘《わす》れ|難《がた》く、|恐《こ》は|怖《ご》はながら、|恋《こひ》しさ、|悲《かな》しさ、|大井《おほゐ》の|淵《ふち》に|舟《ふね》を|浮《うか》べて|清遊《せいいう》を|試《こころ》むる|折《をり》、|白萩《しらはぎ》、|白菊《しらぎく》、|女郎花《をみなへし》の|竜神《たつがみ》の|霊《れい》、|燕子花《かきつばた》の|竜神《たつがみ》と|恋《こひ》を|争《あらそ》ひ、|互《たがひ》に|鎬《しのぎ》を|削《けづ》りて、|口《くち》を|紅《あけ》に|染《そ》めけるが、|艶男《あでやか》も|堪《たま》りかね、|忽《たちま》ち|淵《ふち》に|身《み》を|投《とう》じたるより、|天地《てんち》|震動《しんどう》し、|暴風《ぼうふう》|吹《ふ》き|起《おこ》り、|大雨《たいう》|頻《しき》りに|臻《いた》り、|忽《たちま》ち|暗黒界《あんこくかい》と|化《くわ》し、|水上山《みなかみやま》の|聖場《せいぢやう》は|修羅《しゆら》の|巷《ちまた》となりにける。
|国津神《くにつかみ》は|嘆《なげ》き|悲《かな》しみ、|阿鼻叫喚《あびけうくわん》の|地獄《ぢごく》を|現出《げんしゆつ》したる|折《をり》もあれ、|御空《みそら》の|雲《くも》を|分《わ》けて|悠然《いうぜん》と|水上山《みなかみやま》の|頂上《ちやうじやう》さして、|御樋代神《みひしろがみ》なる|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は、|四柱《よはしら》の|侍神《じしん》を|従《したが》へ|降《くだ》りまし、|厳《いづ》の|言霊《ことたま》を|宣《の》り|上《あ》げて、|天変地異《てんぺんちい》の|惨状《さんじやう》をしづめたまひて、|天国《てんごく》|浄土《じやうど》を|築《きづ》かせたまひ、|艶男《あでやか》と|燕子花《かきつばた》との|中《なか》に|生《うま》れたる|嬰児《えいじ》の|竜彦《たつひこ》が|成人《せいじん》するまで、|子心比女《こごころひめ》の|神《かみ》に|托《たく》し|給《たま》ひ、|世継《よつぎ》の|御子《みこ》を|失《うしな》ひし|老夫婦《らうふうふ》を|退隠《たいいん》せしめ、|重臣《ぢうしん》の|巌ケ根《いはがね》をして、|竜彦《たつひこ》の|成人《せいじん》まで|国務《こくむ》を|預《あづか》らしめ|置《お》きて、|茲《ここ》に|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|従神《じうしん》と|共《とも》に|生言霊《いくことたま》の|雲《くも》を|起《おこ》し、|遥《はる》かの|空《そら》に|聳《そび》ゆる|高光山《たかみつやま》の|東面《とうめん》に|御宮居《おんみやゐ》を|定《さだ》め、|永遠《えいゑん》に|此《この》|国土《くに》に|君臨《くんりん》せむと|出《い》でさせ|給《たま》ひける。
|跡《あと》に|残《のこ》りし|巌ケ根《いはがね》は、|御樋代神《みひしろがみ》の|神言《みこと》|畏《かしこ》み、|老《お》いたる|君《きみ》に|仕《つか》へつつ、|予讃《よさ》の|国《くに》をして|至治泰平《しちたいへい》の|世《よ》となし、|老身《らうしん》|夫婦《ふうふ》の|心《こころ》を|慰《なぐさ》め、|御樋代神《みひしろがみ》の|恩命《おんめい》に|報《むく》いむとして、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》な|神《かみ》を|祈《いの》り、|国津神《くにつかみ》を|愛《いつくし》み、|以《もつ》て|国務《こくむ》に|余念《よねん》なかりける。
|水上山《みなかみやま》より|以東《いとう》|約《やく》|十余里《じふより》の|地点《ちてん》は、|山神彦《やまがみひこ》の|力《ちから》によりて|開拓《かいたく》され、|国津神等《くにつかみたち》も|心《こころ》を|安《やす》んじて|耕作《かうさく》の|業《げふ》に|従事《じうじ》し|居《ゐ》たれども、|高光山《たかみつやま》の|山麓《さんろく》までは|約《やく》|三百里《さんびやくり》までの|遠距離《ゑんきより》あり。|而《しか》して|高光山《たかみつやま》|以西《いせい》は|御樋代神《みひしろがみ》の|御命令《ごめいれい》に|依《よ》り、|水上山《みなかみやま》の|国館《くにやかた》の|執政《しつせい》|巌ケ根《いはがね》は、|如何《いか》にもして|開拓《かいたく》せむと|日夜《にちや》|焦慮《せうりよ》しつつありける。この|巌ケ根《いはがね》は|意外《いぐわい》の|子福者《こぶくしや》にして、|春男《はるを》、|夏男《なつを》、|秋男《あきを》、|冬男《ふゆを》の|四柱《よはしら》の|男子《をのこ》を|持《も》ち、|何《いづ》れも|一人《ひとり》|世《よ》に|立《た》つまでの|成年者《せいねんしや》なりける。
|葭原《よしはら》の|国土《くに》は|其《その》|名《な》の|如《ごと》く|地上《ちじやう》|一面《いちめん》|葭草《よしぐさ》に|充《み》たされ、|其《その》|間《あひだ》に|水奔草《すいほんさう》なるもの|発生《はつせい》し、|黄色《きいろ》き|花《はな》を|開《ひら》き、|外面《ぐわいめん》より|見《み》れば|実《じつ》に、|美《うるは》しき|花《はな》なれども、|其《その》|花《はな》に|葉《は》に|茎《くき》に|強《つよ》き|毒《どく》を|含《ふく》みて、|之《これ》に|触《ふ》るるものあれば、|何《いづ》れも|其《その》|毒《どく》に|中《あた》り、|忽《たちま》ち|生命《せいめい》を|落《おと》すが|故《ゆゑ》に、|国津神等《くにつかみたち》も|禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》も、|其《その》|難《なん》を|恐《おそ》れて|広《ひろ》き|原野《げんや》に|棲《す》むものなかりけり。|只《ただ》|生命《せいめい》を|保《たも》ち|得《う》るものは、|甲羅《かふら》のある|鰐《わに》に|似《に》たる|怪獣《くわいじう》と|蛇《へび》と|蜈蚣《むかで》を|混同《こんどう》したる|如《ごと》きイヂチといふ|爬虫族《はちうぞく》の|棲《す》みて、あらゆる|人畜《じんちく》に|害《がい》を|与《あた》へれば、|国津神《くにつかみ》の|住《す》むに|応《ふさ》はず、|開拓《かいたく》の|始《はじ》めより|葭草《よしぐさ》や|水奔草《すいほんさう》の|茂《しげ》るに|任《まか》せありけるが、その|物凄《ものすご》きこと|言語《げんご》に|絶《ぜつ》せり。
|巌ケ根《いはがね》は|此《この》|荒地《あれち》を|開拓《かいたく》すべく、|先《ま》づ|第四男《だいよなん》の|冬男《ふゆを》をして|冒険的《ぼうけんてき》|旅行《りよかう》を|為《な》さしめ、|高光山《たかみつやま》の|頂上《ちやうじやう》に|遣《つか》はしにける。|冬男《ふゆを》は|只《ただ》|一人《ひとり》|父《ちち》の|命《めい》を|奉《ほう》じ、|雄心勃々《ゆうしんぼつぼつ》として|際限《さいげん》なき|原野《げんや》を|開拓《かいたく》せむと、|先《ま》づ|第一着手《だいいちちやくしゆ》として|国形《くにがた》を|視察《しさつ》せむと、|全身《ぜんしん》を|皮衣《かはごろも》に|固《かた》め、|水奔草《すいほんさう》の|生《お》ひ|茂《しげ》る|中《なか》を|勇往邁進《ゆうわうまいしん》せるが、|一《ひと》つの|広《ひろ》き|低《ひく》き|丘山《をかやま》に|突《つ》き|当《あた》りける。|此処《ここ》には|数多《あまた》の|国津神《くにつかみ》が|彼方此方《あなたこなた》に|穴《あな》を|穿《うが》ちて|住居《ぢうきよ》し、|稍《やや》|広《ひろ》き|村落《そんらく》をなしけるが、|何《いづ》れも|生《い》きたる|人間《にんげん》にあらず、|水奔草《すいほんさう》の|毒《どく》に|中《あた》りて|生命《せいめい》を|失《うしな》ひし|水奔鬼《すいほんき》といふ|幽霊《いうれい》の|集団《しふだん》なりける。|斯《か》かることとは|露知《つゆし》らぬ|冬男《ふゆを》は、|此《この》|丘《をか》にたどりつき、とある|小《ちひ》さき|家《いへ》に|立寄《たちよ》り、|一夜《いちや》の|宿《やど》を|乞《こ》はむと|門《かど》に|立《た》ちて|訪《おとな》ふ。
『|醜草《しこぐさ》の|生《お》ひ|茂《しげ》りたる|荒野《あらの》|越《こ》えて
|来《きた》りしものよ|一夜《ひとよさ》の
|露《つゆ》の|宿《やど》りを|許《ゆる》せかし
|吾《われ》こそは|水上山《みなかみやま》の|神館《みやかた》に
|時《とき》の|執政《しつせい》|巌ケ根《いはがね》が
|四男《よなん》と|生《あ》れし|冬男《ふゆを》なり
|此《こ》の|国原《くにはら》を|開拓《ひら》かむと
|父《ちち》の|御言《みこと》をかがふりて
|毒草《どくさう》|茂《しげ》る|荒野《あらの》|越《こ》え
|高光山《たかみつやま》の|聖場《せいぢやう》に
|進《すす》まむ|道《みち》を|黄昏《たそが》れぬ
|一夜《いちや》の|宿《やど》り|許《ゆる》せよ』
と|歌《うた》へば、|屋内《をくない》より|年老《としお》いたる|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|婆《ばば》、|跛《びつこ》|曳《ひ》き|曳《ひ》き|門口《かどぐち》に|立《た》ち|現《あら》はれ、
『|国津神《くにつかみ》|吾《われ》は|笑《わら》ひといふ|婆《ばば》ア
おかまひなくば|宿《やど》らせ|給《たま》へ
アハハハハ|吾《われ》はをかしき|癖《くせ》ありて
|人《ひと》の|顔《かほ》さへ|見《み》れば|笑《わら》ふも。
イヒヒヒヒ
ウフフフフ
エヘヘヘヘ
オホホホホ
をかしやをかしやおもしろや
この|婆《ばば》|久《ひさ》しくここに|棲《す》みなれて
|神代《かみよ》の|事《こと》もことごとく
つぶさに|知《し》れり|一夜《ひとよさ》は
いふも|愚《おろ》かや|三日《みか》|五日《いつか》
|十日《とをか》|二十日《はつか》もかまはずに
|留《とど》まり|給《たま》へ|吾《わが》|家《いへ》は
|穢《きたな》けれども|奥《おく》|広《ひろ》し
|玉《たま》をあざむくまな|娘《むすめ》
|山《やま》、|川《かは》、|海《うみ》の|三人持《みたりも》ち
いと|安《やす》らかに|暮《くら》すなり
|先《ま》づ|先《ま》づ|奥《おく》へ|進《すす》ませ|給《たま》へ
アハハハハ
イヒヒヒヒ
ウフフフフ
エヘヘヘヘ
オホホホホ
あな|面白《おもしろ》や、あなをかしやな』
と|言《い》ひつつ、|婆《ばば》は|腹《はら》を|抱《かか》へ|大地《だいち》にのた|打《う》ち|廻《まは》りて、をかしさに|堪《た》へかぬるものの|如《ごと》し。
|冬男《ふゆを》は|婆《ばば》の|勧《すす》めによつて、|奥深《おくふか》く|進《すす》み|入《い》れば、|容色端麗《ようしよくたんれい》なる|二八《にはち》の|乙女《をとめ》|三人《さんにん》、|笑《ゑみ》を|湛《たた》へて|愛想《あいさう》よく|出《い》で|迎《むか》へ、
『|君《きみ》こそは|水上《みなかみ》の|山《やま》の|聖場《せいぢやう》より
|来《きた》りし|神《かみ》か|雄々《をを》しき|姿《すがた》よ』
と|先《ま》づ|姉《あね》の「|山《やま》」が|歌《うた》へば、|次《つぎ》なる|妹《いもうと》の「|川《かは》」は|其《その》|後《あと》をついで、
『|美《うるは》しき|大丈夫《ますらを》なるよその|眼《まなこ》
その|顔《かむばせ》は|月《つき》に|似《に》たるも
|夜《よ》な|夜《よ》なに|吾《わが》|夢《ゆめ》に|見《み》し|艶人《あでびと》は
|君《きみ》の|姿《すがた》によく|似《に》ましけり
この|丘《をか》に|朝夕《あさゆふ》|住《す》みてなつかしの
|君《きみ》の|出《い》でまし|待《ま》ちわびしはや
|君《きみ》こそは|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》と|定《さだ》まりし
|此《この》|村里《むらざと》の|司《つかさ》にますぞや』
|海《うみ》は|歌《うた》ふ。
『|姉妹《おとどい》が|今《いま》か|今《いま》かと|待《ま》ちわびし
|美《うるは》しの|君《きみ》に|会《あ》ひにけるかな
|此《この》|里《さと》に|出《い》でます|上《うへ》は|元津国《もとつくに》に
|帰《かへ》しはやらじあきらめ|給《たま》はれ』
|冬男《ふゆを》は|怪訝《けげん》な|顔《かほ》をしながら|歌《うた》ふ。
『あやしかることを|聞《き》くかな|吾《われ》は|今《いま》
|国土《くに》|開拓《ひら》かむと|進《すす》み|来《きた》るを
|一夜《ひとよさ》の|宿《やど》りを|乞《こ》ひて|明日《あす》は|早《はや》く
|高光山《たかみつやま》に|旅行《たびゆ》く|身《み》なるよ
|美《うるは》しき|三人乙女《みたりをとめ》に|止《と》められて
|吾《わが》|魂《たましひ》はをののきにけり』
|山《やま》は|歌《うた》ふ。
『|怪《あや》しきはうべなり|恋《こひ》のくせものに
とりかこまれし|君《きみ》にありせば
|醜草《しこぐさ》の|野路《のぢ》を|渉《わた》りて|来《こ》し|君《きみ》は
|再《ふたた》び|御国《みくに》に|帰《かへ》り|得《え》ざらむ
|如何程《いかほど》に|藻掻《もが》き|給《たま》ふも|三人《みたり》の|吾等《われら》
|如何《いか》で|許《ゆる》さむ|明日《あす》の|旅出《たびで》を』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|神言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|国形《くにがた》|見《み》むと|来《きた》りし|吾《われ》なり
なまめかしき|三人《みたり》の|女《をみな》の|言《こと》の|葉《は》に
|留《とど》まるべしやは|国津神《くにつかみ》|吾《われ》は』
|川《かは》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|姉《あね》の|宣《の》る|言《こと》の|葉《は》をいなみまさむ
|君《きみ》に|力《ちから》の|如何《いか》であるべき
|恋《こひ》すてふ|心《こころ》をもたぬ|大丈夫《ますらを》は
|木石《ぼくせき》に|似《に》て|醜《しこ》のたぶれよ
|此《この》|里《さと》は|寝《ね》たびの|里《さと》よ|村人《むらびと》は
|如何《いか》で|君《きみ》をば|安《やす》く|帰《かへ》さむ』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『おそろしき|醜草原《しこぐさはら》を|過《す》ぎて|来《こ》し
|吾《われ》は|再《ふたた》び|女《め》になやむかも』
|海《うみ》は|歌《うた》ふ。
『|道《みち》の|辺《べ》の|水奔草《すいほんさう》のわざはひに
かからせ|給《たま》ふ|君《きみ》と|知《し》らずや』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『|皮衣《かはごろも》|着《き》つつ|過《す》ぎ|来《こ》し|吾《われ》なれば
|如何《いか》で|生命《いのち》にかかはりあるべき』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|以前《いぜん》の|笑《わら》ひ|婆《ばば》は|跛《びつこ》|曳《ひ》き|曳《ひ》き|奥《おく》に|入《い》り|来《きた》り、
『|三人《さんにん》の|娘《むすめ》の|力《ちから》に|及《およ》ばずば
|吾《われ》|何処《どこ》までも|許《ゆる》さざるべし。
ハハハハハ
イヒヒヒヒ
さもいぢらしき|男《をとこ》かな』
と|言《い》ひつつ|再《ふたた》び|表《おもて》をさして|出《い》でて|行《ゆ》く。|冬男《ふゆを》は|終日《しうじつ》の|旅行《りよかう》に|身体《しんたい》|繩《なは》の|如《ごと》く|疲《つか》れ、グツタリと|其《その》|場《ば》に|伏《ふ》しけるが、|三人《さんにん》の|乙女《をとめ》は、|頭辺《かしらべ》に、|足《あし》の|辺《べ》に、|腰《こし》の|辺《べ》に、|喰《くら》ひつく|様《やう》にして、|何《なに》かひそひそ|呪文《じゆもん》の|如《ごと》きものを|唱《とな》へ|居《ゐ》たりき。|夜《よ》は|深々《しんしん》と|更《ふ》け|渡《わた》り、|此《こ》の|丘《をか》の|辺《べ》に|棲《す》む|禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》の|怪《あや》しき|声《こゑ》は、|四辺《しへん》の|闇《やみ》をさいて|次第々々《しだいしだい》に|高《たか》まり|来《きた》る。
(昭和九・七・二六 旧六・一五 於関東別院南風閣 森良仁謹録)
第二章 |行倒《ゆきだふれ》〔二〇〇六〕
|水奔草《すいほんさう》の|生《お》ひ|茂《しげ》る |野路《のぢ》を|遥々《はるばる》|渉《わた》りつつ
|広《ひろ》き|丘辺《をかべ》に|突《つ》き|当《あた》り |息《いき》|休《やす》めむと|上《のぼ》りゐる
|頃《ころ》しも|空《そら》は|黄昏《たそが》れて ぼやぼやぼやと|生温《なまぬる》き
|風《かぜ》は|腮辺《しへん》をいやらしく なめてゆくなりこの|丘《をか》の
ふとある|藁屋《わらや》に|立《た》ち|寄《よ》れば |中《なか》より|出《い》でし|白髪《はくはつ》の
|婆《ば》さんは|笑《ゑ》みを|湛《たた》へつつ |門《かど》の|戸《と》|近《ちか》く|佇《たたず》めり
|冬男《ふゆを》は|疲《つか》れし|声《こゑ》をあげ われは|旅《たび》ゆくものなるぞ
|一夜《いちや》の|露《つゆ》の|宿《やど》りをば |許《ゆる》させ|給《たま》へといひければ
|婆《ば》さんはにつこと|打《う》ち|笑《わら》ひ わたしは「|笑《わら》ひ」といふ|婆《ばば》よ
サアサア|御泊《おとま》りなさいませ アハハハハツハ、イヒヒヒヒ
ウフフフフツフ、エヘヘヘヘ オホホホホツホ|面白《おもしろ》や
あなをかしやと|転《ころ》び|伏《ふ》す あやしき|婆《ばば》に|目《め》もやらず
|神《かみ》を|念《ねん》じて|居《ゐ》たる|折《をり》 |婆《ばば》はむつくと|起《お》き|上《あが》り
|三人乙女《みたりをとめ》が|奥《おく》に|待《ま》つ |早《はや》く|通《とほ》させ|給《たま》へよと
いふより|冬男《ふゆを》は|奥《おく》の|間《ま》に |疲《つか》れし|足《あし》を|引《ひ》きずりて
|進《すす》めば|不思議《ふしぎ》や|三人《さんにん》の |玉《たま》を|欺《あざむ》く|乙女等《をとめら》が
|冬男《ふゆを》の|顔《かほ》を|打《う》ち|眺《なが》め |甘《あま》き|言葉《ことば》を|並《なら》べたて
|此処《ここ》に|来《き》ませし|上《うへ》からは |元津御国《もとつみくに》へ|帰《かへ》さじと
|各自《おのもおのも》に|論《あげつら》ひ |恋《こひ》の|征矢《そや》をば|放《はな》ちける
|冬男《ふゆを》は|身体《しんたい》くたぶれて |前後《ぜんご》も|知《し》らず|寝《い》ねければ
|山《やま》、|川《かは》、|海《うみ》の|三乙女《みをとめ》は |冬男《ふゆを》の|全身《ぜんしん》を|撫《な》でさすり
|喋々喃々《てふてふなんなん》|夜《よ》を|明《あか》し |一夜《いちや》の|夢《ゆめ》は|覚《さ》めにける
|冬男《ふゆを》は|眼《まなこ》をこすりつつ |臥床《ふしど》を|起《お》き|出《い》で|眺《なが》むれば
|三人《みたり》の|乙女《をとめ》はにこやかに |笑《ゑ》みを|湛《たた》へて|居《ゐ》たりける
|冬男《ふゆを》はこれの|光景《くわうけい》を |怪《あや》しみながら|問《と》ひけらく
『われは|旅行《りよかう》にくたぶれて |一夜《いちや》の|宿《やど》を|願《ねが》ひしが
|辺《あた》りの|空気《くうき》は|何《なん》となく |心《こころ》に|染《そ》まぬけはひなり
これの|主《あるじ》とおぼえたる |婆《ば》さんはしきりに|笑《わら》ふなり
それに|引《ひ》き|替《か》へあでやかな |乙女三人《をとめみたり》がわが|側《そば》に
|甘《あま》き|言葉《ことば》を|繰《く》り|返《かへ》し われに|迫《せま》るは|何事《なにごと》ぞ
|高光山《たかみつやま》の|聖場《せいぢやう》に |神《かみ》の|御言《みこと》をかがふりて
|進《すす》まむわれよ|一時《ひととき》も |早《はや》くこの|場《ば》を|立《た》ち|出《い》でて
|任《まけ》のまにまに|進《すす》むべし』
|語《かた》れば|三人《みたり》の|乙女等《をとめら》は |頸《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》りながら
『|日頃《ひごろ》|焦《が》れて|待《ま》ち|居《ゐ》たる |君《きみ》の|来《きた》りし|今日《けふ》こそは
|如何《いか》でたやすく|帰《かへ》さむや |先《ま》づ|先《ま》づお|茶《ちや》を|召《め》し|上《あが》れ
われ|等《ら》が|勧《すす》むる|茶《ちや》の|湯《ゆ》こそ |不老《ふらう》と|不死《ふし》の|妙薬《めうやく》ぞ
この|湯《ゆ》を|飲《の》めば|忽《たちま》ちに |汝《なれ》の|心《こころ》は|爽《さはや》かに
|疲《つか》れも|清《きよ》く|治《をさ》まらむ』
と|言《い》ひつつ|姉娘《あねむすめ》の|山《やま》は、|木製《もくせい》の|椀《わん》に|湯《ゆ》を|汲《く》み、|冬男《ふゆを》の|前《まへ》に|差出《さしだ》しけるにぞ、|一日《いちにち》の|疲《つか》れに|喉《のど》の|乾《かわ》きたる|冬男《ふゆを》は、|何《なに》を|考《かんが》ふる|暇《ひま》もなく、|貪《むさぼ》る|如《ごと》くグツと|飲《の》み|下《くだ》せば、その|味《あぢ》はひ|何《なん》となく|香《かう》ばしけれど|臭《くさ》みあり。|若《も》しや|水奔草《すいほんさう》の|葉《は》もて|作《つく》りたる|茶《ちや》には|非《あら》ずやと、|一時《いちじ》は|驚《おどろ》きけるが、|何《なに》|喰《く》はぬ|体《てい》を|装《よそほ》ひ、|天《てん》を|拝《はい》し|地《ち》を|拝《はい》し、|声《こゑ》を|限《かぎ》りに、
『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》
|千万《ちよろづ》の|神《かみ》|救《すく》はせ|給《たま》へ』
と|生言霊《いくことたま》を|宣《の》るや、|忽《たちま》ち|家《いへ》も、|笑《わら》ひ|婆《ばば》も、|三人《さんにん》の|娘《むすめ》も、あとかたなく|煙《けむり》と|消《き》え|失《う》せ、|白樺《しらかば》の|木《き》が|疎《まばら》に、|雑草《ざつさう》の|萌《も》ゆる|丘《をか》の|上《うへ》なりける。
|冬男《ふゆを》は|今更《いまさら》の|如《ごと》く|驚《おどろ》き、|生言霊《いくことたま》の|天《あま》の|数歌《かずうた》をうたひながら、|再《ふたた》び|葭草《よしぐさ》や|水奔草《すいほんさう》の|所狭《ところせ》きまで|生《お》ひ|茂《しげ》れる|湿《しめ》つぽい|平原《へいげん》を、|皮衣《かはごろも》を|力《ちから》に|進《すす》みゆく。|冬男《ふゆを》は|道々《みちみち》|歌《うた》ふ。
『ああ|訝《いぶか》しや|訝《いぶか》しや
|日《ひ》も|黄昏《たそが》れて|漸《やうや》くに
|一《ひと》つの|丘《をか》にたどりつき
|形《かたち》ばかりのあばら|家《や》の
|表《おもて》に|立《た》ちて|訪《おとな》へば
|中《なか》より|白髪《しらが》の|笑《わら》ひ|婆《ばば》
|現《あら》はれ|来《きた》り|一夜《ひとよ》さの
|宿《やど》りを|許《ゆる》したりければ
|旅《たび》の|疲《つか》れを|休《やす》めむと
|奥《おく》の|間《ま》さして|進《すす》み|入《い》り
|三人《みたり》のあやしき|乙女等《をとめら》に
|種々《いろいろ》|様々《さまざま》くどかれて
|知《し》らず|知《し》らずに|眠《ねむ》りしが
|辺《あた》りの|空気《くうき》の|不快《ふくわい》さに
いぶかる|折《をり》しも|夜《よ》は|明《あ》けて
|近《ちか》くに|聞《きこ》ゆる|鳥《とり》の|声《こゑ》
|乙女《をとめ》の|勧《すす》むる|茶《ちや》を|飲《の》めば
|益々《ますます》|気分《きぶん》|悪《あ》しくなり
|若《も》しや|毒湯《どくゆ》に|非《あら》ずやと
|御空《みそら》を|拝《はい》し|地《ち》を|拝《はい》し
|天《あま》の|数歌《かずうた》|宣《の》りつれば
|婆《ば》さんも|娘《むすめ》も|其《その》|家《いへ》も
|煙《けむり》となりて|消《き》え|果《は》てし
あとをよくよく|眺《なが》むれば
|雑草《ざつさう》|生《お》ふる|白樺《しらかば》の
|林《はやし》と|知《し》るより|驚《おどろ》きて
|忍ケ丘《しのぶがをか》を|逃《に》げ|下《くだ》り
|再《ふたた》び|東《ひがし》に|向《むか》ふなり
|長途《ちやうと》の|旅《たび》に|喉《のど》|乾《かわ》き
|水《みづ》を|飲《の》まむと|思《おも》へども
|水奔草《すいほんさう》の|毒気《どくき》をば
|含《ふく》める|池水《いけみづ》|川水《かはみづ》は
われ|等《ら》が|口《くち》に|入《い》るよしも
なくなく|進《すす》む|長《なが》の|野路《のぢ》
|何《なん》と|詮術《せむすべ》なかりけり
|頭《あたま》は|痛《いた》み|足《あし》だるみ
|勢力《せいりよく》|頓《とみ》に|衰《おとろ》へて
わが|目《め》の|光《ひか》りつぎつぎに
うすれ|行《ゆ》くこそ|悲《かな》しけれ
|夜前《やぜん》の|女《をんな》は|正《まさ》しくや
|水奔鬼《すいほんき》には|非《あら》ざるか
|思《おも》へば|思《おも》へばいぶかしや』
と|歌《うた》ひつつ|進《すす》み|行《ゆ》けば、|又《また》もや|小《ちひ》さき|丘《をか》、|行手《ゆくて》に|横《よこ》たはるを|見《み》る。|冬男《ふゆを》は|兎《と》も|角《かく》も|其《そ》の|丘《をか》にたどりつき、|水《みづ》でもあらば、|喉《のど》を|潤《うるほ》し|息《いき》を|休《やす》めむと、|疲《つか》れし|身体《からだ》に|勇気《ゆうき》を|鼓《こ》して、|其《その》|日《ひ》の|黄昏《たそが》るる|頃《ころ》、|小《ちひ》さき|丘《をか》の|辺《べ》に|着《つ》きたり。
|冬男《ふゆを》は|声《こゑ》|細々《ほそぼそ》と|歌《うた》ふ。
『あへぎあへぎ|醜草《しこぐさ》|生《お》ふる|野《の》を|渉《わた》り
|漸《やうや》くこれの|丘《をか》に|着《つ》きぬる
この|丘《をか》に|真清水《ましみづ》あれば|乾《かわ》きたる
|喉《のど》うるほして|蘇《よみがへ》らむを
|真清水《ましみづ》はよし|湧《わ》くとても|黄昏《たそがれ》の
|道《みち》なき|野路《のぢ》をさがすよしなし
あやしかる|女《をみな》に|毒茶《どくちや》を|飲《の》まされて
われは|死《し》ぬより|苦《くる》しき|宵《よひ》なり
|刻々《こくこく》にわが|身体《からたま》ははれ|上《あが》り
|身動《みうご》きならぬ|今《いま》となりけり
|常世《とこよ》ゆく|闇《やみ》の|荒野《あらの》に|只一人《ただひとり》
われは|悲《かな》しくもだえ|居《ゐ》るなり
|故郷《ふるさと》を|思《おも》へば|恋《こひ》し|父母《ちちはは》を
|思《おも》へば|悲《かな》し|旅《たび》の|夕暮《ゆふぐれ》
|只一人《ただひとり》|旅《たび》ゆくわれの|淋《さび》しさは
|野山《のやま》の|奥《おく》に|住《す》む|心地《ここち》なり
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》きれなば|如何《いか》にせむ
わが|故郷《ふるさと》にしらす|由《よし》なく
|言霊《ことたま》の|厳《いづ》の|力《ちから》に|救《すく》はれて
|生命《いのち》からがら|逃《に》げ|来《き》つるかも
|此処《ここ》に|来《き》て|露《つゆ》の|生命《いのち》の|消《き》ゆるかと
|思《おも》へば|淋《さび》しき|吾《わが》|身《み》なるかも
|水奔鬼《すいほんき》の|集《つど》へる|丘《をか》に|一夜《ひとよ》|寝《ね》て
|玉《たま》の|生命《いのち》を|縮《ちぢ》めたりけり』
かく|歌《うた》ふ|折《をり》しも、
『アハハハハー
イヒヒヒヒー
ウフフフフー
エヘヘヘヘー
われこそは|忍ケ丘《しのぶがをか》の|笑《わら》ひ|婆《ばば》よ
よくも|此処《ここ》まで|逃《に》げ|来《き》つるかな
この|婆《ばば》は|人《ひと》の|艱《なや》みを|見《み》て|笑《わら》ふ
|黄泉《よもつ》の|国《くに》の|笑《わら》ひ|婆《ばば》ぞや
|身《み》も|魂《たま》も|疲《つか》れ|果《は》てたる|汝《なれ》が|態《ざま》
|見《み》るにつけても|可笑《をか》しくぞある
われこそは|笑《わら》ひの|婆《ばば》よ|世《よ》の|人《ひと》の
まめやかなるを|朝夕《あさゆふ》ねたむ
|三人《さんにん》の|娘《むすめ》を|汝《なれ》は|見《み》たるべし
あれは|毒茶《どくちや》に|見亡《みう》せし|女《をみな》よ
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》きれなむこの|間際《まぎは》に
わが|夫《つま》となる|約束《やくそく》をせよ
この|婆《ばば》はきたなく|見《み》ゆれど|魂《たましひ》は
|玉《たま》の|如《ごと》くに|輝《かがや》き|居《ゐ》るぞや
わが|言葉《ことば》|諾《うべな》ふなれば|今《いま》よりは
|玉《たま》の|生命《いのち》を|安《やす》く|生《い》かさむ』
と、いやらしき|声《こゑ》を|張上《はりあ》げながら、|闇《やみ》の|中《なか》にハツと|姿《すがた》を|現《あら》はした。|瀕死《ひんし》の|境《さかひ》にある|冬男《ふゆを》は、|婆《ばば》の|罠《わな》にかかりし|残念《ざんねん》さに、|歯《は》を|喰《く》ひしばりながら|息《いき》もきれぎれに|歌《うた》ふ。
『わが|生命《いのち》たとへ|死《し》すとも|汝《な》が|如《ごと》き
きたなき|婆《ばば》に|従《したが》ふべきやは
|身体《からたま》はよし|罷《まか》るとも|霊魂《たましひ》は
|生《い》きて|汝《なんぢ》を|苦《くる》しめて|見《み》む
|水上《みなかみ》の|貴《うづ》の|館《やかた》に|生《うま》れたる
われは|正《ただ》しき|国津神《くにつかみ》ぞや
|汝《なれ》こそは|音《おと》に|聞《き》くなる|水奔鬼《すいほんき》の
|幽霊婆《いうれいばば》よとく|此処《ここ》を|去《さ》れ』
|婆《ばば》は|耳《みみ》まで|裂《さ》けた|真青《まつさを》の|口《くち》を|開《ひら》き、|牛《うし》の|如《ごと》き|舌《した》を|吐《は》き|出《だ》しながら、
『ガハハハハツハ、ギヒヒヒヒ、グフフフフツフ、ゲヘヘヘヘ、ギヨホホホホツホ、てもさてもいぢらしい|腰抜《こしぬ》け|野郎《やらう》ども、この|方《はう》が|計略《けいりやく》にかかり、|大事《だいじ》の|大事《だいじ》の|玉《たま》の|生命《いのち》の|安売《やすうり》|致《いた》したウツソリども、|嫌《いや》なら|嫌《いや》でもう|頼《たの》まぬ。ギヤハハハハー、|忍ケ丘《しのぶがをか》につれ|帰《かへ》り、|一族郎党《いちぞくらうたう》|呼《よ》び|集《あつ》め、|汝《なんぢ》が|亡《な》きあとの|霊魂《たましひ》の|生命《いのち》を|再《ふたた》び|取《と》り|上《あ》げて、|恨《うら》みを|晴《は》らさでおくものか、ギヤハハハハー、てもさても|心地《ここち》よやな』
|冬男《ふゆを》は|無念《むねん》の|歯《は》を|喰《く》ひしばりながら、
『わが|生命《いのち》|如何《いか》になるとも|汝《な》の|如《ごと》き
|悪魔《あくま》に|靡《なび》くわれには|非《あら》ず
|吾《われ》も|亦《また》|鬼《おに》と|生《うま》れて|汝等《なんぢら》が
|生命《いのち》を|奪《うば》ひなやめてくれむ
|葭原《よしはら》の|国土《くに》の|秀《ひい》でて|勝《すぐ》れたる
|水上山《みなかみやま》の|王《こきし》の|息子《せがれ》ぞ
|汝《な》が|如《ごと》きいやしき|鬼《おに》の|果《は》てならず
われには|厳《いづ》の|力《ちから》ありけり』
かく|歌《うた》ひながら|息《いき》も|絶《た》え|絶《だ》えに、|其《その》|場《ば》に|打伏《うちふ》したるまま|身《み》|亡《う》せにける。
(昭和九・七・二六 旧六・一五 於関東別院南風閣 林弥生謹録)
第三章 |復活《ふくくわつ》〔二〇〇七〕
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アの|計略《けいりやく》に かかりて|遂《つひ》に|生命《いのち》をば
|落《おと》せし|冬男《ふゆを》の|亡骸《なきがら》を |眺《なが》めて|婆《ばば》アはからからと
|打《う》ち|笑《わら》ひつつ|牛《うし》のよな |長《なが》き|舌《した》をば|吐《は》き|出《いだ》し
アハハハハツハ、イヒヒヒヒ ウフフフフツフ、エヘヘヘヘ
オホホホホツホ|面白《おもしろ》や |心地《ここち》よやなと|言《い》ひながら
|冬男《ふゆを》が|霊魂《みたま》と|身体《からたま》を |茨《いばら》の|鞭《むち》もて|打《う》ち|叩《たた》き
|虐《しひた》げければ|疲《つか》れたる |冬男《ふゆを》は|悲鳴《ひめい》をあげながら
|助《たす》けてくれよと|叫《さけ》ぶ|折《をり》 |忽《たちま》ち|起《おこ》る|暴風雨《ぼうふうう》
|雷《いかづち》|轟《とどろ》きいなづまは |天地《てんち》に|閃《ひらめ》き|渡《わた》りつつ
|闇《やみ》の|中《なか》より|現《あら》はれし |鬼《おに》をあざむく|荒男《あらをとこ》
|二人《ふたり》は|此処《ここ》に|立《た》ち|出《い》でて |婆《ばば》の|素《そ》つ|首《くび》ひつつかみ
|大地《だいち》にどつと|投《な》げつける |投《な》げつけられて|笑《わら》ひ|婆《ばば》
|顎《あご》を|三《み》つ|四《よ》つしやくりつつ アハハハハツハちよこざいな
|貴様《きさま》も|俺《おれ》の|計略《けいりやく》に かかりて|身《み》|亡《う》せし|熊公《くまこう》と
|虎公《とらこう》の|餓鬼《がき》にあらざるや |清水ケ丘《しみづがをか》の|森林《しんりん》に
|魍魎《すだま》となりて|彷徨《さまよ》ふか さつてもさても|心地《ここち》よや
その|有様《ありさま》は|何《なん》の|事《こと》 |着物《きもの》はちぎれ|帯《おび》は|切《き》れ
|頭《あたま》は|鳶《とんび》の|巣籠《すごも》りか |手足《てあし》は|松《まつ》の|荒皮《あらかは》か
|見《み》るもいぶせき|姿《すがた》かな この|婆《ば》アさまに|手向《てむか》ふて
|後《あと》で|後悔《こうくわい》|致《いた》すなよ |生命《いのち》|知《し》らずの|餓鬼《がき》どもと
|無性矢鱈《むしやうやたら》に|罵《ののし》れば |熊公《くまこう》、|虎公《とらこう》の|精霊《せいれい》は
|烈火《れつくわ》の|如《ごと》く|憤《いきどほ》り |鬼《おに》の|蕨《わらび》(|拳《こぶし》)を|固《かた》めつつ
|倒《たふ》れし|婆《ばば》を|左右《さいう》より |力《ちから》|限《かぎ》りに|打《う》ち|据《す》ゆる
|婆《ばば》アはひるむと|思《おも》ひきや またカラカラと|打《う》ち|笑《わら》ひ
|長《なが》き|舌《した》をばはみ|出《だ》して |顎《あご》をしやくれる|憎《にく》らしさ
よくよく|見《み》れば|両人《りやうにん》の |拳《こぶし》は|爛《ただ》れて|血《ち》は|流《なが》れ
|見《み》るかげもなき|惨状《さんじやう》に |婆《ばば》アはまたまた|笑《わら》ひつつ
|熊公《くまこう》、|虎公《とらこう》の|盲《めくら》ども |俺《おれ》の|体《からだ》は|此処《ここ》にある
|貴様《きさま》は|尖《とが》つた|巌角《いはかど》を |無性矢鱈《むしやうやたら》に|打《う》ち|叩《たた》き
|拳《こぶし》を|痛《やぶ》る|向《むか》ふ|見《み》ず もうこれからは|馬鹿《ばか》な|事《こと》
|致《いた》すとこのまま|置《お》かぬぞや |忍ケ丘《しのぶがをか》に|名《な》も|高《たか》き
|笑《わら》ひ|婆《ば》さんに|敵対《てきた》ふて |幽冥界《いうめいかい》に|居《を》れるかと
|口汚《くちぎた》なくも|罵《ののし》りぬ |虎公《とらこう》、|熊公《くまこう》|怒《いか》り|立《た》ち
|婆《ばば》の|両手《りやうて》を|左右《さいう》より |力《ちから》|限《かぎ》りに|引《ひ》つぱれば
さすがの|婆《ばば》も|辟易《へきえき》し こりやたまらぬと|顔《かほ》しかめ
|火団《くわだん》となりて|驀地《まつしぐら》 |遥《はる》かの|空《そら》を|駈《か》けながら
|忍ケ丘《しのぶがをか》へと|逃《に》げ|帰《かへ》る |冬男《ふゆを》はやうやう|起《お》き|上《あが》り
やつと|心《こころ》も|落《お》ちつきて |辺《あた》りを|見《み》ればこは|不思議《ふしぎ》
|水上《みなかみ》の|山《やま》に|仕《つか》へたる わが|家臣《いへのこ》の|熊公《くまこう》と
|虎公《とらこう》|二人《ふたり》がにこやかに わが|顔前《がんぜん》に|跪《ひざまづ》き
|若君《わかぎみ》|御無事《ごぶじ》と|言《い》ひながら |涙《なみだ》|垂《た》らして|拝《をが》みゐる。
|以下《いか》|精霊《せいれい》の|言葉《ことば》なり。
|冬男《ふゆを》『|草枕《くさまくら》|旅《たび》を|重《かさ》ねてゆくりなく
|此《この》|丘《をか》の|辺《べ》に|身《み》|亡《う》せけるかな
|幽界《かくりよ》の|神《かみ》となりてゆ|何故《なにゆゑ》か
わが|身《み》は|軽《かる》くなりにけらしな
|汝《なれ》こそは|水上《みなかみ》の|山《やま》に|仕《つか》へたる
|家臣《いへのこ》|熊公《くまこう》、|虎公《とらこう》ならずや』
|熊公《くまこう》『|忍ケ丘《しのぶがをか》|笑《わら》ひ|婆《ばば》アに|謀《はか》られて
|生命《いのち》|亡《う》せにし|熊公《くまこう》なりける』
|虎公《とらこう》『われもまた|笑《わら》ひの|婆《ばば》に|謀《たばか》られ
|毒茶《どくちや》を|飲《の》みて|亡《う》せし|虎公《とらこう》よ
|若君《わかぎみ》の|精霊《みたま》|危《あやふ》く|見《み》えしより
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アに|手向《てむか》ひにける
|昔《むかし》よりこれの|大野《おほの》に|彷徨《さまよ》へる
|心《こころ》|汚《きた》なき|婆《ばば》にてありける
|忍ケ丘《しのぶがをか》に|住《す》む|精霊《せいれい》は|悉《ことごと》く
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アに|殺《ころ》されしものぞ
われらまた|国土《くに》|開《ひら》かむと|巌ケ根《いはがね》の
|君《きみ》の|命《みこと》の|仰《おほ》せに|出《で》て|来《こ》し
|漸《やうや》くに|忍ケ丘《しのぶがをか》に|辿《たど》りつき
|水奔草《すいほんさう》の|茶《ちや》に|倒《たふ》されぬ
|此《この》|恨《うら》みいつの|世《よ》にかは|晴《は》らさむと
|熊公《くまこう》とともに|時《とき》を|待《ま》ち|居《ゐ》し』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『ゆくりなくも|家臣《いへのこ》|二人《ふたり》に|出会《であ》ひたる
われはにはかに|心《こころ》|勇《いさ》むも
|汝《な》が|行方《ゆくへ》父は|日夜《にちや》に|探《たづ》ねつつ
|如何《いかが》なりしと|煩《わづら》ひしはや
ちちのみの|父《ちち》の|御言《みこと》を|被《かがふ》りて
|国土《くに》|開《ひら》かむと|吾《われ》は|来《き》つるも
われもまた|笑《わら》ひ|婆《ばば》アの|偽《いつは》りに
|現身《うつそみ》の|生命《いのち》|捨《す》てにけらしな』
|熊公《くまこう》は|歌《うた》ふ。
『かくならば|主従《しゆじう》|三人《みたり》|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|協《あは》せて|婆《ばば》|亡《ほろ》ぼさむか
|一筋《ひとすぢ》や|二筋繩《ふたすぢなは》に|行《ゆ》かぬ|婆《ばば》よ
|如何《いか》なる|手段《てだて》も|先《さき》に|知《し》るれば
さりながら|二《ふた》つの|腕《うで》を|痛《いた》めたる
これの|刹那《せつな》に|亡《ほろ》ぼしてくれむ』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『|面白《おもしろ》しああ|勇《いさ》ましも|国津神《くにつかみ》の
|生命《いのち》を|奪《うば》ふ|仇《あだ》|亡《ほろ》ぼさむ
|水奔鬼《すいほんき》の|頭《かしら》と|誇《ほこ》れる|笑《わら》ひ|婆《ばば》
みたまの|生命《いのち》|取《と》らで|置《お》くべき
|笑《わら》ひ|婆《ばば》の|生命《いのち》をとりて|国津神《くにつかみ》の
|百《もも》の|災《わざはひ》|除《のぞ》かむと|思《おも》ふ』
|虎公《とらこう》『|若君《わかぎみ》の|御言葉《みことば》うべよ|吾《われ》もまた
|婆《ばば》アの|征討《きため》に|力《ちから》を|添《そ》へむ
|三柱《みはしら》の|大丈夫《ますらを》|力《ちから》を|協《あは》せなば
|婆《ばば》|亡《ほろ》ぼすはたやすかるべし
いざさらば|清水ケ丘《しみづがをか》を|立《た》ち|出《い》でて
|婆《ばば》の|館《やかた》にひたに|進《すす》まむ』
と|茲《ここ》に|三人《さんにん》は|協議《けふぎ》|一決《いつけつ》し、|再《ふたた》び|水奔草《すいほんさう》の|所狭《ところせ》きまで|生《お》ひ|茂《しげ》る|野路《のぢ》を|伝《つた》ひて、|婆《ばば》の|棲処《すみか》なる|忍ケ丘《しのぶがをか》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
|熊公《くまこう》は|先頭《せんとう》に、|冬男《ふゆを》は|中《なか》に、|虎公《とらこう》は|殿《しんがり》をつとめながら、|葭草《よしぐさ》と|水奔草《すいほんさう》の|所狭《ところせ》きまで|茂《しげ》れる|野路《のぢ》を、|吹《ふ》く|風《かぜ》になぶられながら、|精霊《せいれい》の|常《つね》として、ひよろりひよろりと|征服歌《せいふくか》を|歌《うた》ひつつ|進《すす》み|行《ゆ》く。
|熊公《くまこう》の|歌《うた》。
『ああ|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや
|大野ケ原《おほのがはら》の|真中《まんなか》に
|広《ひろ》くて|低《ひく》く|開《ひら》けたる
|忍ケ丘《しのぶがをか》の|頂上《ちやうじやう》に
|古《ふる》く|棲《す》みたる|笑《わら》ひ|婆《ばば》
|国津神《くにつかみ》らの|生命《いのち》をば
とりて|楽《たの》しむ|曲津見《まがつみ》を
|征討《きた》め|払《はら》ふと|出《い》でて|行《ゆ》く
|今日《けふ》は|心《こころ》も|勇《いさ》むなり
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》はなまぐさく
イヂチは|数多《あまた》すむとても
|毒虫《どくむし》むらがり|来《きた》るとも
|何《なに》か|恐《おそ》れむ|吾々《われわれ》は
|世《よ》にも|稀《まれ》なる|荒男《あらをとこ》
|現世界《うつしせかい》に|在《あ》りし|日《ひ》は
|古今無雙《ここんむさう》の|豪傑《がうけつ》と
|世《よ》に|聞《きこ》えたるつはものぞ
|如何《いか》に|精霊《せいれい》なればとて
|魂《たま》の|力《ちから》は|衰《おとろ》へじ
|婆《ばば》アも|同《おな》じ|精霊《せいれい》の
みたまなりせば|吾々《われわれ》は
|如何《いか》で|恐《おそ》れむ|大丈夫《ますらを》の
|弥猛心《やたけごころ》の|拳《こぶし》もて
|彼《かれ》が|首《かうべ》を|打《う》ち|叩《たた》き
|現幽二界《げんいうにかい》の|災《わざはひ》を
|払《はら》ひて|幽冥《いうめい》の|神《かみ》となり
|長《なが》く|其《その》|名《な》を|伝《つた》ふべし
ああ|面白《おもしろ》や|面白《おもしろ》や
|日頃《ひごろ》の|恨《うら》みを|晴《は》らすべき
|時《とき》は|漸《やうや》く|廻《めぐ》りけり
|忍ケ丘《しのぶがをか》は|広《ひろ》くとも
|水奔草《すいほんさう》は|茂《しげ》くとも
|敵《てき》は|数々《かずかず》|来《きた》るとも
|吾等《われら》は|恐《おそ》れじ|水上《みなかみ》の
|山《やま》に|鎮《しづ》まる|神々《かみがみ》の
|恵《めぐみ》を|浴《あ》びて|進《すす》むべし
ああ|面白《おもしろ》や|勇《いさ》ましや
|仇《あだ》を|報《ほう》ずる|今《いま》や|時《とき》
|婆《ばば》を|亡《ほろ》ぼす|今《いま》や|時《とき》
|幸《さいは》ひ|闇《やみ》の|深《ふか》ければ
さすがの|婆《ばば》もわが|行《ゆ》くを
|知《し》らずに|眠《ねむ》り|居《ゐ》るならむ
|左右《さいう》の|腕《うで》は|両人《りやうにん》の
|強《つよ》き|力《ちから》にむしられて
なやみ|苦《くる》しむその|隙《すき》を
|狙《ねら》つてつけ|入《い》る|計略《はかりごと》
|進《すす》めや|進《すす》め、いざ|進《すす》め
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アの|亡《ほろ》ぶまで』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『|大野原《おほのはら》いゆく|旅人《たびびと》|悉《ことごと》く
|謀《はか》り|殺《ころ》せし|婆《ばば》は|憎《にく》らし
われもまた|婆《ばば》の|毒手《どくしゆ》に|誘《いざな》はれ
|玉《たま》の|生命《いのち》を|奪《うば》はれにける
|精霊《せいれい》の|生命《いのち》はあれど|現身《うつそみ》の
|生命《いのち》は|最早《もはや》|故郷《くに》に|帰《かへ》れず
かくならば|三人《みたり》が|心《こころ》|一《いつ》にして
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アを|亡《ほろ》ぼしくれむ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》|配《くば》りて|進《すす》めかし
|婆《ばば》アの|手下《てした》|道《みち》にし|待《ま》てば
ゆくりなく|忍ケ丘《しのぶがをか》の|鬼婆《おにばば》に
|茶《ちや》をふれまはれ|謀《はか》らはれける
|三人《さんにん》の|貴《うづ》の|乙女《をとめ》も|鬼婆《おにばば》の
|毒手《どくしゆ》にかかりて|亡《う》せしなるらむ
|三人《さんにん》の|乙女《をとめ》の|生命《いのち》|救《すく》ひつつ
|忍ケ丘《しのぶがをか》の|闇《やみ》を|照《て》らさむ』
|虎公《とらこう》は|殿《しんがり》をつとめながら|歌《うた》ふ。
『|天地《あめつち》の
|岩戸《いはと》|開《ひら》くる|時《とき》は|来《き》ぬ
|百千々《ももちぢ》の
|恨《うら》みを|晴《は》らす|時《とき》は|今《いま》
もろもろの
なやみをやらふ|時《とき》は|来《き》ぬ
|水上山《みなかみやま》の|神館《かむやかた》
|王《こきし》の|君《きみ》に|仕《つか》へたる
|心《こころ》も|固《かた》き|巌ケ根《いはがね》の
|御子《みこ》と|生《あ》れます|若君《わかぎみ》に
|仕《つか》へ|奉《まつ》りて|進《すす》み|行《ゆ》くも
|天地《てんち》の|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》か
|清水ケ丘《しみづがをか》に|年月《としつき》を
|恨《うら》みの|鬼《おに》となりはてて
|婆《ばば》アの|生命《いのち》を|窺《うかが》ひし
その|甲斐《かひ》ありて|今《いま》|吾《われ》は
|強《つよ》き|力《ちから》に|押《お》されつつ
|進《すす》み|行《ゆ》くこそ|勇《いさ》ましき
ああ|吾《われ》は
|若君《わかぎみ》の|如《ごと》|旅《たび》|行《ゆ》きて
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アにたばかられ
|生命《いのち》とられし|落武者《おちむしや》よ
これの|恨《うら》みを|晴《は》らさむと
|熊公《くまこう》と|共《とも》に|年月《としつき》を
|清水ケ丘《しみづがをか》に|暮《くら》したり
いよいよ|時《とき》は|満《み》ちにけり
いよいよ|婆《ばば》アを|征討《きた》むべき
よき|日《ひ》となりぬ|勇《いさ》ましや
|吾《われ》|精霊《せいれい》の|身《み》ながらも
|何《なに》かは|知《し》らずいと|強《つよ》き
|力《ちから》|添《そ》はりし|心地《ここち》して
|大野ケ原《おほのがはら》を|進《すす》み|行《ゆ》く
|幸《さいは》ひ|空《そら》に|月《つき》もなく
|星《ほし》かげもなき|闇《やみ》の|夜《よ》の
|今日《けふ》の|出《い》で|立《た》ち|面白《おもしろ》や
|年月《としつき》|重《かさ》ね|恨《うら》みたる
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アの|目《め》の|前《まへ》に
|恨《うら》み|晴《は》らすと|思《おも》へば|嬉《うれ》しき』
|斯《か》く|歌《うた》ひながら、|真夜中頃《まよなかごろ》|三人《さんにん》の|精霊《せいれい》は、|忍ケ丘《しのぶがをか》の|笑《わら》ひ|婆《ばば》の|家《いへ》の|表《おもて》に|着《つ》きにける。
|三人《さんにん》は|破《やぶ》れ|戸《ど》の|外《そと》にそつと|佇《たたず》み、|内《うち》の|様子《やうす》を|窺《うかが》へば、|婆《ばば》は|両手《りやうて》のむしれるばかり|二人《ふたり》に|引《ひ》かれたる|痛《いた》みに、|霊魂《たましひ》も|断《き》れむばかり|苦《くる》しみ|悶《もだ》え、うんうんと|呻吟《うめき》の|声《こゑ》をあげ|居《ゐ》たり。|三人《さんにん》の|乙女《をとめ》はとよく|見《み》れば、こはそも|如何《いか》に、|介抱《かいはう》なし|居《ゐ》るやと|思《おも》ひきや、|婆《ばば》の|二代目《にだいめ》の|如《ごと》く、
『アハハハハツハ、イヒヒヒヒ
ウフフフフツフ、エヘヘヘヘ
オホホホホツホ|面白《おもしろ》や
|主《あるじ》の|笑《わら》ひ|婆《ば》アさんは
あまりの|我執《がしふ》が|強《つよ》くして
|数限《かずかぎ》りなく|人命《じんめい》を
|奪《うば》ひて|忍《しのぶ》の|里《さと》をつくり
|司《つかさ》となりて|居《ゐ》たりしが
|最早《もはや》|天運《てんうん》つきけるか
|昨夜《さくや》|泊《とま》りし|水上《みなかみ》の|山《やま》の
|冬男《ふゆを》と|言《い》へる|大丈夫《ますらを》に
うまく|此《この》|場《ば》を|逃《に》げられて
その|無念《むねん》さに|地団駄《ぢだんだ》を
|踏《ふ》みつつ|後《あと》を|追《お》ひかけて
|清水ケ丘《しみづがをか》に|辿《たど》りつき
|不覚《ふかく》をとりて|逃《に》げ|帰《かへ》り
|左右《さいう》の|手足《てあし》をむしられて
|身動《みうご》きならず|苦《くる》しめる
|此《こ》の|有様《ありさま》は|何事《なにごと》ぞ
われら|三人《みたり》の|乙女《をとめ》らも
|笑《わら》ひ|婆《ば》さんに|謀《はか》られて
|遂《つひ》に|幽冥《いうめい》の|鬼《おに》となり
|恋《こひ》しき|父母《ふぼ》の|家《いへ》にさへ
|帰《かへ》るよしなきみじめさよ
この|恨《うら》み
いつかは|晴《は》らしくれむぞと
|当《あて》なき|事《こと》を|頼《たの》みつつ
|待《ま》ちし|月日《つきひ》の|甲斐《かひ》ありて
|今日《けふ》は|嬉《うれ》しき|鬼婆《おにばば》の
|早《はや》くも|知死期《ちしご》となりにけり
ああ|面白《おもしろ》や、たのもしや
|笑《わら》ひ|婆《ば》さんの|蘇《よみがへ》る
ためしは|最早《もはや》あらざらめ
|天落《てんお》ち|地《つち》は|割《わ》るるとも
|婆《ば》さんの|再《ふたた》び|蘇《よみがへ》る
ためしはあらじ|今《いま》の|間《ま》に
|婆《ば》さんの|寝首《ねくび》を|押《おさ》へつけ
かよわき|乙女《をとめ》の|身《み》ながらも
|日頃《ひごろ》の|恨《うら》み|晴《は》らすべし
ああ|面白《おもしろ》し、たのもしし
アハハハハツハ、イヒヒヒヒ
ウフフフフツフ、エヘヘヘヘ
オホホホホツホ|面白《おもしろ》し』
と|歌《うた》ひつ|笑《わら》ひつ、|三人《さんにん》は|枕辺《まくらべ》に|立《た》つて|居《ゐ》る。|笑《わら》ひ|婆《ばば》は|怒《いか》り|心頭《しんとう》に|達《たつ》すれど、|最早《もはや》びくとも|動《うご》かぬ|此《この》|場合《ばあひ》、|煮《た》いて|喰《くら》ふと|焼《や》いて|食《く》はうと、|三人乙女《みたりをとめ》の|手《て》の|中《うち》にあるを|知《し》る|故《ゆゑ》に、|狡猾《かうくわつ》なる|婆《ばば》は|聞《きこ》えぬ|振《ふり》を|装《よそほ》ひ、|痛《いた》さを|耐《こら》へて|笑《わら》ひにまぎらし|居《ゐ》たりける。
(昭和九・七・二六 旧六・一五 於関東別院南風閣 白石恵子謹録)
第四章 |姉妹婆《しまいばば》〔二〇〇八〕
|忍ケ丘《しのぶがをか》の|笑《わら》ひ|婆《ばば》が|破《やぶ》れ|家《や》の|外《そと》に|立《た》ちて、|様子《やうす》をうかがひ|居《ゐ》たる|冬男《ふゆを》、|熊公《くまこう》、|虎公《とらこう》の|三《み》つの|精霊《せいれい》は、|時《とき》こそよしと|進《すす》み|寄《よ》れば、やや|驚《おどろ》きの|色《いろ》を|見《み》せながら、|身動《みうご》きならぬ|苦《くる》しさに、アハハハハ、イヒヒヒヒとかすかに|笑《わら》ひ、|目《め》を|怒《いか》らせ、|三男三女《さんなんさんぢよ》の|顔《かほ》を|見上《みあ》げて|居《ゐ》る。
|冬男《ふゆを》はこの|体《てい》を|見《み》て、
『さきの|日《ひ》に|吾《われ》|苦《くる》しめし|報《むく》いにて
このありさまは|何事《なにごと》なるかも
|笑《わら》ひ|婆《ばば》|思《おも》ひ|知《し》りしや|天地《あめつち》の
|神《かみ》のいましめ|今《いま》あらはれぬ
|神々《かみがみ》は|熊《くま》と|虎《とら》との|腕《うで》をかり
|汝《なれ》が|両手《りやうて》を|引《ひ》き|抜《ぬ》かせたり
|両腕《りやううで》は|体《からだ》につける|如《ごと》|見《み》ゆるとも
その|関節《くわんせつ》は|抜《ぬ》けてありけり
いぢらしと|思《おも》へど|詮《せん》なし|笑《わら》ひ|婆《ばば》の
|霊魂《たま》の|生命《いのち》を|断《た》たねばおかじ
|国津神《くにつかみ》の|数多《あまた》の|生命《いのち》|奪《うば》ひたる
|婆《ばば》アの|最後《さいご》のあはれなるかな
|精霊《せいれい》の|生命《いのち》すてたる|其《そ》の|後《のち》は
|行《ゆ》くべき|所《ところ》あらじと|思《おも》ふ
この|丘《をか》に|毒茶《どくちや》を|進《すす》めし|鬼婆《おにばば》の
みたまの|果《は》てぞあはれなるかな
しつこくも|清水ケ丘《しみづがをか》まで|追《お》ひ|来《きた》り
|熊《くま》と|虎《とら》とにいためられける
|斯《か》くならば|婆《ばば》よ|心《こころ》をあらためて
|神《かみ》の|助《たす》けを|直《ただ》にうくべし』
|婆《ばば》は|呻吟《うめ》きながら、しわがれ|声《ごゑ》をしぼりて、
『|迷《まよ》ひ|来《こ》し|汝《なれ》に|毒茶《どくちや》を|進《すす》めしも
|生命《いのち》|奪《うば》ふと|思《おも》へばなりけり
|現世《うつしよ》のもだえ|苦《くる》しみ|助《たす》けむと
|吾《われ》は|毒湯《どくゆ》を|与《あた》へたるなり
|感謝《かんしや》することを|忘《わす》れてこの|婆《ばば》を
|恨《うら》むは|何《なん》の|心《こころ》ぞやそも
この|婆《ばば》は|忍ケ丘《しのぶがをか》の|氏子《うぢこ》をば
|殖《ふや》すが|為《ため》に|毒《どく》を|進《すす》めし
かぎりある|現《うつつ》の|生命《いのち》を|抜《ぬ》きとりて
|永久《とは》の|生命《いのち》を|与《あた》ふる|真心《まごころ》
わが|為《ため》に|生命《いのち》うばはれ|救《すく》はれし
|者《もの》ばかりなる|忍ケ丘《しのぶがをか》ぞや』
|冬男《ふゆを》は|憤然《ふんぜん》として、
『|国土《くに》つくる|務《つと》めある|身《み》を|殺《ころ》したる
この|鬼婆《おにばば》は|魍魎《すだま》なるらむ
|御前《おんまへ》にかへりごとせむ|由《よし》もなし
|現《うつつ》の|生命《いのち》|奪《うば》はれし|吾《われ》
|精霊《せいれい》となりて|故郷《こきやう》にかへるべき
かむばせもなきわが|身《み》なりけり
この|上《うへ》は|婆《ばば》アのみたまを|亡《ほろ》ぼして
|忍ケ丘《しのぶがをか》の|司《つかさ》とならむ
あきらめて|早《はや》く|亡《ほろ》びよ|鬼婆《おにばば》よ
|汝《なれ》がみたまの|生命《いのち》はわがもの』
|熊公《くまこう》は、
『|鬼婆《おにばば》のたくみの|罠《わな》におちいりて
われは|果敢《はか》なくなりしみたまぞ
この|恨《うらみ》いつか|晴《は》らすと|只二人《ただふたり》
|清水ケ丘《しみづがをか》に|時《とき》を|待《ま》ちしよ
|斯《か》くならば|最早《もはや》|力《ちから》も|及《およ》ぶまじ
この|鬼婆《おにばば》を|斬《き》りて|放《はふ》らな
|嬉《うれ》しさと|楽《たの》しさ|一度《いちど》に|湧《わ》き|出《い》でて
|婆《ばば》アの|生命《いのち》を|今日《けふ》は|断《た》つなり』
|婆《ばば》アは|寝《ね》ながら|苦《くる》しき|息《いき》の下より、
『へらず|口《ぐち》たたくな|熊公《くまこう》の|精霊《せいれい》よ
|吾《われ》のたくみにかかりし|馬鹿者《ばかもの》
|精霊《せいれい》の|生命《いのち》|死《し》すると|思《おも》ふ|奴《やつ》
|幽冥《いうめい》|知《し》らぬたぶれなりけり
この|婆《ばば》の|生命《いのち》は|如何《いか》に|迫《せま》るとも
ひるまずたゆまず|仇《あだ》をかへさむ
|肉体《にくたい》は|死《し》すことあるも|精霊《せいれい》は
|幾千代《いくちよ》までも|亡《ほろ》びざるなり
どこまでも|生《い》きながらへて|汝《な》が|生命《いのち》
|千変万化《せんぺんばんくわ》に|悩《なや》ましくれなむ
|貴様等《きさまら》に|討《う》たれてひるむ|婆《ばば》ならず
しばしの|間《あひだ》をやすむのみなる』
|虎公《とらこう》は、
『|執念《しふねん》の|深《ふか》き|婆《ばば》かも|今《いま》となりて
へらず|口《ぐち》のみたたき|居《ゐ》るなり
|両腕《りやううで》を|引《ひ》き|抜《ぬ》かれながら|知死期《ちしご》まで
ののしる|婆《ばば》アの|心《こころ》にくきも
|一打《ひとう》ちに|息《いき》とめてみむこの|婆《ばば》の
|頭骸骨《づがいこつ》をば|打《う》ちくだきつつ
わが|恨《うら》み|晴《は》らさむときは|来《きた》りけり
|思《おも》ひしれ|婆《ばば》ア|今日《けふ》の|朝《あした》を』
|婆《ばば》アは|長《なが》い|舌《した》をベロリと|出《だ》し、|冷汗《ひやあせ》をかきながら|尚《なほ》もしぶとく、
『|虎公《とらこう》よ|馬鹿《ばか》をほざくなこの|婆《ばば》は
|斬《き》つても|斬《き》れぬ|亡《ほろ》びぬつはものぞ
よしやよし|幾万人《いくまんにん》の|攻《せ》め|来《く》とも
ひるまぬ|笑《わら》ひの|婆《ばば》アを|知《し》らずや
|如何《いか》ならむ|悩《なや》みにあふもアハハハハ
イヒヒヒヒヒと|笑《わら》ひ|過《すご》さむ
|難局《なんきよく》に|処《しよ》しても|吾《われ》は|笑《わら》ふなり
|笑《わら》へば|生命《いのち》は|永久《とは》に|亡《ほろ》びず
|笑《わら》ふこと|知《し》らぬ|輩《やから》のあはれさよ
いつも|怒《おこ》りつ|泣《な》きつ|居《ゐ》るなり
|三人《さんにん》の|乙女《をとめ》は|弱味《よわみ》をつけこみて
そろそろ|生地《きぢ》をあらはしにけり
この|婆《ばば》のみたまは|亡《ほろ》びず|何時《いつ》までも
|生《い》きて|乙女《をとめ》に|仇《あだ》を|返《かへ》さむ
|山《やま》も|川《かは》も|海《うみ》もおぼえて|居《を》れよかし
|今《いま》に|報《むく》いむ|今日《けふ》の|恨《うら》みを』
|山《やま》は|少《すこ》しく|柳眉《りうび》を|逆立《さかだ》て|声《こゑ》をふるはせ、
『まだ|花《はな》の|蕾《つぼみ》の|生命《いのち》とりし|婆《ばば》に
|吾《われ》は|報《むく》いむ|恨《うら》みのかずかず
|今日《けふ》まではすきを|窺《うかが》ひにこやかに
|婆《ばば》に|仕《つか》へて|来《きた》りし|吾《われ》なり
わが|心《こころ》|知《し》らずに|胸《むね》を|安《やす》んじて
|過《す》ぎにし|婆《ばば》のうかつなるかも
|故郷《ふるさと》のわが|垂乳根《たらちね》は|夜昼《よるひる》を
|悲《かな》しみ|給《たま》はむ|思《おも》へばにくらし
この|婆《ばば》のたまの|生命《いのち》を|亡《ほろ》ぼして
|世《よ》の|禍《わざはひ》をのぞかむと|思《おも》ふ』
|婆《ばば》アは|怒《いか》りの|面相《めんさう》すさまじく、
『アハハハハあはれなるかな|乙女《をとめ》|山《やま》
|汝《なれ》は|身《み》の|程《ほど》|知《し》らぬ|馬鹿者《ばかもの》
わが|許《ゆる》しなくてみたまの|生命《いのち》をば
|保《たも》つと|思《おも》ふかうつけ|者《もの》|奴《め》が
この|婆《ばば》は|閻魔《えんま》の|妻《つま》よ|今《いま》ここに
|館《やかた》|構《かま》へて|生命《いのち》|断《た》つなり
|見苦《みぐる》しき|姿《すがた》の|婆《ばば》とさげすむな
|大王様《だいわうさま》の|奥方《おくがた》なるぞや』
|川《かは》は|歌《うた》ふ。
『|大王《だいわう》の|奥方《おくがた》なるか|知《し》らねども
|悪《あ》しきことのみいたす|婆《ばば》なり
この|婆《ばば》が|幽冥界《いうめいかい》にある|限《かぎ》り
|精霊等《せいれいたち》は|浮《うか》ばざるべし
|如何《いか》ならむ|悩《なや》みにあふもいとはまじ
|婆《ばば》アの|生命《いのち》をとらねばやまじ
|川《かは》の|瀬《せ》に|毒《どく》を|流《なが》してこの|婆《ばば》は
|人《ひと》の|生命《いのち》をとりし|曲《まが》なり』
|婆《ばば》アは、
『|汝《なれ》|乙女《をとめ》|訳《わけ》を|知《し》らずに|何《なに》を|言《い》ふ
|婆《ばば》の|光《ひかり》を|知《し》らぬ|盲《めくら》が』
|海《うみ》は、
『|斯《か》くなれば|如何《いか》にもがくも|及《およ》ぶまじ
|婆《ばば》に|報《むく》いむ|日頃《ひごろ》の|恨《うら》みを
|玉《たま》の|身《み》の|惜《を》しき|生命《いのち》を|奪《うば》はれて
|黙《もだ》すべきやは|花《はな》なる|乙女《をとめ》は』
|婆《ばば》アは、
『|何《なん》なりと|勝手《かつて》にほざけこの|婆《ばば》の
|許《ゆる》しなければ|住《す》み|場《ば》なからむ』
と|言《い》ひながら、うんうんと|又《また》もや|冷汗《ひやあせ》を|滝《たき》の|如《ごと》く|流《なが》しながら|呻吟《うめ》いて|居《ゐ》る。ここに|冬男《ふゆを》は|乙女《をとめ》に|向《むか》ひ、
『さきの|日《ひ》に|吾《われ》に|毒茶《どくちや》を|進《すす》めたる
|汝《なれ》はいやしき|乙女《をとめ》ならずや
|鬼婆《おにばば》の|手下《てした》と|思《おも》ひし|汝《なれ》|乙女《をとめ》
|今日《けふ》は|婆《ばば》アの|敵《かたき》となりけるよ』
|山《やま》はこれに|答《こた》へて、
『|鬼婆《おにばば》のきびしき|教《をしへ》にそむかれず
|水奔草《すいほんさう》の|茶《ちや》を|進《すす》めける
|気《き》の|毒《どく》と|思《おも》へどやむを|得《え》ざりけり
|許《ゆる》させ|給《たま》へわが|曲業《まがわざ》を』
|川《かは》は|歌《うた》ふ。
『|君《きみ》こそはあたら|大丈夫《ますらを》|精霊《せいれい》と
なして|力《ちから》をからむと|思《おも》へり
|大丈夫《ますらを》の|君《きみ》なるが|故《ゆゑ》この|婆《ばば》を
|征討《きた》むと|思《おも》ひて|毒《どく》たてまつりき
|大丈夫《ますらを》の|君《きみ》|精霊《せいれい》となりまさば
|吾《われ》の|力《ちから》と|思《おも》ひゐたりしよ
|精霊《せいれい》の|君《きみ》にしあれば|吾《われ》もまた
|精霊《せいれい》|故《ゆゑ》に|力《ちから》とたのまむ』
|山《やま》は|歌《うた》ふ。
『ともかくも|男女六柱《だんぢよむはしら》|精霊《せいれい》の
|力《ちから》|協《あは》せて|婆《ばば》を|征討《きた》めむ
|鬼婆《おにばば》よ|心《こころ》しづかに|冥《めい》せよや
いよいよ|運《うん》のつきにしあれば』
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アは|絶対絶命《ぜつたいぜつめい》と|見《み》えける|折《をり》しも、|表戸《おもてど》を|静《しづ》かに|開《ひら》きて|入《い》り|来《きた》る|胡麻塩《ごましほ》の|髪《かみ》を|後《うしろ》に|垂《た》らしたる|中婆《ちうばば》アありけり。|中婆《ちうばば》アは|言葉《ことば》|淑《しと》やかに|六人《ろくにん》の|男女《だんぢよ》に|黙礼《もくれい》しながら、
『|此《この》|家《や》の|主《あるじ》|笑《わら》ひさんは、きついお|怪我《けが》をなさつたと|聞《き》きました。|私《わたし》はこの|村《むら》の「|譏《そし》り」と|言《い》ふ|者《もの》でありますが、|里人《さとびと》の|代理《だいり》として|参《まゐ》りました。|見《み》れば|山《やま》、|川《かは》、|海《うみ》の|優《やさ》しき|三人様《さんにんさま》の|厚《あつ》き|御介抱《ごかいはう》を|御礼《おれい》|申《まう》します。また|外《ほか》の|男《をとこ》の|三人様《さんにんさま》まで|御見舞《おみま》ひにお|越《こ》し|下《くだ》さいましたやうですが、|何《なん》とも|御礼《おれい》の|申《まう》しやうもございませぬ。どれ、|私《わたし》も|一寸《ちよつと》|御容態《ごようたい》を|見《み》させていただきませう』
と|言《い》ひつつ、|笑《わら》ひ|婆《ばば》アを|抱《だ》き|起《おこ》し、すつくと|背《せ》に|負《お》ひ、ホホホホホと|後《あと》を|振《ふ》りむき、|笑《わら》ひながら|驀地《まつしぐら》に|表《おもて》をさして|駈《か》け|出《いだ》し、|冲天《ちうてん》の|雲《くも》に|乗《の》り、|遠《とほ》き|南《みなみ》の|空《そら》に|向《むか》つて|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》りぬ。この|婆《ばば》アは|笑《わら》ひ|婆《ばば》の|妹《いもうと》にして、|間断《かんだん》なく|人《ひと》を|譏《そし》り|楽《たの》しみとせる|悪魔《あくま》なりける。
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アは|妹《いもうと》に|助《たす》けられ|急場《きふば》を|遁《の》がれ、|行方《ゆくへ》をくらましたるより、|六人《ろくにん》は|後《あと》を|追《お》はむ|術《すべ》もなく、|互《たが》ひに|顔《かほ》を|見合《みあ》はして、|暫《しば》しが|程《ほど》は|呆然《ばうぜん》たりける。
(昭和九・七・二六 旧六・一五 於関東別院南風閣 内崎照代謹録)
第五章 |三《み》つ|盃《さかづき》〔二〇〇九〕
|忍ケ丘《しのぶがをか》の|笑《わら》ひ|婆《ばば》の|館《やかた》の|辺《あた》りより、|怪《あや》しき|雲気《うんき》|立昇《たちのぼ》ると|見《み》る|間《ま》に、|空中《くうちう》を|譏《そし》り|婆《ばば》アが「|笑《わら》ひ」|婆《ばば》を|背《せ》に|負《お》ひ、|二《ふた》つの|火《ひ》の|玉《たま》となつて、|遥《はる》か|南《みなみ》の|空《そら》に|消《き》えたるを|見《み》て、|里人等《さとびとたち》は|意地悪《いぢわる》き|婆《ばば》の|逃《に》げ|去《さ》りしならむ、さるにても|囚《とら》はれ|居《ゐ》る|三人《さんにん》の|乙女《をとめ》は|如何《いか》にと|案《あん》じ|煩《わづら》ひつつ、|二人《ふたり》の|婆《ばば》の|次《つぎ》に|位《くらゐ》する|里人《さとびと》の|頭《かしら》なる|色《いろ》の|黒《くろ》き「|茄子《なすび》」と|言《い》ふ|精霊《せいれい》は|数多《あまた》の|精霊《せいれい》を|引連《ひきつ》れ|来《きた》り、|男女《だんぢよ》|六人《ろくにん》の|精霊《せいれい》が|婆《ばば》が|抜《ぬ》け|殻《がら》の|館《やかた》に|黙然《もくねん》として|立《た》ち|居《ゐ》たるにぞ、|茄子《なすび》は|門口《かどぐち》より|力《ちから》|限《かぎ》りの|声《こゑ》を|張上《はりあ》げて、
『この|宿《やど》の|笑《わら》ひ|婆《ば》さんは|如何《いかが》なりし
|怪《あや》しき|雲《くも》に|乗《の》り|行《ゆ》くを|見《み》し
|家《いへ》の|内《うち》に|人《ひと》の|気《け》するなり|何人《なんびと》か
|名乗《なの》らせ|給《たま》へ|吾《われ》は|茄子《なすび》よ』
|此《この》|声《こゑ》にハツと|気《き》がつき、|山《やま》、|川《かは》、|海《うみ》の|三人《さんにん》は|門口《かどぐち》に|走《はし》り|出《い》で、
『|珍《めづら》しくよく|出《い》でますも|此《この》|家《いへ》の
|主《あるじ》は|雲《くも》に|乗《の》りて|逃《に》げたり
|里人《さとびと》を|虐《しひた》げ|艱《なや》めし|笑《わら》ひ|婆《ばば》は
あと|白浪《しらなみ》と|消《き》え|失《う》せにける
|山鳥《やまどり》の|尾《を》の|長々《ながなが》しき|年月《としつき》を
|忍《しの》び|来《き》にけり|婆《ば》さんが|館《やかた》に』
|茄子《なすび》は|歌《うた》ふ。
『|此《この》|里《さと》の|司《つかさ》ながらも|笑《わら》ひ|婆《ばば》は
よきことをせぬ|魍魎《すだま》なりしよ
|今日《けふ》よりは|里人等《さとびとたち》も|喜《よろこ》びて
|忍ケ丘《しのぶがをか》に|光《ひか》りて|住《す》むべし
|笑《わら》ひ|婆《ばば》|一人《ひとり》のみかは|譏《そし》りまで
|忍ケ丘《しのぶがをか》を|逃《に》げ|去《さ》りしはや
|里人《さとびと》は|何《いづ》れも|笑《わら》ひに|玉《たま》の|緒《を》の
|生命《いのち》とられし|人《ひと》のみならずや』
|山《やま》は|之《これ》に|答《こた》へて、
『|吾《われ》も|亦《また》|笑《わら》ひ|婆《ばば》アの|手《て》にかかり
|生命《いのち》|亡《う》せにしものなりにけり
|今日《けふ》よりは|忍ケ丘《しのぶがをか》の|里人《さとびと》は
|歓《ゑら》ぎ|喜《よろこ》び|世《よ》を|寿《ことほ》がむ
|兎《と》も|角《かく》も|茄子《なすび》の|君《きみ》よ|奥《おく》の|間《ま》に
|進《すす》ませ|給《たま》へ|客人《まらうど》いませば』
|茄子《なすび》といへる|精霊《せいれい》は、
『|何人《いづかた》の|客人《まらうど》なるか|知《し》らねども
|吾《われ》は|一先《ひとま》づ|会《あ》ひて|語《かた》らむ
|今日《けふ》よりは|醜《しこ》の|雲霧《くもきり》|吹《ふ》き|払《はら》ひ
|月日《つきひ》|並《なら》びて|輝《かがや》き|渡《わた》らむ
|此《こ》の|里《さと》の|雲《くも》は|晴《は》れたり|笑《わら》ひ|婆《ばば》
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|逃《に》げ|去《さ》りしより』
と|歌《うた》ひつつ|奥《おく》の|一間《ひとま》に|進《すす》み|入《い》り、|三人《さんにん》の|男子《だんし》に|向《むか》ひ|目礼《もくれい》しながら、
『|此《この》|館《たち》におはす|三人《みたり》の|客人《まらうど》は
|何《いづ》れの|精霊《みたま》か|聞《き》かまほしけれ
|吾《われ》こそは|忍ケ丘《しのぶがをか》に|永遠《とは》に|住《す》む
|茄子《なすび》と|申《まう》す|精霊《せいれい》なりけり』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》こそは|水上《みなかみ》の|山《やま》に|輝《かがや》ける
|巌根《いはね》が|末《すゑ》の|御子《みこ》なりにける
これに|立《た》つ|二人《ふたり》は|家臣《いへのこ》|熊《くま》、|虎《とら》と
|世《よ》にひびきたる|大丈夫《ますらを》なるよ
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|神言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|旅《たび》|行《ゆ》く|道《みち》を|謀《はか》らはれける
|鬼婆《おにばば》の|毒牙《どくが》にかかり|水奔草《すいほんさう》の
|茶《ちや》を|飲《の》まされて|鬼《おに》となりし|吾《われ》
|三柱《みはしら》の|男《を》の|子《こ》は|何《いづ》れも|精霊《せいれい》の
|世界《せかい》にありて|婆《ばば》をきためし』
|川《かは》は|歌《うた》ふ。
『|三柱《みはしら》の|大丈夫《ますらを》の|君《きみ》の|力《ちから》にて
|二人《ふたり》の|婆《ばば》は|逃《に》げ|失《う》せにけり
|斯《か》くならば|忍ケ丘《しのぶがをか》の|里人《さとびと》は
|世《よ》を|楽《たの》しみて|送《おく》るなるらむ
|吾《われ》とても|心《こころ》|明《あか》るくなりにけり
|醜《しこ》の|黒雲《くろくも》|吹《ふ》き|散《ち》りしより』
|茄子《なすび》は|之《これ》に|答《こた》えて、
『ありがたき|御世《みよ》となりけり|忍ケ丘《しのぶがをか》の
|里《さと》は|忽《たちま》ち|楽園《みその》となりぬ』
|海《うみ》は|歌《うた》ふ。
『|終日《ひねもす》を|婆《ばば》の|眼《まなこ》に|射《い》られつつ
|心《こころ》ならずも|忍《しの》び|来《き》にける
|水奔鬼《すいほんき》となりて|此《この》|世《よ》を|忍ケ丘《しのぶがをか》の
|婆《ばば》の|館《やかた》に|過《す》ぎにけらしな
|斯《か》くならば|恐《おそ》るるものは|更《さら》になし
|茄子《なすび》の|君《きみ》よ|喜《よろこ》びたまへ』
|里人《さとびと》は|庭《には》|一面《いちめん》に|群《むら》がり|来《きた》り、|二人《ふたり》の|婆《ばば》アの|逃《に》げ|去《さ》りしと|聞《き》くより|勇《いさ》み|立《た》ち、|歓呼《くわんこ》の|声《こゑ》は|天地《てんち》を|揺《ゆる》がすばかりなりける。|群衆《ぐんしう》の|中《なか》より「|水菜《みづな》」と|言《い》へる|女身《によしん》は|長袖《ながそで》を|纏《まと》ひながら、|広庭《ひろには》の|中央《ちうあう》に|立《た》ち、|身振《みぶ》り|品《しな》よく|踊《をど》り|舞《ま》ふ。|群衆《ぐんしう》は|之《これ》に|和《わ》して|手拍子《てびやうし》|足拍子《あしびやうし》を|揃《そろ》へ、|満面《まんめん》|喜《よろこ》びに|充《み》ちながら、|月《つき》の|輪《わ》を|作《つく》り|踊《をど》り|狂《くる》ひけり。
『アア|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し
|忍ケ丘《しのぶがをか》を|包《つつ》みたる
|醜《しこ》の|黒雲《くろくも》|晴《は》れ|行《ゆ》きぬ
|科戸《しなど》の|風《かぜ》の|幸《さち》はひに
|醜神《しこがみ》|笑《わら》ひ|婆《ば》アさんも
|妹《いもと》の|譏《そし》り|婆《ば》アさんも
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|行《ゆ》きて
|今《いま》は|清《すが》しき|神《かみ》の|苑《その》
|吾等《われら》|里人《さとびと》ことごとく
|惜《を》しき|生命《いのち》を|奪《うば》はれて
|世《よ》に|愧《はづ》かしき|水奔鬼《すいほんき》
|精霊《せいれい》の|身《み》となり|果《は》てて
|恨《うら》みを|返《かへ》す|術《すべ》もなく
|笑《わら》ひ|婆《ば》さんの|意《い》の|儘《まま》に
|頤《あご》の|先《さき》にて|使《つか》はれつ
|艱《なや》み|苦《くる》しみ|今日《けふ》が|日《ひ》まで
|涙《なみだ》と|共《とも》に|暮《く》れにけり
|水上《みなかみ》の|山《やま》にあれませる
|冬男《ふゆを》|主従《しゆじう》|現《あ》れまして
|里《さと》の|悪魔《あくま》を|退《しりぞ》けまし
|天地《あめつち》|晴《は》れたる|今日《けふ》の|日《ひ》を
|里人《さとびと》|此処《ここ》に|集《あつ》まりて
|心《こころ》|限《かぎ》りに|歓《ゑら》ぐなり
ああたのもしや、たのもしや
|不老不死《ふらうふし》なる|精霊《せいれい》の
|此《この》|国人《くにびと》は|今日《けふ》よりは
|常世《とこよ》の|春《はる》を|楽《たの》しまむ
|冬男《ふゆを》の|神《かみ》よ|供神《ともがみ》よ
|堅磐常磐《かきはときは》に|鎮《しづ》まりて
|此《この》|里人《さとびと》を|治《をさ》めまし
|偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る
|偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る』
と|水菜《みづな》は|音吐朗々《おんとらうらう》として|精霊《せいれい》の|気分《きぶん》も|何処《どこ》へやら、|愉快気《ゆくわいげ》に|歌《うた》ひ|終《をは》る。
|斯《か》くして|歓喜《くわんき》の|中《うち》に|其《その》|夜《よ》は|明《あ》け|放《はな》れたれば、|各自《おのもおのも》|巌窟《いはや》の|住家《すみか》へ|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|茲《ここ》に|茄子《なすび》は|六人《ろくにん》の|男女《だんぢよ》に|向《むか》ひ、|又《また》もや|婆《ばば》の|帰《かへ》り|来《きた》るやも|計《はか》られざれば、|今《いま》の|間《うち》に|根城《ねじろ》を|堅《かた》め|置《お》かむと、|六人《ろくにん》の|男女《だんぢよ》に|幽界《いうかい》の|結婚式《けつこんしき》を|挙《あ》げむ|事《こと》を|勧誘《くわんいう》しければ、|冬男《ふゆを》は|乙女《をとめ》の|山《やま》を、|熊公《くまこう》は|乙女《をとめ》の|川《かは》を、|虎公《とらこう》は|乙女《をとめ》の|海《うみ》を|妻《つま》と|定《さだ》め、|盛大《せいだい》なる|幽界《いうかい》の|結婚式《けつこんしき》を|挙《あ》ぐることとはなりぬ。
|茲《ここ》に|婆《ばば》の|館《やかた》を|利用《りよう》して、|三夫婦《みふうふ》の|結婚式《けつこんしき》は|目出度《めでた》く|挙《あ》げられたり。|媒酌役《ばいしやくやく》は|茄子《なすび》の|司《つかさ》にして|茄子《なすび》は|祝歌《しゆくか》を|歌《うた》ふ。
『|幽界《いうかい》に|例《ためし》もあらぬ|三《み》つ|組《ぐみ》の
|嫁《とつ》ぎの|盃《さかづき》かはす|目出度《めでた》さ
|今日《けふ》よりは|冬男《ふゆを》の|神《かみ》のましませば
|此《この》|里人《さとびと》は|安《やす》けかるべし
|三柱《みはしら》の|乙女《をとめ》は|何《いづ》れも|夫《つま》もちて
|忍ケ丘《しのぶがをか》に|栄《さか》えましませ
|里人《さとびと》も|今日《けふ》の|喜《よろこ》び|寿《ことほ》ぎて
|常世《とこよ》の|春《はる》を|楽《たの》しむなるらむ
|吾《われ》も|亦《また》これの|嫁《とつ》ぎの|媒酌人《なかうど》と
なりたる|今日《けふ》を|嬉《うれ》しく|思《おも》へり
|里人《さとびと》にかはりて|今日《けふ》の|喜《よろこ》びを
|恭《うやうや》しくも|寿《ことほ》ぎ|奉《まつ》らむ
|常世《とこよ》|行《ゆ》く|闇《やみ》につつまる|此《この》|丘《をか》も
|君《きみ》の|天降《あも》りに|晴《は》れ|渡《わた》りけり
|此《この》|里《さと》にさやりし|二人《ふたり》の|鬼婆《おにばば》は
|行方知《ゆくへし》れずとなりにけらしな
|鬼婆《おにばば》の|再《ふたた》び|帰《かへ》り|来《きた》るとも
|里人《さとびと》|力《ちから》を|協《あは》せてこばまむ
|八十日日《やそかひ》はあれども|今日《けふ》の|吉《よ》き|日《ひ》こそ
|生《い》く|日《ひ》|足《た》る|日《ひ》と|祝《いは》ひこそすれ』
|茲《ここ》に|幽冥界《いうめいかい》の|結婚《けつこん》は|行《おこな》はれたれど、|意志《いし》|想念《さうねん》の|世界《せかい》なれば、|現界《げんかい》の|如《ごと》く|諄々《くどくど》しき|式《しき》もいらず|極《きは》めて|簡単《かんたん》に|挙式《きよしき》は|終《をは》れり。
|冬男《ふゆを》は|妻《つま》の|山《やま》に|向《むか》ひ|歌《うた》ふ。
『|木枯《こがらし》の|吹《ふ》きて|冷《つめ》たき|此《この》|冬《ふゆ》を
|凌《しの》ぎて|吾《われ》は|春《はる》に|逢《あ》ひぬる
ときじくに|花《はな》の|香《かを》りを|保《たも》てかし
|山《やま》なる|乙女《をとめ》の|紅《あか》き|心《こころ》に
|思《おも》ひきや|精霊《せいれい》の|身《み》を|持《も》ちながら
|斯《か》かる|乙女《をとめ》に|見合《みあ》ひせむとは
|年月《としつき》を|忍ケ丘《しのぶがをか》の|雲《くも》|晴《は》れて
|乙女《をとめ》の|胸《むね》に|月日《つきひ》|照《て》るなり
|此《この》|丘《をか》の|笑《わら》ひ|婆《ばば》アに|謀《はか》られて
|今日《けふ》は|嬉《うれ》しき|吉《よ》き|日《ひ》に|逢《あ》ひぬ』
|山《やま》は|歌《うた》ふ。
『|水上山《みなかみやま》の|麓《ふもと》に|住《す》みし|吾《われ》にして
|冬男《ふゆを》の|君《きみ》にまみゆる|嬉《うれ》しさ
|精霊《せいれい》となりて|忍ケ丘《しのぶがをか》の|辺《べ》に
|妹背《いもせ》を|契《ちぎ》ると|思《おも》へば|嬉《うれ》し
|今日《けふ》よりは|冬男《ふゆを》の|君《きみ》を|夫《つま》として
|此《この》|里人《さとびと》を|安《やす》く|治《をさ》めむ』
|熊公《くまこう》は|妻《つま》の|川《かは》に|対《たい》して|歌《うた》ふ。
『|精霊《せいれい》となりて|久《ひさ》しくひそみたる
|清水ケ丘《しみづがをか》を|出《い》でし|吾《われ》なり
|鬼婆《おにばば》の|腕《うで》をむしりて|吾《われ》|此処《ここ》に
|来《きた》りて|姫《ひめ》に|見合《みあ》ひぬるかな
|苦《くる》しかるうきめ|忍《しの》びて|喜《よろこ》びの
|丘《をか》に|盃《さかづき》とりかはしける
|眉目形《みめかたち》たぐひ|稀《まれ》なる|乙女《をとめ》|川《かは》と
|結《むす》びし|夢《ゆめ》は|常世《とこよ》にもがも
|長《なが》かれと|千代《ちよ》の|契《ちぎ》りを|結《むす》び|昆布《こぶ》
ほどけずあれや|互《たが》ひの|心《こころ》に』
|妻《つま》の|川《かは》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|夫《つま》と|定《さだ》まりにける|熊公《くまこう》の
|雄々《をを》しき|姿《すがた》に|心《こころ》|足《た》らへり
|大丈夫《ますらを》の|君《きみ》にしあれば|鬼婆《おにばば》の
|強《つよ》きもただにくじき|給《たま》ひし
|鬼婆《おにばば》の|笑《わら》ひ、|譏《そし》りを|追《お》ひ|退《の》けし
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》は|猛者《つはもの》なりけり
|今日《けふ》よりは|恐《おそ》るる|事《こと》は|世《よ》になけむ
|二人《ふたり》の|婆《ばば》のかげはかくれて』
|虎公《とらこう》は|歌《うた》ふ。
『|幾年《いくとせ》の|艱《なや》みを|忍ケ丘《しのぶがをか》の|辺《べ》に
|妹背《いもせ》の|契《ちぎ》り|結《むす》びけるはや
|幽世《かくりよ》といへども|地上《ちじやう》に|生《お》ふるもの
|皆《みな》|現世《うつしよ》とかはりなきかな
|男女《をのこをみな》|妹背《いもせ》の|道《みち》も|現世《うつしよ》の
|心《こころ》と|更《さら》にかはりなきかな
|鬼婆《おにばば》の|逃《に》げたる|跡《あと》の|広庭《ひろには》に
|国《くに》を|造《つく》ると|嫁《とつ》ぎけるかも』
|海《うみ》は|歌《うた》ふ。
『|醜草《しこぐさ》のまばらなりける|此《この》|丘《をか》に
|身《み》も|安《やす》らけく|見合《みあ》ひせしかな
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|永《なが》くも|保《たも》てかし
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》と|世《よ》を|楽《たの》しまむ
|主《ス》の|神《かみ》の|貴《うづ》の|守《まも》りの|深《ふか》くして
|千代万代《ちよよろづよ》の|喜《よろこ》びに|逢《あ》ふも』
|茲《ここ》に|鬼婆《おにばば》の|二人《ふたり》まで|此《この》|里《さと》を|逃《に》げ|去《さ》り、|村人《むらびと》の|心《こころ》に|清新《せいしん》の|空気《くうき》を|注入《ちうにふ》したる|上《うへ》、|三組《みくみ》の|結婚式《けつこんしき》を|挙《あ》げられ、|霊界《れいかい》ながら|此《この》|丘《をか》の|里《さと》は|百花爛漫《ひやくくわらんまん》の|花園《はなぞの》と|変《かは》り、|一人《ひとり》の|不平《ふへい》をいふものもなく、|世《よ》は|安《やす》らけく|治《をさ》まりにける。
(昭和九・七・二六 旧六・一五 於関東別院南風閣 森良仁謹録)
第六章 |秋野《あきの》の|旅《たび》〔二〇一〇〕
|高光山《たかみつやま》|以西《いせい》の|国形《くにがた》を|視察《しさつ》すべく|遣《つか》はしたる|冬男《ふゆを》は、|冬《ふゆ》|去《さ》り|春夏《はるなつ》も|過《す》ぎ|秋《あき》の|初《はじ》めとなりけれども、|何《なん》の|消息《せうそく》もなきままに、|巌ケ根《いはがね》は|稍《やや》|不安《ふあん》の|空気《くうき》に|満《みた》され、|重臣《ぢうしん》の|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》を|招《まね》き、|且《か》つ|春男《はるを》、|夏男《なつを》、|秋男《あきを》の|三人《さんにん》と|共《とも》に、|執政所《しつせいしよ》に|集《あつま》り|鳩首謀議《きうしゆぼうぎ》を|凝《こ》らした。
|巌ケ根《いはがね》は|歌《うた》もて|語《かた》る。
『|高光山《たかみつやま》|以西《いせい》の|国形《くにがた》|調査《しら》ぶべく
|出《い》でにし|冬男《ふゆを》は|今《いま》に|帰《かへ》らず
もしやもし|水奔草《すいほんさう》の|中毒《ちうどく》に
|冬男《ふゆを》は|身《み》|亡《う》せたるにあらずや
|夜《よ》な|夜《よ》なにあやしき|夢《ゆめ》を|吾《われ》|見《み》たり
|心《こころ》にかかる|冬男《ふゆを》の|身《み》の|上《うへ》
|斯《か》くならば|再《ふたた》び|人《ひと》を|遣《つか》はして
|冬男《ふゆを》の|所在《ありか》を|探《さが》させむと|思《おも》ふ』
|水音《みなおと》は|答《こた》へて、
『|執政《しつせい》の|宣《の》り|言《ごと》|宜《うべ》よ|吾《われ》も|亦《また》
|朝夕《あさゆふ》|心《こころ》にかかりけらしな
|音《おと》に|聞《き》く|忍ケ丘《しのぶがをか》に|水奔鬼《すいほんき》
|旅《たび》|行《ゆ》く|人《ひと》を|損《そこな》ふと|聞《き》く
|水奔鬼《すいほんき》|笑《わら》ひ|婆《ばば》アは|道《みち》の|辺《べ》に
|立《た》ちて|旅人《たびびと》を|誘《いざな》ひ|殺《ころ》すと』
|瀬音《せおと》は|歌《うた》ふ。
『|葭原《よしはら》や|水奔草《すいほんさう》の|根《ね》にひそむ
|湿虫《いぢち》の|害《がい》は|恐《おそ》ろしと|聞《き》く
|案《あん》ずるに|湿虫《いぢち》その|他《た》の|毒虫《どくむし》に
|冬男《ふゆを》の|君《きみ》は|損《そこな》はれけむ
|兎《と》も|角《かく》も|高光山《たかみつやま》に|人《ひと》を|派《は》し
|冬男《ふゆを》の|安否《あんぴ》を|探《さぐ》るにしかず』
ここに|三人《さんにん》の|協議《けふぎ》により、|巌ケ根《いはがね》は|第三男《だいさんなん》の|秋男《あきを》を|首領《しゆりやう》とし、|四人《よにん》の|従者《じうしや》を|従《したが》へて、|高光山《たかみつやま》に|至《いた》る|大原野《だいげんや》を|探《さが》させしむべく、|水上山《みなかみやま》の|館《やかた》を|出立《しゆつたつ》せしむる|事《こと》となりぬ。
|秋男《あきを》は|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》、|桜《さくら》の|四人《よにん》の|従者《じうしや》を|従《したが》へ、|水上山《みなかみやま》を|立出《たちい》で、|弟《おとうと》|冬男《ふゆを》のとりし|道《みち》を|避《さ》け、|南方《なんばう》に|向《むか》ひ、|高光山《たかみつやま》の|方面《はうめん》に|進《すす》まむと|決心《けつしん》の|臍《ほぞ》を|固《かた》め、|神殿《しんでん》に|出立《しゆつたつ》の|祈願《きぐわん》をこめ、|父《ちち》の|巌ケ根《いはがね》に|向《むか》つて|言葉《ことば》|静《しづ》かに|歌《うた》もて|宣《の》る。
『ちちのみの|父《ちち》の|御言《みこと》を|被《かがふ》りて
|吾《われ》は|高光山《たかみつやま》に|進《すす》まむ
いかならむ|悩《なや》みありとも|国《くに》の|為《ため》と
|吾《われ》は|恐《おそ》れじたとへ|死《し》すとも
|弟《おとうと》の|所在《ありか》を|探《たづ》ねあくまでも
|父母《ふぼ》の|心《こころ》を|安《やす》んじ|奉《まつ》らむ
|葭原《よしはら》の|国土《くに》を|閉《とざ》せる|葭草《よしぐさ》や
|水奔草《すいほんさう》を|刈《か》りて|放《はふ》らむ
|悪神《あくがみ》は|水奔草《すいほんさう》の|野辺《のべ》に|潜《ひそ》み
|行手《ゆくて》の|人《ひと》に|災《わざはひ》すといふ
さりながら|吾《われ》には|神《かみ》の|守《まも》りあり
|如何《いか》なる|曲津《まが》も|恐《おそ》れず|進《すす》まむ
|父上《ちちうへ》も|母《はは》も|心《こころ》を|安《やす》んじませ
|吾《われ》は|一人《ひとり》の|旅《たび》にあらねば』
|巌ケ根《いはがね》は|涙《なみだ》をふるひながら、|表面《うはべ》は|元気《げんき》さうに|歌《うた》ふ。
『|弟《おとうと》の|冬男《ふゆを》の|行方《ゆくへ》わかるまで
|汝《なれ》は|帰《かへ》らず|国見《くにみ》して|来《こ》よ
|弟《おとうと》の|消息《せうそく》|判《わか》ればすみやかに
|知《し》らせ|来《きた》れよ|桜《さくら》に|仰《おほ》せて』
|秋男《あきを》は|又《また》|歌《うた》ふ。
『|父上《ちちうへ》の|厳《いづ》の|御言葉《みことば》|謹《つつし》みて
|吾《われ》はあくまで力つくさむ』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『|勇《いさ》ましき|秋男《あきを》の|君《きみ》の|出《い》で|立《た》ちを
|送《おく》る|水音《みなおと》の|心《こころ》はかなしも
|水《みづ》の|音《おと》|風《かぜ》の|響《ひびき》も|気遣《きづか》はる
|君《きみ》の|旅路《たびぢ》の|安《やす》くあれよと
|野路《のぢ》を|越《こ》え|川《かは》を|渡《わた》りて|出《い》でてゆく
|君《きみ》の|雄々《をを》しき|姿《すがた》を|送《おく》らむ』
|瀬音《せおと》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》も|亦《また》|父《ちち》の|御言《みこと》に|従《したが》ひて
|神国《みくに》|守《まも》れば|安《やす》く|出《い》でませ
|御館《みやかた》に|心《こころ》|残《のこ》さずとくとくと
|神国《みくに》の|為《ため》に|出《い》でませ|君《きみ》よ
|君《きみ》|行《ゆ》かばこの|御館《みやかた》は|淋《さび》しけれど
|神国《みくに》の|為《ため》と|思《おも》へば|詮《せん》なし
|曲津神《まがかみ》の|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|大野原《おほのはら》
|進《すす》ませ|給《たま》へ|神《かみ》の|力《ちから》に』
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『ありがたし|君《きみ》の|誠《まこと》はどこまでも
|忘《わす》れず|力《ちから》と|進《すす》み|行《ゆ》くべし
いざさらば|吾《われ》は|進《すす》まむ|四柱《よはしら》の
|友《とも》と|力《ちから》を|組合《くみあは》せつつ
|秋《あき》さりて|野辺《のべ》に|百草《ももくさ》|咲《さ》き|匂《にほ》ひ
|旅《たび》ゆく|吾《われ》を|迎《むか》へ|送《おく》りす
|花《はな》の|香《か》に|包《つつ》まれてゆく|秋《あき》の|野《の》の
|吾《わが》|旅立《たびだ》ちは|清《すが》しかるべし
|弟《おとうと》の|所在《ありか》|探《さぐ》れば|直《すぐ》さまに
|桜《さくら》を|帰《かへ》して|知《し》らせ|奉《まつ》らむ
|新《あたら》しき|国土《くに》を|拓《ひら》かむと|出《い》でてゆく
|吾《われ》に|力《ちから》を|添《そ》へさせ|給《たま》へ
|住《す》みなれし|水上山《みなかみやま》の|聖場《せいぢやう》を
|去《さ》らむと|思《おも》へば|涙《なみだ》ぐまるる
|吾《わが》|涙《なみだ》|歎《なげ》きの|涙《なみだ》にあらずして
|旅《たび》ゆく|嬉《うれ》し|涙《なみだ》なるぞや
|女郎花《をみなへし》|桔梗《ききやう》|刈萱《かるかや》|匂《にほ》ふ|野《の》を
|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》、|桜《さくら》|伴《ともな》ひてゆく』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|終《をは》り、|秋男《あきを》は|勇《いさ》ましく|四人《よにん》の|供人《ともびと》と|共《とも》に、|巌ケ根《いはがね》の|父《ちち》の|館《やかた》を|立《た》ち|出《い》でにける。
『|水上山《みなかみやま》を|立《た》ち|出《い》でて
|国形《くにがた》|見《み》むと|進《すす》み|行《ゆ》く
|吾《わが》|旅立《たびだ》ちのいさましさ
|大川《おほかは》|小川《をがは》|乗《の》り|越《こ》えて
|進《すす》めば|床《ゆか》し|百草《ももぐさ》|桔梗《ききやう》
|艶《えん》を|競《きそ》ひて|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
|吾等《われら》が|行手《ゆくて》を|賑《にぎ》はせり
|弟《おとうと》|冬男《ふゆを》は|今《いま》いづこ
|処《ところ》せきまで|茂《しげ》りたる
|水奔草《すいほんさう》の|災《わざはひ》に
|生命《いのち》|捨《す》てしにあらざるか
|何《なん》とはなしに|気《き》にかかる
|約一年《やくいちねん》のその|間《あひだ》
|何《なん》の|便《たよ》りも|夏《なつ》の|風《かぜ》
|漸《やうや》く|秋《あき》も|来向《きむか》ひて
|野辺《のべ》の|千花《ちばな》はプンプンと
あたりに|芳香《はうかう》|放《はな》つなり
|忍ケ丘《しのぶがをか》に|笑《わら》ひ|婆《ばば》
ありとほのかに|聞《き》きつれど
|吾《われ》は|道《みち》をば|南《みなみ》して
|忍ケ丘《しのぶがをか》の|東面《とうめん》に
|巡《めぐ》りて|弟《おとうと》の|消息《せうそく》を
|探《さぐ》り|査《しら》べむその|上《うへ》に
|吾《わが》|方針《はうしん》を|定《さだ》むべし
|進《すす》めよ|進《すす》めよ、いざ|進《すす》め
|悪竜《あくりう》|毒蛇《どくじや》は|繁《しげ》くとも
|神《かみ》の|賜《たま》ひし|言霊《ことたま》に
|言向《ことむ》けやはし|打《う》ちきため
|道《みち》の|隈手《くまで》も|恙《つつが》なく
いと|安々《やすやす》と|進《すす》むべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|依《よ》さしのこの|旅出《たびで》
さやらむものは|世《よ》にあらじ
|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》を|始《はじ》めとし
|桜《さくら》と|名告《なの》る|供人《ともびと》よ
|必《かなら》ず|恐《おそ》るること|勿《なか》れ
|吾等《われら》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|神《かみ》にまかせし|上《うへ》からは
いかなる|曲津《まが》も|恐《おそ》れむや
|進《すす》めよ|進《すす》め、いざ|進《すす》め』
|従神《じうしん》の|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『ああ|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや
|秋男《あきを》の|君《きみ》の|武者振《むしやぶ》りに
|吾等《われら》は|心《こころ》も|勇《いさ》み|立《た》ち
|無人《むじん》の|野辺《のべ》をゆく|如《ごと》く
|障《さや》らむ|曲津《まが》は|悉《ことごと》く
|斬《き》り|伏《ふ》せ|薙《な》ぎ|伏《ふ》せ|驀地《まつしぐら》
|高光山《たかみつやま》の|聖場《せいぢやう》に
|神《かみ》の|力《ちから》をいただきて
|進《すす》みゆくこそ|楽《たの》しけれ
|秋男《あきを》の|君《きみ》に|従《したが》ひて
|百花《ももばな》|千花《ちばな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
|山《やま》の|辺《べ》|野中《のなか》|縫《ぬ》ひてゆく
|今日《けふ》の|出《い》で|立《た》ち|勇《いさ》ましし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|吾等《われら》が|旅《たび》に|御幸《みさち》あれ』
|従神《じうしん》の|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|水上山《みなかみやま》を|立《た》ち|出《い》でて
|花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|秋《あき》の|野《の》を
|秋男《あきを》の|君《きみ》に|従《したが》ひて
|進《すす》みゆくこそ|楽《たの》しけれ
|吾等《われら》も|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
いかなる|曲津《まが》のさやるとも
|何《なに》か|恐《おそ》れむ|大丈夫《ますらを》の
|堅《かた》き|心《こころ》は|巌ケ根《いはがね》の
|君《きみ》が|仰《おほ》せを|守《まも》りつつ
|悪魔《あくま》の|征途《きため》に|上《のぼ》るなり
|水奔草《すいほんさう》は|茂《しげ》くとも
|悪魔《あくま》の|力《ちから》は|強《つよ》くとも
|勇猛心《ゆうまうしん》を|発揮《はつき》して
|撓《たゆ》まず|恐《おそ》れず|進《すす》みゆく
|吾等《われら》が|一行《いつかう》に|幸《さち》あれや
|火炎《くわえん》の|山《やま》もほの|見《み》えぬ
いざや|進《すす》まむ|大野原《おほのはら》
|百草《ももぐさ》|匂《にほ》ふ|山《やま》の|辺《べ》を
|渉《わた》りて|行《ゆ》けば|秋《あき》の|風《かぜ》
|吾等《われら》が|面《おも》を|吹《ふ》きつけて
|涼《すず》しさ|添《そ》ふる|夕《ゆふ》まぐれ
|仰《あふ》ぎ|御空《みそら》を|眺《なが》むれば
|白々《しろじろ》かかる|昼月《ひるづき》の
|御顔《みかほ》かすかに|笑《ゑ》ませたり
|吾《わが》|一行《いつかう》に|幸《さち》ありと
|知《し》らせ|給《たま》ふかありがたし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|生言霊《いくことたま》に|力《ちから》あれ
|吾《わが》|一行《いつかう》に|幸《さち》あれよ』
|従神《じうしん》の|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『ああ|楽《たの》もしや|楽《たの》もしや
|秋男《あきを》の|君《きみ》に|従《したが》ひて
|進《すす》むも|嬉《うれ》し|大野原《おほのはら》
|火炎《くわえん》の|山《やま》も|近《ちか》づきて
|何《なに》か|心《こころ》の|勇《いさ》むなり
|草葉《くさば》の|蔭《かげ》に|鳴《な》く|虫《むし》も
|梢《こずゑ》に|囀《さへづ》る|百鳥《ももどり》の
|声《こゑ》も|清《すが》しくなりぬれど
|陽《ひ》は|早《は》や|西《にし》に|黄昏《たそが》れて
|行《ゆ》く|手《て》も|見《み》えずなりにけり
さはさりながら|君命《くんめい》は
|尊《たふと》く|重《おも》く|背《そむ》かれず
|火炎《くわえん》の|山《やま》の|麓《ふもと》まで
|兎《と》にも|角《かく》にも|進《すす》むべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|吾《わが》|一行《いつかう》に|幸《さち》あれや』
|従神《じうしん》の|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『|虫《むし》の|音《ね》|清《すが》しき|秋《あき》の|空《そら》
|陽《ひ》は|西山《せいざん》にかたむきて
いよいよ|冴《さ》ゆる|月《つき》の|光《かげ》
|星《ほし》|満天《まんてん》にきらめきて
わが|足下《あしもと》は|明《あか》くなりぬ
|悪鬼《あくき》|毒獣《どくじう》せめるとも
|吾《われ》は|恐《おそ》れじ|言霊《ことたま》の
|剣《つるぎ》を|高《たか》くかざしつつ
|御樋代神《みひしろがみ》の|現《あ》れませる
|高光山《たかみつやま》を|目《め》あてとし
|真心《まごころ》もちて|進《すす》むべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|恩頼《みたまのふゆ》を|賜《たま》へかし』
|斯《か》く|歌《うた》ひつつ|前進《ぜんしん》する|事《こと》|一時《ひととき》ばかり、ふと|突《つ》き|当《あた》りたる|小《ちひ》さき|丘《をか》あり。|一行《いつかう》|五人《ごにん》はこの|丘《をか》に|攀《よ》ぢ|登《のぼ》り、|木《こ》の|間《ま》の|月《つき》を|眺《なが》めながら、しばらく|旅《たび》の|疲労《つかれ》を|休《やす》め|居《ゐ》る。
(昭和九・七・二七 旧六・一六 於関東別院南風閣 谷前清子謹録)
第二篇 |秋夜《しうや》の|月《つき》
第七章 |月見ケ丘《つきみがをか》〔二〇一一〕
|秋男《あきを》の|一行《いつかう》|五人《ごにん》は、|漸《やうや》くにして|雑草《ざつさう》|生《お》ひ|茂《しげ》る|月見ケ丘《つきみがをか》の|夕《ゆふべ》を、ここに|息《いき》を|休《やす》めながら|松間《まつま》の|月《つき》を|眺《なが》めて|歌《うた》ふ。
|秋男《あきを》『|大野原《おほのはら》|渉《わた》りて|漸《やうや》く|月見ケ丘《つきみがをか》の
|松《まつ》に|懸《かか》れる|月《つき》を|見《み》しかな』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|松《まつ》|生《お》ふる|月見ケ丘《つきみがをか》の|月光《つきかげ》は
|秋《あき》の|夕《ゆふべ》の|風《かぜ》にゆれつつ
|月《つき》|清《きよ》み|草葉《くさば》にすだく|虫《むし》の|音《ね》も
いやさえざえに|小夜《さよ》|更《ふ》けにけり
|秋月《あきづき》の|静《しづ》かに|照《て》れる|丘《をか》の|上《へ》に
|旅《たび》の|疲《つか》れを|休《やす》らふ|宵《よひ》かな
|籠木《こもりぎ》の|梢《こずゑ》に|宿《やど》る|月影《つきかげ》は
|千々《ちぢ》に|砕《くだ》けて|風《かぜ》にさゆれつ
|大空《おほぞら》の|月《つき》の|心《こころ》は|知《し》らねども
われには|楽《たの》しきかげにぞありける
|月《つき》|澄《す》めるこれの|丘辺《をかべ》に|休《やす》らひて
|松風《まつかぜ》|聞《き》けば|秋《あき》の|声《こゑ》あり
|天国《てんごく》の|姿《すがた》なるかな|松ケ枝《まつがえ》に
|澄《す》む|月影《つきかげ》を|見《み》れば|楽《たの》しき』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|此処《ここ》に|来《き》て|親《した》しと|思《おも》ふ|故郷《ふるさと》の
|山《やま》の|端《は》|出《い》づる|月《つき》を|見《み》しかな
|高光《たかみつ》の|山《やま》に|進《すす》まむ|道《みち》すがら
|月見ケ丘《つきみがをか》の|月《つき》を|見《み》るかな
|白雲《しらくも》の|幕《まく》を|閉《と》ぢつつ|開《ひら》きつつ
|月《つき》の|桂男《かつらを》われ|等《ら》をのぞけり
|鈴虫《すずむし》も|清《すが》しき|声《こゑ》を|張《は》りあげて
|今宵《こよひ》の|月《つき》を|称《たた》へうたふも
|萩《はぎ》、|桔梗《ききやう》|匂《にほ》へる|丘《をか》に|照《て》る|月《つき》の
かげは|一入《ひとしほ》|清《すが》しかりけり
|空《そら》|高《たか》き|秋男《あきを》の|君《きみ》に|従《したが》ひて
|今宵《こよひ》は|清《すが》しき|月《つき》を|見《み》るかな
|此処《ここ》に|来《き》て|空《そら》ゆく|月《つき》を|眺《なが》むれば
|悪魔《あくま》のすまふ|野路《のぢ》とは|思《おも》へず
|大丈夫《ますらを》の|弥猛心《やたけごころ》も|月《つき》|見《み》れば
|柔《やは》らぎ|初《そ》めぬ|女郎花《をみなへし》の|花《はな》
|月《つき》の|夜《よ》に|咲《さ》く|女郎花《をみなへし》よく|見《み》れば
|露《つゆ》を|浴《あ》みつつ|傾《かたむ》きにけり
|月《つき》の|行《ゆ》く|道《みち》も|確《たしか》に|見《み》ゆるまで
|澄《す》み|渡《わた》りたり|今宵《こよひ》の|大空《おほぞら》
|大空《おほぞら》に|浮《うか》べる|月《つき》の|光《かげ》|清《きよ》み
|地上《ちじやう》に|松《まつ》の|影《かげ》を|描《ゑが》けり』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|月《つき》|澄《す》める|御空《みそら》の|雲《くも》は|次々《つぎつぎ》に
|薄《うす》らぎにつつ|消《き》え|失《う》せにけり
|月《つき》と|花《はな》の|露《つゆ》にかこまれわれは|今《いま》
|月見ケ丘《つきみがをか》に|歌《うた》を|詠《よ》むなり
|月読《つきよみ》の|露《つゆ》の|恵《めぐ》みの|無《な》かりせば
|百《もも》の|草木《くさき》も|育《そだ》たざるべし
|澄《す》み|渡《わた》る|今宵《こよひ》の|月《つき》は|大井川《おほゐがは》
|竜《たつ》の|淵瀬《ふちせ》に|冴《さ》え|渡《わた》るらむ
|淵《ふち》に|浮《う》く|月《つき》を|眺《なが》めて|竜神《たつがみ》は
|水《み》の|面《も》に|浮《うか》び|出《い》でて|遊《あそ》ばむ
|火炎山《くわえんざん》|峰《みね》|越《こ》す|月《つき》の|光《かげ》|赤《あか》み
|千草《ちぐさ》の|露《つゆ》も|風《かぜ》に|散《ち》るなり
|一日《いちにち》の|旅《たび》を|終《をは》りてわれは|今《いま》
|月見ケ丘《つきみがをか》の|月《つき》に|親《した》しむ
|秋《あき》の|野《の》の|楽《たの》しきものは|百千花《ももちばな》
|月《つき》に|奏《かな》づる|虫《むし》の|音《ね》なりけり
|此処《ここ》に|来《き》て|松虫《まつむし》|鈴虫《すずむし》きりぎりす
|清《きよ》けき|虫《むし》の|鳴《な》く|音《ね》|聞《き》きしよ
|水上《みなかみ》の|山《やま》にも|聞《き》かぬ|虫《むし》の|音《ね》に
わが|魂《たましひ》は|蘇《よみがへ》りける
|高光山《たかみつやま》|進《すす》まむ|道《みち》の|首途《かどいで》に
われは|冴《さ》えたる|月《つき》を|見《み》しかな
|空《そら》|渡《わた》る|月《つき》の|下草《したぐさ》|露《つゆ》うけて
おのもおのもに|玉《たま》とかがよふ
わが|袖《そで》は|露《つゆ》にしめりて|御空《みそら》ゆく
|月《つき》の|光《かげ》さへ|宿《やど》らせにけり
|真昼間《まひるま》にまがふべらなる|月光《つきかげ》を
|浴《あ》びて|今宵《こよひ》の|草枕《くさまくら》かな
|月《つき》|澄《す》めば|御空《みそら》の|雲《くも》も|消《き》えゆきて
|松《まつ》|吹《ふ》く|風《かぜ》の|音《おと》もさやけき
|何時《いつ》とても|月《つき》を|倦《あ》く|夜《よ》はなけれども
|旅《たび》の|夕《ゆふべ》に|見《み》るは|楽《たの》しき
|天《あま》の|原《はら》ふりさけ|見《み》れば|緑《みどり》|深《ふか》し
|秋《あき》こそ|月《つき》の|光《ひかり》なるかな
|水上山《みなかみやま》|松《まつ》の|木《こ》の|間《ま》の|月《つき》|冴《さ》えて
われを|送《おく》るかこの|丘《をか》に|見《み》つ
|雲《くも》の|間《ま》に|翼《つばさ》を|搏《う》ちて|飛《と》ぶ|雁《かり》の
|数《かず》さへ|見《み》ゆる|今宵《こよひ》の|月《つき》はも』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『|澄《す》み|渡《わた》る|秋男《あきを》の|君《きみ》に|従《したが》ひて
|冴《さ》えたる|月《つき》の|顔《かむばせ》を|見《み》る
|花《はな》の|香《か》も|虫《むし》の|鳴《な》く|音《ね》も|月光《つきかげ》も
|秋《あき》を|飾《かざ》らぬものなかりけり
|楽《たの》しきは|秋《あき》の|旅路《たびぢ》に|如《し》かざらめ
|百花《ももばな》|匂《にほ》ひ|月《つき》の|冴《さ》ゆれば
|月《つき》|冴《さ》ゆる|下道《したみち》ゆけば|虫《むし》の|声《こゑ》
|露《つゆ》にふるひて|花香《はなかを》るなり
|月《つき》の|夜《よ》の|冴《さ》ゆる|空気《くうき》をゆるがせて
|透《す》きとほるなり|鈴虫《すずむし》の|声《こゑ》
|天地《あめつち》を|隈《くま》なく|照《て》らす|月光《つきかげ》の
|心持《こころも》ちたし|旅《たび》ゆくわれは
せせらぎの|音《おと》も|聞《きこ》えて|丘《をか》の|辺《べ》に
|虫《むし》の|音《ね》|冴《さ》ゆる|月《つき》の|夜頃《よごろ》よ
|昼《ひる》の|如《ごと》|明《あか》るき|月《つき》も|女郎花《をみなへし》
|桔梗《ききやう》|刈萱《かるかや》|色《いろ》|褪《あ》せて|見《み》ゆ』
かく|一行《いつかう》は、|秋《あき》の|夜《よ》の|澄《す》みきる|月《つき》を|称《たた》へ、|休《やす》らひ|居《ゐ》たる|折《をり》もあれ、|東南《とうなん》の|天《てん》に|当《あた》りて|一塊《いつくわい》の|黒雲《こくうん》|現《あら》はるるよと|見《み》る|間《ま》に、|次第々々《しだいしだい》に|四方《しはう》に|拡《ひろ》がり、さしも|明《あか》るき|月光《つきかげ》も、|忽《たちま》ち|黒雲《こくうん》に|包《つつ》まれ、|咫尺黯澹《しせきあんたん》として、どつかりと|闇《やみ》の|塊《かたまり》は|月見ケ丘《つきみがをか》の|茂樹《しげき》の|森《もり》に|落《お》ち|来《きた》りぬ。|一行《いつかう》の|姿《すがた》は|互《たがひ》に|見《み》えぬまで|暗黒《あんこく》と|化《くわ》し、|只《ただ》|声《こゑ》のみを|頼《たよ》りに|空《そら》の|晴《は》るるを|待《ま》つより|外《ほか》に|手段《てだて》なかりける。
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|昼《ひる》の|如《ごと》|晴《は》れたる|空《そら》も|忽《たちま》ちに
あやめも|分《わ》かずなりにけらしな
|幾万《いくまん》の|星《ほし》を|残《のこ》らず|包《つつ》みたる
|雲《くも》|黒々《くろぐろ》と|吹《ふ》く|風《かぜ》|寒《さむ》し
|虫《むし》の|音《ね》もひたと|止《と》まりて|梢《こずゑ》|吹《ふ》く
|風《かぜ》いやらしくうなり|初《そ》めたり
|松《まつ》、|竹《たけ》よ|梅《うめ》よ|桜《さくら》よ|心《こころ》せよ
|悪魔《あくま》の|出《い》づる|序幕《じよまく》なるらむ
|闇《やみ》の|幕《まく》|下《おろ》してわれ|等《ら》が|目《め》をかすめ
|事《こと》|謀《はか》るらし|悪魔《あくま》の|群《むれ》は
われわれの|力《ちから》に|怖《お》ぢて|悪神《あくがみ》は
|地上《ちじやう》に|闇《やみ》を|落《おと》せしならむ
|惟神《かむながら》|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
この|暗闇《くらやみ》を|晴《は》らさせ|給《たま》へ
|何処《いづこ》よりか|怪《あや》しき|声《こゑ》の|聞《きこ》ゆなり
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アか|譏《そし》り|婆《ばば》アか
|如何《いか》ならむ|曲津《まがつ》の|襲《おそ》ひ|来《きた》るとも
われには|厳《いづ》の|言霊《ことたま》ありけり』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|月見ケ丘《つきみがをか》|松《まつ》の|百木《ももき》も|黒雲《くろくも》に
かくれて|見《み》えず|虫《むし》の|音《ね》|細《ほそ》し
|水奔鬼《すいほんき》たとへ|幾万《いくまん》|来《きた》るとも
|生言霊《いくことたま》に|打《う》ちて|放《はふ》らむ
|兎《と》にもあれ|月見ケ丘《つきみがをか》を|包《つつ》みたる
|闇《やみ》を|晴《は》らして|進《すす》みゆかばや』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|大丈夫《ますらを》の|弥猛心《やたけごころ》は|暗闇《くらやみ》に
|恐《おそ》るべしやは|国《くに》の|御為《おんため》
|爛漫《らんまん》と|匂《にほ》へる|花《はな》の|香《か》|消《き》え|失《う》せて
|闇《やみ》はますます|深《ふか》みけるかな
この|丘《をか》にすだく|虫《むし》の|音《ね》|細《ほそ》りつつ
|怪《あや》しき|風《かぜ》の|吹《ふ》き|来《く》る|夜半《よは》なり
|雄々《をを》しくは|言挙《ことあげ》すれど|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|淋《さび》しくなりにけらしな』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|大丈夫《ますらを》に|君《きみ》は|非《あら》ずや|常闇《とこやみ》の
|今宵《こよひ》をさまで|恐《おそ》れ|給《たま》ふか
|闇《やみ》の|幕《まく》|幾重《いくへ》にわれを|包《つつ》むとも
|心《こころ》の|誠《まこと》の|光《ひか》りに|進《すす》まむ
|大空《おほぞら》の|清《きよ》き|月光《つきかげ》|包《つつ》みつつ
|曲津《まが》はわれ|等《ら》にさやらむとすも
よしやよし|常闇《とこやみ》の|夜《よ》は|深《ふか》くとも
|如何《いか》でひるまむ|悪魔《あくま》も|恐《おそ》れじ』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『|珍《めずら》しく|月見ケ丘《つきみがをか》に|登《のぼ》り|来《き》て
われは|心《こころ》を|慰《なぐさ》めしはや
|魂《たましひ》の|蘇《よみがへ》りたるたまゆらを
|包《つつ》むも|憎《にく》し|醜《しこ》の|黒雲《くろくも》
|黒雲《くろくも》は|包《つつ》めど|月《つき》は|皎々《かうかう》と
|御空《みそら》に|輝《かがや》き|給《たま》ふなるらむ
|中空《なかぞら》の|雲《くも》は|如何程《いかほど》|厚《あつ》くとも
やがては|晴《は》れむ|月《つき》のいませば』
|斯《か》く|歌《うた》へる|折《をり》しも、|何処《いづこ》ともなく|聞《きこ》え|来《きた》るいやらしき|声《こゑ》。
『ギアハハハハハー、ギヨホホホホー
|腰抜《こしぬ》けのヒヨロヒヨロ|男《をとこ》が|集《あつま》りて
|弱音《よわね》|吹《ふ》くかな|月見ケ丘《つきみがをか》に
|空《そら》|渡《わた》る|月《つき》を|力《ちから》に|腰抜《こしぬ》けが
くだらぬ|歌《うた》をうたふ|可笑《をか》しさ
|闇《やみ》の|幕《まく》に|包《つつ》まれ|虫《むし》の|鳴《な》く|如《ごと》き
|悲《かな》しき|声《こゑ》をしぼり|居《ゐ》るかな
|高光山《たかみつやま》の|旅《たび》をとどまれ|貴様等《きさまら》の
|弱腰《よわごし》にてはとても|及《およ》ばじ
|貴様等《きさまら》の|求《もと》むる|冬男《ふゆを》は|早《はや》|既《すで》に
へこたれよつて|弱鬼《よわおに》となりしよ
メソメソと|吠面《ほえづら》かわき|赤恥《あかはぢ》を
|忍ケ丘《しのぶがをか》に|泣《な》き|暮《くら》し|居《ゐ》る
|其《その》|方《はう》も|冬男《ふゆを》の|如《ごと》くへこたれて
|月見ケ丘《つきみがをか》の|鬼《おに》となれなれ
|汝等《なんぢら》の|歌《うた》を|道々《みちみち》|聞《き》いてゐた
|俺《おれ》の|姿《すがた》を|知《し》らぬか|馬鹿者《ばかもの》
|此《この》|方《はう》は|世界《せかい》の|奴《やつ》を|悉《ことごと》く
|譏《そし》り|楽《たの》しむ|婆《ばば》アなるぞや
|譏《そし》られて|腹《はら》が|立《た》つなら|目《め》を|噛《か》んで
|死《し》んでしまへば|埒《らち》があくぞや
|此《この》|方《はう》の|経綸《しぐみ》の|闇《やみ》に|包《つつ》まれて
|吠面《ほえづら》かわく|腰抜野郎《こしぬけやらう》よ
ギヤハハハハーぎゆうぎゆう|喉《のど》をしめられて
|今《いま》に|悲《かな》しき|最後《さいご》をする|奴《やつ》
かうなればもう|俺《おれ》のもの|貴様等《きさまら》は
|舌《した》など|噛《か》んで|死《し》んだがよいぞや
|世《よ》の|中《なか》に|俺《おれ》|程《ほど》えらい|者《もの》はない
|水上館《みなかみやかた》も|神《かみ》もあるかい
|腰抜《こしぬけ》の|冬男《ふゆを》の|兄《あに》が|来《く》ると|聞《き》きて
|待《ま》つて|居《ゐ》たぞよ|月見ケ丘《つきみがをか》に
かくなればもうこちのもの|煮《に》て|喰《く》はうと
|焼《や》いて|喰《く》はうとしたい|放題《はうだい》
アハハハハあはれなるかな|此《この》|餓鬼《がき》は
|俺等《おれら》の|仲間《なかま》で|嬲《なぶ》り|殺《ごろ》しよ
ちよこざいな|腰弱男《こしよわをとこ》の|餓鬼《がき》どもが
|俺《おれ》の|繩張《なはばり》|荒《あ》らそとするか
|繩張《なはばり》をむざむざ|貴様《きさま》に|荒《あ》らされて
|譏《そし》り|婆《ば》さんの|顔《かほ》がたつかい
|笑《わら》ひ|婆《ばば》の|妹《いもと》の|俺《おれ》は|譏《そし》り|婆《ばば》よ
|譏《そし》り|散《ち》らして|泡《あわ》を|吹《ふ》かさむ
|此《この》|方《はう》の|罠《わな》にかかつてこの|丘《をか》に
|休《やす》むといふは|運《うん》の|尽《つ》きぞや
|大空《おほぞら》の|月見《つきみ》したのが|其《そ》の|方《はう》の
いよいよ|運《うん》の|尽《つ》きとなりける
|運《うん》のつきまごつきうろつききよろつきの
|五人男《ごにんをとこ》の|憐《あは》れなるかな
ギヤハハハハー、ギヨホホホホー、ギユフフフフー』
といやらしき|声《こゑ》が|闇《やみ》の|中《なか》に|連続《れんぞく》してゐる。|秋男《あきを》は|最早《もは》や|堪《たま》り|兼《か》ね、|天《てん》を|拝《はい》し|地《ち》を|拝《はい》し|拍手《はくしゆ》しながら、
『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》|八千万《やちよろづ》の|神《かみ》
|天津御空《あまつみそら》を|晴《は》らさせ|給《たま》へ』
と|天《あま》の|数歌《かずうた》を|繰《く》り|返《かへ》してゐる。
|闇《やみ》の|中《なか》より|破鐘《われがね》の|様《やう》な|声《こゑ》、
『ワツハハハハー、ウフフフフー、てもさてもいぢらしいものだのう。|此《この》|方《はう》は|忍ケ丘《しのぶがをか》に|棲《す》む|水奔鬼《すいほんき》の|笑《わら》ひ|婆《ば》アさんの|妹《いもうと》、|世界《せかい》の|奴《やつ》ども|片《かた》つぱしから|譏《そし》り|散《ち》らして|茶々《ちやちや》を|入《い》れる|譏《そし》り|婆《ばあ》さんの|貧乏神《びんばふがみ》ぞや、|恐《おそ》れ|入《い》つたか。|天《あま》の|数歌《かずうた》なんぞと|減《へ》らず|口《ぐち》を|叩《たた》くな。そんな|事《こと》でビクとも|致《いた》す|鬼婆《おにばば》ではないぞや。ギヤハハハハー、ギユフフフフー、|終《をは》り』
と|言《い》つた|限《かぎ》り、ピタリと|怪《あや》しき|声《こゑ》は|止《とま》つた。
(昭和九・七・二七 旧六・一六 於関東別院南風閣 林弥生謹録)
第八章 |月《つき》と|闇《やみ》〔二〇一二〕
|月見ケ丘《つきみがをか》|以南《いなん》は、|譏《そし》り|婆《ばば》の|水奔鬼《すいほんき》が|繩張《なはばり》とも|称《しよう》すべき|魔《ま》の|原野《げんや》なり。|譏《そし》り|婆《ばば》は|此《この》|入口《いりぐち》に|現《あら》はれ、|一行《いつかう》の|出発《しゆつぱつ》を|妨《さまた》げむとして、|小手調《こてしら》べの|為《ため》|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》し、|黒雲《くろくも》を|起《おこ》し、|天心《てんしん》の|月《つき》を|包《つつ》みて|闇《やみ》となし、|且《かつ》|一行《いつかう》の|心胆《しんたん》を|奪《うば》はむと|極力《きよくりよく》|譏《そし》り|散《ち》らしけるが、|秋男《あきを》の|生言霊《いくことたま》に|打《う》ちまくられ、|旗《はた》を|巻《ま》き|鉾《ほこ》を|納《をさ》めて|退却《たいきやく》したりける。
|再《ふたた》び|大空《おほぞら》の|雲《くも》は、|科戸《しなど》の|風《かぜ》に|吹《ふ》きまくられ、|以前《いぜん》の|如《ごと》き|明鏡《めいきやう》の|月《つき》|皎々《かうかう》と|輝《かがや》き|渡《わた》りて、|月見ケ丘《つきみがをか》の|清地《せいち》は、|蟻《あり》の|這《は》ふさへ|見《み》ゆるまで|明《あか》くなりける。
|秋男《あきを》は|勇《いさ》みたち|歌《うた》ふ。
『|面白《おもしろ》や|醜《しこ》の|司《つかさ》の|譏《そし》り|婆《ばば》は
わが|言霊《ことたま》に|雲《くも》と|消《き》えたり
|魔力《まぢから》の|限《かぎ》りつくして|大空《おほぞら》に
|黒雲《くろくも》|起《おこ》せし|婆《ばば》もしれ|者《もの》よ
|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》せし|婆《ばば》の|計略《たくらみ》も
|生言霊《いくことたま》に|脆《もろ》く|消《き》えたり
|月見ケ丘《つきみがをか》の|虫《むし》の|影《かげ》さへ|見《み》ゆるまで
|晴《は》れ|渡《わた》りたる|今宵《こよひ》めでたし
|譏《そし》り|婆《ばば》の|言葉《ことば》によれば|弟《おとうと》は
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アに|殺《ころ》されしとや
さりながら|悪魔《あくま》の|言葉《ことば》は|当《あて》にならじ
われを|謀《はか》るの|手段《てだて》なるらむ
|悪神《あくがみ》の|力《ちから》の|底《そこ》も|見《み》えにけり
わが|魂《たましひ》はいよいよかがよふ
|大空《おほぞら》の|月《つき》の|鏡《かがみ》に|照《て》らされて
|悪魔《あくま》は|霧《きり》と|消《き》え|失《う》せにけむ
|女郎花《をみなへし》|匂《にほ》へる|丘《をか》に|休《やす》らひて
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|荒《すさ》び|見《み》しかな
|影《かげ》かくし|声《こゑ》のみかくる|婆《ばば》なれば
その|魔力《まぢから》の|底《そこ》も|見《み》ゆめり
いやらしき|声《こゑ》を|張《は》りあげ|吾等《われら》をば
|嚇《おど》す|婆《ばば》アの|浅《あさ》はかなるも
これよりは|二人《ふたり》の|婆《ばば》を|相手《あひて》とし
いむかひ|行《ゆ》かむ|高光《たかみつ》の|山《やま》へ
|面白《おもしろ》き|夢《ゆめ》の|世《よ》なるよ|月《つき》を|見《み》る
|丘《をか》に|曲津《まがつ》は|闇《やみ》の|幕《まく》|張《は》る
|闇《やみ》の|幕《まく》はもろく|破《やぶ》れて|鬼婆《おにばば》は
|生命《いのち》からがら|逃《に》げ|失《う》せにける
|萩《はぎ》|桔梗《ききやう》|女郎花《をみなへし》|咲《さ》く|丘《をか》の|上《へ》に
うつろふ|月《つき》は|鏡《かがみ》なるかも
|萩《はぎ》の|露《つゆ》むすびて|喉《のど》を|潤《うるほ》さむ
|川水《かはみづ》ことごと|毒《どく》の|混《まじ》れば
|水奔草《すいほんさう》の|葉末《はずゑ》の|露《つゆ》のしたたりて
|川《かは》となりぬる|水《みづ》は|恐《おそ》ろし
|葭原《よしはら》のよし|草《ぐさ》の|間《ま》に|生《お》ひ|茂《しげ》る
|水奔草《すいほんさう》はいまはしき|草《くさ》よ
|草《くさ》の|間《ま》に|忍《しの》び|棲《す》まへる|毒竜《どくりう》や
イヂチに|心《こころ》|注《そそ》ぎて|進《すす》まむ
|兎《と》も|角《かく》も|天地《あめつち》|一度《いちど》に|晴《は》れし|夜《よ》の
|月《つき》の|鏡《かがみ》を|力《ちから》に|進《すす》まむ
|秋《あき》さりて|野辺《のべ》|吹《ふ》く|風《かぜ》は|涼《すず》しけれど
|心《こころ》せよかし|毒《どく》の|混《まじ》れば
|果敢《はか》なくも|鉾《ほこ》を|納《をさ》めて|逃《に》げ|去《さ》りし
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|卑怯《ひけふ》なるかな』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|松《まつ》に|澄《す》む|月《つき》の|光《ひかり》はさゆらげり
|野辺《のべ》|吹《ふ》く|風《かぜ》のすがたなるらむ
|風《かぜ》の|道《みち》|夜目《よめ》にも|見《み》えて|丘《をか》の|上《へ》の
|茂樹《しげき》の|梢《こずゑ》|波《なみ》うちにけり
|面白《おもしろ》き|譏《そし》り|婆《ばば》アのわざをぎを
|暗闇《くらやみ》の|幕《まく》|透《とほ》して|聞《き》きぬ
|一時《ひととき》はわが|魂《たましひ》も|戦《をのの》きぬ
|二十重《はたへ》の|闇《やみ》に|包《つつ》まれしより
|闇《やみ》の|幕《まく》われを|包《つつ》みしたまゆらに
|魂《たま》はをののき|消《き》えむとせしも』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|心《こころ》|弱《よわ》き|松《まつ》の|君《きみ》かなわれはただ
|空《そら》|吹《ふ》く|風《かぜ》とうそぶきて|居《ゐ》し
|闇《やみ》の|声《こゑ》|目当《めあて》に|突《つ》かむと|竹槍《たけやり》の
|穂《ほ》を|磨《みが》きつつわれは|待《ま》ち|居《ゐ》し
|上下《うへした》に|右《みぎ》に|左《ひだり》に|聞《きこ》え|来《く》る
|婆《ばば》の|在処《ありか》を|分《わ》けがてに|居《ゐ》し
わが|君《きみ》の|生言霊《いくことたま》にうち|出《だ》され
|脆《もろ》くも|鬼《おに》は|破《やぶ》れけるかな
|魔力《まぢから》のあらむ|限《かぎ》りのはたらきは
かくやと|思《おも》ひわれは|勇《いさ》むも
|肝《きも》むかふ|心《こころ》かためて|進《すす》むべし
|水奔草《すいほんさう》のしげれる|野辺《のべ》を
|月光《つきかげ》はさやかなれども|夜《よ》の|明《あ》くるを
|待《ま》ちて|進《すす》まむ|醜《しこ》の|草原《くさはら》』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|面白《おもしろ》き|譏《そし》り|婆《ばば》アが|現《あら》はれて
|泥《どろ》を|吐《は》きつつ|逃《に》げ|帰《かへ》りけり
|暗闇《くらやみ》の|中《なか》にまぎれて|譏《そし》り|言《ごと》
ぬかす|婆《ばば》アの|卑怯《ひけふ》なるかな
|笑《わら》ひ|婆《ばば》、|譏《そし》り|婆《ばば》アと|面白《おもしろ》き
|鬼《おに》の|棲《す》むなる|醜《しこ》の|葭原《よしはら》よ
|葭原《よしはら》の|広《ひろ》きに|曲津《まが》は|潜《ひそ》むとも
われは|飽《あ》くまで|征討《きた》めでおくべき
|吾《わが》|君《きみ》の|生言霊《いくことたま》に|怖《お》ぢ|恐《おそ》れ
さすがの|譏《そし》り|婆《ばば》アも|消《き》えたり
|一度《ひとたび》は|姿《すがた》|消《き》ゆれど|何時《いつ》か|又《また》
|譏《そし》り|婆《ばば》アは|現《あら》はれ|来《きた》らむ
われも|亦《また》|譏《そし》り|散《ち》らして|鬼婆《おにばば》の
|度肝《どぎも》を|抜《ぬ》いてくれむとぞ|思《おも》ふ
|譏《そし》る|事《こと》ならばひるまじ|何処《どこ》までも
|人《ひと》の|悪口《わるくち》|好《す》きな|吾《われ》なり
|譏《そし》り|婆《ばば》いくらなりとも|譏《そし》れかし
|悪《あく》たれ|婆《ばば》アの|寝言《ねごと》と|聞《き》かむ
ざまを|見《み》ろ|生言霊《いくことたま》にやらはれて
|影《かげ》も|形《かたち》もなきつつ|逃《に》げ|行《ゆ》く
どこまでも|婆《ばば》アの|後《あと》を|追跡《ついせき》し
|譏《そし》り|殺《ころ》してやらねば|置《お》かぬ
|籠《こも》り|木《ぎ》の|梢《こずゑ》に|婆《ばば》は|小《ち》さくなりて
わが|言霊《ことたま》を|震《ふる》ひ|聞《き》くらむ
|彼《かれ》も|亦《また》しれものなれば|其《その》|姿《すがた》
|虫《むし》と|変《へん》じて|忍《しの》び|居《ゐ》るらむ
|面白《おもしろ》き|婆《ばば》アの|荒《すさ》びを|見《み》たりけり
|姿《すがた》なけれどくだけたる|声《こゑ》』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『わが|君《きみ》の|生言霊《いくことたま》に|大空《おほぞら》の
|黒雲《くろくも》|晴《は》れて|月《つき》は|覗《のぞ》けり
|望《もち》の|夜《よ》の|月《つき》を|頭《かしら》に|浴《あ》びながら
|月見ケ丘《つきみがをか》に|雄猛《をたけ》びするかな
|虫《むし》の|音《ね》も|俄《には》かに|高《たか》く|冴《さ》えにけり
|月《つき》のしたびに|露《つゆ》をなめつつ
|瑠璃光《るりくわう》のひかり|照《てら》して|草《くさ》の|葉《は》の
|露《つゆ》はあちこち|輝《かがや》きそめたり
|此《この》|清《きよ》き|月見ケ丘《つきみがをか》におほけなくも
|譏《そし》り|婆《ばば》アは|現《あら》はれにけり
さりながら|姿《すがた》かくせる|鬼婆《おにばば》の
その|卑怯《ひけふ》さにあきれかへりぬ
ギヤハハハハとさもいやらしき|声《こゑ》|絞《しぼ》り
われ|等《ら》が|肝《きも》を|冷《ひや》さむとせし
|曲鬼《まがおに》の|言葉《ことば》は|弱《よわ》く|力《ちから》なし
|如何《いか》でひるまむ|大丈夫《ますらを》われは
|鬼婆《おにばば》の|力《ちから》の|底《そこ》は|見《み》えにけり
いざや|進《すす》まむ|亡《ほろ》び|失《う》すまで
|萩《はぎ》|桔梗《ききやう》|女郎花《をみなへし》|咲《さ》く|此《この》|丘《をか》に
|一夜《いちや》の|露《つゆ》の|宿《やど》りたのむも
はろばろと|醜《しこ》の|大野《おほの》を|渉《わた》り|来《き》て
|鏡《かがみ》と|冴《さ》ゆる|月《つき》に|親《した》しむ
|兎《と》も|角《かく》も|今宵《こよひ》は|眠《ねむ》らず|暁《あかつき》を
|待《ま》ちて|火炎《くわえん》の|山《やま》に|進《すす》まむ
|音《おと》に|聞《き》く|火炎《くわえん》の|山《やま》は|鬼婆《おにばば》の
|手下《てした》|集《あつ》むる|元津棲処《もとつすみか》と』
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|月明《げつめい》の|夜《よ》なれば|秋《あき》の|百草《ももくさ》の
|花《はな》の|色香《いろか》もさやに|見《み》えけり
|明《あ》くるまで|吾等《われら》は|此処《ここ》に|休《やす》らひて
|花《はな》と|月《つき》とを|賞《ほ》めて|待《ま》つべし
|丘《をか》の|上《へ》に|風《かぜ》に|靡《なび》ける|穂薄《ほすすき》の
|露《つゆ》にかがよふ|月《つき》のさやけさ
|花薄《はなすすき》|風《かぜ》にゆれつつ|打《う》ち|靡《なび》く
|月見ケ丘《つきみがをか》の|夜《よる》は|静《しづ》けし
これといふ|人《ひと》もなき|夜《よ》に|穂薄《ほすすき》の
|誰《たれ》を|招《まね》くか|聞《き》かまほしけれ
|吹《ふ》く|風《かぜ》の|吹《ふ》きのままなる|穂薄《ほすすき》の
|姿《すがた》は|弱《よわ》き|人《ひと》に|似《に》しかも
|露《つゆ》しげく|保《たも》つ|尾花《をばな》の|頭《かしら》|重《おも》み
|地《ち》にうつぶして|涙《なみだ》|垂《た》らせり
かくの|如《ごと》|譏《そし》り|婆《ばば》アもいづれかの
|野辺《のべ》にうち|伏《ふ》し|泣《な》き|伏《ふ》しにけむ
|穂薄《ほすすき》の|右《みぎ》に|左《ひだり》にさゆれつつ
|涙《なみだ》の|露《つゆ》を|散《ち》らす|夜半《よは》なり
|穂薄《ほすすき》は|此《この》|丘《をか》のみか|道《みち》の|辺《べ》に
|露《つゆ》を|浴《あ》びつつ|招《まね》き|居《ゐ》るらむ
|心地《ここち》よき|此《この》|秋空《あきぞら》を|穂薄《ほすすき》の
|風《かぜ》に|靡《なび》きて|暮《く》れ|行《ゆ》く|惜《を》しさよ
|小夜《さよ》|更《ふ》けてわびしき|丘《をか》に|穂薄《ほすすき》は
いと|淋《さび》しげに|吾《われ》を|招《まね》けり
|花薄《はなすすき》|風《かぜ》になびける|優姿《やさすがた》を
|見《み》つつ|思《おも》ふも|家《いへ》なるつまを
|虫《むし》の|声《こゑ》いとも|冴《さ》えたる|丘《をか》の|上《へ》に
|花波《はななみ》|寄《よ》する|夜半《よは》の|穂《ほ》すすき
|夜半《よは》の|風《かぜ》|松《まつ》をそよがす|度毎《たびごと》に
|丘《をか》の|尾花《をばな》は|袖《そで》かへすなり
|吹《ふ》き|払《はら》ふ|風《かぜ》に|袂《たもと》を|靡《なび》かせつ
なほ|露《つゆ》しげき|穂《ほ》すすきの|花《はな》』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|小草《をぐさ》の|花《はな》に|置《お》く|露《つゆ》も
|今宵《こよひ》は|月《つき》の|光《ひかり》にかがよふ
|八千草《やちぐさ》の|茂《しげ》みにすだく|虫《むし》の|音《ね》は
いよいよ|高《たか》く|月《つき》も|聞《き》くらむ
|夜《よ》の|露《つゆ》にぬるる|袂《たもと》を|絞《しぼ》りながら
|尾花《をばな》を|分《わ》けてのぼり|来《こ》しはや
|夕《ゆふ》さりて|秋風《あきかぜ》そよぐ|此《この》|丘《をか》に
のぼれば|松《まつ》に|月《つき》はさゆるる
|吹《ふ》く|風《かぜ》の|音《おと》につくづく|秋《あき》を|知《し》る
|月見ケ丘《つきみがをか》の|露《つゆ》のやどりに
|淡《うす》く|濃《こ》く|染《そ》め|出《いだ》したる|紅葉《もみぢば》の
かげ|一色《ひといろ》に|見《み》ゆる|月《つき》の|夜《よ》
|黒雲《くろくも》に|包《つつ》まれたれどしら|百合《ゆり》の
|花《はな》は|真白《ましろ》く|見《み》えにけらしな
|鬼婆《おにばば》も|月見ケ丘《つきみがをか》の|風光《ふうくわう》に
|憧《こが》れて|夜《よ》な|夜《よ》な|来《きた》り|見《み》るらむ』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|吹《ふ》き|荒《すさ》ぶ|風《かぜ》に|葉末《はずゑ》の|露《つゆ》ちりて
わが|裳裾《もすそ》まで|湿《しめ》らひにける
|鬼婆《おにばば》の|涙《なみだ》の|露《つゆ》か|知《し》らねども
わが|衣手《ころもで》は|重《おも》くなりぬる
はかなきは|露《つゆ》の|生命《いのち》か|風《かぜ》|吹《ふ》かば
ただに|散《ち》りゆく|鬼婆《おにばば》の|影《かげ》
|此《この》|丘《をか》の|月《つき》のしたびに|輝《かがや》ける
|露《つゆ》の|白玉《しらたま》|見《み》るもさやけし
|鬼婆《おにばば》に|唆《そそのか》されて|是非《ぜひ》もなく
|月見ケ丘《つきみがをか》に|夜《よ》を|明《あか》しける』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|葭原《よしはら》の|葭《よし》の|葉末《はずゑ》を|吹《ふ》きて|来《こ》し
|風《かぜ》の|響《ひび》きは|濁《にご》らへるかも
|丘《をか》の|上《へ》に|一本《ひともと》|老松《おいまつ》くつきりと
|月下《げつか》にたちて|葉《は》の|色《いろ》|黒《くろ》めり
|丘《をか》の|上《へ》の|赤土《あかつち》の|上《へ》に|松《まつ》の|影《かげ》
|描《ゑが》きて|月《つき》は|西《にし》|渡《わた》り|行《ゆ》く
|明日《あす》の|日《ひ》は|醜《しこ》の|大野《おほの》をのり|越《こ》えて
|岩《いは》の|根《ね》|木《き》の|根《ね》|踏《ふ》みさくみ|行《ゆ》かむ
|葭草《よしぐさ》の|生《お》ひ|茂《しげ》りたる|低所《ひくどころ》
さけて|通《とほ》らむ|薄《すすき》|生《お》ふる|野《の》を
|高《たか》き|地《ち》は|穂薄《ほすすき》なびき|低《ひく》き|地《ち》は
しめりて|葭草《よしぐさ》|茂《しげ》らへるかも』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『ほのぼのと|東《あづま》の|空《そら》は|白《しら》みけり
|西《にし》|行《ゆ》く|月《つき》のかげうすらぎて
やがて|今《いま》|豊栄《とよさか》のぼる|日《ひ》の|光《かげ》を
|力《ちから》とたのみ|南《みなみ》に|進《すす》まむ
|南《みむなみ》の|空《そら》に|聳《そび》ゆる|火炎山《くわえんざん》は
ほのかに|見《み》えて|霞《かすみ》|棚引《たなび》く
|火炎山《くわえんざん》かすみの|帯《おび》をしめながら
|曲鬼《おにがみ》|数多《あまた》かかへ|居《ゐ》るらし
|東《ひむがし》の|御空《みそら》つぎつぎ|明《あか》らみて
|数多《あまた》の|星《ほし》はかくろひにけり』
これより|一行《いつかう》は、|火炎山《くわえんざん》|方面《はうめん》さして、やや|高《たか》き|原野《げんや》を|伝《つた》ひながら、|宣伝歌《せんでんか》をうたひ|南進《なんしん》する|事《こと》となりぬ。
(昭和九・七・二七 旧六・一六 於関東別院南風閣 白石恵子謹録)
第九章 |露《つゆ》の|路《みち》〔二〇一三〕
ここに|秋男《あきを》|一行《いつかう》は |月見ケ丘《つきみがをか》を|後《あと》にして
|豊栄《とよさか》のぼる|天津日《あまつひ》の |光《かげ》を|頭《かしら》に|浴《あ》びながら
|露《つゆ》おく|野辺《のべ》をすたすたと |高《たか》き|陸地《くがぢ》を|選《えら》びつつ
|右《みぎ》や|左《ひだり》に|折《を》れくぐり |秋《あき》の|栄《さかえ》の|女郎花《をみなへし》
|萩《はぎ》や|桔梗《ききやう》におくられて さも|愉快《ゆくわい》げに|進《すす》むなり
|秋男《あきを》は|声《こゑ》をはり|上《あ》げて |心《こころ》の|丈《たけ》をうたひつつ
|進《すす》みゆくこそ|勇《いさ》ましき。
『|水上山《みなかみやま》を|立《た》ち|出《い》でで
ふみもならはぬ|大野原《おほのはら》
|毒虫《どくむし》|毒蛇《どくじや》をさけながら
|水奔草《すいほんさう》の|害毒《がいどく》を
ものともなさず|進《すす》み|来《く》る
|道《みち》の|行《ゆ》く|手《て》に|黄昏《たそが》れて
|月見ケ丘《つきみがをか》に|一夜《ひとよさ》の
|露《つゆ》の|宿《やど》りをたのみけり
|百花《ももばな》|千花《ちばな》は|丘《をか》の|上《へ》に
|所狭《ところせ》きまで|咲《さ》き|匂《にほ》ひ
|秋《あき》の|夕《ゆふべ》の|虫《むし》の|音《ね》は
|清《きよ》くさやけく|聞《きこ》ゆなり
|大空《おほぞら》|遥《はるか》に|見渡《みわた》せば
|緑《みどり》の|空《そら》は|弥高《いやたか》く
|雲《くも》の|底《そこ》ひは|弥深《いやふか》く
みなぎらひたる|真中《まんなか》を
|無心《むしん》の|月《つき》は|皎々《かうかう》と
|輝《かがや》き|渡《わた》り|地《ち》の|上《うへ》の
|総《すべ》てのものを|照《てら》しけり
|吾等《われら》|一行《いつかう》はこの|丘《をか》に
|月《つき》を|愛《め》でつつ|虫《むし》|聞《き》きつつ
|花《はな》の|色香《いろか》を|称《たた》へつつ
|歌《うた》|詠《よ》みあそぶ|折《をり》もあれ
|一天《いつてん》|俄《には》かにかき|曇《くも》り
|黒雲《こくうん》|四辺《しへん》を|包《つつ》みつつ
|白銀《しろがね》なせる|月《つき》かげも
|星《ほし》ものこらず|呑《の》みほして
|闇《やみ》のかたまり|地《ち》に|落《お》ちぬ
|暗《くら》さはくらし|吾々《われわれ》は
|声《こゑ》を|力《ちから》にかたり|合《あ》ふ
|時《とき》しもあれや|訝《いぶか》しき
|譏《そし》りの|婆《ばば》アがあらはれて
|口《くち》を|極《きは》めて|嘲笑《てうせう》する
われ|等《ら》はここに|意《い》を|決《けつ》し
|天地《てんち》の|神《かみ》を|伏《ふ》し|拝《をが》み
|生言霊《いくことたま》を|宣《の》りつれば
さすがに|猛《たけ》き|鬼婆《おにばば》も
|忽《たちま》ち|旗《はた》を|巻《ま》きをさめ
いづくともなくかくれけり
|再《ふたた》び|月《つき》は|皎々《かうかう》と
|雲《くも》を|洗《あら》ひて|出《い》でましぬ
|月見ケ丘《つきみがをか》の|草《くさ》も|木《き》も
|百花《ももばな》|千花《ちばな》|虫《むし》のかげ
|手《て》にとる|如《ごと》く|見《み》えければ
|天《てん》の|恵《めぐ》みと|勇《いさ》みつつ
|秋《あき》の|尾花《をばな》の|歌《うた》よみて
その|夜《よ》は|漸《やうや》く|明《あ》けにけり
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|住《す》むといふ
|火炎《くわえん》の|山《やま》に|進《すす》まむと
|吾等《われら》は|一行《いつかう》|五人連《ごにんづ》れ
|尾花《をばな》の|露《つゆ》をかき|分《わ》けて
ここまで|漸《やうや》く|来《きた》りけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|光《ひかり》に|守《まも》られて
|曲《まが》の|征途《きため》に|進《すす》むこそ
これにましたる|幸《さち》はなし
|進《すす》めよ|進《すす》め、いざ|進《すす》め
|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》をはじめとし
|桜《さくら》も|勇《いさ》めこの|首途《かどで》』
|松《まつ》は|先頭《せんとう》に|立《た》ちて|歌《うた》ふ。
『|悪竜《あくりう》|猛《たけ》り|湿虫《いぢち》はをどる
|萱草《かやくさ》|生《お》ふる|中道《なかみち》を
|皮《かは》の|衣《ころも》に|身《み》を|固《かた》め
われら|一行《いつかう》|五人連《ごにんづ》れ
|高光山《たかみつやま》に|進《すす》むなり
|行《ゆ》く|手《て》の|道《みち》は|遠《とほ》くとも
|悪魔《あくま》は|如何《いか》にさやるとも
われ|等《ら》はおそれじ|大丈夫《ますらを》の
まことの|力《ちから》をあらはして
|神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《かむわざ》に
|勇《いさ》み|進《すす》むで|仕《つか》ふべし
|道《みち》の|行《ゆ》く|手《て》にさやりたる
|闇《やみ》の|中《なか》なる|鬼婆《おにばば》も
|生言霊《いくことたま》にやらはれぬ
いざこれよりは|言霊《ことたま》の
|水火《いき》をますます|清《きよ》めつつ
|神《かみ》を|真《まこと》の|力《ちから》とし
まことの|教《をしへ》を|杖《つゑ》として
|如何《いか》なる|悪魔《あくま》の|捕手《とりて》にも
|撓《たゆ》まず|届《くつ》せず|進《すす》むべし
|冬男《ふゆを》の|君《きみ》の|御行方《おんゆくへ》
|探《たづ》ぬるまでは|何処《どこ》までも
|後《あと》へは|引《ひ》かぬ|大丈夫《ますらを》の
|高《たか》き|心《こころ》は|桑《くは》の|弓《ゆみ》
|通《とほ》さにやおかぬ|大和魂《やまとだま》
|守《まも》らせ|給《たま》へ|天津神《あまつかみ》
|国津御神《くにつみかみ》の|御前《おんまへ》に
|心《こころ》を|清《きよ》めて|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|今日《けふ》の|首途《かどで》に|幸《さち》あれや
わが|言霊《ことたま》に|光《ひかり》あれ』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|高光山《たかみつやま》の|麓《ふもと》まで
|国形《くにがた》|見《み》むと|進《すす》みます
|秋男《あきを》の|君《きみ》に|従《したが》ひて
|花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|秋《あき》の|野《の》を
|虫《むし》の|鳴《な》く|音《ね》におくられて
|進《すす》み|来《きた》れば|昼月《ひるづき》の
かげは|御空《みそら》に|白々《しろじろ》と
|浮《う》ける|姿《すがた》に|秋《あき》は|来《き》ぬ
|秋日《あきひ》|短《みじ》かく|黄昏《たそが》れて
|道《みち》の|行《ゆ》く|手《て》にあたりたる
|月見ケ丘《つきみがをか》の|聖場《せいぢやう》に
|一夜《ひとよ》をあかし|諸々《もろもろ》の
|善事曲事《よごとまがごと》|見聞《みき》きしつ
|樹下《じゆか》のやどりも|早《はや》あけて
|今日《けふ》は|楽《たの》しき|旅衣《たびごろも》
|悪魔《あくま》の|征途《きため》に|進《すす》むなり
|冬男《ふゆを》の|君《きみ》の|御行方《おんゆくへ》
|草《くさ》を|分《わ》けても|探《さが》し|出《だ》し
|安否《あんぴ》を|君《きみ》に|報《ほう》ずべし
|若《も》しも|曲津《まがつ》に|亡《ほろ》ぼされ
あの|世《よ》の|人《ひと》となりまさば
|何《なん》と|詮術《せんすべ》なけれども
|必《かなら》ず|仇《あだ》を|打《う》ちきため
|君《きみ》の|恨《うら》みを|晴《は》らすべし
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|言《こと》の|葉《は》に
|冬男《ふゆを》の|君《きみ》は|鬼婆《おにばば》に
|謀《はか》られ|身《み》|亡《う》せ|給《たま》ひしと
|聞《き》く|言《こと》の|葉《は》の|真《しん》ならば
|吾等《われら》は|黙《もだ》してあるべきや
|吾等《われら》が|力《ちから》のある|限《かぎ》り
|生言霊《いくことたま》のつづくだけ
|打《う》ち|出《だ》しきため|斬《き》り|払《はら》ひ
この|葭原《よしはら》の|国原《くにはら》を
うら|平《たひら》けくうら|安《やす》く
|拓《ひら》かにやおかぬわが|心《こころ》
うべなひ|給《たま》へ|天地《あめつち》の
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|尾花《をばな》の|香《かを》り|弥清《いやきよ》く
|匂《にほ》ふ|小路《こみち》を|辿《たど》りつつ
|毒竜《どくりう》イヂチをさけながら
|君《きみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へゆく
|今日《けふ》の|旅路《たびぢ》の|勇《いさ》ましさ
|秋《あき》は|漸《やうや》く|更《ふ》けにつつ
|百草千草《ももくさちぐさ》は|花《はな》ひらき
|芳香《はうかう》|四方《よも》に|薫《くん》ずなり
|空《そら》ゆく|鳥《とり》の|翼《つばさ》まで
|秋陽《あきひ》をあびてぴかぴかと
|御空《みそら》の|玉《たま》と|輝《かがや》けり
ああ|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや
|吹《ふ》く|風《かぜ》|清《きよ》き|秋《あき》の|野《の》の
|旅《たび》ゆく|吾《われ》は|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|駒《こま》も|勇《いさ》み|立《た》ち
|身《み》の|疲《つか》れさへ|忘《わす》れけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|秋野《あきの》の|旅《たび》に|幸《さち》あれや
わが|生言霊《いくことたま》に|力《ちから》あれ』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『|吹《ふ》く|風《かぜ》|清《きよ》く|空《そら》|高《たか》く
|駒《こま》は|勇《いさ》みて|嘶《いなな》ける
|水上山《みなかみやま》を|立《た》ち|出《い》でて
|君《きみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へつつ
|一夜《いちや》の|露《つゆ》の|草枕《くさまくら》
やうやうここに|明《あ》け|初《そ》めて
|火炎《くわえん》の|山《やま》を|目《め》あてとし
|悪魔《あくま》の|征途《きため》にのぼるなり
|水奔草《すいほんさう》の|毒葉《どくえふ》に
|当《あ》てられ|身《み》|亡《う》せ|水奔鬼《すいほんき》
|彼方此方《あなたこなた》にひそみたる
あやしき|野辺《のべ》を|進《すす》むなり
|吾等《われら》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|如何《いか》なる|曲《まが》もさやるべき
|草葉《くさば》にすだく|虫《むし》の|音《ね》も
|林《はやし》に|囀《さへづ》る|鳥《とり》の|音《ね》も
|谷川《たにがは》|流《なが》るるせせらぎも
|吾《われ》に|力《ちから》を|添《そ》ふる|如《ごと》
|進《すす》め|進《すす》めと|響《ひび》くなり
ああおもしろや|楽《たの》もしや
|秋男《あきを》の|君《きみ》に|従《したが》ひて
|御樋代神《みひしろがみ》のあれませる
|高光山《たかみつやま》に|舞《ま》ひのぼり
|四方《よも》の|国形《くにがた》|見渡《みわた》して
これの|大野《おほの》を|開《ひら》くべく
|進《すす》みゆくなり|天津神《あまつかみ》
|道《みち》の|隈手《くまで》も|恙《つつが》なく
|守《まも》らせ|給《たま》へと|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
わがゆく|旅《たび》に|幸《さち》あれや
わが|言霊《ことたま》に|力《ちから》あれ』
と|歌《うた》ひつつ|一行《いつかう》|五人《ごにん》|勇《いさ》ましく|進《すす》む|折《をり》しも、|俄《にはか》に|咽喉《のど》|渇《かわ》き|堪《た》へ|難《がた》くなりけるが、こんもりと|生《お》ひ|繁《しげ》りたる|常磐樹《ときはぎ》の|蔭《かげ》に、ささやかなる|茶店《ちやみせ》の|如《ごと》きものありて、|四五人《しごにん》の|若《わか》き|乙女《をとめ》|手《て》を|翳《かざ》し、|一行《いつかう》を|招《まね》き|居《ゐ》たりける。
(昭和九・七・二七 旧六・一六 於関東別院南風閣 内崎照代謹録)
第一〇章 |五乙女《いつをとめ》〔二〇一四〕
|一行《いつかう》は|森蔭《もりかげ》の|細《ささ》やかなる|家《いへ》に|立寄《たちよ》り|見《み》れば、|五人《ごにん》の|乙女《をとめ》、|笑《ゑみ》を|満面《まんめん》に|浮《うか》べて|一行《いつかう》を|迎《むか》へ|入《い》れ、|旅《たび》の|疲《つか》れを|此《こ》の|破家《あばらや》に|休《やす》ませ|給《たま》へと|勧《すす》める。|此《この》|女《をんな》の|名《な》は、|秋風《あきかぜ》、|野分《のわき》、|夕霧《ゆふぎり》、|朝霧《あさぎり》、|秋雨《あきさめ》といふ。
『|秋《あき》ながら|旅《たび》の|疲《つか》れに|汗《あせ》|出《い》でぬ
この|破家《あばらや》に|休《やす》ませ|給《たま》へ
|松《まつ》のひびき|萩《はぎ》|吹《ふ》く|風《かぜ》のさやさやに
|響《ひび》きてさむき|秋《あき》なりにけり
|秋風《あきかぜ》の|吹《ふ》き|通《とほ》るなる|此《この》|館《たち》に
|暫《しば》しは|汗《あせ》をぬぐはせ|給《たま》へ』
|秋男《あきを》はこれに|答《こた》へて、
『|秋《あき》されば|涼《すず》しきものを|汗《あせ》ばみぬ
この|森蔭《もりかげ》に|休《やす》らひ|行《ゆ》かむか
|一時《ひととき》をこれの|館《やかた》に|休《やす》らひて
|吾《われ》は|力《ちから》を|養《やしな》はむとぞ|思《おも》ふ
|願《ねが》はくば|只《ただ》|一時《ひととき》の|休《やす》らひを
これの|館《やかた》に|清《きよ》く|許《ゆる》せよ』
といひながら|一行《いつかう》を|引連《ひきつ》れ、|柴《しば》の|戸《と》をくぐりて|奥《おく》に|入《い》るや、|表《おもて》より|見《み》たる|破家《あばらや》に|引替《ひきか》へて、|美《うるは》しき|広《ひろ》き|居間《ゐま》、|幾《いく》つともなく|並《なら》び|居《ゐ》たりしに、
『|思《おも》ひきやこの|破家《あばらや》に|斯《かく》の|如《ごと》
|美《うつく》しき|広《ひろ》き|居間《ゐま》のあるとは
|暫《しばら》くをこれの|館《やかた》に|休《やす》らひつ
|勇《いさ》み|火炎《くわえん》の|山《やま》に|進《すす》まむ』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|草《くさ》を|分《わ》け|坂《さか》を|辿《たど》りて|吾《わが》|足《あし》は
|軽《かろ》き|疲《つか》れを|覚《おぼ》えけるかな
この|家《いへ》に|息《いき》を|休《やす》めて|魂《たましひ》を
よび|生《い》かしつつ|進《すす》み|行《ゆ》くべし
|不思議《ふしぎ》なる|館《やかた》なるかも|表《おもて》とは
|案《あん》に|相違《さうゐ》の|居間《ゐま》の|数々《かずかず》
もしやもし|譏《そし》り|婆《ばば》アのたくらみに
かかりしものかと|案《あん》じらるるも』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|譏《そし》り|婆《ばば》の|館《やかた》なりしは|幸《さいは》ひよ
|幸《さいは》ひ|真昼《まひる》のことにありせば
|此《この》|家《いへ》に|譏《そし》り|婆《ばば》アがひそむなら
|生命《いのち》かぎりに|戦《たたか》ひて|見《み》む
|此《この》|家《いへ》の|表《おもて》に|乙女《をとめ》|五柱《いつはしら》
|立《た》てるも|一《ひと》つの|不思議《ふしぎ》なりけり
|鬼婆《おにばば》の|潜《ひそ》める|館《やかた》と|思《おも》はれず
|斯《か》かる|優《やさ》しき|乙女《をとめ》|住《す》むやを』
|梅《うめ》は|小首《こくび》を|傾《かたむ》けながら|歌《うた》ふ。
『|悪神《あくがみ》の|罠《わな》に|入《い》りしか|何《なん》となく
|吾《わが》|魂《たましひ》は|落着《おちつ》かぬかも
|八十曲津《やそまがつ》|神《かみ》の|住家《すみか》と|知《し》るならば
|力《ちから》|限《かぎ》りに|戦《たたか》ひて|見《み》む
|悪神《あくがみ》は|優《やさ》しき|乙女《をとめ》と|見《み》せかけて
|吾等《われら》が|生命《いのち》を|窺《うかが》ひ|居《ゐ》るにや
|不思議《ふしぎ》なる|事《こと》ばかりなり|此《この》|家《いへ》は
|窓《まど》もあらずに|下《した》に|明《あか》るし』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『|疑《うたが》へば|限《かぎ》りなからむ|此《この》|家《いへ》を
|吾《われ》は|曲津《まがつ》の|住家《すみか》と|思《おも》はず
|破家《あばらや》の|表《おもて》に|乙女《をとめ》あらはれて
|笑《ゑみ》を|湛《たた》へて|吾《われ》を|迎《むか》へし
|皇神《すめかみ》の|御言《みこと》かがふり|出《い》でで|行《ゆ》く
この|旅立《たびだち》にさやる|曲津《まが》なし』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|居《ゐ》る|折《をり》しも、|秋風《あきかぜ》を|先頭《せんとう》に|四人《よにん》の|乙女《をとめ》は|入《い》り|来《きた》り、|盆《ぼん》に|茶《ちや》を|汲《く》みながら、|目《め》の|上《うへ》|高《たか》く|差上《さしあ》げ、|破家《あばらや》に|憩《いこ》はせ|給《たま》ふ|客人《まらうど》に|心《こころ》ばかりの|茶《ちや》を|奉《たてまつ》る。
『これの|茶《ちや》は|泉《いづみ》の|山《やま》の|高畑《たかはた》に
|栄《さか》えて|甘《あま》き|薬《くすり》なりけり
それ|故《ゆゑ》に|普《あまね》く|人《ひと》は|泉茶《いづみちや》と
|称《とな》へて|朝夕《あさゆふ》|楽《たの》しみ|飲《の》むなり
これの|茶《ちや》を|召上《めしあが》りませ|長旅《ながたび》の
|疲《つか》れは|頓《とみ》に|休《やす》まるべきを』
|秋男《あきを》は|怪《あや》しみながら、
『|何処《どこ》となくこの|茶《ちや》の|香《かを》りは|怪《あや》しけれ
|暫《しばら》く|時《とき》を|待《ま》ちてすすらむ』
|秋風《あきかぜ》は|稍《やや》|顔色《かほいろ》を|変《か》へながら、
『|不思議《ふしぎ》なることを|宣《の》らすよこれの|茶《ちや》は
|泉《いづみ》の|茶《ちや》にて|人《ひと》の|生命《いのち》よ』
|秋男《あきを》は|答《こた》ふ。
『|何《なん》となく|吾《われ》は|生命《いのち》の|惜《を》しさ|故《ゆゑ》
|見知《みし》らぬ|茶湯《ちやゆ》は|飲《の》みたくはなし』
|野分《のわき》といふ|乙女《をとめ》は|涼《すず》しき|声《こゑ》にて、
『|客人《まらうど》は|吾等《われら》が|真心《まごころ》|疑《うたが》ひて
|清《きよ》き|優《やさ》しき|心《こころ》を|受《う》けずや
|朝《あさ》に|夕《ゆふ》に|清《きよ》めすまして|作《つく》りたる
これの|茶《ちや》の|湯《ゆ》に|毒《どく》のあるべき』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|乙女等《をとめら》の|清《きよ》き|心《こころ》を|受《う》けぬには
|吾《われ》あらねども|暫《しば》しを|待《ま》たせよ
あつき|湯《ゆ》は|吾《われ》は|好《この》まず|舌《した》やかむ
ぬるむを|待《ま》ちて|吾《われ》は|飲《の》むべし』
|夕霧《ゆふぎり》は|後《あと》よりのび|上《あが》りながら、
『|乙女等《をとめら》の|清《きよ》き|心《こころ》を|疑《うたが》ひて
|吾等《われら》の|誠《まこと》をうけ|給《たま》はずや
|水奔草《すいほんさう》の|茶湯《ちやゆ》と|思《おも》ひて|客人《まらうど》は
ためらひ|給《たま》ふと|思《おも》へば|怨《うら》めし
|萩《はぎ》|桔梗《ききやう》|匂《にほ》へる|秋《あき》の|山裾《やますそ》に
|館《やかた》|造《つく》りて|君等《きみら》を|待《ま》ちしよ
|吾《われ》こそは|御樋代神《みひしろがみ》に|仕《つか》へたる
|五乙女《いつをとめ》にて|怪《あや》しきものならず』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|乙女《をとめ》か|知《し》らねども
|汝《なれ》が|面《おもて》にあやしきふしあり
|折々《をりをり》に|乙女《をとめ》の|耳《みみ》は|動《うご》くなり
まさしく|狐狸《こり》の|化身《けしん》と|思《おも》ふ
|茶《ちや》の|色《いろ》は|次第々々《しだいしだい》に|変《かは》り|行《ゆ》きて
|墨《すみ》の|如《ごと》くになりにけらしな
|此《この》|茶《ちや》こそ|水奔草《すいほんさう》にてつくりたる
|生命《いのち》を|奪《うば》ふ|毒湯《どくゆ》なるべし』
|朝霧《あさぎり》は|歌《うた》ふ。
『|斯《か》くなれば|最早《もはや》|詮《せん》なし|吾々《われわれ》は
|乙女《をとめ》と|見《み》ゆれど|曲津神《まがつかみ》なり』
|秋雨《あきさめ》は|歌《うた》ふ。
『|客人《まらうど》に|看破《みやぶ》られたるその|上《うへ》は
|最早《もはや》|詮《せん》なし|覚悟《かくご》|召《め》されよ
|破家《あばらや》と|見《み》ゆれど|永遠《とは》の|巌窟《がんくつ》よ
|最早《もはや》|逃《のが》れる|道《みち》はあるまじ』
|梅《うめ》は|声《こゑ》もあらあらしく|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》とても|汝《なれ》が|謀計《たくみ》を|知《し》りし|故《ゆゑ》
これの|巌窟《いはや》を|破《やぶ》らむと|来《き》つる
|乙女子《をとめご》の|姿《さま》を|装《よそほ》ひ|鬼婆《おにばば》の
|命《めい》に|従《したが》ひ|謀《はか》る|曲《くせ》もの』
|桜《さくら》は|怒《いか》りながら、
『コリヤ|曲津《まがつ》もうかうなれば|是非《ぜひ》もなし
|吾《わが》|言霊《ことたま》に|飽《あ》くまで|放《はふ》らむ』
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》も|亦《また》|曲津《まがつ》の|巌窟《いはや》と|知《し》りしゆゑ
|殊更《わざと》に|此処《ここ》に|誘《さそ》はれ|入《い》りぬ
|乙女子《をとめご》と|見《み》ゆるは|何《いづ》れも|水奔鬼《すいほんき》の
|生命《いのち》|奪《うば》ふと|待《ま》てる|奴《やつ》なり
|譏《そし》り|婆《ばば》に|水奔草《すいほんさう》を|飲《の》まされて
|汝等《なれら》は|鬼《おに》となりしものなり
|吾《わが》|言霊《ことたま》|心《こころ》|鎮《しづ》めて|聞《き》けよかし
|譏《そし》り|婆《ばば》アに|怨《うら》み|持《も》たずや』
|秋風《あきかぜ》は|稍《やや》|顔《かほ》を|曇《くも》らせて、
『|客人《まらうど》の|言葉《ことば》は|宜《うべ》よ|吾《われ》も|亦《また》
|譏《そし》り|婆《ばば》アに|謀《はか》られにけり
この|辺《あた》りは|譏《そし》り|婆《ばば》アの|繩張《なはばり》よ
|吾等《われら》は|彼《かれ》に|頤使《いし》さるるもの
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》とられし|悔《くや》しさに
|人《ひと》を|艱《なや》むる|鬼《おに》とはなりぬ
|此処《ここ》に|居《ゐ》る|四人《よにん》の|乙女《をとめ》も|悉《ことごと》く
|吾《われ》と|等《ひと》しき|運命《うんめい》たどりし
|奥《おく》の|間《ま》に|譏《そし》り|婆《ばば》アは|傷《きず》つきて
|休《やす》らひ|居《を》りぬ|亡《ほろ》ぼし|給《たま》へ
|譏《そし》り|婆《ばば》をきため|給《たま》はば|吾等《われら》|亦《また》
|君《きみ》に|力《ちから》を|添《そ》へ|奉《まつ》るべし
|力強《ちからづよ》き|鬼婆《おにばば》ながら|昨夜《さくや》より
|不快《ふくわい》なりとて|呻吟《うめ》き|居《ゐ》るなり』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|君《きみ》の|生言霊《いくことたま》に|打出《うちだ》され
|婆《ばば》はいたでに|悩《なや》むなるらむ
|面白《おもしろ》し|斯《か》くも|秘密《ひみつ》を|聞《き》く|上《うへ》は
|乙女《をとめ》に|吾等《われら》は|力《ちから》を|添《そ》へむ
|面白《おもしろ》き|事《こと》を|聞《き》くかな|鬼婆《おにばば》は
これの|館《やかた》に|呻吟《うめ》き|居《ゐ》るとは
|斯《か》くならば|力《ちから》の|限《かぎ》り|声《こゑ》かぎり
|生言霊《いくことたま》に|攻《せ》め|艱《なや》まさむ』
|茲《ここ》に|秋男《あきを》の|一行《いつかう》|五人《ごにん》と|五柱《いつはしら》の|乙女《をとめ》、|互《たがひ》に|堅《かた》き|握手《あくしゆ》を|交《か》はし、|譏《そし》り|婆《ばば》の|潜《ひそ》める|居間《ゐま》を|四方《しはう》より|取巻《とりま》き、|天地《てんち》も|破《やぶ》るるばかりに|大音声《だいおんじやう》を|発《はつ》し、
『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》|八千万《やちよろづ》の|神《かみ》
|此《これ》の|館《やかた》に|潜《ひそ》みたる
|譏《そし》り|婆《ばば》なる|水奔鬼《すいほんき》を
|吾《わが》|言霊《ことたま》にくまもなく
|亡《ほろ》ぼし|給《たま》へ|惟神《かむながら》
|吾《わが》|言霊《ことたま》に|力《ちから》あれ
|吾《わが》|言霊《ことたま》に|光《ひかり》あれ
アオウエイ
カコクケキ』
と|次々《つぎつぎ》に|七十五声《しちじふごせい》の|言霊《ことたま》|宣《の》れば
さすがの|水奔鬼《すいほんき》も|堪《たま》りかね
|狭《せま》き|室内《しつない》を|右往左往《うわうさわう》に|荒《あ》れ|狂《くる》ひ
|悲鳴《ひめい》を|挙《あ》げて|又《また》もや|再《ふたた》び|起上《おきあが》り
|死物狂《しにものぐる》ひの|形相《ぎやうさう》|凄《すさま》じく
|秋男《あきを》に|向《むか》つて|飛《と》びかかるを
ものをも|言《い》はず|拳《こぶし》を|固《かた》め
|婆《ばば》の|横面《よこづら》を|打《う》ちすゑ|打《う》ちすゑきためければ
さしもの|婆《ばば》も|痛《いた》さに|堪《た》へ|兼《か》ねてや
|窓《まど》の|戸《と》にはかに|押開《おしあ》けて
|忽《たちま》ち|巌窟内《がんくつない》を|飛出《とびいだ》し
|怪《あや》しき|雲気《うんき》を|吐《は》きながら
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|大空《おほぞら》さして
|血煙《ちけむり》の|雨《あめ》を|降《ふ》らせつつ
|跡白雲《あとしらくも》と|逃《に》げ|行《ゆ》きぬ
ああ|惟神《かむながら》|言霊《ことたま》の
|厳《いづ》の|力《ちから》ぞ|畏《かしこ》けれ
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|水奔鬼《すいほんき》は
|斯《か》くして|五人《ごにん》の|乙女《をとめ》の|精霊《せいれい》を
|醜《しこ》の|巌窟《がんくつ》に|残《のこ》し|置《お》き
|第二《だいに》の|作戦《さくせん》に|移《うつ》らむと
|逃《に》げ|行《ゆ》きしこそ|恐《おそ》ろしき。
|五乙女《いつをとめ》は|満面《まんめん》に|笑《ゑみ》を|湛《たた》へ、|胸《むね》|撫《な》で|下《おろ》し、「ウオウオ」と|叫《さけ》びつつ、|手《て》の|舞《ま》ひ|足《あし》の|踏《ふ》む|所《ところ》を|知《し》らぬばかりなりける。
|秋風《あきかぜ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》こそは|泉ケ丘《いづみがをか》に|生《うま》れたる
|国津神等《くにつかみら》の|娘《むすめ》なりけり
|四柱《よはしら》の|乙女《をとめ》も|同《おな》じ|里《さと》の|子《こ》よ
この|鬼婆《おにばば》に|謀《はか》られしもの
|水奔草《すいほんさう》の|茶《ちや》を|飲《の》まされて|吾々《われわれ》は
|水奔鬼《すいほんき》とはなりにけらしな
|客人《まらうど》に|此《この》|茶《ちや》をささげ|吾《われ》と|共《とも》に
|力《ちから》|協《あは》すと|勧《すす》めけるかな。
|思《おも》へば|春《はる》の|初《はじ》めなり
|吾等《われら》|五人《ごにん》の|乙女等《をとめら》は
|泉《いづみ》の|里《さと》を|立《た》ち|出《い》でて
|高光山《たかみつやま》に|詣《まう》でむと
|進《すす》み|来《きた》れる|折《をり》もあれ
|旅《たび》の|疲《つか》れに|咽喉《のど》かわき
|苦《くる》しむ|折《をり》しも|森蔭《もりかげ》の
|一《ひと》つの|小《ちひ》さき|家《いへ》を|見《み》て
|吾等《われら》|五人《ごにん》の|乙女等《をとめら》は
|立寄《たちよ》り|見《み》れば|白髪《はくはつ》の
|一人《ひとり》の|婆《ば》さんが|住《す》まひ|居《ゐ》て
|先《ま》づ|先《ま》づ|渋茶《しぶちや》を|召《あ》がれよと
|手招《てまね》きしたる|嬉《うれ》しさに
|暫《しばら》く|息《いき》を|休《やす》めつつ
|水奔草《すいほんさう》の|茶《ちや》と|知《し》らず
|吾等《われら》は|一度《いちど》に|飲《の》み|乾《ほ》しぬ
|俄《にはか》に|頭《あたま》は|痛《いた》み|出《だ》し
|手足《てあし》|身体《しんたい》|腫《は》れ|上《あが》り
|身動《みうご》きならぬ|状態《さま》を|見《み》て
|婆《ばば》はニツコと|打《う》ち|笑《わら》ひ
|吾《わが》|計略《けいりやく》にかかりしよ
|汝《なんぢ》|乙女《をとめ》の|玉《たま》の|緒《を》の
|生命《いのち》は|最早《もはや》|今日《けふ》かぎり
|葭原《よしはら》の|国津神等《くにつかみら》の|生命《せいめい》を
|残《のこ》らず|取《と》りて|幽界《いうかい》の
|真正《まこと》の|鬼《おに》となせよかし
|吾《われ》の|言葉《ことば》に|反《そむ》きなば
|茨《いばら》の|鞭《むち》を|振《ふ》り|上《あ》げて
|汝《なんぢ》が|全身《ぜんしん》|打《う》ち|破《やぶ》り
つらき|目《め》|見《み》せて|呉《く》れむずと
|威《おど》しの|言葉《ことば》に|怖《お》ぢ|恐《おそ》れ
|彼《かれ》が|教《をし》ふるままにして
|悲《かな》しき|月日《つきひ》を|送《おく》り|来《き》ぬ
|秋男《あきを》の|君《きみ》は|現世《うつしよ》の
|人《ひと》にしあれば|言霊《ことたま》の
|力《ちから》は|強《つよ》し|吾々《われわれ》は
|精霊界《せいれいかい》にある|身《み》なれば
|其《その》|言霊《ことたま》に|力《ちから》あるべき
|言霊《ことたま》の|光《ひかり》は|出《い》でず|苦《くる》しみぬ
|心《こころ》の|中《うち》にて|泣《な》くばかり
|救《すく》はせ|給《たま》へ|水上《みなかみ》の
|山《やま》に|輝《かがや》く|巌ケ根《いはがね》の
|御子《みこ》とあれます|秋男神《あきをがみ》の
|御前《みまへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る
|五人乙女《ごにんをとめ》は|鬼婆《おにばば》の
|頤使《いし》に|甘《あま》んじ|仕《つか》へつつ
|強《つよ》き|身魂《みたま》の|来訪《らいはう》を
|待《ま》ちに|待《ま》ちたる|甲斐《かひ》ありて
|恨《うら》みを|晴《は》らす|時《とき》は|来《き》ぬ
ああたのもしや|心地《ここち》よや
|月見ケ丘《つきみがをか》の|聖場《せいぢやう》に
|汝等《なれら》が|一行《いつかう》|悉《ことごと》く
|艱《なや》まし|呉《く》れむと|計画《たく》みしを
|譏《そし》り|婆《ばば》アは|逆《さか》しらに
|生言霊《いくことたま》に|打出《うちだ》され
|生命《いのち》からがら|逃《に》げ|帰《かへ》り
|一間《ひとま》に|呻吟《うめ》き|居《ゐ》たりしゆ
|此《この》|時《とき》こそは|幸《さいは》ひと
|五人乙女《ごにんをとめ》は|諜《しめ》し|合《あは》せ
|仇《あだ》を|打《う》たむと|思《おも》へども
|素《もと》より|乙女《をとめ》の|力《ちから》には
|手向《てむか》ふ|由《よし》もなかりけり
かかる|処《ところ》へ|現身《うつそみ》の
|身体《からたま》もたす|汝《なれ》|一行《いつかう》
|来《きた》らせ|給《たま》ふ|嬉《うれ》しさに
|毒《どく》と|知《し》りつつ|水奔草《すいほんさう》の
|湯《ゆ》を|勧《すす》めむとしたりけり
|必《かなら》ず|怒《いか》らせ|給《たま》ふなかれ
|君《きみ》を|力《ちから》と|思《おも》ふが|故《ゆゑ》に
|吾等《われら》と|共《とも》に|幽界《かくりよ》に
|現《あら》はれまして|鬼婆《おにばば》を
|討《う》ち|罰《きた》めつつ|霊界《れいかい》の
|禍《わざは》ひ|除《のぞ》くと|思《おも》へばなり
|許《ゆる》させ|給《たま》へ|秋男神《あきをがみ》
|御供《みとも》の|神《かみ》の|御前《おんまへ》に
|真心《まごころ》あらはし|詫《わ》び|奉《まつ》る
|外《ほか》の|乙女《をとめ》も|同《おな》じ|心《こころ》の|捨小舟《すてをぶね》
|取《と》りつく|島《しま》もなかりしが
|今日《けふ》の|吉《よ》き|日《ひ》の|喜《よろこ》びに
|蘇《よみがへ》りけりあら|尊《たふと》
|偏《ひとへ》に|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る
|是《これ》より|君《きみ》は|言霊《ことたま》の
|天《あま》の|数歌《かずうた》うたひつつ
|火炎《くわえん》の|山《やま》に|進《すす》みませ
|譏《そし》り|婆《ば》さんの|第一《だいいち》に
|恐《おそ》れて|忌《い》むは|言霊《ことたま》よ
|吾《われ》は|後《あと》より|蔭《かげ》ながら
|君《きみ》の|出《い》で|立《た》ち|送《おく》りつつ
|一臂《いつぴ》の|力《ちから》を|添《そ》へ|奉《まつ》らむ
|進《すす》ませ|給《たま》へ』
と|言《い》ひながら、|五人《ごにん》の|乙女《をとめ》は|白煙《はくえん》となりて|消《き》え|失《う》せにけり。よくよく|見《み》れば、|森蔭《もりかげ》の|雑草《ざつさう》の|生《お》ひ|茂《しげ》る|中《なか》に|一行《いつかう》は|腰《こし》を|下《おろ》してうづくまり|居《ゐ》つ。|破家《あばらや》の|蔭《かげ》も|巌窟《いはや》も|跡形《あとかた》なく、|小鳥《ことり》の|囀《さへづ》り、|虫《むし》の|啼《な》く|音《ね》ばかりなりける。
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|不思議《ふしぎ》なる|夢《ゆめ》を|見《み》しより|鬼婆《おにばば》の
|悩《なや》める|状態《さま》を|覚《さと》らひにけり
|破家《あばらや》も|巌窟《いはや》も|全《まつた》く|消《き》え|失《う》せて
|野辺《のべ》|吹《ふ》く|風《かぜ》の|音《おと》さやかなり』
(昭和九・七・二七 旧六・一六 於関東別院南風閣 森良仁謹録)
第一一章 |火炎山《くわえんざん》〔二〇一五〕
|秋男《あきを》の|一行《いつかう》は|毒草《どくさう》の|生《お》ひ|茂《しげ》る|野《の》を|右《みぎ》に|左《ひだり》に|分《わ》けながら、|夜《よ》を|日《ひ》に|次《つ》いで|前進《ぜんしん》し、|三日目《みつかめ》の|黄昏時《たそがれどき》、|漸《やうや》く|火炎山《くわえんざん》の|麓《ふもと》に|辿《たど》り|着《つ》きぬ。|火炎山《くわえんざん》は|音《おと》に|名高《なだか》き|大火山《だいくわざん》にして、|夜《よる》は|大火光《だいくわくわう》|百里《ひやくり》に|亘《わた》り、|時《とき》ありて|焼石《やけいし》を|降《ふ》らし、|人獣《にんじう》を|害《がい》すること|甚《はなはだ》し。|葭原《よしはら》の|国津神等《くにつかみたち》は|一名《いちめい》|地獄山《ぢごくやま》と|称《とな》へて|恐《おそ》れてゐる。
この|山《やま》はあらゆる|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》の|棲処《すみか》にして、|譏《そし》り|婆《ばば》アの|本処《ほんきよ》なり。
|忍ケ丘《しのぶがをか》にて|思《おも》はぬ|不覚《ふかく》をとりたる|笑《わら》ひ|婆《ばば》も、ここに|逃《に》げ|来《きた》り|譏《そし》り|婆《ばば》の|館《やかた》に|身《み》をまかせて、|霊身《れいしん》の|傷《きず》を|癒《いや》して|居《ゐ》た。
|秋男《あきを》は|国内《こくない》に|繁茂《はんも》せる|葭草《よしぐさ》や|水奔草《すいほんさう》を、|火山《くわざん》の|火《ひ》をとりて|風《かぜ》に|乗《じやう》じ|焼《や》きはらひ、|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》を|悉《ことごと》く|焼《や》きつくさむと|考《かんが》へ、|一先《ひとま》づここに|進《すす》み|来《きた》れるなりき。
|黄昏時《たそがれどき》とは|言《い》へ|山頂《さんちやう》より|噴出《ふんしゆつ》する|火光《くわくわう》に|昼《ひる》の|如《ごと》く|明《あか》く、|草《くさ》の|根《ね》に|潜《ひそ》む|虫《むし》の|影《かげ》さへ|明瞭《めいれう》に|見《み》ゆるばかりなり。
|秋男《あきを》は|噴火《ふんくわ》の|荘厳《さうごん》なる|様《さま》を|見《み》て、|芝生《しばふ》に|腰《こし》|腰《う》ち|下《おろ》し|歌《うた》ふ。
『|火炎山《くわえんざん》|吐《は》き|出《だ》す|焔《ほのほ》の|光《ひか》りにて
これのあたりは|夜《よる》なかりける
|濛々《もうもう》と|黒煙《こくえん》のぼる|間《ま》を|縫《ぬ》ひて
|紅蓮《ぐれん》の|舌《した》は|天《てん》に|冲《ちう》せり
この|山《やま》の|火種《ひだね》を|取《と》りて|葭原《よしはら》の
|国土《くに》の|醜草《しこぐさ》|焼《や》き|払《はら》ふべし
|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》|数多《あまた》|棲《す》むてふこの|山《やま》を
いかに|登《のぼ》らむ|噴火口《ふんくわこう》まで
|大空《おほぞら》の|月《つき》の|光《ひかり》の|褪《あ》するまで
|天《てん》に|冲《ちう》する|火炎《くわえん》の|焔《ほのほ》よ
|譏《そし》り|婆《ばば》の|棲処《すみか》と|思《おも》へば|肝《きも》|向《むか》ふ
|心《こころ》|固《かた》めて|山登《やまのぼ》りせむ
|火《ひ》の|種《たね》の|一《ひと》つありせば|葭原《よしはら》の
|国土《くに》を|拓《ひら》くはたやすかるべし
|連日《れんじつ》の|旅《たび》に|疲《つか》れて|吾《わが》|足《あし》は
|動《うご》かずなりぬ|暫《しば》し|休《やす》まむ』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|音《おと》に|聞《き》く|火炎《くわえん》の|山《やま》の|噴煙《ふんえん》は
|天津御空《あまつみそら》にとどくかと|思《おも》ふ
|黒煙《こくえん》の|中《なか》に|紅蓮《ぐれん》の|舌《した》|見《み》えて
もの|凄《すご》きかな|火炎《くわえん》の|山《やま》は
|譏《そし》り|婆《ばば》の|配下《はいか》は|如何程《いかほど》あるとても
|一《ひと》つの|火種《ひだね》に|焼《や》き|亡《ほろ》ぼさむ
|鬼婆《おにばば》の|棲処《すみか》を|焼《や》きて|冬男君《ふゆをぎみ》の
|仇《あだ》を|報《むく》ふと|思《おも》へば|勇《いさ》まし
|秋《あき》の|野《の》の|虫《むし》の|声々《こゑごゑ》さはやかに
|聞《きこ》え|来《く》るなり|地獄《ぢごく》の|山《やま》にも
|久方《ひさかた》の|御空《みそら》の|月《つき》は|見《み》えねども
|昼《ひる》にまさりて|明《あか》き|国原《くにはら》
|譏《そし》り|婆《ばば》この|高山《たかやま》の|巌窟《がんくつ》に
|住《す》むと|思《おも》へば|恐《おそ》ろしき|奴《やつ》
|恐《おそ》ろしく|心《こころ》|汚《きたな》くしぶときは
|婆《ばば》アにまさるものなかるらむ
|婆《ばば》と|言《い》ふ|名《な》を|聞《き》くさへも|何《なん》となく
いまはしき|心《こころ》|湧《わ》き|出《い》でにけり
|殊更《ことさら》に|譏《そし》り|婆《ばば》アの|曲言葉《まがことば》
|聞《き》くさへ|胸《むね》が|悪《わる》くなるなり』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|火炎山《くわえんざん》|吐《は》き|出《だ》す|焔《ほのほ》を|眺《なが》むれば
|吾《われ》|勇《いさ》ましく|心《こころ》ときめく
|頂《いただき》に|駆《か》け|登《のぼ》りつつ|火《ひ》の|種《たね》を
|取《と》りて|帰《かへ》れば|国土《くに》|定《さだ》まらむ
|如何《いか》にしても|火炎《くわえん》の|山《やま》の|頂上《いただき》を
|極《きは》めずに|吾《われ》|帰《かへ》るべしやは
|幾万《いくまん》の|水奔鬼《すいほんき》の|群《むれ》|来《きた》るとも
|生言霊《いくことたま》に|追《お》ひ|退《しりぞ》けむ
|武士《もののふ》の|弥猛心《やたけごころ》はもえ|立《た》ちぬ
|火炎《くわえん》の|山《やま》の|焔《ほのほ》の|如《ごと》くに
|傷《きず》つきて|呻吟《うめ》きゐるらむ|此《この》|山《やま》の
|醜《しこ》の|主《あるじ》の|譏《そし》り|婆《ばば》アは
|言霊《ことたま》のいたく|濁《にご》れる|鬼婆《おにばば》の
|譏《そし》り|言葉《ことば》は|吾《わが》|耳《みみ》|汚《けが》せり
はてしなき|大野ケ原《おほのがはら》を|渉《わた》り|来《き》て
|今日《けふ》は|火炎《くわえん》の|山《やま》にやすらふ
|吹《ふ》く|風《かぜ》もなまぬるくして|心地《ここち》|悪《あ》し
|水奔鬼《すいほんき》の|群《むれ》|窺《うかが》へるにや
|水奔鬼《すいほんき》|浮塵子《うんか》の|如《ごと》く|寄《よ》するとも
|大丈夫《ますらを》|吾《われ》はびくとも|動《うご》かず
|大丈夫《ますらを》の|弥猛心《やたけごころ》の|切先《きつさき》に
|寄《よ》せ|来《く》る|鬼《おに》を|突《つ》き|伏《ふ》せて|見《み》む
いさましく|天《てん》に|冲《ちう》する|火炎《くわえん》にも
まさりて|雄々《をを》しき|吾《わが》みたまなり
おもしろしああ|勇《いさ》ましし|今《いま》よりは
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|棲処《すみか》を|突《つ》かむ』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|水上《みなかみ》の|山《やま》を|立《た》ち|出《い》で|日々《かが》なべて
|火炎《くわえん》の|山《やま》に|漸《やうや》く|来《き》つるも
|火炎山《くわえんざん》の|噴煙《ふんえん》|見《み》れば|吾《わが》|魂《たま》は
|天《てん》にのぼるが|如《ごと》く|栄《さか》ゆる
|昼《ひる》の|如《ごと》|明《あか》るき|野辺《のべ》の|風景《ふうけい》は
|火炎《くわえん》の|山《やま》の|火光《くわくわう》のたまもの
|夜《よる》されど|火炎《くわえん》の|山《やま》の|灯《ともしび》に
|闇《やみ》は|来《きた》らじ|戦《たたかひ》によし
|黒煙《こくえん》の|中《なか》より|赤《あか》き|火《ひ》の|舌《した》は
|北《きた》|吹《ふ》く|風《かぜ》になびきゐるかも』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『この|山《やま》に|冬《ふゆ》はなからむほのぼのと
|麓《ふもと》の|風《かぜ》さへ|暖《あたた》かなれば
|木《き》も|草《くさ》も|見《み》えわかぬ|迄《まで》|茂《しげ》りたる
|火炎《くわえん》の|山《やま》の|麓《ふもと》は|凄《すご》し
|頂上《いただき》の|火種《ひだね》を|一《ひと》つ|拾《ひろ》ひ|来《き》て
これの|裾野《すその》を|焼《や》かむと|思《おも》ふ
おもしろき|夕《ゆふべ》なりけり|地《つち》は|鳴《な》り
|木草《きぐさ》はどよみ|山《やま》は|火《ひ》を|吐《は》く
|目路《めぢ》の|限《かぎ》り|水奔草《すいほんさう》と|葭草《よしぐさ》の
|広野《ひろの》は|隈《くま》なく|明《あか》く|見《み》ゆめり』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、いづくともなく|怪《あや》しき|声《こゑ》、
『アハハハハハハ イヒヒヒヒヒヒ
ウフフフフフフ エヘヘヘヘヘヘ
オホホホホホホ|面白《おもしろ》や オホホホホホホ|面白《おもしろ》や
わが|計略《けいりやく》にくたばりし|冬男《ふゆを》の|兄《あに》の|秋男《あきを》なるか。|吾《われ》こそは|忍ケ丘《しのぶがをか》に|長《なが》く|棲《す》み|居《ゐ》し|笑《わら》ひ|婆《ばば》の|水奔鬼《すいほんき》ぞ。よくもまあ|迷《まよ》ふてうせた。|討《う》つは|今《いま》この|時《とき》、|冬男《ふゆを》の|恨《うら》みを|兄《あに》の|秋男《あきを》に|報《むく》ふてくれむ。ヤアヤア手下ども、|五人《ごにん》の|餓鬼《がき》どもを片つ端からふん|縛《じば》り、|火炎《くわえん》の|山《やま》の|火口《くわこう》に|放《ほ》り|込《こ》め、アハハハハハハハハ|心地《ここち》よやな』
と、さも|憎々《にくにく》しげなる|高声《たかごゑ》|響《ひび》き|来《きた》る。|秋男《あきを》はこの|声《こゑ》に|足《あし》の|疲《つか》れも|忘《わす》れ、すつくと|立上《たちあが》り、
『|弟《おとうと》の|消息《せうそく》|今《いま》や|悟《さと》りけり
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アに|謀《はか》られ|死《し》せしか
|吾《われ》こそは|珍《うづ》の|武士《もののふ》いかにして
|弟《おとうと》の|仇《あだ》を|報《むく》はであるべき
|水奔鬼《すいほんき》の|笑《わら》ひ|婆《ばば》アの|棲処《すみか》とは
|知《し》れどここに|会《あ》ふとは|思《おも》はざりしよ
あらためて|笑《わら》ひ|婆《ばば》アに|言問《ことと》はむ
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|棲処《すみか》はいづれぞ』
『アハハハハハハ、イヒヒヒヒヒヒ
|馬鹿《ばか》なことを|申《まを》すな。|譏《そし》り|婆《ばば》はこの|方《はう》の|妹《いもうと》、|今《いま》ここに|立《た》つて|居《ゐ》るのが|汝《そち》の|目《め》には|分《わか》らぬか、|盲《めくら》ども、もうかうなる|上《うへ》は|網《あみ》にかかつた|魚《うを》も|同然《どうぜん》、|吾等《われら》は|手下《てした》を|呼《よ》び|集《あつ》め、|心《こころ》のままに|嬲《なぶ》り|殺《ごろ》し、てもさてもあはれなものだワイ。
イヒヒヒヒヒヒ、オホホホホホホ』
|松《まつ》は|怒《いか》り|心頭《しんとう》に|達《たつ》し、|声《こゑ》もあらあらしく、
『おもしろし|笑《わら》ひ|婆《ばば》アに|譏《そし》り|婆《ばば》
|只一打《ただひとうち》に|亡《ほろ》ぼして|見《み》む
|吾《わが》|敵《てき》はここに|集《あつま》りゐると|聞《き》く
|手間暇《てまひま》いらぬ|今宵《こよひ》の|戦《たたか》ひ』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|水奔鬼《すいほんき》いかに|群《むら》がり|攻《せ》め|来《く》とも
|弥猛心《やたけごころ》に|突《つ》き|亡《ほろ》ぼさむ』
|斯《か》く|言《い》ふ|折《をり》しも、|不思議《ふしぎ》なるかな、|火炎山《くわえんざん》の|噴火《ふんくわ》はピタリと|止《と》まり、|四辺《あたり》は|真《しん》の|闇《やみ》、|秋男《あきを》の|一行《いつかう》は|進退《しんたい》|維谷《これきは》まり、|大地《だいち》にどつかと|坐《ざ》し、|双手《もろて》をくんで|暫《しば》し|思案《しあん》にくれて|居《ゐ》たり。
|暗《くら》がりの|中《なか》より|笑《わら》ひ|婆《ばば》は、|顔《かほ》の|輪廓《りんくわく》ハツキリと|現《あらは》れ|来《きた》り、|長《なが》き|舌《した》を|出《だ》しながら|秋男《あきを》の|前《まへ》|近《ちか》く|寄《よ》り|来《きた》り、
『アハハハハハハ、イヒヒヒヒヒヒ
もうかうなればこつちのもの、|覚悟《かくご》|致《いた》して|毒茶《どくちや》を|飲《の》め、さあ|喜《よろこ》んで|喰《くら》へ』
と|言《い》ひながら、|大《おほ》いなる|瓶《かめ》より|毒茶《どくちや》を|秋男《あきを》の|面上《めんじやう》に|注《そそ》ぎかける。
|秋男《あきを》はたまりかねて|両手《りやうて》を|以《もつ》て|面《おも》を|覆《おほ》ひ|心《こころ》の|中《うち》にて、
『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》|千万《ちよろづ》の|神《かみ》
|守《まも》り|給《たま》へ|救《すく》ひ|給《たま》へ』
と|奏上《そうじやう》するや、|笑《わら》ひ|婆《ばば》の|面《おも》は|忽《たちま》ち|消《き》え|失《う》せ、|遥《はるか》の|方《かた》よりいやらしき|笑《わら》ひ|声《ごゑ》|聞《きこ》ゆるばかりなり。
|後方《こうほう》より|譏《そし》り|婆《ばば》の|声《こゑ》、
『ギヤハハハハハハ、ギユフフフフフフ
|腰《こし》ぬけ|野郎《やらう》の|秋男《あきを》の|一行《いつかう》ども、|思《おも》ひ|知《し》つたか、|譏《そし》り|婆《ばば》のお|手並《てなみ》は|此《この》|通《とほ》り、|斯《か》くなる|上《うへ》は|何程《なにほど》もがくも|泣《な》くも|追《お》ひつくまい、さてもさても|小気味《こぎみ》のよい|事《こと》だワイ。ギユフフフフフフフこの|婆《ばば》は|水奔鬼《すいほんき》の|中《うち》でも|最《もつと》も|力《ちから》のある|御方《おかた》ぞや。それに|何《なん》ぞや、|小《ちひ》さき|人間《にんげん》の|身《み》として、|譏《そし》り|婆《ばば》を|征伐《せいばつ》するとは|片腹痛《かたはらいた》い。もうかくなる|上《うへ》はこつちの|自由《じいう》、てもさてもあはれな|腰《こし》ぬけ|野郎《やらう》だな』
|秋男《あきを》は|無念《むねん》やる|方《かた》なく、|生命《いのち》を|的《まと》に|声《こゑ》する|方《はう》に|向《むか》つて|拳《こぶし》を|固《かた》め|飛《と》びつく|途端《とたん》、|闇《やみ》の|落《おと》し|穴《あな》にどつとばかり|落《お》ち|込《こ》みにける。
|譏《そし》り|婆《ばば》は|又《また》もや|大声《おほごゑ》にて、
『ギヤハハハハハハ、てもさても|小気味《こぎみ》よし、|秋男《あきを》の|野郎《やらう》はこの|方《はう》の|計略《けいりやく》にかかり、もろくも|生命《いのち》を|落《おと》しよつた。それでも|俺《おれ》の|輩下《けらい》が|一人《ひとり》|殖《ふ》えたと|申《まを》すもの、|後《あと》の|四人《よにん》の|餓鬼《がき》どもはさアどう|致《いた》す、|降参《かうさん》|致《いた》して|俺《おれ》の|部下《ぶか》となるかどうだ、|返答《へんたふ》いたせ、ギヤハハハハハハ、よもや|手向《てむか》ひよう|致《いた》す|力《ちから》はあるまい』
|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》、|桜《さくら》の|四人《よにん》は、|一斉《いつせい》に|譏《そし》り|婆《ばば》の|声《こゑ》する|方《はう》へ|突進《とつしん》する|途端《とたん》、あはれや|一度《いちど》に|闇《やみ》の|奈落《ならく》に|墜落《ついらく》し、|可惜《あたら》|現身《うつそみ》の|生命《いのち》を|失《うしな》ひける。
|火炎《くわえん》の|山《やま》は|再《ふたた》び|噴煙《ふんえん》を|吐《は》き|出《だ》し、|火光《くわくわう》|天《てん》に|冲《ちう》し、さも|物凄《ものすご》き|光景《くわうけい》なりける。
|秋男《あきを》の|一行《いつかう》は|闇《やみ》の|落《おと》し|穴《あな》に|墜落《ついらく》し、|果敢《はか》なくも|現身《うつそみ》の|生命《いのち》を|失《うしな》ひけるが、その|精霊《せいれい》は|不老不死《ふらうふし》にしてここに|復活《ふくくわつ》し、|五人《ごにん》|一度《いちど》に|首《くび》を|鳩《あつ》め、|婆《ばば》の|奸策《かんさく》にかかりしことを|恨《うら》み|居《ゐ》る。
|秋男《あきを》はかすかに|歌《うた》ふ。
『|思《おも》ひきや|火炎《くわえん》の|山《やま》に|辿《たど》り|来《き》て
かかる|歎《なげ》きに|今《いま》|遭《あ》はむとは
|斯《か》くなれば|吾等《われら》も|同《おな》じ|水奔鬼《すいほんき》の
|群《むれ》に|入《い》りしか|思《おも》へばくやしき
|水奔鬼《すいほんき》にたとへなるとも|吾《わが》|心《こころ》
|彼《か》の|鬼婆《おにばば》をきためで|置《お》くべき
|汝《なれ》も|亦《また》|吾《われ》と|同《おな》じく|鬼婆《おにばば》に
|玉《たま》の|生命《いのち》を|奪《うば》はれけるよ
この|上《うへ》は|五人《ごにん》|力《ちから》を|一《ひと》つにし
|二人《ふたり》の|婆《ばば》を|打《う》ち|亡《ほろ》ぼさばや』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|君《きみ》の|仰《おほ》せ|畏《かしこ》しこの|恨《うら》み
|吾等《われら》はむくはで|止《や》むべきならず
|悪神《あくがみ》の|謀計《たくみ》の|罠《わな》に|陥《おちい》りて
|果敢《はか》なくなりし|吾《われ》はくやしも』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|地獄山《ぢごくやま》|麓《ふもと》の|穴《あな》に|陥《おちい》りて
|玉《たま》の|生命《いのち》を|捨《す》てにけらしな
|身体《からたま》はよし|失《う》するとも|精霊《せいれい》の
|生命《いのち》は|長《なが》し|恨《うら》みをむくいむ
|武士《もののふ》の|弥猛心《やたけごころ》も|斯《か》くならば
|暫《しば》しは|詮《せん》すべなからむと|思《おも》ふ』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|力《ちから》よわきことを|宣《の》らすな|精霊《せいれい》と
|言《い》へども|吾等《われら》は|雄々《をを》しき|大丈夫《ますらを》
|大丈夫《ますらを》の|堅《かた》き|心《こころ》はよしやよし
|生命《いのち》|死《し》すともひるまざるべし
|水上《みなかみ》の|山《やま》にあれます|御父《おんちち》は
|歎《なげ》かせ|給《たま》はむ|二人《ふたり》をとられて
|吾《わが》|父《ちち》も|母《はは》も|歎《なげ》かむ|火炎山《くわえんざん》の
|鬼《おに》に|生命《いのち》をとられしと|聞《き》きて
さりながら|吾等《われら》|五人《ごにん》の|言霊《ことたま》に
|醜《しこ》の|鬼婆《おにばば》|平《たひら》げて|見《み》む』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『|思《おも》はざる|不覚《ふかく》を|取《と》りて|主従《しゆじう》は
あたら|生命《いのち》を|失《うしな》ひにけり
さりながら|吾《わが》|精霊《せいれい》はかくの|如《ごと》
|生《い》きてありせば|恐《おそ》るるに|足《た》らず
どこ|迄《まで》も|婆《ばば》アの|生命《いのち》|取《と》らざれば
|大丈夫《ますらを》|吾等《われら》の|意気地《いくぢ》は|立《た》たず
|八千尋《やちひろ》の|深《ふか》き|穴底《あなそこ》に|落《おと》されて
|生命《いのち》|亡《う》せしと|思《おも》へば|恨《うら》めし
この|恨《うら》みやがてはらさむ|笑《わら》ひ|婆《ばば》
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|首《くび》|引《ひ》きぬきて』
|斯《か》く|主従《しゆじう》|五人《ごにん》は、|今更《いまさら》の|如《ごと》くあたら|生命《いのち》を|奪《うば》はれたるを|怒《いか》り|且《か》つ|歎《なげ》き、|仇《あだ》を|報《ほう》ずべきを|語《かた》り|合《あ》ひつつ、|千尋《ちひろ》の|深《ふか》き|穴《あな》の|底《そこ》に|佇《たたず》んで|居《ゐ》る。
|時《とき》こそあれ、いづくともなく、いやらしき|笑《わら》ひ|婆《ばば》の|笑《わら》ひ|声《ごゑ》、|譏《そし》り|婆《ばば》の|破鐘《われがね》の|声《こゑ》、|物凄《ものすご》く|響《ひび》き|来《きた》る。
(昭和九・七・二八 旧六・一七 於関東別院南風閣 谷前清子謹録)
第一二章 |夜見還《よみがへり》〔二〇一六〕
|四辺《しへん》|黯澹《あんたん》として|声《こゑ》もなく、|天《てん》|低《ひく》う|妖雲《えううん》|垂《た》れ|下《さが》りて|一陣《いちぢん》の|風《かぜ》もなし。|蒸《む》し|暑《あつ》き|事《こと》|釜中《ふちう》を|行《ゆ》くが|如《ごと》く、|陰鬱《いんうつ》の|空気《くうき》|漲《みなぎ》り、|全身《ぜんしん》|脂汗《あぶらあせ》にじみ、|形容《けいよう》し|難《がた》き|苦《くる》しき|中《なか》を、|葭草《よしぐさ》と|水奔草《すいほんさう》の|生《お》ひ|茂《しげ》る|荒野ケ原《あらのがはら》を|進《すす》みゆく|一人《ひとり》の|男《をとこ》ありけり。
『ああいぶかしやいぶかしや
|水上山《みなかみやま》を|立《た》ち|出《い》でて
|幾夜《いくよ》を|重《かさ》ぬる|草枕《くさまくら》
|怪《あや》しき|事《こと》の|数々《かずかず》を
|目撃《もくげき》しつつ|黄昏《たそがれ》に
|火炎《くわえん》の|山《やま》の|麓《ふもと》まで
|進《すす》み|来《きた》れる|折《をり》もあれ
|天《てん》に|冲《ちう》する|大噴火《だいふんくわ》
|忽《たちま》ちとどまり|暗黒《あんこく》の
|幕《まく》は|四辺《しへん》を|包《つつ》むよと
|見《み》るまもあらず|譏《そし》り|婆《ばば》
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アの|水奔鬼《すいほんき》
|闇《やみ》の|幕《まく》をば|距《へだ》てつつ
|怪《あや》しき|事《こと》の|数々《かずかず》に
|笑《わら》ひ|罵《ののし》るにくらしさ
われ|等《ら》は|腹《はら》に|据《す》ゑかねて
|闇《やみ》に|向《むか》つてつき|込《こ》めば
|思《おも》ひがけなや|八千尋《やちひろ》の
|地底《ちそこ》の|穴《あな》に|陥《おちい》りて
|苦《くる》しみもだゆる|折《をり》もあれ
|続《つづ》いて|落《お》ち|込《こ》む|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》
|桜《さくら》の|四人《よにん》も|現世《うつしよ》の
|生命《いのち》は|空《むな》しくなりにけり
|此処《ここ》にも|怪《あや》しき|婆《ばば》の|声《こゑ》
いぶかしさよと|思《おも》ふ|折《をり》
わが|言霊《ことたま》にいち|早《はや》く
この|場《ば》を|去《さ》りしと|思《おも》ひきや
かかる|怪《あや》しき|大野原《おほのはら》
|悲《かな》しく|淋《さび》しく|一人《ひとり》ゆく
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|此《この》|世《よ》にましまさば
わが|行《ゆ》く|先《さき》を|明《あき》らかに
|天地《てんち》の|妖気《えうき》を|吹《ふ》き|払《はら》ひ
|示《しめ》させ|給《たま》へと|願《ね》ぎまつる
|天地《てんち》|静《しづ》かに|風《かぜ》|死《し》して
わが|身体《からたま》の|全部《ぜんぶ》より
|熱湯《ねつたう》の|汗《あせ》はにじみ|出《い》で
|痒《かゆ》さ|苦《くる》しさ|堪《た》へがたし
ここは|地獄《ぢごく》か|八衢《やちまた》か
|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|事《こと》ばかり
|正《まさ》しく|幽冥《いうめい》の|道《みち》ならば
わが|弟《おとうと》に|出会《であ》ふならむ
|冬男《ふゆを》|恋《こひ》しや、なつかしや
|精霊《みたま》となりて|生《い》くるなら
われの|悲《かな》しき|心根《こころね》を
|思《おも》ひ|計《はか》りて|来《きた》れかし
|汝《なんぢ》の|仇《あだ》を|討《う》たむとて
|悪魔《あくま》の|婆《ばば》に|謀《はか》らはれ
|尊《たふと》き|生命《いのち》を|捨《す》てにけり
|思《おも》へば|思《おも》へば|憎《にく》らしや
|譏《そし》り|婆《ばば》アに|笑《わら》ひ|婆《ば》
たとへ|幽界《かくりよ》なればとて
これの|悪魔《あくま》を|殲滅《せんめつ》し
|精霊界《せいれいかい》を|悉《ことごと》く
|清《きよ》め|澄《す》まして|天国《てんごく》の
|貴《うづ》の|門戸《もんこ》となさしめむ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|恩頼《みたまのふゆ》を|願《ね》ぎまつる
|高光山《たかみつやま》は|遠《とほ》くとも
|火炎《くわえん》の|山《やま》はさかしとも
|如何《いか》でひるまむ|霊魂《たましひ》の
|生命《いのち》のあらむ|其《その》|限《かぎ》り
|登《のぼ》らなおかぬ|大丈夫《ますらを》の
|弥猛心《やたけごころ》をみそなはし
|天地《てんち》に|神《かみ》のいますなら
わが|願《ね》ぎ|言《ごと》を|詳細《まつぶさ》に
|聞《きこ》し|召《め》さへと|願《ね》ぎまつる』
|斯《か》くうたひつつ|前進《ぜんしん》すれば、|血《ち》の|如《ごと》き|色《いろ》を|為《な》せる|濁水《だくすい》の|流《なが》るる|大川《おほかは》につと|行《ゆ》き|当《あた》りたり。|秋男《あきを》は|如何《いか》にしてこの|濁水《だくすい》を|渡《わた》らむかと、|岸辺《きしべ》に|佇《たたず》み、|頭《かしら》を|傾《かたむ》け、|腕《うで》を|組《く》み、|太《ふと》き|溜息《ためいき》|吐《は》きながら、|微《かすか》に|歌《うた》ふ。
『|幽界《いうかい》の|淋《さび》しき|道《みち》をたどり|来《き》て
|血潮《ちしほ》|流《なが》るる|川辺《かはべ》に|来《きた》りぬ
|滔々《たうたう》と|流《なが》るる|水《みづ》は|悉《ことごと》く
|悪臭《あくしう》|交《まじ》りて|胸《むね》ふさがりぬ
|汚《けが》れたる|此《こ》の|血《ち》の|川《かは》を|渡《わた》らむと
われは|思《おも》はじ|如何《いか》になるとも
|人《ひと》の|身《み》の|宿世《すぐせ》|思《おも》へば|悲《かな》しけれ
わがたつ|涙《なみだ》|川《かは》と|流《なが》れつ』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|傍《かたはら》の|葭草《よしぐさ》の|枯葉《かれは》をそよがせながら、|痩《や》せこけた|老婆《らうば》、|藜《あかざ》の|杖《つゑ》をつき|海老腰《えびごし》になりながら、|秋男《あきを》の|前《まへ》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|全身《ぜんしん》を|見上《みあ》げ|見下《みおろ》し、「ゲラゲラ」と|打《う》ち|笑《わら》ひ、
『この|婆《ばば》はそちが|生命《いのち》を|奪《うば》ひたる
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|分《わ》けみたまぞや
よくもまあ|迷《まよ》ひ|来《き》しよなこの|川《かは》は
|膿血《うみち》と|痰《たん》の|集《あつま》りなるぞや』
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|思《おも》ひきや|紫微天界《しびてんかい》の|真秀良場《まほらば》の
この|葭草《よしぐさ》に|地獄《ぢごく》ありとは
よしやよし|地獄《ぢごく》の|旅《たび》を|続《つづ》くるとも
われは|進《すす》まむ|高光山《たかみつやま》へ』
|婆《ばば》アは|顎《あご》をしやくりながら、
『この|婆《ばば》は|瘧《おこり》と|申《まう》す|水奔鬼《すいほんき》
|此処《ここ》に|来《く》る|奴《やつ》なやめて|楽《たの》しむ
|来《く》る|奴《やつ》は|一人《ひとり》も|残《のこ》らずわが|為《ため》に
|瘧《おこり》を|病《や》みて|死《し》ぬる|嬉《うれ》しさ
|其《その》|方《はう》は|精霊《せいれい》なれどこの|婆《ばば》の
|恵《めぐ》みによりて|瘧《おこり》をふるへよ』
|秋男《あきを》は|冷然《れいぜん》として、
『かくなればわれは|恐《おそ》れじ|瘧婆《おこりばば》の
|霊《たま》の|生命《いのち》を|伐《き》り|放《はふ》るべし』
|婆《ばば》アはこの|歌《うた》に|眼《め》を|釣《つ》り|上《あ》げ、|口《くち》を|尖《とが》らし、|秋男《あきを》が|側《そば》|近《ちか》く|寄《よ》り|添《そ》ひ、|氷《こほり》の|如《ごと》き|冷《つめた》き|手《て》にて、|秋男《あきを》の|左右《さいう》の|手《て》をグツと|握《にぎ》り、|憎々《にくにく》しげに、
『こりや|秋男《あきを》の|餓鬼《がき》、|俺《おれ》を|何方《どなた》と|心《こころ》|得《え》てゐるのか。|血《ち》の|川《かは》の|主《ぬし》、|水奔鬼《すいほんき》の|瘧婆《おこりばば》アといふは|此《この》|方《はう》の|事《こと》だ。さア、これからは|其方《そち》の|霊《たま》の|生命《いのち》をとり、|血《ち》の|川《かは》に|水葬《すいさう》してやらう。|有難《ありがた》く|思《おも》へ』
|秋男《あきを》は、
『|何《なに》をするか|氷《こほり》の|如《ごと》き|痩腕《やせうで》に
われの|両手《もろて》を|離《はな》さぬ|鬼婆《おにばば》
|鬼婆《おにばば》の|醜《みにく》き|姿《すがた》|一目《ひとめ》|見《み》て
われは|吐《は》き|気《け》を|催《もよほ》しにけり』
|婆《ばば》アは、
『|何《なに》をこしやくな、|俺《おれ》の|顔《かほ》を|見《み》て|吐《は》き|気《け》を|催《もよほ》すとはよくも|言《い》へたものだ。やい|糞袋《くそぶくろ》、|痰壺《たんつぼ》、|小便《しよんべん》のタンク|奴《め》、|左様《さやう》な|太平楽《たいへいらく》を|聞《き》く|鬼《おに》さんぢやないぞ。サアこれから|其《その》|方《はう》の|皮衣《かはごろも》をはぎ、|腕《うで》をぬき、|骨《ほね》を|引《ひ》き|切《き》り、|川瀬《かはせ》の|乱杭《らんぐひ》に|使《つか》つてやらうぞ。それがせめても|貴様《きさま》にとつての|幸《さいは》ひ、|罪滅《つみほろぼ》しといふものだ。ギヤハハハハー、あのまあむづかしい、|青黒《あをぐろ》い、|悲《かな》しさうな|顔《かほ》わいのう、イヒヒヒヒ』
|秋男《あきを》は|進退《しんたい》これ|谷《きは》まりて|如何《いかん》ともする|術《すべ》なく、|途方《とはう》にくれたる|折《をり》もあれ、|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》、|桜《さくら》|四人《よにん》の|精霊《せいれい》は|此《この》|場《ば》に|現《あらは》れ|来《きた》り、|秋男《あきを》が|瘧婆《おこりばば》アに|苦《くる》しめられてゐる|体《てい》を|見《み》て、|驚《おどろ》きながらバラバラと|婆《ばば》アを|取《と》りかこみ、
『はて|不思議《ふしぎ》|譏《そし》り|婆《ばば》アによく|似《に》たる
ここにも|鬼《おに》が|現《あらは》れしぞや
よく|見《み》れば|秋男《あきを》の|君《きみ》の|手《て》をつかみ
|苦《くる》しめ|居《ゐ》るか|悪《あく》たれ|婆《ばば》ア|奴《め》』
|秋男《あきを》は|細《ほそ》き|声《こゑ》にて|顔《かほ》をしかめながら、
『この|婆《ばば》に|苦《くる》しめられてゐるところ
|汝等《なれら》|四人《よにん》はわれを|救《すく》へよ』
|松《まつ》は|応《こた》へて、
『|若君《わかぎみ》の|悩《なや》みを|見《み》つつ|如何《いか》にして
われ|等《ら》|四人《よつたり》もだし|居《ゐ》るべき
わが|力《ちから》あらむ|限《かぎ》りをこの|婆《ばば》の
|頭上《づじやう》にくはへて|打《う》ち|据《す》ゑて|見《み》む
|竹《たけ》よ|梅《うめ》よ|桜《さくら》よ|来《きた》れ|此《こ》の|婆《ばば》を
|只一息《ただひといき》に|打《う》ちなやまさむ』
|四人《よにん》は|一度《いちど》に|拳《こぶし》を|固《かた》め、|婆《ばば》アの|面部《めんぶ》をめがけて|打《う》ち|据《す》ゆれば、|如何《いかが》はしけむ、|婆《ばば》アはビクともせず、|四人《よにん》の|拳《こぶし》よりは|血潮《ちしほ》タラタラと|流《なが》れ|出《い》で、|痛《いた》き|事《こと》|堪《た》へ|難《がた》し。|瘧婆《おこりばば》は|冷笑《れいせう》し、
『ギヤハハハハ、この|方《はう》を|何方様《どなたさま》と|心得《こころえ》てゐるか。|岩《いは》より|固《かた》き|水奔草《すいほんさう》の|司《つかさ》、この|川《かは》の|辺《べ》に|棲処《すみか》を|固《かた》め、|先《さき》に|廻《まは》つて|汝等《なんぢら》が|迷《まよ》ひ|来《く》るを|待《ま》つてゐた。|笑《わら》ひ|婆《ばば》アや|譏《そし》り|婆《ばば》アの|一味《いちみ》の|者《もの》だよ。もうかうなる|上《うへ》は|覚悟《かくご》を|致《いた》せ。|往生《わうじやう》|致《いた》さねば|此《この》|上《うへ》|辛《つら》き|目《め》|見《み》せてくれむ。さあ|返答《へんたふ》はどうぢや。イヒヒヒヒ、てもさても|心地《ここち》よやな』
|五人《ごにん》はここに|進退《しんたい》|維谷《これきは》まり、|如何《いかが》はせむと|案《あん》じわづらふ|折《をり》もあれ、|忽《たちま》ち|空《そら》をどよもして|進《すす》み|来《きた》る|一〓《いつしゆ》の|火団《くわだん》、|轟然《がうぜん》たる|響《ひびき》とともにこの|川《かは》の|辺《べ》に|落下《らくか》したり。この|出来事《できごと》に、|瘧婆《おこりばば》アの|影《かげ》は|雲霧《くもきり》と|消《き》えて|跡形《あとかた》もなく、よくよく|見《み》れば、|依然《いぜん》として|火炎山《くわえんざん》の|麓《ふもと》の|譏《そし》り|婆《ばば》が|造《つく》り|置《お》きたる|陥穽《おとしあな》の|底《そこ》に|主従《しゆじう》|五人《ごにん》|横《よこ》たはり|居《ゐ》たるなりけり。
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『いぶかしや|悪魔《あくま》の|罠《わな》に|陥《おちい》りて
|死《し》せしと|思《も》ひしは|過《あやまち》なりしよ
|身体《からたま》の|生命《いのち》ありせばこれよりは
この|陥穽《おとしあな》を|伝《つた》ひ|上《あが》らむ』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|有難《ありがた》し|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》はひに
われは|罷《まか》らずありにけらしな
|常磐木《ときはぎ》の|松《まつ》の|心《こころ》をはげまして
|冬男《ふゆを》の|君《きみ》の|仇《あだ》を|酬《むく》はむ
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|失《う》せしと|思《おも》ひしを
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|生《い》きてありけり』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|大丈夫《ますらを》われ|生《い》きてありけり|穴《あな》の|底《そこ》を
|伝《つた》ひ|上《あが》りて|再《ふたた》び|活動《はたら》かむ
|玉《たま》の|緒《を》の|生《い》きの|生命《いのち》のある|限《かぎ》り
|災《わざはひ》をなす|鬼《おに》をやらはむ
|飽《あ》くまでも|初心《しよしん》を|貫徹《くわんてつ》なさざれば
|益荒猛男《ますらたけを》の|胸《むね》の|晴《は》るべき』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|兎《と》も|角《かく》も|蘇《よみがへ》りたる|嬉《うれ》しさに
われは|言葉《ことば》も|絶《た》え|果《は》てにけり』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『|火炎山《くわえんざん》|麓《ふもと》にすめる|譏《そし》り|婆《ばば》アの
たくみ|果敢《はか》なく|破《やぶ》れけるかな
|曲鬼《まがおに》は|闇《やみ》に|陥穽《かんせい》|作《つく》り|居《ゐ》て
わが|一行《いつかう》をなやまさむとせり
|男《を》の|子《こ》われ|生《い》きの|生命《いのち》の|続《つづ》く|限《かぎ》り
|神国《みくに》の|為《ため》に|曲《まが》|亡《ほろ》ぼさむ』
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『いざさらば|生言霊《いくことたま》を|宣《の》りながら
|上《のぼ》りゆかなむこの|深穴《ふかあな》を
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》
|守《まも》らせ|給《たま》へ』
と、|宣《の》り|終《をは》るや、|地底《ちてい》は|次第《しだい》にふくれ|上《あが》り、|以前《いぜん》の|樹蔭《じゆいん》にたちかへりける。
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|天地《あめつち》の|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|深《ふか》ければ
|元津場所《もとつばしよ》に|生《い》きかへりたり
これからは|五人《ごにん》|心《こころ》を|協《あは》せつつ
|曲《まが》の|砦《とりで》に|攻《せ》めて|上《のぼ》らむ』
(昭和九・七・二八 旧六・一七 於関東別院南風閣 林弥生謹録)
第一三章 |樹下《じゆか》の|囁《ささや》き〔二〇一七〕
|蘇《よみがへ》りたる|五人《ごにん》の|一行《いつかう》は、|火炎山《くわえんざん》の|麓《ふもと》の|籠《こも》り|樹《ぎ》の|蔭《かげ》に|息《いき》を|休《やす》ませながら、|辺《あた》りの|風光《ふうくわう》を|見《み》やりつつ、|朝明《あさあ》けの|空《そら》に|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|秋《あき》の|日《ひ》の|旅《たび》を|重《かさ》ねて|今《いま》|此処《ここ》に
あしたの|露《つゆ》の|光《ひか》れるを|見《み》つ
いろいろの|鬼婆《おにばば》たちにさやられて
わが|魂《たましひ》の|雄猛《をたけ》びやまずも
うるはしき|朝《あさ》の|眺《なが》めに|吾《わが》|魂《たま》は
よみがへりつつ|雄猛《をたけ》びするも
|鬼婆《おにばば》の|醜《しこ》のたくみも|何《なに》かあらむ
|昇《のぼ》る|朝日《あさひ》に|消《き》え|失《う》せぬれば
|曲津見《まがつみ》は|光《ひかり》を|恐《おそ》れ|闇《やみ》の|夜《よ》を
たのみて|伊猛《いたけ》るはあはれなるかな
|赫々《かくかく》と|輝《かがや》き|給《たま》ふ|朝津日《あさつひ》の
|光《かげ》に|亡《ほろ》びぬ|水奔鬼《すいほんき》の|群《むれ》
|木々《きぎ》の|梢《うれ》|露《つゆ》を|浴《あ》びつつ|瑠璃光《るりくわう》の
|光《ひかり》|保《たも》てり|朝日《あさひ》のかげに
|黒雲《くろくも》を|起《おこ》してわれを|艱《なや》めてし
|譏《そし》り|婆《ばば》アのかげいづらなる
|髪《かみ》の|毛《け》もよだつばかりの|嫌《いや》らしさ
|譏《そし》り|声《ごゑ》|出《だ》す|醜《しこ》の|鬼婆《おにばば》
|心地《ここち》よき|秋《あき》のあしたの|山風《やまかぜ》を
|浴《あ》みつつ|楽《たの》し|曲津《まが》の|棲処《すみか》も
さやさやに|千花百花《ちばなももばな》|吹《ふ》きて|行《ゆ》く
|風《かぜ》の|音《ね》|清《きよ》くわが|魂《たま》|栄《さか》ゆる
|白萩《しらはぎ》の|所《ところ》せきまで|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
|此《この》|山《やま》もとに|不思議《ふしぎ》や|鬼《おに》|棲《す》む
|澄《す》みきらふ|空《そら》の|色《いろ》かも|山肌《やまはだ》の
|草木《くさき》の|色《いろ》は|青《あを》みだちたり
|攻《せ》め|来《きた》る|醜《しこ》の|曲津《まがつ》を|悉《ことごと》く
|生言霊《いくことたま》に|言向《ことむ》け|和《やは》さむ
|大空《おほぞら》に|黒雲《くろくも》|起《おこ》し|荒《すさ》びたる
|譏《そし》り|婆《ばば》アのはてあはれなる
|高《たか》くとも|登《のぼ》り|了《おほ》せむ|山《やま》の|上《へ》の
|火種《ひだね》をとりて|国土《くに》を|定《さだ》めむ
|血《ち》の|川《かは》の|側《そば》に|立《た》ちたる|夢《ゆめ》を|見《み》て
|鬼《おに》のたくみの|深《ふか》きを|悟《さと》りぬ
|月《つき》も|日《ひ》も|御空《みそら》に|清《きよ》く|照《て》り|渡《わた》る
|今朝《けさ》の|休《やす》らひ|清《すが》しきろかも
|照《て》り|渡《わた》る|天津日《あまつひ》のかげ|浴《あ》びながら
われは|進《すす》まむ|頂《いただき》さして
|鳥《とり》の|声《こゑ》|清《すが》しくなりて|山《やま》の|袖《そで》
|吹《ふ》く|秋風《あきかぜ》は|涼《すず》しかりけり
|何事《なにごと》も|神《かみ》の|御旨《みむね》に|従《したが》ひて
|登《のぼ》らむ|山《やま》に|曲津《まが》のあるべき
|西《にし》を|吹《ふ》く|風《かぜ》にあふられ|山袖《やまそで》の
|尾花《をばな》は|地《つち》に|靡《なび》き|伏《ふ》したり
|奴婆玉《ぬばたま》の|闇《やみ》に|伊猛《いたけ》る|鬼婆《おにばば》を
|生言霊《いくことたま》の|剣《つるぎ》に|放《はふ》らむ』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|野《の》に|山《やま》に|咲《さ》く|白萩《しらはぎ》の|花《はな》|見《み》れば
|鬼《おに》の|心《こころ》か|風《かぜ》にみだるる
|優《やさ》しかる|姿《すがた》ながらも|白萩《しらはぎ》の
|花《はな》の|乱《みだ》れを|見《み》るは|憂《う》れたし
|吹《ふ》く|風《かぜ》にもろく|散《ち》りゆく|白萩《しらはぎ》の
|花《はな》にも|似《に》たる|譏《そし》り|婆《ばば》かも
|秋山《あきやま》の|草木《くさき》はいづれも|紅葉《もみぢ》して
|北《きた》|吹《ふ》く|風《かぜ》に|打《う》ちふるふなり
|果敢《はか》なきは|風《かぜ》に|散《ち》り|行《ゆ》く|病葉《わくらば》の
すがたに|似《に》たる|鬼婆《おにばば》なるかも
|穂薄《ほすすき》は|何《なに》を|招《まね》くか|力《ちから》|弱《よわ》く
|秋《あき》|吹《ふ》く|風《かぜ》に|倒《たふ》されにつつ』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|鬼婆《おにばば》の|館《やかた》に|会《あ》ひし|五人乙女《ごにんをとめ》の
|行方《ゆくへ》はいづこ|聞《き》かまほしけれ
|精霊《せいれい》の|身《み》にしあれどもわが|旅路《たびぢ》
|守《まも》ると|言《い》ひし|事《こと》は|忘《わす》れじ
|火炎山《くわえんざん》|焔《ほのほ》は|天《てん》に|冲《ちう》すれど
|此《この》|山裾《やますそ》は|秋風《あきかぜ》そよぐ
|時々《ときどき》は|唸《うな》りをたてて|焼石《やけいし》を
|四方《よも》に|降《ふ》らせる|火炎《くわえん》の|山《やま》かな
|火《ひ》の|種《たね》の|手《て》に|入《い》るまでは|此《この》|山《やま》を
われ|等《ら》|五人《ごにん》は|離《はな》れじと|思《おも》ふ
|此《この》|山《やま》の|頂《いただき》|雲《くも》に|包《つつ》まれぬ
|悪獣《あくじう》|毒蛇《どくじや》の|集《つど》ひ|居《ゐ》るにや』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|女郎花《をみなへし》|風《かぜ》にゆらげるさま|見《み》れば
|貴《うづ》の|乙女《をとめ》のよそほひ|思《おも》ふ
|萩《はぎ》|桔梗《ききやう》|紫《むらさき》|匂《にほ》ふ|山裾《やますそ》に
|朝日《あさひ》をあびて|憩《いこ》ふ|楽《たの》しさ
|来《き》てみれば|火炎《くわえん》の|山《やま》の|頂《いただき》は
いよいよ|遥《はろ》けくいよいよ|高《たか》し
もろもろの|曲神《まがかみ》|集《つど》ふ|此《この》|山《やま》は
|心《こころ》して|行《ゆ》け|言霊《ことたま》|宣《の》りつつ』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『|鬼婆《おにばば》の|繩張《なはば》りといふこの|山《やま》は
|怪《け》しき|事《こと》のみ|次々《つぎつぎ》|起《おこ》るも
さはあれど|誠心《まことごころ》に|進《すす》みなば
|如何《いか》なる|艱《なや》みも|安《やす》くのぼらむ
|火炎山《くわえんざん》|火種《ひだね》の|一《ひと》つ|持《も》つならば
|此《この》|国原《くにはら》は|安《やす》けかるべし
はろばろと|水上《みなかみ》の|山《やま》を|立《た》ち|出《い》でて
|今日《けふ》は|魔神《まがみ》の|軍《いくさ》に|向《むか》ふも
|笑《わら》ひ|婆《ばば》と|譏《そし》り|婆《ばば》アのその|上《うへ》に
|瘧婆《おこりばば》アの|夢《ゆめ》を|見《み》しかな
|婆《ばば》といふ|名《な》を|聞《き》くさへも|忌《いま》はしく
|汚《けが》らはしくも|思《おも》はれにける』
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|大丈夫《ますらを》の|弥猛心《やたけごころ》を|引《ひ》き|立《た》てて
いざや|登《のぼ》らむ|火炎《くわえん》の|山頂《さんちやう》』
と|歌《うた》ひながら、|松《まつ》、|竹《たけ》を|先頭《せんとう》に、|梅《うめ》、|桜《さくら》を|殿《しんがり》とし、|壁立《かべた》つ|羊腸《やうちやう》の|坂道《さかみち》を、|一歩々々《ひとあしひとあし》|刻《きざ》みつつ|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『ウントコドツコイ、ドツコイシヨ
|火炎《くわえん》の|山《やま》はさかしとも
|悪魔《あくま》の|猛《たけ》びは|強《つよ》くとも
|如何《いか》で|恐《おそ》れむ|大丈夫《ますらを》の
|固《かた》き|心《こころ》を|発揮《はつき》して
|此《この》|急坂《きふはん》を|登《のぼ》るなり
|尾花《をばな》は|靡《なび》き|百花《ももばな》は
わが|行《ゆ》く|足《あし》の|右《みぎ》|左《ひだり》
|清《きよ》く|匂《にほ》ひて|虫《むし》の|音《ね》も
いとさやさやに|聞《きこ》ゆなり
ああ|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや
|天地《あめつち》|開《ひら》けし|始《はじ》めより
|例《ためし》もあらぬ|山登《やまのぼ》り
|魍魎毒蛇《まうりやうどくじや》は|潜《ひそ》むとも
|生言霊《いくことたま》の|剣《つるぎ》もて
|斬《き》り|放《はふ》らひつ|葭原《よしはら》の
|神国《みくに》の|基礎《きそ》を|固《かた》むべく
|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》の|火口《くわこう》まで
|進《すす》まにやおかぬ|大和魂《やまとだま》
|進《すす》めよ|進《すす》め、いざ|進《すす》め
|天津御空《あまつみそら》はいや|高《たか》し
|地上《ちじやう》を|伏《ふ》して|眺《なが》むれば
|黄金《こがね》の|野辺《のべ》は|天津日《あまつひ》の
|光《ひか》りを|浴《あ》びてきらきらと
|目路《めぢ》の|限《かぎ》りを|光《ひか》るなり
わが|行《ゆ》く|道《みち》は|遠《とほ》けれど
いつかは|登《のぼ》らむ|火炎山《くわえんざん》
その|頂《いただき》に|輝《かがや》ける
|火種《ひだね》を|一《ひと》つ|戴《いただ》きて
|世人《よびと》を|普《あまね》く|救《すく》ふべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
わが|一行《いつかう》に|幸《さち》あれや
|天津神《あまつかみ》たち|国津神《くにつかみ》
|百《もも》の|神《かみ》たち|聞《きこ》し|召《め》せ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》のまにまに|進《すす》み|行《ゆ》く
ウントコドツコイ、ドツコイシヨ』
と|歌《うた》ひながら|秋男《あきを》は|急坂《きふはん》をものともせず、|雄々《をを》しく|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|登《のぼ》り|行《ゆ》けば|頂《いただき》ますます|遠《とほ》く|見《み》えて
|心《こころ》もとなき|火炎《くわえん》の|山《やま》かも
|不思議《ふしぎ》なる|山《やま》にもあるか|行《ゆ》けど|行《ゆ》けど
はてしも|知《し》らぬ|高《たか》き|峰《みね》なり
|悪神《あくがみ》の|妨《さまた》げなせるか|吾《わが》|足《あし》は
|重《おも》たくなりて|開《ひら》きかねつつ
|兎《と》も|角《かく》も|此処《ここ》に|息《いき》をば|休《やす》めつつ
|登《のぼ》り|行《ゆ》かむか|秋男若君《あきをわかぎみ》』
と|言《い》ひつつ、|地上《ちじやう》より|一尺《いつしやく》ばかり|頭《あたま》を|突《つ》き|出《だ》し|覗《のぞ》ける|岩《いは》にどつかと|腰《こし》を|掛《か》け、ハアハアと|息《いき》をはづませ|居《ゐ》る。|一行《いつかう》はこれに|倣《なら》ひて、|萱草《かやぐさ》の|上《うへ》にどつかと|腰《こし》を|下《おろ》し、|荒《あら》き|鼻息《はないき》を|止《と》めむとして|居《ゐ》る。
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|行《ゆ》けど|行《ゆ》けど|果《はて》しも|知《し》らぬ|此《この》|山《やま》は
|不思議《ふしぎ》なるかな|追々《おひおひ》|遠《とほ》のく
|魔《ま》の|山《やま》か|地獄《ぢごく》の|山《やま》か|知《し》らねども
|次第《しだい》に|遠《とほ》のくいぶかしの|山《やま》
|曲神《まがかみ》のまたもや|罠《わな》にかかりしか
|心《こころ》もとなきこの|山登《やまのぼ》り』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|若君《わかぎみ》の|仰《おほ》せ|宜《うべ》なり|此《この》|山《やま》は
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|棲処《すみか》なりせば
|怪《あや》しきは|此《この》|山登《やまのぼ》りいつまでも
|同《おな》じ|所《ところ》を|行《ゆ》きつ|戻《もど》りつ
まなかひは|眩《くら》みたるらし|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|焦《いら》てど|道《みち》|捗《はかど》らず』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『わが|眼《まなこ》こすりこすりてよく|見《み》れば
わが|身《み》の|位置《ゐち》は|少《すこ》しも|変《かは》らず
|籠《こも》り|樹《ぎ》のかげに|佇《たたず》み|足《あし》ばかり
われらは|動《うご》かし|居《ゐ》たりけむかも』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『|如何《いか》にしてわれ|登《のぼ》らむと|思《おも》へども
|曲津《まが》の|猛《たけ》びの|妨《さまた》げ|強《つよ》し
|皇神《すめかみ》のわれにたまひし|数歌《かずうた》を
うたひうたひて|登《のぼ》りたく|思《おも》ふ
|数歌《かずうた》にうたれて|逃《に》げし|鬼婆《おにばば》よ
これに|勝《まさ》りし|武器《ぶき》はあらじな』
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『さもあらむ|吾《われ》はこれより|言霊《ことたま》の
|天《あま》の|数歌《かずうた》うたひ|登《のぼ》らむ
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》
|八千万《やちよろづ》の|神《かみ》|守《まも》らせ|給《たま》へ
|言霊《ことたま》の|厳《いづ》の|力《ちから》に|助《たす》けられ
|登《のぼ》り|了《おほ》せむ|山《やま》の|頂《いただき》』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|籠《こも》り|樹《ぎ》の|梢《こずゑ》の|方《はう》より、
『アツハハハハハ
イツヒヒヒヒヒ
ウツフフフフフ
うつけ|者《もの》、|思《おも》ひ|知《し》りたか、|吾《われ》こそは|忍ケ丘《しのぶがをか》に|年《とし》|古《ふる》く|棲《す》みし|水奔鬼《すいほんき》の|司《つかさ》、|笑《わら》ひ|婆《ばば》アぞや、よくものめのめと|吾《わが》|棲処《すみか》へ|迷《まよ》ふてうせたな。もう|斯《か》くなればこつちのもの、てもさてもいぢらしいものだワイ。
イツヒヒヒヒヒ
|厳《いか》めしい|姿《すがた》|致《いた》して、|偉《えら》さうに|鬼《おに》を|征服《せいふく》するなどとは、をこがましや、あた|阿呆《あほ》らしや、とても|叶《かな》はずきつぱりと|降参《かうさん》|致《いた》すか、|首《くび》でも|吊《つ》つて|往生《わうじやう》するか、|返答《へんたふ》|如何《いか》に。
ウツフフフフフ
かねてわがたくみ|置《お》きたる|計略《けいりやく》の
|罠《わな》にかかりし|愚者《おろかもの》かな
さてもさても|憐《あは》れな|者《もの》よ|此《この》|餓鬼《がき》は
|火炎《くわえん》の|山《やま》の|露《つゆ》と|消《き》ゆべし
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》と|霊魂《たま》の|生命《いのち》をば
|共《とも》に|砕《くだ》きて|苦《くる》しめ|悩《なや》めむ
|今日《けふ》の|如《ごと》く|心地《ここち》よき|日《ひ》はなかるべし
|冬男《ふゆを》の|餓鬼《がき》の|恨《うら》み|晴《は》らせば』
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『どこまでもわれに|仇《あだ》なす|曲津見《まがつみ》を
|征討《きた》めでやむべき|大丈夫《ますらを》われは
かくならば|一歩《いつぽ》も|退《ひ》かじ|巌ケ根《いはがね》の
|神《かみ》の|司《つかさ》の|御子《みこ》にしあれば
|祖先《おやおや》の|恥《はぢ》と|思《おも》へば|一歩《ひとあし》も
|曲津《まが》の|棲処《すみか》は|退《しりぞ》かざらむ
|曲神《まがかみ》の|司《つかさ》と|言《い》へる|笑《わら》ひ|婆《ばば》
|譏《そし》り|婆《ばば》アを|征討《きた》めて|止《や》まむ』
|樹上《じゆじやう》より|怪《あや》しき|声《こゑ》|再《ふたた》び|聞《きこ》えて、
『ギヤツハハハハハ
|此《この》|方《はう》は|月見ケ丘《つきみがをか》にて、|其方《そち》たちを|悩《なや》めし|水奔鬼《すいほんき》の|司《つかさ》、|笑《わら》ひ|婆《ばば》アが|妹《いもうと》の|善事《よごと》|曲事《まがこと》|一切《いつさい》を|譏《そし》り|婆《ばば》アの|曲鬼様《まがおにさま》だ。しつかりと|耳《みみ》を|浚《さら》へて|聞《き》け。
もうかうなる|上《うへ》は|遁《のが》しはせぬ、|覚悟《かくご》|極《きは》めて|婆《ばば》アが|軍門《ぐんもん》に|降《くだ》れ。いづれ|保《たも》てぬ|此《この》|世《よ》の|生命《いのち》、|綺麗《きれい》さつぱり|此《この》|方《はう》に|奉《たてまつ》り、わが|幕下《ばくか》となつて|忠実《ちうじつ》に|悪《あく》を|働《はたら》け。それに|背《そむ》くとあれば|止《や》むを|得《え》ず、|汝《なんぢ》が|身体《からたま》|霊魂《みたま》を|捻《ひね》り|潰《つぶ》し、|踏《ふ》み|砕《くだ》き、|無限《むげん》の|憂目《うきめ》を|見《み》せて|呉《く》れむ、ワツハハハハハ、ワツハハハハハ』
と|砕《くだ》ける|如《ごと》き|婆《ばば》アの|声《こゑ》の|嫌《いや》らしさ、|身体《からだ》|一面《いちめん》に|粟《あは》を|生《しやう》ずるばかりなりける。
|秋男《あきを》は|不審《ふしん》の|念《ねん》|晴《は》れやらず、ふと|大空《おほぞら》を|仰《あふ》げば、|今《いま》まで|煌々《くわうくわう》たる|天津日《あまつひ》の|光《かげ》は|跡形《あとかた》もなく、|満天《まんてん》|黒雲《くろくも》|塞《ふさ》がり、|陰鬱《いんうつ》の|気《き》|四方《よも》を|鎖《とざ》し、|次々《つぎつぎ》|怪《あや》しき|物音《ものおと》|高《たか》まり|来《きた》る。
|一行《いつかう》|五人《ごにん》はここぞ|一生懸命《いつしやうけんめい》と、|力《ちから》|限《かぎ》りに|天《あま》の|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》しつつありける。
|曲神《まがかみ》のまたもや|罠《わな》に|陥《おちい》りて
あはれ|五人《ごにん》は|闇《やみ》に|包《つつ》まる
|悪神《あくがみ》の|計略《たくみ》は|深《ふか》し|七重《ななへ》|八重《やへ》
|黒雲《くろくも》の|幕《まく》|包《つつ》みて|攻《せ》め|来《く》る
|急坂《きふはん》を|登《のぼ》る|心地《ここち》し|樹《き》のかげの
|同《おな》じ|所《ところ》にうろつき|居《ゐ》たりし。
(昭和九・七・二八 旧六・一七 於関東別院南風閣 白石恵子謹録)
第一四章 |報哭婆《ほうこくばば》〔二〇一八〕
|火炎山《くわえんざん》の|頂上《ちやうじやう》に、|虎《とら》、|熊《くま》、|獅子《しし》、|狼《おほかみ》、|豹《へう》、|大蛇《をろち》|等《など》の|猛獣《まうじう》が、|火口《くわこう》の|周囲《しうゐ》に|棲息《せいそく》し、|何者《なにもの》にも|火種《ひだね》を|盗《ぬす》まれざるやうと、|日夜《にちや》|固《かた》く|守《まも》つてゐる。|若《も》し|此《この》|火種《ひだね》を|奪《うば》はれ、|葭原《よしはら》の|大原野《だいげんや》に|放《はな》たれることあらば、それこそ|一大事《いちだいじ》、|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》は|忽《たちま》ち|焼《や》き|殺《ころ》され、|全滅《ぜんめつ》の|憂目《うきめ》にあはむことを|恐《おそ》れ、|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》の|王《わう》は|協議《けふぎ》の|上《うへ》、|当番《たうばん》を|選《えら》びて|噴火口《ふんくわこう》の|周囲《しうゐ》を|固《かた》く|守《まも》り|居《ゐ》たりける。|秋男《あきを》は|此《この》|火種《ひだね》を|奪《うば》ひ|取《と》り、|山村原野《さんそんげんや》に|放火《はうくわ》して、|一斉《いつせい》に|葭原《よしはら》|全帯《ぜんたい》の|悪魔《あくま》の|巣窟《さうくつ》を|焼《や》き|尽《つく》さむと|計画《けいくわく》したりける。|然《しか》るに|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》どもの|前衛《ぜんゑい》を|務《つと》むる|譏《そし》り|婆《ばば》の|水奔鬼《すいほんき》は、|力《ちから》|限《かぎ》りにこれを|阻止《そし》すれども、|動《やや》もすれば|秋男《あきを》が|登山《とざん》するの|恐《おそ》れあり、|如何《いか》にもしてこれを|妨《さまた》げむと、|種々《しゆじゆ》|様々《さまざま》の|魔術《まじゆつ》をつくし、|暫時《ざんじ》の|間《ま》を|闇《やみ》の|幕《まく》に|包《つつ》みおきたるなり。|山上《さんじやう》の|火口《くわこう》の|周囲《まはり》には、|猛獣《まうじう》の|王首《くび》を|鳩《あつ》めて|山麓《さんろく》より|響《ひび》き|来《きた》る|言霊《ことたま》の|水火《いき》に|戦《をのの》きながら、|如何《いか》にもして|火取《ひとり》の|敵《てき》を|防《ふせ》がむやと、|協議《けふぎ》の|真最中《まつさいちう》のところへ、すたすたと|息《いき》をはづませ|登《のぼ》り|来《きた》りしは、|笑《わら》ひ|婆《ばば》ア、|譏《そし》り|婆《ばば》アの|二鬼《にき》である。
|虎王《とらわう》は|二鬼《にき》を|見《み》るより|慌《あわただ》しく|声《こゑ》をかけ、
『|山裾《やますそ》に|言霊《ことたま》ひびくは|何者《なにもの》ぞ
つぶさにかたれ|二《ふた》つの|婆《ばば》ども』
|熊《くま》の|王《わう》は、
『|汝等《なんぢら》は|何《なに》をためらふか|一刻《いつこく》も
|早《はや》くまことを|吾等《われら》に|伝《つた》へよ』
|笑《わら》ひ|婆《ばば》は、
『アハハハハ、イヒヒヒヒ
いけすかぬ|餓鬼《がき》ども|五《いつ》つあらはれて
この|山《やま》の|火《ひ》を|取《と》らむとするも
たましひのあらむ|限《かぎ》りの|力《ちから》もて
|吾《われ》は|今《いま》までふせぎゐたりき
わが|力《ちから》|最早《もはや》つきなむ|願《ねが》はくば
|君《きみ》の|力《ちから》を|吾《われ》にあたへよ』
|譏《そし》り|婆《ばば》は|歌《うた》ふ。
『イヒヒヒヒいらぬ|世話《せわ》やかす|餓鬼《がき》どもが
あらはれ|火炎《くわえん》の|山《やま》にのぼらむ
われも|亦《また》|力《ちから》かぎりに|防《ふせ》げども
|敵《てき》は|言霊《ことたま》の|武器《ぶき》を|持《も》つなり
|斯《か》くならば|君《きみ》の|力《ちから》をからむより
|外《ほか》に|手《て》だてはなしと|思《おも》へり』
|虎王《とらわう》は|歌《うた》ふ。
『その|方《はう》は|小刀細工《こがたなざいく》いたす|故《ゆゑ》に
もろくも|敵《てき》にくじかれにけむ
|言霊《ことたま》の|武器《ぶき》おそるるに|足《た》らざらむ
|魔術《まじゆつ》をつくして|向《むか》ひ|戦《たたか》へ
|魔心《まごころ》のひるまずあれば|言霊《ことたま》の
|剣《つるぎ》もいかで|恐《おそ》るべきかは』
|狼《おほかみ》の|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『|笑《わら》ひ|婆《ばば》ア|譏《そし》り|婆《ばば》アの|気《き》の|弱《よわ》さ
ききて|狼《おほかみ》あきれ|果《は》てたり
|闇《やみ》の|幕《まく》|汝《なんぢ》に|与《あた》へあるからは
|彼《かれ》がまなこをくらませ|亡《ほろ》ぼせ』
|笑《わら》ひ|婆《ばば》、
『アハハハハ|笑《わら》ひ|婆《ばば》アは|根《こん》かぎり
|力《ちから》の|限《かぎ》り|戦《たたか》ひしはや
|迷《まよ》はせど|穴《あな》に|落《おと》せど|言霊《ことたま》の
|剣《つるぎ》に|彼《かれ》はひるまざりける
|名《な》に|高《たか》き|笑《わら》ひ|婆《ばば》アのたくらみも
|今《いま》や|全《まつた》くやぶれはてたる
この|上《うへ》は|君《きみ》が|力《ちから》を|借《か》りるより
わが|生《い》くる|道《みち》|更《さら》になからむ』
|狼《おほかみ》の|王《わう》、
『|気《き》のきかぬ|二人婆《ふたりばば》アよ|狼《おほかみ》は
|今日《けふ》より|汝《なんぢ》に|暇《いとま》つかはす
くら|闇《やみ》の|常夜《とこよ》の|幕《まく》を|持《も》ちながら
へこたれ|悩《なや》みし|腰抜《こしぬ》けなるかな』
|獅子王《ししわう》は|歌《うた》ふ。
『|狼《おほかみ》の|君《きみ》よしばらく|待《ま》てよかし
|婆《ばば》アの|魔言《まこと》のふかきをさとりて
|斯《か》くならばわれ|等《ら》|一度《いちど》に|魔力《まぢから》を
あはせて|敵《てき》を|亡《ほろ》ぼさむかな
|熊《くま》も|来《こ》よ|虎《とら》|狼《おほかみ》も|従《したが》へよ
|山《やま》を|降《くだ》りて|敵《てき》に|向《むか》はむ
|言霊《ことたま》の|剣《つるぎ》の|光《ひかり》するどくも
われ|等《ら》は|牙《きば》もて|咬《か》み|殺《ころ》すべし』
|斯《か》く|山上《さんじやう》の|悪魔等《あくまたち》は|協議《けふぎ》を|凝《こ》らしてゐる。|麓《ふもと》の|樹蔭《こかげ》に|夢《ゆめ》よりさめたる|如《ごと》き|秋男《あきを》|一行《いつかう》は、|山頂《さんちやう》の|噴火《ふんくわ》するさまを|眺《なが》めながら、
『ああ|吾《われ》は|譏《そし》り|婆《ばば》アにはかられて
|樹《こ》かげに|夢《ゆめ》をみてゐたりけむ
|如何《いか》ならむ|艱《なや》みにあふもひるむまじ
|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》の|火《ひ》をとらざれば
|火《ひ》の|種《たね》をとられむことをおそれみて
|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》は|守《まも》りゐると|言《い》ふ
ともかくも|捨身《すてみ》となりて|堂々《だうだう》と
|曲津《まが》の|砦《とりで》に|押《お》し|寄《よ》せゆかむ
|火《ひ》の|種《たね》の|一《ひと》つありせば|山《やま》に|野《の》に
ひそむ|悪魔《あくま》の|棲処《すみか》を|焼《や》かむ』
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|情《なさけ》なや|譏《そし》り|婆《ばば》アのたくらみに
|大丈夫《ますらを》|吾《われ》はあざむかれける
|斯《か》くならば|最早《もはや》|覚悟《かくご》し|鬼婆《おにばば》の
|醜《しこ》のたくみを|退《しりぞ》けゆかむ
|国《くに》の|為《ため》に|心《こころ》をいらつわが|側《そば》に
|無心《むしん》の|桔梗《ききやう》は|安《やす》く|匂《にほ》へり
|天津空《あまつそら》|仰《あふ》ぎて|見《み》れば|天津日《あまつひ》は
うす|雲《ぐも》の|中《なか》に|輝《かがや》き|給《たま》へり』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|笑《わら》ひ|婆《ばば》|譏《そし》り|婆《ばば》アのさまたげを
うちはらひつつ|登《のぼ》りゆくべし
にくらしや|冬男《ふゆを》の|君《きみ》の|御生命《おんいのち》
とりたる|婆《ばば》アを|征討《きた》めでおくべき
この|婆《ばば》は|曲津神等《まがつかみら》のさきばしりを
つとむる|醜《しこ》の|曲《くせ》ものなるらむ』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|大空《おほぞら》はやや|曇《くも》れども|路《みち》の|辺《べ》の
|千草《ちぐさ》は|花《はな》をかざして|匂《にほ》へり
|一天《いつてん》はにはかに|曇《くも》り|太《ふと》き|雨《あめ》
|降《ふ》り|出《だ》しにけり|曲《まが》のたくみか』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|山上《さんじやう》の|猛獣連《まうじうれん》は|秋男《あきを》|一行《いつかう》の|登山《とざん》を|喰《く》ひ|止《と》めむとして、|雲《くも》を|呼《よ》び、|風《かぜ》を|起《おこ》し|大雨《たいう》を|降《ふ》らし、|雷《かみなり》を|使《つか》ひ、|忽《たちま》ち|天地《てんち》は|暗澹《あんたん》として|修羅道《しゆらだう》を|現出《げんしゆつ》したりける。
|梅《うめ》はこの|光景《くわうけい》を|眺《なが》めて、
『|頂《いただき》にすまへる|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくへび》の
すさびなるらむ|雨風《あめかぜ》しげし
|雷《いかづち》は|高《たか》く|轟《とどろ》き|風《かぜ》|荒《あ》れて
|山《やま》を|登《のぼ》らむ|手《て》だてさへなき
|斯《か》くならば|曲《まが》の|力《ちから》の|弱《よわ》るまで
|待《ま》ちて|登《のぼ》らむ|火炎《くわえん》の|山頂《さんちやう》』
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|又《また》してもこざかしきかな|曲神《まがかみ》は
|黒雲《くろくも》おこし|雨《あめ》を|降《ふ》らすも
|曲神《まがかみ》の|醜《しこ》の|材料《ざいれう》つくるまで
|心《こころ》|静《しづ》かに|樹《こ》かげに|待《ま》たむ』
|雷鳴《らいめい》|轟《とどろ》き|稲妻《いなづま》ひらめき、|山風《やまかぜ》|強《つよ》く|吹《ふ》き|荒《すさ》び、|大雨《たいう》|沛然《はいぜん》として|降《ふ》りしきり、|樹下《じゆか》の|宿《やど》りも|雨洩《あまも》りの|為《ため》に、|皮衣《かはごろも》もびしよ|濡《ぬ》れとなり、|大《おほ》いに|苦《くる》しみたれど、|五人《ごにん》の|大丈夫《ますらを》は|少《すこ》しもひるまず、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》して|時《とき》の|過《す》ぐるを|待《ま》ち|居《ゐ》たり。|天地《てんち》の|闇《やみ》を|縫《ぬ》ふてひらめく|稲妻《いなづま》の|間《あひだ》より、|鬼婆《おにばば》の|影《かげ》ちらりちらりと|現《あら》はるるさま、|一入《ひとしほ》いやらし。|樹《き》の|枝《えだ》|高《たか》く|怪《あや》しき|声《こゑ》|又《また》もや|聞《きこ》え|来《きた》る。
『ギヤハハハハ、|獅子王様《ししわうさま》の|力《ちから》を|借《か》り、あらはれ|来《きた》りし|鬼婆《おにばば》ぞや。この|笑《わら》ひ|婆《ばば》は|以前《いぜん》と|事変《ことかは》り、|獅子王《ししわう》、|熊王《くまわう》、|虎王《とらわう》、|狼王様《おほかみわうさま》|方々《かたがた》の|御力《おちから》を|拝借《はいしやく》|致《いた》してこれに|現《あら》はれしものなれば、|最早《もはや》、|汝等《なんぢら》の|言霊《ことたま》とやらにひるむべき。さあ、これよりは|汝等《なんぢら》の|返答《へんたふ》|次第《しだい》にて、|骨《ほね》を|砕《くだ》き、|肉《にく》を|削《そ》ぎ、|血《ち》をしぼり、|獅子王様《ししわうさま》のお|食事《しよくじ》に|奉《たてまつ》らむ。てもさても|面白《おもしろ》や|勇《いさ》ましや、イヒヒヒヒ、ウフフフフ、イヒヒヒヒ、オホホホホ|臆病者《おくびやうもの》、この|方《はう》の|言葉《ことば》を|聞《き》いて|胴《どう》ぶるひ|致《いた》してゐるが、さてもさてもいぢらしい|者《もの》だワイ。ギヤハハハハ、|此《この》|方《はう》は|汝《なんぢ》が|恐《おそ》るる|譏《そし》り|婆《ばば》ぞや。|今日《けふ》こそは|汝等《なんぢら》が|運《うん》の|尽《つ》き、|獅子王様《ししわうさま》の|力《ちから》に|依《よ》つて|生命《いのち》を|奪《うば》はるべし。じたばたしても、もう|敵《かな》ふまい。さあ|動《うご》くなら|動《うご》いてみよ。|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|金縛《かなしば》りの|術《じゆつ》にかけおきたれば|最早《もはや》びくとも|動《うご》けまい。さてもさても|心地《ここち》よやな、ギヤフフフフ、ヒウーードロドロドロ、この|方《はう》は|水奔鬼《すいほんき》の|譏《そし》り|婆《ばば》アの|幽霊《いうれい》ぞや。いやらしくはないか、いや、おそろしくはないかウフフフフ』
と|幾度《いくたび》となく|同《おな》じことのみ|繰返《くりかへ》す|鬼婆《おにばば》の|言葉《ことば》に、|秋男《あきを》は|胆力《たんりよく》を|据《す》ゑ、|再《ふたた》び|天地《てんち》を|拝《はい》し、|生言霊《いくことたま》を|奏上《そうじやう》するや、さしも|激《はげ》しかりし|雷鳴電光《らいめいでんくわう》|一時《いちじ》に|止《と》まり、|山風《やまかぜ》の|荒《すさ》びも、|降《ふ》る|雨《あめ》も、ぴたりと|止《と》まりて、|天地清明《てんちせいめい》、|空《そら》に|一点《いつてん》の|雲霧《くもきり》もなく、|地上《ちじやう》は|錦《にしき》の|莚《むしろ》を|敷《し》き|並《なら》べたる|如《ごと》く、|日月《じつげつ》|輝《かがや》き|渡《わた》り、|再《ふたた》び|元《もと》の|天地《てんち》の|光景《くわうけい》にかへりたるこそ|不思議《ふしぎ》なれ。
(昭和九・七・二八 旧六・一七 於関東別院南風閣 内崎照代謹録)
第一五章 |憤死《ふんし》〔二〇一九〕
|秋男《あきを》は|以前《いぜん》の|樹蔭《こかげ》に|立《た》ちて|此処《ここ》を|先途《せんど》と|生言霊《いくことたま》を|宣《の》る。
『|高天原《たかあまはら》に|現《あ》れませる
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|神言《みこと》もて
ア|声《ごゑ》の|言霊《ことたま》に|生《あ》れませる
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|神柱《かむばしら》
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》|国々《くにぐに》を
|経巡《へめぐ》り|給《たま》ひて|言霊《ことたま》の
|水火《いき》を|凝《こ》らして|神《かみ》を|生《う》み
|国土《くに》を|生《う》ませる|功績《いさをし》に
|大海原《おほうなばら》も|国土《くにつち》も
|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に|生《な》りましぬ
|中《なか》にも|広《ひろ》き|万里《まで》の|海《うみ》
|其《その》|真中《まんなか》に|浮《うか》びたる
|島々《しまじま》|数多《あまた》ある|中《なか》に
|別《わ》けて|広《ひろ》けき|葭《よし》の|島《しま》
|葭原国《よしはらぐに》は|主《ス》の|神《かみ》の
|貴《うづ》の|御水火《みいき》に|生《な》るものぞ
|山河草木《やまかはくさき》も|人草《ひとぐさ》も
|鳥《とり》|獣《けだもの》のはしまでも
|皆《みな》|主《ス》の|神《かみ》の|御水火《おんいき》に
|生《な》り|出《い》で|給《たま》ひし|御賜物《みたまもの》
この|食国《をすくに》に|安々《やすやす》と
|生《せい》を|享《う》けたる|現世《うつしよ》の
|人《ひと》のみならず|幽世《かくりよ》の
|身魂《みたま》ことごと|御恵《みめぐ》みを
|被《かかぶ》らぬもの|無《な》かるべし
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|遣《つか》はせし
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神言《みこと》もちて
|吾等《われら》の|父《ちち》の|巌ケ根《いはがね》は
|水上山《みなかみやま》の|聖場《せいぢやう》に
|貴《うづ》の|館《やかた》を|構《かま》へまし
|予讃《よさ》の|国原《くにはら》|悉《ことごと》く
|治《しろ》し|食《め》すべき|司《つかさ》なり
|吾《われ》は|巌ケ根《いはがね》|第三子《だいさんし》
|秋男《あきを》と|名《な》づくる|国津神《くにつかみ》よ
|尾《を》の|上《へ》に|潜《ひそ》む|獅子《しし》|熊《くま》も
|虎《とら》|狼《おほかみ》も|毒蛇《どくへび》も
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アも|悉《ことごと》く
|父《ちち》の|命《みこと》の|配下《はいか》ぞや
|吾《わが》|言霊《ことたま》にもしやもし
|敵対《てきた》ひ|来《きた》る|事《こと》あらば
|此《この》|世《よ》は|愚《おろ》か|幽世《かくりよ》の
|何処《いづく》の|果《はて》にも|棲処《すみか》をば
|絶対的《ぜつたいてき》に|許《ゆる》すまじ
|汝《なんぢ》|曲津見《まがつみ》|曲鬼《まがおに》よ
|吾《わが》|打出《うちいだ》す|言霊《ことたま》に
|耳《みみ》を|傾《かたむ》け|目《め》を|開《ひら》き
|心《こころ》の|雲霧《くもきり》|打《う》ち|払《はら》ひ
|誠《まこと》の|心《こころ》に|立帰《たちかへ》り
|神《かみ》に|従《したが》ひ|奉《まつ》るべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|大神《おほかみ》の
|大御心《おほみこころ》を|心《こころ》とし
|茲《ここ》に|秋男《あきを》は|慎《つつし》みて
|汝等《なれら》が|為《ため》に|宣《の》り|伝《つた》ふ
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》|八千万《やちよろづ》の|神《かみ》
|守《まも》り|給《たま》へ|幸《さちは》へ|給《たま》へ
|吾《わが》|言霊《ことたま》に|力《ちから》あれ
|吾《わが》|言霊《ことたま》に|光《ひかり》あれ』
と|声《こゑ》も|爽《さはや》かに|歌《うた》ふ。|曲神《まがかみ》もこの|言霊《ことたま》に|心《こころ》|和《やは》らぎたるか、|山腹《さんぷく》の|女郎花《をみなへし》を|揺《ゆる》がせて|香《かん》ばしき|風《かぜ》|心地《ここち》よく|吹《ふ》き|通《とほ》り、|梢《こずゑ》に|囀《さへづ》る|迦陵頻伽《かりようびんが》の|声《こゑ》|一入《ひとしほ》|清《すが》しく、|小草《をぐさ》にすだく|虫《むし》の|音《ね》もいと|美《うるは》しく|啼《な》きにける。
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『ありがたし|秋男《あきを》の|君《きみ》の|言霊《ことたま》に
|天地《あめつち》|開《ひら》く|心地《ここち》するなり
|掛巻《かけまく》も|畏《かしこ》し|厳《いづ》の|言霊《ことたま》に
|吾《わが》|魂《たましひ》もいきり|立《た》つなり
|栄《さか》えある|君《きみ》の|言霊《ことたま》|清《すが》しけれ
|曲津《まが》も|必《かなら》ず|服従《まつろ》ひ|来《きた》らむ』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|大空《おほぞら》を|包《つつ》みし|黒雲《くろくも》|散《ち》り|失《う》せて
|月日《つきひ》は|空《そら》に|澄《す》み|渡《わた》りけり
|吾《わが》|君《きみ》の|宣《の》らす|言霊《ことたま》|幸《さち》はひて
|葭原《よしはら》を|吹《ふ》く|風《かぜ》は|凪《な》ぎたり
|何《なん》となく|心《こころ》|清《すが》しくなりにきて
|吾《わが》|行先《ゆくさき》の|幸《さち》を|思《おも》ふも
|音《おと》に|聞《き》く|火炎《くわえん》の|山《やま》は|峻《さか》しけれど
|言霊《ことたま》|宣《の》れば|安《やす》く|登《のぼ》れむ
|頂《いただき》に|猛《たけ》き|獣《けもの》が|屯《たむろ》して
|火種《ひだね》を|守《まも》ると|吾《われ》は|聞《き》きけり
|笑《わら》ひ|婆《ばば》、|譏《そし》り|婆《ばば》アのいたづらも
|野辺《のべ》|吹《ふ》く|風《かぜ》となりにけるかな
|先《さき》の|夜《よ》に|月見ケ丘《つきみがをか》に|荒《すさ》みたる
|婆《ばば》アはあはれ|影《かげ》|隠《かく》しける』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|高《たか》らかに|宣《の》らせる|厳《いづ》の|言霊《ことたま》に
|天地《あめつち》|四方《よも》の|雲霧《くもきり》|晴《は》れ|行《ゆ》く
|千早振《ちはやぶ》る|神《かみ》の|伊吹《いぶき》の|言霊《ことたま》は
|此《この》|世《よ》を|洗《あら》ふ|力《ちから》なりけり
|世《よ》の|中《なか》に|生言霊《いくことたま》をおいて|外《ほか》に
|尊《たふと》きものはあらじと|思《おも》ふ
|山《やま》に|野《の》に|平和《へいわ》の|風《かぜ》の|吹《ふ》き|起《おこ》り
|花《はな》|咲《さ》き|実《みの》るも|言霊《ことたま》の|幸《さち》
|斯《か》くまでも|尊《たふと》き|君《きみ》と|知《し》らざりき
|秋男《あきを》の|神《かみ》の|生《い》ける|言霊《ことたま》よ』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『|種々《くさぐさ》の|艱《なや》みに|遇《あ》ひて|吾々《われわれ》は
|生言霊《いくことたま》の|力《ちから》|覚《さと》りぬ
|幾万《いくまん》の|敵《てき》|現《あら》はるも|恐《おそ》れざらむ
|君《きみ》が|言霊《ことたま》|清《きよ》く|響《ひび》けば
アオウエイ|五大父音《ごだいふおん》の|功績《いさをし》に
|此《この》|天地《あめつち》は|生《な》り|出《い》でしと|聞《き》く
|今《いま》となりて|神《かみ》の|力《ちから》の|尊《たふと》さを
|覚《さと》りけるかな|愚《おろか》なる|吾《われ》は
|草枕《くさまくら》|旅《たび》を|重《かさ》ねて|山裾《やますそ》の
|茂樹《しげき》の|蔭《かげ》に|道《みち》を|覚《さと》りぬ
|水奔鬼《すいほんき》|如何《いか》にたくむも|何《なに》かあらむ
|言霊剣《ことたまつるぎ》|帯《お》ぶる|吾《わが》|身《み》は
|吾《わが》|帯《お》ぶる|言霊剣《ことたまつるぎ》は|錆《さ》びぬれど
|君《きみ》は|鋭《するど》き|力《ちから》|持《も》たせり』
|茲《ここ》に|秋男《あきを》は|意《い》を|決《けつ》し、|生言霊《いくことたま》の|功《いさを》の|尊《たふと》さに|力《ちから》を|得《え》、|自《みづか》ら|先頭《せんとう》に|立《た》ちて、|壁立《かべた》つ|山肌《やまはだ》を|右《みぎ》に|左《ひだり》に|伝《つた》ひながら|歌《うた》ひつつ|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
『|火炎《くわえん》の|山《やま》は|峻《さか》しとも
|百草千草《ももくさちぐさ》|吾《わが》|行《ゆ》く|手《て》
うづめ|塞《ふさ》ぎて|妨《さまた》ぐる
|此《この》|山路《やまみち》も|何《なに》かあらむ
|生言霊《いくことたま》の|剣《つるぎ》もて
|右《みぎ》に|左《ひだり》に|斬《き》りなびけ
|行《ゆ》く|手《て》を|清《きよ》めて|登《のぼ》るべし
|此《こ》の|頂《いただき》の|火口《くわこう》には
|獅子王《ししわう》、|熊王《くまわう》、|虎王《とらわう》や
|狼《おほかみ》、|大蛇《をろち》|集《あつ》まりて
|昼夜《ちうや》に|守《まも》り|居《ゐ》ると|聞《き》く
|如何《いか》なる|猛《たけ》き|獣《けだもの》も
|神《かみ》の|賜《たま》ひし|言霊《ことたま》の
|剣《つるぎ》にかけて|服従《まつろ》はし
|神《かみ》の|経綸《しぐみ》の|火《ひ》の|種《たね》を
|奪《うば》ひ|帰《かへ》らで|置《お》くべきや
|此《こ》の|山路《やまみち》は|峻《さか》しくて
|行《ゆ》き|艱《なや》めども|真心《まごころ》の
|限《かぎ》りを|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し
|神《かみ》の|御為《おんため》|世《よ》の|為《ため》に
|進《すす》む|吾等《われら》にさやるべき
|如何《いか》なる|曲津《まが》もあるべきや
|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》よ|桜《さくら》ども
|心《こころ》|勇《いさ》みて|従《したが》ひ|来《きた》れ
|一度《いちど》は|不覚《ふかく》はとりつれど
|生言霊《いくことたま》の|力《ちから》をば
|覚《さと》り|切《き》りたる|吾《わが》|身魂《みたま》
|最早《もはや》|恐《おそ》るる|事《こと》もなし
ああ|勇《いさ》ましや|面白《おもしろ》や
|魔神《まがみ》の|集《つど》ふ|巣窟《さうくつ》に
|言霊剣《ことたまつるぎ》|抜《ぬ》きつれて
|吾《われ》はすくすく|進《すす》むなり。
|岩根《いはね》|木根《きね》|踏《ふ》みさくみつつ|登《のぼ》り|行《ゆ》く
|火炎《くわえん》の|山《やま》は|清《すが》しくもあるかな
|見下《みおろ》せば|山《やま》の|麓《ふもと》に|白雲《しらくも》は
|豊《ゆた》かに|遊《あそ》びて|風《かぜ》にゆるげり
|白雲《しらくも》の|空《そら》に|聳《そび》えし|此《この》|山《やま》に
|登《のぼ》りて|四方《よも》の|国形《くにがた》|見《み》むかな
|久方《ひさかた》の|春《はる》の|御空《みそら》にぼんやりと
|霞《かす》むは|高光山《たかみつやま》の|姿《すがた》か
|高光《たかみつ》の|山《やま》は|尊《たふと》し|御樋代《みひしろ》の
|神《かみ》の|坐《ま》します|聖場《せいぢやう》なりせば
|朝霧比女《あさぎりひめ》|永遠《とは》に|坐《ま》します|高光《たかみつ》の
|山《やま》の|姿《すがた》のおごそかなるかも
|今《いま》|暫《しば》し|進《すす》めば|頂上《いただき》に|達《たつ》すべし
|暫《しば》しを|此処《ここ》に|息《いき》|休《やす》まさむ』
と|歌《うた》ひつつ|路《みち》の|辺《べ》の|萱草《かやくさ》を|打敷《うちし》き、どつかと|臀《しり》を|下《おろ》し、|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》、|桜《さくら》も、ともに|眼下《がんか》の|四方《よも》を|見渡《みわた》しながら|各自《おのもおのも》に|歌《うた》ふ。
|松《まつ》は|歌《うた》ふ。
『|麓辺《ふもとべ》は|百樹《ももき》|茂《しげ》らひこの|辺《あた》り
|萱草《かやくさ》ばかり|生《お》ひにけるかな
|雲《くも》を|抜《ぬ》くこの|高山《たかやま》に|登《のぼ》り|見《み》れば
|吾《わが》|息《いき》さへも|苦《くる》しかりけり
|葭原《よしはら》の|国原《くにはら》ことごと|白雲《しらくも》に
|包《つつ》まれさながら|海原《うなばら》の|如《ごと》し
ぼんやりと|彼方《かなた》の|空《そら》に|峙《そばだ》てる
|高光山《たかみつやま》を|見《み》れば|尊《たふと》し
|自《おのづか》ら|尊《たふと》さの|湧《わ》く|山《やま》なれや
|御樋代神《みひしろがみ》の|御舎《みあらか》として』
|竹《たけ》は|歌《うた》ふ。
『|吹《ふ》く|風《かぜ》もいと|冷《ひ》え|冷《び》えと|身《み》にしみて
|身《み》は|軽々《かろがろ》となりし|心地《ここち》す
|若君《わかぎみ》の|後《あと》に|従《したが》ひ|登《のぼ》り|見《み》れば
|早《はや》|虫《むし》の|音《ね》も|聞《きこ》えずなりぬ
|火炎山《くわえんざん》の|此処《ここ》は|漸《やうや》く|七合目《しちがふめ》よ
されど|鳥《とり》の|音《ね》|虫《むし》の|音《ね》もなし
|尾花《をばな》|野《の》に|風《かぜ》に|靡《なび》きて|其《その》|他《ほか》の
|草木《くさき》なければ|花《はな》の|香《か》もなし』
|梅《うめ》は|歌《うた》ふ。
『|曲神《まがかみ》の|集《つど》ふ|山《やま》とは|見《み》えぬまで
|眺《なが》めよろしき|聖所《すがど》なりけり
|曲神《まがかみ》は|白雲《しらくも》の|線《せん》を|限《かぎ》りにて
|麓《ふもと》に|群《むら》がり|棲《す》めるなるらむ
|見《み》の|限《かぎ》り|葭草《よしぐさ》|茂《しげ》る|原野《はらの》なり
|水上《みなかみ》の|山《やま》は|雲《くも》の|上《へ》に|浮《う》く
みはるかす|水上山《みなかみやま》の|頂《いただき》に
います|巌ケ根司《いはがねつかさ》|恋《こひ》しき
|種々《くさぐさ》の|曲《まが》の|艱《なや》みに|遇《あ》ひながら
|漸《やうや》く|此処《ここ》に|登《のぼ》り|来《き》つるも
|山風《やまかぜ》は|足《あし》の|下《した》より|吹《ふ》き|来《きた》る
|思《おも》へば|高《たか》き|山《やま》にもあるかな
|獅子《しし》|熊《くま》や|虎《とら》|狼《おほかみ》や|大蛇《をろち》まで
|棲《す》む|此《こ》の|山《やま》は|火炎《くわえん》|吐《は》くなり
|夜《よる》されば|焔《ほのほ》の|光《ひかり》|百里余《ひやくりよ》の
|野辺《のべ》を|照《て》らすと|聞《き》くも|凄《すさ》まじ
|若君《わかぎみ》に|従《したが》ひ|奉《まつ》り|国《くに》の|為《ため》に
|火種《ひだね》を|取《と》りて|山《やま》|降《くだ》らばや』
|桜《さくら》は|歌《うた》ふ。
『|言霊《ことたま》の|剣《つるぎ》あれども|心《こころ》せよ
|曲津《まがつ》の|備《そな》へ|厳《きび》しくありせば
|曲津見《まがつみ》は|最後《さいご》の|備《そな》へを|構《かま》へつつ
|吾《われ》きためむと|待《ま》てるなるべし
|魂《たましひ》に|力《ちから》をこめて|登《のぼ》るべし
|曲津《まがつ》の|棲処《すみか》|早《はや》|近《ちか》ければ』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|山上《さんじやう》より|忽《たちま》ち|大岩石《だいがんせき》の|雨《あめ》、|百雷《ひやくらい》の|落《お》ち|来《きた》る|如《ごと》き|音響《おんきやう》を|立《た》てて、|五人《ごにん》が|身辺《しんぺん》に|下《くだ》り|来《きた》る|其《その》|危険《きけん》さ、|譬《たと》ふるものなし。|五人《ごにん》は|此処《ここ》を|先途《せんど》と|岩《いは》の|雨《あめ》を|潜《くぐ》り、|辛《から》うじて|頂上《ちやうじやう》に|達《たつ》しければ、|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》は|強敵《きやうてき》こそ|御座《ござ》むなれと、|目《め》を|怒《いか》らせ|牙《きば》をとぎ、|大口《おほぐち》|開《あ》けて|咆哮《はうかう》|怒号《どがう》しながら、|五人《ごにん》に|向《むか》つて|噛《か》みつき|来《きた》る。|五人《ごにん》の|勇者《ゆうしや》は、|何《なに》|猪口才《ちよこざい》な、|如何《いか》なる|曲津《まがつ》の|妨《さまた》ぐるとも、|火種《ひだね》を|取《と》らねば|置《お》くべきかと、|驀地《まつしぐら》に|燃《も》ゆる|火《ひ》の|傍《そば》に|近寄《ちかよ》りたるを|見《み》すましたる|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》の|群《むれ》は、|生命《いのち》|限《かぎ》りに|襲《おそ》ひ|来《き》たり、|五人《ごにん》の|勇者《ゆうしや》を|口《くち》にくはへて|各自《おのもおのも》に|振《ふ》り|廻《まは》し、|忽《たちま》ち|火口《くわこう》に|投《とう》じ、|凱歌《がいか》を|挙《あ》げて|唸《うな》り|嘯《うそぶ》く|声《こゑ》は、|百雷《ひやくらい》の|一《ひと》つになりて|轟《とどろ》くが|如《ごと》し。|斯《か》くしてあはれ|五人《ごにん》の|勇者《ゆうしや》は、|猛烈《まうれつ》なる|火《ひ》に|焼《や》かれ、|白骨《はつこつ》となりて|火焔《くわえん》の|息《いき》に|翻弄《ほんろう》され、|高《たか》く|天《てん》に|舞《ま》ひ|上《あが》り|再《ふたた》び|地上《ちじやう》に|落《お》ち|来《きた》りけり。
(昭和九・七・二八 旧六・一七 於関東別院南風閣 森良仁謹録)
第三篇 |天地変遷《てんちへんせん》
第一六章 |火《ひ》の|湖《みづうみ》〔二〇二〇〕
|秋男《あきを》を|始《はじ》め、|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》、|桜《さくら》の|一行《いつかう》|五人《ごにん》が、|猛獣《まうじう》の|主共《ぬしども》に|銜《くは》へられ、|火炎山《くわえんざん》の|大噴火口《だいふんくわこう》に|投《な》げ|込《こ》まれ、|身体《からだ》は|白骨《はつこつ》となりて|中空《ちうくう》|高《たか》く|昇《のぼ》り、|再《ふたた》び|山上《さんじやう》に|落下《らくか》したるが、|稍《やや》|半時《はんとき》|許《ばか》り|経《へ》て、|火炎山《くわえんざん》は|忽《たちま》ち|大鳴動《だいめいどう》を|始《はじ》め、|前後《ぜんご》|左右《さいう》|上下《じやうげ》に|震動《しんどう》し、|遂《つひ》には|大爆発《だいばくはつ》して、|見《み》る|見《み》るさしもに|高《たか》き|山影《やまかげ》は|跡形《あとかた》もなく|大湖水《だいこすい》と|変化《へんくわ》し、|猛獣《まうじう》、|毒蛇《どくじや》、|水奔鬼《すいほんき》の|大部分《だいぶぶん》は|全滅《ぜんめつ》の|厄《やく》に|遇《あ》ひて、その|中央《ちうあう》に|小《ちひ》さき|小島《こじま》を|残《のこ》すのみとはなりぬ。この|小島《こじま》に|救《すく》はれたる|精霊《せいれい》は、|秋男《あきを》|一行《いつかう》を|始《はじ》め、|朝霧《あさぎり》、|夕霧《ゆふぎり》、|秋風《あきかぜ》、|野分《のわき》、|秋雨《あきさめ》|及《およ》び|僅少《きんせう》なる|水奔鬼《すいほんき》|及《およ》び|猛獣《まうじう》、|毒蛇《どくじや》の|小部分《せうぶぶん》なりけり。
ここに|秋男《あきを》は|此《この》|島《しま》の|精霊界《せいれいかい》の|主《ぬし》となりけるが、|未《いま》だ|肉体《にくたい》を|有《いう》する|猛獣《まうじう》、|毒蛇《どくじや》の|残《のこ》れるを|如何《いか》にもして|全滅《ぜんめつ》し、ここに|精霊《せいれい》の|安全地帯《あんぜんちたい》を|造《つく》らむと、|八方《はつぽう》|辛苦《しんく》を|重《かさ》ね|居《ゐ》たりける。|然《しか》りと|雖《いへど》も|秋男《あきを》は|最早《もはや》|精霊《せいれい》なれば、|肉体《にくたい》を|持《も》つ|猛獣《まうじう》、|毒蛇《どくじや》に|対抗《たいかう》すべき|力《ちから》なく、|只《ただ》|天地神明《てんちしんめい》に|祈願《きぐわん》し、|救《すく》ひの|神《かみ》の|御降臨《ごかうりん》を|待《ま》つより|外《ほか》すべもなかりける。
|扨《さ》て|高光山《たかみつやま》に|天降《あも》りませる|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》、|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》、|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》、|国生男《くにうみを》の|神《かみ》、|子心比女《こごころひめ》の|神《かみ》は、|高光山《たかみつやま》の|頂《いただき》なる|巌窟《がんくつ》の|宝座《ほうざ》に|集《あつま》り、|遥《はるか》の|西方《せいはう》に|当《あた》り|大爆音《だいばくおん》|聞《きこ》え、|火炎山《くわえんざん》の|天《てん》に|冲《ちう》する|火焔《くわえん》は、|跡形《あとかた》もなく|消《き》え|失《う》せ、|只《ただ》|黒雲《こくうん》の|漲《みなぎ》れるを|望見《ばうけん》し、|葭原《よしはら》の|国土《くに》の|一部《いちぶ》に|天変地異《てんぺんちい》のありたるを|憂《うれ》ひ|給《たま》ひながら、こと|議《はか》り|給《たま》ふ。|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
(註)|天祥地瑞《てんしやうちずゐ》の|物語中《ものがたりちう》、|神々《かみがみ》の|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふとあるは、|御言葉《みことば》の|意《い》なり。|神代《かみよ》は|現代人《げんだいじん》の|如《ごと》く|不成立《ふせいりつ》なる|言語《げんご》なく、|互《たがひ》に|天地《てんち》の|音律《おんりつ》に|合《あ》へる|三十一文字《みそひともじ》を|用《もち》ひ|給《たま》ひしが、|所謂《いはゆる》|今日《こんにち》の|和歌《わか》となれるものにして、|歌《うた》ひ|給《たま》ふと|言《い》ふは、|申《まう》し|給《たま》ふ|又《また》は|仰《おほ》せ|給《たま》ふ、|語《かた》り|給《たま》ふ、|宣《の》り|給《たま》ふの|意義《いぎ》と|知《し》るべし。|神代《かみよ》の|神《かみ》の|言葉《ことば》を、|現代人《げんだいじん》は|総《すべ》て|歌《うた》として|扱《あつか》へるを|知《し》るべし。
『|見渡《みわた》せば|火炎《くわえん》の|山《やま》は|天地《あめつち》を
|動《ゆる》がしにつつ|消《き》え|失《う》せにけり
|久方《ひさかた》の|空《そら》をなめたる|火《ひ》の|舌《した》も
|今《いま》は|全《まつた》く|見《み》えずなりけり
|葭原《よしはら》の|国土《くに》の|曲神《まがみ》を|言向《ことむ》くる
|恵《めぐみ》の|御火《みひ》は|消《き》え|失《う》せにけり
いかにしてこの|葭原《よしはら》を|治《し》らさむや
|神《かみ》の|宝《たから》の|御火《みひ》|消《き》えぬれば
|兎《と》に|角《かく》に|火炎《くわえん》の|山《やま》は|消《き》え|失《う》せぬ
|湖《うみ》となりしか|心《こころ》もとなや』
|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》も|亦《また》|火炎《くわえん》の|山《やま》の|爆発《ばくはつ》を
|思《おも》へば|心《こころ》|曇《くも》らひにけり
|葭草《よしぐさ》や|水奔草《すいほんさう》を|焼《や》き|払《はら》ふ
しぐみの|中《うち》に|火《ひ》は|消《き》えにけり
|葭原《よしはら》の|島《しま》のことごと|夜《よる》されば
|明《あか》るかりしを|今《いま》は|是非《ぜひ》なし
|濛々《もうもう》と|天《てん》に|黒雲《くろくも》ふさがりて
|火炎《くわえん》の|山《やま》は|見《み》えずなりけり
|曲津神《まがかみ》の|数多《あまた》|棲《す》まひし|山《やま》なれば
|御火《みひ》|取《と》る|業《わざ》をためらひ|居《を》りしに
ためらひてある|間《ま》に|御火《みひ》は|消《き》えにけり
この|国原《くにはら》を|如何《いか》に|治《をさ》めむ
|今日《けふ》よりは|御火《みひ》は|消《き》ゆれど|言霊《ことたま》の
|水火《いき》を|照《てら》して|世《よ》を|治《をさ》めませ』
|御樋代神《みひしろがみ》は|歌《うた》ひ|給《たま》ふ。
『|汝《なれ》こそは|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》なれば
|闇《やみ》を|明《あか》せよ|生言霊《いくことたま》に
|曲津見《まがつみ》のその|大方《おほかた》は|天地《あめつち》の
|変異《へんい》に|失《う》すれど|火《ひ》なきが|惜《を》しき』
|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|公《きみ》の|御言葉《みことば》|畏《かしこ》み|今日《けふ》よりは
|溪《たに》に|降《くだ》りて|禊《みそぎ》なすべし
|吾《わが》|禊《みそぎ》|神《かみ》の|心《こころ》にかなふまで
|力《ちから》|限《かぎ》りに|務《つと》めはげまむ』
|御樋代神《みひしろがみ》は|歌《うた》ひ|給《たま》ふ。
『|公《きみ》が|歌《うた》|聞《き》きて|吾《わが》|魂《たま》|蘇《よみがへ》り
|天地《あめつち》|開《ひら》けし|心地《ここち》するかも』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|葭原《よしはら》の|国土《くに》にも|高《たか》きこの|山《やま》ゆ
|国形《くにがた》|見《み》れば|火《ひ》の|山《やま》|嶮《さか》き
|嶮《さか》しかりし|火炎《くわえん》の|山《やま》は|忽《たちま》ちに
|湖《うみ》となりしか|姿《すがた》|見《み》えなく
|曲津神《まがつかみ》|数多《あまた》|棲《す》まひしこの|山《やま》は
|神《かみ》の|経綸《しぐみ》か|消《き》え|去《さ》りにける
|兎《と》にもあれ|予讃《よさ》の|国原《くにはら》さやぐらむ
|許《ゆる》させ|給《たま》へば|吾《われ》|出《い》で|行《ゆ》かむ
|巌ケ根《いはがね》の|神《かみ》に|力《ちから》を|添《そ》へながら
|予讃《よさ》の|国原《くにはら》|蘇《よみがへ》らせむ』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》も|亦《また》|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》と|諸共《もろとも》に
|予讃《よさ》の|国原《くにはら》に|進《すす》みたく|思《おも》ふ
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》|許《ゆる》しませ|国生男《くにうみを》
|吾《わが》|願《ね》ぎごとを|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に
|葭原《よしはら》の|国土《くに》の|生《い》き|物《もの》|悉《ことごと》く
|悩《なや》みてあらむ|進《すす》ませ|給《たま》へ』
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ひ|給《たま》ふ。
『|国生男《くにうみを》|神《かみ》の|願《ねが》ひを|諾《うべな》ひて
|予讃《よさ》の|御国《みくに》の|為《ため》|遣《つか》はさむ
|大御照《おほみてらし》、|子心比女《こごころひめ》の|二柱《ふたはしら》は
|吾《わが》|右《みぎ》|左《ひだり》に|仕《つか》へ|奉《まつ》れよ
|朝空男《あさぞらを》、|国生男《くにうみを》の|神《かみ》|鳥船《とりふね》を
|早《はや》く|造《つく》りて|進《すす》み|出《い》でませ』
|斯《か》く|歌《うた》ひて|奥殿《おくでん》|深《ふか》く|入《い》らせ|給《たま》ひ、|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》と|子心比女《こごころひめ》の|神《かみ》は、|巌窟《がんくつ》の|口《くち》の|間《ま》に|控《ひか》へて|国形《くにがた》を|看守《みまも》り|給《たま》ふ|事《こと》となり、|朝空男《あさぞらを》、|国生男《くにうみを》の|二柱《ふたはしら》は|大峡小峡《おほがひをがひ》の|木《き》を|伐《き》り、|天《あま》の|鳥船《とりふね》を|七日七夜《なぬかななよ》の|日数《ひかず》を|重《かさ》ねて|漸《やうや》くに|造《つく》り|上《あ》げ|給《たま》ひ、|両神《りやうしん》はこの|鳥船《とりふね》に|乗《の》りて|中空《ちうくう》に|翼《つばさ》をうちながら、|予讃《よさ》の|国原《くにはら》さして|進《すす》ませ|給《たま》ふ。
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|鳥船《とりふね》に|身《み》をまかせながら、|中空《ちうくう》を|翔《か》けりつつ|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|七日七夜《なぬかななよ》を|寝《ね》もやらず
|国生男神《くにうみをがみ》と|諸共《もろとも》に
|大峡小峡《おほがひをがひ》の|木《き》を|伐《き》りて
|目出度《めでた》くここに|鳥船《とりふね》を
|造《つく》り|終《を》へたる|嬉《うれ》しさよ
|吾《われ》は|空《そら》ゆく|鳥《とり》なれや
|下界《げかい》を|遥《はる》かに|見下《みおろ》せば
|葭原《よしはら》の|国土《くに》|広々《ひろびろ》と
あなたこなたに|山《やま》の|尾《を》は
|霧《きり》の|面《おもて》に|浮《うか》びゐる
|下界《げかい》はたしかに|見《み》えねども
|霧《きり》の|海原《うなばら》|底《そこ》|深《ふか》く
|百《もも》の|人草《ひとぐさ》|鬼《おに》|大蛇《をろち》
|虫《むし》|獣《けだもの》も|草《くさ》も|木《き》も
|火炎《くわえん》の|山《やま》の|爆発《ばくはつ》に
|悩《なや》みくるしみをののきて
|生《い》きたる|心地《ここち》もなかるらむ
|火炎《くわえん》の|山《やま》は|遠《とほ》くとも
|御空《みそら》を|走《はし》る|鳥船《とりふね》の
|早《はや》き|翼《つばさ》に|進《すす》みなば
|一日《ひとひ》の|中《うち》に|到《いた》るべし
|御樋代神《みひしろがみ》の|天降《あも》らしし
|天《あめ》の|八重雲《やへくも》に|比《くら》ぶれば
|地上《ちじやう》に|落《お》つる|憂《うれ》ひなく
|安全《あんぜん》|無事《ぶじ》の|空《そら》の|旅《たび》
ああさりながらさりながら
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》に|翼《つばさ》をば
|折《を》られて|鳥船《とりふね》|逆《さかさま》に
|地上《ちじやう》に|落《お》つる|事《こと》もがな
|行手《ゆくて》は|遠《とほ》し|雲《くも》の|上《うへ》
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御恵《みめぐみ》に
|安《やす》く|平穏《おだひ》に|進《すす》ませ|給《たま》へ
|心安《うらやす》らかに|進《すす》ませ|給《たま》へ
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》|八千万《やちよろづ》
|天津神等《あまつかみたち》|国津神《くにつかみ》
|守《まも》らせ|給《たま》へと|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》は|国生男《くにうみを》の|神《かみ》よ
|遥《はる》かに|高《たか》き|雲《くも》の|上《うへ》
|西《にし》へ|西《にし》へと|進《すす》みゆく
この|鳥船《とりふね》は|鳳凰《ほうわう》か
|翼《つばさ》の|強《つよ》き|真鶴《まなづる》か
|心《こころ》の|空《そら》も|晴《は》れやかに
|国形《くにがた》|見《み》むと|進《すす》み|行《ゆ》く
|今日《けふ》の|旅《たび》こそ|楽《たの》しけれ
|御樋代神《みひしろがみ》の|神言《みこと》もて
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御稜威《おんみいづ》
|頸《うなじ》に|受《う》けて|進《すす》みゆく
|吾等《われら》に|御幸《みさち》あれよかし
|吾等《われら》に|光《ひか》りあれよかし
|遠《とほ》く|下界《げかい》を|見渡《みわた》せば
|黒雲《くろくも》|白雲《しらくも》|交々《こもごも》に
|地上《ちじやう》を|包《つつ》みて|草《くさ》も|木《き》も
|人《ひと》も|獣《けもの》も|見《み》え|分《わ》かず
|漂渺千里《へうべうせんり》の|海原《うなばら》を
|渡《わた》るが|如《ごと》き|心地《ここち》かな
|今《いま》まで|空《そら》を|照《てら》したる
|火炎《くわえん》の|山《やま》は|影《かげ》もなし
|目標《めじるし》さへもなき|空《そら》を
|進《すす》む|吾《われ》こそ|雄々《をを》しけれ
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|坐《ま》す|限《かぎ》り
|過《あやま》つことなく|進《すす》み|得《え》む
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|恩頼《みたまのふゆ》をたまへかし』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|鳥船《とりふね》より|歌《うた》ふ。
『|見下《みおろ》せば|黒雲《くろくも》|白雲《しらくも》|群《むらが》りて
|荒海原《あらうなばら》を|進《すす》むに|似《に》たり
|天《あめ》と|地《つち》の|中空《なかぞら》をゆく|鳥船《とりふね》の
とりつく|島《しま》も|見《み》えぬ|旅《たび》かな
|西《にし》|東《ひがし》|南《みなみ》も|北《きた》も|見《み》え|分《わ》かぬ
|空《そら》の|海《うみ》ゆく|鳥船《とりふね》あはれ
|吾《わが》|伊行《いゆ》く|空《そら》|高《たか》ければ|風《かぜ》もなく
|雨《あめ》は|下《した》より|降《ふ》り|上《あが》るなり
|地《ち》の|上《うへ》に|醜《しこ》の|曲事《まがこと》|現《あらは》れしか
|空《そら》のぼり|来《く》る|雲《くも》はにごれり』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|国津神《くにつかみ》|獣《けもの》の|歎《なげ》き|伝《つた》はるか
|雲《くも》に|怪《あや》しき|声《こゑ》のふくめる
|高《たか》き|声《こゑ》|集《あつま》る|方《かた》を|目的《めあて》にて
|下《くだ》り|着《つ》かむかこの|鳥船《とりふね》を
|宇宙間《うちうかん》|何物《なにもの》も|見《み》えず|只《ただ》|一《ひと》つ
|吾《わが》|鳥船《とりふね》のあるのみぞかし
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》のまします|高光《たかみつ》の
|山《やま》の|姿《すがた》も|見《み》えずなりけり
|主《ス》の|神《かみ》の|始《はじ》めて|宇宙《うちう》に|生《あ》れませる
|時《とき》もかくやと|偲《しの》ばるるかな
|葭原《よしはら》の|国土《くに》|広《ひろ》ければ|二夜《ふたよ》|三夜《みよ》
|走《はし》るも|万里《まで》の|海《うみ》には|到《いた》らず
|万里《まで》の|海《うみ》の|中《なか》にも|広《ひろ》き|葭原《よしはら》の
|国津御空《くにつみそら》の|定《さだ》まらぬかな』
|両神《りやうしん》は|空中《くうちう》を|歌《うた》ひながら、|予讃《よさ》の|国土《くに》の|空《そら》を|静《しづか》に|八重雲《やへくも》かき|分《わ》け|下《くだ》らせ|給《たま》へば、|笑《わら》ひ|婆《ばば》の|棲《す》み|居《ゐ》たりし|忍ケ丘《しのぶがをか》の|平地《へいち》に|鳥船《みふね》は|安々《やすやす》|着《つ》きにける。
|火炎山《くわえんざん》|一帯《いつたい》|約《やく》|百余里《ひやくより》の|地《ち》は|大湖水《だいこすゐ》と|化《くわ》したれども、|忍ケ丘《しのぶがをか》は|幸《さいは》ひその|圏外《けんぐわい》に|置《お》かれて、|約《やく》|一里《いちり》|近《ちか》くまで|湖水《こすゐ》は|展開《てんかい》し|居《ゐ》たりける。|二神《にしん》は|此《この》|丘《をか》に|下《お》り|立《た》ち、|天地《てんち》の|神霊《しんれい》に|向《むか》つて、|感謝《かんしや》の|言霊《ことたま》を|奏上《そうじやう》し|数歌《かずうた》をうたはせ|給《たま》ふ。
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|久方《ひさかた》の|朝《あした》の|空《そら》を|雄々《をを》しくも
|渡《わた》り|来《き》にけり|鳥船《とりふね》に|乗《の》りて
|雲《くも》|分《わ》けて|下《くだ》りて|見《み》れば|忍ケ丘《しのぶがをか》の
|思《おも》ひがけなき|休所《やすど》なりしよ
|新《あたら》しき|火炎《くわえん》の|湖《うみ》は|間近《まぢか》ければ
この|丘《をか》よりはたしに|見《み》ゆるも』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|煩《わづら》ひし|心《こころ》の|闇《やみ》も|明《あ》け|放《はな》れ
|吾《われ》|恙《つつが》なく|丘《をか》の|上《へ》に|降《お》りぬ
|見渡《みわた》せば|火炎《くわえん》の|湖《うみ》は|広々《ひろびろ》と
ほのかに|霧《きり》の|立昇《たちのぼ》る|見《み》ゆ
|今日《けふ》よりはこの|丘《をか》の|上《へ》に|家《いへ》|造《つく》り
|予讃《よさ》の|国土《くに》をば|生《い》かさむと|思《おも》ふ』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|笑《わら》ひ|婆《ばば》に|生命《いのち》を|奪《うば》はれし|精霊《せいれい》なる|国津神《くにつかみ》の|末子《ばつし》|冬男《ふゆを》は、|熊公《くまこう》、|虎公《とらこう》|及《およ》び|山《やま》、|川《かは》、|海《うみ》の|三女《さんぢよ》の|精霊《せいれい》も|共《とも》に、|恐《おそ》る|恐《おそ》る|出《い》で|来《きた》り、|微《かすか》の|声《こゑ》にて|両神《りやうしん》に|向《むか》ひ|感謝《かんしや》の|真心《まごころ》を|歌《うた》ふ。
|冬男《ふゆを》『|久方《ひさかた》の|天津御空《あまつみそら》ゆ|天降《あも》りましし
|二柱《ふたはしら》の|神《かみ》|尊《たふと》かりけり
|葭原《よしはら》の|予讃《よさ》の|御国《みくに》は|曲津神《まがつかみ》
|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ひて|騒《さわ》がしかりけり
|火炎山《くわえんざん》|爆発《ばくはつ》によりて|曲津神《まがかみ》の
その|大方《おほかた》は|亡《ほろ》び|失《う》せたり
|吾《われ》こそは|巌ケ根《いはがね》の|末子《ばつし》|冬男《ふゆを》なり
|今《いま》はこの|世《よ》の|者《もの》にあらねど
|水奔鬼《すいほんき》の|笑《わら》ひ|婆《ばば》アにはかられて
|現《うつつ》の|生命《いのち》を|奪《うば》はれし|吾《われ》
|御前《おんまへ》に|打《う》ち|伏《ふ》すこれの|友垣《ともがき》は
|皆《みな》|精霊《せいれい》となりにけらしな
|二柱《ふたはしら》|天降《あも》り|給《たま》ひし|今日《けふ》よりは
|精霊界《せいれいかい》も|安《やす》くあるべし』
|熊《くま》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》も|亦《また》|巌ケ根《いはがね》の|君《きみ》に|仕《つか》へたる
|下僕《しもべ》なれども|現身《うつそみ》はなし
|虎公《とらこう》もこの|三人《さんにん》の|乙女等《をとめら》も
みな|精霊《せいれい》よあはれみ|給《たま》へ』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『かねて|聞《き》く|水奔鬼《すいほんき》の|棲《す》む|里《さと》は
いづれにあるや|具《つぶさ》に|語《かた》らへ』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『|水奔鬼《すいほんき》の|司《つかさ》|笑《わら》ひの|婆《ば》アさんが
|棲《す》みにし|丘《をか》はここなりにけり
|吾々《われわれ》の|力《ちから》に|恐《おそ》れ|笑《わら》ひ|婆《ばば》は
|火炎《くわえん》の|山《やま》をさして|逃《に》げたり
|火炎山《くわえんざん》|湖水《こすゐ》となりし|上《うへ》からは
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アも|亡《ほろ》びしなるらむ』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》、
『|珍《めづら》しき|吾《われ》は|話《はなし》を|聞《き》きにけり
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アを|追《お》ひやりしとは
|精霊《せいれい》といへども|冬男《ふゆを》のたましひの
|強《つよ》き|力《ちから》に|吾《われ》はあきれし』
|山《やま》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》こそは|冬男《ふゆを》の|妻《つま》の|精霊《せいれい》よ
|守《まも》らせ|給《たま》へ|二柱《ふたはしら》の|神《かみ》
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|神言《みこと》に|天降《あも》りましし
|尊《たふと》き|神《かみ》に|会《あ》ふぞ|嬉《うれ》しき
|斯《か》くならば|葭原《よしはら》の|国土《くに》は|安《やす》からむ
|現界《げんかい》|神界《しんかい》|幽界《いうかい》なべて』
|川《かは》は|歌《うた》ふ。
『|水奔鬼《すいほんき》|笑《わら》ひ|婆《ばば》アの|謀計《たくらみ》に
みたまとなりし|川《かは》は|吾《われ》なり
|虎公《とらこう》の|精霊《せいれい》が|妻《つま》と|吾《われ》なりて
|忍ケ丘《しのぶがをか》に|年《とし》をふりけり
|二柱《ふたはしら》|尊《たふと》き|神《かみ》の|出《い》でましに
|精霊《せいれい》|吾《われ》は|蘇《よみがへ》りたり』
|海《うみ》は|歌《うた》ふ。
『|虎公《とらこう》が|精霊《せいれい》の|妻《つま》|吾《われ》は|海《うみ》
|尊《たふと》き|神《かみ》の|前《まへ》に|立《た》つかな
|今日《けふ》よりは|吾等《われら》を|憐《あは》れみ|給《たま》ひつつ
|曲津神等《まがつかみら》をきため|給《たま》はれ
|待《ま》ち|待《ま》ちし|御樋代神《みひしろがみ》の|御使《おんつか》ひ
|忍ケ丘《しのぶがをか》に|天降《あも》りましけり』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|吾等《われら》|二神《にしん》ここに|降《くだ》りし|上《うへ》からは
|心《こころ》|安《やす》かれ|永久《とは》に|守《まも》らむ』
|斯《か》く|互《たがひ》に|歌《うた》ひつつ、その|夜《よ》は|忍ケ丘《しのぶがをか》の|冬男《ふゆを》が|館《やかた》に|息《いき》を|休《やす》めける。
(昭和九・七・三〇 旧六・一九 於関東別院南風閣 谷前清子謹録)
第一七章 |水火垣《いきがき》〔二〇二一〕
|火炎山《くわえんざん》の|爆発《ばくはつ》により、|附近《ふきん》|百里《ひやくり》の|地《ち》は|全《まつた》く|湖水《こすい》となり、|湖水《こすい》は|熱湯《ねつたう》の|如《ごと》く|煮《に》えくり|返《かへ》り、|猛獣《まうじう》、|毒蛇《どくじや》、イヂチ|等《とう》の|毒虫《どくむし》も|大半《たいはん》|殲滅《せんめつ》の|厄《やく》に|遇《あ》ひけるが、|中《なか》にも|最《もつと》も|甲羅《かふら》の|強《つよ》く、|鱗《うろこ》の|堅《かた》き|爬虫族《はちうぞく》は、|湖水《こすい》の|岸辺《きしべ》に|集《あつま》り|来《きた》り、|汀辺《みぎはべ》の|水奔草《すいほんさう》や|葭草《よしぐさ》の|中《なか》にもぐり|込《こ》み、|一層《いつそう》|其《そ》の|害毒《がいどく》|甚《はなはだ》しくなりゆくこそ|歎《うた》てけれ。
|朝空男《あさぞらを》、|国生男《くにうみを》|二神《にしん》が|天降《あも》りたる|忍ケ丘《しのぶがをか》は、|陥落《かんらく》の|難《なん》は|免《まぬが》れたれども、|約《やく》|一里《いちり》|附近《ふきん》まで|湖水《こすい》の|展開《てんかい》せるより、あらゆる|曲津《まがつ》は|忍ケ丘《しのぶがをか》に|向《むか》つて、|幾百千《いくひやくせん》とも|限《かぎ》りなく|上《のぼ》り|来《きた》る|物凄《ものすご》さ、|名状《めいじやう》すべからず。
|冬男《ふゆを》、|熊公《くまこう》、|虎公《とらこう》、|山《やま》、|川《かは》、|海《うみ》の|精霊《せいれい》は、|忍ケ丘《しのぶがをか》のわが|住処《すみか》には|一歩《いつぽ》も|踏《ふ》み|入《い》れさせじと|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》し|戦《たたか》へども、|悲《かな》しきかな|精霊《せいれい》の|身《み》の|上《うへ》なれば、|形体《けいたい》を|持《も》てる|悪魔《あくま》の|襲来《しふらい》を|喰《く》ひ|止《と》むる|由《よし》もなく、|苦心《くしん》を|極《きは》め|居《ゐ》たりける。ここに、|天《あま》の|鳥船《とりふね》に|乗《の》りて|天降《あまくだ》りましたる|二柱《ふたはしら》の|神《かみ》の|神力《しんりき》に|力《ちから》を|得《え》て、|稍《やや》|落着《おちつ》きながら|御前《みまへ》に|恐《おそ》る|恐《おそ》る|進《すす》み|寄《よ》り、
『|火《ひ》の|湖《うみ》の|現《あらは》れしより|曲神《まがかみ》は
|処《ところ》|失《うしな》ひ|集《つど》ひ|来《こ》むとす
|二柱《ふたはしら》|神《かみ》の|天降《あも》りし|間《ま》もあらず
|曲津《まがつ》は|此処《ここ》に|押《お》し|寄《よ》せ|来《きた》る
|力《ちから》|限《かぎ》り|防《ふせ》げど|精霊《せいれい》わが|力《ちから》
|如何《いか》で|及《およ》ばむ|救《すく》はせ|給《たま》へ』
これを|聞《き》くより|二神《にしん》は|立《た》ち|上《あが》り、|忍ケ丘《しのぶがをか》の|常磐樹《ときはぎ》の|幹《みき》に|御身《おんみ》を|支《ささ》へながら、
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|葭原《よしはら》の|予讃《よさ》の|国原《くにはら》|治《をさ》むべく
|天降《あも》りしわれよ|心《こころ》|安《やす》かれ
|如何《いか》ならむ|曲鬼《まがおに》|大蛇《をろち》|押《お》しよすも
われはやらはむ|生言霊《いくことたま》に』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|朝夕《あさゆふ》に|神《かみ》と|力《ちから》を|一《ひと》つにし
|忍ケ丘《しのぶがをか》を|安《やす》く|守《まも》らむ』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『|有難《ありがた》し|二柱神《ふたはしらがみ》の|御宣言《みことのり》
|聞《き》きてわれらは|蘇《よみがへ》りぬる』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|汝等《なれたち》は|精霊《せいれい》なれどわが|宣《の》らむ
|生言霊《いくことたま》を|補《おぎな》ひまつれ』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『|御宣示《みことのり》|頸《うなじ》に|受《う》けて|力《ちから》|限《かぎ》り
われ|等《ら》は|宣《の》らむ|生言霊《いくことたま》を』
かかる|折《をり》しも、|阿鼻叫喚《あびけうくわん》の|声《こゑ》、|鬨《とき》の|声《こゑ》、|一時《いちじ》にドツと|起《おこ》り、|猛獣《まうじう》、|毒蛇《どくじや》、|水奔鬼《すいほんき》は|最《もつと》も|平安《へいあん》なる|棲処《すみか》として|忍ケ丘《しのぶがをか》の|麓《ふもと》に|集《あつま》り|来《きた》り、|咆哮《ほうかう》|怒号《どがう》するあり、のたうちまはるあり、|忍ケ丘《しのぶがをか》のまはりは|水奔鬼《すいほんき》の|矢叫《やさけび》の|声《こゑ》かしましく、|一斉《いつせい》に|上《のぼ》らむとせしも、|二神等《にしんら》の|生言霊《いくことたま》に|妨《さまた》げられて|上《のぼ》りあぐみたるぞ|面白《おもしろ》き。|二神《にしん》|及《およ》び|冬男《ふゆを》|以下《いか》の|精霊《せいれい》は、|交《かは》る|交《がは》る|生言霊《いくことたま》を|宣《の》る。
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|音吐《おんど》|朗々《らうらう》として|歌《うた》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》の|御水火《みいき》に|現《あ》れにし|言霊《ことたま》を
|国《くに》の|鎮《しづ》めと|清《きよ》けく|宣《の》らむ
アオウエイ|天地《あめつち》|処《ところ》を|変《か》ふるとも
ただに|鎮《しづ》めむ|貴《うづ》の|言霊《ことたま》に
|幾万《いくまん》の|曲神《まがかみ》|襲《おそ》ひ|来《きた》るとも
|斬《き》りて|放《はふ》らむ|言霊剣《ことたまつるぎ》に
|麗《うるは》しき|厳《いづ》の|言霊《ことたま》|幸《さち》はひて
この|国原《くにはら》の|曲《まが》|言向《ことむ》けむ
|炎々《えんえん》と|燃《も》えたちし|火口《くわこう》は|忽《たちま》ちに
|消《き》えて|湖水《こすい》となりにけらしな
|鬼《おに》|大蛇《をろち》たとへ|幾万《いくまん》|寄《よ》せ|来《く》とも
|恐《おそ》るべきかは|天津神《あまつかみ》われは
|火炎山《くわえんざん》|忽《たちま》ち|湖《うみ》となり|果《は》てぬ
|生言霊《いくことたま》の|幸《さち》はひによりて
|木《き》も|草《くさ》も|火《ひ》の|湖《みづうみ》の|底《そこ》|深《ふか》く
|沈《しづ》みけるかな|曲《まが》の|荒《すさ》びに
|国土《くに》|生《う》むと|天降《あも》り|来《きた》りしわれなれば
|鬼《おに》も|大蛇《をろち》も|物《もの》の|数《かず》かは
|汚《けが》れたるこの|国原《くにはら》も|言霊《ことたま》の
|水火《いき》|幸《さち》はひて|澄《す》み|渡《わた》るべし
|心《こころ》|悪《あ》しき|曲鬼《まがおに》どもの|身《み》の|果《は》ては
ありあり|見《み》えぬ|湖水《こすい》の|波《なみ》に
|冴《さ》え|渡《わた》る|月《つき》の|光《ひかり》も|見《み》えぬまで
|御空《みそら》|曇《くも》りぬ|曲津《まがつ》の|水火《いき》に
|白雲《しらくも》の|空《そら》を|渡《わた》りて|天降《あも》りてし
われ|天津神《あまつかみ》よ|曲等《まがら》|恐《おそ》れじ
|迫《せま》り|来《く》る|鬼《おに》や|大蛇《をろち》は|多《おほ》くとも
|忍ケ丘《しのぶがをか》には|光《ひか》る|玉《たま》あり
|譏《そし》り|婆《ばば》|笑《わら》ひ|婆《ばば》アの|水奔鬼《すいほんき》も
|今《いま》は|手向《てむか》ふ|力《ちから》|無《な》からむ
|高山《たかやま》の|火口《くわこう》は|忽《たちま》ち|湖《みづうみ》の
|底《そこ》に|沈《しづ》みて|湧《わ》きたつ|湯《ゆ》の|波《なみ》
|千早振《ちはやぶ》る|主《ス》の|大神《おほかみ》の|賜《たま》ひてし
|生言霊《いくことたま》に|刃向《はむか》ひ|得《え》むや
|月《つき》も|日《ひ》もかくれて|見《み》えぬ|葭原《よしはら》の
|国土《くに》を|照《て》らして|安《やす》く|治《をさ》めむ
|天《あめ》も|地《つち》もわが|言霊《ことたま》の|功績《いさをし》に
|晴《は》れゆく|力《ちから》を|曲《まが》は|知《し》らずや
|常闇《とこやみ》のこの|国原《くにはら》を|伊照《いて》らすと
|言霊鏡《ことたまかがみ》|持《も》ちて|天降《あも》りし』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|波《なみ》の|上《へ》をわが|見渡《みわた》せば|鬼《おに》|大蛇《をろち》
|溺《おぼ》るるさまの|浅《あさ》ましきかな
|煮《に》え|返《かへ》る|湖水《こすい》の|波《なみ》にもまれつつ
|大蛇《をろち》は|血《ち》を|吐《は》き|悶《もだ》え|居《ゐ》るかも
|奴婆玉《ぬばたま》の|闇《やみ》は|襲《おそ》へり|曲津見《まがつみ》の
|曲《まが》の|吐《は》く|息《いき》いや|重《かさ》なれば
|懇《ねもごろ》に|生言霊《いくことたま》を|宣《の》りつれど
|曲《まが》の|耳《みみ》には|入《い》らざると|見《み》ゆ
|野《の》も|山《やま》も|火炎《くわえん》の|山《やま》の|爆発《ばくはつ》に
|戦《をのの》きにけむ|草木《くさき》は|枯《か》れたり
|果敢《はか》なかる|世《よ》の|状《さま》なれや|地《ち》の|上《うへ》の
|曲《まが》|悉《ことごと》く|亡《ほろ》びむとすも
|低山《ひきやま》は|湖《うみ》に|没《ぼつ》して|火炎山《くわえんざん》
|頂《いただき》|狭《せま》く|水《みづ》に|浮《うか》べり
|降《ふ》る|雨《あめ》も|激《はげ》しかりけむ|湖《みづうみ》は
|低山《ひきやま》|高山《たかやま》|皆《みな》|浸《ひた》しつつ
|曲津見《まがつみ》も|火炎《くわえん》の|山《やま》の|変動《へんどう》に
|恐《おそ》れ|戦《をのの》き|身《み》|亡《う》せけるかな
ほのぼのと|霧《きり》を|透《とほ》して|見《み》ゆる|湖《うみ》の
|夕《ゆふべ》の|眺《なが》めは|淋《さび》しかりけり
|曲神《まがかみ》の|生命《いのち》の|果《は》てか|鬨《とき》の|声《こゑ》
この|丘下《をかした》ゆ|聞《きこ》え|来《く》るなり
|見《み》の|限《かぎ》り|醜草《しこぐさ》|生《お》ふる|大野原《おほのはら》を
|生言霊《いくことたま》の|幸《さち》に|清《きよ》めむ
|昔《むかし》より|例《ためし》もあらぬ|天地《あめつち》の
|変動《かはり》は|神《かみ》の|戒《いまし》めなるらむ
|目《め》を|開《あ》けて|見《み》られぬまでにいぢらしき
この|国原《くにはら》は|神《かみ》のいましめよ
|濛々《もうもう》と|黒雲《くろくも》|低《ひく》う|葭原《よしはら》の
|野空《のぞら》|包《つつ》みて|月日《つきひ》は|見《み》えず
|八千尋《やちひろ》の|湖水《こすい》の|底《そこ》に|曲津見《まがつみ》は
|又《また》も|潜《ひそ》みて|災《わざはひ》|為《な》すらむ
|如何程《いかほど》に|曲津見《まがつみ》|大蛇《をろち》|荒《すさ》ぶとも
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》に|言向《ことむ》け|和《やは》さむ
|湯《ゆ》の|如《ごと》く|沸《わ》き|返《かへ》りたる|湖《みづうみ》の
|水面《みのも》に|湯気《ゆげ》は|立《た》ち|昇《のぼ》りつつ
|遠近《をちこち》の|区別《けぢめ》もしらに|災《わざはひ》の
|神《かみ》のいましめ|畏《かしこ》きろかも
|世《よ》を|救《すく》ふ|誠《まこと》の|力《ちから》は|言霊《ことたま》の
|貴《うづ》の|功《いさを》に|如《し》くものはなし
われこそは|御樋代神《みひしろがみ》に|仕《つか》へたる
|生言霊《いくことたま》の|司《つかさ》なるぞや
いち|早《はや》く|忍ケ丘《しのぶがをか》に|天降《あも》り|来《き》て
|葭原国《よしはらぐに》の|状《さま》を|見《み》しかな
|美《うるは》しき|神《かみ》の|御国《みくに》を|生《う》まむとて
われは|降《くだ》れり|神言《みこと》|帯《お》びつつ
ゑらゑらに|歓《ゑら》ぎ|賑《にぎ》はふ|神国《かみくに》を
|生《う》まで|置《お》くべき|力《ちから》|限《かぎ》りに
|大蛇《をろち》|棲《す》む|葭原国《よしはらぐに》もわがあれば
いと|安《やす》からむ|勇《いさ》みてあれよ』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『|二柱《ふたはしら》|神《かみ》の|天降《あも》らすこの|丘《をか》に
われ|蘇《よみがへ》り|曲《まが》を|防《ふせ》がむ
|二柱《ふたはしら》|神《かみ》の|言霊《ことたま》|幸《さち》はひて
わがたましひの|力《ちから》|添《そ》はりぬ
かくなれば|精霊《せいれい》われも|勇《いさ》ましく
|鬼《おに》の|砦《とりで》に|向《むか》ひ|進《すす》まむ
|現世《うつしよ》の|人《ひと》と|生《うま》れし|心地《ここち》かな
わが|霊身《れいしん》の|輝《かがや》き|初《そ》むれば
|永年《ながとせ》を|忍ケ丘《しのぶがをか》の|鬼《おに》となりて
|岐美《きみ》の|天降《あも》りを|待《ま》ちわびにける
|浅《あさ》ましきみたまのわれも|今日《けふ》よりは
|神《かみ》の|御後《みあと》に|仕《つか》へまつらむ
|蘇《よみがへ》り|生《い》きの|生命《いのち》を|保《たも》ちつつ
|幽世《かみよ》の|花《はな》となるぞ|嬉《うれ》しき
|浮腰《うきごし》のわがたましひも|落着《おちつ》きて
|動《うご》かぬ|心《こころ》|勇《いさ》みたつなり
|鬼《おに》|大蛇《をろち》|醜《しこ》の|鬼婆《おにばば》|攻《せ》め|来《く》とも
|最早《もは》や|恐《おそ》れじ|神《かみ》なるわれは
|矢叫《やさけ》びの|声《こゑ》は|麓《ふもと》にどよめけり
|鬼《おに》も|大蛇《をろち》も|登《のぼ》らむとして
|言霊《ことたま》の|水火垣《いきがき》|高《たか》く|築《きづ》きませば
|如何《いか》なる|曲《まが》も|登《のぼ》り|得《え》ざらむ
|神々《かみがみ》の|貴《うづ》の|恵《めぐ》みに|抱《いだ》かれて
|安《やす》く|過《す》ぎなむ|忍ケ丘《しのぶがをか》に
|狭霧《さぎり》たつ|火《ひ》の|湖《みづうみ》も|恐《おそ》れむや
|如何《いか》なる|曲《まが》のよし|潜《ひそ》むとも
|水奔鬼《すいほんき》|魍魎《すだま》|曲霊《まがたま》|数《かず》の|限《かぎ》り
|寄《よ》せて|来《きた》るも|何《なに》か|恐《おそ》れむ』
|熊公《くまこう》は|歌《うた》ふ。
『|思《おも》ひきや|二柱神《ふたはしらがみ》の|出《い》でまして
|国土《くに》の|災除《わざはひのぞ》かせ|給《たま》へり
われは|今《いま》|忍ケ丘《しのぶがをか》の|鬼《おに》となれど
|元津《もとつ》みたまは|神《かみ》なりにけり
たましひは|元《もと》より|清《きよ》し|惟神《かむながら》
|神《かみ》に|受《う》けたる|生命《いのち》なりせば
|水奔鬼《すいほんき》に|追《お》ひたてられて|長《なが》き|日《ひ》を
|清水ケ丘《しみづがをか》にひそみたりける
|虎公《とらこう》と|二人《ふたり》|淋《さび》しく|潜《ひそ》みたる
|清水ケ丘《しみづがをか》を|思《おも》へば|悲《かな》しき
わが|君《きみ》も|笑《わら》ひ|婆《ばば》アに|計《はか》られて
|清水ケ丘《しみづがをか》に|身《み》|亡《う》せ|給《たま》ひぬ』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|種々《くさぐさ》の|汝《な》が|物語《ものがたり》|聞《き》くにつけ
|曲《まが》の|猛《たけ》びの|強《つよ》きをさとる
|葭原《よしはら》の|国土《くに》は|曲津《まがつ》の|影《かげ》もなく
|清《きよ》め|澄《す》まさむ|神《かみ》なるわれは』
|虎公《とらこう》は|歌《うた》ふ。
『ありがたし|貴《うづ》の|御神《みかみ》の|御言葉《おんことば》
われは|忘《わす》れじ|幾世《いくよ》|経《ふ》るとも』
|山《やま》は|歌《うた》ふ。
『|妾《わらは》とて|鬼《おに》にはあらず|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|誠《まこと》の|御子《みこ》なりしはや
|旅《たび》ゆきて|忍ケ丘《しのぶがをか》に|立《た》ち|寄《よ》りつ
|笑《わら》ひ|婆《ばば》アに|生命《いのち》とられし
|鬼婆《おにばば》に|玉《たま》の|生命《いのち》を|奪《うば》はれし
|人《ひと》のみたまは|数限《かずかぎ》りなし
|二柱《ふたはしら》|神《かみ》の|御稜威《みいづ》に|水奔鬼《すいほんき》の
|影《かげ》を|地上《ちじやう》に|消《け》させ|給《たま》はれ』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|果《は》てしなき|広《ひろ》き|国原《くにはら》|隈《くま》もなく
|清《きよ》め|澄《す》まして|曲《まが》|滅《ほろぽ》さむ
|兎《と》にもあれ|角《かく》にもあれやこの|丘《をか》に
|館《やかた》つくりて|国土《くに》を|治《をさ》めむ』
|川《かは》は|歌《うた》ふ。
『|天地《あめつち》の|神《かみ》の|光《ひか》りのあれまして
|葭原《よしはら》の|闇《やみ》|晴《は》れそめにけり
われとても|同《おな》じ|運命《うんめい》をたどり|来《き》て
|鬼《おに》となりける|乙女《をとめ》なるぞや
|今日《けふ》よりは|曇《くも》りし|心《こころ》|照《て》りあかし
|生言霊《いくことたま》を|宣《の》り|続《つづ》くべし』
|海《うみ》は|歌《うた》ふ。
『|海山《うみやま》の|恵《めぐ》みをうけてわれは|今《いま》
|忍ケ丘《しのぶがをか》に|安《やす》く|居《ゐ》るかも』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『|果《は》てしなき|葭原《よしはら》の|国土《くに》|隈《くま》もなく
|照《て》らさせ|給《たま》へ|二柱神《ふたはしらがみ》
|力《ちから》なきわれにはあれど|御後《みしりへ》に
|従《したが》ひ|神業《みわざ》に|仕《つか》へまつらむ
|熊《くま》も|虎《とら》も|山《やま》、|川《かは》、|海《うみ》も|神業《かむわざ》に
|使《つか》はせ|給《たま》へとこひのみまつる』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|汝《な》が|願《ねが》ひ|諾《うべな》ひわれは|国生男《くにうみを》と
|暫時《しばし》を|此処《ここ》にとどまり|治《をさ》めむ』
かく|歌《うた》ひ|給《たま》ひて、|火《ひ》の|湖《みづうみ》の|平穏《へいをん》に|復《ふく》する|日《ひ》を|待《ま》たせ|給《たま》ひける。|忍ケ丘《しのぶがをか》の|麓《ふもと》には|数万《すうまん》の|猛獣《まうじう》、|毒蛇《どくじや》、|水奔鬼《すいほんき》など、|逃場《にげば》を|失《うしな》ひ、|右往左往《うわうさわう》にひしめきあへりけり。
(昭和九・七・三〇 旧六・一九 於関東別院南風閣 林弥生謹録)
第一八章 |大挙出発《たいきよしゆつぱつ》〔二〇二二〕
|水上山《みなかみやま》の|神館《かむやかた》の|執政《しつせい》を|勤《つと》むる|巌ケ根《いはがね》は、|高光山《たかみつやま》|以西《いせい》の|国形《くにがた》を|視察《しさつ》せしむべく、|第四男《だいよんなん》の|冬男《ふゆを》を|一人《ひとり》|遣《つか》はしけるが、|数多《あまた》の|月《つき》を|閲《けみ》して|何《なん》の|消息《せうそく》もなきままに、|稍《やや》|不安《ふあん》の|念《ねん》を|起《おこ》し、|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》の|重臣《ぢうしん》と|共《とも》に、|鳩首謀議《きうしゆばうぎ》の|結果《けつくわ》、|第三男《だいさんなん》の|秋男《あきを》に、|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》、|桜《さくら》の|四柱《よはしら》の|従者《じうしや》を|従《したが》へ、|冬男《ふゆを》の|在処《ありか》と|国形《くにがた》の|視察《しさつ》を|兼《か》ねて|出発《しゆつぱつ》を|命《めい》じたりしが、これまた|弓弦《ゆづる》を|離《はな》れし|矢《や》の|如《ごと》く、|行《い》つたまま|何《なん》の|消息《せうそく》もなく、|再《ふたた》び|水上山《みなかみやま》の|神館《かむやかた》は|憂《うれ》ひに|沈《しづ》み、|三度《みたび》|御子《みこ》を|派《は》して|調査《てうさ》せしめむと|事議《ことはか》る|折《をり》しもあれ、|東南《とうなん》の|方《かた》に|当《あた》つて、|夜《よる》は|火光《くわくわう》|百里《ひやくり》の|地上《ちじやう》を|照《てら》したる|火炎山《くわえんざん》は、|轟然《がうぜん》として|爆発《ばくはつ》したる|其《その》|物音《ものおと》に、|水上山《みなかみやま》の|館《やかた》まで|地鳴《ぢなり》|震動《しんどう》|甚《はなは》だしく、|人心《じんしん》|兢々《きやうきやう》たりける。
|茲《ここ》に|巌ケ根《いはがね》を|初《はじ》め|重臣等《ぢゆうしんたち》は、|二人《ふたり》の|御子《みこ》の|安否《あんぴ》を|憂《うれ》ひ、|大挙《たいきよ》して|其《その》|消息《せうそく》を|探《さぐ》るべく、|春男《はるを》、|夏男《なつを》を|初《はじ》め、|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》|其《その》|他《た》の|供人《ともびと》を|数多《あまた》|引《ひ》き|連《つ》れ、|第三回目《だいさんくわいめ》の|調査《てうさ》に|向《むか》ふべく|決定《けつてい》したり。
|出発《しゆつぱつ》に|臨《のぞ》み、|巌ケ根《いはがね》は|斎主《さいしゆ》となり、|其《その》|他《た》は|後《しりへ》に|従《したが》ひて、|天津神《あまつかみ》を|祀《まつ》りたる|神殿《しんでん》に|額《ぬか》づき、|種々《くさぐさ》の|美味物《うましもの》を|奉《たてまつ》り|太祝詞言《ふとのりとごと》を|宣《の》りける。その|祝詞《のりと》に|言《い》ふ。
『|掛巻《かけまく》も|綾《あや》に|畏《かしこ》き、|高日《たかひ》の|宮《みや》に|鎮《しづ》まりいます|主《ス》の|大御神《おほみかみ》、|高鉾《たかほこ》の|神《かみ》、|神鉾《かむほこ》の|神《かみ》の|三柱《みはしら》の|大御前《おほみまへ》に、|水上山《みなかみやま》の|館《やかた》の|執政《しつせい》|巌ケ根《いはがね》は、ここに|謹《つつし》み|敬《ゐやま》ひ、|恐《かしこ》み|恐《かしこ》みも|願《ね》ぎ|白《まを》さく。
|抑《そもそも》|此《これ》の|葭原《よしはら》の|神国《みくに》は、|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》の|永久《とこしへ》に|鎮《しづ》まりまして|治《をさ》め|給《たま》ふ|神国《みくに》にして、|賤《いや》しき|吾等《われら》も|高光山《たかみつやま》を|限《かぎ》りとして、|予讃《よさ》の|国原《くにはら》を|治《をさ》むべく、|御樋代神《みひしろがみ》の|神言《みこと》かかぶりて、|日《ひ》に|夜《よ》に|国《くに》|安《やす》かれと|心《こころ》を|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し、|国《くに》の|政治《まつりごと》に|仕《つか》へ|奉《まつ》りける。
|予讃《よさ》の|国土《くに》は|地《つち》|未《いま》だ|稚《わか》く、|種々《くさぐさ》の|物《もの》|全《まつた》く|調《ととの》はず|浮脂《うきあぶら》の|如《ごと》くあれば、|国形《くにがた》|視《み》せしめむと|第四《だいよん》の|御子《みこ》|冬男《ふゆを》を|遣《つか》はしけるに、|数多《あまた》の|月《つき》を|閲《けみ》すと|雖《いへど》も|未《いま》だ|復命《かへりごと》|白《まを》さず、|若《も》しや|若《も》し|大御神《おほみかみ》の|御心《みこころ》に|叶《かな》はずて、|道《みち》の|隈手《くまで》にさやる|曲津神《まがつかみ》|有《あ》りて|損《そこな》ひたるにやと|心《こころ》も|心《こころ》ならず、|各自《おのもおのも》の|司等《つかさたち》と|事議《ことはか》り、|神前《みまへ》に|願《ね》ぎ|白《まを》して、|第三男《だいさんなん》の|秋男《あきを》に、|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》、|桜《さくら》の|四柱《よはしら》を|添《そ》へ、|再《ふたた》び|国形《くにがた》を|視極《みきは》め、|冬男《ふゆを》の|在処《ありか》を|明《あき》らめむと、|過《す》ぐる|日《ひ》|此《この》|館《やかた》を|立《た》ち|出《い》でけるに、|今《いま》におきて|何《なん》の|復命《かへりごと》もなさず、|司等《つかさたち》は|心《こころ》を|悩《なや》め|奉《まつ》る|折《をり》もあれ、|予讃《よさ》の|国《くに》の|真秀良場《まほらば》に|峙《そばだ》てる|火炎山《くわえんざん》は、|天地《あめつち》をどよもして、|頂《いただき》より|麓《ふもと》まで|打《う》ち|破《やぶ》れけるにや、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|望《のぞ》みてし|其《その》|影《かげ》も|見《み》えず、|光《ひかり》も|消《き》え|失《う》せければ、|尋常《ただごと》ならじと|思《おも》ひ|奉《まつ》るが|故《ゆゑ》に、|三度《みたび》|茲《ここ》に|事議《ことはか》りて、|二人《ふたり》の|御子《みこ》が|在処《ありか》を|探《さが》し|求《もと》め、|国形《くにがた》|視《み》るべく、|春男《はるを》、|夏男《なつを》に|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》の|司《つかさ》を|従《したが》へさせ、|百神《ももがみ》たちを|率《ひき》ゐて、|今日《けふ》の|吉日《よきひ》の|吉時《よきとき》に、|神国《みくに》の|為《ため》に|旅《たび》|行《ゆ》かむとす。
|仰《あふ》ぎ|願《ねが》はくば、|主《ス》の|大御神《おほみかみ》、|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に|聞食《きこしめ》し|給《たま》ひて、|今日《けふ》の|出立《いでた》ちは|道《みち》の|隈手《くまで》も|恙《つつが》なく、|喪《も》なく|事《こと》なく、|最速《いとすみや》かに|復命《かへりごと》|白《まを》させ|給《たま》へと、|海川山野《うみかはやまぬ》の|種々《くさぐさ》の|御幣帛《みてぐら》を|百取《ももとり》の|机《つくゑ》に|横山《よこやま》の|如《ごと》く|置足《おきたら》はして|献《たてまつ》るさまを、|平《たひら》けく|安《やす》らけく|聞食《きこしめ》せと、|鹿児自物《かごじもの》|膝折伏《ひざをりふ》せ、|宇自物《うじもの》|頸根突貫《うなねつきぬ》きて、|恐《かしこ》み|恐《かしこ》みも|願《ね》ぎ|奉《まつ》らくと|白《まを》す。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
|斯《か》く|奏上《そうじやう》|終《をは》り、|恭《うやうや》しく|礼拝《れいはい》し、|神殿《しんでん》を|降《くだ》り、|再《ふたた》び|一同《いちどう》は|執政殿《しつせいでん》に|集《あつま》り、|首途《かどで》を|祝《しゆく》し|且《かつ》|事議《ことはか》りける。
|巌ケ根《いはがね》は|歌《うた》ふ。
『|二柱《ふたはしら》|御子《みこ》は|帰《かへ》らずなりにけり
|神《かみ》の|御旨《みむね》に|叶《かな》はざりしか
|老《おい》の|身《み》の|力《ちから》と|頼《たの》む|二人《ふたり》の|子《こ》の
|行方《ゆくへ》|思《おも》へば|心《こころ》さわぐも
|音《おと》に|聞《き》く|水奔草《すいほんさう》は|行《ゆ》く|道《みち》に
|茂《しげ》りて|人《ひと》を|損《そこな》ふとかや
|水奔草《すいほんさう》に|当《あた》りて|亡《う》せし|水奔鬼《すいほんき》の
|禍《わざはひ》なすと|聞《き》くぞ|忌々《ゆゆ》しき
|一年《ひととせ》を|過《す》ぐれど|冬男《ふゆを》は|帰《かへ》り|来《こ》ず
|心《こころ》もとなきわが|思《おも》ひかな
|過《す》ぐる|秋《あき》|再《ふたた》び|秋男《あきを》に|言依《ことよ》さし
|国形《くにがた》|視《み》るべく|旅立《たびだ》たせけり
|冬《ふゆ》|近《ちか》み|木枯《こがらし》|吹《ふ》けどわが|御子《みこ》の
|便《たよ》りのなきは|憂《う》れたかりけり
|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》、|桜《さくら》の|四柱《よはしら》|添《そ》ひながら
|今《いま》に|便《たよ》りのなきはいぶかし
|火炎山《くわえんざん》|爆発《ばくはつ》したるか|天地《あめつち》は
どよみて|山《やま》の|影《かげ》は|失《う》せたり
|火炎山《くわえんざん》|変動《へんどう》|見《み》るより|一入《ひとしほ》に
わが|魂《たましひ》はなやましきかな
かくならば|春男《はるを》、|夏男《なつを》を|始《はじ》めとし
|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》も|行《ゆ》きて|調《しら》べよ』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『|宜《うべ》ようべ|巌根《いはね》の|君《きみ》の|御言葉《みことば》に
|如何《いか》で|背《そむ》かむ|急《いそ》ぎ|旅《たび》|行《ゆ》かむ
|再《ふたた》びの|使《つかひ》は|復命《かへりごと》あらず
|心《こころ》もとなきこれの|館《やかた》よ
|水奔鬼《すいほんき》の|為《ため》に|生命《いのち》を|果敢《はか》なくも
|亡《う》せ|給《たま》ひしか|心《こころ》もとなし
|葭草《よしぐさ》に|混《まじ》りて|茂《しげ》る|水奔草《すいほんさう》の
|禍《わざはひ》|多《おほ》しと|吾《われ》も|聞《き》きつる
|湿《しめ》り|地《ぢ》に|茂《しげ》れる|葭草《よしぐさ》|醜草《しこぐさ》の
|隙間《すきま》に|棲《す》めるイヂチの|害虫《がいちう》
|草枕《くさまくら》|旅《たび》|行《ゆ》く|人《ひと》の|足《あし》|噛《か》みて
|倒《たふ》すイヂチの|多《おほ》しとぞ|聞《き》く
|兎《と》も|角《かく》もかくてあるべき|時《とき》ならず
|急《いそ》ぎ|進《すす》まむ|御後《みあと》たづねて』
|瀬音《せおと》は|歌《うた》ふ。
『|執政《しつせい》の|君《きみ》よ|暫《しば》しを|待《ま》たせ|給《たま》へ
|国形《くにがた》|視《み》つつ|御後《みあと》|調《しら》べむ
|何《なに》かしら|心《こころ》|落《お》ちゐぬ|今日《けふ》の|日《ひ》を
|神《かみ》に|祈《いの》りて|旅立《たびだ》ちせむかな
|葭原《よしはら》の|彼方此方《あなたこなた》の|丘《をか》の|辺《べ》に
|水奔鬼《すいほんき》|棲《す》むと|伝《つた》へ|聞《き》き|居《を》り
|如何《いか》ならむ|艱《なや》み|来《きた》るも|此《この》|度《たび》は
|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|打《う》ち|破《やぶ》り|行《ゆ》かむ
わが|行《ゆ》かば|淋《さび》しかるべし|巌ケ根《いはがね》よ
|神《かみ》に|祈《いの》りて|安《やす》く|坐《ま》しませ』
|春男《はるを》は|歌《うた》ふ。
『|父上《ちちうへ》の|御言《みこと》|畏《かしこ》み|出《い》で|行《ゆ》かむ
|百《もも》の|司《つかさ》をわれ|伴《ともな》ひて
|火炎山《くわえんざん》|跡形《あとかた》もなく|消《き》え|失《う》せぬ
|予讃《よさ》の|国原《くにはら》さやぎてあらむ
|兎《と》に|角《かく》に|予讃《よさ》の|国原《くにはら》|治《をさ》むべき
|勤《つと》めを|持《も》てる|水上《みなかみ》の|館《やかた》よ
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|神言《みこと》に|報《むく》ふべく
|如何《いか》なる|悩《なや》みも|凌《しの》ぎ|進《すす》まむ
|弟《おとうと》は|水奔鬼《すいほんき》または|曲鬼《まがおに》に
|生命《いのち》を|奪《うば》はれたるにあらずや
よしやよし|弟《おとうと》の|生命《いのち》あらずとも
|吾《われ》は|進《すす》まむ|高光《たかみつ》の|山《やま》まで
|高光《たかみつ》の|山《やま》に|進《すす》みて|此《この》|状《さま》を
|御樋代神《みひしろがみ》に|具《つぶさ》に|伝《つた》へむ』
|夏男《なつを》は|歌《うた》ふ。
『|木枯《こがらし》の|吹《ふ》き|荒《すさ》ぶ|野《の》を|分《わ》けて|行《ゆ》く
|吾等《われら》が|旅《たび》に|幸《さち》あれと|祈《いの》る
|父君《ちちぎみ》に|別《わか》れを|告《つ》げて|出《い》でて|行《ゆ》く
われも|神国《みくに》の|為《ため》なればなり
|葭原《よしはら》の|国形《くにがた》|視《み》つつ|弟《おとうと》の
|行方《ゆくへ》を|探《さが》す|今日《けふ》の|旅《たび》かな
|水上山《みなかみやま》|尾《を》の|上《へ》の|尾花《をばな》|靡《なび》きつつ
わが|旅立《たびだ》ちを|惜《を》しむがに|見《み》ゆ
|山萩《やまはぎ》も|桔梗《ききやう》も|散《ち》りて|淋《さび》しげに
|尾花《をばな》は|風《かぜ》に|靡《なび》きけるかも
|虫《むし》の|音《ね》もかすかになりて|野路《のぢ》を|吹《ふ》く
|風《かぜ》は|漸《やうや》く|冷《ひ》え|渡《わた》りけり
いざさらば|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|守《まも》られて
|立《た》ち|出《い》で|行《ゆ》かむこれの|館《やかた》を』
|巌ケ根《いはがね》は|両眼《りやうがん》に|涙《なみだ》を|浮《うか》べながら|歌《うた》ふ。
『|勇《いさ》ましや|春男《はるを》、|夏男《なつを》の|旅立《たびだ》ちを
|国土《くに》の|固《かた》めと|思《おも》へば|嬉《うれ》しき
|水音《みなおと》や|瀬音《せおと》の|司《つかさ》|春《はる》、|夏《なつ》の
|二人《ふたり》を|守《まも》り|安《やす》く|行《ゆ》きませ
|木枯《こがらし》の|風《かぜ》の|冷《つめ》たき|冬空《ふゆぞら》を
|分《わ》けて|進《すす》ます|君《きみ》ぞ|雄々《をを》しき
|水上《みなかみ》の|館《やかた》に|心《こころ》かけずして
|進《すす》ませ|給《たま》へ|司々等《つかさつかさら》』
|水音《みなおと》は|声《こゑ》を|曇《くも》らせながら、
『いざさらば|君《きみ》に|別《わか》れむ|国《くに》の|為《ため》
|曲津《まがつ》の|荒《すさ》ぶ|荒野《あらの》をさして』
|瀬音《せおと》は|歌《うた》ふ。
『|村肝《むらきも》の|心《こころ》なやまし|給《たま》ふまじ
|大丈夫《ますらを》|吾等《われら》が|行手《ゆくて》|幸《さち》ならむ
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|神言《みこと》に|報《むく》いむと
|出《い》で|行《ゆ》く|道《みち》に|曲津《まが》のあるべき』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|一行《いつかう》|四人《よにん》は|数多《あまた》の|供人《ともびと》と|共《とも》に、|木枯《こがらし》|吹《ふ》き|荒《すさ》ぶ|野路《のぢ》を、|東南《とうなん》に|進路《しんろ》をとり|勇《いさ》み|進《すす》んで|出《い》で|行《ゆ》きぬ。
|春男《はるを》は|木枯《こがらし》|荒《すさ》ぶ|葭原《よしはら》を、|右《みぎ》に|左《ひだり》に|分《わ》けながら、|折々《をりをり》|水上山《みなかみやま》の|館《やかた》を|振《ふ》りかへり|振《ふ》りかへり|行進歌《かうしんか》を|歌《うた》ふ。
『|秋《あき》も|漸《やうや》く|暮《く》れ|果《は》てて
|冬《ふゆ》の|初《はじ》めとなりにけり
|水上山《みなかみやま》は|屹然《きつぜん》と
|吾《わが》|行《ゆ》く|後《しりへ》に|輝《かがや》けり
|恋《こひ》しき|父《ちち》は|如何《いか》にして
いますか|知《し》らず|吾々《われわれ》の
|行《ゆ》く|手《て》を|案《あん》じわづらひつ
|天津御神《あまつみかみ》の|御前《おんまへ》に
|祈《いの》らせ|給《たま》ふか|尊《たふと》しや
|秋《あき》は|漸《やうや》くつきはてぬ
|木枯《こがらし》|寒《さむ》き|冬《ふゆ》の|日《ひ》を
|迎《むか》へて|進《すす》む|淋《さび》しさよ
|秋男《あきを》、|冬男《ふゆを》の|身《み》の|上《うへ》を
|思《おも》へばなほも|淋《さび》しけれ
|天《てん》に|聳《そび》えて|輝《かがや》きし
|火炎《くわえん》の|山《やま》は|影《かげ》もなく
|夜半《よは》を|照《てら》せし|大火光《だいくわくわう》
|今《いま》は|全《まつた》く|消《き》えはてぬ
|葭草《よしぐさ》|醜草《しこぐさ》|生《お》ひ|茂《しげ》る
|野路《のぢ》|行《ゆ》くわれは|露《つゆ》をだも
|厭《いと》ふ|心地《ここち》し|出《い》でて|行《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
わが|旅立《たびだ》ちに|幸《さち》あれや
わが|行《ゆ》く|道《みち》に|光《ひかり》あれ
|如何《いか》に|悪魔《あくま》は|猛《たけ》るとも
|毒虫《どくむし》しげくさやるとも
|神《かみ》の|光《ひかり》を|力《ちから》とし
|弛《たゆ》まず|屈《くつ》せず|進《すす》むべし
|父《ちち》の|御言《みこと》をかがふりて
|国形《くにがた》|視《み》むと|出《い》でて|行《ゆ》く
|高光山《たかみつやま》は|嶮《さか》しくも
|葭原国《よしはらぐに》は|広《ひろ》くとも
|月日《つきひ》|重《かさ》ねて|進《すす》みなば
いと|安《やす》からむ|惟神《かむながら》
|神《かみ》のまにまに|進《すす》むべし
|吾等《われら》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|如何《いか》に|恐《おそ》れむ|大丈夫《ますらを》の
|弥猛心《やたけごころ》の|一筋《ひとすぢ》に
|初心《しよしん》を|貫《つらぬ》き|大前《おほまへ》に
|復命《かへりごと》せむ|此《この》|旅路《たびぢ》
|守《まも》らせ|給《たま》へ|天津神《あまつかみ》
|国津御神《くにつみかみ》の|御前《おんまへ》に
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
|夏男《なつを》は|歌《うた》ふ。
『|秋男《あきを》、|冬男《ふゆを》は|今《いま》|何処《いづこ》
|一年《いちねん》|余《あま》りを|経《へ》たる|今日《けふ》
|何《なん》の|便《たよ》りもなくばかり
|探《たづ》ね|行《ゆ》く|手《て》はぼんやりと
|所《ところ》|定《さだ》めぬ|淋《さび》しさよ
|冬《ふゆ》は|漸《やうや》く|来向《きむか》ひて
|百《もも》の|木草《きぐさ》は|紅葉《もみぢ》なし
|虫《むし》の|音《ね》さへも|細《ほそ》りけり
|葭《よし》の|枯葉《かれは》は|暗《くら》きまで
|大地《だいち》を|包《つつ》み|毒草《どくさう》の
|水奔草《すいほんさう》は|枯《か》れはてて
|根元《ねもと》に|潜《ひそ》む|毒虫《どくむし》は
|次第々々《しだいしだい》に|殖《ふ》えて|行《ゆ》く
|冬《ふゆ》の|旅《たび》こそ|淋《さび》しけれ
|神《かみ》の|恵《めぐみ》のあらざれば
|如何《いか》で|一歩《いつぽ》も|進《すす》めむや
|守《まも》らせ|給《たま》へ|天地《あめつち》の
|神《かみ》よ|御樋代神《みひしろかみ》|様《さま》よ
|神国《みくに》の|為《ため》に|進《すす》み|行《ゆ》く
われ|等《ら》が|道《みち》に|隈《くま》もなく
|喪《も》なく|進《すす》ませ|給《たま》へかし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|恩頼《みたまのふゆ》を|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『|冬《ふゆ》さり|来《く》れば|山川《やまかは》の
|水音《みなおと》さへも|声《こゑ》|潜《ひそ》め
|辺《あた》り|淋《さび》しく|木《こ》の|葉《は》|散《ち》り
|裸木《はだかぎ》|諸所《しよしよ》に|震《ふる》ふなり
|御空《みそら》の|月《つき》も|白々《しろじろ》と
|凍《こほ》るが|如《ごと》き|冬《ふゆ》の|夜《よ》の
|霜《しも》|踏《ふ》み|分《わ》けて|進《すす》み|行《ゆ》く
|枯野ケ原《かれのがはら》は|物凄《ものすご》き
|火炎《くわえん》の|山《やま》は|消《き》え|失《う》せて
あやめも|分《わ》かぬ|夜《よる》の|道《みち》
|最早《もはや》|一歩《いつぽ》も|進《すす》み|得《え》ず
|幸《さいは》ひこれの|森《もり》かげに
|一夜《いちや》の|露《つゆ》の|宿《やど》りして
|豊栄《とよさか》のぼる|天津日《あまつひ》の
|光《ひか》りを|力《ちから》に|進《すす》むべし
|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》のはびこれる
これの|原野《げんや》は|殊更《ことさら》に
|危《あや》ふからむを|方々《かたがた》よ
|御心《みこころ》|如何《いか》にすくすくと
|応《こた》へを|宣《の》らせ|給《たま》へかし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
|瀬音《せおと》は|歌《うた》ふ。
『|水上《みなかみ》の|山《やま》を|立《た》ち|出《い》で|冬《ふゆ》の|野《の》の
|繁樹《しげき》の|森《もり》にたそがれにけり
|火炎山《くわえんざん》|光《ひか》りなければ|止《や》むを|得《え》じ
|此《この》|森《もり》かげに|一夜《いちや》を|明《あか》さむ
|何《なん》となくうら|騒《さわ》がしき|夕《ゆふべ》なり
|如何《いか》なる|曲津《まが》の|襲《おそ》ひ|来《く》るにや
|二柱《ふたはしら》|御子《みこ》を|探《たづ》ねて|進《すす》み|行《ゆ》く
|今日《けふ》は|悲《かな》しき|旅《たび》なりにけり
|木枯《こがらし》の|吹《ふ》き|渡《わた》り|行《ゆ》く|音《おと》|聞《き》けば
|冬《ふゆ》の|心《こころ》の|淋《さび》しかりけり
|月舟《つきふね》は|御空《みそら》にふるひ|虫《むし》の|音《ね》は
|草《くさ》の|根《ね》に|鳴《な》く|冬《ふゆ》の|夕暮《ゆふぐれ》
|淋《さび》しきは|冬《ふゆ》の|夕《ゆふべ》の|旅衣《たびごろも》
|袖《そで》に|降《ふ》り|来《く》る|涙《なみだ》の|雨《あめ》なり』
|茲《ここ》に|一行《いつかう》は|茂《しげ》みの|森蔭《もりかげ》に|立《た》ち|寄《よ》り、|淋《さび》しき|木枯《こがらし》に|吹《ふ》かれながら|身《み》を|一所《ひとところ》に|集《あつ》め、|明日《あす》の|旅立《たびだ》ちの|事《こと》など|心《こころ》の|中《うち》に|思《おも》ひ|悩《なや》みながら、|漸《やうや》く|寝《しん》に|就《つ》きける。
|此《この》|辺《あた》りは|火炎山《くわえんざん》の|陥落《かんらく》により、|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》の|傷《きず》つけるもの|数多《あまた》|集《あつま》り|来《きた》れる|場所《ばしよ》なりければ、|夜《よ》もすがら|嫌《いや》らしき|呻吟声《うめきごゑ》と、|異様《いやう》の|不快《ふくわい》なる|空気《くうき》は|漂《ただよ》ひにける。
(昭和九・七・三〇 旧六・一九 於関東別院南風閣 白石恵子謹録)
第一九章 |笑譏怒泣《ゑきどきう》〔二〇二三〕
|茂《しげ》みの|森《もり》を|立《た》ち|出《い》でて |春男《はるを》、|夏男《なつを》を|初《はじ》めとし
|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》は|供人《ともびと》を |数多《あまた》|従《したが》へ|東南《とうなん》の
|原野《げんや》をさして|進《すす》みゆく |火炎《くわえん》の|山《やま》の|陥落《かんらく》に
あたりの|光景《くわうけい》|激変《げきへん》し たしかにそれと|分《わ》かねども
|霧《きり》|立《た》ちのぼりもうもうと |大地《だいち》を|包《つつ》むは|湖《みづうみ》か
|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》の|影《かげ》|多《おほ》く |道《みち》の|行《ゆ》く|手《て》にさやりつつ
いづれも|負傷《ふしやう》せざるなし |春男《はるを》の|一行《いつかう》は|幸《さいはひ》に
|重傷《ぢゆうしやう》|負《お》ひし|曲神《まがかみ》の |力《ちから》なきをば|幸《さいはひ》に
いとすたすたと|進《すす》みゆく |吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》も|何《なん》となく
|胸《むね》もふさがる|心地《ここち》して |霜《しも》おく|朝《あさ》の|野辺《のべ》をゆく
|寒《さむ》さは|寒《さむ》し|陰鬱《いんうつ》の |空気《くうき》は|天地《てんち》に|漲《みなぎ》りぬ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |春男《はるを》|一行《いつかう》の|行先《ゆくさき》は
|幸《かう》か|不幸《ふかう》か|物語《ものがたり》 |読《よ》みゆく|行《くだり》にしたがひて
いと|明瞭《めいれう》となりぬべし。
|春男《はるを》は|歌《うた》ふ。
『|水上山《みなかみやま》を|後《あと》にして
|萱野《かやの》を|渉《わた》り|丘《をか》を|越《こ》え
|茂《しげ》みの|丘《をか》に|黄昏《たそが》れて
|一行《いつかう》ここに|夜《よ》をあかし
|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》のうめき|声《ごゑ》
|耳《みみ》にしながら|来《き》て|見《み》れば
|火炎《くわえん》の|山《やま》はあともなく
|空《そら》に|黒煙《こくえん》|漲《みなぎ》りて
|日月《じつげつ》ために|影《かげ》|暗《くら》し
|地上《ちじやう》|遥《はる》かに|見渡《みわた》せば
|右《みぎ》も|左《ひだり》も|狭霧《さぎり》|立《た》ち
|昼《ひる》なりながら|行《ゆ》く|手《て》さへ
わからぬ|今日《けふ》のいぶかしさ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|弟《おとうと》|二人《ふたり》の|消息《せうそく》は
|如何《いかが》なりしか|聞《き》かまほし
|天地《てんち》に|神《かみ》のいますなら
|吾等《われら》に|二人《ふたり》の|行《ゆ》く|末《すゑ》を
|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に|教《をし》へませ
|偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る』
|夏男《なつを》は|歌《うた》ふ。
『ちちのみの|父《ちち》のみことを|畏《かしこ》みて
|醜草《しこぐさ》|茂《しげ》る|荒野原《あらのはら》
|辿《たど》りてここに|来《き》て|見《み》れば
|白煙《はくえん》もうもう|地《ち》に|満《み》ちて
|行《ゆ》く|手《て》もわかずなりにけり
|国形《くにがた》|見《み》むと|思《おも》へども
あたりは|靄《もや》につつまれて
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》もいやらしく
|寒《さむ》さ|身《み》にしむ|冬《ふゆ》の|旅《たび》
|樹々《きぎ》に|囀《さへづ》る|百鳥《ももとり》の
|声《こゑ》もかなしく|聞《きこ》ゆなり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
わが|行《ゆ》く|道《みち》をあきらかに
|照《て》らさせ|給《たま》へと|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『うち|仰《あふ》ぐ|火炎《くわえん》の|山《やま》はくづれしか
|湖《うみ》のみ|見《み》えて|山《やま》かげもなし
かかる|野《の》に|湖《みづうみ》ありとは|知《し》らざりき
この|地《ち》の|上《うへ》は|変《かは》りたるにや
|天津日《あまつひ》の|月《つき》もかくれて|常闇《とこやみ》の
|野路《のぢ》ゆく|吾《われ》はさびしかりけり』
|瀬音《せおと》は|歌《うた》ふ。
『どことなくさびしき|声《こゑ》は|聞《きこ》ゆなり
|曲津《まが》の|叫《さけ》びか|鳥《とり》のなく|音《ね》か。
ただしは|冬《ふゆ》の|虫《むし》の|音《ね》か
|行《ゆ》く|手《て》も|知《し》らぬ|闇《やみ》の|旅《たび》
まだ|昼《ひる》なりながら|怪《あや》しけれ
|向《むか》ふに|見《み》ゆる|低山《ひきやま》は
|月見《つきみ》の|丘《をか》かいち|早《はや》く
|足《あし》を|早《はや》めて|進《すす》むべし』
|斯《か》くして|一行《いつかう》は|漸《やうや》く|月見ケ丘《つきみがをか》に|着《つ》きぬ。|太陽《たいやう》は|見《み》えねども、|最早《もはや》|黄昏時《たそがれどき》と|見《み》えて|闇《やみ》は|益々《ますます》|深《ふか》くなりぬ。ここは|秋男《あきを》|一行《いつかう》が|一夜《いちや》の|宿《やど》を|借《か》りて、|譏《そし》り|婆《ばば》と|言霊戦《ことたません》を|試《こころ》みたる|跡《あと》なりき。
|春男《はるを》は|歌《うた》ふ。
『やうやくに|月見ケ丘《つきみがをか》に|来《き》て|見《み》れば
|黄昏《たそがれ》の|幕《まく》おりにけらしな
|何《なん》となく|淋《さび》しき|丘《をか》よ|草《くさ》も|木《き》も
|霜《しも》にあたりて|赤《あか》らみにける
|常磐樹《ときはぎ》の|中《なか》にまじはる|裸樹《はだかぎ》の
|梢《こずゑ》は|闇《やみ》の|空《そら》なでてをり
この|丘《をか》はいとど|怪《あや》しく|思《おも》はるる
わが|弟《おとうと》の|宿《やど》りけるにや』
|夏男《なつを》は|歌《うた》ふ。
『|黄昏《たそがれ》の|闇《やみ》ふかければ|止《や》むを|得《え》じ
この|丘《をか》の|上《へ》に|一夜《いちや》をあかさむ
|大空《おほぞら》の|月《つき》もかくろひ|星《ほし》かげの
|一《ひと》つだになき|闇《やみ》の|丘《をか》かも
|吹《ふ》く|風《かぜ》は|肌《はだ》にしむなり|何処《どこ》やらに
|怪《あや》しき|声《こゑ》の|聞《きこ》ゆべらなり』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『|曲鬼《まがおに》や|大蛇《をろち》のむらがる|野《の》を|越《こ》えて
ここに|安《やす》けく|吾《われ》|着《つ》きにけり
さりながら|心《こころ》はゆるせじこの|闇《やみ》に
|曲《まが》|襲《おそ》はむも|計《はか》りかぬれば
|眠《ねむ》りなば|曲《まが》や|襲《おそ》はむ|村肝《むらきも》の
|心《こころ》ひきしめてあかつき|待《ま》たむか』
|瀬音《せおと》は|歌《うた》ふ。
『|何《なに》かしらあやしき|声《こゑ》の|響《ひび》くなり
|君《きみ》は|聞《き》かずや|嘆《なげ》きの|声《こゑ》を
|曲鬼《まがおに》か|大蛇《をろち》かイヂチか|知《し》らねども
わが|魂《たましひ》の|戦《をのの》く|声《こゑ》なり』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、リズムの|合《あ》はぬ、トンチンカンなる|音楽《おんがく》|響《ひび》き|来《きた》り、|忽《たちま》ちあたりは|昼《ひる》の|如《ごと》く|明《あか》るくなりける。|然《しか》しながら|約《やく》|十間《じつけん》|四方《しはう》は|室内《しつない》に|灯《ひ》をとぼしたる|如《ごと》くなれども、|其《その》|他《た》は|依然《いぜん》として|闇《やみ》の|襖《ふすま》を|立《た》てたるが|如《ごと》し。
|闇《やみ》の|中《なか》より|悠々《いういう》|現《あら》はれ|来《きた》る|四人《よにん》の|美人《びじん》あり。|何《いづ》れも|十七八歳《じふしちはつさい》の|妙齢《めうれい》にして、|容色《ようしよく》|端麗《たんれい》に|物腰《ものごし》も|淑《しと》やかに、|象牙細工《ざうげざいく》のやうな|白《しろ》い|手《て》を|揉《も》みながら、|媚《こび》を|呈《てい》して|寄《よ》り|来《きた》り、|甲《かふ》の|女《をんな》は|一行《いつかう》に|向《むか》ひ|恭《うやうや》しく|礼《れい》をほどこし、|微笑《びせう》を|浮《うか》べて|歌《うた》ふ。
『われこそは|葭井《よしゐ》の|里《さと》の|国津神《くにつかみ》
|葭井《よしゐ》が|娘《むすめ》|五月《さつき》なるぞや
|火炎山《くわえんざん》|陥没《かんぼつ》せしよりわが|家《いへ》は
|湖《みづうみ》の|底《そこ》に|沈《しづ》みたりけり
やうやくに|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|助《たす》けられ
|月見ケ丘《つきみがをか》に|難《なん》をさけ|居《ゐ》し
ここにゐる|三人《みたり》の|乙女《をとめ》は|姉妹《はらから》よ
|恵《めぐ》ませ|給《たま》へ|国津神《くにつかみ》たち』
|春男《はるを》は|怪《あや》しみながら、
『|不思議《ふしぎ》なることを|宣《の》らすよこの|丘《をか》に
|難《なん》をさけつつ|忍《しの》びゐるとは
|眉目形《みめかたち》|美《うるは》しけれど|何処《どこ》となく
|汝《なれ》がおもざし|腑《ふ》におちぬかな』
|五月《さつき》は|歌《うた》ふ。
『うたがはせ|給《たま》ふな|吾《われ》は|国津神《くにつかみ》
|葭井《よしゐ》の|娘《むすめ》にたがひなければ
|君《きみ》|来《き》ますとかねて|聞《き》きしゆ|常闇《とこやみ》を
|照《て》らして|吾《われ》はここに|待《ま》ちつつ』
|春男《はるを》はなほも|怪《あや》しみながら、
『|言霊《ことたま》は|如何《いか》に|美《うるは》しく|宣《の》るとても
|汝《なれ》がよそほひ|怪《あや》しかりけり』
|小百合《さゆり》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》こそは|小百合《さゆり》と|名告《なの》る|妹《いもうと》よ
|愛《め》でさせ|給《たま》へ|旅《たび》の|客人《まらうど》
わが|姉《あね》を|疑《うたが》ひ|給《たま》ふ|客人《まらうど》の
|心《こころ》|思《おも》へばかなしくなりぬ
われこそは|小百合《さゆり》と|名《な》のる|愛娘《まなむすめ》
|葭井《よしゐ》の|里《さと》の|花《はな》と|呼《よ》ばれし
ともかくも|恋《こひ》しさ|故《ゆゑ》に|吾《われ》は|今《いま》
|君《きみ》の|姿《すがた》を|伏《ふ》し|拝《をが》むなり
|家《いへ》はなく|父母《ちちはは》もなし|憐《あは》れなる
わが|姉妹《おとどい》を|救《すく》はせ|給《たま》へ』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『|若王《わかぎみ》よ|曲《まが》の|言《こと》の|葉《は》|御耳《おんみみ》を
かし|給《たま》ふまじ|彼《か》の|耳《みみ》|動《うご》けり
この|女《をんな》|譏《そし》り|婆《ばば》アの|化身《けしん》ぞや
|心《こころ》し|給《たま》へ|闇《やみ》の|花《はな》なれば
|灯火《ともしび》もなき|闇《やみ》の|夜《よ》にあかあかと
この|辺《あた》りのみ|光《ひか》るは|怪《あや》しき
|曲神《まがかみ》のたくらみごとは|浅《あさ》ければ
|忽《たちま》ち|尻《しり》の|割《わ》るるものなり
わが|眼《まなこ》ひがみたるかは|知《し》らねども
|五月《さつき》の|尻《しり》に|太《ふと》き|尾《を》|見《み》ゆるも
|小百合《さゆり》てふ|妹《いもと》と|名告《なの》る|乙女子《をとめご》も
|細《ほそ》き|尻尾《しりを》のあらはれてをり』
|斯《か》く|歌《うた》ふや、|俄《にはか》に|昼《ひる》の|如《ごと》|明《あか》るかりし|四辺《あたり》は|常闇《とこやみ》と|変《へん》じ、いやらしき|声《こゑ》|頻《しき》りに|聞《きこ》え|来《きた》る。
『ギヤハハハハハ、|如何《いか》にもこの|方《はう》は|譏《そし》り|婆《ばば》の|成《なれ》の|果《はて》、|汝《なんぢ》が|弟《おとうと》|秋男《あきを》といふ|青二才《あをにさい》を|悩《なや》め|殺《ころ》し、|火炎山《くわえんざん》の|火口《くわこう》へ|放《ほ》り|込《こ》み、|生命《いのち》をとるやうに|致《いた》したは|此《この》|方《はう》が|計画《たくらみ》、もうかうなる|上《うへ》は|何《なに》も|彼《か》も|言《い》つてやらう。|尻《しり》から|見《み》えた|尾《を》は、|即《すなは》ち|汝《なんぢ》が|弟《おとうと》|秋男《あきを》の|髪《かみ》の|毛《け》、|小百合《さゆり》と|名告《なの》る|女《をんな》の|尻《しり》にはさんだ|尻尾《しりを》は|其方《そち》が|弟《おとうと》の|髪《かみ》だ、イヒヒヒヒ、てもさても|心地《ここち》よやなアー。|二人《ふたり》の|女《をんな》の|尻尾《しりを》は|出来《でき》たが、もう|二《ふた》つの|尻尾《しりを》が|要《い》るより、|今《いま》ここに|現《あら》はれて、|汝等《なんぢら》|兄弟《きやうだい》|二人《ふたり》の|生命《いのち》をとり、|二人《ふたり》が|乙女《をとめ》の|尻尾《しりを》となし、|自由自在《じいうじざい》の|妙術《めうじゆつ》を|使《つか》ふ|吾等《われら》が|計画《たくらみ》、てもさてもいぢらしいものだワイ、イヒヒヒヒ、|笑《わら》ひ|婆《ばば》アと|譏《そし》り|婆《ばば》、|瘧婆《おこりばば》に|泣婆《なきばば》と|四人《よにん》の|変装《へんさう》したのは、|汝《なんぢ》の|眼《め》には|美《うるは》しき|乙女《をとめ》と|見《み》せむ|為《ため》なり。てもさても|情《なさけ》なや、|最早《もはや》|二《ふた》つの|眼《まなこ》は|此《こ》の|世《よ》の|物《もの》ならず、|幽冥界《いうめいかい》に|旅立《たびだ》ち|致《いた》し、|表《おもて》から|見《み》れば|人間《にんげん》の|眼《め》と|見《み》ゆれども、|最早《もはや》|用《よう》をなさぬ|節穴《ふしあな》|同然《どうぜん》、てもさても|浅《あさ》ましや、この|方《はう》が|計略《けいりやく》にかかりしを|気《き》のつかぬ|大馬鹿者《おほばかもの》|奴《め》、|昨夜《さくや》|茂樹《しげき》の|森蔭《もりかげ》に、|汝等《なんぢら》|四人《よにん》の|眼《め》をくりだし、|木《き》の|節穴《ふしあな》と|入《い》れ|替《か》へた|吾等《われら》が|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|術《じゆつ》、|驚《おどろ》いたか、|往生《わうじやう》|致《いた》したか。イヒヒヒヒ、キヤハハハハ、キキキ|気《き》の|毒《どく》|千万《せんばん》、|愉快《ゆくわい》|千万《せんばん》』
|春男《はるを》、|夏男《なつを》はじめ|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》は|驚《おどろ》き、|各自《かくじ》|両眼《りやうがん》に|手《て》をやりて|調《しら》べ|見《み》れど、|別《べつ》に|節穴《ふしあな》にもあらず、|全《まつた》く|自分《じぶん》の|眼《まなこ》なるに、やつと|安心《あんしん》せしものの|如《ごと》く、|四人《よにん》は|期《き》せずして|天《あま》の|数歌《かずうた》を|従者《じうしや》と|共《とも》に、|天地《てんち》も|轟《とどろ》くばかり|大音声《だいおんじやう》に|宣《の》り|上《あ》げたり。|四人《よにん》の|乙女《をとめ》と|変《へん》じたる|曲鬼《まがおに》は、この|言霊《ことたま》に|辟易《へきえき》しけむ、|怪《あや》しき|悲鳴《ひめい》をあげながら、いづれともなく|逃《に》げ|去《さ》りける。
|不思議《ふしぎ》や、|月見ケ丘《つきみがをか》は、|闇《やみ》の|幕《まく》|俄《にはか》に|開《ひら》かれ、|大空《おほぞら》の|月《つき》は|皎々《かうかう》とかがやき|渡《わた》りけるにぞ、|一行《いつかう》は|丘《をか》の|上《うへ》に|立《た》ちて、|東南方《とうなんぱう》を|眺《なが》むれば、|新《あら》たに|生《うま》れたる|火《ひ》の|湖《みづうみ》、|際限《さいげん》もなく|展開《てんかい》し、|波《なみ》|静《しづ》かに|涼風《りやうふう》いたり、|月《つき》|星《ほし》の|影《かげ》を|浮《うか》べて|寂然《せきぜん》たりけり。
(昭和九・七・三〇 旧六・一九 於関東別院南風閣 内崎照代謹録)
第二〇章 |復命《かへりごと》〔二〇二四〕
|火《ひ》の|湖《みづうみ》の|中央《ちうあう》に|浮《うか》びたる|小《ちひ》さき|小島《こじま》を|秋男島《あきをじま》といふ。|火炎山《くわえんざん》の|陥落《かんらく》により、|熱湯《ねつたう》|吹《ふ》き|出《い》で、|忽《たちま》ち|百里《ひやくり》|四方《しはう》の|湖《みづうみ》となり、|其《その》|頂《いただき》の|僅《わづか》に|水上《すゐじやう》に|浮《うか》べる|島《しま》なりける。|茲《ここ》に|天変地異《てんぺんちい》のため、あらゆる|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》も、|水奔鬼《すいほんき》も、|大略《たいりやく》|滅亡《めつばう》したれども、|流石《さすが》に|執着《しふちやく》|深《ふか》き|意地《いぢ》|強《つよ》き|笑《わら》ひ|婆《ばば》、|譏《そし》り|婆《ばば》、|瘧婆《おこりばば》、|泣婆《なきばば》は|辛《から》うじて|此《この》|島《しま》に|取付《とりつ》き、|此処《ここ》を|唯一《ゆいつ》の|棲処《すみか》とし、あらゆる|暴虐《ぼうぎやく》を|振舞《ふるま》はむとたくらみ|居《ゐ》たりけるが、|噴火口《ふんくわこう》に|飛入《とびい》りて|白骨《はつこつ》となり|居《を》りし|秋男《あきを》の|霊《れい》は|此《この》|島《しま》に|止《とどま》り、|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》、|桜《さくら》と|共《とも》に|島《しま》の|司《つかさ》となり|居《ゐ》たりしが、|水奔鬼《すいほんき》の|面々《めんめん》は、|秋男《あきを》のある|限《かぎ》り|其《その》|暴状《ぼうじやう》を|逞《たくまし》うするに|由《よし》なきを|恐《おそ》れ、|如何《いか》にもして|秋男《あきを》を|亡《ほろ》ぼさむものと、|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なく|決戦《けつせん》をつとめて|居《ゐ》る。|秋男《あきを》は|休息《きうそく》したる|火炎山《くわえんざん》の|火口《くわこう》に|身《み》を|潜《ひそ》めながら、|此処《ここ》を|堅城鉄壁《けんじやうてつぺき》と|頼《たの》み、|頻《しきり》に|言霊《ことたま》を|打出《うちだ》しける。|水奔鬼《すいほんき》はいやらしき|言霊《ことたま》を|以《もつ》て|秋男《あきを》|一行《いつかう》の|精霊《せいれい》を|濁《にご》し|亡《ほろ》ぼさむと、あらゆる|手段《てだて》を|尽《つく》しける。|秋男島《あきをじま》は|水面《すゐめん》より|最頂上《さいちやうじやう》と|雖《いへど》も|百間《ひやくけん》ばかりなりければ、|水奔鬼《すいほんき》は|笑《わら》ひ|婆《ばば》を|先頭《せんとう》に、|火口《くわこう》の|周囲《しうゐ》を|取巻《とりま》き、|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なく、|連続的《れんぞくてき》に|濁《にご》れる|言霊《ことたま》を|吐出《はきだ》すこそ|嘆《うた》てけれ。
|笑《わら》ひ|婆《ばば》は|火口《くわこう》の|壁内《へきない》を|覗《のぞ》き、|大口《おほぐち》を|開《あ》けて|眼《め》を|釣上《つりあ》げながら、
『アハハハハ、イヒヒヒヒ、ウフフフフ、エヘヘヘヘ
オホホホホおのれ|秋男《あきを》の|餓鬼《がき》どもよ
|早《はや》く|立去《たちさ》れ|此《この》|島ケ根《しまがね》を
ギヤハハハハ|此《この》|島ケ根《しまがね》は|火炎山《くわえんざん》の
|頂《いただき》なれば|吾《わが》|棲処《すみか》なり
|何時《いつ》までも|立退《たちの》かざれば|此《この》|婆《ばば》が
|鬼《おに》を|集《あつ》めて|攻《せ》め|殺《ころ》すべし
|足許《あしもと》の|明《あか》るい|間《うち》に|早《はや》|帰《かへ》れ
|此《この》|浮島《うきじま》には|住《す》まはせぬぞや
|其《その》|方《はう》の|供《とも》か|知《し》らねど|松《まつ》、|竹《たけ》や
|梅《うめ》と|桜《さくら》はつまらぬ|餓鬼《がき》ぞや
この|方《はう》の|罠《わな》に|陥《おちい》り|身《み》|亡《う》せたる
|餓鬼《がき》の|住《す》むべき|島《しま》でないぞや
|何時《いつ》までもしぶとう|居《を》るなら|居《を》つてみよ
|又《また》|火《ひ》を|吐《は》きて|殺《ころ》してやるぞや
|此《この》|島《しま》は|今《いま》は|静《しづ》かに|眠《ねむ》れども
|今《いま》に|火《ひ》を|出《だ》す|恐《おそ》ろしき|島《しま》よ
|其《その》|方《はう》の|弱《よわ》きみたまの|力《ちから》もて
|住《す》めると|思《おも》ふは|浅《あさ》はかなるぞや』
|秋男《あきを》は|憤然《ふんぜん》として|歌《うた》ふ。
『|火炎山《くわえんざん》|湖《うみ》となりしも|吾《わが》|宣《の》れる
|生言霊《いくことたま》のしるしと|知《し》らずや
|国津神《くにつかみ》の|数多《あまた》の|生命《いのち》を|奪《うば》ひたる
|汝《なれ》を|亡《ほろ》ぼす|時《とき》は|来《き》にけり
|玉《たま》の|緒《を》のみたまの|生命《いのち》|惜《を》しければ
|少《すこ》しも|早《はや》く|島《しま》を|立《た》ち|去《さ》れ
|汚《けが》れたる|息《いき》を|吐《は》き|出《だ》し|島ケ根《しまがね》を
|穢《けが》さむとする|憎《にく》らしき|婆《ばば》』
|譏《そし》り|婆《ばば》は|笑《わら》ひ|婆《ばば》の|言霊戦《ことたません》を|手緩《てぬる》しと|思《おも》ひしか、すつくと|立《た》ち、|旧火口《きうくわこう》の|壁《かべ》に|寄添《よりそ》ひながら、
『ギヤハハハハ|腰抜野郎《こしぬけやらう》の|秋男《あきを》の|餓鬼《がき》よ
|生命《いのち》|惜《を》しくば|此《この》|場《ば》を|立去《たちさ》れ
|聞《き》かざれば|聞《き》くやうにして|聞《き》かすぞや
|譏《そし》り|婆《ばば》アの|力《ちから》|限《かぎ》りに
|兎《と》も|角《かく》も|此《この》|島ケ根《しまがね》は|吾々《われわれ》の
|永遠《とは》の|棲処《すみか》ぞ|早《はや》く|去《さ》れ|去《さ》れ
どうしても|島《しま》を|去《さ》らねば|水奔鬼《すいほんき》
|数多《あまた》|集《あつ》めて|悩《なや》まし|呉《く》れむ
|鬼《おに》よ|鬼《おに》よ|集《あつ》まれ|来《きた》れ|此《この》|餓鬼《がき》が
|生命《いのち》|取《と》るまで|詰《つ》め|寄《よ》せ|来《きた》れ』
|斯《か》く|歌《うた》ふや|島《しま》|全体《ぜんたい》より、|大河《たいが》の|堤防《ていばう》の|崩《くづ》れたる|如《ごと》く|怪音《くわいおん》|轟《とどろ》き|来《きた》り、|耳《みみ》を|聾《ろう》せむばかりの|光景《くわうけい》とはなりぬ。
|斯《か》かる|処《ところ》へ|天《あま》の|鳥船《とりふね》|御空《みそら》を|高《たか》く|轟《とどろ》かせながら、|秋男島《あきをじま》の|平坦《へいたん》なる|砂地《めうち》に|悠々《いういう》と|舞《ま》ひ|降《くだ》り、|中《なか》より|現《あらは》れしは|御樋代神《みひしろがみ》に|仕《つか》へたる|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》、|国生男《くにうみを》の|神《かみ》を|始《はじ》めとし、|精霊界《せいれいかい》に|入《い》れる|秋男《あきを》が|弟《おとうと》|冬男《ふゆを》|及《およ》び|熊公《くまこう》、|虎公《とらこう》、|山《やま》、|川《かは》、|海《うみ》の|精霊《せいれい》|一行《いつかう》|及《およ》び、|水上山《みなかみやま》の|聖場《せいぢやう》より|弟《おとうと》の|所在《ありか》を|探《たづ》ねて|出発《しゆつぱつ》したる|春男《はるを》、|夏男《なつを》を|始《はじ》め、|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》、|其《その》|他《ほか》|数多《あまた》の|従者《じうしや》にてありければ、|水奔鬼《すいほんき》の|司《つかさ》も|此処《ここ》ぞ|一生懸命《いつしやうけんめい》と、|死力《しりよく》を|尽《つく》して|戦《たたか》ふべく|汀《みぎは》に|集《あつ》まり、|鬨《とき》の|声《こゑ》を|揚《あ》げつつ|示威運動《じゐうんどう》を|試《こころ》みて|居《ゐ》る。
|秋男《あきを》は|之《これ》を|見《み》るより|歓天喜地《くわんてんきち》、|霊《たま》の|身《み》の|置《お》き|処《どころ》も|知《し》らず、|忽《たちま》ち|火口《くわこう》より|四人《よにん》の|従者《じうしや》を|引連《ひきつ》れ|降《くだ》り|来《きた》り、|二柱《ふたはしら》の|前《まへ》に|遠来《ゑんらい》の|苦労《くらう》を|謝《しや》し、|且《かつ》|弟《おとうと》の|精霊《せいれい》や|二人《ふたり》の|兄《あに》|及《およ》び|従神等《じうしんたち》に|面会《めんくわい》したる|嬉《うれ》しさに、|吾《われ》を|忘《わす》れて|踊《をど》り|狂《くる》ひつつ|歌《うた》ふ。
『あら|尊《たふと》|御樋代神《みひしろがみ》の|御脇立《おわきだち》
|二柱神《ふたはしらがみ》は|天降《あも》りましけり
|吾《われ》|今《いま》は|精霊界《せいれいかい》にありながら
|神《かみ》の|出《い》でまし|拝《をが》みて|生《い》きぬ
|吾《わが》|魂《たま》は|生《い》き|栄《さか》えたり|二柱《ふたはしら》の
|神《かみ》の|天降《あも》りの|御光《みかげ》|拝《をが》みて』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|葭原《よしはら》の|国土《くに》の|災《わざはひ》|救《すく》はむと
|高光山《たかみつやま》へ|渡《わた》り|来《こ》しはや
|鳥船《とりふね》に|乗《の》りて|大空《おほぞら》かけりつつ
|忍ケ丘《しのぶがをか》に|先《ま》づ|天降《あも》りたり』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|忍ケ丘《しのぶがをか》に|下《くだ》りて|見《み》れば|汝《な》が|弟《おとうと》
|冬男《ふゆを》|精霊《せいれい》となりて|住《す》みけり
|水奔鬼《すいほんき》|笑《わら》ひ|婆《ばば》アの|謀計《たばかり》に
あはれ|冬男《ふゆを》は|生命《いのち》|捨《す》てしよ
|汝《なれ》も|亦《また》|笑《わら》ひ|婆《ばば》アや|譏《そし》り|婆《ばば》の
たくみに|生命《いのち》|亡《う》せしか|愛《いと》し』
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|有難《ありがた》し|二柱神《ふたはしらがみ》の|出《い》でましに
|此《この》|島ケ根《しまがね》は|安《やす》く|栄《さか》えむ』
|冬男《ふゆを》は|歌《うた》ふ。
『|恋《こ》ひ|慕《した》ふ|吾《わが》|兄上《あにうへ》も|精霊《せいれい》の
|世界《せかい》に|入《い》りしと|思《おも》へばかなしき
さりながら|此《この》|島ケ根《しまがね》に|吾《わが》|兄《あに》に
|会《あ》ふは|神《かみ》の|恵《めぐみ》なりける
|吾《わが》|兄《あに》の|春男《はるを》、|夏男《なつを》の|御姿《みすがた》を
|今《いま》|目《め》の|前《まへ》に|見《み》るは|嬉《うれ》しき』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『|御後《おんあと》を|慕《した》ひ|来《きた》りつつ|此《この》|島《しま》に
|亡《な》き|若王《わかぎみ》に|会《あ》ふは|嬉《うれ》しき
|今《いま》は|世《よ》に|亡《な》き|君《きみ》ながら|嬉《うれ》しもよ
|精霊界《せいれいかい》に|輝《かがや》き|給《たま》へば』
|瀬音《せおと》は|歌《うた》ふ。
『|巌ケ根《いはがね》の|君《きみ》の|御言《みこと》を|被《かがふ》りて
|君《きみ》に|会《あ》はむと|探《たづ》ね|来《き》つるも
|神々《かみがみ》の|厚《あつ》き|恵《めぐ》みに|此《この》|島《しま》の
|磯辺《いそべ》に|君《きみ》に|会《あ》ふは|嬉《うれ》しき』
|春男《はるを》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|父《ちち》の|御言《みこと》|重《おも》しと|来《き》て|見《み》れば
|弟《おとうと》は|既《すで》に|鬼《おに》となりしよ
|水奔鬼《すいほんき》に|生命《いのち》|取《と》られし|弟《おとうと》と
|思《おも》へばかなしき|吾《われ》なりにけり』
|夏男《なつを》は|歌《うた》ふ。
『うつせみの|吾《われ》|弟《おとうと》に|会《あ》ひぬれど
|何《なに》か|一《ひと》つの|淋《さび》しみを|覚《おぼ》ゆ
さりながら|霊魂《たま》の|生命《いのち》は|永遠《とは》に|生《い》くと
|聞《き》きて|心《こころ》をなぐさみにけり
|父上《ちちうへ》が|此《こ》のありさまを|聞《き》きまさば
|歎《なげ》き|給《たま》はむと|思《おも》へば|悲《かな》し
|天津神《あまつかみ》の|天《あま》の|鳥船《とりふね》にたすけられ
|汝《なれ》に|会《あ》はむと|渡《わた》り|来《き》にけり』
|秋男《あきを》は|歌《うた》ふ。
『|有難《ありがた》し|吾《わが》|兄《あに》と|兄《あに》のやさしかる
|心《こころ》を|聞《き》きて|吾《われ》|蘇《よみがへ》る
|幽世《かくりよ》の|生命《いのち》は|長《なが》し|吾《わが》|父《ちち》に
|告《つ》げさせ|給《たま》へ|安《やす》く|住《す》めりと
|二柱《ふたはしら》|神《かみ》よ|願《ね》ぎごと|聞食《きこしめ》せ
|四人《よにん》の|婆《ばば》を|吾《われ》は|征討《きた》めむ
|力《ちから》なき|吾《われ》を|救《すく》ひて|鬼婆《おにばば》を
|征討《きた》め|給《たま》はれ|神国《みくに》の|為《ため》に』
|茲《ここ》に|二柱神《ふたはしらがみ》は|頂上《ちやうじやう》に|登《のぼ》り|立《た》ち、|声《こゑ》も|清《すが》しく|天《あま》の|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》し|給《たま》ふや、さしもに|強《つよ》き|水奔鬼《すいほんき》の|笑《わら》ひ、|瘧《おこり》、|譏《そし》り、|泣《なき》の|婆司《ばばつかさ》は、|言霊《ことたま》に|打《う》たれて|創痍《さうい》を|満身《まんしん》に|受《う》け、|生命《いのち》からがら、|湖城《こじやう》を|逃《に》げ|去《さ》りしが、|終《つひ》に|力《ちから》|尽《つ》きて|熱湯《ねつたう》の|湖水《こすい》に|陥《おちい》り、|全滅《ぜんめつ》なしたるぞ|目出度《めでた》けれ。
|天津神《あまつかみ》|二柱《ふたはしら》|島《しま》に|現《あ》れまして
|生言霊《いくことたま》に|曲津《まが》を|退《やら》へり
|冬男《ふゆを》、|秋男《あきを》|二人《ふたり》は|精霊《せいれい》となりぬれど
|神《かみ》の|力《ちから》にみたま|生《い》き|居《を》り
うつそみの|二人《ふたり》の|兄《あに》に|巡《めぐ》り|会《あ》ひ
|蘇《よみがへ》りたる|心地《ここち》なしける
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|鳥船《とりふね》|空《そら》|高《たか》く
|一行《いつかう》を|乗《の》せて|送《おく》り|給《たま》へり
|冬男《ふゆを》|等《ら》は|忍ケ丘《しのぶがをか》に|送《おく》られぬ
|春男《はるを》、|夏男《なつを》は|水上《みなかみ》に|帰《かへ》る
|秋男《あきを》|等《ら》は|四《よ》つのみたまと|相共《あひとも》に
|秋男《あきを》の|島《しま》の|主《あるじ》となりけり
|鳥船《とりふね》の|翼《つばさ》を|摶《う》ちて|二柱《ふたはしら》は
|御樋代神《みひしろがみ》に|復命《かへりごと》せり
|空《そら》の|海《うみ》|渡《わた》りてここに|二柱《ふたはしら》
|御樋代神《みひしろがみ》に|具《つぶさ》に|報《ほう》ぜり
|葭原《よしはら》の|曲津《まが》は|大方《おほかた》|亡《ほろ》びたれど
|水奔草《すいほんさう》の|災《わざはひ》やまず
|猛獣《まうじう》や|大蛇《をろち》|毒虫《どくむし》はびこりて
|葭原《よしはら》の|国土《くに》は|未《いま》だ|造《つく》れず。
附言
|春男《はるを》、|夏男《なつを》に|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》|其《その》|他《た》の|従者等《じうしやたち》は、|一人《ひとり》も|生命《いのち》を|落《おと》すものなく、|無事《ぶじ》|神《かみ》の|助《たす》けにより、|水上山《みなかみやま》に|復命《ふくめい》し、|二人《ふたり》の|弟《おとうと》の|身《み》の|成行等《なりゆきなど》を|具《つぶさ》に|神前《しんぜん》に|報告《はうこく》し、|父《ちち》の|巌ケ根《いはがね》にも|一伍一什《いちぶしじふ》を|物語《ものがたり》りければ、|巌ケ根《いはがね》も|神恩《しんおん》の|深《ふか》きに|落涙《らくるゐ》し、|朝夕《あさゆふ》|神前《しんぜん》に|差籠《さしこも》りて|感謝祝詞《ゐやひのりと》の|奏上《そうじやう》に|熱中《ねつちう》したりける。
|次《つぎ》に|秋男《あきを》は|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》、|桜《さくら》と|共《とも》に|湖中《こちう》の|浮島《うきじま》を|秋男島《あきをじま》と|命名《なづ》け、|此処《ここ》に|永遠《とは》の|住家《すみか》を|営《いとな》み、|湖中《こちう》の|神《かみ》として、|往来《ゆきき》の|船《ふね》や|漁夫等《ぎよふたち》を|永遠《えいゑん》に|守《まも》る|事《こと》とはなりぬ。|又《また》|冬男《ふゆを》は|忍ケ丘《しのぶがをか》に|熊公《くまこう》、|虎公《とらこう》|及《およ》び|山《やま》、|川《かは》、|海《うみ》の|精霊《せいれい》と|共《とも》に|永久《とこしへ》に|鎮《しづ》まり、|霊界《れいかい》より|葭原国《よしはらぐに》の|栄《さか》えを|守《まも》り、|悪魔《あくま》を|亡《ほろ》ぼす|神《かみ》として|永遠《えいゑん》に|国人《くにびと》より|尊敬《そんけい》さるる|事《こと》となりにける。あなかしこ。
(昭和九・七・三〇 旧六・一九 於関東別院南風閣 森良仁謹録)
第二一章 |青木ケ原《あをきがはら》〔二〇二五〕
|葭原《よしはら》の|国土《くに》を|東西《とうざい》に|画《くわく》したる|中央山脈《ちうあうさんみやく》の|最高峯《さいかうほう》|高光山《たかみつやま》の|聖場《せいぢやう》には、|常《つね》に|紫《むらさき》の|瑞雲《ずゐうん》|棚引《たなび》き、|風《かぜ》|清《きよ》く、|植物《しよくぶつ》も|高地《かうち》に|似《に》ず、|神徳《しんとく》に|浴《よく》して|繁茂《はんも》し、|四方《よも》の|国形《くにがた》を|瞰下《かんか》し|得《う》る|最勝最妙《さいしようさいめう》の|霊地《れいち》なり。この|地点《ちてん》を|青木ケ原《あをきがはら》と|称《しよう》し、|八百万《やほよろづ》の|神等《かみたち》ここに|集《あつま》りて|政《まつりごと》に|仕《つか》ふ。
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|青木ケ原《あをきがはら》の|神苑《しんゑん》を|逍遥《せうえう》しながら|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|久方《ひさかた》の|高日《たかひ》の|宮《みや》を|立《た》ち|出《い》でて
ここに|三年《みとせ》を|過《す》ぎにけるかな
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|出《い》でましおそければ
|吾《われ》いたづらに|年《とし》|経《へ》むとする
|葭原《よしはら》を|統《す》べ|守《まも》るべき|君《きみ》なくば
あらぶる|神《かみ》をいかに|治《をさ》めむ
|予讃《よさ》の|国《くに》の|中心《なかご》に|立《た》てる|火炎山《くわえんざん》は
|焔《ほのほ》と|共《とも》に|消《き》え|失《う》せにける
|見渡《みわた》せば|火炎《くわえん》の|山《やま》の|跡《あと》|白《しろ》く
|湖《うみ》となりしか|波《なみ》かがよへり
|予讃《よさ》の|国《くに》に|吾《われ》|遣《つか》はせし|二柱《ふたはしら》
いまだ|帰《かへ》らず|心《こころ》もとなし
|主《ス》の|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》の|深《ふか》ければ
|功《いさを》を|立《た》ててやがて|帰《かへ》らむ
|目路《めぢ》の|限《かぎ》り|葭草《よしぐさ》|醜草《しこぐさ》|茂《しげ》り|合《あ》ふ
これの|国原《くにはら》|如何《いか》に|開《ひら》かむ
|国津神《くにつかみ》は|山々《やまやま》の|裾《すそ》に|住《す》まひつつ
|平野《ひらの》は|葭《よし》と|醜草《しこぐさ》|茂《しげ》らふ
この|広《ひろ》き|醜草《しこぐさ》|生《お》へる|野《の》を|開《ひら》き
|五穀《たなつもの》など|植《う》ゑひろめたき』
|斯《か》く|歌《うた》ひつつ|苑内《ゑんない》を|逍遥《せうえう》し|給《たま》ふ|折《をり》もあれ、|庭《には》の|樹蔭《こかげ》に|小児《せうに》を|抱《いだ》きて|子守唄《こもりうた》を|歌《うた》ひながら、|子心比女《こごころひめ》の|神《かみ》は|此方《こなた》に|向《むか》つて|静《しづ》かに|進《すす》み|来《きた》る。
|子心比女《こごころひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|坊《ばう》やはよい|子《こ》ぢやねんねしな
|坊《ばう》やのお|守《もり》はどこへいた
|山《やま》を|越《こ》えて|野《の》を|越《こ》えて
|川《かは》を|渡《わた》りて|旅《たび》に|出《で》た
|旅《たび》の|行《ゆ》く|先《さき》やいづこぞや
|水上山《みなかみやま》の|聖場《せいぢやう》へ
|水上山《みなかみやま》の|故郷《ふるさと》の
|里《さと》のみやげに|何《なに》もろた
でんでん|太鼓《たいこ》に|笙《しやう》の|笛《ふえ》
ねんねんねんねんねんねしな』
と|身体《からだ》を|左右《さいう》にふり、|竜彦《たつひこ》の|養育《やういく》に|余念《よねん》なかりける。|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》はこの|体《てい》を|見《み》て、
『|子心比女《こごころひめ》|神《かみ》の|真心《まごころ》やさしけれ
|竜彦《たつひこ》のきみを|育《はぐく》みますも
この|御子《みこ》は|竜《たつ》の|御腹《みはら》ゆ|生《あ》れませば
|賢《さか》しき|御子《みこ》よ|美《うま》しき|御子《みこ》よ
この|御子《みこ》は|育《そだ》てによりてよくもなり
|悪《あ》しくもなるべき|性《さが》をもつなり
|朝夕《あさゆふ》に|肌身《はだみ》|放《はな》さず|育《はぐく》みて
|国《くに》の|司《つかさ》と|照《てら》させ|給《たま》へ』
|子心比女《こごころひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『ありがたし|御樋代神《みひしろがみ》の|御言葉《おんことば》
|吾《われ》|謹《つつし》みて|仕《つか》へ|奉《まつ》らむ
|朝空男《あさぞらを》、|国生男《くにうみを》の|神《かみ》|鳥船《とりふね》は
いかがなりしか|聞《き》かまほしけれ
|西《にし》の|空《そら》とほく|眼《まなこ》を|見渡《みわた》せば
くろき|一《ひと》つの|影《かげ》の|浮《うか》べる
かすかなる|雲《くも》の|黒影《くろかげ》は|二柱《ふたはしら》の
|乗《の》りて|帰《かへ》らす|鳥船《とりふね》ならずや』
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は、|遠《とほ》く|西空《にしぞら》をふりさけ|見《み》ながら、
『かすかなる|影《かげ》は|次々《つぎつぎ》|近《ちか》み|来《き》ぬ
|正《まさ》しく|天《あま》の|鳥船《とりふね》なるべし
|予讃《よさ》の|国土《くに》の|禍《わざは》ひ|鎮《しづ》めて|二柱《ふたはしら》
|復命《かへりごと》すと|勇《いさ》み|来《きた》るも』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しもあれ、|急速力《きふそくりよく》を|以《もつ》て|二柱《ふたはしら》の|乗《の》れる|鳥船《とりふね》は、|青木ケ原《あをきがはら》の|広場《ひろば》に|鳩《はと》の|如《ごと》くに|着陸《ちやくりく》せり。
この|聖地《せいち》に|仕《つか》ふる|数多《あまた》の|神々《かみがみ》は、|二神《にしん》の|無事《ぶじ》|帰《かへ》りしを|欣喜雀躍《きんきじやくやく》し、「ウオーウオー」と|叫《さけ》ぶ|声《こゑ》、|高光山《たかみつやま》も|割《わ》るるばかりのどよめきなりける。
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|二神《にしん》の|側《そば》|近《ちか》く|進《すす》ませ|給《たま》ひ、
『|久方《ひさかた》の|空《そら》を|翔《かけ》りて|帰《かへ》りてし
|汝《なれ》|二柱《ふたはしら》の|功績《いさをし》を|思《おも》ふ』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は、|先《ま》づ|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》の|御前《みまへ》に|最敬礼《さいけいれい》をほどこし|歌《うた》ふ。
『|比女神《ひめがみ》の|神言《みこと》|畏《かしこ》み|漸《やうや》くに
|今《いま》|復命《かへりごと》|白《まを》しけるかな
あれはてし|国形《くにがた》|見《み》つつ|驚《おどろ》きぬ
|葭草《よしぐさ》|醜草《しこぐさ》|生《お》ふる|予讃国《よさぐに》
|火炎山《くわえんざん》|地中《ちちう》に|深《ふか》く|陥没《かんぼつ》し
|火《ひ》の|湖《みづうみ》は|生《な》り|出《い》でにけり
|醜神《しこがみ》の|数多《あまた》|集《つど》ひし|予讃《よさ》の|国《くに》の
|天変地異《てんぺんちい》に|新《あらた》まり|初《そ》めぬ
さりながら|叢《くさむら》に|棲《す》む|鬼《おに》|大蛇《をろち》
|水奔鬼《すいほんき》|等《など》の|曲津《まが》はさかしも
|葭原《よしはら》の|国土《くに》の|光《ひか》りの|火炎山《くわえんざん》
|湖《うみ》となりしゆ|火《ひ》の|種《たね》なき|国《くに》
|如何《いか》にしてこの|国原《くにはら》に|火《ひ》の|種《たね》を
|求《もと》め|得《え》むかも|悟《さと》らせ|給《たま》へ』
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|今《いま》|暫《しば》し|時《とき》を|待《ま》つべし|火《ひ》の|種《たね》は
|天津御神《あまつみかみ》ゆ|授《さづ》け|給《たま》はむ』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《わが》|公《きみ》の|仰《おほ》せ|畏《かしこ》み|鳥船《とりふね》に
|乗《の》りて|国形《くにがた》|調査《しら》べ|来《こ》しはや
|百千里《ひやくせんり》|雲《くも》を|渡《わた》りて|予讃《よさ》の|国《くに》の
|忍ケ丘《しのぶがをか》に|安《やす》く|降《くだ》れり
|精霊《せいれい》の|生命《いのち》とられし|水上山《みなかみやま》
|巌根《いはね》が|伜《せがれ》と|語《かた》らひにけり
|巌ケ根《いはがね》の|伜《せがれ》|冬男《ふゆを》や|秋男《あきを》|等《ら》と
|語《かた》りて|悪魔《あくま》の|猛《たけ》び|悟《さと》りぬ
|葭原《よしはら》の|国土《くに》のあちこち|忍《しの》び|居《ゐ》る
|曲津《まがつ》|焼《や》かずば|治《をさ》まらじと|思《おも》ふ
|曲津神《まがかみ》を|焼《や》き|滅《ほろぼ》すは|主《ス》の|神《かみ》の
|御火《みひ》の|力《ちから》にしくものあらじ
|火《ひ》の|種《たね》を|奪《うば》はれむことを|恐《おそ》れみて
|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》は|護《まも》り|居《ゐ》しとふ
|火《ひ》の|種《たね》は|火炎《くわえん》の|山《やま》の|陥没《かんぼつ》に
|消《き》えて|影《かげ》さへ|見《み》えずなりけり』
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》はせ|給《たま》ふ。
『|雲枕《くもまくら》|御空《みそら》の|旅《たび》を|重《かさ》ねつつ
|功《いさを》を|立《た》てし|公《きみ》を|讃《たた》へむ
|国土《くに》|稚《わか》く|未《ま》だ|地《つち》やはく|葭原《よしはら》の
|国土《くに》のかためはただ|事《ごと》ならじ
|葭草《よしぐさ》や|水奔草《すいほんさう》を|焼《や》き|払《はら》ふ
|力《ちから》は|御火《みひ》に|勝《まさ》るものなし
|如何《いか》にして|御火《みひ》の|力《ちから》を|得《え》むものと
|百日百夜《ももかももよ》を|吾《われ》は|祈《いの》りつ
|百日日《ももかひ》の|禊《みそぎ》を|依《よ》せる|大御照《おほみてらし》の
|神《かみ》もやがてはここに|帰《かへ》らむ
|百日日《ももかひ》の|満《み》ちぬる|今日《けふ》を|勇《いさ》ましく
|凱旋《がいせん》したるは|目出度《めでた》かりけり
|大御照《おほみてらし》|神《かみ》もやがては|帰《かへ》るべし
|百日《ももか》の|禊《みそぎ》|今日《けふ》|満《み》ちぬれば』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|給《たま》ふ|折《をり》もあれ、|禊《みそぎ》の|神事《みわざ》を|了《を》へ|給《たま》ひ、|神《かみ》の|力《ちから》を|全身《ぜんしん》に|満《みた》して、|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は|溪間《たにま》の|雲《くも》を|分《わ》けて|青木ケ原《あをきがはら》の|聖場《せいぢやう》に|漸《やうや》く|帰《かへ》りつき|給《たま》ひ、|四柱《よはしら》の|神《かみ》の|御前《みまへ》に|慕《うやうや》しく|現《あら》はれ、|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|神言《みこと》をかうむりて
|百日《ももか》の|禊《みそぎ》|終《をは》り|帰《かへ》りぬ
|溪川《たにがは》の|清《きよ》き|清水《しみづ》に|禊《みそぎ》して
うつりゆく|世《よ》を|悟《さと》らひにけり
|水《みづ》と|火《ひ》の|力《ちから》によりて|葭原《よしはら》の
|地《つち》を|清《きよ》めむ|御心《みこころ》なりけり
|今《いま》|暫《しば》し|吾《われ》に|暇《いとま》をたまへかし
|御樋代神《みひしろがみ》を|迎《むか》へ|来《きた》らむ
|万里《まで》の|海《うみ》に|浮《うか》ばせ|給《たま》ふ|朝香比女《あさかひめ》は
|御火《みひ》をたまふとはつかに|悟《さと》りぬ
|松浦《まつうら》の|港《みなと》に|公《きみ》を|迎《むか》へつつ
|御火《みひ》の|力《ちから》を|借《か》らむと|思《おも》ふ』
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|八人乙女《やたりをとめ》の|御樋代神《みひしろがみ》の|朝香比女《あさかひめ》が
|出《い》でましあると|聞《き》けば|嬉《うれ》しき
|然《しか》あらば|大御照神《おほみてらしがみ》|先《さき》に|立《た》ち
|朝空男《あさぞらを》、|国生男神《くにうみをがみ》|従《したが》ひ|出《い》でませ』
|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|朝霧比女《あさぎりひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》に|従《したが》ひて
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》を|迎《むか》へ|来《きた》らむ
|大前《おほまへ》に|畏《かしこ》み|厳《いづ》の|言霊《ことたま》を
たたへ|終《をは》りて|直《ただ》に|進《すす》まむ
|百日日《ももかひ》の|禊《みそぎ》によりて|吾《わが》|魂《たま》は
|鏡《かがみ》の|如《ごと》く|透《す》きとほらへり
|朝空男《あさぞらを》、|国生男《くにうみを》の|神《かみ》|二柱《ふたはしら》
|吾《われ》に|添《そ》へさせ|給《たま》ふ|嬉《うれ》しさ』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|朝香比女《あさかひめ》|迎《むか》ふる|為《ため》に|鳥船《とりふね》を
|遣《つか》はせ|給《たま》へ|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》
|松浦《まつうら》の|港《みなと》は|遥《はる》か|遠《とほ》けれど
|吾《われ》|鳥船《とりふね》にのりて|進《すす》まむ』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|二柱《ふたはしら》|神《かみ》に|従《したが》ひ|松浦《まつうら》の
|港《みなと》に|下《くだ》ると|思《おも》へば|勇《いさ》まし
|久方《ひさかた》の|御空《みそら》|翔《かけ》ゆくいさましさ
|地上《ちじやう》の|神《かみ》と|思《おも》へざりけり
|予讃《よさ》の|国《くに》の|空《そら》を|渡《わた》りし|覚《おぼ》えあり
|松浦港《まつうらこう》へは|安《やす》く|降《くだ》らむ』
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|斯《か》くならば|三柱《みはしら》|急《いそ》ぎ|鳥船《とりふね》に
|乗《の》りて|進《すす》めよ|神《かみ》を|迎《むか》ふと』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》を|迎《むか》への|首途《かどで》として、|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|四柱《よはしら》の|司神《つかさがみ》を|始《はじ》め|数多《あまた》の|神々《かみがみ》を|率《ひき》ゐて、|青木ケ原《あをきがはら》の|中心《ちうしん》に|宮柱太《みやはしらふと》しく|立《た》てて|斎《いつ》き|奉《まつ》れる|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御前《みまへ》に、|沐浴斎戒《もくよくさいかい》して|種々《くさぐさ》の|供物《くもつ》を|献《けん》じ、|自《みづか》ら|斎主《さいしゆ》となり、|空中安全《くうちうあんぜん》の|祈願《きぐわん》を|始《はじ》め|給《たま》ふ。
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|四拍手《しはくしゆ》しながら、
『|掛巻《かけまく》も|畏《かしこ》き|此《これ》の|高光山《たかみつやま》の|下津岩根《したついはね》に|宮柱太《みやはしらふと》しく|立《た》てて、|千木高知《ちぎたかし》らし|鎮《しづ》まり|給《たま》ふ|主《ス》の|大神《おほかみ》の|大前《おほまへ》に、|斎主《いはひぬし》|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》、|謹《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|願《ね》ぎ|奉《たてまつ》らく。|大神《おほかみ》の|神言《みこと》|被《かがふ》り、|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》と|任《ま》けられ、|天津御空《あまつみそら》の|八重雲《やへくも》を|伊頭《いづ》の|千別《ちわき》に|千別《ちわき》て|高光山《たかみつやま》に|降《くだ》りてゆ、|早《はや》も|三年《みとせ》は|過《す》ぎにけり。|御樋代神《みひしろがみ》の|吾《われ》はも、|著《しる》き|功績《いさをし》も|立《た》てずして、|月日《つきひ》を|送《おく》る|苦《くる》しさに、|天《てん》に|跼《せぐくま》り|地《ち》に|蹐《ぬきあし》して|国土《くに》|安《やす》かれと|祈《いの》りけり。さはあれど|未《いま》だ|国土《くに》|稚《わか》く|地《つち》やはく、|曲津見《まがつみ》どもの|跳梁《てうりやう》にまかせ|切《き》りたる|葭原《よしはら》の|国土《くに》を|開《ひら》かむ|術《すべ》もなし。|主《ス》の|神《かみ》の|御水火《みいき》に|生《な》れる|御火《みひ》の|種《たね》、|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》の|心《こころ》の|真寸鏡《ますかがみ》に|写《うつ》ろふ|見《み》れば、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|珍《うづ》の|火種《ひだね》を|持《も》たせつつ|此《この》|国土《くに》に|渡《わた》らすとはつかに|聞《き》きし|嬉《うれ》しさに、|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》|始《はじ》めとし、|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》、|国生男《くにうみを》の|神《かみ》を|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|許《もと》に|遣《つか》はし|迎《むか》へ|奉《まつ》ると|思《おも》ふが|故《ゆゑ》に、|天《あま》の|鳥船《とりふね》を|堅《かた》らかに|造《つく》り|終《を》へて、|三柱《みはしら》を|乗《の》せ|遣《つか》はす|今日《けふ》の|日《ひ》の|吾《わが》|願《ね》ぎ|事《ごと》を|聞《きこ》し|召《め》し、|怪《あや》しき|雲《くも》の|空《そら》|行《ゆ》くも、|禍《あやま》ちあらず|安々《やすやす》と、|長《なが》き|年月《としつき》|松浦《まつうら》の|港《みなと》に|光《ひか》らす|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|一行《いつかう》を、|無事《ぶじ》に|高光《たかみつ》の|山《やま》の|聖所《すがど》に|導《みちび》かせ|給《たま》へと、|鹿児自物《かごじもの》|膝折伏《ひざをりふ》せ|宇自物《うじもの》|頸根突貫《うなねつきぬ》きて|恐《かしこ》み|恐《かしこ》みも|願《ね》ぎ|奉《まつ》る。ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》、|生言霊《いくことたま》に|光《ひかり》あれ、|吾《わが》|言霊《ことたま》に|力《ちから》あれ』
|斯《か》くて|祭典《さいてん》は|無事《ぶじ》|終了《しうれう》し、|三柱《みはしら》の|神《かみ》はここに|身《み》を|清《きよ》め|鳥船《とりふね》に|乗《じやう》じて、|伊頭《いづ》の|八重雲《やへくも》をかき|分《わ》けて|松浦《まつうら》の|港《みなと》に|向《むか》ひ|航空《かうくう》することとなりぬ。
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|待《ま》ちわびし|今日《けふ》の|生日《いくひ》の|目出度《めでた》さよ
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》を|迎《むか》ふと|思《おも》へば
|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》のその|中《なか》に
|殊《こと》に|雄々《をを》しき|朝香比女《あさかひめ》かも
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》の|出《い》でまさば
この|葭原《よしはら》の|国土《くに》は|安《やす》けむ
|主《ス》の|神《かみ》に|朝夕《あしたゆふべ》を|祈《いの》りたる
|験《しるし》かがよふ|今日《けふ》は|目出度《めでた》き
いざさらば|雲路《くもぢ》|安《やす》けく|出《い》でませよ
|吾《われ》は|御前《みまへ》に|祈《いの》りつづけむ』
|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神言《みこと》|畏《かしこ》み|出《い》でゆかむ
|生言霊《いくことたま》に|雲路《くもぢ》|安《やす》けむ
|雲《くも》の|谷雲《たにくも》の|川《かは》をば|横《よこ》ぎりて
|港《みなと》に|進《すす》まむ|守《まも》らせ|給《たま》へ
|大空《おほぞら》の|雲《くも》の|峰《みね》をば|打《う》ち|渡《わた》り
|天《あま》の|河原《かははら》|渡《わた》らひ|行《ゆ》かむ
|鷲《わし》も|鷹《たか》も|百鳥千鳥《ももどりちどり》も|目《め》の|下《した》に
ながめて|渡《わた》る|空《そら》の|雄々《をを》しさ』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|天津日《あまつひ》の|輝《かがや》き|渡《わた》る|朝空《あさぞら》を
|進《すす》む|吾等《われら》は|鳳凰《おほとり》なるよ
|鳥船《とりふね》の|翼《つばさ》|堅《かた》らに|造《つく》りあれば
|心《こころ》|安《やす》けく|進《すす》まむと|思《おも》ふ
|主《ス》の|神《かみ》の|御火《みひ》より|湧《わ》ける|雲《くも》なれば
|空《そら》の|旅路《たびぢ》も|安《やす》けかるべし』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》も|亦《また》|二柱神《ふたはしらがみ》に|従《したが》ひて
|天津御空《あまつみそら》をかき|分《わ》け|進《すす》まむ
ポケツトは|数多《あまた》ありともこの|船《ふね》は
いや|堅《かた》ければ|安《やす》く|進《すす》まむ
はてしなき|大野《おほの》の|上《うへ》を|限《かぎ》りなき
|御空《みそら》の|雲《くも》を|見《み》つつ|行《ゆ》くなり
いざさらば|高光山《たかみつやま》の|聖場《せいぢやう》を
|伏《ふ》し|拝《をが》みつつ|渡《わた》りゆくべし』
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|三柱《みはしら》の|神《かみ》の|雲路《くもぢ》の|旅《たび》|行《ゆ》きを
|今《いま》や|送《おく》らむこの|清庭《すがには》に
|三柱《みはしら》の|神《かみ》よ|安《やす》けく|渡《わた》りませ
|神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《みわざ》と|思《おも》ひて』
|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『いざさらば|青木ケ原《あをきがはら》の|聖場《せいぢやう》を
|立《た》ちて|進《すす》まむ|松浦港《まつうらこう》へ』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|終《をは》り、|三柱《みはしら》は|天《あま》の|鳥船《とりふね》に|身《み》を|托《たく》して|空中《くうちう》|高《たか》く|昇《のぼ》らせ|給《たま》ふや、これの|神苑《みその》に|仕《つか》へ|侍《はべ》る|百神等《ももがみたち》は、「ウオーウオー」の|鯨波《とき》を|造《つく》りて、|勇《いさ》ましきこの|首途《かどで》を|送《おく》りける。
(昭和九・七・三一 旧六・二〇 於関東別院南風閣 谷前清子謹録)
第二二章 |迎《むか》への|鳥船《とりふね》〔二〇二六〕
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|一行《いつかう》は、|歎《なげ》かひの|島《しま》に|打《う》ち|渡《わた》り、|国津神《くにつかみ》に|燧石《ひうち》を|授《さづ》け、|荒《あ》れ|果《は》てし|国原《くにはら》を|隈《くま》なく|拓《ひら》かせ、|歓《ゑら》ぎの|島《しま》と|改《あらた》めつつ、|再《ふたた》び|駒《こま》|諸共《もろとも》|御船《みふね》に|乗《の》り、|万里《まで》の|島ケ根《しまがね》を|右《みぎ》に|左《ひだり》に|漕《こ》ぎ|渡《わた》りつつ、|万里《まで》の|海原《うなばら》の|中《なか》にて、|広袤《くわうばう》|第一《だいいち》と|聞《きこ》えたる、|葭原《よしはら》の|国土《くに》の|東海岸《ひがしかいがん》なる|松浦《まつうら》の|港《みなと》に、|真昼頃《まひるごろ》|漸《やうや》く|着《つ》かせ|給《たま》ひ、|磯辺《いそべ》に|船《ふね》を|横《よこ》たへて、|初頭比古《うぶがみひこ》の|神《かみ》、|起立比古《おきたつひこ》の|神《かみ》、|立世比女《たつよひめ》の|神《かみ》、|天晴比女《あめはれひめ》の|神《かみ》の|四柱《よはしら》と|共《とも》に|上陸《じやうりく》し、|老松《らうしよう》|生《お》ひ|茂《しげ》る|磯辺《いそべ》の|波打際《なみうちぎは》を、|心地《ここち》よげに|見《み》はるかしながら|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|顕津男《あきつを》の|神《かみ》に|会《あ》はむと|山川《やまかは》や
|海原《うなばら》|渡《わた》り|此処《ここ》に|来《き》つるも
|打《う》ち|寄《よ》する|磯辺《いそべ》の|波《なみ》の|白々《しらじら》と
|日《ひ》に|輝《かがや》けるさまの|清《すが》しき
|八千尋《やちひろ》の|底《そこ》ひも|知《し》らぬ|波《なみ》の|上《へ》を
|安《やす》く|渡《わた》りて|此処《ここ》に|着《つ》きぬる
|常磐樹《ときはぎ》の|蔭《かげ》に|憩《いこ》へば|海《うみ》を|吹《ふ》く
|風《かぜ》の|響《ひび》きのさわやかなるかな
|御子生《みこう》みの|業《わざ》を|思《おも》ひて|朝夕《あさゆふ》を
われは|苦《くる》しき|旅《たび》にたつかな
この|島《しま》は|葭草《よしぐさ》|茂《しげ》り|曲津神《まがかみ》は
あなたこなたに|潜《ひそ》まへるらし
この|島《しま》は|朝霧比女《あさぎりひめ》の|知食《しろしめ》す
|聖所《すがど》と|思《おも》へば|何《なに》か|嬉《うれ》しき
|天津日《あまつひ》は|松《まつ》の|梢《こずゑ》にかかりつつ
われに|涼《すず》しきかげをたまへり』
|初頭比古《うぶがみひこ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『わが|公《きみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へて|種々《くさぐさ》の
|貴《うづ》の|功《いさを》を|仰《あふ》ぎけるかな
|波《なみ》の|音《おと》|松《まつ》の|響《ひびき》もわが|公《きみ》の
|功《いさを》を|清《きよ》く|称《たた》ふべらなる
|曲津見《まがつみ》の|右《みぎ》や|左《ひだり》にあれ|狂《くる》ふ
|山川海《やまかはうみ》をわたり|来《こ》し|公《きみ》
|万世《よろづよ》の|末《すゑ》の|末《すゑ》まで|輝《かがや》かむ
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》の|貴《うづ》の|功《いさを》は
|百千鳥《ももちどり》|鳴《な》く|音《ね》を|聞《き》けば|喜《よろこ》びを
|包《つつ》みて|公《きみ》を|待《ま》ちわぶるがに|見《み》ゆ』
|起立比古《おきたつひこ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|高光《たかみつ》の|山《やま》を|天降《あも》りし|御樋代《みひしろ》の
|神《かみ》の|功《いさを》に|従《したが》ひ|来《き》にけり
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》も|喜《よろこ》び|給《たま》ふらむ
|御樋代神《みひしろがみ》の|清《きよ》き|心《こころ》を
|果《は》てしなき|山川海原《やまかはうなばら》|渡《わた》りまして
|神《かみ》の|神業《みわざ》に|仕《つか》へます|公《きみ》よ
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|雄々《をを》しさに|励《はげ》まされ
|弱《よわ》き|心《こころ》も|起立《おきたつ》の|神《かみ》われは
|国土《くに》|稚《わか》き|葭原《よしはら》の|国土《くに》も|起立《おきたつ》の
|神《かみ》の|功《いさを》の|現《あらは》るる|時《とき》よ
|高光《たかみつ》の|山《やま》を|遥《はる》かに|見渡《みわた》せば
|紫《むらさき》の|雲《くも》|棚曳《たなび》きて|居《を》り
|紫《むらさき》の|雲《くも》の|辺《あた》りは|朝霧比女《あさぎりひめ》の
|永遠《とは》にまします|青木ケ原《あをきがはら》か
われも|亦《また》|青木ケ原《あをきがはら》の|清庭《すがには》に
|詣《まう》でて|四方《よも》の|国形《くにがた》|見《み》まほし』
|立世比女《たつよひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|朝香《あさか》の|比女《ひめ》に|従《したが》ひて
|珍《めづら》しみ|渡《わた》るも|海原《うなばら》の|波《なみ》
|種々《くさぐさ》の|曲神等《まがかみたち》を|言向《ことむ》けて
|国土拓《くにひら》きましし|神《かみ》の|雄々《をを》しさ
|天降《あも》ります|神《かみ》の|功《いさを》もたつ|世比女《よひめ》
うかがひまつりて|涙《なみだ》こぼるる
|松《まつ》を|吹《ふ》く|風《かぜ》の|響《ひび》きの|清《すが》しさに
|旅《たび》の|疲《つか》れも|忘《わす》らえにけり
|波《なみ》の|上《へ》を|右《みぎ》に|左《ひだり》に|飛《と》びかへる
|鴎《かもめ》の|翼《つばさ》の|光《ひか》る|昼《ひる》なり
|光《ひかり》|闇《やみ》|行《ゆ》き|交《か》ふ|海原《うなばら》|渡《わた》り|来《き》て
|今《いま》|松浦《まつうら》の|港《みなと》に|着《つ》きぬる
|松浦《まつうら》の|港《みなと》の|眺《なが》め|清《すが》しもよ
|目路《めぢ》の|限《かぎ》りは|白砂《しらすな》|白波《しらなみ》』
|天晴比女《あめはれひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|天地《あめつち》の|晴《は》れ|渡《わた》りたる|此《こ》の|真昼《まひる》を
|嬉《うれ》しきかもよ|港《みなと》に|休《やす》らふ
|西空《にしぞら》をふりさけ|見《み》れば|黒《くろ》き|影《かげ》
|翼《つばさ》を|摶《う》ちて|進《すす》み|来《く》るかも
|次々《つぎつぎ》に|形《かたち》|大《おほ》きく|見《み》えにつつ
|翼《つばさ》の|音《おと》の|轟《とどろ》き|聞《きこ》ゆる
|天晴《あは》れ|天晴《あは》れ|鳥《とり》にはあらぬ|神々《かみがみ》の
|乗《の》らせ|給《たま》へる|磐樟船《いはくすぶね》かも』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、|右手《みぎて》を|高《たか》くさし|上《あ》げ|日光《につくわう》を|遮《さへぎ》り、|御空《みそら》を|見渡《みわた》し|給《たま》へば、|天《あま》の|鳥船《とりふね》は|西空《にしぞら》をかすめて|空気《くうき》をどよもしながら、|松浦《まつうら》の|港《みなと》をさして|降《くだ》り|来《きた》るあり。その|勇《いさ》ましき|姿《すがた》を|見《み》て、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|天晴《あは》れ|天晴《あは》れ|天《あま》の|鳥船《とりふね》|降《くだ》り|来《き》ぬ
われを|迎《むか》ふる|使《つかひ》なるらむ
|朝霧比女《あさぎりひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》の|遣《つか》はせし
|吾等《われら》を|迎《むか》への|御船《みふね》なるらし』
かく|歌《うた》ひ|給《たま》ふ|折《をり》もあれ、|松浦《まつうら》の|港《みなと》の|真砂《まさご》の|上《うへ》に、|鳥船《とりふね》は|静《しづ》かに|鳴《な》りを|鎮《しづ》めて|降《くだ》り|来《きた》る。
|初頭比古《うぶがみひこ》の|神《かみ》は|驚《おどろ》きながら|歌《うた》ふ。
『|珍《めづら》しき|御船《みふね》なるかな|雲《くも》の|上《へ》を
|渡《わた》りて|来《き》ます|神《かみ》のありとは
|波《なみ》の|上《へ》を|渡《わた》る|御船《みふね》はわれ|知《し》れど
|空《そら》|行《ゆ》く|御船《みふね》は|知《し》らざりにけり
|主《ス》の|神《かみ》の|貴《うづ》の|言霊《ことたま》|幸《さち》はひて
|空《そら》|行《ゆ》く|船《ふね》は|造《つく》られにけり』
|起立比古《おきたつひこ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|珍《めづら》しき|御船《みふね》なるかな|千早振《ちはやぶ》る
|神代《かみよ》もきかぬ|天《あま》の|鳥船《とりふね》
|鳳凰《おほとり》の|翼《つばさ》に|乗《の》りし|神《かみ》ありと
|聞《き》けども|空《そら》の|御船《みふね》は|聞《き》かず』
|立世比女《たつよひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へ|来《き》て
|今日《けふ》|珍《めづら》しき|御船《みふね》|見《み》しかな』
|天晴比女《あめはれひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|久方《ひさかた》の|晴《は》れたる|空《そら》をどよもして
|天晴《あは》れ|鳥船《とりふね》|降《くだ》りましけり』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》もあれ、|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》を|先頭《せんとう》に、|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》、|国生男《くにうみを》の|神《かみ》の|三柱《みはしら》は、|莞爾《くわんじ》として|鳥船《とりふね》を|下《くだ》り、|静《しづ》かに|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|御前《みまへ》に|進《すす》み|寄《よ》り、|最敬礼《さいけいれい》を|為《な》し、|次《つ》ぎに|供《とも》の|四柱《よはしら》の|神《かみ》に|目礼《もくれい》し、|鳥船《とりふね》を|指《ゆび》さしながら、
『|御樋代《みひしろ》の|朝香比女神《あさかひめがみ》|迎《むか》へむと
|高光山《たかみつやま》を|降《くだ》り|来《こ》しはや
|朝霧比女《あさぎりひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|公《きみ》|迎《むか》へむと|雲路《くもぢ》をわけ|来《き》つ
|願《ねが》はくばこれの|御船《みふね》に|召《め》しませよ
|高光山《たかみつやま》に|送《おく》りまつらむ』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|久方《ひさかた》の|高照山《たかてるやま》ゆ|天降《あも》りましし
|御樋代神《みひしろがみ》のよそほひ|畏《かしこ》し
|朝霧比女《あさぎりひめ》|神《かみ》は|八柱《やはしら》|御樋代《みひしろ》の
|神《かみ》の|出《い》でまし|待《ま》たせ|給《たま》へり
|鳥船《とりふね》を|造《つく》りてわれは|来《きた》りけり
いざや|召《め》しませ|堅《かた》き|御船《みふね》よ』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|国生男《くにうみを》|神《かみ》はわれなり|高光《たかみつ》の
|山《やま》に|仕《つか》へし|司神《つかさがみ》ぞや
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》は|御光《みひかり》に
いませばわが|国《くに》|照《て》らさせ|給《たま》へ
|久方《ひさかた》の|雲井《くもゐ》を|渡《わた》るこの|船《ふね》は
|海《うみ》ゆく|船《ふね》に|勝《まさ》りて|安《やす》けし』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|御樋代神《みひしろがみ》の|厚《あつ》き|心《こころ》を|諾《うべな》ひて
|御船《みふね》の|力《ちから》に|聖所《すがど》にのぼらむ
|珍《めづら》しき|天《あま》の|鳥船《とりふね》|眺《なが》めつつ
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|功《いさを》をおもふ
|久方《ひさかた》の|雲路《くもぢ》を|分《わ》けて|来《きた》りましし
|神《かみ》の|雄々《をを》しき|心《こころ》を|称《たた》へむ』
|初頭比古《うぶがみひこ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『わが|公《きみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へ|此処《ここ》に|来《き》て
|空《そら》の|御船《みふね》に|上《のぼ》る|楽《たの》しさ
|未《ま》だ|国土《くに》は|稚《わか》しと|聞《き》けど|葭原《よしはら》は
かく|拓《ひら》けしか|驚《おどろ》きにけり
|空《そら》をゆく|御船《みふね》の|功《いさを》|著《しる》ければ
|高光山《たかみつやま》も|安《やす》くのぼらむ』
|起立比古《おきたつひこ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|初《はじ》めての|空《そら》の|御船《みふね》に|身《み》をまかせ
|下界《げかい》を|見《み》つつゆくは|楽《たの》しからむ』
|立世比女《たつよひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|比女神《ひめがみ》のわれにはあれど|鳥船《とりふね》に
|乗《の》りて|進《すす》むと|思《おも》へば|嬉《うれ》し』
|天晴比女《あめはれひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|天地《あめつち》の|晴《は》れ|渡《わた》りたる|今日《けふ》の|日《ひ》に
|空《そら》ゆく|船《ふね》は|清《すが》しかるらむ』
|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『いざさらば|朝香比女神《あさかひめがみ》|初《はじ》めとし
|四柱神《よはしらがみ》も|乗《の》らせ|給《たま》はれ』
ここに|主客《しゆきやく》|八柱《やはしら》の|神《かみ》は、|翼《つばさ》|強《つよ》き|広《ひろ》き|鳥船《とりふね》に|身《み》を|托《たく》し、|松浦港《まつうらこう》より|中空《ちうくう》|高《たか》く|舞《ま》ひ|上《あが》り、|下界《げかい》の|山川海原《やまかはうなばら》を|見下《みおろ》しながら、|高光山《たかみつやま》の|頂《いただき》|指《さ》して、|雲井《くもゐ》の|旅《たび》を|続《つづ》けさせ|給《たま》ふ。
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、|眼下《がんか》の|国形《くにがた》を|見下《みおろ》し|給《たま》ひて|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『われこそは|御空《みそら》を|伊行《いゆ》く|鳥《とり》なれや
|山川《やまかは》ことごと|目《め》の|下《した》に|見《み》つ
|山《やま》も|野《の》も|大海原《おほうなばら》もありありと
わが|目《め》の|下《した》に|輝《かがや》きにけり
|草枕《くさまくら》|長《なが》の|旅路《たびぢ》も|今日《けふ》こそは
|雲《くも》の|枕《まくら》となりにけらしな
この|国土《くに》に|火種《ひだね》ありせば|葭草《よしぐさ》や
|水奔草《すいほんさう》を|焼《や》きて|拓《ひら》かむ
|幸《さいはひ》にわれは|燧石《ひうち》を|持《も》ちにけり
|御樋代神《みひしろがみ》に|土産《みやげ》をすすめむ
|雲路《くもぢ》|分《わ》けて|進《すす》むわれ|等《ら》は|楽《たの》しけれ
|翼《つばさ》は|早《はや》く|羽音《はおと》|清《すが》しく』
|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|朝香比女《あさかひめ》|心《こころ》|安《やす》けくましませよ
エアポケツトは|数多《あまた》あれども
|吹《ふ》き|来《きた》る|風《かぜ》に|向《むか》つて|鳥船《とりふね》の
|進《すす》む|羽音《はおと》の|勇《いさ》ましきかな
|久方《ひさかた》の|御空《みそら》に|見《み》ゆる|高山《たかやま》は
|主《ス》の|神《かみ》まつれる|聖所《すがど》なるぞや』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|御樋代神《みひしろがみ》の|朝香比女《あさかひめ》
|迎《むか》へまつりし|鳥船《とりふね》は
|雲井《くもゐ》|遥《はるか》にかきわけて
|空《そら》へ|空《そら》へと|進《すす》みつつ
|高光山《たかみつやま》の|聖場《せいぢやう》に
コースをとりて|進《すす》むなり
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》は|強《つよ》くとも
|黒雲《くろくも》の|峯《みね》|包《つつ》むとも
|如何《いか》で|怖《おそ》れむ|主《ス》の|神《かみ》の
|貴《うづ》の|神言《みこと》を|被《かがふ》りて
|進《すす》まむ|道《みち》に|曲《まが》はなし
エアポケツト|多《おほ》くとも
|二《ふた》つの|腕《うで》に|覚《おぼ》えあり
|如何《いか》なる|難処《なんしよ》も|乗《の》り|起《こ》えて
|所期《しよき》の|目的《もくてき》|達《たつ》せむと
|神《かみ》を|祈《いの》りて|進《すす》むなり
|眼下《がんか》に|見《み》ゆる|湖《みづうみ》は
|予讃《よさ》の|国《くに》にて|名《な》も|高《たか》き
|火炎山《くわえんざん》の|陥落《かんらく》に
|新《あらた》に|生《うま》れし|水鏡《みづかがみ》
|月日《つきひ》を|浮《うか》べて|輝《かがや》けり
|遥《はる》か|彼方《あなた》を|見渡《みわた》せば
|水上山《みなかみやま》の|聖場《せいぢやう》は
|厚《あつ》き|紫雲《しうん》に|包《つつ》まれて
|国《くに》の|秀《ほ》|見《み》ゆる|清《すが》しさよ
|葭草《よしぐさ》|茂《しげ》り|水奔草《すいほんさう》
|処《ところ》|狭《せ》きまで|群《むら》がりて
|鬼《おに》や|大蛇《をろち》のひそみたる
|荒野ケ原《あらのがはら》を|目《め》の|下《した》に
|広《ひろ》く|展開《てんかい》なしにつつ
|御樋代神《みひしろがみ》の|降臨《かうりん》を
|仰《あふ》ぎて|待《ま》てる|思《おも》ひあり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|高光山《たかみつやま》の|頂《いただき》は
|次第々々《しだいしだい》に|近《ちか》よりて
|青木ケ原《あをきがはら》の|聖場《せいぢやう》に
|建《た》てる|御館《みやかた》|甍《いらか》まで
いとありありと|見《み》えにけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|守《まも》りの|尊《たふと》さよ。
|半時《はんとき》の|後《のち》には|貴《うづ》の|聖場《せいぢやう》に
|安《やす》く|着《つ》きなむ|御樋代神《みひしろがみ》よ』
|八重《やへ》の|雲路《くもぢ》を|分《わ》けながら、|其《そ》の|日《ひ》の|夕《ゆふべ》ごろ、|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》の|操《あやつ》れる|鳥船《とりふね》は、|青木ケ原《あをきがはら》の|聖場《せいぢやう》に|御樋代神《みひしろがみ》を|伴《ともな》ひまつり、|安《やす》く|静《しづ》かに|着《つ》きにけり。
|高光山《たかみつやま》の|司等《つかさたち》は|両手《りやうて》を|高《たか》くさし|上《あ》げ、「ウオーウオー」と|鬨《とき》をつくりて|歓迎《くわんげい》の|意《い》を|表《へう》しける。
(昭和九・七・三一 旧六・二〇 於関東別院南風閣 林弥生謹録)
第二三章 |野火《のび》の|壮観《さうくわん》〔二〇二七〕
|高光山《たかみつやま》の|聖場《せいぢやう》は、|御樋代神《みひしろがみ》|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|降臨《かうりん》に|俄《には》かに|輝《かがや》き|漲《みなぎ》り、|青木ケ原《あをきがはら》の|神苑《みその》は|瑞雲《ずゐうん》|棚引《たなび》き、|新生《しんせい》の|気《き》|四辺《しへん》に|漂《ただよ》ふ。
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は、|八尋殿《やひろどの》に|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》|一行《いつかう》を|招《せう》じ、|心《こころ》の|限《かぎ》り|歓待《くわんたい》を|尽《つく》し、|高光山《たかみつやま》の|名物《めいぶつ》たる、|露《つゆ》も|滴《したた》らむばかりの|熟《う》れたる|杏《あんず》の|実《み》を|山《やま》の|如《ごと》く|積《つ》み、|木瓜《ぼけ》もて|造《つく》りたる|美酒《びしゆ》を|献《たてまつ》り、ここに|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》|以下《いか》の|重臣《ぢうしん》はじめ|百《もも》の|神々《かみがみ》|集《あつま》りて、|大宴会《だいえんくわい》は|開《ひら》かれにける。
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》の|出《い》でましに
これの|神苑《みその》は|蘇《よみがへ》りたり
はろばろと|波路《なみぢ》を|渡《わた》り|雲《くも》を|分《わ》けて
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》は|出《い》でましにけり
|高光《たかみつ》の|館《やかた》に|仕《つか》ふる|神々《かみがみ》も
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》の|御稜威《みいづ》|讃《たた》へよ
|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》の|中《なか》にして
|勝《すぐ》れ|給《たま》へる|朝香比女神《あさかひめがみ》よ
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|神言《みこと》に|物白《ものまを》す
|美味果物《うましくだもの》|御酒《みき》を|召《め》しませ
|此《この》|酒《さけ》は|木瓜《ぼけ》にて|造《つく》りこの|杏《もも》は
|高光山《たかみつやま》の|誉《ほまれ》なりけり
|山《やま》|高《たか》く|清水《しみづ》とぼしき|此《この》|山《やま》に
|尊《たふと》きものは|果物《くだもの》なりけり』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》はこれに|答《こた》へて、
『いろいろの|心尽《こころづく》しのうましもの
|辱《かたじけな》みてよろこび|食《は》まむ
|草枕《くさまくら》|旅《たび》を|重《かさ》ねてうるはしき
|今日《けふ》の|宴《うたげ》にあひにけらしな
|神々《かみがみ》の|清《きよ》き|心《こころ》の|味《あぢ》はひと
|喜《よろこ》び|吾《われ》は|戴《いただ》かむかも
|四方《よも》の|国《くに》|見晴《みは》らすこれの|聖所《すがどこ》の
|宴《うたげ》に|臨《のぞ》む|吾《われ》は|嬉《うれ》しき
|鳥船《とりふね》のいさをによりて|遠《とほ》き|道《みち》
|嶮《さか》しき|山《やま》を|安《やす》く|来《き》つるも』
|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》に|仕《つか》へて|朝夕《あさゆふ》を
|言霊《ことたま》|宣《の》れる|大御照《おほみてらし》われは
|大御照《おほみてらし》|神《かみ》の|名告《なの》りはありながら
|心《こころ》のくらき|吾《われ》|恥《はづ》かしも
|百日日《ももかひ》の|禊《みそぎ》|重《かさ》ねて|漸《やうや》くに
|心《こころ》の|光《ひかり》|照《て》り|初《そ》めにけり』
|初頭比古《うぶがみひこ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|思《おも》ひきや|高光《たかみつ》の|山《やま》の|尾根《をね》|高《たか》く
かかる|宴《うたげ》にわれあはむとは
|神々《かみがみ》の|心《こころ》づくしの|御酒《みき》に|酔《よ》ひて
|吾《わが》|身体《からたま》は|赤《あか》らみにけり
|身体《からたま》もみたまも|清《きよ》く|蘇《よみがへ》る
|此《この》|御酒《みき》|御饌《みけ》は|神《かみ》の|賜物《たまもの》
|豊御酒《とよみき》を|赤丹《あかに》の|穂《ほ》にと|聞食《きこしめ》し
|勇《いさ》み|給《たま》へよ|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『はろばろと|雲路《くもぢ》を|分《わ》けて|迎《むか》へてし
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》の|光《ひか》り|尊《たふと》し
|御光《みひかり》の|神《かみ》は|神苑《みその》に|天降《あも》りましぬ
|今《いま》より|葭原《よしはら》の|闇《やみ》は|晴《は》れなむ
|四柱《よはしら》の|御供《みとも》の|神《かみ》の|此《こ》の|苑《その》に
|天降《あも》りいまして|御酒《みき》|召《め》しますも
|今日《けふ》の|如《ごと》めでたき|吉日《よきひ》なかるらむ
|御樋代神《みひしろがみ》を|迎《むか》へ|奉《まつ》りて』
|起立比古《おきたつひこ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|見《み》はるかす|四方《よも》の|国原《くにはら》|天津日《あまつひ》に
|輝《かがや》きにけり|錦《にしき》|映《は》えつつ
|葭草《よしぐさ》か|水奔草《すいほんさう》か|知《し》らねども
|尾《を》の|上《へ》より|見《み》る|野辺《のべ》は|錦《にしき》よ
|兎《と》に|角《かく》にめでたき|事《こと》の|限《かぎ》りかな
|御樋代神《みひしろがみ》の|二神《ふたり》いませば
|芳《かんば》しき|御酒《みき》|御饌《みけ》に|飽《あ》きて|吾《われ》は|今《いま》
|蘇《よみがへ》りけり|身体《からたま》みたまも』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『かかる|世《よ》にかかるめでたき|例《ためし》ありと
|吾《われ》は|夢《ゆめ》にも|思《おも》はざりしよ
|雲路《くもぢ》|分《わ》けて|迎《むか》へ|奉《まつ》りし|神々《かみがみ》と
これの|清殿《すがどの》にいむかひ|居《ゐ》るかも
|今日《けふ》よりは|葭原《よしはら》の|国土《くに》|隈《くま》もなく
|御樋代神《みひしろがみ》のいさをに|開《ひら》けむ
|神々《かみがみ》よ|御酒《みき》|聞食《きこしめ》せ|御饌《みけ》を|召《め》せ
|面《おも》ほてるまで|腹《はら》ふとるまで』
|立世比女《たつよひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|女神《めがみ》|吾《われ》も|御供《みとも》に|仕《つか》へて|高光《たかみつ》の
|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》にのぼりけるかな
|高光《たかみつ》の|山《やま》の|聖所《すがど》に|導《みちび》かれ
|貴《うづ》の|眺《なが》めに|解《と》け|入《い》りにけり
|果《は》てしなき|遠《とほ》の|広野《ひろの》を|見渡《みわた》せば
|神《かみ》の|力《ちから》のいみじきを|思《おも》ふ』
|子心比女《こごころひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『|懐《ふところ》に|御子《みこ》を|抱《いだ》ける|吾《われ》なれど
|許《ゆる》させ|給《たま》へ|子心比女《こごころひめ》の|神《かみ》を
|此《この》|御子《みこ》は|水上《みなかみ》の|山《やま》の|国津神《くにつかみ》の
|美《うま》し|御子《みこ》なりわれ|育《はぐく》みつ
めでたかる|今日《けふ》の|祝《いは》ひの|狭蓆《さむしろ》に
|仕《つか》へて|楽《たの》し|女神《めがみ》の|吾《われ》も』
|再《ふたた》び|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|朝霧比女《あさぎりひめ》の|厚《あつ》き|心《こころ》のもてなしに
ゐやひの|言葉《ことば》|吾《われ》なかりける
|葭原《よしはら》の|国土《くに》の|宝《たから》とまゐらせむ
|火種《ひだね》を|保《たも》つ|此《この》|燧石《ひうちいし》を
|此《この》|宝《たから》|一《ひと》つありせば|葭原《よしはら》の
|国土《くに》|清《きよ》まりて|永久《とは》に|開《ひら》けむ』
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|雀踊《こをど》りしながら|満面《まんめん》に|笑《ゑ》みを|湛《たた》へ、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『ありがたし|国土《くに》の|宝《たから》と|燧石《ひうちいし》
|吾《われ》に|賜《たま》ふか|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》
|火炎山《くわえんざん》|火種《ひだね》を|得《え》むと|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|長《なが》く|砕《くだ》き|来《き》にけり
|鬼《おに》|大蛇《をろち》|火炎《くわえん》の|火口《くわこう》を|守《まも》りつつ
|国《くに》に|火種《ひだね》を|取《と》らせざりけり
|火炎山《くわえんざん》|陥没《かんぼつ》なして|湖《うみ》となり
|火種《ひだね》の|失《う》せし|淋《さび》しき|国《くに》なりき
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|賜《たま》ひし|燧石《ひうちいし》は
|此《この》|葭原《よしはら》の|永久《とは》の|宝《たから》ぞ』
|茲《ここ》に|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は、|燧石《ひうち》を|恵《めぐ》まれたる|嬉《うれ》しさに、|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》に|命《めい》じ、|諸々《もろもろ》の|神等《かみたち》を|従《したが》へ、|天《あま》の|鳥船《とりふね》に|搭乗《たうじやう》させ、|燧石《ひうち》をもちて|地上《ちじやう》に|降《くだ》らしめ、|風《かぜ》に|乗《じやう》じて|葭原《よしはら》に|火《ひ》を|放《はな》たしめ|給《たま》ひければ、|折《をり》から|吹《ふ》き|来《きた》る|旋風《せんぷう》に、|火《ひ》は|四方《しはう》|八方《はつぱう》に|燃《も》え|拡《ひろ》がり、|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》、|水奔草《すいほんさう》、|葭草《よしぐさ》などの|原野《はらの》は|忽《たちま》ち|火《ひ》の|海《うみ》となり、|其《その》|壮観《さうくわん》|譬《たと》ふるに|物《もの》なかりけり。
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は、|高光山《たかみつやま》の|高殿《たかどの》より|此《この》|光景《くわうけい》をみそなはし、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|燧石《ひうちいし》に
わが|国原《くにはら》はあらたまりゆく
|炎々《えんえん》と|四方《よも》に|拡《ひろ》ごる|野火《のび》の|煙《けむり》の
|赤《あか》きを|見《み》れば|楽《たの》しかりけり
|曲鬼《まがおに》も|醜《しこ》の|大蛇《をろち》も|醜草《しこぐさ》も
|真火《まひ》の|力《ちから》に|亡《ほろ》び|行《ゆ》くかも
|今日《けふ》よりは|真火《まひ》の|力《ちから》に|葭原《よしはら》の
|国土《くに》を|美《うま》しき|聖所《すがど》となさむ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|此《この》|光景《くわうけい》を|見《み》、|嬉《うれ》しげに|歌《うた》ひ|給《たま》ふ。
『|年《とし》を|経《へ》て|老《お》い|茂《しげ》りたる|葭原《よしはら》の
|葭《よし》はもろくも|焼《や》かれけるかな
|濛々《もうもう》と|立《た》ちたつ|煙《けむり》|見《み》てあれば
|国土《くに》の|禍《わざはひ》|消《き》ゆる|楽《たの》しさ』
|斯《か》く|歌《うた》ひ、|互《たがひ》に|野火《のび》の|燃《も》え|拡《ひろ》がる|光景《くわうけい》を|見《み》て、|神々《かみがみ》は「ウオーウオー」と|歓声《くわんせい》をあげ|給《たま》ひける。
|所《ところ》へ|数多《あまた》の|従神《じうしん》を|残《のこ》し|置《お》きて、|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は、|再《ふたた》び|鳥船《とりふね》に|乗《の》り|此《この》|場《ば》に|帰《かへ》らせ|給《たま》ひ、|真火《まひ》のいさをしのいやちこなる|事《こと》を|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に|奏上《そうじやう》し|給《たま》ふ。
『|葭原《よしはら》に|真火《まひ》を|放《はな》てば|風《かぜ》|立《た》ちて
|見《み》る|見《み》る|醜草《しこぐさ》|焼《や》け|失《う》せにけり
|醜草《しこぐさ》の|中《なか》に|潜《ひそ》みし|曲鬼《まがおに》も
|獣《けもの》|大蛇《をろち》も|暑《あつ》さに|悶《もだ》えし
かくならば|猛《たけ》き|獣《けもの》も|曲鬼《まがおに》も
|大蛇《をろち》も|棲《す》まず|安《やす》く|開《ひら》けむ
|神々《かみがみ》を|四方《よも》に|遣《つか》はし|松明《たいまつ》を
つくりて|真火《まひ》を|放《はな》たしめしはや
|見《み》るうちに|醜草原《しこぐさはら》は|焼《や》け|尽《つ》きて
|目路《めぢ》の|限《かぎ》りは|灰《はひ》の|野《の》となりぬ』
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『ありがたし|真火《まひ》のいさをに|葭原《よしはら》の
|国土《くに》|新《あたら》しく|生《い》きて|栄《さか》えむ
この|燧石《ひうち》|国《くに》の|宝《たから》と|永久《とこしへ》に
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御殿《みとの》に|祀《まつ》らむ
|土阿《とあ》の|国土《くに》も|予讃《よさ》の|国原《くにはら》も|今日《けふ》よりは
|曲神《まがみ》のかげを|留《とど》めざるべし』
|茲《ここ》に|山上《さんじやう》の|宴会《えんくわい》は|終了《しうれう》し、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|一行《いつかう》に|厚《あつ》き|感謝《かんしや》の|辞《じ》を|述《の》べ、|松浦《まつうら》の|港《みなと》まで|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》、|国生男《くにうみを》の|神《かみ》をして|鳥船《とりふね》を|操《あやつ》らせ、|御樋代神《みひしろがみ》の|一行《いつかう》を|安《やす》く|送《おく》りける。
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、|雲路《くもぢ》を|分《わ》けて|半日《はんにち》のコースを|経《へ》て、|安々《やすやす》と|松浦《まつうら》の|港《みなと》に|着《つ》き|給《たま》ひ、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|珍《めづら》しき|船《ふね》に|乗《の》せられ|雲路《くもぢ》はるか
|渡《わた》りて|安《やす》く|此処《ここ》に|来《き》つるも
|御樋代《みひしろ》の|朝霧比女《あさぎりひめ》にわが|言葉《ことば》
|伝《つた》へ|給《たま》へよ|安《やす》く|着《つ》きぬと』
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|御言葉《みことば》まつぶさに
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》に|伝《つた》へむ』
と|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は、|国生男《くにうみを》の|神《かみ》を|後《あと》に|残《のこ》し、|鳥船《とりふね》に|乗《の》り|中空《ちうくう》|高《たか》く|帰《かへ》りける。
ここに|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|好意《かうい》に|報《むく》いむとして、|鳥船造《とりふねつく》りに|功《いさを》ある|国生男《くにうみを》の|神《かみ》を|御供《みとも》に|仕《つか》ふべく|遣《つか》はし|給《たま》ひたるなり。
これより|一行《いつかう》|六神《ろくしん》、|駒《こま》|諸共《もろとも》|御舟《みふね》に|浮《うか》びて、|西方《にしかた》の|国土《くに》さして|出《い》で|給《たま》ひける。
(昭和九・七・三一 旧六・二〇 於関東別院南風閣 白石恵子謹録)
-----------------------------------
霊界物語 第八〇巻 天祥地瑞 未の巻
終り