霊界物語 第七六巻 天祥地瑞 卯の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第七十六巻』天声社
1981(昭和56)年04月01日 改装版発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年09月08日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|総説《そうせつ》
|日本《にほん》|所伝《しよでん》の|天地開闢説《てんちかいびやくせつ》
|支那《しな》の|開闢説《かいびやくせつ》
|波斯《ペルシヤ》の|宇宙創造説《うちうさうざうせつ》
|希臘《ギリシヤ》の|天地開闢説《てんちかいびやくせつ》
エヂプトの|開闢説《かいびやくせつ》
メキシコナフア|族《ぞく》の|天地創造説《てんちさうざうせつ》
マヤ|族《ぞく》の|万物創造説《ばんぶつさうざうせつ》
|北欧《ほくおう》に|於《お》ける|宇宙創造説《うちうさうざうせつ》
|太平洋《たいへいやう》|西北岸《せいほくがん》|創造説《さうざうせつ》
|英領《えいりやう》|北亜米利加《きたアメリカ》|創造説《さうざうせつ》
|阿弗利加《アフリカ》|神話《しんわ》
ヘブライ|天地創造説《てんちさうざうせつ》
パレスチン|創造説《さうざうせつ》
ミクロネシヤ|創造説《さうざうせつ》
インドネシヤ|創造説《さうざうせつ》
第一篇 |春風駘蕩《しゆんぷうたいたう》
第一章 |高宮参拝《たかみやさんぱい》〔一九一八〕
第二章 |魔《ま》の|渓流《けいりう》〔一九一九〕
第三章 |行進歌《かうしんか》〔一九二〇〕
第四章 |怪《あや》しの|巌山《いはやま》〔一九二一〕
第五章 |露《つゆ》の|宿《やど》〔一九二二〕
第二篇 |晩春《ばんしゆん》の|神庭《しんてい》
第六章 |報告祭《はうこくさい》〔一九二三〕
第七章 |外苑《ぐわいゑん》の|逍遥《せうえう》〔一九二四〕
第八章 |善言美霊《ぜんげんびれい》〔一九二五〕
第三篇 |孤軍奮闘《こぐんふんとう》
第九章 |闇《やみ》の|河畔《かはん》〔一九二六〕
第一〇章 |二本松《にほんまつ》の|蔭《かげ》〔一九二七〕
第一一章 |栄城《さかき》の|山彦《やまびこ》〔一九二八〕
第一二章 |山上《さんじやう》の|祈《いの》り〔一九二九〕
第一三章 |朝駒《あさこま》の|別《わか》れ〔一九三〇〕
第一四章 |磐楠舟《いはくすぶね》〔一九三一〕
第一五章 |御舟巌《みふねいは》〔一九三二〕
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|序文《じよぶん》
|本巻《ほんくわん》は|総説《そうせつ》において、|東西《とうざい》|両洋《りやうやう》|各国《かくこく》に|伝《つた》はる|宇宙創造説《うちうさうざうせつ》や|天地開闢説《てんちかいびやくせつ》を|列挙《れつきよ》し、|以《もつ》て|吾《わ》が|説示《せつじ》せる『|天祥地瑞《てんしやうちずゐ》』の|宇宙《うちう》|創造《さうざう》、|天地開闢説《てんちかいびやくせつ》と|比較《ひかく》して、|其《そ》の|深浅《しんせん》と|真偽《しんぎ》を|判別《はんべつ》すべくものしたり。
また|本文《ほんぶん》においては、|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|仕《つか》へませる|八柱《やはしら》の|御樋代比女神等《みひしろひめがみたち》が、はろばろと|紫微《しび》の|宮居《みや》なる|天津高宮《あまつたかみや》に|打《う》ち|揃《そろ》ひて|参向《さんかう》し、|強雄《がうゆう》なる|二柱《ふたはしら》の|男神《をがみ》を|主《ス》の|神《かみ》に|請《こ》ひて|派遣《はけん》を|得《え》、|再《ふたた》び|筑紫《つくし》の|宮居《みや》に|帰《かへ》りまし、|報告祭《はうこくさい》を|行《おこな》ひ|給《たま》ひけるが、|其《そ》の|中《なか》の|一柱《ひとはしら》の|御樋代比女神《みひしろひめがみ》たる|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|長《なが》く|帰《かへ》りまさぬをもどかしく|思召《おぼしめ》し、|諸神《しよしん》の|止《とど》むるをも|聞《き》かず、|単騎《たんき》|荒野ケ原《あらのがはら》を|打渡《うちわた》り、|到《いた》る|処《ところ》|曲津見《まがつみ》の|災《わざはひ》を|打《う》ち|祓《はら》ひつつ、|栄城《さかき》の|山《やま》に|立《た》ち|寄《よ》り、|真賀《まが》の|湖水《こすゐ》を|難《なん》なく|渡《わた》り|曲津見《まがつみ》を|征服《せいふく》し、|狭野《さぬ》の|里《さと》の|国津神等《くにつかみたち》に|火食《くわしよく》の|道《みち》を|教《をし》へ|給《たま》ひつつ、|西方《にしかた》の|国土《くに》を|指《さ》して|国津神《くにつかみ》|狭野比古《さぬひこ》を|従《したが》へ、|立《た》ち|出《い》で|給《たま》ふまでの|物語《ものがたり》なり。
昭和八年十二月八日、旧十月二十一日
於水明閣 口述者識
|総説《そうせつ》
|言霊学上《ことたまがくじやう》の|見地《けんち》より、|皇典古事記《くわうてんこじき》の|包含《はうがん》せる|真意義《しんいぎ》を|解釈《かいしやく》し、|以《もつ》て|皇道《くわうだう》の|大本《たいほん》を|普《あまね》く|江湖《かうこ》に|知《し》らしめむとして|本書《ほんしよ》を|著述《ちよじゆつ》する|事《こと》とせり。|天地《てんち》|開闢《かいびやく》や|宇宙《うちう》|創造《さうざう》の|説《せつ》に|就《つい》ては、|東洋《とうやう》は|更《さら》なり、|欧洲《おうしう》|亜細亜《アジア》|等《とう》の|宗教《しうけう》|又《また》は|史詩《シヤンソン》に|散見《さんけん》すれども、|太古《たいこ》|未開《みかい》の|人《ひと》の|想像力《さうざうりよく》より|生《うま》れたるもの|多《おほ》く、|何《いづ》れもその|真相《しんさう》を|把握《はあく》するに|苦《くる》しまざる|可《べ》からず。|皇国言霊学《くわうこくことたまがく》の|上《うへ》より|見《み》たる|天地開闢《かいびやく》|宇宙《うちう》|創造《さうざう》の|説《せつ》に|比《くら》ぶれば|天地霄壤《てんちせうじやう》の|相違《さうゐ》ある|事《こと》を|比較《ひかく》して、|本書《ほんしよ》の|前古未曾有《ぜんこみぞう》なる|神書《しんしよ》なる|事《こと》を|示《しめ》さむと|欲《ほつ》し、|茲《ここ》に|各国《かくこく》の|神話《しんわ》|伝説《でんせつ》を|列記《れつき》して|諸士《しよし》の|参考《さんかう》に|供《きよう》せむと|欲《ほつ》するものなり。|先《ま》づ|皇国日本《くわうこくにほん》より|例証《れいしよう》を|挙《あ》げむとす。
|日本《にほん》|所伝《しよでん》の|天地開闢説《てんちかいびやくせつ》
|古《いにし》へ|天地《てんち》|未《いま》だ|剖《わ》かれず、|陰陽《いんやう》|分《わか》れず、|万物《ばんぶつ》|未《いま》だ|成《な》らざりし|時《とき》の|状《さま》は、|譬《たと》へば、|浮《うか》べる|脂《あぶら》の|大海原《おほうなばら》の|面《おも》に|漂《ただよ》うて、かかる|所《ところ》もない|如《ごと》く、|渾沌《こんとん》として|鶏子《けいし》の|黄白《きみしろみ》の|散《ち》り|乱《みだ》れて|混《ま》ざれるやうに、|形状《けいじやう》もなければ、また|区別《くべつ》もつかず、|溟〓《めいけい》にして|牙《かび》を|含《ふく》むの|状態《じやうたい》であつた。
|然《しか》る|後《のち》に、|軽《かる》く|清《す》める|気《き》は|漸《やうや》く|昇《のぼ》りて|清陽《せいやう》なるに|及《およ》び、|薄《うす》く|靡《なび》きて|天《てん》と|成《な》り、|重《おも》く|濁《にご》れるものは|自《おのづか》ら|沈《しづ》んで|濃《こ》く|滞《とどこほ》りて|地《ち》となつた。
|其《その》はじめに|成《な》りたる|天《てん》を|高天原《たかあまはら》といひ、|後《のち》に|定《さだ》まれる|地《ち》を|国《くに》といふ。|天地《てんち》の|間《あひだ》に|大虚《おほぞら》ありて|空《むな》しく|懸《かか》る。
|天地開闢《かいびやく》のはじめ、|国《くに》なほ|稚《わか》く|砂土《さど》|浮《う》き|漂《ただよ》うて、|海月《くらげ》の|海水《かいすゐ》に|泳《およ》げる|如《ごと》くに|浮脂《うきあぶら》の|水《みづ》の|上《うへ》に|漂《ただよ》へるが|如《ごと》く、|未《いま》だ|固《かた》まらざりし|時《とき》に、|葦牙《あしかび》の|如《ごと》き|物《もの》、|自《おのづか》らその|中《なか》に|成《な》り|出《い》でて、その|物《もの》は|萌騰《もえあが》りて|大虚《おほぞら》の|中《なか》に|発《おこ》りたるによりて、|高天原《たかあまはら》に|生《な》り|出《い》で|給《たま》へる|最初《さいしよ》の|神《かみ》を|天譲日天狭霧国譲月国狭霧尊《あめゆづるひあめのさぎりくにゆづるつきのくにのさぎりのみこと》と|申《まを》し|奉《たてまつ》る。|天祖《てんそ》と|称《しよう》し|奉《たてまつ》るは|即《すなは》ち|此《こ》の|神《かみ》である。
|然《しか》る|後《のち》に|高天原《たかあまはら》に|自《おのづか》ら|化《な》り|出《い》で|玉《たま》へる|神《かみ》たちの|中《なか》に、|独《ひと》りづづ|化《な》り|出《い》で|玉《たま》へるを|独化天神《どくくわてんしん》と|申《まを》し、|二柱《ふたはしら》|倶《とも》に|化《な》り|出《い》で|玉《たま》へるを|倶生天神《ぐせいてんしん》と|申《まを》し、|男神《をがみ》と|女神《めがみ》と|共《とも》に|化《な》り|出《い》で|玉《たま》へるを|〓生天神《ぐうせいてんしん》と|申《まを》し|奉《たてまつ》る。また|別《べつ》に|化《な》り|出《い》で|玉《たま》へる|神《かみ》たちを|別天神《ことあまつかみ》と|申《まを》し|奉《たてまつ》る。
|神代《かみよ》|七代《しちだい》
|天地《てんち》が|開《ひら》け|初《はじ》めた|時《とき》に、|高天原《たかあまはら》に|化《な》り|出《い》でし|神《かみ》は、
|第一《だいいち》に |天之御中主神《あめのみなかぬしのかみ》
|第二《だいに》に |高皇産霊神《たかみむすびのかみ》
|第三《だいさん》に |神皇産霊神《かむみむすびのかみ》
|以上《いじやう》|三柱神《みはしらがみ》であつた。|此《こ》の|神々《かみがみ》は|皆《みな》|配偶《はいぐう》の|無《な》い|独神《ひとりがみ》であつて、|其《その》|後《ご》|御身《みみ》を|見《み》えぬやうに|隠《かく》し|玉《たま》ふた。
|国土《こくど》|未《いま》だ|定《さだ》かに|成《な》り|整《ととの》はずして|恰《あたか》も|脂《あぶら》の|浮《う》ける|如《ごと》く、|海月《くらげ》の|海水《かいすゐ》に|浮《う》けるが|如《ごと》き|状態《じやうたい》であつた|時《とき》、|芦《あし》の|芽《め》の|如《や》うに|萌《も》え|出《い》でて|成《な》らせ|給《たま》うた|神《かみ》は、
|第四《だいし》に |宇麻志阿斯訶備比古遅神《うましあしかびひこぢのかみ》
|第五《だいご》に |天之常立神《あめのとこたちのかみ》
である。|此《この》|二柱神《ふたはしらがみ》も|亦《また》|同《おな》じく|独神《ひとりがみ》で、|其《その》|後《ご》も|依然《いぜん》として|御身《みみ》を|見《み》えぬやう|隠《かく》し|玉《たま》うた。
|以上《いじやう》|五柱《いつはしら》の|神《かみ》を|別天神《ことあまつかみ》と|申《まを》し|上《あ》げる。
その|次《つぎ》に|成《な》らせ|給《たま》うた|神《かみ》は、
|第一《だいいち》に |国之常立神《くにのとこたちのかみ》
|第二《だいに》に |豊雲野神《とよくもぬのかみ》
で|此《こ》の|二柱《ふたはしら》の|神《かみ》も|亦《また》|独神《ひとりがみ》で|御身《みみ》を|隠《かく》された。|其《そ》の|次《つぎ》に|生《あ》れ|坐《ま》せし|神《かみ》は、いづれも|配偶《はいぐう》の|神々《かみがみ》で、
|第三《だいさん》に |宇比地邇神《うひぢにのかみ》 |女神《めがみ》は|須比智邇神《すひぢにのかみ》
|第四《だいし》は |角杙神《つぬぐひのかみ》 |女神《めがみ》は|活杙神《いくぐひのかみ》
|第五《だいご》は |意冨斗能地神《おほとのぢのかみ》 |女神《めがみ》は|意冨斗能弁神《おほとのべのかみ》
|第六《だいろく》は |淤母陀琉神《おもだるのかみ》 |女神《めがみ》は|阿夜訶志古泥神《あやかしこねのかみ》
|第七《だいしち》は |伊邪那岐神《いざなぎのかみ》 |女神《めがみ》は|伊邪那美神《いざなみのかみ》
|以上《いじやう》|国之常立神《くにのとこたちのかみ》より|伊邪那美神《いざなみのかみ》までを|神世七代《かみよしちだい》と|申《まを》すなり|云々《うんぬん》。(以下省略)
|支那《しな》の|開闢説《かいびやくせつ》
|太初《はじめ》には|何物《なにもの》も|存在《そんざい》して|居《ゐ》なかつた。|只《ただ》|一種《いつしゆ》の|気《き》が|濛々《もうもう》として|広《ひろ》がり|満《み》ちて|居《ゐ》ただけであつた。さうして|居《ゐ》るうちに|其《その》|中《なか》に|物《もの》の|生《しやう》ずる|萌芽《きざし》が|始《はじ》まつて、|軈《やが》て|天《てん》と|地《ち》が|現《あら》はれた。|天《てん》と|地《ち》とは|陰陽《いんやう》に|感《かん》じて|盤古《ばんこ》といふ|巨人《きよじん》を|生《う》んだ。|盤古《ばんこ》が|死《し》ぬ|時《とき》に|其《その》|体《からだ》が|色々《いろいろ》のものに|化《くわ》して、|天地《てんち》の|間《あひだ》に|万物《ばんぶつ》が|具《そな》はるやうに|成《な》つた。|則《すなは》ち|息《いき》は|風雲《ふううん》となり、|声《こゑ》は|雷《かみなり》となり、|左《ひだり》の|眼《め》は|太陽《たいやう》となり、|右《みぎ》の|眼《め》は|月《つき》となり、|手足《てあし》と|体《からだ》とは|山々《やまやま》となり、|流《なが》るる|血潮《ちしほ》は|河《かは》となり、|肉《にく》は|土《つち》となり、|髪《かみ》の|毛《け》や|髭《ひげ》は|数々《かずかず》の|星《ほし》となり、|皮膚《ひふ》に|生《は》えてゐた|毛《け》は|草《くさ》や|樹《き》となり、|歯《は》や|骨《ほね》は|金属《きんぞく》や|石《いし》となり、|汗《あせ》は|雨《あめ》となつた。|又《また》の|他《た》の|神話《しんわ》によると、|盤古《ばんこ》が|死《し》ぬと、その|頭《あたま》は|四岳《しがく》となり、|二《ふた》つの|眼《め》は|太陽《たいやう》|太陰《たいいん》となり、|脂膏《あぶら》は|流《なが》れて|河《かは》や|海《うみ》となり、|髪《かみ》の|毛《け》は|化《くわ》して|草《くさ》や|木《き》と|成《な》つたと|伝《つた》へてゐる。
また|更《さら》に|他《た》の|神話《しんわ》によると、|盤古《ばんこ》の|頭《あたま》が|東岳《とうがく》に|化《くわ》し、|腹《はら》が|中岳《ちうがく》に|変《へん》じ、|左《ひだり》の|臂《ひぢ》が|南岳《なんがく》となり、|右《みぎ》の|臂《ひぢ》が|北岳《ほくがく》となり、|足《あし》が|西岳《せいがく》となりしとも|伝《つた》へてゐる。
|天地《てんち》の|分離《ぶんり》
|太初《はじめ》には|天《てん》と|地《ち》とが|相混《あひまじ》つて、まるで|鶏卵《けいらん》の|如《や》うにフワフワとしてゐた。その|中《なか》に|盤古《ばんこ》といふものが|生《うま》れて|来《く》ると、|初《はじ》めて|天《てん》と|地《ち》との|差別《さべつ》が|出来《でき》て、|清《きよ》いものは|天空《てんくう》となり、|濁《にご》つてゐるものは|大地《だいち》となつた。
その|後《のち》は、|天空《てんくう》も|大地《だいち》も、それからこの|二《ふた》つの|間《あひだ》に|生《うま》れた|盤古《ばんこ》も、|段々《だんだん》と|生長《せいちやう》して|行《い》つた。
|天《てん》は|一日《いちにち》に|一丈《いちぢやう》づづ|高《たか》さを|増《ま》して|行《ゆ》き、|地《ち》も|同《おな》じく|一日《いちにち》に|一丈《いちぢやう》づづ|厚《あつ》さを|加《くは》へて|行《い》つた。そして、|其《その》|間《あひだ》に|挟《はさ》まつてゐる|盤古《ばんこ》も|劣《おと》らじと、|一日《いちにち》に|九度《くど》|姿《すがた》を|変《か》へながら、|同《おな》じく|一丈《いちぢやう》づづ|背《せ》が|延《の》びて|行《い》つた。さうして|居《ゐ》る|内《うち》に、|一万八千年《いちまんはつせんねん》といふ|永《なが》い|年月《としつき》が|経《た》つた。その|間《あひだ》に|盤古《ばんこ》の|身《み》の|丈《たけ》が|延《の》びに|延《の》びて|九万里《きうまんり》となつた。|九万里《きうまんり》といふ|恐《おそ》ろしいノツポーが|天《てん》と|地《ち》との|間《あひだ》に|挟《はさ》まる|事《こと》になつたので、|元々《もともと》|相接《あひせつ》してゐた|此《こ》の|二《ふた》つが、|九万里《きうまんり》ほど|隔《へだ》たつて|了《しま》つた。
|天空《てんくう》と|大地《だいち》との|間《あひだ》が|今日《こんにち》のやうに|遠《とほ》く|離《はな》れてゐるのは、|全《まつた》く|是《これ》が|為《ため》であるといふのである。
ニユー・ジーランドの|神話《しんわ》に、タネマフタといふ|木《き》の|神《かみ》が、|相接《あひせつ》してゐる|天《てん》と|地《ち》とを|押《お》し|分《わ》けたといふことを|説《と》いてゐる。|盤古神話《ばんこしんわ》はこれと|頗《すこぶ》る|趣《おもむき》を|同《おな》じうしてゐる。それから、|世界樹《せかいじゆ》の|観念《くわんねん》も|支那《しな》に|存《そん》して|居《ゐ》たらしい。スカンディナヴィアの|神話《しんわ》に、イグドラジルといふ|大樹《たいじゆ》があつて、|上《うへ》は|天界《てんかい》に|至《いた》り、|下《した》は|死界《しかい》に|根《ね》を|張《は》つてゐると|云《い》はれてゐる。かやうな|樹《き》を|世界樹《せかいじゆ》と|呼《よ》ぶのであるが、|支那《しな》にも|之《これ》に|頗《すこぶ》る|類似《るゐじ》した|説話《せつわ》が|存《そん》してゐる。
『|太平御覧《たいへいぎよらん》』の|言《い》ふ|所《ところ》によると、|支那《しな》に|一本《いつぽん》の|大《おほ》きな|扶桑《ふさう》の|樹《き》があつた。|枝《ゑだ》が|無《な》くてスクスクとどこ|迄《まで》も|大空《たいくう》に|伸《の》び|上《あが》つて|居《ゐ》た。そして|上《うへ》は|天盤《てんばん》に|至《いた》り、|下《した》は|屈《まが》りくねつて|三泉《さんせん》に|通《つう》じてゐたと|言《い》ふのであるから、|之《これ》を|目《もく》して|支那《しな》のイグドラジルとなしても|決《けつ》して|不当《ふたう》ではない。|従《したが》つてまた|之《これ》を|一種《いつしゆ》の|世界樹《せかいじゆ》と|呼《よ》んでも、|敢《あへ》て|比倫《ひりん》を|失《しつ》してゐる|訳《わけ》でもないだらう。
|波斯《ペルシヤ》の|宇宙創造説《うちうさうざうせつ》
|世界《せかい》の|初《はじ》めにアフラ・マズダと|言《い》ふ|尊《たふと》い|神《かみ》とアングラ・マイニウと|言《い》ふ|邪悪《じやあく》な|精霊《せいれい》とがあつた。アフラ・マズダは|限《かぎ》りなき|光明《くわうみやう》の|世界《せかい》に|住《す》んで|居《を》り、アングラ・マイニウは|涯《はて》もない|暗黒《あんこく》の|深淵《しんえん》に|住《す》んでゐた。そして|其《そ》の|光明《くわうみやう》の|世界《せかい》と|暗黒《あんこく》の|深淵《しんえん》との|間《あひだ》は、|何一《なにひと》つも|存在《そんざい》しない|空《くう》の|空《くう》であつた。
アフラ・マズダは|種々《しゆじゆ》の|生物《せいぶつ》を|造《つく》り|出《だ》した。|併《しか》し|始《はじ》めは|目《め》に|見《み》える|形《かたち》を|持《も》つてゐなかつた。この|尊《たふと》い|神《かみ》は、|自分《じぶん》が|造《つく》り|出《だ》した|総《すべ》ての|生物《せいぶつ》を、|三千年《さんぜんねん》の|間《あひだ》|考《かんが》へることも|無《な》ければ、|動《うご》くことも|無《な》い|無形《むけい》の|霊《れい》の|姿《すがた》にして|置《お》かうと|思《おも》つたのであつた。|邪悪《じやあく》なアングラ・マイニウはアフラ・マズダが|色々《いろいろ》な|生物《せいぶつ》を|造《つく》り|出《だ》したと|言《い》ふことを|聞《き》き|込《こ》むと、
『|何《なに》を|小癪《こしやく》な、おれがアフラ・マズダの|世界《せかい》に|行《い》つて|何《なに》もかも|叩《たた》きつぶしてやる』
と|言《い》つて|暗黒《あんこく》の|深淵《しんえん》から|脱《ぬ》け|出《だ》して|光明《くわうみやう》の|世界《せかい》にやつて|来《き》た。|併《しか》しいよいよアフラ・マズダの|所《ところ》に|来《き》て|見《み》ると、|威儀堂々《ゐぎだうだう》として|力《ちから》が|強《つよ》く|徳《とく》が|高《たか》かつたので、
『これは|驚《おどろ》いた、とてもおれなんか|敵《かな》ひさうにない』
と|始《はじ》めの|凄《すさま》じい|勢《いきほ》ひはどこへやら、|這々《はふばふ》の|体《てい》でもとの|暗黒世界《あんこくせかい》に|逃《に》げ|帰《かへ》つた。そして、
『アフラ・マズダがあんなに|偉《えら》くては、おれ|一人《ひとり》の|力《ちから》では|何《ど》うする|事《こと》も|出来《でき》ぬ。よし、おれを|助《たす》けてくれるものを|造《つく》ることにしよう』
と|言《い》つて|数々《かずかず》の|悪魔《あくま》をこしらへた。
アフラ・マズダは|早《はや》くも|光明世界《くわうみやうせかい》からそれを|見《み》てとつて、
『|今《いま》のうちに|何《なん》とか|片《かた》を|付《つ》けて|置《お》かねばならぬ』
と|思《おも》つた。そこでわざわざ|暗黒世界《あんこくせかい》に|降《くだ》つて|行《い》つてアングラ・マイニウに|会《あ》つて、
『お|前《まへ》や、お|前《まへ》がこしらへた|生物《せいぶつ》は|寿命《じゆみやう》に|定《き》まりがあるだろう』
と|言《い》つた。
アングラ・マイニウは|口惜《くや》しさうな|顔《かほ》をして、
『さうだよ、それがどうしたと|言《い》ふのかね』
と|言《い》つた。
『どうぢや、わしが|造《つく》り|出《だ》した|総《すべ》ての|生物《せいぶつ》を|助《たす》け|讃《たた》へて|呉《く》れないか、さうしたら、お|前《まへ》にも、お|前《まへ》のこしらへた|生物《せいぶつ》にも、|不滅《ふめつ》の|命《いのち》を|与《あた》へることにしてやるが……』
とアフラ・マズダが|温順《おとな》しく|相談《さうだん》を|持《も》ちかけると、アングラ・マイニウは|凄《すさ》まじい|声《こゑ》で|唸《うな》り|出《だ》して、
『それは|御免《ごめん》を|蒙《かう》むらうかい。わしはお|前《まへ》のこしらへた|生物《せいぶつ》を|助《たす》けたり|讃《たた》へたりすることは|出来《でき》ぬ。わしは|彼等《かれら》を|滅《ほろ》ぼして|了《しま》ふか、それともお|前《まへ》の|許《もと》を|離《はな》れて、わしの|心《こころ》に|靡《なび》くやうにするつもりだ』
とどこまでも|挑《いど》みかかつた。|併《しか》しアフラ・マズダは|落《お》ちついた|様子《やうす》で、
『それでは、わしたちはめいめい|自分《じぶん》の|好《す》きなやうにするより|外《ほか》は|無《な》い、わしたちはお|互《たがひ》に|争《あらそ》ひ|合《あ》ふまでぢや。|併《しか》しいつまで|争《あらそ》つてゐても|仕方《しかた》がない。どうぢや、|争《あらそ》ひの|期限《きげん》をきめようではないか』
と|言《い》つた。よからうとアングラ・マイニウが|応《おう》じた。
『では|其《その》|期限《きげん》を|九千年《きうせんねん》としようではないか』
とアフラ・マズダが|言《い》つた。よかろうと|又《また》アングラ・マイニウが|答《こた》へた。
アングラ・マイニウは|九千年《きうせんねん》を|過《す》ぎても|自分《じぶん》の|勢力《せいりよく》がまだ|続《つづ》くものと|思《おも》つて、ウカと|斯《こ》んな|約束《やくそく》をしてしまつたのだが、|尊《たふと》い|神《かみ》にはチヤンと|未来《みらい》の|見透《みとほ》しが|付《つ》いてゐるのであつた。|始《はじ》めの|三千年《さんぜんねん》の|間《あひだ》はアフラ・マズダの|思《おも》ふことが|何《なん》でも|叶《かな》ふのであつて、|邪悪《じやあく》の|霊《れい》はこれを|妨《さまた》ぐることが|出来《でき》ぬ。|次《つぎ》の|三千年《さんぜんねん》の|間《あひだ》は|二人《ふたり》の|思《おも》ふことが|互《たがひ》にかち|合《あ》つて、どちらもうまく|行《い》かぬ。そして|最後《さいご》の|三千年《さんぜんねん》の|間《あひだ》に、|邪霊《じやれい》アングラ・マイニウは|全然《ぜんぜん》アフラ・マズダに|征服《せいふく》されてしまふのを|看破《みやぶ》つてゐるのは|尊《たふと》い|神《かみ》だけであつた。
|始《はじ》めの|三千年《さんぜんねん》が|間《あひだ》はアフラ・マズダが|拵《こしら》へた|生物《せいぶつ》は、|何《なん》の|害《がい》も|受《う》けないで、|無形《むけい》の|霊《れい》|潜《ひそ》める|力《ちから》として|生《い》き|続《つづ》けた。その|時期《じき》がをはるとアフラ・マズダは|形《かたち》のある|種々《しゆじゆ》の|物《もの》を|造《つく》り|始《はじ》めた。|彼《かれ》は|先《ま》づ|天空《てんくう》を|造《つく》り、|次《つぎ》に|星《ほし》を|造《つく》つた。|星《ほし》の|数《かず》は|六百四十八万《ろくぴやくよんじうはちまん》に|及《およ》んだ。アフラ・マズダは、それらの|星《ほし》を|夫《そ》れ|夫《ぞ》れ|大空《おほぞら》の|四方《しはう》に|配《くば》つて、|四人《よにん》の|首領《しゆりやう》に|司配《しはい》させることにした。|東《ひがし》の|方《はう》の|首領《しゆりやう》はチシュトリアと|呼《よ》ばれ、|西《にし》の|方《はう》の|首領《しゆりやう》はサタヴェースと|呼《よ》ばれ、|南《みなみ》の|方《はう》の|首領《しゆりやう》はヴァナンドと|呼《よ》ばれ、|北《きた》の|方《はう》の|首領《しゆりやう》はハブトーク・リングと|呼《よ》ばれる。|星《ほし》くづが|出来上《できあが》ると、アフラ・マズダは|次《つぎ》に|月《つき》を|拵《こしら》へて、それから|太陽《たいやう》を|拵《こしら》へた。
その|間《あひだ》|邪霊《じやれい》アングラ・マイニウは|昏々《こんこん》として|眠《ねむ》り|続《つづ》けて|居《ゐ》た。ジャヒと|呼《よ》ばれた|女性《ぢよせい》の|悪魔《あくま》がそれを|見《み》て、
『どうも|仕方《しかた》が|無《な》いナア。アフラ・マズダはどしどし|色々《いろいろ》の|物《もの》を|造《つく》り|出《だ》してゐるのに、うちの|首領《かしら》は|暢気《のんき》に|眠《ねむ》りこけてゐる』
と|頻《しき》りに|気《き》を|揉《も》んでゐたが、たうとうたまり|兼《かね》てアングラ・マイニウの|側《そば》に|駈《か》けつけて、
『お|首領《かしら》お|起《お》き|下《くだ》さい、わたしたちは、この|世界《せかい》に|騒動《さうだう》を|起《おこ》さうではありませんか』
と|叫《さけ》んだ。
|併《しか》しアングラ・マイニウは|内心《ないしん》アフラ・マズダが|恐《こは》いので、|女魔《によま》の|呼《よ》ぶ|声《こゑ》に|目《め》を|覚《さ》ましても|依然《いぜん》|眠《ねむ》つたふりをして|居《ゐ》た。ジャヒは|気《き》を|苛《いら》つて、
『お|首領《かしら》、|早《はや》く|起《お》きて|下《くだ》さい。アフラ・マズダが|勝手《かつて》なことをして|居《ゐ》ますよ。|早《はや》く|邪魔《じやま》をしてやりませう』
と|叫《さけ》んだ。そして|女魔《によま》が|三度《さんど》|叫《さけ》ぶと、|三度目《さんどめ》にアングラ・マイニウがむつくと|起《お》き|上《あが》つた。そしてジャヒの|頭《あたま》に|接吻《せつぷん》をしながら、
『そなたは、わしに、|何《なに》か|望《のぞ》むことがあるのかね』
と|尋《たづ》ねた。
『エエさうですよ、|若《わか》い|男《をとこ》の|姿《すがた》が|見《み》たいのですよ』
と|女魔《によま》が|答《こた》へた。と、|其《そ》の|言葉《ことば》が|終《をは》るか|終《をは》らないうちに、|魔王《まわう》アングラ・マイニウの|姿《すがた》は|十五歳《じふごさい》|位《くらゐ》の|男《をとこ》に|変《へん》じた。|女魔《によま》は|大《おほい》に|喜《よろこ》んで、
『サア、|直《す》ぐに|天界《てんかい》に|行《い》つてアフラ・マズダの|仕事《しごと》の|邪魔《じやま》をしてやりませう』
と|言《い》つた。
『よし、|承知《しようち》ぢや』
アングラ・マイニウは|斯《か》う|叫《さけ》んで、|数多《あまた》の|悪魔《あくま》どもを|引《ひ》き|連《つ》れて、まつしぐらに|天界《てんかい》|目《め》ざして|駈《か》け|出《だ》した。|彼《かれ》は|天空《てんくう》を|見《み》ると、
『ほう、おれの|知《し》らぬ|間《ま》に|変《へん》なものが|出来《でき》たな』
と|言《い》つて|蛇《へび》のやうにそこに|躍《をど》り|込《こ》んで|行《い》つた。|空《そら》は|狼《おほかみ》に|襲《おそ》はれた|羊《ひつじ》のやうに、|顫《ふる》ひ|戦《をのの》いた。|勢《いきほ》ひに|乗《の》つたアングラ・マイニウは、アフラ・マズダが|造《つく》り|出《だ》した|総《すべ》てのものに|飛《と》びついて|行《い》つて、|片端《かたつぱし》からそれを|傷《きず》つけ|汚《けが》した。|見《み》る|間《ま》に|世界《せかい》が|暗黒《あんこく》になつた。
『ウマイウマイ、|今度《こんど》は|斯《か》うしてくれるぞ』
とアングラ・マイニウは|数多《あまた》の|惑星《わくせい》を|拵《こしら》へてアフラ・マズダの|任命《にんめい》した|星座《せいざ》の|首領《しゆりやう》たちに|対抗《たいかう》させた。|惑星《わくせい》は|凄《すさ》まじい|勢《いきほ》ひで、|神《かみ》が|造《つく》つた|星《ほし》くづにぶつつかつて|行《い》つたので、|満天《まんてん》の|星《ほし》どもは|駭《おどろ》き|畏《おそ》れて、|右往左往《うわうさわう》に|逃《に》げ|惑《まど》うた。アフラ・マズダに|率《ひき》ゐられた|天使《てんし》の|群《むれ》アメシヤ、スペンタやヤザタたちは|天下《てんか》の|一大事《いちだいじ》と、|必死《ひつし》となつて|邪霊《じやれい》に|率《ひき》ゐられた|悪魔《あくま》の|群《むれ》と|戦《たたか》つた。そして|大小《たいせう》の|悪魔《あくま》どもを|引《ひ》つ|掴《つか》んでは、|天界《てんかい》から|暗黒《あんこく》の|深淵《しんえん》へと|投《な》げ|落《おと》し|続《つづ》けた。
|全世界《ぜんせかい》を|揺《ゆ》り|動《うご》かすほどの|激《はげ》しい|戦《たたか》ひが|昼《ひる》を|九日《ここのか》、|夜《よる》を|九夜《ここのや》|行《おこな》はれた。さうしてゐるうちに|大空《たいくう》に|堅固《けんご》な|塁壁《とりで》が|築《きづ》き|上《あ》げられたので、さすがの|悪魔軍《あくまぐん》も|最早《もはや》|手《て》の|出《だ》し|様《やう》がなくなつて、スゴスゴ|暗黒世界《あんこくせかい》に|引返《ひきかへ》して|了《しま》つた。
|戦《たたか》ひが|止《や》むとアフラ・マズダは|復《また》|創造《さうざう》の|仕事《しごと》を|続《つづ》けた。|尊《たふと》い|神《かみ》は、|今度《こんど》は|数多《あまた》の|水《みづ》の|流《なが》れを|拵《こしら》へた。|是等《これら》の|流《なが》れは|一所《ひとところ》に|集《あつ》まつてヴールカシヤ(|広大《くわうだい》なる|深淵《わたつみ》)と|言《い》ふ|海《うみ》となる。ヴールカシヤ|海《かい》はアルブールズ|山《さん》の|南《みなみ》の|果《はて》に|当《あた》つて|大地《だいち》の|三分《さんぶん》の|一《いち》を|占《し》めてゐる。それは|一千《いつせん》の|湖《みづうみ》の|水《みづ》を|含《ふく》んでゐると|信《しん》じられた。
|世界《せかい》の|所在《あらゆる》|水《みづ》はアルドヴイ、スーラー、アナーヒタ(|潤《うるほ》ひて|強《つよ》く|且《か》つ|汚《けが》れ|無《な》きものの|義《ぎ》)といふ|泉《いづみ》から|流《なが》れ|出《で》る、その|流《なが》れ|出《で》た|水《みづ》は|数多《あまた》の|河《かは》となつて|大地《だいち》をうるほすのであつた。
|邪霊《じやれい》アングラ・マイニウは|是《これ》を|見《み》ると、|復《また》むらむらと|悪気《わるぎ》を|起《おこ》して、|旱魃《かんばつ》の|悪魔《あくま》アバオシヤを|呼《よ》び|出《だ》して、
『お|前《まへ》、|天界《てんかい》に|上《のぼ》つて、|水《みづ》の|流《なが》れの|邪魔《じやま》をしてやれ』
と|言《い》ひつけた。アバオシヤは|直《す》ぐに|天界《てんかい》に|上《のぼ》つて|行《い》つた。そして|夏《なつ》の|間《あひだ》|大地《だいち》に|水《みづ》を|恵《めぐ》むことを|司《つかさ》どつてゐるチシュトリアの|所《ところ》に|来《き》て、|流《なが》れを|堰《せ》き|止《と》めようとして、|二人《ふたり》の|間《あひだ》に|烈《はげ》しい|争《あらそ》ひが|起《おこ》つたが、たうとうアバオシヤの|力《ちから》が|尽《つ》きて|天界《てんかい》から|投《ほう》り|出《だ》された。
アフラ・マズダは|更《さら》に|創造《さうざう》の|仕事《しごと》を|続《つづ》けて、|今度《こんど》は|新《あら》たに|大地《だいち》を|造《つく》ることにした。|尊《たふと》い|神《かみ》は|先《ま》づチシュトリアに|言《い》ひ|付《つ》けて、|古《ふる》い|大地《だいち》の|上《うへ》に|大雨《おほあめ》を|降《ふ》らせた。|忽《たちま》ち|大地《だいち》は|一面《いちめん》の|水《みづ》となつて、|邪悪《じやあく》な|生物《せいぶつ》の|毒《どく》をすつかり|洗《あら》ひ|浄《きよ》めた。|水《みづ》が|減《ひ》くにつれて|三十三種《さんじふさんしゆ》の|陸地《りくち》が|造《つく》られた。|尊《たふと》い|神《かみ》はこれを|七《なな》つの|部分《ぶぶん》に|分《わ》けることにした。それを|見《み》た|邪霊《じやれい》アングラ・マイニウは、
『アフラ・マズダ|奴《め》、|色々《いろいろ》の|物《もの》を|造《つく》り|出《だ》すな、|癪《しやく》にさはる|奴《やつ》だ、|一《ひと》つ|邪魔《じやま》をしてやらう』
と|言《い》つて、|大地《だいち》の|腹《はら》の|奥《おく》に|潜《もぐ》り|込《こ》んだかと|思《おも》ふと、|内側《うちがは》から|激《はげ》しく|之《これ》を|揺《ゆ》り|動《うご》かしたので、|今《いま》まで|平坦《へいたん》であつた|大地《だいち》の|所々《ところどころ》に|大《おほ》きな|山《やま》が|出来《でき》た。|真先《まつさき》に|出来上《できあが》つたのが、アルブールズ|山《さん》であつた。この|山《やま》が|現《あら》はれると、|大地《だいち》の|所々《ところどころ》がそれにつれてムクムクと|動《うご》き|出《だ》して、さながら|大《おほ》きな|樹《き》のやうに|雲《くも》を|貫《つらぬ》くほど|聳《そび》え|立《た》つた。
|次《つぎ》にアフラ・マズダは|種々《しゆじゆ》の|草木《くさき》を|拵《こしら》へることにした。|天使《てんし》の|群《むれ》アメシヤ、スペンタの|一人《ひとり》である、アメレタートが|尊《たふと》い|神《かみ》の|仰《おほ》せを|受《う》けて、ありとある|植物《しよくぶつ》を|細《こま》かに|搗《つ》き|砕《くだ》いて、それを|水《みづ》に|溶《と》かすと、|狼星《らうせい》がその|水《みづ》を|普《あまね》く|大地《だいち》に|撒《ま》き|散《ち》らしたので、やがて|人間《にんげん》の|頭《あたま》に|髪《かみ》の|毛《け》が|生《は》えるやうに|到《いた》る|所《ところ》に|草木《くさき》が|芽《め》を|出《だ》した。その|中《なか》の|一万《いちまん》の|草木《くさき》は、|邪霊《じやれい》アングラ・マイニウが|生物《せいぶつ》を|苦《くる》しめるために|造《つく》り|出《だ》した|一万《いちまん》の|病気《びやうき》も|逐《お》ひ|退《の》けるに|足《た》る|力《ちから》を|持《も》つてゐた。
|大海《たいかい》ヴールカシヤのただ|中《なか》には|特《とく》に『あらゆる|種《たね》を|含《ふく》む|樹《き》』が|生《は》え|出《だ》した。|大地《だいち》に|現《あら》はれた|総《すべ》ての|草木《くさき》が、いつまでも|絶《た》え|果《は》てないやうにと|言《い》ふアフラ・マズダの|有難《ありがた》い|考《かんが》へからである。それから|又《また》『あらゆる|種《たね》を|含《ふく》む|樹《き》』の|側《そば》に|尊《たふと》い|神《かみ》はガオケレナ(|牛角《ぎうかく》の|義《ぎ》)と|言《い》ふ|植物《しよくぶつ》を|生《お》ひ|出《い》でしめた。この|植物《しよくぶつ》はあらゆる|草木《さうもく》の|首領《かしら》で、これを|口《くち》にするものは|悉《ことごと》く|不滅《ふめつ》の|命《いのち》を|得《う》るのであつた。|尊《たふと》い|神《かみ》は|宇宙《うちう》をいつまでも|生々《いきいき》とさせて|置《お》かうと|思《おも》つて、|此《こ》の|霊樹《れいじゆ》を|造《つく》り|出《だ》したのであつた。
|之《これ》を|見《み》て|邪霊《じやれい》アングラ・マイニウは|甚《いた》く|機嫌《きげん》を|悪《わる》くして、
『アフラ・マズダの|奴《やつ》、ほんたうに|癪《しやく》にさはる|事《こと》ばかりしでかすな。よし、おれがあの|樹《き》を|枯《か》らしてやるぞ』
と|言《い》つてヴールカシヤ|海《かい》の|水底《みなそこ》|深《ふか》く|一匹《いつぴき》の|魔《ま》の|蜥蜴《とかげ》を|造《つく》り|出《だ》した。
|蜥蜴《とかげ》はガオケレナの|根《ね》を|咬《か》んで、いつかはそれを|枯《か》らさうとしてゐたのを、|尊《たふと》い|神《かみ》は|早《はや》くもそれを|悟《さと》つて、カルと|言《い》ふ|魚《うを》を|十尾《じつぴ》|拵《こしら》へて|魔《ま》の|蜥蜴《とかげ》に|当《あた》らせることにした。|十尾《じつぴ》のカル|魚《ぎよ》は、|交《かは》る|交《がは》る|蜥蜴《とかげ》の|側《そば》を|泳《およ》ぎ|廻《まは》つて、ガオケレナの|根《ね》の|咬《か》まうとすると|直《す》ぐに|飛《と》びかかつて|行《ゆ》くのであつた。
|次《つぎ》にアフラ・マズダは|火《ひ》を|拵《こしら》へて|世界《せかい》を|喜《よろこ》ばした。|良《よ》いものの|現《あら》はれるのが|大嫌《だいきら》ひの|邪霊《じやれい》アングラ・マイニウは|復《また》ひどく|腹《はら》を|立《た》てて、
『アフラ・マズダの|奴《やつ》、また|変《へん》なものを|造《つく》つたな。よし、|今度《こんど》だつて|邪魔《じやま》をしないでは|置《お》かないぞ』
と|言《い》つて|火《ひ》が|燃《も》える|時《とき》には、いつも|厭《いや》な|煙《けむり》が|出《で》るやうにした。
|次《つぎ》にアフラ・マズダは|種々《しゆじゆ》の|動物《どうぶつ》を|造《つく》ることにした。|尊《たふと》い|神《かみ》は|素晴《すば》らしく|強《つよ》くて|美《うつく》しい|一頭《いつとう》の|牛《うし》を|拵《こしら》へた。この|牛《うし》には|総《すべ》ての|動物《どうぶつ》の|種《たね》が|含《ふく》まれてあつた。|邪霊《じやれい》アングラ・マイニウは、それを|見《み》ると|目《め》の|色《いろ》を|変《か》へて、
『また|厭《いや》なものを|造《つく》りをつたな、こりや|依然《ぢつと》としては|居《ゐ》られないぞ』
と|直《すぐ》にこの|牛《うし》の|側《そば》にノコノコやつて|来《き》た。アフラ・マズダは|彼《かれ》の|姿《すがた》を|見《み》ると、
『あの|男《をとこ》、またわしの|仕事《しごと》の|邪魔《じやま》をしに|来《き》たな』
と|思《おも》つて、|大急《おほいそ》ぎでビーナークと|言《い》ふ|霊妙《れいめう》な|果実《くわじつ》を|摺《す》り|潰《つぶ》して|牛《うし》に|食《た》べさせた。|果実《くわじつ》の|不可思議《ふかしぎ》な|力《ちから》によつてアングラ・マイニウの|邪悪《じやあく》な|災《わざはひ》を|防《ふせ》がうとしたのである。|併《しか》しアングラ・マイニウが|牛《うし》の|側《そば》にやつて|来《き》て、|凄《すご》い|目《め》でじつと|見据《みす》ゑて|居《を》ると、|牛《うし》はやがて|病《やまひ》に|罹《かか》つて|次第《しだい》に|痩《や》せ|衰《おとろ》へて、|遂《つひ》に|最後《さいご》の|息《いき》を|引《ひ》き|取《と》つて|終《しま》つた。と|思《おも》ふと、|牛《うし》の|霊魂《れいこん》ゲーウシュ・ウルヴァンが、その|体《からだ》からスルスルと|脱《ぬ》け|出《だ》して、アフラ・マズダの|許《もと》にやつて|来《き》た。そして|一千《いつせん》の|人間《にんげん》が|一度《いちど》に|叫《さけ》び|出《だ》したやうな|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
『|邪悪《じやあく》なアングラ・マイニウが|勝手《かつて》なことをしてゐるのに、あなたはどうしてぢつとして|居《ゐ》られるのです。いつぞやあなたは、|偉《えら》い|男《をとこ》を|拵《こしら》へて、すべてのものを|保護《ほご》させてやると|仰《おほ》せられたが、その|男《をとこ》はどこに|居《を》るのです。|今《いま》のやうにアングラ・マイニウが|悪《わる》いことをしてゐては、わたしは|種々《しゆじゆ》の|動物《どうぶつ》を|養《やしな》ひ|育《そだ》てて|行《ゆ》くことは|出来《でき》ませぬ』
と|言《い》つた。
これを|聞《き》くとアフラ・マズダは|眉《まゆ》をひそめて、
『わしは|確《たしか》に|偉《えら》い|男《をとこ》を|拵《こしら》へてやると|言《い》つたが、まだ|時《とき》が|来《こ》ないのぢや』
と|答《こた》へた。|併《しか》し|牛《うし》の|霊魂《れいこん》は、この|答《こたへ》に|満足《まんぞく》することが|出来《でき》なかつたので、|星《ほし》の|世界《せかい》に|歩《ある》いて|行《い》つて、|先《さき》のやうに|大《おほ》きな|声《こゑ》で|叫《さけ》び|続《つづ》けた。
|余《あま》りにその|声《こゑ》が|大《おほ》きいので、|月《つき》や|太陽《たいやう》のゐる|所《ところ》までガンガン|鳴《な》り|響《ひび》いた。さうして|居《ゐ》る|間《うち》にたうとう|時機《じき》が|来《き》たので、アフラ・マズダは|牛《うし》の|霊魂《れいこん》に|対《むか》つて、
『モウ|安心《あんしん》するがよい、ゾロアステルと|言《い》ふ|偉《えら》い|予言者《よげんしや》を、この|世《よ》に|送《おく》り|出《だ》すことにしたから』
と|言《い》ふと、ゲーウシュ・ウルヴァンはやつと|安心《あんしん》して、ありとある|動物《どうぶつ》を|養《やしな》ひ|育《そだ》てて|行《ゆ》くやうになつた。
|暫《しばら》くすると、|死《し》んだ|牛《うし》の|体《からだ》から|五十五種《ごじふごしゆ》の|穀物《こくもつ》と|十二種《じふにしゆ》の|薬草《やくさう》が|生《は》え|出《だ》した。アフラ・マズダがそれを|月《つき》の|許《もと》に|送《おく》ると、|月《つき》はおのが|光《ひかり》でその|種《たね》を|浄《きよ》めた。その|種子《たね》から|一匹《いつぴき》の|牡牛《をうし》と|一匹《いつぴき》の|牝牛《めうし》とが|生《うま》れ、それから|二百八十二種《にひやくはちじふにしゆ》の|動物《どうぶつ》が|生《うま》れた。アフラ・マズダは|獣《けだもの》を|大地《だいち》に|棲《す》ませ、|鳥《とり》を|空中《くうちう》に|棲《す》ませ、|魚《うを》を|水中《すゐちう》に|棲《す》ませることにした。|此《かく》の|如《ごと》くにして、|尊《たふと》い|神《かみ》アフラ・マズダは|邪霊《じやれい》アングラ・マイニウに|度々《たびたび》|仕事《しごと》の|邪魔《じやま》をされながら、たうとう|宇宙《うちう》|創造《さうざう》の|大事業《だいじげふ》を|完成《くわんせい》した。
|希臘《ギリシヤ》の|天地開闢説《てんちかいびやくせつ》
ギリシヤの|天地開闢説《てんちかいびやくせつ》は|古来《こらい》|種々《しゆじゆ》の|伝承《でんしよう》があつて、|人々《ひとびと》によつて|区々《くく》である。|併《しか》し|大体《だいたい》から|言《い》へばユダヤの|神話《しんわ》にある|如《ごと》き|世界創造説《せかいさうざうせつ》ではなく、|支那《しな》の|神話《しんわ》に|見《み》ゆる|如《ごと》き|天地開闢説《てんちかいびやくせつ》である。|即《すなは》ち|此《こ》の|世界《せかい》は|造《つく》られたものでなく、|幾万年《いくまんねん》の|世代《せだい》の|変化《へんくわ》を|経《へ》て、|次第《しだい》に|現在《げんざい》の|状態《じやうたい》になつたものである。|従《したが》つて|神々《かみがみ》も|世界《せかい》よりさきに|存在《そんざい》したのではなくて、|神々《かみがみ》|自身《じしん》も|亦《また》|此《こ》の|世界《せかい》と|言《い》ふ|一家族《いつかぞく》のうちに|生《うま》れて|来《き》たものである。
|天地開闢《かいびやく》の|神話《しんわ》は、それを|語《かた》り|伝《つた》へた|詩人《しじん》によつて|区々《くく》である。ホメロスによれば、|口《くち》で|尾《を》をくはへた|蛇《へび》のやうに|海《うみ》と|陸《りく》とを|取《と》りまいてゐる|広大無辺《くわうだいむへん》の|大河《たいが》オケアノスが|万物《ばんぶつ》の|本源《ほんげん》で、また|総《すべ》ての|神々《かみがみ》の|父《ちち》であつた。また|他《た》の|伝説《でんせつ》によると、「|夜《よる》」と「|闇《やみ》」が|世界《せかい》の|根源《こんげん》で、そのうちから|光《ひかり》が|生《うま》れたといつてゐる。|更《さら》に|詩人《しじん》オルフェウスが|伝《つた》へたと|言《い》はれてゐる|説《せつ》によると、|世界《せかい》の|始《はじ》めには|無始無終《むしむしう》の「|時《クロノス》」があつて、これから「カオス」と|言《い》ふ|底《そこ》なしの|淵《ふち》が|生《うま》れ、|其《そ》の|深淵《しんえん》の|中《なか》で「|夜《よる》」と「|霧《きり》」と「|精気《アイテル》」が|育《はぐ》くまれた。その|中《うち》に「|時《クロノス》」は「|霧《きり》」を|動《うご》かして|中心《ちうしん》なる「|精気《アイテル》」のまはりを、|独楽《こま》のやうに|廻転《くわいてん》させたので、|世界《せかい》は|大《おほ》きな|卵《たまご》のやうな|塊団《かたまり》になり、それがまた|廻転《くわいてん》の|速力《そくりよく》でまづ|二《ふた》つに|割《わ》れて、|一《ひと》つは|昇《のぼ》つて|天《てん》となり、|一《ひと》つは|降《くだ》つて|地《ち》と|成《な》つた。そして|其《その》|卵《たまご》の|中《なか》からは「|愛《エロス》」をはじめ、いろいろな|不思議《ふしぎ》なものが|生《うま》れたと|言《い》ふのである。
|併《しか》し|世界《せかい》と|神々《かみがみ》の|起源《きげん》を|述《の》べたものの|中《うち》で、|一番《いちばん》|纒《まと》まつてゐるのはヘシオドスの「テオゴニヤ」(|神統記《しんとうき》)であつた。「テオゴニヤ」によると、|万物《ばんぶつ》の|始《はじ》めには「カオス」があつた。|次《つぎ》に|広《ひろ》い|胸《むね》を|持《も》つた「ガイヤ」(|地《ち》)と|地《ち》の|底《そこ》なる|暗黒《あんこく》の「タルタロス」と|不死《ふし》の|神々《かみがみ》の|中《うち》で|一番《いちばん》|美《うつく》しいエロス(|愛《あい》)が|出来《でき》た。「カオス」は(|口《くち》をあいた|場所《ばしよ》)といふ|意味《いみ》で、|其《その》|内部《ないぶ》は|真黒《まつくろ》な|霧《きり》で|満《みた》されてゐた。「カオス」の|次《つぎ》には|地《ち》が|出来《でき》て、|雪《ゆき》をいただくオリムポスの|絶頂《ぜつちやう》に|住《す》むべき|神々《かみがみ》の|安全《あんぜん》な|座位《ざゐ》となつた。けれどもまだ|空《そら》も|海《うみ》も|山々《やまやま》もなければ、|昼《ひる》や|夜《よる》もなかつた。|堅《かた》い|地《ち》の|外《ほか》には|何物《なにもの》もなかつた。その|次《つぎ》に|現《あら》はれたのが「エロス」であつた。エロスは|男性《だんせい》と|女性《ぢよせい》とを|結《むす》びつけて|新《あた》らしい|世代《せだい》を|生《う》み|出《い》ださせる|愛《あい》の|力《ちから》であつた。
|次《つぎ》に「カオス」からは、|地下《ちか》の|闇《やみ》なる「エレボス」と|遠《とほ》い|日没《にちぼつ》の|国《くに》に|住《す》んでゐる|地上《ちじやう》の|闇《やみ》なる「|夜《ニツクス》」が|生《うま》れた。「エロス」は「|夜《ニツクス》」と「エレボス」とを|結《むす》び|付《つ》けて|其《その》|間《あひだ》に|二人《ふたり》の|子《こ》を|生《う》ませた。|天《てん》の|光《ひかり》なる「|精気《アイテル》」と|地《ち》の|光《ひかり》なる「|昼《ヘメラ》」である。|次《つぎ》に「ガイヤ」|即《すなは》ち|母《はは》なる|地《ち》は「エロス」と|接触《せつしよく》して「ウラノス」(|星《ほし》の|多《おほ》い|天《てん》)と|広大《くわうだい》な|山々《やまやま》と「ボントス」(|荒《あら》い|海《うみ》)を|生《う》む。「ウラノス」と「ガイヤ」(|天《てん》と|地《ち》)はこの|世界《せかい》の|最初《さいしよ》の|主宰者《しゆさいしや》として、|次《つぎ》の|世代《せだい》の|神々《かみがみ》の|父母《ふぼ》となつた。
ヘシオドスの|記事《きじ》は|斯《か》くの|如《ごと》き|幼稚《えうち》なものであるが、|併《しか》しギリシヤの|開闢神話《かいびやくしんわ》の|中《なか》では、これらが|代表的《だいへうてき》なものである。|勿論《もちろん》この|開闢説《かいびやくせつ》の|中《なか》に、どれほど|深《ふか》い|哲学的《てつがくてき》|思想《しさう》の|芽《め》が|包《つつ》まれてゐるかは、|問題《もんだい》ではないのである。
|神々《かみがみ》の|世代《せだい》
ギリシヤの|神話《しんわ》は、この|世界《せかい》を|支配《しはい》する|神々《かみがみ》の|世代《せだい》をほぼ|三《み》つに|分《わか》つてゐる。|天地万物《てんちばんぶつ》が|生《しやう》じて、|第一《だいいち》に|此《こ》の|世界《せかい》の|主宰者《しゆさいしや》となつた|神《かみ》は「ウラノス」と「ガイヤ」であつたが、それに|就《つい》て「クロノス」と「レア」の|治世《ちせい》が|永《なが》い|間《あひだ》|続《つづ》いた|後《のち》、|最後《さいご》に「ゼウス」と「ヘラ」が|此《こ》の|天地《てんち》の|主宰者《しゆさいしや》となつた。「ウラノス」と「ガイヤ」の|系統《けいとう》には「チタン」と「キクローベ」と「ケンチマネ」と|言《い》ふ|三《み》つの|神族《しんぞく》があつた。このうち「チタン」|族《ぞく》は|後《のち》の|神族《しんぞく》の|敵《てき》となつて、この|世界《せかい》に|大動乱《だいどうらん》を|起《おこ》したもので、ギリシヤの|神代史《じんだいし》の|中《うち》で、いつも|争闘《さうとう》の|渦中《くわちう》に|飛《と》び|込《こ》んで、|増悪《ぞうを》と|争闘《さうとう》とを|煽《あふ》るものはこの|一族《いちぞく》であつた。|神話《しんわ》|学者《がくしや》の|間《あひだ》には、|火山《くわざん》の|爆発《ばくはつ》とか、|地震《ぢしん》とか|言《い》ふ|地球上《ちきうじやう》の|大変動《だいへんどう》を|人格化《じんかくくわ》したものと|解釈《かいしやく》されてゐる。「ホメロス」の|詩《し》に|現《あら》はれる「チタン」|族《ぞく》は「イアベトス」と「クロノス」の|二《ふた》つだけであるが、ヘシオドスは|十三《じふさん》の「チタン」|族《ぞく》の|名《な》を|挙《あ》げてゐる。|即《すなは》ち「オケアノス」と「テチス」「ヒペリオス」と「テイヤ」「コイオス」と「フオイベ」「クレイオス」と「エウリビヤ」と「イヤベトス」「テミス」と「ムネモシネ」「クロノス」と「レア」である。
|次《つぎ》に「キクローベ」|族《ぞく》は|雙眼《せきがん》の|大怪物《だいくわいぶつ》で、その|名《な》を「プロンテス」「ステロペス」「アルゲス」と|言《い》ひ、|雷鳴《らいめい》と|電光《でんくわう》と|落雷《らくらい》の|人格化《じんかくくわ》であつた。
|最後《さいご》に「ケンチマネ」|族《ぞく》は、|百本《ひやつぽん》の|手《て》を|持《も》つた|怪物《くわいぶつ》で、「プリアレオス」「ギエス」「コツトス」と|言《い》ひ、|大地《だいち》を|震《ふる》はす|海《うみ》の|激動《げきどう》や|怒号《どがう》や、|山《やま》のやうな|波濤《はたう》の|恐怖《きようふ》を|人格化《じんかくくわ》したものである。
「ウラノス」は|此《こ》の|三神族《さんしんぞく》のうち、|後《あと》の|二族《にぞく》を|怖《おそ》ろしいものに|思《おも》つて、|生《うま》れると|直《す》ぐ|母《はは》なる|大地《だいち》の|底《そこ》の「タルタロス」へ|投《な》げ|込《こ》んで、そこへ|封《ふう》じ|込《こ》めて|了《しま》つた。|母《はは》の「ガイヤ」は、この|無情《むじやう》な|行動《かうどう》を|深《ふか》く|憤《いきどほ》つて、「ウラノス」に|対《たい》して|復讐《ふくしゆう》を|企《くはだ》て、「チタン」|族《ぞく》の|助《たす》けを|求《もと》めたが、「クロノス」の|外《ほか》は、たれも|母《はは》に|味方《みかた》をするものはなかつた。「ガイヤ」はそこで、「クロノス」に|一《ひと》つの|鋭利《えいり》な|鎌《かま》を|与《あた》へて、「ウラノス」を|待《ま》ち|伏《ぶ》せに|襲《おそ》つて|深傷《ふかで》を|負《お》はせた。そのとき「ウラノス」の|体《たい》から|流《なが》れた|血《ち》は|化生《くわせい》して、|蛇《へび》の|髪《かみ》をもつた|復讐《ふくしゆう》の|三女神《さんめがみ》「エリニエス」や|新《あたら》しい|大怪物《だいくわいぶつ》|巨人族《きよじんぞく》となり、また|海《うみ》に|落《お》ちたものは、|美《び》の|女神《めがみ》「アフロヂテ」となつた。「ウラノス」に|就《つい》ては、これ|以上《いじやう》に|何事《なにごと》も|伝《つた》はつてゐない。ギリシヤ|人《じん》は「ウラノス」を|神《かみ》に|祓《まつ》らなかつた、|従《したが》つてギリシヤ|神話《しんわ》に|於《お》ける「ウラノス」の|地位《ちゐ》は、|只《ただ》|自然界《しぜんかい》の|基本的《きほんてき》な|力《ちから》を|代表《だいへう》する|神々《かみがみ》の|父《ちち》と|言《い》ふだけに|過《す》ぎなかつた。
かうして「ウラノス」の|時代《じだい》は|過《す》ぎて|新《あたら》しい「クロノス」の|世《よ》となつたが、「クロノス」は|父《ちち》に|取《と》つて|代《かは》つたといふ|事情《じじやう》があるので、|父《ちち》の|祟《たた》りだけでも|永続《えいぞく》しないやうな|運命《うんめい》を|帯《お》びてゐた。
|一方《いつぱう》ではまた「ウラノス」の|系統《けいとう》を|引《ひ》いた|神々《かみがみ》から、|自然《しぜん》と「クロノス」とは|異系《いけい》の|多《おほ》くの|神々《かみがみ》が|生《うま》れた。「オケアノス」と「テチス」の|間《あひだ》には|無数《むすう》の|河神《かしん》や|泉《いづみ》と|森《もり》の|少女《せうぢよ》「ニムフェ」が|生《うま》れ、|続《つづ》いて|海《うみ》の「ニムフェ」だの|海《うみ》や|陸《りく》の|色々《いろいろ》な|怪物《くわいぶつ》が|出来《でき》た。「ヒベリオン」と「テイヤ」とは「|日《ひ》」と「|月《つき》」と「|暁《あかつき》」の|両親《りやうしん》となり、|暁《あかつき》の|女神《めがみ》は|色々《いろいろ》な「|風《かぜ》」と「|暁《あけ》の|明星《みやうじやう》」の|母《はは》となつた。また「イヤベトス」の|子《こ》には|広大無辺《くわうだいむへん》の|天《てん》を|支《ささ》へてゐる「アトラス」と|人間《にんげん》の|創造《さうざう》に|力《ちから》を|尽《つく》した「プロメテウス」「エピメテウス」の|兄弟《きやうだい》があつた。「クロノス」は|妹《いもうと》の「レア」と|共《とも》に|天地《てんち》を|支配《しはい》して、その|間《あひだ》に「ヘスチヤ」「デメテル」「ヘラ」の|三女神《さんめがみ》と「ハデス」「ポサイドン」「ゼウス」の|三男神《さんをがみ》を|生《う》んだ。
「クロノス」の|治世《ちせい》は|此《こ》の|天地《てんち》が|未《いま》だ|罪《つみ》と|汚《けが》れを|知《し》らなかつた、いはゆる|黄金時代《わうごんじだい》で、|疾病《しつぺい》も|知《し》らず、|老《お》いると|言《い》ふ|事《こと》もなく、|野山《のやま》には|種々《しゆじゆ》の|果実《このみ》が、|一面《いちめん》に|実《みの》つてゐるから、|働《はたら》いて|食《く》ふと|言《い》ふ|心配《しんぱい》もなく、|天地間《てんちかん》の|万物《ばんぶつ》が|無限《むげん》の|幸福《かうふく》と|快楽《くわいらく》とを|味《あぢ》はつて|居《ゐ》た|時代《じだい》だと|伝《つた》へられる。この|黄金時代《わうごんじだい》は|久《ひさ》しい|間《あひだ》|続《つづ》いたが、その|間《あひだ》に「クロノス」は|自分《じぶん》が|生《う》んだ|子《こ》が、いつか|自分《じぶん》に|代《かは》つてこの|天地《てんち》の|主宰者《しゆさいしや》になると|言《い》ふことを|知《し》つてゐたので、|子供《こども》が|生《うま》れるや|否《いな》や、みんな|呑《の》んで|了《しま》つたが、|併《しか》し|最後《さいご》に「ゼウス」の|生《うま》れる|時《とき》は、|母《はは》の「レア」は「クレテ」の|嶋《しま》へ|行《い》つて|生《うま》れた|赤子《あかご》を|一《ひと》つの|洞窟《どうくつ》の|中《なか》へ|隠《かく》し、|大《おほ》きな|石《いし》を|産衣《うぶぎ》の|中《なか》へ|包《つつ》んで「クロノス」へ|渡《わた》したので、「クロノス」は|気《き》がつかずに|一口《ひとくち》にそれを|呑《の》み|込《こ》んで|了《しま》つた。
かうして|危《あやふ》い|命《いのち》を|助《たす》けられた「ゼウス」は、クレテ|島《じま》に「ニムフェ」らに|保護《ほご》されて、「アマルテイヤ」と|言《い》ふ|山羊《やぎ》の|乳《ちち》でそだてられたが、「ニムフェ」らは|赤児《あかご》が|泣《な》く|度《たび》に|鐘《かね》や|太鼓《たいこ》を|鳴《な》らし、|軍《いくさ》のまねごとをして|泣《な》き|声《ごゑ》を「クロノス」の|耳《みみ》に|入《い》れないやうにしたと|伝《つた》へられる。そのうちに「ゼウス」は|生長《せいちやう》すると、|先《ま》づ|祖母《そぼ》の「ガイヤ」の|助《たす》けをかりて「クロノス」の|口《くち》から|呑《の》み|込《こ》んだ|同胞《はらから》らを|吐《は》き|出《だ》させた。その|時《とき》|第一《だいいち》に|出《で》たのは「ゼウス」の|身代《みがは》りになつた|大石《おほいし》で、これは|後《のち》に|神託《しんたく》で|有名《いうめい》になつた「デルフォイ」の|神殿《しんでん》に|保存《ほぞん》された。それから、|順々《じゆんじゆん》にほかの|五人《ごにん》の|同胞《はらから》らが|吐《は》き|出《だ》されて、|母《はは》の「レア」の|手《て》へ|戻《もど》された。そこで|天上界《てんじやうかい》に|第二《だいに》の|革命《かくめい》が|起《おこ》つた。
「ゼウス」はその|同胞《はらから》の|神々《かみがみ》と|倶《とも》に「オリムポス」の|山上《さんじやう》へ|立籠《たてこも》ると、|多《おほ》くの「チタン」|族《ぞく》は「クロノス」を|助《たす》けて「オトリス」の|山《やま》に|拠《よ》つて|十年《じふねん》の|間《あひだ》|戦争《せんさう》を|続《つづ》けた。この|戦争《せんさう》は|自然力《しぜんりよく》の|全部《ぜんぶ》を|闘争《とうさう》の|渦中《くわちう》に|捲《ま》き|込《こ》んで、この|世界《せかい》の|存在《そんざい》をも|脅《おびや》かしたほどに|猛烈《まうれつ》なものであつた。|同時《どうじ》に|他《た》の|一方《いつぱう》では、|神《かみ》と|悪魔《あくま》、|正義《せいぎ》と|暴力《ばうりよく》との|戦《たたか》ひであつた。|此《この》|間《あひだ》に「チタン」|族《ぞく》のうちでも「テミス」と「ムネモシネ」(|公正《こうせい》と|記憶《きおく》)とは、|暴力《ばうりよく》の|味方《みかた》になることを|避《さ》けて、|智力《ちりよく》と|秩序《ちつじよ》の|代表《だいへう》たる「ゼウス」の|味方《みかた》につき、また「プロメテウス」(|先見《せんけん》)も|終局《しうきよく》の|勝利《しようり》が「ゼウス」にあることを|予知《よち》して「オリムポス」に|走《はし》つた。
|戦争《せんさう》は|殆《ほと》んど|果《はて》しが|付《つ》かなかつた。「ゼウス」は|終《つひ》に「チタン」|族《ぞく》の|暴力《ばうりよく》を|征服《せいふく》するには、|他《た》の|暴力《ばうりよく》を|借《か》るほかはないと|悟《さと》つた。そこで「ゼウス」は|再《ふたた》び|祖母《そぼ》「ガイヤ」の|力《ちから》を|借《か》りて、「ウラノス」が|地底《ちそこ》の「タルタロス」へ|封《ふう》じ|込《こ》めて|置《お》いた「キクローベ」や「ケンチマネ」の|一族《いちぞく》を|解放《かいはう》して|味方《みかた》につけ、「キクローベ」の|手《て》から|雷電《らいでん》を|譲《ゆづ》り|受《う》けて、|先頭《せんとう》に|立《た》つて|敵《てき》に|向《むか》ふと、|三箇《さんこ》の「ケンチマネ」は|三百本《さんびやつぽん》の|手《て》で|岩《いは》をつかんでは|敵《てき》に|向《むか》つて|雨霰《あめあられ》と|投《な》げつけた。その|時《とき》「オリムポス」の|山上《さんじやう》から|投《な》げかける|雷電《らいでん》のために、|周囲《しうゐ》の|地《ち》は|焼《や》けただれ、|河海《かかい》の|水《みづ》は|沸騰《ふつとう》して、|火《ひ》の|如《ごと》き|霧《きり》は「オトリス」の|山《やま》を|包《つつ》み、「チタン」|族《ぞく》は|絶《た》えず|閃《ひら》めく|電光《でんくわう》のために|悉《ことごと》くその|視力《しりよく》を|失《うしな》つた。
|同時《どうじ》に「ケンチマネ」は|地《ち》と|海《うみ》を|震《ふる》はして|突進《とつしん》したので、さすがに|勇猛《ゆうまう》な「チタン」|族《ぞく》も、|電光《でんくわう》に|焼《や》かれ|岩《いは》の|下《した》に|埋《うづ》められて、たうとう「ゼウス」の|軍《ぐん》に|降服《かうふく》して|了《しま》つた。そこで「ゼウス」は「ケンチマネ」に|命《めい》じて、「クロノス」を|始《はじ》め|自分《じぶん》に|刃向《はむか》つた「チタン」|族《ぞく》を、「タルタロス」の|底《そこ》へ|幽閉《いうへい》し、「ケンチマネ」をして|監視《かんし》させた。
|神々《かみがみ》と「チタン」|族《ぞく》との|戦闘《せんとう》の|神話《しんわ》は、|世界《せかい》の|起原《きげん》に|関《くわん》するギリシヤの|神話《しんわ》の|中《うち》でも、|恐《おそ》らく|最古《さいこ》の|伝説《でんせつ》に|関《くわん》するものである。この|戦闘《せんとう》の|舞台《ぶたい》となつた「テツサリヤ」の|地勢《ちせい》を|見《み》れば|何人《なんぴと》にも|想像《さうざう》されることではあるが、そこには|自然《しぜん》の|激変《げきへん》の|跡《あと》が|著《いちじる》しく|残《のこ》つてゐる。「テツサリヤ」の|平原《へいげん》そのものが、あの|山壁《さんぺき》を|裂《さ》いて「テンペ」の|大谿谷《だいけいこく》を|作《つく》り|出《だ》した|大地震《だいぢしん》の|産物《さんぶつ》であつた。そして「オリムポス」|山《さん》と「オトリス」|山《さん》とは|丁度《ちやうど》この|大谿谷《だいけいこく》を|挟《はさ》んで|相対峙《あひたいじ》する|大城壁《だいじやうへき》のやうな|形勢《けいせい》をして、その|間《あひだ》の|谿谷《けいこく》には|処々《しよしよ》に|巨大《きよだい》な|漂石《へうせき》が「ゼウス」|族《ぞく》と「チタン」|族《ぞく》の|間《あひだ》に|投《な》げかはされた|巌石《がんせき》のやうに|捲《ま》き|散《ち》らされて|居《ゐ》るのである。
「クロノス」の|黄金時代《わうごんじだい》は、かうして|永久《えいきう》に|過《す》ぎ|去《さ》つた。「クロノス」の|神話《しんわ》については、|互《たがひ》に|矛盾《むじゆん》した|二《ふた》つの|性質《せいしつ》が|賦与《ふよ》されてゐる。|一方《いつぱう》では、この|時代《じだい》を|地上《ちじやう》には|永久《えいきう》の|春《はる》が|続《つづ》いて|人間《にんげん》が|無限《むげん》の|幸福《かうふく》を|享楽《きやうらく》した|黄金時代《わうごんじだい》だと|説《と》くとともに、|他《た》の|一方《いつぱう》では、その|治世《ちせい》が|既《すで》に|父《ちち》の「ウラノス」に|対《たい》する|反逆《はんぎやく》に|始《はじ》まつたやうに、この|治世《ちせい》を|通《つう》じて|権謀術数《けんぼうじゆつすう》によつて|支配《しはい》された|時代《じだい》のやうにも|説《と》いてゐる。この|第二《だいに》の|伝説《でんせつ》によると、「クロノス」は|結局《けつきよく》|正義《せいぎ》の|代表者《だいへうしや》たる「ゼウス」に|対《たい》して、|邪曲《じやきよく》の|代表者《だいへうしや》と|見《み》られるのである。|併《しか》しさう|言《い》ふ|道徳的《だうとくてき》の|矛盾《むじゆん》を|除外《ぢよぐわい》して|見《み》れば、この|時代《じだい》は、|後《のち》の|天地万物《てんちばんぶつ》の|秩序《ちつじよ》が|次第《しだい》に|整《ととの》つて|来《き》た|時代《じだい》であつた。
「ゼウス」は|終《つひ》にその|強敵《きやうてき》「チタン」|族《ぞく》を|征服《せいふく》したけれども、「ゼウス」の|主権《しゆけん》はまだ|本当《ほんたう》に|安定《あんてい》する|所《ところ》までは|行《い》かなかつた。「ガイヤ」は|一旦《いつたん》は|孫《まご》の「ゼウス」を|助《たす》けて「クロノス」と「チタン」|族《ぞく》を|征服《せいふく》させたけれども、いよいよ「ゼウス」が|勝《か》つて|見《み》ると、さすがに|自分《じぶん》の|生《う》んだ「チタン」|族《ぞく》の|没落《ぼつらく》を|憐《あはれ》むやうな|心持《こころもち》も|出《で》て、「ゼウス」に|対《たい》してまたまた|陰謀《いんぼう》を|企《くはだ》てるやうになつた。
「ガイヤ」には、「チタン」|族《ぞく》のほかに「チフオイオス」といふ|子《こ》があつた。「チフオイオス」は|同胞《どうはう》の「チタン」|族《ぞく》よりは|一層《いつそう》|恐《おそ》ろしい|怪物《くわいぶつ》で、どうしても|全能《ぜんのう》の「ゼウス」に|反抗《はんかう》すべき|運命《うんめい》を|持《も》つて|居《ゐ》た。この「チフオイオス」は|一百《いつぴやく》の|蛇《へび》の|頭《あたま》と|火《ひ》の|如《ごと》く|暉《かがや》く|目《め》と|真黒《まつくろ》な|舌《した》を|持《も》ち、|其《その》|一百《いつぴやく》の|口《くち》からは|同時《どうじ》に|蛇《へび》、|牡牛《をうし》や|獅子《しし》や|犬《いぬ》や|其《その》|他《た》あらゆるものの|声《こゑ》を|立《た》てて|咆吼《ほうこう》するのであつた。この|怪物《くわいぶつ》が|母《はは》の「ガイヤ」の|命《めい》を|受《う》けて「ゼウス」に|向《むか》つて|戦《たたか》ひを|挑《いど》んで|来《き》たが、「ゼウス」は|直《す》ぐにその|雷電《らいでん》をあびせかけて|打《う》ち|倒《たふ》し、「チタン」らと|一緒《いつしよ》に「タルタロス」の|底《そこ》へ|投《な》げ|込《こ》んで|了《しま》つた。
|併《しか》しこの|戦争《せんさう》で|天《てん》も|地《ち》もその|為《ため》|震撼《しんかん》して「タルタロス」の|底《そこ》までも|響《ひび》き|渡《わた》つた。そして「ゼウス」の|雷光《らいくわ》に|包《つつ》まれながらも、その|怪物《くわいぶつ》の|吐《は》き|出《だ》す|息《いき》がかかつた|地《ち》は、まるで|白蝋《はくらふ》かなにかのやうに、どろどろに|鎔《と》けたと|伝《つた》へられてゐる。この|怪物《くわいぶつ》は|今《いま》もなほ「タルタロス」の|底《そこ》で、|折々《をりをり》|恐《おそ》ろしい|唸《うな》り|声《ごゑ》や|泣《な》き|声《ごゑ》を|立《た》てる、その|度《たび》に|噴火山《ふんくわざん》の|口《くち》から|怖《おそ》ろしい|火《ひ》の|舌《した》を|吐《は》き、|或《あるひ》は|恐《おそ》ろしい|熱風《ねつぷう》を|起《おこ》して、|地上《ちじやう》の|草木《くさき》を|焼《や》き|払《はら》ふのである。「チフオイオス」は|猛烈《まうれつ》な|旋風《せんぷう》の|人格化《じんかくくわ》であつた。
「チフオイオス」の|反乱《はんらん》に|続《つづ》いて|巨人族《きよじんぞく》の|反乱《はんらん》があつた。|巨人族《きよじんぞく》と|言《い》ふのは、「ウラノス」の|血《ち》から|生《うま》れた|巨大《きよだい》な|怪物《くわいぶつ》である。|伝説《でんせつ》によると、キラキラした|鎧《よろひ》を|着《き》て|手《て》に|長槍《ながやり》を|持《も》つた|魁偉《くわいゐ》な|巨人《きよじん》であつた。|巨人族《きよじんぞく》の|中《なか》でも、|特《とく》に|雄強《ゆうきやう》なものは「アルキオネス」「パラス」「エンケラドス」|及《およ》び|火《ひ》の|王《わう》「ボルフィリオン」であつた。この|巨人族《きよじんぞく》との|戦《たたか》ひでは、「オリムポス」|諸神《しよしん》の|中《うち》でも、「ヘラ」と「アテーネ」の|二女神《にぢよしん》が|首功《しゆこう》を|立《た》て、また「ゼウス」の|血《ち》を|受《う》けた|英雄《えいゆう》「ヘラクレス」がその|強弓《がうきう》をひいて|敵《てき》をなやましたと|言《い》ふことになつてゐる。
この|巨人族《きよじんぞく》は|自然界《しぜんかい》の|勢力《せいりよく》の|人格化《じんかくくわ》であつた。「チタン」|族《ぞく》とは|違《ちが》つて、|俗間《ぞくかん》の|信仰《しんかう》に|根拠《こんきよ》を|持《も》つた|妖魔《えうま》であつた。|従《したが》つて|巨人族《きよじんぞく》は「チタン」|族《ぞく》や「キクローベ」や「チフォイオス」よりは|一層《いつそう》|人間《にんげん》に|近《ちか》く、|古《ふる》い|彫刻《てうこく》では|獣《けもの》の|皮《かは》を|着《き》て|岩《いは》や|根棒《こんぼう》を|武器《ぶき》とする|蛮族《ばんぞく》の|姿《すがた》であらはされてゐるが、|後《のち》には|胴《どう》から|下《した》は|人間《にんげん》の|形体《けいたい》を|失《うしな》つて、|脚《あし》のかはりに|頭《あたま》をもつた|二匹《にひき》の|蛇《へび》をつけるやうになつた。|巨人族《きよじんぞく》は|恐《おそ》らくある|地方《ちはう》に|特有《とくいう》な|俗間信仰《ぞくかんしんかう》から|出《で》て|一般《いつぱん》の|神話《しんわ》の|領域《りやうゐき》に|侵入《しんにふ》して|行《い》つたものらしく、その|性質《せいしつ》には、|有史前《いうしぜん》の|獰猛《だうまう》な|蛮族《ばんぞく》を|暗示《あんじ》するところがある。|人間《にんげん》と|同様《どうやう》に|土《つち》から|生《うま》れたといふ|形容詞《けいようし》をつけられてゐるのも、その|一《ひと》つの|証拠《しようこ》である。とにかくこの|巨人族《きよじんぞく》も、|他《た》の|二族《にぞく》と|同様《どうやう》に「ゼウス」の|為《ため》に|全《まつた》く|征服《せいふく》されて「タルタロス」の|底《そこ》へ|全《まつた》く|葬《はうむ》られて|了《しま》つた。
そこで|天地《てんち》の|秩序《ちつじよ》が|始《はじ》めて|定《さだ》まり、「ゼウス」は「クロノス」に|代《かは》つて|天地《てんち》の|主宰者《しゆさいしや》となつた。
この|時《とき》「ゼウス」は|神々《かみがみ》の|会議《くわいぎ》を|開《ひら》いて、それぞれにその|支配《しはい》を|定《さだ》めた。「ポサイドン」「オケアノス」に|代《かは》つて|海《うみ》を|支配《しはい》し、「ハデス」は|暗黒《あんこく》な|地下《ちか》の|世界《せかい》と「タルタロス」の|王《わう》となり、「ヘラ」は「ゼウス」の|妃《ひ》として「オリムポス」の|女王《ぢよわう》となつた。
エヂプトの|開闢説《かいびやくせつ》
|世界《せかい》の|初《はじめ》には|地《ち》も|海《うみ》も|空《そら》も|無《な》く、ただどろどろした|水《みづ》のやうなものが|果《はて》もなく|広《ひろ》がつてゐた。その|名《な》を「ヌウ」といつて|其《その》|中《なか》に|一《ひと》つの|神《かみ》があつた。この|神《かみ》は「ヌウ」と|共《とも》に|始《はじ》まり「ヌウ」の|中《なか》に|宿《やど》つてはゐるが、まだ|形《かたち》も|無《な》ければ|働《はたら》きもなく、|後《あと》にはこの|美《うる》はしい|天《てん》と|地《ち》を|生《う》み|出《だ》すやうな|何《なん》のしるしも|見《み》せなかつた。
そのうちに|時《とき》が|来《き》て、|神《かみ》のうちに|自分《じぶん》の|名《な》を|名乗《なの》りたいと|言《い》ふ|心《こころ》が|起《おこ》つて|来《き》た。
『わが|名《な》は|夜明《よあ》けには「ケベラ」、|日中《につちう》には「ラア」、|夕刻《ゆうこく》は「ツーム」である』
かう|言《い》ふと、|先《ま》づキラキラした|卵《たまご》の|姿《すがた》となつて|水《みづ》の|上《うへ》へ|浮《うか》んで|来《き》た。そして|種々《しゆじゆ》の|神々《かみがみ》や|男《をとこ》や|女《をんな》や|動物《どうぶつ》や|植物《しよくぶつ》が|次《つ》ぎ|次《つ》ぎにこの|神《かみ》によつて|創造《さうざう》された。
「ケベラ」は|始《はじ》めにその|気高《けだか》い|姿《すがた》を|以《もつ》て「ヌウ」の|全面《ぜんめん》をおほうてゐたが、|自分《じぶん》の|住《す》むべき|場所《ばしよ》がきまらなかつたので、その|浮《うか》んでゐる|水《みづ》を|分《わ》けて|天《てん》と|地《ち》を|造《つく》らうと|思《おも》つた。そこで|神《かみ》は|先《ま》づ|風《かぜ》の|神《かみ》「シユウ」と|雨《あめ》の|女神《めがみ》「テフヌウト」を|造《つく》り、|次《つぎ》に|地《ち》の|神《かみ》「セブ」と|大空《おほぞら》の|女神《めがみ》「ヌウト」を|造《つく》つた。
「シユウ」は|神《かみ》の|命《めい》によつて「ヌウト」を|高《たか》く|天上《てんじやう》にさし|上《あ》げた。そこで「ヌウト」は|地《ち》の|神《かみ》「セブ」が|長《なが》くなつて|寝《ね》てゐる|上《うへ》に|弓形《ゆみがた》にのりかかつて、|手足《てあし》の|指先《ゆびさき》を|西《にし》と|東《ひがし》の|地平線《ちへいせん》にすれすれにして|自分《じぶん》の|身《み》を|支《ささ》へることになつた。かうしてこの|女神《めがみ》の|胴《どう》や|手足《てあし》の|上《うへ》についてゐる|無数《むすう》の|星《ほし》が、|暗《くら》い|中《なか》からキラキラと|光《ひかり》を|放《はな》つやうになつた。けれどもこの|天地《てんち》には、まだ|昼《ひる》と|夜《よる》との|区別《くべつ》が|無《な》かつた。そのうちに「シユウ」と「テフヌウト」の|後《うしろ》にかくれてゐた「ヌウ」の|目《め》が、|次第《しだい》に|水《みづ》の|面《おも》から|登《のぼ》つて|大空《おほぞら》に|達《たつ》したので、|天地《てんち》は|始《はじ》めてその|光《ひかり》に|照《て》らされるやうになつた。
その|時《とき》から「ヌウ」の|目《め》は|日毎《ひごと》に|空《そら》を|横《よこ》ぎつて|地上《ちじやう》の|総《すべ》てのものを|見下《みおろ》し、そこに|光《ひかり》と|熱《ねつ》とを|与《あた》へるやうになつた。|次《つぎ》に|神《かみ》は|夜《よる》を|照《て》らすために、モウ|一《ひと》つの|目《め》を|天上《てんじやう》に|送《おく》り、また|涙《なみだ》を|地上《ちじやう》に|落《おと》して|多《おほ》くの|男《をとこ》と|女《をんな》を|造《つく》つた。その|後《ご》|地上《ちじやう》の|人間《にんげん》を|守《まも》らせるために|多《おほ》くの|神々《かみがみ》を|造《つく》つた。「オシリス」「イシス」「セット」「ネブチス」「ホルス」なぞはその|重《おも》なるもので「シユウ」「テフヌウト」「セブ」「ヌウト」の|諸神《しよしん》と|共《とも》に、|後《のち》に「ヘリオボリス」の|重《おも》なる|神々《かみがみ》として|祀《まつ》らるるものである。|神《かみ》はまた|地上《ちじやう》の|人間《にんげん》のために|禽獣草木《きんじうさうもく》を|造《つく》つて、この|世界《せかい》を|種々《しゆじゆ》の|生物《せいぶつ》で|充《みた》した。
エヂプトの|神話《しんわ》には|猶《なほ》いくつかの|天地創造説《てんちさうざうせつ》が|伝《つた》へられてゐるが、|以上《いじやう》|述《の》べたのが|一番《いちばん》まとまつた|代表的《だいへうてき》な|説《せつ》である。|此《こ》の|神話《しんわ》によつても|窺《うかが》はれるやうに、エヂプト|神話《しんわ》の|中心《ちうしん》は、いはゆる|太陽神話《たいやうしんわ》で、エヂプト|人《じん》が|最上《さいじやう》の|神《かみ》として|崇《あが》めるのは|太陽神《たいやうしん》「ラー」であつた。
エヂプト|人《じん》の|信仰《しんかう》によると「ラー」は|毎朝《まいあさ》|東《ひがし》の|空《そら》に|現《あら》はれ、|日《ひ》の|船《ふね》にのつて|天上《てんじやう》を|横《よこ》ぎるものと|考《かんが》へられてゐた。この|旅行《りよかう》の|間《あひだ》に「ラー」は|絶《た》えず|地上《ちじやう》の|人間《にんげん》を|見下《みおろ》して、その|行為《かうゐ》の|善悪《ぜんあく》を|見分《みわ》け、また|彼等《かれら》に|光《ひかり》と|熱《ねつ》とを|与《あた》へるのである。|夕方《ゆふがた》には|西方《せいはう》の|山《やま》の|後《うしろ》へはいつて、そこから|暗黒《あんこく》な|下界《げかい》へ|沈《しづ》んで|行《ゆ》く。そして|夜《よる》の|間《あひだ》は|地《ち》の|底《そこ》を|流《なが》れる|大河《おほかは》の|荒浪《あらなみ》を|分《わ》け、その|道《みち》をさへぎる|種々《しゆじゆ》の|敵《てき》と|戦《たたか》つて|正《ただ》しい|人間《にんげん》の|霊魂《れいこん》を|船《ふね》の|中《なか》へ|救《すく》ひ|上《あ》げながら、|暁方《あけがた》には|再《ふたた》び|東《ひがし》の|空《そら》に|現《あら》はれる。
「ラー」は|元来《ぐわんらい》|北方《ほくぱう》の|神《かみ》で、その|崇拝《すうはい》の|中心《ちうしん》は「ニイル」|河《がは》の|下流《かりう》|地方《ちはう》にある「ヘリオボリス」であつたが、|南北統一後《なんぼくとういつご》、そこから|次第《しだい》にエヂプトの|全国《ぜんこく》に|拡《ひろ》がつて|行《い》つた。そして|後《のち》に|上《かみ》エヂプトの「テーベ」が|勢力《せいりよく》を|得《う》るやうになつてからは、|其《その》|地方《ちはう》の|主神《スしん》たる「アメン」と|結合《けつがふ》して「アメン・ラー」として|崇拝《すうはい》された。
「ラー」は|普通《ふつう》に|人間《にんげん》の|姿《すがた》であらはされてゐるが、|時《とき》によると|鷹《たか》の|頭《あたま》をつけた|人間《にんげん》の|姿《すがた》にあらはされる|事《こと》もある。つまりエヂプトでは|古《ふる》くから|鷹《たか》を|以《もつ》て|太陽《たいやう》を|表《あら》はす|習慣《しふくわん》があつたからで、その|他《た》の|諸国《しよこく》でも|鷲《わし》や|鷹《たか》なぞの|鳥類《てうるゐ》を|太陽《たいやう》の|象徴《しやうちよう》とすることは|一般《いつぱん》に|行《おこな》はれた|風《ふう》である。
「アメン」はまた「アモン」とも|言《い》ひ、|本来《ほんらい》「カルナツク」の|地方神《ちはうしん》で、その|名称《めいしよう》の|起源《きげん》は|明瞭《めいれう》ではないが、|一説《いつせつ》には「|隠《かく》れたるもの」と|言《い》ふ|意味《いみ》だとも|言《い》はれてゐる。
この|神《かみ》の|像《ざう》は|或《あるひ》は|王座《わうざ》によつた|人間《にんげん》の|姿《すがた》、|或《あるひ》は|人身蛙首《じんしんあしゆ》、|或《あるひ》は|人身蛇首《じんしんだしゆ》、|或《あるひ》は|猿《さる》、|或《あるひ》は|獅子《しし》、|或《あるひ》は|人身羊首《じんしんやうしゆ》の|姿《すがた》であらはされてゐるが、|中《なか》でも|頭上《づじやう》に|赤《あか》と|青《あを》のだんだらに|染《そ》め|分《わ》けた|一対《いつつゐ》の|長《なが》い|羽飾《はねかざり》をいただき、|頤髯《あごひげ》を|垂《た》らした|人間《にんげん》の|姿《すがた》をしてゐる|像《ざう》が|最《もつと》も|多《おほ》い。|後《のち》に|太陽神《たいやうしん》「ラー」と|融合《ゆうがふ》してからは、|後者《こうしや》の|属性《ぞくせい》をとつて|人身鷹首《じんしんようしゆ》の|姿《すがた》にあらはされるやうになつた。
「アメン」の|崇拝《すうはい》の|中心《ちうしん》は「ニイル」|河谷《かこく》の「テーベ」で、|第十二《だいじふに》|王朝《わうてう》の|時《とき》までは|単《たん》にこの|地方《ちはう》の|神《かみ》たるに|過《す》ぎなかつたが、この|王朝《わうてう》が「テーベ」から|起《おこ》つてエヂプトを|統一《とういつ》するに|及《およ》んで、その|崇拝《すうはい》は|速《すみや》かにエヂプトの|全土《ぜんど》に|拡《ひろ》がり、|多《おほ》くの|地方神《ちはうしん》の|属性《ぞくせい》をその|一身《いつしん》に|集《あつ》め、|遂《つひ》には「アメン・ラー」の|名《な》をもつて「|神々《かみがみ》の|王《わう》」と|讃《たた》へられるやうになつた。「アメン」はまた「|地上《ちじやう》の|王《わう》の|王《わう》」として|歴代《れきだい》の|王《わう》はこの|神《かみ》の|化身《けしん》と|考《かんが》へられ、またその|皇后《くわうごう》はこの|神《かみ》の|司祭《しさい》として|神《かみ》の|胤《たね》を|宿《やど》すものと|信《しん》ぜられてゐた。「アメン」の|配偶《はいぐう》を「ムウト」と|言《い》ひ「|神々《かみがみ》の|女王《ぢよわう》」として|地上《ちじやう》の|万物《ばんぶつ》を|生《う》む「|一切《いつさい》の|母《はは》」と|考《かんが》へられてゐた。
この|女神《めがみ》は|通例《つうれい》|南北《なんぼく》|両《りやう》エヂプトの|王冠《わうくわん》を|戴《いただ》き、|手《て》に|笏《しやく》をとつた|姿《すがた》で|表《あら》はされてゐるが、|時《とき》には|母性《ぼせい》の|表象《へうしやう》たる|兀鷹《はげたか》、|若《も》しくは|獅子《しし》の|姿《すがた》であらはされることもあつた。
「アメン」と「ムウト」の|間《あひだ》に|生《うま》れた|神《かみ》を「コンスウ」と|言《い》ひ、|月《つき》の|神《かみ》で、|農作物《のうさくもつ》または|家畜《かちく》の|守護者《しゆごしや》とされ、また|若《わか》い|男女《だんぢよ》の|心《こころ》に|愛《あい》を|吹《ふ》き|込《こ》む|神《かみ》として|崇拝《すうはい》された。
エヂプトの|神々《かみがみ》のうちで|一番《いちばん》|広《ひろ》く|崇拝《すうはい》されたのは「オシリス」であつた。「オシリス」は|本来《ほんらい》|北方《ほくぱう》の|神《かみ》であるが、|南北統一後《なんぼくとういつご》、その|信仰《しんかう》は|一般《いつぱん》に|盛《さか》んになつた。この|神《かみ》は|地上《ちじやう》の|人類《じんるゐ》に|種々《しゆじゆ》な|生活《せいくわつ》の|道《みち》を|伝《つた》へ|同胞《どうはう》のやうに|相愛《あひあい》して、|平和《へいわ》に|此《こ》の|世《よ》を|送《おく》らせるために|人間《にんげん》の|形《かたち》で|天《てん》から|下《くだ》された|神《かみ》であつた。|併《しか》しその|同胞《どうはう》の|神《かみ》に「セット」|亦《また》の|名《な》を「チフォン」と|言《い》ふ|悪神《あくがみ》があつて、|秘密《ひみつ》な|計略《けいりやく》を|設《まう》けて|人知《ひとし》れず「オシリス」を|殺《ころ》してしまつた。そこで「オシリス」の|妻《つま》の「イシス」はその|夫《をつと》の|遺骸《ゐがい》をたづねて|諸国《しよこく》をさまよつた|末《すゑ》、やうやう|見付《みつ》け|出《だ》して|一旦《いつたん》は|蘇生《そせい》させたが、「セット」に|見付《みつ》けられて|再《ふたた》びその|生命《せいめい》を|奪《うば》はれて|了《しま》つた。「オシリス」の|遺子《ゐし》「ホルス」は|母《はは》の「イシス」の|手《て》で|養育《やういく》され、|成長《せいちやう》の|後《のち》「チフォン」|討伐《たうばつ》の|軍《ぐん》を|起《おこ》し、|激戦《げきせん》の|後《のち》その|敵《てき》を|破《やぶ》つて|父《ちち》の|王位《わうゐ》を|回復《くわいふく》した。この|物語《ものがたり》は|後世《こうせい》エヂプト|人《じん》の|間《あひだ》に|広《ひろ》く|伝誦《でんしよう》された|伝説《でんせつ》の|一《ひと》つである。
「オシリス」はその|生前《せいぜん》に|受《う》けた|苦難《くなん》のために、|死後《しご》は|下界《げかい》に|下《くだ》つて|死者《ししや》の|裁判官《さいばんくわん》となつた。|彼《かれ》は|地下《ちか》の|世界《せかい》に|住《す》んで、|毎夜《まいよ》「ラー」の|船《ふね》と|共《とも》に|暗黒《あんこく》の|谷《たに》に|下《くだ》つて|行《ゆ》く|無数《むすう》の|霊魂《れいこん》に、それぞれの|審判《しんぱん》を|与《あた》へるのである。
「オシリス」についで|崇《あが》められる|神《かみ》に「トート」がある。「トート」は|智慧《ちゑ》の|神《かみ》で|下界《げかい》の|法廷《はふてい》では「オシリス」の|傍《かたはら》に|立《た》つて|人間《にんげん》の|心《こころ》の|目方《めかた》を|計《はか》る|秤《はかり》をながめながら、|手《て》に|紙《かみ》と|筆《ふで》を|以《もつ》て|控《ひか》へてゐる。この|理由《りゆう》から「トート」は|神《かみ》の|書記《しよき》と|呼《よ》ばれてゐる。この|神《かみ》の|像《ざう》は|鶴《つる》の|首《くび》を|持《も》つた|人間《にんげん》の|姿《すがた》に|描《ゑが》かれてゐる。そしてその|頭《あたま》の|周囲《しうゐ》に|新月《しんげつ》の|形《かたち》をした|後光《ごくわう》がついてゐるのは、|時《とき》を|定《さだ》める|神《かみ》とされてゐたことを|示《しめ》すものである。
|此《この》|他《ほか》の|神々《かみがみ》には「イシス」の|妹《いもうと》の「ネブチス」「オシリス」と「イシス」の|子《こ》の「アヌビス」それから|前《まへ》に|述《の》べた「オシリス」の|弟《おとうと》の「セット」なぞがある。「ネブチス」は|死《し》の|神《かみ》で、「アヌビス」は|墓場《はかば》の|守神《まもりがみ》で、「セット」は|総《すべ》ての|害悪《がいあく》の|源《みなもと》で|人類《じんるゐ》の|敵《てき》と|考《かんが》へられてゐた。
エヂプト|人《じん》は、|神々《かみがみ》は|地上《ちじやう》に|下《くだ》つて|常《つね》に|人間《にんげん》の|行為《かうゐ》を|監視《かんし》するものだと|信《しん》じてゐた。そしてさう|言《い》ふ|場合《ばあひ》には|神々《かみがみ》はいろいろな|動物《どうぶつ》の|姿《すがた》になつてゐると|信《しん》じてゐたので、|自然《しぜん》に|色々《いろいろ》な|動物《どうぶつ》を|神《かみ》の|化身《けしん》として|崇拝《すうはい》するやうになつた。|例之《たとへば》エヂプト|産《さん》の|大甲虫《だいかふちう》を「ケベル」「ラー」の|化身《けしん》と|信《しん》じ、|山犬《やまいぬ》を「アヌビス」の|化身《けしん》とし、|鶴《つる》を「トート」の|化身《けしん》として|崇拝《すうはい》した。そしてかう|言《い》ふ|神《かみ》の|動物《どうぶつ》を|殺《ころ》したものは、たとへ|過失《くわしつ》にしても、|死《し》を|以《もつ》てその|罪《つみ》を|償《あがな》はなければならぬものとされてゐた。
|中《なか》にもエヂプト|人《じん》の|最《もつと》も|崇拝《すうはい》した|動物《どうぶつ》は|下界《げかい》の|神《かみ》「オシリス」の|化身《けしん》として|尊敬《そんけい》された|牡牛《をうし》であつた。|後《のち》に「オシリス」の|神殿《しんでん》に|仕《つか》へる|神官《しんくわん》は|一定《いつてい》の|特徴《とくちよう》を|持《も》つた|牡牛《おうし》を|選《えら》んで|神獣《しんじう》とし、これを「アビス・ブル」と|言《い》つて|崇拝《すうはい》した。「アビス」は|全身《ぜんしん》が|漆《うるし》のやうに|黒《くろ》く|額《ひたひ》に|三角形《さんかくけい》の|白《しろ》い|斑点《はんてん》があつて、|背中《せなか》の|毛《け》は|鷲《わし》の|羽《はね》をひろげたやうな|形《かたち》になつてゐる。その|上《うへ》|右《みぎ》の|側腹《わきばら》には|三日月形《みかづきがた》の|白《しろ》い|斑点《はんてん》と、|咽《のど》の|下《した》に|大甲虫《だいかふちう》のやうなしるしがあつた。かう|言《い》ふ|特徴《とくちよう》のある|牛《うし》が|見付《みつ》かると、エヂプト|全国《ぜんこく》は|煮《に》え|返《かへ》るばかりの|騒《さわ》ぎをして、その|吉兆《きちてう》を|祝《いは》ふのであつた。そしてこの|神獣《しんじう》が|母《はは》の|乳《ちち》から|離《はな》れるのを|待《ま》つて、|祭司《さいし》|等《たち》はこれを「ニイル」|河《がは》の|岸《きし》に|運《はこ》び、|美《うつく》しく|飾《かざ》りたてた|船《ふね》にのせて「メンフィス」へ|迎《むか》へ、そこに|立派《りつぱ》な|神殿《しんでん》を|建《た》てて|安置《あんち》した。「アビス」は|一生《いつしやう》の|間《あひだ》この|神殿《しんでん》の|中《なか》で|人々《ひとびと》の|奉仕《ほうし》を|受《う》け、|毎年《まいねん》の|誕生日《たんじやうび》には|盛《さか》んな|祭典《さいてん》が|行《おこな》はれた。
「アビス」がその|神殿《しんでん》で|命《いのち》を|終《をは》ると、エヂプト|全国《ぜんこく》は|哀悼《あいたう》の|意《い》を|表《へう》して、|第二《だいに》の「アビス」が|発見《はつけん》されるまで|喪《も》を|続《つづ》けるのであつた。「アビス」の|遺骸《ゐがい》はミイラとして|葬《はうむ》らるるのであるが、その|葬《はうむ》つた|場所《ばしよ》は|深《ふか》く|秘《ひ》して|何人《なんぴと》にも|知《し》らせないやうにした。|近年《きんねん》この|墓地《ぼち》が|発掘《はつくつ》されて|始《はじ》めて|其《そ》の|秘密《ひみつ》が|発《あば》かれたが、これらの|墓《はか》は|地下《ちか》の|岩《いは》を|掘《ほ》つて|造《つく》つた|広大《くわうだい》な|岩屋《いはや》のうちに|在《あ》つて、|通路《つうろ》の|両側《りやうがは》には|無数《むすう》の|部屋《へや》が|設《まう》けられ、|各《おのおの》の|部屋《へや》に|巨大《きよだい》な|石《いし》の|柩《ひつぎ》が|安置《あんち》されてゐた。
|鳥《とり》の|中《なか》では|鷹《たか》と|鶴《つる》が|最《もつと》も|神聖《しんせい》なものであつた。|雪《ゆき》のやうな|羽《はね》と|真黒《まつくろ》な|尾《を》を|持《も》つた|鶴《つる》は「トート」の|神禽《しんきん》とされ、|鷹《たか》は「ホルス」の|表象《へうしやう》として|崇拝《すうはい》されたのである。
メキシコナフア|族《ぞく》の|天地創造説《てんちさうざうせつ》
|太初《はじめ》|世《よ》の|中《なか》には|何《なに》もなかつた。あるものは|只《ただ》どこまでもどこまでも|広《ひろ》がつてゐる|〓々《べうべう》たる|水《みづ》だけであつた。その|水《みづ》の|中《なか》からいつとはなしに|大地《だいち》があらはれた。
|大地《だいち》が|出来上《できあが》ると|或日《あるひ》のこと「|豹蛇《へうだ》」と|呼《よ》ばれる|雄々《をを》しい|鹿《しか》の|男神《をがみ》と、「|虎蛇《こだ》」と|呼《よ》ばれる|麗《うるは》しい|鹿《しか》の|女神《めがみ》とが、どこからとなく|現《あら》はれた。|二人《ふたり》はどちらも|人間《にんげん》の|姿《すがた》をしてゐた。|二人《ふたり》の|神《かみ》は|漫々《まんまん》たる|水《みづ》の|中《なか》に|高《たか》くして|大《だい》なる|岩《いは》を|拵《こしら》へて、その|上《うへ》に|美々《びび》しい|館《やかた》を|造《つく》つた。それから|岩《いは》の|頂《いただき》に|銅《どう》で|拵《こしら》へた|一本《いつぽん》の|斧《をの》を|突《つ》き|立《た》てて、|大地《だいち》の|上《うへ》に|円《まる》くなつてゐる|天空《てんくう》を|支《ささ》へることにした。
|美々《びび》しい|館《やかた》は「アボアラ」の|近《ちか》くで|上部《じやうぶ》「ミシユテカ」の|地《ち》にあつた。|鹿《しか》の|男神《をがみ》と|鹿《しか》の|女神《めがみ》とは、この|館《やかた》の|中《なか》に|幾世紀《いくせいき》となく|住《す》み|続《つづ》けてゐた。さうしてゐるうちに|二人《ふたり》の|男《をとこ》の|子《こ》が|生《うま》れた。|一人《ひとり》は「|九蛇《きうだ》の|風《かぜ》」と|呼《よ》ばれ|一人《ひとり》は「|九洞《きうどう》の|風《かぜ》」と|呼《よ》ばれた。「|九蛇《きうだ》の|風《かぜ》」と「|九洞《きうどう》の|風《かぜ》」とはすくすくと|生《お》ひ|立《た》つて|立派《りつぱ》な|凛々《りり》しい|若者《わかもの》となつた。|両親《りやうしん》が|非常《ひじやう》に|気《き》をつけて|育《そだ》て|上《あ》げたので、|若者《わかもの》たちは|様々《さまざま》の|技《わざ》に|通《つう》じ、あらゆる|動物《どうぶつ》に|姿《すがた》を|変《か》へることも|出来《でき》れば、まるで|姿《すがた》を|見《み》えなくすることも|出来《でき》た。またどんな|堅《かた》いものでも、するりとつきぬける|事《こと》が|出来《でき》た。
|或《あ》る|時《とき》、「|九蛇《きうだ》の|風《かぜ》」が「|九洞《きうどう》の|風《かぜ》」に|対《むか》つて、
『|自分《じぶん》たちがこんなに|立派《りつぱ》になつて|色々《いろいろ》の|技《わざ》に|通《つう》ずるやうになつたのは、|全《まつた》く|神々《かみがみ》のお|蔭《かげ》だ。だからそのお|礼《れい》に|神々《かみがみ》にささげものをしようではないか』
と|言《い》つた。「|九洞《きうどう》の|風《かぜ》」はしきりに|頷首《うなづい》て、
『|全《まつた》くさうだ。それではすぐにその|支度《したく》にとりかかることにしよう』
と|答《こた》へた。
|二人《ふたり》は|粘土《ねんど》を|掘《ほ》りとつて|香爐《かうろ》を|拵《こしら》へた。そして|其《その》|中《なか》に|煙草《たばこ》を|満《みた》して、それに|火《ひ》をつけた。やがて|香爐《かうろ》から|煙《けむり》が|静《しづか》に|立《た》ち|昇《のぼ》つて|空《そら》にたなびき|始《はじ》めた。これが|神々《かみがみ》に|対《たい》する|最初《さいしよ》のささげものであつた。
それから|二人《ふたり》は|花園《はなぞの》をこしらへて、そこに|灌木《くわんぼく》や|花《はな》や|実《み》を|結《むす》ぶ|樹《き》や|香《かを》りの|高《たか》い|薬草《やくさう》などを|植《う》ゑ|付《つ》けた。そして|其《そ》のすぐ|側《わき》の|地《ち》をならして、そこを|自分《じぶん》たちの|住居《すまゐ》ときめた。|二人《ふたり》は|満足《まんぞく》しきつて|煙草《たばこ》をふかしては、|神々《かみがみ》にお|祈《いの》りをするのであつたが、|暫《しばら》くすると|二人《ふたり》はどちらからとなく、
『お|祈《いの》りの|力《ちから》を|強《つよ》めるためには、こんなに|安閑《あんかん》として|居《ゐ》ては|駄目《だめ》だ、どこまでも|身《み》を|苦《くる》しめて|懸命《けんめい》になつてお|祈《いの》りをしてこそ、その|力《ちから》が|現《あら》はれるのだ』
と|言《い》ひ|出《だ》した。そして|其《その》|後《のち》は|燧石《ひうちいし》でこしらへた|小刀《こがたな》で、|自分《じぶん》たちの|双《さう》の|耳《みみ》と|舌《した》とに|孔《あな》を|穿《あ》け、|柳《やなぎ》の|小枝《こえだ》で|造《つく》つたブラツシで|木《き》や|草《くさ》に|紅《くれなゐ》の|血《ち》を|灌《そそ》ぎかけてお|祈《いのり》をすることにした。
|併《しか》し「|九蛇《きうだ》の|風《かぜ》」と「|九洞《きうどう》の|風《かぜ》」は|光明《くわうみやう》と|暗黒《あんこく》、|昼《ひる》と|夜《よる》とを|示《しめ》すものであるらしいと|思《おも》はれる。
マヤ|族《ぞく》の|万物創造説《ばんぶつさうざうせつ》
|太初《はじめ》この|世《よ》には|何《なに》も|無《な》くて|常闇《とこやみ》が|八方《はつぱう》に|広《ひろ》がつてゐた。そして|只《ただ》|神々《かみがみ》だけが|存在《そんざい》してゐた。|神々《かみがみ》の|名《な》は「フラカン」といひ、「グクマッツ」(|若《もし》くはクェツァルコアトル)と|言《い》ひ、「エックスビヤコック」と|言《い》ひ、「エックスムカネ」と|言《い》つた。
これ|等《ら》の|神々《かみがみ》は|先《ま》づ|大地《だいち》を|造《つく》らなくては|何事《なにごと》も|出来《でき》ぬと|言《い》つて、|一人《ひとり》の|神《かみ》が|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
『|大地《だいち》よ、|現《あら》はれよ』
と|叫《さけ》んだ。|忽《たちま》ちその|声《こゑ》に|応《おう》じて|大地《だいち》が|現《あら》はれた。(言霊の妙用を漏らしたる物語也)
|神々《かみがみ》はお|互《たがひ》に|相談《さうだん》をして|種々《しゆじゆ》の|動物《どうぶつ》を|拵《こしら》へて|大地《だいち》の|上《うへ》に|住《す》ませる|事《こと》にした。それから|一番《いちばん》|終《をは》りの|木《き》を|刻《きざ》んで|沢山《たくさん》の|小《ちひ》さい|人間《にんげん》を|造《つく》つたが、これ|等《ら》の|人間《にんげん》どもは、どうも|性質《せいしつ》が|悪《わる》くて|神々《かみがみ》を|蔑視《べつし》するので、|神々《かみがみ》はひどく|腹《はら》を|立《た》てて、
『こんなやくざな|生物《せいぶつ》は、|一思《ひとおも》ひに|滅《ほろ》ぼして|了《しま》つた|方《はう》が|良《よ》い』
と|考《かんが》へたので、「フラカン」|神《がみ》は|大地《だいち》の|水《みづ》と|言《い》ふ|水《みづ》の|量《りやう》を|増《ま》し、|同時《どうじ》に|幾日《いくにち》も|幾日《いくにち》も|大雨《おほあめ》を|降《ふ》り|続《つづ》かせたので、|見《み》る|見《み》る|恐《おそ》ろしい|洪水《こうずゐ》が|人間《にんげん》を|襲《おそ》うて|来《き》た。|人間《にんげん》は|驚《おどろ》き|騒《さわ》いで、あちらこちらに|逃《に》げまどうた。それを|追《お》ひまはすやうにして、「エックセコトコブァック」と|言《い》ふ|鳥《とり》は|其《そ》の|目《め》をつつき|出《だ》し、「カムラッツ」といふ|鳥《とり》はその|頭《かしら》を|咬《か》みきり、「コツバラム」といふ|鳥《とり》はその|肉《にく》を|〓《くら》ひつくし、「テクムバラム」といふ|鳥《とり》はその|骨《ほね》を|砕《くだ》くのであつた。いな、|人間《にんげん》に|飼《か》はれてゐた|家畜《かちく》や|人間《にんげん》に|使《つか》はれてゐた|道具《だうぐ》さへも、|逃《に》げまどひ|泣《な》きさけぶ|人間《にんげん》を|眺《なが》めて|気持《きもち》よささうに|嘲《あざけ》り|笑《わら》ふのであつた。
『お|前《まへ》さんたちは|是《これ》までわたしたちをひどい|目《め》にあはせて|居《ゐ》たんだ。|今度《こんど》はわたしたちの|番《ばん》だ。|思《おも》ひきり|咬《か》みついてやるよ』
と|犬《いぬ》や|鶏《にはとり》が|言《い》つた。
『お|前《まへ》さんたちは|毎日《まいにち》|夜《よる》となく|昼《ひる》となく、わたしたちを|苦《くる》しめた。わたしたちはいつも|泣《な》き|叫《さけ》んで|居《ゐ》た。さあ|今度《こんど》はこつちの|番《ばん》だ。わたしたちの|力《ちから》の|程《ほど》を|見《み》せてやるよ。お|前《まへ》さんたちの|肉《にく》を|碾《ひ》き|砕《くだ》いて|肉団子《にくだんご》を|拵《こしら》へてやるよ』
と|石臼《いしうす》どもが|言《い》つた。
『お|前《まへ》さんたちは、わたしたちの|頭《あたま》や|脇腹《わきばら》をいぶしたし、|火《ひ》の|上《うへ》にかけて|火傷《やけど》をさせたり、|随分《ずゐぶん》と|痛《いた》い|目《め》にあはせたね。さあ|今度《こんど》はこちらの|番《ばん》だ。|思《おも》ひきり|火傷《やけど》をさせてやるよ』
と|茶碗《ちやわん》や|皿《さら》が|言《い》つた。
|人間《にんげん》どもは、みんなに|追《お》ひかけられて、|苦《くる》しまぎれに|家《いへ》の|屋根《やね》によぢ|登《のぼ》つた。|屋根《やね》は、
『この|悪者《わるもの》め、かうしてくれるぞ』
と|言《い》つて、わざと|地面《ぢべた》に|突《つ》き|伏《ふ》してしまつた。|人間《にんげん》は|周章狼狽《しうしやうらうばい》して|樹《き》の|上《うへ》に|登《のぼ》つた。さうすると|樹《き》は、
『このやくざもの|奴《め》、かうしてくれるぞ』
と|言《い》つて、|烈《はげ》しく|枝《えだ》を|動《うご》かして|人間《にんげん》どもを|大地《だいち》にふりおとした。|人間《にんげん》どもはモウ|困《こま》つてしまつて|洞穴《ほらあな》の|中《なか》へ|潜《もぐ》り|込《こ》まうとした。すると|洞穴《ほらあな》は、
『この|性悪《しやうわる》ものめ、かうしてくれる』
と|言《い》つて、いきなり|口《くち》を|閉《と》ぢてしまつた。
かうして|大地《だいち》の|上《うへ》を|右往左往《うわうさわう》に|逃《に》げまはつてゐるうちに、|小《ちひ》さい|人間《にんげん》どもは、|水《みづ》に|責《せ》められ、|生物《いきもの》に|苦《くる》しめられ、|種々《しゆじゆ》の|品物《しなもの》に|痛《いた》め|付《つ》けられて、たうとう|皆《みな》|滅《ほろ》びて|了《しま》つた。
「フラカン」|神《がみ》を|始《はじ》め|天界《てんかい》にある|神々《かみがみ》は、|新《あたら》しく|人間《にんげん》を|造《つく》らうと|考《かんが》へた。そこで|種々《しゆじゆ》と|相談《さうだん》した|末《すゑ》に、|黄色《きいろ》い|玉蜀黍《たうもろこし》の|粉《こ》と|白《しろ》い|玉蜀黍《たうもろこし》の|粉《こ》とを|捏《ね》つて、|一種《いつしゆ》の|糊《のり》をこしらへて、その|糊《のり》で|四人《よにん》の|男《をとこ》の|人間《にんげん》を|造《つく》つた。|一人《ひとり》は「バラムキッチェ」(|美《うつく》しい|歯《は》を|持《も》つ|虎《とら》の|義《ぎ》)と|呼《よ》ばれ、|一人《ひとり》は「バラムアガブ」(|夜《よる》の|虎《とら》の|義《ぎ》)と|呼《よ》ばれ、|一人《ひとり》は「マハクター」(|著《いちじる》しき|名《な》の|義《ぎ》)と|呼《よ》ばれ、|残《のこ》りの|一人《ひとり》は「イキバラム」(|月《つき》の|虎《とら》の|義《ぎ》)と|呼《よ》ばれた。
これ|等《ら》の|人間《にんげん》は|姿《すがた》も|心《こころ》の|働《はたら》きも|殆《ほとん》ど|神《かみ》とかはらなかつた。「フラカン」|神《がみ》はそれが|気《き》に|入《い》らなかつた。
『わしたちの|手《て》から|造《つく》り|出《だ》されたものが、わしたちのやうに|偉《えら》いものであるのは、どうも|面白《おもしろ》くない。|何《なん》とか|為《せ》なくてはならぬ』
「フラカン」|神《がみ》はかう|考《かんが》へて、モウ|一度《いちど》|他《た》の|神々《かみがみ》と|相談《さうだん》をした。そして、
『|人間《にんげん》と|言《い》ふものは、もつと|不完全《ふくわんぜん》でなくてはならぬ。もつと|知識《ちしき》が|少《すくな》い|方《はう》が|良《よ》い。|人間《にんげん》は|決《けつ》して|神《かみ》となつてはならぬ』
と|言《い》ふことに|話《はなし》がきまつた。そこで「フラカン」|神《がみ》は|四人《よにん》の|男《をとこ》の|目《め》をねらつて、フツと|息《いき》を|吹《ふ》きかけると、|眼《め》がくもつて|大地《だいち》の|一部《いちぶ》しか|見《み》えなくなつた。|神々《かみがみ》は|大地《だいち》の|隅《すみ》から|隅《すみ》まで|見《み》ることが|出来《でき》るのであつた。
かうして|四人《よにん》の|男《をとこ》を|自分《じぶん》たちより|劣《おと》つたものにすると、|神々《かみがみ》は|男《をとこ》たちを|深《ふか》い|眠《ねむ》りに|陥《おとしい》れて、それから|四人《よにん》の|女《をんな》を|拵《こしら》へて|男《をとこ》たちに|妻《つま》として|与《あた》へることにした。|四人《よにん》の|女《をんな》はそれぞれ「カハ・バルマ」(|落《お》ちる|水《みづ》の|義《ぎ》)と|呼《よ》ばれ、「チヨイマ」(|美《うつく》しい|水《みづ》の|義《ぎ》)と|呼《よ》ばれ、「ツヌニハ」(|水《みづ》の|家《いへ》の|義《ぎ》)と|呼《よ》ばれ、「カキクサ」(|暉《かがや》く|水《みづ》の|義《ぎ》)と|呼《よ》ばれた。これ|等《ら》の|八人《はちにん》の|男女《だんぢよ》が|人類《じんるゐ》の|祖先《そせん》である。
|次《つぎ》に|火《ひ》の|起源《きげん》について|面白《おもしろ》い|話《はなし》がある。それによると|人間《にんげん》どもは|初《はじ》め|火《ひ》を|持《も》つて|居《ゐ》なかつた。だから|夜《よる》は|真暗《まつくら》な|所《ところ》に|居《ゐ》なくてはならぬし、|寒《さむ》い|時《とき》には|只《ただ》がたがたと|顫《ふる》へて|居《ゐ》なくてはならなかつた。そして|折角《せつかく》|鳥《とり》や|獣《けもの》を|手《て》に|入《い》れても|生《なま》のままで|食《た》べるより|外《ほか》なかつた。「トヒル」(ぶらつく|者《もの》の|意《い》)といふ|神《かみ》がそれを|見《み》て、
『どうも|可哀《かあい》さうだ。|人間《にんげん》どもに|火《ひ》を|与《あた》へてやる|事《こと》にしよう』
と|言《い》つて、|両方《りやうはう》の|脚《あし》を|烈《はげ》しく|摩《す》り|合《あは》せると|忽《たちま》ち|火《ひ》が|燃《も》えだした。|人間《にんげん》どもはその|火《ひ》をもらつて|皆《みな》で|分《わ》けることにした。そしてそれを|消《き》やさないやうに|大切《たいせつ》にしてゐたが、ある|時《とき》|大雨《おほあめ》が|降《ふ》りつづいて|国中《くにぢう》の|火《ひ》をすつかり|消《け》してしまつた。|人間《にんげん》どもは|非常《ひじやう》に|嘆《なげ》きかなしんだ。すると「トヒル」|神《がみ》がそれを|見《み》て、
『よし、わしがモ|一度《いちど》|火《ひ》を|拵《こしら》へてやらう』
と|言《い》つて、|自分《じぶん》の|脚《あし》と|脚《あし》とを|摩《す》り|合《あは》せると、|忽《たちま》ち|火《ひ》が|燃《も》え|出《だ》した。
かうして|人間《にんげん》どもは|火《ひ》をなくする|度《たび》に「トヒル」|神《がみ》のお|蔭《かげ》で、それを|手《て》に|入《い》れることが|出来《でき》るのであつた。
|神《かみ》から|造《つく》られた|四人《よにん》の|男《をとこ》と|四人《よにん》の|女《をんな》とは、|暗《やみ》の|世界《せかい》に|住《す》んでゐなくてはならなかつた。その|頃《ころ》はまだ|太陽《たいやう》がなかつたので、|八人《はちにん》の|男女《だんぢよ》は|天《てん》を|仰《あふ》いで|神々《かみがみ》に、
『どうか、わたくし|達《たち》に|光明《くわうみやう》を|与《あた》へて|下《くだ》さい。|安《やす》らかな|生活《せいくわつ》を|恵《めぐ》んで|下《くだ》さい』
と|祈《いの》つた。が、いつまで|経《た》つても|太陽《たいやう》は|現《あら》はれなかつた。|彼等《かれら》は|悲《かな》しみ|悩《なや》んで「ツラン・ジヴァ」(|七《なな》つの|洞窟《どうくつ》の|義《ぎ》)といふ|地《ち》に|移《うつ》つて|行《い》つた。|併《しか》しそこでも|太陽《たいやう》を|見《み》る|事《こと》が|出来《でき》なかつた。さうしてゐるうちに、どうしたのか、|言葉《ことば》の|混乱《こんらん》が|起《おこ》つて|八人《はちにん》の|男女《だんぢよ》は、お|互《たがひ》にお|互《たがひ》の|言《い》ふ|事《こと》が|解《わか》らぬやうになつた。|彼等《かれら》はモウすつかり|困《こま》つてしまつて「トヒル」|神《がみ》に、
『どうかわたくし|等《たち》を|率《ひき》ゐて、どこかもつと|幸福《かうふく》な|土地《とち》に|移《うつ》して|下《くだ》さい』
と|祈《いの》つた。たうとう|彼等《かれら》は「トヒル」|神《がみ》の|教《をしへ》によつて|長《なが》い|旅路《たびぢ》についた。
|高《たか》い|山《やま》をいくつとなく|越《こ》えて|行《ゆ》くうちに、|大《おほ》きな|海《うみ》に|出《で》た。|船《ふね》を|持《も》たぬ|彼等《かれら》は、どうして|漫々《まんまん》たる|海原《うなばら》を|渡《わた》らうかと|思《おも》ひ|煩《わづら》つて|居《ゐ》ると、|不思議《ふしぎ》にも|水《みづ》がさつと|二《ふた》つに|分《わか》れて、|一筋《ひとすぢ》の|路《みち》が|出来《でき》た。|彼等《かれら》はその|道《みち》を|辿《たど》つて「ハカヴィツ」といふ|山《やま》の|麓《ふもと》に|来《き》た。
『わたしたちは、ここに|留《とどま》らなくてはならぬ。「トヒル」|神《がみ》さまのお|告《つ》げによると、わしたちは|此所《ここ》で|太陽《たいやう》を|見《み》ることが|出来《でき》るのだから』
と|四人《よにん》の|男《をとこ》が|言《い》つた。
『ええさうしませう。|日《ひ》の|光《ひかり》を|見《み》ることが|出来《でき》たら、どんなに|嬉《うれ》しいでせう』
と|四人《よにん》の|女《をんな》が|言《い》つた。
かうして|彼等《かれら》がひたすら|日《ひ》の|光《ひかり》を|待《ま》ちこがれてゐると、やがて|太陽《たいやう》が|赤々《あかあか》と|東《ひがし》の|空《そら》から|現《あら》はれて、|明《あか》るく|温《あたた》かな|日《ひ》の|光《ひかり》が|野山《のやま》に|充《み》ち|満《み》ちた。もつとも|初《はじ》めのうちは|日《ひ》の|光《ひかり》が、さほど|強《つよ》くなかつた。あとでは|祭壇《さいだん》の|上《うへ》の|犠牲《いけにへ》の|血《ち》をすぐに|吸《す》ひとつてしまふほど|烈《はげ》しい|熱《ねつ》を|発《はつ》するやうになつた。|太陽《たいやう》も|始《はじ》めて|八人《はちにん》の|男女《だんぢよ》の|目《め》にうつつた|時《とき》には、|鏡《かがみ》の|中《なか》の|影《かげ》のやうに|見《み》えたのであつた。それでも|始《はじ》めて|太陽《たいやう》を|見《み》たので、|男《をとこ》も|女《をんな》も|獣類《けだもの》も|嬉《うれ》しさの|余《あま》り|殆《ほとん》ど|踊《をど》り|狂《くる》はむばかりであつた。|彼等《かれら》は|声《こゑ》をそろへて「カムク」といふ|歌《うた》をうたひ|出《だ》した。「カムク」とは「|吾等《われら》は|見《み》つ」といふ|意味《いみ》で、つまり|始《はじ》めて|太陽《たいやう》を|見《み》た|時《とき》の|胸《むね》の|中《うち》の|歓喜《くわんき》がおのづから|迸《ほとばし》り|出《で》たのであつた。
かうして|八人《はちにん》の|男女《だんぢよ》は「ハカヴィツ」|山《やま》の|麓《ふもと》に「キシエ」|族《ぞく》の|最初《さいしよ》の|町《まち》をこしらへて、そこに|永《なが》く|住《す》むことになつた。|時《とき》がたつにつれて、|人間《にんげん》の|数《かず》がだんだんに|殖《ふ》ゑて|来《き》た。そしてその|祖《そ》である|八人《はちにん》の|男女《だんぢよ》も、だんだんと|年老《としよ》りになつた。ある|日《ひ》、|神々《かみがみ》が|幻《まぼろし》のやうに|八人《はちにん》の|男女《だんぢよ》たちの|前《まへ》に|現《あら》はれて、
『お|前《まへ》たちの|子孫《しそん》が|末長《すゑなが》く|栄《さか》えることを|願《ねが》ふなら、わたしたちに|人間《にんげん》の|犠牲《いけにへ》をささげなくてはならぬ』
と|言《い》つた。
|八人《はちにん》の|男女《だんぢよ》は|神々《かみがみ》の|教《をしへ》に|従《したが》ふために、|近《ちか》くの|地《ち》に|住《す》んでゐる|他《た》の|部落《ぶらく》を|襲《おそ》うた。|他《た》の|部落《ぶらく》のもの|共《ども》は、|八人《はちにん》の|男女《だんぢよ》に|率《ひき》ゐられた「キシェ」|族《ぞく》に|対《たい》して|烈《はげ》しく|争《あらそ》つた。|血腥《ちなまぐさ》い|戦《たたかひ》が|長《なが》く|続《つづ》いて、どちらが|勝《か》つとも|見《み》えなかつた。すると、どこからとなく|地蜂《ぢばち》や|熊蜂《くまばち》の|群《むれ》が|現《あら》はれて|来《き》て、「キシェ」|族《ぞく》を|助《たす》けて|敵《てき》の|兵《つはもの》どもの|顔《かほ》に|飛《と》びついては|烈《はげ》しくその|眼《め》を|刺《さ》した。|敵《てき》の|兵《つはもの》は|目《め》がつぶれて|武器《ぶき》を|振《ふ》りまはすことが|出来《でき》なくなつて|悉《ことごと》く|降参《かうさん》してしまつた。|八人《はちにん》の|男女《だんぢよ》は|敵勢《てきぜい》のうちから|幾人《いくにん》かを|選《え》り|出《だ》して|犠牲《いけにへ》として|神々《かみがみ》にささげた。
かうして「キシェ」|族《ぞく》は|次第《しだい》に|近《ちか》くの|部落《ぶらく》をきり|従《したが》へて|行《い》つたが、その|中《うち》に|彼等《かれら》の|祖《そ》である|四人《よにん》の|男《をとこ》はいよいよ|年《とし》がいつた。|彼等《かれら》は|臨終《りんじう》が|近《ちか》づいたといふ|事《こと》を|悟《さと》つて、|別《わか》れの|言葉《ことば》を|言《い》つて|聞《き》かすために、|子《こ》や|孫《まご》や|親族《しんぞく》たちを|自分《じぶん》のまはりに|呼《よ》びよせた。そして|別《わか》れの|言葉《ことば》がすむと|四人《よにん》の|男《をとこ》の|姿《すがた》が|忽《たちま》ち|見《み》えなくなつた。そして|其《その》あとに|大《おほ》きな|巻束《まきたば》が|現《あら》はれた。「キシェ」|族《ぞく》はその|巻束《まきたば》を「|包《つつ》まれたる|厳《いづ》の|宝《たから》」と|名《な》づけて、|決《けつ》して|之《これ》を|開《ひら》かなかつた。
|要《えう》するに、この|物語《ものがたり》は「キシェ」|族《ぞく》が|寒《さむ》い|地方《ちはう》から|暖《あたたか》い|南方《なんばう》に|移住《いぢう》した|史的事実《してきじじつ》を|反映《はんえい》してゐるやうに|考《かんが》へられるのである。
|北欧《ほくおう》に|於《お》ける|宇宙創造説《うちうさうざうせつ》
|太初《はじめ》は|空《くう》の|空《くう》であつた。そこには|眼《め》にふれるものが|何《なに》も|無《な》かつた。|無限《むげん》に|広《ひろ》がつてゐる|虚無《きよむ》には、ただ「ギンヌンガ・ギャップ」と|言《い》ふ|深淵《しんえん》があるだけであつた。「ギンヌンガ・ギャップ」とは「|顎《あご》を|開《ひら》いた|決裂《さけめ》」といふ|意味《いみ》である。この|深淵《しんえん》は|永久《えいきう》の|常闇《とこやみ》の|中《うち》にひたすら|広《ひろ》がりに|広《ひろ》がつて|居《ゐ》たので、その|大《おほ》きさも|深《ふか》さも|到底《たうてい》|測《はか》り|知《し》られる|限《かぎ》りではなかつた。
|茫々《ばうばう》たる「ギンヌンガ・ギャップ」の|深淵《しんえん》の|北《きた》の|果《はて》と|南《みなみ》の|果《はて》とに、|二《ふた》つの|世界《せかい》ならぬ|世界《せかい》があつた。|北《きた》の|果《はて》にある|世界《せかい》を「ニフルハイム」と|呼《よ》び、|南《みなみ》の|果《はて》にある|世界《せかい》を「ムスベルハイム」と|呼《よ》ぶ。
「ニフルハイム」は|極寒《ごくかん》の|世界《せかい》である、|暗黒《あんこく》の|世界《せかい》である。そこには|物凄《ものすご》い|霧《きり》と|暗《やみ》とが|永久《えいきう》に|総《すべ》てを|閉《と》ぢこめて|居《ゐ》る。この|世界《せかい》のただ|中《なか》に、いつまでも|尽《つ》きる|事《こと》のない|泉《いづみ》が|湧《わ》いてゐる。|泉《いづみ》は「フフエルゲルミル」と|呼《よ》ばれた。|泉《いづみ》からは|氷《こほり》のやうに|冷《つめ》たい|水《みづ》が|滾々《こんこん》と|迸《ほとばし》り|出《い》で、|十二《じふに》の|河《かは》となつて|流《なが》れ|出《で》てゐる。|流《なが》れ|流《なが》れて|行《ゆ》くうちに「ギンヌンガ・ギャップ」から|吹《ふ》いて|来《く》る|剣《つるぎ》のやうな|疾風《しつぷう》に|触《ふ》れて、|山《やま》なす|氷《こほり》の|塊《かたまり》となり、|氷《こほり》の|塊《かたまり》は|悠々《いういう》と|転《ころ》がりつづけて、はては「ギンヌンガ・ギャップ」の|底知《そこし》れぬ|深淵《しんえん》に|雷《かみなり》のやうな|響《ひびき》を|立《た》てて|落《お》ち|込《こ》むのであつた。
「ムスベルハイム」は|極熱《ごくねつ》の|世界《せかい》である。|火《ひ》と|光熱《くわうねつ》との|世界《せかい》である。この|世界《せかい》のただ|中《なか》に「スルトル」と|呼《よ》ばれる|絶大《ぜつだい》の|巨人《きよじん》が|坐《すわ》り|込《こ》んで|極熱界《ごくねつかい》の|四辺《あたり》を|守《まも》つて|居《ゐ》る。「スルトル」の|手《て》には|火焔《くわえん》の|剣《つるぎ》がしかと|握《にぎ》られてゐる。|巨人《きよじん》は|絶《た》えず|凄《すさ》まじい|勢《いきほひ》で|剣《つるぎ》を|振《ふ》りまはす。ふりまはす|度《たび》に|剣《つるぎ》の|刃《は》から|切尖《きつさき》から|閃々《せんせん》たる|火花《ひばな》が|雨《あめ》のやうに|降《ふ》りこぼれて、|深淵《しんえん》の|底《そこ》に|横《よこた》はつてゐる|氷《こほり》の|塊《かたまり》の|上《うへ》に|落《お》ちる|途端《とたん》に、|耳《みみ》を|聾《ろう》する|様《やう》な|音《おと》がして|濛々《もうもう》たる|蒸気《じようき》が|数知《かずし》れぬ|雲《くも》となつて|高《たか》く|高《たか》く|舞《ま》ひ|上《のぼ》るのであつた。|勢《いきほ》ひ|盛《さか》んに|立《た》ち|上《のぼ》つた|蒸気《じようき》の|雲《くも》が、|氷寒世界《ひようかんせかい》の「ニフルハイム」から|吹《ふ》きすさんで|来《く》る|冷《つめ》たい|風《かぜ》に|凍《こほ》つて、|宇宙《うちう》に|堅《かた》くかたまつた|時《とき》、それで|測《はか》り|知《し》られぬ|大《おほ》きな|魔物《まもの》として|活《い》きて|動《うご》くやうになつた|巨魔《きよま》の|名《な》を、「イミル」|若《もし》くは「オルケルミル」といふ。「|沸《わ》きかへる|塊《かたまり》」といふ|意義《いぎ》である。|凝固《こりかた》まつた|氷《こほり》の|魔《ま》であるから|時《とき》として「リムツルス」(|氷霜《ひようさう》の|巨人《きよじん》の|意《い》)と|呼《よ》ばれることもある。|古《こ》「エッダ」の|詩篇《しへん》は、この|氷《こほり》の|巨魔《きよま》を|歌《うた》つて、
|古《ふる》き|昔《むかし》
イミルが|住《す》みし|頃《ころ》には
|砂《すな》なく|海《うみ》なく
|涼《すず》しき|波《なみ》もなかりき
|大地《だいち》も|見出《みいだ》されず
はた|天空《てんくう》もあらず
すべては|一《ひと》つの|混沌《こんとん》にして
いづこにも|草《くさ》を|生《しやう》ぜざりき
と|言《い》つてゐる。|茫々《ばうばう》たる|虚無《きよむ》の|中《なか》に|生《うま》れ|出《で》た|氷《こほり》の|魔《ま》「イミル」は、|食物《しよくもつ》を|探《さが》しもとめて|闇《やみ》の|中《なか》をうごめき|廻《まは》つて|居《ゐ》た。そのうちに「アウヅムブラ」といふ|絶大《ぜつだい》な|牡牛《めうし》を|見出《みいだ》した。「アウヅムブラ」とは(|飼育《しいく》するもの)といふ|意義《いぎ》である。この|牛《うし》も|濛々《もうもう》たる|蒸気《じようき》の|雲《くも》が|冷《ひ》えて|凍《こほ》つて|生《うま》れ|出《で》たものであつた。「イミル」は|喜《よろこ》んで|牡牛《めうし》の|側《そば》に|駈《か》けよつて|行《い》つて|見《み》ると、|大《おほ》きな|乳母《ちち》から|雪《ゆき》のやうに|白《しろ》い|乳母《ちち》が|四《よ》つの|川《かは》となつて|滾々《こんこん》と|流《なが》れ|出《で》てゐる。「イミル」は|日毎《ひごと》その|乳汁《ちち》を|飲《の》んで|命《いのち》をつなぐことにした。
|絶大《ぜつだい》なる|牡牛《めうし》「アウヅムブラ」も|生《い》きて|居《ゐ》る|以上《いじやう》、|何《なに》かを|食《た》べてその|命《いのち》をささへなくてはならぬ。「アウヅムブラ」は|大《おほ》きなそして|粗《あら》くて|堅《かた》い|舌《した》を|出《だ》しては|氷《こほり》の|塊《かたまり》に|凍《こほ》りついてゐる|塩《しほ》を|嘗《な》めて|居《ゐ》た。
|昼《ひる》となく|夜《よる》となく|嘗《な》めつづけてゐるうちに、|氷《こほり》の|塊《かたまり》の|中《なか》から|男《をとこ》の|頭髪《とうはつ》が|現《あらは》れて、それから|全身《ぜんしん》が|現《あらは》れ|出《で》た。|氷《こほり》の|塊《かたまり》の|中《なか》から|飛《と》び|出《だ》して|来《き》たのは「ブリ」といふ|神《かみ》であつた。|体《からだ》が|大《おほ》きくて|力《ちから》が|強《つよ》くて、|容貌《ようばう》の|麗《うるは》しい|神《かみ》であつた。そして|間《ま》もなく「ボル」といふ|男《をとこ》の|子《こ》を|生《う》んだ。
かうして|神々《かみがみ》が|生《うま》れ|出《で》るやうになると、|巨魔《きよま》「イミル」も|巨人《きよじん》どもを|産《う》み|出《だ》すやうになつた。ある|日《ひ》、「イミル」は|乳汁《ちち》に|飽《あ》いて、うたた|寝《ね》をしてゐるうちに、|体中《からだぢう》に|汗《あせ》をかいた……と|思《おも》ふと、|左《ひだり》の|腋《わき》の|下《した》から|一人《ひとり》の|男《をとこ》と|一人《ひとり》の|女《をんな》とが|生《うま》れ、|足《あし》から|六《むつ》つの|頭《あたま》を|持《も》つた|男《をとこ》が|生《うま》れた。|六頭《ろくとう》の|怪魔《くわいま》は「ベルゲルミル」と|呼《よ》ばれた。|神々《かみがみ》の|永久《えいきう》の|敵《てき》となつた「|霜《しも》の|巨人《きよじん》」どもは、みなその|子孫《しそん》である。
|神々《かみがみ》と|巨人共《きよじんども》が|現《あらは》れると、その|間《あひだ》に|激《はげ》しい|戦《たたかひ》が|始《はじ》まつた。|神々《かみがみ》は|善《よ》きもの|義《ただ》しきものの|力《ちから》として、|巨人《きよじん》どもは|悪《あ》しきもの|邪《よこしま》なものの|力《ちから》として、どうしても|仲《なか》よく|暮《くら》して|行《ゆ》くことが|出来《でき》なかつたのである。しかしいつまでもいつまでも|闘《たたか》つてゐるうちに、|双方《さうはう》もやや|争《あらそひ》に|飽《あ》いて、「ボル」|神《がみ》が「ボルトルン」(|悪《あく》の|荊《いばら》)の|娘《むすめ》「ベストラ」を|娶《めと》る|事《こと》になつて、「オーディン」「フィリ」「フエ」といふ|三人《さんにん》の|神《かみ》をまうけた。|其《そ》の|中《なか》の「オーディン」こそ、ゆくゆく|神々《かみがみ》の|王者《わうじや》となつて、あらゆる|世界《せかい》を|支配《しはい》すべき|運命《うんめい》を|持《も》つた|最《もつと》も|高《たか》く|最《もつと》も|偉《えら》い|神《かみ》である。
|三人《さんにん》の|神々《かみがみ》が|生《うま》れると、すぐに|父《ちち》の「ボル」|神《がみ》を|援《たす》けて、また|巨人《きよじん》どもと|烈《はげ》しい|戦《たたかひ》を|開《ひら》いた。|巨人族《きよじんぞく》の|頭領《とうりやう》である「イミル」は|血《ち》みどろになつて|荒《あ》れまはつたが、たうとう|三人《さんにん》の|神《かみ》に|斬《き》りさいなまれて、|凄《すさま》じい|叫《さけ》び|声《ごゑ》とともに、|丘《をか》を|覆《くつがへ》すやうにどつと|倒《たふ》れた。と|見《み》ると、|傷口《きずぐち》から|紅《くれなゐ》の|血《ち》が|潮《うしほ》のやうに|噴《ふ》き|出《だ》して、|大《おほ》きな|河《かは》となり、はてはあたりに|恐《おそ》ろしい|血《ち》の|洪水《こうずゐ》を|惹《ひ》き|起《おこ》した。|首領《かしら》の|敢《あへ》ない|最後《さいご》に|気《き》ぬけがしてゐた|巨人《きよじん》どもは、|驚《おどろ》き|騒《さわ》いで、あちらこちらに|逃《に》げまどつてゐたが、たうとう|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|滔々《たうたう》たる|血《ち》の|流《なが》れに|押《お》し|流《なが》されて、|苦《くる》しみもがきながら|溺《おぼ》れ|死《し》んでしまつた。ただ「ベルゲルミル」といふ|六頭《ろくとう》の|巨人《きよじん》だけは、おのが|妻《つま》と|一《いつ》しよに|一艘《いつそう》の|船《ふね》に|乗《の》り|込《こ》んで、|血《ち》の|海《うみ》の|上《うへ》を|漕《こ》いで|漕《こ》いで|世界《せかい》の|果《は》ての|果《は》てまで|逃《に》げて|行《い》つてしまつた。
「ベルゲルミル」|夫婦《ふうふ》が|落《お》ちて|行《い》つた|世界《せかい》は「ヨッツンハイム」と|呼《よ》ばれる。|二人《ふたり》はこの|世界《せかい》に|住《す》み|留《とどま》つて、|新《あたら》しい「|霜《しも》の|巨人《きよじん》」どもを|生《う》んだ。
『わたしたちが、こんな|寒《さむ》いわびしい|世界《せかい》に|住《す》むやうになつたのも、|全《まつた》く|神々《かみがみ》のせゐだ。|思《おも》へば|憎《にく》い|奴等《やつら》ではある』
「ベルゲルミル」|夫婦《ふうふ》は、いつも|口癖《くちぐせ》のやうに、かう|話《はな》しあふのであつた。だから「|霜《しも》の|巨人《きよじん》」どもも、|両親《りやうしん》の|恨《うらみ》をうけついで、|神々《かみがみ》を|目《め》の|敵《かたき》のやうに|思《おも》ひなし、|折《をり》さへあると|自分《じぶん》の|世界《せかい》から|脱《ぬ》け|出《だ》して|神々《かみがみ》のゐるところに|襲《おそ》ひかかるやうになつた。
|天地《てんち》|万物《ばんぶつ》の|創成《さうせい》
|神々《かみがみ》は、その|強敵《きやうてき》である|巨人《きよじん》どもにうち|勝《か》つことが|出来《でき》たので、|茫々《ばうばう》たる|虚無《きよむ》の|空際《そらぎは》を|普《あまね》く|見渡《みわた》して、|確《たし》かな、そして|住《す》みよい|世界《せかい》を|造《つく》らうと|決心《けつしん》した。
「オーディン」は「フィリ」と「フェ」とに|対《むか》つて、
『わしたちは、|先《ま》づしつかりした、|形《かたち》のある|世界《せかい》を|造《つく》らなくてはならぬ。それには|巨魔《きよま》「イミル」の|体《からだ》を|使《つか》ふのが|一番《いちばん》いいと|思《おも》ふ』
と|言《い》つた。「フィリ」と「フェ」とはすぐにそれに|同意《どうい》した。
そこで|三人《さんにん》の|神《かみ》は「イミル」の|大《おほ》きな|体《からだ》を「ギンヌンガ・ギャップ」のただなかに|引《ひ》き|摺《ず》つて|来《き》て、|体《からだ》の|肉《にく》で|大地《だいち》をつくり、|流《なが》れほとばしる|血《ち》で|海《うみ》をつくり、|大《おほ》きな|骨《ほね》で|山《やま》や|丘《をか》をつくり、|顎《あご》や|歯《は》や|砕《くだ》けた|骨《ほね》で|大石《おほいし》|小石《こいし》をつくり、|髪《かみ》の|毛《け》で|樹《き》や|草《くさ》をつくつた。
|神々《かみがみ》は|大地《だいち》を|宇宙《うちう》の|真中《まんなか》に|据《す》ゑた。そしてそのまはりに、|隈《くま》なく「イミル」の|睫毛《まつげ》を|植《う》ゑて|堅固《けんご》の|砦《とりで》とし、またそのまはりに|海《うみ》をひきはへて、|二重《にぢう》の|砦《とりで》とした。
『|大地《だいち》はゆくゆく|人間《にんげん》といふものの|住居《すまゐ》となすはずぢや。だから|出来《でき》るだけ|守備《まもり》を|固《かた》くして、|巨人《きよじん》どもの|災《わざはひ》から|免《のが》れるやうにしてやらなくてはならぬ』
「オーディン」はかう|言《い》つて「フィリ」と「フェ」とを|顧《かへり》みて、|快《こころよ》げに|微笑《ほほゑ》んだ。それから「イミル」の|大《おほ》きな|頭蓋骨《づがいこつ》を|大地《だいち》の|遥《はる》か|上《うへ》に|投《な》げあげて、|円《まる》い|天空《てんくう》をこしらへ、|頭脳《づなう》をそこに|撒《ま》きちらして、|羊《ひつじ》の|毛《け》の|様《やう》な|雲《くも》をこしらへた。
|投《な》げ|上《あ》げただけでは、|天空《てんくう》が|墜《お》ちて|来《く》る|心配《しんぱい》がある。そこで|神々《かみがみ》は、|力《ちから》の|強《つよ》い|四人《よにん》の|侏儒《こびと》を|世界《せかい》の|四隅《よすみ》に|送《おく》つて、その|肩《かた》で|天空《てんくう》を|支《ささ》へさせることにした。|東《ひがし》の|隅《すみ》を|支《ささ》へる|侏儒《こびと》は「アウストリ」と|呼《よ》ばれ、|西《にし》の|隅《すみ》を|支《ささ》へる|侏儒《こびと》は「ウエストリ」と|呼《よ》ばれ、|南《みなみ》の|隅《すみ》を|支《ささ》へる|侏儒《こびと》は「スードリ」と|呼《よ》ばれ、|北《きた》の|隅《すみ》を|支《ささ》へる|侏儒《こびと》は「ノルドリ」と|呼《よ》ばれた。|英語《えいご》で|東西南北《とうざいなんぼく》をそれぞれEast,West,South,Northといふのは、これが|為《た》めである。
たしかな、|形《かたち》ある|世界《せかい》が、かうして|出来上《できあが》つた。しかしまだ|光《ひかり》がない。|光《ひかり》がなくてはありとある|世界《せかい》は、|恐《おそ》ろしい|常暗《とこやみ》に|閉《とざ》されてゐなくてはならぬ。そこで|神々《かみがみ》は、|極熱世界《ごくねつせかい》「ムスベルハイム」から|迸《ほとばし》り|出《で》る|数知《かずし》れぬ|火花《ひばな》を|採《と》りあつめて、|広々《ひろびろ》とした|空《そら》に|撒《ま》きちらした。|火花《ひばな》は|大空《たいくう》に|燦《かがや》きわたつて、|世界《せかい》を|明《あか》るくするやうになつた。|人《ひと》の|子《こ》が|星《ほし》と|呼《よ》んでゐるのがこれである。それから|神々《かみがみ》は「ムスベルハイム」から|閃《ひらめ》き|出《だ》した|最《もつと》も|大《おほ》きな|二《ふた》つの|火花《ひばな》を|天空《てんくう》に|投《な》げ|上《あ》げた。|人間《にんげん》が|太陽《たいやう》と|呼《よ》び、|月《つき》と|呼《よ》んでゐるのが、それである。
|神々《かみがみ》は|太陽《たいやう》と|月《つき》とのために、|美《うつく》しい|黄金《こがね》の|車《くるま》をつくつた。そして|太陽《たいやう》をのせた|車《くるま》に「アルファクル」(|朝《あさ》はやく|目《め》を|覚《さ》ますものといふ|意味《いみ》)といふ|馬《うま》と、「アルスフィン」(|迅《はや》く|行《ゆ》くものの|義《ぎ》)といふ|馬《うま》をつなぎ、|月《つき》をのせた|車《くるま》に「アルスフィデル」(|全《まつた》く|速《すみや》かなるものの|義《ぎ》)といふ|馬《うま》をつないだ。|月《つき》の|光《ひかり》は|蒼白《あをじろ》くて|冷《つめ》たいが、|太陽《たいやう》の|光《ひかり》はあらゆるものを|焼《や》きつくすやうに|熱《あつ》い。だから|神々《かみがみ》は、|太陽《たいやう》の|車《くるま》をひく|馬《うま》のために、|二《ふた》つの|革袋《かはぶくろ》に|冷《つめ》たい|空気《くうき》をつめて、その|肩《かた》に|結《むす》びつけ、また「スファリン」(|冷《ひや》すものの|義《ぎ》)といふ|楯《たて》をつくつて、|車《くるま》の|前部《ぜんぶ》にかけることにした。|楯《たて》が|太陽《たいやう》の|光線《ひかり》をさへぎつてくれなければ、|馬《うま》は|見《み》る|見《み》る|焼《や》け|爛《ただ》れて、はては|燃滓《もえかす》となつて、|大地《だいち》に|墜《お》ちてゆくにちがひない。
かうして|太陽《たいやう》と|月《つき》とは、もう|動《うご》き|出《だ》すばかりになつたが、|馬《うま》を|導《みちび》いてくれるものがないと、|日毎《ひごと》|正《ただ》しい|道《みち》を|往来《ゆきき》することが|出来《でき》ぬ。
『|誰《たれ》に|馬《うま》を|駆《か》らせる|事《こと》にしよう。うつかりしたものにこの|役《やく》を|任《まか》せると、|大変《たいへん》なことになつてしまふのだから』
|神々《かみがみ》はかういつて、|普《あまね》く|世界《せかい》を|見《み》わたすと、「ムンディルファリ」といふ|巨人《きよじん》の|子《こ》たちに|目《め》がついた。「ムンディルファリ」は、それが|誇《ほこ》らしくてたまらなくて、|男《をとこ》の|子《こ》に「マニ」といふ|名《な》をつけ、|女《をんな》の|子《こ》に「リル」といふ|名《な》をつけた。「マニ」は「|月《つき》」のことであり「リル」は「|太陽《たいやう》」のことである。
|神々《かみがみ》は、この|二人《ふたり》に|太陽《たいやう》と|月《つき》との|馬《うま》を|導《みちび》かせ|様《やう》と|決心《けつしん》した。そこで|巨人《きよじん》「ムンディルファリ」に|相談《さうだん》して|二人《ふたり》を|貰《もら》ひ|受《う》けて、これを|天空《てんくう》に|送《おく》つた。
『そなたたちは|空《そら》にのぼつて、|太陽《たいやう》と|月《つき》とに|正《ただ》しい|道《みち》を|往来《ゆきき》さしてもらひたい。|少《すこ》しでも|道《みち》をあやまると|大変《たいへん》なことになるのだから、よく|気《き》をつけるやうに』
|神々《かみがみ》からかういひつかつた|二人《ふたり》は、|天空《てんくう》に|昇《のぼ》つて|行《い》つて、「リル」が|太陽《たいやう》の|道《みち》しるべをつとめ、「マニ」が|月《つき》の|道《みち》しるべをつとめることになつた。
|次《つぎ》に|神々《かみがみ》は、|巨人《きよじん》の|世界《せかい》「ヨッツンハイム」から「ノルフィ」といふ|巨人《きよじん》の|娘《むすめ》「ノット」(|夜《よる》といふ|義《ぎ》)を|呼《よ》びよせて、「|夜《よる》の|車《くるま》」を|掌《つかさど》らせることにした。「|夜《よる》の|車《くるま》」は|闇《やみ》の|色《いろ》をしてゐる。そしてそれを|牽《ひ》く|馬《うま》も|墨《すみ》のやうな|黒毛《くろげ》である。|黒面《こくめん》の「ノット」が|静《しづ》かに|鞭《むち》を|振《ふ》ると、|黒毛《くろげ》の|馬《うま》は|長《なが》い|長《なが》い|鬣《たてがみ》を|揺《ゆる》がせて、|除《おもむ》ろに「|夜《よる》の|車《くるま》」をきしらせ|始《はじ》める。|揺《ゆ》れ|動《うご》く|鬣《たてがみ》からは、|霜《しも》と|霜《しも》とがふりこぼれて、|音《おと》もなく|大地《だいち》に|墜《お》ちる。かうして|人間界《にんげんかい》に|夜《よる》が|来《く》るのであつた。
|夜《よる》の|乙女《おとめ》「ノット」は「デリング」(|曙《あけぼの》を|意味《いみ》す)といふ|神《かみ》と|結婚《けつこん》して、「ダグ」(|昼《ひる》を|意味《いみ》す)といふ|光《ひか》り|輝《かがや》く|美《うつく》しい|男《をとこ》の|子《こ》を|産《う》んだ。|神々《かみがみ》は「ダグ」の|輝《かがや》かしい|姿《すがた》を|見《み》ると、これを|呼《よ》び|出《だ》して「|昼《ひる》の|車《くるま》」を|掌《つかさど》らせることにした。「|昼《ひる》の|車《くるま》」は|華《はな》やかに|燦《かがや》き|渡《わた》つてゐる。そしてそれを|牽《ひ》く|馬《うま》もまぶしい|様《やう》に|光《ひか》る|白毛《しろげ》である。|白面《はくめん》の「ダグ」が|静《しづ》かに|鞭《むち》をふると、|白毛《しろげ》の|馬《うま》はきらめく|鬣《たてがみ》を|揺《ゆる》がせて、|徐《おもむ》ろに「|昼《ひる》の|車《くるま》」をきしらせ|始《はじ》める。|揺《ゆ》れ|動《うご》く|鬣《たてがみ》からは、|光《ひかり》がさつと|閃《ひらめ》き|出《だ》して、あらゆる|世界《せかい》に|明《あか》るさと|喜《よろこ》びとを|漲《みなぎ》らす。かうして|人間界《にんげんかい》に|昼《ひる》が|来《く》るのであつた。
しかし|善《よ》きもの|義《ただ》しきものには、いつも|悪《あ》しきもの|邪《よこしま》なものがつきまとふ。|人間界《にんげんかい》に|光《ひかり》を|与《あた》へる|太陽《たいやう》と|月《つき》とにも、|恐《おそ》ろしい|敵《てき》があつた。それは|猛々《たけだけ》しい|二匹《にひき》の|狼《おほかみ》であつた。|狼《おほかみ》の|一《ひと》つは「スコル」と|呼《よ》ばれ、|他《た》の|一《ひと》つは「ハーチ」と|呼《よ》ばれた。「スコル」は「|反抗《はんかう》」といふ|意《い》であり、「ハーチ」は「|憎悪《ぞうを》」といふ|意味《いみ》である。
『|追《お》つかけろ|追《お》つかけろ。どこまでも|追《お》つかけて、|太陽《たいやう》と|月《つき》とを|呑《の》んでしまはなくてはならぬ。あらゆる|世界《せかい》が|再《ふたた》び|永久《えいきう》の|闇《やみ》につつまれてしまふやうに』
|二匹《にひき》の|狼《おほかみ》はかう|叫《さけ》んで、|凄《すさま》じい|勢《いきほひ》で|絶《た》えず|太陽《たいやう》と|月《つき》とを|追《お》つかける。|太陽《たいやう》や「|月《つき》の|車《くるま》」をひく|馬《うま》は、それに|脅《おび》えて|懸命《けんめい》に|駈《か》け|出《だ》すのであるが、ときどき|狼《おほかみ》に|追《お》ひつかれて、|大《おほ》きな|口《くち》の|中《なか》に|嚥《の》みこまれかける。|人《ひと》の|子《こ》が|日蝕《につしよく》といひ|月触《げつしよく》といふ|現象《げんしやう》はかうして|起《おこ》るのである。|人《ひと》の|子《こ》は|世界《せかい》が|急《きふ》に|暗《くら》くなりかけるのに|驚《おどろ》き|怖《おそ》れて、|一斉《いちせい》にあらん|限《かぎ》りの|音《おと》を|立《た》てたり|叫《さけ》んだりする。と、|流石《さすが》の|狼《おほかみ》もびつくりして、|嚥《の》みかけてゐた|太陽《たいやう》や|月《つき》を|吐《は》き|出《だ》してしまふ。
「|月《つき》の|車《くるま》」を|司《つかさど》る「マニ」は、|神々《かみがみ》の|言《い》ひつけによつて|大空《おほぞら》に|昇《のぼ》つて|行《い》つたときに、|二人《ふたり》の|子供《こども》を|大地《だいち》に|残《のこ》しておいた。|子供《こども》の|名《な》は「ヒウキ」といひ「ビル」といつた。「ヒウキ」は「|次第《しだい》に|大《おほ》きくなるもの」といふ|意味《いみ》であり、「ビル」は「|次第《しだい》に|細《ほそ》くなるもの」といふ|意味《いみ》である。「マニ」は|子供《こども》のことが|気《き》になるので、ある|時《とき》|天界《てんかい》から|遥《はる》か|下《した》なる|大地《だいち》を|眺《なが》めおろして|見《み》た。と、|二人《ふたり》の|子供《こども》は、|意地《いぢ》の|悪《わる》い|男《をとこ》に|使《つか》ひ|廻《まは》されて、|夜《よ》もすがら|水《みづ》を|運《はこ》んでゐるのであつた。「マニ」はすつかり|怒《おこ》り|出《だ》して、
『あんなひどい|男《をとこ》のそばに、|大事《だいじ》な|子供《こども》を|置《お》いておくわけにいかぬ。ここに|呼《よ》びよせることにしよう』
といつて、|二人《ふたり》を|大空《おほぞら》に|呼《よ》びよせた。かうして|月《つき》は|夜《よ》ごとに|大《おほ》きくなつたり、|細《ほそ》くなつたりするやうになつた。
|神々《かみがみ》は、|太陽《たいやう》と|月《つき》と「|昼《ひる》」と「|夜《よる》」に|言《い》ひつけて、|一年《いちねん》の|月日《つきひ》の|進《すす》みかたの|印《しるし》をつけさせることにしたばかりでなく、さらにまた「|夕方《ゆふがた》」「|真夜中《まよなか》」「|朝《あさ》」「|午前《ごぜん》」「|正午《しやうご》」「|午後《ごご》」にも、|彼等《かれら》と|力《ちから》を|合《あは》せて、|同《おな》じやうな|務《つとめ》を|尽《つく》すように|命《めい》じた。
|昔《むかし》の|北欧《ほくおう》では、|一年《いちねん》は|夏《なつ》と|冬《ふゆ》との|二《ふた》つに|分《わか》れてゐるだけであつた。「|夏《なつ》」は|優《やさ》しくおとなしい|男《をとこ》で、あらゆるものから|愛《あい》せられてゐたが、「|冬《ふゆ》」は|気《き》が|荒《あら》くて、|意地《いぢ》が|悪《わる》くて、すべてのものから|憎《にく》まれた。|北欧《ほくおう》の|冬《ふゆ》はひどく|寒《さむ》い。そして|身《み》を|切《き》るやうな|風《かぜ》が、|絶《た》えず|吹《ふ》きすさぶのであつた。「フリースフェルグル」(|屍《しかばね》をのむものの|義《ぎ》)といふ|巨人《きよじん》がゐて、|鷲《わし》の|羽衣《はごろも》を|纒《まと》うて、|天界《てんかい》の|北《きた》の|果《は》ての|果《は》てに|坐《すわ》りこんでゐる。この|巨人《きよじん》が|羽衣《はごろも》の|翼《つばさ》をひろげて、はたはたと|煽《あふ》ると、|剣《つるぎ》のやうな|寒風《かんぷう》がさつと|吹《ふ》き|出《だ》して、|容赦《ようしや》なく|大地《だいち》の|面《おも》を|荒《あ》れまはつては、あらゆるものを|枯《か》れ|凋《しぼ》ませるのであつた。
|太平洋《たいへいやう》|西北岸《せいほくがん》|創造説《さうざうせつ》
|銀狐《ぎんこ》の|世界創造《せかいさうざう》
|世界《せかい》の|始《はじめ》には、|水《みづ》の|外《ほか》なんにもありませんでした。その|頃《ころ》、|尾《を》の|長《なが》い|狼《おほかみ》と、|銀狐《ぎんこ》とが、|天《てん》に|住《す》んでゐました。
|銀狐《ぎんこ》は、いろんなものを|造《つく》らうと|気《き》をあせつてゐましたが、|尾《を》の|長《なが》い|狼《おほかみ》が、いつも、
『|止《よ》せ|止《よ》せ。そんな|事《こと》をしても、なんにもならんぢやないか』
と|言《い》つて、|押止《おしと》めてゐました。それで|銀狐《ぎんこ》は、たうとう|狼《おほかみ》が|自分《じぶん》の|側《そば》にゐるのがいやになつて、|或日《あるひ》、
『お|前《まへ》、これから|出掛《でか》けて|行《い》つて、|焚木《たきぎ》を|取《と》つて|来《き》ておくれ』
と|言《い》ひました。そして、|狼《おほかみ》が|出掛《でか》けて|行《ゆ》くと、|銀狐《ぎんこ》は|一本《いつぽん》の|矢《や》を|取《と》り|出《だ》して、|天上世界《てんじやうせかい》に|穴《あな》をあけて、|遥《はる》か|下《した》の|方《はう》にある|海《うみ》を|見下《みおろ》してゐました。やがて、|狼《おほかみ》が|帰《かへ》つて|来《き》ましたが、|銀狐《ぎんこ》は、|天上世界《てんじやうせかい》に|穴《あな》をあけたことを|隠《かく》してゐました。
|翌日《よくじつ》になると、|銀狐《ぎんこ》は、|又《また》|狼《おほかみ》を|焚木取《たきぎと》りにやりました。そして、その|留守《るす》に、|弓《ゆみ》の|矢《や》を|穴《あな》に|突《つ》つこんで、|下《した》へ|落《おと》しますと、|弓《ゆみ》の|矢《や》は、|遥《はる》か|下《した》の|方《はう》の|海《うみ》に|落《お》ちて|水《みづ》の|底《そこ》に|沈《しづ》んでしまひました。|銀狐《ぎんこ》は、|穴《あな》から|抜《ぬ》け|出《だ》して、|下《した》へ|下《した》へと|降《お》りて|行《ゆ》きました。そして、|水《みづ》の|面《おも》に|近《ちか》づくと|小《ちひ》さい|円《まる》い|島《しま》を|一《ひと》つ|拵《こしら》へて、そこに|止《とど》まることにしました。
|暫《しばら》くして、|狼《おほかみ》が|帰《かへ》つて|来《き》ますと、|銀狐《ぎんこ》の|姿《すがた》が|見《み》えませんので、あちらこちらを|探《さが》しはじめました。そのうちに、|天上世界《てんじやうせかい》に|開《あ》いてゐる|穴《あな》を|見《み》つけ|出《だ》して、そこから|下《した》を|覗《のぞ》きますと、|遥《はる》か|下《した》の|方《はう》の|小島《こじま》に、|銀狐《ぎんこ》が|坐《すわ》りこんでゐるのを|見《み》つけました。
『おおい、おれは|一人《ひとり》で|悲《かな》しくてたまらんよ。どうしてそこへ|降《お》りてゆくのかね』
と|狼《おほかみ》が|声《こゑ》をかけました。|銀狐《ぎんこ》は、なんとも|返事《へんじ》をしませんでした。
『そんなに|意地《いぢ》の|悪《わる》いことをするもんぢやないよ。どうにかして、おれも|下《した》に|降《お》りられるやうにしておくれ』
と|狼《おほかみ》が|又《また》|声《こゑ》をかけました。そこで、|銀狐《ぎんこ》が、|弓《ゆみ》の|矢《や》を|天《てん》の|方《はう》に|差出《さしだ》しましたので、|狼《おほかみ》はそれを|伝《つた》つて|下《した》へ|降《お》りて|来《き》ました。
|銀狐《ぎんこ》が|拵《こしら》へた|島《しま》は|大層《たいそう》|小《ちひ》さかつたので、|二人《ふたり》がそこに|住《す》むことになると、|殆《ほとん》ど|足《あし》を|伸《の》ばして|寝《ね》ることも|出来《でき》ない|位《くらゐ》でした。そこで、|銀狐《ぎんこ》が|足《あし》に|力《ちから》を|入《い》れて|踏張《ふむば》りますと、|島《しま》は、だんだんと|大《おほ》きくなりました。|銀狐《ぎんこ》は、|最初《さいしよ》に|島《しま》を|東《ひがし》に|踏《ふ》み|伸《の》ばして、それから|北《きた》に|踏《ふ》み|伸《の》ばして、それから|西《にし》に|踏《ふ》み|伸《の》ばして、|一番《いちばん》おしまひに|南《みなみ》に|踏《ふ》み|伸《の》ばしました。そんなことを、|五晩《いつばん》ほど|続《つづ》けてゐますと、その|島《しま》が、|今日《こんにち》のやうな|大《おほ》きな|世界《せかい》になりました。
|銀狐《ぎんこ》は、|島《しま》を|踏《ふ》み|伸《の》ばすたびに、|狼《おほかみ》に|向《むか》つて、
『|島《しま》のまはりを|一走《ひとはし》りして、どれ|位《くらゐ》|大《おほ》きくなつたか|見《み》とどけて|来《き》ておくれ』
と|言《い》ひました。そこで、|狼《おほかみ》は、|一走《ひとはし》りすることにしましたが、|始《はじ》めのうちは、|島《しま》が|小《ちひ》さかつたので、すぐに|廻《まは》つてしまつてゐましたが、おしまひには、|余《あま》り|大《おほ》きくなりましたので、|元《もと》のところに|帰《かへ》つて|来《こ》ないうちに、ひどく|年《とし》をとつて、|体中《からだぢう》が|灰色《はひいろ》になつてしまひました。
|世界《せかい》が|出来上《できあが》ると、|銀狐《ぎんこ》は、|人間《にんげん》や|動物《どうぶつ》や|木《き》や|泉《いづみ》|等《など》を|拵《こしら》へました。|狼《おほかみ》はそれを|見《み》ると、
『こんなに|沢山《たくさん》に|生《いき》ものを|造《つく》つたんだから、|何《なに》か|食物《しよくもつ》を|拵《こしら》へてやらなくてはなるまい』
『|一年《いちねん》のうちで|十月《とつき》を|冬《ふゆ》にしようぢやないか』
と|言《い》ひました。
『そんなに|冬《ふゆ》を|長《なが》くしたら、|食物《しよくもつ》が|足《た》りないよ』
と|銀狐《ぎんこ》が|言《い》ひました。
『|食物《しよくもつ》が|沢山《たくさん》ない|方《はう》がいいんだよ。|人間《にんげん》は|塵《ちり》|埃《ほこり》からお|汁《しる》を|拵《こしら》へることが|出来《でき》るんだらうから』
と|狼《おほかみ》が|言《い》ひましたが、|銀狐《ぎんこ》はやはり|何《なん》とも|返事《へんじ》をしませんでした。しかし、|暫《しばら》くすると、
『|冬《ふゆ》を|十月《とつき》にするのは、よくないよ。|二月《ふたつき》で|沢山《たくさん》だ。そしたら、|人間《にんげん》は、|日向葵《ひまはり》の|種《たね》や|木《き》の|根《ね》や|果実《このみ》を|食《た》べることが|出来《でき》るんだから』
と|言《い》ひました。
『いや、いけないよ。やつぱり|冬《ふゆ》は|十月《とつき》にしなくちやだめだ』
と|狼《おほかみ》が|何処《どこ》までも|言《い》ひ|張《は》りました。そこで、|銀狐《ぎんこ》が、たうとう|怒《おこ》り|出《だ》して、
『お|前《まへ》は、あんまりしやべり|過《す》ぎるよ。わしは|一年《いちねん》を|四月《よつき》にするつもりだ。|冬《ふゆ》が|二月《ふたつき》で|春《はる》と|秋《あき》とが|一月《ひとつき》づつだ。それで|結構《けつこう》だ。もうこの|事《こと》に|就《つい》ては、とやかくいはないでおくれ』
と|言《い》ひました。
かうして|人間世界《にんげんせかい》が|出来《でき》るし、|一年《いちねん》が|春《はる》|秋《あき》|冬《ふゆ》の|三《み》つに|分《わか》れるやうになつたのです。
註アメリカ|印度人《いんどじん》は、|日本《にほん》などと|違《ちが》つて、|一年《いちねん》を|三期《さんき》にわけてゐます。この|神話《しんわ》は、|即《すなは》ちさうした|観念《くわんねん》を|反映《はんえい》してゐるのです。
|英領《えいりやう》|北亜米利加《きたアメリカ》|創造説《さうざうせつ》
|世界創造《せかいさうざう》
|昔《むかし》、ウィアンドット|族《ぞく》が、|高《たか》い|高《たか》い|空《そら》の|上《うへ》の|世界《せかい》に|住《す》んでゐました。
|或《あ》る|日《ひ》、|一人《ひとり》の|黄教僧《くわうけうそう》が|人々《ひとびと》に|向《むか》つて、
『お|頭《かしら》の|家《いへ》の|側《そば》に|生《は》えてゐる|林檎《りんご》の|木《き》を|掘《ほ》るがよい』
と|言《い》ひました。そこで、|人々《ひとびと》は|一緒《いつしよ》になつて、|林檎《りんご》の|木《き》の|根《ね》を|掘《ほ》り|始《はじ》めました。|酋長《しうちやう》の|娘《むすめ》がその|時《とき》、|林檎《りんご》の|木《き》の|側《そば》に|寝転《ねころ》んでゐましたが、|起《お》き|上《あが》りもしないで、|皆《みな》のする|事《こと》をぼんやり|眺《なが》めてゐました。だんだん|掘《ほ》つてゐると、|出《だ》し|抜《ぬ》けに|大《おほ》きな|音《おと》がしました。|天上世界《てんじやうせかい》の|床《ゆか》を|掘《ほ》り|抜《ぬ》いたのでした。|人々《ひとびと》は、びつくりして|飛《と》びすざりましたが、|酋長《しうちやう》の|娘《むすめ》だけは、やはり|寝転《ねころ》んでゐましたので、|林檎《りんご》の|木《き》と|一緒《いつしよ》に|下《した》へ|下《した》へと|落《お》ちて|行《ゆ》きました。
|下界《げかい》には、まだ|陸《りく》といふものがなくて、|一面《いちめん》に|水《みづ》が|広《ひろ》がつてゐました。|水《みづ》の|上《うへ》には、|白鳥《はくてう》の|群《むれ》が|泳《およ》ぎ|廻《まは》つてゐましたが、|出《だ》し|抜《ぬ》けに|大《おほ》きな|音《おと》がしましたので、びつくりして|上《うへ》を|見《み》ると、|一本《いつぽん》の|木《き》と、|一人《ひとり》の|若《わか》い|女《をんな》が|空《そら》から|降《くだ》つて|来《き》てゐました。
『|見《み》ろ、|女《をんな》が|降《くだ》つて|来《き》てゐる。|水《みづ》の|中《なか》に|落《お》ちると|可哀《かあい》さうだ。みんな|一緒《いつしよ》に|集《あつ》まつておくれ。あの|女《をんな》が、わたし|達《たち》の|背《せな》の|上《うへ》に|落《お》ちるやうに』
と|一羽《いちは》の|白鳥《はくてう》が|言《い》ひました。そこで、みんなが|一緒《いつしよ》に|集《あつ》まりましたので、|酋長《しうちやう》の|娘《むすめ》は、|無事《ぶじ》にその|背《せな》の|上《うへ》に|落《お》ちました。|暫《しばら》くすると|一羽《いちは》の|白鳥《はくてう》が、
『この|女《をんな》をどうしたらいいんだらう。こんな|重荷《おもに》を|背負《せお》つては、お|互《たがひ》にとても|長《なが》く|泳《およ》いでゐるわけに|行《い》かないよ』
と|言《い》ひました。すると、|他《た》の|白鳥《はくてう》が、
『それぢや、あの|大《おほ》きな|亀公《かめこう》のとこに|行《い》つて、|相談《さうだん》して|見《み》よう。|亀公《かめこう》なら、きつとよい|智慧《ちゑ》を|貸《か》してくれるに|違《ちが》ひないから』
と|言《い》ひました。そこで、|白鳥《はくてう》|共《ども》は|亀《かめ》のところに|行《い》つて、
『|女《をんな》の|子《こ》を|一人《ひとり》|背負《せお》ひ|込《こ》んだが、どうも|重《おも》くてたまらない。どうしたらいいんだらう』
と|尋《たづ》ねました。すると、|亀《かめ》は、すぐに|使《つかひ》を|走《はし》らせて、あらゆる|動物《どうぶつ》を|呼《よ》び|集《あつ》めて、|相談会《さうだんくわい》を|開《ひら》きました。
いろいろ|話《はな》し|合《あ》つてゐるうちに、|一匹《いつぴき》の|動物《どうぶつ》が|立《た》ち|上《あが》つて、
『|白鳥《はくてう》さんたちの|話《はなし》によると、|一本《いつぽん》の|木《き》が、|女《をんな》の|子《こ》と|一緒《いつしよ》に|落《お》ちて|来《き》て、|水《みづ》の|底《そこ》に|沈《しづ》んださうな。で、|誰《たれ》か|水《みづ》の|底《そこ》に|潜《もぐ》りこんで、|木《き》の|根《ね》から|少《すこ》し|土《つち》をとつて|来《き》たらいいだらう』
といひました。それを|聞《き》くと、|亀《かめ》が、
『さうだ、|少《すこ》しでも|土《つち》が|手《て》に入つたら、それで|島《しま》をこしらへて、この|女《をんな》の|住家《すみか》にすることが|出来《でき》るだらう。|一体《いつたい》その|木《き》が|沈《しづ》んだところは|何処《どこ》なんだ』
と|言《い》ひました。そこで|白鳥《はくてう》どもは、みんなを|連《つ》れて、|林檎《りんご》の|木《き》の|沈《しづ》んだところに|行《ゆ》きました。
『さあ、|誰《たれ》かうまく|潜《くぐ》れるものはないか』
と|亀《かめ》が|言《い》ひました。
|真先《まつさき》に|川獺《かはうそ》が|沈《しづ》んで|行《ゆ》きました。そして、|暫《しばら》くたつて、|水《みづ》の|面《おも》に|浮《うか》び|出《で》ましたが、ほつと|大《おほ》きな|息《いき》をついたかと|思《おも》ふと、その|儘《まま》|死《し》んでしまひました。こんな|風《ふう》にして、みんなが|死《し》んでしまひますので、あとでは、|誰《たれ》も|水《みづ》の|中《なか》に|潜《くぐ》らうといふものがゐなくなつてしまひました。
すると、|一番《いちばん》おしまひに、|年《とし》をとつた|蟾蜍《がま》が、
『わたしが、やつて|見《み》ませう』
と|言《い》ひました。|蟾蜍《がま》は、|大変《たいへん》|小《ちひ》さくて、|大変《たいへん》|醜《みにく》かつたので、それを|聞《き》くと、みんな|笑《わら》ひ|出《だ》しました。しかし、|亀《かめ》だけは、まじめな|顔《かほ》をして、
『ぢや、どうかやつて|見《み》ておくれ』
と|言《い》ひました。
|蟾蜍《がま》は、のろのろと|水《みづ》の|中《なか》に|沈《しづ》んで|行《ゆ》きましたが、なかなか|浮《うか》んで|来《き》ませんでした。みんなは、|待《ま》つて|待《ま》つて、たうとう|待《ま》ちきれなくなつて、
『あいつは、もう|帰《かへ》つて|来《こ》ないだらう』
と、|話《はな》し|合《あ》つてゐました。すると、やがて、|水《みづ》の|上《うへ》にぶくぶくと|小《ちひ》さな|泡《あわ》が|立《た》ち|始《はじ》めました。と|思《おも》ふと、|蟾蜍《がま》の|姿《すがた》が、ぬつと|水《みづ》の|上《うへ》に|現《あらは》れました。そして、ぱくりと|口《くち》を|開《ひら》いて、|亀《かめ》の|甲《かふ》の|上《うへ》に|少《すこ》しばかりの|土《つち》を|吐《は》き|出《だ》しました。それを|見《み》ると、|小《ちひ》さい|亀《かめ》が、|土《つち》を|掴《つか》んで、|大《おほ》きな|亀《かめ》の|甲《かふ》にすりつけ|始《はじ》めました。と|土《つち》は、|見《み》る|見《み》る|大《おほ》きくなつて、|一《ひと》つの|島《しま》になりました。そこで、|白鳥《はくてう》どもは、|背《せ》から|女《をんな》の|子《こ》を|下《おろ》して、|島《しま》の|上《うへ》に|載《の》せました。|島《しま》はだんだんと|大《おほ》きくなつて、|今日《こんにち》のやうな|大地《だいち》になりました。
|亀《かめ》と|蟾蜍《がま》との|働《はたら》きで、|大地《だいち》が|出来上《できあが》りましたが、まだ|日《ひ》の|光《ひかり》がありませんので、|世界中《せかいぢう》が、|真暗《まつくら》でした。そこで、|亀《かめ》は、あらゆる|動物《どうぶつ》を|集《あつ》めて、|相談《さうだん》を|開《ひら》くことにしました。いろいろ|話《はな》し|合《あ》つてゐるうちに、|小《ちひ》さい|亀《かめ》が|立《た》ち|上《あが》つて、
『|若《も》し、わたしが|空《そら》に|昇《のぼ》ることが|出来《でき》たら、いくらか|日《ひ》の|光《ひかり》を|集《あつ》めて、それを|球《たま》にして|持《も》つて|帰《かへ》るんだがな』
と|言《い》ひました。それを|聞《き》くと、|大《おほ》きな|亀《かめ》が、
『さうだ、さうだ、|一《ひと》つ|空《そら》に|昇《のぼ》つて|見《み》るがよい。お|前《まへ》には、|大《たい》した|力《ちから》が|備《そな》はつてゐるんだから』
と|言《い》ひました。
|小《ちひ》さい|亀《かめ》は、すぐに|呪文《じゆもん》を|唱《とな》へました。すると、|急《きふ》に|烈《はげ》しい|嵐《あらし》が|吹《ふ》き|起《おこ》つて、|雷光《らいくわう》を|含《ふく》んだ|雲《くも》が|大《おほ》きな|音《おと》を|立《た》てて、みんなの|集《あつ》まつてゐるところの|方《はう》に|転《ころ》がつて|来《き》ました。それを|見《み》ると|小《ちひ》さい|亀《かめ》は、|素早《すばや》く|雲《くも》の|中《なか》に|飛《と》び|込《こ》んで、|雲《くも》と|一緒《いつしよ》に|上《うへ》へ|上《うへ》へと|昇《のぼ》つてゆきました。
|暫《しばら》くすると|天上世界《てんじやうせかい》に|着《つ》きましたので、|雷光《らいくわう》を|集《あつ》めて、|二《ふた》つの|球《たま》をこしらへて、|空《そら》からぶら|下《さ》げました。|世界中《せかいぢう》が|急《きふ》に|明《あか》るくなりました。|二《ふた》つの|球《たま》といふのは、|太陽《たいやう》と|月《つき》でした。
|又《また》、|光《ひか》りの|起原《きげん》について、|左《さ》の|様《やう》な|説《せつ》もあります。
|昔《むかし》、|世界《せかい》には、|光《ひかり》といふものがなくて、|何処《どこ》もかしこも|真暗《まつくら》でした。|人々《ひとびと》は、|毎日々々《まいにちまいにち》|闇《やみ》の|中《なか》にゐるのが|嫌《いや》で|嫌《いや》でたまらなくなりました。
その|頃《ころ》、|一本《いつぽん》の|大《おほ》きな|枯木《かれき》が|野原《のはら》に|突《つ》つ|立《た》つてゐました。|虎斑鼠《こふねずみ》は、その|木《き》を|見《み》ると、
『これに|火《ひ》をつけたら、|世界中《せかいぢう》が|明《あか》るくなるに|違《ちが》ひない』
と|思《おも》ひました。そこで、|枯木《かれき》の|根《ね》に|火《ひ》をつけて、|灰《はひ》がたまると、|棒《ぼう》の|先《さき》でそれを|掻《か》きのけかきのけしてゐました。そのうちに、|枯木《かれき》は、たうとう|大地《だいち》に|倒《たふ》れて、|世界中《せかいぢう》が|明《あか》るくなりました。|人々《ひとびと》は、それを|見《み》て、|大変《たいへん》に|喜《よろこ》びました。
ところが、|熊《くま》やその|友達《ともだち》は、|年中《ねんぢう》|暗闇《くらやみ》の|中《なか》にゐるのが|好《す》きでしたので、|木《き》が|倒《たふ》れるのを|見《み》ると|一生懸命《いつしやうけんめい》に、その|上《うへ》に|土《つち》を|振《ふ》りかけて、
『|暗《やみ》だ|暗《やみ》だ|暗《やみ》だ』
と|唱《とな》へました。すると、|虎斑鼠《こふねずみ》は|大変《たいへん》に|怒《いか》つて、|土《つち》を|払《はら》ひのけて、|火《ひ》を|掻《か》き|起《おこ》して、
『|光《ひかり》だ|光《ひかり》だ|光《ひかり》だ』
と|叫《さけ》びました。かうして、|熊《くま》と|虎斑鼠《こふねずみ》とは、お|互《たがひ》に|土《つち》をかけたり、|火《ひ》を|掻《か》き|起《おこ》したり、
『|暗《やみ》だ|暗《やみ》だ|暗《やみ》だ』
と|叫《さけ》んだり、
『|光《ひかり》だ|光《ひかり》だ|光《ひかり》だ』
と|叫《さけ》んだりしてゐましたが、おしまひには、|二人《ふたり》ともすつかり|疲《つか》れてしまひましたので、|両方《りやうはう》から|譲《ゆづ》り|合《あ》つて、|一日《いちにち》の|半分《はんぶん》は|明《あか》るくて、|残《のこ》りの|半分《はんぶん》は|暗《くら》いやうにすることにきめました。しかし、|熊《くま》は、やはり|明《あか》るいのが|厭《いや》でたまりませんので、
『こんなことになつたのも、お|前《まへ》のせゐだ』
といつて、|虎斑鼠《こふねずみ》を|追《お》つ|駈《か》けました。|虎斑鼠《こふねずみ》は、びつくりして、|穴《あな》の|中《なか》に|逃《に》げ|込《こ》みましたが、|逃《に》げ|込《こ》む|時《とき》に、|熊《くま》のために|背中《せなか》を|掻《か》きむしられました。だから、|今日《こんにち》でも|虎斑鼠《こふねずみ》の|背《せ》には、|斑《まだら》がはいつてゐます。
|阿弗利加《アフリカ》|神話《しんわ》
|怠惰《たいだ》カメレオン
|世界《せかい》の|初《はじ》めに、ウンクルンクルといふ|神様《かみさま》が、|一匹《いつぴき》のカメレオンを|呼《よ》び|出《だ》して、
『|御苦労《ごくらう》だが、|大地《だいち》に|降《くだ》つて|行《い》つて、|人間《にんげん》どもに、「お|前《まへ》たちはいつまでも|死《し》ななくてよい」と、さういつておくれ』
と|言《い》ひました。
カメレオンはすぐに|天界《てんかい》から|大地《だいち》をさして|出《で》かけてゆきました。しかしちつとも|道《みち》を|急《いそ》がないで、|木《こ》の|実《み》を|摘《つま》んで|食《た》べたり、|樹《き》の|枝《えだ》に|登《のぼ》つて|虫《むし》を|探《さが》したりしてゐました。その|中《うち》にお|腹《なか》が|一《いつ》ぱいになつて、|睡気《ねむけ》がさして|来《き》たので、|日《ひ》なたぼつこをしながら、こくりこくりと|眠《ねむ》り|出《だ》しました。
そのうちにウンクルンクルの|気《き》が|変《かは》つて|来《き》ました。ウンクルンクルは|一匹《いつぴき》の|蜥蜴《とかげ》を|呼《よ》び|出《だ》して、
『|御苦労《ごくらう》だが、|大地《だいち》に|降《お》りて|行《い》つて、|人間《にんげん》どもに「お|前《まへ》たちは|何時《いつ》かは|死《し》ななくてはならぬ」と、さういつておくれ』
と|言《い》ひました。
|蜥蜴《とかげ》はすぐに|天界《てんかい》から|出《で》かけました。そして、ひたすら|路《みち》を|急《いそ》ぎましたので、|途中《とちう》でカメレオンを|追《お》ひ|越《こ》して、|真先《まつさき》に|大地《だいち》に|着《つ》きました。そして|人間《にんげん》たちに|対《むか》つて、
『お|前《まへ》たちは、|何時《いつ》かは|死《し》ななくてはならぬ、とウンクルンクルさまがさうおつしやつたよ』
といつて、すぐさま|天界《てんかい》をさして|引《ひ》き|返《かへ》しました。
それから|暫《しばら》くたつて、カメレオンがやつと|大地《だいち》に|着《つ》きました。そして|人間《にんげん》たちに|対《むか》つて、
『お|前《まへ》たちは、|何時《いつ》までも|死《し》ななくてよいと、ウンクルンクルさまが、さうおつしやつたよ』
と|伝《つた》へました。|人間《にんげん》たちはそれを|聞《き》くと、|気色《けしき》ばんで、
『わたし|達《たち》は、たつた|今《いま》|蜥蜴《とかげ》の|言葉《ことば》を|聞《き》いたところだよ。わたし|達《たち》はいつか|死《し》ななくてはならぬと、|蜥蜴《とかげ》がさういつたよ。お|前《まへ》のいふことなんか|当《あて》にならぬ』
と|叫《さけ》びました。
かうして|人間《にんげん》は|死《し》ななくてはならぬやうになりました。(ズル族)
註|同一《どういつ》の|神話《しんわ》が、ベチユアナ|族《ぞく》、バロンガ|族《ぞく》、バスト|族《ぞく》|等《とう》の|間《あひだ》に|語《かた》られてゐます。|今日《こんにち》でもバロンガ|族《ぞく》は、カメレオンの|怠惰《たいだ》が|死《し》を|齎《もたら》したとして、|之《これ》を|憎《にく》んでゐます。|子供《こども》などは、カメレオンを|見《み》つけると、その|口《くち》に|煙草《たばこ》をつめ|込《こ》んで、|苦《くる》しさに|青《あを》くなり|黒《くろ》くなりするのを|眺《なが》めて|喜《よろこ》んでゐます。
|兎《うさぎ》の|粗忽《そこつ》
あるとき|天界《てんかい》にゐる|月《つき》が、|一匹《いつぴき》の|兎《うさぎ》を|呼《よ》び|出《だ》して、
『お|前《まへ》、これから|大地《だいち》に|降《くだ》つて|行《い》つて、|人間《にんげん》たちに「お|月様《つきさま》が|死《し》んでまた|生《い》き|返《かへ》るやうに|人間《にんげん》も|死《し》んでまた|生《い》き|返《かへ》るやうにしてやる」と|伝《つた》へておくれ』
といひつけました。
|兎《うさぎ》はすぐに|天界《てんかい》から|大地《だいち》へ|降《くだ》つて|行《ゆ》きました。そして|人間《にんげん》たちに|対《むか》つて、
『お|月《つき》さまが|死《し》んで|再《ふたた》び|生《い》き|返《かへ》ることがないやうに、お|前《まへ》たちも|一旦《いつたん》|死《し》んだら、|生《い》きかへることは|出来《でき》ないよ』
といひました。|兎《うさぎ》は|月《つき》がいつた|言葉《ことば》を|忘《わす》れて、まるで|反対《はんたい》のことを|人間《にんげん》に|伝《つた》へたのでした。
しかし|兎《うさぎ》は、|大切《たいせつ》な|役目《やくめ》を|無事《ぶじ》に|済《す》ましたと|思《おも》つて、|得々《とくとく》として|天界《てんかい》に|帰《かへ》つて|来《き》ました。|月《つき》は|兎《うさぎ》の|姿《すがた》を|見《み》ると、すぐに、
『どうだね、わしのいつた|通《とほ》りに|人間《にんげん》に|伝《つた》へて|来《き》たかね』
と|尋《たづ》ねました。
『ええ、|全《まつた》くお|言葉《ことば》の|通《とほ》りに|伝《つた》へてまゐりました』
と|兎《うさぎ》が|答《こた》へました。
『では、お|前《まへ》のいつた|通《とほ》りを、ここで|繰《く》り|返《かへ》して|見《み》るがいい』
と|月《つき》がいひました。
『はい、お|月《つき》さまが|死《し》んで|再《ふたた》び|生《い》き|返《かへ》ることがないやうに、お|前《まへ》たちも|一旦《いつたん》|死《し》んだら|生《い》き|返《かへ》ることは|出来《でき》ないと、かう|申《まを》し|伝《つた》へました』
と|兎《うさぎ》が|答《こた》へました。これを|聞《き》くと|月《つき》は|大変《たいへん》|怒《いか》つて、いきなり|棒《ぼう》を|取《と》り|上《あ》げて、|兎《うさぎ》を|目《め》がけて|投《な》げつけました。|棒《ぼう》は|兎《うさぎ》の|唇《くちびる》に|当《あた》つて、そこを|傷《きず》つけました。|兎《うさぎ》はあまりの|痛《いた》さに、|夢中《むちう》になつて|月《つき》に|飛《と》びかかるなり、その|顔《かほ》をさんざんひつ|掻《か》きました。
かうして|兎《うさぎ》の|言伝《ことづて》の|間違《まちがひ》から、|人間《にんげん》は|死《し》ななくてはならぬやうになり、かうして|兎《うさぎ》の|唇《くちびる》は|今日《こんにち》まで|裂《さ》けて|居《を》り、|又《また》かうして|月《つき》の|顔《かほ》は|今《いま》でも|傷《きず》だらけであります。(ホッテントット族)
註これに|類似《るゐじ》した|神話《しんわ》が、|東部《とうぶ》|亜弗利加《アフリカ》のマサイ|族《ぞく》の|間《あひだ》にも|存《そん》してゐます。ナイテル・コプといふ|神《かみ》がレ・エヨといふ|男《をとこ》に「|子供《こども》が|死《し》んだら|空《そら》に|投《な》げ|上《あ》げて、|月《つき》のやうに|死《し》んでまた|生《い》き|返《かへ》れ」といへと|教《をし》へましたが、|死《し》んだのが|自分《じぶん》の|子《こ》でなかつたので、|神《かみ》に|教《をし》へられた|言葉《ことば》に|反対《はんたい》を|唱《とな》へました。かうして|人間《にんげん》は|死《し》ぬやうになつたといふのであります。
|月《つき》は|何故《なぜ》|虧《か》けるか
ある|時《とき》|太陽《たいやう》が|月《つき》に|対《たい》して|大変《たいへん》|腹《はら》を|立《た》てました。|太陽《たいやう》は、
『|憎《にく》い|奴《やつ》、ひどい|目《め》に|遭《あは》せてやるぞ』
といつて、|小刀《こがたな》をもつて|月《つき》のところに|行《ゆ》きました。そして|月《つき》を|捕《とら》へて、|体《からだ》から|少《すこ》しばかり|肉《にく》を|切《き》り|落《おと》しました。
|太陽《たいやう》は|毎日《まいにち》、|月《つき》のところにやつて|来《き》ては、|小刀《こがたな》で|少《すこ》しづつ|肉《にく》をそぎとります。|月《つき》の|体《からだ》はだんだんと|小《ちひ》さくなつて|行《ゆ》きました。|月《つき》は、
『これはどうもこまつたことになつた。|毎日《まいにち》|肉《にく》を|切《き》りとられては、|今《いま》に|死《し》んでしまふだらう。|自分《じぶん》が|死《し》んだら、|子供《こども》を|養《やしな》つてやるものがなくなる。どうにかして|生《い》きてゐたいものだ』
と|考《かんが》へ|悩《なや》みました。で、ある|日《ひ》|太陽《たいやう》に|対《むか》つて、
『どうか、|今《いま》しばらく|肉《にく》を|切《き》り|落《おと》すことを|止《よ》しておくれ』
と|頼《たの》みました。
『なぜかね』
と|太陽《たいやう》が|尋《たづ》ねました。
『だつて、わしの|体《からだ》はもうこんなに|小《ちひ》さくなつたらう。この|上《うへ》|肉《にく》を|切《き》りとられると、|死《し》んでしまふよ』
と|月《つき》が|悲《かな》しさうに|言《い》ひました。
『|死《し》んだつて、おれはかまはないよ』
と|太陽《たいやう》がいひました。
『わしが|死《し》ぬと、|子供《こども》を|養《やしな》うてくれるものがゐなくなる。それでは|余《あま》り|可哀《かあい》さうだから、|肉《にく》がついて|体《からだ》が|肥《ふと》るまで|待《ま》つておくれ』
と|月《つき》が|熱心《ねつしん》に|頼《たの》みました。
『なるほど、それは|可哀《かあい》さうだ。それなら、お|前《まへ》が|肥《ふと》るまで|待《ま》つてやらう。だが、|肉《にく》が|沢山《たくさん》ついたら、また|切《き》り|落《おと》すんだよ』
|太陽《たいやう》はかういつて|帰《かへ》つてゆきました。
かうして|太陽《たいやう》は|月《つき》の|体《からだ》が|大《おほ》きくなるのを|待《ま》つてはその|肉《にく》を|削《そ》ぎとるのでした。だから|月《つき》はあんなに|大《おほ》きくなつたり|細《ほそ》くなつたりするのです。
|太陽《たいやう》の|出現《しゆつげん》
|昔《むかし》あるところに|一人《ひとり》の|男《をとこ》が|住《す》んでゐました。その|男《をとこ》が|腕《うで》を|挙《あ》げると、|脇《わき》の下から|光《ひかり》がさしてあたりが|眩《まぶ》しい|程《ほど》|明《あか》るくなるのでした。|人々《ひとびと》はそれを|大変《たいへん》|不思議《ふしぎ》に|思《おも》つてゐました。
と、ある|日《ひ》|一人《ひとり》の|年《とし》をとつた|女《をんな》が、|他《た》の|人《ひと》たちに|対《むか》つて、
『|本当《ほんたう》にあの|男《をとこ》は|不思議《ふしぎ》な|男《をとこ》だね。|体《からだ》から|光《ひかり》が|出《で》るなんて、|今《いま》まで|聞《き》いたこともないよ。あの|男《をとこ》を|空《そら》に|投《な》げようではないか。さうしたらどこもかしこも|明《あか》るくなつて、|米《こめ》の|出来《でき》ばえもきつとよくなるに|違《ちが》ひないから』
といひました。
|人々《ひとびと》は、すぐに|年《とし》をとつた|女《をんな》の|話《はなし》に|同意《どうい》しました。で、|男《をとこ》が|眠《ねむ》つてゐるときを|見《み》すまして、|足音《あしおと》をしのばせてその|側《そば》に|歩《あゆ》みよりました。そしていきなり|男《をとこ》を|抱《だ》き|上《あ》げて、みんな|力《ちから》を|合《あは》せて、|大空《おほぞら》|目《め》がけて|投《な》げ|出《だ》しました。
|男《をとこ》は、「あつ」と|叫《さけ》んで|目《め》を|覚《さ》ましましたが、もう|遅《おそ》い。|自分《じぶん》の|体《からだ》は|空《くう》をきつて、どんどん|上《うへ》へ|飛《と》んでゆくのでした。そしてたうとう|天上界《てんじやうかい》に|着《つ》いてしまひました。|仕方《しかた》がないので、|男《をとこ》はそのまま|天上界《てんじやうかい》に|住《す》むやうになりました。
と、だんだん|時《とき》がたつにつれ、|男《をとこ》の|体《からだ》の|形《かたち》が|変《かは》つて|来《き》て、おしまひには|真円《まんまる》くなりました。それが|太陽《たいやう》であります。
かうして|人間《にんげん》の|住《す》む|世界《せかい》は、|太陽《たいやう》のお|蔭《かげ》でいつも|明《あか》るいやうになりました。
|死《し》の|起原《きげん》
あるとき、|月《つき》が|人間《にんげん》たちに|対《むか》つて、
『わしを|見《み》るがいい。わしはときどき|体《からだ》が|段々《だんだん》と|痩《や》せ|衰《おとろ》へて|行《い》つて|死《し》にさうになるが、やがてまた|肥《ふと》つて|来《く》るだらう。その|通《とほ》りにお|前《まへ》たち|人間《にんげん》も、|何時《いつ》までも|生《い》きてゐるのぢや。|死《し》んだやうに|見《み》えるのは|眠《ねむ》つてゐるのぢや。|決《けつ》して|本当《ほんたう》に|命《いのち》がなくなつたのではない。|人間《にんげん》には|死《し》ぬといふことは|無《な》いものぢや』
といつた。|人間《にんげん》たちは|之《これ》を|聞《き》くと、|月《つき》の|言葉《ことば》を|信《しん》じて、|心《こころ》から|喜《よろこ》んだ。が、そこに|居合《ゐあは》せた|一匹《いつぴき》の|兎《うさぎ》がはたから|口《くち》を|出《だ》して、
『お|月《つき》さま、あなたの|仰有《おつしや》ることは|間違《まちが》つてゐます』
といつた。|月《つき》は|驚《おどろ》いて、
『どうしてわしの|言《い》ふことが|間違《まちが》つてゐるのかね』
と|尋《たづ》ねた。
『だつて、わたしのお|母《かあ》さんは|本当《ほんたう》に|死《し》んでしまつたんですもの』
と|兎《うさぎ》が|答《こた》へた。|月《つき》は|頭《あたま》をふつて、
『そんなことはない。|死《し》んでゐるのではない。ただ|眠《ねむ》つてゐるのぢや。|今《いま》に|目《め》が|覚《さ》めるよ』
といひました。
『いいえ、|本当《ほんたう》に|死《し》んでしまつたんですよ。|眠《ねむ》つてゐるのではありませんよ』
と、|兎《うさぎ》はどこまでもいひ|張《は》つた。|月《つき》はたうとう|怒《おこ》り|出《だ》して、
『わしがこれほど|本当《ほんたう》のことをいつて|聞《き》かせてゐるのに、お|前《まへ》はそれを|信《しん》じないんだな。よし、そんなに|死《し》にたけりや、|今後《こんご》はみんな|死《し》ぬやうにしてやらう』
といつて、|兎《うさぎ》の|口《くち》をひどく|擲《なぐ》りつけました。それで|兎《うさぎ》は|今日《こんにち》まで|唇《くちびる》が|欠《か》けてゐます。また|人間《にんげん》やその|他《た》の|生物《いきもの》もみんな|死《し》なねばならぬやうになりました。
ヘブライ|天地創造説《てんちさうざうせつ》
|神様《かみさま》には|始《はじ》めもなければ|終《をは》りもないと|言《い》ふ|事《こと》は、|今日《こんにち》|多《おほ》くの|人《ひと》が|信《しん》じてゐる|事《こと》でせう。この|神様《かみさま》が、まだ|天地《てんち》をお|造《つく》りにならなかつた|以前《いぜん》には、|土地《とち》はきまつた|形《かたち》もなく、|空漠《くうばく》とした、|暗黒《あんこく》なものであつて、|万物《ばんぶつ》には|何《なん》の|差別《さべつ》もなかつたのである。
ずつと|大昔《おほむかし》、|神様《かみさま》が|一言《ひとこと》|言葉《ことば》をおかけになると、|忽《たちま》ち|天《てん》と|地《ち》とが|出来上《できあが》つた。それから、|神様《かみさま》は、
『|光《ひかり》あれ』
と|仰《おほ》せられたので、これから|光《ひかり》といふものがあるやうになつた。|今日《こんにち》のやうに|明《あか》るい|時《とき》と|暗《くら》い|時《とき》との|区別《くべつ》が|出来《でき》たのは、この|時《とき》からである。|神様《かみさま》は|暗《くら》い|時《とき》を|夜《よる》と|名《な》づけ、|明《あか》るい|時《とき》を|昼《ひる》と|名《な》づけられた。これが|一日《いちにち》の|中《うち》に|夜《よる》の|昼《ひる》とのあるやうになつた|第一日《だいいちにち》である。
そこで、|神様《かみさま》は|蒼空《あをぞら》を|造《つく》り、その|蒼空《あをぞら》の|下《した》の|水《みづ》と、|上《うへ》の|水《みづ》とをお|分《わか》ちになり、|蒼空《あをぞら》をば|天《てん》とお|名《な》づけになつた。これが|第二日目《だいににちめ》の|事《こと》で、これからは|朝《あさ》と|夕方《ゆふがた》とがあるやうになつたのである。|神様《かみさま》は|更《さら》に|言葉《ことば》をかけて、|天《あめ》の|下《した》なる|水《みづ》は|一所《ひとところ》に|集《あつ》まつて、|乾《かわ》いた|土《つち》が|現《あらは》れるやうにされた。そして|乾《かわ》いた|土《つち》を|地《ち》と|名《な》づけ、|水《みづ》の|集《あつ》まつたのを|海《うみ》とお|名《な》づけになつた。そして、|出来上《できあが》つたこれらを|見《み》て、|非常《ひじやう》にお|喜《よろこ》びになつて|更《さら》に、
『|土《つち》は|草《くさ》と|木《き》と|花《はな》と|実《み》とを|地《ち》に|出《だ》せよ』
と|仰《おほ》せられたので、|土《つち》には|草《くさ》が|青々《あをあを》と|生《は》えて|美《うつく》しい|花《はな》が|咲《さ》き、|木《き》には|美味《おい》しい|果《み》がなつた。これが|三日目《みつかめ》の|事《こと》である。|今度《こんど》は|二《ふた》つの|大《おほ》きな|光《ひかり》をお|造《つく》りになつて、|大《おほ》きな|光《ひかり》に|昼《ひる》を|司《つかさど》らしめ|小《ちひ》さな|光《ひかり》に|夜《よる》を|司《つかさど》らしめになり、|又《また》|星《ほし》をもお|造《つく》りになつた。その|大《おほ》きな|光《ひかり》が|太陽《たいやう》であり、|小《ちひ》さな|光《ひかり》が|月《つき》である。|太陽《たいやう》の|輝《かがや》く|時《とき》が|即《すなは》ち|昼《ひる》であり、|月《つき》と|星《ほし》とが|照《て》らす|時《とき》が|即《すなは》ち|夜《よる》である。これが|第四日目《だいよつかめ》の|出来事《できごと》であつた。|世界《せかい》の|形《かたち》はかうして|大体《だいたい》|出来上《できあ》がつたので、|今度《こんど》は、|神様《かみさま》は|又《また》|地上《ちじやう》のあらゆる|生物《せいぶつ》、|鳥《とり》や、|魚《うを》や、|昆虫《こんちう》や、|家畜《かちく》や、|獣物《けだもの》を|其《その》|類《るゐ》に|従《したが》つてお|造《つく》りになつた。これが|第五日目《だいごにちめ》のことである。
かくて|世界《せかい》には|森《もり》や|畑《はた》があり、そこには|色々《いろいろ》な|動物《どうぶつ》が|生《うま》れ、|畑《はた》は|緑《みどり》に|萌《も》え、|花《はな》は|咲《さ》き、|鳥《とり》は|梢《こずゑ》から|梢《こずゑ》へと|渡《わた》り|囀《さへづ》り、あらゆる|生物《せいぶつ》は|森《もり》の|辺《べ》をさまよひ|歩《ある》き、|天地《てんち》は|実《じつ》に|美《うつく》しいものとなつた。けれども|神様《かみさま》の|命令《めいれい》に|従《したが》つて、これ|等《ら》のものを|治《をさ》める|者《もの》がまだゐなかつたので、|神様《かみさま》は|自分《じぶん》の|像《ざう》に|似《に》せて|人《ひと》をお|造《つく》りになり、
『|生《う》めよ|繁殖《ふえ》よ|地《ち》に|満盈《みて》よ。そして|万物《ばんぶつ》を|従《したが》はせよ。|又《また》|海《うみ》の|魚《うを》と|天空《そら》の|鳥《とり》と|地《ち》に|動《うご》くところの|凡《すべ》ての|生物《せいぶつ》を|治《をさ》めよ』
と|仰《おほ》せられ、|又《また》|全地《ぜんち》の|表面《うへ》にある|果実《くわじつ》のなる|草《くさ》や、|核《かく》のある|果《み》のなる|樹《き》を|人間《にんげん》の|食物《しよくもつ》とする|事《こと》を|許《ゆる》し、|獣《けもの》や|鳥《とり》や|其《その》|他《た》すべての|命《いのち》ある|物《もの》には、その|食物《しよくもつ》として、すべての|青《あを》い|草《くさ》をとつて|食《く》ふ|事《こと》をお|許《ゆる》しになつた。これが|即《すなは》ち|第六日目《だいろくにちめ》の|事《こと》である。
|七日目《ななかめ》となつた。|神様《かみさま》はすべての|物《もの》を、すつかりお|造《つく》りになつたから、これを|祝《いは》つてお|聖《きよ》めになり、この|日《ひ》をお|安息《やすみ》となされた。|神様《かみさま》が|始《はじ》めて|光《ひかり》をお|呼《よ》び|出《だ》しになつてから、|人間《にんげん》を|造《つく》られる|迄《まで》には、|六日《むゆか》を|費《つひや》されたのである。
|万物《ばんぶつ》は|漸《やうや》く|整《ととの》つたので、そこで|神様《かみさま》は、|人間《にんげん》に|命《いのち》の|息《いき》を|吹《ふ》き|込《こ》んで、これに|生命《せいめい》をお|与《あた》へになつた。そしてエデンの|東《ひがし》の|方《はう》に|園《その》を|設《まう》けて、そこに|人《ひと》を|住《す》まはせ、|見《み》て|美麗《うるは》しく、|食《た》べて|美味《おい》しい、|色々《いろいろ》の|樹《き》を|生《しやう》ぜしめ、その|園《その》の|中《なか》には|生命《いのち》の|樹《き》と|善悪《ぜんあく》を|知《し》る|樹《き》とをお|植《う》ゑになり、また|園《その》を|潤《うる》ほす|為《ため》にこの|園《その》を|源《みなもと》として|四《よ》つの|河《かは》をお|造《つく》りになつた。これが|即《すなは》ちエデンの|園《その》で、|吾々《われわれ》のよく|言《い》ふ「パラダイス」である。
さて、|神様《かみさま》はその|花園《はなぞの》を|人間《にんげん》に|与《あた》へ、これを|管理《くわんり》する|事《こと》をお|命《めい》じになり、その|人間《にんげん》の|名《な》をアダムと|名《な》づけられた。
この|時《とき》|神様《かみさま》はアダムに|向《むか》つて、
『|園《その》の|樹《こ》の|果《み》はどれをとつて|食《た》べてもよろしい。|併《しか》し|善悪《ぜんあく》を|知《し》る|樹《こ》の|果《み》は|決《けつ》して|食《た》べてはならぬ。|若《も》しお|前《まへ》がそれを|食《た》べたなら、お|前《まへ》の|命《いのち》はないものと|思《おも》ふがいい』
と|仰《おほ》せられた。|神様《かみさま》はアダムがすべての|鳥《とり》や|獣《けだもの》にどんな|名前《なまへ》をつけるか|見《み》たいものだとお|考《かんが》へになつて、その|事《こと》をお|言《い》ひつけになると、アダムはその|命《めい》に|従《したが》つて、|鳥《とり》や|獣《けだもの》に|一々《いちいち》|名前《なまへ》をつけた。
けれども、|他《た》の|鳥《とり》や|獣《けだもの》はそれぞれ|多《おほ》くの|仲間《なかま》があつたが、|人間《にんげん》はアダムがたつた|一人《ひとり》であつた。そこで|神様《かみさま》は、|彼《かれ》を|助《たす》けて|共《とも》に|生活《せいくわつ》する|人《ひと》を|今《いま》|一人《ひとり》|造《つく》らうとお|考《かんが》へになつて、アダムを|深《ふか》く|睡《ねむ》らせて、その|間《ま》にその|肋骨《ろくこつ》を|一本《いつぽん》|抜《ぬ》きとり、|其処《そこ》を|肉《にく》でふさいで|置《お》いて、その|肋骨《ろくこつ》から|一人《ひとり》の|女《をんな》をお|造《つく》りになつた。そしてアダムの|所《ところ》に|連《つ》れておいでになると、|彼《かれ》は、
『それこそ|吾《わ》が|骨《ほね》の|骨《ほね》、|吾《わ》が|肉《にく》の|肉《にく》である』
といつてその|人《ひと》を|女《をんな》と|呼《よ》び、その|女《をんな》にエバといふ|名《な》をつけた。これから|二人《ふたり》は|互《たがひ》に|愛《あい》し|合《あ》つて|神様《かみさま》の|与《あた》へて|下《くだ》さつたこの|美《うつく》しい|花園《はなぞの》の|中《なか》で、|幸福《かうふく》な|日《ひ》を|送《おく》るやうになつた。|二人《ふたり》は|裸体《らたい》ではあつたが、まだ|恥《は》づかしいといふことを|知《し》らぬ|程《ほど》|聖《きよ》らかな|心《こころ》を|持《も》つてゐたのである。
パレスチン|創造説《さうざうせつ》
|昔《むかし》|神《かみ》が|世界《せかい》のさまざまの|地方《ちはう》から、さまざまの|土《つち》を|採《と》つて、|最初《さいしよ》の|人《ひと》であるアダムを|造《つく》つた。|神《かみ》はアダムを|造《つく》り|上《あ》げると、|大地《だいち》の|上《うへ》に|横《よこた》へた。アダムは|人形《にんぎやう》のやうに|動《うご》かないで|四十日《しじふにち》が|間《あひだ》|地面《ぢべた》に|倒《たふ》れたままにしてゐた。|神《かみ》は|天使《てんし》たちを|呼《よ》びよせて、
『わしがこの|男《をとこ》を|活《い》きて|動《うご》くやうにするから、|動《うご》き|出《だ》したら、みんな|大事《だいじ》に|崇《あが》め|尊《たふと》ばなくてはならぬ』
と|言《い》つた。そしてアダムの|鼻《はな》の|孔《あな》から|息《いき》を|吹《ふ》き|込《こ》むと、|忽《たちま》ち|生命《せいめい》が|体中《からだぢう》に|入《はい》つて|活《い》きて|動《うご》くやうになつた。それを|見《み》ると、|天使《てんし》たちはみんなこれを|崇《あが》め|尊《たふと》んだが、ただイブリスといふものだけは、|傲然《がうぜん》と|構《かま》へてゐた。|神《かみ》はそれを|見《み》て、
『イブリス、そなたはなぜアダムを|崇《あが》め|尊《たふと》ばないのぢや』
と|責《せ》めた。
『たかが|土《つち》から|出来《でき》たものに、|頭《あたま》を|下《さ》げるのは|嫌《きら》ひです』
とイブリスが|答《こた》へた。これを|聞《き》くと、|神《かみ》は|非常《ひじやう》に|怒《おこ》つて、
『わしの|言《い》ひつけに|背《そむ》くものは、ここに|住《す》ませて|置《お》くわけには|行《い》かぬ』
と|言《い》つて、イブリスを|楽園《らくゑん》から|追《お》ひ|出《だ》してしまつた。
イブリスは、ひどくアダムを|恨《うら》んで、
『おれが|楽園《らくゑん》から|追《お》ひ|出《だ》されたのは、|全《まつた》くアダムのせゐだ。このままにしては|置《お》かぬぞ』
と|言《い》つて、|魔王《まわう》サタンとなつて、アダムの|子孫《しそん》である|人間《にんげん》に|執念深《しふねんぶか》く|仇《あだ》をするやうになつた。
|神《かみ》はアダムを|男女《だんぢよ》|両性《りやうせい》にこしらへたのであつた。で、|体《からだ》の|半分《はんぶん》は|男《をとこ》で、|他《た》の|半分《はんぶん》は|女《をんな》であつた。|暫《しばら》くの|間《あひだ》さうしてゐるうちに、やがて|二《ふた》つに|分《わか》れて、|立派《りつぱ》な|男《をとこ》と|立派《りつぱ》な|女《をんな》とになつた。|男《をとこ》はやはりアダムと|呼《よ》ばれ、|女《をんな》はリリスまたエル・カリネーと|呼《よ》ばれた。リリスは|猶太人《ユダヤじん》が|呼《よ》ぶ|名《な》であり、エル・カリネーは|亜拉比亜人《アラビアじん》の|呼《よ》ぶ|名《な》であつた。
|二人《ふたり》は|神《かみ》の|言《い》ひつけに|従《したが》つて|夫婦《ふうふ》となつた。しかし|仲《なか》がよくなかつた。アダムが、
『お|前《まへ》は|女《をんな》だから、わしの|言《い》ふことに|従《したが》はなくてはならぬ』
と|言《い》ふと、エル・カリネーはつんとして、
『いやですよ。そんなことは|出来《でき》ませんよ』
と|言《い》つた。
『なぜだね』
『だつて、あなたもわたしも|同《おな》じ|土《つち》から|出来《でき》たのでせう。だから、あなたはわたしに|命令《めいれい》する|権利《けんり》なんかありませんわ』
エル・カリネーはかう|言《い》つて、どうしてもアダムの|言《い》ひつけに|従《したが》はないので、|神《かみ》が|怒《おこ》つて、|楽園《らくゑん》から|追《お》ひ|出《だ》した。
エル・カリネーは、|自分《じぶん》より|先《さき》に|楽園《らくゑん》から|追《お》ひ|出《だ》されたイブリスの|許《もと》に|訪《たづ》ねて|行《い》つて、その|妻《つま》となつた。そして|二人《ふたり》の|間《あひだ》に|沢山《たくさん》の|悪魔《あくま》が|生《うま》れて、|永久《えいきう》に|人間《にんげん》の|敵《てき》となつた。
エル・カリネーを|追《お》ひのけた|神《かみ》は、アダムのために|新《あら》たに|一人《ひとり》の|女《をんな》をこしらへることにした。しかしアダムと|同《おな》じやうに|土《つち》で|造《つく》つては、また|夫婦《ふうふ》の|仲《なか》が|睦《むつ》まじく|行《い》かぬと|考《かんが》へたので、|今度《こんど》はアダムを|眠《ねむ》らせて、そのひまにアダムの|肋骨《ろくこつ》を|引《ひ》きぬいて、それで|女《をんな》をこしらへた。この|女《をんな》が|即《すなは》ちエバである。
|二人《ふたり》は|夫婦《ふうふ》となつた。エバはよくアダムの|言《い》ふことを|聞《き》いたので、|二人《ふたり》は|楽園《らくゑん》の|中《なか》で|楽《たの》しい|月日《つきひ》を|送《おく》ることが|出来《でき》た。それを|見《み》たイブリスは、
『よし、おれが|邪魔《じやま》をしてやるぞ』
と|言《い》つて、そつと|楽園《らくゑん》に|忍《しの》び|込《こ》んだ。
『うかうかしてゐて|神《かみ》に|見《み》つかると|大事《おほごと》だ。どこかに|身《み》を|隠《かく》すところはないか|知《し》ら』
イブリスはかう|思《おも》つて、あたりを|見廻《みまは》すと、|一匹《いつぴき》の|蛇《へび》が|目《め》についた。
『うん、いい|隠家《かくれや》が|見《み》つかつた』
イブリスはかう|言《い》つて、|忽《たちま》ち|姿《すがた》を|小《ちひ》さくして、|蛇《へび》の|牙《きば》にあいてゐる|空洞《うつろ》に|入《い》り|込《こ》んだ。そして|蛇《へび》の|口《くち》を|借《か》りて、うまくエバに|取《と》り|入《い》つて、
『エバさん、|楽園《らくゑん》にある|小麦《こむぎ》を|食《た》べてごらん』
と|勧《すす》めた。エバは|驚《おどろ》いて、
『とんでもない。|小麦《こむぎ》は|禁制《きんせい》の|食物《しよくもつ》です。|神様《かみさま》から|食《た》べてはならぬと|堅《かた》く|申《まを》しつけられてゐるのです』
と|言《い》つた。
『そんなことを|言《い》はないで、まあ|食《た》べてごらん。|素敵《すてき》においしいんですよ』
と、|蛇《へび》がしつこく|勧《すす》めた。エバもつひにその|気《き》になつて|食《た》べて|見《み》ると、|非常《ひじやう》にいい|味《あぢ》がするのでたうとう|夫《をつと》のアダムを|説《と》き|伏《ふ》せて|之《これ》を|食《く》はせた。
|神《かみ》はすぐにそれを|知《し》つた。そしてアダムとエバとイブリスと|蛇《へび》とを|楽園《らくゑん》から|追《お》ひ|出《だ》した。しかしアダムは|楽園《らくゑん》を|出《で》るときに、|神《かみ》の|目《め》を|盗《ぬす》んで、|一《ひと》つの|鉄床《かなどこ》と|二本《にほん》の|火箸《ひばし》と|二《ふた》つの|槌《つち》と|一本《いつぽん》の|針《はり》とを|持《も》ち|出《だ》した。
アダムは「|後悔《こうくわい》の|門《もん》」から|追《お》ひ|出《だ》され、エバは「|哀憐《あいれん》の|門《もん》」から|追《お》ひ|出《だ》され、イブリスは「|呪《のろ》ひの|門《もん》」から|追《お》ひ|出《だ》され、|蛇《へび》は「|災《わざは》ひの|門《もん》」から|追《お》ひ|出《だ》された。そしてアダムはセレンディブ(|今日《こんにち》の|錫蘭《セイロン》)に|降《くだ》り、エバはジダーに|降《くだ》り、イブリスはアカバーに|降《くだ》り、|蛇《へび》は|波斯《ペルシヤ》のイスファハンに|降《くだ》つた。
かうして、アダムとエバとは、|永《なが》い|間《あひだ》はなればなれになつて|暮《くら》してゐたが、|二百年《にひやくねん》たつてからメツカの|近《ちか》くに|聳《そび》えてゐる「|認《みと》めの|山《やま》」アラファット|山《さん》で、はしなくも|再会《さいくわい》することになつた。アダムは|楽園《らくゑん》で|犯《をか》した|罪《つみ》を|心《こころ》から|悔《く》いてゐたので、|天使《てんし》ガブリエルが|可哀《かあい》さうだと|思《おも》つて、|彼《かれ》をアラファット|山《さん》に|導《みちび》いて、エバを|見出《みいだ》さしめたのであつた。
ミクロネシヤ|創造説《さうざうせつ》
|太初《はじめ》には、|天《てん》も|地《ち》もありませんでした。|有《あ》るものは、|果《はて》しなく|広《ひろ》がつた|海《うみ》と、アレオブ・エナブといふ|年《とし》|老《お》いた|蜘蛛《くも》とだけでした。|蜘蛛《くも》は|漫々《まんまん》たる|大海原《おほうなばら》にふわふわと|漂《ただよ》うてゐました。
ある|日《ひ》|蜘蛛《くも》は、|非常《ひじやう》に|大《おほ》きな|貝《かひ》を|見《み》つけました。|蜘蛛《くも》はそれを|取《と》り|上《あ》げて、
『どこにか|口《くち》がありさうなものだな。あつたら|中《なか》に|這《は》ひ|込《こ》んでやるが』
と、|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|眺《なが》めて|見《み》ましたが、どこにも|口《くち》が|開《あ》いてゐませんでした。|彼《かれ》は|貝《かひ》を|叩《たた》いて|見《み》ました。すると|空洞《うつろ》のやうな|響《ひびき》を|立《た》てましたので、
『とにかく、|中《なか》には|何《なに》もはいつてゐないな』
と|独言《ひとりごと》をいひました。
|蜘蛛《くも》は、どうにかして|口《くち》を|開《あ》けさせたいと|思《おも》つて、|頻《しき》りに|呪文《じゆもん》を|唱《とな》へてゐますと、やつと|少《すこ》し|蓋《ふた》が|開《あ》きました。|蜘蛛《くも》はすかさず|貝《かひ》の|中《なか》に|潜《もぐ》り|込《こ》みましたが、|蓋《ふた》が|少《すこ》ししか|開《ひら》いてゐないので、|立《た》ち|上《あが》ることも|出来《でき》ませんでした。
|蜘蛛《くも》は|貝《かひ》の|中《なか》を|根気《こんき》よく|這《は》ひまはつてゐるうちに、|一匹《いつぴき》の|蝸牛《かたつむり》を|見《み》つけ|出《だ》しました。|彼《かれ》は|蝸牛《かたつむり》に|元気《げんき》をつけてやるために、それを|腋《わき》の|下《した》に|入《い》れて|三日《みつか》が|間《あひだ》|眠《ねむ》りつづけました。それからまた、あちらこちらと|探《さが》し|廻《まは》つてゐると、|更《さら》に|大《おほ》きな|蝸牛《かたつむり》を|見《み》つけました。|蜘蛛《くも》は|又《また》それを|腋《わき》の|下《した》に|入《い》れて、|三日《みつか》が|間《あひだ》|眠《ねむ》つてゐました。|目《め》が|覚《さ》めると、|小《ちひ》さい|方《はう》の|蝸牛《かたつむり》に|対《むか》つて、
『どうも|貝《かひ》の|天井《てんじやう》が|低《ひく》くて|困《こま》る。せめて|坐《すわ》れるくらゐ|天井《てんじやう》をおし|上《あ》げてもらひたいが、お|前《まへ》にそれが|出来《でき》るかね』
と|尋《たづ》ねました。|小《ちひ》さい|蝸牛《かたつむり》は、
『|出来《でき》ますとも』
と|答《こた》へて、|少《すこ》し|天井《てんじやう》を|押《お》し|上《あ》げました。|蜘蛛《くも》はお|礼《れい》を|言《い》つて、その|蝸牛《かたつむり》を|貝《かひ》の|西《にし》の|方《はう》に|据《す》ゑつけて、それを|月《つき》に|変《か》へました。
|月《つき》が|現《あらは》れたので、|貝《かひ》の|中《なか》が|少《すこ》し|明《あか》るくなりました。|蜘蛛《くも》は|月《つき》の|光《ひかり》で|一匹《いつぴき》の|大《おほ》きな|〓〓《ぢむし》を|見《み》つけました。|彼《かれ》は|〓〓《ぢむし》に|対《むか》つて、
『お|前《まへ》は、|今《いま》よりも|一層《いつそう》|高《たか》く|天井《てんじやう》を|押《お》し|上《あ》げることが|出来《でき》るかね』
と|尋《たづ》ねますと、|虫《むし》は、
『|出来《でき》ますとも』
と|答《こた》へて、|天井《てんじやう》を|押《お》し|上《あ》げ|始《はじ》めました。|天井《てんじやう》は|次第《しだい》に|高《たか》くなりましたが、あまり|骨《ほね》がをれるので、|〓〓《ぢむし》の|体《からだ》から|汗《あせ》がどんどん|流《なが》れ|出《だ》しました。|蜘蛛《くも》はその|汗《あせ》を|集《あつ》めて|海《うみ》をこしらへました。それと|同時《どうじ》に|押《お》し|上《あ》げられた|貝《かひ》の|上蓋《うはぶた》が|天空《てんくう》となり、|下《した》の|蓋《ふた》が|大地《だいち》となりました。|蜘蛛《くも》は|大《おほ》きな|方《はう》の|蝸牛《かたつむり》を|貝《かひ》の|東《ひがし》の|方《はう》に|据《す》ゑつけて、|太陽《たいやう》に|変《か》へました。
|天地《てんち》、|日月《じつげつ》、|海《うみ》などはかうして|出来《でき》たのでした。(ナウリ島)
また|一説《いつせつ》に、|世界《せかい》の|始《はじ》めには、|海《うみ》だけでした。|海《うみ》の|南《みなみ》に|暗礁《かくれいは》があり、|海《うみ》の|北《きた》に|沼《ぬま》がありました。ロアといふ|神《かみ》が、|海《うみ》に|対《むか》つて、
『|汝《なんぢ》の|暗礁《かくれいは》を|見《み》よ』
と|言《い》ひました。すると|忽《たちま》ち|暗礁《かくれいは》が|海《うみ》の|面《おもて》に|浮《うか》び|出《で》て|陸《りく》となりました。ロアが|更《さら》に、
『|汝《なんぢ》の|砂《すな》を|見《み》よ』
と|言《い》ひますと、|陸《りく》はすぐに|砂《すな》に|覆《おほ》はれました。
『|汝《なんぢ》の|樹《き》を|見《み》よ』
ロアがかう|言《い》ひますと、|忽《たちま》ち|陸地《りくち》にいろんな|樹《き》が|生《は》えました。ロアは|更《さら》に、
『|汝《なんぢ》の|鳥《とり》を|見《み》よ』
と|叫《さけ》びますと、|忽《たちま》ち|多《おほ》くの|鳥《とり》が|現《あらは》れました。そしてその|中《なか》の|海鴎《かもめ》が|舞《ま》ひ|上《あが》つて、|大地《だいち》の|上《うへ》に|大空《おほぞら》を|拡《ひろ》げました。(マーシヤル群島)
また|一説《いつせつ》に、|太初《はじめ》|一本《いつぽん》の|大《おほ》きな|樹《き》が、|逆《さか》しまに|生《は》えてゐました。その|樹《き》の|根《ね》は|大空《おほぞら》の|中《なか》に|広《ひろ》がつてゐるし、その|枝《えだ》は|海原《うなばら》に|広《ひろ》がつてゐました。
この|世界樹《せかいじゆ》の|枝《えだ》のうちに、|一人《ひとり》の|女《をんな》が|生《うま》れ|出《で》ました。と、エラファズといふ|天空神《てんくうしん》が|一握《ひとにぎり》の|砂《すな》を|女《をんな》に|与《あた》へて、
『これを|撒《ま》きちらすがいい』
と|言《い》ひました。|女《をんな》が|海《うみ》の|面《おもて》に|砂《すな》を|撒《ま》きちらしますと、それが|忽《たちま》ち|変《へん》じて|大地《だいち》となりました。
註|他《た》の|神話《しんわ》によると、|天《てん》がまだ|大地《だいち》に|接《せつ》し、|大地《だいち》がまだ|海《うみ》と|分《わか》れなかつた|頃《ころ》、タブリエリックといふ|神《かみ》が|鳥《とり》に|変《へん》じて、この|混沌《こんとん》たる|世界《せかい》の|上《うへ》を|翔《かけ》り、それからリギといふ|蝶《てふ》が|大地《だいち》と|海《うみ》との|上《うへ》を|飛《と》んで、この|二《ふた》つを|分《わか》ち、|更《さら》に|他《た》の|神々《かみがみ》が|天《てん》を|大地《だいち》と|分《わか》つて、|上《うへ》に|押《お》しあげたといふのであります。
|日月神話《じつげつしんわ》
|大昔《おほむかし》ナ・レアウが、|一人《ひとり》の|男《をとこ》と|一人《ひとり》の|女《をんな》とを|造《つく》つたあとで、|彼等《かれら》に|対《むか》つて、
『わしは、お|前《まへ》たちをこの|大地《だいち》に|留《とど》めておくから、よく|大地《だいち》の|番《ばん》をするがいい。が、お|前《まへ》たちは、|決《けつ》して|子供《こども》を|生《う》んではいけないよ。わしは|人間《にんげん》が|殖《ふ》えるのを|好《この》まないのぢや。もしわしの|命令《めいれい》に|背《そむ》いたら、ひどい|罰《ばつ》を|与《あた》へるから、さう|思《おも》ふがいい』
と|言《い》つて、|天界《てんかい》に|去《さ》りました。
|二人《ふたり》の|人間《にんげん》──それはデ・バボウといふ|男《をとこ》と、デ・アイといふ|女《をんな》でした──は、しかし|神《かみ》さまの|命令《めいれい》に|背《そむ》いて、|三人《さんにん》の|子《こ》を|産《う》みました。するとナ・レアウの|召使《めしつかひ》である|一匹《いつぴき》の|鰻《うなぎ》が、|早《はや》くもそれを|見《み》つけて、ナ・レアウに、
『|神《かみ》さま、|人間《にんげん》どもは、あなたさまの|御命令《ごめいれい》に|背《そむ》いて、|三人《さんにん》までも|子《こ》を|産《う》んだのでございます』
と|告《つ》げ|知《し》らせました。これを|聞《き》くと、ナ・レアウは|大変《たいへん》|怒《おこ》つて、|大《おほ》きな|棒《ぼう》を|手《て》にして、|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》を|留《とど》めて|置《お》いた|島《しま》に|降《くだ》つて|来《き》ました。|二人《ふたり》は|神《かみ》さまの|厳《おごそ》かな|姿《すがた》を|見《み》ると、その|言葉《ことば》に|背《そむ》いた|恐《おそ》ろしさの|余《あま》り、ペタリと|大地《だいち》に|坐《すわ》り|込《こ》んで、
『どうかお|赦《ゆる》し|下《くだ》さい。お|言葉《ことば》を|破《やぶ》つた|罪《つみ》は|幾重《いくへ》にもお|詫《わ》びします、でも|生《うま》れた|子供《こども》は、わたくしたちの|生活《せいくわつ》に|大層《たいそう》|役《やく》に|立《た》つのでございます。|太陽《たいやう》は|光《ひかり》を|与《あた》へてくれます。そのお|蔭《かげ》でわたくしたちはものを|見《み》ることが|出来《でき》ます。|太陽《たいやう》が|沈《しづ》むと、|月《つき》がその|代《かは》りに|現《あらは》れて、|光《ひかり》を|与《あた》へます。それから|海《うみ》は、わたくしたちに|沢山《たくさん》の|魚《うを》を|与《あた》へて、|食物《しよくもつ》に|不自由《ふじいう》なくしてくれるのでございます』
と|言《い》ひました。ナ・レアウは、|二人《ふたり》の|言葉《ことば》を|聞《き》くと、|心《こころ》の|中《うち》で、
『なるほど、|二人《ふたり》の|言《い》ふことは|本当《ほんたう》だ。|赦《ゆる》してやることにしよう』
と|言《い》つて、そのまま|天界《てんかい》に|帰《かへ》つて|行《ゆ》きました。
かうして|太陽《たいやう》や|月《つき》や|海《うみ》が、|世界《せかい》にあるやうになつたのでした。(ギルバート群島)
註一ペリュー|群島《ぐんたう》にも、|簡単《かんたん》な|日月神話《じつげつしんわ》があります。それによりますと、|大昔《おほむかし》|二人《ふたり》の|神《かみ》が|手斧《てをの》で|大《おほ》きな|石《いし》を|削《けづ》つて、|太陽《たいやう》と|月《つき》とをこしらへて、|天空《てんくう》に|投《な》げ|上《あ》げたといふのであります。
註二デ・バボウ|及《およ》びデ・アイといふ|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》が、|太陽《たいやう》と|月《つき》と|海《うみ》とを|産《う》んだといふ|一事《いちじ》は、わが|国《くに》の|古史神話《こししんわ》に|伊弉諾《いざなぎ》、|伊弉冊《いざなみ》の|二神《にしん》が、|天照大神《あまてらすおほかみ》と|月読命《つきよみのみこと》と|素盞嗚命《すさのをのみこと》とをお|産《う》みになつたとあることを|思《おも》ひ|出《だ》させます。
|人類《じんるゐ》の|起原《きげん》
ミクロネシアには、|余《あま》り|念《ねん》の|入《い》つた|人類《じんるゐ》|創生《さうせい》|神話《しんわ》が|見出《みいだ》されません。みな|簡単《かんたん》な|素朴《そぼく》なものばかりです。カロライン|群島《ぐんたう》の|神話《しんわ》によると、リゴブンドといふ|神《かみ》が、|空《そら》から|大地《だいち》に|降《くだ》つて|来《き》て、|三人《さんにん》の|子《こ》を|生《う》み、そしてその|三人《さんにん》が|人類《じんるゐ》の|祖先《そせん》になつたと|言《い》ふのであります。また|同群島《どうぐんたう》に|存《そん》する|他《た》の|神話《しんわ》に|従《したが》へば、ルクといふ|神《かみ》が|大地《だいち》を|造《つく》つて、これに|樹《き》を|栽《う》ゑつけたあとで、|自分《じぶん》の|娘《むすめ》のリゴアププをそこに|降《くだ》しました。リゴアププは|大地《だいち》に|降《くだ》ると、|大変《たいへん》|喉《のど》が|渇《かわ》きましたので、|樹《き》の|洞《うつろ》にたまつてゐる|水《みづ》を|飲《の》みました。|水《みづ》の|中《なか》に|小《ちひ》さい|動物《どうぶつ》が|入《はい》つてゐましたが、かの|女《ぢよ》はそれに|気《き》がつかないで、|水《みづ》と|一《いつ》しよに|嚥《の》み|下《くだ》しました。すると|間《ま》もなく|身重《みおも》になつて、|一人《ひとり》の|女《をんな》の|子《こ》を|産《う》みました。|女《をんな》の|子《こ》が|大《おほ》きくなつて、|一人《ひとり》の|娘《むすめ》が|出来《でき》、その|娘《むすめ》がまた|一人《ひとり》の|男《をとこ》の|子《こ》を|産《う》みました。|男《をとこ》の|子《こ》が|大《おほ》きくなると、その|脇腹《わきばら》の|骨《ほね》の|一本《いつぽん》から|男《をとこ》が|出来《でき》、その|男《をとこ》がリゴアププと|夫婦《ふうふ》となつて、この|二人《ふたり》が|人間《にんげん》の|祖先《そせん》になつたと|言《い》ふのであります。
|更《さら》にモルトロク|島《たう》の|神話《しんわ》によりますと、リゴアププが、|樹《き》の|洞《うつろ》にたまつてゐる|水《みづ》を|飲《の》んで、|一人《ひとり》の|女《をんな》を|産《う》み、その|女《をんな》の|腕《うで》から|一人《ひとり》の|男《をとこ》が|生《うま》れ、|双《ふたつ》の|眼《め》から|男《をとこ》と|女《をんな》とが|生《うま》れて、それ|等《ら》が|人類《じんるゐ》の|先祖《せんぞ》となつたと|言《い》はれてゐます。
またギルバート|群島《ぐんたう》の|神話《しんわ》によると、ナレウアといふ|神《かみ》が、|一本《いつぽん》の|樹《き》に|火《ひ》をつけますと、その|火花《ひばな》と|灰《はひ》とから、|人間《にんげん》どもが|生《うま》れ|出《で》ました。ナレウアはそれ|等《ら》の|人間《にんげん》に|言《い》ひつけて、|世界《せかい》の|諸地方《しよちはう》に|分《わか》れ|住《す》むやうにさせました。それが|人類《じんるゐ》の|祖先《そせん》であると|言《い》つてゐます。
インドネシヤ|創造説《さうざうせつ》
|太初《はじめ》には、|茫々《ばうばう》たる|海《うみ》があるだけでした。|海原《うなばら》の|中《なか》に|一《ひと》つの|大《おほ》きな|岩《いは》があつて、|絶《た》えず|波《なみ》に|洗《あら》はれてゐましたが、その|岩《いは》から|一羽《いちは》の|鶴《つる》が|生《うま》れました。|岩《いは》は|鶴《つる》を|産《う》むときに|汗《あせ》を|流《なが》しました。そしてその|汗《あせ》からルミム・ウットといふ|女神《めがみ》が|生《うま》れました。
|鶴《つる》が|女神《めがみ》に|対《むか》つて、
『|二握《ふたにぎり》の|砂《すな》を|取《と》つて|撒《ま》きちらしてごらん』
と|言《い》ひました。ルミム・ウットはすぐ|二握《ふたにぎり》の|砂《すな》を|取《と》つて、|海原《うなばら》に|撒《ま》きちらしますと、|見《み》る|見《み》るそれが|大《おほ》きくなつて|世界《せかい》が|出来《でき》ました。
|世界《せかい》が|出来上《できあが》ると、|女神《めがみ》は|高《たか》い|山《やま》に|登《のぼ》つて、その|頂《いただき》に|突立《つつた》つて、|吹《ふ》き|来《く》る|西風《にしかぜ》に|体《からだ》を|曝《さら》してゐました。そのうちに|身重《みおも》になつて、|一人《ひとり》の|男《をとこ》の|子《こ》を|産《う》みました。
|男《をとこ》の|子《こ》が|大《おほ》きくなると、ルミム・ウットが|妻《つま》を|娶《めと》るやうに|勧《すす》めました。|男《をとこ》はその|言葉《ことば》に|従《したが》つてあちらこちらを|探《さが》し|廻《まは》りましたが、どうしても|女《をんな》を|見《み》つけることが|出来《でき》ませんでした。ルミム・ウットは|気《き》の|毒《どく》に|思《おも》つて、|自分《じぶん》の|背丈《せたけ》と|同《おな》じ|長《なが》さの|杖《つゑ》を|息子《むすこ》に|与《あた》へて、
『この|杖《つゑ》よりも|背《せ》の|低《ひく》い|女《をんな》を|探《さが》すがいい。そんな|女《をんな》を|探《さが》したら、それがお|前《まへ》の|妻《つま》となるべき|運命《うんめい》を|持《も》つた|女《をんな》ですよ』
と|教《をし》へました。そして|二人《ふたり》は|別《わか》れて、|世界《せかい》を|一《ひと》めぐりすることになりました。|母《はは》は|右《みぎ》に|廻《まは》り、|子《こ》は|左《ひだり》に|廻《まは》つた。|子《こ》は|左《ひだり》に|廻《まは》つて、|永《なが》い|間《あひだ》|歩《ある》き|続《つづ》けてゐるうちに、たうとう|世界《せかい》を|一巡《ひとめぐ》りしてしまつて、|二人《ふたり》がぱつたり|出会《であ》ひました。|二人《ふたり》は|余《あま》り|永《なが》い|間《あひだ》|別《わか》れてゐたので、お|互《たがひ》に|見知《みし》りませんでした。|男《をとこ》はすぐに|杖《つゑ》と|女《をんな》との|高《たか》さを|比《くら》べて|見《み》ましたが、|杖《つゑ》は|男《をとこ》が|気《き》のつかぬうちにだんだんと|伸《の》びてゐましたので、|女《をんな》の|背丈《せたけ》よりずつと|高《たか》かつたのでした。
『これだこれだ、この|女《をんな》こそお|母《かあ》さんに|教《おそ》はつた|通《とほ》りの|女《をんな》だ』
と|思《おも》つて、たうとうルミム・ウットを|自分《じぶん》の|妻《つま》にしてしまひました。
ルミム・ウットは|沢山《たくさん》の|子供《こども》を|産《う》みました。そしてそれがみんな|神《かみ》さまとなりました。(ミナハツサ島)
また|一説《いつせつ》に、|太初《はじめ》には、|茫々《ばうばう》たる|海《うみ》と、それに|覆《おほ》ひかぶさつてゐる|天空《てんくう》があるだけでした。
ある|時《とき》、|天空《てんくう》から|一《ひと》つの|大《おほ》きな|岩《いは》が|海《うみ》の|中《なか》に|墜《お》ちて|来《き》ました。そして|月日《つきひ》がたつにつれて、|赤裸々《せきらら》な|岩《いは》の|面《めん》に|粘土《ねんど》が|積《つ》み|重《かさ》なると、そこに|沢山《たくさん》の|虫《むし》が|生《うま》れました。
|虫《むし》どもは、|絶《た》えず|岩《いは》の|面《めん》をかぢりつづけますので、|小《ちひ》さい|砂土《すなつち》がだんだんと|岩《いは》を|覆《おほ》ふやうになりました。と、|天空《てんくう》に|輝《かがや》く|太陽《たいやう》から、|木《き》でこしらへた|刀《かたな》の|柄《え》が|落《お》ちて|来《き》て、|砂土《すなつち》の|中《なか》に|根《ね》をおろして、|大《おほ》きな|樹《き》となりました。|暫《しばら》くすると、|今度《こんど》は|月《つき》から|葡萄《ぶどう》の|蔓《つる》が|落《お》ちて|来《き》て、|樹《き》にまつはりつきました。
かうして|樹《き》と|葡萄《ぶどう》とが|抱《だ》き|合《あ》つて、|一人《ひとり》の|男《をとこ》の|子《こ》と、|一人《ひとり》の|女《をんな》の|子《こ》とを|産《う》みました。そしてその|二人《ふたり》が|結婚《けつこん》して、カヤン|族《ぞく》の|祖先《そせん》となりました。(中央ボルネオのカヤン族)
|神々《かみがみ》の|誕生《たんじやう》についての|一説《いつせつ》には、|世界《せかい》の|初《はじ》めに、|一匹《いつぴき》の|蜘蛛《くも》が|天《てん》から|降《お》りて|来《き》て、|巣《す》を|造《つく》りました。と、|小《ちひ》さい|石《いし》が|一《ひと》つ|蜘蛛《くも》の|巣《す》にひつかかりましたが、それが|段々《だんだん》|大《おほ》きくなつて、|天《あめ》が|下《した》|一《いつ》ぱいに|広《ひろ》がる|大地《だいち》となりました。
|暫《しばら》くすると、|天空《てんくう》から|地衣《こけ》が|墜《お》ちて|来《き》て、|岩《いは》の|上《うへ》に|根《ね》をおろし、|地衣《こけ》の|間《あひだ》から|虫《むし》が|生《うま》れて、|頻《しき》りに|糞《ふん》をひり、その|糞《ふん》から|岩《いは》の|上《うへ》の|土壌《つち》が|出来《でき》ました。
|暫《しばら》くすると、また|天《てん》から|一本《いつぽん》の|樹《き》が|墜《お》ちて|来《き》て、|土壌《つち》の|中《なか》に|根《ね》をおろしました。それから|今度《こんど》は|一匹《いつぴき》の|蟹《かに》が|大地《だいち》に|降《お》りて|来《き》て、|鋭《するど》い|鋏脚《はさみ》でやたらに|地面《ぢめん》をかきむしり|掘《ほ》り|返《かへ》しました。かうして|沢山《たくさん》の|山《やま》や|谷《たに》が|出来《でき》ました。
|一本《いつぽん》の|葡萄《ぶどう》の|蔓《つる》が|樹《き》に|抱《だ》きつきました。さうしてゐると、|一人《ひとり》の|男《をとこ》と|一人《ひとり》の|女《をんな》とが、|天《てん》からこの|樹《き》の|上《うへ》に|降《お》りて|来《き》て、|男《をとこ》は|刀《かたな》の|柄《え》を、|女《をんな》は|紡錘《つむ》を|地面《ぢめん》に|落《おと》しました。と、|刀《かたな》の|柄《え》と|紡錘《つむ》とが|夫婦《ふうふ》となつて、|一人《ひとり》の|子供《こども》を|産《う》みましたが、その|子供《こども》は|体《からだ》と|頭《あたま》とを|持《も》つてゐるだけで|手《て》も|足《あし》もありませんでした。
この|怪物《くわいぶつ》がひとりでに、|二人《ふたり》の|子《こ》を|産《う》みました。|一人《ひとり》は|男《をとこ》で、|一人《ひとり》は|女《をんな》でした。|男女《だんぢよ》は|結婚《けつこん》して|沢山《たくさん》の|子《こ》を|産《う》み、その|子《こ》がまた|沢山《たくさん》の|子《こ》を|産《う》む。かうしてゐるうちにだんだんと|形態《けいたい》が|完全《くわんぜん》になつて|来《き》ました。それがいろんな|神様《かみさま》でありました。(中央ボルネオ)
|蛇《へび》の|頭《あたま》の|上《うへ》の|大地《だいち》
|世界《せかい》の|初《はじ》めには、|天空《てんくう》と|海《うみ》とがあるだけでした。|海《うみ》の|中《なか》に|一匹《いつぴき》の|大《おほ》きな|蛇《へび》が|泳《およ》ぎ|廻《まは》つてゐました。その|蛇《へび》は、|光《ひか》り|輝《かがや》く|石《いし》をはめた|黄金《わうごん》の|冠《かむり》を|頭《かしら》にしてゐました。
ある|時《とき》|天空《てんくう》にゐる|一人《ひとり》の|神《かみ》が、|下界《げかい》を|見《み》おろしますと、|海《うみ》の|中《なか》に|光《ひか》り|輝《かがや》くものが|動《うご》いてゐます。|何《なん》だらうと|眼《め》をこらすと、それは|蛇《へび》の|頭《かしら》になつてゐる|黄金《わうごん》の|冠《かむり》でした。|神《かみ》は、
『あの|上《うへ》に|大地《だいち》をこしらへることにしよう』
と|言《い》つて、|一握《ひとにぎり》の|地《つち》を|天空《てんくう》から|投《な》げ|落《おと》しました。|土《つち》はうまく|蛇《へび》の|頭《あたま》に|落《お》ちかかつて、|一《ひと》つの|島《しま》となりましたが、|月日《つきひ》がたつにつれて、だんだんと|大《おほ》きくなつて、たうとう|大地《だいち》となりました。(東南ボルネオ)
また|一説《いつせつ》に、|空《そら》には|七《なな》つの|世界《せかい》があります。そしてそのうちで|最《もつと》も|高《たか》いところにある|世界《せかい》に|神々《かみがみ》のうちで|最《もつと》も|偉大《ゐだい》なムラ・ディアディが、|二羽《には》の|鳥《とり》を|召使《めしつかひ》として|住《す》んでゐました。
ムラ・ディアディは、|七《なな》つの|世界《せかい》の|一《ひと》つに|大《おほ》きな|樹《き》を|生《は》やして、その|枝《えだ》で|天《てん》を|支《ささ》へることにしました。それから|一羽《いちは》の|牝鶏《めんどり》をこしらへて、それを|大《おほ》きな|樹《き》にとまらせると、やがて|三《みつ》つの|卵《たまご》を|産《う》みました。
|暫《しば》らくすると、|三《みつ》つの|卵《たまご》から|三人《さんにん》の|女《をんな》の|子《こ》が|生《うま》れました。そこでムラ・ディアディは、|三人《さんにん》の|男《をとこ》を|造《つく》つて、|女《をんな》たちと|結婚《けつこん》させることにしました。これ|等《ら》の|男女《だんぢよ》の|間《あひだ》に|大勢《おほぜい》の|子《こ》が|生《うま》れて、それがまたお|互《たがひ》に|夫婦《ふうふ》になることになりましたが、|一人《ひとり》の|女《をんな》だけは、どうしても|結婚《けつこん》しようとしませんでした。かの|女《をんな》の|夫《をつと》となるべき|男《をとこ》は、|蜥蜴《とかげ》のやうな|顔《かほ》をして、カメレオンのやうな|皮膚《はだ》をしてゐました。だから|女《をんな》はそれを|嫌《きら》つて、
『わたしは|結婚《けつこん》なんか|決《けつ》してしない。|糸《いと》を|紡《つむ》ぐ|方《はう》がいくらいいかも|知《し》れぬ』
と|言《い》つて、|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|糸《いと》を|紡《つむ》いでゐました。と、ある|日《ひ》かの|女《ぢよ》が|紡錘《つむ》を|取《と》り|落《おと》しました。|紡錘《つむ》は|天上界《てんじやうかい》から|遥《はる》か|下《した》の|方《はう》に|広《ひろ》がつてゐる|海《うみ》に|墜《お》ちました。|女《をんな》は|天上界《てんじやうかい》からだらりと|垂《た》れてゐる|糸《いと》を|伝《つた》つて|海《うみ》の|面《おもて》に|降《お》りて|来《き》ました。
|海《うみ》の|中《なか》には、|一匹《いつぴき》の|大《おほ》きな|蛇《へび》が|浮《うか》んでゐました。|女《をんな》はそれを|見《み》ると、|天《てん》を|仰《あふ》いで、
『ムラ・ディアディさま、|土《つち》を|少《すこ》しばかり|下《くだ》さいな』
と|叫《さけ》びました。|天界《てんかい》にゐるムラ・ディアディはこれを|聞《き》くと、|召使《めしつかひ》の|鳥《とり》を|一羽《いちは》|呼《よ》び|出《だ》して、
『これを|下界《げかい》の|女《をんな》に|持《も》つて|行《い》つておくれ』
と|言《い》つて、|一握《ひとにぎり》の|土《つち》を|渡《わた》しました。|鳥《とり》がその|土《つち》を|女《をんな》のところに|持《も》つて|来《き》ますと、|女《をんな》はそれを|蛇《へび》の|頭《あたま》にふりまきました。と、|土《つち》は|見《み》る|見《み》る|大《おほ》きくなつて、たうとう|大地《だいち》となりました。
|蛇《へび》は、|自分《じぶん》の|頭《あたま》の|上《うへ》に|大地《だいち》が|出来《でき》たので、|重《おも》くて|苦《くる》しくてたまりません。|彼《かれ》は|力《ちから》まかせに|首《くび》を|振《ふ》りました。|大地《だいち》は|忽《たちま》ち|蛇《へび》の|頭《あたま》から|転《ころ》げ|落《お》ちて、|海《うみ》の|中《なか》に|沈《しづ》んでしまひました。ムラ・ディアディはこれを|見《み》ると、すぐに|八《やつ》つの|太陽《たいやう》を|造《つく》つてかんかん|照《て》りつけさせました。|激《はげ》しい|太陽《たいやう》の|熱《ねつ》に、|海《うみ》の|水《みづ》がどんどん|乾《かわ》いて、やがて|大地《だいち》が|水《みづ》の|上《うへ》に|現《あらは》れて|来《き》ました。|女《をんな》は|蛇《へび》の|体《からだ》に|刀《かたな》を|突《つ》き|刺《さ》して、|一《ひと》つの|島《しま》にしかと|縛《しば》りつけました。
『かうして|置《お》けば、|二度《にど》と|大地《だいち》をこはすことはなからう』
|女《をんな》はかう|言《い》つて|喜《よろこ》んでゐますと、|天界《てんかい》にゐるムラ・ディアディが、
『かうなると、あの|児《こ》も|一人《ひとり》では|置《お》けぬ』
と|言《い》つて、|嫌《きら》はれた|男《をとこ》を|吹筒《すゐとう》と|一《いつ》しよに|筵《むしろ》に|包《つつ》んで、|空《そら》から|投《な》げおろしました。
|大地《だいち》に|落《お》ちて|来《き》た|男《をとこ》は、|腹《はら》が|空《す》いたので|吹矢《ふきや》を|飛《と》ばして、|一羽《いちは》の|鳩《はと》を|射《い》ましたが、|狙《ねらひ》がそれて|中《あた》りませんでした。しかし|男《をとこ》はうまく|吹矢《ふきや》に|縋《すが》りついて、|女《をんな》の|住《す》んでゐる|村《むら》に|飛《と》んで|行《ゆ》きました。|女《をんな》は|今《いま》は|拒《こば》みかねて、|彼《かれ》と|結婚《けつこん》をしました。それが|人間《にんげん》の|祖先《そせん》であります。(スマトラ島のトバ・バタク族)
また、|神々《かみがみ》のうちで|最《もつと》も|偉大《ゐだい》なバタラ・グルの|妻《つま》が、お|産《さん》をしようとしてゐる|時《とき》、
『|鹿《しか》の|肉《にく》が|食《た》べたい。|早《はや》く|持《も》つて|来《き》て|頂戴《ちやうだい》』
と|言《い》ひ|出《だ》しました。バタラ・グルはすぐに|一人《ひとり》の|召使《めしつかひ》をやつて、|鹿《しか》を|射《い》とめさせることにしました。しかし|召使《めしつかひ》はどうしても|鹿《しか》を|狩《か》り|出《だ》すことが|出来《でき》ないで、|空《むな》しく|帰《かへ》つて|来《き》ました。バタラ・グルは|更《さら》に|大鴉《おほからす》をやりましたが、これも|駄目《だめ》でした。しかし|獲物《えもの》をあさり|廻《まは》つてゐるうちに、|深《ふか》い|穴《あな》を|見《み》つけました。|試《ため》しに|棒《ぼう》を|投《な》げ|込《こ》んで|見《み》ましたが、いつまでたつても、|底《そこ》に|届《とど》いたらしい|響《ひびき》がかへつて|来《き》ませんでした。
『とても|深《ふか》い|穴《あな》らしい。|一《ひと》つ|底《そこ》を|探《さぐ》つて|見《み》よう』
|大鴉《おほからす》はかう|思《おも》つて、|穴《あな》の|中《なか》に|舞《ま》ひ|込《こ》みました。そして|真暗《まつくら》いところをいつまでもいつまでも|舞《ま》ひ|降《くだ》つて|居《ゐ》ると、|到頭《たうたう》|漫々《まんまん》たる|海原《うなばら》に|出《で》ました。|大鴉《おほからす》はひどく|疲《つか》れましたが、|幸《さひは》ひ|自分《じぶん》が|投《な》げおろした|棒《ぼう》が、|波《なみ》に|漂《ただよ》つてゐましたので、その|上《うへ》にとまつて|休《やす》んでゐました。
バタラ・グルは|待《ま》ち|遠《どほ》しくなつて、|五六人《ごろくにん》の|召使《めしつかひ》と|一《いつ》しよに、|大鴉《おほからす》を|探《さが》しに|出《で》かけました。すると|深《ふか》い|穴《あな》が|見《み》つかりましたので、|一握《ひとにぎ》りの|砂《すな》と|七本《ななほん》の|樹《き》と|鑿《のみ》と|山羊《やぎ》と|蜂《はち》とを|携《たづさ》へて、|穴《あな》の|中《なか》に|舞《ま》ひ|降《お》りました。|海《うみ》の|面《おもて》に|降《お》りつくと、|先《ま》づ|光《ひかり》を|呼《よ》んで、あたりを|包《つつ》んでゐる|闇《やみ》を|追《お》ひ|退《の》けました。それから|七本《ななほん》の|樹《き》で|筏《いかだ》を|造《つく》るために、|山羊《やぎ》と|蜂《はち》とに|樹《き》を|支《ささ》へさせて、|自《みづか》ら|鑿《のみ》を|揮《ふる》ひました。|筏《いかだ》が|出来上《できあが》ると、|持《も》つて|来《き》た|一握《ひとにぎ》りの|土《つち》をその|上《うへ》にまきました。|土《つち》は|見《み》る|間《あひだ》に|広《ひろ》がつて|大地《だいち》となりました。(スマトラ島のハイリ・バタク族)
|以上《いじやう》|古今《ここん》|東西《とうざい》|各国《かくこく》の、|天地開闢《てんちかいびやく》|宇宙《うちう》|創造《さうざう》の|説《せつ》は、|我《わが》|皇典《くわうてん》の|所伝《しよでん》の|外《ほか》は、|何《いづ》れも|荒唐無稽《くわうたうむけい》にして、|歯牙《しが》にかくるに|足《た》らざるを|知《し》るべし。|即《すなは》ち|宇宙《うちう》|創造《さうざう》は|夢中想像《むちうさうざう》にして|天地開闢《てんちかいびやく》は、|癲痴怪百《てんちくわいぴやく》なり。|我《わが》|説示《せつじ》する|天祥地瑞《てんしやうちずゐ》の|宇宙創造説《うちうさうざうせつ》や|天地開闢説《てんちかいびやくせつ》に|比《ひ》して、|天地霄壤《てんちせうじやう》の|差異《さい》あるを|玩味《ぐわんみ》すべきなり。
昭和八年十二月五日 旧十月十八日 於水明閣 口述者識
第一篇 |春風駘蕩《しゆんぷうたいたう》
第一章 |高宮参拝《たかみやさんぱい》〔一九一八〕
|紫微天界《しびてんかい》に|於《お》ける|神政樹立《しんせいじゆりつ》の|根元地《こんげんち》なる|高地秀《たかちほ》の|山《やま》の|山麓《さんろく》に、|宮柱太敷立《みやばしらふとしきた》て|高天原《たかあまはら》に|千木高知《ちぎたかし》りて、|四方《よも》に|輝《かがや》きたまふ|高地秀《たかちほ》の|宮《みや》|一名《いちめい》|東《ひがし》の|宮《みや》を|後《あと》にして、|思《おぼ》し|召《め》すことありとて、|太元顕津男《おほもとあきつを》の|神《かみ》は、|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》を|後《あと》に|残《のこ》し、|一柱《ひとはしら》の|供神《ともがみ》をも|連《つ》れ|給《たま》はず|立出《たちい》で|給《たま》ひければ、|茲《ここ》に|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》は|天津高宮《あまつたかみや》に|詣《まう》で|給《たま》ひて、|主《ス》の|大神《おほかみ》の|神宣《みことのり》を|乞《こ》ひ|給《たま》ひ、|宮《みや》の|司《つかさ》たるべき|神《かみ》を|降《くだ》し|給《たま》へと|祈《いの》らせ|給《たま》へば、|主《ス》の|大神《おほかみ》は、その|願事《ねぎごと》を|諾《うべな》ひ|給《たま》ひて、|茲《ここ》に|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》、|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》の|二柱《ふたはしら》を|降《くだ》し|給《たま》ひて、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なの|宮仕《みやづか》へを|言依《ことよ》さし|給《たま》ひしこそ|畏《かしこ》けれ。
|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》は|天津高宮《あまつたかみや》の|大前《おほまへ》に|願事《ねぎごと》|白《まを》し|給《たま》ふ、その|御言葉《みことば》。
『|久方《ひさかた》の|天津高宮《あまつたかみや》に|詣《まう》で|来《き》て
われはいのりぬ|禊《みそぎ》をさめて
|禊《みそぎ》してはろばろ|此処《ここ》に|八柱《やはしら》の
|女神《めがみ》は|真心《まごころ》ささげて|祈《いの》るも
|久方《ひさかた》の|天《あま》の|高地秀《たかちほ》の|宮司《みやづかさ》
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》を|守《まも》らせたまへ
|朝夕《あさゆふ》に|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|仕《つか》へつつ
なほ|真心《まごころ》の|足《た》らぬを|悔《く》ゆるも
|国土《くに》を|生《う》み|国魂神《くにたまがみ》を|生《う》まさむと
|出《い》でます|岐美《きみ》に|恙《つつが》あらすな
|天地《あめつち》の|中《なか》に|一人《ひとり》の|岐美《きみ》ゆゑに
われは|一入《ひとしほ》|恋《こ》ふしみおもふ
わが|岐美《きみ》は|何《いづ》れの|果《はて》にましますか
こころ|許《もと》なく|朝夕《あさゆふ》いのるも
|主《ス》の|神《かみ》の|恵《めぐみ》かしこし|二柱《ふたはしら》の
|宮居《みや》の|司《つかさ》をくだしたまひぬ
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》はかしこき|宮司《みやづかさ》
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》は|今《いま》より|栄《さか》えむ
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》の|面《おも》ざし|眺《なが》むれば
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》に|似《に》ましつるかも』
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は|答《いらへ》の|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|高野比女《たかのひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》の|御歌《みうた》|聞《き》きて
|足《た》らはぬ|吾《われ》を|恥《はづ》かしみおもふ
わが|力《ちから》|及《およ》ばざれども|村肝《むらきも》の
|心《こころ》をつくして|仕《つか》へまつらむ
|東《ひむがし》の|宮居《みや》に|今《いま》より|仕《つか》へむと
|思《おも》へばうれしこころ|栄《さか》ゆも
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|力《ちから》に|比《くら》ぶれば
|天《あめ》と|地《つち》との|差別《けぢめ》ありけり
|力《ちから》なき|吾《われ》にはあれど|真心《まごころ》の
あらむ|限《かぎ》りを|仕《つか》へむと|思《おも》ふ
|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》を|守《まも》りつつ
|東《ひむがし》の|宮居《みや》を|守《まも》りまつらむ
|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》を|主《あるじ》とし
|仕《つか》へむとおもふ|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを
|天地《あめつち》のあらむ|限《かぎ》りは|主《ス》の|神《かみ》の
|御樋代《みひしろ》なりと|思《おも》へばかしこし
|国土《くに》|未《いま》だ|稚《わか》かる|紫微《しび》の|天界《かみくに》に
|為《な》すべき|神業《みわざ》は|限《かぎ》りなく|多《おほ》し
|大宮居《おほみや》を|守《まも》りまつりて|主《ス》の|神《かみ》の
|神業《みわざ》に|仕《つか》ふとおもへば|楽《たの》し
|今日《けふ》よりは|吾《われ》をいたはり|給《たま》ひつつ
|仕《つか》はせたまへ|御樋代女神《みひしろめがみ》よ』
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|司《つかさ》の|添柱《そへばしら》と
|選《えら》まれし|吾《われ》の|今日《けふ》のうれしさ
|幾万里《いくまんり》|東《ひがし》の|国土《くに》の|高地秀《たかちほ》の
|宮居《みや》に|仕《つか》ふと|思《おも》へばいさまし
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へつつ
いざやすすまむ|東《ひがし》の|宮居《みや》に
|国土《くに》|稚《わか》き|紫微天界《しびてんかい》の|大宮居《おほみや》に
|仕《つか》ふるわが|身《み》の|魂《たま》は|栄《さか》えつ
|永久《とこしへ》の|栄《さか》えと|喜《よろこ》び|満《み》たせつつ
|進《すす》みて|行《ゆ》かむ|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に
|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》ははろばろと
これの|聖所《すがど》に|来《き》ませる|尊《たふと》さ
|優《やさ》しくて|雄々《をを》しくいます|八柱《やはしら》の
|御樋代神《みひしろがみ》は|御魂《みたま》ひかれり
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》は|光明《ひかり》と|現《あら》はれて
|四方《よも》の|雲霧《くもきり》|別《わ》け|明《あか》したまふ
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|仕《つか》へし|貴《うづ》の|宮居《みや》に
|仕《つか》ふるわれを|愧《は》づかしみおもふ
|光明《ひかり》なき|吾身《わがみ》ながらも|主《ス》の|神《かみ》の
|神言《みこと》なりせばかしこみ|仕《つか》へむ
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》を|補《たす》けて|八柱《やはしら》の
|御樋代神《みひしろがみ》に|仕《つか》へむとおもふ
|八柱《やはしら》の|御樋代比女神《みひしろひめがみ》|今日《けふ》よりは
わが|足《た》らはぬを|補《おぎな》ひ|給《たま》はれ』
|梅咲比女《うめさくひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|白梅《しらうめ》の|花《はな》|咲《さ》きにほふ|天界《かみくに》に
|生《うま》れしわれは|御樋代神《みひしろがみ》ぞや
|非時《ときじく》に|梅咲比女《うめさくひめ》の|神《かみ》なれば
|宮居《みやゐ》の|庭《には》を|清《きよ》め|仕《つか》へむ
|主《ス》の|神《かみ》の|恵《めぐ》み|畏《かしこ》し|二柱《ふたはしら》
|東《ひがし》の|宮居《みや》の|司《つかさ》たまひぬ
|果《はて》しなき|稚国原《わかくにはら》を|旅立《たびだ》たす
わが|岐美《きみ》の|上《へ》に|災《わざはひ》あらすな
|吾《わが》|岐美《きみ》は|光明《ひかり》の|神《かみ》にましませば
|醜《しこ》の|曲津《まがつ》もさやらざるべし
|岐美《きみ》|立《た》ちし|日《ひ》より|八年《やとせ》を|経《へ》につれど
|雁《かりがね》の|便《たよ》りだにも|聞《き》かなく
|吾《わが》|岐美《きみ》よ|何処《いづく》の|果《はて》にお|在《は》すらむ
こころ|許《もと》なく|朝夕《あさゆふ》をおもふ
|久方《ひさかた》の|天津高宮《あまつたかみや》の|清庭《すがには》に
|宣《の》る|言霊《ことたま》は|澄《す》みきらひたり
|言霊《ことたま》に|森羅万象《すべてのもの》は|生《うま》るなり
|唯《ただ》ままならぬは|岐美《きみ》の|水火《いき》なり
|凡神《ただがみ》の|誹《そし》りあざけり|思《おも》ひはかり
つれなく|岐美《きみ》は|出《い》でましにけり
|国魂《くにたま》の|神《かみ》を|生《う》まむと|朝夕《あさゆふ》に
|祈《いの》れど|甲斐《かひ》なし|水火《すいくわ》|合《あ》はねば
|徒《いたづら》に|若《わか》き|月日《つきひ》を|経《へ》ぬるかと
おもひて|朝夕《あさゆふ》われは|泣《な》くなり
いざさらば|此《これ》の|宮居《みやゐ》に|感謝言《ゐやひごと》
|白《まを》して|東《ひがし》の|宮居《みや》に|帰《かへ》らむ』
|香具比女《かぐひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》はいたづらに
|東《ひがし》の|宮居《みや》に|年《とし》を|経《へ》にけり
|主《ス》の|神《かみ》の|御前《みまへ》に|復命《かへりごと》|白《まを》すべき
|功績《いさ》なき|吾《われ》をかなしみ|思《おも》ふも
|雄心《をごころ》の|大和心《やまとごころ》を|奮《ふ》り|起《おこ》し
|想像妊娠《おもひはらま》む|岐美《きみ》の|御水火《みいき》を
|天《あめ》|高《たか》く|地《つち》また|広《ひろ》く|定《さだ》まりて
この|天界《かみくに》は|栄《さか》え|初《そ》めたり
|非時《ときじく》の|香具《かぐ》の|木《こ》の|実《み》より|生《あ》れしてふ
|御樋代《みひしろ》のわれ|世《よ》に|生《い》きて|淋《さび》しも
|水火《いき》の|限《かぎ》り|高地秀山《たかちほやま》の|神霊《しんれい》に
|仕《つか》へて|天界《みくに》を|照《て》らさむと|思《おも》ふ
|吾《わが》|岐美《きみ》の|光明《ひかり》を|御魂《みたま》に|充《み》たしつつ
|紫微天界《しびてんかい》を|明《あか》し|行《ゆ》くべし
|神《かみ》に|仕《つか》へ|岐美《きみ》を|偲《しの》びて|朝夕《あさゆふ》を
|高地秀《たかちほ》の|峰《みね》に|年《とし》|経《ふ》りにけり
|掛巻《かけまく》も|畏《かしこ》き|天津高宮《あまつたかみや》に
|別《わか》れて|言葉《ことば》|慎《つつし》み|宣《の》らむ
|宮司《みやつかさ》|二柱神《ふたはしらがみ》を|得《え》し|今日《けふ》は
|天地《あめつち》|開《ひら》けし|心地《ここち》するかも
|東《ひむがし》の|宮居《みや》に|帰《かへ》らむ|御樋代神《みひしろがみ》よ
これの|清庭《すがには》に|神楽《かぐら》をかなでよ』
|茲《ここ》に|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》は、|各《かく》|比女神《ひめがみ》の|神言《みこと》の|提言《ていげん》を|甚《いた》く|悦《よろこ》び|諾《うべな》ひたまひ、|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》、|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》|二柱神《ふたはしらがみ》に、|白幣《しろにぎて》|青幣《あをにぎて》|及《およ》び|二振《ふたふり》の|五百鳴《いほなり》の|鈴《すず》を|授《さづ》け|給《たま》へば、|二神《にしん》は|天津高宮《あまつたかみや》の|聖所《すがど》に|地《つち》|踏《ふ》み|鳴《な》らし、|白衣長袖《びやくえちやうしう》しとやかに|踊《をど》らせ|給《たま》へば、|八柱《やはしら》の|御樋代比女神《みひしろひめがみ》を|始《はじ》め、|天津高宮《あまつたかみや》に|仕《つか》へ|奉《まつ》る|百《もも》の|神達《かみたち》も|異口同音《いくどうおん》に|祝《いは》ひの|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
その|御歌《みうた》。
『|天晴《あは》れ|天晴《あは》れ|目出度《めでた》き|言《こと》のかぎりかも
タータータラリ タラリーラー アガリララーリトー チリーヤ タラリ ララリトー』
|茲《ここ》に|二柱《ふたはしら》の|宮司神《みやつかさがみ》は|大地《だいち》を|踏《ふ》みならし、|五百鳴《いほなり》の|鈴《すず》をさやさやに|響《ひび》かせ、|右手《めて》に|白幣《しろにぎて》|青幣《あをにぎて》を|打振《うちふ》り|給《たま》ひつつ|舞《ま》ひ|踊《をど》り|給《たま》へば、|百《もも》の|神等《かみたち》は|天地《あめつち》|一度《いちど》に|開《ひら》けし|心地《ここち》して、|歓《ゑら》ぎ|喜《よろこ》び|勇《いさ》み|給《たま》ふ。|百鳥《ももとり》は|微妙《びめう》の|声《こゑ》を|放《はな》ちて、|御神楽《みかぐら》の|拍子《ひやうし》に|和《わ》して、|弥々《いよいよ》|茲《ここ》に|天人和楽《てんじんわらく》の|境《きやう》を|現出《げんしゆつ》せり。|主《ス》の|大神《おほかみ》は|天津高宮《あまつたかみや》の|扉《とびら》を|内《うち》より|押《お》し|開《あ》け|給《たま》ひ、|此《こ》の|光景《くわうけい》を|御覧《みそな》はすこそ|畏《かしこ》けれ。
|茲《ここ》に|寿々子比女《すずこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》の|光明《ひかり》に|吾《われ》は|照《て》らされて
まなこくらみぬこの|清庭《すがには》に
|次々《つぎつぎ》に|吾《わが》|眼界《まなかひ》は|光《ひか》りつつ
|今日《けふ》の|祝《いは》ひの|神楽《かぐら》|見《み》しはや
|二柱《ふたはしら》|神《かみ》の|仕《つか》ふる|神楽《かぐら》の|舞《まひ》の
|清《すが》しき|姿《すがた》にとけ|入《い》りにける
|主《ス》の|神《かみ》も|諾《うべな》ひ|給《たま》ふか|御扉《みとびら》を
|細目《ほそめ》に|開《ひら》きて|覗《のぞ》かせ|給《たま》へり
|今日《けふ》よりは|東《ひがし》の|宮居《みや》も|賑《にぎは》しく
かがやきわたらむ|宮司《みやつかさ》を|得《え》て
わが|岐美《きみ》のいまさぬ|宮居《みや》の|淋《さび》しさも
わすれて|御苑《みその》の|神楽《かぐら》|見《み》しかや
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》と|依《よ》さし|給《たま》ひし|八柱《やはしら》の
|女神《めがみ》もいまだ|神業《みわざ》つかへず
|朝夕《あさゆふ》を|高地秀《たかちほ》の|宮《みや》の|清庭《すがには》に
|立《た》ちて|御空《みそら》の|月《つき》を|仰《あふ》ぎつ
|天《あま》|渡《わた》る|月《つき》の|鏡《かがみ》を|仰《あふ》ぎつつ
|岐美《きみ》の|安否《あんぴ》を|思《おも》ひわづらふ
|曇《くも》りたる|月《つき》をし|見《み》れば|一入《ひとしほ》に
|思《おも》ふは|岐美《きみ》の|上《うへ》なりにけり
|瑞々《みづみづ》しき|月《つき》の|鏡《かがみ》を|仰《あふ》ぐ|夜《よ》は
|岐美《きみ》の|御幸《みさち》を|思《おも》ひて|楽《たの》しむ
|我《わが》|岐美《きみ》は|遠《とほ》く|行《ゆ》きませども|仰《あふ》ぎ|見《み》る
|月《つき》の|姿《すがた》に|心《こころ》なぐさむ』
|宇都子比女《うづこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『はろばろと|東《ひがし》の|宮居《みや》を|立《た》ち|出《い》でて
|主《ス》の|神《かみ》います|宮居《みや》に|詣《まう》でつ
|西東《にしひがし》|皇大神《すめおほかみ》の|永久《とこしへ》に
|鎮《しづ》まりいます|宮居《みや》は|明《あき》らけし
|八柱《やはしら》の|御樋代比女神《みひしろひめがみ》ははろばろと
|今日《けふ》の|吉日《よきひ》を|西宮《みやゐ》に|詣《まう》でつ
|久方《ひさかた》の|天之道立神司《あめのみちたつかむつかさ》
|今日《けふ》の|神姿《すがた》の|荘厳《おごそか》なるも
|道立《みちたつ》の|神《かみ》|永久《とこしへ》に|仕《つか》へます
|天津高宮《あまつたかみや》の|荘厳《おごそか》なるも
|四方八方《よもやも》に|雲霧《くもきり》|立《た》ちし|稚国土《わかぐに》を
|固《かた》めむとして|岐美《きみ》は|出《い》でませり
|吾《われ》も|亦《また》|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|朝夕《あさゆふ》を
|仕《つか》へて|神《かみ》を|勇《いさ》めむとおもふ
|天界《てんかい》は|愛《あい》と|信《しん》との|神国《みくに》なれば
|真言《まこと》と|祈《いの》りを|要《かなめ》と|思《おも》へり
|天界《てんかい》に|住《す》みて|尊《たふと》き|神業《かむわざ》は
|厳《いづ》の|言霊《ことたま》と|禊《みそぎ》なりけり
|朝夕《あさゆふ》を|玉《たま》の|泉《いづみ》に|禊《みそぎ》して
|百神等《ももがみたち》の|幸《さち》を|祈《いの》らむ
|百鳥《ももどり》の|声《こゑ》も|爽《さや》かに|響《ひび》くなり
|天津高宮《あまつたかみや》の|庭《には》の|百樹《ももき》に
|昼月《ひるづき》の|光《かげ》ほのぼのと|見《み》えながら
|御空《みそら》にさやる|雲影《くもかげ》もなし
|主《ス》の|神《かみ》の|御水火《みいき》に|生《あ》れし|天津日《あまつひ》の
|光《ひかり》はますます|冴《さ》えわたりつつ
|天津日《あまつひ》は|光《ひかり》の|限《かぎ》りを|光《ひか》りつつ
われ|等《ら》の|暗《くら》き|魂《たま》を|照《てら》すも
|月《つき》も|日《ひ》も|並《なら》びてかがよふ|天界《かみくに》に
|仕《つか》へてわれは|何《なに》を|歎《なげ》かむ
|或《ある》は|盈《み》ち|或《ある》ひは|虧《か》くる|大空《おほぞら》の
|月《つき》に|悟《さと》りぬ|世《よ》のありさまを
|日《ひ》を|重《かさ》ねうつろひて|行《ゆ》く|月影《つきかげ》の
|定《さだ》まらぬ|世《よ》を|吾《われ》|悟《さと》りけるかも
いざさらば|二柱神《ふたはしらかみ》を|伴《ともな》ひて
|共《とも》に|帰《かへ》らむ|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》へ』
|狭別比女《さわけひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|有難《ありがた》し|天津高宮《あまつたかみや》の|清庭《すがには》に
|吾《われ》は|清《すが》しき|神楽《かぐら》|見《み》しはや
|天地《あめつち》も|一度《いちど》に|開《ひら》く|心地《ここち》して
この|清庭《すがには》に|神楽《かぐら》|見《み》しはや
|鈴《すず》の|音《ね》もいとさやさやに|響《ひび》かひつ
|紫微天界《しびてんかい》はいよよあかるし
|白梅《しらうめ》は|非時《ときじく》|香《かを》り|鶯《うぐひす》は
|弥生《やよひ》の|春《はる》をすがしくうたふ
|常磐樹《ときはぎ》の|松《まつ》の|梢《こずゑ》に|巣《す》ぐひたる
|鶴《つる》は|十二《じふに》の|卵《たまご》を|産《う》めり
|真鶴《まなづる》の|千歳《ちとせ》をうたふ|声《こゑ》の|色《いろ》の
すがしく|響《ひび》きて|栄《さか》ゆる|天界《みくに》よ
|我《わが》|岐美《きみ》の|行衛《ゆくゑ》は|今《いま》に|知《し》らねども
|御空《みそら》の|月《つき》を|仰《あふ》ぎてなぐさむ
|御空《みそら》|行《ゆ》く|月《つき》の|鏡《かがみ》の|清《きよ》き|夜《よ》は
|岐美《きみ》の|栄《さか》えを|思《おも》ひて|楽《たの》しむ
いざさらば|高日《たかひ》の|宮居《みや》を|拝《をろが》みて
いそぎ|帰《かへ》らむ|東《ひがし》の|宮居《みや》に
|久方《ひさかた》の|天之道立神司《あめのみちたつかむつかさ》
|厳《いづ》の|教《をしへ》はたふとかりけり
|厳御霊《いづみたま》|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御教《みをしへ》は
|世界《せかい》を|十字《じふじ》に|踏《ふ》みならす|太元《もと》かも
|火《ひ》と|水《みづ》と|土《つち》の|力《ちから》に|天界《かみくに》は
|今《いま》あきらけく|固《かた》まりにける』
|花子比女《はなこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|白梅《しらうめ》の|花《はな》の|粧《よそほ》ひ|眺《なが》むれば
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|岐美《きみ》のここちす
|非時《ときじく》に|匂《にほ》ふ|神苑《みその》の|百千花《ももちばな》も
|手折《たを》りささげむ|神《かみ》の|御前《みまへ》に
|白梅《しらうめ》の|一枝《ひとえ》を|手折《たを》りて|黒髪《くろかみ》の
|簪《かざし》となさばや|花子比女《はなこひめ》われは
|花《はな》の|香《かを》り|松《まつ》の|響《ひびき》も|清《すが》しけれ
|主《ス》の|神《かみ》います|宮居《みやゐ》の|庭《には》は
|東《ひむがし》の|宮居《みや》の|司《つかさ》を|伴《ともな》ひて
|歓《ゑら》ぎ|帰《かへ》らむ|日《ひ》とはなりけり
いざさらば|神《かみ》の|御前《みまへ》に|感謝言《ゐやひごと》
うまらにつばらに|宣《の》りて|帰《かへ》らむ
|高地秀《たかちほ》の|峰《みね》ははろけしさりながら
|駒《こま》の|蹄《ひづめ》のためらひもなし』
|小夜子比女《さよこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|瑞御霊《みづみたま》|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》を|出《い》でしより
|御樋代《みひしろ》われは|淋《さび》しく|年《とし》を|経《へ》し
|神《かみ》をあがめ|岐美《きみ》を|恋《こ》ひつつ|鶏《とり》の|尾《を》の
|長《なが》き|月日《つきひ》を|暮《く》れにけるかな
|高地秀《たかちほ》の|山《やま》の|松風《まつかぜ》|朝夕《あさゆふ》に
|響《ひび》けど|岐美《きみ》の|音信《おとづれ》はなし
|高地秀《たかちほ》の|峰《みね》の|尾《を》の|上《へ》に|見《み》る|月《つき》も
|変《かは》らず|思《おも》へばたふとかりける
|小夜《さよ》|更《ふ》けて|仰《あふ》ぐ|月光《つきかげ》|冴《さ》え|渡《わた》り
もの|言《い》はすげに|思《おも》はするかな
|月《つき》|見《み》れば|岐美《きみ》の|霊《たま》よと|思《おも》ひつつ
ながき|別《わか》れをなぐさめしはや
|久々《ひさびさ》にこの|高宮《たかみや》に|詣《まう》で|来《き》て
わが|魂線《たましひ》はよみがへりつつ
|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》は|朝夕《あさゆふ》を
|睦《むつ》み|和《なご》みて|宮居《みや》に|仕《つか》へつ
|怨《うら》み|妬《ねた》みなき|真心《まごころ》に|仕《つか》へ|行《ゆ》く
|宮居《みや》の|聖所《すがど》に|雲霧《くもきり》もなし
いざさらば|主《ス》の|大神《おほかみ》に|拝礼《ゐやひ》して
はろばろ|東《ひがし》の|宮居《みや》に|帰《かへ》らな』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》の|宮居《みや》に|始《はじ》めて|詣《まう》でけり
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》にあるここちして
|真心《まごころ》を|筑紫《つくし》の|宮居《みや》の|清庭《すがには》に
|国土《くに》の|始《はじ》めの|神楽《かぐら》|見《み》しはや
|西《にし》の|宮居《みや》|筑紫《つくし》の|宮居《みや》は|主《ス》の|神《かみ》の
|光明《ひかり》も|一入《ひとしほ》つよかりにける
|御樋代神《みひしろがみ》と|選《えら》まれし|吾《われ》はためらはず
|岐美《きみ》のみあとをまぎて|行《ゆ》くべし
いたづらに|待《ま》ちて|月日《つきひ》を|送《おく》るよりも
すすみて|行《ゆ》かむ|御子生《みこう》みの|旅《たび》に
|主《ス》の|神《かみ》の|御前《みまへ》に|誓《ちか》ひ|白《まを》すべし
われは|進《すす》みて|神業《みわざ》に|仕《つか》へむ
いざさらば|筑紫《つくし》の|宮居《みや》を|後《あと》にして
ともに|帰《かへ》らむ|東《ひがし》の|宮居《みや》へ』
|各《かく》|神々《かみがみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ひつつ、|大御前《おほみまへ》に|御声《みこゑ》も|爽《さや》けく|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|天津高宮《あまつたかみや》に|仕《つか》へます|百神等《ももがみたち》に|別《わか》れを|告《つ》げ、|各自《おのもおのも》|天《あめ》の|斑駒《ふちこま》の|背《せ》に|跨《またが》り、|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》をさして|急《いそ》がせ|給《たま》ふぞ|畏《かしこ》けれ。
(昭和八・一二・五 旧一〇・一八 於水明閣 森良仁謹録)
第二章 |魔《ま》の|渓流《けいりう》〔一九一九〕
ここに|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》は|遥々《はるばる》と|天津高宮《あまつたかみや》に|打《う》ち|集《つど》ひ、|祈願《きぐわん》をこらすべく|上《のぼ》らせ|給《たま》ひ、|主《ス》の|大神《おほかみ》の|神言《みこと》もちて、|高地秀《たかちほ》の|宮《みや》の|神司《かむつかさ》として|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》、|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》の|二柱《ふたはしら》を|授《さづ》けられ、いそいそとして|白馬《しらこま》に|跨《またが》り、|蹄《ひづめ》の|音《おと》も|勇《いさ》ましく、|高地秀《たかちほ》の|宮《みや》をさして|帰《かへ》らせ|給《たま》ひつつ、|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は|行進歌《かうしんか》をうたはせ|給《たま》ふ。
『|主《ス》の|大神《おほかみ》の|神言《みこと》もて
|八柱神《やはしらがみ》を|守《まも》りつつ
|紫微天界《しびてんかい》の|真秀良場《まほらば》に
そそり|立《た》ちたる|高地秀《たかちほ》の
|神《かみ》の|御山《みやま》の|麓《ふもと》なる
|高地秀宮《たかちほみや》に|仕《つか》へむと
|神《かみ》の|心《こころ》に|任《まか》せつつ
|進《すす》み|行《ゆ》くこそ|楽《たの》しけれ
|御空《みそら》にかかる|月光《つきかげ》も
|天津陽光《あまつひかげ》も|清《きよ》らかに
|雲霧《くもきり》|晴《は》れて|天地《あめつち》は
|常世《とこよ》の|春《はる》を|歌《うた》ふなり
|百《もも》の|木草《きぐさ》は|芳《かむ》ばしき
|香《かを》りを|放《はな》ち|種々《くさぐさ》の
|艶《えん》を|競《きそ》へる|花《はな》は|咲《さ》き
げに|楽《たの》もしき|国原《くにはら》や
|小鳥《ことり》はうたひ|蝶《てふ》は|舞《ま》ふ
|紫微天界《しびてんかい》の|真秀良場《まほらば》に
|神《かみ》の|神言《みこと》を|蒙《かか》ぶりて
|百神等《ももがみたち》と|諸共《もろとも》に
|進《すす》まむ|道《みち》にさやるべき
|醜《しこ》の|曲津見《まがつみ》もあらざらむ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|万里《ばんり》の|山坂《やまさか》のり|越《こ》えて
|吾《われ》は|堂々《どうどう》|進《すす》むなり
わが|乗《の》る|駒《こま》は|貴《うづ》の|駒《こま》
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》を|鬣《たてがみ》に
|右《みぎ》と|左《ひだり》に|分《わ》けながら
|嘶《いなな》き|強《つよ》く|駆《か》け|出《い》だす
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|今日《けふ》の|旅路《たびぢ》のいさましさ』
|斯《か》く|歌《うた》ひつつ|進《すす》み|給《たま》ふや、|行手《ゆくて》に|横《よこた》はる|川底《かはそこ》|深《ふか》き|溪流《けいりう》、|如何《いか》なる|神馬《しんめ》も|越《こ》ゆるあたはず。|西岸《せいがん》の|断崖絶壁《だんがいぜつぺき》を|打《う》ち|眺《なが》めながら、|各自《おのもおのも》|駒《こま》の|背《せ》を|下《お》り|岸辺《きしべ》に|立《た》ちて|休《やす》らひ|乍《なが》ら、この|溪川《たにがは》を|如何《いか》にして|越《こ》えむかと|語《かた》り|合《あ》ひ|給《たま》ひぬ。|八柱《やはしら》の|比女神《ひめがみ》|天津高宮《あまつたかみや》に|詣《まう》で|給《たま》ひし|行手《ゆくて》の|道《みち》には、かかる|深《ふか》き|溪川《たにがは》あらざりしに、|帰《かへ》り|路《ぢ》に|当《あた》りて|同《おな》じ|道筋《みちすぢ》に、かかる|危険《きけん》の|溪流《けいりう》|横《よこた》はるは、|大曲津見《おほまがつみ》の|神《かみ》の|神業《みわざ》をさまたげむとしての|奸計《わるだくみ》ならむ。|心《こころ》を|清《きよ》め|身《み》を|清《きよ》め、|静《しづか》に|生言霊《いくことたま》を|宣《の》り|上《あ》げて、この|溪川《たにがは》を|遠《とほ》き|彼方《かなた》の|海《うみ》に|退《しりぞ》けやらむと、|先《ま》づ|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》は|生言霊《いくことたま》の|御歌《みうた》を|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》の|神言《みこと》|畏《かしこ》み|吾《われ》|伊行《いゆ》く
|道《みち》にさやらむ|神《かみ》はあるべき
|明《あき》らけき|紫微天界《しびてんかい》の|国中《くになか》に
さやる|曲津《まがつ》はかならず|亡《ほろ》びむ
|隠《かく》れ|忍《しの》びいたづらを|為《な》す|醜神《しこがみ》の
|御魂《みたま》あらはさむわが|言霊《ことたま》に
さやります|神《かみ》は|大蛇《をろち》か|醜神《しこがみ》か
|姿《すがた》あらはせわが|目《め》のまへに
|滝津瀬《たきつせ》の|吠《ほ》ゆるが|如《ごと》く|響《ひび》くなる
この|溪川《たにがは》は|大蛇《をろち》の|化身《けしん》よ
|長々《ながなが》と|果《は》てしも|知《し》らぬ|溪川《たにがは》の
|流《なが》れはいたく|濁《にご》らへるかな
|果《は》てしなきこの|天界《てんかい》の|中《なか》にして
|小《ちひ》さき|曲《まが》のすさびおそれむや
|曲津見《まがつみ》の|醜《しこ》の|猛《たけ》びの|強《つよ》くとも
いかで|恐《おそ》れむ|神《かみ》なるわれは
|八十曲津見《やそまがつみ》|如何《いか》にすさぶとも|猛《たけ》るとも
|生言霊《いくことたま》の|水火《いき》にはかなはじ
|吾《わが》|進《すす》む|道《みち》にさやらむものあらば
|真言《まこと》の|剣《つるぎ》もちてはふらむ
いすくはし|神《かみ》の|依《よ》さしの|御樋代《みひしろ》と
まけられし|吾《われ》の|道《みち》を|開《ひら》けよ
|木《き》も|草《くさ》も|神《かみ》の|教《をしへ》になびく|世《よ》を
など|曲神《まがかみ》の|道《みち》にさやれる
|敷島《しきしま》の|大和心《やまとごころ》の|太刀《たち》もちて
|斬《き》りてはふらむ|八十曲津見《やそまがつみ》を
|千早振《ちはやぶ》る|神《かみ》の|依《よ》さしの|吾《われ》なれば
|安《やす》く|渡《わた》らむ|溪川《たにがは》うづめて
|西《にし》の|宮居《みや》に|詣《まう》でで|帰《かへ》る|道《みち》しばに
さやりけるかな|曲津《まがつ》の|神《かみ》は
|久方《ひさかた》の|天《あめ》の|高地秀宮《たかちほみや》に|仕《つか》ふ
|司《つかさ》の|出《い》でましよ|恐《おそ》れ|畏《かしこ》め
|御樋代《みひしろ》と|神《かみ》の|依《よ》さしの|八柱《やはしら》を
|未《いま》だ|知《し》らずや|曲津見《まがつみ》|汝《なれ》は
いみじくも|流《なが》るる|深《ふか》き|溪川《たにがは》の
|水瀬《みなせ》を|止《と》めて|吾《われ》|渡《わた》らばや
|吾《わが》|駒《こま》はたてがみふるひ|嘶《いなな》きぬ
これの|溪川《たにがは》やすく|渡《わた》らむと
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|出《い》でまし|知《し》らざるか
|八十曲津見《やそまがつみ》の|神《かみ》のおろかさ
|黒雲《くろくも》の|中《なか》にかくるる|曲津見《まがつみ》の
|今《いま》にほろびむ|時《とき》は|来《き》にける
|主《ス》の|神《かみ》の|造《つく》り|給《たま》ひし|天界《かみくに》よ
|曲津《まがつ》の|神《かみ》の|棲《す》まむ|道《みち》なし
|月《つき》も|日《ひ》も|御空《みそら》に|輝《かがや》き|給《たま》ひつつ
|吾等《われら》が|行手《ゆくて》を|守《まも》らせ|給《たま》へ
|奴婆玉《ぬばたま》の|闇《やみ》を|晴《は》らして|厳御霊《いづみたま》
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》はかがやきたまへり
|伏《ふ》して|見《み》つ|仰《あふ》ぎては|見《み》つ|天地《あめつち》の
くしき|姿《すがた》にわれはかしこむ
むらむらと|溪川《たにがは》|深《ふか》く|湧《わ》き|立《た》てる
|雲《くも》にひそめる|八十曲津見《やそまがつみ》よ
|湯気《ゆげ》の|如《ごと》|烟《けむり》の|如《ごと》く|立《た》ち|昇《のぼ》る
|雲《くも》の|姿《すがた》のあやしきろかも
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|功《いさを》に|曲津見《まがつみ》の
さまたげ|払《はら》ひて|吾《われ》は|進《すす》まむ
|選《えら》まれて|御樋代神《みひしろがみ》となりし|吾《われ》は
|醜《しこ》の|雲霧《くもきり》いかでおそれむ
|穢《けが》れたる|水火《いき》|集《あつま》りて|曲津見《まがつみ》と
なる|魂《たましひ》をあはれとおもふ
せせらぎの|音《おと》|高々《たかだか》と|聞《きこ》ゆなり
|溪《たに》のながれは|巌《いはほ》を|噛《か》みて
|手《て》を|打《う》ちて|天津真言《あまつまこと》の|神言《かみごと》を
|曲津見《まがつみ》の|為《ため》に|宣《の》り|上《あ》げて|見《み》む
ねもごろに|説《と》き|諭《さと》せども|曲津見《まがつみ》の
|心《こころ》はますますくもるのみなる
|平《たひら》けくいと|安《やす》らけき|天国《かみくに》の
|道《みち》にさやれる|曲津見《まがつみ》あはれ
|眼《め》に|見《み》ゆるものことごとは|主《ス》の|神《かみ》の
|水火《いき》より|出《い》でしみたまものなる
|笑《ゑ》み|栄《さか》え|喜《よろこ》び|勇《いさ》みて|暮《くら》すべき
|紫微天界《しびてんかい》にさやる|曲津見《まがつみ》よ
|遠《とほ》き|近《ちか》き|差別《けぢめ》も|知《し》らに|守《まも》ります
|神《かみ》の|光《ひか》りを|知《し》らずや|曲津見《まがつみ》
|鬼《おに》|大蛇《をろち》|醜《しこ》の|曲津見《まがつみ》もことごとく
|神《かみ》の|水火《いき》より|生《うま》れたるはや
|村肝《むらきも》の|心《こころ》|洗《あら》ひて|道《みち》を|行《ゆ》く
|御樋代神《みひしろがみ》を|通《とほ》せ|曲津見《まがつみ》
そば|立《だ》てるこの|溪川《たにがは》の|高岸《たかぎし》に
|行《ゆ》きなづみつつ|神言《かみごと》|宣《の》るも
|伴《ともな》ひし|御樋代神《みひしろがみ》はことごとく
|言霊《ことたま》きよき|神柱《みはしら》の|神《かみ》よ
|野《の》も|山《やま》も|紫《むらさき》の|雲《くも》ただよへる
|紫微天界《しびてんかい》よ|退《しりぞ》け|曲津見《まがつみ》
ほのぼのと|紫《むらさき》の|雲《くも》|立《た》ち|昇《のぼ》る
この|天界《てんかい》は|神《かみ》ます|神苑《みその》よ
もろもろの|曲津見《まがつみ》ここに|集《あつま》りて
|深溪川《ふかたにがは》と|横《よこ》たはるかも
よしやよし|此《この》|川岸《かはぎし》は|高《たか》くとも
|生言霊《いくことたま》にうづめて|行《ゆ》かむ
|治《をさ》まりて|日々《ひび》に|栄《さか》ゆる|天界《てんかい》を
|乱《みだ》さむとする|曲津見《まがつみ》あはれ』
この|御歌《みうた》に|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は、この|溪川《たにがは》こそ|八十曲津見《やそまがつみ》の|化身《けしん》なりてふことを|早《はや》くも|悟《さと》らせ|給《たま》ひ、|生言霊《いくことたま》の|限《かぎ》りをつくし、『ウーウーウー』と|唸《うな》り|出《い》で|給《たま》へば、|如何《いかが》はしけむ、|深溪川《ふかたにがは》の|溪水《たにみづ》は|真綿《まわた》をちぎりたる|如《ごと》き|雲《くも》、|次《つ》ぎ|次《つ》ぎに|湧《わ》き|出《い》でて|天《てん》に|冲《ちう》し、|風《かぜ》になびきて|東《ひがし》の|空《そら》さして|幾百千《いくひやくせん》ともなき|雲片《くもきれ》は、|風《かぜ》のまにまに|立《た》ち|去《さ》りにける。
|八十曲津見《やそまがつみ》の|深《ふか》き|溪流《けいりう》は、|次第々々《しだいしだい》にふくれ|上《あが》りて、またたく|間《うち》に|平地《へいち》となり|変《かは》りたれば、|百神等《ももがみたち》は|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|功績《いさをし》に|舌《した》を|巻《ま》き、|感歎《かんたん》の|余《あま》り|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
|梅咲比女《うめさくひめ》の|神《かみ》の|御歌《みうた》。
『|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|神言《みこと》の|功績《いさをし》に
|曲《まが》の|溪川《たにがは》|消《き》え|失《う》せにける
|曲津見《まがつみ》は|雲霧《くもきり》となり|川底《かはそこ》ゆ
|立《た》ち|昇《のぼ》りつつ|逃《に》げ|去《さ》りしはや
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|御水火《みいき》に|曲津見《まがつみ》は
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》りにける
|雲《くも》となり|霞《かすみ》となりて|曲津見《まがつみ》は
ほろび|行《ゆ》きけむ|東《ひがし》の|空《そら》に
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|生《あ》れます|高地秀《たかちほ》の
|宮居《みや》は|今日《けふ》よりやすけかるらむ
|曲津見《まがつみ》の|雄猛《をたけ》び|如何《いか》に|強《つよ》くとも
|何《なに》かおそれむ|言霊《ことたま》の|水火《いき》に
|紫微《しび》の|宮居《みや》に|神言《かみごと》|宣《の》りて|帰《かへ》るさの
|道《みち》にさやりし|曲津見《まがつみ》あはれ
|曲津見《まがつみ》は|生言霊《いくことたま》に|照《て》らされて
|雲《くも》となりつつ|逃《に》げうせにける』
|香具比女《かぐひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|曲津見《まがつみ》の|奸計《たくみ》の|深《ふか》き|溪川《たにがは》も
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》に|消《き》え|失《う》せにけり
|神々《かみがみ》は|栄《さか》えをよろこび|曲津見《まがつみ》は
|亡《ほろ》びを|唯一《ゆいつ》の|楽《たの》しみとなすも
|深溪川《ふかたにがは》|包《つつ》みし|雲《くも》も|滝津瀬《たきつせ》も
ウの|言霊《ことたま》にほろび|失《う》せける
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|神言《みこと》の|功績《いさをし》に
|烟《けむり》となれる|曲津見《まがつみ》あはれ
|天地《あめつち》の|一度《いちど》に|開《ひら》きし|心地《ここち》せり
|曲津《まが》の|奸計《たくみ》の|幕《まく》はやぶれて』
|寿々子比女《すずこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》と|仕《つか》へし|始《はじ》めより
かかるためしは|見《み》ざりけるかも
|曲津見《まがつみ》は|深溪川《ふかたにがは》と|身《み》を|変《へん》じ
わが|行《ゆ》く|道《みち》をさへぎりしはや
|穢《けが》れなきこの|天界《かみくに》にも|斯《かく》の|如《ごと》
|曲業《まがわざ》ありとは|知《し》らざりにけり
|束《つか》の|間《ま》も|心《こころ》|許《ゆる》せぬ|天界《かみくに》と
つくづく|思《おも》へり|魔《ま》の|溪川《たにがは》を|見《み》て
|今日《けふ》よりは|瑞《みづ》の|御霊《みたま》を|恨《うら》むまじ
いづれも|神《かみ》の|御心《みこころ》なりせば
|我《わが》|岐美《きみ》のつれなき|心《こころ》を|恨《うら》みてし
|妾《わらは》は|今更《いまさら》はづかしくなりぬ
よしやよしこのまま|天界《みくに》に|老《お》ふるとも
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》は|永久《とは》に|恨《うら》まじ
|日《ひ》に|夜《よる》に|心《こころ》くるしめ|給《たま》ひつつ
|岐美《きみ》は|万里《ばんり》の|旅《たび》に|立《た》たせり
|行《ゆ》く|先《さ》きに|八十曲津見《やそまがつみ》の|災《わざはひ》を
|切《き》り|抜《ぬ》け|進《すす》ます|岐美《きみ》は|畏《かしこ》き』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|永久《とこしへ》に|仕《つか》へ|奉《まつ》ると|思《おも》ひてし
|岐美《きみ》は|万里《ばんり》の|旅《たび》にいませり
|幾万里《いくまんり》|山野《やまぬ》を|渉《わた》り|西《にし》の|宮《みや》に
|詣《まう》でて|心《こころ》あらたまりしはや
|曲津見《まがつみ》の|深《ふか》き|奸計《たくみ》にかからむと
せし|今日《けふ》の|日《ひ》にたすけられにき
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|功《いさを》のいまさずば
この|溪川《たにがは》は|消《き》えざらましを
|曲津見《まがつみ》の|醜《しこ》の|大蛇《をろち》の|姿《すがた》なれや
|道《みち》にさやりし|深溪川《ふかたにがは》は
|何事《なにごと》も|神《かみ》の|御心《みこころ》と|悟《さと》りつつ
をりをりくもる|心《こころ》はづかし
|駒《こま》|止《と》めて|息《いき》を|休《やす》めつ|曲津見《まがつみ》の
|化身《けしん》の|溪川《たにがは》を|望《のぞ》みけるはや
|山《やま》となり|溪川《たにがは》となり|巌《いは》となり
|八十曲津見《やそまがつみ》は|真道《まみち》にさやるも
この|上《うへ》は|言霊《ことたま》みがき|禊《みそぎ》して
|神《かみ》の|大道《おほぢ》をひたに|進《すす》まむ
|我《わが》|岐美《きみ》を|恋《こ》ひつ|恨《うら》みつあこがれつ
|経《へ》にし|月日《つきひ》は|雲《くも》となりけり
|吾《わが》|思《おも》ひ|雲《くも》と|湧《わ》き|立《た》ち|霧《きり》と|燃《も》えて
|天津月日《あまつつきひ》をつつまひてゐし
|主《ス》の|神《かみ》の|清《きよ》き|光《ひかり》にあてられて
われは|心《こころ》の|雲《くも》をはらひぬ
ねたみたる|心《こころ》の|雲《くも》も|晴《は》れ|行《ゆ》きて
|胸《むね》にかがやく|月日《つきひ》の|御光《みひかり》
|大空《おほぞら》の|月日《つきひ》をうつして|吾《わが》|胸《むね》は
|鏡《かがみ》のごとくかがよひにけり
|草《くさ》も|木《き》も|天津神国《あまつみくに》をゑらぐ|世《よ》に
|如何《いか》でなげかむ|小《ちひ》さき|事《こと》に
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》にまけられ|村肝《むらきも》の
|心《こころ》にくもりありしを|悔《く》ゆるも
|我《わが》|岐美《きみ》の|吾等《われら》を|見捨《みす》てて|出《い》でましし
まことの|心《こころ》を|今《いま》さとりけり
|吾《わが》|心《こころ》|曇《くも》らひあれば|水火《いき》と|水火《いき》
|交《か》はさむ|術《すべ》もなかりけらしな
|我《わが》|岐美《きみ》を|恨《うら》むるよりも|吾《わが》|心《こころ》の
くもりしを|先《ま》づ|恨《うら》むべかりし』
|宇都子比女《うづこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|非時《ときじく》の|香具《かぐ》の|木《こ》の|実《み》に|生《あ》れながら
わが|魂線《たましひ》はくもりてありき
くもりたる|心《こころ》|抱《いだ》きて|御樋代《みひしろ》と
おごりし|事《こと》を|今更《いまさら》|悔《く》ゆるも
|山《やま》に|野《の》に|花《はな》は|匂《にほ》へど|百鳥《ももとり》は
うたへど|春《はる》の|心地《ここち》せざりき
|掛巻《かけまく》も|綾《あや》に|尊《たふと》き|高地秀《たかちほ》の
|宮居《みや》を|穢《けが》せしわれなりにけり
|宇都比女《うづひめ》の|貴《うづ》の|御名《みな》さへ|恥《はづか》しも
くもり|穢《けが》れし|神魂《みたま》いだきて
くもりたる|心《こころ》の|魂《たま》を|洗《あら》はむと
この|溪川《たにがは》は|生《な》り|出《い》でにけむ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》に|曲津見《まがつみ》|住《す》まひつつ
|吾《わが》|行《ゆ》く|道《みち》をさへぎりにけむ
|曲神《まがかみ》の|仇《あだ》とし|思《おも》はず|吾《わが》|魂《たま》の
くもりゆ|生《あ》れし|深溪川《ふかたにがは》よ
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|生言霊《いくことたま》に|驚《おどろ》きて
ふるひをののき|曲《まが》は|出《い》でけり
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|宣《の》らせる|言霊《ことたま》に
|身《み》も|魂線《たましひ》もをののきにけり
|今日《けふ》よりは|元《もと》つ|心《こころ》に|立《た》ち|帰《かへ》り
|禊《みそぎ》の|神事《わざ》につかへまつらむ』
|狭別比女《さわけひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|幾年《いくとせ》か|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|仕《つか》へつつ
なほわが|魂線《たましひ》のくもり|去《さ》らずも
わが|岐美《きみ》を|恋《こ》ふる|心《こころ》の|重《かさ》なりて
|神魂《みたま》も|水火《いき》もくもらひしはや
|村肝《むらきも》の|心《こころ》を|清《きよ》め|今日《けふ》よりは
まごころもちて|神《かみ》に|仕《つか》へむ
|何事《なにごと》も|神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《かむわざ》と
|思《おも》へば|岐美《きみ》を|恨《うら》まむすべなし
|道立《みちたつ》の|神《かみ》の|姿《すがた》の|尊《たふと》さを
|仰《あふ》ぎて|一入《ひとしほ》|岐美《きみ》をおもふも
|久方《ひさかた》の|天之道立《あめのみちたつ》の|神柱《かむばしら》
いとおごそかに|笑《ゑ》ませ|給《たま》ひぬ
|道立《みちたつ》の|神《かみ》にも|増《ま》して|我《わが》|岐美《きみ》の
|気高《けだか》さ|思《おも》へば|堪《た》へやらぬかも
|堪《た》へがたき|心《こころ》おさへて|年月《としつき》を
|仕《つか》ふる|身《み》こそ|苦《くる》しかりける
|悔《くや》みてもかへらぬ|事《こと》とは|知《し》りながら
をりをり|悲《かな》しくなりにけらしな
|山川《やまかは》は|清《きよ》くさやけく|百鳥《ももとり》の
|声《こゑ》は|澄《す》めどもさみしかりける
さみしてふ|心《こころ》の|曇《くも》り|晴《は》れにけり
|今日《けふ》の|生日《いくひ》は|胸《むね》さえにつつ』
|花子比女《はなこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|野《の》に|山《やま》に|百花《ももばな》|千花《ちばな》|匂《にほ》へども
われ|美《うるは》しと|思《おも》はざりけり
|吾《わが》|心《こころ》ねぢり|曲《まが》りてひたすらに
|岐美《きみ》の|上《うへ》のみ|恨《うら》みてしはや
わが|岐美《きみ》は|万里《ばんり》の|外《そと》の|旅枕《たびまくら》
|天界《みくに》|造《つく》るとなやみたまはむ
|安《やす》らかに|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|仕《つか》へつつ
なやみの|岐美《きみ》をうらみけるはや
|岐美《きみ》こそは|顕津男《あきつを》の|神《かみ》|国土《くに》を|生《う》み
|国魂《くにたま》|生《う》ます|神柱《みはしら》なりし
|朝夕《あさゆふ》に|岐美《きみ》のつれなき|心根《こころね》を
|恨《うら》みまつりし|吾《われ》はづかしき
|日並《けなら》べて|旅《たび》に|立《た》ちつつ|思《おも》ふかな
|果《は》てしも|知《し》らぬ|岐美《きみ》のみゆきを
|澄《す》みきりし|紫微天界《しびてんかい》の|中《なか》に|生《うま》れ
|何《なに》を|歎《なげ》かむ|御樋代神《みひしろがみ》われは
|善《よし》と|悪《あし》|楽《たの》しみと|苦《くる》しみ|行《ゆ》き|交《ちが》ふ
|紫微天界《しびてんかい》はありがたかりけり
|災《わざはひ》に|遇《あ》ひて|真言《まこと》の|喜《よろこ》びを
つぶさに|悟《さと》る|天界《かみよ》なりけり
|喜《よろこ》びになるればまことの|喜《よろこ》びも
|余《あま》り|楽《たの》しと|思《おも》はざりける
|安《やす》らけき|月日《つきひ》|過《すご》せし|吾《われ》にして
|神世《みよ》を|歎《なげ》きしことを|悔《く》ゆるも
|喜《よろこ》びと|苦《くる》しみ|互《たがひ》に|行《ゆ》き|交《か》ひて
|世《よ》は|永久《とこしへ》に|栄《さか》ゆべかりけり』
|小夜子比女《さよこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|小夜衣《さよごろも》|重《かさ》ぬる|暇《ひま》もあらなくに
|岐美《きみ》は|立《た》たせり|長《なが》き|旅路《たびぢ》を
|御子生《みこう》みの|旅《たび》に|立《た》たせる|我《わが》|岐美《きみ》の
|悩《なや》み|思《おも》ひてわれは|泣《な》くなり
わが|涙《なみだ》|天《てん》に|昇《のぼ》りて|雲《くも》となり
|雨《あめ》と|降《ふ》りつつ|岐美《きみ》に|注《そそ》がむ
|岐美《きみ》が|行《ゆ》く|旅《たび》なる|国《くに》の|春雨《はるさめ》は
|日夜《にちや》になげきしわが|涙《なみだ》かも
|恋《こひ》すてふ|心《こころ》の|雲《くも》に|包《つつ》まれて
|魂《たま》のゆくへも|知《し》らず|乱《みだ》れし
いざさらば|百神等《ももがみたち》よ|駒《こま》|並《な》めて
|東《ひがし》の|宮《みや》に|進《すす》ませたまへ
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|功《いさを》に|曲津見《まがつみ》の
|影《かげ》は|失《う》せつつやすく|通《かよ》はむ』
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》を|守《まも》りつつ
|魔《ま》の|溪川《たにがは》に|突《つ》きあたりける
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|功《いさを》を|今更《いまさら》に
さとりて|心《こころ》かしこみしはや
|高野比女《たかのひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》のさとき|目《め》に
|曲津《まがつ》はすがたを|現《あら》はせしはや
|駿馬《はやこま》は|嘶《いなな》き|初《そ》めたりいざさらば
|百神《ももがみ》たちよ|鞍《くら》に|召《め》しませ
|曲神《まがかみ》は|行手《ゆくて》の|道《みち》にさやるとも
いかで|恐《おそ》れむ|言霊《ことたま》の|武器《ぶき》に』
ここに|一行《いつかう》の|神々《かみがみ》は、|天《あめ》の|駿馬《はやこま》にひらりと|跨《またが》り、|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》を|駒《こま》のたてがみに|切《き》り|分《わ》けつつ、|鈴《すず》の|音《ね》も|勇《いさ》ましく、|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》を|先頭《せんとう》に、|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》を|殿《しんが》りとして、|高地秀《たかちほ》の|宮《みや》の|聖場《せいぢやう》さして|進《すす》ませ|給《たま》ふぞ|畏《かしこ》けれ。
(昭和八・一二・五 旧一〇・一八 於水明閣 谷前清子謹録)
第三章 |行進歌《かうしんか》〔一九二〇〕
|八十曲津見《やそまがつみ》の|神《かみ》は、|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》|一行《いつかう》が|行手《ゆくて》を|妨《さまた》げむとして、|底《そこ》ひも|知《し》れぬ|深溪川《ふかたにがは》と|身《み》を|変《へん》じさやり|居《ゐ》たりけるが、|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》の|烱眼《けいがん》に|看破《かんぱ》され、|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|生言霊《いくことたま》に|打《う》たれて、|忽《たちま》ち|煙散霧消《えんさんむせう》の|体《てい》たらくとなり、|風《かぜ》のまにまに|東《ひがし》の|空《そら》|高《たか》く|逃《に》げ|去《さ》りければ、|一行《いつかう》|十柱《とはしら》の|神《かみ》は|駿馬《はやこま》に|鞭《むち》うち、|大野ケ原《おほのがはら》を|御歌《みうた》うたひつつ|東《ひがし》をさして|進《すす》ませ|給《たま》ふ。
|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》の|御歌《みうた》。
『|高天原《たかあまはら》に|舞《ま》ひ|上《のぼ》り
|天津高宮《あまつたかみや》に|詣《まう》でつつ
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|大神言《おほみこと》
かかぶりまつりて|一同《いちどう》は
|心《こころ》の|駒《こま》を|立《た》て|直《なほ》し
|今迄《いままで》なやみし|村肝《むらきも》の
わが|魂線《たましひ》は|晴《は》れにつつ
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》を|先頭《せんとう》に
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》|伴《ともな》ひて
|東《ひがし》の|宮居《みや》に|帰《かへ》りゆく
|紫微天界《しびてんかい》の|大野原《おほのはら》
|清《きよ》くさやけく|澄《す》みきらひ
|林《はやし》に|囀《さへづ》る|百鳥《ももどり》の
|声《こゑ》も|清《すが》しく|響《ひび》きつつ
|百草千草《ももぐさちぐさ》は|咲《さ》き|匂《にほ》ひ
|根本《ねもと》にすだく|虫《むし》の|音《ね》は
|天界《みくに》の|春《はる》をうたふなり
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》も|爽《さわや》かに
|吾等《われら》が|面《おも》を|撫《な》ででゆく
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|今日《けふ》の|旅路《たびぢ》の|楽《たの》しけれ
これに|引《ひ》き|替《か》へ|瑞御霊《みづみたま》
わが|背《せ》の|神《かみ》は|曲津見《まがつみ》の
|伊猛《いたけ》りくるふ|荒野原《あらのはら》
|夜《よ》を|日《ひ》についで|進《すす》みつつ
|百《もも》の|悩《なや》みを|浴《あ》びながら
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御依《みよ》さしの
|神業《みわざ》に|仕《つか》へ|給《たま》ふべく
|進《すす》ませ|給《たま》ふ|雄々《をを》しさよ
|吾等《われら》は|女神《めがみ》の|身《み》なりせば
|四季《しき》の|花《はな》|咲《さ》く|高地秀《たかちほ》の
|安《やす》き|聖所《すがど》に|仕《つか》へつつ
|月日《つきひ》を|仇《あだ》におくらむや
|再《ふたた》び|天津高宮《あまつたかみや》の
|主《ス》の|大神《おほかみ》のみことのり
|承《うけたま》はりて|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|空《そら》は|晴《は》れ|渡《わた》り
いよいよ|聖地《せいち》を|守《まも》らむと
|万里《ばんり》の|駒《こま》に|跨《また》がりて
|帰《かへ》らむ|路《みち》をあら|不思議《ふしぎ》
|八十曲津見《やそまがつみ》は|千丈《せんぢやう》の
|深溪川《ふかたにがは》と|身《み》を|変《へん》じ
|吾等《われら》が|行手《ゆくて》をさへぎりつ
|横《よこた》はれるぞいまはしき
ここにウ|声《ごゑ》の|言霊《ことたま》ゆ
なり|出《い》で|給《たま》ひし|鋭敏鳴出《うなりづ》の
|神《かみ》の|言霊《ことたま》|勇《いさ》ましく
|打《う》ち|出《い》で|給《たま》へば|曲神《まがかみ》は
|怪《あや》しき|雲《くも》と|身《み》を|変《へん》じ
|西《にし》|吹《ふ》く|風《かぜ》にまくられて
|東《ひがし》の|空《そら》にはかなくも
|消《き》え|失《う》せたるぞ|面白《おもしろ》き
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|東《ひがし》の|宮居《みや》の|聖所《すがどこ》に
|心《こころ》を|清《きよ》め|身《み》を|清《きよ》め
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|禊《みそぎ》して
|岐美《きみ》の|御幸《みさち》を|祈《いの》りつつ
|仕《つか》へまつらむ|楽《たの》しさよ』
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》うたひ|給《たま》ふ。
『|主《ス》の|大神《おほかみ》の|神言《みこと》もて
|天津高宮《あまつたかみや》|大前《おほまへ》を
|謹《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|畏《かしこ》みて
|御樋代神《みひしろがみ》を|守《まも》りつつ
|万里《ばんり》の|荒野《あらの》を|打《う》ちわたり
いよいよ|此処《ここ》に|来《き》て|見《み》れば
|邪気《じやき》かたまりて|曲津見《まがつみ》と
なり|出《い》で|雲霧《くもきり》わかしつつ
|深溪川《ふかたにがは》と|身《み》を|変《へん》じ
|吾等《われら》が|行手《ゆくて》をさへぎりぬ
|高野《たかの》の|比女《ひめ》はすばしくも
|曲津《まが》の|正体《しやうたい》|看破《みやぶ》らし
|生言霊《いくことたま》を|宣《の》りませば
|実《げ》にもとわれは|驚《おどろ》きて
ウの|言霊《ことたま》のある|限《かぎ》り
|金剛力《こんがうりき》を|発揮《はつき》して
|貴《うづ》の|言霊《ことたま》|宣《の》りつれば
|流石《さすが》の|曲津見《まがつみ》|怖《お》ぢ|恐《おそ》れ
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》りぬ
そのたまゆらに|溪川《たにがは》は
|跡《あと》かたもなく|消《き》え|失《う》せて
|草《くさ》|莽々《ばうばう》と|生《は》えにつつ
|百花《ももばな》|千花《ちばな》|咲《さ》き|満《み》ちて
|虫《むし》のなく|音《ね》もさやさやに
|天界《みくに》の|春《はる》となりにけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|生言霊《いくことたま》の|幸《さちは》ひに
わが|行《ゆ》く|道《みち》は|平《たひら》けく
いと|安《やす》らけく|開《ひら》かれて
|跨《またが》る|駒《こま》も|勇《いさ》ましく
|蹄《ひづめ》を|揃《そろ》へて|嘶《いなな》きつ
|果《は》てなき|野辺《のべ》を|進《すす》むなり
|行手《ゆくて》に|如何《いか》なる|曲津見《まがつみ》の
さやりて|災《わざはひ》なすとても
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|賜《たま》ひてし
|生言霊《いくことたま》の|幸《さちは》ひに
|汝《な》が|神等《かみたち》をやすやすと
|東《ひがし》の|宮居《みや》におくるべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|守《まも》りの|強《つよ》ければ
|御樋代神《みひしろがみ》|等《たち》|心安《うらやす》く
|思召《おぼしめ》しませ|鋭敏鳴出《うなりづ》の
|神《かみ》は|真心《まごころ》|照《て》らしつつ
ここに|所信《しよしん》を|宣《の》べまつる
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|馬上《ばじやう》|豊《ゆたか》に|歌《うた》はせ|給《たま》ふ。
『われ|等《ら》は|神《かみ》に|選《えら》まれて
|御樋代神《みひしろがみ》となりながら
|心《こころ》は|曇《くも》り|魂《たま》ねぢけ
|生言霊《いくことたま》の|濁《にご》らへば
|御子《みこ》|産《う》む|神業《わざ》にふさはずと
|百神達《ももがみたち》の|嘲《あざけ》りを
|怨《うら》みし|事《こと》の|恥《はづ》かしき
|太元顕津男《おほもとあきつを》の|神《かみ》は
|弱《よわ》き|心《こころ》は|持《も》たさねど
|百神等《ももがみたち》の|嘲《あざけ》りを
|五月蠅《うるさ》く|思《おぼ》し|召《め》しまして
しばしためらひ|給《たま》ひつつ
|御樋代神《みひしろがみ》の|魂線《たましひ》の
ひたに|曇《くも》れる|有様《ありさま》を
|窺《うかが》ひ|知《し》りていち|早《はや》く
|東《ひがし》の|宮居《みや》を|出《い》で|立《た》たし
|彼方此方《あなたこなた》に|間配《まくば》れる
|八十比女神《やそひめがみ》に|見合《みあ》ひして
|国魂神《くにたまがみ》を|生《う》まさむと
|心《こころ》の|駒《こま》に|鞭《むち》うちて
|出《い》で|立《た》ち|給《たま》ひし|畏《かしこ》さよ
|吾等《われら》|御樋代神《みひしろがみ》|等《たち》は
|岐美《きみ》の|無情《むじやう》を|怨《うら》みつつ
ただ|徒《いたづら》に|月《つき》と|日《ひ》を
|疎《うと》みかこちて|過《す》ぎにけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|心《こころ》も|白雲《しらくも》の
|空《そら》にさまよふ|如《ごと》くなり
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御光《みひかり》に
|照《て》らされ|今日《けふ》よりわが|魂《たま》は
|月日《つきひ》の|如《ごと》く|輝《かがや》きて
|心《こころ》にひそむ|曲神《まがかみ》の
|在処《ありか》を|隈《くま》なく|悟《さと》りたり
そも|天界《てんかい》の|要《かなめ》なる
|神業《みわざ》といふは|言霊《ことたま》の
|水火《いき》を|清《きよ》めて|澄《す》みきらし
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|禊《みそぎ》して
|愛《あい》と|信《しん》との|道《みち》|守《まも》り
|真心《まごころ》こめて|大神《おほかみ》に
|仕《つか》ふるよりは|外《ほか》になし
かくも|悟《さと》りし|上《うへ》からは
|主《ス》の|大神《おほかみ》も|怨《うら》むまじ
|岐美《きみ》の|無情《むじやう》もかこつまじ
|心《こころ》|平《たひら》に|安《やす》らかに
|八咫《やあた》の|鏡《かがみ》と|澄《す》みきりて
この|天界《てんかい》に|永久《とこしへ》に
|仕《つか》へまつらむ|真心《まごころ》を
いよいよ|今日《けふ》は|固《かた》めたり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|守《まも》りの|深《ふか》くあれ
|恩頼《みたまのふゆ》の|幸《さき》くあれ』
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》は、|馬上《ばじやう》|豊《ゆたか》に|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|筑紫《つくし》の|宮居《みや》を|立《た》ち|出《い》でて
|紫微天界《しびてんかい》の|旅枕《たびまくら》
|御樋代神《みひしろがみ》の|御尾前《みをさき》を
|守《まも》り|仕《つか》へて|今《いま》|此処《ここ》に
いそいそ|進《すす》み|来《き》て|見《み》れば
|言霊《ことたま》|穢《けが》れ|固《かた》まりて
|八十《やそ》の|曲津見《まがつみ》|生《うま》れ|出《い》で
|深溪川《ふかたにがは》と|身《み》を|変《へん》じ
|吾等《われら》が|旅《たび》ゆく|道《みち》の|辺《べ》を
さへぎりゐたるゆゆしさに
ウ|声《ごゑ》に|生《うま》れし|神柱《かむばしら》
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は|奮《ふる》ひ|起《た》ち
|力《ちから》|限《かぎ》りに|言霊《ことたま》を
|天地《てんち》も|破《わ》れよと|宣《の》り|給《たま》ふ
|強《つよ》き|御稜威《みいづ》に|辟易《へきえき》し
|八十《やそ》の|曲津《まがつ》は|忽《たちま》ちに
|雲《くも》と|変《へん》じて|空《そら》|高《たか》く
|風《かぜ》のまにまに|散《ち》り|失《う》せぬ
ああ|惟神《かむながら》|言霊《ことたま》の
|水火《いき》の|力《ちから》の|尊《たふと》さよ
|吾等《われら》は|未《いま》だ|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|曇《くも》り|晴《は》れざれば
|如何《いか》に|言霊《ことたま》|宣《の》るとても
|草木《くさき》の|梢《こずゑ》ゆるぐより
|外《ほか》に|功《いさを》は|無《な》かりける
|結《むす》びの|水火《いき》の|清《きよ》まりし
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》のけなげにも
|宣《の》り|上《あ》げ|給《たま》ふ|言霊《ことたま》は
わが|魂線《たましひ》の|底《そこ》までも
|沁《し》みわたりつつ|天地《あめつち》に
ひそめる|曲《まが》のかげもなく
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》りぬ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|今日《けふ》より|心《こころ》を|改《あらた》めて
|生言霊《いくことたま》を|研《と》ぎすませ
|東《ひがし》の|宮居《みや》に|朝夕《あさゆふ》を
|仕《つか》へまつりて|天界《かみくに》の
|神業《みわざ》に|仕《つか》へ|百神《ももがみ》の
|日々《ひび》の|幸《さち》をば|祈《いの》るべし
|駒《こま》は|勇《いさ》みて|鬣《たてがみ》を
|前後左右《ぜんごさいう》に|振《ふ》りながら
|花《はな》|咲《さ》く|野辺《のべ》をしやんしやんと
|進《すす》み|行《ゆ》くこそ|楽《たの》しけれ
わが|行《ゆ》く|先《さき》は|遥《はろか》なり
|行手《ゆくて》に|如何《いか》なる|曲神《まがかみ》の
さやらむ|例《ためし》ありとても
|言霊《ことたま》|清《きよ》き|鋭敏鳴出《うなりづ》の
|神《かみ》の|先頭《せんとう》に|立《た》ちまさば
|吾等《われら》は|何《なん》の|怖《おそ》れなく
|従《したが》ひゆくこそ|畏《かしこ》けれ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|天界《みくに》の|旅《たび》に|幸《さち》あれよ
|天界《みくに》の|旅《たび》に|幸《さち》あれよ』
ここに|香具比女《かぐひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|見渡《みわた》せば|大野《おほの》の|奥《おく》に|雲《くも》たちて
|御空《みそら》の|月《つき》はかくろひにけり
|昼月《ひるづき》のかげを|包《つつ》みし|黒雲《くろくも》は
|曲津見《まがつみ》の|水火《いき》の|凝《こ》れるなるらむ
|吾《わが》|駒《こま》は|勇《いさ》み|進《すす》めど|大空《おほぞら》の
|月日《つきひ》の|光《かげ》はうすらぎにつつ
|曲神《まがかみ》は|行手《ゆくて》にさやり|居《を》るならむ
|天地《あめつち》にはかに|曇《くも》らひにけり
|高野比女《たかのひめ》の|御後《みあと》に|従《したが》ひわれは|今《いま》
|大野《おほの》の|旅《たび》を|続《つづ》けけるかも
|曲津見《まがつみ》は|深溪川《ふかたにがは》と|変《へん》じつつ
わが|行《ゆ》く|道《みち》にさやりけるかな
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|言霊《ことたま》|幸《さち》はひて
|雲《くも》となりつつ|曲津《まが》は|失《う》せけり
|主《ス》の|神《かみ》の|神言《みこと》を|受《う》けて|帰《かへ》りゆく
|道《みち》にさやりし|曲津《まが》ぞ|忌々《ゆゆ》しき』
|梅咲比女《うめさくひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》うたひ|給《たま》ふ。
『|十柱《とはしら》の|神《かみ》の|乗《の》らせる|白駒《しらこま》の
|蹄《ひづめ》の|音《おと》のいさましきかも
|地《つち》|稚《わか》き|荒野ケ原《あらのがはら》を|渉《わた》りゆく
|駒《こま》の|蹄《ひづめ》はふかく|残《のこ》れり
|駒《こま》|並《な》めて|東《ひがし》の|宮居《みや》に|帰《かへ》りゆく
わが|旅立《たびだ》ちの|幸《さき》かれと|祈《いの》る
わが|行《ゆ》かむ|道《みち》をさへぎり|曲津見《まがつみ》は
|深溪川《ふかたにがは》となりて|居《ゐ》しはや
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|生言霊《いくことたま》にやらはれて
あはれ|曲津《まがつ》は|消《き》え|失《う》せにけり
|山《やま》も|野《の》も|一度《いちど》に|暗《くら》くなりにけり
|月日《つきひ》を|包《つつ》みし|醜《しこ》の|黒雲《くろくも》に
この|辺《あた》り|曲神等《まがかみたち》は|黒雲《くろくも》の
|網《あみ》を|張《は》りつつ|悩《なや》むるなるらむ
とにもあれかくにもあれや|言霊《ことたま》の
|水火《いき》を|続《つづ》けて|聖所《すがど》に|帰《かへ》らむ』
|寿々子比女《すずこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|雲《くも》の|幕《まく》|十重《とへ》に|二十重《はたへ》に|包《つつ》むとも
|何《なに》か|怖《おそ》れむ|神《かみ》に|在《あ》る|身《み》は
|主《ス》の|神《かみ》とともにある|身《み》の|今日《けふ》の|旅《たび》
さやらむものは|亡《ほろ》びゆくべし
|十柱《とはしら》の|神《かみ》の|出《い》で|立《た》ちさやらむと
|待《ま》ち|佗《わ》ぶるならむ|曲津見《まがつみ》の|神《かみ》は
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|神言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|吾等《われら》は|聖所《すがど》に|帰《かへ》りゆくなり
さまざまの|奸計《たくみ》の|罠《わな》を|張《は》るとても
|破《やぶ》りて|進《すす》まむ|言霊《ことたま》の|水火《いき》に
|天界《てんかい》は|愛《あい》と|信《しん》との|神国《みくに》なれば
|虚偽《きよぎ》は|許《ゆる》さじ|悪《あく》はゆるさじ
|曲神《まがかみ》は|偽《うそ》を|誠《まこと》とかまへつつ
|真言《まこと》の|神《かみ》にさやらむとすも
|浅《あさ》ましき|心《こころ》なるかも|曲津見《まがつみ》の
|奸計《たくみ》のわざは|忽《たちま》ち|破《やぶ》れぬ』
|宇都子比女《うづこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》に|守《まも》られゆく|道《みち》に
さやらむ|曲津見《まがつみ》はなしと|思《おも》へり
|曲津見《まがつみ》の|災《わざはひ》|如何《いか》に|強《つよ》くとも
ウの|言霊《ことたま》にひらき|進《すす》まむ
われも|亦《また》ウ|声《ごゑ》になりし|女神《めがみ》なれば
|曲津《まが》の|奸計《たくみ》を|如何《いか》で|怖《おそ》れむ
|大空《おほぞら》の|月日《つきひ》をのみし|黒雲《くろくも》は
|八十曲津見《やそまがつみ》の|姿《すがた》なりける
|大空《おほぞら》を|封《ふう》じて|八十《やそ》の|曲津見《まがつみ》は
|月日《つきひ》の|光《かげ》をさへぎりてをり
|待《ま》てしばし|貴《うづ》の|言霊《ことたま》|宣《の》り|上《あ》げて
|醜《しこ》の|黒雲《くろくも》|四方《よも》に|散《ち》らさむ
わが|伊行《いゆ》く|道《みち》の|傍《かた》へに|百千花《ももちばな》
|咲《さ》きにほひつつ|春《はる》|栄《さか》えけり
|春《はる》の|野《の》に|駒《こま》を|並《なら》べて|進《すす》みゆく
わが|旅立《たびだ》ちを|勇《いさ》ましく|思《おも》ふ
|鳥《とり》うたひ|胡蝶《こてふ》は|舞《ま》へる|春《はる》の|野《の》を
|駒《こま》を|並《なら》べて|伊行《いゆ》くたのしさ
|曲津見《まがつみ》の|奸計《たくみ》たくみし|深溪川《ふかたにがは》も
|生言霊《いくことたま》に|消《き》え|失《う》せにけり
わが|伊行《いゆ》く|道《みち》にさやらむ|曲津《まが》あらば
|駒《こま》の|蹄《ひづめ》に|蹶散《けち》らし|進《すす》まむ』
|狭別比女《さわけひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『はろばろと|遠野《とほの》の|旅《たび》を|続《つづ》けつつ
|日々《ひび》に|聖所《すがど》に|近《ちか》づく|楽《たの》しさ
|吹《ふ》く|風《かぜ》もいと|軟《やはら》かに|百鳥《ももとり》の
|声《こゑ》はさやけく|澄《す》みわたる|春《はる》
|大空《おほぞら》をつつみし|醜《しこ》の|黒雲《くろくも》も
おちつかぬがにたち|迷《まよ》ひつつ
|科戸辺《しなどべ》の|神《かみ》の|御水火《みいき》の|幸《さち》はひて
|吹《ふ》き|散《ち》らすらむ|黒雲《くろくも》の|幕《まく》を
|山《やま》となり|溪川《たにがは》となり|雲《くも》となり
|曲津見《まがつみ》は|行手《ゆくて》にさやらむとすも
|恐《おそ》るべきもの|一《ひと》つなき|天界《かみくに》に
|生《い》きてはたらく|身《み》は|楽《たの》しけれ
|万世《よろづよ》の|末《すゑ》の|末《すゑ》まで|語《かた》り|伝《つた》へ
|御稜威《みいづ》|照《て》らさむ|言霊《ことたま》の|旅《たび》を
|瑞御霊《みづみたま》|万里《ばんり》の|旅《たび》に|立《た》たせども
|月《つき》をし|見《み》れば|淋《さび》しからずも
わが|岐美《きみ》の|御霊《みたま》こもりし|月光《つきかげ》を
つつみし|雲《くも》の|憎《にく》らしきかも
|狭別比女《さわけひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》の|言霊《ことたま》に
|御空《みそら》の|雲霧《くもきり》さわけ|散《ち》らさむ』
|斯《か》くうたひ|給《たま》へば、|科戸《しなど》の|神《かみ》も|諾《うべな》ひ|給《たま》ひけむ、|科戸辺《しなどべ》の|風《かぜ》|俄《にはか》に|吹《ふ》き|出《い》でて、|四方八方《よもやも》に|雲霧《うんむ》を|吹《ふ》き|散《ち》らし、さしもの|黒雲《くろくも》は|跡《あと》かたもなく|消《き》え|失《う》せにける。
この|状《さま》を|眺《なが》めて|花子比女《はなこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|狭別比女《さわけひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》の|言霊《ことたま》に
|御空《みそら》の|雲《くも》は|散《ち》り|失《う》せしはや
|久方《ひさかた》の|空《そら》の|黒雲《くろくも》|散《ち》りにつつ
|月日《つきひ》の|神《かみ》はかがやき|給《たま》へり
|地《ち》の|上《うへ》に|咲《さ》き|足《た》らひたる|百花《ももばな》も
|笑《ゑ》まひ|顔《がほ》なり|月日《つきひ》をがみて
|百鳥《ももとり》の|声《こゑ》もさやかに|聞《きこ》ゆなり
|御空《みそら》の|雲《くも》の|吹《ふ》き|散《ち》りしより
|天界《かみくに》の|旅《たび》をつづくる|白駒《しらこま》の
|蹄《ひづめ》の|音《おと》も|冴《さ》えわたりつつ
|野辺《のべ》を|吹《ふ》く|風《かぜ》さへ|薫《かを》る|春《はる》の|日《ひ》を
|駒《こま》を|並《なら》べて|進《すす》む|楽《たの》しさ』
|小夜子比女《さよこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|科戸辺《しなどべ》の|風《かぜ》に|散《ち》りにし|黒雲《くろくも》は
|巌《いはほ》となりて|道《みち》にさやらむ
|散《ち》りはてし|雲《くも》は|彼方《かなた》の|大空《おほぞら》に
|伊寄《いよ》り|集《つど》ひて|峰《みね》となりつつ
もうもうと|湧《わ》き|立《た》ち|湧《わ》き|立《た》ち|雲《くも》の|峰《みね》と
なりて|行手《ゆくて》にさやる|曲津見《まがつみ》
|曲津見《まがつみ》の|猛《たけ》びは|如何《いか》に|強《つよ》くとも
|駒《こま》の|蹄《ひづめ》にかけて|進《すす》まむ
|美《うるは》しき|清《きよ》き|天界《みくに》の|中《なか》にして
|由々《ゆゆ》しきかもよ|曲津見《まがつみ》の|猛《たけ》びは
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|功《いさを》に|村肝《むらきも》の
|心《こころ》はつよく|太《ふと》らひにけり
わが|心《こころ》ふくれひろごり|天地《あめつち》に
|充《み》ち|足《た》らひつつ|勇《いさ》みけるはや
この|上《うへ》は|如何《いか》なる|曲津《まが》のさやるとも
|何《なに》かおそれむ|神《かみ》にあるわれは』
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|高野比女《たかのひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》に|従《したが》ひて
ゆく|天界《かみくに》の|旅《たび》は|楽《たの》しも
|曲神《まがかみ》の|隙《すき》をねらへるこの|旅《たび》も
|生言霊《いくことたま》に|安《やす》く|進《すす》まむ
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|功《いさを》に|曲神《まがかみ》は
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|失《う》せにけり
|梅咲比女《うめさくひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》の|幸《さち》はひに
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》も|香《かむ》ばしきかな
|香具比女《かぐひめ》の|御魂《みたま》|幸《さち》はひ|非時《ときじく》に
|香具《かぐ》の|木《こ》の|実《み》の|香《かを》りこそすれ
|寿々子比女《すずこひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》の|言霊《ことたま》に
|澄《す》み|清《きよ》まりぬこの|天地《あめつち》は
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》は|面勝神《おもかつかみ》にして
またも|射向《いむか》ふ|神《かみ》にましける
|宇都子比女《うづこひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》は|言霊《ことたま》も
いと|美《うるは》しく|冴《さ》え|渡《わた》りけり
|狭別比女《さわけひめ》|神《かみ》の|言霊《ことたま》|幸《さち》はひて
|御空《みそら》の|雲《くも》は|吹《ふ》き|散《ち》りにける
|花子比女《はなこひめ》|生言霊《いくことたま》の|幸《さち》はひに
|百《もも》の|木草《きぐさ》は|花《はな》|満《み》ちにけり
|小夜子比女《さよこひめ》|宣《の》らせる|稜威《いづ》の|言霊《ことたま》に
|真昼《まひる》の|月《つき》はあらはれにける』
|斯《か》くの|如《ごと》く、|神々《かみがみ》は|各自《おのもおのも》に|御歌《みうた》うたはせ|給《たま》ひつつ、|馬上《ばじやう》ゆたかに|揺《ゆ》られながら|春風《はるかぜ》|渡《わた》る|大野ケ原《おほのがはら》を、|夜《よ》を|日《ひ》についで|進《すす》ませ|給《たま》ふ。
(昭和八・一二・五 旧一〇・一八 於水明閣 林弥生謹録)
第四章 |怪《あや》しの|巌山《いはやま》〔一九二一〕
|八十曲津見《やそまがつみ》の|神《かみ》は、|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|生言霊《いくことたま》にうたれて、|雲霧《くもきり》となり、|西《にし》|吹《ふ》く|風《かぜ》にあふられて、|一度《ひとたび》は|東《ひがし》の|御空《みそら》|遥《はる》かに|逃《に》げ|失《う》せたれども、ここに|再《ふたた》び|陣容《ぢんよう》を|立《た》て|直《なほ》し、|飽《あ》くまでも|神《かみ》の|神業《みわざ》にさやらむと、|古綿《ふるわた》をちぎりたる|如《ごと》く、|雲《くも》を|次々《つぎつぎ》|吐《は》き|出《い》だし、|幾千丈《いくせんぢやう》とも|限《かぎ》りなく|重《かさな》り|合《あは》せて、|遂《つひ》には|天《てん》を|貫《つらぬ》く|大巨巌《だいきよがん》となり、|蜿蜒《えんえん》|数百里《すうひやくり》にまたがる|巌骨《いはほね》の|山《やま》を|築《きづ》き|上《あ》げ、その|前面《ぜんめん》に|千尋《ちひろ》の|深《ふか》き|溪川《たにがは》をつくりて、|一歩《いつぽ》も|進《すす》ましめざらむとし、|力《ちから》を|尽《つく》すこそ|忌々《ゆゆ》しけれ。
ここに、|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》|一行《いつかう》は、|駒《こま》の|轡《くつわ》を|並《なら》べて、|夜《よ》を|日《ひ》についで|進《すす》ませ|給《たま》ふ|折《をり》しもあれ、|前途《ぜんと》に|横《よこた》はる|思《おも》ひがけなき|巌山《いはやま》に、|行手《ゆくて》を|遮《さへぎ》られ、|暫《しば》し|思案《しあん》にくれ|給《たま》ひけるが、ここに|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は、|曲津見《まがつみ》の|醜《しこ》の|雄猛《をたけ》びものものしやと|宣《の》りつつ、かたへの|千引巌《ちびきいは》を、|頭上《づじやう》|高《たか》くさし|上《あ》げながら、「うん」と|一声《ひとこゑ》、|深溪川《ふかたにがは》の|巌ケ根《いはがね》に|向《むか》つて|打《う》ちつけ|給《たま》へば、|巌《いは》と|巌《いは》とは|相摩《あひま》して、|迸《ほとばし》り|出《い》でたる|火《ひ》の|光《ひかり》に、|曲津神《まがつかみ》は|驚《おどろ》きて、さしもに|堅《かた》き|巌山《いはやま》も、どよめきそめつ|梢《やや》|後方《しりへ》に|退《しりぞ》きにける。
|紫微天界《しびてんかい》に|於《お》ける、|火《ひ》の|生《うま》れ|出《い》でしは、|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|巌投《いはな》げによりて|始《はじ》まれるなり。|曲津見《まがつみ》の|神《かみ》は|激《はげ》しく|飛《と》び|出《い》でし|火《ひ》の|光《ひかり》に、|驚《おどろ》きて|肝《きも》を|冷《ひや》し、|今《いま》までの|勇気《ゆうき》はどこへやら、|数百里《すうひやくり》にまたがる|巌山《いはやま》も、|次第々々《しだいしだい》に|影《かげ》うすらぎ、|遂《つひ》には|白雲《はくうん》となりて、|御空《みそら》|遠《とほ》く|消《き》え|失《う》せたるぞ|不思議《ふしぎ》なれ。
|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》はこの|態《さま》を|見《み》て、|感嘆《かんたん》のあまり|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|功《いさを》に|生《あ》れ|出《い》でし
|火《ひ》は|曲神《まがかみ》を|追《お》ひ|散《ち》らしける
|巌骨《ロツキー》の|山《やま》と|変《へん》じて|曲神《まがかみ》は
わが|行先《ゆくさき》をさへぎりしはや
|千引巌《ちびきいは》の|摩擦《まさつ》によりて|現《あら》はれし
|炎《ほのほ》はすべてを|焼《や》きつくすらむ
|天界《てんかい》に|始《はじ》めて|見《み》たる|火《ひ》の|光《ひかり》
|四方《よも》を|照《て》らして|曲《まが》をやらへり
|巌ケ根《いはがね》ゆ|火《ひ》の|出《い》づること|悟《さと》りけり
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|神業《みわざ》によりて』
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|曲神《まがかみ》は|巌骨《ロツキー》の|山《やま》と|変《へん》じつつ
|行手《ゆくて》にさやれど|何《なに》か|恐《おそ》れむ
|巌《いは》と|巌《いは》の|軋《きし》りて|生《あ》れし|火《ひ》の|神《かみ》の
|功《いさを》たふとくわれをろがみぬ
|谷底《たにそこ》に|散《ち》りたる|火花《ひばな》に|怖《お》ぢ|恐《おそ》れ
ときはの|巌山《いはやま》も|崩《くづ》れ|初《そ》めたり
|堅磐常磐《かきはときは》の|巌《いはほ》の|山《やま》と|見《み》ゆれども
|雲《くも》と|雲《くも》とのかたまりなるも
アオウエイ|生言霊《いくことたま》を|宣《の》りあげて
この|巌山《いはやま》を|雲《くも》と|散《ち》らさむ』
かく|歌《うた》ひつつ、|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は、|声《こゑ》も|朗《ほがら》かに|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『アオウエイ|天津真言《あまつまこと》の|言霊《ことたま》に
|巌骨山《ロツキーさん》は|跡《あと》なく|消《き》えむ
カコクケキ|輝《かがや》き|渡《わた》る|大空《おほぞら》の
|天津日光《あまつひかげ》に|亡《ほろ》びよ|曲津見《まがつみ》
サソスセシ
さやりたる|醜《しこ》の|曲津見《まがつみ》の|曲業《まがわざ》も
|生言霊《いくことたま》の|水火《いき》に|消《き》えなむ
タトツテチ
たつくもの|重《かさな》り|合《あ》ひて|巌《いは》となりし
|曲津《まが》の|山《やま》をば|崩《くづ》してや|見《み》む
ナノヌネニ
ながながと|広野《ひろの》の|中《なか》に|尾《を》をひきし
この|巌山《いはやま》もいまに|消《き》えなむ
ハホフヘヒ|空《そら》|吹《ふ》く|風《かぜ》の|功績《いさをし》に
|雲《くも》と|散《ち》るべしこの|巌山《いはやま》も
マモムメミ
|曲津見《まがつみ》の|醜《しこ》の|猛《たけ》びの|深《ふか》くとも
われには|言霊剣《ことたまつるぎ》ありけり
ヤヨユエイ
|八十曲津見《やそまがつみ》|力《ちから》の|限《かぎ》りさやるとも
|如何《いか》で|悩《なや》まむ|神《かみ》なるわれは
ワヲウヱヰ
わくらはに|力《ちから》あつめて|生《な》り|出《い》でし
|曲《まが》の|巌山《いはやま》いまに|砕《くだ》かむ
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百千万《ももちよろづ》の|神《かみ》|守《まも》らせたまへ』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|給《たま》ふや、|蜿蜒《ゑんえん》として|幾百里《いくひやくり》にわたりたる|巌骨《ロツキー》の|山《やま》も、|次第々々《しだいしだい》に|煙《けむり》となりて|砕《くだ》けつつ、|風《かぜ》のまにまに|散《ち》り|行《ゆ》くぞ|愉快《ゆくわい》なれ。
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》はこの|態《さま》を|見《み》て、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|天晴《あは》れ|天晴《あは》れ|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|功績《いさをし》に
|醜《しこ》の|巌山《いはやま》|早《は》や|崩《くづ》れたり
|曲神《まがかみ》の|奸計《たくみ》の|深溪川《ふかたにがは》さへも
|底《そこ》あせにつつかくろひにけり
|天地《あめつち》の|中《なか》に|生《うま》れて|主《ス》の|神《かみ》の
|恵《めぐ》みを|知《し》らぬ|曲津神《まがつかみ》はも
|火《ひ》の|神《かみ》の|在処《ありか》を|始《はじ》めて|悟《さと》りけり
|巌《いは》と|巌《いは》との|中《なか》にいますを
|曲神《まがかみ》の|醜《しこ》のとりでを|亡《ほろ》ぼさむ
ためには|強《つよ》き|力《ちから》の|火《ひ》なるよ
あらがねの|地《つち》にも|火《ひ》にも|神《かみ》ますと
われは|始《はじ》めて|悟《さと》らひしはや
|曲神《まがかみ》は|火《ひ》の|御光《みひかり》に|怖《お》ぢ|恐《おそ》れ
|雲《くも》の|彼方《かなた》に|影《かげ》をかくせり
かくのごと|力《ちから》の|限《かぎ》りを|集《あつ》めたる
|曲《まが》の|仕組《しぐみ》の|山《やま》は|崩《くづ》れぬ
|言霊《ことたま》の|水火《いき》に|生《うま》れし|天界《かみくに》に
|尊《たふと》きものは|言霊《ことたま》なるかも
|何一《なにひと》つ|武器《ぶき》は|持《も》たねど|言霊《ことたま》の
|水火《いき》の|剣《つるぎ》に|守《まも》られ|行《ゆ》かむ
|真心《まごころ》をつくしの|宮居《みや》より|降《くだ》り|来《こ》し
われ|面白《おもしろ》きことを|見《み》たりき
|駿馬《はやこま》は|勇《いさ》みすすみて|天界《かみくに》の
この|清《すが》しさに|嘶《いなな》き|止《や》まずも』
|梅咲比女《うめさくひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|面白《おもしろ》き|旅《たび》に|立《た》つかも|行先《ゆくさき》に
|曲《まが》の|構《かま》へし|砦《とりで》を|破《やぶ》りつ
|主《ス》の|神《かみ》の|御稜威《みいづ》は|高《たか》しわが|岐美《きみ》の
|功《いさを》は|広《ひろ》しと|思《おも》へば|楽《たの》し
|曲神《まがかみ》の|心《こころ》つくしの|巌山《いはやま》も
|生言霊《いくことたま》に|跡《あと》なく|亡《ほろ》びぬ
|曲神《まがかみ》は|偽《いつは》りごとをたくみつつ
さやらむとする|心《こころ》|浅《あさ》ましも
|天津真言《あまつまこと》の|生言霊《いくことたま》の|幸《さち》はひに
|生《な》りし|森羅万象《ものみな》は|永久《とは》に|亡《ほろ》びじ』
|香具比女《かぐひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|御樋代神《みひしろがみ》とわれは|選《えら》まれ|東《ひむがし》の
|宮居《みや》に|仕《つか》へておもふ|事《こと》なし
|今《いま》までの|心《こころ》の|雲《くも》り|晴《は》れにつつ
わが|背《せ》の|岐美《きみ》を|尊《たふと》くぞ|思《おも》ふ
|恋《こひ》しさの|心《こころ》は|消《き》えて|背《せ》の|岐美《きみ》を
|敬《うやま》ふわれとなりにけらしな
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|功《いさを》の|尊《たふと》さを
|悟《さと》りてわれは|心《こころ》はづかし
|力《ちから》なき|女神《めがみ》の|身《み》もて|神業《かむわざ》に
|仕《つか》ふる|日々《ひび》の|重《おも》さを|思《おも》ふ
さりながら|辞《いな》まむ|術《すべ》もなかりけり
|神《かみ》の|依《よ》さしの|尊《たふと》かりせば
わが|心《こころ》|曇《くも》らひにつつ|背《せ》の|岐美《きみ》の
|神業《みわざ》にさやりし|事《こと》を|悔《く》ゆるも
|言霊《ことたま》の|水火《いき》も|清《きよ》めずひたすらに
|岐美《きみ》を|慕《した》ひし|愚《おろ》かさを|恥《は》づ』
|寿々子比女《すずこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『ここに|来《き》て|神《かみ》の|奇《くす》しき|神業《かむわざ》を
|近《ちか》く|眺《なが》めつおどろきしはや
|何事《なにごと》も|生言霊《いくことたま》の|幸《さち》はひに
|生《な》り|出《い》づるよしを|悟《さと》らひにけり
やすやすと|神《かみ》に|仕《つか》へて|朝夕《あさゆふ》を
|過《すご》せしわれは|愚《おろ》かなりける
|朝夕《あさゆふ》の|禊《みそぎ》の|神事《わざ》をおこたりし
われは|御子生《みこう》み|叶《かな》はざりしよ
|今日《けふ》よりは|瀬見《せみ》の|小川《をがは》に|禊《みそぎ》して
|生言霊《いくことたま》を|清《きよ》め|澄《す》まさむ
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|言霊《ことたま》|清《きよ》ければ
|流石《さすが》の|曲津見《まがつみ》も|逃《に》げ|失《う》せにけり』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》うたひ|給《たま》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》とはいへど|言霊《ことたま》の
|濁《にご》りにそひます|神《かみ》はあらまじ
わが|岐美《きみ》を|恨《うら》みし|事《こと》の|今更《いまさら》に
はづかしきかも|水火《いき》の|曇《くも》れば
|曇《くも》りたる|水火《いき》もて|少《すこ》しも|曇《くも》りなき
|水火《いき》にあはすと|思《おも》ひし|愚《おろ》かさ
|吾《われ》のみか|八柱比女神《やはしらひめがみ》も|悉《ことごと》く
|生言霊《いくことたま》は|濁《にご》らひますらむ
|御子生《みこう》みの|神業《わざ》に|離《はな》れし|過《あやまち》も
みな|言霊《ことたま》の|濁《にご》ればなりけり
|今日《けふ》よりは|心《こころ》の|奥《おく》より|清《きよ》め|澄《す》まし
|神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《みわざ》につくさむ
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》と|任《ま》けられいたづらに
この|年月《としつき》を|暮《くら》すべきやは
|言霊《ことたま》の|清《きよ》くありせば|曲神《まがかみ》の
|千引《ちびき》の|巌《いは》も|崩《くづ》れこそすれ
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》な|瀬見《せみ》の|小川《をがは》に|禊《みそぎ》して
|慎《つつ》しみ|敬《ゐやま》ひ|神業《みわざ》に|仕《つか》へむ
|曲神《まがかみ》の|強《つよ》き|猛《たけ》びも|恐《おそ》れずに
|進《すす》み|行《ゆ》かむか|言霊剣《ことたまつるぎ》もて』
|宇都子比女《うづこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|宇都子比女《うづこひめ》われは|御樋代神《みひしろがみ》として
|今日《けふ》が|日《ひ》までも|待《ま》ちあぐみたり
|真心《まごころ》をつくしの|宮居《みや》に|詣《まう》でつつ
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|光《ひか》りにうたれつ
|主《ス》の|神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《みわざ》|成《な》らずして
あだに|月日《つきひ》を|過《すご》す|苦《くる》しさ
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|言霊《ことたま》|清《きよ》ければ
|御空《みそら》の|月日《つきひ》も|澄《す》み|渡《わた》りつつ
|曲神《まがかみ》は|雲霧《くもきり》となり|雨《あめ》となりて
わが|行先《ゆくさき》にさやりこそすれ
|万世《よろづよ》の|末《すゑ》の|末《すゑ》まで|生《い》き|生《い》きて
|神業《みわざ》に|仕《つか》へむ|若返《わかがへ》りつつ
|若返《わかがへ》り|若返《わかがへ》りつつ|神業《かむわざ》に
|仕《つか》へむとして|言霊《ことたま》|磨《みが》くも』
|狭別比女《さわけひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『いざさらば|進《すす》み|行《ゆ》かなむ|曲津見《まがつみ》は
|影《かげ》だにもなく|逃《に》げ|失《う》せにけり
うづ|高《たか》く|積《つ》みて|造《つく》りし|巌山《いはやま》も
|跡《あと》なく|消《き》えて|春風《はるかぜ》わたる
|言霊《ことたま》の|旅《たび》を|重《かさ》ねてをりをりに
|曲津《まが》の|奸計《たくみ》をめづらしみ|見《み》つ
|言霊《ことたま》に|消《き》えて|跡《あと》なき|巌山《いはやま》の
あとに|匂《にほ》へる|百花《ももばな》|千花《ちばな》よ
|言霊《ことたま》の|水火《いき》の|濁《にご》れば|雲《くも》となり
|曲津見《まがつみ》となりて|世《よ》を|塞《ふさ》ぐなり
|百神《ももがみ》の|曇《くも》れる|水火《いき》の|固《かた》まりて
|八十曲津見《やそまがつみ》は|生《あ》れ|出《い》でにけむ
|斯《かく》の|如《ごと》|悟《さと》りしわれは|今日《けふ》の|日《ひ》を
さかひとなして|言霊《ことたま》みがかむ
わが|神魂《みたま》|清《きよ》まりぬれば|自《おのづか》ら
|生言霊《いくことたま》も|澄《す》みきらふらむ
|天界《かみくに》の|旅《たび》をつづけて|今更《いまさら》に
|生言霊《いくことたま》のたふとさを|知《し》る
|洗《あら》へども|磨《みが》けどおちぬ|魂線《たましひ》の
|曇《くも》りを|如何《いか》に|払《はら》はむかと|思《おも》ふ
|神《かみ》を|愛《あい》し|神《かみ》を|信《しん》じつ|朝夕《あさゆふ》に
|魂《たま》|洗《あら》ふよりほかに|道《みち》なし』
|花子比女《はなこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『われもまた|御樋代神《みひしろがみ》と|仕《つか》へつつ
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|年《とし》をふりけり
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》の|聖所《すがど》に|朝夕《あさゆふ》を
|曇《くも》りし|心《こころ》に|仕《つか》へ|来《こ》しはも
|愛善《あいぜん》の|真言《まこと》の|光《ひかり》におはす|神《かみ》は
われをきためず|許《ゆる》しましぬる
|今日《けふ》よりは|心《こころ》の|駒《こま》を|立《た》て|直《なほ》し
|小《ちひ》さき|事《こと》にかかはらざるべし
|大《おほ》らかにいます|岐美《きみ》ゆゑ|大《おほ》らかに
|仕《つか》へて|神業《みわざ》に|勉《つと》むべきなり
|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|闇《やみ》は|晴《は》れにけり
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御旨《みむね》さとりて
|何事《なにごと》も|神《かみ》の|御心《みこころ》と|知《し》りながら
をりをり|小《ちひ》さき|心《こころ》のわくも
|妬《ねた》み|嫉《そね》み|今《いま》まで|続《つづ》けし|八柱《やはしら》の
|御樋代神《みひしろがみ》を|愚《おろ》かしみおもふ
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|中《なか》にもすぐれたる
きたなき|心《こころ》|持《も》ちしわれなり
|花《はな》のごと|清《きよ》くあれよと|主《ス》の|神《かみ》は
|花子《はなこ》と|名《な》づけ|給《たま》ひしものを
|花《はな》も|実《み》もなき|言霊《ことたま》を|宣《の》りにつつ
わが|背《せ》の|岐美《きみ》を|悩《なや》ませしはや
わが|罪《つみ》の|深《ふか》さ|重《おも》さを|悟《さと》りつつ
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|詫《わ》びつつ|泣《な》くなり』
|小夜子比女《さよこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|夜《よる》も|昼《ひる》も|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|抱《いだ》かれて
|天界《かみくに》に|住《す》むわれはたのしも
|楽《たの》しかるこの|天界《かみくに》に|生《うま》れあひて
かこち|過《すご》せしことを|今《いま》|悔《く》ゆ
|言霊《ことたま》の|幸《さち》はひたすくる|天界《かみくに》に
われは|亡《ほろ》びの|道《みち》を|歩《あゆ》みし
|知《し》らず|識《し》らず|亡《ほろ》びの|道《みち》を|辿《たど》りけり
|妬《ねた》ましき|心《こころ》いやかさなりて
|御樋代神《みひしろがみ》かたみに|妬《ねた》み|嫉《そね》みつつ
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》を|曇《くも》らせしはや
|清《きよ》らけき|心《こころ》の|玉《たま》をかがやかし
かたみに|仕《つか》へむ|神《かみ》の|御前《みまへ》に
|主《ス》の|神《かみ》の|七十五声《ななそまりいつつ》の|言霊《ことたま》に
|国津神《くにつかみ》たち|数多《あまた》|生《あ》れにき
|国津神《くにつかみ》の|上《かみ》に|立《た》てよと|主《ス》の|神《かみ》の
|依《よ》さし|給《たま》ひしわれ|等《ら》なりける
|国津神《くにつかみ》の|心《こころ》におとる|魂線《たましひ》を
もちて|仕《つか》へむことの|難《かた》きも
|真心《まごころ》のあらむ|限《かぎ》りを|照《て》らしつつ
|世《よ》のため|神《かみ》のためにつくさむ
いざさらば|百神《ももがみ》|駒《こま》に|召《め》しませよ
|東《ひがし》の|宮居《みや》は|遥《はろ》かなりせば』
|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》はわが|行《ゆ》く|先《さき》に|立《た》ちて
|進《すす》ませたまへこの|広原《ひろはら》を
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》は|後方《しりへ》を|守《まも》りつつ
|進《すす》ませたまへ|東《ひがし》の|宮居《みや》へ』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|給《たま》へば、|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は、|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》|其《その》|他《た》|一同《いちどう》に|黙礼《もくれい》しながら、ひらりと|駒《こま》に|跨《またが》り、いざや|道案内《みちあない》せむと、|馬背《こまのせ》に|鞭《むち》うち|蹄《ひづめ》の|音《おと》も|勇《いさ》ましく、|鈴《すず》の|音《ね》を|四辺《あたり》に|響《ひび》かせながら、|春風《はるかぜ》わたる|青野ケ原《あをのがはら》を|進《すす》ませ|給《たま》へば、|一行《いつかう》は|轡《くつわ》を|並《なら》べてしづしづと|御心《みこころ》も|朗《ほがら》かに|進《すす》み|出《い》で|給《たま》ふ。
(昭和八・一二・五 旧一〇・一八 於水明閣 白石恵子謹録)
第五章 |露《つゆ》の|宿《やど》〔一九二二〕
|果《は》てしも|知《し》らぬ|大野ケ原《おほのがはら》の|真中《まんなか》を|十一頭《じふいつとう》の|駒《こま》の|轡《くつわ》を|並《なら》べつつ、
|花《はな》の|香《か》|運《はこ》ぶ|春風《はるかぜ》に |鬢《びん》のほつれをいぢらせつ
|手綱《たづな》かい|繰《く》りしとしとと |大河《おほかは》|小川《をがは》を|乗《の》り|越《こ》えて
|勇《いさ》み|進《すす》むで|出《い》で|給《たま》ふ その|風景《ふうけい》はさながらに
|名高《なだか》き|画工《ぐわこう》の|描《ゑが》きたる |絵巻物《ゑまきもの》の|如《ごと》|見《み》えにける。
|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》は、|大野ケ原《おほのがはら》の|真中《まんなか》に|駿馬《はやこま》の|蹄《ひづめ》を|留《とど》めて、|空《そら》|行《ゆ》く|雲《くも》を|眺《なが》めながら|心《こころ》|静《しづ》かに|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|久方《ひさかた》の|空《そら》に|往《ゆ》き|交《か》ふ|白雲《しらくも》の
かげは|高地秀山《たかちほやま》より|流《なが》るる
|高地秀《たかちほ》の|山《やま》の|聖所《すがど》も|近《ちか》づきて
わが|魂《たま》わが|駒《こま》|勇《いさ》み|出《い》でけり
|帰《かへ》り|行《ゆ》く|道《みち》の|隈手《くまで》も|恙《つつが》なく
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|渡《わた》り|来《こ》しはや
|昼月《ひるづき》のかげは|白《しら》けて|山《やま》の|端《は》に
|近《ちか》づきにつつ|黄昏《たそが》れむとすも
|三日月《みかづき》の|月《つき》のまゆみに|照《て》らされて
|矢竹心《やたけごころ》の|駒《こま》は|勇《いさ》みぬ
|久方《ひさかた》の|高地秀山《たかちほやま》もほの|見《み》えて
この|広原《ひろはら》に|黄昏《たそが》れむとすも
|一夜《ひとよさ》の|露《つゆ》のやどりをたのみつつ
|明日《あす》はかへらむ|高地秀《たかちほ》の|山《やま》へ
|高地秀《たかちほ》の|尾《を》の|上《へ》に|白雲《しらくも》|湧《わ》き|立《た》ちて
|西《にし》へ|流《なが》るる|夕《ゆふべ》なりけり
|吹《ふ》く|風《かぜ》もあとなく|止《や》みて|静《しづ》かなる
|春《はる》の|大野《おほの》に|露《つゆ》あびつ|寝《ね》むか』
|梅咲比女《うめさくひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|春駒《はるこま》のいななき|高《たか》く|響《ひび》かひて
|日《ひ》は|暮《く》れむとす|大野ケ原《おほのがはら》に
|山《やま》の|端《は》に|傾《かたむ》く|月《つき》のかげ|見《み》れば
|利鎌《とがま》の|如《ごと》く|鋭《するど》かりけり
|曲神《まがかみ》の|醜《しこ》の|猛《たけ》びも|消《き》え|失《う》せて
|御空《みそら》の|星《ほし》はきらめき|初《そ》めたり
|大空《おほぞら》の|星《ほし》は|目《め》と|目《め》を|合《あ》はせつつ
|永久《とは》のささやき|続《つづ》けゐるかも
|幾万《いくまん》と|数《かず》かぎりなき|星《ほし》かげを
|仰《あふ》ぎつわれは|心《こころ》はろけし
|大空《おほぞら》を|二《ふた》つに|割《わ》りて|永遠《とことは》に
|銀砂《ぎんしや》|流《なが》るる|天《あま》の|河《かは》はも
|久方《ひさかた》の|空《そら》に|横《よこ》たふ|天《あま》の|河《かは》も
その|行先《ゆくさき》は|海《うみ》に|続《つづ》けるか
|虫《むし》の|音《ね》もいやさやさやに|響《ひび》きつつ
わが|目《め》|俄《にはか》に|眠《ねむ》くなりたり
|春風《はるかぜ》に|吹《ふ》かれて|長《なが》き|駒《こま》の|旅《たび》を
しばし|休《やす》めむ|草《くさ》の|褥《しとね》に
|大空《おほぞら》の|星《ほし》の|模様《もやう》の|夜具《やぐ》を|着《き》て
|大地《だいち》の|褥《しとね》に|一夜《ひとよ》を|眠《ねむ》らむ』
|香具比女《かぐひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|高野比女《たかのひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》に|従《したが》ひて
|天津高宮《あまつたかみや》に|詣《まう》でけるかも
|七日七夜《なぬかななよ》|駒《こま》の|旅路《たびぢ》を|重《かさ》ねつつ
|今宵《こよひ》も|草《くさ》の|褥《しとね》に|眠《ねむ》らむ
|万里《ばんり》|行《ゆ》く|駒《こま》も|脚《あし》をば|地《ち》にのべて
|旅《たび》のつかれをやすらひ|居《を》るも
この|駒《こま》はやさしき|駒《こま》よ|千万里《せんまんり》の
|旅《たび》をたすけて|報酬《むくい》を|求《もと》めず
|天界《かみくに》に|生《い》きてほりする|事《こと》なくば
|日々《ひび》の|生活《すぐせ》は|安《やす》けかるらむ
|幾千里《いくせんり》われを|助《たす》けて|勇《いさ》み|立《た》つ
|駒《こま》の|心《こころ》のうるはしきかも』
|寿々子比女《すずこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|千万里《せんまんり》の|旅《たび》を|重《かさ》ねて|今《いま》ははや
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|近《ちか》づきにけり
|明日《あす》ざれば|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》にかへらむと
おもへば|楽《たの》しく|夜《よ》も|眠《ねむ》られず
|一夜《ひとよさ》の|露《つゆ》の|枕《まくら》を|重《かさ》ねつつ
|帰《かへ》らむよき|日《ひ》|待《ま》つは|楽《たの》しき
|曲津見《まがつみ》の|醜《しこ》の|猛《たけ》びも|言霊《ことたま》の
|水火《いき》に|祓《はら》ひて|帰《かへ》り|来《き》にけり
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|言霊《ことたま》|力《ちから》もて
|道《みち》の|隈手《くまで》もつつがなく|来《こ》し
|河《かは》となり|又《また》|山《やま》となり|雲《くも》となりて
|曲津見《まがつみ》は|道《みち》にさやりけるはも
|曲津見《まがつみ》は|如何《いか》に|猛《たけ》るも|議《はか》ゆとも
|生言霊《いくことたま》に|及《およ》ばざりけり
|久方《ひさかた》の|筑紫《つくし》の|宮居《みや》の|旅《たび》に|立《た》ちて
|世《よ》のさまざまの|憂《うき》をさとりぬ
|風《かぜ》|清《きよ》く|眺《なが》め|妙《たへ》なる|高地秀《たかちほ》の
|宮居《みや》にし|住《す》めば|世《よ》のさま|知《し》れずも
うつり|行《ゆ》く|世《よ》のさまざまの|事毎《ことごと》を
|悟《さと》らひにけり|旅《たび》を|重《かさ》ねて
わが|魂《たま》は|黒雲《くろくも》の|如《ごと》|濁《にご》らへりと
|筑紫《つくし》の|宮居《みや》に|詣《まう》でてさとりぬ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|千万里《せんまんり》|遠《とほ》の|旅路《たびぢ》を|重《かさ》ねつつ
はや|一夜《ひとよさ》の|旅《たび》となりける
|高地秀《たかちほ》の|山《やま》は|恋《こひ》しもなつかしも
|岐美《きみ》の|御霊《みたま》のとどまりませば
|住《す》みなれし|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》の|聖所《すがど》こそ
わが|永遠《とことは》の|命《いのち》なりける
|永遠《とことは》の|命《いのち》の|聖所《すがど》を|後《あと》にして
|再《ふたた》び|吾《われ》は|旅立《たびだ》たむと|思《おも》ふ
さりながら|御樋代神《みひしろがみ》|等《たち》の|御許《みゆる》しを
|受《う》けての|後《のち》に|定《さだ》めむと|思《おも》ふ
|大空《おほぞら》に|星《ほし》はまたたき|地《ち》の|上《うへ》の
|草葉《くさば》の|露《つゆ》は|玉《たま》とにほひつ
|春草《はるくさ》の|根《ね》にひそみ|鳴《な》く|虫《むし》の|音《ね》も
いや|冴《さ》えにつつ|夜《よ》は|更《ふ》けにけり
|星光《ほしかげ》は|千万《ちよろづ》あれど|弓張《ゆみはり》の
|月《つき》の|光《ひかり》に|及《およ》ばざりけり
|山《やま》の|端《は》に|新月《しんげつ》の|影《かげ》|消《き》え|失《う》せて
|闇《やみ》のかたまり|地《ち》に|拡《ひろ》ごれり
|闇《やみ》の|幕《まく》とほして|仰《あふ》ぐ|星《ほし》かげの
|数限《かずかぎ》りなくまたたく|夜半《よは》なり』
|宇都子比女《うづこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|長《なが》の|旅《たび》を|今日《けふ》が|宵《よひ》まで|続《つづ》けつつ
|世《よ》のさまざまを|悟《さと》らひしはや
|大空《おほぞら》にただ|一片《ひときれ》の|雲《くも》もなく
|千万《ちよろづ》の|星《ほし》かがやき|初《そ》めつつ
|満天《まんてん》に|数《かず》の|限《かぎ》りをかがやける
|星《ほし》かげを|力《ちから》に|一夜《ひとよ》を|眠《ねむ》らむ
|国土《くに》|稚《わか》き|大野ケ原《おほのがはら》も|春《はる》されば
|花《はな》の|筵《むしろ》となりて|匂《にほ》へる
|花筵《はなむしろ》いやさや|敷《し》きて|春《はる》の|夜《よ》を
|眠《ねむ》りつ|虫《むし》の|音《ね》きくは|楽《たの》しも』
|狭別比女《さわけひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|高地秀《たかちほ》の|峰《みね》は|白雲《しらくも》たなびきて
|遠野《とほの》の|旅《たび》の|夜《よ》は|更《ふ》けにけり
|明日《あす》の|日《ひ》は|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|帰《かへ》らむと
|心《こころ》いさみて|眼《まなこ》|冴《さ》えつつ
|曲津見《まがつみ》に|道《みち》の|行手《ゆくて》を|遮《さへぎ》られし
|時《とき》を|思《おも》へば|今宵《こよひ》は|安《やす》けし
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|言霊《ことたま》|天地《あめつち》に
|響《ひび》き|渡《わた》りて|曲津《まが》は|失《う》せける
|言霊《ことたま》の|貴《うづ》の|力《ちから》を|今更《いまさら》に
われは|悟《さと》りぬ|旅《たび》を|重《かさ》ねて
|言霊《ことたま》の|伊照《いて》りたすくる|天界《かみのよ》に
|生《うま》れしわが|身《み》の|幸《さち》を|思《おも》ふも
|見渡《みわた》せば|深《ふか》く|包《つつ》みし|闇《やみ》の|幕《まく》に
|遥《はる》かの|野辺《のべ》はかくろひにけり
|日並《けなら》べて|旅《たび》に|立《た》ちつつやうやくに
|一夜《ひとよ》をあます|草枕《くさまくら》はも
|草枕《くさまくら》|旅《たび》の|疲《つか》れもしらずがに
|駒《こま》は|安《やす》けく|眠《ねむ》らひにけり』
|花子比女《はなこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|長旅《ながたび》に|疲《つか》れし|吾《われ》も|一夜《ひとよさ》の
|旅《たび》とし|思《おも》へば|嬉《うれ》しくなりぬ
|明日《あす》の|日《ひ》は|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》の|大前《おほまへ》に
|復命《かへりごと》せむとおもへばうれし
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みやゐ》は|常《つね》に|紫《むらさき》の
|雲《くも》|立《た》ちのぼり|清《すが》しき|山《やま》はも
|久方《ひさかた》の|天津御空《あまつみそら》に|聳《そび》えたる
|高地秀山《たかちほやま》の|春《はる》はうるはし
|百千花《ももちばな》|咲《さ》き|足《た》らひたる|高地秀《たかちほ》の
|山《やま》は|天界《みくに》の|姿《すがた》なるかも』
|小夜子比女《さよこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|小夜《さよ》|更《ふ》けて|眠《ね》らへぬままに|草《くさ》の|露《つゆ》
|素足《すあし》にふめば|清《すが》しかりけり
|明日《あす》の|日《ひ》は|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|帰《かへ》らむと
おもへば|心《こころ》をどりて|眠《ねむ》れず
|日並《けなら》べて|旅《たび》の|楽《たの》しさ|苦《くる》しさを
|悟《さと》らひにつつ|一夜《ひとよ》となりぬ
|一夜《ひとよさ》の|野辺《のべ》の|宿《やど》りももどかしく
おもひぬるかな|聖所《しがど》|近《ちか》みて
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》|打揃《うちそろ》ひ|紫微《しび》の|宮居《みや》に
|詣《まう》でしことを|珍《めづ》らしとおもふ
|主《ス》の|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|夜《よる》も|安《やす》らけく
|幾日《いくひ》の|旅《たび》をつづけけるかも
わが|心《こころ》|頓《とみ》に|勇《いさ》みて|眠《ねむ》られず
|駒《こま》のあがきの|音《おと》ききて|居《を》り
|薄曇《うすぐも》る|春《はる》の|陽気《やうき》のただよひて
|風《かぜ》|静《しづ》かなる|神苑《みその》にかへらむ
|大宮居《おほみや》の|庭《には》を|流《なが》るる|清川《きよかは》に
|明日《あす》はかへりて|禊《みそぎ》せむかな』
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へつつ
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|近《ちか》づきしはも
いざさらば|夜《よ》の|明《あ》くるまで|眠《ねむ》るべし
|春《はる》の|気《き》のただよふ|野辺《のべ》の|草生《くさふ》に』
|斯《か》く|神々《かみがみ》は|述懐歌《じゆつくわいか》をうたひつつ|夜《よ》の|明《あ》くるを|待《ま》ち|給《たま》ひ、|再《ふたた》び|駒《こま》の|蹄《ひづめ》の|音《おと》|勇《いさ》ましく、|次《つ》ぎの|日《ひ》の|真昼頃《まひるごろ》、やうやくにして|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》の|聖所《すがど》に|無事《ぶじ》|帰《かへ》らせ|給《たま》ひける。
(昭和八・一二・五 旧一〇・一八 於水明閣 内崎照代謹録)
第二篇 |晩春《ばんしゆん》の|神庭《しんてい》
第六章 |報告祭《はうこくさい》〔一九二三〕
|春《はる》の|陽気《やうき》は|漂《ただよ》ひて、|桜花爛漫《あうくわらんまん》と|咲《さ》き|乱《みだ》れ、|庭《には》の|面《おもて》に|一弁二弁《ひとひらふたひら》と|静《しづか》に|桜《さくら》の|花弁《はなびら》の|散《ち》りこぼれたる|真昼頃《まひるごろ》、|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》の|清庭《すがには》に|駒《こま》の|轡《くつわ》を|並《なら》べて、|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》|一行《いつかう》は|御面《みおも》|輝《かがや》かせ、|目出度《めでた》く|此所《ここ》に|帰《かへ》り|給《たま》ひければ、|胎別男《みわけを》の|神《かみ》は|比女神《ひめがみ》の|姿《すがた》を|見《み》るより|打喜《うちよろこ》び、|恭《うやうや》しく|出《い》で|迎《むか》へて|長途《ちやうと》の|旅《たび》の|労《つかれ》を|犒《ねぎら》ふべく、|別殿《べつでん》に|歓迎《くわんげい》の|馳走《ちそう》の|準備《じゆんび》に|忙《いそが》しく|諸神《しよしん》を|督《とく》して、|忠実々々《まめまめ》しく|立《た》ち|働《はたら》き|給《たま》ひける。
|茲《ここ》に|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》|一行《いつかう》は、|大宮居《おほみや》の|大前《おほまへ》に|禊祓《みそぎはら》ひを|終《をは》り、|感謝《ゐやひ》の|祭典《まつり》を|行《おこな》ひ|太祝詞《ふとのりと》を|宣《の》らせ|給《たま》ふ。
|海河山野《うみかはやまぬ》の|種々《くさぐさ》の|美味物《うましもの》を|八足《やたり》の|机代《つくゑしろ》に|置《お》き|足《たら》はし、|十柱《とはしら》の|神《かみ》は|式場《しきぢやう》に|列座《れつざ》し|其《その》|他《た》の|神々《かみがみ》は|末座《まつざ》に|拝跪《はいき》して、|今日《けふ》の|目出度《めでた》き|祭典《さいてん》に|列《れつ》し|給《たま》ひつつ、|天《てん》を|拝《はい》し|地《ち》を|拝《はい》し|歓《よろこ》ばせ|給《たま》ふ。
|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》は|御前《みまへ》に|拍手《はくしゆ》して、
『|掛巻《かけまく》も|畏《かしこ》き|紫微天界《しびてんかい》の|真秀良場《まほらば》なる|高地秀山《たかちほやま》の|下津岩根《したついはね》に、|宮柱太敷立《みやばしらふとしきた》て|高天原《たかあまはら》に|千木高知《ちぎたかし》りて、|堅磐常磐《かきはときは》に|鎮《しづ》まりいます|主《ス》の|大神《おほかみ》の|大前《おほまへ》に、|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》|高野比女《たかのひめ》|等《ら》、|慎《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|畏《かしこ》み|畏《かしこ》みも|白《まを》さく。|抑《そも》|此《これ》の|天界《かみくに》は|主《ス》の|大神《おほかみ》の|広《ひろ》き|厚《あつ》き|大御恵《おほみめぐみ》と、|赤《あか》き|直《なほ》き|正《ただ》しき|生言霊《いくことたま》の|御稜威《みいづ》に|依《よ》りて、|鳴《な》り|出《い》で|給《たま》ひし|国土《くに》にしあれば、|海《うみ》と|陸《くが》との|別《わか》ちなく|山《やま》と|河《かは》との|差別《けぢめ》なく、|広《ひろ》き|厚《あつ》き|恩頼《みたまのふゆ》を|蒙《かかぶ》りて、|弥遠永《いやとほなが》に|立栄《たちさか》ゆるものにしあれば、|一日片時《ひとひかたとき》も|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御恵《みめぐみ》に|離《はな》れては、|世《よ》に|立《た》つべからざる|事《こと》の|由《よし》を、|深《ふか》く|悟《さと》り|広《ひろ》く|究《きは》めて、|弥益々《いやますます》に|其《その》|畏《かしこ》さに|戦慄《をのの》き|恐《おそ》れ|敬《ゐやま》ひ|奉《まつ》らむとして、|過《す》ぎつる|吉月《よきつき》の|吉日《よきひ》を|選《えら》み、|万里《ばんり》の|道《みち》を|遥々《はろばろ》と|駒《こま》の|背《せ》に|跨《またが》り、|岩根《いはね》|木根《きね》|踏《ふ》み|佐久美《さくみ》て|天津高宮《あまつたかみや》に、|草枕《くさまくら》|旅《たび》の|宿《やど》りを|重《かさ》ねつつ|詣《まう》で|奉《まつ》り、|大御神《おほみかみ》の|御口自《みくちづ》から|清《きよ》き|赤《あか》き|貴《たふと》き|大神宣《おほみのり》を|承《うけたまは》り、|唯一言《ただひとこと》も|洩《も》らさじ|忘《わす》れじと|心《こころ》の|駒《こま》の|手綱《たづな》|引締《ひきし》め、|頸《うなじ》に|受《う》けて|束《つか》の|間《ま》も|忘《わす》るる|事《こと》なく、|村肝《むらきも》の|心《こころ》に|抱《いだ》き|胸《むね》に|秘《ひ》め、|大御恵《おほみめぐみ》を|忝《かたじ》けなみつつありしが、|畏《おそ》れ|多《おほ》くも|主《ス》の|大御神《おほみかみ》より|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》の|宮司《みやつかさ》として、|此《この》|度《たび》|新《あらた》に|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》、|其《その》|添柱《そへばしら》として|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》を|授《さづ》け|給《たま》ひぬ。|天晴《あは》れ|天晴《あは》れ|今日《けふ》よりは|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》は|弥生《やよひ》の|花《はな》の|咲《さ》き|満《み》つるが|如《ごと》く、|秋《あき》の|楓《かへで》の|紅《くれなゐ》に|染《そ》むるが|如《ごと》く、|弥美《いやうる》はしく|弥清《いやすが》しく|栄《さか》えまさむ|事《こと》を、|思《おも》ひ|量《はか》りて|嬉《うれ》しみに|堪《た》へず、|各自《おのもおのも》の|御樋代神《みひしろがみ》|等《たち》は|玉《たま》の|泉《いづみ》に|禊《みそぎ》を|修《をさ》め、|感謝言《ゐやひごと》の|神嘉言《かむよごと》を|宣《の》り|終《を》へて、|再《ふたた》び|駒《こま》に|跨《またが》りつ|十柱《とはしら》の|神等《かみたち》は|果《はて》しも|知《し》らぬ|大野原《おほのがはら》の|駒《こま》の|嘶《いなな》き|勇《いさ》ましく、|夜《よ》を|日《ひ》に|次《つ》ぎて|帰《かへ》らむ|道《みち》に、さやりたる|八十曲津見《やそまがつみ》の|曲業《まがわざ》も、|主《ス》の|大御神《おほみかみ》の|深《ふか》き|厚《あつ》き|御守《みまも》りに、|喪《も》なく|事《こと》なく|今日《けふ》の|吉日《よきひ》の|吉時《よきとき》に、|主《ス》の|大御神《おほみかみ》を|祭《まつ》りたる|此《これ》の|宮居《みやゐ》に|帰《かへ》りける、|其《その》|嬉《うれ》しさの|千重《ちへ》の|一重《ひとへ》だも|報《むく》い|奉《まつ》らむとして、|海河山野《うみかはやまぬ》の|種々《くさぐさ》の|美味物《うましもの》を|百取《ももとり》の|机代《つくゑしろ》に|横山《よこやま》の|如《ごと》く|置《お》き|足《たら》はして|奉《たてまつ》る|状《さま》を、|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に|聞食《きこしめし》|相諾《あひうづな》ひ|給《たま》ひて、|此《これ》の|宮居《みやゐ》に|仕《つか》へ|奉《まつ》る|司神《つかさかみ》|等《たち》は|大御心《おほみこころ》に|違《たが》ひ|奉《まつ》らず|逆《さから》ひ|奉《まつ》らず、|大御神《おほみかみ》の|授《さづ》け|給《たま》ひし|真言《まこと》の|光《てり》を|照《て》らし|仕《つか》へ、|罪穢《つみけがれ》|過《あやまち》なく|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に|仕《つか》へしめ|給《たま》へと|畏《かしこ》み|畏《かしこ》みも|願《ね》ぎ|奉《まつ》る。
|言別《ことわ》けて|白《まを》さく、|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》を|真中《まなか》として、|四方《よも》を|廻《めぐ》れる|稚国土原《わかくにはら》の、|国津神等《くにつかみたち》は|各自《おのもおのも》に|日々《ひび》の|業務《なりはひ》を|励《いそ》しみ|勤《つと》めて|緩《ゆる》ぶ|事《こと》なく、|怠《をこた》る|事《こと》なく、|此《これ》の|天界《みくに》を|弥益《いやます》に|拓《ひら》かせ|栄《さか》えしめ|給《たま》ひて、|紫微天界《しびてんかい》の|真秀良場《まほらば》たる|貴《たふと》き|御名《みな》を|落《おと》さじと、|励《はげ》み|励《はげ》み|活動《はたら》かしめ|給《たま》へと、|鹿児自物《かごじもの》|膝折伏《ひざをりふ》せ、|宇自物《うじもの》|頸根突貫《うなねつきぬ》きて|畏《かしこ》み|畏《かしこ》みも|願《ね》ぎ|奉《まつ》らくと|白《まを》す。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》は|大前《おほまへ》の|祝詞《のりと》を|終《をは》り、しづしづと|御前《みまへ》を|下《くだ》り|諸神《しよしん》と|共《とも》に、|直会《なほらひ》の|席《せき》に|着《つ》かせ|給《たま》ひ、|合掌《がつしやう》|久《ひさ》しうしつつ|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|足引《あしびき》の|山鳥《やまどり》の|尾《を》の|長旅《ながたび》も
|神《かみ》の|恵《めぐみ》にやすくをはれり
|遥々《はろばろ》と|筑紫《つくし》の|宮居《みや》に|駒《こま》|並《な》べて
|詣《まう》で|来《き》つるも|惟神《かむながら》われ|等《ら》は
|主《ス》の|神《かみ》の|厚《あつ》き|恵《めぐみ》しなかりせば
|此《こ》の|旅立《たびだ》ちは|難《かた》かりしものを
|広々《ひろびろ》と|果《はて》しも|知《し》らぬ|地《つち》|稚《わか》き
|国原《くにはら》を|行《ゆ》く|危《あやふ》き|旅《たび》なりし
|曲津神《まがかみ》は|到《いた》る|処《ところ》にさやらむと
|手組脛《てぐすね》|引《ひ》きて|待構《まちかま》へたりき
|斯《かく》の|如《ごと》|危《あやふ》き|旅《たび》も|恙《つつが》なく
|今日《けふ》を|御前《みまへ》に|帰《かへ》り|来《こ》しはや
|十柱《とはしら》の|賑《にぎ》はしき|旅《たび》も|斯《かく》の|如《ごと》
|苦《くる》しきものをと|背《せ》の|岐美《きみ》を|思《おも》ふ
|背《せ》の|岐美《きみ》の|旅《たび》の|艱《なや》みを|今更《いまさら》に
|悟《さと》りけるかな|愚《おろ》かしき|吾《われ》も
|何事《なにごと》も|神《かみ》の|心《こころ》の|儘《まま》にして
|生《な》るべきものと|悟《さと》らひにけり
|主《ス》の|神《かみ》は|宮居《みや》の|司《つかさ》と|鋭敏鳴出《うなりづ》の
|神《かみ》を|聖所《すがど》に|降《くだ》したまひぬ
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|司《つかさ》の|添柱《そへばしら》と
|降《くだ》り|来《き》ませる|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》
|高地秀《たかちほ》の|峰《みね》に|春《はる》の|気《き》|漂《ただよ》ひて
|今《いま》をさかりと|桜《さくら》|咲《さ》くなり
|桜木《さくらぎ》の|梢《こずゑ》にうたふ|鶯《うぐひす》の
|声《こゑ》|長閑《のどか》なる|東《ひがし》の|宮居《みや》はも
|草枕《くさまくら》|長《なが》の|旅《たび》より|帰《かへ》り|見《み》れば
この|清庭《すがには》に|春《はる》はふかめり
|御木《みき》も|草《くさ》も|瑞気《みづき》|立《た》ちつつ|若《わか》やぎて
|天界《みくに》の|春《はる》を|言祝《ことほ》ぎ|顔《がほ》なる』
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|御樋代神《みひしろがみ》|御供《みとも》に|仕《つか》へ|漸《やうや》くに
|此《これ》の|聖所《すがど》にわれ|来《き》つるかも
|東《ひむがし》の|宮居《みや》に|仕《つか》へて|思《おも》ふかな
これの|聖所《すがど》はまた|世《よ》になしと
|高地秀《たかちほ》の|山《やま》は|隈《くま》なく|桜木《さくらぎ》の
|花《はな》|咲《さ》き|満《み》ちて|長閑《のどか》なりけり
|此処《ここ》に|来《き》て|始《はじ》めて|知《し》りぬ|天界《かみくに》の
|春《はる》の|景色《けしき》のさわやかなるを
|西《にし》の|宮居《みや》の|松《まつ》の|神苑《みその》に|比《くら》ぶれば
|華美《はなやか》なるも|東《ひがし》の|宮居《みや》は
|西《にし》の|宮居《みや》は|心《こころ》|静《しづ》かに|落付《おちつ》けど
|東《ひがし》の|宮居《みや》は|心《こころ》ときめく
ときめける|心《こころ》|抱《いだ》きて|高地秀《たかちほ》の
|宮居《みや》に|仕《つか》へつ|国土《くに》|固《かた》めばや
|御樋代《みひしろ》の|比女神等《ひめがみたち》の|心《こころ》にも
|似《に》て|晴《は》れ|晴《ば》れし|桜《さくら》の|盛《さか》りは
|非時《ときじく》に|花《はな》は|散《ち》らざれ|萎《しを》れざれ
|生《い》きたる|神《かみ》の|庭《には》に|咲《さ》く|花《はな》は』
|折《をり》もあれ|桜《さくら》の|花弁《はなびら》は、ひらひらと|直会《なほらひ》の|席《せき》に|列《つら》なり|給《たま》ふ|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|持《も》たせる|御盃《みさかづき》の|上《うへ》に、|一弁《ひとひら》|落《お》ち|来《きた》り|浮《うか》びたれば、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》はほほ|笑《ゑ》みつつ|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|背《せ》の|岐美《きみ》の|清《きよ》き|心《こころ》の|一弁《ひとひら》か
わが|盃《さかづき》に|浮《う》ける|桜《さくら》は
|背《せ》の|岐美《きみ》の|心《こころ》と|思《おも》へば|捨《す》てられじ
|花《はな》もろともにいただかむかな』
|斯《か》く|歌《うた》ひながら|花弁《はなびら》の|浮《う》ける|神酒《みき》をぐつと|飲《の》み|下《くだ》し|給《たま》ひ、
『|背《せ》の|岐美《きみ》の|深《ふか》き|心《こころ》の|花弁《はなびら》と
|神酒《みき》|諸共《もろとも》に|飲《の》み|干《ほ》しにけり
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》と|選《えら》まれ|背《せ》の|岐美《きみ》の
|水火《いき》と|思《おも》ひて|飲《の》みし|花酒《はなざけ》よ
|斯《か》くならば|吾《われ》は|御樋代神《みひしろがみ》として
|岐美《きみ》の|在所《ありか》をたづね|行《ゆ》くべし』
|梅咲比女《うめさくひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|梅《うめ》の|花《はな》ははや|散《ち》り|果《は》てて|桜花《さくらばな》
また|散《ち》り|初《そ》めぬ|神《かみ》の|御前《みまへ》に
|移《うつ》り|行《ゆ》く|世《よ》の|有様《ありさま》をまつぶさに
|梅《うめ》と|桜《さくら》の|花《はな》に|見《み》しはや
|白梅《しらうめ》のつぼめる|朝《あさ》を|立《た》ち|出《い》でて
|桜花《さくらばな》|散《ち》る|春《はる》を|帰《かへ》れり
|今日《けふ》よりは|心《こころ》|改《あらた》めて|大宮居《おほみや》に
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|真言《まこと》|捧《ささ》げむ
|言霊《ことたま》に|森羅万象《すべてのもの》は|生《うま》るてふ
|由《よし》を|悟《さと》りし|吾《われ》は|畏《かしこ》し
|終日《ひねもす》を|神《かみ》の|御前《みまへ》に|太祝詞《ふとのりと》
|言霊《ことたま》|捧《ささ》げて|仕《つか》へまつらな
|朝夕《あさゆふ》の|祝詞《のりと》は|愚《おろ》か|夜《よ》も|昼《ひる》も
かたみに|宣《の》るべき|祝詞《のりと》なりけり
|言霊《ことたま》の|稜威《いづ》に|栄《さか》ゆる|森羅万象《ものみな》は
|又《また》|言霊《ことたま》ぞ|力《ちから》なりける』
|香具比女《かぐひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|非時《ときじく》の|香具《かぐ》の|木《こ》の|実《み》も|言霊《ことたま》の
|尊《たふと》き|水火《いき》に|生《な》り|出《い》でしはや
|吾《われ》も|亦《また》|香具《かぐ》の|木《こ》の|実《み》ゆ|生《うま》れたる
|神《かみ》にしあらば|言霊《ことたま》たふとし
|言霊《ことたま》の|声《こゑ》を|聞《き》かずば|片時《かたとき》も
|苦《くる》しさ|覚《おぼ》ゆる|吾体《わがみ》なりけり
|言霊《ことたま》の|水火《いき》に|空気《くうき》を|造《つく》り|出《だ》し
|百《もも》の|生命《いのち》を|生《う》み|出《い》だすなり
|正《ただ》しかる|神魂《みたま》の|水火《いき》は|天界《よ》を|拓《ひら》き
|曇《くも》れる|水火《いき》は|天界《みよ》を|傷《そこな》ふ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》|曇《くも》りて|濁《にご》りたる
|言霊《ことたま》の|水火《いき》は|鳴《な》り|出《い》づるなり
|主《ス》の|神《かみ》を|常磐《とは》に|祀《まつ》りし|高地秀《たかちほ》の
|宮居《みや》は|清《すが》しも|言霊《ことたま》|澄《す》めば
|吹《ふ》き|渡《わた》る|梢《こずゑ》の|風《かぜ》も|爽《さはや》かに
|言霊《ことたま》|清《きよ》く|鳴《な》り|響《ひび》くなり
|庭《には》の|面《も》を|流《なが》るる|瀬見《せみ》の|川水《かはみづ》も
|澄《す》みきり|澄《す》みきり|透《す》き|徹《とほ》りつつ
|常磐木《ときはぎ》の|松《まつ》の|木《こ》の|間《ま》に|咲《さ》き|満《み》つる
|桜《さくら》の|眺《なが》めは|殊更《ことさら》|目出度《めでた》き』
|寿々子比女《すずこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『はろばろと|遠《とほ》の|旅路《たびぢ》を|重《かさ》ね|来《き》て
|目出度《めでた》く|今日《けふ》は|感謝言《ゐやひごと》|宣《の》る
|言霊《ことたま》の|水火《いき》に|生《な》り|出《い》でし|天界《かみくに》に
|澄《す》める|言霊《ことたま》の|吾《わが》|生命《いのち》かも
|言霊《ことたま》の|活用《はたらき》なくば|束《つか》の|間《ま》も
|生《い》きて|栄《さか》えぬ|天界《みくに》なりけり
わがもてる|意志《いし》|想念《さうねん》も|悉《ことごと》く
|生言霊《いくことたま》の|光《ひかり》なるらむ
|正《ただ》しかる|生言霊《いくことたま》の|光《ひか》る|天界《よ》は
|言葉《ことば》のはしも|慎《つつし》むべきなり
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|拓《ひら》きし|高地秀《たかちほ》の
|山《やま》の|姿《すがた》は|生《い》き|通《とほ》しなり
|高地秀《たかちほ》の|山《やま》を|朝夕《あさゆふ》|眺《なが》めつつ
|吾《わが》|背《せ》の|岐美《きみ》と|仕《つか》へ|奉《まつ》るも
|長旅《ながたび》に|見《まみ》え|得《え》ざりし|高地秀《たかちほ》の
|山《やま》の|一《ひと》しほ|恋《こひ》しき|吾《われ》なり
|此《こ》の|宮居《みや》は|吾《わが》|背《せ》の|岐美《きみ》の|築《きづ》きたる
|貴《うづ》の|宮居《みやゐ》ぞ|殊更《ことさら》うるはし
|朝夕《あさゆふ》にこれの|神山《みやま》を|力《ちから》とし
|吾《わが》|背《せ》の|岐美《きみ》となして|生《い》くるも
|草枕《くさまくら》|旅《たび》を|重《かさ》ねて|背《せ》の|岐美《きみ》の
|艱《なや》みを|深《ふか》く|悟《さと》りつつ|泣《な》くも』
|宇都子比女《うづこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|今日《けふ》よりは|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》|現《あ》れまして
|宮居《みや》の|司《つかさ》と|仕《つか》へますかも
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》も|出《い》でまして|大宮居《おほみや》の
|日々《ひび》の|仕《つか》へも|革《あらた》まるべし
|御樋代神《みひしろがみ》|旅《たび》なるあとは|胎別男《みわけを》の
|神《かみ》の|司《つかさ》の|依《よ》さしなりけり
|胎別男《みわけを》の|神《かみ》よ|今日《けふ》より|鋭敏鳴出《うなりづ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》の|神業《みわざ》|補《たす》けよ
|御樋代《みひしろ》の|八柱神《やはしらがみ》は|聖殿《すがどの》に
|終日《ひねもす》|集《つど》ひて|言霊《ことたま》|宣《の》るべし
|言霊《ことたま》の|水火《いき》|止《とど》まれば|天界《かみくに》の
|森羅万象《すべてのもの》は|枯《か》れ|萎《しぼ》むなり
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》は|御子生《みこう》みのみならず
|生言霊《いくことたま》の|樋代《ひしろ》なりしよ
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|御樋代《みひしろ》と|任《ま》けられしも
|生言霊《いくことたま》を|補《たす》くるためなりき
|樋代《ひしろ》とは|生代《いきしろ》の|意《い》ぞ|国魂《くにたま》の
|神《かみ》|生《う》むのみの|司《つかさ》にあらずも
|今日《けふ》までは|吾《わが》|勤《つと》めさへ|知《し》らずして
|岐美《きみ》をのみ|恋《こ》ひしことの|恥《はづ》かしき』
|狭別比女《さわけひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|宇都子比女《うづこひめ》|神《かみ》の|言霊《ことたま》|聞《き》くにつけ
|吾《われ》も|悟《さと》りぬ|御樋代《みひしろ》の|司《つかさ》を
|雲霧《くもきり》を|別《わ》けて|昇《のぼ》らす|天津日《あまつひ》も
|主《ス》の|言霊《ことたま》ゆ|生《な》り|出《い》でましける
|月《つき》も|日《ひ》も|星《ほし》も|悉《ことごと》|言霊《ことたま》の
|水火《いき》と|思《おも》へば|尊《たふと》きろかも
|草《くさ》も|木《き》も|鳥《とり》も|獣《けもの》も|言霊《ことたま》の
|水火《いき》に|育《そだ》つる|天界《みくに》なりけり
|桜花《さくらばな》|咲《さ》くも|散《ち》らすも|吹《ふ》く|風《かぜ》も
|皆《みな》|言霊《ことたま》の|水火《いき》なりにけり
|吾身《わがみ》|又《また》|生言霊《いくことたま》の|幸《さち》はひに
|生《うま》れて|言霊《ことたま》に|仕《つか》へ|奉《まつ》る|身《み》よ
|言霊《ことたま》の|水火《いき》の|幸《さち》はひ|無《な》かりせば
この|天界《かみくに》は|直《ただ》に|亡《ほろ》びむ
|遥々《はろばろ》と|旅《たび》を|重《かさ》ねて|曲《まが》もなく
|帰《かへ》りしわれも|言霊《ことたま》の|幸《さち》なり
|斯《かく》の|如《ごと》|尊《たふと》き|稜威《いづ》の|言霊《ことたま》を
|忘《わす》れて|祝詞《のりと》を|怠《おこた》るべしやは
|気魂《からたま》の|濁《にご》らば|心《こころ》|濁《にご》るべし
|心《こころ》|濁《にご》らば|言霊《ことたま》|汚《けが》れむ
|身《み》を|清《きよ》め|心《こころ》|清《きよ》めて|仕《つか》へなば
|生言霊《いくことたま》は|自《おのづ》と|光《て》るべし
|神々《かみがみ》の|要《かなめ》の|勤《つとめ》は|朝夕《あさゆふ》の
|禊《みそぎ》の|神事《わざ》にまさるものなし
|主《あるじ》なき|宮居《みやゐ》は|頓《とみ》に|淋《さび》しけれ
|生言霊《いくことたま》の|祝詞《のりと》なければ
|胎別男《みわけを》の|神《かみ》の|宣《の》らする|言霊《ことたま》の
|祝詞《のりと》は|弱《よわ》くうすら|濁《にご》りぬ
|御樋代神《みひしろがみ》いまさぬ|宮居《みや》の|淋《さび》しさは
|主《ス》の|神《かみ》|坐《ま》さぬ|如《ごと》くなりけり』
|花子比女《はなこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|高地秀山《たかちほやま》|今《いま》を|盛《さか》りと|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
|桜《さくら》もしばしの|命《いのち》なるかも
|惜《を》しめども|花《はな》は|梢《こずゑ》に|止《とど》まらず
そよ|吹《ふ》く|風《かぜ》にも|散《ち》り|初《そ》めにつつ
|夜嵐《よあらし》の|花《はな》|散《ち》らすかと|吾《われ》はただ
|生言霊《いくことたま》に|支《ささ》へて|居《ゐ》るも
|束《つか》の|間《ま》も|花《はな》|散《ち》らざれと|支《ささ》へつる
|吾《わが》|言霊《ことたま》も|怪《あや》しくなりぬ
|夜嵐《よあらし》は|吹《ふ》かねど|梢《こずゑ》の|桜花《さくらばな》
|時《とき》の|来《き》つればこぼれ|落《お》ちつつ
|落《お》ち|散《ち》りし|庭《には》の|花弁《はなびら》|眺《なが》めつつ
|踏《ふ》むさへ|惜《を》しく|思《おも》はるるかも
|移《うつ》り|行《ゆ》く|世《よ》の|有様《ありさま》を|高地秀《たかちほ》の
|宮居《みや》の|桜《さくら》に|悟《さと》らひしはや
|花《はな》は|散《ち》れど|梢《こずゑ》に|若葉《わかば》もえ|立《た》ちて
|眼《め》あたらしく|夏《なつ》をさかえむ
|桜花《さくらばな》|散《ち》りたる|庭《には》に|紅《あか》く|白《しろ》く
|匂《にほ》へる|牡丹《ぼたん》のあでやかなるも
さりながら|又《また》|夏《なつ》|更《ふ》けて|丹牡丹《にぼたん》の
|花《はな》は|一弁々々《ひとひらひとひら》くづれむ
|丹牡丹《にぼたん》の|蕾《つぼみ》ほぐれて|咲《さ》き|初《そ》めし
|日《ひ》より|三日《みつか》|経《へ》て|又《また》|散《ち》る|世《よ》なるも
|清庭《すがには》の|白梅《しらうめ》の|花《はな》|散《ち》り|果《は》てて
|跡《あと》に|青々《あをあを》つぶら|実《み》|生《な》れり
|白梅《しらうめ》は|開《ひら》きて|散《ち》りて|実《み》を|結《むす》び
|移《うつ》り|行《ゆ》く|世《よ》の|態《さま》を|教《をし》ゆも』
|小夜子比女《さよこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『はろばろと|遠《とほ》の|旅路《たびぢ》を|重《かさ》ねつつ
|今《いま》|大前《おほまへ》に|復命《かへりごと》せり
|今日《けふ》よりは|神魂《みたま》を|清《きよ》むと|朝夕《あさゆふ》の
|禊《みそぎ》の|神事《みわざ》|怠《おこた》らざるべし
|禊《みそぎ》して|吉《よ》き|言霊《ことたま》に|天界《かみくに》を
|照《て》らすは|御樋代神《みひしろがみ》の|勤《つと》めよ
|朝夕《あさゆふ》は|言《い》ふも|更《さら》なり|暇《いとま》あらば
|禊《みそぎ》て|貴《うづ》の|言霊《ことたま》|宣《の》らばや
|言霊《ことたま》の|天照《あまて》り|助《たす》け|生《い》くる|国土《くに》に
|怠《をこた》るべしやは|生言霊《いくことたま》を
|言霊《ことたま》の|水火《いき》|澄《す》みきらひて|天地《あめつち》は
|弥遠永《いやとほなが》に|栄《さか》えますべし
|月《つき》も|日《ひ》も|生言霊《いくことたま》に|照《て》り|渡《わた》る
|曇《くも》るは|曲津《まが》の|水火《いき》にこそあれ』
|斯《かく》の|如《ごと》く|十柱《とはしら》の|神々《かみがみ》は、|下向《げかう》の|報告祭《はうこくさい》を|大宮《おほみや》に|奏上《そうじやう》し|終《をは》りて、|直会《なほらひ》の|式《しき》に|列《れつ》し|給《たま》ひ、|此《この》|度《たび》の|旅行《りよかう》にて|学《まな》び|得《え》たる|言霊《ことたま》の|真理《しんり》を|告白《こくはく》しながら、|各自《おのもおのも》の|居間《ゐま》に|就《つ》かせ|安々《やすやす》と|今日《けふ》の|一日《ひとひ》を|休《やす》らはせ|給《たま》ひける。|折《をり》しもあれ、ぼやぼやと|吹《ふ》き|来《く》る|春風《はるかぜ》に|満庭《まんてい》の|桜《さくら》は|雪《ゆき》の|如《ごと》く|夕立《ゆふだち》の|如《ごと》く、|算《さん》を|乱《みだ》して|清庭《すがには》の|面《おもて》に|散《ち》り|敷《し》きければ、|庭《には》は|一面《いちめん》の|花筵《はなむしろ》となりて、|名残《なごり》|惜《を》しげに|数多《あまた》の|胡蝶《こてふ》|来《きた》りて、|低《ひく》く|舞《ま》ひ|遊《あそ》び|戯《たはむ》れ|居《ゐ》たりける。
(昭和八・一二・六 旧一〇・一九 於水明閣 森良仁謹録)
第七章 |外苑《ぐわいゑん》の|逍遥《せうえう》〔一九二四〕
|長途《ちやうと》の|旅《たび》に|疲《つか》れたる|百神等《ももがみたち》は、|各自《おのもおのも》|春《はる》の|日《ひ》の|夢《ゆめ》を|結《むす》ばせ|給《たま》ひ、|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》の|広庭《ひろには》は|水《みづ》を|打《う》ちたる|如《ごと》く|静《しづ》まりて、|小鳥《ことり》の|春《はる》を|囀《さへづ》り|交《かは》す|声《こゑ》のみぞ|聞《きこ》ゆ。
|胎別男《みわけを》の|神《かみ》は|駒《こま》の|疲《つか》れを|休《やす》ませむとして、|限《かぎ》りも|無《な》き|広《ひろ》き|外苑《ぐわいゑん》の|若草《わかぐさ》|萌《も》ゆる|清庭《すがには》に、|駒《こま》を|放《はな》ちて|遊《あそ》ばせ|給《たま》ひつつありける。
|春風《はるかぜ》は|徐《おもむ》ろに|吹《ふ》き|花《はな》の|香《か》を|四辺《しへん》に|送《おく》り、|四方《よも》はおぼろに|靄《もや》|立《た》ちこめて、げに|長閑《のどか》なる|晩春《おそはる》の|景色《けしき》なりける。
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|長途《ちやうと》の|疲《つか》れもいとひ|給《たま》はず、この|長閑《のどか》なる|春日《しゆんじつ》を|眠《ねむ》るは|惜《を》ししと、|花《はな》の|蕾《つぼみ》のほぐれたる|清庭《すがには》に|立《た》ち|出《い》で|給《たま》ひ、|心《こころ》|静《しづか》に|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|梓弓《あづさゆみ》|春《はる》の|女神《めがみ》は|夏山《なつやま》の
みどりの|園《その》にうつらせ|給《たま》ひぬ
|吹《ふ》く|風《かぜ》も|長閑《のどか》なりけり|晩春《おそはる》の
|野辺《のべ》の|景色《けしき》は|湯《ゆ》の|沸《わ》ける|如《ごと》し
|百千草《ももちぐさ》|所《ところ》せきまで|萌《も》え|出《い》づる
|野辺《のべ》の|遊《あそ》びは|心地《ここち》よろしも
|露《つゆ》おびし|若草《わかぐさ》の|上《うへ》を|踏《ふ》みて|行《ゆ》く
|素足《すあし》の|裏《うら》のさも|心地《ここち》よき
|紫《むらさき》の|花《はな》はほぐれて|池水《いけみづ》に
|咲《さ》くも|床《ゆか》しき|庭《には》のあやめよ
やがて|今《いま》あやめの|花《はな》は|紫《むらさき》と
|日々《ひび》に|匂《にほ》ひて|夏《なつ》|深《ふか》むらむ
|池水《いけみづ》の|底《そこ》に|泳《およ》げる|大魚小魚《おほなさな》
|鰭《ひれ》の|動《うご》きのすみやかなるも
|背《せ》の|岐美《きみ》はいづくの|果《は》てにお|在《は》すらむと
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|思《おも》ひわづらふ
|爛漫《らんまん》と|咲《さ》きほこりたる|桜木《さくらぎ》の
|花《はな》もつれなく|散《ち》る|世《よ》なりけり
|白梅《しらうめ》は|早《は》や|散《ち》り|果《は》てて|若葉《わかば》|萌《も》ゆる
|梢《こずゑ》につぶら|実《み》のぞきゐるかも
|天津日《あまつひ》は|霞《かすみ》の|空《そら》にほのぼのと
|光《ひかり》やはらげて|昇《のぼ》りましける
|駿馬《はやこま》の|嘶《いなな》き|強《つよ》く|草《くさ》むしる
|愛《め》ぐしき|姿《すがた》に|夏《なつ》は|来《き》むかふ
|山《やま》も|野《の》もみどりの|衣《ころも》|着飾《きかざ》りて
|夏《なつ》の|粧《よそほ》ひものものしけれ
われもまた|御樋代神《みひしろがみ》の|一柱《ひとはしら》
ただいたづらに|時《とき》を|待《ま》つべき
|天地《あめつち》の|森羅万象《すべてのもの》はうつり|行《ゆ》く
この|天界《かみくに》に|黙《もだ》しあるべき
いたづらに|岐美《きみ》を|恋《こ》ひつつ|歳《とし》を|経《へ》し
わがおろかさを|今更《いまさら》|悔《く》ゆるも
|御樋代神《みひしろがみ》は|御子生《みこう》みのみにあらずとは
|知《し》れど|如何《いか》でか|忍《しの》ばるべしやは
|岐美《きみ》を|恋《こ》ふる|心《こころ》の|駒《こま》ははやり|立《た》ちて
|女神《めがみ》の|胸《むね》は|高鳴《たかな》り|止《や》まずも
|草《くさ》の|露《つゆ》|素足《すあし》に|踏《ふ》みて|行《ゆ》く|庭《には》の
|果《は》てにも|霞《かす》む|晩春《おそはる》の|色《いろ》
|躊躇《ためらひ》の|弱《よわ》き|心《こころ》を|立直《たてなほ》し
|勇《いさ》み|進《すす》まむわが|背《せ》の|岐美許《きみがり》に
|吾《われ》|行《ゆ》かば|背《せ》の|岐美《きみ》|怒《いか》らせ|給《たま》ふらむ
|言霊《ことたま》|照《てら》して|和《やは》らげて|見《み》むかも
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|出《い》でましし|大宮居《おほみや》は
|弥栄《いやさか》えなむわれ|居《を》らずとも
|百神《ももがみ》に|議《はか》らば|心《かなら》ず|止《と》められむ
|吾《われ》はひそかに|旅立《たびだ》たむかも
|天津日《あまつひ》の|西《にし》にかたむく|夕暮《ゆふぐれ》を
|駒《こま》に|跨《またが》り|御空《みそら》をたづねむ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》はひそひそと|述懐歌《じゆつくわいか》をうたひ|乍《なが》ら、|芝生《しばふ》を|逍遥《せうえう》し|給《たま》ひけるが、|胎別男《みわけを》の|神《かみ》は|耳《みみ》ざとくも|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|御歌《みうた》を|聞《き》き|給《たま》ひ、|驚《おどろ》きて|大宮居《おほみや》に|馳《は》せ|帰《かへ》り、|七柱《ななはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》|始《はじ》め|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》、|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》に|事《こと》の|由《よし》を|詳細《つぶさ》に|告《つ》げ|給《たま》へば、|各自《おのもおのも》|驚《おどろ》き|給《たま》ひて|夢《ゆめ》を|破《やぶ》らせつつ、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|出立《いでたち》を|止《とど》めむと、|夏草《なつぐさ》|萌《も》ゆる|外苑《ぐわいゑん》に|立出《たちい》で|給《たま》へば、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|吾《わが》|乗《の》らむ|駒《こま》の|背《せ》に|鞍《くら》を|置《お》かせ|給《たま》ひ、|片御手《かたみて》に|手綱《たづな》を|取《と》り、|左《ひだり》の|御足《みあし》を|駒《こま》の|鐙《あぶみ》に|半《なか》ばかけむとし|給《たま》ふ|折《をり》なりければ、|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》は|驚《おどろ》き|給《たま》ひて|馳《は》せより、|駒《こま》の|轡《くつわ》を|堅《かた》く|握《にぎ》らせ|給《たま》ひて|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|春《はる》さりて|夏《なつ》|来《き》むかへる|清庭《すがには》に
|何故《なにゆゑ》|汝《なれ》は|駒《こま》に|召《め》さすか
|駿馬《はやこま》に|跨《またが》りいゆく|旅衣《たびごろも》も
|早《は》や|夏《なつ》の|日《ひ》となりにけらしな
|草枕《くさまくら》|旅《たび》に|立《た》たすは|春《はる》と|秋《あき》の
|花《はな》と|紅葉《もみぢ》の|頃《ころ》なるべきを』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|右手《めて》に|手綱《たづな》を|取《と》りながら|答《いらへ》の|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|背《せ》の|岐美《きみ》の|御上《みうへ》|思《おも》へば|恋《こ》ふしさの
|心《こころ》つのりて|得堪《えた》へずなりぬ
|八十筋《やそすぢ》に|乱《みだ》れ|初《そ》めにしわが|心《こころ》
つかねむ|由《よし》もなかりけるかな
|大道《おほみち》に|違《たが》ひ|奉《まつ》ると|知《し》りつつも
|吾《われ》|進《すす》まばや|背《せ》の|岐美許《きみがり》に
|駿馬《はやこま》のはやる|心《こころ》を|止《とど》めます
|公《きみ》の|言《こと》の|葉《は》|恨《うら》めしきかな
いか|程《ほど》にとどめ|給《たま》ふもわが|心《こころ》
はや|旅立《たびだ》ちを|定《さだ》めたりける
なまじひに|止《とど》め|給《たま》ひそわが|駒《こま》は
|旅《たび》に|立《た》たむと|足掻《あが》き|止《や》まずも』
|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》は|儼然《げんぜん》として|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》の|汝《なれ》は|依《よ》さしの|御樋代《みひしろ》よ
|許《ゆる》しなくして|旅《たび》に|立《た》たすか
|天界《かみくに》は|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御樋代《みひしろ》よ
いかで|許《ゆる》さむ|独断心《ひとりごころ》を』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|答《いらへ》の|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》の|道《みち》に|背《そむ》くと|知《し》りながら
|恋《こ》ふしさつのりて|死《し》なまく|苦《くる》し
|日《ひ》に|夜《よる》に|苦《くる》しみもがきし|吾《わが》|魂《たま》は
|消《け》なば|消《け》ぬべく|死《し》なば|死《し》ぬべし
|矢《や》も|楯《たて》もたまらぬまでの|恋《こ》ふしさに
|胸《むね》の|高鳴《たかな》り|苦《くる》しく|止《や》まずも
|今《いま》となりて|恋《こ》ふしき|心《こころ》をひるがへす
|力《ちから》なきわれを|許《ゆる》させ|給《たま》へ』
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》はこの|様《さま》を|見《み》て|驚《おどろ》きながら、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》に|御樋代神《みひしろがみ》とまけられし
|公《きみ》にあらずや|省《かへり》みましませ
|草枕《くさまくら》|女神《めがみ》の|一人《ひとり》|旅立《たびだ》ちは
|危《あや》ふかりけむ|時《とき》を|待《ま》たせよ
いか|程《ほど》に|心《こころ》はやらせ|給《たま》ふとも
この|稚国土《わかぐに》は|進《すす》む|道《みち》なし』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|決然《けつぜん》として|歌《うた》ひ|給《たま》ふ。
『よしやよし|万里《ばんり》の|荒野《あらの》を|渉《わた》るとも
|吾《われ》は|恐《おそ》れじ|言霊剣《ことたまつるぎ》もてれば
|言霊《ことたま》の|貴《うづ》の|剣《つるぎ》をふりかざし
さやらむ|曲津《まが》を|斬《き》りはふり|行《ゆ》かむ
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》は|尊《たふと》し|背《せ》の|岐美《きみ》は
|一入《ひとしほ》なつかし|黙《もだ》しあるべきや
|吾《われ》|一人《ひとり》これの|宮居《みやゐ》にあらずとも
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》ひかへますなり
|遠《とほ》くはかり|深《ふか》く|思《おも》ひて|吾《われ》は|今《いま》
|御子生《みこう》みの|旅《たび》に|立《た》たむとすなり
|主《ス》の|神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《みわざ》|遂《と》ぐるまで
|吾《われ》は|帰《かへ》らじ|許《ゆる》させ|給《たま》へ
|御樋代《みひしろ》の|比女神等《ひめがみたち》よわが|願《ねが》ひ
|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に|聞《き》きて|許《ゆる》さへ
わが|心《こころ》|千引《ちびき》の|巌《いは》より|重《おも》くして
|如何《いか》なる|力《ちから》も|動《うご》かし|得《え》ざらむ』
|梅咲比女《うめさくひめ》の|神《かみ》はしとやかに|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|背《せ》の|岐美《きみ》を|思《おも》はす|心《こころ》のあさからぬ
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》の|真言《まこと》を|悲《かな》しむ
|吾《われ》とても|日々《ひび》に|恋《こ》ふしく|思《おも》へども
|御許《みゆる》しなければせむ|術《すべ》もなし
あらためて|神《かみ》の|許《ゆる》しの|下《くだ》るまでは
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》よ|暫《しばら》く|待《ま》ちませ
いたづらにわが|思《おも》ひねをつき|通《とほ》し
|後《あと》にて|悔《く》います|公《きみ》を|悲《かな》しむ
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》と|仕《つか》へてわれとても
|心《こころ》|苦《くる》しくけ|長《なが》く|待《ま》ちぬる
|汝《な》が|心《こころ》|吾《われ》は|知《し》らぬにあらねども
|神《かみ》の|許《ゆる》しのなきを|恐《おそ》るる
|兎《と》も|角《かく》も|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|帰《かへ》りませ
|汝《なれ》が|心《こころ》のはやりいませば
|落《お》ちつきて|身《み》の|行《ゆ》く|末《すゑ》を|語《かた》らひつ
|静《しづ》かに|静《しづ》かにおこなはせませ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》もて|答《こた》へ|給《たま》ふ。
『ありがたし|梅咲比女《うめさくひめ》の|神宣《みことのり》
|心《こころ》に|刻《きざ》みて|忘《わす》れざるべし
さりながら|生命《いのち》|消《け》ぬまでこがれてし
|岐美《きみ》はわが|身《み》に|捨《す》て|難《がた》きかも
|百神《ももがみ》はいかにわが|身《み》をはかゆとも
|恐《おそ》れず|行《ゆ》かむ|駒《こま》に|鞭《むち》うちて
|御樋代《みひしろ》の|神等《かみたち》|宮居《みや》の|司等《つかさたち》
わが|旅立《たびだ》ちを|詳細《つぶさ》に|許《ゆる》せよ
いざさらば|駒《こま》に|跨《またが》り|出《い》で|行《ゆ》かむ
すこやかにませ|御樋代神《みひしろがみ》|等《たち》』
と|言《い》ひつつ、|再《ふたた》び|駒《こま》に|跨《またが》らむとし|給《たま》ふにぞ、|寿々子比女《すずこひめ》の|神《かみ》は|駒《こま》の|轡《くつわ》をきびしく|手握《たにぎ》り|給《たま》ひて、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|吾《われ》とても|岐美《きみ》を|恋《こ》ひつつ|朝夕《あさゆふ》を
|歎《なげ》きて|暮《く》らす|神魂《みたま》なりけり
さりながら|主《ス》の|大神《おほかみ》の|許《ゆる》しなくて
これの|聖所《すがど》をはなるべしやは
|汝《な》が|神《かみ》の|清《きよ》き|心《こころ》のそこひまで
|吾《われ》は|悟《さと》れりとどむるも|悲《かな》し
|止《とど》めあへぬ|涙《なみだ》かくして|夜昼《よるひる》を
なげきし|吾《われ》はかくもやつれし
さりながら|神《かみ》の|依《よ》さしの|重《おも》ければ
|忍《しの》びて|待《ま》ちぬ|長《なが》の|月日《つきひ》を
この|度《たび》は|思《おも》ひ|止《とど》まり|給《たま》へかし
|牡丹《ぼたん》の|花《はな》も|開《ひら》き|初《そ》むれば
|爛漫《らんまん》と|咲《さ》き|匂《にほ》ひたる|桜花《さくらばな》も
|夜嵐《よあらし》に|散《ち》る|世《よ》を|思《おも》ひませ
|愛善《あいぜん》の|紫微天界《しびてんかい》も|永久《とこしへ》に
|花《はな》も|梢《こずゑ》のものならざらむ』
|宇都子比女《うづこひめ》の|神《かみ》は、|駿馬《はやこま》の|前《まへ》にしとやかに|立《た》たせ|給《たま》ひつつ、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|旅立《たびだ》ちを|止《とど》めむとして|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|春《はる》さりて|夏《なつ》はやうやく|来向《きむか》へる
|野《の》に|若草《わかぐさ》は|萌《も》えさかりける
|夏草《なつぐさ》の|萌《も》ゆる|聖所《すがど》を|後《あと》にして
|旅立《たびだ》たす|公《きみ》の|心《こころ》あやしも
|願《ねが》はくば|暫《しば》しを|待《ま》たせ|主《ス》の|神《かみ》の
やがて|許《ゆる》しの|下《くだ》る|日《ひ》|来《きた》らむ
|何事《なにごと》も|己《おの》が|心《こころ》のままにならば
|吾《われ》も|黙《もだ》して|止《とど》まらざるべし
|汝《な》が|神《かみ》の|切《せつ》なる|心《こころ》は|悟《さと》れども
|天界《みくに》のために|吾《われ》はとどめむ
|大宮居《おほみや》に|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|仕《つか》へます
|汝《なれ》の|勤《つと》めを|汚《けが》し|給《たま》ふな
|言霊《ことたま》の|御樋代神《みひしろがみ》とつつしみて
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|暫《しば》し|仕《つか》へませ
|吾《われ》とても|同《おな》じ|思《おも》ひに|泣《な》きながら
|忍《しの》びて|宮居《みや》に|仕《つか》へゐるなり』
|狭別比女《さわけひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》の|出《い》で|立《た》ちを
とどめむとする|吾《われ》は|苦《くる》しも
|苦《くる》しさを|忍《しの》びてとどむるわが|言葉《ことば》
うべなひ|給《たま》へ|朝香《あさか》の|比女神《ひめがみ》よ
|高地秀《たかちほ》の|峰《みね》の|桜《さくら》は|散《ち》り|果《は》てて
|野《の》は|常夏《とこなつ》の|色《いろ》をそめたり
|高地秀《たかちほ》の|春《はる》のはじめの|桜花《さくらばな》も
はや|散《ち》りにけり|御樋代神《みひしろがみ》の|身《み》に
|春《はる》|過《す》ぎし|花《はな》なき|木草《きぐさ》の|如何《いか》にして
|花《はな》なる|岐美《きみ》と|水火《いき》の|合《あ》ふべき
|夏草《なつぐさ》は|所《ところ》せきまで|萌《も》え|出《い》でぬ
|汝《な》が|神《かみ》すでに|歳古《としふ》りにける
|歳古《としふ》りし|御樋代神《みひしろがみ》は|言霊《ことたま》の
もとゐとなりて|天界《みくに》を|守《まも》れよ
|吾《われ》も|亦《また》|歳《とし》ふりし|身《み》よ|言霊《ことたま》の
|御樋代神《みひしろがみ》となりて|仕《つか》へむ
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》の|名花《めいくわ》を|散《ち》らすかと
|思《おも》へば|惜《を》しし|公《きみ》の|旅立《たびだ》ち』
|花子比女《はなこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|花子比女《はなこひめ》|花《はな》の|姿《すがた》はあせにけり
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》も|斯《か》くやましけむ
あさからぬ|朝香《あさか》の|比女《ひめ》の|志《こころざし》
とどめむとして|涙《なみだ》あふれつ
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|御後《みあと》を|訪《たづ》ねむと
|思《おも》ほす|公《きみ》の|心《こころ》かなしも
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》は|国土生《くにう》み|神生《かみう》みの
|神業《わざ》|忙《いそが》しく|顧《かへり》みたまはじ
|遥々《はろばろ》と|遠《とほ》の|山野《やまぬ》をのり|越《こ》えて
|無情《むじやう》に|泣《な》かす|公《きみ》を|悲《かな》しむ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|駒《こま》を|立《た》て|直《なほ》し
|止《とど》まり|給《たま》へ|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に』
|小夜子比女《さよこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|小夜《さよ》|更《ふ》けし|身《み》ながら|光《ひかり》の|顕津男《あきつを》の
|神《かみ》の|御後《みあと》を|訪《と》はす|術《すべ》なさ
|春《はる》さりて|夏《なつ》の|夕《ゆふ》べを|旅立《たびだ》たす
|公《きみ》を|悲《かな》しとおもひて|泣《な》くも』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、|決心《けつしん》の|色《いろ》を|面《おも》に|浮《うか》べて|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|神々《かみがみ》のあつき|心《こころ》は|悟《さと》れども
|心《こころ》の|駒《こま》の|足掻《あが》き|止《や》まずも
わが|神魂《みたま》|愛《め》ぐしと|思《おぼ》し|給《たま》はれば
|許《ゆる》させ|給《たま》へ|今日《けふ》の|旅立《たびだ》ちを
よしやよし|曲神《まがかみ》|道《みち》にさやるとも
|生言霊《いくことたま》になびけ|進《すす》まむ
|言霊《ことたま》の|幸《さち》に|生《うま》れしわれにして
|言霊《ことたま》の|水火《いき》|輝《かがや》かざらめや
|駿馬《はやこま》のはやる|心《こころ》を|貫《つら》ぬきて
|吾《われ》は|進《すす》まむ|背《せ》の|岐美許《きみがり》に』
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》は|憮然《ぶぜん》として|歌《うた》ひ|給《たま》ふ。
『|朝香比女《あさかひめ》の|強《つよ》き|心《こころ》は|悟《さと》れども
|今《いま》|暫《しばら》くを|待《ま》たせたまはれ
|比女神《ひめがみ》の|矢竹心《やたけごころ》をおさへむと
|百神等《ももがみたち》の|真心《まごころ》かなしも
|百神《ももがみ》のやさしき|心《こころ》をよそにして
|旅立《たびだ》たむとする|公《きみ》ぞつれなき』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|矢《や》も|楯《たて》もたまらず、|決然《けつぜん》として|鞭《むち》を|右手《めて》に|手握《たにぎ》り、|左手《ゆんで》に|手綱《たづな》をささげながら|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『いざさらば|百神等《ももがみたち》よ|大宮居《おほみや》に
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|仕《つか》へましませ
|百神等《ももがみたち》の|御旨《みむね》にそむくと|思《おも》へども
かたき|心《こころ》をわれ|如何《いか》にせむ』
と|言挙《ことあ》げしつつ|一鞭《ひとむち》あててまつしぐらに|夕闇《ゆふやみ》の|幕《まく》|分《わ》けつつ|一目散《いちもくさん》に|駆《か》け|出《い》で|給《たま》ふぞ|是非《ぜひ》なけれ。
(昭和八・一二・六 旧一〇・一九 於水明閣 谷前清子謹録)
第八章 |善言美霊《ぜんげんびれい》〔一九二五〕
ここに|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、|顕津男《あきつを》の|神《かみ》を|慕《した》はせ|給《たま》ふ|心《こころ》の|駒《こま》の|狂《くる》ひたちて|足掻《あが》き|止《や》まねば、|御樋代神《みひしろがみ》|等《たち》、|宮司神《みやつかさがみ》|等《たち》の|心《こころ》を|籠《こ》め|力《ちから》を|尽《つく》しての|諫《いさ》めも、|空《そら》|吹《ふ》く|風《かぜ》と|聞《き》き|流《なが》し、|白馬《しらこま》に|鞭《むち》うち、|黄昏《たそがれ》の|空《そら》を|東南《とうなん》|指《さ》して|駆《か》け|出《い》で|給《たま》ふぞ|雄々《をを》しけれ。|後《あと》に|残《のこ》れる|御樋代神《みひしろがみ》|等《たち》は|慨然《がいぜん》として|歎《なげ》かせ|給《たま》ひつつ、|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》の|聖殿《すがどの》に|心《こころ》|静《しづ》かに|帰《かへ》らせ|給《たま》ひて、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|旅《たび》の|無事《ぶじ》を|祈《いの》らむと、|種々《くさぐさ》の|美味物《うましもの》を|奉《たてまつ》り、|大御前《おほみまへ》に|祈《いの》りの|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し|給《たま》ひぬ。
|先《ま》づ|例《かた》の|如《ごと》く|祭典《さいてん》の|用意《ようい》|整《ととの》ひたれば、|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は|宮居《みや》の|司《つかさ》の|務《つとめ》として、|御自《みみづか》ら|高御座《たかみくら》の|大前《おほまへ》にひれ|伏《ふ》し、|御声《みこゑ》|爽《さはや》かに|太祝詞《ふとのりと》|白《まを》し|給《たま》ふ。
『|掛巻《かけま》くも|綾《あや》に|畏《かしこ》き|高地秀山《たかちほやま》の|下津岩根《したついはね》に|大宮柱太《おほみやばしらふと》しき|建《た》て、|高天原《たかあまはら》に|千木高知《ちぎたかし》りて、|堅磐常磐《かきはときは》に|此《これ》の|聖所《すがど》を|領有《うしは》ぎ|鎮《しづ》まりいます|主《ス》の|大神《おほかみ》の|大御前《おほみまへ》に、|斎主《いはひぬし》|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》、|謹《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|畏《かしこ》み|畏《かしこ》みも|白《まを》さく。|如何《いか》なる|神《かみ》の|経綸《しぐみ》なるかも、|如何《いか》なる|神《かみ》の|計《はか》らひなるかも、|御樋代比女神《みひしろひめがみ》と|神《かみ》の|依《よ》さしに|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|仕《つか》へましし、|其《そ》が|中《なか》の|一柱《ひとはしら》とます|朝香《あさか》の|比女神《ひめがみ》は、|百神等《ももがみたち》の|諫《いさ》め|止《とど》むる|言霊《ことたま》をも|聞《き》かせ|給《たま》はず、|駿馬《はやこま》に|鞭《むち》うち|給《たま》ひて|常闇《とこやみ》の|夕《ゆふべ》の|空《そら》を、|太元顕津男《おほもとあきつを》の|神《かみ》の|御許《みもと》に|詣《まう》で|仕《つか》へむと、|心《こころ》|雄々《をを》しく|出《い》でましぬ。かれかくなりし|上《うへ》は、|吾等《われら》が|真心《まごころ》もちて|止《とど》めまつらむ|由《よし》もなければ、|惟神《かむながら》|神《かみ》に|任《まか》せて、|比女神《ひめがみ》の|旅路《たびぢ》を|安《やす》らけく|平《たひら》けく|渡《わた》らせ|給《たま》へと|祈《いの》るより|外《ほか》に|詮術《せんすべ》|無《な》かりければ、ここに|神々《かみがみ》|相議《あひはか》りて、|今日《けふ》の|御祭《みまつり》|仕《つか》へまつると、|海河山野《うみかはやまぬ》|種々《くさぐさ》の|美味物《うましもの》を、|八足《やたり》の|机代《つくゑしろ》に|横山《よこやま》なす|置《お》き|足《た》らはして、|奉《たてまつ》る|状《さま》を、|平《たひら》けく|安《やす》らけく|穏《おだひ》に|聞《きこ》し|召《め》しまして、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》が|伊行《いゆ》き|給《たま》ふ|道《みち》の|隈手《くまで》も|恙《つつが》なく|聖所《すがど》に|進《すす》ませ|給《たま》へかし。|過《あやま》ち|犯《をか》さむ|事《こと》しあらば、|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|宣《の》り|直《なほ》しまして、|比女《ひめ》の|神言《みこと》の|出立《いでたち》に|恙《つつが》あらせじと、|夜《よ》の|守《まも》り|日《ひ》の|守《まも》りに|守《まも》り|幸《さきは》へ|給《たま》へと、|鹿児自物《かごじもの》|膝折《ひざを》り|伏《ふ》せ|宇自物《うじもの》|頸根突貫《うなねつきぬ》きて|畏《かしこ》み|畏《かしこ》みも|祈願《こひのみ》|奉《まつ》らくと|白《まを》す。|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》、|惟神《かむながら》|御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
|高野比女《たかのひめ》の|神《かみ》は|御祭《みまつり》の|庭《には》に|立《た》たせ|給《たま》ひて、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|高地秀《たかちほ》の|貴《うづ》の|宮居《みやゐ》に|永久《とこしへ》に
ます|大神《おほかみ》に|願《ね》ぎごと|白《まを》さむ
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》は|夕《ゆふ》べを|立《た》ち|出《い》でぬ
つつがあらすな|道《みち》の|隈手《くまで》も
|朝香比女《あさかひめ》は|面勝神《おもかつがみ》よ|射向《いむか》ふ|神《かみ》
わが|言霊《ことたま》も|聞《き》かず|出《い》でましぬ
|思《おも》ひ|立《た》ちし|事《こと》を|貫《つらぬ》く|朝香比女《あさかひめ》の
こころの|駒《こま》は|止《とど》め|得《え》ざりき
かくならば|詮術《せんすべ》もなし|主《ス》の|神《かみ》の
あつき|恵《めぐ》みにすがらむと|思《おも》ふ
|曲津神《まがかみ》の|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|荒野原《あらのはら》を
|進《すす》ます|比女《ひめ》の|身《み》をあやぶみぬ
|危《あや》ふかる|旅《たび》の|枕《まくら》を|重《かさ》ねむと
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》は|雄々《をを》しく|出《い》でませり
かくまでも|其《そ》の|心《こころ》ばせを|立《た》て|通《とほ》す
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》は|面勝神《おもかつがみ》なり
|御樋代神《みひしろがみ》われは|司《つかさ》と|任《ま》けられて
|詫《わ》びごと|宣《の》らむ|言《こと》の|葉《は》も|出《で》ず
わが|心《こころ》おろそかにして|朝香比女《あさかひめ》の
こころを|今《いま》まで|悟《さと》らざりしよ
|悟《さと》らざりしわが|過《あやま》ちを|神直日《かむなほひ》
|大直日神《おほなほひかみ》|宣《の》り|直《なほ》しませ』
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》の|雄々《をを》しき|心《こころ》ばせを
われは|気付《きづ》かず|眠《ねむ》らひにけり
|予《かね》てよりかくと|定《さだ》めし|朝香比女《あさかひめ》の
こころの|駒《こま》は|止《とど》め|得《え》ざりき
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》はまさしくや
|射向《いむか》ふ|神《かみ》なり|面勝神《おもかつがみ》なる
|果《は》てしなき|荒野《あらの》を|一人《ひとり》|出《い》で|立《た》たす
|雄々《をを》しき|比女《ひめ》をまもらせたまへ
|曲津神《まがかみ》は|姿《すがた》をいろいろ|変《か》へにつつ
|比女《ひめ》の|行方《ゆくへ》にさやらむとすも
|曲津見《まがつみ》の|猛《たけ》びは|如何《いか》に|強《つよ》くとも
|喪《も》なく|事《こと》なくすすませたまへ
|八百万《やほよろづ》|神《かみ》ましませど|朝香比女《あさかひめ》の
|雄々《をを》しき|心《こころ》は|誰《た》も|持《も》たなくに』
|梅咲比女《うめさくひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|東南《とうなん》の|荒野《あらの》は|山《やま》も|高《たか》くして
|初夏《はつなつ》ながら|春《はる》の|気《き》|漂《ただよ》はむ
|白梅《しらうめ》の|花《はな》はあちこちに|匂《にほ》ひつつ
|比女神《ひめがみ》の|旅《たび》を|慰《なぐさ》むなるらむ
|白梅《しらうめ》の|匂《にほ》へる|山路《やまぢ》を|踏《ふ》みわけて
|白毛《しろげ》の|駒《こま》に|鞭《むち》うたすらむ
|主《ス》の|神《かみ》の|厚《あつ》き|恵《めぐ》みに|朝香比女《あさかひめ》の
|神《かみ》はやすやす|進《すす》ませ|給《たま》はむ
|言霊《ことたま》の|幸《さち》はひたすくる|天界《かみくに》に
さやらむ|曲津《まが》は|必《かなら》ず|亡《ほろ》びむ
さりながら|朝香《あさか》の|比女《ひめ》の|草枕《くさまくら》
|旅《たび》の|苦《くる》しさわれにせまるも
|朝夕《あさゆふ》を|神《かみ》の|御前《みまへ》に|祈《いの》らばや
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》に|恙《つつが》なかれと
|四方八方《よもやも》に|白梅《しらうめ》|薫《かを》る|春《はる》の|野《の》を
|心《こころ》|豊《ゆたか》に|立《た》ち|出《い》でますらむ』
|香具比女《かぐひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|非時《ときじく》に|香具《かぐ》の|木《こ》の|実《み》の|香《かを》りたる
|紫微天界《しびてんかい》はにぎはしきかも
|桜花《さくらばな》|散《ち》り|敷《し》く|庭《には》の|夕《ゆふ》ぐれを
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》は|一人《ひとり》|立《た》たせる
|神々《かみがみ》の|誠《まこと》をこめての|言霊《ことたま》も
|聞《き》かさず|立《た》ちし|比女神《ひめがみ》|天晴《あは》れ
|比女神《ひめがみ》の|後姿《うしろで》|見送《みおく》りてわれはただ
|故《ゆゑ》|知《し》らぬ|涙《なみだ》ほとばしりぬる
|今日《けふ》を|限《かぎ》り|長《なが》の|別《わか》れにならむかと
おもへば|悲《かな》しくなみだぐまるも
|大野原《おほのはら》|駒《こま》に|鞭《むち》うち|一人《ひとり》ゆかす
|雄々《をを》しき|比女《ひめ》の|心《こころ》いたまし
|背《せ》の|岐美《きみ》をおもふあまりの|旅立《たびだ》ちと
おもへばわれも|悲《かな》しくなりぬ
|神《かみ》|思《おも》ひ|岐美《きみ》を|慕《した》ひて|胸《むね》の|火《ひ》の
|炎《ほのほ》|消《け》さむと|出《い》でませしはや
|燃《も》ゆる|火《ひ》も|溢《あふ》るる|水《みづ》もいとひなく
|恋路《こひぢ》のためには|命《いのち》|惜《を》しまさず
|玉《たま》の|緒《を》の|命《いのち》|捧《ささ》げし|岐美《きみ》ゆゑに
かくもありけむ|朝香比女神《あさかひめがみ》は
よしやよし|曲津見《まがつみ》のさやり|繁《しげ》くとも
つらぬき|通《とほ》せ|公《きみ》の|真心《まごころ》を』
|寿々子比女《すずこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|朝香比女《あさかひめ》|道《みち》の|隈手《くまで》も|恙《つつが》なかれと
こころ|清《きよ》めて|祈《いの》りけらしな
|駿馬《はやこま》に|鞭《むち》をうたせて|出《い》で|立《た》ちし
|比女《ひめ》の|姿《すがた》は|雄々《をを》しかりける
|岐美《きみ》おもふ|心《こころ》の|征矢《そや》を|通《とほ》さむと
|駒《こま》にまたがり|駆《か》け|出《い》で|給《たま》ひぬ
|春《はる》さりて|夏《なつ》|来《きた》りける|大野原《おほのはら》を
|進《すす》ます|公《きみ》のすがた|偲《しの》ばゆ
|昆虫《はふむし》の|災《わざはひ》もなく|高津神《たかつかみ》の
さまたげもなく|進《すす》み|給《たま》はれ
|一度《ひとたび》は|止《とど》めまつれど|如何《いか》にせむ
かくなるうへはただに|祈《いの》らむ
|比女神《ひめがみ》の|進《すす》ます|道《みち》は|安《やす》くあれ
|高津鳥《たかつとり》|等《ら》のわざはひもなく
|山《やま》を|越《こ》え|野《の》を|越《こ》え|溪川《たにがは》|渡《わた》りつつ
|出《い》で|行《ゆ》く|公《きみ》の|雄々《をを》しきろかも
かくならば|後《あと》に|残《のこ》りしわれわれも
|比女神《ひめがみ》の|旅《たび》を|祈《いの》るのみなる』
|宇都子比女《うづこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》の|聖所《すがど》を|後《あと》にして
|山河《やまかは》わたり|比女神《ひめがみ》|出《い》でましぬ
|数千里《すせんり》の|旅《たび》の|枕《まくら》をかさねつつ
|一人《ひとり》|出《い》でます|比女神《ひめがみ》|天晴《あは》れ
|百神《ももがみ》の|神言《みこと》の|止《とど》めも|聞《き》かずして
|雄々《をを》しも|比女《ひめ》は|出《い》でましにける』
|狭別比女《さわけひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|幾十日《いくじふにち》|筑紫《つくし》の|宮居《みや》の|旅《たび》をへて
|間《ま》もなく|比女神《ひめがみ》|又《また》|旅《たび》に|立《た》てり
|気魂《からたま》も|神魂《みたま》も|強《つよ》き|比女神《ひめがみ》の
こころの|駒《こま》を|止《と》むる|術《すべ》なし
|幾千里《いくせんり》|荒野《あらの》をわたり|旅立《たびだ》たす
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》は|雄々《をを》しき|神《かみ》なり
|徒《いたづら》に|月日《つきひ》|送《おく》らむ|苦《くる》しさに
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》は|立《た》ち|出《い》でにけむ
|主《ス》の|神《かみ》の|御許《みゆる》しもなくただ|一人《ひとり》
|立《た》たせる|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》はも
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》のとりしわざは
かへりて|神《かみ》に|叶《かな》ふなるらむ
|主《ス》の|神《かみ》の|御旨《みむね》に|叶《かな》はぬわざなれば
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》の|駒《こま》は|走《はし》らじ
|黄昏《たそがれ》の|闇《やみ》を|駆《か》け|出《だ》しし|雄々《をを》しかる
すがたに|神旨《みむね》をわれはうたがふ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》|照《て》らして|言霊《ことたま》の
|水火《いき》|清《きよ》まらばすべてはならむも
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》はかならず|顕津男《あきつを》の
|神《かみ》と|御水火《みいき》を|合《あ》はせますらむ
|西方《にしかた》の|国土《くに》|稚《わか》ければ|御樋代《みひしろ》の
|神《かみ》まさぬ|世《よ》を|悟《さと》らしにけむ
|西方《にしかた》の|国土《くに》の|御樋代神《みひしろがみ》となり
|国魂神《くにたまがみ》を|生《う》ます|旅《たび》かも
|西方《にしかた》の|国土《くに》は|黒雲《くろくも》|立《た》ちこめて
|大曲津見《おほまがつみ》の|棲《す》めるとぞ|聞《き》く
|曲津見《まがつみ》のほしいままなる|振舞《ふるまひ》を
たださむとして|出《い》でましにけむ
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》は|面勝神《おもかつがみ》なれば
|大曲津見《おほまがつみ》もただになびかむ
かくの|如《ごと》|雄々《をを》しき|神《かみ》はあらざりき
|御樋代神《みひしろがみ》は|数多《あまた》ませども』
|花子比女《はなこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|高地秀《たかちほ》の|峰《みね》の|桜《さくら》は|早《は》や|散《ち》りて
|青葉《あをば》の|園《その》となりにけらしな
|野《の》に|山《やま》に|若葉《わかば》|若草《わかぐさ》|萌《も》え|立《た》ちて
|夏《なつ》の|御空《みそら》は|来《き》むかひにけり
|青葉《あをば》|萌《も》ゆる|山河《やまかは》|渡《わた》り|駒《こま》の|背《せ》に
|乗《の》りて|出《い》でます|朝香比女《あさかひめ》はも
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》はかならず|曲津見《まがつみ》の
|猛《たけ》びにくるしみ|給《たま》ふなるらむ
|朝香比女《あさかひめ》|旅《たび》の|悩《なや》みをおもひつつ
|腮辺《しへん》につたふわがなみだかな
|西方《にしかた》の|国土《くに》は|黒雲《くろくも》|立《た》ちこめて
スウヤトゴルの|曲津《まが》は|火《ひ》を|吐《は》く
|非時《ときじく》に|黒雲《くろくも》むらむら|立《た》ち|上《のぼ》り
|御空《みそら》をつつむ|西方《にしかた》|小暗《をぐら》き
|月《つき》も|日《ひ》も|星《ほし》もかげなき|西方《にしかた》の
|国土《くに》|造《つく》るべく|出《い》でましにけむ
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》の|雄々《をを》しき|心《こころ》ばせを
われは|朝夕《あさゆふ》|悟《さと》り|居《ゐ》しはや
かくの|如《ごと》|思《おも》ひきりたる|草枕《くさまくら》
|旅《たび》にたたすをうべよと|思《おも》へり
|今《いま》とならば|止《とど》めむよしもなきままに
|恙《つつが》なかれと|祈《いの》るのみなる
|朝香比女《あさかひめ》|功《いさを》を|太《ふと》しく|建《た》てまさば
|御樋代神《みひしろがみ》のほまれなるかも
|八柱《やはしら》の|御樋代比女神《みひしろひめがみ》の|中《なか》にして
|雄々《をを》しき|神《かみ》の|出《い》でますは|嬉《うれ》し』
|小夜子比女《さよこひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|丹牡丹《にぼたん》の|花《はな》はくづれて|庭池《にはいけ》の
|菖蒲《あやめ》の|紫《むらさき》|匂《にほ》ひ|初《そ》めたり
|大庭《おほには》の|瀬見《せみ》の|小川《をがは》にかげうつす
|菖蒲《あやめ》の|花《はな》のつやつやしかも
|菖蒲《あやめ》|咲《さ》くころの|聖所《すがど》を|後《あと》にして
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》は|旅立《たびだ》たしける
|朝香比女《あさかひめ》は|燃《も》ゆる|心《こころ》の|苦《くる》しさに
|菖蒲《あやめ》も|目《め》にはうつらざりけむ
|庭《には》の|面《も》に|咲《さ》ける|菖蒲《あやめ》や|燕子花《かきつばた》
|何《いづ》れをそれと|別《わか》ち|兼《か》ねつつ
|朝香比女《あさかひめ》の|今日《けふ》の|旅立《たびだ》ちよしあしの
あやめもわかずわれは|黙《もだ》さむ
|何事《なにごと》も|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御心《みこころ》に
|任《まか》すは|真《まこと》のつとめなるらむ
|如何《いか》ならむ|太《ふと》しき|功《いさを》たつるとも
|御神《みかみ》の|御許《みゆる》しなきは|仇《あだ》なり
|主《ス》の|神《かみ》の|生言霊《いくことたま》に|依《よ》らずして
われは|進《すす》まむ|雄心《をごころ》|起《おこ》らず
|徒《いたづら》に|長《なが》き|月日《つきひ》を|送《おく》りしと
|思《おも》ふは|心《こころ》のひがみなりしよ
|朝夕《あさゆふ》に|神《かみ》に|仕《つか》へて|祝詞《のりと》|宣《の》るは
|御樋代神《みひしろがみ》のつとめなりける
|地《つち》|稚《わか》きこの|天界《かみくに》を|固《かた》めむと
|御樋代神《みひしろがみ》を|生《う》ましし|神《かみ》はや
|御子生《みこう》みの|神業《わざ》はさておき|言霊《ことたま》の
|御樋代《みひしろ》として|生《あ》れ|出《い》でしならむ
かくならば|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|世《よ》の|為《ため》に
|御樋代神《みひしろがみ》は|言霊《ことたま》|宣《の》らばや
|一日《ひとひ》だも|生言霊《いくことたま》をおこたらば
|乱《みだ》るる|世《よ》なりと|悟《さと》らひにけり』
|天津女雄《あまつめを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|御樋代《みひしろ》の|比女神等《ひめがみたち》に|従《したが》ひて
|珍《めづら》しき|事《こと》を|見聞《みき》きするかも
|真心《まごころ》を|筑紫《つくし》の|宮居《みやゐ》あとにして
|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|仕《つか》へつるかも
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》の|旅立《たびだ》ち|送《おく》りつつ
|雄々《をを》しき|姿《すがた》に|見《み》とれけるかな
かくの|如《ごと》|雄々《をを》しき|神《かみ》にいますとは
|愚《おろ》かしきわれは|悟《さと》らざりしよ
この|上《うへ》は|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|大宮居《おほみや》に
|祈《いの》りて|比女《ひめ》の|幸《さち》を|守《まも》らむ
|西方《にしかた》の|国魂神《くにたまがみ》を|生《う》ますべく
|雄々《をを》しく|一人《ひとり》|出《い》でましにけむ
|今《いま》となりて|悔《くや》むも|詮《せん》なし|真心《まごころ》を
|持《も》ちて|祈《いの》らむ|神《かみ》の|御前《みまへ》に』
かくの|如《ごと》く、|神々《かみがみ》は|大宮居《おほみや》の|前《まへ》に|比女神《ひめがみ》の|無事《ぶじ》を|祈《いの》りつつ|各自《おのもおのも》|述懐歌《じゆつくわいか》をうたひて、|静《しづ》かに|定《さだ》めの|居間《ゐま》に|就《つ》かせ|給《たま》ひける。
(昭和八・一二・六 旧一〇・一九 於水明閣 林弥生謹録)
第三篇 |孤軍奮闘《こぐんふんとう》
第九章 |闇《やみ》の|河畔《かはん》〔一九二六〕
|別《わか》れて|程経《ほどへ》し|背《せ》の|岐美《きみ》の |太元顕津男《おほもとあきつを》の|神《かみ》を
|恋《こ》ふる|心《こころ》の|矢《や》も|楯《たて》も たまらぬままに|朝香比女《あさかひめ》
|神《かみ》の|神言《みこと》は|唯《ただ》|一騎《いつき》 |高地秀山《たかちほやま》を|後《あと》にして
|白馬《はくば》の|背《せな》に|鞭《むち》うちつ |桜《さくら》の|花《はな》の|風《かぜ》に|散《ち》る
|夕《ゆふ》べの|空《そら》をしとしとと |諸神《しよしん》の|諫言《いさめ》もきかずして
|進《すす》ませ|給《たま》ふ|旅《たび》の|空《そら》 |道《みち》の|隈手《くまで》にさやりたる
|八十曲津見《やそまがつみ》を|悉《ことごと》く |生言霊《いくことたま》に|打《う》ち|払《はら》ひ
|駒《こま》の|蹄《ひづめ》に|踏《ふ》み|躙《にじ》り |初心《しよしん》を|貫徹《くわんてつ》せむものと
|勇《いさ》み|進《すす》むで|出《い》で|給《たま》ふ。
|闇《やみ》の|幕《まく》はますます|深《ふか》く|大地《だいち》|一面《いちめん》を|包《つつ》み、|悽惨《せいさん》の|気《き》|四方《よも》に|漂《ただよ》ふ。
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、とある|河畔《かはべ》に|着《つ》き|給《たま》ひ、|闇《やみ》の|流《なが》れに|駒《こま》を|水飼《みづか》ひながら、|声《こゑ》もひそかに|歌《うた》はせ|給《たま》ふ。
『|天晴《あは》れ|天晴《あは》れ
わが|背《せ》の|岐美《きみ》は|今《いま》いづこ
たづねいゆくも|夏《なつ》の|夜《よ》の
|月《つき》|空《そら》になく|星《ほし》かげは
|御空《みそら》の|雲《くも》に|包《つつ》まれて
あやめもわかぬ|真《しん》の|闇《やみ》
|河《かは》の|流《なが》れはしろじろと
|北《きた》より|南《みなみ》に|光《ひか》りつつ
せせらぎの|音《おと》ひそひそと
|囁《ささや》く|聞《き》けば|淋《さび》しもよ
|果《は》てしも|知《し》らぬ|大野原《おほのはら》
|心《こころ》は|闇《やみ》にあらねども
|岐美《きみ》を|慕《した》ひし|真心《まごころ》の
つもりつもりて|常闇《とこやみ》と
なりにけるかも|今日《けふ》の|旅《たび》
|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に|照《て》らしませ
|高地秀山《たかちほやま》の|聖場《せいぢやう》に
|長《なが》き|年月《としつき》|仕《つか》へたる
われは|朝香比女神《あさかひめがみ》よ
|主《ス》の|大御神《おほみかみ》|心《こころ》あらば
この|河《かは》やすやす|渡《わた》しませ
|千里《せんり》の|駒《こま》は|嘶《いなな》けど
|深《ふか》き|浅《あさ》きもしらなみの
|越《こ》す|術《すべ》もなき|闇《やみ》の|河《かは》
|守《まも》らせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みを|乞《こ》ひ|奉《まつ》る。
|常闇《とこやみ》の|河畔《かはべ》にたちて|思《おも》ふかな
|恋《こひ》にくもれる|心《こころ》の|闇《やみ》を
|一条《ひとすぢ》の|闇《やみ》を|縫《ぬ》ひつつしろじろと
|流《なが》るる|水瀬《みなせ》はわれに|似《に》たるも
|星《ほし》かげもなき|闇《やみ》の|野《の》を|馳《は》せて|行《ゆ》く
|駒《こま》の|蹄《ひづめ》の|音《おと》を|力《ちから》に
かくならば|駒《こま》の|嘶《いなな》き|力《ちから》にて
|進《すす》まむほかはなかりけらしな
|天界《かみくに》に|闇《やみ》と|夜《よる》とのなかりせば
わが|旅立《たびだ》ちも|安《やす》けからむを
|小夜《さよ》|更《ふ》けて|眠《ねむ》らむとすれど|眠《ねむ》られぬ
|心《こころ》の|駒《こま》のはやりたつれば
|広々《ひろびろ》と|果《は》てしも|知《し》らぬ|荒野原《あらのはら》を
|辿《たど》るも|岐美《きみ》を|恋《こ》ふるが|為《ため》なり
|闇《やみ》よ|闇《やみ》|早《はや》く|去《さ》れかし|朝津日《あさつひ》よ
はや|昇《のぼ》れかしわれを|守《まも》りて
すいすいと|闇《やみ》を|縫《ぬ》ひゆく|螢火《ほたるび》の
|燃《も》ゆるおもひを|消《け》さむ|術《すべ》なし
|螢火《ほたるび》も|瑞《みづ》の|御霊《みたま》を|慕《した》へるか
|岸《きし》の|小草《をぐさ》にかすかに|光《ひか》れり
|初夏《はつなつ》の|夜《よ》は|更《ふ》けにけりわが|袖《そで》を
|吹《ふ》く|風《かぜ》さへも|涙《なみだ》にしめりつ
|万斛《ばんこく》の|涙《なみだ》|流《なが》るる|闇《やみ》の|夜《よる》の
|河瀬《かはせ》にたちて|燃《も》ゆる|螢火《ほたるび》
|如何《いか》にしてこの|闇《やみ》の|河《かは》を|渡《わた》らむと
|思《おも》へば|悲《かな》しはてなきおもひに』
かく|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ|折《をり》しもあれ、|八十曲津見《やそまがつみ》は|青白《あをじろ》き|大火団《だいくわだん》となりて、|河下《かはしも》より|長《なが》き|尾《を》を|引《ひ》きながら、|闇《やみ》の|空《そら》に|波《なみ》を|打《う》たせつつ|進《すす》み|来《きた》る。
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、|曲津見《まがつみ》の|神《かみ》|御座《ござ》むなれと、|両手《りやうて》を|組《く》み|合《あは》せ|水《みづ》も|漏《も》らさぬ|身構《みがま》へしながら、
『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》|千万《ちよろづ》の|神《かみ》
|曲津《まが》の|怪《あや》し|火《び》|退《しりぞ》け|給《たま》へ』
と|祈《いの》り|給《たま》へど、|火団《くわだん》は|何《なん》の|頓着《とんちやく》もなく、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|傍近《そばちか》く|進《すす》み|来《きた》り、|四辺《あたり》を|真昼《まひる》の|如《ごと》く|照《て》らしながら、|忽《たちま》ち|目《め》|一《ひと》つ|口《くち》|八《や》つの|怪物《くわいぶつ》となり、|比女神《ひめがみ》に|向《むか》つてその|口《くち》よりは|各自《おのもおのも》|巨大《きよだい》なる|蜂《はち》を|吐《は》き|出《いだ》し、|比女神《ひめがみ》の|身辺《しんぺん》|目《め》がけて|噛《か》みつかむとするにぞ、|駒《こま》は|驚《おどろ》きて|前後《ぜんご》|左右《さいう》に|跳《は》ねまはり、|忽《たちま》ち|河中《かはなか》にざんぶと|飛《と》びこみ、|水底《みなそこ》|深《ふか》く|沈《しづ》みける。|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|気丈《きぢやう》の|女神《めがみ》、
『|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》と|仕《つか》へしわれなるぞ
さまたげするな|八十《やそ》の|曲津見《まがつみ》
|主《ス》の|神《かみ》の|御水火《みいき》に|生《な》りし|天界《かみくに》に
|何《なに》をさやるか|退《しりぞ》け|曲津見《まがつみ》
われこそは|朝香《あさか》の|比女神《ひめがみ》|言霊《ことたま》の
|水火《いき》|足《た》らひたる|面勝神《おもかつがみ》ぞや』
かく|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》へども、|怪物《くわいぶつ》は|容易《ようい》に|去《さ》らず、|益々《ますます》|無数《むすう》の|蜂《はち》を|吐《は》き|出《いだ》し、|比女神《ひめがみ》の|全身《ぜんしん》を|襲《おそ》はむとするにぞ、|比女神《ひめがみ》はここに|一計《いつけい》を|案《あん》じ、|懐《ふところ》より|燧《ひうち》と|石《いし》を|取《と》り|出《いだ》し、|曲津見《まがつみ》に|向《むか》つてかちりかちりと|打《う》ち|給《たま》へば、|忽《たちま》ち|迸《ほとばし》り|出《い》づる|真火《まひ》の|光《ひか》りに|驚《おどろ》きにけむ、|怪物《くわいぶつ》の|姿《すがた》は|煙《けむり》と|消《き》えてあとかたもなく、かすかに|野《の》を|吹《ふ》く|風《かぜ》、せせらぎの|音《おと》|聞《きこ》ゆるのみ。
この|光景《くわうけい》を|見《み》て|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、|勇気《ゆうき》|日頃《ひごろ》に|百倍《ひやくばい》し、|燧《ひうち》を|懐《ふところ》に|納《をさ》め、|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|天《てん》に|向《むか》つて|感謝《ゐやひ》の|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》の|恵《めぐ》み|畏《かしこ》し|曲津見《まがつみ》は
|真火《まひ》の|力《ちから》に|消《き》え|失《う》せにけり
|曲神《まがかみ》の|醜《しこ》の|猛《たけ》びをやらひましし
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御稜威《みいづ》を|感謝《ゐやひ》す
わが|駒《こま》は|河《かは》の|底《そこ》より|現《あら》はれぬ
|醜《しこ》の|曲津《まがつ》の|消《き》え|失《う》せしより
|水底《みなそこ》を|潜《くぐ》りてかしこき|駿馬《はやこま》は
|蜂《はち》のなやみを|免《まぬか》れしはや
|幾千万《いくせんまん》の|蜂《はち》となりたる|曲津見《まがつみ》の
|拙《つたな》き|業《わざ》は|真火《まひ》に|亡《ほろ》びぬ
|東《ひむがし》の|空《そら》はやうやくしののめぬ
|新《あたら》しき|日《ひ》は|昇《のぼ》りますらむ
|新《あたら》しき|日光《ひかげ》を|浴《あ》びて|曲津見《まがつみ》の
|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|野路《のぢ》を|進《すす》まむ
|常闇《とこやみ》の|真夜《まよ》を|曲津見《まがつみ》に|襲《おそ》はるも
|岐美《きみ》を|恋《こ》ふるが|為《ため》なりにけり
|背《せ》の|岐美《きみ》にあはむ|日《ひ》あらば|幾万《いくまん》の
|曲津見《まが》の|妨《さまた》げわれは|恐《おそ》れじ
|玉《たま》の|緒《を》の|命《いのち》|捧《ささ》げし|背《せ》の|岐美《きみ》の
|為《ため》には|如何《いか》なるなやみも|恐《おそ》れじ
|岐美《きみ》|恋《こ》ふる|心《こころ》は|炎《ほのほ》と|燃《も》えたちぬ
|河《かは》の|流《なが》れの|底《そこ》あするまで』
かく|御歌《みうた》うたひ|給《たま》ふ|折《をり》しも、|鵲《かささぎ》の|声《こゑ》かすかに|響《ひび》き、|高照山《たかてるやま》の|谷間《たにあひ》より、|天津日《あまつひ》の|神《かみ》は|悠々《いういう》と|昇《のぼ》らせ|給《たま》ひける。
『|暁《あかつき》を|告《つ》ぐる|鵲《かささぎ》の|声《こゑ》|清《きよ》く
|響《ひび》きわたれり|狭葦《さゐ》の|河畔《かはべ》に
|闇《やみ》の|幕《まく》|大野《おほの》の|奥《おく》にしりぞきて
|天津日《あまつひ》かげは|昇《のぼ》らせ|給《たま》へり
かくならばわれは|恐《おそ》れじ|底深《そこふか》く
|碧《あを》める|河《かは》も|安《やす》く|渡《わた》らむ』
かく|歌《うた》ひつつ|駒《こま》の|背《せ》にひらりと|跨《またが》り、|駒《こま》の|腹帯《はらおび》をゆるめ、|鬣《たてがみ》をしつかと|掴《つか》み、|駒《こま》|諸共《もろとも》に|水底《みなそこ》|深《ふか》き|激流《げきりう》を、|流《なが》れ|渡《わた》りに|彼方《かなた》の|岸《きし》にやうやうにして|着《つ》き|給《たま》ひける。
すべて|深《ふか》き|流《なが》れを|駒《こま》にて|渡《わた》る|時《とき》は、|腹帯《はらおび》をゆるめ、|駒《こま》を|水中《すゐちう》に|飛《と》び|込《こ》ませ、|鬣《たてがみ》を|片手《かたて》に|握《にぎ》り、|駒《こま》も|騎手《きしゆ》も|共《とも》に|水中《すゐちう》に|浮《う》き、|泳《およ》ぎ|渡《わた》るを|以《もつ》て、|水馬《すゐば》の|法《はふ》となすものなり。
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|水馬《すゐば》の|法《はふ》を|深《ふか》く|覚《さと》り|給《たま》ひければ、かくの|如《ごと》き|方法《はうはふ》をもちて、|無事《ぶじ》|彼岸《ひがん》に|着《つ》かせ|給《たま》ひけるなり。
『われも|駒《こま》も|無事《ぶじ》に|狭葦河《さゐかは》|渡《わた》りけり
|水馬《すゐば》のわざの|今《いま》あらはれて
|玉鞍《たまぐら》も|手綱《たづな》も|鞭《むち》も|濡《ぬ》れにけり
|暫《しば》し|休《やす》らひ|日《ひ》に|干《ほ》さむかも
|罪《つみ》のなき|獣《けもの》なるかもやすやすと
|岸辺《きしべ》の|草《くさ》をむしりゐるとは
|駿馬《はやこま》の|食《く》ふべき|餌《ゑさ》は|満《み》ち|満《み》ちぬ
|草《くさ》もて|命《いのち》つなぐ|身《み》なれば
われもまた|主《ス》の|大神《おほかみ》の|水火《いき》|吸《す》ひて
|長《なが》き|命《いのち》を|保《たも》ちけるはや
|玉《たま》の|緒《を》の|命《いのち》の|糧《かて》は|言霊《ことたま》の
|清《きよ》けき|水火《いき》の|幸《さち》はひなりける
あけぬれば|八十《やそ》の|曲津《まがつ》の|影《かげ》もなく
|虫《むし》の|音《ね》|清《きよ》く|冴《さ》えわたるなり
|鵲《かささぎ》はあしたをうたひ|真鶴《まなづる》は
|天界《かみよ》を|祝言《ことほ》ぐ|狭葦河《さゐかは》のほとりよ
|名《な》も|知《し》らぬ|草《くさ》にいろいろ|花《はな》|咲《さ》きて
|狭葦《さゐ》の|河瀬《かはせ》の|水《みづ》かをるなり
|高地秀《たかちほ》の|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》に|雲《くも》わきぬ
|宮居《みや》の|神《かみ》たち|如何《いかが》ますらむ
わが|立《た》ちし|後《あと》の|宮居《みやゐ》に|百神《ももがみ》は
|伊寄《いよ》り|集《つど》ひて|言議《ことはか》りますらむ
|西方《にしかた》の|国土《くに》は|遥《はろ》けしわが|駒《こま》は
|万里《ばんり》の|駒《こま》とおもへど|淋《さび》しき
|曲神《まがかみ》の|雄猛《をたけ》び|狂《くる》ふ|荒野原《あらのはら》を
|一人《ひとり》|進《すす》むも|岐美《きみ》|恋《こ》へばなり
|大空《おほぞら》はただ|一片《ひときれ》の|雲《くも》もなく
わが|旅立《たびだ》ちをあかして|澄《す》めり
|駒《こま》の|鞍《くら》|漸《やうや》く|乾《かわ》きはてぬれば
|手綱《たづな》|握《にぎ》りてまたも|進《すす》まむ』
ここに|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、|再《ふたた》び|駒《こま》の|背《せ》に|跨《またが》り、|青草《あをくさ》|萌《も》ゆる|大野ケ原《おほのがはら》を、あてどもなく|東南《とうなん》さして|進《すす》ませ|給《たま》ひける。
(昭和八・一二・七 旧一〇・二〇 於水明閣 白石恵子謹録)
第一〇章 |二本松《にほんまつ》の|蔭《かげ》〔一九二七〕
|見渡《みわた》す|限《かぎ》り|夏草《なつぐさ》|萌《も》ゆる|大野ケ原《おほのがはら》の|露《つゆ》を|駒《こま》の|蹄《ひづめ》に|踏《ふ》みくだきながら、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|馬上《ばじやう》|豊《ゆたか》に、|小声《こごゑ》に|御歌《みうた》|吟《ぎん》じつつ|進《すす》ませ|給《たま》ふ。
『|丹牡丹《にぼたん》|燃《も》ゆる|高地秀《たかちほ》の
|宮居《みや》の|聖所《すがど》を|立《た》ち|出《い》でて
|駿馬《はやこま》の|背《せ》に|跨《またが》りつ
|果《はて》しも|知《し》らぬ|大野原《おほのはら》
|進《すす》みて|来《きた》る|折《をり》もあれ
|霞《かすみ》ただよふ|野《の》の|果《はて》に
ひとり|淋《さび》しも|天津日《あまつひ》かげは|地《ち》にかくれ
|黄昏《たそがれ》の|幕《まく》はおそひ|来《き》ぬ
|駒《こま》の|脚並《あしなみ》いそいそと
とある|河辺《かはべ》に|着《つ》きぬれば
|闇《やみ》はますます|深《ふか》みつつ
ただ|一条《ひとすぢ》の|河瀬《かわせ》の|色《いろ》は
|闇《やみ》に|白々《しろじろ》|横《よこた》はり
せせらぎの|音《おと》|幽《かすか》に|響《ひび》く
かかる|淋《さび》しき|河《かは》の|辺《べ》に
|駒《こま》に|跨《またが》り|佇《たたず》める
|折《をり》しもあれや|曲津見《まがつみ》は
|火玉《ひだま》となりて|河下《かはしも》ゆ
|闇《やみ》を|照《て》らしつ|迫《せま》り|来《く》る
よくよく|見《み》れば|火《ひ》の|玉《たま》は
|眼《まなこ》|一《ひと》つに|口《くち》|八《やつ》つ
|各自《おのもおのも》に|口《くち》|開《ひら》き
|巨大《きよだい》の|蜂《はち》を|吐《は》き|出《いだ》し
|吾《われ》と|駒《こま》とを|襲《おそ》ひければ
|駒《こま》はかしこく|水中《すゐちう》に
|身《み》ををどらして|飛《と》び|込《こ》みつ
|蜂《はち》の|禍《わざはひ》のがれける
|妾《わらは》は|言霊《ことたま》|宣《の》り|上《あ》げて
|神《かみ》を|祈《いの》りつ|燧石《ひうちいし》
かちりかちりと|打《う》ち|出《だ》せば
|忽《たちま》ち|真火《まひ》はほとばしり
あたりを|照《て》らす|功績《いさをし》に
さすが|曲津見《まがつみ》|恐《おそ》れ|出《だ》し
|煙《けむり》となりて|消《き》え|去《さ》りぬ
|折《をり》しもあれや|東《ひむがし》の
|空《そら》はほのぼの|東雲《しのの》めて
|鵲《かささぎ》の|声《こゑ》さわやかに
|虫《むし》の|音《ね》|清《きよ》く|朝風《あさかぜ》は
おもむろに|大野ケ原《おほのがはら》を|吹《ふ》き
せせらぎの|音《おと》さやさやに
|響《ひび》き|渡《わた》れる|暁《あかつき》の
|空《そら》より|昇《のぼ》る|天津日《あまつひ》は
|光《ひかり》の|限《かぎ》りを|光《ひか》らせつ
|草葉《くさば》の|露《つゆ》を|玉《たま》と|照《て》らし
|中天《ちうてん》|高《たか》く|昇《のぼ》ります
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|高地秀山《たかちほやま》を|立《た》ち|出《い》でて
|初《はじ》めて|遇《あ》ひし|曲津見《まがつみ》の
|曲《まが》の|禍《わざはひ》|追《お》ひ|払《はら》ひ
|極《きは》みも|知《し》らぬ|夏《なつ》の|野《の》を
|吾《われ》ただ|一人《ひとり》|進《すす》むなり
わが|背《せ》の|岐美《きみ》は|今《いま》|何処《いづこ》
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|巡《めぐ》り|逢《あ》ひ
|積《つも》る|思《おも》ひの|数々《かずかず》を
|岐美《きみ》の|御前《みまへ》に|打《う》ち|開《あ》けて
|日頃《ひごろ》の|恋《こひ》の|意地《いぢ》を|立《た》て
|水火《いき》と|水火《いき》とを|合《あは》せつつ
|神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《かむわざ》に
|仕《つか》へ|奉《まつ》らでおくべきか
|吾《われ》は|女神《めがみ》の|身《み》なれども
|御樋代神《みひしろがみ》と|選《えら》まれし
|主《ス》の|大神《おほかみ》が|国土生《くにう》みの
|貴《うづ》の|器《うつは》ぞ|宝《たから》ぞや
|鶴《つる》は|御空《みそら》に|舞《ま》ひ|遊《あそ》び
|小鳥《ことり》は|天界《みよ》の|春《はる》うたひ
|千草《ちぐさ》にすだく|虫《むし》の|音《ね》は
わが|出《い》で|立《た》ちを|寿《ことほ》ぎつ
|駒《こま》の|嘶《いなな》き|勇《いさ》ましく
|風《かぜ》の|響《ひびき》も|冴《さ》えきりて
わが|行《ゆ》く|野辺《のべ》は|広々《ひろびろ》と
|果《はて》しも|知《し》らぬ|主《ス》の|神《かみ》の
|御稜威《みいづ》を|此処《ここ》にあらはせり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|栄城《さかき》の|山《やま》も|近《ちか》づきぬ
|駿馬《はやこま》の|蹄《ひづめ》|休《やす》めて|今《いま》しばし
|吾《われ》も|憩《いこ》はむ|常磐樹《ときはぎ》の
|二本《ふたもと》|並《なら》ぶこの|樹蔭《こかげ》』
と|歌《うた》はせつつ|駒《こま》をひらりと|飛《と》び|下《お》り、|二本松《にほんまつ》の|樹下《こした》に|暫《しば》しを|休《やす》らひ|給《たま》ふ。
『|久方《ひさかた》の|御空《みそら》は|高《たか》し|野《の》は|広《ひろ》し
その|真中《まんなか》をわれ|一人《ひとり》|行《ゆ》くも
|国土《くに》|稚《わか》き|大野《おほの》を|駒《こま》に|跨《またが》りて
|行《ゆ》くはたのしも|岐美《きみ》を|力《ちから》に
|目《め》にさはるもの|一《ひと》つなき|広野原《ひろのはら》に
|珍《めづら》しきかも|二本《ふたもと》の|松《まつ》
|二本《ふたもと》の|松《まつ》の|樹蔭《こかげ》に|休《やす》らへば
|御空《みそら》に|低《ひく》う|田鶴《たづ》の|舞《ま》ふなり
この|松《まつ》は|梢《こずゑ》こもれり|真鶴《まなづる》の
|翼《つばさ》|休《やす》むる|聖所《すがど》なるらむ
|駿馬《はやこま》は|青草《あをぐさ》むしりわれは|今《いま》
|生言霊《いくことたま》の|水火《いき》を|吸《す》ふなり
|天界《かみくに》に|生《うま》れて|清《きよ》き|言霊《ことたま》の
|水火《いき》を|吸《す》ひつつ|生《い》くる|吾《われ》なり
|百草《ももぐさ》の|花《はな》はいろいろ|咲《さ》き|満《み》ちて
わが|行《ゆ》く|道《みち》を|飾《かざ》りたつるも
|種々《くさぐさ》の|花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|大野原《おほのはら》に
|暫《しば》しやすらひ|岐美《きみ》の|歌《うた》|詠《よ》まむ
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|神言《みこと》の|瑞御霊《みづみたま》
あつき|心《こころ》のわれには|解《と》けむ
|冬《ふゆ》の|日《ひ》の|氷《こほり》の|如《ごと》く|堅《かた》くとも
|熱《ねつ》には|解《と》くる|瑞御霊《みづみたま》かも
|御子生《みこう》みの|神業《みわざ》に|仕《つか》ふる|岐美《きみ》|故《ゆゑ》に
わが|伊行《いゆ》くとも|辞《いな》みたまはじ
おほらかに|御樋代神《みひしろがみ》と|名乗《なの》りつつ
われは|仕《つか》へむ|岐美《きみ》の|御前《みまへ》に
その|岐美《きみ》の|在処《ありか》は|未《いま》だ|知《し》らねども
|矢竹心《やたけごころ》のかよはざらめや
|高地秀《たかちほ》の|貴《うづ》の|宮居《みやゐ》を|立《た》ち|出《い》でて
|一人旅《ひとりたび》すも|岐美《きみ》に|逢《あ》はむと
|曲津見《まがつみ》の|醜《しこ》の|荒《すさ》びを|言《こと》むけて
|岐美《きみ》に|会《あ》はむとわが|来《き》つるかも
よしやよし|万里《ばんり》の|遠《とほ》きにいますとも
たづね|行《ゆ》かなむ|真心《まごころ》の|駒《こま》に
わが|駒《こま》は|歩《あゆ》みも|速《はや》し|幾万里《いくまんり》
|彼方《あなた》の|空《そら》もやすく|進《すす》まむ
|二本《ふたもと》の|常磐《ときは》の|松《まつ》の|蔭《かげ》に|立《た》ちて
|岐美《きみ》と|吾《われ》とのすがた|見《み》るかな
|一本《ひともと》は|雄松《をまつ》なりけり|一本《ひともと》は
わが|身《み》に|似《に》たる|雌松《めまつ》なるかも
|落《お》ち|散《ち》りし|松《まつ》の|一葉《ひとは》も|二本《ふたもと》の
|鉢葉《はりは》は|堅《かた》くはなれざりけり
|広々《ひろびろ》と|果《はて》しも|知《し》らぬ|野《の》の|中《なか》に
|生《お》ふる|二本《ふたもと》の|松《まつ》めづらしも
|雌雄《めを》の|松《まつ》|梢《こずゑ》|手折《たを》りてわが|髪《かみ》に
かざし|進《すす》まむ|遠《とほ》き|大野《おほの》を
わがかざす|松《まつ》の|梢《こずゑ》は|岐美《きみ》がりに
|誓《ちか》ひまゐらすしるしともがな
わが|行手《ゆくて》|祝《いは》ひて|舞《ま》ふか|真鶴《まなづる》は
|頭上《づじやう》を|高《たか》くつばさ|搏《う》つなり
|安《やす》らかにあるべき|身《み》ながら|恋《こひ》|故《ゆゑ》に
われは|万里《ばんり》の|旅《たび》に|立《た》つかも
|広々《ひろびろ》と|果《はて》しも|知《し》らぬ|天界《かみくに》を
|一人《ひとり》の|岐美《きみ》に|会《あ》はむと|行《ゆ》くかも
わが|恋《こひ》は|御空《みそら》の|如《ごと》くはろけかり
|月読《つきよみ》の|舟《ふね》のそれならなくに
|比女神《ひめがみ》の|固《かた》き|心《こころ》は|岩ケ根《いはがね》も
|貫《つらぬ》かずしておくべきものかは
いざさらば|再《ふたた》び|駒《こま》に|跨《またが》りて
|万里《ばんり》の|広野《ひろの》を|駈《か》け|行《ゆ》かむかも』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|給《たま》ひ、ひらりと|駒《こま》に|跨《またが》り、|御空《みそら》に|輝《かがや》く|日《ひ》の|御光《みかげ》を|仰《あふ》ぎながら、またもや|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|高照《たかてる》の|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》を|出《い》でし|日《ひ》は
わが|頭辺《かしらべ》にかがやき|給《たま》へり
|高地秀《たかちほ》の|峰《みね》に|沈《しづ》ます|頃《ころ》ほひは
|栄城《さかき》の|山《やま》にわれは|進《すす》まむ
なつかしき|栄城《さかき》の|山《やま》よわが|岐美《きみ》の
|祈《いの》りたまひし|聖所《すがど》と|思《おも》へば
|栄城山《さかきやま》|尾《を》の|上《へ》の|宮居《みや》に|詣《まう》でつつ
|岐美《きみ》の|行方《ゆくへ》をうかがはむかも
|南《みむなみ》の|国土《くに》を|巡《めぐ》りて|西方《にしかた》の
|国土《くに》にいますと|便《たよ》りは|聞《き》けども
|西方《にしかた》の|国土《くに》には|御樋代神《みひしろがみ》あらず
われは|進《すす》みて|神業《みわざ》に|仕《つか》へむ
スウヤトゴルの|大曲津見《おほまがつみ》は|黒雲《くろくも》と
なりて|日《ひ》に|夜《よ》に|猛《たけ》ぶとぞ|聞《き》く
|背《せ》の|岐美《きみ》を|悩《なや》ます|醜《しこ》の|曲津見《まがつみ》を
|吾《われ》はやらはむ|真火《まひ》の|功《いさを》に
|鋭敏鳴出《うなりづ》の|神《かみ》の|神言《みこと》の|教《をし》へたる
|真火《まひ》の|力《ちから》に|刃向《はむか》ふ|曲津《まが》なし
|曲津見《まがつみ》に|向《むか》ひてこよなき|武器《ぶき》こそは
|燧《ひうち》の|真火《まひ》にまさるものなし
|曲津見《まがつみ》は|陽火《やうくわ》をおそれ|陰火《いんくわ》もて
|国津神等《くにつかみたち》を|悩《なや》ましをるかも
そよそよと|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》も|芳《かむ》ばしき
|栄城《さかき》の|山《やま》の|千花《ちばな》のかをりか
|由縁《ゆかり》ある|栄城《さかき》の|山《やま》に|駈《か》けつけて
|岐美《きみ》の|御後《みあと》を|偲《しの》びまつらむ
|栄城山《さかきやま》|遠野《とほの》の|奥《おく》に|霞《かす》みたり
ひと|鞭《むち》あててわれ|急《いそ》がばや』
|斯《か》く|歌《うた》はせ|給《たま》ひつつ、|遥《はるか》の|空《そら》にぼんやりと|霞《かす》む|栄城《さかき》の|山《やま》を|目当《めあて》に、|其《そ》の|日《ひ》の|黄昏《たそが》れる|頃《ころ》、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|安々《やすやす》と|着《つ》かせ|給《たま》ひける。|栄城山《さかきやま》の|神々《かみがみ》は|御樋代神《みひしろがみ》|出《い》でますと、|雁《かりがね》の|便《たよ》りに|聞《き》き|知《し》りまして、|山麓《さんろく》に|横《よこた》はる|細溪川《ほそたにがは》の|岸辺《きしべ》まで|出迎《でむか》へ|給《たま》ふ。|其《そ》の|神《かみ》の|御名《みな》は|機造男《はたつくりを》の|神《かみ》、|散花男《ちるはなを》の|神《かみ》、|中割男《なかさきを》の|神《かみ》、|小夜更《さよふけ》の|神《かみ》、|親幸男《ちかさちを》の|神《かみ》の|五柱《いつはしら》にして、|何《いづ》れもウ|声《ごゑ》の|言霊《ことたま》より|生《な》り|出《い》で|給《たま》ひし|神々《かみがみ》におはせり。
(昭和八・一二・七 旧一〇・二〇 於水明閣 内崎照代謹録)
第一一章 |栄城《さかき》の|山彦《やまびこ》〔一九二八〕
|千里《せんり》の|荒野《あらの》を|渉《わた》りて、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|栄城山《さかきやま》の|麓《ふもと》に、|新月《しんげつ》の|輝《かがや》く|黄昏時《たそがれどき》|漸《やうや》く|着《つ》き|給《たま》へば、|栄城山《さかきやま》の|宮居《みや》に|仕《つか》ふる|五柱《いつはしら》の|神々《かみがみ》は、|高地秀山《たかちほやま》の|宮居《みや》より|遣《つか》はし|給《たま》ひたる|雁《かりがね》の|御文《みふみ》によりて|前知《ぜんち》し|給《たま》ひ、|賑々《にぎにぎ》しく|比女神《ひめがみ》を|迎《むか》へ|給《たま》ふ。
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|諸神《ももがみ》に|向《むか》ひ、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|由縁《ゆかり》の|御跡《みあと》と|聞《き》く
|栄城《さかき》の|山《やま》はこれの|聖所《すがど》なりや
|夕月《ゆふづき》の|光《かげ》はさやかに|山《やま》の|端《は》に
かかる|夕《ゆふ》べを|吾《われ》|来《き》つるかも』
|茲《ここ》に|機造男《はたつくりを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|名《な》に|高《たか》き|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》の|八柱《やはしら》の
|比女神《ひめがみ》にますかよくも|来《き》ませり
|雁《かりがね》の|文《ふみ》の|便《たよ》りを|見《み》しわれは
|公《きみ》の|出《い》でまし|迎《むか》へまつるも
|瑞御霊《みづみたま》|由縁《ゆかり》の|深《ふか》き|栄城山《さかきやま》の
|月《つき》の|光《ひかり》はことさらによし』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|新月《しんげつ》の|光《かげ》を|爽《さや》けみ|吾《われ》はいま
|栄城《さかき》の|山《やま》にたづね|来《き》にけり
|栄城山《さかきやま》|尾《を》の|上《へ》の|松《まつ》の|色《いろ》|深《ふか》み
さす|月光《つきかげ》はいよよ|爽《さや》けし
|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》の|位置《ゐち》を|捨《す》てて
|岐美《きみ》に|会《あ》はまく|長《なが》の|旅《たび》すも
|栄城山《さかきやま》に|今宵《こよひ》|一夜《ひとよ》の|宿《やど》からむ
|天《あま》|渡《わた》る|日《ひ》も|地《つち》に|沈《しづ》めば
|鶏《とり》の|尾《を》の|長《なが》き|旅路《たびぢ》に|駿馬《はやこま》も
|疲《つか》れ|果《は》てたり|宿《やど》をたまはれ』
|機造男《はたつくりを》の|神《かみ》は、|答《いらへ》の|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|御言葉《みことば》を|聞《き》くも|畏《かしこ》し|八柱《やはしら》の
|御樋代比女神《みひしろひめがみ》|安《やす》くましませ
|禊川《みそぎがは》|流《なが》るる|水《みづ》の|底《そこ》|清《きよ》み
|利鎌《とがま》の|月《つき》は|浮《うか》ばせたまへり
|月読《つきよみ》の|御霊《みたま》と|生《あ》れし|瑞御霊《みづみたま》の
|御樋代比女神《みひしろひめがみ》よくも|来《き》ませるよ
|比女神《ひめがみ》の|来《き》ませる|今日《けふ》は|月光《つきかげ》も
|一《ひと》しほ|冴《さ》えて|風《かぜ》|澄《す》みきらふ
|栄城山《さかきやま》|今日《けふ》の|吉日《よきひ》を|限《かぎ》りとし
この|国原《くにはら》は|安《やす》く|栄《さか》えむ』
|散花男《ちるはなを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|春《はる》|去《さ》りて|峰《みね》の|桜《さくら》も|散花男《ちるはなを》の
|神《かみ》はみどりの|公《きみ》を|迎《むか》へむ
|初夏《はつなつ》の|景色《けしき》ただよふ|栄城山《さかきやま》に
|花《はな》なる|公《きみ》は|出《い》でましにけり
|雁《かりがね》の|便《たよ》り|見《み》しより|朝夕《あさゆふ》を
|公《きみ》の|出《い》でまし|待《ま》ち|佗《わ》びにけり
|久方《ひさかた》の|高天原《たかあまはら》の|大宮居《おほみや》ゆ
|天降《あも》り|給《たま》ひし|朝香比女神《あさかひめがみ》|天晴《あは》れ
|輝《かがや》ける|朝香比女神《あさかひめがみ》の|粧《よそほ》ひは
|月《つき》さへ|花《はな》さへ|及《およ》ばざるべし
|初夏《はつなつ》の|夕《ゆふ》べの|風《かぜ》はすずやかに
|栄城《さかき》の|山《やま》の|常磐樹《ときはぎ》ゆすりつ
|常磐樹《ときはぎ》は|勇《いさ》み|悦《よろこ》びさゆれつつ
|花《はな》なる|公《きみ》のすがた|待《ま》ち|居《を》り
|潺々《せんせん》と|流《なが》るるきよき|禊川《みそぎがは》に
|花《はな》なる|公《きみ》のすがた|浮《うか》べる
|只《ただ》さへも|清《きよ》きが|上《うへ》に|真清水《ましみづ》に
うつろふ|公《きみ》の|御姿《みかげ》うるはし』
|中割男《なかさきを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|天地《あめつち》の|中《なか》を|割男《さきを》の|神《かみ》なれば
|公《きみ》の|行手《ゆくて》を|守《まも》りまつらむ
|禊川《みそぎがは》|山《やま》と|大野《おほの》の|中割《なかさ》きて
|雄々《をを》しく|清《すが》しくたぎち|流《なが》しつ
|駿馬《はやこま》のいななき|高《たか》く|草《くさ》の|生《ふ》ゆ
|聞《きこ》ゆと|見《み》れば|公《きみ》は|来《き》ませる
|兎《と》も|角《かく》も|休《やす》ませたまへ|長旅《ながたび》の
|疲《つか》れ|給《たま》ひし|身《み》を|横《よこ》たへて』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『ありがたし|百神等《ももがみたち》の|真心《まごころ》は
|幾世《いくよ》|経《ふ》るとも|吾《われ》は|忘《わす》れじ
|草枕《くさまくら》|旅《たび》を|重《かさ》ねて|情《なさけ》ある
|神《かみ》の|言葉《ことば》に|涙《なみだ》しにけり
ともかくも|吾《われ》はさて|置《お》き|駿馬《はやこま》の
|褥《しとね》と|餌《ゑさ》を|与《あた》へたまはれ』
|小夜更《さよふけ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|掛巻《かけまく》も|綾《あや》に|畏《かしこ》き|御樋代《みひしろ》の
|神《かみ》を|迎《むか》ふる|今日《けふ》のうれしさ
|吹《ふ》く|風《かぜ》も|非時《ときじく》かをる|栄城山《さかきやま》の
これの|聖所《すがど》は|常安《とこやす》の|国土《くに》よ
|果《はて》しなき|荒野《あらの》をわたりはろばろと
|来《き》ませる|公《きみ》の|雄々《をを》しさ|思《おも》ふ
|曲津見《まがつみ》の|伊猛《いたけ》り|荒《すさ》ぶ|荒野原《あらのはら》を
わたり|来《こ》し|公《きみ》の|雄々《をを》しくもあるか
|輝《かがや》けるその|御姿《みすがた》にもろもろの
|醜《しこ》の|曲津《まがつ》は|影《かげ》かくしけむ』
|親幸男《ちかさちを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|神言《みこと》を|蒙《かかぶ》りて
われ|大宮居《おほみや》に|仕《つか》へ|来《き》にけり
|栄城山《さかきやま》|尾《を》の|上《へ》に|清《すが》しく|立《た》つ|宮居《みや》は
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|神霊《みたま》|祀《まつ》れる
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|神勅《しんちよく》|乞《こ》ひましし
|栄城《さかき》の|山《やま》は|聖所《すがど》なりけり
|由縁《ゆかり》ある|朝香《あさか》の|比女《ひめ》の|出《い》でましに
|栄城《さかき》の|山《やま》は|笑《ゑ》みさかえぬる
|常磐樹《ときはぎ》の|松《まつ》に|巣《す》ぐへる|真鶴《まなづる》も
|公《きみ》の|出《い》でまし|寿《ことほ》ぎてうたへり』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|駒《こま》の|背《せ》よりひらりと|下《お》り|給《たま》ひ、|禊川《みそぎがは》に|暫《しば》し|禊《みそぎ》を|修《しう》し|給《たま》ひ、|五柱《いつはしら》の|神《かみ》に|守《まも》られて、|栄城山《さかきやま》の|中腹《ちうふく》なる|神々《かみがみ》の|御憩所《みやすど》に|入《い》らせ|給《たま》ひ、|長途《ちやうと》の|旅《たび》の|疲《つか》れを|休《やす》ませ|給《たま》ひつつ、|述懐歌《じゆつくわいか》をうたはせ|給《たま》ふ。
『|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》と|選《えら》まれて
われは|空《むな》しく|年《とし》を|経《へ》にける
はろばろと|万里《ばんり》の|荒野《あらの》を|打《う》ちわたり
|天津高日《あまつたかひ》の|宮居《みや》に|詣《まう》でし
|久方《ひさかた》の|筑紫《つくし》の|宮居《みや》に|詣《まう》でてゆ
わが|行《ゆ》く|道《みち》を|悟《さと》らひにけり
はろばろと|高地秀《たかちほ》の|宮居《みや》に|帰《かへ》り|来《き》て
ますます|心《こころ》は|落付《おちつ》かざりしよ
|永久《とこしへ》にわが|仕《つか》ふべき|宮居《みや》ならずと
|駒《こま》に|鞭《むち》うち|離《さか》り|来《き》にけり
|七柱《ななはしら》|御樋代神《みひしろがみ》はわがために
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|祈《いの》りたまはむ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》かためし|吾《われ》にして
|始《はじ》めの|心《こころ》かへすべきやは
|常闇《とこやみ》の|狭葦《さゐ》の|河瀬《かはせ》を|渡《わた》らむと
|八十《やそ》の|曲津《まがつ》に|出《い》で|会《あ》ひにける
|言霊《ことたま》の|力《ちから》の|限《かぎ》り|宣《の》りにつつ
|真火《まひ》|打《う》ち|出《い》づれば|曲津《まが》は|消《き》えたる
|天津日《あまつひ》の|光《ひかり》を|浴《あ》びて|大野原《おほのはら》
|駒《こま》に|跨《またが》り|此処《ここ》に|来《き》つるも
|背《せ》の|岐美《きみ》に|由縁《ゆかり》の|深《ふか》き|栄城山《さかきやま》の
|夕《ゆふ》べは|心《こころ》|清《すが》しくなれり
|此処《ここ》に|来《き》て|旅《たび》の|疲《つか》れを|忘《わす》れけり
|百神等《ももがみたち》のあつき|心《こころ》に
|駿馬《はやこま》の|嘶《いなな》き|聞《きこ》えずなりにけり
やすやす|旅《たび》の|夢《ゆめ》|結《むす》ぶらむ
|背《せ》の|岐美《きみ》の|行方《ゆくへ》は|何処《いづく》か|知《く》らねども
わが|真心《まごころ》に|逢《あ》はまくおもふ
|栄城山《さかきやま》これの|聖所《すがど》に|来《き》て|見《み》れど
|岐美《きみ》のおとづれくちなしの|花《はな》
くちなしの|花《はな》の|香《かを》れる|夕暮《ゆふぐれ》の
これの|聖所《すがど》にもの|思《おも》ふかな
|御子生《みこう》みの|神業《わざ》に|仕《つか》ふる|御樋代《みひしろ》の
|比女神《ひめがみ》われは|心《こころ》さわぐも
|猛《たけ》り|狂《くる》ふ|心《こころ》の|駒《こま》を|鎮《しづ》めむと
|思《おも》へど|詮《せん》なし|燃《も》ゆる|恋路《こひぢ》に
|栄城山《さかきやま》|樹々《きぎ》の|葉末《はずゑ》に|置《お》く|露《つゆ》も
|月《つき》の|御霊《みたま》を|宿《やど》してかがよふ
|御樋代《みひしろ》の|比女神《ひめがみ》われに|月読《つきよみ》の
|露《つゆ》の|宿《やど》らぬためしあるべき
|日《ひ》を|追《お》ひて|広《ひろ》ごりて|行《ゆ》く|月《つき》かげを
|見《み》つつ|楽《たの》しき|旅《たび》に|立《た》つかも
|八柱《やはしら》の|御樋代神《みひしろがみ》の|高《たか》き|位置《ゐち》を
|恋《こひ》ゆゑ|吾《われ》は|捨《す》てて|来《き》にけり
|八十比女《やそひめ》の|御樋代神《みひしろがみ》と|下《さが》るとも
|心《こころ》|足《た》らへり|岐美《きみ》にし|逢《あ》へば』
|機造男《はたつくりを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『はろばろと|来《き》ませる|公《きみ》を|犒《ねぎら》はむ
|術《すべ》なき|今宵《こよひ》を|許《ゆる》したまはれ
まきて|来《こ》し|背《せ》の|岐美《きみ》|此処《ここ》に|坐《ま》さずして
|淋《さび》しかるらむ|御樋代比女神《みひしろひめがみ》は
|村肝《むらきも》の|心《こころ》のかぎり|身《み》のかぎり
|尽《つく》して|比女《ひめ》を|犒《ねぎら》はむとぞ|思《おも》ふ
|地《つち》|稚《わか》き|栄城《さかき》の|山《やま》よ|比女神《ひめがみ》を
|慰《なぐさ》むるものなきが|嘆《うた》てき』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|答《いらへ》の|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|恐《おそ》れおほき|神々等《かみがみたち》の|言霊《ことたま》よ
|吾《われ》は|感謝《ゐやひ》の|言葉《ことば》も|知《し》らずに
|此処《ここ》に|来《き》て|始《はじ》めて|心《こころ》|落付《おちつ》きぬ
|栄城《さかき》の|山《やま》の|松《まつ》のみどりに
|禊川《みそぎがは》|清《きよ》き|流《なが》れに|浮《うか》びます
|夕月《ゆふづき》の|光《かげ》によみがへりける
|大空《おほぞら》も|水底《みそこ》も|月《つき》の|光《かげ》|冴《さ》えて
わが|旅立《たびだ》ちを|慰《なぐさ》むるかな
|大空《おほぞら》の|月《つき》の|御霊《みたま》ゆ|出《い》でましし
わが|背《せ》の|岐美《きみ》を|思《おも》ふ|宵《よひ》はも
|幾万里《いくまんり》の|遠《とほ》きに|岐美《きみ》はおはすとも
|魂《たま》の|限《かぎ》りはまぎて|行《い》かなむ』
|散花男《ちるはなを》の|神《かみ》は|歌《うた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|栄城山《さかきやま》|峰《みね》の|白梅《しらうめ》|桜花《さくらばな》
|漸《やうや》く|散《ち》りて|牡丹《ぼたん》は|匂《にほ》へり
|紅《くれなゐ》の|牡丹《ぼたん》の|花《はな》に|置《お》く|露《つゆ》は
|紅《あか》き|心《こころ》の|現《あら》はれなるかも
|山姫《やまひめ》は|牡丹《ぼたん》の|花《はな》を|紅《くれなゐ》に
|染《そ》めて|夏衣《なつぎぬ》|纒《まと》ひたまへり
|早夏《はやなつ》の|陽気《やうき》ただよふこの|山《やま》に
あつき|心《こころ》の|公《きみ》をむかへつ
|月《つき》ははや|栄城《さかき》の|山《やま》の|後手《うしろで》に
|隠《かく》ろひまして|闇《やみ》はせまれり
|大空《おほぞら》にまたたく|星《ほし》の|光《かげ》|清《きよ》み
|森《もり》に|聞《きこ》ゆる|梟《ふくろふ》の|声《こゑ》
|濁《にご》りたる|声《こゑ》にはあれど|梟《ふくろふ》の
|啼《な》けるを|聞《き》けばゆかしくぞ|思《おも》ふ』
|中割男《なかさきを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|大宮居《おほみや》に|仕《つか》へて|幾年《いくとせ》|経《へ》ぬれども
|今日《けふ》の|輝《かがや》き|未《いま》だ|見《み》ざりき
きらきらと|光《ひか》らせ|給《たま》ふ|比女神《ひめがみ》の
|姿《すがた》まぶしくおはしますかも
|明《あ》けぬれば|栄城《さかき》の|山《やま》の|頂上《いただき》の
|宮居《みや》の|聖所《すがど》に|導《みちび》きまつらむ
|仰《あふ》ぎ|見《み》れば|北《きた》より|南《みなみ》に|横《よこた》はる
|天《あま》の|河原《かはら》にさざなみもなし
|金砂《きんしや》|銀砂《ぎんしや》|輝《かがや》き|渡《わた》る|天《あま》の|河《がは》の
|今日《けふ》の|姿《すがた》のうるはしきかな
|野辺《のべ》を|吹《ふ》く|風《かぜ》は|薫《かを》れり|百草《ももぐさ》に
|咲《さ》きつる|花《はな》のかをり|運《はこ》びて
|栄城山《さかきやま》|花《はな》は|散《ち》れども|常磐樹《ときはぎ》の
|松《まつ》のしたびにつつじ|咲《さ》くなり
|昼《ひる》されば|紫《むらさき》つつじ|紅《べに》つつじ
|石南花《しやくなげ》の|花《はな》|木蔭《こかげ》に|匂《にほ》へり
|明《あ》けぬれば|松《まつ》の|木下《こした》の|百花《ももばな》を
|手折《たを》りて|公《きみ》に|参《まゐ》らせむと|思《おも》ふ』
|小夜更《さよふけ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|栄城山《さかきやま》|小夜《さよ》|更《ふ》けにけり|梟《ふくろふ》の
|啼《な》く|音《ね》も|頓《とみ》に|静《しづ》まりしはや
|真鶴《まなづる》は|声《こゑ》をひそめて|休《やす》らひぬ
|比女神《ひめがみ》さらば|寝床《ふしど》に|入《い》りませ』
|親幸男《ちかさちを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『この|館《たち》は|吾等《われら》が|休《やす》む|小家《をや》なれば
|導《みちび》きまつらむ|離《はな》れの|宮居《みや》に
|新《あたら》しく|造《つく》り|備《そな》へて|比女神《ひめがみ》の
|出《い》でまし|待《ま》ちし|御殿《みとの》なりせば』
|斯《か》く|歌《うた》ひて、|親幸男《ちかさちを》の|神《かみ》は|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|御手《みて》を|取《と》らせつつ、|新殿《にひどの》に|導《みちび》き|給《たま》ひける。|茲《ここ》に|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|長旅《ながたび》の|疲《つか》れに|前後《ぜんご》も|忘《わす》れて|夜《よ》の|明《あ》くるまで、|御水火《みいき》も|静《しづか》に|安《やす》らかに|御寝《みね》ましにける。
(昭和八・一二・七 旧一〇・二〇 於水明閣 森良仁謹録)
第一二章 |山上《さんじやう》の|祈《いの》り〔一九二九〕
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|栄城山《さかきやま》の|中腹《ちうふく》に、|神々《かみがみ》の|心《こころ》により|新《あたら》しく|建《た》てられたる|八尋《やひろ》の|殿《との》に|旅《たび》の|疲《つか》れを|休《やす》めむと、|初夏《しよか》の|一夜《ひとよ》を|明《あか》し|給《たま》ひけるが、|暁《あかつき》を|告《つ》ぐる|山烏《やまがらす》の|声《こゑ》に|眼《め》を|醒《さ》まさせ|給《たま》ひ、|静《しづか》に|床《とこ》を|跳《は》ね|起《お》き|給《たま》ひて、|髪《かみ》のほつれをととのへ、|白《しろ》き|薄《うす》き|衣《きぬ》を|纒《まと》ひ|給《たま》ひつつ、|居間《ゐま》の|窓《まど》を|押《お》し|開《ひら》き|給《たま》へば、|栄城《さかき》の|山《やま》の|朝風《あさかぜ》は|颯々《さつさつ》として|芳《かむ》ばしく|吹《ふ》き|入《い》り、|展開《てんかい》せる|大野《おほの》の|原《はら》に|棚引《たなび》く|霧《きり》は、|陽光《ひかげ》に|映《えい》じて|得《え》も|言《い》はれぬばかりの|美《うるは》しき|眺《なが》めなりける。|伽陵頻迦《かりようびんが》は|木《こ》の|間《ま》に|囀《さへづ》り、|真鶴《まなづる》は|松《まつ》の|茂《しげ》みに|暁《あかつき》を|歌《うた》ふ。
『|見渡《みわた》せば|遠《とほ》の|大野《おほの》に|霞《かすみ》|立《た》ちて
そよ|吹《ふ》く|風《かぜ》も|初夏《しよか》を|匂《にほ》へり
|栄城山《さかきやま》|松《まつ》|吹《ふ》く|風《かぜ》の|音《ね》も|冴《さ》えて
|梢《こずゑ》にうたふ|真鶴《まなづる》|愛《め》ぐしも
|白梅《しらうめ》の|花《はな》はなけれど|鶯《うぐひす》の
|声《こゑ》のさえたる|栄城山《さかきやま》はも
|長旅《ながたび》の|疲《つか》れやすみて|吾《われ》は|今《いま》
|八尋《やひろ》の|殿《との》に|国土見《くにみ》するかも
|常磐樹《ときはぎ》の|松《まつ》の|下《した》びに|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
つつじの|花《はな》の|目出度《めでた》くもあるか
|石南花《しやくなげ》の|花《はな》|桃色《ももいろ》に|咲《さ》きにけり
|小《ちひ》さき|鳥《とり》の|来《きた》りてあそべる
|背《せ》の|岐美《きみ》の|御後《みあと》したひて|吾《われ》は|今《いま》
|栄城《さかき》の|山《やま》に|安居《やすゐ》するかも
|百神《ももがみ》のあつき|心《こころ》にほだされて
|栄城《さかき》の|山《やま》に|一夜《ひとよ》いねけり
その|昔《むかし》わが|背《せ》の|岐美《きみ》の|神言《かみごと》を
|宣《の》らせたまひし|御山《みやま》|恋《こひ》しも
|東《ひむがし》の|空《そら》に|高照山《たかてるやま》|霞《かす》み
|西《にし》にそびゆる|高地秀《たかちほ》の|山《やま》
|高照山《たかてるやま》|高地秀《たかちほ》の|山《やま》の|中《なか》にして
|清《すが》しく|立《た》てる|栄城《さかき》の|山《やま》はも
|栄城山《さかきやま》これの|聖所《すがど》に|岐美《きみ》まさば
|吾《われ》はこの|天界《よ》に|思《おも》ひなけむを
ままならぬ|浮世《うきよ》なるかな|背《せ》の|岐美《きみ》は
|万里《ばんり》の|外《そと》の|旅《たび》に|立《た》たせり
|翼《つばさ》あらば|高照山《たかてるやま》を|飛《と》び|越《こ》えて
|光明《ひかり》の|岐美《きみ》が|許《もと》に|行《ゆ》かむを
|駿馬《はやこま》の|脚《あし》は|如何程《いかほど》|速《はや》くとも
|万里《ばんり》の|道《みち》ははろけかりけり
|御樋代《みひしろ》の|神《かみ》と|生《うま》れて|斯《か》くの|如《ごと》
|苦《くる》しき|吾《われ》とは|思《おも》はざりけり
わが|思《おも》ひ|淡《あは》く|清《すが》しくあるなれば
かかる|悩《なや》みもあらざらましを
|谷水《たにみづ》の|冷《つめ》たき|心《こころ》|持《も》ちてわれ
この|天界《かみくに》に|住《す》み|度《た》くおもふ
さり|乍《なが》ら|如何《いかが》なしけむわが|思《おも》ひ
|炎《ほのほ》となりて|胸《むね》を|焦《こ》がしつ
わが|胸《むね》の|炎《ほのほ》を|消《け》すは|瑞御霊《みづみたま》
|水《みづ》の|力《ちから》に|及《おぼ》ぶものなし
|岐美《きみ》を|思《おも》ふあつき|心《こころ》に|焦《こ》がされて
はづかしきことを|忘《わす》れけるかな』
|斯《か》く|一人《ひとり》|歌《うた》はせ|給《たま》ふ|折《をり》しもあれ、|小夜更《さよふけ》の|神《かみ》は|紫《むらさき》、|紅《くれなゐ》のつつじ|及《およ》び|石南花《しやくなげ》の|花《はな》を|捧《ささ》げ|乍《なが》ら、|静々《しづしづ》|比女神《ひめがみ》の|御殿《みとの》に|入《い》り|来《きた》り、|比女神《ひめがみ》に|捧《ささ》げむとして|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|栄城山《さかきやま》|松《まつ》の|木蔭《こかげ》に|匂《にほ》ひたる
|生命《いのち》の|花《はな》を|公《きみ》にまゐらす
|小夜《さよ》|更《ふ》けて|公《きみ》に|誓《ちか》ひし|丹《に》つつじや
|桃色《ももいろ》|石南花《しやくなげ》みそなはしませ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|小夜更《さよふけ》の|神《かみ》の|奉《たてまつ》るつつじ、|石南花《しやくなげ》の|花《はな》を|莞爾《くわんじ》として|受取《うけと》り|乍《なが》ら、わが|唇《くちびる》に|花《はな》の|台《うてな》をあてさせ|給《たま》ひ、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|芳《かむ》ばしき|紅《くれなゐ》の|花《はな》よ|紫《むらさき》よ
|桃色《ももいろ》の|花《はな》よ|口《くち》づけて|見《み》む
この|花《はな》は|香《かを》り|妙《たへ》なり|背《せ》の|岐美《きみ》の
|水火《いき》のまにまに|匂《にほ》ひつるかも
|紅《くれなゐ》のつつじの|花《はな》の|心《こころ》もて
いつかは|岐美《きみ》に|見《まみ》えまつらむ
|石南花《しやくなげ》の|花《はな》|美《うる》はしく|桃色《ももいろ》に
|香《かを》り|初《そ》めたり|吾《われ》にあらねど
|桃色《ももいろ》の|花《はな》の|姿《すがた》を|見《み》るにつけ
|岐美《きみ》のつれなき|心《こころ》をおもふ
|背《せ》の|岐美《きみ》をうらむらさきの|花《はな》つつじ
|手折《たを》りし|小夜更神《さよふけかみ》の|心《こころ》は』
|斯《か》く|問《と》はせ|給《たま》へば、|小夜更《さよふけ》の|神《かみ》は|畏《かしこ》みながら|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|桃色《ももいろ》の|石南花《しやくなげ》の|花《はな》たてまつり
|比女《ひめ》の|心《こころ》をそこなひしはや
|石南花《しやくなげ》の|花《はな》|美《うる》はしと|心《こころ》なく
|奉《たてまつ》りたるあやまち|許《ゆる》せよ
|紫《むらさき》の|花《はな》は|目出度《めでた》きしるしぞや
やがては|岐美《きみ》に|逢《あ》はむと|思《おも》ひて
いろいろの|花《はな》の|心《こころ》を|比女許《ひめがり》に
|供《そな》へて|旅《たび》を|慰《なぐさ》めむと|思《も》ひしよ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|莞爾《くわんじ》として、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|故《わけ》もなきわが|言《こと》の|葉《は》に|汝《な》が|神《かみ》の
|心《こころ》|悩《なや》ませしことを|悔《く》ゆるも
|只《ただ》|吾《われ》を|慰《なぐさ》むる|為《ため》の|花《はな》なりしを
|深《ふか》く|思《おも》ひてあやまちしはや
|紅《くれなゐ》の|花《はな》の|唇《くちびる》|朝夕《あさゆふ》に
|吸《す》ふ|蝶々《てふてふ》のうらめしきかも
いつの|日《ひ》か|紅《くれなゐ》の|唇《くち》まつぶさに
|吸《す》はむと|思《も》へば|心《こころ》はろけし』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|給《たま》ふ|折《をり》しも、|機造男《はたつくりを》の|神《かみ》は|恭《うやうや》しくこの|場《ば》に|現《あらは》れ|給《たま》ひ、
『|朝津日《あさつひ》は|昇《のぼ》り|給《たま》へりいざさらば
|尾《を》の|上《へ》の|宮居《みやゐ》に|導《みちび》きまつらむ
|長旅《ながたび》に|疲《つか》れましぬと|思《おも》ひつつ
|朝《あした》の|居間《ゐま》をおどろかせつる
|紫《むらさき》の|雲《くも》は|東《ひがし》の|大空《おほぞら》に
いや|棚引《たなび》きつ|陽《ひ》は|昇《のぼ》りたり
|久方《ひさかた》の|御空《みそら》|雲《くも》なく|晴《は》れにけり
|栄城《さかき》の|山《やま》のいただき|清《すが》しく』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|長旅《ながたび》の|疲《つか》れを|岐美《きみ》が|真心《まごころ》に
|休《やす》らひにけり|一夜《ひとよ》ねむりて
|眺《なが》めよき|八尋《やひろ》の|殿《との》に|導《みちび》かれ
|朝《あした》の|景色《けしき》にとけ|入《い》りにけり
|常磐樹《ときはぎ》の|松《まつ》の|下《した》びに|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
つつじの|花《はな》にこころ|休《やす》めり
いざさらば|導《みちび》き|給《たま》へ|背《せ》の|岐美《きみ》の
|祈《いの》りたまひし|聖所《すがど》をさして』
ここに|機造男《はたつくりを》の|神《かみ》は|諸神《しよしん》と|共《とも》に、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》を|前後《ぜんご》|左右《さいう》に|守《まも》りつつ、|頂上《ちやうじやう》の|宮居《みや》の|大前《おほまへ》さして|上《のぼ》らせ|給《たま》ひける。
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|宮居《みや》の|聖所《すがど》に|立《た》たせ|給《たま》ひ、|感慨無量《かんがいむりやう》の|面持《おももち》にて、|四方《よも》の|国形《くにがた》を|覧《みそなは》しながら|大前《おほまへ》に|拝跪《はいき》して、|神言《かみごと》を|御声《みこゑ》さわやかに|宣《の》らせ|給《たま》ふ。
『|掛巻《かけまく》も|綾《あや》に|尊《たふと》き
|栄城山《さかきやま》の|上津岩根《うはついはね》に
|宮柱太《みやばしらふと》しく|建《た》てて|鎮《しづ》まりいます
|主《ス》の|大神《おほかみ》の|大前《おほまへ》に
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》|謹《つつし》み|敬《ゐやま》ひ
|祈願《こひのみ》|奉《まつ》らく
そもそもこれの|大宮居《おほみや》は
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》|御自《みみづか》ら
|大峡小峡《おほがひをがひ》の|木《き》を|伐《き》りて
|百神等《ももがみたち》を|率《ひき》ゐまし
|開《ひら》き|給《たま》ひし|宮居《みや》にしあれば
|吾《われ》は|一入《ひとしほ》|尊《たふと》しも
いやなつかしもこの|宮居《みや》に
|鎮《しづ》まりいます|主《ス》の|神《かみ》の
|深《ふか》き|恵《めぐ》みをかかぶりて
|吾《わが》|背《せ》の|岐美《きみ》の|出《い》でませる
|西方《にしかた》の|国土《くに》に|恙《つつが》なく
|進《すす》ませ|給《たま》へと|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
|八十曲津神《やそまがかみ》は|猛《たけ》るとも
|醜《しこ》の|醜女《しこめ》はさやるとも
|荒野《あらの》に|風《かぜ》はすさぶとも
|大蛇《をろち》は|道《みち》にさやるとも
|神《かみ》の|御水火《みいき》に|生《あ》れませる
|天《あめ》の|駿馬《はやこま》に|鞭《むち》うちて
|安《やす》らに|平《たひら》に|岐美許《きみがり》に
|進《すす》ませ|給《たま》ひて|詳細《まつぶさ》に
|御子生《みこう》みの|神業《わざ》をねもごろに
|仕《つか》へ|終《を》へしめ|給《たま》へかし
|栄城《さかき》の|山《やま》の|松ケ枝《まつがえ》は
|千代《ちよ》のみどりの|色《いろ》|深《ふか》く
|真鶴《まなづる》の|声《こゑ》は|弥清《いやきよ》く
|伽陵頻迦《かりようびんが》の|音《ね》も|冴《さ》えて
|御空《みそら》はいよいよ|明《あきら》けく
|国土《つち》の|上《うへ》まで|澄《す》みきらひ
|四方《よも》にふさがる|雲霧《くもきり》は
あとなく|消《き》えてすくすくと
|神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《かむわざ》に
|仕《つか》へ|奉《まつ》らせ|給《たま》へかしと
|栄城《さかき》の|山《やま》の|山《やま》の|上《へ》に
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る。
|見渡《みわた》せば|栄城《さかき》の|山《やま》は|雲《くも》の|上《へ》に
そびえ|立《た》ちつつ|常磐樹《ときはぎ》|茂《しげ》れり
|見《み》の|限《かぎ》り|四方《よも》は|霞《かす》めり|高地秀《たかちほ》の
|山《やま》はいづくぞ|黒雲《くろくも》ふさがる
|雲《くも》の|奥空《おくそら》のあなたに|高地秀《たかちほ》の
|神山《みやま》は|高《たか》くそびえ|立《た》つらむ
|栄城山《さかきやま》の|頂上《いただき》に|立《た》ちて|打《う》ち|仰《あふ》ぐ
|御空《みそら》の|碧《あを》の|深《ふか》くもあるかな
ここに|来《き》てわが|背《せ》の|岐美《きみ》の|功績《いさをし》を
|一入《ひとしほ》|深《ふか》くさとらひにけり
|皇神《すめかみ》の|厚《あつ》き|恵《めぐみ》をかかぶりて
|又《また》もや|明日《あす》は|旅《たび》に|立《た》つべし』
|機造男《はたつくりを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|造《つく》りしこの|宮居《みや》は
むらさきの|雲《くも》いつも|包《つつ》めり
|比女神《ひめがみ》の|登《のぼ》らせし|今日《けふ》は|殊更《ことさら》に
|御空《みそら》あかるく|雲《くも》|晴《は》れにけり
|日並《けなら》べてこの|神山《かみやま》におはしませ
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なにつかへまつらむ
|見渡《みわた》せば|四方《よも》の|国原《くにはら》|未《ま》だ|稚《わか》く
|湯気《ゆげ》もやもやと|立《た》ち|昇《のぼ》りつつ』
|散花男《ちるはなを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|久方《ひさかた》の|御空《みそら》は|晴《は》れぬ|山《やま》|晴《は》れぬ
この|神山《かみやま》の|今日《けふ》のさやけさ
|御樋代《みひしろ》の|比女神《ひめがみ》ここに|現《あ》れまして
|神山《みやま》の|雲霧《くもきり》とほざかりけり
|非時《ときじく》に|春《はる》をうたへる|鶯《うぐひす》の
|声《こゑ》に|栄城《さかき》の|山《やま》は|生《い》きたり
|家鶏鳥《かけどり》は|宮居《みや》の|面《おもて》に|時《とき》をうたひ
|田鶴《たづ》は|千歳《ちとせ》を|寿《ほ》ぎて|鳴《な》くかも
|風《かぜ》|薫《かを》るこの|神山《かみやま》のいただきに
|立《た》たせる|比女《ひめ》の|光《ひかり》さやけし』
|中割男《なかさきを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『この|宮居《みや》に|吾《われ》は|仕《つか》へて|年月《としつき》を
|経《へ》ぬれど|晴《は》れし|吉《よ》き|日《ひ》なかりき
|今日《けふ》の|如《ごと》|晴《は》れわたりたる|神山《かみやま》に
|国形《くにがた》を|見《み》るたのしさを|思《おも》ふ
|永久《とことは》に|栄城《さかき》の|山《やま》は|晴《は》れよかし
|御樋代神《みひしろがみ》ののぼりし|日《ひ》より
|栄城山《さかきやま》|溪間《たにま》に|棲《す》める|曲津見《まがつみ》も
|今日《けふ》より|雲《くも》は|起《おこ》さざるらむ
|比女神《ひめがみ》の|生言霊《いくことたま》のひびかひに
|八十《やそ》の|曲津見《まがつみ》あとなく|消《き》えなむ
|国土造《くにつく》り|国魂神《くにたまがみ》を|生《う》まします
|御樋代神《みひしろがみ》の|出《い》でまし|天晴《あは》れ
|吾《われ》も|亦《また》|比女神《ひめがみ》の|御供《みとも》に|仕《つか》へむと
|思《おも》へどいかに|思召《おぼしめ》すらむ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|御歌《みうた》。
『|神々《かみがみ》の|厚《あつ》き|情《こころ》に|守《まも》られて
|栄城《さかき》の|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》にのぼりぬ
|栄城山《さかきやま》|今日《けふ》を|限《かぎ》りに|栄《さか》えかし
|常磐《ときは》の|松《まつ》の|色《いろ》ふかみつつ
|栄城山《さかきやま》|廻《めぐ》らす|野辺《のべ》はかたらかに
いやかたまりて|国《くに》の|秀《ほ》|見《み》ゆるも
あちこちと|国魂神《くにたまがみ》の|家《いへ》|見《み》えつ
|果《は》てなき|栄《さか》えを|思《おも》はしむるも』
|小夜更《さよふけ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|晴《は》れ|渡《わた》る|今日《けふ》の|吉《よ》き|日《ひ》に|大宮居《おほみや》に
|比女《ひめ》を|守《まも》りてわれは|詣《まう》でし
|高地秀《たかちほ》の|山《やま》は|雲間《くもま》にかくれつつ
|栄城《さかき》の|山《やま》は|陽炎《かげろふ》もゆるも
|陽炎《かげろふ》のもえ|立《た》つ|尾根《をね》に|佇《たたず》みつ
|大野《おほの》の|夏《なつ》を|見《み》るはたのしき
|山《やま》も|野《の》も|緑《みどり》のころも|着飾《きかざ》りて
|夏《なつ》の|女神《めがみ》をむかへゐるかも
|栄城山《さかきやま》|尾《を》の|上《へ》を|渡《わた》る|夏風《なつかぜ》は
|爽《さはや》かにして|涼《すず》しくもあるか』
|親幸男《ちかさちを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『はろばろと|来《き》ませる|比女神《ひめがみ》|導《みちび》きて
|晴《は》れたる|栄城《さかき》の|尾根《をね》にのぼりつ
|大宮居《おほみや》の|聖所《すがど》に|立《た》ちて|比女神《ひめがみ》の
|生言霊《いくことたま》をわれ|聞《き》きしはや
|言霊《ことたま》の|水火《いき》より|生《あ》れし|天地《あめつち》に
|言霊《ことたま》|宣《の》らで|生《い》くるべきやは
いざさらば|神山《みやま》を|下《くだ》り|八尋殿《やひろどの》に
|休《やす》ませ|給《たま》へ|御樋代比女《みひしろひめ》の|神《かみ》よ』
|神々《かみがみ》は|尾《を》の|上《へ》の|大宮居《おほみや》の|聖所《すがど》に|立《た》ちて、|各自《おのもおのも》|御歌《みうた》|詠《よ》ませつつ、|岩《いは》の|根《ね》|木《き》の|根《ね》|踏《ふ》みさくみ|乍《なが》ら、|右《みぎ》に|左《ひだ》りに|折《を》れつ|曲《まが》りつ、|九十九折《つくもをり》の|坂道《さかみち》を|比女神《ひめがみ》の|御憩所《みやすど》なる|八尋殿《やひろどの》さして|下《くだ》らせ|給《たま》ひける。
(昭和八・一二・七 旧一〇・二〇 於水明閣 谷前清子謹録)
第一三章 |朝駒《あさこま》の|別《わか》れ〔一九三〇〕
|栄城山《さかきやま》の|聖場《せいぢやう》に|仕《つか》へ|給《たま》ふ|五柱《いつはしら》の|神司等《かむつかさたち》は、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|長途《ちやうと》の|疲《つか》れをねぎらはむとして、|又《また》|送別《そうべつ》の|宴《えん》を|兼《か》ねつつ|八尋殿《やひろどの》に|集《あつ》まりて、|種々《くさぐさ》の|美味物《うましもの》を|机代《つくゑしろ》に|置《お》き|足《た》らはし、|百木百草《ももぎももぐさ》の|花《はな》を|飾《かざ》りて、|歌《うた》ひ|舞《ま》ひつつ、|賑《にぎや》かに|宴《うたげ》し|給《たま》ふ。
|機造男《はたつくりを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》へば、|四柱《よはしら》の|神《かみ》は|歌《うた》の|調子《てうし》に|合《あは》せて、|手《て》を|打《う》ち、|足《あし》を|踏《ふ》み|鳴《な》らせて|踊《をど》らせ|給《たま》ふ。
『|朝日《あさひ》|直射《たださ》す|栄城《さかき》の|山《やま》に
|夕陽《ゆふひ》かがよふ|紅葉山《もみぢやま》
|御空《みそら》|碧々《あをあを》|大地《だいち》は|広《ひろ》し
|中《なか》を|岐美《きみ》ゆゑ|一人旅《ひとりたび》
|遠《とほ》き|旅路《たびぢ》も|岐美《きみ》|故《ゆゑ》なれば
|命《いのち》|死《し》すとも|恐《おそ》れまじ
|岐美《きみ》は|万里《ばんり》の|旅寝《たびね》の|枕《まくら》
|一人《ひとり》|寝《ぬ》る|夜《よ》の|夢《ゆめ》に|見《み》る
|岐美《きみ》の|御後《みあと》を|遥々《はろばろ》|慕《した》ひ
まぎて|来《き》ませる|朝香比女《あさかひめ》
|月《つき》は|御空《みそら》に|星光《ほしかげ》|冴《さ》えて
|比女《ひめ》を|迎《むか》ふる|栄城山《さかきやま》
|千里万里《せんりばんり》も|恋《こひ》|故《ゆゑ》なれば
|如何《いか》でいとはむ|岐美《きみ》の|側《そば》』
|神々《かみがみ》は|各々《おのおの》|手《て》を|打《う》ち|足拍手《あしびやうし》を|揃《そろ》へて、うたひ|舞《ま》ひ|給《たま》ふにぞ、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》はやや|面《おも》ほてりつつ|御歌《みうた》うたひ|給《たま》ふ。
『はづかしき|今日《けふ》の|宴《うたげ》よ|百神《ももがみ》に
からかはれつつ|面《おも》ほてるなり
からかはれ|笑《わら》はるるとも|何《なに》かあらむ
|恋《こひ》しき|岐美《きみ》に|会《あ》ふ|日《ひ》ありせば
かく|迄《まで》も|岐美《きみ》を|恋《こ》ひつつ|玉《たま》の|緒《を》の
|命《いのち》ささぐと|誓《ちか》ひしわれなり
|栄城山《さかきやま》|尾《を》の|上《へ》の|松《まつ》は|枯《か》るるとも
|岐美《きみ》|恋《こ》ふ|心《こころ》はほろびざるべし
|天地《あめつち》は|闇《やみ》となるともいとはまじ
|光明《ひかり》の|神《かみ》の|岐美《きみ》ましませば
|曲津神《まがかみ》の|荒《すさ》びもいとはず|尋《たづ》ねゆくも
われは|恋《こひ》しさあまればなりけり
かくならば|総《すべ》ての|心《こころ》さらけ|出《だ》して
|神々等《かみがみたち》の|肝《きも》|冷《ひ》やさばや
|笑《わら》はれて|心《こころ》は|変《か》へじ|謗《そし》られて
|恋路《こひぢ》は|捨《す》てじ|命《いのち》のかぎりは
わが|命《いのち》よし|死《し》するとも|岐美許《きみがり》に
|魂《たま》は|通《かよ》ひて|水火《いき》を|合《あ》はさむ
|百神等《ももがみたち》|如何《いか》に|議《はか》らひ|給《たま》ふとも
われはひるまじ|恋路《こひぢ》の|坂《さか》を
いざさらば|岐美《きみ》の|恋《こ》ふしくなりつれば
|一時《ひととき》も|早《はや》くこの|場《ば》を|立《た》たむ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|思《おも》ひ|切《き》つたる|御歌《みうた》に、|百神等《ももがみたち》は|舌《した》を|巻《ま》きながら、|踊《をどり》の|手《て》を|止《と》めて|各自《おのもおのも》|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
|機造男《はたつくりを》の|神《かみ》の|神歌《みうた》。
『|白梅《しらうめ》の|花《はな》にもまして|美《うる》はしき
|比女《ひめ》の|言葉《ことば》のおほらかなるかも
かくの|如《ごと》|面勝神《おもかつがみ》と|知《し》らざりき
|射向《いむか》ひまつらむわれは|術《すべ》なし
おほらかにおはする|比女《ひめ》よおほらかに
|恋《こひ》の|御歌《みうた》を|詠《よ》ませたまへり
かくの|如《ごと》|細女《くはしめ》|賢女《さかしめ》に|慕《した》はるる
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|幸《さち》をおもへり
|幾万里《いくまんり》の|道《みち》もいとはずと|宣《の》らしませし
|比女《ひめ》のこころの|素直《すなほ》なるかも
われも|亦《また》|神《かみ》の|御許《みゆる》しあるならば
かかる|雄々《をを》しき|比女《ひめ》を|娶《めと》らむ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|細女《くはしめ》に|見合《みあ》ひまさむとおもほさば
しばし|神魂《みたま》を|引《ひ》き|締《し》め|給《たま》はれ
|緩《ゆる》みたる|神魂《みたま》を|持《も》ちて|細女《くはしめ》に
あはむと|宣《の》らすをかしき|公《きみ》かも
|眉目《みめ》|容姿《かたち》|勝《すぐ》れし|神《かみ》に|非《あら》ざれば
|烏《からす》も|妻《つま》にならざるべきを
|百神《ももがみ》よわが|言《こと》の|葉《は》を|許《ゆる》せかし
いつはりのなき|真言《まこと》なりせば
|此処《ここ》にます|神《かみ》の|面《おも》ざしことごとに
|女神《めがみ》にかなへる|御姿《みすがた》はなし
|永久《とこしへ》に|栄城《さかき》の|宮居《みや》の|神社《かむなび》に
|仕《つか》へて|神業《みわざ》を|励《はげ》ませたまへ
わが|為《ため》にひらき|給《たま》ひしこの|宴《うたげ》
|白《しら》けけるかな|言霊《ことたま》すさみて
ともかくもわが|背《せ》の|岐美《きみ》は|恋《こ》ふしもよ
|眉目《みめ》も|容姿《かたち》も|勝《すぐ》れたまへば
|神々《かみがみ》は|数多《あまた》あれども|背《せ》の|岐美《きみ》と
|仰《あふ》がむ|魂《たま》はかげだにもなし』
|散花男《ちるはなを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|白梅《しらうめ》も|散《ち》りたるあとは|小鳥《ことり》さへ
|梢《うれ》にとまらぬ|浮世《うきよ》なるかも
かくの|如《ごと》|醜《みにく》き|面《おも》を|持《も》つわれは
つつしみ|畏《かしこ》み|恋《こひ》は|語《かた》らじ
|勝《まさ》りたる|男神《をがみ》なけれど|優《すぐ》れたる
|女神《めがみ》またなき|浮世《うきよ》なりけり
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》の|神言《みこと》の|美《うる》はしさ
|桜《さくら》の|花《はな》のさかりに|似《に》たるも
|何時迄《いつまで》も|花《はな》は|梢《こずゑ》にとどまらで
|嵐《あらし》に|散《ち》りゆく|夜半《よは》のあはれさよ
|天《あま》|渡《わた》る|月《つき》にも|盈《み》つる|虧《か》くるあり
|朝香《あさか》の|比女《ひめ》も|今《いま》さかりなる
|時《とき》|来《く》ればやがて|萎《しを》れむ|朝香比女《あさかひめ》
とく|出《い》でませよ|背《せ》の|岐美許《きみがり》に
|束《つか》の|間《ま》にも|桜《さくら》の|花《はな》は|散《ち》る|世《よ》なり
いそがせ|給《たま》へ|背《せ》の|岐美《きみ》の|許《もと》へ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》はこれに|答《こた》へて、
『|村肝《むらきも》の|心《こころ》いそげど|焦《あせ》れども
|万里《ばんり》の|山河《やまかは》せむすべもなし
さりながら|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|夢見《ゆめみ》さへ
わが|魂線《たましひ》はよみがへるなり』
|中割男《なかさきを》の|神《かみ》はあきれながら、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|男神《をがみ》|数多《あまた》|集《つど》へる|蓆《むしろ》に|比女神《ひめがみ》は
|憚《はばか》りもなくのろけますかも
かくの|如《ごと》|雄々《をを》しき|賢《さか》しき|細女《くはしめ》と
|今《いま》の|今《いま》までおもはざりけり
|面白《おもしろ》き|比女神《ひめがみ》なるかも|背《せ》の|岐美《きみ》の
|艶事《つやごと》のみを|時《とき》じく|宣《の》らすも
|天界《かみくに》に|生《うま》れてわれはかくの|如《ごと》き
|雄々《をを》しき|女神《めがみ》に|会《あ》はざりにけり
|細女《くはしめ》にして|賢女《さかしめ》よ|朝香比女《あさかひめ》の
|神《かみ》は|面勝《おもかつ》|射向《いむか》ふ|神《かみ》はも
かくの|如《ごと》|雄々《をを》しき|女神《めがみ》の|前《まへ》に|出《い》でて
|伊竦《いすく》みにけり|男神《をがみ》のことごとは』
|小夜更《さよふけ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|比女神《ひめがみ》のこれの|聖所《すがど》に|来《き》ませしゆ
|栄城《さかき》の|山《やま》は|花《はな》|満《み》ちにけり
いさぎよく|雄々《をを》しく|宣《の》らす|言霊《ことたま》に
うたれて|返《かへ》さむ|言《こと》の|葉《は》もなし
|比女神《ひめがみ》のこの|雄健《をたけ》びに|曲津見《まがつみ》は
|雲《くも》をかすみと|逃《に》げ|去《さ》りにけむ
|憚《はばか》りもなく|真心《まごころ》をさらけ|出《だ》して
|恥《はぢ》らひ|給《たま》はぬ|比女《ひめ》の|雄々《をを》しさ』
|親幸男《ちかさちを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|御樋代比女神《みひしろひめがみ》は
さこそあらむと|思《おも》ひけるかな
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》も|驚《おどろ》きたまふらむ
はろばろ|訪《と》ひし|比女《ひめ》のまことに
|世《よ》の|中《なか》は|勇《いさ》み|進《すす》みて|己自《おのがじし》
|行《ゆ》くべき|道《みち》を|拓《ひら》くべきかな
|朝香比女《あさかひめ》|神《かみ》の|雄建《をたけ》び|勇《いさ》ましく
|醜《しこ》の|雲霧《くもきり》かげをひそめむ
|一《ひと》つ|目《め》の|八口《やくち》の|曲津《まが》も|比女神《ひめがみ》の
|生言霊《いくことたま》に|逃《に》げ|散《ち》りしとふ
|潔《いさぎ》よき|比女《ひめ》の|神言《みこと》を|迎《むか》へまして
|栄城《さかき》の|山《やま》に|春《はる》よみがへる
|比女神《ひめがみ》と|倶《とも》にしあれば|常春《とこはる》の
|花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|心地《ここち》するかも』
|神々《かみがみ》は|他愛《たあい》もなく、|心《こころ》の|丈《たけ》を|互《たがひ》に|打開《うちあ》けながら、|無礼講《ぶれいかう》を|終《をは》り|給《たま》ひける。
ここに|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、|其《その》|日《ひ》を|一日《ひとひ》これの|神山《みやま》にとどまり|給《たま》ひ、|百鳥《ももどり》の|声《こゑ》、|百木《ももぎ》の|花《はな》の|香《かを》りに|魂《たま》を|養《やしな》ひながら、|翌日《よくじつ》の|朝《あさ》|又《また》もや|駒《こま》に|鞭《むち》うちて、|靄《もや》|立《た》ち|昇《のぼ》る|荒野ケ原《あらのがはら》を|立《た》ち|出《い》で|給《たま》はむとして|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|三日三夜《みかみよさ》わが|魂線《たましひ》を|遊《あそ》ばせし
|栄城《さかき》の|山《やま》はあこがれの|山《やま》よ
|百神《ももがみ》のあつき|心《こころ》にほだされて
|思《おも》はず|知《し》らず|日《ひ》を|重《かさ》ねけり
|栄城山《さかきやま》に|楽《たの》しく|嬉《うれ》しく|遊《あそ》びてし
この|思《おも》ひ|出《で》は|千代《ちよ》につづかむ
|大空《おほぞら》のあらむ|限《かぎ》りは|青雲《あをくも》の
|空《そら》なりにけりわが|立《た》つよき|日《ひ》は
|百神《ももがみ》よさらばこれより|草枕《くさまくら》
|旅《たび》に|立《た》たなむ|安《やす》くましませ
|大宮居《おほみや》に|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なを|仕《つか》へつつ
|生言霊《いくことたま》に|世《よ》をひらきませ
|懐《なつ》かしく|親《した》しくなりし|神々《かみがみ》に
|別《わか》るる|今朝《けさ》の|名残《なごり》|惜《を》しまる
|何一《なにひと》つ|心《こころ》にかかる|雲《くも》もなし
はばかりもなく|語《かた》らひにつつ』
|機造男《はたつくりを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『なつかしの|朝香《あさか》の|比女《ひめ》は|今日《けふ》を|限《かぎ》り
|旅《たび》に|立《た》たすと|思《おも》へばさびしも
|幾年《いくとせ》も|倶《とも》に|居《ゐ》まして|語《かた》らまく
|思《おも》ひしことも|夢《ゆめ》なりにけり
|国土生《くにう》みの|神業《みわざ》に|仕《つか》ふる|比女神《ひめがみ》を
|止《とど》むるよしもわれなかりける
|比女神《ひめがみ》よ|顕津男《あきつを》の|神《かみ》に|会《あ》ひまさば
|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に|吾等《われら》をつたへよ
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|御幸《みさち》を|祈《いの》りつつ
|神《かみ》に|仕《つか》ふとつたへませ|公《きみ》
|雨《あめ》|降《ふ》れば|比女神《ひめがみ》おもひ|風《かぜ》|吹《ふ》けば
|汝《なれ》を|偲《しの》ばむ|機造男《はたつくりを》われは
|比女神《ひめがみ》の|立《た》たせ|給《たま》ひし|栄城山《さかきやま》は
|又《また》もや|日々《ひび》に|淋《さび》しくならむを
|行《ゆ》く|水《みづ》の|止《とど》めもあへぬ|公《きみ》ゆゑに
われあきらめて|見送《みおく》りまつるも』
|散花男《ちるはなを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|春《はる》の|野《の》に|咲《さ》く|百花《ももばな》も|散《ち》る|世《よ》なり
こころして|行《ゆ》け|大野《おほの》の|旅《たび》を
|雄々《をを》しくも|出《い》で|立《た》ちますか|朝香比女《あさかひめ》
|神《かみ》の|神言《みこと》は|世《よ》を|照《て》らしつつ
|駿馬《はやこま》の|嘶《いなな》き|高《たか》く|進《すす》みます
|公《きみ》の|行手《ゆくて》を|安《やす》かれと|祈《いの》る』
|中割男《なかさきを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|何時《いつ》までも|名残《なご》り|惜《を》しけれど|詮《せん》もなし
いざや|女神《めがみ》よ|別《わか》れまつらむ
|西方《にしかた》の|国土《くに》は|曲津見《まがつみ》|棲《す》むと|聞《き》く
|心《こころ》|注《そそ》ぎて|出《い》でませ|比女神《ひめがみ》よ
|汝《なれ》こそは|面勝神《おもかつがみ》と|射向《いむか》ふ|神《かみ》よ
|如何《いか》なる|曲津《まが》もやらひますらむ
|一日《ひとひ》なりと|泊《とま》らせ|給《たま》へと|祈《いの》りつつ
|惜《を》しき|別《わか》れとなりにけらしな』
|小夜更《さよふけ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『わけもなき|事《こと》|語《かた》り|合《あ》ひて|親《した》しみし
|比女神《ひめがみ》|今日《けふ》を|旅《たび》に|立《た》たすも
|惜《を》しめども|今日《けふ》の|別《わか》れは|詮《せん》もなし
|神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《みわざ》なりせば
|長《なが》き|世《よ》に|又《また》|会《あ》ふ|事《こと》のあらむかと
|当《あて》なきことを|頼《たの》みて|待《ま》たむ
|小夜《さよ》|更《ふ》けて|天地《あめつち》しづまる|頃《ころ》とならば
|比女《ひめ》のすがたの|目《め》に|浮《うか》ぶらむ
ともかくも|公《きみ》を|門辺《かどべ》に|送《おく》り|来《き》つ
|別《わか》れのなみだ|雨《あめ》と|降《ふ》るかも』
|親幸男《ちかさちを》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『はろばろと|出《い》でましし|比女《ひめ》ははろばろと
|旅《たび》に|立《た》たすか|別《わか》れ|惜《を》しまる
|折々《をりをり》は|栄城《さかき》の|山《やま》の|松ケ枝《まつがえ》に
|汝《な》が|魂線《たましひ》を|移《うつ》させたまへ
|今日《けふ》の|日《ひ》の|別《わか》れ|惜《を》しむか|真鶴《まなづる》の
うたへる|声《こゑ》も|悲《かな》しかりけり
|百鳥《ももどり》の|鳴《な》く|音《ね》も|今日《けふ》はしめりたり
|公《きみ》の|出《い》で|立《た》ち|惜《を》しむなるらむ
|高照《たかてる》の|山《やま》ははろけし|心《こころ》して
|旅《たび》に|出《い》でませ|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》よ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|駒《こま》に|跨《またが》り、|諸神《しよしん》に|黙礼《もくれい》しながら、
『ゆかりあるこれの|聖所《すがど》を|後《あと》にして
|旅《たび》ゆくわれはかなしかりけり
|百神《ももがみ》のあつき|心《こころ》は|忘《わす》れまじ
|岐美《きみ》にし|会《あ》へば|詳細《つぶさ》に|伝《つた》へむ
いざさらば|百神等《ももがみたち》よ|永久《とこしへ》に
|命《いのち》|栄《さか》えてかがやきたまへ』
と|御歌《みうた》|詠《よ》ませつつ|駒《こま》に|鞭《むち》うち、|栄城山《さかきやま》を|後《あと》に、|靄《もや》|立《た》ち|籠《こ》むる|朝明《あさあけ》の|大野ケ原《おほのがはら》を、|進《すす》ませ|給《たま》ふぞ|雄々《をを》しけれ。
(昭和八・一二・七 旧一〇・二〇 於水明閣 林弥生謹録)
第一四章 |磐楠舟《いはくすぶね》〔一九三一〕
|高地秀山《たかちほやま》の|聖場《せいぢやう》に |御樋代神《みひしろがみ》と|仕《つか》へたる
|八柱比女《やはしらひめ》の|神司《かむつかさ》 |中《なか》にも|別《わ》けて|面勝《おもかつ》の
|神《かみ》とまします|朝香比女《あさかひめ》は |雄心《をごころ》|押《お》さゆる|由《よし》もなく
|桜《さくら》の|花《はな》の|散《ち》り|敷《し》ける |春《はる》の|夕《ゆふべ》の|唯一人《ただひとり》
|白馬《はくば》に|跨《またが》りしとしとと |踏《ふ》みも|習《なら》はぬ|大野原《おほのはら》
|道《みち》なき|道《みち》を|別《わ》けながら |狭葦《さゐ》の|河瀬《かはせ》の|曲神《まがかみ》を
|生言霊《いくことたま》を|打《う》ち|出《いだ》し |真火《まひ》の|功《いさを》に|追《お》ひ|払《はら》ひ
|再《ふたた》び|荒野《あらの》をわたりまし |栄城《さかき》の|山《やま》の|聖場《せいぢやう》に
|着《つ》かせ|給《たま》ひて|百神《ももがみ》の あつき|待遇《もてなし》|喜《よろこ》びつ
|暫《しば》し|御足《みあし》を|留《とど》めつつ |又《また》もや|駒《こま》に|鞭《むち》うちて
|太元顕津男《おほもとあきつを》の|神《かみ》の |御許《みあと》に|進《すす》み|行《ゆ》かばやと
|未《ま》だ|地《つち》|稚《わか》くもうもうと |霧《きり》|立《た》ち|昇《のぼ》る|大野原《おほのはら》
|一人《ひとり》|雄々《をを》しく|出《い》で|給《たま》ふ。
|夕暮《ゆふぐれ》|近《ちか》くなりし|頃《ころ》、|前方《ぜんぱう》に|横《よこた》はる|大沼《おほぬま》あり、|駒《こま》は|左右《さいう》の|耳《みみ》を|前方《ぜんぱう》に|傾《かたむ》け、|俄《にはか》に|蹄《ひづめ》を|止《とど》め、|何程《なにほど》|鞭《むち》うち|給《たま》へども|一歩《いつぽ》も|進《すす》まざる|怪《あや》しさに、|兎《と》も|角《かく》も|旅《たび》の|疲《つか》れを|休《やす》らへ|様子《やうす》を|見《み》むと、|萱草《かやくさ》|茂《しげ》る|芝生《しばふ》に|下《お》り|立《た》ち|給《たま》ひける。
|要《えう》するに|総《すべ》て|馬《こま》は|鋭敏《えいびん》なる|動物《どうぶつ》にして、|前方《ぜんぱう》に|敵《てき》ある|時《とき》は|耳《みみ》を|前方《ぜんぱう》に|傾《かたむ》け|進《すす》まむとせず、|又《また》|馬《うま》|自身《じしん》の|気分《きぶん》|良《よ》き|時《とき》|得意《とくい》なる|時《とき》は、|耳《みみ》を|真直《まつすぐ》に|空《そら》に|向《むか》つて|欹《そばだ》て、|又《また》|騎手《きしゆ》に|対《たい》し|不満《ふまん》を|抱《いだ》き|或《ある》ひは|振《ふ》り|落《おと》さむと|思《おも》ふ|時《とき》は、|左右《さいう》の|耳《みみ》を|後方《こうはう》に|傾《かたむ》くるものなり。|故《ゆゑ》に|馬《うま》に|乗《の》るものは|第一《だいいち》に|耳《みみ》の|動作《どうさ》に|注意《ちうい》すべきものとす。
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|萱《かや》の|生《ふ》にどつかと|尻《しり》を|落付《おちつ》け、|暫《しば》し|双手《もろて》を|組《く》み|考《かんが》へ|給《たま》ひけるが、|白駒《しらこま》は|一脚一脚《ひとあしひとあし》|後退《あとしざ》り|止《や》まず、|果《は》ては|前脚《まへあし》を|上《あ》げて|直立《ちよくりつ》し、|驚《おどろ》きの|声《こゑ》を|放《はな》ちて|凶事《きようじ》を|報《はう》ずるが|如《ごと》く|見《み》えける。
『わが|駒《こま》の|驚《おどろ》く|見《み》れば|行《ゆ》く|先《さき》に
|曲津見《まがつみ》は|罠《わな》を|造《つく》り|待《ま》つらむか
|前方《ぜんばう》に|左右《さいう》の|耳《みみ》をかたむけて
|歩《あゆ》みたゆとふ|駒《こま》のあやしも
|果《はて》しなき|大野《おほの》の|末《すゑ》に|黄昏《たそが》れて
わが|駿馬《はやこま》は|居竦《ゐすく》みさやぐも
|濛々《もうもう》と|夕《ゆふべ》の|霧《きり》のふかみつつ
|咫尺《しせき》|弁《べん》ぜぬ|怪《あや》しき|野辺《のべ》なり
|斯《か》くならば|夜《よ》の|明《あ》くる|迄《まで》|草《くさ》の|生《ふ》に
|駒《こま》をやすめてわれは|待《ま》たなむ
|進《すす》み|進《すす》み|退《しりぞ》く|事《こと》を|知《し》らぬ|吾《われ》も
|駒《こま》おどろけばせむすべなけれ
|夕烏《ゆふがらす》|声《こゑ》も|悲《かな》しくきこゆなり
|霧《きり》ふかしくて|影《かげ》は|見《み》えねど
|陰々《いんいん》と|邪気《じやき》|迫《せま》り|来《き》てわが|水火《いき》も
|今《いま》は|苦《くる》しくなりにけらしな
|顕津男《あきつを》の|神《かみ》の|神言《みこと》は|日並《けなら》べて
|斯《か》かる|艱《なや》みに|逢《あ》はせ|給《たま》はむ
|面勝《おもかつ》の|神《かみ》と|言《い》はれし|吾《われ》にして
|如何《いか》で|曲津《まがつ》にためらふべしやは
|今《いま》こそは|燧《ひうち》を|打《う》ちて|真火《まひ》|照《て》らし
|八十《やそ》の|曲津《まがつ》をしりぞけむかな』
|斯《か》く|歌《うた》ひながら|燧《ひうち》を|取出《とりいだ》し、かちりかちりと|打《う》ち|出《だ》し|給《たま》へば、|火花《ひばな》は|四辺《あたり》に|散《ち》りて|原野《はらの》に|落《お》ち、|若草《わかぐさ》の|根《ね》に|重《かさな》りたる|去年《こぞ》のかたみの|枯草《かれくさ》に|忽《たちま》ち|火《ひ》|移《うつ》り、|見《み》る|見《み》る|吹《ふ》き|来《きた》る|風《かぜ》に|煽《あふ》られて、|火《ひ》は|前方《ぜんぱう》に|延《の》び|広《ひろ》まり、|沼《ぬま》の|岸辺《きしべ》に|到《いた》りて|燃《も》え|止《と》まりける。|四辺《あたり》を|包《つつ》みし|深霧《ふかぎり》は|俄《にはか》に|四方《よも》に|散《ち》り|失《う》せ、|空《そら》|晴々《はればれ》と|青雲《あをくも》の|生地《きぢ》を|現《あら》はし、|六日《むゆか》の|月《つき》は|鋭《するど》き|光《ひかり》を|地上《ちじやう》に|投《な》げければ、|目路《めぢ》の|限《かぎ》り|一点《いつてん》のさやるものなく、|沼《ぬま》の|面《おも》はきらきらと|月光《つきかげ》|浮《うか》ぶ|夜《よる》とはなりける。|八十曲津見《やそまがつみ》の|神《かみ》は|狭葦《さゐ》の|河瀬《かはせ》の|真夜中《まよなか》を、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|真火《まひ》の|功《いさを》に|退《やら》はれ|傷《きずつ》きたれば、|暫《しば》し|影《かげ》を|潜《ひそ》め|居《ゐ》たりしが、|火傷《やけど》も|漸《やうや》く|癒《い》えければ|第二《だいに》の|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》を|思《おも》ひ|立《た》ち、|駒《こま》|諸共《もろとも》に|沼《ぬま》の|中《なか》に|迷《まよ》ひ|入《い》らしめ、|仇《あだ》を|報《むく》いむと|待《ま》ち|居《ゐ》たりしなり。|駿馬《はやこま》は|早《はや》くも|前方《ぜんぱう》|間近《まぢか》く|斯《か》かる|難所《なんしよ》のあるを|知《し》りて、|危難《きなん》を|恐《おそ》れためらひしものと|思《おも》はる。
|茲《ここ》に|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|心《こころ》|落付《おちつ》き|給《たま》ひ|再《ふたた》び|駒《こま》に|跨《またが》りて、|広《ひろ》く|長《なが》く|展開《てんかい》したる|沼《ぬま》の|岸辺《きしべ》に|駈《か》け|寄《よ》り|給《たま》ひ、|波間《なみま》に|浮《うか》べる|爽《さや》けき|月光《つきかげ》を|眺《なが》めながら、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|曲津見《まがつみ》の|醜《しこ》のたくみも|霧《きり》となり
|煙《けむり》となりて|逃《に》げ|去《さ》りにけり
|大野原《おほのはら》わが|打《う》ち|出《い》でし|火《ひ》に|焼《や》かれ
あとかたもなく|清《きよ》められたり
|曲津見《まがつみ》は|此《これ》の|荒野《あらの》に|影《かげ》ひそめ
われ|傷《そこな》ふと|待《ま》ち|構《かま》へ|居《ゐ》しか
|駿馬《はやこま》の|敏《さと》き|耳《みみ》と|眼《め》に|看破《みやぶ》られて
|八十曲津見《やそまがつみ》の|罠《わな》はやぶれし
|有難《ありがた》し|神《かみ》の|賜《たま》ひしこの|真火《まひ》は
わが|行《ゆ》く|道《みち》の|守《まも》りなるかも
|幾万《いくまん》の|曲津見《まがつみ》|来《きた》り|襲《おそ》ふとも
われには|真火《まひ》の|剣《つるぎ》ありける
きらきらと|水《み》の|面《も》に|冴《さ》ゆる|月光《つきかげ》は
わが|背《せ》の|岐美《きみ》の|御霊《みたま》なるかも
|千万里《せんまんり》|遠《とほ》きにいます|背《せ》の|岐美《きみ》の
|影《かげ》を|間近《まぢか》く|此処《ここ》に|見《み》るかな
|上下《うへした》にかがやきわたる|月光《つきかげ》は
わが|背《せ》の|岐美《きみ》と|思《おも》へば|嬉《うれ》しも
|此《この》|沼《ぬま》を|見《み》つつすべなし|吾《わが》|行《ゆ》かむ
|西方《にしかた》の|国土《くに》をさへぎるこの|水《みづ》
|兎《と》に|角《かく》に|今宵《こよひ》は|沼《ぬま》の|月光《つきかげ》に
いむかひながら|夜《よ》を|明《あか》すべし』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|駒《こま》の|背《せ》よりひらりと|下《お》り|給《たま》へば、|不思議《ふしぎ》なるかな、|小石《こいし》|一《ひと》つなき|汀《みぎは》に|長方形《ちやうはうけい》の|巌《いは》|横《よこた》はりありければ、|格好《かくかう》の|坐席《ざせき》なりと|腰《こし》|打《う》ち|下《おろ》し|憩《いこ》ひ|給《たま》ひつつ、|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|主《ス》の|神《かみ》の|恵《めぐみ》なるらむ|汀辺《みぎはべ》に
わがやすむべき|巌《いは》はありけり
|此《この》|巌《いは》に|吾身《わがみ》の|疲《つか》れやすめつつ
|月《つき》を|拝《をが》みて|夜《よ》を|明《あ》かさばや
|虫《むし》の|音《ね》は|焼《や》き|払《はら》はれし|草《くさ》の|根《ね》に
ひそみて|鳴《な》くかこゑの|悲《かな》しき
|波《なみ》の|面《も》を|右《みぎ》と|左《ひだり》に|飛《と》び|交《か》ひて
|土鳥《つちどり》|啼《な》くなり|月《つき》にはえつつ
いつの|間《ま》にかわが|駿馬《はやこま》も|巌《いは》の|上《へ》に
|蹲《うづくま》りつつ|水火《いき》をやすめり
|此《この》|巌《いはほ》|未《ま》だ|稚《わか》ければ|舟《ふね》にして
この|広沼《ひろぬま》をわれは|渡《わた》らむ』
|斯《か》く|歌《うた》はせ|給《たま》ひながら、|比女神《ひめがみ》は|細《ほそ》き|柔《やはら》かき|左右《さいう》の|御手《みて》もて、|巌《いは》の|中《なか》をゑぐり|舟《ふね》の|形《かたち》となし|給《たま》ふ。|恰《あたか》も|陶器師《すゑものし》が|柔《やはら》かき|粘土《ねんど》を|以《も》て|皿《さら》、|茶碗《ちやわん》などを|練《ね》るが|如《ごと》く、またたく|間《うち》に|舟《ふね》の|形《かたち》を|造《つく》り、
『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》|千万《ちよろづ》の|神《かみ》
|集《あつ》まり|来《きた》りて|守《まも》り|給《たま》はれ
ハホフヘヒ|舟《ふね》に|成《な》れ|成《な》れ|此《こ》の|巌《いはほ》
|今《いま》わが|造《つく》りしこれの|巌舟《いはふね》
|水《みづ》の|面《も》に|浮《うか》ぶるまでも|軽《かる》くなれ
|軽《かる》くなれなれ|木舟《きぶね》の|如《ごと》くに』
|斯《か》く|宣《の》らせ|給《たま》ふや、|流石《さすが》の|巌舟《いはぶね》も|忽《たちま》ち|木舟《きぶね》と|変《へん》じ、|自《おのづか》らするすると|滑《すべ》りて|汀辺《みぎはべ》にぽかりと|浮《う》きければ、|比女神《ひめがみ》は|駒《こま》|諸共《もろとも》に|舟中《ふね》に|飛《と》び|入《い》り|給《たま》ひ、
『|天晴《あは》れ|天晴《あは》れ|生言霊《いくことたま》の|幸《さち》はひて
|巌《いはほ》は|真木《まき》の|舟《ふね》となりける
|艪《ろ》も|楫《かい》もなけれど|吾《われ》は|言霊《ことたま》に
これの|御舟《みふね》をあやつり|渡《わた》らむ
|大空《おほぞら》の|月《つき》は|益々《ますます》|冴《さ》えにつつ
わが|乗《の》る|舟《ふね》は|波《なみ》すべるなり
|水底《みなそこ》にうつろふ|月《つき》を|眺《なが》めつつ
|波《なみ》のおもてを|風《かぜ》なでて|行《ゆ》く
|天《あめ》と|地《つち》の|中空《なかぞら》わたる|心地《ここち》かな
|上《うへ》と|下《した》とに|月《つき》をながめて
|千万《ちよろづ》の|御空《みそら》の|星《ほし》は|水底《みなそこ》の
|金砂《きんしや》|銀砂《ぎんしや》となりてかがよふ
|曲神《まがかみ》の|醜《しこ》の|奸計《たくみ》の|千引巌《ちびきいは》も
われをたすくる|舟《ふね》となりしよ
|駒《こま》よ|駒《こま》|汝《なれ》は|賢《さか》しく|雄々《をを》しけれ
|曲津《まが》の|奸計《たくみ》をわれに|知《し》らせし
|如何程《いかほど》に|沼《ぬま》は|広《ひろ》くも|言霊《ことたま》の
|力《ちから》に|暁《あかつき》|岸辺《きしべ》につかむ
やすやすと|御舟《みふね》の|中《なか》に|月《つき》を|見《み》つ
|旅《たび》の|疲《つか》れをやしなはむかな
|西北《にしきた》の|風《かぜ》に|送《おく》られわが|舟《ふね》は
|艪楫《ろかい》なけれどいやすすむなり
|高地秀《たかちほ》の|山《やま》は|雲間《くもま》に|聳《そび》え|立《た》ち
|今宵《こよひ》の|月《つき》に|照《て》らされにつつ
|仰《あふ》ぎ|見《み》ればはろけかりけり|高地秀《たかちほ》の
|山《やま》|出《い》でしより|久《ひさ》しからぬに
|栄城山《さかきやま》|尾《を》の|上《へ》ほのぼの|見《み》えにけり
|月《つき》のしたびに|尾根《をね》|晴《は》れにつつ
|大空《おほぞら》に|月《つき》は|照《て》れども|遠々《とほどほ》し
|高照山《たかてるやま》はすがた|見《み》えなく
|眼《め》に|一《ひと》つさやるものなき|大野原《おほのはら》
この|広沼《ひろぬま》の|月《つき》はさやけし
わが|行《ゆ》かむ|道《みち》を|遮《さへぎ》る|曲津《まが》あらば
|生言霊《いくことたま》に|追《お》ひ|退《そ》け|行《ゆ》かむ
|天《あめ》と|地《つち》の|広《ひろ》きが|中《なか》を|駈《かけ》り|行《ゆ》く
われは|一人《ひとり》の|旅《たび》なりにけり
|駿馬《はやこま》のたすけによりて|果《はて》しなき
|大野《おほの》をわたる|吾《われ》はさびしも
|淋《さび》しさの|心《こころ》の|駒《こま》に|鞭《むち》うちて
|勇《いさ》み|進《すす》まむ|果《はて》なき|国原《くにはら》を
わが|舟《ふね》は|彼方《あなた》の|岸《きし》に|近《ちか》づきて
|御空《みそら》の|奥《おく》はしののめにけり
|岸辺《きしべ》|近《ちか》くなりて|清《すが》しき|鵲《かささぎ》の
|鳴《な》く|音《ね》は|高《たか》く|聞《きこ》え|来《き》にけり
やがて|今《いま》|朝日《あさひ》|昇《のぼ》らば|百鳥《ももとり》の
|声《こゑ》もすがしく|世《よ》をうたふらむ』
|漸《やうや》くにして|御舟《みふね》は、|広《ひろ》き|沼《ぬま》の|果《はて》なる|岸辺《きしべ》に|横《よこた》はりければ、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|駒《こま》|諸共《もろとも》|舟《ふね》を|乗《の》り|捨《す》て、
『わが|舟《ふね》は|千引《ちびき》の|巌《いは》と|体《み》を|変《へん》じ
これの|岸辺《きしべ》に|永久《とは》にあれかし
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百千万《ももちよろづ》|舟《ふね》よ|舟《ふね》
|元《もと》の|如《ごと》く|巌《いはほ》となれなれ
|堅磐常磐《かきはときは》の|千引《ちびき》の|巌《いは》となれなれ』
|斯《か》く|宣《の》らせ|給《たま》ふや、|御舟《みふね》は|忽《たちま》ち|元《もと》の|如《ごと》く|大巨巌《だいきよがん》となりて|汀辺《みぎはべ》に|屹立《きつりつ》せり。|此《こ》の|巌《いは》を|御舟巌《みふねいは》と|名付《なづ》け|給《たま》ひける。
|東雲《しののめ》の|空《そら》は|次第々々《しだいしだい》に|明《あか》らみにつつ、|新《あたら》しき|天津日《あまつひ》は|煌々《かうかう》と|雲《くも》|押《お》し|分《わ》け|昇《のぼ》らせ|給《たま》ひ、|沼《ぬま》の|面《おもて》を|隈《くま》なく|照《て》らさせ|給《たま》ふ。
(昭和八・一二・八 旧一〇・二一 於水明閣 森良仁謹録)
第一五章 |御舟巌《みふねいは》〔一九三二〕
|八十曲津見《やそまがつみ》は|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|行手《ゆくて》を|遮《さへぎ》らむとして、|広大《くわうだい》なる|沼《ぬま》と|体《み》を|変《へん》じ、|女神《めがみ》を|悩《なや》まし|奉《まつ》らむとして|待《ま》ち|構《かま》へ|居《ゐ》たりしが、|女神《めがみ》の|生言霊《いくことたま》に|固《かた》められて、|忽《たちま》ち|真《まこと》の|沼《ぬま》となり、|永久《とこしへ》に|大野ケ原《おほのがはら》の|真中《まんなか》に|横《よこた》はる|事《こと》となりにける。|又《また》|巨巌《きよがん》は|八十曲津見《やそまがつみ》の|本体《ほんたい》なりけるを、|言霊《ことたま》の|幸《さち》はひによりて|水上《すゐじやう》に|浮《うか》ぶ|磐楠舟《いはくすぶね》となり、|比女神《ひめがみ》を|彼岸《ひがん》に|渡《わた》す|御用《ごよう》に|逆《さか》しまに|使《つか》はれ、|再《ふたた》び|汀辺《みぎはべ》に|万世不動《ばんせいふどう》の|御舟巌《みふねいは》と|固《かた》められければ、|八十曲津見《やそまがつみ》は|如何《いかん》とも|詮《せん》すべなく、その|率《ひき》ゐたる|百《もも》の|曲津見《まがつみ》は、いづれも|沼底《ぬまそこ》の|貝《かひ》と|変《へん》じて、わづかに|生命《いのち》を|保《たも》つ|事《こと》を|許《ゆる》されにける。
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、この|態《さま》を|見《み》て|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|面白《おもしろ》し|八十曲津見《やそまがつみ》は|大野原《おほのはら》の
|中《なか》に|動《うご》かぬ|沼《ぬま》となりしよ
|曲津見《まがつみ》の|沼《ぬま》となりける|水《み》の|上《うへ》を
|磐楠舟《いはくすぶね》に|乗《の》りて|渡《わた》りし
|今日《けふ》よりは|弥永久《いやとこしへ》に|沼《ぬま》となりて
|所《ところ》を|変《か》へな|世《よ》の|終《をは》るまで
もろもろの|曲津神等《まがつかみたち》は|沼底《ぬまそこ》の
|貝《かひ》となりつつ|生命《いのち》をたもて
|貝《かひ》は|皆《みな》|吾《わが》|乗《の》り|来《きた》りし|楠舟《くすぶね》の
|形《かたち》となりて|沼《ぬま》にひそめよ
|天津日《あまつひ》は|真賀《まが》の|湖水《こすゐ》の|面《おも》|照《てら》し
|狭霧《さぎり》もやもや|立《た》ち|昇《のぼ》りつつ
わが|為《ため》に|謀《はか》らひたりし|醜《しこ》の|沼《ぬま》は
またわが|為《ため》に|謀《はか》らはれける
|水底《みなそこ》に|青《あを》くうつろふ|山影《やまかげ》は
|栄城《さかき》の|山《やま》か|波《なみ》にさゆれつ
|月読《つきよみ》の|光《かげ》を|浮《うか》べしこの|沼《ぬま》は
|曲津《まがつ》の|化身《けしん》と|思《おも》はれざりしよ
|何事《なにごと》も|善意《ぜんい》に|解《かい》せばもの|皆《みな》は
わが|為《ため》によきものとなるかも
|曲津神《まがつかみ》も|愛《あい》と|善《ぜん》には|勝《か》ち|難《がた》く
|大地《だいち》に|伏《ふ》して|沼《ぬま》と|溢《あふ》れつ
|国津神《くにつかみ》の|日毎々々《ひごとひごと》の|餌《ゑ》を|生《う》みて
|魚貝《ぎよかひ》を|育《そだ》てよ|真賀《まが》の|湖《みづうみ》
|沼水《ぬまみづ》はいやつぎつぎに|澄《す》みきりて
|深《ふか》き|湖水《こすゐ》となりにけらしな
|御舟巌《みふねいは》の|側《そば》に|集《あつ》まる|魚族《うろくづ》は
いや|永久《とこしへ》に|生命《いのち》たもたむ
|御舟巌《みふねいは》は|吾《われ》を|助《たす》けし|神《かみ》なれば
|幾千代《いくちよ》までも|滅《ほろ》びざるべし
|巌ケ根《いはがね》に|住《す》み|魚族《うろくづ》も|諸貝《もろかひ》も
われを|助《たす》けし|功《いさを》に|生《い》きむ
いざさらば|吾《われ》は|進《すす》まむ|湖《みづうみ》よ
|国津神等《くにつかみたち》を|永久《とは》に|養《やしな》へ』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|給《たま》ひつつ|駒《こま》にひらりと|跨《またが》り、|東南方《とうなんぱう》の|野辺《のべ》をさして|進《すす》み|給《たま》へば、|程近《ほどちか》き|野辺《のべ》の|真中《まんなか》に|余《あま》り|高《たか》からぬ|丘陵《きうりよう》ありて、|国津神等《くにつかみたち》の|住家《すみか》|幾十《いくじふ》となく|建《た》ち|並《なら》び|居《ゐ》たりければ、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|国津神《くにつかみ》の|住《すま》へる|村《むら》を|訪《と》はむとして|進《すす》ませ|給《たま》ふ。
|国津神《くにつかみ》の|長《をさ》たる|狭野比古《さぬひこ》は、|比女神《ひめがみ》の|御前《みまへ》に|跪《ひざまづ》きながら|満面《まんめん》に|笑《ゑみ》をたたへて、
『|汝《なれ》こそは|高天原《たかあまはら》ゆ|降《くだ》ります
|女神《めがみ》にますか|面《おも》かがやける
この|郷《さと》に|国津神等《くにつかみたち》|守《まも》りつつ
|住《すま》へる|吾《われ》は|狭野比古《さぬひこ》にこそ
|願《ねが》はくばこの|村里《むらざと》に|止《とど》まりて
|国津神等《くにつかみたち》を|救《すく》はせたまへ
|国津神《くにつかみ》は|日毎《ひごと》の|餌《ゑば》に|苦《くる》しみつ
|飢《う》ゑ|渇《かわ》きたり|安《やす》きをたまへ
|気魂《からたま》をたしに|保《たも》てる|国津神《くにつかみ》は
|餌《ゑば》なく|飢《うゑ》に|渇《かわ》きゐるなり』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|狭野比古《さぬひこ》に|答《こた》へて、
『|国津神《くにつかみ》の|日々《ひび》の|糧《かて》をば|与《あた》ふべし
|真賀《まが》の|湖水《こすゐ》の|魚族《うろくづ》とらせよ』
|狭野比古《さぬひこ》は|答《こた》へて、
『ありがたし|忝《かたじけ》なしと|思《おも》へども
|木《こ》の|実《み》に|生《い》くる|国津神《くにつかみ》なるよ
|魚族《うろくづ》をくひて|生《い》くべき|生命《いのち》なれば
|吾等《われら》は|飢《うゑ》にせまらざるべし』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、
『|木《こ》の|実《み》また|生命《いのち》の|為《ため》によけれども
|魚族《うろくづ》|喰《くら》へば|生命《いのち》ながけむ
われは|今《いま》|国津神等《くにつかみたち》に|魚族《うろくづ》を
|焼《や》きて|喰《く》ふべき|真火《まひ》を|与《あた》へむ』
|斯《か》く|宣《の》らせ|給《たま》ひて|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、この|村里《むらざと》の|小川《をがは》に|満《み》てる|魚貝《ぎよかひ》|等《など》を|漁《あさ》らせ|給《たま》ひ、|燧《ひうち》により|火《ひ》を|切《き》り|出《だ》して、|木草《きぐさ》に|燃《も》えつかせ、|魚貝《ぎよかひ》をその|中《なか》にほりくべ、|加減《かげん》よく|焙《あぶ》り|給《たま》へば、|芳《かむ》ばしき|香《かを》り|四辺《あたり》に|満《み》ちぬる。
|国津神等《くにつかみたち》は、この|香《かを》りにそそられて、|先《さき》を|争《あらそ》ひ、|貪《むさぼ》る|如《ごと》くに|喰《く》ひ|始《はじ》めたり。|狭野比古《さぬひこ》は|喜《よろこ》びて、
『|比女神《ひめがみ》の|恵《めぐみ》|畏《かしこ》し|魚族《うろくづ》の
よき|味《あぢ》はひを|教《をし》へ|給《たま》ひぬ
|今日《けふ》よりはこの|村里《むらざと》の|国津神《くにつかみ》
|飢《うゑ》に|歎《なげ》かむ|恐《おそ》れはあらじ
|比女神《ひめがみ》のきり|出《い》で|給《たま》ひし|真火《まひ》こそは
|神《かみ》の|御霊《みたま》か|光《ひか》りかがよふ
この|真火《まひ》を|吾《われ》に|賜《たま》はば|永久《とこしへ》に
|国津神等《くにつかみたち》は|滅《ほろ》びざるべし』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|懐中《くわいちう》より|控《ひか》への|燧《ひうち》を|取《と》り|出《い》で、|狭野比古《さぬひこ》に|与《あた》へ|給《たま》へば、|狭野比古《さぬひこ》は|感謝《かんしや》|措《お》く|能《あた》はず、カチリカチリと|火《ひ》を|切《き》り|出《い》でながら、|喜《よろこ》びの|余《あま》り|俗謡《ぞくえう》を|歌《うた》ひて、|国津神等《くにつかみたち》と|共《とも》に|月《つき》の|輪《わ》を|造《つく》りて|踊《をど》り|舞《ま》ひ|狂《くる》ひける。
『|天津比女神《あまつひめがみ》この|郷《さと》に
|降《くだ》りましまし|永久《とこしへ》の
|光《ひか》りを|与《あた》へ|給《たま》ひけり
|吾等《われら》は|今迄《いままで》|木《こ》の|実《み》のみ
|喰《く》ひて|生《い》きたる|国津神《くにつかみ》
|夏《なつ》と|秋《あき》とはよけれども
|冬《ふゆ》さり|春《はる》の|来《き》むかへば
|飢《うゑ》にくるしみ|悩《なや》みたり
|今日《けふ》は|如何《いか》なる|吉《よ》き|日《ひ》ぞや
|湖水《こすゐ》|池水《いけみづ》|川底《かはそこ》に
ところせきまで|満《み》ち|足《た》らふ
|魚族《うろくづ》|喰《く》ひて|永久《とこしへ》に
|生命《いのち》|保《たも》つと|教《をし》へまし
|燧《ひうち》を|吾《われ》に|与《あた》へまし
|焼《や》きて|喰《く》ふべく|教《をし》へます
|大御恵《おほみめぐみ》のありがたや
|今日《けふ》より|吾等《われら》|国津神《くにつかみ》は
|生命《いのち》の|糧《かて》を|得《え》たりけり
ああたのもしやたのもしや
|天《あめ》より|降《くだ》りし|比女神《ひめがみ》の
|恵《めぐみ》は|千代《ちよ》に|忘《わす》れまじ
ああありがたやありがたや
|祝《いは》へよ|祝《いは》へよ|国津神《くにつかみ》
|踊《をど》れよ|舞《ま》へよ|国津神《くにつかみ》
|御空《みそら》は|碧《あを》く|地《つち》|広《ひろ》く
|月日《つきひ》は|清《きよ》く|輝《かがや》きて
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》もおだやかに
|天津神国《あまつみくに》はまのあたり
|生《うま》れ|出《い》でたり|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|感謝言《ゐやひごと》
|白《まを》さむ|言葉《ことば》もあら|尊《たふ》と
|千代《ちよ》も|八千代《やちよ》も|永久《とこしへ》に
|女神《めがみ》の|恵《めぐみ》は|忘《わす》れまじ
|祝《いは》へよ|祝《いは》へよ|踊《をど》れよ|踊《をど》れよ
|大地《だいち》の|底《そこ》のぬけるまで
|竜宮《りうぐう》の|釜《かま》の|割《わ》るるまで』
|狭野比古《さぬひこ》の|音頭《おんど》につれて、|国津神等《くにつかみたち》は|次《つ》ぎ|次《つ》ぎに|集《あつま》り|来《きた》り、|天地《てんち》を|震動《しんどう》させながら、|踊《をど》り|狂《くる》ひ|給《たま》ひける。|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は、|諸神《ももがみ》に|向《むか》ひ|御歌《みうた》もて|宣《の》らせ|給《たま》ふ。
『|曲津見《まがつみ》の|醜《しこ》のすさびを|退《やら》はむと
われは|燧《ひうち》を|汝等《なれら》に|与《あた》へし
|今日《けふ》よりは|真賀《まが》の|湖《こ》に|棲《す》む|魚族《うろくづ》を
|汝等《なれら》がかてに|与《あた》へおくべし
|御舟巌《みふねいは》のまはりに|棲《す》める|魚族《うろくづ》は
いやとこしへに|漁《すなど》るなゆめ
|御舟巌《みふねいは》は|吾《われ》を|助《たす》けし|神《かみ》なれば
|近《ちか》くの|魚族《うろくづ》は|助《たす》け|置《お》くべし
|過《あやま》ちて|巌根《いはね》に|棲《す》まむ|魚貝《ぎよかひ》|喰《く》はば
|忽《たちま》ち|汝等《なれら》が|生命《いのち》は|失《う》せむ
いや|広《ひろ》き|湖《みづうみ》なれば|到《いた》るところ
|汝等《なれら》が|喰《く》ふべき|魚貝《ぎよかひ》は|満《み》てり
|魚族《うろくづ》は|火《ひ》にて|焙《あぶ》りて|喰《くら》ふべし
|生《い》きたるままにて|必《かなら》ず|喰《を》すな』
|狭野比古《さぬひこ》は|御歌《みうた》もて|喜《よろこ》び|答《こた》ふ。
『|久方《ひさかた》の|天《あめ》より|降《くだ》りし|比女神《ひめがみ》の
|神言《みこと》かしこみ|千代《ちよ》に|守《まも》らむ
|今日《けふ》よりは|国津神等《くにつかみたち》|安《やす》らかに
|喜《よろこ》びいさみ|恵《めぐ》みに|浸《ひた》らむ
|魚族《うろくづ》は|数限《かずかぎ》りなし|年《とし》|普《まね》く
|湖《うみ》に|満《み》てれば|飢《う》ゆる|事《こと》なし
|願《ねが》はくば|吾等《われら》に|水《みづ》を|与《あた》へかし
|小川《をがは》に|流《なが》るるこの|真清水《ましみづ》を
|国津神《くにつかみ》|真清水《ましみづ》|飲《の》みて|腹《はら》|痛《いた》め
|生命《いのち》をおとす|憂《うれ》ひありせば』
ここに|朝香《あさか》の|比女神《ひめがみ》は、|真土《まつち》を|水《みづ》にて|練《ね》り、|瓶《かめ》を|造《つく》り、|暫《しばら》くの|間《あひだ》を|天津日《あまつひ》の|光《ひかり》に|干《ほ》し|乾《かわ》かせ、|土《つち》をもて|窯《かまど》を|築《きづ》き、|火《ひ》をおこして|瓶《かめ》を|焼《や》き、|〓怜《うまら》にかたらに|造《つく》り|上《あ》げ、|之《これ》に|水《みづ》を|満《みた》して|窯《かまど》を|造《つく》り|火《ひ》をもて|焼《や》かせ|給《たま》へば、|忽《たちま》ち|瓶《かめ》の|水《みづ》は|沸騰《ふつとう》して|美《うる》はしき|白湯《さゆ》となりにける。|比女神《ひめがみ》はこの|白湯《さゆ》を|国津神等《くにつかみたち》に|与《あた》へ、|飲《の》む|事《こと》を|教《をし》へ|給《たま》ひければ、|国津神《くにつかみ》は|喜《よろこ》び|勇《いさ》みて|之《これ》より|白湯《さゆ》を|飲《の》む|事《こと》となしければ、|生水《なまみづ》の|如《ごと》く|腹《はら》を|痛《いた》むることなく、|各々《おのおの》その|天寿《てんじゆ》を|保《たも》ちけるこそ|目出度《めでた》けれ。|之《これ》より|火食《くわしよく》の|道《みち》|始《はじ》まりにける。
|狭野比古《さぬひこ》は|喜《よろこ》びの|余《あま》り|感謝《ゐやひ》の|歌《うた》を|詠《よ》む。
『|比女神《ひめがみ》の|恵《めぐみ》の|露《つゆ》にうるほひて
|吾等《われら》は|白湯《さゆ》の|味《あぢ》はひ|悟《さと》りぬ
|火《ひ》に|焼《や》きし|魚族《うろくづ》の|味《あぢ》|芳《かむ》ばしく
|吾等《われら》が|生命《いのち》もよみがへるなり
|土《つち》を|練《ね》りて|瓶《かめ》を|造《つく》らせその|瓶《かめ》を
|又《また》|火《ひ》に|焼《や》かす|神業《みわざ》|尊《たふと》し
|焼《や》き|上《あ》げし|瓶《かめ》に|真清水《ましみづ》|盛《も》り|満《みた》し
|薪《たきぎ》|燃《もや》せば|白湯《さゆ》は|沸《わ》くかも
|火《ひ》の|力《ちから》|始《はじ》めて|悟《さと》りし|吾々《われわれ》は
|今日《けふ》より|飢《うゑ》に|泣《な》く|事《こと》なからむ
|永久《とこしへ》の|生命《いのち》|保《たも》ちてこの|郷《さと》に
われは|栄《さか》えむ|国津神等《くにつかみたち》と
|曲津見《まがつみ》の|襲《おそ》ひ|来《きた》らば|真火《まひ》もちて
|放《はふ》り|退《やら》はむ|力《ちから》おぼえし
|比女神《ひめがみ》の|神言《みこと》|畏《かしこ》み|御舟巌《みふねいは》の
あたりの|魚族《うろくづ》|永久《とは》にとらさじ
|空《そら》は|晴《は》れ|地上《ちじやう》は|夏《なつ》の|風《かぜ》|吹《ふ》きて
|心《こころ》|清《すが》しも|比女《ひめ》の|出《い》でまし
|比女神《ひめがみ》の|教《をし》へたまひし|御恵《みめぐみ》を
|四方《よも》の|神等《かみたち》に|分《わか》ちよろこばむ
この|国土《くに》は|葦原《あしはら》の|国《くに》と|昔《むかし》より
たたへ|来《きた》りし|常闇《とこやみ》なりけり
|常闇《とこやみ》のこの|葦原《あしはら》も|今日《けふ》よりは
|真火《まひ》の|力《ちから》によみがへるべし
|火《ひ》と|水《みづ》を|与《あた》へ|給《たま》ひし|比女神《ひめがみ》の
|恵《めぐみ》は|永久《とは》に|忘《わす》れざるべし
|比女神《ひめがみ》の|恵《めぐみ》を|永久《とは》に|忘《わす》れじと
|宮居《みやゐ》を|造《つく》り|斎《いは》ひまつらむ』
|斯《か》く|宣《の》り|終《を》へて、|狭野比古《さぬひこ》は|数多《あまた》の|国津神《くにつかみ》を|率《ひき》ゐて、|真賀《まが》の|湖辺《こへん》に|新《あたら》しき|清《すが》しき|宮居《みや》を|造《つく》り、|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|幸《さち》を|祈《いの》るべく、|主《ス》の|神《かみ》の|神霊《しんれい》を|祀《まつ》り、|相殿《あひどの》に|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》の|神魂《みたま》を|合《あは》せ|祀《まつ》りて、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》な|国津神《くにつかみ》は|交《かは》る|交《がは》る|奉仕《ほうし》する|事《こと》となりぬ。
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|再《ふたた》び|駒《こま》に|跨《またが》り、この|部落《ぶらく》を|立《た》ち|出《い》でむとして|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『いざさらば|狭野《さぬ》の|小郷《をさと》に|住《す》み|給《たま》ふ
|国津神等《くにつかみたち》に|暇《いとま》を|告《つ》げむ
これよりは|吾《われ》|西方《にしかた》の|稚国土《わかぐに》を
さして|進《すす》まむすこやかにあれよ』
|狭野比古《さぬひこ》は|別《わか》れを|惜《を》しみて|歌《うた》を|宣《の》る。
『|比女神《ひめがみ》の|功《いさを》たふとしせめて|今《いま》
|一日《ひとひ》をここに|止《とど》まり|給《たま》はれ
|国津神《くにつかみ》の|生命《いのち》の|糧《かて》をたまひたる
|女神《めがみ》に|別《わか》ると|思《おも》へばかなし
|国津神《くにつかみ》|諸々《もろもろ》ここに|集《あつ》まりて
|公《きみ》の|旅立《たびだ》ち|惜《を》しみて|泣《な》くも
|狭野《さぬ》の|郷《さと》の|救《すく》ひの|神《かみ》と|現《あ》れましし
|比女神《ひめがみ》の|旅《たび》を|止《とど》めたく|思《おも》ふ
とこしへに|主《ス》の|大神《おほかみ》と|諸共《もろとも》に
|公《きみ》が|神魂《みたま》をいつきまつらむ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|御歌《みうた》|詠《よ》ませ|給《たま》ふ。
『|国津神《くにつかみ》の|心《こころ》は|悟《さと》らぬにあらねども
|御子生《みこう》みのため|止《とど》まるべしやは
|気魂《からたま》をもたせる|汝等《なれら》|国津神《くにつかみ》よ
いたづきもなくまめやかにあれ
|吾《われ》こそは|主《ス》の|大神《おほかみ》の|御水火《みいき》より
|生《うま》れし|神《かみ》ぞ|身《み》にさはりなし
いざさらば|愛《め》ぐしき|国津神等《くにつかみたち》よ
われは|進《すす》まむ|永久《とは》に|栄《さか》えよ』
|狭野比古《さぬひこ》は|別《わか》れ|惜《を》しさに|又《また》|歌《うた》ふ。
『かくならば|止《とど》めむ|術《すべ》もなかりけり
|国津神等《くにつかみら》と|神霊《みたま》に|仕《つか》へむ
|願《ねが》はくば|御供《みとも》を|許《ゆる》し|給《たま》へかし
この|行先《ゆくさき》の|曲津《まが》しげければ
|玉《たま》の|緒《を》の|生《い》きの|生命《いのち》をすつるとも
|比女《ひめ》のためには|惜《を》しからざるべし
|今日《けふ》よりは|御供《みとも》の|神《かみ》と|仕《つか》へつつ
|比女神《ひめがみ》のために|従《したが》ひ|行《ゆ》かむ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》は|微笑《ほほゑ》みながら、
『やさしかる|狭野比古《さぬひこ》の|心《こころ》うべなひて
|今日《けふ》よりわれの|供《とも》を|許《ゆる》さむ』
|狭野比古《さぬひこ》は|喜《よろこ》びに|堪《た》へず、
『|比女神《ひめがみ》の|許《ゆる》しありけり|国津神《くにつかみ》よ
|神《かみ》の|宮居《みやゐ》に|清《きよ》く|仕《つか》へませ
いざさらば|御供《みとも》|仕《つか》へむ|朝香比女《あさかひめ》の
|神《かみ》よ|御馬《みうま》に|鞭《むち》うたせませ』
|朝香比女《あさかひめ》の|神《かみ》はここに|狭野比古《さぬひこ》を|従《したが》へ、|晴《は》れたる|大野ケ原《おほのがはら》を、|駒《こま》を|並《なら》べて|勇《いさ》ましく|進《すす》ませ|給《たま》ひける。
(昭和八・一二・八 旧一〇・二一 於水明閣 谷前清子謹録)
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霊界物語 第七六巻 天祥地瑞 卯の巻
終り