霊界物語 第七九巻 天祥地瑞 午の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第七十九巻』天声社
1980(昭和55)年05月05日 五版発行
※総説に図表が二枚あるがテキストでは再現できないので省略した。
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年09月08日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|総説《そうせつ》
第一篇 |竜《たつ》の|島根《しまね》
第一章 |湖中《こちう》の|怪《くわい》〔一九八二〕
第二章 |愛《あい》の|追跡《ついせき》〔一九八三〕
第三章 |離《はな》れ|島《じま》〔一九八四〕
第四章 |救《すく》ひの|船《ふね》〔一九八五〕
第五章 |湖畔《こはん》の|遊《あそ》び〔一九八六〕
第六章 |再会《さいくわい》〔一九八七〕
第二篇 |竜宮風景《りうぐうふうけい》
第七章 |相聞《さうもん》(一)〔一九八八〕
第八章 |相聞《さうもん》(二)〔一九八九〕
第九章 |祝賀《しゆくが》の|宴《えん》(一)〔一九九〇〕
第一〇章 |祝賀《しゆくが》の|宴《えん》(二)〔一九九一〕
第一一章 |瀑下《ばくか》の|乙女《をとめ》〔一九九二〕
第一二章 |樹下《じゆか》の|夢《ゆめ》〔一九九三〕
第一三章 |鰐《わに》の|背《せ》〔一九九四〕
第一四章 |再生《さいせい》の|歓《よろこ》び〔一九九五〕
第一五章 |宴遊会《えんいうくわい》〔一九九六〕
第三篇 |伊吹《いぶき》の|山颪《やまおろし》
第一六章 |共鳴《むたなき》の|庭《には》〔一九九七〕
第一七章 |還元竜神《くわんげんりうじん》〔一九九八〕
第一八章 |言霊《ことたま》の|幸《さち》〔一九九九〕
第一九章 |大井《おほゐ》の|淵《ふち》〔二〇〇〇〕
第二〇章 |産《うみ》の|悩《なや》み〔二〇〇一〕
第二一章 |汀《みぎは》の|歎《なげ》き〔二〇〇二〕
第二二章 |天変地妖《てんぺんちえう》〔二〇〇三〕
第二三章 |二名《ふたな》の|島《しま》〔二〇〇四〕
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|序文《じよぶん》
|昨冬《さくとう》、|天祥地瑞《てんしやうちずゐ》の「|巳《み》の|巻《まき》」を|口述《こうじゆつ》し|了《をは》り、|引《ひ》きつづき|著述《ちよじゆつ》にかかる|考《かんが》へなりしが、|非常時《ひじやうじ》|日本《にほん》の|現状《げんじやう》を|坐視《ざし》するに|忍《しの》びず、|遥々《はるばる》|綾《あや》の|聖場《せいぢやう》を|後《あと》に、|関東別院《くわんとうべつゐん》に|起臥《きぐわ》し、|国体擁護《こくたいようご》のため、|昭和神聖会《せうわしんせいくわい》の|創立《さうりつ》|準備《じゆんび》に|寸暇《すんか》なく、|口述《こうじゆつ》|中止《ちうし》の|已《や》むなきに|到《いた》りしが、|漸《やうや》く|少閑《せうかん》を|得《え》て|本年《ほんねん》|七月《しちぐわつ》|十六日《じふろくにち》、|午《うま》の|巻《まき》の|口述《こうじゆつ》を|始《はじ》め、|漸《やうや》く|完了《くわんれう》することとはなりぬ。|本巻《ほんくわん》は|竜《たつ》の|島根《しまね》の|物語《ものがたり》を|以《もつ》て|終始《しうし》したれば、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》|一行《いつかう》の|活動《くわつどう》|状態《じやうたい》を|明細《めいさい》に|記《しる》すに|到《いた》らず、|次巻《じくわん》を|俟《ま》つて|神業《みわざ》の|一部《いちぶ》を|発表《はつぺう》し|奉《まつ》るべし。
|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
昭和九年七月二十日 旧六月九日   於関東別院南風閣 口述者識
|総説《そうせつ》
|此《この》|至大天球《たかあまはら》の|中《なか》に|遍在《へんざい》|充満《じうまん》する|一切《いつさい》|万有《ばんいう》は、|其《その》|物《もの》の|気体《きたい》たると|液体《えきたい》たるとを|問《と》はず、|何《いづ》れも|声音《せいおん》(|声《こゑ》と|音《おと》とは|区別《くべつ》あれども、|今《いま》|茲《ここ》に|声音《せいおん》と|連《つら》ね|書《か》くは、|声《こゑ》にも|非《あら》ず、|音《おと》にも|非《あら》ず、|全《まつた》く|両者《りやうしや》を|兼《か》ねて|不二《ふじ》なるものの|仮名《かめい》なり)を|発《はつ》する|性質《せいしつ》を|有《いう》せざるはなし。|今《いま》|如何《いか》なる|物《もの》と|雖《いへど》も、|微《かす》かに|変動《へんどう》すれば、|微《かす》かなる|声音《せいおん》を|伴《ともな》ひ、|大《おほい》に|変動《へんどう》すれば、|大《だい》なる|声音《せいおん》を|伴《ともな》ふは|吾人《ごじん》が|日常《にちじやう》|経験《けいけん》する|処《ところ》なり。
さて|其《その》|声音《せいおん》とは|何《なん》ぞや。|通常《つうじやう》|理学者《りがくしや》の|教《をし》ふる|処《ところ》を|以《もつ》てすれば、|音響《おんきやう》なるものは|一《ひとつ》の|振動《しんどう》にして、|或物《あるもの》の|振動《しんどう》は、|其《その》|振動《しんどう》を|媒介物《ばいかいぶつ》(|主《しゆ》として|空気《くうき》)に|及《およ》ぼし、|媒介物《ばいかいぶつ》の|振動《しんどう》は|吾人《ごじん》の|鼓膜《こまく》に|及《およ》ぼし、|鼓膜《こまく》の|振動《しんどう》は|聴覚神経《ちやうかくしんけい》を|経《へ》て|脳《なう》に|達《たつ》するに|因《よ》ると|言《い》ふにあり。|而《しか》もこれ|唯《ただ》|単《たん》に|唯物論的《ゆいぶつろんてき》|形而下《けいじか》の|解釈《かいしやく》|而已《のみ》。|吾人《ごじん》は|斯《か》かる|半面《はんめん》の|解説《かいせつ》のみにては|満足《まんぞく》すること|能《あた》はず。|尚《なほ》|進《すす》んで|物《もの》の|振動《しんどう》は、|何故《なにゆゑ》に|種々《しゆじゆ》なる|音響《おんきやう》となり、|又《また》|音響《おんきやう》なるものは|如何《いか》なる|機能《きのう》を|有《いう》し、|如何《いか》なる|効果《かうくわ》を|有《いう》するやを|知《し》らむと|欲《ほつ》するなり。|換言《くわんげん》すれば、|吾人《ごじん》の|声《こゑ》は|気管《きくわん》を|通過《つうくわ》する|空気《くうき》が|声帯《せいたい》|其《その》|他《た》の|発声機関《はつせいきくわん》に|触《ふ》れて|発《はつ》するなりてふ|説明《せつめい》|以外《いぐわい》に、|其《その》|発声《はつせい》の|因《いん》たる|空気《くうき》の|通過《つうくわ》するは|何《なん》の|為《ため》なるや。|吾人《ごじん》の|思料《しれう》する|処《ところ》は、|何故《なにゆゑ》に|発声機関《はつせいきくわん》を|藉《か》りて|声《こゑ》となり、|又《また》|他《た》より|来《きた》る|声《こゑ》と|音《おと》とは、|何故《なにゆゑ》に|吾人《ごじん》の|聴管《ちやうくわん》を|通《つう》じて|精神《せいしん》に|影響《えいきやう》するやを|聞《き》かむと|欲《ほつ》するなり。|更《さら》に|之《これ》を|究竟《きうきやう》する|時《とき》は、|精神《せいしん》とは|如何《いかん》てふ|問題《もんだい》に|帰着《きちやく》するなり。
|吾人《ごじん》は|斯《か》かる|問題《もんだい》に|対《たい》しては|最早《もはや》|科学《くわがく》の|説明《せつめい》のより|以上《いじやう》の|不可思議力《ふかしぎりよく》、|無礙自在《むげじざい》の|妙機《めうき》を|認《みと》めざらむと|欲《ほつ》するも|能《あた》はざるものにして、|茲《ここ》に|全《まつた》く|科学《くわがく》の|圏囲《けんゐ》を|超脱《てうだつ》したる|形而上学《けいじじやうがく》|即《すなは》ち|哲学的《てつがくてき》|領域《りやうゐき》に|入《い》るものなり。|古来《こらい》の|哲学《てつがく》|宗教《しうけう》が|或《あるひ》は|声音《せいおん》なる|末流《まつりう》を|遡《さかのぼ》りて|帰納的《きなふてき》に|絶対《ぜつたい》|不可思議《ふかしぎ》なる|本源《ほんげん》を|認《みと》め、|或《あるひ》は|無礙自在《むげじざい》の|妙機《めうき》なる|根底《こんてい》より|演繹的《えんえきてき》に|声音《せいおん》なる|枝葉《しえう》を|説《と》くも、|畢竟《ひつきやう》ずるに|之《これ》が|為《ため》のみ。|此《この》|無礙自在《むげじざい》の|妙機《めうき》、|絶対《ぜつたい》の|不可思議力《ふかしぎりよく》こそ|実《じつ》に|所謂《いはゆる》|宇宙《うちう》の|本体《ほんたい》、|独一《どくいつ》の|真神《しんしん》、|久遠《くをん》の|妙霊《めうれい》にして、|一切《いつさい》の|声音《せいおん》は|即《すなは》ち|其《その》|発現《はつげん》なれ。
|大毘盧遮那経《だいびるしやなきやう》(第二具縁真言品)に|言《い》ふ。
秘密主。此真言相非一切諸仏所作。不令他作亦不随喜。何以故。以是諸法法如是故。若諸如来出現。若諸如来不出。諸法法爾如是住。謂諸真言。真言法爾故。
|同経《どうきやう》の|疏《そ》の|七《しち》に|曰《いは》く、
以如来身語意畢竟等故。此真言相声字皆常々故不流。無有変易。法爾如是。非造作所成。若可造作則是生法。法若有生則可破壊。四相遷流無常無我。何得名為真実語耶。是故仏不自作。不令他作。設令有能作之人亦不随喜。是故此真言相。若仏出興於世。若不出世。若已説。若現説。若未説。法住法位性相常住。是故名心定即。衆聖同即此大悲漫荼羅一切真言一一真言之相。皆法爾如是故重言之也。
|又《また》|空海《くうかい》の|声字即実相義《せいじそくじつさうぎ》に|曰《いは》く、
|名教《めいけう》の|興《おこ》りは|声字《せいじ》に|非《あら》ざれば|成《じやう》ぜず。|声字分明《せいじぶんめい》にして|実相《じつさう》|顕《あら》はる。|又《また》|内外《ないぐわい》の|風気《ふうき》|纔《わづか》に|発《はつ》すれば、|必《かなら》ず|響《ひび》くを|名《な》づけて|声《こゑ》と|言《い》ふ。|響《ひびき》は|必《かなら》ず|声《こゑ》に|由《よ》る。|声《こゑ》は|即《すなは》ち|響《ひびき》の|本《もと》なり。|声《こゑ》|発《はつ》して|虚《むな》しからず、|必《かなら》ず|物《もの》の|名《な》を|表《あらは》す、|号《ごう》して|字《じ》と|言《い》ふ。|名《な》は|必《かなら》ず|体《たい》を|招《まね》く、|之《これ》を|実相《じつさう》と名づく|云々《うんぬん》
と。|是《こ》れ|声《こゑ》は|絶対《ぜつたい》|実在《じつざい》の|発現《はつげん》にして、|万有《ばんいう》|一切《いつさい》も|亦《また》|絶対《ぜつたい》|実在《じつざい》の|発現《はつげん》なれば、|畢竟《ひつきやう》ずるに|声物一如《せいぶついちによ》、|絶対声物一如《ぜつたいせいぶついちによ》なりと|言《い》ふに|外《ほか》ならず。|又《また》|新約書《しんやくしよ》の|約翰伝《ヨハネでん》には、|之《これ》を|最《もつと》も|巧妙《かうめう》に|言《い》ひ|現《あらは》せり。|云《いは》く、
|太初《はじめ》に|道《ことば》あり|道《ことば》は|神《かみ》と|偕《とも》に|在《あ》り、|道《ことば》は|即《すなは》ち|神《かみ》なり、この|道《ことば》は|太初《はじめ》に|神《かみ》と|偕《とも》に|在《あ》りき、|万物《よろづのもの》これに|由《より》て|造《つく》らる、|造《つく》られたるものに|一《ひとつ》として|之《これ》に|由《よ》らで|造《つく》られしは|無《な》し、|之《これ》に|生《いのち》あり、|此《こ》の|生《いのち》は|人《ひと》の|光《ひかり》なり、|光《ひかり》は|暗《くらき》に|照《て》り、|暗《くらき》は|之《これ》を|暁《さと》らざりき|云々《うんぬん》……。それ|道《ことば》|肉体《にくたい》と|成《な》りて|我儕《われら》の|間《うち》に|寄《やど》れり。|我儕《われら》その|栄《さかえ》を|見《み》るに、|実《まこと》に|父《ちち》の|生《う》みたまへる|独子《ひとりご》の|栄《さかえ》にして、|恩寵《めぐみ》と|真理《さとり》とに|充《み》てり……
と。|是《こ》れ|声《ことば》は|即《すなは》ち|道《みち》、|道《みち》は|即《すなは》ち|神《かみ》、|神《かみ》|即《すなは》ち|万有《ばんいう》なりと|言《い》ふに|外《ほか》ならず。(|此《この》|点《てん》に|於《おい》ては|基督教《キリストけう》も|多神教《たしんけう》の|一《ひとつ》なり)|要《えう》するに|是等《これら》は|釈迦《しやか》、|基督《キリスト》|等《ら》が|認《みと》めたる|声音即絶対説《せいおんそくぜつたいせつ》にして、|我《わが》|言霊学《ことたまがく》の|声音根本説《せいおんこんぽんせつ》と|相類似《あひるいじ》せりと|雖《いへど》も、|其《その》|所説《しよせつ》たる、|漠然《ばくぜん》として|拠《よ》る|所《ところ》なく、|朦朧気《おぼろげ》に|声音《せいおん》の|妙機《めうき》を|想像《さうざう》したるのみにして、|我《わが》|言霊学《ことたまがく》の|如《ごと》く、|絶対《ぜつたい》の|真《しん》を|伝《つた》へ、|各《かく》|声《こゑ》の|霊機《れいき》の|明確《めいかく》にして|整然《せいぜん》たるが|如《ごと》きには|非《あら》ざるなり。
|抑《そもそも》|此《この》|大宇宙《だいうちう》を|我国《わがくに》にては、|之《これ》を|至大天球《たかあまはら》と|言《い》ひ、|大宇宙《だいうちう》の|主宰《しゆさい》、|之《これ》を|天之峰火夫《あまのみねひを》の|神《かみ》または|天之御中主《あめのみなかぬし》と|言《い》ひ、|万有《ばんいう》|一切《いつさい》、|之《これ》を|神《かみ》と|言《い》ひ、|此《この》|活動力《くわつどうりよく》、|之《これ》を|結《むす》びといふ。(|而《しか》して|尚《なほ》|之《これ》を|言霊学《ことたまがく》の|上《うへ》より|言《い》ふ|時《とき》は、|至大天球《たかあまはら》は|一声《ひとこゑ》に【あ】と|言《い》ひ、|天之御中主《あめのみなかぬし》は|之《これ》を|一声《ひとこゑ》に【す】といひ、【す】|分《わか》れ|発《はつ》して|七十五声《しちじふごせい》となり、|此《この》|七十五声《しちじふごせい》は|結《むす》びの|力《ちから》によりて、|更《さら》に|発動《はつどう》すれば|万声《ばんせい》となり、|帰《かへ》り|納《をさ》まれば|一声《ひとこゑ》の【す】に|蔵《おさ》まる)|是《これ》|一切法界《いつさいほふかい》の|四大観《しだいくわん》なり。|此《この》|四大《しだい》は|即《すなは》ちあらゆる|声音《せいおん》なり。|天之御中主《あめのみなかぬし》の|発動《はつどう》、|之《これ》を|神《かみ》といひ、|神霊元子《しんれいげんし》と|言《い》ふ。|神霊元子《しんれいげんし》とは、【こころ】なり、【こころ】とは|絶対《ぜつたい》の|霊機《れいき》が、|此処《ここ》|彼処《かしこ》と|発作《ほつさ》するの|謂《いひ》なり。|此《こ》の【こころ】の|発作《ほつさ》が|更《さら》に|現《あらは》れたるもの|即《すなは》ち【こゑ】なり。【こゑ】とは|即《すなは》ち|心《こころ》の|柄《え》なり。|此《この》|声《こゑ》|広義《くわうぎ》|一面《いちめん》に|又《また》【をと】と|言《い》ふ。【をと】とは|外《そと》より【を】に|結《むす》び|当《あた》るものあるに|対《たい》して、【と】を|給《むす》び、|対《こた》ふるの|謂《いひ》にして、|緒止《をと》なり。
|之《これ》を|厳格《げんかく》に|区別《くべつ》せば、|前者《ぜんしや》は|有霊機物《いうれいきぶつ》|即《すなは》ち|動物《どうぶつ》(|広義《くわうぎ》)の|心的作用《しんてきさよう》による|自発的《じはつてき》|声音《せいおん》なり、|音《おと》に|非《あら》ず。|後者《こうしや》は|無霊機物《むれいきぶつ》|即《すなは》ち|植鉱物等《しよくくわうぶつとう》の|他《た》より|迫撃《はくげき》するを|俟《ま》つて|後《のち》|声音《せいおん》を|発《はつ》するものにして、|心的作用《しんてきさよう》なき|物《もの》の|他発的《たはつてき》|声音《せいおん》なり、|声《こゑ》に|非《あら》ず。|然《しか》れども|動物《どうぶつ》の|下等《かとう》なるものは|植物《しよくぶつ》と|区別《くべつ》すべからず。|植物《しよくぶつ》の|下等《かとう》なるもの|亦《また》|鉱物《くわうぶつ》と|区別《くべつ》する|能《あた》はずして、|而《しか》も|一種《いつしゆ》の|声音《せいおん》の|質《しつ》を|有《いう》するものなれば、|其《そ》の|本《もと》に|遡《さかのぼ》る|時《とき》は、|声《こゑ》と|音《おと》とは|区別《くべつ》なく、|其《その》|末《すゑ》に|奔《はし》る|時《とき》は|人間《にんげん》の|声《こゑ》と|雖《いへど》も、|其《その》|声《こゑ》より|心《こころ》の|活《はたら》きなる|観念《くわんねん》を|控除《こうぢよ》して|考《かんが》ふる|時《とき》は、|是《こ》れ|音《おと》なり。|之《これ》を|要《えう》するに、|声《こゑ》と|音《おと》とは|天之御中主《あめのみなかぬし》の|心《こころ》が|発動《はつどう》したる|声音《せいおん》の|程度《ていど》の|差《さ》によりて|名《な》づけられたるものにして、|等《ひと》しく|広義《くわうぎ》に|於《お》ける|声《こゑ》なり。|此《この》|声音《せいおん》は|法界一切《ほふかいいつさい》の|万有《ばんいう》となりて|形相《ぎやうさう》を|現《げん》じ、|又《また》|幽冥《いうめい》に|蔵《かく》れて|不可思議《ふかしぎ》なり。
|此《この》|巻舒発蔵《けんじよはつざう》の|活機《くわつき》は|即《すなは》ち|所謂《いはゆる》|結《むす》びにして、|此《この》|結《むす》びの|力《ちから》によりて、|一切法界《いつさいほふかい》の|生住異滅《せいぢういめつ》する|状態《じやうたい》を|至大天球《たかあまはら》とは|言《い》ふなり。されば|至大天球《たかあまはら》の|組成《そせい》|元素《げんそ》は|声音《せいおん》なり。|声音《せいおん》|無《な》ければ|至大天球《たかあまはら》なし。|故《ゆゑ》に|此《この》|声音《せいおん》は|至大天球《たかあまはら》と|共《とも》に|存在《そんざい》して、|如来《によらい》の|所作《しよさ》に|非《あら》ず、|真神《しんしん》の|所生《しよせい》に|非《あら》ず、|如来《によらい》、|真神《しんしん》そのものなり。|之《これ》を|真言《まこと》と|言《い》ひ、|之《これ》を|道《ことば》と|言《い》ふ。|道《ことば》|即《すなは》ち|神《かみ》にして、|真言《まこと》|即《すなは》ち|神《かみ》|也《なり》、|仏《ほとけ》|也《なり》。(|我国《わがくに》にては|之《これ》を|言霊《ことたま》と|言《い》ふ、|言霊《ことたま》は|即《すなは》ち|神《かみ》なり、|神《かみ》は|即《すなは》ち|天之御中主《あめのみなかぬし》の|心《こころ》なり、|此《この》|心《こころ》を|種々《しゆじゆ》に|動《うご》き|結《むす》びて|万有《ばんいう》を|生《しやう》ず。|万有《ばんいう》は|万別《ばんべつ》あり、|故《ゆゑ》に|万有《ばんいう》の|言霊《ことたま》|亦《また》|万別《ばんべつ》あり)
|此《この》|声音《せいおん》を|大別《たいべつ》すれば、|則《すなは》ち|已《すで》に|言《い》へりしが|如《ごと》く、|声《こゑ》と|音《おと》とに|別《わか》る。|而《しか》して|此《この》|声《こゑ》|更《さら》に|別《べつ》あり。|一《いつ》は|人《ひと》の|声《こゑ》にして、|他《た》は|動物《どうぶつ》の|声《こゑ》なり。|人《ひと》の|声《こゑ》は|明朗《めうらう》にして|数多《かずおほ》く、|動物《どうぶつ》の|声《こゑ》は|溷濁《こんだく》にして|数少《かずすくな》く、|又《また》|動物《どうぶつ》の|下等《かとう》なるものに|至《いた》りては、|僅《わづか》に|響《ひびき》を|有《いう》するのみ。|即《すなは》ち|霊機《れいき》の|減少《げんせう》するに|従《したが》つて、|声《こゑ》|亦《また》|減少《げんせう》するなり。|尚《なほ》|又《また》|同《おな》じく、|人間《にんげん》にても|外人《ぐわいじん》と|我《わが》|日本人《につぽんじん》との|音声《おんせい》|言語《げんご》を|比較《ひかく》するに、|外人《ぐわいじん》の|声《こゑ》はすべて|濁音《だくおん》、|半濁音《はんだくおん》、|拗音《えうおん》、|促音《そくおん》のみにて、|又《また》|鼻音《びおん》【ン】を|用《もち》ふるもの|頗《すこぶ》る|多《おほ》く、|日本人《につぽんじん》の|声《こゑ》は|直音《ちよくおん》のみにして(|但《ただ》し|今日《こんにち》の|人《ひと》の|声《こゑ》は|此《この》|限《かぎ》りに|非《あら》ず)|清明円朗《せいめいゑんらう》にして、|各声《かくこゑ》|確然《かくぜん》たる|区別《くべつ》あり。|外人《ぐわいじん》の|声《こゑ》は|数声《すうせい》の|連続《れんぞく》|拗曲《えうきよく》せるものなるが|故《ゆゑ》に、|其《その》|元声《げんせい》|少《すくな》く(|悉曇《しつたん》|五十音《ごじふおん》、|英語《えいご》|二十四音《にじふしおん》の|如《ごと》し)|日本人《につぽんじん》の|声《こゑ》は|一々《いちいち》|朗明《らうめい》なるが|故《ゆゑ》に、|其《その》|元声《げんせい》|多《おほ》し。(|七十五声《しちじふごせい》なり)|彼等《かれら》は|拗促音《えうそくおん》を|本位《ほんゐ》として|直音《ちよくおん》を|出《いだ》し、|日本人《につぽんじん》は|直音《ちよくおん》を|本位《ほんゐ》として|拗音《えうおん》を|用《もち》ふるなり。(|但《ただ》し|上古《じやうこ》は|一《ひとつ》も|拗《えう》、|促音《そくおん》を|用《もち》ひず)|故《ゆゑ》に|外国人《ぐわいこくじん》が|直音《ちよくおん》を|出《だ》さむとするも、|日本人《につぽんじん》の|如《ごと》く|円満朗明《ゑんまんらうめい》なる|能《あた》はず、|又《また》|日本人《につぽんじん》が|拗《えう》、|促音《そくおん》を|発《はつ》せむとするも、|外国人《ぐわいこくじん》の|如《ごと》き|曲拗促迫《きよくえうそくはく》したる|音《おと》を|出《いだ》す|能《あた》はず、|両者《りやうしや》|自《おのづか》ら|主客《しゆきやく》の|位《くらゐ》|定《さだ》まりて|動《うご》かすべからず。
|例《たと》へば、|悉曇《しつたん》の|摩多《また》(|母音《ぼおん》)|了《ヲウ》(ウに|用《もち》ふ)エイ(エに|用《もち》ふ)ウウ、ヲウ(アウヲに|用《もち》ふ)の|如《ごと》く、また|韻鏡《ゐんきやう》の|字母《じぼ》|唇音濁《しんおんだく》の|並《ビヤウ》「ベイ」「ヘイ」(|部廻《ぶけい》「ブキヤウ」「ホウケイ」にして、バビブベボの|韻《ゐん》を|受《う》く)、|歯音清《しおんせい》の|精《せい》「シヨウ」(|子盈《しえい》「イヤウ」|切《せつ》にしてサシスセソの|韻《ゐん》を|受《う》く)|等《とう》の|如《ごと》し。|是等《これら》は|我国《わがくに》の|声《こゑ》にて|呼《よ》べば、【ヲウエイ】、【アウビヤウシヤウ】|等《とう》なれども、|本音《ほんおん》は【ヲウ】、【エイ】、【アウ】、【ビヤウ】、【シヤウ】|等《とう》なり。|故《ゆゑ》に|拗《えう》、|促音《そくおん》を|本拠《ほんきよ》とせる|外人《ぐわいじん》より|直音《ちよくおん》を|出《いだ》さむとするには、|必《かなら》ず|数音《すうおん》を|綴《つづ》り|合《あは》し、|不足《ふそく》を|補《おぎな》ひ|余《あま》れるを|捨《す》て、|所謂《いはゆる》|反切《はんせつ》の|結果《けつくわ》に|非《あら》ざれば|出《いだ》すこと|能《あた》はざるなり。|況《いはん》や|又《また》|彼等《かれら》が|用《もち》ふる|拗《えう》、|促音《そくおん》を|出《いだ》さむとするに|於《おい》てをや。|即《すなは》ちヲウはトウ、ツに|用《もち》ふる|時《とき》|始《はじ》めてウの|如《ごと》く|活《はたら》き(ツはタとヲウとの|合《がふ》なるが|故《ゆゑ》に)、エイはセイ、セに|用《もち》ふる|時《とき》|始《はじ》めてヱの|如《ごと》く|活《はたら》き(セはサとエとの|合《がふ》なるが|故《ゆゑ》に)、|又《また》|並《ビヤウ》「ベイ」「ヘイ」は、バビブベボに|活《はたら》く|字母《じぼ》なれども、|下《した》に|附《つ》くイ、ヤウを|除《のぞ》かざれば|用《よう》を|為《な》さず。|精《せい》「シヤウ」はサシスセソに|活《はたら》く|字母《じぼ》なれども、|下《した》に|附《つ》くイ、ヤウを|除《のぞ》かざれば|用《よう》を|為《な》さず。|徳紅切東《とくこうせつとう》は|徳《とく》のクと|紅《こう》のコとを|切《き》り|除《のぞ》かざれば、トウに|成《な》らず。|戸公切紅《ここうせつこう》も|公《こう》のコを|切《き》り|除《のぞ》かざれば、コウに|成《な》らざるにても|瞭《あきらか》なり。|我国《わがくに》の|直音《ちよくおん》を|本拠《ほんきよ》とするものよりすれば、|毫《がう》も|斯《か》かる|困難《こんなん》なし。|尚《なほ》|此等《これら》の|事《こと》、|鈴廼屋大人《すずのやうし》の|漢字三音考《かんじさんおんかう》にも|論《ろん》ぜられたり。
また|外国人《ぐわいこくじん》の|音《おん》は、|凡《すべ》て|朦朧《もうろう》と|溷濁《こんだく》して、|譬《たと》へば|曇《くも》り|日《び》の|夕暮《ゆふぐれ》の|天《てん》を|瞻《み》るが|如《ごと》し。|故《ゆゑ》にアアと|呼《よ》ぶ|音《おん》のオオの|如《ごと》くにも|聞《きこ》え、又オオと|呼《よ》ぶ|音《おん》のウウの|如《ごと》くにも、ホオの|如《ごと》くにも|聞《きこ》ゆる|類《るい》、|分暁《ぶんげう》ならざること|多《おほ》く、|又《また》カキクケコとハヒフヘホとワヰウヱヲと|相渉《あひわた》りて|聞《きこ》えるなど、|諸《もろもろ》の|音《おん》|皆《みな》|皇国《くわうこく》の|音《おん》の|如《ごと》く|分明《ぶんめい》ならず、|又《また》|溷雑紆曲《こんざつうきよく》の|音《おん》|多《おほ》し。|東西《とうざい》を|今《いま》の|唐音《たうおん》にトンスヰと|呼《よ》ぶが|如《ごと》き、トとンと|雑《まざ》り、スとヰと|雑《まざ》り、|又《また》トよりンへ|曲《まが》り、スよりヰへ|曲《まが》る。|春秋《しゆんじう》をチユインチユウと|呼《よ》ぶが|如《ごと》き、チとユとイとンと|雑《まざ》り、チとユとウと|雑《まざ》り、又チよりユへ|曲《まが》り、イへ|曲《まが》り、ンへ|曲《まが》り、チよりユへ|曲《まが》り、ウへ|曲《まが》る。|古《いにしへ》の|音《おん》も|皆《みな》|斯《かく》の|如《ごと》し。|一音《いちおん》にして|斯《かく》の|如《ごと》く|溷雑《こんざつ》し、|二段《にだん》、|三段《さんだん》、|四段《よだん》にも|拗《ねぢ》れ|曲《まが》るは|不正《ふせい》の|音《おん》にして、|皇国《くわうこく》の|音《おと》の|正《ただ》しく|単直《たんちよく》なると|大《おほい》に|異《ことな》り、|曲《まが》らざる|音《おと》もあれども、それも|皇国《くわうこく》の|正《ただ》しき|単音《たんおん》の|如《ごと》くには|非《あら》ず。アア、イイ、ウウ、カア、キイ、クウなどのやうに|皆《みな》|必《かなら》ず|長《なが》く|引《ひ》きて、|短《みじか》く|正《ただ》しくは|呼《よ》ぶことあはたず。|短《みじか》く|呼《よ》べば|必《かなら》ず|韻《ゐん》|急促《つま》りて|入声《にふせい》となるなり。
|外国《ぐわいこく》の|入声《にふせい》は|皇国《くわうこく》の|入声《にふせい》の|如《ごと》きクキツチフ|等《とう》の|顕《あら》はなる|韻《ゐん》はなくして、|単音《たんおん》の|如《ごと》くなれども、|正《ただ》しき|単音《たんおん》には|非《あら》ず。|其《そ》の|陶物《すゑもの》に|行《ゆ》きあたりたる|如《ごと》くに|急促《つま》りて、|喉内《こうない》に|隠々《いんいん》として|韻《ゐん》を|帯《お》べり。|此方《こちら》にて|悪鬼《あくき》、|一旦《いちたん》、|鬱結《うつけつ》、|悦気《えつき》、|臆見《おくけん》、|甲子《かつし》、|吉凶《きつきよう》など|連《つら》ね|呼《よ》ぶときの|悪《あく》、|一《いつ》、|鬱《うつ》、|悦《えつ》、|臆《おく》、|甲《かつ》、|吉《きつ》|等《とう》の|音《おん》の|如《ごと》し。|故《ゆゑ》に|今《いま》この|書《しよ》(|三音考《さんおんかう》)に|入声《にふせい》の|形《かたち》を|言《い》ふには、|仮《かり》に|其《その》|音《おん》の|下《した》にツ|点《てん》を|施《ほどこ》して|識《しるし》とす。|日月《じつげつ》の|唐音《たうおん》をジツエツと|書《か》くが|如《ごと》し。これ|新奇《しんき》を|好《この》むにあらず、|其《その》|韻《ゐん》を|示《しめ》すべき|仮字《かな》なきが|故《ゆゑ》なり。|此《この》|点《てん》を|施《ほどこ》せるは|皆《みな》|急掣《つま》る|韻《ゐん》と|心得《こころう》べし。さて|斯《かく》の|如《ごと》く|韻《ゐん》の|急促《つま》るは|甚《はなは》だ|不正《ふせい》の|音《おん》なり。|皇国《くわうこく》の|音《おん》は(い、ゐ)いかに|短《みぢ》かく|呼《よ》べども、|正《ただ》しく|舒緩《じよくわん》にして|急促《つま》る|事《こと》なし。|又《また》|外国《ぐわいこく》には|韻《ゐん》をンとはぬる|音《おん》|殊《こと》に|多《おほ》し。ンは|全《まつた》く|鼻《はな》より|出《い》づる|音《おん》にして、|口《くち》の|音《おん》に|非《あら》ず。|故《ゆゑ》に|余《よ》の|諸々《もろもろ》の|音《おん》は|口《くち》を|全《まつた》く|閉《と》ぢては|出《い》でざるに、|此《こ》のンの|音《おん》のみは、|口《くち》を|堅《かた》く|閉《と》ぢても|出《で》るなり。されば|皇国《くわうこく》の|五十連音《ごじふれんおん》、|是《これ》|誤《あやま》りなり。|此《こ》の|五十連音《ごじふれんおん》は|下《した》に|言《い》ふ|悉曇《しつたん》の|出《で》にして、|濁音《だくおん》、|半濁音《はんだくおん》を|除《のぞ》きたるなり。|我国《わがくに》には|之《これ》を|合《あは》して|七十五音《しちじふごおん》なり。|鈴廼屋大人《すずのやうし》も|之《これ》を|知《し》らざれば|斯《かか》る|論《ろん》あり。
この|五位十行《ごゐじふぎやう》の|列《れつ》に|入《い》らずして|縦《たて》にも|横《よこ》にも|相通《あひかよ》ふ|音《おん》なく|孤立《こりつ》なり。|然《しか》るに|外国人《ぐわいこくじん》の|音《おん》は|凡《すべ》て|溷濁《こんだく》して|多《おほ》く|鼻《はな》に|触《ふ》るる|中《なか》に、|殊《こと》に|此《こ》のンの|韻《ゐん》|多《おほ》きは、|物言《ものごと》に|口《くち》のみならず、|鼻《はな》の|声《こゑ》をも|厠供《まじ》るものにして、|其《そ》の|不正《ふせい》なること|明《あき》らけし。|皇国《くわうこく》の|古言《こげん》には、ン|声《せい》を|用《もち》ふるもの|一《いつ》もあることなし|云々《うんぬん》。
|是《こ》れ|主《しゆ》として|支那字音《しなじおん》に|関《かん》しての|見解《けんかい》なれども、|他《た》の|外国《ぐわいこく》の|声音《せいおん》も|此《こ》の|理《り》に|漏《も》れず。|之《これ》を|要《えう》するに|声音《せいおん》は|至大天球《たかあまはら》の|主宰《しゆさい》、|天之御中主《あめのみなかぬし》の|心《こころ》の|発《あら》はれたるものにして、|一切《いつさい》|万有《ばんいう》が|享有《きやういう》する|霊機《れいき》の|程度《ていど》に|由《よ》つて|声《こゑ》と|音《おと》とに|分《わか》れ、|声《こゑ》は|更《さら》に|霊機《れいき》|享有《きやういう》の|程度《ていど》に|由《よ》つて|人《ひと》の|声《こゑ》と|動物《どうぶつ》の|声《こゑ》とに|分《わか》れ、|人《ひと》の|声《こゑ》は|又《また》|更《さら》に|霊機《れいき》|享有《きやういう》の|程度《ていど》に|由《よ》つて、|日本人《につぽんじん》の|声《こゑ》と|外人《ぐわいじん》の|声《こゑ》とに|分《わか》れ、|茲《ここ》に|声音《せいおん》の|正不正《せいふせい》と|多少《たせう》とは、|明《あき》らかに|霊機《れいき》の|正不正《せいふせい》と|多少《たせう》とを|示《しめ》せり。
|加之《しかのみならず》|我国《わがくに》には、|其《その》|声《こゑ》|各《おのおの》|活機《くわつき》ありて|機能《きのう》を|有《いう》し、|我国《わがくに》に|有《あ》りとあらゆる|言詞《ことば》は、|皆《みな》|此《この》|声《こゑ》に|依《よ》りて|義《ぎ》を|現《あら》はし、|心《こころ》を|顕《あらは》せるものにして、|彼《かの》|外国語《ぐわいこくご》の|如《ごと》く、|有《あ》り|来《きた》りの|無意味《むいみ》なる|符号《ふごう》には|非《あら》ず。|例《たと》へば|漢字音《かんじおん》にて|風《かぜ》を|風《ふう》と|呼《よ》ぶ、|而《しか》も【フウ】と|言《い》ふ|音《おん》は|何《なん》の|意義《いぎ》を|有《いう》するや。|又《また》|金《かね》を|金《きん》と|呼《よ》ぶ、|而《しか》も【キン】と|言《い》ふ|音《おん》は|何《なん》の|意義《いぎ》を|有《いう》するや。(|但《ただ》し|韻鏡学者《ゐんきやうがくしや》は|種々《しゆじゆ》|理窟《りくつ》を|附《ふ》するも、|僅《わづか》に|少数《せうすう》の|音《おん》に|止《とど》まり|且《か》つ|完全《くわんぜん》ならず)
[#図表省略]
|其《その》|他《た》|印度語《いんどご》にても、|又《また》|英仏語《えいふつご》にても、|斯《かく》の|如《ごと》く|推究《すいきう》しゆけば、|遂《つひ》に|捕捉《ほそく》する|処《ところ》なきに|了《をは》るなり。|是《こ》れ|世界《せかい》の|語学者《ごがくしや》が|最《もつと》も|苦心《くしん》しつつある|問題《もんだい》にして、|我《わが》|文部省《もんぶしやう》が|国語仮名遣《こくごかなづかひ》のために|焦慮《せうりよ》|惨憺《さんたん》するも|寸効《すんかう》を|奏《そう》せざるは、|畢竟《ひつきやう》|是《これ》|根底《こんてい》|無《な》ければなり。|若《も》し|此《こ》の|根底《こんてい》だに|有《あ》らば、|我《わが》|国音《こくおん》、|国語《こくご》は|忽論《もちろん》、|支那《しな》、|印度《いんど》、|英《えい》、|仏《ふつ》、|独語《どくご》|乃至《ないし》|禽獣鱗介《きんじうりんかい》の|声《こゑ》をも|解《かい》し、|又《また》|其《その》|音《おと》を|聞《き》けば|草木《さうもく》、|金《かね》、|石《いし》、|線《せん》、|竹《たけ》の|種類《しゆるい》をも|分《わか》つべし。(|聞《き》き|慣《な》れ|居《を》るが|故《ゆゑ》に|大凡《おほよそ》は|聞《き》き|分《わか》ち|得《う》るなり)
|釈迦《しやか》は|之《これ》が|功徳《くどく》を|解《と》き|一切衆生《いつさいしゆじやう》|語言《ごげん》を|陀羅尼《だらに》と|言《い》ひ、|我国《わがくに》にては|之《これ》を|言霊《ことたま》と|言《い》ふなり。
|言霊《ことたま》とは|言葉《ことば》の|霊《たましひ》なり。|霊《たましひ》とは|心《こころ》の|枢府《すうふ》なり、|即《すなは》ち|吾《わが》(|小我《せうが》)|心《こころ》の|枢府《すうふ》はやがて|天之御中主《あめのみなかぬし》(|大我《たいが》)の|心《こころ》の|枢府《すうふ》なり。|此《こ》の|心《こころ》の|枢府《すうふ》を|言葉《ことば》の|上《うへ》より|観《み》たるもの|即《すなは》ちわが|言霊《ことたま》にして、|此《こ》の|言霊《ことたま》はやがて|天之御中主《あめのみなかぬし》の|言霊《ことたま》なり。|故《ゆゑ》に|此《こ》の|言霊《ことたま》を|知《し》る|時《とき》はあらゆる|一切《いつさい》の|言語《げんご》|声音《せいおん》を|知《し》り、|一切《いつさい》|声音《せいおん》|言語《げんご》を|知《し》る|時《とき》は、|天之御中主《あめのみなかぬし》|全体《ぜんたい》|即《すなは》ち|至大天球《たかあまはら》を|知《し》るなり。されば|若《も》し|夫《そ》れ|真《しん》にこれを|知《し》りて|言霊《ことたま》を|用《もち》ふれば、|一声《いちせい》の|下《もと》に|全地球《ぜんちきう》を|燎《や》くべく、|一呼《いつこ》の|下《もと》に|全宇宙《ぜんうちう》を|漂《ただよ》はすべし。|況《いはん》や|微々《びび》たる|雷霆《らいてい》を|駆《か》り、|風神《ふうじん》を|叱《しつ》し、|乃至《ないし》|一国土《いつこくど》を|左右《さいう》し、|小人類《せうじんるい》を|生殺《せいさつ》するに|於《おい》てをや。|如是《かくのごとき》|言霊《げんれい》、|如是《かくのごとき》|大道《たいだう》、|如是《かくのごとき》|妙術《めうじゆつ》は|実《じつ》に|我国《わがくに》の|具有《ぐいう》なり。|故《ゆゑ》に|我国《わがくに》を|言霊《ことたま》の|幸《さち》はふ|国《くに》と|言《い》ひ、|言霊《ことたま》の|助《たす》くる|国《くに》と|言《い》ひ、|言霊《ことたま》の|明《あき》らけき|国《くに》と|言《い》ひ、|言霊《ことたま》の|治《をさ》むる|国《くに》とは|言《い》ふなり。(|是等《これら》は|我《わが》|古事記《こじき》を|真解《しんかい》するに|依《よ》りて|明《あき》らかなり)
|抑《そもそも》|我国《わがくに》が|斯《かく》の|如《ごと》く|霊機《れいき》の|淵叢地《えんそうち》にして、|如是《かくのごとき》|大道《たいだう》を|具有《ぐいう》する|所以《ゆゑん》のものは、|至大天球《たかあまはら》|成立《せいりつ》の|本然《ほんぜん》に|由《よ》るものとす。|猶《なほ》|吾人《ごじん》の|一身《いつしん》を|支配《しはい》する|精神《せいしん》の|宿《やど》れる|脳髄《なうずゐ》の|如《ごと》く、|至大天球《たかあまはら》に|於《お》ける|脳髄《なうずゐ》なればなり。|彼《かの》|藤田東湖《ふぢたとうこ》が「|天地正大《てんちせいだい》の|気《き》|粋然《すゐぜん》として|神州《しんしう》に|鍾《あつ》まる」とうたへるも、|朦朧気《おぼろげ》ながらにも|之《これ》を|想像《さうざう》したればなり。|今《いま》|一歩《いつぽ》を|降《くだ》つて|之《これ》を|天文地文的《てんもんちもんてき》|関係《くわんけい》より|観《み》る|時《とき》は、|実《じつ》に|我国《わがくに》が|地球上《ちきうじやう》に|於《お》ける|位置《ゐち》、|気候《きこう》、|水土《すゐど》の|関係《くわんけい》より|来《きた》るものなりと|謂《い》ふべし。|香川景樹《かがはかげき》も|水土《すゐど》の|関係《くわんけい》より|声音《せいおん》の|正不正《せいふせい》を|論《ろん》じて|曰《いは》く、(|古今集正義序《こきんしふせいぎじよ》)
|声音《せいおん》は|性情《せいじやう》の|符《ふ》、|性情《せいじやう》は|水土《すゐど》の|霊《れい》ならむこと|更《さら》に|論《ろん》を|俟《ま》つべからず。|而《しか》も|濁《にご》れる|中《うち》にありては、|善《よ》しと|能《よ》く|見《み》し|西土《もろこし》の、|芳野《よしの》の|花《はな》の|美善《うるはし》きを|書《しよ》せるに|似《に》たるも、|百千鳥《ももちどり》|侏離《からさへづり》のこちたきを|免《まぬが》れざれば、|彼《かの》いはゆる|楽《たのし》んで|揺《えう》せず。|哀《かなしむ》で|傷《やぶ》らざらむ|性情《せいじやう》の|正《せい》を|得《え》むことは、ほとほと|希《まれ》なるべし。|況《いはん》や|黄《き》なる|泉《いづみ》に|染紙《そめがみ》のいたく|喧擾《けんぜう》せる|響《おとなひ》をや。|猶余《なほのこ》んの|万《よろ》づ|国原《くにはら》、|其《その》|音《おん》すべて|単直清朗《たんちよくせいらう》なる|事《こと》|能《あた》はざるは、|我《わが》|天津日御霊《あまつひのみたま》の|大御照《おほみてら》しますらむ|大御光《おほみひかり》の|遍《あまね》き|際《かぎ》りに|疎《うと》ければ、|水土《すゐど》|自然《しぜん》に|剛潔《がうけつ》ならずして、|彼《か》の|雑《まじ》はり|濁《にご》れる|柔土弱水《じうどじやくすゐ》の|中《うち》に|涵育《ひた》るが|故《ゆゑ》なりと|知《し》るべし。されば|其《その》|謡《うた》へるや|譜節《ふせつ》して、|之《これ》を|文《あや》どり、|鐘鼓《しようこ》もこれをたすくといへども、なほ|其《そ》の|音《おん》|清爽《せいさう》ならず、|其《その》|調《てう》|朦朧《もうろう》なるを、|如何《いか》にせむや。|独我《ひとりわが》|安積香《あさか》の|山《やま》の|井《ゐ》|浅《あさ》からず。|清濁《きよにご》る|影《かげ》し|見《み》えねば、|難波津《なにはづ》の|何《なに》をかわけて|善《よし》や|悪《あし》やをとはむ。
|膂肉《はじし》の|空《むな》しく、|内木綿《うつゆふ》の|洞《うつ》ろにして、|天霧《あまぎり》さはる|隈《くま》しなければ、|金石《きんせき》を|仮《か》らずと|雖《いへど》も|咏《うた》ふを|得《う》べし。ただちに|天地《てんち》を|感動《かんどう》し、|神人《しんじん》|和楽《やわら》かく、|何《なん》ぞ|百獣《ひやうじう》の|舞《まひ》をうらやまむ|云々《うんぬん》。
|是《こ》れ、|専《もつぱ》ら|漢詩《かんし》を|斥《しりぞ》けて|和歌《わか》を|興《おこ》さむが|為《た》めに|論《ろん》ぜるなれども、|其《そ》の|水土《すゐど》による|声音性情《せいおんせいじやう》の|関係《くわんけい》を|論《ろん》ぜる|大凡《おほよそ》の|意《い》は|聞《きこ》ゆるなり。|気候《きこう》|水土《すいど》の|関係《くわんけい》によりて、|其《その》|国人《くにびと》の|性情《せいじやう》|風俗《ふうぞく》|一切《いつさい》が|各特異《かくとくい》の|点《てん》にあることは、|吾人《ごじん》の|日常《にちじやう》|見聞《みき》きする|処《ところ》にして、|又《また》|是等《これら》|天然《てんねん》の|勢力《せいりよく》が、|実《じつ》に|偉大《ゐだい》なる|不可抗力《ふかかうりよく》を|有《いう》するものなることは、|欧洲《おうしう》にても、モンテスキユー、スペンサー|等《ら》|其《その》|他《た》|社会学者《しやくわいがくしや》も|等《ひと》しく|認《みと》めて|論明《ろんめい》せる|処《ところ》にして、|今《いま》|此《こ》の|声音《せいおん》の|如《ごと》きも|畢竟《ひつきやう》|同理《どうり》なりと|言《い》ふべし。|我《わが》|古事記《こじき》に|依《よ》る|天体学《てんたいがく》に|徴《ちよう》する|時《とき》は、|地球《ちきう》は|至大天球《たかあまはら》の|中心《ちうしん》に|位《くらゐ》して、|稍《やや》|西南《せいなん》に|傾度《けいど》を|有《いう》せり。(|地球中心説《ちきうちうしんせつ》)|而《しか》して|我《わが》|日本《にほん》は|其《そ》の|地球《ちきう》の|表半球《おもてはんきう》の|東北方面《とうほくはうめん》の|上部《じやうぶ》に|位《くらゐ》するが|故《ゆゑ》に、|恰《あだか》も|我国《わがくに》は|地球面《ちきうめん》の|中央《ちうあう》の|上《うへ》に|位置《ゐち》するものにして、|温帯中《をんたいちう》にありて、|寒暑度《かんしよど》を|失《うしな》はず、|土壤《どじやう》|沃腴《よくゆ》にして|水気《すゐき》|清澄《せいちやう》なり。|是《これ》を|以《もつ》て|又《また》|我国《わがくに》を|豊葦原《とよあしはら》|瑞穂《みづほ》の|国《くに》と|言《い》ふなり。
|豊葦原《とよあしはら》とは、|至大天球《たかあまはら》の|事《こと》なり。|瑞穂《みづほ》は|満《み》つ|粋《ほ》にして、【ほ】は|稲葉《いなば》などの|穂《ほ》|又《また》は|鎗《やり》の|穂先《ほさき》など|謂《い》ひて、|精鋭《せいえい》|純粋《じゆんすゐ》の|処《ところ》を|言《い》ふものにして、|満《み》つ|粋《ほ》の|国《くに》とは|地球上《ちきうじやう》に|於《お》ける|粋気《すゐき》の|充満《じうまん》する|国《くに》の|意《い》なり。されば、|其《そ》の|国土《こくど》に|生《しやう》ずる|一切《いつさい》は、|皆《みな》|精鋭《せいえい》の|気《き》を|鍾《あつ》めて|生《うま》れ、|霊機《れいき》も|亦《また》|精鋭《せいえい》なり。|斯《かく》の|如《ごと》く|皆《みな》それ|精鋭《せいえい》なり。|故《ゆゑ》に|曰《いは》く、|真《しん》にこれを|用《もち》ふれば|震天撼地《しんてんかんち》の|業《げふ》も|亦《また》|難《かた》からずと。さて|斯《か》く|精鋭《せいえい》なるものを|用《もち》ゐむとする|時《とき》は、|其《そ》の|用法《ようはふ》も|亦《また》|精鋭《せいえい》ならざるべからず。|而《しか》して|其《そ》の|用法《ようはふ》は|実《じつ》に|我《わが》|朝廷《てうてい》に|於《お》ける|天津日嗣《あまつひつぎ》の|大道妙術《たいだうめうじゆつ》にして、|所謂《いはゆる》|言《い》ひ|継《つ》ぎ|語《かた》り|継《つ》ぎつつ|伝《つた》へ|給《たま》へる|我国《わがくに》|具有《ぐいう》のものなり。
|然《しか》れども|崇神天皇《すじんてんわう》の|大御心《おほみこころ》によりて、|一《ひとた》び|韜蔵《たうざう》せられてより|以還《いくわん》、|暫《しばら》く|其《その》|伝《でん》を|失《うしな》ひ、|天下《てんか》|紊《みだ》れて|儒仏教《じゆぶつけう》の|伝来《でんらい》となり、これと|同時《どうじ》に、|又《また》|外国《ぐわいこく》の|語声《ごせい》をも|輸入《ゆにふ》し|来《きた》りぬ。|所謂《いはゆる》|支那字音《しなじおん》|及《およ》び|印度悉曇《いんどしつたん》|是《これ》なり。|爾後《じご》|我国《わがくに》の|道《みち》|益々《ますます》に|失《うしな》ひ、|言霊《ことたま》の|伝《でん》|愈《いよいよ》|泯《ほろ》び、祭都〓成が|如《ごと》きすら|我国《わがくに》|上古《じやうこ》|文字《もじ》|無《な》しと|言《い》ふに|至《いた》り、|万葉集《まんえうしふ》|時代《じだい》には|已《すで》に|仮名遣《かなづか》ひの|愆《あやま》れるもの|多《おほ》く、|源《みなもと》ノ|順朝臣《したがふあそん》が|我《わ》が|国《くに》|古語《こご》の|失《うしな》はれむことを|憂《うれ》ひて、|和名抄《わみやうせう》を|遺《のこ》したれども、|其《そ》の|和名抄《わみやうせう》|已《すで》に|誤《あやま》りあり。|斯《かく》の|如《ごと》き|有様《ありさま》なりしかば、|現在《げんざい》|今日《こんにち》まで|使用《しよう》してある|五十音《ごじふおん》の|此《この》|間《かん》に|起《おこ》るに|至《いた》りしなり。|是《こ》れ|実《じつ》に|印度《いんど》|悉曇《しつたん》の|転化《てんくわ》したるものにして、|其《そ》が|自然《しぜん》の|理法《りはふ》に|違《たが》へること|甚《はなはだ》し。|今《いま》や|崇神天皇《すじんてんわう》|以来《いらい》|二千年《にせんねん》を|経《へ》、|時《とき》|運《めぐ》りて|乾坤一転《けんこんいつてん》せむとし、|茲《ここ》に|彼《か》の|秘《ひ》せられたる|大道《たいだう》は|世《よ》に|出《い》でむとするに|至《いた》りぬ。|然《しか》れども|馴致習慣《じゆんちしふくわん》の|久《ひさ》しき|人《ひと》|皆《みな》、|彼《か》の|誤《あやま》れるものを|以《もつ》て、|大道《たいだう》の|本然《ほんぜん》なりと|信《しん》じ、|却《かへ》つて|此《これ》を|以《もつ》て|奇異《きい》を|好《この》める|妄誕《ばうたん》の|説《せつ》とせむ。
|故《ゆゑ》に、|今《いま》|茲《ここ》に|之《これ》を|闡明《せんめい》せむとするに|際《さい》して、|先《ま》づ|現行五十音《げんかうごじふおん》の|基本《きほん》なる|悉曇《しつたん》なるもの|宇宙《うちう》|真理《しんり》の|正伝《せいでん》に|非《あら》ずして、|神随《かむながら》の|本道《ほんだう》に|非《あら》ざる|所以《ゆゑん》を|知悉《ちしつ》せしめむとす。|然《しか》れども|亦《また》|往々《わうわう》にして|現行五十音《げんかうごじふおん》が|果《はた》して|悉曇《しつたん》に|基《もと》づくものなるや|否《いな》やを|知《し》らざるものあるべければ、|又《また》|更《さら》に|一歩《いつぽ》を|退《しりぞ》いて|五十音《ごじふおん》の|出所《しゆつしよ》を|論定《ろんてい》し、|而《しか》して|後《のち》|本論《ほんろん》に|入《い》らむとするなり。|抑《そもそも》|従来《じうらい》の|片仮名《かたかな》、|五十音図《ごじふおんづ》|共《とも》に|吉備真備《きびのまきび》が|作《さく》なりと|言《い》ひ、|又《また》|真言《しんごん》の|僧徒《そうと》が|天竺《てんぢく》の|悉曇章《しつたんしやう》によりて、|邦人《ほうじん》に|固有《こいう》する|音《おん》のみを|挙《あ》げて|作《つく》りしものなりといふ|等《とう》、|其《その》|他《た》|異説《いせつ》|多《おほ》くして|詳《つまびらか》ならず。|吾人《ごじん》は|今《いま》|之《これ》が|作者《さくしや》の|何人《なんびと》なるやを|尋求《じんきう》するは、|必然《ひつぜん》の|要件《えうけん》に|非《あら》ずして、|五十音図《ごじふおんづ》そのものの|根拠《こんきよ》を|求《もと》めむとするものなるが|故《ゆゑ》に、|作者《さくしや》の|穿鑿《せんさく》は|姑《しばら》く|之《これ》を|措《お》きて|問《と》はず、|直《ただ》ちに|五十音《ごじふおん》の|故郷《こきやう》に|入《い》らむとす。
さて、|今《いま》|之《これ》を|真言僧侶《しんごんそうりよ》の|手《て》に|成《な》れるものとせば、|悉曇《しつたん》の|出《で》なることは、|論《ろん》を|俟《ま》たず。|而《しか》して|又《また》これを|吉備真備《きびのまきび》の|作《さく》なりとするも、|同《おな》じく|是《こ》れ|悉曇《しつたん》に|基《もとづ》くものなり。|何者《なにもの》か|吉備大臣《きびだいじん》が|之《これ》を|作《つく》りしとするも、|必《かなら》ずや|入唐帰朝後《にふたうきてうご》のことに|相違《さうゐ》なくして(|唐《たう》に|居《を》ること|二十年《にじふねん》、|我《わが》|聖武天皇《しやうむてんわう》の|天平《てんぴやう》|七年《しちねん》|帰朝《きてう》す)|学《まな》び|来《きた》れる|漢音《かんおん》によりて|作《つく》れるものなるべく、|而《しか》して|従来《じうらい》|支那韻書《しなゐんしよ》なるものは、|悉曇《しつたん》より|出《い》でたるものにして、|畢竟《ひつきやう》|同根《どうこん》の|出《で》なればなり。
|張鱗之《ちやうりんし》が|韻鏡序《ゐんきやうじよ》に|曰《いは》く、
余年二十始得此学字音。往昔相伝類曰洪韻。釈迦子之所撰也。有沙門神〓。号知韻音。甞著切韻図載玉篇(南梁高祖武帝の天同九年成る)巻末。窃意。是書作於此僧。世俗訛呼〓為洪爾。然又無処拠云々
|又《また》|曰《いは》く、
梵僧伝之華僧続之云々
と。|仍《よつ》て|支那韻書《しななゐんしよ》も|亦《また》|悉曇《しつたん》より|転化《てんくわ》せるものなるを|知《し》るべし。|故《ゆゑ》に|何《いづ》れにしても、|我《わが》|五十音《ごじふおん》は|悉曇《しつたん》に|根拠《こんきよ》を|有《いう》するものなることは|明《あきら》けし。|韻鏡易解大全《ゐんきやうえきかいたいぜん》に|曰《いは》く、
依開奩抄等。竪阿伊宇恵遠五字及横加佐太奈波末也羅和九字者在仏経中。余所三十六字(五十音中父母音を除きたるもの)弘法大師所加也云々
|或《あるひ》は|又《また》、
作者未分明矣
と。|又《また》|同頭書《どうとうしよ》に|曰《いは》く、
云々三十六字雖大師加之。彼土本有転声法。有反音相通規則。故専見有口授伝来非云新加之乎
と。|今《いま》|五十音中《ごじふおんちう》|父母音《ふぼおん》を|除《のぞ》きたる|余《あま》りの|三十六字《さんじふろくじ》は、|空海《くうかい》が|加《くは》へたりとするも、|若《もし》くは|否《しか》らずとするも、|已《すで》に|父母音《ふぼおん》にして|彼《かれ》に|存《そん》し、|其《その》|音字《おんじ》の|配列《はいれつ》|順序《じゆんじよ》にして|両者《りやうしや》|同一《どういつ》なる|点《てん》より|考《かんが》ふるときは、|最早《もはや》|疑《うたが》ふの|余地《よち》なかるべし。
[#図表省略]
|悉曇《しつたん》には|母音《ぼおん》|十二字《じふにじ》あり、|之《これ》を|摩多《また》と|言《い》ひ、|父音《ふおん》|三十五字《さんじふごじ》あり、|之《これ》を|体文《たいもん》といふ。|而《しか》して|我国《わがくに》の|五十音図《ごじふおんづ》の|父母音《ふぼおん》は、|皆《みな》|右《みぎ》の|中《うち》の|同類音《どうるいおん》を|一音《いちおん》に|約《やく》したるものなり。|即《すなは》ち「」|印《じるし》を|附《ふ》したるは、|其《そ》の|約音《やくおん》を|表《へう》する|字《じ》にして、|余《よ》の|字《じ》を|除去《ぢよきよ》すれば、アイウエオ|及《およ》びカサタナハマヤラワを|残《のこ》し、|此《こ》の|父母音《ふぼおん》|交《まじ》りて、|他《た》の|三十六音図《さんじふろくおんづ》は、|此《こ》の|悉曇図《しつたんづ》を|襲《おそ》へるものなるは|明白《めいはく》なり。(|但《ただ》し|此《この》|図《づ》は|之《これ》を|襲用《しふよう》せるものなるも、|声音《せいおん》は|之《これ》を|襲用《しふよう》せるものに|非《あら》ずして、|正《まさ》しく|我国《わがくに》の|声《こゑ》なり。|上古《じやうこ》よりは|多少《たせう》の|変化《へんくわ》あれども、|之《これ》を|襲《おそ》ふも|其《その》|類似《るゐじ》の|声《こゑ》の|位置《ゐち》を|借《か》りたるものなり、|迷《まよ》ふべからず。|印度人《いんどじん》の|声《こゑ》は|到底《たうてい》|日本人《につぽんじん》の|声《こゑ》とは|同一《どういつ》ならざるなり)
第一篇 |竜《たつ》の|島根《しまね》
第一章 |湖中《こちう》の|怪《くわい》〔一九八二〕
|天之峯火夫《あまのみねひを》の|神《かみ》、|大宇宙《だいうちう》の|高天原《たかあまはら》に|生《あ》れましてより、|幾千年《いくせんねん》の|星霜《せいさう》を|経《へ》たれども、|天《てん》|未《いま》だ|備《そな》はらず、|地《つち》|又《また》|稚《わか》くして、|水母《くらげ》なす|漂《ただよ》へる|島々《しまじま》の|中《なか》にも、|別《わ》けて|美《うるは》しく|地《つち》|固《かた》まりし|天恵《てんけい》の|島《しま》あり。この|島《しま》を|葭《よし》の|島《しま》と|言《い》ひ|又《また》|葭原《よしはら》の|国土《くに》とも|言《い》ふ。|此《この》|島国《しまぐに》は|葦原《あしはら》の|国土《くに》に|比《ひ》して|約十倍《やくじふばい》の|広袤《くわうばう》を|有《いう》し、|万里《まで》の|海《うみ》の|中《なか》に|漂《ただよ》ふ|生島《いくしま》なり。
この|島《しま》の|中央《ちうあう》に|屹立《きつりつ》せる|高山《かうざん》を|伊吹《いぶき》の|山《やま》と|称《しよう》し、その|麓《ふもと》をめぐる|幾百里《いくひやくり》の|湖水《こすい》を|玉耶湖《たまやこ》と|言《い》ふ。この|湖水《こすい》は|水《みづ》|清《きよ》くして|湖底《こてい》の|砂礫《しやれき》|鏡《かがみ》を|透《とほ》して|見《み》る|如《ごと》く、|清麗《せいれい》の|気《き》|自《おのづか》ら|漂《ただよ》ふ。
|伊吹《いぶき》の|山《やま》には、|桔梗《ききやう》、|女郎花《をみなへし》、|撫子《なでしこ》、|萩《はぎ》、|山吹《やまぶき》、|椿《つばき》などの|花樹《くわじゆ》|繁茂《はんも》し、|春夏秋冬《しゆんかしうとう》の|分《わか》ちなく|艶《えん》を|競《きそ》ひて|咲《さ》き|乱《みだ》れ、|芳香《はうかう》|風《かぜ》に|薫《くん》じ、さながら|地上《ちじやう》の|天国《てんごく》を|現出《げんしゆつ》せるものの|如《ごと》し。|数多《あまた》の|竜神《たつがみ》と|称《しよう》する|種族《しゆぞく》、この|山《やま》を|中心《ちうしん》として|湖面《こめん》に|出没《しゆつぼつ》し、|或《あるひ》は|山《やま》に|登《のぼ》りて|安逸《あんいつ》なる|生活《せいくわつ》を|楽《たの》しみつつありき。さりながら、|竜神族《たつがみぞく》はいづれも|人面竜身《にんめんりうしん》にして、|未《いま》だ|人間《にんげん》としての|形体《けいたい》そなはらざりければ|竜神族《たつがみぞく》の|王《わう》は、|如何《いか》にもして|国津神《くにつかみ》のごとく|人体《じんたい》をそなへたきものと、|日夜《にちや》|焦慮《せうりよ》しつつありける。
この|湖水《こすい》の|上流《じやうりう》に|当《あた》りて、|水上山《みなかみやま》といふ|饅頭形《まんじゆうがた》の|大丘陵《だいきうりよう》ありて、|国津神《くにつかみ》はこの|丘陵《きうりよう》を|中心《ちうしん》に|安逸《あんいつ》なる|生活《せいくわつ》を|送《おく》りつつありき。この|里《さと》の|酋長《しうちやう》を|国津神《くにつかみ》の|祖《おや》と|称《しよう》し、その|名《な》を|山神彦《やまがみひこ》と|言《い》ひ、|妻《つま》の|名《な》を|川神姫《かはかみひめ》と|称《たた》へられける。
|山神彦《やまがみひこ》、|川神姫《かはかみひめ》の|夫婦《ふうふ》が|中《なか》に、|眉目形《みめかたち》すぐれて|雄々《をを》しくやさしき、|男女《だんぢよ》|二柱《ふたはしら》の|御子《みこ》ありき。|兄《あに》を【あでやか】(艶男)と|言《い》ひ、|妹《いもうと》を【うららか】(麗子)と|言《い》ふ。|二人《ふたり》の|兄妹《きやうだい》は|互《たがひ》に|睦《むつ》び|親《した》しみて、|影《かげ》の|身体《からだ》に|従《したが》ふが|如《ごと》く、いづれの|土地《とち》に|到《いた》るも|離《はな》れたることなかりける。
|大空《おほぞら》に|一点《いつてん》の|雲《くも》もなく、|月《つき》は|皎々《かうかう》として|東《ひがし》の|野辺《のべ》の|草《くさ》より|昇《のぼ》らせ|給《たま》ひ、|星《ほし》は|黄金《こがね》|白銀《しろがね》の|光《ひか》りを|御空《みそら》|一面《いちめん》にまたたかせ、えも|言《い》はれぬ|眺《なが》めなりける。
|麗子《うららか》はこの|大自然《だいしぜん》の|風光《ふうくわう》に|憧《あこが》れ、|只《ただ》|一人《ひとり》|吾《われ》を|忘《わす》れて|水上川《みなかみがは》の|岸辺《きしべ》を|下《くだ》り|行《ゆ》けば、|清《すが》しき|水面《すゐめん》にうつる|月《つき》の|光《ひか》り、|星《ほし》のまたたき、|川水《かはみづ》を|銀色《ぎんいろ》に|輝《かがや》かせつつ|流《なが》るる|状態《さま》のいとも|床《ゆか》しくいとも|目出度《めでた》きに|憧《あこが》れながら、|月下《げつか》の|川辺《かはべ》に|立《た》ちて|歌《うた》ふ。
『あなさやけおけ
|天之岩戸《あまのいはと》も|開《あ》け|放《はな》れ
|御空《みそら》の|雲霧《くもきり》かげもなし
|東《ひがし》の|御空《みそら》を|見《み》れば|十四夜《いざよひ》の
|月《つき》は|昇《のぼ》れり|葭原《よしはら》の
|国土《くに》の|草木《くさき》をいてらして
|輝《かがや》く|野辺《のべ》の|露《つゆ》|見《み》れば
さながら|星《ほし》の|光《ひかり》かも
|水上川《みなかみがは》を|眺《なが》むれば
|水《みづ》は|澄《す》みきり|澄《す》みきらひ
|静《しづか》に|流《なが》るる|月《つき》の|光《かげ》
|真砂《まさご》にまがふ|星《ほし》の|光《かげ》
ああ|天国《てんごく》か|楽園《らくゑん》か
この|光景《くわうけい》を|吾《われ》|一人《ひとり》
|見《み》るは|惜《を》しけれ|父《ちち》のみの
|父《ちち》も|来《き》ませよ|母《はは》そはの
|母《はは》も|来《き》ましてこの|眺《なが》め
|心《こころ》ゆくまでみそなはせ
|兄《あに》の|君《きみ》なる|艶男《あでやか》も
|吾《わが》|後《あと》|追《お》ひて|来《きた》りませ
ああこの|清水《しみづ》|川水《かはみづ》よ
|生《い》きの|生命《いのち》の|輝《かがや》きか
|汀《みぎは》に|香《かを》るあやめ|草《ぐさ》
|月《つき》の|光《ひかり》に|照《て》らされて
|濃《こ》き|紫《むらさき》のやさ|姿《すがた》
あざやかなるかも|吾《わが》|兄《あに》の
|君《きみ》の|粧《よそほ》ひそのままよ
|吾《わが》|足下《あしもと》を|眺《なが》むれば
やさしき|清《きよ》き|撫子《なでしこ》や
|黄色《きいろ》に|照《て》らふ|女郎花《をみなへし》
|仙人掌《さぼてん》の|花《はな》あかあかと
|吾《わが》|立《た》つ|川辺《かはべ》に|香《かを》るなり
ああ|兄《せ》の|君《きみ》よ|艶男《あでやか》よ』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|川底《かはそこ》を|真昼《まひる》の|如《ごと》く|輝《かがや》かしながら、ぬつと|首《くび》から|上《うへ》を|水面《すゐめん》に|現《あらは》し、|歌《うた》ふ|男《をとこ》がある。よくよく|見《み》れば|麗子《うららか》が|歌中《かちう》の|人物《じんぶつ》、|艶男《あでやか》の|兄《あに》であつた。
|麗子《うららか》は|余《あま》りの|不思議《ふしぎ》さと|嬉《うれ》しさとに、|川中《かはなか》に|裳裾《もすそ》からげて|飛《と》び|入《い》らむとしたが、|片足《かたあし》をさし|入《い》れた|刹那《せつな》、|脛《すね》もきれるばかりの|冷《つめ》たさに|驚《おどろ》き、|元《もと》の|岸辺《きしべ》に|馳《は》せ|上《あが》り、|茫然《ばうぜん》として|男《をとこ》の|顔《かほ》を|眺《なが》めゐたりき。これはその|実《じつ》|麗子《うららか》が|兄《あに》ではなく、|此《この》|湖底《こてい》に|潜《ひそ》む|竜神族《たつがみぞく》の|王《わう》であつた。
|竜神《たつがみ》の|王《わう》は|如何《いか》にもして|国津神《くにつかみ》をとらへ、これと|嫁《とつ》ぎて|人面竜体《にんめんりうたい》を|脱《だつ》し、|国津神《くにつかみ》|同様《どうやう》の|子《こ》を|産《う》まむことを|思索《しさく》してゐたのである。|然《しか》しながら、|水中《すゐちう》にある|竜体《りうたい》は|底《そこ》の|藻草《もぐさ》をもつて|包《つつ》まれたれば、さながら|青《あを》き|着物《きもの》を|着《き》たる|如《ごと》く|麗子《うららか》の|目《め》に|見《み》えてゐる。
|麗子《うららか》は|日頃《ひごろ》|恋《こ》ひ|慕《した》ふ|艶男《あでやか》と|思《おも》ひつめ、|嬉《うれ》しさと|愛《かな》しさとの|声《こゑ》をしぼりて|歌《うた》ふ。
『|天晴《あは》れ|天晴《あは》れ
|御空《みそら》は|清《すが》し|月《つき》|清《きよ》し
|星《ほし》の|光《ひかり》はさやかなり
かかる|畏《かしこ》き|天空《あまぞら》を
そのままうつし|浮《うか》べたる
|玉耶《たまや》の|湖《うみ》の|清《すが》しさよ
その|清《すが》しさの|真中《まんなか》に
|高《たか》くそびゆる|伊吹山《いぶきやま》
いぶきの|狭霧《さぎり》|早《は》や|晴《は》れて
|天《てん》もあざやか|地《ち》もうらら
|吾《わが》|恋《こ》ひまつる|兄《せ》の|君《きみ》は
この|湖《みづうみ》に|何時《いつ》の|間《ま》に
|遊《あそ》び|給《たま》ふやいぶかしし
|如何《いか》に|清《きよ》けく|澄《す》めるとも
この|湖《みづうみ》の|水底《みなそこ》は
|吾《わが》|足《あし》さへもきるるかと
|思《おも》ふばかりの|冷《つめ》たさに
|吾《われ》は|震《ふる》ひをののきぬ
|如何《いか》にして|汝《な》は|何時迄《いつまで》この|水《みづ》に
|浸《ひた》り|給《たま》ふかいぶかしや
はや|上《あが》りませ|陸《くが》の|上《へ》に
|如何《いか》に|水面《みのも》は|清《きよ》くとも
|花《はな》|咲《さ》き|満《み》つる|陸《くが》の|眺《なが》めに
|如何《いか》でしかめやうららなる
|地上《ちじやう》に|早《はや》く|上《あが》りませ
|懐《なつか》しの|君《きみ》|恋《こひ》しき|君《きみ》よ|早《は》や|来《き》ませ
いとしき|乙女《をとめ》ここに|在《あ》り
|愛《かな》しき|乙女《をとめ》ここに|在《あ》り
はや|上《あが》らせよ|兄《せ》の|君《きみ》よ』
と|力《ちから》|限《かぎ》りに|歌《うた》ひながら|艶男《あでやか》の|上陸《じやうりく》をうながしてゐる。|水中《すゐちう》の|男《をとこ》はこれに|答《こた》へて、
『なつかしの|麗子《うららか》の|君《きみ》よ|妹《いもうと》よ
|汝《なれ》と|吾《われ》とはとこしへに
この|葭原《よしはら》の|国中《くになか》に
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》ながらへて
|百年《ももとせ》|千年《ちとせ》|八千年《やちとせ》も
|生《い》きて|栄《さか》えて|果《は》てしなく
|伊吹《いぶき》の|山《やま》の|主《ぬし》となり
この|地《ち》の|上《うへ》に|天国《てんごく》を
|建《た》てむと|思《おも》ふ|真心《まごころ》に
|汝《なれ》に|先《さ》き|立《だ》ち|今《いま》ここに
|吾《われ》は|来《き》つるよこの|水《みづ》は
|心《こころ》のままに|変《かは》るぞや
|冷《つめ》たき|心《こころ》|持《も》つならば
この|川水《かはみづ》は|冷《ひ》ゆるらむ
あつき|心《こころ》を|持《も》つならば
これの|湖水《こすい》はあつからむ
|熱《あつ》くもあらず|冷《つめ》たくも
なくて|楽《たの》しく|今《いま》|吾《われ》は
|汝《なれ》を|迎《むか》へむ|竜《たつ》の|都《みやこ》へ
|心《こころ》はげまし|水中《みづなか》に
|飛《と》び|入《い》りませよ|麗子《うららか》の|君《きみ》よ』
|斯《か》く|歌《うた》ひながら|麗子《うららか》の|入水《にふすい》をうながしてゐる。|麗子《うららか》は|恋《こひ》しき|兄《あに》の、|言葉《ことば》を|尽《つく》しての|招《まね》きに|心《こころ》はをどり、|忽《たちま》ち|水中《すゐちう》に|飛《と》び|込《こ》まむかと|思《おも》ひしが|待《ま》てしばし、|腑《ふ》に|落《お》ちぬ|事《こと》あり。|常《つね》に|水中《すいちう》をきらはせ|給《たま》ふ|兄《せ》の|君《きみ》が、かかる|冷《つめ》たき|水中《すいちう》に|全身《ぜんしん》を|没《ぼつ》し、|顔《かほ》のみを|上《あ》げて|安々《やすやす》と|言葉《ことば》をかけさせ|給《たま》ふはただ|事《ごと》ならじ。|或《あるひ》は|竜神《たつがみ》の|化身《けしん》ならむかと、うつぶして|思案《しあん》にくれてゐる。|水中《すいちう》の|男《をとこ》は|艶男《あでやか》の|声《こゑ》そつくりにて、
『|天晴《あは》れ|天晴《あは》れ
|御空《みそら》は|晴《は》れて|月《つき》あかし
|玉耶《たまや》の|湖水《こすい》は|底《そこ》ひまで
|澄《す》みきらひつつ|大空《おほぞら》の
|月《つき》をうつせり|千万《ちよろづ》の
|星《ほし》を|流《なが》せり|汝《な》が|眼《め》には
|天津御国《あまつみくに》の|荘厳《さうごん》を
うつして|清《すが》しき|玉耶湖《たまやこ》の
|水《みづ》はゆるやかにして|香《かを》りあり
|何《なに》をためらひ|給《たま》ふぞや
|妹背《いもせ》の|契《ちぎ》り|今《いま》ここに
|汝《なれ》と|結《むす》ばむ|厳御霊《いづみたま》
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|仲立《なかだち》に
|清《きよ》く|清《すが》しき|夫婦仲《めをとなか》
いざや|来《きた》らせ|給《たま》へかし』
|麗子《うららか》は|磯辺《いそべ》に|立《た》ちて|歌《うた》ふ。
『|兄《せ》の|君《きみ》の|仰《おほ》せはよしと|思《おも》へども
|家《いへ》にのこせしちちのみの
|父《ちち》の|許《ゆる》しのなき|身《み》とや
ははそはの|母《はは》の|心《こころ》もまだわかぬ
|今日《けふ》の|吾等《われら》の|如何《いか》にして
|嫁《とつ》ぎの|道《みち》をつとむべき
|如何《いか》に|恋《こひ》しき|君《きみ》なればとて
|父《ちち》と|母《はは》との|許《ゆる》しなく
たとへ|御許《みゆる》しありとても
この|広《ひろ》き|葭原《よしはら》の|国土《くに》に
せまき|水面《みのも》に|嫁《とつ》ぐべき
|何《なに》はともあれ|垂乳根《たらちね》の
|家《いへ》に|帰《かへ》りて|定《さだ》むべし
|陸地《くがち》に|上《あが》らせ|給《たま》へかし』
|斯《か》く|互《たがひ》に、|水中《すいちう》に|飛《と》び|込《こ》めよ、|上陸《じやうりく》せよ、と|兄妹《きやうだい》が|水陸《すいりく》|両方面《りやうはうめん》からかけ|合《あ》つてゐる。
|斯《か》かる|所《ところ》へ|一天《いつてん》にはかにかき|曇《くも》り、|闇《やみ》の|塊《かたまり》は|四辺《しへん》に|落下《らくか》し、|咫尺暗澹《しせきあんたん》、|波《なみ》|狂《くる》ひ|立《た》ちて|優《やさ》しき|乙女《をとめ》の|心《こころ》は、|狂《くる》はむばかりなりにける。|忽《たちま》ち|暗中《あんちう》より|一塊《いつくわい》の|火光《くわくわう》|現《あらは》るよと|見《み》る|間《ま》に、|艶男《あでやか》と|見《み》えし|男《をとこ》は|人面竜身《にんめんりうしん》と|変《へん》じ、|乙女《をとめ》の|体《からだ》をひつ|抱《かか》へ、|水上《すいじやう》|高《たか》く|捧《ささ》げながら|湖中《こちう》に|浮《うか》ぶ|伊吹山《いぶきやま》の|方面《はうめん》さして|逃《に》げ|去《さ》りにける。
|竜神《たつがみ》の|化身《けしん》に|乙女《をとめ》はとらへられ
|行《ゆ》き|方《かた》|知《し》れずなりにけらしな
(昭和九・七・一六 旧六・五 於関東別院南風閣 谷前清子謹録)
第二章 |愛《あい》の|追跡《ついせき》〔一九八三〕
|四五歳《しごさい》の|頃《ころ》より、|何時《いつ》も|御酒徳利《みきどつくり》の|様《やう》に|離《はな》れた|事《こと》のなき|麗子《うららか》の|姿《すがた》が、|卒然《そつぜん》として|見《み》えなくなりしより、|兄《あに》の|艶男《あでやか》は|俄《にはか》に|心《こころ》いらち、|物淋《ものさび》しさを|感《かん》じ、|妹《いもうと》の|在処《ありか》を|捜《さが》すべく、|月下《げつか》の|野辺《のべ》を|逍遥《せうえう》しながら、|悲《かな》しき|声《こゑ》を|張《は》りあげて、|淑《しと》やかに|歌《うた》ふ。
『|久方《ひさかた》の|御空《みそら》に|月《つき》は|輝《かがや》けり
|今宵《こよひ》はさながら|天津国《あまつくに》かも
|草《くさ》の|葉《は》に|置《お》く|玉露《たまつゆ》も|月《つき》のかげ
|宿《やど》して|星《ほし》と|輝《かがや》けるかも
そよそよと|吹《ふ》く|夜半《よは》の|風《かぜ》にあふられて
|草《くさ》の|葉《は》の|露《つゆ》|玉《たま》と|散《ち》るかも
わが|面《おも》をなでて|通《かよ》へる|夜半《よは》の|風《かぜ》の
ひびきは|妹《いも》の|声《こゑ》に|似《に》たるも
|葭原《よしはら》を|吹《ふ》く|夜《よ》の|風《かぜ》のひびきさへ
|妹《いも》の|声《こゑ》かとあやしまれける
わが|妹《いも》はいづらなるらむ|今宵《こよひ》はも
|姿《すがた》|見《み》えなくひたに|淋《さび》しも
|仙人掌《さぼてん》の|花《はな》は|路辺《みちべ》ににほへども
|花《はな》の|姿《すがた》の|麗子《うららか》は|見《み》えず
|昼《ひる》の|如《ごと》|月《つき》の|光《ひかり》はてれれども
|菖浦《あやめ》の|花《はな》は|色《いろ》をかくせり
|女郎花《をみなへし》|黄色《きいろ》く|咲《さ》ど|夜《よる》の|目《め》に
|真白《ましろ》に|見《み》ゆる|不思議《ふしぎ》なる|世《よ》や
|女郎花《をみなへし》|路《みち》のかたへにむら|咲《さ》けど
わが|目《め》にとぼしき|麗子《うららか》の|君《きみ》
|麗子《うららか》よああ|妹《いもうと》よ|汝《なれ》は|今《いま》
いづらに|居《ゐ》るか|言挙《ことあ》げせよや
かくの|如《ごと》|月《つき》|照《て》る|夜半《よは》も|君《きみ》なくば
わが|魂《たましひ》は|闇《やみ》に|等《ひと》しき
|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|闇《やみ》を|晴《は》らしませ
|雲《くも》を|出《い》でたる|月《つき》の|如《ごと》くに
なつかしき|恋《こひ》しき|妹《いも》よ|麗子《うららか》よ
|汝《なれ》はいづくぞわれ|此処《ここ》にあり
|生命《いのち》あれば|吾《われ》にまみえよ|麗子《うららか》よ
わが|行《ゆ》く|野辺《のべ》に|百花《ももばな》|匂《にほ》へる
|百千花《ももちばな》|艶《えん》を|競《きそ》ひて|香《かを》れども
|汝《なれ》に|優《まさ》れる|花《はな》の|香《か》はなし
|葭原《よしはら》の|国土《くに》は|広《ひろ》けれど|汝《なれ》なくば
われは|淋《さび》しく|死《し》に|度《た》く|思《おも》ふ
|何故《なにゆゑ》に|君《きみ》は|姿《すがた》をかくせしや
われは|心《こころ》をはかりかねつつ
|万代《よろづよ》の|末《すゑ》の|末《すゑ》まで|誓《ちか》ひてし
|君《きみ》は|吾身《わがみ》の|生命《いのち》ならずや
|垂乳根《たらちね》の|許《ゆる》しは|未《いま》だあらねども
なれと|誓《ちか》ひし|事《こと》は|忘《わす》れじ
|待《ま》てど|待《ま》てど|君《きみ》の|姿《すがた》の|見《み》えぬままに
われは|悲《かな》しく|探《たづ》ね|来《き》つるも
|大空《おほぞら》の|月《つき》も|雲間《くもま》にかくれます
ためしある|世《よ》と|思《おも》へど|淋《さび》し
|君《きみ》|無《な》くば|吾《われ》も|生命《いのち》は|惜《をし》からじ
|生《い》きて|詮《せん》なきこの|身《み》と|思《おも》へば
なれのかげ|見《み》えずなりけるたまゆらを
|俄《にはか》に|淋《さび》しくなりにけらしな
|君《きみ》まさぬ|淋《さび》しさ|初《はじ》めて|悟《さと》りけり
やさしき|声《こゑ》のはたととぎれて
|君《きみ》が|笑《ゑ》み|君《きみ》が|言葉《ことば》のやさしさを
|今《いま》|思出《もひい》でて|一入《ひとしほ》|悲《かな》しき
|君《きみ》|無《な》くばわれも|此《こ》の|世《よ》に|無《な》かるべしと
|誓《ちか》ひし|言《こと》の|葉《は》|忘《わす》れ|給《たま》ふか
|一言《ひとこと》の|言挙《ことあ》げもせず|汝《なれ》は|今《いま》
|一人《ひとり》|淋《さび》しく|離《さか》りましける
|仰《あふ》ぎ|見《み》れば|星《ほし》はささやき|給《たま》へども
わが|耳《みみ》|遠《とほ》く|聞《きこ》えぬ|悲《かな》しさ
|水上《みなかみ》の|流《ながれ》は|如何《いか》に|清《きよ》くとも
|汝《な》がよそほひに|如《し》かじとぞ|思《おも》ふ
|虫《むし》の|声《こゑ》|今宵《こよひ》は|悲《かな》しく|聞《きこ》ゆなり
わが|恋《こ》ふ|心《こころ》の|色《いろ》をうつして
|何故《なにゆゑ》に|君《きみ》はわが|目《め》を|離《さか》りますか
|心《こころ》もとなく|迷《まよ》ひぬるかも
ちちのみの|父《ちち》は|更《さら》なりははそはの
|母《はは》もさぞかし|歎《なげ》かせ|給《たま》はむ
|曲神《まがかみ》の|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|夜《よる》の|野《の》を
|彷徨《さまよ》ふ|君《きみ》に|心《こころ》ひかるる
|朝夕《あさゆふ》に|親《した》しみ|交《まじ》はり|楽《たの》しみし
|君《きみ》は|見《み》えなく|悲《かな》しき|夜半《よは》なり
|野路《のぢ》を|吹《ふ》く|風《かぜ》も|一入《ひとしほ》|身《み》にしみて
|心《こころ》|淋《さび》しき|今宵《こよひ》なるかも
ああ|君《きみ》はいづらにますか|虫《むし》の|音《ね》も
ことに|悲《かな》しく|君《きみ》をたづぬる
|小田巻《をだまき》の|糸《いと》|長々《ながなが》と|繰《く》りごとを
くり|返《かへ》しつつわれは|泣《な》くなり
|片時《かたとき》も|離《はな》れ|給《たま》はぬ|君《きみ》|故《ゆゑ》に
|今宵《こよひ》はことに|悲《かな》しかりけり
|君《きみ》の|声《こゑ》わが|耳《みみ》にまだ|残《のこ》りつつ
|虫《むし》の|音《ね》さへもそれと|疑《うたが》はる』
かく|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|萱草《かやくさ》の|生《お》ひ|茂《しげ》れる|中《なか》と|思《おぼ》しきあたりより、|麗子《うららか》の|声《こゑ》として、
『なつかしの|艶男《あでやか》の|君《きみ》よ|恋《こひ》しさの
|果《は》てなき|君《きみ》よよくも|来《き》ませる
|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|情《なさけ》に|堪《た》へ|兼《か》ねて
われは|悲《かな》しく|草野《くさの》にひそむも
|大空《おほぞら》の|月《つき》の|光《ひかり》のあざやかさ
|君《きみ》のよそほひ|其《そ》の|儘《まま》にして
|撫子《なでしこ》の|花《はな》の|乙女《をとめ》はあざやかなる
|月《つき》の|光《ひかり》の|露《つゆ》にうるほふ』
|艶男《あでやか》は|蘇《よみがへ》りたる|心地《ここち》して、
『その|声《こゑ》は|正《まさ》しく|妹《いも》の|麗子《うららか》よ
|早《は》や|出《い》でませよ|草《くさ》の|褥《しとね》を
|風《かぜ》|吹《ふ》かば|袖《そで》に|散《ち》るらむ|萱草《かやくさ》の
|葉末《はずゑ》の|露《つゆ》は|玉《たま》と|乱《みだ》れて
|君《きみ》のあと|慕《した》ひ|慕《した》ひて|今《いま》|此処《ここ》に
われは|来《き》つるも|悲《かな》しさのあまり
|限《かぎ》りなく|果《は》てなきこれの|大空《おほぞら》に
|光《ひか》るは|月《つき》の|光《かげ》ばかりなり
われも|亦《また》|汝《なれ》の|姿《すがた》を|大空《おほぞら》の
|月《つき》と|仰《あふ》ぎてたづね|来《き》にけり』
|萱草《かやくさ》の|中《なか》より|麗子《うららか》の|声《こゑ》。
『ありがたしもつたいなしと|汝《な》が|言葉《ことば》
われ|叢《くさむら》に|潜《ひそ》みて|聞《き》くも
|曲神《まがかみ》の|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|世《よ》なりせば
|心《こころ》|許《ゆる》すな|艶男《あでやか》の|君《きみ》
|天地《あめつち》に|一人《ひとり》の|君《きみ》と|思《おも》ふ|故《ゆゑ》に
われ|叢《くさむら》に|魂《たま》をとどめつ
|身体《からたま》は|今《いま》|此処《ここ》になし|魂《たましひ》の
|凝《こ》りて|草葉《くさば》の|蔭《かげ》に|君《きみ》|待《ま》つも
|今《いま》は|世《よ》に|身体《からたま》|持《も》たぬわれなれば
|生《い》きてまみえむ|術《すべ》なかりける
|竜神《たつがみ》の|醜《しこ》の|謀計《たくみ》にあやまられ
われはあへなくなりにけらしな
わが|魂《たま》は|竜《たつ》の|都《みやこ》の|花園《はなぞの》に
|安《やす》く|遊《あそ》びつ|君《きみ》を|忘《わす》れず
ただ|一目《ひとめ》|君《きみ》に|会《あ》ひたく|思《おも》へども
|今《いま》はせむ|術《すべ》なき|身《み》なりけり
|謀《はか》られし|事《こと》のくやしさわれは|今《いま》
|君《きみ》と|現幽《げんいう》|境《さかひ》を|分《わか》てり
|竜神《たつがみ》にかしづかれつつ|湖《うみ》の|底《そこ》の
|都《みやこ》にわれは|今《いま》|栄《さか》え|居《を》るも』
|艶男《あでやか》は|此《こ》の|歌《うた》に、|麗子《うららか》は|竜《たつ》の|都《みやこ》に|誘惑《いうわく》され、|現世《げんせ》にては|再《ふたた》び|会《あ》ふことのならざるを|歎《なげ》きながら、
『|汝《なれ》は|今《いま》|淋《さび》しきわれを|後《あと》にして
|竜《たつ》の|都《みやこ》に|出《い》でますと|聞《き》く
|歎《なげ》けども|呼《よ》べども|返《かへ》らぬ|君《きみ》なりと
|思《おも》へばなほも|悲《かな》しくなりぬ
この|上《うへ》は|如何《いか》にせむ|術《すべ》なかるべし
|死《し》して|再《ふたた》び|汝《なれ》がり|行《ゆ》かむ』
|草葉《くさば》のかげより、
『ありがたし|情《なさけ》のこもる|兄《せ》の|言葉《ことば》
われは|死《し》すともなげかざるべし
わがあとを|尋《たづ》ね|来《き》まさむ|真心《まごころ》は
|嬉《うれ》しく|思《おも》へどしばし|待《ま》たせよ
|年《とし》|老《お》いし|父《ちち》と|母《はは》とを|後《あと》にして
|来《き》ますは|天地《てんち》の|罪《つみ》にあらずや
|垂乳根《たらちね》の|父《ちち》も|恋《こひ》しく|母《はは》も|亦《また》
いとしと|思《おも》へば|迷《まよ》ひ|晴《は》れずも
せめてもの|心《こころ》なぐさめまつるべく
|君《きみ》は|此《この》|世《よ》に|止《とど》まり|給《たま》はれ』
|艶男《あでやか》はこれに|応《こた》へて、
『|汝《な》が|言葉《ことば》|実《げ》にうるはしく|思《おぼ》ゆれど
|生命《いのち》|保《たも》たむ|由《よし》なかりけり
|玉耶湖《たまやこ》の|水《みづ》に|沈《しづ》みてわれは|今《いま》
|汝《なれ》が|御許《みもと》に|進《すす》まむと|思《おも》ふ』
|麗子《うららか》は、
『いざさらばわれはこれより|竜神《たつがみ》の
|都《みやこ》に|帰《かへ》らむ|安《やす》くましませ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|一個《いつこ》の|火団《くわだん》となりて|舞《ま》ひ|上《あが》り、|玉耶湖《たまやこ》の|空《そら》をさして、|長《なが》き|火光《くわくわう》を|帯《おび》の|如《ごと》くにひきながら、|中天《ちうてん》に|姿《すがた》をかくしける。
|艶男《あでやか》は|麗子《うららか》の|事《こと》を|忘《わす》れかね、|仮令《たとへ》|幽界《いうかい》に|入《い》りたりとも、|自分《じぶん》も|生命《いのち》を|捨《す》てて|彼女《かれ》があとを|追《お》はむものと、|玉耶湖水《たまやこすい》を|指《さ》して|草野《くさの》を|分《わ》けながら|進《すす》みゆく。
『ああ|淋《さび》し
ああ|悲《かな》しもよ
|玉《たま》の|緒《を》の
|生命《いのち》の|君《きみ》は|罷《まか》りけり
|生命《いのち》の|君《きみ》は|今《いま》や|世《よ》になし
|露《つゆ》の|生命《いのち》を|保《たも》ちつつ
|恋《こひ》と|愛《あい》とに|泣《な》かむよりは
われも|男《を》の|子《こ》よ|潔《いさぎよ》く
この|世《よ》の|中《なか》の|絆《きづな》をば
|断《た》ち|切《き》り|振《ふ》り|切《き》り|一《ひと》すぢに
|妹《いもと》の|後《あと》を|尋《たづ》ね|行《ゆ》かむ
|如何《いか》に|波風《なみかぜ》|高《たか》くとも
|闇《やみ》はわが|身《み》を|襲《おそ》ふとも
|猛《たけ》き|獣《けもの》の|中《なか》までも
|妹《いも》の|恋《こひ》しさ|懐《なつ》かしさ
|進《すす》みゆくべし|今《いま》よりは
|父《ちち》も|忘《わす》れむ|又《また》|母《はは》も
|捨《す》ててあの|世《よ》へ|進《すす》むべし
|天地《てんち》の|神《かみ》の|御怒《みいか》りに
ふるるもわれはいとはまじ
|恋《こひ》|故《ゆゑ》なれば|何処《どこ》までも
|妹《いも》|故《ゆゑ》なれば|湖底《うなぞこ》も
われはいとはじ|一道《ひとみち》に
|向《むか》ひて|竜《たつ》の|都《みやこ》まで
|百《もも》の|艱《なや》みをしのぎつつ
|行《ゆ》くはわが|身《み》の|幸《さち》ならめ
|玉耶湖《たまやこ》の|水《みづ》は|小波《さざなみ》の
|手《て》をさしあげて|招《まね》くなり
|虫《むし》の|鳴《な》く|音《ね》もひそやかに
わが|旅立《たびだ》ちを|送《おく》るなり
|月《つき》は|御空《みそら》に|輝《かがや》きて
|死出《しで》の|旅路《たびぢ》を|守《まも》るがに
われは|思《おぼ》ゆも|百千々《ももちぢ》に
|砕《くだ》くる|心《こころ》は|星光《ほしかげ》か
|思《おも》へば|恋《こひ》しく|悲《かな》しもよ』
かく|歌《うた》ひながら、|玉耶湖《たまやこ》の|方面《はうめん》|指《さ》して|急《いそ》ぎつつ、|漸《やうや》く|湖畔《こはん》にたどりつき、|月《つき》に|向《むか》つて|合掌《がつしやう》し|湖水《こすい》に|向《むか》つて|再《ふたた》び|手《て》を|拍《う》ち、
『|天晴《あは》れ|天晴《あは》れわれはゆくなり|水底《みなそこ》の
|竜《たつ》の|都《みやこ》の|妹《いも》が|側《かたへ》に』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、ザンブとばかり|湖中《こちう》に|身《み》を|投《とう》じ、あと|白波《しらなみ》と|消《き》え|失《う》せにける。
(昭和九・七・一六 旧六・五 於関東別院南風閣 林弥生謹録)
第三章 |離《はな》れ|島《じま》〔一九八四〕
|麗子《うららか》は|人面竜身《にんめんりうしん》の|湖中《こちう》の|怪物《くわいぶつ》にさらはれ、|黒雲《くろくも》の|中《なか》を|暫《しば》し|何処《いづこ》ともなく、|一瀉千里的《いつしやせんりてき》の|速力《そくりよく》にて|運《はこ》ばれつつ、とある|紫壁蒼瓦《しへきさうぐわ》の|門前《もんぜん》におろされ、ふと|辺《あた》りを|見《み》れば|湖水《こすい》すれすれに|浮《うか》べる|竜神《たつがみ》の|都《みやこ》の|表門前《おもてもんぜん》なりける。
|数多《あまた》の|人面竜身《にんめんりうしん》の|竜神族《たつがみぞく》は、「ウオーウオー」と|叫《さけ》びながら、|身体《からだ》に|藻《も》の|衣《ころも》を|纒《まと》ひ、|顔面《がんめん》のみを|出《だ》して|幾百千《いくひやくせん》ともなく、|門《もん》の|両側《りやうがは》に|端坐《たんざ》し|迎《むか》へ|居《ゐ》たり。
|竜神《たつがみ》の|王《わう》は|声《こゑ》もさはやかに|歌《うた》ふ。
『あはれあはれ
|百年《ももとせ》|千年《ちとせ》|相待《あひま》ちし
|国津御祖《くにつみおや》の|愛娘《まなむすめ》
|麗子姫《うららかひめ》を|今《いま》|此処《ここ》に
|迎《むか》へまつりぬ|今日《けふ》よりは
|竜《たつ》の|都《みやこ》の|王《こきし》となりて
われ|等《ら》が|一族《いちぞく》|悉《ことごと》に
|人面竜身《にんめんりうしん》のこの|姿《すがた》を
|人《ひと》の|姿《すがた》に|生《う》み|直《なほ》し
|竜神族《たつがみやから》を|悉《ことごと》く
|国津神等《くにつかみら》のみすがたに
よみがへらせて|天地《あめつち》の
|恵《めぐみ》を|湖《うみ》の|中《なか》までも
|照《て》らさせ|給《たま》へ|麗子《うららか》の|姫《ひめ》よ
ウオーウオー
あなさやけおけ
|竜《たつ》の|都《みやこ》の|鉄門《かなど》は|今《いま》や
|天《あめ》と|地《つち》との|一時《ひととき》に
|開《ひら》けし|如《ごと》くさやさやに
|開《ひら》け|初《そ》めけりあな|尊《たふと》
あなさやけおけ
あな|面白《おもしろ》の|出《い》でましよ』
と、|各自《おのもおのも》くさぐさの|音楽《おんがく》を|奏《かな》で、|歓迎《くわんげい》の|意《い》を|表《へう》し、|竜神族《たつがみぞく》は|一斉《いつせい》に|立《た》ち|上《あが》り、|陸《くが》に|湖《うみ》に|出没《しゆつぼつ》して|踊《をど》り|狂《くる》ふその|声《こゑ》、|天地《てんち》も|崩《くづ》るるばかりに|思《おも》はれける。
|麗子《うららか》はあまりの|変《かは》りたる|光景《くわうけい》に、|稍《やや》|暫《しば》し|不審《ふしん》の|念《ねん》|晴《は》れやらず、|艶男《あでやか》の|恋《こひ》しき|兄《せ》の|事《こと》は|忘《わす》れられず、|父母《ふぼ》の|安否《あんぴ》を|気遣《きづか》ひながら|黙然《もくねん》と|俯《うつむ》いて|居《ゐ》る。
|竜神《たつがみ》の|王《わう》は|莞爾《くわんじ》として、|麗子《うららか》の|手《て》をそつと|握《にぎ》り、
『いぶかしくおぼしめすらむ|此《この》|島《しま》は
|竜神族《たつがみやから》の|棲《す》める|都《みやこ》よ
|君《きみ》なくば|竜神族《たつがみやから》はいつまでも
このあさましき|姿《すがた》|保《たも》たむ
|頭《あたま》のみ|人《ひと》と|生《うま》れて|身体《からたま》は
このあさましき|竜《たつ》の|姿《すがた》よ』
ここに|麗子《うららか》は|最早《もはや》|詮《せん》なしと|決心《けつしん》の|臍《ほぞ》をかため、|人面竜身《にんめんりうしん》のあはれなる|此《この》|族《やから》と|嫁《とつ》ぎ、|人間《にんげん》の|子孫《しそん》を|生《う》み|了《おほ》せむものと、|雄々《をを》しくも|艶男《あでやか》に|対《たい》する|恋心《こひごころ》を|断《た》ち|切《き》らむとしたが、どうやら|心《こころ》の|底《そこ》に|一片《いつぺん》の|名残《なごり》が|残《のこ》つて|居《ゐ》た。
『|思《おも》ひきや|艶男《あでやか》の|君《きみ》にあらずして
|竜《たつ》の|都《みやこ》の|君《きみ》なりしはや
かくならば|何《なに》を|嘆《なげ》かむ|今日《けふ》よりは
|竜《たつ》の|都《みやこ》の|君《きみ》に|仕《つか》へむ
|垂乳根《たらちね》の|父《ちち》と|母《はは》とはさぞやさぞ
わがなきあとを|嘆《なげ》かせ|給《たま》はむ
わが|思《おも》ふ|心《こころ》の|中《なか》の|生命《いのち》なる
|君《きみ》もさぞかし|嘆《なげ》かせ|給《たま》はむ
さりながら|竜神族《たつがみやから》のもろもろを
|助《たす》くる|神業《わざ》と|思《おも》ひて|慰《なぐさ》む
|水《みづ》の|中《なか》にかかる|都《みやこ》のある|事《こと》を
|悟《さと》らざりしよ|今《いま》の|今《いま》まで
|夢《ゆめ》なれば|早《はや》く|醒《さ》めかしわれは|今《いま》
|見《み》しらぬ|国土《くに》に|誘《いざな》はれ|来《き》つ
|千万《ちよろづ》の|竜神族《たつがみやから》に|迎《むか》へられ
|夢路《ゆめぢ》を|辿《たど》る|心地《ここち》するかも
|竜神《たつがみ》の|王《こきし》よもろもろ|族《やから》たち
われは|今日《けふ》より|国土《くに》の|君《きみ》ぞや
|親《おや》を|捨《す》て|恋《こひ》を|捨《す》てたるわれにして
|如何《いか》でひるまむ|此《この》|島国《しまぐに》に
わが|言葉《ことば》|諾《うべな》ふ|力《ちから》なかりせば
われは|黄泉《よみぢ》に|旅《たび》だちなさむ
|賤《いや》しけれど|国《くに》の|御祖《みおや》の|御子《みこ》なるぞ
|汝《なれ》|竜神《たつがみ》を|如何《いか》で|恐《おそ》れむ』
|竜神《たつがみ》の|王《わう》は、|麗子《うららか》の|直立《ちよくりつ》せる|前《まへ》に|跪《ひざまづ》きて、
『|有難《ありがた》しうららの|君《きみ》の|御言明《みことのり》
|幾代《いくよ》|経《ふ》るとも|違《たが》はざるべし
あさましき|姿《すがた》を|持《も》てる|竜神《たつがみ》の
|救《すく》ひの|神《かみ》は|天降《あも》りましけり
|百年《ももとせ》の|願《ねがひ》|叶《かな》ひてわれは|今《いま》
|救《すく》ひの|神《かみ》にあひにけるかも
|今《いま》までは|湖《うみ》の|悪魔《あくま》と|国津神《くにつかみ》に
|貶《さげ》すまれつつ|禍《わざはひ》なしけり
|今日《けふ》よりは|本津心《もとつこころ》に|改《あらた》めて
|天地《てんち》の|神業《みわざ》に|仕《つか》へまつらむ
|伊吹山《いぶきやま》に|続《つづ》く|竜宮島ケ根《りうぐうしまがね》は
われらが|永久《とは》の|住処《すみか》なるぞや
|汝《な》が|君《きみ》は|今日《けふ》より|竜宮《りうぐう》の|弟姫《おとひめ》と
あらはれましてわれらを|守《まも》らせ
|竜宮《りうぐう》の|弟姫《おとひめ》これにある|限《かぎ》り
|此《こ》の|島ケ根《しまがね》は|安《やす》けかるべし』
|麗子《うららか》は|歌《うた》ふ。
『|大空《おほぞら》は|高《たか》く|涯《はて》なし|湖底《うなぞこ》は
|深《ふか》く|広《ひろ》しも|神《かみ》の|御稜威《みいづ》に
もろもろの|魚族《うろくづ》|残《のこ》らずわが|徳《とく》に
まつろひ|来《きた》れ|安《やす》く|守《まも》らむ
|国津神《くにつかみ》の|御子《みこ》と|生《うま》れて|此《この》|島《しま》の
|君《きみ》となりしは|神《かみ》の|心《こころ》か
|此《この》|島《しま》に|見《み》る|月光《つきかげ》も|水上山《みなかみやま》に
|見《み》るも|等《ひと》しき|光《ひかり》ならずや
|月《つき》も|日《ひ》も|隈《くま》なく|照《て》らせ|竜宮《りうぐう》の
|島根《しまね》の|君《きみ》はここにありけり
|夜《よる》されば|御空《みそら》に|月《つき》は|輝《かがや》きて
|此《こ》の|島ケ根《しまがね》を|安《やす》く|照《て》らさむ
|朝《あさ》されば|天津日光《あまつひかげ》は|煌々《くわうくわう》と
|湖《うみ》の|底《そこ》ひも|明《あか》し|給《たま》はれ
|月《つき》も|冴《さ》えよ|星《ほし》も|瞬《またた》け|湖底《うなぞこ》の
|真砂《まさご》も|照《て》れよ|魚族《うろくづ》も|生《い》きよ
みぐるしき|竜神族《たつがみやから》の|身体《からたま》を
|百年《ももとせ》の|後《のち》に|人《ひと》となさばや
われは|今《いま》|竜神《たつがみ》の|君《きみ》と|嫁《とつ》ぎつつ
|全《まつた》き|御子《みこ》を|生《う》まむと|思《おも》ふ
|此《この》|島《しま》にわれ|天降《あも》りてゆ|木《き》も|草《くさ》も
|俄《にはか》に|光《ひかり》|増《ま》しにけらしな』
かかる|所《ところ》へ、|遥《はる》か|向《むか》ふの|方《はう》より|竜神《たつがみ》たちは、|金《きん》、|銀《ぎん》、|瑪瑙《めなう》、|瑠璃《るり》、|〓〓《しやこ》、|珊瑚《さんご》、|水晶《すゐしやう》|等《とう》にて|飾《かざ》りたてたる|神輿《みこし》を|担《かつ》ぎ|来《きた》り、|弟姫《おとひめ》の|立《た》たせる|前《まへ》にどつかとおろし|平伏《へいふく》する。
|竜神《たつがみ》の|王《わう》は|此《この》|輿《こし》を|指《ゆびさ》し|弟姫《おとひめ》に|向《むか》ひ、
『いざ|御駕籠《おかご》|召《め》しませ|百年《ももとせ》|千年《ちとせ》|経《へ》て
つくりし|輿《こし》よ|君《きみ》のみために
|一度《ひとたび》も|用《もち》ひし|事《こと》のなき|神輿《みこし》
|君《きみ》に|捧《ささ》げむわれの|真心《まごころ》
|百年《ももとせ》も|千年《ちとせ》も|心《こころ》|用《もち》ひつつ
|所在《あらゆる》|宝《たから》につくりし|輿《こし》はや
|此《この》|輿《こし》は|君《きみ》ならずして|地《ち》の|上《うへ》に
|召《め》すべき|神《かみ》はあらじと|思《おも》ふ』
|麗子《うららか》は|意外《いぐわい》の|意《い》|外《そと》に、|驚異《きやうい》の|眼《まなこ》をみはりながら、
『|思《おも》ひきやかかる|島根《しまね》にかくの|如《ごと》
うるはしき|宝《たから》の|輿《こし》のありとは
|竜神《たつがみ》の|心《こころ》をこめし|輿《こし》なれば
われもいなまじ|乗《の》りてや|進《すす》まむ』
|竜神《たつがみ》の|王《わう》は|大《おほ》いに|喜《よろこ》び|歌《うた》ふ。
『|有難《ありがた》し|弟姫神《おとひめがみ》の|御言明《みことのり》
|聞《き》くは|吾身《わがみ》の|生命《いのち》なりけり
|生命《いのち》にもかへて|作《つく》りし|此《この》|神輿《みこし》
|早《はや》く|召《め》しませ|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》
|百神《ももがみ》もさぞ|喜《よろこ》ばむ|百千年《ももちとせ》の
|心《こころ》づくしも|今《いま》|報《むく》はれて』
ここに|麗子姫《うららかひめ》は、|夢《ゆめ》に|夢見《ゆめみ》る|心地《ここち》して、|神輿《みこし》の|鉄門《かなど》を|開《ひら》き、さつと|立《た》ち|入《い》り、|直立不動《ちよくりつふどう》の|姿勢《しせい》をとれども、さりとて|頭《かしら》の|天井《てんじやう》につかふる|憂《うれ》ひもなく、|最《もつと》も|高《たか》く|広《ひろ》き|神輿《みこし》なりければ、|長柄《ながえ》の|棒《ぼう》を|担《かつ》ぐ|竜神族《たつがみぞく》は、|幾百人《いくひやくにん》とも|数《かぞ》へ|切《き》れぬ|多人数《たにんずう》なりける。
|竜神《たつがみ》の|王《わう》は|神輿《みこし》の|前《まへ》に|立《た》ち、|幣帛《にぎて》を|振《ふ》りながら|先頭《せんとう》をなし、|遥《はる》か|彼方《かなた》の|御殿《ごてん》をさして|進《すす》み|行《ゆ》く。
|竜神等《たつがみたち》は、「ウオーウオー」と|一斉《いつせい》に|声《こゑ》を|揃《そろ》へ、|天地《てんち》を|揺《ゆる》がさむばかりの|勢《いきほひ》にて、|粛々《しゆくしゆく》と|行列《ぎやうれつ》|正《ただ》しく|前進《ぜんしん》する。
|行《ゆ》くこと|約《やく》|二十町《にじつちやう》ばかり、ここに|七宝《しつぽう》を|以《もつ》て|飾《かざ》られたる|大楼門《だいろうもん》が|巍然《ぎぜん》として|建《た》つて|居《ゐ》る。|白衣《びやくえ》をつけし|竜神《たつがみ》たちは、|左右《さいう》に|鉄門《かなど》をぱつと|開《ひら》いた。|神輿《みこし》は|粛々《しゆくしゆく》として|門内《もんない》に|潜《くぐ》り|入《い》る。|迦陵頻伽《かりようびんが》の|声《こゑ》、|彼方此方《かなたこなた》の|木々《きぎ》の|梢《こずゑ》ゆ|伝《つた》はり|来《きた》り、その|荘厳《さうごん》さ|言語《げんご》のつくすべきにあらず、|神輿《みこし》は|大竜殿《だいりうでん》の|玄関《げんくわん》に|恭《うやうや》しくおろされた。
|竜神《たつがみ》の|王《わう》は|歌《うた》ふ。
『これこそはわが|住《す》む|館《たち》よとこたちよ
いざ|進《すす》みませ|奥《おく》の|殿《との》まで
|百年《ももとせ》の|匠《たくみ》になりし|大殿《おほとの》は
|汝《なれ》が|出《い》でまし|待《ま》ちて|居《ゐ》たるも
|漸《やうや》くに|建《た》ち|上《あが》りたる|大殿《おほとの》よ
|先《ま》づ|汝《な》が|命《みこと》|住《す》みて|治《をさ》めよ』
|麗子《うららか》は|神輿《みこし》の|戸《と》を|開《ひら》き、|清楚《せいそ》たる|姿《すがた》にて、|悠々《いういう》|清庭《すがには》に|立《た》ち|出《い》で、|竜神《たつがみ》の|王《わう》のしりへについて|奥殿《おくでん》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》る。
これより|麗子《うららか》は、|竜宮《りうぐう》の|弟姫《おとひめ》と|称《たた》へられ、|竜神《たつがみ》の|王《わう》に|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》と|名《な》を|与《あた》へ、|此《この》|島《しま》の|司《つかさ》として|輝《かがや》き|渡《わた》る|事《こと》となりける。
|麗子《うららか》は|思《おも》はず|知《し》らず|竜神《たつがみ》に
|招《まね》かれ|島《しま》の|司《つかさ》となりける
|此《この》|島《しま》に|跡《あと》をたれつつ|竜宮《りうぐう》の
|弟姫神《おとひめがみ》と|仰《あふ》がれにける
|此《この》|神《かみ》のいさをしなくば|海中《わだなか》の
|魚族《うろくづ》|永久《とは》に|栄《さか》えざるべし。
(昭和九・七・一六 旧六・五 於関東別院南風閣 白石恵子謹録)
第四章 |救《すく》ひの|船《ふね》〔一九八五〕
|艶男《あでやか》は|月下《げつか》の|草《くさ》の|根《ね》に、|麗子《うららか》の|最早《もはや》|霊身《れいしん》となりて|現世《げんせ》の|人《ひと》にあらざることを|知《し》り、|恋《こひ》しさのあまり|嘆《なげ》き|悲《かな》しみながら、|麗子《うららか》の|後《あと》を|追《お》はむものと、|玉耶湖《たまやこ》の|岸辺《きしべ》に|辿《たど》り|着《つ》き、
『いざさらば|湖《うみ》の|底《そこ》ひもおそれなく
|吾《われ》はゆかなむ|妹《いも》がみもとに
|世《よ》に|生《い》きて|甲斐《かひ》なき|身《み》なり|麗子《うららか》の
|恋《こひ》しき|妹《いも》に|別《わか》れたる|今日《けふ》を』
と|言《い》ひながら、|月《つき》の|流《なが》るる|湖面《こめん》に|向《むか》つて、ざんぶとばかり|身《み》を|投《な》げ、あと|白波《しらなみ》と|消《き》え|失《う》せにける。かかる|所《ところ》へ、|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|老人《らうじん》|一艘《いつそう》の|小船《こぶね》を|漕《こ》ぎながら、|釣竿《つりざを》を|垂《た》れて|居《ゐ》たが、|艶男《あでやか》の|飛《と》び|込《こ》みし|音《おと》にあと|振《ふ》り|返《かへ》り、|水面《すゐめん》を|月《つき》かげに|透《すか》し|眺《なが》めつつ、
『あら|不思議《ふしぎ》|今《いま》|聞《きこ》えたる|水音《みなおと》は
|魚族《うろくづ》ならで|人《ひと》の|音《おと》かも
|何人《なんぴと》か|知《し》らねど|救《すく》ひ|助《たす》くべし
わが|身《み》の|力《ちから》のあらむかぎりは
|天《てん》|清《きよ》く|水《みづ》また|清《きよ》きこの|湖《うみ》に
|飛《と》び|込《こ》む|者《もの》は|何人《なんぴと》なるらむ』
と|言《い》ひながら|暫《しば》し|考《かんが》へ|込《こ》んでゐる。|遥《はる》か|先方《せんぱう》に|黒《くろ》い|影《かげ》が【ぽかり】と|浮《う》いた。|老人《らうじん》は|手早《てばや》く|小舟《こぶね》を|漕《こ》ぎ|寄《よ》せ、|黒《くろ》き|影《かげ》に|手《て》を|差《さ》し|延《の》べ|船中《せんちう》に|救《すく》ひあげた。よくよく|見《み》れば|国津神《くにつかみ》の|子《こ》|艶男《あでやか》である。|老人《らうじん》は|水《みづ》を|吐《は》かせ、|人工呼吸《じんこうこきふ》を|施《ほどこ》し、|漸《やうや》くにして|蘇生《そせい》せしめた。
『|君《きみ》こそは|国《くに》の|御祖《みおや》の|御伜《おんせがれ》
|艶男《あでやか》の|君《きみ》におはしまさずや
|吾《われ》こそはいやしき|漁師《れふし》の|身《み》なれども
|汝《な》が|両親《ふたおや》に|仕《つか》へたるもの
|何事《なにごと》のおはしますかは|知《し》らねども
|生命《いのち》|捨《す》つるは|浅《あさ》ましからずや
|天地《あめつち》に|生命《いのち》を|保《たも》つ|幸《さちはひ》を
|君《きみ》は|知《し》らずや|悟《さと》らざるにや
|生命《いのち》より|尊《たふと》きものは|世《よ》の|中《なか》に
あらざるものを|軽《かろ》んじ|給《たま》ふな
|死《し》はやすし|生《い》くるはかたし|玉《たま》の|緒《を》の
|生命《いのち》かろがろ|捨《す》てさせ|給《たま》ふな』
|斯《か》く|歌《うた》ひて|呼《よ》び|生《い》けたるにぞ、|艶男《あでやか》は、|漸《やうや》く|正気《しやうき》に|復《ふく》し、
『|訝《いぶか》しや|生命《いのち》|死《し》せしと|思《おも》ひしに
|吾《われ》|船中《せんちう》に|生《い》きてありけり
|汝《な》が|君《きみ》の|救《すく》ひ|給《たま》ひし|吾《われ》ながら
|生命《いのち》|捨《す》つるを|許《ゆる》させ|給《たま》へ
|恋《こひ》しかる|人《ひと》に|別《わか》れて|世《よ》の|中《なか》に
|生《い》くべき|生命《いのち》と|吾《われ》は|思《おも》はじ
|恋《こひ》ゆゑに|捨《す》つる|生命《いのち》は|惜《を》しからずと
|吾《われ》|湖《みづうみ》にとび|入《い》りにけり
|汝《なれ》こそは|舟人《ふなびと》ならめ|何故《なにゆゑ》に
|吾《われ》を|救《すく》ひしかうらめしみ|思《おも》ふ』
|翁《おきな》は|儼然《げんぜん》として、
『|吾《われ》こそは|湖《うみ》の|翁《おきな》よ|水火土《しほつち》の
|神《かみ》とあらはれこの|湖《うみ》|守《まも》れる
|山神彦《やまがみひこ》、|川神姫《かはかみひめ》に|仕《つか》へたる
|吾《われ》は|水火土《しほつち》|湖《うみ》|守《まも》る|神《かみ》
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》を|捨《す》てて|何《なに》かせむ
|再《ふたた》び|生《い》きて|国《くに》を|守《まも》らせ』
|艶男《あでやか》はいぶかしげに、
『おもひきや|汝《なれ》は|水火土《しほつち》|湖《うみ》の|神《かみ》か
|吾《われ》はづかしく|生《い》きたくもなし
さりながら|汝《なれ》に|救《すく》はれ|今《いま》ここに
|生命《いのち》|保《たも》つは|幸《さち》なるべきやは』
|水火土《しほつち》の|神《かみ》はにこにこしながら、
『|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》を|捨《す》つる|愚《おろか》さを
|君《きみ》は|知《し》らずや|神《かみ》の|生命《いのち》ぞ
|主《ス》の|神《かみ》の|水火《いき》になりたる|玉《たま》の|緒《を》の
|生命《いのち》|捨《す》つるは|重《おも》き|罪《つみ》ぞや
|罪《つみ》を|悔《く》い|心《こころ》あらため|恋心《こひごころ》
この|湖《みづうみ》に|洗《あら》はせ|給《たま》へ
|縁《えん》あらばまた|会《あ》ふことのあるべきを
|心《こころ》みじかき|君《きみ》にもあるかな』
|艶男《あでやか》は|翻然《ほんぜん》として、
『ありがたし|水火土神《しほつちがみ》の|御教《みをしへ》に
わが|魂《たましひ》は|蘇《よみがへ》りぬる
|麗子《うららか》の|後《あと》を|慕《した》ひて|吾《われ》は|今《いま》
この|湖《みづうみ》に|生命《いのち》すてたり
|愚《おろか》しき|吾《わが》|心《こころ》よと|今《いま》さらに
|君《きみ》の|教《をしへ》に|悔《く》い|心《ごころ》わく
|仰《あふ》ぎ|見《み》れば|御空《みそら》の|月《つき》はにこやかに
ほほ|笑《ゑ》ませつつ|吾《われ》をいましむ
|水底《みなそこ》にうつらふ|月《つき》もわがおもてを
|照《て》らしていましめ|給《たま》ふがに|見《み》ゆ
|吹《ふ》く|風《かぜ》もいとやはらかに|吾《わが》|面《おもて》
なでつつ|心《こころ》なぐさめ|通《かよ》ふ
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|惜《を》しまぬものあらじ
|湖《うみ》の|底《そこ》ひの|魚族《うろくづ》までも
|恋《こひ》ゆゑに|捨《す》てし|生命《いのち》とわが|思《も》へば
|君《きみ》の|面《も》みるさへ|心《うら》|恥《はづ》かしも
|愚《おろか》なるわが|身《み》を|照《て》らす|月光《つきかげ》に
|天地《あめつち》せまく|恥《はづ》かしみのわく
さりながら|麗子《うららか》の|姫《ひめ》は|曲神《まがかみ》に
さらはれ|生命《いのち》|失《う》せにけらしな』
|水火土《しほつち》の|神《かみ》はにこにこしながら、
『|麗子《うららか》の|姫《ひめ》は|生命《いのち》を|救《すく》はれて
|竜《たつ》の|都《みやこ》の|司《つかさ》とますぞや
|今《いま》よりは|汝《なれ》が|命《みこと》をみちびきて
|竜《たつ》の|都《みやこ》に|送《おく》り|奉《まつ》らむ
|竜神《たつがみ》のあまた|住《す》まへる|竜宮《りうぐう》の
|島根《しまね》は|遠《とほ》しいそがせ|給《たま》ふな』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|月《つき》は|皎々《かうかう》|御空《みそら》を|渡《わた》る
|吾《われ》は|艶男《あでやか》|湖原《うなばら》|渡《わた》る
|空《そら》に|星《ほし》かげまたたく|見《み》れば
|金砂《きんしや》|銀砂《ぎんしや》を|敷《し》きつめし
|神《かみ》の|御庭《みには》にさも|似《に》たり
|湖《うみ》の|底《そこ》ひを|眺《なが》むれば
|黄金《こがね》|白銀《しろがね》きらきらと
|月《つき》の|光《ひかり》に|冴《さ》えながら
|天国浄土《てんごくじやうど》の|光景《くわうけい》を
|今《いま》|目《ま》のあたり|照《て》らすなり
ああたのもしやたのもしや
|水火土神《しほつちがみ》に|送《おく》られて
|果《はて》しもしらぬ|湖原《うなばら》の
|中《なか》にただよふ|竜宮島《りうぐうじま》
|麗子姫《うららかひめ》の|鎮《しづ》まれる
|竜《たつ》の|宮居《みやゐ》に|進《すす》むかと
|思《おも》へば|嬉《うれ》しおもしろし
|月《つき》も|流転《るてん》の|影《かげ》なれや
|何《なに》を|嘆《なげ》かむ|来《こ》し|方《かた》の
|夢《ゆめ》をさまして|吾《われ》は|今《いま》
|蘇《よみがへ》りつつ|湖原《うなばら》を
|一瀉千里《いつしやせんり》に|進《すす》むべし
|御空《みそら》は|清《きよ》し|月《つき》|清《きよ》し
|星《ほし》の|光《ひかり》はきらめきて
わが|行《ゆ》く|舟《ふね》を|安全《あんぜん》に
|彼方《かなた》の|岸《きし》に|送《おく》るなり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|父《ちち》と|母《はは》とはさぞやさぞ
|二人《ふたり》の|行方《ゆくへ》を|尋《たづ》ねつつ
|心《こころ》を|千々《ちぢ》に|砕《くだ》かせて
|嘆《なげ》かせ|給《たま》ふことぞかし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御幸《みさち》のかげ|清《きよ》く
わが|父母《ちちはは》を|永久《とこしへ》に
|安《やす》く|守《まも》らせ|給《たま》へかし
この|世《よ》になしと|思《おも》ひたる
|麗子姫《うららかひめ》は|竜宮《りうぐう》の
|島《しま》の|司《つかさ》と|聞《き》くからは
|勇気《ゆうき》|日頃《ひごろ》にいや|増《ま》して
|希望《のぞみ》に|満《み》つるわが|心《こころ》
ああ|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや
いよいよ|宇宙《うちう》はよみがへり
|沈《しづ》みし|天地《てんち》はぽつかりと
わが|目《め》の|前《まへ》に|浮《う》き|出《い》でで
|永久《とは》の|生命《いのち》を|歌《うた》ふなり
おもひきや|麗子姫《うららかひめ》は|死《し》なずして
|竜《たつ》の|宮居《みやゐ》にいますとぞ|聞《き》く
|吾《われ》も|亦《また》|一度《ひとたび》|生命《いのち》|救《すく》はれて
これの|湖水《こすい》を|清渡《すがわた》りゆく
|水火土《しほつち》の|神《かみ》のまさずば|吾《わが》|生命《いのち》
|絶《た》えてこの|世《よ》にあらざらましを
|天地《あめつち》の|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|抱《いだ》かれて
|吾《われ》は|生命《いのち》を|捨《す》てずありけり
|風《かぜ》|清《きよ》きこの|湖原《うなばら》に|棹《さを》さして
|行《ゆ》くも|楽《たの》しき|竜宮《りうぐう》の|旅《たび》
|珍《めづら》しき|竜宮島《りうぐうじま》に|渡《わた》りゆく
|吾《われ》は|心《こころ》も|若《わか》やぎにけり
|果《はて》しなき|思《おも》ひ|抱《いだ》きてはてしなき
|湖原《うなばら》|渡《わた》る|吾《われ》にあらずや』
|水火土《しほつち》の|神《かみ》は|艫《ろ》を|漕《こ》ぎながら、
『|夜《よ》は|更《ふ》けて
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》もさやさやと
|北《きた》より|南《みなみ》に|渡《わた》るなり
|竜宮《りうぐう》の|島《しま》は|遠《とほ》けれど
この|北風《きたかぜ》に|帆《ほ》を|上《あ》げて
|進《すす》めばあまり|遠《とほ》からじ
|御空《みそら》の|月《つき》はいや|冴《さ》えて
|湖《うみ》の|底《そこ》まで|透《す》きとほり
|魚族《うろくづ》をどるさままでも
わが|目《め》にありありうつるなり
|清《きよ》き|真砂《まさご》の|上《うへ》を|行《ゆ》く
この|玉舟《たまふね》は|竜宮《りうぐう》の
|神《かみ》のつくりし|御幸《みさち》ぞや
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|湖原《うなばら》|守《まも》る|吾《われ》にして
|今日《けふ》のよき|日《ひ》のよき|時《とき》に
|艶男《あでやか》の|君《きみ》を|守《まも》りつつ
|渡《わた》るも|嬉《うれ》し|火水土《しほつち》の
|神《かみ》の|功《いさを》は|今日《けふ》かぎり
|万代《よろづよ》までも|輝《かがや》かむ』
|斯《か》く|歌《うた》ひながら|力《ちから》|限《かぎ》りに|漕《こ》ぎ|出《いだ》す。|漸《やうや》くにして|竜宮《りうぐう》の|第一門《だいいちもん》に|着《つ》く。|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は|艶男《あでやか》の|尋《たづ》ね|来《きた》ることを|前知《ぜんち》し、|数多《あまた》の|従臣《じうしん》を|第一門《だいいちもん》に|遣《つか》はし、|艶男《あでやか》の|上陸《じやうりく》を「ウローウロー」と|歌《うた》ひながら|歓迎《くわんげい》の|意《い》を|表《へう》し|待《ま》ち|居《ゐ》たり。
|艶男《あでやか》は|水火土《しほつち》の|神《かみ》に|守《まも》られて
これの|島根《しまね》に|渡《わた》り|来《き》にけり
|水底《みなそこ》に|身《み》を|投《な》げ|捨《す》てし|艶男《あでやか》は
|水火土神《しほつちがみ》に|助《たす》けられたり
|水火土《しほつち》の|神《かみ》のいさをに|守《まも》られて
|再《ふたた》び|麗子《うららか》の|妹《いも》に|会《あ》ふらむ
|兄《あに》と|言《い》ひ|妹《いも》と|名告《なの》りつ|一度《ひとたび》も
|嫁《とつ》ぎの|業《わざ》はなさざりにけり
|恋《こ》ひ|恋《こ》はれ|互《たがひ》に|生命《いのち》をあづけたる
|二人《ふたり》の|逢《あ》ふ|瀬《せ》ははなやかなるらむ。
(昭和九・七・一六 旧六・五 於関東別院南風閣 内崎照代謹録)
第五章 |湖畔《こはん》の|遊《あそ》び〔一九八六〕
|四季《しき》|共《とも》に|花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|竜宮《りうぐう》は
|天津御国《あまつみくに》の|姿《すがた》なるかも
|草《くさ》も|木《き》も|春《はる》の|光《ひかり》をあびながら
この|島国《しまくに》に|永久《とは》に|栄《さか》ゆる
|常夏《とこなつ》の|竜宮《りうぐう》の|島《しま》は|木《こ》の|実《み》さへ
ゆたかなりけり|到《いた》るところに
|山《やま》も|川《かは》も|清《きよ》く|清《すが》しく|竜神《たつがみ》の
|心《こころ》は|見《み》かけによらずやさしき
もろもろの|魚族等《うろくづたち》はこの|島《しま》に
いより|集《つど》ひて|生命《いのち》|栄《さか》ゆる
|八千尋《やちひろ》の|底《そこ》までうつる|竜宮《りうぐう》の
|大竜殿《だいりうでん》のかげは|清《すが》しき
|大竜身彦《おほたつみひこ》に|昔《むかし》ゆ|仕《つか》へたる
|春夏秋冬《はるなつあきふゆ》|四柱神《よはしらがみ》あり
|一人《いちにん》は|春木彦《はるきひこ》と|言《い》ひ|一人《いちにん》は
|夏川彦《なつかはひこ》と|称《たた》へ|来《き》にけり
|又《また》|一人《いちにん》|秋水彦《あきみづひこ》に|冬風彦《ふゆかぜひこ》
|以上《いじやう》|四人《よにん》は|御供神《みともがみ》なり。
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は|弟姫神《おとひめがみ》を|伴《ともな》ひ、|四柱《よはしら》の|重臣《ぢうしん》を|従《したが》へ、|伊吹山《いぶきやま》に|花《はな》の|真盛《まさか》りを|見《み》むと、|弁当《べんたう》をこしらへ、|数多《あまた》の|竜神等《たつがみたち》に|前後《ぜんご》|左右《さいう》を|守《まも》らせ、|一日《いちにち》の|遊覧《いうらん》を|試《こころ》みた。
|伊吹山《いぶきやま》の|中腹《ちうふく》には|稍《やや》|大《おほ》いなる|湖水《こすい》あり。|日月星辰《じつげつせいしん》をうつして|永久《とこしへ》に|鏡《かがみ》の|如《ごと》く|光《ひか》りゐる、この|湖水《こすい》を|鏡《かがみ》の|湖《うみ》と|称《とな》ふ。
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は|湖《みづうみ》の|辺《ほとり》に|狭筵《さむしろ》を|敷《し》き、|果《こ》の|実《み》の|酒《さけ》|等《など》を|汲《く》み|交《かは》しながら、
『|伊吹山《いぶきやま》|峯《みね》よりおつる|谷水《たにみづ》の
|清《きよ》く|流《なが》れて|鏡湖《かがみこ》となりぬ
この|湖《うみ》は|弟姫神《おとひめがみ》の|御心《みこころ》か
|清《きよ》くさやけく|永久《とは》に|濁《にご》らず
|山水《やまみづ》をここに|集《あつ》めて|湖《うみ》となし
|数多《あまた》のやまめを|生《い》かし|育《そだ》てつ
|手《て》を|拍《う》てば|競《きそ》ひより|来《く》る|山《やま》の|魚《うを》の
やさしき|姿《すがた》|君《きみ》に|見《み》せばや』
|弟姫神《おとひめがみ》は|微笑《ほほゑ》みながら、
『この|国《くに》に|吾《われ》|渡《わた》り|来《き》て|眼《め》にふるる
もののことごとめづらしきかも
|手《て》を|拍《う》てばより|来《く》る|魚《うを》のやさしさを
|吾《われ》|竜宮《りうぐう》の|姿《すがた》とぞ|見《み》る
|湖水《いけみづ》に|二人《ふたり》のかげをうつしつつ
|誓《ちか》ひ|奉《まつ》らむ|永久《とは》の|縁《えにし》を
|今《いま》は|世《よ》になき|吾《われ》と|思《おも》ひきや
かかる|目出度《めでた》き|山《やま》に|遊《あそ》ぶも
|女郎花《をみなへし》|風《かぜ》にゆられて|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
|花《はな》の|姿《すがた》のやさしきろかも
|紫《むらさき》に|匂《にほ》ふ|桔梗《ききやう》の|芳《かんば》しさ
|千代《ちよ》にしをるな|吾《われ》|飽《あ》くまでも
|藤《ふぢ》の|花《はな》|所狭《ところせ》きまで|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
この|湖《うみ》の|辺《へ》のかげの|清《すが》しさ
|水底《みなそこ》に|咲《さ》けるが|如《ごと》くうつろへる
|藤波《ふぢなみ》の|花《はな》は|殊《こと》にめでたし』
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は|歌《うた》ふ。
『|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御鼻《おんはな》と
つたはり|来《きた》る|伊吹山《いぶきやま》
|生《お》ふる|草木《くさき》はことごとに
|人《ひと》の|病《やまひ》をいやすてふ
|薬《くすり》ばかりと|聞《き》くからは
これの|尾《を》の|上《へ》ゆ|落《お》ちたぎつ
|谷《たに》の|清水《しみづ》を|集《あつ》めたる
|鏡《かがみ》の|湖《いけ》の|水底《みそこ》まで
その|一滴《いつてき》も|薬《くすり》とや
|薬《くすり》の|水《みづ》を|掌《て》に|掬《むす》び
|千代《ちよ》も|八千代《やちよ》も|玉《たま》の|緒《を》の
|生命《いのち》|保《たも》ちて|不老不死《ふらうふし》
|常世《とこよ》の|春《はる》を|楽《たの》しまむ
この|水《みづ》|変《へん》じて|酒《さけ》となり
|薬《くすり》となりて|神人《しんじん》の
|心《こころ》を|照《てら》しなぐさめつ
げにも|名《な》におふ|竜宮《りうぐう》の
|貴《うづ》の|聖地《せいち》とひびくらむ
|国津御神《くにつみかみ》の|御種《おんたね》を
|降《くだ》し|給《たま》ひし|主《ス》の|神《かみ》の
|深《ふか》き|恵《めぐみ》は|八千尋《やちひろ》の
|鏡湖《かがみこ》の|底《そこ》も|曇《くも》るべきや
|高《たか》き|恵《めぐみ》は|大空《おほぞら》の
|雲井《くもゐ》の|外《そと》もしかざらめ
あな|面白《おもしろ》やあなさやけ
|天《あま》の|岩戸《いはと》の|開《ひら》け|口《ぐち》
|竜宮《りうぐう》の|島《しま》は|今日《けふ》よりは
|地上天国《ちじやうてんごく》そのままに
|人《ひと》の|生命《いのち》も|延《の》ぶるらむ
|祝《いは》へよ|祝《いは》へ|百神《ももがみ》よ
|踊《をど》れよ|踊《をど》れいさましく
|大地《だいち》の|底《そこ》のぬけるまで』
この|歌《うた》に|警護《けいご》の|竜神等《たつがみたち》は|鏡《かがみ》の|湖《うみ》を|取《と》り|巻《ま》きて、|種々《くさぐさ》の|楽《がく》を|奏《かな》でつつ|右往左往《うわうさわう》に|舞《ま》ひ|狂《くる》ふ。その|状態《さま》は、|百千万《ももちよろづ》の|胡蝶《こてふ》の|一時《いちじ》に|狂《くる》ふが|如《ごと》く、|爛漫《らんまん》たる|桜花《あうくわ》の|春風《はるかぜ》に|吹《ふ》き|散《ち》る|如《ごと》き|有様《ありさま》なりける。
|春木彦《はるきひこ》は|汀辺《みぎはべ》に|立《た》ち、|湖面《こめん》を|眺《なが》めて|声《こゑ》|高《たか》らかに|歌《うた》ふ。
『|有難《ありがた》し|弟姫神《おとひめがみ》の|現《あ》れまして
|吾等《われら》が|生命《いのち》|守《まも》り|給《たま》はむ
|春《はる》の|陽《ひ》の|光《ひか》りをあびて|竜神《たつがみ》は
|永久《とは》に|花《はな》|咲《さ》く|御代《みよ》に|生《い》きなむ
|伊吹山《いぶきやま》|春《はる》の|木《こ》の|葉《は》は|芽《め》ぐみたり
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|一片《ひとひら》として
|爛漫《らんまん》と|咲《さ》き|乱《みだ》れたる|山桜《やまざくら》
|吾《わが》|眼《め》|新《あたら》しくよみがへらすも
|春夏《はるなつ》のけぢめも|知《し》らに|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
|百《もも》の|花香《はなか》の|匂《にほ》ひめでたし
|春《はる》の|花《はな》|秋《あき》の|花香《はなか》も|一時《ひととき》に
|御代《みよ》を|祝《いは》ひて|咲《さ》くはめでたき』
|夏川彦《なつかはひこ》は|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》も|亦《また》|汀辺《みぎはべ》に|立《た》ちてもの|申《まう》す
|竜宮島《りうぐうじま》の|幸《さち》を|祝《いは》ひて
|葭原《よしはら》の|国土《くに》より|天降《あも》る|姫神《ひめがみ》の
|姿《すがた》は|世《よ》にも|類《たぐひ》なきかな
|細女《くはしめ》に|見合《みあ》ひましたる|吾《わが》|君《きみ》の
|幸《さち》とこしへにあれと|祈《いの》るも
|麗子姫《うららかひめ》は|竜宮城《りうぐうじやう》の|弟姫《おとひめ》と
あらためまして|吾等《われら》を|恵《めぐ》ます
|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》の|天降《あも》りしなかりせば
|吾等《われら》が|子孫《しそん》は|永久《とは》に|浮《うか》ばじ
あさましき|姿《すがた》を|持《も》てる|竜神《たつがみ》の
|眼《め》にめづらしき|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》よ
|夏川《なつかは》も|水瀬《みなせ》|涸《か》れずに|滔々《たうたう》と
|鏡《かがみ》の|湖《うみ》に|注《そそ》ぐうれしさ
|水《みづ》|清《きよ》き|鏡《かがみ》の|湖《うみ》の|御姿《みすがた》は
|弟姫神《おとひめがみ》の|姿《すがた》なるかも
|月《つき》も|日《ひ》も|波間《なみま》に|浮《うか》ぶ|鏡湖《かがみこ》の
|昼夜《ちうや》の|眺《なが》めは|世《よ》にもまれなる
|魚族《うろくづ》は|君《きみ》の|出《い》でまし|歓《ゑら》ぎつつ
|水面《みのも》にあぎとふ|百千《ひやくせん》のかげ』
|秋水彦《あきみづひこ》は|歌《うた》ふ。
『|打寄《うちよ》する|鏡《かがみ》の|湖《いけ》の|小波《さざなみ》は
|吾《わが》|竜体《りうたい》を|清《きよ》く|洗《あら》へり
|鱗身《りんしん》の|間《あひだ》に|棲《す》める|水虫《みづむし》の
かげはひそみて|快《こころよ》き|今日《けふ》
|今日《けふ》よりは|吾等《われら》が|一族《いちぞく》ことごとく
|三寒三熱《さんかんさんねつ》の|苦《く》をのがるべし
|三千年《みちとせ》のなやみにたへて|人《ひと》となり
この|世《よ》に|生《い》くると|思《おも》へば|尊《たふと》し
|三千年《みちとせ》の|月日《つきひ》をちぢめて|人《ひと》の|身《み》を
|保《たも》つ|吾等《われら》は|弟姫《おとひめ》の|幸《さち》
|時《とき》を|経《へ》て|吾《わが》|竜体《りうたい》はなめらかに
|人心地《ひとごこち》すも|楽《たの》もしの|世《よ》や
|弟姫神《おとひめがみ》の|宣《の》らす|祝詞《のりと》の|言霊《ことたま》に
|吾《わが》|身体《からたま》は|新《あらた》まりゆくも
にごりなき|秋《あき》の|水《みづ》さへ|魚族《うろくづ》は
あまたの|虫《むし》になやまされたり
|鱗肌《うろこはだ》の|間《あひだ》にひそむ|蛆虫《うじむし》の
かげはつぎつぎ|消《き》え|失《う》せにけり
|万里《まで》の|海《うみ》の|中《なか》に|浮《うか》べる|葭原《よしはら》の
|国土《くに》にもかかるなやみありしか
|玉耶湖《たまやこ》の|広《ひろ》きが|中《なか》に|竜宮《りうぐう》の
|島《しま》は|愛《めぐ》しき|島《しま》なりにけり
|罪《つみ》|深《ふか》きにごれる|玉《たま》の|集《あつ》まりを
|竜《たつ》の|島根《しまね》と|名《な》づけ|来《き》にけむ
|何故《なにゆゑ》かこの|島ケ根《しまがね》に|住《す》む|人《ひと》は
|人面竜身《にんめんりうしん》はかなかりけり
|天《てん》の|時《とき》|今《いま》や|来《きた》りて|水上山《みなかみやま》の
|麗子姫《うららかひめ》の|幸《さち》に|会《あ》ふかな』
|冬風彦《ふゆかぜひこ》は|歌《うた》ふ。
『|伊吹山《いぶきやま》|峯《みね》より|颪《おろ》す|寒風《かんぷう》に
|冬《ふゆ》さり|来《く》れば|塞《とざ》す|湖《みづうみ》
|冬《ふゆ》されば|湖《うみ》の|魚族《うろくづ》ことごとく
|水底《みそこ》にひそみて|世《よ》を|嘆《なげ》くなり
|主《ス》の|神《かみ》の|恵《めぐみ》いよいよ|現《あらは》れて
|弟姫神《おとひめがみ》は|天降《あも》りましける
|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》の|言霊《ことたま》|幸《さち》はひて
|冬《ふゆ》も|湖《みづうみ》|凍《こほ》らざるべし
|草《くさ》も|木《き》も|冬《ふゆ》さり|来《く》れば|萎《しを》るるを
かなしく|思《おも》ふ|吾《われ》なりにけり
|今日《けふ》よりはこの|島ケ根《しまがね》に|冬《ふゆ》もなく
|常春島《とこはるじま》となりて|栄《さか》えむ
|吾《わが》|君《きみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へ|鏡湖《かがみこ》の
いそ|辺《べ》に|宴《うたげ》の|蓆《むしろ》|楽《たの》しき
|百神《ももがみ》は|君《きみ》の|出《い》でましよろこびて
|右往左往《うわうさわう》に|踊《をど》り|狂《くる》へり
あなさやけあなおもしろや|竜宮《りうぐう》の
|島根《しまね》は|花《はな》にうづもれにけり
|山《やま》|青《あを》く|谷水《たにみづ》|清《きよ》く|湖《いけ》の|面《も》は
|月日《つきひ》|浮《うか》べて|天国《みくに》ただよふ』
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は|歌《うた》ふ。
『|仰《あふ》ぎ|見《み》れば|伊吹《いぶき》の|尾根《をね》に|白雲《しらくも》の
|風《かぜ》にゆられて|安《やす》く|遊《あそ》べる
|尾《を》の|上《へ》には|白雲《しらくも》|遊《あそ》び|中原《なかはら》の
|湖《いけ》のほとりに|吾《われ》は|遊《あそ》ぶも
|白雲《しらくも》のほころびすかして|日《ひ》の|神《かみ》は
|清《きよ》き|光《ひか》りを|照《てら》させ|給《たま》へり
|白雲《しらくも》をよくよく|見《み》ればその|中心《なかご》に
|紫《むらさき》の|雲《くも》かくろへる|見《み》ゆ
|紫《むらさき》の|雲《くも》を|開《ひら》きて|天津日《あまつひ》は
この|湖《いけ》の|面《も》を|照《てら》させ|給《たま》へり
|頂《いただき》に|曲津神《まがかみ》|棲《す》むとつたへたる
|伊吹《いぶき》の|山《やま》も|今日《けふ》は|清《すが》しき
|天《あめ》も|地《つち》も|一度《いちど》に|開《ひら》けし|心地《ここち》して
|吾《われ》|弟姫《おとひめ》の|湖《いけ》の|辺《へ》に|遊《あそ》ぶ』
|麗子《うららか》の|弟姫《おとひめ》は|声《こゑ》さはやかに|歌《うた》ふ。
『|千早振《ちはやぶ》るとほき|神代《かみよ》の|昔《むかし》より
ためしも|知《し》らぬ|竜宮《りうぐう》の
|竜《たつ》の|都《みやこ》に|渡《わた》り|来《き》て
|怪《あや》しき|人《ひと》のかげを|見《み》つ
|心《こころ》いぶかる|折《をり》もあれ
|金銀珠玉《きんぎんしゆぎよく》をちりばめし
|眼《まなこ》|輝《かがや》く|高輿《たかごし》に
|吾《われ》はかつがれすくすくと
|鉄門《かなど》をくぐり|又一《またひと》つ
|高《たか》き|鉄門《かなど》をくぐりぬけ
いや|高殿《たかどの》に|送《おく》られて
|大竜身彦《おほたつみひこ》と|諸共《もろとも》に
|竜《たつ》の|島根《しまね》を|護《まも》るべく
|朝夕《あしたゆふべ》をつつしみて
|神《かみ》の|依《よ》さしの|神言《かみごと》を
|声《こゑ》|高《たか》らかに|宣《の》りつれば
|不思議《ふしぎ》なるかな|島ケ根《しまがね》に
|生《お》ふる|草木《くさき》は|色《いろ》|深《ふか》み
|百花《ももばな》|千花《ちばな》|一時《ひととき》に
|艶《えん》を|競《きそ》ひて|咲《さ》き|乱《みだ》れ
|四方《よも》に|芳香《はうかう》|薫《くん》じつつ
|迦陵頻伽《かりようびんが》は|言《い》ふも|更《さら》
|百鳥千鳥《ももとりちどり》の|鳴《な》く|声《こゑ》も
いやさやさやにひびくなり
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》もやはらかに
|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》や|裳裾《もすそ》まで
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》のうるほひつ
よみがへりたる|目出度《めでた》さよ
|吾《われ》は|三年《みとせ》をこの|島《しま》に
|生《い》き|栄《さか》えつつ|島人《しまびと》に
|永久《とは》の|生命《いのち》と|御栄《みさか》えを
|神《かみ》に|誓《ちか》ひて|与《あた》ふべし
|勇《いさ》めよ|勇《いさ》め|百神《ももがみ》よ
よろこべ|踊《をど》れ|歌《うた》へ|舞《ま》へ
|天《あま》の|岩戸《いはと》は|開《ひら》けたり
|闇《やみ》の|鉄門《かなど》は|開《あ》け|放《はな》れ
|御空《みそら》の|月日《つきひ》は|明《あき》らけく
この|国原《くにはら》を|照《てら》すなり
|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なきまでに
|月日《つきひ》こもごも|照《て》らひまし
|竜神等《たつがみたち》は|言《い》ふも|更《さら》
|湖《うみ》の|魚族《うろくづ》|山《やま》や|野《の》の
|草木《くさき》の|末《すゑ》に|至《いた》るまで
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》の|輝《かがや》きて
|世《よ》はとこしへに|栄《さか》ゆらむ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|依《よ》さしの|生言霊《いくことたま》を
|朝夕《あさゆふ》|宣《の》らへ|竜神等《たつがみたち》よ』
と|歌《うた》ひ|給《たま》へば、|尾《を》の|上《へ》に|遊《あそ》びし|白雲《しらくも》はさつと|左右《さいう》に|開《ひら》き、|次第々々《しだいしだい》に|影《かげ》|失《う》せて|日月《じつげつ》|一度《いちど》に|並《なら》び|輝《かがや》き、|忽《たちま》ち|第一天国《だいいちてんごく》の|光景《くわうけい》を|現出《げんしゆつ》したるこそ|尊《たふと》けれ。
ああ|惟神《かむながら》|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》|坐世《ましませ》。
(昭和九・七・一六 旧六・五 於関東別院南風閣 谷前清子謹録)
第六章 |再会《さいくわい》〔一九八七〕
|水火土《しほつち》の|神《かみ》に|送《おく》られて|竜宮島《りうぐうじま》に|上陸《じやうりく》したる|艶男《あでやか》は、|鉄門《かなど》の|前《まへ》に|立《た》ち、
『われこそは|国津御祖《くにつみおや》の|神《かみ》の|子《こ》よ
|早《はや》く|鉄門《かなど》を|開《あ》けさせ|給《たま》へ
|麗子《うららか》のあとを|尋《たづ》ねて|今《いま》|此処《ここ》に
|来《きた》りしものよ|鉄門《かなど》|早《は》や|開《ひら》け』
|門《もん》の|中《なか》より、|女神《めがみ》の|声《こゑ》として、
『いづ|方《かた》の|神《かみ》か|知《し》らねど|此《こ》の|鉄門《かなど》
|主《あるじ》の|許《ゆる》しなければ|開《ひら》かじ
|今《いま》しばし|待《ま》たせ|給《たま》はれ|弟姫《おとひめ》の
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|伺《うかが》ひ|来《きた》らむ』
|水火土《しほつち》の|神《かみ》は|声《こゑ》|巌《おごそ》かに|門外《もんぐわい》に|立《た》ち、
『われこそは|水火土《しほつち》の|神《かみ》よ|竜神《たつがみ》の
|王《こきし》に|知《し》らせよ|人《ひと》|送《おく》り|来《き》つと
|竜宮《りうぐう》の|島《しま》を|開《ひら》くと|大丈夫《ますらを》を
われは|導《みちび》き|此処《ここ》に|来《きた》れり』
|女神《めがみ》は|急《いそ》ぎ、やや|長《なが》き|城内《じやうない》を|馳《は》せながら、|大竜殿《だいりうでん》の|奥《おく》の|間《ま》さして|参入《さんにふ》し、|弟姫神《おとひめがみ》の|居間《ゐま》に|拍手《はくしゆ》しながら、|声《こゑ》も|静《しづ》かに|歌《うた》もて|奏上《そうじやう》する。
『|何神《なにがみ》かわれは|知《し》らねど|水火土《しほつち》の
|神《かみ》に|送《おく》られ|門《かど》に|立《た》たせり
|御名《みな》を|問《と》へばわれは|艶男《あでやか》と|宣《の》らしけり
|姫《ひめ》に|会《あ》はむと|待《ま》たせ|給《たま》へる
|汀辺《みぎはべ》の|鉄門《かなど》を|開《ひら》きまつらむや
|御言《みこと》|聞《き》かむとわれは|詣《まう》でし』
|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》は、|恋《こひ》しさと|嬉《うれ》しさ|恥《はづ》かしさが|一度《いちど》になり、|顔《かほ》の|色《いろ》までサツと|変《か》へながら、|何《なに》|喰《く》はぬ|顔《かほ》にて、
『とにもあれかくにもあれやいち|早《はや》く
|鉄門《かなど》を|開《ひら》き|迎《むか》へまつれよ
|大竜身彦《おほたつみひこ》は|生憎《あいにく》|伊吹《いぶき》の|高山《たかやま》に
|籠《こも》らひ|給《たま》へばゆきとどかねど
ねもごろに|待遇《もてな》して|来《こ》よ|其《その》|人《ひと》は
|水上《みなかみ》の|山《やま》の|御祖《みおや》の|神《かみ》の|子《こ》よ』
|女神《めがみ》は、
『|畏《かしこ》しや|君《きみ》の|御言《みこと》に|従《したが》ひて
われ|速《すみやか》に|迎《むか》へ|来《きた》らむ
|御庭《おんには》はいと|広《ひろ》ければ|急《いそ》ぐとも
|半時《はんとき》ばかりは|待《ま》たさせ|給《たま》はれ』
かく|歌《うた》ひ|終《をは》り、|御前《みまへ》を|罷《まか》り|下《さが》り、|人面竜身《にんめんりうしん》の|体《からだ》を|前後《ぜんご》|左右《さいう》にゆすりながら、|汀《みぎは》の|鉄門《かなど》に|近《ちか》づき|来《きた》り、|中《なか》より|閂《かんぬき》を|取《と》り|外《はづ》し、|満面《まんめん》に|笑《ゑみ》を|湛《たた》へて、
『|御祖神《みおやがみ》の|御子《みこ》におはすと|宣《の》りしより
|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》は|喜《よろこ》びましける
いざさらばわれは|御供《みとも》に|仕《つか》へつつ
|君《きみ》を|御前《みまへ》に|送《おく》りまつらむ
|水火土《しほつち》の|神《かみ》も|諸共《もろとも》|進《すす》みませ
|弟姫神《おとひめがみ》は|待《ま》たせ|給《たま》へり』
|水火土《しほつち》の|神《かみ》は、
『いざさらば|姫《ひめ》の|言葉《ことば》に|従《したが》ひて
|艶男《あでやか》の|君《きみ》|進《すす》みましませ
われも|亦《また》|御後《みあと》に|従《したが》ひ|竜神《たつがみ》の
|司《つかさ》の|館《たち》に|進《すす》みゆかなむ』
|艶男《あでやか》は|道々《みちみち》|小声《こごゑ》にて|歌《うた》ふ。
『ああいぶかしやいぶかしや
|大野ケ原《おほのがはら》の|草《くさ》の|根《ね》に
|魂《みたま》となりて|言挙《ことあ》げし
|麗子姫《うららかひめ》は|今《いま》|此処《ここ》に
|生命《いのち》|保《たも》ちてみまかりし
われと|再《ふたた》び|会《あ》はむとは
|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より
|例《ためし》もあらぬ|喜《よろこ》びぞ
ああ|夢《ゆめ》なるや|夢《ゆめ》なるや
|夢《ゆめ》か|現《うつつ》かまぼろしか
|如何《いか》に|考《かんが》へすませども
あの|世《よ》の|人《ひと》となり|果《は》てて
われに|言《こと》とひすぐさまに
|火団《くわだん》となりて|湖《うみ》の|上《へ》を
たばしりゆきし|麗子《うららか》に
|又《また》も|此《この》|世《よ》に|会《あ》はむとは
|思《おも》ひもよらぬ|夢《ゆめ》なれや
|水火土《しほつち》の|神《かみ》の|御教《みをしへ》に
|生《い》きておはすと|思《おも》へども
なほ|解《と》きかぬる|今日《けふ》の|謎《なぞ》
さはさりながらわれとても
|一度《いちど》は|此《この》|世《よ》を|去《さ》りしもの
|神《かみ》の|情《なさけ》に|助《たす》けられ
|再《ふたた》びこの|世《よ》に|蘇《よみがへ》り
|生《い》きたるためしもあるものを
|麗子姫《うららかひめ》も|其《そ》の|如《ごと》く
|何《いづ》れの|神《かみ》にか|救《すく》はれて
この|竜島《たつしま》に|助《たす》けられ
|輝《かがや》き|給《たま》ふものならむ
ああ|訝《いぶか》しや|訝《いぶか》しや
|夢《ゆめ》の|浮世《うきよ》と|聞《き》くからは
|夢路《めゆぢ》をたどる|心地《ここち》して
|夢《ゆめ》の|国《くに》なる|夢《ゆめ》の|姫《ひめ》に
|会《あ》はむ|今日《けふ》こそ|楽《たの》しけれ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》|坐世《ましませ》』
ここに|第二《だいに》の|楼門《ろうもん》を|潜《くぐ》り、|金砂《きんしや》|銀砂《ぎんしや》の|敷《し》きつめられし|庭《には》の|真中《まんなか》を|奥殿《おくでん》さして|進《すす》み|入《い》る。
|奥殿《おくでん》の|入口《いりぐち》には、|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》|白《しろ》き|上衣《うはぎ》に|紅《あか》き|袴《はかま》を|穿《うが》ち、|少《すこ》しく|竜体《りうたい》の|尻尾《しつぽ》を|現《あらは》しながら、|慇懃《いんぎん》に|迎《むか》へ、
『|海原《うなばら》をはろばろ|越《こ》えて|天降《あも》りましし
|君《きみ》のよそほひ|尊《たふと》きろかも
この|島《しま》は|弟姫神《おとひめがみ》の|出《い》でましに
|総《すべ》てのものは|蘇《よみがへ》りける
|水火土《しほつち》の|神《かみ》と|諸共《もろとも》|出《い》でましし
|御祖《みおや》の|神《かみ》の|御子《みこ》を|拝《をろが》む』
|艶男《あでやか》はこれに|応《こた》へて、
『|海原《うなばら》を|水火土《しほつち》の|神《かみ》に|救《すく》はれて
|珍《うづ》の|島根《しまね》に|渡《わた》り|来《き》つるも
|金砂《きんしや》|銀砂《ぎんしや》きらめく|庭《には》をふみながら
|心《こころ》|清《すが》しく|蘇《よみがへ》りぬる
|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》と|申《まう》すは|水上山《みなかみやま》の
|麗子姫《うららかひめ》におはしまさずや』
|侍女神《じぢよしん》はこれに|応《こた》へて、
『|汝《な》が|君《きみ》の|言葉《ことば》は|正《ただ》し|弟姫《おとひめ》は
|麗子姫《うららかひめ》と|申《まう》しけるとか
|麗子姫《うららかひめ》は|君《きみ》のいでまし|喜《よろこ》びて
|待《ま》たせ|給《たま》へりいざ|案内《あない》せむ』
かく|歌《うた》ひながら、|水火土《しほつち》の|神《かみ》|諸共《もろとも》に|奥殿《おくでん》に|導《みちび》きゆく。
|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》は|兄《あに》の|訪《と》ひ|来《きた》りしを|喜《よろこ》び|給《たま》へども、すでに|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》の|妻《つま》となり、|此《この》|国《くに》の|司《つかさ》と|仰《あふ》がるる|身《み》の|上《うへ》なれば、|如何《いか》に|恋《こひ》しき|兄《あに》なればとて、|昔《むかし》の|如《ごと》く|安々《やすやす》と|語《かた》り|給《たま》ふわけにもゆかず、|又《また》|侍女従神《じぢよじうしん》たちにも|大《おほ》いに|憚《はばか》り|給《たま》ひつつ、|胸《むね》とどろかせ|給《たま》ひける。
|兄妹《きやうだい》は|互《たがひ》に|恋《こひ》を|語《かた》り|合《あ》ひ、|生命《いのち》までもと|誓《ちか》ひし|仲《なか》なれども、まだ|父母《ふぼ》の|許《ゆる》しなければ|一度《いちど》の|交《まじは》りもなく、|清浄《せいじやう》|潔白《けつぱく》の|間柄《あひだがら》なれば、|艶男《あでやか》も|別《べつ》に|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》の|妻《つま》となりしを|恨《うら》む|心《こころ》もなく、|釈然《しやくぜん》として|簾《みす》の|外《そと》より|透《すか》し|見《み》ながら|歌《うた》ふ。
『|汝《なれ》が|身《み》のかくれ|給《たま》ひしたまゆらに
|心《こころ》いらちてわれはさわぎぬ
|叢《くさむら》に|潜《ひそ》める|君《きみ》の|御魂《おんたま》と
しばしのうちは|語《かた》らひしはや
|火《ひ》の|玉《たま》となりて|走《はし》れる|君《きみ》があとを
|尋《たづ》ねて|吾《われ》は|此処《ここ》に|来《き》にけり
みまかりしならむと|思《おも》ひてわれも|亦《また》
|玉耶湖水《たまやこすい》に|身《み》を|投《とう》じけり
|折《をり》もあれ|水火土《しほつち》の|神《かみ》に|救《すく》はれて
|再《ふたた》び|生命《いのち》よみがへりける
|今《いま》の|君《きみ》は|妹《いもうと》ならずこの|国《くに》の
|司《つかさ》にまさばためらひ|心《ごころ》わく』
|簾《みす》の|中《うち》より、|声《こゑ》さはやかに|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》は|歌《うた》ふ。
『いとこやの|君《きみ》の|御顔《おんかほ》すかし|見《み》て
わが|胸《むね》の|火《ひ》は|燃《も》えたちにけり
しかはあれど|互《たがひ》に|清《きよ》き|仲《なか》なれば
|世《よ》に|恥《は》づるべき|事《こと》はあらまし
|水火土《しほつち》の|神《かみ》のいませる|御前《おんまへ》に
|清《きよ》き|心《こころ》を|互《たがひ》に|明《あ》かさむ』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|姫神《ひめがみ》の|御言《みこと》かしこし|今《いま》よりは
|竜《たつ》の|島根《しまね》の|君《きみ》と|仰《あふ》がむ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》と|心《こころ》|清《きよ》ければ
われは|歎《なげ》かじ|生命《いのち》|死《し》すとも
この|島《しま》に|渡《わた》り|給《たま》ひて|間《ま》もあらず
|司《つかさ》となりし|君《きみ》ぞ|雄々《をを》しき
この|状《さま》をわが|父母《ちちはは》に|伝《つた》へなば
|喜《よろこ》び|給《たま》はむよみがへる|如《ごと》』
|水火土《しほつち》の|神《かみ》、
『|姫神《ひめがみ》の|清《きよ》き|心《こころ》の|雄々《をを》しさを
|竜身《たつみ》の|彦《ひこ》に|詳細《つぶさ》に|語《かた》らむ
|水火土《しほつち》の|神《かみ》は|二人《ふたり》のあかしせむ
|清《きよ》き|心《こころ》の|兄妹《おとどい》なるを』
|斯《か》かるところへ、|春木彦《はるきひこ》、|夏川彦《なつかはひこ》を|先頭《せんとう》に、|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は|秋水彦《あきみづひこ》、|冬風彦《ふゆかぜひこ》を|後《あと》に|従《したが》へ、|悠々《いういう》として|帰《かへ》らせ|給《たま》ひ、この|場《ば》の|光景《くわうけい》を|見《み》て、さも|嬉《うれ》しげに|二人《ふたり》に|目礼《もくれい》しながら、
『|汝《なれ》こそは|水火土《しほつち》の|神《かみ》|一柱《ひとはしら》は
|何《いづ》れの|神《かみ》かよくも|来《き》ませる
|竜宮《りうぐう》の|島根《しまね》は|漸《やうや》く|開《ひら》けたり
|弟姫神《おとひめがみ》の|貴《うづ》の|光《ひか》りに
|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》に|噂《うはさ》を|聞《き》き|居《ゐ》たる
|艶男彦《あでやかひこ》は|君《きみ》にまさずや』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》もて|応《こた》ふ。
『われこそは|麗子姫《うららかひめ》の|兄《あに》にして
|艶男《あでやか》といふ|国津神《くにつかみ》なり
ゆくりなく|麗子姫《うららかひめ》の|後追《あとお》ひて
この|島ケ根《しまがね》に|渡《わた》り|来《き》つるも
|弟姫《おとひめ》は|汝《なれ》が|命《みこと》の|妻《つま》となりて
|仕《つか》へまつると|聞《き》くぞ|嬉《うれ》しき』
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は|儼然《げんぜん》として|応《こた》ふ。
『|親《した》しかる|兄妹《おとどい》|二人《ふたり》この|島《しま》に
|天降《あも》りましたる|事《こと》のめでたき
いざさらば|奥《おく》に|進《すす》ませ|給《たま》へかし
うましきものを|品々《しなじな》|進《すす》めむ
|水火土《しほつち》の|神《かみ》の|功績《いさをし》|伏《ふ》し|拝《をが》み
|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にわれはくれつる』
|斯《か》かるところへ、|弟姫神《おとひめがみ》は|簾《みす》をさつと|上《あ》げ、|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》の|前《まへ》に|慇懃《いんぎん》に|目礼《もくれい》しながら、
『わが|君《きみ》は|帰《かへ》りましけりわが|君《きみ》は
|心《こころ》ほがらに|兄《あに》に|語《かた》らすも
わが|君《きみ》の|御心《みこころ》|聞《き》きて|今更《いまさら》に
|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にくれにけらしな
いざさらば|君《きみ》に|従《したが》ひ|大奥《おほおく》に
|進《すす》みゆかなむ|艶男《あでやか》の|君《きみ》と』
|艶男《あでやか》は|直《ただ》ちに|歌《うた》もて|応《こた》ふ。
『|御後《みしりへ》に|従《したが》ひ|行《ゆ》かむ|大奥《おほおく》に
|先《さき》だちませよ|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》
わが|前《まへ》に|進《すす》みましませ|水火土《しほつち》の
|神《かみ》は|生命《いのち》のみおやなりせば』
ここに、|二柱《ふたはしら》は|弟姫神《おとひめがみ》のしりへに|従《したが》ひ、|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》と|共《とも》に|廊下《らうか》の|階段《かいだん》をきざみながら、|大奥《おほおく》さして|進《すす》み|入《い》る。
|艶男《あでやか》は|水火土《しほつち》の|神《かみ》に|送《おく》られて
|汀《みぎは》の|鉄門《かなど》につきにけるかも
|姫神《ひめがみ》に|導《みちび》かれつつ|又《また》|鉄門《かなど》
|潜《くぐ》りて|竜宮《りうぐう》|奥殿《おくでん》に|入《い》る
|金銀《きんぎん》の|砂《すな》を|素足《すあし》にふみながら
|弟姫《おとひめ》の|居間《ゐま》にとほされにける
|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》と|言問《ことと》ふ|間《ま》もあらず
|大竜身彦《おほたつみひこ》は|帰《かへ》り|来《きた》れり
|大竜身彦《おほたつみひこ》は|二人《ふたり》の|来訪《らいはう》を
いたく|喜《よろこ》び|奥《おく》に|案内《あない》す
|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》のみあとに|従《したが》ひて
|水火土《しほつち》、|艶男《あでやか》は|大奥《おほおく》に|入《い》る。
(昭和九・七・一六 旧六・五 於関東別院南風閣 林弥生謹録)
第二篇 |竜宮風景《りうぐうふうけい》
第七章 |相聞《さうもん》(一)〔一九八八〕
|万里《まで》の|海原《うなばら》に|浮《うか》びたる  |葭原《よしはら》の|国土《くに》の|真秀良場《まほらば》なる
|玉耶湖水《たまやこすい》の|中心《ちうしん》に  |御空《みそら》をついてそばだてる
|大地《だいち》の|鼻《はな》ともたとふべき  |伊吹《いぶき》の|山《やま》の|後方《こうはう》は
|高光山《たかみつやま》に|相次《あひつ》ぐの|名山《めいざん》なり  |此《この》|山《やま》の|南端《なんたん》に|突出《とつしゆつ》せる
|万木万草《ばんぼくばんさう》|豊《ゆたか》なる  |珊瑚礁《さんごせう》を|以《もつ》て|凝《かた》まりし
|風光明媚《ふうくわうめいび》の|島ケ根《しまがね》を  |竜宮島《りうぐうじま》と|称《とな》ふなり
|此《この》|島ケ根《しまがね》はまだ|新《あたら》しく  |人面竜身《にんめんりうしん》の|竜族《たつぞく》|数多《あまた》|住居《ぢうきよ》して
|神仙郷《しんせんきやう》の|思《おも》ひあり  |稍《やや》|進歩《しんぽ》せる|竜神《たつがみ》の
|頭部《とうぶ》と|両腕《りやううで》は  |漸《やうや》く|国津神《くにつかみ》の|姿《すがた》に|似《に》たれども
|其《その》|他《た》は|未《いま》だ|完全《くわんぜん》なる  |人体《じんたい》ならず|肩部《けんぶ》より|下《した》は
|残《のこ》らず|鱗《うろこ》を|以《もつ》て|人体《じんたい》を|包《つつ》まれたる  |異様《いやう》の|獣族《じうぞく》なり
かかる|新《あたら》しき|島ケ根《しまがね》に  |捕《とら》はれ|来《きた》りし|麗子姫《うららかひめ》
|容姿《ようし》は|艶麗《えんれい》にして|天人《てんにん》の|如《ごと》く  |竜神族《たつがみやから》は|忽《たちま》ち|神《かみ》と|尊敬《そんけい》し
|竜神《たつがみ》の|王《わう》たる|大竜身彦《おほたつみひこ》も  |麗子姫《うららかひめ》を|妻《つま》としながら
|神《かみ》の|王《わう》と|仰《あふ》ぎ  |日《ひ》に|夜《よ》に|真心《まごころ》の|限《かぎ》りをつくして
|仕《つか》へまつりける  かかるところへ|麗子姫《うららかひめ》の|兄《あに》なる
|艶男《あでやか》の|来《きた》りしより  |此《この》|島ケ根《しまがね》の|若《わか》き|女《め》たちは
|旱天《かんてん》の|驟雨《しうう》を|得《え》たるが|如《ごと》く  |随喜渇仰《ずゐきかつかう》して|一目《ひとめ》なりとも
|天人《てんにん》の|顔《かんばせ》を|拝《をが》まむと  |先《さき》を|争《あらそ》ひ|集《よ》り|来《きた》る
|竜神《たつがみ》の|中《なか》にも  |眉目形《みめかたち》うるはしき|乙女《をとめ》は
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|神殿《しんでん》に  |朝夕《あさゆふ》|仕《つか》へ|侍《はべ》りて
|艶男《あでやか》の|端麗《たんれい》なる|容姿《ようし》を  |目引《めひ》き|袖引《そでひ》き|眺《なが》めつつ
|笑《ゑ》みを|湛《たた》へ|居《ゐ》たりける  |侍女神《じぢよしん》の|重《おも》なる|神《かみ》は
|桔梗《ききやう》、|山吹《やまぶき》、|女郎花《をみなへし》  |萩《はぎ》に|撫子《なでしこ》、|藤袴《ふぢばかま》
|白菊《しらぎく》、|山菊《やまぎく》、|百合《ゆり》の|花《はな》  |椿《つばき》、|桜《さくら》に|燕子花《かきつばた》
あやめ、|石竹《せきちく》などと  |華《はな》やかなる|名《な》の|持主《もちぬし》なりける
これらの|女神《めがみ》はいづれも  |竜体《りうたい》なりとはいへ
その|容貌《ようばう》は|端麗《たんれい》にして  |容易《ようい》に|犯《をか》すべからず|見《み》えにける。
|山吹《やまぶき》は|恐《おそ》る|恐《おそ》る|艶男《あでやか》の|側《そば》|近《ちか》く、|裲襠姿《うちかけすがた》にて|寄《よ》り|来《きた》り、|心《こころ》の|丈《たけ》を|歌《うた》ふ。
『|久方《ひさかた》の|天津国《あまつくに》より|降《くだ》りましし
|神《かみ》にあらずや|君《きみ》のよそほひ
われは|今《いま》|伊吹《いぶき》の|山《やま》の|山峡《やまかひ》に
|雨《あめ》に|萎《しを》るる|山吹《やまぶき》の|花《はな》よ
|山吹《やまぶき》の|花《はな》は|咲《さ》けども|匂《にほ》へども
|手折《たを》る|人《ひと》なきわれぞ|淋《さび》しき
|君《きみ》が|手《て》に|触《ふ》れてこぼるる|山吹《やまぶき》の
|露《つゆ》はづかしきおもひなりけり
はてしなきおもひ|抱《いだ》きてわれは|今《いま》
|尊《たふと》き|君《きみ》の|前《まへ》にはぢらふ
|竜神《たつがみ》の|館《たち》に|天降《あも》りし|君《きみ》こそは
わが|身《み》の|為《ため》の|生命《いのち》なるかも
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|捨《す》つるも|惜《を》しまむじ
|君《きみ》の|御手《おんて》にふるる|山吹《やまぶき》
|山吹《やまぶき》の|花《はな》は|情《なさけ》のつゆあびて
ほのかに|笑《ゑ》みつ|打伏《うちふ》す|夏《なつ》なり
|水上《みなかみ》の|山《やま》より|下《くだ》りし|君許《きみがり》に
ただ|一夜《ひとよ》さの|露《つゆ》ぞ|願《ねが》はし
|汝《な》が|君《きみ》の|情《なさけ》のつゆのなかりせば
あれは|山吹《やまぶき》|咲《さ》くよしもなし
|湖《うみ》の|面《も》に|姿《すがた》を|写《うつ》す|山吹《やまぶき》の
|花《はな》の|心《こころ》を|君《きみ》は|知《し》らずや
|七重《ななへ》|八重《やへ》|花《はな》|咲《さ》くわが|身《み》|山吹《やまぶき》も
|吾《きみ》のすがたに|及《およ》ばざらめや
|時《とき》じくに|七重《ななへ》|八重《やへ》|咲《さ》く|山吹《やまぶき》は
|竜宮《りうぐう》の|島《しま》の|花《はな》にぞありける
われはまだ|年若《としわか》けれど|君《きみ》おもふ
|心《こころ》はあかし|山吹《やまぶき》の|花《はな》
|黄金色《こがねいろ》に|咲《さ》く|山吹《やまぶき》の|君許《きみがり》に
|立《た》ちてし|見《み》れば|面《おも》あからむも
|山吹《やまぶき》のあかき|心《こころ》をみそなはし
|情《なさけ》のつゆを|降《ふ》らさせ|給《たま》へ』
|艶男《あでやか》はこれに|答《こた》へて、
『|山吹《やまぶき》の|姫《ひめ》の|心《こころ》はさとれども
|手折《たを》る|術《すべ》なきわが|身《み》なりけり
|人《ひと》の|子《こ》の|情《なさけ》をさとるわれながら
|花《はな》にかこまれ|動《うご》くよしなし
|百千花《ももちばな》|匂《にほ》ふ|竜宮《りうぐう》の|島ケ根《しまがね》に
|思《おも》はぬ|花《はな》の|色《いろ》を|見《み》るかな
いろいろと|花《はな》は|匂《にほ》へど|手折《たを》るべき
|力《ちから》なき|身《み》をわれ|如何《いか》にせむ
|伊吹山《いぶきやま》|尾根《をね》にかがよふ|月《つき》かげを
|見《み》れば|恥《はづ》かし|艶男《あでやか》|曇《くも》る
|村肝《むらきも》の|心《こころ》|曇《くも》りてわれは|今《いま》
あやめもわかずなりにけらしな
|花《はな》に|酔《よ》ひ|恋《こひ》に|酔《よ》ひつつ|此《この》|島《しま》に
さまよふわれの|心《こころ》いぶかし
|如何《いか》にして|君《きみ》が|心《こころ》に|叶《かな》はむと
|思《おも》へど|詮《せん》なし|男《を》の|子《こ》|一人《ひとり》に
よしやよし|山吹《やまぶき》の|花《はな》を|手折《たを》るとも
|仇花《あだばな》なれや|実《み》を|結《むす》ばねば』
|山吹《やまぶき》はこれに|答《こた》へて、
『わがおもふ|心《こころ》の|丈《たけ》を|君許《きみがり》に
|明《あか》しまつりし|事《こと》の|恥《はづ》かし
|兎《と》にもあれ|角《かく》にもあれや|竜宮《りうぐう》の
|庭《には》に|匂《にほ》へる|花《はな》を|手折《たを》らせよ』
|艶男《あでやか》は|答《こた》ふ。
『|兎《と》にもあれ|角《かく》にもあれや|今《いま》|暫《しば》し
わが|返《かへ》し|事《ごと》|待《ま》たせ|給《たま》はれ』
と|言《い》ひつつ、|悠然《いうぜん》として|庭《には》の|白砂《しらすな》を|踏《ふ》みながら、|曲玉池《まがたまいけ》の|木《こ》かげに|向《むか》つて|進《すす》み|行《ゆ》く。
|此処《ここ》には、|侍女神《じぢよしん》の|白菊《しらぎく》が|物憂《ものう》げに|立《た》つて|居《ゐ》る。その|優姿《やさすがた》、|海棠《かいだう》の|雨《あめ》に|萎《しを》れてうつぶせるが|如《ごと》き|風情《ふぜい》あり。
|艶男《あでやか》はこれを|見《み》て|歌《うた》ふ。
『|曲玉《まがたま》の|池《いけ》の|汀《みぎは》に|咲《さ》く|花《はな》は
いづれの|花《はな》か|聞《き》かまほしさよ
|池《いけ》の|底《そこ》に|清《すが》しく|写《うつ》る|御姿《みすがた》は
|世《よ》にも|稀《まれ》なるよそほひなるかな』
|白菊《しらぎく》は|歌《うた》ふ。
『わが|心《こころ》いづらに|行《ゆ》くかしら|菊《ぎく》の
|水鏡《みづかがみ》|見《み》る|朝《あさ》なりにけり
|君《きみ》こそは|天津国人《あまつくにびと》|此《こ》の|島《しま》に
|天降《あも》らす|日《ひ》より|打《う》ち|仰《あふ》ぎつつ
|仰《あふ》ぎ|見《み》れば|月《つき》の|顔《かんばせ》|花《はな》の|色《いろ》
|此《この》|島ケ根《しまがね》に|稀《まれ》なる|艶人《あでびと》よ
|艶人《あでびと》の|上《うへ》をおもひて|朝《あさ》なさな
われは|祈《いの》るも|曲玉《まがたま》の|池《いけ》に
|曲玉《まがたま》の|水《みづ》は|底《そこ》まで|澄《す》みきれど
われは|曇《くも》れり|心《こころ》の|水底《みなそこ》
いや|深《ふか》きおもひの|底《そこ》を|打明《うちあ》けて
|君《きみ》に|見《み》せたき|一《ひと》つのものあり
|白菊《しらぎく》のかげのうつらふ|玉水《たまみづ》を
|君《きみ》は|汲《く》まずや|掬《むす》び|給《たま》はずや
|賤《いや》しかる|身体《むくろ》をもてど|人《ひと》を|恋《こ》ふる
|清《きよ》き|心《こころ》に|隔《へだ》てあるべき
|島ケ根《しまがね》に|咲《さ》く|白菊《しらぎく》の|花《はな》の|露《つゆ》
|掬《むす》ばせ|給《たま》へ|一夜《いちや》の|枕《まくら》を』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|竜宮《りうぐう》の|島根《しまね》に|計《はか》らず|渡《わた》り|来《き》て
|情《なさけ》のつゆの|雨《あめ》にあふかな
われこそは|水上山《みなかみやま》の|国津御祖《くにつみおや》
|神《かみ》の|家継《いへつ》ぐ|彦遅《ひこぢ》なるぞや
|永久《とこしへ》に|住《す》むべき|島《しま》にあらざれば
|手折《たを》る|術《すべ》さへしら|菊《ぎく》の|花《はな》』
|白菊《しらぎく》は|歌《うた》ふ。
『|恥《はづ》かしきわが|身《み》なるかな|汝《な》が|君《きみ》の
|袖《そで》にはぢかれ|花《はな》|散《ち》らむとすも
わが|心《こころ》いづらに|行《ゆ》きしかしら|菊《ぎく》の
|花《はな》はづかしき|朝《あさ》なりにけり
うちつけにわが|放《はな》ちたる|言霊《ことたま》は
|巌《いは》にあたりてはね|返《かへ》されぬ
|朝夕《あさゆふ》の|乙女心《をとめごころ》のかなしさを
|汲《く》まさぬ|君《きみ》ぞつれなかりけり
いざさらば|暫《しば》し|別《わか》れて|恥《はづ》かしの
|森《もり》の|木《こ》かげにわれ|休《やす》らはむ』
と|歌《うた》ひつつ、|袖《そで》に|面《かほ》を|覆《おほ》ひながら、|貴《うづ》の|乙女《をとめ》のしをしをと、|小暗《をぐら》き|木下闇《こしたやみ》を|潜《くぐ》りて、|何処《いづく》ともなく|出《い》で|行《ゆ》きにける。
|艶男《あでやか》は|太《ふと》き|息《いき》を|洩《もら》しながら、
『ああわれは|迷《まよ》ひにけりな|麗子《うららか》の
|後《あと》を|慕《した》ひてここに|悩《なや》めるか
|今《いま》となり|麗子姫《うららかひめ》の|心根《こころね》を
ひしと|悟《さと》りて|涙《なみだ》ぐましも
|竜神《たつがみ》の|王《こきし》なれども|竜《たつ》の|身《み》に
|抱《いだ》かるる|身《み》は|淋《さび》しかるらむ
|麗子《うららか》の|後《あと》を|尋《たづ》ねて|来《こ》しわれは
|情《なさけ》の|雨《あめ》になやまされける
かくの|如《ごと》|恋《こひ》は|苦《くる》しきものなるか
|玉《たま》の|生命《いのち》の|死《し》なまく|思《おも》ふ
|死《し》なまくは|思《おも》へど|故郷《くに》に|垂乳根《たらちね》の
いますが|故《ゆゑ》に|心《こころ》に|任《まか》せず
|水火土《しほつち》の|神《かみ》に|救《すく》はれわれは|今《いま》
|同《おな》じなやみに|悶《もだ》えぬるかな
|竜神《たつがみ》の|眼《まなこ》なければひそやかに
|船《ふね》をかざして|帰《かへ》らむものを
|村肝《むらきも》の|心《こころ》にそぐはぬ|竜神《たつがみ》の
|乙女《をとめ》の|姿《すがた》|見《み》るもいやらし
さりながら|其《その》おもざしを|眺《なが》むれば
|涙《なみだ》ぐましき|乙女《をとめ》のみなる
|乙女子《をとめご》の|清《きよ》きなさけの|露《つゆ》あびて
|心《こころ》|悲《かな》しくなりにけらしな
|女神《めがみ》のみ|数多《あまた》|住《す》まへる|此《この》|島《しま》に
|男《を》の|子《こ》|一人《ひとり》の|如何《いか》に|堪《た》ふべき
|一枝《ひとえ》|折《を》らば|百花《ももばな》|千花《ちばな》|押《おし》なべて
|手折《たを》らにやならぬ|破目《はめ》となるべし
われは|今《いま》|一《ひと》つの|生命《いのち》|保《たも》ちつつ
|百《もも》の|生命《いのち》を|如何《いか》に|支《ささ》へむ』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》もあれ、|前方《ぜんぱう》の|森林《しんりん》より|七人《しちにん》の|乙女《をとめ》、|白衣《びやくえ》の|直垂《ひたたれ》に|緋《ひ》の|長袴《ながはかま》を|穿《うが》ち、|各自《てんで》に|水晶《すゐしやう》の|壺《つぼ》を|抱《いだ》きながら、|曲玉池《まがたまいけ》の|水《みづ》を|汲《く》まむとや、しとしとと|入《い》り|来《きた》る。
|艶男《あでやか》はまた|見付《みつ》かつては|大変《たいへん》と、|忽《たちま》ち|踵《きびす》をかへし、|伊吹《いぶき》の|山《やま》の|中腹《ちうふく》なる|鏡湖《かがみこ》のかたへの|樹蔭《こかげ》を|目《め》がけ、|急《いそ》ぎ|逃《に》げて|行《ゆ》く。
|艶男《あでやか》は|樹蔭《こかげ》に|憩《いこ》ひながら|歌《うた》ふ。
『|漸《やうや》くにわれは|遁《のが》れて|来《きた》りけり
いざ|休《やす》らはむ|桂木《かつらぎ》のかげ
|女神《めがみ》のみ|数多《あまた》|住《す》まへる|此《この》|島《しま》に
|心《こころ》いぶかしくわれは|悩《なや》むも
|今《いま》|暫《しば》し|心安《うらやす》らけく|保《たも》てども
やがて|襲《おそ》はむ|恋《こひ》の|嵐《あらし》は
|翼《つばさ》あらば|水上《みなかみ》の|山《やま》に|夜《よる》の|間《ま》に
|逃《に》げ|帰《かへ》らむと|悩《なや》めるわれかも
|麗子《うららか》の|恋《こひ》しき|君《きみ》のいます|島《しま》に
|翼《つばさ》はがれし|裸鳥《はだかどり》われは
|伊吹山《いぶきやま》|尾根《をね》を|包《つつ》める|白雲《しらくも》の
|晴《は》るるひまなきわが|思《おも》ひかな』
(昭和九・七・一七 旧六・六 於関東別院南風閣 白石恵子謹録)
第八章 |相聞《さうもん》(二)〔一九八九〕
|艶男《あでやか》は|女神等《めがみたち》の|恋《こひ》の|鋭鋒《えいほう》をさけて、|鏡《かがみ》の|湖畔《こはん》なる|百津《ゆつ》|桂木《かつらぎ》の|樹蔭《こかげ》に|太《ふと》き|息《いき》をもらしつつありしが、|忽然《こつぜん》として|辺《あたり》の|叢《くさむら》よりあらはれたる|白衣《びやくえ》、|紅袴《こうこ》の|乙女《をとめ》は、|右手《めて》に|白萩《しらはぎ》の|花《はな》の|満開《まんかい》せるを|持《も》ち、|左手《ゆんで》に|玉水盃《たまもひ》を|捧《ささ》げながら、|艶男《あでやか》の|側《そば》|近《ちか》く|進《すす》み|寄《よ》り、|満面《まんめん》|笑《ゑ》みを|湛《たた》へて、|玉水盃《たまもひ》の|水《みづ》を|艶男《あでやか》の|前《まへ》に|差《さ》し|置《お》き、
『|珍《めづら》しき|艶男《あでやか》の|君《きみ》よ|御水《もひ》|召《め》せよ
|今日《けふ》の|暑《あつ》さは|咽喉《のど》のかわけば
わらはこそは|露《つゆ》にうるほふしら|萩《はぎ》の
|花《はな》はづかしき|乙女《をとめ》なりけり
そよと|吹《ふ》く|風《かぜ》にも|靡《なび》く|白萩《しらはぎ》の
かよわき|姿《すがた》を|愛《め》で|給《たま》はずや
|白萩《しらはぎ》の|花《はな》は|清《すが》しも|鏡湖《かがみこ》の
|底《そこ》まで|透《す》ける|真清水《ましみづ》に|似《に》て
|白萩《しらはぎ》の|香《かを》りを|添《そ》へて|玉水盃《たまもひ》に
|御水《もひ》|奉《たてまつ》る|今日《けふ》の|嬉《うれ》しさ
|真清水《ましみづ》を|掬《むす》ばせながら|白萩《しらはぎ》の
|花《はな》の|香《かを》りを|愛《め》でさせ|給《たま》へ
|夏冬《なつふゆ》のけぢめもしらに|白萩《しらはぎ》は
|伊吹《いぶき》の|山《やま》に|淋《さび》しく|匂《にほ》ふも』
|艶男《あでやか》はこれに|答《こた》へて、
『ありがたし|乙女《をとめ》の|君《きみ》の|志《こころざし》
われいただかむ|桂木《かつらぎ》の|蔭《かげ》に
|湖《みづうみ》の|水《みづ》は|清《きよ》しも|白萩《しらはぎ》の
|花《はな》は|床《ゆか》しも|乙女《をとめ》の|姿《すがた》か
|百千花《ももちばな》|咲《さ》き|匂《にほ》へども|吾《われ》にして
|手折《たを》らむ|力《ちから》なきぞかなしき』
|白萩《しらはぎ》は|歌《うた》ふ。
『|汝《な》が|心《こころ》いづらにあるか|白萩《しらはぎ》の
|花《はな》はづかしき|吾《われ》にもあるかな
さりながら|手折《たを》らせ|給《たま》へ|白萩《しらはぎ》の
|花《はな》におく|露《つゆ》こぼるるまでも
|汝《な》が|君《きみ》の|情《なさけ》の|露《つゆ》にうるほひて
|吾《われ》は|生《い》くべき|白萩《しらはぎ》の|花《はな》よ
この|島《しま》に|百花《ももばな》|千花《ちばな》|匂《にほ》へども
ただ|一本《ひともと》の|白萩《しらはぎ》のわれ
|風《かぜ》|吹《ふ》かば|露《つゆ》やこぼれむ|花《はな》|散《ち》らむ
|早《はや》く|手折《たを》らへ|一本《ひともと》の|白萩《しらはぎ》』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|白萩《しらはぎ》の|花《はな》|美《うるは》しと|見《み》る|吾《われ》は
|岩《いは》の|上《へ》に|生《お》ふ|無花実《いちじゆく》なるよ
|花《はな》のなき|無花実《いちじゆく》のかげに|繁《しげ》りたる
|草花《くさばな》にして|実《み》のなき|吾《われ》なり』
|白萩《しらはぎ》は|又《また》|歌《うた》ふ。
『なやましき|心《こころ》の|丈《たけ》をしら|萩《はぎ》の
|梢《こずゑ》もみゆく|汝《なれ》は|山風《やまかぜ》
|山風《やまかぜ》は|如何《いか》にはげしく|吹《ふ》くとても
|木蔭《こかげ》の|白萩《しらはぎ》|散《ち》らむとはせず
わが|持《も》てる|白萩《しらはぎ》の|花《はな》に|露《つゆ》とめて
|心《こころ》のあかしと|君《きみ》にまゐらす
よしやよし|露《つゆ》の|情《なさけ》はあらずとも
|君《きみ》のみそばに|細《ほそ》く|咲《さ》くべし
|人《ひと》の|目《め》を|漸《やうや》くここにしのび|草《ぐさ》
しのびかねたるわが|思《おも》ひかな』
|艶男《あでやか》は|白萩《しらはぎ》の|情《なさけ》のこもる|言葉《ことば》に、ほつと|当惑《たうわく》しながら、こともなげに|鏡《かがみ》の|湖面《こめん》を|眺《なが》めてゐる。|白萩《しらはぎ》は|水面《すゐめん》の|小波《さざなみ》を|指《ゆび》さしながら、
『みそなはせ|鏡《かがみ》の|湖《うみ》の|小波《さざなみ》の
|底《そこ》の|心《こころ》は|動《うご》かざるらむ
|鏡湖《かがみこ》の|底《そこ》ひもしらぬわが|思《おも》ひ
|写《うつ》して|匂《にほ》ふ|白萩《しらはぎ》の|花《はな》よ
|八千尋《やちひろ》の|底《そこ》ひもしらぬ|思《おも》ひねを
|君《きみ》は|知《し》らずやみそなはさずや
|君《きみ》のために|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|消《き》ゆるとも
|悔《く》いなき|吾《われ》と|思召《おぼしめ》さずや
|斯《か》くならば|生命《いのち》|死《し》すとも|動《うご》かまじ
|深《ふか》き|心《こころ》をくみとらすまでは
|伊吹山《いぶきやま》|百草千草《ももぐさちぐさ》|匂《にほ》へども
|君《きみ》のよそほひに|勝《まさ》る|花《はな》なし
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》をかけて|恋《こ》ひ|慕《した》ふ
|君《きみ》は|情《つれ》なき|薊《あざみ》の|花《はな》かも』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『さまざまの|汝《な》が|言霊《ことたま》に|打出《うちだ》され
|吾《われ》はいらへの|言葉《ことば》だになし
はろばろと|波《なみ》の|秀《ほ》ふみて|来《き》ながらに
かかるなやみは|思《おも》はざりけり
|竜宮《りうぐう》の|島《しま》の|乙女《をとめ》に|囲《かこ》まれて
|吾《われ》は|行手《ゆくて》をふさがれにけり
|足引《あしびき》の|山《やま》より|高《たか》き|父母《ふぼ》の|恩《おん》
おもへば|春《はる》の|心《こころ》|起《おこ》らじ
|伊吹山《いぶきやま》|尾根《をね》より|吹《ふ》き|来《く》る|青嵐《せいらん》を
|朝夕《あさゆふ》あびて|戦《をのの》く|吾《われ》なり
|竜宮《りうぐう》の|恋《こひ》の|嵐《あらし》の|強《つよ》ければ
わが|身《み》はかなく|散《ち》らむとするも』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|鏡湖《かがみこ》の|波《なみ》を|左右《さいう》に|分《わ》けて、あらはれ|来《きた》る|三柱《みはしら》の|女神《めがみ》あり。|主《あるじ》と|思《おぼ》しきは|前《まへ》に|立《た》ち、|稍《やや》|年《とし》|若《わか》き|乙女《をとめ》は|後辺《うしろべ》に|立《た》ち、|悠々《いういう》として|水面《すゐめん》を|渡《わた》りながら、|艶男《あでやか》の|憩《いこ》ふ|百津《ゆつ》|桂木《かつらぎ》の|樹蔭《こかげ》に、|莞爾《くわんじ》として|寄《よ》り|来《きた》る。|白萩《しらはぎ》はこれを|見《み》るより、|忽《たちま》ち|大地《だいち》にひれ|伏《ふ》し、「ウオーウオー」と|叫《さけ》びながら|恭敬礼拝《きようけいらいはい》|怠《をこた》りなく、|頭《かしら》を|大地《だいち》につけたるまま|身動《みうご》きもせず、うづくまり|居《ゐ》る。|女神《めがみ》は|樹蔭《こかげ》に|憩《いこ》ふ|艶男《あでやか》に|軽《かる》く|黙礼《もくれい》し、|紅《くれなゐ》の|唇《くちびる》を|開《ひら》き、
『|御祖神《みおやがみ》の|御子《みこ》あれますと|聞《き》きしより
そこひを|分《わ》けて|吾《われ》は|来《き》にけり
|吾《われ》こそは|大海津見《おほわだつみ》の|神《かみ》の|愛娘《まなむすめ》
|海津見姫《わだつみひめ》とよばるる|神《かみ》なり
|竜宮《りうぐう》の|島根《しまね》は|未《いま》だ|稚《わか》けれど
|汝《なれ》が|力《ちから》をもちてつくれよ
この|島《しま》をつくり|固《かた》めて|御子《みこ》を|生《う》み
いや|永久《とこしへ》に|守《まも》らせ|給《たま》へ
|竜宮《りうぐう》の|島根《しまね》は|恋《こひ》の|島ケ根《しまがね》よ
|愛《あい》の|花《はな》|咲《さ》く|神《かむ》さだめ|島《じま》
|姫神《ひめがみ》の|数多《あまた》|住《す》まへるこの|島《しま》に
|渡《わた》りし|君《きみ》は|助《たす》けの|神《かみ》ぞや
|人体《じんたい》をうまらにつばらに|備《そな》へざる
|女神《めがみ》を|救《すく》へ|神《かみ》のまにまに
|天地《あめつち》の|百《もも》の|草木《くさき》をことごとく
この|島ケ根《しまがね》に|植《う》ゑ|生《お》はしける
この|島《しま》は|海津見《わだつみ》の|神《かみ》の|真秀良場《まほらば》よ
われも|折々《をりをり》|来《きた》りてあそべる
|水《みづ》|清《きよ》き|鏡《かがみ》の|湖《いけ》は|海津見《わだつみ》の
|神《かみ》の|宮居《みやゐ》の|入口《いりぐち》ぞかし
ここに|来《き》て|弱《よわ》き|心《こころ》をもたすまじ
|全《まつた》き|神子《みこ》を|生《う》むべき|島根《しまね》よ
|八十姫《やそひめ》の|願《ねが》ひことごときき|入《い》れて
この|島ケ根《しまがね》をにぎはせ|給《たま》へ』
|艶男《あでやか》はおそるおそるこれに|答《こた》ふ。
『|如何《いか》にして|百《もも》の|女神《めがみ》にまみえなむ
|身体《からたま》の|弱《よわ》きひとり|身《み》|吾《われ》は
ゆくりなくこの|島ケ根《しまがね》に|渡《わた》り|来《き》て
|百《もも》の|乙女《をとめ》におそはれにける
|男《を》の|子《こ》|吾《われ》ひるまじものとおもへども
ねたみ|心《ごころ》を|如何《いか》にをさめむ
ねたましき|心《こころ》をもつは|姫神《ひめがみ》の
|常《つね》と|知《し》る|故《ゆゑ》ためらひ|居《を》るなり』
|海津見姫《わだつみひめ》の|神《かみ》は|淑《しと》やかに|宣《の》り|給《たま》ふ。
『|心《こころ》|弱《よわ》きことを|宣《の》らすな|汝《な》は|男《を》の|子《こ》
|雄々《をを》しく|清《すが》しくあるべきものを
|艶男《あでやか》の|名《な》を|負《お》ひませる|君《きみ》なれば
ねたみ|心《ごころ》におそはるべしやは
この|島《しま》の|女神《めがみ》はのこらず|神《かみ》なれば
ねたむ|心《こころ》は|露《つゆ》|程《ほど》もなし
|稚《わか》き|国土《くに》をつくり|固《かた》むる|業《わざ》なれば
ためらふことなく|進《すす》ませ|給《たま》へ』
|艶男《あでやか》はこれに|答《こた》へて、
『|姫神《ひめがみ》の|心《こころ》はよしと|思《おも》へども
|吾《われ》には|及《およ》ばず|国津神《くにつかみ》の|身《み》よ』
|海津見《わだつみ》の|神《かみ》は、
『|日《ひ》を|重《かさ》ね|時《とき》をけみして|次々《つぎつぎ》に
|心《こころ》|雄々《をを》しく|進《すす》ませ|給《たま》はむ』
|斯《か》く|歌《うた》ひながら|姫神《ひめがみ》は|静々《しづしづ》と|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》と|共《とも》に、|芒《すすき》の|穂《ほ》の|上《うへ》を|軽《かる》く|渡《わた》りながら、|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》の|宮殿《きうでん》|深《ふか》く|御姿《みすがた》をかくさせ|給《たま》ひぬ。|艶男《あでやか》と|白萩《しらはぎ》は|姫神《ひめがみ》を|粛然《しゆくぜん》として|見送《みおく》り、|御影《みかげ》の|見《み》えぬ|迄《まで》|伸《の》び|上《あが》り|伸《の》び|上《あが》り|眺《なが》めて|居《ゐ》たが、ここに|艶男《あでやか》は|不審《ふしん》の|念《ねん》にうたれつつ、|諸手《もろて》を|組《く》み、|太《ふと》き|息《いき》をもらし|思案《しあん》にくれてゐる。|白萩《しらはぎ》は|白衣《びやくえ》の|袖《そで》の|艶男《あでやか》の|息《いき》のさはるところまで|近寄《ちかよ》り|来《きた》り、|露《つゆ》の|滴《したた》るまなざしを|涼《すず》しくひらきながら、あらゆる|媚《こび》を|呈《てい》し、|艶男《あでやか》の|左手《ゆんで》を|握《にぎ》らむとせしにぞ、|艶男《あでやか》は|青天《せいてん》の|霹靂《へきれき》の|如《ごと》く|驚《おどろ》き、|二三十歩《にさんじつぽ》|後方《しりへ》に|飛《と》び|退《しりぞ》き、|呆然《ばうぜん》として|白萩《しらはぎ》の|面《おも》を|見《み》つめてゐる。|白萩《しらはぎ》はかなしき|声《こゑ》をはり|上《あ》げながら、
『|情《なさけ》なやわがおもふ|君《きみ》は|白萩《しらはぎ》の
|梢《うれ》をもみゆく|嵐《あらし》なりけり
|雨《あめ》|霰《あられ》|嵐《あらし》は|如何《いか》に|強《つよ》くとも
たゆまざるべし|白萩《しらはぎ》の|吾《われ》は
この|島《しま》に|渡《わた》り|来《き》ませる|君《きみ》なれば
|如何《いか》でのがさじ|弥猛心《やたけごころ》に
|姫神《ひめがみ》の|御言葉《みことば》|汝《なれ》はきかざるや
たゆまずひるまず|手折《たを》らせ|給《たま》へ
いやしかるわが|身体《からたま》におぢおそれ
いなみ|給《たま》ふか|情《なさけ》なき|君《きみ》
|身体《からたま》はよし|竜体《りうたい》と|生《うま》るとも
|恋《こひ》てふ|心《こころ》に|変《かは》りあるべき』
|艶男《あでやか》は|決心《けつしん》の|臍《ほぞ》を|固《かた》め、しばしの|虎口《ここう》を|遁《のが》れむと、|腕《うで》を|組《く》みながら|憮然《ぶぜん》として|歌《うた》ふ。
『はづかしさ|恋《こひ》しさあまりてただ|吾《われ》は
|手折《たを》らむ|道《みち》をためらひにけり
さりながらしばしを|待《ま》たせ|給《たま》へかし
|吾《われ》には|一《ひと》つの|病《やまひ》ありせば
この|病《やまひ》|癒《い》ゆるを|待《ま》ちて|白萩《しらはぎ》の
|君《きみ》にまみえむよき|日《ひ》あるべし』
|白萩《しらはぎ》は|満面《まんめん》を|輝《かがや》かしながら|素直《すなほ》に|歌《うた》ふ。
『|村肝《むらきも》の|心《こころ》つくせし|甲斐《かひ》ありて
|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|心《こころ》うごきぬ
|嬉《うれ》しさにわが|魂《たましひ》は|輝《かがや》きぬ
|幾日《いくひ》まつとも|吾《われ》は|恨《うら》まじ
|斯《かく》の|如《ごと》やさしき|君《きみ》と|知《し》らずして
なやめ|奉《まつ》りし|心《こころ》はづかし
いざさらば|御殿《みとの》に|送《おく》り|奉《まつ》るべし
|早立《はやた》たせませ|桂木《かつらぎ》の|蔭《かげ》を』
|艶男《あでやか》の|言葉《ことば》の|風《かぜ》に|白萩《しらはぎ》は
|心《こころ》|静《しづ》かに|打《う》ちなびきたり
|村肝《むらきも》の|心《こころ》|満《み》たねど|艶男《あでやか》は
|白萩《しらはぎ》と|共《とも》に|御殿《みとの》にかへれり。
(昭和九・七・一七 旧六・六 於関東別院南風閣 内崎照代謹録)
第九章 |祝賀《しゆくが》の|宴《えん》(一)〔一九九〇〕
|竜宮島《りうぐうじま》の|王者《わうじや》たる|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は、|水上山《みなかみやま》の|麓《ふもと》なる|国《くに》の|御祖《みおや》の|神《かみ》の|愛娘《まなむすめ》、|麗子姫《うららかひめ》を|妃《ひ》と|定《さだ》め|大竜殿《だいりうでん》に|海原国《うなばらぐに》の|政《まつりごと》を|始《はじ》め|給《たま》ふに|就《つ》き、|大海津見《おほわだつみ》の|神《かみ》の|娘《むすめ》|海津見姫《わだつみひめ》の|神《かみ》は、|前代未聞《ぜんだいみもん》の|慶事《けいじ》を|祝《しゆく》せむとして|鏡《かがみ》の|湖《うみ》の|水門《すいもん》を|開《ひら》き|入《はい》り|来《きた》り|給《たま》ふと|聞《き》き、あらゆる|従神等《じうしんたち》は|右往左往《うわうさわう》、|欣喜雀躍《きんきじやくやく》し、|姫神《ひめがみ》を|歓待《くわんたい》せむとあらゆる|準備《じゆんび》に|着手《ちやくしゆ》してゐる。|大楼門《だいろうもん》の|内外《ないぐわい》には|金砂《きんしや》|銀砂《ぎんしや》を|新《あたら》しく|敷《し》き|詰《つ》め、|杉《すぎ》|桧《ひのき》の|梢《こずゑ》を|伐《き》り、|御通行《ごつうかう》の|道《みち》を|青葉《あをば》にかためて、|準備《じゆんび》をさをさおこたりなかりける。
かかる|所《ところ》へ|時《とき》うつりて、|大海津見《おほわだつみ》の|神《かみ》の|娘《むすめ》|海津見姫《わだつみひめ》の|神《かみ》は、|父《ちち》の|御使《みつかひ》として|現《あらは》れ|給《たま》ひ、|歓迎《くわんげい》の|準備《じゆんび》|全《まつた》く|調《ととの》へるに|稍《やや》|驚《おどろ》き|給《たま》ひつつ、
『|来《き》て|見《み》れば|竜《たつ》の|島根《しまね》は|清《すが》しけれ
この|島人《しまびと》の|面《おも》かがやける
|塵《ちり》|一《ひと》つかげを|止《とど》めずこの|庭《には》に
|主《あるじ》の|神《かみ》の|真心《まごころ》を|知《し》る
|千早振《ちはやぶ》る|神代《かみよ》をかけてためしなき
この|喜《よころ》びをことほぎ|奉《まつ》らむ
|吾《わが》いゆく|道《みち》の|面《おもて》は|桧葉《ひのきば》の
|青《あを》き|莚《むしろ》に|満《み》たされにけり
|歩《あゆ》むさへ|足音《あしおと》のなき|青莚《あをむしろ》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|露《つゆ》の|色《いろ》かも』
かく|歌《うた》はせ|給《たま》ふ|折《をり》もあれ、|各自《おのもおのも》|礼装《れいさう》を|凝《こ》らし、|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》を|先頭《せんとう》に、|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》あまたの|御供《みとも》の|神等《かみたち》、|粛々《しゆくしゆく》と|列《れつ》をつくりて|姫神《ひめがみ》の|前《まへ》に|進《すす》み|来《きた》り、|恭《うやうや》しく|最敬礼《さいけいれい》を|終《をは》り、|先《ま》づ|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は、
『|久方《ひさかた》の|御空《みそら》ゆ|降《くだ》る|麗子姫《うららかひめ》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|妻《つま》となしたり
|願《ねが》はくばこの|有様《ありさま》をまつぶさに
|父《ちち》|大神《おほかみ》に|伝《つた》へ|給《たま》はれ
|八千尋《やちひろ》の|湖《うみ》の|底《そこ》より|出《い》でましし
|姫《ひめ》の|命《みこと》のつかれを|思《おも》ふ
|今日《けふ》よりはこの|島ケ根《しまがね》も|栄《さか》ゆべし
|艶男《あでやか》、|麗子《うららか》|渡《わた》り|来《き》ませば』
|姫神《ひめがみ》はこれに|答《こた》へて、
『|天地《あめつち》の|開《ひら》けし|時《とき》ゆためしなき
|慶事《けいじ》に|会《あ》へる|君《きみ》ぞ|尊《たふと》き
|今日《けふ》よりは|弟姫神《おとひめがみ》と|親《した》しみて
|海《うみ》の|食国《をすくに》|護《まも》らせ|給《たま》へ』
|弟姫神《おとひめがみ》は|拍手《はくしゆ》しながら|歌《うた》ふ。
『|掛巻《かけま》くも|畏《かしこ》き|海津見姫神《わだつみひめがみ》の
いでまし|吾《われ》は|嬉《うれ》しみ|迎《むか》ふ
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|経綸《しぐみ》の|綱《つな》にひかれ
|吾《われ》この|島《しま》に|渡《わた》り|来《こ》しはや
|吾《わが》|目路《めぢ》にふるるものみな|珍《めづら》しく
また|新《あたら》しきこれの|島国《しまぐに》よ
|力《ちから》なき|吾《われ》は|是《これ》よりいかにして
この|島国《しまぐに》をひらかむとぞ|思《おも》ふ
|願《ねが》はくば|姫神《ひめがみ》|力《ちから》を|添《そ》へよかし
まだ|年《とし》|若《わか》き|乙女《をとめ》の|吾《われ》に
|夜《よる》はゆめ|昼《ひる》はうつつとこの|島《しま》に
|吾《われ》は|迷《まよ》へり|島《しま》の|白波《しらなみ》
|白波《しらなみ》の|打《う》ち|寄《よ》す|島《しま》に|吾《われ》ありて
|神《かみ》の|力《ちから》にのみぞすがるも』
|艶男《あでやか》は|弟姫神《おとひめがみ》の|側《そば》に|立《た》ちて|歌《うた》ふ。
『|今《いま》のさき|高《たか》き|教《をしへ》を|蒙《かうむ》りし
|吾《われ》は|艶男《あでやか》よわき|男子《をのこ》よ
ためしなき|今日《けふ》の|喜《よろこ》び|寿《ことほ》ぎて
|来《き》ませる|姫《ひめ》の|心《こころ》|畏《かしこ》き
とこしへにこの|島ケ根《しまがね》に|吾《われ》ありて
|国土《くに》ひらかむと|思《おも》ひ|定《さだ》めし
|白砂《しらすな》をしきまはしたり|清庭《すがには》に
|姫《ひめ》を|迎《むか》ふる|今日《けふ》ぞめでたき』
|海津見姫《わだつみひめ》の|神《かみ》は|之《これ》に|答《こた》へて、
『|千早振《ちはやぶ》る|神《かみ》もうべなひ|給《たま》ふべし
この|島ケ根《しまがね》の|喜《よろこ》びごとを
|竜神《たつがみ》や|魚族《うろくづ》たちも|今日《けふ》よりは
|身《み》もたましひも|安《やす》く|過《す》ぎなむ
|人間《にんげん》の|形《かたち》そなへし|竜神《たつがみ》も
いまだ|全《まつた》き|姿《すがた》にあらず
この|姿《すがた》|月日《つきひ》けみして|新《あら》たまり
まことの|人《ひと》と|生《うま》るる|日《ひ》|近《ちか》し
|国津神《くにつかみ》の|御水火《みいき》なければ|竜神《たつがみ》は
|如何《いか》で|生《うま》れむ|人《ひと》の|身体《むくろ》に
|何《なん》となく|今日《けふ》は|清《すが》しき|日《ひ》なりけり
|湖《うみ》の|底《そこ》ひも|明《あき》らかにして
|父神《ちちがみ》にこの|有様《ありさま》を|詳細《まつぶさ》に
|語《かた》らばさぞや|喜《よろこ》び|給《たま》はむ
|人間《にんげん》の|全《まつた》き|身《み》にしあらざれば
|生言霊《いくことたま》の|力《ちから》もおよばず
|艶男《あでやか》や|麗子《うららか》の|君《きみ》は|国津神《くにつかみ》
|生言霊《いくことたま》を|宣《の》らさせ|給《たま》へ』
ここに|人体《じんたい》を|全《まつた》く|備《そな》へたる|艶男《あでやか》|並《なら》びに|麗子《うららか》の|弟姫神《おとひめがみ》は、|海津見姫《わだつみひめ》の|神《かみ》の|先頭《せんとう》に|立《た》ち、|声《こゑ》も|朗《ほがら》かに|七十五声《しちじふごせい》の|生言霊《いくことたま》を|歌《うた》ふ。
『アオウエイ
カコクケキ
サソスセシ
タトツテチ
ナノヌネニ
ハホフヘヒ
マモムメミ
ヤヨユエイ
ラロルレリ
ワヲウヱヰ
ガゴグゲギ
ザゾズゼジ
ダドヅデヂ
バボブベビ
パポプペピ
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》|千万《ちよろづ》の|神《かみ》
|守《まも》らせ|給《たま》へ』
と|幾度《いくたび》となく|繰返《くりかへ》し|繰返《くりかへ》し、|大竜殿《だいりうでん》の|階段《かいだん》を|悠々《いういう》と|上《のぼ》り、|奥殿《おくでん》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》る。
|海津見姫《わだつみひめ》の|神《かみ》は|設《まう》けの|上段《じやうだん》の|席《せき》に|着《つ》き|給《たま》ひ、|稍《やや》|下《さが》つて|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》、|弟姫神《おとひめがみ》は|左右《さいう》に|侍《はべ》り、|其《その》|他《た》の|女神《めがみ》は|次《つ》ぎ|次《つ》ぎに|列《れつ》を|正《ただ》し、|数多《あまた》の|竜神《たつがみ》|魚族《うろくづ》まで|集《あつま》り|来《きた》り、「ウロウウロウ」と|今日《けふ》の|慶事《けいじ》を|祝《しゆく》し|合《あ》ひ、|諸々《もろもろ》の|珍味佳肴《ちんみかかう》に|舌鼓《したつづみ》を|打《う》ち、|殿内《でんない》もわるるばかりに|踊《をど》り|狂《くる》ひ|舞《ま》ふ。
|麗子《うららか》は|群集《ぐんしふ》の|中央《ちうあう》に|立《た》ち、|言霊歌《ことたまうた》をうたふ。
『|朝日《あさひ》|輝《かがや》く|夕日《ゆふひ》は|照《て》らふ
|輝《かがや》く|星《ほし》のかずかずも
|栄《さかえ》の|色《いろ》を|示《しめ》すなり
|七夕姫《たなばたひめ》の|天降《あも》りまして
|波《なみ》の|上《へ》に|浮《う》くこの|島《しま》を
|花《はな》|咲《さ》き|実《みの》る|天国《てんごく》と
|守《まも》らせ|開《ひら》かせ|給《たま》ひつつ
|八千代《やちよ》の|末《すゑ》に|到《いた》るまで
|楽土浄土《らくどじやうど》と|守《まも》らひつ
|稚《わか》き|国原《くにはら》まつぶさに
|開《ひら》かせ|給《たま》ふぞ|尊《たふと》けれ
|生命《いのち》の|清水《しみづ》|真清水《ましみづ》は
|貴《うづ》の|聖地《せいち》に|湧《わ》き|出《い》でて
|限《かぎ》り|知《し》られぬ|喜《よろこ》びに
|満《み》つるも|楽《たの》し|神《かみ》の|島《しま》
この|島ケ根《しまがね》は|昔《むかし》より
|黄金花《こがねはな》|咲《さ》く|国《くに》ときく
|黄金《こがね》の|花《はな》や|白銀《しろがね》の
|花《はな》|散《ち》る|後《あと》に|瑠璃《るり》や|〓〓《しやこ》
|珊瑚《さんご》、|瑪瑙《めなう》の|玉《たま》|実《みの》る
|真珠《しんじゆ》や|翡翠《ひすい》の|蕾《つぼみ》たわたわに
|揺《ゆ》るるも|楽《たの》し|神《かみ》の|島《しま》
|竜《たつ》の|都《みやこ》は|今日《けふ》よりは
|老《おい》と|若《わか》きのけぢめなく
いやますますに|栄《さか》ゆかむ
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》ますます|長《なが》くして
|世《よ》は|高砂《たかさご》の|松《まつ》のかげ
|鶴《つる》も|来《き》て|鳴《な》け|雁《かり》も|来《こ》よ
|山《やま》はみどりに|栄《さか》えませ
|海《うみ》もみどりにとこしへに
|百《もも》の|魚族《うろくづ》うみおほせ
うら|安国《やすくに》のうら|安《やす》く
|栄《さか》えはてなき|海原《うなばら》の
|国土《くに》とふ|国土《くに》を|引《ひ》きよせて
|竜宮《りうぐう》の|島《しま》の|誉《ほまれ》をば
いやとこしへにかがやかせ
ああ|惟神《かむながら》|神《かみ》の|子《こ》の
ここに|現《あらは》れ|来《こ》し|上《うへ》は
いやとこしへの|春夏《はるなつ》の
|花《はな》の|盛《さか》りを|見《み》るならむ
|踊《をど》れよ|踊《をど》れよ|歌《うた》へよ|歌《うた》へよ
|天地《てんち》の|柱《はしら》のゆるぐまで
|舞《ま》へよ|狂《くる》へよいつまでも
|一日二日《ひとひふたひ》はまだおろか
|七日七夜《なぬかななよ》も|引《ひ》きつづき
この|喜《よろこ》びをとこしへに
|祝《いは》ひ|歌《うた》へよ|祝《いは》ひ|歌《うた》へよ
|祝《いは》へよ|歌《うた》へよ|島《しま》の|子《こ》よ』
この|音頭《おんど》につれて|数万《すうまん》の|竜神《たつがみ》|魚族《うろくづ》は、|大竜殿《だいりうでん》の|内外《ないぐわい》に|満《み》ちあふれ|踊《をど》り|狂《くる》ふ|状《さま》、|天地《てんち》もゆるがむばかりの|盛況《せいきやう》なりき。
|海津見姫《わだつみひめ》の|神《かみ》は|次席《じせき》より|声《こゑ》さわやかに|歌《うた》ふ。
『|天晴《あは》れ|国晴《くには》れ|面白《おもしろ》や
この|島ケ根《しまがね》に|天地《あめつち》の
|恵《めぐみ》の|雨《あめ》は|降《ふ》りにけり
|百《もも》の|竜神《たつがみ》|魚族《うろくづ》も
|今日《けふ》の|吉《よ》き|日《ひ》の|吉《よ》き|時《とき》を
|千代《ちよ》のかためと|歌《うた》へかし
|歌《うた》ふもよろし|舞《ま》ふもよし
|踊《をど》るもうべよ|天地《あめつち》の
|開《ひら》けし|時《とき》ゆためしなき
この|喜《よろこ》びはこの|島《しま》の
|外《ほか》へはやらじと|寿《ほ》ぎ|奉《まつ》れ
|主《ス》の|神《かみ》の|御霊《みたま》に|生《な》りし|島《しま》ながら
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》|来《き》まさねば
まだ|浅《あさ》ましき|国津神《くにつかみ》の
|数《かず》にも|入《い》らぬ|竜体《りうたい》の
あはれはかなき|有様《ありさま》も
|艶男《あでやか》の|君《きみ》、|麗子《うららか》の|君《きみ》は
ここに|渡《わた》らせ|来《き》ませしなり
この|島ケ根《しまがね》もうき|立《た》ちて
まことの|国《くに》となりぬべし
|八尋《やひろ》の|殿《との》は|築《きづ》かれて
|碧瓦《へきぐわ》|赤壁《せきへき》|美《うるは》しけれど
|住《す》むもろもろの|身体《からたま》は
|未《ま》だ|全《まつた》きを|得《え》ざるなり
|今日《けふ》の|慶事《けいじ》に|相《あひ》つぎて
|艶男《あでやか》の|君《きみ》を|守《も》り|立《た》てて
|国津神等《くにつかみたち》|人種《ひとだね》を
|産《う》めよ|殖《ふや》せよ
|天《あめ》の|真砂《まさご》のかずのごと
|御空《みそら》の|星《ほし》にくらぶべく
|産《う》めよ|殖《ふや》せよとこしへに』
|斯《か》く|歌《うた》ひて|元《もと》の|座《ざ》に|着《つ》き|給《たま》ふ。|数多《あまた》の|竜神等《たつがみたち》はこの|御歌《みうた》に|歓《ゑら》ぎ|喜《よろこ》び、|吾《われ》を|忘《わす》れて|舞《ま》ひ|狂《くる》ふ。ここに|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》はすつくと|座《ざ》を|立《た》ち、|群集《ぐんしふ》の|中《なか》に|進《すす》み|出《い》で、|声《こゑ》も|朗《ほがら》かに|歌《うた》ふ。
『|久方《ひさかた》の|空《そら》は|晴《は》れたり|荒金《あらがね》の
|地《つち》は|開《ひら》けり|天津日《あまつひ》は
|射照《いて》り|透《とほ》らひ|月読《つきよみ》は
この|島ケ根《しまがね》を|隈《くま》もなく
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|降《くだ》しまし
|御空《みそら》の|星《ほし》は|真砂《まさご》の|如《ごと》く
|各自《おのもおのも》にかがやきて
|今日《けふ》のよろこび|祝《いは》ふなり
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》もやはらかに
|百津《ゆつ》|桂木《かつらぎ》のかげ|清《きよ》く
|小鳥《ことり》は|歌《うた》ひ|蝶《てふ》は|舞《ま》ひ
|草葉《くさば》にすだく|虫《むし》の|音《ね》も
いやさやさやに|聞《きこ》ゆなり
ああ|天国《てんごく》は|生《うま》れけり
|蓬莱島《ほうらいじま》は|現《あらは》れぬ
|吾《われ》は|今日《けふ》よりこの|島《しま》に
|神《かみ》の|御種《みたね》を|産《う》み|殖《ふや》し
|住《す》む|竜神《たつがみ》や|諸々《もろもろ》の
|家族親族《うからやから》を|安《やす》らかに
|守《まも》り|生《い》かさむ|惟神《かむながら》
|喜《よろこ》び|勇《いさ》めこの|殿《との》の
|内外《うちと》に|集《つど》ふ|諸々《もろもろ》よ
|歌《うた》へよ|舞《ま》へよ|踊《をど》れよ|狂《くる》へ
|大地《だいち》の|底《そこ》のぬけるまで』
と|歌《うた》へば、|百《もも》の|竜神《たつがみ》|魚族等《うろくづたち》は、|今日限《けふかぎ》りとばかり|右往左往《うわうさわう》に|舞《ま》ひ|狂《くる》ふ。
|麗子姫《うららかひめ》は|弟姫神《おとひめがみ》の|資格《しかく》にて、|姿勢《しせい》|正《ただ》しく|階上《かいじやう》より|歌《うた》ふ。
『|葭原《よしはら》の|国土《くに》の|真秀良場《まほらば》|水上《みなかみ》の
|山《やま》の|麓《ふもと》に|現《あ》れませる
|国《くに》の|御祖《みおや》の|大神《おほかみ》の
|御子《みこ》と|生《うま》れて|十七《じふしち》の
|春《はる》を|迎《むか》へし|吾《われ》なるぞ
|神《かみ》の|経綸《しぐみ》の|幸《さち》はひに
|吾《われ》は|思《おも》はずこの|島《しま》に
|渡《わた》らひ|来《きた》り|竜宮《りうぐう》の
|王《こきし》となりて|神《かみ》の|世《よ》を
|造《つく》り|固《かた》むる|身《み》となりぬ
|汝《なれ》|竜神《たつがみ》よ|魚族《うろくづ》よ
この|島ケ根《しまがね》も|今日《けふ》よりは
|樛《つが》の|木《き》のいやつぎつぎに|栄《さか》えつつ
|八千代《やちよ》の|椿《つばき》うどんげの
|花《はな》も|時《とき》じく|香《かを》るべし
|喜《よろこ》び|勇《いさ》め|諸々《もろもろ》よ』
と|簡単《かんたん》に|歌《うた》ひ|終《をは》り、|元《もと》の|席《せき》に|着《つ》く。
(昭和九・七・一七 旧六・六 於関東別院南風閣 谷前清子謹録)
第一〇章 |祝賀《しゆくが》の|宴《えん》(二)〔一九九一〕
ここに|大竜殿《だいりうでん》の|侍女神《じぢよしん》たる|女神《めがみ》たちは、こもごも|立《た》ちて|祝歌《しゆくか》をうたふ。
|白萩《しらはぎ》の|歌《うた》。
『|永久《とこしへ》に|淋《さび》しき|島根《しまね》と|思《おも》ひきや
|花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|御代《みよ》は|来《きた》れり
|伊吹山《いぶきやま》|斜面《なぞへ》に|匂《にほ》ふ|白萩《しらはぎ》も
|今日《けふ》は|恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|浴《あ》び|居《を》り
|山風《やまかぜ》に|吹《ふ》きたたかれて|悩《なや》みてし
われ|白萩《しらはぎ》も|匂《にほ》ひ|初《そ》めたり
|竜神《たつがみ》の|群《むれ》に|加《くは》はるわれにして
|国津御神《くにつみかみ》のやさ|姿《すがた》|見《み》し
|言霊《ことたま》の|貴《うづ》の|功《いさを》を|悟《さと》りけり
この|島ケ根《しまがね》に|光《ひかり》|添《そ》ふれば』
|桔梗《ききやう》は|歌《うた》ふ。
『|桔梗《きちかう》の|花《はな》も|漸《やうや》く|咲《さ》き|初《そ》めぬ
|国津御神《くにつみかみ》の|貴《うづ》の|伊吹《いぶき》に
|桔梗《きちかう》の|花《はな》は|淋《さび》しく|匂《にほ》ひつつ
|今日《けふ》が|日《ひ》までも|風《かぜ》にもまれし
|今日《けふ》よりは|伊吹山《いぶきやま》|吹《ふ》く|風《かぜ》の|音《ね》も
いとさやさやに|響《ひび》き|渡《わた》らむ
|紫《むらさき》の|花《はな》をかざして|島ケ根《しまがね》に
|君《きみ》|待《ま》つことの|久《ひさ》しかりしよ
|開《ひら》けゆく|島《しま》の|行末《ゆくすゑ》|思《おも》ひつつ
わが|雄心《をごころ》はわきたちにけり
そよと|吹《ふ》く|風《かぜ》にもゆるる|身《み》ながらに
|今日《けふ》は|雄々《をを》しく|心《こころ》ときめく
|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|面《おも》ざし|伏《ふ》し|拝《をが》み
|露《つゆ》の|生命《いのち》を|惜《を》しまじと|思《おも》ふ
|島ケ根《しまがね》にわれは|久《ひさ》しく|生《お》ひたちて
|今日《けふ》の|喜《よろこ》びにあふは|嬉《うれ》しき』
|山吹《やまぶき》は|歌《うた》ふ。
『|竜神《たつがみ》の|島根《しまね》に|生《お》ふる|山吹《やまぶき》の
|花《はな》は|笑《わら》へり|梢《うれ》は|踊《をど》れり
|山吹《やまぶき》の|黄色《きいろ》き|花《はな》も|喜《よろこ》びの
|宴《うたげ》の|酒《さけ》に|面《おも》ほてりける
|清々《すがすが》し|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|御姿《みすがた》は
|伊吹《いぶき》の|山《やま》を|出《い》づる|月《つき》かも
|竜宮《りうぐう》の|王《こきし》と|現《あ》れし|弟姫神《おとひめがみ》の
|貴《うづ》の|姿《すがた》を|見《み》ればさやけし
|久方《ひさかた》の|天津国《あまつくに》より|降《くだ》りたる
|女神《めがみ》と|仰《あふ》ぎ|仕《つか》へまつらむ
|何《なん》となく|心《こころ》|楽《たの》しくなりにけり
|麗子《うららか》の|君《きみ》|天降《あも》りましてゆ
|天津日《あまつひ》はあざやかに|照《て》り|百花《ももばな》は
うららかに|咲《さ》く|島根《しまね》となりぬ
|池《いけ》の|面《も》にしだれて|匂《にほ》ふ|山吹《やまぶき》の
|花《はな》も|真直《ますぐ》に|匂《にほ》ふ|今日《けふ》かな
|水鏡《みづかがみ》|見《み》つつ|思《おも》ふも|山吹《やまぶき》の
|花《はな》の|姿《すがた》も|今日《けふ》はさやけし
|打《う》ち|仰《あふ》ぐ|鏡《かがみ》の|湖《うみ》の|水門《みなと》あけて
あはれ|姫神《ひめがみ》|現《あ》れましにけり
|姫神《ひめがみ》は|湖《うみ》の|底《そこ》よりあれませし
|今日《けふ》のめでたき|日《ひ》がらに|生《い》くるも』
|撫子《なでしこ》は|歌《うた》ふ。
『|竜神《たつがみ》の|永遠《とは》に|住《す》みてしこの|島《しま》に
|若撫子《わかなでしこ》のゑらぐ|日《ひ》は|来《き》ぬ
|撫子《なでしこ》のか|弱《よわ》き|身《み》にも|天地《あめつち》の
|恵《めぐ》みの|露《つゆ》にうるほふ|今日《けふ》かな
|皇神《すめかみ》の|清《きよ》き|御手《みて》もて|撫子《なでしこ》の
わが|身《み》|嬉《うれ》しき|今日《けふ》なりにけり
|永久《とこしへ》に|今日《けふ》の|喜《よろこ》び|続《つづ》けかしと
|撫子《なでしこ》われは|天《あめ》に|祈《いの》るも
|山風《やまかぜ》に|吹《ふ》きまくられてなやみてし
|撫子《なでしこ》われは|蘇《よみがへ》りける
|魚族《うろくづ》も|勇《いさ》み|喜《よろこ》びこのにはに
|伊寄《いよ》り|集《つど》ひて|祝《ほ》ぎごと|宣《の》るも
|愛《めづ》らしき|魚族《うろくづ》たちも|撫子《なでしこ》も
|今日《けふ》は|勇《いさ》みてあぎとひ|拝《をろが》む』
|女郎花《をみなへし》は|歌《うた》ふ。
『|女郎花《をみなへし》ばかり|住《す》まへるこの|島《しま》に
|男《を》の|子《こ》|艶男《あでやか》|渡《わた》り|来《き》ませり
|野《の》に|匂《にほ》ふ|女郎花《をみなへし》なれど|天津風《あまつかぜ》
|吹《ふ》きのよろしき|今日《けふ》は|楽《たの》しも
|伊吹山《いぶきやま》|尾根《をね》に|麓《ふもと》に|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
|花《はな》も|喜《よろこ》び|歓《ゑら》ぐ|今日《けふ》かな
|天津風《あまつかぜ》|吹《ふ》きのよろしき|今日《けふ》の|日《ひ》に
|心《こころ》|清《すが》しく|祝《ほ》ぎ|言《ごと》|宣《の》るも
なよ|草《ぐさ》のわれにあれども|彦神《ひこがみ》の
|水火《いき》のかかれば|雄々《をを》しくならむ
|雄々《をを》しかる|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|御姿《おんすがた》
|見《み》つつふるへり|伊吹《いぶき》の|裾野《すその》に
|花《はな》のかげうつして|清《きよ》き|鏡湖《かがみこ》の
|底《そこ》より|出《い》でし|姫神《ひめがみ》あはれ
|水上山《みなかみやま》|館《やかた》にいませし|美《うま》し|神《かみ》
|尊《たふと》き|神《かみ》は|来《きた》りましけり
|水上《みなかみ》の|山《やま》に|栄《さか》えし|君《きみ》と|聞《き》けば
われ|一入《ひとしほ》に|懐《なつ》かしきかも
|山風《やまかぜ》に|吹《ふ》きあふられてなよ|草《ぐさ》の
|花《はな》|恥《はづ》かしきわれなりにけり
|思《おも》はずも|嬉《うれ》しさ|余《あま》りて|恋心《こひごころ》
|歌《うた》ひしわれは|恥《はづ》かしきかな』
|椿《つばき》は|歌《うた》ふ。
『|百津桂《ゆつかつら》|処《ところ》せきまで|生《お》ひたてる
|島根《しまね》も|今日《けふ》よりひらけ|初《そ》めたり
|桂木《かつらぎ》の|椿《つばき》の|花《はな》も|今日《けふ》よりは
|紅《くれなゐ》まして|永久《とは》に|栄《さか》えむ
|紅《くれなゐ》の|花《はな》|咲《さ》く|椿《つばき》の|梢《こずゑ》まで
|恵《めぐ》みの|露《つゆ》に|輝《かがや》く|今日《けふ》かな
|永久《とこしへ》の|御代《みよ》の|固《かた》めと|大殿《おほとの》に
|祝《ほ》ぎ|言《ごと》|宣《の》らす|神《かみ》はかしこし
|竜神《たつがみ》も|常世《とこよ》の|春《はる》にあひ|初《そ》めて
|開《ひら》き|初《そ》めたり|心《こころ》の|花《はな》の|香《か》
|玉椿《たまつばき》の|八千代《やちよ》までもと|祈《いの》るかな
|君《きみ》の|嫁《とつ》ぎの|華《はな》やかなるを
|足引《あしびき》の|山《やま》より|湖《うみ》より|現《あ》れましし
|神《かみ》の|御姿《みすがた》|雄々《をを》しかりける
|八千代《やちよ》までと|契《ちぎ》る|言葉《ことば》の|玉椿《たまつばき》
|栄《さか》え|果《は》てなくおはしましませ
この|島《しま》に|国津神《くにつかみ》たち|渡《わた》りまして
|今日《けふ》の|喜《よろこ》びひらかせ|給《たま》へり
|神津代《かみつよ》の|竜神《たつがみ》たちも|聞《き》かざりし
|喜《よろこ》びごとを|聞《き》くは|嬉《うれ》しき
|雄々《をを》しくてやさしくいます|弟姫《おとひめ》の
|神《かみ》にならひてわれも|尽《つく》さむ』
|白菊《しらぎく》は|歌《うた》ふ。
『|昔《むかし》よりかかる|例《ためし》もしらぎくの
|花《はな》かむばしき|御代《みよ》となりぬる
|白菊《しらぎく》の|花《はな》にもまして|床《ゆか》しかる
|国津神等《くにつかみら》のかをる|島ケ根《しまがね》
あでやかに|匂《にほ》へる|花《はな》の|君《きみ》なれば
|竜神《たつがみ》たちのゑらぐもうべなり
うららかに|笑《ゑ》み|栄《さか》えたる|花《はな》の|君《きみ》を
|慕《した》ひまつりて|百神《ももがみ》|集《つど》へり
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|喜《よろこ》び|如何《いか》ばかり
われはしら|菊《ぎく》はかりかねつつ
|曲玉《まがたま》の|池《いけ》の|真清水《ましみづ》|掬《く》む|朝《あさ》に
わが|見染《みそ》めてし|艶男《あでやか》の|君《きみ》よ
|艶男《あでやか》の|君《きみ》のかむばせ|伏《ふ》し|拝《をが》み
|白菊《しらぎく》われは|露《つゆ》にうるほふ
|水底《みなそこ》に|写《うつ》り|給《たま》ひし|艶男《あでやか》の
|君《きみ》の|姿《すがた》にあこがれしはや
|水《みづ》|清《きよ》き|泉《いづみ》に|写《うつ》りし|君《きみ》が|面《おも》は
|白菊《しらぎく》の|艶《つや》も|及《およ》ばざりしよ
|祝《ほ》ぎ|言《ごと》を|宣《の》るべき|蓆《むしろ》にたちながら
|恥《はづ》かしきかも|恋歌《こひか》となりぬ
|湖原《うなばら》に|浮《うか》べる|島《しま》の|清庭《すがには》に
|清《すが》しき|君《きみ》を|見染《みそ》めてしかな』
|山菊《やまぎく》は|歌《うた》ふ。
『|山菊《やまぎく》の|名《な》を|負《お》ふわれは|一入《ひとしほ》に
|水上《みなかみ》の|山《やま》の|御子《みこ》にあこがる
|今日《けふ》の|日《ひ》の|喜《よろこ》びなくば|山菊《やまぎく》も
|君《きみ》にまみゆる|幸《さち》はあらまじ
|麗子《うららか》の|姫《ひめ》の|嫁《とつ》ぎを|寿《ことほ》ぐか
|天津日光《あまつひかげ》はうららかに|照《て》るも
|昔《むかし》より|例《ためし》もあらぬ|喜《よろこ》びに
あふぞ|嬉《うれ》しき|山菊《やまぎく》のわれ
|伊吹山《いぶきやま》|尾根《をね》|吹《ふ》く|風《かぜ》に|靡《なび》きてし
われは|果敢《はか》なく|露《つゆ》にくづれつ
|山風《やまかぜ》に|吹《ふ》きまくられしわが|身《み》なれど
|雄々《をを》しく|清《すが》しく|今日《けふ》より|生《い》きむ』
|石竹《せきちく》は|歌《うた》ふ。
『なよ|草《ぐさ》のわれは|女神《めがみ》の|身《み》なれども
|花《はな》の|心《こころ》は|雄々《をを》しかりける
ありがたき|御代《みよ》は|来《きた》れりなよ|草《ぐさ》の
われにも|恵《めぐ》みの|露《つゆ》を|賜《たま》へり
|竜神《たつがみ》の|島《しま》の|道辺《みちべ》に|生《お》ひ|茂《しげ》る
|花《はな》のかげにも|月日《つきひ》は|照《て》らふ
|月《つき》と|日《ひ》の|恵《めぐ》みの|露《つゆ》を|浴《あ》びながら
われははつかに|花《はな》と|匂《にほ》へり
|今日《けふ》よりは|尊《たふと》き|神《かみ》の|出《い》でましに
|竜《たつ》の|島根《しまね》は|栄《さか》えゆくらむ
|草《くさ》の|根《ね》にひそみてすだく|虫《むし》の|音《ね》も
|等《ひと》しく|清《きよ》く|今日《けふ》は|聞《きこ》ゆる
|波《なみ》の|上《へ》に|清《きよ》く|浮《うか》べるこの|島《しま》を
|心安国《うらやすくに》と|開《ひら》く|今日《けふ》かも
|麗《うるは》しき|御子《みこ》の|出《い》でまし|寿《ことほ》ぎて
|今日《けふ》の|宴《うたげ》のにぎはひにける
なよ|草《ぐさ》のわれも|雄々《をを》しく|勇《いさ》ましく
|今日《けふ》のよき|日《ひ》をうたふ|楽《たの》しさ
|神々《かみがみ》の|歌《うた》の|言葉《ことば》にひかされて
|思《おも》はず|知《し》らず|踊《をど》りけるかな
|山《やま》も|野《の》も|大湖原《おほうなばら》も|清《きよ》らけく
|澄《す》みきらひたる|今日《けふ》のよき|日《ひ》よ
|魚族《うろくづ》も|今日《けふ》のよき|日《ひ》を|寿《ことほ》ぎて
|湖《うみ》の|底《そこ》より|浮《うか》び|出《で》にけり
|大魚小魚《おほなさな》|波《なみ》の|面《おもて》にあぎとひて
|御代《みよ》の|栄《さか》えを|祝《いは》ふ|今日《けふ》かな
|竜神《たつがみ》の|数《かず》の|限《かぎ》りを|呼《よ》び|集《つど》へ
|宴《うたげ》の|蓆《むしろ》に|招《まね》かす|君《きみ》はも
|一柱《ひとはしら》も|洩《も》れおつるなく|大殿《おほとの》に
|伊寄《いよ》り|集《つど》ひて|御代《みよ》を|寿《ことほ》ぐ』
|雛罌粟《ひなげし》は|歌《うた》ふ。
『|雛罌粟《ひなげし》の|吾《われ》はか|弱《よわ》き|女神《めがみ》なり
いざたち|舞《ま》はむ|今日《けふ》の|宴《うたげ》に
|雛罌粟《ひなげし》の|花《はな》にも|似《に》たる|弱《よわ》きわれの
|心《こころ》をたたす|今日《けふ》の|喜《よろこ》び
|喜《よろこ》びは|外《ほか》へはやらじ|雛罌粟《ひなげし》の
|弱《よわ》き|力《ちから》のあらむ|限《かぎ》りは
|波《なみ》たてど|嵐《あらし》は|吹《ふ》けど|今日《けふ》よりは
|何《なに》か|怖《おそ》れむ|雛罌粟《ひなげし》われは
|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》|現《あ》れますと|聞《き》きしより
|今日《けふ》のよき|日《ひ》を|待《ま》ちわびにける
|艶男《あでやか》の|君《きみ》は|来《き》ませり|弟姫《おとひめ》の
|神《かみ》|輝《かがや》けり|竜《たつ》の|島根《しまね》に』
|菖蒲《あやめ》は|歌《うた》ふ。
『|深霧《ふかぎり》に|包《つつ》まれあやめも|分《わ》かぬ|島《しま》も
|月日《つきひ》|照《て》らひて|安国《やすくに》となりぬ
|汀辺《みぎはべ》に|紫匂《むらさきにほ》ふあやめ|草《ぐさ》も
|今日《けふ》は|恵《めぐ》みの|露《つゆ》に|親《した》しむ
|潺々《せんせん》と|流《なが》るる|水《みづ》に|影《かげ》|写《うつ》す
あやめの|花《はな》は|咲《さ》き|初《そ》めにけり
|時《とき》じくに|匂《にほ》ふあやめの|紫《むらさき》も
|今日《けふ》のよき|日《ひ》に|色《いろ》|優《まさ》るらむ
|果《は》てしなき|御代《みよ》の|幸《さち》はひ|思《おも》ふより
わが|魂《たましひ》は|飛《と》びたちにけり』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『|水《みづ》|清《きよ》き|川辺《かはべ》に|匂《にほ》ふ|燕子花《かきつばた》
|捧《ささ》げまつらむ|今日《けふ》のよき|日《ひ》に
|水《みづ》|清《きよ》きこの|島ケ根《しまがね》は|永久《とこしへ》に
|喜《よろこ》び|満《み》てよ|幸《さいはひ》あれよ
|海津見《わだつみ》の|姫《ひめ》の|現《あ》れます|今日《けふ》こそは
|天地《あめつち》ひらく|心地《ここち》こそすれ
|天地《あめつち》の|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|幸《さち》はひに
|今日《けふ》は|嬉《うれ》しき|宴《うたげ》にあふかな
|言霊《ことたま》の|伊照《いて》り|助《たす》くる|国《くに》ながら
|今日《けふ》|始《はじ》めての|御声《みこゑ》|聞《き》きたり
|万代《よろづよ》の|礎《いしずゑ》|固《かた》く|築《きづ》きまして
|永久《とは》にましませ|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》
|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|言霊《ことたま》|轟《とどろ》きて
|湖《うみ》の|底《そこ》までゆるぎ|初《そ》めたり
|果《は》てしなき|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|抱《いだ》かれて
われは|住《す》みなむこの|島ケ根《しまがね》に』
|桜木《さくらぎ》は|歌《うた》ふ。
『|桜木《さくらぎ》の|花《はな》|麗《うるは》しく|咲《さ》きぬべし
|言霊《ことたま》|宣《の》らす|神《かみ》のいませば
|山《やま》の|端《は》にうららに|匂《にほ》ふ|桜木《さくらぎ》の
|花《はな》を|手折《たを》りて|君《きみ》に|捧《ささ》げむ
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|御代《みよ》をば|寿《ことほ》ぎて
|朝陽《あさひ》にかをる|山桜花《やまざくらばな》
|夜嵐《よあらし》に|果敢《はか》なく|散《ち》らむ|桜花《さくらばな》も
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|千代《ちよ》を|保《たも》たむ
|名《な》にし|負《お》ふ|大和心《やまとごころ》の|桜花《さくらばな》
かざりて|君《きみ》の|御前《みまへ》を|祝《いは》はむ』
この|外《ほか》、|竜神《たつがみ》たちの|百《もも》の|祝《ほ》ぎ|歌《うた》|数多《あまた》あれども、|余《あま》りくだくだしければ、はぶくこととはなしぬ。
(昭和九・七・一七 旧六・六 於関東別院南風閣 林弥生謹録)
第一一章 |瀑下《ばくか》の|乙女《をとめ》〔一九九二〕
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は、|水上山《みなかみやま》の|聖場《せいぢやう》より、はろばろ|波《なみ》の|秀《ほ》を|踏《ふ》み|渡《わた》り|来《きた》りし|御祖《みおや》の|神《かみ》の|御子《みこ》|艶男《あでやか》を|優遇《いうぐう》せむと、|種々《しゆじゆ》|焦慮《せうりよ》の|結果《けつくわ》、|竜宮島《りうぐうじま》|第一《だいいち》の|景勝地《けいしようち》たる|鏡湖《かがみこ》の|下方《かはう》、|琴滝《ことだき》を|庭園《ていゑん》に|取《と》り|入《い》れ、|大峡小峡《おほがひをがひ》の|木材《もくざい》を|伐《き》り|集《あつ》め、|碧瓦《へきぐわ》|赤壁《せきへき》の|寝殿《しんでん》を|造《つく》り、|此処《ここ》に|住《す》まはす|事《こと》となりぬ。|琴滝《ことだき》は|鏡湖《かがみこ》の|水《みづ》を|集《あつ》めて、ここに|千丈《せんぢやう》の|広布《ひろぬの》を|掛《か》けし|如《ごと》く、|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なく|琴《こと》の|音《ね》を|響《ひび》かせ、その|荘厳《さうごん》|雄大《ゆうだい》なること|言語《げんご》に|絶《ぜつ》するばかりなりける。
|艶男《あでやか》は|朝《あさ》な|夕《ゆふ》な|此《この》|寝殿《しんでん》に、|天津祝詞《あまつのりと》や|生言霊《いくことたま》を|奏上《そうじやう》して、|竜《たつ》の|島根《しまね》の|開発《かいはつ》を|祈《いの》りつつありけるが、|数多《あまた》の|女神《めがみ》たちは、その|円満清朗《ゑんまんせいらう》なる|声《こゑ》にあこがれ、その|端麗《たんれい》なる|容姿《ようし》に|恋慕《れんぼ》して、この|寝殿《しんでん》の|広庭《ひろには》に|集《あつま》り|来《きた》り、|言霊《ことたま》の|練習《れんしふ》をかたはら|励《はげ》みつつ、|天国《てんごく》の|楽《たの》しみに|浸《ひた》りける。この|滝《たき》の|落《お》つる|清泉《せいせん》を|剣《つるぎ》の|池《いけ》と|称《とな》ふ。
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|宣《の》り|上《あ》ぐる|言霊《ことたま》の|力《ちから》によりて、|地《ち》の|面《おも》に|散在《さんざい》する|巨巌《きよがん》は、|忽《たちま》ち|瑪瑙《めなう》と|変《へん》じ、|滝《たき》のしぶきに|漏《ぬ》れし|面《おも》を|日光《につくわう》|映《えい》じて、|得《え》も|言《い》はれぬ|光沢《くわうたく》を|放《はな》ちたり。
|艶男《あでやか》は|欄干《おばしま》に|立《た》ちて|歌《うた》ふ。
『|鏡《かがみ》の|湖《うみ》の|真清水《ましみづ》を
|此処《ここ》にうつして|落《お》ちたぎつ
この|琴滝《ことだき》のいさましさ
|天《あま》の|河原《かはら》の|落《お》つるかと
|思《おも》ふばかりの|光景《くわうけい》ぞ
われは|朝夕《あさゆふ》この|滝《たき》の
|珍《うづ》の|水音《みなおと》|聞《き》きながら
|心《こころ》|清《すが》しく|洗《あら》ふなり
|神《かみ》の|賜《たま》ひし|言霊《ことたま》の
|水火《いき》を|清《きよ》めて|鳴《な》り|渡《わた》る
これの|住処《すみか》のさわやかさ
|天《てん》にも|地《ち》にもかくの|如《ごと》
|清《きよ》く|楽《たの》しき|清《すが》どころ
|他《ほか》にはあらじと|夜《よ》な|夜《よ》なを
|眠《ねむ》らず|起《お》き|居《ゐ》て|見《み》つ|聞《き》きつ
|常世《とこよ》の|春《はる》を|歓《ゑら》ぐなり
|泉《いづみ》の|面《おも》を|眺《なが》むれば
|大魚《おほな》や|小魚《さな》は|群《むら》がりて
|夜《よる》は|波間《なみま》にあぎとひつ
|天地《てんち》の|恵《めぐみ》を|仰《あふ》ぐなり
ああ|天国《てんごく》か|楽園《らくゑん》か
|竜宮《りうぐう》の|島根《しまね》かしら|滝《たき》の
|漲《みなぎ》り|落《お》つる|水音《みなおと》は
|天地《てんち》の|神《かみ》の|御声《みこゑ》かも
ああ|面白《おもしろ》やたのもしや
|百年千年《ももとせちとせ》をながらへて
これの|清所《すがど》に|永久《とこしへ》の
|生《い》きの|生命《いのち》を|楽《たの》しまむ
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》
|千万神《ちよろづがみ》たち|守《まも》らせ|給《たま》へ』
|斯《か》かる|折《をり》しも|鶏鳴《けいめい》|暁《あかつき》を|告《つ》げて、|翼《つばさ》の|白《しろ》き|鵲《かささぎ》は、|剣《つるぎ》の|池《いけ》のほとりに|群《む》れ|来《きた》り、|清殿《きよどの》の|屋上《をくじやう》にカーカーと|啼《な》き|狂《くる》ふ。
|湖《うみ》の|白鳥《はくてう》は、|何時《いつ》の|間《ま》にか|剣《つるぎ》の|池《いけ》に|集《あつま》り|来《きた》り、|艶男《あでやか》が|言霊《ことたま》を|聞《き》かむとするものの|如《ごと》く|見《み》えにける。
ほのぼのと|明《あ》けはなれたる|庭《には》の|面《も》をよく|見《み》れば、|竜宮城《りうぐうじやう》に|仕《つか》へたる|数多《あまた》の|乙女《をとめ》の|中《なか》に、|眉目形《みめかたち》|優《すぐ》れたる|七乙女《ななをとめ》が、|池《いけ》の|面《おも》に|向《むか》ひて|合掌《がつしやう》し、|何事《なにごと》かしきりに|祈《いの》り|居《ゐ》る。
|艶男《あでやか》は|欄干《おばしま》に|立《た》ちて|此《こ》の|光景《くわうけい》を|眺《なが》めながら、
『|烏羽玉《うばたま》の|夜《よ》は|明《あ》けにけりわが|庭《には》の
|池《いけ》の|面《も》|清《きよ》く|乙女《をとめ》|立《た》たせり
よく|見《み》れば|七人乙女《ななたりをとめ》の|優姿《やさすがた》
|何《なに》を|祈《いの》るか|聞《き》かまほしけれ』
|此《こ》の|七乙女《ななをとめ》は、|白萩《しらはぎ》、|白菊《しらぎく》、|女郎花《をみなへし》、|燕子花《かきつばた》、|菖蒲《あやめ》、|撫子《なでしこ》、|藤袴《ふぢばかま》と|言《い》へる|侍女神《じぢよしん》なりける。
|白萩《しらはぎ》は|歌《うた》ふ。
『うるはしき|君《きみ》の|御声《みこゑ》にひかれつつ
|思《おも》はず|知《し》らず|此処《ここ》に|来《き》つるも
|御姿《みすがた》を|見《み》るにつけても|魂《たま》|勇《いさ》み
|生《い》きの|生命《いのち》の|栄《さか》えこそすれ
|滝津瀬《たきつせ》の|音《おと》にまぎれぬ|言霊《ことたま》の
|君《きみ》の|力《ちから》の|大《おほ》いなるかな
|夜《よ》な|夜《よ》なを|夢《ゆめ》に|現《うつつ》に|汝《な》が|面《おもて》
わが|目《め》に|浮《う》きて|眠《ねむ》らえぬかな
せめてもの|思《おも》ひ|晴《は》らすとわれは|今《いま》
|剣《つるぎ》の|池《いけ》の|清水《しみづ》|掬《むす》ぶも
|此《この》|水《みづ》は|生命《いのち》の|清水《しみづ》|真清水《ましみづ》よ
|汝《な》が|目《め》にふれし|生命《いのち》の|水《みづ》よ
|此処《ここ》に|来《き》て|恋《こひ》てふものを|悟《さと》りけり
われも|女神《めがみ》の|数《かず》にしあれば
|朝夕《あさゆふ》に|宣《の》らす|言霊《ことたま》|響《ひび》かひて
わが|胸先《むなさき》は|高鳴《たかな》りにけり』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『いたづきに|悩《なや》むわれなり|真心《まごころ》の
|君《きみ》に|報《むく》ゆる|術《すべ》なきを|恥《は》づ』
|白萩《しらはぎ》は|歌《うた》ふ。
『いたづきの|身《み》におはすとも|何《なに》かあらむ
|君《きみ》の|言霊《ことたま》にわが|心《こころ》|満《み》てり』
|白菊《しらぎく》は|歌《うた》ふ。
『いたづきておはすかわれはしら|菊《ぎく》の
|恋《こひ》しきままに|朝《あさ》を|来《き》にけり
わが|心《こころ》|剣《つるぎ》の|池《いけ》の|真清水《ましみづ》と
|澄《す》みきらひつつ|君《きみ》をおもふも
|恋《こひ》しさの|綱《つな》にひかれて|朝《あさ》まだき
|君《きみ》の|住《す》まへる|側《そば》|近《ちか》く|来《き》つ
|御声《おんこゑ》を|聞《き》くにつけても|勇《いさ》ましく
わが|魂《たましひ》は|蘇《よみがへ》るなり
|白妙《しろたへ》の|衣《ころも》まとひし|汝《な》が|君《きみ》の
|御装《おんよそほ》ひはめでたかりける
|時《とき》じくに|言霊《ことたま》|放《はな》つ|琴滝《ことだき》の
それにも|増《ま》して|清《きよ》き|君《きみ》はも
わが|願《ねがひ》よし|叶《かな》はずも|君許《きみがり》に
ありて|御声《みこゑ》を|聞《き》かば|嬉《うれ》しき
|白菊《しらぎく》は|山野《やまの》に|匂《にほ》へば|艶人《あでびと》の
|御手《みて》に|手折《たを》らるよすがさへなし
|野《の》に|匂《にほ》ふ|白菊《しらぎく》の|花《はな》も|御恵《みめぐみ》の
つゆにしあへばうなだれにつつ
|一度《ひとたび》の|露《つゆ》の|情《なさけ》を|浴《あ》びむとて
|滝《たき》の|麓《ふもと》にわれは|来《き》つるも
|白菊《しらぎく》の|花《はな》は|優《やさ》しと|思召《おぼしめ》せ
|情《なさけ》のつゆによみがへる|身《み》よ』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『いとこやの|乙女《をとめ》の|姿《すがた》たしたしに
われは|眺《なが》めつ|心《こころ》ときめく
|優《やさ》しかる|七乙女《ななをとめ》らの|御姿《おんすがた》
さやけかりけり|麗《うるは》しかりけり
|此《この》|島《しま》に|渡《わた》り|来《き》てよりめづらしき
ものを|見《み》る|哉《かな》まなかひ|清《きよ》く
|珍《めづら》しきものの|中《なか》にもとりわけて
|愛《めづ》らしきかな|七乙女《ななをとめ》たち
|水中《すいちう》の|月《つき》に|等《ひと》しきわれなれば
|汝《なれ》が|優《やさ》しきかげを|見《み》るのみ』
|女郎花《をみなへし》は|歌《うた》ふ。
『|剣池《つるぎいけ》|底《そこ》の|真砂《まさご》もたしたしに
|見《み》ゆる|清《すが》しき|君《きみ》にもあるかな
あこがれの|心《こころ》おさへて|夜《よ》な|夜《よ》なを
われは|涙《なみだ》に|袖《そで》を|濡《ぬ》らせり
|滝津瀬《たきつせ》のしぶきを|浴《あ》びてわが|袖《そで》は
|涙《なみだ》と|共《とも》に|濡《ぬ》れにけらしな
|一夜《ひとよ》さのつゆの|情《なさけ》をたまへかし
|伊吹《いぶき》の|裾野《すその》に|咲《さ》く|女郎花《をみなへし》よ
|巌《いは》を|噛《か》む|滝津瀬《たきつせ》の|音《おと》|高《たか》ければ
わが|言《こと》の|葉《は》も|消《き》えむとぞする
|悲《かな》しさをうたふ|心《こころ》を|打消《うちけ》して
|落《お》ちたぎつかも|琴滝《ことだき》の|音《おと》
|如何《いか》にしておもひの|丈《たけ》を|語《かた》らむと
|思《おも》ふも|詮《せん》なし|高《たか》き|滝《たき》の|音《ね》に
|剣池《つるぎいけ》の|泉《いづみ》を|隔《へだ》てて|欄干《おばしま》に
|立《た》たす|君《きみ》なりわれ|如何《いか》にせむ
|池水《いけみづ》の|深《ふか》き|心《こころ》を|悟《さと》れかし
|木石《ぼくせき》ならぬ|君《きみ》にあらずや
|君《きみ》おもふ|心《こころ》の|糸《いと》のもつれあひて
とく|術《すべ》もなき|小田巻《をだまき》の|吾《われ》』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|乙女《をとめ》らの|悲《かな》しき|心《こころ》|悟《さと》れども
われ|国津神《くにつかみ》|許《ゆる》させ|給《たま》へ
|千早振《ちはやぶ》る|神《かみ》に|誓《ちか》ひてわれは|今《いま》
|汝《なれ》をめぐしと|言挙《ことあ》げおくなり
さりながら|夜《よる》の|契《ちぎり》は|許《ゆる》せかし
|神《かみ》に|仕《つか》ふるわれは|艶男《あでやか》』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『|千万《ちよろづ》の|生言霊《いくことたま》を|宣《の》らすとも
われはひるまじ|寝《いね》ずばやまじ
|玉《たま》の|緒《を》のよしや|生命《いのち》は|亡《う》するとも
|一夜《いちや》の|枕《まくら》かはさで|止《や》むべき
|七乙女《ななをとめ》|悲《かな》しき|心《こころ》をよそにして
|君《きみ》は|捨《す》つるかわれらが|真心《まごころ》を
|世《よ》の|中《なか》に|情《なさけ》を|知《し》らぬ|男《を》の|子《こ》なれば
|鬼《おに》よ|魍魎《すだま》よ|魂《たま》なし|男《を》の|子《こ》よ
どこまでも|此《この》|真心《まごころ》の|届《とど》かねば
|鬼《おに》となりても|君《きみ》|悩《なや》まさむ
|悩《なや》ましの|心《こころ》|与《あた》へし|君《きみ》なれば
まことの|鬼《おに》の|姿《すがた》とぞ|思《おも》ふ
|君《きみ》よ|君《きみ》|如何《いか》に|怒《いか》らせ|給《たま》ふとも
われは|恐《おそ》れじ|飽《あ》くまで|恨《うら》みむ
|恨《うら》みわび|玉《たま》の|生命《いのち》は|捨《す》つるとも
わが|魂《たましひ》は|暫《しば》しも|離《はな》れじ
|君《きみ》なくばわれは|悩《なや》まし|朝宵《あさよひ》を
|玉《たま》の|生命《いのち》は|亡《う》せむとぞする
|悩《なや》ましさ|苦《くる》しさ|故《ゆゑ》に|朝《あさ》まだき
|御声《みこゑ》|聞《き》かむと|迷《まよ》ひ|来《き》つるも
|君《きみ》が|手《て》に|打《う》ち|叩《たた》かれて|罷《まか》るとも
われは|恨《うら》みじ|嘆《なげ》かじと|思《おも》ふ
いたづきの|身《み》なりと|宣《の》らす|言《こと》の|葉《は》を
われは|諾《うべな》ふ|弱《よわ》き|女《め》にあらず
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》をかけて|恋《こひ》したる
|君《きみ》の|生命《いのち》はわがものなるよ
あこがれて|只《ただ》いたづらに|亡《ほろ》ぶよりも
|汝《なれ》が|生命《いのち》をとりて|笑《ゑ》まむか
かくならば|最早《もはや》|厭《いと》はじ|人《ひと》の|目《め》も
|神《かみ》の|怒《いか》りもものの|数《かず》かは
|鬼《おに》となり|雷《いかづち》となり|魔《ま》となりて
|君《きみ》の|生命《いのち》を|奪《うば》はむと|思《おも》ふ』
|艶男《あでやか》は|燕子花《かきつばた》の|猛烈《まうれつ》なる|恋《こひ》に|稍《やや》|辟易《へきえき》しながら、|悄然《せうぜん》として|歌《うた》ふ。
『|思《おも》ひきや|此《この》|島ケ根《しまがね》にかくの|如《ごと》
|強《つよ》き|乙女《をとめ》の|雄猛《をたけ》び|聞《き》くとは
|見《み》も|知《し》らぬ|島《しま》に|渡《わた》りて|思《おも》はざる
|人《ひと》に|思《おも》はれ|苦《くる》しとおもふ
|如何程《いかほど》に|情《なさけ》の|言葉《ことば》|宣《の》らすとも
わが|心根《こころね》をかへじと|思《おも》ふ
わが|生命《いのち》|奪《うば》はるるとも|恨《うら》みまじ
|情《なさけ》のこもる|刃《やいば》と|思《おも》へば』
かく|歌《うた》ひながら、|艶男《あでやか》は|早《は》や|燕子花《かきつばた》の|猛烈《まうれつ》なる|恋愛《れんあい》に、|到底《たうてい》|反抗《はんかう》するの|勇気《ゆうき》なく、|彼《かれ》が|意《い》に|従《したが》ふべしとの|覚悟《かくご》を|極《きは》めて|居《ゐ》たりけるが、そしらぬ|体《てい》をよそほひて、
『|天地《あめつち》の|神《かみ》に|願《ねがひ》をかけし|後《のち》
われは|応《いら》へむ|暫《しば》しを|待《ま》たれよ』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『|御言葉《みことば》に|間違《まちが》ひなくばわれとても
|心《こころ》|安《やす》めて|時《とき》を|待《ま》たなむ』
|菖蒲《あやめ》は|歌《うた》ふ。
『|乙女等《をとめら》の|赤《あか》き|心《こころ》のかたまりて
|真砂《まさご》は|赤《あか》く|染《そ》まりけるかな
|赤玉《あかだま》の|光《ひかり》さやけき|君《きみ》|故《ゆゑ》に
|御池《みいけ》の|鯉《こひ》も|赤《あか》く|染《そ》まれり
|次々《つぎつぎ》に|赤《あか》くなりゆく|魚族《うろくづ》の
|色《いろ》に|見《み》えたりわれらが|真心《まごころ》
|池《いけ》の|辺《べ》に|匂《にほ》ふ|菖蒲《あやめ》の|紫《むらさき》を
|君《きみ》に|捧《ささ》げむ|受《う》けさせ|給《たま》へ
|水底《みなそこ》に|一本《ひともと》|生《お》ひし|白珊瑚《しろさんご》も
いやつぎつぎに|赤《あか》く|染《そ》まりぬ
|珍《めづら》しき|赤《あか》き|珊瑚《さんご》の|梢《こずゑ》には
|黄金《こがね》|白銀《しろがね》|真珠《しんじゆ》の|花《はな》|咲《さ》く
|水《みづ》の|面《も》に|枝《えだ》をさし|出《だ》し|珊瑚樹《さんごじゆ》は
|見《み》る|見《み》るうちに|空《そら》に|伸《の》び|行《ゆ》く
|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|心《こころ》のあらはれか
|乙女《をとめ》の|心《こころ》か|皆《みな》|赤《あか》くなりぬ
|汀辺《みぎはべ》の|瑪瑙《めなう》の|巌《いは》もつぎつぎに
|色《いろ》は|変《かは》りてわが|面《おも》うつせり
|昔《むかし》よりかかる|例《ためし》もあら|滝《たき》の
|落《お》ちこむ|庭《には》のめづらしき|哉《かな》
|及《およ》ばざる|恋《こひ》と|思《おも》へどわが|心《こころ》
あやめも|分《わ》かずなりにけりしな
|只一人《ただひとり》|君《きみ》に|語《かた》らふ|力《ちから》なく
|七人乙女《ななたりをとめ》さそひて|来《きた》れり
|恥《はづ》かしさ|恋《こひ》しさ|故《ゆゑ》にわれはただ
|言挙《ことあ》げもせず|黙《もだ》し|居《ゐ》たりき
かくなればわれは|恐《おそ》れじ|只《ただ》|君《きみ》の
めぐしと|宣《の》らす|御声《みこゑ》|聞《き》きたし
|御姿《おんすがた》|見《み》るにつけてもわが|胸《むね》の
|高鳴《たかな》り|止《や》まず|苦《くる》しき|朝《あさ》なり』
|撫子《なでしこ》は|歌《うた》ふ。
『|伊吹山《いぶきやま》|尾根《をね》に|麓《ふもと》に|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
|撫子《なでしこ》|今日《けふ》は|汀辺《みぎはべ》に|匂《にほ》ふ
|八尋殿《やひろどの》の|欄干《おばしま》に|立《た》たす|御姿《おんすがた》
|見《み》れば|清《すが》しも|白萩《しらはぎ》に|似《に》て
|生命《いのち》までかけて|恋《こひ》せし|乙女子《をとめご》の
|優《やさ》しき|心《こころ》を|君《きみ》は|捨《す》つるや
よしやよし|君《きみ》に|焦《こが》れて|罷《まか》るとも
われは|悔《くや》まじ|恨《うら》まじと|思《おも》ふ
|力《ちから》なく|淋《さび》しくふるふ|撫子《なでしこ》の
|君《きみ》が|御目《おんめ》にとまらぬ|悲《かな》しさ
|七乙女《ななをとめ》ここに|揃《そろ》ひて|恋《こひ》|語《かた》る
|悲《かな》しき|心《こころ》を|君《きみ》は|知《し》らずや
|世《よ》の|中《なか》に|情《なさけ》を|知《し》らぬ|益良男《ますらを》は
|鬼《おに》の|化身《けしん》か|悪魔《あくま》の|化身《けしん》か
|乙女《をとめ》らのいやなき|心《こころ》|聞《きこ》し|召《め》して
|怒《いか》らせ|給《たま》ふな|真心《まごころ》の|声《こゑ》よ』
|藤袴《ふぢばかま》は|歌《うた》ふ。
『|七乙女《ななをとめ》いやつぎつぎに|真心《まごころ》を
|述《の》ぶれど|君《きみ》は|木耳《きくらげ》の|耳《みみ》か
|見《み》るかげもなき|草花《くさばな》の|藤袴《ふぢばかま》
|君《きみ》にまみえむことの|恥《はづ》かしも
|花《はな》の|香《か》はあまり|見《み》えねど|藤袴《ふぢばかま》
|底《そこ》の|心《こころ》を|汲《く》ませ|給《たま》はれ
|朝夕《あさゆふ》を|峯《みね》の|狭霧《さぎり》に|包《つつ》まれて
うなかぶしつつわれは|泣《な》くなり
かくまでも|真心《まごころ》の|丈《たけ》を|繰《く》り|返《かへ》し
|繰《く》り|返《かへ》せども|音《おと》なしの|君《きみ》
うちつけに|恋《こひ》の|征矢《そや》をば|放《はな》ちつつ
|血《ち》に|泣《な》く|乙女《をとめ》はほととぎすかも』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|七乙女《ななをとめ》|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|集《つど》ひ|来《き》て
|宣《の》る|言霊《ことたま》はかなしかりけり
|天《あめ》の|下《した》に|男《を》の|子《こ》と|生《あ》れしわれなれば
ひとりは|許《ゆる》せ|天地《あめつち》の|神《かみ》
|乙女《をとめ》らの|真心《まごころ》|聞《き》きてわれは|唯《ただ》
|泣《な》くより|他《ほか》に|術《すべ》なかりけり』
|剣《つるぎ》の|池《いけ》の|金砂《きんしや》|銀砂《ぎんしや》は、|艶男《あでやか》の|言霊《ことたま》によりて|真誠《まこと》の|金銀《きんぎん》と|変化《へんくわ》し、|水底《みなそこ》に|一本《ひともと》|生《お》ひし|白珊瑚《しろさんご》は|乙女《をとめ》の|赤《あか》き|心《こころ》に|染《そ》まりしか、|次第々々《しだいしだい》に|色《いろ》を|増《ま》して|赤珊瑚《あかさんご》と|変《へん》じ、|滝《たき》のしぶきは|珊瑚《さんご》の|梢《こずゑ》にとどまりて、|真珠《しんじゆ》、|瑪瑙《めなう》、|黄金《こがね》、|白銀《しろがね》と|咲《さ》き|匂《にほ》ひ、|天地瑞祥《てんちずゐしやう》の|気《き》は|四辺《あたり》に|充満《じうまん》し、|孔雀《くじやく》、|鳳凰《ほうわう》、|迦陵頻伽《かりようびんが》の|泰平《たいへい》をうたふ|声《こゑ》|四辺《しへん》より|響《ひび》き|来《きた》れる。
ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(昭和九・七・一八 旧六・七 於関東別院南風閣 白石恵子謹録)
第一二章 |樹下《じゆか》の|夢《ゆめ》〔一九九三〕
|艶男《あでやか》は|徒然《つれづれ》を|慰《なぐさ》めむと|神苑《みその》を|立《た》ち|出《い》で、|庭伝《にはづた》ひに|百津桂樹《ゆつかつらぎ》の|繁《しげ》れる|森《もり》かげを、|彼方此方《あなたこなた》と|逍遥《せうえう》しながら、|七乙女《ななをとめ》のかなしき|声《こゑ》などを|思《おも》ひ|出《い》で、ひそかに|歌《うた》ふ。
『なげけとや|神《かみ》は|言《い》ふらむあひながら
あはれぬ|恋《こひ》に|胸《むね》はをどるも
|七乙女《ななおとめ》|力《ちから》かぎりに|村肝《むらきも》の
|心《こころ》のたけをあかしけるかも
わが|心《こころ》いづらにゆきしよ|乙女子《をとめご》の
かなしき|言葉《ことば》をよそに|聞《き》きつつ
いまとなり|乙女《をとめ》の|赤《あか》き|真心《まごころ》を
|思《おも》ひてかなしくなりにけらしな
|桂樹《かつらぎ》の|梢《うれ》にさへづる|小鳥《ことり》さへ
おのもおのもに|恋《こひ》をかたれり
|虫《むし》の|音《ね》も|心《こころ》しづめて|聞《き》くときは
みな|愛《かな》しさの|声《こゑ》なりにけり
|世《よ》の|中《なか》に|恋《こひ》てふものは|玉《たま》の|緒《を》の
|生命《いのち》をぬすむ|鬼《おに》なりにけり
|憂《う》さつらさ|七人乙女《ななたりをとめ》におもはれて
わがかへすべき|術《すべ》さへもなし
|術《すべ》もなき|心《こころ》いだきて|桂樹《かつらぎ》の
|森《もり》にさまよふ|淋《さび》しき|吾《われ》なり
とつおひつ|思案《しあん》にくるる|夕《ゆふ》まぐれ
|笑《わら》ふが|如《ごと》き|梟《ふくろふ》の|声《こゑ》
|島根《しまね》|吹《ふ》く|風《かぜ》の|響《ひびき》もかなしげに
わが|耳《みみ》にひびくと|思《おも》へば|淋《さび》し
|斯《かく》の|如《ごと》|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なをなやみつつ
|楽《たの》しき|吾《われ》は|何《なん》の|心《こころ》ぞも
|吾《われ》ながらわが|心根《こころね》をときかねて
|恋《こひ》の|山路《やまぢ》をゆきつもどりつ
|人《ひと》なくば|心《こころ》あくまで|泣《な》かむかと
|思《おも》ひしことも|幾度《いくど》なりしか
|乙女《をとめ》|見《み》れば|恋《こ》ふしかなしも|神苑《みその》|見《み》れば
|清《すが》しきかもよ|竜神《たつがみ》の|島《しま》
|只一人《ただひとり》|繁樹《しげき》の|森《もり》をさすらひつ
|乙女《をとめ》|恋《こ》ふしく|袖《そで》ぬらすなり
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》の|御恵《みめぐ》みに
|吾《われ》は|寝殿《やすど》に|一人《ひとり》|寝《い》ぬるも
|真夜中《まよなか》の|夢《ゆめ》にあらはれ|七乙女《ななをとめ》
いやつぎつぎにかなしきこと|宣《の》る
|一度《ひとたび》は|水上山《みなかみやま》にかへらむと
|思《おも》ふも|詮《せん》なし|今日《けふ》のわれには
|麗子《うららか》は|王《こきし》となりて|吾《われ》|一人《ひとり》
つれなき|夜半《よは》をかこつのみなる
|七乙女《ななをとめ》|美《うるは》しけれど|麗子《うららか》の
|花《はな》の|姿《すがた》にしかじとおもふ
|人《ひと》の|身《み》の|姿《すがた》ならねばこの|島《しま》の
|愛《め》ぐし|乙女《をとめ》もためらはれける
|国津神《くにつかみ》の|御子《みこ》と|生《うま》れて|竜神《たつがみ》の
|乙女《をとめ》にあふとおもへば|口惜《くや》しき
|美《うるは》しき|乙女《をとめ》ながらもどことなく
|磯《いそ》の|香《かを》りのあるはさびしき
|見《み》る|花《はな》と|眺《なが》めてここに|過《す》ぎむかと
|思《おも》へど|乙女《をとめ》はうべなはぬらし
いぶかしやああいぶかしやこの|島《しま》に
|住《す》むは|人《ひと》の|面《も》|竜《りう》のからだよ
|鱗《うろこ》|一面《いちめん》|袴《はかま》の|如《ごと》く|見《み》えにつつ
|肩《かた》より|上《うへ》は|人《ひと》の|姿《すがた》よ。
わづかに|左右《さいう》の|手《て》を|振《ふ》りて
|長《なが》き|袴《はかま》を|着《つ》けながら
|右往左往《うわうさわう》に|行《ゆ》き|通《かよ》ふ
このありさまを|見《み》るにつけ
|両手《りやうて》|両足《りやうあし》|持《も》つ|吾《われ》は
いやおそろしくいやらしく
もの|言《い》ふさへも|不思議《ふしぎ》なれ
|人間世界《にんげんせかい》にかけはなれ
|竜《たつ》の|島根《しまね》に|永久《とことは》に
|生《お》ひ|立《た》ち|来《きた》りし|乙女子《をとめご》の
|清《きよ》きやさしき|瑞姿《みづすがた》
|近寄《ちかよ》り|来《く》れば|藻《も》の|香《かを》り
|鱗《うろこ》のかをり|吾《わが》|鼻《はな》に
さやりていとどもの|憂《う》けれ
|吾《われ》は|竜宮《りうぐう》の|島ケ根《しまがね》に
|千代《ちよ》も|八千代《やちよ》も|存《なが》らへて
|国土《くに》をひらくと|誓《ちか》ひてし
この|言《こと》の|葉《は》のかなしさよ
|今《いま》となりてはただ|吾《われ》は
|故郷《くに》にかへらむ|心《こころ》のみ
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なにむれおきつ
うら|悲《かな》しくもなりにけり
ああ|如何《いかん》せむ|千秋《せんしう》の
うらみもはるるときや|何時《いつ》
|厳《いづ》の|御霊《みたま》や|瑞御霊《みづみたま》
わが|願《ね》ぎごとを|聞《きこ》し|召《め》せ
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|片時《かたとき》も
いとすむやけく|救《すく》ひませ
|波《なみ》の|上《へ》に|浮《う》くこの|島《しま》に
|珍《うづ》の|乙女《をとめ》に|囲《かこ》まれて
|身動《みうご》きならぬ|苦《くる》しさを
あはれみ|給《たま》へ|厳御霊《いづみたま》
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御前《おんまへ》に
|生命《いのち》|捧《ささ》げて|願《ね》ぎ|奉《まつ》る。
|果《は》てしなき|悩《なや》みにしづむわが|魂《たま》を
|救《すく》はせ|給《たま》へ|元《もと》の|御国《みくに》へ
|厳御霊《いづみたま》|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御心《みこころ》に
|任《まか》せて|吾《われ》はよき|日《ひ》|待《ま》つべし
|美《うるは》しき|乙女《をとめ》はあれど|身体《からたま》の
みにくさ|臭《くさ》さ|鼻《はな》もちならずも
|抱《だ》きしめて|肌《はだ》にふれなばおそろしく
わが|魂《たましひ》は|戦《をのの》くならむ
|美《うるは》しき|花《はな》なりながら|道《みち》の|辺《べ》に
|刺《とげ》もつ|薊《あざみ》の|乙女《をとめ》なりける
|如何《いか》にしてこれの|島根《しまね》を|遁《のが》れむと
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なになやむ|苦《くる》しさ
われなくばこの|島ケ根《しまがね》にただ|一人《ひとり》
|麗子姫《うららかひめ》はなげくなるらむ
|麗子《うららか》の|憂《う》き|目《め》おもひてただ|吾《われ》は
この|島ケ根《しまがね》に|止《とど》まりてをるも』
かかるところへ、|七人乙女《ななたりをとめ》の|中《なか》にも|最《もつと》も|射向《いむか》ふ|神《かみ》と|聞《きこ》えたる|燕子花《かきつばた》は、|忍《しの》び|足《あし》にあらはれ|来《きた》り、|百津桂樹《ゆつかつらぎ》に|身《み》を|支《ささ》へながら、
『|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|行方《ゆくへ》をもとめつつ
|桂《かつら》の|森《もり》に|吾《われ》は|来《き》つるも
|何故《なにゆゑ》に|君《きみ》は|樹蔭《こかげ》にさまよふか
|心《こころ》もとなく|吾《われ》かなしもよ
わが|宣《の》りし|赤《あか》き|言葉《ことば》を|怒《いか》らして
|逃《に》げ|給《たま》ひしか|情《なさけ》なの|君《きみ》よ
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》をかけし|君《きみ》なれば
|草《くさ》を|分《わ》けても|探《さが》さでおくべき
この|森《もり》のすみずみまでも|探《たづ》ねつつ
|漸《やうや》くここに|君《きみ》に|会《あ》ひぬる
わが|胸《むね》は|恋《こひ》に|燃《も》えつつ|大空《おほぞら》の
|月日《つきひ》もくらくなりにけらしな
|雲《くも》|低《ひく》う|小暗《をぐら》く|包《つつ》むこの|森《もり》は
|君《きみ》|恋《こ》ひ|渡《わた》るわが|心《こころ》かも
よしやよし|君《きみ》は|水底《みそこ》を|潜《くぐ》るとも
|生命《いのち》にかけて|追《お》ひしき|行《ゆ》かむ
|斯《か》くならば|最早《もはや》|詮《せん》なしわが|思《おも》ひ
はらして|一夜《いちや》をやすませ|給《たま》へ』
|艶男《あでやか》はハツと|思《おも》つたが、|何《なに》くはぬ|顔《かほ》にて、
『いとこやの|君《きみ》にますとは|知《し》らざりき
この|桂樹《かつらぎ》の|森《もり》の|下《した》かげ
よくもまた|探《たづ》ね|来《き》しよなわが|恋《こ》ふる
|君《きみ》をしみればよみがへるかも
|果《は》てしなき|思《おも》ひ|抱《いだ》きて|知《し》らず|知《し》らず
|吾《われ》は|樹蔭《こかげ》にさまよひてゐし』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『|空言《そらごと》を|宣《の》らす|君《きみ》よと|思《おも》へども
|御面《おんおも》|見《み》れば|嬉《うれ》しかりけり
|竜《たつ》の|島《しま》|伊吹《いぶき》の|山《やま》にこもるとも
いねむと|思《おも》ふわれならなくに
|和田《わだ》の|原《はら》うたかたの|湖《うみ》|行《ゆ》く|舟《ふね》も
たよりとするは|風《かぜ》の|力《ちから》よ
|君《きみ》|恋《こ》ひて|桂樹《かつらぎ》のかげに|立寄《たちよ》れば
|尾花《をばな》の|末《すゑ》もわれを|招《まね》かず
|無《な》き|名《な》さへ|立《た》つ|世《よ》なりせば|艶男《あでやか》の
|君《きみ》よ|恐《おそ》れず|吾《わが》|恋《こひ》|許《ゆる》せよ
|小波《さざなみ》の|静《しづ》かに|立《た》つや|鏡湖《かがみこ》の
そこの|心《こころ》を|君《きみ》は|汲《く》まずや
よそながら|君《きみ》のみあとを|慕《した》ひつつ
もゆる|心《こころ》のままにわれ|来《き》つ
|天地《あめつち》の|神《かみ》を|祈《いの》りつ|吾《わが》|恋《こひ》の
|色《いろ》|褪《あ》せざれと|君《きみ》にまみえし
|思《おも》ふこと|遂《と》ぐるは|正《まさ》しく|天地《あめつち》の
|神《かみ》の|心《こころ》の|恋《こひ》にぞありける
|幾夜《いくよ》われ|滝津瀬《たきつせ》の|音《おと》を|聴《き》きながら
|君《きみ》は|如何《いか》にと|眠《ねむ》らざりしよ
|君《きみ》をおきて|仇《あだ》し|心《ごころ》をわれ|持《も》てば
|鏡《かがみ》の|湖《うみ》のそこひ|乾《かわ》かむ
いたづきの|身《み》とはいつはり|身体《からたま》も
|御魂《みたま》も|鏡《かがみ》の|如《ごと》く|光《ひか》れる
|曇《くも》りなき|身体《からたま》もちていたづくと
|宣《の》らす|言葉《ことば》の|恨《うら》めしきかな
|生命《いのち》まで|君《きみ》に|捧《ささ》げし|乙女子《をとめご》を
|憐《あは》れみ|給《たま》ふ|心《こころ》まさずや
|君《きみ》はいま|遠《とほ》く|波《なみ》の|秀《ほ》ふみながら
|御国《みくに》にかへらす|心《こころ》ならずや
よしやよしこの|島ケ根《しまがね》をさかるとも
|必《かなら》ず|吾《われ》を|伴《ともな》ひ|給《たま》はれ
|竜神《たつがみ》のいやしき|身体《からたま》もちながら
|君《きみ》を|恋《こ》ふるははづかしきかも
|恥《はづ》かしき|思《おも》ひを|捨《す》てて|恋《こ》ふしさと
かなしさ|故《ゆゑ》に|君《きみ》につき|添《そ》ふ
|百津桂《ゆつかつら》|繁《しげ》れる|森《もり》は|人目《ひとめ》なし
いやいねませよ|草《くさ》の|褥《しとね》に
|草枕《くさまくら》|旅《たび》に|立《た》たせる|君《きみ》ならば
|露《つゆ》の|枕《まくら》もいとひ|給《たま》はじ
この|森《もり》の|木《き》の|根《ね》を|枕《まくら》になよ|草《ぐさ》を
|褥《しとね》となして|天国《みくに》にあそばむ』
|艶男《あでやか》は、|燕子花《かきつばた》の|猛烈《まうれつ》なる|恋愛心《れんあいしん》と、|押《お》しの|強《つよ》きその|振舞《ふるま》ひに|征服《せいふく》され、|遂《つひ》に|草枕《くさまくら》の|夢《ゆめ》を|結《むす》ぶこととはなりぬ。これより|燕子花《かきつばた》は|七乙女《ななをとめ》の|目《め》も|怖《お》ぢず、|公然《こうぜん》と|艶男《あでやか》の|寝殿《やすど》に|朝夕《あさゆふ》|起臥《きぐわ》し、|夫《をつと》の|歓心《くわんしん》を|購《か》ふべく、|心《こころ》の|限《かぎ》り|身《み》の|限《かぎ》り、まめまめしく|仕《つか》へける。|艶男《あでやか》は|朝庭《あさには》に|立《た》ち|出《い》で、|剣《つるぎ》の|池《いけ》に|面《おも》を|濯《すす》ぎながら、|昨日《きのふ》のことなど|思《おも》ひ|出《い》で、|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》ふ。
『ああ|恥《はづ》かしや|情《なさけ》なや
|千引《ちびき》の|岩《いは》と|固《かた》まりし
|大和男《やまとを》の|子《こ》の|魂《たましひ》を
うち|砕《くだ》かれてなよ|草《ぐさ》の
|生《お》ふるがままに|任《まか》せたり
|女《をんな》の|強《つよ》き|魂《たましひ》は
|巌《いはほ》も|射《い》ぬく|桑《くは》の|弓《ゆみ》
|弥猛心《やたけごころ》のとどくまで
|貫《つらぬ》き|通《とほ》す|燕子花《かきつばた》
|姫《ひめ》の|命《みこと》の|射向《いむか》ひに
|吾《われ》はもろくも|破《やぶ》れけり
|天地《てんち》の|神《かみ》も|許《ゆる》しませ
|竜神乙女《たつがみをとめ》と|言《い》ひながら
|獣《けもの》の|姿《すがた》にさまよへる
|島《しま》の|乙女《をとめ》と|嫁《とつ》ぎたる
わが|身《み》の|罪《つみ》ぞおそろしき
ああ|詮《せん》もなし|詮《せん》もなし
|斯《か》くまで|弱《よわ》き|心《こころ》かと
|吾《われ》とわが|身《み》をせめれども
|最早《もはや》|破《やぶ》れの|弓《ゆみ》の|的《まと》
|貫《つらぬ》く|術《すべ》も|波《なみ》の|上《うへ》
|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ|人《ひと》の|世《よ》を
ここに|捨《す》つるかあさましや
これを|思《おも》へば|麗子《うららか》の
|姫《ひめ》もさぞかし|苦《くる》しからむ
|国《くに》の|王《こきし》と|言《い》ひながら
|半《なか》ば|獣《けもの》の|夫《つま》をもつ
|如何《いか》に|憂《う》き|世《よ》を|過《すご》すらむ
|吾《われ》は|神《かみ》の|子《こ》|人《ひと》の|子《こ》よ
|獣《けもの》に|近《ちか》き|乙女子《をとめご》と
|枕《まくら》|並《なら》ぶる|恥《はづ》かしさ
|憐《あは》れみ|給《たま》へ|厳御霊《いづみたま》
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御前《おんまへ》に
|心《こころ》|恥《は》ぢらひ|宣《の》り|奉《まつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
わが|言霊《ことたま》に|力《ちから》あれ
わが|言霊《ことたま》に|光《ひかり》あれ。
わが|宣《の》らむ|生言霊《いくことたま》の|幸《さち》はひに
|乙女《をとめ》を|全《また》き|人《ひと》とせよかし
わが|肌《はだ》に|添《そ》へる|乙女《をとめ》の|優姿《やさすがた》
|神《かみ》の|子《こ》となれ|人《ひと》の|子《こ》となれ
|紫《むらさき》に|匂《にほ》へる|妻《つま》の|燕子花《かきつばた》
まことの|人《ひと》と|現《あ》れさせ|給《たま》へ
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百千万《ももちよろづ》の|神《かみ》、|憐《あは》れみ|給《たま》へ、|救《すく》はせ|給《たま》へ』
|斯《か》く|七日七夜《なぬかななよ》|間断《かんだん》なく|艶男《あでやか》が|宣《の》れる|言霊《ことたま》に、|不思議《ふしぎ》や|燕子花《かきつばた》の|全体《ぜんたい》|忽《たちま》ち|人身《じんしん》と|変《へん》じ、|荒々《あらあら》しき|太刀膚《たちはだ》の|影《かげ》もなく、|全身《ぜんしん》|餅《もち》の|如《ごと》く|膚《はだ》|細《こま》やかに|全《まつた》く|人身《じんしん》と|生《うま》れ|変《かは》りける。
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『ありがたし|生言霊《いくことたま》の|幸《さち》はひに
|乙女《をとめ》は|玉《たま》の|膚《はだへ》となりぬる
|栲綱《たくづぬ》の|白《しろ》きたたむき|淡雪《あはゆき》の
|若《わか》やぐ|膚《はだへ》となりにけるかも』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『わが|君《きみ》の|恵《めぐ》みの|露《つゆ》に|清《きよ》められ
わが|太刀膚《たちはだ》は|失《う》せにけらしな
|斯《か》くならば|最早《もはや》|恥《は》づべきこともなし
|君《きみ》に|仕《つか》へて|御子《みこ》|生《う》まむかも
ありがたし|穢《けが》れし|吾《われ》の|身体《からたま》は
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|人《ひと》となりぬる』
(昭和九・七・一八 旧六・七 於関東別院南風閣 内崎照代謹録)
第一三章 |鰐《わに》の|背《せ》〔一九九四〕
|艶男《あでやか》は|燕子花《かきつばた》と|諜《しめ》し|合《あは》せ、|夜陰《やいん》にまぎれて|竜宮島《りうぐうじま》を|立出《たちい》で、|父母《ちちはは》のいます|国《くに》に|帰《かへ》らむと、|決心《けつしん》を|固《かた》めてゐた。
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》に|止《とど》められむ|事《こと》をおそれ、|麗子《うららか》の|弟姫神《おとひめがみ》にも|告《つ》げず、|郊外《かうぐわい》の|散歩《さんぽ》にことよせ、|月《つき》|照《て》り|渡《わた》る|真夜中頃《まよなかごろ》、|大楼門《だいろうもん》をくぐり|第一門《だいいちもん》の|方《はう》へと|急《いそ》ぎゆく。|道《みち》の|側《かたはら》の|百草千草《ももぐさちぐさ》は|夜露《よつゆ》の|玉《たま》に|月光《げつくわう》|輝《かがや》き、|得《え》も|言《い》はれぬ|風情《ふぜい》である。|艶男《あでやか》はその|自然《しぜん》をながめて、
『|道《みち》の|辺《べ》に|咲《さ》く|百草《ももくさ》の|花《はな》にさへ
|月《つき》の|御霊《みたま》は|宿《やど》らせ|給《たま》へり
|草《くさ》の|上《へ》に|恋《こひ》を|歌《うた》へる|虫《むし》の|音《ね》も
|今宵《こよひ》は|清《きよ》く|月《つき》に|冴《さ》えたり
|渚辺《なぎさべ》に|寄《よ》する|波音《なみおと》|聞《き》きながら
|月《つき》の|夜路《よみち》を|二人《ふたり》ゆくかも
しのびゆく|元津御国《もとつみくに》の|旅立《たびだち》は
|虫《むし》の|声《こゑ》にも|驚《おどろ》かされける
|二人《ふたり》ゆく|空《そら》を|照《てら》して|月読《つきよみ》は
|吾《われ》を|守《まも》らせ|給《たま》ふがに|見《み》ゆ
|心安《うらやす》く|元津御国《もとつみくに》に|還《かへ》らせ|給《たま》へ
|御空《みそら》に|輝《かがや》く|月読《つきよみ》の|神《かみ》』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『|竜神《たつがみ》の|島《しま》に|生《お》ひ|立《た》ちし|燕子花《かきつばた》
|吾《われ》は|水上《みなかみ》の|山《やま》に|栄《さか》えむ
|月《つき》|見《み》れば|竜《りう》の|玉《たま》かと|疑《うたが》はる
|吾《われ》は|夜路《よみち》を|君《きみ》と|行《ゆ》くなり
|草《くさ》の|葉《は》に|置《お》く|白露《しらつゆ》に|月《つき》|照《て》りて
|二人《ふたり》の|袖《そで》はぬれにけらしな
|恐《おそ》ろしく|又《また》|楽《たの》しくも|思《おも》ふかな
|君《きみ》に|引《ひ》かれて|離《さか》りゆく|身《み》は
この|島《しま》に|今日《けふ》を|名残《なごり》の|別《わか》れぞと
おもへば|何《なに》か|悲《かな》しかりけり
|夜《よる》|光《ひか》る|玉《たま》にもまさる|君《きみ》|故《ゆゑ》に
|吾《われ》は|嬉《うれ》しく|従《したが》ひゆくも』
|斯《か》くして|第一《だいいち》の|門《もん》に|着《つ》き、|鉄門《かなど》を|中《なか》より|易々《やすやす》と|開《ひら》き、|渚辺《なぎさべ》に|出《い》で、|躍《をど》り|狂《くる》ふ|波《なみ》の|秀《ほ》をながめて|艶男《あでやか》は、
『|翼《つばさ》なき|身《み》は|如何《いか》にせむ|白波《しらなみ》の
|竜《たつ》の|島根《しまね》を|去《さ》る|由《よし》もなし
|打寄《うちよ》する|波《なみ》の|白帆《しらほ》に|照《て》る|月《つき》を
|玉《たま》と|仰《あふ》ぎて|帰《かへ》らまく|思《おも》ふ
さりながら|翼《つばさ》もなければ|鰭《ひれ》もなし
|鳥《とり》にも|魚《うを》にもなれぬかなしさ
|大空《おほぞら》の|月《つき》も|憐《あは》れみ|給《たま》ふらむ
|汀《みぎは》に|立《た》てる|二人《ふたり》の|姿《すがた》を
ゆくりなく|君《きみ》が|情《なさけ》の|露《つゆ》あびて
|又《また》も|汀《みぎは》の|露《つゆ》にぬれぬる
|天地《あめつち》の|神《かみ》よ|吾等《われら》を|憐《あは》れみて
|水上《みなかみ》の|山《やま》へ|渡《わた》らせ|給《たま》へ
|渡《わた》るにも|御舟《みふね》なければ|如何《いか》にせむ
|波《なみ》の|上《へ》に|浮《う》くこの|島ケ根《しまがね》を』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|波《なみ》を|分《わ》けてぬつと|現《あら》はれ|来《きた》る|八尋鰐《やひろわに》あり。|水面《すゐめん》に|背《せ》を|現《あらは》し、|之《これ》に|乗《の》らせ|給《たま》へと|言《い》ひたげなり。|二人《ふたり》は|天《てん》の|与《あた》へと|鰐《わに》の|背《せ》に|飛《と》び|乗《の》れば、|鰐《わに》は|何事《なにごと》も|万事承知《ばんじしようち》の|上《うへ》とばかり、|荒波《あらなみ》の|湖《うみ》を|游《およ》ぎながら、|南《みなみ》へ|南《みなみ》へと|走《はし》りゆく。|鰐《わに》の|背《せ》に|乗《の》れる|二人《ふたり》は|交々《こもごも》|歌《うた》ふ。
|艶男《あでやか》『|鰐《わに》の|背《せ》に|救《すく》はれ|水上《みなかみ》の|山《やま》もとに
|帰《かへ》る|思《おも》へば|楽《たの》しかりけり
|大空《おほぞら》も|湖《うみ》の|底《そこ》ひも|月《つき》|照《て》りて
その|中原《なかはら》を|行《ゆ》く|身《み》は|清《すが》し
|湖底《うなぞこ》に|御空《みそら》うつしてまたたける
|星《ほし》は|真砂《まさご》にさも|似《に》たるかな
そよと|吹《ふ》く|風《かぜ》に|面《おもて》をなでられて
こひしき|君《きみ》と|吾《われ》|帰《かへ》り|行《ゆ》くも
|果《は》てしなきこの|湖原《うなばら》も|足《あし》|早《はや》き
|鰐《わに》の|助《たす》けにとく|帰《かへ》るべし
この|鰐《わに》は|神《かみ》のたまひし|賜《たまもの》ぞ
|吾《われ》おろそかに|如何《いか》で|思《おも》はむ
|鰐《わに》よ|鰐《わに》|吾《われ》を|助《たす》けて|元津国《もとつくに》に
とく|帰《かへ》らせよ|波《なみ》を|分《わ》けつつ』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『|有難《ありがた》き|神《かみ》の|使《つか》ひの|鰐《わに》の|子《こ》に
|救《すく》はれ|君《きみ》が|御国《みくに》に|行《ゆ》くかも
|吾《われ》も|亦《また》|元《もと》の|身体《からだ》を|持《も》ち|居《を》らば
|鰐《わに》の|如《ごと》くに|送《おく》らむものを
|斯《か》くならば|吾《われ》は|人《ひと》の|身《み》|湖原《うなばら》を
|渡《わた》らむ|力《ちから》|失《う》せにけらしな
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|恵《めぐ》みか|大空《おほぞら》の
|月《つき》は|一入《ひとしほ》|冴《さ》え|渡《わた》りける
|白波《しらなみ》の|立《た》ちのまにまに|月読《つきよみ》は
かげをおとして|輝《かがや》き|給《たま》ふ
|水底《みなそこ》の|魚族《うろくづ》までも|見《み》えわたる
|今宵《こよひ》の|月《つき》のさやかなるかも
|竜神《たつがみ》の|追及《おひし》き|来《く》るも|恐《おそ》るまじ
みあしの|早《はや》き|鰐《わに》に|頼《たよ》れば
|湖原《うなばら》を|飛《と》び|交《か》ふ|千鳥《ちどり》の|音《ね》も|冴《さ》えて
|心《こころ》|清《すが》しき|月《つき》の|湖原《うなばら》
|天地《あめつち》にかかる|例《ためし》はあらなみの
|上《うへ》|分《わ》け|走《はし》る|今日《けふ》の|嬉《うれ》しさ』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|後方《こうはう》に|当《あた》りて|千万人《せんまんにん》の|鬨《とき》の|声《こゑ》、どつとばかりに|聞《きこ》え|来《く》るにぞ、|艶男《あでやか》、|燕子花《かきつばた》の|二人《ふたり》は|後振《あとふ》り|返《かへ》り|手《て》を|差上《さしあ》げ|月光《げつくわう》に|透《すか》し|見《み》れば、こはそもいかに、|両人《りやうにん》が|月夜《つきよ》を|力《ちから》に|逃《に》げ|去《さ》りし|事《こと》|発覚《はつかく》し、|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は|数多《あまた》の|竜神等《たつがみら》に|下知《げち》を|降《くだ》し、|二人《ふたり》の|後《あと》を|追《お》つかけよと|厳命《げんめい》なしければ、|竜神《たつがみ》は|吾《われ》も|吾《われ》もと|先《さき》を|争《あらそ》ひ、|波間《なみま》を|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ、|一瀉千里《いつしやせんり》の|勢《いきほひ》にて|追《お》ひしき|追《お》ひまくるにぞありけり。
こは|一大事《いちだいじ》と|燕子花《かきつばた》は|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げ、|人身《じんしん》となりしを|幸《さいは》ひ、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|頻《しきり》に|奏上《そうじやう》する、この|声《こゑ》|天地《てんち》に|響《ひび》き|湖《うみ》も|割《わ》るるばかりなり。
『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》
|千万《ちよろづ》の|神《かみ》|守《まも》り|給《たま》へ
|竜神《たつがみ》の|切先《きつさき》を|止《と》めさせ|給《たま》へ
|鰐《わに》よ|鰐《わに》よ|力《ちから》|限《かぎ》りに|走《はし》れよ|走《はし》れよ
|水上山《みなかみやま》は|霞《かすみ》の|奥《おく》にぼんやりと|浮《う》く
|走《はし》れよ|走《はし》れよ|生命《いのち》|限《かぎ》りに』
|斯《か》く|歌《うた》ふや、|鬨《とき》の|声《こゑ》はぴたりと|止《や》みて、|鰐《わに》の|足《あし》は|一入《ひとしほ》|速《はや》くなりける。
『|有難《ありがた》し|吾《わが》|言霊《ことたま》に|海津見《わだつみ》の
|神《かみ》の|功《いさを》は|現《あらは》れにけり
|諸々《もろもろ》の|竜神等《たつがみたち》の|襲《おそ》ひ|来《く》る
|矢先《やさ》き|逃《のが》れて|安《やす》けき|湖原《うなばら》
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》の|御功《みいさを》を
とどめて|安《やす》き|夜《よる》の|湖原《うなばら》』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|一輪《いちりん》の|月《つき》は|御空《みそら》に|輝《かがや》けり
|吾《われ》は|一《ひと》つの|鰐《わに》に|乗《の》り|行《ゆ》く
|八尋鰐《やひろわに》|足《あし》はやければ|竜神《たつがみ》は
|最早《もは》や|追付《おひつ》くおそれだもなし
|老《お》いませる|吾《わが》|垂乳根《たらちね》は|吾《わが》|行方《ゆくへ》
|探《たづ》ねて|日夜《にちや》を|歎《なげ》かせ|給《たま》はむ
|一時《ひととき》も|早《はや》く|御顔《おんかほ》|拝《をが》まむと
|思《おも》へば|心《こころ》いらだちにけり
|水火土《しほつち》の|神《かみ》に|救《すく》はれ|吾《わが》|生命《いのち》
|蘇《よみがへ》りたる|湖原《うなばら》はこれ
ほのぼのと|水上山《みなかみやま》は|見《み》え|初《そ》めぬ
|月夜《つきよ》の|空《そら》にぼんやりとして
|千鳥《ちどり》|啼《な》くこの|湖原《うなばら》を|細女《くはしめ》と
|行《ゆ》くは|夢路《ゆめぢ》を|辿《たど》るが|如《ごと》し
|夢《ゆめ》の|世《よ》に|夢《ゆめ》を|見《み》ながら|細女《くはしめ》と
|鰐《わに》の|背《せ》に|乗《の》り|湖原《うなばら》|渡《わた》るも
|竜宮《りうぐう》の|島《しま》もよけれど|水上山《みなかみやま》
|吾《わが》|故郷《ふるさと》は|恋《こひ》しかりけり
いとこやの|麗子姫《うららかひめ》に|立《た》ち|別《わか》れ
|今《いま》|燕子花《かきつばた》を|伴《ともな》ひ|帰《かへ》るも
|燕子花《かきつばた》よ|汝《なれ》は|面勝神《おもかつかみ》なれば
|言向《ことむ》けやはせ|国津神等《くにつかみら》を』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『|尊《たふと》かる|君《きみ》の|言葉《ことば》をうべなひて
|言向《ことむ》けやはさむ|国津神等《くにつかみら》を
|離《はな》れ|島《じま》の|乙女《をとめ》なれども|君《きみ》と|在《あ》れば
|吾《われ》は|恐《おそ》れじ|如何《いか》なる|人《ひと》にも
|湖風《うなかぜ》は|強《つよ》くなりけり|波《なみ》の|秀《ほ》は
いや|高々《たかだか》と|狂《くる》ひ|出《いだ》しぬ
|風《かぜ》|強《つよ》み|波《なみ》おこるとも|何《なに》かあらむ
|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|抱《いだ》かるる|身《み》は
|天地《あめつち》の|神《かみ》に|抱《いだ》かれ|吾《わが》|恋《こ》ふる
|夫《つま》に|抱《いだ》かれ|安《やす》き|湖原《うなばら》
|鰐《わに》の|背《せ》に|易々《やすやす》|渡《わた》る|湖原《うなばら》の
|風《かぜ》も|恐《おそ》れじ|波《なみ》も|恐《おそ》れじ
|白波《しらなみ》のしぶきにあはれ|吾《わが》|袖《そで》は
うるほひにけり|湿《しめ》らひにけり
|抱《だ》き|合《あ》ひて|泣《な》ける|夕《ゆふべ》の|涙《なみだ》にも
いやまさりつつ|濡《ぬ》るる|吾《わが》|袖《そで》』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|波《なみ》の|奥《おく》より|忽然《こつぜん》として|現《あらは》れし|一艘《いつそう》の|舟《ふね》、|此方《こなた》に|向《むか》つて|漕《こ》ぎ|来《く》る。|近《ちか》より|見《み》れば|豈計《あにはか》らむや、|水火土《しほつち》の|神《かみ》にましける。
|水火土《しほつち》の|神《かみ》はにこにこしながら、
『|久々《ひさびさ》に|帰《かへ》らす|君《きみ》を|迎《むか》へむと
|吾《われ》は|御舟《みふね》を|持《も》ちて|来《きた》れり
これよりは|湖《うみ》の|瀬《せ》|強《つよ》し|鰐《わに》の|舟《ふね》
|返《かへ》してこれに|乗《の》りうつらせよ
|垂乳根《たらちね》の|父《ちち》と|母《はは》とは|汝《な》が|行方《ゆくへ》
|歎《なげ》かせ|給《たま》ひ|衰《おとろ》へ|給《たま》へり
|水上《みなかみ》の|山《やま》はほんのり|見《み》ゆれども
|波路《なみぢ》は|遠《とほ》し|吾《われ》は|送《おく》らむ』
|艶男《あでやか》は|之《これ》に|答《こた》へて、
『ありがたし|水火土《しほつち》の|神《かみ》の|御心《おんこころ》
|生命《いのち》|死《し》すとも|忘《わす》れざらまし
|竜宮《りうぐう》の|島《しま》に|渡《わた》りて|求《もと》めたる
|花《はな》の|蕾《つぼみ》の|燕子花《かきつばた》はこれ
|竜宮《りうぐう》の|島根《しまね》ゆ|移《うつ》すこの|花《はな》を
|水上《みなかみ》の|山《やま》に|植《う》ゑたく|思《おも》ふ
|水火土《しほつち》の|神《かみ》よ|吾《わが》|妻《つま》|諸共《もろとも》に
|送《おく》らせ|給《たま》へ|水上《みなかみ》の|山《やま》へ』
と|言《い》ひながら、|鰐《わに》の|背《せ》より|水火土《しほつち》の|神《かみ》の|御舟《みふね》に|移《うつ》り、|鰐《わに》に|向《むか》つて|合掌《がつしやう》しながら、
『|浪《なみ》|猛《たけ》る|大湖原《おほうなばら》を|安々《やすやす》と
|送《おく》りし|君《きみ》に|感謝《かんしや》を|捧《ささ》げむ
|天津神《あまつかみ》の|御使《みつかひ》ならめや|八尋鰐《やひろわに》の
|今日《けふ》の|功《いさを》は|永久《とは》に|忘《わす》れじ
いざさらば|別《わか》れを|告《つ》げむ|八尋鰐《やひろわに》よ
|汝《なれ》は|吾身《わがみ》の|生命《いのち》なるぞや
|水上山《みなかみやま》|吾《わが》|故郷《ふるさと》に|帰《かへ》りなば
|汝《なれ》を|守護《まもり》の|神《かみ》と|斎《いつ》かむ』
|斯《か》く|歌《うた》ふや、|八尋鰐《やひろわに》は|静々《しづしづ》その|全身《ぜんしん》を|水《みづ》に|没《ぼつ》し、|後白波《あとしらなみ》となりにける。これより|水火土《しほつち》の|神《かみ》は|波《なみ》の|秀《ほ》を|分《わ》けながら、|月《つき》|照《て》る|湖原《うなばら》を|南《みなみ》へ|南《みなみ》へと|漕《こ》ぎ|行《ゆ》く。
(昭和九・七・一八 旧六・七 於関東別院南風閣 谷前清子謹録)
第一四章 |再生《さいせい》の|歓《よろこ》び〔一九九五〕
|葭原《よしはら》の|国《くに》の|一部《いちぶ》、|水上山《みなかみやま》を|中心《ちうしん》として|約《やく》|二十里《にじふり》|四方《しはう》の|土地《とち》を|領有《うしは》ぎ、|国津神《くにつかみ》の|頭人《おびと》となりて|父祖《ふそ》の|代《だい》よりここに|君臨《くんりん》したる|御祖《みおや》の|神《かみ》、|山神彦《やまがみひこ》、|川神姫《かはかみひめ》の|翁《おきな》と|姥《おうな》は、|天《てん》にも|地《ち》にもかけがへなき|二人《ふたり》の|兄妹《きやうだい》が、ゆくりなくも|其《その》|姿《すがた》を|隠《かく》せしより、|夜昼《よるひる》の|区別《くべつ》なく|慟哭《どうこく》して|身体《からだ》は|日《ひ》に|日《ひ》に|衰《おとろ》へ、|見《み》るかげもなき|憐《あは》れな|姿《すがた》となりゐたりける。
|水上山《みなかみやま》に|仕《つか》ふる|数多《あまた》の|国津神等《くにつかみら》は、|四方《しはう》|八方《はつぱう》に|馳《か》け|廻《まは》り、|兄妹《きやうだい》の|所在《ありか》をさがし|求《もと》むれども、|約《やく》|一ケ月《いつかげつ》を|経《へ》たる|今日《こんにち》、|何《なん》の|便《たよ》りも|荒波《あらなみ》の|磯《いそ》に|打寄《うちよ》すばかりなりける。
|山神彦《やまがみひこ》、|川神姫《かはかみひめ》の|二柱《ふたはしら》は、|玉耶湖《たまやこ》の|汀辺《みぎはべ》をさまよひながら、|声《こゑ》を|細々《ほそぼそ》と|歌《うた》ふ。
『あな|悲《かな》しや
かかる|歎《なげ》きにあはむとは
|思《おも》はざりしよ
いとし|子《ご》の
|行方《ゆくへ》は|何処《いづこ》
|今日《けふ》が|日《ひ》まで
|三十日《みそか》|三十夜《みそや》を|探《たづ》ぬれど
|何《なん》の|便《たよ》りも|波《なみ》の|音《おと》
|磯《いそ》|打《う》ち|寄《よ》するばかりなり
|万斛《ばんこく》の
|涙《なみだ》はすでに|涸《か》れ|果《は》てぬ
わが|声《こゑ》さへもしをれけり
わが|身体《からたま》は|日《ひ》に|夜《よる》に
|痩《や》せ|衰《おとろ》へて|力《ちから》なく
この|世《よ》に|生《い》きてたよりなし
|夢《ゆめ》になりとも|兄妹《おとどい》の
|所在《ありか》|知《し》りたや
|顔《かほ》|見《み》たや
|思《おも》へど|詮《せん》なき|今日《けふ》のわれは
|泣《な》くより|外《ほか》に|術《すべ》もなし
この|世《よ》に|神《かみ》のいますならば
わがいとし|子《ご》の|所在《ありか》をば
|一言《ひとこと》われに|知《し》らさせ|給《たま》へ
|月日《つきひ》は|空《そら》に|照《て》れれども
|星《ほし》は|隈《くま》なくきらめけど
|大地《だいち》に|草《くさ》は|茂《しげ》れども
|湖水《こすゐ》の|波《なみ》は|騒《さわ》げども
わがいとし|子《ご》の|消息《せうそく》は
なしのつぶてや|波《なみ》の|上《うへ》
|飛《と》び|交《か》ふ|千鳥《ちどり》の|声《こゑ》ばかり
ああ|悲《かな》しもよ|恨《うら》めしよ
|生《い》きて|甲斐《かひ》なきわが|生命《いのち》
|捨《す》つるもやすしいとし|子《ご》の
|生命《いのち》|保《たも》ちて|地《ち》の|上《うへ》に
ありとし|聞《き》けばさぞやさぞ
|蘇《よみがへ》るらむわが|心《こころ》
あはれみ|給《たま》へ|厳御霊《いづみたま》
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御前《おんまへ》に
|老《お》いのやつれの|身《み》を|捧《ささ》げ
|偏《ひとへ》に|祈《いの》り|奉《たてまつ》る
わが|子《こ》は|何処《いづこ》|聞《き》かまほし
|娘《むすめ》は|何処《いづこ》と|朝夕《あさゆふ》に
|探《たづ》ぬる|甲斐《かひ》も|荒風《あらかぜ》の
|野路《のぢ》|吹《ふ》く|音《おと》の|聞《きこ》ゆのみ。
|空《そら》|見《み》れば|心《こころ》|悲《かな》しも|湖《うみ》|見《み》れば
ひたに|淋《さび》しも|子《こ》なきわれには
|天地《あめつち》の|恵《めぐ》みに|満《み》つる|国《くに》ながら
|死《し》なまく|思《おも》ふわが|子《こ》なければ
いとし|子《ご》の|行方《ゆくへ》|探《たづ》ねてわが|魂《たま》は
|衰《おとろ》へにけり|糸《いと》の|如《ごと》くに
|身体《からたま》は|骨《ほね》ばかりなるみじめさに
|力《ちから》|弱《よわ》りて|淋《さび》しきわれなり』
|川神姫《かはかみひめ》は|歌《うた》ふ。
『|人《ひと》の|世《よ》に|生《うま》れてわれは|年《とし》|老《お》いぬ
|夫《つま》の|命《みこと》も|衰《おとろ》へぬ
|力《ちから》と|頼《たの》むいとし|子《ご》は
|如何《いか》なる|曲《まが》の|荒《すさ》びにや
|行方《ゆくへ》しら|波《なみ》|立《た》ち|騒《さわ》ぐ
|水泡《みなわ》と|消《き》えしか|浅《あさ》ましや
|玉耶《たまや》の|湖《うみ》に|浮《うか》びたる
|竜神《たつがみ》|棲《す》める|魔《ま》の|島《しま》に
|若《も》しも|迷《まよ》ひて|渡《わた》りしか
|何《なん》の|便《たよ》りもあら|波《なみ》の
|磯《いそ》|打《う》つ|音《おと》の|淋《さび》しさよ
われらは|朝夕《あさゆふ》|子《こ》を|慕《した》ひ
|姫《ひめ》を|慕《した》ひてなく|涙《なみだ》
|早《は》や|涸《か》れ|果《は》てて|斯《か》くの|如《ごと》
|痩《や》せ|衰《おとろ》へぬ
|言葉《ことば》さへ
|思《おも》ふにまかせぬ|苦《くる》しさよ
|百神《ももがみ》たちは|二人《ふたり》の|子《こ》の
|行方《ゆくへ》|探《たづ》ぬと|山川《やまかは》を
|騒《さわ》ぎ|廻《まは》れど|今《いま》にして
|風《かぜ》の|便《たよ》りも|泣《な》く|涙《なみだ》
|乾《かわ》く|暇《ひま》なき|袖袂《そでたもと》
|恵《めぐ》ませ|給《たま》へ|憐《あは》れみ|給《たま》へ
|厳《いづ》の|御霊《みたま》や|瑞御霊《みづみたま》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎまつる
|草葉《くさば》にすだく|虫《むし》の|音《ね》や
|梢《こずゑ》に|囀《さへづ》る|百鳥《ももとり》の
|声《こゑ》を|聞《き》きつつ|若《も》しや|若《も》し
わが|子《こ》の|声《こゑ》にあらぬかと
|子《こ》を|恋《こ》ふる|身《み》の|浅《あさ》ましや
まよひにまよふ|老《おい》の|身《み》の
|今日《けふ》は|悲《かな》しき|汀辺《みぎはべ》に
あらぬ|望《のぞ》みを|抱《かか》へつつ
|佇《たたず》み|居《を》れば|夕津陽《ゆふつひ》は
|雲《くも》に|包《つつ》まれ|遠山《とほやま》の
|尾《を》の|上《へ》に|消《き》えてあともなし。
いとし|子《ご》に|離《はな》れしわれらは|天地《あめつち》の
|神《かみ》を|頼《たの》むの|外《ほか》なかるらむ
|神《かみ》よ|神《かみ》|吾等《われら》を|憐《あは》れみ|給《たま》ひまして
|二人《ふたり》の|御子《みこ》を|返《かへ》させ|給《たま》へ
|眉目形《みめかたち》|勝《すぐ》れて|清《きよ》きいとし|子《こ》の
かげなき|今日《けふ》はひたに|悲《かな》しも
わが|子《こ》かと|近《ちか》より|見《み》れば|叢《くさむら》に
|夕《ゆふ》べを|鳴《な》ける|虫《むし》の|声々《こゑごゑ》
|陽《ひ》は|照《て》れど|月《つき》は|冴《さ》ゆれど|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|曇《くも》りてあやめも|分《わ》かず
|汀辺《みぎはべ》に|匂《にほ》ふ|菖蒲《あやめ》の|清《すが》しさも
われには|何《なん》の|趣《おもむき》もなし
|果《は》てしなき|大湖原《おほうなばら》を|打見《うちみ》やり
|御子《みこ》と|思《おも》へば|浮寝鳥《うきねどり》なる
|鳥《とり》うたひ|百花《ももばな》|匂《にほ》ひ|虫《むし》|鳴《な》けど
われには|淋《さび》しき|春《はる》なりにけり』
|山神彦《やまがみひこ》は|又《また》|歌《うた》ふ。
『|草《くさ》を|別《わ》け|土《つち》を|潜《くぐ》るもいとはまじ
わが|子《こ》の|行方《ゆくへ》|突《つ》きとむるまで
|夢《ゆめ》の|世《よ》に|夢《ゆめ》を|見《み》ながら|夢《ゆめ》の|如《ごと》
あてなきわが|子《こ》を|探《たづ》ねぬるかな
わが|御子《みこ》は|湖《うみ》の|藻屑《もくづ》となりしかと
わがいとし|子《ご》は|彼《か》れならずやと
わが|御子《みこ》と|名告《なの》るものさへあるなれば
|鳥《とり》も|獣《けもの》もいとはざるべし
わが|御子《みこ》は|鳥《とり》となりしか|湖原《うなばら》の
|魚《うを》となりしか|心許《こころもと》なや
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》ある|間《うち》|只一度《ただいちど》
|見《み》まく|思《おも》ふもいとし|子《ご》の|面《おも》』
かく|夫婦《ふうふ》は|湖辺《こへん》をさまよひ、|歎《なげ》きの|歌《うた》をうたふ|折《をり》しも、|館《やかた》に|仕《つか》ふる|国津神《くにつかみ》|真砂《まさご》は、あとを|探《たづ》ねて|追《お》ひ|来《きた》り、
『わが|君《きみ》はここにいませりわが|君《きみ》は
ここに|立《た》たせり|嬉《うれ》しきろかも
あちこちと|君《きみ》の|行方《ゆくへ》を|探《たづ》ねつつ
|真砂《まさご》の|磯辺《いそべ》にあひにけりしな
ありがたし|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|守《まも》られて
|君《きみ》|二柱《ふたはしら》|生《い》きていませり
|艶男《あでやか》の|君《きみ》は|何処《いづこ》ぞ|麗子《うららか》の
|姫《ひめ》の|行方《ゆくへ》は|未《いま》だ|知《し》れずや』
|山神彦《やまがみひこ》はこれに|応《こた》へて、
『|人草《ひとぐさ》の|行《ゆ》くべき|所《ところ》はことごとに
|探《たづ》ね|廻《まは》れど|影《かげ》だにもなし
この|上《うへ》は|神《かみ》に|任《まか》せて|帰《かへ》るべし
わが|子《こ》は|此《この》|世《よ》のものならなくに』
|真砂《まさご》は|歌《うた》ふ。
『わが|君《きみ》よ|淋《さび》しきことを|宣《の》らすまじ
|必《かなら》ず|生《い》きて|帰《かへ》らせ|給《たま》はむ
わが|見《み》たる|昨夜《ゆふべ》の|夢《ゆめ》をうかがへば
|艶男《あでやか》の|君《きみ》は|帰《かへ》りますべし
|麗子《うららか》の|君《きみ》の|行方《ゆくへ》は|竜宮《りうぐう》の
|島《しま》に|渡《わた》りて|王《こきし》とならせり
さりながら|確《たしか》にそれと|宣《の》りがたし
ただ|朧気《おぼろげ》の|夢《ゆめ》にありせば』
|川神姫《かはかみひめ》は|稍《やや》|力得顔《ちからえがほ》に|微笑《びせう》を|浮《うか》べて、
『|汝《な》が|言葉《ことば》まことならずも|生《い》くるてふ
|夢《ゆめ》の|話《はなし》に|心《こころ》ときめくも
ともかくも|館《やかた》に|帰《かへ》り|時《とき》|待《ま》たむ
|日《ひ》は|黄昏《たそが》れて|黒白《あやめ》もわかねば』
|山神彦《やまがみひこ》、|川神姫《かはかみひめ》は、|従神《じうしん》の|真砂《まさご》に|夜《よ》の|道《みち》を|護《まも》られ、|一先《ひとま》づ|館《やかた》に|立帰《たちかへ》り、|其《その》|夜《よ》はとつおひつあらぬ|事《こと》のみ|繰返《くりかへ》しつつ、|淋《さび》しき|眠《ねむ》りに|就《つ》きにける。
|暁《あかつき》|告《つ》ぐる|鶏《にはとり》の|声《こゑ》、|鵲《かささぎ》の|声《こゑ》に|呼《よ》び|覚《さま》されて、|二人《ふたり》は|寝間《ねま》を|起《お》き|出《い》で、|再《ふたた》び|真砂《まさご》に|導《みちび》かれて|栄居《さかゐ》の|浜辺《はまべ》に|出《い》でてゆく。
|遥《はる》か|前方《ぜんぱう》を|見渡《みわた》せば、|一艘《いつそう》の|舟《ふね》、|此方《こなた》に|向《むか》つて|艫《ろ》を|漕《こ》ぎながら|進《すす》み|来《きた》る。
|山神彦《やまがみひこ》はこの|光景《くわうけい》を|眺《なが》め、|若《も》しやわが|子《こ》にあらずやと|脇目《わきめ》もふらず|湖上《こじやう》を|打《う》ちまもり、
『|若《も》しや|若《わ》しわが|子《こ》に|非《あら》ずや|浜辺《はまべ》|近《ちか》く
|漕《こ》ぎ|来《く》る|舟《ふね》のあしの|早《はや》きも
|若《も》しや|若《も》しわが|子《こ》の|舟《ふね》と|知《し》るならば
|百神《ももがみ》|集《つど》へて|出《い》で|迎《むか》へむを』
|真砂《まさご》は、
『|正《まさ》しくや|兄妹《おとどい》の|舟《ふね》とおぼえたり
|水火土《しほつち》の|神《かみ》|艫《ろ》を|操《あやつ》れば』
かく|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|次第々々《しだいしだい》に|舟《ふね》は|浜辺《はまべ》に|近《ちか》づき|来《きた》る。よくよく|見《み》れば|舟《ふね》を|操《あやつ》るは|水火土《しほつち》の|神《かみ》、|舷頭《げんとう》に|立《た》つは|確《たしか》に|艶男《あでやか》と|見《み》ゆれども、いぶかしきは|一人《ひとり》の|女神《めがみ》なりと、|脇目《わきめ》もふらず|眺《なが》め|居《ゐ》たり。
|川神姫《かはかみひめ》は、
『|水先《みづさき》に|立《た》つは|確《たしか》に|艶男《あでやか》よ
されどをみなの|姿《すがた》はあやしき
|見《み》なれざる|女《をんな》を|乗《の》せて|艶男《あでやか》は
|心《こころ》いそいそ|帰《かへ》り|来《く》るらし
|神々《かみがみ》の|厚《あつ》き|恵《めぐ》みに|護《まも》られて
わが|子《こ》は|正《まさ》しく|生《い》きてありしよ』
かく|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|漸《やうや》くにして|水火土《しほつち》の|神《かみ》のあやつる|御舟《みふね》は、|三人《さんにん》の|立《た》てる|湖辺《こへん》に|安々《やすやす》|着《つ》きにける。
|老《お》いたる|両親《りやうしん》は、|手《て》の|舞《ま》ひ|足《あし》の|踏《ふ》む|所《ところ》を|知《し》らず、|忽《たちま》ち|天《てん》に|向《むか》つて|感謝言《ゐやひごと》を|奏上《そうじやう》し、|勇《いさ》み|進《すす》んで|水上山《みなかみやま》の|館《やかた》をさして|帰《かへ》りゆく。
(昭和九・七・一八 旧六・七 於関東別院南風閣 林弥生謹録)
第一五章 |宴遊会《えんいうくわい》〔一九九六〕
|大御祖《おほみおや》の|神《かみ》|夫婦《ふうふ》は、|艶男《あでやか》が|妻《つま》まで|率《ひき》ゐて、|竜《たつ》の|島根《しまね》より|恙《つつが》なく|帰《かへ》り|来《きた》りしを|喜《よろこ》び、|数多《あまた》の|国津神《くにつかみ》を|呼《よ》び|集《つど》へて、ここに|祝賀《しゆくが》の|宴《えん》を|開《ひら》く|事《こと》とはなりぬ。
|水上山《みなかみやま》の|清所《すがど》には|八尋殿《やひろどの》|数多《あまた》|建《た》てられ、|国津神等《くにつかみたち》はここに|国《くに》の|政治《まつりごと》を、はつはつながら|執《と》り|行《おこな》ひ|居《ゐ》たりき。
|御祖《みおや》の|神《かみ》の|四天王《してんわう》と|仕《つか》へたる|神《かみ》に、|真砂《まさご》、|白砂《しらさご》、|岩ケ根《いはがね》、|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》の|五柱《いつはしら》あり、|中《なか》に|岩ケ根《いはがね》は|総《すべ》ての|政治《まつりごと》を|総轄《そうかつ》し、その|権威《けんゐ》|御祖《みおや》の|神《かみ》を|圧《あつ》するばかりけり。
|水上山《みなかみやま》の|聖地《せいち》は、|麓《ふもと》を|流《なが》るる|大井川《おほゐがは》を|広《ひろ》く|取《と》り|込《こ》み、|方一里《はういちり》に|余《あま》る|庭園《ていゑん》なりける。
|茲《ここ》に|神々《かみがみ》は|艶男《あでやか》の|御子《みこ》の|帰《かへ》り|来《きた》れるを|喜《よろこ》びて、|各自《おのもおのも》|歌《うた》ひ|舞《ま》ひ|踊《をど》り|狂《くる》ひ、|木《こ》の|実《み》の|酒《さけ》に|酔《よ》ひしれて、|天地革新《てんちかくしん》の|気《き》|四方《よも》に|漂《ただよ》ふ。
|山神彦《やまがみひこ》は|今日《けふ》の|喜《よろこ》びを|祝《しゆく》すべく、|花園《はなぞの》をさまよひながら|歌《うた》ふ。
『|一度《ひとたび》は|死《し》なまく|思《おも》ひし|老《おい》の|身《み》も
|蘇《よみがへ》りたり|艶男《あでやか》に|会《あ》ひて
|艶男《あでやか》は|帰《かへ》れど|妹《いもうと》の|麗子《うららか》は
|竜《たつ》の|島根《しまね》にあるは|悲《かな》しき
|待《ま》ちわびしその|甲斐《かひ》ありて|嬉《うれ》しくも
|今日《けふ》はわが|子《こ》の|顔《かほ》を|見《み》るかな
|水上山《みなかみやま》|尾《を》の|上《へ》は|晴《は》れて|天津日《あまつひ》の
|輝《かがや》き|渡《わた》る|今日《けふ》ぞめでたき
|何《なに》もかもよみがへりたる|心地《ここち》して
|生《い》きの|生命《いのち》の|栄《さか》えを|思《おも》ふ
|葭原《よしはら》の|国《くに》のかたへの|浦水《うらみ》の|里《さと》に
われは|久《ひさ》しく|年《とし》ふりにけり
|吾《わが》|父《ちち》のみあとを|継《つ》ぎて|八十年《やそとせ》を
|国《くに》の|司《つかさ》と|過《す》ぎにけるかも
|艶男《あでやか》の|御子《みこ》の|帰《かへ》りし|今日《けふ》よりは
|浦水《うらみ》の|里《さと》も|安《やす》く|栄《さか》えむ
|地底《ちそこ》より|生《うま》れ|出《い》でたる|心地《ここち》して
|今日《けふ》の|宴《うたげ》にあひにけらしな
|妻《つま》も|老《お》いわれも|老《お》いたり|今日《けふ》よりは
わが|子《こ》を|力《ちから》に|余世《よせい》を|送《おく》らむ』
|川神姫《かはかみひめ》は|歌《うた》ふ。
『|例《ためし》なき|今日《けふ》の|喜《よろこ》びにあふ|吾《われ》は
|三十年《みそとせ》ばかり|若返《わかがへ》りにけり
|今日《けふ》までは|悩《なや》み|苦《くる》しみ|疲《つか》れはて
|吾《わが》|身《み》|死《し》なまくなりにけらしな
|広庭《ひろには》に|藤波《ふぢなみ》かをり|山吹《やまぶき》|匂《にほ》ふ
|紫色《むらさきいろ》なすかきつばた|咲《さ》く』
|先《ま》づ|祝賀《しゆくが》の|式《しき》は|簡単《かんたん》にすまされ、|各自《おのもおのも》|思《おも》ひ|思《おも》ひに|大井川《おほゐがは》の|岸辺《きしべ》を|伝《つた》ひて、|庭園《ていゑん》を|逍遥《せうえう》する|事《こと》となりぬ。
|艶男《あでやか》は|粟毛《くりげ》の|駒《こま》に|跨《またが》り、|燕子花《かきつばた》は|白馬《はくば》に|跨《またが》り、|川《かは》の|辺《べ》を|逍遥《せうえう》しながら、|咲《さ》き|乱《みだ》れたる|山吹《やまぶき》の|花《はな》を|愛《め》でつつ|歌《うた》ふ。
|艶男《あでやか》の|歌《うた》。
『|蛙《かはず》なく|大井《おほゐ》の|川《かは》の|底《そこ》|清《きよ》く
|黄金《こがね》に|映《は》ゆる|山吹《やまぶき》の|花《はな》
|大井川《おほゐがは》|岸《きし》に|匂《にほ》へる|山吹《やまぶき》は
|川《かは》|吹《ふ》く|風《かぜ》に|水底《みそこ》にさゆれつ
|艶人《あでびと》と|共《とも》に|手折《たを》らむ|蛙《かはず》|鳴《な》く
|大井川辺《おほゐかはべ》の|山吹《やまぶき》の|花《はな》
|雨蛙《あまがへる》|惜《を》しみて|鳴《な》けど|山吹《やまぶき》の
|花《はな》はすげなく|川風《かはかぜ》に|散《ち》る』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『|山吹《やまぶき》の|花《はな》の|盛《さか》りを|眺《なが》めつつ
|大井《おほゐ》の|里《さと》はよしと|思《おも》へり
|川水《かはみづ》に|蛙《かはず》|鳴《な》くなりうべしこそ
|岸《きし》の|山吹《やまぶき》|今《いま》|盛《さか》りなり
|春《はる》|深《ふか》み|大井《おほゐ》の|川《かは》の|水《みづ》ぬるみ
ゆたにうつろふ|水底《みそこ》の|山吹《やまぶき》』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|駒《こま》とめて|暫《しば》し|眺《なが》めむ|大井川《おほゐがは》
|岸《きし》に|匂《にほ》へる|盛《さか》りの|山吹《やまぶき》を
|山川《やまかは》の|岩《いは》|打《う》つ|水《みづ》の|瀬《せ》を|速《はや》み
|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ|山吹《やまぶき》|流《なが》るる
わが|庭《には》を|流《なが》るる|川《かは》の|汀辺《みぎはべ》に
|咲《さ》く|山吹《やまぶき》は|清《すが》しかりけり
|川《かは》の|辺《べ》の|春《はる》の|暮《く》れこそあはれなれ
わが|妹《いも》に|似《に》し|山吹《やまぶき》|萎《しを》れつ
|山吹《やまぶき》は|水底《みそこ》にさへも|咲《さ》きて|居《を》り
|心《こころ》して|飲《の》めわが|乗《の》る|駿馬《はやこま》
|駒《こま》いさむ|足《あし》の|響《ひび》きに|山吹《やまぶき》の
|花《はな》は|果敢《はか》なく|散《ち》らむとするも
|大井川《おほゐがは》|霞《かすみ》ながれて|八重《やへ》に|咲《さ》く
|水上《みなかみ》|山吹《やまぶき》|水《みづ》に|写《うつ》れり
|駿馬《はやこま》に|水飼《みづか》ふ|岸《きし》をふさぎつつ
|岸《きし》の|山吹《やまぶき》|咲《さ》き|乱《みだ》れたり』
|二人《ふたり》は|山吹《やまぶき》の|川辺《かはべ》を|後《あと》に、|藤波《ふぢなみ》の|花《はな》|咲《さ》く|方《はう》へと|駒《こま》を|進《すす》め、|馬上《ばじやう》より|艶男《あでやか》はまた|豊《ゆた》かに|歌《うた》ふ。
『|万世《よろづよ》のかたみにせむとわが|植《う》ゑし
|藤波《ふぢなみ》の|花《はな》|咲《さ》き|出《い》でにけり
|水上山《みなかみやま》|麓《ふもと》に|匂《にほ》ふ|藤波《ふぢなみ》の
|花《はな》のすがたは|汝《なれ》に|似《に》しかも
|藤波《ふぢなみ》の|花《はな》の|紫《むらさき》|見《み》つつ|思《おも》ふ
|汝《なれ》が|色《いろ》かも|紫《むらさき》にして
|紫《むらさき》の|色《いろ》|深《ふか》ければ|藤波《ふぢなみ》の
|花《はな》はさながら|燕子花《かきつばた》に|似《に》たるも
|濡《ぬ》るる|身《み》は|楽《たの》しかりけり|春雨《はるさめ》に
|色《いろ》ます|汝《なれ》はかきつばたなる
|大井川《おほゐがは》の|向《むか》つ|岸辺《きしべ》に|咲《さ》く|藤《ふぢ》も
|匂《にほ》ひはわれを|隔《へだ》てざりけり』
|燕子花《かきつばた》は|足下《あしもと》に|匂《にほ》ふ|燕子花《かきつばた》の|花《はな》を|見《み》て、しとやかに|歌《うた》ふ。
『かきつばた|匂《にほ》へる|庭《には》に|君《きみ》と|居《ゐ》て
|思《おも》ふは|竜《たつ》の|島根《しまね》なりけり
かきつばた|匂《にほ》へる|庭《には》に|藤波《ふぢなみ》の
|花《はな》をし|見《み》れば|春《はる》は|深《ふか》めり
ここに|来《き》て|思《おも》はぬ|恥《はぢ》をかきつばた
わが|面《おも》の|色《いろ》|赤《あか》らみにけり
|父母《ちちはは》に|清《きよ》く|仕《つか》へむかきつばた
|君《きみ》の|政治《まつり》をあななひ|奉《まつ》りて
|山《やま》も|川《かは》もいたく|変《かは》れる|此《この》|園《その》に
|君《きみ》と|立《た》ち|居《ゐ》て|栄《さか》えをおもふ
わが|駒《こま》は|足掻《あが》きしてをり|向《むか》つ|岸《きし》に
|乱《みだ》るる|花《はな》を|慕《した》ふなるらむ
|大井川《おほゐがは》|駒《こま》に|渡《わた》りて|向《むか》つ|岸《きし》の
|花《はな》に|酔《よ》はむも|楽《たの》しからずや
|水《みづ》ぬるむ|春《はる》の|大井《おほゐ》の|川《かは》の|瀬《せ》を
|駒《こま》も|勇《いさ》みて|渡《わた》るなるらむ』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|思《おも》はざる|竜《たつ》の|島根《しまね》に|渡《わた》り|行《ゆ》きて
|思《おも》はぬ|汝《なれ》を|得《え》たるわれ|哉《かな》
|玉椿《たまつばき》の|八千代《やちよ》を|契《ちぎ》る|恋仲《こひなか》を
|祝《ほ》ぎて|匂《にほ》ふか|紅椿花《べにつばきばな》
|紅椿《べにつばき》|一枝《ひとえ》|手折《たを》りて|床《とこ》の|辺《べ》に
かざして|一夜《いちや》を|寝《い》ねむとぞ|思《おも》ふ
|玉《たま》の|肌《はだ》に|抱《いだ》かるる|身《み》の|楽《たの》しさを
|思《おも》へば|春《はる》の|心《こころ》ただよふ』
かかる|所《ところ》へ、|岩ケ音《いはがね》、|真砂《まさご》、|白砂《しらさご》、|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》の|五柱《いつはしら》は、|駒《こま》をはやめて|入《い》り|来《きた》り、|岩ケ根《いはがね》は|歌《うた》ふ。
『わが|君《きみ》の|御姿《みすがた》|木《こ》の|間《ま》ゆ|透《すか》し|見《み》て
われも|遊《あそ》ぶと|急《いそ》ぎ|来《き》にけり
|二柱《ふたはしら》|楽《たの》しき|仲《なか》をさまたぐる
われを|許《ゆる》せよ|礼《ゐや》なき|吾《われ》を
|大井川《おほゐがは》|速瀬《はやせ》|渡《わた》りて|今《いま》ここに
|駒《こま》をうたせる|君《きみ》ぞ|勇《いさ》まし
われは|今《いま》|宴《うたげ》の|神酒《みき》に|酔《よ》ひつれど
たしなみ|心《ごころ》|忘《わす》れざりけり
|岩ケ根《いはがね》をかみて|流《なが》るる|川水《かはみづ》の
しぶきは|玉《たま》と|散《ち》りて|砕《くだ》けつ
|兎《と》にもあれ|角《かく》にもあれや|御館《みやかた》の
|雲霧《くもきり》はれて|川水《かはみづ》|清《すが》し
|御館《みやかた》を|深《ふか》く|包《つつ》みしなげかひの
|雲《くも》は|散《ち》りたり|霧《きり》は|晴《は》れたり
あな|尊《たふと》|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》|深《ふか》く
|永久《とは》に|流《なが》るる|清水《しみづ》|真清水《ましみづ》』
|艶男《あでやか》はこれに|答《こた》へて、
『わが|行《ゆ》きし|竜《たつ》の|島根《しまね》に|比《くら》ぶれば
|此《この》|花園《はなぞの》は|清《すが》しかりけり
|竜神《たつがみ》の|細乙女《くはしをとめ》に|囲《かこ》まれて
われは|思《おも》はぬ|夢《ゆめ》になやみし
|悩《なや》みてし|心《こころ》の|雲霧《くもきり》はれわたり
|今《いま》は|嬉《うれ》しき|水音《みなおと》を|聞《き》く
|国津神《くにつかみ》もろもろ|伊寄《いよ》り|集《つど》ひ|来《き》て
われを|寿《ことほ》ぐ|今日《けふ》ぞ|嬉《うれ》しき』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『わが|駒《こま》は|嘶《いなな》きそめぬ|波《なみ》の|上《へ》に
そだちしわれに|語《かた》らむとして
|百神《ももがみ》の|強《つよ》き|力《ちから》に|守《まも》られて
われは|御国《みくに》に|仕《つか》へむとぞ|思《おも》ふ
よしやよしわが|玉《たま》の|緒《を》は|亡《う》するとも
|此《この》|神苑《かみぞの》ははなれざるべし』
|真砂《まさご》は|歌《うた》ふ。
『|水《みづ》|清《きよ》く|流《なが》るる|大井《おほゐ》の|川波《かはなみ》は
|底《そこ》の|真砂《まさご》も|見《み》え|透《す》きにけり
わが|君《きみ》に|長《なが》く|仕《つか》へて|今日《けふ》の|日《ひ》の
|祝《いは》ひの|蓆《むしろ》にあふぞ|嬉《うれ》しき
|永久《とこしへ》に|流《なが》るる|大井《おほゐ》の|川水《かはみづ》は
|国津神等《くにつかみら》の|生命《いのち》なりけり
|艶男《あでやか》の|君《きみ》にまみえて|嬉《うれ》しけれど
なほ|恨《うら》めしき|麗子《うららか》の|君《きみ》よ
|天津日《あまつひ》はうららに|照《て》れど|姫御子《ひめみこ》の
|清《すが》しきかげを|見《み》ぬぞ|淋《さび》しき
さりながら|天地《あめつち》|一度《いちど》に|開《ひら》けたる
|心《こころ》いだきてわれよみがへる』
|白砂《しらさご》は|歌《うた》ふ。
『|如何《いか》ならむ|神《かみ》の|経綸《しぐみ》かしら|砂《さご》の
|浦水《うらみ》の|里《さと》に|姫《ひめ》は|来《き》ませり
|燕子花《かきつばた》|姫《ひめ》の|命《みこと》のよそほひは
|水《みづ》の|鏡《かがみ》にうつりて|清《すが》し
|紫《むらさき》の|御衣《みけし》まとひて|駒《こま》の|背《せ》に
|跨《またが》り|給《たま》ふあはれ|姫神《ひめがみ》よ
|百神《ももがみ》は|勇《いさ》みつどひて|今日《けふ》の|日《ひ》を
|常世《とこよ》もがもと|祈《いの》りけるかな』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『|大井川《おほゐがは》|岩《いは》にくだくる|水音《みなおと》は
|君《きみ》が|枕《まくら》に|響《ひび》きこそすれ
|大殿《おほとの》の|影《かげ》をうつして|川水《かはみづ》は
|永久《とは》に|流《なが》るる|清《すが》しき|里《さと》なり
|永久《とこしへ》に|浦水《うらみ》の|里《さと》にましまして
われらが|幸《さち》を|守《まも》らせ|給《たま》へ
|川《かは》の|辺《べ》に|咲《さ》く|山吹《やまぶき》のかげ|見《み》れば
|春《はる》はいよいよ|深《ふか》みたるかも
|山吹《やまぶき》の|花《はな》は|咲《さ》けども|実《みの》らねば
|姫《ひめ》の|為《ため》には|手折《たを》らじと|思《おも》ふ
|藤波《ふぢなみ》の|花《はな》|散《ち》るあとにいや|固《かた》き
|豆《まめ》は|実《みの》りて|御子《みこ》を|生《う》むなり
まめやかな|御子《みこ》を|生《う》まして|此《この》|里《さと》の
|永久《とは》の|栄《さか》えを|来《きた》させ|給《たま》へ』
|燕子花《かきつばた》はこれに|答《こた》へて、
『|水音《みなおと》の|御言《みこと》うべなり|山吹《やまぶき》の
|花《はな》は|思《おも》はじ|白藤《しらふぢ》めでつつ
|白藤《しらふぢ》の|花《はな》も|匂《にほ》へり|紫《むらさき》の
|藤《ふぢ》も|匂《にほ》へりうましき|川《かは》の|辺《べ》
かきつばた|汀《みぎは》に|咲《さ》けど|何故《なにゆゑ》か
あそぶ|蝶々《てふてふ》なきが|淋《さび》しき
|蝶々《てふてふ》はわが|背《せ》の|君《きみ》の|朝宵《あさよひ》に
われをかばひていつくしみますも』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『めでたかる|君《きみ》の|言葉《ことば》にあてられて
われ|言《こと》の|葉《は》もつきはてにけり
|春《はる》はまだ|残《のこ》れど|君《きみ》の|言《こと》の|葉《は》に
わが|身体《からたま》はあつくなりけり』
|瀬音《せおと》は|歌《うた》ふ。
『|待《ま》ちわびし|艶男《あでやか》の|君《きみ》は|波《なみ》の|秀《ほ》を
|踏《ふ》みて|嬉《うれ》しく|帰《かへ》りましけり
|大井川《おほゐがは》|水瀬《みなせ》の|音《おと》を|聞《き》きながら
もしや|君《きみ》かと|待《ま》ちわびしはや
|水上《みなかみ》の|山《やま》に|仕《つか》へて|幾年《いくとせ》を
|此《この》|川水《かはみづ》に|親《した》しみしはや
|百千花《ももちばな》|咲《さ》き|乱《みだ》れたる|広庭《ひろには》の
|春《はる》の|眺《なが》めは|華《はな》やかなりけり
|百千花《ももちばな》|咲《さ》ける|神苑《みその》の|花《はな》として
|君《きみ》は|川辺《かはべ》に|光《ひか》らせ|給《たま》へる』
|斯《か》く|神々《かみがみ》は、|各自《おのもおのも》|祝歌《しゆくか》を|歌《うた》ひ、|今日《けふ》のめでたき|宴席《えんせき》は|閉《と》ぢられた。
|天津日《あまつひ》は|西山《せいざん》に|傾《かたむ》き、|黄昏《たそがれ》の|幕《まく》|四辺《あたり》を|包《つつ》み、|夕烏《ゆふがらす》の|声《こゑ》|高《たか》く|遠《とほ》く|聞《きこ》え|来《く》る。
(昭和九・七・一八 旧六・七 於関東別院南風閣 白石恵子謹録)
第三篇 |伊吹《いぶき》の|山颪《やまおろし》
第一六章 |共鳴《むたなき》の|庭《には》〔一九九七〕
|伊吹《いぶき》の|山麓《さんろく》に|展開《てんかい》せる|竜《たつ》の|島根《しまね》の|姫神等《ひめがみたち》は、|一夜《いちや》の|間《うち》に|雲《くも》と|消《き》える|艶男《あでやか》の|後《あと》を|探《たづ》ねて、|上《うへ》を|下《した》へと|騒《さわ》ぎ|立《た》ち、|悲歎《ひたん》の|声《こゑ》は|竜《たつ》の|島根《しまね》に|充《み》ち|満《み》ちにける。それにつけても、|燕子花姫《かきつばたひめ》の|在《あ》らざるは|第一《だいいち》いぶかしの|極《きは》みなりと、|噂《うはさ》とりどりに、|或《あるひ》は|怒《いか》り|或《あるひ》は|歎《なげ》き、|恨《うら》み|罵《ののし》る|女神《めがみ》の|声《こゑ》は、|秋《あき》の|千草《ちぐさ》にすだく|虫《むし》の|音《ね》か、|木々《きぎ》に|囀《さへづ》る|百鳥《ももどり》か、|形容《けいよう》しがたく|見《み》えにける。|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》は、|艶男《あでやか》の|影《かげ》の|見《み》えざるより|失望落胆《しつばうらくたん》のあまり、|奥殿《おくでん》に|入《い》り|堅《かた》く|戸《と》を|閉《と》ざして|姿《すがた》を|見《み》せず、|麗子姫《うららかひめ》の|姫神《ひめがみ》も|今更《いまさら》の|如《ごと》く、あわてふためき、|殿内《でんない》|隈《くま》なく|侍女《じぢよ》に|命《めい》じて|探《さが》させたれど、|何《なん》の|手《て》がかりもなきままに、
『いとこやの|艶男《あでやか》は|今《いま》いづらなる
|生命《いのち》の|力《ちから》とたのみしものを
|故郷《ふるさと》にかへる|術《すべ》なき|波《なみ》の|上《へ》を
|如何《いかが》なしけむ|艶男《あでやか》の|君《きみ》
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》の|妻《つま》となりし
われを|恨《うら》みてかへらせ|給《たま》ふか
ともかくも|君《きみ》の|姿《すがた》ははしけやし
われは|力《ちから》にしづまりしものを
|君《きみ》なくばわれもこの|地《ち》に|住《す》む|心《こころ》
ひたに|消《き》えつつ|悲《かな》しさまさる
|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》はいま|何処《いづこ》
|御影《おんかげ》|見《み》えず|心《こころ》もとなや
|太刀膚《たちはだ》の|夫《つま》に|添《そ》へるもわが|兄《あに》の
ここにいますと|思《おも》へばなりけり
|父母《ちちはは》の|国《くに》にやすやすかへらむと
|思《おも》ひしことも|夢《ゆめ》となりけり
この|島《しま》に|一年《ひととせ》|二年《ふたとせ》|住《す》みしうへ
|君《きみ》を|力《ちから》に|去《さ》らむと|思《も》ひしを
|今《いま》となり|弥猛心《やたけごころ》も|消《き》え|失《う》せて
|生《い》くる|甲斐《かひ》なきわが|思《おも》ひかな
|山《やま》に|野《の》に|百花千草《ももばなちぐさ》|匂《にほ》へども
われにはかなしき|便《たよ》りなりけり
わが|心《こころ》|照《て》らさむ|術《すべ》もなかりけり
|光《ひかり》の|兄《あに》に|見捨《みす》てられしゆ
|日《ひ》に|夜《よる》に|厳《いづ》の|力《ちから》とたのみてし
|君《きみ》の|姿《すがた》のなきが|淋《さび》しき
|仰《あふ》ぎ|見《み》る|雲井《くもゐ》の|空《そら》も|湖原《うなばら》も
わが|繰言《くりごと》に|黙《もだ》しゐるかも
たよるべき|何物《なにもの》もなき|吾《われ》にして
|死《し》すより|他《ほか》にのぞみごとなし
|竜神《たつがみ》の|数多《あまた》|棲《す》まへるこの|島《しま》に
|人《ひと》の|身《み》ひとり|住《す》むは|淋《さび》しき
|太刀膚《たちはだ》の|夫《つま》に|朝夕《あさゆふ》|伊添《いそ》ひつつ
|百《もも》の|悩《なや》みに|耐《た》へて|来《き》しかな。
|伊吹《いぶき》の|山《やま》は|高《たか》くとも
|玉耶《たまや》の|湖《うみ》は|深《ふか》くとも
|天津御空《あまつみそら》は|澄《す》むとても
|身《み》の|置所《おきどころ》なき|身《み》には
|生命《いのち》|死《し》せむと|思《おも》へども
|寸鉄《すんてつ》もなき|今日《けふ》の|身《み》は
|何《なん》と|詮方《せんかた》なく|涙《なみだ》
|乾《かわ》くひまなきわが|袖《そで》の
|重《おも》き|憂《うれひ》に|沈《しづ》むなり
|神《かみ》がこの|世《よ》にましまさば
|波《なみ》の|上《へ》に|浮《う》く|島ケ根《しまがね》に
ひとり|苦《くる》しむ|妾神《わらはがみ》
|元《もと》の|御国《みくに》に|救《すく》はせ|給《たま》へ
とみかうみ
すればする|程《ほど》|情《なさけ》なや
|吾《われ》に|似通《にかよ》ふ|人《ひと》もなく
みな|太刀膚《たちはだ》の|竜神《たつがみ》ばかり
|言《こと》の|葉《は》さへもろくろくに
|通《かよ》はぬ|今日《けふ》の|苦《くる》しさよ
つらつら|思《おも》ひめぐらせば
|父《ちち》と|母《はは》との|御言葉《おんことば》
|軽《かる》く|聞《き》きたる|報《むく》いにて
|夢《ゆめ》にも|知《し》らぬこの|島《しま》に
|竜《たつ》の|使《つかひ》にさらはれて
|渡《わた》り|来《き》つるも|罪《つみ》のため
|許《ゆる》させ|給《たま》へ|天津神《あまつかみ》
|国津神等《くにつかみたち》|八百万《やほよろづ》の
|貴《うづ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|竜《たつ》の|島根《しまね》は|沈《しづ》むとも
|朝夕《あさゆふ》|恋《こ》ふる|艶男《あでやか》の
|君《きみ》に|対《たい》して|二心《ふたごころ》
われあるべきや|兄《あに》の|君《きみ》よ
|妾《わらは》が|心《こころ》の|赤《あか》きをば
|悟《さと》らせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》
|神《かみ》かけ|誓《ちか》ひ|奉《たてまつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|恩頼《みたまのふゆ》をたまへかし』
|斯《か》く|歎《なげ》きの|歌《うた》を|宣《の》らす|折《をり》しも、|忽然《こつぜん》としてここに|現《あら》はれたる|侍女神《じぢよしん》あり。よくよく|見《み》れば、|艶男《あでやか》に|生命《いのち》までもと|焦《こが》れたる|白萩《しらはぎ》なりけり。|白萩《しらはぎ》は|弟姫神《おとひめがみ》の|前《まへ》ににじり|寄《よ》り、|涙《なみだ》|片手《かたて》に|歌《うた》ふ。
『わが|恋《こ》ふる|君《きみ》は|見《み》えなくなりましぬ
|朝夕《あさゆふ》|慕《した》ふ|生命《いのち》の|君《きみ》は
|燕子花《かきつばた》|姫《ひめ》の|姿《すがた》も|見《み》えずなりぬ
|二人《ふたり》は|波《なみ》の|秀《ほ》|踏《ふ》みましにけむ
|波路《なみぢ》はろか|水上《みなかみ》の|山《やま》にかへります
よすがは|絶《た》えてあらざるものを
|弟姫《おとひめ》の|御君《おんきみ》|如何《いか》に|思召《おぼしめ》すや
|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|御舎《おんみあらか》を
|悲《かな》しさの|涙《なみだ》は|雨《あめ》と|降《ふ》りしきり
わが|直垂《ひたたれ》の|袖《そで》の|重《おも》さよ
その|昔《かみ》か|今《いま》は|現《うつつ》かわかぬまで
わが|魂《たましひ》は|狂《くる》ひけらしな
|夢現《ゆめうつつ》まぼろしなるよ|艶男《あでやか》の
|君《きみ》の|光《ひかり》は|闇《やみ》と|消《き》えつつ』
|弟姫神《おとひめがみ》の|麗子《うららか》、これに|答《こた》へて、
『かなしさの|思《おも》ひは|同《おな》じ|吾《われ》とても
|心《こころ》|乱《みだ》れて|夢現《ゆめうつつ》なる
|吾《われ》は|今《いま》|心《こころ》|騒《さわ》ぎてありにけり
|今《いま》しばらくを|奥《おく》にてやすまむ』
と|宣《の》り|終《をは》り、|奥殿《おくでん》|深《ふか》く|入《い》らせ|給《たま》ふ。|白萩《しらはぎ》は|只一人《ただひとり》|悄然《せうぜん》と|大殿《おほとの》を|降《くだ》りて、|庭園《ていゑん》を|力《ちから》もなげに|逍遥《せうえう》しながら、|清池《きよいけ》の|汀辺《みぎはべ》に|着《つ》き、|琴滝《ことだき》の|漲《みなぎ》り|落《お》つる|音《おと》を|聞《き》きつつ、|心《こころ》の|憂《う》さを|晴《は》らさむと|努《つと》めてゐる。
『|鏡湖《かがみこ》ゆ|落《お》つる|滝水《たきみづ》さやさやに
|苦《くる》しき|膚《はだ》を|洗《あら》ひ|流《なが》せよ
|今《いま》となり|悔《くや》むも|泣《な》くも|詮《せん》なけれ
かなしき|涙《なみだ》は|滝《たき》とおつれど
|艶男《あでやか》の|君《きみ》に|従《したが》ひ|燕子花《かきつばた》は
ともにその|身《み》を|忍《しの》ばせにけむ
|如何《いか》にして|君《きみ》の|隠家《かくれが》|探《たづ》ねむと
|思《おも》ふは|一人《ひとり》|吾《われ》のみならず
この|宮《みや》に|仕《つか》ふる|女神《めがみ》のことごとは
われと|等《ひと》しく|歎《なげ》きに|沈《しづ》まむ
かかる|世《よ》に|生《い》きて|歎《なげ》きにあふよりも
|湖《うみ》の|藻屑《もくず》となりて|果《は》てばや』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|差《さ》し|足《あし》|抜《ぬ》き|足《あし》、|忍《しの》び|寄《よ》る|女神《めがみ》は|白菊《しらぎく》であつた。|白菊《しらぎく》はかすかに|歌《うた》ふ。
『|滝津瀬《たきつせ》を|眺《なが》めて|泣《な》ける|姫神《ひめがみ》は
|君《きみ》の|行方《ゆくへ》をしら|萩《はぎ》の|君《きみ》か
|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|行方《ゆくへ》もしら|菊《ぎく》の
|吾《われ》はかなしき|乙女《をとめ》なりけり
|滝津瀬《たきつせ》の|音《おと》|聞《き》くさへも|何《なに》かしら
|今日《けふ》はさみしく|思《おも》はるるかな
われもまた|同《おな》じ|思《おも》ひの|白菊《しらぎく》の
|血《ち》に|泣《な》くかなしき|乙女《をとめ》なりけり』
|此《こ》の|声《こゑ》に|白萩《しらはぎ》は|驚《おどろ》き、|後振《あとふ》り|返《かへ》り、|涙《なみだ》にしめる|目《め》をしばたたきながら、
『|白菊《しらぎく》の|君《きみ》にありしか|滝津瀬《たきつせ》の
|吾《われ》は|涙《なみだ》をしぼりゐにけり
わが|恋《こ》ひし|光《ひかり》の|君《きみ》の|影《かげ》|消《き》えて
|心《こころ》さみしき|朝《あさ》なりにけり
|大空《おほぞら》の|雲井《くもゐ》の|外《そと》まで|探《たづ》ねむと
|思《おも》へど|詮《せん》なし|翼《つばさ》あらぬ|身《み》よ』
|白菊《しらぎく》は|歌《うた》ふ。
『われもまた|君《きみ》の|行方《ゆくへ》をしら|菊《ぎく》の
|花《はな》はづかしき|歎《なげ》きするかな
|月《つき》は|落《お》ち|湖《うみ》はあせなむ|世《よ》ありとも
この|恋心《こひごころ》|永久《とは》に|失《う》すべき
|掌中《しやうちう》の|玉《たま》をとられし|心地《ここち》して
|朝夕《あしたゆふべ》を|歎《なげ》きに|暮《く》るるも』
(昭和九・七・一九 旧六・八 於関東別院南風閣 内崎照代謹録)
第一七章 |還元竜神《くわんげんりうじん》〔一九九八〕
|白萩《しらはぎ》は|白菊《しらぎく》と|共《とも》に|深《ふか》き|憂《うれひ》に|沈《しづ》みながら、|百津桂樹《ゆつかつらぎ》の|森《もり》に|分《わ》け|入《い》り、|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》|泣《な》かむものと、|籠樹《こもりぎ》の|蔭《かげ》に|立《た》ちて|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》ふ。
|白菊《しらぎく》『|匂《にほ》へども|手折《たを》る|人《ひと》なき|一本《ひともと》の
あはれ|野菊《のぎく》は|吾《われ》なりにけり
|伊吹山《いぶきやま》|嵐《あらし》にふるふ|一本《ひともと》の
あはれ|野菊《のぎく》はいづらになびかむ
いろいろと|花《はな》は|匂《にほ》へど|白菊《しらぎく》の
|花《はな》はかなしも|草《くさ》にかくれて
|艶男《あでやか》の|花《はな》の|香《かを》りはいづらなる
|風《かぜ》の|便《たよ》りを|聞《き》くよしもなし
|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|手折《たを》らす|白菊《しらぎく》の
|花《はな》はもとより|枯《か》れむとすらむ
きせ|綿《わた》を|吹《ふ》きはらはれし|白菊《しらぎく》の
|花《はな》は|涙《なみだ》の|露《つゆ》にしをれつ
|吾《わが》|恋《こ》ふる|君《きみ》の|情《なさけ》の|露《つゆ》もなく
あはれ|白菊《しらぎく》|枯《か》れなむとすも
|滝津瀬《たきつせ》のしぶきの|露《つゆ》も|白菊《しらぎく》の
|吾《われ》ははかなき|生命《いのち》なるかも
|八重《やへ》に|咲《さ》く|竜《たつ》の|宮居《みやゐ》の|白菊《しらぎく》の
|花《はな》|恥《はづ》かしも|水鏡《みづかがみ》|見《み》れば
|八千年《やちとせ》の|菊《きく》の|香《かを》りを|楽《たの》しみし
|甲斐《かひ》もあらなく|秋風《あきかぜ》|吹《ふ》きぬ
|白菊《しらぎく》をかざして|御前《みまへ》に|奉《たてまつ》ると
|思《おも》ひしことは|夢《ゆめ》なりしかな
|白銀《しろがね》の|色香《いろか》を|保《たも》つ|白菊《しらぎく》の
|薫《かを》りはあせて|木枯《こがらし》|寒《さむ》し
|君《きみ》は|淡《うす》く|吾《われ》|白菊《しらぎく》の|色《いろ》は|濃《こ》く
|在《あ》りしその|日《ひ》をしのべばかなし
|竜神《たつがみ》の|貴《うづ》の|島根《しまね》に|匂《にほ》ひてし
|花《はな》ははかなく|木枯《こがらし》に|散《ち》るも
|吾《わが》|思《おも》ふ|心《こころ》の|丈《たけ》も|白菊《しらぎく》の
|君《きみ》は|雲井《くもゐ》にのぼりましけむ
なげきても|返《かへ》らぬものと|思《おも》ひつつ
なほ|歎《なげ》かるる|森《もり》の|下《した》かげ
|君《きみ》ゆゑに|生《い》きの|生命《いのち》の|延《の》びちぢみ
ある|世《よ》はかなし|泡沫《うたかた》の|夢《ゆめ》
|会《あ》はざればかくも|心《こころ》をいためまじ
|君《きみ》が|色香《いろか》のあせたるくるしさ』
|白萩《しらはぎ》は|歌《うた》ふ。
『|君《きみ》は|早《は》や|吾《われ》の|姿《すがた》にあき|萩《はぎ》の
うてなに|吹《ふ》ける|木枯《こがらし》なりしよ
|白萩《しらはぎ》の|露《つゆ》にかたむくよそほひを
|君《きみ》はいとひて|雲《くも》がくれせしか
|歎《なげ》けども|如何《いか》にせむすべしら|萩《はぎ》の
|吾《われ》はかなしき|花《はな》なりにけり
|天《あま》かけり|地《くに》かけるとも|恋《こ》ふる|君《きみ》の
|後《あと》をば|追《お》はむとひたに|思《おも》ふも
いたづらに|死《し》する|生命《いのち》の|思《おも》はれて
|今《いま》|一度《ひとたび》を|会《あ》はむとぞ|思《おも》ふ
|吾《わが》|心《こころ》|清《きよ》く|正《ただ》しく|花《はな》|咲《さ》けば
|想像妊娠《おもひはら》まむ|白萩《しらはぎ》の|露《つゆ》
あざやかに|御国《みくに》に|匂《にほ》ふ|白萩《しらはぎ》の
|花《はな》もしをれぬ|乾《かわ》ける|露《つゆ》に
|白萩《しらはぎ》の|露《つゆ》の|生命《いのち》は|惜《を》しまねど
|想像妊娠《おもひはら》みし|子《こ》をいかにせむ
この|里《さと》の|女神《めがみ》はことごと|艶男《あでやか》の
|御子《みこ》をまさしく|想像妊娠《おもひはら》める
よしやよし|貴《うづ》のうまし|子《ご》|生《う》まるとも
|父《ちち》なき|思《おも》へば|如何《いか》にかなしき』
かかる|時《とき》、|同《おな》じ|思《おも》ひの|女郎花《をみなへし》は|長袖《ながそで》に|面《おもて》を|覆《おほ》ひながら、|只一人《ただひとり》|悄然《せうぜん》として|入《い》り|来《きた》り、|桂樹《かつらぎ》の|蔭《かげ》に|二人《ふたり》の|女神《めがみ》のひそめるを|見《み》て、|稍《やや》|驚《おどろ》きながら、
『|伊吹山《いぶきやま》|匂《にほ》ふ|白萩《しらはぎ》、|白菊《しらぎく》の
|君《きみ》にまさずや|吾《われ》は|女郎花《をみなへし》よ
よもすがら|君《きみ》の|姿《すがた》の|見《み》えぬより
|吾《われ》はい|寝《ね》ずに|明《あ》けにけらしな
|姫神《ひめがみ》はいづれも|姿《すがた》をかくしつつ
あなたこなたの|樹蔭《こかげ》に|歎《なげ》けり
|吾《われ》も|亦《また》|人目《ひとめ》をよぎて|泣《な》かむかと
この|森《もり》かげにしのび|来《き》にけり』
|白菊《しらぎく》、|白萩《しらはぎ》は、|女郎花《をみなへし》の|来《きた》れるに|驚《おどろ》きの|目《め》を見はりながら、|恥《はづ》かしげに|歌《うた》ふ。
『|恋《こひ》すてふ|心《こころ》はおなじ|友垣《ともがき》の
|共泣《むたな》く|今日《けふ》はかなしき|日《ひ》なるよ
|歎《なげ》くとも|及《およ》ばざるらむ|天地《あめつち》の
|神《かみ》に|祈《いの》りて|会《あ》ふ|日《ひ》|待《ま》つべし
せむすべも|泣《な》く|泣《な》く|吾《われ》は|森蔭《もりかげ》に
|恥《はぢ》をしのびて|歎《なげ》かひ|居《ゐ》るなり』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも、|百津桂樹《ゆつかつらぎ》の|森《もり》をそよがせて|入《い》り|来《きた》る|神《かみ》あり。よくよく|見《み》れば|思《おも》ひきや、|生命《いのち》をかけて|恋《こ》ひ|慕《した》ふ|艶男《あでやか》の|姿《すがた》なりける。
|三人《さんにん》の|女神《めがみ》は、はつと|驚《おどろ》きながら|物《もの》をも|得言《えい》はず、|呆然《ばうぜん》として|清《すが》しき|男子《をのこ》の|姿《すがた》を|眺《なが》め|居《ゐ》る。|艶男《あでやか》は|百津桂樹《ゆつかつらぎ》の|茂枝《しげりえ》に|直立《ちよくりつ》しながら|静《しづか》に|歌《うた》ふ。
『|真心《まごころ》の|綱《つな》に|引《ひ》かれて|吾《われ》は|今《いま》
|生言霊《いくことたま》に|渡《わた》り|来《きた》れり
|姫神《ひめがみ》の|歎《なげ》きは|知《し》らぬにあらねども
|今日《けふ》の|吾《わが》|身《み》を|許《ゆる》し|給《たま》はれ
|身体《からたま》は|水上山《みなかみやま》に|帰《かへ》りたり
|君《きみ》にひかるる|御魂《みたま》の|吾《われ》よ
|水上山《みなかみやま》|遠《とほ》く|帰《かへ》ると|思《おも》へども
|汝《なれ》が|誠《まこと》の|力《ちから》に|動《うご》けず
|兎《と》も|角《かく》も|吾《われ》を|許《ゆる》せよいく|年《とせ》の
|後《のち》には|必《かなら》ず|来《きた》りまみえむ
|燕子花《かきつばた》|姫《ひめ》は|水上《みなかみ》の|山《やま》に|在《あ》りて
|輝《かがや》きにけむ|国人《くにびと》の|上《へ》に
|伊吹山《いぶきやま》|麓《ふもと》に|匂《にほ》ふ|白萩《しらはぎ》の
やさしき|心《こころ》|吾《われ》|忘《わす》れめや
|白菊《しらぎく》の|清《きよ》きよそほひ|如何《いか》にして
|吾《われ》は|忘《わす》れむ|暫《しば》しを|待《ま》ちませ
|女郎花《をみなへし》やさしき|花《はな》の|御手振《みてぶ》りを
|恋《こひ》しく|楽《たの》しく|心《こころ》に|止《とど》むる
いざさらば|吾《われ》は|伊吹《いぶき》の|山《やま》の|上《へ》に
|身魂《みたま》|鎮《しづ》めて|御園《みその》を|守《まも》らむ』
と|言《い》ひつつ、さつと|吹《ふ》く|湖風《うなかぜ》に|艶男《あでやか》は|霊身《れいしん》をのせ、|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》を|取《と》り|巻《ま》く|白雲《しらくも》の|奥《おく》|深《ふか》くかくれける。
ここに|白萩《しらはぎ》、|白菊《しらぎく》、|女郎花《をみなへし》の|三女神《さんぢよしん》は、|艶男《あでやか》、|燕子花《かきつばた》の|二人《ふたり》は|肉体《にくたい》|共《とも》に|水上《みなかみ》の|山《やま》|深《ふか》く|住《す》めることを|悟《さと》り、|矢《や》も|楯《たて》もたまらず、|如何《いか》にしても|玉耶湖《たまやこ》を|打《う》ち|渡《わた》り、|日頃《ひごろ》の|思《おも》ひを|達《たつ》せむと、|忽《たちま》ち|元《もと》の|竜体《りうたい》と|変《へん》じ、ざんぶと|許《ばか》り|湖中《こちう》に|飛《と》び|込《こ》み、|波《なみ》の|面《おもて》をおよぎながら、|南《みなみ》をさして|進《すす》み|行《ゆ》く|事《こと》とはなりぬ。
|漸《やうや》くにして|三柱《みはしら》の|竜神《りうじん》は、|浦水《うらみ》の|浜辺《はまべ》に|安着《あんちやく》せるが、|恰《あだか》も|月《つき》|照《て》り|渡《わた》る|真夜中頃《まよなかごろ》なりければ、|大井川《おほゐがは》の|川口《かはぐち》より|窃《ひそか》に|水上山《みなかみやま》の|聖地《せいち》をさして|上《のぼ》る|事《こと》とはなりぬ。|一旦《いつたん》|還元《くわんげん》したる|竜神《りうじん》は|容易《ようい》に|人面《にんめん》を|保《たも》つ|事《こと》|能《あた》はず、|大井川《おほゐがは》の|対岸《たいがん》なる|藤《ふぢ》の|丘《をか》と|言《い》ふ|樹木《じゆもく》|密生《みつせい》せる|個所《かしよ》に|忍《しの》び|棲《す》む|事《こと》とはなりぬ。
|之《これ》より|艶男《あでやか》は|三竜神《さんりうじん》の|魂《たましひ》に|夜《よ》な|夜《よ》な|引《ひ》き|込《こ》まれ、|俄《にはか》に|大井川《おほゐがは》の|川辺《かはべ》|恋《こひ》しくなりて、|遑《いとま》ある|毎《ごと》に|駒《こま》をうたせ|川《かは》を|渡《わた》りて、|藤ケ丘《ふぢがをか》の|谷間《たにま》に|遊《あそ》びける。
|波《なみ》の|花《はな》|栄居《さかゐ》の|浜《はま》も|竜神《たつがみ》の
|渡《わた》り|来《き》しより|浦水《うらみ》の|浜《はま》とふ。
(昭和九・七・一九 旧六・八 於関東別院南風閣 谷前清子謹録)
第一八章 |言霊《ことたま》の|幸《さち》〔一九九九〕
ゆくりなくも|竜《たつ》の|島《しま》の|花《はな》と|称《たた》へし|艶男《あでやか》の|君《きみ》の、|一夜《いちや》のうちに|姿《すがた》|消《き》え|失《う》せしより、|大竜身彦《おほたつみひこ》の|命《みこと》を|始《はじ》め、|弟姫《おとひめ》の|神《かみ》は|歎《なげ》かひの|余《あま》り、|奥殿《おくでん》|深《ふか》く|御戸《おんと》を|閉《とざ》して|入《い》り|給《たま》ひ、|七日七夜《なぬかななよ》を|経《ふ》るも|表《おもて》に|出《い》でさせ|給《たま》はず、|流石《さすが》|華《はな》やかなりし|黄金花《こがねはな》|咲《さ》く|竜《たつ》の|島《しま》も、|火《ひ》の|消《き》えし|如《ごと》き|寂寥《せきれう》の|神苑《みその》となりける。それに|加《くは》へて|白菊《しらぎく》、|白萩《しらはぎ》、|女郎花《をみなへし》、|燕子花《かきつばた》の|七乙女《ななをとめ》は、|半《なか》ば|以上《いじやう》この|島《しま》より|影《かげ》をかくしたれば、|寂寥《せきれう》ますます|加《くは》はり、|烏羽玉《うばたま》の|闇《やみ》の|幕《まく》は|深《ふか》く|閉《とざ》しける。
|七乙女《ななをとめ》の|中《なか》に|取《と》り|残《のこ》されし|撫子《なでしこ》、|桜木《さくらぎ》、|藤袴《ふぢばかま》を|始《はじ》め、|数限《かずかぎ》りなき|島ケ根《しまがね》の|姫神《ひめがみ》たちは、|歎《なげ》きの|余《あま》り|伊吹山《いぶきやま》の|南面《なんめん》|中腹《ちうふく》に|展開《てんかい》せる|鏡湖《かがみこ》の|汀《みぎは》に|集《あつま》り|来《きた》り、|天《てん》を|仰《あふ》ぎ、|地《ち》に|俯《ふ》して、|日夜《にちや》|慟哭《どうこく》しながら、|各自《おのもおのも》に|述懐《じゆつくわい》を|述《の》べ|居《ゐ》たりける。
|撫子《なでしこ》は|歌《うた》ふ。
『|物思《ものおも》ふ|心《こころ》は|一入《ひとしほ》|深《ふか》みたり
|恋《こ》ふしき|君《きみ》の|姿《すがた》なければ
|橘《たちばな》のあかぬ|匂《にほ》ひに|染《そま》りたる
|嬉《うれ》しき|夢《ゆめ》も|覚《さ》め|果《は》てにけり
|撫子《なでしこ》と|覚《め》でさせ|給《たま》ひしその|君《きみ》は
|今《いま》はいづらの|里《さと》にいますや
|移《うつ》りゆく|花《はな》の|香《かを》りと|思《おも》へども
|果敢《はか》なきものは|吾《わが》|身《み》なりけり
なかなかに|手折《たを》りかねたるはつはなの
|惜《を》しくも|風《かぜ》に|散《ち》りゆきしはや
|別《わか》れ|路《ぢ》を|惜《を》しむ|心《こころ》は|湖《みづうみ》の
|鏡《かがみ》に|見《み》えて|小波《さざなみ》のうつも
|春雨《はるさめ》は|夜《よ》の|間《ま》に|降《ふ》りてあはれあはれ
|桜《さくら》の|君《きみ》は|散《ち》り|果《は》てにけり
|一度《ひとたび》は|散《ち》るべき|花《はな》と|思《おも》ひつつ
なほ|惜《を》しまるる|春《はる》の|宵《よひ》かな
|幾日《いくにち》|幾夜《いくよ》|竜《たつ》の|乙女《をとめ》の|憧《あこが》れし
|島山桜《しまやまざくら》はあとかたもなし
|山風《やまかぜ》に|誘《さそ》はれて|散《ち》りし|初花《はつはな》の
|行方《ゆくへ》も|波《なみ》の|空《そら》に|消《き》えしか』
|桜木《さくらぎ》は|歌《うた》ふ。
『|散《ち》らさじと|思《おも》ひ|初《そ》めにし|桜木《さくらぎ》の
|花《はな》|恥《はづ》かしき|色《いろ》はうつれり
|心《こころ》なき|花《はな》の|姿《すがた》に|憧《あこが》れて
|綻《ほころ》び|初《そ》めしわれなりにけり
やがて|散《ち》る|花《はな》にも|蝶《てふ》のとまり|来《き》て
|惜《を》しむを|知《し》らぬ|山桜《やまざくら》かな
わが|身《み》には|仇花《あだばな》なりと|知《し》りながら
|散《ち》りたるあとの|惜《を》しまるるかな
|朝夕《あさゆふ》に|心《こころ》を|尽《つく》して|珍《めづら》しみし
|島山桜《しまやまざくら》あはれ|影《かげ》なし
|常春《とこはる》の|島《しま》に|匂《にほ》ひし|初花《はつはな》の
|露《つゆ》の|香《かを》りは|失《う》せにけらしな
|山《やま》に|野《の》に|花《はな》は|匂《にほ》へど|艶男《あでやか》の
|君《きみ》に|勝《まさ》れる|顔《かむばせ》はなし
かくの|如《ごと》|歎《なげ》きの|花《はな》と|知《し》らざりき
|嵐《あらし》も|吹《ふ》かで|散《ち》りゆく|君《きみ》を
|汀辺《みぎはべ》に|伊寄《いよ》り|集《つど》ひて|歎《なげ》けども
|何時《いつ》|帰《かへ》りますてだてだになし
|桜《さくら》|咲《さ》くこの|島ケ根《しまがね》に|残《のこ》されて
|空《そら》に|知《し》られぬ|雨《あめ》にくるるも
さまざまの|望《のぞ》み|抱《いだ》きて|今日《けふ》までも
あり|経《へ》しものを|如何《いか》にとやせむ
|橘《たちばな》の|花《はな》にも|似《に》たる|吾《きみ》|故《ゆゑ》に
|恋《こ》ふしさ|一入《ひとしほ》|深《ふか》かりにけり
|千早振《ちはやぶ》る|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より
かくうるはしき|君《きみ》はなかりし
|竜宮《りうぐう》の|宝《たから》の|花《はな》と|仰《あふ》ぎてし
|花橘《はなたちばな》の|香《か》は|失《う》せにけり
|雲霧《くもきり》となりてかくれし|艶男《あでやか》の
|花《はな》の|姿《すがた》の|惜《を》しまるるかな』
|藤袴《ふぢばかま》は|歌《うた》ふ。
『|現身《うつそみ》の|世《よ》は|悲《かな》しけれこの|島《しま》に
|果敢《はか》なくわれは|朽《く》ちむとするか
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》の|綱《つな》と|頼《たの》みてし
|力《ちから》の|君《きみ》は|今《いま》やいまさず
|藤袴《ふぢばかま》の|花《はな》はもろくも|夜《よ》の|雨《あめ》に
|打《う》ちたたかれて|涙《なみだ》しにけり
|夜《よ》もすがら|地《つち》に|伏《ふ》しつつ|歎《なげ》けども
|生《い》くべき|生命《いのち》と|思《おも》はざりけり
|池《いけ》の|辺《べ》に|紫《むらさき》|匂《にほ》ふ|燕子花《かきつばた》の
|花《はな》の|姿《すがた》も|見《み》えずなりけり
|白萩《しらはぎ》の|花《はな》は|夜《よ》の|間《ま》に|散《ち》り|失《う》せて
|神苑《みその》|寂《さび》しくなりにけらしな
いづ|方《かた》に|散《ち》り|果《は》てたるか|白菊《しらぎく》の
|花《はな》の|香《かを》りは|早《は》や|島《しま》になし
|伊吹山《いぶきやま》|処《ところ》|狭《せ》きまで|匂《にほ》ひたる
|女郎花《をみなへし》|今《いま》かげだにもなし
|百花《ももばな》の|匂《にほ》ふも|知《し》らで|逃《に》げさりし
|人《ひと》の|心《こころ》をうらめしみおもふ』
|雛罌粟《ひなげし》は|歌《うた》ふ。
『|雛罌粟《ひなげし》の|花《はな》は|萎《しを》れてかげ|寂《さび》し
|君《きみ》の|光《ひかり》りのかくれましてゆ
|朝夕《あさゆふ》をかこち|歎《なげ》けど|口《くち》なしの
|花《はな》|恥《はづ》かしも|君《きみ》は|見《み》えなく
この|島《しま》は|歎《なげ》きの|島《しま》か|雛罌粟《ひなげし》の
|露《つゆ》は|恵《めぐ》みに|捨《す》てられにける
かくの|如《ごと》|歎《なげ》かひの|日《ひ》にあはむとは
|思《おも》はざりしよ|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを
|百年《ももとせ》も|千年《ちとせ》も|君《きみ》にまみえむと
|願《ねが》ひし|事《こと》は|夢《ゆめ》なりしかな
|夜《よ》な|夜《よ》なを|夢《ゆめ》にまみえて|楽《たの》しみし
|花《はな》の|姿《すがた》は|見《み》る|由《よし》もなき
|風《かぜ》|吹《ふ》かばその|君《きみ》|思《おも》ひ|雨《あめ》|降《ふ》らば
|又《また》しのばるる|花《はな》なりにけり
|汀辺《みぎはべ》に|打《う》ち|寄《よ》す|波《なみ》も|淋《さび》しげに
|聞《きこ》え|来《く》るなり|花《はな》なき|島根《しまね》は
|百千花《ももちばな》|咲《さ》き|匂《にほ》へども|橘《たちばな》の
|君《きみ》のよそほひ|仰《あふ》ぐ|術《すべ》なし
|月《つき》も|日《ひ》も|輝《かがや》き|給《たま》ふこの|島《しま》に
|住《す》みて|小暗《をぐら》きわが|思《おも》ひかな』
|島《しま》の|女神《めがみ》たちは、|各自《おのもおのも》|別《わか》れを|惜《を》しみ、|歎《なげ》きの|歌《うた》をうたひつつ、|悄然《せうぜん》たる|折《をり》もあれ、|鏡湖《かがみこ》の|水《みづ》を|左右《さいう》に|別《わか》ちて、|悠々《いういう》と|昇《のぼ》り|来《きた》る|女神《めがみ》は、|海津見姫《わだつみひめ》の|神《かみ》に|坐《ま》しまし、|以前《いぜん》の|如《ごと》く|二柱《ふたはしら》の|侍女神《じぢよしん》を|伴《ともな》ひ|給《たま》へり。|数多《あまた》の|姫神《ひめがみ》たちは、はつと|一度《いちど》に|汀《みぎは》にひれ|伏《ふ》し|敬意《けいい》を|表《へう》しつつありけるが、|海津見《わだつみ》の|神《かみ》は|汀辺《みぎはべ》にスツクと|立《た》たせ|給《たま》ひ、|儼然《げんぜん》として|宣《の》り|給《たま》ふやう、
『|竜神《たつがみ》の|歎《なげ》きおもひてわれは|今《いま》
|宮《みや》の|大門《おほど》を|開《ひら》き|来《き》つるよ
|艶男《あでやか》の|逃《に》げ|去《さ》りたるも|竜神《たつがみ》の
|姿《すがた》に|怖《お》ぢさせ|給《たま》へばなりけむ
|今日《けふ》よりは|各自《おのもおのも》に|言霊《ことたま》を
|宣《の》れよ|歌《うた》へよ|人《ひと》となるまで
|竜神《たつがみ》の|木草《きくさ》も|土《つち》も|悉《ことごと》く
|生《い》きて|栄《さか》えて|言霊《ことたま》を|宣《の》れ
|言霊《ことたま》の|光《ひかり》しあれば|竜神《たつがみ》の
あやしき|姿《すがた》も|世《よ》に|輝《かがや》かむ
|太刀膚《たちはだ》の|見苦《みぐる》しき|姿《すがた》|改《あらた》めて
|玉《たま》の|肌《はだ》|持《も》つ|人《ひと》の|子《こ》となれ
|言霊《ことたま》の|助《たす》くる|国《くに》に|生《あ》れながら
|怠《おこた》りしはやこの|島人《しまびと》は
わが|宣《の》らむ|生言霊《いくことたま》に|神《かむ》ならひ
|時《とき》じく|宣《の》らへ|貴《うづ》の|言霊《ことたま》
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》』
と|宣《の》り|終《を》へ、|再《ふたた》び|波《なみ》を|左右《さいう》に|引《ひ》き|分《わ》け、|海津見《わだつみ》の|宮《みや》を|指《さ》して|帰《かへ》らせ|給《たま》ひける。
これより|島根《しまね》の|竜神《たつがみ》は、|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なく、|覚束《おぼつか》なき|声《こゑ》を|放《はな》ちて、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|宣《の》りければ、|約《やく》|一ケ年《いつかねん》の|後《のち》には、|全《まつた》き|人身《じんしん》と|生《うま》れ|替《かは》り、|世《よ》にも|目出度《めでた》き|宝《たから》の|島《しま》、|美人《びじん》の|島《しま》、|生命《いのち》の|島《しま》と|称《たた》へらるるに|至《いた》りけり。
ああ|尊《たふと》きかも|言霊《ことたま》の|妙用《めうよう》。
(昭和九・七・一九 旧六・八 於関東別院南風閣 林弥生謹録)
第一九章 |大井《おほゐ》の|淵《ふち》〔二〇〇〇〕
|水上山《みなかみやま》の|神館《かむやかた》は、|艶男《あでやか》の|帰《かへ》り|来《きた》りしより、|忽《たちま》ち|歓楽郷《くわんらくきやう》と|化《くわ》し、|豊《ゆた》かなる|木《こ》の|実《み》、|野菜《やさい》|等《とう》を|食《しよく》して、|此《この》|辺《あた》りの|国津神等《くにつかみたち》は|生活《せいくわつ》の|苦《く》も|知《し》らず、|天地《てんち》の|恵《めぐみ》に|浴《よく》し、|至治泰平《しちたいへい》の|御代《みよ》を|謳歌《おうか》せり。|艶男《あでやか》は|燕子花《かきつばた》を|此上《こよ》なきものと|愛《め》でいつくしみ、|朝夕《あしたゆふべ》を|庭園《ていゑん》に|出《い》で、|睦《むつ》まじく|手《て》を|取《と》り|逍遥《せうえう》しつつありしが、|燕子花《かきつばた》は|何故《なにゆゑ》か|水辺《すいへん》を|好《この》み、|大井川《おほゐがは》の|清流《せいりう》をじつと|見詰《みつ》めて|浮《う》かざるが|常《つね》なりける。
|艶男《あでやか》は|燕子花《かきつばた》の|様子《やうす》を|怪《あや》しみながら、|歌《うた》もて|姫《ひめ》の|心《こころ》を|探《さぐ》らむと、|声《こゑ》も|清《すが》しく|歌《うた》ひける。
『|水《みづ》|清《きよ》き|此《この》|川《かは》の|辺《べ》に|佇《たたず》みて
|物思《ものも》ひげなる|君《きみ》のあやしさ
|汝《な》が|面《おもて》よくよく|見《み》ればまなかひに
|赤《あか》き|涙《なみだ》を|浮《うか》ばせ|給《たま》へる
|古里《ふるさと》の|恋《こひ》しき|故《ゆゑ》か|汀辺《みぎはべ》に
|立《た》たせる|君《きみ》の|面《おも》は|淋《さび》しき
|燕子花《かきつばた》|咲《さ》き|匂《にほ》ひたる|汀辺《みぎはべ》も
|幾度《いくたび》|見《み》れば|飽《あ》くべきものを
|川《かは》の|辺《べ》のわれは|遊《あそ》びに|飽《あ》きはてぬ
されども|君《きみ》は|恋《こひ》しげなりけり』
|燕子花《かきつばた》は|覚束《おぼつか》なき|声《こゑ》にて|歌《うた》ふ。
『わが|君《きみ》の|言葉《ことば》|畏《かしこ》しわれは|只《ただ》
|流《なが》るる|水《みづ》の|恋《こひ》しかりけり
|日《ひ》に|一度《いちど》|川水《かはみづ》の|流《なが》れ|眺《なが》めずば
わが|身体《からたま》は|燃《も》えむとするも
|竜神《たつがみ》の|性《さが》を|保《たも》つか|吾《わが》|身体《からだ》
|流《なが》るる|水《みづ》を|慕《した》はしと|思《おも》ふ
わが|君《きみ》の|御許《みゆる》しあらば|衣《きぬ》ぬぎて
|此《この》|川中《かはなか》に|浸《ひた》らむものを』
|艶男《あでやか》は|答《こた》へて|歌《うた》ふ。
『|汝《な》が|願《ねがひ》いとも|易《やす》けし|村肝《むらきも》の
|心《こころ》のままに|浸《ひた》らせ|給《たま》へ
|月《つき》も|日《ひ》も|流《なが》るる|大井《おほゐ》の|川水《かはみづ》は
|花《はな》の|香《か》|漂《ただよ》ふ|泉《いづみ》なりけり
|川底《かはそこ》の|真砂《まさご》も|照《て》れり|行《ゆ》く|水《みづ》の
|膚《はだ》を|透《すか》して|日《ひ》の|流《なが》るれば
|夕《ゆふ》ざれば|月《つき》の|流《なが》るる|大井川《おほゐがは》
|居《ゐ》ながらに|見《み》るわが|身《み》は|清《すが》しも』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『|素裸《すはだか》となるは|恥《はづ》かし|願《ねが》はくば
われのみ|一人《ひとり》|川《かは》に|入《い》りたし
|御心《みこころ》の|花《はな》を|散《ち》らすか|知《し》らねども
|夕《ゆふ》べの|川《かは》に|一人《ひとり》|浴《あ》みたし』
|艶男《あでやか》は|稍《やや》|色《いろ》をなしながら|歌《うた》ふ。
『|心《こころ》なき|事《こと》を|宣《の》らすよ|鴛鴦《をしどり》の
|番《つがひ》はなれぬ|契《ちぎ》りならずや
|秋風《あきかぜ》は|川《かは》の|面《おもて》に|吹《ふ》きつけて
|汀《みぎは》の|萩《はぎ》は|散《ち》らむとぞする
よしやよし|汝《なれ》の|心《こころ》は|離《さか》るとも
われは|忘《わす》れじ|貴《うづ》のよそほひ』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『かくまでも|思《おも》はす|君《きみ》の|真心《まごころ》に
そむく|思《おも》へば|悲《かな》しかりけり
|折々《をりをり》は|元津姿《もとつすがた》に|立《た》ちかへり
わが|身体《からたま》を|清《きよ》めたく|思《おも》ふ
わが|姿《すがた》|君《きみ》に|見《み》らるる|苦《くる》しさに
かくも|情《つれ》なきことを|宣《の》りつる
|背《せ》の|君《きみ》よ|広《ひろ》き|心《こころ》に|見直《みなほ》して
|妾《わらは》の|願《ねがひ》をただに|許《ゆる》せよ』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|汝《な》がなやみわれは|知《し》らぬにあらねども
|寸時《すんじ》もはなるる|事《こと》の|苦《くる》しき
|何故《なにゆゑ》か|此《この》|川上《かはかみ》に|聳《そび》え|立《た》つ
|藤ケ丘《ふぢがをか》べに|煙《けむり》|立《た》ちたつ』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『|君《きみ》を|思《おも》ふあつき|心《こころ》の|燃《も》え|立《た》ちて
|竜神《たつがみ》の|水火《いき》|燃《も》ゆるなるらむ
|願《ねが》はくば|此《この》|川水《かはみづ》をせきとめて
|水《みづ》を|淀《よど》ませ|遊《あそ》ばせ|給《たま》へ』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|汝《な》が|願《ねがひ》われ|諾《うべな》ひて|明日《あす》よりは
|国津神等《くにつかみら》にせきとめさせむ
|汝《なれ》おもふ|心《こころ》の|深《ふか》さ|淵《ふち》となれば
|此《この》|行《ゆ》く|水《みづ》をせきとめて|見《み》む』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『ありがたし|君《きみ》の|真心《まごころ》|清《きよ》らけく
|深《ふか》きを|思《おも》ひて|涙《なみだ》ぐまるる』
|斯《か》く|互《たがひ》に|歌《うた》もて|語《かた》り|合《あ》ひながら、|月《つき》の|傾《かたむ》く|夕《ゆふ》まぐれ、|館《やかた》をさして|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|艶男《あでやか》は|数多《あまた》の|国津神《くにつかみ》を|呼《よ》び|集《つど》へ、|川中《かはなか》に|散布《さんぷ》せる|大岩《おほいは》|小岩《こいは》を|集《あつ》めて、|大井川《おほゐがは》の|水《みづ》をせきとむべく、|堰《せき》を|造《つく》らしめた。|川《かは》は|次第《しだい》に|深《ふか》まり|行《ゆ》きて、|幾十丈《いくじふぢやう》の|深《ふか》き|淵《ふち》とはなりける。
|此《この》|堰《せき》は|大井《おほゐ》の|堰《せき》と|名附《なづ》けられたり。|大井《おほゐ》の|堰《せき》をあふれ|流《なが》るる|川水《かはみづ》は、|滝《たき》となりて|下流《かりう》にくだち|行《ゆ》く。その|壮観《さうくわん》さ、|恰《あたか》も|天《あま》の|河原《かはら》の|一直線《いつちよくせん》に|地上《ちじやう》に|向《むか》つて|落《お》つるが|如《ごと》し。
|四天王《してんのう》の|職《しよく》に|仕《つか》へたる|岩ケ根《いはがね》、|真砂《まさご》、|白砂《しらさご》、|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》の|面々《めんめん》は、この|滝津瀬《たきつせ》の|壮観《さうくわん》を|見《み》むとて、|半日《はんにち》の|清遊《せいいう》を|試《こころ》みつつ、|各自《おのもおのも》|心《こころ》の|丈《たけ》を|歌《うた》ふ。
|岩ケ根《いはがね》の|歌《うた》。
『|雄々《をを》しくもまた|清《すが》しけれ|大井川《おほゐがは》
|漲《みなぎ》り|落《お》つる|音《おと》の|高《たか》きも
|水上山《みなかみやま》|麓《ふもと》にかかる|高滝《たかたき》の
あれしは|神代《かみよ》ゆ|聞《き》かずありけり
|岩ケ根《いはがね》につき|固《かた》めたる|川堰《かはせき》の
|千代《ちよ》に|八千代《やちよ》もゆるがずあれかし
|川水《かはみづ》は|玉《たま》と|散《ち》りつつ|高堰《たかせき》を
|輝《かがや》き|落《お》つる|雄々《をを》しさ|清《すが》しさ
|音《おと》にきく|竜宮島《りうぐうじま》の|琴滝《ことだき》も
|此《こ》の|滝津瀬《たきつせ》には|及《およ》ばざるらむ
たうたうと|落《お》つる|滝津瀬《たきつせ》の|音《おと》|清《きよ》く
|夜《よる》は|殊更《ことさら》とどろき|強《つよ》し
|高堰《たかせき》を|造《つく》りし|日《ひ》より|水《みづ》|深《ふか》み
|百《もも》の|魚族《うろくづ》|集《あつま》り|来《きた》れる
|舟《ふね》うけてこれの|淀《よど》みに|遊《あそ》びなば
|心《こころ》|清《すが》しくはえましものを
|川底《かはそこ》も|見《み》えわかぬまで|水《みづ》|深《ふか》み
|流《なが》れは|緩《ゆる》くなりにけらしな
|此《この》|堰《せき》の|築《きづ》かれしより|水上山《みなかみやま》
|貴《うづ》の|神苑《みその》に|川水《かはみづ》|注《そそ》ぐも
|庭《には》の|面《も》に|大魚《おほな》や|小魚《さな》は|溌溂《はつらつ》と
|遊《あそ》びて|千歳《ちとせ》を|祝《いは》ふ|春《はる》なり』
|真砂《まさご》は|歌《うた》ふ。
『|水《みづ》|深《ふか》み|堰《せき》の|音《と》|深《ふか》く|川底《かはそこ》の
|真砂《まさご》は|見《み》えずなりにけらしな
|大岩《おほいは》を|高《たか》く|畳《たた》みて|築《きづ》きたる
|此《この》|高堰《たかせき》は|見《み》るもさやけし
|日並《けなら》べて|大雨《おほあめ》|降《ふ》らば|如何《いか》にせむと
|思《おも》ひわづらふわれなりにけり
|滝津瀬《たきつせ》の|音《おと》は|昼夜《ひるよる》|響《ひび》かひて
|水上山《みなかみやま》の|神苑《みその》にぎはし
|川水《かはみづ》は|俄《には》かに|淵《ふち》となり|行《ゆ》きて
|底《そこ》ひも|見《み》えずなりにけるかも
|竜神《たつがみ》の|棲《す》むによろしき|此《この》|淵《ふち》は
|一目《ひとめ》|見《み》るさへ|怖《お》ぢ|気《け》|立《た》つなり
あをあをと|水《みづ》を|湛《たた》へし|此《この》|淵《ふち》の
|深《ふか》き|秘密《ひみつ》を|知《し》るや|知《し》らずや
|燕子花《かきつばた》|姫《ひめ》の|命《みこと》の|願事《ねぎごと》に
なりし|淵瀬《ふちせ》と|思《おも》へば|床《ゆか》し』
|白砂《しらさご》は|歌《うた》ふ。
『|大井堰《おほゐせき》の|上手《かみて》の|水《みづ》は|淵《ふち》なせど
|底《そこ》の|白砂《しらさご》ありありと|見《み》ゆ
|白砂《しらさご》の|色《いろ》あをむまで|湛《たた》へたる
これの|淵瀬《ふちせ》の|深《ふか》くもあるかな
|燕子花《かきつばた》|姫《ひめ》の|命《みこと》の|真心《まごころ》は
|此《この》|淵瀬《ふちせ》より|深《ふか》かりにけむ
|思《おも》ふ|事《こと》|一《ひと》つも|成《な》らぬ|事《こと》のなき
|艶男《あでやか》の|君《きみ》の|設計《しぐみ》かしこし』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『|大井堰《おほゐせき》|高《たか》くかかりて|落《お》ちたぎつ
|水音《みなおと》とみに|強《つよ》く|響《ひび》けり
|水《みづ》の|音《おと》|高《たか》く|響《ひび》きて|大井川《おほゐがは》
|汀《みぎは》の|葦《あし》もそよぎはげしき
|藤波《ふぢなみ》や|山吹《やまぶき》の|花《はな》は|水底《みなそこ》に
|簾《すだれ》の|如《ごと》くかかれるが|見《み》ゆ
|水音《みなおと》を|消《け》して|鳴《な》きたつ|汀辺《みぎはべ》の
|河鹿《かじか》の|声《こゑ》は|高《たか》まりにけり
|此《この》|淵《ふち》の|汀《みぎは》に|河鹿《かじか》|集《あつま》りて
ここを|清所《すがど》と|鳴《な》きたつるかも
|岩《いは》を|噛《か》みし|水音《みなおと》さへもをさまりて
|水《みづ》たかまりし|大井《おほゐ》の|淵《ふち》かな
|日《ひ》も|月《つき》も|静《しづ》かに|浮《うか》ぶ|大井ケ淵《おほゐがふち》の
ながめよろしも|花《はな》もうつらふ』
|瀬音《せおと》は|歌《うた》ふ。
『|大井川《おほゐがは》|水《みづ》もどよみて|朝夕《あさゆふ》に
|響《ひび》かふ|瀬音《せおと》|消《き》えにけるかも
|水《みづ》|浅《あさ》く|清《きよ》く|流《なが》れし|大井川《おほゐがは》も
|堰《せき》の|高《たか》さに|深《ふか》まりにけり
|瀬《せ》の|音《おと》はいづらに|行《ゆ》きし|今《いま》は|只《ただ》
|鴨《かも》の|羽《は》ばたき|聞《きこ》ゆるのみなる
|水鳥《みづどり》はいより|集《つど》ひて|魚族《うろくづ》を
|食《は》まむとするか|浮《う》きつ|潜《もぐ》りつ
|兎《と》も|角《かく》も|神代《かみよ》にもなき|此《この》|川《かは》の
|堰《せき》のなりしはめでたかりけり』
|各自《おのもおのも》|司神等《つかさがみら》は|此《この》|滝水《たきみづ》を|賞《ほ》めそやしながら、たそがるる|頃《ころ》|家路《いへぢ》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|夕月《ゆふづき》のかげは|銀色《ぎんいろ》の|光《ひかり》を|放《はな》つて、|高光山《たかみつやま》の|尾根《をね》より|昇《のぼ》り|給《たま》へば、|時《とき》こそよしと|燕子花《かきつばた》は、|大井《おほゐ》の|川瀬《かはせ》に|遊《あそ》ばむと、|艶男《あでやか》の|前《まへ》に|黙礼《もくれい》し、|必《かなら》ず|後《あと》をつかせたまふまじと、|言葉《ことば》|残《のこ》して|出《い》で|行《ゆ》きぬ。
|艶男《あでやか》は|燕子花《かきつばた》の|言葉《ことば》の、|如何《いか》にしても|腑《ふ》に|落《お》ちぬより、そしらぬ|顔《かほ》をよそほひながら、うんと|一声《ひとこゑ》うなづき|居《ゐ》たりしが、|時《とき》|移《うつ》れども|妻《つま》の|帰《かへ》り|来《きた》らざるに|心《こころ》を|焦《いら》ち、ひそかに|月下《げつか》の|庭園《ていゑん》を|伝《つた》ひて、|川《かは》の|辺《べ》の|葦草《あしぐさ》の|中《なか》に|身《み》をひそめ、|妻《つま》の|挙動《きよどう》を|窺《うかが》ひ|居《ゐ》たりける。
|燕子花《かきつばた》は|真裸《まつぱだか》となりて|水中《すいちう》に|飛《と》び|込《こ》み、|首《くび》のみを|出《だ》し、|元《もと》の|太刀膚《たちはだ》となりて、|鱗《うろこ》の|間《あひだ》に|密生《みつせい》せる|虫《むし》を|洗《あら》ひ|落《おと》しつつありしかども、|淵《ふち》|深《ふか》ければ|其《その》|姿《すがた》、|艶男《あでやか》の|目《め》には|見《み》えず、ただ|頭部《とうぶ》のみ|月下《げつか》に|輝《かがや》けり。
|燕子花《かきつばた》は|久方《ひさかた》ぶりに|淵水《ふちみづ》に|浴《あ》びながら、その|爽快《さうくわい》さに|打《う》たれて|知《し》らず|知《し》らず|歌《うた》ふ。
『ああ|楽《たの》し
|月《つき》の|浮《うか》べる|此《この》|淵《ふち》に
わが|身体《からたま》を|浸《ひた》し|見《み》れば
|日頃《ひごろ》なやみし|膚《はだ》の|虫《むし》も
|真水《まみづ》におそれてはなれちる
|今日《けふ》ははじめて|生《い》きたる|心地《ここち》よ
|浅《あさ》ましの
わが|身《み》の|姿《すがた》|若《も》しや|若《も》し
わが|背《せ》の|君《きみ》の|目《め》に|入《い》らば
|妹背《いもせ》の|契《ちぎ》りは|忽《たちま》ちに
|破《やぶ》れむものと|今日《けふ》までも
|耐《こら》へ|耐《こら》へ|苦《くる》しさよ
わが|背《せ》の|君《きみ》の|御情《おんなさけ》
これの|清淵《きよふち》|与《あた》へられ
|夕《ゆふ》べ|夕《ゆふ》べをたのもしく
|遊《あそ》ぶも|嬉《うれ》しわが|魂《たま》は
よみがへりつつ|歓《ゑら》ぐなり
これの|川淵《かはふち》なかりせば
わが|身《み》の|生命《いのち》は|維《つな》げまじ
|日《ひ》に|三熱《さんねつ》のなやみある
われには|一度《いちど》の|水浴《すいよく》も
|天国浄土《てんごくじやうど》の|思《おも》ひなり
ああたのもしや|清《すが》しさや
|此《この》|高堰《たかせき》のいつまでも
|破《やぶ》れずあれや|永久《とこしへ》に
|大井《おほゐ》の|川《かは》の|水《みづ》|清《きよ》く
|流《なが》れ|流《なが》れて|永久《とこしへ》の
|露《つゆ》の|生命《いのち》を|保《たも》てかし
わが|背《せ》の|君《きみ》のわが|姿《すがた》を
|眺《なが》めて|恐《おそ》れ|給《たま》ひつつ
|縁《えにし》の|糸《いと》のきれぬかと
|案《あん》じわづらふ|年月《としつき》を
|安《やす》けく|流《なが》す|川水《かはみづ》の
いさをは|実《げ》にもめでたけれ
ああ|惟神《かむながら》|主《ス》の|神《かみ》の
|恵《めぐみ》に|生《い》きてわが|姿《すがた》
|幾千代《いくちよ》までも|背《せ》の|君《きみ》の
|御目《おんめ》に|触《ふ》れずあれよかし
|縁《えにし》は|永久《とは》に|繁《つな》げかし
|天津御神《あまつおんかみ》|国津神《くにつかみ》
|川底《かはそこ》|守《まも》る|水神《すいじん》の
|御前《みまへ》に|謹《つつし》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
|御前《みまへ》を|謹《つつし》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
と|愉快《ゆくわい》げに|歌《うた》ひ|居《ゐ》たりける。|艶男《あでやか》は|此《この》|愉快《ゆくわい》げなる|姫《ひめ》の|姿《すがた》を|見《み》ていたく|喜《よろこ》び、|月《つき》|清《きよ》けれど、さすがに|夜《よる》なれや、|水上《すゐじやう》の|優《やさ》しき|面《おも》のみ|見《み》えければ、|竜体《りうたい》に|還元《くわんげん》せし|事《こと》は|少《すこ》しも|心《こころ》づかず、|葦草《あしぐさ》を|分《わ》けて|汀辺《みぎはべ》に|立《た》ち|出《い》で|歌《うた》ふ。
『|君《きみ》のかげ|気長《けなが》く|待《ま》てど|帰《かへ》りまさぬ
|夜《よる》を|淋《さび》しみ|迎《むか》へ|来《き》つるも
|汝《な》が|面《おもて》|清《きよ》き|波間《なみま》に|浮《うか》び|出《い》でて
|真白《ましろ》く|見《み》えぬ|月《つき》の|如《ごと》くに
|水《みづ》の|面《も》に|浮《うか》べる|月《つき》は|汝《な》が|面《おも》に
まがひて|清《すが》し|玉《たま》と|映《は》えつつ
|新《あたら》しきこれの|淵瀬《ふちせ》に|浴《あ》み|給《たま》ふ
|君《きみ》は|竜宮《りうぐう》を|思《おも》ひ|出《だ》さずや』
|燕子花《かきつばた》は|水《みづ》の|面《おもて》に|白《しろ》き|顔《かほ》を|浮《う》かせたるまま、|身体《からだ》をかくして|応《いら》への|歌《うた》をうたふ。
『|竜宮《りうぐう》の|島根《しまね》はもはや|飽《あ》きにけり
|花《はな》なる|君《きみ》のおはしまさねば
|此《この》|清《きよ》き|淵《ふち》に|夜《よ》な|夜《よ》な|禊《みそぎ》して
あらたまりゆくわが|魂《たま》|嬉《うれ》しも
|空《そら》|見《み》れば|月《つき》は|冴《さ》えたり|水底《みそこ》|見《み》れば
|真砂《まさご》は|白《しろ》く|輝《かがや》きにけり
|此《この》|清《きよ》き|淵瀬《ふちせ》に|夜《よ》な|夜《よ》な|禊《みそぎ》して
|生《い》きの|生命《いのち》を|楽《たの》しむわれなり
|背《せ》の|君《きみ》は|早《は》や|帰《かへ》りませよ|今《いま》|暫《しば》し
|妾《わらは》は|禊《みそぎ》すまして|帰《かへ》らむ
|裸身《はだかみ》を|見《み》らるる|事《こと》の|恥《はづ》かしさに
|情《つれ》なき|言葉《ことば》を|許《ゆる》させ|給《たま》へ』
|艶男《あでやか》は|妻《つま》の|言葉《ことば》に、|何《なん》の|疑《うたが》ふ|色《いろ》もなく、
『いざさらば|早《は》や|帰《かへ》りませわれは|今《いま》
|汝《なれ》に|先立《さきだ》ち|館《やかた》に|帰《かへ》らむ』
と|言《い》ひつつ|足《あし》ばやに、|月下《げつか》に|匂《にほ》ふ|花《はな》の|径《こみち》を|辿《たど》りて|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|後《あと》|見送《みおく》りて|燕子花《かきつばた》は、|稍《やや》|安心《あんしん》したものの|如《ごと》く、|忽《たちま》ち|水底《みなそこ》を|前後《ぜんご》|左右《さいう》に|駈《か》け|巡《めぐ》り、|暴《あ》れ|狂《くる》ひ、|太刀膚《たちはだ》の|尻尾《しつぽ》を|以《もつ》て|水面《すゐめん》をはたきながら、|鱗《うろこ》の|間《あひだ》に|棲息《せいそく》せる|蛆《うじ》を|一匹《いつぴき》も|残《のこ》らず|払《はら》はむとして、|高《たか》き|水煙《みづけむり》を|立《た》てゐたりけるが、|漸《やうや》くにして|汀辺《みぎはべ》に|這《は》ひ|上《あが》り、|恭《うやうや》しく|呪文《じゆもん》を|唱《とな》へ、|全《まつた》き|人体《じんたい》と|化《くわ》して|白衣《びやくえ》を|身《み》に|纒《まと》ひ、|下半身《しもはんしん》は|緋《ひ》の|長袴《ながばかま》を|穿《うが》ち、|何《なに》|喰《く》はぬ|顔《かほ》にてしづしづと、|夫《つま》の|館《やかた》をさして|帰《かへ》り|行《ゆ》きぬ。|月《つき》は|皎々《かうかう》として|大井《おほゐ》の|淵《ふち》の|水面《すゐめん》を|照《てら》し、|波《なみ》も|静《しづ》かに|滝津瀬《たきつせ》の|音《おと》の|高《たか》く|響《ひび》くばかりなりける。
(昭和九・七・一九 旧六・八 於関東別院南風閣 白石恵子謹録)
第二〇章 |産《うみ》の|悩《なや》み〔二〇〇一〕
|艶男《あでやか》の|別名《べつめい》を|橘《たちばな》と|言《い》ふ。|艶男《あでやか》の|橘《たちばな》は|妻《つま》の|燕子花《かきつばた》と|共《とも》に、|空《そら》|澄《す》み|渡《わた》り|風《かぜ》|清《きよ》き|夏《なつ》の|初《はじ》めを、|大井ケ淵《おほゐがふち》に|新《あたら》しき|舟《ふね》を|浮《うか》べて|半日《はんにち》の|清遊《せいいう》を|試《こころ》みた。|水《みづ》は|洋々《やうやう》として|夏陽《なつひ》に|輝《かがや》き、|流《なが》れゆるやかにして、そよ|吹《ふ》く|小波《さざなみ》を|立《た》て|涼味津々《りやうみしんしん》たり。
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|橘《たちばな》の|花《はな》|散《ち》る|里《さと》の|夕暮《ゆふぐれ》は
|風《かぜ》も|匂《にほ》ひて|清《すが》しかりけり
|橘《たちばな》の|香《かを》り|床《ゆか》しく|水《みづ》の|面《も》に
ただよひにけり|夏《なつ》の|初《はじ》めを
|橘《たちばな》の|匂《にほ》へるかげをふむ|足《あし》に
かをりのこるか|舟《ふね》の|上《へ》|清《すが》しき』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『|香《か》に|匂《にほ》ふ|花橘《はなたちばな》をしるべにて
|竜《たつ》の|島根《しまね》ゆ|吾《われ》は|来《き》にけり
|竜宮《りうぐう》の|花橘《はなたちばな》にくらぶれば
|香《かを》り|床《ゆか》しき|君《きみ》にもあるかな
わが|恋《こ》ふる|情《なさけ》の|君《きみ》のよそほひは
あから|橘《たちばな》|匂《にほ》へる|如《ごと》し
|五月闇《さつきやみ》あかして|匂《にほ》ふ|橘《たちばな》の
|君《きみ》はわが|身《み》の|光《ひかり》なりけり
ただならぬ|花《はな》の|匂《にほ》ひにあこがれて
|水面《みのも》に|夕《ゆふべ》を|橘《たちばな》のわれ
|橘《たちばな》の|花《はな》は|床《ゆか》しもその|実《み》さへ
|花《はな》さへ|一入《ひとしほ》めでたくあれば
|橘《たちばな》の|枝《えだ》にふれにし|心地《ここち》して
|君《きみ》がみ|袖《そで》にすがりぬるかな
|水《みづ》|清《きよ》き|大井ケ淵《おほゐがふち》の|川《かは》ぞひに
|紫《むらさき》|匂《にほ》ふかきつばたあはれ
|朝夕《あさゆふ》の|香《かを》り|清《すが》しき|橘《たちばな》の
|君《きみ》に|生命《いのち》を|任《まか》せけるかな
|夜《よ》な|夜《よ》なを|君《きみ》が|香《かを》りにひたされて
|花橘《はなたちばな》を|偲《しの》びぬるかな
わが|袖《そで》は|床《ゆか》しく|香《かを》れり|舟《ふね》の|上《へ》の
|川《かは》|吹《ふ》く|風《かぜ》にさらされながらも
|夜《よ》な|夜《よ》なの|夢《ゆめ》の|枕《まくら》もかむばしや
|花橘《はなたちばな》の|君《きみ》が|袖《そで》の|香《か》
|久方《ひさかた》の|雲間《くもま》の|星《ほし》も|降《くだ》り|来《き》て
|橘《たちばな》の|上《へ》に|輝《かがや》き|給《たま》へる
わが|宿《やど》の|朝夕《あしたゆふべ》を|匂《にほ》ひたる
|岩燕子花《いはかきつばた》と|伊添《いそ》ひゐるかも
|燕子花《かきつばた》|匂《にほ》ふ|川辺《かはべ》に|棹《さを》さして
|思《おも》ふことなし|今日《けふ》の|遊《あそ》びは
|花《はな》の|香《か》はうつらずあれと|神《かみ》かけて
|二人《ふたり》が|幸《さち》を|祈《いの》りけるかな』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|大井川《おほゐがは》|波《なみ》の|綾《あや》|織《お》る|燕子花《かきつばた》の
|君《きみ》と|楽《たの》しく|川遊《かはあそ》びすも
|小波《さざなみ》の|色《いろ》も|紫《むらさき》|匂《にほ》ふなる
|君《きみ》は|床《ゆか》しく|竜宮《りうぐう》の|花《はな》かも
|川水《かはみづ》に|影《かげ》をしたせる|橘《たちばな》の
|花《はな》|美《うるは》しき|汝《なれ》が|面《おも》かげ
|袖《そで》にしむ|花橘《はなたちばな》の|香《かを》りすも
|愛《めぐ》しき|君《きみ》と|舟《ふね》に|遊《あそ》べば
|燕子花《かきつばた》|匂《にほ》へる|妹《いも》が|手枕《たまくら》を
|思《おも》へば|春《はる》は|久《ひさ》しかりけり
|夕風《ゆふかぜ》に|契《ちぎ》る|二人《ふたり》の|真心《まごころ》を
|月《つき》もゆるすかほほ|笑《ゑ》み|給《たま》へる
|村雨《むらさめ》の|露《つゆ》にしをれてうなだるる
|君《きみ》のよそほひ|愛《めぐ》しかりけり
うたた|寝《ね》の|枕《まくら》に|通《かよ》ふ|燕子花《かきつばた》の
|夢《ゆめ》は|夜《よ》な|夜《よ》なあたらしきかも
|橘《たちばな》の|下《した》|吹《ふ》く|風《かぜ》のかむばしさも
|汝《なれ》が|色香《いろか》に|如《し》かざりにけり
わが|庭《には》に|清《すが》しく|匂《にほ》ふ|燕子花《かきつばた》
|水《みづ》に|写《うつ》して|見《み》るはさやけし』
|燕子花《かきつばた》は|歌《うた》ふ。
『わが|君《きみ》の|情《なさけ》の|言葉《ことば》にほだされて
わがまなかひに|五月雨《さみだれ》の|降《ふ》る
|真清水《ましみづ》を|深《ふか》く|湛《たた》へしこの|淵《ふち》に
|思《おも》ふことなく|二人《ふたり》|遊《あそ》ぶも
|白萩《しらはぎ》は|水底《みそこ》に|清《きよ》く|咲《さ》きにつつ
|二人《ふたり》が|影《かげ》を|眺《なが》めゐるかも
|尾《を》の|上《へ》|吹《ふ》く|風《かぜ》にゆられて|女郎花《をみなへし》
|花《はな》は|水底《みそこ》にうつろひゐるも
|水上山《みなかみやま》|斜面《なぞへ》に|匂《にほ》ふ|女郎花《をみなへし》の
やさしき|姿《すがた》うつれる|川水《かはみづ》
|宵々《よひよひ》を|君《きみ》に|許《ゆる》されこの|淵《ふち》に
|遊《あそ》ぶわが|身《み》は|楽《たの》しかりけり
いとこやの|君《きみ》の|情《なさけ》はこの|淵《ふち》の
|水底《みそこ》にまして|深《ふか》かりにけり
|千重《ちへ》の|波《なみ》ふみて|渡《わた》りし|燕子花《かきつばた》の
わが|身《み》を|永《なが》く|愛《め》でさせ|給《たま》へ
|竜神《たつがみ》の|島《しま》より|植《う》ゑし|燕子花《かきつばた》の
|花《はな》は|常世《とこよ》に|捨《す》てさせ|給《たま》ふな』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『|男《を》の|子《こ》|吾《われ》|花橘《はなたちばな》の|香《かを》りもて
|幾千代《いくちよ》までも|君《きみ》を|守《まも》らむ
|汀辺《みぎはべ》に|清《すが》しく|匂《にほ》ふ|燕子花《かきつばた》
|見《み》るもさやけき|舟《ふね》の|上《うへ》かな
|水底《みなそこ》にうつらふ|花《はな》の|影《かげ》|見《み》れば
わが|魂《たましひ》もうるほひにけり
|水上《みなかみ》の|速瀬《はやせ》を|見《み》れば|藤ケ丘《ふぢがをか》の
あたりにあやしき|煙《けむり》|立《た》つ|見《み》ゆ
|何人《なんびと》の|住《す》めるか|知《し》らず|藤ケ丘《ふぢがをか》の
けむらふ|見《み》れば|人《ひと》のあるらし
|近寄《ちかよ》りて|尋《たづ》ねみむかも|燕子花《かきつばた》
|汝《なれ》が|心《こころ》を|知《し》らまほしけれ』
|燕子花《かきつばた》は|稍《やや》|驚《おどろ》きの|色《いろ》をうかべて|歌《うた》ふ。
『|水上《みなかみ》は|瀬《せ》の|速《はや》ければ|危《あや》ふからむ
これの|淵瀬《ふちせ》にあそばせ|給《たま》へ
|藤ケ丘《ふぢがをか》のけむらふ|見《み》つつ|何故《なにゆゑ》か
わが|魂《たましひ》は|戦《をのの》きやまぬも
|竜神《たつがみ》の|棲《す》めるにやあらむ|朝夕《あさゆふ》に
|藤ケ丘辺《ふぢがをかべ》に|雲霧《くもきり》|立《た》つも
|世《よ》の|中《なか》に|恐《おそ》るることなき|身《み》ながらも
|藤ケ丘辺《ふぢがをかべ》はもの|憂《う》かりけり』
|艶男《あでやか》は|歌《うた》ふ。
『さもあれば|吾《われ》は|行《ゆ》かまじ|燕子花《かきつばた》
いとへる|丘《をか》に|登《のぼ》ると|思《おも》はず
|吾《われ》もまた|心《こころ》あやしく|思《おも》ひけり
|朝夕《あしたゆふ》べに|立《た》つ|雲霧《くもきり》を
|天津陽《あまつひ》は|傾《かたむ》きにけりいざさらば
|花園《はなぞの》をぬひて|館《たち》にかへらむ』
|斯《か》くて|二人《ふたり》は|汀辺《みぎはべ》に|舟《ふね》を|繋《つな》ぎおき、|花《はな》|咲《さ》く|丘《をか》を|右《みぎ》へ|左《ひだり》へたどりながら、|館《やかた》をさして|帰《かへ》りけり。|二人《ふたり》は|睦《むつま》じく|夕飯《ゆふはん》をすませ、|四方山《よもやま》の|話《はなし》にふける|折《をり》しも、|俄《にはか》に|陣痛《ぢんつう》|激《はげ》しく|産気《さんけ》づきければかねて|設《まう》けし|産屋《うぶや》に、|真砂《まさご》、|白砂《しらさご》は、|送《おく》り|行《ゆ》きて|柴《しば》の|戸《と》を|堅《かた》く|閉《と》ぢ、|館《やかた》に|帰《かへ》り|来《きた》り、|山神彦《やまがみひこ》、|川神姫《かはかみひめ》の|御前《みまへ》に、|御子《みこ》|生《うま》れませる|時《とき》の|迫《せま》りしを|伝《つた》へければ、|二人《ふたり》の|老神《らうしん》はいたく|喜《よろこ》び|給《たま》ひて、|直《ただ》ちに|神殿《しんでん》に|参詣《まゐまう》で、|祈《いのり》の|言葉《ことば》を|捧《ささ》げまつりぬ。
『|掛巻《かけまく》も|綾《あや》に|畏《かしこ》き|久方《ひさかた》の|天《あめ》にまします|主《ス》の|大御神《おほみかみ》、この|国内《くぬち》を|開《ひら》き|給《たま》ひし|大御祖《おほみおや》の|御前《みまへ》に|謹《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|願《ね》ぎ|奉《たてまつ》る。あはれあはれわが|子《こ》|艶男《あでやか》と、|先《さき》の|日《ひ》|妹背《いもせ》の|契《ちぎり》を|結《むす》びたる|燕子花《かきつばた》はも、|日《ひ》|足《た》らひ|月《つき》をみたして|御子《みこ》|産《う》まむ|時《とき》の|迫《せま》りければ、|主《ス》の|神等《かみたち》の|深《ふか》き|広《ひろ》き|厚《あつ》き|大御恵《おほみめぐ》みに|依《よ》りて、|安《やす》く|穏《おだや》かに|美子《うましご》を|産《う》ませ|給《たま》へ。|生《うま》れし|御子《みこ》は|此《こ》の|国《くに》の|永久《とは》の|司《つかさ》として、|喪《も》|無《な》く|事《こと》なく|永久《とこしへ》に|命《いのち》を|保《たも》ち、|国津神《くにつかみ》の|安《やす》きを|守《まも》らせ|給《たま》へ。|吾等《われら》|夫婦《めをと》は|既《すで》に|年老《としお》いて|唯一柱《ただひとはしら》|艶男《あでやか》を|力《ちから》と|頼《たの》みゐたりしに、|幸《さいはひ》なるかも|竜《たつ》の|島根《しまね》より|迎《むか》へ|来《きた》りし|燕子花姫《かきつばたひめ》の|御腹《みはら》|満《み》ちて、|今日《けふ》|目出度《めでた》き|日《ひ》とはなりにけり。|仰《あふ》ぎ|願《ねが》はくば|燕子花姫《かきつばたひめ》の|産屋《うぶや》は|安《やす》く|平《たひ》らけく|清《きよ》くさやけく|貴《うづ》の|子《こ》を|産《う》み|了《おほ》せ|給《たま》へと、|大前《おほまへ》に|御幣帛《みてぐら》|奉《たてまつ》り|山川海野《やまかはうみの》の|種々《くさぐさ》の|甘美物《うましもの》、|八足《やたり》の|机代《つくゑしろ》に|横山《よこやま》の|如《ごと》く|置《お》き|足《た》らはして|奉《たてまつ》るさまを、|平《たひ》らけく|安《やす》らけく|聞《きこ》し|召《め》せと|申《まを》す』
と|敬々《うやうや》しく|祝詞《のりと》を|宣《の》り|終《を》へ、|静々《しづしづ》と|艶男《あでやか》が|居間《ゐま》に|来《き》て|見《み》れば、|艶男《あでやか》は|腕《うで》を|組《く》み、|黙然《もくねん》として|顔《かほ》|青《あを》ざめゐたりけり。|山神彦夫婦《やまがみひこふうふ》はいぶかりながら、
『|我国《わがくに》の|司《つかさ》|生《あ》れますよき|日《ひ》なるを
|汝《なれ》は|何故《なにゆゑ》|沈《しづ》み|居《を》るにや
|水上山《みなかみやま》ひらき|初《そ》めてゆ|今日《けふ》の|如《ごと》
|目出度《めでた》きよき|日《ひ》はあらざらましを』
|艶男《あでやか》は|漸《やうや》く|面《おも》をもたげ、|重々《おもおも》しき|口《くち》にてわづかに|歌《うた》ふ。
『|嬉《うれ》しさの|限《かぎ》りなれどもわが|妻《つま》の
|産《う》みの|悩《なや》みをおもひて|沈《しづ》める
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》の|峠《たうげ》ふみ|越《こ》えて
|御子《みこ》を|産《う》ますと|思《おも》へば|苦《くる》しき
わが|為《ため》にならむと|思《おも》へば|燕子花《かきつばた》
|心《こころ》かなしくなりにけらしな
|生《あ》れし|子《こ》は|健《すこや》かなれと|祈《いの》りつつ
|他《ほか》に|一《ひと》つのわれなやみもてり
|若《も》しや|若《も》し|竜《たつ》の|御子《みこ》をば|産《う》まむかと
|思《おも》へば|苦《くる》しき|今宵《こよひ》なりけり』
|川神姫《かはかみひめ》は|艶男《あでやか》の|心《こころ》を|慰《なぐさ》めむとして|歌《うた》ふ。
『|天地《あめつち》の|神《かみ》の|恵《めぐ》みのふかければ
|安《やす》く|生《うま》れむさかしき|神《かみ》の|子《こ》
|村肝《むらきも》の|心《こころ》|悩《なや》ますことなかれ
|美《うつ》しき|御子《みこ》は|安《やす》く|生《うま》れむ
わが|家《いへ》の|宝《たから》の|御子《みこ》の|生《うま》れ|来《く》る
|今日《けふ》の|目出度《めでた》き|日《ひ》がらを|祝《いは》へよ
|燕子花《かきつばた》|姫《ひめ》は|雄々《をを》しくふるまへば
|今日《けふ》の|産屋《うぶや》はうら|安《やす》からむ』
かかる|折《をり》しも、|遠《とほ》く|看守《かんしゆ》の|役《やく》を|務《つと》めたる|真砂《まさご》は、あわただしく|入《い》り|来《きた》り、|満面《まんめん》|笑《ゑ》みを|湛《たた》へながら、
『|美《うるは》しき|玉《たま》の|御声《みこゑ》は|柴《しば》の|戸《と》の
|中《なか》より|清《きよ》くひびき|来《きた》れり
わが|君《きみ》よ|喜《よろこ》び|給《たま》へ|貴御子《うづみこ》は
|今《いま》|産声《うぶごゑ》をあげさせ|給《たま》へり
|戸《と》をあけて|入《い》らむと|思《も》へば|姫神《ひめがみ》は
いたくこばませ|給《たま》ひたりけり
|天地《あめつち》の|開《ひら》けし|心地《ここち》ただよひて
|勇《いさ》み|喜《よろこ》び|知《し》らせ|奉《まつ》るも』
|山神彦《やまがみひこ》は|喜《よろこ》び|歌《うた》ふ。
『ありがたし|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|幸《さち》はひて
わが|孫《まご》|安《やす》く|生《うま》れたりけり
|今《いま》しばし|産屋《うぶや》の|御戸《みと》を|開《ひら》くまじ
|産婦《うぶめ》は|姿《すがた》|見《み》らるるをいとふ
|七日七夜《なぬかななよ》|産屋《うぶや》に|近《ちか》づくことなかれ
|未《ま》だ|血《ち》の|若《わか》き|産婦《うぶめ》なりせば
|驚《おどろ》きて|生命《いのち》|死《し》せむもはかられず
|必《かなら》ず|産屋《うぶや》の|戸《と》はひらくまじ』
と|戒《いまし》めおきて|再《ふたた》び|神殿《しんでん》に|額《ぬかづ》き、|燕子花《かきつばた》の|安産《あんざん》せし|事《こと》を|感謝《かんしや》し、|川神姫《かはかみひめ》と|共《とも》に、|夜《よ》も|更《ふ》けたればとて|寝殿《しんでん》に|進《すす》み|入《い》る。|艶男《あでやか》は|余《あま》りの|嬉《うれ》しさに、|妻《つま》は|如何《いか》に、わが|子《こ》は|如何《いか》にと、たとへ|父《ちち》の|厳《きび》しき|戒《いまし》めなればとて、|最愛《さいあい》の|妻《つま》や|待《ま》ち|設《まう》けたる|御子《みこ》の|顔《かほ》を|見《み》ずして|止《や》むべきやと、|月《つき》|照《て》る|庭《には》を|忍《しの》び|忍《しの》び、|産屋《うぶや》に|近寄《ちかよ》り|戸《と》の|外《そと》よりすかし|見《み》れば、|豈計《あにはか》らむや、|姿《すがた》|優《やさ》しき|妻《つま》の|燕子花《かきつばた》は、|全身《ぜんしん》|太刀膚《たちはだ》の|竜体《りうたい》となりて、|玉《たま》の|子《こ》を|抱《いだ》き|安々《やすやす》と|眠《ねむ》り|居《ゐ》るにぞ、|艶男《あでやか》は|一目《ひとめ》|見《み》るより|胆《きも》をつぶし、あつと|叫《さけ》びながら|逃《に》げ|行《ゆ》く|音《おと》に、|燕子花《かきつばた》は|目《め》をさまし、わが|浅《あさ》ましき|此《この》|姿《すがた》を|夫《をつと》の|君《きみ》に|見《み》られたるかと|恥《はぢ》らひの|余《あま》り、|戸《と》をおし|開《あ》けて|驀地《まつしぐら》に|大井ケ淵《おほゐがふち》の|底《そこ》|深《ふか》く|飛《と》び|込《こ》みにける。|生《うま》れたる|子《こ》の|名《な》は|竜彦《たつひこ》と|名《な》づけたり。
(昭和九・七・一九 旧六・八 於関東別院南風閣 内崎照代謹録)
第二一章 |汀《みぎは》の|歎《なげ》き〔二〇〇二〕
|燕子花《かきつばた》は|初産《うひざん》の|苦《くる》しさに|疲《つか》れ|果《は》て、|御子《みこ》を|抱《いだ》きしまま、ぐつたりと|前後《ぜんご》を|忘《わす》れて|眠《ねむ》り|居《ゐ》たりしが、|最愛《さいあい》の|夫《つま》|艶男《あでやか》に|吾《わが》|醜《みにく》き|元《もと》の|姿《すがた》を|見《み》つけられしをいたく|恥《はぢ》らひ、|斯《か》くなる|上《うへ》は|何時《いつ》までも|夫《つま》の|愛《あい》を|保《たも》つ|由《よし》なく、|又《また》|吾《わが》|身《み》のうら|恥《はづ》かしさを|案《あん》じ|煩《わづら》ひの|余《あま》り、|大井ケ淵《おほゐがふち》に|身《み》を|投《とう》じて、|全《まつた》く|元《もと》の|竜体《りうたい》と|変《へん》じ、とこしへに|此《この》|淵《ふち》に|沈《しづ》みて、|艶男《あでやか》の|声《こゑ》を|忍《しの》び|忍《しの》びに|聞《き》きつつ|楽《たの》しまむものと|覚悟《かくご》を|極《きは》めたりけるが、|燕子花《かきつばた》は|最早《もはや》|竜体《りうたい》と|還元《くわんげん》したる|以上《いじやう》、|人語《じんご》を|発《はつ》する|由《よし》なく、|心《こころ》の|中《うち》にて|思《おも》ひのたけを|歌《うた》ふ。
『|背《せ》の|君《きみ》の|情《なさけ》の|露《つゆ》のかがやきて
いとしき|御子《みこ》は|今《いま》|生《うま》れたり
さりながら|産《う》みのなやみの|苦《くる》しさに
|後前《あとさき》|忘《わす》れて|吾《われ》は|眠《ねむ》りし
|眠《ねむ》る|間《ま》を|元《もと》つ|姿《すがた》を|背《せ》の|君《きみ》に
|見《み》られし|後《のち》はせむすべもなし
|歎《なげ》くとも|及《およ》ばざるらむ|吾《わが》|姿《すがた》
|君《きみ》の|眼《まなこ》にふれたる|上《うへ》は
よしやよし|元《もと》つ|身体《からだ》に|還《かへ》るとも
|君《きみ》の|情《なさけ》は|永久《とは》に|忘《わす》れじ
|夜《よ》な|夜《よ》なの|親《した》しき|枕《まくら》も|夢《ゆめ》なりし
|今《いま》は|現幽《げんいう》|所《ところ》をへだてて
|大井川《おほゐがは》|水《みづ》|清《きよ》ければとこしへに
|吾《わが》|身《み》の|棲処《すみか》にふさはしく|思《おも》ふ
|背《せ》の|君《きみ》は|言《い》ふも|更《さら》なり|生《あ》れし|子《こ》は
|肥立《ひだ》つにつけて|吾《われ》を|恨《うら》まむ
|国津神《くにつかみ》の|妻《つま》とはなれど|元《もと》つ|身《み》は
いやしき|獣《けもの》の|吾《わが》|身《み》なりけり
|背《せ》の|君《きみ》の|幸《さち》を|思《おも》ひて|吾《われ》は|今《いま》
|惜《を》しき|生命《いのち》を|捨《す》てむとぞする
|吾《わが》|魂《たま》のいのちは|永久《とは》にこの|淵《ふち》に
|深《ふか》く|沈《しづ》みて|君《きみ》を|守《まも》らむ
よしやよし|浮名《うきな》はいかに|竜《たつ》の|身《み》の
|恥《はぢ》を|忍《しの》びて|淵《ふち》に|沈《しづ》まむ
|御父《おんちち》もおどろき|給《たま》はむ|御母《おんはは》も
|歎《なげ》かせ|給《たま》はむ|今日《けふ》の|吾《わが》|身《み》を
|恐《おそ》ろしき|妻《つま》を|持《も》ちしと|背《せ》の|君《きみ》は
|夜《よ》な|夜《よ》な|憂《うれ》ひに|沈《しづ》み|給《たま》はむ
|背《せ》の|君《きみ》の|心《こころ》|思《おも》へばかなしけれ
|獣《けもの》を|抱《だ》きしと|謗《そし》られ|給《たま》へば』
|斯《か》くの|如《ごと》くに|忍《しの》び|忍《しの》びに|述懐《じゆつくわい》を|終《を》へて、|大井《おほゐ》の|川底《かはそこ》|深《ふか》くその|霊身《れいしん》は|以前《いぜん》の|竜体《りうたい》を|保《たも》ちける。
ここに|山神彦《やまがみひこ》、|川神姫《かはかみひめ》の|神《かみ》は、|夜半《よは》の|出来事《できごと》を|聞《き》き、|驚《おどろ》きと|歎《なげ》きに|包《つつ》まれ、|人《ひと》に|顔《かほ》|見《み》らるるも|恥《はづ》かしと、|表戸《おもてど》を|堅《かた》く|閉《とざ》して|七日七夜《なぬかななよ》をさし|籠《こも》りけり。
|艶男《あでやか》は|突然《とつぜん》の|出来事《できごと》に、|且《かつ》|驚《おどろ》き|且《かつ》あきれ|且《かつ》|歎《なげ》かひつつも、さすがは|夫《をつと》、|妻《つま》のかなしき|心《こころ》を|憐《あは》れみ、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》な|大井《おほゐ》の|川《かは》の|汀辺《みぎはべ》に|立《た》ちて、|追懐《ついくわい》の|歌《うた》をうたふ。
『あはれあはれ|吾《わが》|恋《こ》ふる|妻《つま》は|今《いま》いづこ
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|汀辺《みぎはべ》に
|立《た》ちてし|見《み》れど|影《かげ》もなく
|涙《なみだ》は|雨《あめ》と|降《ふ》りしきり
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》もさみしげに
|涙《なみだ》の|頬《ほほ》をなでてゆく
いかなる|宿世《すぐせ》の|因縁《いんねん》か
|獣《けもの》の|身《み》を|持《も》つ|燕子花《かきつばた》の
やさしき|姿《すがた》にほだされて
|妹背《いもせ》の|契《ちぎ》り|八千代《やちよ》までと
|誓《ちか》ひしことの|今《いま》は|早《はや》
|淵《ふち》の|水泡《みなわ》と|消《き》えにけり
ああ|恋《こひ》しもよかなしもよ
|汝《な》が|魂《みたま》この|世《よ》に|生《い》きて
|只一言《ただひとこと》のいらへごと
つばらに|述《の》べよ|燕子花《かきつばた》
よしやよし|竜《たつ》の|姿《すがた》になれるとも
|吾《われ》はいとはじ
|汝《なれ》と|吾《われ》と
|露《つゆ》の|情《なさけ》に|凝《かた》まりし
|貴《うづ》の|御子《みこ》なる|竜彦《たつひこ》の
|日々《ひび》の|生《お》ひたち|玉《たま》の|肌《はだ》
|汝《なれ》に|見《み》せたく|思《おも》へども
|今《いま》はせむなし|幽界《かくりよ》の
|神《かみ》となりつる|汝《なれ》なれば
さはさりながら|吾《わが》|心《こころ》
|汝《なれ》が|情《なさけ》を|忘《わす》れかね
|朝夕《あさゆふ》|川辺《かはべ》に|迷《まよ》ひ|来《き》つ
くだらぬくり|言《ごと》くり|返《かへ》し
せめては|心《こころ》のなぐさめと
|憂《う》き|年月《としつき》を|送《おく》るなり
ああ|燕子花《かきつばた》よ|燕子花《かきつばた》よ
|汀《みぎは》に|清《きよ》く|紫《むらさき》に
|匂《にほ》へる|花《はな》のそれならで
|同《おな》じ|名《な》を|負《お》ふ|汝《なれ》が|身《み》は
|今《いま》は|敢《あへ》なくなりしかと
|思《おも》へばかなしさ|堪《た》へがたく
|吾《われ》も|汝《なんぢ》が|後《あと》|追《お》ひて
これの|淵瀬《ふちせ》に|入《い》らむかと
|夕《ゆふ》べ|夕《ゆふ》べをとつおひつ
|思案《しあん》にくるる|悩《なや》ましさ
|汝《なれ》は|知《し》らずや|聞《き》かざるや
ああ|悩《なや》ましもかなしもよ
|生命《いのち》|死《し》せむと|思《おも》へども
|老《お》いたる|父母《ふぼ》のおはすあり
|歩《あゆ》みもならぬ|吾子《わがこ》あり
せめて|吾子《わがこ》の|生《お》ひ|立《た》ちを
見とどけし|上《うへ》|汝《な》が|後《あと》を
|慕《した》ひて|淵《ふち》に|沈《しづ》むべし
|待《ま》たせ|給《たま》へよ|吾《わが》|妻《つま》よ』
あたりに|人《ひと》なければ、|千万無量《せんまんむりやう》の|思《おも》ひを|並《なら》べて|歎《なげ》き|居《ゐ》る。
|四天王《してんわう》の|司等《つかさら》は、|余《あま》りの|異変《いへん》に|驚《おどろ》きの|余《あま》り|物《もの》も|言《い》はず、|仮殿《かりでん》に|集《あつま》り|青息吐息《あをいきといき》の|態《てい》にて、この|後《のち》は|如何《いかが》なり|行《ゆ》くならむと|歎《なげ》き|居《ゐ》にけり。|斯《か》くて|在《あ》るべきにあらねば、|艶男《あでやか》の|君《きみ》に|今後《こんご》の|処置《しよち》を|計《はか》らむと|居間《ゐま》を|訪《たづ》ぬれば、|蛻《もぬけ》の|殻《から》、|驚《おどろ》きて、もしやもし|若君《わかぎみ》は|姫《ひめ》の|後《あと》を|追《お》ひしにはあらずやと、|岩ケ根《いはがね》は|真砂《まさご》、|白砂《しらさご》、|水音《みなおと》、|瀬音《せおと》の|四天王《してんわう》を|伴《ともな》ひ、|大井川《おほゐがは》の|淵瀬《ふちせ》に|急《いそ》ぎ|来《き》て|見《み》れば、|艶男《あでやか》は|両眼《りやうがん》をはらし、|涙《なみだ》の|袖《そで》を|絞《しぼ》りて|何事《なにごと》かかこち|居《ゐ》る。
|岩ケ根《いはがね》は|差足抜足《さしあしぬきあし》しながら|艶男《あでやか》の|側《そば》に|近《ちか》づき、|背後《はいご》よりむんずと|身《み》を|抱《かか》へ、
『|若君《わかぎみ》はここにいますか|必《かなら》ずや
|弱《よわ》き|心《こころ》を|持《も》たせ|給《たま》ふな
|姫君《ひめぎみ》は|水《みづ》の|藻屑《もくず》となり|給《たま》ひ
|君《きみ》が|心《こころ》の|苦《くる》しさを|知《し》る
さりながら|父母《ちちはは》います|御身《おんみ》なり
|夢魂《ゆめたましひ》を|曇《くも》らせ|給《たま》ひそ
|愛《あい》らしき|稚子《ちご》の|生《お》ひ|立《た》ち|見《み》る|迄《まで》は
|止《とど》まり|給《たま》へ|弥猛心《やたけごころ》を
いとこやの|妻《つま》に|別《わか》れし|君《きみ》なれば
|心《こころ》を|乱《みだ》し|給《たま》ふも|宜《うべ》よ
|罷《まか》りたる|人《ひと》は|呼《よ》べども|帰《かへ》らまじ
|御国《みくに》の|為《ため》に|思《おも》ひ|直《なほ》せよ』
|艶男《あでやか》は|之《これ》に|答《こた》へて、
『|岩ケ根《いはがね》の|厚《あつ》き|心《こころ》は|悟《さと》れども
|今《いま》の|吾《わが》|身《み》は|死《し》より|外《ほか》なし
|姫《ひめ》の|後《あと》|追《お》ひて|一道《ひとみち》に|向《むか》はむと
|吾《われ》は|心《こころ》を|定《さだ》めたりける
さりながらよくよく|思《おも》へば|父母《ちちはは》の
|歎《なげ》きは|吾《われ》より|深《ふか》かるものを』
|真砂《まさご》は、
『|竜神《たつがみ》の|島《しま》より|来《き》たす|姫《ひめ》なれば
|斯《か》くなるべしとかねて|思《おも》ひぬ
さりながら|世継《よつぎ》の|御子《みこ》の|生《あ》れませば
|水上《みなかみ》の|館《たち》は|永遠《とは》に|栄《さか》えむ
この|国《くに》の|栄《さか》え|思《おも》ひて|若君《わかぎみ》よ
|暫《しば》し|生命《いのち》をながらへ|給《たま》はれ
|若君《わかぎみ》に|過《あやま》ちあれば|吾《われ》とても
|館《たち》に|仕《つか》ふる|顔《かむばせ》はなし
|大井川《おほゐがは》|底《そこ》の|心《こころ》は|知《し》らねども
|深《ふか》きは|吾等《われら》が|歎《なげ》きなりけり
|若君《わかぎみ》の|歎《なげ》き|宜《うべ》よと|思《おも》へども
|神《かみ》の|御為《おんため》|忍《しの》ばせ|給《たま》へ』
|艶男《あでやか》は|之《これ》に|答《こた》へて、
『|汝《な》が|言葉《ことば》|宜《うべ》よと|聞《き》けど|吾《わが》|魂《たま》は
|震《ふる》ひをののき|死《し》なまく|思《おも》ふ
|汝等《なれたち》が|心《こころ》なやませ|吾《わが》|魂《たま》は
|悪魔《あくま》の|群《むれ》に|馳《は》せ|入《い》りにけむ
|竜彦《たつひこ》は|二人《ふたり》が|仲《なか》の|遺児《かたみ》ぞと
|思《おも》へば|安《やす》し|生命《いのち》|死《し》すとも
|汝等《なんぢら》は|吾《われ》に|代《かは》りて|竜彦《たつひこ》を
|育《はぐく》みくれよ|御代《みよ》を|継《つ》ぐまで』
|真砂《まさご》は|答《こた》へて、
『|川底《かはそこ》の|白砂《しらさご》までも|透《す》きとほる
|大井ケ淵《おほゐがふち》の|今日《けふ》は|濁《にご》れる
|天津空《あまつそら》に|雲《くも》かさなりて|小雨《こさめ》ふる
|淵《ふち》の|面《おもて》に|波紋《はもん》|描《ゑが》けり
|天地《あめつち》の|神《かみ》も|歎《なげ》かせ|給《たま》ふらむ
|天津陽光《あまつひかげ》も|見《み》えまさずして
|歎《なげ》かひの|雲《くも》に|包《つつ》まれ|水上山《みなかみやま》
|貴《うづ》の|館《やかた》は|小雨《こさめ》|降《ふ》るなり
|春雨《はるさめ》のしとしと|降《ふ》れる|今日《けふ》の|日《ひ》は
|君《きみ》の|涙《なみだ》か|吾《わが》|身《み》の|涙《なみだ》か
|吹《ふ》く|風《かぜ》も|冷《つめ》たくさみしこの|朝《あさ》を
|吾《われ》は|川辺《かはべ》に|袖《そで》しぼるなる』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『|大井川《おほゐがは》|上津瀬《かみつせ》に|立《た》つ|岩ケ根《いはがね》を
うつ|水音《みなおと》も|細《ほそ》く|聞《きこ》え|来《く》
|大井川《おほゐがは》|水音《みなおと》|静《しづ》めて|今日《けふ》の|日《ひ》を
|歎《なげ》くか|御空《みそら》ゆ|細雨《ほそあめ》の|降《ふ》る
かかる|世《よ》にかかる|歎《なげ》きを|見《み》ることは
|水音《みなおと》|吾《われ》も|思《おも》はざりしを
|兎《と》も|角《かく》も|若君《わかぎみ》の|心《こころ》|和《なご》めむと
|探《たづ》ねてここに|吾等《われら》|来《き》にけり
|神々《かみがみ》のかなしき|心《こころ》を|憐《あは》れみて
|一先《ひとま》づ|館《たち》に|帰《かへ》らせ|給《たま》へ
|貴《うづ》の|子《こ》の|御顔《みかほ》つらつら|御覧《みそなは》し
|今日《けふ》の|歎《なげ》きをなぐさめ|給《たま》へ』
|艶男《あでやか》は|之《これ》に|答《こた》へて、
『|川水《かはみづ》の|流《なが》るる|見《み》れば|吾《わが》|心《こころ》
|死《し》にたくなりぬかなしさ|余《あま》りて
さりながら|吾《われ》も|人《ひと》の|子《こ》|情《なさけ》をば
|知《し》らぬ|岩木《いはき》にあらずと|知《し》れよ』
|瀬音《せおと》はかなしき|声《ごゑ》を|張《は》り|上《あ》げて、
『|滝津瀬《たきつせ》の|音《おと》も|淋《さび》しく|聞《きこ》ゆなり
|燕子花姫《かきつばたひめ》の|身罷《みまか》りし|日《ひ》ゆ
|汀辺《みぎはべ》に|咲《さ》ける|菖蒲《あやめ》の|紫《むらさき》も
|今日《けふ》の|歎《なげ》きにしをれ|顔《がほ》なる
|兎《と》にもあれ|角《かく》にもあれや|死《し》は|易《やす》し
|重《おも》き|生命《いのち》を|捨《す》てさせ|給《たま》ふな
|天地《あめつち》の|今《いま》や|開《ひら》けし|心地《ここち》かな
|君《きみ》の|心《こころ》の|岩戸《いはと》|開《あ》くれば
|吾等《われら》|又《また》|心《こころ》|安《やす》んじ|国《くに》の|為《ため》
|館《やかた》に|長《なが》く|仕《つか》へ|奉《まつ》らむ
|歎《なげ》かひの|雲《くも》を|払《はら》ひて|永久《とこしへ》に
これの|館《やかた》を|照《てら》させ|給《たま》へ』
ここに|岩ケ根《いはがね》|他《ほか》|四人《よにん》は、|艶男《あでやか》の|前後《ぜんご》に|附《つ》き|添《そ》ひ、いそいそとして|貴《うづ》の|館《やかた》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(昭和九・七・二〇 旧六・九 於関東別院南風閣 谷前清子謹録)
第二二章 |天変地妖《てんぺんちえう》〔二〇〇三〕
|艶男《あでやか》は、|岩ケ根《いはがね》|他《ほか》|四天王等《してんわうら》の|言葉《ことば》を|尽《つく》しての|諫《いさ》めに、|死《し》を|思《おも》ひとどまりたれども、|何故《なにゆゑ》か|大井ケ淵《おほゐがふち》の|恋《こひ》しくて|堪《たま》らず、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なの|区別《くべつ》なく、|淵《ふち》に|舟《ふね》を|浮《うか》べて|遊《あそ》ぶを|唯一《ゆいつ》の|慰《なぐさ》みとなしゐたりける。
|岩ケ根《いはがね》は、|若《も》しや|艶男《あでやか》に|間違《まちが》ひ|無《な》きやと|案《あん》じ|煩《わづら》ひながら、|真砂《まさご》、|白砂《しらさご》を|左右《さいう》に|看視《かんし》|兼《けん》|接待役《せつたいやく》として|従《したが》はしめたり。|小雨《こさめ》ふる|夕《ゆふ》べ|前《まへ》、かたの|如《ごと》く|艶男《あでやか》は|真砂《まさご》、|白砂《しらさご》を|伴《ともな》ひ、|大井ケ淵《おほゐがふち》に|暫時《しばし》の|舟遊《ふなあそ》びを|試《こころ》みにける。|黄昏《たそがれ》の|幕《まく》|稍《やや》|迫《せま》らむとする|折《をり》しも、|不思議《ふしぎ》なるかな、|微《かすか》なる|声《こゑ》|何処《いづこ》ともなく|響《ひび》き|来《きた》るを、よくよく|耳《みみ》をすまして|聞《き》けば、|以前《いぜん》|竜《たつ》の|島根《しまね》にて、|艶男《あでやか》に|思《おも》ひをかけし|白萩《しらはぎ》の|悲《かな》しげなる|声《こゑ》にぞありける。
|白萩《しらはぎ》の|声《こゑ》。
『|秋風《あきかぜ》を|待《ま》つ|間《ま》の|長《なが》き|白萩《しらはぎ》は
|遠《とほ》き|思《おも》ひに|尋《たづ》ね|来《き》にけり
|生命《いのち》までもと|思《おも》ひし|人《ひと》は|影《かげ》もなく
あと|白萩《しらはぎ》の|花《はな》と|散《ち》りけり
|添《そ》はまくと|思《おも》ひし|夢《ゆめ》の|悲《かな》しさに
|身《み》もしら|萩《はぎ》の|花《はな》は|萎《しを》れつ
|恨《うら》めしき|君《きみ》なりにけり|燕子花《かきつばた》の
|花《はな》のみ|手折《たを》りて|露《つゆ》もおくらず
この|思《おも》ひ|何時《いつ》の|世《よ》にかは|晴《は》らさむと
|恋《こ》ふるも|悲《かな》しき|萩《はぎ》の|仇花《あだばな》
|現世《うつしよ》に|生《い》くる|甲斐《かひ》なきわが|身《み》ぞと
|思《おも》へば|苦《くる》し|君《きみ》に|捨《す》てられて
|百花《ももばな》の|多《おほ》かる|中《なか》に|汝《な》が|君《きみ》は
|燕子花《かきつばた》のみ|愛《め》づるは|恨《うら》めし
|朝《あさ》な|朝《あさ》な|露《つゆ》|重《おも》げなる|萩《はぎ》が|枝《え》に
|君《きみ》は|心《こころ》をかけて|見《み》ざりしよ
|故郷《ふるさと》の|竜《たつ》の|都《みやこ》の|白萩《しらはぎ》を
|藤ケ丘辺《ふぢがをかべ》に|移《うつ》して|匂《にほ》へり
|白萩《しらはぎ》は|情《なさけ》の|露《つゆ》に|捨《す》てられて
|細《ほそ》き|生命《いのち》を|汀辺《みぎはべ》に|保《たも》てり
|橘《たちばな》と|香《かを》れる|君《きみ》のよそほひは
われを|思《おも》はす|種《たね》にぞありける
|荒波《あらなみ》をかき|別《わ》け|乗《の》り|切《き》りこの|淵《ふち》に
|伊寄《いよ》り|来《きた》りて|君《きみ》に|焦《こが》るる
|御声《おんこゑ》を|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|聞《き》かまほしと
|白萩《しらはぎ》われは|淵《ふち》に|潜《ひそ》むも
|太刀膚《たちはだ》のわが|身《み》に|怖《お》ぢていとこやの
|君《きみ》は|島根《しまね》を|離《さか》りましけむ
いとこやの|君《きみ》を|生命《いのち》と|頼《たの》みてしを
つれなき|心《こころ》|恨《うら》めしみ|思《おも》ふ
|竜神《たつがみ》の|身《み》にしあれども|人恋《ひとこ》ふる
|心《こころ》に|変《かは》りあるべきものかは
|恨《うら》めしさ|悲《かな》しさ|此処《ここ》に|凝《かた》まりて
|恋《こひ》の|淵瀬《ふちせ》に|悲《かな》しみ|泣《な》くなり』
|艶男《あでやか》は|微《かすか》にこの|声《こゑ》を|聞《き》きて、|白萩《しらはぎ》の|心《こころ》の|憐《あは》れさに|両眼《りやうがん》をうるほしながら、
『われとても|木石《ぼくせき》ならぬ|身《み》なれども
|一《ひと》つの|身《み》なり|如何《いか》に|報《むく》いむ
われも|亦《また》|歎《なげ》きの|淵《ふち》に|沈《しづ》みつつ
|胸《むね》|晴《は》らさむと|此処《ここ》に|遊《あそ》べる
|黄昏《たそがれ》を|君《きみ》の|歎《なげ》きの|声《こゑ》|聞《き》きて
|悲《かな》しく|淋《さび》しくなりにけらしな
|恋《こひ》|故《ゆゑ》に|生命《いのち》|惜《を》しまじわれはただ
|垂乳根《たらちね》の|為《た》めながらふのみなり』
かくいふ|折《をり》しも、|又《また》もや|上手《かみて》の|方《はう》より|悲《かな》しき|声《こゑ》|聞《きこ》え|来《きた》る。
『われこそは|汝《なれ》を|慕《した》ひし|白菊《しらぎく》の
|露《つゆ》に|霑《うるほ》ふ|蕾《つぼみ》の|花《はな》よ
|一本《ひともと》の|花橘《はなたちばな》と|思《おも》ひしを
|君《きみ》は|百花《ももばな》|千花《ちばな》を|手折《たを》れり
|恨《うら》めしく|悲《かな》しく|生命《いのち》|堪《た》へがてに
われは|湖路《うなぢ》を|渡《わた》り|来《こ》しはや
わが|思《おも》ひいや|深《ふか》ければ|此《こ》の|淵《ふち》の
|底《そこ》に|潜《ひそ》みて|竜《たつ》となりぬる
|万代《よろづよ》の|末《すゑ》にも|枯《か》れぬ|白菊《しらぎく》を
|枯《か》らし|給《たま》へる|君《きみ》ぞ|恨《うら》めし
|千早振《ちはやぶ》る|神代《かみよ》の|事《こと》も|人《ひと》ならば
|問《と》はましものを|白菊《しらぎく》の|花《はな》
|君ケ代《きみがよ》をいと|長月《ながつき》の|空《そら》|清《きよ》く
|咲《さ》かむ|白菊《しらぎく》あはれと|思《おも》へ
|水上山《みなかみやま》|菊《きく》の|下水《したみづ》|如何《いか》なれば
|流《なが》れて|淵《ふち》に|沈《しづ》むなるらむ
|祈《いの》りつつ|待《ま》つ|長月《ながつき》の|菊《きく》の|花《はな》を
|何《いづ》れの|時《とき》か|君《きみ》の|手折《たを》るや
|山《やま》の|端《は》を|出《い》でゐる|月《つき》の|顔《かむばせ》は
|君《きみ》の|面《おもて》と|白菊《しらぎく》の|花《はな》
わが|思《おも》ひいや|深《ふか》ければ|八千尋《やちひろ》の
|湖《うみ》を|渡《わた》りて|慕《した》ひ|来《き》つるも
|類《たぐひ》なき|君《きみ》のよそほひ|見染《みそ》めてゆ
|白菊《しらぎく》われは|乱《みだ》れむとせり
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|惜《を》しまじ|君許《きみがり》に
|近《ちか》く|棲《す》みなば|淵《ふち》の|底《そこ》ひも』
|艶男《あでやか》はこの|声《こゑ》を|聞《き》き、|狂気《きやうき》の|如《ごと》く|胸《むね》を|燃《も》やしながら、
『|今日《けふ》は|又《また》|悲《かな》しき|声《こゑ》を|聞《き》く|日《ひ》かな
|今《いま》は|前後《ぜんご》も|白波《しらなみ》の|上《うへ》
|秋《あき》されば|白菊《しらぎく》の|花《はな》|手折《たを》らむと
われは|心《こころ》を|替《か》へずありける
|白菊《しらぎく》の|匂《にほ》ひめでたくわが|袖《そで》に
|香《かを》りて|時《とき》じく|忘《わす》らへなくに
|惜《を》しまるる|生命《いのち》ならねど|今《いま》しばし
わが|子《こ》の|生《お》ひたち|待《ま》たせ|給《たま》はれ』
|白菊《しらぎく》の|声《こゑ》として、
『|御言葉《おんことば》|偽《いつは》りなくばわれとても
なやみ|晴《は》らして|時《とき》を|待《ま》つべし』
かかる|折《をり》しも、|稍《やや》|下流《かりう》に|当《あた》りて、|女郎花《をみなへし》の|細《ほそ》き|声《こゑ》ひびき|来《きた》る。よくよく|耳《みみ》をすまして|聞《き》き|居《を》れば、
『われこそは|竜《たつ》の|島根《しまね》に|育《そだ》ちたる
か|弱《よわ》き|花《はな》の|女郎花《をみなへし》ぞや
|君《きみ》|恋《こ》ひてわが|身《み》やつれぬ|玉《たま》の|緒《を》の
|生命《いのち》|死《し》せむと|幾度《いくたび》|思《おも》ひし
|八潮路《やしほぢ》を|渡《わた》りてここに|大井川《おほゐがは》
|淵瀬《ふちせ》に|沈《しづ》むも|君《きみ》おもへばなり
|細々《ほそぼそ》と|降《ふ》り|来《く》る|雨《あめ》は|君《きみ》|思《おも》ふ
|悲《かな》しきわれの|涙《なみだ》なるぞや
|如何《いか》にして|悲《かな》しき|思《おも》ひ|晴《は》らさむと
|波路《なみぢ》を|分《わ》けて|此処《ここ》に|来《き》つるも
|水上山《みなかみやま》|斜面《なぞへ》に|匂《にほ》ふ|女郎花《をみなへし》の
やさしきよそほひ|見《み》そなはさずや
|君《きみ》|恋《こ》ひてここに|幾日《いくひ》を|重《かさ》ねけり
|露《つゆ》の|情《なさけ》の|雨《あめ》に|濡《ぬ》れむと
われは|今《いま》|見《み》るに|堪《た》へざる|醜神《しこがみ》の
|竜《たつ》と|思《おも》へば|悲《かな》しかりけり
|幾千代《いくちよ》もこれの|淵瀬《ふちせ》に|沈《しづ》みゐて
|君《きみ》が|御幸《みさち》を|護《まも》らむと|思《おも》ふ
|白萩《しらはぎ》も|白菊《しらぎく》の|君《きみ》もわれも|亦《また》
|藤ケ丘辺《ふぢがをかべ》に|君《きみ》を|待《ま》つなり
|玉《たま》の|緒《を》の|君《きみ》が|生命《いのち》の|果《は》つるまで
なやみ|苦《くる》しみ|待《ま》たむとぞ|思《おも》ふ
|竜神《たつがみ》の|悲《かな》しき|心《こころ》を|思《おも》ひやり
|夢《ゆめ》の|枕《まくら》にも|偲《しの》ばせ|給《たま》へ』
かく|響《ひび》く|折《をり》しも、|淵《ふち》の|水《みづ》は|俄《にはか》に|大《だい》なる|波紋《はもん》を|描《ゑが》き、|水煙《みづけむり》とともに|立《た》ち|昇《のぼ》りたるものあり。よくよく|見《み》れば|人面竜身《にんめんりうしん》の|燕子花《かきつばた》なるに、|艶男《あでやか》も|真砂《まさご》、|白砂《しらさご》も|一度《いちど》に|驚《おどろ》き、|茫然《ばうぜん》として、あちらこちらと|立《た》ち|狂《くる》ふ|水煙《みづけむり》を|眺《なが》めゐる。|波紋《はもん》は|益々《ますます》|激《はげ》しく、|遂《つひ》には|舟《ふね》も|覆《くつがへ》らむばかりの|荒波《あらなみ》となりければ、|艶男《あでやか》は|意《い》を|決《けつ》して|立《た》ち|上《あが》り、
『わが|恋《こ》ふる|燕子花姫《かきつばたひめ》の|荒《すさ》びにや
われはとどむる|力《ちから》だになし
かくなれば|何《なに》をいなまむわれも|亦《また》
|水《みづ》の|藻屑《もくづ》となりて|消《き》ゆべし』
|真砂《まさご》、|白砂《しらさご》の|両人《りやうにん》は|驚《おどろ》きて、|艶男《あでやか》の|左右《さいう》の|手《て》をしつかと|握《にぎ》り、|涙《なみだ》ながらに、
『|若君《わかぎみ》よはやらせ|給《たま》ふ|事《こと》なかれ
|君《きみ》には|父母《ふぼ》と|御子《みこ》いまさずや
|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|死《し》するはいと|易《やす》し
|重《おも》きは|国《くに》の|務《つと》めなるぞや
|思《おも》ひきや|大井《おほゐ》の|川《かは》の|舟遊《ふなあそ》びに
かかる|歎《なげ》きの|身《み》に|迫《せま》るとは
|上津瀬《かみつせ》にはた|中津瀬《なかつせ》に|下津瀬《しもつせ》に
|聞《きこ》ゆる|声《こゑ》は|魔神《まがみ》なるらむ
|若君《わかぎみ》よ|魔神《まがみ》の|甘《あま》き|言《こと》の|葉《は》に
かかりて|生命《いのち》|捨《す》てさせ|給《たま》ふな
|若君《わかぎみ》の|生命《いのち》はわれ|等《ら》があづからむ
|真砂《まさご》、|白砂《しらさご》|力《ちから》|限《かぎ》りに』
|白砂《しらさご》はあわてて、
『|風《かぜ》|荒《あ》れて|波《なみ》|高《たか》まりぬいざ|舟《ふね》を
|岸辺《きしべ》に|寄《よ》せむ|真砂《まさご》よ|舟《ふね》|漕《こ》げ』
|真砂《まさご》はこたへて、
『|艫《ろ》も|櫂《かい》も|波《なみ》に|浚《さら》はれ|如何《いか》にして
|岸辺《きしべ》に|着《つ》かむこの|荒川《あらかは》を』
|斯《か》くいふ|折《をり》しも、|一天《いつてん》|俄《にはか》にかき|曇《くも》り、|暴風《ぼうふう》|吹《ふ》き|荒《すさ》み、|大地《だいち》は|震動《しんどう》して、|荒波《あらなみ》の|猛《たけ》りに|舟《ふね》|諸共《もろとも》に|三人《さんにん》の|姿《すがた》は|水中《すいちう》|深《ふか》くかくれける。
これより|日夜《にちや》の|震動《しんどう》|止《や》まず、|雷《いかづち》|轟《とどろ》き、|稲妻《いなづま》|閃《ひらめ》き、|暴風《ぼうふう》|吹《ふ》き|荒《すさ》み、|雨《あめ》は|盆《ぼん》を|覆《かへ》せし|如《ごと》く、|地鳴《ぢなり》|震動《しんどう》|間断《かんだん》なく、さしもに|平穏《へいをん》なりし|水上山《みなかみやま》の|聖場《せいぢやう》は、|阿鼻叫喚《あびけうくわん》の|巷《ちまた》と|化《くわ》し|去《さ》り、|岩ケ根《いはがね》は|竜彦《たつひこ》を|一大事《いちだいじ》と|背《せ》に|負《お》ひ、|高殿《たかどの》に|上《あが》りて、|難《なん》を|免《まぬが》れゐたりける。
|国津神《くにつかみ》たちの|右往左往《うわうさわう》に|泣《な》き|叫《さけ》ぶ|状《さま》、|目《め》も|当《あ》てられぬ|惨状《さんじやう》なりける。
かかるところへ、|天《てん》より|降《くだ》り|来《き》ませる|容姿《ようし》|端麗《たんれい》なる|女神《めがみ》、|四柱《よはしら》の|侍神《じしん》を|伴《ともな》ひ、|此《この》|場《ば》に|降《くだ》らせ|給《たま》ふ。
(昭和九・七・二〇 旧六・九 於関東別院南風閣 林弥生謹録)
第二三章 |二名《ふたな》の|島《しま》〔二〇〇四〕
|水上山《みなかみやま》|方面《はうめん》の|地《ち》は、|数日《すうじつ》の|間《あひだ》|天災地妖《てんさいちえう》|打《う》ち|続《つづ》き、|雷鳴《らいめい》|轟《とどろ》き|電光《でんくわう》|閃《ひら》めき、|暴風雨《ばうふうう》しきりに|臻《いた》り、|驟雨沛然《しうふはいぜん》として|滝《たき》の|如《ごと》く、|地鳴《ぢなり》|震動《しんどう》|連続的《れんぞくてき》に|起《おこ》り、|大井ケ堰《おほゐがせき》は|濁水《だくすゐ》|滔々《たうたう》と|流《なが》れ|落《お》ち、|囂々《がうがう》たる|水勢《すゐせい》は|雷鳴《らいめい》に|和《わ》して、|耳《みみ》も|割《わ》るるばかりの|大騒動《おほさうだう》とはなりぬ。
|大井《おほゐ》の|淵《ふち》には|四頭《しとう》の|竜神《りうじん》|互《たがひ》に|眼《まなこ》を|怒《いか》らし、|一人《ひとり》の|艶男《あでやか》を|奪《うば》はむと、|間断《かんだん》なく|格闘《かくとう》を|続《つづ》け、|竜体《りうたい》より|流《なが》るる|血汐《ちしほ》は、|濁水《だくすい》に|和《わ》して|朱《しゆ》の|如《ごと》く、さすがに|広《ひろ》き|玉耶《たまや》の|湖《うみ》も|紅《くれなゐ》の|湖《うみ》と|変《かは》りけり。|水量《みづかさ》は|日《ひ》に|日《ひ》に|増《ま》さり|行《ゆ》きて、|低地《ていち》に|住《す》める|国津神等《くにつかみたち》は|住家《すみか》を|流《なが》され、|生命《いのち》を|奪《うば》はるる|者《もの》|多《おほ》く|附近《ふきん》の|山《やま》にのぼりて|難《なん》を|避《さ》けつつありけるが、|暴風雨《ばうふうう》と|地鳴《ぢなり》との|為《ため》に|振《ふ》り|落《おと》され、|水中《すいちう》に|没《ぼつ》して|生命《いのち》を|失《う》するもの、その|数《かず》を|知《し》らざりき。
|山神彦《やまがみひこ》、|川神姫《かはかみひめ》は|岩ケ根《いはがね》、|瀬音《せおと》、|水音《みなおと》と|共《とも》に、|幼《をさな》き|乳児《ちのみご》を|抱《かか》へ、|頂上《ちやうじやう》の|神殿《しんでん》に|参籠《さんろう》して、|一時《いちじ》も|早《はや》く|天変地妖《てんぺんちえう》のをさまらむ|事《こと》を|祈願《きぐわん》すれども、|如何《いかん》ともせむ|術《すべ》もなく、|惨状《さんじやう》は|益々《ますます》その|度《ど》を|加《くは》ふるのみ。
かかるところへ|大空《おほぞら》の|黒雲《くろくも》を|分《わ》け、|四柱《よはしら》の|侍神《じしん》を|従《したが》へ、|嚠喨《りうりやう》たる|音楽《おんがく》と|共《とも》に、|水上山《みなかみやま》の|頂《いただき》さして|降《くだ》り|給《たま》ひし|神《かみ》は、|御樋代神《みひしろがみ》の|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》に|坐《ま》しましける。|侍神《じしん》は|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》、|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》、|国生男《くにうみを》の|神《かみ》、|子心比女《こごころひめ》の|神《かみ》に|坐《ま》しましける。
|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》は、|天変地妖《てんぺんちえう》をものともせず、|儼然《げんぜん》として|宣《の》らせ|給《たま》ふ。
『われこそは|主《ス》の|大神《おほかみ》の|神言《みこと》もて
|御樋代神《みひしろがみ》と|降《くだ》り|来《き》つるも
|葭原《よしはら》の|国土《くに》は|獣《けもの》に|汚《けが》されて
|天《あめ》と|地《つち》との|怒《いか》りを|招《まね》けり
|竜ケ島《たつがしま》の|乙女《をとめ》を|汚《けが》せし|罪《つみ》によりて
|国魂神《くにたまがみ》は|怒《いか》らしにけり
われは|今《いま》|葭原《よしはら》の|国土《くに》を|治《しら》さむと
|降《くだ》りて|見《み》れば|浅《あさ》ましき|状《さま》よ
|天津神《あまつかみ》|生《う》ませ|給《たま》ひし|食《を》す|国《くに》を
わが|物顔《ものがほ》に|振舞《ふるま》ひし|罪《つみ》なり
|山神彦《やまがみひこ》、|川神姫《かはかみひめ》が|今日《けふ》の|日《ひ》の
|歎《なげ》きにあふも|神《かみ》の|心《こころ》よ
|今日《けふ》よりはたかぶる|心《こころ》を|振《ふ》りすてて
|正《ただ》しく|清《きよ》く|神《かみ》に|仕《つか》へよ
|此《この》|国《くに》は|汝《なれ》が|治《をさ》むる|国《くに》ならず
|御樋代神《みひしろがみ》の|治《しら》す|国《くに》なり
|玉耶湖《たまやこ》の|中《なか》に|浮《うか》べる|竜ケ島《たつがしま》は
|今《いま》は|全《まつた》く|備《そな》はらぬ|国《くに》
|人《ひと》の|面《おも》なしつる|女神《めがみ》も|身体《からたま》の
その|大方《おほかた》は|獣《けもの》なるぞや
|神《かみ》の|子《こ》の|御魂《みたま》を|持《も》ちて|獣《けもの》なす
|姫《ひめ》を|娶《めと》るは|罪《つみ》とこそ|知《し》れ
|艶男《あでやか》は|神《かみ》の|律《おきて》に|叛《そむ》きたる
|報《むく》いによりて|亡《う》せにけるかも
|今日《けふ》よりはいづれの|神《かみ》も|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|清《きよ》めて|改《あらた》めよかし。
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》|八千万《やちよろづ》
|風《かぜ》も|早《はや》|凪《な》げ|雨《あめ》も|降《ふ》るな
|雲《くも》よ|退《しりぞ》け|地震振《なゐふ》る|止《と》まれ
これの|神国《みくに》は|主《ス》の|神《かみ》の
|依《よ》さし|給《たま》へる|御樋代神《みひしろがみ》の
|永久《とは》に|鎮《しづ》まる|清所《すがど》なり
|雨《あめ》はれ|国《くに》はれ|雲《くも》はれよ
|葭《よし》の|島根《しまね》は|今日《けふ》よりは
|黄金《こがね》|花《はな》|咲《さ》く|食《を》す|国《くに》と
|宣《の》り|直《なほ》しつつ|開《ひら》くべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
わが|言霊《ことたま》に|力《ちから》あれ
|生言霊《いくことたま》に|光《ひかり》あれ』
と|宣《の》らせ|給《たま》ふや、さしも|烈《はげ》しかりし|雷鳴《らいめい》は|鎮《しづ》まり、|電光《でんくわう》は|影《かげ》を|没《ぼつ》し、|暴風雨《ぼうふうう》は|跡形《あとかた》もなく|尾《を》の|上《へ》の|雲《くも》と|消《き》え、|地震《ないふる》はひたと|止《と》まりて、|安静《あんせい》の|昔《むかし》にかへりしこそ|畏《かしこ》けれ。
|山神彦《やまがみひこ》は|濁流《だくりう》の|次第々々《しだいしだい》に|減《げん》じ|行《ゆ》くを|眺《なが》めながら、|恐《おそ》れ|畏《かしこ》み|歌《うた》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|光《ひかり》の|畏《かしこ》けれ
|百《もも》のなやみも|消《き》え|失《う》せぬれば
|大御祖《おほみおや》|神《かみ》のみあとを|継《つ》ぎて|来《こ》し
われは|御国《みくに》の|仇《あだ》なりしかも
|治《をさ》むべき|神《かみ》の|治《をさ》むる|国《くに》なりしと
|今更《いまさら》ながら|悟《さと》らひにけり
|御祖《みおや》より|重《かさ》ね|来《きた》りし|罪科《つみとが》を
|許《ゆる》させ|給《たま》へ|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》
わが|伜《せがれ》|水《みづ》の|藻屑《もくづ》と|消《き》え|果《は》てしも
|御祖《みおや》の|罪《つみ》のめぐり|来《き》つるか
|畏《かしこ》しや|貴《うづ》の|言霊《ことたま》|幸《さち》はひて
|国《くに》のなやみは|消《き》え|失《う》せにけり
|今日《けふ》よりは|心《こころ》|清《きよ》めて|御樋代《みひしろ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》にまつろひ|奉《まつ》らむ』
|川神姫《かはかみひめ》は|恐《おそ》る|恐《おそ》る|御前《みまへ》にひれ|伏《ふ》して、|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》ふ。
『はしけやし|厳《いづ》の|御神《おんかみ》|天降《あも》りまして
われらが|悩《なや》みを|救《すく》はせ|給《たま》ひぬ
|知《し》らず|知《し》らず|罪《つみ》を|犯《をか》せしわれなりし
|許《ゆる》させ|給《たま》へ|天降《あも》ります|神《かみ》
|御顔《おんかほ》を|仰《あふ》ぐもまぶしくなりにけり
|曇《くも》りきりたるわがまなかひは
まなかひの|眩《くら》むばかりに|思《おも》はるる
|神《かみ》のよそほひ|尊《たふと》きろかも
|今《いま》となりてわが|子《こ》の|生命《いのち》は|惜《を》しむまじ
ただ|惟神《かむながら》|神《かみ》に|任《まか》せむ
よしやよしわれらの|生命《いのち》|召《め》さるとも
|罪《つみ》し|消《き》ゆれば|悔《く》ゆる|事《こと》なし
|昔《むかし》より|此《この》|丘《をか》の|上《へ》に|鎮《しづ》まりて
|国《くに》を|守《まも》りしことのはづかし
|主《ス》の|神《かみ》の|御許《みゆる》しなくばよき|事《こと》も
|罪《つみ》なりといふ|事《こと》を|悟《さと》りぬ』
|御樋代神《みひしろがみ》の|朝霧比女《あさぎりひめ》の|神《かみ》はうなづきながら、
『|汝《な》が|言葉《ことば》|澄《す》みてありけり|宜《うべ》よ|宜《うべ》よ
|国《くに》の|司《つかさ》とありし|身《み》なれば
|汝《な》が|罪《つみ》をここに|改《あらた》め|許《ゆる》すべし
|水上《みなかみ》の|山《やま》に|永久《とは》に|鎮《しづ》まれ』
|山神彦《やまがみひこ》は|涙《なみだ》を|袖《そで》に|拭《ぬぐ》ひながら、
『|再生《さいせい》の|思《おも》ひするかな|御樋代神《みひしろがみ》の
なさけの|言葉《ことば》かたじけなみつつ
|天地《あめつち》の|神《かみ》は|怒《いか》りて|国原《くにはら》は
|修羅《しゆら》の|巷《ちまた》となりにけりしな
|常闇《とこやみ》の|世《よ》を|照《てら》しつつ|天降《あも》りましし
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|戦《をのの》くわれなり』
|岩ケ根《いはがね》は|恐《おそ》る|恐《おそ》る|歌《うた》ふ。
『|二柱《ふたはしら》|神《かみ》に|仕《つか》へて|今日《けふ》までも
|安《やす》く|暮《く》れにしわが|身《み》|恥《はづ》かし
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|御前《みまへ》を|伏《ふ》し|拝《をが》み
わが|身体《からたま》はいすくみにける
|主《ス》の|神《かみ》の|御許《みゆる》しなくて|仕《つか》へたる
われは|悲《かな》しも|罪《つみ》を|重《かさ》ねて
|目路《めぢ》の|限《かぎ》り|国津神《くにつかみ》らの|住《す》む|家《いへ》は
|跡形《あとかた》もなく|失《う》せにけるかも
かくの|如《ごと》なげきの|種《たね》を|培《つちか》ひし
われは|礼《ゐや》なき|罪人《つみびと》なりける
わが|生命《いのち》よしや|死《し》すとも|厭《いと》はまじ
なやめる|神《かみ》を|許《ゆる》させ|給《たま》へ
|此《この》|館《たち》に|古《ふる》く|仕《つか》へて|年《とし》|老《お》いぬ
|著《しる》きいさをのあともなくして』
|水音《みなおと》は|歌《うた》ふ。
『|久方《ひさかた》の|雲井《くもゐ》を|分《わ》けて|天降《あも》りませし
|神《かみ》の|御前《みまへ》にわれ|戦《をのの》きぬ
|常闇《とこやみ》の|醜《しこ》の|国原《くにはら》|伊照《いて》らして
|天降《あも》り|給《たま》ひし|尊《たふと》き|神《かみ》はも
|滝津瀬《たきつせ》の|水音《みなおと》とみにしづまりて
|漲《みなぎ》る|水《みづ》は|低《ひく》みたるかも
つぎつぎに|漂《ただよ》ふ|水《みづ》も|流《なが》れ|行《ゆ》きて
|狭霧《さぎり》|立《た》ちたつこれの|国原《くにはら》
|如何《いかが》して|貴《うづ》の|恵《めぐみ》に|報《むく》いむと
|思《おも》ふはわれらが|真心《まごころ》なりけり』
|瀬音《せおと》は|畏《かしこ》み|歌《うた》ふ。
『|常闇《とこやみ》の|歎《なげ》きに|泣《な》きしわが|魂《たま》も
|神《かみ》の|光《ひかり》によみがへるける
|幾千代《いくちよ》の|末《すゑ》の|末《すゑ》まで|忘《わす》れまじ
|神《かみ》の|恵《めぐみ》のいやちこなるを
あはれあはれ|水上山《みなかみやま》の|聖場《せいぢやう》は
|蘇《よみがへ》りつつ|朝日《あさひ》|照《て》らへり
|草《くさ》も|木《き》も|歓《えら》ぎよろこぶ|世《よ》となりぬ
|光《ひかり》の|神《かみ》の|天降《あも》りましてゆ』
|大御照《おほみてらし》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|天津日《あまつひ》も|大御照《おほみて》らしの|神《かみ》なれば
|御樋代神《みひしろがみ》に|添《そ》ひて|降《くだ》れる
|今日《けふ》よりは|御空《みそら》の|雲霧《くもきり》|吹《ふ》き|払《はら》ひ
|葭原《よしはら》の|国土《くに》を|生《い》かさむと|思《おも》ふ
|光闇《ひかりやみ》|行《ゆ》きかふ|世《よ》なりわれあらば
|夕《ゆふ》さりくるも|国原《くにはら》|明《あか》るし
|竜神《たつがみ》の|島《しま》の|乙女《をとめ》に|心《こころ》せよ
|彼等《かれら》は|全《まつた》き|神《かみ》にあらねば
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|渡《わた》らせ|給《たま》ひなば
|竜《たつ》の|島根《しまね》は|生《い》く|国《くに》とならむ
|伊吹山《いぶきやま》|尾根《をね》に|集《あつま》る|曲津見《まがつみ》は
|百花《ももばな》|千花《ちばな》と|化《な》りて|匂《にほ》へるよ』
|岩ケ根《いはがね》は|頭《かしら》を|地《ち》にすりつけながら、
『ありがたし|天津御神《あまつみかみ》の|御宣示《みことのり》
|心《こころ》に|刻《きざ》みて|忘《わす》れざらまし
|歎《なげ》かひの|日《ひ》を|送《おく》りつつよろこびの
|今日《けふ》はよき|日《ひ》にあひにけらしな』
|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|悩《なや》ましき|水上《みなかみ》の|山《やま》のありさまを
われあはれみて|降《くだ》り|来《き》つるも
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》のみあとに|従《したが》ひて
|天降《あも》りしわれは|朝空男《あさぞらを》の|神《かみ》
|朝津日《あさつひ》は|御空《みそら》に|昇《のぼ》り|夕月《ゆふづき》は
|尾《を》の|上《へ》にかかりて|国土《くに》|照《てら》しまさむ
|主《ス》の|神《かみ》の|貴《うづ》の|食《を》す|国《くに》を|美《うま》し|国《くに》と
|治《をさ》めて|永久《とは》の|礎《いしずゑ》|固《かた》めむ
|山神彦《やまがみひこ》よ|岩ケ根《いはがね》、|瀬音《せおと》、|水音《みなおと》と
|力《ちから》|協《あは》せて|御子《みこ》を|育《そだ》てよ
|生《お》ひ|立《た》ちし|御子《みこ》を|此《この》|地《ち》の|司《つかさ》とし
|近《ちか》き|辺《あた》りを|安《やす》く|治《をさ》めよ』
|山神彦《やまがみひこ》は|嬉《うれ》しさのあまり、|落涙《らくるい》しながら|地《ち》に|伏《ふ》して|歌《うた》ふ。
『|罪《つみ》|深《ふか》きわれらが|孫《ひこ》をかくまでも
|恵《ゆぐ》ませ|給《たま》ふと|思《おも》へば|悲《かな》しき
|真心《まごころ》のあらむ|限《かぎ》りを|捧《ささ》げつつ
|御樋代神《みひしろがみ》に|永久《とは》に|仕《つか》へむ』
|川神姫《かはかみひめ》は|同《おな》じく|伏《ふ》して|歌《うた》ふ。
『|常闇《とこやみ》の|世《よ》は|晴《は》れにけり|隈《くま》もなく
|御樋代神《みひしろがみ》の|光《ひかり》によりて
わが|夫《つま》と|共《とも》にかしこみ|此《この》|国《くに》の
|近《ちか》き|辺《あた》りを|謹《つつし》み|治《をさ》めむ』
|国生男《くにうみを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|葭原《よしはら》の|国土《くに》は|涯《はて》なく|広《ひろ》ければ
われは|力《ちから》の|限《かぎ》りを|尽《つく》さむ
はてしなき|此《この》|国原《くにはら》に|天降《あも》りまして
|都《みやこ》つくると|思《おも》へばいさまし』
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》は|再《ふたた》び|歌《うた》はせ|給《たま》ふ。
『|朝霧《あさぎり》は|四方《よも》に|立《た》ちたつ|夕霞《ゆふかすみ》
|棚引《たなび》き|初《そ》むるこれの|国原《くにはら》
|水上山《みなかみやま》これの|清所《すがど》は|年《とし》|老《お》いし
|二人《ふたり》を|休《やす》ませ|岩ケ根《いはがね》にあづけむ
|此《この》|御子《みこ》の|生《お》ひ|立《た》ちまさば|岩ケ根《いはがね》は
|国《くに》の|政治《まつり》を|御子《みこ》に|返《かへ》せよ
|此《この》|御子《みこ》は|竜神《たつがみ》の|腹《はら》に|生《な》りませば
|国津神《くにつかみ》らの|手《て》には|育《そだ》たじ
|子心比女《こごころひめ》|神《かみ》に|嬰児《みづこ》を|守《まも》らせて
|安《やす》く|雄々《をを》ししく|育《そだ》てむと|思《おも》ふ』
|岩ケ根《いはがね》は|地《ち》に|伏《ふ》して|歌《うた》ふ。
『ありがたし|老《お》います|君《きみ》のあとうけて
|水上《みなかみ》の|山《やま》に|仕《つか》へ|奉《まつ》らむ
|貴御子《うづみこ》の|生《お》ひ|立《た》ちまさば|吾《われ》は|直《ただ》に
これの|御国《みくに》を|返《かへ》し|奉《まつ》らむ
|貴《うづ》の|子《こ》の|生《お》ひ|立《た》ち|頼《たの》みまゐらする
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》|子心比女《こごころひめ》の|神《かみ》に』
|子心比女《こごころひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|仰《おほ》せをかしこみて
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|恵《めぐ》み|育《そだ》てむ』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|給《たま》ひて、|竜彦《たつひこ》の|御子《みこ》を|御肌《みはだ》に|抱《かか》へさせ|給《たま》ひ、
『|貴《うづ》の|子《こ》よ|愛《めぐ》しき|御子《みこ》よ|汝《なれ》こそは
|国《くに》の|柱《はしら》よすくすく|育《そだ》てよ。
|神《かみ》の|恵《めぐみ》はいや|広《ひろ》し
|汝《なれ》の|生命《いのち》の|永《なが》かれと
|朝夕《あさゆふ》|祈《いの》りて|育《はぐく》まむ
|山神彦《やまがみひこ》よ|川神姫《かはかみひめ》よ
|心《こころ》|安《やす》かれ|岩ケ根《いはがね》も
すくすく|此《この》|子《こ》の|生《お》ひ|立《た》ちを
|楽《たの》しみ|待《ま》てよ|惟神《かむながら》
われはこれより|高光《たかみつ》の
|御山《みやま》を|指《さ》して|御樋代《みひしろ》の
|神《かみ》に|従《したが》ひ|出《い》で|行《ゆ》かむ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|恩頼《みたまのふゆ》は|永久《とは》にあれ
|恩頼《みたまのふゆ》は|永久《とは》にあれ』
と|歌《うた》はせ|給《たま》ひつつ、|悠然《いうぜん》として|雲《くも》を|起《おこ》し、|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|他《ほか》|四柱《よはしら》は、|高光山《たかみつやま》の|方面《はうめん》|指《さ》して|出《い》で|給《たま》ひける。
|因《ちなみ》に|言《い》ふ、|高光山《たかみつやま》を|境《さかひ》として、|東《ひがし》に|御樋代神《みひしろがみ》の|貴《うづ》の|御舎《みあらか》は|建《た》てられ、|土阿《とあ》の|宮殿《きうでん》を|造《つく》り、|改《あらた》めて|土阿《とあ》の|国《くに》と|名付《なづ》け|給《たま》ひ、|高光山《たかみつやま》|以西《いせい》を|予讃《よさ》の|国《くに》と|名付《なづ》け|給《たま》ひ、|葭原《よしはら》の|国土《くに》を|総称《そうしよう》して|貴《うづ》の|二名島《ふたなじま》と|称《たた》へ|給《たま》ひけるぞ|畏《かしこ》けれ。
(昭和九・七・二〇 旧六・九 於関東別院南風閣 白石恵子謹録)
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霊界物語 第七九巻 天祥地瑞 午の巻
終り