霊界物語 第六三巻 山河草木 寅の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第六十三巻』天声社
1971(昭和46)年02月28日 第二刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年11月16日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序歌《じよか》
|総説《そうせつ》
第一篇 |妙法山月《スダルマさんげつ》
第一章 |玉《たま》の|露《つゆ》〔一六〇八〕
第二章 |妙法山《スダルマさん》〔一六〇九〕
第三章 |伊猛彦《いたけりひこ》〔一六一〇〕
第四章 |山上訓《さんじやうくん》〔一六一一〕
第五章 |宿縁《しゆくえん》〔一六一二〕
第六章 テルの|里《さと》〔一六一三〕
第二篇 |日天子山《スーラヤさん》
第七章 |湖上《こじやう》の|影《かげ》〔一六一四〕
第八章 |怪物《くわいぶつ》〔一六一五〕
第九章 |超死線《てうしせん》〔一六一六〕
第三篇 |幽迷怪道《いうめいくわいだう》
第一〇章 |鷺《さぎ》と|鴉《からす》〔一六一七〕
第一一章 |怪道《くわいだう》〔一六一八〕
第一二章 |五託宣《ごたくせん》〔一六一九〕
第一三章 |蚊燻《かくすべ》〔一六二〇〕
第一四章 |嬉《うれ》し|涙《なみだ》〔一六二一〕
第四篇 |四鳥《してう》の|別《わかれ》
第一五章 |波《なみ》の|上《うへ》〔一六二二〕
第一六章 |諒解《りやうかい》〔一六二三〕
第一七章 |峠《たうげ》の|涙《なみだ》〔一六二四〕
第一八章 |夜《よる》の|旅《たび》〔一六二五〕
第五篇 |神検霊査《しんけんれいさ》
第一九章 |仕込杖《しこみづゑ》〔一六二六〕
第二〇章 |道《みち》の|苦《く》〔一六二七〕
第二一章 |神判《しんぱん》〔一六二八〕
第二二章 |蚯蚓《みみず》の|声《こゑ》〔一六二九〕
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|序歌《じよか》
|此《この》|世《よ》を|救《すく》ふマイトレーヤ ボーヂーサトーヴ|現《あら》はれて
ウヅンバラチャンドラの|体《からだ》を|藉《か》り シブカ(|苦聖諦《くしやうたい》)サムダヤ(|集聖諦《しふしやうたい》)
ニローダ(|滅聖諦《めつしやうたい》)マールガ(|道聖諦《だうしやうたい》) |苦集滅道《くしふめつだう》|四聖諦《ししやうたい》
|完美《うまら》に|審細《つばら》に|道説《だうせつ》し |無明《むみやう》の|世界《せかい》を|照波《せうは》して
マハー・ラシミブラバーサ マハーヰ゛ユーバ(|弘大《こうだい》)に|開《ひら》かむと
スーラヤ、チヤンドラ|世《よ》に|降《くだ》し スメール(|須弥《すみ》)|山《ざん》に|腰《こし》をかけ
ジヤムブドヰ゛ーバ(|全世界《ぜんせかい》)を|守《まも》らむと
アクシヨーバヤ(|阿〓如来《あしゆくによらい》)の|天使《エンゼル》を |前後左右《ぜんごさいう》に|侍《はべ》らせつ
|現《あら》はれたまひし|尊《たふと》さよ |神《かみ》が|表面《おもて》に|現《あら》はれて
チャンドラ スーラヤ ヰ゛マラブラバーサ スリー(日月浄明徳仏)
サルワ゛サトー ヴブリヤダルシヤナ(一切衆生喜見菩薩)
|完全無欠《くわんぜんむけつ》の|神国《しんこく》と いと|平《たひ》らけく|安《やす》らけく
|治《をさ》めたまふぞ|有難《ありがた》き |仰《あふ》げば|高《たか》し|神《かみ》の|国《くに》
|大日《おほひ》の|下《もと》のエルサレム |豊葦原《とよあしはら》の|真秀良場《まほらば》と
|定《さだ》め|給《たま》ひて|厳御魂《いづみたま》 |国常立《くにとこたち》の|大御神《おほみかみ》
|豊国主《とよくにぬし》の|大御神《おほみかみ》 |三五《さんご》の|月日《つきひ》と|現《あ》れまして
|再《ふたた》び|清《きよ》き|神《かみ》の|代《よ》を この|地《ち》の|上《うへ》に|建設《けんせつ》し
|天《あめ》の|下《した》なる|神人《しんじん》が |暗《くら》き|御魂《みたま》を|照《て》らしつつ
|黄金世界《わうごんせかい》を|樹《た》て|給《たま》ふ その|神業《かむわざ》を|一身《いつしん》に
|担任《たんにん》したる|瑞御魂《みづみたま》 |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の
|御命《みこと》|畏《かしこ》み|斎苑館《いそやかた》 |清《きよ》く|仕《つか》ふる|宣伝使《せんでんし》
マハーカーシヤバ|亀彦《かめひこ》や ヤシヨーダラーの|音彦《おとひこ》や
クンヅルボーヂーサツトワ|梅彦《うめひこ》が マンジユシリボーヂーサツトワ|岩彦《いはひこ》と
|黄金姫《わうごんひめ》のスヴアラナ |神《かみ》の|司《つかさ》や|清照姫《きよてるひめ》の
スヴルナブラバーシヤ |初稚姫《はつわかひめ》と|相共《あひとも》に
|梵天王《ぼんてんわう》のブラフマンサハームバテー |祀《まつ》りて|醜《しこ》の|御教《みをしへ》を
|四方《よも》に|流布《るふ》する|魔《ま》の|頭《かしら》 カビラマハールシの|大黒主《おほくろぬし》を
|言向《ことむ》け|和《やは》し|天界《てんかい》の |大荘厳《だいさうごん》や|光明《くわうみやう》を
この|土《ど》の|上《うへ》に|築《きづ》かむと |苦集滅道《くしふめつだう》の|荒浪《あらなみ》を
しのぎて|進《すす》む|物語《ものがたり》 |竜《たつ》の|宮居《みやゐ》に|現《あら》はれて
|神《かみ》の|使《つかひ》のウヅンバラ チヤンドラここに|謹《つつし》みて
|世人《よびと》のために|述《の》べ|伝《つた》ふ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへ|坐《ま》しませよ。
大正十二年五月二十九日 旧四月十四日
|総説《そうせつ》
|霊界物語《れいかいものがたり》|口述《こうじゆつ》|開始《かいし》より、ほとんど|着手日数《ちやくしゆにつすう》|二百五十日《にひやくごじふにち》を|要《えう》して、やうやく|六十三巻《ろくじふさんくわん》を|口述《こうじゆつ》し|終《をは》りました。|天声社《てんせいしや》の|新築《しんちく》もこの|物語《ものがたり》|出版《しゆつぱん》のためでありました。|去《さ》る|二十五日《にじふごにち》|始《はじ》めて|天声社《てんせいしや》の|二階《にかい》の|間《ま》において|二席《にせき》を|口述《こうじゆつ》し、|今日《こんにち》やうやく|完結《くわんけつ》することとなりました。
|瑞月《ずゐげつ》は|近頃《ちかごろ》|大変《たいへん》に|身体《からだ》を|痛《いた》め、|前後《ぜんご》|二ケ月間《にかげつかん》|口述《こうじゆつ》を|怠《おこた》りました。それゆゑ|予定《よてい》の|巻数《くわんすう》には|達《たつ》しなかつたので、|実《じつ》に|遺憾《ゐかん》とするところであります。|未《いま》だ|病気《びやうき》はかばかしからず、また|明日《みやうにち》ごろより|転地療養《てんちれうやう》をなし、|全快《ぜんくわい》を|待《ま》つて|神《かみ》の|御許《みゆる》しあらば|後《あと》を|続《つづ》ける|考《かんが》へであります。しかし|今日《こんにち》までの|口述《こうじゆつ》せしところを|熟読《じゆくどく》なし|下《くだ》さらば、|凡《すべ》て|神界《しんかい》の|御経綸《ごけいりん》も|大神《おほかみ》の|御心《みこころ》も|判然《はんぜん》するはずでありますから、これにて|口述《こうじゆつ》が|止《と》まつても、|神教《しんけう》を|伝《つた》ふる|点《てん》においては、あまり|不便《ふべん》を|感《かん》ずる|事《こと》はあるまいと|思《おも》ひます。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
この|上《うへ》は|神《かみ》の|御旨《みむね》に|任《まか》すのみ
しこの|妨《さまた》げ|繁《しげ》き|世《よ》なれば
大正十二年五月二十九日 旧四月十四日 於天声社
第一篇 |妙法山月《スダルマさんげつ》
第一章 |玉《たま》の|露《つゆ》〔一六〇八〕
|天地万有《てんちばんいう》ことごとく |霊力体《れいりよくたい》の|三元《さんげん》を
|与《あた》へて|創造《さうざう》なし|給《たま》ひ おのおのその|所《しよ》を|得《え》せしめし
|国《くに》の|御祖《みおや》の|大御神《おほみかみ》 |国常立《くにとこたち》の|大神《おほかみ》は
|大国治立大神《おほくにはるたちおほかみ》の |貴《うづ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|大海原《おほうなばら》の|中心地《ちうしんち》 |黄金山下《わうごんさんか》にあれまして
|天地《あめつち》|百《もも》の|生物《いきもの》を いと|安《やす》らけく|平《たひ》らけく
|守《まも》らせ|給《たま》ひ|厳《おごそ》かに |珍《うづ》の|掟《おきて》を|定《さだ》めまし
|神《かみ》と|人《ひと》との|踏《ふ》みて|行《ゆ》く |道《みち》を|立《た》てさせ|給《たま》ひしが
|日《ひ》は|行《ゆ》き|月《つき》たち|星《ほし》|移《うつ》り |世《よ》はくれ|竹《たけ》のおひおひに
|天足《あだる》の|彦《ひこ》や|胞場姫《えばひめ》の |醜《しこ》の|身霊《みたま》ゆなり|出《い》でし
|八岐大蛇《やまたをろち》や|醜神《しこがみ》の いやなき|業《わざ》に|畏《かしこ》くも
|珍《うづ》の|聖地《せいち》を|後《あと》にして |神《かみ》の|仕組《しぐみ》といひながら
|大海中《おほわだなか》に|浮《うか》びたる |自転倒島《おのころじま》にかくれまし
|国武彦《くにたけひこ》と|名《な》を|変《か》へて |此《この》|世《よ》を|忍《しの》び|曙《あけぼの》の
|日《ひ》の|出《で》の|御代《みよ》を|待《ま》ち|給《たま》ひ |女神《めがみ》とあれし|瑞御霊《みづみたま》
|豊国姫《とよくにひめ》の|大神《おほかみ》は |夫神《つま》の|命《みこと》のなやみをば
|居《ゐ》ながら|見《み》るに|忍《しの》びずと |豊葦原《とよあしはら》の|中津国《なかつくに》
メソポタミヤの|山奥《やまおく》に |永《なが》く|御身《おんみ》を|忍《しの》びまし
|五六七《みろく》の|御代《みよ》を|待《ま》ち|給《たま》ふ |大国常立大神《おほくにとこたちおほかみ》は
|厳《いづ》の|御霊《みたま》と|現《あら》はれて |四方《よも》|久方《ひさかた》の|天盛留向津媛《あまさかるむかつひめ》
|御稜威《みいづ》も|殊《こと》に|大日婁女貴《おほひるめむち》 |女神《めがみ》となりて|諾冊《なぎなみ》の
|二神《にしん》の|間《あひだ》に|生《うま》れまし |豊国姫《とよくにひめ》の|大神《おほかみ》は
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》と |現《あら》はれ|給《たま》ひ|天地《あめつち》を
おのもおのもに|持《も》ち|分《わ》けて |守《まも》らせ|給《たま》ふをりもあれ
|魔神《まがみ》の|猛《たけ》り|強《つよ》くして |岩《いは》の|根《ね》|木根立《きねたち》|百草《ももくさ》の
|片葉《かきは》も|言向《ことと》ひ|騒《さわ》ぎ|立《た》て |豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂国《みづほくに》
|再《ふたた》び|常世《とこよ》の|暗《やみ》となり |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は
この|惨状《さんじやう》を|如何《いか》にして |鎮《しづ》めむものと|村肝《むらきも》の
|御心《みこころ》|千々《ちぢ》に|砕《くだ》かせつ |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|憂《うれ》ひまし
|山河草木《やまかはくさき》|枯《か》れ|果《は》てて |修羅《しゆら》の|巷《ちまた》となりにけり
|父《ちち》とあれます|伊邪那岐《いざなぎ》の |皇大神《すめおほかみ》は|大空《おほぞら》ゆ
|下《くだ》らせ|給《たま》ひて|素盞嗚《すさのを》の |珍《うづ》の|御子《おんこ》に|打《う》ち|向《む》かひ
|憂《うれ》ひ|歎《なげ》かすその|理由《わけ》を |尋《たづ》ね|給《たま》へば|瑞御霊《みづみたま》
|完全《うまら》に|詳細《つばら》に|世《よ》の|状《さま》を |語《かた》らせ|給《たま》ひ|吾《われ》は|今《いま》
|母《はは》のまします|月《つき》の|国《くに》 |罷《まか》らむものと|思《おも》ひ|立《た》ち
この|世《よ》の|名残《なご》りに|泣《な》くなりと |答《こた》へ|給《たま》へば|父《ちち》の|神《かみ》
いたく|怒《いか》らせ|給《たま》ひつつ |胸《むね》に|涙《なみだ》を|湛《たた》へまし
|大海原《おほうなばら》を|知食《しろしめ》す |権威《ちから》なければ|汝《な》が|尊《みこと》
|根底《ねそこ》の|国《くに》に|至《いた》れよと いと|厳《おごそ》かに|宣《の》り|給《たま》ふ
|千万無量《せんまんむりやう》の|悲《かな》しみを |胸《むね》にたたへて|父神《ちちがみ》は
|日《ひ》の|若宮《わかみや》にかへりまし |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は
|姉大神《あねおほかみ》とあれませる |厳《いづ》の|御霊《みたま》の|大日婁女《おほひるめ》
|天照神《あまてるかみ》の|御前《おんまへ》に この|世《よ》の|名残《なご》りを|告《つ》げむとて
|上《のぼ》らせ|給《たま》へば|山河《やまかは》は |一度《いちど》に|動《どよ》み|地《つち》は|揺《ゆ》り
|八十《やそ》の|枉津《まがつ》の|叫《さけ》ぶ|声《こゑ》 |天《てん》にまします|大神《おほかみ》の
|御許《みもと》に|高《たか》く|響《ひび》きけり |天照《あまてら》します|大神《おほかみ》は
この|有様《ありさま》をみそなはし |弟神《おとうとがみ》の|来《き》ませるは
|必《かなら》ず|汚《きたな》き|心《こころ》もて わが|神国《かみくに》を|奪《うば》はむと
|攻《せ》め|寄《よ》せたるに|間違《まが》ひなし |備《そな》へせよやと|八百万《やほよろづ》
|神《かみ》を|集《つど》へて|剣太刀《つるぎたち》 |弓矢《ゆみや》を|飾《かざ》り|堅庭《かたには》に
|弓腹《ゆはら》|振《ふ》り|立《た》て|雄猛《をたけ》びし |待《ま》ち|問《と》ひ|給《たま》へば|素盞嗚《すさのを》の
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|大神《おほかみ》は |言葉《ことば》|静《しづ》かに|答《こた》へらく
|吾《われ》は|汚《きたな》き|心《こころ》なし |父大神《ちちおほかみ》の|御言《みこと》|以《も》て
|母《はは》の|御国《みくに》に|行《ゆ》かむとす いとも|親《した》しき|吾《わ》が|姉《あね》に
ただ|一言《ひとこと》の|暇乞《いとまご》ひ |告《つ》げむが|為《ため》に|上《のぼ》りしと
いはせも|果《は》てず|姉神《あねがみ》は いと|厳《おごそ》かに|宣《の》らすやう
|汝《な》れの|心《こころ》の|清《きよ》きこと |今《いま》この|場《ば》にて|証《あかし》せむ
いひつつ|弟《おとうと》|素盞嗚《すさのを》の |神《かみ》の|佩《は》かせる|御剣《みつるぎ》を
|御手《みて》に|執《と》らせつ|安河《やすかは》を |中《なか》に|隔《へだ》てて|誓約《うけひ》ます
この|神業《かむわざ》に|素盞嗚《すさのを》の |神《かみ》の|尊《みこと》は|瑞御霊《みづみたま》
|清明無垢《せいめいむく》の|御精神《ごせいしん》 いと|明《あきら》かになりにけり
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は |姉《あね》のまかせる|美須麻琉《みすまる》の
|玉《たま》を|御手《おんて》に|受取《うけと》りて |天《あめ》の|真名井《まない》に|振《ふ》り|濺《そそ》ぎ
|奴那止母母由良《ぬなとももゆら》に|取由良《とりゆら》し |狭嚼《さが》みに|咬《か》みて|吹《ふ》き|棄《う》つる
|伊吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》に|五御魂《いつみたま》 |現《あら》はれませしぞ|畏《かしこ》けれ
|姉大神《あねおほかみ》の|御心《みこころ》は |初《はじ》めて|疑《うたが》ひ|晴《は》れぬれど
|天津神《あまつかみ》たち|国津神《くにつかみ》 |容易《ようい》に|心《こころ》|治《をさ》まらず
|高天原《たかあまはら》は|忽《たちま》ちに いと|騒《さわ》がしくなりければ
|姉大神《あねおほかみ》は|驚《おどろ》きて |天《あま》の|岩戸《いはと》の|奥《おく》|深《ふか》く
|御姿《みすがた》かくし|給《たま》ひけり |六合《りくがふ》たちまち|暗黒《あんこく》と
なりて|悪神《あくがみ》|横行《わうかう》し |大蛇《をろち》|曲霊《まがひ》のおとなひは
|狭蠅《さばへ》の|如《ごと》く|充《み》ち|沸《わ》きぬ ここに|神々《かみがみ》|寄《よ》り|集《つど》ひ
|岩戸《いはと》の|前《まへ》に|音楽《おんがく》を |奏《かな》でまつりて|太祝詞《ふとのりと》
|宣《の》らせ|給《たま》へば|大神《おほかみ》は |再《ふたた》び|此《この》|世《よ》にあれまして
|六合《りくがふ》ここに|明《あ》け|渡《わた》り |栄光《さかえ》の|御代《みよ》となり|初《そ》めぬ
|斯《か》くもかしこき|騒《さわ》ぎをば |始《はじ》めし|神《かみ》の|罪科《つみとが》を
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》に |千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》はせつつ
|高天原《たかあまはら》より|神退《かむやら》ひ |退《やら》ひ|給《たま》ひし|歎《うた》てさよ
|天地《あめつち》|一時《いちじ》は|明《あき》らけく いと|穏《おだや》かに|治《をさ》まりし
|如《ごと》く|表面《おもて》は|見《み》えつれど |豊葦原《とよあしはら》の|国々《くにぐに》は
|魔神《まがみ》の|健《たけ》び|猛《たけ》くして |再《ふたた》び|修羅《しゆら》の|八巷《やちまた》と
なり|変《かは》りたる|惨状《さんじやう》を |見《み》るに|忍《しの》びず|瑞御霊《みづみたま》
|国武彦《くにたけひこ》と|相共《あひとも》に |三五教《あななひけう》を|開《ひら》きまし
|深山《みやま》の|奥《おく》の|時鳥《ほととぎす》 |八千八声《はつせんやこゑ》の|血《ち》を|絞《しぼ》り
この|土《ど》の|上《うへ》に|安《やす》らけき |五六七《みろく》の|御代《みよ》を|建設《けんせつ》し
|八岐大蛇《やまたをろち》や|醜神《しこがみ》を |生言霊《いくことたま》に|言向《ことむ》けて
|姉《あね》の|御神《みかみ》に|奉《たてまつ》り |世《よ》の|災《わざはひ》を|除《のぞ》かむと
コーカス|山《ざん》やウブスナの |山《やま》の|尾《を》の|上《へ》に|神館《かむやかた》
|見立《みた》て|給《たま》ひて|御教《みをしへ》を |開《ひら》き|給《たま》ひし|尊《たふと》さよ
|八岐大蛇《やまたをろち》の|分霊《わけみたま》 かかりて|此《この》|世《よ》を|乱《みだ》し|行《ゆ》く
ハルナの|都《みやこ》の|悪神《あくがみ》を |先《ま》づ|第一《だいいち》に|言向《ことむ》けて
|此《この》|世《よ》の|枉《まが》を|払《はら》はむと |心《こころ》も|清《きよ》き|宣伝使《せんでんし》
|数多《あまた》|派遣《はけん》し|給《たま》ひしが |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御娘《おんむすめ》
|五十子《いそこ》の|姫《ひめ》の|夫《つま》とます |玉国別《たまくにわけ》の|音彦《おとひこ》に
|心《こころ》の|空《そら》も|真純彦《ますみひこ》 |教《のり》を|伝《つた》ふる|三千彦《みちひこ》や
|伊太彦司《いたひこつかさ》を|添《そ》へ|玉《たま》ひ ハルナの|都《みやこ》に|遣《つか》はして
|神《かみ》の|恵《めぐ》みを|人草《ひとぐさ》の |身魂《みたま》に|照《て》らし|給《たま》はむと
|任《ま》け|給《たま》ひしぞ|尊《たふと》けれ。
○
|玉国別《たまくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》 |三人《みたり》の|司《つかさ》ともろともに
|河鹿峠《かじかたうげ》を|打《う》ち|渡《わた》り |懐谷《ふところだに》の|山猿《やまざる》に
|苦《くる》しみながら|神力《しんりき》に |守《まも》られ|祠《ほこら》の|神《かみ》の|森《もり》
とどまり|病《やまひ》を|養《やしな》ひつ |珍《うづ》の|宮居《みやゐ》を|建《た》て|終《をは》り
|祝詞《のりと》の|声《こゑ》も|勇《いさ》ましく |御前《みまへ》を|立《た》ちて|山河《やまかは》を
|渡《わた》り|漸《やうや》くテルモンの |館《やかた》に|入《い》りてデビス|姫《ひめ》
|親《おや》と|妹《いも》との|危難《きなん》をば |救《すく》ひて|神《かみ》の|御名《みな》を|挙《あ》げ
デビスの|姫《ひめ》を|三千彦《みちひこ》の |妻《つま》と|定《さだ》めてテルモンの
|湖水《こすゐ》を|渡《わた》り|種々《いろいろ》の |珍《うづ》の|神業《しんげふ》なし|遂《と》げて
アヅモス|山《さん》のバーチルが |館《やかた》に|立《た》ち|寄《よ》りアヅモスの
|山《やま》に|隠《かく》れしタクシャカの |竜王《りうわう》|始《はじ》め|妻神《つまがみ》の
サーガラ|竜王《りうわう》|救《すく》ひつつ |夜光《やくわう》の|玉《たま》や|如意宝珠《によいほつしゆ》
|竜王《りうわう》の|手《て》より|受取《うけと》りて |真澄《ますみ》の|空《そら》の|夏《なつ》の|道《みち》
|草鞋《わらぢ》に|足《あし》をすりながら |伊太彦《いたひこ》デビス|四柱《よはしら》の
|御供《みとも》と|共《とも》にエルサレム |聖地《せいち》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く
|日《ひ》も|黄昏《たそが》れて|道《みち》の|辺《べ》の |祠《ほこら》の|前《まへ》に|立《た》ち|寄《よ》れば
|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|法螺《ほら》の|貝《かひ》 |鬼春別《おにはるわけ》の|治道居士《ちだうこじ》
|比丘《びく》の|司《つかさ》に|廻《めぐ》り|会《あ》ひ ここに|一行《いつかう》|六人《ろくにん》は
スダルマ|山《ざん》の|山麓《さんろく》を |右《みぎ》に|眺《なが》めて|辿《たど》りつつ
|声《こゑ》も|涼《すず》しき|宣伝歌《せんでんか》 |四辺《あたり》の|山河《さんか》|轟《とどろ》かし
|空気《くうき》を|清《きよ》めて|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・五・一八 旧四・三 於竜宮館 北村隆光録)
第二章 |妙法山《スダルマさん》〔一六〇九〕
|夏樹《なつき》|生茂《おひしげ》り|緑《みどり》したたるスダルマ|山《さん》の|山道《やまみち》の|入口《いりぐち》に、|甲《かふ》|乙《おつ》|二人《ふたり》の|男《をとこ》が|腰《こし》|打《う》ちかけて、|杣《そま》の|手《て》を|休《やす》めて|雑談《ざつだん》に|耽《ふけ》つてゐた。
|甲《かふ》『オイ|兄貴《あにき》、|吾々《われわれ》もせめて|人並《ひとな》みの|生活《せいくわつ》が|為《し》たいものだなア。|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|山《やま》|深《ふか》く|分《わ》け|入《い》つて、|杣《そま》ばかりやつてをつても|汗《あせ》を|搾《しぼ》るばかりで、|何時《いつ》も|金槌《かなづち》の|川《かは》|流《なが》れ|同様《どうやう》、|天窓《あたま》の|上《あが》りやうがないぢやないか。|今日《こんにち》の|人間《にんげん》は|文化生活《ぶんくわせいくわつ》をもつて|最上《さいじやう》の|処世法《しよせいほふ》としてゐるが、|吾々《われわれ》も|自然《しぜん》とやらを|征服《せいふく》する|文化生活《ぶんくわせいくわつ》に|入《い》つて、|安楽《あんらく》な|生涯《しやうがい》を|送《おく》りたいものだなア』
|乙《おつ》『|吾々《われわれ》は|文化生活《ぶんくわせいくわつ》といふものを|転用《てんよう》して|人格問題《じんかくもんだい》に|当《あ》てたいと|思《おも》ふのだ。バラモン|教徒《けうと》は|煩悩即菩提《ぼんなうそくぼだい》だなどと|気楽《きらく》さうな|事《こと》をいつてゐるが、それは|悟道《ごだう》の|境地《きやうち》に|立《た》ち|至《いた》つた|上根《じやうこん》の|人間《にんげん》のいふことで、|普通《ふつう》の|人間《にんげん》はソンナ|軽々《かるがる》しいわけにはゆかぬ。とても|人格《じんかく》を|磨《みが》いて|向上《かうじやう》する|事《こと》は|不可能事《ふかのうじ》だよ。|絶《た》えず|内観自省《ないくわんじせい》して、|肉的本能《にくてきほんのう》を|征服《せいふく》しておかねばならない。|霊体《れいたい》|共《とも》に|自然《しぜん》であることは|無論《むろん》だが、この|両者《りやうしや》を|並行《へいかう》さす|事《こと》は|困難《こんなん》だ。|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|聖言《せいげん》には、「|体慾《たいよく》に|富《と》める|者《もの》は|神《かみ》の|御国《みくに》に|入《い》ること|難《かた》し。|富貴《ふうき》の|人《ひと》の|神《かみ》の|国《くに》に|入《い》るよりは、|蛤《はまぐり》を|以《もつ》て|大海《だいかい》を|替《か》へ|干《ほ》す|方《はう》|却《かへ》つて|易《やす》かるべし。|人《ひと》は|二人《ふたり》の|主人《しゆじん》に|仕《つか》ふること|能《あた》はず。|故《ゆゑ》に|人《ひと》も、|神《かみ》と|体慾《たいよく》とに|兼《か》ね|仕《つか》ふることを|得《え》ず」と|教《をし》へられてある。|実《じつ》に|深遠《しんゑん》なる|教訓《けうくん》ではあるまいかなア』
|甲《かふ》『|神《かみ》さまもチト|判《わか》らぬぢやないかエーン。よく|考《かんが》へて|見《み》よ。|吾々《われわれ》のやうな|貧乏人《びんばふにん》は、|聖典《せいてん》を|研究《けんきう》いな|研究《けんきう》と|言《い》つては|勿体《もつたい》ないかも|知《し》らぬ、|拝誦《はいしよう》して|心魂《しんこん》を|磨《みが》く|余裕《よゆう》がないが、|富者《ふうしや》となれば|日々《にちにち》|遊《あそ》んで|暮《くら》す|暇《ひま》があるのだから、|自由自在《じいうじざい》に|聖典《せいてん》を|拝誦《はいしよう》したり、|又《また》その|密意《みつい》を|極《きは》め|得《う》るの|便宜《べんぎ》があるから、|神《かみ》の|国《くに》に|入《い》るものは、|富者《ふうしや》であることは|当然《たうぜん》の|帰結《きけつ》ではないか』
|乙《おつ》『ソウ|言《い》へばさうだが、|人間《にんげん》と|言《い》ふものは|吾々《われわれ》の|考《かんが》へ|通《どほ》りにゆくものではない。|得意時代《とくいじだい》の|人間《にんげん》は|到底《たうてい》そんな|殊勝《しゆしよう》な|考《かんが》への|浮《うか》ぶものではないよ。「|家《いへ》|貧《まづ》しうして|親《おや》を|思《おも》ふ」とか|謂《ゐ》つて、|吾々《われわれ》のやうなものこそ、|精神上《せいしんじやう》の|慰安《ゐあん》を|求《もと》め、|向上《かうじやう》もし、|神《かみ》に|縋《すが》らむとするものだが、|容易《ようい》に|得意時代《とくいじだい》には|貧乏人《びんばふにん》の|吾々《われわれ》だとて、そんな|好《よ》い|考《かんが》へは|起《おこ》るものではないよ。|勿論《もちろん》|瑞《みづ》の|御魂様《みたまさま》だとて、|絶対的《ぜつたいてき》に|富《とみ》そのものを|無視《むし》された|訳《わけ》ではなからうが、こんな|教訓《けうくん》を|与《あた》へなくてはならない|所以《ゆゑん》は、|人間《にんげん》の|弱点《じやくてん》といふものは|凡《すべ》て|物質《ぶつしつ》の|奴隷《どれい》となり|易《やす》いからだ。|同《おな》じ|富《とみ》を|求《もと》むるにしても、|我慾心《がよくしん》を|満足《まんぞく》さすために|求《もと》むるものと、|神《かみ》の|大道《だいだう》を|行《おこな》はむがために|行《おこな》ふものとは、その|内容《ないよう》においても、その|精神《せいしん》においても、|天地霄壤《てんちせうじやう》の|相違《さうゐ》があるだらう。|苟《いやし》くも|人間《にんげん》としての|生活《せいくわつ》に、|物質《ぶつしつ》が|不必用《ふひつよう》なる|道理《だうり》は|絶対《ぜつたい》にない。どこまでも|経済観念《けいざいくわんねん》を|放擲《はうてき》することは|所詮《しよせん》|不可能《ふかのう》だ。|然《しか》るに|凡《すべ》ての|神教《しんけう》の|宣伝使《せんでんし》が、|口《くち》を|揃《そろ》へて|禁慾主義《きんよくしゆぎ》や|寡慾主義《くわよくしゆぎ》を|高潮《かうてう》してをるところをみると、そこに|何等《なんら》かの|深意《しんい》を|発見《はつけん》せなくてはなるまいと|思《おも》ふのだ』
|甲《かふ》『|君《きみ》の|説《せつ》にも|一理《いちり》あるやうだ。しかし|吾々《われわれ》は|何《なん》とか|努力《どりよく》して|人並《ひとな》みの|生活《せいくわつ》だけはせなくてはならないが、「|倉廩《さうりん》|充《み》ちて|礼節《れいせつ》を|知《し》り、|衣食《いしよく》|足《た》りて|道《みち》を|歩《あゆ》む」とかいふから、|肉的生活《にくてきせいくわつ》のみでは、|肉体《にくたい》を|具《そな》へた|人間《にんげん》としては|実《じつ》に|腑甲斐《ふがひ》ない|話《はなし》だ。|吾《われ》に「|先《ま》づパンを|与《あた》へよ、|然《しか》して|後《のち》に|大道《だいだう》を|歩《あゆ》まむ」だからなア』
|乙《おつ》『「|人《ひと》はパンのみにて|生《い》くるものではないと|共《とも》に、|霊《れい》のみにて|生《い》くるものにあらず」と|吾々《われわれ》も|言《い》ひたくなつて|来《く》るのだ。しかしそこは|人間《にんげん》としての|自覚《じかく》が|必要《ひつえう》だ』
|甲《かふ》『|自覚《じかく》も|必要《ひつえう》だが、|現代《げんだい》の|人間《にんげん》の|自覚《じかく》なるものは、|果《はた》して|人並《ひとな》み|以上《いじやう》に|立脚《りつきやく》してゐるだらうか。|霊的自覚《れいてきじかく》に|立《た》つてゐるだらうか。それが|僕《ぼく》には|杞憂《きいう》されてならないのだ。|今日《こんにち》の|人間《にんげん》の|唱《とな》ふる|自覚《じかく》といふ|奴《やつ》は、|月並式《つきなみしき》の|自覚様《じかくさま》だからなア』
|乙《おつ》『|君《きみ》のいふ|通《とほ》り|有名無実《いうめいむじつ》の|自覚《じかく》、|月並《つきな》みの|自覚《じかく》だとすれば、|忽《たちま》ち|自覚《じかく》と|自覚《じかく》とが|互《たが》ひに|相衝突《あひしようとつ》を|来《き》たして、|平和《へいわ》を|攪乱《かくらん》することになるだらう。|現代《げんだい》のやうに|各方面《かくはうめん》に|始終《しじう》|闘争《とうさう》の|絶《た》え|間《ま》がないのは、|自覚《じかく》の|不徹底《ふてつてい》といふことに|帰因《きいん》してゐるのだらう。しかし|凡《すべ》ての|物《もの》には|順序《じゆんじよ》があり、|階段《かいだん》があるからして、|自覚《じかく》の|当初《たうしよ》は|何《いづ》れにしても、|幾何《いくばく》かの|動揺《どうえう》と|闘争《とうさう》とは|免《まぬが》れないといふ|点《てん》もあるだらう』
|甲《かふ》『さうだから|僕《ぼく》は|現代《げんだい》の|自覚様《じかくさま》には|物足《ものた》らなくて|拝跪渇仰《はいきかつがう》することが|出来《でき》ないのだ。|人格《じんかく》の|平等《べうどう》だとか|個性《こせい》の|尊重《そんちよう》だとか、やかましく|騒《さわ》ぎまはる|割合《わりあひ》に、|事実《じじつ》としての|態度《たいど》が|実際《じつさい》に|醜《みにく》うて|鼻持《はなも》ちがならないのだ。しかし|中《なか》には|一人《ひとり》や|二人《ふたり》ぐらゐは、|立派《りつぱ》な|態度《たいど》の|人間《にんげん》もあるだらうが、|概括《がいくわつ》して|見《み》ると、|賛成《さんせい》の|出来《でき》ない|人間《にんげん》ばかりだからなア』
|乙《おつ》『ウンそれもソウだねー。|現代人《げんだいじん》の|唱《とな》ふる|人格《じんかく》の|平等《べうどう》といふものは、|実《じつ》に|怪《あや》しいものだ。|僕《ぼく》もその|事《こと》は|克《よ》く|認《みと》めてゐる|一人《いちにん》だ。|人格《じんかく》の|平等《べうどう》といへば、|高位《かうゐ》の|人間《にんげん》を|低《ひく》い|所《ところ》へ|引《ひ》き|下《お》ろして、「お|前《まへ》と|俺《おれ》とが|同格《どうかく》だ、|同《おな》じ|神《かみ》の|分霊《ぶんれい》だ|分身《ぶんしん》だ」といつたり、|甚《はなは》だしいのは、|上流者《じやうりうしや》や|官吏《くわんり》の|前《まへ》に|尻《しり》を|捲《まく》つて、|威張《ゐば》ることだと|考《かんが》へたりする|奴《やつ》が|多《おほ》いのだ。そのくせ|自分《じぶん》より|下位《した》の|人間《にんげん》からそれと|同《おな》じやうな|事《こと》をしられると、「|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にするな、|侮辱《ぶじよく》を|加《くは》へた」と|言《い》つて|立腹《りつぷく》する|奴《やつ》ばかりだ。|自由《じいう》といへば|厭《いや》な|夫《をつと》を|振《ふ》り|捨《す》てて|好《す》きな|男《をとこ》と|出奔《しゆつぽん》したり、|法律《はふりつ》も|道徳《だうとく》も|義理《ぎり》も|人情《にんじやう》も|踏《ふ》み|蹂《にじ》ることだと|思《おも》つてゐる|奴《やつ》ばかりだ。しかもそれほど|自由《じいう》を|要求《えうきう》したりまた|主張《しゆちやう》したりするのなら、|他人《たにん》に|対《たい》した|場合《ばあひ》でも|自由《じいう》を|与《あた》へるかといふと、|事実《じじつ》は|全然《ぜんぜん》その|反対《はんたい》のことを|行《や》るものばかりだ。
アナーキズムを|叫《さけ》ぶくらゐなら、|自分《じぶん》の|家《いへ》に|泥坊《どろばう》が|這入《はい》つても|歓待《くわんたい》してやりさうなものだのに、|真先《まつさき》に|警察署《けいさつしよ》に|訴《うつた》へに|行《ゆ》く|奴《やつ》ばかりだ。「|経済組織《けいざいそしき》は、コンミュニズムに|為《せ》なくてはいけない」といつて、やかましく|主張《しゆちやう》してゐるから、「それなら|先《ま》づ|君《きみ》の|財産《ざいさん》から|放《ほ》り|出《だ》せ」と|言《い》ふと、『それは|真平《まつぴら》|御免《ごめん》』といふやうな|面付《つらつ》きで|素知《そし》らぬ|顔《かほ》をして、|他人《たにん》に|出《だ》させて|共産《きやうさん》にしようと|言《い》ふ|奴《やつ》ばかりだ。ある|二人《ふたり》の|青年《せいねん》ソシアリズム|崇拝者《すうはいしや》が、|鶏肉《けいにく》のすき|焼《やき》を|食《く》ひにいつてその|割前《わりまへ》を|支払《しはら》ふ|時《とき》に、|相手《あひて》の|一人《ひとり》が「|金《かね》が|足《た》りないから、|君《きみ》の|金《かね》を|出《だ》して|支払《しはら》つて|済《す》ませてくれ」と|言《い》つたら、「ソンナ|事《こと》は|出来《でき》ない」と|断《こと》わつたので|相手《あひて》の|一人《ひとり》が、「それは|君《きみ》の|平素《へいそ》の|主張《しゆちやう》に|悖《もと》るではないか」と|突込《つつこ》むと、「いやそれと|是《これ》とは|別問題《べつもんだい》だ」と|言《い》つて|逃《に》げてしまつたといふ|話《はなし》だ。とかく|人間《にんげん》といふ|奴《やつ》は、|人《ひと》に|対《たい》しては|種々《いろいろ》の|要求《えうきう》を|起《おこ》すが、その|要求《えうきう》を|自分《じぶん》にされたらどうだらう。|果《はた》して|応《おう》ずるだけの|覚悟《かくご》を|持《も》つてゐるだらうか。|自分《じぶん》の|立場《たちば》が|無産階級《むさんかいきふ》にあるからと|言《い》つて|共産主義《きやうさんしゆぎ》を|叫《さけ》ぶのでは|本当《ほんたう》のものでない。|筆《ふで》や|舌《した》の|尖《さき》ではどんな|事《こと》でも|立派《りつぱ》に|言《い》はれるが、|事実《じじつ》その|事件《じけん》が|自分《じぶん》の|身《み》に|降《ふ》りかかつた|時《とき》に|実行《じつかう》することが|出来《でき》るだらうか。|十中《じつちう》の|十《じふ》まで|有言不実行《いうげんふじつかう》で、|日頃《ひごろ》の|主張《しゆちやう》を|撤廃《てつぱい》せなくてはならぬやうになるのは、|可《か》なり|沢山《たくさん》な|事実《じじつ》だからなア』
|甲《かふ》『|本当《ほんたう》に|虚偽《きよぎ》|虚飾《きよしよく》の|人獣《にんじう》ばかりの|世《よ》の|中《なか》だ。|真《しん》の|人間《にんげん》らしいものは、かう|考《かんが》へて|見《み》ると|一人《ひとり》も|世界《せかい》に|無《な》いと|言《い》つても|好《い》いくらゐだ。|文壇《ぶんだん》の|名士《めいし》カットデルは、|世間《せけん》に|知《し》られた|自由思想家《じいうしさうか》だつたが、|自分《じぶん》がアーメニヤとかへ|旅行《りよかう》したその|不在中《ふざいちゆう》に、|女房《にようばう》のコール|夫人《ふじん》にウユルスといふ|若《わか》い|美《うつく》しい|愛人《あいじん》が|出来《でき》て、しきりに|手紙《てがみ》を|往復《わうふく》してゐたのをカットデルが|見附《みつ》けて、その|真相《しんさう》を|尋《たづ》ねたところ、コール|夫人《ふじん》は|平気《へいき》な|顔《かほ》で、「あなたに|対《たい》する|愛《あい》が|無《な》くなつたから、|日頃《ひごろ》の|自由思想《じいうしさう》を|実践《じつせん》|躬行《きうかう》して|愛人《あいじん》の|下《もと》へ|行《ゆ》く|心算《つもり》です」と、ハツキリと|答《こた》へて|済《す》ましこんでゐたので、カットデル|氏《し》も|色々《いろいろ》と|話合《はなしあ》つた|上《うへ》、|二人《ふたり》の|恋愛《れんあい》を|許《ゆる》してやつたが、さていよいよコール|夫人《ふじん》が|家内《かない》にをらなくなると、|子供《こども》のためやその|他《た》の|事《こと》が|思《おも》はれて、|到頭《たうとう》|日頃《ひごろ》|主義《しゆぎ》とする|自由思想《じいうしさう》を|捨《す》て、|人道的《じんだうてき》|立場《たちば》から|愛妻《あいさい》コール|夫人《ふじん》に|反省《はんせい》を|求《もと》めて、|再《ふたた》び|戻《もど》つてもらふ|事《こと》を|頼《たの》んだといふぢやないか。|人間《にんげん》ぐらゐ、|勝手《かつて》な|奴《やつ》はあつたものぢやない、アハハハハ』
|乙《おつ》『オイ|君《きみ》、|向《む》かふの|方《はう》から|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》が|聞《き》こえて|来《き》たぢやないか。|一寸《ちよつと》|聞《き》き|玉《たま》へ、「|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立分《たてわ》ける」とか|何《なん》とかいつてゐるやうだ』
|甲《かふ》『ウンいかにも|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》だ。しかもあれは|三五教《あななひけう》の|歌《うた》だ。|吾々《われわれ》ウラル|教徒《けうと》も|三五教《あななひけう》の|宣伝歌《せんでんか》を|聞《き》くと、なンだか|心持《こころもち》が|好《い》い。|一《ひと》つここに|待《ま》ちうけて、|何《な》ンとか|人生問題《じんせいもんだい》について|解決《かいけつ》を|与《あた》へてもらはふぢやないか』
|乙《おつ》『なにほど|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》だつて|駄目《だめ》だらう。|無《な》い|袖《そで》は|振《ふ》るわけに|行《ゆ》かぬからなア。それよりも|神力《しんりき》によつて、スーラヤ|山《さん》の|大蛇《をろち》の|岩窟《がんくつ》にある|宝玉《はうぎよく》を、|手《て》に|入《い》れるやうにせうではないか。なにほど|大蛇《をろち》が|沢山《たくさん》をるといつても、|神力《しんりき》には|叶《かな》ふまいからなア』
|甲《かふ》『|別《べつ》に|三五教《あななひけう》に|頼《たの》まなくても、|吾々《われわれ》が|平素《へいそ》|信仰《しんかう》するウラル|彦《ひこ》の|大神様《おほかみさま》にお|願《ねが》ひすればいいだらう』
|乙《おつ》『|朝夕《あさゆふ》ウラル|教《けう》の|大神《おほかみ》を|念《ねん》じてみたが、|此《こ》のごろのウラル|彦様《ひこさま》は|貧乏《びんばふ》されたとみえて、|根《ね》ツから|福《ふく》を|与《あた》へてくれない、|財産《ざいさん》を|沢山《たくさん》ウラル(|得《う》らる)|教《けう》だと|思《おも》つて|信仰《しんかう》したのに、|信仰以来《しんかういらい》ウラねばならぬウラメシ|教《けう》になつてしまつて、|社会《しやくわい》の|地平線下《ちへいせんか》に|墜落《つゐらく》し、かう|杣人《そまびと》とまで|成《な》り|下《さが》つたのだから、|僕《ぼく》は|最早《もはや》ウラル|教《けう》は|止《や》めたのだ。しかしスーラヤ|山《さん》の|珍宝《ちんぽう》を|手《て》に|入《い》れさしてくれたら|信仰《しんかう》を|続《つづ》けてもいいのだ。|自分《じぶん》が|富者《ふうしや》の|地位《ちゐ》に|立《た》つてからソロソロ コンミュニズムの|主張《しゆちやう》でもやつて、|人間並《にんげんな》みの|生活《せいくわつ》をやつてみたいのだ』
|甲《かふ》『そんな|危険《きけん》なことは|止《や》めて、マアしばらく|今日《こんにち》の|境遇《きやうぐう》に|安《やす》んじ|時節《じせつ》を|待《ま》つたらどうだ。なにほど|珍宝《ちんぽう》が|手《て》に|入《い》つても|生命《いのち》が|無《な》くつちや|仕方《しかた》がなからうよ』
かく|談《はな》すところへ|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》が|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》に|足並《あしな》み|揃《そろ》へて|近《ちか》よつて|来《き》た。
|玉国別《たまくにわけ》、|真純彦《ますみひこ》、|三千彦《みちひこ》、デビス|姫《ひめ》、|伊太彦《いたひこ》、|治道居士《ちだうこじ》の|一行《いつかう》|六人《ろくにん》は|漸《やうや》くにして、スダルマ|山《ざん》の|登《のぼ》り|口《ぐち》までさしかかつて|来《き》た。|例《れい》の|伊太彦《いたひこ》は|先頭《せんとう》に|立《た》つて|声《こゑ》も|高《たか》らかに|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》つてゐる。|山《やま》の|登《のぼ》り|口《くち》の|木陰《こかげ》に|二人《ふたり》の|男《をとこ》が|腰《こし》|打《う》ちかけて|何事《なにごと》か|囁《ささや》いてゐる。
|伊太彦《いたひこ》は|目敏《めざと》くこれを|見《み》て、|後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り、
『|先生《せんせい》、|夜前《やぜん》は|祠《ほこら》の|前《まへ》でコソ|泥《どろ》に|出遇《であ》ひましたが、あれ|御覧《ごらん》なさい。|彼処《あそこ》にもまたざつと|二匹《にひき》、コソ|泥《どろ》が|出現《しゆつげん》|致《いた》しましたよ。|昨日《きのふ》の|奴《やつ》と|違《ちが》つて、どこともなしに|気《き》の|利《き》いた|顔《かほ》をしてゐますわ』
|玉国《たまくに》『ウン、|如何《いか》にも|立派《りつぱ》な|方《かた》が|二人《ふたり》|休《やす》んでをられるやうだ。あの|方《かた》は|決《けつ》して|泥坊《どろばう》ではあるまいよ』
|伊太《いた》『それでもバラモン|教《けう》の|言《い》ひ|草《ぐさ》ぢやないが「|人《ひと》を|見《み》たら|泥坊《どろばう》だと|思《おも》へ」との|誡《いまし》めがあるぢやありませぬか』
『|昨夜《さくや》の|泥坊《どろばう》に|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|精神錯乱《せいしんさくらん》して、|目《め》に|触《ふ》るるもの|一切《いつさい》が|泥坊《どろばう》と|見《み》えるのだらう。|滅多《めつた》な|事《こと》をいふものぢやない。|人《ひと》を|見《み》れば|皆《みな》|神様《かみさま》だと|思《おも》ふてをれば|好《い》いのだ。たとへ|万々一《まんまんいち》|泥坊《どろばう》にしたところで、|吾々《われわれ》の|身霊《みたま》を|研《みが》ひて|下《くだ》さるお|師匠様《ししやうさま》だと|善意《ぜんい》に|解《かい》するのだ』
『それだといつて、よく|見《み》て|御覧《ごらん》なさい。ピカピカと|光《ひか》つた|凶器《きやうき》を|持《も》つてゐるぢやありませぬか。|彼奴《あいつ》は|持凶器強盗《ぢきようきがうたう》かも|知《し》れませぬよ。|一《ひと》つ|勇気《ゆうき》を|出《だ》して|泥坊《どろばう》と|見当《けんたう》がつけば|蹴散《けち》らして|進《すす》むのですな。|精神《せいしん》の|麻痺《まひ》した|人獣《にんじう》には、|到底《たうてい》|姑息《こそく》な|治療法《ちれうはふ》では|駄目《だめ》ですよ。モルヒネ|注射《ちうしや》かあるひは|大外科手術《だいげくわしゆじゆつ》を|施《ほどこ》すに|限《かぎ》ります』
『|伊太彦《いたひこ》、あれをよく|見《み》よ。お|前《まへ》の|凶器《きやうき》と|見《み》たのは|鉞《まさかり》ぢやないか、あれは|屹度《きつと》|杣人《そまびと》だ。|天下《てんか》の|良民様《りやうみんさま》だ』
『|鉞《まさかり》、|否《いな》マサカさうでもありますまい。|杣人《そまびと》に|化《ば》けて|夜前《やぜん》の|泥的《どろてき》の|親分《おやぶん》が|待《ま》つてゐるに|違《ちが》ひありませぬわ』
『どうもこの|男《をとこ》は|俄《には》かに|精神《せいしん》に|異状《いじやう》を|来《き》たしたとみえる。これや|困《こま》つた|事《こと》ぢやな。|伊太彦《いたひこ》、まア|安心《あんしん》したがよいわ』
『|何《なん》と|仰有《おつしや》つても|私《わたし》には|確信《かくしん》があります』
『|乱暴《らんばう》な|事《こと》をすると、|宣伝使《せんでんし》の|帳《ちやう》を|切《き》り、|根底《ねそこ》の|国《くに》へ|落《お》としてしまふが、それでもお|前《まへ》はかまはぬ|気《き》か』
『エエ|仕方《しかた》がありませぬ。|男子《だんし》が|一旦《いつたん》|歯《は》から|外《そと》へ|出《だ》した|以上《いじやう》は|後《あと》へは|引《ひ》きませぬ。|何《なん》といつても、あの|猛悪《まうあく》なタクシャカ|竜王《りうわう》を|言向《ことむ》け|和《やは》した|伊太彦司《いたひこつかさ》ですからなア。|孟子《まうし》の|言《げん》に「|下《しも》となつて|乱《みだ》るれば|刑《けい》せられ、|上《うへ》となつて|乱《みだ》るれば|免《まぬ》かる」といふ|身勝手《みがつて》な|世《よ》の|中《なか》ですから、|万々一《まんまんいち》|天則違反《てんそくゐはん》によつて|根底《ねそこ》の|国《くに》へ|落《お》とされてもかまひませぬ。|私《わたし》はお|師匠様《ししやうさま》のために|天則違反《てんそくゐはん》になつたところで|得心《とくしん》です。|現在《げんざい》|自分《じぶん》の|師匠《ししやう》に|危害《きがい》を|加《くは》へむとする|悪人《あくにん》に|対《たい》し|看過《かんくわ》する|事《こと》が|出来《でき》ませうか。「|君《きみ》|憂《うれ》ふれば|臣《しん》|労《らう》し、|上《かみ》|危《あや》ふければ|下《しも》|死《し》す」といふぢやありませぬか。|先生《せんせい》の|危難《きなん》を|救《すく》ふて|自分《じぶん》の|身《み》が|滅亡《めつぼう》してもそれは|少《すこ》しも|恨《うら》みませぬ』
『お|前《まへ》は|私《わし》を|疑《うたが》つてゐるのか、|玉国別《たまくにわけ》だつて|泥坊《どろばう》か|泥坊《どろばう》でないかくらゐは|一目《ひとめ》|見《み》たら|分《わか》つてゐるのだ。|聖人《せいじん》の|言葉《ことば》にも「|臣《しん》は|主《しゆ》に|逆《さか》らはず」といふぢやないか』
『「|臣《しん》となりては|必《かなら》ず|臣《しん》たれ、しかし|君《きみ》となりては|必《かなら》ず|君《きみ》たれ」といひますから、あなたも|弟子《でし》の|私《わたし》が|赤心《まごころ》を、|師匠《ししやう》として|承認《しようにん》して|下《くだ》さりさうなものですな』
『「|臣《しん》|能《よ》く|主《しゆ》の|命《めい》を|承《うけたまは》るをもつて|信《しん》となす……」、ちつとは|私《わし》のいふ|事《こと》も|聞《き》いたらどうだ』
『|何《なん》だか|私《わたし》は|貴師《あなた》が|仰有《おつしや》ることが|頼《たよ》りないやうな|気《き》がしてなりませぬわ。どうぞ|暫《しばら》く|此方《こちら》のいふ|通《とほ》りにさして|下《くだ》さいませぬか』
|三千《みち》『オイ|伊太彦《いたひこ》、ちつとはお|師匠様《ししやうさま》の|御命令《ごめいれい》も|聞《き》かねばなるまい。|折角《せつかく》の|功名《こうみやう》|手柄《てがら》が|水《みづ》の|泡《あわ》になつたら|惜《を》しいぢやないか』
|伊太《いた》『ヘン、|御親切《ごしんせつ》は|有難《ありがた》う。デビス|姫《ひめ》を|奥様《おくさま》に|貰《もら》ひ、おまけに|先生《せんせい》に|御親任《ごしんにん》をうけて|真純彦《ますみひこ》と|二人《ふたり》が、|夜光《やくわう》の|玉《たま》や|如意宝珠《によいほつしゆ》を|懐《ふところ》に|捧持《ほうぢ》し、|得意《とくい》の|頂天《ちやうてん》に|達《たつ》した|君達《きみたち》とはちつと|違《ちが》ふのだ。|俺《おれ》はこれから|人《ひと》を|虐《しひた》げる|悪人《あくにん》や、|驕慢《けうまん》な|奴《やつ》は、|片《かた》ツ|端《ぱし》から、もう|言霊《ことたま》も|使《つか》ひ|飽《あ》いたから、この|鉄腕《てつわん》を|揮《ふる》うて|打《う》ち|懲《こ》らしてやるつもりだ、かまつて|呉《く》れな』
といひながら、|五人《ごにん》を|後《あと》に|残《のこ》し|二人《ふたり》の|怪《あや》しい|男《をとこ》の|前《まへ》に|走《はし》り|寄《よ》り、|大喝《だいかつ》|一声《いつせい》、
『これや|泥坊《どろばう》、|吾輩《わがはい》を|誰様《どなた》と|心得《こころえ》てゐるか。|勿体《もつたい》なくも|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|神力無双《しんりきむそう》の|玉国別《たまくにわけ》の|御家来《ごけらい》の|伊太彦《いたひこ》さまだ。こんな|所《ところ》に|出《で》しやばつて、|夜前《やぜん》の|蒸《む》し|返《かへ》しをせうと|思《おも》つても|駄目《だめ》だ。この|腕《うで》を|見《み》い。この|腕《うで》には|特別《とくべつ》|上等《じやうとう》の|骨《ほね》があるぞよ』
と|威猛高《ゐたけだか》になつて|睨《ね》めつけた。|二人《ふたり》はこの|権幕《けんまく》に|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|中《なか》の|一人《ひとり》が、
|甲《かふ》『|私《わたし》たちは、この|近辺《きんぺん》に|居住《きよぢう》してゐる|杣人《そまびと》でカークス、ベースといふ|者《もの》でございます。|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|木樵《きこり》が|商売《しやうばい》でございますが、あまり|体《からだ》が|疲《つか》れたので、この|広《ひろ》い|木蔭《こかげ》で|息《いき》をやすめて|世間話《せけんばなし》に|耽《ふけ》つてゐたところです。|泥坊《どろばう》でも|何《なん》でもありませぬ。あなたは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|家来《けらい》だとか|弟子《でし》だとかおつしやいましたが、どうか|私《わたし》の|人格《じんかく》を|調《しら》べて|下《くだ》さい。|無闇《むやみ》に|人間《にんげん》を|捉《つか》まへて|泥坊呼《どろばうよ》ばはりをなさるのは、ちよつと|貴方《あなた》のお|職掌《しよくしやう》にも|似合《にあ》はぬぢやありませぬか』
|伊太《いた》『ウン、エ、なるほど、これは|誠《まこと》に|相済《あひす》まなかつた。|歩《ある》きもつて|夢《ゆめ》を|見《み》てゐたものだから、つい|考《かんが》へ|違《ちが》ひを|致《いた》しました。ともかく|魂《たましひ》が|脱《ぬ》けたとみえますわい。あまり|玉《たま》が|欲《ほ》しいと|思《おも》つてゐたものだから、【タマ】タマこんな|失敗《しつぱい》をやらかしたのですよ』
カークス『あなたも|矢張《やつぱ》り|玉《たま》が|欲《ほ》しいんですか。|実《じつ》のところは|私《わたし》もその|玉《たま》が|欲《ほ》しいので|相談《さうだん》してゐたのです。そこへ|三五教《あななひけう》の|宣伝歌《せんでんか》が|聞《き》こえて|来《き》たものですから|御神力《ごしんりき》を|貸《か》して|頂《いただ》いて、これからスーラヤ|山《さん》の|珍宝《ちんぽう》を|手《て》に|入《い》れ、せめて|人並《ひとな》みの|生活《せいくわつ》をしたいものだと|思《おも》つてゐたところです。どうか|一《ひと》つその|玉《たま》が|手《て》に|入《い》るやうに、あなたのお|師匠《ししやう》さまに|御神力《ごしんりき》を|与《あた》へて|下《くだ》さるやうに|頼《たの》んで|下《くだ》さらぬか』
|伊太《いた》『ヤアそいつは|面白《おもしろ》い。|俺《おれ》の|先生《せんせい》は、ソレ|今《いま》あそこに|見《み》えるが、|玉国別《たまくにわけ》といふのだから、|玉《たま》を|取《と》ることにかけ、|少《すこ》しもクニせずワケなく|取《と》らして|下《くだ》さるだろう。|現《げん》に|俺《おれ》の|持《も》つてゐた|玉《たま》を|取《と》り、いな|取違《とりちが》ひ|遊《あそ》ばした……のでも|何《なん》でもない。|屹度《きつと》|聞《き》いて|下《くだ》さるだらうよ。マア|安心《あんしん》せい』
ベース『ヤ|有難《ありがた》う、これで|安心《あんしん》しました。のうカークス、もうかうなる|以上《いじやう》はカークスには|及《およ》ばぬ、スーラヤ|山《さん》の|珍宝《ちんぽう》の|所在《ありか》を|申《まを》し|上《あ》げて、せめて|一《ひと》つづつ|吾々《われわれ》の|手《て》に|入《い》るやうにしてもらはふぢやないか』
カークス『どうかさう|願《ねが》ひたいものだなア』
|伊太《いた》『そのスーラヤ|山《さん》といふのは|何処《どこ》にあるのだ』
カークス『このスダルマ|山《さん》を|向《む》かふへ|渡《わた》りますと、スーラヤの|湖《みづうみ》といつて、|可《か》なり|広《ひろ》い|水鏡《みづかがみ》が|照《て》つてゐます。その|中《なか》に|漂《ただよ》うてゐる|岩山《いはやま》がスーラヤ|山《さん》といひます。その|山《やま》には|岩窟《がんくつ》があつて、ウバナンダといふナーガラシャー(|竜王《りうわう》)が|沢山《たくさん》の|玉《たま》を|蓄《たくは》へ、|夜《よる》になると|玉《たま》の|光《ひかり》で|全山《やまぢう》が|昼《ひる》のごとく|輝《かがや》いてゐます。その|玉《たま》を|一《ひと》つ|手《て》に|入《い》れさへすれば、|人間《にんげん》の|一代《いちだい》|二代《にだい》は|結構《けつこう》に|暮《くら》されるといふ|高価《かうか》なものですが、|多勢《おほぜい》の|人間《にんげん》がその|玉《たま》を|得《え》んとして、|行《い》つては|竜王《りうわう》に|喰《く》はれてしまふのです。だから|余程《よほど》|神力《しんりき》が|無《な》いとその|玉《たま》を|手《て》に|入《い》れることは|出来《でき》ませぬからなア』
|伊太《いた》『アハハハハ。お|安《やす》い|事《こと》だ。この|伊太彦《いたひこ》はアヅモス|山《さん》において、|八大竜王《はちだいりうわう》の|中《なか》でも|最《もつと》も|凶悪《きようあく》なる|大身視毒竜王《タクシャカりうわう》といふ|豪《えら》い|奴《やつ》を|往生《わうじやう》させ、|玉《たま》をボツ|奪《たく》つたといふ|勇者《ゆうしや》だから、ウバナンダ|竜王《りうわう》ぐらゐを|言向和《ことむけやは》すは、|朝飯前《あさめしまへ》の|仕事《しごと》だ。エヘヘヘヘ』
と|三人《さんにん》が|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|玉取《たまとり》の|話《はなし》に|霊《たま》を|抜《ぬ》かれてゐる。|早《はや》くも|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》は|三人《さんにん》の|前《まへ》に|近《ちか》づき|来《き》たり、この|話《はなし》を|残《のこ》らず|聞《き》いてしまつた。|玉国別《たまくにわけ》は|伊太彦《いたひこ》の|背《せな》をポンポンと|叩《たた》いた。
|伊太《いた》『アア|玉《たま》さま、|否《いな》|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》でございますか。どうぞ|今度《こんど》ばかりは|改心《かいしん》をいたしますから、|今《いま》までの|御無礼《ごぶれい》をお|許《ゆる》し|下《くだ》さいまして、ウバナンダ・ナーガラシャーの|玉《たま》を|占領《せんりやう》さして|下《くだ》さい。さうすれば|私《わたし》が|捧持《ほうぢ》してエルサレムに|参《まゐ》る|荷物《にもつ》が|出来《でき》ますからな』
|玉国別《たまくにわけ》は|道端《みちばた》の|草《くさ》の|上《うへ》にどつかと|腰《こし》をおろし、|無言《むごん》のまま|考《かんが》へてゐる。
(大正一二・五・一八 旧四・三 於教主殿 加藤明子録)
第三章 |伊猛彦《いたけりひこ》〔一六一〇〕
|玉国別《たまくにわけ》は|三人《さんにん》の|話《はなし》を|聞《き》いて|双手《もろて》を|組《く》み|何《なに》か|思案《しあん》に|暮《く》れてゐる。|伊太彦《いたひこ》は|気《き》をいらち、
『もし|先生《せんせい》、|千騎一騎《せんきいつき》のこの|場合《ばあひ》、|何《なに》を|御思案《ごしあん》してござるのですか。あなたも|玉国別《たまくにわけ》と|名《な》を|頂《いただ》いた|以上《いじやう》は、|今《いま》お|聞《き》きでせうが|夜光《やくわう》の|玉《たま》を、も|一《ひと》つ|伊太彦《いたひこ》にお|取《と》らせになるのも、お|名前《なまへ》からいつても|普通《ふつう》の|事《こと》だと|考《かんが》へます。|私《わたし》も|締《あきら》めてをりましたが、また|俄《には》かに|何《なん》だか|勇気《ゆうき》が|勃々《ぼつぼつ》として|参《まゐ》りました。|諺《ことわざ》にも「|聞《き》かざるはこれを|聞《き》くに|如《し》かず、|之《これ》を|聞《き》くは|之《これ》を|見《み》るに|如《し》かず、|之《これ》を|見《み》るは|之《これ》を|知《し》るに|如《し》かず、|之《これ》を|知《し》るは|之《これ》を|行《おこな》ふに|如《し》かず」といふことがございますから、|玉《たま》の|所在《ありか》を|聞《き》いた|以上《いじやう》は、どこまでも|実否《じつぴ》をつきとめ、|果《はた》して|玉《たま》|在《あ》りとせば、これを|竜王《りうわう》の|手《て》より|預《あづ》かつて|帰《かへ》らうと|思《おも》ひます。そして|竜王《りうわう》に|三五《あななひ》の|道《みち》を|説《と》き|聞《き》かせてやりたうございますが、どうか|私《わたし》を|特命全権公使《とくめいぜんけんこうし》に|任命《にんめい》して|下《くだ》さいますまいかな』
|玉国《たまくに》『「|来《き》たりて|学《まな》ぶを|聞《き》く、|未《いま》だ|行《ゆ》きて|教《をし》ふるを|聞《き》かず」と|聖人《せいじん》も|言《い》つてゐる。またお|前《まへ》のやうにあんまり|強《つよ》ばると、|失策《しつさく》をやらうまいものでもないから、ちつとジツクリしたら|宜《よ》からう。ウバナンダ|竜王《りうわう》に|教《をしへ》をするのは|宜《よ》いが、ここへ|言霊《ことたま》をもつて|招《まね》き|寄《よ》せて|教《をし》へてやつたらどうだ。こちらから|行《ゆ》く|必要《ひつえう》はあるまい。|諺《ことわざ》にも「|兵《へい》|強《つよ》ければ|即《すなは》ち|滅《ほろ》び、|木《き》|強《つよ》ければ|即《すなは》ち|折《を》れる」といふことがある。|人間《にんげん》は|控目《ひかへめ》にすることが|肝腎《かんじん》だからな』
|伊太《いた》『|先生《せんせい》、あなたは|卑怯《ひけふ》なことを|仰《おほ》せられますな。「|危《あや》ふきは|疑《うたが》ひに|任《まか》すより|危《あや》ふきはなし、|危《あや》ふきものは|其《その》|安《あん》を|保《たも》ち、|亡《ほろ》ぶるものは|其《その》|存《そん》を|保《たも》つ」といひますぜ』
|玉国別《たまくにわけ》は|儼然《げんぜん》として|容《かたち》を|改《あらた》め、|徐《おもむろ》に|口《くち》を|開《ひら》いて、
『|伊太彦《いたひこ》さま、あなたは|夜光《やくわう》の|玉《たま》|夜光《やくわう》の|玉《たま》としきりに|熱望《ねつばう》してをられますが、|形態《けいたい》ある|玉《たま》は|或《あるひ》は|毀損《きそん》し、あるひは|紛失《ふんしつ》する|虞《おそ》れが|伴《ともな》ふものですよ。それよりも、|貴方《あなた》|御自身《ごじしん》が|所持《しよぢ》してをらるる|内在《ないざい》の|宝玉《はうぎよく》を、|穢《けが》さないやうになさいませ』
|伊太《いた》『|内在《ないざい》の|玉《たま》とは|何《なん》ですか。|拙者《わたし》はそんなものは|持《も》ちませぬがナア。|貴師《あなた》は|夜光《やくわう》の|玉《たま》をお|持《も》ちになつたものだから、ソンナ|平気《へいき》なことを|謂《ゐ》つてをられるでせうが、いやしくも|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》たるもの、|玉《たま》の|一《ひと》つぐらゐ|有形的《いうけいてき》に|所持《しよぢ》せなくては、|巾《はば》が|利《き》かないぢやありませぬか。|現《げん》に、イク、サールの|両君《りやうくん》さへも|結構《けつこう》な|水晶魂《すゐしやうだま》を|神界《しんかい》より|与《あた》へられてをられるでせう。|拙者《せつしや》はどうしても、|今回《こんくわい》はお|許《ゆる》しを|戴《いただ》いて|大蛇《をろち》の|窟《いはや》に|飛《と》び|込《こ》み、|一箇《いつこ》だけ|手《て》に|入《い》れてみたいものです。|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》も|国依別《くによりわけ》|様《さま》も、|琉《りう》と|球《きう》との|宝玉《ほうぎよく》の|威光《ゐくわう》によつて、アンナ|立派《りつぱ》な|御神業《ごしんげふ》を|遊《あそ》ばしたぢやありませぬか。|現《げん》にこの|霊山《れいざん》に|宝玉《ほうぎよく》ありと|聞《き》いた|以上《いじやう》は、|実否《じつぴ》は|兎《と》も|角《かく》も、|一度《いちど》|探険《たんけん》と|出《で》かけたいものですなア』
|玉国《たまくに》『|伊太彦《いたひこ》さま、お|説《せつ》は|御尤《ごもつと》もだが|俺《わし》の|話《はなし》も|一《ひと》つ|聞《き》いてもらひたい。|先《ま》づ|第一《だいいち》に|僕《ぼく》が|玉《たま》を|所持《しよぢ》してゐるのは、あなたの|手《て》を|通《とほ》して|徳刄伽竜王《タクシャカりうわう》から|預《あづ》かり、これを|大神様《おほかみさま》に|奉納《ほうなふ》せなくてはならぬ|宝玉《ほうぎよく》だ。この|御用《ごよう》も|僕《ぼく》から|決《けつ》して|希望《きばう》したのではない、|惟神《かむながら》の|摂理《せつり》によつて|自然《しぜん》に|僕《ぼく》があづからなくてはならないやうになつたのだ。|天《てん》の|命《めい》ずるところだから、これを|拒《こば》むことは|出来《でき》ない。|要《えう》するに|竜王《りうわう》が|帰順《きじゆん》の|至誠《しせい》を|表白《へうはく》する|一《ひと》つの|証拠品《しようこひん》だ。これを|僕《ぼく》が|預《あづ》かつて|大神様《おほかみさま》に|献《たてまつ》つて|上《あ》げねば、|竜王《りうわう》さまの|解脱《げだつ》が|出来《でき》ないからだよ。お|前《まへ》のように|自分《じぶん》の|方《はう》から|求《もと》めて|宝玉《ほうぎよく》を|得《え》ようとするのは、あまり|面白《おもしろ》くないと|思《おも》ふがなア。|伊太彦《いたひこ》さま、|僕《ぼく》が|何時《いつ》ぞやら|比喩話《たとへばなし》を|聞《き》いたことを|今《いま》|思《おも》ひ|出《だ》したから|聞《き》いて|下《くだ》さい。エエと|或《あ》る|処《ところ》に|一人《ひとり》の|男《をとこ》があつて、|友人《いうじん》の|所《ところ》へ|訪問《はうもん》した。そして|大変《たいへん》に|振舞酒《ふるまひざけ》に|泥酔《どろよ》ひして、グタグタに|前後《ぜんご》も|知《し》らず|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れてしまつた。その|時《とき》にその|親友《しんいう》は、|或《あ》る|官用《くわんよう》のため|急《きふ》に|出掛《でか》けることとなつたので、|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れてをる|友人《いうじん》をいろいろと|揺《ゆ》り|起《おこ》して|見《み》たところが、|容易《ようい》に|目《め》が|醒《さ》めないので|止《や》むを|得《え》ず、|眠《ねむ》つてゐる|友人《いうじん》の|衣服《いふく》の|裏《うら》へ、|非常《ひじやう》に|高価《かうか》な|玉《たま》をソツと|繋《つな》いで|出掛《でか》けた。|其《その》|後《ご》になつて|酒《さけ》に|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れてゐた|男《をとこ》は|眼《め》を|醒《さ》まし、|友人《いうじん》の|繋《つな》いで|置《お》いてくれた|球《たま》のことは|一向《いつかう》に|気《き》が|附《つ》かずに、|親友《しんいう》のゐないのに|驚《おどろ》き|家《いへ》を|立《た》ち|出《い》で、|懐中《くわいちう》|無一物《むいちぶつ》のため|仕方《しかた》がないので、|放浪《はうらう》して|他国《たこく》へ|出《で》かけて|行《い》つた。|何《なん》といつても|無銭旅行《むせんりよかう》をやつてゐるため、|衣食《いしよく》と|住居《ぢうきよ》について|具《つぶ》さに|艱難辛苦《かんなんしんく》を|嘗《な》めた。しかしその|男《をとこ》は|例《れい》の|親友《しんいう》が|自分《じぶん》の|衣服《いふく》の|裏《うら》に、|貴重《きちよう》なる|宝玉《ほうぎよく》を|繋《つな》いで|置《お》いてくれたことは|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、|依然《いぜん》として|衣食《いしよく》に|窮《きう》し、|所々《しよしよ》|方々《はうばう》と|放浪《はうらう》し|苦辛《くしん》を|嘗《な》めた。ところが|余程《よほど》|経《た》つてから|後《のち》のこと、|偶然《ぐうぜん》にも|昔《むかし》の|親友《しんいう》に|出会《でつくは》した。そこで|今《いま》まで|艱難《かんなん》|苦労《くらう》したことの|一部《いちぶ》|始終《しじう》を|涙《なみだ》と|共《とも》に|物語《ものがた》ると、|友人《いうじん》は|吃驚《びつくり》して、「|君《きみ》はマア|何《なん》といふ|馬鹿《ばか》な|真似《まね》をしたのだらう。|何《なに》もそれほどまでに|苦《くる》しまなくてもよかつたのだ。|昔《むかし》|君《きみ》と|僕《ぼく》と|酒《さけ》を|呑《の》んだ|際《さい》に、|君《きみ》は|大変《たいへん》に|酔《よ》つてゐたので|知《し》らなかつたけれども、|君《きみ》に|将来《しやうらい》|不自由《ふじゆう》なく|安楽《あんらく》に|暮《くら》させようと|思《おも》つて、わざわざ|高価《かうか》な|宝珠《ほつしゆ》を、|君《きみ》の|衣服《いふく》の|裏《うら》に|繋《つな》ぎ|隠《かく》しておいたはずだ。まア、|一度《いちど》|調《しら》べて|見給《みたま》へ、|今《いま》も|当時《たうじ》の|球《たま》は|君《きみ》の|衣服《いふく》の|裏《うら》にきつと|有《あ》るに|違《ちが》ひない。|君《きみ》がその|球《たま》にさへ|早《はや》く|気《き》|附《つ》いてゐたら、|決《けつ》して|今《いま》までのやうな|苦労《くらう》なんか|為《せ》なくてもよかつた|筈《はず》だ。|早《はや》くその|球《たま》を|取《と》り|出《だ》して、|何《なん》なりと|君《きみ》に|必用《ひつよう》なものを|買《か》ふ|資料《しれう》にしたが|可《い》い」と|親切《しんせつ》に|諭《さと》した。ところがその|男《をとこ》は|今更《いまさら》のやうに|気《き》がついて|衣服《いふく》の|裏《うら》を|査《しら》べると、|親友《しんいう》の|言《い》つた|通《とほ》り|高価《かうか》な|球《たま》があつたので、|男《をとこ》は|友《とも》の|懇情《こんじやう》を|涙《なみだ》と|共《とも》に|感謝《かんしや》し、それから|後《のち》は|安楽《あんらく》に|暮《くら》したと|謂《ゐ》ふことだ。しかし|伊太彦《いたひこ》さま、これは|譬話《たとへばなし》だから|有形《いうけい》の|宝玉《ほうぎよく》ではない。|人間《にんげん》が|本来《ほんらい》|具有《ぐいう》せる|内在《ないざい》の|神《かみ》でもあり、|霊的《れいてき》の|宝玉《ほうぎよく》だ。そして|球《たま》を|繋《つな》いで|呉《く》れた|親友《しんいう》といふのは、|吾々《われわれ》に|神《かみ》の|性能《せいのう》あることを|知《し》らして|下《くだ》さつた|瑞《みづ》の|御魂《みたま》の|救《すく》ひ|主《ぬし》、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》|様《さま》だ。また|酒《さけ》といふのは|名利女色等《めいりぢよしよくとう》の|際限《さいげん》なき|慾望《よくばう》のことだ。そして|酒《さけ》に|酔《よ》ひつぶれた|男《をとこ》といふのは、|果《はた》して|何人《なにびと》であらうか』
『|先生《せんせい》、ソンナ|事《こと》は|三十万年《さんじふまんねん》|未来《みらい》において、|月照彦《つきてるひこ》|様《さま》が|釈迦《しやか》と|現《あら》はれてお|説《と》きになつた、|法華経《ほけきやう》の|七大比喩《しちだいひゆ》の|中《なか》に|記《しる》してある|文句《もんく》ですよ。|内在《ないざい》の|玉《たま》は|既《すで》に|已《すで》に|認《みと》めてをります。しかし|世界《せかい》は|顕幽一本《けんいういつぽん》とか|霊肉一致《れいにくいつち》とかいつて、|内外《ないぐわい》に|玉《たま》が|必用《ひつよう》ぢやありませぬか』
『アア|困《こま》りましたなア。|到底《たうてい》|拙者《せつしや》の|言霊《ことたま》では|伊太彦砲台《いたひこはうだい》の|陥落《かんらく》は|不可能《ふかのう》かも|知《し》れぬ。|治道様《ちだうさま》、あなた|一《ひと》つ|援兵《ゑんぺい》を|繰《く》り|出《だ》して|下《くだ》さいな。どうやら|玉国別《たまくにわけ》の|軍勢《ぐんぜい》は|旗色《はたいろ》が|悪《わる》くなつたやうです』
|治道《ちだう》『|伊太彦《いたひこ》さま、まづ|冷静《れいせい》にお|考《かんが》へなさいませ。|現在《げんざい》の|吾々《われわれ》お|互《たが》ひを|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》の|神鏡《しんきやう》に|照《て》らして|反省《はんせい》して|見《み》ると、いま|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》のお|言葉《ことば》の|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れの|男《をとこ》とは、もしや|自分《じぶん》|共《ども》の|事《こと》をおつしやつたのではありますまいか。|人間《にんげん》は|兎角《とかく》|忘《わす》れてはならない|事《こと》を|忘《わす》れたり、|忘《わす》れて|可《よ》い|事《こと》を|忘《わす》れないものです。いま|私《わたし》たちは|肉団《にくだん》の|胸《むね》の|中《うち》に|高価《かうか》な|珠《たま》を|持《も》ちながら、|忘《わす》れ|込《こ》んでしまつてゐるのです。またその|珠《たま》を|用《もち》ゆることもせずに|徒《いたづら》に|形《かたち》ある|宝《たから》に|心酔《しんすゐ》して|肝腎《かんじん》の|霊魂《たま》を|失《うしな》つてゐるのではありますまいかなア』
|伊太《いた》『……』
|玉国《たまくに》『|魯《ろ》の|哀公《あいこう》は、「|人《ひと》の|好《よ》く|忘《わす》るるものあり、|移宅《わたまし》に|乃《すなは》ち|其《その》|妻《つま》を|忘《わす》れたり」といつたところが、|孔子《こうし》は|亦《また》、|之《これ》に|対《たい》して「また|好《よ》く|忘《わす》るること|此《これ》より|甚《はなは》だしきあり。|桀紂《けつちう》は|乃《すなは》ち|其《その》|身《み》を|忘《わす》れたり」と|皮肉《ひにく》を|言《い》つたといふが、|桀《けつ》と|紂《ちう》とは|支那《しな》の|未来《みらい》の|暴君《ばうくん》で、|酒地肉林《しゆちにくりん》の|淫楽《いんらく》に|耽《ふけ》つて、|遂《つひ》にその|身《み》と|国家《こくか》とを|失《うしな》つた|虐主《ぎやくしゆ》である。|何《なに》が|一番《いちばん》|大《おほ》きな|忘《わす》れものだと|言《い》つても、|自分《じぶん》を|忘《わす》れるほど、|大《おほ》きい|忘《わす》れものはなからう。|人間《にんげん》の|弱点《じやくてん》は|兎角《とかく》この|忘《わす》れるはずのもので|無《な》い|自分《じぶん》を|忘《わす》れてゐる|場合《ばあひ》が|多《おほ》いものだ。|桀《けつ》や|紂《ちう》の|如《ごと》く|暴君《ばうくん》たらずとも、|金銭《きんせん》や|名誉《めいよ》や|酒色《しゆしよく》の|暴君《ばうくん》となつて、|何時《いつ》も|本来《ほんらい》の|吾《われ》を|忘《わす》れてゐるのだ。|伊太彦《いたひこ》さまの|霊肉一致説《れいにくいつちせつ》も|亦《また》|一理《いちり》あるやうだが、|肝腎《かんじん》の|御魂《みたま》の|置所《おきどころ》を|忘《わす》れてはゐないだらうかなア』
|伊太《いた》『|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな。|拙者《せつしや》は|神界《しんかい》から|直接内流《ちよくせつないりう》があつて|命令《めいれい》を|受《う》けてゐるのです。|何《なに》が|御都合《ごつがふ》になるか|判《わか》りませぬからなア』
『|神界《しんかい》からの|内流《ないりう》とある|以上《いじやう》は、|吾《われ》|何《なに》をか|言《い》はむやだ。そんなら|伊太彦《いたひこ》さま、|玉国別《たまくにわけ》はこれぎり|何《なに》も|申《まを》しませぬ。|自由《じいう》に|神示《しんじ》の|御用《ごよう》をなさい。|人間《にんげん》の|分際《ぶんざい》として|神《かみ》の|御経綸《ごけいりん》は|到底《たうてい》|測知《そくち》する|事《こと》は|出来《でき》ませぬからなア』
『さすがは|先生《せんせい》だ。|有難《ありがた》うエヘヘヘヘ。サア、お|許《ゆる》しを|得《え》た|以上《いじやう》は、これから|逸早《いちはや》くスダルマ|山《さん》の|嶮《けん》を|越《こ》え、カークス、ベースの|勇士《ゆうし》を|従《したが》へ、|旗鼓堂々《きこだうだう》としてスーラヤの|湖《うみ》に|永久《とこしへ》に|漂《ただよ》ふ|宝《たから》の|山《やま》、スーラヤ|山《さん》の|岩窟《がんくつ》に|攻《せ》め|寄《よ》せ、ウバナンダ|竜王《りうわう》を|言向《ことむ》け、|夜光《やくわう》の|玉《たま》を|貢《みつ》がせ、|三人《さんにん》|轡《くつわ》を|並《なら》べて|黄金山《わうごんざん》に|参上《まゐのぼ》り、|天晴《あつぱ》れ|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|致《いた》すでござらう。|者共《ものども》、|吾《われ》に|従《したが》へ』
といひながら|肩肱《かたひぢ》|怒《いか》らし、カークス、ベースの|両人《りやうにん》を|引率《ひきつ》れ、|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》に|別《わか》れ、「いづれエルサレムにて|御面会《ごめんくわい》」と|一言《ひとこと》を|残《のこ》し、|意気《いき》|揚々《やうやう》として、カークスに|間道《かんだう》を|教《をし》へられ|足早《あしばや》に|進《すす》み|行《ゆ》く。
|後《あと》|見送《みおく》つて|玉国別《たまくにわけ》は|打《う》ち|笑《わら》ひ、
『アハハハハハ、イヤ、|面白《おもしろ》い|男《をとこ》だ。これで|伊太彦《いたひこ》の|使命《しめい》も|果《はた》せるであらう。しかしながらスーラヤ|山《さん》の|竜王《りうわう》は|非常《ひじやう》に|猛悪神《まうあくしん》と|聞《き》いてゐる。どうも|伊太彦《いたひこ》|一人《ひとり》にては|心《こころ》|許《もと》ない。|真純彦《ますみひこ》さま、その|他《た》|皆《みな》さま、これからそろそろ|時機《じき》を|見図《みはか》らひ|応援《おうゑん》に|参《まゐ》りませうか』
|治道《ちだう》『|謹《つつし》んでお|伴《とも》いたしませう。|伊太彦《いたひこ》さまは|随分《ずゐぶん》|快活《くわいくわつ》な|人《ひと》ですな。|拙者《せつしや》は|非常《ひじやう》に|伊太彦《いたひこ》|崇拝熱《すうはいねつ》が|高《たか》まつて|参《まゐ》りましたよ。アハハハハハ』
|真純《ますみ》『「|材《ざい》に|任《にん》じ|能《のう》を|使《つか》ふは|務《つと》めを|済《な》す|所以《ゆゑん》なり、|物《もの》を|済《な》す|所以《ゆゑん》なり」といつて、|流石《さすが》は|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》だ。|適材《てきざい》を|適所《てきしよ》にお|使《つか》ひ|遊《あそ》ばす、その|御明察《ごめいさつ》には|感《かん》じ|入《い》りました』
|玉国《たまくに》『|伊太彦《いたひこ》さまは|本当《ほんたう》に|偉《えら》いですよ。|最前《さいぜん》からあんな|事《こと》を|言《い》つてゐましたが、|神界《しんかい》の|御経綸《ごけいりん》によつて|神懸《かむがかり》になつてゐたのです。|諺《ことわざ》にも「|死《し》を|知《し》るは|必《かなら》ず|勇《ゆう》なり。|死《し》するは|難《かた》きに|非《あら》ず、|死《し》に|所《しよ》するは|難《かた》し」といつて、|剣呑《けんのん》な|所《ところ》を|好《この》んで|神界《しんかい》のために|行《ゆ》かうとする、その|精神《せいしん》は|天晴《あつぱ》れなものですよ』
|三千《みち》『|伊太彦《いたひこ》さまは|普通《ふつう》の|人間《にんげん》ぢやありますまいね』
|玉国《たまくに》『|普通《ふつう》の|人間《にんげん》ならば|如何《どう》してタクシャカ|竜王《りうわう》を|言向和《ことむけやは》す|事《こと》が|出来《でき》ませう。やがて|霊《みたま》の|素性《すじやう》が|分《わか》るでせう。|私《わたし》も|今《いま》はじめて|非凡《ひぼん》の|神格者《しんかくしや》なる|事《こと》を……|恥《は》づかしながら|悟《さと》つたのです、アハハハハ』
デビス『サア、|皆様《みなさま》、ボツボツ|参《まゐ》りませうか』
『|宜《よろ》しからう』
と|一同《いちどう》は|油蝉《あぶらせみ》の|鳴《な》く|炎天《えんてん》の|山道《やまみち》を|喘《あへ》ぎ|喘《あへ》ぎ|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・五・一八 旧四・三 北村隆光録)
第四章 |山上訓《さんじやうくん》〔一六一一〕
|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》は スダルマ|山《さん》の|麓《ふもと》にて
|伊太彦《いたひこ》|徒弟《とてい》に|立別《たちわか》れ |焦《こ》げつく|如《ごと》き|炎天《えんてん》の
|音《おと》の|名高《なだか》き|急坂《きふはん》を |汗《あせ》をたらたら|絞《しぼ》りつつ
|迦陵頻伽《かりようびんが》の|鳴《な》く|声《こゑ》に |慰《なぐさ》められつ|登《のぼ》り|行《ゆ》く
|見渡《みわた》す|限《かぎ》り|野《の》も|山《やま》も |緑《みどり》|彩《いろ》どる|夏景色《なつげしき》
|眺《なが》めも|飽《あ》かず|頂上《ちやうじやう》に |黄昏《たそがれ》ちかき|夕《ゆふ》の|空《そら》
|漸《やうや》く|辿《たど》りつきにけり。
|真純《ますみ》『お|蔭《かげ》によつてこの|急坂《きふはん》をやうやく|無事《ぶじ》に|登《のぼ》つて|参《まゐ》りました。|今夜《こんや》は|月《つき》を|枕《まくら》に|草《くさ》の|褥《しとね》、|蒼空《あをぞら》の|蒲団《ふとん》を|被《かぶ》つて|安《やす》けき|夢《ゆめ》を|結《むす》びませう。|天空快濶《てんくうくわいくわつ》|一点《いつてん》の|暗雲《あんうん》もなく、|星《ほし》は|稀《まれ》に|月《つき》の|光《ひかり》は|吾等《われら》|一行《いつかう》を|照《て》らし|守《まも》らせたまふ|有難《ありがた》さ|愉快《ゆくわい》さ、|旅《たび》をすればこそ、こんな|結構《けつこう》な|恵《めぐ》みの|露《つゆ》に|霑《うるほ》ふことが|出来《でき》るのですなア』
|三千《みち》『|本当《ほんたう》に|愉快《ゆくわい》だ。スダルマ|山《さん》の|峠《たうげ》の|頂上《ちやうじやう》に|月《つき》の|光《ひかり》を|浴《あ》びて|寝《ね》るといふ|事《こと》は、|実《じつ》に|爽快《さうくわい》の|気分《きぶん》に|漂《ただよ》はされる。|四方《よも》の|山野《さんや》は|宏《ひろ》く|遠《とほ》く|展開《てんかい》し、|西南方《せいなんぱう》に|当《あた》つてスーラヤの|湖《みづうみ》は|鏡《かがみ》の|如《ごと》く|月《つき》に|輝《かがや》き、あたかも|天国《てんごく》のやうだなア。|先生《せんせい》これからは|下《くだ》り|坂《ざか》、|今晩《こんばん》は|此処《ここ》で|寝《やす》むことに|致《いた》しませうか』
|玉国《たまくに》『|本当《ほんたう》に|有難《ありがた》いことだ。ここで|一夜《いちや》の|雨宿《あまやど》り、|恵《めぐ》みの|露《つゆ》を|浴《あ》びて|霊肉《れいにく》|共《とも》に|天国《てんごく》に|進《すす》まう。しかしながら|先《ま》づ|第一《だいいち》に|吾々《われわれ》の|務《つと》めを|果《はた》し、|神様《かみさま》に|感謝《かんしや》の|言葉《ことば》を|奏上《そうじやう》し、それから|悠《ゆつく》りと|話《はなし》でも|交換《かうくわん》して|華胥《くわしよ》の|国《くに》に|入《い》らうぢやないか』
|三千《みち》『さう|願《ねが》へば|実《じつ》に|有難《ありがた》いです』
と|茲《ここ》に|一同《いちどう》は|声《こゑ》も|高《たか》らかに、スダルマ|山《さん》の|谷々《たにだに》の|木魂《こだま》を|響《ひび》かせ|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|終《をは》つて|蓮《はす》の|実《み》を|懐《ふところ》より|出《だ》し|夜食《やしよく》にかへ|四方八方《よもやも》の|話《はなし》に|時《とき》を|移《うつ》し、|且《か》つ|歌《うた》など|詠《よ》んで|楽《たの》しんでゐる。
|玉国別《たまくにわけ》『|大空《おほぞら》に|輝《かがや》く|月《つき》も|安々《やすやす》と
|傾《かたむ》きたまへばやがて|明《あ》けなむ
この|景色《けしき》|天津御国《あまつみくに》か|楽園《らくゑん》か
|何《なん》に|譬《たと》へむ|術《すべ》もなければ』
|真純彦《ますみひこ》『スダルマの|山《やま》の|尾上《をのへ》に|来《き》て|見《み》れば
いよいよ|高《たか》き|月《つき》の|輝《かがや》く
|真澄空《ますみぞら》|星《ほし》はまばらに|輝《かがや》けど
|月《つき》のみ|独《ひと》り|世《よ》を|知《しろ》し|召《め》す』
|三千彦《みちひこ》『|大空《おほぞら》に|星《ほし》はみちけり|三五《あななひ》の
|月《つき》の|光《ひかり》も|天地《てんち》にみちぬ
みちみちし|神《かみ》の|御稜威《みいづ》をただ|一人《ひとり》
|頂《いただ》きにけり|三千彦《みちひこ》の|胸《むね》に
さりながら|天津御空《あまつみそら》に|照《て》り|渡《わた》る
|玉国別《たまくにわけ》の|恵《めぐ》み|忘《わす》れじ』
|治道《ちだう》『|三五《あななひ》の|神《かみ》の|司《つかさ》ともろともに
|伊都《いづ》のみやこに|行《ゆ》くぞ|楽《たの》しき
|村肝《むらきも》の|心《こころ》に|宿《やど》る|曲神《まがかみ》も
|逃《に》げ|散《ち》りにけり|月《つき》の|光《ひかり》に』
デビス|姫《ひめ》『|師《し》の|君《きみ》の|御跡《みあと》|慕《した》ひて|背《せ》の|君《きみ》と
|漸《やうや》く|登《のぼ》りぬ|恋《こひ》の|山路《やまぢ》を
|見渡《みわた》せば|吾《わ》が|故郷《ふるさと》は|霞《かす》みけり
テルモン|山《ざん》の|雪《ゆき》のみ|見《み》えて』
|治道《ちだう》『ベル バット|軍《いくさ》の|司《つかさ》は|今《いま》いづこ
|早《は》や|泥棒《どろばう》となり|果《は》てし|彼《かれ》』
|三千彦《みちひこ》『|吾《わ》が|寝《い》ねし|隙《すき》を|窺《うかが》ひ|抜足《ぬきあし》に
|近《ちか》よりバットの|首《くび》を|掻《か》かなむ
|心《こころ》して|今宵《こよひ》|一夜《いちや》は|眠《ねむ》るべし
ベルとバットの|曲《まが》のありせば』
|玉国別《たまくにわけ》『ベル バット|如何《いか》に|力《ちから》は|強《つよ》くとも
|吾《われ》には|神《かみ》の|守《まも》りありけり
|身《み》の|外《そと》の|仇《あだ》に|心《こころ》を|焦《こ》がすより
|吾《わ》が|身《み》の|中《うち》の|仇《あだ》を|恐《おそ》れよ』
デビス|姫《ひめ》『|皇神《すめかみ》と|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》の|在《ま》す|上《うへ》は
|何《なに》か|恐《おそ》れむ|露《つゆ》の|夜《よ》の|宿《やど》も』
|真純彦《ますみひこ》『いざ|来《き》たれベルもバットも|曲津見《まがつみ》も
|生言霊《いくことたま》に|服《まつろ》へて|見《み》む
|大空《おほぞら》に|輝《かがや》く|月《つき》の|影《かげ》|見《み》れば
|吾《わ》が|心根《こころね》の|恥《は》づかしくなりぬ』
かく|互《たが》ひに|歌《うた》ひ|終《をは》り、|蓑《みの》を|敷《し》き|雑談《ざつだん》に|耽《ふけ》つた。
|治道《ちだう》『|拙者《せつしや》の|部下《ぶか》に|使《つか》つてゐたベル、バットその|外《ほか》の|連中《れんちう》が、|軍隊《ぐんたい》を|放《はな》れて|猛悪《まうあく》な|泥坊《どろばう》となり、|四方《しはう》に|放浪《はうらう》して|数多《あまた》の|人間《にんげん》を|苦《くる》しめるのを|思《おも》へば、はや|私《わたし》は|立《た》つてもゐてもゐられないやうな|苦《くる》しい|思《おも》ひがいたします。どうしても|人間《にんげん》は|境遇《きやうぐう》に|左右《さいう》せらるるものとみえますなア。|吾々《われわれ》は|自分《じぶん》の|罪《つみ》は|申《まを》すも|更《さら》なり、|部下《ぶか》|一同《いちどう》の|罪《つみ》を|贖《あがな》ふために|将軍職《しやうぐんしよく》を|廃《はい》し、|治国別《はるくにわけ》|様《さま》の|御教《みをしへ》によりて|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》の|子《こ》となり、|比丘《びく》となりてビクトル|山《さん》に|根拠《こんきよ》を|構《かま》へ、|同僚《どうれう》|三人《さんにん》と|共《とも》に|交《かは》るがはる|天下《てんか》を|遍歴《へんれき》してゐますが、|思《おも》へば|思《おも》へば|神様《かみさま》に|対《たい》し|恥《は》づかしい|事《こと》です。かういふ|部下《ぶか》が|出来《でき》たのも|全《まつた》く|私《わたし》の|罪《つみ》でございます』
と|述懐《じゆつくわい》を|述《の》べ、|吐息《といき》をついて|涙《なみだ》に|沈《しづ》む。|玉国別《たまくにわけ》は|気《き》の|毒《どく》さに|堪《た》へやらぬ|面持《おももち》にて|言葉《ことば》|静《しづ》かに、
『|治道居士様《ちだうこじさま》、|必《かなら》ず|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|現在《げんざい》|親子《おやこ》の|間《あひだ》でも、|体《からだ》は|生《う》んでも|魂《たましひ》は|生《う》みつけぬといふ|譬《たとへ》がございます。|決《けつ》して|貴方《あなた》の|罪《つみ》ではございませぬ。その|人々《ひとびと》の|心《こころ》の|垢《あか》によつて|種々《いろいろ》と|迷《まよ》ふのですよ。|吾々《われわれ》|人間《にんげん》の|精神《せいしん》といふものは、いつも|健全《けんぜん》なものではない。|時々《ときどき》|一時的《いちじてき》の|変調《へんてう》|異常《いじやう》が|起《おこ》るもので、この|異常《いじやう》には|五《いつ》つの|型《かた》があるやうです。
|先《ま》づ|第一《だいいち》は、|利慾《りよく》に|迷《まよ》ふた|時《とき》だ。|利慾《りよく》に|迷《まよ》ふた|時《とき》は|誰人《たれ》も|冷静《れいせい》な|判断《はんだん》と|周密《しうみつ》な|考慮《かうりよ》を|失《うしな》ひ|易《やす》いものだから、|利《り》を|以《もつ》て|釣《つ》らるる|事《こと》が|多《おほ》いものだ。たとへば|他人《たにん》の|物品《ぶつぴん》を|預《あづ》かつてゐるやうな|場合《ばあひ》に、フト「これが|自分《じぶん》のものであつたらなア」といふやうな|心《こころ》が|浮《うか》ぶと、|責任観念《せきにんくわんねん》などがなくなり、それを|自分《じぶん》が|使《つか》つた|場合《ばあひ》の|状態《じやうたい》などに|眩惑《げんわく》されて|自分《じぶん》のものに|為《し》たり、また|平生《へいぜい》から|欲《ほ》しい|欲《ほ》しいと|思《おも》つてゐるものが|眼《め》の|前《まへ》にあると、|前後《ぜんご》を|考《かんが》へる|暇《いとま》がなくなつて|万引《まんびき》をしたりするやうになる、これは|言《い》ふまでもなく|副守先生《ふくしゆせんせい》の|発動《はつどう》で、|利益《りえき》のために|理智《りち》を|塞《ふさ》がれ、|健全《けんぜん》なる|働《はたら》きをせないといふ|事《こと》に|原因《げんいん》するものです。
|第二《だいに》の|型《かた》は、|強《つよ》い|強《つよ》い|刺戟《しげき》に|接《せつ》した|時《とき》だ。|単純《たんじゆん》な|蔭口《かげぐち》ぐらゐ|聞《き》いても|心《こころ》を|乱《みだ》さないやうな|人間《にんげん》でも、|面《めん》と|向《む》かつて|手酷《てきび》しく|痛罵《つうば》されると、|吾《わ》が|身《み》を|忘《わす》れて|予期《よき》しなかつた|行為《かうゐ》をしたり、また|普通《ふつう》の|異性《いせい》に|対《たい》しては|普通《ふつう》の|態度《たいど》が|保《たも》たれ|得《う》る|人間《にんげん》が、|美《うつく》しく|化粧《けしやう》した|異性《いせい》の|誘惑的《いうわくてき》な|嬌態《けうたい》に|接《せつ》すると|日頃《ひごろ》の|平静《へいせい》を|破《やぶ》られやすいといふやうに、|同《おな》じ|刺戟《しげき》でもその|程度《ていど》によつて|精神《せいしん》に|異常《いじやう》な|影響《えいきやう》を|与《あた》へる|事《こと》がある。|無論《むろん》|是等《これら》はその|人間《にんげん》の|先天的《せんてんてき》|性質《せいしつ》や|後天的《こうてんてき》|教養《けうやう》によつて|程度《ていど》の|差《さ》があることはいふまでもないが、|副守先生《ふくしゆせんせい》の|活動《くわつどう》に|原因《げんいん》する|事《こと》が|最《もつと》も|多《おほ》いのである。また|異常《いじやう》なる|強烈《きやうれつ》な|刺戟《しげき》が|人間《にんげん》の|精神《せいしん》を|異常《いじやう》ならしむるといふ|事《こと》は|間違《まちが》ひのない|事実《じじつ》だ。
|第三《だいさん》の|型《かた》は、|焦心《せうしん》したり|狼狽《らうばい》した|時《とき》に|起《おこ》る|精神《せいしん》の|状態《じやうたい》だ。こんな|時《とき》には|精神《せいしん》の|活動《くわつどう》が|安静《あんせい》を|欠《か》いてゐるので、|精神的《せいしんてき》の|作業《さげふ》にしても、また|肉体的《にくたいてき》の|作業《さげふ》にしても|過失《くわしつ》や|失敗《しつぱい》を|招《まね》き|易《やす》いものだ。|少々《せうせう》ばかりの|失策《しつさく》を|隠《かく》さうと|為《し》たために、|却《かへつ》てその|失策《しつさく》を|大《おほ》きくしたり、また|少々《せうせう》の|損失《そんしつ》に|狼狽《らうばい》した|結果《けつくわ》、|大損失《だいそんしつ》を|招《まね》くやうな|事《こと》をした|事実《じじつ》は、よく|世《よ》にあることだ。こんな|時《とき》には|副守先生《ふくしゆせんせい》の|最《もつと》も|煩悶《はんもん》を|続《つづ》けてゐた|際《さい》である。
|第四《だいし》の|型《かた》は、|失意《しつい》の|時《とき》と|得意《とくい》の|時《とき》だ。|失意《しつい》の|時《とき》には|精神《せいしん》の|能率《のうりつ》が|減退《げんたい》して|因循《いんじゆん》になり、|消極的《せうきよくてき》になつて|努力《どりよく》を|厭《いと》ふやうな|傾《かたむ》きになり、|得意《とくい》の|時《とき》にはその|反対《はんたい》に|精神《せいしん》の|能率《のうりつ》が|増進《ぞうしん》して|快活《くわいくわつ》になり、|積極的《せききよくてき》になつて|努力《どりよく》を|惜《を》しまぬやうになるものです。|従《したが》つて|事業《じげふ》の|成功《せいこう》と|身体《しんたい》の|健康《けんかう》|慰安《ゐあん》のある|時《とき》とない|時《とき》、|名誉《めいよ》を|得《え》た|時《とき》と|恥《はぢ》を|受《う》けた|時《とき》とはその|精神《せいしん》に|及《およ》ぼす|影響《えいきやう》は|全《まつた》く|正反対《せいはんたい》だ。そして|精神《せいしん》が|極端《きよくたん》に|沮喪《そさう》した|時《とき》はあまり|消極的《せうきよくてき》になる|結果《けつくわ》、|次第々々《しだいしだい》に|社会生活《しやくわいせいくわつ》の|敗残者《はいざんしや》となり、|極端《きよくたん》に|精神《せいしん》を|発揚《はつやう》した|時《とき》は|積極《せつきよく》に|進《すす》み|過《す》ぎた|結果《けつくわ》、|実力《じつりよく》|以上《いじやう》に|仕事《しごと》をするやうに|成《な》つて、|冒険的《ばうけんてき》や|独断的《どくだんてき》に|走《はし》るやうになるものだ。これも|副守先生《ふくしゆせんせい》の|活動《くわつどう》の|結果《けつくわ》と|言《い》つても|良《よ》いくらゐなものです。
|第五《だいご》は|迷信《めいしん》に|陥《おちい》つた|時《とき》に|起《おこ》る|精神状態《せいしんじやうたい》だ。|不健全《ふけんぜん》なる|信仰《しんかう》を|持《も》つてゐる|人間《にんげん》は、その|他《た》の|方面《はうめん》の|事物《じぶつ》については|普通《ふつう》の|判断《はんだん》を|誤《あやま》ることがないにも|拘《かかは》らず、|信仰《しんかう》の|方面《はうめん》になると|著《いちじる》しい|誤解《ごかい》を|来《き》たすものです。|従《したが》つてそれが|難病治癒《なんびやうちゆ》に|関《くわん》する|場合《ばあひ》であつても、また|利慾《りよく》に|関《くわん》してゐる|場合《ばあひ》であつても、|冷静《れいせい》な|判断《はんだん》や、|前後《ぜんご》の|考《かんが》へも|廻《めぐ》らす|余裕《よゆう》がなくなつて、|遂《つひ》に|幼者《えうしや》を|誘拐《いうかい》したり、|死体《したい》を|発掘《はつくつ》したり、|或《あるひ》は|七夕《たなばた》の|夕《ゆふ》べに|七軒《しちけん》の|家《いへ》から|物《もの》を|盗《ぬす》むやうになるのです。|以上《いじやう》の|外《ほか》に|婦人《ふじん》が|妊娠《にんしん》、|月経《げつけい》などの|生理的《せいりてき》|原因《げんいん》に|基《もと》づいて、|一時的《いちじてき》に|精神《せいしん》に|異常《いじやう》を|来《き》たすことは|言《い》ふまでもないことです。それだから|凡《すべ》ての|人間《にんげん》は|狂人《きちがひ》の|未製品《みせいひん》だ|予備品《よびひん》だ、と|言《い》つたのだ。|伊都《いづ》の|教祖《けうそ》や|美都《みづ》の|教主《けうしゆ》のみが|突発性《とつぱつせい》|狂人《きちがひ》では|無《な》い。|本正副守護神《ほんせいふくしゆごじん》さまの|容器《ようき》たる|人間《にんげん》は|実《じつ》に|不可思議《ふかしぎ》なものです』
|治道《ちだう》『|有難《ありがた》うございます。|貴師《あなた》のお|説《せつ》に|由《よ》つて|拙者《せつしや》もやうやく|安心《あんしん》いたしました。|人間《にんげん》といふものは|実《じつ》に|困《こま》つたものですなア』
|三千《みち》『|治道様《ちだうさま》、あなたも|先生《せんせい》のお|説《せつ》で|御安心《ごあんしん》なさつたでせう。|私《わたし》もちよつと|得心《とくしん》いたしました。しかしながら|突張《つつぱり》のない|蒼雲《あをぐも》の|天井《てんじやう》の|下《した》に|寝《ね》るのですから、|何時《いつ》|頭《あたま》の|上《うへ》に|月《つき》が|落《お》ちて|来《き》て|目《め》を|醒《さ》ますか、ベル、バットがやつて|来《き》て、|玉《たま》を|取《と》るか|分《わか》りますまいが、そこは|惟神《かむながら》にまかして|寝《やす》みませうか。|比丘《びく》さまは|経《きやう》が|大事《だいじ》、|拙者《せつしや》は|明日《あす》が|大事《だいじ》だ』
|治道《ちだう》『アハハハハ。しからば|御免《ごめん》|蒙《かうむ》つて|寝《やす》みませう』
|茲《ここ》に|一同《いちどう》はスダルマ|山《さん》の|峠《たうげ》の|頂上《ちやうじやう》に、|河《かは》も|無《な》きに|白河夜船《しらかはよぶね》を|漕《こ》いで|眠《ねむ》つてしまつた。|一塊《いつくわい》の|黒雲《くろくも》|天《てん》の|一方《いつぱう》に|起《おこ》るよと|見《み》るまに、|忽《たちま》ち|満天《まんてん》に|急速力《きふそくりよく》をもつて|拡《ひろ》がり、|今《いま》まで|皎々《かうかう》と|照《て》り|輝《かがや》いてゐた|月《つき》も|星《ほし》もみな|呑《の》んでしまつた。
かかるところへ|峠《たうげ》をスタスタと|登《のぼ》つて|来《き》た|二人《ふたり》の|覆面頭巾《ふくめんづきん》の|男《をとこ》があつた。この|男《をとこ》はいふまでもなく、ベル、バットの|泥棒《どろばう》である。|二人《ふたり》は|鼾《いびき》の|声《こゑ》を|聞《き》きつけ|小声《こごゑ》になつて、
ベル『オイ、バット、|何《なん》だか|暗《くら》がりに、フゴフゴといつたり、|粥《かゆ》を|炊《た》くやうにグツグツグツグツといふやつがあるぢやないか、こんな|所《ところ》に|畚売《ふごう》りも|登《のぼ》つて|来《く》るはずもなし、お|粥《かゆ》を|炊《た》く|婆《ばば》もゐる|道理《だうり》がない。|一体《いつたい》|何《なん》だらうな、あまりバットせぬぢやないか』
バット『これや、ベル、|大《おほ》きな|声《こゑ》でシヤー【ベル】ない、バットせないのが|俺《おれ》|達《たち》の|豊年《ほうねん》だ。|此奴《こいつ》はどうしても|人間《にんげん》の|鼾《いびき》だよ。|一《ひと》つそつと|枕探《まくらさが》しでもやつてボロつたらどうだ。こんなよい|機会《きくわい》は|又《また》とあるまいぞ』
『|枕探《まくらさが》しといつても、こんな|山《やま》の|上《うへ》に|枕《まくら》をして|寝《ね》てゐる|奴《やつ》もないぢやないか、|探《さが》さうといつても|真暗《まつくら》で|一寸先《いつすんさき》も|分《わか》りやしない。どうしたらよからうかなア』
『|真暗《まつくら》の|中《なか》を|探《さが》すからまつくら|探《さが》しだ、|暗《くら》がりに|仕事《しごと》が|出来《でき》ないやうな|泥棒《どろばう》が|何《なん》になるかい』
|治道居士《ちだうこじ》は|横《よこ》になつたまま|一目《ひとめ》も|寝《ね》ず、|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》の|保護《ほご》の|任《にん》に|当《あた》つてゐた。それゆゑベル、バットの|囁《ささや》き|声《ごゑ》を|残《のこ》らず|聞《き》いてゐる。そんな|事《こと》とは|知《し》らぬ|両人《りやうにん》は|声低《こわびく》に|尚《なほ》も|囁《ささや》きを|続《つづ》けてゐる。
バット『オイ、|鬼治別《おにはるわけ》|将軍《しやうぐん》も、ずゐぶん|耄碌《まうろく》したものぢやないか。あれだけ|権要《けんえう》な|地位《ちゐ》を|放《ほ》り|出《だ》して|身窄《みすぼら》しい|比丘《びく》となり、|昨夜《ゆうべ》も|昨夜《ゆうべ》とて|祠《ほこら》の|森《もり》に|寝《ね》てゐたぢやないか。いい|馬鹿《ばか》だなア。おほかた|彼奴《あいつ》は|発狂《はつきやう》したのかも|知《し》れないねえ』
ベル『そんな|事《こと》はいふだけ|野暮《やぼ》だよ。|喇叭《らつぱ》を|法螺貝《ほらがひ》にかへ|三千《さんぜん》の|部下《ぶか》を|棄《す》てただ|一人《ひとり》|墨染《すみぞめ》の|衣《ころも》を|身《み》に|纒《まと》ひ、|殊勝《しゆしよう》らしく|乞食《こじき》に|廻《まは》るといふのだから|大抵《たいてい》|極《きま》つてゐるわ。あいつは|治国別《はるくにわけ》といふ|極道宣伝使《ごくだうせんでんし》に|霊《たま》をぬかれ、|呆《ほう》けてしまつたのだよ』
|治道居士《ちだうこじ》は|一《ひと》つ|喝《おど》かしてやろうと、|法螺貝《ほらがひ》を|口《くち》に|当《あ》て、ブウブウと|吹《ふ》き|立《た》てた。|寝耳《ねみみ》に|水《みづ》の|法螺《ほら》の|声《こゑ》に|二人《ふたり》は|驚《おどろ》き、ドスンとその|場《ば》に|尻餅《しりもち》をつき|慄《ふる》い|戦《たたか》いてゐる。|治道居士《ちだうこじ》は|闇《やみ》の|中《なか》から|細《ほそ》い|作《つく》り|声《ごゑ》をしながら、
『|諸行無常《しよぎやうむじやう》|是生滅法《ぜしやうめつぽふ》、|生滅滅已《しやうめつめつい》|寂滅為楽《じやくめつゐらく》』
と|称《とな》へてみた。
バット『オイ、ベル、あいつは|法螺《ほら》の|化者《ばけもの》だ、|俺《おれ》|達《たち》に【わざ】をしやうと|思《おも》うてあんな|事《こと》を|吐《ほざ》きやがる。|一《ひと》つ|此《この》|方《はう》にも|武器《ぶき》があるのぢやから|対抗《たいかう》せなくてはなるまい。かふいふ|時《とき》には|悪事災難除《あくじさいなんよ》けに、|大自在天《だいじざいてん》|大国彦命《おほくにひこのみこと》|様《さま》のお|助《たす》けを|蒙《かうむ》るために|陀羅尼《だらに》を|称《とな》へるに|限《かぎ》つてゐる』
ベル『|泥棒《どろばう》が|陀羅尼《だらに》を|称《とな》へても|神様《かみさま》は|聞《き》いてくれるだらうかなア』
『きまつた|事《こと》だ。これから|俺《おれ》が|化物《ばけもの》に|対抗《たいかう》してみるつもりだ。
イテイメー イテイメー イテイメー
イテイメー イテイメー ニメー
ニメー ニメー ニメー
ニメー ルヘー ルヘー
ルヘー ルヘー スッヘー
スッヘー スッヘー スッヘー
スッヘー スヴーハー』
『そりや|何《なん》といふことだい。|妙《めう》なことを|吐《ほざ》くぢやないか。|痛《いた》いわい|痛《いた》いわい|痛《いた》いわいなアんて』
『これは|陀羅尼品《だらにぼん》の|文言《もんごん》だ。|是《これ》を|義訳《ぎやく》すれば、「|是《ここ》に|於《おい》て |斯《ここ》に|於《おい》て |爾《ここ》に|於《おい》て |氏《うぢ》に|於《おい》て |極甚《ごくじん》に|我《われ》|無《な》く |吾《われ》|無《な》く |身《み》も|無《な》く |所《ところ》|無《な》し |倶《とも》に|同《おな》じくす |己《おのれ》に|興《おこ》し |己《おのれ》に|生《しやう》じ |己《おのれ》に|成《じやう》じ |而《しか》して|住《ぢう》し |而《しか》して|立《た》ち |亦《また》|住《ぢう》す |嗟嘆《さたん》 |亦《また》|非《あら》ず |消頭《せうとう》|大疾《だいしつ》|加害《かがい》を|得《う》る|無《な》し」と|謂《ゐ》つて|有難《ありがた》いお|経《きやう》だ。|大病《たいびやう》にも|罹《かか》らず|一切《いつさい》の|難《なん》を|受《う》けないといふ|呪文《じゆもん》だ。|今《いま》の|比丘《びく》、|比丘尼《びくに》どもは、「いでいび、いでいびん、いでいび、あでいび、いでいび、でび、でび、でび、でび、でび、ろけい、ろけい、ろけい、ろけい、たけい、たけい、たけい、とけい、とけい」と|囀《さへづ》つてゐるのだ。ちやうど|油蝉《あぶらぜみ》が|樹上《じゆじやう》に|鳴《な》いてゐるやうに|聞《き》こえるから、サンスクリットで|唱《とな》えたのだ。アハハハハ』
附記 註解
|陀羅尼品《だらにぼん》
|経語《きやうご》 |義訳《ぎやく》 |梵語《ぼんご》
|伊提履《いでいび》 (於是) イテイメー
|伊提泯《いでいびん》 (於斯) イテイメー
|伊提履《いでび》 (於爾) イテイメー
|阿提履《あでび》 (於氏) イテイメー
|伊提履《いでいび》 (極甚) イテイメー
|泥履《でび》 (無我) ニメー
|泥履《でび》 (無吾) ニメー
|泥履《でび》 (無身) ニメー
|泥履《でび》 (無所) ニメー
|泥履《でび》 (倶同) ニメー
|楼〓《ろけい》 (己興) ルヘー
|楼〓《ろけい》 (己生) ルヘー
|楼〓《ろけい》 (己成) ルヘー
|楼〓《ろけい》 (而住) ルヘー
|多〓《たけい》 (而立) スッヘー
|多〓《たけい》 (亦住) スッヘー
|多〓《たけい》 (嗟嘆) スッヘー
|兜〓《とけい》 (亦非) スッヘー
|〓兜《とけい》 (消頭大疾無得加害) スッヘースヴアハー
○
|法螺貝《ほらがひ》の|声《こゑ》ますます|高《たか》くなつて|来《く》る。|玉国別《たまくにわけ》|外《ほか》|一同《いちどう》は|直《ただ》ちに|夢《ゆめ》を|破《やぶ》られ、バットが|称《とな》ふる|陀羅尼《だらに》の|声《こゑ》を|興味《きようみ》をもつて|聞《き》いてゐた。|治道居士《ちだうこじ》|頓《とみ》に|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
『|拙者《せつしや》は|月《つき》の|国《くに》ハルナの|都《みやこ》に|名《な》も|高《たか》き、バラモン|教《けう》の|神司《かむつかさ》、|大黒主《おほくろぬし》の|神《かみ》の|幕下《ばくか》、|鬼春別《おにはるわけ》|将軍《しやうぐん》のなれの|果《はて》、|今《いま》は|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》|治道居士《ちだうこじ》と|申《まを》す|比丘《びく》であるぞよ。|汝《なんぢ》ベル、バットの|両人《りやうにん》、|早《はや》く|心《こころ》を|入《い》れ|替《か》へ、|神《かみ》の|正道《せいだう》につけ』
と|厳《おごそ》かに|呼《よ》ばはれば、|二人《ふたり》|何《なん》となくその|言霊《ことたま》に|打《う》たれて、「ハイ」と|僅《わづ》かに|言《い》つたきり、その|場《ば》に|跼《しやが》んでしまつた。|黒雲《こくうん》の|帳《とばり》を|破《やぶ》つて|大空《おほぞら》の|月《つき》はパツと|覗《のぞ》かせたまふた。|一同《いちどう》の|姿《すがた》は|昼《ひる》のごとく|見《み》えて|来《き》た。
|治道《ちだう》『|黒雲《くろくも》に|包《つつ》まれたまひし|月影《つきかげ》も
|誠《まこと》の|光《ひかり》あらはしたまひぬ
ベル バット|心《こころ》の|雲《くも》を|押《お》し|除《の》けて
|玉《たま》の|光《ひかり》を|研《みが》き|照《て》らせよ』
と|詠《よ》みかけた。|二人《ふたり》は|恐《おそ》る|恐《おそ》る|慄《ふる》ひ|声《ごゑ》にて、
バット『|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|闇《やみ》を|照《て》らすため
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|燈火《あかし》ともさむ
|今《いま》までの|深《ふか》き|罪咎《つみとが》|赦《ゆる》せかし
|元津御霊《もとつみたま》にかへる|吾《わ》が|身《み》を』
ベル『|盗《ぬす》みする|心《こころ》は|露《つゆ》もなけれども
|醜《しこ》の|鬼《おに》|奴《め》に|使《つか》はれけるかな
|鬼春別《おにはるわけ》|軍《いくさ》の|君《きみ》の|御前《おんまへ》に
|拝《をろが》む|吾《われ》を|赦《ゆる》させたまへ』
『|三五《あななひ》の|清《きよ》き|教《をしへ》の|神司《かむつかさ》
|吾《われ》を|許《ゆる》せよ|神《かみ》のまにまに』
|治道《ちだう》『|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|暗《やみ》の|晴《は》れぬれば
その|身《み》も|明《あ》かく|清《きよ》まりぬべし』
|玉国別《たまくにわけ》『ベル バット|二人《ふたり》の|男子《をのこ》に|言告《ことつ》げむ
|神《かみ》は|誠《まこと》の|恵《めぐ》みなるぞや』
バット『|有難《ありがた》し|司《つかさ》の|君《きみ》の|御言葉《みことば》に
|胸《むね》は|晴《は》れけり|心《こころ》|澄《す》みけり
|吾《わ》が|心《こころ》バット|明《あか》るくなりにけり
|神《かみ》の|教《をしへ》の|燈火《ともしび》に|遇《あ》ひて』
ベル『|大空《おほぞら》の|月《つき》に|心《こころ》を|照《て》らされて
|心《うら》|恥《は》づかしくなりにけるかな
|今《いま》までは|醜《しこ》の|曲霊《まがひ》にさやられて
|黒白《あやめ》も|分《わか》ず|踏《ふ》み|迷《まよ》ひけり』
|治道《ちだう》『|大空《おほぞら》に|輝《かがや》く|月《つき》の|御姿《みすがた》を
|心《こころ》となして|世《よ》を|渡《わた》れかし』
|三千彦《みちひこ》『スダルマの|山《やま》の|尾上《をのへ》に|仮寝《かりね》して
|今日《けふ》はうれしき|夢《ゆめ》を|見《み》しかな』
|真純彦《ますみひこ》『|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|空《そら》は|真純彦《ますみひこ》
かかるくもなき|今宵《こよひ》の|嬉《うれ》しさ』
デビス|姫《ひめ》『あら|尊《たふと》|月《つき》の|恵《めぐ》みの|輝《かがや》きて
|二人《ふたり》の|御子《みこ》の|蘇生《よみかへ》りぬる』
かく|話《はな》すところへ|天空《てんくう》に|嚠喨《りうりやう》たる|音楽《おんがく》|聞《き》こえ、|月《つき》を|笠《かさ》に|被《かぶ》りながら|一行《いつかう》が|前《まへ》に|雲《くも》|押《お》し|分《わ》けて|悠々《いういう》と|下《くだ》りたまうた|大神人《だいしんじん》がある。|玉国別《たまくにわけ》|一同《いちどう》はこの|神姿《しんし》を|見《み》るより|忽《たちま》ち|大地《だいち》に|平伏《ひれふ》し|感涙《かんるゐ》に|咽《むせ》んでゐる。この|神人《しんじん》は|月《つき》の|御国《みくに》の|大神《おほかみ》に|在《ま》しまして|産土山《うぶすなやま》の|神館《かむやかた》に|跡《あと》を|垂《た》れたまひし、|三千世界《さんぜんせかい》の|救世主《きうせいしゆ》、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》であつた。
|大神《おほかみ》は|一同《いちどう》の|前《まへ》に|四柱《よはしら》の|従神《じうしん》と|共《とも》に|輝《かがや》きたまひ、|声《こゑ》も|涼《すず》しく|神訓《しんくん》を|垂《た》れたまうた。|一同《いちどう》は|拝跪《はいき》して|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|暮《く》れながら|一言《いちごん》も|漏《も》らさじと|謹聴《きんちやう》してゐた。
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》が|山上《さんじやう》の|神訓《しんくん》
一、|無限絶対《むげんぜつたい》|無始無終《むしむしう》に|坐《ま》しまして|霊力体《れいりよくたい》の|大元霊《だいげんれい》と|現《あら》はれたまふ|真《まこと》の|神《かみ》は、|只《ただ》|一柱《ひとはしら》|在《おは》す|而已《のみ》。|之《これ》を|真《まこと》の|神《かみ》または|宇宙《うちう》の|主神《すしん》といふ。
|汝等《なんぢら》、この|大神《おほかみ》を|真《まこと》の|父《ちち》となし|母《はは》と|為《な》して|敬愛《けいあい》し|奉《たてまつ》るべし。|天之御中主大神《あめのみなかぬしのおほかみ》と|奉称《ほうしよう》し、また|大国常立大神《おほくにとこたちのおほかみ》と|奉称《ほうしよう》す。
一、|厳《いづ》の|御霊《みたま》|日《ひ》の|大神《おほかみ》、|瑞《みづ》の|御魂《みたま》|月《つき》の|大神《おほかみ》は、|主《す》の|神《かみ》|即《すなは》ち|大国常立大神《おほくにとこたちのおほかみ》の|神霊《しんれい》の|御顕現《ごけんげん》にして、|高天原《たかあまはら》の|天国《てんごく》にては|日《ひ》の|大神《おほかみ》と|顕《あら》はれ|給《たま》ひ、|高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》にては|月《つき》の|大神《おほかみ》と|顕《あら》はれ|給《たま》ふ。
一、|愛善《あいぜん》の|徳《とく》に|住《ぢう》するものは|天国《てんごく》に|昇《のぼ》り、|信真《しんしん》の|光徳《くわうとく》に|住《ぢう》するものは|霊国《れいごく》に|昇《のぼ》るものぞ。
一、このほか|天津神《あまつかみ》|八百万《やほよろづ》|坐《ま》しませども、|皆《みな》|天使《てんし》と|知《し》るべし、|真《まこと》の|神《かみ》は|大国常立大神《おほくにとこたちのおほかみ》、|又《また》の|名《な》は|天照皇大神《あまてらすすめおほかみ》、ただ|一柱《ひとはしら》|坐《ま》しますのみぞ。
一、|国津神《くにつかみ》|八百万《やほよろづ》|坐《ま》しませども|皆《みな》|現界《げんかい》における|宣伝使《せんでんし》や|正《ただ》しき|誠《まこと》の|司《つかさ》と|知《し》るべし。
一、|真《まこと》の|神《かみ》は、|天之御中主大神《あめのみなかぬしのおほかみ》ただ|一柱《ひとはしら》のみ。|故《ゆゑ》に|幽《いう》の|幽《いう》と|称《たた》え|奉《まつ》る。
一、|真《まこと》の|神《かみ》の|変現《へんげん》したまひし|神《かみ》を、|幽《いう》の|顕《けん》と|称《たた》へ|奉《まつ》る、|天国《てんごく》における|日《ひ》の|大神《おほかみ》、|霊国《れいごく》における|月《つき》の|大神《おほかみ》は|何《いづ》れも|幽《いう》の|顕神《けんしん》なり。
一、|一旦《いつたん》|人《ひと》の|肉体《にくたい》を|保《たも》ちて|霊界《れいかい》に|入《い》り|給《たま》ひし|神《かみ》を、|顕《けん》の|幽《いう》と|称《とな》え|奉《たてまつ》る。|大国主之大神《おほくにぬしのおほかみ》および|諸々《もろもろ》の|天使《てんし》および|天人《てんにん》の|類《るゐ》をいふ。
一、|顕界《けんかい》に|肉体《にくたい》を|保《たも》ちて、|神《かみ》の|大道《おほぢ》を|伝《つた》え、また|現界《げんかい》|諸種《しよしゆ》の|事業《じげふ》を|司宰《しさい》する|人間《にんげん》を|称《しよう》して、|顕《けん》の|顕神《けんしん》と|称《とな》へ|奉《まつ》る。
|而《しか》して|真《しん》に|敬愛《けいあい》し|尊敬《そんけい》し|依信《いしん》すべき|根本《こんぽん》の|大神《おほかみ》は、|幽《いう》の|幽《いう》に|坐《ま》します|一柱《ひとはしら》の|大神《おほかみ》|而已《のみ》。その|他《た》の|八百万《やほよろづ》の|神々《かみがみ》は、|主神《すしん》の|命《めい》に|依《よ》りて|各《おのおの》その|神務《しんむ》を|分掌《ぶんしやう》し|給《たま》ふものぞ。
一、|愛善《あいぜん》の|徳《とく》に|住《ぢう》し|信真《しんしん》の|光《ひかり》に|住《ぢう》し、|神《かみ》を|愛《あい》し|神《かみ》を|信《しん》じ|神《かみ》の|為《ため》に|尽《つく》すものは|天界《てんかい》の|住民《ぢうみん》となり、|悪《あく》と|虚偽《きよぎ》とに|浸《ひた》りて|魂《たましひ》を|曇《くも》らすものは|地獄《ぢごく》に|自《みづか》ら|堕落《だらく》するものぞ。
かく|宣《の》り|終《を》へたまひて、|以前《いぜん》の|従神《じうしん》を|率《ひき》ゐて|紫《むらさき》の|雲《くも》に|乗《の》り、|大空《おほぞら》|高《たか》く|月《つき》と|共《とも》に|昇《のぼ》らせたまうた。
|玉国別《たまくにわけ》『|素盞嗚《すさのを》の|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御恵《みめぐ》みに
|教《をしへ》の|泉《いづみ》|湧《わ》き|出《い》でにけり
|昔《むかし》よりためしも|聞《き》かぬ|御教《みをしへ》を
|居《ゐ》ながらに|聞《き》く|事《こと》の|尊《たふと》さ』
|治道《ちだう》『|水火《みづひ》の|中《なか》をかい|潜《くぐ》り |求《ま》ぎて|往《ゆ》くべき|道芝《みちしば》の
|恵《めぐ》みの|露《つゆ》に|濡《ぬ》れながら スダルマ|山《さん》の|頂上《ちやうじやう》に
|聞《き》くも|嬉《うれ》しき|御教《おんをしへ》 ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みを|赤心《まごころ》に |留《と》めて|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る』
|三千彦《みちひこ》『|大空《おほぞら》ゆ|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|下《くだ》りまして
|生命《いのち》の|清水《しみづ》|与《あた》へたまひぬ』
デビス『|夜《よる》の|露《つゆ》うけて|寝《やす》らう|身《み》の|上《うへ》に
|注《そそ》がせたまひし|恵《めぐ》みの|御露《みつゆ》』
|真純彦《ますみひこ》『|大空《おほぞら》の|雲《くも》|押《お》し|分《わ》けて|輝《かがや》きつ
|真澄《ますみ》の|水《みづ》の|教《のり》を|賜《たま》ひぬ』
|治道《ちだう》『あら|尊《たふと》|誠《まこと》の|神《かみ》の|御姿《みすがた》に
|謁見《まみえ》まつりし|吾《われ》ぞ|嬉《うれ》しき』
ベル『|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|闇《やみ》の|晴《は》れゆきて
|誠《まこと》の|神《かみ》の|光《ひかり》に|遇《あ》ひぬ』
バット『|限《かぎ》りなき|神《かみ》の|恵《めぐ》みを|悟《さと》りけり
|悔《く》ひ|改《あらた》めて|正道《まさみち》に|入《い》らむ』
ここにベル、バットの|両人《りやうにん》は|心《こころ》の|底《そこ》より|悔《く》ひ|改《あらた》め、|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》に|従《したが》ひて|聖地《せいち》エルサレムを|指《さ》して|進《すす》むこととなつた。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・五・一八 旧四・三 於教主殿二階 加藤明子録)
第五章 |宿縁《しゆくえん》〔一六一二〕
|伊太彦《いたひこ》、カークス、ベースの|三人《さんにん》は、スダルマ|山《さん》の|麓《ふもと》より|間道《かんだう》を|通《とほ》り|抜《ぬ》け、スーラヤの|湖辺《こへん》に|出《で》た。ここには|此《こ》の|湖《みづうみ》を|渡海《とかい》する|船頭《せんどう》の|家《いへ》が|十四五軒《じふしごけん》|建《た》つてゐる。|三人《さんにん》は|一一《いちいち》|船頭《せんどう》の|家《いへ》を|尋《たづ》ねて、|湖中《こちう》に|浮《うか》べるスーラヤ|島《たう》に|渡《わた》るべく|探《さが》してみたが、いづれも|漁《すなどり》に|出《で》た|留守《るす》とみえて|一人《ひとり》も|船頭《せんどう》はゐなかつた。|家《いへ》に|残《のこ》つたものは|爺婆《ぢぢばば》か、|嬶《かかあ》|子供《こども》ばかりである。|一軒《いつけん》も|残《のこ》らず|尋《たづ》ねて|最後《さいご》の|家《いへ》に|至《いた》り、|最早《もはや》|船《ふね》がなければ|仕方《しかた》がない、|船頭衆《せんどうしう》が|帰《かへ》つて|来《く》るまでここに|待《ま》つ|事《こと》にしようと、|爺《ぢい》さま、|婆《ば》アさまに|渋茶《しぶちや》を|汲《く》んでもらひ、|遂《つひ》にその|夜《よ》は|老夫婦《らうふうふ》の|親切《しんせつ》によつて|宿泊《しゆくはく》することとなつた。
|庭先《にはさき》には|栴檀《ちやんだな》の|木《き》が|香《かん》ばしく|薫《かを》つて、|小《ちひ》さき|賤ケ屋《しづがや》の|中《なか》を|包《つつ》んでゐる。|爺《ぢい》さま、|婆《ば》アさまの|子《こ》には|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》があつた。|兄《あに》をアスマガルダといひ|妹《いもうと》をブラワ゛ーダといつた。|兄妹《きやうだい》ともに|天稟《てんぴん》の|美貌《びばう》でキメも|細《こま》かく、|兄《あに》の|方《はう》は|瑪瑙《めなう》のやうな|美《うつく》しい|肌《はだ》をしてゐるのでそれを|名《な》としたのである。アスマガルダといふことは|瑪瑙《めなう》の|梵語《ぼんご》であり、ブラワ゛ーダといふのは|梵語《ぼんご》の|珊瑚《さんご》である。|伊太彦《いたひこ》ほか|二人《ふたり》はまづ|夕餉《ゆふげ》を|饗応《きやうおう》され、|庭先《にはさき》に|向《む》かつて|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|再《ふたた》び|家《いへ》に|帰《かへ》つていろいろの|話《はなし》をしたり、「|是非《ぜひ》とも|明日《あす》はスーラヤ|山《さん》に|登《のぼ》り|夜光《やくわう》の|球《たま》をとつて|来《こ》ねばならぬ」と|希望《きばう》を|抱《いだ》いて|勇《いさ》ましく|嬉《うれ》しげに|四方八方《よもやも》の|話《はなし》に|耽《ふけ》つてゐた。
|伊太彦《いたひこ》はスダルマ|山《さん》の|麓《ふもと》において|暫《しば》らく|神懸状態《かむがかりじやうたい》となつてより|俄《には》かに|若々《わかわか》しくなり、|体《からだ》の|相好《さうがう》から|顔《かほ》の|色《いろ》まで|玉《たま》のごとく|美《うつく》しくなつてしまつた。これは|木花姫命《このはなひめのみこと》の|御霊《みたま》が|伊太彦《いたひこ》に|一《ひと》つの|使命《しめい》を|果《はた》さすべく、それについては|大変《たいへん》な|大事業《だいじげふ》であるから|御守護《ごしゆご》になつたからである。しかしながら|伊太彦《いたひこ》は|自分《じぶん》の|顔《かほ》や|姿《すがた》の|優美高尚《いうびかうしやう》になつた|事《こと》は|気《き》がつかず、|依然《いぜん》として|元《もと》の|蜴蜥面《とかげづら》であると|自《みづか》ら|信《しん》じてゐた。|三人《さんにん》が|話《はなし》をしてゐると、|土間《どま》の|襖《ふすま》をソツと|開《あ》けて|珊瑚樹《さんごじゆ》のやうな|顔《かほ》をした|女《をんな》がチヨイチヨイ|偸《ぬす》むやうな|目《め》をして|覗《のぞ》いてゐた。|伊太彦《いたひこ》は「|娘《むすめ》が|何《なん》の|意《い》で|自分等《じぶんら》を|覗《のぞ》くであらうか、あまり|珍妙《ちんめう》な|顔《かほ》をしてゐるので|面白《おもしろ》がつて、チヨコチヨコと|化物《ばけもの》の|無料見物《むれうけんぶつ》をやつてゐるのだらう。アアかうなつてくると|人間《にんげん》も|美《うつく》しう|生《うま》れたいものだ。なぜ|俺《おれ》はこんなヒヨツトコに|生《うま》れて|来《き》たのだらう」と|心《こころ》の|底《そこ》で|呟《つぶ》やいてゐた。|爺《ぢい》さまも|婆《ば》アさまもカークスもベースも、|何《なん》となく|伊太彦《いたひこ》の|威厳《ゐげん》の|備《そな》はりたるに|畏敬尊信《ゐけいそんしん》の|念《ねん》を|起《おこ》し、あたかも|救世主《きうせいしゆ》の|降臨《かうりん》のやうにあらゆる|美《うつく》しい|言葉《ことば》を|並《なら》べて、|何呉《なにく》れとなく|世話《せわ》をする。|伊太彦《いたひこ》は、
『|何《なん》とまア|親切《しんせつ》な|人《ひと》もあるものだな。こんな|僻地《へきち》だから|人間《にんげん》が|純朴《じゆんぼく》で|親切《しんせつ》なのであらう。まるで|神代《かみよ》のやうだなア』
と|今度《こんど》は|感謝《かんしや》の|意味《いみ》に|於《おい》て|腹《はら》の|底《そこ》で|囁《ささや》いた。この|老夫婦《らうふうふ》の|名《な》は、|爺《ぢい》さまをルーブヤ(|銀《ぎん》)といひ、|婆《ば》アさまをバヅマラーカ(|真珠《しんじゆ》)といつた。|年《とし》はとつてゐるものの、|何処《どこ》ともなしにブラワ゛ーダのやうに|美《うつく》しい|面影《おもかげ》が|残《のこ》つてゐる。|爺《ぢい》さまのルーブヤは|嬉《うれ》しさうに|伊太彦《いたひこ》の|前《まへ》に|進《すす》みよつて|両手《りやうて》を|支《つか》へ、
『これはこれは|何処《どこ》のお|客《きやく》さまか|存《ぞん》じませぬが、よくもこんな|山間《さんかん》|僻地《へきち》を|訪《たづ》ねて|来《き》て|下《くだ》さいました。|承《うけたまは》りますればスーラヤの|島《しま》に|夜光《やくわう》の|玉《たま》をおとりの|為《ため》お|渡《わた》りとのことですが、|昔《むかし》からあの|島《しま》へ|渡《わた》つて|玉《たま》を|取《と》りに|行《い》つたものは、|一人《ひとり》も|生《い》きて|皈《かへ》つたものはござりませぬ。|夜分《やぶん》になると、それはそれは|立派《りつぱ》な|光《ひかり》が|出《で》ますので、|慾《よく》に|目《め》のない|人間《にんげん》はソツと|渡《わた》つて|命《いのち》をとられるのです。しかし|貴方《あなた》はかう|見《み》たところで|普通《あたりまへ》の|人間《にんげん》と|見《み》えませぬ。|神様《かみさま》の|御化身《ごけしん》と|思《おも》はれます。|何卒《どうぞ》あの|玉《たま》をとつてお|皈《かへ》りになれば、この|村中《むらぢう》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|国人《くにびと》が|再《ふたた》び|生命《いのち》をとられる|事《こと》がなくなります。あなたなればきつと|玉《たま》をとつて|皈《かへ》れるでせう。|伜《せがれ》のアスマガルダが|明日《あす》は|皈《かへ》るでせうからお|伴《とも》を|致《いた》させます。どうぞ|御成功《ごせいこう》をお|祈《いの》りいたします。そして|私《わたし》の|家《うち》は|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、かういふむさくるしい|狭《せま》い|所《ところ》でございますが、まさかの|時《とき》の|用意《ようい》に|裏《うら》の|林《はやし》に|狭《せま》いながらも|新《あたら》しい|亭《ちん》が|建《た》ててありますから、|何卒《どうぞ》それへお|寝《やす》み|下《くだ》さいませ』
|伊太《いた》『これはこれはお|爺様《ぢいさま》、にはかに|御厄介《ごやくかい》になりまして、さう|気《き》をもんでもらひましては|誠《まこと》に|済《す》みませぬ。|庭《には》の|隅《すみ》でも|結構《けつこう》です。|夜露《よつゆ》を|凌《しの》げたら|宜《よろ》しいのです。|私《わたし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》として、|山《やま》に|寝《ね》たり|野《の》に|寝《ね》たりして|修行《しうぎやう》に|廻《まは》るものですから、そんな|処《ところ》に|寝《やす》ましてもらうと|畏《おそ》れ|多《おほ》うございます』
ルーブヤ『さう|仰有《おつしや》らずに|何卒《どうぞ》|老人夫婦《らうじんふうふ》の|願《ねが》ひでございますから、|新建《しんだち》へ|行《い》つてお|寝《やす》みを|願《ねが》ひます』
|伊太《いた》『そこまで|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さるのにお|断《こと》わりするのも|却《かへつ》て|失礼《しつれい》に|当《あた》りますから、しからば|御厄介《ごやくかい》になりませう』
バヅマラーカ『|何卒《どうぞ》さうなさつて|下《くだ》さいませ。お|床《とこ》をチヤンとしておきましたから』
|伊太《いた》『しからば|寝《やす》まして|頂《いただ》きませう。カークスさま、ベースさま、サア|御一緒《ごいつしよ》にお|伴《とも》いたしませう』
カークス、ベースの|両人《りやうにん》はモヂモヂとしてゐる。
ルーブヤ『いえいえ、このお|二人様《ふたりさま》は|私《わたし》の|宅《うち》に|寝《やす》んで|頂《いただ》きませう。あなたは|神様《かみさま》ですから、|何卒《どうぞ》|新《あたら》しい|処《ところ》で|寝《やす》んで|下《くだ》さいませ』
|伊太《いた》『|左様《さやう》ならば|御主人《ごしゆじん》の|御命令《ごめいれい》に|従《したが》ひお|世話《せわ》になりませう』
と|婆《ば》アさまのバヅマラーカに|導《みちび》かれ、|清洒《こんもり》とした|涼《すず》しい|新建《しんだち》に|案内《あんない》された。
このルーブヤの|家《いへ》はこの|近辺《きんぺん》の|里庄《りしやう》をつとめてゐるので、|見《み》た|割《わ》りとは|富裕《ふゆう》であつた。それゆゑ|万事《ばんじ》|万端《ばんたん》、|座敷《ざしき》の|道具《だうぐ》などが|整頓《せいとん》して|何《なん》ともいへぬ|気分《きぶん》のよい|住居《すまゐ》である。
|伊太彦《いたひこ》は|婆《ば》アさまに|案内《あんない》され、|久《ひさ》し|振《ぶ》りに|美《うつく》しき|座敷《ざしき》に|泊《とま》る|事《こと》を|得《え》て|非常《ひじやう》に|喜《よろこ》び、かつ|明日《あす》の|希望《きばう》を|思《おも》ひ|出《だ》すと|何《なん》だか|気《き》が|勇《いさ》んで|寝《ね》る|事《こと》が|出来《でき》ぬので、|横《よこ》に|寝《ね》たまま|目《め》をパチつかせてゐた。
|子《ね》の|刻《こく》とも|思《おぼ》しき|時《とき》、ソツと|表戸《おもてど》を|開《あ》けて|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせながら、|暗《やみ》に|浮《う》いたやうな|年若《としわか》い|美《うつく》しい|女《をんな》が、|伊太彦《いたひこ》の|枕辺《まくらべ》に|近《ちか》くやつて|来《き》た。
|伊太《いた》『ハテ|不思議《ふしぎ》な|事《こと》だなア。|夜《よさり》でしつかりは|分《わか》らぬが、どうやら|素敵《すてき》な|美人《びじん》らしい。この|色《いろ》の|黒《くろ》い|蜴蜥面《とかげづら》の、|自分《じぶん》でさへ|愛憎《あいそ》の|尽《つ》くるやうな|俺《おれ》に|女《をんな》が|秋波《しうは》を|送《おく》つてやつて|来《く》る|筈《はず》もなし、これは|屹度《きつと》この|林《はやし》にゐる|狐《きつね》が|化《ば》けてゐるのかも|知《し》れない。こりや、しつかりせねばなるまい』
と|轟《とどろ》く|胸《むね》をおさへ、やや|慄《ふる》ひを|帯《お》びた|声《こゑ》で、
『|誰《たれ》だ。この|真夜中《まよなか》に|人《ひと》の|寝所《しんじよ》を|襲《おそ》ふ|奴《やつ》は|妖怪変化《えうくわいへんげ》か、|但《ただ》しは|人目《ひとめ》を|忍《しの》ぶ|盗人《ぬすびと》か、|返答《へんたふ》をいたせ』
|暗《やみ》の|影《かげ》は|幽《かす》かの|声《こゑ》で|恥《は》づかしさうに、
『|妾《わたし》はブラワ゛ーダでございます』
|伊太《いた》『ブラワ゛ーダさまがこの|伊太彦《いたひこ》に|何用《なによう》あつて|今《いま》|頃《ごろ》おいでになりましたか。|御用《ごよう》があらば|明日《あす》|承《うけたまは》りませう。|男《をとこ》の|寝所《しんじよ》へ|夜中《よなか》に|御婦人《ごふじん》がおいでになるとは、チツと|可怪《をか》しいぢやありませぬか』
ブラワ゛ーダはモヂモヂしながら、
『ハイ、|妾《わたし》は|一寸《ちよつと》この|座敷《ざしき》に|忘《わす》れ|物《もの》をいたしましたので|尋《たづ》ねに|来《き》たのでございます。|夜中《やちう》にお|目《め》を|覚《さ》まして|誠《まこと》に|済《す》まない|事《こと》でございました』
『ハテ、|合点《がつてん》の|行《ゆ》かぬ|事《こと》をおつしやいます。あなたの|家《うち》に|貴女《あなた》の|物《もの》があるのをお|忘《わす》れになつたといふ|道理《だうり》はありますまい。また|明日《あす》お|探《さが》しになつては|如何《いかが》ですか』
『いえいえ|是非《ぜひ》とも|今晩《こんばん》、それを|捉《つか》まへなくてはならないのですもの』
『そのまた|捉《とら》へなくてはならぬと|仰有《おつしや》るのはどんなものでございますか。|何《なん》なら|私《わたし》もお|手伝《てつだ》ひして|探《さが》しませうか』
『ハイ、|有難《ありがた》うございます。どうぞ|手伝《てつだ》ひを|願《ねが》ひます』
『|品物《しなもの》は|何《なん》でございますか。それを|聞《き》かなくちや|探《さが》す|見当《けんたう》がつきませぬがな。|簪《かんざし》ですか、|櫛《くし》ですか、|笄《かうがひ》ですか』
『いえいえ、そんな|小《ちひ》さいものではございませぬ。|妾《わたし》の|大切《たいせつ》の|大切《たいせつ》の|一生《いつしやう》の|宝《たから》のイタ……でございます』
『それはまた|不思議《ふしぎ》なものをお|尋《たづ》ねになるのですな。|洗《あら》ひ|張《は》りでもなさるのですか。ゆつくり|明日《あす》になさつたらどうです』
『いいえ、|板《いた》ぢやございませぬ。あの……|彦《ひこ》さまでございます』
『ますます|分《わか》らぬぢやいりませぬか。|板《いた》だとか|彦《ひこ》だとか、まるで|私《わたし》の|名《な》のやうなものをお|探《さが》しになるのですな』
『その|伊太彦《いたひこ》さまを|探《さが》しに|来《き》たのでございますよ』
『ハハア、さうするとお|前《まへ》はここのお|嬢《ぢやう》さまに|化《ば》けて|来《き》てゐるが、|大方《おほかた》ナーガラシャーだらう。この|伊太彦《いたひこ》が|明日《あす》|夜光《やくわう》の|玉《たま》を|取《と》りに|行《ゆ》くのを|前知《ぜんち》し、|害《がい》を|加《くは》へにやつて|来《き》たウバナンダ|竜王《りうわう》の|使《つかひ》だらうがな』
『いえいえ、|決《けつ》してそのやうな|恐《おそ》ろしいものではございませぬ。|妾《わたし》は|此《こ》の|家《や》の|娘《むすめ》、|正真正銘《しやうしんしやうめい》のブラワ゛ーダでございます。あなたは|神様《かみさま》のお|定《さだ》めになつた|妾《わたし》の|夫《をつと》でございます』
『もしお|嬢《ぢやう》さま、|冗談《じようだん》いつちやいけませぬよ。このやうな|色《いろ》の|黒《くろ》い|菊目石面《あばたづら》の|蜴蜥面《とかげづら》に|揶揄《からか》つてもらつちや|困《こま》るぢやありませぬか。|自分《じぶん》でさへも|愛想《あいそ》のつきたこの|面付《つらつ》き、そんな|事《こと》をおつしやつても|伊太彦《いたひこ》は|信《しん》ずることは|出来《でき》ませぬ』
『あなた、そんな|嘘《うそ》が|見《み》す|見《み》すいへますね。|三十二相《さんじふにさう》|揃《そろ》うた|女神《めがみ》のやうなお|姿《すがた》をしてござるぢやありませぬか。|妾《わたし》はここ|一週間《いつしうかん》ほど|以前《いぜん》に|三五《あななひ》の|神様《かみさま》のお|告《つ》げによつて、|夫《をつと》を|授《さづ》けてやらうとおつしやいましたが、ただいま|神様《かみさま》が|妾《わたし》の|耳《みみ》の|辺《はた》でお|囁《ささや》きになるのには、お|前《まへ》の|夫《をつと》は、|今晩《こんばん》お|泊《とま》りになるあの|宣伝使《せんでんし》だとおつしやいました。|是非《ぜひ》とも|妾《わたし》の|夫《をつと》になつて|頂《いただ》きたいものでございます。いないな、|神様《かみさま》からお|定《さだ》めになつた|夫《をつと》でございます』
『ハーテ、ますます|分《わか》らぬやうになつて|来《き》たわい。アアどうしたらよいかな。|嬉《うれ》しいやうな|気《き》もするし、|何《なん》だか、つままれてをるやうな|気《き》もするし、|神様《かみさま》に|済《す》まぬやうな|気《き》にもなつて|来《き》た。ハハアこいつは|神様《かみさま》のお|試練《ためし》だらう。ヤア|剣呑剣呑《けんのんけんのん》、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
『マアお|情《なさ》けのない|貴方《あなた》のお|言葉《ことば》、さう【じらす】ものではありませぬよ』
『それだといつてあんまり|思《おも》ひがけもないぢやありませぬか。マア|明日《あす》まで|待《ま》つて|下《くだ》さいな。ゆつくり|考《かんが》へさしてもらひませうから』
『|明日《あす》まで|待《ま》てるくらゐなら|女《をんな》の|身《み》として|貴方《あなた》の|居間《ゐま》へ|誰《たれ》が|出《で》て|参《まゐ》りませう。|決《けつ》して|不潔《ふけつ》な|心《こころ》で|来《き》たのではありませぬから|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ。ただ|一言《ひとこと》「ウン」とおつしやつて|頂《いただ》ければそれで|宜《よろ》しうございます』
『アアともかく、|私《わたし》にはお|師匠様《ししやうさま》もございます。また|貴女《あなた》にも|御両親《ごりやうしん》やお|兄様《あにさま》がありますから、|双方《さうはう》|相談《さうだん》の|上《うへ》、どんな|約束《やくそく》でも|致《いた》しませう』
『|仰《おほ》せは|尤《もつと》もではございますが、|神様《かみさま》のお|告《つ》げは|一刻《いつこく》の|猶予《いうよ》もございませぬ。そんな|事《こと》をおつしやらずにどうぞよい|返事《へんじ》をして|下《くだ》さいませ』
『ハテ、どうしたらよからうかな。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
かく|両人《りやうにん》はお|互《たが》ひに|問《と》ひつ|答《こた》へつ|暁《あかつき》の|鳥《とり》の|声《こゑ》するまで|夜《よ》を|更《ふ》かした。はたして、|如何《いかが》|落着《らくちやく》をしたであらうか。
|思《おも》はざる|家《いへ》に|泊《とま》りて|思《おも》はざる
|時《とき》に|思《おも》はぬ|人《ひと》に|会《あ》ひける
ブラワ゛ーダ|明日《あす》をも|待《ま》たず|直《す》ぐここで
|返答《いらへ》せよやと|迫《せま》る|割《わ》りなさ
(大正一二・五・一八 旧四・三 於教主殿 北村隆光録)
第六章 テルの|里《さと》〔一六一三〕
|夜《よ》は|烏《からす》の|声《こゑ》にカラリと|明《あ》け|放《はな》れた。|老人夫婦《らうじんふうふ》をはじめ、|美人《びじん》のブラワ゛ーダは|早朝《さうてう》より|花園《はなぞの》の|手入《てい》れをし、|門《かど》を|掃《は》きなどして、アスマガルダの|船《ふね》をもつて|帰《かへ》つて|来《く》るのを|待《ま》つてゐる。|伊太彦《いたひこ》を|神《かみ》の|告《つ》げによつてブラワ゛ーダの|夫《をつと》とした|事《こと》の|喜《よろこ》びを|早《はや》く|兄《あに》に|告《つ》げて|悦《よろこ》ばせたいと、|一時《ひととき》|千秋《せんしう》の|思《おも》ひであつた。|伊太彦《いたひこ》も|肝腎《かんじん》の|船《ふね》がないので、|心《こころ》ならずも|待《ま》つより|仕方《しかた》がなかつた。|涼《すず》しい|森林《しんりん》の|中《なか》に|建《た》てられた|新宅《しんたく》に|主客《しゆきやく》|六人《ろくにん》は|車座《くるまざ》となり、|果実《くだもの》の|酒《さけ》を|呑《の》みながら、|嬉々《きき》として|謡《うた》ひ|舞《ま》ひなどして、|兄《あに》の|帰《かへ》るを|待《ま》つてゐる。|爺《ぢい》さまのルーブヤは|先《ま》づ|第一《だいいち》に|神《かみ》に|感謝《かんしや》し|且《か》つ|謡《うた》ひはじめた。
『|空《そら》|照《て》り|渡《わた》る|月《つき》の|国《くに》 スダルマ|山《さん》の|南麓《なんろく》に
|伊都《いづ》の|鏡《かがみ》をのべしごと |広《ひろ》く|浮《うか》べるスーラヤの|湖《うみ》
その|辺《あた》りなるテルの|里《さと》 ルーブヤの|家《いへ》にも
|常世《とこよ》の|春《はる》は|来《き》たりけり |吾《われ》は|元《もと》より|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》を|朝夕《あさゆふ》に つかへ|守《まも》りし|信徒《まめひと》ぞ
ここは|名《な》に|負《お》ふバラモンの |神《かみ》の|教《をしへ》の|茂《しげ》き|国《くに》
|三五教《あななひけう》と|名乗《なの》りなば たちまち|醜《しこ》の|司《つかさ》らが
|刃《やいば》の|錆《さび》となり|果《は》てむ |卑怯《ひけふ》|未練《みれん》と|知《し》りながら
|三五教《あななひけう》の|信徒《まめひと》と |名乗《なの》りも|得《え》せずバラモンの
|醜《しこ》の|教《をしへ》に|信従《しんじう》し |時《とき》|待《ま》ちゐたる|苦《くる》しさよ
この|里人《さとびと》も|古《いにしへ》ゆ |三五教《あななひけう》に|身《み》を|奉《ほう》じ
|仕《つか》へまつりしものなれど |醜《しこ》の|猛《たけ》びの|強《つよ》ければ
やむを|得《え》ずして|醜道《しこみち》に |仕《つか》へまつりし|哀《あは》れさよ
それゆゑ|兄《あに》のアスマガルダにも |年頃《としごろ》なれど|若草《わかぐさ》の
|妻《つま》さへ|持《も》たさず|三五《あななひ》の |神《かみ》の|御前《みまへ》に|朝夕《あさゆふ》に
|声《こゑ》をひそめて|祈《いの》りつつ イドムの|神《かみ》の|御計《みはか》らひ
|待《ま》つ|折《を》りもあれ|三五《あななひ》の |神《かみ》の|司《つかさ》の|伊太彦《いたひこ》が
|嬉《うれ》しく|此処《ここ》に|現《あ》れまして |吾《わ》が|子《こ》|娘《むすめ》のブラワ゛ーダ
|妻《つま》といたはり|慈《いつくし》み |給《たま》はむ|事《こと》の|御誓《おんちか》ひ
|聞《き》くにつけても|有難《ありがた》く |枯木《かれき》に|花《はな》の|咲《さ》く|心地《ここち》
|老《おい》の|涙《なみだ》も|漸《やうや》くに |歓喜《くわんき》の|涙《なみだ》と|変《かは》りけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|恵《めぐ》みのいや|深《ふか》く
|大御稜威《おほみみいづ》の|弥高《いやたか》く |限《かぎ》り|知《し》られぬ|喜《よろこ》びの
|心《こころ》|勇《いさ》みて|大前《おほまへ》に |感謝《かんしや》し|仕《つか》へ|奉《たてまつ》る
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|星《ほし》|落《お》ち|海《うみ》は|涸《か》るるとも |三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》は
|孫子《まごこ》に|伝《つた》へて|放《はな》れじと |忍《しの》びし|事《こと》の|甲斐《かひ》ありて
|一度《いちど》に|開《ひら》く|梅《うめ》の|花《はな》 いと|香《かん》ばしく|薫《かを》る|代《よ》の
|今日《けふ》の|生日《いくひ》ぞ|目出《めで》たけれ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
|伊太彦《いたひこ》はまた|謡《うた》ふ。
『|吾《われ》は|伊太彦《いたひこ》|宣伝使《せんでんし》 |玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》に
|祠《ほこら》の|森《もり》より|仕《つか》へ|来《き》て |諸《もも》の|功《いさを》を|現《あら》はしつ
スダルマ|山《さん》の|麓《ふもと》まで |来《き》たりて|見《み》れば|吾《わ》が|体《からだ》
その|面影《おもかげ》も|若々《わかわか》と |緑《みどり》の|色《いろ》と|輝《かがや》きぬ
はて|訝《いぶ》かしやと|思《おも》ふ|間《ま》に カークス ベースの|両人《りやうにん》に
|夏木《なつき》|茂《しげ》れる|道《みち》の|辺《べ》に |巡《めぐ》り|遇《あ》ひてゆスーラヤの
|山《やま》にかくれしウバナンダ ナーガラシャーのかくしたる
|夜光《やくわう》の|玉《たま》のありと|聞《き》き |伊都《いづ》の|言霊《ことたま》|打《う》ち|出《い》だし
|竜神達《りうじんたち》を|言向《ことむ》けて |夜光《やくわう》の|玉《たま》を|授《さづ》かりつ
|珍《うづ》の|聖地《せいち》のエルサレム |黄金山《わうごんさん》の|神館《みやかた》に
|奉《たてまつ》らむと|勇《いさ》み|立《た》ち |二人《ふたり》に|間道《かんだう》|教《をし》へられ
|緑《みどり》|滴《したた》るテルの|里《さと》 スーラヤ|湖水《こすゐ》の|磯端《いそばた》に
|来《き》たりて|見《み》れば|摩訶不思議《まかふしぎ》 |木《こ》の|花姫《はなひめ》の|再来《さいらい》か
ただしは|神代《かみよ》を|松代姫《まつよひめ》 |容貌《みめ》|麗《うるは》しきブラワ゛ーダ
|姿《すがた》やさしき|姫君《ひめぎみ》に |玉《たま》の|御声《みこゑ》をかけられて
|胸《むね》|轟《とどろ》きし|愚《おろ》かさよ かくなる|上《うへ》は|伊太彦《いたひこ》も
ただ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|経綸《しぐみ》と|畏《かしこ》みて
ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》を|娶《めと》りつつ |千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|玉椿《たまつばき》
|赤《あか》き|縁《えにし》を|結《むす》びつつ |神《かみ》の|大道《おほぢ》に|仕《つか》ふべし
|玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》も この|消息《せうそく》を|知《し》りまさば
|必《かなら》ず|喜《よろこ》びたまふべし ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》に|誓《ちか》ひて|伊太彦《いたひこ》が |心《こころ》の|岩戸《いはと》|押《お》し|開《ひら》き
|思《おも》ひのたけを|述《の》べまつる |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》|一《ひと》つを|立《た》て|通《とほ》し ルーブヤ|父上《ちちうへ》|母上《ははうへ》の
バヅマラーカによく|仕《つか》へ ブラワ゛ーダをいつくしみ
|三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》を |月《つき》の|御国《みくに》はいふもさら
|四方《よも》の|国々《くにぐに》|隈《くま》もなく |伝《つた》へまつりて|大神《おほかみ》の
|御前《みまへ》に|凱《かちどき》|申《まを》すべし ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|守《まも》らせたまへ|三五《あななひ》の |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる』
バヅマラーカはまた|謡《うた》ふ。
『|待《ま》ちに|待《ま》ちたる|文月《ふみづき》の |今日《けふ》は|十《とを》まり|二《ふた》つの|日《ひ》
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて
|千代《ちよ》の|喜《よろこ》び|来《き》たりけり |三五教《あななひけう》の|伊太彦《いたひこ》よ
|愚《おろ》かなれども|吾《わ》が|娘《むすめ》 ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》を|憐《あは》れみて
|千代《ちよ》もかはらぬ|宿《やど》の|妻《つま》 |娶《めと》らせたまへ|相共《あひとも》に
|鴛鴦《をし》の|衾《ふすま》の|睦《むつ》まじく |神《かみ》にならひて|岩窟《いはやど》を
|押《お》して|開《ひら》くてふ|神業《かむわざ》に |清《きよ》けく|仕《つか》へさせたまへ
|吾《われ》は|老木《おいき》の|身《み》なれども |汝《な》れが|命《みこと》の|来《き》たりしゆ
|心《こころ》|勇《いさ》みて|何《なん》となく |嬉《うれ》しく|楽《たの》しくなりにけり
|汝《なれ》が|命《みこと》は|天津日《あまつひ》の |元津国《もとつくに》より|下《くだ》ります
|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》によく|似《に》たり テルの|里《さと》にも|春《はる》は|来《き》て
|永久《とは》の|花《はな》さく|代《よ》となりぬ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|三五教《あななひけう》の|皇神《すめかみ》の |深《ふか》き|恵《めぐ》みを|今更《いまさら》に
|喜《よろこ》び|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
これの|赤繩《えにし》は|変《かは》らまじ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》の|恩頼《ふゆ》を|祝《ほ》ぎまつる』
ブラワ゛ーダはまた|謡《うた》ふ。
『|実《げ》に|有難《ありがた》き|今日《けふ》の|日《ひ》は |天《あま》の|岩戸《いはと》の|開《ひら》けたる
|常世《とこよ》の|春《はる》の|心地《ここち》なり |天《あま》の|河原《かはら》に|棹《さを》さして
|天降《あも》りましたる|彦星《ひこぼし》の |厳《いづ》の|御顔《おんかほ》|伏《ふ》し|拝《をが》み
|蕾《つぼみ》の|花《はな》も|露《つゆ》を|得《え》て |今《いま》や|開《ひら》かむ|時《とき》は|来《き》ぬ
|吾《わ》が|父母《ちちはは》よ|背《せ》の|君《きみ》よ |吾《わ》が|赤心《まごころ》を|憐《あは》れみて
|常磐《ときは》に|堅磐《かきは》に|恵《めぐ》みませ |二人《ふたり》の|親《おや》によく|仕《つか》へ
|兄《あに》の|言葉《ことば》に|背《そむ》かずに |吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》と|諸共《もろとも》に
スーラヤ|山《さん》に|立《た》ち|向《む》かひ |八大竜王《はちだいりうわう》の|随一《ずゐいち》と
|世《よ》に|聞《き》こえたるウバナンダ ナーガラシャーを|言向《ことむ》けて
|皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に |凱《かちどき》あげて|功勲《いさをし》を
|千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|伝《つた》へなむ |恵《めぐ》ませたまへ|惟神《かむながら》
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の |御前《みまへ》に|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る
この|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
ただ|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見《み》なおし|聞直《ききなお》し
|三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》を |伊太彦司《いたひこつかさ》の|背《せ》の|君《きみ》と
|心《こころ》を|合《あは》せ|力《ちから》をば |一《ひと》つに|固《かた》めて|八十《やそ》の|国《くに》
|八十《やそ》の|島々《しまじま》|隈《くま》もなく |開《ひら》き|伝《つた》へむ|門出《かどいで》を
|守《まも》らせたまへ|惟神《かむながら》 |畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる』
カークスはまた|謡《うた》ふ。
『スダルマ|山《さん》の|森林《しんりん》の |辺《ほとり》に|住《す》めるカークスは
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|守《まも》られて |伊太彦司《いたひこつかさ》と|諸共《もろとも》に
|常世《とこよ》の|花《はな》|咲《さ》くテルの|里《さと》 ルーブヤ|館《やかた》に|立《た》ち|向《む》かひ
|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|待遇《もてな》しに |与《あづ》かりました|有難《ありがた》さ
それのみならず|伊太彦《いたひこ》の |神《かみ》の|司《つかさ》はブラワ゛ーダ
|姫《ひめ》の|命《みこと》の|背《せ》となりて いとも|尊《たふと》き|御教《みをしへ》を
|世界《せかい》に|開《ひら》きたまはむと スーラヤ|山《さん》に|立《た》ち|向《む》かひ
|功《いさを》を|立《た》てむとなしたまふ |神力無限《しんりきむげん》の|宣伝使《せんでんし》
|伊都《いづ》の|司《つかさ》の|御伴《おんとも》と |仕《つか》へ|奉《まつ》りし|吾々《われわれ》は
|天《てん》にも|登《のぼ》る|心地《ここち》して |神《かみ》の|御稜威《みいづ》を|感謝《かんしや》しつ
|心《こころ》のかぎり|身《み》のかぎり |此《この》|世《よ》の|為《ため》に|尽《つく》すべき
|嬉《うれ》しき|身《み》とはなりにけり |三五教《あななひけう》の|大御神《おほみかみ》
|罪《つみ》に|汚《けが》れし|身《み》なれども |大御心《おほみこころ》に|見直《みなお》して
|赦《ゆる》させたまひ|吾々《われわれ》を |空前絶後《くうぜんぜつご》の|神業《しんげふ》に
|使《つか》はせたまへ|惟神《かむながら》 |御前《みまへ》に|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》り
ルーブヤ|館《やかた》の|喜《よろこ》びを |言祝《ことほ》ぎまつり|願《ね》ぎまつる
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
ベースはまた|謡《うた》ふ。
『|目出《めで》たい|目出《めで》たいお|目出《めで》たい |枯木《かれき》に|花《はな》は|咲《さ》き|出《い》でぬ
|梢《こずゑ》に|深《ふか》く|包《つつ》まれし |無花果《いちじゆく》さへも|今《いま》は|早《はや》
|開《ひら》き|初《そ》めたる|優曇華《うどんげ》の |目出《めで》たき|春《はる》となりにけり
スーラヤ|山《さん》の|宝玉《はうぎよく》を |神《かみ》の|守《まも》りに|手《て》に|入《い》れて
|吾《わ》が|一生《いつしやう》を|安楽《あんらく》に |暮《くら》さむものと|思《おも》ひしは
|今《いま》に|至《いた》りてつくづくと |省《かへり》みすれば|恥《は》づかしや
いざこれよりは|伊太彦《いたひこ》の |珍《うづ》の|司《つかさ》に|従《したが》ひて
|赤《あか》き|誠《まこと》の|心《こころ》もて |大神業《だいしんげふ》に|仕《つか》ふべし
|神《かみ》の|御《おん》ため|世《よ》のために ナーガラシャーの|宝玉《はうぎよく》を
|請取《うけと》るならば|難《なん》はなし |吾《わ》が|身《み》の|慾《よく》に|搦《から》まれて
その|宝玉《はうぎよく》を|得《え》むとして |尊《たふと》き|命《いのち》を|召《め》されたる
|人《ひと》は|今《いま》まで|数知《かずし》れず |実《げ》にもうたてき|次第《しだい》なり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|大道《おほぢ》を|生々《なまなま》に
|悟《さと》りそめたる|吾々《われわれ》は もはや|昨日《きのふ》の|人《ひと》ならず
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|包《つつ》まれし |尊《たふと》き|神《かみ》の|御子《みこ》ぞかし
アア|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し ルーブヤさまやバヅマラーカ
ブラワ゛ーダーのお|姫《ひめ》さま |何卒《なにとぞ》よろしく|願《ねが》ひます
|一時《いちじ》も|早《はや》くアスマガルダ |兄《あに》の|命《みこと》の|帰《かへ》りまし
この|有様《ありさま》をみそなはし |共《とも》に|喜《よろこ》び|手《て》を|引《ひ》いて
|玉《たま》の|御船《みふね》をかざしつつ |伊太彦司《いたひこつかさ》に|従《したが》ひて
スーラヤ|山《さん》に|登《のぼ》る|日《ひ》を |指折《ゆびを》り|楽《たの》しみ|待《ま》ちまする
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
ルーブヤ『とざされし|天《あま》の|岩戸《いはと》も|開《ひら》くてふ
|楽《たの》しき|春《はる》は|吾《わ》が|家《や》に|来《き》たりぬ』
バヅマラーカ『|待《ま》ちわびし|道《みち》|文月《ふみづき》の|今日《けふ》こそは
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|恵《めぐ》みあまねし』
|伊太彦《いたひこ》『|皇神《すめかみ》の|経綸《しぐみ》の|綱《つな》に|操《あやつ》られ
|縁《えにし》の|糸《いと》を|結《むす》びけるかな』
ブラワ゛ーダ『|待《ま》ちわびし|神《かみ》の|司《つかさ》の|背《せ》の|君《きみ》を
|与《あた》へられたる|吾《われ》ぞ|嬉《うれ》しき』
カークス『かかる|代《よ》に|生《うま》れ|遇《あ》ふ|身《み》の|嬉《うれ》しさは
|常世《とこよ》の|春《はる》の|心地《ここち》するかな』
ベース『|如何《いか》にして|称《たた》へむよしも|無《な》きほどに
|尊《たふと》くなりぬ|神《かみ》の|恵《めぐ》みの』
(大正一二・五・一八 旧四・三 於教主殿 加藤明子録)
第二篇 |日天子山《スーラヤさん》
第七章 |湖上《こじやう》の|影《かげ》〔一六一四〕
|大空《おほぞら》は|一点《いつてん》の|雲翳《うんえい》もなくスーラヤの|湖《うみ》の|面《おも》は|紺碧《こんぺき》の|波《なみ》をたたへた|小波《さざなみ》が|静《しづ》かに|磯端《いそばた》を|洗《あら》つてゐる。ルーブヤ|親子《おやこ》はアスマガルダの|帰《かへ》りの|遅《おそ》きを|待《ま》ちわびて|磯端《いそばた》に|佇《たたず》み、|西南《せいなん》の|海辺《うみべ》を|眺《なが》めて、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|伜《せがれ》の|帰《かへ》れかしと|心《こころ》ひそかに|祈願《きぐわん》をこらしつつあつた。
|太陽《たいやう》は|少《すこ》しく|西《にし》の|空《そら》に|傾《かたむ》いた|時《とき》、|此方《こなた》に|向《む》かつて|艫櫂《ろかい》を|漕《こ》ぎ|走《は》せ|来《き》たる|一隻《いつせき》の|小舟《こぶね》を|見付《みつ》けた。はたしてアスマガルダの|船《ふね》であらうか。ただしは|他《た》の|村人《むらびと》の|船《ふね》であらうかと|一時千秋《ひとときせんしう》の|思《おも》ひにて|胸《むね》を|躍《をど》らせながら|見《み》つめてゐると、|船《ふね》は|次第々々《しだいしだい》に|大《おほ》きく|見《み》え|出《だ》し、|船中《せんちう》には|三人《さんにん》の|男《をとこ》が|乗《の》つてゐる|事《こと》までが|分《わか》つてきた。
ルーブヤは|確信《かくしん》あるものの|如《ごと》く、
『これ、バヅマラーカよ、ブラワ゛ーダよ、どうやら|兄《あに》が|帰《かへ》つて|来《き》たやうだ』
ブラワ゛ーダ『お|父《とう》さま、あの|船《ふね》がもしも|兄《にい》さまのでなかつたら、どうしませうかな』
ルーブヤ『いやいや|心配《しんぱい》するには|及《およ》ぶまい。|屹度《きつと》あれはアスマガルダの|船《ふね》に|違《ちが》ひない、あの|通《とほ》り|三人《さんにん》の|姿《すがた》が|見《み》えてゐる。|二人《ふたり》は|下男《げなん》のバルにサクだらう。この|村《むら》に|三人《さんにん》|乗《の》つて|行《ゆ》く|船《ふね》は|外《ほか》にはないからな』
バヅマラーカ『なるほど、|親爺殿《おやぢどの》の|仰有《おつしや》る|通《とほ》り、あれは|兄《あに》の|舟《ふね》に|違《ちが》ひない。ブラワ゛ーダよ、|安心《あんしん》したがよからう』
かくとりどりの|噂《うはさ》をして|待《ま》つてゐるところへ、|船《ふね》はおひおひと|近《ちか》づいて、|船中《せんちう》の|人《ひと》は|確《たし》かにアスマガルダなる|事《こと》が|分《わか》つて|来《き》た。ブラワ゛ーダは|勇《いさ》み|立《た》ち、|手《て》を|拍《う》つて|磯端《いそばた》を|右《みぎ》に|左《ひだり》に|躍《をど》り|廻《まは》りながら|謡《うた》ふ。
『|今《いま》|来《く》る|舟《ふね》は|兄《あに》の|舟《ふね》 いとしいなつかしい|兄上《あにうへ》の
|無事《ぶじ》にお|帰《かへ》り|遊《あそ》ばした |磐楠船《いはくすぶね》に|違《ちが》ひない
アア|有難《ありがた》や|有難《ありがた》や |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|伊太彦司《いたひこつかさ》が|現《あら》はれて |神《かみ》の|教《をしへ》を|説《と》き|玉《たま》ひ
|父《ちち》と|母《はは》との|許《ゆる》し|得《え》て |妹背《いもせ》の|契《ちぎり》を|結《むす》びつつ
|神《かみ》の|御《おん》ため|世《よ》のために |誠《まこと》の|道《みち》に|尽《つく》さむと
|親子《おやこ》|夫婦《ふうふ》が|勇《いさ》み|立《た》ち |兄《あに》の|帰宅《かへり》を|待《ま》ち|暮《くら》す
その|日《ひ》の|永《なが》さ|一日《いちにち》も |百年《ももとせ》|千年《ちとせ》の|思《おも》ひなり
|兄《あに》の|命《みこと》の|恙《つつが》なく |吾《わ》が|家《や》に|皈《かへ》り|来《き》ますなら
この|有様《ありさま》を|聞《き》こし|召《め》し さぞや|喜《よろこ》び|玉《たま》ふらむ
|妾《わたし》はこれより|三五《あななひ》の |神《かみ》の|司《つかさ》と|諸共《もろとも》に
スーラヤ|山《さん》にかけ|上《のぼ》り |八大竜王《はちだいりうわう》のその|中《なか》で
|福徳《ふくとく》|守《まも》る|善歓喜《ぜんくわんき》 ナーガラシャーの|宝玉《はうぎよく》を
|神《かみ》の|力《ちから》に|授《さづ》かりつ |恋《こひ》にこがれしエルサレム
|珍《うづ》の|都《みやこ》に|参向《さんかう》し |神《かみ》の|司《つかさ》と|許《ゆる》されて
|百八十国《ももやそくに》の|果《は》てまでも |教《をしへ》を|伝《つた》へ|奉《たてまつ》り
|大御恵《おほみめぐ》みの|万分一《まんぶいつ》 |報《むく》はむことの|嬉《うれ》しさよ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
ルーブヤ『はるかにかすむ|海《うみ》の|上《うへ》 |小波《さざなみ》|分《わ》けて|帰《かへ》り|来《く》る
|磐楠船《いはくすぶね》は|兄《あに》の|船《ふね》 |待《ま》ちに|待《ま》つたる|常磐木《ときはぎ》の
|松《まつ》の|緑《みどり》の|美《うる》はしさ |日《ひ》は|西空《にしぞら》に|傾《かたむ》きて
|空《そら》|翔《た》つ|鳥《とり》も|各々《めいめい》に |己《おの》が|塒《ねぐら》に|羽《はね》|急《いそ》ぐ
|吾《わ》が|子《こ》は|如何《いか》にと|待《ま》つほどに |神《かみ》の|恵《めぐ》みに|守《まも》られて
|千尋《ちひろ》の|海原《うなばら》|乗《の》り|越《こ》へつ |帰《かへ》り|来《き》たりし|嬉《うれ》しさよ
さぞや|伜《せがれ》の|帰《かへ》り|来《き》て この|有様《ありさま》を|聞《き》くならば
|喜《よろこ》び|勇《いさ》む|事《こと》ならむ |思《おも》へば|思《おも》へば|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|有難《ありがた》さ |慎《つつし》み|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る』
バヅマラーカ『|波《なみ》の|上《うへ》いと|安《やす》らかに|辷《すべ》りつつ
アスマガルダの|帰《かへ》り|来《く》るかも
|朽《く》ち|果《は》てし|老《おい》の|身《み》なれど|今日《けふ》はしも
|若葉《わかば》の|緑《みどり》|萌《も》ゆる|心地《ここち》なり
|山《やま》|青《あを》く|海《うみ》また|青《あを》く|群鳥《むらどり》の
|姿《すがた》も|青《あを》く|見《み》えにけるかな
|野《の》も|山《やま》も|枯《か》れ|果《は》てたりし|心地《ここち》して
なげき|暮《くら》せし|今日《けふ》の|嬉《うれ》しさ』
|伊太彦《いたひこ》『|足曳《あしびき》の|山河海《やまかはうみ》の|底《そこ》ひにも
|神《かみ》の|恵《めぐ》みは|充《み》ち|溢《あふ》れけり
|親《おや》と|子《こ》が|睦《むつ》び|親《した》しみ|皇神《すめかみ》の
|道《みち》を|踏《ふ》み|行《ゆ》く|事《こと》ぞ|楽《たの》しき
ウバナンダ・ナーガラシャーの|鎮《しづ》まれる
スーラヤ|山《さん》は|雲《くも》に|霞《かす》める
|明日《あす》の|日《ひ》はスーラヤ|山《さん》に|駈《か》け|登《のぼ》り
|竜《たつ》の|腮《あぎと》の|玉《たま》にまみえむ』
かく|歌《うた》ふをりしも、|兄《あに》のアスマガルダの|船《ふね》はやうやく|磯端《いそばた》に|横《よこ》たへることとなつた。
ルーブヤ『いや、アスマガルダよ、|昨日《きのふ》|帰《かへ》つて|来《く》ると|思《おも》つて|待《ま》つてゐたのに、ずゐぶん|遅《おそ》いことだつたな。また|湖上《こじやう》に|変事《へんじ》でも|出来《でき》たのではないかと、どれだけ|心配《しんぱい》したか|分《わか》らなかつた。ようまア|無事《ぶじ》に|帰《かへ》つて|来《き》てくれた』
アスマガルダ『ハイ、|誠《まこと》に|遅《おそ》くなつて|心配《しんぱい》をさせました。どうしたものか、|昨日《きのふ》は|一日《いちにち》|漁《れふ》がなく、もう|仕方《しかた》がないので|帰《かへ》らうかと|磯端《いそばた》のパインの|木蔭《こかげ》に|舟《ふね》を|停《とど》めて|休《やす》んでゐるところへ、|天女《てんによ》のやうなお|姫様《ひめさま》が|犬《いぬ》をつれておいでになり、|是非是非《ぜひぜひ》スーラヤの|島《しま》へ|渡《わた》して|呉《く》れとおつしやるので、お|伴《とも》をしてお|送《おく》りをして|来《き》ました。ずゐぶん|綺麗《きれい》な|方《かた》で|神様《かみさま》かと|思《おも》ひましたよ』
|伊太彦《いたひこ》は|合点《がつてん》ゆかず「さては|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|吾《われ》に|先立《さきだ》つて|竜王《りうわう》の|玉《たま》をとりにおいでになつたのではあるまいかな。また|自分《じぶん》の|手柄《てがら》を|人《ひと》にしてやられたか」とやや|心配相《しんぱいさう》な|顔《かほ》をして|俯向《うつむ》いてゐる。
ルーブヤ『それは、|兄《あに》、いい|事《こと》をして|来《き》た。きつと|神様《かみさま》の|何《なに》かのお|仕組《しぐみ》だらうよ。ついては|喜《よろこ》んでくれ、ここにござる|宣伝使《せんでんし》は|三五教《あななひけう》の|伊太彦《いたひこ》|様《さま》といつて、|斎苑《いそ》の|館《やかた》からお|下《くだ》りになつた|御神徳《ごしんとく》|高《たか》きお|方《かた》、|妹《いもうと》の|婿《むこ》になつて|下《くだ》さる|契約《けいやく》が|出来《でき》たので|一時《いちじ》も|早《はや》くお|前《まへ》に|帰《かへ》つてもらひ、|共《とも》に|喜《よろこ》んで|祝言《しうげん》の|盃《さかづき》を|取交《とりかは》したいと、|親子《おやこ》|三人《さんにん》がどれだけ|待《ま》つたか|知《し》れないのだ』
と|早《はや》くも|両眼《りやうがん》より|涙《なみだ》を|落《お》としてゐる。アスマガルダは|元来《ぐわんらい》|孝行者《かうかうもの》、|両親《りやうしん》の|言葉《ことば》には|一度《いちど》も|背《そむ》いた|事《こと》はない。また|妹《いもうと》の|一生《いつしやう》の|一大事《いちだいじ》を|自分《じぶん》の|不在中《ふざいちゆう》に|親子《おやこ》がきめた|事《こと》も、|普通《ふつう》の|人間《にんげん》のやうに|一言《ひとこと》の|故障《こしやう》も|言《い》はず、また|不服《ふふく》にも|思《おも》つてゐなかつた。|何事《なにごと》もみな|神様《かみさま》の|御恵《みめぐ》みと|感謝《かんしや》するより|外《ほか》に|考《かんが》へはなかつた。
アスマガルダ『それは|御両親様《ごりやうしんさま》、いい|事《こと》をなさいました。これも|全《まつた》く|三五《あななひ》の|神様《かみさま》の|御神徳《おかげ》でございませう。いや|妹《いもうと》、お|前《まへ》も|安心《あんしん》だらう。|俺《わし》も|嬉《うれ》しい』
といひながら|船《ふね》をかたづけ、|磯端《いそばた》を|伝《つた》うて|伊太彦《いたひこ》に|目礼《もくれい》しながら|先《さき》に|立《た》つて|吾《わ》が|家《や》に|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
|主客《しゆきやく》|九人《きうにん》は|家《いへ》に|帰《かへ》り|休息《きうそく》する|事《こと》となつた。|先《ま》づ|第一《だいいち》に|伊太彦《いたひこ》はアスマガルダに|向《む》かひ|歌《うた》をもつて、|挨拶《あいさつ》に|代《か》へた。
|伊太彦《いたひこ》『アスマガルダ|兄《あに》の|命《みこと》に|嬉《うれ》しくも
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|会《あ》ひにけるかな
|今《いま》よりは|汝《なれ》が|妹《いもうと》ブラワ゛ーダ
|姫《ひめ》の|命《みこと》と|千代《ちよ》を|契《ちぎ》らむ』
アスマガルダ『|三五《あななひ》の|珍《うづ》の|教《をしへ》の|神司《かむつかさ》
|吾《わ》が|妹《いもうと》を|慈《いつくし》みませ
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|幸《さち》はひて
|今日《けふ》は|嬉《うれ》しき|消息《たより》|聞《き》くかな』
ブラワ゛ーダ『|吾《わ》が|兄《あに》の|珍《うづ》の|言霊《ことたま》|聞《き》くにつけ
|笑《ゑ》み|栄《さか》えけり|妾《わらは》の|心《こころ》も
|朝夕《あさゆふ》に|仕《つか》へ|侍《はべ》りし|父母《ちちはは》の
|御許《みもと》|離《はな》れて|都《みやこ》へ|上《のぼ》る』
ルーブヤ『ブラワ゛ーダ|心《こころ》なやます|事《こと》なかれ
|神《かみ》に|任《まか》せし|二人《ふたり》の|親《おや》を
|汝《なれ》は|今《いま》|伊太彦司《いたひこつかさ》と|諸共《もろとも》に
|神《かみ》の|大道《おほぢ》に|安《やす》く|進《すす》めよ』
ブラワ゛ーダ『|有難《ありがた》し|吾《わ》が|足乳根《たらちね》の|言《こと》の|葉《は》に
|恵《めぐ》みの|露《つゆ》の|滴《したた》りにけり』
バヅマラーカ『|待《ま》ちわびし|吉《よ》き|日《ひ》|佳《よ》き|時《とき》|廻《めぐ》り|来《き》て
|一度《いちど》に|開《ひら》く|蓮花《はちすばな》かな』
|伊太彦《いたひこ》『アスマガルダ|兄《あに》の|命《みこと》の|御《おん》|為《ため》に
|妹《いも》の|命《みこと》を|媒介《すす》めまつらむ
さりながら|珍《うづ》の|都《みやこ》のエルサレム
|詣《まう》でし|後《のち》と|思召《おぼ》し|玉《たま》はれ』
かくの|如《ごと》く|互《たが》ひに|心《こころ》のたけを|述《の》べ|終《をは》り|晩餐《ばんさん》を|済《す》ませ、|形《かたち》ばかりの|婚礼《こんれい》の|式《しき》を|行《おこな》ひ、その|夜《よ》はルーブヤの|家《いへ》に|伊太彦《いたひこ》ほか|二人《ふたり》も|足《あし》を|伸《の》ばして|休息《きうそく》し、|翌《よく》|早朝《さうてう》よりアスマガルダに|送《おく》られてスーラヤの|島《しま》に|渡《わた》る|事《こと》となつた。
(大正一二・五・二四 旧四・九 於竜宮館 北村隆光録)
第八章 |怪物《くわいぶつ》〔一六一五〕
|紺青《こんじやう》の|浪《なみ》を|湛《たた》へたスーラヤの|湖面《こめん》を、やや|新《あたら》しき|船《ふね》に|真帆《まほ》を|孕《はら》ませ|晩夏《ばんか》の|風《かぜ》を|受《う》けて、|彼方《あなた》に|霞《かす》むスーラヤ|山《さん》を|目《め》がけて|徐々《しづしづ》と|進《すす》み|行《ゆ》く。アスマガルダは|艪《ろ》を|操《あやつ》りながら|〓乃《ふなうた》を|謡《うた》ふ。
『テルはよい|所《とこ》|南《みなみ》をうけて
スーラヤ|颪《おろし》がそよそよと
|沖《おき》に|浮《うか》べるスーラヤ|嶋《じま》は
|夜《よる》は|千里《せんり》の|浪《なみ》てらす
|昼《ひる》は|日輪《にちりん》|夜《よ》は|竜王《りうわう》の
|玉《たま》の|光《ひかり》で|澄《す》み|渡《わた》る
|此《こ》の|海《うみ》は|月《つき》の|国《くに》でも|名高《なだか》い|湖《うみ》よ
|浪《なみ》のまにまに|月《つき》が|浮《う》く
|三五《あななひ》の|神《かみ》の|司《つかさ》の|伊太彦《いたひこ》さまが
|今日《けふ》の|門出《かどで》のお|目出《めで》たさ
|空《そら》|高《たか》く|風《かぜ》|澄《す》み|渡《わた》るこの|湖面《うなばら》は
|底《そこ》ひ|分《わか》らぬテルの|湖《うみ》』
|伊太彦《いたひこ》は|謡《うた》ひ|出《だ》した。|一同《いちどう》は|船端《ふなばた》を|叩《たた》いて|拍子《ひやうし》をとる。
『|三五教《あななひけう》の|神柱《かむばしら》 |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の
|瑞《みづ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて |玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》と
|山野《やまの》を|乗《の》り|越《こ》え|海《うみ》|渡《わた》り |千々《ちぢ》に|心《こころ》を|砕《くだ》きつつ
|神《かみ》の|依《よ》さしのメッセージ |尽《つく》さむために|遙々《はるばる》と
テルの|里《さと》まで|来《き》て|見《み》れば |思《おも》ひがけなきブラワ゛ーダ
|姫《ひめ》の|命《みこと》の|現《あ》れまして |神《かみ》の|結《むす》びし|赤繩《えにし》をば
|茲《ここ》に|悟《さと》らせたまひけり |吾等《われら》は|神《かみ》の|御言《みこと》もて
|大黒主《おほくろぬし》の|蟠《わだか》まる ハルナの|都《みやこ》へ|言霊《ことたま》の
|軍《いくさ》に|進《すす》む|身《み》にしあれば |途中《とちう》において|妻《つま》を|持《も》ち
|夫婦気取《ふうふきど》りで|征討《せいたう》に |上《のぼ》るも|如何《いかが》と|思《おも》へども
|三千彦司《みちひこつかさ》もデビス|姫《ひめ》 |妻《つま》に|持《も》たせる|例《ためし》あり
|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》もこの|度《たび》の |赤繩《えにし》をいなませ|給《たま》ふまじ
ただ|何事《なにごと》も|人《ひと》の|身《み》は |神《かみ》のまにまに|進《すす》むより
|外《ほか》に|道《みち》なし|伊太彦《いたひこ》は ここに|夫婦《ふうふ》の|息《いき》|合《あは》せ
スーラヤ|山《さん》に|駈《か》け|登《のぼ》り |竜《たつ》の|腮《あぎと》の|宝玉《はうぎよく》を
|神《かみ》の|助《たす》けに|手《て》に|入《い》れて ミロク|神政成就《しんせいじやうじゆ》の
|珍《うづ》の|神器《しんき》と|奉《たてまつ》り |神《かみ》の|御稜威《みいづ》を|四方八方《よもやも》に
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|照《て》らすべし ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
スーラヤ|山《さん》は|高《たか》くとも ナーガラシャーは|猛《たけ》くとも
|神《かみ》の|恵《めぐ》みを|笠《かさ》に|着《き》て |誠《まこと》の|道《みち》を|杖《つゑ》となし
|進《すす》まむ|身《み》には|何《なん》として |醜《しこ》の|曲津《まがつ》の|障《さや》らむや
アア|勇《いさ》ましし|勇《いさ》ましし |一度《いちど》に|開《ひら》く|木《こ》の|花姫《はなひめ》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|御守《おんまも》り ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》と|諸共《もろとも》に
|珍《うづ》の|神業《みわざ》に|仕《つか》へむと |進《すす》み|行《ゆ》くこそ|楽《たの》しけれ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
ブラワ゛ーダはまた|謡《うた》ふ。
『|父《ちち》と|母《はは》とに|育《はぐ》くまれ |十六才《とをまりむつ》の|年月《としつき》を
|蝶《てふ》よ|花《はな》よと|愛《めで》られつ |送《おく》り|来《き》たりし|身《み》の|果報《くわはう》
|思《おも》へば|思《おも》へば|有難《ありがた》し これも|全《まつた》く|三五《あななひ》の
|皇大神《すめおほかみ》の|御恵《みめぐ》みと |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|感謝《かんしや》しつ
|大御恵《おほみめぐみ》の|万分一《まんぶいつ》 |報《むく》はむものと|朝夕《あさゆふ》に
|祈《いの》りし|甲斐《かい》やあら|尊《たふと》 |天津国《あまつくに》より|下《くだ》らしし
|御使人《みつかひびと》の|伊太彦《いたひこ》に |嫁《とつ》ぎの|契《ちぎり》|結《むす》びつつ
|言霊軍《ことたまいくさ》の|門出《かどいで》に |立《た》つ|白浪《しらなみ》ともろともに
|彼方《あなた》に|浮《うか》ぶスーラヤの |御山《みやま》に|進《すす》む|嬉《うれ》しさよ
ナーガラシャーは|猛《たけ》くとも スーラヤ|山《さん》は|高《たか》くとも
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|抱《いだ》かれし |吾等《われら》は|如何《いか》で|撓《たゆ》まむや
|救世《ぐせい》の|船《ふね》に|身《み》を|任《まか》せ |兄《あに》の|命《みこと》に|送《おく》られて
|千尋《ちひろ》の|湖《うみ》を|進《すす》み|行《ゆ》く |今日《けふ》の|旅路《たびぢ》の|勇《いさ》ましさ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はへましまして
|吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》の|使命《しめい》をば |遂《と》げさせたまへ|大御神《おほみかみ》
|珍《うづ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎまつる |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |星《ほし》は|空《そら》より|墜《お》つるとも
スーラヤの|湖《うみ》は|涸《か》るるとも |神《かみ》に|誓《ちか》ひし|赤心《まごころ》は
いや|永久《とこしへ》に|動《うご》かまじ |吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》よ|兄君《あにぎみ》よ
カークス ベース|両人《りやうにん》よ |勇《いさ》ませたまへ|惟神《かむながら》
|神《かみ》は|汝《なんぢ》と|共《とも》にあり |神《かみ》は|吾等《われら》を|守《まも》ります
|神《かみ》と|神《かみ》とに|抱《いだ》かれし |人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|天地《てんち》の|中《うち》に|恐《おそ》るべき ものは|微塵《みじん》も|非《あら》ざらむ
|進《すす》めよ|進《すす》めこの|御船《みふね》 |吹《ふ》けよふけふけ|北《きた》の|風《かぜ》
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
|今日《けふ》は|一入《ひとしほ》|天気《てんき》がよいので|漁船《ぎよせん》の|影《かげ》は|殊更《ことさら》|多《おほ》く、|彼方《あなた》こなたに|真帆《まほ》|片帆《かたほ》|浪《なみ》のまにまに|浮《うか》んで、|春野《はるの》の|花《はな》に|蝶《てふ》の|狂《くる》ふが|如《ごと》く|翅《はね》のやうな|帆《ほ》が|瞬《またた》いてゐる。|少《すこ》しく|浪《なみ》は|北風《きたかぜ》に|煽《あふ》られて|高《たか》けれど、|何《なん》ともいへぬ|爽快《さうくわい》な|気分《きぶん》である。アスマガルダ、カークス、ベースが|汗《あせ》をたらたら|流《なが》して|漕《こ》ぎ|往《ゆ》く|船《ふね》は、|其《そ》の|日《ひ》の|黄昏時《たそがれどき》にやうやくスーラヤ|山《さん》の|一角《いつかく》についた。|磯端《いそばた》は|白布《しろぬの》を|晒《さら》した|如《ごと》く、|打《う》ち|寄《よ》する|浪《なみ》が|立《た》ち|上《あが》つて|岩《いは》にぶつつかり、|砕《くだ》けては|散《ち》るその|光景《くわうけい》はかなり|物凄《ものすさま》じかつた。|雪《ゆき》のやうな|白《しろ》い|水煙《みづけぶり》の|一丈《いちぢやう》ばかりも|立《た》つ|中《なか》を|船《ふね》を|漕《こ》ぎ|寄《よ》せ、やうやくにして|陸地《りくち》についた。さうして|船《ふね》を|高《たか》く|磯端《いそばた》に|上《あ》げて|繋《つな》いでしまつた。|日《ひ》はやうやくに|暮《く》れて|来《く》る。にはかに|暴風《ばうふう》|吹《ふ》き|荒《すさ》び、|湖面《こめん》は|荒浪《あらなみ》|立《た》ち|狂《くる》ひ、ザアザアと|物騒《ものさわ》がしき|音《おと》が|聞《き》こえて|来《き》だした。
|一行《いつかう》|五人《ごにん》は|上陸地点《じやうりくちてん》より|一二町《いちにちやう》ばかり|登《のぼ》つたところの|大岩石《だいがんせき》の|蔭《かげ》に|身《み》を|潜《ひそ》めて、|湖上《こじやう》の|疲《つか》れを|休《やす》めることとした。さうして|明日《あす》の|払暁《ふつげう》を|待《ま》つて|登山《とざん》する|事《こと》と|定《き》めてしまつた。|蓑《みの》を|布《し》き|笠《かさ》を|顔《かほ》の|上《うへ》に|乗《の》せて、|岩蔭《いはかげ》に|一同《いちどう》は|横《よこ》たはつた。|夜《よ》はおひおひと|更《ふ》けわたり|暴風《ばうふう》も|止《や》み、|海《うみ》の|唸《うな》りも|静《しづ》まり、|四辺《あたり》は|深閑《しんかん》として|来《き》た。|十四夜《いざよい》の|月《つき》は|雲《くも》を|排《はい》して|皎々《かうかう》と|輝《かがや》き|初《はじ》めた。|伊太彦《いたひこ》、ブラワ゛ーダ、アスマガルダの|三人《さんにん》は|他愛《たあい》もなく|睡《ねむ》つてしまつた。カークス、ベースの|両人《りやうにん》は|何《なん》だか|気《き》が|立《た》つて|寝《ね》られぬので、まぢまぢしてゐると、|子《ね》の|正刻《しやうこく》と|覚《おぼ》しき|頃《ころ》、|四辺《あたり》の|密林《みつりん》の|枝《えだ》をガサガサと|揺《ゆ》すつて|怪《あや》しき|物影《ものかげ》が|近《ちか》よつて|来《く》る。カークスは|慄《ふる》ひながら、|盗《ぬす》むやうにしてその|姿《すがた》の|行方《ゆくへ》を|見詰《みつめ》てゐる。|怪《あや》しの|姿《すがた》は|五人《ごにん》の|前《まへ》にすつくと|立《た》ち|火《ひ》のやうな|赤《あか》い|顔《かほ》をさらし、|青《あを》い|舌《した》を|五六寸《ごろくすん》ばかり|前《まへ》に|垂《た》らして|錫杖《しやくぢやう》をついてゐる。たちまち|怪物《くわいぶつ》は|雷《らい》のごとき|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げ、
『イーイーイー、|伊太彦《いたひこ》の|神司《かむつかさ》とやら、|其《その》|方《はう》はスーラヤ|山《さん》に、ウバナンダ|竜王《りうわう》の|玉《たま》を|取《と》らむとして|来《うせ》た|心憎《こころにく》き|曲者《くせもの》、これより|一足《ひとあし》でも|登《のぼ》れるなら|登《のぼ》つてみよ』
と|呶鳴《どな》りつけた。この|声《こゑ》に|伊太彦《いたひこ》も|兄妹《きやうだい》も|目《め》を|覚《さ》まし、きつと|声《こゑ》する|方《はう》を|見《み》れば|以前《いぜん》の|怪物《くわいぶつ》が|立《た》つてゐる。|伊太彦《いたひこ》は|轟《とどろ》く|胸《むね》をグツと|押《おさ》へ、「|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》」を|高唱《かうしやう》し|終《をは》り、
『アハハハハ。スーラヤ|山《さん》に|年古《としふる》く|棲《す》む|其《その》|方《はう》は|古狸《ふるだぬき》であらうがな。|吾々《われわれ》を|何《なん》と|心得《こころえ》てゐる。|勿体《もつたい》なくも|大神《おほかみ》の|使命《しめい》をうけて|大蛇《をろち》|退治《たいぢ》に|進《すす》む|神《かみ》の|使《つかひ》だ。|汝等《なれら》がごときものの|容喙《ようかい》し|得《う》べき|限《かぎ》りのものでない。|控《ひか》へをらう』
アスマガルダ|兄妹《きやうだい》をはじめ、カークス、ベースは|一所《いつしよ》に|集《あつ》まり、|顔色《かほいろ》まで|真青《まつさを》にして|慄《ふる》つてゐる。|伊太彦《いたひこ》は|痩我慢《やせがまん》を|出《だ》して|一人《ひとり》|空気焔《からきえん》を|吐《は》いてゐる。|怪物《くわいぶつ》には|此方《こちら》からいひ|負《ま》けたら|敗北《やられ》るといふ|事《こと》を|予《かね》て|聞《き》いてゐたので、|此方《こちら》から|負《まけ》かしてやらうと|思《おも》つて、すつくと|立《た》ち|上《あ》がり|怪物《くわいぶつ》に|向《む》かつて、
『イーイーイー、|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|宣伝使《せんでんし》、|天下無双《てんかむそう》の|勇士《ゆうし》、|伊太彦《いたひこ》とは|俺《おれ》の|事《こと》だ。|種々《いろいろ》な|事《こと》をいたして|吾々《われわれ》の|邪魔《じやま》を|致《いた》すと|了簡《れうけん》はいたさぬぞ』
|怪物《くわいぶつ》『ロ、ロー、|碌《ろく》でもない|女《をんな》を|連《つ》れて、|神聖無比《しんせいむひ》なるスーラヤ|山《さん》に|登《のぼ》るとは|何《なん》の|事《こと》だ。|汝《なんぢ》は|聖場《せいぢやう》を|汚《けが》す|痴漢《しれもの》、いま|此《この》|方《はう》の|神力《しんりき》によつて|其《その》|方《はう》の|体《からだ》を【ビク】とも|動《うご》かぬやうにしてくれる。|覚悟《かくご》をいたせ。ワハハハハ、てもさても|可憐《かはい》さうなものだわい』
|伊太《いた》『ロロロロ|碌《ろく》でもない、ど|倒《たふ》し|者《もの》|奴《め》、ナナ|何《なに》を|吐《ぬか》すのだ。|妖怪変化《えうくわいへんげ》の|容喙《ようかい》すべき|限《かぎ》りでない。|早《はや》くすつ|込《こ》みをらう。ぐづぐづすると|言霊《ことたま》の|発射《はつしや》と|出《で》かけやうか』
『ハハハハハ、|腹《はら》が|立《た》つか、|恥《は》ぢ|入《い》つたか、|薄志弱行《はくしじやくかう》の|腰抜宣伝使《こしぬけせんでんし》|奴《め》、|高《たか》が|知《し》れたウバナンダ|竜王《りうわう》の|玉《たま》を|取《と》るに|加勢《かせい》を|頼《たの》み、|女《をんな》を|連《つ》れて|来《く》るとは、|実《じつ》に|見下《みさ》げ|果《は》てたる|腰抜野郎《こしぬけやらう》|奴《め》』
『ハハハ|張子《はりこ》の|虎《とら》のやうに|首《くび》ばかりふりやがつて|何《なん》の|態《ざま》だ。サア|早《はや》く|退散《たいさん》いたすか、|正体《しやうたい》を|現《あら》はすか、|何神《なにがみ》の|化身《けしん》だといふ|事《こと》を|白状《はくじやう》いたすか、|返答《へんたふ》|次第《しだい》によつては|此方《こちら》にも|考《かんが》へがあるのだ』
『ニニニ|憎《にく》いか、いや|憎《にく》らしいと|思《おも》ふか、その|苦《にが》い|顔《かほ》は|何《なん》だ。
ホホホ|呆《はう》け|野郎《やらう》|奴《め》、|身《み》のほども|知《し》らずも|程《ほど》があるわい。
ヘヘヘヘ|下手《へた》な|事《こと》をいたして、|後《あと》でベースをカークスな。
トトトト|途方《とはう》|途轍《とてつ》もない|大《だい》それた|慾望《よくばう》を|起《おこ》し、|栃麺棒《とちめんばう》を|振《ふ》つてトンボ|返《がへ》りを|致《いた》し、|岩窟《がんくつ》のドン|底《ぞこ》までおとされて|頓死《とんし》するといふ|災厄《さいやく》が、|目《め》の|前《まへ》に|近《ちか》づいて|来《き》てをるのを|知《し》らないのか。イイ|馬鹿《ばか》だなア』
『チチチちやアちやア|吐《ぬか》すな、ちつとも|貴様等《きさまら》のお|世話《せわ》に|預《あづ》からなくてもよいのだ。|智謀《ちぼう》|絶倫《ぜつりん》の|伊太彦《いたひこ》、
リリリ|凛々《りんりん》たる|勇気《ゆうき》を|鼓《こ》して、ウバナンダ|竜王《りうわう》の|館《やかた》に|進《すす》む|神軍《しんぐん》の|勇士《ゆうし》だ。
ヌヌヌぬかりのない|此《この》|方《はう》、|水《みづ》も|漏《もら》さぬ|仕組《しぐみ》を|致《いた》して|茲《ここ》に、いづ|御魂《みたま》が|登山《とざん》|探検《たんけん》と|出《で》かけたのだ。すつ|込《こ》んでおらう。|其《その》|方《はう》の|出《で》て|来《き》てゴテゴテ|申《まを》す|幕《まく》ぢやないのだ』
『ルルル|累卵《るゐらん》の|危《あや》ふきを|知《し》らぬ|痴呆者《うつけもの》|奴《め》、|類《るゐ》は|友《とも》を|呼《よ》ぶといふ|馬鹿者《ばかもの》の|好《よ》く|揃《そろ》つたものだ。
オオ|大馬鹿者《おほばかもの》|奴《め》、|大泥坊《おほどろばう》|奴《め》、|大戯気者《おほたはけもの》、|神《かみ》の|道《みち》を|歩《ある》きながら、|鬼《おに》か|大蛇《をろち》のやうになつて|竜神《りうじん》の|玉《たま》を、【ぼつたくらう】とは|此《この》|方《はう》も【おとましう】なつて|来《き》たわい。|身《み》の|程《ほど》|知《し》らずの|横道者《わうだうもの》だな』
『ワハハハハ、|笑《わら》はしやがるない。|没分暁漢《わからずや》|奴《め》、|吾輩《わがはい》のすることに|容喙《ようかい》する|権利《けんり》がどこにあるか。|悪《わる》い|事《こと》は|些《すこ》しも|致《いた》さぬ|善一筋《ぜんひとすぢ》の|宣伝使《せんでんし》ぢや。|分《わか》らぬ|事《こと》を|申《まを》さずに、おのれの|住所《すみか》にトツトと|引込《ひつこ》んだがよからうぞ』
『カカカ|構《かま》ふな|構《かま》ふな、|惟神《かむながら》だとか|神《かみ》の|道《みち》だとか|何《なん》とか、かとか|申《まを》して、そこらを|騙《かた》り|歩《ある》く|我羅苦多宣伝使《がらくたせんでんし》だらうがな。|第一《だいいち》|女《をんな》をイヤ|嬶《かかあ》を|連《つ》れて|登《のぼ》つて|来《く》るとは|以《もつ》ての|外《ほか》だ。|当山《たうざん》の|規則《きそく》を|破《やぶ》つた|大罪人《だいざいにん》|奴《め》、サア|覚悟《かくご》を|致《いた》せ、|頭《あたま》からこの|大《おほ》きな|口《くち》で|噛《か》ぶつて|食《く》てしまつてやらう』
『ヨヨヨ|妖怪変化《えうくわいへんげ》の|分際《ぶんざい》として、|此《この》|方《はう》に|指一本《ゆびいつぽん》でも|触《さ》へられるのなら|触《さ》へて|見《み》よ。|下《くだ》らぬ|世迷《よま》ひ|事《ごと》を|申《まを》さずに、もはや|夜明《よあ》けに|間《ま》もあるまいから、|気《き》の|利《き》いた|化物《ばけもの》は|足《あし》を|洗《あら》うて|疾《とつく》に|引込《ひつこ》む|時間《じかん》だ。|与太《よた》リスクを|並《なら》べずに、よい|加減《かげん》に|伏《どぶ》さつたらどうだ』
『タタタ|痴呆者《たはけもの》|奴《め》、|要《い》らざる|頬桁《ほほげた》を|叩《たた》くと|叩《たた》きつぶしてやるぞ。|高《たか》が|知《し》れた|人間《にんげん》の|三匹《さんびき》や|五匹《ごひき》|一口《ひとくち》にも|足《た》らぬわい。|慾《よく》の|熊鷹《くまたか》|股《また》が|裂《さ》けるといふ|事《こと》を|貴様《きさま》は|知《し》らぬのか|痴呆者《たわけもの》|奴《め》、
レレレ、|恋愛至上主義《れんあいしじやうしゆぎ》を|発揮《はつき》して|神聖《しんせい》なる|当山《たうざん》にまで、|初《はじ》めて|嬶《かか》をもつた|嬉《うれ》しさにトチ|迷《まよ》ひ|登《のぼ》つて|来《く》るといふデレ|助《すけ》だから、|吾々《われわれ》|仲間《なかま》のよい|慰《なぐさ》み|者《もの》だ』
『ソソソ、そうかいやい、そらさうだらう。|羨《けな》りいなつたか。|一寸《ちよつと》ぐらゐ|手《て》を|握《にぎ》らしてやりたいが、|矢張《やつばり》それも|止《や》めておこうかい、|何《なん》だ、その|六ケ敷《むつかし》い|面《つら》つきは。|貧相《ひんさう》なものだのう』
『ツツツ|月《つき》が|空《そら》から|貴様《きさま》の|脱線振《だつせんぶ》りを|見《み》て|笑《わら》つてござるのも|知《し》らんのか。|心《こころ》の|盲《めくら》、|心《こころ》の|聾《つんぼ》は|仕方《しかた》がないものだなア。|捉《つか》まへ|所《どころ》のない|屁理屈《へりくつ》を|並《なら》べて|其処辺《そこら》を|遍歴《へんれき》いたすといふ|強者《つわもの》、おつとドツコイ、つまらぬ|代物《しろもの》だからなア。
ネネネ|猫撫声《ねこなでごゑ》を|出《だ》しやがつて、|夫婦《ふうふ》がいちやづいて|此《こ》の|島《しま》に|打《う》ち|渡《わた》り、グウースケ|八兵衛《はちべゑ》と|睡《ねむ》つてをるとは|念《ねん》の|入《い》つた|痴呆者《たはけもの》だ』
『ナナナ、|何《なに》を|吐《ぬか》しやがるんだい。|情《なさけ》ない|事《こと》をいうてくれない。なにほど|羨《うらや》ましうても|貴様《きさま》の|女房《にようばう》にしてやるわけには|行《ゆ》かず、アア|難儀《なんぎ》のものが|出《で》てきたものだ。|俺《おれ》も|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》に|暮《く》れぬ|事《こと》もないのう|怪物《くわいぶつ》』
『ラララ、らつちもない|事《こと》を|吐《ほざ》くもんぢやないわい。
ムムム|昔《むかし》から|誰一人《たれひとり》|目的《もくてき》を|達《たつ》した|事《こと》のない|竜王《りうわう》の|玉《たま》を|取《と》らうとは|無法《むはふ》にも|程《ほど》がある。ほんに|命《いのち》|知《し》らずの|無鉄砲者《むてつぱうもの》だのう。こりや|無茶彦《むちやひこ》、|向《む》かつ|腹《ぱら》が|立《た》つか、ムツとするか、|虫《むし》が|好《す》かぬか、それや|無理《むり》もない。しかしながら|玉《たま》が|取《と》りたけれや|明朝《あすあさ》とつとと|登《のぼ》つたらよからう。|此《こ》の|山《やま》の|中腹《ちうふく》には|死線《しせん》といつて|人間《にんげん》の|通《とほ》れぬ|所《ところ》があるのだ。|其処《そこ》へ|往《ゆ》くと|邪気《じやき》|充満《じうまん》し、|其《その》|方《はう》ごときものがその|毒《どく》にあたると|心臓痳痺《しんざうまひ》を|起《おこ》し、|水脹《みづぶく》れになつて|死《し》ぬるのだから、さうすれば|俺《おれ》|達《たち》が|寄《よ》つて|集《たか》つて|皆《みな》|喰《く》つてしまつてやるのだ。てもさても|不愍《いぢらしい》ものだなア』
『ウフフフフ、|五月蠅奴《うるさいやつ》だなア、そんな|事《こと》を|申《まを》して|俺《おれ》|達《たち》の|荒肝《あらぎも》を|取《と》らうと|思《おも》うても|駄目《だめ》だぞ、|牛《うし》の|丸焼《まるやき》でも|二匹《にひき》|三匹《さんびき》|一遍《いつぺん》に|平《たひ》らげるこの|伊太彦《いたひこ》さまだ。ウゴウゴいたしてをるともう|堪忍袋《かんにんぶくろ》の|緒《を》が|切《き》れるぞよ。
イイイ|何時《いつ》までも|何時《いつ》までも|羨《うらや》ましさうに|夫婦《ふうふ》の|睦《むつ》まじい|姿《すがた》を|見《み》て|指《ゆび》を|銜《くは》へて|見《み》てをるより、いい|加減《かげん》に|幻滅《げんめつ》いたしたらどうだい。|悪戯《いたづら》も|程《ほど》があるぞよ』
『ノノノ、|野太《のぶと》い|代物《しろもの》だなア。|野《の》に|寝《ね》たり、|山《やま》に|寝《ね》たりして|露命《ろめい》を|繋《つな》いで|来《き》て、やうやくテルの|里《さと》で|満足《まんぞく》の|家《いへ》に|泊《と》めてもらつたと|思《おも》つて|得意《とくい》になり、ブラワ゛ーダを|女房《にようばう》に|持《も》つたと|思《おも》ふてそのはしやぎ|方《かた》は|何《なん》だ。|天下《てんか》の|馬鹿者《ばかもの》、|命知《いのちし》らずとは|貴様《きさま》の|事《こと》だ。イタイタしい|伊太彦《いたひこ》の|我羅苦多《がらくた》|奴《め》、イヒヒヒヒ』
『オオオお|構《かま》ひだ、|俺《おれ》のする|事《こと》をゴテゴテ|構《かま》うてくれない。
ククク|苦労《くらう》の|凝《かたまり》の|花《はな》が|咲《さ》いたのだ。|貴様《きさま》もこんなナイスが|欲《ほ》しけりや、ちつと|誠《まこと》の|道《みち》に|苦労《くらう》をいたせ』
『ヤヤヤやかましいわい、|夜分《やぶん》に|山《やま》の|中《なか》で|露《つゆ》の|宿《やど》を|取《と》る|厄雑宣伝使《やくざせんでんし》|奴《め》、|八岐大蛇《やまたをろち》の|一《いち》の|乾児《こぶん》の|此方様《このはうさま》に、いま|命《いのち》を|取《と》られるのを|御存《ごぞん》じがないのか。
マママ、|負惜《まけを》しみのつよい、|真面目腐《まじめくさ》つたその|面付《つらつき》で|表面《うはべ》をかざつてゐるが、|貴様《きさま》の|心《こころ》の|中《なか》は|地異天変《ちいてんぺん》|大地震《だいぢしん》が|揺《ゆ》つてをらうがな。どうだ|恐《おそ》れ|入《い》つたか』
『ケケケ|怪体《けたい》の|悪《わる》い|怪《け》しからぬ|奴《やつ》だ。|怪我《けが》のない|中《うち》に|早《はや》く|帰《かへ》れといつたら|帰《かへ》らぬか。
フフフ、|不都合《ふつがふ》な、フザケた|事《こと》を|致《いた》すと、|捕縛《ふんじば》つてしまふぞ。いや|踏《ふ》み|潰《つぶ》してやらうか、|何《なに》が|不足《ふそく》で|夜夜中《よるよなか》、|安眠妨害《あんみんばうがい》に|出《で》て|来《う》せたのだ。|不都合《ふつがふ》な|不届《ふとど》きな|奴《やつ》、
コココ|耐《こら》へ|袋《ぶくろ》が|切《き》れるぞよ。こん|畜生《ちくしやう》、|八岐大蛇《やまたをろち》の|眷族《けんぞく》なぞは|真赤《まつか》な|偽《いつは》り、|其《その》|方《はう》は|数千年《すうせんまんねん》|劫《ごふ》を|経《へ》た、|苔《こけ》の|生《は》えた|小狸《こだぬき》であらうがな。
エエエ、|邪魔臭《じやまくさ》ひ、この|金剛杖《こんがうづゑ》をもつて|叩《たた》きつけてやらう。|最愛《さいあい》のブラワ゛ーダが|安眠《あんみん》の|妨害《ばうがい》になる』
『テテテ、【てんごう】を|致《いた》すな、|此《この》|方《はう》の|神力《しんりき》と|貴様《きさま》の|力《ちから》とは|天地《てんち》の|相違《さうゐ》だ。デンデン|虫《むし》の|角《つの》を|振《ふ》り|立《た》てて|気張《きば》つて|見《み》たとて、|岩石《がんせき》に|蚊《か》が|襲来《しふらい》するやうなものだ。
アアア|阿呆《あはう》な|限《かぎ》りを|尽《つく》さずと、|早《はや》く|此処《ここ》を|立《た》ち|去《さ》れ。グヅグヅしてをるとアフンと|致《いた》して|泡《あわ》を|吹《ふ》くぞよ。それでも|聞《き》かねば、アンポンタンの|黒焼《くろやき》にして|食《く》つてやらうか、
ササササア、どうだ|早速《さつそく》に|口《くち》が|開《あ》くまいがな。さてもさても|見下《みさ》げ|果《は》てたる|腰抜《こしぬ》けばかりだな。
キキキ|気《き》に|喰《く》はぬ|怪物《くわいぶつ》だと|思《おも》ふであらうが、この|方《はう》を|一体《いつたい》|誰《たれ》だと|心得《こころえ》てゐる。|鬼神《きじん》もひしぐ|勇《ゆう》ある|結構《けつこう》な|五大力様《ごだいりきさま》だぞ。
ユユユ、|夢々《ゆめゆめ》|疑《うたが》ふこと|勿《なか》れ。ただ|今《いま》|幽界《いうかい》より|其《その》|方《はう》の|命《いのち》を|召《め》し|取《と》りに|来《き》たのだ。てもさても|愉快《ゆくわい》な|事《こと》だなア。
メメメメ|迷惑《めいわく》さうなその|面付《つらつ》き、さつぱり|面目玉《めんぼくだま》を|踏《ふ》み|潰《つぶ》され、|折角《せつかく》もらふた|嬶《かか》には|愛想《あいさう》|尽《つ》かされ、メソメソ|吠面《ほえづら》かはくのが、|可憐《かはい》さうだわい。サア|冥途《めいど》の|旅《たび》にやつてやらう』
『ミミミ、|見《み》てをれ。この|伊太彦《いたひこ》の|神力《しんりき》を、なにほど|貴様《きさま》が|威張《ゐば》つたところが|駄目《だめ》だ。|死線《しせん》だらうが、|五線《ごせん》だらうが|神力《しんりき》をもつて|突破《とつぱ》し、|一戦《いつせん》に|勝鬨《かちどき》をあぐる|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》だ。【え】|体《たい》の|知《し》れぬ|汝等《なんぢら》ごとき|怪物《くわいぶつ》に|辟易《へきえき》するやうで、どうしてハルナの|都《みやこ》に|進《すす》む|事《こと》が|出来《でき》やうか。タクシャカ|竜王《りうわう》でさへも|屁込《へこ》ました|此《この》|方《はう》だ』
『ヒヒヒ|仰有《おつしや》りますわい。|日向《ひなた》にあてたらハシヤぐやうな|腕《うで》|振《ふ》りまはし、なにほど|威張《ゐば》つてみたところで、
モモモもう|駄目《だめ》だ。|耄碌宣伝使《まうろくせんでんし》の|伊太彦司《いたひこつかさ》、
セセセ|雪隠《せつちん》で|饅頭《まんぢう》|食《く》ふやうな|甘《うま》い|事《こと》を|考《かんが》へてもさつぱり|駄目《だめ》だ。|終《をは》りの|果《はて》には|糞《ばば》を|垂《た》れるぞよ』
『ススス、|好《す》かんたらしい|屁理屈《へりくつ》を|垂《た》れな。|酢《す》でも|蒟蒻《こんにやく》でもいかぬ|妖怪《えうくわい》だな。|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》
|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
『キヨキヨキヨ|京《きやう》|疎《うと》い|事《こと》をいたす|伊太彦司《いたひこつかさ》、また|幽冥界《いうめいかい》でお|目《め》にかからう。エヘヘヘヘ』
と|体《からだ》を|揺《ゆす》りながら|何処《いづく》ともなく|消《き》えてしまつた。
|伊太《いた》『アハハハ、|仕様《しやう》のない|古狸《ふるだぬき》がやつて|来《き》やがつて、|嚇《おど》し|文句《もんく》を|並《なら》べ|立《た》て|面白《おもしろ》い|事《こと》だつた。アハハハハ』
アスマガルダはやうやく|胸《むね》をなでおろし、|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》しながら、
『アア|先生《せんせい》、ずゐぶん|偉《えら》い|奴《やつ》がやつて|来《き》たぢやありませぬか。どうなる|事《こと》かと|思《おも》つて|大変《たいへん》|心配《しんぱい》しましたよ。しかし|貴方《あなた》の|我《が》の|強《つよ》いのにも|呆《あき》れましたよ』
|伊太《いた》『アハハハハ、|実《じつ》のところ|私《わたし》もちよつと|面喰《めんくら》つたのだが、こんな|事《こと》に|負《ま》けてはならないと|空元気《からげんき》を|出《だ》して|見《み》たところ、キヤツキヤツと|言《い》つて|逃《に》げた|時《とき》のおかしさ、いや|心地《ここち》よさ。|斎苑《いそ》の|館《やかた》|出立《しゆつたつ》|以来《いらい》のよい|経験《けいけん》だよ』
ブラワ゛ーダ『|神様《かみさま》の|仰《おほ》せの|通《とほ》り、|妾《わらは》の|夫《をつと》|伊太彦《いたひこ》さまは|本当《ほんたう》に|勇壮活溌《ゆうさうくわつぱつ》の|神使《かむつかひ》です。|妾《わらは》はもうこんな|強《つよ》い|方《かた》を|夫《をつと》にもつならば|世《よ》に|恐《おそ》るべきものはございませぬわ』
カークス『アハハハハ、えらいお|惚《のろ》けでございますこと。なあベース、お|浦山吹《うらやまぶき》の|至《いた》りぢやないか』
ベース『ウフツ』
|伊太《いた》『|古狸《ふるだぬき》|吾《わ》が|枕辺《まくらべ》に|現《あら》はれて
フルナの|弁《べん》をふるふをかしさ
ブルブルと|慄《ふる》ひながらに|古《ふる》さまの
|世迷《よま》ひ|言《ごと》をば|聞《き》く|人《ひと》もあり』
カークス『|恐《おそ》ろしさカークスと|思《おも》へど|何《なん》となく
|腹《はら》の|底《そこ》から|慄《ふる》ひけるかな』
ベース『|恐《おそ》ろしさにベースをカークス|吾々《われわれ》は
|地獄《ぢごく》におちし|心地《ここち》なりけり』
その|後《ご》は|何事《なにごと》もなく|夜《よ》はカラリと|明《あ》けた。これより|一行《いつかう》|五人《ごにん》は|死線《しせん》を|越《こ》へてウバナンダ|竜王《りうわう》の|匿《かく》るる|岩窟《がんくつ》の|玉《たま》を|取《と》らむと|進《すす》み|往《ゆ》く|事《こと》となつた。
(大正一二・五・二四 旧四・九 於教主殿 加藤明子録)
第九章 |超死線《てうしせん》〔一六一六〕
|水面《すいめん》を|抜《ぬ》くこと、|七千三百尺《しちせんさんびやくしやく》のスーラヤ|山《さん》の|中腹《ちうふく》まで|一行《いつかう》|五人《ごにん》はやうやく|登《のぼ》りつめた。これより|上《うへ》は|夜前《やぜん》|妖怪《えうくわい》のいつた|死線地帯《しせんちたい》である。|山《やま》の|中腹《ちうふく》に|邪気帯《じやきたい》があつて|四方《しはう》を|取囲《とりかこ》み、いづれもこの|死線《しせん》を|突破《とつぱ》せむとして、|邪気《じやき》にうたれ、|身体水症病《しんたいすゐしやうびやう》を|起《おこ》し、ここにパタリパタリと|倒《たふ》れて|一人《ひとり》もこれより|上《うへ》に|登《のぼ》つたものはない。なにほど|夜光《やくわう》の|玉《たま》が|燦爛《さんらん》と|輝《かがや》き|渡《わた》り|高価《かうか》な|宝《たから》が|目《め》の|前《まへ》にブラ|下《さが》つてをつても、この|死線《しせん》を|越《こ》えることはたうてい|人間業《にんげんわざ》では|出来《でき》ぬ|事《こと》であつた。この|地帯《ちたい》はほとんど|七八十間《しちはちじつけん》ばかりの|幅《はば》であつた。|死線《しせん》の|近辺《きんぺん》まで|来《き》てみると|白骨《はくこつ》|累々《るゐるゐ》として|横《よこ》たはつてゐる。|伊太彦《いたひこ》はこの|光景《くわうけい》を|見《み》て、これは|到底《たうてい》|一通《ひととほ》りでは|突破《とつぱ》することは|出来《でき》ない。|神力《しんりき》を|得《え》て|登《のぼ》るに|如《し》かずと、ここに|伊太彦《いたひこ》を|導師《だうし》として|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|終《を》へながら|勢《いきほ》ひに|任《まか》せて|駆《か》け|上《のぼ》つた。やうやくにして|一行《いつかう》|五人《ごにん》は|死線《しせん》を|突破《とつぱ》する|事《こと》を|得《え》た。
|伊太《いた》『ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。|開闢以来《かいびやくいらい》|竜王《りうわう》といへどもこの|死線《しせん》を|突破《とつぱ》して|下《くだ》る|事《こと》を|得《え》ない|危険帯《きけんたい》を|無事《ぶじ》に|越《こ》えられたのも、|全《まつた》く|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》だ。
|皇神《すめかみ》の|恵《めぐ》みの|衣《きぬ》に|包《つつ》まれて
|危《あや》ふき|死線《しせん》を|渡《わた》りけるかな
|惟神《かむながら》|神《かみ》に|任《まか》せば|世《よ》の|中《なか》に
|恐《おそ》るべきものはあらじとぞ|思《おも》ふ』
ブラワ゛ーダ『|千早《ちはや》|振《ふ》る|神世《かみよ》も|聞《き》かぬ|死《し》の|関《せき》を
|無事《ぶじ》に|越《こ》えたる|人《ひと》ぞ|尊《たふと》き
|霊《たま》|幸《ち》はふ|神《かみ》の|守《まも》りのなかりせば
|如何《いか》で|渡《わた》れむ|醜《しこ》の|死線《しせん》を』
アスマガルダ『|伊太彦《いたひこ》の|神《かみ》の|司《つかさ》の|功績《いさをし》は
|神代《かみよ》にも|聞《き》かぬためしなりけり
ウバナンダ・ナーガラシャーも|伊太彦《いたひこ》の
|武者振《むしやぶ》り|見《み》れば|驚《おどろ》くなるらむ
スーラヤの|海《うみ》に|浮《う》かびし|此《こ》の|山《やま》に
|初《はじ》めて|登《のぼ》る|今日《けふ》の|嬉《うれ》しさ』
カークス『|恐《おそ》ろしき|醜《しこ》の|死線《しせん》を|突破《とつぱ》して
|登《のぼ》り|来《き》たりぬ|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》に
ウラル|彦《ひこ》|神《かみ》に|仕《つか》ふる|信徒《まめひと》が
|屍《かばね》さらせしスーラヤの|山《やま》』
ベース『|三五《あななひ》の|神《かみ》の|力《ちから》に|守《まも》られて
|安《やす》く|登《のぼ》りぬ|宝《たから》の|山《やま》に
さりながら|胸《むね》|苦《くる》しくもなりにけり
|醜《しこ》の|死線《しせん》に|触《ふ》れたるためか』
カークス『|吾《われ》もまた|胸《むね》|騒《さわ》がしくなりにけり
|守《まも》らせ|玉《たま》へ|三五《あななひ》の|神《かみ》』
ブラワ゛ーダ『|肉体《からたま》は|俄《には》かに|重《おも》くなり|行《ゆ》きて
|行《ゆ》きなやみけりこの|山道《やまみち》を』
|伊太彦《いたひこ》『|村肝《むらきも》の|心《こころ》ひきたて|神《かみ》に|拠《よ》り
|登《のぼ》れば|登《のぼ》る|道《みち》もありけり』
アスマガルダ『|何《なん》となく|胸《むね》は|騒《さわ》ぎぬ|手《て》も|足《あし》も
|心《こころ》のままに|動《うご》かずなりぬ』
|伊太彦《いたひこ》『|名《な》にし|負《お》ふ|死線《しせん》を|突破《とつぱ》したる|身《み》は
|少《すこ》しの|悩《なや》みは|免《まぬ》かれざらまし
いざさらば|心《こころ》の|駒《こま》に|鞭《むち》うちて
|進《すす》み|行《ゆ》かなむ|竜王《りうわう》の|岩窟《いはや》に』
|伊太彦《いたひこ》は|先《さき》に|立《た》つて|一行《いつかう》の|心《こころ》を|励《はげ》ませながら、|自分《じぶん》も|重《おも》たい|足《あし》を|引摺《ひきず》りつつ|峰《みね》の|尾上《をのへ》の|風《かぜ》に|吹《ふ》かれ、|歌《うた》を|謡《うた》つて|元気《げんき》よく|進《すす》み|行《ゆ》く。|四人《よにん》は|後《あと》に|牛《うし》の|歩《あゆ》みの|捗々《はかばか》しからず、|汗《あせ》をタラタラ|流《なが》しながら|喘《あへ》ぎ|喘《あへ》ぎ|従《したが》ひ|行《ゆ》く。
|伊太彦《いたひこ》『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |伊太彦司《いたひこつかさ》が|今《いま》ここに
|神《かみ》の|御言《みこと》を|蒙《かうむ》りて ナーガラシャーの|永久《とこしへ》に
|守《まも》らせ|玉《たま》ふ|瑞《みづ》の|玉《たま》 |神政成就《しんせいじやうじゆ》のそのために
|吾《わ》が|手《て》に|受《う》けてエルサレム |貴《うづ》の|都《みやこ》の|大前《おほまへ》に
|献《たてまつ》らむと|登《のぼ》り|来《き》ぬ |此《こ》の|山《やま》|守《まも》るウバナンダ
ナーガラシャーに|物申《ものまを》す |汝《なれ》が|命《みこと》は|千早《ちはや》|振《ふ》る
|神代《かみよ》の|遠《とほ》き|昔《むかし》より |神《かみ》の|怒《いか》りを|蒙《かうむ》りて
スーラヤ|山《さん》の|岩窟《がんくつ》に |閉《と》ぢ|込《こ》められて|千万《ちよろづ》の
|悩《なや》みを|受《う》けしいたはしさ |三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》
|一度《いちど》に|開《ひら》く|時《とき》は|充《み》ち |八大竜王《はちだいりうわう》ことごとく
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|御許《みゆる》しに |天津御国《あまつみくに》に|救《すく》はれて
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御柱《みはしら》と |仕《つか》へまつらむ|世《よ》となりぬ
|喜《よろこ》び|給《たま》へウバナンダ |竜王《りうわう》の|前《まへ》に|告《つ》げまつる
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|言葉《ことば》に|二言《にごん》ない |心《こころ》を|平《たひ》らに|安《やす》らかに
この|伊太彦《いたひこ》が|使命《しめい》をば |諾《うべな》ひまして|逸早《いちはや》く
|夜光《やくわう》の|玉《たま》を|渡《わた》せかし |汝《なれ》の|身霊《みたま》をこれよりは
|広《ひろ》き|世界《せかい》に|現《あら》はして |五六七神政《みろくしんせい》の|柱《はしら》とし
|天地日月《てんちじつげつ》|相並《あひなら》び |神《かみ》と|人《ひと》との|隔《へだ》てなく
いと|安《やす》らかに|世《よ》を|照《て》らし |醜《しこ》の|曲霊《まがひ》を|悉《ことごと》く
|言向和《ことむけやは》し|神国《しんこく》の |常世《とこよ》の|春《はる》の|花《はな》|匂《にほ》ふ
|目出《めで》たき|御代《みよ》と|開《ひら》き|行《ゆ》く この|神業《しんげふ》を|諾《うべな》ひて
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|帰順《きじゆん》せよ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》に|従《したが》ふ|武士《つはもの》よ |少《すこ》しの|悩《なや》みに|撓《たゆ》まずに
|心《こころ》を|引立《ひきた》て|進《すす》めかし |神《かみ》は|汝《なんぢ》と|倶《とも》にあり
|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》 |如何《いか》に|死線《しせん》を|越《こ》ゆるとも
|障害《さはり》のあるべき|道理《だうり》なし |心《こころ》|一《ひと》つの|持《も》ちやうぞ
|来《き》たれよ|来《き》たれ|早《は》や|来《き》たれ |竜王《りうわう》の|岩窟《いはや》|近《ちか》づきて
|御空《みそら》を|照《て》らす|光明《くわうみやう》は |昼《ひる》とは|言《い》へど|明《あき》らかに
|吾《わ》が|目《め》に|映《うつ》り|来《き》たりけり |勝利《しようり》の|都《みやこ》は|近《ちか》づきぬ
|勇《いさ》めよ|勇《いさ》め|言霊《ことたま》の |神《かみ》の|使《つかひ》の|御軍《みいくさ》よ』
カークスは|一丁《いつちやう》ばかり|遅《おく》れながら、|足《あし》を|引摺《ひきず》りもつて|謡《うた》ひ|初《はじ》めた。
『ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|守《まも》りに|吾々《われわれ》は
さも|恐《おそ》ろしきスーラヤの |死線《しせん》を|越《こ》えて|登《のぼ》りけり
さはさりながら|何《なん》となく |足許《あしもと》|重《おも》く|胸《むね》|騒《さわ》ぎ
|歩《あゆ》み|倦《あぐ》みし|苦《くる》しさよ |伊太彦司《いたひこつかさ》|待《ま》ち|玉《たま》へ
|如何《いか》に|心《こころ》を|焦《いら》つとも |自由《じいう》にならぬ|吾《わ》が|体《からだ》
|憐《あは》れみ|玉《たま》へ|今一度《いまいちど》 |伊吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》に|曲津身《まがつみ》を
|祓《はら》はせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》 |神《かみ》かけ|念《ねん》じ|奉《たてまつ》る』
ブラワ゛ーダ『|吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》よ|待《ま》ち|玉《たま》へ |踏《ふ》みも|習《なら》はぬ|高山《たかやま》を
|一瀉千里《いつしやせんり》に|登《のぼ》りつめ |吾《わ》が|肉体《からたま》も|疲《つか》れ|果《は》て
|手足《てあし》も|重《おも》くなりにけり |汝《なれ》が|命《みこと》は|宣伝使《せんでんし》
|如何《いか》なる|枉《まが》の|棲処《すみか》をも |恐《おそ》れ|玉《たま》はずさりながら
|兄《あに》の|命《みこと》のアスマガルダ その|外《ほか》|二人《ふたり》の|伴人《ともびと》が
|死線《しせん》の|邪気《じやき》に|襲《おそ》はれて |手足《てあし》の|心《こころ》もままならぬ
|悲《かな》しき|身《み》とはなりましぬ ナーガラシャーの|岩窟《がんくつ》は
|吾《わ》が|目《め》の|前《まへ》に|横《よこ》たはり |夜光《やくわう》の|玉《たま》の|御光《みひかり》は
|四辺《あたり》に|輝《かがや》き|玉《たま》へども |吾《われ》らの|心《こころ》は|何《なん》となく
|曇《くも》りて|黄泉《よみ》の|道芝《みちしば》を |辿《たど》るがごとく|覚《おぼ》ゆなり
|休《やす》ませ|玉《たま》へ|背《せ》の|君《きみ》よ |偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る』
|伊太彦《いたひこ》はブラワ゛ーダのこの|歌《うた》を|聞《き》いて、|四人《よにん》の|者《もの》の|行歩《かうほ》に|悩《なや》んでゐることを|憐《あは》れみ、|山頂《さんちやう》に|碁布《ごふ》せる|岩石《がんせき》に|腰《こし》かけて、しばらく|落伍者《らくごしや》の|追《お》ひつくを|待《ま》つこととした。
カークスは|気息《きそく》|奄々《えんえん》として|息《いき》も|絶《た》えだえに|這《は》ふやうにして|追《お》ひつき|来《き》たり、
『もし|先生《せんせい》、|神様《かみさま》の|御用《ごよう》とは|申《まを》しながら、どうにもかうにも|苦《くる》しくて|堪《たま》りませぬわ、|一《ひと》つ|神様《かみさま》に|願《ねが》つて|下《くだ》さいな』
|伊太《いた》『|神様《かみさま》に|願《ねが》ふのは、お|前《まへ》の|心《こころ》で|念《ねん》じた|方《はう》がよい。|俺《わし》だとて|全責任《ぜんせきにん》を|負《お》うてゐるのだから、|足《あし》の|痛《いた》いのも|体《からだ》の|苦《くる》しいのも|辛抱《しんばう》してここまでやつて|来《き》たのだよ。いづれ|神界《しんかい》の|御用《ごよう》をするのだから、さう|楽々《らくらく》に|勤《つと》まるものではない。|神徳《しんとく》さへあれば|何《なん》でもないのだが、ナーガラシャーでさへも|死線《しせん》を|越《こ》えて|逃《に》げ|出《だ》すわけにもゆかず、|神代《かみよ》から|此処《ここ》に|蟄伏《ちつぷく》してゐるやうな|険難千万《けんのんせんばん》の|処《ところ》を|越《こ》えて|来《き》たのだから、|少《すこ》しぐらゐ|苦《くる》しいのは|当然《あたりまへ》だよ。|暫《しばら》くこの|山風《やまかぜ》に|当《あた》つて|休《やす》んでをつたらまた|元気《げんき》|恢復《くわいふく》するだらうよ』
カークス『はい、|有難《ありがた》うございます。|何事《なにごと》も|神業《しんげふ》だと|思《おも》へば、たとへ|死《し》んでも|怨《うら》みとは|思《おも》ひませぬ』
|伊太《いた》『そんな|気《き》の|弱《よわ》い|事《こと》をいふものぢやない。|永遠《ゑいゑん》の|命《いのち》の|源泉《げんせん》たる|瑞《みづ》の|御魂《みたま》さまがお|守《まも》り|下《くだ》さる|以上《いじやう》は|大丈夫《だいぢやうぶ》だよ。とにかく|神《かみ》を|信《しん》じ|神《かみ》に|祈《いの》るより|外《ほか》にないのだ。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
ベース『|先生《せんせい》、|私《わたし》も|何《なん》だか|弱音《よわね》を|吹《ふ》くやうですが、|息《いき》がきれさうになつて|来《き》ました』
|伊太《いた》『エー、|気《き》の|弱《よわ》いことをいふ|男《をとこ》だな。もう|一息《ひといき》だ。|神様《かみさま》の|御神力《ごしんりき》に|頼《たよ》つて|目的《もくてき》を|達《たつ》せねばなるまい。|九分九厘《くぶくりん》|行《い》つたところで|成就《じやうじゆ》せない|事《こと》があるとどうするか。そんな|弱虫《よわむし》では|現幽一致《げんいういつち》を|守《まも》らせ|玉《たま》ふ|神様《かみさま》の|御前《みまへ》に、|復命《ふくめい》する|事《こと》が|出来《でき》ぬぢやないか』
ベース『ハイ、お|言葉《ことば》の|通《とほ》りでございますが、どうも|苦《くる》しくて|慾《よく》にも|徳《とく》にも|換《か》へられなくなりました』
|伊太《いた》『|困《こま》つたな。ともかく|祈祷《いのり》が|肝腎《かんじん》だ』
アスマガルダ『スーラヤの|湖水《こすゐ》の|彼方《あなた》を|眺《なが》むれば
|父《ちち》と|母《はは》との|恋《こひ》しくなりぬ』
|伊太彦《いたひこ》『|千早《ちはや》|振《ふ》る|神《かみ》の|大道《おほぢ》に|進《すす》む|身《み》は
この|世《よ》のものを|忘《わす》るるに|如《し》かず
|父母《ちちはは》の|恵《めぐ》みは|如何《いか》に|高《たか》くとも
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|比《くら》ぶべきやは』
ブラワ゛ーダ『|天地《あめつち》の|誠《まこと》の|親《おや》に|抱《いだ》かれて
|神国《みくに》に|登《のぼ》る|心地《ここち》しにけり』
ベース『|何事《なにごと》も|皇大神《すめおほかみ》の|御心《みこころ》の
ままと|思《おも》へば|何《なに》をか|怨《うら》みむ
|苦《くる》しさの|後《のち》に|楽《たの》しみ|来《き》たるてふ
|厳《いづ》の|教《をしへ》を|思《おも》ひて|微笑《ほほゑ》む』
|伊太彦《いたひこ》『いざさらば|夜光《やくわう》の|玉《たま》の|所在《ありか》へと
|進《すす》み|行《ゆ》かなむ|諸人《もろびと》|立《た》てよ』
かく|互《たが》ひに|述懐《じゆつくわい》をのべ|終《をは》り、|伊太彦《いたひこ》はまた|先頭《せんとう》に|立《た》ち|竜王《りうわう》の|潜《ひそ》むてふ|岩窟《がんくつ》の|側《そば》|近《ちか》く|立《た》ち|寄《よ》つた。
この|岩窟《がんくつ》は|深《ふか》き|井戸《ゐど》のごとく|縦穴《たてあな》が|開《あ》いてゐる、そして|幾丈《いくぢやう》とも|知《し》れぬ|岩窟《がんくつ》の|底《そこ》には、|夜光《やくわう》の|玉《たま》が|目《め》も|眩《まばゆ》きばかり|幾《いく》つともなく|光《ひか》つてゐる。|伊太彦《いたひこ》は|手《やま》の|尾上《をのへ》を|捜《あさ》つて|藤蔓《ふぢつる》を|切《き》り|之《これ》にて|太《ふと》き|繩《なは》を|綯《な》ひ、|入口《いりぐち》の|岩窟《がんくつ》に|一端《いつたん》を|括《くく》りつけ、|綱《つな》を|伝《つた》うてスルスルスルと|底《そこ》|深《ふか》く|下《くだ》り|着《つ》いた。|一同《いちどう》も|勇気《ゆうき》を|鼓《こ》して|伊太彦《いたひこ》の|後《あと》に|従《したが》ひ、|藤《ふぢ》の|繩梯子《なははしご》を|足《あし》にて|刻《きざ》みながら、やうやくに|岩窟《がんくつ》の|底《そこ》に|安着《あんちやく》した。|見《み》れば|其処《そこ》からまた|横穴《よこあな》が|開《あ》いてゐて、|無数《むすう》の|玉《たま》が|光《ひか》つてゐる。|奥《おく》の|方《はう》にはウバナンダ|竜王《りうわう》が|沢山《たくさん》な|眷族《けんぞく》をつれて|蜒々《えんえん》と|蟠《わだか》まつてゐるその|恐《おそ》ろしさ、|伊太彦《いたひこ》は|双手《もろて》を|合《あは》せ|拍手《かしはで》をうち、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》せむとしたが、どうしたものか|俄《には》かに|舌《した》|硬《こは》ばり|一言《いちごん》も|発《はつ》し|得《え》なくなつて、|其《そ》の|場《ば》に|昏倒《こんたう》してしまつた。アスマガルダを|初《はじ》め|外《ほか》|一同《いちどう》も|枕《まくら》を|並《なら》べて|其《そ》の|場《ば》に|昏倒《こんたう》した。アア|五人《ごにん》の|運命《うんめい》は|如何《いか》になり|行《ゆ》くであらうか。
(大正一二・五・二四 旧四・九 於教主殿 北村隆光録)
第三篇 |幽迷怪道《いうめいくわいだう》
第一〇章 |鷺《さぎ》と|鴉《からす》〔一六一七〕
|人間《にんげん》が|霊肉脱離《れいにくだつり》の|後《のち》、|高天原《たかあまはら》の|楽土《らくど》または|地獄《ぢごく》の|暗黒界《あんこくかい》へ|陥《おちい》るに|先《さき》んじて、|何人《なにびと》も|踏《ふ》まねばならぬ|経過《けいくわ》がありまして、この|状態《じやうたい》は|三種《さんしゆ》の|区別《くべつ》があります。そしてこの|三状態《さんじやうたい》を|大別《たいべつ》して、|外面《ぐわいめん》の|状態《じやうたい》、|準備《じゆんび》の|状態《じやうたい》、|内面《ないめん》の|状態《じやうたい》といたします。しかしながら|死後《しご》ただちに|高天原《たかあまはら》へ|上《のぼ》る|精霊《せいれい》と、|地獄《ぢごく》へ|陥《おちい》る|精霊《せいれい》とのあることは、|今日《こんにち》までの|物語《ものがたり》において|読者《どくしや》は|既《すで》に|已《すで》に|御承知《ごしようち》のことと|思《おも》ひます。
|中有界《ちううかい》|一名《いちめい》|精霊界《せいれいかい》の|準備《じゆんび》を|経過《けいくわ》せずして、|直《ただ》ちに|天界《てんかい》または|地獄《ぢごく》に|行《ゆ》くものは、|生前《せいぜん》|既《すで》にその|準備《じゆんび》が|出来《でき》てゐて、|善悪《ぜんあく》の|情動《じやうどう》|並《なら》びに|因縁《いんねん》によつて|各自《かくじ》|霊魂相応《れいこんさうおう》の|所《ところ》を|得《う》るものです。|右《みぎ》のごとく|準備《じゆんび》|既《すで》に|完了《かんれう》せる|精霊《せいれい》にあつては、|只《ただ》その|肉体《にくたい》と|共《とも》に|自然的《しぜんてき》|世界的《せかいてき》なる|悪習慣《あくしふくわん》|等《とう》を|洗滌《せんでう》すれば、|直《ただ》ちに|天人《てんにん》の|保護《ほご》|指導《しだう》に|依《よ》つて、|天界《てんかい》のそれ|相応《さうおう》の|所主《しよしゆ》の|愛《あい》に|匹敵《ひつてき》した|楽土《らくど》に|導《みちび》かるるものであります。
|之《これ》に|反《はん》して|直《ただ》ちに|地獄《ぢごく》に|陥《おちい》る|精霊《せいれい》にあつては、|現界《げんかい》において|表面《へうめん》にのみ|愛《あい》と|善《ぜん》とを|標榜《へうぼう》し、|且《か》つ|偽善的《ぎぜんてき》|動作《どうさ》のみ|行《おこな》ひ、|内心《ないしん》|深《ふか》く|悪《あく》を|蔵《ざう》しをりしもの、いはゆる|自己《じこ》の|凶悪《きようあく》を|糊塗《こと》して|人《ひと》を|欺《あざむ》くために、|善《ぜん》と|愛《あい》とを|利用《りよう》したものであります。|中《なか》にも|最《もつと》も|詐偽《さぎ》や|欺騙《ぎへん》に|富《と》んでゐるものは、|足《あし》を|上空《じやうくう》にし|頭《かしら》を|地《ち》に|倒《さかさま》にして|投《な》げ|込《こ》まれるやうにして|落《お》ち|行《ゆ》くものです。この|外《ほか》にも|種々《しゆじゆ》|様々《さまざま》の|状態《じやうたい》にて|地獄《ぢごく》へ|陥《お》ち|行《ゆ》くものもあり、あるひは|死後《しご》|直《ただ》ちに|岩窟《がんくつ》の|中《なか》|深《ふか》く|投《な》げ|入《い》れられるものもありますが、かくのごとき|状態《じやうたい》になるのは|凡《すべ》て|神様《かみさま》の|御摂理《ごせつり》で、|精霊界《せいれいかい》にある|精霊《せいれい》と|分離《ぶんり》せむがためであります。ある|時《とき》は|岩窟内《がんくつない》より|取《と》り|出《だ》され、|又《また》ある|時《とき》は|引《ひ》き|入《い》れられる|場合《ばあひ》もありますが、かくのごとき|精霊《せいれい》は|生前《せいぜん》において、|口《くち》の|先《さき》ばかりで|親切《しんせつ》らしく|見《み》せかけて|世人《せじん》を|油断《ゆだん》させ、その|虚《きよ》に|乗《じやう》じて|自己《じこ》の|利益《りえき》を|計《はか》り、かつ|世《よ》の|人《ひと》に|損害《そんがい》を|与《あた》へたものですが、|斯様《かやう》な|事《こと》は|比較的《ひかくてき》|少数《せうすう》であつて、その|大部分《だいぶぶん》は|精霊界《せいれいかい》に|留《と》められて|神教《しんけう》を|授《さづ》かり、|精霊《せいれい》|自己《じこ》の|善悪《ぜんあく》の|程度《ていど》によつて|神《かみ》の|順序《じゆんじよ》に|従《したが》ひ、|第三《だいさん》|下層天国《かそうてんごく》、または|地獄《ぢごく》へ|入《い》るの|準備《じゆんび》を|為《な》さしめらるるものであります。
|人間《にんげん》|各自《かくじ》の|精霊《せいれい》には|外面的《ぐわいめんてき》、|内面的《ないめんてき》の|二方面《にはうめん》を|有《いう》しております。|精霊《せいれい》の|外面《ぐわいめん》とは、|人間《にんげん》が|現世《げんせい》において|他《た》の|人々《ひとびと》と|交《まじ》はるに|際《さい》し、その|身体《しんたい》をして|之《これ》に|適順《てきじゆん》せしむるところの|手段《しゆだん》を|用《もち》ひることで、|特《とく》に|面色《めんしよく》、|語辞《ごじ》、|動作《どうさ》|等《とう》の|外的状態《ぐわいてきじやうたい》であり、|精霊《せいれい》の|内面《ないめん》とは|人《ひと》の|意思《いし》|及《およ》びその|意志《いし》よりする|想念《さうねん》に|属《ぞく》する|状態《じやうたい》であつて、|容易《ようい》に|外面《ぐわいめん》には|現《あら》はれないものであります。|凡《すべ》ての|人間《にんげん》は、|幼少《えうせう》の|頃《ころ》より|朋友《ほういう》の|情《じやう》だとか、|仁義《じんぎ》|誠実《せいじつ》、|道徳《だうとく》|等《とう》の|武器《ぶき》を|外面《ぐわいめん》に|模表《もへう》する|事《こと》を|習《なら》つてをりますが、その|意志《いし》よりするところの|凡《すべ》ての|想念《さうねん》は、|之《これ》を|深《ふか》く|内底《ないてい》に|包蔵《はうざう》するが|故《ゆゑ》に、|人間《にんげん》|同士《どうし》の|眼《め》よりは|之《これ》を|観破《くわんぱ》することは|実《じつ》に|不可能《ふかのう》であります。|現代《げんだい》の|人間《にんげん》は、その|内心《ないしん》は|如何《いか》に|邪悪無道《じやあくぶだう》に|充《み》ちてをつても、|表面《へうめん》|生活上《せいくわつじやう》の|便宜《べんぎ》のため、|似非《エセ》|道徳的《だうとくてき》、|似非《エセ》|文明的《ぶんめいてき》|生涯《しやうがい》を|営《いとな》むのは|常《つね》であります。|現界《げんかい》|永年《えいねん》の|習慣《しふくわん》の|結果《けつくわ》、|人間《にんげん》は|精神《せいしん》|痳痺《まひ》し|切《き》つてしまつて、|自己《じこ》の|内面《ないめん》さへ|知《し》る|事《こと》が|出来《でき》なくなつてをります。また|自己《じこ》の|内面的《ないめんてき》|生涯《しやうがい》の|善悪《ぜんあく》などに|就《つ》いて|煩慮《はんりよ》することさへも|稀《まれ》であります。|況《いは》んや、|自己《じこ》|以外《いぐわい》の|他人《たにん》の|内面的《ないめんてき》|生涯《しやうがい》の|如何《いかん》を|察知《さつち》するにおいておやであります。
|死後《しご》|直《ただ》ちに|精霊界《せいれいかい》における|人間《にんげん》|精霊《せいれい》の|状態《じやうたい》は、その|肉体《にくたい》が|現世《げんせい》にありし|時《とき》のごとく|依然《いぜん》として|容貌《ようばう》、|言語《げんご》、|性情《せいじやう》|等《とう》は|相酷似《あひこくじ》し、|道徳上《だうとくじやう》、|民文上《みんぶんじやう》の|生活《せいくわつ》の|状態《じやうたい》と|少《すこ》しの|相違《さうゐ》もない。ゆゑに|人間《にんげん》|死後《しご》の|精霊《せいれい》にして|精霊界《せいれいかい》において|相遇《あひあ》ふ|事物《じぶつ》に|注意《ちうい》を|払《はら》はず、また|天人《てんにん》が|彼《かれ》|精霊《せいれい》を|甦生《かうせい》せし|時《とき》においても、|自己《じこ》は|最早《もはや》|一箇《いつこ》の|精霊《せいれい》だといふことを|想《おも》ひ|起《おこ》さなかつたなれば、その|精霊《せいれい》は|依然《やはり》|高姫《たかひめ》のごとく、|現界《げんかい》に|在《あ》つて|生活《せいくわつ》を|送《おく》つてをるといふ|感覚《かんかく》をなすの|外《ほか》はないのです。|故《ゆゑ》に|人間《にんげん》の|死《し》といふものは、|唯《ただ》この|間《かん》の|通路《つうろ》に|過《す》ぎないものであります。
|現世《げんせい》を|去《さ》りて|未《いま》だ|幾何《いくばく》の|日時《にちじ》も|経《へ》ない|人間《にんげん》の|精霊《せいれい》も、また|現界人《げんかいじん》の|一時的《いちじてき》|変調《へんてう》によつて|霊界《れいかい》に|入《い》り|来《き》たりし|精霊《せいれい》も、|先《ま》づ|以上《いじやう》のごとき|状態《じやうたい》にをるものであつて、|生前《せいぜん》の|朋友《ほういう》や|知己《ちき》と|互《たが》ひに|相会《あひくわい》し|相識合《あひしりあ》ふものであります。|何《なん》となれば、|精霊《せいれい》なるものは、その|面色《めんしよく》や|言語《げんご》|等《とう》によつて|知覚《ちかく》し、また|相接近《あひせつきん》する|時《とき》はその|生命《せいめい》の|円相《ゑんさう》によつて|互《たが》ひに|知覚《ちかく》するものです。|霊界《れいかい》において|甲《かふ》が|若《も》し|乙《おつ》の|事《こと》を|思《おも》ふ|時《とき》は|忽《たちま》ちその|面貌《めんばう》を|思《おも》ひ、|之《これ》と|同時《どうじ》にその|生涯《しやうがい》において|起《おこ》りし|一切《いつさい》の|事物《じぶつ》を|思《おも》ふものです。そして|甲《かふ》において|之《これ》を|為《な》すときは、|乙《おつ》は|直《ただ》ちに|甲《かふ》の|前《まへ》に|現《あら》はれ|来《く》るもので、ちやうど|態人《わざびと》を|使《つか》ひに|遣《や》つて|招《まね》いて|来《く》るやうなものです。
|霊界《れいかい》において|何故《なぜ》かくのごとき|自由《じいう》あるかと|謂《ゐ》へば、|霊界《れいかい》は|想念《さうねん》の|世界《せかい》であるから、|自《おのづか》ら|想念《さうねん》の|交通《かうつう》があり、|何事《なにごと》も|霊的《れいてき》|事象《じしやう》に|支配《しはい》されてをりますから、|現界《げんかい》のごとく|時間《じかん》または|空間《くうかん》なるものがないからであります。それゆゑ|霊界《れいかい》に|入《い》り|来《き》たりしものはその|想念《さうねん》の|情動《じやうどう》によつて、|互《たが》ひにその|朋友《ほういう》、|親族《しんぞく》、|知己《ちき》を|認識《にんしき》せざるは|無《な》く、|現世《げんせい》にあつた|時《とき》の|交情《かうじやう》によつて|互《たが》ひに|談話《だんわ》も|為《な》し、|交際《かうさい》も|為《な》し、ほとんど|現世《げんせい》にありし|時《とき》と|少《すこ》しの|相違《さうゐ》もないのです。
|中《なか》にも|夫婦《ふうふ》の|再会《さいくわい》などは|普通《ふつう》とせられてゐますが、|夫婦《ふうふ》|再会《さいくわい》の|時《とき》は|互《たが》ひに|相祝《あひしゆく》し、|現世《げんせい》において|夫婦《ふうふ》|双棲《さうせい》の|歓喜《くわんき》を|味《あぢ》はひ|楽《たの》しんだ|程度《ていど》に|比《ひ》して、|或《あるひ》は|永《なが》く|久《ひさ》しく、|或《あるひ》は|少時間《せうじかん》、その|生涯《しやうがい》を|共《とも》にするものです。そしてその|夫婦《ふうふ》の|間《あひだ》に|真実《しんじつ》の|婚姻《こんいん》の|愛《あい》、|即《すなは》ち|神界《しんかい》の|愛《あい》に|基《もと》づいた|心《こころ》の|和合《わがふ》の|無《な》い|時《とき》は、その|夫婦《ふうふ》は|少時《しばらく》にして|相別《あひわか》るるものであります。また|夫婦《ふうふ》の|間《あひだ》に|現世《げんせい》において、|互《たが》ひに|了解《れうかい》なく|嫉妬《しつと》や|不和《ふわ》や|争闘《さうとう》や、その|他《た》|内心《ないしん》に|嫌忌《けんき》しつつあつたものは、この|仇讐的《きうしうてき》|想念《さうねん》はたちまち|外面《ぐわいめん》に|破裂《はれつ》して、|相争闘《あひさうとう》し|分離《ぶんり》するものであります。
|霊界《れいかい》にある|善霊《ぜんれい》すなはち|天人《てんにん》は、|現界《げんかい》より|新《あら》たに|入《い》り|来《き》たりし|精霊《せいれい》の|善悪正邪《ぜんあくせいじや》を|点検《てんけん》すべく、|種々《しゆじゆ》の|方法《はうはふ》を|用《もち》ふるものです。|精霊《せいれい》の|性格《せいかく》は、|死後《しご》の|外面《ぐわいめん》|状態《じやうたい》にあつては|容易《ようい》に|弁別《べんべつ》が|付《つ》かないものです。|如何《いか》に|凶悪無道《きようあくぶだう》なる|精霊《せいれい》にても、|外面的《ぐわいめんてき》|真理《しんり》を|克《よ》く|語《かた》り|善《ぜん》を|行《おこな》ふことは、|至誠《しせい》|至善《しぜん》の|善霊《ぜんれい》と|少《すこ》しも|相違《さうゐ》の|点《てん》を|見出《みいだ》すことが|出来《でき》ないのです。|外面上《ぐわいめんじやう》は|皆《みな》|有徳《いうとく》|愛善《あいぜん》らしき|生涯《しやうがい》を|送《おく》つてゐる。|現界《げんかい》において|一定《いつてい》の|統治制度《とうちせいど》の|下《もと》にあつて|法律《はふりつ》に|服従《ふくじゆう》して|生息《せいそく》し、これに|由《よ》つて|正《ただ》しきもの、|至誠者《しせいしや》との|名声《めいせい》を|博《はく》し|或《あるひ》は|特別《とくべつ》の|恵《めぐ》みを|受《う》けて|尊貴《そんき》の|地位《ちゐ》に|上《のぼ》り|富《とみ》を|蒐《あつ》めたるものであつて、|是等《これら》は|死後《しご》|少時《しばらく》は|善者《ぜんしや》|有徳者《いうとくしや》と|認《みと》めらるるものです。しかしながら|天人《てんにん》は|是等《これら》の|精霊《せいれい》の|善悪《ぜんあく》を|区別《くべつ》するに|当《あた》り、|大抵《たいてい》|左《さ》の|方法《はうはふ》に|由《よ》るものであります。|凡《すべ》て|何人《なにびと》も|所主《しよしゆ》の|愛《あい》に|左右《さいう》さるるものでありますから、|即《すなは》ち|凶霊《きようれい》は|常《つね》に|外面的《ぐわいめんてき》|事物《じぶつ》にのみついて|談論《だんろん》するを|好《この》むこと|甚《はなは》だしく、|内面的《ないめんてき》|事物《じぶつ》に|就《つ》いては|毫《がう》も|顧《かへり》みないからであります。|内的《ないてき》|事物《じぶつ》は|神《かみ》の|教《をしへ》、または|聖地《せいち》|救世主《きうせいしゆ》の|神格《しんかく》、|及《およ》び|高天原《たかあまはら》に|関《くわん》する|真《しん》と|善《ぜん》とに|関《くわん》しては|之《これ》を|談論《だんろん》せず、また|之《これ》を|教《をし》ふるも|聴《き》くことを|嫌忌《けんき》し|更《さら》に|意《い》に|留《と》めず、また|神《かみ》の|教《をしへ》を|聴《き》いて|楽《たの》しまず、|却《かへ》つて|不快《ふくわい》の|念《ねん》を|起《おこ》し|面貌《めんばう》にまで|表《あら》はすものです。
|現界人《げんかいじん》の|多《おほ》くは、|凡《すべ》て|神仏《しんぶつ》の|教《をしへ》を|迷信呼《めいしんよ》ばはりをなし、かつ|神仏《しんぶつ》を|口《くち》にすることを|大《おほ》いに|恥辱《ちじよく》のごとく|考《かんが》へてをるものが|大多数《だいたすう》であつて、|大本《おほもと》の|教《をしへ》を|此方《こちら》から|何《なに》ほど|親切《しんせつ》をもつて|聞《き》かし、|天界《てんかい》に|救《すく》ひ|助《たす》けむと|焦慮《せうりよ》するとも、|地獄道《ぢごくだう》に|籍《せき》をおいた|人間《にんげん》には、|到底《たうてい》|駄目《だめ》であることをしばしば|実験《じつけん》いたしました。しかしながら|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|大神《おほかみ》の|御心《みこころ》を|奉体《ほうたい》し|一人《ひとり》たりとも|天界《てんかい》に|進《すす》ませ、|永遠無窮《ゑいゑんむきう》の|生命《せいめい》に|赴《おもむ》かしめ、|以《もつ》て|神界《しんかい》|御経綸《ごけいりん》の|一端《いつたん》に|仕《つか》へなくてはならないのであります。|霊界《れいかい》においても|現界《げんかい》においても|同一《どういつ》ですが、|地獄入《ぢごくい》りの|凶霊《きようれい》と|天界往《てんかいゆ》きの|善霊《ぜんれい》とを|区別《くべつ》せむとするには、|凶霊《きようれい》はしばしばある|一定《いつてい》の|方向《はうかう》に|進《すす》まむとするを|見《み》ることが|出来《でき》ます。|凶霊《きようれい》がモシその|意《い》のままに|放任《はうにん》される|時《とき》はそれに|通《つう》ずる|道路《だうろ》を|往来《わうらい》するもので、|彼等《かれら》が|往来《わうらい》する|方向《はうかう》と|転向《てんかう》する|道路《だうろ》とによりて、その|所主《しよしゆ》の|愛《あい》は|何《いづ》れにあるかを|確《たし》かめらるるものであります。
|現界《げんかい》を|去《さ》つて|霊界《れいかい》に|新《あら》たに|入《い》り|来《き》たる|精霊《せいれい》は、|何《いづ》れも|高天原《たかあまはら》とか|地獄界《ぢごくかい》とかの|或《あ》る|団体《だんたい》に|属《ぞく》してゐないものはありませぬが、しかし|之《これ》は|内的《ないてき》の|事《こと》ですから、その|精霊《せいれい》がなほ|依然《いぜん》として|外面的《ぐわいめんてき》|状態《じやうたい》にある|間《あひだ》はその|内実《ないじつ》を|現《あら》はさない。|外面的《ぐわいめんてき》|事物《じぶつ》が|凡《すべ》ての|内面《ないめん》を|蔽《おほ》ひかくしてしまひ、|内面《ないめん》の|暴悪《ばうあく》なるものは、|殊《こと》にこれを|蔽《おほ》ひかくすこと|巧妙《かうめう》を|極《きは》めてをるからです。しかし|或《あ》る|一定《いつてい》の|期間《きかん》を|経《へ》たる|後《のち》に|彼等《かれら》の|精霊《せいれい》が|内面的《ないめんてき》|状態《じやうたい》に|移《うつ》る|時《とき》において、その|内分《ないぶん》の|一切《いつさい》が|暴露《ばくろ》するものです。この|時《とき》は|最早《もはや》|外面《ぐわいめん》は|眠《ねむ》り|且《か》つ|消失《せうしつ》し、|内面《ないめん》のみ|開《ひら》かるるからであります。|人間《にんげん》の|死後《しご》における|第一《だいいち》の|外面的《ぐわいめんてき》|情態《じやうたい》は、|或《あるひ》は|一日《いちにち》、|或《あるひ》は|数日《すうじつ》、|或《あるひ》は|数ケ月《すうかげつ》、|或《あるひ》は|一年《いちねん》に|渉《わた》ることがあります。されど|一年《いちねん》を|越《こ》ゆるものは|極《きは》めて|稀有《けう》の|事《こと》であります。かくのごとく|各自《かくじ》の|精霊《せいれい》が|外面《ぐわいめん》|状態《じやうたい》に|長短《ちやうたん》の|差《さ》ある|所以《ゆゑん》は、|内外《ないぐわい》|両面《りやうめん》の|一致《いつち》|不一致《ふいつち》によるものです。|何故《なぜ》なれば、|精霊界《せいれいかい》にあつては|何人《なにびと》といへども|思想《しさう》および|意志《いし》と|言説《げんせつ》または|行動《かうどう》を|別《べつ》にする|事《こと》を|許《ゆる》されないから、|各精霊《かくせいれい》の|内外《ないぐわい》|両面《りやうめん》が|一《ひとつ》となつて|相応《さうおう》せざればならぬからであります。
|精霊界《せいれいかい》にあるものは、|自有《じいう》の|情動《じやうどう》たる|愛《あい》の|影像《えいざう》ならぬものはありませぬから、その|内面《ないめん》にあるところの|一切《いつさい》をその|外面《ぐわいめん》に|露《あら》はさないわけにはゆきませぬ。これゆゑ|善霊《ぜんれい》なる|天人《てんにん》は|先《ま》づ|精霊《せいれい》の|外面《ぐわいめん》を|暴露《ばくろ》せしめ、これを|順序中《じゆんじよちう》に|入《い》らしめて、|以《もつ》てその|内面《ないめん》に|相応《さうおう》する|平面《へいめん》たらしめらるるのであります。そしてかくのごとき|順序《じゆんじよ》を|取《と》るところは、|精霊界《せいれいかい》すなはち|中有界《ちううかい》の|中心点《ちうしんてん》たる|天《あめ》の|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》であつて、|伊吹戸主神《いぶきどぬしのかみ》の|主管《しゆくわん》し|給《たま》ふ、ブルガリオにおいて|行《おこな》はるるものであります。
|内面的《ないめんてき》|情態《じやうたい》は、|人間《にんげん》の|死後《しご》ある|一定《いつてい》の|期間《きかん》を|中有界《ちううかい》にて|経過《けいくわ》し、|心《こころ》|即《すなは》ち|意志《いし》と|想念《さうねん》に|属《ぞく》する|精霊《せいれい》の|境遇《きやうぐう》をいふのです。|人間《にんげん》の|生涯《しやうがい》、|言説《げんせつ》、|行為《かうゐ》|等《とう》を|観察《くわんさつ》する|時《とき》は、|何人《なにびと》にも|内面《ないめん》|外面《ぐわいめん》の|二方面《にはうめん》を|有《いう》することが|知《し》り|得《え》られます。その|想念《さうねん》にも|意志《いし》にも|内外《ないぐわい》|両面《りやうめん》の|区別《くべつ》があるものです。|凡《すべ》て|民文《みんぶん》の|発達《はつたつ》した|社会《しやくわい》に|生存《せいぞん》するものは、|他人《たにん》の|事《こと》を|思惟《しゐ》するに|当《あた》り、その|人《ひと》に|対《たい》する|世間《せけん》の|風評《ふうひやう》または|談話《だんわ》|等《とう》に|由《よ》つて|見《み》たり|聞《き》いたりしたところのものを|以《もつ》て、|人間《にんげん》の|性能《せいのう》を|観察《くわんさつ》する|基礎《きそ》となすものです。されど|人間《にんげん》は|他人《たにん》と|物語《ものがた》る|時《とき》に|際《さい》して、|自分《じぶん》の|心《こころ》の|儘《まま》を|語《かた》るものではありませぬ。たとへ|対者《たいしや》が|悪人《あくにん》と|知《し》つても、また|自分《じぶん》の|気《き》に|合《あ》はない|人《ひと》であつても、その|交際《かうさい》|応接《おうせつ》などの|点《てん》はなるべく|礼《れい》に|合《あ》ふべく、また|相手方《あひてがた》の|感情《かんじやう》を|害《がい》せざるやうにと|努《つと》むるもので、|実《じつ》に|偽善的《ぎぜんてき》の|行為《かうゐ》を|敢《あへ》てするもので、またこれでなければ|社会《しやくわい》より|排斥《はいせき》されてしまふやうな|矛盾《むじゆん》が|出来《しゆつたい》する|世《よ》の|中《なか》であります。そして|凡《すべ》ての|人《ひと》は|見《み》えすいたやうな|嘘《うそ》でも|善《よ》く|言《い》はれると|大変《たいへん》|歓《よろこ》ぶものですが、これに|反《はん》し|真実《しんじつ》をその|人《ひと》の|前《まへ》に|赤裸々《せきらら》に|言明《げんめい》する|時《とき》は|非常《ひじやう》に|不快《ふくわい》の|念《ねん》を|起《おこ》し、|遂《つひ》には|敵視《てきし》するやうになり、|害《がい》を|加《くは》ふるやうな|事《こと》が|出来《でき》るものです。|故《ゆゑ》に|現代《げんだい》の|人間《にんげん》のいふところ、|行《おこな》ふところは、その|思《おも》ふところ|願《ねが》ふところと|全《まつた》く|正反対《せいはんたい》のものです。
|偽善者《きぜんしや》の|境遇《きやうぐう》にあるものは、|高天原《たかあまはら》の|経綸《けいりん》や|死後《しご》の|世界《せかい》や、|霊魂《れいこん》の|救《すく》ひや|聖場《せいぢやう》の|真理《しんり》や|国家《こくか》の|利福《りふく》や|隣人《りんじん》の|事《こと》を|語《かた》らしておけば、|恰《あたか》も|天人《てんにん》のごとく|愛善《あいぜん》と|信真《しんしん》に|一切《いつさい》|基《もと》づけるやうなれども、その|内実《ないじつ》には|高天原《たかあまはら》の|経綸《けいりん》も|霊魂《れいこん》の|救《すく》ひも|死後《しご》の|世界《せかい》も|信《しん》じないのみか、ただ|愛《あい》するところのものは|自己《じこ》の|利益《りえき》あるのみであります。かくのごとき|偽善者《きぜんしや》、|偽信者《にせしんじや》はずゐぶん|太古《たいこ》の|教徒《けうと》の|中《なか》にも|可《か》なり|沢山《たくさん》あつたものですが、|現代《げんだい》の|三五教《あななひけう》の|中《なか》には|十指《じつし》を|折《を》り|数《かぞ》へたら、|最早《もはや》|残《のこ》るは|外面的《ぐわいめんてき》|状態《じやうたい》にあるものばかりで、|天国《てんごく》に|直《ただ》ちに|上《のぼ》り|得《う》る|精霊《せいれい》は|少《すく》ないやうであります。
|凡《すべ》て|人間《にんげん》の|想念《さうねん》には|内面《ないめん》、|外面《ぐわいめん》の|区別《くべつ》がありまして、かくのごとき|人間《にんげん》は、|外面的《ぐわいめんてき》|想念《さうねん》によりて|言説《げんせつ》をなし、|内面《ないめん》には|却《かへ》つて|異様《いやう》の|感情《かんじやう》を|包蔵《はうざう》してをるものです。そして|内外《ないぐわい》|両面《りやうめん》を|区別《くべつ》する|事《こと》に|努《つと》めて、|一《ひとつ》とならないやうにと|努《つと》むるものです。|真《しん》に|高天原《たかあまはら》の|経綸《けいりん》を|扶《たす》け|聖壇《せいだん》の|隆盛《りうせい》を|祈《いの》り、|死後《しご》の|安住所《あんぢうしよ》を|得《え》むことを|思《おも》はば、|如何《いか》なる|事情《じじやう》をも|道《みち》のためには|忍《しの》ぶべきものであります。|神様《かみさま》の|御用《ごよう》にたて|得《え》らるるだけの|余裕《よゆう》を|与《あた》へられたのも、|皆《みな》|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》であることを|忘《わす》れ、|自有《じいう》と|心得《こころえ》てをるからです。ここに|外面《ぐわいめん》|内面《ないめん》の|衝突《しようとつ》を|来《き》たすことになつて|来《く》るのです。しかし|現代《げんだい》の|理窟《りくつ》から|言《い》へば、|内外《ないぐわい》|両面《りやうめん》を|区別《くべつ》して|考《かんが》ふる|事《こと》が|至当《したう》となつてをります。そして|右様《みぎやう》の|説《せつ》に|対《たい》しては|種々《しゆじゆ》の|悪名《あくめい》をもつて|対抗《たいかう》し、かつ|悪魔《あくま》の|言《げん》と|貶《けな》すものであります。|又《また》かくのごとき|人《ひと》は|内面的《ないめんてき》|想念《さうねん》の|外表《ぐわいへう》に|流《なが》れ|出《い》でてここに|暴露《ばくろ》することなからむを|勉《つと》め、|現界的《げんかいてき》|道理《だうり》によつて、|凡《すべ》てを|解決《かいけつ》せむとし、|内面的《ないめんてき》|神善《しんぜん》を|抹殺《まつさつ》するものであります。
さりながら|人間《にんげん》の|創造《さうざう》さるるや、その|内面的《ないめんてき》|想念《さうねん》をして、|相応《さうおう》に|由《よ》りて|外面的《ぐわいめんてき》|想念《さうねん》と|相一致《あひいつち》せしめなくてはならない|理由《りいう》があるのです。この|一致《いつち》は|真《しん》の|善人《ぜんにん》において|見《み》るところであつて、その|思《おも》ふところも|言《い》ふところも、|唯《ただ》ただ|善《ぜん》のみだからであります。かくのごとき|内外《ないぐわい》|両面《りやうめん》の|想念《さうねん》の|一致《いつち》する|事《こと》は、たうてい|地獄的《ぢごくてき》|悪人《あくにん》においては|見《み》る|事《こと》が|出来《でき》ない。|何故《なぜ》なれば、|心《こころ》に|悪《あく》を|思《おも》ひながら|善《ぜん》を|口《くち》に|語《かた》り、|全《まつた》く|善人《ぜんにん》と|正反対《せいはんたい》の|情態《じやうたい》にあるものです。|外面《ぐわいめん》に|善《ぜん》を|示《しめ》して|悪《あく》を|抱《いだ》いてをる。かくて|善《ぜん》は|悪《あく》のために|制《せい》せられ、これに|使役《しえき》さるるに|至《いた》るのであります。|悪人《あくにん》はその|所主《しよしゆ》の|愛《あい》に|属《ぞく》する|目的《もくてき》を|達成《たつせい》せむがために、|表《おもて》に|善《ぜん》を|飾《かざ》つて|唯一《ゆゐいつ》の|方便《はうべん》となすものです。|故《ゆゑ》にその|言説《げんせつ》と|行動《かうどう》とに|現《あら》はれるところの|善事《ぜんじ》なるものは、その|中《なか》に|悪《あ》しき|目的《もくてき》を|包蔵《はうざう》してをるので、|善《ぜん》も|決《けつ》して|善《ぜん》でなく、|悪《あく》の|汚《けが》すところとなるは|明白《めいはく》なものです。|外面的《ぐわいめんてき》にこれを|見《み》て|善事《ぜんじ》となすものは、その|内面《ないめん》を|少《すこ》しも|知悉《ちしつ》せざるものの|言葉《ことば》であります。
|真《しん》の|善《ぜん》にをるものは、|順序《じゆんじよ》を|乱《みだ》すこと|無《な》く、その|善《ぜん》は|皆《みな》|内面的《ないめんてき》|想念《さうねん》より|流《なが》れて|外面《ぐわいめん》に|出《で》て、それが|言説《げんせつ》となり|行動《かうどう》となるのは、|人間《にんげん》はかくのごとき|順序《じゆんじよ》のもとに|創造《さうざう》せられたものであるからであります。|人間《にんげん》の|内面《ないめん》は|凡《すべ》て|高天原《たかあまはら》の|神界《しんかい》にあり、|神界《しんかい》の|光明中《くわうみやうちう》に|包《つつ》まれてをる。その|光明《くわうみやう》とは、|大神《おほかみ》より|起来《きらい》するところの|神真《しんしん》で、いはゆる|高天原《たかあまはら》の|主《しゆ》なるものです。|人間《にんげん》は|内外《ないぐわい》|両面《りやうめん》の|想念《さうねん》があり、その|想念《さうねん》が|内外《ないぐわい》たがひに|相隔《あひへだ》たりをることは|前述《ぜんじゆつ》の|通《とほ》りであります。|想念《さうねん》と|言《い》つたのはその|中《なか》に|意志《いし》をも|包含《はうがん》して|併《あは》せて|言《い》つたのです。|盖《けだ》し|想念《さうねん》なるものは|意志《いし》より|来《き》たり、|意志《いし》なければ|何人《なにびと》と|雖《いへど》も|想念《さうねん》なるものはありませぬ。また|意志《いし》および|想念《さうねん》といふ|時《とき》は、この|意志《いし》の|裡《うち》にもまた|情動《じやうどう》、|愛《あい》、およびこれらより|起来《きらい》する|歓喜《くわんき》や|悦楽《えつらく》をも|含《ふく》んでをります。|以上《いじやう》のものは|何《いづ》れも|意志《いし》と|関連《くわんれん》してをるからです。|何故《なぜ》なれば|人《ひと》はその|欲《ほつ》するところを|愛《あい》し、これによつて|歓喜《くわんき》|悦楽《えつらく》の|情《じやう》を|生《しやう》ずるものだからです。また|想念《さうねん》といふことは、|人《ひと》が|由《よ》りて|以《もつ》てその|情動《じやうどう》|即《すなは》ち|愛《あい》を|確《たし》かむるところの|一切《いつさい》を|言《い》ふのです。なんとなれば|想念《さうねん》は|意志《いし》の|形式《けいしき》に|過《す》ぎないものです。|即《すなは》ち|意志《いし》が|由《よ》りて|以《もつ》て|自《みづか》ら|顕照《けんせう》せむと|欲《ほつ》するところのものに|過《す》ぎないからであります。この|形式《けいしき》は|種々《しゆじゆ》の|理性的《りせいてき》|解剖《かいばう》によつて|現《あら》はれるもので、その|源泉《げんせん》を|霊界《れいかい》に|発《はつ》し|人《ひと》の|精霊《せいれい》に|属《ぞく》するものであります。
|凡《すべ》て|人間《にんげん》の|人間《にんげん》たる|所以《ゆゑん》は|全《まつた》くその|内面《ないめん》にあつて、|内面《ないめん》を|放《はな》れたところの|外面《ぐわいめん》にあらざることを|知《し》らねばならない。|内面《ないめん》は|人《ひと》の|霊《れい》に|属《ぞく》し、|人《ひと》の|生涯《しやうがい》なるものは、この|内面《ないめん》なる|霊《れい》(|精霊《せいれい》)の|生涯《しやうがい》に|外《ほか》ならないからです。|人《ひと》の|身体《しんたい》に|生命《いのち》のあるのは、この|精霊《せいれい》に|由《よ》るものです。この|理《り》によつて|人《ひと》はその|内面《ないめん》のごとくに|生存《せいぞん》し|永遠《ゑいゑん》に|渉《わた》りて|変《かは》らず、|不老不死《ふらうふし》の|永生《えいせい》を|保《たも》つものです。されど|外面《ぐわいめん》はまた|肉体《にくたい》に|属《ぞく》するが|故《ゆゑ》に、|死後《しご》は|必《かなら》ず|離散《りさん》し|消滅《せうめつ》し、その|霊《れい》に|属《ぞく》してゐた|部分《ぶぶん》は|眠《ねむ》り、ただ|内面《ないめん》のために、これが|平面《へいめん》となるに|過《す》ぎないのです。かくて|人間《にんげん》の|自有《じいう》に|属《ぞく》するものと|属《ぞく》せざるものとの|区別《くべつ》が|明《あき》らかになるのであります。|悪人《あくにん》にあつてはその|言説《げんせつ》を|起《おこ》さしむるところの|外的《ぐわいてき》|想念《さうねん》と、その|行動《かうどう》を|起《おこ》さしむるところの|外的《ぐわいてき》|意志《いし》とに|属《ぞく》するものは、|一《いつ》ももつて|彼等《かれら》の|自有《じいう》と|為《な》すべからざるものと|知《し》り|得《う》るでありませう。ただその|内面的《ないめんてき》なる|想念《さうねん》と|意志《いし》とに|属《ぞく》するもの|而己《のみ》が、|自有《じいう》を|為《な》し|得《う》るのであります。|故《ゆゑ》に|永遠《ゑいゑん》の|生命《せいめい》に|入《い》りたる|時《とき》|自有《じいう》となるべきものは、|神《かみ》の|国《くに》の|栄《さか》えのために|努力《どりよく》した|花実《くわじつ》ばかりで、|其《その》|他《た》の|一切《いつさい》のものは、|中有界《ちううかい》において|剥脱《はくだつ》されるものであります。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・五・二四 旧四・九 於竜宮館 加藤明子録)
第一一章 |怪道《くわいだう》〔一六一八〕
カークス、ベースの|両人《りやうにん》は、にはかに|四辺《あたり》の|光景《くわうけい》|一変《いつぺん》した|大原野《だいげんや》の|真中《まんなか》を|無言《むごん》のままトボトボと、|何者《なにもの》にか|押《お》さるるやうに|進《すす》んで|往《ゆ》く。|頭《あたま》の|禿《は》げた|饅頭形《まんぢうがた》の|小《ちひ》さい|丘《をか》の|麓《ふもと》を|辿《たど》つてゆくと、|其所《そこ》には|松《まつ》と|桜《さくら》の|樹《き》が|一株《ひとかぶ》のやうになつて|睦《むつ》まじげに|立《た》つてゐる。|冬《ふゆ》の|景色《けしき》と|見《み》えて、とがつた|松葉《まつば》が|風《かぜ》に|揺《ゆ》られて、パラパラと|両人《りやうにん》が|頭上《づじやう》にふつて|来《く》る。|桜《さくら》はもはや|真裸《まつぱだか》となつて|凩《こがらし》に|梢《こずゑ》が|慄《ふる》うてゐた。
カークス『オイ、ベース、|俺《おれ》|達《たち》はスーラヤの|死線《しせん》を|越《こ》えて、|伊太彦司《いたひこつかさ》と|共《とも》に|竜王《りうわう》の|岩窟《がんくつ》に|確《たし》かに|這入《はい》つたつもりでゐるのに、|何時《いつ》の|間《ま》にか、かふいふ|所《ところ》へ|来《き》てゐるのは|不思議《ふしぎ》ぢやないか。さうして|俺《おれ》の|立《た》つた|時《とき》はまだ|夏《なつ》の|終《をは》りぢやつたが、いつの|間《ま》にかう|冬《ふゆ》が|来《き》たのだらう。|合点《がつてん》のゆかぬ|事《こと》だなア』
ベース『ウン、さうだなア、|何《なん》とも|合点《がつてん》のいかぬ|事《こと》だ。おほかた|夢《ゆめ》を|見《み》てゐたのだらう。やつぱりスダルマ|山《さん》の|山腹《さんぷく》で|樵夫《きこり》をやつてゐた|時《とき》に、グツスリと|眠《ねむ》つてしまひ、その|間《あひだ》に|冬《ふゆ》が|来《き》たのかも|知《し》れないよ』
『それだといつて、|伊太彦《いたひこ》といふ|綺麗《きれい》な|神司《かむつかさ》とテルの|里《さと》へいつて、ルーブヤさまの|館《やかた》に|宿《とま》りこみ|結構《けつこう》な|御馳走《ごちそう》にあづかり、それから|船《ふね》に|乗《の》り、スーラヤ|山《さん》の|死線《しせん》を|越《こ》えたことは|確《たし》かに|記憶《きおく》に|残《のこ》つてゐる。おほかた|今《いま》が|夢《ゆめ》かも|知《し》れないよ。|夢《ゆめ》といふ|奴《やつ》は|僅《わづ》か|五分《ごふん》か|六分《ろつぷん》かの|間《あひだ》に|生《うま》れて|死《し》ぬまでの|事《こと》を|見《み》るものだ、|夢《ゆめ》は|想念《さうねん》の|延長《えんちやう》だから、かうしてゐるのが|夢《ゆめ》かもしれない。|何《なん》といつても|夢《ゆめ》の|浮世《うきよ》といふからなア』
『|何《なん》と|言《い》つても|此処《ここ》は|見馴《みな》れない|所《ところ》だ。いつの|間《ま》にスーラヤ|山《さん》から|此処《ここ》へ|来《き》たのだらう。さうして|四辺《あたり》の|景色《けしき》は|冬《ふゆ》の|景《けい》ぢや。パインの|老木《らうぼく》の|間《あひだ》から|針《はり》のやうな|枯松葉《かれまつば》が|降《ふ》つて|来《く》る。|桜《さくら》は|真《ま》つ|裸《ぱだか》になつて|慄《ふる》つてゐる。とも|角《かく》も|行《ゆ》く|所《ところ》まで|行《ゆ》かうよ。また|好《い》い|事《こと》があるかも|知《し》れないよ。
|思《おも》ひきやスーラヤ|山《さん》の|岩窟《がんくつ》に
|進《すす》みし|吾《われ》の|斯《か》くあらむとは
|夢《ゆめ》ならば|一時《いちじ》も|早《はや》く|覚《さ》めよかし
|心《こころ》の|空《そら》の|雲《くも》を|晴《は》らして』
『|大空《おほぞら》は|皆《みな》|黒雲《くろくも》に|包《つつ》まれて
|行手《ゆくて》も|知《し》らぬ|吾《われ》ぞ|悲《かな》しき
ウラル|彦《ひこ》|神《かみ》の|命《みこと》の|戒《いまし》めに
|遇《あ》ひて|迷《まよ》ふか|吾《われ》ら|二人《ふたり》は』
『ウラル|彦《ひこ》|神《かみ》の|教《をしへ》も|三五《あななひ》の
|道《みち》も|御神《みかみ》の|作《つく》らしし|教《のり》
|吾《われ》は|今《いま》|途方《とはう》に|暮《く》れて|冬《ふゆ》の|野《の》の
いとも|淋《さび》しき|旅《たび》に|立《た》つかな
|伊太彦《いたひこ》やブラワ゛ーダ|姫《ひめ》は|今《いま》いづく
アスマガルダの|影《かげ》さへ|見《み》えず』
『|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|暗《やみ》に|包《つつ》まれて
|今《いま》|八衢《やちまた》に|迷《まよ》ふなるらむ
|天地《あめつち》の|皇大神《すめおほかみ》よ|憐《あは》れみて
|吾《われ》ら|二人《ふたり》の|行方《ゆくて》を|照《て》らしませ
|月《つき》も|日《ひ》も|星《ほし》かげもなき|冬《ふゆ》の|野《の》を
|彷徨《さまよ》ふ|吾《われ》らが|心《こころ》|淋《さび》しさ
|如何《いか》にせば|常世《とこよ》の|春《はる》の|花《はな》|匂《にほ》ふ
|吾《わ》が|故郷《ふるさと》に|帰《かへ》りゆくらむ』
『|日《ひ》も|月《つき》も|西《にし》に|傾《かたむ》く|世《よ》の|中《なか》に
|吾《われ》は|淋《さび》しき|荒野《あらの》に|迷《まよ》ふ
|西《にし》【きた】か|東《ひがし》へ|来《き》たか|知《し》らねども
【みなみ】の|罪《つみ》と|締《あきら》めゆかむ
|西《にし》|東《ひがし》|南《みなみ》も|北《きた》もわきまへぬ
|今《いま》|幼児《をさなご》となりにけるかな』
『エエ|仕方《しかた》がない。|犬《いぬ》も|歩《ある》けば|棒《ぼう》に|当《あた》るとやらいふ|事《こと》がある。さア、これから|膝栗毛《ひざくりげ》の|続《つづ》くだけ|此《こ》の|道《みち》を|進《すす》んで|見《み》よう』
ここに|二人《ふたり》は|凩《こがらし》|吹《ふ》き|荒《すさ》ぶ|野路《のぢ》の|淋《さび》しみを|消《け》さむがために|出放題《ではうだい》の|歌《うた》を|謡《うた》つて、|足《あし》に|任《まか》せトボトボと|進《すす》み|行《ゆ》くこととなつた。
カークス『アア|訝《いぶ》かしや|訝《いぶ》かしや ここは|冥途《めいど》か|八衢《やちまた》か
ただしは|浮世《うきよ》の|真中《まんなか》か |四辺《あたり》の|景色《けしき》を|眺《なが》むれば
|山野《やまの》の|草木《くさき》は|枯《か》れはてて |露《つゆ》もやどらぬ|淋《さび》しさよ
パインの|木蔭《こかげ》に|立《た》ち|寄《よ》つて |息《いき》|休《やす》めむと|打《う》ち|仰《あふ》ぎ
|見《み》れば|枯葉《かれは》はバタバタと |針《はり》のごとくに|下《くだ》り|来《き》て
|薄《うす》き|衣《ころも》を|刺《さ》し|通《とほ》し |桜《さくら》の|梢《こずゑ》はブルブルと
|冷《つめた》き|風《かぜ》に|慄《ふる》ひゐる |合点《がてん》のいかぬこの|旅路《たびぢ》
|夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|幻《まぼろし》か |三五教《あななひけう》の|伊太彦《いたひこ》と
スダルマ|山《さん》の|間道《かんだう》を |漸《やうや》く|渡《わた》りてテルの|里《さと》
ルーブヤ|館《やかた》に|立《た》ちよりて |天女《てんによ》のやうなブラワ゛ーダ
|姫《ひめ》の|命《みこと》にもてなされ それより|船《ふね》に|身《み》を|任《まか》せ
|一行《いつかう》|五人《ごにん》スーラヤの |山《やま》に|鎮《しづ》まるウバナンダ
ナーガラシャーの|宝玉《はうぎよく》を |神《かみ》の|御《おん》ため|世《よ》のために
|受《う》け|取《と》り|珍《うづ》の|聖場《せいぢやう》へ |献《たてまつ》らむと|思《おも》ひしは
|夢《ゆめ》でありしかこれは|又《また》 |合点《がてん》のいかぬ|事《こと》ばかり
|夢《ゆめ》の|中《なか》なる|貴人《あでびと》は |今《いま》はいづくに|在《ま》しますか
|尋《たづ》ぬるよしも|泣《な》くばかり |霜《しも》の|剣《つるぎ》や|露《つゆ》の|玉《たま》
|吾《わ》が|身《み》にひしひし|迫《せま》り|来《く》る これぞ|全《まつた》く|今《いま》までの
|犯《をか》せし|罪《つみ》の|報《むく》いにか ただしは|前世《ぜんせ》の|因縁《いんねん》か
|実《げ》に|怖《おそ》ろしき|今日《けふ》の|空《そら》 |進《すす》みかねたる|膝栗毛《ひざくりげ》
あてどもなしに|彷徨《さまよ》ひて |地獄《ぢごく》の|里《さと》に|進《すす》むのか
ただしは|常世《とこよ》の|花《はな》|匂《にほ》ふ |天国《てんごく》|浄土《じやうど》に|上《のぼ》るのか
|神《かみ》ならぬ|身《み》の|吾々《われわれ》は |如何《いか》に|詮術《せんすべ》|泣《な》く|涙《なみだ》
|暗路《やみぢ》に|迷《まよ》ふ|苦《くる》しさよ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|光《ひかり》の|一時《ひととき》も |早《はや》く|吾《わ》が|身《み》を|照《て》らせかし』
ベース『|旭《あさひ》は|照《て》らず|月《つき》は|出《で》ず |星《ほし》の|影《かげ》さへ|見《み》えぬ|空《そら》
|亡者《まうじや》のごとく|吾々《われわれ》は |見《み》なれぬ|道《みち》を|辿《たど》りつつ
あてどもなしに|進《すす》み|行《ゆ》く |吾《わ》が|行《ゆ》く|先《さき》は|天国《てんごく》か
ただしは|聖地《せいち》のエルサレム |黄金山《わうごんざん》か|八衢《やちまた》か
|深《ふか》き|濃霧《のうむ》に|包《つつ》まれて |大海原《おほうなばら》を|行《ゆ》く|船《ふね》の
あてども|知《し》らぬ|心地《ここち》なり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|天地《てんち》に|神《かみ》のましまさば |二人《ふたり》の|今《いま》の|身《み》の|上《うへ》を
|憐《あは》れみたまひて|現界《げんかい》か はた|霊界《れいかい》か|天国《てんごく》か
|但《ただ》しは|地獄《ぢごく》か|八衢《やちまた》か いと|明《あき》らけく|知《し》らしませ
|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》 なりとの|教《をしへ》は|聞《き》きつれど
かくも|迷《まよ》ひし|吾《わ》が|霊《たま》は |常夜《とこよ》の|暗《やみ》のごとくなり
|月日《つきひ》の|光《ひかり》も|左《さ》ほどには |尊《たふと》く|清《きよ》く|思《おも》はざりし
|吾等《われら》も|今《いま》は|漸《やうや》くに いづの|御光《みひかり》|瑞御霊《みづみたま》
|月《つき》の|光《ひかり》の|尊《たふと》さを |正《まさ》しく|悟《さと》り|初《そ》めてけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |吾《われ》らを|作《つく》りし|皇神《すめかみ》よ
|一時《いちじ》も|早《はや》く|吾《わ》が|胸《むね》の |醜《しこ》の|横雲《よこぐも》|打《う》ち|払《はら》ひ
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|行方《ゆくへ》をば |照《て》らさせたまへ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎまつる』
かく|謡《うた》ひつつ|漸《やうや》くにして|濁流《だくりう》みなぎる|河辺《かはべ》に|着《つ》いた。
カークス『オイ、|此処《ここ》には|雨《あめ》も|降《ふ》らぬのに|大変《たいへん》な|濁流《だくりう》が|流《なが》れてゐるぢやないか。こんな|大《おほ》きな|川《かは》を|渡《わた》らうものなら、それこそ|命《いのち》の|安売《やすう》りだ。もう|仕方《しかた》がない。|二十世紀《にじつせいき》ぢやないが、|何《なに》もかも|行《ゆ》きつまりだ、|後《あと》へ|引《ひ》きかへさうか』
ベース『|引《ひ》きかへさうと|思《おも》つても、|何者《なにもの》か|後《うし》ろから|押《お》して|来《く》るのだから|仕方《しかた》がないぢやないか。「|慢心《まんしん》いたすと|神《かみ》の|試《ため》しに|遇《あ》うて|行《ゆ》きも|帰《かへ》りもならないやうになる」と|三五教《あななひけう》の|教典《けうてん》に|示《しめ》されてゐるが、|矢張《やつぱ》り|吾々《われわれ》はソーシャリズムとか|自由平等主義《じいうべうどうしゆぎ》だとかいつて|神様《かみさま》を|軽《かろ》んじて|来《き》た|結果《けつくわ》、こんな|羽目《はめ》に|陥《おちい》つたのだ。どうしても|是《これ》は|現界《げんかい》とは|思《おも》はれないな。|竜神《りうじん》の|岩窟《がんくつ》で|命《いのち》を|取《と》られ|此処《ここ》へ|来《き》たのだ。もうかうなれば|覚悟《かくご》をするより|仕方《しかた》がないぞ』
『さうだ。どう|考《かんが》へて|見《み》ても|現界《げんかい》のやうぢやない。お|前《まへ》の|言《い》ふとほり、これから|駒《こま》の|頭《かしら》を|立《た》て|直《なほ》し、|弱《よわ》くてはいけないから、たとへ|地獄《ぢごく》へ|行《ゆ》かうとも|大《おほ》いに|馬力《ばりき》を|出《だ》してメートルをあげ、|地獄《ぢごく》の|鬼《おに》を|脅迫《けふはく》し、|舌《した》を|捲《ま》かせ、|共和国《きようわこく》でも|建設《けんせつ》しようぢやないか。とにかく|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》は|弱《よわ》くては|立《た》てぬのだからなア』
『さうだと|言《い》つて、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》の|小勢《こぜい》では|地獄《ぢごく》を|征服《せいふく》するわけにもゆくまい。|閻魔大王《えんまたいわう》とかいふやつがゐて|、帖面《ちやうめん》を|繰《く》つて|吾々《われわれ》の|罪状《ざいじやう》を|一々《いちいち》|読《よ》み|上《あ》げ、|焦熱地獄《せうねつぢごく》へでも|落《お》とさうといつたらどうする、どうせ|天国《てんごく》へ|行《ゆ》かれるやうな|行《おこな》ひはして|来《き》てゐないからなア』
『なに|心配《しんぱい》するな|地獄《ぢごく》といふ|所《ところ》は|強《つよ》い|者勝《ものが》ちの|世《よ》の|中《なか》だ。|小《ちひ》さい|悪人《あくにん》は|厳《きび》しい|刑罰《けいばつ》を|受《う》けるなり、|大《だい》なる|悪人《あくにん》は|地獄《ぢごく》の|王者《わうじや》となつて|大勢《おほぜい》の|亡者《まうじや》を|腮《あご》で|使《つか》ひ、|愉快《ゆくわい》な|生活《せいくわつ》を|送《おく》らうとままだよ。|閻魔《えんま》などはあるものぢやない。|霊界《れいかい》も|現界《げんかい》と|同《おな》じことだ。|現界《げんかい》の|状態《じやうたい》を|考《かんが》へて|見《み》よ。|下《した》にあつて|乱《らん》すれば|刑《けい》せられ、|上《うへ》にあつて|乱《らん》すれば|衆人《しうじん》より|尊敬《そんけい》せらるる|矛盾《むじゆん》|暗黒《あんこく》の|世《よ》の|中《なか》だ、|吾々《われわれ》は|弱《よわ》くてはならない。これから|褌《ふんどし》を|確《しつか》りと|締《し》め、|捻鉢巻《ねぢはちまき》をして|細《ほそ》い|腕《うで》に|撚《よ》りをかけ、この|濁流《だくりう》を|向《む》かふに|渡《わた》り、|地獄《ぢごく》|征服《せいふく》と|出《で》かけようぢやないか。|人間《にんげん》の|精霊《せいれい》といふものは、|所主《しよしゆ》の|愛《あい》によつて|天国《てんごく》なりまた|地獄《ぢごく》へ|籍《せき》を|置《お》いてゐるのださうだから、|何《なに》|地獄《ぢごく》だつてかまふものか、|自分《じぶん》の|本籍《ほんせき》に|帰《かへ》るやうなものだ。|片《かた》つ|端《ぱし》から|暴威《ばうゐ》を|揮《ふる》つて|四辺《あたり》の|小団体《せうだんたい》を|征服《せいふく》し、|大同団結《だいどうだんけつ》を|作《つく》り、カークス、ベース|王国《わうこく》を|建《た》てようぢやないか。なに、|地獄《ぢごく》くらゐに|屁古《へこ》たれてたまらうかい。|何《なに》ほど|地獄《ぢごく》がつらいといつても|現界《げんかい》くらゐのものだ。|現界《げんかい》はいはゆる|地獄《ぢごく》の|映象《えいしやう》だといふ|事《こと》だから、|吾々《われわれ》は|経験《けいけん》がつんでゐる。|現界《げんかい》では|大黒主《おほくろぬし》といふ|大将《たいしやう》が|居《ゐ》るから|吾々《われわれ》の|思《おも》ふやうにはゆかないが、|地獄《ぢごく》は|勝手《かつて》だ。この|腕《うで》が|一本《いつぽん》あればどんな|事《こと》でも|出来《でき》るよ』
『さうだなア。どうやら|地獄《ぢごく》の|八丁目《はつちやうめ》らしい。|取《と》つたか|見《み》たかだ。この|濁流《だくりう》を|横《よこ》ぎり、その|勢《いきほ》ひで|地獄《ぢごく》に|侵入《しんにふ》し、|一《ひと》つ|脅喝的《けふかつてき》|手段《しゆだん》を|弄《ろう》して|粟散鬼王《ぞくさんきわう》を|平《たひ》らげ、|天晴《あつぱ》れ|地獄界《ぢごくかい》の|勇者《ゆうしや》となるも|妙《めう》だ。ヤア|勇《いさ》ましくなつて|来《き》た。|毒《どく》を|喰《く》らへば|皿《さら》までだ。どうせ|吾々《われわれ》は|天国代物《てんごくしろもの》ぢやないからなア。アハハハハ』
かく|両人《りやうにん》は|河端《かはばた》に|佇《たたず》み|泡沫《はうまつ》のごとき|望《のぞ》みを|抱《いだ》いて|雄健《をたけ》びしてゐる。|傍《かたはら》の|生《は》へ|茂《しげ》つた|茅《かや》の|中《なか》の|藁小屋《わらごや》から、|黒《くろ》い|痩《や》せこけた|怪《あや》しい|婆《ばば》が|破《やぶ》れた|茣蓙《ござ》を|肩《かた》にかけ、ガサリガサリと|萱草《かやぐさ》を|揺《ゆ》すりながら|二人《ふたり》の|前《まへ》に|出《で》て、|左《ひだり》の|手《て》に|榎《えのき》の|杖《つゑ》を|携《たづさ》へたまま、
|婆《ばば》『|誰《たれ》だ|誰《たれ》だ、あたやかましい。そんな|大《おほ》きな|声《こゑ》で|喋《しやべ》り|散《ち》らすと、|俺《おれ》の|耳《みみ》が|蛸《たこ》になるわい。|貴様《きさま》はどこの|表六玉《へうろくだま》だ。|一寸《ちよつと》こちらへ|来《こ》い』
カークス『ハハハハハ。|何《なん》とまア|汚《きたな》い|婆《ばば》もあつたものぢやないかい。|物《もの》をいふも|汚《けが》らはしいわい。|何《なん》と|言《い》つても|天下《てんか》の|豪傑《がうけつ》|表六玉《へうろくだま》のカークス|王様《わうさま》だからなア』
|婆《ばば》『ヘン、|人《ひと》の|見《み》ぬ|所《ところ》でそつと|猫婆《ねこばば》を|極《き》め|込《こ》み、|慾《よく》な|事《こと》ばかり|致《いた》し、|何《なに》もかも|人《ひと》の|前《まへ》にカークス|爺《おやぢ》だらう。も|一匹《いつぴき》の|奴《やつ》は|何《なん》といふ|表六玉《へうろくだま》だい』
ベール『この|方《はう》は|失敬《しつけい》ながら|月《つき》の|国《くに》にて|名《な》も|高《たか》きベースさまだよ』
|婆《ばば》『なるほど、どいつも|此奴《こいつ》も|人気《にんき》の|悪《わる》い|面《つら》つきだなア。ベースをカークスやうなその|哀《あは》れつぽいスタイルは|何《なん》だ。ここは|三途《せうづ》の|川《かは》の|渡船場《わたしば》だ。サアこれから|貴様《きさま》の|衣類《いるい》|万端《ばんたん》|剥《は》ぎ|取《と》つてやらう。|覚悟《かくご》を|致《いた》したがよいぞい。|今《いま》の|先《さき》、|伊太彦《いたひこ》、ブラワ゛ーダの|若夫婦《わかめをと》が|嬉《うれ》しさうに|手《て》を|引《ひ》いて|此所《ここ》を|通《とほ》りよつた。さうして|馬鹿面《ばかづら》をした、|何《なん》でも|兄貴《あにき》と|見《み》えるが、アスマガルダといふ|奴《やつ》が、|妹《いもうと》や|妹《いもうと》の|婿《むこ》の|僕《しもべ》となつて|通《とほ》りよつたぞや』
カークス『なに、|伊太彦《いたひこ》さまが|此所《ここ》を|通《とほ》られたといふのか。|何《なん》ぞ|立派《りつぱ》な|玉《たま》でも|持《も》つてをられただらうなア』
|婆《ばば》『|玉《たま》は|沢山《たくさん》|持《も》つてをつたよ。|粟粒《あはつぶ》のやうな|小《ち》つぽけな|肝玉《きもだま》やら、|縮《ちぢ》こまつた|睾丸《きんたま》やら、どん|栗《ぐり》のやうな|目《め》の|玉《たま》やらをぶらさげて、|悄気《せうげ》かへつて|此処《ここ》を|通《とほ》りよつた。|真裸《まつぱだか》にしてやらうと|思《おも》つたが、|貴様《きさま》らとは|余程《よほど》|御霊《みたま》がよいので、この|婆《ばば》も|手《て》をかける|事《こと》が|出来《でき》ず、この|萱《かや》の|中《なか》に|隠《かく》れてそつと|見《み》てをつたら、|綺麗《きれい》なナイスに|手《て》を|引《ひ》かれ、あの|川《かは》の|真中《まんなか》を|通《とほ》りよつた。おほかた|天国《てんごく》へ|往《ゆ》くのだらう。しかしながら|貴様達《きさまたち》はこの|婆《ばば》の|手《て》を|経《へ》て、|三途《せうづ》の|川《かは》を|渡《わた》らずに|一途《いちづ》の|河《かは》を|渡《わた》り、|直様《すぐさま》|地獄《ぢごく》へ|突《つ》き|落《お》とされる|代物《しろもの》だ。てもさても|憐《あは》れなものぢやわいのう、オンオンオン』
ベース『ヤア|此奴《こいつ》ア、グヅグヅしてはをられない。この|婆《ばば》を|突《つ》つ|倒《こ》かしておいてこの|河《かは》を|渡《わた》り、|一《ひと》つ|地獄征服《ぢごくせいふく》と|出《で》かけようか、カークス|来《き》たれ』
と|早《はや》くも|尻《しり》|引《ひ》き|捲《まく》り、|濁流《だくりう》|目《め》がけて|渡《わた》らうとする。|婆《ばば》は|細《ほそ》い|痩《や》せこけた|手《て》を|出《だ》して、ベースの|胸座《むなぐら》を|取《と》り、|三《み》つ|四《よ》つ|揺《ゆ》する。
ベース『これや|婆《ばば》、どうするのだい。|失敬《しつけい》な、|人《ひと》の|胸座《むなぐら》を|取《と》りやがつて』
|婆《ばば》『|取《と》らいでかい|取《と》らいでかい。|貴様《きさま》の|肝玉《きもだま》を|引《ひ》き|抜《ぬ》いてやるのだ。こら そこな|表六玉《へうろくだま》、|貴様《きさま》も|同様《どうやう》だから|待《ま》つてをれ。この|婆《ばば》が|此所《ここ》で|荒料理《あられうり》をして、|骨《ほね》も|肉《にく》も|付《つ》け|焼《や》きにして|食《く》つてやるのだ。|大分《だいぶん》|腹《はら》が|減《へ》つたところへよい|餌《ゑさ》が|来《き》たものだ』
カークスは|後《うし》ろより|婆《ばば》の|足《あし》をグツとつかみ|力《ちから》|限《かぎ》り|突《つ》けども|押《お》せども、|地《ち》から|生《は》えた|岩《いは》のやうにビクとも|動《うご》かない。
カークス『ヤア|何《なん》と|腰《こし》の|強《つよ》い、|強太《しぶと》い|婆《ばば》だな』
|婆《ばば》『|定《きま》つた|事《こと》だよ。|俺《おれ》は|地《ち》の|底《そこ》から|生《は》えたお|岩《いは》といふ|幽霊婆《いうれいばば》だ。|表六玉《へうろくだま》の|十匹《じつぴき》や|二十匹《にじつぴき》|集《た》かつて|来《き》たところで、ビクとも|動《うご》くものかい』
ベース『こら|婆《ばば》ア、|放《はな》さぬかい。|俺《おれ》の|息《いき》が|切《き》れるぢやないか』
|婆《ばば》『|定《き》まつた|事《こと》だい。|息《いき》の|切《き》れるやうに|掴《つか》んでゐるのだ。|息《いき》を|切《き》らして|軍鶏《しやも》を|叩《たた》くやうに|叩《たた》きつぶし、|砂《すな》にまぶし、|肉団子《にくだんご》をこしらへて|食《く》つてしまふのだ。かうなつたら|貴様達《きさまたち》ももう|娑婆《しやば》の|年貢《ねんぐ》の|納《をさ》め|時《どき》だ。|潔《いさぎよ》う|覚悟《かくご》をしてゐるがよい』
|二人《ふたり》は|進退《しんたい》きはまり、|如何《いかが》はせむかと|案《あん》じ|煩《わづら》ふ|折《を》りから、はるか|後《うし》ろの|方《はう》から、|宣伝歌《せんでんか》が|聞《き》こえて|来《き》た。ハツと|思《おも》ふ|途端《とたん》、|今《いま》まで|婆《ばば》と|見《み》えたのは|河《かは》の|傍《かたはら》の|巨巌《きよがん》であつた。|川《かは》と|見《み》えたのは|果《はて》しも|知《し》られぬ|薄原《すすきばら》で、その|薄《すすき》の|穂《ほ》が|風《かぜ》に|揺《ゆ》られて|水《みづ》と|見《み》えてをつたのであつた。
(大正一二・五・二四 旧四・九 於教主殿 加藤明子録)
第一二章 |五託宣《ごたくせん》〔一六一九〕
カークス、ベース|両人《りやうにん》は|不審《ふしん》の|胸《むね》を|抱《いだ》きながら、|路傍《ろばう》に|直立《ちよくりつ》せる|立岩《たちいは》の|側《そば》に|佇《たたず》んで、|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》の|近寄《ちかよ》るのを|耳《みみ》をすませて|聞《き》いてゐる。
|伊太彦《いたひこ》『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |吾《われ》は|伊太彦司《いたひこつかさ》なり
|玉国別《たまくにわけ》に|従《したが》ひて スダルマ|山《さん》の|麓《ふもと》まで
|進《すす》み|来《き》たれる|折《を》りもあれ |木蔭《こかげ》に|休《やす》む|両人《りやうにん》に
ふと|出会《でつくは》してスーラヤの |山《やま》に|夜光《やくわう》の|玉《たま》ありと
|聞《き》くより|心《こころ》|勇《いさ》み|立《た》ち |吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》に|許《ゆる》されて
カークス ベース|両人《りやうにん》を |従《したが》へ|間道《かんだう》|潜《くぐ》り|抜《ぬ》け
スーラヤ|湖辺《こへん》のテルの|里《さと》 ルーブヤ|館《やかた》に|立《た》ち|寄《よ》りて
|神《かみ》の|仕組《しぐみ》のブラワ゛ーダ |姫《ひめ》の|命《みこと》と|赤繩《えにし》をば
|結《むす》び|終《をは》りて|兄《あに》とます アスマガルダの|舟《ふね》に|乗《の》り
|波《なみ》に|漂《ただよ》ひ|漸《やうや》くに スーラヤ|山《さん》に|漕《こ》ぎつけて
|一夜《いちや》を|明《あ》かす|折《を》りもあれ |得体《えたい》の|知《し》れぬ|怪物《くわいぶつ》が
|忽《たちま》ちここに|現《あら》はれて いろはにほへとちりぬるを
わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて
あさきゆめみしゑひもせす |京味《きやうみ》の|深《ふか》い|問答《もんだふ》を
|敗《ま》けず|劣《おと》らず|開始《かいし》して |火花《ひばな》を|散《ち》らせば|怪物《くわいぶつ》は
|煙《けむり》となりて|消《き》え|失《う》せぬ |夜《よ》も|漸《やうや》くに|明《あ》け|放《はな》れ
|一行《いつかう》|五人《ごにん》はスーラヤの |危《あや》ふき|死線《しせん》を|突破《とつぱ》して
|足《あし》を|痛《いた》めつ|頂上《ちやうじやう》に |登《のぼ》り|終《おう》せてウバナンダ
ナーガラシャーの|潜《ひそ》みたる |醜《しこ》の|岩窟《いはや》に|立《た》ち|向《む》かひ
|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》に|茂《しげ》り|生《は》ふ |藤蔓《ふぢつる》|切《き》りて|繩梯子《なははしご》
やつと|拵《こしら》へ|吊《つ》り|下《お》ろし |五人《ごにん》|一度《いちど》にスルスルと
|下《くだ》りて|見《み》れば|思《おも》ひきや |果《は》てしも|知《し》らぬ|広《ひろ》い|穴《あな》
|際限《さいげん》もなく|展開《てんかい》し |山河草木《さんかさうもく》|立《た》ち|並《なら》ぶ
|広《ひろ》き|原野《げんや》となりにけり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|仕組《しぐみ》の|玉糸《たまいと》に |索《ひ》かれて|来《き》たる|吾々《われわれ》は
|何処《いづこ》をあてと|白雲《しらくも》の |行《ゆ》ける|所《とこ》まで|進《すす》まむと
ここまで|来《き》たり|息《いき》|休《やす》め |後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り|眺《なが》むれば
|如何《いか》になしけむカークスや ベースの|二人《ふたり》は|落伍《らくご》して
|姿《すがた》も|見《み》えずなりにけり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして |一時《いちじ》も|早《はや》く|両人《りやうにん》が
|吾等《われら》の|後《あと》を|追《お》つかけて |互《たが》ひに|無事《ぶじ》を|祝《しゆく》し|合《あ》ふ
|喜《よろこ》び|与《あた》へ|玉《たま》へかし |醜《しこ》の|岩窟《いはや》の|入口《いりぐち》は
いとも|狭《せま》けく|覚《おぼ》ゆれど この|岩窟《がんくつ》の|広々《ひろびろ》と
|展開《てんかい》したる|不思議《ふしぎ》さよ |空《そら》は|岩窟《いはや》に|包《つつ》まれて
|月日《つきひ》の|影《かげ》は|見《み》えねども |何《なん》とはなしに|心地《ここち》よし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》のまにまに|進《すす》み|行《ゆ》く』
といひつつ|両人《りやうにん》の|傍《そば》に|近寄《ちかよ》つて|来《き》た。カークスは|三人《さんにん》の|姿《すがた》を|見《み》るより|飛《と》び|立《た》つやうに|喜《よろこ》んで、
『アア|先生《せんせい》でござりましたか。ブラワ゛ーダさまに、アスマガルダさま、どれだけ|尋《たづ》ねてをつた|事《こと》か|知《し》れませぬよ。どうして|居《ゐ》られましたか』
|伊太《いた》『いや|有難《ありがた》う。|実《じつ》のところはお|前《まへ》たち|二人《ふたり》の|姿《すがた》が|見《み》えぬので、また|足《あし》を|痛《いた》めて|遅《おく》れてをるのではあるまいかと、|幾度《いくど》も|幾度《いくど》も|路傍《ろばう》に|佇《たたず》み|見合《みあは》せ|見合《みあは》せやつて|来《き》たものだから、かう|遅《おく》れてしまつたのだ。ずゐぶん|待《ま》たしただらうな』
カークス『ずゐぶん|待《ま》ちましたよ。しかしここは|妙《めう》な|所《ところ》ですな。たつた|今《いま》|濁流《だくりう》みなぎる|大川《おほかは》が|横《よこ》たはり、|汚《きたな》い|婆《ばば》が|現《あら》はれていろいろ|雑多《ざつた》と|嚇《おど》し|文句《もんく》を|並《なら》べやがるものだから、ベースと|二人《ふたり》|一生懸命《いつしやうけんめい》に|掛合《かけあ》つてゐましたが、その|婆《ばば》は|岩《いは》と|化《ば》けてしまひ、|川《かは》は|薄原《すすきはら》となりました。|一体《いつたい》ここは|冥途《めいど》ぢやありますまいかな』
|伊太《いた》『|死《し》んだ|覚《おぼ》えもないのに、どうして|冥途《めいど》へ|来《く》るものか。ここはスーラヤ|山《さん》の|岩窟《がんくつ》からこの|通《とほ》り|展開《てんかい》してゐる|大《おほ》きな|広場《ひろば》だ。あまり|広《ひろ》い|穴《あな》だから、この|通《とほ》り|目《め》の|届《とど》かぬほど|草原《さうげん》が|展開《てんかい》してゐるのだ。|何《なん》と|不思議《ふしぎ》な|事《こと》ぢやないか』
カークス『いや、それ|聞《き》いて|安心《あんしん》しました。|私《わたし》はまたベースと|両人《りやうにん》|冥途《めいど》の|旅《たび》ぢやないかと、どれだけ|気《き》を|揉《も》んだか|知《し》れませぬよ。なア、ベース、|随分《ずゐぶん》いやらしかつたな』
ベース『|婆《ばば》の|出《で》た|時《とき》は|本当《ほんたう》に|肝《きも》|潰《つぶ》しましたよ。そして|婆《ばば》が、|貴方《あなた》がた|三人《さんにん》がこの|川《かは》を|渡《わた》つて|向《む》かふへ|行《い》つたと|嘘《うそ》ばかり|吐《こ》きやがるものだから、|早《はや》く|追付《おつつ》かうと|思《おも》つて、どれだけ|気《き》を|揉《も》むだか|知《し》れませぬわ』
|伊太《いた》『アさうだつたか、ここは|岩窟内《がんくつない》のことだから|四辺《あたり》の|光景《くわうけい》も|違《ちが》うてゐるなり、いづれ|妖怪《えうくわい》も|出《で》るだらうよ。さアこれから|奥《おく》に|行《ゆ》かう。きつとウバナンダ|竜王《りうわう》が|玉《たま》をかざして|待《ま》つてゐるだらう』
カークス『そんならお|伴《とも》を|致《いた》しませう。おいベース、どうやら|此方《こつち》のものらしいぞ。まア|喜《よろこ》んだり|喜《よろこ》んだり。|一《ひと》つ|宣伝歌《せんでんか》でも|謡《うた》つて|潔《いさぎよ》う|行《ゆ》きませう。
|不思議《ふしぎ》な|事《こと》があるものだ スーラヤ|山《さん》の|岩窟《がんくつ》に
|藤《ふぢ》で|造《つく》つた|繩梯子《なははしご》 |垂《た》らしてスルスルスルと|下《お》り
|見《み》れば|四辺《あたり》は|思《おも》うたより |広《ひろ》き|山川草木《さんせんそうもく》が
|縦横無尽《じうわうむじん》に|展開《てんかい》し |岩窟《いはや》の|中《なか》とは|思《おも》へない
|心《こころ》の|迷《まよ》ひか|知《し》らねども |三途《せうづ》の|川《かは》の|渡《わた》し|場《ば》で
お|岩《いは》|幽霊《いうれい》の|醜婆《しこばば》が |萱《かや》の|中《なか》から|現《あら》はれて
|凄《すご》い|文句《もんく》を|並《なら》べたて |二人《ふたり》の|肝玉《きもだま》とり|挫《ひし》ぎ
|忽《たちま》ち|岩《いは》と|化《ば》けよつた いざ|之《これ》よりは|伊太彦《いたひこ》の
|司《つかさ》と|共《とも》にある|限《かぎ》り |如何《いか》なる|曲《まが》の|来《き》たるとも
|如何《いか》で|恐《おそ》れむ|惟神《かむながら》 |神《かみ》の|光《ひかり》に|照《て》らされて
|曲津《まがつ》の|潜《ひそ》む|岩窟《いはやど》も |何《なん》の|苦《く》もなく|進《すす》み|行《ゆ》く
|吾《わ》が|身《み》の|上《うへ》ぞ|楽《たの》しけれ |朝日《あさひ》は|照《て》らず|月《つき》はなく
|風《かぜ》さへ|碌《ろく》に|吹《ふ》かねども |皇大神《すめおほかみ》の|御《おん》ために
|進《すす》む|吾《わ》が|身《み》は|有難《ありがた》や |八大竜王《はちだいりうわう》のその|一《ひと》つ
|歓喜竜王《くわんきりうわう》と|聞《き》こえたる ナーガラシャーの|宝《たから》をば
|伊太彦《いたひこ》さまが|手《て》に|入《い》れて |珍《うづ》の|都《みやこ》のエルサレム
|黄金山《わうごんざん》に|献《たてまつ》り |五六七神政《みろくしんせい》の|完成《くわんせい》を
|計《はか》らせ|玉《たま》ふ|神業《しんげふ》の その|一端《いつたん》に|仕《つか》ふるは
|神代《かみよ》も|聞《き》かぬ|功績《いさをし》ぞ アア|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや
|如何《いか》なる|枉《まが》のさやるとも |神《かみ》に|任《まか》せし|吾《わ》が|身魂《みたま》
|何《なに》か|恐《おそ》れむ|敷島《しきしま》の |神国魂《みくにだましひ》を|振《ふ》り|起《おこ》し
|地獄《ぢごく》の|底《そこ》まで|進《すす》み|行《ゆ》く アア|面白《おもしろ》や|勇《いさ》ましや
|神《かみ》は|吾等《われら》と|共《とも》にあり |神《かみ》に|守《まも》られ|進《すす》む|身《み》は
|如何《いか》なる|嶮《けは》しき|山坂《やまさか》も |濁流《だくりう》みなぎる|大川《おほかは》も
いと|安々《やすやす》と|進《すす》むべし |来《き》たれよ|来《き》たれいざ|来《き》たれ
|勝利《しようり》の|都《みやこ》は|近《ちか》づきぬ |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|吾《わ》が|身《み》の|命《いのち》は|亡《ほろ》ぶとも この|神業《しんげふ》を|果《はた》さねば
|決《けつ》して|後《あと》には|引《ひ》きはせぬ |守《まも》らせ|玉《たま》へ|大御神《おほみかみ》
|御霊《みたま》の|恩頼《ふゆ》を|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
かく|謡《うた》ひつつ|進《すす》んで|行《ゆ》くと、|禿山《はげやま》の|麓《ふもと》に|草葺《くさぶ》きの|屋根《やね》が|一軒《いつけん》|建《た》つてゐる。そして|屋根《やね》は|所々《ところどころ》|洩《も》り、|幾条《いくすぢ》も|幾条《いくすぢ》も|谷《たに》が|出来《でき》て|青《あを》い|草《くさ》が|生《は》え、|下地《したぢ》の|竹《たけ》が|骨《ほね》を|出《だ》してゐる。「ハテ|不思議《ふしぎ》な|家《いへ》があるものだな」と|一同《いちどう》は|佇《たたず》んで|首《くび》を|傾《かたむ》けて|考《かんが》へてゐる。
そこへ|一人《ひとり》の|婆《ばば》が|破《やぶ》れ|戸《ど》を、ガタつかせながらニユツと|現《あら》はれ|来《き》たり、アトラスのやうな|斑《まんだら》な|顔《かほ》をして、
『これこれ|旅《たび》のお|方《かた》、ちよつと|寄《よ》つて|下《くだ》さい。|渋茶《しぶちや》でも|進《しん》ぜたいから……|随分《ずゐぶん》お|前《まへ》も|草臥《くたび》れただらう。お|前《まへ》の|草鞋《わらぢ》には|泥埃《どろぼこり》の|寄生虫《きせいちう》が|湧《わ》いてるやうだ。さぞ|足《あし》が|重《おも》たいことだらう』
|伊太《いた》『ハイ、|有難《ありがた》う。しかしながら|御親切《ごしんせつ》を|無《む》にするは|誠《まこと》に|済《す》みませぬが、|少《すこ》し|急《せ》く|旅《たび》ですから|又《また》|帰《かへ》りがけにお|世話《せわ》に|預《あづ》かりませう』
|婆《ばば》『これこれ、お|前《まへ》は|心得《こころえ》が|悪《わる》いぞや。この|婆《ばば》が|親切《しんせつ》に|茶《ちや》を|与《あた》へやうといふのに、なに|辞退《じたい》をなさるのか。|急《せ》く|旅《たび》ぢやといつても|一日《いちにち》|歩《ある》くわけにも|行《ゆ》くまい。ここで|休《やす》んで|行《ゆ》かつしやい。|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|三五教《あななひけう》の|話《はなし》を|聞《き》かして|上《あ》げませうぞや』
『あなたは|三五教《あななひけう》のお|方《かた》ですか。|実《じつ》は|私《わたし》も|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》でございます』
『お|前《まへ》も|何《なん》と|目《め》の|悪《わる》いことだな。|俺《わし》の|相貌《そつぽ》を|見《み》ても|神司《かむづかさ》であるか、|神司《かむづかさ》でないか|分《わか》らなならぬはずだ。|実《じつ》のところは|三五教《あななひけう》の|高姫《たかひめ》といふ|変性男子《へんじやうなんし》の|系統《ひつぽう》、|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》だが、|言依別《ことよりわけ》や|東助《とうすけ》の|没分暁漢《わからずや》に|愛想《あいそ》をつかし、また|旧《もと》のウラナイ|教《けう》を|開《ひら》いて|此処《ここ》でお|道《みち》を|説《と》いてをるのだ。まアまア|聞《き》いて|行《ゆ》かつしやい。|決《けつ》して|悪《わる》いことは|言《い》はぬぞや』
『アアあなたが|噂《うはさ》に|高《たか》き|高姫《たかひめ》さまでございましたか。いや|初《はじ》めてお|目《め》にかかります。さうしてまた|三五教《あななひけう》を|捨《す》てウラナイ|教《けう》へお|這入《はい》りになるとは、どういふお|考《かんが》へですか、いかに|言依別《ことよりわけ》や|東助《とうすけ》さまと|御意見《ごいけん》が|合《あ》はぬといつても|神様《かみさま》に|二《ふた》つはありますまい。あなたは|人間《にんげん》を|信用《しんよう》なさるから、そんな|間違《まちが》ひが|出来《でき》るのでせう』
『まアまア|道端《みちばた》に|立《た》つて|話《はな》しても|仕方《しかた》がない。|一厘《いちりん》の|仕組《しぐみ》を|教《をし》へて|上《あ》げますから、とつととお|這入《はい》りなさい。まア|綺麗《きれい》なお|姫様《ひめさま》だこと、|三五教《あななひけう》は|夫婦《ふうふ》ありては|御用《ごよう》が|出来《でき》ないと|神様《かみさま》が|仰有《おつしや》るのだが、|今《いま》は|言依別《ことよりわけ》のド|灰殻《はひから》や|東助《とうすけ》が|幹部《かんぶ》を|占《し》めてをるものだから、|何《なに》もかも|規律《きりつ》が|乱《みだ》れて……アタ|阿呆《あはう》らしい。|宣伝使《せんでんし》が|女房《にようばう》を|連《つ》れて……|何《なん》の|事《こと》ぢやいな。それだから|三五教《あななひけう》は|駄目《だめ》だといふのだよ』
『まアともかく|一服《いつぷく》さして|貰《もら》はう。なア ブラワ゛ーダさま、アスマガルダさま』
ブラワ゛ーダ『はい、そんならお|世話《せわ》になりませうかな』
|高姫《たかひめ》『サアサアお|世話《せわ》になりなさい。|何《なん》というても|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》だから、|三千世界《さんぜんせかい》の|事《こと》はこの|生宮《いきみや》に|聞《き》かねば|分《わか》りはせぬぞや』
カークス『もし|先生《せんせい》、こんな|我《が》の|強《つよ》い|婆《ばば》アの|所《ところ》へ|休《やす》むのは|胸《むね》が|悪《わる》いぢやありませぬか。なア、ベース、|一《ひと》つ|先生《せんせい》に|歎願《たんぐわん》してここへ|這入《はい》るのは|止《や》めて|貰《もら》はうぢやないか』
ベース『ウン、あまり|偉《えら》さうにいふぢやないか。|渋茶《しぶちや》を|飲《の》ますといつて|馬《うま》の|小便《せうべん》でも|飲《の》ますか|知《し》れないぞ。こりやうつかり|這入《はい》れまい』
|高姫《たかひめ》『こりや|表六玉《へうろくだま》、|何《なん》といふ|事《こと》をいふのだい。|嫌《いや》なら|這入《はい》らいでも|宜《よ》いわい。|何《なん》だ、|泥坊《どろばう》のやうな|面《つら》して、|側《そば》から|何《なに》を|横槍《よこやり》を|入《い》れるのだ。さアさア|三人《さんにん》のお|方《かた》、あなたはどうも|利口《りこう》さうなお|方《かた》だ。きつと|身魂《みたま》が|宜《よ》いのでせう。サア|遠慮《ゑんりよ》は|要《い》らぬ、|早《はや》うお|這入《はい》り|下《くだ》さい』
|伊太《いた》『さアさア、カークス、ベースの|両人《りやうにん》、お|前《まへ》もそんな|理窟《りくつ》いはずに|這入《はい》つたらどうだ』
|高姫《たかひめ》『これ|伊太彦《いたひこ》さま、あんな|表六玉《へうろくだま》は|日出神《ひのでのかみ》の|館《やかた》に|入《はい》る|資格《しかく》はありませぬわい。また|這入《はい》つて|貰《もら》ふと|家《いへ》が|穢《けが》れるから、|山門《さんもん》の|仁王《にわう》のやうに|門番《もんばん》をさしておけば、それで|結構《けつこう》だ』
ブラワ゛ーダ『もし|伊太彦《いたひこ》さま、|妾《わらは》はかうして|五人《ごにん》|生死《せいし》を|共《とも》にして|御用《ごよう》に|来《き》たのでございますから、カークス、ベースさまが|這入《はい》れぬ|宅《うち》へはお|世話《せわ》になる|事《こと》はやめませうか』
|伊太《いた》『ウン、それもさうだ』
|高姫《たかひめ》『さてもさても|分《わか》らぬ|姫様《ひめさま》だな。お|前《まへ》は|身魂《みたま》の|善悪正邪《ぜんあくせいじや》を|知《し》らないから、そんな|小理窟《こりくつ》をいふのだよ。この|高姫《たかひめ》の|眼《め》で|一寸《ちよつと》|睨《にら》んだら|金輪奈落《こんりんならく》、|違《ちが》ひはせぬぞや。オツホホホホ、|何分《なにぶん》|立派《りつぱ》な|男《をとこ》の|中《なか》に|混《まじ》つて|宣伝《せんでん》に|歩《ある》くといふやうな|新《あたら》しい|女《をんな》のことだから、どうでこの|婆《ばば》の|言《い》ふ|事《こと》は|気《き》に|合《あ》ひますまい。しかし、そこは|一《ひと》つ|胸《むね》に|手《て》を|当《あ》てて|考《かんが》へたが|宜《よろ》しからうぞや』
ブラワ゛ーダ『お|言葉《ことば》でございますが、|妾《わらは》はカークス、ベースさまに|同情《どうじやう》して|一緒《いつしよ》に|立番《たちばん》をいたしませう。|伊太彦《いたひこ》|様《さま》、お|兄様《あにさま》、どうぞ|中《なか》に|入《はい》つて|高姫《たかひめ》さまのお|話《はなし》を|聞《き》いて|下《くだ》さい』
|伊太《いた》『いやお|前《まへ》が|外《そと》へ|居《を》るのに|私《わし》が|中《なか》に|入《はい》ることは|出来《でき》ない。そんなら|私《わし》も|断《こと》わらうかな』
アスマガルダ『そんなら|私《わし》も|断《こと》わらう。|高姫《たかひめ》さまとやら、|大《おほ》きに|有難《ありがた》う、また|御縁《ごえん》があつたらお|目《め》にかかりませう』
|高姫《たかひめ》『オホホホホさすがの|伊太彦《いたひこ》|宣伝使《せんでんし》も|女《をんな》にかけたら|弱《よわ》いものだな。|涎《よだれ》をくつたり|眥《めじり》を|下《さ》げたり……そんな|事《こと》でお|道《みち》が、どうして|開《ひら》けますか』
|伊太《いた》『|高姫《たかひめ》さま、そんなら|貴女《あなた》もドツと|譲歩《じやうほ》して、|五人《ごにん》ともお|世話《せわ》になるわけには|行《ゆ》きませぬか』
|高姫《たかひめ》『エー、|仕方《しかた》がない。そんならお|前《まへ》さまに|免《めん》じて|入《い》れて|上《あ》げませう。|決《けつ》して|座敷《ざしき》なぞへ|上《あが》つてはなりませぬぞ。|庭《には》の|隅《すみ》になつと|蹲踞《ちやうつくば》つてゐなさいや』
カークス『それほどむつかしいお|屋敷《やしき》へは|這入《はい》りませぬわい。なア、ベース、|馬鹿《ばか》にしてるわ』
ベース『ウン、さうだ。|絶対《ぜつたい》|俺《おれ》も|這入《はい》らぬつもりだ。それより|高姫《たかひめ》に|外《ほか》に|出《で》てもらつて、|茶《ちや》はどうでもいいから|結構《けつこう》なお|話《はなし》を|聞《き》かしてもらはうかい』
|高姫《たかひめ》『オホホホホ、それはよい|思案《しあん》だ。さうすれば|俺《わし》の|宅《うち》も|穢《けが》さいで|都合《つがふ》が|好《よ》い。|俺《わし》は|此処《ここ》で|坐《すわ》つてお|話《はなし》をするから、|五人《ごにん》は|外《そと》に|蹲踞《ちやうつくば》つて|聞《き》きなさい。それが|身魂相応《みたまさうおう》だらう。どれ、|平易《やす》いところから|話《はな》して|上《あ》げようから、よく|耳《みみ》をすまして|聞《き》きなさいや』
|伊太《いた》『アツハハハハ』
アスマガルダ『ウツフフフフ』
ブラワ゛ーダ『オツホホホホ』
カークス『エツヘヘヘヘ』
ベース『イツヒヒヒヒ』
(大正一二・五・二四 旧四・九 北村隆光録)
第一三章 |蚊燻《かくすべ》〔一六二〇〕
|人《ひと》(|精霊《せいれい》)の|内面的《ないめんてき》|情態《じやうたい》に|居《を》る|時《とき》は、|自有《じいう》の|意志《いし》そのままを|思索《しさく》するが|故《ゆゑ》に、その|想念《さうねん》は|元来《ぐわんらい》の|情動《じやうどう》すなはち|愛《あい》そのものより|来《き》たるものです。そしてその|時《とき》において|想念《さうねん》と|意志《いし》とは|一致《いつち》する。この|一致《いつち》によつて|人《ひと》の|内面的《ないめんてき》なる|精霊《せいれい》は|自《みづか》ら|思惟《しゐ》するを|覚《おぼ》えず、ただ|意志《いし》するとのみ|思《おも》ふものです。また|言説《げんせつ》する|時《とき》も|之《これ》に|似《に》たるものがありますが、ただ|相違《さうゐ》せる|点《てん》は、その|言説《げんせつ》はその|意志《いし》に|属《ぞく》する|想念《さうねん》そのままを|赤裸々的《せきららてき》に|露出《ろしゆつ》することを|憚《はばか》るの|情《じやう》が|籠《こも》つてゐるものです。その|故《ゆゑ》は、|人《ひと》(|精霊《せいれい》)が|現界《げんかい》に|在《あ》つた|時《とき》に|俗《ぞく》を|逐《お》うてその|生《せい》を|営《いとな》みたる|習慣《しふくわん》がその|意志《いし》に|附属《ふぞく》するに|至《いた》るからであります。
|精霊《せいれい》が|内面《ないめん》の|情態《じやうたい》に|居《を》る|時《とき》は、その|精霊《せいれい》(|人《ひと》)が|如何《いか》なる|人格《じんかく》を|所有《しよいう》してゐたかといふことを|明《あき》らかに|現《あら》はすものです。この|時《とき》の|精霊《せいれい》は|自我《じが》に|由《よ》つてのみ|行動《かうどう》するからであります。|現界《げんかい》に|在《あ》つた|時《とき》に|内面的《ないめんてき》に|善《ぜん》に|居《を》つた|精霊《せいれい》は、ここにおいてその|行動《かうどう》の|理性《りせい》と|証覚《しようかく》とにかなふこと|益々《ますます》|深《ふか》きものあるを|認《みと》め|得《え》られるものです。|今《いま》や|肉体《にくたい》との|関連《くわんれん》を|断《た》ち、|雲霧《くもきり》のごとく|心霊《しんれい》を|昏迷《こんめい》せしめ、かつ|執着《しふちやく》せる|物質的《ぶつしつてき》|事物《じぶつ》を|全部《ぜんぶ》|脱却《だつきやく》したからであります。
これに|反《はん》し|精霊《せいれい》の|内面《ないめん》が|悪《あく》に|居《を》つたものは、|今《いま》や|外面的《ぐわいめんてき》|状態《じやうたい》を|脱《のが》れてしまひ、その|行動《かうどう》は|痴呆《ちはう》のごとく|狂人《きちがひ》のごとく、|現世《げんせ》に|在《あ》つた|時《とき》よりも|層一層《そういつそう》の|癲狂状態《てんきやうじやうたい》を|暴露《ばくろ》し、|醜悪《しうあく》なる|面貌《めんばう》を|表《あら》はすものであります。|彼《かれ》|精霊《せいれい》の|内面《ないめん》|悪《あく》なりしものは|今《いま》や|自由《じいう》を|得《え》て、|表面《へうめん》を|飾《かざ》る|外面《ぐわいめん》|情態《じやうたい》の|繋縛《けいばく》を|離《はな》れたからです。|現世《げんせ》にあつて|外面上《ぐわいめんじやう》|善美《ぜんび》と|健全《けんぜん》の|相《さう》を|装《よそほ》ひ、|理性的《りせいてき》|人物《じんぶつ》に|擬《ぎ》せんとして|焦慮《せうりよ》してゐたものが、|全《まつた》く|外面《ぐわいめん》の|皮相《ひさう》を|取《と》り|除《のぞ》かれたので、その|狂質《きやうしつ》は|遺憾《ゐかん》なく|暴露《ばくろ》するに|至《いた》つたのであります。|外面上《ぐわいめんじやう》|善人《ぜんにん》を|装《よそほ》ひ|学者《がくしや》|識者《しきしや》を|以《もつ》て|擬《ぎ》してゐた|人間《にんげん》は、|馬糞《ばふん》を|包《つつ》んだ|錦絵《にしきゑ》の|重《ぢう》の|内《うち》のやうなもので、|外面《ぐわいめん》より|見《み》れば|実《じつ》に|美麗《びれい》なる|光沢《くわうたく》を|放《はな》ち、|人《ひと》をして|羨望《せんばう》の|念《ねん》に|堪《た》へざらしむるものですが、その|蔽葢《おほひぶた》を|取《と》り|除《の》けて|内面《ないめん》を|見《み》る|時《とき》は、|始《はじ》めて|汚物《をぶつ》の|伏在《ふくざい》せるを|見《み》て|驚《おどろ》くやうなものです。|心霊学者《しんれいがくしや》だとか、|哲学者《てつがくしや》だとか、|宗教家《しうけうか》だとか、|種々《しゆじゆ》の|立派《りつぱ》な|人間《にんげん》も|外面《ぐわいめん》の|蔽葢《おほひぶた》を|取《と》り|去《さ》つて|見《み》れば、|実《じつ》に|痴呆《ちはう》|癲狂《てんきやう》の|汚物《をぶつ》が|内面《ないめん》に|堆積《たいせき》され、|地獄界《ぢごくかい》の|現状《げんじやう》が|暴露《ばくろ》されるものであります。
|現世《げんせ》に|在《あ》つたとき|神格《しんかく》を|認《みと》め|神真《しんしん》を|愛《あい》し、|内面《ないめん》の|良心《りやうしん》に|従《したが》つて|行動《かうどう》を|為《な》せしものは、|霊界《れいかい》に|入《い》り|来《き》たる|時《とき》、|直《ただ》ちに|内面《ないめん》の|情態《じやうたい》に|導《みちび》き|入《い》れられて|永《なが》き|眠《ねむ》りより|醒《さ》めたるごとく、また|暗黒《あんこく》より|光明《くわうみやう》に|進《すす》み|入《い》りしものの|如《ごと》きものであります。その|思索《しさく》もまた|高天原《たかあまはら》の|光明《くわうみやう》に|基《もと》づき、|内面的《ないめんてき》|証覚《しようかく》より|発《はつ》し|来《き》たるがゆゑに、|凡《すべ》ての|行動《かうどう》は|善《ぜん》より|起《おこ》り、|内面的《ないめんてき》|情動《じやうどう》より|溢《あふ》れ|出《い》づるものです。かくて|高天原《たかあまはら》は|想念《さうねん》と|情動《じやうどう》との|中《なか》に|流《なが》れ|入《い》り、|歓喜《くわんき》と|幸福《かうふく》とを|以《もつ》てその|内面《ないめん》を|充満《じうまん》せしめ、|未《いま》だかつて|知《し》らざる|幸福《かうふく》を|味《あぢ》はふものです。|最早《もはや》かくなりし|上《うへ》は、|高天原《たかあまはら》の|天人《てんにん》との|交通《かうつう》が|開《ひら》けてをるので、|主《す》の|神《かみ》を|礼拝《れいはい》し|真心《まごころ》を|尽《つく》して|奉仕《ほうし》し、|自主《じしゆ》の|心《こころ》を|発揮《はつき》し、|外的《ぐわいてき》|聖行《せいこう》を|離《はな》れて、|内面的《ないめんてき》|聖行《せいこう》に|入《い》るものです。かくのごときは|三五教《あななひけう》の|教示《けうじ》に|由《よ》りて、|内面的《ないめんてき》|善真《ぜんしん》の|生涯《しやうがい》を|送《おく》りしものの|将《まさ》に|享《う》くるところの|情態《じやうたい》であります。しかし|三五教《あななひけう》|以外《いぐわい》の|教団《けうだん》に|入信《にふしん》したものといへども、|神真《しんしん》を|愛《あい》し|内面的《ないめんてき》|善《ぜん》に|住《ぢう》し、|神格《しんかく》を|認《みと》めて|奉仕《ほうし》したるものの|精霊《せいれい》もまた|同様《どうやう》であります。
これに|反《はん》し|現世《げんせ》にあつて|偽善《ぎぜん》に|住《ぢう》し|神《かみ》を|捨《す》て|悪《あく》に|住《ぢう》し、|良心《りやうしん》を|滅《ほろ》ぼし|神格《しんかく》を|否定《ひてい》し、あるひは|神《かみ》の|名《な》を|称《とな》ふることを|恥《は》ぢて、|種々《しゆじゆ》の|名目《めいもく》にかくれ|霊的《れいてき》の|研究《けんきう》に|没頭《ぼつとう》し、|凶霊《きようれい》を|招致《せうち》して|霊界《れいかい》を|探《さぐ》り|現世《げんせ》の|人間《にんげん》を|欺瞞《ぎまん》し、または|一旦《いつたん》|三五《あななひ》の|教《をしへ》を|信《しん》じながら|心機一転《しんきいつてん》して|弊履《へいり》の|如《ごと》く|之《これ》を|捨《す》て|去《さ》り、あるひは|誹謗《ひばう》し、|世間《せけん》の|人心《じんしん》を|狂惑《きやうわく》したるものの|精霊界《せいれいかい》における|内面的《ないめんてき》|情態《じやうたい》は|全然《ぜんぜん》これと|正反対《せいはんたい》であります。
また|内心《ないしん》に|神格《しんかく》を|認《みと》めず、あるひは|軽視《けいし》し、|何事《なにごと》も|科学《くわがく》に|立脚《りつきやく》して|神《かみ》の|在否《ざいひ》を|究《きは》めむとし、かつ|自己《じこ》の|学識《がくしき》にほこるものは、|皆《みな》|悪《あく》の|霊性《れいせい》であります。たとへ|外面的《ぐわいめんてき》|想念《さうねん》においては|神《かみ》を|否定《ひてい》せず、これを|是認《ぜにん》し、|少《すこ》しは|敬神的《けいしんてき》|態度《たいど》に|出《い》づるものといへども、その|内面的《ないめんてき》|精神《せいしん》は|決《けつ》して|然《しか》らざるものは|依然《やつぱり》|悪《あく》であります。|何故《なぜ》なれば|神格《しんかく》を|是認《ぜにん》することと|悪《あく》に|住《ぢう》することとは|互《たが》ひに|相容《あひい》れないからであります。また「|吾々《われわれ》は|単《たん》に|神《かみ》を|信《しん》じ|宗教《しうけう》を|学《まな》ぶくらゐなれば、|決《けつ》して|学者《がくしや》の|地位《ちゐ》を|捨《す》てたり、|役目《やくめ》を|棒《ぼう》に|振《ふ》つて|入信《にふしん》はしないのだ。ただ|吾々《われわれ》は|神諭《しんゆ》のある|文句《もんく》を|信《しん》じたからだ。|万々一《まんまんいち》その|神諭《しんゆ》が|一年《いちねん》でも|世界《せかい》に|現《あら》はるることが|遅《おく》れたり|間違《まちが》ふやうなことがあつたならば、|自分《じぶん》が|率先《そつせん》して|教壇《けうだん》を|打《たた》き|潰《つぶ》してしまふ」と|揚言《やうげん》し、|到頭《たうとう》|意《い》のごとく|神《かみ》の|聖団《せいだん》を|形体的《けいたいてき》にも|精神的《せいしんてき》にもたたき|毀《こは》し、|沢山《たくさん》な|債務《さいむ》を|後《あと》に|塗《ぬ》りつけ、|谷底《たにそこ》へ|神柱《かむばしら》を|突《つ》き|落《お》とし、|頭上《づじやう》から|煮茶《にえちや》を|浴《あ》びせかけ、|尻《しり》に|帆《ほ》を|掛《か》けてエルサレムを|後《うし》ろに、|又《また》また|種々《しゆじゆ》の|企《くはだ》てを|始《はじ》めてゐる|守護神《しゆごじん》のごときは、|実《じつ》に|内面《ないめん》の|凶悪《きようあく》なる|精霊《せいれい》であります。しかしながら、かかる|精霊《せいれい》は|表面《へうめん》に|善《ぜん》の|仮面《かめん》を|被《かぶ》り、|天人《てんにん》のごとき|善《ぜん》と|真《しん》との|言説《げんせつ》を|弄《ろう》するが|故《ゆゑ》に、|容易《ようい》に|現界《げんかい》においてはその|内面《ないめん》の|醜悪《しうあく》を|暴露《ばくろ》せないものであります。かくのごとき|精霊《せいれい》が|霊界《れいかい》に|来《き》たり|内面的《ないめんてき》|情態《じやうたい》に|入《い》つてその|言説《げんせつ》するところを|聞《き》き、その|行動《かうどう》するところを|見《み》る|時《とき》は、あたかも|前後《ぜんご》の|区別《くべつ》も|知《し》らず、|発狂者《はつきやうしや》のごとく|見《み》ゆるものであります。|彼《かれ》ら|精霊《せいれい》の|凶慾心《きようよくしん》は|爰《ここ》に|爆裂《ばくれつ》して、|一切《いつさい》|憎悪《ぞうを》の|相《さう》を|現《あら》はしたり、|他《た》を|侮蔑《ぶべつ》して|到《いた》らざるなく、あらゆる|悪《あく》の|実相《じつさう》を|示《しめ》し、|悪行《あくかう》を|敢《あへ》てし、|殆《ほと》んど|人間《にんげん》の|所作《しよさ》なるかと|疑《うたが》はしむるばかりであります。
|現世《げんせ》にあつた|時《とき》には、|外的《ぐわいてき》|事物《じぶつ》のために|制圧《せいあつ》せられ|沮滞《そたい》しつつあつたけれども、|今《いま》やその|覊絆《きはん》を|脱《だつ》し、|彼《かれ》らの|意志《いし》よりする|想念《さうねん》に|任《まか》せて|放縦自在《はうじうじざい》に|振《ふ》るまふことを|得《う》るからです。|彼《かれ》らがまた|生前《せいぜん》において|所有《しよいう》した|理性力《りせいりよく》は|皆《みな》|外面《ぐわいめん》に|住《ぢう》し、|内面《ないめん》に|住《ぢう》してゐなかつたから、かくのごとき|悪相《あくさう》を|現《げん》ずるに|到《いた》るのであります。しかも|彼《かれ》らは|他人《たにん》に|優《まさ》りて|内面的《ないめんてき》に|証覚《しようかく》あるものと|自信《じしん》してゐたものであります。|今日《こんにち》の|学者《がくしや》や|識者《しきしや》と|謂《ゐ》はるる|人《ひと》の|精霊《せいれい》は、|概《がい》して|外面的《ぐわいめんてき》|情態《じやうたい》のみ|開《ひら》け、|内面《ないめん》は|却《かへ》つて|悪霊《あくれい》の|住所《ぢうしよ》となつてゐるものが|大多数《だいたすう》を|占《し》めてゐるやうであります。
○
|高姫《たかひめ》『これ、お|前《まへ》たち、|何《なに》が|可笑《をか》しうてさう|笑《わら》ふのだい。|千騎一騎《せんきいつき》のこの|場合《ばあひ》、|笑《わら》ふどころぢやござるまい。|変性男子様《へんじやうなんしさま》の|教《をしへ》にも「|座敷《ざしき》を|閉《し》めきりてジツとしてをらぬと、|笑《わら》つてゐるやうなことでは|物事《ものごと》|成就《じやうじゆ》いたさぬ」とありますぞや。|五人《ごにん》が|五人《ごにん》とも|揃《そろ》うて|笑《わら》ふとは|何《なん》のことぢやい。この|日出神《ひのでのかみ》を|馬鹿《ばか》にしてるのぢやあるまいかな』
カークス『なに、|馬鹿《ばか》にするどころか、|私《わたし》たち|五人《ごにん》は|高姫《たかひめ》さまに|馬鹿《ばか》にされて|馬鹿《ばか》になつて、この|道端《みちばた》でお|話《はなし》を|聞《き》かうと|思《おも》つてるのです。なあベース、さうだらう。これも|旅《たび》の|慰《なぐさ》みだからな。|立派《りつぱ》な|先生《せんせい》がありながら、|三五教《あななひけう》の|謀反人《むほんにん》ウラナイ|教《けう》の|高姫《たかひめ》さまの|説教《せつけう》を|聞《き》く|者《もの》がありますか。あんまり|名高《なだか》い|高姫《たかひめ》さまだから、|一《ひと》つ|話《はなし》を|聞《き》いてやるのですよ』
|高姫《たかひめ》『オツホホホホ、|盲《めくら》|蛇《へび》に|怖《お》ぢずとやら、|困《こま》つたものだわい。かふいふ|代物《しろもの》も|神様《かみさま》は|済度《さいど》|遊《あそ》ばすのだから、|並《な》みや|大抵《たいてい》のことぢやないわい。|日出神《ひのでのかみ》や|大神様《おほかみさま》のお|心《こころ》を|察《さつ》しまして、おいとしうござりますわいな、オーンオーンオーン。|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》、かくのごとく|憐《あは》れな|身魂《みたま》ですから、|何卒《なにとぞ》|虫族《むしけら》だと|思《おも》つて|腹《はら》を|立《た》てずに、|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》して|助《たす》けてやつて|下《くだ》さい。どうして|又《また》|世《よ》の|中《なか》はかうも|曇《くも》つたものだらう。|俺《わし》もここで|足掛《あしか》け|二年《にねん》も|大弥勒《おほみろく》さまの|教《をしへ》を|伝《つた》へてをるのに、ただ|一人《ひとり》|聞《き》く|者《もの》がいないとは、|如何《いか》に|暗《くら》がりの|世《よ》の|中《なか》とはいへ、|困《こま》つたものだな』
カークス『お|前《まへ》さま、えらさうに|善人《ぜんにん》らしく、|智者《ちしや》らしく、|神《かみ》さまらしく|仰有《おつしや》るが、|肝腎要《かんじんかなめ》の|内面的《ないめんてき》|状態《じやうたい》は|地獄的《ぢごくてき》|精神《せいしん》でせうがな。このカークスはかう|見《み》えても|精神《せいしん》の|内面《ないめん》|状態《じやうたい》は……ヘン……|第一天国《だいいちてんごく》に|感応《かんのう》してゐるのだから、お|前《まへ》さまのいふ|事《こと》が、|何《なん》だか|幼稚《えうち》で|馬鹿《ばか》に|見《み》えて|仕方《しかた》がありませぬわ。ウツフフフフ』
|高姫《たかひめ》『オツホホホホ|何《なん》とまあ|没分暁漢《わからずや》だこと。|現在《げんざい》|目《め》の|前《まへ》に|底津岩根《そこついはね》の|身魂《みたま》が|現《あら》はれてゐるのも|分《わか》らず、|第一霊国《だいいちれいごく》の|天人《てんにん》、|珍《うづ》の|神柱《かむばしら》|高姫《たかひめ》が|言葉《ことば》を|幼稚《えうち》だとか、|馬鹿《ばか》に|見《み》えるとか|言《い》うてゐるが、ほんに|困《こま》つたものだな。|丹波《たんば》の|筍《たけのこ》ぢやないが、|煮《に》ても|焚《た》いても|喰《く》はれない|代物《しろもの》だ。それでも|人間《にんげん》の|味《あぢ》がしてをるのかな。|伊太彦《いたひこ》さま、お|前《まへ》も|大抵《たいてい》ぢやなからうな。たとへ|千年《せんねん》|万年《まんねん》かかつても、|誠《まこと》の|道《みち》に|帰順《きじゆん》させることは|難《むつ》かしいよ。|如何《いか》なこの|大弥勒《おほみろく》の|御用《ごよう》する|高姫《たかひめ》でも、この|代物《しろもの》には|一寸《ちよつと》、|手古《てこ》ずらざるを|得《え》ないからな』
カークス『ヘン、【そこつ】|岩根《いはね》の|大弥勒《おほみろく》さまだけあつて|随分《ずゐぶん》【|粗忽《そこつ》】なことを|仰有《おつしや》るわい。【|霊国《れいごく》】の|天人《てんにん》ぢやと|仰有《おつしや》つたが、いかにも|無情《むじやう》【|冷酷《れいこく》】の|天人《てんにん》イヤ|癲狂人《てんきやうじん》と|見《み》える。|神《かみ》の|道《みち》には|好《す》き|嫌《きら》ひは|無《な》いはず、それに|結構《けつこう》な|神様《かみさま》の|生宮《いきみや》を|捉《つか》まへて|這入《はい》ると|家《いへ》が|穢《けが》れるの、なんのつて|仰有《おつしや》るから|恐《おそ》れ|入《い》るわい、ウツフフフフ』
|高姫《たかひめ》『お|前《まへ》のやうなコンマ|以下《いか》に|相手《あひて》になつてをつたら|日《ひ》が|暮《く》れる。さア|伊太彦《いたひこ》さま、お|前《まへ》は|一寸《ちよつと》|利口《りこう》さうな|顔《かほ》をしてをるが、|高姫《たかひめ》のいふ|事《こと》は|耳《みみ》に|入《い》るだらうな』
|伊太《いた》『もとより|愚鈍《ぐどん》な|私《わたし》、|賢明《けんめい》な|貴女《あなた》の|仰有《おつしや》ること、どうせ|耳《みみ》に|入《い》りますまいよ。|平易《へいい》|簡単《かんたん》に|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さい。どうぞお|願《ねが》ひいたします』
『あ、よしよし、お|前《まへ》の|方《はう》から、さう|出《で》れば|文句《もんく》はないのだ。しかしながら、この|大弥勒《おほみろく》さまに|教《をし》へてやらうといふやうな|態度《たいど》に|出《で》たら|大間違《おほまちが》ひが|出来《でき》ますぞ。それこそアフンとして|尻《しり》がすぼまりますぞや。|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|大神様《おほかみさま》の|一厘《いちりん》の|仕組《しぐみ》、これが|分《わか》つたら|俺《われ》も|私《わし》もと|高姫《たかひめ》の|足許《あしもと》に|寄《よ》つて|来《く》るなれど、あまり|身魂《みたま》が|曇《くも》つておるから|何《なに》も|申《まを》されぬが、とかく|改心《かいしん》が|一等《いつとう》ぞや。これ|伊丹彦《いたみひこ》さま、|傷《いた》み|入《い》つて|改心《かいしん》するなら|今《いま》ぢやぞえ。|後《あと》の|後悔《こうくわい》|間《ま》に|合《あ》はぬ。|毛筋《けすぢ》の|横巾《よこはば》でも|間違《まちが》ひはないぞや。|大弥勒《おほみろく》の|神《かみ》に|間違《まちが》ひはないぞえ。|高姫《たかひめ》が|申《まを》しても|高姫《たかひめ》が|申《まを》すのではない。|口《くち》|借《か》るばかりぢやから|慎《つつし》んでお|聞《き》きなさい。|分《わか》つたかな。|分《わか》つたら|分《わか》つたと、あつさり|言《い》ひなさい。これだけ|説教《せつけう》したら|分《わか》るはずだから……』
『|根《ね》つから|分《わか》りませぬがな。もつと|詳《くは》しく|簡単《かんたん》|明瞭《めいれう》に|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいな』
|高姫《たかひめ》『|何《なん》と|頭《あたま》の|悪《わる》い、これだけ|細《こま》かう|言《い》うてもまだ|分《わか》らぬのかな。|何《なに》ほど|簡単《かんたん》に|言《い》つても|肝胆《かんたん》|相照《あひて》らさない|伊丹彦《いたみひこ》さまにはイタイタしいぞや』
カークス『|何《なん》だ、|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|能書《のうがき》ばかりを|吹聴《ふいちやう》して、|肝腎《かんじん》のことは|一《ひと》つも|言《い》はぬぢやないか』
|高姫《たかひめ》『エー、|黙《だま》つてゐなさい。お|前《まへ》たちの|下司身魂《げすみたま》に|分《わか》るものか。この|高姫《たかひめ》は|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒《おほみろく》と|分《わか》れば|宜《い》いのだ』
|伊太《いた》『そりや|分《わか》つてをります。その|大弥勒《おほみろく》が|又《また》どうして|斯様《かやう》な|処《ところ》でお|一人《ひとり》お|鎮《しづ》まりになつてるのでせうかな』
『「|竜《りう》は|時《とき》を|得《え》て|天地《てんち》に|蟠《わだかま》り、|時《とき》を|得《え》ざれば|蚯蚓《みみず》|蠑〓《いもり》と|身《み》を|潜《ひそ》む」といふことがある。|何《なに》ほど|天地《てんち》の|大先祖《おほせんぞ》の|大先祖《おほせんぞ》の、も|一《ひと》つ|大先祖《おほせんぞ》の|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒《おほみろく》さまでも、|時節《じせつ》が|来《こ》ねば|身《み》を|落《お》として|衆生済度《しゆじやうさいど》をなさるのぢやぞえ。この|高姫《たかひめ》を|見《み》て|改心《かいしん》なされ。この|世《よ》の|鑑《かがみ》に|出《だ》してあるのだよ。|別《べつ》にエルサレムとか|斎苑館《いそやかた》とか、コーカサス|山《ざん》とか|甘粕大尉山《あまかすたいゐさん》とかへ|行《ゆ》かなくても、この|高姫《たかひめ》のいふことを|腹《はら》に|締《し》め|込《こ》みておいたら|世界《せかい》が|見《み》えすきますぞや』
『どうもハツキリ|分《わか》りませぬがな。よほど|甲粕御魂《かふかすみたま》と|見《み》えますわい、アハハハハ』
『これほど|細《こま》かく|言《い》つても|未《ま》だ|分《わか》らぬのかいな。さうするとお|前《まへ》は|一寸《ちよつと》|落《お》として|来《き》てをるのだわい。|一体《いつたい》|誰《たれ》のお|弟子《でし》になつてゐたのだな』
『|玉国別《たまくにわけ》の|先生《せんせい》に|教養《けうやう》を|受《う》けてをりました』
『|何《なん》だ、あの|玉《たま》かいな。あいつは|音彦《おとひこ》といつてフサの|国《くに》の|本山《ほんざん》にも、|俺《わし》の|宅《うち》の|門掃《かどは》きをしてをつた|奴《やつ》だ。あいつは|謀叛者《うらがへりもの》でな。|自転倒島《おのころじま》の|魔窟ケ原《まくつがはら》でも|後足《あとあし》で|砂《すな》をかけて|逃《に》げて|行《い》つた|不人情者《ふにんじやうもの》だ。あんな|者《もの》に|天理《てんり》|人道《じんだう》が|分《わか》つてたまるものかい。|五十子姫《いそこひめ》といふ|阿婆《あば》ずれ|女郎《めらう》を|貰《もら》つて、|玉国別《たまくにわけ》だなどといふ|名《な》で|其処《そこら》|辺《あた》りを|歩《ある》き|廻《まは》つてゐるのだから、|臍茶《へそちや》のいたりだ。オツホホホホ、|何《なん》とまア|三五教《あななひけう》も|人物《じんぶつ》|払底《ふつてい》だな。これでは|瑞《みづ》の|御霊《みたま》が|何《なに》ほどシヤチになつても|駄目《だめ》だわい。それだから|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒《おほみろく》さまの|肝腎《かんじん》のことが|分《わか》らぬと|申《まを》すのだ。さア|伊太彦《いたひこ》さま、ここが|宜《よ》い|見切《みき》り|時《どき》だ。|天国《てんごく》に|上《のぼ》るが|宜《よ》いか、|地獄《ぢごく》に|落《お》ちるが|宜《よ》いか、|一《ひと》つ|思案《しあん》をしなされや。チツとばかり|耳《みみ》が|伊太彦《いたひこ》でも|辛抱《しんばう》して|聞《き》いて|見《み》なさい、|利益《りやく》になりますよ』
『|高姫《たかひめ》さま、もうお|暇《いとま》いたします。|私《わたし》は|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》が|大切《たいせつ》なお|師匠様《ししやうさま》、そのお|師匠様《ししやうさま》の|悪口《あくこう》を|言《い》はれて、どうして|黙《だま》つてをられませう。さア|皆《みな》さま、|帰《かへ》りませう』
カークス『|万歳《ばんざい》|万歳《ばんざい》、|始終臭《しじうくさ》ひの|婆々《ばば》|万歳《ばんざい》』
ベース『|退却《たいきやく》|退却《たいきやく》、|本当《ほんたう》に|誠《まこと》に|退屈《たいくつ》|退屈《たいくつ》』
|高姫《たかひめ》『これお|前《まへ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》ぢやないか。|怒《いか》る|勿《なか》れといふ|掟《おきて》を|知《し》つてをるか。さう|二《ふた》つ|目《め》には|腹《はら》を|立《た》てて|帰《かへ》るとは|何《なん》の|事《こと》だい。それで|宣伝使《せんでんし》といはれますか。お|前《まへ》のやうな|無腸漢《むちやうかん》が|居《を》るから|三五教《あななひけう》の|名《な》が|日《ひ》に|月《つき》に|落《お》ちるのだ。よい|加減《かげん》に|馬鹿《ばか》を|尽《つく》しておきなさい』
ブラワ゛ーダ『|思《おも》ひきや|高姫《たかひめ》|様《さま》に|廻《めぐ》り|会《あ》ひ
|醜《しこ》の|教《をしへ》を|授《さづ》からむとは』
|高姫《たかひめ》『|思《おも》ひきや|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》
|闇《やみ》と|枉《まが》とに|包《つつ》まれしとは』
|伊太彦《いたひこ》『|思《おも》ひきやかほどに|自我《じが》の|強烈《きやうれつ》な
ウラナイ|教《けう》の|高姫《たかひめ》|婆《ば》さまとは』
アスマガルダ『|思《おも》ひきやこんな|処《ところ》にウラナイの
|醜《しこ》の|婆《ば》さまが|構《かま》へゐるとは』
ベース『|思《おも》ひきやウラナイ|教《けう》の|高姫《たかひめ》の
|減《へ》らず|口《ぐち》でも|之《これ》|程《ほど》までとは』
カークス『とはとはと|問《と》はず|語《がた》りに|高姫《たかひめ》が
|囀《さへづ》る|言葉《ことば》ここで|聞《き》くとは』
|伊太《いた》『|高姫《たかひめ》さま、お|邪魔《じやま》をいたしました。さアこれでお|暇《いとま》をいたします。どうかトワに|御鎮座《ごちんざ》|遊《あそ》ばしませ』
カークス『まアゆつくりとこの|破《やぶ》れ|家《や》で|一人《ひとり》をりなさい。よく|宣伝《せんでん》が|出来《でき》ることでせう。イツヒヒヒヒ』
|高姫《たかひめ》『こりやカークス、|何《なん》といふ|無礼《ぶれい》なことを|申《まを》すのだ。|貴様《きさま》の|骨《ほね》を|叩《たた》き|割《わ》つてカークスにしてやらうか』
『そんならカークスベース(|蚊《か》|燻《くす》べ)にして|貰《もら》はうかい。【たか】といふ|蚊《か》がゐるのだから|面白《おもしろ》からうよ。ヒヒヒヒヒメメメメメ』
『|伊太彦《いたひこ》の|鼬《いたち》みたやうな|奴《やつ》についている|者《もの》は|碌《ろく》な|奴《やつ》はありやせないわ。ブラワ゛ーダだのアスマガルダだのと、|曲《まが》つた|腰付《こしつき》でブラブラと|迂路付《うろつ》きやがつて、|鼬《いたち》に|屁《へ》をかまされたやうな|顔付《つらつ》きして、イツヒヒヒヒ、アア|衆生済度《しゆじやうさいど》も|並《な》み|大抵《たいてい》ぢやないわ』
アスマガルダ『|高姫《たかひめ》さま、お|前《まへ》さまは|何時《いつ》の|間《ま》に、スーラヤの|死線《しせん》を|越《こ》えてこの|岩窟《がんくつ》に|来《き》たのだい』
|高姫《たかひめ》『オツホホホホ|馬鹿《ばか》だな。|一《ひと》つ|手洗《てうづ》を|使《つか》うて|来《き》なさい。ここは|岩窟《がんくつ》の|中《なか》ぢやありませぬよ。フサの|国《くに》テルモン|山《ざん》の|麓《ふもと》、|高姫高原《たかひめかうげん》の|神館《かむやかた》だ。|夜中《よなか》の|夢《ゆめ》を|見《み》て|世《よ》の|中《なか》をぶらついてゐるのだな。|妹《いもうと》の|婿《むこ》の|尻《しり》を|追《お》うて|歩《ある》く|代物《しろもの》だから、どうせ|碌《ろく》な|奴《やつ》ぢやないと|思《おも》つたが、やつぱり|日出神《ひのでのかみ》が|一目《ひとめ》|見《み》たら|違《ちが》はんわい。|何《なん》というても|金挺《かなてこ》|聾《つんぼ》だから|何《なん》も|分《わか》らぬ、|困《こま》つた|人足《にんそく》だな』
アスマガルダ『なに、|言《い》はしておけば|際限《さいげん》もなき|雑言《ざふごん》|無礼《ぶれい》、かう|見《み》えても|俺《おれ》はスーラヤの|海《うみ》で|鍛《きた》へた|腕《うで》だ。|覚悟《かくご》せい』
と|鉄拳《てつけん》を|揮《ふる》つて|殴《なぐ》りつけむとする。|伊太彦《いたひこ》は|早《はや》くもその|腕《かひな》を|掴《つか》んで、
『|待《ま》つた|待《ま》つた、|三五教《あななひけう》は|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》だ。さう|乱暴《らんばう》なことをしちやいけませぬ』
アスマガルダ『それだと|言《い》つて、|余《あんま》りぢやありませぬか』
|伊太《いた》『そこを|辛抱《しんばう》するのが|誠《まこと》の|道《みち》です。|堪忍《かんにん》|五万歳《ごまんざい》といつて、|堪忍《かんにん》は|無事長久《ぶじちやうきう》の|基《もとゐ》ですからな』
アスマガルダ『そんなら|伊太彦《いたひこ》さまの|命令《めいれい》に|従《したが》ひませう。エー|残念《ざんねん》な……』
|高姫《たかひめ》は|腮《あご》をしやくりながら、
『イツヒヒヒヒ、|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》の|三五教《あななひけう》、お|気《き》の|毒様《どくさま》』
と|大《おほ》きな|尻《しり》をプリンプリンと|振《ふ》りながら、|裏《うら》の|柴山《しばやま》を|獅子《しし》のごとくに|駈《か》け|上《のぼ》り、|何処《どこ》ともなく|姿《すがた》を|隠《かく》してしまつた。|五人《ごにん》は|又《また》もや|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひながら、|露《つゆ》おく|野辺《のべ》を|悠々《いういう》と|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・五・二四 旧四・九 於竜宮館 北村隆光録)
第一四章 |嬉《うれ》し|涙《なみだ》〔一六二一〕
|黒雲《こくうん》|濛々《もうもう》として|天地《てんち》|四方《しはう》を|包《つつ》み、|夜《よる》とも|昼《ひる》とも|見別《みわけ》のつかぬやうな|光景《くわうけい》となつて|来《き》た。|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》は|何《なん》となく|腥《なまぐさ》く、かつ|湿《しめ》つぽく、|表面《へうめん》は|冷《つめ》たく、どこやらに|熱気《ねつき》を|含《ふく》み、|体《からだ》からねばつた|汗《あせ》の|滲《にじ》む|空気《くうき》である。|伊太彦《いたひこ》|一行《いつかう》は|足《あし》に|任《まか》せて、|方向《はうかう》も|定《さだ》めず、|膝栗毛《ひざくりげ》の|続《つづ》くかぎり|進《すす》んで|行《ゆ》くと、|相当《さうたう》に|高《たか》い|岩骨《ロツキー》の|山《やま》の|麓《ふもと》に|行《ゆ》き|当《あた》つた。|相当《さうたう》に|高《たか》い|山《やま》らしいが、|五合目《ごがふめ》あたりから、|灰色《はひいろ》の|雲《くも》が|包《つつ》んで|嶺《いただき》を|見《み》ることが|出来《でき》なかつた。|一行《いつかう》はこの|山《やま》を|登《のぼ》るより|道《みち》がない。|針《はり》のやうな|草《くさ》や、|荊《いばら》の|間《あひだ》を|種々《いろいろ》と|苦心《くしん》して|右《みぎ》へ|避《よ》け|左《ひだり》へ|避《さ》け、|板壁《いたかべ》のやうな|嶮《けは》しい|所《ところ》を|登《のぼ》つて|往《ゆ》く。|四方《しはう》|八方《はつぱう》から、|何《なん》とも|知《し》れぬ|悲《かな》しいやうな|嫌《いや》らしいやうな|泣声《なきごゑ》が|聞《き》こえて|来《く》る。|猿《さる》の|声《こゑ》でもなければ|秋《あき》の|夕《ゆふ》べの|虫《むし》の|音《ね》でもない。|実《じつ》に|絶望《ぜつばう》の|淵《ふち》に|沈《しづ》んだ|時《とき》のやうな|嘆声《かこちごゑ》である。|一行《いつかう》は|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》せむとしたが、どうしても|唇《くちびる》が|強直《きやうちよく》して|声《こゑ》を|発《はつ》することが|出来《でき》なかつた。|灰色《はひいろ》の|雲《くも》の|中《なか》に|身《み》を|没《ぼつ》するやうになると、スーラヤ|山《さん》の|死線《しせん》を|越《こ》えた|時《とき》のやうな|再《ふたた》び|不快《ふくわい》の|気分《きぶん》に|襲《おそ》はれた。|一同《いちどう》は|不言不語《いはずかたらず》|運《うん》を|天《てん》に|任《まか》し、|伊太彦《いたひこ》の|後《あと》に|従《したが》ひ|登《のぼ》つて|往《ゆ》くと、|山《やま》の|嶺《いただき》は、|蠣殻《かきがら》を|打《ぶ》ちあけたやうな|小石《こいし》が|一面《いちめん》に|被《かぶ》さつてゐて、あたかも|剣《つるぎ》の|山《やま》を|登《のぼ》るがごとくであつた。|伊太彦《いたひこ》は|頂上《ちやうじやう》のバラの|花《はな》のやうな|形《かたち》した|岩《いは》の|上《うへ》にソツと|腰《こし》を|下《おろ》した。|後《おく》れ|馳《ば》せながら|四人《よにん》はヘトヘトになり、|顔色《かほいろ》|蒼白《あをざ》め、|唇《くちびる》を|紫色《むらさきいろ》に|染《そ》め、さも|絶望《ぜつばう》の|淵《ふち》に|沈《しづ》んだやうな|面貌《おももち》で|辿《たど》りつき、|気息《きそく》|奄々《えんえん》として|夏犬《なついぬ》のやうに|舌《した》を|垂《た》らし、|胸《むね》に|浪《なみ》をうたせながら、|蠣殻《かきがら》のやうな|小石《こいし》の|上《うへ》に|倒《たふ》れてしまつた。
そこへ|下《した》の|方《はう》からスタスタえらひ|勢《いきほ》ひで|登《のぼ》つて|来《き》た|一人《ひとり》の|婆《ばば》がある。|一同《いちどう》の|屁古《へこ》たれた|姿《すがた》を|見《み》て|婆《ばば》は|大口《おほぐち》を|開《ひら》いて、
『オホホホホ、これや|伊太《いた》に|阿魔女《あまつちよ》に|三人《さんにん》のガラクタども、|往生《わうじやう》いたしたか。もう|此処《ここ》まで|来《き》た|以上《いじやう》は|往《ゆ》きも|戻《もど》りもならず、ここで|露《つゆ》の|命《いのち》を|捨《す》てて|八万地獄《はちまんぢごく》へ|落《お》ちるのだが、それでもお|詫《わび》をいたして|助《たす》けてもらふ|気《き》はないか。|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》だなどと|申《まを》して、よくもよくも|世界《せかい》を|股《また》にかけて|歩《ある》きよるな。|俺《わし》を|誰《たれ》だと|思《おも》うてをるか。|高姫《たかひめ》の|守護《しゆご》をいたしてをる|銀毛八尾《ぎんまうはつぴ》のお|稲荷様《いなりさま》だぞ。これや|開《あ》いた|口《くち》がすぼまるまい。|一口《ひとくち》でも|喋《しやべ》るなら|喋《しやべ》つて|見《み》い。アスマガルダの|馬鹿者《ばかもの》が、この|方《はう》の|肉《にく》の|宮《みや》を|打擲《ちやうちやく》せむといたし|嚇《おど》かしやがつたために、この|方《はう》の|生宮《いきみや》は、たうとう|吾《わ》が|家《や》を|飛《と》び|出《だ》し|行衛不明《ゆくゑふめい》となつてしまつたのだ。|恨《うら》みを|晴《は》らさうと|思《おも》ひ|此《こ》の|方《はう》の|計略《けいりやく》によつて、この|山《やま》に|踏《ふ》み|迷《まよ》はしてやつたのだ。サア|心《こころ》を|改《あらた》めてウラナイ|教《けう》に|帰順《きじゆん》|致《いた》すか、どうだ、きつぱりと|返答《へんたふ》いたせ。いやいや|返答《へんたふ》はできまい。|耳《みみ》は|聾《みみしひ》、|口《くち》は|開《あ》かず、|言葉《ことば》も|出《で》ぬものだから、しかし|耳《みみ》は|少《すこ》し|聞《き》こえるだらう。この|方《はう》の|申《まを》すやうに|致《いた》すなら|首《くび》を|縦《たて》にふれ。てもさても【いげつない】ものだなア、てもさても|小気味《こきみ》よいことだなア、オツホホホホ』
|伊太彦《いたひこ》は|発言機関《はつげんきくわん》の|止《と》まつた|悲《かな》しさに、|一言《ひとこと》も|発《はつ》する|事《こと》を|得《え》ず、しきりに|首《くび》を|横《よこ》に|振《ふ》つてゐる。|外《ほか》|四人《よにん》も|伊太彦《いたひこ》にならつて|機械人形《きかいにんぎやう》のやうに|首《くび》を|横《よこ》に|振《ふ》る。
|婆《ばば》『てもさても、ど|渋太《しぶと》い|奴《やつ》だなア。|絶対《ぜつたい》|絶命《ぜつめい》の|場合《ばあひ》になつても、まだ|俺《わし》のいふ|事《こと》が|分《わか》らぬのか。|銅屑《どうくづ》の|霊《みたま》といふものは|因果《いんぐわ》なものだなア。これや|伊太彦《いたひこ》』
と|茨《いばら》の|笞《むち》をふり|上《あ》げて、|伊太彦《いたひこ》の|頭《かしら》を|続《つづ》け|打《う》ちに|十二三《じふにさん》|打《う》ち|続《つづ》けた。|頭部《とうぶ》からは、|花火《はなび》の|薄《すすき》のやうに|血《ち》がボトボトと|線《せん》を|劃《くわく》して|流《なが》れ|出《い》づるその|痛《いた》ましさ。|伊太彦《いたひこ》は|目《め》をつぶつたまま、たとへ|死《し》んでも|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》は|捨《す》てぬ、|如何《いか》な|責苦《せめく》にあつても、ウラナイ|教《けう》に|帰順《きじゆん》するものかと|益々《ますます》|首《くび》を|横《よこ》に|振《ふ》る。|婆《ばば》は|又《また》|鞭《むち》を|加《くは》へる。この|体《てい》を|見《み》たベースは|驚《おどろ》いて、そろそろ|首《くび》を|縦《たて》に|振《ふ》り|出《だ》した。|妖婆《えうば》はさも|嬉《うれ》しさうに、いやらしい|笑《ゑみ》をうかべて、
『オホホホホ、お|前《まへ》はベースだな。よしよし|偉《えら》いものだ。|本当《ほんたう》に|水晶玉《すゐしやうだま》だ。|五人《ごにん》の|中《うち》でお|前《まへ》|一人《ひとり》。「|改心《かいしん》すればその|日《ひ》から|楽《らく》になるぞよ」と|仰有《おつしや》るのだから、みせしめのため|此処《ここ》で|一《ひと》つお|前《まへ》に|天国《てんごく》の|楽《たの》しみを|与《あた》へてやらう』
と|言《い》ひながら、|懐《ふところ》から、|小《ちひ》さい|玉《たま》のやうなものを|取《と》り|出《い》だしブーブーと|口《くち》に|当《あ》て|吹《ふ》くと、フワリとした|綾錦《あやにしき》の|座布団《ざぶとん》が|七八枚《しちはちまい》、そこに|現《あら》はれた。
『ホホホホ、これやどうだ、|銀毛八尾様《ぎんまうはつぴさま》のお|働《はたら》きはこんなものだよ、さあベース、さぞ|足《あし》が|痛《いた》からう、この|上《うへ》に|坐《すわ》りなされ、さあチヤツと|坐《すわ》りなされ。そして、|腹《はら》が|空《す》いただらう。この|玉《たま》を|吹《ふ》きさへすればお|前《まへ》の|望《のぞ》み|通《どほ》りの|美味《びみ》の|物《もの》が|出《で》て|来《く》るのだ』
と|言《い》ひながら、ベースの|体《からだ》を|鷲《わし》づかみにして、|七八枚《しちはちまい》|重《かさ》ねた|柔《やは》らかい|布団《ふとん》の|上《うへ》に|坐《すわ》らした。ベースは|四人《よにん》の|者《もの》に|気兼《きが》ねしながら|坐《すわ》つた。|婆《ばば》はいろんな|果物《くだもの》や、|葡萄酒《ぶだうしゆ》などを|玉《たま》を|吹《ふ》ひては|拵《こしら》へ、ベースに|与《あた》へてゐる。アスマガルダも、ブラワ゛ーダも、カークスも|伊太彦《いたひこ》|同様《どうやう》で|依然《いぜん》として|首《くび》を|横《よこ》に|振《ふ》つてゐる。|妖婆《えうば》は|之《これ》を|見《み》て、さも|慨歎《がいたん》したやうに、
『てもさても|因縁《いんねん》の|悪《わる》いみ|魂《たま》だなア。このやうに|結構《けつこう》にして|助《たす》けてやらうと|思《おも》ふのに、こんな|責苦《せめく》に|遇《あ》うてもまだ|我《が》を|立《た》て|通《とほ》しよる。|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|首《くび》を|横《よこ》に|振《ふ》りやがつて、エエ|俺《わし》が|善悪《ぜんあく》の|鏡《かがみ》を|出《だ》して|見《み》せてやらう。|皆《みな》がベースのやうにすればよいのだ。|俺《わし》だつて|何《なに》も|此《こ》のやうなひどい|事《こと》をしたくはないが、|八岐大蛇様《やまたをろちさま》からの|御命令《ごめいれい》だから|仕方《しかた》なしにやるのだ』
と|言《い》ひながら、|又《また》もや|茨《いばら》の|笞《むち》で|三人《さんにん》を|打《う》ち|据《す》ゑる。|流血淋漓《りうけつりんり》として|目《め》も|当《あ》てられぬ|無残《むざん》さ、|四人《よにん》は|運《うん》を|天《てん》に|任《まか》して|心《こころ》の|中《うち》に|神《かみ》を|念《ねん》じてゐた。どことも|無《な》く|山岳《さんがく》を|崩《くず》るるばかりの|犬《いぬ》の|声《こゑ》、
『ウーワウ ワウ ウワウ』
この|声《こゑ》を|聞《き》くより|妖婆《えうば》は|忽《たちま》ち|銀毛八尾《ぎんまうはつぴ》の|正体《しやうたい》を|現《あら》はし、|倒《こ》けつ|輾《まろ》びつ|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げて|行《ゆ》く。|伊太彦《いたひこ》、ブラワ゛ーダ、アスマガルダ、カークスの|四人《よにん》は、この|声《こゑ》の|耳《みみ》に|入《い》るや|俄《には》かに|元気《げんき》|回復《くわいふく》し、|言霊《ことたま》を|自由《じいう》に|発《はつ》することを|得《え》た。さうして|今《いま》まで|滴《したた》つてゐた|血潮《ちしほ》は|痕跡《こんせき》も|留《とど》めず、|元《もと》のごとく|元気《げんき》よき|面貌《めんばう》となり|矗《すつく》と|立《た》ち|上《あ》がり、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》した。ベースはと|見《み》れば|猿取荊《さるとりいばら》の|中《なか》に|突《つ》つ|込《こ》まれて、ウンウンと|唸《うな》つてゐる。
|伊太《いた》『ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
|三人《さんにん》も|一度《いちど》に、
『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
カークス『もし|伊太彦《いたひこ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|怪体《けたい》の|事《こと》があるものぢやありませぬか。|高姫《たかひめ》の|守護神《しゆごじん》|奴《め》がこんな|所《ところ》までやつて|来《き》まして、|吾々《われわれ》を|試《こころ》みやうと|致《いた》しましたが、|犬《いぬ》の|声《こゑ》が|聞《き》こえると|忽《たちま》ち|正体《しやうたい》を|現《あら》はして|逃《に》げてしまつたぢやございませぬか。やつぱり|神様《かみさま》は|信仰《しんかう》せねばなりませぬなア』
|伊太彦《いたひこ》は|有難涙《ありがたなみだ》を|流《なが》しながら、
『アア、|何《なん》とも|有難《ありがた》くて|言葉《ことば》も|出《で》ませぬわい。|時《とき》にベースは|何処《どこ》へ|行《い》つたのでせうな』
アスマガルダ『ここの|猿取荊《さるとりいばら》の|中《なか》に|真裸体《まつぱだか》にせられ|血塗《ちみどろ》になつて|苦《くる》しんでゐます。|何《なん》とかして|助《たす》けてやりたいものですなア』
|伊太《いた》『|吾々《われわれ》|一同《いちどう》が|神様《かみさま》にお|願《ねが》ひして|救《すく》うていただくより|仕方《しかた》がないなア。サアお|願《ねが》ひしやう』
と|茲《ここ》に|四人《よにん》は|一同《いちどう》に|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、ベースの|取違《とりちが》ひをお|詫《わび》し、やや|暫《しば》し|汗《あせ》みどろになつて|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らした。ベースは「ウンウン」と|唸《うな》つて|居《ゐ》るばかりである。そこへ|忽然《こつぜん》として|猛犬《まうけん》スマートを|引《ひ》き|連《つ》れて|現《あら》はれたのは、|初稚姫《はつわかひめ》の|精霊《せいれい》であつた。|四人《よにん》は|姫《ひめ》の|姿《すがた》を|見《み》るより|喜《よろこ》びと|驚《おどろ》きとにうたれ、|暫時《しばらく》|言葉《ことば》もなく、|姫《ひめ》の|端麗《たんれい》なる|顔《かほ》を|見詰《みつ》めてゐる。
|初稚《はつわか》『|伊太彦《いたひこ》さま、あなたは|試験《しけん》に|及第《きふだい》いたしました。サアこれからウバナンダ|竜王《りうわう》の|玉《たま》を|受取《うけと》つて|聖地《せいち》にお|出《い》でなさいませ。|妾《わらは》は|貴方《あなた》がスーラヤ|山《さん》にお|登《のぼ》りになつたと|聞《き》き、スマートと|共《とも》に|船《ふね》を|雇《やと》うて|当山《たうざん》に|登《のぼ》り、あなたの|身《み》の|安全《あんぜん》を|守護《しゆご》してをりました。もはや|安心《あんしん》なさいませ』
と|言《い》ひながら、|迦陵頻伽《かりようびんが》のやうな|麗《うるは》しい|声《こゑ》を|出《だ》して|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》したまうた。ハツと|気《き》がついて|見《み》れば、|伊太彦《いたひこ》|以下《いか》|四人《よにん》は|竜王《りうわう》の|岩窟《がんくつ》に、|邪気《じやき》に|打《う》たれて|倒《たふ》れてゐたのである。
|伊太《いた》『アアやつぱり|此処《ここ》は|竜王《りうわう》の|岩窟《がんくつ》でございましたかなア、|大変《たいへん》な|所《ところ》へ|往《い》つてをりました。よくまアお|助《たす》け|下《くだ》さいました、|有難《ありがた》うございます』
|外《ほか》|四人《よにん》は|嬉《うれ》し|涙《なみだ》を|垂《た》らしながら、|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|初稚姫《はつわかひめ》を|伏《ふ》し|拝《をが》んでゐる。かかる|所《ところ》へ|岩窟《がんくつ》の|奥《おく》の|方《はう》より、|鏡《かがみ》のごとく|光《ひか》る|大火団《だいくわだん》|現《あら》はれ|来《き》たり、|一同《いちどう》の|前《まへ》に|爆発《ばくはつ》するよと|見《み》る|間《ま》に、|得《え》もいはれぬ|優美高尚《いうびかうしやう》なる|美人《びじん》が、|十二人《じふににん》の|侍女《じぢよ》を|従《したが》へ|現《あら》はれ|来《き》たり、|初稚姫《はつわかひめ》に|向《む》かひ|手《て》を|仕《つか》へ、
|竜女《りゆうぢよ》『|妾《わらは》は|神代《かみよ》の|昔《むかし》より、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》|様《さま》に|改心《かいしん》のため|此《こ》の|岩窟《がんくつ》に|閉《と》ぢ|込《こ》められ、|今《いま》まで|修業《しふげふ》をいたしてをりましたウバナンダ|竜王《りうわう》でございます。このたび|神政成就《しんせいじやうじゆ》について|如何《いか》なる|悪神《あくがみ》もお|赦《ゆる》し|下《くだ》さる|時節《じせつ》が|参《まゐ》りましたので、|誰《たれ》かお|助《たす》けに|来《き》て|下《くだ》さるだらうと|今日《こんにち》まで、この|宝玉《ほうぎよく》を|大切《たいせつ》に|保護《ほご》して|待《ま》つてをりました。ところが|伊太彦《いたひこ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》が|四人《よにん》の|伴《とも》を|連《つ》れてお|出《い》でになりましたが、かう|申《まを》すと|何《なん》でございますが、もうすこし|御神力《ごしんりき》が|奥《おく》さまに|引《ひ》かされて|薄《うす》らいでゐますので、|私《わたし》が|解脱《げだつ》する|事《こと》も|出来《でき》ませず、|困《こま》つてをりました。すると|伊太彦《いたひこ》|様《さま》|外《ほか》|御一同《ごいちどう》は|竜神《りうじん》の|毒気《どくき》に|打《う》たれ、|精霊《せいれい》が|脱《ぬ》け|出《だ》され|死人《しにん》|同様《どうやう》になられ|困《こま》つた|事《こと》だと|思《おも》つてゐましたところ、|神力無限《しんりきむげん》の|貴女様《あなたさま》がお|出《い》でになりまして|言霊《ことたま》を|聞《き》かして|下《くだ》さつたので、|昔《むかし》の|罪障《ざいしやう》も|解《ほど》け、|執着心《しふちやくしん》も|取《と》れて|今《いま》までの|醜《みぐる》しかつた|姿《すがた》も|消《き》え、こんな|天女《てんによ》となりました。しかしこの|玉《たま》は|伊太彦《いたひこ》さまにお|授《さづ》けいたしますから、エルサレムに|行《ゆ》き、この|玉《たま》を|献《けん》じお|手柄《てがら》をなさつて|下《くだ》さい。|妾《わらは》は|十二人《じふににん》の|侍女《じぢよ》と|共《とも》に|天《てん》に|登《のぼ》り、ハルナの|都《みやこ》の|言向《ことむ》け|和《やは》しに|蔭《かげ》ながらお|助《たす》けを|申《まを》します』
といひながら、|夜光《やくわう》の|玉《たま》を|伊太彦《いたひこ》に|渡《わた》した。|伊太彦《いたひこ》は|手足《てあし》を|慄《ふる》はせながら|押《お》し|戴《いただ》き、|丁寧《ていねい》に|布《ぬの》をもつて|包《つつ》み|懐《ふところ》に|入《い》れた。
|初稚《はつわか》『|竜王殿《りうわうどの》、お|目出《めで》たうございます。さぞ|神様《かみさま》も|御満足《ごまんぞく》|遊《あそ》ばすことでございませう』
|竜王《りうわう》『ハイ、お|蔭《かげ》で|助《たす》けていただきました。この|御恩《ごおん》は|決《けつ》して|忘《わす》れはいたしませぬ。
|久方《ひさかた》の|天津国《あまつくに》より|天降《あも》りませし
|姫《ひめ》の|命《みこと》に|救《すく》はれにけり
いざさらば|天津御国《あまつみくに》にまひのぼり
|月《つき》の|御神《みかみ》に|仕《つか》へまつらむ』
|初稚姫《はつわかひめ》『|古《いにしへ》ゆ|暗《くら》きにかくれたまひたる
|汝《なれ》が|命《みこと》を|救《すく》ひし|嬉《うれ》しさ
|久方《ひさかた》の|月《つき》の|御国《みくに》に|登《のぼ》りまさば
|吾《わ》が|神業《しんげふ》を|伝《つた》へたまはれ』
|竜王《りうわう》『|有難《ありがた》しこの|有様《ありさま》を|委曲《まつぶさ》に
|申《まを》し|上《あ》げなむ|月《つき》の|御神《みかみ》に』
|伊太彦《いたひこ》『タクシャカのナーガラシャーを|言向《ことむ》けて
|心《こころ》|傲《おご》りし|吾《われ》ぞうたてき』
ブラワ゛ーダ『|背《せ》の|君《きみ》の|厳《いづ》の|力《ちから》を|包《つつ》みたる
|妾《わらは》は|醜《しこ》の|曲津神《まがつかみ》なりし
さりながら|心《こころ》|改《あらた》め|今《いま》よりは
|神《かみ》の|大道《おほぢ》に|専《もは》ら|仕《つか》へむ』
|初稚姫《はつわかひめ》『|皇神《すめかみ》をまづ|第一《だいいち》と|崇《あが》めつつ
|伊太彦司《いたひこつかさ》をいつくしみませ』
ブラワ゛ーダ『|有難《ありがた》し|姫《ひめ》の|命《みこと》の|御教《みをしへ》は
|胸《むね》に|刻《きざ》みて|忘《わす》れざらまし』
アスマガルダ『|伊太彦《いたひこ》やわが|妹《いもうと》に|従《したが》ひて
|思《おも》はぬ|恵《めぐ》みに|逢《あ》ひにけるかな』
カークス『もろもろの|神《かみ》の|試《ため》しに|遇《あ》ひながら
|今《いま》は|嬉《うれ》しき|光《ひかり》|見《み》るかな』
ベース『|曲神《まがかみ》にたぶらかされて|思《おも》はずも
|道《みち》に|背《そむ》きし|吾《われ》ぞ|悲《かな》しき
|闇国《やみぐに》の|山《やま》の|尾上《をのへ》に|登《のぼ》りつめ
|心《こころ》を|変《か》へし|身《み》の|恥《は》づかしさよ
|御恵《みめぐ》みの|限《かぎ》り|知《し》られぬ|皇神《すめかみ》は
この|罪人《つみびと》も|赦《ゆる》したまひぬ』
|初稚姫《はつわかひめ》『いざさらばウバナンダ|竜王《りうわう》|永久《とこしへ》の
|住家《すみか》を|捨《す》てて|御国《みくに》に|入《い》りませ』
|竜王《りうわう》『ありがたし|姫《ひめ》の|命《みこと》の|御言葉《みことば》に
|天翔《あまか》けりつつ|神国《みくに》に|往《ゆ》かむ』
かく|互《たが》ひに|歌《うた》を|取交《とりかは》し|竜王《りうわう》に|別《わか》れを|告《つ》げた。|竜王《りうわう》は|十二人《じふににん》の|侍女《じぢよ》と|共《とも》に、|岩窟《がんくつ》より|雲《くも》を|起《おこ》し|空中《くうちう》に|舞上《まひあ》がり、たちまち|姿《すがた》は|煙《けぶり》のごとく|消《き》えてしまつた。|初稚姫《はつわかひめ》は|岩窟《がんくつ》の|細《ほそ》き|穴《あな》を|伝《つた》うて|磯端《いそばた》に|出《で》た。ここは|平素《へいそ》|波《なみ》|荒《あら》く|巨巌《きよがん》|屹立《きつりつ》し|船《ふね》の|近《ちか》づくことの|出来《でき》ぬ|難所《なんしよ》である。さうして|外《そと》に|出《で》れば|底《そこ》ひも|知《し》らぬ|水《みづ》の|深《ふか》さに、|船《ふね》を|置《お》く|場所《ばしよ》もなく、スーラヤの|湖《みづうみ》の|大難所《だいなんしよ》と|称《とな》へられ、|船人《ふなびと》の|恐《おそ》れて|近寄《ちかよ》らなかつた|所《ところ》である。|初稚姫《はつわかひめ》、スマートの|後《あと》に|従《したが》ひ、|五人《ごにん》は|細《ほそ》い|穴《あな》を|潜《くぐ》つて|出《で》てみると、|其処《そこ》には|玉国別《たまくにわけ》、|治道居士《ちだうこじ》の|一行《いつかう》が|船《ふね》を|横付《よこづ》けにして|待《ま》つてゐる。|伊太彦《いたひこ》は|飛《と》び|立《た》つばかり|喜《よろこ》んで|船《ふね》に|飛《と》び|乗《の》り、|玉国別《たまくにわけ》にしがみつき|嬉《うれ》し|泣《な》きに|泣《な》いてゐる。|玉国別《たまくにわけ》もただ|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|咽《むせ》んで|落涙《らくるゐ》するばかりであつた。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・五・二五 旧四・一〇 於教主殿 加藤明子録)
第四篇 |四鳥《してう》の|別《わかれ》
第一五章 |波《なみ》の|上《うへ》〔一六二二〕
|玉国別《たまくにわけ》、|初稚姫《はつわかひめ》|二人《ふたり》の|乗《の》り|来《き》たれる|二艘《にそう》の|船《ふね》は|伊太彦《いたひこ》|以下《いか》|四人《よにん》を|分乗《ぶんじやう》せしめ、スーラヤの|湖面《こめん》を|西南《せいなん》に|向《む》かつて|走《か》け|出《だ》し、をりからの|順風《じゆんぷう》に|真帆《まほ》をあげてエルの|港《みなと》に|進《すす》み|行《ゆ》く。
|初稚姫《はつわかひめ》の|船《ふね》にはブラワ゛ーダ、アスマガルダ、カークス、ベースが|乗《の》せられた。|玉国別《たまくにわけ》の|船《ふね》には|伊太彦《いたひこ》が|只《ただ》|一人《ひとり》|乗《の》つてゐる。
|漂渺《へうべう》として|際限《さいげん》もなき|湖面《こめん》を|渡《わた》り|行《ゆ》く|退屈《たいくつ》まぎれに、いろいろの|成功談《せいこうだん》や|失敗談《しつぱいだん》に|花《はな》が|咲《さ》いた。|真純彦《ますみひこ》は|伊太彦《いたひこ》に|向《む》かひ、
『|伊太彦《いたひこ》さま、ずゐ|分《ぶん》お|手柄《てがら》でございましたな。まアこれで|貴方《あなた》も|夜光《やくわう》の|玉《たま》が|手《て》に|這入《はい》つて|御不足《ごふそく》もありますまい。|何《なん》といつてもタクシャカ|竜王《りうわう》を|言向和《ことむけやわ》すといふ|勇者《ゆうしや》だから、|到底《たうてい》|吾々《われわれ》はお|側《そば》へも|寄《よ》れませぬわい』
|伊太《いた》『いやもうさう|言《い》はれては|面目《めんぼく》|次第《しだい》もありませぬ。|実《じつ》のところウバナンダ|竜王《りうわう》は、|拙者《せつしや》には|神力《しんりき》が|足《た》らぬからお|渡《わた》しせぬが、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》ならお|渡《わた》しすると|言《い》つて|散々《さんざん》|文句《もんく》|言《い》つて|渡《わた》して|呉《く》れたのですよ。サツパリ|今度《こんど》は|失敗《しつぱい》でしたよ。アハハハハ』
|真純《ますみ》『しかし|伊太彦《いたひこ》さま、あなたはブラワ゛ーダとかいふ|奥《おく》さまが|出来《でき》たさうですな』
|伊太彦《いたひこ》は|真赤《まつか》な|顔《かほ》をしながら、
『いや、どうも|痛《いた》み|入《い》ります。|何《なに》ほど|断《こと》わつても|先方《むかふ》が|肯《き》かないものですから、また|親子《おやこ》|兄弟《きやうだい》の|懇望《こんまう》によつて|予約《よやく》だけはしておきました。しかしながら、まだ|正妻《せいさい》といふわけには|行《ゆ》きませぬ。ともかく|先生《せんせい》のお|許《ゆる》しを|得《え》なくちやなりませぬからな。ウバナンダ|竜王《りうわう》がいふには、|伊太彦司《いたひこつかさ》は|女《をんな》に|心《こころ》をとられてをるから|神力《しんりき》が|弱《よわ》つたと|言《い》ひましたよ。|別《べつ》に|女《をんな》などに|心《こころ》をとられてはゐないのだが|不思議《ふしぎ》ですな』
|玉国別《たまくにわけ》、|三千彦《みちひこ》は|可笑《をか》しさをこらへて|俯向《うつむ》いてクウクウと|笑《わら》うてゐる。
|真純《ますみ》『|伊太彦《いたひこ》さま、あなたに|限《かぎ》つて|女《をんな》に|心《こころ》をとらるるという|筈《はず》はありませぬが、おほかた|竜王《りうわう》の|奴《やつ》、|岡嫉妬《をかやき》をして、そんな|事《こと》をいつて|揶揄《からか》つたのですよ。|本当《ほんたう》なら|初稚姫《はつわかひめ》さまに|渡《わた》すべき|玉《たま》を|貴方《あなた》にに|渡《わた》したぢやありませぬか。ブラワ゛ーダさまがお|側《そば》に|居《を》ると|思《おも》つて|貴方《あなた》に|渡《わた》したのですよ。さういへば|何《なに》かお|心《こころ》に|障《さは》るか|知《し》りませんが、そこはそれ、|奥《おく》さまの|手前《てまへ》、|竜王《りうわう》さまも|気《き》を|利《き》かしたのですわい。アツハハハハ』
|伊太《いた》『いえいえ|決《けつ》して|決《けつ》して、そんな|訳《わけ》ぢやありませぬ。|到頭《たうとう》あの|山《やま》の|死線《しせん》を|越《こ》えて|岩窟《がんくつ》に|這入《はい》つたところ、|神力《しんりき》が|足《た》らぬので|一行《いつかう》|五人《ごにん》とも|邪気《じやき》にうたれ、|仮死状態《かしじやうたい》に|陥《おちい》り、|幽冥界《いうめいかい》の|旅行《りよかう》と|出掛《でか》け、ウラナイ|教《けう》の|高姫《たかひめ》に|会《あ》うて|一談判《ひとだんぱん》をやり、つまらぬ|小理窟《こりくつ》を|振《ふ》り|廻《まは》し、|暗《くら》い|暗《くら》い|原野《げんや》を|進《すす》んで|行《ゆ》くと|針《はり》のやうな|山《やま》にぶつつかり、それはそれはえらい|目《め》に|会《あ》ひましたよ。そこへスマートさまが|現《あら》はれ、|次《つ》いで|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|現《あら》はれて|高姫《たかひめ》の|守護神《しゆごじん》を|追払《おつぱら》ひ、|再《ふたた》び|現界《げんかい》へかへして|下《くだ》さつたのですよ。いやもう|思《おも》ひ|出《だ》してもゾツといたしますわ。「|功《こう》は|成《な》り|難《がた》くして|敗《やぶ》れ|易《やす》く、|時《とき》は|得難《えがた》くして|失《うしな》ひ|易《やす》し」とか|言《い》つて、なかなか|世《よ》の|中《なか》はうまく|行《ゆ》かぬものですわい。|知《し》らず|知《し》らず|何時《いつ》の|間《ま》にか|慢心《まんしん》し、|夫婦気取《ふうふきど》りでやつて|行《い》つたのが|私《わたし》の|失敗《しつぱい》、|高姫《たかひめ》の|奴《やつ》に|幽冥界《いうめいかい》においても|大変《たいへん》な|膏《あぶら》をとられましたよ』
『あなたは|何故《なぜ》、|死線《しせん》を|越《こ》えて|死生《しせい》を|共《とも》にした|奥《おく》さまを|初稚姫《はつわかひめ》にお|渡《わた》ししたのですか。あまり|水臭《みづくさ》いぢやありませぬか』
『いいえ、エルの|港《みなと》までお|世話《せわ》になつたのですよ。また|船《ふね》の|中《なか》で|貴方《あなた》がたに|冷《ひや》かされると|困《こま》りますからな』
『いや|伊太彦《いたひこ》さまは、|三千彦《みちひこ》さまの|御夫婦《ごふうふ》について|揶揄《からか》つたので|機《き》を|見《み》るに|敏《びん》なる|伊太彦《いたひこ》さまの|事《こと》だから、|予防線《よばうせん》を|張《は》つたのでせう』
『アハハハハ、それまで|内兜《うちかぶと》を|見透《みす》かされては|仕方《しかた》がありませぬわい』
|三千《みち》『|伊太彦《いたひこ》さま、ずゐぶん|冷《ひや》かされるのは|苦《くる》しいと|見《み》えますな』
|伊太《いた》『|三千彦《みちひこ》さま、こんな|処《ところ》で|敵討《かたきう》ちとは、ひどいぢやありませんか。いやもう|貴方《あなた》|御夫婦《ごふうふ》の|事《こと》は|申《まを》しませぬ。どうぞ|何事《なにごと》もスーラヤの|水《みづ》と|消《け》して|下《くだ》さい』
|三千《みち》『|決《けつ》して|敵討《かたきう》ちでも|何《なん》でもありませぬよ。|人《ひと》に|揶揄《からか》はれる|時《とき》の|御感想《ごかんさう》を|承《うけたまは》りたいと|思《おも》つただけですわ。しかし|先生《せんせい》、|伊太彦《いたひこ》さまの|縁談《えんだん》はお|許《ゆる》しになるでせうね』
|玉国《たまくに》『|三千彦《みちひこ》さまの|夫婦《ふうふ》を|承諾《しようだく》したのだからな』
|伊太《いた》『ヤア|先生《せんせい》、|有難《ありがた》うございます。そのお|言葉《ことば》でお|許《ゆる》しを|得《え》たも|同然《どうぜん》と|認《みと》めます』
|玉国《たまくに》『まだ|私《わたし》は|許《ゆる》して|居《を》りませぬ。しかしながら、|結婚問題《けつこんもんだい》は|当人《たうにん》と|当人《たうにん》の|自由《じいう》ですから、そんな|点《てん》までは|干渉《かんせう》しませぬわい』
|伊太彦《いたひこ》はつまらなさうな|顔《かほ》して|頭《あたま》を|掻《か》いてゐる。|治道居士《ちだうこじ》はニコツともせず、|目《め》を|塞《ふさ》ぎ|腕《うで》を|組《く》み、この|問答《もんだふ》を|一生懸命《いつしやうけんめい》|聞《き》いてゐる。バット、ベルも|治道居士《ちだうこじ》の|傍《かたはら》に|小《ちひ》さくなつて|伊太彦《いたひこ》の|顔《かほ》ばかり|見《み》つめてゐる。
|玉国別《たまくにわけ》『|神《かみ》ならぬ|玉国別《たまくにわけ》は|皇神《すめかみ》の
|結《むす》ぶ|赤繩《えにし》を|如何《いか》で|論争《あげつら》はむ
|伊太彦《いたひこ》の|神《かみ》の|司《つかさ》は|皇神《すめかみ》の
|御言《みこと》のままに|従《したが》へば|宜《よ》し
|皇神《すめかみ》の|任《よ》さし|玉《たま》ひし|神業《かむわざ》を
|遂《と》げ|終《をは》るまで|心《こころ》しませよ』
|伊太彦《いたひこ》『|有難《ありがた》し|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》の|御心《みこころ》は
その|言《こと》の|葉《は》に|知《し》られけるかな
|皇神《すめかみ》の|結《むす》ばせ|玉《たま》ふ|縁《えん》なれば
|否《いな》むによしなき|伊太彦《いたひこ》の|身《み》よ』
|真純彦《ますみひこ》『|月《つき》の|国《くに》ハルナの|都《みやこ》に|立《た》ち|向《む》かふ
|旅《たび》にも|芽出《めで》たき|話《はなし》|聞《き》くかな
|言霊《ことたま》の|軍《いくさ》の|君《きみ》も|春《はる》めきて
|花《はな》の|色香《いろか》に|酔《よ》ひつつぞ|行《ゆ》く』
|三千彦《みちひこ》『|若草《わかくさ》の|妻《つま》|定《さだ》めてゆ|何《なん》となく
|心《こころ》|苦《くる》しく|思《おも》ひつつ|行《ゆ》く』
|真純彦《ますみひこ》『|苦《くる》しさの|中《なか》に|楽《たの》しみあるものは
|妹背《いもせ》の|旅《たび》に|如《し》くものはなし
|苦《くる》しみと|口《くち》には|言《い》へど|心《こころ》には
|笑《ゑ》みと|栄《さか》えの|花《はな》|匂《にほ》ふらむ』
デビス|姫《ひめ》『|真純彦《ますみひこ》|神《かみ》の|司《つかさ》の|言《こと》の|葉《は》は
|妾《わらは》の|胸《むね》によくもかなへり』
|真純彦《ますみひこ》『デビス|姫《ひめ》その|言《こと》の|葉《は》は|詐《いつは》りの
なき|真人《まさびと》の|心《こころ》なりけり』
|治道《ちだう》『|三五《あななひ》の|神《かみ》の|大道《おほぢ》に|入《い》りしより
いつも|心《こころ》は|春《はる》めき|渡《わた》りぬ
|花《はな》と|花《はな》|月《つき》と|月《つき》との|夫婦連《めをとづ》れ
|花《はな》の|都《みやこ》へ|清《きよ》く【つき】ませ
|大空《おほぞら》に|冴《さ》えたる|月《つき》の|影《かげ》|見《み》れば
|笑《ゑ》ませ|玉《たま》ひぬ|今《いま》の|話《はなし》に』
|伊太彦《いたひこ》『|大空《おほぞら》の|月《つき》の|御神《みかみ》の|笑《ゑ》ませるは
|夜光《やくわう》の|玉《たま》をみそなはしてならむ
|大空《おほぞ》に|夜光《やくわう》の|月《つき》は|輝《かがや》きて
|吾《わ》が|懐《ふところ》の|玉《たま》に|照《て》りそふ
ウバナンダ ナーガラシャーの|珍宝《うづたから》
|吾《わ》が|懐《ふところ》に|光《ひか》らせ|玉《たま》ふ
|願《ねが》はくばこれの|光《ひかり》を|友《とも》として
|常夜《とこよ》の|暗《やみ》を|照《て》らしてや|行《ゆ》かむ』
|艫《とも》に|立《た》つて|船頭《せんどう》は、|艪《ろ》を|操《あやつ》りながら|声《こゑ》も|涼《すず》しく|謡《うた》ひ|出《だ》した。
『ここは|名《な》に|負《お》ふスーラヤ|湖水《こすゐ》
|水《みづ》の|深《ふか》さは|底《そこ》|知《し》れぬ
|底《そこ》|知《し》れぬ|神《かみ》の|恵《めぐ》みと|喜《よろこ》びに
|会《あ》うた|伊太彦神司《いたひこかむづかさ》
|初稚《はつわか》の|姫《ひめ》の|命《みこと》の|玉《たま》の|舟《ふね》
さぞや|見《み》たからうブラワ゛ーダ|姫《ひめ》を
ウバナンダ|竜王《りうわう》さまの|宝《たから》をば
|乗《の》せて|漕《こ》ぎ|行《ゆ》くこの|御船《みふね》
|風《かぜ》も|吹《ふ》け|波《なみ》も|立《た》て|立《た》て|竜神《りうじん》|躍《をど》れ
いつかなこたへぬ|神《かみ》の|舟《ふね》
|玉国別《たまくにわけ》の|神《かみ》の|司《つかさ》の|居《ゐ》ます|舟《ふね》に
|醜《しこ》の|悪魔《あくま》のさやるべき
スーラヤの|山《やま》は|霞《かすみ》に|包《つつ》まれて
|今《いま》は|光《ひかり》も|見《み》えずなりぬ
|夜《よる》|光《ひか》るスーラヤ|山《さん》も|伊太彦《いたひこ》の
|神《かみ》の|身霊《みたま》に|暗《くら》くなる
これからは|百里《ひやくり》を|照《て》らした|山燈台《やまとうだい》も
|消《き》えて|跡《あと》なき|波《なみ》の|泡《あわ》
|月《つき》も|日《ひ》も|波間《なみま》に|浮《うか》ぶスーラヤ|湖水《こすゐ》
|今日《けふ》は|天女《てんによ》が|渡《わた》り|行《ゆ》く
|天人《てんにん》の|列《つら》に|加《くは》はる|神司《かむづかさ》
さぞや|心《こころ》が|勇《いさ》むだらう
|漸《やうや》くにエルの|港《みなと》が|見《み》えかけた
かすかに|目《め》につくエルの|山《やま》
|十五夜《じふごや》の|月《つき》は|御空《みそら》に|有明《ありあけ》の
|朝《あさ》も|早《はや》うから|船《ふね》を|漕《こ》ぐ
エル|港《みなと》|越《こ》えて|進《すす》むはエルサレム
|一度《いちど》|詣《まゐ》りたや|神《かみ》の|前《まへ》
|朝夕《あさゆふ》に|波《なみ》のまにまに|漂《ただよ》ふ|俺《わし》は
|何時《いつ》も|月日《つきひ》の|水鏡《みづかがみ》|見《み》る』
|毎晩《まいばん》|光《ひか》つてゐたスーラヤ|山《さん》も、|夜光《やくわう》の|玉《たま》が|伊太彦《いたひこ》の|懐《ふところ》に|入《い》つてからは|光《ひかり》を|失《うしな》ひ、|今《いま》|船頭《せんどう》の|謡《うた》つたごとく|唯一《ゆゐいつ》の|燈台《とうだい》をとられて|了《しま》つた。|十六日《じふろくにち》の|満月《まんげつ》は|東《ひがし》の|波間《なみま》より|傘《かさ》のやうな|大《おほ》きな|姿《すがた》を|現《あら》はして|昇《のぼ》りはじめた。
|波《なみ》に|姿《すがた》を|半分《はんぶん》|出《だ》した|時《とき》は、|丁度《ちやうど》|黄金山《わうごんざん》が|浮《う》いたやうに|見《み》えて|来《き》た。
|玉国別《たまくにわけ》『|金銀《きんぎん》の|波《なみ》|漂《ただよ》ひし|湖《うみ》の|上《へ》に
|黄金山《わうごんざん》の|光《ひかり》|輝《かがや》く
|東《ひむがし》の|波間《なみま》を|昇《のぼ》る|月影《つきかげ》は
|黄金《こがね》の|玉《たま》か|夜光《やくわう》の|玉《たま》か
|如意宝珠《によいほつしゆ》|黄金《こがね》の|玉《たま》も|及《およ》ぶまじ
|波間《なみま》を|分《わ》けて|昇《のぼ》る|月影《つきかげ》』
|真純彦《ますみひこ》『|空《そら》|清《きよ》く|海原《うなばら》|清《きよ》き|中空《なかぞら》に
|月《つき》はおひおひ|円《まる》くなり|行《ゆ》く
|月々《つきづき》に|月《つき》|見《み》る|月《つき》は|多《おほ》けれど
|今宵《こよひ》の|月《つき》は|殊更《ことさら》|清《きよ》し』
|三千彦《みちひこ》『|御恵《みめぐ》みの|露《つゆ》は|天地《てんち》に|三千彦《みちひこ》の
|今《いま》さし|昇《のぼ》る|月《つき》の|大神《おほかみ》
|瑞御霊《みづみたま》|早《はや》くも|月《つき》は|波間《なみま》をば
|離《はな》れて|御空《みそら》にかかりましけり』
|伊太彦《いたひこ》『|波間《なみま》をば|分《わ》けて|出《い》でたる|如意宝珠《によいほつしゆ》
|吾《わ》が|懐《ふところ》の|玉《たま》に|勝《まさ》れる
|夜《よる》|光《ひか》る|珍《うづ》の|宝珠《ほつしゆ》も|瑞御霊《みづみたま》
|昇《のぼ》り|給《たま》へば|見《み》る|影《かげ》もなし』
デビス|姫《ひめ》『|真純彦《ますみひこ》|三千彦司《みちひこつかさ》の|守《まも》ります
|珍《うづ》の|宝《たから》も|月《つき》に|如《し》かめや
|月《つき》の|国《くに》ハルナの|都《みやこ》へ|進《すす》み|行《ゆ》く
|旅路《たびぢ》の|空《そら》に|清《きよ》き|月影《つきかげ》』
|治道《ちだう》『|大空《おほぞら》に|昇《のぼ》り|輝《かがや》く|月《つき》|見《み》れば
|吾《わ》が|魂《たましひ》の|恥《は》づかしくなりぬ
|日《ひ》は|西《にし》にはや|傾《かたむ》きて|東《ひむがし》の
|波間《はかん》を|出《い》づる|珍《うづ》の|月影《つきかげ》』
|玉国別《たまくにわけ》『|西《にし》へ|行《ゆ》く|吾《わ》が|一行《いつかう》を|見送《みおく》りて
|昇《のぼ》らせ|玉《たま》ふか|月《つき》の|大神《おほかみ》
|仰《あふ》ぎ|見《み》る|清《きよ》き|大空《おほぞら》|隈《くま》もなく
|照《て》らし|玉《たま》ひぬ|一《ひと》つの|玉《たま》に
|日《ひ》は|暑《あつ》く|月《つき》は|涼《すず》しく|澄《す》み|渡《わた》る
|百《もも》の|草木《くさき》も|露《つゆ》に|生《い》きなむ』
|伊太彦《いたひこ》『|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
たとへ|命《いのち》は|失《う》するとも |誠《まこと》の|神《かみ》の|御教《みをしへ》に
|任《まか》しまつりし|吾々《われわれ》は |如何《いか》なる|枉《まが》が|攻《せ》め|来《く》とも
|必《かなら》ず|神《かみ》の|恵《めぐ》みあり |歓喜竜王《ナーガラシャー》の|岩窟《がんくつ》に
|一行《いつかう》|五人《ごにん》|進《すす》み|入《い》り |邪気《じやき》に|襲《おそ》はれ|吾《わ》が|魂《たま》は
|浮世《うきよ》にけがれし|肉体《からたま》を |脱《ぬ》けて|忽《たちま》ち|死出《しで》の|旅《たび》
|枯野ケ原《かれのがはら》をさまよひつ ウラナイ|教《けう》の|高姫《たかひめ》が
|醜《しこ》の|精霊《せいれい》に|廻《めぐ》り|会《あ》ひ いろいろ|雑多《ざつた》と|論争《あげつら》ひ
|揚句《あげく》の|果《は》ては|大喧嘩《おほげんくわ》 おつぱじめたる|恥《は》づかしさ
アスマガルダは|鉄拳《てつけん》を かためて|高姫《たかひめ》|打《う》たむとす
さすがの|高姫《たかひめ》|驚《おどろ》いて |裏口《うらぐち》あけて|裏山《うらやま》の
|枯木林《かれきばやし》に|身《み》をかくし |雲《くも》を|霞《かすみ》と|消《き》えにける
|吾等《われら》|五人《ごにん》は|勇《いさ》み|立《た》ち |凱歌《かちどき》あげし|心地《ここち》して
|枯野ケ原《かれのがはら》をさまよひつ |神《かみ》の|試練《ためし》に|会《あ》ひながら
|三五教《あななひけう》の|信仰《しんかう》を |生命《いのち》にかへて|守《まも》りたる
その|報《むく》いにや|神使《かむつかひ》 スマートさまが|現《あら》はれて
|高姫司《たかひめつかさ》の|守護神《しゆごじん》 |銀毛八尾《ぎんまうはつぴ》の|悪狐《あくこ》をば
|追《お》ひやり|玉《たま》へば|忽《たちま》ちに |四辺《あたり》の|光景《くわうけい》|一変《いつぺん》し
いと|苦《くる》しみし|吾《わ》が|身体《からだ》 にはかに|快《こころよ》くなりて
|勇気《ゆうき》|日頃《ひごろ》に|百倍《ひやくばい》し |天地《てんち》の|神《かみ》に|打《う》ち|向《む》かひ
|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|太祝詞《ふとのりと》 |唱《とな》ふる|折《を》りしも|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》の|初稚姫《はつわかひめ》が この|場《ば》に|現《あら》はれましまして
|吾《われ》らが|迷《まよ》ふ|霊身《れいしん》を |明《あか》きに|救《すく》ひ|玉《たま》ひけり
|気《き》をとり|直《なほ》し|四辺《あたり》をば よくよく|見《み》ればこは|如何《いか》に
|歓喜竜王《ナーガラシャー》の|岩窟《がんくつ》と |判《わか》りし|時《とき》の|嬉《うれ》しさよ
ここに|竜王《りうわう》は|初稚姫《はつわかひめ》の |生言霊《いくことたま》に|歓喜《くわんき》して
|多年《たねん》の|苦悶《くもん》を|免《のが》れしと |喜《よろこ》び|勇《いさ》み|幾度《いくたび》か
|感謝《かんしや》の|言葉《ことば》|奉《たてまつ》り |夜光《やくわう》の|玉《たま》を|伊太彦《いたひこ》に
|手《て》づから|渡《わた》し|玉《たま》ひつつ |別離《わかれ》の|歌《うた》を|宣《の》りをへて
|大空《おほぞら》|高《たか》く|昇《のぼ》りけり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|有難《ありがた》さ |初稚姫《はつわかひめ》に|従《したが》ひて
|海《うみ》に|通《つう》ずる|岩窟《がんくつ》の |光《ひかり》を|見当《めあ》てに|隧道《すゐだう》を
|探《さぐ》り|出《い》づれば|有難《ありがた》や |吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》は|玉《たま》の|舟《ふね》
|波打際《なみうちぎは》に|横《よこ》たへて |吾《われ》らを|救《すく》ひ|玉《たま》ふべく
|待《ま》たせ|玉《たま》ふぞ|尊《たふと》けれ |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |神《かみ》の|恵《めぐ》みと|師《し》の|恵《めぐ》み
|幾千代《いくちよ》までも|忘《わす》れまじ |思《おも》へば|思《おも》へば|有難《ありがた》や
|大空《おほぞら》|清《きよ》く|海《うみ》|清《きよ》く |月《つき》また|清《きよ》き|玉《たま》の|舟《ふね》
|清《きよ》き|真帆《まほ》をば|掲《かか》げつつ |清《きよ》けき|風《かぜ》に|送《おく》られて
|清《きよ》き|教《をしへ》の|司《つかさ》らと |清《きよ》き|話《はなし》を|取交《とりか》はし
|珍《うづ》の|都《みやこ》へ|指《さ》して|行《ゆ》く |吾《わ》が|身《み》の|上《うへ》こそ|嬉《うれ》しけれ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
かく|互《たが》ひに|歌《うた》を|謡《うた》ひ|或《あるひ》は|雑談《ざつだん》に|耽《ふけ》りながら、|翌日《あくるひ》の|東雲《しののめ》ごろ|玉国別《たまくにわけ》の|舟《ふね》はエルの|港《みなと》に|着《つ》いた。|早《はや》くも|初稚姫《はつわかひめ》は|一行《いつかう》と|共《とも》に|上陸《じやうりく》し|玉《たま》ひて、スマートを|引《ひ》き|連《つ》れ|波止場《はとば》に|立《た》つて|一行《いつかう》の|来《き》たるを|待《ま》ち|受《う》け|玉《たま》ひつつあつた。スマートは|喜《よろこ》んで「ウワツウワツ」と|鳴《な》き|立《た》ててゐる。
(大正一二・五・二五 旧四・一〇 於竜宮館 北村隆光録)
第一六章 |諒解《りやうかい》〔一六二三〕
|初稚姫《はつわかひめ》は、|早《はや》くもエルの|港《みなと》につきたまひ、アスマガルダ、ブラワ゛ーダ、カークス、ベース、スマートと|共《とも》に、|埠頭《ふとう》に|立《た》つて|玉国別《たまくにわけ》の|船《ふね》の|進《すす》み|来《き》たるを|待《ま》ちつつあつた。|船《ふね》は|漸《やうや》くにしてエルの|港《みなと》についた。|玉国別《たまくにわけ》は|嬉《うれ》しげに|船《ふね》より|一行《いつかう》と|共《とも》に|上《のぼ》り|来《き》たり、|初稚姫《はつわかひめ》の|前《まへ》に|立《た》つて|一礼《いちれい》を|終《を》はり、
『スーラヤの|清《きよ》き|湖《みづうみ》やうやくに
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|渡《わた》り|来《き》にけり
|初稚姫《はつわかひめ》|珍《うづ》の|命《みこと》は|逸早《いちはや》く
|着《つ》きたまひたることの|尊《たふと》さ』
|初稚姫《はつわかひめ》『|湖《みづうみ》の|面《おも》を|眺《なが》めて|幾度《いくたび》か
|待《ま》ちあぐみけり|君《きみ》の|御船《みふね》を』
|真純彦《ますみひこ》『|金銀《きんぎん》の|波《なみ》|漂《ただよ》ひしこの|湖《うみ》も
|初稚姫《はつわかひめ》の|輝《かがや》きにしかず
|浪《なみ》の|上《うへ》ゆエルの|港《みなと》を|眺《なが》むれば
|輝《て》り|灼《かがや》きぬ|珍《うづ》の|御姿《みすがた》』
|三千彦《みちひこ》『|月《つき》は|盈《み》ち|潮《しほ》みち|船《ふね》に|人《ひと》も|満《み》ち
|心《こころ》みちつつ|浪路《なみぢ》|渡《わた》り|来《き》ぬ
|恙《つつが》なく|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|渡《わた》り|来《こ》し
この|湖《みづうみ》に|別《わか》れむとぞする
|別《わか》れ|路《ぢ》のつらさは|浪路《なみぢ》にあるものを
|伴《ともな》ひたまへ|初稚姫《はつわかひめ》の|君《きみ》』
|初稚姫《はつわかひめ》『|皇神《すめかみ》の|御言《みこと》|畏《かしこ》み|進《すす》む|身《み》は
|神《かみ》としあれば|伴《とも》は|頼《たの》まじ』
デビス|姫《ひめ》『|惟神《かむながら》|道《みち》|往《ゆ》く|人《ひと》は|唯《ただ》|一人《ひとり》
|進《すす》む|掟《おきて》を|知《し》らずありけり
|如何《いか》にせば|神《かみ》の|御心《みむね》に|叶《かな》ふらむ
|吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》と|共《とも》にある|身《み》は』
ブラワ゛ーダ『|妾《わらは》とて|神《かみ》としあれば|草枕《くさまくら》
|一人《ひとり》の|旅《たび》も|如何《いか》で|恐《おそ》れむ
さりながら|神《かみ》の|許《ゆる》せし|背《せ》の|君《きみ》に
|別《わか》れて|如何《いか》で|進《すす》み|得《え》ざらめ』
|初稚姫《はつわかひめ》『|大神《おほかみ》のまけのまにまに|進《すす》む|身《み》は
|如何《いか》でか|人《ひと》を|力《ちから》とやせむ
|三五《あななひ》の|神《かみ》の|御規《みのり》は|唯《ただ》|一人《ひとり》
|道《みち》つたへ|行《ゆ》くぞ|務《つと》めなりけり』
|治道《ちだう》『あら|尊《たふと》|初稚姫《はつわかひめ》の|御言葉《おんことば》
|吾《わ》が|魂《たましひ》の|闇《やみ》を|晴《は》らしぬ』
|玉国別《たまくにわけ》『|大神《おほかみ》の|御言《みこと》|畏《かしこ》み|進《すす》む|吾《われ》に
|一人《ひとり》はゆるせ|初稚《はつわか》の|君《きみ》』
|初稚姫《はつわかひめ》『|汝《なれ》こそは|神《かみ》の|依《よ》さしの|神司《かむづかさ》
やすくましませ|真純彦《ますみひこ》と|共《とも》に』
|伊太彦《いたひこ》『これはしたり|三千彦《みちひこ》さまの|真似《まね》をして
|思《おも》はず|知《し》らず|暗《やみ》に|迷《まよ》ひぬ』
|伊太彦《いたひこ》は|埠頭《ふとう》の|石《いし》に|腰《こし》|打《う》ちかけ、|双手《もろて》を|拱《く》んで|何事《なにごと》か|思案《しあん》に|暮《く》れてゐる。その|両眼《りやうがん》には|涙《なみだ》さへ|滴《したた》り、さも|懺悔《ざんげ》の|情《じやう》に|堪《た》へざるものの|如《ごと》くであつた。ブラワ゛ーダは|心《こころ》も|心《こころ》ならず、|伊太彦《いたひこ》の|前《まへ》に|躙《にじ》り|寄《よ》り、
『もし|吾《わ》が|背《せ》の|君様《きみさま》、あなたは|俄《には》かに|勝《すぐ》れさせられぬお|心持《こころもち》、|何《なに》か|心配《しんぱい》な|事《こと》が|出来《でき》て|参《まゐ》りましたか、お|差支《さしつか》へなくば|私《わたし》に|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ。|夫婦《ふうふ》となれば|何処《どこ》までも|苦楽《くらく》を|共《とも》にするのが|天地《てんち》の|道《みち》でございます』
|伊太彦《いたひこ》は|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、|声《こゑ》までかすめて、
『ブラワ゛ーダ、どうか|今《いま》までの|縁《えん》ぢやと|締《あきら》めて、この|伊太彦《いたひこ》を|許《ゆる》してくれ。|一生《いつしやう》のお|願《ねが》ひだ』
ブラワ゛ーダ『|何《なに》がお|気《き》に|障《さは》つたか|知《し》りませぬが、つい|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|言葉《ことば》に|従《したが》つて|貴方《あなた》のお|船《ふね》を|離《はな》れ、お|先《さき》に|参《まゐ》つたのが|御意《ぎよい》に|障《さは》つたのでございませう。まことに|済《す》まない|事《こと》をいたしました。この|後《ご》はきつと|貴方《あなた》の|身辺《しんぺん》を|御保護《ごほご》をいたしますからお|許《ゆる》し|下《くだ》さいませ』
と|涙《なみだ》ぐむ。
|伊太《いた》『いやいや、|決《けつ》してそんな|事《こと》を|彼《か》れこれ|思《おも》ふのではない。お|前《まへ》は|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|伴《とも》をして|大変《たいへん》|結構《けつこう》であつた。|天晴《あつば》れハルナの|都《みやこ》に|参《まゐ》つて|神命《しんめい》を|果《は》たし、その|上《うへ》|神様《かみさま》のお|許《ゆる》しを|得《え》てお|前《まへ》と|夫婦《ふうふ》になれるものならなりませう。この|伊太彦《いたひこ》はお|前《まへ》と|別《わか》れたならば、|一生《いつしやう》|独身生活《どくしんせいくわつ》をして|神界《しんかい》に|仕《つか》へるつもりだ。お|前《まへ》は|是《これ》から|私《わたし》に|離《はな》れて|家《いへ》に|帰《かへ》り、|両親《りやうしん》に|孝行《かうかう》を|尽《つく》し、|適当《てきたう》の|夫《をつと》を|選《えら》んで|安楽《あんらく》に|暮《くら》してくれ。しかし|一《いつ》たん|別《わか》れても|縁《えん》さへあれば|又《また》|添《そ》ふ|事《こと》も|出来《でき》るだらう。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|言葉《ことば》といひ、ウバナンダ|竜王《りうわう》の|言葉《ことば》といひ、もはやこの|伊太彦《いたひこ》は|立《た》つても|居《ゐ》てもおられなくなつてしまつたのだ』
ブラワ゛ーダ『もし|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、いかが|致《いた》したまうか。どうぞ|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》に|対《たい》してお|指揮《さしづ》を|下《くだ》さいませ』
|玉国別《たまくにわけ》は、「アア」と|言《い》つたきり|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》ひながら|黙然《もくねん》と|俯《うつ》むき、|深《ふか》き|吐息《といき》をついてゐる。
|初稚姫《はつわかひめ》『|別《わか》れてはまた|遇《あ》ふ|海《うみ》の|末広《すゑひろ》く
|男浪《をなみ》|女浪《めなみ》に|浮《う》かぶ|月影《つきかげ》』
|玉国別《たまくにわけ》『|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》の|今《いま》のお|歌《うた》によれば、|伊太彦《いたひこ》、|可憐《かはい》さうだがお|前《まへ》は|此所《ここ》からブラワ゛ーダ|姫《ひめ》と|袂《たもと》を|分《わか》ち、|天晴《あつぱ》れ|神業《しんげふ》|成就《じやうじゆ》の|上《うへ》、|改《あらた》めて|夫婦《ふうふ》の|契《ちぎ》りを|結《むす》んだがよからう。ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》も|御承知《ごしようち》でございませうな』
ブラワ゛ーダ『いかにもお|情《なさ》けの|籠《こ》もつたお|言葉《ことば》、|左様《さやう》ならば|大切《たいせつ》なる|夫《をつと》の|御神業《ごしんげふ》を|妨《さまた》げてはなりませぬから、ここで|潔《いさぎよ》う|別《わか》れませう。しかしながらこのまま|家《いへ》に|帰《かへ》るわけには|参《まゐ》りませぬから、|妾《わたし》もどうぞハルナの|都《みやこ》の|御用《ごよう》に|立《た》てて|下《くだ》さいませ。|伊太彦《いたひこ》|様《さま》、|左様《さやう》ならばこれでお|別《わか》れいたします。どうぞ|御無事《ごぶじ》で|天晴《あつぱ》れ|御神業《ごしんげふ》を|果《は》たし、|皇大神《すめおほかみ》の|御前《みまへ》に|復命《ふくめい》|遊《あそ》ばすやうお|祈《いの》りいたします』
|玉国別《たまくにわけ》は|莞爾《くわんじ》として|左《さ》も|愉快気《ゆくわいげ》に、
『ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》さま。あなたのお|覚悟《かくご》は|実《じつ》に|天晴《あつぱ》れなものでございます。しからばこの|上《うへ》は|貴女《あなた》は|唯《ただ》お|一人《ひとり》でエルサレムに|参拝《さんぱい》し、それよりエデンの|河《かは》を|渡《わた》り、フサの|国《くに》に|出《い》でハルナの|都《みやこ》にお|進《すす》みなさい。きつと|神様《かみさま》がお|助《たす》け|下《くだ》さいますから。アア|私《わたし》も|互《たが》ひに|助《たす》け|助《たす》けられて|此処《ここ》まで|出《で》て|参《まゐ》りました|弟子《でし》たちに|別《わか》れるのは|残念《ざんねん》ですが、どうも|神様《かみさま》の|掟《おきて》を|破《やぶ》るわけにも|参《まゐ》りませぬ。しかし、|素盞嗚《すさのを》の|大神様《おほかみさま》から、|真純彦《ますみひこ》、|三千彦《みちひこ》、|伊太彦《いたひこ》の|三人《さんにん》を|伴《ともな》ひ|行《ゆ》く|事《こと》を|許《ゆる》されましたが、|今《いま》となつて|考《かんが》へて|見《み》れば、|大神様《おほかみさま》はさぞ「|玉国別《たまくにわけ》は|腑甲斐《ふがひ》ない|奴《やつ》だ」とお|心《こころ》の|中《なか》でお|蔑《さげす》みなさつたらうと、|今更《いまさら》|懺愧《ざんき》に|堪《た》へませぬ。しかしながら、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|許《ゆる》しで|真純彦《ますみひこ》|一人《ひとり》を|連《つ》れて|参《まゐ》ることにいたします。|伊太彦《いたひこ》は|独《ひと》り|是《これ》からエルサレムに|玉《たま》を|納《をさ》め、フサの|国《くに》を|横断《わうだん》してハルナの|都《みやこ》に|進《すす》んだがよからう。|三千彦《みちひこ》、お|前《まへ》も|一人《ひとり》でお|出《い》でなさい』
|伊太彦《いたひこ》、|三千彦《みちひこ》、ブラワ゛ーダ、|一度《いちど》に|頭《あたま》を|下《さ》げ|涙《なみだ》を|滴《したた》らしながら、|承諾《しようだく》の|意《い》を|示《しめ》してゐる。
|玉国《たまくに》『アアそれで|玉国別《たまくにわけ》も|安心《あんしん》いたしました。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》の|神懸《かむがか》りしてのお|言葉《ことば》によりまして、|吾々《われわれ》も|迷《まよ》ひの|夢《ゆめ》が|醒《さ》めました。|有難《ありがた》うございます』
と|合掌《がつしやう》|涕泣《ていきふ》してゐる。
デビス|姫《ひめ》『いざさらば|神《かみ》の|教《をしへ》の|三千彦《みちひこ》よ
|別《わか》れて|遇《あ》はむハルナの|都《みやこ》で
|初稚姫《はつわかひめ》|玉国別《たまくにわけ》の|神司《かむづかさ》
やすくましませ|妾《わらは》はこれにて|暇《いとま》をつげむ』
といふより|早《はや》く|一同《いちどう》に|目礼《もくれい》し、|早《はや》くもエルの|町《まち》の|中《なか》に|姿《すがた》を|隠《かく》してしまつた。これより|初稚姫《はつわかひめ》の|命《めい》により、アスマガルダは|吾《わ》が|家《や》に|帰《かへ》り、ブラワ゛ーダ、デビス|姫《ひめ》は|思《おも》ひ|思《おも》ひに|人跡《じんせき》なき|山《やま》を|越《こ》え|谷《たに》を|渡《わた》り、エルサレムに|進《すす》むこととなつた。|伊太彦《いたひこ》、|三千彦《みちひこ》もまた|玉《たま》を|捧持《ほうぢ》し|一人旅《ひとりたび》となつてエルサレムに|進《すす》み|往《ゆ》く。|初稚姫《はつわかひめ》はスマートと|共《とも》に|何処《どこ》ともなく|姿《すがた》を|隠《かく》したまうた。|治道居士《ちだうこじ》は|自分《じぶん》の|幕下《ばくか》なりしバット、ベルならびにウラル|教《けう》より|帰順《きじゆん》したるカークス、ベースの|四人《よにん》を|従《したが》へ、|各自《かくじ》|比丘《びく》の|姿《すがた》となつて、エルの|港《みなと》にて|法螺貝《ほらがひ》を|購《あがな》ひ、|金剛杖《こんがうづゑ》をつき|大道《だいだう》を|進《すす》んでエルサレムに|詣《まう》づることとなつた。|今後《こんご》における|各《かく》|宣伝使《せんでんし》の|行動《かうどう》は|果《はた》して|如何《いか》に|開展《かいてん》するであらうか。
(大正一二・五・二五 旧四・一〇 於天声社楼上 加藤明子録)
第一七章 |峠《たうげ》の|涙《なみだ》〔一六二四〕
ハルセイ|山《ざん》の|峠《たうげ》の|頂上《ちやうじやう》に|古《ふる》き|木株《こかぶ》に|腰《こし》|打《う》ち|掛《か》け、|疲《つか》れを|休《やす》むる|一人《ひとり》の|男《をとこ》、|過《す》ぎ|来《こ》し|方《かた》の|空《そら》を|眺《なが》めて|独《ひと》り|語《ごと》、
『|春《はる》|過《す》ぎ|夏《なつ》も|去《さ》り、|漸《やうや》く|初秋《はつあき》の|風《かぜ》は|吹《ふ》いて|来《き》た。|名《な》に|負《お》ふ|夏《なつ》の|印度《ツキ》の|国《くに》も、この|高山《たかやま》の|峠《たうげ》に|登《のぼ》つて|見《み》れば、ヤハリ|秋《あき》の|気分《きぶん》が|漂《ただよ》うてゐる。|玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》に|従《したが》ひ、|凩《こがらし》|荒《すさ》ぶ|冬《ふゆ》のころ、|斎苑《いそ》の|館《やかた》を|立《た》ち|出《い》でて|難行《なんぎやう》|苦行《くぎやう》の|結果《けつくわ》、|漸《やうや》くここまで|来《く》るは|来《き》たものの、|吾《わ》が|身《み》に|積《つ》もる|罪悪《ざいあく》の|重荷《おもに》に|苦《くる》しみ、もはや|一歩《いつぽ》も|歩《ある》けなくなつて|来《き》た。アア|如何《いか》にせば|吾《わ》が|罪《つみ》を|救《ゆる》され、|神《かみ》の|任《よ》さしの|使命《しめい》をば|果《は》たすことば|出来《でき》やうか。スダルマ|山《さん》の|山麓《さんろく》にて|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》に|別《わか》れ、スーラヤ|山《さん》の|岩窟《がんくつ》にナーガラシャーの|宝玉《はうぎよく》を|得《え》むと|勃々《ぼつぼつ》たる|野心《やしん》に|駆《か》られ、カークス、ベースの|両人《りやうにん》を|道案内《みちあんない》にして、|漸《やうや》くにしてスダルマの|湖水《こすゐ》の|一角《いつかく》に|辿《たど》りつき、ルーブヤが|家《いへ》に|一夜《いちや》の|雨宿《あまやど》り、ゆくりなくもブラワ゛ーダ|姫《ひめ》に|見《み》そめられ、ハルナの|都《みやこ》に|上《のぼ》る|途中《とちう》とは|知《し》りながらも、|同僚《どうれう》の|三千彦《みちひこ》が|嬪《ひん》に|倣《な》らひ、|師《し》の|君《きみ》の|許《ゆる》しをも|得《え》ずして、|神勅《しんちよく》を|楯《たて》に|自由《じいう》の|結婚談《けつこんだん》を|定《さだ》め、それより|夫婦気取《ふうふきど》りになつて|兄《あに》に|送《おく》られ、スーラヤ|山《ざん》に|登《のぼ》り、|五大力《ごだいりき》とか|何《なん》とか|称《しよう》する|神《かみ》に|途中《とちう》に|出会《でつくは》し、いろいろの|教訓《けうくん》を|受《う》けながら、|妖怪変化《えうくわいへんげ》とのみ|思《おも》ひつめ、|死線《しせん》を|越《こ》えて|岩窟《がんくつ》に|忍《しの》び|込《こ》み、|霊界現界《あのよこのよ》の|境《さかひ》まで|一行《いつかう》|五人《ごにん》は|進《すす》み|入《い》り、|高姫《たかひめ》の|精霊《せいれい》の|試《ため》しに|会《あ》はされ、|神《かみ》の|化身《けしん》に|助《たす》けられ、|漸《やうや》く|蘇生《そせい》し、|又《また》もや|竜王《りうわう》に|辱《はづかし》められ、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のおとりなしによつて|此《こ》の|通《とほ》り|夜光《やくわう》の|玉《たま》を|頂《いただ》き、|一先《ひとま》づエルサレムを|指《さ》して|上《のぼ》るこの|伊太彦《いたひこ》が|体《からだ》の|痛《いた》み、|死線《しせん》の|毒《どく》にあてられし|其《そ》の|艱苦《なやみ》は|今《いま》に|残《のこ》れるか、|頭《かしら》は|痛《いた》み|胸《むね》は|苦《くる》しく、|足《あし》はかくのごとく|腫《は》れあがり、もはや|一足《ひとあし》さへ|進《すす》まれぬ。|吾《われ》は|如何《いか》なる|因果《いんぐわ》ぞや。|許《ゆる》させ|玉《たま》へ、|天津神《あまつかみ》、|国津神《くにつかみ》、|玉国別《たまくにわけ》の|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》よ。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。それにつけてもブラワ゛ーダ|姫《ひめ》は|孱弱《かよわ》き|女《をんな》の|一人旅《ひとりたび》、|何処《いづく》の|野辺《のべ》にさまようであらうか。|山野河海《さんやかかい》を|跋渉《ばつせう》したるこの|伊太彦《いたひこ》の|健足《けんそく》でさへ、かくの|如《ごと》く|痛《いた》むものを、|歩《あゆ》みもなれぬ|孱弱《かよわ》き|女《をんな》の|身《み》の、その|苦《くる》しみは|如何《いか》ばかりぞや。|思《おも》へば|思《おも》へば|初《はじ》めて|知《し》つた|恋《こひ》のなやみ、|皇大神《すめおほかみ》の|御言葉《みことば》と|師《し》の|言葉《ことば》には|背《そむ》かれず、さりとて|此《こ》のまま、|思《おも》ひ|切《き》られぬ|胸《むね》の|苦《くる》しさ、|最早《もはや》かくなる|上《うへ》は、|吾《われ》はハルセイ|山《ざん》の|頂《いただき》にて|朝《あした》の|露《つゆ》と|消《き》ゆるのではあるまいか。たとへ|仮《かり》にもせよ、|千代《ちよ》を|契《ちぎ》つたブラワ゛ーダ|姫《ひめ》に|夢《ゆめ》になりとも|一目《ひとめ》|会《あ》うて、この|世《よ》の|別離《わかれ》が|告《つ》げたいものだ。アア|如何《いか》にせむ|千秋《せんしう》の|怨《うら》み、|万斛《ばんこく》の|涙《なみだ》、|何《いづ》れに|向《む》かつて|吐却《ときやく》せむや』
と、|胸《むね》を|躍《をど》らせ、|息《いき》もたえだえに|涙《なみだ》は|雨《あめ》と|降《ふ》りしきる。
かかる|処《ところ》へ|二人《ふたり》の|杣人《そまびと》に|担《かつ》がれて|色《いろ》|青《あを》ざめ|半死半生《はんしはんしやう》の|態《てい》にて|登《のぼ》つて|来《き》たのは、|夢寐《むび》にも|忘《わす》れぬ|恋妻《こひづま》のブラワ゛ーダ|姫《ひめ》であつた。|伊太彦《いたひこ》は|一目《ひとめ》|見《み》るより、|嬉《うれ》しさ|悲《かな》しさ|胸《むね》に|迫《せま》り、|涙《なみだ》の|声《こゑ》を|絞《しぼ》り、|僅《わづ》かに、
『アア、そなたはブラワ゛ーダ|姫《ひめ》であつたか。お|前《まへ》のその|様子《やうす》、さぞ|苦《くる》しいであらう、この|伊太彦《いたひこ》も|死線《しせん》を|越《こ》えた|時《とき》のなやみが、まだ|体内《たいない》に|残《のこ》つてをると|見《み》え、|今《いま》は|九死一生《きうしいつしやう》の|場合《ばあひ》、せめては|一目《ひとめ》なりと、お|前《まへ》に|会《あ》うて|天国《てんごく》の|旅《たび》がしたいものだと|思《おも》つてゐたのだ。アアかやうの|処《ところ》で|会《あ》はうとは|夢《ゆめ》にも|知《し》らなかつた。これも|神様《かみさま》の|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》のおとりなし。アア|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|合掌《がつしやう》する。ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》は|糸《いと》のごとき|細《ほそ》き|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げて|息《いき》も|苦《くる》しげに、
『アア|嬉《うれ》しや、あなたは|吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》|伊太彦《いたひこ》|様《さま》でございましたか。|妾《わらは》はまだ|年端《としは》もゆかぬ|女《をんな》の|身《み》、|旅《たび》に|慣《な》れない|孱弱《かよわ》き|足許《あしもと》にて|貴方《あなた》に|会《あ》うた|嬉《うれ》しさ。スーラヤ|山《さん》の|険《けん》を|越《こ》え|生死《せいし》の|境《さかひ》に|出入《しゆつにふ》し、|神《かみ》の|仰《おほ》せを|畏《かしこ》みて、|神力《しんりき》|高《たか》き|御一行様《ごいつかうさま》に|立《た》ち|別《わか》れ、|踏《ふ》みも|習《なら》はぬ|山道《やまみち》をトボトボ|来《き》たる|折《を》りもあれ、にはかに|体《からだ》は|疲《つか》れ|果《は》て|魂《たま》は|宙《ちう》に|飛《と》び、もはや|臨終《りんぢう》と|見《み》えし|時《とき》、この|杣人《そまびと》の|情《なさ》けによりて、|漸《やうや》くここに|救《すく》ひ|上《あ》げられ|参《まゐ》りました。どうぞ|伊太彦《いたひこ》|様《さま》、|妾《わらは》の|命《いのち》はもはや|断末魔《だんまつま》と|覚悟《かくご》をいたしてをります。この|世《よ》の|名残《なごり》に|今一度《いまいちど》、|貴方《あなた》のお|手《て》をおかし|下《くだ》さいませ。さすれば|仮令《たとへ》このまま|死《し》するとも|少《すこ》しも|此《こ》の|世《よ》に|残《のこ》りはございませぬ。アア|生《う》みの|父様《ちちさま》、|母様《ははさま》、|兄様《あにさま》が、|妾夫婦《わらはふうふ》の|事《こと》をお|聞《き》きなされば、|如何《いか》にお|歎《なげ》き|遊《あそ》ばす|事《こと》であらう。そればつかりが|黄泉路《よみぢ》の|障《さは》り、アア|如何《いか》にせむか』
と|伊太彦《いたひこ》の|側《かたは》らに|身《み》を|投《な》げ|出《だ》して|泣《な》き|叫《さけ》ぶ、その|痛《いた》はしさ。さすが|豪気《がうき》の|伊太彦《いたひこ》も|女《をんな》の|情《なさ》けにひかされて|恩愛《おんあい》の|涙《なみだ》に|袖《そで》を|絞《しぼ》りながら、
『アア|其方《そなた》のいふことも|尤《もつと》もだが、|大切《たいせつ》なる|神《かみ》の|使命《しめい》を|受《う》けて、この|夜光《やくわう》の|玉《たま》をエルサレムの|宮《みや》に|献《けん》じ、ハルナの|都《みやこ》に|進《すす》まねばならぬ|身《み》の|上《うへ》、たとへ|肉体《にくたい》は|亡《ほろ》ぶとも、|精霊《せいれい》となつてでもこの|使命《しめい》を|果《は》たさねば、どうして|神界《しんかい》に|申《まを》し|訳《わけ》が|立《た》たう。|初稚姫《はつわかひめ》を|通《とほ》しての|大神様《おほかみさま》のお|言葉《ことば》、|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》の|御教訓《ごけうくん》、|順序《じゆんじよ》も|守《まも》らねばならぬ|神《かみ》の|使《つかひ》が、いかに|恋《こ》ひしき|妻《つま》の|身《み》なればとて、どうして|妻《つま》の|手《て》を|握《にぎ》ることが|出来《でき》やう。もしもこの|玉《たま》の|神霊《しんれい》が|吾《わ》が|懐《ふところ》より|逃《に》ぐることあれば、それこそ|末代《まつだい》の|不覚《ふかく》、ここの|道理《だうり》を|聞《き》き|分《わ》けて、ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》、そればつかりは|許《ゆる》してくれ。たとへ|此《こ》の|世《よ》の|運命《うんめい》|尽《つ》きて|霊界《れいかい》に|至《いた》るとも、たがひに|相慕《あひした》ふ|愛善《あいぜん》の|思《おも》ひは|弥《いや》|永久《とこしへ》に|失《しつ》するものではあるまい。たとへ|此《こ》の|世《よ》で|長命《ながいき》をするとも、|日数《ひかず》につもれば|二三万日《にさんまんにち》の|日数《ひかず》、この|短《みじか》き|瞬間《しゆんかん》に|恋《こひ》の|魔《ま》の|手《て》に|囚《とら》はれて|幾億万年《いくおくまんねん》の|命《いのち》の|障害《さはり》になるやうな|事《こと》があつては、|吾《われ》も|汝《なんぢ》も、とり|返《かへ》しのならぬ|罪悪《ざいあく》を|重《かさ》ねねばなるまい。|真《しん》に、そなたを|愛《あい》する|伊太彦《いたひこ》は、そなたに|無限《むげん》の|生命《せいめい》を|与《あた》へ、|無窮《むきう》の|歓楽《くわんらく》に|浴《よく》せしめたいからだ。|必《かなら》ず|悪《わる》く|思《おも》うてはくれなよ』
と|息《いき》もちぎれちぎれに|苦《くる》しげに|説《と》き|諭《さと》す。ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》は|首《かうべ》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、
『いえいえ、|何《なん》と|仰《おほ》せられましても、|臨終《いまは》の|際《きは》に|只《ただ》|一回《いつくわい》の|握手《あくしゆ》くらゐ|許《ゆる》されないことがありませうか。|恋《こひ》に|燃《も》え|立《た》つ|妾《わらは》の|胸《むね》、|焦熱地獄《せうねつぢごく》の|苦《くる》しみを|救《すく》はせ|給《たま》ふは|吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》の|御手《みて》にあり。たとへ|未来《みらい》において|如何《いか》なる|責苦《せめく》に|会《あ》うとても、|夫婦《ふうふ》が|臨終《いまは》の|際《きは》に|互《たが》ひに|介抱《かいはう》し、|相助《あひたす》け|相救《あひすく》ふ|事《こと》の|出来《でき》ない|道理《だうり》がありませうか。|物固《ものがた》いにも|程《ほど》がございます。|妾《わらは》の|心《こころ》も|少《すこ》しは|推量《すゐりやう》して|下《くだ》さいませ』
と|言《い》ひつつ|伊太彦《いたひこ》に|縋《すが》り|付《つ》かむとする。|伊太彦《いたひこ》は|儼然《げんぜん》として、たかつた|蜂《はち》を|払《はら》うやうな|態度《たいど》にて|金剛杖《こんがうづゑ》の|先《さき》にてブラワ゛ーダ|姫《ひめ》を|突《つ》き|除《の》け、|刎《は》ね|除《の》け、
『これブラワ゛ーダ|姫《ひめ》、|慮外《りよぐわい》な|事《こと》をなさるな。|大神様《おほかみさま》のお|言葉《ことば》、|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》の|御教訓《ごけうくん》を|何《なん》とする|考《かんが》へであるか。|今《いま》の|苦《くる》しみは|未来《みらい》の|楽《たの》しみ、|左様《さやう》の|事《こと》に|弁別《わきまへ》のない|其方《そなた》とは|思《おも》はなかつた、とは|言《い》ふものの、|同《おな》じ|思《おも》ひの|恋《こひ》しい|夫婦《ふうふ》、アア|如何《いか》にせば|煩悶苦悩《はんもんくなう》を|慰《ゐ》する|事《こと》が|出来《でき》やうか』
と|胸《むね》に|焼鉄《やきがね》あてし|心地《ここち》、|差《さ》し|俯向《うつむ》いて|涙《なみだ》に|暮《く》れてゐる。|二人《ふたり》の|杣人《そまびと》は|声《こゑ》|高《たか》らかに|打《う》ち|笑《わら》ひ、
|杣人《そまびと》の|一《いち》『アハハハハハ、さてもさても|固苦《かたくる》しい|旧弊《きうへい》な|男《をとこ》だな。|最前《さいぜん》からの|二人《ふたり》の|話《はなし》を|聞《き》いてをれば、ずゐぶんお|目出《めで》たい|恋仲《こひなか》と|見《み》えるが、|永《なが》い|月日《つきひ》に|短《みじか》い|命《いのち》だ。|未来《みらい》がどうの、かうのと|言《い》つても、|一旦《いつたん》|死《し》んだものが|又《また》|生《い》きる|道理《だうり》もなし、|人間《にんげん》の|命《いのち》は|水《みづ》の|泡《あわ》と|消《き》えて|行《ゆ》くのだ。|長《なが》い|浮世《うきよ》に|短《みじか》い|命《いのち》を|持《も》ちながら、|何《なに》|開《ひら》けぬ|事《こと》をいふのだ。これこれ|夫婦《ふうふ》の|方《かた》、|未来《みらい》があるの、|神様《かみさま》が|恐《おそ》ろしいのと、そんな|馬鹿《ばか》な|事《こと》をいふものではない。|況《ま》して、|二人《ふたり》のこの|断末魔《だんまつま》の|様子《やうす》、|死《し》に|際《ぎは》になつて|思《おも》ひ|合《あ》つた|夫婦《ふうふ》が|手《て》を|握《にぎ》つてはならぬことがあるものか。それだから|宣伝使《せんでんし》といふものは|時代遅《じだいおく》れといふのだ。|誰《たれ》に|憚《はばか》つてそんな|遠慮《ゑんりよ》するのだ。これ|伊太彦《いたひこ》さまとやら、こんなナイスに|思《おも》はれて|据膳《すゑぜん》|喰《く》はぬ|男《をとこ》があるものか。|可愛《かはい》がつてやらつせい』
|伊太《いた》『あなたは|此《こ》の|辺《あた》りの|杣人《そまびと》、よくまア、ブラワ゛ーダを|御親切《ごしんせつ》に|助《たす》けて|下《くだ》さつた。また|只今《ただいま》のお|言葉《ことば》、|実《じつ》に|御親切《ごしんせつ》は|有難《ありがた》うございますが、|未来《みらい》を|信《しん》ずる|吾々《われわれ》には、どうして、|左様《さやう》な|天則違反《てんそくゐはん》が|出来《でき》ませうか』
|杣《そま》の|一《いち》『|山《やま》の|奥《おく》まで|自由恋愛《じいうれんあい》だとか、ラブ・イズ・ベストだとか|言《い》ふ|新《あたら》しい|空気《くうき》が|吹《ふ》いてをるのに、|之《これ》はまた|古《ふる》い|事《こと》をおつしやる。|三五教《あななひけう》といふ|宗教《しうけう》は|実《じつ》に|古臭《ふるくさ》いものだな。この|広《ひろ》い|天地《てんち》に|自在《じざい》に|横行濶歩《わうかうくわつぽ》し、|天地経綸《てんちけいりん》の|司宰《しさい》をする|人間《にんげん》が、|些々《ささ》たる|女《をんな》|一人《ひとり》に|愛《あい》を|注《そそ》いだと|言《い》つて、それを|罰《ばつ》するといふやうな|開《ひら》けぬ|神《かみ》があらうか。もし|神《かみ》ありとせば、そんな|事《こと》いふ|神《かみ》は|野蛮神《やばんがみ》の、|盲神《めくらがみ》だよ。いや|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|悪《わる》い|事《こと》は|申《まを》しませぬ。この|可愛《かはい》らしい、まだ|年《とし》の|行《ゆ》かぬナイスが|之《これ》だけ、|命《いのち》の|瀬戸際《せとぎは》になつて、いふ|事《こと》を|聞《き》かぬとは|無情《むじやう》にも|程《ほど》がある。お|前《まへ》さまも、よもや|木石《ぼくせき》でもあるまい、|暖《あたた》かい|血《ち》も|通《かよ》つてゐるだらう、|人情《にんじやう》も|悟《さと》つてゐるだらう。|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》がここにをつては、|恰好《かつかう》が|悪《わる》いと|思《おも》ひ、|躊躇《ちうちよ》してるのではあるまいか。さうすれば|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》はここを|立《た》ち|退《の》くから、|泣《な》くなり、|笑《わら》ふなり、|意茶《いちや》つくなり、|好《す》きの|通《とほ》りにしなさい。おい|兄弟《きやうだい》|行《ゆ》かう。かうして|夫《をつと》に|渡《わた》しておけば、|俺《わし》たちも|安心《あんしん》といふものだ』
|杣《そま》の|二《に》『さうだな |兄貴《あにき》のいふ|通《とほ》り、|両人《ふたり》が|居《を》つては|恰好《かつかう》が|悪《わる》くて|意茶《いちや》つく|事《こと》も|出来《でき》まい。この|世《よ》の|中《なか》は|偽《いつは》りの|世《よ》の|中《なか》だから、|人《ひと》の|前《まへ》では|思《おも》ふところを|言葉《ことば》に|出《だ》し、|赤裸々《せきらら》に|自分《じぶん》の|信念《しんねん》を|吐《は》く|事《こと》は|誰《たれ》だつて|出来《でき》まい。さうだ、|俺《わし》たちが|此処《ここ》にをるので|断末魔《だんまつま》の|夫婦《ふうふ》の|別《わか》れを|惜《を》しむ|事《こと》も|出来《でき》ぬのだらう。そんなら|兄貴《あにき》、|行《ゆ》かうぢやないか』
|伊太《いた》『もしもし|杣人様《そまびとさま》、|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな。|世間《せけん》の|人間《にんげん》のやうに|吾々《われわれ》は|決《けつ》して|裏表《うらおもて》はありませぬ。|思《おも》ふところを|言《い》ひ、|思《おも》ふところを|行《おこな》ふのみです。|吾々《われわれ》は|痩《や》せても|倒《こ》けても|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|決《けつ》して|外面的《ぐわいめんてき》の|辞令《じれい》は|用《もち》ひませぬ。それゆゑ|天地《てんち》の|神《かみ》に|恥《は》づる|事《こと》なき|二人《ふたり》の|行動《かうどう》、|貴方《あなた》がお|聞《き》き|下《くだ》さらうが、|少《すこ》しも|差支《さしつか》へございませぬ。どうぞ|誠《まこと》に|済《す》みませぬが、|左様《さやう》な|事《こと》を|仰有《おつしや》らずに、もう|暫《しば》らく|私《わたし》の|最後《さいご》を|見届《みとど》けて|下《くだ》さい。おひおひ|体《からだ》は|重《おも》くなり、|足《あし》は|一歩《いつぽ》も|歩《ある》けませぬ。もし|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》がこのまま|死《し》んだならば、ウバナンダ|竜王《りうわう》が|持《も》つてゐた|此《こ》の|夜光《やくわう》の|玉《たま》をエルサレムへ|持《も》つて|行《ゆ》く|事《こと》が|出来《でき》ませぬ。どうぞ|御面倒《ごめんだう》でせうが|乗《の》りかけた|舟《ふね》だと|思《おも》つて、|息《いき》のある|中《うち》に|此《こ》の|玉《たま》を|貴方《あなた》に|渡《わた》しておきますから、|貴方《あなた》|代《かは》つて|何卒《どうぞ》これをエルサレムまで|行《い》つて|大神様《おほかみさま》へ|奉《たてまつ》つて|下《くだ》さいませぬか。|沢山《たくさん》はなけれども|此《こ》の|懐《ふところ》の|金《かね》を|旅費《りよひ》として、|神様《かみさま》のためと|思《おも》つて|行《い》つて|下《くだ》さいませぬか』
|杣《そま》の|一《いち》『ハハハハ|気《き》の|弱《よわ》い|男《をとこ》だな。お|前《まへ》も|神《かみ》の|道《みち》の|宣伝使《せんでんし》ならば、|何故《なぜ》も|少《すこ》し|男《をとこ》らしくならないのか。|醜《みにく》い|弱音《よわね》を|吹《ふ》いて、|人《ひと》に|泣《な》き|顔《がほ》を|見《み》せるといふのは|不心得《ふこころえ》ではござらぬか、|喜怒哀楽《きどあいらく》を|色《いろ》に|現《あら》はさずといふのが、|男《をとこ》の|中《なか》の|男《をとこ》でござらうぞ』
|伊太《いた》『|成《な》るほど、あなたのお|説《せつ》も|尤《もつと》もだが、|人間《にんげん》は|悲《かな》しい|時《とき》に|泣《な》き、|腹《はら》の|立《た》つた|時《とき》に|怒《おこ》り、|嬉《うれ》しい|時《とき》に|笑《わら》ふのが|本当《ほんたう》の|神心《かみごころ》、|喜怒哀楽《きどあいらく》を|色《いろ》に|現《あら》はさぬ|人間《にんげん》は|偽《いつは》り|者《もの》か|化物《ばけもの》ですよ。|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》は、それだから|虚偽《きよぎ》|虚飾《きよしよく》、|世《よ》の|中《なか》が|真暗《まつくら》になるのです。|吾々《われわれ》|宣伝使《せんでんし》はこれを|匡正《きやうせい》するため、|道々《みちみち》|宣伝《せんでん》しながらハルナの|都《みやこ》に|進《すす》むのです』
|杣《そま》の|二《に》『|成《な》るほど|一応《いちおう》ご|尤《もつと》もだ。しかしながら|一枚《いちまい》の|紙《かみ》にも|裏表《うらおもて》がある。|最愛《さいあい》の|妻《つま》が|臨終《いまは》の|願《ねが》ひ、それを|聞《き》かない|道理《だうり》がございませうか。あなたは|余《あま》り|理智《りち》に|走《はし》り|過《す》ぎる、|情《なさけ》がなければ|人間《にんげん》ではありませぬよ。|広《ひろ》い|心《こころ》に|考《かんが》へて|世《よ》の|中《なか》は、さう|狭《せま》く|考《かんが》へるものではありませぬ。|変幻出没《へんげんしゆつぼつ》きはまりなく、|時《とき》に|臨《のぞ》み|変《へん》に|応《おう》じ、うまく|此《こ》の|世《よ》を|渡《わた》つて|行《ゆ》くのが、|神《かみ》の|御子《みこ》たる|人間《にんげん》ではありますまいか。ナアお|姫《ひめ》さま、さうでございませう』
ブラワ゛『はい、|伊太彦《いたひこ》さまのお|言葉《ことば》もご|尤《もつと》もなり、|貴方《あなた》のお|言葉《ことば》もご|尤《もつと》もでございます』
|杣《そま》の|二《に》『|伊太彦《いたひこ》さまのお|言葉《ことば》もご|尤《もつと》も、|俺《わし》の|言葉《ことば》もご|尤《もつと》も、とはチツと|可怪《をか》しいぢやありませぬか。どちらか、|尤《もつと》もと|不尤《ふもつと》もの|区別《くべつ》がありさうなものだ。さアお|姫様《ひめさま》、あなたの|思惑通《おもわくどほ》りなされませ。かうして|様子《やうす》を|考《かんが》へて|見《み》れば、もはや|此《この》|世《よ》の|別《わか》れと|見《み》える。|伊太彦《いたひこ》さまも|体《からだ》に|毒《どく》が|廻《まは》り|何《いづ》れは|死《し》なねばならぬ|命《いのち》、|生命《いのち》のある|間《うち》に|互《たが》ひに|手《て》を|握《にぎ》つて|天国《てんごく》とかへ|行《ゆ》く|準備《じゆんび》をなさいませ。|決《けつ》して|悪《わる》い|事《こと》は|申《まを》しませぬ』
|伊太《いた》『ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》はじめお|二人《ふたり》のお|言葉《ことば》、その|御親切《ごしんせつ》は|骨身《ほねみ》に|浸《し》み|渡《わた》つて、|何《なん》とも|言《い》へぬ|有難《ありがた》さを|感《かん》じますが、どうあつても|私《わたし》は|神様《かみさま》が|恐《おそ》ろしうございます。|神様《かみさま》の|教《をしへ》のためには|如何《いか》なる|愛《あい》も、|如何《いか》なる|宝《たから》も|総《すべ》てを|犠牲《ぎせい》にする|考《かんが》へですから、もう|之《これ》きり|何《なん》とも|仰有《おつしや》らずに|下《くだ》さいませ、ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
|杣《そま》の|一《いち》『さてもさても|固苦《かたくる》しい|男《をとこ》だな。なるほど|之《これ》では|世《よ》に|容《い》れられないのも|尤《もつと》もだ。やつぱりバラモン|教《けう》が|時勢《じせい》に|適当《てきたう》してるわい。|俺《わし》も|実《じつ》はバラモン|教《けう》の|信者《しんじや》だが、まだ|一度《いちど》もこんな|固苦《かたくる》しい|宣伝使《せんでんし》に|会《あ》うたことはない。|押《お》せども|引《ひ》けども|少《すこ》しも|動《うご》かぬ|千引岩《ちびきいは》のやうな|宣伝使《せんでんし》だな。かやうな|無情《むじやう》な|男《をとこ》に|恋《こひ》をなさる|姫様《ひめさま》こそ|実《じつ》に|不幸《ふかう》なお|方《かた》だな。アアどうしたら|宜《よ》からうかな』
(大正一二・五・二九 旧四・一四 於天声社 北村隆光録)
第一八章 |夜《よる》の|旅《たび》〔一六二五〕
|伊太彦《いたひこ》は、|目《め》の|前《まへ》に|最愛《さいあい》のブラワ゛ーダ|姫《ひめ》が|悩《なや》み|苦《くる》しみ、|最後《さいご》の|握手《あくしゆ》を|求《もと》むるその|心根《こころね》の|不愍《ふびん》さ|胸《むね》|迫《せま》り|嗚咽《をえつ》|涕泣《ていきふ》やや|久《ひさ》しうし、|又《また》もや|首《かうべ》をあげ|涙《なみだ》を|払《はら》ひながら、
『ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》よ、お|前《まへ》がこのやうに|苦《くる》しむのも|私《わたし》の|意志《いし》が|弱《よわ》かつた|為《ため》だ。テルの|里《さと》にて|体《てい》よく|断《こと》われば、お|前《まへ》の|迷《まよ》ひもさめ、|私《わたし》もかやうな|神《かみ》の|誡《いまし》めに|遇《あ》ふのではなかつたのに、どうぞ|許《ゆる》してくれ。|生死《せいし》を|共《とも》にすると|誓《ちか》つた|女房《にようばう》の|其女《そなた》に、ただ|一度《いちど》の|握手《あくしゆ》も|許《ゆる》さぬといふほど|伊太彦《いたひこ》も|無情漢《むじやうかん》ではなけれども、|使命《しめい》を|受《う》けたこの|体《からだ》、たとへ|肉体《にくたい》は|朽《く》ち|果《は》つるとも、どうしてこの|誓《ちか》ひを|破《やぶ》る|事《こと》が|出来《でき》やう。|本当《ほんたう》に|心《こころ》の|底《そこ》から|其女《そなた》を|愛《あい》するために、かかる|無残《むご》い|処置《しうち》をするのだ、|決《けつ》して|無情《むじやう》な|男《をとこ》とせめてくれるな。|伊太彦《いたひこ》の|思《おも》ひは|千万無量《せんまんむりやう》。|如何《いか》なる|罪《つみ》の|報《むく》ひにや|初《はじ》めて|知《し》つた|恋《こひ》の|苦《くる》しみ、|其女《そなた》もルーブヤの|娘《むすめ》、ブラワ゛ーダと|言《い》はるる|女《をんな》、よもや|伊太彦《いたひこ》の|言葉《ことば》が|分《わか》らぬ|道理《だうり》はあるまい』
『|伊太彦《いたひこ》さま、|左様《さやう》ならばこれにてお|暇《いとま》を|致《いた》します。|隠世《かくりよ》の|大神《おほかみ》|守《まも》りたまへ|幸倍《さきはへ》たまへ』
といふより|早《はや》く|懐剣《くわいけん》をすらりと|抜《ぬ》き|放《はな》ち、|吾《わ》が|喉《のど》に|突《つ》き|立《た》てむとす。|伊太彦《いたひこ》は|驚《おどろ》いてその|手《て》を|押《おさ》へむとすれども、|刻々《こくこく》と|重《おも》る|病《やまひ》のため|手足《てあし》も|叶《かな》はず、|如何《いかが》はせむと|気《き》を|焦心《あせ》り、あはや|一大事《いちだいじ》と|思《おも》ふ|刹那《せつな》、|杣人《そまびと》は|飛《と》びかかつてブラワ゛ーダの|懐剣《くわいけん》を|〓《も》ぎ|取《と》り、|傍《かたはら》の|密林《みつりん》へ|投《な》げ|込《こ》んでしまつた。|杣人《そまびと》は|忽《たちま》ち|容色《ようしよく》|端麗《たんれい》なる|二人《ふたり》の|美人《びじん》と|化《くわ》した。|伊太彦《いたひこ》はハツと|驚《おどろ》き|差《さ》し|俯向《うつむ》く。ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》も|忽《たちま》ち、|以前《いぜん》の|化身《けしん》に|弥益《いやます》|高尚《かうしやう》|優美《いうび》なる|女神《めがみ》と|化《くわ》してしまつた。|伊太彦《いたひこ》は|漸《やうや》うにして|頭《あたま》を|擡《もた》げ|見《み》れば|摩訶不思議《まかふしぎ》、ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》も|杣人《そまびと》の|影《かげ》もなく、|三人《さんにん》の|女神《めがみ》が|儼然《げんぜん》として|吾《わ》が|前《まへ》に|立《た》つて|居《ゐ》る。さてはブラワ゛ーダと|見《み》せかけ|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》の|吾《わ》が|前《まへ》に|現《あら》はれたまひしか、あら|有難《ありがた》や|辱《かたじけ》なやと|思《おも》はず|知《し》らず|合掌《がつしやう》した。にはかに|伊太彦《いたひこ》の|病《やまひ》は|拭《ぬぐ》ふが|如《ごと》く、|忘《わす》れたるが|如《ごと》くどこへか|散《ち》り|失《う》せて、さも|爽快《さうくわい》な|気分《きぶん》に|充《み》たされ、|坐《すわ》り|直《なほ》つて|両手《りやうて》を|仕《つか》へ、
『ハハー、|有難《ありがた》や|尊《たふと》や|木花姫《このはなひめ》の|命様《みことさま》、どこまでもお|心《こころ》を|籠《こ》められたる|御教訓《ごけうくん》、|実《じつ》に|感謝《かんしや》の|至《いた》りに|堪《た》へませぬ。|何卒《なにとぞ》|々々《なにとぞ》この|伊太彦《いたひこ》が、|途中《とちう》において|悪魔《あくま》の|誘惑《いうわく》に|陥《おちい》らざるやう|御守護《ごしゆご》を|願《ねが》ひます。|又《また》ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》も|繊弱《かよわ》き|女《をんな》の|一人旅《ひとりたび》、|何卒《なにとぞ》|々々《なにとぞ》|御守護《ごしゆご》を|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》ります』
|木花姫《このはなひめ》『|汝《なんぢ》の|願《ねが》ひ|確《たし》かに|承知《しようち》した。しかしながら、|玉国別《たまくにわけ》の|身《み》の|上《うへ》は|何《なん》と|致《いた》すのだ』
|伊太《いた》『|恐《おそ》れ|入《い》りました。これだけのお|試練《ためし》に|会《あ》ひながら、|自分《じぶん》の|身《み》の|上《うへ》や|妻《つま》の|身《み》の|上《うへ》のみをお|願《ねが》ひ|申《まを》し、|師《し》の|君《きみ》の|御身《おんみ》の|上《うへ》を|後《あと》に|致《いた》しました。どうぞお|許《ゆる》し|下《くだ》さいませ』
|木花姫《このはなひめ》『|其方《そなた》は、|玉国別《たまくにわけ》、|真純彦《ますみひこ》、|三千彦《みちひこ》の|宣伝使《せんでんし》は|神徳《しんとく》|備《そな》はり、|神《かみ》の|御加護《ごかご》も|厚《あつ》ければと、|安心《あんしん》の|上《うへ》|願《ねが》はなかつたのだらう』
と|直日《なほひ》に|見直《なほ》し|聞《き》き|直《なほ》したまふ|情《なさ》けの|言葉《ことば》に、|伊太彦《いたひこ》は|恐《おそ》れ|入《い》り、|両掌《りやうて》を|合《あは》せて|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》を|滝《たき》のごとくに|流《なが》してゐる。|忽《たちま》ち|虚空《こくう》に|音楽《おんがく》|聞《き》こえ、|芳香《はうかん》|薫《くん》じ、カラビンガの|祥鳥《しやうてう》に|取《と》りまかれて|雲《くも》を|霞《かすみ》と|御姿《みすがた》をかくしたまうた。|後《あと》|振《ふ》りかへり、|伊太彦《いたひこ》は|幾度《いくど》となく|御空《みそら》を|仰《あふ》ぎ|見《み》て、
『|木《こ》の|花《はな》の|一度《いちど》に|開《ひら》く|伊太彦《いたひこ》が
|心《こころ》の|空《そら》も|晴《は》れ|渡《わた》りけり
|天教《てんけう》の|山《やま》より|天降《あも》りたまひたる
|木花姫《このはなひめ》の|恵《めぐ》み|尊《たふと》し
いたづきの|身《み》も|健《すこや》かになりにけり
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|深《ふか》きをぞ|知《し》る
|玉国別《たまくにわけ》|司《つかさ》の|君《きみ》はいま|何処《いづこ》
|守《まも》らせたまへ|天津神達《あまつかみたち》
|仰《あふ》ぎ|見《み》る|真純《ますみ》の|空《そら》は|吾《わ》が|友《とも》の
|心《こころ》の|色《いろ》の|現《あら》はれとぞ|知《し》る
|神徳《しんとく》を|清《きよ》き|御霊《みたま》に|三千彦《みちひこ》の
|吾《わ》が|友垣《ともがき》を|偲《しの》びてぞ|泣《な》く
|三千彦《みちひこ》もさぞ|今《いま》|頃《ごろ》はデビス|姫《ひめ》に
|心《こころ》|曇《くも》らせたまふなるらむ
デビス|姫《ひめ》ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》も|御教《みをしへ》に
|倣《なら》ひて|山路《やまぢ》|一人《ひとり》|往《ゆ》くらむ
|鬼《おに》|大蛇《をろち》|虎《とら》|狼《おほかみ》の|猛《たけ》ぶなる
|野路《のぢ》|往《ゆ》く|人《ひと》ぞ|危《あやぶ》まれける
さりながら|尊《たふと》き|神《かみ》のましまさば
やすく|進《すす》まむ|女《をんな》の|旅《たび》も
いざ|立《た》ちて|珍《うづ》の|都《みやこ》に|進《すす》み|行《ゆ》かむ
|国治立《くにはるたち》の|御《み》あとたづねて』
と|口吟《くちずさ》みながら、|元気《げんき》|回復《くわいふく》した|伊太彦《いたひこ》は、ハルセイの|峠《たうげ》を|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひながら|下《くだ》り|往《ゆ》く。
『|三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》 |一度《いちど》に|開《ひら》く|時《とき》は|来《き》ぬ
|此《この》|世《よ》を|救《すく》ふ|生神《いきがみ》は |天教山《てんけうざん》に|神集《かむつど》ふ
|斎苑《いそ》の|館《やかた》やエルサレム コーカサス|山《さん》や|顕恩郷《けんおんきやう》
|自転倒島《おのころじま》の|聖場《せいぢやう》に |厳《いづ》の|御魂《みたま》を|配《くば》りまし
|豊葦原《とよあしはら》の|国中《くになか》に |潜《ひそ》みて|世人《よびと》を|悩《なや》ませる
|醜《しこ》の|大蛇《をろち》や|鬼神《おにがみ》を |言向《ことむ》け|和《やは》し|天国《てんごく》を
|地上《ちじやう》に|建設《けんせつ》せむために |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は
|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|御言《みこと》もて |神《かみ》の|柱《はしら》を|四方八方《よもやも》に
|遣《つか》はしたまふぞ|尊《たふと》けれ |吾《われ》は|小《ちひ》さき|身《み》なれども
|神《かみ》の|御言《みこと》を|蒙《かかぶ》りて |玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》と
|魔神《まがみ》の|猛《たけ》る|月《つき》の|国《くに》 ハルナの|都《みやこ》の|征討《せいたう》に
|登《のぼ》る|尊《たふと》き|神司《かむつかさ》 |任《ま》けられたるぞ|有難《ありがた》き
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ
スダルマ|山《さん》の|麓《ふもと》にて カークス ベースに|廻《めぐ》り|会《あ》ひ
スーラヤ|山《さん》に|玉《たま》ありと |聞《き》くより|心機《しんき》|一変《いつぺん》し
|矢猛心《やたけごころ》の|伊太彦《いたひこ》は |吾《わ》が|師《し》の|許《ゆる》しを|強請《がうせい》し
|間道《かんだう》|潜《くぐ》りて|三人連《みたりづ》れ テルの|磯辺《いそべ》に|安着《あんちやく》し
|思《おも》はぬ|女《をんな》に|廻《めぐ》り|遇《あ》ひ |妹背《いもせ》の|約《やく》を|固《かた》めつつ
|八大竜王《はちだいりうわう》の|随一《ずゐいつ》と |世《よ》に|聞《き》こへたるウバナンダ
ナーガラシャーの|岩窟《がんくつ》へ |一行《いつかう》|五人《ごにん》|進《すす》み|入《い》り
|幽世現世《あのよこのよ》の|境《さかひ》まで |進《すす》みし|時《とき》の|恐《おそ》ろしさ
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|見直《みなほ》しまして|現世《うつしよ》に |甦《よみがへ》りたる|尊《たふと》さよ
|折《を》りから|来《き》たる|宣伝使《せんでんし》 |初稚姫《はつわかひめ》に|助《たす》けられ
|岩《いは》の|隙間《すきま》の|明《あか》りをば |目当《めあ》てに|潜《くぐ》り|出《い》で|見《み》れば
|玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》が |磐樟船《いはくすぶね》を|横《よこ》たへて
|吾等《われら》を|待《ま》たせたまひけり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|経綸《しぐみ》のはかりなき |千尋《ちひろ》の|海《うみ》も|何《なん》のその
|御稜威《みいづ》は|高《たか》くスメールの |山《やま》も|物《もの》かは|伊太彦《いたひこ》は
|喜《よろこ》び|勇《いさ》み|師《し》の|君《きみ》の |御船《みふね》に|乗《の》りてエル|港《みなと》
|順風《じゆんぷう》に|真帆《まほ》をかかげつつ |事《こと》なく|上《のぼ》ればこは|如何《いか》に
|初稚姫《はつわかひめ》の|一行《いつかう》は |埠頭《ふとう》に|立《た》たせ|給《たま》ひつつ
いと|懇《ねもごろ》に|待《ま》ちたまふ |吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》の|一行《いつかう》は
|無事《ぶじ》の|再会《さいくわい》|喜《よろこ》びつ |前途《ぜんと》を|祝《しゆく》する|折《を》りもあれ
|初稚姫《はつわかひめ》の|御教訓《ごけうくん》 |畏《かしこ》みまつり|最愛《さいあい》の
|妻《つま》に|袂《たもと》を|別《わか》ちつつ |夜光《やくわう》の|玉《たま》を|捧持《ほうぢ》して
|珍《うづ》の|都《みやこ》に|上《のぼ》り|往《ゆ》く |一人旅路《ひとりたびぢ》となりにける
|夜《よ》を|日《ひ》についでハルセイ|山《ざん》の |峠《たうげ》の|上《うへ》に|来《き》て|見《み》れば
|頭《あたま》は|痛《いた》み|胸《むね》つかへ |手足《てあし》も|自由《じいう》にならぬ|身《み》の
その|苦《くる》しさに|山頂《さんちやう》の |芝生《しばふ》の|上《うへ》に|座《ざ》を|占《し》めて
|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らしつつ |懺悔《ざんげ》の|涙《なみだ》に|暮《く》るるをり
|二人《ふたり》の|杣《そま》にたすけられ |命《いのち》からがら|登《のぼ》り|来《く》る
|一人《ひとり》の|女《をんな》は|誰人《たれびと》と |窺《うかが》ひ|見《み》ればこは|如何《いか》に
|夢《ゆめ》にも|忘《わす》れぬブラワ゛ーダ |妹《いも》の|命《みこと》と|知《し》りしより
|心《こころ》を|鬼《おに》に|持《も》ち|直《なほ》し |神《かみ》の|使命《しめい》を|守《まも》らむと
|心《こころ》の|中《なか》の|曲者《くせもの》と |力戦苦闘《りきせんくとう》のその|結果《けつくわ》
|漸《やうや》く|晴《は》れし|胸《むね》の|暗《やみ》 ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》と|見《み》えたるは
いとも|畏《かしこ》き|木《こ》の|花姫《はなひめ》の |珍《うづ》の|化身《けしん》にましましぬ
|二人《ふたり》の|杣《そま》と|見《み》えたるも |木花姫《このはなひめ》のお|脇立《わきだち》
かくまでいやしき|伊太彦《いたひこ》を |誠《まこと》の|司《つかさ》に|造《つく》らむと
|千々《ちぢ》に|心《こころ》を|砕《くだ》きます |三十三相《さんじふさんさう》の|観自在《くわんじざい》
|天尊様《てんそんさま》の|御情《おんなさけ》 |仰《あふ》ぐも|畏《かしこ》き|次第《しだい》なり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |身《み》も|健《すこや》かになりぬれば
これより|進《すす》んでエルサレム |吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》の|後《あと》を|追《お》ひ
|誠《まこと》の|道《みち》を|一筋《ひとすぢ》に |脇目《わきめ》もふらず|進《すす》むべし
|旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |吾《わ》が|身体《からたま》は|朽《く》つるとも
|神《かみ》に|受《う》けたるこの|魂《みたま》 |如何《いか》で|曲霊《まがひ》に|汚《けが》さむや
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し |宣《の》り|直《なほ》しつつ|惟神《かむながら》
|教《をしへ》のままに|進《すす》み|往《ゆ》く |四辺《あたり》の|景色《けしき》は|漸《やうや》くに
|秋《あき》の|色《いろ》をばたたへつつ |山野《さんや》の|木草《きぐさ》はさわさわと
|空《そら》|吹《ふ》く|風《かぜ》に|翻《ひるがへ》り いとも|床《ゆか》しくなりにけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |一日《ひとひ》も|早《はや》くエルサレム
|神《かみ》の|表《あら》はれましまして |黄金山下《わうごんさんか》の|神館《かむやかた》
|埴安彦《はにやすひこ》や|埴安《はにやす》の |姫《ひめ》の|命《みこと》の|永久《とこしへ》に
|鎮《しづ》まりたまふ|大前《おほまへ》に |進《すす》ませたまへと|願《ね》ぎまつる』
と|謡《うた》ひながら、|緩勾配《くわんこうばい》の|山道《やまみち》をトントントンと|下《くだ》り|行《ゆ》く。|日《ひ》は|西山《せいざん》に|傾《かたむ》いて|殊更《ことさら》|涼《すず》しき|夕《ゆふ》べの|風《かぜ》、|伊太彦《いたひこ》が|面《おもて》を|吹《ふ》く。|伊太彦《いたひこ》は|漸《やうや》くにして、さしもに|高《たか》きこの|大峠《おほたうげ》の|中程《なかほど》まで|下《お》りつき|傍《かたはら》の|巌《いはほ》に|腰《こし》|打《う》ちかけて、ウトリウトリと|眠《ねむ》りについた。かかる|所《ところ》へ|峠《たうげ》の|上《うへ》の|方《はう》から、
イク『バラモン|教《けう》に|仕《つか》へたる |醜《しこ》の|司《つかさ》のイク サール
|清春山《きよはるやま》の|岩窟《がんくつ》で |松彦司《まつひこつかさ》に|教《をし》へられ
|三五教《あななひけう》の|正道《せいだう》に |帰順《きじゆん》しまつり|玉国別《たまくにわけ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》に|従《したが》ひて |伊太彦司《いたひこつかさ》もろともに
|祠《ほこら》の|森《もり》の|宮普請《みやぶしん》 |仕《つか》へまつりて|師《し》の|君《きみ》に
|惜《を》しき|別《わか》れを|告《つ》げながら |珍《うづ》の|館《やかた》の|受付《うけつけ》に
|暫《しば》し|仕《つか》ふる|間《ま》もあらず |三五教《あななひけう》の|高姫《たかひめ》や
|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》が ブラリブラリとやつて|来《き》て
|暴威《ばうゐ》を|振《ふ》るふ|憎《にく》らしさ かかる|所《ところ》へ|霊国《れいごく》の
|天女《てんによ》と|現《あ》れし|初稚姫《はつわかひめ》が |立《た》ち|寄《よ》りまして|妖邪《えうじや》をば
|払《はら》はせたまひ|吾々《われわれ》に |尊《たふと》き|教《をしへ》を|伝《つた》へつつ
|又《また》もや|聖場《せいぢやう》を|立《た》ちたまふ |吾等《われら》|二人《ふたり》は|姫君《ひめぎみ》の
その|神徳《しんとく》に|憧憬《どうけい》し ハルナの|都《みやこ》の|御伴《みとも》をば
|仕《つか》へむものと|後《あと》や|先《さき》 |姫《ひめ》の|御身《おんみ》を|守《まも》りつつ
この|世《よ》を|照《て》らす|生神《いきがみ》の |日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》に|瑞宝《ずゐはう》を
|与《あた》へられたる|嬉《うれ》しさに |姫《ひめ》の|許《ゆる》しはなけねども
|誠《まこと》|一《ひと》つを|力《ちから》とし |此処《ここ》まで|進《すす》み|来《き》たりけり
|初稚姫《はつわかひめ》は|今《いま》|何処《いづく》 スマートさまの|声《こゑ》さへも
|今《いま》は|全《まつた》く|吾《わ》が|耳《みみ》に |聞《き》こえず|遠《とほ》くなりにけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|恵《めぐ》みの|幸《さち》はひて
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|姫君《ひめぎみ》に |遇《あ》はさせたまへスマートの
|清《きよ》き|尊《たふと》き|竜声《りうせい》を |聞《き》かさせたまへと|願《ね》ぎまつる
|山野河海《さんやかかい》を|打《う》ち|渡《わた》り |影《かげ》に|日向《ひなた》につき|添《そ》ひて
ここまで|御身《おんみ》を|守《まも》りつつ |水晶玉《すゐしやうだま》を|捧持《ほうぢ》して
|来《き》たりし|吾等《われら》の|有難《ありがた》さ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|清春山《きよはるやま》の|岩窟《がんくつ》で いと|懇切《ねもごろ》に|交《まじ》はりし
|伊太彦司《いたひこつかさ》の|身《み》の|上《うへ》は |如何《いか》になり|行《ゆ》きたまひしか
|聞《き》かまほしやと|思《おも》へども |神《かみ》ならぬ|身《み》の|吾々《われわれ》は
|如何《いか》に|詮術《せんすべ》|浪《なみ》の|上《うへ》 |踏《ふ》みも|習《なら》はぬ|山路《やまみち》を
|登《のぼ》りつ|下《くだ》りつ|進《すす》み|来《く》る ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|皇大神《すめおほかみ》の|引《ひ》き|合《あは》せ |伊太彦司《いたひこつかさ》に|今一度《いまいちど》
|遇《あ》はさせたまへと|願《ね》ぎまつる』
と|謡《うた》ひつつ|峠《たうげ》を|下《くだ》つて|来《く》るのはイクであつた。|伊太彦《いたひこ》は|疲《つか》れ|果《は》てて、ウトリウトリと|眠《ねむ》つてゐる|耳《みみ》に|幽《かす》かに|此《この》|声《こゑ》が|聞《き》こえて|来《き》た。ふと|目覚《めざま》せば、|二人《ふたり》の|男《をとこ》が|吾《わ》が|前《まへ》に|近《ちか》づいて|来《く》る|事《こと》に|気《き》がついた。
(大正一二・五・二九 旧四・一四 於天声社楼上 加藤明子録)
第五篇 |神検霊査《しんけんれいさ》
第一九章 |仕込杖《しこみづゑ》〔一六二六〕
イク、サールの|両人《りやうにん》は、|伊太彦《いたひこ》の|路傍《ろばう》の|石《いし》に|腰《こし》|打《う》ちかけて|俯向《うつむ》いてる|姿《すがた》を|見《み》て、|月影《つきかげ》にすかしながら、
イク『|貴方《あなた》は|旅人《たびびと》とお|見受《みう》け|申《まを》しますが、|一寸《ちよつと》|物《もの》をお|尋《たづ》ね|申《まを》します。|天女《てんによ》のやうな|綺麗《きれい》な|綺麗《きれい》な|姫様《ひめさま》が|犬《いぬ》を|連《つ》れてお|通《とほ》りになつたのを|御覧《ごらん》になりませぬか』
|伊太彦《いたひこ》はハテ|不思議《ふしぎ》な|事《こと》を|尋《たづ》ねるものだと|思《おも》ひながら、|二人《ふたり》の|顔《かほ》をツラツラ|眺《なが》めて、
『イヤさう|聞《き》く|声《こゑ》は|何《なん》だか|聞《き》き|覚《おぼ》えがあるやうだ。|拙者《せつしや》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|伊太彦《いたひこ》と|申《まを》すもの、|左様《さやう》なお|方《かた》はお|通《とほ》り|遊《あそ》ばしたのは|見《み》た|事《こと》はござらぬ』
サール『やアお|前《まへ》は|伊太彦《いたひこ》さまぢやないか。|清春山《きよはるやま》の|岩窟《がんくつ》では|随分《ずゐぶん》|管《くだ》を|捲《ま》いたものだな、その|後《ご》|玉国別《たまくにわけ》さまに|跟《つ》いてハルナの|都《みやこ》へ|進《すす》まれたはずだが、まだこんな|処《ところ》へ|迂路《うろ》ついてござつたのか』
|伊太《いた》『うん、|君《きみ》はイク、サールの|両人《りやうにん》だな。これはこれは|珍《めづら》しい|処《ところ》で|会《あ》うたものだ。そしてまた|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》の|後《あと》を|何処《どこ》までも|慕《した》うて|行《ゆ》く|考《かんが》へかな。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》がよくまアお|伴《とも》を|許《ゆる》された|事《こと》だな』
サール『|何《なん》といつてもお|許《ゆる》しがないものだから、|強行進軍《きやうかうしんぐん》と|出掛《でか》け、|見《み》えつ|隠《かく》れつ、|後《あと》になり|前《さき》になり、ここ|迄《まで》ついて|来《き》たのだが、エルの|港《みなと》からサツパリお|姿《すがた》を|見失《みうしな》ひ、|前《さき》になつてるのか、|後《あと》になつてるのか|分《わか》らぬので|心配《しんぱい》してるのだ』
|伊太《いた》『あ、さうだつたか。|拙者《せつしや》も|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》に|一度《いちど》|会《あ》つてお|礼《れい》を|申《まを》したいのだが、あの|方《かた》は|神様《かみさま》だから|変幻出没自在《へんげんしゆつぼつじざい》、|何方《どちら》へおいでになつたか|皆目《かいもく》|分《わか》らぬのだ。まアゆつくり|一服《いつぷく》し|玉《たま》へ。まだこの|坂道《さかみち》は|随分《ずゐぶん》あるさうだから、あわてたところで|仕方《しかた》がない。チツとは|人間《にんげん》の|身体《からだ》も|休養《きうやう》が|大切《たいせつ》だ。|休《やす》んでは|歩《ある》き、|休《やす》んでは|歩《ある》きする|方《はう》が、|身体《からだ》の|為《ため》にも|何《なに》|程《ほど》よいか|分《わか》らないよ』
イク『|久《ひさ》し|振《ぶ》りに|伊太彦《いたひこ》さまに|面会《めんくわい》したのだから、|先《ま》づ|此処《ここ》で、ゆつくりと|話《はな》して|行《ゆ》かうぢやないか』
サール『|久《ひさ》し|振《ぶ》りだといふけれど、スマの|関所《せきしよ》でお|前《まへ》が|宿屋《やどや》をやつてゐた|時《とき》に、|入口《いりぐち》に|守衛然《しゆゑいぜん》と|控《ひか》へてをつたぢやないか。いはば|伊太彦司《いたひこつかさ》たちの|救《すく》ひの|神《かみ》さまだ』
イク『なるほど、あの|時《とき》に|伊太彦司《いたひこつかさ》もゐられたのかな。あまり|沢山《たくさん》のバラモン|軍《ぐん》で|見落《みおと》としてゐたのだ。そして|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》に|叱《しか》られるものだから、スマの|里《さと》を|一目散《いちもくさん》に|駆《か》け|出《だ》し|姫様《ひめさま》を|待《ま》ちつつ、|彼方《あなた》|此方《こなた》とバラモンの|泥棒《どろばう》を|言向和《ことむけやは》して|来《き》たものだから|今《いま》になつたのだが、|伊太彦《いたひこ》さま、これから|三人《さんにん》|一緒《いつしよ》にハルナの|都《みやこ》へ|行《ゆ》かうぢやないか。どうしたものか|姫様《ひめさま》はハルナへ|行《ゆ》かずに、エルサレム|街道《かいだう》の|方《はう》へ|足《あし》を|向《む》けられたものだから|跟《つ》いて|来《き》たのだが、|一体《いつたい》どうなるのだらうな』
|伊太《いた》『|神様《かみさま》のなさる|事《こと》は|到底《たうてい》|吾々《われわれ》には|分《わか》らないよ。|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》の|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》だとて、テームス|峠《たうげ》を|向《む》かふへ|渡《わた》り、|直《すぐ》にハルナに|行《ゆ》かれる|都合《つがふ》だつたが、いろいろ|神様《かみさま》の|御用《ごよう》が|出来《でき》たり、|事件《じけん》が|突発《とつぱつ》して、|何者《なにもの》にか|引《ひ》かるるやう|此方《こちら》へおいでになつたのだ。これも|何《なに》かの|神様《かみさま》の|御都合《ごつがふ》だらう。|然《しか》しながら|三人《さんにん》|一緒《いつしよ》に|行《ゆ》く|事《こと》は|到底《たうてい》|出来《でき》ない。|宣伝使《せんでんし》は|一人《ひとり》と|定《きま》つてるさうだから、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》も|伴《とも》をつれないのだ。それで|私《わたし》も|玉国別《たまくにわけ》の|師匠《ししやう》から、|途中《とちう》から|突放《つつぱな》されて|一人旅《ひとりたび》をやつてゐるが、|一人旅《ひとりたび》は|辛《つら》いものの|又《また》|便利《べんり》なものの|気楽《きらく》なものだ。|何《なに》はさておき、|神様《かみさま》の|命令《めいれい》だから|君等《きみら》と|一緒《いつしよ》に|行《ゆ》く|事《こと》は|出来《でき》ないわ。いづれエルサレムで|一緒《いつしよ》にお|目《め》にかからうぢやないか』
イク『それでも|照国別《てるくにわけ》、|治国別《はるくにわけ》、|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》などは、|一人《ひとり》でおいでになつたのではなからう。あの|方々《かたがた》はどうなるのだ』
|伊太《いた》『それも|何《なに》か|御都合《ごつがふ》のある|事《こと》だらう。|俺《おれ》たちには|解《わか》らないわ』
サール『おい、イク、そんな|事《こと》いふだけ|野暮《やぼ》だよ。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は|只《ただ》|一人《ひとり》おいでになつたのも|独立《どくりつ》|独歩《どくぽ》、|一人前《いちにんまへ》の|宣伝使《せんでんし》になられたからだ。|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》が|二人連《ふたりづ》れで|行《い》つたのは、|半人前《はんにんまへ》づつの|二《ふた》つ|一《いち》で|行《い》つたのだよ。その|外《ほか》の|宣伝使《せんでんし》は|皆《みな》|三人連《さんにんづ》れ|四人連《よにんづ》れだからまア|三分《さんぶ》の|一《いち》、|四分《しぶん》の|一《いち》の|人間《にんげん》ぐらゐなものだ、アツハハハハ』
イク『さうすると|伊太彦《いたひこ》さまは|偉《えら》いぢやないか。|到頭《たうとう》|一人前《いちにんまへ》になられたとみえるわい。|俺《おれ》|等《たち》も|二《ふた》つ|一《ひとつ》かな』
『きまつた|事《こと》だよ。|二人《ふたり》に|一《ひと》つの|玉《たま》を|頂《いただ》いてをるのをみても|分《わか》るぢやないか』
『それでも|伊太彦《いたひこ》さまは|一人《ひとり》でゐながら|玉《たま》がないぢやないか。そりや|又《また》どうなるのだ』
『|改心《かいしん》の|出来《でき》たお|方《かた》は|心《こころ》の|玉《たま》が|光《ひか》つてるのだから、|形《かたち》の|上《うへ》の|玉《たま》は|必要《ひつえう》ないのだ。|玉《たま》を|持《も》つて|歩《ある》かなくちやならぬのは、ヤツパリどこかに|足《た》らぬ|処《ところ》があるのだ。|夜道《よみち》が|怖《こは》いといつて|仕込杖《しこみづゑ》を|持《も》つて|歩《ある》くやうなものだ。なア|伊太彦《いたひこ》さま、さうでせう』
|伊太《いた》『さう|聞《き》かれるとお|恥《は》づかしい|話《はなし》だが、|実《じつ》のところはスーラヤ|山《さん》の|岩窟《がんくつ》に|入《い》り、ウバナンダ|竜王《りうわう》の|玉《たま》を|頂《いただ》いて|此処《ここ》に|所持《しよぢ》してゐるのだ。ヤツパリ|私《わたし》も|仕込杖《しこみづゑ》の|口《くち》かな』
サール『ヤアそいつア|不思議《ふしぎ》だ。あの|八大竜王《はちだいりうわう》の|中《なか》でも、|最《もつと》も|険難《けんのん》な|所《ところ》に|棲居《すまゐ》をしてゐる|死《し》の|山《やま》と|聞《き》こえたスーラヤ|山《さん》へ|駈《か》け|上《のぼ》つて、|玉《たま》をとつて|来《く》るとは|豪気《がうき》なものだ。そしてその|玉《たま》は|今《いま》|持《も》つてをられるのか。|一《ひと》つ|見《み》せてもらひたいものだな』
|伊太《いた》『ヤア|折角《せつかく》だが|神器《しんき》を|私《わたくし》するわけには|行《ゆ》かぬ。|丁寧《ていねい》に|包《つつ》んで|懐《ふところ》に|納《をさ》めてあるのだから、エルサレムに|行《い》つて|言依別《ことよりわけ》の|神様《かみさま》にお|渡《わた》しするまでは|拝《をが》む|事《こと》は|出来《でき》ないのだ。そしてお|前《まへ》|達《たち》の|持《も》つてゐる|玉《たま》といふのは|誰《たれ》から|頂《いただ》いたのだ』
イク『|勿体《もつたい》なくも|日出神《ひのでのかみ》から|直接《ちよくせつ》に|拝戴《はいたい》したのだ。この|玉《たま》のお|蔭《かげ》で|沢山《たくさん》な|泥棒《どろばう》にも|出会《であ》ひ、|色々《いろいろ》の|猛獣《まうじう》の|原野《げんや》を|渡《わた》り、|大河《おほかは》を|越《こ》えて|無事《ぶじ》で|来《き》たのも、この|水晶玉《すゐしやうだま》の|御神徳《ごしんとく》だ。|伊太彦《いたひこ》さまが|玉《たま》が|大切《たいせつ》だと|言《い》へば、こちらも|大切《たいせつ》だ。|絶対的《ぜつたいてき》に|見《み》せる|事《こと》は|出来《でき》ませぬわい』
|伊太《いた》『それでは|仕方《しかた》がない、|売言葉《うりことば》に|買言葉《かひことば》だ。|自分《じぶん》の|玉《たま》を|隠《かく》しておいて、|人《ひと》の|玉《たま》を|見《み》せろといふのが|此方《こちら》の|誤謬《あやまり》だ。さアここで|別《わか》れませう。エルサレムに|行《い》つて|何《いづ》れ|十日《とをか》や|二十日《はつか》は|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》も|御修業《ごしうげふ》|遊《あそ》ばすから、その|間《あひだ》には|一緒《いつしよ》になるであらう。|左様《さやう》なら』
と|伊太彦《いたひこ》はスタスタと|下《くだ》り|行《ゆ》く。
|二人《ふたり》は|伊太彦《いたひこ》の|言葉《ことば》に|従《したが》ひ|後《あと》をも|追《お》はず、ゆつくりと|路傍《ろばう》の|岩《いは》に|腰《こし》|打《う》ち|掛《か》け|話《はなし》に|耽《ふけ》つてゐる。
イク『おい、サール、|伊太彦《いたひこ》が|松彦《まつひこ》に|捕《とら》へられ、|清春山《きよはるやま》の|岩窟《がんくつ》にやつて|来《き》た|時《とき》は|随分《ずゐぶん》|面白《おもしろ》い|奴《やつ》だつた。|滑稽諧謔《こつけいかいぎやく》|口《くち》を|衝《つ》いて|出《で》るといふ|人気男《にんきをとこ》が、あれだけの|神格者《しんかくしや》にならうとは|予期《よき》しなかつた。|何《なん》と|人間《にんげん》といふものは|変《かは》れば|変《かは》るものぢやないか。|吾々《われわれ》|二人《ふたり》は|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|伴《とも》も|許《ゆる》されず、|日蔭者《ひかげもの》となつて、かう|春情《さかり》のついた|牡犬《をいぬ》が|牝犬《めいぬ》を|探《さが》すやうに|後《あと》を|嗅《か》ぎつけてやつて|来《き》たものの、|公然《こうぜん》とお|目《め》にかかるわけにも|行《い》かず、ハルナの|都《みやこ》へ|行《い》つてから、「|不届《ふとど》きな|奴《やつ》だ、|何《なに》しに|来《き》た」と|叱《しか》られでもしたら、それこそ|百日《ひやくにち》の|説法《せつぽふ》|屁《へ》|一《ひと》つにもならない。|何《なん》とか|立場《たちば》を|明《あき》らかにせなくては、「|名《な》|正《ただ》しからざるは|立《た》たず」とか|言《い》つて、マゴマゴしてゐると|其処辺《そこら》|四辺《あたり》の|奴《やつ》に|泥棒扱《どろぼうあつか》ひをされて、その|上《うへ》、|虻蜂《あぶはち》とらずになつては|詮《つま》らぬぢやないか』
サール『|何《なに》、|神様《かみさま》は|心次第《こころしだい》の|御利益《ごりやく》を|下《くだ》さるのだから、|吾々《われわれ》の|真心《まごころ》が|姫様《ひめさま》に|通《とほ》らぬ|道理《だうり》が|何処《どこ》にあらう。|姫様《ひめさま》は|千里《せんり》|向《む》かふの|事《こと》でも|御承知《ごしようち》だから、|自分等《じぶんら》がかうして|跟《つ》いて|来《く》るのも|御承知《ごしようち》だ。これを|黙《だま》つてをられるのは、|表面《うはべ》は|何《なん》とも|言《い》はれないが、|実《じつ》は|跟《つ》いて|来《こ》いと|言《い》はぬばかりだ。そんな|取越苦労《とりこしくらう》はするな。さア|行《ゆ》かうぢやないか』
イク『|道《みち》の|辺《べ》に|憩《いこ》ふ|二人《ふたり》は|尻《しり》あげて
またもや|先《さき》へ|行《い》かうぞとする』
サール『この|場《ば》をばサールの|吾《われ》は|何処《どこ》へ|行《い》く
|蓮花《はちすばな》|咲《さ》くハルナの|都《みやこ》へ
|今《いま》|先《さき》へ|一人《ひとり》|伊太彦《いたひこ》|宣伝使《せんでんし》
|逃《に》げるやうにして|玉《たま》|抱《かか》へ|行《ゆ》く』
『|泥棒《どろばう》のやうな|顔《かほ》した|吾々《われわれ》を
|恐《おそ》れて|逃《に》げた|伊太彦司《いたひこつかさ》』
『|馬鹿《ばか》いふな|此《この》|世《よ》の|中《なか》に|住《す》む|奴《やつ》は
|皆《みな》|泥棒《どろばう》の|未製品《みせいひん》なる』
『バラモンの|軍《いくさ》の|君《きみ》に|従《したが》ひて
|泥棒《どろぼう》|稼《かせ》ぎし|吾等《われら》|二人《ふたり》よ』
『そんな|事《こと》|夢《ゆめ》にも|言《い》うてくれるなよ
|吾等《われら》は|最早《もはや》|神《かみ》の|生宮《いきみや》
|泥濘《ぬかるみ》の|泥《どろ》の|中《なか》より|蓮花《はちすばな》
|咲《さ》き|出《い》づる|例《ためし》あるを|知《し》らずや』
『|蓮花《はちすばな》いかに|清《きよ》けく|匂《にほ》ふとも
|散《ち》りては|泥《どろ》の|埋草《うめぐさ》となる
|一度《ひとたび》は|祠《ほこら》の|前《まへ》で|咲《さ》き|充《み》ちし
|蓮《はちす》なれども|今《いま》は|詮《せん》なし
|神《かみ》の|道《みち》|聞《き》く|度《たび》ごとに|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|垢《あか》の|深《ふか》きをぞ|知《し》る
|吾《わ》が|胸《むね》にさやる|黒雲《くろくも》|吹《ふ》き|払《はら》ひ
|照《て》らさせ|玉《たま》へ|水《みづ》の|光《ひかり》に
|伊太彦《いたひこ》の|神《かみ》の|司《つかさ》を|規範《のり》として
|魂《たま》|研《みが》かまし|道《みち》|歩《あゆ》みつつ』
|二人《ふたり》は|半時《はんとき》ばかり|経《た》つて、|又《また》もや|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひながら|足拍子《あしびやうし》をとり|下《くだ》り|行《ゆ》く。
『|月《つき》の|国《くに》にて|名《な》も|高《たか》き |百《もも》の|花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふなる
ハルセイ|山《ざん》の|大峠《おほたうげ》 |三日三夜《みつかみよさ》をてくついて
|漸《やうや》くここに|来《き》て|見《み》れば |思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|三五《あななひ》の
|伊太彦司《いたひこつかさ》|道《みち》の|辺《べ》に |旅《たび》の|疲《つか》れを|休《やす》めつつ
|眠《ねむ》らせ|玉《たま》ふ|不思議《ふしぎ》さよ |思《おも》へば|思《おも》へば|恥《は》づかしや
|高春山《たかはるやま》の|岩窟《がんくつ》に |伊太彦司《いたひこつかさ》ともろともに
|酒《さけ》|酌《く》み|交《か》はし|夢《ゆめ》の|世《よ》を |酔《よ》うて|暮《くら》せし|吾々《われわれ》も
|心《こころ》の|駒《こま》を|立《た》て|直《なほ》し |祠《ほこら》の|森《もり》に|屯《たむろ》して
|珍《うづ》の|宮居《みやゐ》の|神業《かむわざ》に |仕《つか》へまつりし|嬉《うれ》しさよ
|初稚姫《はつわかひめ》の|御後《みあと》をば |慕《した》ひてここまで|来《き》て|見《み》れば
|姫《ひめ》の|姿《すがた》は|雲霞《くもかすみ》 |行衛《ゆくゑ》|分《わか》らぬ|旅《たび》の|空《そら》
|大空《おほぞら》|渡《わた》る|月《つき》|見《み》れば |雲《くも》の|御舟《みふね》に|乗《の》らせつつ
|西《にし》へ|西《にし》へと|進《すす》みます ハルナの|都《みやこ》に|姫様《ひめさま》が
|進《すす》ませ|玉《たま》ふと|聞《き》きつれど |月《つき》の|御後《みあと》を|従《したが》ひて
|一旦《いつたん》|珍《うづ》のエルサレム |進《すす》ませ|玉《たま》ふが|天地《あめつち》の
|誠《まこと》の|道《みち》に|叶《かな》ふのか |思《おも》へば|思《おも》へば|神様《かみさま》の
|遊《あそ》ばす|事《こと》は|吾々《われわれ》の |曇《くも》りきつたる|魂《たましひ》で
|測《はか》り|知《し》らるる|事《こと》でない ただ|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》
|誠《まこと》の|道《みち》を|一筋《ひとすぢ》に |行《ゆ》く|処《とこ》までも|行《い》つて|見《み》よ
|神《かみ》は|吾等《われら》と|共《とも》にあり |人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
いかでか|枉《まが》の|襲《おそ》はむと |教《をし》へ|玉《たま》ひし|御宣言《みことのり》
|頸《うなじ》に|受《う》けて|逸早《いちはや》く |水晶《すゐしやう》の|玉《たま》を|守《まも》りつつ
|伊太彦司《いたひこつかさ》の|後《あと》を|追《お》ひ いざや|進《すす》まむエルサレム
|守《まも》らせ|玉《たま》へ|天地《あめつち》の |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|慎《つつし》み|祈《いの》り|奉《たてまつ》る |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》の|道《みち》は|世《よ》を|救《すく》ふ |誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の
|道《みち》|行《ゆ》く|吾《われ》は|惟神《かむながら》 |月《つき》の|御神《みかみ》の|後《あと》|追《お》うて
|神《かみ》の|集《あつ》まるエルサレム |黄金《こがね》|花《はな》|咲《さ》く|神《かみ》の|山《やま》
|黄金山《わうごんざん》に|参上《まゐのぼ》り |橄欖樹下《かんらんじゆか》に|息《いき》|休《やす》め
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|涼風《すずかぜ》に |心《こころ》の|塵《ちり》を|払《はら》ふべし
|進《すす》めや|進《すす》めいざ|進《すす》め |勝利《しようり》の|都《みやこ》は|近《ちか》づきぬ
|深《ふか》き|恵《めぐ》みにヨルダンの |川《かは》の|流《なが》れに|御禊《みそぎ》して
|生《うま》れ|赤子《あかご》となり|変《かは》り |初稚姫《はつわかひめ》の|御許《みゆる》しを
|受《う》けて|尊《たふと》き|神司《かむづかさ》 |栄《さか》えに|充《み》てる|御顔《おんかほ》を
|伏《ふ》し|拝《をが》みつつツクヅクと エデンの|川《かは》を|舟《ふね》に|乗《の》り
フサの|入江《いりえ》に|漕《こ》ぎ|出《だ》して |何《なん》のなやみも|波《なみ》の|上《うへ》
ハルナの|都《みやこ》へ|進《すす》むべし |勇《いさ》めよ|勇《いさ》めよ よく|勇《いさ》め
|神《かみ》は|吾等《われら》と|共《とも》にあり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》の|恩頼《ふゆ》を|玉《たま》へかし』
かく|謡《うた》ひながら、イク、サールの|両人《りやうにん》はハルセイ|山《ざん》の|西坂《にしざか》を|勢《いきほ》ひ|込《こ》んで|下《くだ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・五・二九 旧四・一四 於天声社楼上 北村隆光録)
第二〇章 |道《みち》の|苦《く》〔一六二七〕
ブラワ゛ーダ『|月照彦《つきてるひこ》の|昔《むかし》より |遠津御祖《とほつみおや》の|仕《つか》へてし
|三五教《あななひけう》の|信徒《まめひと》と テルの|里庄《りしやう》のルーブヤが
|家《いへ》に|生《うま》れしブラワ゛ーダ バラモン|教《けう》の|醜神《しこがみ》の
|教《をしへ》のために|朝夕《あさゆふ》に |虐《しひた》げられて|表面《おもてむき》
|三五教《あななひけう》を|打《う》ち|捨《す》てて バラモン|教《けう》を|奉《ほう》じつつ
|家《いへ》の|柱《はしら》に|穴《あな》うがち |神《かみ》の|御名《みな》をば|刻《きざ》みこみ
|密《ひそ》かに|拝《をが》みまつりつつ |時《とき》まつほどに|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》の|伊太彦《いたひこ》が |鳩《はと》の|如《ごと》くに|下《くだ》りまし
|父《ちち》と|母《はは》との|許《ゆる》し|得《え》て |妹背《いもせ》の|縁《えにし》を|結《むす》ばせつ
|兄《あに》の|命《みこと》も|嬉《うれ》しみて |伊太彦司《いたひこつかさ》の|神業《しんげふ》を
|助《たす》けむためとてスーラヤの |湖水《こすゐ》の|波《なみ》を|打《う》ち|越《こ》えて
|海抜《かいばつ》|三千有余尺《さんぜんいうよしやく》 |竜王《りうわう》の|潜《ひそ》む|岩窟《がんくつ》に
|進《すす》みて|諸《もも》の|苦《くる》しみを |味《あぢ》はひ|遂《つひ》に|根《ね》の|国《くに》の
|入口《いりぐち》までも|進《すす》み|往《ゆ》き |神《かみ》の|恵《めぐ》みの|御教《みをしへ》を
いと|懇《ねもごろ》にさとされつ |初稚姫《はつわかひめ》に|救《すく》はれて
|岩窟《いはや》の|隙《すき》よりぬけ|出《い》だし |姫《ひめ》の|御船《みふね》に|助《たす》けられ
|漸《やうや》くエルの|港《みなと》まで |安着《あんちやく》したる|折《を》りもあれ
|神《かみ》の|教《をしへ》に|従《したが》ひて いとしき|夫《をつと》に|生《い》き|別《わか》れ
|踏《ふ》みも|習《なら》はぬ|一人旅《ひとりたび》 |草鞋《わらぢ》に|足《あし》を|食《く》はれつつ
|道《みち》の|小草《をぐさ》をあけに|染《そ》め |杖《つゑ》を|力《ちから》にハルセイ|山《ざん》の
|今《いま》や|麓《ふもと》につきにけり |音《おと》に|名高《なだか》き|月《つき》の|国《くに》
|大高山《だいかうざん》と|聞《き》こえたる この|山《やま》|越《こ》えてエルサレム
|聖地《せいち》に|渡《わた》る|吾《われ》なれど |如何《いかが》はしけむ|身《み》は|疲《つか》れ
|息《いき》も|苦《くる》しくなりにけり |死線《しせん》を|越《こ》えしその|時《とき》の
|妖邪《えうじや》の|空気《くうき》の|体《からたま》に |未《いま》だ|潜《ひそ》むと|覚《おぼ》えたり
|玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》や |伊太彦司《いたひこつかさ》は|今《いま》|何処《いづこ》
|様子《やうす》|聞《き》かまく|思《おも》へども |神《かみ》の|戒《いまし》め|強《つよ》くして
|遇《あ》はむよしなき|旅《たび》の|空《そら》 |国《くに》に|残《のこ》せし|父母《ちちはは》や
|兄《あに》の|命《みこと》はさぞやさぞ |昼《ひる》はひねもす|終夜《よもすがら》
|二人《ふたり》の|身《み》をば|案《あん》じつつ |神《かみ》に|願《ねが》ひをかけまくも
|畏《かしこ》き|厳《いづ》の|御恵《みめぐ》みを |二人《ふたり》の|上《うへ》に|与《あた》へよと
|祈《いの》らせ|給《たま》ふ|事《こと》ならむ |雲路《くもぢ》はるかに|進《すす》み|来《く》る
|吾《われ》は|孱弱《かよわ》き|女《をんな》の|身《み》 |後《あと》ふり|返《かへ》り|眺《なが》むれば
|限《かぎ》りも|知《し》らぬ|大野原《おほのはら》 |蓮華《はちす》の|花《はな》は|遠近《をちこち》に
|咲《さ》き|匂《にほ》へども|百鳥《ももどり》は |声《こゑ》も|涼《すず》しく|謡《うた》へども
|言問《ことと》ふよしも|泣《な》きじやくり この|山口《やまぐち》にたち|並《なら》ぶ
|沙羅《さら》の|古木《こぼく》に|霊《れい》あらば |吾《わ》が|垂乳根《たらちね》や|兄君《あにぎみ》や
|伊太彦司《いたひこつかさ》の|消息《せうそく》を |完全《うまら》に|知《し》らして|呉《く》れるだらう
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》に|任《まか》せしこの|身体《からだ》
|取越《とりこし》し|苦労《くらう》は|禁物《きんもつ》と |教《をしへ》の|言葉《ことば》を|身《み》に|刻《きざ》み
|心《こころ》に|銘《しる》して|忘《わす》れねど |又《また》もや|起《おこ》る|慕郷心《ぼきやうしん》
|拭《ぬぐ》はせたまへ|惟神《かむながら》 |御前《みまへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》は
この|現世《うつしよ》はいふも|更《さら》 |吾《わ》が|魂《たましひ》のどこまでも
つづく|限《かぎ》りは|捨《す》てはせぬ |誠《まこと》|一《ひと》つの|大道《おほみち》を
|進《すす》む|吾《わ》が|身《み》は|曲神《まがかみ》の さやらむ|恐《おそ》れはなけれども
|心《こころ》にひそむ|曲者《くせもの》が |又《また》もや|頭《かしら》|擡《もた》げつつ
|清《きよ》き|乙女《をとめ》の|魂《たましひ》を |恋《こひ》の|暗路《やみぢ》にさそひ|往《ゆ》く
|晴《は》れぬ|思《おも》ひのわが|体《からだ》 |救《すく》はせたまへ|惟神《かむながら》
|御前《みまへ》に|祈《いの》り|奉《たてまつ》る』
かく|謡《うた》ひながら、|漸《やうや》くにしてハルセイ|山《ざん》の|峠《たうげ》を|中程《なかほど》まで|登《のぼ》りつき、ここに|息《いき》を|休《やす》めて|来方《こしかた》|行末《ゆくすゑ》の|事《こと》を|思《おも》ひ|案《あん》じ、|一人旅《ひとりたび》の|淋《さび》しさに|袖《そで》を|霑《うるほ》してゐる。|日《ひ》は|漸《やうや》く|西山《せいざん》に|没《ぼつ》し、|四辺《あたり》は|薄墨《うすずみ》の|幕《まく》を|卸《おろ》したやうになつて|来《き》た。|花《はな》は|扉《とびら》をとぢて|眠《ねむ》りにつき、|鳥《とり》は|塒《ねぐら》をもとめて|彼方《あちら》こちらの|森林《しんりん》|目《め》がけて|忙《いそ》がしげに|翅《つばさ》を|早《はや》めてゐる。ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》は|独《ひと》り|言《ごと》、
『アア|味気《あぢき》なき|浮世《うきよ》ぢやなア、テルの|里《さと》の|酋長《しうちやう》の|娘《むすめ》と|生《うま》れ、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|三五《あななひ》の|神様《かみさま》を|心《こころ》|私《ひそ》かに|念《ねん》じつつ、|幾度《いくど》となくバラモンの|司《つかさ》に|虐《しひた》げられ、|心《こころ》にもなきバラモンの|信者《しんじや》となり|済《す》まし、わが|一家《いつか》はいふも|更《さら》、|村人《むらびと》までが|心《こころ》にもなき|信仰《しんかう》を|強《し》ひられ、|月《つき》に|三度《さんど》の|火渡《ひわた》り|水底潜《みなぞこくぐ》り、|裸体《らたい》の|修業《しうげふ》、|荊蕀《いばら》の|室《むろ》にと|投《とう》ぜられ、これが|神様《かみさま》の|御心《みこころ》を|安《やす》める|第一《だいいち》の|勤《つと》めと、|阿鼻叫喚《あびけうくわん》の|苦《くる》しみを|忍《しの》びてやうやく|孱弱《かよわ》きこの|身《み》も|十六《じふろく》の|春《はる》を|迎《むか》へ、|天運《てんうん》|茲《ここ》に|循環《じゆんかん》して、|尊《たふと》き|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》と|廻《めぐ》り|会《あ》ひ、|親子《おやこ》|兄弟《きやうだい》|納得《なつとく》の|上《うへ》、|夫婦《ふうふ》の|契《ちぎり》を|結《むす》び、|如何《いか》なる|艱難辛苦《かんなんしんく》も|吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》と|一《ひと》つにせばやと|父母《ふぼ》や|兄《あに》に|別《わか》れ、|此処《ここ》までぼつぼつ|後《あと》を|慕《した》うて|来《き》たものの、もはや|一歩《いつぽ》も|進《すす》めなくなつて|来《き》た。アア|如何《いか》にせば、この|苦《くる》しみが|免《のが》れるだらう。これもやつぱり|表面《うはべ》を|偽《いつは》り、バラモンの|神《かみ》を|祭《まつ》り、|勿体《もつたい》なや|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》をせま|苦《くる》しい|柱《はしら》の|穴《あな》を|穿《うが》つて|祭《まつ》り|込《こ》んだその|天罰《てんばつ》が|報《むく》ひ|来《き》たのであらうか。「|燈火《とうくわ》をともして|床《ゆか》の|下《した》に|置《お》くものはない」とは|聖者《せいじや》のお|言葉《ことば》、そのお|言葉《ことば》に|背《そむ》き、バラモンの|悪神《あくがみ》を|尊敬《そんけい》して|来《き》た|重々《ぢうぢう》の|罪業《ざいごふ》|廻《めぐ》り|来《き》て、|吾《わ》が|身《み》は|如何《いか》なる|苦《くる》しみを|受《う》けやうとも、もはや|因縁《いんねん》づくと|締《あきら》めて|決《けつ》して|恨《うら》みは|致《いた》しませぬ。|神様《かみさま》どうぞ、|垂乳根《たらちね》の|父母《ちちはは》や|兄《あに》や、|吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》や|村人《むらびと》の|罪《つみ》をお|許《ゆる》し|下《くだ》さいまして、|天晴《あつぱ》れ|御神業《ごしんげふ》にお|使《つか》ひ|下《くだ》さるやう、|偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》ります。アアかうなつては|最《も》はや|締《あきら》めねばなるまい。アア|俄《には》かに|胸《むね》が|痛《いた》くなつて|来《き》た。|薬《くすり》の|持《も》ち|合《あは》せもない。もはや|吾《わ》が|身《み》の|罪《つみ》を|神様《かみさま》にお|許《ゆる》し|願《ねが》ふ|訳《わけ》にもゆくまい。|吾《わ》が|罪《つみ》が|許《ゆる》されて、|父母《ふぼ》や|吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》に|戒《いまし》めが|往《ゆ》くやうであつてはならない。どうぞ|神様《かみさま》、|妾《わらは》の|身《み》をお|召《め》し|下《くだ》さつて、|一同《いちどう》の|罪《つみ》を|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ。それについても、|恋《こひ》しい|伊太彦《いたひこ》|様《さま》に|臨終《いまは》の|際《きは》に|一目《ひとめ》お|目《め》にかかりたいものだ。アアどうしたらこの|煩悶《はんもん》を|消《け》す|事《こと》が|出来《でき》やうぞ』
と|一人《ひとり》|道傍《みちばた》の|草《くさ》の|上《うへ》に|腰《こし》を|卸《おろ》し|悲歎《ひたん》の|涙《なみだ》に|暮《く》れてゐる。|猛獣《まうじう》の|声《こゑ》は|四方《しはう》|八方《はつぱう》より|山岳《さんがく》も|揺《ゆ》るぐばかり|聞《き》こえて|来《き》た。さすが|気丈《きぢやう》のブラワ゛ーダも、この|恐《おそ》ろしき|唸《うな》り|声《ごゑ》には|身《み》の|毛《け》も|弥立《よだ》ち、|死《し》を|決《けつ》した|身《み》にも|恐怖《きようふ》の|波《なみ》の|打《う》ち|寄《よ》する|憐《あは》れさ。ブラワ゛ーダは|絶《た》え|入《い》るばかり|泣《な》き|叫《さけ》びながら、|路傍《ろばう》の|草《くさ》の|上《うへ》に|身《み》をなげ|伏《ふ》せてひしひしと|泣《な》き|叫《さけ》んでゐる。
|三千彦《みちひこ》『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |玉国別《たまくにわけ》に|従《したが》ひて
|山野《さんや》を|渡《わた》り|河《かは》を|越《こ》え テルモン|館《やかた》に|立《た》ちよりて
|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|村肝《むらきも》の |心《こころ》を|砕《くだ》き|身《み》を|砕《くだ》き
|館《やかた》の|難儀《なんぎ》を|救《すく》ひつつ |風塵《ふうぢん》ここにをさまりて
デビスの|姫《ひめ》を|妻《つま》となし |吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》ともろともに
キヨメの|湖水《こすゐ》を|横断《わうだん》し アヅモス|山《さん》の|山麓《さんろく》に
|広《ひろ》き|館《やかた》を|構《かま》へたる バーチル|主従《しゆじう》の|命《いのち》をば
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|救《すく》ひ|上《あ》げ タクシャカ|竜王《りうわう》を|言向《ことむ》けて
|夜光《やくわう》の|玉《たま》や|如意宝珠《によいほつしゆ》 |授《さづ》かりながら|師《し》の|君《きみ》と
|珍《うづ》の|都《みやこ》へ|進《すす》み|往《ゆ》く スーラヤ|湖水《こすゐ》を|乗《の》り|越《こ》えて
エルの|港《みなと》につきしをり |三五教《あななひけう》の|神柱《かむばしら》
|御稜威《みいづ》|輝《かがや》く|初稚姫《はつわかひめ》に |迷《まよ》ひの|雲《くも》を|晴《は》らされて
|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》と|袂《たもと》をば いよいよ|別《わか》ちデビス|姫《ひめ》と
|恋《こひ》しき|袂《たもと》を|別《わか》ちつつ |踏《ふ》みもならはぬ|山野《やまの》をば
いと|雄々《をを》しくも|進《すす》み|往《ゆ》く |此処《ここ》は|名《な》に|負《お》うハルセイ|山《ざん》の
|嶮《けは》しき|峠《たうげ》の|登《のぼ》り|口《ぐち》 にはかに|聞《き》こゆる|猛獣《まうじう》の
|声《こゑ》は|地震《ぢしん》か|雷《かみなり》か |身《み》も|毛《け》も|弥立《よだ》つばかりなり
|神《かみ》の|教《をしへ》を|世《よ》に|伝《つた》ふ |吾《われ》は|男子《をのこ》の|身《み》なれども
かく|怖《おそ》ろしき|心地《ここち》する この|山路《やまみち》を|何《なん》として
デビスの|姫《ひめ》やブラワ゛ーダ |進《すす》まむよしもなかるべし
|思《おも》へば|思《おも》へば|可憐《いぢら》しや |神《かみ》の|御《おん》ため|道《みち》のため
|世人《よびと》のためとは|言《い》ひながら かくも|苦《くる》しき|草枕《くさまくら》
|旅《たび》に|出《い》で|立《た》つ|女子《をみなご》の |行末《ゆくすゑ》|思《おも》ひ|廻《めぐ》らせば
いとど|憐《あは》れを|催《もよほ》して |涙《なみだ》の|袖《そで》はひたされぬ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましまして
|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》はいふも|更《さら》 デビスの|姫《ひめ》やブラワ゛ーダ
|二人《ふたり》の|繊弱《かよわ》き|女子《をなご》をば |神《かみ》の|御稜威《みいづ》に|守《まも》らせて
いと|易々《やすやす》と|神業《しんげふ》を |果《は》たさせたまへ|惟神《かむながら》
|御前《みまへ》に|謹《つつし》み|願《ね》ぎまつる |旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の |教《をしへ》を|進《すす》む|吾《われ》なれば
|怖《おそ》るる|事《こと》はなけれども |神《かみ》の|教《をしへ》も|悟《さと》り|得《え》ぬ
|弱《よわ》き|女《をんな》の|如何《いか》にして この|難関《なんくわん》を|越《こ》ゆるべき
|守《まも》らせたまへ|天地《あめつち》の |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|謹《つつし》み|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る』
|三千彦《みちひこ》はかく|謡《うた》ひながら、|厭《いや》らしい|唸《うな》り|声《ごゑ》のする|山路《やまぢ》をとぼとぼと|登《のぼ》つて|行《ゆ》く。|幽《かす》かに|聞《き》こゆる|悲《かな》しげなる|女《をんな》の|泣《な》き|声《ごゑ》、|耳《みみ》に|入《い》るより|三千彦《みちひこ》は|気《き》を|取《と》り|直《なほ》し、
『さてあの|泣声《なきごゑ》は|正《まさ》しく|女《をんな》と|見《み》える。この|夜《よる》の|山《やま》を|通《かよ》ふ|女《をんな》はよもや|他《ほか》にはあるまい。|正《まさ》しく、デビス|姫《ひめ》かブラワ゛ーダ|姫《ひめ》に|間違《まちが》ひなからむ。いで|一走《ひとはし》り、|実否《じつぴ》を|探《さぐ》り|見《み》む』
と|俄《には》かに|足《あし》を|早《はや》め、|爪先上《つまさきあが》りの|山路《やまみち》を|勢《いきほ》ひ|込《こ》んで|上《のぼ》り|行《ゆ》く。|見《み》れば|道《みち》の|傍《かたはら》の|草《くさ》の|上《うへ》に、|悲《かな》しげな|女《をんな》の|姿《すがた》が|横《よこ》たはつてゐる。|三千彦《みちひこ》は|驚《おどろ》きながらツト|傍《そば》により、
『もしもしお|女中様《ぢよちうさま》、この|山路《やまみち》に|唯《ただ》お|一人《ひとり》|倒《たふ》れてござるのは|何処《どこ》の|人《ひと》か、|折《を》り|悪《あ》しく|月《つき》は|黒雲《こくうん》に|包《つつ》まれて、お|姿《すがた》はハツキリ|分《わか》らねど、どうやらブラワ゛ーダ|姫様《ひめさま》のやうに|思《おも》ひますが、もし|間違《まちが》つたらお|許《ゆる》しを|願《ねが》ひます。|私《わたし》は|決《けつ》して|怪《あや》しい|者《もの》ではありませぬ。|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|三千彦《みちひこ》と|申《まを》す|者《もの》、サア|早《はや》く|起《お》き|上《あが》つて、|有《あ》りし|次第《しだい》をお|話《はな》し|下《くだ》さいませ』
ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》は|三千彦《みちひこ》の|情《なさ》けの|籠《こ》もつた|言葉《ことば》にノアの|方舟《はこぶね》に|出遇《であ》つたがごとく|喜《よろこ》び、|重《おも》き|身《み》をやうやうに|起《お》き|上《あが》り、
『ハイ、|妾《わらは》は|伊太彦《いたひこ》の|妻《つま》でございます。|貴方《あなた》は|神徳《しんとく》|高《たか》き|三千彦《みちひこ》|様《さま》、ようまア|尋《たづ》ねて|下《くだ》さいました。|何《なに》を|言《い》つても|罪《つみ》の|多《おほ》いこの|体《からだ》、|神様《かみさま》の|戒《いまし》めに|遇《あ》ひましたか、モウ|一足《ひとあし》も|歩《ある》けなくなつて、この|草路《くさみち》に|断末魔《だんまつま》の|声《こゑ》を|絞《しぼ》つて|恥《は》づかしながら|泣《な》いてをりました』
|三千彦《みちひこ》はこの|体《てい》を|見《み》るより|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》し|声《こゑ》まで|曇《くも》らせながら、
『|御安心《ごあんしん》なさいませ。|神様《かみさま》はきつと|貴女《あなた》の|御身《おんみ》をお|守《まも》り|下《くだ》さるでせう。いな|魂《たましひ》までも|永久《とこしへ》に|御守護《ごしゆご》|下《くだ》さいます。|私《わたし》が|貴女《あなた》をお|連《つ》れ|申《まを》してエルサレムまでお|送《おく》り|致《いた》したいは|山々《やまやま》ですが、|神様《かみさま》の|仰《おほ》せは、あなたもお|聞《き》き|及《およ》びの|通《とほ》り|大層《たいそう》|厳《きび》しくなりまして、|御同行《ごどうかう》は|叶《かな》ひませぬ。しかしながら|人《ひと》は|心《こころ》が|肝腎《かんじん》でございます。|心《こころ》さへ|生々《いきいき》してをれば、|肉体《にくたい》くらゐは|何《なん》の|雑作《ざふさ》もございませぬ。|何《なに》ほど|疲《つか》れたというても|休《やす》めば|直《す》ぐに|回復《くわいふく》するものでございます。|気《き》を|確《たし》かにお|持《も》ちなさいませ。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。……アア|三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》、|繊弱《かよわ》き|女《をんな》のブラワ゛ーダをお|救《すく》ひ|下《くだ》さるやう|一重《ひとへ》にお|願《ねが》ひ|申《まを》します。それについては、デビス|姫《ひめ》も|繊弱《かよわ》い|女《をんな》の|一人旅《ひとりたび》、|何卒《なにとぞ》|貴神《あなた》の|御恩寵《ごおんちよう》をもつて、|無事《ぶじ》に|聖地《せいち》に|御参詣《ごさんけい》の|叶《かな》ふやう、お|取《と》り|計《はか》らひを|偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》ります。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|合掌《がつしやう》しながら、|二人《ふたり》の|間《あひだ》には|暫《しば》し|無言《むごん》の|幕《まく》が|卸《おろ》された。|猛獣《まうじう》の|声《こゑ》は|一層《いつそう》|激《はげ》しく|彼方《あなた》|此方《こなた》の|谷々《たにだに》より|百雷《ひやくらい》の|一時《いちじ》に|落《お》つるがごとく|響《ひび》き|来《き》たる。
(大正一二・五・二九 旧四・一四 於天声社 加藤明子録)
第二一章 |神判《しんぱん》〔一六二八〕
ブラワ゛ーダはまだ|十六才《じふろくさい》の|娘盛《むすめざか》り、|初《はじ》めて|恋《こひ》しき|父母《ふぼ》の|家《いへ》を|離《はな》れて、|二世《にせ》の|夫《をつと》と|契《ちぎ》りたる|伊太彦《いたひこ》|力《ちから》にエルの|港《みなと》までヤツと|跟《つ》いて|来《き》たところ、|初稚姫《はつわかひめ》の|訓戒《くんかい》によつて、|伊太彦《いたひこ》はただ|一人《ひとり》の|宣伝《せんでん》の|旅《たび》に|赴《おもむ》くこととなり、|翼《つばさ》を|取《と》られた|鳥《とり》のごとく、|足《あし》をもがれし|蟹《かに》のごとく、|淋《さび》しさと|悲《かな》しさに|胸《むね》|塞《ふさ》がり、せめてエルサレムにて|恋《こひ》しき|伊太彦《いたひこ》に|会《あ》はむ|事《こと》を|一縷《いちる》の|望《のぞ》みとして、|歩《あゆ》みも|慣《な》れぬ|大原野《だいげんや》を|打《う》ち|渉《わた》り|嶮《けはし》き|山路《やまぢ》を|越《こ》えて、やうやく|此処《ここ》へ|喘《あへ》ぎ|喘《あへ》ぎ|登《のぼ》りつめて|来《き》たのである。
|死線《しせん》を|越《こ》えた|時《とき》の|邪気《じやき》|体内《たいない》に|幾分《いくぶん》か|残《のこ》りしことと|長途《ちやうと》の|旅《たび》の|疲《つか》れとによりて、もはや、|根《こん》|尽《つ》き|絶望《ぜつばう》の|淵《ふち》に|沈《しづ》みをるところへ、いとも|凄《すさま》じき|猛獣《まうじう》の|声《こゑ》、|彼方《かなた》こなたより|襲《おそ》ひ|来《き》たる。|淋《さび》しさ|怖《おそ》ろしさに|魂《たましひ》も|消《き》えんばかり、バタリと|道端《みちばた》に|倒《たふ》れ、|決死《けつし》の|覚悟《かくご》にて|父母《ふぼ》|兄弟《きやうだい》、|夫《をつと》の|安全《あんぜん》を|祈《いの》りつつ、|悲《かな》しさ|堪《た》へやらず、|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|泣《な》き|叫《さけ》んでゐたところへ、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|三千彦《みちひこ》が|突然《とつぜん》|現《あら》はれて|来《き》たので、|地獄《ぢごく》で|如来《によらい》に|会《あ》ひたるごとき|心地《ここち》しつつ|重《おも》き|身《み》を|起《おこ》し、やや|落着《おちつ》きたる|態《てい》にて、
『|三千彦《みちひこ》|様《さま》、よくまア|妾《わらは》の|断末魔《だんまつま》ともいふべき|難儀《なんぎ》の|場所《ばしよ》へお|越《こ》し|下《くだ》さいまして、|情《なさ》けのお|言葉《ことば》を|賜《たまは》り、|殆《ほと》んど|甦《よみがへ》つたやうな|心地《ここち》がいたします。つきましては|神様《かみさま》の|仰《おほ》せは|一人旅《ひとりたび》との|事《こと》でございますが、|貴方《あなた》と|妾《わらは》とは|別《べつ》に|夫婦《ふうふ》でもなければ|怪《あや》しき|恋仲《こひなか》でもございませぬ。それゆゑ|道《みち》の|三丁《さんちやう》や|五丁《ごちやう》|連《つ》れ|立《だ》つて|歩《ある》いたところで、|別《べつ》に|神《かみ》のお|咎《とが》めはございますまい。かやうな|嶮《けはし》き|山路《やまみち》、せめてこの|峠《たうげ》を|向《む》かふへ|下《くだ》るまで、|妾《わらは》と|一緒《いつしよ》に|行《い》つて|下《くだ》さるわけには|行《ゆ》きますまいかな。|孱弱《かよわ》い|女《をんな》の|頼《たの》み|事《ごと》、きつと|貴方《あなた》は|肯《き》いて|下《くだ》さるでせう。|気強《きづよ》いばかりが|宣伝使《せんでんし》のお|役《やく》でもございますまい』
と|退《の》ツ|引《ぴき》ならぬ|釘鎹《くぎかすがひ》、|三千彦《みちひこ》も|姫《ひめ》の|窮状《きうじやう》を|見《み》て、ただ|俯向《うつむ》いて|吐息《といき》をついてゐた。|怪《あや》しき|猛獣《まうじう》の|声《こゑ》は|刻々《こくこく》|身辺《しんぺん》に|近寄《ちかよ》るごとく|聞《き》こえて|来《き》た。
|三千彦《みちひこ》は|如何《いかが》はせむと、とつおいつ|思案《しあん》に|暮《く》れたが、
『エエ、ままよ、|人《ひと》を|救《すく》ふは|宣伝使《せんでんし》の|役《やく》、たとへ|罪悪《ざいあく》に|問《と》はれて|根底《ねそこ》の|国《くに》に|落《お》とされようとも、この|可憐《かれん》な|女《をんな》を|見捨《みす》てて|行《ゆ》かれやうか。|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神様《おほかみさま》は|世人《よびと》の|為《ため》、|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ひ|給《たま》ひしと|聞《き》く。|吾《われ》も|大神《おほかみ》の|流《なが》れを|汲《く》んで|世《よ》を|救《すく》ふ|宣伝使《せんでんし》なれば、|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|甘《あま》んじて|受《う》けむ。わが|身《み》の|罪《つみ》を|恐《おそ》れて|人《ひと》を|救《すく》はざるは|却《かへ》つて|神《かみ》の|御怒《みいか》りに|触《ふ》れやうも|知《し》れぬ。|初稚姫《はつわかひめ》のお|言葉《ことば》は、|或《あるひ》は|吾々《われわれ》の|心《こころ》を|試《ため》されたのではないだらうか。|神《かみ》ならぬ|吾々《われわれ》、どうして|正邪善悪《せいじやぜんあく》の|区別《くべつ》がつかう。|只《ただ》|吾々《われわれ》が|心《こころ》で|最善《さいぜん》と|思《おも》つたところを、ドシドシ|行《おこな》ふのが|吾々《われわれ》の|務《つと》めだ。|男子《だんし》は|断《だん》の|一字《いちじ》が|宝《たから》だ。|小《ちひ》さい|事《こと》に|心《こころ》ひかれて|躊躇逡巡《ちうちよしゆんじゆん》する|事《こと》はない。|私《わし》がこのブラワ゛ーダ|姫《ひめ》を|見捨《みす》てて|行《ゆ》かうものなら、|必《かなら》ず|猛獣《まうじう》の|餌食《ゑじき》になつてしまふであらう。|万々一《まんまんいち》、|私《わし》が|罪人《つみびと》の|群《むれ》に|落《お》ちても|救《すく》はねばならぬ』
と|大勇猛心《だいゆうまうしん》を|起《おこ》し、ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》の|背《せな》を|撫《な》でながら、
『|姫様《ひめさま》、|必《かなら》ず|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|神様《かみさま》の|教《をしへ》は|一人旅《ひとりたび》でなければならぬと|仰《おほ》せられましたが、|苟《いやし》くも|男子《だんし》として|孱弱《かよわ》き|女《をんな》の|身《み》をただ|一人《ひとり》|見捨《みす》てて|行《ゆ》かれませう。あなたを|救《すく》うた|為《ため》、|私《わたし》が|神《かみ》の|怒《いか》りに|触《ふ》れ、|根底《ねそこ》の|国《くに》に|落《お》ちやうとも|男《をとこ》の|意地《いぢ》、|覚悟《かくご》の|前《まへ》でございます。さア|私《わたし》が|背《せ》に|負《お》うてこの|急坂《きふはん》を|越《こ》えさして|上《あ》げませう。|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|三千彦《みちひこ》は|最早《もはや》|覚悟《かくご》をいたしました』
ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》は|嬉《うれ》しげに、
『アア|世界《せかい》に|鬼《おに》は|無《な》いとやら、|三千彦《みちひこ》|様《さま》、よう|言《い》つて|下《くだ》さいました。あなたは|妾《わらは》を|助《たす》けて、たとへ|根底《ねそこ》の|国《くに》に|落《お》ちるとも|構《かま》はないと|仰有《おつしや》いましたな。ほんに|親切《しんせつ》な|宣伝使《せんでんし》、|妾《わらは》も|貴方《あなた》のためには|仮令《たとへ》|根底《ねそこ》の|国《くに》に|落《お》ちようとも、|少《すこ》しも|怨《うら》みとは|思《おも》ひませぬ。あなたのやさしいお|言葉《ことば》は、|幾万年《いくまんねん》の|喜《よろこ》びを|集《あつ》めても|代《か》へ|難《がた》く|存《ぞん》じます』
と|俄《には》かに|妙《めう》な|心《こころ》になつて、|乙女心《をとめごころ》のフラフラと|三千彦《みちひこ》の|胸《むね》に|矢庭《やには》に|喰《く》ひつき、|頬《ほほ》に|口《くち》づけをした。
|三千彦《みちひこ》は|驚《おどろ》いて|後《あと》に|飛《と》び|去《さ》り、
『これはしたり、ブラワ゛ーダ|様《さま》、|左様《さやう》な|事《こと》を|遊《あそ》ばすと、それこそ|天則違反《てんそくゐはん》になりますから、|慎《つつし》んで|貰《もら》ひたうございます』
『|妾《わらは》は|最早《もはや》この|通《とほ》り|手足《てあし》も|儘《まま》ならぬ|身《み》の|上《うへ》、どうせ|死《し》なねばならぬ|此《こ》の|体《からだ》、たとへ|貴方《あなた》に|負《お》はれて|此《こ》の|坂《さか》を|無事《ぶじ》に|越《こ》されても、|到底《たうてい》エルサレムへ|行《ゆ》く|事《こと》が|出来《でき》ますまい。もはや|死《し》を|決《けつ》した|妾《わらは》、いとしい|恋《こひ》しい|貴方《あなた》の|体《からだ》に|触《ふ》れて|死《し》にましたら、もはや|此《こ》の|世《よ》に|残《のこ》りはございませぬ』
とひしひしと|泣《な》き|崩《くづ》るるその|可憐《いぢ》らしさ。|三千彦《みちひこ》は|当惑《たうわく》の|目《め》をしばたたき、
『アアさすがは|女《をんな》だな。まだ|年《とし》も|行《ゆ》かぬから|無理《むり》もないだらうが、こりや|又《また》えらい|事《こと》に|出会《でつくは》したものだ。エー、|仕方《しかた》がない。ブラワ゛ーダ|様《さま》、あなたの|自由《じいう》になさいませ。|三千彦《みちひこ》も|覚悟《かくご》を|致《いた》してをります』
ブラワ゛ーダは|恋《こひ》しき、|懐《なつか》しき、|三千彦《みちひこ》の|胸《むね》にピタリと|抱《だ》きついて|慄《ふる》うてゐる。
そこへ|下《した》の|方《はう》からスタスタやつて|来《き》た|一人《ひとり》の|女《をんな》は、|折《を》り|悪《あ》しくもデビス|姫《ひめ》であつた。デビス|姫《ひめ》はこの|態《てい》を|見《み》て|眉《まゆ》を|逆立《さかだ》てながら、グツと|睨《にら》まへてゐる。|三千彦《みちひこ》、ブラワ゛ーダは|一生懸命《いつしやうけんめい》に|抱《だ》きついて|泣《な》いてゐるので、デビス|姫《ひめ》が|吾《わ》が|前《まへ》に|立《た》つてをるのも|気《き》がつかなかつた。
ブラワ゛ーダは|蚊《か》の|泣《な》くやうな|声《こゑ》で|三千彦《みちひこ》の|胸《むね》に|抱《いだ》かれ、|両《りやう》の|手《て》で|頬《ほほ》を|撫《な》でながら、
『|神徳《しんとく》|高《たか》き|三千彦《みちひこ》|様《さま》、どうぞ|妾《わらは》を|末永《すえなが》く|可愛《かはい》がつて|下《くだ》さいませ。どうやら|足《あし》の|痛《いた》みも、あなたの|御親切《ごしんせつ》にして|下《くだ》さつた|嬉《うれ》しさで、|忘《わす》れたやうでございます。アア|俄《には》かに|気分《きぶん》がサラリとして|参《まゐ》りました。あなたはデビス|姫様《ひめさま》といふ|立派《りつぱ》な|奥様《おくさま》がおありですから、どうせ|末《すゑ》は|遂《と》げられませぬが、せめてお|心《こころ》にかけて|下《くだ》されば、それで|結構《けつこう》でございます』
『ブラワ゛ーダ|様《さま》、あなたは|本当《ほんたう》に|可愛《かはい》いですね。しかしながら|貴女《あなた》の|仰有《おつしや》る|通《とほ》り、|私《わたし》には|不束《ふつつか》な|女房《にようばう》を|持《も》つてをりますから、|到底《たうてい》あなたと|添《そ》ひ|遂《と》げることは|出来《でき》ませぬ。また|私《わたし》の|友人《いうじん》なる|伊太彦《いたひこ》の|妻《つま》とお|成《な》り|遊《あそ》ばした|以上《いじやう》は、|友人《いうじん》に|対《たい》しても、どうして|之《これ》が……あなたと|添《そ》ふことが|出来《でき》ませう。あなたも|愛《あい》しますが|友人《いうじん》の|伊太彦《いたひこ》は|層一層《そういつそう》|私《わたし》は|愛《あい》してをります』
『ハイ、よう|言《い》うて|下《くだ》さいました。どうぞ|左様《さやう》なれば|心《こころ》の|夫婦《ふうふ》となつて|下《くだ》さいませぬか』
『アアどうしたら|宜《よ》からうかな。こんな|事《こと》を|聞《き》くとデビス|姫《ひめ》を|女房《にようばう》に|持《も》つたが|怨《うら》めしうなつて|来《き》た。なぜ|私《わし》は|伊太彦《いたひこ》と|朋友《ほういう》の|縁《えん》を|結《むす》んだのだらう。|実《じつ》に|儘《まま》ならぬ|世《よ》の|中《なか》だな。こんな|処《ところ》をデビスが|見《み》やうものなら、|何《なに》|程《ほど》|心《こころ》の|好《よ》い|彼女《あれ》でも|屹度《きつと》|腹《はら》を|立《た》てるであらう。エーもう|構《かま》はぬ、デビス|姫《ひめ》でも|伊太彦《いたひこ》でも|来《く》るなら|来《き》たれ、|三千彦《みちひこ》はこの|女《をんな》のために|罪人《ざいにん》となる|覚悟《かくご》だ』
『|死出《しで》|三途《さんづ》、|針《はり》の|山《やま》、|血《ち》の|池《いけ》|地獄《ぢごく》でも、あなたとならチツとも|厭《いと》ひは|致《いた》しませぬわ』
|三千彦《みちひこ》は|何《なん》となく|心臓《しんざう》の|鼓動《こどう》|烈《はげ》しく、|息苦《いきぐる》しきやうになつて|来《き》た。そして|顔《かほ》|一面《いちめん》|恥《は》づかしさと|嬉《うれ》しさの|焔《ほのほ》が|燃《も》えて、にはかにあつくなり|舌《した》さへ|乾《かわ》いて|来《き》た。
|両人《りやうにん》は|目《め》も|狂《くる》ふばかり【うつつ】となつて、|今《いま》や|恋《こひ》の|魔《ま》の|手《て》に|因《とら》はれむとする|時《とき》、
『|若草《わかぐさ》の|妻《つま》の|命《みこと》を|振《ふ》り|棄《す》てて
|薊《あざみ》の|花《はな》に|心《こころ》うつしつ
デビス|姫《ひめ》|誰《たれ》も|手折《たを》らぬ|鬼薊《おにあざみ》と
|嫌《きら》はせ|給《たま》ふか|怨《うら》めしの|声《こゑ》』
|三千彦《みちひこ》はこの|声《こゑ》にハツと|気《き》がつき、よくよく|見《み》れば|紛《まが》ふ|方《かた》なきデビス|姫《ひめ》が|吾《わ》が|前《まへ》に|立《た》つてゐる。
|三千《みち》『ヤアお|前《まへ》はデビス|姫《ひめ》ぢやないか、そこで|何《なに》をしてゐる、|不都合千万《ふつがふせんばん》な』
と|狼狽《うろた》へ|紛《まぎ》れに|反対《あべこべ》に|叱《しか》りつける。
デビス『オホホホホホ、|三千彦《みちひこ》|様《さま》の|凄《すご》い|腕《うで》にはこのデビスも|驚《おどろ》きました。|愛《あい》のない|結婚《けつこん》は|却《かへつ》て|貴方《あなた》に|対《たい》し|御迷惑様《ごめいわくさま》、それよりも|妾《わらは》はこれよりエルサレムに|駈《か》け|向《む》かひ、|玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》にお|目《め》にかかり、この|実状《じつじやう》を|包《つつ》まず|隠《かく》さず|申《まを》し|上《あ》げますからお|覚悟《かくご》なさいませや』
|三千《みち》『やア、デビス|姫《ひめ》、さう|怒《おこ》つてはくれな。|決《けつ》してお|前《まへ》に|愛《あい》が|薄《うす》くなつたのではない、|今《いま》も|今《いま》とてお|前《まへ》の|事《こと》を|思《おも》ひ|煩《わづら》つてゐたところだ。さうしたところがブラワ゛ーダ|姫《ひめ》がここに|倒《たふ》れてゐたため、|介抱《かいはう》をちよつと|申《まを》し|上《あ》げたところ、こんな|狂言《きやうげん》が|出来《でき》たのだ。タカが|十六才《じふろくさい》の|小娘《こむすめ》、|私《わし》だつてお|前《まへ》と|見換《みかへ》るやうな|馬鹿《ばか》な|事《こと》はせないから、ここは|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》して|機嫌《きげん》を|直《なほ》してくれ』
『|案《あん》に|相違《さうゐ》の|貴方《あなた》の|為《な》され|方《かた》、|妾《わらは》も|女《をんな》の|端《はし》くれ、|男子《をとこ》の|玩弄物《おもちや》にはなりませぬ。しかしながら|貴方《あなた》は|妾《わらは》の|命《いのち》の|親様《おやさま》、|決《けつ》してお|怨《うら》みは|申《まを》しませぬ。|妾《わらは》はただ|貴方様《あなたさま》のお|気《き》に|召《め》すやうにして|上《あ》げたいのが|本心《ほんしん》でございますから、|自分《じぶん》の|愛《あい》を|犠牲《ぎせい》にいたします。どうぞブラワ゛ーダ|様《さま》を|大切《たいせつ》にして、|末永《すえなが》く|添《そ》ひ|遂《と》げて|下《くだ》さいませ。かうなつたのも|皆《みな》|妾《わらは》が|貴方《あなた》に|対《たい》する|愛《あい》が|足《た》らなかつたためです。そして|貴方《あなた》が|天則違反《てんそくゐはん》の|罪《つみ》におなりなさらぬやうに、|妾《わらは》は|今《いま》ここで|命《いのち》を|捨《す》てて|罪《つみ》の|身代《みがは》りになります』
『ちよつと|待《ま》つてくれ。さう|短気《たんき》を|出《だ》すものではない。これには|深《ふか》い|訳《わけ》があるのだ。お|前《まへ》は|今《いま》|来《き》たので|前後《ぜんご》の|事情《じじやう》を|知《し》らぬからさういふのだが、ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》と|私《わし》の|間《あひだ》は|潔白《けつぱく》なものだ。|惚《ほ》れたの、|好《す》いたのと|訳《わけ》が|違《ちが》ふ。|決《けつ》して|惚《ほ》れはせぬから|安心《あんしん》してくれ』
『オホホホホ|菖蒲《あやめ》と|杜若《かきつばた》とどれだけ|違《ちが》ひますか、|烏賊《いか》と|鯣《するめ》と、どれだけの|区別《くべつ》がございますか』
|三千《みち》『いかにも|章魚《たこ》にも|蟹《かに》にも|足《あし》は|四人前《よにんまへ》だ、アハハハハ』
と|笑《わら》ひに|紛《まぎ》らさうとする。
デビス『|三千彦《みちひこ》さま、|措《お》きなさいませ。そんな|事《こと》で|誤魔化《ごまか》さうとしても|駄目《だめ》ですよ。それよりも|男《をとこ》らしう「デビス、お|前《まへ》に|愛《あい》が|無《な》くなつたから|別《わか》れてくれ」とおつしやつて|下《くだ》さい。|蛇《くちなは》の|生殺《なまごろ》しは|殺生《せつしやう》でございますからな』
ブラワ゛ーダ『もしデビス|姫様《ひめさま》、|何事《なにごと》も|妾《わらは》が|悪《わる》いのでございます。|三千彦《みちひこ》|様《さま》の|罪《つみ》ぢやございませぬ、|妾《わらは》も|危《あぶ》ない|所《ところ》を|助《たす》けられ、その|嬉《うれ》しさに|前後《ぜんご》も|忘《わす》れ、つひ|恋《こひ》の|魔《ま》の|手《て》に|因《とら》はれて|妙《めう》な|考《かんが》へを|起《おこ》しましたが、|今《いま》|貴女《あなた》のお|顔《かほ》を|見《み》るにつけ|気《き》の|毒《どく》で、|身《み》につまされて、|居《ゐ》ても|立《た》つても|居《を》れなくなりました。どうぞ|三千彦《みちひこ》|様《さま》と|仲《なか》よく|添《そ》うて|下《くだ》さい。|妾《わらは》は|貴方《あなた》に|対《たい》する|言《い》ひ|訳《わけ》のため、ここで|自害《じがい》して|相果《あひは》てます。|三千彦《みちひこ》|様《さま》、これが|此《こ》の|世《よ》のお|別《わか》れ』
といふより|早《はや》く|守刀《まもりがたな》を|取《と》り|出《い》だし、|今《いま》や|自害《じがい》をなさむとする|時《とき》しも、|天空《てんくう》を|焦《こが》して|下《くだ》り|来《き》たる|大火団《だいくわだん》は|忽《たちま》ち|三人《さんにん》の|前《まへ》に|落下《らくか》し、|轟然《ぐわうぜん》たる|響《ひびき》と|共《とも》に|爆発《ばくはつ》して|火花《ひばな》を|四方《しはう》に|散《ち》らした。|三千彦《みちひこ》、ブラワ゛ーダの|二人《ふたり》はアツと|呆《あき》れて|路上《ろじやう》に|倒《たふ》れてしまつた。|今《いま》までデビス|姫《ひめ》と|見《み》えしは|容色《ようしよく》|端麗《たんれい》なる|一柱《ひとはしら》の|女神《めがみ》であつた。|女神《めがみ》は|言葉《ことば》|静《しづ》かに|両人《りやうにん》に|向《む》かひ、
『|妾《われ》こそは|天教山《てんけうざん》に|鎮《しづ》まる|木花咲耶姫命《このはなさくやひめのみこと》であるぞよ。|汝《なんぢ》|三千彦《みちひこ》、ブラワ゛ーダの|両人《りやうにん》、ハルセイ|山《ざん》の|悪魔《あくま》に|良心《りやうしん》を|攪乱《かくらん》され、|今《いま》や|大罪《だいざい》を|犯《をか》さむとせしところ、|汝等《なんぢら》の|罪《つみ》を|救《すく》ふべくデビス|姫《ひめ》と|化相《けさう》して、|汝《なんぢ》の|迷夢《めいむ》を|覚《さ》まし|与《あた》へしぞ。|以後《いご》は|必《かなら》ず|慎《つつし》んだがよからう。|神《かみ》は|決《けつ》して|汝等《なんぢら》を|憎《にく》みは|致《いた》さぬ、|過失《あやまち》を|二度《ふたたび》なす|勿《なか》れ』
と|言葉《ことば》|厳《おごそ》かに|諭《さと》し|給《たま》うた。|二人《ふたり》はハツと|平伏《ひれふ》し、
『ハイ、|有難《ありがた》う』
と|僅《わづか》に|言《い》つたきり、その|場《ば》に|泣《な》き|入《い》るのみであつた。
|三千彦《みちひこ》『|三五《あななひ》の|神《かみ》の|恵《めぐ》みはどこまでも
|吾《わ》が|魂《たましひ》を|守《まも》り|給《たま》ひぬ
|若草《わかぐさ》の|妻《つま》の|命《みこと》と|現《あら》はれて
|教《をし》へ|給《たま》ひし|神《かみ》ぞ|尊《たふと》き』
ブラワ゛ーダ『|恋雲《こひぐも》も|今《いま》は|漸《やうや》く|晴《は》れ|行《ゆ》きぬ
|天津御空《あまつみそら》を|照《て》らす|光《ひかり》に
|火《ひ》の|玉《たま》となりて|下《くだ》りし|姫神《ひめがみ》の
|御心《みこころ》|思《おも》へばいとど|尊《たふと》し
|何故《なにゆゑ》か|怪《あや》しき|雲《くも》に|襲《おそ》はれて
|人夫《ひとづま》|恋《こ》ひし|吾《われ》ぞ|悔《くや》しき』
|三千彦《みちひこ》『よしや|身《み》は|根底《ねそこ》の|国《くに》に|落《お》つるとも
|汝《なれ》|救《すく》はむと|思《おも》ひけるかな
|皇神《すめかみ》の|掟《おきて》の|綱《つな》に|縛《しば》られて
|身《み》の|苦《くる》しさを|味《あぢ》はふ|今日《けふ》かな
いざさらばブラワ゛ーダ|姫《ひめ》よ|三千彦《みちひこ》は
|汝《なれ》に|別《わか》れて|一人《ひとり》|行《ゆ》かなむ』
ブラワ゛ーダ|姫《ひめ》『なつかしき|教《をしへ》の|君《きみ》に|立別《たちわか》れ
|恋《こひ》の|山路《やまぢ》を|登《のぼ》りてや|行《ゆ》かむ』
かく|互《たが》ひに|述懐《じゆつくわい》を|宣《の》べながら|袂《たもと》を|別《わか》ち、|三千彦《みちひこ》はブラワ゛ーダ|姫《ひめ》の|追付《おつつ》かぬやうと|上《のぼ》り|坂《ざか》を|急《いそ》ぎ|行《ゆ》く。ブラワ゛ーダはまた|追《お》ひついては|却《かへ》つて|三千彦《みちひこ》に|迷惑《めいわく》をかけむも|知《し》れずと、|故意《わざ》とに|足許《あしもと》を|遅《おそ》くして|神歌《しんか》を|唱《とな》へながら|上《のぼ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・五・二九 旧四・一四 於天声社 北村隆光録)
第二二章 |蚯蚓《みみず》の|声《こゑ》〔一六二九〕
|大《ひろ》き|正《ただ》しき|癸《みづのと》の |亥年《ゐのと》|卯月《うづき》の|十四日《じふよつか》
|新《あら》たに|建《た》ちし|天声社《てんせいしや》 |二階《にかい》の|一間《ひとま》に|立《た》て|籠《こ》もり
|口述台《こうじゆつだい》に|横臥《わうぐわ》して |遠《とほ》き|神世《かみよ》の|物語《ものがたり》
|弥《いよいよ》|六十三巻《ろくじふさんくわん》の |夢物語《ゆめものがたり》|述《の》べてゆく
|御空《みそら》は|清《きよ》く|地《つち》|青《あを》く |垂柳《しだれやなぎ》は|粛然《しゆくぜん》と
|戦《そよ》ぎもしない|夕間暮《ゆふまぐれ》 |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》が |斎苑《いそ》の|館《やかた》を|立《た》ち|出《い》でて
|諸《もも》の|悩《なや》みに|遇《あ》ひながら スーラヤ|山《さん》に|鎮《しづ》まれる
ナーガラシャーの|瑞宝《ずゐはう》を |教《をしへ》の|御子《みこ》の|伊太彦《いたひこ》に
|受《う》け|取《と》らせつつ|海原《うなばら》を |漸《やうや》く|越《こ》えてエル|港《みなと》
ここに|一行《いつかう》|恙《つつが》なく |無事《ぶじ》な|顔《かほ》をば|合《あは》せつつ
|前途《ぜんと》の|光明《くわうみやう》|楽《たの》しみて |聖地《せいち》に|向《む》かうて|出《い》でむとす
|神《かみ》の|司《つかさ》の|初稚姫《はつわかひめ》が |木花姫《このはなひめ》の|勅《みこと》もて
|百千万《ももちよろづ》の|宣言《のりごと》を |宣《の》らせたまへば|三千彦《みちひこ》も
また|伊太彦《いたひこ》も|謹《つつし》みて |妹《いも》の|命《みこと》と|立《た》ち|別《わか》れ
|各自各自《おのもおのも》にただ|一人《ひとり》 |聖地《せいち》を|指《さ》して|進《すす》み|往《ゆ》く
|道《みち》に|起《おこ》りし|物語《ものがたり》 いと|細々《こまごま》と|述《の》べてゆく。
○
|豊葦原《とよあしはら》の|中津国《なかつくに》 |大日《おほひ》の|下《もと》の|聖場《せいぢやう》と
|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より |定《さだ》まりゐますエルサレム
|珍《うづ》の|聖地《せいち》に|名《な》も|高《たか》き |黄金山《わうごんざん》に|現《あ》れませる
|野立《のだち》の|彦《ひこ》や|野立姫《のだちひめ》 |御霊《みたま》の|変化《へんげ》ましまして
|埴安彦《はにやすひこ》や|埴安姫《はにやすひめ》と |世《よ》に|現《あら》はれて|三五《あななひ》の
|珍《うづ》の|教《をしへ》を|垂《た》れたまふ その|大御旨《おほみむね》を|畏《かしこ》みて
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は |島《しま》の|八十島《やそしま》|八十《やそ》の|国《くに》
|由緒《ゆいしよ》の|深《ふか》き|霊場《れいぢやう》に |教《をしへ》の|園《その》を|開《ひら》きまし
|数多《あまた》の|司《つかさ》を|教養《けうやう》し |仁慈無限《じんじむげん》の|御教《みをしへ》を
|開《ひら》かせたまふ|尊《たふと》さよ バラモン|教《けう》を|守護《しゆごう》する
|八岐大蛇《やまたをろち》や|醜鬼《しこおに》の |醜《しこ》の|御霊《みたま》を|言向《ことむ》けて
|汚《けが》れ|果《は》てたる|地《ち》の|上《うへ》を |神《かみ》の|御国《みくに》に|立《た》て|直《なほ》し
|妬《ねた》み|嫉《そね》みや|恨《うら》みなき |誠《まこと》|一《ひと》つの|神《かみ》の|代《よ》を
|作《つく》らむために|千万《ちよろづ》の |艱《なや》みを|恐《おそ》れず|遠近《をちこち》と
|玉《たま》の|御身《おんみ》を|砕《くだ》きつつ |励《はげ》ませたまふ|尊《たふと》さよ
|旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》は
|幾万劫《いくまんごふ》の|末《すゑ》までも |宇宙《うちう》と|共《とも》に|変《かは》らまじ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|御稜威《みいづ》の|有難《ありがた》き。
○
|若葉《わかば》も|戦《そよ》ぐ|神《かみ》の|園《その》 |梅《うめ》は|梢《こずゑ》に|青々《あをあを》と
|頭《あたま》を|並《なら》べて|泰平《たいへい》の ミロクの|御代《みよ》を|謡《うた》ひつつ
|池《いけ》に|泛《うか》べる|魚族《うろくづ》は |恵《めぐ》みの|露《つゆ》を|湛《たた》へたる
|金竜池《きんりういけ》に|悠々《いういう》と |曇《くも》りし|世界《せかい》を|知《し》らず|気《げ》に
いとたのもしく|遊《あそ》びゐる |月《つき》は|御空《みそら》に|皎々《かうかう》と
|輝《かがや》きたまひ|神苑《かみその》を |隈《くま》なく|照《て》らし|給《たま》へども
|木下《こした》の|闇《やみ》に|潜《ひそ》むなる |曲《まが》の|猛《たけ》びは|未《ま》だ|絶《た》えず
|神《かみ》に|体《からだ》も|魂《たましひ》も |供《そな》へきつたる|瑞月《ずゐげつ》は
|体《からだ》の|筋《すぢ》や|骨《ほね》までも メキメキメキと|痛《いた》めつつ
|闇《やみ》に|迷《まよ》へる|世《よ》の|人《ひと》を |救《すく》はむ|為《ため》に|朝夕《あさゆふ》に
|心《こころ》を|千々《ちぢ》に|砕《くだ》けども |知《し》る|人《ひと》|稀《まれ》な|今《いま》の|世《よ》は
|救《すく》はむよしも|荒浪《あらなみ》に |漂《ただよ》ふ|船《ふね》の|如《ごと》くなり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ。
○
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|身《み》を|砕《くだ》き |教御祖《をしへみおや》の|残《のこ》されし
|生《い》ける|教《をしへ》を|委曲《まつぶさ》に |説《と》き|諭《さと》さむと|朝夕《あさゆふ》に
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|太祝詞《ふとのりと》 |清《きよ》き|願《ねが》ひを|掛《か》け|巻《まく》も
|畏《かしこ》き|瑞《みづ》の|御心《みこころ》を |知《し》らぬ|信徒《まめひと》|多《おほ》くして
|夏《なつ》の|若葉《わかば》の|木下闇《こしたやみ》 |騒《さわ》ぎ|廻《まは》るぞうたてけれ。
○
|和知《わち》の|河水《かはみづ》|淙々《そうそう》と |弥《いや》|永久《とこしへ》に|御恵《みめぐ》みの
|露《つゆ》を|湛《たた》へて|流《なが》るれど |瑞《みづ》の|御霊《みたま》にヨルダンの
|清《きよ》き|清水《しみづ》を|汲《く》む|人《ひと》ぞ いとも|稀《まれ》なる|今《いま》の|世《よ》は
|清《きよ》き|尊《たふと》き|皇神《すめかみ》の |教《をしへ》を|軽《かろ》んじ|疎《うと》みつつ
|日頃《ひごろ》の|主張《しゆちやう》も|打《う》ち|忘《わす》れ いろいろ|雑多《ざつた》と|口実《こうじつ》を
|設《まう》けて|逃《に》げ|出《だ》すうたてさよ |皇大神《すめおほかみ》の|御教《みをしへ》に
|高天原《たかあまはら》の|大本《おほもと》は |三千世界《さんぜんせかい》を|天国《てんごく》に
|渡《わた》す|世界《せかい》の|大橋《おほはし》と |教《をし》へられたる|言《こと》の|葉《は》を
|空《そら》|吹《ふ》く|風《かぜ》と|聞《き》き|流《なが》し |大橋《おほはし》|越《こ》えてまだ|先《さき》へ
|行方《ゆくへ》も|知《し》らぬ|醜霊《しこたま》の |身《み》の|行先《ゆくさき》ぞ|憐《あは》れなり
|皇大神《すめおほかみ》の|試練《こころみ》に |遇《あ》ひて|漸《やうや》く|眼《まなこ》さめ
|悔《く》い|改《あらた》めてかへるとも |白米《しらが》に|籾《もみ》の|混《まじ》るごと
|何《なん》とはなしに|疎《うと》ましく |初《はじ》めの|如《ごと》くなきままに
|又《また》もや|醜《しこ》の|曲津霊《まがつひ》は |高天原《たかあまはら》の|大本《おほもと》は
|必要《ひつえう》の|時《とき》は|大切《たいせつ》に |扱《あつか》ひ|旨《うま》く|使《つか》ひつつ
|一人《ひとり》|歩《あゆ》みが|出来《でき》だせば |素知《そし》らぬ|顔《かほ》の|半兵衛《はんべゑ》を
|極《き》めこむ|所《とこ》とそしりつつ |泡《あわ》|吹《ふ》き|熱《ねつ》|吹《ふ》き|末《すゑ》|遂《つひ》に
あてども|知《し》らぬ|法螺《ほら》を|吹《ふ》き |煙《けぶり》の|如《ごと》く|消《き》えて|往《ゆ》く
|誠《まこと》の|足《た》らぬ|偽信者《にせしんじや》 |神《かみ》の|教《をしへ》を|現界《うつしよ》の
|皆《みな》|法則《はふそく》にあて|箝《は》めて |真理《しんり》ぢや|非真理《ひしんり》ぢや|不合理《ふがふり》と
|愚痴《ぐち》を|唱《とな》ふる|可笑《をか》しさよ |何《なに》|程《ほど》|知識《ちしき》の|秀《ひい》でたる
|物識人《ものしりびと》も|目《め》に|見《み》えぬ |神《かみ》の|世界《せかい》の|有様《ありさま》や
|全智全能《ぜんちぜんのう》の|大神《おほかみ》の |御心《みこころ》|如何《いか》で|解《わか》るべき
|慢心《まんしん》するのも|程《ほど》がある |唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は
|皇大神《すめおほかみ》の|御心《みこころ》に |任《まか》せて|進《すす》めば|怪我《けが》はなし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》の|恩頼《ふゆ》を|願《ね》ぎまつる。
○
|科学《くわがく》を|基礎《きそ》とせなくては |神《かみ》の|存在《そんざい》|経綸《けいりん》を
|承認《しようにん》せないと|鼻高《はなだか》が |下《くだ》らぬ|屁理窟《へりくつ》|並《なら》べ|立《た》て
|己《おのれ》が|愚《ぐ》をも|知《し》らずして |世界《せかい》に|於《お》ける|覚者《かくしや》ぞと
|構《かま》へゐるこそをかしけれ |学《まな》びの|家《いへ》に|通《かよ》ひつめ
|机《つくゑ》の|上《うへ》にて|習《なら》ひたる |畑水練《はたけすゐれん》|生兵法《なまびやうはふ》
|実地《じつち》に|間《ま》に|合《あ》ふ|筈《はず》がない |口《くち》や|筆《ふで》には|何事《なにごと》も
いとあざやかに|示《しめ》すとも |肝腎要《かんじんかなめ》の|行《おこな》ひが
|出来《でき》ねば|恰《あたか》も|水《みづ》の|泡《あわ》 |夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|幻《まぼろし》の
|境遇《きやうぐう》に|迷《まよ》ふ|亡者《まうじや》なり |肉《にく》の|眼《まなこ》は|開《ひら》けども
|心《こころ》の|眼《まなこ》|暗《くら》くして |一《いち》も|二《に》もなく|知恵学《ちゑがく》を
|唯一《ゆゐいつ》の|武器《ぶき》と|飾《かざ》りつつ |進《すす》むみ|霊《たま》ぞ|憐《あは》れなり。
○
|山河草木《さんかさうもく》|三《み》つの|巻《まき》 いよいよ|茲《ここ》に|述《の》べ|終《をは》る
また|瑞月《ずゐげつ》が|出鱈目《でたらめ》を |吐《ほざ》くと|蔭口《かげぐち》|叩《たた》くもの
|彼方《あちら》|此方《こちら》に|出《で》るであらう |著述《ちよじゆつ》の|苦労《くらう》の|味《あぢ》|知《し》らぬ
|文盲《もんまう》|学者《がくしや》や|仇人《あだびと》の いかで|悟《さと》らむこの|苦労《くらう》
|如何《いか》に|天地《てんち》の|神々《かみがみ》が |吾《わ》が|身《み》を|助《たす》けたまふとも
|神《かみ》より|受《う》けし|魂《たましひ》の |意志《いし》と|想念《さうねん》|光《ひか》らねば
|唯《ただ》|一言《ひとこと》の|口述《こうじゆつ》も |安《やす》くなし|得《う》るものでない
|神《かみ》の|苦労《くらう》も|白浪《しらなみ》の |上《うへ》に|漂《ただよ》ふ|浮草《うきぐさ》の
|心《こころ》|定《さだ》めぬ|人々《ひとびと》の |囁《ささや》きこそはうたてけれ
|世界《せかい》に|著者《ちよしや》は|多《おほ》くとも |一日《ひとひ》に|数万《すまん》の|言《こと》の|葉《は》を
|口述《こうじゆつ》|筆記《ひつき》するものは |開闢《かいびやく》|以来《いらい》|例《ためし》なし
|作《つく》りし|文《ふみ》の|巧拙《かうせつ》を |云々《うんぬん》するは|未《ま》だしもと
|許《ゆる》しもなるが|一概《いちがい》に この|瑞月《ずゐげつ》が|物好《ものず》きに
|下《くだ》らぬ|屁理窟《へりくつ》|並《なら》べ|立《た》て |心《こころ》に|積《つも》りし|欝憤《うつぷん》を
|神《かみ》によそへて|歌《うた》ふなぞ |分《わか》らぬ|事《こと》を|言《い》ふ|人《ひと》が
|神《かみ》の|教《をしへ》の|中《なか》にある かかる|汚《きた》なき|人々《ひとびと》は
|吾《わ》が|身《み》の|慾《よく》に|絆《ほだ》されて |表面《うはべ》に|神《かみ》を|伏《ふ》し|拝《をが》み
|棚《たな》から|牡丹餅《ぼたもち》おち|来《き》たる |時節《じせつ》を|待《ま》つよなやり|方《かた》ぞ
|世《よ》の|立替《たてかへ》や|立直《たてなほ》し |今《いま》ぢや|早《はや》ぢやと|書《か》くなれば
|耳《みみ》を|聳《そばだ》て|目《め》を|丸《まる》め |口《くち》|尖《とが》らして|読《よ》むだらう
そんな|事《こと》のみ|一心《いつしん》に |待《ま》ち|暮《くら》すのは|曲津神《まがつかみ》
|世《よ》の|禍《わざはひ》を|待《ま》つものぞ |大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|大神《おほかみ》は
|世界《せかい》に|何事《なにごと》|無《な》きやうと |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|御心《みこころ》を
|配《くば》らせたまひ|大本《おほもと》の |教御祖《をしへみおや》は|朝夕《あさゆふ》に
|世界《せかい》の|難儀《なんぎ》を|救《すく》はむと |赤心《まごころ》こめて|祈《の》りましぬ
その|御心《みこころ》も|知《し》らずして |世界《せかい》の|大望《たいまう》|待《ま》ち|暮《くら》す
|人《ひと》は|大蛇《をろち》か|曲鬼《まがおに》か |譬《たと》へ|方《がた》なき|者《もの》ぞかし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|御前《みまへ》に|平伏《ひれふ》して
この|聖場《せいぢやう》に|寄《よ》り|集《つど》ふ |信徒達《まめひとたち》の|魂《たましひ》に
まことの|光《ひかり》を|与《あた》へつつ |耳《みみ》をば|清《きよ》め|目《め》を|照《て》らし
|天《あま》の|瓊鉾《ぬほこ》を|爽《さはや》かに |研《みが》かせたまひて|言霊《ことたま》の
|御稜威《みいづ》を|四方《よも》に|輝《て》らすべく |守《まも》らせたまへと|朝夕《あさゆふ》に
|体《からだ》の|骨《ほね》を|痛《いた》めつつ |一心不乱《いつしんふらん》に|願《ね》ぎまつる
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |大国常立大御神《おほくにとこたちおほみかみ》
|豊国姫《とよくにひめ》の|大御神《おほみかみ》 |天津御空《あまつみそら》に|永久《とこしへ》に
|鎮《しづ》まりたまふ|日《ひ》の|御神《みかみ》 |月《つき》の|御神《みかみ》の|御前《おんまへ》に
|世《よ》の|有様《ありさま》を|歎《なげ》きつつ |密《ひそ》かに|一人《ひとり》|願《ね》ぎまつる
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ。
(大正一二・五・二九 旧四・一四 於天声社 加藤明子録)
(昭和一〇・六・一六 王仁校正)
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霊界物語 第六三巻 山河草木 寅の巻
終り