霊界物語 第七二巻 山河草木 亥の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第七十二巻』天声社
1971(昭和46)年05月15日 第二刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年11月16日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|総説《そうせつ》
第一篇 |水波洋妖《すゐはやうえう》
第一章 |老《おい》の|高砂《たかさご》〔一八一〇〕
第二章 |時化《しけ》の|湖《うみ》〔一八一一〕
第三章 |厳《いづ》の|〓乃《ふなうた》〔一八一二〕
第四章 |銀杏姫《いてふひめ》〔一八一三〕
第五章 |蛸船《たこぶね》〔一八一四〕
第六章 |夜鷹姫《よたかひめ》〔一八一五〕
第七章 |鰹《かつを》の|網引《あみひき》〔一八一六〕
第二篇 |杢迂拙婦《もくうせつぷ》
第八章 |街宣《がいせん》〔一八一七〕
第九章 |欠恋坊《かくれんばう》〔一八一八〕
第一〇章 |清《すが》の|歌《うた》〔一八一九〕
第一一章 |問答所《もんだふどころ》〔一八二〇〕
第一二章 |懺悔《ざんげ》の|生活《せいくわつ》〔一八二一〕
第一三章 |捨台演《すてたいえん》〔一八二二〕
第一四章 |新宅入《しんたくいり》〔一八二三〕
第一五章 |災会《さいくわい》〔一八二四〕
第一六章 |東西奔走《とうざいほんそう》〔一八二五〕
第三篇 |転化退閉《てんくわたいへい》
第一七章 |六樫問答《むつかしもんだふ》〔一八二六〕
第一八章 |法城渡《はふじやうわたし》〔一八二七〕
第一九章 |旧場皈《きうばがへり》〔一八二八〕
第二〇章 |九官鳥《きうくわんてう》〔一八二九〕
第二一章 |大会合《だいくわいがふ》〔一八三〇〕
第二二章 |妖魅帰《よみがへり》〔一八三一〕
霊界物語 特別篇 |筑紫潟《つくしがた》
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|序文《じよぶん》
|本年《ほんねん》|二月《にぐわつ》の|節分祭《せつぶんさい》の|前日《ぜんじつ》|第七十一巻《だいしちじふいつくわん》|一冊《いつさつ》を|口述《こうじゆつ》せしより、|今日《こんにち》まで|霊界物語《れいかいものがたり》の|口述《こうじゆつ》を|中止《ちうし》してをりました。|何分《なにぶん》|天恩郷《てんおんきやう》の|経営《けいえい》や|裁判《さいばん》|事件《じけん》の|精神鑑定《せいしんかんてい》などにて|心身《しんしん》を|労《らう》し、その|上《うへ》|一月《いちぐわつ》|以来《いらい》|天恩郷《てんおんきやう》において|楽焼《らくやき》を|始《はじ》めたり、|花壇《くわだん》を|造《つく》つたり、|愛善会《あいぜんくわい》、|宗教聯合会《しうけうれんがふくわい》|等《とう》の|事業《じげふ》のため|予定《よてい》の|物語《ものがたり》を|著《あら》はす|事《こと》が|出来《でき》なかつたのです。|今回《こんくわい》|幸《さいは》ひに|舞鶴分所長《まひづるぶんしよちやう》、|新舞鶴支部長《しんまひづるしぶちやう》、|役員《やくゐん》|信者《しんじや》の|御尽力《ごじんりよく》により、|天橋《てんけう》に|清遊《せいいう》する|事《こと》となつたのを|幸《さいは》ひ、|閑暇《かんか》を|利用《りよう》して|六月《ろくぐわつ》|二十九日《にじふくにち》より|今日《けふ》まで|三日間《みつかかん》を|費《つひ》やし、|原稿用紙《げんかうようし》|一千二百六十余枚《いつせんにひやくろくじふよまい》を|加藤《かとう》|明子《はるこ》、|北村《きたむら》|隆光《たかてる》|二氏《にし》の|丹精《たんせい》にて|書上《かきあ》げることを|得《え》ました。
|惟神《かむながら》かみの|力《ちから》に|助《たす》けられ|神書《ふみ》|著《あら》はしぬ|天《あま》のはし|立《だて》
大正十五年七月一日 小天橋 於掬翠荘
|総説《そうせつ》
|本巻《ほんくわん》は|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》、|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》、|天然坊《てんねんばう》のキユーバー、|玄真坊《げんしんばう》、ヨリコ|姫《ひめ》、|花香姫《はなかひめ》、ダリヤ|姫《ひめ》、|須賀《すが》の|長者《ちやうじや》アリス、イルクをはじめ、|神谷村《かみたにむら》の|玉清別《たまきよわけ》、コオロ、コブライ、フクエ、|岸子《きしこ》、|久助《きうすけ》をはじめ、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|照国別《てるくにわけ》、|照公別《てるこうわけ》、|梅公別《うめこうわけ》の|大々的《だいだいてき》|活動舞台《くわつどうぶたい》を|描写《べうしや》し、|須賀《すが》の|宮《みや》に|関《くわん》する|経緯《いきさつ》|等《とう》|全紙面《ぜんしめん》に|活躍《くわつやく》してをります。ことに|高姫《たかひめ》、ヨリコ|姫《ひめ》の|問答《もんだふ》の|場面《ばめん》や、|梅公別《うめこうわけ》、ヨリコ|姫《ひめ》の|最後《さいご》における|高姫《たかひめ》との|掛合《かけあ》ひは|抱腹絶倒《はうふくぜつたう》せむばかりの|面白味《おもしろみ》があります。
大正十五年七月一日 天之橋立なかや旅館 於掬翠荘
第一篇 |水波洋妖《すゐはやうえう》
第一章 |老《おい》の|高砂《たかさご》〔一八一〇〕
|神《かみ》の|力《ちから》のこもりたる  |如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》に|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|綱《つな》を|奪《うば》はれて  |自転倒島《おのころじま》を|初《はじ》めとし
|世界《せかい》|隈《くま》なく|駈《か》けめぐり  |揚句《あげく》のはては|外国魂《からたま》の
よるべ|渚《なぎさ》の|捨小舟《すてをぶね》  |琵琶《びは》の|湖水《こすゐ》に|浮《うか》びたる
|弁天《べんてん》さまの|床下《ゆかした》の  |三角石《さんかくいし》を|暗《やみ》の|夜《よ》の
|目標《しるべ》となして|爪先《つまさき》の  |血《ち》のにじむまで|掻《か》きまはし
|断念《だんねん》したる|玉探《たまさが》し  |産《う》みおとしたる|一人子《ひとりご》の
|所在《ありか》をさがす|折《を》りもあれ  |淡路《あはぢ》の|洲本《すもと》の|東助《とうすけ》は
|昔《むかし》なじみの|恋人《こひびと》と  |知《し》るや|忽《たちま》ち|恋雲《こひぐも》に
|全身《ぜんしん》くまなく|包《つつ》まれて  またも|狂態《きやうたい》|演出《えんしゆつ》し
|綾《あや》の|聖地《せいち》を|追放《つゐはう》され  おためごかしに|再度《ふたたび》の
|山《やま》の|麓《ふもと》に|建《た》てられし  |生田《いくた》の|森《もり》の|神館《かむやかた》
|司《つかさ》となりて|暫《しばら》くは  いとまめやかに|大神《おほかみ》に
|仕《つか》へ|侍《はべ》りし|折《を》りもあれ  |夜寒《よさむ》の|冬《ふゆ》も|早《はや》あけて
|若葉《わかば》のめぐむ|春《はる》となり  |再《ふたた》び|起《おこ》る|婆《ばば》|勇《いさ》み
|恋《こひ》の|焔《ほのほ》を|消《け》しかねて  |大海原《おほうなばら》を|打《う》ち|渡《わた》り
|見《み》なれぬ|山野《やまの》を|数越《かずこ》えて  |五月《いつつき》|六月《むつき》|草枕《くさまくら》
|旅《たび》の|疲《つか》れも|漸《やうや》くに  |甦生《よみがへ》りたる|斎苑館《いそやかた》
ウブスナ|山《やま》にかけ|上《のぼ》り  |総務《そうむ》を|勤《つと》むる|東別《あづまわけ》
|司《つかさ》に|面会《めんくわい》せむものと  |富婁那《ふるな》の|弁《べん》の|舌《した》の|先《さき》
|泣《な》きつ|口説《くど》きつ|詰寄《つめよ》れど  ビクとも|動《うご》かぬ|千引岩《ちびきいは》
|鉄石心《てつせきしん》の|東助《とうすけ》を  |生捕《いけど》る|由《よし》もないじやくり
|恥《はぢ》を|忍《しの》びてテクテクと  |阿修羅《あしゆら》の|姿《すがた》|凄《すさま》じく
にらみつけたる|斎苑館《いそやかた》  |後足《あとあし》あげて|砂《すな》をけり
|肩肱《かたひぢ》|怒《いか》らせ|尻《しり》を|振《ふ》り  おのれ|見《み》てゐよ|東助《とうすけ》よ
|思《おも》ひこんだる|女丈夫《ぢよぢやうぶ》の  |矢竹《やたけ》の|心《こころ》はこの|通《とほ》り
|岩《いは》に|矢《や》の|立《た》つ|例《ためし》あり  |千引《ちびき》の|岩《いは》にも|松《まつ》|茂《しげ》る
|挺子《てこ》でも|棒《ぼう》でも|動《うご》かない  |恋《こひ》の|意地《いぢ》をば|立《た》てぬいて
|居並《ゐなら》ぶ|数多《あまた》の|役員《やくゐん》に  |泡《あわ》を|吹《ふ》かせにやおかないと
|風《かぜ》|吹《ふ》き|荒《すさ》ぶ|坂道《さかみち》を  |徳利《とつくり》コブラをぶらつかせ
|尻切《しりき》れ|草履《ざうり》を|足《あし》にかけ  |鼻息《はないき》|荒《あら》く|口《くち》ゆがめ
|眼《まなこ》を|怒《いか》らせ|空中《くうちう》を  |二《ふた》つの|肩《かた》にしやくりつつ
|地団駄《ぢだんだ》|踏《ふ》んで|上《のぼ》り|行《ゆ》く  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊幸《みたまさき》はひましまして  |思《おも》ひつめたる|恋《こひ》の|意地《いぢ》
|遂《と》げさせ|玉《たま》へと|祈《いの》りつつ  |祠《ほこら》の|森《もり》に|来《き》て|見《み》れば
|思《おも》ひがけなき|神《かみ》の|宮《みや》  |千木《ちぎ》|高《たか》|知《し》りて|聳《そそ》り|立《た》つ
|荘厳無比《そうごんむひ》の|神徳《しんとく》に  あきれて|高姫《たかひめ》|言葉《ことば》なく
しばし|佇《たたず》みゐたりしが  ヤンチヤ|婆《ばば》の|高姫《たかひめ》は
|金毛九尾《きんまうきうび》と|還元《くわんげん》し  づうづうしくも|受付《うけつけ》に
|大手《おほて》をふりつつ|進《すす》みより  |声《こゑ》|厳《おごそ》かに|掛合《かけあ》へば
|祠《ほこら》の|森《もり》に|仕《つか》へてゆ  まだ|日《ひ》も|経《た》たぬ|神司《かむづかさ》
|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|御使《みつかひ》と  |信《しん》じて|奥《おく》へ|通《とほ》しける
|高姫《たかひめ》ここに|尻《しり》を|据《す》ゑ  |斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|往来《ゆきき》する
|信徒《まめひと》たちを|引止《ひきと》めて  |虱殺《しらみごろ》しに|吾《わ》が|道《みち》へ
|堕落《だらく》とさせむと|企《たく》らみつ  |教主《けうしゆ》の|席《せき》にすましこみ
|奥殿《おくでん》|深《ふか》く|鎮《しづ》まりぬ  |少時《しばらく》あつて|受付《うけつけ》に
|訪《おとな》ふ|真人《まびと》のメモアルは  トの|字《じ》のついた|司《つかさ》ぞと
|聞《き》いて|高姫《たかひめ》|膝《ひざ》を|打《う》ち  ウブスナ|山《やま》の|聖場《せいぢやう》に
おいてトの|字《じ》のつく|人《ひと》は  |東助《とうすけ》さまに|違《ちが》ひない
|人目《ひとめ》の|関《せき》を|恥《は》ぢらいて  |吾《わ》が|身《み》を|素気《すげ》なく|扱《あつか》ひつ
|心《こころ》はさうぢやない(|内《ない》)|証《しよう》の  |妻《つま》に|会《あ》はむと|河鹿山《かじかやま》
けはしき|坂《さか》を|昇降《しようかう》し  |昔馴染《むかしなじみ》の|高姫《たかひめ》を
|慕《した》うてござつたに|違《ちが》ひない  アア|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い
|女《をんな》の|髪《かみ》の|毛《け》|一筋《ひとすぢ》で  |大象《だいざう》さへも|引《ひ》くといふ
|諺《ことわざ》さへもあるものを  |年《とし》はとつても|肉付《にくづ》きの
|人《ひと》に|勝《すぐ》れたこの|体《からだ》  |吾《わ》が|肉体《にくたい》の|曲線美《きよくせんび》
|全身《ぜんしん》つつむ|芳香《はうかう》を  |忘《わす》られ|難《がた》く|捨《す》て|難《がた》く
|慕《した》うて|来《き》たるやもめ|鳥《どり》  |東助《とうすけ》さまも|恋《こひ》の|道《みち》
|少《すこ》しは|話《はな》せる|人《ひと》だなア  こりや|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い
|人目《ひとめ》|少《すく》なき|此《こ》の|館《やかた》  |思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》|口説《くど》き|立《た》て
|昔《むかし》の|欠点《あら》をさらけ|出《だ》し  |顔《かほ》を|紅葉《もみぢ》に|染《そ》めてやらう
とは|言《い》ふものの|妾《わし》だとて  |年《とし》はとつても|恋衣《こひごろも》
|着《き》せられや|顔《かほ》が|赤《あか》くなる  |赤《あか》き|誠《まこと》の|心《こころ》もて
たがひに|親切《しんせつ》|尽《つく》し|合《あ》ひ  |老木《おいき》の|枝《えだ》も|花盛《はなざか》り
|小鳥《ことり》は|歌《うた》ひ|蝶《てふ》は|舞《ま》ふ  |喜楽蜻蛉《きらくとんぼ》の|悠々《いういう》と
|羽《はね》を|拡《ひろ》げて|翔《た》つごとく  |天下《てんか》に|羽翼《うよく》を|伸《の》ばしつつ
|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|鼻《はな》あかし  もしあはよくばウラナイの
|道《みち》を|再開《さいかい》せむものと  |雄猛《をたけ》びするぞ|凄《すさま》じき
|受付《うけつけ》イルの|案内《あんない》で  |入《い》り|来《く》る|男《をとこ》はあら|不思議《ふしぎ》
|東助《とうすけ》ならぬ|時置師《ときおかし》  いつも|吾《わ》が|身《み》の|邪魔《じやま》ひろぐ
|杢助《もくすけ》|総務《そうむ》の|姿《すがた》には  さすがの|高姫《たかひめ》ギヨツとして
|倒《たふ》れむばかりに|驚《おどろ》けど  |副守《ふくしゆ》の|加勢《かせい》に|励《はげ》まされ
|膝《ひざ》|立《た》て|直《なほ》し|襟《えり》|正《ただ》し  |太《でか》いお|尻《しり》をチンと|据《す》ゑ
|団栗眼《どんぐりまなこ》を|細《ほそ》くして  あらむ|限《かぎ》りの|媚《こび》|呈《てい》し
|前歯《まへば》の|抜《ぬ》けた|口許《くちもと》を  |無理《むり》にすぼめたスタイルは
|棚《たな》の|鼠《ねずみ》の|餅《もち》かじる  その|口許《くちもと》にさも|似《に》たり
|高姫《たかひめ》|心《こころ》に|思《おも》ふやう  |吾《わ》が|目《め》の|敵《かたき》|杢助《もくすけ》も
|木石《ぼくせき》ならぬ|肉《にく》の|宮《みや》  |少《すこ》しは|情《なさ》けを|知《し》るであらう
|一程《いちほど》|二金《にかね》|三器量《さんきりやう》  |恋《こひ》の|規則《きそく》と|聞《き》くからは
|天下《てんか》に|比類《たぐひ》なき|程《ほど》の  よき|高姫《たかひめ》がこの|笑凹《ゑくぼ》
|鬼《おに》でも|蛇《じや》でも|吸《す》ひ|込《こ》んで  |捕虜《とりこ》にせられぬ|筈《はず》はない
さうぢやさうぢやと|胸《むね》の|裡《うち》  |合点合点《がてんがてん》と|首肯《うなづ》いて
『これこれまうし|時置師《ときおかし》  |杢助司《もくすけつかさ》の|総務《そうむ》さま
ようマアお|出《で》まし|下《くだ》さつた  |三羽烏《さんばがらす》の|一人《いちにん》と
|名《な》を|轟《とどろ》かすお|前《まへ》こそ  |東別《あづまのわけ》に|比《くら》ぶれば
|幾層倍《いくそうばい》の|英傑《えいけつ》ぞ  |何《なに》しに|御座《ござ》つたそのわけを
つぶさに|知《し》らして|下《くだ》され』と  しなだれかかる|嫌《いや》らしさ
|杢助《もくすけ》|総務《そうむ》に|変装《へんさう》した  |大雲山《たいうんざん》の|大妖魅《だいえうみ》
|妖幻坊《えうげんばう》は|面《つら》を|上《あ》げ  |鼻《はな》|蠢《うご》めかし|鷹揚《おうやう》に
|赤《あか》き|口《くち》をば|開《ひら》きつつ  ダミ|声《ごゑ》しぼりケラケラと
|館《やかた》もゆるぐ|高笑《たかわら》ひ
『これこれ|高《たか》チヤン|生宮《いきみや》さま  |日出神《ひのでのかみ》の|肉《にく》の|宮《みや》
お|前《まへ》の|強《つよ》い|恋《こひ》の|意地《いぢ》  |側《そば》に|見《み》る|目《め》も|羨《うらや》ましと
|後《あと》を|慕《した》うて|来《き》たわいな  |東助《とうすけ》さまには|済《す》まないが
|人《ひと》の|前《まへ》とは|言《い》ひながら  |一旦《いつたん》|捨《す》てた|恋《こひ》の|花《はな》
|拾《ひろ》うて|見《み》るも|人助《ひとだす》け  |恋《こひ》の|奥《おく》の|手《て》と|勇《いさ》み|立《た》ち
|一《ひと》つ|相談《さうだん》せむものと  きつい|山坂《やまさか》|乗《の》り|越《こ》えて
|出《で》て|来《き》た|可愛《かはい》い|男《をとこ》ぞや』と  |祠《ほこら》の|森《もり》の|聖場《せいぢやう》で
|交渉《かうせう》|談判《だんぱん》|開始《かいし》して
『|二世《にせ》や|三世《さんせ》はまだ|愚《おろ》か  |五百生《ごひやくしやう》まで|契《ちぎり》をば
ここで|確《しつか》り|結《むす》び|昆布《こぶ》  |寝《ね》てはするめの|老夫婦《らうふうふ》
|二人《ふたり》の|誉《ほまれ》も|高砂《たかさご》や  お|前《まへ》の|持《も》つた|浦舟《うらぶね》に
|真帆《まほ》や|片帆《かたほ》をかかげつつ  |浪《なみ》の|淡路《あはぢ》の|島影《しまかげ》に
|漂《ただよ》ひ|舟《ふね》を|割《わ》りし|如《ごと》  |玉《たま》の|御舟《みふね》を|漕《こ》ぎ|出《だ》して
|心《こころ》も|安《やす》く|住《すみ》の|江《え》の  |月《つき》と|花《はな》との|夫婦仲《ふうふなか》
|面白《おもしろ》|可笑《をか》しく|暮《くら》さうか』  |言《い》へば|高姫《たかひめ》|喉《のど》|鳴《な》らし
よい|鴨鳥《かもどり》を|捉《つか》まへた  チンチンカモカモ|酒祝《さかいは》ひ
|杢助《もくすけ》さまの|銚子《てうし》から  さす|玉《たま》の|露《つゆ》ドツサリと
|玉《たま》の|盃《さかづき》に|満《み》たしつつ  |夜舟遊《よぶねあそ》びをせむものと
|契《ちぎ》りも|深《ふか》き|秋茄子《あきなすび》  |種《たね》なし|話《ばなし》に|夜《よ》を|明《あ》かす
かかるところへ|宣伝使《せんでんし》  |初稚姫《はつわかひめ》が|現《あら》はれて
|高姫《たかひめ》さまの|醜態《しうたい》を  |見《み》て|見《み》ぬふりをなしながら
|駒《こま》を|停《とど》めてやや|暫《しば》し  |祠《ほこら》の|森《もり》の|曲津見《まがつみ》を
|払《はら》はむものとスマートに  |旨《むね》を|含《ふく》ませ|床下《ゆかした》に
|忍《しの》ばせおきて|妖幻坊《えうげんばう》  |高姫司《たかひめつかさ》を|神《かみ》の|在《ま》す
|高天《たかま》の|原《はら》に|救《すく》はむと  |心《こころ》も|千々《ちぢ》に|砕《くだ》かせつ
とどまり|玉《たま》ふをりもあれ  |妖幻坊《えうげんばう》は|逸早《いちはや》く
|高姫《たかひめ》|引《ひ》き|連《つ》れ|雲霞《くもかすみ》  |何処《いづく》ともなく|逃《に》げ|失《う》せぬ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|恵《めぐ》みに|照《て》らされて
|醜《しこ》の|高姫《たかひめ》|行衛《ゆくゑ》をば  |完全《うまら》に|委曲《つばら》に|明《あか》しゆく
|神《かみ》の|出口《でぐち》の|瑞月《ずゐげつ》が  |日本三景《にほんさんけい》の|一《いつ》と|聞《き》く
|風光明媚《ふうくわうめいび》|老松《おいまつ》の  |白砂《はくしや》の|浜《はま》にそそり|建《た》つ
|天《あま》の|橋立《はしだて》|背《せな》に|負《お》ひ  なかや|旅宿《りよしゆく》の|別館《べつくわん》に
|口述台《こうじゆつだい》の|舟《ふね》に|乗《の》り  |心《こころ》も|清《きよ》くいさぎよく
|妖幻坊《えうげんばう》や|高姫《たかひめ》の  |恋《こひ》と|慾《よく》とに|迷《まよ》ひたる
その|経緯《いきさつ》を|詳細《まつぶさ》に  |伝《つた》へ|行《ゆ》くこそ|床《ゆか》しけれ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ。
(大正一五・六・二九 旧五・二〇 於天之橋立 掬翠荘 北村隆光録)
第二章 |時化《しけ》の|湖《うみ》〔一八一一〕
|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》や  |金毛九尾《きんまうきうび》の|高姫《たかひめ》は
|初稚姫《はつわかひめ》の|神徳《しんとく》と  |猛犬《まうけん》スマートの|威《ゐ》に|怖《おそ》れ
|祠《ほこら》の|森《もり》を|逸早《いちはや》く  |雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|出《い》だし
|薄《すすき》の|茂《しげ》る|大野原《おほのはら》  |彼方《あなた》こなたとかけ|廻《めぐ》り
うろつき|魔誤《まご》つきしがみつき  |意茶《いちや》つき|喧嘩《けんくわ》も|病《や》みつきで
|施《ほどこ》す|術《すべ》も|月《つき》の|空《そら》  |遥《はる》かにかがやく|小北山《こぎたやま》
その|霊場《れいぢやう》に|蠑〓別《いもりわけ》  |魔我彦司《まがひこつかさ》の|居《ゐ》ると|聞《き》き
|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|総務職《そうむしよく》  |笠《かさ》にきながら|妖幻坊《えうげんばう》
ウラナイ|教《けう》の|大教祖《だいけうそ》  |高姫司《たかひめつかさ》と|名乗《なの》りつつ
|二人《ふたり》は|手《て》に|手《て》をとりながら  |一本橋《いつぽんばし》を|撓《たわ》づかせ
|河鹿《かじか》の|流《なが》れを|打《う》ち|渡《わた》り  |魔風《まかぜ》|恋風《こひかぜ》|吹《ふ》き|荒《すさ》ぶ
|蠑〓館《いもりやかた》に|来《き》て|見《み》れば  |目界《めかい》の|見《み》えぬ|文助《ぶんすけ》が
|白《しろ》き|衣《ころも》を|着《つ》けながら  |受付席《うけつけせき》に|控《ひか》へゐる
|高姫《たかひめ》|見《み》るより|驚《おどろ》いて
『これこれお|前《まへ》は|文助《ぶんすけ》か  この|聖場《せいぢやう》は|高姫《たかひめ》の
|教《をしへ》を|伝《つた》ふる|蠑〓別《いもりわけ》  |神《かみ》の|司《つかさ》の|館《やかた》ぞや
|蠑〓《いもり》の|別《わけ》の|教《のり》の|祖《おや》  |高姫司《たかひめつかさ》をさしておいて
|教《をしへ》を|布《し》くとは|虫《むし》がよい  ちつと|心得《こころえ》なさりませ
この|御方《おんかた》は|産土《うぶすな》の  |山《やま》の|台《うてな》に|千木《ちぎ》|高《たか》く
|大宮柱《おほみやばしら》|太知《ふとし》りて  |鎮《しづ》まりゐます|素盞嗚《すさのを》の
|神《かみ》の|教《をしへ》に|仕《つか》へます  |三羽烏《さんばがらす》の|御一人《おんひとり》
|杢助《もくすけ》|総務《そうむ》でござるぞや  |早《はや》く|挨拶《あいさつ》した|上《うへ》で
いと|丁寧《ていねい》におもてなし  |神《かみ》の|如《ごと》くに|敬《うやま》へ』と
|大法螺《おほぼら》|吹《ふ》き|立《た》て|尻《しり》を|振《ふ》り  |松姫館《まつひめやかた》に|駈《か》け|込《こ》んで
お|千代《ちよ》やお|菊《きく》に|揶揄《からか》はれ  |腹《はら》は|立《た》てども|虫《むし》こらへ
|木端役員《こつぱやくゐん》|初《はつ》|徳《とく》を  |旨《うま》く|抱《だ》き|込《こ》み|小北山《こぎたやま》
|神《かみ》の|館《やかた》を|奪《うば》はむと  あらゆる|手段《しゆだん》を|尽《つく》すをり
|頂上《ちやうじやう》の|宮《みや》の|鳴動《めいどう》に  |荒胆《あらぎも》つぶし|逃《に》げ|出《い》だし
|二百《にひやく》の|階段《かいだん》|驀地《まつしぐら》  |下《くだ》るをりしも|文助《ぶんすけ》に
|思《おも》はず|知《し》らず|衝突《しようとつ》し  |曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|遺失《ゐしつ》して
|高姫《たかひめ》|初《はつ》|徳《とく》もろともに  |雲《くも》を|霞《かす》みと|逃《に》げ|出《い》だし
|怪《あや》しの|森《もり》の|近《ちか》くまで  |逃《に》げ|来《く》るをりしも|妖幻坊《えうげんばう》
|吾《わ》が|懐《ふところ》に|隠《かく》したる  |曲輪《まがわ》の|玉《たま》の|影《かげ》なきに
|顔《かほ》|青《あを》ざめて|思案顔《しあんがほ》  |芝生《しばふ》の|上《うへ》にどつと|坐《ざ》し
|萎《しを》れかかりしその|風情《ふぜい》  |見《み》るより|高姫《たかひめ》|怪《あや》しみて
|様子《やうす》を|問《と》へば|妖幻坊《えうげんばう》  |如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》に|勝《まさ》りたる
|曲輪《まがわ》の|玉《たま》をはしなくも  |小北《こぎた》の|山《やま》に|落《お》としたり
|初《はつ》|徳《とく》|両人《りやうにん》|吾《わ》が|命《めい》を  |奉《ほう》じて|小北《こぎた》の|山《やま》に|行《ゆ》き
|曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|奪《と》り|返《かへ》し  |帰《かへ》り|来《き》たれと|命《めい》ずれば
|尻《しり》を|痛《いた》めた|両人《りやうにん》は  チガチガ|坂《さか》をよぢ|登《のぼ》り
|文助司《ぶんすけつかさ》を|気絶《きぜつ》させ  やうやく|曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|奪《と》り
|再《ふたた》び|怪《あや》しの|森影《もりかげ》に  |走《はし》り|帰《かへ》れば|妖幻坊《えうげんばう》
|高姫《たかひめ》|二人《ふたり》は|喜《よろこ》びて  やにわに|玉《たま》を|引奪《ひつたく》り
その|懐《ふところ》に|捻《ね》ぢ|込《こ》みぬ  をりから|下《さが》る|闇《やみ》の|幕《まく》
これ|幸《さいは》ひと|両人《りやうにん》は  |闇《やみ》に|潜《ひそ》める|初《はつ》|徳《とく》の
|頭《あたま》の|辺《あたり》を|目《め》がけつつ  |闇《やみ》に|打《う》ち|出《だ》す|石礫《いしつぶて》
|夜目《よるめ》の|見《み》える|妖幻坊《えうげんばう》  |金毛九尾《きんまうきうび》の|二人連《ふたりづ》れ
|雲《くも》を|霞《かす》みと|逃《に》げ|出《い》だし  |浮木《うきき》の|森《もり》の|狸穴《まみあな》に
|暫《しばら》く|身《み》をば|潜《ひそ》めつつ  |曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|応用《おうよう》し
|一夜《いちや》に|造《つく》る|城廓《じやうくわく》は  |天《てん》を|摩《ま》しつつそそり|立《た》つ
|金毛九尾《きんまうきうび》の|高姫《たかひめ》は  |実《まこと》の|城《しろ》と|思《おも》ひ|詰《つ》め
|杢助司《もくすけつかさ》の|妙術《めうじゆつ》を  |口《くち》を|極《きは》めて|称讃《しようさん》し
|高宮彦《たかみやひこ》は|妖幻坊《えうげんばう》  おのれは|高宮姫《たかみやひめ》となり
|高子《たかこ》|宮子《みやこ》の|侍女《こしもと》を  |狸《たぬき》と|知《し》らず|侍《はべ》らせて
|恋《こひ》に|狂《くる》へるをりもあれ  |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|初稚姫《はつわかひめ》に|踏《ふ》み|込《こ》まれ  |妖術《えうじゆつ》ここに|暴露《ばくろ》して
|妖幻坊《えうげんばう》は|座《ざ》に|堪《た》へず  |高姫司《たかひめつかさ》を|引《ひ》つ|抱《かか》へ
もはや|運命《うんめい》|月《つき》の|国《くに》  デカタン|国《ごく》の|高原《かうげん》の
|空《そら》|翔《か》けり|行《ゆ》く|折《を》りもあれ  にはかに|吹《ふ》き|来《く》る|烈風《れつぷう》に
|耐《たま》りかねてか|高姫《たかひめ》を  かかへし|腕《かひな》くつろげば
|空中滑走《くうちうくわつそう》の|曲芸《きよくげい》を  |演《えん》じて|地上《ちじやう》に|墜落《つゐらく》し
|高姫《たかひめ》|息《いき》は|絶《た》えにけり  さは|然《さ》りながら|高姫《たかひめ》は
|吾《わ》が|肉体《にくたい》の|失《う》せしをば  |夢《ゆめ》にも|知《し》らず|幽界《いうかい》の
|八衢街道《やちまたかいだう》をとぼとぼと  |彼方《あなた》|此方《こなた》に|彷徨《さまよ》ひつ
|杢助司《もくすけつかさ》の|所在《ありか》をば  |探《さが》し|求《もと》めて|三年振《みとせぶ》り
|月日《つきひ》も|照《て》らぬ|岩山《いはやま》の  |麓《ふもと》に|荒屋《あばらや》|構《かま》へつつ
|往来《ゆきき》の|精霊《せいれい》|引《ひ》つ|捕《とら》へ  |底《そこ》つ|岩根《いはね》の|大《おほ》ミロク
|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》の|生宮《いきみや》を  |悟《さと》れよ|知《し》れよ|救世主《きうせいしゆ》
|此処《ここ》に|居《ゐ》ますと|法螺《ほら》を|吹《ふ》き  |騒《さわ》ぎ|廻《まは》るぞ|可笑《をか》しけれ
|三年《みとせ》を|過《す》ぎし|暁《あかつき》に  トルマン|国《ごく》の|王妃《わうひ》なる
|千草《ちぐさ》の|姫《ひめ》の|身死《みまか》りし  その|肉体《にくたい》を|宿《やど》となし
|再《ふたた》び|現世《このよ》に|蘇生《よみがへ》り  |千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》となりすまし
|国王《こくわう》までも|尻《しり》に|敷《し》き  あらむ|限《かぎ》りの|狂態《きやうたい》を
|日夜《にちや》|演《えん》ずるをりもあれ  |言霊別《ことたまわけ》の|化身《けしん》なる
|梅公司《うめこうつかさ》に|謀《はか》られて  |包《つつ》むに|由《よし》なく|忽《たちま》ちに
|金毛九尾《きんまうきうび》と|還元《くわんげん》し  トルマン|城《じやう》を|後《あと》にして
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|出《い》だし  |妖僧《えうそう》キユーバーの|行衛《ゆくゑ》をば
|探《さぐ》るをりしも|入江港《いりえかう》  |浜屋旅館《はまやりよくわん》の|一室《いつしつ》で
|思《おも》はず|知《し》らず|杢助《もくすけ》に  |化《ば》けおほせたる|妖幻坊《えうげんばう》に
|出会《でくは》しここに|両人《りやうにん》は  |手《て》に|手《て》をとつて|夜《よる》の|道《みち》
|浜辺《はまべ》に|出《い》でて|乗合《のりあひ》の  |高砂丸《たかさごまる》に|身《み》を|任《まか》せ
スガの|港《みなと》をさして|行《ゆ》く  |波瀾重畳《はらんちようでふ》|限《かぎ》りなき
いと|面白《おもしろ》き|物語《ものがたり》  |完全《うまら》に|委曲《つばら》に|述《の》べてゆく
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |恩頼《みたまのふゆ》をたまへかし。
|曲津《まがつ》の|運命《うんめい》|月《つき》の|国《くに》  |大雲山《たいうんざん》に|蟠《わだか》まる
|八岐大蛇《やまたをろち》の|片腕《かたうで》と  |世《よ》に|聞《きこ》えたる|妖幻坊《えうげんばう》
|三五教《あななひけう》の|皇神《すめかみ》の  |清《きよ》き|明《あか》るき|大道《おほみち》の
|光《ひかり》を|怖《おそ》れ|戦《をのの》きて  |数多《あまた》の|魔神《まがみ》を|呼《よ》び|集《つど》へ
|神《かみ》の|大路《おほぢ》を|破《やぶ》らむと  |心《こころ》を|砕《くだ》き|身《み》を|焦《こ》がし
|三五教《あななひけう》に|捨《す》てられて  |心《こころ》ひがめる|高姫《たかひめ》の
|腸《はらわた》|探《さぐ》り|杢助《もくすけ》と  |身《み》をやつしたる|恐《おそ》ろしさ
|身《み》を|粉《こ》にしても|砕《くだ》けても  |潰《つぶ》さにやおかぬ|三五《あななひ》の
|道《みち》こそ|強《つよ》き|梓弓《あづさゆみ》  ハルの|海原《うなばら》|船出《ふなで》して
|再《ふたた》び|会《あ》ひし|高姫《たかひめ》と  |教《のり》の【とも】|船《ぶね》|高砂《たかさご》の
|名《な》に|負《お》ふ|船《ふね》に|身《み》を|任《まか》せ  |油《あぶら》を|流《なが》せし|如《ごと》くなる
|浪《なみ》も|静《しづ》かな|海原《うなばら》を  |鼻歌《はなうた》うたひ|勇《いさ》みつつ
スガの|港《みなと》をさして|行《ゆ》く。
|妖幻坊《えうげんばう》、|高姫《たかひめ》の|乗《の》り|込《こ》んだ|高砂丸《たかさごまる》は|余《よ》ほどの|老朽船《らうきうせん》であつた。この|船《ふね》には|建造《けんざう》|以来《いらい》、|高砂笑《たかさごわらひ》といつて|一種《いつしゆ》の|妙《めう》な|習慣《しふくわん》が|残《のこ》つてゐた。|高砂丸《たかさごまる》に|乗《の》り|込《こ》んだ|者《もの》は、|大《だい》は|政治《せいぢ》の|善悪《ぜんあく》より|下《しも》は|小役人《こやくにん》の|行動《かうどう》をはじめ、|主人《しゆじん》や|下僕《しもべ》、|朋友《ほういう》|知己《ちき》、その|外《ほか》あらゆる|人物《じんぶつ》を|捉《とら》へて|忌憚《きたん》なく|批評《ひひやう》し、|悪罵《あくば》し、|嘲笑《てうせう》することが|不文律《ふぶんりつ》として|許《ゆる》されてゐた。|遅々《ちち》として|進《すす》まぬ|船《ふね》の|脚《あし》、|退屈《たいくつ》まぎれに|種々《いろいろ》の|面白《おもしろ》き|話《はなし》の|花《はな》が|咲《さ》いて|来《き》た。
|船客《せんきやく》の|一人《ひとり》、
|甲《かふ》『オイ、コブライ、|玄真坊《げんしんばう》といふ|売僧坊主《まいすばうず》は|本当《ほんたう》に|仕方《しかた》のない|餓鬼坊主《がきばうず》ぢやないか。|天帝《てんてい》の|化身《けしん》だの、|天来《てんらい》の|救世主《きうせいしゆ》だのと|大法螺《おほぼら》を|吹《ふ》きやがつて、オーラ|山《さん》に|立《た》て|籠《こも》り、|三五教《あななひけう》の|梅公別《うめこうわけ》|様《さま》に|内兜《うちかぶと》を|見透《みすか》され、|岩窟退治《いはやたいぢ》をせられてお|払《はら》ひ|箱《ばこ》となり、|三百人《さんびやくにん》の|小泥棒《こどろぼう》を|従《したが》へて|再《ふたた》びオーラ|山《さん》の|二《に》の|舞《まひ》をやらうと|企《たく》らみ、スガの|港《みなと》のダリヤ|姫《ひめ》に|懸想《けさう》して|旨《うま》く|肱鉄砲《ひぢてつぱう》を|乱射《らんしや》され、|終《しま》ひの|果《は》てにやタラハン|城《じやう》の|左守《さもり》の|司《かみ》に|腹《はら》まで|切《き》らせ、【しこたま】|黄金《わうごん》を|強奪《ふんだく》り|俺《おれ》たちに|揚壺《あげつぼ》を|喰《く》はし、|入江港《いりえかう》の|浜屋旅館《はまやりよくわん》に|泊《とま》り|込《こ》み、|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》とかいふ|妖女《えうじよ》に|涎《よだれ》を|垂《た》らかし、|眉毛《まゆげ》をよまれ|睾丸《きんたま》を|締《し》められ、|所持金《ありがね》をすつかり|奪《と》られて、|殺《ころ》されよつたといふことだが、|本当《ほんたう》によい|気味《きみ》ぢやないか。|俺《おれ》たちが|越後獅子《ゑちごじし》に|化《ば》けて、|彼奴《きやつ》の|面《つら》を|曝《さら》してやつた|時《とき》の|狼狽《うろたへ》やうつたらなかつたぢやないか、|本当《ほんたう》に|思《おも》うても|溜飲《りういん》が|下《さが》るやうぢやのう、エヘヘヘヘ』
コブライ『|玄真坊《げんしんばう》なんか|悪《わる》いといつたつて|知《し》れたものだよ、|彼奴《あいつ》は|女《をんな》さへ|当《あ》てがつておけば|如何《どう》でもなる|代物《しろもの》だ。ちつと|山気《やまけ》はあるが、|根《ね》が|愚物《ぐぶつ》だから、あんな|奴《やつ》は|驚《おどろ》くに|足《た》らないが、このごろ|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|話《はなし》に|聞《き》けば、|大雲山《たいうんざん》の|妖幻坊《えうげんばう》とかいふ|獅子《しし》と|虎《とら》との|混血児《こんけつじ》なる|大妖魅《だいえうみ》が|天下《てんか》を|横行《わうかう》し|万民《ばんみん》を|苦《くる》しめ、|三五教《あななひけう》の|聖地《せいち》までも|横領《わうりやう》せむとして、|第一霊国《だいいちれいごく》の|天人《てんにん》の|御化身《ごけしん》|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》とやらいふエンゼル|様《さま》に|太《いた》く|誡《いまし》められ、|高姫《たかひめ》とかいふ|淫乱婆《いんらんばば》と|手《て》に|手《て》を|把《と》つてハルの|湖《みづうみ》を|渡《わた》るといふぢやないか。|三五教《あななひけう》の|照国別《てるくにわけ》とかいふ|生神様《いきがみさま》のお|話《はなし》だというて、|今朝《けさ》も|埠頭《はとば》に|沢山《たくさん》の|人《ひと》が|居《ゐ》てこそこそ|話《はな》してゐたよ。|俺《おれ》たちは|玄真坊《げんしんばう》さへもあの|通《とほ》りこつぴどくやつつけて|肝玉《きもだま》を|転倒《ひつくりか》へしてやつたのだから、|万一《まんいち》|妖幻坊《えうげんばう》に|出会《でくは》したら|最後《さいご》|素首《そつくび》を|捻切《ねぢき》つて|引《ひ》きちぎつて、|子供《こども》が|人形《にんぎやう》を|潰《つぶ》したやうな|目《め》に|会《あ》はしてやり、|天下万民《てんかばんみん》の|憂《うれ》ひを|除《のぞ》き|救世主《きうせいしゆ》にでもなつてやらうと|思《おも》ひ、もしやこの|高砂丸《たかさごまる》に|怪《あや》しい|奴《やつ》が|乗《の》つてゐやしないかと|目《め》をぎよろつかせてゐるのだが、ねつから|悪魔《あくま》らしい|奴《やつ》も|見《み》えず、いささか|見当違《けんたうちが》ひで|面喰《めんくら》つてゐるのだ。もしひよつと|船底《せんてい》にでも|潜伏《せんぷく》してゐやうものなら、|俺《おれ》が|口笛《くちぶえ》を|吹《ふ》くから、お|前《まへ》も|加勢《かせい》を|頼《たの》むよ。|名誉《めいよ》は|山別《やまわ》けだからのう、オホン』
コオロ『ヘンえらさうに|法螺《ほら》を|吹《ふ》くなよ、|内弁慶《うちべんけい》の|外《そと》すぼり|奴《め》が、|貴様《きさま》の|面《つら》で|妖魅退治《えうみたいぢ》も|糞《くそ》もあつたものか、|天《てん》に|口《くち》あり|壁《かべ》にも|耳《みみ》だ。|妖幻坊《えうげんばう》といふ|奴《やつ》は|魔神《ましん》の|大将《たいしやう》だから、|俺《おれ》たちの|囁《ささや》き|話《ばなし》を|千里《せんり》|外《そと》からでも|聞《き》いてゐるといふ|事《こと》だ。|口《くち》は|禍《わざは》ひの|門《もん》といふから、まづ|沈黙《ちんもく》したら|宜《よ》からうぞ』
コブ『|馬鹿《ばか》をいふな、|妖幻坊《えうげんばう》が|怖《こは》くて|此《こ》の|世《よ》の|中《なか》に|居《を》れるかい。|何《なに》ほど|強《つよ》いといつても|女《をんな》の|顔《かほ》を|見《み》れや|菎蒻《こんにやく》のやうになる|代物《しろもの》だから、|知《し》れたものだよ。|見《み》ると|聞《き》くとは|大違《おほちが》ひといふ|諺《ことわざ》もあるから、|実物《じつぶつ》に|遇《あ》うたら|案外《あんぐわい》【しやつち】もないものかも|知《し》れないよ、アハハハハ』
|妖幻坊《えうげんばう》、|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》は|船《ふね》の|底《そこ》に|青《あを》くなつて|縮《ちぢ》こまり、|二人《ふたり》の|話《はなし》を|聞《き》いて|腹《はら》は|立《た》つてたまらねど、|何《なん》というても|湖《うみ》の|上《うへ》、|水《みづ》には|弱《よわ》い|両人《りやうにん》の|事《こと》とて|悔《くや》し|涙《なみだ》を|呑《の》み|乍《なが》ら、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》して|控《ひか》へてゐた。
|頃《ころ》しも|晴《は》れ|渡《わた》りたる|東北《とうほく》の|空《そら》に|一塊《いつくわい》の|黒雲《こくうん》|現《あら》はれると|見《み》る|間《ま》に、|忽《たちま》ち|東西南北《とうざいなんぼく》に|拡大《くわくだい》し、|満天《まんてん》|墨《すみ》を|流《なが》したるごとく、|昼《ひる》なほ|暗《くら》く、|暴風《ばうふう》|吹《ふ》き|来《き》たり、|雨《あめ》|沛然《はいぜん》として|降《ふ》り|注《そそ》ぎ、|波浪《はらう》は|山岳《さんがく》のごとく|猛《たけ》り|狂《くる》ひ、|半《なか》ば|荒廃《くわうはい》に|帰《き》したる|高砂丸《たかさごまる》は、めきめきと|怪《あや》しき|音《おと》を|立《た》て、|忽《たちま》ち|転覆《てんぷく》の|厄《やく》に|遇《あ》ひ、|乗客《じやうきやく》|一同《いちどう》は|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|助《たす》けを|呼《よ》んだ。
|折《を》りから|激浪《げきらう》|怒濤《どとう》を|犯《をか》して|八挺櫓《はつちやうろ》を|漕《こ》ぎながら|勢《いきほ》ひよく|進《すす》み|来《き》たる|新造船《しんざうせん》があつた。アア|船客《せんきやく》|一同《いちどう》の|運命《うんめい》は|如何《どう》なるであらうか。
(大正一五・六・二九 旧五・二〇 於天之橋立なかや旅館 加藤明子録)
第三章 |厳《いづ》の|〓乃《ふなうた》〔一八一二〕
|豊栄《とよさか》|昇《のぼ》る|旭影《あさひかげ》  |厳《いづ》の|光《ひかり》も|照国別《てるくにわけ》の
|司《つかさ》の|一行《いつかう》|朝《あさ》まだき  |眼《まなこ》を|醒《さ》まし|凪《な》ぎ|渡《わた》る
|清《きよ》けきハルの|湖《うみ》の|岸《きし》  |入江《いりえ》の|港《みなと》を|舟出《ふなで》して
|珍《うづ》の|教《をしへ》も|照公《てるこう》や  |一度《いちど》に|開《ひら》く|梅公別《うめこうわけ》
|玄真坊《げんしんばう》ともろともに  |名《な》さへ|芽出《めで》たき|常磐丸《ときはまる》
|松《まつ》の|教《をしへ》の|一行《いつかう》は  |艪櫂《ろかい》を|操《あやつ》り|悠々《いういう》と
ハルの|港《みなと》を|辷《すべ》り|行《ゆ》く  |魚鱗《ぎよりん》の|波《なみ》をたたへたる
ハルの|海原《うなばら》|影《かげ》|清《きよ》く  |彼方《あなた》こなたにアンボイナ
|信天翁《しんてんをう》や|鴎鳥《かもめどり》  |飛《と》び|交《か》ふ|様《さま》の|美《うる》はしさ
|照国別《てるくにわけ》は|立《た》ち|上《あが》り  |天津日影《あまつひかげ》を|伏《ふ》し|拝《をが》み
|声《こゑ》ほがらかに|太祝詞《ふとのりと》  |唱《とな》ふる|声《こゑ》は|海若《かいじやく》を
|驚《おどろ》かしつつ|船端《ふなばた》に  |波《なみ》の|皷《つづみ》を|打《う》ちそへて
|神国来《しんこくらい》を|叫《さけ》びつつ  |進《すす》み|行《ゆ》くこそ|勇《いさ》ましき。
|照国別《てるくにわけ》『|神代《かみよ》の|昔《むかし》|天教《てんけう》の  |山《やま》に|現《あ》れます|元津神《もとつかみ》
|木花姫《このはなひめ》の|神勅《みこと》もて  |厳《いづ》の|御霊《みたま》や|瑞御霊《みづみたま》
|教《をしへ》を|四方《よも》に|開《ひら》かむと  |数多《あまた》のエンゼル|任《ま》け|玉《たま》ひ
|白雲《しらくも》|棚引《たなび》く|其《そ》の|極《きは》み  |青雲《あをくも》|堕居向伏《おりゐむかふ》せる
|極《きは》みも|知《し》らず|皇神《すめかみ》の  |尊《たふと》き|教《のり》を|伝《つた》へ|行《ゆ》く
その|御諭《みさとし》に|従《したが》ひて  |斎苑《いそ》の|館《やかた》に|現《あ》れませる
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|神柱《かむばしら》  |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は
|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ひながら  |雨《あめ》に|体《からだ》はそぼち|濡《ぬ》れ
|御髪《みくし》は|風《かぜ》に|梳《くしけづ》り  |手足《てあし》は|霜《しも》にやけただれ
|食物《おしもの》|着物《きもの》|乏《とぼ》しくて  |身《み》をきる|寒《さむ》き|夕《ゆふ》の|夜《よ》も
やけるがごとき|夏《なつ》の|日《ひ》も  |撓《たゆ》まず|屈《くつ》せず|道《みち》のため
|世人《よびと》の|悩《なや》みを|救《すく》はむと  いそしみ|玉《たま》ふぞ|尊《たふと》けれ
ウブスナ|山《やま》の|聖場《せいぢやう》に  |斎苑《いそ》の|館《やかた》を|建《た》て|玉《たま》ひ
|曲《まが》の|霊魂《みたま》に|犯《をか》されし  |人《ひと》の|心《こころ》を|清《きよ》めつつ
|真人《まびと》と|生《うま》れ|代《かは》らしめ  |罪科《つみとが》|深《ふか》き|吾々《われわれ》に
|名《な》さへ|目出《めで》たき|宣伝使《せんでんし》  |称号《しやうがう》さへも|賜《たま》はりて
|浮瀬《うきせ》に|落《お》ちて|苦《くる》しめる  |世《よ》の|諸人《もろびと》を|救《すく》ふべく
ハルナの|都《みやこ》に|蟠《わだか》まる  |曲津《まがつ》の|神《かみ》を|言向《ことむ》けて
|神《かみ》の|御国《みくに》を|永久《とこしへ》に  |建《た》てむと|図《はか》り|玉《たま》ひつつ
|四方《よも》に|遣《つか》はす|神司《かむつかさ》  |青雲《あをくも》|高《たか》し|久方《ひさかた》の
|高天原《たかあまはら》より|降《くだ》ります  |天人《てんにん》|天女《てんによ》の|精霊《せいれい》を
|吾等《われら》の|身魂《みたま》に|下《くだ》しまし  |守《まも》らせ|玉《たま》ふぞ|有難《ありがた》き
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|任《よ》さしのメツセージ
|仕遂《しと》げおほせし|暁《あかつき》は  |再《ふたた》び|斎苑《いそ》の|神館《かむやかた》
ウブスナ|山《やま》の|聖場《せいぢやう》に  |復命《ふくめい》なして|大神《おほかみ》の
いと|美《うるは》しき|尊顔《かんばせ》を  |拝《はい》し|奉《まつ》りて|玉《たま》の|声《こゑ》
かからせ|玉《たま》ふ|暁《あかつき》を  |待《ま》つも|嬉《うれ》しき|神《かみ》の|道《みち》
|踏《ふ》みて|行《ゆ》く|身《み》ぞ|楽《たの》しけれ  わが|行《ゆ》く|道《みち》は|皇神《すめかみ》の
|御守《みまも》り|厚《あつ》く|坐《ま》しませば  |如何《いか》なる|枉《まが》の|襲《おそ》うとも
|如何《いか》で|恐《おそ》れむ|敷島《しきしま》の  |神国魂《みくにだましひ》の|丈夫《ますらを》は
たとへ|天地《てんち》は|覆《かへ》るとも  |月《つき》|落《お》ち|星《ほし》は|沈《しづ》むとも
|如何《いか》で|撓《たゆ》まむ|真心《まごころ》の  |心《こころ》ゆるがぬ|梓弓《あづさゆみ》
ハルの|海原《うなばら》|渡《わた》り|行《ゆ》く  |吾《わ》が|一行《いつかう》に|幸《さち》あれや
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|恵《めぐ》みぞ|畏《かしこ》けれ
|神《かみ》の|恵《めぐ》みぞ|畏《かしこ》けれ』
|照公《てるこう》『|照国別《てるくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》の  |御名《みな》の|一字《いちじ》を|賜《たま》はりて
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》も|照公別《てるこうわけ》  |名《な》を|負《お》ふ|吾《われ》ぞ|尊《たふと》けれ
ウブスナ|山《やま》を|立《た》ちしより  |吾《あ》が|師《し》の|君《きみ》ともろともに
あらゆる|悩《なや》みを|凌《しの》ぎつつ  |彼方《あなた》こなたの|曲神《まがかみ》を
|言向《ことむ》け|和《やは》し|諸人《もろびと》の  |艱難《なやみ》を|救《すく》ひ|恙《つつが》なく
|此処《ここ》まで|来《き》たりし|宣伝《せんでん》の  |旅《たび》の|空《そら》こそ|楽《たの》しけれ
ここは|名《な》に|負《お》ふハルの|湖《うみ》  |波《なみ》こまやかに|風《かぜ》|清《きよ》く
|真帆《まほ》を|孕《はら》ませ|進《すす》み|行《ゆ》く  |常磐《ときは》の|丸《まる》は|神《かみ》の|船《ふね》
あまねく|世人《よびと》を|天国《てんごく》に  |導《みちび》き|渡《わた》す|神《かみ》の|船《ふね》
あらゆる|罪《つみ》や|穢《けが》れをば  |乗《の》せて|千里《せんり》の|海原《うなばら》に
|彷徨《さすら》ひ|失《うしな》ふ|神《かみ》の|船《ふね》  アア|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや
|波《なみ》よ|立《た》て|立《た》て|風《かぜ》も|吹《ふ》け  |一瀉千里《いつしやせんり》の|勢《いきほ》ひで
わが|乗《の》る|舟《ふね》は|逸早《いちはや》く  スガの|港《みなと》へ|走《はし》れかし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|教《をしへ》の|旅立《たびだ》ちは
|世《よ》の|人々《ひとびと》の|夢《ゆめ》にだに  |知《し》らぬ|楽《たの》しき|節《ふし》ぞある
|伏《ふ》しては|地《つち》に|幸《さち》|祈《いの》り  |天《てん》を|仰《あふ》いで|国々《くにぐに》の
|民《たみ》|安《やす》かれと|祈《いの》りつつ  |草《くさ》の|褥《しとね》に|石枕《いしまくら》
|木々《きぎ》の|梢《こずゑ》を|屋根《やね》として  |月《つき》|照《て》る|空《そら》を|眺《なが》めつつ
|幾夜《いくよ》の|野辺《のべ》の|仮枕《かりまくら》  |実《げ》にも|楽《たの》しき|旅出《たびで》かな
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はへ|坐《ま》しませよ』
|梅公《うめこう》『|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》に|従《したが》ひて  |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の
|任《よ》さしのまにまに|斎苑館《いそやかた》  |後《あと》に|眺《なが》めて|出《い》でて|行《ゆ》く
|吾《わ》が|一行《いつかう》は|恙《つつが》なく  |河鹿《かじか》の|難所《なんしよ》を|乗《の》り|越《こ》えて
|祠《ほこら》の|森《もり》や|小北山《こぎたやま》  |浮木《うきき》の|森《もり》には|目《め》もくれず
テームス|峠《たうげ》を|打《う》ち|渡《わた》り  |葵《あふひ》の|沼《ぬま》に|辿《たど》り|着《つ》き
|月《つき》の|光《ひかり》も|黄金《わうごん》の  |姫《ひめ》の|命《みこと》の|宣伝使《せんでんし》
|沼《ぬま》に|輝《かがや》く|清照《きよてる》の  |姫《ひめ》の|命《みこと》と|袂《たもと》をば
|右《みぎ》と|左《ひだり》に|別《わか》ちつつ  トルマン|国《ごく》の|危急《ききふ》をば
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|救《すく》ひつつ  |吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》に|再会《さいくわい》し
|漸《やうや》く|此処《ここ》に|来《き》たりけり  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みぞ|畏《かしこ》けれ  |神《かみ》の|恵《めぐ》みぞ|畏《かしこ》けれ』
|玄真坊《げんしんばう》は|歌《うた》ふ。
『オーラの|山《やま》に|立籠《たてこも》り  |悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|企《たく》みをば
|敢行《かんかう》したる|吾《われ》こそは  |八岐大蛇《やまたをろち》の|片腕《かたうで》か
たとへ|方《かた》なき|人非人《にんぴにん》  ヨリコの|姫《ひめ》を|唆《そその》かし
オーラの|山《やま》を|根拠《こんきよ》とし  |泥棒頭《どろぼうがしら》のシーゴーを
|謀主《ぼうしゆ》と|仰《あふ》ぎオーラ|山《さん》  |高《たか》く|聳《そび》ゆる|大杉《おほすぎ》の
|梢《こずゑ》に|仕掛《しかけ》けた|星下《ほしくだ》し  |良家《りやうか》の|婦女《ふぢよ》を|拐《かどは》かし
|善男《ぜんなん》|善女《ぜんによ》を|迷《まよ》はして  |金穀物品《きんこくぶつぴん》|奪《うば》ひとり
|七千余国《しちせんよこく》の|月《つき》の|国《くに》  |横領《わうりやう》せむと|企《たく》らめる
|時《とき》しもあれや|三五《あななひ》の  |教《をしへ》の|道《みち》の|神司《かむつかさ》
|梅公別《うめこうわけ》に|踏《ふ》み|込《こ》まれ  わが|計画《けいくわく》も|画餅《ぐわへい》となり
よるべなくなく|三百《さんびやく》の  |不良分子《ふりやうぶんし》を|選抜《せんばつ》し
ハルの|湖原《うなばら》|打《う》ち|渡《わた》り  タラハン|城《じやう》に|忍《しの》び|込《こ》み
|様子《やうす》を|聞《き》けば|左守《さもり》なる  |智勇兼備《ちゆうけんび》のシヤカンナは
|十年《ととせ》の|昔《むかし》|追放《つゐはう》され  |山林《さんりん》|深《ふか》く|姿《すがた》をば
|隠《かく》して|再挙《さいきよ》を|図《はか》るてふ  |噂《うはさ》を|聞《き》いて|雀躍《こをどり》し
|天帝《てんてい》の|化身《けしん》と|化《ば》け|込《こ》んで  |夢寐《むび》にも|忘《わす》れぬダリヤをば
|吾《わ》が|夜《よ》の|伽《とぎ》にせむものと  |色《いろ》と|慾《よく》との|二道《ふたみち》を
かけて|踏《ふ》み|込《こ》む|山《やま》の|奥《おく》  タニグク|山《やま》の|岩窟《いはやど》に
|小盗人《こぬすと》どもに|導《みちび》かれ  |一夜《いちや》を|明《あ》かす|折《を》りもあれ
|命《いのち》と|頼《たの》むダリヤ|姫《ひめ》  |吾《わ》が|酔《よ》ふ|隙《すき》を|窺《うかが》ひて
|忽《たちま》ち|水沫《みなわ》と|消《き》えしより  シヤカンナも|糞《くそ》もあるものか
|二百《にひやく》の|手下《てした》を|借《か》り|受《う》けて  ダリヤの|行衛《ゆくゑ》を|探《さが》しつつ
|神谷村《かみたにむら》の|村長《むらをさ》の  |家《いへ》に|潜《ひそ》むをつきとめし
その|暁《あかつき》の|嬉《うれ》しさは  |天《てん》にも|上《のぼ》る|心地《ここち》しぬ
|天《てん》に|叢雲《むらくも》|花《はな》に|風《かぜ》  |吹《ふ》く|世《よ》の|中《なか》は|是非《ぜひ》もなし
|掴《つか》むに|由《よし》なき|水《みづ》の|月《つき》  |心《こころ》|残《のこ》して|渋々《しぶしぶ》に
|暗路《やみぢ》を|辿《たど》り|進《すす》み|行《ゆ》く  |上《のぼ》れば|高《たか》きタラハンの
|峠《たうげ》の|岩《いは》に|腰《こし》かけて  |前方《ぜんぱう》はるかに|見渡《みわた》せば
|野中《のなか》に|建《た》てる|城廓《じやうくわく》は  |吾《われ》の|住居《すまゐ》に|適《かな》へりと
|雄猛《をたけ》びしながら|小泥棒《こどろぼう》  |二人《ふたり》と|共《とも》に|進《すす》み|行《ゆ》く
|道《みち》の|行《ゆ》く|手《て》もいろいろに  |恋路《こひぢ》の|雲《くも》に|包《つつ》まれつ
|果《はた》し|終《をほ》せぬ|果無《はかな》さに  |心《こころ》を|苛《いら》ちてタラハンの
|城下《じやうか》に|忍《しの》び|待《ま》つほどに  タラハン|城下《じやうか》の|大火災《だいくわさい》
|天《てん》の|時《とき》こそ|到《いた》れりと  タラハン|城《じやう》に|乗《の》り|込《こ》んで
|宝《たから》の|倉《くら》に|忍《しの》び|入《い》り  |軍用金《ぐんようきん》をせしめむと
|逸《はや》るをりしも|捕《とら》へられ  |一度《ひとたび》|獄《ごく》に|繋《つな》がれて
|少時《しばし》|憂目《うきめ》は|見《み》たれども  |泥棒頭《どろぼうがしら》のシヤカンナが
|左守《さもり》の|司《かみ》となりすまし  |国政《こくせい》を|握《にぎ》ると|聞《き》くよりも
|悪口雑言《あくこうざふごん》|並《なら》べ|立《た》て  |遂《つひ》には|左守《さもり》に|腹《はら》|切《き》らせ
|黄金《わうごん》|数万《すうまん》|貢《みつ》がせて  |踏《ふ》みも|習《なら》はぬ|谷川《たにがは》に
|沿《そ》へる|細路《ほそみち》|走《はし》るをり  |追手《おつて》に|追《お》はれ|是非《ぜひ》もなく
|運命《うんめい》を|天《てん》に|任《まか》しつつ  ザンブとばかり|谷川《たにがは》に
|身《み》を|躍《をど》らして|飛《と》び|込《こ》めば  |人事不省《じんじふせい》となり|果《は》てて
|忽《たちま》ち|幽界《いうかい》の|旅枕《たびまくら》  |百《もも》の|責苦《せめく》に|遇《あ》ひながら
|人《ひと》の|情《なさ》けに|救《たす》けられ  |再《ふたた》び|悪《あく》を|企《たく》らみつ
|入江《いりえ》の|浜屋《はまや》に|泊《とま》り|込《こ》み  ホロ|酔《よ》ひ|機嫌《きげん》のをりもあれ
|花《はな》に|嘘《うそ》つく|絶世《ぜつせい》の  |美人《びじん》|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》が
|色香《いろか》に|迷《まよ》ひ|涎《よだれ》くり  |巾着《きんちやく》までも|締《し》められて
|所持金《ありがね》スツカリ|奪《うば》ひ|取《と》られ  |命《いのち》|危《あや》ふくなりしをり
|照国別《てるくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》に  ヤツと|救《すく》はれ|今《いま》|此処《ここ》に
|法《のり》の|友船《ともぶね》|常磐丸《ときはまる》  |松《まつ》の|心《こころ》に|立直《たてなほ》し
|心《こころ》に|匂《にほ》ふ|梅公別《うめこうわけ》  |日《ひ》も|麗《うらら》かに|照公《てるこう》の
|神《かみ》の|司《つかさ》ともろともに  |涼《すず》しき|風《かぜ》を|浴《あ》びながら
|縮緬皺《ちりめんじわ》の|漂《ただよ》へる  |大湖原《おほうなばら》を|進《すす》み|行《ゆ》く
|吾《わ》が|身《み》の|幸《さち》ぞ|楽《たの》しけれ  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  たとへ|天地《てんち》は|覆《かへ》るとも
|神《かみ》に|誓《ちか》ひし|真心《まごころ》は  |幾千代《いくちよ》かけても|違《たが》ふまじ
|松《まつ》のミロクの|末《すゑ》までも  |守《まも》らせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|謹《つつし》みて  |吾《わ》が|身《み》の|行末《ゆくすゑ》|祈《ね》ぎ|奉《まつ》る』
|照国別《てるくにわけ》『|梓弓《あづさゆみ》ハルの|湖原《うなばら》|乗《の》り|行《ゆ》けば
|百鳥千鳥《ももどりちどり》|大空《おほぞら》に|飛《と》ぶ
|天国《てんごく》の|春《はる》にもまがふハルの|湖《うみ》を
|乗《の》り|行《ゆ》く|吾《われ》の|幸《さち》|多《おほ》きかな』
|照公別《てるこうわけ》『|大空《おほぞら》に|日《ひ》は|麗《うらら》かに|照公《てるこう》の
|湖路《うなぢ》|静《しづ》かに|進《すす》む|楽《たの》しさ
|風《かぜ》|清《きよ》く|波《なみ》|穏《おだや》かに|吾《わ》が|乗《の》れる
|船端《ふなばた》に|波《なみ》の|皷《つづみ》|打《う》ち|行《ゆ》く』
|梅公別《うめこうわけ》『|御教《みをしへ》の|一度《いちど》に|開《ひら》く|梅《うめ》の|花《はな》
|三千世界《さんぜんせかい》に|匂《にほ》ふなるらむ
|梅《うめ》|薫《かを》る|春《はる》の|景色《けしき》に|酔《よ》ひながら
ハルの|湖《みづうみ》|渡《わた》り|行《ゆ》くかな』
|玄真坊《げんしんばう》『|吾《わ》が|為《な》せし|昔《むかし》の|枉《まが》を|思《おも》ひ|出《い》でて
|神《かみ》の|御船《みふね》もいとど|苦《くる》しき
|今《いま》よりは|誠《まこと》の|神《かみ》の|大道《おほみち》に
|進《すす》み|行《ゆ》かなむ|仮令《たとへ》|死《し》すとも』
かく|各自《めいめい》に|歌《うた》を|詠《よ》みながら|波《なみ》|静《しづ》かなるハルの|湖面《こめん》を|進《すす》み|行《ゆ》く。|時《とき》しもあれや、|一天《いつてん》にはかに|掻《か》き|曇《くも》り、|暴風《ばうふう》|吹《ふ》き|荒《すさ》び、|激浪《げきらう》|怒濤《どたう》は|山岳《さんがく》のごとく|押《お》し|寄《よ》せ|来《き》たり、|常磐丸《ときはまる》は|木《こ》の|葉《は》の|風《かぜ》に|散《ち》るごとく|実《じつ》に|危《あや》ふき|光景《くわうけい》となつた。|彼方《かなた》の|海面《かいめん》を|遠《とほ》く|見渡《みわた》せばハルの|湖面《こめん》にて|名《な》も|高《たか》き|高砂丸《たかさごまる》の|船体《せんたい》は|木端微塵《こつぱみぢん》に|打《う》ち|砕《くだ》け、|乗客《じやうきやく》の|一同《いちどう》は|激浪《げきらう》|怒濤《どたう》に|翻弄《ほんろう》され、|命《いのち》|限《かぎ》りに|救《すく》ひを|叫《さけ》ぶ|声《こゑ》、あたかも|叫喚地獄《けうくわんぢごく》の|状態《じやうたい》を|現出《げんしゆつ》したるが|如《ごと》くであつた。|照国別《てるくにわけ》は|吾《わ》が|身《み》の|危難《きなん》を|忘《わす》れ|高砂丸《たかさごまる》の|遭難《さうなん》を|救《すく》はむと、|船頭《せんどう》を|励《はげ》まし|八梃艪《はつちやうろ》を|漕《こ》ぎながら、|高砂丸《たかさごまる》の|難船場《なんせんば》|目蒐《めが》けて|力《ちから》|限《かぎ》りに|漕《こ》ぎつける。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一五・六・二九 旧五・二〇 於天之橋立なかや別館 北村隆光録)
第四章 |銀杏姫《いてふひめ》〔一八一三〕
|杢助《もくすけ》に|化《ば》けた|妖幻坊《えうげんばう》および|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》は、|高砂丸《たかさごまる》の|破壊《はくわい》|沈没《ちんぼつ》に|命《いのち》ばかりは|助《たす》からむものと、|両人《りやうにん》とも|手早《てばや》く|着衣《ちやくい》を|脱《ぬ》ぎ|棄《す》て、|真裸体《まつぱだか》となつて|海中《かいちう》に|飛《と》び|込《こ》んだ|際《さい》、|妖幻坊《えうげんばう》は|全《まつた》く|元《もと》の|正体《しやうたい》を|現《あら》はし、|獅子《しし》と|虎《とら》との|混血児《あひのこ》たる|怖《おそ》ろしき|姿《すがた》となつてしまつた。|高姫《たかひめ》も|真裸体《まつぱだか》となつて|毛《け》だらけの|妖幻坊《えうげんばう》の|首《くび》に|喰《くら》ひつき、|浪《なみ》のままに|漂《ただよ》ひながら|老木《らうぼく》|茂《しげ》れる|一《ひと》つの|離《はな》れ|島《じま》に|漂着《へうちやく》した。
|高姫《たかひめ》はホツと|一息《ひといき》しながら、
『アアこれ|杢助《もくすけ》さま、|大変《たいへん》な|暴風雨《しけ》に|遭《あ》ひ、|妾《わたし》はもう|命《いのち》が|無《な》くなるかと|思《おも》つてゐましたのに、お|前《まへ》さまの|変身《へんしん》の|術《じゆつ》で|此《こ》の|荒湖《あらうみ》を|乗切《のりき》り、お|蔭《かげ》で|命《いのち》が|助《たす》かりました。|何《なん》とマア|貴方《あなた》は|偉《えら》い|隠《かく》し|芸《げい》をもつてゐらつしやるのですねえ』
|妖幻坊《えうげんばう》は|高姫《たかひめ》に|正体《しやうたい》を|見附《みつ》けられ、|大変《たいへん》に|心《こころ》を|痛《いた》め、どう|言《い》ひ|訳《わけ》をして|胡魔化《ごまくわ》さうかと|思《おも》つてゐた|矢先《やさき》、|高姫《たかひめ》の|方《はう》から|却《かへ》つて|感賞《かんしやう》の|言葉《ことば》を|受《う》け、|心《こころ》の|底《そこ》から|善意《ぜんい》に|解《かい》してゐる|事《こと》を|悟《さと》つたので、わざと|得意《とくい》の|面《つら》をしやくりながら、
『オイ、|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》、|俺《おれ》の|魔術《まじゆつ》は|偉《えら》いものだらうがな、まさかの|時《とき》になれば|獅子《しし》とも|虎《とら》とも|分《わか》らぬかういふ|怪体《けつたい》な|形相《ぎやうさう》に|変化《へんげ》するのだもの、|天下《てんか》に|怖《おそ》れるもの|一《ひと》つも|無《な》しだ。|俺《おれ》もかういふ|美人《びじん》を|女房《にようばう》にしてゐる|以上《いじやう》は、|一《ひと》つの|不思議《ふしぎ》な|妙術《めうじゆつ》を|使《つか》つてお|前《まへ》の|信用《しんよう》を|得《え》ておかないと、いつ|東助《とうすけ》の|野郎《やらう》に|鞍替《くらが》へせらるるか|分《わか》らない|危険区域《きけんくゐき》に|置《お》かれてゐるのだから、お|前《まへ》を|助《たす》ける|為《ため》にかういふ|醜《みにく》い|肉体《にくたい》に|変化《へんげ》して、|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》|女帝《によてい》に|忠勤《ちうきん》を|励《はげ》んでみたのだよ、アハハハハ』
|高姫《たかひめ》『アタ|憎《にく》らしい|杢助《もくすけ》さまだこと、|二《ふた》つ|目《め》には|東別《あづまのわけ》だの|東助《とうすけ》だのと、そんな|旧《ふる》めかしい|話《はなし》は|止《や》めてもらひませうかい。|東助《とうすけ》なんて|淡路《あはぢ》の|洲本《すもと》で|船頭稼《せんどうかせ》ぎをやつてをつた、|渋紙面《しぶかみづら》をして|色《いろ》の|黒《くろ》い|独活《うど》の|大木《たいぼく》みたよな|体見倒《がらみだふ》しですよ。|何一《なにひと》つ|離《はな》れ|業《わざ》を|知《し》つてゐると|言《い》ふでもなし、|八島《やしま》の|主《ぬし》のお|鬚《ひげ》の|塵《ちり》を|払《はら》ひ、お|尻《しり》の|臭《にほひ》を|嗅《か》いで|喜《よろこ》んでゐるやうな|代物《しろもの》は、たとへ|十千万両《とちまんりやう》の|金《かね》を|積《つ》んで|倒《さかさ》になつて|歩《ある》いて|見《み》せても|靡《なび》く|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》ぢやありませぬよ。|東助《とうすけ》なんていふのは|勿体《もつたい》ない、|彼奴《あいつ》は|豆腐《とうふ》の|助《すけ》で|結構《けつこう》だ。この|高姫《たかひめ》の|指《ゆび》|一本《いつぽん》で、|潰《つぶ》さうと|破《めが》うと|自由自在《じいうじざい》ですもの、オホホホホ』
|妖幻《えうげん》『これ|高《たか》チヤン、ずゐぶん|法螺《ほら》を|吹《ふ》くぢやないか、|斎苑《いそ》の|館《やかた》で|東助《とうすけ》に|肱鉄砲《ひぢてつぱう》を|打《う》ち|出《だ》され|脆《もろ》くも|敗北《はいぼく》し、|泣《な》く|泣《な》く|河鹿峠《かじかたうげ》を|渡《わた》つて|祠《ほこら》の|森《もり》に|逃《に》げ|込《こ》み、|世《よ》を|果無《はかな》むで|燻《くす》ぼつてゐたぢやないか、ちつと|頬桁《ほほげた》が|過《す》ぎるぞや』
『|頬下駄《ほほげた》を|履《は》くのは|呆助《はうすけ》くらゐが|適当《てきたう》ですよ。いや|朴下駄《ほほげた》でも|東助《とうすけ》なら|過《す》ぎてゐる、この|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》はトルマン|国《ごく》の|女帝《によてい》だから、|桐《きり》の|下駄《げた》か|伽羅《きやら》の|下駄《げた》が|性《しやう》に|合《あ》つてゐるのですよ。ヘン、|朴下駄《ほほげた》が|過《す》ぎるなんて|余《あま》り|人《ひと》を|軽蔑《けいべつ》してもらひますまいかい』
『オイオイ|高《たか》チヤン、さう|履《は》き|違《ちが》ひをしてもらつてはいささか|迷惑《めいわく》だ。|話《はなし》が|脱線《だつせん》してしまつたよ、【ほうげた】が|過《す》ぎるといつたのはお|前《まへ》の|口《くち》が|過《す》ぎると|言《い》つたのだ』
『ヘン、|口《くち》が|過《す》ぎるなんて|馬鹿《ばか》にしなさるな、|妾《わたし》だつて|口《くち》すぎくらゐは|立派《りつぱ》にいたしますよ、|男《をとこ》の|一匹《いつぴき》や|二匹《にひき》くらゐ|遊《あそ》ばして|養《やしな》つてやりますワ』
『アハハハハ、ますます|分《わか》らぬぢやないか』
『ますます|分《わか》らぬの、|別《わか》れぬのと、それや|何《なに》を|言《い》ふのですか、お|前《まへ》さまはこの|高姫《たかひめ》に|別《わか》れやうと|思《おも》つてゐらつしやるのでせう。|盛装《せいさう》を|凝《こ》らし|髪《かみ》を|立派《りつぱ》に|結《ゆ》つて、お|白粉《しろい》でもつけてゐた|姿《すがた》を|見《み》て、お|前《まへ》さまは|岡惚《をかぼ》れをやつてゐたのだらう。かう|難船《なんせん》して|保護色《ほごしよく》の|衣類《きもの》は|浪《なみ》に|攫《さら》はれ、|髪《かみ》はサンバラに|乱《みだ》れ、|要塞地帯《えうさいちたい》が|丸出《まるだ》しになつた|姿《すがた》を|見《み》て|愛想《あいそ》が|尽《つ》きたのでせう。ヘン、これでも、
(|都々逸《どどいつ》)お|前《まへ》|嫌《いや》でもまた|好《す》く|人《ひと》が
|無《な》けれや|妾《わたし》の|身《み》が|立《た》たぬ
といふ|俗謡《ぞくえう》の|通《とほ》り、|男《をとこ》のすたり|物《もの》はあつても|女《をんな》のすたり|物《もの》は|三千世界《さんぜんせかい》どこを|探《さが》しても|滅多《めつた》にありませぬぞや。ヘン、|嫌《いや》なら|嫌《いや》ときつぱりと|言《い》つて|下《くだ》さい、|此方《こつち》にも|考《かんが》へがありますからな』
『アアますます|困《こま》つた|事《こと》を|言《い》ふぢやないか、ハハー|分《わか》つた! |読《よ》めた! この|杢助《もくすけ》が|妖術《えうじゆつ》を|使《つか》ひ|過《す》ぎ、こんな|姿《すがた》に|化《ば》けた|姿《すがた》が|女帝《によてい》のお|目《め》に|留《とま》り、|秋風《あきかぜ》が|吹《ふ》いたのだな、よし、それならそれで|此《この》|方《はう》にも|考《かんが》へる|余地《よち》は|十分《じふぶん》にあるはずだ』
『|又《また》しても、お|前《まへ》さまは|妾《わたし》を|術無《じゆつな》がらすのかいなア、エエ|腹《はら》の|悪《わる》い|人《ひと》だこと。そしてあの|曲輪《まがわ》の|玉《たま》は|如何《どう》なさいましたか、よもや|湖《うみ》に|落《お》としはなされますまいなア』
『ウン、それや|心配《しんぱい》すな、|湖《うみ》に|飛《と》び|込《こ》む|際《さい》|腹《はら》の|中《なか》へ|呑《の》み|込《こ》んでおいたから|大丈夫《だいぢやうぶ》だ』
『マアマア|呑《の》み|込《こ》んだのですか、ヘーン、なぜ|妾《わたし》に|呑《の》まして|下《くだ》さらないの、|本当《ほんたう》に|貴方《あなた》は|水臭《みづくさ》いお|方《かた》だワ』
『お|前《まへ》に|呑《の》ましたいは|山々《やまやま》だが、|咄嗟《とつさ》の|場合《ばあひ》、そんな|余裕《よゆう》があつて|堪《たま》らうかい、|失礼《しつれい》ながら|杢助《もくすけ》の|高天原《たかあまはら》にチヤンと|納《をさ》めておいたから、|何時《いつ》かまた|吐《は》き|出《だ》す|時《とき》があるであらう、さう|心配《しんぱい》はするに|及《およ》ばないよ』
『なるほど、|抜目《ぬけめ》のない|杢助《もくすけ》さまだこと、それでこそ|高姫《たかひめ》が|最愛《さいあい》の|夫《をつと》、|末代《まつだい》までの|旦那様《だんなさま》だワ。しかし|杢助《もくすけ》さま、この|島《しま》に|着《つ》くは|着《つ》いたが、かう|裸《はだか》では|道中《だうちう》も|出来《でき》ないし、|曲輪《まがわ》の|法《はふ》でも|使《つか》つて|立派《りつぱ》な|着物《きもの》を|一枚《いちまい》|拵《こしら》へて|下《くだ》さるわけにはゆきますまいかなア。|貴方《あなた》だつてさう|毛《け》だらけの|変化姿《へんげすがた》では|人中《ひとなか》へも|出《で》られますまい』
『なるほど、お|前《まへ》の|言《い》ふ|通《とほ》りだ、|俺《おれ》の|聞《き》く|通《とほ》りだ。|雨蛙《あまがへる》が|木《き》に|止《と》まつて|鳴《な》く|通《とほ》りだ、|書《か》き|出《だ》しは|右《みぎ》の|通《とほ》りだ。|俺《おれ》も|此《こ》の|通《とほ》りだ、|両手《りやうて》を|土《つち》について|正《まさ》に|高姫《たかひめ》の|君《きみ》に|謝《あやま》り|参《まゐ》らする|通《とほ》りだ。アハハハハ』
『これ|杢《もく》チヤン、|笑《わら》うてゐる|場合《ばあひ》ぢやありませぬよ。|何《なに》ほど|春《はる》ぢやといつても|斯《か》う|寒《さむ》くつては、やりきれないぢやありませぬか、|何《なん》とか|工夫《くふう》がございますまいかなア』
『ヤア、|此処《ここ》に|船《ふね》が|一艘《いつそう》|繋《つな》いである。これから|考《かんが》へると、|誰《たれ》か|此《こ》の|島《しま》に|上陸《じやうりく》してゐる|人間《にんげん》がある|筈《はず》だ。|一《ひと》つ|其奴《そいつ》の|皮《かは》を|剥《む》いて、お|前《まへ》と|俺《おれ》とが|身《み》に|纒《まと》ふ|事《こと》とせうではないか』
『|全然《まるつき》り|追剥《おひはぎ》のやうな|事《こと》をするのですか、それでは|時置師《ときおかし》の|宣伝使《せんでんし》とは|言《い》はれますまい。|妾《わたし》だつて|何《なに》ほど|寒《さむ》くつても|泥棒《どろばう》した|衣類《きもの》を|身《み》に|纒《まと》ふことは|嫌《いや》です。そんな|事《こと》をすれや|日出神《ひのでのかみ》の|神格《しんかく》がさつぱり|地《ち》に|落《お》ちてしまひますワ』
『てもさても|馬鹿正直《ばかしやうぢき》な|女帝様《によていさま》だなア。|昔《むかし》から|譬《たとへ》にも|背《せ》に|腹《はら》は|替《か》へられぬといふぢやないか。|大善《だいぜん》をなさむとすれば、|小悪《せうあく》は|時《とき》と|場合《ばあひ》により|止《や》むを|得《え》ないだらうよ。アア|寒《さむ》い|寒《さむ》い、かう|俄《には》かに|強《きつ》い|風《かぜ》が|吹《ふ》いて|来《き》ては、|俺《おれ》も|耐《たま》らない。どこかに|好《よ》い|竹藪《たけやぶ》でもあれば、すつこんで|風《かぜ》を|避《さ》けたいものだ』
と|言《い》ひながら、「|高姫《たかひめ》|続《つづ》け」と|一声《ひとこゑ》|残《のこ》し、|篠竹《しのだけ》のシヨボシヨボと|生《は》えてゐる|竹藪《たけやぶ》の|中《なか》に|身《み》を|隠《かく》してしまつた。その|実《じつ》やうやくに|顔《かほ》だけ|人間《にんげん》らしく|化《ば》けてゐるものの、|身《み》に|一片《いつぺん》の|布片《ふへん》も|纒《まと》つてゐないので|苦《くる》しくつて|耐《たま》らず、|顔《かほ》までが|元《もと》の|妖怪《えうくわい》に|還元《くわんげん》しさうなので、そんなエグイ|面《つら》を|見《み》せては、さすがの|高姫《たかひめ》も|愛想《あいそ》をつかすだらうと|思《おも》ひ、この|竹藪《たけやぶ》に|飛《と》び|込《こ》み|第二《だいに》の|変化術《へんげじゆつ》を|施《ほどこ》すためであつた。
この|藪《やぶ》は|百坪《ひやくつぼ》ばかりの|面積《めんせき》があつて、その|中《なか》へ|入《い》るや|否《いな》やたちまち|白胡麻《しろごま》のやうな|蟻《あり》の|群《むれ》が|数知《かずし》れず|登《のぼ》りつき、いかなる|人間《にんげん》といへども|身体中《からだぢう》を|噛《か》み|破《やぶ》り、たちまち|身体《からだ》は|腫《は》れ|上《あが》り|痛痒《いたかゆ》うてたまらない。さうこうしてゐる|中《うち》に、|足《あし》の|一尺《いつしやく》もある|怪《あや》しい|蜘蛛《くも》が|幾万《いくまん》ともなくやつて|来《き》て|尻《しり》から|粘着性《ねんちやくせい》の|強《つよ》い|糸《いと》を|出《だ》し、|身体《からだ》をぎりぎり|巻《ま》きにして|仕舞《しまひ》ふといふ|怖《おそ》ろしい|魔《ま》の|森《もり》である。それとも|知《し》らず|妖幻坊《えうげんばう》が|飛《と》び|込《こ》んだのだから|耐《たま》らない。|荒《あら》くたい|毛《け》の|間《あひだ》に|幾万《いくまん》とも|知《し》れない|蟻《あり》が|噛《か》みつく|痛《いた》さ、さすがの|妖幻坊《えうげんばう》も|悲鳴《ひめい》をあげて|虎《とら》の|唸《うな》るやうな|呻吟声《うめきごゑ》で|高姫《たかひめ》の|救《すく》ひを|求《もと》めてゐる。|高姫《たかひめ》はその|声《こゑ》を|聞《き》きつけて|藪《やぶ》の|傍《そば》に|立《た》ち|寄《よ》り|中《なか》を|覗《のぞ》いて|見《み》れば、|妖幻坊《えうげんばう》は|蟻《あり》に|責《せ》められ|七転八倒《しちてんはつたう》の|苦《くる》しみの|真最中《まつさいちう》であつた。|高姫《たかひめ》は|気《き》も|転倒《てんたう》せむばかり|打《う》ち|驚《おどろ》きながら|竹藪《たけやぶ》の|後《うし》ろの|方《はう》に|廻《まは》つて|見《み》ると、|一寸《ちよつと》|小高《こだか》い|塚《つか》が|在《あ》つて、その|上《うへ》に|周囲《しうゐ》|三丈《さんぢやう》もある|大銀杏《おほいてふ》が|天《てん》を|摩《ま》して|立《た》つてゐる。|銀杏《いてふ》の|根本《ねもと》には|小《ちひ》さい|祠《ほこら》が|立《た》つてゐて、|若《わか》い|男女《だんぢよ》が|何事《なにごと》かすすり|泣《な》きしながら|祈《いの》つてゐた。|抜目《ぬけめ》のない|高姫《たかひめ》は、|早《はや》くも|男女《だんぢよ》|二人《ふたり》の|着衣《ちやくい》を|失敬《しつけい》して|東助《とうすけ》の|難《なん》を|救《すく》ひ|自分《じぶん》も|着用《ちやくよう》せむものと、|銀杏《いてふ》の|木《き》の|後《うし》ろに|隠《かく》れて|両人《りやうにん》の|話《はなし》を|聞《き》いてゐた。
|女《をんな》『もしフクエさま、どう|致《いた》しませう。|何《なに》ほど|貴方《あなた》と|妾《わたし》と|恋《こひ》におちて|悩《なや》んでゐましても、|強慾《がうよく》な|継母《ままはは》が、あなたとの|恋《こひ》を|許《ゆる》してくれないのですもの。スガの|港《みなと》の|呉服屋《ごふくや》へ|嫁《よめ》に|行《ゆ》けと、|煙管《きせる》で|畳《たたみ》を|叩《たた》いての|日夜《にちや》の|折檻《せつかん》、|生《うみ》の|両親《りやうしん》は|既《すで》にこの|世《よ》を|去《さ》り、|継母《けいぼ》の|手《て》に|育《そだ》てられた|妾《わたし》、その|恩義《おんぎ》を|思《おも》へばどうして|恋《こひ》しい|貴方《あなた》と、|天下《てんか》|晴《は》れて|添《そ》ふ|事《こと》が|出来《でき》ませう。また|妾《わたし》の|家《いへ》はスガの|呉服屋《ごふくや》さまに|大変《たいへん》な|借金《しやくきん》があり、それを|返《かへ》さなけれやなりませず、|返《かへ》す|金《かね》はなし、|母《はは》も|大変《たいへん》に|心配《しんぱい》いたしてをります。もし|妾《わたし》の|縁談《えんだん》を|断《こと》わりでもせうものなら、|恋《こひ》しきスガの|里《さと》に|住《す》む|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。だと|言《い》つて|貴方《あなた》を|思《おも》ひ|切《き》る|事《こと》は|如何《どう》しても|出来《でき》ませぬ。|何《なん》とか|此《こ》の|銀杏《いてふ》の|神様《かみさま》の|御利益《ごりやく》によつて|円満《ゑんまん》な|解決《かいけつ》をつけてもらひたいものでございます』
と|又《また》もやすすり|泣《な》く。
フクエ『オイ|岸子《きしこ》、さう|悲観《ひくわん》したものぢやない。この|神様《かみさま》は|女神様《めがみさま》だといふ|事《こと》だから、きつとお|前《まへ》に|同情《どうじやう》して|下《くだ》さるに|相違《さうゐ》ない。|私《わし》ぢやとて|未《ま》だ|主人持《しゆじんも》ちの|身《み》の|上《うへ》、どうする|事《こと》も|出来《でき》ぬみじめな|有様《ありさま》だが、お|前《まへ》と|別《わか》れるくらゐなら、|一層《いつそ》ハルの|湖《うみ》へ|身《み》を|投《な》げて|死《し》んだが|増《ま》しだよ』
|岸子《きしこ》『この|神様《かみさま》に|一切《いつさい》の|衣服《いふく》をお|供《そな》へすれば、|屹度《きつと》|願《ねが》ひを|叶《かな》へて|下《くだ》さると|言《い》ふぢやありませぬか、|上衣《うはぎ》だけなりとお|供《そな》へして|帰《かへ》りませうか』
フクエ『なるほど、|上衣《うはぎ》の|一枚《いちまい》ぐらゐお|供《そな》へしたつて|別《べつ》に|苦《くる》しくはない』
かく|話《はな》す|折《を》りしも、|銀杏《いてふ》の|木蔭《こかげ》より、|優《やさ》しき|女《をんな》の|声《こゑ》、
『|妾《わらは》こそは、|銀杏姫《いてふひめ》の|命《みこと》でござるぞや、|今《いま》より|千五百年《せんごひやくねん》の|昔《むかし》、|恋男《こひをとこ》に|逢《あ》はむため|盥《たらひ》の|船《ふね》に|乗《の》つて、この|離《はな》れ|島《じま》に|夜《よ》な|夜《よ》な|通《かよ》ひ、|折柄《をりから》の|暴風雨《しけ》に|遇《あ》ひ、|惜《を》しき|命《いのち》を|湖《うみ》の|藻屑《もくづ》となし、その|精霊《せいれい》|凝《こ》つて|茲《ここ》に|裸姫《はだかひめ》となり、|名《な》も|銀杏ケ姫《いてふがひめ》の|命《みこと》と|改《あらた》め、|衣類《いるゐ》|一切《いつさい》を|吾《われ》に|献《けん》ずるものには、|如何《いか》なる|恋《こひ》も|叶《かな》へ|得《え》させむ、|縁結《えんむす》びの|守護神《しゆごじん》であるぞや。そち|達《たち》|両人《りやうにん》の|恋《こひ》はこの|千草《ちぐさ》オツトドツコイ|銀杏姫《いてふひめ》の|命《みこと》が|請合《うけあ》うて|叶《かな》へてやらうほどに、|衣類《いるゐ》|一切《いつさい》を|此処《ここ》に|脱《ぬ》ぎ|捨《す》て、|其《そ》の|上《うへ》この|魔《ま》の|藪《やぶ》に|飛《と》び|込《こ》んで、|悩《なや》める|一《ひと》つの|生物《いきもの》を|真裸《まつぱだか》のまま|救《すく》ひ|出《だ》せよ。さすれば|其方《そち》の|願望《ぐわんまう》は|必《かなら》ず|必《かなら》ず|今日《こんにち》|只今《ただいま》より|叶《かな》へて|遣《つか》はすぞや、|夢々《ゆめゆめ》|疑《うたが》ふ|勿《なか》れ、|夢々《ゆめゆめ》|疑《うたが》ふ|勿《なか》れ』
といふ|声《こゑ》は|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》である。|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》は|実《まこと》の|神《かみ》の|言葉《ことば》と|信《しん》じ、|両人《りやうにん》|一度《いちど》に|惜気《をしげ》もなく、|下着《したぎ》まで|残《のこ》らず|脱《ぬ》ぎ|捨《す》て|銀杏姫《いてふひめ》の|命《みこと》に|奉《たてまつ》り、|神勅《しんちよく》のごとく|魔《ま》の|藪《やぶ》に|飛《と》び|込《こ》んで、|白蟻《しろあり》に|悩《なや》み|苦《くる》しめる|妖幻坊《えうげんばう》をやつとの|事《こと》で|引《ひ》き|出《だ》してしまつた。|不思議《ふしぎ》にも|白蟻《しろあり》は|藪《やぶ》の|外《そと》|一歩《いつぽ》|出《い》づるや|否《いな》や、|一匹《いつぴき》も|残《のこ》らず、|身体《からだ》より|落《お》ちて|藪中《やぶなか》に|逸早《いちはや》く|姿《すがた》を|隠《かく》してしまつた。|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》は|甘々《うまうま》と|高姫《たかひめ》の|計略《けいりやく》にかかり|真裸《まつぱだか》にせられ、|其《そ》の|上《うへ》|妖幻坊《えうげんばう》を|救《すく》ふべく|藪中《やぶなか》に|飛《と》び|込《こ》んだため、|身体《からだ》|一面《いちめん》|白蟻《しろあり》に|集《たか》られ|身動《みうご》きならず、|七転八倒《しちてんはつたう》の|苦《くる》しみをしてゐる。
|高姫《たかひめ》『ホホホホホ、オイそこな|若《わか》い|二人《ふたり》の|呆《はう》け|共《ども》、こなさまは|銀杏姫《いてふひめ》の|命《みこと》でも|何《なん》でもないんだよ。よつく|耳《みみ》を|浚《さら》へて|聞《き》いておきや、ウラナイ|教《けう》の|大教主《だいけうしゆ》|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》さまだよ。|二人《ふたり》が|真裸《まつぱだか》で|白蟻《しろあり》に|噛《か》み|殺《ころ》されるのも|前世《ぜんせ》の|因縁《いんねん》だ。その|代《かは》り|潔《いさぎよ》く|蟻《あり》どもに|喰《く》つてもらつて|死《し》になさい、きつと|最奥第一《さいあうだいいち》の|天国《てんごく》に、|此《こ》の|贋《にせ》の|銀杏姫《いてふひめ》に|衣類《きもの》を|献《けん》じた|徳《とく》によつて|救《すく》ひ|上《あ》げてやらぬ|事《こと》もないぞや、……これ|杢《もく》チヤン、|何《なに》を|呆《とぼ》けてゐるのぢや、|確《しつか》りなさらぬかいな』
|妖幻《えうげん》『ヤア|高姫《たかひめ》、よう|助《たす》けてくれた。|思《おも》はず|知《し》らず|魔《ま》の|森《もり》に|飛《と》び|込《こ》んで|一《ひと》つよりない|命《いのち》を|棒《ぼう》に|振《ふ》るところだつた。お|前《まへ》の|縦横無尽《じうわうむじん》の|智略《ちりやく》によつて|此《こ》の|杢助《もくすけ》も|一命《いちめい》が|助《たす》かつたやうなものだ。いや|感謝《かんしや》するよ』
『ホホホホホ、これ|杢《もく》チヤン、|曲輪《まがわ》の|玉《たま》の|神力《しんりき》は|如何《どう》なつたのですか、まさか|白蟻《しろあり》の|奴《やつ》に|奪《と》られたのぢやありますまいなア。|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|妙術《めうじゆつ》を|使《つか》ふお|前《まへ》さまが、|蟻《あり》なんかにしてやられるとは、ちつと|均衡《つりあひ》が|取《と》れぬぢやありませぬか』
『|甘《あま》いものには|蟻《あり》が|集《たか》る、|辛《から》い|奴《やつ》には|蟻《あり》が|集《たか》らぬと|言《い》ふぢやないか。とにかく|俺《おれ》は|人間《にんげん》としては|最上等《さいじやうとう》だ、さうして|女《をんな》に|甘《あま》いだらう。|血液《けつえき》も|人一倍《ひといちばい》|甘《あま》いなり、|何分《なにぶん》|身魂《みたま》が|勝《すぐ》れて|良《よ》いものだから|蟻《あり》の|奴《やつ》、|有難《ありがた》がつて|吸《す》いついたら|離《はな》れぬのだよ。お|前《まへ》だつて|俺《おれ》に|吸《す》ひついたら|容易《ようい》に|放《はな》して|呉《く》れまいがな』
『なるほど、|道理《だうり》を|聞《き》けばご|尤《もつと》も|千万《せんばん》、うつかり|杢《もく》チヤンは、これから|蟻《あり》のゐる|所《ところ》へは|行《い》つて|貰《もら》はないやうにせねばなりませぬワ。|妾《わたし》だつて、きつと|蟻《あり》につかれる|体《からだ》に|違《ちが》ひありませぬからなア』
『それやさうかも|知《し》れぬ、いつも|喋々喃々《てふてふなんなん》と|甘《あま》い|囁《ささや》きを|聞《き》かして|呉《く》れるからなア。しかし|俺《おれ》を|救《たす》けてくれた|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》は|可哀《かあい》さうだから|助《たす》けてやらうぢやないか。|何《なん》というても|俺《おれ》の|命《いのち》の|親《おや》だからのう』
『|杢《もく》チヤン、それや|何《なに》を|言《い》ふのですか、お|前《まへ》さまの|正体《しやうたい》を|見附《みつ》けられた|以上《いじやう》、こんな|者《もの》を|置《お》いては|後日《ごじつ》の|妨《さまた》げになるぢやありませぬか。あの|通《とほ》り|蟻《あり》に|喰《く》はしておけば|別《べつ》に|人殺《ひとごろ》しの|罪《つみ》にもならず、|蟻《あり》は|喜《よろこ》んで|腹《はら》を|膨《ふく》らすなり、|蟻《あり》のためには|吾々《われわれ》は|救世主《きうせいしゆ》ですよ。|蟻《あり》だつて|人間《にんげん》だつて|同《おな》じ|事《こと》ですよ、たつた|人間《にんげん》|二人《ふたり》の|命《いのち》の|代《かは》りに|数百万《すうひやくまん》の|蟻《あり》の|命《いのち》を|救《すく》へば、|幾《いく》ら|功徳《くどく》になるか|知《し》れませぬよ。そんな|宋襄《せうじやう》の|仁《じん》はおよしなさい。|折角《せつかく》|喜《よろこ》んでゐた|蟻《あり》が|困《こま》りますよ。サアサア|二人《ふたり》の|衣類《きもの》も|胡魔化《ごまくわ》して|剥《む》いたから、|貴方《あなた》は|男《をとこ》の|方《はう》をお|着《つ》けなさい。|妾《わたし》は|嫌《いや》だけれど|阿魔女《あまつちよ》の|方《はう》を|暫時《ざんじ》|着《き》てやりますワ、|何《なん》と|知恵《ちゑ》ほど|世《よ》に|尊《たふと》いものがあらうか、|杢助《もくすけ》さま、|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》の|器量《きりやう》はちと|分《わか》りましたか』
『|烏賊《いか》にも、|蟹《かに》にも|蛸《たこ》にも|足《あし》は|四人前《よにんまへ》だ、ヤア|感心々々《かんしんかんしん》、お|前《まへ》の|腕前《うでまへ》には|時置師《ときおかし》の|杢助《もくすけ》も|恐《おそ》れ|入谷《いりや》の|鬼子母神《きしもじん》だ。|呆《あき》れ|蛙《がへる》の|面《つら》に|水《みづ》だ、ウフフフフ』
フクエ『もしもし|私《わたくし》を|助《たす》けて|下《くだ》さいな、あまり|殺生《せつしやう》ぢやございませぬか』
|高姫《たかひめ》|腮《あご》をしやくりながら、
『ヘン|頓馬野郎《とんまやらう》|奴《め》。それや|何《なに》を|言《い》ふのだ。|最前《さいぜん》あれだけ|丁寧《ていねい》に|引導《いんだう》を|渡《わた》しておいたぢやないか、マア|悠《ゆつく》りと|其処《そこ》に|両人《りやうにん》が|寝《ね》て|喰《くは》れてゐたらよからう、|有難《ありがた》うと|感謝《かんしや》しなさい、お|前《まへ》の|体《からだ》はたちまち|蟻ケ塔《ありがたふ》になるぞや、|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|働《はたら》いても|働《はたら》いても|喰《く》へぬ|世《よ》の|中《なか》に、|寝《ね》とつて|喰《くは》れるとは|幸福《かうふく》な|人間《にんげん》だ、オホホホホ』
と|憎《にく》らしげに|腮《あご》を|突《つ》き|出《だ》し、|尻《しり》を|三《み》つ|四《よ》つ|叩《たた》いて|一目散《いちもくさん》に|杢助《もくすけ》と|共《とも》に|船着場《ふなつば》に|馳《は》せ|帰《かへ》り、|二人《ふたり》の|繋《つな》いでおいた|小船《こぶね》に|身《み》を|任《まか》せ、|浪《なみ》なぎ|渡《わた》る|春《はる》の|湖面《こめん》を|鼻歌《はなうた》うたひながら|甘《あま》き|囁《ささや》きをつづけて|何処《いづく》ともなく|漕《こ》いで|行《ゆ》く。
(大正一五・六・二九 旧五・二〇 於天之橋立なかや旅館 加藤明子録)
第五章 |蛸船《たこぶね》〔一八一四〕
|高砂丸《たかさごまる》の|沈没《ちんぼつ》を|見《み》てその|危難《きなん》を|救《すく》ふべく、|照国別《てるくにわけ》|一行《いつかう》の|乗《の》れる|常磐丸《ときはまる》は|現場《げんば》に|馳《は》せつけ、|救《すく》ひの|綱《つな》を|投《な》げかけて|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|吾《わ》が|船《ふね》に|救《すく》ひあげてしまつた。|一同《いちどう》の|乗客《じやうきやく》は|九死《きうし》に|一生《いつしやう》を|得《え》て、|照国別《てるくにわけ》を|神《かみ》のごとく|感謝《かんしや》し|尊敬《そんけい》し、|喜《よろこ》びの|声《こゑ》は|狭《せま》き|船中《せんちう》に|湧《わ》くごとくであつた。
さしも|烈《はげ》しかりし|暴風《ばうふう》はピタリと|止《や》んで|海面《かいめん》にはかに|凪《な》ぎ|渡《わた》り、あたかも|畳《たたみ》の|上《うへ》を|辷《すべ》るごとき|光景《くわうけい》となつて|来《き》た。|救《すく》はれた|人々《ひとびと》の|中《なか》には、|一旦《いつたん》|玄真坊《げんしんばう》と|事《こと》を|共《とも》にせし|泥棒《どろばう》の|小頭分《こがしらぶん》コブライ、コオロの|両人《りやうにん》があつた。コブライ、コオロの|両人《りやうにん》は、|自分《じぶん》を|救《すく》うてくれた|船《ふね》の|中《なか》に|泰然《たいぜん》と|坐《すわ》つてゐる|玄真坊《げんしんばう》の|姿《すがた》を|見《み》て、|船《ふね》の|片隅《かたすみ》に|頭《かしら》を|鳩《あつ》め|囁《ささや》きはじめた。
コブライ『オイ、コオロ、どうやら|宣伝使《せんでんし》の|側《そば》に|神《かみ》さま|然《ぜん》と|口《くち》を【へ】の|字《じ》に|曲《ま》げて|坐《すわ》り|込《こ》んでゐる|男《をとこ》は|玄真坊《げんしんばう》ぢやなからうかのう』
コオロ『|俺《おれ》も|最前《さいぜん》から、よう|似《に》た|奴《やつ》だと|思《おも》つて|考《かんが》へてゐるのだが、なにぶん|尊《たふと》い|宣伝使《せんでんし》の|側《そば》に|虱《しらみ》の|卵見《たまごみ》たいに、しがみついて|離《はな》れぬものだから、「オイ、どうだ」と|声《こゑ》をかけるわけにも|行《ゆ》かず、|俺《おれ》の|僻目《ひがめ》ぢやなからうか、もしも|人違《ひとちが》ひではないかと|控《ひか》へてゐたが、どうもよく|似《に》てゐるやうだ。|縦《たて》から|見《み》ても|横《よこ》から|見《み》ても、|何処《どこ》から|観察《くわんさつ》しても|熟視《じゆくし》しても、|調査《てうさ》しても、|正真正銘《しやうしんしやうめい》の|玄真坊《げんしんばう》とより|思《おも》はれないぢやないか。ここで|一《ひと》つ、|歌《うた》でもよんで、|彼奴《あいつ》を|此処《ここ》へつり|出《だ》す|工夫《くふう》をしやうぢやないか』
『|一旦《いつたん》は|俺《おれ》たちに|辛《つら》い|目《め》を|見《み》せよつた|敵《かたき》だといつても、|俺《おれ》の|命《いのち》を|助《たす》けてくれた|仲間《なかま》だから、あつて|過《す》ぎた|事《こと》はモウ|忘《わす》れやうぢやないか。|過越苦労《すぎこしくらう》は|禁物《きんもつ》だと|三五教《あななひけう》でも|教《をし》へてるからのう』
『なに、|彼奴《あいつ》が|玄真坊《げんしんばう》とすれや、|旧悪《きうあく》の|露顕《ろけん》を|恐《おそ》れて|俺《おれ》たちを|助《たす》けるものかい。キツと|俺《おれ》たちア|水《みづ》を|呑《の》んで|誰《たれ》に|助《たす》けてもらつたか|夢現《ゆめうつつ》で|分《わか》らなかつたが、|彼奴《あいつ》に|助《たす》けてもらつた|気《き》づかひは|毛頭《まうとう》なからうよ。もし|玄真坊《げんしんばう》が|俺《おれ》たちと|見《み》たならば、|助《たす》けるふりして|水《みづ》の|中《なか》へ|投《はう》り|込《こ》んだに|違《ちが》ひない。とにかく、|俺《おれ》たち|二人《ふたり》は|玄真坊《げんしんばう》にとつては、|非常《ひじやう》の|邪魔物《じやまもの》で|目《め》の|上《うへ》の|瘤《こぶ》だからのう』
『|如何《いか》にも、そらさうだ。|彼奴《あいつ》に|助《たす》けてもらつたのでないとすれや、|何《なに》も|憚《はばか》る|事《こと》はない。ここで|一《ひと》つ、|彼奴《あいつ》の|旧悪《きうあく》を|歌《うた》つて|宣伝使《せんでんし》さまに|訴《うつた》へやうぢやないか』
『そんなら|俺《おれ》が|一口《ひとくち》|言《い》ふから、あと|又《また》お|前《まへ》が|一口《ひとくち》|歌《うた》へ、|俺《おれ》が|一口《ひとくち》お|前《まへ》が|一口《ひとくち》、|交《かは》り|代《がは》りに|歌《うた》ひさへすれや|片見怨《かたみうら》みがなくて|可《い》いだらう。サア|始《はじ》めるぞ』
と|言《い》ひながら、|少《すこ》しばかり|立膝《たてひざ》をして、|玄真坊《げんしんばう》の|面《つら》を|睨《にら》みつけながら|歌《うた》ひはじめた。
コブ『ここは|名《な》に|負《お》ふハルの|海《うみ》』
コオ『ヨーイヨーイ ヨイトサヨイトサ』
『|往来《ゆきき》の|船《ふね》も|沢山《たくさん》に  |竿舵《さをかぢ》|干《ほ》さず|続《つづ》いてる』
『ヨーイヨーイ ヨイトサヨイトサ』
『|高砂丸《たかさごまる》に|乗《の》り|込《こ》んで  ドテライ|時化《しけ》に|出会《でつくは》し
|船《ふね》は|忽《たちま》ち|転覆《てんぷく》し  |水《みづ》に|流《なが》されブクブクと
すでに|土左衛門《どざゑもん》となりかけた』
『ヨーイヨーイ ヨイトサヨイトサ』
『オイ、|後《あと》はお|前《まへ》の|番《ばん》だ、|俺《おれ》が|囃役《はやしやく》だ』
『ヨシヨシこれからが|正念場《しやうねんば》だ、シツカリ|囃《はや》せよ。
|天道《てんだう》は|人《ひと》を|殺《ころ》さない  |救《すく》ひの|船《ふね》が|現《あら》はれて
|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|常磐丸《ときはまる》  |助《たす》けて|下《くだ》さつた|有難《ありがた》さ』
『ヨーイヨーイ ヨイトサヨイトサ』
『|中《なか》に|一《ひと》つの|不思議《ふしぎ》さは  |人並《ひとな》み|勝《すぐ》れた|大男《おほをとこ》
|天下無双《てんかむさう》の|貴婦人《きふじん》と  |海《うみ》に|飛《と》び|込《こ》み|忽《たちま》ちに
|虎《とら》か|獅子《しし》かといふやうな  |怪体《けつたい》な|姿《すがた》を|現《あら》はして
|荒波《あらなみ》かき|別《わ》けブクブクと  |逃《に》げて|行《い》つたのが|面白《おもしろ》い
こいつア|又《また》どうしたものだらう  |狐《きつね》|狸《たぬき》の|化《ば》けたのと
|一緒《いつしよ》に|船《ふね》に|乗《の》りしため  あのやうな|時化《しけ》に|会《あ》うたのか』
『ヨーイヨーイ ヨイトサヨイトサ』
『それは|如何《どう》でもよいとして  |肝腎要《かんじんかなめ》の|生命《いのち》をば
|助《たす》けてもらうた|嬉《うれ》しさに  |感謝《かんしや》の|歌《うた》を|歌《うた》ひませう
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |照国別《てるくにわけ》とかいふお|方《かた》
|吾《わ》が|身《み》の|危難《きなん》を|顧《かへり》みず  |伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|荒波《あらなみ》を
|物《もの》ともせずに|乗《の》りきつて  |危《あや》ふき|人《ひと》の|生命《せいめい》を
|守《まも》らせ|玉《たま》ふは|生神《いきがみ》か  ただしは|神《かみ》の|御化身《ごけしん》か
お|礼《れい》は|言葉《ことば》に|尽《つく》されぬ  |幾重《いくへ》も|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る』
『ヨイヨイ ヨイトサヨイトサ』
『それに|一《ひと》つの|不思議《ふしぎ》さは  オーラの|山《やま》に|立籠《たてこも》り
|世人《よびと》を|欺《あざむ》く|星下《ほしくだ》し  |怪体《けたい》な|芸当《げいたう》|演《えん》じたる
|贋天帝《にせてんてい》の|贋化身《にせけしん》  |天下《てんか》|唯一《ゆゐいつ》の|贋救主《にせきうしゆ》
|玄真坊《げんしんばう》のデレ|助《すけ》が  すました|顔《かほ》して|乗《の》つてゐる
こんな|汚《けが》れた|身魂《みたま》|奴《め》が  ハルの|湖原《うなばら》|渡《わた》りなば
|又《また》もや|竜神《りうじん》|腹《はら》|立《た》てて  |荒風《あらかぜ》|起《おこ》し|浪《なみ》|立《た》てて
|舟《ふね》を|覆《かへ》すに|違《ちが》ひない  |思《おも》へば|思《おも》へば|恐《おそ》ろしや
|悪魔《あくま》の|権化《ごんげ》の|玄真坊《げんしんばう》  オーラの|山《やま》を|失敗《しくじ》つて
|谷蟆山《たにぐくやま》に|迷《まよ》ひ|込《こ》み  スガの|港《みなと》のダリヤ|姫《ひめ》
|手《て》ごめにせむと|息捲《いきま》きつ  きつい|肱鉄《ひぢてつ》|喰《く》はされて
|性懲《しやうこ》りもなく|附《つ》け|狙《ねら》ふ  |蛙《かはづ》の|面《つら》に|水《みづ》とやら
|恥《はぢ》を|知《し》らない|売僧坊主《まいすばうず》  タラハン|城《じやう》へと|乗《の》り|込《こ》んで
|左守《さもり》の|司《かみ》に|駄々《だだ》をこね  |無理難題《むりなんだい》を|吹《ふ》きかけて
しこまた|金《かね》を|奪《うば》ひとり  |追手《おつて》に|追《お》はれてドンブリと
|深谷川《ふかたにがは》に|身《み》を|沈《しづ》め  |一度《いちど》は|幽冥旅行《いうめいりよかう》まで
やつて|来《こ》よつた|曲者《くせもの》よ  |又《また》もや|娑婆《しやば》に|舞《ま》ひ|戻《もど》り
|吾々《われわれ》|二人《ふたり》を|誑《たぶら》かし  |千草《ちぐさ》の|姫《ひめ》とかいふ|奴《やつ》に
うつつを|抜《ぬ》かし|巾着《きんちやく》を  しめて|殺《ころ》されたりと|聞《き》く
その|糞坊主《くそばうず》が|泰然《たいぜん》と  |常磐《ときは》の|丸《まる》に|坐《すわ》り|込《こ》み
|横柄面《わうへいづら》を|下《さ》げよつて』
『ヨイヨイ ヨイトサヨイトサ』
『すましてけつかる|憎《にく》らしさ  これこれまうし|宣伝使《せんでんし》
|怪体《けたい》な|奴《やつ》が|居《を》りまする  |其奴《そいつ》は|油断《ゆだん》がなりませぬ
|女《をんな》と|見《み》たら|娘《むすめ》でも  |人《ひと》の|女房《にようばう》でもかまはない
|目尻《めじり》を|下《さ》げて|涎《よだれ》くり  ものに|致《いた》さなおかぬ|奴《やつ》
|彼奴《あいつ》が|船《ふね》に|居《を》るかぎり  この|船中《せんちう》の|御一同《ごいちどう》
|懐中《くわいちう》|用心《ようじん》なさいませ  |私《わたし》も|一度《いちど》は|泥棒《どろばう》の
|仲間《なかま》に|這入《はい》つた|事《こと》あれど  |改心《かいしん》いたした|其《そ》の|上《うへ》は
|決《けつ》して|後《あと》へは|戻《もど》らない  これこれこの|通《とほ》り|修験者《しうげんじや》
|蓑笠《みのかさ》つけてをりまする  |人《ひと》の|門戸《もんこ》に|立《た》ちながら
お|経《きやう》を|読《よ》んで|世《よ》を|渡《わた》る  |改心組《かいしんぐみ》の|吾々《われわれ》は
|決《けつ》して|心配《しんぱい》|要《い》りませぬ』
『ヨイヨイ ヨイトサヨイトサ』
『|彼処《あそこ》にけつかる|糞坊主《くそばうず》  |天帝《てんてい》の|化身《けしん》と|化《ば》け|込《こ》んで
|人《ひと》をたばかる|大泥棒《おほどろばう》  |重《かさ》ねて|懐中物《くわいちうぶつ》|御用心《ごようじん》
|命《いのち》|助《たす》けて|貰《もら》ひました  お|礼《れい》に|宣伝使《せんでんし》に|玄真坊《げんしんばう》
ありし|昔《むかし》の|悪行《あくかう》を  |根《ねつ》から|葉《はつ》から|曝《さら》け|出《だ》し
|謹《つつし》み|訴《うつた》へ|奉《たてまつ》る  |天地《てんち》の|神《かみ》も|御照覧《ごせうらん》
コブライ コオロの|申《まを》すこと  |決《けつ》して|偽《いつは》りありませぬ
お|礼《れい》に|気《き》をつけおきまする  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
『ヨイヨイ ヨイトサヨイトサ』
|玄真坊《げんしんばう》はたまりかねてや、ツカツカと|座《ざ》を|立《た》つて|二人《ふたり》の|側《そば》に|寄《よ》り|添《そ》ひ、|言葉《ことば》も|低《ひく》う|丁寧《ていねい》に、
『ヤア、コオロさまに、コブライさま、まづまづ|御壮健《ごさうけん》でお|目出《めで》たう。イヤモウ、キツウ|膏《あぶら》を|皆《みな》さまの|前《まへ》でとられました。もうこの|辺《へん》でどうか|御勘弁《ごかんべん》を|願《ねが》いたいものですな』
コブ『ヘン……これくらゐで|御勘弁《ごかんべん》が|願《ねがひ》いたいものですな……ソラ、ナーン|吐《ぬ》かしてけつかる。これや|貴様《きさま》、|俺《おれ》をえらい|目《め》に|遭《あ》はした|事《こと》は|覚《おぼ》えてゐるだらうな。サアこれから|貴様《きさま》の|生首《なまくび》を|引《ひ》つこ|抜《ぬ》いてチツと|不恰好《ぶかつかう》だけど、|煙草入《たばこいれ》の|根付《ねつけ》にしてやるから、|因果腰《いんぐわごし》を|定《き》めてをれ。のうコオロ、さうでもせぬと、|腹《はら》の|虫《むし》が|承知《しようち》せぬぢやないか』
コオ『ウンそらさうだとも、こんな|奴《やつ》を|助《たす》けてたまるものか。|此奴《こいつ》の|所在《ありか》をどこまでも|探《さが》し|出《だ》して、|怨《うら》みをはらさにやおかぬと、|修験者《しゆげんじや》とまでなり|下《さが》つてをつたのだもの、|今日《こんにち》|会《あ》つたのは|優曇華《うどんげ》の|花《はな》|咲《さ》く|春《はる》に|会《あ》つたやうなものだ。サア|玄真坊《げんしんばう》、|返答《へんたふ》はドドドドどうだい』
と|握《にぎ》り|拳《こぶし》で|胸《むね》を|三《み》つ|四《よ》つ|打《う》ちながら|雄猛《をたけ》びする|其《そ》の|可笑《をか》しさ。|蠑〓《いもり》が|井戸《ゐど》の|底《そこ》から|放《はう》り|上《あ》げられて、|踊《をど》つてゐるやうなスタイルである。
|玄真坊《げんしんばう》『ヤア|本当《ほんたう》に|悪《わる》かつた、|済《す》まなかつた。|然《しか》しながらこれも|因縁《いんねん》づくぢやと|見直《みなほ》し、|聞直《ききなほ》し、どうぞ|俺《わし》の|罪《つみ》を|許《ゆる》してくれ。|俺《おれ》もな、スツカリ|改心《かいしん》して|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》のお|弟子《でし》となつたのだから、|俺《おれ》に|指《ゆび》|一本《いつぽん》|触《さ》えてもヤツパリ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》に|御無礼《ごぶれい》した|事《こと》になるのだからのう』
コブ『ヘン、|虎《とら》の|威《ゐ》をかる|野良狐《のらぎつね》|奴《め》が、うまく、ぬけやうとしても、|玩具《おもちや》の|脇差《わきざし》だ、ぬきさしならないぞ。サアこれから|荒料理《あられうり》だ。オイ、コオロ、この|船中《せんちう》の|無聊《むれう》を|慰《なぐさ》むるために、チツと|古《ふる》いけれど|蛸《たこ》|一匹《いつぴき》|料理《れうり》して、|皆《みな》さまにお|目《め》にかけやうぢやないか』
コオ『|航路《かうろ》の|安全《あんぜん》を|祈《いの》るため|竜神《りうじん》さまにこの|蛸《たこ》を|料理《れうり》して、お|供《そな》へするのも|信心《しんじん》の|一《ひと》つだ。|又《また》あんな|時化《しけ》がくると|叶《かな》はないからのう、イツヒヒヒヒ|小気味《こぎみ》のいい|事《こと》だワイ』
|玄真《げんしん》『オイ、コブライ、コオロの|両人《りやうにん》、|本真剣《ほんしんけん》に|俺《おれ》を|料理《れうり》するつもりか、エー、それなら、それで|此方《こちら》にも|一《ひと》つの|覚悟《かくご》がある。|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》の|三五教《あななひけう》に|入信《にふしん》した|俺《おれ》だけど、|正当防衛《せいたうばうゑい》は|許《ゆる》されてあるから、|小泥棒《こどろぼう》の|一匹《いつぴき》や|二匹《にひき》、ばらすくらゐ|何《なん》の|手間隙《てまひま》|要《い》るものか。サア|見事《みごと》|相手《あひて》になるならなつて|見《み》よ』
と|団栗眼《どんぐりまなこ》をむき|出《だ》し|仁王立《にわうだ》ちになつて|船底《ふなそこ》に|四股《しこ》を|踏鳴《ふみな》らしてゐる。コオロ、コブライの|両人《りやうにん》は、
『なに、|猪口才《ちよこざい》な、|売僧坊主《まいすばうず》』
と|言《い》ふより|早《はや》く、|一人《ひとり》は|首《くび》つ|玉《たま》に|喰《くら》ひつき、|一人《ひとり》は|足《あし》を|引《ひ》つ|攫《さら》へ、せまい|船《ふね》の|中《なか》で|転《こ》けつ|輾《まろ》びつ|一場《いちぢやう》の|活劇《くわつげき》を|演《えん》じ|出《だ》した。
|照国別《てるくにわけ》は|此《こ》の|体《てい》を|見《み》るより、
『|争《あらそ》ひは|枉津《まがつ》の|神《かみ》の|仕業《しわざ》ぞや
|静《しづ》かなるこそ|神《かみ》の|御心《みこころ》
|憎《にく》まれて|憎《にく》み|返《かへ》すは|枉神《まがかみ》の
|醜《しこ》の|業《わざ》なり|畏《おそ》れつつしめ
よき|事《こと》と|悪《あ》しき|事柄《ことがら》|行《ゆ》き|交《か》ひて
この|世《よ》の|中《なか》は|開《ひら》け|行《ゆ》くなり』
コオロ、コブライの|二人《ふたり》はこの|歌《うた》を|聞《き》くより、パツと|手《て》を|放《はな》せば|玄真坊《げんしんばう》は|鼻汁《はな》をすすりながらヤツとのことで|起《お》き|上《あ》がり、
『|有難《ありがた》し|照国別《てるくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》の
|生言霊《いくことたま》に|命《いのち》|拾《ひろ》ひぬ
コブライやコオロの|君《きみ》に|殴《なぐ》られて
|罪《つみ》|消《き》えなむと|思《おも》へば|嬉《うれ》し』
コオ『|吾《わ》が|命《いのち》|助《たす》け|玉《たま》ひし|師《し》の|君《きみ》の
|厳言霊《いづことたま》に|反《そむ》くよしなし』
コブ『|憎《にく》い|奴《やつ》とは|思《おも》へども|宣伝使《せんでんし》
|待《ま》てとの|声《こゑ》に|力《ちから》|抜《ぬ》けたり』
|照国《てるくに》『|争《あらそ》ひの|雲《くも》も|漸《やうや》く|晴《は》れ|行《ゆ》きて
|誠《まこと》のかがみ|照《て》るぞ|目出《めで》たき』
|照公《てるこう》『|不思議《ふしぎ》なる|神《かみ》の|助《たす》けに|会《あ》ひながら
なほも|争《あらそ》ふ|人心《ひとごころ》かな』
|梅公《うめこう》『ただ|人《びと》の|心《こころ》は|広《ひろ》く|押《お》し|並《な》べて
|今《いま》|目《め》の|前《まへ》に|三人《みたり》の|姿《すがた》よ
|晴《は》れてまた|曇《くも》る|五月《さつき》の|大空《おほぞら》に
さも|似《に》たるかな|人《ひと》の|心《こころ》は』
|梅公別《うめこうわけ》は|照国別《てるくにわけ》に|少時《しばし》の|暇《いとま》を|乞《こ》ひ、|救《すく》ふべき|人《ひと》ありと|言挙《ことあ》げしながら|浜辺《はまべ》の|町《まち》に|舟《ふね》を|横《よこ》たへ、|一先《ひとま》づ|上陸《じやうりく》し、|更《さら》に|小舟《こぶね》を|借《か》り|受《う》け、|湖中《こちう》に|浮《うか》ぶ|太魔《たま》の|島《しま》を|指《さ》して|艪《ろ》を|操《あやつ》りながら|別《わか》れ|行《ゆ》く。
|常磐丸《ときはまる》は|順風《じゆんぷう》に|帆《ほ》を|上《あ》げながらスガの|港《みなと》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一五・六・二九 旧五・二〇 於天之橋立なかや別館 北村隆光録)
第六章 |夜鷹姫《よたかひめ》〔一八一五〕
|妖幻坊《えうげんばう》、|高姫《たかひめ》の|二人《ふたり》は|太魔《たま》の|島《しま》に|繋《つな》いであつた|小船《こぶね》を|失敬《しつけい》し、|四五町《しごちやう》ばかり|湖上《こじやう》を|進《すす》んだをりしも、|矢《や》を|射《い》るごとく|一艘《いつさう》の|小船《こぶね》|此方《こなた》を|指《さ》して|馳《は》せ|来《き》たるに|出会《でくは》した。|高姫《たかひめ》は|目敏《めざと》くもその|船《ふね》を|見《み》てハツと|胸《むね》を|轟《とどろ》かせながら、|顔色《かほいろ》を|紅《くれなゐ》に|染《そ》めた。|妖幻坊《えうげんばう》はこの|体《てい》を|見《み》るよりやや|不審《ふしん》を|懐《いだ》き、
『|改《あらた》めて|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》|様《さま》、いや|女帝様《によていさま》、|凄《すご》い|御腕前《おんうでまへ》にはこの|杢助《もくすけ》、|驚愕《きやうがく》いな|感激《かんげき》|仕《つかまつ》りました。|帰命頂礼《きめうちやうらい》|謹請再拝《ごんじやうさいはい》|謹請再拝《ごんじやうさいはい》』
|高《たか》『これはしたり、|杢助様《もくすけさま》、|妙《めう》な|事《こと》を|仰《おつ》しやいますね、|何《なに》をそれほど|感激《かんげき》なさつたのですか。|他人行儀《たにんぎやうぎ》に|改《あらた》まつて|謹請再拝《ごんじやうさいはい》だなんて、よい|加減《かげん》に|揶揄《からか》つておいて|下《くだ》さいな』
|妖《えう》『|忍《しの》ぶれど|色《いろ》に|出《で》にけり|吾《わ》が|恋《こひ》は
|物《もの》や|思《おも》うと|人《ひと》の|問《と》ふまで
といふ|百人一首《ひやくにんいつしゆ》の|歌《うた》を、お|前《まへ》|知《し》つてゐるのだらう』
『ヘン、|馬鹿《ばか》にして|下《くだ》さいますな、そんな|歌《うた》ぐらゐよう|知《し》つてゐますよ、それが|一体《いつたい》|何《なん》だと|仰有《おつしや》るのです、|怪体《けつたい》の|事《こと》を|言《い》ふぢやありませぬか』
『お|前《まへ》は|今《いま》|彼処《あすこ》へやつて|来《き》た|一艘《いつそう》の|船《ふね》の|若者《わかもの》を|見《み》て、|顔《かほ》を|紅葉《もみぢ》に|染《そ》めたぢやないか、お|前《まへ》の|寝《ね》ても|醒《さ》めても|忘《わす》れる|事《こと》の|出来《でき》ない|恋人《こひびと》に|相違《さうゐ》あるまいがな、さうだから|凄《すご》いお|腕前《うでまへ》だと|言《い》つたのだ』
『|何《なん》の|事《こと》かと|思《おも》へばまた|嫉《や》いてゐるのですか、|水《みづ》の|上《うへ》で|妬《や》くのも|余《あま》り|気《き》が|利《き》かぬぢやありませぬか。サ、そんな|気《き》の|利《き》かぬ|事《こと》を|言《い》はないで|艪《ろ》を|操《あやつ》つて|下《くだ》さいな』
『|艪《ろ》を|操《あやつ》るより|実《じつ》はあの|男《をとこ》の|艶福家《えんぷくか》に【あやかり】たいのだ。トルマン|城《じやう》の|王妃《わうひ》の|君《きみ》、|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》さまに|思《おも》はれた|天下《てんか》|唯一《ゆゐいつ》の|美男子《びだんし》だからなア。|俺《おれ》のやうな|虎《とら》とも|獅子《しし》とも|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|毛《け》の|深《ふか》い|男《をとこ》と|一緒《いつしよ》に|暮《くら》すよりも、|縮緬《ちりめん》のやうな|肌《はだ》をした|若《わか》い|男《をとこ》と|同棲《どうせい》した|方《はう》が、どのくらゐ|世《よ》の|中《なか》が|楽《たの》しいか|分《わか》らないからのう。いや|醜男《ぶをとこ》には|生《うま》れて|来《き》たくないものだ』
『それや|何《なに》を|仰有《おつしや》います、よい|加減《かげん》に|妾《わたし》を|虐《いぢ》めておいて|下《くだ》さいませ』
『|本当《ほんたう》に、お|前《まへ》はあの|男《をとこ》を|知《し》らぬと|言《い》ふのか』
『|絶対《ぜつたい》に|知《し》らない|事《こと》は|知《し》らないと|言《い》ふより|外《ほか》に|道《みち》はありませぬもの』
『|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》、|底《そこ》つ|岩根《いはね》の|大《おほ》ミロク|様《さま》の|身魂《みたま》は、|決《けつ》して|嘘《うそ》は|言《い》はないでせうね』
『|勿論《もちろん》の|事《こと》です』
『そんなら|此処《ここ》で|一《ひと》つお|前《まへ》と|約束《やくそく》しやう、お|前《まへ》が|知《し》つてゐるかゐないか、あの|船《ふね》を|追《お》つかけてあの|若者《わかもの》に|会《あ》はして|見《み》やう。もし、|向《む》かふの|方《はう》からお|前《まへ》の|顔《かほ》を|見《み》て|何《なん》とか|言《い》つたら|決《けつ》して|知《し》らぬとは|言《い》はさないからな。|関係《くわんけい》のない|男女《だんぢよ》には|言葉《ことば》を|交《かは》さないのがこの|国《くに》の|規則《きそく》だ。|又《また》ただ|一度《いちど》でも|関係《くわんけい》したら、|内証《ないしよう》でも|言葉《ことば》をかけなければならぬ|規則《きそく》だから、どうだ|高姫《たかひめ》、|知《し》らぬと|言《い》ふなら|調《しら》べて|見《み》やうか』
『なんとマア|嫉妬心《しつとしん》の|深《ふか》い|執念深《しふねんぶか》い|人《ひと》だこと、もうそんな|事《こと》は|水《みづ》に|流《なが》して|一時《いちじ》も|早《はや》うスガの|港《みなと》に|行《ゆ》かうぢやありませぬか』
『お|前《まへ》がさう|言《い》へば|言《い》ふほど|私《わし》の|疑《うたが》ひが|増《ま》して|来《く》るばかりだ。もしお|前《まへ》に|関係《くわんけい》があつたとすれや|如何《どう》してくれる。サアそれから|定《き》めておこう』
『さう|疑《うたが》はれちや|行《や》り|切《き》れませぬから、あなたの|御勝手《ごかつて》に|調《しら》べて|下《くだ》さい、さうしたらきつと|疑《うたが》ひが|晴《は》れるでせう。|妾《わたし》の|身《み》は|晴天白日《せいてんはくじつ》ですからなア』
『よし、おい|出《で》た。サアこれからが|化《ば》けの|皮《かは》の|現《あら》はれ|時《とき》ぢや、|高姫《たかひめ》さま、|確《しつか》りなさいませや』
『|何《なん》なと|仰有《おつしや》いませ、その|代《かは》りあの|男《をとこ》と|妾《わたし》と|関係《くわんけい》が|無《な》かつたといふ|事《こと》が|分《わか》つたら、どうしてくれますか』
『ハハハどうするもかうするもない、|分《わか》つたらお|前《まへ》も|疑《うたが》ひが|晴《は》れて|結構《けつこう》だらうし、|俺《おれ》も|嫉妬心《しつとしん》がとれて|大慶《たいけい》だ。|万々一《まんまんいち》|俺《おれ》の|言《い》ふ|事《こと》が|違《ちが》つたら、|今後《こんご》どんな|事《こと》でもお|前《まへ》の|言《い》ふことに|絶対服従《ぜつたいふくじう》を|誓《ちか》つておく。しかし|俺《おれ》が|勝《か》つたら、どんな|事《こと》でもお|前《まへ》は|俺《おれ》の|無理難題《むりなんだい》を|聞《き》くだらうなア』
『【あも|屋《や》】の|喧嘩《けんくわ》で、|餅論《もちろん》ですワ』
「よし|面白《おもしろ》い」と|言《い》ひながら|妖幻坊《えうげんばう》は|船首《せんしゆ》を|廻《まは》し、|一艘《いつそう》の|船《ふね》を|目当《めあて》に|追《お》つかけて|行《ゆ》く。|一艘《いつそう》の|船《ふね》は|自分《じぶん》の|現在《げんざい》|盗《と》つて|来《き》た|船《ふね》の|繋《つな》いであつた|場所《ばしよ》へと|横《よこ》づけとなつた。|妖幻坊《えうげんばう》は「オーイ オーイ」と|熊谷《くまがひ》もどきに|呼《よ》ばはりながら|早《はや》くも|岸辺《きしべ》についた。|梅公別《うめこうわけ》は|二人《ふたり》の|姿《すがた》をつくづく|眺《なが》めながら、
『ヤア、|誰《たれ》かと|思《おも》へば|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》さまでござつたか、|其《そ》の|後《ご》は|打《う》ち|絶《たえ》て|御無沙汰《ごぶさた》いたしました。あなたのお|居間《ゐま》でグツスリと|寝《ね》さしてもらひ、いかい|失礼《しつれい》をいたしましたが、ますますお|達者《たつしや》でお|目出《めで》たう、|見《み》れば|立派《りつぱ》なお|婿《むこ》さまをお|貰《もら》ひなさつたやうですね。|私《わたくし》とても|万更《まんざら》|他人《たにん》ではありますまい。しかし|女《をんな》といふものはよう|気《き》の|変《かは》るものですね。どうか|私《わたくし》の|時《とき》のやうに、|気《き》の|変《かは》らないやうに、|今度《こんど》の|婿《むこ》さまを|大切《たいせつ》にして|上《あ》げて|下《くだ》さいや。かう|言《い》うても|私《わたし》は|貴女《あなた》に|再縁《さいえん》を|迫《せま》るやうな|事《こと》もありませぬから|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませや。さうしてお|二人《ふたり》お|揃《そろ》ひで|此《こ》の|島《しま》へ|何《なん》の|御用《ごよう》でお|出《いで》ですか』
|高姫《たかひめ》『これはこれは|何処《どこ》の|方《かた》かは|知《し》りませぬが、|人違《ひとちが》ひをなさるも|程《ほど》がある。なるほど|妾《わたし》は|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》に|間違《まちが》ひはありませぬが、|広《ひろ》い|世界《せかい》には|同《おな》じ|顔《かほ》をした|女《をんな》もあり、|同《おな》じ|名《な》の|女《をんな》もあるでせう、そんな|事《こと》を|言《い》うてもらうと|夫《をつと》ある|妾《わたし》、|大変《たいへん》に|迷惑《めいわく》いたします』
|梅公《うめこう》『|高姫《たかひめ》さま|呆惚《とぼ》けちやいけませぬよ、|人違《ひとちが》ひするやうな|老眼《らうがん》でもなし、|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なく|夢《ゆめ》にまで|貴女《あなた》の|姿《すがた》を|見《み》て|探《さが》してゐる|私《わたし》、どうして|間違《まちが》へる|気遣《きづか》ひがありませうか』
|妖幻坊《えうげんばう》は|面色《めんしよく》|朱《しゆ》を|注《そそ》ぎ|身体《しんたい》|一面《いちめん》|慄《ふる》はせながら、|高姫《たかひめ》と|梅公《うめこう》をグツと|睨《ね》めつけ、
『これや、そこな|青二才《あをにさい》|奴《め》、|誰《たれ》に|断《こと》わつて|俺《おれ》の|大切《だいじ》の|女房《にようばう》と|何々《なになに》しやがつたか、サ、その|理《わけ》を|聞《き》かせ、|返答次第《へんたふしだい》によつては|容赦《ようしや》は|罷《まか》りならぬぞ。これや|女帝《によてい》、いや|阿魔奴《あまつちよ》、|夜鷹《よたか》、|辻君《つじぎみ》、|惣嫁《そうか》、|十銭《じつせん》、|下等内侍《かとうないじ》、|蓆敷《むしろしき》|奴《め》が、|八尺《はつしやく》の|男子《だんし》を|今《いま》まで|馬鹿《ばか》にしよつたな、サアこの|裁《さば》きを|確《しつか》りと|付《つ》けてもらひませうかい』
|高《たか》『これ|杢助《もくすけ》さま、|辻君《つじぎみ》だの、|十銭《じつせん》だの、|蓆敷《むしろしき》だの、あまり|情《なさ》けないお|言葉《ことば》ぢやありませぬか、|妾《わたし》こそ|全《まつた》く|知《し》らないのですもの。|此《こ》の|人《ひと》は|妾《わたし》の|美貌《びばう》を|見《み》て|精神《せいしん》が|錯乱《さくらん》したのでせう、さうでなければ|見《み》ず|知《し》らずの|妾《わたし》を|見《み》て、こんな|事《こと》を|言《い》ふ|道理《だうり》がありませぬもの』
|妖《えう》『マアこの|青二才《あをにさい》はこの|島《しま》に|置《お》いておきや|逃《に》げる|気遣《きづか》ひはない、その|代《かは》り|此《こ》の|借船《かりぶね》は|預《あづ》かつておく』
と|確《しつか》りと|自分《じぶん》の|船尻《ふなじり》に|縛《くく》りつけ、|二三町《にさんちやう》ばかり|沖《おき》へ|漕《こ》ぎ|出《だ》し、
『サア、|夜鷹《よたか》さま、かうなつちや|此方《こつち》のものだ。|本当《ほんたう》の|事《こと》を|言《い》うてもらひませうかい』
|高姫《たかひめ》は|進退《しんたい》これ|谷《きは》まり、|隠《かく》すにも|隠《かく》されず|虚実《きよじつ》|取混《とりま》ぜて|覚束《おぼつか》なくも|白状《はくじやう》をする。
|高《たか》『|前《ぜん》|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|救世主《きうせいしゆ》、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|三羽烏《さんばがらす》の|御一人《ごいちにん》、|第一霊国《だいいちれいごく》の|御天人様《ごてんにんさま》、|曲輪《まがわ》の|術《じゆつ》に|妙《めう》を|得《え》たる|天下無双《てんかむさう》の|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》、|縦《たて》から|見《み》ても|横《よこ》から|見《み》ても、|頭《あたま》から|見《み》ても、|尻《しり》から|見《み》ても、|何処《どこ》に|一所《ひととこ》|穴《あな》のない|吾《わ》が|夫様《つまさま》、その|御慧眼《ごけいがん》には|遉《さすが》の|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》も|感嘆《かんたん》の|舌《した》を|捲《ま》かざるを|得《え》ませぬワ』
|妖《えう》『|何《なん》だ、|長《なが》たらしい|俺《おれ》の|名《な》を|並《なら》べやがつて、|機嫌《きげん》を|取《と》らうと|思《おも》つたつて|其《そ》の|手《て》に|乗《の》るものか、|善言美詞《ぜんげんびし》も|時《とき》と|場所《ばしよ》によるぞ。|阿婆摺《あばず》れ|阿魔奴《あまつちよ》、そんな|追従《つゐしよう》は|聞《き》きたくない。|貴様《きさま》の|恋人《こひびと》に|間違《まちが》ひはなからうがな、|女《をんな》なら|女《をんな》らしくあつさりと|白状《はくじやう》しろ』
|高《たか》『エエもうかうなれや|破《やぶ》れかぶれだ。サア|私《わたし》をどうなとして|下《くだ》さいませ、お|前《まへ》さまに|捨《す》てられちや、もはや|此《この》|世《よ》に|生《い》き|甲斐《がひ》もありませぬから、|覚悟《かくご》を|決《き》めました。サア、|早《はや》う|殺《ころ》しなさい』
と|糞度胸《くそどきやう》を|据《す》ゑて、もたれかかる。
|妖《えう》『それほど|殺《ころ》して|欲《ほ》しけれや、|敢《あへ》て|遠慮《ゑんりよ》はしない|覚悟《かくご》だが、しかしお|前《まへ》を|殺《ころ》すと|忽《たちま》ち|困《こま》るのは|俺《おれ》だ。お|前《まへ》の|美貌《びばう》を|種《たね》に|一芝居《ひとしばゐ》|打《う》たにやならぬからのう』
|高《たか》『ホホホホホ、それやさうでせうとも、ねえ|貴方《あなた》、どうして|此《こ》の|可愛《かはい》い|女房《にようばう》に|刃《やいば》が|当《あ》てられませう。そこが|人情《にんじやう》の|美《うつく》しいところ、|見上《みあ》げたるお|志《こころざし》、ますます|好《す》きになつて|来《き》ましたワ』
『エエ|馬鹿《ばか》にさらすない、すべた|阿女《あま》|奴《め》。それよりも|約束《やくそく》を|履行《りかう》して|何《なん》でも|俺《おれ》の|言《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いてもらはうかい』
『ハイ|何《なん》なりと|聞《き》きませう、お|前《まへ》さまが|死《し》ねと|仰有《おつしや》つても|嫌《いや》とは|言《い》ひませぬ、(|低《ひく》い|声《こゑ》)ことはないけど、マアマア|何《なん》でも|聞《き》きますから|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さい』
『そんなら|俺《おれ》に|誠意《せいい》を|現《あら》はすため、あの|男《をとこ》を|甘《うま》くちよろまかして|魔《ま》の|森《もり》へ|甘《うま》く|放《はう》り|込《こ》んでくれ。さうすれや|彼奴《あいつ》は|蟻《あり》や|蜘蛛《くも》に|命《いのち》を|奪《と》られてしまふから、|俺《おれ》もお|前《まへ》に|尻《しり》を|振《ふ》られる|心配《しんぱい》もなし、|夜《よ》の|目《め》も|楽《らく》に|寝《ね》られるといふものだ。どうだ|得心《とくしん》か……|黙《だま》つて|返事《へんじ》をせぬのは|嫌《いや》と|吐《ぬか》すのか』
|高《たか》『イエイエ、|決《けつ》して|決《けつ》して|嫌《いや》とは|申《まを》しませぬ、|夫《をつと》のためになる|事《こと》なら、どんな|事《こと》でも|命《いのち》を|的《まと》に|決行《けつかう》して|御覧《ごらん》に|入《い》れませう、サア|早《はや》く|船《ふね》をつけて|下《くだ》さい』
|妖幻坊《えうげんばう》は「お|手並《てな》み|拝見《はいけん》」と|言《い》ひながら、|梅公別《うめこうわけ》の|上陸《じやうりく》した|地点《ちてん》に|引返《ひきかへ》し|見《み》れば、|梅公《うめこう》は|二人《ふたり》の|様子《やうす》の|唯《ただ》ならぬに|気《き》を|揉《も》み、|万々一《まんまんいち》|大喧嘩《おほげんくわ》でも|湖上《こじやう》でおつ|始《ぱじ》めよつたら、|忽《たちま》ち|湖中《こちう》に|飛《と》び|込《こ》み|二人《ふたり》の|危急《ききふ》を|救《すく》はむと、じつと|様子《やうす》を|見《み》てゐたのである。|雲《くも》|突《つ》くばかりの|妖幻坊《えうげんばう》は|高姫《たかひめ》と|共《とも》に|上陸《じやうりく》し、
|妖《えう》『そこにゐる|青二才《あをにさい》|奴《め》、この|方《はう》の|言《い》ふ|事《こと》をよつく|承《うけたまは》れ、|吾《われ》こそは|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|総務《そうむ》を|勤《つと》むる|時置師《ときおかし》の|杢助《もくすけ》だ。この|方《はう》は|照国別《てるくにわけ》のヘボ|宣伝使《せんでんし》の|草履持《ぞうりも》ちをいたす|木端野郎《こつぱやらう》だらうがな。|俺《おれ》の|女房《にようばう》と|慇懃《いんぎん》を|通《つう》じたとかいふ|話《はなし》だが、|今日《けふ》は|大目《おほめ》に|見《み》ておくから、|以後《いご》は|必《かなら》ず|慎《つつし》んだが|宜《よ》からうぞ』
|梅《うめ》『ヤ、あなたが|噂《うはさ》に|高《たか》き|時置師《ときおかし》の|神《かみ》、|杢助様《もくすけさま》でございましたか、|存《ぞん》ぜぬ|事《こと》とて|偉《えら》い|失礼《しつれい》をいたしました。|高姫《たかひめ》さまと|私《わたくし》との|仲《なか》は|双方《さうはう》とも|一度《いちど》は|恋慕《れんぼ》いたしましたが、|未《ま》だ|要領《えうりやう》は|得《え》てをりませぬ。それゆゑ|赤《あか》の|他人《たにん》も|同様《どうやう》ですから、あまり|貴方《あなた》からお|咎《とが》めを|蒙《かうむ》るわけもございますまい』
|妖《えう》『ハハハハハ、|口《くち》は|調法《てうはふ》なものだのう、ゴテゴテ|言《い》ふにや|及《およ》ばない、お|前《まへ》の|良心《りやうしん》に|問《と》うたら|分《わか》るだらう。
|人《ひと》|問《と》はば|鬼《おに》は|居《ゐ》ぬとも|答《こた》ふべし
|心《こころ》の|問《と》はば|如何《いかが》こたへむ
といふ|道歌《だうか》を|知《し》つてゐるだらう、|俺《おれ》も|男《をとこ》だ、|敢《あへ》て|追及《つゐきふ》はしない。|高《たか》が|青二才《あをにさい》の|一匹《いつぴき》や|二匹《にひき》つかまへてゴテゴテ|言《い》ふのは、|時置師《ときおかし》の|沽券《こけん》にも|関《くわん》するから、|寛大《くわんだい》の|処置《しよち》を|取《と》つて|不問《ふもん》に|付《ふ》しておく、|有難《ありがた》う|思《おも》へ』
|高《たか》『もし|梅公別《うめこうわけ》|様《さま》、|時置師《ときおかし》の|神様《かみさま》はああ|仰有《おつしや》つても、|決《けつ》してお|前《まへ》さまを|憎《にく》むやうな|方《かた》ぢやないから、|悪《わる》く|思《おも》はないやうにして|下《くだ》さい。しかし【あたい】に|恋慕《れんぼ》したつて|駄目《だめ》ですから、その|点《てん》は|固《かた》く|堅《かた》く|注意《ちうい》しておきますよ。お|前《まへ》さまも|宣伝使《せんでんし》の|卵《たまご》ださうだから、|一《ひと》つ|手柄初《てがらはじ》めにこの|魔《ま》の|森《もり》に|落《お》ち|込《こ》んで|苦《くる》しんでゐる|男女《だんぢよ》の|命《いのち》を|救《たす》けておやりなさい。さうすれや|杢助《もくすけ》さまの|怒《いか》りもとけ、お|前《まへ》さまの|手柄《てがら》も|立《た》つといふもの、どうです。|一《ひと》つ|侠気《をとこぎ》を|出《だ》して|決行《けつかう》する|気《き》はありませぬかな』
|梅公別《うめこうわけ》は|言霊別《ことたまわけ》の|化身《けしん》で、|高姫《たかひめ》や|妖幻坊《えうげんばう》の|正体《しやうたい》を|感知《かんち》しないはずはない。さうして|魔《ま》の|森《もり》に|高姫《たかひめ》に|誑《たぶら》かされ、|二人《ふたり》の|若《わか》き|男女《だんぢよ》が|蟻《あり》に|責《せ》められ|蜘蛛《くも》の|糸《いと》にまかれ|苦《くる》しんでゐる|事《こと》は、|既《すで》にすでに|常磐丸《ときはまる》の|船中《せんちう》において|透視《とうし》してゐるのである。それゆゑに|梅公別《うめこうわけ》は|両人《りやうにん》を|救《すく》ふべく、|小舟《こぶね》を|操《あやつ》つて|一人《ひとり》|此所《ここ》に|上陸《じやうりく》したのである。|梅公別《うめこうわけ》は|早速《さつそく》|鎮魂《ちんこん》の|神業《かむわざ》を|魔《ま》の|森《もり》に|修《しう》し、|強《つよ》き|神霊《しんれい》を|送《おく》つてゐたから、|蜘蛛《くも》も|蟻《あり》も|如何《どう》する|事《こと》も|出来《でき》ないのを|知《し》つてゐた。それゆゑ|泰然自若《たいぜんじじやく》として|妖幻坊《えうげんばう》、|高姫《たかひめ》の|船中《せんちう》の|争《あらそ》ひを|見物《けんぶつ》してゐたのである。いま|高姫《たかひめ》が|侠気《をとこぎ》を|出《だ》して|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》を|救《すく》へと|言《い》つた|心《こころ》の|奥底《おくそこ》は、|梅公別《うめこうわけ》をあの|蟻《あり》の|魔《ま》の|森《もり》に|飛《と》び|込《こ》ましめ、|喰《く》ひ|殺《ころ》さしめむと|企《たく》んでゐる|事《こと》もよく|承知《しようち》してゐた。それゆゑ|梅公別《うめこうわけ》は|二《ふた》つ|返事《へんじ》で|承諾《しようだく》し、|妖幻坊《えうげんばう》、|高姫《たかひめ》の|目《め》の|前《まへ》で|泰然自若《たいぜんじじやく》|魔《ま》の|森《もり》へ|飛《と》び|込《こ》んでしまつた。|妖幻坊《えうげんばう》、|高姫《たかひめ》は|両手《りやうて》を|拍《う》つて|高笑《たかわら》ひ、|竹藪《たけやぶ》の|入口《いりぐち》に|進《すす》みよつて|腮《あご》を|突出《つきだ》し|尻《しり》を|叩《たた》き、あらゆる|罵詈嘲笑《ばりてうせう》を|逞《たくまし》うし「ゆつくりお|喰《くは》れなれ」と|捨台詞《すてぜりふ》を|残《のこ》し、|再《ふたた》び|船《ふね》に|身《み》を|任《まか》せ、|何処《いづく》ともなく|浮《う》かび|行《ゆ》く。
|梅公別《うめこうわけ》は|無事《ぶじ》に|二人《ふたり》を|救《すく》ひ|出《だ》し、|暫《しば》し|大銀杏《おほいてふ》の|根下《ねもと》に|腰《こし》|打《う》ちかけ、|種々《いろいろ》の|成行《なりゆ》き|話《ばなし》を|二人《ふたり》より|聞《き》き|取《と》りながら|三人《さんにん》|一《ひと》つの|小船《こぶね》に|身《み》を|任《まか》せ、スガの|港《みなと》をさして|進《すす》み|行《ゆ》く。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一五・六・二九 旧五・二〇 於天之橋立なかや旅館 加藤明子録)
第七章 |鰹《かつを》の|網引《あみひき》〔一八一六〕
|常磐丸《ときはまる》の|船中《せんちう》における|玄真坊《げんしんばう》、コブライ、コオロの|直接行動的《ちよくせつかうどうてき》|争《あらそ》ひも|無事《ぶじ》に|済《す》んで、|船端《ふなばた》に|皷《つづみ》の|波《なみ》を|打《う》たせながら|水上《すゐじやう》|静《しづ》かに|辷《すべ》り|行《ゆ》く。
|船中《せんちう》の|無聊《むれう》を|慰《なぐさ》むるため、|彼方《あなた》|此方《こなた》に|面白《おもしろ》き|国《くに》の|俗謡《ぞくえう》が|聞《き》こえて|来《き》た。|中《なか》にも|最《もつと》も|著《いちじる》しきは|恵比須祭《えびすまつり》の|〓乃《ふなうた》である。|船頭《せんどう》は|舷頭《げんとう》に|立《た》ちながら|海《うみ》に|馴《な》れたる|爽《さはや》かな|声《こゑ》で、|節《ふし》|面白《おもしろ》く|唄《うた》ひ|出《だ》した。
『|正月《しやうぐわつ》のー|朔日《ついたち》|二日《ふつか》の|初夢《はつゆめ》に  |如月山《きさらぎやま》の|楠《くす》の|木《き》を
|舟《ふね》に|造《つく》り|今《いま》おろす  |白銀柱《しろがねばしら》|押《お》し|立《た》てて
|黄金《こがね》の|富《とみ》を|積《つ》ませつつ  |綾《あや》や|錦《にしき》を|帆《ほ》にかけて
|宝《たから》の|島《しま》へと|乗《の》り|込《こ》んで  |数多《あまた》の|宝《たから》を|積《つ》み|込《こ》んで
|追手《おつて》の|風《かぜ》に|任《まか》せつつ  |思《おも》ふ|港《みなと》へ|馳《は》せ|込《こ》んで
これのお|倉《くら》に|納《をさ》めおく  ヨーン デー ヤール
|神《かみ》の|昔《むかし》の|二柱《ふたはしら》  |金輪際《こんりんざい》より|揺《ゆ》るぎ|出《い》でたる|此《こ》の|島《しま》を
|自転倒島《おのころじま》と|言《い》ふとかや  |山《やま》には|常磐《ときは》のいーろいろ
|黄金《こがね》|白銀《しろがね》|花《はな》|咲《さ》いて  お|山《やま》おろしが|吹《ふ》くとても
|散《ち》らぬ|盛《さか》りに|国々《くにぐに》は  |浦々《うらうら》までも|豊《ゆた》かにて
|五穀草木《ごこくさうもく》|不足《ふそく》なく  |七珍万宝《しつちんまんぱう》|倉《くら》に|満《み》ち
とざさぬ|御代《みよ》の|恵《めぐ》みより  |長命無病《ちやうめいむびやう》と|聞《き》くからは
|四方《よも》の|国《くに》より|船寄《ふなよ》する  |綾《あや》や|錦《にしき》の|下着《したぎ》より
|縞《しま》に|木綿《もめん》の|紅《べに》までも  |唐《から》に|大和《やまと》を|取《と》りまぜて
|商《あきな》ふ|店《みせ》の|賑《にぎ》やかさ  |猟《れふ》|漁《すなど》りの|里々《さとざと》は
|山《やま》に|雉《きじ》|鴨《かも》|鶴《つる》もある  |裏《うら》の|港《みなと》の|磯《いそ》つづき
あけて|恵比須《えびす》の|浪塩《なみしほ》は  ヤンサ|目出《めで》たやお|鉢水《はちみづ》
ヨーン デー ヤール』
|玄真坊《げんしんばう》はこの|歌《うた》を|聞《き》いて|飛《と》び|上《あが》り、|自分《じぶん》も|一《ひと》つ|負《ま》けぬ|気《き》になり、|貧弱《ひんじやく》な|頭《あたま》から、こぼれ|出《だ》した|〓乃《ふなうた》は|一寸《ちよつと》|変《へん》【ちきちん】なものである。
『|春《はる》の|海面《かいめん》よく|光《ひか》る  |大島《おほしま》|小島《こじま》|数々《かずかず》と
|碁石《ごいし》のやうに|並《なら》ぶ|中《なか》  |海賊船《かいぞくせん》が|右左《みぎひだり》
|彼方《あちら》|此方《こちら》と|横行《わうかう》し  |宝《たから》を|積《つ》んだ|船《ふね》|見《み》れば
|一目散《いちもくさん》にやつて|来《き》て  |否応《いやおう》|言《い》はさずぼつたくり
ゴテゴテ|言《い》へば|命《いのち》まで  |貰《もら》つて|帰《かへ》る|凄《すご》い|船《ふね》
こんな|手合《てあひ》に|出会《であ》つたら  ヨーン デー ヤール
|金鎚《かなづち》さまの|川流《かはなが》れ  |一生《いつしやう》|頭《あたま》が|上《あが》るまい
|俺《おれ》も|昔《むかし》は|山賊《さんぞく》の  |大頭目《だいとうもく》と|手《て》を|組《く》んで
オーラの|山《やま》に|天降《あまくだ》り  |杉《すぎ》の|梢《こずゑ》をからくりに
|数多《あまた》の|火影《ほかげ》を|輝《かがや》かし  |天《てん》から|星《ほし》が|下《くだ》りまし
|天帝《てんてい》の|御化身《ごけしん》|救世主《きうせいしゆ》  |玄真如来《げんしんによらい》の|説法《せつぱふ》を
|聴聞《ちやうもん》なさると|触《ふ》れ|込《こ》ませ  あなたこなたの|村々《むらむら》ゆ
|善男《ぜんなん》|善女《ぜんによ》を|誑《たぶら》かし  もう|一息《ひといき》といふ|処《とこ》へ
|三五教《あななひけう》の|梅公別《うめこうわけ》  |女房《にようばう》をつれて|出《い》で|来《き》たり
|二人《ふたり》の|女《をんな》ともろともに  |蛸《たこ》の|揚《あ》げ|壺《つぼ》|喰《く》はされた
|実《げ》にも|甲斐《かひ》なき|蛸坊主《たこばうず》  |今《いま》から|思《おも》へば|恐《おそ》ろしや
ヨウマア|天地《てんち》の|神々《かみがみ》は  この|悪僧《あくそう》をいつまでも
|生《い》かしておいて|下《くだ》さつたと  |思《おも》へば|冥加《めうが》がつきるやうだ
ヨーン デー ヤール  |彼方《あちら》こちらとさまよひつ
よからぬ|事《こと》のみ|企《たく》らみて  |三百人《さんびやくにん》の|不良分子《ふりやうぶんし》
|彼方《あちら》|此方《こちら》に|振《ふ》り|向《む》いて  |自分《じぶん》は|一人《ひとり》タニグクの
|山《やま》の|岩窟《いはや》にダリヤ|姫《ひめ》  せしめんものと|連《つ》れ|込《こ》めば
|藻脱《もぬ》けの|殻《から》の|馬鹿《ばか》らしさ  それから|愈《いよいよ》【やけ】となり
|神谷村《かみたにむら》の|里庄《りしやう》なる  |玉清別《たまきよわけ》の|館《やかた》にと
|忍《しの》び|込《こ》みたるダリヤをば  |奪《うば》ひ|返《かへ》して|吾《わ》が|妻《つま》に
|無理往生《むりわうじやう》にせむものと  |思《おも》うたことも|水《みづ》の|泡《あわ》
まだまだ|悪《わる》い|事《こと》ばかり  やつて|来《き》たこと|思《おも》い|出《だ》しや
|全身《ぜんしん》|隈《くま》なく|冷汗《ひやあせ》が  |夕立《ゆふだち》のごとくに|湧《わ》いて|来《く》る
ヨーン デー ヤール  |今《いま》|乗《の》る|船《ふね》は|常磐丸《ときはまる》
|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|神様《かみさま》の  |御用《ごよう》を|遊《あそ》ばす|宣伝使《せんでんし》
|照国別《てるくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》に  |危《あや》ふき|所《ところ》を|助《たす》けられ
|心《こころ》の|底《そこ》から|立直《たてなほ》し  お|伴《とも》に|仕《つか》へ|侍《はべ》り|行《ゆ》く
ヨーン デー ヤール  サアこれからはこれからは
|心《こころ》の|基礎《どだい》をつき|直《なほ》し  |神《かみ》に|刃向《はむ》かふ|仇《あだ》あれば
|鬼《おに》でも|蛇《じや》でもかまはない  |命《いのち》を|的《まと》に|飛《と》び|込《こ》んで
|今《いま》まで|悪《あく》を|尽《つく》したる  その|補《おぎな》ひをせにやならぬ
アア|面白《おもしろ》や|面白《おもしろ》や  |面白狸《おもしろだぬき》の|腹皷《はらつづみ》
|打《う》つ|波《なみ》の|上《へ》をスクスクと  |狸坊主《たぬきばうず》の|蛸坊主《たこばうず》
|人《ひと》が|笑《わら》はうが|謗《そし》らうが  そんな|事《こと》には|構《かま》はない
これから|世間《せけん》に|恥《はぢ》さらし  |自分《じぶん》の|罪《つみ》の|償《つぐな》ひを
|天地《てんち》の|神《かみ》にせにやならぬ  |玄真坊《げんしんばう》もこれからは
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |神《かみ》の|司《つかさ》の|僕《しもべ》とし
|一生《いつしやう》|此《この》|世《よ》を|送《おく》りませう  ダリヤの|姫《ひめ》やその|外《ほか》の
|美人《びじん》のことは|思《おも》ひきり  |一生懸命《いつしやうけんめい》に|神様《かみさま》の
|誠《まこと》の|道《みち》を|伝《つた》へませう  ヨーン デー ヤール
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》は|吾等《われら》と|共《とも》にあり
|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》  |神《かみ》に|任《まか》せしこの|体《からだ》
|虎《とら》|狼《おほかみ》も|何《なに》かあらむ  |上下《かみしも》|揃《そろ》うて|世《よ》を|円《まる》く
|治《をさ》むる|時《とき》をまつの|世《よ》の  |弥勒菩薩《みろくぼさつ》の|再来《さいらい》と
|仕《つか》へまつらむ|斎苑館《いそやかた》  |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の
|御前《みまへ》に|誓《ちか》ひ|願《ね》ぎ|奉《まつ》る  |御前《みまへ》に|誓《ちか》ひ|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
ヨーン デー ヤール』
|常磐丸《ときはまる》は|漸《やうや》くにして|翌日《あくるひ》の|真昼《まひる》ごろスガの|港《みなと》に|安着《あんちやく》した。この|港《みなと》には|鰹《かつを》の|漁《れふ》が|盛《さか》んである。ちやうど|常磐丸《ときはまる》の|着《つ》いたころ、|網引《あみひ》きが|始《はじ》まつてゐた。|一行《いつかう》は|旅《たび》の|憂《う》さを|慰《なぐさ》むるため|漁師《れふし》に|頼《たの》んで|引網《ひきあみ》の|中《なか》に|加《くは》はり、ともに|面白可笑《おもしろをかし》く|歌《うた》をうたふこととなつた。
|幾艘《いくさう》の|船《ふね》は|網《あみ》の|周囲《まはり》に|集《たか》つて|音頭《おんどう》をとりながら|陸上《りくじやう》に|向《む》かつて|網《あみ》を|引《ひ》き|上《あ》げる。|親船《おやぶね》が|先《ま》づ|歌《うた》の|節々《ふしぶし》の|初《はじ》めを|謡《うた》ふと、|他《た》の|船《ふね》の|漁師《れふし》たちはこれに|和《わ》して|後《あと》をつぎ、|以《もつ》て|力《ちから》の|緩急《くわんきふ》を|等《ひと》しくする、その|調子《てうし》はちやうど|木遣節《きやりぶし》のやうである。
『せめて|此《こ》の|子《こ》が|男《をとこ》の|子《こ》なら
|櫂《かい》を|持《も》たせて
ホラ ホーオ サツサア ヤツチンエエ
イヤンホ サツサー ヤツチンエエ。
スガは|照《て》る|照《て》る|太魔《たま》の|島《しま》|曇《くも》る
あいの|高山《たかやま》|雨《あめ》が|降《ふ》る。
|大高《おほたか》お|岩《いは》は|二《ふた》つに|割《わ》れて
|割《わ》れて|世《よ》がよいヨヤハアサツサ。
|引《ひ》けよ|若衆《わかしう》きれ|否《いな》|加勢《かがせ》
|十二船魂《じふにふなだま》|勇《いさ》ませて。
|旦那《だんな》|大黒《だいこく》|内儀《かみ》さま|恵比須《えびす》
|中《なか》の|子供《こども》がお|船魂《ふねだま》。
|船《ふね》の|艫艪《ともろ》へ|鶯《うぐひす》とめて
|明日《あす》は|大漁《たいれふ》と|鳴《な》かせたい。
|船《ふね》は|新造《しんざう》でも|艪《ろ》は|新木《あらき》でも
|船頭《せんどう》さまが|無《な》けれや|走《はし》りやせぬ。
ホラ ホーオ サツサ ヤツチンエエサツサ
ヤツチンエエ ヨイヤハアサツサ』
|照国別《てるくにわけ》『これ|照公《てるこう》さま、|何《なん》と|面白《おもしろ》い|網引《あみひき》ぢやないか、|沢山《たくさん》の|船頭衆《せんどうしう》が|黒《くろ》いお|尻《しり》を|出《だ》し、|真裸《まつぱだか》の|真跣《まつぱだし》で|黒《くろ》い|鉢巻《はちまき》を|横《よこ》ンチヨに|絞《し》めて、|大《おほ》きな|網《あみ》を|海上《かいじやう》|一面《いちめん》に|張《は》り|廻《まは》し、|言霊《ことたま》を|一斉《いつせい》に|揃《そろ》へて|鰹《かつを》を|上《あ》げる|処《ところ》は|何《なん》ともいへぬ|壮観《さうくわん》の|感《かん》に|打《う》たれるぢやないか』
|照公別《てるこうわけ》『いかにも|師《し》の|君《きみ》の|仰《おほ》せの|通《とほ》り、|壮絶《さうぜつ》|快絶《くわいぜつ》の|極《きは》みですな。|吾々《われわれ》|宣伝使《せんでんし》も、この|引網《ひきあみ》に|倣《なら》つて|一遍《いつぺん》に|少《すく》なくとも|数万人《すうまんにん》の|信者《しんじや》を|引《ひ》き|寄《よ》せ、うまく|宣伝《せんでん》をやつたら|面白《おもしろ》いでせうな。どうです|先生《せんせい》、これからスガの|町《まち》へ|行《い》つたら、|大公会堂《だいこうくわいだう》でも|借《か》り|込《こ》んで、|数万《すうまん》の|町民《ちやうみん》に|一度《いちど》に|聴《き》かせてやつたら、|大神《おほかみ》の|神徳《しんとく》に|浴《よく》する|信者《しんじや》が|沢山《たくさん》に|出来《でき》るかも|知《し》れませぬ。|労《らう》|少《すく》なくして|効《かう》|多《おほ》き、|最《もつと》も|文明式《ぶんめいしき》の|方法《やりかた》ぢやありますまいか』
『イヤイヤさうではないよ、|公会堂《こうくわいだう》なんかは|神《かみ》の|道《みち》の|宣伝《せんでん》には|絶対《ぜつたい》に|適《てき》しない。|公会堂《こうくわいだう》は|政治家《せいぢか》や|主義者《しゆぎしや》の|私淑《ししゆく》する|処《ところ》だ、そんな|処《ところ》で|神聖《しんせい》な|神様《かみさま》の|教《をしへ》をしたところで、|身魂《みたま》に|相応《さうおう》しないから、|労《らう》|多《おほ》くして|功《かう》|無《な》しだ』
『そんなら|先生《せんせい》、|劇場《げきぢやう》は|如何《どう》でせうか』
『なほなほ|不可《いか》ない、|劇場《げきぢやう》は|遊覧客《いうらんきやく》の|集《あつ》まる|処《ところ》だ。|歌舞伎《かぶき》や|浄瑠璃《じやうるり》や|浪花節《なにはぶし》、|手品師《てじなし》、|活動写真《くわつどうしやしん》|等《など》やる|処《ところ》で、たとへ|聴衆《ちやうしう》が|幾《いく》らやつて|来《き》ても、|遊山気分《いうさんきぶん》で|出《で》て|来《く》るからチツとも|耳《みみ》へ|這入《はい》らない。|却《かへ》つて|神《かみ》の|御名《みな》を|傷《きず》つけるやうなものだ』
『なるほど、さう|聞《き》けば|仕方《しかた》がありませぬな、そんなら|学校《がくかう》の|講堂《かうだう》は|如何《どう》でせうか』
『|学校《がくかう》の|講堂《かうだう》は|学問《がくもん》の|研究《けんきう》をする|処《ところ》だ。|深遠微妙《しんゑんびめう》な|形而上《けいじじやう》の|真理《しんり》や|信仰《しんかう》は、たうてい|学校《がくかう》の|講堂《かうだう》で|話《はな》したところで|駄目《だめ》だ。|何人《いづれ》も|研究心《けんきうしん》を|基礎《きそ》として|聞《き》くから、|何人《いづれ》も|真《しん》の|信仰《しんかう》には|入《い》れないよ。|青年会館《せいねんくわいくわん》だの|倶楽部《くらぶ》だの|公会堂《こうくわいだう》だの、|民衆《みんしう》の|集《あつ》まる|処《ところ》は|凡《すべ》て|駄目《だめ》だ。|夜足《よあし》で|捕《と》つた|魚《うを》や|網《あみ》で|捕《と》つた|魚《うを》は、|同《おな》じ|魚《うを》でも|味《あぢ》が|悪《わる》い。|一匹《いつぴき》|一匹《いつぴき》|釣《はり》の|先《さき》に|餌《ゑさ》つけて|釣《つ》り|上《あ》げた|魚《うを》は|味《あぢ》が|良《よ》いごとく、|神《かみ》の|道《みち》の|宣伝《せんでん》は|一人対一人《ひとりたいひとり》が|相応《さうおう》の|理《り》に|適《かな》うとるのだ。やむを|得《え》ないなら|五六人《ごろくにん》は|仕方《しかた》がないとしても、それが|却《かへ》つて|駄目《だめ》になる』
『なるほど、さうすると|仲々《なかなか》|宣伝《せんでん》といふものは、|容易《ようい》に|拡《ひろ》まらないものですな』
『|一人《ひとり》の|誠《まこと》の|信者《しんじや》を|神《かみ》の|道《みち》に|引《ひ》き|入《い》れた|者《もの》は、|神界《しんかい》においてはヒマラヤ|山《さん》を|千里《せんり》の|遠方《ゑんぱう》へ|一人《ひとり》して|運《はこ》んで|行《い》つたよりも、|功名《こうみやう》として|褒《ほ》めらるるのだからなア』
『さうすると|先生《せんせい》は|入信《にふしん》|以来《いらい》、どれくらゐ|誠《まこと》の|信者《しんじや》をお|導《みちび》きになりましたか』
『|残念《ざんねん》ながら、|未《ま》だ|一人《ひとり》も|誠《まこと》の|信者《しんじや》を、ようこしらへてゐないのだ』
『ヘーエ、さうすると、|梅公別《うめこうわけ》や|吾々《われわれ》は|宣伝使《せんでんし》の|試補《しほ》となつて|廻《まは》つてゐますが、まだ|信者《しんじや》の|数《かず》には|入《い》つてはゐないのですか』
『マアそんなものだな』
『|何《なん》と|心細《こころぼそ》いものぢやありませぬか』
『さうだから|心細《こころぼそ》いと|何時《いつ》も|言《い》ふのだ』
『この|玄真坊《げんしんばう》さまはさうすると、まだ|信者《しんじや》の|門口《かどぐち》にも|行《ゆ》かないのでせうね』
『ヤアこの|玄真坊殿《げんしんばうどの》はずゐぶん|悪《わる》い|事《こと》も|行《や》つて|来《き》たが、お|前《まへ》に|比《くら》べては|余程《よほど》|信仰《しんかう》が|進《すす》んでゐるよ、すでに|天国《てんごく》へ|一歩《いつぽ》を|踏入《ふみい》れてゐる』
『それや|又《また》どうしたわけですか。|吾々《われわれ》は|未《ま》だ|一度《いちど》も|大《たい》した|嘘《うそ》もつかず、|泥棒《どろばう》もせず|嬶《かか》|舎弟《しやてい》もやらず、|正直一途《しやうぢきいちづ》に|神《かみ》のお|道《みち》を|歩《あゆ》んで|来《き》たぢやありませぬか。それに|何《なん》ぞや|大山子《おほやまこ》の|張本《ちやうほん》、|勿体《もつたい》なくも|天帝《てんてい》の|御名《みな》を|騙《かた》る|曲神《まがかみ》の|権化《ごんげ》ともいふべき|行為《かうゐ》を|敢《あへ》てした|玄真坊殿《げんしんばうどの》が|天国《てんごく》に|足《あし》を|踏込《ふみこ》むとは、|一向《いつかう》に|合点《がてん》が|行《ゆ》きませぬ』
『|大《だい》なる|悪事《あくじ》を|為《な》したる|者《もの》は|悔《く》い|改《あらた》むる|心《こころ》もまた|深《ふか》い。|真剣味《しんけんみ》がある。それゆゑ|身魂相応《みたまさうおう》の|理《り》によつて、|直《ただ》ちに|掌《てのひら》をかへすごとく|地獄《ぢごく》は|化《くわ》して|天国《てんごく》となるのだ。|沈香《ちんかう》も|焚《た》かず|庇《へ》も|放《ひ》らずといふ|人間《にんげん》に|限《かぎ》つて、|自分《じぶん》は|善人《ぜんにん》だ、|決《けつ》して|悪《わる》い|事《こと》はせないから|天国《てんごく》に|上《のぼ》れるだらうなどと|慢心《まんしん》してゐると、|知《し》らず|識《し》らずに|魂《みたま》が|堕落《だらく》して|地獄《ぢごく》に|向《む》かふものだ。|悪《わる》い|事《こと》をせないのは|人間《にんげん》として|当然《たうぜん》の|所業《しよげふ》だ。|人間《にんげん》は|凡《すべ》て|天地経綸《てんちけいりん》の|主宰者《しゆさいしや》だから、|此《この》|世《よ》に|生《うま》れて|来《き》た|以上《いじやう》は、|何《なん》なりと|天地《てんち》のために|神《かみ》に|代《かは》るだけの|御用《ごよう》を|勤《つと》め|上《あ》げねばならない|責任《せきにん》をもつてゐるのだ。その|責任《せきにん》を|果《はた》す|事《こと》の|出来《でき》ない|人間《にんげん》は、たとへ|悪事《あくじ》をせなくとも、|神《かみ》の|生宮《いきみや》として|地上《ちじやう》に|産《う》みおとされた|職責《しよくせき》が|果《はた》されてゐない。それだから|身魂《みたま》の|故郷《ふるさと》たる|天国《てんごく》に|帰《かへ》ることが|出来《でき》ないのだ』
|照公《てるこう》『|天国《てんごく》に|吾《わ》が|魂《たま》|在《あ》りと|思《おも》ひしに
|地獄《ぢごく》に|向《む》かへる|事《こと》の|歎《うた》てさ
|今《いま》よりは|心《こころ》の|駒《こま》を|立直《たてなほ》し
|神《かみ》の|任《よ》さしの|神業《みわざ》|励《はげ》まむ』
|玄真《げんしん》『|身《み》はたとへ|根底《ねそこ》の|国《くに》に|沈《しづ》むとも
|神《かみ》の|恵《めぐ》みは|忘《わす》れざるらむ』
|照国《てるくに》『|千早《ちはや》|振《ふ》る|神《かみ》の|恵《めぐ》みは|世《よ》の|人《ひと》の
|夢《ゆめ》にも|知《し》らぬ|処《ところ》に|潜《ひそ》む
|暗《やみ》の|夜《よ》を|照《て》り|明《あか》さむと|宣伝使《せんでんし》
よさし|玉《たま》ひぬ|瑞《みづ》の|大神《おほかみ》』
(大正一五・六・二九 旧五・二〇 於天之橋立なかや別館 北村隆光録)
第二篇 |杢迂拙婦《もくうせつぷ》
第八章 |街宣《がいせん》〔一八一七〕
スガの|港《みなと》に|名《な》も|高《たか》く  |百万長者《ひやくまんちやうじや》と|聞《き》こえたる
|薬種問屋《やくしゆどひや》の|主人《しゆじん》のアリス  |金《かね》と|血気《けつき》に|任《まか》せつつ
|強慾非道《がうよくひだう》のありたけを  |尽《つく》して|人《ひと》の|生血《いきち》をば
|絞《しぼ》らむばかりの|悪逆《あくぎやく》に  |遠《とほ》き|近《ちか》きの|隔《へだ》てなく
|老若男女《らうにやくなんによ》は|声々《こゑごゑ》に  |鬼《おに》よ|大蛇《をろち》よ|悪魔《あくま》よと
|譏《そし》らぬ|者《もの》こそなかりけり  |金《かね》と|塵《ちり》とは|沢山《たくさん》に
|積《つも》れば|汚《きたな》くなる|譬《たと》へ  |出《だ》すことなれば|手《て》も|舌《した》も
|只《ただ》では|出《だ》さぬ|強慾《がうよく》さ  |取込《とりこみ》む|事《こと》なら|牛《うし》の|骨《ほね》
|犬《いぬ》のそれでもかまやせぬ  |人《ひと》の|恨《うら》みの|金《かね》ばかり
|積《つ》んで|山《やま》なす|塵《ちり》の|峰《みね》  |親爺《おやぢ》の|罪《つみ》が|子《こ》に|報《むく》い
|終《つひ》にはダリヤの|行衛《ゆくゑ》さへ  |分《わか》らずなりて|遉《さすが》にも
|親子《おやこ》の|情《なさ》けのいや|深《ふか》く  |忘《わす》れかねてか|煩悶《はんもん》の
|吐息《といき》つくづく|病床《びやうしやう》に  |呻吟《しんぎん》する|身《み》となりにけり
|二男《になん》のイルクは|妹《いもうと》の  |所在《ありか》を|求《もと》めて|遠方近方《をちこち》と
|探《たづ》ね|廻《まは》りし|折《を》りもあれ  |船《ふね》の|中《なか》にて|出会《でつくは》し
|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》  |梅公別《うめこうわけ》に|助《たす》けられ
|初《はじ》めて|神《かみ》の|道《みち》を|聞《き》き  |妹《いもうと》|引《ひ》きつれ|宣伝使《せんでんし》
|一行《いつかう》と|共《とも》に|吾《わ》が|家路《いへぢ》  いそいそ|指《さ》して|帰《かへ》り|来《く》る
|待《ま》ちに|待《ま》ちたる|父《ちち》アリス  |娘《むすめ》の|無事《ぶじ》を|聞《き》くよりも
|喜《よろこ》び|勇《いさ》み|狂《くる》ひ|立《た》ち  |手《て》の|舞《ま》ひ|足《あし》の|踏《ふ》むところ
|知《し》らず|白髪《しらが》の|首《くび》ふりて  |悲喜《ひき》|交々《こもごも》の|為態《ていたらく》
|梅公別《うめこうわけ》の|懇篤《こんとく》な  |教《をしへ》の|道《みち》の|宣伝《せんでん》に
|鬼《おに》のアリスも|改心《かいしん》し  |財産《ざいさん》|全部《ぜんぶ》を|大神《おほかみ》に
|捧《ささ》げ|奉《まつ》りてスガ|山《やま》の  |老木《らうぼく》|茂《しげ》れる|聖場《せいぢやう》に
|天地《てんち》の|神《かみ》の|鎮座《ちんざ》ます  |大宮柱《おほみやばしら》|太知《ふとし》りて
|今《いま》まで|犯《をか》せし|罪科《つみとが》の  |贖《あがな》ひとなし|一《ひと》つには
あらゆる|世界《せかい》の|民草《たみぐさ》が  |悪魔《あくま》の|教《をしへ》に|惑《まど》はされ
|憂瀬《うきせ》に|落《お》ちて|苦《くる》しめる  その|惨状《さんじやう》を|救《すく》はむと
|決心《けつしん》したるぞ|殊勝《しゆしよう》なれ  |梅公別《うめこうわけ》は|一夜《ひとよさ》の
|仮《かり》の|宿《やど》りをなさむとて  |夕飯《ゆふげ》を|終《をは》りし|折《を》りもあれ
タラハン|城《じやう》の|空《そら》|高《たか》く  |雲《くも》を|焦《こが》して|燃《も》え|上《あ》がる
|大火《たいくわ》の|模様《もやう》を|見《み》るよりも  |後《あと》をヨリコや|花香姫《はなかひめ》
|二人《ふたり》に|任《まか》せおきながら  |栗毛《くりげ》の|駒《こま》に|鞍《くら》おいて
|威風《ゐふう》|凛々《りんりん》|大野原《おほのはら》  |駒《こま》の|嘶《いなな》き|鈴《すず》の|音《おと》
ヒンヒンシヤンシヤンドウドウと  |雲《くも》を|霞《かすみ》と|駈《か》けて|行《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ
|神《かみ》の|教《をしへ》にヨリコ|姫《ひめ》  |瑞《みづ》の|霊《みたま》の|花《はな》|香《かを》る
|月《つき》と|花《はな》との|二人連《ふたりづ》れ  |梅公別《うめこうわけ》の|旨《むね》を|受《う》け
スガの|町々《まちまち》|辻々《つじつじ》を  |白妙《しろたへ》の|衣《きぬ》|纒《まと》ひつつ
|連銭葦毛《れんせんあしげ》の|駒《こま》に|乗《の》り  |法螺貝《ほらがひ》|吹《ふ》き|立《た》て|人《ひと》|集《あつ》め
やさしき|花《はな》の|唇《くちびる》を  |静《しづ》かに|開《ひら》き|手《て》をあげて
|鞍上《あんじやう》にすつくと|立上《たちあ》がり
ヨリコ『スガの|港《みなと》に|住《す》みたまふ  |老若男女《らうにやくなんによ》の|皆様《みなさま》よ
|三千世界《さんぜんせかい》の|救世主《きうせいしゆ》  |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の
|瑞《みづ》の|霊《みたま》の|御教《みをしへ》を  |女《をんな》ながらもお|取次《とりつぎ》
|致《いた》しますれば|村肝《むらきも》の  |心《こころ》|静《しづ》かに|聞《きこ》し|召《め》せ
そもそも|此《この》|世《よ》は|天地《あめつち》の  |元津祖《もとつおや》なる|生神《いきがみ》が
ただ|一柱《ひとはしら》|坐《ま》し|在《ま》して  |日月火水木金土《じつげつくわすゐもくきんど》
|森羅万象《しんらばんしやう》|創造《さうざう》し  かつ|人間《にんげん》を|神様《かみさま》と
|同《おな》じ|形《かたち》に|造《つく》りまし  |厳《いづ》と|瑞《みづ》との|精霊《せいれい》を
|各自《おのもおのも》に|宿《やど》しまし  |天《あめ》と|地《つち》との|経綸《けいりん》に
|仕《つか》へしめむとなし|給《たま》ふ  |人《ひと》の|体《からだ》はかくのごと
|実《げ》にも|尊《たふと》きものですよ  それをも|知《し》らず|人間《にんげん》は
この|世《よ》に|生《うま》れ|来《き》た|上《うへ》は  |飲《の》めよ|歌《うた》へよ|寝《ね》よ|起《お》きよ
お|金《かね》があれば|酒《さけ》|飲《の》んで  |歌舞音曲《かぶおんぎよく》に|戯《たはむ》れる
これより|外《ほか》に|人生《じんせい》の  |目的《もくてき》|更《さら》にないものと
|誤解《ごかい》してゐる|哀《あは》れさよ  これで|人生《じんせい》の|本分《ほんぶん》が
|尽《つく》しをへたといふならば  |人《ひと》は|獣類《けもの》と|同《おな》じこと
|万《よろづ》の|物《もの》の|霊長《れいちやう》と  どうして|名附《なづ》けられませうか
|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》  |尊《たふと》き|神《かみ》の|宿《やど》として
|造《つく》らせ|玉《たま》ひしものなれば  |衣食住居《いしよくぢうきよ》その|外《ほか》に
|尊《たふと》き|務《つとめ》がなけれやならぬ  そのまた|尊《たふと》き|神業《しんげふ》は
|如何《いかん》と|言《い》はば|人間《にんげん》は  |天地《てんち》の|神《かみ》の|御《おん》ために
|有《あ》らむ|限《かぎ》りの|赤心《まごころ》を  |尽《つく》し|奉《まつ》りて|道《みち》のため
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》の|円満《ゑんまん》を  はからむために|霊魂《れいこん》の
|魂《たま》をば|研《みが》き|開《ひら》かせつ  この|世《よ》に|住《す》める|同胞《どうはう》を
|八衢《やちまた》|地獄《ぢごく》の|境遇《きやうぐう》より  |救《すく》ひ|出《い》だして|天国《てんごく》の
|常磐堅磐《ときはかきは》の|花園《はなぞの》に  |導《みちび》き|渡《わた》す|宣伝使《せんでんし》
|御伴《みとも》に|仕《つか》へ|奉《まつ》りつつ  その|神業《しんげふ》の|一端《いつたん》に
|仕《つか》へ|奉《まつ》るぞ|人《ひと》として  |最大一《さいだいいち》の|務《つとめ》なり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸倍《さちは》へましませよ
|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
ただ|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞《き》き|直《なほ》せ
|世《よ》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ  これぞ|全《まつた》く|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》の|御言葉《みことば》ぞ  |敬《うやま》ひ|奉《まつ》れ|百《もも》の|人《ひと》
|諾《うべ》なひ|奉《まつ》れよ|惟神《かむながら》  |神《かみ》の|教《をしへ》に|嘘《うそ》は|無《な》い
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》つ|四《よ》つ|五《いつ》つ|六《む》つ  |七《なな》|八《や》|九《ここの》つ|十《たり》|百《もも》|千《ち》
|万《よろづ》の|国《くに》の|民草《たみぐさ》を  |一人《ひとり》も|残《のこ》らず|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》に|導《みちび》きて  |天地《てんち》にかはる|大業《たいげふ》を
|尽《つく》さにやおかぬ|神《かみ》の|御子《みこ》  ヨリコの|姫《ひめ》や|花香姫《はなかひめ》
|今《いま》まで|犯《をか》せし|罪科《つみとが》の  その|贖《あがな》ひの|一端《いつたん》に
|仕《つか》へむための|宣伝歌《せんでんか》  |心《こころ》|平《たひ》らに|安《やす》らかに
|聞《き》かせたまへよ|人々《ひとびと》よ  |偏《ひとへ》に|祈《いの》りおきまする』
シヤンコシヤンコ シヤンシヤン  シヤンコシヤンコ シヤンシヤン
|馬《うま》の|蹄《ひづめ》も|戞々《かつかつ》と  |手綱《たづな》|引《ひ》き|締《し》め|鞭《むち》をあて
|隣《となり》の|町《まち》を|指《さ》して|行《ゆ》く  |梅公別《うめこうわけ》に|救《すく》はれし
|梅《うめ》の|花香《はなか》の|宣伝使《せんでんし》  |未《ま》だ|称号《しやうがう》は|無《な》けれども
|世人《よびと》を|導《みちび》き|救《すく》はむと  |思《おも》ふ|心《こころ》は|紅《くれなゐ》の
|紅葉《もみぢ》の|照《て》れる|如《ごと》くなり  ヨリコの|姉《あね》に|従《したが》ひて
|馬上《ばじやう》|豊《ゆた》かにスガの|町《まち》  |上《うへ》から|下《した》まで|和妙《にぎたへ》の
|美々《びび》しき|宣伝服《せんでんふく》|着《つ》けて  |本町通《ほんまちどほ》りの|十字街《じふじがい》
|駒《こま》を|留《とど》めて|鞍上《あんじやう》に  スツクと|立《た》ちしスタイルは
|三十二相《さんじふにさう》を|具備《ぐび》したる  |聖観音《しやうくわんおん》の|生姿《いきすがた》
|知《し》らず|識《し》らずに|町人《まちびと》は  |両手《りやうて》を|合《あは》せ|伏《ふ》し|拝《をが》み
|生神様《いきがみさま》の|御出現《ごしゆつげん》  |如来《によらい》の|来降《らいかう》と|喜《よろこ》びて
|二人《ふたり》の|前《まへ》に|寄《よ》り|集《つど》ひ  |蟻《あり》の|這《は》ひ|出《づ》る|隙《すき》もなく
|人山《ひとやま》|築《きづ》きし|勇《いさ》ましさ  |花香《はなか》は|優《やさ》しき|声《こゑ》を|上《あ》げ
|飽《あく》まで|白《しろ》き|白魚《しらうを》の  |優《やさ》しき|右手《めて》をさし|上《あ》げて
|花香《はなか》『ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|誠《まこと》の|道《みち》を|説《と》き|諭《さと》す  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|曲津《まがつ》は|如何《いか》に|荒《すさ》ぶとも  |誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |梅公別《うめこうわけ》の|神司《かむつかさ》
|雲《くも》のごとくに|降《くだ》りまし  |吾等《われら》|二人《ふたり》の|姉妹《おとどい》に
いとも|尊《たふと》き|福音《ふくいん》を  |伝《つた》へ|玉《たま》ひし|嬉《うれ》しさに
|曇《くも》りし|霊《たま》も|澄《す》みわたり  |央《なか》ば|身失《みう》せし|魂《たましひ》は
|高天原《たかあまはら》に|甦《よみがへ》り  |再《ふたた》び|花《はな》の|咲《さ》く|春《はる》に
|遇《あ》へる|心地《ここち》の|今日《けふ》の|旅《たび》  この|嬉《うれ》しさは|言《こと》の|葉《は》に
かけて|語《かた》らむ|術《すべ》もなし  かくも|尊《たふと》き|御教《みをしへ》を
|一人《ひとり》の|物《もの》となさずして  |数多《あまた》|集《つど》へる|皆様《みなさま》に
|千別《ちわき》に|千別《ちわ》き|奉《たてまつ》り  その|喜《よろこ》びと|楽《たの》しみを
|共《とも》にせむとの|吾《わ》が|願《ねが》ひ  いと|平《たひ》らけく|安《やす》らけく
|聞《き》こし|召《め》さへと|宣《の》り|奉《まつ》る  バラモン|軍《ぐん》に|名《な》も|高《たか》き
|大足別《おほだるわけ》の|軍勢《ぐんぜい》が  トルマン|城下《じやうか》に|押《お》し|寄《よ》せて
|民《たみ》を|塗炭《とたん》の|苦《くる》しみに  おとし|入《い》れむとする|最中《さいちう》
|見《み》るに|見兼《みか》ねて|背《せ》の|君《きみ》の  |梅公別《うめこうわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|駒《こま》に|鞭《むち》うち|大野原《おほのはら》  |進《すす》ませ|玉《たま》ひし|留守《るす》の|中《うち》
|不束《ふつつか》ながら|女身《をんなみ》を  かりて|雨風《あめかぜ》|苦《く》にもせず
|世人《よびと》のために|宣伝《せんでん》の  |道《みち》に|上《のぼ》つた|次第《しだい》です
|詳《くわし》き|事《こと》が|聞《き》きたくば  スガの|目抜《めぬき》の|薬屋《くすりや》の
アリスの|宅《たく》にお|出《い》でなさい  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|恩頼《みたまのふゆ》を|賜《たま》へかし』  ハイハイドウドウ ヒンヒン シヤンコシヤンコ
|駒《こま》の|嘶《いなな》き|鈴《すず》の|音《おと》  いと|勇《いさ》ましく|大道《おほみち》を
|緩歩《くわんぼ》しながらスガの|町《まち》  |目抜《めぬき》の|場所《ばしよ》と|聞《き》こえたる
|百万長者《ひやくまんちやうじや》の|薬屋《くすりや》の  |表《おもて》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ。
(大正一五・六・三〇 旧五・二一 於天之橋立なかや旅館 加藤明子録)
第九章 |欠恋坊《かくれんばう》〔一八一八〕
|吾《わ》が|子《こ》の|行衛《ゆくゑ》は|如何《いか》にぞと  |待《ま》ち|焦《こ》がれたる|父親《てておや》の
アリスの|親爺《おやぢ》は|両人《りやうにん》が  |三五教《あななひけう》の|梅公別《うめこうわけ》
|神《かみ》の|司《つかさ》に|送《おく》られて  |二人《ふたり》ニコニコ|帰《かへ》りしゆ
|狂喜《きやうき》のあまり|逆上《ぎやくじやう》し  いよいよ|病《やまひ》は|重《おも》りつつ
|頭《あたま》|痛《いた》むと|言《い》ひながら  |財産《ざいさん》|全部《ぜんぶ》を|投《な》げ|出《だ》して
|奥《おく》の|間《ま》|深《ふか》く|隠《かく》れけり  ダリヤの|姫《ひめ》は|驚《おどろ》いて
|恋《こひ》しき|父《ちち》の|病《やまひ》をば  |癒《いや》さむためにスガ|山《やま》の
|山王神社《さんわうじんじや》に|夜《よる》|密《ひそ》か  |忍《しの》び|忍《しの》びに|参詣《まゐまう》で
|真心《まごころ》|籠《こ》めて|祈《いの》りゐる  |時《とき》しもあれや|薄暗《うすやみ》を
ぼかしてヌツと|現《あら》はれし  |白髪異様《はくはついやう》の|物影《ものかげ》は
|祠《ほこら》の|前《まへ》に|悠々《いういう》と  |近《ちか》より|来《き》たり|厳《おごそ》かに
|声《こゑ》を|静《しづ》めて|告《つ》ぐるやう
『|吾《われ》は|尊《たふと》き|三五《あななひ》の  |瑞《みづ》の|柱《はしら》と|聞《き》こえたる
|神素盞嗚《かむすさのを》の|尊《みこと》ぞや  |汝《なんぢ》の|家《いへ》は|昔《むかし》より
スガの|港《みなと》に|隠《かく》れなき  |百万長者《ひやくまんちやうじや》と|聞《き》こえたる
|万《よろづ》の|民《たみ》の|怨府《ゑんぷ》ぞや  その|罪《つみ》|今《いま》に|報《むく》い|来《き》て
|汝《なんぢ》の|母《はは》は|逸早《いちはや》く  この|世《よ》の|中《なか》ゆ|身《み》を|隠《かく》し
ある|山里《やまざと》へ|救《すく》はれて  |細《ほそ》き|煙《けむり》を|立《た》てながら
|尼僧生活《にそうせいくわつ》|営《いとな》みつ  |汝《なんぢ》が|家《いへ》の|冥福《めいふく》を
|祈《いの》りゐるこそ|憐《あは》れなる  しかのみならず|汝《なんぢ》が|父《ちち》の
アリスは|今《いま》や|重病《ぢうびやう》に  |罹《かか》りて|生命《せいめい》|危篤《きとく》なり
この|難関《なんくわん》を|恙《つつが》なく  |切《き》り|抜《ぬ》けなむと|思《おも》ふなら
|吾《われ》の|教《をしへ》に|従《したが》ひて  |大谷山《おほたにやま》の|谷間《たにあひ》に
|神代《かみよ》の|昔《むかし》ゆ|降《くだ》り|在《ま》す  |栄《さか》えの|神《かみ》の|御前《おんまへ》に
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|詣《まう》で|見《み》よ  |吾《われ》は|汝《なんぢ》の|案内《あない》して
|人目《ひとめ》を|忍《しの》び|夜《よる》の|道《みち》  |助《たす》け|行《ゆ》かなむダリヤ|姫《ひめ》
|答《いらへ》いかに』と|厳《おごそ》かに  |宣《の》ればダリヤは|首《くび》|傾《かた》げ
|怪《あや》しみながら|言葉《ことば》なく  |思案《しあん》にくれてゐたりしが
パツと|輝《かがや》く|火《ひ》の|光《ひかり》  ハツと|驚《おどろ》き|眺《なが》むれば
|又《また》もや|火影《ほかげ》はパツと|消《き》ゆ  この|不思議《ふしぎ》なる|出来事《できごと》に
ダリヤの|心《こころ》は|動《うご》きつつ  |心《こころ》|定《さだ》めて|答《こた》へらく
『|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》か  |山王神社《さんわうじんじや》の|御化身《ごけしん》か
|妾《わたし》にや|少《すこ》しも|分《わか》らねど  |人間離《にんげんばな》れのしたお|方《かた》
たとへ|鬼神《きしん》であらうとも  かかる|妙術《めうじゆつ》ある|上《うへ》は
|如何《いか》なる|願《ねが》ひもスクスクに  |叶《かな》はせ|玉《たま》ふ|事《こと》ならむ
|御身《おんみ》の|後《あと》に|従《したが》ひて  |何処《どこ》どこまでも|参《まゐ》りませう
|導《みちび》き|玉《たま》へ』と|手《て》を|合《あは》す  |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》に
|化《ば》けたる|妖僧《えうそう》はオーラ|山《さん》  |岩窟《いはや》の|中《なか》に|立籠《たてこも》り
|善男《ぜんなん》|善女《ぜんによ》を|歎《あざむ》きて  |謀反《むほん》を|企《たく》みし|玄真坊《げんしんばう》
|偽天帝《にせてんてい》の|化身《けしん》なる  |偽《にせ》の|救主《きうしゆ》の|成《な》れの|果《はて》
|山子坊主《やまこばうず》と|知《し》られたり  |玄真坊《げんしんばう》は|胸《むね》の|裡《うち》
|雀躍《こをど》りしながら|言霊《ことたま》も  いと|荘重《さうちよう》に|宣《の》らすらく
『|善哉《ぜんざい》|善哉《ぜんざい》ダリヤ|姫《ひめ》  |汝《なんぢ》の|母《はは》は|三年前《みとせまへ》
この|世《よ》を|已《すで》に|去《さ》りし|如《ごと》  |思《おも》ひをれども|左《さ》にあらず
|吾《わ》が|眷族《けんぞく》を|遣《つか》はして  |墓場《はかば》の|土《つち》を|掘《ほ》り|出《いだ》し
|甦生《よみがへ》らせて|山奥《やまおく》に  |庵《いほり》を|結《むす》び|隠《かく》しあり
まづ|第一《だいいち》に|汝《な》が|母《はは》に  |面会《めんくわい》させたその|上《うへ》に
|汝《なんぢ》が|父《ちち》の|重病《ぢうびやう》を  |救《すく》はむための|吾《わ》が|仕組《しぐみ》
|従《したが》ひ|来《き》たれ』と|言《い》ひながら  |暗《やみ》の|山道《やまみち》スタスタと
ダリヤの|姫《ひめ》の|手《て》を|引《ひ》いて  |人跡《じんせき》|稀《まれ》なる|大野原《おほのはら》
|怪《あや》しき|声《こゑ》を|絞《しぼ》りつつ  |般若心経《はんにやしんぎやう》|波羅蜜経《はらみつきやう》
|普門品《ふもんぼん》まで|唱《とな》へつつ  タラハン|城下《じやうか》をさして|行《ゆ》く。
ダリヤ|姫《ひめ》は|稀代《きたい》の|売僧《まいす》、オーラ|山《さん》の|悪党《あくたう》|玄真坊《げんしんばう》とは|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、|吾《わ》が|家《いへ》にヨリコ|姫《ひめ》、|花香《はなか》の|逗留《とうりう》しをる|事《こと》も|忘《わす》れてしまひ、|死《し》んだと|思《おも》うた|母上《ははうへ》は、ある|山奥《やまおく》に|生《い》きてゐますと|聞《き》きしより|虚実《きよじつ》を|調《しら》ぶる|余裕《よゆう》もなく、この|妖僧《えうそう》を|神素盞嗚《かむすさのを》の|神《かみ》の|化身《けしん》と|深《ふか》く|信《しん》じて、|夜陰《やいん》にまぎれタラハン|城下《じやうか》を|指《さ》して|出《で》て|来《き》たのである。|玄真坊《げんしんばう》は|口《くち》から|出任《でまか》せの|事《こと》を|言《い》つて|噂《うはさ》に|高《たか》い|薬屋《くすりや》の|娘《むすめ》をこの|美人《びじん》をうまく、ちよろまかして|自分《じぶん》に|靡《なび》かせ|女房《にようばう》に|為《な》しおかば、|百万長者《ひやくまんちやうじや》の|財産《ざいさん》は|二人《ふたり》の|兄《あに》はあつても、そこは|何《なん》とか、|彼《かん》とか|文句《もんく》をつけ、|自分《じぶん》が|一人《ひとり》のものにせむと|色《いろ》と|慾《よく》との|二道《ふたみち》かけ、|此処《ここ》までつり|出《だ》して|来《く》るは|来《き》たものの、さて|何処《いづこ》へ|連《つ》れて|行《ゆ》かうか……と|心《こころ》の|裡《うち》に|悩《なや》んでゐた。
タラハン|川《がは》の|岸《きし》に|沿《そ》ひたる|常磐木《ときはぎ》の、かなり|広《ひろ》い|森林《しんりん》がある。この|森林《しんりん》は|一方《いつぱう》は|川辺《かはべ》の|事《こと》とて、|千畳敷《せんでふじき》の|岩《いは》が|並《なら》んでゐた。|二人《ふたり》はこの|岩《いは》の|上《うへ》に|座《ざ》を|占《し》め、|川《かは》の|流《なが》れを|眺《なが》めながら|休息《きうそく》した。
ダリヤ『モシ、|大神《おほかみ》の|化身様《けしんさま》、|母《はは》の|居《を》りまする|山《やま》はどの|方面《はうめん》でございますか、|一寸《ちよつと》お|知《し》らせ|下《くだ》さいませ』
|玄真《げんしん》『ウンウンヨシヨシ、エー……コーツト……あの|峰《みね》がエー|高満山《たかみつやま》、それから、その|向《む》かふが、エー|岸山《きしやま》、|川並山《かはなみやま》、エー、その|向《む》かふがタニグク|山《やま》、ウンあのタニグク|山《やま》の|一寸《ちよつと》|後《うし》ろに、コバルト|色《いろ》に|霞《かす》んでゐる|峰《みね》が|見《み》えるだらう。あれが|大谷山《おほたにやま》といつて、あの|麓《ふもと》に、|何《なん》でエー、|汝《おまへ》のお|母《かあ》さまが|居《を》られるのだ。そして、|其処《そこ》に|栄《さか》えの|神様《かみさま》の|祠《ほこら》がある。その|神様《かみさま》が|願《ねが》ひ|事《ごと》を|何《なん》でも|聞《き》いて|下《くだ》さるのだ。|今《いま》そこへ|案内《あんない》しやうが、|何分《なにぶん》|道《みち》が|悪《わる》いから、お|前《まへ》も|難渋《なんじふ》すると|思《おも》つて、|休《やす》み|休《やす》み|行《ゆ》くことにしたのだ』
『|何《なん》とマア|高《たか》い|山《やま》でございますこと、まだ|彼処《あこ》までは|大分《だいぶん》|道程《みちのり》がございませうね』
『さうだ、|一寸《ちよつと》|三十里《さんじふり》ばかりあるだらう、|女《をんな》の|足弱《あしよわ》を|連《つ》れて|行《ゆ》くのだから、|先《ま》づ|三日《みつか》はかかる|事《こと》と|思《おも》はねばならぬ』
『アア|左様《さやう》でございますか、たとへ|三日《みつか》が|十日《とをか》ぐらゐかかつてもお|母《かあ》さまに|会《あ》へたり、お|父《とう》さまの|病気《びやうき》が|癒《い》えましたら|一寸《ちよつと》も|厭《いと》ひませぬ。どうかお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
『これ、ダリヤさま、お|前《まへ》は|俺《わし》を|本当《ほんたう》の|神《かみ》の|化身《けしん》と|思《おも》つてゐるか、それとも|売僧坊主《まいすばうず》だと|思《おも》つてゐるか、|本当《ほんたう》の|事《こと》を|聞《き》かしてもらひたいものだな』
『ハイ、|大神様《おほかみさま》の|御化身《ごけしん》にしてはチツとばかり……かう|申《まを》すとすみませぬが、お|軽《かる》いやうでもあり、|俗人《ぞくじん》にしては|凡《すべ》ての|点《てん》に|秀《ひい》でてござるなり、|山子坊主《やまこばうず》では|到底《たうてい》|出来《でき》ない|妙術《めうじゆつ》を|持《も》つてござるなり、とても|妾《わらは》のごとき|凡眼《ぼんがん》では|竜《りう》の|片鱗《へんりん》でも|掴《つか》むことが|出来《でき》ませぬ。たとへ|山子坊主《やまこばうず》にしたところで、|暗夜《やみよ》に|体《からだ》から|光《ひかり》を|出《だ》したり、|四辺《あたり》を|輝《かがや》かしたりなさる|御神徳《ごしんとく》を|持《も》つたお|方《かた》ゆゑ、お|言葉《ことば》に|従《したが》つておけばキツと|望《のぞ》みを|叶《かな》へて|下《くだ》さるだらうと|信《しん》じまして、|御案内《ごあんない》を|願《ねが》つたのでございます』
『ハハアなるほど、|其方《そなた》はよほどの|才媛《さいゑん》だ。|拙者《せつしや》を|神《かみ》の|化身《けしん》と|信《しん》じて|跟《つ》いて|来《き》たのならば、|一向《いつかう》|面白《おもしろ》くないが、たとへ|山子坊主《やまこばうず》にもせよ、|不思議《ふしぎ》の|術《じゆつ》を|有《も》つてゐるその|点《てん》に|憧憬《どうけい》して、|跟《つ》いて|来《き》たとあれやますます|頼《たの》もしい。それぢや|一《ひと》つ|何《なに》もかも|打明《ぶちあ》けて|言《い》ふが、|拙僧《せつそう》こそは|天帝《てんてい》の|化身《けしん》、|天来《てんらい》の|救世主《きうせいしゆ》、|天下一《てんかいち》の|名僧知識《めいそうちしき》と|自称《じしよう》する|智謀絶倫《ちぼうぜつりん》の|英僧《えいそう》だ、|否《いや》マハトマの|聖雄《せいゆう》だ、どうぢやダリヤ|姫殿《ひめどの》、|驚《おどろ》いたであらうなア』
『ホツホホホ、まるつきり、オーラ|山《さん》の|玄真坊《げんしんばう》|見《み》たいなお|方《かた》ですな』
『オーサ、さうぢや、|拙僧《せつそう》こそはオーラの|山《やま》に|年古《としふる》く|住《す》む|大天狗《だいてんぐ》の|化身《けしん》、|玄真坊《げんしんばう》でござるぞや』
『ホツホホホ、|何《なん》とマア、えらい|馬力《ばりき》ですこと、|大変《たいへん》なメートルが|上《あが》つてゐますよ。さうすると|玄真《げんしん》さま、お|前《まへ》は|美人《びじん》と|見《み》れば|岩窟《いはや》へ|引張《ひつぱ》り|込《こ》んで、|否応《いやおう》なしに|獣慾《じうよく》を|遂《と》げる|淫乱上人《いんらんしやうにん》でせう。|母上《ははうへ》に|会《あ》はしてやらうなんて、うまく|妾《わらは》を|騙《だま》かし、|何処《どつか》の|岩窟《いはや》へ|連《つ》れ|込《こ》む|算段《さんだん》でせうがなア。もうこれから|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》ります。たとへ|烏《からす》にこつかせても|売僧坊主《まいすばうず》さまにやこつかせませぬワ。エー、マーマア、|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にして|下《くだ》さつた。|今時《いまどき》の|女《をんな》に、そんな|偽《いつは》りを|喰《く》ふ|馬鹿《ばか》はございませぬよ。|口惜《くや》しいと|思召《おぼしめ》すなら、|目《め》なつと|噛《か》んで|死《し》になさい、|左様《さやう》なら』
と|捨台詞《すてぜりふ》を|残《のこ》し|逃《に》げ|出《だ》さむとした。|玄真坊《げんしんばう》は、ヒユーヒユーと|口笛《くちぶえ》を|三四回《さんしくわい》|吹《ふ》くや|否《いな》や、|七八人《しちはちにん》の|覆面《ふくめん》した|荒男《あらをとこ》、|森《もり》の|茂《しげ》みより|現《あら》はれ|来《き》たり、|手《て》とり|足《あし》とり|否応《いなおう》|言《い》はさず、|玄真坊《げんしんばう》と|共《とも》に|野中《のなか》の|道《みち》をトントンと、タニグク|山《やま》の|方面《はうめん》|目《め》がけて|担《かつ》ぎ|行《ゆ》く。
スガの|港《みなと》のアリスの|宅《うち》では、ダリヤ|姫《ひめ》が|山王《さんわう》の|森《もり》に|夜中《やちう》|参拝《さんぱい》した|限《き》り、|夜明《よあ》けになつても|帰《かへ》つて|来《こ》ないので、|門番《もんばん》のアル、エスに|命《めい》じスガの|山《やま》の|木《こ》の|間《ま》を|隈《くま》なく|捜索《そうさく》せしめたが、いくら|探《さが》しても、|影《かげ》も|形《かたち》も|見《み》えぬのに|力《ちから》を|落《お》とし、その|日《ひ》の|日《ひ》の|暮《くれ》ごろ、|青《あを》い|顔《かほ》して|帰《かへ》つて|来《き》た。|兄《あに》のイルクはこんな|事《こと》を|重病《ぢうびやう》の|父《ちち》に|聞《き》かしてはますます|病《やまひ》が|重《おも》るばかりと、|召使《めしつかひ》どもによく|言《い》ひ|聞《き》かせ、|病父《びやうふ》のアリスにはダリヤ|姫《ひめ》の|事《こと》は|少《すこ》しも|話《はな》さないことに|口止《くちど》めをしてしまつた。イルクはヨリコ|姫《ひめ》、|花香姫《はなかひめ》の|居間《ゐま》を|訪《たづ》ね、
『モシ、ヨリコ|姫様《ひめさま》、|最早《もう》お|寝《やす》みでございますか、|夜分《やぶん》|遅《おそ》くお|邪魔《じやま》いたしますが』
と|伺《うかが》へば|中《なか》より、|優《やさ》しきヨリコ|姫《ひめ》の|声《こゑ》、
ヨリコ『ハイ、|未《ま》だ|寝《やす》んでをりませぬ。さういふ|声《こゑ》はイルクさまでございますか、まづまづお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ。|妹《いもうと》は|宣伝《せんでん》の|草臥《くたぶれ》で|已《すで》に|寝《やす》んでをりますが、お|構《かま》ひなくお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ』
イルク『ハイ、|有難《ありがた》う、|然《しか》らば|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》ります。エー|突然《とつぜん》ながら、|一寸《ちよつと》お|智慧《ちゑ》を|貸《か》して|貰《もら》ひに|参《まゐ》りました。といふのは|外《ほか》でもございませぬ、|妹《いもうと》のダリヤ|姫《ひめ》が|昨夜半頃《さくよなかごろ》、|父《ちち》の|重病《ぢうびやう》を|苦《く》にして、スガ|山《やま》の|山王《さんわう》の|祠《ほこら》に|参拝《さんぱい》いたしました|限《き》り、|今朝《けさ》になつても|帰《かへ》り|来《こ》ず、|私《わたくし》も|非常《ひじやう》に|心配《しんぱい》をいたしまして|門番《もんばん》のアル、エスを|遣《つか》はし、|山中《さんちう》|隈《くま》なく|捜索《さうさく》をさせましたが、|呼《よ》べど|叫《さけ》べど|何《なん》の|音沙汰《おとさた》もなしの|礫《つぶて》、|日《ひ》の|暮頃《くれごろ》|力《ちから》なげに|帰《かへ》つて|参《まゐ》りました。もしや|悪者《わるもの》にでも|拐《かどはか》されたのぢやございますまいかなア』
『ヤ、|初《はじ》めて|承《うけたまは》り|実《じつ》に|驚《おどろ》きました、さぞさぞ|御心配《ごしんぱい》でございませう。|妾《わらは》は|未《ま》だ|霊眼《れいがん》が|開《ひら》けてをりませぬので、|何《ど》うの、かうのといふお|指図《さしづ》も|出来《でき》ませぬが、コレヤ、キツと|悪《わる》い|奴《やつ》に|誑《たぶらか》され、|何処《どつか》の|山奥《やまおく》へ|連《つ》れて|行《ゆ》かれたのでせう。|然《しか》しながら|必《かなら》ず|御心配《ごしんぱい》なさいますな、|神様《かみさま》のお|守護《まもり》ある|以上《いじやう》は|滅多《めつた》の|事《こと》はありませぬからなア』
『|左様《さやう》でございませうかね、せつかく|梅公別《うめこうわけ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》に|助《たす》けられたと|思《おも》へば、また|悪者《わるもの》に|攫《さら》はれるとは、よくよく|運《うん》の|悪《わる》い|妹《いもうと》でございます』
と|男泣《をとこな》きに|泣《な》く。|今《いま》までスヤスヤ|眠《ねむ》つてゐた|花香《はなか》はフツと|目《め》を|醒《さ》まし、
『アア|姉《ねえ》さまですか、いやイルク|様《さま》、ようお|出《い》でなさいませ。|貴方《あなた》のお|出《で》ましとも|知《し》らずウツカリと|寝《ね》てしまひまして、エライ|失礼《しつれい》いたしました。ダリヤ|姫《ひめ》さまの|行衛《ゆくゑ》について、|御相談《ごさうだん》してゐられますやうですが、|必《かなら》ず|御心配《ごしんぱい》なさいますな。ダリヤ|様《さま》は|屹度《きつと》|二ケ月《にかげつ》の|後《のち》にはお|帰《かへ》りになります。|妾《わたし》はいま|夢《ゆめ》を|見《み》ましたが、あのオーラ|山《さん》に|立籠《たてこも》つてをつた|玄真坊《げんしんばう》に|拐《かどはか》され、|何処《どこ》かの|山奥《やまおく》へ|連《つ》れ|行《ゆ》かれ、|玄真坊《げんしんばう》は|自分《じぶん》の|女房《にようばう》にしやうとして、いろいろと|骨《ほね》を|折《を》つてをりますが、ダリヤ|姫様《ひめさま》は|決《けつ》して|彼《かれ》に|汚《けが》され|給《たま》ふやうな|事《こと》なく、|立派《りつぱ》な|人《ひと》に|送《おく》られてお|帰《かへ》りになつた|夢《ゆめ》を|見《み》ました』
イル『ヤア、そのお|夢《ゆめ》はキツと|正夢《まさゆめ》でございませう、|六十日《ろくじふにち》といへば|長《なが》いやうですが|直《す》ぐに|経《た》ちます。どうか|其時《それ》まで|父《ちち》が|生《い》きてをつてくれれば|宜《よろ》しいがな』
ヨリ『|一切《いつさい》を|神様《かみさま》に|任《まか》したお|父上《ちちうへ》、たとへ|御病気《ごびやうき》でもお|命《いのち》に|別条《べつでう》はございませぬ。お|宮《みや》の|普請《ふしん》が|立派《りつぱ》に|出来上《できあ》がつた|上《うへ》に、ダリヤ|姫《ひめ》さまはお|帰《かへ》り、お|父上《ちちうへ》は|御本復《ごほんぷく》といふ|事《こと》になるでせう。お|宮《みや》の|出来上《できあ》がりとダリヤさまのお|帰《かへ》りとお|父上《ちちうへ》の|御全快《ごぜんくわい》と「|目出度《めでた》|目出度《めでた》が|三《み》つ|重《かさ》なつて|鶴《つる》が|御門《ごもん》に|巣《す》をかける」といふ|瑞祥《ずゐしやう》がやがて|参《まゐ》りませう。|何事《なにごと》も|神様《かみさま》にお|任《まか》せして|時節《じせつ》をお|待《ま》ち|下《くだ》さいませ』
イルクは、
『ハイ、|有難《ありがた》う、|夜分《やぶん》にお|邪魔《じやま》|致《いた》しました、|何分《なにぶん》よろしうお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
と|吾《わ》が|居室《ゐま》さして|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一五・六・三〇 旧五・二一 於天之橋立なかや旅館 北村隆光録)
第一〇章 |清《すが》の|歌《うた》〔一八一九〕
|夜《よ》は|久方《ひさかた》の|空《そら》|高《たか》く  |輝《かがや》き|照《て》らす|月《つき》の|国《くに》
トルマン|国《ごく》のスガの|山《やま》  |千歳《ちとせ》の|老松《らうしよう》|苔蒸《こけむ》して
|百鳥千鳥《ももどりちどり》|朝夕《あさゆふ》に  |御代《みよ》を|寿《ことほ》ぎ|千代千代《ちよちよ》と
|囀《さへづ》る|声《こゑ》の|勇《いさ》ましく  |樟《くす》の|古木《こぼく》の|梢《こずゑ》には
|鷲《わし》が|出《で》て|来《く》る|巣《す》を|造《つく》る  |常磐《ときは》の|松《まつ》の|色《いろ》|深《ふか》く
|田鶴《たづ》なき|渡《わた》り|巣《す》をかける  |山水明媚《さんすゐめいび》の|神《かみ》の|山《やま》
|山王神社《さんわうじんじや》の|御祠《おんほこら》  |幾千年《いくせんねん》の|雨風《あめかぜ》に
|破《やぶ》れ|歪《ゆが》めど|神徳《しんとく》は  |七千余国《しちせんよこく》の|月《つき》の|国《くに》
|隈《くま》なく|輝《かがや》き|渡《わた》りけり  ハルの|湖《みづうみ》|洋々《やうやう》と
|浪《なみ》を|湛《たた》へて|吹《ふ》き|来《き》たる  |風《かぜ》の|香《かを》りも|馨《かんばし》く
|稲《いね》|麦《むぎ》|豆《まめ》|粟《あは》よく|実《みの》り  |牛《うし》|馬《うま》|羊《ひつじ》|豚《ぶた》|駱駝《らくだ》
|家畜《かちく》|一切《いつさい》よく|育《そだ》つ  |神《かみ》の|恵《めぐ》みの|足《たら》ひたる
|珍神国《うづかみくに》と|知《し》られける  この|国中《くになか》に|聳《そそ》り|立《た》つ
|大高山《たいかうざん》の|峰続《みねつづ》き  スガの|神山《かみやま》|鬱蒼《うつさう》と
|茂《しげ》れる|見《み》ればトルマンの  |国《くに》の|栄《さか》えのほの|見《み》えて
|神代《かみよ》の|姿《すがた》|偲《しの》ばるる  ヨリコの|姫《ひめ》や|花香姫《はなかひめ》
|主《あるじ》のイルクと|諸共《もろとも》に  |村人《むらびと》|多《おほ》く|呼《よ》び|集《つど》へ
|心《こころ》の|色《いろ》もスガ|山《やま》の  |大峡《おほがい》|小峡《をがい》の|木《き》を|伐《き》りて
|本《もと》と|末《すゑ》とは|山口《やまぐち》の  |皇大神《すめおほかみ》に|奉《たてまつ》り
|朝《あさ》から|晩《ばん》までチヨンチヨンと  |削《けづ》る|忌斧《いみをの》|忌鉋《いみかんな》
|鋸《のこぎり》の|声《こゑ》|勇《いさ》ましく  |木《き》を|切《き》りこなす|面白《おもしろ》さ
|山王《さんわう》の|宮《みや》の|大前《おほまへ》に  |展開《てんかい》したる|広庭《ひろには》の
|岩《いは》|切《き》り|開《ひら》き|清《きよ》めつつ  |五色《ごしき》の|幣《にぎで》を|立《た》て|並《なら》べ
|石搗祭《いしつきまつり》を|始《はじ》めたり  |石搗祭《いしつきまつり》の|神歌《かみうた》は
|今《いま》|左《さ》に|述《の》ぶる|如《ごと》くなり。
○|石搗歌《いしつきうた》
スガの|町《まち》の|薬種問屋《やくしゆどひや》  ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て
|地獄《ぢごく》の|底《そこ》まで|打《う》ち|抜《ぬ》けよ  スガの|神山《かみやま》|切《き》り|開《ひら》き
|土《つち》ひきならし|塩《しほ》|撒《ま》いて  |上津岩根《うはついはね》に|搗《つ》きこらし
|下津岩根《したついはね》に|搗《つ》き|固《かた》め  ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て
|竜宮《りうぐう》の|底《そこ》の|抜《ぬ》けるまで  スガの|港《みなと》の|薬種問屋《やくしゆどひや》
|天地《てんち》を|創造《つく》り|玉《たま》ひたる  |仁慈無限《じんじむげん》の|大神《おほかみ》が
|常磐堅磐《ときはかきは》の|御舎《みあらか》と  |仕《つか》へ|奉《まつ》るぞ|尊《たふと》けれ
ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て  |地獄《ぢごく》の|釜《かま》の|割《わ》れるまで
スガの|港《みなと》の|薬種問屋《やくしゆどひや》  ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て
|産砂山《うぶすなやま》の|聖場《せいぢやう》に  |天降《あも》りましたる|瑞霊《みづみたま》
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の  |厳《いづ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|月《つき》|第一《だいいち》の|景勝地《けいしようち》  バラモン|教《けう》やウラル|教《けう》
|神《かみ》の|司《つかさ》が|幾度《いくたび》も  |尋《たづ》ね|来《き》たりて|求《もと》めたる
この|聖場《せいぢやう》も|今《いま》は|早《は》や  |輝《かがや》き|渡《わた》る|世《よ》となりぬ
ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て  |竜宮《りうぐう》の|底《そこ》の|抜《ぬ》けるまで
スガの|港《みなと》の|薬種問屋《やくしゆどひや》  ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |梅公別《うめこうわけ》の|神司《かむつかさ》
オーラの|山《やま》に|立《た》ち|向《む》かひ  |玄真坊《げんしんばう》やシーゴーと
|名《な》も|怖《おそ》ろしき|強賊《がうぞく》や  |売僧坊主《まいすばうず》を|言向《ことむ》けて
|凱歌《がいか》をあげつつ|梓弓《あづさゆみ》  ハルの|湖《みづうみ》|渡《わた》らしつ
|乗合船《のりあひぶね》のその|中《なか》で  ダリヤの|姫《ひめ》の|危急《ききふ》をば
|救《すく》ひ|給《たま》ひし|聖雄《せいゆう》ぞ  この|神司《かむつかさ》|在《ま》す|上《うへ》は
スガの|神山《かみやま》|雲《くも》|深《ふか》く  |包《つつ》みて|悪魔《あくま》の|襲《おそ》ふとも
|鬼《おに》や|大蛇《をろち》の|攻《せ》め|来《く》とも  |如何《いか》でか|恐《おそ》れむ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|光《ひかり》に|消《き》え|失《う》せむ  ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て
|竜宮《りうぐう》の|底《そこ》の|抜《ぬ》けるまで  スガの|港《みなと》の|薬種問屋《やくしゆどひや》
ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て  ヨリコの|姫《ひめ》や|花香姫《はなかひめ》
|天《てん》より|降《くだ》りし|七夕《たなばた》の  |栲機姫《たぐはたひめ》か|千々姫《ちぢひめ》か
|天教山《てんけうざん》に|現《あ》れませる  |咲耶《さくや》の|姫《ひめ》の|再来《さいらい》か
|面《おもて》は|白《しろ》く|眉《まゆ》|細《ほそ》く  |髪《かみ》は|烏《からす》の|濡羽色《ぬればいろ》
|一目《ひとめ》|拝《をが》むも|気《き》がうとく  |眼《まなこ》もかすむ|艶姿《あですがた》
ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て  |地獄《ぢごく》の|釜《かま》の|割《わ》れるまで
スガの|港《みなと》の|薬種問屋《やくしゆどひや》  ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て
|弁天様《べんてんさま》の|御化身《ごけしん》が  |二人《ふたり》も|天降《あも》ります|限《かぎ》り
この|大宮《おほみや》は|神徳《しんとく》も  |日《ひ》に|夜《よ》に|月《つき》に|輝《かがや》きて
|月《つき》の|御国《みくに》の|闇《やみ》の|空《そら》  |清《きよ》く|晴《は》れなむ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》ぞかしこけれ  ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て
|地獄《ぢごく》の|釜《かま》の|割《わ》れるまで  スガの|港《みなと》の|薬種問屋《やくしゆどひや》
ヨーイヨーイ ドンと|打《う》て。
かくして|地鎮祭《ぢちんさい》も|済《す》み、|次《つ》いで|立柱式《りつちうしき》、|上棟式《じやうとうしき》、|完成式《くわんせいしき》など|僅《わづ》か|六十日《ろくじふにち》の|間《あひだ》に|大工《だいく》、|左官《さくわん》、|手伝人《てつだひ》などの|精励《せいれい》の|結果《けつくわ》、|遷座式《せんざしき》を|行《おこな》ふこととなつた。|待《ま》ちに|待《ま》つたる|五月五日《ごぐわついつか》、いよいよスガの|宮《みや》の|完成式《くわんせいしき》を|挙行《きよかう》することとなり、|神谷村《かみたにむら》の|玉清別《たまきよわけ》を|斎主《さいしゆ》となし、|主人《しゆじん》のイルクは|神饌長《しんせんちやう》となり、ヨリコ、|花香《はなか》、ダリヤの|三人《さんにん》の|姫御子《ひめみこ》は|手長《たなが》をつとめ、|八雲琴《やくもごと》、|箏《しやう》、|篳篥《ひちりき》、|太皷《たいこ》の|声《こゑ》も|賑々《にぎにぎ》しく、|無事《ぶじ》|遷座式《せんざしき》を|終了《しうれう》した。これよりスガ|山《やま》の|山下《やまもと》なる、|神饌田《しんせんでん》において|田植式《たうゑしき》の|祭典《さいてん》を|行《おこな》ふこととなつた。|祭典《さいてん》の|次第《しだい》を|略述《りやくじゆつ》すれば、
|五月五日《ごぐわついつか》|早朝《そうてう》|祭員《さいゐん》|一同《いちどう》|神《かみ》の|座《ざ》に|着《つ》く。|土地《とち》の|農夫《のうふ》ら|神饌田《しんせんでん》の|畔《ほとり》に|列立《れつりつ》し、|次《つ》いで|神饌《しんせん》を|供《きよう》し|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|次《つぎ》に|祭員《さいゐん》、|参詣者《さんけいしや》|一同《いちどう》|礼拝《らいはい》し、|終《をは》つて|祭員《さいゐん》は|撒饌《てつせん》に|移《うつ》る。|農夫《のうふ》は|神酒《みき》を|戴《いただ》き、|次《つぎ》に|田植《たうゑ》ゑの|行事《ぎやうじ》に|着手《ちやくしゆ》す。|斎主《さいしゆ》の|玉清別《たまきよわけ》は|音頭《おんどう》の|発声《はつせい》をなし、|謳歌者《おうかしや》|声《こゑ》を|次《つ》ぐ。|農夫《のうふ》たち|神饌田《しんせんでん》に|入《い》りて|耕《たがや》しの|式《しき》をなし、|道歌《だうか》を|歌《うた》ひながら|神饌田《しんせんでん》を|東西南北《とうざいなんぼく》に|列《れつ》を|作《つく》つて|進行《しんかう》し、|鍬《くは》を|揃《そろ》へて|神田《しんでん》を|耕《たがや》し、|終《をは》つて|神饌田《しんせんでん》の|正中《せいちう》に|幣《ぬさ》を|立《た》ておく|儀式《ぎしき》である。
○|音頭《おんどう》
あれみさい スガの|山《やま》のー|横《よこ》ー|雲《ぐも》ー
ホーイ ホーイ ヤーァホイ |横雲《よこぐも》|下《した》こそ
|私等《わしら》が|祖国《おーやぐに》ー ホーイ ホーイ ヤーァホイ
ヤレー|見上《みあ》げて|見《み》れば オホー(大)カン(寒)|鳥《とり》
ホーイ ホーイ ヤーァホイ |見《み》おろせば
スガの|名所《めいしよ》は|船着《ふなつき》 ホーイ ホーイ ヤーァホイ
ヤレー|吾《わ》が|夫《つま》は |河鹿《かじか》の|浜《はま》で|網《あみ》を|曳《ひ》く
ホーイ ホーイ ヤーァホイ かかれかし
|九反《くだん》の|網《あみ》の|目毎《めごと》に ホーイ ホーイ ヤーァホイ
ヤレー|目出《めで》たいものは|芋《いも》の|種《たね》 ホーイ ホーイ ヤーァホイ
|茎《くき》|長《なが》く|葉《は》|広《ひろ》く|子供《こども》あまたにー ホーイ ホーイ ヤーァホイ
|此様《これさま》の|床《とこ》の|間《ま》にかけし|掛物《かーけもの》 ホーイ ホーイ ヤーァホイ
|鴛鴦《をしどり》に|千鳥《ちどり》に|梅《うめ》に|鶯《うぐひす》 ホーイ ホーイ ヤーァホイ
|此様《これさま》の|七《なな》つの|倉《くら》の|倉開《くらびら》き ホーイ ホーイ ヤーァホイ
|白銀《しろがね》や|黄金《こがね》の|徳利《ちようし》|盃々《さかづきさかづき》 ホーイ ホーイ ヤーァホイ
ヤレー|十《とを》や|七《なな》つが|柳《やなぎ》の|下《した》で |芹《せり》を|摘《つ》む
ホーイ ホーイ ヤーァホイ |芹《せり》はなし|柳《やなぎ》は|撚《よ》れてからまーる
ホーイ ホーイ ヤーァホイ |十《とを》よ|七《なな》つが|待《ま》てならレードの|出先《でさき》で
ホーイ ホーイ ヤーァホイ ヤーマ(山)を|見《み》てやれ、それでは|早《はや》い
|早《はや》ければー、|爺《おやぢ》の|息《いつき》が|切《き》れ|候《さふらふ》。
いよいよ|耕《たがや》し|済《す》み、|水《みづ》が|入《い》ると、|此度《こんど》は|早乙女《さをとめ》が|赤襷《あかだすき》|十文字《じふもんじ》に|綾《あや》どり、|美々《びび》しき|衣服《いふく》を|着飾《きかざ》つて|水田《みづた》に|下《お》りる。
|早乙女《さをとめ》の|歌《うた》
|代田《しろた》は|富士《ふじ》の|山《やま》ほどござる  |日《ひ》は【しんとう】と|山《やま》の|端《は》にかかる
オーラ(俺)の|所《とこ》の|小旦那《こだんな》は  うす|田《だ》をこのむ
うす|田《だ》|千石《せんごく》|厚田《あつだ》も|千石《せんごく》
|十《とを》よ|七《なな》つ|八《や》つ|諸舞《もろまひ》なれば  |月星《つきほし》|出《い》でて|蚊《か》のなくまでも
|私《わたし》と|汝《おまへ》と|何処《どこ》で|田《た》を|植《う》ゑ|初《そ》めた  |九下《このした》|八《や》つのよし|家《や》のもとで
|十《とを》よ|七《なな》つ|八《や》つ|細田《ほそた》の|清水《しみづ》  |見《み》る|人達《ひとたち》が|手《て》をかけたがる
|十《とう》よ|七《なな》つの|腰《こし》は|品《しな》よい|腰《こし》よ  |品《しな》よい|腰《こし》に|鳴子《なるこ》をつけて
|日暮《ひぐら》し|烏《がらす》は|汚《きたな》い|鳥《とり》よ  |上《あが》れや|終《しま》へと|笠《かさ》の|上《うへ》を|廻《まは》る
|雷《かみなり》さまは|浮気《うはき》な|神《かみ》よ  |太皷《たいこ》の|撥《ばち》を|質《しち》におき
|色町通《いろまちがよ》ひをするさうだ。
スガの|港《みなと》の|薬種問屋《やくしゆどひや》のアリスの|家《いへ》は|俄《には》かに|一陽来復《いちやうらいふく》の|春《はる》が|来《き》た。スガの|宮《みや》は|無事《ぶじ》|建設《けんせつ》を|終《をは》り、アリスの|病《やまひ》は|拭《ぬぐ》ふがごとく|癒《い》え、|行衛不明《ゆくゑふめい》となつてゐたダリヤ|姫《ひめ》は、|神谷村《かみたにむら》の|玉清別《たまきよわけ》に|送《おく》られて|祭典《さいてん》の|二日前《ふつかまへ》に|帰《かへ》つて|来《き》た。ただ|恨《うら》むらくは、|梅公別《うめこうわけ》|宣伝使《せんでんし》の|未《いま》だ|到着《たうちやく》なきことであつた。
アリスは|日《ひ》の|丸《まる》の|扇《あふぎ》を|開《ひら》きながら|喜《よろこ》び|祝《しゆく》して|酒宴《しゆえん》の|席《せき》にて|舞《ま》ふ。
○|謡曲《えうきよく》
アリス『|世《よ》は|久方《ひさかた》の|空《そら》|高《たか》く  |天《あま》の|羽衣《はごろも》ふりはへて
スガの|御山《みやま》の|奥《おく》|深《ふか》く  |天降《あも》りましたる|木《こ》の|花姫《はなひめ》の
|神《かみ》の|姿《すがた》に|似《に》たるかな  ヨリコの|姫《ひめ》や|花香姫《はなかひめ》
ダリヤの|姫《ひめ》の|顔《かんばせ》は  |瑞《みづ》の|霊《みたま》の|帯《お》ばせ|給《たま》ふ
|十束《とつか》の|剣《つるぎ》を|三段折《みきだを》り  |天《あま》の|安河《やすかは》を|中《なか》におき
|天《あめ》の|真奈井《まなゐ》にふりすすぎ  ぬなとももゆらに|取《と》りゆらし
さがみにかみて|吹《ふ》き|打《う》ち|給《たま》ふ  |伊吹《いぶ》きの|狭霧《さぎり》になりませる
|市岐島姫《いちきしまひめ》|多紀理姫《たぎりひめ》  |多紀都《たきつ》の|姫《ひめ》のあで|姿《すがた》
|今《いま》|眼《ま》の|当《あた》り|拝《をろ》がむ|心地《ここち》  |木枯《こがら》しすさぶ|冬《ふゆ》の|夜《よ》に
まがふべらなる|老《お》いの|身《み》の  |春《はる》に|遇《あ》ひたる|心地《ここち》かな
|仰《あふ》ぎ|敬《うやま》へ|天地《あめつち》の  |神《かみ》の|功《いさを》のただならず
|月《つき》の|御国《みくに》の|空《そら》|高《たか》く  |輝《かがや》き|渡《わた》る|日月《じつげつ》の
|光《ひかり》にまさる|如《ごと》くなり  イーイーー
そもそもスガの|山元《やまもと》は  |遠《とほ》き|昔《むかし》の|神代《かみよ》より
|皇大神《すめおほかみ》の|御舎《みあらか》と  |言《い》ひ|次《つ》ぎ|伝《つた》へ|来《き》たりし
|珍《うづ》の|御里《おんさと》なれば  |北《きた》に|清《きよ》けきハルの|湖《うみ》
|南《みなみ》に|高《たか》き|大高《おほたか》の|峰《みね》  |東《ひがし》に|聳《そび》ゆる|鐘ケ岳《かながだけ》
|西《にし》に|聳《そび》ぬる|青雲山《せいうんざん》  |山《やま》の|屏風《びやうぶ》を|立《た》て|並《なら》べ
|天津御神《あまつみかみ》や|国津神《くにつかみ》  |集《あつ》まり|玉《たま》ふ|珍宮《うづみや》と
|仕《つか》へ|奉《まつ》りし|嬉《うれ》しさは  はや|天国《てんごく》に|住《す》む|心地《ここち》
あな|有難《ありがた》や|尊《たふと》やな  |勇《いさ》めよ|勇《いさ》めよ|家《いへ》の|子《こ》よ
|祝《いは》へよ|祝《いは》へよ|国人《くにびと》よ  |千秋万歳《せんしうばんざい》|限《かぎ》りなく
|国《くに》の|栄《さか》えも|松翠《まつみどり》  |果《は》てしも|知《し》らぬ|白雲《しらくも》の
|国《くに》の|外《そと》まで|御恵《みめぐ》みの  |露《つゆ》に|霑《うるほ》ふ|神代《かみよ》かな
|露《つゆ》に|霑《うるほ》ふ|神代《かみよ》かな』
(大正一五・六・三〇 旧五・二一 於天之橋立なかや旅館 加藤明子録)
第一一章 |問答所《もんだふどころ》〔一八二〇〕
スガの|宮《みや》の|広《ひろ》い|境内《けいだい》の|片隈《かたすみ》に|問答所《もんだふどころ》といふ|建物《たてもの》を|新築《しんちく》し、ヨリコ|姫《ひめ》、|花香《はなか》、ダリヤ|姫《ひめ》の|三人《さんにん》が|昼夜《ちうや》|出勤《しゆつきん》してゐた。さうして|表《おもて》の|大看板《おほかんばん》に「|宗教《しうけう》|一切《いつさい》の|問答所《もんだふどころ》」と|筆太《ふでぶと》に|書《か》き|記《しる》し、その|傍《かたはら》に|細字《さいじ》にて、
「|如何《いか》なる、|宣伝使《せんでんし》、|修験者《しゆげんじや》と|雖《いへど》もお|相手《あひて》|仕《つかまつ》るべく|候《さふらふ》。|万々一《まんまんいち》|妾《わらは》が|説《と》き|伏《ふ》せられし|暁《あかつき》はスガの|宮《みや》の|宮仕《みやつかへ》を|辞《じ》し、|妾《わらは》に|勝《か》ちしお|方《かた》に|役目《やくめ》をお|譲《ゆづ》り|可申候《まをすべくさふらふ》|也《なり》。|無冠《むくわん》の|女帝《によてい》ヨリコ|姫《ひめ》」
と|書《か》き|記《しる》しておきたりける。
|大胆至極《だいたんしごく》のヨリコ|姫《ひめ》  |猪《しし》|喰《く》た|犬《いぬ》のどこまでも
|人《ひと》をば|何《なん》とも|思《おも》はない  その|心根《こころね》はありありと
|大看板《おほかんばん》に|現《あら》はれぬ  |五月雨《さみだれ》の|空《そら》|低《ひく》うして
|山時鳥《やまほととぎす》|啼《な》き|渡《わた》り  |若葉《わかば》も|老《お》いし|夕間暮《ゆふまぐれ》
|異様《いやう》の|服装《ふくさう》|身《み》にまとひ  |錫杖《しやくぢやう》ついた|修験者《しゆげんじや》
|網笠《あみがさ》|目深《まぶか》にかぶりつつ  |問答所《もんだふどころ》の|玄関《げんくわん》に
|立塞《たちふさ》がりて|声《こゑ》|高《たか》く  |頼《たの》まう|頼《たの》まうと|訪《おとな》へば
|花香《はなか》の|姫《ひめ》は|立出《たちい》でて  いと|丁寧《ていねい》に|敬礼《けいれい》し
『|見《み》れば|貴方《あなた》は|修験者《しゆげんじや》  いづれの|方《かた》かは|知《し》らねども
ヨリコの|女帝《によてい》がお|待《ま》ちかね  |定《さだ》めて|問答《もんだふ》せむために
お|運《はこ》びなさつたに|違《ちが》ひない  |先頭一《せんとういち》のお|前様《まへさま》
シツカリおやりなさいませ  |妾《わたし》は|側《そば》に|侍《はんべ》りて
|高論卓説《かうろんたくせつ》|一々《いちいち》に  |拝聴《はいちやう》さしてもらひませう
それが|妾《わたし》の|第一《だいいち》の  |大修業《だいしゆげふ》となるのです
|早《はや》くお|上《あ》がりなされよ』と  |盥《たらひ》に|清水《しみづ》を|汲《く》み|来《き》たり
|草鞋《わらぢ》とくとく|脚絆《きやはん》まで  |脱《ぬ》がせて|足《あし》を|洗《あら》ひやり
|庭下駄《にはげた》|渡《わた》せば|修験者《しゆげんじや》  |案《あん》に|相違《さうゐ》の|面持《おもも》ちで
ニツコと|笑《わら》ひ|庭下駄《にはげた》を  |足《あし》に|引掛《ひつか》け|悠々《いういう》と
|境内《けいだい》|隈《くま》なく|経《へ》めぐりつ  |如何《いか》なる|事《こと》の|質問《しつもん》を
|出《だ》してやらうかと|首《くび》ひねり  |時《とき》を|移《うつ》すぞ|抜目《ぬけめ》なき
ヨリコの|姫《ひめ》は|窓《まど》|開《あ》けて  |今《いま》|訪《と》ひ|来《き》たりし|修験者《しゆげんじや》の
|変姿《へんし》|怪態《くわいたい》|打《う》ち|眺《なが》め  |思《おも》はず|知《し》らずホホホホと
|笑《わら》ひこけては|起《お》き|上《あ》がり  |覗《のぞ》きゐるこそあどけなき
|修験者《しゆげんじや》|心《こころ》に|思《おも》ふやう  『|大胆不敵《だいたんふてき》の|女《をんな》|奴《め》が
|大看板《おほかんばん》を|掲《かか》げつつ  |人《ひと》を|煙《けぶ》りに|巻《ま》いてゐる
どんな|奴《やつ》かは|知《し》らねども  |吾《わ》が|足《あし》|洗《あら》うた|女《をんな》|奴《め》は
チヨイと|渋皮《しぶかは》むけてゐる  どことはなしに|香《かんば》しき
|匂《にほ》ひが|鼻《はな》にプンと|来《き》た  どうしても|斯《こ》しても|彼奴《あいつ》をば
|俺《おれ》の|女房《にようばう》にせにやおかぬ  さはさりながら|今晩《こんばん》の
|問答《もんだふ》にもしや|負《ま》けたなら  |赤恥《あかはぢ》かいて|男《をとこ》さげ
スゴスゴ|帰《かへ》らにやならうまい  |宝《たから》の|山《やま》に|入《い》りながら
|手《て》ぶらで|帰《かへ》るも|気《き》がきかぬ  |何《なん》とか|工夫《くふう》をめぐらして
ヨリコの|姫《ひめ》とかいふ|奴《やつ》を  |木端微塵《こつぱみぢん》に|説《と》きくだき
|往生《わうじやう》させてキユーバーが  |威勢《ゐせい》をあつぱれ|輝《かがや》かし
|三五教《あななひけう》の|聖場《せいぢやう》を  うまうま|占領《せんりやう》した|上《うへ》で
スコブッツエン|宗《しう》の|本山《ほんざん》に  |立替《たてか》へすればそれでよい
トルマン|国《ごく》では|下手《へた》を|打《う》ち  |千草《ちぐさ》の|姫《ひめ》には|生《い》き|別《わか》れ
|男《をとこ》を|下《さ》げたその|揚句《あげく》  |青竹払《あをだけばら》ひを|喰《く》はされし
|風《かぜ》の|神《かみ》でも|追《お》ふやうに  |田吾作《たごさく》|杢兵衛《もくべゑ》おかめ|等《ら》に
おつ|払《ぱ》らはれし|無念《むねん》さよ  あつぱれ|此処《ここ》で|旗《はた》をあげ
|会稽《くわいけい》の|恥《はぢ》を|雪《すす》がねば  |大黒主《おほくろぬし》の|御前《おんまへ》に
|出《い》でて|言訳《いひわけ》|立《た》たうまい  |大足別《おほだるわけ》の|将軍《しやうぐん》も
|定《さだ》めて|怒《おこ》つてゐるだらう  |何《なに》か|一《ひと》つの|手柄《てがら》をば
やつて|見《み》せねば|救世主《きうせいしゆ》  |教祖《けうそ》の|光《ひかり》も|暗雲《やみくも》だ』
などと|自己愛《じこあい》|利己主義《りこしゆぎ》の  |勝手《かつて》なことを|考《かんが》へつ
|襟《えり》をば|正《ただ》し|目《め》をすゑて  |玄関《げんくわん》さして|帰《かへ》り|来《く》る
そのスタイルの|可笑《をか》しさに  ヨリコの|姫《ひめ》は|窓《まど》の|内《うち》
|又《また》もや|笑《わら》ひこけながら  |一室《ひとま》に|入《い》りて|顔貌《かほかたち》
|鏡《かがみ》に|向《む》かつて|髪《かみ》の|風《ふう》  |繕《つくろ》ひをへて|白妙《しろたへ》の
|衣《ころも》を|長《なが》く|身《み》にまとひ  |問答席《もんだふせき》に|立《た》ち|出《い》でて
|四辺《あたり》|眩《まばゆ》く|坐《ざ》しゐたり  |花香《はなか》の|姫《ひめ》の|案内《あんない》に
ついて|出《で》て|来《く》る|修験者《しゆげんじや》  ヨリコを|一目《ひとめ》|見《み》るよりも
|眼《まなこ》は|眩《くら》み|胸《むね》をどり  |舌《した》の|自由《じいう》を|失《うしな》ひて
|宣《の》る|言霊《ことたま》も|口籠《くちごも》り  |体内地震《たいないぢしん》は|時《とき》じくに
|勃発《ぼつぱつ》したるあさましさ  かくてはならじと|修験者《しゆげんじや》
|吾《われ》と|心《こころ》を|取直《とりなほ》し  |臍下丹田《せいかたんでん》に|胆玉《きもだま》を
グツと|据《す》ゑつけやや|反《そ》り|身《み》  ヨリコの|女帝《によてい》を|睨《ね》めつけて
|軽《かる》く|目礼《もくれい》|施《ほどこ》しつ  |不恰好《ぶかつかう》にできた|口許《くちもと》を
パツと|開《ひら》いて『|某《それがし》は  ハルナの|都《みやこ》に|名《な》も|高《たか》き
|大黒主《おほくろぬし》の|片腕《かたうで》と  |世《よ》に|聞《き》こえたるキユーバーぞや
そも|大黒主《おほくろぬし》の|神様《かみさま》は  |七千余国《しちせんよこく》の|月《つき》の|国《くに》
|片手《かたて》に|握《にぎ》る|聖雄《せいゆう》ぞ  |普天《ふてん》の|下《もと》や|率土《そつど》の|浜《ひん》
これみな|大黒主《おほくろぬし》のもの  その|領分《りやうぶん》に|住《す》む|汝《なんぢ》
|女帝《によてい》と|名《な》のるは|何故《なにゆゑ》ぞ  |事《こと》と|品《しな》とによつたなら
スコブッツエン|宗《しう》の|法力《はふりき》で  |汝《なんぢ》を|厳《きび》しく|捕縛《ほばく》して
ハルナの|都《みやこ》へ|送《おく》らうか  いかなる|悪魔《あくま》の|化身《けしん》かは
|探《さぐ》りかぬれど|汝《なんぢ》こそ  この|世《よ》を|誑《たばか》る|探女《さぐめ》なり
|天人《てんにん》|天女《てんによ》にまがふなる  |美貌《びばう》を|楯《たて》に|世《よ》の|中《なか》の
|有情男子《うじやうだんし》の|肝《きも》をぬき  おのれ|女帝《によてい》となりすまし
|七千余国《しちせんよこく》の|月《つき》の|国《くに》  |掌握《しやうあく》せむとの|下企《しただく》み
それと|覚《さと》つた|修験者《しゆげんじや》  |返答《へんたふ》|聞《き》かむ』と|詰《つ》めよれば
ヨリコの|姫《ひめ》は|高笑《たかわら》ひ
『ホホホホホツホ ホホホホホ  どこの|坊主《ばうず》か|知《し》らねども
キユーバーといふ|名《な》は|聞《き》いてゐる  |見《み》ると|聞《き》くとは|大違《おほちが》ひ
ようマアそんな|面《つら》をして  |世界《せかい》が|渡《わた》れて|来《き》たものだ
これを|思《おも》へば|世《よ》の|中《なか》は  ホントに|広《ひろ》いものですな
お|前《まへ》のやうな|醜面《しこづら》も  |下品《げひん》な|姿《すがた》も|世《よ》の|人《ひと》は
|盲《めくら》|千人《せんにん》の|例《たと》へにもれず  |教祖様《けうそさま》よ|救世主《きうせいしゆ》
などと|喜《よろこ》び|渇仰《かつがう》する  その|心根《こころね》がいぢらしい
スコブッツエン|宗《しう》といふ|宗旨《しうし》  |女《をんな》の|乳房《ちぶさ》をえぐり|出《だ》し
|要塞地帯《えうさいちたい》までくりぬいて  |神《かみ》の|御前《みまへ》に|奉《たてまつ》る
|蒙迷頑固《もうめいぐわんこ》の|偽宗教《にせしうけう》  |其方《そなた》の|顔《かほ》を|一目《ひとめ》|見《み》て
|宗旨《しうし》の|全豹《ぜんぺう》|分《わか》りました  とるにも|足《た》らぬお|前《まへ》さまと
|問答《もんだふ》したとて|是非《ぜひ》はない  |一時《いちじ》も|早《はや》く|尻《しり》からげ
|尻尾《しつぽ》を|股《また》に|挟《はさ》みつつ  |逃《に》げて|帰《かへ》るがためだらう
グヅグヅしてると|野狐《のぎつね》の  |尾尾《しつぽ》が|現《あら》はれまするぞや
スガの|宮《みや》にや|鼻《はな》の|利《き》く  |沢山《たくさん》な|犬《いぬ》がをりますぞ
ホホホホホ ホホホホ  あまり|可笑《をか》しうて|腸《はらわた》が
|撚《よ》れますぞや』と|嘲弄《からか》へば  キユーバーは|団栗眼《どんぐりまなこ》に|角《かど》をたて
|肩《かた》を|四角《しかく》に|聳《そび》やかし  |鼻息《はないき》|荒《あら》く|腕《うで》まくり
|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》めつつ  |力《ちから》|限《かぎ》りに|卓《たく》を|打《う》ち
コツプの|水《みづ》を|踊《をど》らせつ  |一口《ひとくち》|飲《の》んで|息《いき》をつぎ
ヨリコの|顔《かほ》をいやらしく  |下《した》からグツと|睨《ね》め|上《あ》げて
『ホンに|素敵《すてき》な|女郎《めらう》だなア  |俺《おれ》も|諸国《しよこく》を|遍歴《へんれき》し
|沢山《たくさん》な|女《をんな》に|会《あ》うたれど  お|前《まへ》のやうな|奴転婆《どてんば》を
|一度《いちど》も|見付《みつ》けた|事《こと》はない  それだけ|度胸《どきよう》があるならば
|神《かみ》さま|等《など》に|仕《つか》へずと  オーラ|山《さん》へでも|飛《と》んで|行《い》て
ホントのヨリコに|面会《めんくわい》し  お|弟子《でし》になつて|泥棒《どろばう》の
|飯焚《めした》きなりとするがよい  ホンニ|呆《あき》れてもの|言《い》へぬ
|愛想《あいそ》もこそも|月《つき》の|国《くに》  |七千余国《しちせんよこく》のその|中《なか》に
これほどきつい|女郎《めろ》あらうか  ハツハハハハハ』と|苦笑《にがわら》ひ
すればヨリコはキツとなり
『|玄真坊《げんしんばう》やシーゴーの  |三千人《さんぜんにん》の|泥棒《どろばう》の
|大頭目《だいとうもく》をこの|腮《あご》で  しやくつて|使《つか》うたヨリコとは
この|姐《ねえ》さまでござるぞや  |驚《おどろ》くなかれ|驚《おどろ》くな
オーラの|山《やま》を|解散《かいさん》し  |悪魔《あくま》の|道《みち》を|廃業《はいげふ》して
|水《みづ》さへ|清《きよ》きハルの|湖《うみ》  |吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》に|魂《たましひ》を
|清《きよ》めすましてスガの|山《やま》  |神《かみ》の|誠《まこと》の|取次《とりつぎ》と
|忽《たちま》ち|変《かは》るヨリコ|姫《ひめ》  |如何《いか》なる|悪人《あくにん》なればとて
|神《かみ》に|貰《もら》うた|魂《たましひ》は  |至善《しぜん》|至美《しび》なる|増鏡《ますかがみ》
|研《みが》けば|光《ひか》る|人《ひと》の|魂《たま》  あまり|軽蔑《けいべつ》なさいますな』
はじめて|明《あ》かすその|素性《すじやう》  |聞《き》くよりキユーバーは|仰天《ぎやうてん》し
|呆《あき》れて|椅子《いす》からドツと|落《お》ち  |尻餅《しりもち》ついて|腰《こし》|痛《いた》め
アイタタタツタ アア|痛《いた》い  |薬《くすり》よ|水《みづ》よ|繃帯《ほうたい》と
ワザとに|駄々《だだ》をこねまわし  |何《なん》とかなしてこの|美人《びじん》
|住《す》まへる|宿《やど》に|一夜《ひとよさ》の  |伽《とぎ》をなさむと|企《たく》むこそ
|大胆不敵《だいたんふてき》の|曲者《くせもの》ぞ  ヨリコの|姫《ひめ》はキユーバーが
|心《こころ》の|底《そこ》まで|探知《たんち》して  そしらぬ|顔《かほ》を|粧《よそ》ひつつ
|煙草《たばこ》をスパスパ|輪《わ》に|吹《ふ》きつ
『これこれ|花香《はなか》よダリヤさま  ここに|一人《ひとり》の|行倒《ゆきだふ》れ
|売僧坊主《まいすばうず》が|居《を》りまする  |蓆《むしろ》の|破《やぶ》れでも|持《も》つて|来《き》て
|頭《あたま》から|尻《しり》までよく|包《つつ》み  |雪隠《せんち》の|側《そば》へ|持《も》ち|行《ゆ》きて
|其処《そこ》に|寝《ね》かして|置《お》きなされ  スコブッツエン|宗《しう》の|小便使《せうべんし》
|天下《てんか》を|騙詐《たばか》る|糞坊主《くそばうず》  |雪隠《せんち》の|側《そば》が|性《しやう》に|合《あ》ふ
ホホホホツホ ホホホホ』  |笑《わら》ひ|残《のこ》し|悠々《いういう》と
|扇《あふぎ》に|片頬《かたほほ》あほぎつつ  |吾《わ》が|居間《ゐま》さして|入《い》りにけり
キユーバーこの|態《てい》|見《み》るよりも  |剛腹《がうばら》|立《た》ちて|堪《たま》り|得《え》ず
ムツクと|起《お》きて|胸倉《むなぐら》を  |掴《つか》み|懲《こ》らしめやらむとは
|思《おも》ひ|焦《あせ》れど|肝腎《かんじん》の  |腰《こし》の|蝶番《てふつがひ》|脱骨《だつこつ》し
|無念《むねん》をのんで|両眼《りやうがん》を  |剥《む》き|出《だ》しながら|時《とき》ならぬ
|涙《なみだ》の|雨《あめ》に|浸《ひた》りける  |夜《よ》はシンシンと|更《ふ》け|渡《わた》り
|夜半《よは》を|報《はう》ずる|太皷《たいこ》の|音《ね》  |七五三《しちごさん》と|聞《き》こえ|来《く》る
|花香《はなか》ダリヤの|両人《りやうにん》は  しぶしぶ|夜具《やぐ》をとり|出《い》だし
キユーバーの|上《うへ》に|被《かぶ》せつつ  |各自《おのおの》|寝室《ねや》に|入《い》りにける
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|仕組《しぐみ》ぞ|面白《おもしろ》き。
(大正一五・六・三〇 旧五・二一 於天之橋立なかや旅館 北村隆光録)
第一二章 |懺悔《ざんげ》の|生活《せいくわつ》〔一八二一〕
|大黒主《おほくろぬし》を|笠《かさ》に|被《き》て  |七千余国《しちせんよこく》の|月《つき》の|国《くに》
|吾《わ》が|物顔《ものがほ》に|振舞《ふるま》ひつ  |大足別《おほだるわけ》の|軍勢《ぐんぜい》を
|片手《かたて》に|握《にぎ》り|片手《かたて》には  スコブッツエンの|経典《きやうてん》を
|力《ちから》となしてトルマンの  |神《かみ》の|国《くに》をば|振《ふ》り|出《だ》しに
タラハン|城《じやう》やデカタンの  |大高原《だいかうげん》に|散布《さんぷ》せる
|数多《あまた》の|国々《くにぐに》ことごとく  |吾《われ》の|掌裡《しやうり》に|握《にぎ》らむと
|心《こころ》|驕《おご》りしキユーバーも  |天運《てんうん》|茲《ここ》に|尽《つ》きたるか
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |梅公別《うめこうわけ》の|神力《しんりき》に
|千辛万苦《せんしんばんく》の|計画《けいくわく》も  |根本的《こんぽんてき》に|破壊《はくわい》され
|寄辺《よるべ》なくなく|大野原《おほのはら》  |雨《あめ》に|衣《ころも》はそぼち|濡《ぬ》れ
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》に|髪《かみ》の|毛《け》を  |梳《くしけづ》りつつ|漸《やうや》くに
スガの|港《みなと》に|来《き》て|見《み》れば  |前代未聞《ぜんだいみもん》の|大慶事《だいけいじ》
|山王《さんわう》の|神《かみ》の|旧跡《きうせき》に  |三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》の
|珍《うづ》の|御舎《みあらか》|千木《ちぎ》|高《たか》く  |鰹木《かつをぎ》さへもきらきらと
ハルの|湖辺《うみべ》に|影《かげ》|写《うつ》し  |眩《まばゆ》きばかりの|光景《くわうけい》に
|舌《した》を|捲《ま》きつつすたすたと  この|世《よ》を|忍《しの》ぶ|蓑笠《みのかさ》の
|軽《かる》き|扮装《いでたち》|草鞋《わらぢ》ばき  |手被《ておひ》|脚絆《きやはん》を|身《み》に|纒《まと》ひ
|金剛杖《こんごうづゑ》をつきながら  |爪先上《つまさきあ》がりの|山道《やまみち》を
あえぎあえぎて|上《のぼ》り|見《み》れば  |社《やしろ》の|傍《そば》に|建《た》てられし
さも|宏壮《くわうさう》な|大道場《だいだうぢやう》  |宗教問答所《しうけうもんだふどころ》と|筆太《ふでぶと》に
|書《か》き|記《しる》したるに|目《め》をつけて  |思《おも》はず【にやり】とほくそ|笑《ゑ》み
|宗教問答《しうけうもんだふ》に|対《たい》しては  これだけ|広《ひろ》い|月《つき》の|国《くに》
キユーバーの|右《みぎ》に|出《い》づるもの  ただの|一人《ひとり》もなかるべし
いよいよ|天運循環《てんうんじゆんくわん》し  |一陽来復《いちやうらいふく》|時《とき》|到《いた》る
|神《かみ》の|光《ひかり》もいや|長《なが》く  |八千代《やちよ》の|椿《つばき》|優曇華《うどんげ》の
|花《はな》|咲《さ》く|春《はる》に|遇《あ》ふ|心地《ここち》  ああ|面白《おもしろ》し|面白《おもしろ》し
|坊主《ばうず》|鉢巻《はちまき》|締《し》め|直《なほ》し  いかなる|奴《やつ》かは|知《し》らねども
|高《たか》が|知《し》れたる|女《をんな》ども  |奮戦激闘《ふんせんげきとう》|秘術《ひじゆつ》をば
|尽《つく》して|挑《いど》み|戦《たたか》へば  |何《なん》の|手間暇《てまひま》|要《い》るものか
|風《かぜ》に|木《こ》の|葉《は》の|散《ち》るごとく  |旭《あさひ》に|露《つゆ》の|消《き》ゆるごと
|春《はる》の|氷《こほり》の|解《と》くるごと  スカ|屁《べ》を|放《ひ》つたるその|如《ごと》く
|影《かげ》も|形《かたち》もなき|崩《くづ》れ  |尻《しり》はし|折《を》つて|一散《いつさん》に
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|出《だ》すは  |今《いま》|目《ま》の|当《あた》り|見《み》るやうだ
いかなる|女《をんな》か|知《し》らねども  |天下《てんか》|唯一《ゆゐいつ》の|救世主《きうせいしゆ》
|神徳無双《しんとくむさう》のキユーバーが  |舌鋒《ぜつぽう》にかかつちや|耐《たま》るまい
|相格《さうがう》|崩《くづ》して|笏《しやく》を|捨《す》て  |大地《だいち》にバツたと|鰭伏《ひれふ》して
|謝《あやま》り|入《い》つて|吾《わ》が|弟子《でし》に  どうぞ|加《くは》へて|下《くだ》さいと
|歎願《たんぐわん》いたすに|違《ちが》ひない  アア|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い
|五月《さつき》の|空《そら》は|曇《くも》れども  キユーバーの|心《こころ》の|空《そら》|晴《は》れて
|日月《じつげつ》|天《てん》に|照《て》るごとく  スガの|山下《やまもと》|宮《みや》の|棟《むね》
|輝《かがや》き|渡《わた》らむ|神《かみ》の|国《くに》  |占領《せんりやう》なさむは|案《あん》の|内《うち》
なぞと|高《たか》をばくくりつつ  |問答所《もんだふどころ》の|玄関《げんくわん》に
|立《た》ちて|様子《やうす》を|窺《うかが》へば  |花《はな》に|嘘《うそ》つく|美婦人《びふじん》の
|花香《はなか》の|姫《ひめ》に|迎《むか》へられ  ハツと|驚《おどろ》き|眉《まゆ》を|寄《よ》せ
ハートに|波《なみ》は|打《う》ちながら  |素知《そし》らぬ|顔《かほ》を|装《よそほ》ひつ
|庭下駄《にはげた》|覆《は》いて|境内《けいだい》を  |参拝《さんぱい》すると|言《い》ひながら
|作戦計画《さくせんけいくわく》|備《そな》へつつ  いよいよこれから|正念場《しやうねんば》
|舌端《ぜつたん》|火《ひ》を|吐《は》きヨリコ|姫《ひめ》  |煙《けむり》に|巻《ま》いてくれむずと
いきまきゐたる|可笑《をかし》さよ  |案内《あない》につれて|奥《おく》の|間《ま》の
|問答椅子《もんだふいす》によりかかり  ヨリコの|姿《すがた》を|眺《なが》むれば
|案《あん》に|相違《さうゐ》の|気高《けだか》さに  |魂消《たまげ》んばかり|驚《おどろ》けど
|元《もと》より|曲者《くせもの》|胴《どう》を|据《す》ゑ  |二口《ふたくち》|三口《みくち》|戦《たたか》へど
|元《もと》より|蟷螂《たうらう》の|斧《をの》をもて  |竜車《りうしや》に|向《む》かふごとくなる
|話《はなし》にならぬ|勝敗《しようはい》に  |腰《こし》を|抜《ぬ》かして|打《う》ち|倒《たふ》れ
|二人《ふたり》の|姫《ひめ》に|介抱《かいはう》され  |夜具《やぐ》を|着《き》せられ|一夜《ひとよさ》を
これの|館《やかた》に|明《あか》しける  |明《あ》くれば|女帝《によてい》のヨリコ|姫《ひめ》
キユーバーの|傍《そば》に|立《た》ち|寄《よ》りて
『スコブッツエン|宗《しう》の|教祖《けうそ》さま  |昨夜《さくや》は|誠《まこと》に|御失礼《ごしつれい》
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し  |宣《の》り|直《なほ》されて|悠《ゆつく》りと
これの|館《やかた》に|投宿《とうしゆく》し  |妾《わらは》の|下僕《しもべ》となりなさい
|女《をんな》ばかりの|此《こ》の|館《やかた》  |男《をとこ》がなくては|仕様《しやう》がない
|風呂《ふろ》も|焚《た》かして|上《あ》げませう  お|飯《まんま》も|炊《た》かして|上《あ》げませう
|下駄《げた》の|歯入《はいれ》は|言《い》ふもさら  |雑巾《ざふきん》もつて|床《とこ》の|間《ま》の
|掃除《さうぢ》はおろか|竹箒《たけばうき》  |手《て》に|携《たづさ》へてお|屋敷《やしき》の
|隅々《すみずみ》までも|清《きよ》らかに  |木《こ》の|葉《は》や|塵《ちり》を|掃《は》きなされ
それが|嫌《いや》なら|便所《はばかり》の  お|掃除《さうぢ》さして|上《あ》げませう
|女《をんな》ばかりの|行《ゆ》く|雪隠《せんち》  |香《かんば》しい|匂《にほ》ひがしますぞや』
|言《い》へばキユーバーは|諾《うな》づいて
『いかにも|女帝様《によていさま》ご|尤《もつと》も  |私《わたし》は|偉《えら》い|男《をとこ》だと
|今《いま》まで|思《おも》うてゐたけれど  |女《をんな》のお|前《まへ》にへこまされ
|口《くち》さへ|開《あ》かぬ|不甲斐《ふがひ》なさ  もちつと|修業《しゆげふ》が|足《た》らないと
ボツボツ|悟《さと》らして|貰《もら》ひました  いよいよこれから|私《わたくし》は
|懺悔《ざんげ》の|生活《せいくわつ》|営《いとな》んで  |人《ひと》の|嫌《いや》がる|便所《はばかり》の
|掃除《さうぢ》を|大事《だいじ》に|勤《つと》めませう  |太閤《たいかふ》さまでも|初《はじ》まりは
|信長公《のぶながこう》の|草履持《ぞうりも》ち  |下《した》から|上《のぼ》つた|出世《しゆつせ》なら
|基礎《どだい》はなかなか|固《かた》けれど  |雲《くも》を|渡《わた》るよな|計画《けいくわく》は
|危険《きけん》の|伴《ともな》ふものと|知《し》り  すつかり|改心《かいしん》いたしました
なにとぞ|私《わたし》に|目《め》をかけて  |気《き》|長《なが》く|使《つか》つて|下《くだ》さんせ
|天晴《あつぱ》れ|修業《しゆげふ》が|出来《でき》たなら  |三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》の
|御用《ごよう》の|端《はし》でも|務《つと》めます』  |言《い》へばヨリコは|諾《うな》づいて
『|汝《そなた》の|言葉《ことば》に|偽《いつは》りが  なければそれで|宜《よろ》しかろ
これから|確《しつか》り|気《き》をつけて  お|便所《ちようず》の|掃除《さうぢ》をなさいませ
これこれ|花香《はなか》よダリヤさま  |今日《けふ》からキユーバーのお|爺《ぢい》さま
ここの|下僕《しもべ》と|定《き》まりました  |遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》は|要《い》らないで
ひどく|使《つか》つてやりなさい』  などと|得意《とくい》の|面持《おももち》を
|二人《ふたり》の|前《まへ》に|輝《かがや》かし  |吾《わ》が|居室《ゐま》さして|入《い》りにける
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|光《ひかり》に|恐《おそ》れたか
|但《ただ》しは|思《おも》ふことありて  キユーバーが|一時《いちじ》|呆《とぼ》けたか
|雲《くも》の|上《うへ》から|地《ち》の|底《そこ》へ  |下《さが》つたやうな|境遇《きやうぐう》に
|甘《あま》んじ|暮《くら》すはずはない  |雨《あめ》か|暴風雨《あらし》か|将《はた》|風《かぜ》か
|地震《ぢしん》|雷《かみなり》|洪水《こうずゐ》か  |神《かみ》ならぬ|身《み》の|知《し》るよしもなく
|花香《はなか》の|姫《ひめ》やダリヤ|姫《ひめ》  |不安《ふあん》の|色《いろ》を|浮《うか》べつつ
ヨリコの|言葉《ことば》に|従《したが》ひて  キユーバーを|下僕《しもべ》と|使《つか》ひける
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|経綸《しぐみ》の|面白《おもしろ》さ。
|玉清別《たまきよわけ》の|神司《かむづかさ》  ダリヤの|姫《ひめ》ともろともに
|宮《みや》の|階段《かいだん》|刻《きざ》みつつ  |神《かみ》の|御前《みまへ》に|額《ぬか》づきて
|祝詞《のりと》を|唱《とな》ふる|折《を》りもあれ  |箒《ほうき》を|持《も》ちしキユーバーは
ダリヤの|姫《ひめ》の|後姿《あとすがた》  |穴《あな》の|開《あ》くほど|打《う》ち|眺《なが》め
『アーアほんに|何《なん》とまあ  |姿《すがた》の|綺麗《きれい》な|淑《しと》やかな
どこに|欠点《けつてん》ない|娘《むすめ》  |俺《おれ》も|男《をとこ》の|端《はし》だもの
|女《をんな》の|持《も》てない|事《こと》あろか  トルマン|城《じやう》に|乗《の》り|込《こ》んで
|天下《てんか》の|美人《びじん》と|聞《き》こえたる  |千草《ちぐさ》の|姫《ひめ》さへ|惚《とろ》かした
|腕《うで》に|覚《おぼ》えのある|男《をとこ》  |高《たか》が|知《し》れたる|薬屋《くすりや》の
|娘《むすめ》ぢやないか|赤心《まごころ》を  |尽《つく》してかかれば|訳《わけ》もなく
|俺《おれ》に|靡《なび》くに|違《ちが》ひない  |女護《によご》の|島《しま》か|竜宮《りうぐう》の
|乙姫館《おとひめやかた》に|住《す》みながら  |女《をんな》の|尻《しり》の|大掃除《おほさうぢ》
|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|柔順《おとな》しう  やつてゐるのも|気《き》が|利《き》かぬ
エーエ|思《おも》へばじれつたい  |心猿意馬《しんゑんいば》|奴《め》が|狂《くる》ひ|出《だ》し
|何《ど》うしても|斯《か》うしても|耐《たま》らない  とは|言《い》ふものの|今《いま》|暫《しば》し
|辛抱《しんばう》しなくてはならうまい  こんな|所《ところ》で|襤褸《ぼろ》|出《だ》して
|追放《つゐはう》されやうものならば  |肝腎要《かんじんかなめ》の|吾《わ》が|企《たく》み
|又《また》もや|画餅《ぐわへい》になるだらう  |恥《はぢ》を|忍《しの》んで|朝夕《あさゆふ》に
|苦労《くらう》するのも|後《のち》のため  |今《いま》に|見《み》てをれヨリコ|姫《ひめ》
|花香《はなか》の|姫《ひめ》やダリヤ|姫《ひめ》  |俺《おれ》に|秋波《しうは》を|送《おく》らねば
ならないやうにしてやらう  それが|男《をとこ》の|腕前《うでまへ》だ
|先《さき》の|百《ひやく》より|今《いま》|五十《ごじふ》  などと|短気《たんき》な|事《こと》はせぬ
|大望《たいまう》|抱《かか》へしキユーバーの|身《み》  |大器晩成《たいきばんせい》といふことは
|吾《われ》には|尊《たふと》き|金言《きんげん》だ  |恋雲《こひぐも》しばし|吹《ふ》き|散《ち》れ』と
|吾《われ》と|吾《わ》が|身《み》を|伊吹《いぶ》きしつ  |箒《はうき》で|払《はら》ふ|可笑《をかし》さよ
|玉清別《たまきよわけ》はダリヤ|姫《ひめ》  |後《あと》に|従《したが》へ|階段《かいだん》を
|下《くだ》りて|見《み》ればキユーバーは  |箒《はうき》を|持《も》ちて|庭《には》に|立《た》ち
|空《そら》|行《ゆ》く|雲《くも》を|打《う》ち|眺《なが》め  |感慨無量《かんがいむりやう》の|為体《ていたらく》
|見《み》るよりダリヤは|傍《そば》に|寄《よ》り  『キユーバーさまえ』と|背《せな》|叩《たた》き
|笑《わら》へばキユーバーは|吃驚《びつくり》し  |揉手《もみで》をしながら|腰《こし》|屈《かが》め
『ハイハイ|誠《まこと》に|御失礼《ごしつれい》  お|二人《ふたり》さまの|言霊《ことたま》の
|清《きよ》き|響《ひびき》に|憧《あこが》れて  |思《おも》はず|知《し》らず|恍惚《くわうこつ》と
|霊《たま》を|抜《ぬ》かれてをりました  サアサア|私《わたし》がお|館《やかた》へ
お|伴《とも》をさして|貰《もら》ひませう』  |言《い》へば|玉清別司《たまきよわけつかさ》
|右手《めて》を|振《ふ》りつつ『キユーバーさま  |決《けつ》して|心配《しんぱい》|要《い》りませぬ
ダリヤの|姫《ひめ》と|二人連《ふたりづ》れ  |滅多《めつた》の|事《こと》はありませぬ
|左様《さやう》ならば』と|言《い》ひ|捨《す》てて  |神館《しんくわん》さして|帰《かへ》り|行《ゆ》く
|後《あと》|見送《みおく》りてキユーバーは  |舌《した》をチヨンチヨン|打《う》ち|鳴《な》らし
『チエー|畜生《ちくしやう》|馬鹿《ばか》にすな  |睦《むつ》まじさうに|二人連《ふたりづ》れ
|甘《あま》き|囁《ささや》きつづけつつ  これ|見《み》よがしに|行《ゆ》きよつた
|怪体《けたい》が|悪《わる》いと|思《おも》へども  ここをも|一《ひと》つ|耐《こら》へねば
|肝腎要《かんじんかなめ》の|大望《たいまう》が  |成就《じやうじゆ》せないと|思《おも》へばこそ
|歯《は》ぎりを|噛《か》んで|辛抱《しんばう》する  アア|叶《かな》はぬ|叶《かな》はぬ|耐《たま》らない
|目玉《めだま》|飛《と》び|出《だ》すやうだワイ』
(大正一五・六・三〇 旧五・二一 於天之橋立なかや旅館 加藤明子録)
第一三章 |捨台演《すてたいえん》〔一八二二〕
|雪隠掃除《せつちんさうぢ》を|引受《ひきう》けた  |偽改心《にせかいしん》のキユーバーは
|玉清別《たまきよわけ》の|神司《かむつかさ》  ダリヤの|姫《ひめ》と|相並《あひなら》び
|祝詞《のりと》をあげる|姿《すがた》|見《み》て  |心猿意馬《しんゑんいば》が|狂《くる》ひ|出《だ》し
|睦《むつ》まじさうな|様子《やうす》|見《み》て  やけてたまらず|地団太《ぢだんだ》を
|踏《ふ》んでは|見《み》たが|今《いま》|少時《しばし》  |館《やかた》の|様子《やうす》を|考《かんが》へて
その|上《うへ》|何《なん》とかせむものと  いろいろ|雑多《ざつた》とすみずみに
|心《こころ》を|配《くば》りゐたるこそ  スガの|宮居《みやゐ》の|館《やかた》には
|剣呑至極《けんのんしごく》の|代物《しろもの》ぞ  |五日《いつか》|六日《むゆか》と|経《た》つ|中《うち》に
キユーバーは|恋《こひ》の|焔《ほのほ》をば  |胸《むね》に|燃《も》やしてダリヤ|姫《ひめ》
|何《なん》とか|物《もの》にせむものと  |考《かんが》へすます|折《を》りもあれ
|便所掃除《はばかりさうぢ》の|其《そ》の|際《さい》に  |厠《かはや》に|入《い》りしダリヤ|姫《ひめ》
これ|幸《さいは》ひ|屈強《くつきやう》の|場合《ばあひ》ぞと  |手洗鉢《てあらひばち》の|前《まへ》に|立《た》ち
|柄杓《ひしやく》に|水《みづ》を|汲《く》みながら  ダリヤの|両手《りやうて》に|注《そそ》ぎつつ
|隙《すき》を|覗《うかが》ひ|白魚《しらうを》の  |繊手《せんしゆ》をグツと|握《にぎ》りしめ
『これこれもうしダリヤさま  |私《わし》は|貴女《あなた》に|真剣《しんけん》だ
|私《わし》の|願《ねが》ひを|今《いま》|一度《いちど》  |聞《き》いてもらはにや|死《し》にまする
|睾丸《きんたま》さげた|大丈夫《だいぢやうぶ》  |繊弱《かよわ》き|女《をんな》に|手《て》を|合《あは》し
|頼《たの》むは|畢竟《ひつきやう》|恋《こひ》ゆゑぞ  |恋《こひ》に|上下《じやうげ》の|隔《へだ》てない
|主人《しゆじん》|僕《しもべ》といろいろに  |名《な》は|変《かは》れども|人間《にんげん》は
|何《いづ》れも|天帝《てんてい》の|分霊《わけみたま》  |尊《たふと》い|卑《いや》しいなどと|言《い》ふ
そんな|区別《くべつ》があるものか  |雪隠掃除《せつちんさうぢ》と|侮《あなど》つて
|私《わし》の|言《い》ふこと|聞《き》かぬなら  |此方《こちら》も|一《ひと》つ|思案《しあん》する
|後日《ごじつ》に|臍《ほぞ》をかまぬやう  |性念《しやうね》をすゑて|御返答《ごへんたふ》
|天晴《あつぱ》れなされよキユーバーが  |乗《の》るか|反《そ》るかの|境目《さかひめ》だ
|一人《ひとり》の|男《をとこ》を|生《い》かさうと  |殺《ころ》さうとお|前《まへ》の|胸《むね》|次第《しだい》
|醜《みにく》い|男《をとこ》と|言《い》つたとて  |虎《とら》や|熊《くま》ではあるまいし
|目《め》|鼻《はな》|口《くち》|耳《みみ》|眉毛《まゆげ》まで  |立派《りつぱ》についてゐる|男《をとこ》
|手足《てあし》の|指《ゆび》も|五本《ごほん》ある  お|前《まへ》も|美人《びじん》と|言《い》つたとて
|道具《だうぐ》に|変《かは》りはあらうまい  |早《はや》く|思案《しあん》を|定《き》めてくれ
|私《わし》も|男《をとこ》の|意地《いぢ》だもの  |言《い》ひ|出《だ》したことア|後《あと》に|引《ひ》かぬ
サアサア|返答《へんたふ》』と|詰寄《つめよ》れば  ダリヤの|姫《ひめ》は|打《う》ち|笑《わら》ひ
『これこれキユーバーのお|爺《ぢい》さま  お|前《まへ》は|本気《ほんき》で|言《い》ふのかい
お|酒《さけ》に|酔《よ》うて|言《い》ふのだろ  |道理《だうり》で|顔《かほ》がチト|赤《あか》い
そんな|下《くだ》らぬ|囈言《たはごと》を  |言《い》ふ|間《ま》があつたら|逸早《いちはや》く
|屋敷《やしき》の|掃除《さうぢ》をするがよい  ヨリコの|姫《ひめ》さまが|聞《き》いたなら
えらいお|目玉《めだま》|喰《く》ふだらう  |決《けつ》して|悪《わる》いこと|言《い》ひませぬ
その|手《て》を|放《はな》して|下《くだ》さんせ』  |言《い》へばキユーバーは|目《め》を|剥《む》いて
『どうしてどうして|放《はな》さうか  この|手《て》を|放《はな》した|事《こと》ならば
お|前《まへ》は|直《す》ぐさまヨリコ|姫《ひめ》  |女帝《によてい》の|前《まへ》に|飛《と》び|出《だ》して
|俺《おれ》のしたこと|告《つ》げるだらう  さうなりや|俺《おれ》もこの|館《たち》に
お|尻《しり》を|据《す》ゑてゐられない  |一旦《いつたん》|弓《ゆみ》を|放《はな》れたる
|征矢《そや》は|元《もと》へは|帰《かへ》らない  |良《よ》き|返答《へんたふ》』と|詰寄《つめよ》れば
ダリヤ|金切声《かなきりこゑ》を|出《だ》し
『あれあれ|怖《こは》い|助《たす》けて』と  |息《いき》を|限《かぎ》りに|呼《よ》ばはれば
|花香《はなか》は|驚《おどろ》き|馳《は》せ|来《き》たり  この|有様《ありさま》を|打眺《うちなが》め
『|誰《たれ》かと|思《おも》へばキユーバーどの  ふざけた|事《こと》をするでない
ここは|尊《たふと》き|神館《かむやかた》  |心得《こころえ》なさるが|宜《よろ》しからう
|渋紙《しぶがみ》|見《み》たやうな|面《つら》をして  |天下《てんか》の|美人《びじん》の|手《て》を|握《にぎ》り
|恋《こひ》の|鮒《ふな》のと|何《なん》のこと  お|前《まへ》の|面《つら》と|御相談《ごさうだん》
した|上《うへ》その|手《て》を|放《はな》さんせ  |本当《ほんたう》に|呆《あき》れた|売僧《まいす》だな
|改心《かいしん》すると|詐《いつは》つて  |少時《しばらく》|館《やかた》に|忍《しの》び|込《こ》み
まめまめしくも|見《み》せかけて  |恋《こひ》の|慾望《よくばう》を|達《たつ》せむと
|企《たく》らみゐたる|猫《ねこ》かぶり  お|前《まへ》のやうな|悪党《あくたう》は
|一時《いちじ》も|早《はや》く|去犬《いぬ》がよい  しつこうその|手《て》を|放《はな》さねば
ヨリコの|女帝《によてい》に|告《つ》げるぞや』  |言《い》へばキユーバーは|胴《どう》を|据《す》ゑ
|大口《おほぐち》|開《あ》けて|高笑《たかわら》ひ
『アツハハハハハツツツツ  こらこら|小女《こめつちよ》|章魚《たこ》バイタ
|俺《おれ》を|何方《どなた》と|心得《こころえ》る  |大黒主《おほくろぬし》の|御信任《ごしんにん》
|最《もつと》も|厚《あつ》き|救世主《きうせいしゆ》  スコブッツエン|宗《しう》の|大教祖《だいけうそ》
キユーバーの|君《きみ》でござるぞや  |高《たか》が|知《し》れたる|薬屋《くすりや》の
|一人娘《ひとりむすめ》や|杢兵衛《もくべゑ》の  はした|娘《むすめ》の|身《み》をもつて
|頬桁《ほほげた》たたくおとましや  ヨリコの|姫《ひめ》が|何《なに》|怖《こは》い
オーラの|山《やま》に|立籠《たてこも》り  |山賊《さんぞく》|稼《かせ》いだ|兇状持《きようじやうも》ち
バラモン|署《しよ》に|出頭《しゆつとう》して  |恐《おそ》れながらと|出《で》かけたら
|一網打尽《いちまうだじん》|貴様等《きさまら》も  |同類《どうるゐ》|仲間《なかま》と|見做《みな》されて
|暗《くら》い|牢獄《らうや》に|打《う》ち|込《こ》まれ  |日《ひ》の|目《め》も|見《み》ずに|呻吟《しんぎん》し
|喞《かこ》ち|嘆《なげ》けど|是非《ぜひ》もなく  |忽《たちま》ち|日《ひ》|陰《いん》の|罪人《とがにん》と
なつて|行《ゆ》くのは|目《ま》のあたり  それでもキユーバーの|要求《えうきう》を
|拒絶《きよぜつ》するのか|花香姫《はなかひめ》  ダリヤの|姫《ひめ》のあまつちよよ
|俺《おれ》もかうなりや|自暴自棄《やけくそ》だ  スガの|御殿《ごてん》を|根底《ねそこ》から
でんぐり|返《がへ》し|宮司《みやづかさ》  |玉清別《たまきよわけ》のデレ|親爺《おやぢ》
|吠面《ほえづら》かわかし|見《み》せてやらう』  などと|傍若無人《ばうじやくぶじん》なる
キユーバーの|言葉《ことば》に|呆《あき》れ|果《は》て  |花香《はなか》は|直《ただ》ちに|奥《おく》の|間《ま》に
|駈《か》け|込《こ》みヨリコの|前《まへ》に|出《い》で  キユーバーの|暴状《ばうじやう》|逐一《ちくいち》に
|話《はな》せばヨリコは|打《う》ち|笑《わら》ひ  |衣紋《えもん》|繕《つくろ》ひ|悠々《いういう》と
|便所《べんじよ》の|近《ちか》くに|寄《よ》り|来《き》たり
『ホツホホホキユーバーさま  |誠《まこと》に|親切《しんせつ》|有難《ありがた》う
お|尻《いど》の|掃除《さうぢ》をした|上《うへ》に  お|手《て》まで|握《にぎ》つて|洗《あら》うとは
ようマア|念《ねん》の|入《い》つたこと  |御親切《ごしんせつ》|感《かん》じ|入《い》りました
これこれそこなダリヤさま  キユーバーさまの|言《い》ふことを
|心《こころ》よく|聞《き》いて|上《あ》げなされ』  |言《い》へばダリヤは|涙声《なみだごゑ》
『|何《なに》ほど|私《わたし》がスベタでも  |卑《いや》しい|身分《みぶん》であらうとも
|便所掃除《はばかりさうぢ》をするやうな  |爺《ぢい》さまに|言葉《ことば》をかけるさへ
|汚《けが》れるやうな|気《き》がします  まして|妾《わたし》を|女房《にようばう》に
なつてくれとはあんまりだ  |腹立《はらだ》ち|涙《なみだ》が|乾《かわ》き|果《は》て
|呆《あき》れてものが|言《い》へませぬ  なにとぞ|許《ゆる》して|下《くだ》さんせ』
ワツとばかりに|泣《な》き|入《い》れば  さすがのキユーバーも|手《て》を|放《はな》し
ヨリコの|方《かた》に|打《う》ち|向《む》かひ
『これこれヨリコの|女帝《によてい》さま  |猫《ねこ》を|被《かぶ》つてゐた|私《わたし》
かく|現《あら》はれし|上《うへ》からは  |破《やぶ》れかぶれだお|前《まへ》さまの
|首玉《くびたま》|一《ひと》つをもらはうか  それが|嫌《いや》なら|直様《すぐさま》に
バラモン|署《しよ》へと|駈《か》け|込《こ》んで  お|前《まへ》の|素性《すじやう》を|素破抜《すつぱぬ》き
|繩目《なはめ》の|恥《はぢ》をかかさうか  |如何《いかが》でござる』と|洟《はな》すすり
|肩肱《かたひぢ》|怒《いか》らし|詰寄《つめよ》れば  ヨリコの|姫《ひめ》は|打《う》ち|笑《わら》ひ
『|妾《わたし》が|今《いま》まで|悪行《あくぎやう》を  |稼《かせ》いだ|証拠《しようこ》がどこにある
|分《わか》らぬことを|仰有《おつしや》ると  |正反対《せいはんたい》に|此方《こちら》から
お|前《まへ》をバラモンのお|役所《やくしよ》へ  |訴《うつた》へませうかキユーバーさま
|如何《いか》に|如何《いか》に』と|反対《あべこべ》に  |逆捻《さかねぢ》|喰《く》はせばキユーバーは
|少時《しばし》|躊躇《ためら》ひ|息《いき》こらし  |黙然《もくねん》として|打《う》ち|沈《しづ》む
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  この|顛末《てんまつ》は|如何《いか》にして
|落着《らくちやく》するか|此《こ》の|先《さき》の  |成行《なりゆき》こそは|面白《おもしろ》き。
キユーバーは|恋《こひ》の|情火《じやうくわ》に|包《つつ》まれ|耐《こら》へきれずなり、ダリヤ|姫《ひめ》の|手《て》を|握《にぎ》つて、|威《おど》しつ|瞞《すか》しつ|口説《くど》いて|見《み》たが、|挺子《てこ》でも|棒《ぼう》でも|動《うご》かないダリヤの|強情《がうじやう》にヤケを|起《おこ》し、バラモン|署《しよ》に|訴《うつた》へるなどと|脅喝《けふかつ》を|試《こころ》みた。されどもキユーバーのごとき|売僧《まいす》、しかも|念入《ねんい》りに|出来《でき》た|醜男《ぶをとこ》には|横丁《よこちやう》の|牝犬《めいぬ》にケシかけても|飛《と》びつかない|面構《つらがま》へ、まして|絶世《ぜつせい》の|美人《びじん》が|秋波《しうは》を|送《おく》る|道理《だうり》なく、|三人《さんにん》の|美人《びじん》に|寄《よ》つて|集《たか》つて|恥《は》づかしめられ、|無念《むねん》|骨髄《こつずゐ》に|徹《てつ》し、……もう|此《こ》の|上《うへ》は|破《やぶ》れかぶれだ、ヨリコの|素性《すじやう》を|素破抜《すつぱぬ》き、バラモン|署《しよ》に|訴《うつた》へ、この|怨《うら》みを|晴《は》らさにやおかぬ……と|言《い》ひながら|問答所《もんだふどころ》の|看板《かんばん》を|睨《ね》めつけ、それに|啖唾《たんつば》をはきかけ、|後足《あとあし》で|砂《すな》をひつかけ|夜叉《やしや》のごとき|相好《さうがう》を|現《あら》はし、ダリヤ|姫《ひめ》の|兄《あに》イルクに|会《あ》つて|目的《もくてき》を|達《たつ》せむものと、|一言《いちごん》の|挨拶《あいさつ》もなく、|厭《いや》らしい|捨台詞《すてぜりふ》を|残《のこ》して|此《こ》の|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》つた。
キユーバーは|直《ただ》ちに|薬屋《くすりや》の|表門《おもてもん》を|潜《くぐ》り|玄関《げんくわん》に|立《た》ち|塞《ふさ》がり|銅羅声《どらごゑ》を|出《だ》して、
『|七千余国《しちせんよこく》の|月《つき》の|国《くに》を|御支配《ごしはい》|遊《あそ》ばす|大黒主《おほくろぬし》の|神司《かむつかさ》のお|見出《みいだ》しに|預《あづ》かつたるスコブッツエン|宗《しう》の|教祖《けうそ》キユーバーの|君《きみ》でござる、|是非《ぜひ》|主人《しゆじん》に|面会《めんくわい》ないたしたい』
と|呼《よ》ばはる|声《こゑ》に|番頭《ばんとう》のアルは|慇懃《いんぎん》に|出《い》で|迎《むか》へ、
『ヤア|何方《どなた》かと|思《おも》へばお|前《まへ》さまは、お|館《やかた》の|掃除番《さうぢばん》ぢやないか、ナーンぢや|吃驚《びつくり》した。|大黒主《おほくろぬし》だの、スコブッツエン|宗《しう》の|教祖《けうそ》だなどと|大変《たいへん》な|大法螺《おほぼら》を|吹《ふ》くものだから、いかなる|貴顕紳士《きけんしんし》がお|出《い》でかと|思《おも》つたのに、|何《なん》のことだ、よい|加減《かげん》に|御冗談《ごじやうだん》をしておかつしやい、サア|早《はや》くお|館《やかた》へ|帰《かへ》つたり|帰《かへ》つたり』
『|黙《だま》れ|番頭《ばんとう》、この|方《はう》は|大黒主《おほくろぬし》の|片腕《かたうで》、|天然坊《てんねんばう》のキユーバーといふ|大救世主《だいきうせいしゆ》だぞ、スガの|館《やかた》の|様子《やうす》を|覗《うかが》ふべく|掃除番《さうぢばん》となつて|入込《いりこ》んでをつたのだ。|今《いま》に|見《み》ておれ、|貴様《きさま》の|主人《しゆじん》も|老耄《おいぼれ》も|貴様《きさま》も|共《とも》にフン|縛《じば》つて、|暗《くら》い|暗《くら》い|牢獄《らうごく》へブチ|込《こ》んでやるぞ。|早《はや》くこの|方《はう》を|立派《りつぱ》な|座敷《ざしき》へ|導《みちび》け、|老耄《おいぼれ》や|主人《しゆじん》へ|言《い》ひ|聞《き》かすことがある』
アル『|嘘《うそ》か|本真《ほんま》か|知《し》りませぬが、|一寸《ちよつと》この|由《よし》を|主人《しゆじん》に|伝《つた》へて|来《き》ますから、|待《ま》つてゐて|下《くだ》さい』
キユ『グヅグヅしてゐると|承知《しようち》ならぬぞ、|早《はや》く|奥《おく》に|行《ゆ》け』
と|叱《しか》りつける。アルは|舌打《したう》ちしながら、
『チエツ、|売僧坊主《まいすばうず》|奴《め》が』
と|小言《こごと》|呟《つぶや》きつつ|主人《しゆじん》の|居間《ゐま》に|駈《か》け|込《こ》んだ。|少時《しばらく》するとイルクはスタスタ|入《い》り|来《き》たり、
『ヤア|誰《たれ》かと|思《おも》へば|掃除番《さうぢばん》のキユーバーだな、|何《なん》の|用《よう》だ。|俺《おれ》も|忙《いそ》がしいから|長《なが》つたらしい|話《はなし》は|面倒《めんだう》だ、|手取《てつと》り|早《ばや》く|言《い》つてくれ』
キユ『こりやイルク、|勿体《もつたい》なくも|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|寵臣《ちようしん》キユーバーの|君《きみ》に|向《む》かつて、|立《た》ちはだかつて|物《もの》|申《まを》すといふ|失礼《しつれい》なことがあるか、|控《ひか》へをらうぞ』
イル『|何《なん》のことぢや、テンと|訳《わけ》が|分《わか》らぬ。オイ アル、|横町《よこちやう》の|精神病院《せいしんびやうゐん》へ|行《い》つて|院長《ゐんちやう》さまを|頼《たの》んで|来《こ》い』
『|馬鹿《ばか》を|申《まを》せ、グヅグヅいたすと|当家《たうけ》は|断絶《だんぜつ》の|憂目《うきめ》に|会《あ》ふぞ、|今《いま》まで|大黒主《おほくろぬし》の|命《めい》によつて|三五教《あななひけう》の|内幕《うちまく》を|探《さぐ》るべく|忍《しの》び|込《こ》んでゐたのだ。|探《さぐ》れば|探《さぐ》るほどいよいよ|怪《け》しからぬ|事《こと》をいたしてをる。|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|対《たい》して|少《すこ》しも|敬意《けいい》を|払《はら》つてゐない、この|方《はう》がこの|次第《しだい》を|詳《つぶ》さに|言上《ごんじやう》しやうものなら、|大変《たいへん》なことになるぞよ』
『ハイ、いかなる|悪《わる》い|事《こと》があるかも|知《し》れませぬが、|信仰《しんかう》はもとより|自由《じいう》でございます。キユーバーさまでも|大黒主《おほくろぬし》さまでも、|悪《わる》い|事《こと》さへなけりやチツとも|恐《おそ》れませぬ、|何卒《どうぞ》お|構《かま》ひ|下《くだ》さいますな』
『よし、|構《かま》うてくれなと|申《まを》したな、|後《あと》で|吠面《ほえづら》かわくな』
と|言《い》ひながら|足《あし》の|運《はこ》びも|荒々《あらあら》しく、|其処《そこら》|辺《あた》り|金剛杖《こんがうづゑ》にて|打壊《うちこは》しながら、|大手《おほて》を|振《ふ》つて|表門《おもてもん》をくぐり|何処《いづく》ともなく|姿《すがた》を|隠《かく》した。
(大正一五・六・三〇 旧五・二一 於天之橋立なかや旅館 北村隆光録)
第一四章 |新宅入《しんたくいり》〔一八二三〕
ハルの|湖水《こすゐ》を|渡《わた》るをり  にはかに|吹《ふ》き|来《く》る|暴風《ばうふう》に
|高砂丸《たかさごまる》は|沈没《ちんぼつ》し  |妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》は
|高姫《たかひめ》|背《せな》に|負《お》ひながら  |浪《なみ》の|間《ま》にまに|漂《ただよ》ひつ
|漸《やうや》く|湖中《こちう》に|浮《うか》びたる  |竹《たけ》|生《お》ひ|茂《しげ》る|太魔《たま》の|島《しま》
|銀杏《いてふ》の|浜辺《はまべ》に|着《つ》きにけり  ここに|二人《ふたり》は|種々《いろいろ》の
|良《よ》からぬ|事《こと》をなし|終《を》へて  |浜辺《はまべ》の|船《ふね》を|奪《うば》ひとり
|杢助《もくすけ》|艪《ろ》をば|操《あや》つりつ  もとより|慣《な》れぬ|海《うみ》の|上《うへ》
|浪《なみ》のまにまにくるくると  |彼方《あなた》や|此方《こなた》に|流《なが》されつ
|終日《しうじつ》|終夜《しうや》を|水《みづ》の|上《うへ》  |腹《はら》を|減《す》かして|彷徨《さまよ》ひつ
やうやうスガの|港《みなと》まで  |命《いのち》からがら|着《つ》きにける
|高姫《たかひめ》|杢助《もくすけ》|両人《りやうにん》は  |湖辺《こへん》に|沿《そ》ひし|饂飩屋《うどんや》に
ちよつと|立《た》ち|寄《よ》り|減腹《すきばら》を  |癒《いや》せる|折《を》りしも|道《みち》を|往《ゆ》く
|人《ひと》の|噂《うはさ》にスガの|山《やま》  |三五教《あななひけう》の|大宮《おほみや》が
|千木《ちぎ》|高《たか》|知《し》りて|新《あたら》しく  |建《た》てられたりと|聞《き》くよりも
|食指《しよくし》は|大《おほ》いに|動《うご》き|出《だ》し  |何《なん》とか|工夫《くふう》を|廻《めぐ》らして
その|聖場《せいぢやう》を|奪《うば》はむと  |考《かんが》へゐるこそ|虫《むし》の|良《よ》き
|日《ひ》も|黄昏《たそがれ》になりければ  |目抜《めぬ》きの|場所《ばしよ》なる|中《なか》の|町《まち》
タルヤ|旅館《りよくわん》に|乗《の》り|込《こ》んで  |一夜《いちや》の|宿《やど》を|求《もと》めつつ
|二人《ふたり》は|此処《ここ》にやすやすと  |甘《あま》き|睡《ねむ》りにつきにけり。
|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》は|朝《あさ》|早《はや》くから|起《お》き|出《い》でて|宿屋《やどや》の|様子《やうす》を|考《かんが》へてゐると、|見《み》た|割合《わり》とは|広《ひろ》い|屋敷《やしき》で|新《あたら》しい|別館《べつくわん》が|建《た》つてゐる。さうして|其《そ》の|別館《べつくわん》は|北町《きたまち》の|街道《かいだう》に|面《めん》し、|布教《ふけう》や|宣伝《せんでん》には|極《きは》めて|可《よ》い|家構《いへがま》へであつた。|妖幻坊《えうげんばう》は|曲輪《まがわ》の|術《じゆつ》を|使《つか》ひ、|庭先《にはさき》の|木《こ》の|葉《は》を|七八枚《しちはちまい》|拾《ひろ》つて|来《き》て|何《なに》かムサムサ|文言《もんごん》を|唱《とな》へると、それが|忽《たちま》ち|百円札《ひやくゑんさつ》に|変《かは》つてしまつた。そつと|懐中《ふところ》に|秘《ひ》めおき|素知《そし》らぬ|顔《かほ》して|高姫《たかひめ》の|前《まへ》にどつかと|坐《ざ》し、
『オイ、|千草《ちぐさ》の|高《たか》チヤン、|何《なん》と|此処《ここ》は|良《よ》い|家構《いへがま》へぢやないか。お|前《まへ》の|得意《とくい》な|布教《ふけう》|宣伝《せんでん》とやらを|此処《ここ》で|行《や》つたら|面白《おもしろ》からうよ』
|高《たか》『なるほど、さすがは|杢助《もくすけ》さまだ。よう|気《き》がつきますこと、|妾《わたし》も|一《ひと》つ|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》がスガの|山《やま》で|立派《りつぱ》なお|宮《みや》を|建《た》て、|大変《たいへん》にえらい|勢《いきほ》ひで|宣伝《せんでん》してゐるといふ|事《こと》だから、|何《なん》だか|知《し》らぬ|気色《きしよく》が|悪《わる》くてたまらぬので、|直《す》ぐさまスガの|山《やま》に|乗《の》り|込《こ》んで、|神司《かむつかさ》の|面《つら》の|皮《かは》をひん|剥《む》き、|道場破《だうぢやうやぶ》りをやつてやらうかとも|考《かんが》へましたが、それでは|余《あま》りあどけない、|無理《むり》に|占領《せんりやう》したと|町人《ちやうにん》にでも|思《おも》はれちや|後《のち》の|信用《しんよう》に|関《くわん》するので、|如何《どう》しやうかなアと|今《いま》|考《かんが》へてゐたところですよ。しかし|何《なに》ほど|結構《けつこう》な|都合《つがふ》のよい|家《いへ》だといつても、|一旦《いつたん》|湖《うみ》にはまつて|真裸《まつぱだか》となり、|旅費《りよひ》も|何《なに》もなくなつてしまつたのだから、|家《いへ》を|借《か》りやうもなく|仕方《しかた》がないぢやありませぬか。かうして|偉《えら》さうに|宿屋《やどや》に|泊《とま》つてゐるものの、サア|御勘定《ごかんぢやう》といふ|時《とき》は|如何《どう》しやうかと|思《おも》つて、さう|思《おも》ひ|出《だ》すと|宿屋《やどや》の|飯《めし》も|甘《うま》く|喉《のど》を|通《とほ》らないのですもの、|今晩《こんばん》は|甘《うま》く|夜抜《よぬ》けをしないと、グヅグヅしてゐると|無銭飲食《むせんいんしよく》とか|何《なん》とかいつて、バラモンの|役所《やくしよ》に|引張《ひつぱ》られますからなア』
|妖《えう》『ハハハハ|御心配《ごしんぱい》|御無用《ごむよう》だ。そんな|事《こと》に|抜目《ぬけめ》のある|杢助《もくすけ》だないよ。|一層《いつそう》のこと、あの|別館《べつくわん》を|主人《しゆじん》に|相談《さうだん》して|買取《かひと》つたらどうだらう』
『|買取《かひと》るといつたつてお|金《かね》がなけれや|仕様《しやう》がないぢやありませぬか。せめて|手附金《てつけきん》でもあれば|話《はなし》も|出来《でき》ますが、|昨夜《ゆうべ》の|宿料《やどれう》もないやうなことで、どうしてそんなことが|出来《でき》ませうか。アアかうなれやお|金《かね》が|欲《ほ》しいワイ』
『|俺《おれ》もお|金《かね》が|欲《ほ》しいのだけれど、お|札《さつ》はあつてもお|金《かね》は|些《すこ》しもないのだから、
|札《さつ》や|手形《てがた》は|沢山《たくさん》あれど
どうか(|銅貨《どうくわ》)こうか(|硬貨《かうくわ》)に|苦労《くらう》する
とか|何《なん》とかいつてな、|硬貨《かうくわ》が|無《な》けれや|矢張《やつぱ》り|話《はな》しても|効果《かうくわ》がないといふものだ。しかし【どうか】(|銅貨《どうくわ》)してあの|家《いへ》を|手《て》に|入《い》れたいものだな』
『|硬貨《かうくわ》がなくても|紙幣《しへい》されあれば|結構《けつこう》ですが、|紙《かみ》らしいものは|鼻紙《はなかみ》|一《ひと》つ|無《な》いのだもの、|仕方《しかた》がないワ』
|杢助《もくすけ》はニツコと|笑《わら》ひ|懐《ふところ》を|三《み》つ|四《よ》つ|叩《たた》きながら、
『オイ、|高《たか》チヤン、ここに|一寸《ちよつと》|手《て》を|入《い》れて|御覧《ごらん》。お|前《まへ》の|大好物《だいかうぶつ》が|目《め》を|剥《む》いてゐるよ』
|高姫《たかひめ》は|訝《いぶ》かりながら|矢庭《やには》に|妖幻坊《えうげんばう》の|懐《ふところ》に|右手《みぎて》を|挿《さ》し|込《こ》むと、|切《き》れるやうな|百円札《ひやくゑんさつ》が|七八枚《しちはちまい》|手《て》に|触《さは》つた。アツと|驚《おどろ》き|尻餅《しりもち》をつき、
『ヤアヤアヤアこれこれ|杢《もく》チヤン、|危《あぶ》ない|事《こと》をしなさるなや。お|前《まへ》さまは|昨夜《ゆうべ》|妾《わたし》の|寝《ね》てゐる|間《ま》を|考《かんが》へて|何処《どこ》かで|何々《なになに》して|来《き》たのだらう、ほんたうに|怖《おそ》ろしい|人《ひと》だワ』
|妖《えう》『ハハハ、さう|驚《おどろ》くものぢやない、この|杢助《もくすけ》は|決《けつ》して|泥棒《どろばう》なんかしないよ。|曲輪《まがわ》の|術《じゆつ》をもつて|庭先《にはさき》の|木《こ》の|葉《は》を|拾《ひろ》ひちよつと|紙幣《しへい》に|化《ば》かしたのだ』
|高姫《たかひめ》は|曲輪《まがわ》の|術《じゆつ》といへば|一《いち》も|二《に》もなく|信《しん》ずる|癖《くせ》がある。
『マアマア、えらいお|方《かた》だこと、それでこそ|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》の|夫《をつと》ですワ。この|金《かね》さへあれば|一《ひと》つ|主人《しゆじん》に|交渉《かけあ》つて、あの|家《いへ》を|手《て》に|入《い》れるやうにせうぢやありませぬか。|裏《うら》にはまた|離棟《はなれ》も|建《た》つてゐますなり、お|前《まへ》さまがお|休《やす》みになるには|大変《たいへん》|都合《つがふ》がよろしいからなア』
|妖《えう》『ウンさうだ。どうも|別棟《べつむね》がないと|俺《おれ》はとつくり|休《やす》めないからのう、どうだい、お|前《まへ》|主人《しゆじん》に|交渉《かけあ》つてくれないか』
|高《たか》『ハイ、|承知《しようち》いたしました』
と|言《い》ひながらポンポンと|手《て》を|拍《う》ち|鳴《な》らす。|暫《しばら》くあつて|一人《ひとり》の|下女《げぢよ》、|襖《ふすま》をソツと|開《ひら》き|淑《しと》やかに|両手《りやうて》をつき、
『お|召《め》しになりましたのは|此方《こなた》でございますか』
|高《たか》『アアさうだよ、お|前《まへ》は|此家《ここ》の|下女《げぢよ》と|見《み》えるが、|下女《げぢよ》には|用《よう》がない、ちよつと|御亭主《ごていしゆ》を|呼《よ》んで|来《き》て|下《くだ》さい、さうして|序《ついで》に|昨夜《ゆうべ》の|勘定書《かんぢやうがき》をね』
|下女《げぢよ》は「ハイ|畏《かしこ》まりました」と|言《い》ひながら、|足早《あしばや》に|出《い》でて|行《ゆ》く。|高姫《たかひめ》は|杢助《もくすけ》の|懐《ふところ》から|出《で》た|紙幣《しへい》を|引繰《ひつくり》かへし|引繰《ひつくり》かへし|眺《なが》めたが、どうしても|贋物《にせもの》とは|見《み》えぬ。|勇気《ゆうき》|百倍《ひやくばい》して|主人《しゆじん》の|来《き》たるのを|今《いま》や|遅《おそ》しと|待《ま》つてゐると、|顔中《かほぢう》に【みつちや】の|出来《でき》た|五十恰好《ごじふかつかう》の|爺《おやぢ》、テカテカ|光《ひか》つた|頭《あたま》をヌツと|出《だ》し、
『ハイ|私《わたし》は|当家《たうけ》の|主人《しゆじん》でございます、お|召《め》しによりまして|罷《まか》り【つん】|出《で》ました』
|高《たか》『|勘定書《かんぢやうがき》は|幾《いく》らだな』
|亭《てい》『ハイ、お|二人様《ふたりさま》で|一円《いちゑん》|五十銭《ごじつせん》|頂戴《ちやうだい》いたします』
|高《たか》『そんなら、これは|茶代《ちやだい》と|一緒《いつしよ》だよ』
と|言《い》ひながら|百円紙幣《ひやくゑんしへい》を|投《な》げ|出《だ》せば、|亭主《ていしゆ》は|驚《おどろ》いて|二人《ふたり》の|顔《かほ》を|見詰《みつ》めながら、
『こんな|大《おほ》きなお|金《かね》を|頂戴《ちやうだい》いたしましても|剰銭《おつり》がございませぬ、どうぞ|小《こま》かいのでお|願《ねが》ひいたします』
|高《たか》『イヤ|剰銭《つり》が|無《な》けりや|宜《よろ》しい、|一円《いちゑん》|五十銭《ごじつせん》は|昨夜《さくや》の|宿泊料《しゆくはくれう》、|九十八円《きうじふはちゑん》|五十銭《ごじつせん》はお|茶代《ちやだい》だよ』
|亭《てい》『|宿屋業組合《やどやげふくみあひ》の|規則《きそく》で|茶代《ちやだい》を|廃止《はいし》してゐる|今日《こんにち》、こんな|物《もの》を|頂戴《ちやうだい》しましては|仲間《なかま》を【はね】られますから、どうぞお|納《をさ》め|下《くだ》さいませ』
『アア|茶代《ちやだい》が|悪《わる》けれや、お|土産《みやげ》として|上《あ》げておかう、それなら|好《よ》いだらう』
『ハイ、お|土産《みやげ》なら|幾《いく》らでも|頂戴《ちやうだい》いたします。|有難《ありがた》うございます。どうぞゆるゆるお|宿《やど》り|下《くだ》さいませ、どうも|不都合《ふつがふ》でございますが|暫《しばら》く|御辛抱《ごしんばう》|願《ねが》ひます』
『|時《とき》に|亭主殿《ていしゆどの》、|旦那様《だんなさま》の|思召《おぼしめ》しだが、あの|庭先《にはさき》の|向《む》かふに|建《た》つてゐる|別館《べつくわん》は|当家《たうけ》の|所有物《しよいうぶつ》かえ』
『ハイ、|左様《さやう》でございます。|漸《やうや》く|建《た》ち|上《あ》がり|畳《たたみ》や|襖《ふすま》を|入《い》れたところですが|未《ま》だ|誰《たれ》も|入《い》つてをりませぬ、ほんたうに|新《あたら》しい|所《ところ》です』
『お|金《かね》は|幾何《いくら》でも|出《だ》すから、あの|家《いへ》を|使《つか》はしてもらへますまいかな』
『ハイ、|毎度《まいど》|御贔屓《ごひいき》に|預《あづ》かりまする|外《ほか》ならぬお|客様《きやくさま》のことですから、お|言葉通《ことばどほ》り、|譲《ゆづ》りでもお|貸《か》しでもいたします』
『|同《おな》じことなら|譲《ゆづ》つてもらひたいのだがな、|借家《しやくや》は|雑作《ざふさく》するのにも|一々《いちいち》お|答《こた》へをせにやならないからな』
『|一々《いちいち》ご|尤《もつと》もでございます、|何《なん》ならお|譲《ゆづ》りいたしませう』
『|幾何《いくら》でわけて|呉《く》れますか、お|金《かね》は|幾何《いくら》いつてもかまはぬのですから』
『ちつとお|高《たか》いか|知《し》れませぬが、|五百円《ごひやくゑん》で|願《ねが》ひたいものです』
『サアそんなら|五百円《ごひやくゑん》|受《う》け|取《と》つて|下《くだ》さい。さうしてこの|百円《ひやくゑん》は、|何《なに》かとお|世話《せわ》にならねばならぬから、お|心《こころ》づけとして|上《あ》げておきませう』
|亭主《ていしゆ》は|実《じつ》のところ|別館《べつくわん》は、|借家人《しやくやにん》が|首《くび》を|吊《つ》つて|死《し》んだため、|夜《よ》な|夜《よ》な|幽霊《いうれい》が|出《で》るとか、|化物《ばけもの》が|出《で》るとか|噂《うはさ》が|高《たか》くなり、|家《いへ》の|借《か》り|手《て》もなく、|家内《かない》の|者《もの》さへも|気味悪《きみわる》がつて|入《はい》らないので|持《も》てあましてをつたところ、|大枚《たいまい》|五百円《ごひやくゑん》、しかも|即金《そくきん》で|買《か》うてやらうといふのだから、|棚《たな》から|牡丹餅《ぼたもち》でも|落《お》ちて|来《き》たやうに「ハイハイ」と|二《ふた》つ|返事《へんじ》で|其《そ》の|場《ば》で|売渡証《うりわたししよう》を|書《か》いてしまつた。これより|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》は|其《そ》の|日《ひ》の|内《うち》に|別館《べつくわん》に|引《ひ》き|移《うつ》り、ウラナイ|教《けう》の|大看板《だいかんばん》を|掲《かか》げて、|宣伝《せんでん》の|準備《じゆんび》に|取《と》りかかつた。
|高《たか》『サア|杢《もく》チヤン、|気楽《きらく》な|自分《じぶん》の|巣《す》が|出来《でき》たから、ゆつくり|休《やす》んで|下《くだ》さい。そして|明日《あす》からは|大《おほ》いに|活動《くわつどう》をして|大勢《おほぜい》の|信者《しんじや》を|集《あつ》め、スガの|山《やま》の|三五教《あななひけう》に|一泡《ひとあわ》|吹《ふ》かせにやなりませぬぞや』
|妖《えう》『アアまたしても|明日《あす》から|耳《みみ》が|蛸《たこ》になるほど|第一霊国《だいいちれいごく》の|天人《てんにん》、|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》、|底津岩根《そこついはね》の|大《おほ》ミロク、|三千世界《さんぜんせかい》の|救世主《きうせいしゆ》、ヘグレのヘグレのヘグレ|武者《むしや》ヘグレ|神社《じんじや》の|大神《おほかみ》、リントウビテンの|大神《おほかみ》、|木曽義姫《きそよしひめ》の|命《みこと》、ジヨウドウ|行成《ゆきなり》、|地上丸《ちじやうまる》、|地上姫《ちじやうひめ》、|耕大臣《たがやしだいじん》、|定子姫《さだこひめ》の|命《みこと》、|杵築姫《きつきひめ》、|言上姫《ことじやうひめ》とか|何《なん》とかいふ【やくざ】|神《がみ》さまの|名《な》を|聞《き》くのかと|思《おも》へば、|今《いま》から|頭《あたま》が|痛《いた》むやうだワイ』
『これ|杢《もく》チヤン、これほど|妾《わたし》が|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|神様《かみさま》のお|道《みち》を|開《ひら》かうとしてゐるのに、|何時《いつ》も|何時《いつ》も|妾《わたし》を|嘲弄《てうろう》するのですか。|神様《かみさま》の|名《な》を|聞《き》いて|頭《あたま》が|痛《いた》いの、|目《め》が|眩《ま》ふのと|言《い》ふ|人《ひと》は|罰当《ばちあた》りですよ』
『さうだから、ウラナイ|教《けう》はお|前様《まへさま》にお|任《まか》せ|申《まを》して、この|杢兵衛《もくべゑ》さまは|離棟《はなれ》の|一室《ひとま》に|立籠《たてこも》り|上《あ》げ|股《また》うつて|休《やす》ましてもらふのだ。|宣伝《せんでん》の|邪魔《じやま》をしても|済《す》まないからなア』
『お|前《まへ》さまは|余《あま》り|人物《じんぶつ》が|大《おほ》き|過《す》ぎて|人民《じんみん》に|直接《ちよくせつ》の|布教《ふけう》は|不適当《ふてきたう》だから、|昼《ひる》の|間《あひだ》は|離棟《はなれ》でお|休《やす》みなさい、そのかはり|夜分《やぶん》になつたら|御用《ごよう》を|仰《おほ》せつけて|上《あ》げますからねえ、ほんとに|嬉《うれ》しいでせう、|可愛《かはい》いでせう』
『まるで|俺《おれ》を|種馬《たねうま》と|間違《まちが》へてゐるやうだなア。どれどれ|山《やま》の|神様《かみさま》の|御機嫌《ごきげん》のよい|中《うち》に|離棟《はなれ》に|参《まゐ》りませう。サアこれから|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》、|大《おほ》ミロクさまを|売《う》り|出《だ》しなさい』
と|言《い》ひながらドシンドシンと|床板《とこいた》をしわらせながら|離棟座敷《はなれざしき》へ|大《おほ》きな|図体《づうたい》を|運《はこ》び、|中《なか》から|錠《ぢやう》【まい】を|卸《おろ》し|元《もと》の|怪物《くわいぶつ》と|還元《くわんげん》し|大鼾声《おほいびき》をかき|寝《ね》てしまつた。|妖幻坊《えうげんばう》は|人間《にんげん》に|化《ば》けてゐるのが|非常《ひじやう》に|苦《くる》しいので、|外《そと》から|見《み》えない|一室《いつしつ》を|何時《いつ》も|必要《ひつえう》としてゐるのである。
|高姫《たかひめ》はいよいよ|一陽来復《いちやうらいふく》|春陽《しゆんやう》|到《いた》れりと|太《ふと》いお|尻《しり》を|振《ふ》りながら、|大道《だいだう》を|声《こゑ》|張《は》り|上《あ》げて|宣伝《せんでん》しはじめた。|尻《しり》は|大《おほ》きいが|何《なん》といつても|千草姫《ちぐさひめ》の|肉体《にくたい》、どことはなしに|気品《きひん》も|高《たか》く|器量《きりやう》もよし、|物《もの》さへ|言《い》はねば|何処《いづこ》の|貴夫人《きふじん》か、|弁天様《べんてんさま》の|再来《さいらい》かと|疑《うたが》はるるばかりの|美貌《びばう》であつた。|高姫《たかひめ》の|必死《ひつし》の|宣伝《せんでん》は|忽《たちま》ち|功《こう》を|奏《そう》したと|見《み》え、その|翌日《よくじつ》からはワイワイと|老若男女《らうにやくなんによ》が|詰《つ》めかけて|鮓詰《すしづめ》の|大繁昌《だいはんじやう》、スガ|山《やま》の|神殿《しんでん》よりも|参詣者《さんけいしや》が|幾層倍《いくそうばい》|増《ふ》へるやうになつて|来《き》た。
(大正一五・六・三〇 旧五・二一 於天之橋立なかや旅館 加藤明子録)
第一五章 |災会《さいくわい》〔一八二四〕
トルマン|国《ごく》の|王妃《わうひ》なる  |千草《ちぐさ》の|姫《ひめ》の|体《たい》をかり
ふたたび|娑婆《しやば》に|甦《よみがへ》り  |千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》と|名《な》を|変《か》へて
|曲《まが》の|精霊《せいれい》に|沁《し》み|込《こ》んだ  ウラナイ|教《けう》をどこまでも
たてにやおかぬと|雄猛《をたけ》びし  |前世《ぜんせ》に|契《ちぎ》りを|結《むす》びたる
|大雲山《たいうんざん》の|洞穴《ほらあな》に  |棲《すま》へる|大蛇《をろち》の|乾児《こぶん》なる
|妖幻坊《えうげんばう》に|再会《さいくわい》し  またもや|夫婦《ふうふ》の|縁《えん》|結《むす》び
|彼方《あなた》こなたと|彷徨《さまよ》ひつ  スガの|港《みなと》の|北町《きたまち》に
やうやく|吾《わ》が|家《や》を|買《か》ひ|求《もと》め  スガの|聖地《せいち》に|建《た》てられし
|三五教《あななひけう》の|神殿《しんでん》を  |向《む》かふに|廻《まは》して|勢力《せいりよく》を
|比《くら》べむものと|雄猛《をたけ》びし  |立派《りつぱ》な|神殿《しんでん》|造《つく》り|上《あ》げ
|俄《には》か|役員《やくゐん》|二三人《にさんにん》  |雇《やと》ひ|来《き》たりて|厳《おごそ》かな
|口調《くてう》をもつて|寄《よ》り|来《き》たる  |善男《ぜんなん》|善女《ぜんによ》に|相向《あひむ》かひ
|四脚《しきやく》の|机《つくゑ》を|前《まへ》に|置《お》き  |椅子《いす》に|腰《こし》かけ|悠然《いうぜん》と
コツプの|水《みづ》を|啜《すす》りつつ  エヘンと|一声《ひとこゑ》|咳払《せきばら》ひ
|扇《あふぎ》|片手《かたて》に|持《も》ちながら  |信者《しんじや》の|上《うへ》に|目《め》を|注《そそ》ぎ
|花《はな》を|欺《あざむ》く|美貌《びばう》もて  |涼《すず》しき|声《こゑ》にて|語《かた》るらく
『|皆《みな》さまようこそお|詣《まゐ》りよ  |妾《わたし》は|人間《にんげん》に|見《み》ゆれども
|決《けつ》して|俗人《ぞくじん》ぢやありませぬ  |第一霊国《だいいちれいごく》|天人《てんにん》の
|霊《みたま》を|受《う》けて|生《うま》れたる  |日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》で
|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒《おほみろく》  |三千世界《さんぜんせかい》の|救世主《きうせいしゆ》
|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》と|申《まを》します  |妾《わたし》の|教《をし》ふる|御教《みをしへ》は
ウラナイ|教《けう》と|言《い》ひまして  |天下《てんか》に|比類《たぐひ》のない|教《をしへ》
|盲《めくら》は|目《め》が|開《あ》き|聾《つんぼ》は|聞《き》こえ  |躄《いざり》は|立《た》つて|歩《ある》きます
|肺病《はいびやう》|腎臓《じんざう》|心臓病《しんざうびやう》  |胃病《ゐびやう》は|愚《おろ》か|十二指腸《じふにしちやう》
|盲腸炎《まうちやうえん》に|神経痛《しんけいつう》  |気管支加答児《きくわんしかたる》に|肺加答児《はいかたる》
|流行性《りうかうせい》|感冒《かんぱう》コレラ|病《びやう》  |猩紅熱《しやうこうねつ》にパラチブス
|横根《よこね》や|疳瘡《かんさう》や|骨《ほね》うづき  |陰睾田虫《いんきんたむし》に|疥癬虫《ひぜんむし》
|如何《いか》なる|病《やまひ》も|高姫《たかひめ》が  |心《こころ》に|叶《かな》うた|人《ひと》ならば
|即座《そくざ》に|癒《なほ》して|上《あ》げますよ  それぢやといつてウラナイの
|誠《まこと》の|教《をしへ》の|分《わか》らない  お|方《かた》にや|神徳《しんとく》やりませぬ
|三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》と  どちらが|偉《えら》いといふやうな
|比較研究《ひかくけんきう》の|信者《しんじや》には  |罰《ばち》こそあたれ|神徳《おかげ》ない
ここの|道理《だうり》を|聞《き》きわけて  |絶対服従《ぜつたいふくじう》の|信仰《しんかう》を
|皆《みな》さま|励《はげ》んでなさいませ  |斎苑《いそ》の|館《やかた》に|総務《そうむ》をば
|務《つと》めてござつた|杢助《もくすけ》さま  |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の
|三羽烏《さんばがらす》と|言《い》はれたる  |天下《てんか》|唯一《ゆゐいつ》の|宣伝使《せんでんし》
|三五教《あななひけう》に|愛想《あいそ》をば  おつかしなさつて|高姫《たかひめ》が
|教《をしへ》の|道《みち》に|賛同《さんどう》し  |遂《つひ》に|進《すす》んで|背《せ》の|君《きみ》と
おなり|遊《あそ》ばし|御教《みをしへ》を  |天下《てんか》に|開《ひら》いて|御座《ござ》るといふ
|珍現象《ちんげんしやう》になつたのも  |決《けつ》して|不思議《ふしぎ》なことでない
メツキは|直《す》ぐに|剥《は》げるぞや  |正真正銘《しやうしんしやうめい》のウラナイ|教《けう》
|擦《こす》れば|擦《こす》るほど|光《ひか》り|出《だ》す  |鋭敏《えいびん》の|頭脳《づなう》の|持主《もちぬし》の
|杢助《もくすけ》さまは|逸早《いちはや》く  ウラナイ|教《けう》の|誠《まこと》をば
|感得《かんとく》されて|三五《あななひ》の  |曲津《まがつ》の|教《をしへ》を|捨《す》てられた
これだけ|見《み》ても|分《わか》るだらう  スガの|宮居《みやゐ》の|神司《かむづかさ》
|玉清別《たまきよわけ》といふ|人《ひと》は  |何処《いづこ》の|馬骨《ばこつ》か|牛骨《ぎうこつ》か
あるひは|狐《きつね》の|容器《いれもの》か  |狸《たぬき》のお|化《ばけ》か|知《し》らねども
どうしてあのやうなスタイルで  |神《かみ》の|聖場《せいぢやう》が|保《たも》てませう
|見《み》てゐて|下《くだ》され|一月《ひとつき》も  |経《た》たない|中《うち》にメチヤメチヤに
|壊《こは》れてしまふは|目《ま》のあたり  |鏡《かがみ》にかけしごとくです
|誠《まこと》の|救《すく》ひの|神様《かみさま》は  ウラナイ|教《けう》より|外《ほか》にない
ヨリコの|姫《ひめ》や|花香姫《はなかひめ》  ダリヤの|姫《ひめ》とかいふ|女《をんな》
|何《なに》をしとるか|知《し》らねども  |清浄無垢《せいじやうむく》の|神館《かむやかた》
|月《つき》に|七日《なぬか》の|不浄《ふじやう》ある  |女《をんな》を|三人《みたり》も|泊《とま》らせて
どうして|神《かみ》が|喜《よろこ》ばう  もしも|喜《よろこ》ぶ|神《かみ》なれば
|必《かなら》ず|曲津《まがつ》に|違《ちが》ひない  |妾《わたし》も|最早《もはや》|四十三《しじふさん》
|若《わか》い|姿《すがた》はしてをれど  |月《つき》に|七日《なぬか》のお|客《きやく》さま
|宿泊《しゆくはく》なさるやうな|身《み》ではない  これを|思《おも》うてもウラナイの
|神《かみ》の|教《をしへ》は|誠《まこと》ぞや  |気《き》をつけなされよ|皆《みな》の|人《ひと》
|必《かなら》ず|曲津《まがつ》の|御教《みをしへ》に  |迷《まよ》うて|地獄《ぢごく》の|先駆《さきが》けを
なさらぬやうにと|気《き》をつける  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
ウラナイ|教《けう》の|大御神《おほみかみ》  ヘグレのヘグレのヘグレ|武者《むしや》
ヘグレ|神社《じんじや》の|大御神《おほみかみ》  リントウビテンの|大御神《おほみかみ》
|地上大臣《ちじやうだいじん》|地上姫《ちじやうひめ》  |地上丸《ちじやうまる》さま|行成《ゆきなり》さま
|定子《さだこ》の|姫《ひめ》さま|杵築姫《きつきひめ》  |弥勒成就《みろくじやうじゆ》の|大御神《おほみかみ》
|貞彦姫《さだひこひめ》の|大御神《おほみかみ》  |言上姫《ことじやうひめ》さま|春子《はるこ》さま
その|外《ほか》|百《もも》の|神様《かみさま》の  |御前《みまへ》に|謹《つつし》み|高姫《たかひめ》が
|日出神《ひのでのかみ》と|現《あら》はれて  この|場《ば》に|集《つど》ふ|人々《ひとびと》の
|守護《しゆご》を|命《めい》じおきまする  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』  かかるところへ|修験者《しゆげんじや》
|錫杖《しやくぢやう》|左手《ゆんで》につきながら  |深網笠《ふかあみがさ》に|顔《かほ》|隠《かく》し
いと|荘重《さうちよう》な|言霊《ことたま》を  |張《は》り|上《あ》げながら|入《い》り|来《き》たり
『ウラナイ|教《けう》の|大本部《だいほんぶ》  |教祖《けうそ》の|君《きみ》に|御面会《ごめんくわい》
お|願《ねが》ひ|申《まを》す』と|言《い》ひながら  |群集《ぐんしふ》の|中《なか》をかき|分《わ》けて
|演壇《えんだん》|目《め》がけて|進《すす》みより  |高姫司《たかひめつかさ》の|前《まへ》に|立《た》ち
『|拙僧《せつそう》こそは|月《つき》の|国《くに》  ハルナの|都《みやこ》に|現《あ》れませる
|大黒主《おほくろぬし》の|御寵臣《ごちようしん》  スコブッツエン|宗《しう》の|大教祖《だいけうそ》
キユーバーと|申《まを》す|僧《そう》でござる  どうか|一場《いちぢやう》の|演説《えんぜつ》を
|許《ゆる》させ|玉《たま》へ』と|呼《よ》ばはれば  |高姫《たかひめ》|不審《ふしん》の|眉《まゆ》ひそめ
どこかで|聞《き》いた|声《こゑ》の|色《いろ》  |面《おもて》は|笠《かさ》で|見《み》えねども
もしや|自分《じぶん》の|恋《こ》ひ|慕《した》ふ  キユーバーの|君《きみ》ではあるまいか
『なにはともあれ|御登壇《ごとうだん》  |結構《けつこう》なお|話《はな》し|頼《たの》みます
これこれ|皆《みな》の|御信者《ごしんじや》よ  |妾《わたし》はこれから|降壇《かうだん》し
|奥《おく》の|一室《ひとま》で|休《やす》みます  この|御方《おんかた》は|修験者《しゆげんじや》
|必《かなら》ず|尊《たふと》いお|話《はなし》を  して|下《くだ》さるに|違《ちが》ひない
|神妙《しんめう》にお|聞《き》きなされや』と  |言《い》ひつつ|人《ひと》をかき|分《わ》けて
|隣《とな》りの|部屋《へや》に|身《み》を|潜《ひそ》め  |様子《やうす》いかにと|窺《うかが》ひぬ
キユーバーも|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》の  |顔《かほ》を|見《み》るより|仰天《ぎやうてん》し
ハートに|浪《なみ》は|騒《さわ》げども  そしらぬ|顔《かほ》を|装《よそほ》ひつ
|賛成演説《さんせいえんぜつ》はじめける  キユーバーはコツプに|水《みづ》をつぎ
オホンと|一声《ひとこゑ》|咳払《せきばら》ひ  |神官扇《しんくわんあふぎ》を|斜《しや》に|構《かま》へ
|笠《かさ》|抜《ぬ》ぎ|捨《す》てて|群集《ぐんしふ》を  ジロジロ|見廻《みまは》し|声《こゑ》|高《たか》く
『|拙僧《せつそう》こそはウラナイの  |道《みち》に|永年《ながねん》|苦労《くらう》した
|諸国巡礼《しよこくじゆんれい》の|行者《ぎやうじや》です  |今《いま》|現《あら》はれた|高姫《たかひめ》の
|教主《けうしゆ》の|君《きみ》は|人《ひと》でない  |天津空《あまつそら》より|雲《くも》に|乗《の》り
|小北《こぎた》の|山《やま》の|聖場《せいぢやう》に  |天降《あも》り|玉《たま》ひし|生神《いきがみ》ぞ
|皆《みな》さま|喜《よろこ》びなさいませ  この|神様《かみさま》を|信《しん》じなば
|寿命長久《じゆみやうちやうきう》|福徳円満《ふくとくゑんまん》  |五穀豊穣《ごこくほうじやう》|息災延命《そくさいえんめい》まがひなし
そもそも|神《かみ》には|正神《せいしん》と  |邪神《じやしん》の|二《ふた》つの|区別《くべつ》あり
|神《かみ》を|信仰《しんかう》するならば  |誠《まこと》の|神《かみ》を|敬《うやま》うて
|邪神《よこしまがみ》を|捨《す》てなされ  |誠《まこと》の|神《かみ》は|生命《いのち》を|与《あた》へ
|病《やまひ》を|癒《い》やし|福徳《ふくとく》を  |授《さづ》け|玉《たま》ふ|仁慈無限《じんじむげん》のおやり|方《かた》
|曲津《まがつ》の|神《かみ》は|病気《びやうき》を|起《おこ》し  |貧乏《びんばふ》を|齎《もたら》し|命《いのち》を|縮《ちぢ》め
|大雨《おほあめ》|大風《おほかぜ》|地震《ぢしん》まで  |人《ひと》の|嫌《いや》がる|事《こと》ばかり
|一生懸命《いつしやうけんめい》にするものだ  スガの|御山《みやま》に|建《た》てられし
|三五教《あななひけう》もその|通《とほ》り  |善《ぜん》の|仮面《かめん》を|被《かぶ》りつつ
|悪魔《あくま》の|神《かみ》を|呼《よ》び|集《つど》へ  |此《この》|世《よ》の|中《なか》を|乱《みだ》さむと
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|念《ねん》じてる  |何《なに》とぞ|皆《みな》さま|気《き》をつけて
スガの|山《やま》へは|行《ゆ》かぬやう  |近所合壁《きんじよがつぺき》いましめて
ウラナイ|教《けう》の|神様《かみさま》の  おかげを|頂《いただ》きなされませ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |私《わたし》も|教主《けうしゆ》に|用《よう》がある
|一先《ひとま》づ|御免《ごめん》』と|言《い》ひながら  |悠々《いういう》|演壇《えんだん》|降《くだ》りつつ
|高姫司《たかひめつかさ》の|潜《ひそ》みたる  |隣《となり》の|部屋《へや》をさして|行《ゆ》く
|数多《あまた》の|信者《しんじや》は|怪訝顔《けげんがほ》  |何《なに》が|何《なに》やら|分《わか》らぬと
たがひに|小言《こごと》をつきながら  ボツボツ|家路《いへぢ》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |目玉《めだま》|飛《と》び|出《だ》す|面白《おもしろ》さ。
|高姫《たかひめ》は|一室《ひとま》に|隠《かく》れてキユーバーの|演説《えんぜつ》を|聞《き》いてゐたが、
『|背恰好《せかつかう》といひ、|顔《かほ》の|形《かたち》といひ、|声色《こはいろ》といひ、トルマン|城《じやう》で|会《あ》うたキユーバーに|少《すこ》しも|違《ちが》はない。ハテ|妙《めう》な|事《こと》になつて|来《き》たワイ、|悋気《りんき》の|深《ふか》い|杢助《もくすけ》さまは|別館《べつくわん》に|寝《ね》てゐらつしやるから、いいやうなものの|何時《なんどき》|目《め》が|醒《さ》めるか|分《わか》らない。もしキユーバーさまであつたなら、|如何《どう》しやうかな』
と|胸《むね》を|抱《いだ》いて|考《かんが》へてゐる。そこへキユーバーが|足音《あしおと》|忍《しの》ばせ|入《い》り|来《き》たり|小声《こごゑ》になつて、
『これ、|千草姫《ちぐさひめ》どの、この|面《つら》を|覚《おぼ》えてゐますか』
|高《たか》『ハイ、そのお|顔《かほ》を|忘《わす》れてなりませうか、|天下《てんか》に|類例《るゐれい》のない|御容貌《ごようばう》ですもの。そして|貴方《あなた》、ひどいぢやありませぬか、どこをうろついてゐらつしやつたのです』
キユ『|時《とき》に|千草殿《ちぐさどの》、スガ|山《やま》の|神館《かむやかた》にはヨリコ|姫《ひめ》といふ|山賊上《さんぞくあ》がりの|女《をんな》が|傲然《がうぜん》と|構《かま》へ|込《こ》み、|宗教問答所《しうけうもんだふどころ》と|大看板《おほかんばん》を|掲《かか》げ、「|妾《わらは》を|説《と》き|伏《ふ》せた|人《ひと》には|此《こ》の|館《やかた》の|役目《やくめ》をお|渡《わた》し|申《まを》す」と|図々《づうづう》しくも|掲《かか》げてゐるのだ。どうだ、お|前《まへ》は|一《ひと》つ|問答《もんだふ》に|行《ゆ》く|気《き》はないか』
『ナニ、ヨリコ|姫《ひめ》がそんな|事《こと》を|書《か》いてをりますか、|何《なん》といふ|馬鹿《ばか》でせう、|己《おの》が|刀《かたな》で|己《おの》が|首《くび》、|飛《と》んで|火《ひ》に|入《い》る|夏《なつ》の|虫《むし》とは|此《この》|事《こと》でせう。ヤア|面白《おもしろ》い、それぢや|今日《けふ》から|準備《じゆんび》しておいて、|明日《あす》は|出《で》かけてやりませう』
『ヤ、|早速《さつそく》の|御承知《ごしようち》|有難《ありがた》い、|及《およ》ばずながら|拙者《せつしや》もお|伴《とも》いたしませう。しかし|千草姫《ちぐさひめ》さま、お|前《まへ》さまに【これ】はあるのかい』
と|親指《おやゆび》をつき|出《だ》す。
|高姫《たかひめ》はやや|口《くち》ごもりながら|思《おも》ひきつて、
『ハイ、|時置師《ときおかし》の|神《かみ》の|杢助《もくすけ》さまといふ|立派《りつぱ》な|夫《をつと》がございます。|大《おほ》きな|声《こゑ》で|仰有《おつしや》ると|目《め》が|醒《さ》めますから、どうか|小声《こごゑ》で|言《い》つて|下《くだ》さい』
キユ『|誠《まこと》の|夫《をつと》が|来《き》てゐるのに、|誠《まこと》の|夫《をつと》の|俺《おれ》が|何《なに》|遠慮《ゑんりよ》する|必要《ひつえう》があるか、その|杢助《もくすけ》とかいふ|奴《やつ》、|俺《おれ》の|女房《にようばう》を|横取《よこど》りしよつた|曲者《くせもの》だ。ヨーシ、|奥《おく》へ|踏《ふ》み|込《こ》んで|談判《だんぱん》をやつてやらう』
と|立《た》ち|上《あ》がらうとする、|高姫《たかひめ》は|矢庭《やには》に|胸倉《むなぐら》をグツと|取《と》り、|喉《のど》を|締《し》め、あて|身《み》をくわし、|床《ゆか》の|下《した》にソツと|投《ほ》り|込《こ》んでしまつた。アアキユーバーの|運命《うんめい》は|如何《どう》なるであらうか。
(大正一五・六・三〇 旧五・二一 於天之橋立なかや旅館 北村隆光録)
第一六章 |東西奔走《とうざいほんそう》〔一八二五〕
|妖幻坊《えうげんばう》は|別館《べつくわん》の|戸《と》を|開《あ》け、ズシンズシンと|床《ゆか》を|響《ひび》かせながら|現《あら》はれ|来《き》たり、
『ヤア|高《たか》チヤン、|御苦労《ごくらう》だつたな、ヤ、|信者《しんじや》が|最早《もう》|皆《みな》|帰《い》んだと|見《み》えるな』
|高《たか》『ハイ、みな|帰《かへ》しましたよ、これから|貴方《あなた》と|妾《わたし》と|二人《ふたり》の|舞台《ぶたい》ですワ、|酒《さけ》でも|燗《かん》して|上《あ》げませうか』
|妖《えう》『ウン|一杯《いつぱい》つけてもらつても|好《よ》いが、しかし|何《なん》だか|妙《めう》な|香《にほひ》がするぢやないか、どこともなしに|男《をとこ》|臭《くさ》くて|仕方《しかた》がないがのう』
|高姫《たかひめ》は|素知《そし》らぬ|顔《かほ》で、
『ハイ、それやさうでせうよ、ここに|猪《しし》が|一匹《いつぴき》|絞《し》めてございますもの、ちよつと|御覧《ごらん》なさい、|床《ゆか》の|下《した》に|放《はう》り|込《こ》んでおきましたよ』
|妖《えう》『|何《なん》だ、これや|人間《にんげん》ぢやないか、ひどい|事《こと》したものぢやないか』
|高《たか》『|人間《にんげん》の|猪《しし》(|死体《しし》)ですよ、|此奴《こいつ》はね、|妾《わたし》がトルマン|城《じやう》にをつた|時《とき》からスコブッツエン|宗《しう》の|教主《けうしゆ》だと|威張《ゐば》り|散《ち》らし、|大黒主《おほくろぬし》を|笠《かさ》に|着《き》たり、|一方《いつぱう》では|大足別《おほだるわけ》をかつぎ、どうにもかうにも|仕方《しかた》がないので、|妾《わたし》の|美貌《びばう》を|幸《さいは》ひ|此奴《こいつ》をちよろまかせ、トルマン|城《じやう》の|危急《ききふ》を|救《すく》うたのですよ』
『なるほど、しかしながら、スコブッツエン|宗《しう》の|教祖《けうそ》といへば|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》のお|片腕《かたうで》だ。|大蛇様《をろちさま》の|兄弟分《きやうだいぶん》、……ウンとどつこい、|大蛇《をろち》のやうな|勢《いきほ》ひを|持《も》つてゐる|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》だ。どうだ|高姫《たかひめ》、この|坊主《ばうず》に|活《くわつ》を|入《い》れて|生《い》きかへらし、お|前《まへ》の|方《はう》から|色仕掛《いろじか》けで|親切《しんせつ》に|待遇《もてな》し、|此奴《こいつ》を|手蔓《てづる》として|大黒主《おほくろぬし》に|取《と》り|入《い》り、トルマン|国《ごく》の|政権《せいけん》を|握《にぎ》つて|了《しま》はうぢやないか。さうすりや、スガの|宮《みや》なんか|叩《たた》き|潰《つぶ》さうと、どうせうと|此方《こつち》の|勝手《かつて》だからなア』
『さすがは|杢助様《もくすけさま》、よい|所《ところ》に|気《き》がつきました。どれだけ|知恵《ちゑ》があるか|知《し》れませぬねえ、そんなら|此《こ》のキユーバーを|助《たす》けても|宜《よ》いのですか』
『アー、いいとも|好《い》いとも、|併《しか》しながら|色《いろ》をもつて、ちよろまかしてもよいが、|要領《えうりやう》を|得《え》さしては|不可《いけ》ないよ、ちつと|俺《おれ》も|妬《や》けるからのう』
『そんな|事《こと》は|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな、ヘン、それほど|安《やす》つぽい|高姫《たかひめ》と|思《おも》つてもらつちや|片腹痛《かたはらいた》うございますワ』
『|俺《おれ》が|此処《ここ》にゐると|話《はなし》が|仕難《しにく》いかも|知《し》れぬ、|別室《べつしつ》に|入《はい》つて|休《やす》むから、そこはお|前《まへ》の|力《ちから》で|旨《うま》く|取《と》り|込《こ》んでおけ』
『|何《なに》ほど|甘《あま》つたるい|事《こと》を|言《い》つても|決《けつ》して|怒《おこ》りませぬね』
『|口先《くちさき》ばかりなら、どんなこと|言《い》つてもよい。つまりお|前《まへ》が|甘《うま》く|操《あやつ》つて|下僕代《しもべがは》りに|使《つか》ひさへすればよいのだ』
と|言《い》ひながら|別館《べつくわん》に|姿《すがた》を|隠《かく》してしまつた。|高姫《たかひめ》はキユーバーを|床下《ゆかした》より|引《ひ》き|上《あ》げ|活《くわつ》を|入《い》れ、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》した。ウンと|一声《ひとこゑ》|息《いき》|吹《ふ》き|返《かへ》し|四辺《あたり》きよろきよろ|見廻《みまは》しながら、
『ヤアお|前《まへ》は|千草《ちぐさ》ぢやないか、|人《ひと》の|喉《のど》を|締《し》めたりして|気絶《きぜつ》さすとは|甚《ひど》いぢやないか』
|高《たか》『そんな|事《こと》は|当然《あたりまへ》ですよ、よう|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|焼餅焼《やきもちや》きの|嫌《いや》な|嫌《いや》な|爺《おやぢ》が|裏《うら》に|寝《ね》てゐるのに、お|前《まへ》さまが|談判《だんぱん》するなんて|出《で》て|行《ゆ》きなさるものだから、|喧嘩《けんくわ》しては|近所《きんじよ》に【なり】が|悪《わる》いと|思《おも》うて|一寸《ちよつと》|喉《のど》に|手《て》をあてただけですよ。|息《いき》を|止《と》めたの|殺《ころ》さうのと、そんな|大袈娑《おほげさ》な|事《こと》をした|覚《おぼ》えはございませぬよ』
キユ『|本当《ほんたう》にお|前《まへ》は|今《いま》の|夫《をつと》が|嫌《いや》なのか』
『それやさうですとも、|好《す》きだつたらどうして|貴方《あなた》の|目《め》を|眩《くら》まして|気絶《きぜつ》してゐるのを|生《い》きかへらしませうか。|妾《わたし》の|今《いま》の|夫《をつと》は|怒《おこ》るのも|甚《ひど》いけれど|又《また》|機嫌《きげん》の|直《なほ》るのも|早《はや》い、アツサリした|人《ひと》ですからなア。それで|今《いま》も|今《いま》とて|夫《をつと》に|相談《さうだん》しましたら、|俺《おれ》に|心配《しんぱい》は|要《い》らない、キユーバーさまを|可愛《かはい》がつて|上《あ》げるが|好《よ》いと|言《い》ふのです、|何《なん》と|今《いま》の|男《をとこ》は|開《ひら》けてゐませうがな』
『どちらが|開《ひら》けてゐるのか、|弄《もてあそ》ばれてゐるのか、テンと|訳《わけ》が|分《わか》らぬワイ。しかし|一旦《いつたん》|気絶《きぜつ》してゐたところを|呼《よ》びいけたところを|見《み》れば|些《すこ》しは|信用《しんよう》してもよいワイ。そんなら|今《いま》の|夫《をつと》には|済《す》まないが、|時々《ときどき》は|御無心《ごむしん》を|言《い》うても|宜《よ》いか、その|時《とき》は|頼《たの》むよ』
『それやさうですとも、|貴方《あなた》の|口《くち》で|貴方《あなた》が|仰有《おつしや》るのですもの、|貴方《あなた》の|御自由《ごじいう》ですワ。それはさうと、|明日《あす》はスガの|宮《みや》に|乗《の》り|込《こ》み、ヨリコ|姫《ひめ》と|一生一代《いつしやういちだい》の|問答《もんだふ》をやらうと|思《おも》ふのですが、|妾《わたし》も|些《ち》つとばかり|心《こころ》|許《もと》ないやうな|気《き》がしてなりませぬ。|一《ひと》つ|今晩《こんばん》の|間《うち》に|練習《れんしふ》しておきたいと|思《おも》ひますがなア』
『サア、お|前《まへ》もなかなかの|雄弁家《ゆうべんか》だが、ヨリコといふ|奴《やつ》はまた|稀代《きたい》の|雄弁家《ゆうべんか》だ。|懸河《けんが》の|弁《べん》を|振《ふる》つて|滔々《たうたう》とやり|出《だ》す|時《とき》は、|如何《いか》なる|雄弁家《ゆうべんか》も|旗《はた》を|捲《ま》き|鉾《ほこ》を|収《をさ》めて|逃《に》げ|出《だ》すのだからのう。|一《ひと》つ|夜分《やぶん》の|宣伝《せんでん》かたがた|練習《れんしふ》するのも|宜《よ》からう、|本町《ほんまち》に|出《で》てやつて|見《み》たら|如何《どう》だい。|俺《おれ》は|見《み》え|隠《がく》れに|跟《つ》いて|行《い》つてやるからのう』
|聞《き》くより|高姫《たかひめ》|雀躍《こをどり》し  |頭《あたま》の|髪《かみ》を|撫《な》で|上《あ》げて
|顔《かほ》に|塗《ぬ》つたる|薄化粧《うすげしやう》  |派出《はで》な|単衣《ひとへ》を|身《み》に|纒《まと》い
|老海茶袴《えびちやばかま》を|穿《うが》ちつつ  |桐《きり》の|下駄《げた》をば|足《あし》にかけ
|神官扇《しんくわんあふぎ》を|手《て》に|持《も》つて  ソロリソロリと|門《かど》の|口《くち》
|太夫《たいふ》の|道中《だうちう》よろしくの  |肩《かた》と|尻《しり》とを|振《ふ》りながら
|反《そ》り|身《み》になつて|本町《ほんまち》の  |人通《ひとどほ》り|多《おほ》き|十字街《じふじがい》
|月《つき》の|光《ひかり》を|浴《あ》びながら  キユーバーを|後《あと》に|従《したが》へて
|悠々然《いういうぜん》と|出《い》で|来《き》たり  |道《みち》の|傍《かたへ》に|佇《たたず》んで
|鈴《すず》を|振《ふ》るよな|声《こゑ》|絞《しぼ》り
『これこれ|申《まを》し|皆《みな》の|人《ひと》  ウラナイ|教《けう》の|大教主《だいけうしゆ》
|千草《ちぐさ》の|姫《ひめ》の|演説《えんぜつ》を  |一通《ひととほ》りお|聞《き》きなされませ
|妾《わたし》は|元《もと》はトルマン|国《ごく》の  |王妃《わうひ》と|仕《つか》へし|身《み》の|上《うへ》ぞ
|衆生済度《しゆじやうさいど》のそのために  |雲《くも》を|押《お》し|分《わ》けて|天降《あまくだ》り
|市井《しせい》の|巷《ちまた》に|往《ゆ》き|来《き》して  |天地《てんち》を|創《つく》り|給《たま》ひたる
|誠《まこと》の|親《おや》の|御神徳《ごしんとく》  |無限絶対《むげんぜつたい》|無始無終《むしむしう》
|厚《あつ》き|恵《めぐ》みの|御由来《ごゆらい》を  |世《よ》の|人々《ひとびと》に|宣《の》り|伝《つた》へ
|八衢地獄《やちまたぢごく》の|苦《くる》しみを  |助《たす》けて|神《かみ》の|永久《とこしへ》に
|鎮《しづ》まりゐます|天国《てんごく》の  |高天原《たかあまはら》の|楽園《らくゑん》に
|救《すく》ひ|導《みちび》き|永久《とことは》に  |変《かは》らず|動《うご》かぬ|楽《たの》しみを
|与《あた》へむためのこの|旅出《たびで》  |悪《わる》く|思《おも》つたり|疑《うた》がつて
|神《かみ》をなみしちやいけませぬ  |妾《わたし》は|王妃《わうひ》の|身《み》であれば
この|世《よ》に|何《なん》の|不自由《ふじゆう》も  |不足《ふそく》もないのでございます
|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|吾《わ》が|心《こころ》  |世界《せかい》の|人《ひと》の|苦《くる》しみを
|見《み》るに|忍《しの》びず|此《こ》の|通《とほ》り  |女《をんな》の|繊弱《かよわ》き|身《み》をもつて
|寒《さむ》さ|暑《あつ》さの|嫌《きら》ひなく  |世《よ》のため|神《かみ》の|道《みち》のため
|難行《なんぎやう》|苦行《くぎやう》をしてゐます  |皆《みな》さまお|聞《き》きでありませうが
|此《こ》のごろ|建《た》つたスガ|山《やま》の  |神《かみ》の|館《やかた》に|三五《あななひ》の
|教《をしへ》の|射場《いば》が|出来《でき》ました  そこを|守《まも》れる|神司《かむづかさ》
|玉清別《たまきよわけ》といふ|人《ひと》は  どこの|馬骨《ばこつ》か|知《し》らねども
|千草《ちぐさ》の|姫《ひめ》に|比《くら》ぶれば  まだまだ|苦労《くらう》が|足《た》りませぬ
|苦労《くらう》もなしに|真実《しんじつ》の  |香《かん》ばし|花《はな》は|咲《さ》きませぬ
それのみならずスガ|館《やかた》  |傍《かたへ》に|建《た》ちし|大道場《だいだうぢやう》
|預《あづ》かる|女《をんな》はヨリコ|姫《ひめ》  |花香《はなか》にダリヤといふ|女《をんな》
|問答所《もんだふどころ》の|看板《かんばん》を  |臆面《おくめん》もなく|掲《かか》げ|出《だ》し
|世人《よびと》を|煙《けぶり》にまいてゐる  そもそも|人間《にんげん》といふものは
|一寸先《いつすんさき》の|見《み》えぬもの  どうして|宗教《しうけう》の|真諦《しんたい》が
|分《わか》る|道理《だうり》がありませうか  |天《てん》から|下《くだ》つた|生身魂《いくみたま》
|日出神《ひのでのかみ》の|永久《とことは》に  |宿《やど》らせ|玉《たま》ふ|肉《にく》の|宮《みや》
|高姫《たかひめ》でなくては|分《わか》るまい  これから|皆《みな》さま|見《み》てござれ
|明日《あす》は|館《やかた》に|乗《の》り|込《こ》んで  ヨリコの|姫《ひめ》を|相手取《あひてど》り
|宗教問答《しうけうもんだふ》おつ|始《ぱじ》め  |誠《まこと》の|道《みち》に|帰順《きじゆん》させ
|天晴《あつぱ》れ|勝《か》つて|見《み》せませう  |何《なに》ほど|偉《えら》そに|言《い》つたとて
オーラの|山《やま》に|立《た》て|籠《こも》り  |泥棒《どろばう》の|手下《てした》の|奴輩《やつぱら》に
|姐貴姐貴《あねきあねき》と|立《た》てられて  |威張《ゐば》つてをつたよな|代物《しろもの》が
どうして|誠《まこと》の|神《かみ》の|道《みち》  |完全《うまら》に|委曲《つばら》に|説《と》けませう
|皆《みな》さま|今《いま》から|言《い》うておく  |何《なに》ほど|仕事《しごと》がせわしくも
|明日《あす》|一日《いちにち》は|張《は》り|込《こ》んで  この|方《はう》とヨリコの|問答《もんだふ》を
|何方《どちら》がよいか|虚《きよ》か|実《じつ》か  |篤《とつ》くり|聞《き》いたその|上《うへ》で
よい|判断《はんだん》をなさいませ  |今《いま》から|予告《よこく》いたします
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける  ヨリコの|姫《ひめ》もさぞやさぞ
|明日《あす》|一日《いちにち》が|断末魔《だんまつま》  |思《おも》へば|思《おも》へば|気《き》の|毒《どく》で
|個人《こじん》としては|耐《たま》らねど  お|道《みち》のためと|人《ひと》のため
|神《かみ》のおんため|国《くに》のため  |往《ゆ》かねばならぬ|吾《わ》が|思《おも》ひ
|皆《みな》さま|察《さつ》して|下《くだ》さんせ  |何《なに》も|好《この》んで|争論《さうろん》を
やりたい|事《こと》はなけれども  |弱《よわ》きを|助《たす》け|強《つよ》きをば
|挫《くじ》かにやおかぬ|義侠心《ぎけふしん》  これが|黙《だま》つてをられうか
|此方《こちら》の|説《せつ》が|勝《か》つたなら  ヨリコの|姫《ひめ》を|叩《たた》き|出《だ》し
その|跡釜《あとがま》に|千草姫《ちぐさひめ》  |神《かみ》の|司《つかさ》となりすまし
|誠《まこと》の|教《をしへ》を|宣伝《せんでん》し  スガのお|宮《みや》を|祀《まつ》りかへ
ヘグレ|神社《じんじや》といたすぞや  ヘグレのヘグレのヘグレ|武者《むしや》
ヘグレ|神社《じんじや》の|大神《おほかみ》は  |三十三相《さんじふさんさう》は|未《ま》だ|愚《おろ》か
|五十六億七千万《ごじふろくおくしちせんまん》  ミロクの|活動《くわつどう》|遊《あそ》ばして
|此《この》|世《よ》の|中《なか》を|天国《てんごく》の  |常磐堅磐《ときはかきは》の|楽園《らくゑん》と
|立替《たてか》へ|遊《あそ》ばす|経綸《しぐみ》ぞや  |喜《よろこ》び|遊《あそ》ばせ|人々《ひとびと》よ
|神《かみ》の|言葉《ことば》に|嘘《うそ》はない  きつと|成就《じやうじゆ》さして|見《み》せう
|此《この》|世《よ》を|創《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
ただ|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し
|世《よ》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》す  |神《かみ》の|教《をしへ》をかしこみて
|此《この》|世《よ》を|乱《みだ》し|世《よ》の|人《ひと》を  |誤《あやま》らしむるヨリコ|姫《ひめ》
それに|従《したが》ふ|奴輩《やつぱら》を  |片《かた》つぱしから|言向《ことむ》けて
|改心《かいしん》さして|見《み》せませう  アア|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや
|明日《あす》の|吉《よ》き|日《ひ》ぞ|待《ま》たれける』
キユーバーは|後《うし》ろの|方《はう》から、|蟇《がま》が|風《かぜ》を|引《ひ》いたやうな|響《ひびき》のある|声《こゑ》を|出《だ》して、
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|創造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
ただ|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》す
ウラナイ|教《けう》の|御教《おんをしへ》  |皆《みな》さま|耳《みみ》を|掃除《さうぢ》して
|一言半句《いちごんはんく》も|漏《も》らさずに  |生宮《いきみや》さまの|御託宣《ごたくせん》
しつかりお|聞《き》き|遊《あそ》ばせよ  |下《した》つ|岩根《いはね》の|大《おほ》ミロク
|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》と  |現《あら》はれたまひし|千草姫《ちぐさひめ》
ヘグレのヘグレのヘグレ|武者《むしや》  ヘグレ|神社《じんじや》の|大神《おほかみ》と
|現《あら》はれ|此処《ここ》に|下《くだ》りまし  |鬼《おに》や|大蛇《をろち》の|魂《たましひ》に
とりつかれたる|憐《あは》れなる  |人《ひと》の|難儀《なんぎ》を|救《すく》はむと
|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|心《こころ》もて  |現《あら》はれたまひし|有難《ありがた》さ
スガの|宮居《みやゐ》の|神館《しんくわん》に  |頑張《ぐわんば》り|暮《くら》すヨリコとは
|天地雲泥《てんちうんでい》の|違《ちが》ひぞや  めつたにこんな|生神《いきがみ》が
|再《ふたた》び|下《くだ》ることはない  |時《とき》は|来《き》たれり|時《とき》は|今《いま》
|爺《ぢ》さまも|婆《ば》さまも|孫《まご》つれて  |近所合壁《きんじよがつぺき》|誘《さそ》ひ|合《あは》せ
|明日《あす》の|大事《だいじ》な|談判《だんぱん》を  お|聞《き》きにお|出《い》でなさいませ
よい|後学《こうがく》になりまする  それのみならず|神様《かみさま》に
|尊《たふと》い|御縁《ごえん》が|結《むす》ばれて  |万劫末代《まんごふまつだい》|永久《とことは》に
おかげの|泉《いづみ》に|浸《ひた》りつつ  |此《この》|世《よ》このまま|天国《てんごく》の
|生存権《せいぞんけん》が|得《え》られます  |必《かなら》ず|疑《うたが》ひ|遊《あそ》ばすな
スコブッツエン|宗《しう》の|大教主《だいけうしゆ》  キユーバーでさへも|尾《を》をまいて
|生宮様《いきみやさま》の|後《あと》につき  お|伴《とも》に|仕《つか》へてをりまする
これだけ|見《み》ても|皆《みな》さまよ  |生宮《いきみや》さまの|御神徳《ごしんとく》
ただでないのが|分《わか》るだろ  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
と|歌《うた》ひながら、スガの|町々《まちまち》を|残《のこ》る|隈《くま》なく|東西屋《とうざいや》もどきに|歩《ある》いてしまつた。
(大正一五・六・三〇 旧五・二一 於天之橋立なかや別館 加藤明子録)
第三篇 |転化退閉《てんくわたいへい》
第一七章 |六樫問答《むつかしもんだふ》〔一八二六〕
|懺悔生活《ざんげせいくわつ》の|偽君子《ぎくんし》、スコブッツエン|宗《しう》の|教祖《けうそ》と|名乗《なの》る|妖僧《えうそう》キユーバーは、ダリヤ|姫《ひめ》に|対《たい》する|恋衣《こひごろも》のすげなくも|破《やぶ》れしより、もとより|心《こころ》の|汚《きたな》い|便所掃除《はばかりさうぢ》、|糞度胸《くそどきよう》を|据《す》ゑ、|捨台詞《すてぜりふ》を|残《のこ》して、|問答所《もんだふどころ》より|屁《へ》のごとく|消《き》え|去《さ》つた。あとはヨリコ、|花香《はなか》、ダリヤの|三人《さんにん》は、なにほど|女丈夫《ぢよぢやうぶ》でも|男《をとこ》の|受持《うけも》つべき|掃除《さうぢ》は|永《なが》く|続《つづ》かないとて、|薬種問屋《やくしゆどひや》の|主人《しゆじん》イルクに|掛合《かけあ》ひ、|門番《もんばん》のアル、エスを|臨時掃除番《りんじさうぢばん》として、|手伝《てつだ》はしむることとなつた。|朝《あさ》も|早《はや》うから、|新参者《しんざんもの》の|掃除番《さうぢばん》はキユーバー、ダリヤが|奮戦苦闘《ふんせんくとう》の|古戦場《こせんじやう》、|上雪隠《かみせつちん》の|掃除《さうぢ》しながら、
アル『オイ、エス、|主人《しゆじん》の|言付《いひつ》けだから|是非《ぜひ》もなく、エースといつて|返事《へんじ》はしたものの、|本当《ほんたう》に|糞忌々《くそいまいま》しい、バカ|臭《くさ》い|目《め》に|遇《あ》ふぢやないか、エー、これだから|人《ひと》に|使《つか》はれるのは|辛《つら》いといふのだ』
エス『|何《なに》ほど|辛《つら》いといつても|仕方《しかた》がないぢやないか、|何一《なにひと》つ|人《ひと》に|勝《すぐ》れた|芸能《げいのう》が【アル】といふでもなし、|雪隠《せつちん》の|虫《むし》のやうに、ババの|尻《しり》ばかり|狙《ねら》つてゐるやうな|事《こと》で、|気《き》の|利《き》いた|大役《たいやく》も|勤《つと》まりさうなことがないぢやないか。いつも|雪隠《せんち》といふやつは、|紛擾《ふんぜう》の|種《たね》を|蒔《ま》く|奴《やつ》だ。|昨日《きのふ》もスコブッツエン|宗《しう》の|小便使《せうべんし》、キユーバーとかキユー【フン】とかいふ|糞坊主《くそばうず》が、ダリヤさまに|糞糟《くそかす》にこきおろされ、|犬《いぬ》の|糞《くそ》のやうに|言《い》はれ、|終《しま》ひの|果《はて》にや、|糞然《ふんぜん》として|屁《へ》つ|放《ぴ》り|腰《ごし》で|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|散《ち》つたりといふ|為体《ていたらく》、その|跡釜《あとがま》に|据《す》ゑられた|俺《おれ》たちアまるつきり|雪隠虫《せんちむし》だ。しかし|雪隠虫《せんちむし》だつて|落胆《らくたん》するにや|及《およ》ばないよ、しばし|糞壺《くそつぼ》の|中《なか》でウヨウヨしてる|間《あひだ》に|羽《はね》が|生《は》え、|立派《りつぱ》な|金襴《きんらん》の|衣《ころも》を|着《つ》けて、|金蠅《きんばへ》となり、ヨリコ|姫《ひめ》の|頭《あたま》へでも|止《とま》つて|糞《くそ》|小便《せうべん》を|放《ひ》りかけるやうになるのだからのう』
アル『|門番《もんばん》も|今日《けふ》はお|尻《しり》の|門番《もんばん》と
|成《な》り|下《さ》がりけり|糞忌々《くそいまいま》し
|仰《あふ》ぎ|見《み》て|穴恐《あなおそ》ろしと|雪隠虫《せんちむし》
|泣《な》くに|泣《な》かれぬ|糞《くそ》を|被《かぶ》りつ
|世《よ》の|中《なか》の|臭《くさ》い|味《あぢ》はひ【しり】の|穴《あな》
やがて|羽衣《はごろも》|着《つ》くる|雪隠虫《せんちむし》
|金襴《きんらん》の|衣《ころも》まとへば|糞虫《くそむし》も
|人《ひと》の|頭《あたま》にとまり|糞《くそ》|放《ひ》る』
エス『ヨリコ|姫《ひめ》ダリヤと【しり】(知)|合《あひ》の|穴《あな》なれば
|肥《こ》え(【光栄】)ならむと|糞虫《くそむし》いふらむ
|美《うる》はしき|乙女《をとめ》の|尻《しり》はよけれども
|糞婆《くそばば》の|尻《しり》いと|臭《くさ》きかな
|天香《てんかう》は|雪隠《せんち》|空《むな》しうせぬといふ
|日《ひ》に|三回《さんくわい》の|飯礼《はんれい》ありせば』
かく|話《はな》してゐるところへヨリコ|女帝《によてい》が|盲腸《まうちやう》、|結腸《けつちやう》、|直腸《ちよくちやう》|辺《あた》りの|大清潔法《だいせいけつはふ》を|施行《しかう》すべく、やつて|来《き》た。アルはこれを|見《み》て、
『あな|尊《たふ》とひ【しり】の|君《きみ》の|御降臨《ごかうりん》
【アル】にあられぬ|恥《はぢ》を|見《み》しかは』
ヨリコ『|雪隠《せつちん》といふ|字《じ》は|雪《ゆき》に|隠《かく》るなり
|白妙《しろたへ》の|衣《きぬ》まとふ|糞虫《くそむし》』
エス『|白妙《しろたへ》の|衣《きぬ》をまとひて|糞虫《くそむし》は
|黄金《こがね》の|餌《ゑじき》|朝夕《あさゆふ》に|喰《く》ふ』
ヨリコ『アル エスの|二人《ふたり》の|君《きみ》よ|心《こころ》して
|黄金仏《わうごんぶつ》にならぬやうにせよ』
アル『【アル】|望《のぞ》み|抱《かか》へし|吾《われ》は|糞度胸《くそどきよう》
すゑてかかりぬ|便所掃除《はばかりさうぢ》に』
エス『【アル】|望《のぞ》みなどと【しり】|顔《がほ》するでない
|糞奴《くそやつこ》めが【いばり】|散《ち》らすな』
ヨリコ『アル エスの|二人《ふたり》の|君《きみ》よ|今《いま》|少時《しばし》
はばかり|玉《たま》へ|吾《わ》が|帰《かへ》るまで』
アル『はばかりの|掃除《さうぢ》はすれどのこの|男《をとこ》
はばかりながら|腕《うで》に|骨《ほね》あり』
エス『えらさうに【しり】|顔《がほ》なしてブツブツと
|口先《くちさき》|過《す》ぎてババ|垂《た》れるなよ』
|両人《りやうにん》はヨリコ|姫《ひめ》の|用《よう》を|足《あし》す|間《あひだ》、|便所《はばかり》|遠《とほ》く|庭《には》の|隅《すみ》のパインの|下《もと》にクルツプ|砲《はう》の|難《なん》を|避《さ》けた。
アル『いかほどに|容姿《みめ》|美《うる》はしき|女帝《によてい》さへ
|下《した》から|見《み》れば|愛想《あいそ》やつきむ』
エス『|裏門《うらもん》を|開《ひら》いて|出《い》づる|兵卒《へいそつ》の
ラツパの|声《こゑ》も|勇《いさ》ましきかな』
『バカいふな【ばば】|垂《た》れ|腰《ごし》を|眺《なが》めたら
かたい|約束《やくそく》も|小便《せうべん》したくならむ』
『|草木《くさき》もゆる|谷《たに》の|流《なが》れをピユーピユーと
|鵯越《ひよどりごえ》の|進《すす》むよしなし
|谷《たに》の|戸《と》を|開《ひら》いて|出《で》るは|鶯《うぐひす》の
|声《こゑ》ならずして|鵯《ひよどり》の|声《こゑ》』
『|思《おも》うたよりヨリコの|姫《ひめ》の|長雪隠《ながせんち》
|心《こころ》|短《みじか》き|俺《おれ》はたまらぬ』
『こんなことヨリコの|姫《ひめ》に|聞《き》こえたら
|糞腹《くそばら》|立《た》てて|尻《しり》や|持《も》て|来《こ》む
|何事《なにごと》も|皆《みな》しりの|穴《あな》ヨリコ|姫《ひめ》
|尻《しり》もて|来《く》れば|猫婆《ねこばば》きめる
|猫婆《ねこばば》をきめる|積《つも》りでキユーバーが
|便所掃除《はばかりさうぢ》|請合《うけあひ》しならむ
こつぴどくこき|卸《おろ》されて|糞腹《くそばら》|立《た》て
|糞垂《ばばた》れ|腰《ごし》の|糞坊主《くそばうず》|去《い》ぬ』
ヨリコ|姫《ひめ》は|便所《べんじよ》から、しとやかに|出《で》て|来《き》た。アル、エスは|先《さき》を|争《あらそ》うて|手洗鉢《てうづばち》の|前《まへ》により、|柄杓《ひしやく》の|柄《え》をとり|水《みづ》を|無暗《むやみ》やたらにかけながら、
アル『|弁天《べんてん》の|化身《けしん》のやうな|女帝様《によていさま》の
お|手《て》|洗《あら》ふさへ【しやく】の|種《たね》なる』
エス『このやうな|美人《びじん》を|妻《つま》にする|男《をとこ》
|面《つら》|見《み》るさへも|小《こ》【しやく】にさはる』
ヨリコ『|八尺《はちしやく》の|二人《ふたり》の|男《をとこ》が|漸《やうや》くに
|五勺《ごしやく》ばかりの|水《みづ》を|呉《く》れたり
|雪隠《せつちん》の|掃除《さうぢ》も|神《かみ》の|御恵《みめぐ》みよ
|天香《てんかう》さまの|出世《しゆつせ》|見《み》たまへ』
アル『|何《なに》ほどに|出世《しゆつせ》したとて|何時《いつ》までも
|尻掃除《しりさうぢ》とはバツとしませぬ』
ヨリコ『|左様《さやう》ならアルさまエスさま|別《わか》れませう
また|明日《あす》の|朝《あさ》|会《あ》ふを|楽《たの》しみに』
と|言《い》ひながらヨリコ|姫《ひめ》は|吾《わ》が|居室《ゐま》に|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
ヨリコ|姫《ひめ》、|花香《はなか》、ダリヤ、アル、エスの|聯合家族《れんがふかぞく》は、|食堂《しよくだう》に|集《あつ》まつて|四方山《よもやま》の|話《はなし》にふけりながら|朝飯《あさめし》を|喫《きつ》してゐると、|表《おもて》の|玄関《げんくわん》に|向《む》かつて|甲走《かんばし》つた|女《をんな》の|声《こゑ》が|聞《き》こえて|来《き》た。
|高姫《たかひめ》『ハイ、|御免《ごめん》なさいませ、ちよつと|物《もの》をお|尋《たづ》ね|申《まを》します。ヨリコさまといふ|無冠《むくわん》の|女帝《によてい》さまはお|宅《たく》でございますかな、|宗教問答《しうけうもんだふ》のためにウラナイ|教《けう》の|教主《けうしゆ》|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》が|参《まゐ》りました。|別《べつ》に|驚《おどろ》くやうな|女《をんな》ぢやございませぬ、|第一霊国《だいいちれいごく》の|身魂《みたま》、|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》、|下津岩根《したついはね》の|大弥勒《おほみろく》の|化身《けしん》でございますよ』
と|呼《よ》ばはつてゐる。
ヨリコ『ホツホホホホ、|朝《あさ》つぱらから、どこの|狂人《きちがひ》か|知《し》らないが、|妙《めう》な|事《こと》を|言《い》うて|来《き》よつたものだ。ダリヤさま、|妾《わたし》の|代理《だいり》となつて|少時《しばらく》|相手《あひて》になつてやつて|下《くだ》さいな』
ダリヤ『|女帝様《によていさま》の|仰《おほ》せではございますが、|狂者《きちがひ》を|相手《あひて》にすることは|真平《まつぴら》|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りたうございます』
ヨリコ『|第一線《だいいつせん》に|貴女《あなた》|出《で》て|下《くだ》さい、もしも|戦況《せんきやう》|危《あや》ふしと|見《み》た|時《とき》は|第二線《だいにせん》として|花香《はなか》に|行《い》つてもらひます。その|第二線《だいにせん》が|破《やぶ》れました|時《とき》、|殿《しんがり》としてこのヨリコが|大獅子吼《だいししく》をいたしますからね』
アル『もしもし|女帝様《によていさま》、あんな|狂者《きちがひ》にダリヤ|姫《ひめ》さまなんか|出《だ》すのは|勿体《もつたい》ないぢやありませぬか。|先陣《せんぢん》は|私《わたくし》が|勤《つと》めますから、|何卒《どうぞ》この|役目《やくめ》をアルに|譲《ゆづ》つて|下《くだ》さいませ、タカが|知《し》れた|狂者《きちがひ》ぢやありませぬか』
ヨリコ『お|前《まへ》さまは|決《けつ》して|相手《あひて》になつちやいけませぬよ。いくつくらゐの|女《をんな》か、ちよつと|様子《やうす》を|調《しら》べて|来《き》てもらひさへすれば|宜《よろ》しい』
アル『ハイ、|承知《しようち》いたしました。オイ、エス、お|前《まへ》は|俺《おれ》の|副将軍《ふくしやうぐん》だ、ソツと|後《あと》から|従《つ》いて|来《こ》い』
と|言《い》ひながら、|早《はや》くも|玄関口《げんくわんぐち》に|立《た》ち|塞《ふさ》がり、
『イヨー! |何《なん》とマアチツとばかり|年《とし》はよつてゐるが、ステキなものだなア』
|高《たか》『これ|奴《やつこ》さま、ナーンぢやいな、|失礼《しつれい》な、お|客《きやく》さまの|前《まへ》で|立《た》ちはだかつて、|挨拶《あいさつ》|一《ひと》つ|知《し》らない|穀潰《ごくつぶ》しだな、|僕《しもべ》のやり|方《かた》を|見《み》りや|大抵《たいてい》|主人《しゆじん》の|性質《せいしつ》が|分《わか》るものだ。この|下駄《げた》の|脱《ぬ》ぎ|方《かた》といひ、|乱離骨灰《らんりこつぱい》、まるつきりなつちやゐないぢやないか。ヘンえらさうに|宗教問答所《しうけうもんだふどころ》なんて、まるつきり|狂者《きちがひ》の|沙汰《さた》だ』
アル『オイ、|高姫《たかひめ》とかいふ|中婆《ちうばば》さま、|人《ひと》の|所《ところ》の|宅《うち》へ|出《で》て|来《き》て、|履物《はきもの》の|小言《こごと》まで|言《い》うてくれな、|俺《おれ》たちの|悪口《あくこう》をつくのならまだ|虫《むし》を|堪《こら》へておくが、|天下無双《てんかむさう》の|才女《さいぢよ》、ヨリコ|姫《ひめ》|女帝《によてい》の|悪口《あくこう》まで|吐《ぬ》かすにおいては、|断《だん》じてこの|玄関《げんくわん》は|通《とほ》さない。エー|糞忌々《くそいまいま》しい、|婆《ばば》の|来《く》る|所《ところ》ぢやない、|屁《へ》なつと|嗅《か》いで|去《い》んでくれ』
『ホツホホホホ、お|前《まへ》がさう|言《い》はいでも、この|高姫《たかひめ》がヨリコ|姫《ひめ》の|膏《あぶら》をしぼり、|蛸《たこ》を|釣《つ》り|灸《きう》をすゑ、|鼬《いたち》の|最後屁《さいごぺ》を|放《ひ》らして|往生《わうじやう》さしてやるから|臭《くさ》い|顔《かほ》して|待《ま》つてゐなさい、ド|奴《やつこ》の|糞奴《くそやつこ》め。こんなガラクタ|男《をとこ》を|使《つか》うて、えらさうに|構《かま》へ|込《こ》んでゐるとは|誠《まこと》にもつて|噴飯《ふんぱん》の|至《いた》りだ、ホツホホホホ』
『エー、とても、こんな|気違《きちが》ひ|婆《ばば》は|俺《おれ》たちの|挺棒《てこぼう》に|合《あ》はない、サア|第一線《だいいつせん》だ|第一線《だいいつせん》だ』
と|言《い》ひながら|奥《おく》に|飛《と》び|込《こ》み、
アル『もしもし|女帝様《によていさま》、|竹《たけ》に、|鶯《うぐひす》、|梅《うめ》に|雀《すずめ》といふやうな|婆《ばば》が|来《き》ましたよ』
ヨリコ『ホツホホホホそれは|木違《きちが》ひ|鳥違《とりちが》ひと|言《い》ふのだらう、サアこれから|梅《うめ》に|雀《すずめ》の|婆《ばあ》さまに|向《む》かつて、|戦闘開始《せんとうかいし》をやつて|下《くだ》さい』
ダリヤ『ハイ、|及《およ》ばずながら|第一線《だいいつせん》に|立《た》ちませう、どうか|後援《こうゑん》を|頼《たの》みます』
と|言《い》ひながら|玄関口《げんくわんぐち》に|出《で》た。
ダリヤ『|玉鉾《たまぼこ》の|道《みち》の|問答《もんだふ》せむものと
|遥々《はるばる》|尋《たづ》ね|来《き》たりし|君《きみ》はも
いざさらば|問答席《もんだふせき》へ|通《とほ》りまし
|及《およ》ばずながら|案内《あない》|申《まを》さむ』
|高《たか》『むづかしき|歌《うた》よみかけて|高姫《たかひめ》を
|困《こま》らさむとす|猾《ずる》さに|呆《あき》れし
ともかくも|此《こ》の|家《や》の|奥《おく》へ|踏《ふ》ん|込《こ》んで
|狸《たぬき》の|化《ばけ》の|皮《かは》むいて|見《み》む』
と|言《い》ひながら、ダリヤ|姫《ひめ》に|従《したが》ひ|問答席《もんだふせき》についた。
ダリヤ『いざさらば|寛《くつろ》ぎ|給《たま》へ|椅子《いす》の|上《へ》に
|世《よ》のことごとは【しり】の|穴《あな》の|君《きみ》』
|高姫《たかひめ》『|賢《さか》しげな|事《こと》を|言《い》へども|何処《どこ》やらに
|息《いき》のぬけたる|汝《なれ》の|顔《かほ》かも
|汝《なれ》こそはヨリコの|姫《ひめ》の|身代《みがは》りと
|吾《わ》が|慧眼《けいがん》に|見《み》えたり|如何《いか》にや』
『|妾《わらは》こそヨリコの|姫《ひめ》の|妹《いもうと》よ
ダリヤの|花《はな》の|名《な》を|負《お》ひし|姫《ひめ》
|何《なん》なりと|問答《もんだふ》|遊《あそ》ばせ|立板《たていた》に
|水《みづ》の|流《なが》るるごとく|答《こた》へむ』
『|美《うる》はしき|女《をんな》にも|似《に》ず|出《だ》し|抜《ぬ》けに
|大法螺《おほぼら》を|吹《ふ》く【しり】の|太《ふと》さよ
いざさらば|吾《わ》が|問《と》ふことに|答《こた》へかし
|今日《けふ》こそ|汝《なれ》が|生死《いきしに》の|境《さかひ》ぞ』
『|如何《いか》ならむ|賢《かしこ》き|人《ひと》の|来《き》たるとも
|後《あと》へはひかぬ|弦《つる》|離《はな》れたる|征矢《そや》』
|高姫《たかひめ》いかい|目《め》をむいて  ダリヤの|姫《ひめ》の|面上《めんじやう》を
ハツタと|睨《にら》み|大口《おほぐち》を  |斜《なな》めに|開《ひら》き|白歯《しろは》をば
むき|出《だ》しながら|手《て》を|振《ふ》つて  |演説口調《えんぜつくてう》で|語《かた》り|出《だ》す
|高姫《たかひめ》『お|前《まへ》はヨリコの|妹《いもうと》と  |名乗《なの》つたからは|高姫《たかひめ》が
|宣《の》る|言霊《ことたま》を|一々《いちいち》に  |川瀬《かはせ》の|水《みづ》の|流《なが》る|如《ごと》
|答《こた》へて|裁《さば》くでござらうな  よしよしそんなら|高姫《たかひめ》が
|一《ひと》つの|問題《もんだい》|出《だ》しませう  この|世《よ》の|中《なか》を|造《つく》りたる
|誠《まこと》の|神《かみ》は|何神《なにがみ》か  |何《なに》とぞ|聞《き》かしてもらひませう
それが|分《わか》らぬやうな|事《こと》で  |問答所《もんだふどころ》の|役員《やくゐん》と|言《い》へませうか
サアサア|如何《いか》に』と|詰寄《つめよ》れば  ダリヤはニツコと|打《う》ち|笑《わら》ひ
ダリヤ『いかなる|難《むつか》しいお|尋《たづ》ねと  |思《おも》つてゐたのに|何《なん》のこと
この|世《よ》の|御先祖《ごせんぞ》は|言《い》はいでも  |世界《せかい》に|知《し》れた|厳霊《いづみたま》
|国常立《くにとこたち》の|神様《かみさま》よ  この|神様《かみさま》は|泥海《どろうみ》を
|造《つく》り|固《かた》めて|山川《やまかは》や  |草木《くさき》の|神《かみ》まで|生《う》みました
|吾《われ》らの|誠《まこと》の|親《おや》です』と  |言《い》へば|高姫《たかひめ》|反《そ》りかへり
フフンと|笑《わら》ふ|鼻《はな》の|先《さき》
『|三五教《あななひけう》のトチ|呆《ばう》け  |大根本《だいこんぽん》の|根本《こつぽん》の
|誠《まこと》の|神《かみ》は|大弥勒《おほみろく》  |底津岩根《そこついはね》の|神様《かみさま》よ
|人間姿《にんげんすがた》の|分際《ぶんざい》で  |誠《まこと》の|神《かみ》は|分《わか》らうまい
そんな|下《くだ》らぬ|事《こと》いうて  |沢山《たくさん》の|人《ひと》を|欺《だま》すより
|早《はや》くすつこんでをりなされ  お|前《まへ》ぢや|事《こと》が|分《わか》らない
|肝腎要《かんじんかなめ》の|当《たう》の|主《ぬし》  ヨリコの|姫《ひめ》を|呼《よ》んでおいで
あまりに|相撲《すまう》が|違《ちが》ふので  |阿呆《あはう》らしくて|話《はなし》になりませぬ』
|言《い》へばダリヤはうつ|向《む》いて  |顔《かほ》を|真赤《まつか》に|染《そ》めながら
すごすご|立《た》つて|奥《おく》に|入《い》る  つづいて|出《で》て|来《く》る|美婦人《びふじん》は
|天女《てんによ》にまがふ|花香姫《はなかひめ》  |千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》|見《み》るよりも
いと|慇懃《いんぎん》に|会釈《ゑしやく》して  |静《しづ》かに|梅花《ばいくわ》の|口《くち》|開《ひら》き
|声《こゑ》しとやかに『|妾《わらは》こそ  ヨリコの|姫《ひめ》に|仕《つか》へたる
|梅《うめ》の|花香《はなか》と|申《まを》します  |何《なに》とぞお|見知《みし》りおかれませ
いかなる|問答《もんだふ》か|知《し》らねども  |即座《そくざ》にお|答《こた》へ|申《まを》しませう
|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》は|要《い》りませぬ  |何《なん》なとお|尋《たづ》ねなさいませ』
|言《い》へば|高姫《たかひめ》|反《そ》りかへり
『|妾《われ》こそ|誠《まこと》の|救世主《きうせいしゆ》  |高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》の
|第一天人《だいいちてんにん》の|霊魂《みたま》ぞや  |下津岩根《したついはね》の|大弥勒《おほみろく》
|三千世界《さんぜんせかい》の|救世主《きうせいしゆ》  |日出神《ひのでのかみ》と|現《あら》はれて
トルマン|国《ごく》のスガの|町《まち》  |天降《あまくだ》りたるウラナイの
|教《をしへ》の|道《みち》の|神柱《かむばしら》  |必《かなら》ず|粗相《そさう》のないやうに
|謹《つつし》み|敬《うやま》ひ|吾《わ》が|言葉《ことば》  |胸《むね》にたたんでトツクリと
|考《かんが》へなされよ|花香《はなか》さま  サアサアこれから|高姫《たかひめ》が
|貴女《あなた》に|質問《しつもん》いたすぞや  そもそも|天地《てんち》の|根本《こんぽん》の
|大根本《だいこんぽん》の|根本《こんぽん》の  そのまた|根本《こんぽん》の|根本《こんぽん》の
まだまだ|根本《こんぽん》の|根本《こんぽん》の  |昔《むかし》の|昔《むかし》のさる|昔《むかし》
ま|一《ひと》つの|昔《むかし》のまた|昔《むかし》  ま|一《ひと》つの|昔《むかし》の|大昔《おほむかし》
またも|昔《むかし》のその|昔《むかし》  ドツと|張込《はりこ》んでその|昔《むかし》
|猿《さる》が|三匹《さんびき》|飛《と》んで|来《き》て  |三千世界《さんぜんせかい》を|掻《か》きまはし
この|世《よ》に|暗《やみ》と|明《あか》りと|雨《あめ》|降《ふ》りを  |来《き》たした|訳《わけ》は|如何《どう》ですか
この|訳《わけ》|聞《き》かしてもらひませう』  |言《い》へば|花香《はなか》は|噴《ふ》き|出《い》だし
『|弥勒《みろく》の|弥勒《みろく》のまだ|弥勒《みろく》  ま|一《ひと》つ|弥勒《みろく》のその|弥勒《みろく》
|日《ひ》の|出《で》の|日《ひ》の|出《で》のまだ|日《ひ》の|出《で》  も|一《ひと》つ|日《ひ》の|出《で》のその|日《ひ》の|出《で》
|昔《むかし》の|昔《むかし》の|大昔《おほむかし》  |猿《さる》が|六匹《ろつぴき》|飛《と》んで|来《き》て
|一《ひと》つは|雪隠《せんち》を|掻《か》きまはす  |一《ひと》つは|頭《あたま》をかきまはす
|一《ひと》つは|恥《はぢ》をかきまはす  |一《ひと》つは|借用証文《しやくようしようもん》|書《か》きまはす
|一《ひと》つはお|粥《かゆ》をかきまはす  |一《ひと》つはそこらをかきまはす
も|一《ひと》つお|尻《しり》をかきまはす  こいつの|謎《なぞ》がとけたなら
お|前《まへ》さまの|問題《もんだい》に|答《こた》へませう』  などと|分《わか》らぬ|予防線《よばうせん》
|鉄条網《てつでうまう》を|張《は》りまはし  |用心《ようじん》|堅固《けんご》に|備《そな》へしは
さすがはヨリコの|妹《いもうと》と  |生《うま》れし|甲斐《かひ》ぞ|見《み》えにける
|高姫《たかひめ》|拳《こぶし》を|固《かた》めつつ  |力《ちから》|限《かぎ》りに|卓《たく》を|打《う》ち
『これやこれや|女《あま》つちよ|痩《や》せ|女郎《めらう》  そんな|事《こと》|言《い》うて|高姫《たかひめ》を
|煙《けむ》りに|捲《ま》かうとはづうづうしい  お|前《まへ》のやうな|分《わか》らない
|女《をんな》を|相手《あひて》にやしてをれぬ  |当《たう》の|主人《しゆじん》のヨリコ|姫《ひめ》
|早《はや》く|此《こ》の|場《ば》へ|引《ひ》き|出《だ》せよ  この|高姫《たかひめ》の|弁舌《べんぜつ》で
|道場破《だうぢやうやぶ》りをして|見《み》せる  アア|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い
いよいよこれから|正念場《しやうねんば》  |気《き》の|毒《どく》なのはお|前《まへ》たち
|折角《せつかく》|建《た》てた|神館《かむやかた》  |城《しろ》|明《あ》け|渡《わた》しスゴスゴと
|逃《に》げねばならぬ|断末魔《だんまつま》  いよいよこれが|悪神《あくがみ》の
|世《よ》の|持《も》ち|終《をは》りとなつたのだ  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
ウラナイ|教《けう》の|御神徳《ごしんとく》  |今更《いまさら》|感《かん》じ|入《い》りました』
|花香姫《はなかひめ》は|高姫《たかひめ》のあまりの|強情《がうじやう》に|呆《あき》れ|果《は》て、|暗《やみ》に|打《う》ち|出《だ》す|鉄砲玉《てつぱうだま》に|持《も》てあましつつ|匆々《さうさう》としてヨリコの|居室《ゐま》に|駈《か》け|込《こ》んでしまつた。
(大正一五・七・一 旧五・二二 於天之橋立文珠なかや別館 北村隆光録)
第一八章 |法城渡《はふじやうわたし》〔一八二七〕
ヨリコ|姫《ひめ》は|訪《たづ》ね|来《き》し|高姫《たかひめ》の、|酢《す》でも|蒟蒻《こんにやく》でも、|一条繩《ひとすぢなは》ではいけぬ【やんちや】|牛《うし》たることを|看破《かんぱ》し、|下《した》から|上《うへ》まで|白綸子《しろりんず》づくめの|衣装《いしやう》を|着《き》、|髪《かみ》を|長《なが》う|後《うし》ろに|垂《た》れ、|中啓《ちうけい》を|手《て》に|持《も》ち、|絹摺《きぬず》れの|音《おと》サラサラと、|廊下《らうか》を|寛歩《くわんぽ》しながら|悠々然《いういうぜん》と|問答椅子《もんだふいす》に|寄《よ》りかかり、
ヨリコ『|何神《なにがみ》の|化身《けしん》にますか|白梅《しらうめ》の
|花《はな》の|薫《かをり》も|高姫《たかひめ》の|君《きみ》
|久方《ひさかた》の|天《てん》より|高《たか》く|咲《さ》く|花《はな》も
|君《きみ》の|装《よそひ》に|及《およ》ばざるらむ
|君《きみ》こそはウラナイ|教《けう》の|神柱《かむばしら》
|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》と|聞《き》くぞ|尊《たふと》き』
|高姫《たかひめ》『お|世辞《せじ》をばならべて|稜威《みいづ》|高姫《たかひめ》を
|揶揄《からか》ひたまふ|面《つら》の|憎《にく》さよ
|追従《つゐしよう》を|喰《く》ふよな|神《かみ》でござらぬぞ
ヨリコの|姫《ひめ》よその|顔《かほ》|洗《あら》へ
|今日《けふ》こそは|汝《なれ》が|生死《せいし》のさかひ|目《め》ぞ
|善悪《ぜんあく》|別《わ》ける|神《かみ》のおでまし』
『これはしたり|高姫《たかひめ》|様《さま》の|御言葉《おんことば》
ヨリコの|姫《ひめ》もあきれかへりぬ
|妾《わらは》こそ|誠《まこと》の|神《かみ》にヨリコ|姫《ひめ》
|醜《しこ》の|荒風《あらかぜ》いかで|恐《おそ》れむ
|恐《おそ》ろしきその|顔《かんばせ》は|奥山《おくやま》の
|岩窟《いはや》に|住《す》める|鬼《おに》かとぞ|思《おも》ふ』
『|何《なん》といふ|失礼《しつれい》なことを|吐《ぬか》すのだ
|泥棒上《どろぼうあ》がりの|山子女《やまこをんな》|奴《め》
みやびなる|歌《うた》よみかけて|神《かみ》の|宮《みや》
|汚《けが》さむとするずるさに|呆《あき》れし
これからは|誠《まこと》の|日《ひ》の|出《で》が|現《あら》はれて
|汝《なれ》が|心《こころ》の|闇《やみ》を|照《て》らさむ』
『|吾《わ》が|霊《たま》は|昼夜《ひるよる》さへも|白雲《しらくも》の
|空《そら》に|輝《かがや》く|月日《つきひ》なりけり
|久方《ひさかた》の|天《あめ》より|下《くだ》るエンゼルの
|内流《ないりう》|受《う》けし|吾《われ》ぞ|生神《いきがみ》』
『|猪口才《ちよこざい》な|泥棒上《どろぼうあ》がりの|分際《ぶんざい》で
|生神《いきがみ》などとは|尻《けつ》が|呆《あき》れる
|尻喰《けつくら》へ|観音様《くわんのんさま》の|真似《まね》をして
|装《よそほ》ひばかり|胸《むね》の|狼《おほかみ》』
『|狼《おほかみ》か|大神様《おほかみさま》か|知《し》らねども
|吾《われ》の|霊《みたま》はいつも|輝《かがや》く
|吾《わ》が|霊《たま》は|空《そら》に|輝《かがや》く|日月《じつげつ》の
|光《ひかり》にまして|四方《よも》を|照《て》らさむ』
『ぬかしたり|曲津《まがつ》の|巣《す》ぐふ|霊《たましひ》で
|尻餅月日《しりもちつきひ》の|螢《ほたる》の|光《ひか》り|奴《め》』
『|五月雨《さみだれ》の|闇《やみ》を|縫《ぬ》ひゆく|螢火《ほたるび》も
|夜《よる》|往《ゆ》く|人《ひと》のしるべとぞなる
|螢火《ほたるび》を|数多《あまた》|集《あつ》めて|文《ふみ》をよみ
|国《くに》の|柱《はしら》となりし|人《ひと》あり』
『えらさうに|理窟《りくつ》ばかりを|夕月夜《ゆふづくよ》
|山《やま》にかくれてすぐ|闇《やみ》とならむ
|大空《おほぞら》に|神《かみ》の|御稜威《みいづ》も|高姫《たかひめ》の
|光《ひかり》を|見《み》れば|目《め》も|眩《くら》むらむ』
『|君《きみ》こそは|大高山《たいかうざん》の|山伏《やまぶし》か
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|大法螺《おほぼら》|吹《ふ》くなり』
『|法螺貝《ほらがひ》は|此《この》|世《よ》の|邪気《じやき》を|払《はら》ふてふ
|誠《まこと》の|神《かみ》の|神器《しんき》なりけり
|法螺《ほら》|一《ひと》つ|吹《ふ》けないやうな|弱虫《よわむし》は
この|世《よ》の|中《なか》に|生《い》きて|甲斐《かひ》なし』
『|魂《たましひ》はよしや|死《し》すとも|法螺《ほら》の|貝《かひ》
|音《おと》|高姫《たかひめ》になりわたるかな』
『|玄真坊《げんしんばう》|法螺貝吹《ほらがひふ》きの|妻《つま》となり
|世《よ》を|乱《みだ》したる|汝《なれ》ぞ|悪神《あくがみ》
|法螺《ほら》|吹《ふ》いて|錫杖《しやくぢやう》をふり|村々《むらむら》を
かたつて|廻《まは》る|乞食祭文《こじきさいもん》
オーラ|山《さん》|大法螺吹《おほぼらふ》きの|山《やま》の|神《かみ》
スガの|宮《みや》にてまた|法螺《ほら》を|吹《ふ》く』
『|何《なん》なりと|勝手《かつて》な|熱《ねつ》を|吹《ふ》きたまへ
|科戸《しなど》の|風《かぜ》に|伊吹《いぶ》きはらへば』
『|伊吹山《いぶきやま》|鬼《おに》の|再来《さいらい》と|聞《き》こえたる
|汝《なれ》は|此《この》|世《よ》の|曲津神《まがつかみ》なる』
『|汝《なれ》こそはミロクミロクと|大法螺《おほぼら》を
|吹《ふ》きまくるなる|醜《しこ》の|曲神《まがかみ》』
『こりやヨリコ|口《くち》に|番所《ばんしよ》がないかとて
この|生神《いきがみ》に|楯《たて》をつくのか』
『たてつくか|嘘《うそ》をつくかは|知《し》らねども
|汝《なれ》がほこには|手答《てごた》へもなし』
『|手答《てごた》へのなき|歌垣《うたがき》に|立《た》つよりも
|言霊車《ことたまぐるま》めぐらして|見《み》む
いざさらば|吾《わ》が|訊問《じんもん》に|答《こた》へかし
|汝《なれ》が|生死《せいし》の|別《わか》るるところぞ』
『いかならむ|問《と》ひにも|答《こた》へまつるべし
|早河《はやかは》の|瀬《せ》の|流《なが》るる|如《ごと》くに』
|高姫《たかひめ》|拳《こぶし》を|握《にぎ》りつつ  |雄猛《をたけ》びなして|立《た》ち|上《あ》がり
ヨリコの|姫《ひめ》を|睨《ねめ》つけて  |声《こゑ》の|調子《てうし》もいと|荒《あら》く
|面上《めんじやう》|朱《しゆ》をば|注《そそ》ぎつつ  |扇《あふぎ》パチパチ|卓《たく》を|打《う》ち
『これこれヨリコの|女帝《によてい》さま  これから|直接《ちよくせつ》|問答《もんだふ》だ
|天地《てんち》の|元《もと》を|創《つく》りたる  |大根本《だいこんぽん》の|根本《こんぽん》の
|生神様《いきがみさま》の|名《な》は|如何《いか》に』  |言《い》へばヨリコは|笑《ゑみ》たたへ
『|如何《いか》なる|難題《なんだい》ならむかと  |思《おも》へばそんな|事《こと》ですか
|天地《てんち》の|元《もと》は|無終無始《むしうむし》  |無限絶対《むげんぜつたい》|永劫《えいごふ》に
|静《しづ》まりゐます|国《くに》の|祖《おや》  |国常立《くにとこたち》の|神様《かみさま》よ
この|一柱《ひとはしら》の|神《かみ》おきて  |外《ほか》に|誠《まこと》の|神《かみ》はない
|如何《いかが》でござる|高姫《たかひめ》』と  |顔《かほ》さしのぞけば|高姫《たかひめ》は
フフンと|笑《わら》ふ|鼻《はな》の|先《さき》
『|何《なん》と|分《わか》らぬ|神司《かむつかさ》  あきれて|物《もの》が|言《い》へませぬ
|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|神様《かみさま》は  |天下万民《てんかばんみん》ことごとく
|安養浄土《あんやうじやうど》に|救《すく》はむと  |心《こころ》をくばりたまひつつ
|底津岩根《そこついはね》に|身《み》をかくし  |時節《じせつ》を|待《ま》つて|種々《いろいろ》の
|艱難苦労《かんなんくらう》のそのあげく  いよいよミロクの|大神《おほかみ》と
ここに|現《あら》はれましますぞ  その|神様《かみさま》の|生宮《いきみや》は
どこにござるかヨリコさま  すつかり|当《あ》てて|下《くだ》さんせ
もしも|妾《わたし》が|負《ま》けたなら  |現在《げんざい》お|前《まへ》さまの|目《め》の|前《まへ》で
|生《い》きたり|死《し》んだりして|見《み》せる』  |言《い》へばヨリコは|嘲笑《あざわら》ひ
『|貴女《あなた》の|仰《おほ》せは|違《ちが》ひます  |神《かみ》の|御書《みふみ》を|調《しら》ぶれば
|此《この》|世《よ》の|初《はじ》めと|在《ま》す|神《かみ》は  |国常立《くにとこたち》の|大神《おほかみ》ぞ
その|他《た》の|百《もも》の|神々《かみがみ》は  |皆《みな》エンゼルの|又《また》の|御名《みな》
これより|外《ほか》にありませぬ』  |言《い》へば|高姫《たかひめ》グツと|反《そ》り
『ホホホホホホホホホホホ  これや|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い
|三五教《あななひけう》の|盲神《めくらがみ》  こんな|事《こと》をば|偉《えら》さうに
|世《よ》の|人々《ひとびと》に|打《う》ち|向《む》かひ  |誠《まこと》しやかに|教《をし》へるのか
|国常立《くにとこたち》の|大神《おほかみ》が  もしも|此《こ》の|国《くに》に|御座《ござ》るなら
|妾《わたし》の|前《まへ》に|連《つ》れ|参《まゐ》れ  それが|出来《でき》ない|事《こと》なれば
|空想《くうさう》|理想《りさう》の|神《かみ》でせう  この|高姫《たかひめ》の|問《と》ふ|神《かみ》は
|生《い》きた|肉体《にくたい》|持《も》ちながら  |生《い》きて|働《はたら》き|生《い》きながら
|人《ひと》を|救《すく》くる|神《かみ》ですよ  その|神様《かみさま》はどこにある
それを|知《し》らしてもらひたい』  |言《い》へばヨリコは|打《う》ち|笑《わら》ひ
『|肉体《にくたい》もつてます|神《かみ》は  |産土山《うぶすなやま》の|聖場《せいぢやう》に
|千木《ちぎ》|高《たか》|知《し》りてはおはします  |神素盞嗚《かむすさのを》の|大御神《おほみかみ》
|三千世界《さんぜんせかい》の|太柱《ふとばしら》  これより|外《ほか》にはありませぬ
|貴女《あなた》の|守《まも》るウラナイの  お|道《みち》の|神《かみ》は|何神《なにがみ》か
|確《しつか》り|妾《わたし》は|知《し》らねども  |大《たい》した|神《かみ》ではござるまい』
|言《い》へば|高姫《たかひめ》|腹《はら》を|立《た》て
『|神《かみ》は|清浄潔白《せいじやうけつぱく》で  |仁慈無限《じんじむげん》に|在《ま》しませば
|兎《う》の|毛《け》の|露《つゆ》の|悪《あく》もない  |人《ひと》を|殺《ころ》して|金《かね》を|奪《と》り
|数多《あまた》の|男女《だんぢよ》を|誑《たぶ》らかし  |泥棒稼《どろぼうかせ》ぎをするやうな
|輩《やから》を|使《つか》ふ|神《かみ》ならば  |誠《まこと》の|神《かみ》ではござるまい
お|前《まへ》の|素性《すじやう》を|調《しら》ぶれば  オーラの|山《やま》の|山賊《さんぞく》の
|親分《おやぶん》してゐた|曲津神《まがつかみ》  |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の
|正《ただ》しく|清《きよ》く|鎮座《ちんざ》ます  この|聖場《せいぢやう》に|腰《こし》|据《す》ゑて
|神《かみ》をば|汚《けが》す|曲津神《まがつかみ》  |早《はや》く|改心《かいしん》した|上《うへ》で
|一時《いちじ》も|早《はや》くこの|席《せき》を  |退《しりぞ》きなされヨリコさま
|何《なに》ほど|改心《かいしん》したとても  |白布《はくふ》に|墨《すみ》がついたなら
|洗《あら》うても|洗《あら》うても|洗《あら》うても  |墨《すみ》のおちないその|如《ごと》く
どうせ|貴女《あなた》は|傷者《きずもの》よ  |傷《きず》ある|身霊《みたま》が|神業《しんげふ》に
|奉仕《ほうし》するとは|理《り》に|合《あ》はぬ  これでも|返答《へんたふ》ござるかな
この|高姫《たかひめ》は|済《す》まないが  |泥棒《どろばう》などはやりませぬ
|大根本《だいこんぽん》の|根本《こんぽん》の  |誠《まこと》の|神《かみ》の|太柱《ふとばしら》
|妾《わたし》に|傷《きず》が|若《も》しあれば  どうぞ|探《さが》して|下《くだ》さんせ
そもそも|誠《まこと》の|神様《かみさま》は  |身霊相応《みたまさうおう》の|理《り》によつて
|善《ぜん》には|善《ぜん》の|神《かみ》|守《まも》り  |悪《あく》には|悪《あく》の|神《かみ》がつく
|傷《きず》ある|身霊《みたま》にや|傷《きず》の|神《かみ》  |清《きよ》い|身霊《みたま》にや|清《きよ》い|神《かみ》
これが|天地《てんち》の|相応《さうおう》だ』  |言《い》へばヨリコは|俯《うつ》むいて
|高姫《たかひめ》|一人《ひとり》|残《のこ》しおき  すごすご|一室《ひとま》に|入《い》りにける
|高姫《たかひめ》|後《あと》を|見送《みおく》つて  |大口《おほぐち》|開《あ》けて|高笑《たかわら》ひ
『オホホホホオホホホホ  |狐《きつね》や|狸《たぬき》の|正体《しやうたい》を
|日出神《ひのでのかみ》の|御前《おんまへ》に  |包《つつ》むよしなく|現《あら》はして
|尻尾《しつぽ》を|股《また》に|挟《はさ》みつつ  すごすご|奥《おく》へ|逃《に》げ|込《こ》んだ
ほんに|小気味《こぎみ》のよい|事《こと》よ  もうこの|上《うへ》はヨリコとて
この|高姫《たかひめ》に|打《う》ち|向《む》かひ  |楯《たて》つく|勇気《ゆうき》は|御座《ござ》るまい
|誤《あやま》り|証文《じようもん》|認《したた》めて  |今日《けふ》から|貴女《あなた》にこの|館《やかた》
お|任《まか》せ|申《まう》し|奉《たてまつ》る  |罪《つみ》ある|妾《わたし》の|身《み》の|素性《すじやう》
|何《なに》とぞ|隠《かく》して|下《くだ》されと  |哀訴歎願《あいそたんぐわん》と|来《く》るだろう
アア|面白《おもしろ》や|心地《ここち》よや  |今日《けふ》からこれの|神館《かむやかた》
|棚《たな》の|上《うへ》から|牡丹餅《ぼたもち》が  |落《お》ちて|来《き》たよな|塩梅《あんばい》に
|吾《わ》が|手《て》に|入《い》るは|知《し》れたこと  もしも|問答《もんだふ》に|負《ま》けたなら
|妾《わたし》の|役目《やくめ》を|渡《わた》すぞと  |書《か》いた|看板《かんばん》が|証拠《しようこ》ぞよ
|待《ま》てば|海路《かいろ》の|風《かぜ》が|吹《ふ》く  |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善悪正邪《ぜんあくせいじや》を|立《た》て|別《わ》ける  この|御教《みをしへ》は|三五《あななひ》の
|決《けつ》して|神《かみ》の|教《のり》でない  |今《いま》|目《ま》の|当《あた》り|高姫《たかひめ》が
|実行《じつかう》なしたる|生言葉《いくことば》  |生証文《いきじようもん》のウラナイ|教《けう》
|千秋万歳《せんしうばんざい》|万々歳《ばんばんざい》  ウラナイ|教《けう》の|大神《おほかみ》の
|御前《みまへ》に|謹《つつし》み|畏《かしこ》みて  |今日《けふ》の|生日《いくひ》の|足《た》る|時《とき》の
|成功《せいこう》|守《まも》り|玉《たま》ひたる  |恵《めぐ》みに|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませ』と
|四辺《あたり》かまはず|大声《おほごゑ》を  |張《は》り|上《あ》げながら|唯《ただ》|一人《ひとり》
|傍若無人《ばうじやくぶじん》の|振舞《ふるま》ひは  よその|見《み》る|目《め》も|憎《にく》らしき。
|話《はなし》|変《かは》つて|玄関口《げんくわんぐち》には、アル、エス、キユーバーの|三人《さんにん》がしきりに|口論《こうろん》を|始《はじ》めてゐる。
アル『こりや、|便所掃除《はばかりさうぢ》の|糞坊主《くそばうず》|奴《め》、バラモン|署《しよ》へ|訴《うつた》へるなんて|脅喝文句《けふかつもんく》を|並《なら》べ|立《た》て、|犬《いぬ》の|遠吠的《とほぼえてき》に|逃《に》げ|失《う》せながら、づうづうしくも|何《なに》しにやつて|来《き》やがつたのだ。エエ|汚《きた》ない|汚《きた》ない|臭《くさ》い、|糞《くそ》の|臭気《しうき》が|鼻《はな》をついて|耐《たま》らないワ、サア|去《い》んだり|去《い》んだり』
キユ『ハハハハハ、|馬鹿《ばか》いふな、ここは|今日《けふ》から|俺《おれ》の|領分《りやうぶん》だ。|貴様《きさま》こそ|何処《どこ》かへ|出《で》て|往《ゆ》け、|今《いま》|奥《おく》で|高姫《たかひめ》さまと|女帝《によてい》との|大問答《だいもんだう》が|始《はじ》まつてゐるやうだが、きつと|高姫《たかひめ》さまの|勝《か》ちだ。これやこの|看板《かんばん》を|見《み》い、|今《いま》にこの|看板通《かんばんどほ》り|励行《れいかう》するのだ』
エス『ハハハハハこの|糞坊主《くそばうず》|奴《め》。|高姫《たかひめ》とかいふ|婆《ばば》に|泣《な》きついて|応援《おうゑん》を|頼《たの》んで|来《き》よつたのだな、|何《なん》と|見下《みさ》げ|果《は》てた|腰抜《こしぬ》け|野郎《やらう》だな。|八尺《やさか》の|褌《まはし》をかいた|男《をとこ》が|何《なん》だい、|女《をんな》の|加勢《かせい》を|頼《たの》んで|来《く》るとは|卑怯《ひけふ》にも|程《ほど》があるではないか、|糞垂《くそた》れ|坊主《ばうず》|奴《め》。まごまごしてゐると|笠《かさ》の|台《だい》が|無《な》くなるぞ、サアサア|足許《あしもと》の|明《あか》るいうち|股《また》に|尾《を》を|挟《はさ》んで|帰《かへ》つたり|帰《かへ》つたり』
キユ『ハハハハハ|馬鹿《ばか》だのう。|足許《あしもと》に|火《ひ》が|就《つい》て、|尻《しり》が|熱《ねつ》うなつてゐるのにまだ|貴様達《きさまたち》は|気《き》がつかぬのか。まあ|見《み》てをれ、|今《いま》に|法城《ほふじやう》の|開《あ》け|渡《わた》しと|来《く》るから、その|時《とき》は|吠面《ほえづら》かわくな。また|薬屋《くすりや》の|門番《もんばん》に|逆転《ぎやくてん》して|番犬《ばんけん》の|境遇《きやうぐう》に|甘《あま》んじ、ワンワン|吠《ほ》えながら|勤《つと》めるのが|関《せき》の|山《やま》だ。|何《なん》とあはれな|代物《しろもの》だな、ウフフフフ』
|問答席《もんだふせき》にはヨリコ、|花香《はなか》、ダリヤ|姫《ひめ》の|三人《さんにん》が|高姫《たかひめ》とさし|向《む》かひになり、|法城《ほふじやう》|開《あ》け|渡《わた》しの|掛合中《かけあひちう》である。
ヨリコ『|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》|様《さま》、すつぱりと|法城《ほふじやう》を|開《あ》け|渡《わた》しますから|受《う》け|取《と》つて|下《くだ》さい。|貴女《あなた》の|問答《もんだふ》には|決《けつ》して|負《ま》けるやうな|女《をんな》ぢやありませぬが、|妾《わらは》も|一《ひと》つ|感《かん》じた|事《こと》がございます。|何《なに》ほど|立派《りつぱ》な|器《うつは》でも|焼《や》きつぎにした|器《うつは》はやつぱり|傷物《きずもの》です。|貴女《あなた》の|最前《さいぜん》おつしやつた|通《とほ》り、いかにもオーラ|山《さん》の|山賊《さんぞく》の|女頭目《をんなとうもく》として|世人《よびと》を|苦《くる》しめ、あらゆる|罪悪《ざいあく》を|犯《をか》して|来《き》ました。かやうな|罪《つみ》|深《ふか》い|身霊《みたま》をもつて、|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》なる|大神様《おほかみさま》の|前《まへ》に|仕《つか》へまつるのは|冥加《みやうが》の|程《ほど》が|恐《おそ》ろしうございます。たうてい|妾《わらは》は|汚《けが》れた|罪《つみ》の|重《おも》い|体《からだ》、|神様《かみさま》の|御前《おんまへ》に|出《で》る|資格《しかく》はございませぬ。|貴女《あなた》は|今日《けふ》までどんな|事《こと》を|遊《あそ》ばしたか|神《かみ》ならぬ|身《み》の|妾《わらは》、すこしも|存《ぞん》じませぬが、|妾《わらは》に|比《くら》べては|余《よ》ほど|清《きよ》らかなお|身霊《みたま》と|拝察《はいさつ》いたします。これから|一《ひと》まづスガの|薬屋《くすりや》に|引《ひ》き|取《と》りますから、|後《あと》は|御勝手《ごかつて》になさいませ』
|高姫《たかひめ》『ホホホホホ、なるほど、お|前《まへ》さまも|比較的《ひかくてき》よく|物《もの》の|分《わか》る|人《ひと》だ。|最前《さいぜん》|生宮《いきみや》の|言《い》うた|言葉《ことば》に|感激《かんげき》して|身《み》の|罪《つみ》を|恥《は》ぢ、|法城《ほふじやう》を|開《あ》け|渡《わた》す、その|御精神《ごせいしん》、|実《じつ》に|見上《みあ》げたものですよ。しかし|傷物《きずもの》はどこまでも|傷物《きずもの》ですから、|足許《あしもと》の|明《あか》るい|中《うち》、トツトとお|帰《かへ》りなさるがよからう』
『|妾《わらは》の|妹《いもうと》の|花香《はなか》、ダリヤも|妾《わらは》に|殉《じゆん》じて|退席《たいせき》すると|言《い》ひますから、どうかこれも|御承知《ごしようち》を|願《ねが》ひたうございます』
『なにほど|上面《うはつら》は|綺麗《きれい》でも|傷物《きずもの》のお|前《まへ》さまに|使《つか》はれてをつた|代物《しろもの》だから、どうせ|完全《くわんぜん》な|器《うつは》ぢやあるまい。|自発的《じはつてき》に|退《しりぞ》かうといふのはこれも|感心《かんしん》の|至《いた》りだ。|何《なん》とまあ|神界《しんかい》の|御経綸《ごけいりん》といふものは|偉《えら》いものだな、ホホホホホ』
と|笑壺《ゑつぼ》に|入《い》つてゐる。そこへキユーバーが|得意面《とくいづら》を|晒《さら》し|肩肱《かたひぢ》を|怒《いか》らし、|大手《おほて》を|振《ふ》つて|四人《よにん》の|前《まへ》に|入《い》り|来《き》たり、
『|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》どの|天晴《あつぱ》れ|天晴《あつぱ》れ、|功名《こうみやう》|手柄《てがら》お|祝《いは》ひ|申《まを》します。ヤイ、ヨリコ、|花香《はなか》、ダリヤの|阿魔女《あまつちよ》ざまア|見《み》やがれ。|俺《おれ》の|権勢《けんせい》はこの|通《とほ》りだ。サアこれから|玉清別《たまきよわけ》の|野郎《やらう》も、アルもエスも|叩《たた》き|払《ばら》ひだ。エエ、|臭《くさ》い|臭《くさ》い、|鼻《はな》が|汚《けが》れるワ、|腐《くさ》り|女《をんな》、|腐《くさ》り|野郎《やらう》|奴《め》、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|出《で》て|失《う》せろ』
と|仁王立《にわうだ》ちになり、|蜥蜴《とかげ》が|立《た》ち|上《あ》がつたやうなスタイルで|四辺《あたり》キヨロキヨロ|睨《ね》め|廻《まは》してゐる。
(大正一五・新七・一 旧五・二二 於天之橋立なかや別館 加藤明子録)
第一九章 |旧場皈《きうばがへり》〔一八二八〕
|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》、キユーバーの|両人《りやうにん》は|意気衝天《いきしようてん》、|猛火《まうくわ》の|燎原《れうげん》を|焼《や》くがごとき|荒《あら》つぽい|鼻息《はないき》で、|玉清別《たまきよわけ》|以下《いか》、スガの|宮《みや》の|関係者《くわんけいしや》|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|叩《たた》き|出《だ》し、|天《てん》から|降《ふ》つて|湧《わ》いたる|儲《まうけ》ものに、|嬉《うれ》しさあまつて|現三太郎《うつつさんたらう》となり、|杢助《もくすけ》が|北町《きたまち》のウラナイ|教《けう》|本部《ほんぶ》に|寝《ね》てゐる|事《こと》も|打《う》ち|忘《わす》れ、あまり|虫《むし》は|好《す》かねども、|言霊戦《ことたません》の|大勝利《だいしようり》を|得《え》せしめた|原動力《げんどうりよく》ともいふべき|天然坊《てんねんばう》のキユーバーを|此上《こよ》なきものと|褒《ほ》めそやし、|聖場《せいぢやう》に|立籠《たてこも》つて|天下併呑《てんかへいどん》の|夢《ゆめ》をむさぼつてゐた。
キユ『モシ、|生宮様《いきみやさま》、キユーバーの|働《はたら》きはチツとばかり|腕《うで》が|冴《さ》えてゐるでせう、|決《けつ》して|生宮様《いきみやさま》|御一人《ごいちにん》のお|手柄《てがら》ぢやござりますまい』
|高姫《たかひめ》『そら、さうだとも、|車《くるま》も|両輪《りやうりん》なければ|運転《うんてん》しない、|人間《にんげん》も|二本《にほん》の|脚《あし》がなけりや|歩《ある》けない|道理《だうり》だからな』
『そら、さうでせうとも、お|飯《まんま》|食《た》べる|時《とき》でも|片手《かたて》ぢや|駄目《だめ》ですからな。|箸《はし》だつて|二本《にほん》なくちや、|香《かう》の|物《もの》だつて、はさむ|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|神代《かみよ》の|昔《むかし》、|那岐《なぎ》|那美《なみ》|二尊《にそん》は|天浮橋《あまのうきはし》に|立《た》つて|陰陽《いんやう》の|息《いき》を|合《あは》せて、いろいろの|神様《かみさま》をお|造《つく》り|遊《あそ》ばしたものですもの。どうです、ここで|旧交《きうかう》を|温《あたた》めて|拙僧《せつそう》は|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》となり、|生宮様《いきみやさま》は|伊邪那美命《いざなみのみこと》となり、トルマン|国《ごく》を|振出《ふりだ》しに|印度《いんど》|七千余国《しちせんよこく》は|申《まを》すもさらなり、この|地《ち》のあらむ|限《かぎ》り|鵬翼《ほうよく》を|伸《の》ばさうぢやありませぬか。あなたもトルマン|国《ごく》の|王妃《わうひ》となり|遊《あそ》ばした|腕利《うでき》きだから、そのくらゐの|事《こと》は、お|考《かんが》へでせうな』
『そんなことア、キユーバーさま、いふだけ|野暮《やぼ》だよ。|三千世界《さんぜんせかい》の|救世主《きうせいしゆ》、|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒《おほみろく》ぢやないか、この|生宮《いきみや》は|天《てん》もかまへば|地《ち》もかまふ、|五十六億七千万《ごじふろくおくしちせんまん》の|小宇宙《せううちう》をも|統一《とういつ》する|天来《てんらい》の|神柱《かむばしら》だもの、このチツポケな|地球《ちきう》ぐらゐ、|統一《とういつ》したつて、|広大無遍《くわうだいむへん》の|宇宙《うちう》に|比《くら》ぶれば|虱《しらみ》の|眉毛《まゆげ》に|生《わ》いた|虫《むし》の|放《ひ》つた|糞《くそ》に|生《わ》いた|虫《むし》の、その|虫《むし》の|糞《くそ》に|生《わ》いた|虫《むし》の|放《ひ》つた|糞《くそ》くらゐのものだよ』
『|何《なん》とマア|大《おほ》きな|事《こと》を|仰有《おつしや》るかと|思《おも》へば、|小《ちひ》さい|事《こと》まで|御説法《ごせつぽふ》|遊《あそ》ばすのですな』
『きまつた|事《こと》だよ、|至大無外《しだいむぐわい》、|至小無内《しせうむない》の|弥勒《みろく》の|御神権《ごしんけん》を|具備《ぐび》してゐる|救世主《きうせいしゆ》ですもの』
『|生宮《いきみや》さまの|広大無遍《くわうだいむへん》な|抱負《はうふ》には、いかなこのキユーバーも|舌《した》をまきましたよ。このキユーバーだつてハルナの|都《みやこ》に|権勢《けんせい》|並《なら》びなき|七千余国《しちせんよこく》の|大棟梁《だいとうりやう》、|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|片腕《かたうで》ですもの』
『これこれキユーバーさま、|大弥勒《おほみろく》さまの|前《まへ》でそんな|小《ち》つぽけな|事《こと》はやめて|下《くだ》さい。この|神《かみ》は|小《ちひ》さい|事《こと》は|嫌《きら》ひであるぞよ。|大《おほ》きな|事《こと》をいたす|神《かみ》であるぞよ、|昔《むかし》からまだ|此《この》|世《よ》にない|事《こと》をいたす|神《かみ》であるぞよ』
『|三五教《あななひけう》のお|筆先《ふでさき》そつくりぢやありませぬか、フツフフフフ。|時《とき》に|生宮《いきみや》さま、あの|杢助《もくすけ》とかいふ|第二号《だいにがう》をどうするつもりですか』
『ア、あまり|嬉《うれ》しくつて、|時置師《ときおかし》の|神様《かみさま》を|念頭《ねんとう》から|遺失《ゐしつ》してをつた。ヤアこりやかうしてはをられませぬ、キユーバーさま、お|前《まへ》さまここに|待《ま》つてをつて|下《くだ》さい。この|成功《せいこう》を|夫《をつと》に|聞《き》かして|喜《よろこ》ばすため、ちよつと|北町《きたまち》まで|行《い》つて|来《き》ますから』
『モシモシ|高姫《たかひめ》さま、|私《わたし》の|前《まへ》であまりひどいぢやありませぬか。|第一号《だいいちがう》をほつたらかしておいて、|第二号《だいにがう》に|秋波《しうは》を|送《おく》るなんて、チツとばかり|聞《き》こえませぬな。|何《なん》ぼ|行《ゆ》かうと|仰有《おつしや》つても、このキユーバーが|放《はな》しませぬよ』
『お|前《まへ》さま、|自惚《うぬぼれ》もいい|加減《かげん》にしておきなさい、|一号《いちがう》どころか、|八号《はちがう》ですよ、|要《えう》するに|天保銭《てんぽせん》だからな』
『こいつアひどい、|二文《にもん》|足《た》らぬと|仰有《おつしや》るのですか、|貴女《あなた》の|目《め》には、それほどこのキユーバーが|馬鹿《ばか》に|見《み》えますかい』
『なに、|馬鹿《ばか》どこかいな、|八文《はちもん》といつたら|大変《たいへん》|立派《りつぱ》な|人《ひと》だといふ|事《こと》だよ、ダンダン|筋《すぢ》の|法被《はつぴ》を|着《き》た|仲仕《なかし》や|労働者《らうどうしや》や、|旗持《はたも》ちを|一文奴《いちもんやつこ》といふだらう。|一文奴《いちもんやつこ》で|普通《ふつう》の|人間《にんげん》だ。|小説《せうせつ》を|作《つく》つたり、|新聞《しんぶん》の|記事《きじ》を|書《か》いたり、|雑誌《ざつし》を|著《あらは》す|学者《がくしや》を|三文文士《さんもんぶんし》と|言《い》ふだらう。|三文文士《さんもんぶんし》にならうと|思《おも》へば|大学《だいがく》の|門《もん》をくぐつて|来《こ》にや、さう|安々《やすやす》とはなれませぬからな。それから、ハルナの|都《みやこ》のお|役所《やくしよ》にも|諮問《しもん》(|四文《しもん》)|機関《きくわん》といふものがあるだらう、|諮問機関《しもんきくわん》に|集《あつ》まつてゐる|人《ひと》は|大黒主《おほくろぬし》さまのお|尋《たづ》ねに|一々《いちいち》|答《こた》へるといふ|智者《ちしや》|学者《がくしや》だ。それから、も|一文《いちもん》|上《うへ》に|顧問《こもん》(|五文《ごもん》)|官《くわん》といふのがある』
『モシモシ|高姫《たかひめ》さま、|顧問《こもん》と|五文《ごもん》とは|違《ちが》ひますぜ』
『|顧問《こもん》でも|五文《ごもん》でも、いいぢやないか、|甲《かふ》も|乙《おつ》も|互《たが》ひに|勝敗《しようはい》、|優劣《いうれつ》、|高下《かうげ》のない|相手《あひて》|同志《どうし》をさして|五文《ごもん》と|五文《ごもん》といふぢやないか、さうだから|五文《ごもん》の|人間《にんげん》は|最《もつと》も|立派《りつぱ》なものだ。その|上《うへ》が|六文《ろくもん》だ、|六文銭《ろくもんせん》は、|軍術《ぐんじゆつ》の|達人《たつじん》|真田幸村《さなだゆきむら》の|旗印《はたじるし》だよ。|真田《さなだ》といふ|人物《じんぶつ》は|後世《こうせい》まで|名《な》を|轟《とどろ》かした|大阪陣《おほさかぢん》の|参謀長《さんぼうちやう》だ。|七文《しちもん》といふのはなア、|昨日《きのふ》|俺《わし》がヨリコ|姫《ひめ》をこつぴどく|問《と》ひつめただらう、あれが|七文《しちもん》だ』
『そら、|質問《しつもん》と|違《ちが》ひますか』
『|質問《しつもん》でも|七文《しちもん》でも【ツ】と【チ】のと|違《ちが》ひぢやないか、そんな|【七六】《しちむ》つかしい|質問《しつもん》はやめて|下《くだ》さい。その|一文《いちもん》|上《うへ》が|八文《はちもん》だ、|八文《はちもん》が|一番《いちばん》|結構《けつこう》だよ。も|一文《いちもん》ふやすと、|苦悶《くもん》といつて|苦《くる》しみ|悶《もだ》えねばならぬからな、も|一文《いちもん》ふやすと、|十文《じふもん》だ、|銃文《じふもん》といつたら|鉄砲《てつぱう》の|穴《あな》だ、|尻《しり》の|穴《あな》もヤツパリ|銃門《じうもん》の|中《うち》だよ』
『|何《なん》とマアお|前《まへ》さまの|口《くち》にかかつたらこのキユーバーも|盾《たて》つけませぬワ、しかしこの|八文《はちもん》をどうして|下《くだ》さるつもりですか。よもや|八門遁甲《はちもんとんかふ》の|術《じゆつ》をもつて|拙僧《せつそう》を、|埒外《らちぐわい》へ|放逐《はうちく》するやうな|事《こと》はありますまいね』
『マア|心配《しんぱい》しなさるな。|今回《こんくわい》の|功労《こうらう》に|免《めん》じてチヨイチヨイお|尻《いど》くらゐは、ふかしてあげますワ、|大弥勒《おほみろく》さまのお|尻《いど》をふかうと|思《おも》へば|並《なみ》や|大抵《たいてい》のことでは|拭《ふ》けませぬぞや。ヨリコ|女帝《によてい》のお|前《まへ》さまはお|尻《いど》の|掃除《さうぢ》をやつてをつたさうだが、あのやうな、アタ|汚《きたな》いお|尻《しり》の|掃除《さうぢ》をしてゐるより、|大弥勒《おほみろく》さまの|神徳《しんとく》の|籠《こも》つた|御肥料《おこえ》さまの|掃除《さうぢ》をさしてもらふ|方《はう》が、|何《なに》ほど|光栄《くわうえい》だか|出世《しゆつせ》だか|知《し》れませぬよ、ホツホホホホ』
『エー、|人《ひと》をお|前《まへ》さまは|馬鹿《ばか》にしてゐるのだな』
かく|話《はなし》してゐるところへ|杢助《もくすけ》の|妖幻坊《えうげんばう》は|高姫《たかひめ》の|帰《かへ》りが|遅《おそ》いので、スガ|山《やま》のトロトロ|坂《ざか》をエチエチ|上《のぼ》りながら|館《やかた》の|前《まへ》までやつて|来《き》た。
|玄関口《げんくわんぐち》に|佇《たたず》んで|様子《やうす》を|聞《き》けば、|境内《けいだい》はシンとして|人影《ひとかげ》もなく、|静《しづ》まり|返《かへ》り、|閑古鳥《かんこどり》が|鳴《な》いてゐる。しかしながら|館《やかた》の|奥《おく》の|方《はう》にコソコソと|囁《ささや》く|声《こゑ》が|聞《き》こゆるやうにもあるので、ソツと|館《やかた》の|裏《うら》へまはり、|窓《まど》から|中《なか》を|覗《のぞ》いて|見《み》ると|酒《さけ》|肴《さかな》を|真中《まんなか》におき、|高姫《たかひめ》、キユーバーが|意茶《いちや》ついたり|揶揄《からか》つたり、|面白《おもしろ》さうに|話《はな》し|合《あ》つてゐる。|妖幻坊《えうげんばう》は|腹《はら》が|立《た》つてたまらず、|雷《らい》のやうな|声《こゑ》を|出《だ》して|窓《まど》の|外《そと》から、
『コラツ』
と|一声《いつせい》|叫《さけ》ぶや|否《いな》や、キユーバーは|驚《おどろ》いて|一間《いつけん》ばかりも|飛《と》び|上《あ》がり、|天井裏《てんじやううら》で|禿頭《はげあたま》をカツンと|打《う》ち、|再《ふたた》び|板《いた》の|間《ま》に|蛙《かはづ》をぶつつけたやうになつて、|手足《てあし》をピリピリとふるはせ、ふんのびてしまつた。さすが、|高姫《たかひめ》はビクとも|動《うご》かず|静《しづ》かに|窓《まど》の|外《そと》を|覗《のぞ》き、
『ホツホホホホ|何《なん》ですか|杢《もく》チヤン、そんな|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》したつて、|聾《つんぼ》はゐやしませぬよ。|高姫《たかひめ》の|耳《みみ》は|蚯蚓《みみづ》の|泣声《なきごゑ》でも|聞《き》こえるのですからね、どうか|騒《さわ》がないでゐて|下《くだ》さい。|今《いま》この|坊主《ばうず》をうまくちよろまかして、|三五教《あななひけう》が|百日百夜《ひやくにちひやくや》の|丹精《たんせい》を|凝《こ》らし、|建《た》て|上《あ》げたこの|神館《かむやかた》を、スツカリと|証文《しようもん》つきでもらつたのですからね、マアお|這入《はい》りなさい、|人《ひと》が|見《み》たら、|見《み》つともないから』
と|平気《へいき》な|顔《かほ》で|構《かま》へてゐる。|杢助《もくすけ》は|表《おもて》にまわり|玄関口《げんくわんぐち》より|大手《おほて》を|振《ふ》つて|入《い》り|来《き》たり、
『|一昨日《おととひ》の|日《ひ》の|暮《くれ》に、この|坊主《ばうず》と|出《で》たぎり、|今日《けふ》になつても|帰《かへ》つて|来《こ》ないものだから、チツとばかり|気《き》がかりでならないので、スガの|町々《まちまち》を|尋《たづ》ねまはり、もう|尋《たづ》ねる|処《ところ》がないものだから、ここへやつて|来《く》れや、キユーバーの|野郎《やらう》をつかまへて、|何《なん》だか|妙《めう》な|目《め》つかひをやつてゐたぢやないか』
|高《たか》『|杢《もく》チヤン、そんな|野暮《やぼ》なことを|言《い》ふのぢやありませぬよ。この|間《あひだ》も|貴方《あなた》に|言《い》つた|通《とほ》り、このキユーバーといふ|山子坊主《やまこばうず》は、|一寸《ちよつと》ばかり|小利口《こりこう》な|奴《やつ》だから、うまくちよろまかして|使《つか》ひ|倒《たふ》し、|今日《けふ》の|成功《せいこう》を|勝《か》ち|得《え》たのですからね。まだまだ|此奴《こいつ》を|使《つか》はにやならぬ|用《よう》がありますので、|一寸《ちよつと》いやな|奴《やつ》だけど|色目《いろめ》をつかつて、【つらく】つてゐるのですよ。|天下無双《てんかむさう》の|英雄豪傑《えいゆうがうけつ》|時置師《ときおかし》の|神《かみ》さまのやうな|立派《りつぱ》な|夫《をつと》があるのに、どうしてこんな|蛙《かはづ》の|泣《な》き|損《そこ》ねたやうな|面《つら》した|売僧坊主《まいすばうず》に、|指《ゆび》|一本《いつぽん》でも|支《さ》へさす|気遣《きづか》ひがありますか。そこは|貴方《あなた》の|御判断《ごはんだん》に|任《まか》せますから、マア|御機嫌《ごきげん》を|直《なほ》して|一杯《いつぱい》|飲《の》んで|下《くだ》さい。|今日《けふ》からこの|館《やかた》は|時置師《ときおかし》の|神《かみ》さまの|領有権《りやういうけん》が|出来《でき》たのですからな、|高姫《たかひめ》の|腕前《うでまへ》もずゐぶん|凄《すご》いものでせう。ホツホホホホ』
|杢《もく》『オイ、このキユーバーをこのままにしておけば|縡切《ことき》れてしまふぞ、お|前《まへ》の|得意《とくい》な|活《くわつ》とかを|入《い》れて、|蘇生《そせい》さしてやつたらどうだい』
『|杢《もく》チヤン、そんな|心配《しんぱい》|要《い》りませぬよ、|田圃《たんぽ》の|蛙《かへる》を|掴《つか》んで|大地《だいち》で|投《な》げて|御覧《ごらん》なさい。|丁度《ちやうど》この|通《とほ》り|手足《てあし》をのばしてビリビリとふるひ|一時《いちじ》は|目《め》をまはかしますが、|暫《しばら》くすると|目《め》を|開《あ》け、|古池《ふるいけ》の|中《なか》へドンブリコと|飛《と》び|入《い》り、アナタガタガタ オレキレキと|泣《な》くぢやありませぬか』
『キユーバーも|蛙《かへる》にたとへられや、チツとばかり|可哀《かあい》さうだ。|命《いのち》に|別条《べつでう》さへなけれや、いいやうなものの、あまり|殺生《せつしやう》ぢやないか』
『|何《なに》が|殺生《せつしやう》ですか、|自分《じぶん》が|勝手《かつて》に|飛《と》び|上《あ》がつて|勝手《かつて》にフン|伸《の》びたのですもの、チツとも|吾々《われわれ》にかかり|合《あひ》はないのですからな。キユーバーが|自由《じいう》の|権利《けんり》を|振《ふ》つて|空中《くうちう》|舞《ま》ひ|上《あ》がりの|術《じゆつ》を|演《えん》じ、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》の|酒《さけ》の|肴《さかな》になつてゐるのですもの』
かく|話《はな》すをりしも|死真似《しにまね》をしてゐたキユーバーはムクムクと|起《お》き|上《あ》がり、ワザと|空《そら》とぼけたやうな|顔《かほ》して、
『アーア、|飛行機《ひかうき》に|乗《の》つて|大空中《たいくうちう》を|巡行《じゆんかう》してゐたと|思《おも》へば、にはかに|雷鳴《らいめい》|轟《とどろ》き|暴風《ばうふう》|吹《ふ》きまくり、|飛行機《ひかうき》もろとも|地上《ちじやう》へ|転落《てんらく》し、|五体《ごたい》は|滅茶々々《めちやめちや》になつたと|思《おも》へばヤツパリ|夢《ゆめ》だつたかな。これも|全《まつた》く|生宮様《いきみやさま》と|時置師《ときおかし》の|神様《かみさま》の|恩頼《みたまのふゆ》だ、|南無《なむ》|生神大明神《いきがみだいみやうじん》|帰命頂礼《きめうちやうらい》|謹請再拝《ごんじやうさいはい》|謹請再拝《ごんじやうさいはい》』
|杢《もく》『ウツフフフフ|何《なん》とマア、|怪体《けたい》な|坊主《ばうず》だのう、|一種《いつしゆ》|異様《いやう》の|奇病《きびやう》があると|見《み》える。かういふ|病気《びやうき》は|親《おや》のある|間《うち》に|癒《なほ》しておかぬと|一生《いつしやう》|不治《ふぢ》の|難病《なんびやう》になるかも|知《し》れないよ、ワツハハハハ』
|高《たか》『ホツホホホホこれキユーバーさま、|本当《ほんたう》にお|前《まへ》さまは|身《み》の|軽《かる》い|方《かた》ですね。|妾《わたし》また、お|神《かむ》がかりかと|思《おも》つてをりましたよ』
|妖幻坊《えうげんばう》は|膝《ひざ》を|立直《たてなほ》し、|居直《ゐなほ》り|気味《ぎみ》になつて、
『オイ、|天然坊《てんねんばう》のキユーバー、|俺《おれ》の|女房《にようばう》を|掴《つか》まへて|何《なに》を|言《い》つてゐたのだ、|三文《さんもん》だの、|五文《ごもん》だの、|八文《はちもん》だのと、|何《なん》のことだい。|其方《そつち》の|出《で》やうによつては|俺《おれ》にも|一《ひと》つの|虫《むし》がある、サアきつぱりとこの|杢助《もくすけ》の|前《まへ》で|白状《はくじやう》せい』
キユ『メメメメめつさうな、|尊《たふと》い|尊《たふと》い、|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な、|生宮《いきみや》さまに|対《たい》し、|私《わたし》のやうな|下劣《げれつ》な|貧僧《ひんそう》が|恋《こひ》の|鮒《ふな》のと、そんな|大《だい》それたことが|出来《でき》ますか、お|言葉《ことば》|交《かは》すも|恐《おそ》れ|多《おほ》いと|存《ぞん》じ|忠実《ちうじつ》に|勤《つと》めてゐますよ。どうぞ|悪《わる》くはとらないやうにして|下《くだ》さいませ。|何《なに》はともあれ|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》さまに、うまくたらし|使《づか》ひにされてゐるのですからな。いづれ|行先《ゆくさき》はお|払《はら》ひ|箱《ばこ》だと|覚悟《かくご》を|定《き》めてをります』
|妖《えう》『こりや、|高姫《たかひめ》、キユーバーの|申《まを》すことに、|間違《まちが》ひなけりや|今日《けふ》はこれで|忘《わす》れて|遣《つか》はす。|然《しか》しながら、|此奴《こいつ》を|此処《ここ》においてはチツとばかり|都合《つがふ》が|悪《わる》い。|幸《さいは》ひ|北町《きたまち》の|本部《ほんぶ》が|空《あ》くことになるから、あれをキユーバーに|呉《く》れてやつたらどうだ』
|高《たか》『|杢助《もくすけ》さまさへ|御承知《ごしようち》なら、|呉《く》れてやりませう、この|館《やかた》を|占領《せんりやう》したのもその|一部分《いちぶぶん》はキユーバーさまの|斡旋《あつせん》|努力《どりよく》|与《あづ》かつて|功《こう》ありといふものですからな』
|杢《もく》『オイ、キユーバー、お|前《まへ》の|功労《こうらう》に|免《めん》じて|北《きた》|町《まち》の|神館《かむやかた》を|与《あた》へるから、すぐさま|帰《かへ》つて|休息《きうそく》したが|宜《よ》からう。|神殿《しんでん》も|諸道具《しよだうぐ》|一切《いつさい》も|附《つ》け|与《あた》へるから|有難《ありがた》く|頂戴《ちやうだい》せい』
キユ『ハイ、|有難《ありがた》うございます。それでは|頂戴《ちやうだい》いたしませう。|十分《じふぶん》に|念入《ねんい》りに|掃除《さうぢ》をしておきますから、どうぞ、|時折《ときを》りはお|遊《あそ》びにお|出《い》で|下《くだ》さいませ』
|妖《えう》『いや、これほど|立派《りつぱ》な|神館《かむやかた》が|手《て》に|入《い》つた|以上《いじやう》は|最早《もはや》|必要《ひつえう》を|認《みと》めぬ、また|行《ゆ》く|必要《ひつえう》もない、お|前《まへ》の|勝手《かつて》にしたが|宜《よ》からう』
|言《い》へばキユーバーは|喜《よろこ》んで  |頭《あたま》ペコペコ|下《さ》げながら
『ウラナイ|教《けう》の|神館《かむやかた》  |有難《ありがた》く|頂戴《ちやうだい》いたします
|左様《さやう》|御座《ござ》ればお|二人《ふたり》さま  |後《あと》でゆるゆるお|楽《たの》しみ』
などと|言葉《ことば》を|残《のこ》しつつ  |北町《きたまち》さしていそいそと
|大手《おほて》を|振《ふ》つて|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一五・七・一 旧五・二二 於天之橋立なかや旅館 北村隆光録)
第二〇章 |九官鳥《きうくわんてう》〔一八二九〕
キユーバーは、|杢助《もくすけ》に|呶鳴《どな》りつけられ、|高姫《たかひめ》には|嘲笑《てうせう》され、お|為《ため》ごかしに|五百円《ごひやくゑん》で|買《か》つた|北町《きたまち》の|家《いへ》を|貰《もら》つたことは|貰《もら》つたものの、|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》のことだから、いつ|変替《へんが》へを|言《い》うて|来《く》るかも|分《わか》らない。
キユーバー『エエ|本当《ほんたう》につまらない、|高姫《たかひめ》さまの|提燈持《ちやうちんも》ちをして|町々《まちまち》をふれ|廻《まは》り、|杢助《もくすけ》の|奴《やつ》は|手《て》を|濡《ぬら》さずして|結構《けつこう》な|神館《かむやかた》を|占領《せんりやう》し、|千草姫《ちぐさひめ》と|喋々喃々《てふてふなんなん》、|意茶《いちや》ついてゐるかと|思《おも》へば、ごふ|腹《ばら》でたまらないワ。|待《ま》て|待《ま》て、ここが|一《ひと》つ|辛抱《しんばう》のしどころだ、|時節《じせつ》を|待《ま》つて|杢助《もくすけ》を|叩《たた》き|出《だ》し、|完全《くわんぜん》に|高姫《たかひめ》を|此方《こつち》の|物《もの》となし、スガの|神館《かむやかた》の|神司《かむづかさ》となつて|一《ひと》つ|羽振《はぶ》りを|利《き》かしてやらう』
と|伊万里焼《いまりやき》の|達磨《だるま》の|出来損《できそこ》なひのやうな|面構《つらがま》へを|晒《さら》しながら|悄々《しほしほ》と|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|北町《きたまち》の|神館《かむやかた》に|帰《かへ》つて|見《み》れば【きちん】と|錠《ぢやう》が|卸《お》り、こじても|捻《ね》ぢてもちつとも|開《あ》かない。
キユ『エエ|杢助《もくすけ》の|奴《やつ》、|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にしてゐやがる。|待《ま》て|待《ま》て、ひよつとしたら|隣《となり》の|元《もと》の|家主《やぬし》に|鍵《かぎ》を|預《あづ》けておきやがつたかも|知《し》れぬ』
と|呟《つぶや》きながら|樽屋《たるや》の|表《おもて》へ|立《た》ちはだかり、
キユ『|御免《ごめん》なさい、|拙僧《せつそう》はウラナイ|教《けう》|本部《ほんぶ》の|高等役員《かうとうやくゐん》キユーバーですが、もしや|杢助《もくすけ》さまが|鍵《かぎ》でも|預《あづ》けてはおかなかつたでせうか、|一寸《ちよつと》お|尋《たづ》ねいたします』
|主人《しゆじん》の|久助《きうすけ》は|蛙《かへる》の|鳴《な》くやうな|妙《めう》な|声《こゑ》がするので|表《おもて》へ|来《き》て|見《み》ると|妖僧《えうそう》が|立《た》つてゐる。
『ヤ、|御用《ごよう》でございますかな』
キユ『|別《べつ》に|用《よう》といふやうな|事《こと》はありませぬが、|今日《けふ》からあの|神館《かむやかた》は|拙僧《せつそう》の|所有物《しよいうぶつ》となり|居住《すまゐ》するつもりです。|杢助《もくすけ》さまが|鍵《かぎ》でも|預《あづ》けておきはしませぬかな』
|久《きう》『たしかに|預《あづ》かつてゐますが、……この|鍵《かぎ》は|誰《たれ》が|来《き》ても|渡《わた》してくれな……との|仰《おほ》せ、たとへ|貴方《あなた》がお|買《か》ひになつても|滅多《めつた》にお|渡《わた》し|申《まを》すわけには|参《まゐ》りませぬ』
『|元来《ぐわんらい》この|家《や》の|代金《だいきん》は|拙者《せつしや》が|三百円《さんびやくえん》、|杢助《もくすけ》さまが|三百円《さんびやくえん》|出《だ》して|買《か》つたのですから、|当然《たうぜん》|半分《はんぶん》は|拙者《せつしや》の|物《もの》、しかしながら、お|前《まへ》さまも|聞《き》いてゐられるだらうが、スガの|宮《みや》の|神館《かむやかた》は|問答《もんだふ》の|結果《けつくわ》、|杢助《もくすけ》さまの|領有《りやういう》となり、|最早《もはや》この|神館《かむやかた》は|不必用《ふひつよう》となつたので、|拙僧《せつそう》に|買《か》つてくれぬかとのお|頼《たの》みだから、|残《のこ》り|三百円《さんびやくえん》をおつ|放《ぽ》り|出《だ》し|今《いま》|買《か》つて|来《き》たのですよ。|怪《あや》しう|思《おも》はれるのなら、あまり|遠《とほ》くもないからスガの|神館《かむやかた》まで|行《い》つて|調《しら》べて|来《き》て|下《くだ》さい』
『あのお|金《かね》はさうすると|貴方《あなた》が|半分《はんぶん》お|出《だ》しなさつたのですか、ヘエー』
『さうですとも、|拙僧《せつそう》はスコブッツエン|宗《しう》の|教祖《けうそ》|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|片腕《かたうで》ともいふべき|豪僧《がうそう》だ、いつもお|金《かね》が|懐《ふところ》に|目《め》を|剥《む》いてゐる。|杢助《もくすけ》ごときは|諸国修業《しよこくしうげふ》の|遍歴者《へんれきしや》だからお|金《かね》の|有《あ》らう|筈《はず》はなし、|話《はなし》に|聞《き》けば、ハルの|湖《みづうみ》で|高砂丸《たかさごまる》に|乗《の》り|込《こ》み、|高姫《たかひめ》が|暴風雨《しけ》に|遇《あ》うて|沈没《ちんぼつ》したので、|夫婦《ふうふ》とも|真裸《まつぱだか》となり、|命《いのち》からがらスガの|港《みなと》に|着《つ》いたくらゐだから、|一文半銭《いちもんきなか》も|金《かね》を|持《も》つてゐる|道理《だうり》がないのだ。あの|三百円《さんびやくえん》も|実《じつ》は|怪《あや》しいものだよ。どこかで|何々《なになに》して|来《き》よつたのかも|知《し》れたものぢやない』
『アア|左様《さやう》でございますか。そんなら|如才《じよさい》はございますまいから|鍵《かぎ》をお|渡《わた》し|申《まを》します』
と|懐《ふところ》より|取《と》り|出《だ》しキユーバーに|渡《わた》した。キユーバーは|機嫌《きげん》を|直《なほ》しながら|肩《かた》を|四角《しかく》にゆすり、|北町《きたまち》の|小路《こうぢ》を|大股《おほまた》に|跨《また》げて|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
キユ『ヤア|久《ひさ》し|振《ぶ》りに|俺《おれ》の|巣《す》が|出来《でき》たワイ、ヤ|巣《す》ではない、|御本丸《ごほんまる》が|出来《でき》たのだ。いよいよ|今日《けふ》から|北町城《きたまちじやう》の|城主《じやうしゆ》|天然坊《てんねんばう》キユーバーの|君様《きみさま》だ。かうなると|第一《だいいち》に|必要《ひつえう》なものは|嬶村屋《かかむらや》だ、いな|女帝様《によていさま》だ。いづれこの|神館《かむやかた》へはちつとは|美《うつく》しい|女《をんな》も|参《まゐ》つて|来《く》るだらう、|四五日《しごにち》の|間《うち》に|物色《ぶつしよく》して、これぞといふ|奴《やつ》を|選《えら》み|出《だ》し、|当座《たうざ》の|鼻《はな》ふさぎに|引《ひ》つ|張《ぱ》り|込《こ》んでおかう、その|間《あひだ》に|千草姫《ちぐさひめ》が|何《なん》とかならうから』
などと|独《ひと》り|言《ごと》をほざきながら、|押入《おしい》れから|夜具《やぐ》を|引《ひ》つぱり|出《だ》し、|揚股《あげまた》をうつて|寝《ね》てしまつた。|暫《しばら》くすると、トントンと|表戸《おもてど》を|叩《たた》いて|隣《となり》のお|三《さん》がやつて|来《き》た。
『|御免《ごめん》なさいませ、キユーバー|様《さま》はお|宅《たく》でございますか』
|武士《ぶし》の|子《こ》は|轡《くつわ》の|音《おと》に|目《め》を|醒《さ》まし  |乞食《こじき》の|子《こ》は|茶碗《ちやわん》の|音《おと》に|目《め》を|醒《さ》まし
キユーバーは|女《をんな》の|声《こゑ》に|目《め》を|醒《さ》ます  |寝呆《ねぼ》けた|顔《かほ》を|撫《な》でながら
|響《ひび》きのいつた|濁声《だくせい》で
『ハイハイハイハイようお|出《い》で  |何用《なによう》あつてござつたか
|御用《ごよう》の|赴《おもむ》き|聞《き》きませう』と  |寝床《ねどこ》を|立《た》つて|上《あが》り|口《ぐち》
|火鉢《ひばち》の|前《まへ》に|四角《しかく》ばり  お|三《さん》の|顔《かほ》を|睨《ねめ》つける
お|三《さん》はぎよつとしながらも  |揉手《もみで》をなして|丁寧《ていねい》に
|鈴《すず》の|鳴《な》るよな|声《こゑ》|出《だ》して
『これはこれは|当家《たうけ》の|主《あるじ》のキユーバー|様《さま》  お|寝《やす》み|中《ちう》を|驚《おどろ》かしまして
|誠《まこと》に|申《まを》し|訳《わけ》ございませぬ  |妾《わたし》は|主人《しゆじん》の|言《い》ひつけで
お|伺《うかが》ひ|申《まを》しに|参《まゐ》りました  やがて|主人《しゆじん》が|見《み》えますから
|何処《どこ》へも|往《い》つては|下《くだ》さるな』  |言《い》へばキユーバーは|禿頭《はげあたま》
|縦《たて》に|揺《ゆ》すぶつて|涎《よだれ》くり
『てもまア|綺麗《きれい》な|女《をんな》だな  |俺《おれ》もお|前《まへ》の|知《し》る|通《とほ》り
|今日《けふ》から|此所《ここ》の|主《あるじ》とはなつたれど  |飯《めし》たく|女《をんな》もない|始末《しまつ》
お|前《まへ》のやうな|渋皮《しぶかは》の  |剥《む》けた|女《をんな》をいつまでも
|宿屋《やどや》の|下女《げぢよ》にしておくは  |可惜《あつたら》ものよ|勿体《もつたい》ない
おほかたお|前《まへ》を|俺《おれ》の|女房《にようばう》に  |貰《もら》うてくれとの|掛合《かけあ》ひに
|久助《きうすけ》さまがエチエチと  |媒介《なかうど》せうとて|来《く》るのだらう
お|前《まへ》も|俺《おれ》に|添《そ》うたなら  |今日《けふ》から|此方《ここ》の|奥様《おくさま》だ
この|家屋敷《いへやしき》もすつかりと  お|前《まへ》と|俺《おれ》の|共有物《きよういうぶつ》
にはかに|蠑〓《いもり》が|竜《りう》となり  |天上《てんじやう》したよな|出世《しゆつせ》ぞや
キユーバー|司《つかさ》の|救世主《きうせいしゆ》は  お|前《まへ》のためには|福《ふく》の|神《かみ》
あまり|憎《にく》うはあるまい』と  |曲《まが》つた|口《くち》から|吹《ふ》き|立《た》てる
お|三《さん》は|顔《かほ》を|赤《あか》くして
『これこれ|申《まを》しキユーバーさま  そんな|話《はなし》ぢやありませぬ
|深《ふか》い|様子《やうす》は|知《し》らねども  |杢助《もくすけ》さまが|渡《わた》された
お|金《かね》がさつぱり|夜《よる》の|間《ま》に  |木《こ》の|葉《は》になつてしまうたと
|親方《おやかた》さまの|御立腹《ごりつぷく》  これやかうしてはゐられない
お|役人衆《やくにんしう》に|訴《うつた》へて  お|前《まへ》と|杢助《もくすけ》|夫婦《ふうふ》をば
|縛《しば》つてもらふかと|御相談《ごさうだん》  |妾《わたし》は|聞《き》くに|聞《き》き|兼《か》ねて
まうしまうし|御主人様《ごしゆじんさま》  |御立腹《ごりつぷく》|遊《あそ》ばすは|尤《もつと》もなれど
|短気《たんき》は|損気《そんき》と|申《まを》します  |一《ひと》まづ|隣《となり》のキユーバーさまに
|実否《じつぴ》を|糺《ただ》した|其《その》|上《うへ》で  |訴《うつた》へなさるが|宜《よ》からうと
|申《まを》し|上《あ》げたら|御主人《ごしゆじん》は  そんならお|前《まへ》に|任《まか》すから
キユーバーが|居《を》るか|居《を》らないか  |調《しら》べて|来《こ》いとの|御命令《ごめいれい》
よもや|如才《じよさい》はありますまいが  |贋札《にせさつ》などを|使《つか》うたら
お|上《かみ》の|規則《きそく》に|照《て》らされて  |臭《くさ》いお|飯《まんま》|食《く》はにやならむ
それが|気《き》の|毒《どく》と|思《おも》うた|故《ゆゑ》  |主人《しゆじん》の|鋭鋒《えいほう》|止《と》めおいて
|親切《しんせつ》づくで|来《き》ましたよ』  |言《い》へばキユーバーは|驚《おどろ》いて
『そんな|怪体《けたい》の|事《こと》あろか  |正真正銘《しやうしんしやうめい》の|百円札《ひやくゑんさつ》
|手《て》の|切《き》れさうな|新《あたら》しい  |立派《りつぱ》なお|金《かね》ぢやなかつたか
|昨夜《さくや》の|間《あひだ》に|泥棒《どろばう》が  お|前《まへ》の|家《うち》へ|飛《と》び|込《こ》んで
お|金《かね》をすつかりかつ|攫《さら》へ  |木《こ》の|葉《は》とかへておいたのだらう
そんな|馬鹿《ばか》らしい|出来事《できごと》が  |三千世界《さんぜんせかい》にあるものか
|何《なに》はともかく|久助《きうすけ》を  |連《つ》れて|出《で》て|来《こ》いキユーバーが
|天地《てんち》の|道理《だうり》を|説《と》き|聞《き》かせ  |疑念《うたがひ》|晴《は》らしてやるほどに
アハハハハハハわけもない  しやつちもない|事《こと》|言《い》うて|来《く》る』
などと|嘯《うそぶ》き|取《と》り|合《あ》はぬ  お|三《さん》は|止《や》むなく|立《た》ち|帰《かへ》り
|主人《しゆじん》の|前《まへ》に|両手《りやうて》つき  キユーバーの|言葉《ことば》そのままに
|委曲《つぶさ》に|談《かた》れば|久助《きうすけ》は  しきりに|首《くび》を|振《ふ》りながら
キユーバー|館《やかた》をさして|行《ゆ》く  キユーバーは|又《また》もや|揚股《あげまた》を
|打《う》つて|鼻歌《はなうた》|謡《うた》ひつつ  |冥想《めいさう》に|耽《ふけ》るをりもあれ
|表戸《おもてど》ガラリと|引開《ひきあ》けて  |血相《けつさう》|荒《あら》く|入《い》り|来《き》たる
|樽屋《たるや》の|主《あるじ》|久助《きうすけ》は  |御免《ごめん》なさいと|慳貪《けんどん》な
|言葉《ことば》の|端《はし》も|荒《あら》らかに  |庭《には》にすつくと|立《た》つたまま
『|山子坊主《やまこばうず》のキユーバーさま  お|前《まへ》はよつぽど|悪党《あくたう》だ
|杢助《もくすけ》|夫婦《ふうふ》と|腹《はら》|合《あは》せ  |魔法《まはふ》を|使《つか》つて|木《き》の|落葉《おちば》
|金《かね》と|見《み》せかけ|甘々《うまうま》と  |大事《だいじ》の|大事《だいじ》の|吾《わ》が|家《いへ》を
|横領《わうりやう》いたした|曲者《くせもの》よ  もう|了簡《れうけん》はならないほどに
どんな|言《い》ひ|訳《わけ》なさろとも  |決《けつ》して|耳《みみ》はかしませぬ
バラモン|役所《やくしよ》へ|訴《うつた》へて  |私《わたし》が|白《しろ》いかお|前等《まへら》の
|腹《はら》が|黒《くろ》いかきつぱりと  |分《わ》けてもらはにやおきませぬ
|覚悟《かくご》を|定《き》めてゐて|下《くだ》されよ  いま|番頭《ばんとう》をお|役所《やくしよ》へ
|出頭《しゆつとう》さしておきました  やがて|繩目《なはめ》の|恥《はぢ》をかき
|町内《ちやうない》|隈《くま》なく|籐丸籠《とうまるかご》に|乗《の》せられて  |詐欺《さぎ》|横領《わうりやう》の|罪人《ざいにん》と
|引《ひ》き|廻《まは》されて|町人《まちびと》の  |笑《わら》ひの|種《たね》となつた|上《うへ》
お|前《まへ》の|命《いのち》は|風前《ふうぜん》の  |燈火《とうくわ》となつて|消《き》えるだろ
|南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》|阿弥陀仏《あみだぶつ》  |頓生菩提《とんしやうぼだい》|惟神《かむながら》
|目玉《めだま》|飛《と》び|出《だ》しましませ』と  |体《からだ》をぷりぷりゆすりつつ
|閾《しきゐ》を|蹴《け》たてて|帰《かへ》り|行《ゆ》く  |後《あと》にキユーバーは|手《て》を|組《く》んで
『|自分《じぶん》の|金《かね》でもないものを  |自分《じぶん》の|金《かね》だと|法螺《ほら》|吹《ふ》いた
その|天罰《てんばつ》が|報《むく》い|来《き》て  |杢助《もくすけ》|夫婦《ふうふ》の|罪科《つみとが》の
|相伴《しやうばん》せなくちやならないか  ほんに|思《おも》へば|口惜《くちを》しい
|昔《むかし》の|聖人《せいじん》の|教《をしへ》にも  |口《くち》は|禍《わざは》ひの|門《もん》とやら
もうこれからは|心得《こころえ》て  |決《けつ》して|嘘《うそ》は|言《い》はうまい
とは|言《い》ふもののこの|証《あか》り  どしたらはつきり|立《た》つだらう』
などと|青息吐息《あをいきといき》つき  |表戸《おもてど》ぴしやりと|引《ひ》きしめて
|離棟《はなれ》の|館《やかた》に|立籠《たてこも》り  |中《なか》から|錠《ぢやう》を|卸《おろ》しおき
|長持《ながもち》|開《あ》けて|中《なか》に|入《い》り  |布団《ふとん》|被《かぶ》つて|慄《ふる》ひゐる
キユーバーの|身《み》こそ|憐《あは》れなり。
(大正一五・七・一 旧五・二二 於天之橋立なかや別館 加藤明子録)
第二一章 |大会合《だいくわいがふ》〔一八三〇〕
スガの|港《みなと》の|百万長者《ひやくまんちやうじや》と|聞《き》こえたる|薬種問屋《やくしゆどひや》の|奥《おく》の|室《ま》には、|若主人《わかしゆじん》のイルクをはじめ|老父《らうふ》のアリスにダリヤ|姫《ひめ》、ヨリコ|姫《ひめ》、|花香姫《はなかひめ》、|門番《もんばん》のアル、エスおよびスガの|宮《みや》の|神司《かむつかさ》たりし|玉清別《たまきよわけ》までが|首《くび》を|鳩《あつ》めて|密談《みつだん》に|耽《ふけ》つてゐる。
ヨリコ『アリス|様《さま》、イルク|様《さま》、その|他《た》|皆《みな》さまに、|妾《わらは》はお|詫《わび》をいたさねばなりませぬ。せつかく|大枚《たいまい》なお|金《かね》を|出《だ》して、|立派《りつぱ》なお|宮《みや》を|造《つく》つて|頂《いただ》き、|道場《だうぢやう》の|主《あるじ》とまで|任《ま》けられまして、|身《み》に|余《あま》る|光栄《くわうえい》に|浴《よく》してをりましたが、ツイ|妾《わらは》の|慢心《まんしん》より|宗教問答所《しうけうもんだふどころ》などと|看板《かんばん》を|掲《かか》げたのが|災《わざはひ》の|因《もと》となり、|妾《わらは》を|初《はじ》め|玉清別《たまきよわけ》|様《さま》、ダリヤ|姫様《ひめさま》、および|御一門《ごいちもん》に|対《たい》し、|非常《ひじやう》の|損害《そんがい》をおかけ|致《いた》しその|罪《つみ》まことに|万死《ばんし》に|値《あたひ》いたします。|熟々《つらつら》|考《かんが》へますれば、オーラ|山《さん》に|立籠《たてこも》り|泥棒《どろばう》の|親分《おやぶん》とまでなつて|悪事《あくじ》|悪行《あくかう》を|敢行《かんかう》してきた|罪《つみ》|深《ふか》い|体《からだ》、どうして|神様《かみさま》のお|屋敷《やしき》に|勤《つと》めることが|出来《でき》ませう。|折角《せつかく》の|聖地《せいち》もウラナイ|教《けう》の|高姫《たかひめ》さまに|渡《わた》さねばならないやうな|破目《はめ》になりました。これ|皆《みな》|妾《わらは》の|至《いた》らぬ|罪《つみ》でございますから、|何《なに》とぞ|何《なに》とぞ|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》の|御成敗《ごせいばい》を|願《ねが》ひたうございます』
アリス『ヨリコ|姫様《ひめさま》、|左様《さやう》なお|心遣《こころづか》ひは|御無用《ごむよう》にして|下《くだ》さい。|三万《さんまん》や|五万《ごまん》の|金《かね》を|使《つか》つてお|宮《みや》を|建《た》てたところで、|別《べつ》に|私《わたくし》の|宅《たく》の|財産《しんしやう》が|傾《かたむ》くといふわけでもなし、|一旦《いつたん》、ウラナイ|教《けう》に|渡《わた》した|以上《いじやう》は|是非《ぜひ》なしとして、|再《ふたた》び|以前《いぜん》に|幾層倍《いくそうばい》|増《ま》した|立派《りつぱ》な|御神殿《ごしんでん》を|造《つく》り|上《あ》げ、ウラナイ|教《けう》の|向《む》かふを|張《は》つて|見《み》せてやらうぢやありませぬか。なア|伜《せがれ》、お|前《まへ》はどう|思《おも》ふか、|老《お》いては|子《こ》に|従《したが》へといふ|事《こと》もあるから、お|前《まへ》の|意見《いけん》に|任《まか》しておく』
イルク『|当家《たうけ》の|財産《ざいさん》は、もとより|罪《つみ》の|固《かた》まりで|出来《でき》たのですから、なにほど|立派《りつぱ》なお|宮《みや》を|建《た》てても、|神様《かみさま》の|御用《ごよう》に|立《た》たないのは|必然《ひつぜん》の|結果《けつくわ》です。|決《けつ》して|私《わたくし》は|惜《を》しいとは|思《おも》ひませぬ。|神様《かみさま》のお|許《ゆる》しあれば、|当家《たうけ》の|財産《ざいさん》|全部《ぜんぶ》を|投《な》げ|出《だ》して|立派《りつぱ》なお|宮《みや》を|造《つく》りたうございます』
アリス『|成程《なるほど》、|伜《せがれ》の|言《い》ふ|通《とほ》りだ、お|前《まへ》に|何《なに》も|彼《か》も|一任《いちにん》しておく。|皆《みな》さま、|伜《せがれ》とトツクリ|相談《さうだん》して|下《くだ》さい、|私《わたくし》は|老年《としより》の|身《み》、|失礼《しつれい》いたしまして、|離棟《はなれ》で|休《やす》ましてもらひます』
と|座敷杖《ざしきづゑ》をつきながら、|病《や》みあがりの|体《からだ》を|引《ひ》き|摺《ず》つて|離棟《はなれ》をさして|出《い》でて|行《ゆ》く。
|玉清《たまきよ》『|私《わたくし》も|永年《ながねん》の|間《あひだ》|神谷村《かみたにむら》で|苦労艱難《くらうかんなん》をいたし、|何《なん》とかして|三五《あななひ》の|道《みち》を|再興《さいこう》させたいものと|千辛万慮《せんしんばんりよ》の|結果《けつくわ》、|当家《たうけ》の|発起《ほつき》によつて|立派《りつぱ》な|宮《みや》が|建《た》て|上《あ》がり、|大神様《おほかみさま》の|神司《かむづかさ》となり、|先祖《せんぞ》も|業《げふ》をつむ|事《こと》になつて|大変《たいへん》に|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで|奉仕《ほうし》してをりましたが、モウかうなれば、|何《なん》とも|致《いた》し|方《かた》がございませぬ。|私《わたくし》はこれより|神谷村《かみたにむら》に|立《た》ち|帰《かへ》り、もとのごとく|里庄《りしやう》をつとめ、|村民《そんみん》を|安堵《あんど》させてやりませう』
ダリヤ『モシ、|玉清別《たまきよわけ》|様《さま》、あまりお|気《き》が|短《みじか》いぢやありませぬか。どうぞ|暫《しばら》く、|何《なん》とか|定《きま》るまで|待《ま》つてゐて|下《くだ》さいませ。やがて|間《ま》もなく、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》がお|出《い》で|遊《あそ》ばすでせうから、その|上《うへ》トツクリ|御相談《ごさうだん》|遊《あそ》ばしての|上《うへ》のことに|願《ねが》ひたうございますす』
|玉清《たまきよ》『|敗軍《はいぐん》の|将《しやう》は|兵《へい》を|語《かた》らず、|然《しか》らば|少時《しばらく》お|言葉《ことば》に|甘《あま》へ、|逗留《とうりう》さして|頂《いただ》きませう』
アル『モシ|若旦那《わかだんな》さま、|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》|要《い》りませぬよ、キツとあの|高姫《たかひめ》といふ|奴《やつ》、|今《いま》に|尻尾《しつぽ》を|出《だ》しますからマア|暫《しばら》く|待《ま》つてゐて|下《くだ》さい。|私《わたくし》とエスとが|一生懸命《いつしやうけんめい》に|彼奴《あいつ》の|素性《すじやう》を|探索《たんさく》してゐます。モウここ|十日《とをか》と|経《た》たない|中《うち》に、キツと|杢助《もくすけ》|夫婦《ふうふ》を|叩《たた》き|出《だ》して|御覧《ごらん》に|入《い》れます。キユーバーの|野郎《やらう》も|臭《くさ》い|代物《しろもの》です。|少時《しばらく》|成行《なりゆ》きに|任《まか》して|見《み》てゐたらどうでせう』
イルク『いかにも、|彼奴《あいつ》ア、|私《わたくし》も|怪《あや》しい|奴《やつ》だと|思《おも》つてゐる、キツと|神様《かみさま》が|善悪《ぜんあく》を|裁《さば》いて|下《くだ》さるだらう。|大国常立尊《おほくにとこたちのみこと》|様《さま》、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》|様《さま》は、あのやうな|悪人《あくにん》に|聖場《せいぢやう》を|任《まか》して、|安閑《あんかん》と|見《み》てござるやうな、ヘドロい|神様《かみさま》ぢやございますまい』
かく|話《はなし》してゐる|所《ところ》へドヤドヤと|入《い》り|来《き》たるは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|照国別《てるくにわけ》、|照公《てるこう》、|玄真坊《げんしんばう》、コオロ、コブライの|五人連《ごにんづ》れであつた。
|照国《てるくに》『|御免《ごめん》なさいませ、|拙者《せつしや》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|照国別《てるくにわけ》でございます。|梅公《うめこう》が|何時《いつ》やらは、いかいお|世話《せわ》に|預《あづ》かつたさうでございますが、まだ|彼《かれ》は|当家《たうけ》へは|帰《かへ》つてをりませぬか』
イルク『ハイ、|貴方《あなた》が|噂《うはさ》に|高《たか》き|照国別《てるくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》でございましたか、|私《わたくし》は|当家《たうけ》の|主《あるじ》、イルクと|申《まを》します、いい|処《ところ》へ|来《き》て|下《くだ》さいました。サアサアどうか|奥《おく》へお|通《とほ》り|下《くだ》さいませ』
|照公《てるこう》『|拙者《せつしや》は|照国別《てるくにわけ》|様《さま》の|弟子《でし》、|照公《てるこう》と|申《まを》します、|何分《なにぶん》よろしく』
|玄真《げんしん》『|拙者《せつしや》は|玄真坊《げんしんばう》と|申《まを》す|修験者《しゆげんじや》でございます、|何分《なにぶん》よろしくお|見知《みし》りおき|下《くだ》さいまして|以後《いご》|御懇意《ごこんい》に|願《ねが》ひます』
コオ『|奴輩《やつがれ》はコオロと|申《まを》す、あまり、|善《よ》くもない、|悪《わる》くもない|三品野郎《さんぴんやらう》でげす。|不思議《ふしぎ》にも|照国別《てるくにわけ》|様《さま》|一行《いつかう》に|難船《なんせん》した|処《ところ》を|救《たす》けられお|伴《とも》になつて|参《まゐ》りました。どうか|門番《もんばん》にでも|使《つか》つてやつて|下《くだ》さい』
コブ『|奴輩《やつがれ》はコブライと|申《まを》しまして、チツとばかり|名《な》の|売《う》れたやうな、|売《う》れぬやうな|侠客渡世《けふかくとせい》を|致《いた》しますものでございます。|何分《なにぶん》よろしくお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
イル『ヤア|皆様《みなさま》、よくこそお|出《い》で|下《くだ》さいました。|何《なに》はともあれ|照国別《てるくにわけ》|宣伝使《せんでんし》|様《さま》と|共《とも》に|奥《おく》へお|通《とほ》り|下《くだ》さい、チツとばかり|当家《たうけ》には|心配事《しんぱいごと》が|起《おこ》りまして、|相談《さうだん》の|最中《さいちう》でございます』
|照公《てるこう》『いかなる|御心配《ごしんぱい》か|知《し》りませぬが、|幸《さいは》ひ|先生《せんせい》もゐらつしやるし、|及《およ》ばずながらお|力《ちから》になりませう』
イル『ハイ、|有難《ありがた》うございます。|何分《なにぶん》よろしく』
と|挨拶《あいさつ》し、|自《みづか》ら|茶《ちや》を|出《だ》し|菓子《くわし》を|出《だ》し、|力《ちから》かぎりに|饗応《きやうおう》する。
|照国《てるくに》『|当家《たうけ》は|非常《ひじやう》な|旧家《きうか》と|見《み》えますな、|庭石《にはいし》の|苔《こけ》むしたる|趣《おもむき》といひ、|石燈籠《いしどうろう》といひ、|旅《たび》の|疲《つか》れを|慰《なぐさ》むるには|屈強《くつきやう》のお|座敷《ざしき》、イヤ、どうも|立派《りつぱ》なお|座敷《ざしき》を|汚《けが》して|済《す》みませぬ』
イル『|何《なに》を|仰有《おつしや》います。|見《み》る|影《かげ》もなき|破家《あばらや》に|駕《かご》を|抂《ま》げられまして、|一家《いつか》|一門《いちもん》の|光栄《くわうえい》これに|過《す》ぎたる|事《こと》はございませぬ。|子孫《しそん》の|代《だい》まで|言《い》ひ|伝《つた》へて|喜《よろこ》ぶでございませう』
|玉清《たまきよ》『|私《わたくし》は|神谷村《かみたにむら》の|玉清別《たまきよわけ》と|申《まを》す|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》でございます。|照国別《てるくにわけ》|様《さま》とやら、|何卒《なにとぞ》なにとぞお|見知《みし》りおかれまして、|今後《こんご》とも、よろしく|御指導《ごしだう》の|程《ほど》をお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
|照国《てるくに》『ヤアあなたは|噂《うはさ》に|承《うけたまは》つた|玉清別《たまきよわけ》|様《さま》でございますか、これは|珍《めづら》しい|処《ところ》でお|目《め》にかかりました。|何分《なにぶん》よろしくお|願《ねが》ひいたします。|時《とき》にイルクさま、|今《いま》ちよつと|承《うけたまは》れば|当家《たうけ》には|何《なに》か|取込事《とりこみごと》があつて|御相談《ごさうだん》の|最中《さいちう》だと|聞《き》きましたが、どうかお|邪魔《じやま》になれば|席《せき》を|外《はづ》しますから』
イル『イヤ、|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》には|及《およ》びませぬ、|実《じつ》のところはスガの|宮《みや》の|件《けん》につきまして……』
と|一伍一什《いちぶしじふ》を|詳細《しやうさい》に|物語《ものがた》つた。
|照国別《てるくにわけ》は「ウーン」と|言《い》つたきり|双手《もろて》を|組《く》んで|少時《しばし》|思案《しあん》にくれてゐたが、|何《なに》か|期《き》するところあるもののごとく|膝《ひざ》をハタと|打《う》ち|三《み》つ|四《よ》つ|頷《うなづ》いて、
『ヤ、|分《わか》りました、どうか|私《わたくし》に|任《まか》して|下《くだ》さい、この|解決《かいけつ》はキツとつけて|上《あ》げませう』
イル『|何分《なにぶん》よろしく、お|頼《たの》み|申《まを》します』
ヨリ『|照国別《てるくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|妾《わらは》は|貴方《あなた》のお|弟子《でし》|梅公別《うめこうわけ》さまに|非常《ひじやう》なお|世話《せわ》に|預《あづ》かつたものでございます。|此処《ここ》にをりまするのは|花香《はなか》といつて|妾《わらは》の|妹《いもうと》でございますが、|不思議《ふしぎ》の|縁《えん》で|梅公別《うめこうわけ》|様《さま》の|妻《つま》にして|頂《いただ》く|事《こと》に|内定《ないてい》してゐるものでございます。|何分《なにぶん》よろしくおとりなしをお|願《ねが》ひ|申《まを》し|上《あ》げます』
|照国《てるくに》『ヤ、かねて|梅公別《うめこうわけ》からヨリコ|姫様《ひめさま》の|事《こと》も|花香姫《はなかひめ》|様《さま》の|事《こと》も|聞《き》いてをります、|何事《なにごと》も|神様《かみさま》の|思召《おぼしめ》し|次第《しだい》ですからな』
|花香《はなか》『これはこれはお|師匠様《ししやうさま》、|初《はじ》めてお|目《め》にかかります。|妾《わらは》はいま|姉《あね》の|申《まを》しました|通《とほ》り、|梅公別《うめこうわけ》さまに|大変《たいへん》な|御贔屓《ごひいき》に|預《あづ》かつてゐる|花香《はなか》でございます。|何分《なにぶん》よろしく……|今後《こんご》のお|世話《せわ》をお|願《ねが》ひ|申《まを》しまする』
かく|互《たが》ひに|挨拶《あいさつ》なせるをりしも、|梅公別《うめこうわけ》の|宣伝使《せんでんし》は|重《おも》たげに|大《おほ》きな|葛籠《つづら》を|背負《せお》ひ、エチエチ|入《い》り|来《き》たり、
|梅公《うめこう》『ア、|御免《ごめん》なさい、|梅公別《うめこうわけ》です、|大変《たいへん》な|御無沙汰《ごぶさた》をいたしました』
|番頭《ばんとう》のアルは|頭《あたま》をピヨコピヨコ|下《さ》げながら、
『ヤア、よう|来《き》て|下《くだ》さいました、|先生《せんせい》、|若旦那様《わかだんなさま》も、|大旦那様《おほだんなさま》も|大変《たいへん》、|先生《せんせい》のお|越《こ》しをお|待《ま》ちでございました。これから|一寸《ちよつと》|奥《おく》へ|申《まを》して|来《き》ますから』
|梅公《うめこう》『イヤ、それには|及《およ》びませぬ、|照国別《てるくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|見《み》えてゐるでせう。……|私《わたくし》の|方《はう》から|伺《うかが》ひます』
と、|大葛籠《おほつづら》を|玄関《げんくわん》にソツと|下《おろ》し、|案内《あんない》もなく|屋内《おくない》さしてニコニコしながら|進《すす》み|入《い》る。
|梅公《うめこう》『ヤ、|先生《せんせい》はじめ|皆《みな》さま、|御一同《ごいちどう》、お|早《はや》うございましたね』
|照国《てるくに》『ヤ、|今《いま》|当家《たうけ》へ|伺《うかが》つたところだ、|実《じつ》はお|前《まへ》が、あの|暴風雨《しけ》に|小舟《こぶね》を|出《だ》して|浪《なみ》の|上《うへ》に|消《き》えてしまつたものだから、|少《すこ》しばかり|心配《しんぱい》してゐたのだ。ヤ、|無事《ぶじ》で|結構々々《けつこうけつこう》、|花香姫《はなかひめ》も|先《ま》づ|先《ま》づ|御安心《ごあんしん》だらう』
ヨリ『|梅公別《うめこうわけ》の|先生様《せんせいさま》、お|久《ひさ》しう|御目《おめ》にかかりませぬ、|先《ま》づ|先《ま》づ|御無事《ごぶじ》でお|目出《めで》たうございます。|花香《はなか》も|大変《たいへん》にお|待《ま》ち|申《まを》した|様子《やうす》でございます、これ|花香《はなか》、|早《はや》く|御挨拶《ごあいさつ》を|申《まを》さないか』
|花香姫《はなかひめ》は|顔《かほ》を|赤《あか》らめながら|恥《は》づかしさうに|手《て》をついて、
『アノ、|旦那様《だんなさま》、イーエ、|梅公別《うめこうわけ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、お|久《ひさ》しうございます、|妾《わたし》、どれほど|待《ま》つてゐたか|知《し》れませぬのよ』
|梅公別《うめこうわけ》は|無雑作《むざふさ》に|愛想《あいそ》よく、
『ヤ、|奥《おく》さま、イヤ|奥《おく》さまと|言《い》つては|済《す》まないが、|花香姫《はなかひめ》さま、|先《ま》づ|先《ま》づ|御壮健《ごさうけん》でお|目出《めで》たう、|私《わたし》だつてヤツパリ|花香《はなか》さまの|事《こと》ア|何時《いつ》でも|忘《わす》れてゐやしませぬよ』
|花香《はなか》『ハイ、|有難《ありがた》うございます。そのお|言葉《ことば》を|聞《き》いて|得心《とくしん》いたしました』
|照公《てるこう》『オイ、|梅公《うめこう》、|馬鹿《ばか》にすない、|何《なに》かおごつてもらはうかい。|俺《おれ》の|前《まへ》で、おやすくない|処《ところ》を|見《み》せつけやがつて、あまりひどいぢやないか、アツハハハ』
ヨリ『|梅公別《うめこうわけ》さま、|当然《あたりまへ》ですわね、これ|花香《はなか》さま、|何《なに》もオヂオヂすることはありませぬよ。|言《い》ひたい|事《こと》あれば|人《ひと》さまの|中《なか》でも|構《かま》はない、ドシドシ|言《い》つたがよい、|憚《はばか》りながら|姉《ねえ》さまがついてをりますからな』
|照公《てるこう》『ヤ、これは|堪《たま》らぬ、お|面《めん》、お|小手《こて》、お|胴《どう》、お|突《つき》とござるワイ。ヤ、かうなりやいよいよ|敗北《はいぼく》だ。|照公砲台《てるこうはうだい》も|沈黙《ちんもく》せなくちやなるまい、ウツフフフフ』
|梅公《うめこう》『|仇話《あだばなし》はさておいて、|海上《かいじやう》から【ほのか】にスガ|山《やま》の|聖地《せいち》を|見《み》れば|怪《あや》しい|雲《くも》が|立《た》つてゐました。|何《なに》か|変《かは》つた|事《こと》はありませぬかな』
イル『ハイ、お|察《さつ》しの|通《とほ》り、その|事《こと》に|就《つ》きまして|今《いま》、|相談会《さうだんくわい》を|開《ひら》いてをつたところでございます』
|梅公《うめこう》『|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》、キユーバー|等《とう》の|悪人《あくにん》が|聖地《せいち》を|占領《せんりやう》せむとしてゐるのでせう』
イル『ハイ、|已《すで》に|占領《せんりやう》されてしまつたのです。|最早《もはや》|今《いま》となつては、|手《て》の|出《だ》しやうもございませぬので……』
|梅公《うめこう》『|決《けつ》して|心配《しんぱい》なさるな、|梅公別《うめこうわけ》がキツと|解決《かいけつ》をつけませう、|悪人輩《あくにんばら》を|一言《いちごん》のもとに|叩《たた》き|出《だ》し、もとの|聖地《せいち》に|回復《くわいふく》せむは|吾《わ》が|方寸《はうすん》にございます。ヨリコさまもダリヤさまも、|玉清別《たまきよわけ》さまも|安心《あんしん》して|下《くだ》さい、キツともとの|通《とほ》りにしてお|目《め》にかけませう。おほかた、|高姫《たかひめ》と|言《い》ふ|奴《やつ》、ヨリコさまの|素性《すじやう》を|洗《あら》ひ、|理窟《りくつ》づくめに|放《ほ》り|出《だ》したのでせう』
ヨリ『ハイ、お|察《さつ》しの|通《とほ》りでございます。|何分《なにぶん》|汚《けが》れた|魂《みたま》でございますから、|聖場《せいぢやう》を|守《まも》るなどといふ|大《だい》それた|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|妾《わたし》の|慢心《まんしん》から|柄《がら》にも|合《あ》はぬ|宮仕《みやづか》へを|致《いた》しまして|聖場《せいぢやう》を|汚《けが》し、|皆《みな》さまに|対《たい》し|申訳《まをしわけ》がないので、この|通《とほ》り|悄《しほ》れ|返《かへ》つてゐるのでございます』
|梅公《うめこう》『|昔《むかし》は|昔《むかし》、|今《いま》は|今《いま》、たとへ|如何《いか》なる|悪事《あくじ》があつても、|悔《く》い|改《あらた》めた|以上《いじやう》は|白無垢同然《しろむくどうぜん》、|一点《いつてん》の|罪《つみ》も|汚《けが》れもあらう|筈《はず》がありませぬ、|左様《さやう》な|御心配《ごしんぱい》は|御無用《ごむよう》になさいませ』
と|慰《なぐさ》めおき、|照国別《てるくにわけ》、イルク、|玉清別《たまきよわけ》を|別室《べつしつ》に|招《まね》き、|高姫《たかひめ》|追放《つゐはう》の|計画《けいくわく》に|密議《みつぎ》をこらし|悠然《いうぜん》として|再《ふたた》びもとの|座《ざ》に|帰《かへ》り|来《き》たり、
|梅公《うめこう》『|大空《おほぞら》に|塞《ふさ》がる|黒雲《くろくも》|吹《ふ》き|払《はら》ひ
|月日《つきひ》を|照《て》らす|科戸辺《しなどべ》の|神《かみ》
よしやよし|醜《しこ》の|黒雲《くろくも》|包《つつ》むとも
|科戸辺《しなどべ》の|神《かみ》|吹《ふ》きや|払《はら》はむ』
これより|一同《いちどう》はスガ|山《やま》|回復《くわいふく》の|策戦《さくせん》|計画《けいくわく》の|準備《じゆんび》に|各々《おのおの》|手分《てわ》けをして|取《と》りかかり、|明日《みやうにち》を|期《き》して|大挙《たいきよ》スガ|山《やま》に|神軍《しんぐん》を|進《すす》むる|事《こと》とした。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一五・七・一 旧五・二二 於天之橋立なかや旅館 北村隆光録)
第二二章 |妖魅帰《よみがへり》〔一八三一〕
スガの|宮《みや》の|神司《かむつかさ》|玉清別《たまきよわけ》を|初《はじ》め、|天人《てんによ》のやうな|三人《さんにん》の|美人《びじん》が|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》と|問答《もんだふ》の|結果《けつくわ》、|放逐《はうちく》されたといふ|評判《ひやうばん》が、スガの|町《まち》をはじめ|近在《きんざい》|近郷《きんがう》まで|電《いなづま》のごとく|俄《には》かに|拡《ひろ》がつてしまつた。それゆゑスガの|神館《かむやかた》は|押《お》すな|押《お》すなの|大繁昌《だいはんじやう》、|立錐《りつすゐ》の|余地《よち》なきまで|参詣者《さんけいしや》が|集《あつ》まつて|来《き》た。|宗教問答所《しうけうもんだふどころ》の|看板《かんばん》は|矢張《やは》り|以前《いぜん》のまま|掲《かか》げられ、|唯《ただ》|違《ちが》つたところはヨリコ|姫《ひめ》の|名《な》が|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》と|書《か》き|替《か》へられたばかりである。|智仁勇《ちじんゆう》の|三徳《さんとく》を|備《そな》へたとばかり|町人《まちびと》の|評判《ひやうばん》になつてゐたヨリコ|姫《ひめ》を、|説《と》き|伏《ふ》せるやうな|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》は、どんな|偉《えら》い|奴《やつ》かも|知《し》れないといふので、|看板《かんばん》はあつても|問答《もんだふ》せうといふものは|一人《ひとり》もなかつた。|妖幻坊《えうげんばう》は|例《れい》のごとく|離棟《はなれ》の|室《しつ》に|固《かた》く|錠《ぢやう》を|卸《おろ》して|昼《ひる》の|中《うち》は|眠《ねむ》つてゐる。
コオロ、コブライの|二人《ふたり》は|偵察隊《ていさつたい》として|朝《あさ》|未明《まだき》より|入《い》り|来《き》たり|玄関《げんくわん》に|立《た》ち|塞《ふさ》がり、「|頼《たの》まう|頼《たの》まう」と|呼《よ》ばはれば、|悠然《いうぜん》として|現《あら》はれ|来《き》たる|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》は、
『|玄関《げんくわん》に|頼《たの》むと|声《こゑ》をかけゐるは
|誰《たれ》が|命《みこと》か|聞《き》かまほしさよ』
コオ『|吾《われ》こそはスガのお|宮《みや》に|詣《まう》できて
|看板《かんばん》を|見《み》て|問答《もんだふ》せむと|思《おも》ふ』
コブ『|吾《われ》とても|宗教問答所《しうけうもんだふしよ》の|看板《かんばん》を
|見《み》て|腹《はら》が|立《た》ち|君《きみ》を|訪《と》ひけり』
|高姫《たかひめ》『|面白《おもしろ》し|睡《ねむ》けさましに|汝《なれ》|二人《ふたり》
|吾《わ》が|言霊《ことたま》に|薙《な》ぎふせて|見《み》む』
コオ『|偉《えら》さうに|仰有《おつしや》りますな|照月《てるつき》に
|黒雲《くろくも》かかるためしこそあれ』
コブ『|如何《いか》ほどに|知恵《ちゑ》さかしとも|女《をんな》の|身《み》
|太《いか》い|男《をとこ》に|勝《か》ち|得《う》べきかは』
|高姫《たかひめ》『|男《をとこ》てふ|衣《ころも》|被《かぶ》りしこけ|女《をんな》
なにかはあらむ|一時《いちどき》に|来《こ》よ』
コオ『|今《いま》|暫《しば》し|待《ま》つてござれよ|眩《めま》ひする
やうな|珍事《ちんじ》が|突発《とつぱつ》するぞや』
コブ『|何《なん》なりと|吐《ほざ》いてござれ|今《いま》|暫《しば》し
|汝《な》が|断末魔《だんまつま》|近《ちか》くありせば』
|高姫《たかひめ》『|見《み》る|影《かげ》もなき|木《こ》わつ|葉《ぱ》が|玄関《げんくわん》に
|立《た》ちてたはごと|吐《ほざ》くをかしさ』
コオ『|高姫《たかひめ》よ|暫《しばら》く|待《ま》てよ|汝《なれ》こそは
|見《み》る|影《かげ》もなきやうにしてやる』
コブ『えらさうに|言《い》つても|一寸先《いつすんさき》|見《み》えぬ
|曲津《まがつ》の|盲《めくら》|哀《あは》れなるかな』
|高姫《たかひめ》『|朝《あさ》|早《はや》く|神《かみ》の|館《やかた》に|乗《の》り|込《こ》んで
|縁起《えんぎ》の|悪《わる》い|口《くち》を|開《あ》くなよ』
コオ『おのが|尻《しり》つめつて|人《ひと》の|痛《いた》さをば
|知《し》らぬ|愚《おろ》か|者《もの》あはれなりけり』
コブ『|身《み》も|魂《たま》も|痺《しび》れ|果《は》てたる|曲津身《まがつみ》は
|刃《やいば》にさすも|耐《こた》へざるらむ』
|高姫《たかひめ》『|訳《わけ》もなきことをベラベラ|吐《ほざ》くより
|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》なりとせよかし』
コオ『スガ|山《やま》の|塵《ちり》|吹《ふ》き|払《はら》ふ|大掃除《おほさうぢ》
|日《ひ》のある|中《うち》にはじめてくれむ』
コブ『|神々《かみがみ》がいよいよ|表《おもて》に|現《あら》はれて
|狸《たぬき》の|尻尾《しつぽ》|露《あら》はして|見《み》む』
|高姫《たかひめ》『|何《なに》をいふ|狐《きつね》|狸《たぬき》の|身魂《みたま》|奴《め》が
|誠《まこと》の|神《かみ》の|前《まへ》|恐《おそ》れぬか』
コオ『|間男《まをとこ》か|真《まこと》の|神《かみ》か|知《し》らねども
どこやら|臭《くさ》い|糞《くそ》の|香《か》ぞする』
コブ『|臭《くさ》いはず|千草《ちくさ》の|姫《ひめ》と|言《い》ふぢやないか
|鼻高姫《はなたかひめ》よ|鼻《はな》を|折《を》られな』
|高姫《たかひめ》『|吾《われ》こそは|高天原《たかあまはら》より|下《くだ》りしゆ
|名《な》を|高姫《たかひめ》と|言《い》ふぞ|尊《たふと》き』
コオ『|何《なに》ぬかす|訳《わけ》も|知《し》らずに|偉《えら》さうに
|頬桁《ほほげた》たたく|事《こと》のをかしさ』
コブ『この|女郎《めらう》|妖幻坊《えうげんばう》の|妖怪《えうくわい》に
|現《うつつ》をぬかす|馬鹿女《ばかをんな》かも』
|高姫《たかひめ》『やかましい|玄関先《げんくわんさき》でつべこべと
|恥《はぢ》を|知《し》らぬか|木《こ》わつ|葉武者《ぱむしや》ども
|神館《かむやかた》わけの|分《わか》らぬ|奴《やつ》が|来《き》て
|吾《わ》が|魂《たましひ》を|汚《け》がさむとぞする』
と|言《い》ひながらスタスタと|踵《きびす》を|返《かへ》し|奥《おく》に|入《い》る。
コオ『これや|女《をんな》|俺《おれ》が|怖《こは》くて|逃《に》げるのか
どこどこまでも|追《お》つて|往《ゆ》くぞや』
コブ『|面白《おもしろ》いとうと|尻尾《しつぽ》をまきやがつた
|奥《おく》の|一室《ひとま》にふるてゐるだろ』
|二人《ふたり》は|執念深《しふねんぶか》くも|玄関《げんくわん》をつかつかと|上《あ》がり、|問答席《もんだふせき》に|入《い》つて|見《み》ると|高姫《たかひめ》は|怪訝《けげん》な|顔《かほ》して|問答席《もんだふせき》に|控《ひか》へゐしが、|二人《ふたり》の|姿《すがた》を|見《み》るより、
『どこまでも|礼儀《れいぎ》を|知《し》らぬ|馬鹿男《ばかをとこ》
|許《ゆる》しも|得《え》ずに|奥《おく》に|入《い》るとは』
コオ『|天地《あめつち》の|神《かみ》の|道《みち》をば|知《し》らずして
|図々《づうづう》しくも|聖地《せいち》に|居《ゐ》るとは
|魂消《たまげ》たよおつ|魂消《たまげ》たよ|千草姫《ちぐさひめ》
|見《み》ると|聞《き》くとは|大違《おほちが》ひなる』
|高姫《たかひめ》『|何《なん》なりと|勝手《かつて》な|熱《ねつ》を|吹《ふ》くがよい
|分《わか》らぬ|奴《やつ》は|相手《あひて》にはせぬ』
コオ『|甘《うま》い|事《こと》いうて|逃《に》げるか|千草姫《ちぐさひめ》
どこどこまでも|調《しら》べにやおかぬ』
コブ『|今日《けふ》の|中《うち》|金毛九尾《きんまうきうび》の|正体《しやうたい》を
|現《あら》はしくれむあら|頼《たの》もしや』
|高姫《たかひめ》『|奴《やつこ》ども|早《はや》く|帰《かへ》れよ|神館《かむやかた》
|汚《けが》せば|神《かみ》の|冥罰《めいばつ》うけむ』
コオ『|甘《うま》いこと|言《い》うておどすか|千草姫《ちぐさひめ》
|尻《けつ》が|呆《あき》れる|雪隠《せんち》がをどる』
コブ『|糞婆《くそばば》のくせにお|白粉《しろい》べつたりと
|化《ば》けてゐやがる|金毛九尾《きんまうきうび》|奴《め》』
|高姫《たかひめ》『|貴様《きさま》らは|館《やかた》を|汚《けが》しに|来《き》たのだろ
|何《なん》とも|言《い》へぬ|臭《くさ》い|香《か》がする』
コブ『|知《し》れたこと|道場破《だうぢやうやぶ》りをおつぱじめ
|尻尾《しつぽ》|出《だ》すまで|戦《たたか》ひ|止《や》めぬ』
|高姫《たかひめ》『|是《これ》はまた|困《こま》つた|奴《やつ》が|来《き》たものだ
|青大将《あをだいしやう》|奴《め》|線香《せんかう》|立《た》てよか』
コオ『|蛇《くちなは》が|蛙《かはづ》ねらつた|時《とき》のごとく
|呑《の》んで|仕舞《しま》はにや|帰《かへ》りやせないぞ』
コブ『|山鳩《やまばと》が|豆鉄砲《まめでつぱう》を|食《く》つたよな
|面《つら》してふるふ|高姫《たかひめ》をかし』
|高姫《たかひめ》『|何《なん》なりと|悪口雑言《あくこうざふごん》つくがよい
|言霊《ことたま》|幸《さち》はふ|国《くに》と|知《し》らずに』
コオ『|言霊《ことたま》の|幸《さち》はふ|国《くに》と|知《し》ればこそ
|悪《あく》の|言霊《ことたま》|打《う》ちやぶるなり』
コブ『|言霊《ことたま》を|打《う》ち|出《い》だしつつ|高姫《たかひめ》の
|醜《しこ》の|肝玉《きもだま》うち|抜《ぬ》きて|見《み》む』
|高姫《たかひめ》『|笑《わら》はせる|線香《せんかう》のやうな|腕《うで》をして
|打《う》つも|打《う》たぬもあつたものかい』
コオ『なかなかに|俺《おれ》は|容赦《ようしや》は|線香《せんかう》の
|煙《けぶり》となつて|燻《くす》べてやらう』
コブ『|煙《けむ》たげな|顔《かほ》して|慄《ふる》ふ|千草姫《ちぐさひめ》
|灸《やいと》すゑられ|汗《あせ》をぶるぶる』
|高姫《たかひめ》『|胡麻《ごま》の|蠅《はへ》|見《み》たよな|奴《やつ》がやつて|来《き》て
|酒手《さかて》|貰《もら》はうと|息《いき》まいてゐる』
コオ『|汝《なれ》こそは|逆手《さかて》|使《つか》うて|聖場《せいぢやう》を
|奪《うば》い|取《と》つたる|曲者《くせもの》ぞかし』
コブ『|逆《さか》さまになつて|謝《こと》わるところまで
|動《うご》きはせぬぞ|二人《ふたり》の|男《をとこ》は』
|高姫《たかひめ》『このやうな|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|代物《しろもの》に
|問答《もんだふ》するのは|嫌《いや》になつたり』
コオ『|否応《いやおう》を|言《い》はさず|館《やかた》につめかけて
|荒肝《あらぎも》|取《と》らねば|帰《かへ》るものかい』
コブ『それやさうぢやコオロお|前《まへ》の|言《い》ふ|通《とほ》り
|膏《あぶら》を|取《と》つて|誡《いまし》めてやらう』
|高姫《たかひめ》『|油虫《あぶらむし》|朝《あさ》も|早《はよ》から|這《は》うて|来《き》て
|神《かみ》の|燈明《とうみやう》|消《け》さむとぞする』
コオ『お|前《まへ》こそ|神《かみ》の|燈明《とうみやう》|消《け》す|奴《やつ》よ
|暗《くら》い|心《こころ》の|醜神司《しこかむつかさ》』
コブ『このやうな|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|妖婆《えうば》をば
|相手《あひて》にせずにもう|去《い》のうかい』
|高姫《たかひめ》『これや|奴《やつこ》たうとう|往生《わうじやう》しよつたな
|高姫《たかひめ》さまの|威勢《ゐせい》に|怖《お》ぢて』
コオ『もう|帰《い》のと|思《おも》へば|又《また》も|貴様《きさま》から
|小言《こごと》いふ|故《ゆゑ》また|一戦《ひといくさ》せむ』
コブ『|瓢箪《へうたん》で|鯰《なまづ》おさへるやうな|奴《やつ》
いつまで|居《ゐ》ても|果《はて》しあるまい』
|高姫《たかひめ》『そろそろと|奴《やつこ》が|弱音《よわね》|吹《ふ》きかけた
|知恵《ちゑ》の|袋《ふくろ》の|底《そこ》も|見《み》えたり』
コオ『|何《なに》|吐《ぬ》かす|知恵《ちゑ》は|幾《いく》らもあるけれど
|受取《うけと》る|力《ちから》|汝《なれ》にない|故《ゆゑ》』
コブ『|相応《さうおう》の|道理《だうり》によつて|馬鹿者《ばかもの》には
|馬鹿《ばか》を|言《い》ふより|道《みち》もなければ』
|高姫《たかひめ》『|負《ま》け|惜《を》しみ|強《つよ》いと|言《い》つても|程《ほど》がある
|餓鬼《がき》|畜生《ちくしやう》さへ|呆《あき》れて|逃《に》げむ』
かく、くだらぬ|掛合《かけあ》ひをやつてゐるところへ、|大勢《おほぜい》の|老若男女《らうにやくなんによ》が|捻鉢巻《ねぢはちまき》して|歌《うた》を|歌《うた》ひながら、|神前《しんぜん》に|奉《たてまつ》ると|称《しよう》し|山車《だし》を|曳《ひ》いて|登《のぼ》つて|来《く》る。|高姫《たかひめ》はこの|光景《くわうけい》を|見《み》て|鼻《はな》うごめかし、|得意《とくい》|満面《まんめん》の|体《てい》で|表《おもて》を|眺《なが》めてゐると、|一昨日《おととひ》|叩《たた》き|出《だ》したヨリコ|姫《ひめ》、|玉清別《たまきよわけ》、|花香《はなか》、ダリヤ、アル、エスおよびイルク、その|他《た》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|一行《いつかう》が、|美々《びび》しく|衣服《いふく》を|着《き》かざり、|鬱金《うこん》の|捻鉢巻《ねぢはちまき》をしながら、|問答所《もんだふどころ》の|広庭《ひろには》へ|山車《だし》を|留《とど》め、どやどやと|玄関口《げんくわんぐち》に|上《あ》がり、
ヨリコ『これはこれは|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》|様《さま》、|一昨日《おととひ》は|妾《わらは》に|取《と》つて|終生《しうせい》|忘《わす》るべからざる|結構《けつこう》な|御教訓《ごけうくん》をたまはり、|翻然《ほんぜん》として|蓮《はちす》の|花《はな》の|開《ひら》くがごとく、|天地《てんち》の|道理《だうり》を|悟《さと》らしてもらひました。|汚《けが》れはてたる|身《み》でございますがお|礼《れい》のため、この|通《とほ》り|山車《だし》に|供物《くもつ》まで|満載《まんさい》して|参《まゐ》りました。|花香《はなか》もダリヤもどうか|妾《わらは》から|宜《よろ》しく|申《まを》し|上《あ》げてくれとの|事《こと》でございます』
|高姫《たかひめ》は|傲然《がうぜん》として、
『|善哉《ぜんざい》|善哉《ぜんざい》、|改心《かいしん》が|何《なに》より|結構《けつこう》ですよ。お|前《まへ》さまも|折角《せつかく》ここまで|聖場《せいぢやう》を|造《つく》り|上《あ》げ、おつ|放《ぽ》り|出《だ》されて、さぞ|残念《ざんねん》でございませうが、|一旦《いつたん》|創《きず》のついた|体《からだ》は|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》な|大神様《おほかみさま》の|御用《ごよう》は|出来《でき》ませぬから、お|気《き》の|毒《どく》とは|思《おも》へども、これも|前世《ぜんせ》の|因縁《いんねん》でせう』
ヨリコ『|重《かさ》ね|重《がさ》ねの|御教訓《ごけうくん》|有難《ありがた》うございます。ちよつと|妙《めう》な|事《こと》をお|尋《たづ》ね|申《まを》しますが、|貴女《あなた》はこの|聖地《せいち》の|神司《かむつかさ》とおなり|遊《あそ》ばした|以上《いじやう》、|一点《いつてん》の|身《み》に|曇《くも》りはございますまいね』
|高姫《たかひめ》『お|尋《たづ》ねにも|及《およ》びますまいよ。この|高姫《たかひめ》の|身《み》に|兎《う》の|毛《け》で|突《つ》いたほどでも|悪事《あくじ》|欠点《けつてん》があつたら、この|聖地《せいち》に|安閑《あんかん》と|御用《ごよう》をしてゐる|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。それは|天地《てんち》の|規則《きそく》ですからねえ』
『|失礼《しつれい》な|事《こと》を|申《まを》し|上《あ》げますが、|人間《にんげん》といふものは|知《し》らず|識《し》らずに|罪《つみ》を|犯《をか》してゐるものです。もし|貴女《あなた》に|欠点《けつてん》を|発見《はつけん》した|時《とき》は、この|聖場《せいぢやう》をお|立《た》ち|退《の》き|遊《あそ》ばすでせうね』
『|神《かみ》の|言葉《ことば》に|二言《にごん》はありませぬ。どうか|妾《わたし》の|素性《すじやう》に|欠点《けつてん》があるならお|調《しら》べ|下《くだ》さい。いつでもこの|聖場《せいぢやう》を|立《た》ち|退《の》きますから』
『そのお|言葉《ことば》を|承《うけたまは》つて、|百万《ひやくまん》の|味方《みかた》を|得《え》たやうな|心地《ここち》がします。ホホホホ、|花香《はなか》、ダリヤさま、|玉清別《たまきよわけ》さま、アルさま、エスさまイルクさま、また|再《ふたた》びこのお|館《やかた》に|勤《つと》めてもらはねばなりますまい、オホホホホホホ』
とあくまで|大胆不敵《だいたんふてき》な|態度《たいど》をして|見《み》せる。
|照国別《てるくにわけ》はつかつかと|高姫《たかひめ》の|傍《そば》に|寄《よ》り、
『ヤ、|高姫《たかひめ》さま、|暫《しばら》くお|目《め》に|掛《かか》りませぬ、|私《わたくし》は|照国別《てるくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》でございます』
|高姫《たかひめ》『ナニ|照国別《てるくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》。ヤアお|前《まへ》はウラル|教《けう》から|脱走《だつそう》して|来《き》た、ヘボ|宣伝使《せんでんし》の|梅彦《うめひこ》ぢやないか。マアマアマア、|出世《しゆつせ》したものだなア。|腐《くさ》り|繩《なは》でも|三年《さんねん》すりや|役《やく》に|立《た》つ、|乞食《こじき》の|子《こ》でも|三年《さんねん》すりや|三《みつ》つになる。お|前《まへ》と|別《わか》れてから|最早《もう》|十三四年《じふさんよねん》にもなるだらう。まあ|結構々々《けつこうけつこう》、これから|改心《かいしん》して|神妙《しんめう》にお|勤《つと》めなさい。この|高姫《たかひめ》が|弟子《でし》に|使《つか》つて|上《あ》げまいものでもない』
|梅公《うめこう》『ヤ、|千草《ちぐさ》の|高姫《たかひめ》さま、トルマン|城《じやう》でお|目《め》にかかりました|者《もの》ですよ』
|高姫《たかひめ》『ハイ、いかにもお|前《まへ》さまは|梅公別《うめこうわけ》とかいふ|方《かた》だつたな、いつ|見《み》ても|綺麗《きれい》だこと、どうかお|前《まへ》さまは|何処《どこ》へも|行《ゆ》かずこの|神館《かむやかた》の|役員《やくゐん》となつて|勤《つと》めて|下《くだ》さいな』
『ハイ、|思召《おぼしめ》しは|有難《ありがた》うございます、|何分《なにぶん》よろしうお|願《ねが》ひ|申《まを》します。|湖上《こじやう》でお|目《め》にかかりました|貴方《あなた》の|夫《をつと》、|杢助《もくすけ》さまはどちらにゐられますか、|一寸《ちよつと》お|目《め》にかかりたいものでございます』
『ハイ|杢助《もくすけ》さまは|一寸《ちよつと》お|疲《くたぶ》れて、|離棟《はなれ》の|別館《べつくわん》でお|寝《やす》みになつてゐられます』
『|実《じつ》は|貴女《あなた》の|御成功《ごせいこう》を|祝《しゆく》しお|祝《いは》ひを|持《も》つて|参《まゐ》りました。この|沢山《たくさん》の|箱包《はこづつみ》は|杢助様《もくすけさま》へのお|土産《みやげ》、この|葛籠《つづら》は|高姫《たかひめ》さまへの|土産《みやげ》ですから、どうぞ|受取《うけと》つて|下《くだ》さい』
『ヤアどうも|有難《ありがた》う、マア|何《なん》と|沢山《たくさん》のお|土産《みやげ》だこと。|随分《ずゐぶん》|沢山《たくさん》のお|金《かね》がかかつたでせうなア』
『いやどう|致《いた》しまして、サア、イルクさま、|玉清別《たまきよわけ》さま、この|箱包《はこつつみ》は|全部《ぜんぶ》|皆《みな》の|方《かた》に|手伝《てつだ》つてもらひ、|杢助《もくすけ》さまの|別館《べつくわん》の|前《まへ》まで|運《はこ》んでおいて|下《くだ》さい。そして|合図《あひづ》をしたら|一斉《いつせい》に|蓋《ふた》を|開《あ》けるのですよ』
『ハイ|畏《かしこま》りました』
と、|村《むら》の|若者《わかもの》|十数人《じふすうにん》はイルクが|監督《かんとく》の|下《もと》に|別館《べつくわん》にエチエチ|運《はこ》んで|仕舞《しま》つた。|梅公別《うめこうわけ》は、|高姫《たかひめ》の|前《まへ》に|葛籠《つづら》を|置《お》き、
『サア、|高姫《たかひめ》さま、この|葛籠《つづら》を|開《あ》けてお|目《め》にかけませう、|貴女《あなた》に|取《と》つて|大変《たいへん》な|意味《いみ》あるものかも|知《し》れませぬ』
と、|意味《いみ》ありげに|笑《わら》ひながらパツと|蓋《ふた》を|取《と》れば、|太魔《たま》の|島《しま》にて|真裸《まつぱだか》となし、|追剥《おひは》ぎをなし、|蟻《あり》の|巣《す》に|投《ほ》り|込《こ》んだフクエ、|岸子《きしこ》の|両人《りやうにん》が|白装束《しろしやうぞく》を|着《き》てすつくと|立上《たちあ》がつた。|高姫《たかひめ》は|打《う》ち|倒《たふ》れむばかり|驚《おどろ》いたが、さすがは|曲者《くせもの》、|気《き》を|取《と》り|直《なほ》し、|度胸《どきよう》を|据《す》ゑ、
『オー、|何《なに》かと|思《おも》へば|白鷺《しらさぎ》が|一番《ひとつがひ》、|妾《わたし》のためには|此《この》|上《うへ》もない|贈《おく》り|物《もの》、|今晩《こんばん》の|酒《さけ》の|肴《さかな》に|料《つく》つて|頂《いただ》きませう』
|梅公《うめこう》はきつとなり、
『これ|高姫《たかひめ》|殿《どの》、お|呆《とぼ》けなさるな、この|女《をんな》は|太魔《たま》の|島《しま》の|銀杏《いてふ》に|祈願《きぐわん》を|籠《こ》むるをり、|貴女《あなた》が|銀杏姫《いてふひめ》と|名乗《なの》り、|追剥《おひは》ぎなさつた|事《こと》があらうがな、それのみならず|計略《けいりやく》をもつて|二人《ふたり》を|蟻《あり》の|森《もり》へ|追込《おひこ》み、|喰《く》ひ|殺《ころ》させむと|計《はか》つたでせう。まだその|上《うへ》この|梅公《うめこう》までもたばかり、|蟻《あり》に|殺《ころ》させやうとしたではありませぬか。これでも|貴女《あなた》は|身《み》に|欠点《けつてん》がないと|言《い》はれませうか、サア|返答《へんたふ》|承《うけたまは》りませう』
|高姫《たかひめ》は|答《こた》ふる|言句《げんく》もなく、|忽《たちま》ち|顔色《がんしよく》|蒼白《まつさを》となり、|唇《くちびる》までもふるはせてゐる。
ヨリコ『モシ|高姫《たかひめ》さま、あなたもやつぱり|追剥強盗《おひはぎがうたう》をなし、|謀殺《ぼうさつ》を|企《たく》らみ、ずゐぶん|善《よ》からぬ|事《こと》をなさいましたね、サア|如何《いかが》です、これでも|貴女《あなた》は|完全無欠《くわんぜんむけつ》の|身霊《みたま》と|仰有《おつしや》いますか』
|梅公《うめこう》は|合図《あひづ》の|口笛《くちぶえ》を|吹《ふ》けば、|如何《いかが》はしけむ|数十頭《すうじつとう》の|猛犬《まうけん》|現《あら》はれ|出《い》で、ワツウ ワツウ ワツウ ワツウと|百雷《ひやくらい》の|一時《いちじ》に|轟《とどろ》くごとき|犬《いぬ》の|声《こゑ》、|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》はたまりかね、|正体《しやうたい》を|現《あら》はし、いづこともなく|雲《くも》を|霞《かすみ》と|消《き》え|去《さ》つてしまつた。|高姫《たかひめ》は|進退《しんたい》これ|谷《きは》まり、|白衣《びやくい》をパツと|脱《ぬ》ぐや|否《いな》や、たちまち|金毛九尾白面《きんまうきうびはくめん》の|悪狐《あくこ》と|還元《くわんげん》し、|雲《くも》を|呼《よ》び|雨《あめ》を|起《おこ》し、|大高山《たいかうざん》の|方《はう》を|目《め》がけ|電《いなづま》のごとく|中空《ちうくう》を|駈《か》けり|姿《すがた》を|消《け》してしまつた。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
|因《ちなみ》に|言《い》ふ。|玉清別《たまきよわけ》は|元《もと》のごとくスガの|宮《みや》の|神司《かむつかさ》を|勤《つと》め、ダリヤ|姫《ひめ》は|大道場《だいだうぢやう》の|司《つかさ》となり、アル、エスの|両人《りやうにん》を|掃除番《さうぢばん》となしおき、ヨリコ|姫《ひめ》、|花香姫《はなかひめ》は、|照国別《てるくにわけ》|一行《いつかう》と|共《とも》に|聖地《せいち》を|去《さ》つて|宣伝《せんでん》の|旅《たび》に|赴《おもむ》くこととなりける。
(大正一五・七・一 旧五・二二 於天之橋立なかや別館 加藤明子録)
(昭和一〇・六・二五 王仁校正)
霊界物語 特別篇 |筑紫潟《つくしがた》
|世《よ》は|烏羽玉《うばたま》の|闇《やみ》となり  |山河草木《さんかさうもく》ことごとく
|言問《ことと》ひさやぐ|世《よ》の|中《なか》を  |常磐堅磐《ときはかきは》の|松《まつ》の|世《よ》に
|治《をさ》めむためと|厳御魂《いづみたま》  |天津御神《あまつみかみ》の|御言《みこと》もて
|豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂国《みづほくに》  |綾《あや》の|高天《たかま》に|天降《あも》りまし
|至善《しぜん》|至美《しび》なる|御教《みをしへ》を  |蒼生《あをひとぐさ》に|説《と》き|諭《さと》し
|朝《あした》は|東《ひがし》|夜《よる》は|西《にし》  |南船北馬《なんせんほくば》の|難《なん》を|越《こ》え
|神《かみ》の|稜威《みいづ》も|伊都能売《いづのめ》の  |天津誠《あまつまこと》を|宣《の》べませど
|悪《あく》に|溺《おぼ》れし|世《よ》の|中《なか》は  |神《かみ》の|言葉《ことば》に|服《まつら》はで
|力《ちから》かぎりに|刃向《はむ》かひつ  |沐雨櫛風《もくうしつぷう》の|苦業《くげふ》さへ
|水泡《みなわ》に|帰《き》せむとなせしをり  |天津御神《あまつみかみ》は|畏《かしこ》くも
|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|杖柱《つゑはしら》  |珍《うづ》の|御教《みのり》を|助《たす》けむと
|瑞《みづ》の|霊《みたま》を|下《くだ》しまし  |瑞穂《みづほ》の|国《くに》の|中心《ちうしん》に
|高天原《たかあまはら》を|築《きづ》かせつ  |経《たて》と|緯《よこ》との|機《はた》をおり
|心《こころ》も|清《きよ》き|紅《くれなゐ》の  |錦《にしき》の|教《のり》を|垂《た》れたまふ
|手段《てだて》となして|畏《かしこ》くも  |明治《めいぢ》は|二十五年《にじふごねん》より
|天津御神《あまつみかみ》の|御心《みこころ》を  |筆《ふで》に|写《うつ》して|詳細《つばらか》に
|蒼生《あをひとぐさ》に|教《をし》へます  |其《そ》の|神文《かみぶみ》を|一々《いちいち》に
|清書《きよがき》せよと|命《めい》ぜられ  |飛《と》び|立《た》つばかり|勇《いさ》み|立《た》ち
|止《と》め|度《ど》もなしに|慢心《まんしん》の  |階段《かいだん》えちえち|攀《よ》ぢ|登《のぼ》り
|神《かみ》の|見出《みだ》しに|預《あづ》かりし  |吾《われ》こそ|真《まこと》の|信仰《しんかう》と
|心《こころ》の|黒《くろ》き|黒姫《くろひめ》が  |神書《みふみ》の|心《こころ》をとり|違《ちが》へ
|瑞《みづ》の|霊《みたま》の|宣《の》り|言《ごと》を  |残《のこ》らず|曲《まが》と|貶《へん》しつつ
|小北《こぎた》の|山《やま》に|巣《す》ぐひたる  ウラナイ|教《けう》の|偽教主《にせけうしゆ》
|鼻高姫《はなたかひめ》ともろともに  |魔我彦《まがひこ》|誘《いざな》ひ|聖地《せいち》をば
|後《あと》に|見捨《みす》てて|出《い》でてゆく  いよいよ|陰謀《いんぼう》|七八分《しちはちぶ》
|成功《せいこう》なさむとせし|時《とき》に  |瑞《みづ》の|霊《みたま》は|厳《おごそ》かに
|天《あま》の|岩屋戸《いはやど》|押《お》し|開《ひら》き  |天地《てんち》に|塞《ふさ》がる|叢雲《むらくも》を
|伊吹《いぶき》|払《はら》ひに|払《はら》ひまし  |御空《みそら》は|忽《たちま》ち|五色《いついろ》の
|祥雲《しやううん》|棚《たな》びき|日月《じつげつ》の  |清《きよ》き|光《ひかり》に|曲神《まがかみ》の
|頭《かしら》を|忽《たちま》ち|射照《いて》らせば  |黒姫《くろひめ》|身魂《みたま》に|巣食《すく》ひたる
|常世《とこよ》の|国《くに》の|曲神《まがかみ》は  |汚《けが》れし|身体《からたま》ぬけ|出《い》だし
|力《ちから》も|落《お》ちて|身体《からたま》は  |忽《たちま》ち|神《かみ》の|冥罰《めいばつ》を
|被《かうむ》り|百日百夜《ももかももよさ》の  |修祓《しうばつ》うけて|敢《あへ》なくも
|命《いのち》の|親《おや》と|頼《たの》みたる  |高山彦《たかやまひこ》を|残《のこ》しおき
|黒白《あやめ》も|分《わ》かぬ|烏羽玉《うばたま》の  |暗《くら》き|黄泉路《よみぢ》に|旅立《たびた》ちて
|八衢街道《やちまたかいだう》の|四《よ》つ|辻《つじ》に  |鼻高姫《はなたかひめ》の|精霊《せいれい》と
|出会《でくは》し|種々《しゆじゆ》の|物語《ものがた》り  |天国《てんごく》|地獄《ぢごく》の|問答《もんだふ》を
いと|諄々《じゆんじゆん》とはじめける  |其《そ》の|経緯《いきさつ》を|瑞霊《みづみたま》
|或夜《あるよ》の|夢《ゆめ》に|八衢《やちまた》に  |精霊《せいれい》|出《い》でて|聞《き》き|取《と》りし
|一伍一什《いちぶしじふ》の|顛末《てんまつ》を  ここにあらあら|述《の》べ|立《た》つる
|時《とき》は|昭和《せうわ》の|第二年《だいにねん》  |新《しん》の|十月《じふぐわつ》|十九日《じふくにち》
|神《かみ》に|心《こころ》を|筑紫潟《つくしがた》  |肥前《ひぜん》の|国《くに》の|島原《しまばら》の
|南風楼《なんぷうろう》の|二階《にかい》の|間《ま》  |北極星《ほくきよくせい》を|枕《まくら》とし
|加藤明子《かとうはるこ》に|筆《ふで》とらせ  |口《くち》|解《ほど》きたる|物語《ものがたり》
|述《の》ぶるも|楽《たの》し|惟神《かむながら》  |神《かみ》のまにまに|始《はじ》めゆく
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ。
|天地《てんち》|寂然《せきぜん》として|黒雲《くろくも》みなぎり、|濃霧《のうむ》は|四辺《あたり》を|包《つつ》み、|昼《ひる》なほ|暗《くら》き|夜《よ》のごとくにして|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜず、|蒸《む》し|暑《あつ》き|嫌《いや》らしき|悪臭《あくしう》を|帯《お》びたる|空気《くうき》|身辺《しんぺん》を|襲《おそ》ふ。|八万地獄《はちまんぢごく》の|草枕《くさまくら》、|旅《たび》に|出《い》で|立《た》つ|黒姫《くろひめ》の|曲《まが》の|精霊《せいれい》は、ただ|一人《ひとり》|小声《こごゑ》に|呟《つぶや》きながら、なほ|現界《げんかい》に|吾《わ》が|肉体《にくたい》のあるものと|信《しん》じ、
|黒姫《くろひめ》『いよいよ|世《よ》の|終末《しうまつ》は|近《ちか》づけり、|日月《じつげつ》|天《てん》に|輝《かがや》けども、|世道《せだう》|人心《じんしん》|紊乱《ぶんらん》の|極《きよく》に|達《たつ》し、|中空《なかぞら》に|妖雲《えううん》|起《おこ》りて、|下《しも》|万民《ばんみん》|飢渇《きかつ》に|苦《くる》しむ。|時《とき》は|今《いま》なり|時《とき》は|今《いま》なり、|妾《わらは》こそは、|厳《いづ》の|霊《みたま》の|恩命《おんめい》を|拝《はい》し、|此《こ》の|暗黒《あんこく》の|世《よ》をして、|光明世界《くわうみやうせかい》に|転換《てんくわん》すべき|大責任《だいせきにん》を|双肩《さうけん》に|担《にな》へり。アア|高山彦《たかやまひこ》は、|何《なに》を|苦《くる》しみてか|躊躇逡巡《ちうちよしゆんじゆん》する、|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》の|肉《にく》の|宮《みや》、|高姫司《たかひめつかさ》は|何処《いづこ》にありや。|神諭《しんゆ》にいふ|世《よ》の|終《をは》りの|時《とき》|至《いた》らば、|至誠《しせい》|至実《しじつ》の|神柱《かむばしら》|三人《さんにん》あれば|可《か》なりと|聞《き》く、その|三人《さんにん》とは、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|殿《どの》の|肉《にく》の|宮《みや》この|黒姫《くろひめ》の|身魂《みたま》をはじめ、|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》の|肉宮《にくみや》とあれます|小北山《こぎたやま》の|高姫司《たかひめつかさ》、|高山彦《たかやまひこ》をおきて|外《ほか》に|誠《まこと》の|神柱《かむばしら》は|世《よ》に|非《あら》じ、アア|思《おも》へば|思《おも》へば|吾《わ》が|身魂《みたま》の|責任《せきにん》の|重《ぢう》かつ|大《だい》なる、|古今《ここん》|其《そ》の|比《ひ》を|見《み》ず、|東西《とうざい》|其《そ》の|例《れい》を|聞《き》かず。|変性女子《へんじやうによし》の|身魂《みたま》と|自称《じしよう》せる|彼《かれ》|贋神柱《にせかむばしら》が|末路《まつろ》を|見《み》よ、|彼《かれ》が|光《ひかり》は|螢火《ほたるび》にも|如《し》かず、|彼《かれ》もし|真《しん》の|瑞霊《ずゐれい》なりせば、この|世《よ》の|終末《しうまつ》に|際《さい》し|一大火光《いちだいくわくわう》となりて、せめては|地上《ちじやう》の|低空《ていくう》を|飛翔《ひしやう》|往来《わうらい》し|万民《ばんみん》の|目《め》を|醒《さ》ませ、|神聖《しんせい》の|神国《しんこく》を|樹立《じゆりつ》すべきに|非《あら》ずや。|口先《くちさき》ばかりの|瑞霊《ずゐれい》、その|影《かげ》の|薄《うす》きこと、|冬《ふゆ》の|夕日《ゆふひ》に|如《し》かず。アア|至《いた》れり|至《いた》れり、|吾《わ》が|願望《ぐわんまう》の|成就《じやうじゆ》の|時期《じき》、|高姫《たかひめ》|来《き》たれ、|高山彦《たかやまひこ》、|吾《われ》につづけ』
と|呼《よ》ばはりながら、|木枯《こがらし》|荒《すさ》ぶ|茅野原《かやのはら》を、|神官扇《しんくわんあふぎ》を|右手《めて》に|持《も》ち、|左手《ゆんで》にコーランを|携《たづさ》へて、|八衢街道《やちまたかいだう》の|入口《いりぐち》に、かかるをりしも|向《む》かふより、|脛《はぎ》も|現《あら》はにいそいそと、|金剛杖《こんがうづゑ》をつきながら、|髪《かみ》ふり|乱《みだ》しだん|尻《じり》を、ぷりんぷりんと|右左《みぎひだり》、|振舞《ふりま》ひながらやつて|来《く》る。|女《をんな》は|言《い》はずと|知《し》れた|小北山《こぎたやま》、|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》と|自称《じしよう》する|高姫司《たかひめつかさ》の|精霊《せいれい》ぞ。
|高姫《たかひめ》『マアマアマアマア、|黒姫《くろひめ》さまぢやないかいな。ここはどこぢやと|思《おも》つてゐますか。|生前《せいぜん》に|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》の|言《い》ふことを、|半信半疑《はんしんはんぎ》の|態度《たいど》で|聞《き》いてゐたものだから|神罰《しんばつ》は|覿面《てきめん》、お|前《まへ》さまはこれから|地獄《ぢごく》の|旅《たび》に|向《む》かふのぢやないか。|生前《せいぜん》には|比較的《ひかくてき》|豊満《ほうまん》の|霊衣《れいい》もすつかりと|剥脱《はくだつ》され、|形《かたち》ばかりの|三角形《さんかくけい》の|霊衣《れいい》を|額《ひたひ》に|頂《いただ》いてゐるスタイルは、まるきり|地獄《ぢごく》の|八丁目《はつちやうめ》を|歩《ある》いとる|亡者《まうじや》ですよ。アアもう|今《いま》となつては、|此《こ》の|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》もお|前《まへ》さまを|助《たす》けるわけにはゆきませぬわ、マアマアマア、えらい|事《こと》になりましたなア』
と|目《め》を|丸《まる》うし、|口《くち》を|尖《とが》らして|名乗《なの》りかけた。
|黒姫《くろひめ》『どこの|乞食婆《こじきばば》がやつて|来《く》るのかと|思《おも》へばお|前《まへ》さまは|高姫《たかひめ》さまぢやないか、このごろは|天地暗澹《てんちあんたん》として|四辺《しへん》|暗《くら》く、|空気《くうき》が|悪《わる》いので、まあまあ|気《き》の|毒《どく》な、|持《も》ち|前《まへ》の|病気《びやうき》が|出《で》て|発狂《はつきやう》しなさつたのだらう。ちつと|確《しつか》りしてもらはぬと|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》の|肉宮《にくみや》も|困《こま》るぢやありませぬか。ホホホホ、あのまあ|小《こ》むつかしいスタイルだこと、こんなことを|大将軍様《たいしやうぐんさま》にお|目《め》にかけたら、|千年《せんねん》の|恋《こひ》も|一度《いちど》にさめますぞや』
『ほつといて|下《くだ》さい、|黒姫《くろひめ》さま。お|前《まへ》さまは|聖地《せいち》において|慢心《まんしん》した|結果《けつくわ》、|日出神《ひのでのかみ》の|教《をしへ》に|背《そむ》き、|神罰《しんばつ》を|蒙《かうむ》つて|百日百夜《ももかももよ》の|修祓《しうばつ》を|受《う》け、|筍笠《たけのこがさ》のやうに|骨《ほね》と|皮《かは》とになつて、お|国替《くにが》へをなさつたのぢやないか。それでもまだ|現界《げんかい》に|生《い》きてゐるつもりですか。|何《なん》とまあ|慢心《まんしん》した|身魂《みたま》の|迷《まよ》うたのは|可憐《かはい》さうなものだなア。アア|底津岩根《そこついはね》の|大《おほ》ミロク|様《さま》、この|黒姫《くろひめ》さまも|一度《いちど》は|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》の|肉《にく》の|宮《みや》まで|勤《つと》めた|神界《しんかい》の|殊勲者《しゆくんしや》ですから、|如何《いか》なる|罪《つみ》がありませうとも、|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し、どうか|地獄行《ぢごくゆ》きだけはお|許《ゆる》し|下《くだ》さいまして、せめては|第三天国《だいさんてんごく》の|入口《いりぐち》までなと|上《あ》げてやつて|下《くだ》さいませ、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸《ち》はへませ』
と|両眼《りやうがん》より|玉《たま》の|涙《なみだ》を|滴《したた》らせながら、|天《てん》に|向《む》かつて|合掌《がつしやう》する。
|黒姫《くろひめ》『|高姫《たかひめ》さま、|確《しつか》りして|下《くだ》さい。|決《けつ》してこの|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》は|死《し》んだ|覚《おぼ》えはございませぬよ。お|前《まへ》さま|余《あま》り|慢心《まんしん》が|強《つよ》くて|信仰《しんかう》に|酔《よ》つ|払《ぱら》つたものだから、これほどピチピチしてゐる|私《わたし》を|亡者《まうじや》と|間違《まちが》へてゐるのですよ。なるほど|百日百夜《ももかももよ》の|修祓《しうばつ》を|受《う》けたのは|事実《じじつ》です、しかしまだ|死《し》んだ|覚《おぼ》えはありませぬ。かう|常暗《とこやみ》の|世《よ》の|中《なか》となつては、|世界《せかい》|万民《ばんみん》を|助《たす》けるために、|底津岩根《そこついはね》の|大《おほ》ミロク|様《さま》の|神柱《かむばしら》、|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》を|兼《かね》たお|前《まへ》さまが|確《しつか》りしてもらはなくちや、どうしてミロクの|世《よ》が|建設《けんせつ》せられませう。お|前《まへ》さまは、あまり|大将軍《たいしやうぐん》さまに|現《うつつ》を|抜《ぬ》かし、|恋《こひ》に|眼《め》が|眩《くら》んで|千騎一騎《せんきいつき》の|此《こ》の|場合《ばあひ》になつて|呆《はう》けたのでせう。アア|高姫《たかひめ》さま、|気《き》の|毒《どく》な|方《かた》ぢやなア、|伊都能売《いづのめ》の|大神様《おほかみさま》、|天《てん》の|大《おほ》ミロク|様《さま》、|三千世界《さんぜんせかい》の|人民《じんみん》が|可憐《かはい》さうと|思召《おぼしめ》すなら、どうぞこの|高姫《たかひめ》さまの|狂人《きちがひ》を|本心《ほんしん》に|立《た》ち|直《なほ》らして|下《くだ》さいませ、|高姫《たかひめ》さまさへ|元《もと》の|正気《しやうき》にお|帰《かへ》りなされば|私《わたし》の|肉体《にくたい》はいつ|国替《くにがへ》しても|構《かま》ひませぬ』
|高姫《たかひめ》『あーあ、|仕方《しかた》のないものぢやな。これほど|言《い》うても|黒姫《くろひめ》さまの|精霊殿《せいれいどの》は|判《わか》らぬのかいな。エエぢれつたい、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸《ち》はへませ』
|黒姫《くろひめ》『アア|高姫《たかひめ》さまも|判《わか》らぬやうになつたものぢやなア、|長《なが》らく|聖地《せいち》を|離《はな》れて|小北山《こぎたやま》に|陣《ぢん》どり、|鰯《いわし》の|昆布巻《こぶまき》になつてゐるものだから、|肝腎《かんじん》の|時《とき》に、|発狂《はつきやう》してしまつたのだらう。|生《い》きてゐるか、|死《し》んでゐるか、|見分《みわ》けのつかぬやうになつては、|神柱《かむばしら》も|何《なに》もあつたものぢやない。アア|気《き》の|毒《どく》だなア』
|高山彦《たかやまひこ》『|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |曲津《まがつ》の|神《かみ》は|荒《すさ》ぶとも
|誠《まこと》の|心《こころ》にや|叶《かな》はない  |小北《こぎた》の|山《やま》より|遥々《はるばる》と
|高姫《たかひめ》さまや|黒姫《くろひめ》が  |山川千里《やまかはせんり》を|越《こ》えながら
|幾十回《いくじつくわい》と|限《かぎ》りなく  |足《あし》を|運《はこ》びし|熱誠《ねつせい》に
つい|動《うご》かされ|老骨《らうこつ》を  ひつさげながら|神界《しんかい》の
|御用《ごよう》の|端《はし》に|仕《つか》へむと  |妻子《つまこ》を|後《あと》に|振捨《ふりす》てて
|浪花《なには》の|里《さと》に|流《なが》れ|入《い》り  |花柳《くわりう》の|巷《ちまた》も|厭《いと》ひなく
|神《かみ》のおんため|道《みち》のため  |烏《からす》のやうな|黒姫《くろひめ》を
|老後《らうご》の|妻《つま》と|定《さだ》めつつ  |小北《こぎた》の|山《やま》に|往《ゆ》きかへり
|贋《にせ》の|教《をしへ》と|知《し》らずして  |日《ひ》の|出神《でのかみ》と|自称《じしよう》する
|高姫《たかひめ》さまの|筆先《ふでさき》を  |一字《いちじ》も|残《のこ》らず|読《よ》みつくし
その|収穫《しうくわく》は|五里霧中《ごりむちう》  |荒野《あらの》を|彷徨《さまよ》ふ|心地《ここち》にて
|三年《みとせ》|四年《よとせ》と|過《す》ぎけるが  |皇大神《すめおほかみ》の|御心《みこころ》に
|背《そむ》きしためか|黒姫《くろひめ》は  |百日百夜《ももかももよ》の|苦《くる》しみを
|身《み》に|受《う》けながら|淋《さび》しげに  |吾《われ》を|見捨《みす》てて|神去《かむさ》りぬ
さは|去《さ》りながら|人間《にんげん》は  |神代《かみよ》の|昔《むかし》の|因縁《いんねん》を
|持《も》ちて|生《うま》れしものなれば  いかに|汚《きたな》き|黒姫《くろひめ》も
|吾《わ》が|女房《にようばう》と|諦《あきら》めつ  くだらぬ|教《をしへ》を|謹《つつし》みて
|聞《き》きゐたるこそ|嘆《うた》てけれ  |今日《けふ》は|吾妹《わぎも》が|昇天《しようてん》の
|百日祭《ひやくにちさい》になりぬれば  |心《こころ》の|手向《たむけ》をなさむとて
|霊《みたま》の|鎮《しづ》まる|奥津城《おくつき》に  |花《はな》|供《そな》へむと|進《すす》むなり
|黒姫《くろひめ》はたして|霊《れい》あらば  |吾《われ》に|一言《ひとこと》|今《いま》までの
|誤解《ごかい》を|謝《しや》せよ|天地《あめつち》の  |神《かみ》の|御前《みまへ》に|平《ひ》れ|伏《ふ》して
|神《かみ》に|背《そむ》きし|罪業《ざいごふ》を  |悔《く》い|改《あらた》めて|根《ね》の|国《くに》や
|底《そこ》の|国《くに》なる|苦《くる》しみを  よく|助《たす》かれよ|惟神《かむながら》
|神《かみ》は|汝《なんぢ》と|共《とも》ならば  |必《かなら》ず|地獄《ぢごく》の|苦《く》を|逃《のが》れ
|天津御国《あまつみくに》に|安々《やすやす》と  |神《かみ》の|助《たす》けに|昇《のぼ》るべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |頓生菩提《とんしやうぼだい》|黒姫《くろひめ》よ
|後《あと》に|残《のこ》りし|吾《わ》が|命《いのち》  あまり|惜《を》しくはなけれども
|自殺《じさつ》をなせば|天《てん》の|罪《つみ》  |自然《しぜん》に|死《し》して|汝《な》が|後《あと》を
|慕《した》ひて|行《ゆ》かむ|其《そ》の|日《ひ》まで  |身魂《みたま》を|研《みが》いて|天国《てんごく》の
|神《かみ》の|御苑《みその》に|復活《ふくくわつ》し  |半座《はんざ》を|分《わ》けてわれ|待《ま》てよ
|汝《なれ》が|昇天《しようてん》せし|後《のち》は  |一人《ひとり》くよくよ|老《おい》の|身《み》の
|淋《さび》しさ|勝《まさ》る|冬《ふゆ》の|夜《よる》  |衣《ころも》は|薄《うす》く|歯《は》はふるひ
|足《あし》もわなわな|行《ゆ》き|艱《なや》む  この|窮状《きうじやう》を|憐《あは》れみて
|国治立《くにはるたち》の|大御神《おほみかみ》  |一日《ひとひ》も|早《はや》く|黒姫《くろひめ》が
|御後《みあと》を|追《お》はせ|給《たま》へかし  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》の|恩頼《ふゆ》を|願《ね》ぎまつる』
かく|歌《うた》ひながら  |高山彦《たかやまひこ》の|精霊《せいれい》は
|枯草《かれくさ》|茂《しげ》る|荒野原《あれのはら》  |杖《つゑ》を|力《ちから》にとぼとぼと
|八衢《やちまた》さして|進《すす》み|来《く》る  |黒姫《くろひめ》|見《み》るより|狂喜《きやうき》して
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》は|吾《わ》が|夫《つま》|高《たか》さまか  |何処《どこ》にどうしてござつたの
|合点《がてん》のゆかぬ|事《こと》ばかり  |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》の
|高姫《たかひめ》さまが|発狂《はつきやう》して  |私《わたし》を|亡者《まうじや》と|誤解《ごかい》する
|百万言《ひやくまんげん》を|尽《つく》せども  |心《こころ》の|狂《くる》うた|高姫《たかひめ》は
|私《わたし》の|言葉《ことば》は|糠《ぬか》に|釘《くぎ》  |豆腐《とうふ》に|鎹《かすがひ》|応《こた》へなく
|如何《いかが》はせむと|思《おも》ふをり  かすかに|聞《き》こゆる|吾《わ》が|夫《つま》の
|声《こゑ》を|力《ちから》に|佇《たたず》めば  まがふ|方《かた》なき|吾《わ》が|夫《つま》と
|知《し》りたる|時《とき》の|嬉《うれ》しさは  |百万人《ひやくまんにん》の|味方《みかた》をば
|得《え》たるがごとく|思《おも》ひます  |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》の
|高姫《たかひめ》さまよよつく|聞《き》け  |高山彦《たかやまひこ》のハズバンド
ここに|現《あら》はれます|上《うへ》は  |私《わたし》が|亡者《まうじや》になつてるか
あなたが|発狂《はつきやう》してをるか  いと|明白《めいはく》に|分《わか》るだろう
まさかの|時《とき》の|助《たす》け|舟《ぶね》  アア|天道《てんだう》は|人《ひと》を|殺《ころ》さない
アア|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し  |吾《わ》が|夫《つま》さま』と|縋《すが》りつく
|高山彦《たかやまひこ》は|仰天《ぎやうてん》し
『これやこれや|黒姫《くろひめ》|迷《まよ》ふなよ  お|前《まへ》は|此《この》|世《よ》の|人《ひと》でない
|百日百夜《ももかももよ》の|病《わづら》ひに  |天命《てんめい》つきて|現界《げんかい》を
|後《あと》に|見捨《みす》てて|行《い》つた|者《もの》  |誤解《ごかい》するな』とたしなめば
|高姫《たかひめ》|鼻《はな》をつんとかみ  いとも|急《せ》はしき|口元《くちもと》で
『|高山彦《たかやまひこ》がよい|証拠《しようこ》  お|前《まへ》は|亡者《まうじや》に|違《ちが》ひない
|早《はや》く|神言《かみごと》|奏上《そうじやう》し  |地獄《ぢごく》の|関門《くわんもん》|突破《とつぱ》して
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》に|行《ゆ》くがよい  |高山彦《たかやまひこ》に|執着《しふちやく》を
のこしちやならぬ|黒姫《くろひめ》さま  |左様《さやう》ならば』と|背《せ》を|向《む》けて
|一目散《いちもくさん》に|駈《か》け|出《だ》せば  |骨《ほね》と|皮《かは》との|瘠腕《やせうで》を
グツと|伸《の》ばして|黒姫《くろひめ》が  |鼻高姫《はなたかひめ》の|後《うし》ろ|髪《がみ》
むんずと|捉《つか》んで|引《ひ》き|戻《もど》す  |高姫《たかひめ》|地上《ちじやう》に|転倒《てんたう》し
『アアいやらしや いやらしや  |亡者《まうじや》になつても|此《こ》の|通《とほ》り
|執着心《しふちやくしん》の|深《ふか》い|婆々《ばば》  |地獄《ぢごく》に|落《お》つるは|当然《あたりまへ》
|日《ひ》の|出神《でのかみ》は|知《し》りませぬ  これから|高山彦《たかやまひこ》さまに
とつつき|散々《さんざん》|愚知《ぐち》こぼし  なんなら|冥途《めいど》の|道《みち》づれに
|伴《つ》れて|行《ゆ》かんせ|左様《さやう》なら』
|悪垂口《あくたれぐち》を|叩《たた》きつつ  また|逃《に》げだすを|黒姫《くろひめ》は
|頭《かしら》に|角《つの》を|立《た》てながら  |線香《せんかう》のやうな|手《て》を|出《だ》して
|襟髪《えりがみ》グツと|引《ひ》き|戻《もど》す  |高姫《たかひめ》ふたたび|地《ち》の|上《うへ》に
|転倒《てんたう》したるその|刹那《せつな》  |姿《すがた》は|煙《けぶり》と|消《き》えにけり
|高山彦《たかやまひこ》はゾツとして  |身慄《みぶる》ひしながら|逃《に》げ|出《だ》せば
またもや|黒姫《くろひめ》|後《あと》を|追《お》ひ
『|悪性男《あくしやうをとこ》のハズバンド  この|黒姫《くろひめ》の|黒《くろ》い|目《め》を
ぬすんで|日出《ひので》の|生宮《いきみや》と  |甘《あま》い|約束《やくそく》したのだらう
|許《ゆる》しはせない』と|言《い》ひながら  |氷《こほり》のごとき|冷《ひや》やかな
|拳《こぶし》を|固《かた》めて|打《う》ちおろす  |全身《ぜんしん》|汗《あせ》にしたりつつ
|高山彦《たかやまひこ》は|手《て》を|合《あは》せ
『|黒姫《くろひめ》|暫《しばら》く|待《ま》つてくれ  |三千世界《さんぜんせかい》にお|前《まへ》より
|外《ほか》に|増《ま》す|花《はな》|持《も》たぬぞや  さはさりながら|果敢《はか》なくも
|散《ち》り|行《ゆ》く|花《はな》は|是非《ぜひ》もなし  |汝《なれ》が|後《あと》をばおはむかと
|天地《てんち》の|神《かみ》に|願《ねが》ひても  |業因《ごふいん》|未《いま》だ|尽《つ》きざるか
|死《し》ぬにも|死《し》なれぬ|身《み》の|苦衷《くちう》  |察《さつ》してくれよ|黒姫《くろひめ》』と
|両眼《りやうがん》|涙《なみだ》をたたへつつ  ことわけすれど|黒姫《くろひめ》は
|白髪頭《しらがあたま》を|横《よこ》にふり  |皺涸《しわが》れ|声《ごゑ》を|張《は》りあげて
『|悪性男《あくしやうをとこ》のハズバンド  |黒姫《くろひめ》|愛想《あいそ》が|尽《つ》きたぞや
|鼻高姫《はなたかひめ》の|後《あと》を|追《お》つて  |尻《しり》の|世話《せわ》でもするがよい
|煩《うる》さい|親爺《おやぢ》』と|言《い》ひながら  |悋気《りんき》の|角《つの》をふりたてて
|夜叉《やしや》のごとくに|駈《か》け|出《い》だす  かかるをりしも|天空《てんくう》に
|天津祝詞《あまつのりと》の|声《こゑ》|聞《き》こえ  |梅《うめ》の|花片《はなびら》ちらちらと
|四辺《あたり》におちて|香《かん》ばしく  いと|爽《さはや》かな|音楽《おんがく》に
つれて|紫雲《しうん》をわけながら  |気高《けだか》きエンゼル|悠々《いういう》と
|下《くだ》り|来《く》るよと|見《み》る|中《うち》に  |黒姫《くろひめ》|姿《すがた》は|後《あと》もなく
|煙《けぶり》と|消《き》えて|室内《しつない》に  |眼《まなこ》くばれば|高姫《たかひめ》が
|黒姫《くろひめ》|霊璽《れいじ》の|前《まへ》に|座《ざ》し  |片言交《かたことまじ》りの|祝詞《のりと》をば
|奏上《そうじやう》しながら|涙《なみだ》ぐみ  ぶつぶつ|小言《こごと》を|言《い》ひゐたり
|高山彦《たかやまひこ》は|夢《ゆめ》さめて  ホツと|一息《ひといき》つきながら
|鼻高姫《はなたかひめ》の|親切《しんせつ》を  |心《こころ》の|底《そこ》より|感謝《かんしや》しつ
|庭《には》に|出《い》づれば|大空《おほぞら》に  |皎々《かうかう》|輝《かがや》く|望《もち》の|月《つき》
|心《こころ》も|広《ひろ》く|伏《ふ》し|拝《をが》み  |感謝《かんしや》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し
|小北《こぎた》の|山《やま》へと|進《すす》み|行《ゆ》く  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》の|恩頼《ふゆ》ぞ|畏《かしこ》けれ。
(昭和二・一〇・一九 長崎県島原町南風楼にて 加藤明子録)
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霊界物語 第七二巻 山河草木 亥の巻
終り