霊界物語 第五九巻 真善美愛 戌の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第五十九巻』天声社
1971(昭和46)年01月18日 第二刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年10月09日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序《じよ》
|総説歌《そうせつか》
第一篇 |毀誉《きよ》の|雲翳《うんえい》
第一章 |逆艪《さかろ》〔一五〇一〕
第二章 |歌垣《うたがき》〔一五〇二〕
第三章 |蜜議《みつぎ》〔一五〇三〕
第四章 |陰使《いんし》〔一五〇四〕
第五章 |有升《あります》〔一五〇五〕
第二篇 |厄気悋々《やくきりんりん》
第六章 |雲隠《くもがくれ》〔一五〇六〕
第七章 |焚付《たきつけ》〔一五〇七〕
第八章 |暗傷《あんしやう》〔一五〇八〕
第九章 |暗内《あんない》〔一五〇九〕
第一〇章 |変金《へんきん》〔一五一〇〕
第一一章 |黒白《あやめ》〔一五一一〕
第一二章 |狐穴《こけつ》〔一五一二〕
第三篇 |地底《ちてい》の|歓声《くわんせい》
第一三章 |案知《あんち》〔一五一三〕
第一四章 |舗照《ほてる》〔一五一四〕
第一五章 |和歌意《わかい》〔一五一五〕
第一六章 |開窟《かいくつ》〔一五一六〕
第一七章 |倉明《くらあき》〔一五一七〕
第四篇 |六根猩々《ろくこんしやうじやう》
第一八章 |手苦番《てくばん》〔一五一八〕
第一九章 |猩々舟《しやうじやうぶね》〔一五一九〕
第二〇章 |海竜王《さあがらりうわう》〔一五二〇〕
第二一章 |客々舟《きやつきやぶね》〔一五二一〕
第二二章 |五葉松《ごえふまつ》〔一五二二〕
第二三章 |鳩首《きうしゆ》〔一五二三〕
第二四章 |隆光《りうくわう》〔一五二四〕
第二五章 |歓呼《くわんこ》〔一五二五〕
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|序《じよ》
|天気《てんき》|清朗《せいらう》|空《そら》には|一点《いつてん》の|雲影《うんえい》もなく、|日本《にほん》|最初《さいしよ》の|山嶺《さんれい》と|称《とな》へられたる|伯耆大山《はうきだいせん》は、|白雪《はくせつ》の|頭巾《づきん》をいただき|高麗山《からやま》を|圧《あつ》して|聳《そび》え|立《た》ち、|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》が、|八岐大蛇《やまたをろち》の|憑依《ひようい》せる|印度《ツキ》の|国《くに》ハルナの|都《みやこ》に|暴威《ばうゐ》を|振《ふる》ひて、|天下《てんか》を|体主霊従的《たいしゆれいじうてき》に|混乱《こんらん》せしめつつありしその|曲業《まがわざ》を|悔悟《くわいご》せしめ、|地上《ちじやう》に|天国《てんごく》を|建設《けんせつ》せむと、|数多《あまた》の|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|派遣《はけん》し、|厳《いづ》の|言霊《ことたま》をもつて|言向和《ことむけやは》さむとしたまひし|時《とき》、|大黒主《おほくろぬし》は|風《かぜ》を|喰《くら》つて|印度《ツキ》の|都《みやこ》を|九十五種外道《くじふごしゆげだう》を|引率《いんそつ》し、|遠《とほ》く|海《うみ》を|渡《わた》りて|淤能碁呂嶋《おのころじま》の|要《かなめ》なるこの|大山《だいせん》に|姿《すがた》を|隠《かく》し、|暴風雨《ばうふうう》を|起《お》こし|妖邪《えうじや》の|気《き》を|放射《はうしや》して|人畜《じんちく》を|苦《くる》しめたるを、|大神《おほかみ》は|自《みづか》ら|数多《あまた》の|天使《てんし》や|宣伝使《せんでんし》を|率《ひき》ゐて|安《やす》く|来《き》たりまし、|天下《てんか》の|災害《さいがい》を|除《のぞ》き、|天《あめ》の|叢雲《むらくも》の|剣《つるぎ》を|獲《え》て、これを|高天原《たかあまはら》に|坐《ま》します|天照大御神《あまてらすおほみかみ》に|献《たてまつ》り、|清浄無垢《せいじやうむく》の|大精神《だいせいしん》を、|大神《おほかみ》ならびに|天神地祇《てんしんちぎ》|八百万神《やほよろづのかみ》および|天下万民《てんかばんみん》の|前《まへ》に|顕《あら》はし|玉《たま》ひし、|霊界物語《れいかいものがたり》にとつてもつとも|由緒《ゆゐしよ》|深《ふか》き|神山《しんざん》を|朝夕《てうせき》うちながめ、ノアの|方舟《はこぶね》なす|口述台《こうじゆつだい》に|横《よこ》たはりつつ、|四月《しぐわつ》|一日《いちじつ》より|本日《ほんじつ》|正午《しやうご》にかけ、|真善美愛《しんぜんびあい》の|戌《いぬ》の|巻《まき》(|五十九巻《ごじふくくわん》)を|編著《へんちよ》しをはりたり。
|白砂《はくしや》|青松《せいしよう》の|海岸《かいがん》を|四五《しご》の|信徒《しんと》と|共《とも》に|逍遥《せうえう》しつつ、|松露《しようろ》の|玉《たま》を|拾《ひろ》ひ|拾《ひろ》ひホテルの|二階《にかい》に|帰《かへ》り、|大山《だいせん》の|霊峯《れいほう》と|差《さ》し|向《む》かひ、|互《たが》ひに|黙々《もくもく》として|睨《にら》み|合《あ》ひつつ|認《したた》めをはりぬ。
大正十二年四月三日   於|皆生《かいけ》温泉
|総説歌《そうせつか》
|昨夜《ゆうべ》|見《み》た|見《み》た|不思議《ふしぎ》な|夢《ゆめ》を  |顔《かほ》さへ|知《し》らぬ|神人《しんじん》と
|日本海《につぽんかい》の|空《そら》|高《たか》く  |黄金《こがね》の|翼《つばさ》に|乗《の》せられて
|金剛不壊《こんがうふえ》の|山《やま》の|根《ね》に  |何《なん》の|苦《く》もなく|降《お》りて|行《ゆ》く
|弥勒菩薩《みろくぼさつ》と|呼《よ》ぶ|声《こゑ》に  ハツと|気《き》がつき|我身《わがみ》を|見《み》れば
|紫磨黄金《しまわうごん》の|肌《はだ》となり  |諸々《もろもろ》の|天人《てんにん》に|囲《かこ》まれて
|世界《せかい》の|人《ひと》の|前《まへ》に|立《た》ち  |宣《の》る|言霊《ことたま》は|苦聖諦《くしやうたい》
|世界一度《せかいいちど》に|集聖諦《しふしやうたい》  |神《かみ》に|反《そむ》きし|曲霊《まがたま》の
|終《をは》りを|示《しめ》す|滅聖諦《めつしやうたい》  やうやく|至誠《しせい》が|現《あら》はれて
|公平無私《こうへいむし》の|更生主《かうせいしゆ》と  |仰《あふ》がれながら|道聖諦《だうしやうたい》
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|説《と》き|出《い》だす  |天地《てんち》たちまち|震動《しんどう》し
|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》や|河《かは》の|瀬《せ》や  |海《うみ》を|披《ひら》いて|寄《よ》り|来《き》たる
|神《かみ》の|出口《でぐち》の|口車《くちぐるま》  |道法礼節《だうほふれいせつ》|遅滞《ちたい》なく
|治《をさ》まり|海《うみ》の|内外《うちそと》も  たがひに|睦《むつ》び|親《した》しみて
|一天《いつてん》|一地《いつち》|一神《いつしん》の  |治世《ちせい》を|見《み》るこそ|尊《たふと》けれ
|折《を》りから|過《す》ぐる|春風《はるかぜ》の  |窓《まど》|打《う》つ|声《こゑ》に|眼《め》さむれば
|月《つき》の|光《ひかり》はキラキラと  |二階《にかい》の|方舟《はこぶね》|照《て》らしつつ
ニコニコニコと|笑《ゑ》みたまふ  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ。
大正十二年四月三日   於皆生温泉場 王仁識
|今日《けふ》|京《けふ》へ|上《のぼ》りて【きのゑ】のたび|休《やす》み
第一篇 |毀誉《きよ》の|雲翳《うんえい》
第一章 |逆艪《さかろ》〔一五〇一〕
|広袤千里《くわうぼうせんり》のキヨの|湖《うみ》  にはかに|天候《てんこう》|一変《いつぺん》し
|逆巻《さかま》く|浪《なみ》に|船体《せんたい》を  |上下左右《じやうげさいう》に|奔弄《ほんろう》され
|悪虐無道《あくぎやくぶだう》のワックスも  |肝腎要《かんじんかなめ》の|機関手《きくわんしゆ》を
|逆巻《さかま》く|波《なみ》に|攫《さら》はれて  |進《すす》みもならず|退《しりぞ》きも
ならぬ|海路《かいろ》の|苦《くる》しさに  |気《き》を|取《と》り|直《なほ》し|立《た》ち|上《あ》がり
|無性《むしやう》やたらに|櫓《ろ》を|漕《こ》いで  |何《いづ》れの|岸《きし》にか|辿《たど》らむと
|心《こころ》あせれど|生《うま》れつき  テルモン|山《ざん》の|片隅《かたすみ》に
|鳥《とり》なき|里《さと》の|蝙蝠《かうもり》を  |気取《きど》つて|威張《ゐば》りちらしたる
その|天罰《てんばつ》はたちまちに  |報《むく》ゐ|来《き》たりて|湖《うみ》の|上《へ》に
|心《こころ》|焦《あせ》れば|焦《あせ》るほど  |老朽船《らうきうせん》はキリキリと
|浪《なみ》の|面《おもて》で|目《め》を|眩《まは》す  ワックスはじめ|三人《さんにん》は
|舟《ふね》もろともに|目《め》を|眩《まは》し  |方角《はうがく》さへも|見失《みうしな》ひ
|逆巻《さかま》く|波《なみ》と|闘《たたか》ひて  |運《うん》をば|天《てん》に|任《まか》しつつ
ワックス『|梵天帝釈自在天《ぼんてんたいしやくじざいてん》  |大国彦《おほくにひこ》の|大御神《おほみかみ》
|守《まも》らせ|玉《たま》へ|吾々《われわれ》は  この|海上《かいじやう》の|暴風《しけ》に|会《あ》ひ
|神《かみ》の|試練《しれん》と|畏《かしこ》みて  いよいよ|改心《かいしん》|仕《つかまつ》り
サットワ゛(|衆生《しゆじやう》)|済度《さいど》のそのために  この|長髪《ちやうはつ》を|剃《そ》りおとし
|此《こ》の|世《よ》を|捨《す》てて|比丘《びく》となり  ニテヨーデユクタ(常精進)を|励《はげ》みつつ
|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|大神《おほかみ》の  |誠《まこと》の|教《をしへ》に|仕《つか》ふべし
アア|皇神《すめかみ》よ|皇神《すめかみ》よ  |吾《われ》ら|四人《よにん》の|改心《かいしん》を
|憫《あは》れみ|玉《たま》ひてこの|颶風《しけ》を  とめさせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|赤心《まごころ》こめて|願《ね》ぎ|奉《まつ》る  |悪魔《あくま》は|如何《いか》に|強《つよ》くとも
|憑《つ》き|物《もの》いかに|多《おほ》くとも  たとへスマートが|来《き》たるとも
|誠《まこと》|一《ひと》つのバラモンの  |教《をしへ》の|道《みち》は|世《よ》を|救《すく》ふ
テルモン|山《ざん》の|山颪《やまおろし》  |早《はや》くをさまり|吾々《われわれ》の
|行手《ゆくて》の|幸《さち》を|守《まも》りませ  |偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る
テルモン|山《ざん》の|聖地《せいち》をば  |痛《いた》い|苔《しもと》を|加《くは》へられ
|追放《つゐはう》された|吾々《われわれ》は  もはや|詮《せん》なし|月《つき》の|国《くに》
ハルナの|都《みやこ》に|立《た》ち|出《い》でて  |心《こころ》の|底《そこ》より|改良《かいりやう》し
|命《いのち》を|惜《を》しまず|魂《たましひ》を  |大黒主《おほくろぬし》に|奉《たてまつ》り
|一心不乱《いつしんふらん》に|神《かみ》の|旨《むね》を  |四方《よも》に|開《ひら》かむ|吾《わ》が|覚悟《かくご》
この|海《うみ》|無事《ぶじ》にキヨ|港《こう》の  |花《はな》|咲《さ》く|岸《きし》にやすやすと
|進《すす》ませ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》  |神《かみ》かけ|念《ねん》じ|奉《たてまつ》る』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|歌《うた》ひながら|櫓《ろ》を|操《あやつ》つてゐる。バラモンの|大神《おほかみ》がワックスの|願《ねが》ひを|聴許《ちやうきよ》|遊《あそ》ばしたのか、あるひは|三五教《あななひけう》の|大本大神《おほもとおほかみ》がお|許《ゆる》し|遊《あそ》ばしたのか、|不思議《ふしぎ》にも|颶風《ぐふう》はピタリと|止《と》まり、|見《み》るも|恐《おそ》ろしき|激浪《げきらう》|怒濤《どたう》はやうやく|凪《な》いで|鏡面《きやうめん》のごとく|鎮《しづ》まり、|浪《なみ》キラキラと|日光《につくわう》に|輝《かがや》きはじめた。テルモン|山《ざん》は|前方《ぜんぱう》に|当《あた》つて、|雲表《うんぺう》に|高《たか》くその|雄姿《ゆうし》を|現《あら》はし、|中腹《ちうふく》に|雲《くも》の|帯《おび》を|締《し》めて、|泰然《たいぜん》としてこの|湖面《こめん》を|眺《なが》めてゐる。
ワックスは|大旱《たいかん》の|水田《すゐでん》に|喜雨《きう》を|得《え》たるがごとく、にはかに|元気《げんき》|恢復《くわいふく》し、|叶《かな》はぬ|時《とき》の|神頼《かみだの》み、|慄《ふる》ひ|戦《をのの》いてゐた|魂《たましひ》はどこへやら、ソロソロ|減《へ》らず|口《ぐち》を|叩《たた》きはじめたり。
『オイ、エキス、ヘルマンの|恐喝先生《きようかつせんせい》、|六百円《ろくぴやくゑん》の|強奪者《がうだつしや》、ならびに|睾丸潰《きんたまつぶ》しのエルの|奴《やつ》、|何《なに》をグヅグヅしてゐやがるのだい。いいかげんに|頭《あたま》を|上《あ》げぬかい。|仕方《しかた》のない|代物《しろもの》だなア。さすがの|颶風《しけ》も|怒濤《どたう》も、このワックスさまの|御祈願《ごきぐわん》によつて、これ|見《み》ろ、|言下《げんか》に|静《しづ》まり、ケロリンカンとして、|夢《ゆめ》を|見《み》たやうな|面《つら》をさらしてゐるぢやないか。|本当《ほんたう》にワックスさまの|御威勢《ごゐせい》といふものは|偉大《ゐだい》なものだらう』
エキス『ヘン、|仰有《おつしや》いますわい。|恐怖心《きようふしん》に|襲《おそ》はれ、ガタガタ|慄《ぶる》ひの|大将《たいしやう》|奴《め》、|憫《あは》れつぽい|声《こゑ》を|出《だ》して、|哀求歎願《あいきうたんぐわん》と|出《で》かけた|時《とき》の、|汝《きさま》の|御面相《ごめんさう》つたら、|絵《ゑ》にもかけないやうだつたよ。ああいふ|時《とき》に|泰然自若《たいぜんじじやく》、|動《うご》かざること|山岳《さんがく》のごとし、|態《てい》の、|吾々《われわれ》は|態度《たいど》をもつて、|運命《うんめい》を|天《てん》に|任《まか》してゐたのだ。|汝《きさま》は|生《せい》の|執着《しふちやく》が|人一倍《ひといちばい》|濃厚《のうこう》だから、こんな|時《とき》になつて、|醜体《しうたい》を|演《えん》ずるのだ。|何《なん》だ、|男《をとこ》らしうもない。|限《かぎ》りある|狭《せま》い|舟《ふね》の|上《うへ》を|右往左往《うわうさわう》に|転《ころ》げ|廻《まは》りよつて、そのみつともなさ、|本当《ほんたう》に|吾々《われわれ》|男子《だんし》の|面汚《つらよご》しだよ』
ワックス『コリヤ、|汝《きさま》|何《なん》といふことをほざくのだ。また|罰《ばち》が|当《あた》つて、|今度《こんど》こそ|舟《ふね》が|転覆《てんぷく》してしまふぞ。その|時《とき》になつて|吠面《ほえづら》かわいても、ワックスの|救主《すくひぬし》は|知《し》らぬぞよ。|早《はや》く|改心《かいしん》したが|其《その》|方《はう》の|得《とく》だぞよ。|改心《かいしん》いたさねば、|目《め》に|物《もの》みせてやらうぞよ……と|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》のお|諭《さと》しにあるのを、|汝《きさま》|知《し》つてゐるだらうなア』
『そんなことは、とうの|昔《むかし》に|御存《ごぞん》じの|此《この》|方《はう》さまだ。オイ、ワックス、|肝腎要《かんじんかなめ》の|魔法使《まはふつかひ》を|取逃《とりに》がし、どうするつもりだい』
『どうせ、|俺《おれ》たちもこの|海原《うなばら》を|渡《わた》らねばならぬのだから、また|途中《とちう》で|追《お》ひついて、|十分《じふぶん》|油《あぶら》をしぼり、|往生《わうじやう》さしてやればいいのだ』
『ヘン、|往生《わうじやう》させられるのだらう、|何《なん》といつても、|弱《よわ》きを|挫《くじ》き、|強《つよ》きに|従《したが》ふといふ|悪酔会《あくすゐくわい》|前会長《ぜんくわいちやう》だからな』
『|汝《きさま》ら、いいかげんに|起《お》きてこの|櫓《ろ》を|操縦《さうじう》せないか。|放《ほ》つておいたら、どんな|所《とこ》へ|漂着《へうちやく》するか|知《し》れぬぢやないか』
『|漂着《へうちやく》を|待《ま》つてゐるのだ。|一時《いつとき》も|早《はや》く|陸地《りくち》へ|着《つ》いて、そこからテクつたほうが|何《なに》ほど|安心《あんしん》だか|分《わか》らぬワ。メツタに|山《やま》で|溺死《できし》する|気《き》づかひはないからのう』
『|先方《むかふ》は|舟《ふね》で|一直線《いつちよくせん》に|走《はし》つて|行《ゆ》きよるなり、こつちや|山《やま》を|越《こ》え|谷《たに》を|越《こ》え、|難路《なんろ》を|辿《たど》つてをらうものなら、|何時《いつ》キヨの|港《みなと》までつくか|分《わか》らないワ。|何《なん》とかしてこの|水路《すゐろ》を|進《すす》むことにしたら|如何《どう》だ』
『|何《なん》としても|法《はふ》がつかぬぢやないか、|何奴《どいつ》もこいつも|舟《ふね》を|操縦《さうじう》する|事《こと》に|妙《めう》を|得《え》てゐない|阿呆人種《あはうじんしゆ》ばかりだからのう』
エル『オイ、そのアホをこの|北風《きたかぜ》にかけて、|一直線《いつちよくせん》に|駆《か》けて|進《すす》んだら|可《い》いぢやないか、さうすりや|骨《ほね》を|折《を》つて|櫓《ろ》を|操《あやつ》る|必要《ひつえう》もなし、|風《かぜ》の|神《かみ》が|自然《しぜん》に|先方《むかふ》へ|渡《わた》してくれるワ』
ワックス『なるほど、よい|考《かんが》へがついた』
とガラガラと|綱《つな》を|引張《ひつぱ》り|上《あ》げ、|茶色《ちやいろ》になつた|帆《ほ》を|巻《ま》き|上《あ》げた。たちまち|帆《ほ》は|弓《ゆみ》のごとく|風《かぜ》を|孕《はら》むでサアサアサアサアと|音《おと》を|立《た》てながら、|勢《いきほ》ひよく|辷《すべ》り|出《だ》した。エルは|櫓《ろ》を|手《て》に|握《にぎ》り|覚束《おぼつか》なげに、|舟《ふね》の|舵《かぢ》をとりながら、|〓乃《ふなうた》を|唄《うた》い|出《だ》した。
『(|追分《おひわけ》)|虎《とら》は|千里《せんり》の|藪《やぶ》さへ|越《こ》すに
これの|湖水《こすゐ》がなぜ|越《こ》えられぬ
(|安来節調《やすきぶしてう》)|神《かみ》の|館《やかた》の|宝珠《ほつしゆ》の|玉《たま》を
|盗《ぬす》みそこねた|人《ひと》がある
|月《つき》は|御空《みそら》にテルモン|館《やかた》
デビスの|姿《すがた》は|花《はな》か|雪《ゆき》
|花《はな》の|香《かを》りを|慕《した》うて|来《き》たる
|蝶《てふ》かあらぬか|蛆虫《うじむし》か
|劫《ごふ》をワックス|家令《かれい》の|伜《せがれ》
|今《いま》は|湖上《こじやう》で|泣《な》いてゐる
|泣《な》いて|明志《あかし》のテルモン|館《やかた》
これが|此《この》|世《よ》の|見《み》をさめか
(|琉球節調《りうきうぶしてう》)|風《かぜ》は|北《きた》からみ|舟《ふね》を|送《おく》る
|送《おく》る|風《かぜ》こそケリナの|息《いき》よ
|薬鑵爺《やくくわんおやぢ》に|先《ま》づ|生《い》き|別《わか》れ
デビスのお|姫《ひめ》さまにや|泣《な》き|別《わか》れ』
ワックス『コラコラ エルの|奴《やつ》、|何《なに》をぬかすのだ、せうもない。|汝《きさま》、チツと|休《やす》むだらよからう。|俺《おれ》がこれから、|櫓《ろ》を|握《にぎ》つて|一《ひと》つ|唄《うた》つてやるのだ』
エル『(|琉球節調《りうきうぶしてう》)|素破《すつぱ》ぬかれたワックスさまは
|肚《はら》が|立《た》つなり|波《なみ》が|立《た》つ』
と|唄《うた》ひながら|櫓《ろ》をパツと|放《はな》した。ワックスは|手早《てばや》く|櫓《ろ》を|握《にぎ》り、
『コラ、スツテのことで|櫓《ろ》を|波《なみ》に|取《と》られるとこだつた。チツと|気《き》をつけぬかい。こいつを|取《と》られた|以上《いじやう》、|思《おも》ふ|所《とこ》へ|舟《ふね》が|向《む》けられぬぢやないか。|馬鹿《ばか》だなア』
エル『ヘン、マア|馬鹿《ばか》になつておかうかい、|悧口《りこう》の|者《もの》や|賢《かしこ》い|者《もの》や|器用《きよう》な|者《もの》になると、みな|阿呆《あはう》どもの|道具《だうぐ》に|使《つか》はれるからなア。|少《すこ》し|書《しよ》でもうまいと、あのエルさまに|看板《かんばん》を|書《か》いてもらはうとか、|橋《はし》の|名《な》を|書《か》いてもらはうとか、|大福帳《だいふくちやう》の|表紙《へうし》を|認《したた》めてもらはうとかぬかしよつて、|阿呆《あはう》どもの|弄物《おもちや》にしられるのだ。|学者《がくしや》や|智者《ちしや》になるものぢやないワ。ワックスさま、よろしく|頼《たの》みます。ずゐ|分《ぶん》お|前《まへ》さまが|櫓《ろ》を|握《にぎ》つた|時《とき》は|立派《りつぱ》なものだ。|足《あし》の|爪先《つまさき》まで|力《ちから》が|入《はい》つてるやうだ。|最前《さいぜん》の|船頭《せんどう》のやうに、|自分《じぶん》の|握《にぎ》つた|櫓《ろ》の|柄《つか》に|撥《は》ね|飛《と》ばされぬやうになさいませや』
と|鼻《はな》の|頭《あたま》を|三《み》つ|四《よ》つかきながら、|船底《ふなぞこ》にゴロリと|横《よこ》たはる。ワックスは|櫓《ろ》を|握《にぎ》り、|広《ひろ》き|湖面《こめん》を|眺《なが》めて、
『|旭《あさひ》|輝《かがや》く|鏡《かがみ》の|湖《うみ》に
|悪《あく》の|鏡《かがみ》を|乗《の》せて|行《ゆ》く
|清《きよ》き|真水《まみづ》の|漂《ただよ》ふ|湖《うみ》を
|悪酔《あくすゐ》【カイ】が|舟《ふね》を|漕《こ》ぐ
|悪《あく》に|強《つよ》けりや|善《ぜん》にも|強《つよ》い
|善《ぜん》と|悪《あく》との|海《うみ》を|行《ゆ》く
|波《なみ》は|立《た》つとも|心《こころ》は|立《た》たぬ
|腰《こし》のぬけたる|阿呆舟《あはうぶね》
|舟《ふね》は|舟《ふね》だが|白河夜舟《しらかはよぶね》
|夢《ゆめ》か|現《うつつ》で|世《よ》を|送《おく》る
|牛《うし》に|睾丸《きんたま》|踏《ふ》まれた|奴《やつ》は
とても|乗《の》られぬ|玉《たま》の|舟《ふね》
|死《し》なぬ|前《さき》からあわてた|奴《やつ》が
|十字街頭《じふじがいとう》に|踏《ふ》み|迷《まよ》ふ
|迷《まよ》うた|亡者《まうじや》の|睾丸《きんたま》|潰《つぶ》し
|阿呆《あはう》の|帆《ほ》(|呆《はう》)かけこの|湖《うみ》|渡《わた》る
|傷《きず》はヅキヅキ|膿《うみ》ボトボトと
|涙《なみだ》|流《なが》して|波《なみ》の|上《うへ》
|上《うへ》にや|青雲《あをぐも》|下《した》には|藻草《もぐさ》
|中《なか》を|乗《の》り|行《ゆ》く|阿呆《あはう》のエル
アハハハハ、|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、|生《うま》れてから|始《はじ》めて|舟《ふね》に|乗《の》つたが、|何《なん》と|愉快《ゆくわい》なものだな。デビスの|暗《くら》がり|船《ぶね》に|乗《の》りたい|乗《の》りたいと|思《おも》つて、|今《いま》までどれだけマストを|立《た》てたり、|白帆《しらほ》をあげて、きばつたか|知《し》れないが、|今《いま》となつて|考《かんが》へてみると、|本当《ほんたう》に|馬鹿臭《ばかくさ》いやうだ。やつぱり、|人間《にんげん》は|広《ひろ》い|所《ところ》へ|出《で》て|来《こ》ねば|駄目《だめ》だな』
エキス『オイ、ワックス|先生《せんせい》、チツと|一服《いつぷく》したらどうだ。|俺《おれ》も|一《ひと》つ|練習《れんしふ》のために、この|静《しづ》かな|湖《うみ》で、|櫓《ろ》の|稽古《けいこ》をやつておかぬと、マサカの|時《とき》に|栃麺棒《とちめんぼう》を|振《ふ》るからのう』
ワックス『|長《なが》い|海路《かいろ》だから、|俺《おれ》も|今《いま》から|精力《せいりよく》を|消耗《せうまう》さしてはつまらぬから、|汝《きさま》に|櫓権《ろけん》を|暫《しばら》く|掌握《しやうあく》させてやらう。サア|早《はや》く|握《にぎ》つたり|握《にぎ》つたり』
『ヤ、|有難《ありがた》い、それなら、|新内閣《しんないかく》の|総理大臣《そうりだいじん》だ。|官海游泳術《くわんかいいうえいじゆつ》に|慣《な》れた|此《この》|方《はう》だから、マア|見《み》てゐたまへ、ずゐぶん|素晴《すば》らしい|技能《ぎのう》を|発揮《はつき》してお|目《め》にかけるから……』
『ヘン、|官海《くわんかい》なんて、|馬鹿《ばか》にするない、|汝《きさま》は|渡海《とかい》いや|盗界《たうかい》の|覇者《はしや》だ。|盗界節《たうかいぶし》でも|唄《うた》うて、|追手《おつて》の|目《め》を|韜晦《とうくわい》する|方《はう》がよほど|性《しやう》に|合《あ》うてるだらうよ』
エキス『どうどうと|握《にぎ》る|天下《てんか》の|大権《たいけん》よりも
|櫓櫂《ろかい》つかんだ|面白《おもしろ》さ
|面白《おもしろ》い|悪《あく》と|悪《あく》との|身魂《みたま》を|乗《の》せて
キヨの|海《うみ》をば|汚《けが》しゆく
|犬《いぬ》に|乗《の》りたる|以前《いぜん》のナイス
|今《いま》はいづこの|波《なみ》の|上《うへ》
|三百《さんびやく》の|金《かね》は|何時《いつ》しか|吾《わ》が|懐《ふところ》を
|辷《すべ》り|出《い》でたる|海《うみ》の|上《うへ》
|金《かね》が|仇《かたき》の|浮世《うきよ》と|聞《き》けど
|金《かね》が|無《な》ければ|渡《わた》れない
さりながら|海《うみ》を|渡《わた》るにや|金《かね》ではゆかぬ
|舟《ふね》が|命《いのち》の|守神《まもりがみ》
|神《かみ》の|館《やかた》を|放逐《ほうちく》されて
|尻《しり》の|据場《すゑば》に|困《こま》る|奴《やつ》
|金盥《かなだらひ》|尻《しり》に|当《あた》られカンカンと
|照《て》らす|夏日《なつひ》のその|暑《あつ》さ
|面《つら》の|皮《かは》あついばかりか|尻《しり》までが
あつい|男《をとこ》とほめられた
ワックスは|色《いろ》と|慾《よく》との|二《ふた》つに|離《はな》れ
|泣《な》いて|彷徨《さまよ》ふ|海《うみ》の|上《うへ》
エキスさま|甘《うま》いエキスふ|新《あたら》し|男《をとこ》
|蛸《たこ》のお|化《ば》けと|人《ひと》がいふ
|吸《す》いついて|鼠泣《ねずみな》きせうと|夢《ゆめ》みた|男《をとこ》
|猫《ねこ》に|逐《お》はれて|逃《に》げ|出《だ》した
|猫《ねこ》かぶり|薬鑵爺《やくくわんおやぢ》の|機嫌《きげん》をとりて
|居《を》つた|甲斐《かひ》なく|馬鹿《ばか》にされ
|肝腎《かんじん》の|金《かね》は|他人《たにん》にぼつたくられて
|尻《しり》にお|金《かね》の|叩《たた》き|払《ばら》ひ
|天葬式《てんさうしき》|泣《な》いて|笑《わら》うて|悔《くや》んで|踊《をど》る
|義理泣《ぎりな》き|女《をんな》のホクソ|笑《ゑみ》』
ワックス『コラ、エキス、|湖上《こじやう》で|死《し》ぬだの|死《し》なぬのと、ナニ|不吉《ふきつ》なことをほざくのだ。また|颶風《しけ》が|襲来《しふらい》するぞ。チツと|言霊《ことたま》を|慎《つつし》まぬか』
エキス『|手《て》がだるい|腹《はら》が|立《た》つ|極道息子《ごくだうむすこ》と|湖上《こじやう》を|越《こ》せば
あちら|此方《こちら》に|信天翁《あはうどり》
|信天翁《あはうどり》|運上《うんじやう》|取《と》らうとワックス|目《め》がけ
バタバタ|翼《つばさ》を|打《う》つてゐる
ゆすられて|泣《な》き|泣《な》き|放《ほ》り|出《だ》す|惜《を》しい|金《かね》
|首《くび》をつなぐと|泣《な》く|涙《なみだ》』
ワックス『オイ、ヘルマン、エキスの|奴《やつ》、|仕方《しかた》がないから、|汝《きさま》|一《ひと》つ|目出《めで》たい|唄《うた》を|唄《うた》つて|宣《の》り|直《なほ》してくれないか』
ヘルマン『さうだなア、のり|直《なほ》さうといつたつて、|外《ほか》に|空舟《あきぶね》もなし、やつぱり|乗《の》り|続《つづ》けるより|仕方《しかた》がないぢやないか。|玉国別《たまくにわけ》はうまく|乗《の》り|直《なほ》して、サツサとお|先《さき》へやつて|行《ゆ》きよつたが、|俺《おれ》たちは|一体《いつたい》|行末《ゆくすゑ》が|案《あん》じられて|仕方《しかた》がないワ。|最前《さいぜん》から、|実《じつ》は|前途《ぜんと》を|案《あん》じ、チツとばかり|憂愁《いうしう》の|涙《なみだ》に|沈《しづ》みてゐたところだ。あーあ。|仕方《しかた》がない、……|寄辺渚《よるべなぎさ》の|捨小舟《すてをぶね》、どこへ|取《とり》つく|島《しま》もなしか……ぢやといつて、|湖水《こすゐ》に|投身《とうしん》して|魚腹《ぎよふく》に|葬《はうむ》られるのも、なんだか|気《き》が|利《き》かないやうだし、ああどうしたらよからうかなア。|俺《おれ》やモウ|世《よ》の|中《なか》が|厭《いや》になつたのだ。|何《なん》とかして|三五教《あななひけう》のムニヤ ムニヤ ムニヤ』
『ヤ、|何《なん》と|申《まを》す、|汝《きさま》は|三五教《あななひけう》の|弟子《でし》になりたいといふのだな』
『ナアニ、|三五教《あななひけう》の|向《む》かふを|張《は》つて|一《ひと》つ|男《をとこ》を|立《た》てねば|世間《せけん》に|顔出《かほだ》しが|出来《でき》ないといふのだ。|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》には|俺《おれ》たちがあこまで|仕組《しぐ》みて、|既《すで》に|仇《あだ》を|報《むく》ゐむと、|九分九厘《くぶくりん》まで|行《い》つたところへ、マンヂューシリ|菩薩《ぼさつ》か、アバローキテー、シュワ゛ラのやうな|女神様《めがみさま》が|立派《りつぱ》な|船《ふね》をもつて|迎《むか》へに|来《き》たり、|自分《じぶん》は|犬《いぬ》に|乗《の》つて|海上《かいじやう》を|渡《わた》つて|行《ゆ》くといふやうな|離《はな》れ|業《わざ》が|出来《でき》るのだからなア。なんといつても|敵《てき》ながら|大《たい》したものだよ』
『サア、そこが|魔法使《まはふつかひ》の|魔法使《まはふつかひ》たる|所以《ゆゑん》だ。|正法《しやうはふ》に|不思議《ふしぎ》なし、|君子《くんし》は|怪力乱神《くわいりきらんしん》を|語《かた》らずといふぢやないか。キツと|邪法《じやはふ》だよ』
『それでもお|前《まへ》のやうに|微力乱心《びりよくらんしん》に|比《くら》べてみたら、よほどマシぢやないか。|俺《おれ》は|何《なん》だか、あの|三五教《あななひけう》とやらが、にはかに|好《す》きに……なつて……は|来《こ》ぬのだ。|本当《ほんたう》に|三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》とバラモン|教《けう》の|神様《かみさま》とは、|正邪《せいじや》|善悪《ぜんあく》の|差別《けじめ》が|非常《ひじやう》についてゐるやうに|思《おも》はれてならないのだ』
『どちらが|正《せい》で、どちらが|邪《じや》といふのだ』
『|邪《じや》と|申《まを》して、にはかに|判断《はんだん》がつかないワ。マア|行《ゆ》くところまで|行《ゆ》かねば|分《わか》らない。しかしながら|安心《あんしん》してくれ、|俺《おれ》は|素《もと》よりバラモン|教徒《けうと》だから、メツタに|外道《げだう》の|教《をしへ》に|溺没《できぼつ》するやうな|無腸漢《むちやうかん》ぢやないからのう。しかしながらよく|考《かんが》へてみよ、|俺《おれ》たち|四人《よにん》はバラモン|教《けう》のピュリタンぢやないか。それにもかかはらず、バラモン|館《やかた》を|大勢《おほぜい》の|前《まへ》で|笞刑《ちけい》をうけて|放逐《はうちく》されたのだから、|神様《かみさま》から|見放《みはな》されたのかも|知《し》れないよ。さすれば|捨《す》てる|神《かみ》もあれば|拾《ひろ》ふ|神《かみ》もありといふから、|実際《じつさい》|捨《す》てられたとすれば、|人《ひと》は|無宗教《むしうけう》で|此《この》|世《よ》に|立《た》つてゆけないから、|何《なん》とか|考《かんが》へねばなるまい』
ワックス『ナニ、|心配《しんぱい》するな。キヨの|港《みなと》へついたら|最後《さいご》、どこもかも|皆《みな》バラモン|教《けう》の|勢力範囲《せいりよくはんゐ》だから、|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》を|巧《うま》く|捕縛《ほばく》するか、もしも|力《ちから》に|及《およ》ばねば|関所《せきしよ》へ|密告《みつこく》して|手柄《てがら》を|現《あら》はしさへすれば、また|立派《りつぱ》なバラモン|教《けう》のピュリタンとして、|安全《あんぜん》|無事《ぶじ》に|関所《せきしよ》の|切手《きつて》をもらひ、ハルナの|都《みやこ》へ|安全《あんぜん》に|行《ゆ》かうとままだ。なんとマア|舟《ふね》の|早《はや》いことだのう。これも|全《まつた》くバラモンの|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》だよ。サア、エル、そこどけ、|俺《おれ》が|一《ひと》つ|櫓《ろ》を|操《あやつ》つてやらう』
といひながら、|代《かは》る|代《がは》る|櫓《ろ》を|握《にぎ》り、|順風《じゆんぷう》に|助《たす》けられて、|都合《つがふ》よくキヨの|港《みなと》へ|三日目《みつかめ》の|夕方《ゆふがた》|安着《あんちやく》したりける。
(大正一二・四・一 旧二・一六 於皆生温泉浜屋 松村真澄録)
第二章 |歌垣《うたがき》〔一五〇二〕
キヨの|港《みなと》の|関所《せきしよ》の|総取締《そうとりしまり》チルテル・キャプテンの|留守宅《るすたく》にキャプテンの|妻《つま》チルナ|姫《ひめ》は、リュウチナントのカンナと、ユゥンケルのヘール|三人《さんにん》が、ひそびそ|首《くび》を|鳩《あつ》めて|何事《なにごと》か|小声《こごゑ》で|囁《ささや》きゐたり。
チルナ『これカンナさま、ヘールさま、このごろの|旦那様《だんなさま》の|様子《やうす》は、チツと|変《へん》だとは|思《おも》ひませぬか』
カンナ『さうですな、|奥様《おくさま》の|前《まへ》だから|申《まを》し|上《あ》げ|難《にく》うございますが、このごろはよほど|旦那様《だんなさま》も|怪《あや》しうなられたやうですわ。のうヘール』
ヘール『ウン、さうだな。しかしながら|吾々《われわれ》|卑《いや》しき|者《もの》が|上官《じやうくわん》の|行動《かうどう》について|云々《うんぬん》する|権利《けんり》はないからのう』
チルナ『これ、ヘールさま、|公務上《こうむじやう》の|事《こと》はともかくも、|今日《けふ》は|私事《しじ》に|関《くわん》して|打《う》ち|解《と》けて|話《はなし》をしてゐるのだから、|旦那様《だんなさん》の|事《こと》だつて、やはり、よくないと|思《おも》つたら|妾《わし》に|忠告《ちうこく》してくれるのがお|前《まへ》の|役《やく》ぢやないか。お|前《まへ》からいふことが|出来《でき》なければ、|妾《わし》がまた|機嫌《きげん》のいい|時《とき》を|見《み》てお|話《はなし》するから、|気《き》のついた|事《こと》があれば|遠慮《ゑんりよ》はいらぬ、トツトというて|下《くだ》さい。いかなる|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》でも、|女房《にようばう》がしつかりしてをらねば|成功《せいこう》するものぢやありませぬよ』
カンナ『いかにも、|奥様《おくさま》の|仰有《おつしや》る|通《とほ》り、どんな|難問題《なんもんだい》でも|裏口《うらぐち》からソツと|這入《はい》つて|奥様《おくさま》の|御機嫌《ごきげん》さへ|取《と》つておけば、すぐに|解決《かいけつ》がつくものだ。|表《おもて》の|玄関口《げんくわんぐち》から|這入《はい》つて|来《く》る|奴《やつ》は|官海游泳術《くわんかいいうえいじゆつ》を|知《し》らぬものだ。ちよつと|裏口《うらぐち》からソツと|奥様《おくさま》の|気《き》にいりさうな|反物《たんもの》や|宝石《はうせき》などを|持《も》ち|込《こ》みておくと、きつと|出世《しゆつせ》のできるものだ。|何《なん》といつても|裏《うら》に|女性《ぢよせい》がついてをらなくては、|世《よ》の|中《なか》で|成功《せいこう》することは|出来《でき》ないからな。アハハハハ』
チルナ『これ、そんな|事《こと》はどうでもよい。お|前《まへ》たち、|奥《おく》の|別室《はなれ》に|一絃琴《いちげんきん》を|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|弾《だん》じてゐる、あの|女《をんな》を|何《なん》と|思《おも》ひますか』
カンナ『さうですな。|第一《だいいち》|私《わたし》は、それが|不思議《ふしぎ》でたまらないのですよ。|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|座敷《ざしき》を|締《し》めきつて、|琴《こと》ばつかり|弾《だん》じてゐる|美《うつく》しい|女《をんな》は、まだ|吾々《われわれ》にも|一言《ひとこと》の|挨拶《あいさつ》もしたこともなし、|旦那様《だんなさま》とニタニタ|笑《わら》ひながらコソコソ|話《ばなし》をやつてゐるのです。そして|肝腎《かんじん》の|奥様《おくさま》にも|挨拶《あいさつ》せないのだから、|怪《け》ツ|体《たい》なものだと|思《おも》ひますワ』
ヘール『ウン、あれかい。ありや|旦那様《だんなさま》に|聞《き》いてみたら、「あの|方《かた》は|天上《てんじやう》からお|降《くだ》り|遊《あそ》ばしたアバローキテー・シュヴラ|様《さま》だ。バラモン|教《けう》を|守護《しゆご》のためにお|降《くだ》り|下《くだ》さつた|天人様《てんにんさま》だ」と|仰有《おつしや》つてをられました。|奥様《おくさま》、かならず|御心配《ごしんぱい》なさいますな、|失礼《しつれい》ながら、よもや|嫉妬《しつと》をなさるやうな|卑屈《ひくつ》なことはございますまいな。|嫉妬《しつと》は|婦徳《ふとく》を|汚《けが》す|最《もつと》も|恐《おそ》るべき|悪魔《あくま》でございますからな。あの|方《かた》はトライロー・キャボクラーの|救世主《きうせいしゆ》だといふことですから、うつかり|穢《けが》れた|身魂《みたま》のものが|側《そば》に|寄《よ》つては|大変《たいへん》です』
チルナ『なにほど|観自在天様《くわんじざいてんさま》か|知《し》らぬが、やつぱり|先方《むかふ》が|美《うつく》しい|女《をんな》の|肉体《にくたい》をもつて、|自分《じぶん》の|主人《しゆじん》と|喋々喃々《てふてふなんなん》と|甘《あま》つたるい|口《くち》で|話《はな》してゐるのを|聞《き》くと、あんまりよい|気分《きぶん》がしないぢやないか』
ヘール『なるほど、|奥様《おくさま》の|立場《たちば》とすれば、そんな|気分《きぶん》にお|成《な》り|遊《あそ》ばすのも|無理《むり》もございますまい。しかしながらそこが|辛抱《しんばう》といふものです。まアまアしばらく|様子《やうす》を|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。あの|品行方正《ひんかうはうせい》な|旦那様《だんなさま》が|立派《りつぱ》な|奥様《おくさま》があるのに、|女《をんな》を|引張《ひつぱ》り|込《こ》むだりなさるやうな|筈《はず》がございませぬワ』
カンナ『おい、ヘール、さう|楽観《らくくわん》は|出来《でき》ないよ。|男《をとこ》といふものは|女《をんな》にかけたら|目《め》も|鼻《はな》もない|者《もの》だ。まして|天下無双《てんかむさう》の|美人《びじん》、|年《とし》も|若《わか》し、|肌《はだ》は|紫磨《しま》|黄金色《わうごんしよく》、|愛嬌《あいけう》たつぷり、どこから|見《み》ても|三十二相《さんじふにさう》|揃《そろ》うた|欠点《けつてん》のない|女菩薩《によぼさつ》だから、いかなる|強骨男子《きやうこつだんし》もあの|一瞥《いちべつ》にかかつたら、|忽《たちま》ち|章魚《たこ》のやうに|骨《ほね》も|何《なに》もなくなつてしまふからな。|頭《あたま》の|先《さき》から|足《あし》の|先《さき》までスヴアラナやルーブヤや、ブラワ゛ーザ、バヅマラーカ、マニラツナ、ムサラガルワ、アスマガルタといふやうな|七宝《しつぱう》をちりばめ、|一目《ひとめ》|見《み》てもマクマクするやうなあのお|姿《すがた》、|木石《ぼくせき》ならぬ|人間《にんげん》として、どうして|心《こころ》を|動《うご》かさぬものがあらうかい。|実《じつ》に|奥様《おくさま》、|御注意《ごちうい》なさらぬと|険難《けんのん》でございますよ。|迂濶《うつかり》してゐると、「チルナ|姫《ひめ》は|夫《をつと》に|愛《あい》がないから、|今日《けふ》かぎり|暇《ひま》をやる」なぞと|何処《どこ》から|低気圧《ていきあつ》が|襲来《しふらい》するやら、|地震《ぢしん》、|雷《かみなり》、|火《ひ》の|雨《あめ》の|大騒動《おほさうどう》が|勃発《ぼつぱつ》するやら|分《わか》りませぬぞえ』
チルナ『いかにもカンナさまの|御観察《ごくわんさつ》は|違《ちが》ひますまい。|何《なん》とか|二人《ふたり》さま、よい|考《かんが》へは|浮《うか》むで|来《こ》ないかな。|実《じつ》はあの|女《をんな》がこの|館《やかた》へ|来《き》てから|神経《しんけい》が|興奮《こうふん》して|一目《ひとめ》も|眠《ねむ》られないのよ』
『なるほど、|奥《おく》さまのお|目《め》が|血走《ちばし》つてゐますわ。|用心《ようじん》せないとヒステリックになりますよ』
『そらさうだとも、|何時《なんどき》|自分《じぶん》の|不幸《ふかう》の|種《たね》となるかも|知《し》れない|美人《びじん》だから、|妾《わたし》だつて|安心《あんしん》が|出来《でき》さうな|事《こと》がないぢやないか。あの|方《かた》は|決《けつ》して|観自在天《くわんじざいてん》でも|文珠師利菩薩《もんじゆしりぼさつ》でもありませぬ。やつぱり|普通《ふつう》の|人間《にんげん》だ。|旦那様《だんなさま》がそんな|巧《うま》い|事《こと》いつてお|前《まへ》たちを|誤魔化《ごまくわ》してござるのだ。どうぞ|今《いま》の|間《うち》にお|前《まへ》らの|考《かんが》へで、あの|女《をんな》をどうか|口説《くど》き|落《お》とし、|旦那様《だんなさま》の|鼻《はな》を|明《あ》かして、|思《おも》ひ|切《き》らして|下《くだ》さるわけにはゆきますまいかな』
『ヘー、そりや|願《ねが》うてもなき|御命令《ごめいれい》、|直《ただ》ちにお|受《う》けいたしたいは|山々《やまやま》でございますが、そんな|事《こと》をして|旦那様《だんなさま》の|御機嫌《ごきげん》を|損《そこ》ねやうものなら、それこそ|足袋屋《たびや》の|看板《かんばん》で|足上《あしあ》がり、たちまち|風来者《ふうらいもの》になつてしまふぢやありませぬか』
『ホホホホホ、|何《なん》とまア、お|前《まへ》さまの|魂《たましひ》も|時代遅《じだいおく》れだな。リュウチナントの|職名《しよくめい》を|剥《は》がれるのが、それほど|恐《おそ》ろしいのかい。よう|考《かんが》へて|御覧《ごらん》、あのやうなナイスをお|前《まへ》さまの|女房《にようばう》にしやうものなら、それこそ|天下《てんか》に|名《な》があがり、ゼネラルよりも|尊敬《そんけい》されるやうになりますよ。あの|体《からだ》に|着《つ》いてゐる|宝石《はうせき》を|一《ひと》つ|金《かね》にしても|一代《いちだい》|安楽《あんらく》に|暮《くら》されるぢやないか。あんな|美人《びじん》を|見《み》す|見《み》す|見逃《みのが》すくらゐなら、|男《をとこ》を|廃業《はいげふ》なさつたがよからう。|男《をとこ》は|決断力《けつだんりよく》が|肝腎《かんじん》ですよ』
『なるほど、さう|聞《き》けば|食指《しよくし》|大《おほ》いに|動《うご》いてきました。しかし、|私《わたし》も、もう|十年《じふねん》ばかり|辛抱《しんばう》して、せめてカーネルの|地位《ちゐ》に|上《のぼ》り、|郷里《きやうり》に|錦《にしき》を|飾《かざ》り|代議士《だいぎし》の|候補者《こうほしや》にでもなつて|巧《うま》く|当選《たうせん》し、|議事壇上《ぎじだんじやう》で|花々《はなばな》しく|言霊戦《ことたません》を|開始《かいし》し、|天晴《あつぱ》れ|政治家《せいぢか》と|褒《ほ》められやうと|思《おも》つたのですが、ここは|一《ひと》つ|思案《しあん》の|仕所《しどころ》ですな』
『|議場雑沓議員《ぎぢやうざつたふぎゐん》や、|矛盾議員《ほことんぎゐん》、|着炭議員《ちやくたんぎゐん》、|事故議員《じこぎゐん》、|陣笠議員《ぢんがさぎゐん》、|墓標議員《ぼへうぎゐん》などと、|国民《こくみん》から|冷評《れいひやう》を|浴《あ》びせかけられ、|痺《しび》れ|ケ原《がはら》の|糞蛙《くそがへる》といはれるよりも、あんなナイスを|女房《にようばう》に|持《も》ち、|総理大臣《そうりだいじん》の|裏口《うらぐち》からソツと|出入《でい》りさせてお|髯《ひげ》の|塵《ちり》を|払《はら》はせ、|伴食大臣《ばんしよくだいじん》にでもなる|方《はう》がよほど|出世《しゆつせ》の|近道《ちかみち》だよ。|陣笠《ぢんがさ》になつたところで|到底《たうてい》|知事《ちじ》にもなるこたア|出来《でき》やしない。まづ|出世《しゆつせ》をしようと|思《おも》へば、あのくらゐの|美人《びじん》を|女房《にようばう》に|持《も》つのだな』
ヘール『もし|奥様《おくさま》、このヘールは|予算外《よさんぐわい》でございますか。カンナが、あの|美人《びじん》を|女房《にようばう》に|持《も》つのならば|私《わたし》も|持《も》ちたうございます。|一人《ひとり》の|女《をんな》に|二人《ふたり》の|男《をとこ》、どうも|平衡《へいかう》がとれぬぢやありませぬか』
チルナ『そこはお|前《まへ》さまたちが|選挙《せんきよ》|競争《きやうそう》でもやつて、うまく|当選《たうせん》するのだな。|負《ま》けたところで|運動《うんどう》が|足《た》らないのだから|諦《あきら》めるより|仕方《しかた》がない。また|次期《じき》の|総選挙《そうせんきよ》を|待《ま》つて、やり|直《なほ》せばいいのだから』
『もし、その|運動方法《うんどうはうはふ》はどうすればいいのですか。なんといつても|先方《むかふ》は|天下無双《てんかむさう》の|美人《びじん》、そして|宝《たから》は|何程《いくら》でも|持《も》つてゐるのだから、|黄白《くわうはく》をもつて|歓心《くわんしん》を|得《う》ることは|出来《でき》ないし、|男前《をとこまへ》でゆかうと|思《おも》へば|零《ぜろ》なり、|弁舌《べんぜつ》は|巧《うま》くなし、たうてい|寄《よ》りつけないぢやありませぬか』
『さア、そこが|選挙《せんきよ》は|水物《みづもの》といふのだ。|縁《えん》は|異《い》なもの、|乙《おつ》なものといつて、|女《をんな》は|妙《めう》なところに|惚《ほ》れるものだから、|一《ひと》つなまじひに|知恵《ちゑ》を|出《だ》して|内兜《うちかぶと》を|見透《みす》かされるよりも、|力一杯《ちからいつぱい》|滑稽《こつけい》を|演《えん》じて|女《をんな》の|腮《あご》を|解《と》き、「|何《なん》とまア|調子《てうし》のいい|人《ひと》だな、よつぽどチヨカ|助《すけ》だ、こんな|男《をとこ》と|添《そ》うてをつたらさぞ|面白《おもしろ》からう。|妾《わたし》|一人《ひとり》でこんなところでコードを|弾《だん》じてをつても|面白《おもしろ》くない。|久振《ひさしぶ》りで|腮《あご》の|紐《ひも》も|解《ほど》けた。|何《なん》とまアよいオツチヨコチヨイだ」と|思《おも》はせるのが|一番《いちばん》|近道《ちかみち》だよ』
『ヘー、|生《うま》れつき|無粋《ぶすゐ》な|私《わたし》、|滑稽《こつけい》なぞは|到底《たうてい》できませぬわ』
カンナ『や、いい|事《こと》を|教《をし》へて|下《くだ》さつた。|滑稽諧謔《こつけいかいぎやく》、|口《くち》をついて|出《で》るといふチーチャーのカンナさまだから|勝利《しようり》|疑《うたが》ひなし、さアこれから|一《ひと》つ|逐鹿場裡《ちくろくぢやうり》に|立《た》つて|烏鷺《うろ》を|争《あらそ》ひませう。エヘヘヘヘヘ、もし、|当選《たうせん》したら|奥《おく》さま、|何《なに》を|奢《おご》つて|下《くだ》さいますかナ』
チルナ『|当選《たうせん》した|方《はう》から|奢《おご》つてもらはなくちやならぬぢやないか。そして|落選《らくせん》した|方《はう》には|妾《わたし》が|慰安料《ゐあんれう》として、|一生《いつしやう》|食《く》へるだけのお|金《かね》を|上《あ》げませう。さアこれから|二人《ふたり》|寄《よ》つて|精一《せいいつ》ぱいベストを|尽《つく》して|下《くだ》さい。|早《はや》くやらなければ|旦那様《だんなさま》が|帰《かへ》つては|駄目《だめ》になりますよ。アヅモス|山《ざん》にでも|引張《ひつぱ》り|出《だ》して、うまく|要領《えうりやう》を|得《う》るのだな。|勝《か》てば|結構《けつこう》、|負《ま》けても|結構《けつこう》、こんなうまい|選挙《せんきよ》|競争《きやうそう》がありますか。さア|勇《いさ》むでやつて|下《くだ》さい』
カンナ『はい、しからば|仰《おほ》せに|従《したが》ひ|捨身的《しやしんてき》|活動《くわつどう》を|御覧《ごらん》にいれませう。おいヘール、|貴様《きさま》も|俺《おれ》のしばらく|艶敵《えんてき》となつて|逐鹿場裡《ちくろくぢやうり》に|立《た》つのだ。|時《とき》|遅《おく》れては|一大事《いちだいじ》だ。さア|行《ゆ》かう』
と|二人《ふたり》は|庭園《ていゑん》の|樹木《じゆもく》の|間《あひだ》を|縫《ぬ》うて、|美人《びじん》の|居間《ゐま》に|胸《むね》を|躍《をど》らせながら|近《ちか》づいた。|何《なん》だか|心《こころ》がドギマギして、|戸《と》を|開《あ》けて|這入《はい》ることが|出来《でき》ない。|二人《ふたり》はモジモジしながら|庭《には》の|木立《こだち》に|立《た》つてコソコソと|囁《ささや》いてゐる。
カンナ『おい、ここまで|来《く》るは|来《き》たものの、|何《なん》だか|恥《は》づかしくて|頬《ほほ》が|赤《あか》くなつて、あの|戸《と》|一枚《いちまい》|開《あ》ける|勇気《ゆうき》が|出《で》なくなつたぢやないか。|男《をとこ》もかうなると|弱《よわ》いものだな』
ヘール『さうだ、たうてい|正面攻撃《しやうめんこうげき》は|駄目《だめ》だよ。ここで|一《ひと》つ|二人《ふたり》が|歌《うた》でも|唄《うた》つて、|品《ひん》よう|踊《をど》らうぢやないか。そしたらナイスが|窓《まど》を|開《あ》けて、あの|涼《すず》しい|目付《めつけ》で|覗《のぞ》いてくれるかも|知《し》れない。さうなりや、|此方《こつち》のものだ。その|時《とき》ヤ|一生懸命《いつしやうけんめい》にラブ・イズ・ベストを|唄《うた》ふのだ。きつと|先方《むかふ》だつて|血《ち》が|通《かよ》うてゐる|水《みづ》の|垂《た》るやうなボトボトとした|盛《さか》りの|肉塊《にくくわい》だから、きつと|動《うご》くに|違《ちが》ひない。それより|良《い》い|方法《はうはふ》はなからうぢやないか。オツと|失敗《しま》つた。こんな|妙案《めうあん》|奇策《きさく》を|政敵《せいてき》のお|前《まへ》に|聞《き》かすぢやなかつたに』
といひながら、ヘールは|窓《まど》の|外《そと》にて|黒《くろ》い|尻《しり》を|捲《まく》り、|妙《めう》な|手付《てつ》きで|唄《うた》ひ|踊《をど》り|狂《くる》ふ。
『|俺《わし》は|印度《いんど》のハルナの|育《そだ》ち
こんなナイスは|未《ま》だ|知《し》らぬ
ヨイトサヨイトサ ヨイトサのサツサ
|夏《なつ》の|暑《あつ》いのに|一間《ひとま》に|籠《こ》もる
さぞや|暑《あつ》からう|淋《さび》しからう
ヨイトサー ヨイトサー
|人《ひと》はどうしても|一人《ひとり》ぢや|暮《く》れぬ
|女《をんな》ばかりぢや|夜《よ》が|明《あ》けぬ
|男《をとこ》|持《も》つならヘールさまを|持《も》ちやれ
|顔《かほ》に|面皰《にきび》がこの|通《とほ》り
ア ヨイトサー ヨイトサー』
カンナ『|男《をとこ》|持《も》つならカンナさまを|持《も》ちやれ
リュウチナントの|軍人《いくさびと》よ
ヘールは|偉《えら》さうに|威張《ゐば》つてみても
ユゥンケルでは|仕様《しやう》がない
ここにござるのは|天女《てんによ》かまたは
|三十三相《さんじふさんさう》の|観音《くわんおん》さまか
|一度《いちど》お|顔《かほ》が|拝《をが》みたい
|吹《ふ》けよ|夏風《なつかぜ》|上《あ》がれよ|簾《すだれ》
|中《なか》のナイスの|顔《かほ》|見《み》たい
ア ヨイトサー ヨイトサー
|女旱《をんなひでり》もない|世《よ》の|中《なか》に
|惚《ほ》れて|出《で》てくる|粋《いき》な|男《をとこ》
この|男《をとこ》|色《いろ》が|黒《くろ》うても|浅漬茄子《あさづけなすび》
|噛《か》めば|噛《か》むほど|味《あぢ》が|出《で》る
ア ヨイトサー ヨイトサー
これだけに|二人《ふたり》|男《をとこ》が|心《こころ》をつくし
|踊《をど》り|狂《くる》ふのを|知《し》らぬ|姫《ひめ》
|一絃《いちげん》の|琴《こと》の|音色《ねいろ》に|俺《わし》や|憧憬《あこが》れて
ピンピンシヤンシヤン|撥《は》ね|廻《まは》る
ア ヨイトセー ヨイトセー
ヘールさま|一《ひと》つお|前《まへ》が|皺嗄《しわが》れ|声《ごゑ》で
|姫《ひめ》の|腮《あご》をば|解《と》いてくれ
|勝《か》つも|負《ま》けるも|時世《ときよ》と|時節《じせつ》
|負《ま》けたところで|金《かね》になる』
ヘール『カンナさまもうこの|上《うへ》は|惟神《かむながら》
|神《かみ》のまにまに|任《まか》しませう
|三五《あななひ》の|神《かみ》の|教《をしへ》に|照《て》らされて
バラモン|教《をしへ》が|嫌《いや》になつた
こういへばきつとナイスが|窓《まど》|開《あ》けて
|俺《わし》の|黒《くろ》い|顔《かほ》|見《み》るであらう
ア ヨイトサー ヨイトサー
これほどに|唄《うた》ひ|踊《をど》れどこのナイス
|耳《みみ》がないのかぢれつたい
|月《つき》はテラテラ テルモン|山《ざん》の
|峰《みね》を|掠《かす》めて|昇《のぼ》りゆく
|星《ほし》の|顔《かほ》より|綺麗《きれい》なナイス
|月《つき》のやうなる|光《ひかり》|出《だ》す
ア ヨイトサー ヨイトサー
|宝石《はうせき》を|体《からだ》|一面《いちめん》ピカピカと
|誰《たれ》も|欲《ほ》しがる|着《つ》けたがる
|月《つき》にや|村雲《むらくも》|花《はな》には|嵐《あらし》
カンナ ヘールの|雲《くも》が|出《で》る
|紫《むらさき》の|雲《くも》の|中《なか》より|現《あら》はれた
|二人《ふたり》|男《をとこ》のこの|踊《をど》り
|棚機《たなばた》も|年《とし》に|一度《いちど》の|逢《あ》ふ|瀬《せ》はあるに
なぜに|渡《わた》れぬ|恋《こひ》の|橋《はし》』
『|惟神《かむながら》|神《かみ》のまにまに|唄《うた》|歌《うた》ふ
|開《あ》けて|嬉《うれ》しい|姫《ひめ》の|顔《かほ》
|窓《まど》|開《あ》けて|庭《には》の|面《おもて》を|見《み》やしやんせ
|罪《つみ》な|男《をとこ》が|二人《ふたり》をる
チルナ|姫《ひめ》|角《つの》を|生《はや》してブツブツ|叱言《こごと》
いふにいはれぬ|訳《わけ》がある
トントンと|叩《たた》く|妻戸《つまど》を|開《あ》けてくれ
|棄《す》てた|男《をとこ》ぢや|無《な》いほどに』
|二人《ふたり》の|歌《うた》の|声《こゑ》を|聞《き》いて|一絃琴《いちげんきん》の|手《て》を|止《や》め、|美人《びじん》は|耳《みみ》を|傾《かたむ》けて|暫《しばら》く|様子《やうす》を|考《かんが》へてゐた。
カンナ『|一絃《いちげん》の|琴《こと》の|音色《ねいろ》がピツタリ|止《や》んだ
|思案投首《しあんなげくび》|窓《まど》の|中《うち》』
ヘール『さア|〆《し》めた|閉《し》めた|障子《しやうじ》をサラリと|開《あ》けて
|観音菩薩《くわんおんぼさつ》がいま|覗《のぞ》く
その|時《とき》は|互《たが》ひに|顔《かほ》の|整理《せいり》して
|男《をとこ》|比《くら》べをせにやならぬ
ア ヨイトサー ヨイトサー』
|美人《びじん》は|連子窓《れんじまど》の|障子《しやうじ》をサツと|開《あ》けて|庭《には》の|面《おもて》を|見渡《みわた》せば、チュウリック|姿《すがた》の|両人《りやうにん》が|臀部《でんぶ》を|現《あら》はし、|滑稽踊《こつけいをど》りをやつてをる。
|美人《びじん》『|庭《には》の|面《おも》を|見《み》れば|怪《あや》しき|人《ひと》の|影《かげ》
|胸《むね》は|躍《をど》りぬ|人《ひと》も|踊《をど》りぬ
|何人《なにびと》か|知《し》らず|妾《わらは》の|窓前《まどさき》に
|踊《をど》り|狂《くる》へる|姿《すがた》をかしき
|面白《おもしろ》き|唄《うた》を|唄《うた》ひて|面黒《おもくろ》き
|人《ひと》が|手《て》を|拍《う》ち|舞《ま》ひ|狂《くる》ひけり』
カンナ『|村肝《むらきも》の|心《こころ》のかぎり|真心《まごころ》を
|尽《つく》して|君《きみ》を|慕《した》ひ|来《き》にけり』
ヘール『|今《いま》さらに|驚《おどろ》かれける|汝《な》が|面《おもて》
|月《つき》の|顔《かんばせ》|花《はな》の|姿《すがた》に』
|美人《びじん》『いかにせむ|天津乙女《あまつをとめ》の|妾《われ》なれば
|人《ひと》の|恋《こひ》をば|入《い》るる|術《すべ》なき』
カンナ『いぶかしや|人《ひと》の|体《からだ》を|持《も》ちながら
|天津乙女《あまつをとめ》と|免《のが》れ|給《たま》ふか
|吾《われ》もまた|高天原《たかあまはら》の|天人《てんにん》の
|霊魂《みたま》を|受《う》けし|益良夫《ますらを》ぞかし』
ヘール『この|男《をとこ》|人《ひと》の|頭《あたま》を|削《けず》る|奴《やつ》
それゆゑ|名《めい》をばカンナとぞいふ』
カンナ『この|男《をとこ》|酒《さけ》ばかり|飲《の》みて|財産《ざいさん》が
|日向《ひなた》に|氷《こほり》ヘール|馬鹿者《ばかもの》』
|美人《びじん》『ともかくも|珍《うづ》の|益良夫《ますらを》わが|居間《ゐま》へ
|進《すす》ませたまへ|勧《すす》め|参《まゐ》らす』
カンナ『|惟神《かむながら》|姫《ひめ》の|言葉《ことば》に|従《したが》ひて
|進《すす》み|入《い》らむか|君《きみ》の|御前《みまへ》に』
ヘール『|今《いま》こそはラブ・イズ・ベストを|振《ふ》りかざし
|登竜門《とうりうもん》を|安々《やすやす》|潜《くぐ》らむ』
|美人《びじん》『ともかくも|優《やさ》しき|二人《ふたり》の|益良夫《ますらを》よ
|吾《わ》が|前《まへ》に|来《こ》よ|心《こころ》|安《やす》けく』
カンナ『|思《おも》うたよりいと|安々《やすやす》と|門《かど》の|戸《と》を
|打開《うちあ》けたまひし|姫《ひめ》ぞ|畏《かしこ》き』
と|詠《うた》ひながら|表門《おもてど》をガラリと|開《あ》け、|何《なん》となく|手足《てあし》を|微動《びどう》させつつ、|美人《びじん》の|前《まへ》に|恥《は》づかしげに|座《ざ》を|占《し》めた。
(大正一二・四・一 旧二・一六 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第三章 |蜜議《みつぎ》〔一五〇三〕
|三五教《あななひけう》の|生神《いきがみ》と  その|名《な》も|高《たか》き|宣伝使《せんでんし》
|初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむつかさ》  |玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》が
|危難《きなん》を|救《すく》ひ|守《まも》らむと  |猛犬《まうけん》スマート|引《ひ》き|連《つ》れて
キヨの|湖《みづうみ》|打《う》ち|渡《わた》り  バラモン|軍《ぐん》の|関守《せきもり》の
チルテル|館《やかた》に|立《た》ちよりて  いと|麗《うるは》しき|離《はな》れ|家《や》に
|一絃琴《いちげんきん》を|弾《だん》じつつ  |神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《かむわざ》に
|心《こころ》を|尽《つく》し|身《み》を|砕《くだ》き  |仕《つか》へ|給《たま》ふぞ|畏《かしこ》けれ
これの|関所《せきしよ》を|預《あづ》かりし  チルテル|司《つかさ》は|初稚姫《はつわかひめ》の
|貴《うづ》の|容姿《ようし》に|魂《たま》|抜《ぬ》かれ  |妻《つま》ある|身《み》をも|省《かへりみ》ず
|家敷《やしき》の|中《うち》に|留《とど》めおき  |時《とき》を|伺《うかが》ひこの|姫《ひめ》の
|吾《わ》が|身《み》を|慕《した》ふ|時《とき》を|待《ま》ち  |恋《こひ》の|野望《やばう》を|達《たつ》せむと
|一絃琴《いちげんきん》を|与《あた》へおき  |静《しづ》かに|一室《ひとま》に|隠《かく》しけり
|初稚姫《はつわかひめ》の|宣伝使《せんでんし》  チルテル|司《つかさ》の|乞《こ》ふがまま
|離《はな》れの|一間《ひとま》に|立《た》てこもり  |心《こころ》ひそかに|神言《かみごと》を
|称《とな》へ|上《あ》げつつコードをば  |弾《だん》じて|憂《う》さを|慰《なぐさ》めつ
|時《とき》の|至《いた》るを|待《ま》ち|給《たま》ふ  チルナの|姫《ひめ》は|吾《わ》が|夫《つま》の
|心《こころ》の|底《そこ》をはかりかね  |悋気《りんき》の|焔《ほのほ》を|燃《も》やしつつ
カンナ ヘールの|両人《りやうにん》を  ひそかに|近《ちか》く|呼《よ》びつけて
|心《こころ》のたけを|打《う》ち|明《あか》し  |二人《ふたり》の|男《をとこ》に|謀計《はかりごと》
|授《さづ》けて|姫《ひめ》を|館《やかた》より  |放逐《はうちく》せむと|企《たく》らみつ
|心《こころ》を|配《くば》るぞいぢらしき  カンナ ヘールの|両人《りやうにん》は
|恋《こひ》の|奴《やつこ》となり|果《は》てて  |姫《ひめ》の|館《やかた》の|傍近《そばちか》く
|進《すす》みて|怪《あや》しき|歌《うた》うたひ  |踊《をど》りつ|舞《ま》ひつ|恋衣《こひぎぬ》を
|青葉《あをば》の|風《かぜ》にひるがへし  ここを|先途《せんど》と|荒《あ》れ|狂《くる》ふ
|初稚姫《はつわかひめ》は|窓《まど》の|戸《と》を  サツと|開《ひら》きて|庭《には》の|面《おも》
|眺《なが》め|給《たま》へば|訝《いぶ》かしや  チュウリック|姿《すがた》の|両人《りやうにん》が
|恋《こひ》に|狂《くる》うた|破《やぶ》れ|歌《うた》  |面白《おもしろ》をかしく|歌《うた》ひつつ
|顔《かほ》|赤《あか》らめて|眺《なが》め|入《い》る  |初稚姫《はつわかひめ》は|声《こゑ》をかけ
|二人《ふたり》の|男《をとこ》を|呼《よ》び|入《い》れて  |手《て》づから|茶菓《さくわ》を|取《と》り|出《い》だし
いと|懇《ねもごろ》にあしらへば  |案《あん》に|相違《さうゐ》の|両人《りやうにん》は
|眦《めじり》をさげて|涎《よだれ》くり  |願望成就《ぐわんまうじやうじゆ》の|時《とき》|来《き》ぬと
|胸《むね》|轟《とどろ》かす|可笑《をか》しさよ  |初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむつかさ》
|心《こころ》の|玉《たま》もピカピカと  |輝《かがや》き|給《たま》へば|両人《りやうにん》は
いひ|寄《よ》る|術《すべ》も|荒男《あらをとこ》  ビリビリ|体《からだ》を|慄《ふる》はせて
|他人《たにん》の|家《いへ》から|借《か》つてきた  |狆《ちん》か|猫《ねこ》かといふやうな
|塩梅式《あんばいしき》で|畏《かしこ》まり  |顔《かほ》を|赤《あか》らめ|控《ひか》へをる。
|初稚《はつわか》『あなたのチュウリックを|伺《うかが》ひますれば、リュウチナントさまにユゥンケルさまのやうでございますが、なんと|凛々《りり》しい、|男《をとこ》らしいお|姿《すがた》でございますなア。|男子《だんし》はどうしても|軍人《ぐんじん》に|限《かぎ》ります。|花《はな》も|実《み》もある|武士《もののふ》は、|文学《ぶんがく》にも|通達《つうだつ》してゐるものでございますが、ただ|今《いま》|承《うけたまは》れば、あなた|方《がた》は|文武両道《ぶんぶりやうだう》の|達人《たつじん》、|誠《まこと》に|感心《かんしん》いたしました』
カンナ『ヘエ、めつさうな。さうお|褒《ほ》めをいただきましては|恐《おそ》れ|入《い》ります。|私《わたし》は|一介《いつかい》の|武弁《ぶべん》、|文学趣味《ぶんがくしゆみ》は|一向《いつかう》|持《も》ちませぬ。|無味乾燥《むみかんさう》な|代物《しろもの》でございますよ』
|初稚《はつわか》『イヤどうしてどうして、あれだけのお|歌《うた》を|即席《そくせき》にお|詠《よ》めになるのは、よほど|文学《ぶんがく》の|素養《そやう》がなくては|出来《でき》る|業《わざ》ぢやございませぬ。あなたは|今《いま》は|軍人《ぐんじん》になつていらつしやいますが、|文科大学《ぶんくわだいがく》でも|優等《いうとう》で|卒業《そつげふ》なさつたお|方《かた》でございませうねえ』
カンナ『イヤ|畏《おそ》れ|入《い》ります。|実《じつ》は|赤門出《あかもんで》でございますが、お|蔭《かげ》で|銀時計《ぎんどけい》を|頂戴《ちやうだい》いたしま……せなんだ。アハハハハ』
ヘール『|拙者《せつしや》こそ、|文科大学《ぶんくわだいがく》|出身《しゆつしん》のチヤキチヤキでございます。ずゐぶん|私《わたくし》の|経歴《けいれき》は|波瀾重畳《はらんちようでう》、|実《じつ》に|惨澹《さんたん》たる|歴史《れきし》に|富《と》むでをります。たうていカンナ|君《くん》ごときは|傍《そば》へも|寄《よ》れないでせう』
|初稚《はつわか》『どうか|一《ひと》つ|貴方《あなた》の|面白《おもしろ》き|来歴《らいれき》や、また|今後《こんご》の|御方針《ごはうしん》を|篤《とつく》り|聞《き》かしていただきたいものでございますな』
ヘールはここぞといはぬばかり、|一歩二歩《ひとあしふたあし》にじり|寄《よ》り、|自分《じぶん》は|文科大学《ぶんくわだいがく》|出身《しゆつしん》だとこのナイスの|前《まへ》でいつたのだから、ここでこそ|文学者振《ぶんがくしやぶ》りを|発揮《はつき》し、|流暢《りうちよう》な|詩《し》によりて|自分《じぶん》の|来歴《らいれき》を|述《の》べ、|姫《ひめ》の|心《こころ》を|感動《かんどう》させ、|自分《じぶん》の|文才《ぶんさい》を|敬慕《けいぼ》せしむるが|第一《だいいち》の|上手段《じやうしゆだん》と|心得《こころえ》、|目《め》を|白黒《しろくろ》させながら|歌《うた》をもつて|吾《わ》が|来歴《らいれき》を|述《の》べはじめた。
ヘール『|太陽《たいやう》は|天地開闢《てんちかいびやく》の|昔《むかし》より
|東天《とうてん》を|掠《かす》めて|登《のぼ》り
|日々《ひび》|西天《せいてん》に|入《い》る
|日《ひ》|西天《せいてん》に|没《ぼつ》して
|忽《たちま》ち|暗黒《あんこく》の|闇《やみ》は|来《き》たる
|月《つき》はたちまち|西天《せいてん》に|姿《すがた》を|現《あら》はし
|照々《せうせう》として|天《てん》に|沖《ちう》す
|月《つき》|落《お》ち|烏《からす》|啼《な》いて また|太陽《たいやう》|東天《とうてん》に|現《あら》はる
|満天《まんてん》の|星光《せいくわう》|一時《いちじ》に|影《かげ》を|隠《かく》し
|銀河《ぎんが》|東西《とうざい》に|現《あら》はれ|或《あるひ》は|南北《なんぼく》に|流《なが》る
|天《てん》は|蒼々《さうさう》として|際限《さいげん》なく
|地《ち》は|浩々《こうこう》として|窮極《きうきよく》するところなし
|吾《われ》は|天地《てんち》の|精気《せいき》を|受《う》けて
|満目湘々《まんもくしやうしやう》たる|世界《せかい》に|生《せい》を|稟《う》く
アア|人《ひと》は|万物《ばんぶつ》の|霊長《れいちやう》|天地《てんち》の|花《はな》
|忽《たちま》ち|長《ちやう》じて|人《ひと》となり
ハルナの|都《みやこ》に|笈《きふ》を|負《お》ひて|登《のぼ》り
|文明開化《ぶんめいかいくわ》の|空気《くうき》を|呼吸《こきふ》し
|文科大学《ぶんくわだいがく》の|門《もん》を|出入《しゆつにふ》し
|優秀《いうしう》の|誉《ほまれ》を|担《にな》うて|郷関《きやうくわん》に|錦《にしき》を|飾《かざ》る
|時《とき》しもあれバルモン|軍《ぐん》の|大元帥《だいげんすゐ》
|大黒主《おほくろぬし》の|神《かみ》の|神意《しんい》によつて
|人生《じんせい》|最勝《さいしよう》|最貴《さいき》の|軍人《ぐんじん》となり
|晨《あした》に|月《つき》を|踏《ふ》み|夕《ゆふべ》に|星《ほし》を|頂《いただ》きて|軍務《ぐんむ》に|鞅掌《おうしやう》す
あるひは|河海《かかい》を|渡《わた》り|浩然《こうぜん》の|気《き》を|養《やしな》ふて|神軍《しんぐん》に|従《したが》ふ
|長駆千里《ちやうくせんり》イヅミの|国《くに》
|漸《やうや》くつきしキヨの|港《みなと》
いふ|勿《なか》れ|下級武官《かきふぶくわん》の|端《はし》と
|前途《ぜんと》|洋々《やうやう》として|極《きは》まりなく
|登竜《とうりう》の|望《のぞ》みあり
|吾《われ》|今《いま》|茲《ここ》に|蹕《ひつ》を|留《とど》めて|生霊《せいれい》を|愛護《あいご》す
|窈窕嬋妍《ようてうせんけん》たる|美人《びじん》|天《てん》より|下《くだ》つて|此《こ》の|館《やかた》に|在《あ》り
いづくんぞ|知《し》らむ|意中《いちう》の|人《ひと》
|吾《わ》が|眼前《がんぜん》に|顕現《けんげん》す
|人間万事塞翁《にんげんばんじさいおう》の|馬《うま》
|小官《せうくわん》あに|軽《かろ》んずべけむや
|願《ねが》はくは|吾《わ》が|肚裡《とり》に|包《つつ》める
|雄図《ゆうと》を|看取《かんしゆ》したまひて
|鴛鴦《ゑんあう》の|契《ちぎり》を|結《むす》ばせたまはむことを
バラモン|神明《しんめい》の|前《まへ》に|拝跪《はいき》して
|帰命頂礼《きめうちやうらい》|祈願《きぐわん》し|奉《たてまつ》る』
|初稚《はつわか》『オホホホホ、さすが|文科大学《ぶんくわだいがく》|出身《しゆつしん》だけあつて、どこともなしに|余韻《よゐん》|嫋々《じやうじやう》たる|詩歌《しか》でございます。|妾《わらは》も|文学《ぶんがく》が|大変《たいへん》|好《す》きでございます。|本当《ほんたう》に|春陽《しゆんやう》の|気《き》がただよひますなア』
ヘール『エヘヘヘヘ、イヤもうお|恥《は》づかしうございます。イヤ、カンナ|君《くん》、リュウチナント|殿《どの》、|君《きみ》も|一《ひと》つ|脳髄《なうずゐ》の|底《そこ》をたたいて、ここで|一《ひと》つ|姫様《ひめさま》の|御清聴《ごせいちやう》を|煩《わづら》はしたらどうだ』
カンナ『|姫様《ひめさま》、これから|私《わたくし》が、すこしばかり|詩吟《しぎん》をやります。どうぞ|審判《しんぱん》は|貴女《あなた》にお|願《ねが》ひいたします』
|初稚《はつわか》『ハイ、|左様《さやう》ならば、|私《わたくし》が|臨時審判長《りんじしんぱんちやう》となつて|伺《うかが》ひませう。|定《さだ》めて|優秀《いうしう》な|詩歌《しか》が|聞《き》かれることだと、|今《いま》から|期待《きたい》してをります』
カンナ『しからば|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》つて|一首《いつしゆ》|吟《ぎん》じてみませう。オイ、ヘールさま、|確《しつか》り|聞《き》いてくれたまへ。
|日《ひ》は|照《て》る|曇《くも》る|雨《あめ》は|降《ふ》る  |月《つき》は|盈《み》ち|照《て》り|虧《か》け|光《ひか》る
|大空《おほぞら》|渡《わた》る|日《ひ》の|影《かげ》も  |月《つき》の|姿《すがた》も|今《いま》ここに
|現《あ》れます|姫《ひめ》に|比《くら》ぶれば  |比例《たとへ》にならぬ|心地《ここち》する
この|姫様《ひめさま》の|顔色《かんばせ》は  |日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》の|御姿《おんすがた》
|心《こころ》の|底《そこ》は|瑞御霊《みづみたま》  |三五《さんご》の|月《つき》と|照《て》り|渡《わた》る
|御頭《おかしら》|見《み》ればキラキラと  |星《ほし》のごとくに|宝玉《はうぎよく》が
|輝《かがや》き|渡《わた》る|鮮《あざや》かさ  |人《ひと》は|天地《てんち》の|御霊物《みたまもの》
|宇宙《うちう》の|縮図《しゆくづ》と|聞《き》きつれど  |今《いま》まで|名実《めいじつ》|相叶《あひかな》ふ
|縮図《しゆくづ》を|眺《なが》めたことはない  |初稚姫《はつわかひめ》の|御姿《おんすがた》
|天津御国《あまつみくに》の|天人《てんにん》か  ただしは|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》か
|体《からだ》|一面《いちめん》ピカピカと  |内部《ないぶ》|外部《ぐわいぶ》の|隔《へだ》てなく
|輝《かがや》きたまふ|水晶玉《すゐしやうだま》  |金銀《きんぎん》|瑪瑙《めなう》|玻璃《はり》|珊瑚《さんご》
|瑠璃《るり》の|色《いろ》なす|御頭《おんつむり》  |〓〓《しやこ》の|笄《かふがひ》かざしつつ
イヅミの|国《くに》に|現《あら》はれて  これの|館《やかた》に|下《くだ》りまし
|衆生済度《しゆじやうさいど》の|御誓《おんちか》ひ  |三十三相《さんじふさんさう》|備《そな》はりし
|観音《くわんおん》|勢至《せいし》|妙音菩薩《めうおんぼさつ》  |今《いま》|目《ま》の|当《あた》り|伏《ふ》し|拝《をが》み
|心《こころ》の|闇《やみ》もスクスクと  |晴《は》れ|渡《わた》りたる|尊《たふと》さよ
|恋路《こひぢ》に|迷《まよ》ふヘールさま  |得意《とくい》の|文学《ぶんがく》ひねり|出《だ》し
|七《しち》むつかしき|歌《うた》をよみ  アツといはせて|姫様《ひめさま》の
|御心《みこころ》|動《うご》かし|奉《たてまつ》り  |望《のぞ》みを|遂《と》げむと|焦《いら》てども
いかで|動《うご》かむ|千引岩《ちびきいは》  |押《お》せども|引《ひ》けども|吾々《われわれ》が
|弱《よわ》き|力《ちから》の|及《およ》ぶべき  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はいて  もしも|縁《えにし》のあるなれば
これのナイスと|永久《とこしへ》に  |鴛鴦《をし》の|契《ちぎり》を|結《むす》ばせて
|神《かみ》の|御《おん》ため|世《よ》のために  |誠《まこと》の|教《をしへ》を|四方《よも》の|国《くに》
|開《ひら》かせ|給《たま》へ|自在天《じざいてん》  |大国彦《おほくにひこ》の|御前《おんまへ》に
リュウチナントと|仕《つか》へたる  カンナの|司《つかさ》が|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|清《きよ》めて|願《ね》ぎまつる  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ  ここは|名《な》に|負《お》ふバラモンの
キヨの|関守《せきもり》|神司《かむつかさ》  いや|永久《とこしへ》に|鎮《しづ》まりて
|三五教《あななひけう》やウラル|教《けう》  そのほか|百《もも》の|醜道《しこみち》を
|世《よ》に|布《し》き|伝《つた》へ|人々《ひとびと》の  |心《こころ》を|曇《くも》らす|曲神《まがかみ》を
|捉《とら》へて|懲《こ》らす|大聖場《だいせいぢやう》  それの|司《つかさ》と|任《ま》けられし
チルテル|大尉《たいゐ》の|副官《ふくくわん》と  |仕《つか》へまつりしこのカンナ
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|吾《わ》が|思《おも》ひ  |遂《と》げさせ|給《たま》へと|願《ね》ぎまつる。
|朝日子《あさひこ》の|笑《ゑ》み|栄《さか》えます|姫《ひめ》の|姿《すがた》
|天津乙女《あまつをとめ》に|優《まさ》りぬるかな
いかにして|心《こころ》のたけを|語《かた》らむと
|思《おも》へどひとり|口籠《くちごも》るかも』
ヘール『|何事《なにごと》も|神《かみ》のまにまに|進《すす》むべし
|此《こ》の|道《みち》のみは|詮術《せんすべ》もなければ』
|初稚《はつわか》『|情《なさ》けある|武士《もののふ》たちに|物申《ものまう》す
|吾《わ》が|身《み》は|実《げ》にも|楽《たの》しかりけり
|願《ねが》はくば|神《かみ》の|御《おん》ため|世《よ》のために
|心《こころ》あはせて|仕《つか》へむとぞ|思《おも》ふ』
カンナ『|何《なん》となくまだもの|足《た》らぬ|心地《ここち》すれ
|姫《ひめ》の|御心《みこころ》|量《はか》りかぬれば』
ヘール『|恋衣《こひごろも》|着《き》むと|思《おも》はば|現身《うつそみ》の
|垢《あか》を|洗《あら》ひて|清《きよ》くなれなれ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》を|神《かみ》に|研《みが》きなば
|天津乙女《あまつをとめ》もいかで|嫌《きら》はむ』
|初稚姫《はつわかひめ》『|陸奥《みちのく》の|蓬ケ原《よもぎがはら》をかきわけて
|萎《しほ》れぬ|花《はな》を|手折《たを》りませ|君《きみ》』
カンナ『|手折《たを》らむと|思《おも》ふ|心《こころ》の|切《せつ》なさを
|汲《く》み|取《と》りたまへ|珍《うづ》の|淑人《よきひと》』
かく|互《たが》ひに|歌《うた》をもつて|心《こころ》を|探《さぐ》り|合《あ》ひつつ、|夏《なつ》の|長《なが》き|日《ひ》を|知《し》らぬ|間《ま》に|暮《くら》してしまつた。チルナ|姫《ひめ》は|二人《ふたり》の|成功《せいこう》を|案《あん》じ|煩《わづら》ひつつ、|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ|窓《まど》の|外《そと》に|立《た》ちよつて、|息《いき》を|潜《ひそ》めて|聞《き》きゐたり。
(大正一二・四・一 旧二・一六 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第四章 |陰使《いんし》〔一五〇四〕
|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より  アヅモス|山《さん》の|聖場《せいぢやう》に
|梵天《ぼんてん》|帝釈《たいしやく》|自在天《じざいてん》  |大国彦《おほくにひこ》の|神霊《しんれい》を
|斎《いつ》きまつりて|天王《てんわう》の  |森《もり》と|称《とな》へて|朝夕《あさゆふ》に
|謹《つつし》み|敬《うやま》ひ|仕《つか》へたる  イヅミの|国《くに》のスマの|里《さと》
|里庄《りしやう》の|役《やく》と|選《えら》まれし  |館《やかた》の|主《あるじ》バーチルは
アンチーと|共《とも》に|湖原《うなばら》に  |漁《すなど》りせむと|出《い》でしより
いかがなりしか|白浪《しらなみ》の  |面《おも》を|眺《なが》めて|里人《さとびと》が
|悲歎《ひたん》の|涙《なみだ》にくれながら  |野辺《のべ》の|送《おく》りを|相済《あひす》まし
|諦《あきら》め|切《き》つた|夏《なつ》の|宵《よひ》  |憂《う》きを|三年《みとせ》のあともなく
|笑《ゑ》みをたたへて|帰《かへ》り|来《く》る  |主従《しゆじう》|二人《ふたり》の|影《かげ》を|見《み》て
|枯木《かれき》に|花《はな》の|咲《さ》きしごと  |老若男女《らうにやくなんによ》が|寄《よ》り|集《つど》ひ
|目出《めで》たい|目出《めで》たいお|目出《めで》たい  |天《あま》の|岩戸《いはと》が|開《ひら》けしと
|二十戸前《にじつとまへ》の|倉《くら》をあけ  |蓄《たく》はへおきし|般若湯《はんにやたう》
|各自《てんで》に|庭《には》に|持《も》ち|出《だ》して  |渇《かわ》きし|餓鬼《がき》が|川水《かはみづ》に
|浸《ひた》りしごとくガブガブと  うつつを|抜《ぬ》かし|酔《よ》ひ|狂《くる》ふ
かかるところへバラモンの  キヨの|関守《せきもり》チルテルは
あまたの|兵士《へいし》を|引率《ひきつ》れて  |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|此《こ》の|家《や》に|深《ふか》く|忍《しの》びしと  |聞《き》くより|駒《こま》に|鞭《むち》うちて
|実否《じつぴ》を|探《さぐ》り|査《しら》ぶべく  |威儀《ゐぎ》を|正《ただ》して|入来《いりき》たり
|表《おもて》の|門《もん》を|潜《くぐ》り|抜《ぬ》け  |目《め》も|届《とど》かない|広庭《ひろには》を
|眼《まなこ》を|光《ひか》らし|眺《なが》むれば  |所《ところ》|狭《せ》きまで|里人《さとびと》が
うごなはりゐて|嬉《うれ》しげに  |酒《さけ》|汲《く》みかはし|歌《うた》|唄《うた》ひ
|狂《くる》へるさまを|見《み》るよりも  |喉《のど》の|虫《むし》|奴《め》が|承知《しようち》せず
つきつけられし|杓《しやく》の|香《か》に  |相好《さうがう》くづし|馬上《ばじやう》より
ヒラリと|庭《には》に|飛《と》びおりて  |数多《あまた》の|従者《じうしや》ともろともに
|舌《した》|打《う》ちならしかぶりつく  |実《げ》にも|卑《いや》しき|酒喰《さけくら》ひ
|見《み》るも|憐《あは》れな|次第《しだい》なり。
チルテルは|酒《さけ》と|女《をんな》にかけては|目《め》も|鼻《はな》もない|厄介者《やつかいもの》である。テク、アキス、アールの|三人《さんにん》に|長柄《ながえ》の|杓《しやく》で|鼻先《はなさき》へ|般若湯《はんにやとう》を|突付《つきつ》けられ、たちまち|自分《じぶん》の|使命《しめい》をケロリと|忘《わす》れたもののごとく、|口汚《くちぎたな》く|群衆《ぐんしう》の|中《うち》へ|交《まじ》つてガブリガブリと|呑《の》みはじめた。テクは|夢中《むちう》になつて、|巻舌《まきじた》を|使《つか》ひながら、あなたこなたとゴロつき|始《はじ》めたり。
『これはこれは、チルテルのキャプテンさま、よくマア|御入来《ごじゆらい》|下《くだ》さいました。|今日《けふ》は|新主人《しんしゆじん》バーチルが|久《ひさ》し|振《ぶ》りで|帰国《きこく》をいたしまして、その|祝宴《しゆくえん》を|開《ひら》いてをるところでございます。|第一番《だいいちばん》にお|役所《やくしよ》の|方《はう》へ|招待状《せうたいじやう》を|出《だ》すのが|本意《ほんい》でございますが、|何《なん》と|申《まを》しても、|清廉潔白《せいれんけつぱく》なお|役人様《やくにんさま》、お|身分《みぶん》が|違《ちが》ひますから、このテクのやうなスパイとは|同《おな》じやうには|参《まゐ》りませず、つひ|御案内《ごあんない》も|申《まを》しかね|遠慮《ゑんりよ》をいたしてをりましたが、キャプテン|様《さま》の|方《はう》から|御出張《ごしゆつちやう》|下《くだ》さいますとは、|何《なん》といふ|光栄《くわうえい》でございませう。サアどうぞ|酒《さけ》の|泉《いづみ》はこんこんと|湧《わ》き|出《い》でて|尽《つ》きませぬ。どうぞ|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》おあがり|下《くだ》さいまして、|底抜《そこぬ》け|騒《さわ》ぎをやつていただきたうございます。この|座敷《ざしき》は|露天《ろてん》でございますが、|奈落《ならく》の|底《そこ》から|搗《つ》き|固《かた》めておきましたから、メツタに|床《ゆか》の|落《お》ちる|気遣《きづか》ひもございませぬ。どうぞ|心《こころ》おきなくお|召《め》し|上《あ》がり|下《くだ》さいませ。|主人《しゆじん》のバーチルに|代《かは》つて、|新番頭《しんばんとう》のテクが、|及《およ》ばずながら|御挨拶《ごあいさつ》を|申《まを》し|上《あ》げます』
と|右《みぎ》の|掌《てのひら》で|無雑作《むざふさ》に|鼻《はな》つ|柱《ぱしら》をプイと|左《ひだり》の|方《はう》へ|押《お》し、|肱《ひぢ》で|顔《かほ》の|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》ふ。
チルテル『お|前《まへ》はテクぢやないか。|何《なん》とマア|気《き》の|早《はや》い、|辞職《じしよく》の|許可《きよか》も|得《え》ずに、|勝手《かつて》に|番頭《ばんとう》になるといふことがあるものか。バラモンの|御威勢《ごゐせい》を|恐《おそ》れぬか、|不届者《ふとどきもの》だなア』
テク『モシ、キャプテン|様《さま》、さう|酒《さけ》の|座《ざ》で|小難《こむつか》しい|面《かほ》をなさいますと、せつかく|甘《う》めい|酒《さけ》が|不味《まづ》くなつてしまひますワ。マア、お|小言《こごと》は|改《あらた》めて|後《のち》に|承《うけたまは》りませう。この|酒《さけ》の|面《つら》みて|笑《わら》はない|者《もの》がどこにありますか。サア|一《ひと》つお|酌《しやく》をいたしませう。|裏《うら》の|別室《はなれ》におかかへ|遊《あそ》ばした、あのナイスのお|酌《しやく》ならば、|一入《ひとしほ》お|酒《さけ》が|甘《うま》いでせうが、どうもそれだけは|不便《ふべん》でございますなア、エヘヘヘヘ』
『どうかして、お|前《まへ》、|一《ひと》つあの|女《をんな》をチルナに|内証《ないしよう》でソツと|招《よ》んで|来《き》てくれまいかな、|褒美《はうび》は|幾《いく》らでもやるからな』
『ヘ|畏《かしこ》まりました。その|代《かは》りに|褒美《はうび》として、お|金《かね》は|要《い》りませぬ、またお|酒《さけ》はここで|沢山《たくさん》にいただかうとままですから、それ|以外《いぐわい》のものを|戴《いただ》きたいものでございます』
『|何《なに》が|頂《いただ》きたいといふのだ』
『ヘー、カンが|頂《いただ》きたいのでございます』
『カンなればすぐに|出来《でき》るでないか、かう|冷酒《ひやざけ》ばかりガブガブやつてゐては|面白《おもしろ》くないからのう』
『ハテまあ、カンの|悪《わる》い、カンといつたらカンですがな。|酒《さけ》のカンなんかとは|違《ちが》ひますよ。ポンポン カンカンと|人民《じんみん》を|捉《つか》まへて|威張《ゐば》り|散《ち》らす|官《くわん》ですよ』
『なるほど、それなら|成功《せいこう》の|上《うへ》、|目付頭《めつけがしら》にしてやらう』
『|滅相《めつさう》もない、そんな|卑《いや》しい|職掌《しよくしやう》は|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りたうございます。せめてリュウチナントに|抜擢《ばつてき》して|欲《ほ》しいものですな』
『うまく、チルナに|分《わか》らぬやうに、ここへあのナイスを|引《ひ》つぱつて|来《き》よつたら、リュウチナントにしてやらう。|一《ひと》つ|骨《ほね》を|折《を》つてみてくれ』
『|滅相《めつさう》な、このごろは|何事《なにごと》も|先金《さきぎん》とか|手附《てつけ》とかがなければ、|一切《いつさい》の|取引《とりひき》をいたしませぬから、|若《も》し|不成功《ふせいこう》にをはつたらお|返《かへ》しするといふことにして、ともかくリュウチナントに|命《めい》じて|下《くだ》さいませ。さうでないと、カンナの|奴《やつ》、リュウチナントだといつて|威張《ゐば》り|散《ち》らしますから、|裏口《うらぐち》から|忍《しの》び|込《こ》むだ|矢《や》さきに、カンナの|奴《やつ》に「コラツ」と|一喝《いつかつ》くはされたが|最後《さいご》、|手《て》も|足《あし》も|出《で》ませぬ。|私《わたし》がリュウチナントならば|同役《どうやく》ですからな』
『アア|仕方《しかた》がない、|臨事憲兵中尉《りんじけんぺいちうゐ》にしてやらう。しかしあまりケンペーらしくいふと|剥奪《はくだつ》するから、さう|思《おも》へ』
『ヤア|有難《ありがた》う。これからテクのテクダで、うまく|引張《ひつぱ》つて|来《き》やせう、マアしばらく|待《ま》つてゐて|下《くだ》さい。そしてテクの|腕前《うでまへ》を|見《み》ていただけば、|光栄《くわうえい》です。……アアア|忙《いそ》がしいことだ。バーチル|家《け》の|大番頭《おほばんとう》|兼《けん》リュウチナントと、にはかに|出世《しゆつせ》をしたものだから、|事務《じむ》が|煩雑《はんざつ》になつて|来《き》たワイ。やつぱり|無官《むくわん》の|太夫《たいう》の|方《はう》がいいかなア』
『|無官《むくわん》の|太夫《たいふ》がよければ、|今《いま》の|言葉《ことば》は|取《と》り|消《け》す』
『めつさうな、|一旦《いつたん》|武士《ぶし》の|口《くち》から|出《で》たお|言葉《ことば》、|不調法《ぶてうはふ》もないに、|取消《とりけ》しは|許《ゆる》しませぬぞ。|上官《じやうくわん》の|一言《いちごん》は|金石《きんせき》よりも|重《おも》いぢやありませぬか。かりにも|朝令暮改的《てうれいぼかいてき》の|事《こと》をおつしやいますと、たちまち|信用《しんよう》が|地《ち》におちますぞ』
『エー|仕方《しかた》がない。それならバラモンの|中尉《ちうゐ》としてよく|注意《ちうい》して、|女房《にようばう》のチルナ|姫《ひめ》に|分《わか》らぬやう、|日《ひ》の|暮《く》れたのを|幸《さいは》ひ、うまくそこは|弁舌《べんぜつ》を|使《つか》つて、ナイスをここへ|連《つ》れて|来《き》てくれ。さうして|酌《しやく》をさせて|大勢《おほぜい》の|奴《やつ》にアツといはせ、|俺《おれ》の|腕前《うでまへ》を|遺憾《ゐかん》なく|皆《みな》の|奴《やつ》らに|見《み》せびらかしてやるのも|愉快《ゆくわい》だ。サア|早《はや》く|行《い》つた|行《い》つた』
テク『エヘヘヘヘ、こんなことに|抜目《ぬけめ》のあるテクぢやありませぬワイ。サアこれから|一走《ひとはし》り|行《い》つて|参《まゐ》ります。マアゆつくり|御酒《ごしゆ》でも|召上《めしあ》がりませ……ヤア、コレワイサのシテコイナ』
と|妙《めう》な|身振《みぶ》りをしながら、|頬被《ほほかぶ》りをクツスリと|締《し》め、|群衆《ぐんしう》の|中《なか》を|潜《くぐ》つて、|足《あし》もヒヨロヒヨロ、チルテルが|駐屯所《ちうとんじよ》の|別室《はなれ》を|指《さ》して|忍《しの》び|行《ゆ》く。
|空《そら》は|黒雲《くろくも》に|包《つつ》まれて、|二《ふた》つ|三《み》つ|雲《くも》の|綻《ほころ》びから、かすかな|星《ほし》が|瞬《またたい》いてゐる。|忍《しの》びよつたる|五月暗《さつきやみ》、|障子《しやうじ》の|明《あか》りをあてに、|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ|窺《うかが》ひ|見《み》れば、|影法師《かげぼふし》が|三《みつ》つ|映《うつ》つてゐる。そして|一人《ひとり》は|女《をんな》、|二人《ふたり》はどうも|男《をとこ》らしい。テクは「ハハア、あの|影法師《かげぼふし》から|考《かんが》へてみると、カンナ、ヘールの|両人《りやうにん》とみえる。|抜目《ぬけめ》のない|奴《やつ》だな。キャプテンさまの|不在《ふざい》をうかがひ、うまく|手《て》に|入《い》れやうと|野心《やしん》を|起《おこ》して|襲撃《しふげき》してゐやがるのだナ。しかし|彼奴《きやつ》も|気《き》が|利《き》かないワイ。|一人《ひとり》の|女《をんな》を|口説《くど》くに|連《つ》れを|誘《さそ》うて|行《ゆ》くといふ|奴《やつ》がどこにあるか。しかし|困《こま》つたことには、あんな|奴《やつ》が|二人《ふたり》も|側《そば》にひつついてゐやがると、|肝腎要《かんじんかなめ》の|俺《おれ》の|使命《しめい》が|果《はた》せない。ここは|一《ひと》つ|肝玉《きもだま》をおつぽり|出《だ》して、|憲兵中尉《けんぺいちうゐ》で|脅《おど》かしてやらう。そして『|不義者《ふぎもの》|見《み》つけた……』と|大喝《だいかつ》|一声《いつせい》、|散《ち》り|散《ち》りバラバラと|小《ちひ》さくなつて|逃《に》げ|失《う》せるやうにやるのだな、エツヘヘヘヘ。かうなると、リュウチナントも|有難《ありがた》いものだ」と|独言《ひとりご》ちつつわざとに|足音《あしおと》|高《たか》く|窓《まど》の|外面《そとも》にすりよつて、
『やアやア、|某《それがし》は|今日《こんにち》チルテルのキャプテン|殿《どの》より|改《あらた》めて|憲兵中尉《けんぺいちうゐ》の|要職《えうしよく》を|授《さづ》けられたるテクでござるぞよ。|女《をんな》|一人《ひとり》の|居間《ゐま》へ|入《い》り|来《き》たり、ひそびそと|囁《ささや》いてゐる|奴《やつ》は|何者《なにもの》だ。|大抵《たいてい》|障子《しやうじ》の|影《かげ》によつて、その|誰人《たれ》なるかは|分《わか》つてゐるが、|今日《けふ》は|新任《しんにん》の|祝《いは》ひとしてみて|見《み》ぬ|振《ふ》りをいたす。サア|早《はや》くトツトと|姿《すがた》を|隠《かく》し、|元《もと》の|職《しよく》に|忠実《ちうじつ》についたがよからう。グヅグヅいたして|此《この》|方《はう》に|面《つら》を|見《み》られたが|最後《さいご》、|其《その》|方《はう》はたちまちリュウチナントもユゥンケルも|棒《ぼう》にふらねばならぬぞや、エエン。|鼻《はな》の|下《した》の|長《なが》い|代物《しろもの》だなア』
カンナ、ヘールの|両人《りやうにん》はテクの|言葉《ことば》を|聞《き》いて、
『ヤアこいつア|大変《たいへん》だ。こんなことをキャプテンに|報告《はうこく》されやうものなら、サツパリ|駄目《だめ》だ。エー|仕方《しかた》がない、こちらに|弱点《じやくてん》があるのだから、ここはマア|辛抱《しんばう》して|退却《たいきやく》することにせうかい』
と|小声《こごゑ》に|囁《ささや》き、この|場《ば》をつつと|立《た》つて|暗《やみ》に|隠《かく》れやうとする。|初稚姫《はつわかひめ》は|故意《わざ》と|平気《へいき》な|顔《かほ》で、
『あのカンナ|様《さま》、ヘール|様《さま》、マアいいぢやございませぬか。いろいろと|珍《めづら》しいお|話《はなし》を|聞《き》かして|下《くだ》さいまして、|妾《わらは》も|大変《たいへん》|得《う》るところがございました。モウしばらく|御悠《ごゆつく》りなさいませ。これからクラブィ・コードでも|弾《だん》じてお|慰《なぐさ》めに|供《きよう》しませう。そしてお|茶《ちや》でも|悠《ゆつく》りあがつてお|帰《かへ》り|下《くだ》さいませ。たまたまお|越《こ》し|下《くだ》さいまして、|何《なん》のお|愛想《あいさう》もございませぬから』
カンナ『ヘ、|有難《ありがた》うございます。いまお|聞《き》きの|通《とほ》り、|窓《まど》の|外《そと》に|誰《たれ》かが|来《き》てをりますから、あなたの|御迷惑《ごめいわく》になつても|気《き》の|毒《どく》でございます。ともかく|一度《いちど》|退却《たいきやく》いたしませう』
|初稚《はつわか》『|何《なに》をおつしやいます、|妾《わらは》は|決《けつ》して|迷惑《めいわく》とは|感《かん》じてをりませぬ。|天下《てんか》|晴《は》れて|文学《ぶんがく》のお|話《はなし》を|聞《き》かして|頂《いただ》いてをるのでございますもの。あなたと|私《わたし》の|中《なか》に|怪《あや》しい|関係《くわんけい》があるのでなし、|誰《たれ》がお|出《い》でになつても|遠慮《ゑんりよ》はいりますまい。かへつて|左様《さやう》なことをなされますと、|痛《いた》くない|肚《はら》を|探《さぐ》られ、|貴方《あなた》がたの|御迷惑《ごめいわく》になるかも|知《し》れませぬよ。あなたも|立派《りつぱ》な|軍人様《ぐんじんさま》ぢやございませぬか、|酔《よ》ひどれさまの|一人《ひとり》や|二人《ふたり》が|恐《おそ》ろしいのでございますか』
『ヘ、|別《べつ》に|恐《おそ》ろしいこともございませぬ、しかしながら|後《あと》がうるさうございますからなア』
『うるさい|心《こころ》さへ|持《も》つてゐなければ|構《かま》はぬぢやありませぬか。|人《ひと》の|口《くち》には|戸《と》が|立《た》てられぬと|申《まを》しまして、|世間《せけん》の|噂《うはさ》を|気《き》にしてるやうなことでは、たうてい|世《よ》の|中《なか》に|立《た》つて|目《め》ざましい|働《はたら》きは|出来《でき》ませぬよ』
『なるほど、お|説《せつ》ご|尤《もつと》も、しからばモウ|暫《しばら》く|御同席《ごどうせき》を|願《ねが》ひませう。オイ、ヘール、かう|二人《ふたり》もゐるとカサが|高《たか》いから、お|前《まへ》しばらく|退席《たいせき》してくれまいか、|関所《せきしよ》の|方《はう》も|何時《いつ》|用《よう》が|出来《でき》るか|分《わか》らぬからのう』
ヘール『ヘツヘヘヘヘ、|仰有《おつしや》いますワイ。その|手《て》に|乗《の》るやうなヘールぢやありませぬぞ』
|初稚《はつわか》『どうぞお|二人様《ふたりさま》、ごゆつくりなさいませ。|何《なに》も|御心配《ごしんぱい》はいりませぬ。……コレコレ テク|様《さま》とやら、そこでは|蚊《か》がたべます。どうぞお|這入《はい》りなさいませ』
テク『イヤア、お|出《い》でたな、やつぱり、リュウチナントといふ|声《こゑ》を|聞《き》いて、|幾分《いくぶん》か|心《こころ》が|動《うご》いたとみえるワイ、イヒヒヒヒ』
とかすかに|笑《わら》ひながら、「オホン」と|一《ひと》つ|咳払《せきばら》ひ、|表戸《おもてど》をソツとあけ、わざとすました|面《かほ》をして、|直立不動《ちよくりつふどう》の|態度《たいど》を|示《しめ》し、
『これはこれは、|古今無双《ここんむさう》のナイス|様《さま》、|私《わたくし》は|新中尉《しんちうゐ》でございます。ちよつとキャプテン|様《さま》の|命令《めいれい》によつて、あなたに|折《を》り|入《い》つてのお|願《ねが》ひがありますので、|使者《ししや》に|罷《まか》り|越《こ》しました。どうぞ|此《これ》ら|両人《りやうにん》を|少時《しばらく》|遠《とほ》ざけていただきたうございます』
|初稚《はつわか》『お|二人様《ふたりさま》、|何《なん》だか|御用《ごよう》があるさうでございますから、|失礼《しつれい》でございますが、ちよつと|少時《しばらく》|席《せき》をお|外《はづ》し|下《くだ》さいませぬか』
カンナ『ヘー、|長《なが》いことですか、……|長《なが》ければながいで、こちらにも|事務上《じむじやう》の|都合《つがふ》がございますから、|実《じつ》のところは|忙《いそ》がしい|中《なか》を|繰《く》り|合《あは》せて、|奥様《おくさま》の|御命令《ごめいれい》……ウン|否々《いやいや》、|奥様《おくさま》の|目《め》を|忍《しの》んでちよつと|御機嫌《ごきげん》|伺《うかが》ひに|参《まゐ》つたのでございますからなア』
|初稚《はつわか》『|奥様《おくさま》は|御機嫌《ごきげん》がよろしうございますかな、どうしたものか、|私《わたし》が|御面会《ごめんくわい》を|申《まを》し|込《こ》んでもお|忙《いそが》しいとみえて、まだ|会《あ》つていただけませぬ』
ヘール『そらさうでせう。|何《なん》といつても、|悋《や》けて|仕方《しかた》がないのですからなア、ヘツヘヘヘヘ。オイ、カンナ、|姫様《ひめさま》の|請求《せいきう》によつて、|暫時《ざんじ》|離席《りせき》することにせうかい』
とスゴスゴと|立出《たちい》で、|暗《やみ》に|忍《しの》んで|二人《ふたり》の|話《はなし》を|聞《き》いてゐる。
(大正一二・四・一 旧二・一六 於皆生温泉浜屋 松村真澄録)
第五章 |有升《あります》〔一五〇五〕
|初稚《はつわか》『もしテクさまとやら、キャプテン|様《さま》から|妾《わらは》に|御用《ごよう》とは|如何《いか》なる|事《こと》でございますか。どうぞ|速《すみ》やかにお|伝《つた》へを|願《ねが》ひます』
テク『|私《わたし》はチツと|酩酊《めいてい》いたしてをりますから|脱線《だつせん》するかも|知《し》れませぬ。|前《まへ》もつてお|断《こと》わりしておきます。あの……|外《ほか》でもございませぬが……それそれ……さう|短兵《たんぺい》|急《きふ》に|追撃《つゐげき》されては|応戦《おうせん》の……|余裕《よゆう》がございませぬ。まづ|美人砲台《びじんはうだい》の……|沈黙《ちんもく》を|待《ま》つて|徐《おもむろ》に|攻勢《こうせい》に|向《む》かひませう』
と|俄《には》かに|騙《だま》されて|中尉《ちうゐ》の|称号《しやうがう》をもらつた|嬉《うれ》しさに、|何《なん》でもかでも|軍隊《ぐんたい》の|用語《ようご》を|使《つか》つて|談判《だんぱん》をやらうと|考《かんが》へてゐる|間抜《まぬ》け|野良《のら》だ。
|初稚《はつわか》『|砲台《はうだい》だの、|攻撃《こうげき》だの、|応戦《おうせん》だのとずゐぶん|殺伐《さつばつ》なお|言葉《ことば》ですな。どうか、も|少《すこ》しハンナリと|仰有《おつしや》つていただきたいものでございます』
テクは「|気《き》を|付《つ》け」の|姿勢《しせい》をとり、|一方《いつぱう》の|手《て》を|乳《ちち》の|辺《あた》りに|上向《うはむ》けに|拡《ひろ》げて、|弥宜《ねぎ》が|笏板《しやくいた》を|持《も》つたやうなスタイルになつて、やや|反《そ》りながら、
『|私《わたし》は|中尉《ちうゐ》であります。|今日《こんにち》|大尉殿《たいゐどの》の|命《めい》により、|伝令《でんれい》|兼《けん》|斥候《せきこう》としてこの|陣営《ぢんえい》へ|特派《とくは》せられた|者《もの》であります。その|使命《しめい》と|申《まを》すのは|外《ほか》でもありませぬ。アヅモス|山《さん》の|南麓《なんろく》バーチルの|陣営《ぢんえい》において、|兵士《へいし》の|凱旋祝賀会《がいせんしゆくがくわい》が|挙行《きよかう》されました。それについて|大隊長殿《だいたいちやうどの》が|私《わたし》を|特使《とくし》としてこの|営所《えいしよ》へ|御派遣《ごはけん》になつたのであります。|酒宴《しゆえん》の|席《せき》には|男《をとこ》ばかりでは、どうも|興味《きようみ》|薄《うす》きをもつて、|天下無双《てんかむさう》のナイス|初稚姫《はつわかひめ》|殿《どの》を|召集《せうしふ》し|来《き》たれとの|命令《めいれい》であります。|言《い》はばこのテクはキャプテンの|軍使《ぐんし》であります。|速《すみ》やかに|軍律《ぐんりつ》に|従《したが》ひ、いや|上官《じやうくわん》の|命《めい》に|従《したが》ひ|御出張《ごしゆつちやう》、いや|御出陣《ごしゆつぢん》ありたきものであります』
|初稚《はつわか》『オホホホホ、テクさま、あなたどうも|硬《かた》い|事《こと》をおつしやいますな。|妾《わらは》はお|酒《さけ》は|嫌《きら》ひでございますから、|陣営《ぢんえい》などには|到底《たうてい》|参《まゐ》ることは|出来《でき》ませぬ。また|陣中《ぢんちう》に|女《をんな》が|参《まゐ》りますと|軍規《ぐんき》が|乱《みだ》れますから、こればかりはお|断《こと》わり|申《まを》します』
テク『これは|怪《け》しからぬ。|拙者《せつしや》を|何《なん》と|心得《こころえ》てござる。|拙者《せつしや》は|憲兵中尉《けんぺいちうゐ》でござるぞ。チツと|注意《ちうい》をして|物《もの》をいつていただかないと|実《じつ》に|困《こま》るのであります。|御命令《ごめいれい》に|違背《ゐはい》なさると|軍律《ぐんりつ》に|照《て》らし、|銃殺《じうさつ》の|刑《けい》に|処《しよ》せらるるのであります。ここは|篤《とつく》り|御勘考《ごかんかう》なさらねばならぬところであります。|実《じつ》のところはキャプテン|様《さま》は|貴女《あなた》の|容色《ようしよく》にぞつこん|打込《うちこ》み、ほとんど|魂《たま》を|抜《ぬ》かし、|矢《や》も|楯《たて》もたまらないといふ|今日《こんにち》の|戦況《せんきやう》であります。どうしても|落城《らくじやう》せなければ、|臼砲《きうはう》なりと|野砲《やはう》なりと|発砲《はつぱう》して|占領《せんりやう》して|来《こ》いとの|厳命《げんめい》であります。さア|早《はや》く|軍門《ぐんもん》に|御出頭《ごしゆつとう》あらむ|事《こと》を|願《ねが》ふあります』
『これはまた|迷惑《めいわく》なことでございますナ。どうか|左様《さやう》なことを|仰有《おつしや》らずにお|帰《かへ》り|下《くだ》さいませ。あなたはお|酒《さけ》を|召《め》してゐらつしやいますから、|左様《さやう》なことを|申《まを》されるのです。|苟《いやし》くも|人《ひと》の|頭《かしら》とならるべきキャプテン|様《さま》が、|妾《わらは》のごとき|女風情《をんなふぜい》を|陣中《ぢんちう》にお|招《まね》き|遊《あそ》ばす|道理《だうり》がございませうか』
『これはしたり、|女《をんな》が|陣中《ぢんちう》に|行《ゆ》けないといふことがありますか。|上毛野《かみづけぬ》の|形名《かたな》といふ|軍人《ぐんじん》の|女房《にようばう》は、|陣中《ぢんちう》に|入《い》つて|夫《をつと》に|酒《さけ》を|勧《すす》め、|軍功《ぐんこう》を|立《た》てさせたぢやありませぬか。あなたは|第二夫人様《だいにふじんさま》、……いや|第一夫人《だいいちふじん》の|候補者《こうほしや》かも|知《し》れませぬ。さアどうぞ|早《はや》く|私《わたし》に|対《たい》し、よき|報告《はうこく》を|願《ねが》ひます。いや|私《わたし》と|共《とも》にお|出陣《しゆつぢん》あらむ|事《こと》を|希望《きばう》する|次第《しだい》であります』
『|妾《わらは》は|何《なん》と|仰《おほ》せられましても|陣中《ぢんちう》に|足《あし》を|入《い》れることは、どうしても|心《こころ》が|進《すす》まぬのであります。|何《なん》と|仰《おほ》せられても|行《ゆ》かないといつたら|行《ゆ》かない|覚悟《かくご》であります』
『もし、お|姫《ひめ》さま、|私《わたし》のお|株《かぶ》をとつちやいけませぬよ。「アリマス」は|軍人《ぐんじん》の|専用語《せんようご》ですからな』
チルナ|姫《ひめ》は|今《いま》まで|木蔭《こかげ》に|立《た》つて|二人《ふたり》の|問答《もんだふ》を|聞《き》き、|自分《じぶん》の|夫《をつと》が|初稚姫《はつわかひめ》に|恋慕《れんぼ》してるといふテクの|報告《はうこく》を|聞《き》いてほとんど|狂乱《きやうらん》のごとくなり、|樹蔭《こかげ》に|地団太《ぢだんだ》を|踏《ふ》んでゐる。その|足音《あしおと》にカンナ、ヘールの|両人《りやうにん》はハツと|気《き》がつき、|擦《す》り|寄《よ》つて|見《み》れば、|何《なん》だかチルナ|姫《ひめ》のやうである。カンナは|小声《こごゑ》で、
カンナ『もし、|奥《おく》さまぢやございませぬか』
チルナ『お|前《まへ》、|今《いま》の|話《はなし》を|聞《き》いたか。|旦那様《だんなさま》があの|女《をんな》にぞつこん|惚《ほ》れてござるといふことだから、|私《わたし》の|吩咐《いひつ》けたやうに|何故《なぜ》|早《はや》く|要領《えうりやう》を|得《え》てしまはないのか』
『ヘー、|要領《えうりやう》を|得《え》たいのは|山々《やまやま》でございますが、そうチヤクチヤクと|空腹《ひだるばら》にお|茶漬《ちやづけ》を|食《く》つたやうにはゆきませぬからな』
『エー、ぢれつたい。グヅグヅしてをるとどんな|事《こと》が|出来《でき》るか|知《し》れぬぢやないか。|荒男《あらをとこ》が|二人《ふたり》もをつて、あんな|阿魔女《あまつちよ》を、どうする|事《こと》も|出来《でき》ぬとは|腑甲斐《ふがひ》ないものだな。さア|早《はや》く|肝玉《きもだま》を|出《だ》して|何《なん》とかなさらぬかいな』
ヘール『|奥様《おくさま》、もしも、やり|損《そこ》なつたら、あなた|後《あと》|引受《ひきう》けて|下《くだ》さるかな』
チルナ『そんな|心配《しんぱい》は|要《い》りませぬ。|何《なん》でもかでも|強《つよ》く|行《ゆ》きさへすれば、どんな|事《こと》でも|成功《せいこう》しますよ。グヅグヅしてると、あの|女《をんな》を|連《つ》れて|行《い》つて|旦那様《だんなさま》につき|合《あは》すかも|知《し》れないわ。エー、|悔《くや》しや、|残念《ざんねん》や、|口惜《くちを》しやな。|男《をとこ》が|二人《ふたり》もをつて、あれくらゐな|女《をんな》をどうすることも|出来《でき》ぬのかいな』
カンナ『|奥《おく》さま、そこまで|仰有《おつしや》るのなら|一《ひと》つやつてみませう。しかし|一寸《ちよつと》|手荒《てあら》い|事《こと》をして|同情心《どうじやうしん》を|失《うしな》つては|駄目《だめ》ですから、ここで|一《ひと》つ|歌《うた》でも|歌《うた》つて|心《こころ》を|動《うご》かし|目的《もくてき》を|達《たつ》して|見《み》ませう。もし|奥《おく》さま、あなたも|一《ひと》つ|作《つく》り|声《ごゑ》をして|応援《おうゑん》して|下《くだ》さい』
チルナ『さア|早《はや》くやつて|御覧《ごらん》、いかなかつたら|妾《わたし》が|応援《おうゑん》するから』
カンナ『バラモンの|軍《いくさ》の|司《つかさ》ここにあり
いざ|言問《ことと》はむ|初稚姫《はつわかひめ》に』
ヘール『|姫様《ひめさま》よ|汝《なれ》に|迷《まよ》ひて|忍《しの》び|来《く》る
|男心《をとこごころ》を|見捨《みす》て|玉《たま》ふな』
チルナ『チルテルの|心《こころ》|汚《きたな》き|武士《もののふ》に
|身《み》を|任《まか》しなば|世《よ》に|笑《わら》はれむ
チルテルの|軍《いくさ》の|君《きみ》は|世《よ》に|稀《まれ》な
チルナの|姫《ひめ》が|控《ひか》へますぞや
|吾《わ》が|恋《こひ》は|大海原《おほうなばら》を|渡《わた》る|舟《ふね》
|浪《なみ》を|凌《しの》ぎて|神島《かみじま》へ|行《ゆ》く
|初稚《はつわか》の|姫《ひめ》の|命《みこと》よ|逸早《いちはや》く
|館《やかた》を|立《た》ちて|月《つき》へ|出《い》でませ』
|初稚姫《はつわかひめ》は|中《なか》より、
『|月《つき》の|国《くに》ハルナの|都《みやこ》に|神《かみ》|在《ま》すと
|慕《した》ひて|進《すす》む|吾《われ》なりにけり
さりながらイヅミの|国《くに》に|今《いま》しばし
|足《あし》を|留《とど》めて|身《み》をや|休《やす》めむ』
チルナ『この|里《さと》に|足《あし》を|留《とど》めてゐますなら
カンナ ヘールに|身《み》を|任《まか》しませ』
|初稚姫《はつわかひめ》『|身《み》は|一《ひと》つ|如何《いか》で|二人《ふたり》に|仕《つか》ふべき
|妾《わらは》は|神《かみ》にのみぞ|仕《つか》ふる
チルテルの|軍《いくさ》の|君《きみ》は|賢《かしこ》しと
|聞《き》けども|如何《いか》で|身《み》を|任《まか》すべき
|若草《わかぐさ》の|妻《つま》を|持《も》たせるチルテルの
|君《きみ》に|仕《つか》へてたまるべきかは
チルテルの|厚《あつ》き|情《なさ》けに|絆《ほだ》されて
しばし|息《いき》をば|休《やす》めゐるのみ』
テク『|初稚姫《はつわかひめ》|神《かみ》の|命《みこと》はキャプテンの
|第二夫人《だいにふじん》と|定《きま》つてあります
どうしても|嫌《いや》といふなら|引張《ひつぱ》つて
|陣屋《ぢんや》に|進《すす》む|覚悟《かくご》あります
さア|早《はや》う|行《ゆ》かねば|酒《さけ》が|冷《さ》めまする
|酒《さけ》の|肴《さかな》に|使《つか》ふあります
キャプテンの|清《きよ》き|男子《おのこ》を|振棄《ふりす》てて
カンナにつけば|身《み》を|削《けづ》られむ
カンナてふ|奴《やつ》は|人《ひと》をば|削《けづ》り|喰《く》ふ
|鬼《おに》のやうなる|男《をとこ》あります
ヘールとはカンナをかけて|削《けづ》るやうに
|一枚《いちまい》|一枚《いちまい》ヘール|恋衣《こひぎぬ》』
カンナ『もう|自暴自棄《やけ》だ|勇猛心《ゆうまうしん》を|発揮《はつき》して
|乗《の》るか|反《そ》るかをやつてみませう
おい そこだ テクの|奴《やつ》めがやつて|来《き》て
|恋《こひ》の|邪魔《じやま》する|面《つら》の|憎《にく》さよ
この|上《うへ》は|直接行動《ちよくせつかうどう》|腕《うで》づくだ
|初稚姫《はつわかひめ》を|担《かた》げて|退《の》かむ
|肱鉄《ひぢてつ》をうまい|辞令《じれい》で|誤魔化《ごまくわ》され
|男《をとこ》の|顔《かほ》がどこで|立《た》たうか』
|初稚《はつわか》『テクさま、どうぞあの|通《とほ》り|外《そと》に|皆様《みなさま》がいろいろと|仰有《おつしや》つてゐますから、|妾《わらは》は|大変《たいへん》|迷惑《めいわく》いたします。どうぞ|帰《かへ》つて|下《くだ》さい。そしてキャプテン|様《さま》に|御用《ごよう》がおありなさるのなら、|帰《かへ》つて|悠《ゆつく》りお|会《あ》ひしませう、また|酒《さけ》の|相手《あひて》も|及《およ》ばずながら|勤《つと》めさしていただきますと、どうぞそこはよろしくいつて|下《くだ》さいませ』
テク『それでも|旦那様《だんなさま》が|大変《たいへん》に|惚《ほ》れてゐらつしやるのだもの、|私《わたし》だつて|貴女《あなた》に|来《き》ていただかなくては|中尉《ちうゐ》もゼロになりますからな。|私《わたし》を|中尉《ちうゐ》にして|下《くだ》さるのなら、どうぞ|早《はや》く|来《き》て|下《くだ》さい。これが|私《わたし》の|一生《いつしやう》のお|願《ねが》ひであります』
テクは|自暴自棄糞《やけくそ》になり|大《おほ》きな|声《こゑ》で|歌《うた》ひ|出《だ》した。
『|駄目《だめ》だ|駄目《だめ》だみな|駄目《だめ》だ  こんな|綺麗《きれい》な|面《つら》をして
バラモン|軍《ぐん》のキャプテンが  お|言葉《ことば》さへも|刎《は》ねつける
|容色《きりやう》がよいとて|自慢《じまん》すな  お|前《まへ》のやうな|阿魔女《あまつちよ》は
|世界《せかい》にや|沢山《たくさん》あるほどに  |慢心《まんしん》するのも|程《ほど》がある
|青瓢箪《あをべうたん》に|目《め》と|鼻《はな》を  つけたるやうなスタイルで
|猪口才千万《ちよこざいせんばん》|美人面《びじんづら》  |愛想《あいそ》もこそもつき|果《は》てた
|外《そと》にござるはカンナさま  |恋《こひ》に|狂《くる》うたヘールさま
|思《おも》ひ|切《き》つたが|宜《よろ》しかろ  こんな|分《わか》らぬスベタ|女郎《めろ》
|何《なに》ほど|口説《くど》いてみたとこで  テツキリ|駄目《だめ》でござるぞや
|俺《おれ》も|折角《せつかく》キャプテンに  |憲兵中尉《けんぺいちうゐ》の|職名《しよくめい》を
|頂《いただ》きながらムザムザと  |返《かへ》さにやならぬ|破目《はめ》となり
むかついてむかついて|堪《たま》らぬが  さうかといつてこの|阿魔《あま》を
どうする|訳《わけ》にもゆきはせぬ  あれほどチルテル・キャプテンが
|現《うつつ》を|抜《ぬ》かし|目尻《めじり》|下《さ》げ  |寝《ね》ても|覚《さ》めても|姫々《ひめひめ》と
|大切《だいじ》の|大切《だいじ》の|奥《おく》さまを  |邪魔者扱《じやまものあつか》ひになしながら
|酒《さけ》の|場席《ばせき》へ|引張《ひつぱ》つて  |男前《をとこまへ》をば|誇《ほこ》らむと
なさつてござるがお|憐《いと》しい  あんな|夫《をつと》を|持《も》つ|女房《にようばう》
さぞや|心《こころ》が|揉《も》めるだろ  チルナの|姫《ひめ》のお|心《こころ》が
|気《き》の|毒《どく》さまになつてきた  |女《をんな》は|魔物《まもの》といふことは
|予《かね》て|人《ひと》から|聞《き》いてゐた  |女《をんな》の|涼《すず》しい|円《まる》い|目《め》で
|一目《ひとめ》|睨《にら》めば|鉄城《てつじやう》も  ガタガタガタと|覆《くつが》へし
|山《やま》も|田地《でんぢ》も|家倉《いへくら》も  メチヤメチヤメチヤにしてしまふ
こんな|女《をんな》が|出《で》て|来《き》たら  バラモン|教《けう》のキャプテンも
|酒《さけ》で|殺《ころ》した|鰌《どぢやう》のやうに  グニヤグニヤグニヤと|相好《さうがう》を
|崩《くづ》して|腰《こし》を|抜《ぬ》かしつつ  |肝腎要《かんじんかなめ》の|軍務《ぐんむ》をば
|忘《わす》れて|遂《つひ》には|免職《めんしよく》の  |悲運《ひうん》に|落《お》ちねばならうまい
|思《おも》へば|思《おも》へばお|気《き》の|毒《どく》  このテクさまもこの|使命《しめい》
スツカリ|思《おも》ひ|切《き》つたぞや  ついでにスパイの|職掌《しよくしやう》も
|返上《へんじやう》いたしてバーチルの  |家《いへ》の|番頭《ばんとう》となり|済《す》まし
|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|甘酒《うまざけ》を  |思《おも》ふがままに|飲《の》み|倒《たふ》し
|短《みじか》い|浮世《うきよ》を|面白《おもしろ》く  |飲《の》めよ|騒《さわ》げよ|一寸先《いつすんさき》や|暗《やみ》と
|踊《をど》り|狂《くる》うて|暮《くら》しませう  |何《なに》よりかより|酒《さけ》の|味《あぢ》
|美人《びじん》のごときは|吾々《われわれ》は  |決《けつ》して|物《もの》の|数《かず》でない
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |燗《かん》して|飲《の》んだ|酒《さけ》の|味《あぢ》
|冷酒鯛汁《れいしゆたいじふ》の|吾《わ》が|身《み》には  これに|勝《まさ》つた|楽《たの》しみは
|三千世界《さんぜんせかい》にありませぬ  |初稚姫《はつわかひめ》の|阿魔女《あまつちよ》さま
|左様《さやう》なら|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》つて  キャプテン|様《さま》に|何事《なにごと》も
|笠《かさ》に|笠《かさ》をばかけながら  |悪《わる》く|注進《ちうしん》|仕《つかまつ》る
カンナ ヘールの|両人《りやうにん》に  |現《うつつ》をぬかして|脂《やに》さがり
どうしてもこしてもキャプテンの  |側《そば》には|死《し》んでも|行《ゆ》かないと
|駄々《だだ》をば|捏《こ》ねて|出《で》て|来《こ》ない  |尻太《しぶと》い|女《をんな》と|詳細《まつぶさ》に
|注進《ちうしん》するが|宜《よろ》しいか  よくよく|思案《しあん》するがよい
もうかうなれば|自暴自棄酒《やけざけ》だ  さア|燗酒《かんざけ》だ|燗酒《かんざけ》だ
そろそろ|酔《よひ》が|覚《さ》めかけた  |一刻《いつこく》も|早《はや》く|帰《かへ》つて|酒《さけ》を|飲《の》もう
|皆《みな》さまお|酒《さけ》へ|左様《さやう》なら』
と|畳《たたみ》ざはりも|荒々《あらあら》しく|腹立《はらた》ち|紛《まぎ》れに|四股《しこ》を|踏《ふ》みならし、|暗《やみ》に|紛《まぎ》れて|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・四・一 旧二・一六 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第二篇 |厄気悋々《やくきりんりん》
第六章 |雲隠《くもがくれ》〔一五〇六〕
アキスは|大柄杓《おほびしやく》を|振《ふ》りかざしながら|群衆《ぐんしう》の|中《なか》を|前後左右《ぜんごさいう》に|駈《か》け|廻《まは》り、|数多《あまた》の|来客《らいきやく》を|十二分《じふにぶん》に|喜《よろこ》ばせむとあらゆる|力《ちから》を|尽《つく》し、|歌《うた》を|歌《うた》つて|酒《さけ》の|座《ざ》の|興《きよう》を|添《そ》へたり。
アキス『アヅモス|山《さん》の|森林《しんりん》に  |鷲《わし》が|巣《す》を|組《く》む|鷹《たか》が|棲《す》む
それゆゑスマの|里人《さとびと》は  |雀《すずめ》や|百舌鳥《もず》の|顔《かほ》|見《み》ない
|声《こゑ》さへ|聞《き》いたことはない  |猩々《しやうじやう》さまもいつしかに
|一《ひと》つも|残《のこ》らず|逃《に》げ|去《さ》つて  |鷲《わし》と|鷹《たか》との|世《よ》の|中《なか》だ
さはさりながら|今日《けふ》こそは  |百舌鳥《もず》も|雀《すずめ》も【みそさぎ】も
|千鳥万鳥《せんてうまんてう》やつて|来《き》て  チイチイ パーパー パタパタと
お|酒《さけ》に|酔《よ》うて|舞《ま》ひ|狂《くる》ふ  こんな|目出《めで》たい|事《こと》あろか
|皆《みな》さま|遠慮《ゑんりよ》は|要《い》らないで  |堤《どて》を|切《き》らして|呑《の》みなさい
あれあの|通《とほ》りバラモンの  キヨの|関所《せきしよ》のキャプテンが
お|出《い》でなさつて|吾々《われわれ》と  |一緒《いつしよ》に|酒《さけ》の|座《ざ》について
|面白《おもしろ》さうに|歌《うた》ひつつ  |勇《いさ》むでござる|気《き》の|軽《かる》さ
スマの|里《さと》にて|随一《ずゐいつ》の  |富豪《ふがう》の|首陀《しゆだ》と|聞《き》こえたる
バーチルさまのお|館《やかた》に  |官民一致《くわんみんいつち》の|瑞象《ずゐしやう》を
|現《あら》はしたるは|昔《むかし》から  |例《ためし》も|知《し》らぬ|出来事《できごと》だ
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |玉国別《たまくにわけ》の|神司《かむつかさ》
|真純《ますみ》の|彦《ひこ》や|伊太彦《いたひこ》や  |三千彦司《みちひこつかさ》デビス|姫《ひめ》
|音《おと》に|名高《なだか》き|人《ひと》びとが  これの|館《やかた》に|出《い》でまして
|三五教《あななひけう》やバラモンの  |隔《へだ》てを|全《まつた》く|取《と》り|除《のぞ》き
|和気《わき》|靄々《あいあい》と|酒宴《さかもり》の  |席《せき》に|連《つら》なり|給《たま》ひしは
|四海同胞《しかいどうはう》の|真相《しんさう》を  |現《あら》はし|給《たま》ひし|神《かみ》の|旨《むね》
|皆《みな》さま|喜《よろこ》びなされませ  イヅミの|国《くに》のスマの|里《さと》
アヅモス|山《さん》の|猩々《しやうじやう》は  |今《いま》は|姿《すがた》も|見《み》えねども
|霊魂《みたま》は|吾《われ》らの|魂《たましひ》に  いつの|間《ま》にかは|憑《かか》りまし
|老若男女《らうにやくなんによ》の|嫌《きら》ひなく  |一人《ひとり》も|残《のこ》らず|酒《さけ》に|酔《よ》ひ
|下戸《げこ》の|病《やまひ》はどこへやら  |上戸《じやうご》ばかりに|成《な》り|果《は》てて
|泣《な》くやら|笑《わら》ふやら|怒《おこ》るやら  |千姿万態《せんしばんたい》|八衢《やちまた》の
その|有様《ありさま》を|委曲《まつぶさ》に  |現《あら》はしたるぞ|面白《おもしろ》き
|飲《の》めよ|騒《さわ》げよ|踊《をど》れよ|狂《くる》へ  |舞《ま》へよ|唄《うた》へよいつまでも
|二十戸前《にじつとまへ》の|酒《さけ》の|倉《くら》  |一《ひと》つも|残《のこ》らず|呑《の》み|乾《ほ》して
|猩々《しやうじやう》の|神《かみ》へ|御奉納《ごほうなふ》  |猩々彦《しやうじやうひこ》や|猩々姫《しやうじやうひめ》
|親方《おやかた》さまに|持《も》つた|私《わし》  お|酒《さけ》を|呑《の》まねば|勤《つと》まらぬ
アア|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い  これも|全《まつた》くバラモンの
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御恵《おんめぐ》み  |祝《いは》へよ|祝《いは》へよ|勇《いさ》めよ|勇《いさ》めよ
バーチルさまの|万歳《ばんざい》を  |皆《みな》さまお|声《こゑ》を|揃《そろ》へつつ
|称《とな》へて|下《くだ》さい|頼《たの》みます  |万歳《ばんざい》|万歳《ばんざい》|万々歳《ばんばんざい》
|鶴《つる》は|千歳《ちとせ》の|春《はる》を|舞《ま》ひ  |亀《かめ》|万歳《ばんざい》の|夏《なつ》|謳《うた》ふ
|春《はる》と|夏《なつ》とは|万物《ばんぶつ》の  |茂《しげ》り|栄《さか》ゆるシーズンだ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |燗酒《かんざけ》なりと|冷《ひや》なりと
|思《おも》ひ|思《おも》ひにドツサリと  |飲《の》んで|巻《ま》け|巻《ま》け|皆《みな》の|人《ひと》
|猩々《しやうじやう》の|姫《ひめ》の|御心《みこころ》を  |慰《なぐさ》めまする|方法《はうはふ》は
お|酒《さけ》を|呑《の》むより|外《ほか》はない  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》のお|神酒《みき》を|頂《いただ》きて  |皆《みな》さまこれから|確《しつか》りと
|心《こころ》を|協《あは》せ|力《ちから》をば  |一《ひと》つになしてバーチルの
|里庄《りしやう》の|君《きみ》を|親《おや》となし  スマの|里《さと》をば|平《たひ》らけく
いと|安《やす》らけく|賑《にぎ》はしく  |富《と》みて|栄《さか》えていつまでも
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》を|築《きづ》き|上《あ》げ  |神《かみ》の|恵《めぐ》みを|蒙《かうむ》りて
|人《ひと》の|人《ひと》たる|本分《ほんぶん》を  |尽《つく》さにやならぬスマの|里《さと》
|祝《いは》ふ|時《とき》にはよく|祝《いは》ひ  |遊《あそ》ぶ|時《とき》にはよく|遊《あそ》び
|呑《の》んで|食《くら》うて|働《はたら》いて  |面白《おもしろ》をかしく|此《こ》の|世《よ》をば
|上下《うへした》|揃《そろ》うて|暮《くら》しませう  これが|第一《だいいち》|神様《かみさま》に
|対《たい》し|奉《まつ》りて|孝行《かうかう》だ  サアサア|飲《の》んだサア|飲《の》んだ
|踊《をど》れよ|踊《をど》れよ|舞《ま》へよ|舞《ま》へ  なにほど|踊《をど》り|舞《ま》うたとて
|金輪奈落《こんりんならく》の|地底《ちてい》より  |築《きづ》き|上《あ》げたるこの|床《ゆか》は
|滅多《めつた》に|落《お》ちる|事《こと》はない  |土《つち》で|固《かた》めたこの|庭《には》は
|金剛不壊《こんがうふえ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》  |案《あん》じも|入《い》らぬ|法《のり》の|船《ふね》
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |私《わたし》はこれで|休《やす》みます
|皆《みな》さま|代《かは》つて|歌《うた》つておくれ  |飲《の》み|食《く》ふばかりが|芸《げい》でない
こんなところで|隠《かく》し|芸《げい》を  |天晴《あつぱ》れ|出《だ》して|皆《みな》さまに
アフンとさして|腮《あご》を|解《と》き  お|臍《へそ》の|宿換《やどが》へさすがよい
|天下御免《てんかごめん》のこの|酒宴《うたげ》  |行儀《ぎやうぎ》も|糞《くそ》もいるものか
みな|各自《めいめい》に|無礼講《ぶれいかう》  これが|誠《まこと》の|天国《てんごく》だ』
チルテルは|何時《いつ》の|間《ま》にか|十数人《じふすうにん》の|部下《ぶか》を|引《ひ》き|率《つ》れ|奥《おく》の|間《ま》に|闖入《ちんにふ》し、|酒《さけ》を|呑《の》み|草臥《くたび》れて|睡《ねむ》つてゐるデビス|姫《ひめ》を|引《ひ》つ|担《か》たげ、|猿轡《さるぐつわ》をはめ|館《やかた》の|裏門《うらもん》よりソツと|抜《ぬ》け|出《い》で、|吾《わ》が|館《やかた》へ|帰《かへ》り|倉《くら》の|中《なか》へソツと|入《い》れておいた。|三千彦《みちひこ》はフト|目《め》を|醒《さ》まし|傍《かたはら》を|見《み》れば、デビス|姫《ひめ》の|姿《すがた》が|見《み》えなくなつてゐる。しかしながら|三千彦《みちひこ》はデビスが|便所《べんじよ》へでも|行《い》つたのかと、あまり|気《き》にも|留《とめ》ず、また|眠《ねむ》つてしまつた。|伊太彦《いたひこ》は|群衆《ぐんしう》の|広庭《ひろには》で|夜露《よつゆ》を|浴《あ》びて|泣《な》いたり|笑《わら》つたり|小競合《こぜりあひ》をしてゐる|有様《ありさま》を|眺《なが》めて|興《きよう》がりながら、【ブラリ】ブラリと|裏門《うらもん》の|方《はう》へ|廻《まは》つて|行《ゆ》く。
|十数人《じふすうにん》の|男《をとこ》が、|夜目《よめ》に|確《しつか》り|分《わか》らねど、|女《をんな》らしきものを|担《かつ》いでソツと|逃《に》げ|出《だ》すのを|眺《なが》めながら、|暫《しばら》く|腕《うで》を|組《く》んで|考《かんが》へ|込《こ》んだ。「あれはもしや、デビス|姫《ひめ》ではなからうかな、|何《なん》とはなしによく|似《に》てゐるやうだ。しかしながら|迂《う》つかりした|事《こと》をいふて【ドン】をつかれちや|大変《たいへん》だ。ともかくもデビス|姫《ひめ》の|寝室《ねま》を|調《しら》べて|見《み》む」と|一人《ひとり》うなづきながら、|幾《いく》つかの|間《ま》を|潜《くぐ》つていつて|見《み》ると、|行燈《あんどん》のほの|暗《ぐら》きもとに|三千彦《みちひこ》がただ|一人《ひとり》|睡《ねむ》つてゐる。|伊太彦《いたひこ》は|矢《や》にはに|座敷《ざしき》に|駈《か》け|入《い》り、|三千彦《みちひこ》を|揺《ゆ》り|起《おこ》しながら、
|伊太《いた》『オイオイ|三千彦《みちひこ》さま、デビス|姫《ひめ》さまはどうしたのだ』
|三千《みち》『アー|吃驚《びつくり》した。よく|睡入《ねい》つてゐるところを|揺《ゆ》り|起《おこ》されて、|魂《たましひ》の|入《い》り|損《ぞこな》いをするところだつた。|大変《たいへん》な|夢《ゆめ》を|見《み》てゐたのだよ』
『オイ|夢《ゆめ》どころかい。デビス|姫《ひめ》さまはどうなつたかと|思《おも》ふか、|確《しつか》りせぬかい』
『|実《じつ》は|今《いま》デビスが、バラモンの|連中《れんぢう》に|何処《どこ》かへ|連《つ》れて|行《ゆ》かれた|夢《ゆめ》を|見《み》てゐたのだ。ハテ|不思議《ふしぎ》な|事《こと》があるものだ。|姫《ひめ》は|何処《どこ》へ|行《い》つたのだらうなア』
『お|前《まへ》の|夢《ゆめ》はテツキリ|正夢《まさゆめ》だ。|俺《おれ》は|睡《ねむ》れぬままに|大勢《おほぜい》の|酒酔《さかよ》ひを|見物《けんぶつ》しながら|裏門《うらもん》へ|廻《まは》つて|見《み》ると、|十五六人《じふごろくにん》の|荒男《あらをとこ》が|一人《ひとり》の|女《をんな》を|担《かつ》いで|逃《に》げて|行《ゆ》きよつたが、|夜《よる》のことで|明瞭《はつき》り|分《わか》らぬので、もしデビス|姫《ひめ》さまぢやないかと|此処《ここ》へ|調《しら》べに|来《き》たところだ。やや、これはかうしてはをられない。|何《なん》とか|工夫《くふう》をせなくてはならない』
『オイ|伊太彦《いたひこ》、あまり|騒《さわ》がないやうにしてくれよ。かへつて|敵《てき》に|姫《ひめ》を|殺《ころ》されるやうな|事《こと》があつてはつまらないから、とにかく|分《わか》るところまで|黙《だま》つてをるに|限《かぎ》るからなア。しかしながらお|前《まへ》はあの|姫《ひめ》を|攫《さら》つて|行《い》つた|奴《やつ》は|誰《たれ》かと|思《おも》ふ』
『|俺《おれ》の|考《かんが》へでは、バラモン|軍《ぐん》のチルテルが|部下《ぶか》だと|思《おも》ふよ。|今《いま》まで|一生懸命《いつしやうけんめい》に|酒《さけ》を|飲《くら》つてゐたが、にはかに|影《かげ》が|見《み》えなくなつたので|裏門《うらもん》へ|廻《まは》つたところ、|女《をんな》を|担《かつ》いで|逃《に》げよつたのだから、テツキリあれに|定《きま》つてゐる。|俺《おれ》が|応援《おうゑん》してやるから、|今《いま》からチルテルの|館《やかた》へ|忍《しの》び|込《こ》んで|様子《やうす》を|考《かんが》へ、|取《と》り|返《かへ》して|来《こ》ようぢやないか』
『ヤアそいつは|有難《ありがた》い。ご|苦労《くらう》だがお|世話《せわ》にならうかなア。しかし|玉国別《たまくにわけ》さまには|今《いま》しばらく|内証《ないしやう》だよ』
『ウン|承知《しようち》だ。サア|裏門《うらもん》からソツと|偵察《ていさつ》に|行《ゆ》かう』
と|寝衣《ねまき》のまま|二人《ふたり》は|裏門《うらもん》より|飛《と》び|出《だ》し、|関守《せきもり》の|館《やかた》をさして|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・四・一 旧二・一六 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第七章 |焚付《たきつけ》〔一五〇七〕
チルナ|姫《ひめ》は|一間《ひとま》に|入《い》つて|悋気《りんき》の|角《つの》を|生《は》やしながら、|自分《じぶん》の|髪《かみ》をひきむしつたり、|笄《かうがい》を|投《な》げたり、|鏡台《きやうだい》を|引《ひ》つくり|返《かへ》したり、|室内《しつない》は|俄《には》かに|二百十日《にひやくとをか》の|嵐《あらし》が|吹《ふ》いたやうになつてゐる。そこへ|一杯機嫌《いつぱいきげん》で|帰《かへ》つて|来《き》たのは、キャプテンのチルテルであつた。チルテルは|門口《かどぐち》から|大声《おほごゑ》を|上《あ》げ、
『オーイ|女房《にようばう》、|今《いま》|戻《もど》つたぞや、|早《はや》う|開《あ》けないか。|何《なん》だ|中《なか》から|戸《と》に|突張《つつぱ》りをかうてゐやがると|見《み》えて、|押《お》しても|引《ひ》いても|開《あ》きやしないわ。アアこんなことなら、|兵士《へいし》を|連《つ》れて|帰《かへ》つたらよかつたに、どいつも|此奴《こいつ》もみな|酒《さけ》に|喰《くら》ひ|酔《よ》つて【ドブ】さつてしまひよつた。|今日《けふ》は|山《やま》の|神《かみ》の|面体《めんてい》に|低気圧《ていきあつ》が|襲来《しふらい》してゐたといふことは|予期《よき》してゐたのだが、これやまたどうした|事《こと》だい。オーイ|開《あ》けぬか、|開《あ》けぬか』
と|戸《と》を|一生懸命《いつしやうけんめい》に|握《にぎ》り|拳《こぶし》で|叩《たた》いてをる。
カンナは|驚《おどろ》き|急《いそ》ぎ|戸《と》を|開《あ》け、
『あ、|旦那様《だんなさま》ようお|帰《かへ》りなさいませ』
チルテル『ウン、あまり|軍務《ぐんむ》が|忙《いそ》がしいので、つい|遅《おそ》くなつて、|奥《おく》も|待《ま》ちかねたであらうなア』
カンナ『ヘエ、あの|奥《おく》さまですか、|大《おほ》きな|声《こゑ》では|申《まを》されませぬが、どうも|形勢《けいせい》が|険悪《けんあく》なので|容易《ようい》に|近《ちか》よることは|出来《でき》ませぬ。あなたがお|帰《かへ》りになつたら、|一騒動《ひとさうどう》が|始《はじ》まるであらうとビクビクもので|待《ま》つてゐました。どうぞ|喧《やかま》しうおつしやらずに、ソツと|寝間《ねま》に|這入《はい》つて|寝《やす》んでいただきたいものですなア』
『なに、|奥《おく》が|怒《おこ》つてゐるのか。イヤ、そいつは|面白《おもしろ》い。|一《ひと》つ|怒《おこ》らして|自分《じぶん》の|方《はう》から|飛《と》び|出《で》てくれるやうにと|待《ま》つてゐたのだ。オイ、カンナ、|貴様《きさま》によい|土産《みやげ》を|持《も》つて|帰《かへ》つた。|第一号《だいいちがう》の|倉庫《さうこ》に|入《い》れてある、|頗《すこぶ》る|的《てき》のナイスだよ。|一《ひと》つ|貴様《きさま》が|女房《かない》を|焚付《たきつ》け、|自分《じぶん》から|飛《と》び|出《だ》すやうにしてくれたら、あのナイスをお|前《まへ》の|女房《にようばう》にしてやらうと、ソツと|掠奪《りやくだつ》して|来《き》たのだ。ずゐぶん|立派《りつぱ》なものだぞ』
『さすがはキャプテン|様《さま》、いろいろとお|気《き》をつけ|下《くだ》さいまして|有難《ありがた》うございます。たうてい|裏《うら》のナイスは|私《わたし》|達《たち》の|挺《てこ》には|合《あ》ひませぬからな』
『なに|裏《うら》のナイスにお|前《まへ》は、ものをいつたのか』
カンナは|頭《あたま》をガシガシと|掻《か》きながら、いひ|悪《にく》さうに、
『ハイ、ちよつと|序《ついで》にナイスの|意向《いかう》を|探《さぐ》つてみましたところ、なかなか|偉《えら》いものですな。テクの|奴《やつ》、にはか|中尉《ちうゐ》だと|威張《ゐば》つて|出《で》て|来《き》ましたが、|一《ひと》たまりもなく|言《い》ひ|込《こ》められて、|不減口《へらずぐち》を|叩《たた》いて|遁走《とんそう》しました。|本当《ほんたう》に、|人間《にんげん》の|挺《てこ》に|合《あ》ふナイスではございませぬわ。そして「キャプテン|様《さま》にお|目《め》にかかつて|詳《くは》しいお|話《はなし》を|承《うけたまは》りませう」と|澄《す》まし|込《こ》んでゐるのですもの、お|喜《よろこ》びなさいませ。きつと|脈《みやく》がありますよ』
チルテル『ナイスのことはお|前《まへ》たちの|力《ちから》ではどうすることも|出来《でき》ぬ。かまうてくれるな、いらいだてをすると、|却《かへ》つて|一《いち》も|取《と》らず|二《に》も|取《と》らずになつてしまふ。ああして|俺《おれ》の|家《うち》へ|二三日《にさんにち》|置《お》いてくれといふのだから、|俺《おれ》に|思召《おぼしめ》しがあるのに|違《ちが》ひない。しかし|俺《おれ》には|女房《にようばう》があるから、あのナイスも|遠慮《ゑんりよ》してゐるのだ。そこを【それ】、|気《き》を|利《き》かさなければ|駄目《だめ》だからなア。|女房《にようばう》さへなければ、|放《ほ》つておいても|俺《おれ》に|靡《なび》いてくるのは|既定《きてい》の|事実《じじつ》だ、ウフフフフ』
カンナ『|一《ひと》つそれでは|奮闘《ふんとう》してみませう。|奥《おく》さまを|怒《おこ》らせうと|思《おも》へば、ちつとは|旦那《だんな》の|悪口《わるくち》もいひますから|予《あらかじ》め|御承知《ごしようち》を|願《ねが》ひます』
『よし、|目的《もくてき》さへ|達《たつ》すればよいのだ、|手段《しゆだん》は|選《えら》ばない。そこはお|前《まへ》に|任《まか》しておく。うまくやつてくれ。しかしあまり|怒《おこ》らして|自害《じがい》でもやつてくれると|困《こま》るよ。そこは|見計《みはか》らつて、|家《いへ》を|飛《と》び|出《だ》す|程度《ていど》に|計《はか》らつてくれ』
『よろしい、|何《なん》とむつかしい|事《こと》を|頼《たの》まれたものだが、|一《ひと》つ|計《はか》らつて|見《み》ませう……|奥《おく》さまのお|心《こころ》がお|可憐《いとし》いわい』
『オイ、そんな|気《き》の|弱《よわ》いことでどうしてこの|大任《たいにん》が|果《はた》せるか。もつと|心《こころ》を|鬼《おに》にしてゆかないと|駄目《だめ》だぞ』
『ハイ、|気《き》の|毒《どく》だといつたのは|社交上《しやかうじやう》の|辞令《じれい》ですよ。|気《き》の|毒《どく》ながら、おつ|放《ぽ》り|出《で》るやうに|尽力《じんりよく》してみませう、あなたは|離家《はなれ》へ|行《い》つて|悠《ゆつく》りお|楽《たの》しみなさいませ。さうして|奥《おく》さまの|部屋《へや》から|障子《しやうじ》に|影《かげ》が|見《み》えるやうに|仕組《しぐ》んでもらはなくては|駄目《だめ》ですよ。なるべくは|抱擁《はうよう》キッス|握手《あくしゆ》などの|光景《くわうけい》が|見《み》えるやうに|仕組《しぐ》んでもらいたいものですな。|私《わたし》が【オホン】と|大《おほ》きな|咳払《せきばら》ひをしたら|握手《あくしゆ》するのですよ。そうしてうまく|写《うつ》してもらふのですよ』
『まるで|幻燈屋《げんとうや》みたやうな|事《こと》をするのだなア』
『そこで|現当利益《げんとうりやく》が|現《あら》はれるのですもの、エヘヘヘヘ』
チルテルはヒヨロヒヨロと|千鳥足《ちどりあし》にて|初稚姫《はつわかひめ》の|居間《ゐま》へ|進《すす》み|行《ゆ》く。
『アア|姫様《ひめさま》、ずゐぶんお|退屈《たいくつ》でございませうなア。|早《はや》く|帰《かへ》つてお|話相手《はなしあいて》にならねば|済《す》まないと|思《おも》うてゐましたが、|何分《なにぶん》|軍務《ぐんむ》が|忙《いそ》がしいのでつい|遅《おそ》くなつて|済《す》みませぬ』
|初稚《はつわか》『どうも、いかい|御厄介《ごやつかい》になりまして|申《まを》し|訳《わけ》がございませぬ。|大変《たいへん》な|御機嫌《ごきげん》でございます。ずゐぶんお|酒《さけ》を|飲《あが》つたとみえますな』
チルテル『イヤちよつと|九一升《くいつしよう》ばかり|引《ひ》つかけたものだから、ちつとばかり|酩酊《めいてい》いたしました。どうも|済《す》みませぬがお|茶《ちや》なりと|一杯《いつぱい》|下《くだ》さいませぬか、|貴女《あなた》の|柔《やはら》かいお|手々《てて》で|汲《く》んでいただけば|一層《いつそう》|美味《おい》しいでせう』
『オホホホホ。なに|御冗談《ごじやうだん》おつしやいます。あなた、|奥様《おくさま》に|御挨拶《ごあいさつ》なさいましたか。|大変《たいへん》にお|待《ま》ちかねの|御様子《ごやうす》でございましたよ』
『|奥《おく》さまといへば|奥《おく》にすつ|込《こ》んでをればよいものです。
あなた|見《み》てから|家《いへ》の|嬶《かか》|見《み》れば
|千里《せんり》|奥山《おくやま》|古狸《ふるだぬき》
アハハハハ、いやもう|気《き》に|喰《く》はない|女房《にようばう》ですよ。|二《ふた》つ|目《め》には|悋気《りんき》の|角《つの》を|生《は》やし、|喉笛《のどぶえ》に|喰《くら》ひつくのですもの、あんな|女房《にようばう》を|持《も》つた|夫《をつと》ほど|不幸《ふかう》なものはありませぬわい。アハハハハ』
『|何《なに》を|仰有《おつしや》います。あんな|貞淑《ていしゆく》な|奥様《おくさま》がどこにございませうか、|悋気《りんき》をなさらないやうな|奥様《おくさま》だつたら|駄目《だめ》ですよ。きつと|外《ほか》に|心《こころ》を|移《うつ》してゐるのです。|天《てん》にも|地《ち》にも|貴方《あなた》|一人《ひとり》と|思召《おぼしめ》すからこそ、|偶《たま》には|悋気《りんき》もなさるのですからな。サア|早《はや》く|奥様《おくさま》のお|気《き》の|安《やす》まるやうにお|言葉《ことば》をおかけなさいませ。その|上《うへ》にて|妾《わらは》の|傍《そば》にお|出《い》で|下《くだ》されば、|妾《わらは》も|奥様《おくさま》に|対《たい》し|大変《たいへん》|気《き》が|楽《らく》でございますからな』
『ともかくも|足《あし》が|立《た》ちませぬ、しばらく|此処《ここ》で|悠《ゆつく》りさして|下《くだ》さい。アア|苦《くる》しい|苦《くる》しい、|誰《たれ》か|胸《むね》を|擦《さす》つてくれるものはなからうかな。アア|苦《くる》しい|苦《くる》しい。|姫《ひめ》さま|誠《まこと》に|済《す》みませぬが、ちよつと|私《わたし》の|胸《むね》を|擦《さす》つていただけませぬか』
|初稚《はつわか》『そんなら、お|背《せな》を|擦《さす》らしていただきませう』
と|故意《わざ》とに|後《あと》へ|廻《まは》り|背《せな》を|擦《さす》つてゐる。|一方《いつぱう》カンナはチルナ|姫《ひめ》の|居間《ゐま》に|慌《あわ》ただしく|駈《か》け|入《い》り、
『もし、|奥様《おくさま》』
と|小声《こごゑ》になつて、
『|御用心《ごようじん》はさいませ。タタ|大変《たいへん》でございますよ。あなたの|御主人《ごしゆじん》は|今日《けふ》も|二人《ふたり》の|美人《びじん》に|手《て》を|引《ひ》かれ、|目《め》を|細《ほそ》うしてゐらつしやいました。さうしてそのお|歌《うた》が|気《き》に|喰《く》はないのです。|私《わたし》はなるべく|家《いへ》の|中《なか》に|浪風《なみかぜ》が|立《た》たないやうに、|旦那様《だんなさま》の|事《こと》は|奥様《おくさま》の|耳《みみ》に|入《い》らないやうにして|今《いま》まで|何度《なんど》も|包《つつ》んでゐましたが、もう|包《つつ》んでをられぬやうになりました。|奥様《おくさま》がお|可哀《かあい》さうでたまらないやうになりました。|旦那様《だんなさま》ばかりの|部下《ぶか》ではない。|奥様《おくさま》のためにも|部下《ぶか》ですからなア。|奥様《おくさま》から|御意見《ごいけん》|遊《あそ》ばすやう、そつとお|知《し》らせいたします』
チルナ『なに、あの|裏《うら》の|初稚姫《はつわかひめ》とかいふ|女《をんな》の|外《ほか》にまだよい|女《をんな》が|出来《でき》てゐるのかい』
カンナ『ヘエヘエ、|奥様《おくさま》はお|気《き》の|毒《どく》ですな。ほんたうに、お|可哀《かあい》さうだわい。まづ|旦那様《だんなさま》の|歌《うた》を|御紹介《ごせうかい》いたしませう。|決《けつ》して、お|腹《はら》を|立《た》てて|下《くだ》さいますなよ。
|家《うち》の|嬶《かか》|見《み》れば|見《み》るほど|腹《はら》が|立《た》つ
|蛸《たこ》のお|化《ば》けか|古狸《ふるだぬき》
といふやうな|歌《うた》を|歌《うた》つていらつしやるのですよ。あなたのやうな|美人《びじん》を、|蛸《たこ》のお|化《ば》けだの|古狸《ふるだぬき》だのとおつしやるのですからな。|女《をんな》に|呆《はう》けると、|蜥蜴《とかげ》のやうな|顔《かほ》した|女《をんな》でも|天女《てんによ》のやうに|見《み》えるとみえますな』
チルナは|身《み》を|慄《ふる》はしながら、キリキリキリと|歯《は》を|噛《か》み、|髪《かみ》をパツと|逆立《さかだ》てた。
カンナ『まだまだ|奥様《おくさま》こんな|事《こと》で|怒《おこ》つてはいけませぬ。もつと|凄《すご》い|文句《もんく》がありますよ。|何《なん》でも|女《をんな》の|名《な》は|忘《わす》れましたが、あいつはキーチャンの|果《はて》かも|知《し》れませぬが、|旦那様《だんなさま》をつかまへて|歌《うた》ひやがつたのが|気《き》に|喰《く》はぬのです。|私《わたし》はその|歌《うた》を|聞《き》くと|歯《は》がガチガチ|鳴《な》り|出《だ》しました。
|嬶《かか》は|叩《たた》き|出《だ》せ|子《こ》は○○○○○
|後《あと》の|女房《にようばう》にや|私《わし》が|行《ゆ》く
てなことを|吐《ぬか》しやがるのですよ。|業《ごふ》が|沸《わ》くの|沸《わ》かぬのと、|私《わたし》が|奥様《おくさま》だつたら|矢《や》にはに|胸倉《むなぐら》をグツと|取《と》り、|髻《たぶさ》を|掴《つか》むで|引《ひ》きずり|廻《まは》してやるのですけれどな。それに|旦那様《だんなさま》は、エヘヘヘ、オホホホ、と|顔《かほ》の|相好《さうがう》|崩《くづ》して|笑《わら》つていらつしやるのですもの。
|家《うち》の|嬶《かか》|白粉《おしろい》おとした|素顔《すがほ》を|見《み》たら
|胸《むね》がむかむか|嘔吐《へど》が|出《で》る
と、ヘヘヘヘ。こんな|事《こと》をおつしやるのですよ。
どうしても|逃《に》げて|帰《かへ》らにや|女房《にようばう》の|奴《やつ》を
|竹《たけ》に|糞《ふん》つけ|突《つ》いて|出《だ》す
あた|汚《きたな》い、|奥様《おくさま》、|竹《たけ》の|先《さき》に|糞《ふん》つけて|突《つ》き|出《だ》してやらうと|旦那様《だんなさま》は|歌《うた》つていらつしやいましたよ。|実《じつ》に|私《わたし》が|聞《き》いても【フンガイ】の|至《いた》りですワ』
チルナ『アア|口惜《くちを》しい、|残念《ざんねん》や|残念《ざんねん》や、どうしてこの|恨《うら》みを|晴《は》らしてよからうかなア。|旦那様《だんなさま》はそんな|情《なさ》けないことを|仰有《おつしや》る|人《ひと》ぢやない、|女《をんな》が|悪《わる》いのだ。その|女《をんな》は|何処《どこ》にをる。その|女《をんな》を|探《さが》し|出《だ》し|敵《かたき》を|討《う》つてやらねばなりませぬ』
と|血相《けつさう》|変《か》へて|立《た》ち|上《あ》がる。カンナは|大手《おほて》を|拡《ひろ》げて|立《た》ち|塞《ふさ》がり、
『まアまアお|待《ま》ちなさいませ。|血相《けつさう》かへてなんの|事《こと》ですか。|敵《かたき》なら|私《わたし》が|討《う》つて|上《あ》げます。そして|貴女《あなた》はまだお|目出《めで》たいですな。|旦那様《だんなさま》を|贔屓《ひいき》してゐらつしやるが、|旦那様《だんなさま》はこの|間《あひだ》も|私《わたし》を|呼《よ》んで、「あんな|嬶《かかあ》は|見《み》るのも|嫌《いや》だ。|何《なん》とかして|放《ほ》り|出《だ》す|分別《ふんべつ》はなからうか」とおつしやいましたが、「これはしたり、こんな|事《こと》をなさつては|人道《じんだう》に|外《はづ》れます」とお|諫《いさ》め|申《まを》したら、|旦那様《だんなさま》はプリンと|怒《おこ》つてハツキリ|私《わたし》には|物《もの》をいうて|下《くだ》さらぬのですもの、ホントに|困《こま》つてしまひますワ。
チルナ|姫《ひめ》|散《ち》るな|散《ち》るなと|今《いま》までは
|可愛《かはい》がつたが|馬鹿《ばか》らしや
|早《はや》く|散《ち》れ|花《はな》は|桜木《さくらぎ》|人《ひと》は|武士《ぶし》
|早《はや》く|散《ち》れ|散《ち》れチルナ|姫《ひめ》
|家《うち》の|嬶《かか》なぜにあれほど|強太《しぶと》いか
|私《わし》の|嫌《きら》ふのが|分《わか》らないか
さてもうるさい【ボテ】|嬶《かか》よ
|奥山《おくやま》の|狸《たぬき》|狐《きつね》の|化《ば》けたやうな
|顔《かほ》を|見《み》るたびゾツとする
それよりも|裏《うら》の|離《はな》れの|初稚姫《はつわかひめ》は
|私《わし》の|女房《にようばう》にやよく|似合《にあ》ふ
とか|何《なん》とかいつて、それはそれはえらい|権幕《けんまく》ですよ。|奥《おく》さまよく|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい、あなたのやうな|容色《きりやう》をして、|嫌《いや》がられるところへをらなくても|好《よ》いぢやありませぬか。【オツホン】。あれあれ、あの|障子《しやうじ》の|影《かげ》を|御覧《ごらん》なさい。|背《せな》を|擦《さす》つてをるのは|女《をんな》でせう。あんなところを|見《み》せつけられて、|貴女《あなた》ノメノメとよくこんな|所《ところ》にをられますな』
チルナ『|私《わたし》はこの|家《うち》をどこまでも|出《で》ませぬよ。|夫《をつと》が|女《をんな》を|入《い》れて|私《わたし》を|追《お》ひ|出《だ》さうとすれば|尚更《なほさら》のこと、ここに|頑張《ぐわんば》つてをつて|邪魔《じやま》してやるのです。それが|女《をんな》の|意地《いぢ》ですもの。この|家《や》を|出《で》るや|否《いな》や|夫婦気取《ふうふきど》りになつて|暮《くら》されてはつまらないもの。エエ|好《す》かない|阿魔《あま》ツ|女《ちよ》だな。|人《ひと》の|大事《だいじ》の|主人《しゆじん》を|何《なん》と|思《おも》つて|大胆至極《だいたんしごく》にもあんな|事《こと》をするのだらう。これお|前《まへ》、すこし|退《の》いておくれ。ちと|暴《あば》れますから|怪我《けが》をしても|知《し》らないよ』
と、|障子《しやうじ》をバリバリ、|火鉢《ひばち》を|窓《まど》の|外《そと》へカンカラカラ。|瀬戸物《せともの》の|割《わ》れる|音《おと》ケンケラケン、ガチヤガチヤガチヤ ガタガタガタ、|四股《しこ》|踏《ふ》む|音《おと》ドンドンドン、ドスンドスンドスン。
カンナ『もしもし|奥様《おくさま》、そんなお|乱暴《らんばう》な|事《こと》をしてもらつては、|後《あと》の|奥《おく》さまがござるぢやございませぬか』
チルナ『エエかまうておくれな、この|部屋《へや》は|私《わたし》の|自由《じいう》だ、|叩《たた》き|壊《こは》さうとどうならうと、|皆《みな》さまのお|世話《せわ》にはなりませぬよ』
ガタガタ、ドスンドスン、バリバリバリ。
この|物音《ものおと》に|驚《おどろ》いてチルテルは、
『コラ|何《なに》をさらす』
と|血相《けつさう》|変《か》へて|走《はし》り|来《き》たり、チルナの|髻《たぶさ》をグイと|鷲《わし》づかみ、|右《みぎ》の|手《て》に|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて|三《みつ》つ|四《よ》つ|撲《なぐ》りつけた。チルナは|一生懸命《いつしやうけんめい》|逆上《のぼせ》あがり、|金切声《かなきりごゑ》を|出《だ》して、
『エエ|悪性爺《あくしやうおやぢ》|奴《め》、チルナが|臨終《いまわ》の|別《わか》れ、|死物狂《しにものぐる》ひだ』
と|武者振《むしやぶ》りつき、|睾丸《きんたま》をグツと|握《にぎ》り|力《ちから》|限《かぎ》りに|引《ひ》つ|張《ぱ》つた。チルテルは「ウン」とその|場《ば》に|倒《たふ》れける。
(大正一二・四・一 旧二・一六 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第八章 |暗傷《あんしやう》〔一五〇八〕
|夫婦《ふうふ》の|中《なか》に|咲《さ》き|匂《にほ》ふ  |花《はな》はいつまでチルナ|姫《ひめ》
|家庭《かてい》|平和《へいわ》の|実《み》を|結《むす》び  |千代《ちよ》も|八千代《やちよ》も|偕老《かいらう》の
その|楽《たの》しみを|共《とも》になし  |此《こ》の|世《よ》を|安《やす》く|渡《わた》らむと
|神《かみ》に|願《ねが》ひを|掛巻《かけま》くも  |心《こころ》|許《ゆる》さぬチルナ|姫《ひめ》
|思《おも》はぬ|風《かぜ》の|吹《ふ》き|廻《まは》し  |二世《にせ》を|契《ちぎ》つた|吾《わ》が|夫《つま》の
チルテル|司《つかさ》は|醜神《しこがみ》に  |清《きよ》き|霊《みたま》も|曇《くも》らされ
|恋《こひ》の|膚《とりこ》となりはてて  あなたこなたの|女《をみな》をば
|弄《もてあそ》びしと|聞《き》くよりも  チルナの|姫《ひめ》は|驚《おどろ》きて
|忽《たちま》ち|悋気《りんき》の|角《つの》はやし  あらゆる|手道具《てだうぐ》|打《う》ちくだき
|障子《しやうじ》や|襖《ふすま》をかき|破《やぶ》り  |半狂乱《はんきやうらん》の|為体《ていたらく》
チルテル カンナの|企《たく》みたる  |焚付薬《たきつけぐすり》が|利《き》きすぎて
|思《おも》ひもよらぬ|失態《しつたい》を  |演出《えんしゆつ》したりと|驚《おどろ》きて
|初稚姫《はつわかひめ》の|居間《ゐま》を|去《さ》り  |矢《や》にはに|此処《ここ》へ|飛《と》び|込《こ》みて
チルナの|姫《ひめ》の|髻《たぶさ》をば  |左手《ゆんで》にグツとわし|掴《づか》み
|蠑螺《さざえ》のやうな|拳《こぶし》をば  |固《かた》めて|振《ふ》り|上《あ》げクワン クワンと
|三《み》つ|四《よ》つ|打《う》てばチルナ|姫《ひめ》  |怒《いか》り|狂《くる》ひてしがみつき
チルテル|司《つかさ》の|股《また》くらに  ブラブラさがる|茶袋《ちやぶくろ》を
|一生懸命《いつしやうけんめい》に|握《にぎ》りしめ  |力《ちから》をこめて|引《ひ》つたくる
|何条《なんでう》もつて|堪《たま》るべき  アツと|一声《ひとこゑ》|悶絶《もんぜつ》し
|泡《あわ》をふきつつ|大《だい》の|字《じ》に  |倒《たふ》れて|身体《からだ》をビリビリと
|慄《ふる》はせゐたる|可笑《をか》しさよ  さすがのチルナも|驚《おどろ》いて
|水《みづ》よ|薬《くすり》と|気《き》を|焦《いら》ち  カンナの|司《つかさ》を|叱《しか》りつけ
|泣声《なきごゑ》|絞《しぼ》り|狼狽《うろた》へる  デビスの|姫《ひめ》の|後《あと》|逐《お》うて
うかがひ|来《き》たりし|三千彦《みちひこ》や  |伊太彦《いたひこ》|二人《ふたり》はこの|態《てい》を
はるかに|眺《なが》めて|飛《と》び|来《き》たり  |矢《や》にはに|座敷《ざしき》へ|這《は》ひ|上《あ》がり
|双手《もろて》を|組《く》んで|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》  |五《いつ》|六《む》つ|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》と|数歌《かずうた》を  |歌《うた》ひ|上《あ》ぐればウンウンと
|苦《くる》しき|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げて  |面《かほ》をしかめて|起《お》き|上《あ》がり
|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》して  アフンとばかり|呆《あき》れゐる
チルナの|姫《ひめ》は|両人《りやうにん》を  |見《み》るより|早《はや》く|怒《いか》り|立《た》ち
|夫婦喧嘩《めをとげんくわ》の|最中《さいちう》へ  |断《こと》わりもなく|飛《と》び|込《こ》むで
|構《かま》ひ|立《だ》てする|奴《やつ》は|誰《だれ》  |料簡《れうけん》ならぬ|一時《いつとき》も
|早《はや》くこの|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》れと  |悋気《りんき》の|怒《いか》りの|矛先《ほこさき》を
|夫《つま》の|危急《ききふ》を|救《すく》ひたる  |二人《ふたり》の|司《つかさ》にふり|向《む》ける
|心《こころ》|紊《みだ》れしチルナ|姫《ひめ》  |見《み》る|人《ひと》ごとに|吾《わ》が|敵《てき》と
|心《こころ》をひがむぞ|是非《ぜひ》なけれ  チルテル カンナは|三千彦《みちひこ》の
|姿《すがた》|見《み》るより|手《て》を|合《あは》せ  |危急《ききふ》の|場合《ばあひ》よくもマア
お|助《たす》けなさつて|下《くだ》さつた  まづまづ|奥《おく》で|御休息《ごきうそく》
|遊《あそ》ばしませと|言《い》ひながら  |心《こころ》|汚《きたな》きチルテルは
カンナに|向《む》かつて|目配《めくば》せし  この|両人《りやうにん》を|逸早《いちはや》く
|捉《とら》へて|庫《くら》につき|込《こ》めと  |眼《まなこ》で|知《し》らす|厭《いや》らしさ
|三千彦《みちひこ》|伊太彦《いたひこ》|両人《りやうにん》は  |二人《ふたり》の|心《こころ》を|察《さつ》すれど
デビスの|姫《ひめ》の|所在《ありか》をば  |探《さぐ》らむものと|思《おも》ふより
|素知《そし》らぬ|面《かほ》を|装《よそほ》ひつ  カンナの|後《あと》に|従《したが》ひて
|暗《やみ》の|庭先《にはさき》トボトボと  |隙《すき》を|窺《うかが》ひ|跟《つ》いて|行《ゆ》く
|三千彦《みちひこ》つつと|立《た》ち|止《と》まり  カンナの|腕《うで》をグツと|取《と》り
|汝《なんぢ》はこの|家《や》の|使人《つかひびと》  バラモン|教《けう》のリュウチナント
カンナと|申《まを》す|奴《やつ》であらう  デビスの|姫《ひめ》を|隠《かく》したは
この|家《や》の|主《あるじ》チルテルの  |全《まつた》く|指図《さしづ》によるものと
|早《はや》くも|吾《われ》は|悟《さと》りしぞ  いと|速《すみ》やかに|所在《ありか》をば
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|告《つ》げまつれ  |違背《ゐはい》に|及《およ》ばば|玉《たま》の|緒《を》の
|汝《なんぢ》が|命《いのち》を|奪《うば》ふべし  |返答《へんたふ》いかにとせめかくる
さすがのカンナも|困《こま》りはて  |身《み》をブルブルと|慄《ふる》はせて
ハイハイ|白状《はくじやう》いたします  |命《いのち》ばかりはお|助《たす》けと
|両手《りやうて》を|合《あは》せて|涙《なみだ》ぐみ  |二人《ふたり》を|伴《ともな》ひ|第一《だいいち》の
|倉庫《さうこ》の|表《おもて》を|押《お》し|開《あ》けて  |中《なか》に|立入《たちい》りデビス|姫《ひめ》
|厳《きび》しき|繩《なわ》を|解《と》きながら  |二人《ふたり》に|向《む》かひ|丁寧《ていねい》に
モウシ モウシ|宣伝使《せんでんし》  ここにゐられる|御婦人《ごふじん》は
あなたのお|尋《たづ》ね|遊《あそ》ばした  デビス|姫《ひめ》でござりませう
|私《わたし》は|宅《うち》に|不在番《るすばん》を  |致《いた》してをつたそのために
その|経緯《いきさつ》は|知《し》りませぬ  まづまづお|査《しら》べなさりませ
いへば|三千彦《みちひこ》|伊太彦《いたひこ》は  あたりに|心《こころ》を|配《くば》りつつ
|伊太彦《いたひこ》|外《そと》に|待《ま》たせおき  |三千彦《みちひこ》|一人《ひとり》|倉《くら》の|中《なか》
|明《あか》りを|灯《とぼ》して|入《い》り|見《み》れば  |口《くち》にははます|猿轡《さるぐつわ》
|手足《てあし》を|縛《しば》り|土《つち》の|上《へ》に  いとも|無残《むざん》に|寝《ね》させける
|三千彦《みちひこ》|見《み》るより|腹《はら》を|立《た》て  |姫《ひめ》の|縛《いましめ》|解《と》きながら
|直《ただ》ちにカンナを|縛《しば》り|上《あ》げ  その|場《ば》に|倒《たふ》しデビス|姫《ひめ》を
|労《いた》はりながら|倉《くら》の|外《そと》へ  やうやく|救《すく》ひ|出《い》だしけり
ここに|三千彦《みちひこ》|倉《くら》の|戸《と》を  ピシヤリと|閉《し》めて|錠《ぢやう》おろし
|姫《ひめ》を|労《いたは》り|慰《なぐさ》めつ  |闇《やみ》に|紛《まぎ》れてスタスタと
この|場《ば》を|後《あと》に|出《い》でて|行《ゆ》く。
ヘールは|夜《よる》の|巡視《じゆんし》を|了《を》へて|館《やかた》へ|帰《かへ》つて|見《み》ると、チルナ|姫《ひめ》は|髪《かみ》ふり|乱《みだ》し、|血相《けつさう》|変《か》へて|坐《すわ》つてゐる。チルテルは|真青《まつさを》な|面《かほ》して|睾丸《きんたま》を|押《お》さへ、「ウンウン」と|唸《うな》つてゐる。
ヘールはつかつかと|傍《そば》に|近付《ちかづ》き、
『ヤア、あなたはキャプテンの|旦那様《だんなさま》、|奥様《おくさま》、ただならぬこの|御様子《ごやうす》、|何者《なにもの》が|襲来《しふらい》いたしましたか』
チルナ『お|前《まへ》はヘール、よう|来《き》て|下《くだ》さつた。チルテルさまは|本当《ほんたう》に|毒性《どくしやう》な|人《ひと》だよ。|私《わたし》を|放《ほ》り|出《だ》して、|裏《うら》の|離室《はなれ》にをる|女性《あまつちよ》や、そのほか|沢山《たくさん》の|女《をんな》を|引《ひ》き|入《い》れ、|勝手《かつて》|気儘《きまま》の|生活《せいくわつ》を|送《おく》らうとなさるのだから、こんなことがハルナの|都《みやこ》へ|聞《き》こえやうものなら、それこそ|御身《おんみ》の|終《をは》り、|妾《わたし》はもはや|覚悟《かくご》を|定《き》めました。この|家《や》を|追出《おひだ》される|代《かは》りに、ハルナの|都《みやこ》へ|帰《かへ》つて|一伍一什《いちぶしじふ》を|申《まを》し|上《あ》げ、|主人《しゆじん》の|目《め》を|覚《さま》さねばおきませぬ。ヘール|殿《どの》、|後《あと》を|確《しつか》り|頼《たの》みますよ。|妾《わらは》はこれからお|暇《いとま》をいたします』
ヘール『モシモシちよつとお|待《ま》ち|下《くだ》さい。あまり|仲《なか》が|良《よ》すぎるので、そんな|喧嘩《けんくわ》が|始《はじ》まるのです。|旦那様《だんなさま》は|何時《いつ》も|貴女《あなた》を|偉《えら》い|女房《にようばう》だ、|美《うつく》しい|者《もの》だ、|優《やさ》しい|者《もの》だと|褒《ほ》めてゐられますよ』
『エーお|前《まへ》は|旦那様《だんなさま》と|肚《はら》を|合《あは》し、|妾《わらは》を|追出《おひだ》す|所存《しよぞん》であらうがな。|何《なに》もかもカンナから|聞《き》いてあるのだよ。そんな|一時逃《いちじのが》れの|追従《つゐしよう》を|食《く》ふやうなチルナぢやございませぬ。|左様《さやう》なら、|旦那様《だんなさま》、スベタ|女《をんな》とお|楽《たの》しみなさい』
と|血相《けつさう》かへて|飛《と》び|出《だ》さうとする。|飛《と》び|出《で》て|欲《ほ》しかつたチルテルも、こんなことをハルナの|都《みやこ》に|報告《はうこく》されては|大変《たいへん》だ、|一層《いつそ》のこと|永久《えいきう》に|庫《くら》の|中《なか》へ|放《ほ》り|込《こ》んでおくに|限《かぎ》ると|決心《けつしん》し、|痛《いた》さをこらへて、
『ヤア、ヘール、|女房《にようばう》は|発狂《はつきやう》いたし、この|俺《おれ》の|睾丸《きんたま》を|握《にぎ》つて|殺《ころ》さうといたした|謀殺未遂犯人《ぼうさつみすゐはんにん》だ。サア|早《はや》くふん|縛《じば》つて、|第一号《だいいちがう》の|倉庫《さうこ》へ|放《ほ》り|込《こ》むでくれ。これはチルテルの|命令《めいれい》ぢやない、キャプテンの|申付《まをしつ》けだぞ』
ヘール『ハア』
とゐずまゐを|直《なほ》し、|矢《や》にはにチルナ|姫《ひめ》の|後《うし》ろにまはり、
ヘール『|謀殺未遂《ぼうさつみすゐ》の|大罪人《だいざいにん》、バラモン|軍《ぐん》の|関守《せきもり》|兼《けん》キャプテンの|命《めい》によつて|捕縛《ほばく》する。|神妙《しんめう》に|繩《なは》にかかれ』
といひ|放《はな》ち、チルナ|姫《ひめ》の|細腕《ほそうで》をグツと|後《うし》ろへ|廻《まは》し、|捕繩《ほじよう》をもつて|縛《しば》り|上《あ》げ、
『きりきり|歩《あゆ》め』
といひながら|第一倉庫《だいいちさうこ》を|指《さ》して|引《ひ》き|摺《ず》り|行《ゆ》く。
ヘール『ハハア、ここはデビス|姫《ひめ》とかいふ|奴《やつ》が、|放《ほ》り|込《こ》んである|倉庫《さうこ》だ。|女同士《をんなどうし》|二人《ふたり》|放《ほ》り|込《こ》みておけば、ずゐぶん|悋気《りんき》の|花《はな》が|咲《さ》くことだらう。イヤ|面白《おもしろ》い|喧嘩《けんくわ》が|始《はじ》まるだらう』
と|呟《つぶや》きながら、ガラガラと|戸《と》を|開《あ》け|無理《むり》に|押《お》し|込《こ》み、ピシヤリと|戸《と》を|締《し》め|錠《ぢやう》をおろしておく。この|錠《ぢやう》は|小《ちひ》さい|穴《あな》に|一寸《ちよつと》した|石《いし》を|放《ほ》り|込《こ》めば、それで|中《なか》から|何《なに》ほど|焦《あせ》つても|開《あ》かない。|外《そと》からは|自由自在《じいうじざい》に|開《あ》くやうになつてゐる。つまり|倉庫《さうこ》とはいふものの、|監禁室《かんきんしつ》である。
チルナ|姫《ひめ》はヘールに|押《お》し|込《こ》まれた|途端《とたん》にヒヨロヒヨロとして、カンナがふん|縛《じば》られて|倒《たふ》れてゐる|上《うへ》にパツタリとこけ|込《こ》むだ。|真暗《まつくら》がりである。|何人《なにびと》か|見当《けんたう》がつかぬ。しかしながら|今《いま》ヘールが|独《ひと》り|言《ごと》にデビス|姫《ひめ》だとかいひよつた。|大方《おほかた》その|女《をんな》であらう、|此奴《こいつ》もヤツパリ|仇《かたき》の|片割《かたわ》れだ、かやうな|女《をんな》をチルテルの|爺《おやぢ》が|隠《かく》まひおき、チヨコチヨコ|密会《みつくわい》をしてゐるのだらう、エー|残念《ざんねん》だ、|何《なん》とかして|懲《こ》らしてやりたいが、かう|手《て》を|縛《しば》られてはどうすることも|出来《でき》ない……と|小声《こごゑ》で|呟《つぶや》きながら、カンナの|太腿《ふともも》にガブリと【かぶ】りついた。カンナは|吃驚《びつくり》して、
『アイタタ、|痛《いた》い|痛《いた》い』
チルナ『エー、|極道女《ごくだうをんな》|奴《め》、チツとは|痛《いた》いぞ、モツと【かぶ】つてやらうか』
とまた【かぶ】りつく。
カンナ『モシモシ|私《わたし》は|女《をんな》ぢやございませぬ。カンナといふ|男《をとこ》でございます。どうぞ|怺《こら》へて|下《くだ》さいませ。かう|手足《てあし》を|縛《しば》られては|動《うご》くことも|出来《でき》ませぬ』
チルナ『エー、|図々《づうづう》しい、|男《をとこ》の|声色《こわいろ》を|使《つか》つたつて、そんなことに|誤魔化《ごまくわ》されるチルナ|姫《ひめ》ぢやございませぬぞえ。|大化者《おほばけもの》|奴《め》、ようマア|旦那様《だんなさま》に|悪知恵《わるぢゑ》をつけ、|妾《わらは》をこんな|目《め》に|会《あ》はしよつたナ。|妾《わらは》は|死物狂《しにものぐる》ひ、|汝《そなた》の|肉《にく》を|皆《みな》|咬《か》み|切《き》つてやらねば|了簡《れうけん》ならぬ、|覚悟《かくご》しや』
『モシモシ、あなたは|奥様《おくさま》ぢやございませぬか。|私《わたし》はカンナでございますよ』
『エー、そんな|嘘《うそ》をいつても|承知《しようち》をいたさぬぞや。カンナはこんな|所《ところ》にゐる|筈《はず》がない。お|前《まへ》はデビスに|間違《まちが》ひなからうがな』
『めつさうな、|私《わたし》の|声《こゑ》をお|聞《き》きになつても|分《わか》るぢやありませぬか』
『エー、|何《なに》をツベコベといふのだい。|耳《みみ》がワンワンして、|声《こゑ》が|聞《き》き|分《わ》けられるやうな|場合《ばあひ》かい、|何《なん》といつても、お|前《まへ》はデビスに|違《ちが》ひない。|思《おも》ひ|知《し》つたがよからうぞや』
とまた【かぶ】る。カンナは、
『|痛《いた》い! |痛《いた》い|痛《いた》い|痛《いた》い』
と|悲鳴《ひめい》をあげる。その|勢《いきほ》ひに|手《て》をくくつた|綱《つな》はプツリと|切《き》れた。カンナは|直様《すぐさま》【かぶ】りついてゐる|女《をんな》の|髻《たぶさ》を|片手《かたて》に|持《も》ち、|片手《かたて》に|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて、|力《ちから》の|限《かぎ》り|殴《なぐ》りつけた。「キヤツ」と|一声《ひとこゑ》、|後《あと》は|何《なに》も|聞《き》こえなくなり、【かぶ】りついても|来《こ》ぬ。カンナは|直《ただ》ちに|足《あし》の|縛《いまし》めを|解《と》き、|暗《くら》がりを|探《さぐ》つて、チルナの|縛《いまし》めを|解《と》き|背中《せなか》を|三《み》つ|四《よ》つ|殴《なぐ》りつけた。「ウーン」と|息《いき》|吹《ふ》き|返《かへ》した。されど|真暗《まつくら》がりで|互《たが》ひの|顔《かほ》は|鼻《はな》を|摘《つ》まんでも|分《わか》らない。チルナは|死武者《しにむしや》になつて|這《は》ひまはり、カンナが|面《つら》をしかめて|傷所《きずしよ》を|撫《な》でてゐるその|手《て》がフツと|触《さは》つたので、
チルナ『エーこのスベタ|女《をんな》|奴《め》』
といひながら、グツと|太腿《ふともも》を|掻《か》き【むし】つてやらうと、|手《て》を|差伸《さしの》べた|途端《とたん》に、|種茄子《たねなす》のやうな|形《かたち》した|物《もの》が|手《て》に|触《さは》つた。
チルナ『アアヤツパリお|前《まへ》は|男《をとこ》であつたか、|何者《なにもの》ぢや』
カンナ『|私《わたし》はカンナでございます。|奥様《おくさま》に|暗《くら》がりで、|三四ケ所《さんしかしよ》も|太腿《ふともも》の|肉《にく》を|咬《か》みとられ、どうも|痛《いた》くて|辛抱《しんばう》が|出来《でき》ませぬ。|酷《ひど》いことをなされますなア』
『そりやお|前《まへ》、|時《とき》の|災難《さいなん》と|諦《あきら》めるより|仕方《しかた》がないぢやないか。|妾《わたし》の|横面《よこづら》を|大変《たいへん》、お|前《まへ》も|殴《なぐ》りつけたのだから、たがひに|恨《うら》みは|帳消《ちやうけ》しとして、|一時《いちじ》も|早《はや》く|此処《ここ》を|逃《に》げ|出《だ》す|工夫《くふう》をしようぢやないか』
『|逃出《にげだ》さうといつても、かう|足《あし》に|重傷《ぢうしやう》を|負《お》うては|動《うご》きが|取《と》れませぬ。そしてこの|錠前《ぢやうまへ》は|中《なか》からはどうしても|開《あ》けられないのです。|壁《かべ》には|太《ふと》い|鉄線《てつせん》が|碁盤《ごばん》の|目《め》のごとく|張《は》つてありますから、たうてい|駄目《だめ》でせう』
『ここにデビス|姫《ひめ》とかが|縛《しば》つて|投《な》げ|込《こ》むであるといふことだから、|一《ひと》つ|探《さぐ》つてみて|仇《かたき》を|討《う》つから、お|前《まへ》さま、それなつと|見《み》て|気《き》を|慰《なぐさ》めなされ。アア|腹立《はらだ》たしい、どこにすつ|込《こ》んでゐるのだな。オイ、デビス、|声《こゑ》を|立《た》てぬか。なんぼ|黙《だま》つてをつても|昼《ひる》になればチツと|明《あか》くなるから、|所在《ありか》を|見《み》つけ、|成敗《せいばい》をいたすぞや。いま|素直《すなほ》にここにをりますと|申《まを》せば|腕《うで》の|一本《いつぽん》ぐらゐで|堪《こら》へてやる』
『モシ、|奥《おく》さま、そのデビスは|私《わたし》と|入替《いれか》へに|旦那様《だんなさま》のお|使《つかひ》が|出《で》て|来《き》て|連《つ》れ|出《だ》してしまひました。|大方《おほかた》いまごろはその|女《をんな》を|看護婦代用《かんごふだいよう》にしてゐられるでせうよ。アイタタタ、アア|痛《いた》い|痛《いた》い、|本当《ほんたう》にエライこと【かぶ】られて、|太腿《ふともも》が|三所《みとこ》も|四所《よとこ》も|赤《あか》い|口《くち》をあけて|欠伸《あくび》をしてゐるやうだ。|本当《ほんたう》に|酷《ひど》い|目《め》に|会《あ》はしましたなア』
『ホツホホホホ、|常平生《つねへいぜい》から|旦那《だんな》さまをそそのかし、|初稚《はつわか》などといふ|女《をんな》を|連《つ》れて|来《き》たのも、|元《もと》を|糺《ただ》せばお|前《まへ》ぢやないか。つまりいへば|自業自得《じごふじとく》だよ。マア|天罰《てんばつ》が|当《あた》つたと|思《おも》うて|辛抱《しんばう》しなさい。お|前《まへ》は|太腿《ふともも》の|三片《みきれ》や|四片《よきれ》|取《と》られたとてそれほど|苦《くる》しいのか。|妾《わたし》は|大事《だいじ》の|大事《だいじ》の|夫《をつと》の|身体《からだ》を|全体《まるくち》|取《と》られたでないか、アア|残念《ざんねん》やなア、ウンウンウンウン』
|倉《くら》の|隅《すみ》から|猫《ねこ》のやうな|劫《ごふ》|経《へ》た|大《おほ》きい|鼠《ねづみ》が、
『クウクウクウクウ、チウチウチウチウ、ガタガタガタガタ、ゴトゴトゴトゴトゴト』
と|厭《いや》らしい|音《おと》を|立《た》ててゐる。
(大正一二・四・一 旧二・一六 於皆生温泉浜屋 松村真澄録)
第九章 |暗内《あんない》〔一五〇九〕
|玉国別《たまくにわけ》、|真純彦《ますみひこ》は|長途《ちやうと》の|海路《うなぢ》に|草臥《くたび》れきつた|上《うへ》、|振舞酒《ふるまひざけ》にグツタリ|酔《よ》うてその|夜《よ》は|潰《つぶ》れたやうに|熟睡《じゆくすゐ》してしまつた。まづ|手洗《てうづ》を|使《つか》ひ|口《くち》をすすぎ、|東天《とうてん》を|拝《はい》し、|次《つ》いで|神殿《しんでん》に|進《すす》み|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、しばらく|休息《きうそく》してゐる。そこへバーチルは|顔色《がんしよく》を|変《か》へて|出《い》で|来《き》たり、
『もし|先生様《せんせいさま》、|大変《たいへん》な|事《こと》が|出来《しゆつたい》いたしました。|誠《まこと》に|申《まを》し|訳《わけ》のないことでございます』
|玉国《たまくに》『|大変《たいへん》とは|何事《なにごと》でございますか』
バーチル『はい、|私《わたし》もグツタリと|草臥《くたび》れて、よく|寝込《ねこ》んでしまひましたので、|夜中《やちう》の|出来事《できごと》は|少《すこ》しも|存《ぞん》じませぬが、|三千彦《みちひこ》|様《さま》、|伊太彦《いたひこ》|様《さま》、デビス|姫様《ひめさま》のお|三方《さんかた》が、|何《なに》ほどそこらを|探《さが》しても|行衛《ゆくゑ》が|分《わか》りませぬ。|里人《さとびと》の|話《はなし》によりますと、|裏門口《うらもんぐち》を|開《ひら》いてバラモンの|軍人《ぐんじん》が|三人様《さんにんさま》をフン|縛《じば》り|帰《かへ》つたとのこと、|実《じつ》に|申《まを》し|訳《わけ》のない|事《こと》をいたしました』
|玉国《たまくに》『なに、|三人《さんにん》がバラモン|軍《ぐん》に|誘《さそ》はれたと、やア、それは|大変《たいへん》だ。|真純彦《ますみひこ》、こりやかうしてはをられまい。これから|両人《りやうにん》がバラモンの|関所《せきしよ》に|押《お》しかけて|行《い》つて|様子《やうす》を|探《さぐ》つて|見《み》やうぢやないか』
|真純《ますみ》『いかにも|大変《たいへん》な|事《こと》が|出来《しゆつたい》いたしました。さア|参《まゐ》りませう』
バーチル『もし|先生様《せんせいさま》、ちよつとお|待《ま》ち|下《くだ》さいませ。バラモンの|関所《せきしよ》には|一中隊《いつちうたい》の|勇猛《ゆうまう》なる|兵士《へいし》が|抱《かか》へてございますから、お|二人様《ふたりさま》では|険難《けんのん》でございませう。|幸《さいは》ひかうして|村中《むらぢう》の|者《もの》が|昼夜《ひるよる》の|別《べつ》なく、|祝《いは》ひに|来《き》てをりますから、この|中《うち》から|強《つよ》い|者《もの》を|選《えら》むで|数十人《すうじふにん》お|連《つ》れになつてはどうでせう。|私《わたし》も|命《いのち》を|助《たす》けてもらつた|御恩返《ごおんがへ》しに|今度《こんど》は|命《いのち》を|捨《す》てます。どうぞさうなすつて|下《くだ》さいませぬか』
|玉国《たまくに》『いや、|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな。また|宣伝使《せんでんし》が|貴方《あなた》がたの|助力《じよりよく》によつて|多数《たすう》を|恃《たの》むで|押《お》し|掛《か》けたといはれては|済《す》みませぬ。また|一方《いつぱう》は|武器《ぶき》を|持《も》つたもの、|里人《さとびと》に|怪我《けが》でもあつては|済《す》みませぬから、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》が|直接《ちよくせつ》に|出《で》かけませう』
『さう|仰有《おつしや》れば|是非《ぜひ》がございませぬ。|代《かは》りに|私《わたし》がお|伴《とも》をいたしませう』
『いや、それには|及《およ》びませぬ。しかしながら|僅《わづ》かに|二人《ふたり》、|敵《てき》の|中《なか》へ|参《まゐ》るのでございますから、これがお|顔《かほ》の|見納《みをさ》めになるかも|知《し》れませぬ。どうぞ|貴方《あなた》は|神様《かみさま》の|御心《みこころ》をよくお|覚《さと》りなさつて、この|里人《さとびと》を|導《みちび》き|可愛《かはい》がつておやりなさいませ』
かかるところへサーベル|姫《ひめ》は|襖《ふすま》をソツと|押《お》し|開《ひら》き、|涙《なみだ》と|共《とも》に|転《ころ》げるやうにして|入《い》り|来《き》たり、
『|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》、|真純彦《ますみひこ》|様《さま》、|大変《たいへん》な|事《こと》が|出来《しゆつたい》いたしました。どうぞ|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》によつてお|三方《さんかた》を|救《すく》ひ|出《だ》し、|無事《ぶじ》にお|帰《かへ》り|下《くだ》さいませ。|妾《わらは》は|神様《かみさま》を|念《ねん》じ|無事《ぶじ》の|成功《せいこう》を|祈《いの》ります』
|玉国別《たまくにわけ》『|有難《ありがた》し|君《きみ》が|情《なさけ》の|厚衣《あつごろも》
|身《み》に|纒《まと》ひつつ|進《すす》み|行《ゆ》くべし
|真心《まごころ》を|深《ふか》く|包《つつ》みし|衣手《ころもで》に
|薙《な》ぎて|屠《ほふ》らむ|醜《しこ》の|輩《たぶれ》を』
|真純彦《ますみひこ》『|曲神《まがかみ》に|苦《くる》しめられし|吾《わ》が|友《とも》を
|助《たす》けに|行《ゆ》かむ|神《かみ》のまにまに
|大神《おほかみ》の|御前《みまへ》に|額《ぬかづ》き|願《ね》ぎ|申《まを》す
この|首途《かどいで》を|真幸《まさき》くあれよと』
バーチル『|真心《まごころ》を|籠《こ》めて|打《う》ち|出《だ》す|言霊《ことたま》に
|刃向《はむ》かふ|仇《あだ》の|如何《いか》であるべき
さりながら|心《こころ》|配《くば》りて|出《い》でませよ
|企《たく》みも|深《ふか》き|陥穽《おとしあな》あれば』
サーベル|姫《ひめ》『|玉国別《たまくにわけ》|神《かみ》の|命《みこと》よ|真純彦《ますみひこ》よ
|仇《あだ》の|館《やかた》に|気《き》を|配《くば》りませ』
|玉国別《たまくにわけ》『|有難《ありがた》し|神《かみ》に|捧《ささ》げし|吾《わ》が|命《いのち》
よし|捨《す》つるとも|如何《いか》で|恐《おそ》れむ』
|真純彦《ますみひこ》『|皇神《すめかみ》の|縁《えにし》の|糸《いと》に|結《むす》ばれし
|身《み》ながら|今《いま》は|解《と》けむとぞする』
バーチル『|吾《わ》が|僕《しもべ》アンチー|連《つ》れて|出《い》でませよ
かれは|力《ちから》の|強《つよ》き|益良夫《ますらを》』
|玉国別《たまくにわけ》『|吾《わ》が|道《みち》は|人《ひと》を|頼《たよ》らず|杖《つゑ》につかず
ただ|真心《まごころ》に|進《すす》むのみなり
|折角《せつかく》の|思召《おぼしめ》しをば|無《な》みするは
|心《こころ》|済《す》まねど|許《ゆる》し|玉《たま》はれ
|三千彦《みちひこ》はさぞ|今《いま》ごろは|仇人《あだびと》と
|厳《いづ》の|言霊《ことたま》|打《う》ち|合《あ》ひゐるらむ』
|真純彦《ますみひこ》『|言霊《ことたま》の|戦《たたか》ひなれば|恐《おそ》れまじ
|兇器《きようき》を|持《も》ちし|敵《てき》の|陣中《ぢんちう》も
|曲神《まがかみ》の|憑《うつ》りきつたる|仇人《あだびと》を
|言向《ことむ》け|和《やは》す|日《ひ》とはなりぬる』
アンチー『|神司《かむつかさ》|吾《われ》を|召《め》し|連《つ》れ|出《い》でまして
|真心《まごころ》の|限《かぎ》りを|尽《つく》させ|玉《たま》へ
よしやよし|命《いのち》を|敵《てき》に|渡《わた》すとも
いかで|悔《く》いなむ|捨《す》てしこの|身《み》は』
|玉国別《たまくにわけ》『|玉《たま》の|緒《を》の|命《いのち》に|代《か》へて|嬉《うれ》しきは
|汝《なれ》が|心《こころ》の|誠《まこと》なりけり』
かく|互《たが》ひに|歌《うた》を|取《と》り|交《かは》し、|玉国別《たまくにわけ》、|真純彦《ますみひこ》は|今《いま》や|宣伝使《せんでんし》の|服《ふく》を|脱《ぬ》ぎ、バーチルの|与《あた》へたる|衣服《いふく》と|着替《きか》へながら|立出《たちい》でむとするところへ、|泥酔者《よひどれ》のテクはツカツカと|現《あら》はれ|来《き》たり、
『ヘー、|御免《ごめん》なさいませ。|私《わたし》は|今日《けふ》まではバラモン|教《けう》の|目付役《めつけやく》の|下《した》を|働《はたら》くスパイでございました。|一方《いつぱう》には|海賊《かいぞく》の|張本人《ちやうほんにん》ヤッコスと|兄弟分《きやうだいぶん》となり、|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と、よくない|事《こと》ばかりやつてゐましたが、|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》に|何《なん》とも|知《し》れぬ|般若湯《はんにやたう》をいただき、それから|心《こころ》に|潜《ひそ》む|鬼《おに》が|私《わたし》の|身内《しんない》から|逐転《ちくてん》しまして、|今《いま》は|全《まつた》く|人間心《にんげんごころ》に|立《た》ち|帰《かへ》りました。つきましてはチルテルの|邸《やしき》には|沢山《たくさん》の|陥穽《おとしあな》がございますれば、このテクが|御案内《ごあんない》をいたしませう。うつかり|行《ゆ》かうものなら、えらい|目《め》に|会《あ》ひます。その|秘密《ひみつ》を|知《し》つてるのは|外《ほか》にはございませぬ。|関所《せきしよ》を|守《まも》つてる|軍人《ぐんじん》の|外《ほか》は|誰《たれ》も|知《し》りませぬから、お|危《あぶ》なふございます』
|玉国《たまくに》『おう、お|前《まへ》はテクさまだつたな。や、|有難《ありがた》う、それほど|沢山《たくさん》に|陥穽《おとしあな》がこしらへてあるかな』
テク『ヘーヘー、あちらにもこちらにも|陥穽《おとしあな》ばかりでございます。あんな|所《ところ》へ|落《お》ちたが|最後《さいご》、|上《あ》がることは|出来《でき》ませぬ。さうしてこのごろは|何《なん》とも|知《し》れぬ|美《うつく》しい|女《をんな》の|方《かた》が|離家《はなれ》にただ|一人《ひとり》をられます。さうしてそのお|名《な》は|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》だとかいふことでございます。|関守《せきもり》のキャプテンがその|女《をんな》に|現《うつつ》を|抜《ぬ》かし、それがために|夫婦喧嘩《ふうふげんくわ》がおつぱじまり、いやもう、|内部《ないぶ》の|醜態《しうたい》といつたら|話《はなし》になりませぬ』
『なに、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》がござるといふのか。どんな|年格好《としかつかう》なお|方《かた》だ』
『はい、|明瞭《はつきり》は|分《わか》りませぬが、|一寸《ちよつと》|見《み》たところでは|十七八才《じふしちはつさい》かと|思《おも》ひます。しかしどこともなく|十五六才《じふごろくさい》の|幼《をさな》いところもございますし、|体中《からだぢう》|宝石《はうせき》をもつて|飾《かざ》つてをられます。それはそれは|綺麗《きれい》なお|方《かた》ですよ』
|玉国《たまくに》『はてな、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は、そんな|宝石《はうせき》などを|身《み》に|飾《かざ》るやうなお|方《かた》ぢやないと|聞《き》いてゐる。おほかた|同名異人《どうめいいじん》だらう。なア|真純彦《ますみひこ》』
|真純《ますみ》『そら、さうでございませう。|世間《せけん》に|同《おな》じ|名《な》はいくらもございますからな』
|玉国《たまくに》『あ、そんなら|屋敷《やしき》の|案内《あんない》をお|願《ねが》ひしようかな』
テク『いや|早速《さつそく》の|御承知《ごしようち》、|有難《ありがた》うございます。|大抵《たいてい》のとこはみな|私《わたし》が|知《し》つてをりますから、|私《わたし》の|後《あと》に|跟《つ》いて|来《き》て|下《くだ》さいますれば、メツタに|不調法《ぶてうはふ》はさせませぬ。そしてあの|女《をんな》に|一度《いちど》お|会《あ》ひになれば|真偽《しんぎ》が|分《わか》るでせう。|大方《おほかた》あなたのお|弟子《でし》は|陥穽《おとしあな》に|落《お》ち|込《こ》みなさつたかも|知《し》れませぬ。うつかりしてゐると|命《いのち》が|怪《あや》しうございます。|沢山《たくさん》な|兵士《へいし》が|寄《よ》つて|上《うへ》から|石《いし》を|投《な》げ|込《こ》むのですから、たまつたものぢやありませぬわ』
バーチル『テクさま、お|前《まへ》さまはアキスから|聞《き》けば|宅《うち》の|番頭《ばんとう》になつたといつてゐられたさうだが、|本当《ほんたう》に|番頭《ばんとう》になつてくれますか。アンチーも|暫《しばら》く|休《やす》まして|下《くだ》さいといつてるから、お|前《まへ》さまが|番頭頭《ばんとうがしら》になつて|下《くだ》さらば|大変《たいへん》|都合《つがふ》がよろしいがな』
テク『|承知《しようち》いたしやした。あなたからお|言葉《ことば》のかからぬ|中《うち》から|已《すで》に|番頭《ばんとう》と|一人《ひとり》で|定《き》めてをりますから、|何《なん》の|異議《いぎ》がございませう。もとは|悪人《あくにん》でござりましたが、|神様《かみさま》の|光《ひか》りに|照《て》らされて|最早《もはや》|悪《あく》が|恐《おそ》ろしくなり、その|罪亡《つみほろ》ぼしに|一《ひと》つでも|善事《ぜんじ》を|行《おこな》ひたいと|決心《けつしん》をしてをりますから、どうぞ|宜《よろ》しくお|願《ねが》ひ|申《まを》します。サア|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》、|真純彦《ますみひこ》|様《さま》、|参《まゐ》りませう』
アンチー『|是非《ぜひ》とも|私《わたし》をお|伴《とも》に|願《ねが》ひます』
|玉国《たまくに》『それほど|仰《おほ》せらるるなれば|御同行《ごどうかう》を|願《ねが》ひませう』
とバーチル|夫婦《ふうふ》に|暇《いとま》を|告《つ》げ、|裏口《うらぐち》より|一行《いつかう》|四人《よにん》キヨの|関守《せきもり》チルテルが|館《やかた》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。テクは|先頭《せんとう》に|立《た》ちヤッコス|踊《をど》りをしながら、|心《こころ》イソイソ|歌《うた》ひはじめた。
『バラモン|教《けう》のキャプテンが  |部下《ぶか》に|使《つか》はれ|犬《いぬ》となり
かなたこなたと|湖辺《うみべ》をば  |尋《たづ》ねまはりて|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》や|信徒《まめひと》を  |一人《ひとり》も|残《のこ》さずフン|縛《じば》り
キヨの|関所《せきしよ》へ|連《つ》れ|行《ゆ》きて  |褒美《はうび》の|金《かね》を|沢山《どつさり》と
|頂《いただ》き|好《す》きなお|酒《さけ》をば  |飲《の》んで|浮世《うきよ》を|面白《おもしろ》く
|暮《くら》さむものと|心《こころ》をば  |鬼《おに》や|大蛇《をろち》と|変化《へんげ》させ
|悪《あく》の|道《みち》のみ|辿《たど》りたる  |悪党無頼《あくたうぶらい》のこのテクも
|玉国別《たまくにわけ》の|神様《かみさま》の  |厚《あつ》き|心《こころ》に|感服《かんぷく》し
|迷《まよ》ひの|夢《ゆめ》も|覚《さ》め|果《は》てて  バーチルさまの|家《いへ》の|子《こ》と
|仕《つか》ふる|身《み》とはなりにけり  バラモン|教《けう》の|関守《せきもり》が
いかほど|神力《しんりき》あるとても  いかで|及《およ》ばむ|三五《あななひ》の
|誠《まこと》|一《ひと》つの|言霊《ことたま》に  |敵《てき》することは|出来《でき》よまい
|屋敷《やしき》の|中《なか》に|沢山《たくさん》の  |陥穽《おとしあな》をば|穿《うが》ちつつ
|三五教《あななひけう》やウラル|教《けう》  |道《みち》の|教《をしへ》のピュリタンを
|否応《いやおう》いはさずフン|縛《じば》り  |皆《みな》ことごとく|陥穽《かんせい》に
|落《お》として|喜《よろこ》ぶ|悪神《あくがみ》の  |醜《しこ》の|器《うつは》となり|果《は》てし
チルテル|司《つかさ》は|魔《ま》か|鬼《おに》か  |思《おも》ひ|廻《まは》せば|恐《おそ》ろしや
かかる|悪魔《あくま》を|逸早《いちはや》く  |亡《ほろ》ぼし|尽《つく》し|世《よ》の|人《ひと》の
|災難《なやみ》を|早《はや》く|救《すく》はねば  イヅミの|国《くに》の|人々《ひとびと》は
|枕《まくら》も|高《たか》く|眠《ねむ》れない  |吾《われ》も|元《もと》より|悪人《あくにん》の
|種《たね》ではなけれど|止《や》むを|得《え》ず  バラモン|教《けう》の|勢力《せいりよく》に
|刃向《はむ》かひその|身《み》の|不幸《ふかう》をば  |招《まね》かむ|事《こと》を|恐《おそ》れてゆ
|心《こころ》にもなき|間諜《いぬ》となり  |吾《わ》が|良心《りやうしん》に|責《せ》められて
|苦《くる》しき|月日《つきひ》を|送《おく》りつつ  せつなき|思《おも》ひを|消《け》さむとて
|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|酒《さけ》を|飲《の》み  |浮世《うきよ》の|中《なか》を|夢現《ゆめうつつ》
|三分五厘《さんぶごりん》に|暮《くら》さむと  |金《かね》さへあれば|自棄酒《やけざけ》を
|呻《あふ》つて|過《すご》す|浅間《あさま》しさ  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|幸《さちは》ひて  いよいよ|今日《けふ》は|三五《あななひ》の
|貴《うず》の|司《つかさ》の|先走《さきばし》り  |今《いま》まで|犯《をか》せし|罪科《つみとが》を
|償《つぐな》ひまつる|今《いま》や|時《とき》  |皇大神《すめおほかみ》よ|大神《おほかみ》よ
テクの|心《こころ》を|憐《あは》れみて  |今度《こんど》の|御用《ごよう》を|恙《つつが》なく
|遂《と》げさせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》  たとへ|天地《てんち》は|変《かは》るとも
|一旦《いつたん》|神《かみ》の|御前《おんまへ》に  |罪《つみ》を|悔《く》いたるこのテクは
|汚《きたな》き|心《こころ》を|露《つゆ》|持《も》たじ  |敵《てき》は|如何《いか》なる|謀計《ぼうけい》を
|廻《めぐ》らし|吾《われ》らを|攻《せ》むるとも  |何《なに》か|恐《おそ》れむ|神心《かみごころ》
|振《ふる》ひ|起《おこ》してどこまでも  |神《かみ》の|御《おん》ため|世《よ》のために
|悪魔《あくま》の|棲《す》ぐひしチルテルの  |醜《しこ》の|司《つかさ》を|懲《こ》らしめて
|世人《よびと》のために|災《わざは》ひを  |除《のぞ》かせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|御伴《みとも》に|仕《つか》へしこのテクが  |真心《まごころ》|捧《ささ》げて|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
アンチーはまた|歌《うた》ふ。
『|三年振《さんねんぶ》りに|吾《わ》が|主人《あるじ》  バーチルさまに|廻《めぐ》り|会《あ》ひ
|喜《よろこ》び|勇《いさ》む|間《ま》もあらず  |命《いのち》の|親《おや》の|神司《かむづかさ》
|危《あや》ふき|敵《てき》の|館《やかた》へと  |出《い》でます|君《きみ》を|案《あん》じつつ
|主人《あるじ》の|君《きみ》の|許《ゆる》し|受《う》け  お|伴《とも》に|仕《つか》へ|進《すす》む|身《み》は
いかなる|曲《まが》の|企《たく》みをも  いかで|恐《おそ》れむ|敷島《しきしま》の
|大和男子《やまとをのこ》の|魂《たましひ》を  |現《あら》はしまつりて|高恩《かうおん》の
|万分一《まんぶんいち》に|報《むく》ふべし  キヨの|港《みなと》は|遠《とほ》けれど
|勝手《かつて》|覚《おぼ》えし|抜《ぬ》け|道《みち》を  |進《すす》むで|行《ゆ》けば|一時《ひととき》の
|間《うち》には|容易《たやす》く|達《たつ》すべし  さはさりながら|真昼中《まひるなか》
|敵《てき》の|館《やかた》へ|進《すす》み|行《ゆ》く  これが|第一《だいいち》|険難《けんのん》だ
|日暮《ひぐ》れを|待《ま》つてボツボツと  |隅《すみ》から|隅《すみ》まで|探索《たんさく》し
|三千彦《みちひこ》さまの|所在《ありか》をば  |探《さが》し|求《もと》めたその|上《うへ》で
あらむ|限《かぎ》りのベストをば  |尽《つく》すもあまり|遅《おそ》からじ
|玉国別《たまくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》  |真純《ますみ》の|彦《ひこ》の|神司《かむづかさ》
|新番頭《しんばんとう》のテクさまよ  あなたの|御意見《ごいけん》|詳細《まつぶさ》に
お|知《し》らせなさつて|下《くだ》されや  |敵《てき》にも|深《ふか》い|企《たく》みあり
|軽《かる》がるしくも|進《すす》みなば  |臍《ほぞ》を|噛《か》むとも|及《およ》ぶなき
|大失敗《だいしつぱい》を|招《まね》くべし  |省《かへり》みたまへ|神司《かむづかさ》
このアンチーは|意外《いぐわい》にも  |卑怯《ひけふ》な|男《をとこ》と|皆《みな》さまは
|思召《おぼしめ》すかは|知《し》らねども  |注意《ちうい》の|上《うへ》に|注意《ちうい》して
|行《ゆ》かねばならぬ|敵《てき》の|中《なか》  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
いづれにしても|大神《おほかみ》の  |力《ちから》に|頼《たよ》り|進《すす》むべし
|玉国別《たまくにわけ》の|御前《おんまへ》に  あらため|伺《うかが》ひ|奉《たてまつ》る』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|玉国別《たまくにわけ》の|意見《いけん》を|求《もと》めた。|玉国別《たまくにわけ》はアンチーの|言葉《ことば》に|一理《いちり》ありとなし、|途上《とじやう》に|佇《たたず》みて|暫《しば》し|思案《しあん》を|廻《めぐ》らしてゐる。テクは|無雑作《むざふさ》に|口《くち》を|開《ひら》いて、
『もし、|皆様《みなさま》、|私《わたし》は|幸《さいは》い|種々《いろいろ》の|関係上《くわんけいじやう》チルテルに|接近《せつきん》せなくてはなりませぬ。それについては|色々《いろいろ》とチルテルの|腹《はら》を|探《さぐ》り、また|敵《てき》の|様子《やうす》や|三千彦《みちひこ》|様《さま》|以下《いか》の|所在《ありか》を|探索《たんさく》するによほど|便宜《べんぎ》を|持《も》つてをりますから、あなたは|暫《しばら》くこの|密林《みつりん》に|日《ひ》の|暮《く》るるまで|御休息《ごきうそく》を|願《ねが》ひ、|私《わたし》が|一応《いちおう》|取調《とりしら》べた|上《うへ》、|日《ひ》が|暮《く》れてからお|出《で》かけになつた|方《はう》がよからうと|在《あ》じますが、あなたがたのお|考《かんが》へは|如何《いかが》でございませうか』
|玉国《たまくに》『なるほど、|却《かへ》つて|夜分《やぶん》の|方《はう》がよいかも|知《し》れない。|御神諭《ごしんゆ》にも「|今《いま》までは|日《ひ》の|暮《く》れが|悪《わる》いと|申《まを》したが、|之《これ》からは|日《ひ》の|暮《く》れに|初《はじ》めたことは|何事《なにごと》もよい」とお|示《しめ》しになつてゐる。そんならテクさま、|御苦労《ごくらう》ながらチルテルの|館《やかた》に|罷《まか》り|越《こ》し、|能《あた》ふ|限《かぎ》りの|偵察《ていさつ》をして|下《くだ》さい。それまでこの|森蔭《もりかげ》に|祈願《きぐわん》をして|待《ま》つてをりませう』
テク『いや、|早速《さつそく》の|御同意《ごどうい》、|有難《ありがた》うございます。それならこのテクがうまく|様子《やうす》を|探《さぐ》つて|参《まゐ》ります。|何卒《どうぞ》この|森《もり》の|奥《おく》で|悠《ゆつく》りと|休息《きうそく》をして|待《ま》つてゐて|下《くだ》さい。|左様《さやう》なら』
といひながら|尻《しり》|引《ひ》つからげ、トントントンと|夏草《なつくさ》|茂《しげ》る|細《ほそ》い|野道《のみち》を|駈《か》け|出《だ》した。|三人《さんにん》は|森《もり》の|木蔭《こかげ》に|腰《こし》を|下《お》ろし、|時《とき》の|至《いた》るを|待《ま》つてゐる。
(大正一二・四・一 旧二・一六 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第一〇章 |変金《へんきん》〔一五一〇〕
キヨの|関守《せきもり》キャプテンのチルテルと|妻《つま》のチルナ|姫《ひめ》との|乱痴気騒《らんちきさわ》ぎを、|広《ひろ》き|庭園《ていゑん》を|隔《へだ》てて|一切万事《いつさいばんじ》|吾不関焉《われくわんせずえん》といふ|態度《たいど》にて、|心《こころ》|静《しづ》かに|一絃琴《いちげんきん》を|手《て》にし、|細《ほそ》き|美《うる》はしき|声《ごゑ》にて|歌《うた》つてゐるのは|初稚姫《はつわかひめ》であつた。
『|花《はな》は|紅《くれなゐ》|葉《は》は|緑《みどり》  |緑《みどり》したたる|黒髪《くろかみ》は
まだうら|若《わか》き|若草《わかぐさ》の  |妻《つま》の|命《みこと》のチルナ|姫《ひめ》
|夫《をつと》の|身《み》の|上《うへ》|気遣《きづか》ひて  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|真心《まごころ》を
|尽《つく》して|神《かみ》に|祈《いの》りまし  |妻《つま》の|務《つと》めを|委細《まつぶさ》に
|包《つつ》むことなく|遂《と》げさせて  |心《こころ》もキヨの|関守《せきもり》の
|関《せき》とめかねしチルテルが  |恋《こひ》に|狂《くる》ひし|心《こころ》の|鬼《おに》を
|追《お》ひ|払《はら》はむと|村肝《むらきも》の  |心《こころ》を|砕《くだ》かせ|玉《たま》ふこそ
|実《げ》にも|憐《あは》れの|次第《しだい》なり  |妻《つま》の|心《こころ》も|白浪《しらなみ》の
|寄《よ》せては|返《かへ》す|磯《いそ》の|浪《なみ》  |彼方《あなた》こなたと|駈《か》け|巡《めぐ》り
|容貌《みめ》|美《うる》はしき|女子《をみなご》と  |見《み》れば|人妻《ひとづま》|人娘《ひとむすめ》
|老《お》いと|若《わか》きの|隔《へだ》てなく  |心《こころ》|蕩《とろ》かす|狒々猿《ひひざる》の
|掻《か》きまはすこそ|歎《うた》てけれ  |妾《わらは》も|此処《ここ》に|来《き》たりしゆ
|心《こころ》に|染《そ》まぬ|事《こと》ながら  これの|家内《やぬち》に|立《た》ち|騒《さわ》ぐ
|荒《あら》き|波《なみ》をば|鎮《しづ》めむと  |神《かみ》の|救《すく》ひの|船《ふね》を|漕《こ》ぎ
|重《おも》き|使命《しめい》を|負《お》ひながら  |見捨《みす》てかねたる|義侠心《ぎけふしん》
|主人《あるじ》の|心《こころ》を|言霊《ことたま》の  |厳《いづ》の|真水《まみづ》に|隈《くま》もなく
|洗《あら》ひ|清《きよ》めて|惟神《かむながら》  |神《かみ》の|心《こころ》に|復《かへ》さむと
|人目《ひとめ》を|忍《しの》びただ|一人《ひとり》  |時《とき》を|待《ま》つほの|浦凪《うらなぎ》に
|立騒《たちさわ》ぐなる|群千鳥《むらちどり》  |早《はや》く|和鳥《なとり》になれかしと
|皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に  |心《こころ》の|限《かぎ》り|祈《いの》るなり
それにつけても|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|使《つかひ》の|宣伝使《せんでんし》
|聖《きよ》き|心《こころ》の|玉国別《たまくにわけ》や  |鏡《かがみ》も|清《きよ》き|真純彦《ますみひこ》
|思《おも》ひは|胸《むね》に|三千彦《みちひこ》の  |妻《つま》とあれますデビス|姫《ひめ》
|伊太彦司《いたひこつかさ》の|一行《いつかう》が  |月《つき》|照《て》りわたるキヨの|湖《うみ》
|渡《わた》りて|此処《ここ》に|来《き》ますなる  |神《かみ》の|御言《みこと》を|受《う》けてより
|目無堅間《めなしかたま》の|舟《ふね》|傭《やと》ひ  |波路《なみぢ》を|安《やす》く|守《まも》りつつ
|先《さき》へ|廻《まは》つてこの|館《やかた》  |神《かみ》の|司《つかさ》の|危難《きなん》をば
|救《すく》ひて|功績《いさを》をそれぞれに  |挙《あ》げさせなむとの|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|砕《くだ》く|吾《われ》こそは  |初稚姫《はつわかひめ》の|神柱《かむばしら》
|三千年《さんぜんねん》に|一度《いちど》|咲《さ》く  |高天原《たかあまはら》の|最奥《さいあう》の
|神《かみ》の|御苑《みその》の|桃林《たうりん》に  |匂《にほ》ひ|初《そ》めたる|桃《もも》の|花《はな》
ただ|一輪《いちりん》の|吾《わ》が|魂《たま》は  いかにこの|場《ば》を|治《をさ》めむと
|天津御神《あまつみかみ》や|国津神《くにつかみ》  |百八十柱《ももやそばしら》のエンゼルと
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|語《かた》らひて  やうやく|神《かみ》の|御心《みこころ》を
|現《あら》はす|時《とき》となりにけり  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|恩頼《みたまのふゆ》を|謹《つつし》みて  |厚《あつ》く|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|悪魔《あくま》はいかに|猛《たけ》くとも  |誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の
|神《かみ》に|仕《つか》へし|吾《わ》が|魂《たま》は  いかで|撓《たゆ》まむ|梓弓《あづさゆみ》
|引《ひ》きて|返《かへ》らぬ|魂《たましひ》の  |巌《いはほ》を|射抜《いぬ》く|吾《わ》が|思《おも》ひ
|遂《と》げさせ|玉《たま》へと|願《ね》ぎまつる  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
かかるところへ、ヘールはスタスタと|現《あら》はれ|来《き》たり、あわただしくつつ|立《た》ちながら、|体《からだ》を|前後左右《ぜんごさいう》にゆすり、|足《あし》をヂタヂタ|踏《ふ》んで、
『モシモシ、お|姫《ひめ》さま、そんな|陽気《やうき》なことでございますか、あれだけの|乱痴気騒《らんちきさわ》ぎが、あなたはお|耳《みみ》に|這入《はい》りませぬか』
|初稚《はつわか》『ハイ、|何《なに》かモメ|事《ごと》が|出来《でき》たのでございますか。|妾《わらは》は|一絃琴《いちげんきん》に|魂《たま》を|奪《うば》はれ、|平和《へいわ》の|夢《ゆめ》を|貪《むさぼ》つてをりましたから、|何《なん》にも|存《ぞん》じませぬ。|何《なん》だかお|館《やかた》の|方《はう》に、|少《すこ》しばかり|御夫婦《ごふうふ》がお|酒《さけ》の|上《うへ》でダンスでもやつてござつたやうですなア。モウお|休《やす》みになりましたか』
ヘール『エ、|姫《ひめ》さま、そんな|暢気《のんき》な|事《こと》ですかいな、|大変《たいへん》な|事《こと》が|起《おこ》つたのですよ。|急性《きふせい》チルテル・ヘールニヤが|勃発《ぼつぱつ》し、|医者《いしや》よ|薬《くすり》よと|大騒《おほさわ》ぎでございます』
『アア|左様《さやう》でございましたか。|万金丹《まんきんたん》でもあげなさいましたら、|御気分《ごきぶん》が|良《よ》くなるでせう』
『|肝心《かんじん》な|万金丹《まんきんたん》をチルテルの|大将《たいしやう》、チルナ|姫《ひめ》さまに、|引張《ひつぱ》られたものですから、たちまちクルクルと|白目《しろめ》を|剥《む》いて、ピリピリピリ、キヤー、ウーン、ドタンバタン、ガチヤ ガチヤ ガチヤ、ガラガラと|人造地震《じんざうぢしん》が|突発《とつぱつ》いたしました。|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|卑怯《ひけふ》な|奴《やつ》ばかり、みな|安全地帯《あんぜんちたい》へ|避難《ひなん》したと|見《み》え、このヘール|一人《ひとり》が、|縦横無尽《じうわうむじん》に|看護卒《かんごそつ》の|役《やく》を|勤《つと》め、|右往左往《うわうさわう》に|奔走《ほんそう》してをります。どうぞ|病人《びやうにん》の|看護《かんご》を|手伝《てつだ》つていただきたいものですなア。|男《をとこ》の|荒《あら》くたい|手《て》で|看病《かんびやう》するより、|女《をんな》の|優《やさ》しい|柔《やは》らかい|手々《てて》で|看護《かんご》してもらふ|方《はう》が、なにほど|病人《びやうにん》の|慰安《ゐあん》になつていいかも|知《し》れませぬ。サアどうぞお|願《ねが》ひでございます。|早《はや》くお|世話《せわ》を|願《ねが》ひませう。あなただつて、|見《み》ず|知《し》らずの|家《うち》へ|来《き》て、かう|鄭重《ていちよう》にお|世話《せわ》になつてござるのだから、チツとは|義理《ぎり》|人情《にんじやう》もお|弁《わきま》へでございませう』
『それはお|気《き》の|毒《どく》なことでございますな。しかしながら|女《をんな》といふものは|嫉妬深《しつとぶか》いものでございますから、|奥様《おくさま》の|許《ゆる》しがなくては、|旦那様《だんなさま》だけの|許《ゆる》しでは|看病《かんびやう》をさしていただくことは|出来《でき》ませぬ。|夫《をつと》の|病気《びやうき》は|奥様《おくさま》が|御看護《ごかんご》なさるのが|当然《たうぜん》でございます。どうぞ|奥様《おくさま》のお|許《ゆる》しがあれば|看護《かんご》さしていただきますから、ちよつと|奥様《おくさま》に|伺《うかが》つて|来《き》て|下《くだ》さいませ』
『あの|奥《おく》ですか、あいつア|旦那様《だんなさま》の|睾丸《きんたま》ねらつて、|謀殺未遂犯人《ぼうさつみすゐはんにん》としてふん|縛《じば》り、|暗室《あんしつ》へ|監禁《かんきん》しておきました。あんな|奴《やつ》ア、|死《し》なうがどうならうが、チツともかまふこたアございませぬ。ずゐぶん|悋気《りんき》の|強《つよ》い|奥様《おくさま》で、お|前《まへ》さまもお|困《こま》りでしたらうが、モウ|御安心《ごあんしん》なさいませ。|旦那《だんな》さまとどれだけおいちやつき|遊《あそ》ばさうが、ゴテゴテいふものはございませぬよ。|早《はや》くかふいふ|時《とき》に|親切《しんせつ》を|尽《つく》しておきなさると、|後《あと》のお|為《ため》でございますよ』
『|妾《わらは》はそのやうな|惨酷《ざんこく》なお|方《かた》は|人間《にんげん》だとは|思《おも》ひませぬワ。チルテル|様《さま》には|何《なに》か|悪《わる》い|者《もの》が|憑依《ひようい》してゐるのでせう、さうでなければ|神《かみ》から|許《ゆる》された|夫婦《ふうふ》の|仲《なか》、そんな|酷《むご》たらしい|事《こと》をなさる|筈《はず》がありますまい。|正真正銘《しやうしんしやうめい》のチルテル|様《さま》の|御病気《ごびやうき》ならば、どこまでも|仁慈無限《じんじむげん》の|神様《かみさま》の|御心《みこころ》にならひ、|身《み》を|粉《こ》にしても|介抱《かいはう》さしていただきますが、|悪魔《あくま》の|擒《とりこ》となり、|身《み》も|魂《たましひ》も|獣化《じうくわ》してござる|妖怪的《えうくわいてき》な|御主人《ごしゆじん》には、|平《ひら》にお|断《こと》わりを|申《まを》します。ヘールさま、あなたも|確《しつか》りなさいませ。|妙《めう》な|者《もの》が|憑依《ひようい》してをりますよ』
『|何《なん》といつても、ウブな|身魂《みたま》ですから、|私《わたし》の|肉体《にくたい》を|目当《めあて》に、イロイロの|厄雑霊《やくざみたま》が|先《さき》を|争《あらそ》うてヘールかも|知《し》れませぬ。しかしながらフエル|事《こと》もあり、また|曲津《まがつ》のヘール|事《こと》もあります。|丁度《ちやうど》キヨの|湖《うみ》の|波《なみ》を|見《み》てゐるやうなものです。|高《たか》くなつたり|低《ひく》くなつたり、ある|時《とき》は|荒《すさ》むだり、ある|時《とき》は|平静《へいせい》になつたり、これがいはゆる|千変万化《せんぺんばんくわ》の|勇士《ゆうし》の|本能《ほんのう》、|円転滑脱《ゑんてんくわつだつ》、あくまで|融通《ゆうづう》のきく、|神《かみ》の|生宮《いきみや》ですからなア。その|御主人《ごしゆじん》たるチルテル|様《さま》は|一層《いつそう》えらい|者《もの》ですよ。さう|貴女《あなた》のやうに|単純《たんじゆん》なお|考《かんが》へでは、たうてい|英雄《えいゆう》の|心事《しんじ》は|分《わか》りませぬ。|旦那様《だんなさま》がウツツのやうになつて、|姫様《ひめさま》|姫様《ひめさま》と|連呼《れんこ》してゐらつしやいます。|何《なに》はともあれ、|一足《ひとあし》お|運《はこ》び|下《くだ》さつたらどうですか。|女《をんな》といふ|者《もの》はさう|剛情《がうじやう》を|張《は》るものぢやありませぬよ、|従順《じうじゆん》と|親切《しんせつ》なのが|女《をんな》の|美徳《びとく》ですからなア』
『さう、たつて|仰《おほ》せられますのなれば、ともかくも|伺《うかが》ひませう』
『ヤ、|早速《さつそく》の|御承知《ごしようち》、|旦那様《だんなさま》もさぞお|喜《よろこ》び|遊《あそ》ばす|事《こと》でございませう。サア、お|手々《てて》をとつてあげませう』
と|毛《け》だらけの|黒《くろ》い|固《かた》い|松《まつ》の|木《き》の|荒皮《あらかは》のやうなガンザをニユツと|突《つ》き|出《だ》した。|初稚姫《はつわかひめ》はゾツとしながら、
『|有難《ありがた》う、しかしながらお|蔭《かげ》で|足《あし》は|壮健《たつしや》でございますから、お|後《あと》に|跟《つ》いて|参《まゐ》ります』
『イヤイヤ|姫様《ひめさま》、この|屋敷《やしき》の|中《なか》は、あちらにも|此方《こちら》にも|陥穽《おとしあな》がこしらへてありますから、|私《わたし》がお|手《て》を|引《ひ》いて|上《あ》げませぬと|危険《きけん》です。それだからお|手《て》を|引《ひ》いて|上《あ》げやうと|申《まを》すのです』
『あなたに|手《て》を|握《にぎ》つていただきますと、またチルテルさまと|睾丸圧搾戦《きんたまあつさくせん》が|勃発《ぼつぱつ》しますと、お|互《たが》ひの|迷惑《めいわく》ですワ。|決《けつ》して|陥穽《おとしあな》なんかはまるやうな|事《こと》はいたしませぬ。どうぞお|先《さき》へお|出《い》で|下《くだ》さいませ』
『ハイ、|駄目《だめ》ですかなア、どうも|私《わたし》の|説《せつ》を|握手喝采《あくしゆかつさい》して|下《くだ》さらぬとみえますワイ』
『ホホホホホ、|御冗談《ごじようだん》ばかりおつしやいますな。|旦那様《だんなさま》がお|苦《くる》しみになつてゐられるぢやありませぬか』
『ヘー、お|苦《くる》しみはお|苦《くる》しみです。もはやチルテル・ヘールニヤもほとんど|全快《ぜんくわい》して|何《なん》ともないのでせうが、|苦《くる》しいといふのは……ヘン、……どこやらの|人《ひと》に|身《み》も|魂《たま》も|奪《うば》はれ、|煩悶苦悩病《はんもんくなうびやう》が|起《おこ》つて|苦《くる》しいのですから、ちよつとお|腹《なか》の|辺《あた》りをマッサージでもやつてもらへば、たちまちケロリと|本復《ほんぷく》|疑《うたが》ひなし、この|病気《びやうき》を|直《なほ》すのは|女神《めがみ》でなくては|到底《たうてい》|御利益《ごりやく》は|現《あら》はれませぬワイ、ウツフフフフ』
『あれまア、そんなことだと|思《おも》つてをりました。それならモウ|安心《あんしん》でございます。どうぞチルテル|様《さま》に|宜《よろ》しう|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ。そして|妾《わらは》の|居間《ゐま》へお|遊《あそ》びにお|出《い》で|下《くだ》さるやうお|伝《つた》へ|願《ねが》います。|左様《さやう》なら』
と|踵《きびす》を|返《かへ》し、|元《もと》の|居間《ゐま》へサツサと|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。ヘールは|口《くち》をポカンとあけたまま、|姫《ひめ》の|後《うし》ろ|姿《すがた》を|見送《みおく》り、
『アア|何《なん》といいスタイルだなア。|牡丹《ぼたん》か|芍薬《しやくやく》か|蓮華《れんげ》の|花《はな》か。あの【なんぞり】とした|肩《かた》の|具合《ぐあひ》から、|頭《あたま》の|格好《かつかう》、|首筋《くびすぢ》の|様子《やうす》、|背《せ》のスウツとしたところ、おいどの|小《ちひ》さい、|足《あし》の|歩《ある》きやうから、お|手《て》々の|振《ふ》り|方《かた》、|何《なん》とマアいいナイスだらう。チルテルさまが|女房《にようばう》を|叩《たた》き|出《だ》して|本妻《ほんさい》に|入《い》れやうとなさつたのも、|決《けつ》して|無理《むり》ではないワイ。アア|何《なん》だか|精神恍惚《せいしんくわうこつ》として|夢路《ゆめぢ》を|辿《たど》るがごとしだ。アア|胸《むね》が|苦《くる》しうなつて|来《き》た。|何《なん》だか|俺《おれ》にも|恋愛嫉妬病《れんあいしつとびやう》が|勃発《ぼつぱつ》しさうだ。しかしながらたうてい|俺《おれ》の|力《ちから》では|側《そば》へもよりつくこたア|出来《でき》やしないワ。キャプテンだつて、こいつア|駄目《だめ》かも|知《し》れぬぞ。|何《なん》とマア|崇高《けだか》い|姿《すがた》だらう。|温和《をんわ》にして|威厳《ゐげん》あり、あたかも|天女《てんによ》のごとし。アア|男子《だんし》|現世《げんせい》に|生《しやう》を|稟《う》けて、かくのごとき|美人《びじん》と|婚《こん》すること|能《あた》はずば、|寧《むし》ろ|首《くび》を|吊《つ》つてその|命《めい》を|断《た》たむのみだ。エヘヘヘヘ、|何《なん》だか|体中《からだぢう》に|波《なみ》が|打《う》つて|来《き》よつたやうだ。|俺《おれ》の|体《からだ》を|鋭利《えいり》な|刃物《はもの》で|一寸刻《いつすんきざ》みにザクザクと|何者《なにもの》かが|刻《きざ》み|出《だ》したやうだ。てもさても|苦《くる》しいものだなア。アアア キャプテンに|報告《はうこく》もならず、|姫様《ひめさま》の|居間《ゐま》へ|伺《うかが》ふわけにもゆかず、ホンに|困《こま》つたことだワイ。……
|鷺《さぎ》を|烏《からす》というたが|無理《むり》か
|一羽《いちは》の|鳥《とり》も|鶏《にはとり》だ
|葵《あふひ》の|花《はな》でも|赤《あか》く|咲《さ》く
|雪《ゆき》といふ|字《じ》を|墨《すみ》で|書《か》く
ヤ、いい|事《こと》を|思《おも》ひ|出《だ》した。なにほど|俺《おれ》がヒヨツトコでも、|雪《ゆき》といふ|字《じ》を|墨《すみ》で|書《か》く|以上《いじやう》は、あのナイスをウンと|言《い》はせない|道理《だうり》があらうか。あんな|青《あを》い|幹《みき》や|葉《は》をした|葵《あふひ》からも、|真赤《まつか》な|花《はな》が|咲《さ》く|例《ためし》もある。|碁《ご》を|打《う》つても、|色《いろ》の|黒《くろ》い|奴《やつ》と|色《いろ》の|白《しろ》い|奴《やつ》とが|対抗《たいかう》するのだ。|白《しろ》い|石《いし》|同士《どうし》は|到底《たうてい》|物《もの》にならぬ。ウンさうだ。おかめに|美男《びなん》、ヒヨツトコに|美女《びぢよ》といふ|例《ためし》もある。ヒヨツトしたら|誂《あつら》へ|向《む》きかも|知《し》れぬぞ。あのキャプテンは|面《つら》が|青白《あをじろ》い|上《うへ》に|背《せ》がスラリと|高《たか》くて、どこともなしに|気障《きざ》な|男《をとこ》だ。|俺《おれ》のやうな|節《ふし》くれだつた|力瘤《ちからこぶ》だらけの|強者《きやうしや》は、かへつて|優《やさ》しいナイスが|好《この》むものだ。ヨーシ、|俺《おれ》も|恋《こひ》のためにはユゥンケルの|職《しよく》を|棒《ぼう》にふつても|構《かま》はぬ、ユゥンケルが|何《なん》だい。たとへリュウチナントになつたところが|知《し》れたものだ。キャプテン、カーネル、ゼネラル、そんな|物《もの》が|何《なん》になる。ウン ヨシ、これから|恋《こひ》の|勇者《ゆうしや》となつて、|天下《てんか》の|男子《だんし》にその|驍名《げうめい》を|誇《ほこ》つてやらう。|地獄《ぢごく》の|上《うへ》の|一足飛《いつそくと》びだ。|人間《にんげん》は|一生《いつしやう》に|一度《いちど》は|危《あぶ》ない|綱《つな》も|渡《わた》つてみなくちやならないワ。|男《をとこ》は|断《だん》の|一字《いちじ》が|肝心《かんじん》だと|聞《き》いてゐる。エーエやつつけやうかな。
|吾《わ》が|恋《こひ》は|細谷川《ほそたにがは》の|丸木橋《まるきばし》
|渡《わた》るにやこはし|渡《わた》らねば
|好《す》いたお|方《かた》にや|会《あ》はれない……
とか|何《なん》とか、|誰《たれ》かがおつしやいましたかネだ。サア、ここで|一《ひと》つ|駒《こま》を|立直《たてなほ》し、キャプテンに|叛旗《はんき》を|掲《かか》げ、|初稚砲台《はつわかほうだい》に|向《む》かつて、|獅子奮迅《ししふんじん》の|勇気《ゆうき》をもつて、|短兵《たんぺい》|急《きふ》に|攻《せ》めよせくれむ。|国家《こくか》の|興亡《こうばう》この|瞬間《しゆんかん》にあり、|汝等《なんぢら》|兵員《へいゐん》|一同《いちどう》、それ|奮励努力《ふんれいどりよく》せよ。いな|副守護神一統《ふくしゆごじんいつとう》、|奮励努力《ふんれいどりよく》せよ。|超弩級艦《てうどきふかん》|一隻《いつせき》、|正《まさ》にこの|港口《こうこう》にあり、|閉塞隊《へいそくたい》の|用意《ようい》あつて|然《しか》るべし』
と|独《ひと》り|燥《はしや》ぎながら、|肩肱《かたひぢ》|怒《いか》らし、|一足一足《ひとあしひとあし》|力《ちから》を|入《い》れ|大手《おほで》をふつて、|芝居《しばゐ》の|光秀《みつひで》が|花道《はなみち》から|現《あら》はれて|来《き》た|時《とき》のやうなスタイルで、ヂリリ ヂリリと|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・四・二 旧二・一七 於皆生温泉浜屋 松村真澄録)
第一一章 |黒白《あやめ》〔一五一一〕
ヘールは|勢《いきほ》ひ|込《こ》んで|初稚姫《はつわかひめ》の|籠《こ》もれる|館《やかた》の|前《まへ》までやつて|来《き》たが、|何《なん》だか|敷居《しきゐ》が|高《たか》くて|心《こころ》が|怖《お》ぢつく。
ヘール『エー、また|副守《ふくしゆ》の|卑怯者《ひけふもの》|奴《め》、|正守護神《せいしゆごじん》の|行動《かうどう》を|防止《ばうし》せむといたすか。|猪口才千万《ちよこざいせんばん》な、|左様《さやう》なことに|躊躇逡巡《ちうちよしゆんじゆん》するヘールさまではないぞ。|全隊《ぜんたい》|止《と》まれ』
|腹《はら》の|中《なか》から|副守《ふくしゆ》、|一同《いちどう》に「ハーイ」。
『よしよし、しばらく|沈黙《ちんもく》を|守《まも》るのだ。いや|寝《ね》てゐるがよい。|非常召集《ひじやうせうしふ》の|喇叭《ラツパ》が|鳴《な》つたら、その|時《とき》こそ|一度《いちど》に|立《た》ち|上《あ》がるのだ。それまで|副守全隊《ふくしゆぜんたい》に|休息《きうそく》を|命《めい》ずる。|今《いま》の|間《うち》に|郷里《きやうり》にでも|帰《かへ》つて|爺婆《ぢぢばば》の|乳《ちち》でも|飲《の》むで|来《こ》い。アハハハハ、たうとう|副守《ふくしゆ》の|奴《やつ》|沈黙《ちんもく》しやがつたな。しかしまだ|恐怖心《きようふしん》の|奴《やつ》、|喰付《くつつ》いてゐるとみえるわい。これ|恐怖心《きようふしん》、お|前《まへ》も|早《はや》く|郷里《きやうり》に|帰《かへ》つて|在郷軍人《ざいごうぐんじん》となり、|農工商《のうこうしやう》の|業《げふ》に|従事《じうじ》せよ。|一旦《いつたん》|緩急《くわんきふ》あらば|鋤《すき》を|鉄砲《てつぱう》に|代《か》へ、|算盤《そろばん》を|剣《けん》に|代《か》へ、|鑿《のみ》を|槍《やり》に|代《か》へて|義勇《ぎゆう》|奉公《ほうこう》の|実《じつ》を|示《しめ》すのだ。それまでこのヘール|体内国《たいないこく》の|現役兵《げんえきへい》を|免《めん》ずる。|有難《ありがた》く|思《おも》へ。アハハハハ、どうやらチツとばかり|恐怖心《きようふしん》が|退散《たいさん》したさうだ、いな|帰郷《ききやう》したさうだ。エー|一《ひと》つ|歌《うた》でも|歌《うた》つて|姫《ひめ》の|精神《せいしん》を|恍惚《くわうこつ》たらしめるのだな。|俺《おれ》も|硬骨男子《かうこつだんし》といはれてゐたが、|女《をんな》にかけたら|何《なん》といふ|軟骨《なんこつ》だらう。この|二〇三高地《にひやくさんかうち》はちよつと|骨《ほね》が|折《を》れるわい。|口《くち》で|法螺《ほら》を|吹《ふ》き、|尻《しり》で|喇叭《ラツパ》を|吹《ふ》いたぐらゐぢや|容易《ようい》に|効果《かうくわ》が|上《あ》がらない。|未来《みらい》の|聖人《せいじん》は|礼楽《れいがく》を|以《もつ》て|世《よ》を|治《をさ》めたといふ。|射御書数《しやぎよしよすう》は|末《すゑ》の|末《すゑ》だ。まづ|礼《れい》を|厚《あつ》くし|楽《がく》を|奏《そう》し、|微妙《びめう》なる|音声《おんせい》を|出《だ》して|名歌《めいか》を|歌《うた》ひ、|姫《ひめ》の|心《こころ》を|動《うご》かすにかぎる。|歌《うた》は|神明《しんめい》の|心《こころ》を|和《やは》らげ、また|天地《てんち》を|動《うご》かすといふ。|況《いは》んや、|人間《にんげん》の|心《こころ》においておやだ。|歌《うた》なるかな|歌《うた》なるかなだ。
|恋《こひ》といふ|字《じ》を|分析《ぶんせき》すれば
|糸《いと》し|糸《いと》しといふ|心《こころ》……か、
やアこいつア|古《ふる》い。|初稚姫《はつわかひめ》ぐらゐのナイスになつたら|已《すで》に|聞《き》いてるだらう。|俺《おれ》の|発明《はつめい》した|歌《うた》だと|思《おも》つてくれればよいが、|黴《かび》の|生《は》えたやうな|受売歌《うけうりうた》だと|思《おも》はれちや、かへつて|男《をとこ》が|下《さ》がる。よし|何《なん》とか|考《かんが》へてみよう。
|糸《いと》し|可愛《かはい》と|心《こころ》に|思《おも》や
|糸《いと》しお|方《かた》と|先方《むかふ》が|言《い》ふ(戀)
これでスツカリ|新《あたら》しくなつた。しかしながら|引繰《ひつく》り|返《かへ》しの|焼直《やきなほ》しだから、やつぱりもとの|方《はう》がどうも|宜《い》いやうだ。はてな、|今度《こんど》は|愛《あい》といふ|字《じ》を|分析《ぶんせき》して|歌《うた》つてやらうかな。
|可愛《かはい》【|心《こころ》】が【|貫《つらぬ》】くなれば
|君《きみ》は|必《かなら》ず【|受《う》】けるだらう
|今度《こんど》は|至上主義《しじやうしゆぎ》の|至上《しじやう》だ、ベストだ。エヘヘヘヘ、どうかうまくやりたいものだナ。
ラブのベストは【|一《ひと》】つで【|厶《ござ》】る
【|土《つち》】の|上《うへ》には|君《きみ》ばかり
|初稚姫《はつわかひめ》のナイスさま  |天《あま》の|川原《かはら》に|船《ふね》|泛《う》かべ
|黄金《こがね》の|棹《さを》をさしながら  キヨの|海原《うなばら》|乗《の》り|越《こ》えて
これの|館《やかた》に|天降《あも》りまし  |花《はな》の|顔《かんばせ》|月《つき》の|眉《まゆ》
|星《ほし》の|衣《ころも》をつけ|玉《たま》ひ  |天女《てんによ》の|姿《すがた》そのままに
これの|館《やかた》にビカビカと  |光《ひか》らせ|玉《たま》ふ|尊《たふと》さよ
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|光《ひか》るとも  |月《つき》の|姿《すがた》は|清《きよ》くとも
|初稚姫《はつわかひめ》に|比《くら》ぶれば  |側《そば》へもよれない|惨《みじ》めさよ
|雪《ゆき》を|欺《あざむ》く|白《しろ》い|顔《かほ》  |肌《はだ》|滑《なめ》らかにツルツルと
|水晶玉《すゐしやうだま》のごとくなり  そも|天地《あめつち》の|真相《しんさう》は
|白《しろ》きは|色《いろ》の|始《はじ》まりよ  |黒《くろ》きは|色《いろ》の|終《とどめ》なり
|艮《とどめ》はすなはち|年増《としま》ぞや  |色《いろ》は|年増《としま》が|艮《とど》めさす
|白《しろ》と|黒《くろ》とが|寄《よ》り|合《あ》うて  キチンとしたる|碁盤《ごばん》の|目《め》
|経《たて》と|緯《よこ》との|仕組《しぐみ》をば  |遊《あそ》ばしました|大御神《おほみかみ》
|赤《あか》が|重《かさ》なりや|黒《くろ》うなる  |黒《くろ》がかへれば|白《しろ》となる
|初稚姫《はつわかひめ》の|白《しろ》い|肌《はだ》  ヘールの|司《つかさ》の|黒《くろ》い|顔《かほ》
これぞ|全《まつた》く|艮《うしとら》の  |厳《いづ》の|御霊《みたま》の|御再来《ごさいらい》
|初稚姫《はつわかひめ》は|瑞御魂《みづみたま》  |坤《ひつじさる》なる|姫神《ひめがみ》の
|皇大神《すめおほかみ》の|御再来《ごさいらい》  |厳《いづ》と|瑞《みづ》との|水火《いき》|合《あは》せ
|夫婦《めをと》の|契《ちぎり》|永久《とこしへ》に  |天《あめ》の|御柱《みはしら》|廻《めぐ》り|合《あ》ひ
|山川草木《さんせんさうもく》もろもろの  |珍《うづ》の|御子《おんこ》を|生《う》みましし
|神伊邪那岐《かむいざなぎ》の|大神《おほかみ》の  その|古事《ふるごと》に|神習《かむなら》ひ
この|地《ち》の|上《うへ》に|永遠《ゑいゑん》の  |天国《てんごく》|浄土《じやうど》を|建設《けんせつ》し
あらゆる|百《もも》の|神人《しんじん》を  |救《すく》はむために|皇神《すめかみ》は
お|色《いろ》の|黒《くろ》き|尉殿《じやうどの》と  お|色《いろ》の|白《しろ》き|姥殿《うばどの》を
|目出《めで》たくここに|下《くだ》しけり  |初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむづかさ》
いかにヘールを|嫌《きら》ふとも  |神《かみ》のよさしの|縁《えにし》ぞや
|省《かへり》みたまへ|惟神《かむながら》  |神《かみ》の|教《をしへ》に|目覚《めざ》めたる
ヘールの|身魂《みたま》に|明《あき》らかに  |鏡《かがみ》のごとく|映《うつ》りけり
この|家《や》の|主《あるじ》チルテルは  |肝腎要《かんじんかなめ》の|女房《にようばう》を
|他所《よそ》に|見捨《みす》てて|遠近《をちこち》の  |仇《あだ》し|女《をんな》に|現《うつつ》をば
|抜《ぬ》かして|魂《たま》を|腐《くさ》らせつ  |夫婦喧嘩《ふうふげんくわ》の|絶《た》えまなく
|家財《かざい》|一切《いつさい》ガタガタと  |時々《ときどき》|騒《さわ》ぎ|躍《をど》り|舞《ま》ふ
|化物屋敷《ばけものやしき》にをるやうだ  |青《あを》と|白《しろ》とをつき|交《ま》ぜた
|干瓢面《かんぺうづら》を|下《さ》げながら  キヨの|関守《せきもり》|笠《かさ》に|着《き》て
キャプテン|面《づら》を|振《ふ》り|廻《まは》し  |天《てん》から|降《くだ》つた|初稚姫《はつわかひめ》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|神女《しんぢよ》をば  |閨《ねや》のお|伽《とぎ》になさむとて
チルナの|姫《ひめ》に|難癖《なんくせ》を  うまうまつけて|縛《しば》り|上《あ》げ
|倉《くら》の|中《なか》へと|無慚《むざん》にも  |押《お》し|込《こ》めたるぞ|憎《にく》らしき
かかる|残虐無道《ざんぎやくぶだう》をば  |敢《あへ》て|恥《は》ぢない|鬼《おに》|畜生《ちくしやう》
|必《かなら》ず|迷《まよ》はせ|玉《たま》ふなよ  |涙《なみだ》もあれば|血《ち》も|通《かよ》ふ
|義勇一途《ぎゆういちづ》のこのヘール  |昨晩《ゆうべ》の|神《かみ》の|御告《おんつ》げに
そなたは|神世《かみよ》の|昔《むかし》から  |深《ふか》い|因縁《いんねん》ある|身魂《みたま》
|初稚姫《はつわかひめ》とその|昔《むかし》  |夫婦《ふうふ》となつて|道《みち》のため
|尽《つく》しまつりし|天人《てんにん》ぞ  |弥勒《みろく》の|神代《かみよ》が|来《く》るにつけ
お|前《まへ》を|変性女子《へんじやうによし》となし  |初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむづかさ》
|変性男子《へんじやうなんし》と|現《あら》はれて  |神《かみ》の|御国《みくに》を|詳細《まつぶさ》に
|造《つく》り|固《かた》めよと|厳《おごそ》かに  |宣《の》らせ|玉《たま》ひし|尊《たふと》さよ
|初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむづかさ》  |必《かなら》ず|嘘《うそ》ではないほどに
|神《かみ》の|言葉《ことば》に|二言《にごん》ない  |胸《むね》に|手《て》をあて|神勅《しんちよく》を
|正《ただ》しく|覚《さと》りヘールをば  |神《かみ》の|結《むす》びし|夫《をつと》とし
|睦《むつ》び|親《した》しみ|神業《しんげふ》に  |参加《さんか》なされよ|瑞御魂《みづみたま》
|変性女子《へんじやうによし》が|宣《の》り|伝《つた》ふ  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |夫婦《ふうふ》の|道《みち》は|変《かは》らない
とかく|浮世《うきよ》は|人間《にんげん》の  |心《こころ》の|儘《まま》にはなりませぬ
|互《たが》ひに|欠点《けつてん》|辛抱《しんばう》して  |採長補短《さいちやうほたん》|睦《むつ》まじく
|天地《てんち》の|水火《いき》を|固《かた》むべし  |吾《わ》が|言霊《ことたま》の|御耳《おんみみ》に
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|入《い》るならば  いと|速《すみ》やけく|返事《かへりごと》
|宣《の》らせたまへよ|姫命《ひめみこと》  |誠《まこと》に|厚《あつ》きヘール|司《つかさ》
ここに|慎《つつし》み|神勅《しんちよく》を  |命《みこと》の|前《まへ》に|宣《の》りまつる
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |恩頼《みたまのふゆ》を|賜《たま》へかし』
|初稚姫《はつわかひめ》は|中《なか》よりパツと|戸《と》を|開《ひら》いて、ヘールの|姿《すがた》を|打《う》ち|見守《みまも》りながら|微笑《びせう》して、
『|何人《なにびと》の|言霊《ことたま》ぞやと|怪《あや》しみて
|窓《まど》を|開《ひら》けば|面白《おもしろ》の|君《きみ》
|種々《さまざま》と|厳《いづ》の|言霊《ことたま》|繰《く》り|返《かへ》す
|君《きみ》の|心《こころ》の|悲《かな》しくぞある』
ヘール『|吾《われ》とても|男《を》の|子《こ》の|中《なか》の|男《を》の|子《こ》なれば
いかで|女《をんな》に|心《こころ》|乱《みだ》さむ
さりながら|神《かみ》の|言葉《ことば》は|背《そむ》かれず
|汝《なれ》が|命《みこと》に|宣《の》り|伝《つた》へける
この|恋《こひ》は|人恋《ひとこひ》ならず|神《かみ》の|恋《こひ》
ラブ・イズ・ベストの|鑑《かがみ》なりけり』
『|訝《いぶ》かしや|神《かみ》の|言葉《ことば》と|聞《き》く|上《うへ》は
|背《そむ》かむ|術《すべ》もなきにあらねど』
『|瞹眛《あいまい》な|姫《ひめ》の|言霊《ことたま》いかにして
|解《と》く|由《よし》もなき|吾《わ》が|思《おも》ひかな
|益良夫《ますらを》が|思《おも》ひつめたる|恋《こひ》の|矢《や》は
やがて|岩《いは》をも|射貫《いぬ》くなるらむ』
『さはいへど|妾《わらは》は|神《かみ》の|御使《みつかひ》よ
|夫《つま》|持《も》たすなと|厳《きび》しき|戒《いまし》め
|戒《いまし》めを|固《かた》く|守《まも》りて|進《すす》む|身《み》は
|醜《しこ》の|嵐《あらし》の|誘《さそ》ふ|術《すべ》なし
|詐《いつは》りのなき|世《よ》なりせばかくばかり
|吾《わ》が|魂《たましひ》を|痛《いた》めざらまし
|吾《わ》が|身《み》には|恋《こひ》てふものは|白雲《しらくも》の
|空《そら》にまします|月《つき》の|大神《おほかみ》』
『|吾《われ》とてもこれの|関所《せきしよ》につきの|神《かみ》
テルモン|山《ざん》の|雄々《をを》しき|姿《すがた》よ』
『|春《はる》は|花《はな》|夏《なつ》は|橘《たちばな》|秋《あき》は|菊《きく》
|冬《ふゆ》|水仙《すゐせん》の|寂《さび》しき|花《はな》よ
|手折《たを》るべき|人《ひと》なき|吾《われ》を|慈《いつく》しむ
|男《を》の|子《こ》は|神《かみ》に|等《ひと》しとぞ|思《おも》ふ
|真心《まごころ》は|吾《わ》が|魂《たましひ》に|通《かよ》へども
|詮術《せんすべ》もなし|天人《てんにん》の|身《み》は
|現世《うつしよ》の|人《ひと》は|一所《ひととこ》なりあはぬ
しるし|有《あ》れども|吾《われ》はこれなし
|浮《う》かれ|男《を》の|吾《わ》が|身体《からたま》を|知《し》らずして
|迷《まよ》はせ|玉《たま》ふことの|果敢《はか》なさ』
『どうしても|皇大神《すめおほかみ》の|御教《みをしへ》を
|守《まも》りて|君《きみ》を|吾《わ》が|妻《つま》とせむ
いかほどに|振《ふ》らせ|玉《たま》ふも|撓《たゆ》みなく
|従《したが》ひ|行《ゆ》かむ|海《うみ》の|底《そこ》まで』
『|思《おも》ひきや|思《おも》はぬ|人《ひと》の|深情《ふかなさけ》
|汲《く》む|由《よし》もなき|吾《われ》ぞ|悲《かな》しき』
『|柔《やは》らかに|珍《うづ》の|言霊《ことたま》|生《い》き|車《くるま》
|押《お》す|君《きみ》こそは|天《あま》の|於須神《おすかみ》
ラブ・ベスト|那須野ケ原《なすのがはら》の|若草《わかくさ》は
|踏《ふ》まれ|躙《にじ》られながら|花《はな》|咲《さ》く』
『|踏《ふ》まれてもまた|切《き》られても|花《はな》|咲《さ》かず
|見《み》る|影《かげ》もなき|無花果《いちぢく》の|樹《き》は
|神《かみ》の|道《みち》ただ|無花果《いちぢく》に|進《すす》む|身《み》は
|春風《はるかぜ》|吹《ふ》くも|咲《さ》く|例《ためし》なし
|花《はな》の|無《な》き|妾《わらは》の|姿《すがた》を|見限《みかぎ》りて
|野《の》に|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|花《はな》を|求《もと》めよ
|紫雲英花《げんげばな》|実《げ》に|目覚《めざ》ましく|開《ひら》くとも
|床《とこ》の|飾《かざ》りにならぬ|吾《われ》なり』
『|野辺《のべ》に|咲《さ》く|紫雲英《げんげ》の|花《はな》の|花莚《はなむしろ》
|敷《し》きてやすやす|寝《い》ねむとぞ|思《おも》ふ
もどかしき|君《きみ》の|言葉《ことば》を|早《はや》|吾《われ》は
|聞《き》くも|堪《た》え|難《がた》くなりにけらしな
|男心《をごころ》の|大和心《やまとごころ》を|振《ふ》り|起《おこ》し
|手籠《てご》めにしても|手折《たを》らで|止《や》まじ』
といひながら|表戸《おもてど》をガラリと|開《あ》け、ツカツカと|初稚姫《はつわかひめ》の|前《まへ》に|進《すす》み|猿臂《ゑんび》を|伸《の》ばして、グツとその|手《て》を|握《にぎ》らむとした。|初稚姫《はつわかひめ》は|手早《てばや》くその|手《て》を|放《はな》し、|襟髪《えりがみ》とつて|窓《まど》の|外《そと》に|猫《ねこ》を|提《ひつさ》げたやうな|調子《てうし》でフワリと|投《な》げ|出《だ》した。ヘールはムクムクと|起《お》き|上《あ》がり、ふたたび|座敷《ざしき》に|性懲《しやうこ》りもなく|初稚姫《はつわかひめ》の|前《まへ》に|進《すす》み|寄《よ》り、
『|一旦《いつたん》|男《をとこ》がいひだした|恋《こひ》の|意地《いぢ》、|中途《ちうと》に|屁古《へこ》たれるやうな|男《をとこ》ではござらぬ。もうこの|上《うへ》は|平和《へいわ》の|手段《しゆだん》ではたうてい|駄目《だめ》だ。|覚悟《かくご》|召《め》され、|美事《みごと》|靡《なび》かしてみせよう』
と|武者振《むしやぶ》りつくを|初稚姫《はつわかひめ》は|手《て》もなく、グツと|押《おさ》へつけ、
『ホホホホ、ヘールさま、いい|加減《かげん》に|悪戯《じようだん》なさいませ。あなたはお|酒《さけ》に|酔《よ》つてゐらつしやるのでせう。|少《すこ》しく|酔《よ》ひの|醒《さ》めるまで、ここでお|休《やす》みなさいませ』
ヘール『|決《けつ》して|酔《よ》うてはをりませぬ。|酔《よ》うたといふのは|貴方《あなた》の|容色《ようしよく》に|酔《よ》つたのです。これも|全《まつた》く|貴女《あなた》より|起《おこ》つた|事《こと》、|吾《わ》が|心《こころ》を|鎮《しづ》めて|下《くだ》さるのは|貴女《あなた》より|外《ほか》にはありませぬ。|決《けつ》して|私《わたし》ははじめから|貴女《あなた》にラブしようとは|思《おも》つてゐなかつたのです。それが|俄《には》かに|貴女《あなた》のお|姿《すがた》を|見《み》るにつけ、たちまち|神懸《かむがかり》となり、|矢《や》も|楯《たて》もたまらず、|神《かみ》の|命《めい》に|従《したが》つて|貴女《あなた》にかけ|合《あ》つたのです。|決《けつ》してヘールの|考《かんが》へではありませぬ』
|初稚《はつわか》『ホホホホ、よい|年《とし》をして、ようまアそんなことを|仰有《おつしや》いますな。ブリンギング・アップ・ファーザー(|老年教育《らうねんけういく》)を|施《ほどこ》さなくては|到底《たうてい》|貴方《あなた》は|駄目《だめ》でせう。|神《かみ》さまの|命令《めいれい》だなどといつて|妾《わらは》を|誤魔化《ごまくわ》さうと|思召《おぼしめ》しても、|外《ほか》の|女《をんな》ならいざ|知《し》らず、|妾《わらは》に|対《たい》しては|寸功《すんこう》も|現《あら》はれませぬから、どうか|左様《さやう》な|詐言《さげん》はお|慎《つつし》み|下《くだ》さいませ』
『|何《なん》と|仰有《おつしや》つても|男《をとこ》の|顔《かほ》が|立《た》ちませぬ。どうぞそこ|放《はな》して|下《くだ》さい。|左様《さやう》な|剛力《がうりき》で|押《おさ》へられましては|息《いき》が|絶《き》れますわい』
『|息《いき》が|絶《た》えてもかまはぬぢやありませぬか。|貴方《あなた》は|妾《わたし》のためには|海《うみ》の|底《そこ》まで|跟《つ》いて|行《ゆ》くと|仰有《おつしや》つたでせう、ホホホホホ』
と|小《ちひ》さく|笑《わら》ふ。そこへ|足《あし》をチガチガさせながら|血相《けつさう》|変《か》へてやつて|来《き》たのは、|館《やかた》の|関守《せきもり》チルテルのキャプテンであつた。
(大正一二・四・二 旧二・一七 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第一二章 |狐穴《こけつ》〔一五一二〕
|妻《つま》のチルナに|茶袋《ちやぶくろ》を  |力《ちから》かぎりに|締《し》められて
ウンとばかりに|気絶《きぜつ》した  |館《やかた》の|主人《あるじ》チルテルは
やうやく|痛《いた》みも|回復《くわいふく》し  ふたたび|恋《こひ》の|炎《ほのほ》をば
|燃《も》やしてヘールのユゥンケルに  |命《めい》じて|姫《ひめ》を|介抱《かいはう》に
|迎《むか》へ|来《き》たれと|命《めい》じおき  |仮病《けびやう》を|使《つか》つて|奥《おく》の|間《ま》に
ウンウンウンウンと|呻《うめ》きつつ  |待《ま》てど|暮《くら》せどユゥンケルは
|何《なん》の|音沙汰《おとさた》なきのみか  |耳《みみ》をすまして|窺《うかが》へば
|肝腎要《かんじんかなめ》のナイスをば  |横領《わうりやう》せむと|種々《いろいろ》に
ベストを|尽《つく》すとみるよりも  |羅刹《らせつ》のごとくに|怒《いか》り|立《た》ち
|髪《かみ》|逆《さか》だててチガチガと  |片手《かたて》に|茶袋《ちやぶくろ》|押《おさ》へつつ
|姫《ひめ》の|住所《すみか》に|来《き》て|見《み》れば  |豈《あに》はからむやユゥンケルは
|初稚姫《はつわかひめ》の|細腕《ほそうで》に  |取挫《とりひし》がれてハアハアと
|苦《くる》しみゐたる|可笑《をか》しさよ  チルテル|思《おも》はず|吹《ふ》き|出《い》だし
|嫉妬《しつと》の|念《ねん》もどこへやら
『アハハハハお|姫様《ひめさま》  |実《げ》に|天晴《あつぱ》れな|御神力《ごしんりき》
キャプテン|感《かん》じ|入《い》りました  かく|勇《いさ》ましき|女丈夫《ぢよぢやうぶ》が
これの|館《やかた》に|来《き》ませしは  |全《まつた》く|神《かみ》の|賜物《たまもの》ぞ
|女房《にようばう》に|離《はな》れしキャプテンの  |身《み》を|憐《あは》れみて|二世《にせ》の|妻《つま》
|共《とも》に|千歳《ちとせ》を|契《ちぎ》れよと  |梵天《ぼんてん》|帝釈《たいしやく》|自在天《じざいてん》
|大国彦《おほくにひこ》の|御示《おんしめ》し  |実《げ》に|有難《ありがた》き|次第《しだい》なり
おのれユゥンケル|姫様《ひめさま》の  |前《まへ》をも|恐《おそ》れ|憚《はばか》らず
|軍《いくさ》の|司《つかさ》の|身《み》をもつて  |無体《むたい》の|恋慕《れんぼ》をいたすとは
|乱暴《らんばう》|至極《しごく》の|痴漢《しれもの》だ  もうこれからはキャプテンが
|汝《なんぢ》に|暇《いとま》を|出《だ》すほどに  |早《はや》くこの|場《ば》を|立《た》ち|退《の》いて
|風《かぜ》|吹《ふ》く|野辺《のべ》を|彷徨《さまよ》ひつ  その|身《み》の|果《は》ては|物貰《ものもら》ひ
|袖乞奴《そでごひやつこ》となり|下《さ》がり  |天女《てんによ》のやうな|姫様《ひめさま》を
|苦《くる》しめまつりし|罪咎《つみとが》を  |天地《てんち》に|謝罪《しやざい》するがよい
サアサア|早《はや》く|立《た》ち|去《さ》れよ  これの|館《やかた》はキャプテンが
|千代《ちよ》の|住家《すみか》であるほどに  |心《こころ》|汚《けが》れし|汝《なんぢ》らの
|身魂《みたま》の|住《す》まふ|場所《ばしよ》でない  |伊吹戸主大御神《いぶきどぬしのおほみかみ》
これの|館《やかた》を|汚《けが》したる  |製糞機械《せいふんきかい》を|一時《ひととき》も
|疾《と》く|速《すむ》やけく|科戸辺《しなどべ》の  |風《かぜ》に|払《はら》はせたまへかし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|使《つかひ》の|姫様《ひめさま》に
かはりて|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る  アハハハハツハ アハハハハ
|実《げ》にも|浅《あさ》ましい|態《ざま》ぢやなア  |身《み》のほど|知《し》らぬユゥンケルが
|身《み》の|成《な》り|果《は》てはこの|通《とほ》り  |天罰《てんばつ》たちまち|廻《めぐ》り|来《き》て
|赤恥《あかはぢ》さらす|憐《あは》れさよ  イヒヒヒヒツヒイヒヒヒヒ』
|初稚姫《はつわかひめ》『この|男《をとこ》あまり|憎《にく》しと|思《おも》はねど
|力《ちから》ためさむために|斯《か》くしぬ
さりながらどことはなしに|益良夫《ますらを》の
|息《いき》かようこそ|嬉《うれ》しかりけり』
チルテルはこの|歌《うた》を|聞《き》いて|意外《いぐわい》の|面持《おももち》しながら、
『これはしたり|曲津《まがつ》の|神《かみ》の|容器《いれもの》を
|憐《あは》れみ|給《たま》ふか|心《こころ》もとなや』
|初稚姫《はつわかひめ》『|二世《にせ》の|妻《つま》|縛《しば》りて|暗《くら》き|倉《くら》の|内《うち》へ
|投《な》げ|込《こ》みたりし|人《ひと》ぞ|憎《にく》らし
|吾《われ》もまた|女房《にようばう》となりて|倉《くら》の|中《なか》へ
|繋《つな》がれむかと|怖《おそ》ろしくなりぬ
|心《こころ》|荒《あら》き|男子《をのこ》に|身《み》をば|任《まか》すより
|心《こころ》やさしき|人《ひと》を|求《もと》めむ』
ヘールは|初稚姫《はつわかひめ》がパツと|放《はな》した|手《て》の|下《した》から|漸《やうや》う|顔《かほ》を|上《あ》げ、
『これはしたり|初稚姫《はつわかひめ》の|御心《おんこころ》
|知《し》らず|恨《うら》みし|事《こと》のくやしさ
ユゥンケルの|軍《いくさ》の|司《つかさ》を|棒《ぼう》にふり
|親《した》しく|添《そ》はむ|姫《ひめ》の|御傍《みそば》に』
|初稚姫《はつわかひめ》『ユゥンケルよりも|尊《たふと》きキャプテンを
いとなつかしく|慕《した》ひけるかな』
チルテル『|初稚姫《はつわかひめ》|神《かみ》の|心《こころ》を|今《いま》ぞ|知《し》る
|恨《うら》み|歎《かこ》ちしことの|悔《くや》しさ
ユゥンケル|今《いま》のお|言葉《ことば》|何《なん》と|聞《き》く
とても|及《およ》ばぬ|恋《こひ》とあきらめよ』
ヘール『|口先《くちさき》でかく|宣《の》らすとも|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|奥《おく》にヘール|通《かよ》へる
キャプテンが|鬼《おに》の|念仏《ねんぶつ》いかほどに
|巧《たく》みなりとも|誰《たれ》か|聞《き》くべき
ことさらに|神《かみ》に|等《ひと》しき|姫君《ひめぎみ》は
|汝《なれ》が|心《こころ》の|汚《きたな》きを|知《し》る』
|初稚姫《はつわかひめ》『|妾《わらは》はキャプテンだのユゥンケルだのと、そんな|人為的《じんゐてき》|階級《かいきふ》には|少《すこ》しも|望《のぞ》みを|嘱《しよく》してをりませぬ。ただ|男《をとこ》らしい|男《をとこ》を|望《のぞ》むでゐます。|女《をんな》といふものは|繊弱《かよわ》いものでございますから、たとへ|色《いろ》は|黒《くろ》うても、|跛《ちんば》でも|片目《かため》でも、|出歯《でば》でも|鳩胸《はとむね》でも、かまひませぬ、|力《ちから》の|強《つよ》いお|方《かた》を|夫《をつと》に|持《も》ちたうございます』
ヘール『イヤ、それで|分《わか》りました。|私《わたし》はこの|関所《せきしよ》の|中《なか》でも|仁王《にわう》のヘールといはれたくらゐですから、|腕力《わんりよく》にかけたら|私《わたし》に|勝《まさ》るものはありませぬ。なるほど|姫様《ひめさま》も|先見《せんけん》の|明《めい》がございますワイ。|鬼《おに》や|大蛇《をろち》の|猛《たけ》り|狂《くる》ふ|世《よ》の|中《なか》、やつぱり|強《つよ》いものでなくては|世《よ》に|立《た》つことが|出来《でき》ませぬからなア』
チルテル『|姫様《ひめさま》、この|男《をとこ》は|口《くち》ばかり|強《つよ》いのですよ。|一束《いちわ》の|藁《わら》なら|力持《ちからもち》、|三升《さんじよう》の|飯《めし》なら|一度饌《ひとかたげ》、そのくせ|夏瘠《なつや》せ|寒細《かんぼそ》り、たまたま|肥満《こえ》たら|脹《は》れ|病《やまひ》、|一里《いちり》の|道《みち》なら|泊《とま》りがけ、|雪隠行《せつちんゆ》きなら|腰弁当《こしべんたう》といふ|厄介者《やくかいもの》です。|口《くち》は|何《なに》ほど|達者《たつしや》でも|実力《じつりよく》でなければ|駄目《だめ》ですよ』
|初稚《はつわか》『そりやさうでございます。|妾《わらは》は|実際《じつさい》のお|力《ちから》を|存《ぞん》じませぬから、どうぞあの|陥穽《おとしあな》の|傍《そば》で|角力《すまふ》を|取《と》つて|見《み》て|下《くだ》さい。そして|強《つよ》いお|方《かた》のお|世話《せわ》になりますから、それが|一番《いちばん》|不公平《ふこうへい》がなくて|宜《い》いでせう』
チルテル『イヤ|至極《しごく》|名案《めいあん》だ、サ、ヘール|一《ひと》つ|勝負《しようぶ》だ、|赤裸々《せきらら》となつての|勝負《しようぶ》ぢや。|一文《いちもん》の|掛《か》け|引《ひ》きもない。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》に|検査《けんさ》を|願《ねが》つて、|勝《か》つたものが|姫様《ひめさま》の|夫《をつと》になるのだから、その|覚悟《かくご》で|貴様《きさま》も|十分《じふぶん》の|力《ちから》を|出《だ》したらよからうぞ』
ヘール『アハハハハ、|面白《おもしろ》し|面白《おもしろ》し、|天王山《てんわうざん》の|晴軍《はれいくさ》、|勝敗《しようはい》の|決《けつ》、|瞬間《しゆんかん》に|迫《せま》れり。|姫様《ひめさま》、|天晴《あつぱ》れ|某《それがし》の|力《ちから》を|御覧《ごらん》|下《くだ》さいませ』
|初稚《はつわか》『|面白《おもしろ》うございませう。|勝《か》つたお|方《かた》の|女房《にようばう》にしていただきます。どうぞ|何方《どちら》も|負《ま》けぬやうにして|下《くだ》されや』
|二人《ふたり》は|真裸《まつぱだか》となり、ドンドンと|四股《しこ》|踏《ふ》みならし、|陥穽《おとしあな》の|傍《そば》で|今《いま》や|勝負《しようぶ》を|初《はじ》めむとする|時《とき》、あわただしく|走《はし》つて|来《き》たのは、スパイのテクであつた。テクはこの|態《てい》を|見《み》て|合点《がつてん》ゆかず、|直立不動《ちよくりつふどう》の|姿勢《しせい》を|取《と》つて、
『|僕《ぼく》はバラモン|軍《ぐん》のリウチナント、テクであります。キャプテン|様《さま》、ユゥンケルの|御両人《ごりやうにん》、|奉納角力《ほうなうずもふ》を|取組《とりく》まれるとみえますが、|行司《ぎやうじ》がなくてはかなはぬこと、サア|拙者《せつしや》が|行司《ぎやうじ》をいたしませう』
チルテル『ヨウ、お|前《まへ》はテクか、|好《い》いところへ|来《き》てくれた、|一《ひと》つ|行司《ぎやうじ》を|願《ねが》はう』
テク『ヘエ、よろしやす、よろしうあります。なるべくはキャプテンが|負《ま》けるといいのだがなア、イヒヒヒヒ』
|初稚《はつわか》『そなたは|夜前《やぜん》|妾《わらは》の|居間《ゐま》へお|使《つかひ》に|見《み》えた、リゥチナントさまぢやありませぬか。|何《なん》とまあ、|四角《しかく》いスタイルだこと、ホホホホホ』
テク『これはこれは|姫様《ひめさま》、|久《ひさ》し|振《ぶ》りにお|目《め》にかかります。まづ|御壮健《ごさうけん》でお|目出《めで》たうあります』
|初稚《はつわか》『|昨日《きのふ》お|目《め》にかかつたばかり、|久《ひさ》し|振《ぶ》りとは|可笑《をか》しいワ。そして|行司《ぎやうじ》は|妾《わらは》がいたします、あなたも|勝負《しようぶ》をして|下《くだ》さい。|勝《か》つたお|方《かた》の|妾《わらは》は|女房《にようばう》になる|決心《けつしん》でございますから、まづ|第一《だいいち》にチルテル|様《さま》とヘール|様《さま》との|勝負《しようぶ》のついた|上《うへ》、|勝《か》つた|方《かた》と|貴方《あなた》と|勝負《しようぶ》をしていただき、もしもお|勝《か》ちなれば|妾《わらは》は|貴方《あなた》の|女房《にようばう》にしてもらひます。オオ|恥《は》づかしやのう、オホホホホ』
テク『これはよい|所《ところ》へやつて|来《き》て、お|仲間入《なかまい》りをさしていただくとは|何《なん》といふ|仕合《しあは》せの|事《こと》だらう。|力《ちから》にかけたら|滅多《めつた》に|後《あと》へはひかぬこのテクさまだ。きつと|勝《か》つてお|目《め》にかけませう』
チルテル『|初稚《はつわか》さま、さう|新手《あらて》が|殖《ふ》へては|困《こま》るぢやありませぬか。お|約束《やくそく》が|違《ちが》ふでせう』
ヘール『なに、|何人《なんにん》なりと|新手《あらて》が|現《あら》はれた|方《はう》が|面白《おもしろ》い、|負《ま》けさへせねばよいのだ。サア|三人消《さんにんけ》しがかりだ』
と|矢庭《やには》にチルテルに|喰《くら》ひつく。チルテルは「なに|猪口才《ちよこざい》な」と|忽《たちま》ち|四《よ》つに|組《く》むで|揉《も》み|合《あ》ひ|蹴《け》り|合《あ》ふ。|二人《ふたり》の|裸体《はだか》は|滝《たき》のごとく|汗《あせ》が|滲《にじ》み|出《だ》し、ヌルリヌルリと|体辷《たいすべ》りがして、|二人《ふたり》はパツと|左右《さいう》に|別《わか》れた。|押《お》す、|突《つ》く、|突張《つつぱ》る、|必死《ひつし》の|活動《くわつどう》、ここを|先途《せんど》と|挑《いど》み|戦《たたか》ふその|勢《いきほ》ひ、|竜虎《りうこ》の|争《あらそ》ふごとく|見《み》えたるが、チルテルの|力《ちから》や|勝《まさ》りけむ、ヘールはたうとう|押《お》し|倒《たふ》されて、|深《ふか》い|陥穽《おとしあな》へ|投《な》げ|込《こ》まれて|仕舞《しま》つた。たちまちテクは|真裸体《まつぱだか》となりチルテルに|突《つ》つかかる。チルテルは「なに|猪口才《ちよこざい》な|木《こ》つ|端武者《ぱむしや》」と|高《たか》をくくつて|組《く》みついた。|大地《だいち》をドンドンと|威喝《ゐかつ》させながら、|土佐犬《とさいぬ》の|噛《か》み|合《あ》ひのごとく、|但馬牛《たじまうし》の|突《つ》き|合《あひ》のごとく、|千変万化《せんぺんばんくわ》の|秘術《ひじゆつ》を|尽《つく》して|汗《あせ》みどろとなり、|半時《はんとき》ばかり、|命辛々《いのちからがら》、【いが】み|合《あ》うた。|初稚姫《はつわかひめ》は「オホホホホ、オホホホホ」と|愉快気《ゆくわいげ》に|二人《ふたり》の|勝負《しようぶ》を|眺《なが》めて|笑《わら》つてゐる。たうとうチルテルはテクに|捩伏《ねぢふ》せられ、|陥穽《おとしあな》の|中《なか》へ|無残《むざん》にも|投《な》げ|込《こ》まれてしまつた。
この|陥穽《おとしあな》は|四五間《しごけん》ばかりの|深《ふか》さで、|底《そこ》には|深《ふか》い|地下室《ちかしつ》が|築《きづ》かれてあつた、さうして|落《お》ちても|怪我《けが》をしないやうの|装置《さうち》がしてあつた。テクはやれ|安心《あんしん》と|張《は》り|詰《つ》めし|心《こころ》もグツタリと|緩《ゆる》み、ヘトヘトになつてその|場《ば》に|倒《たふ》れた。これより|先《さき》、ワックス、ヘルマン、エキス、エルの|四人《よにん》は|関所《せきしよ》の|門《もん》を|潜《くぐ》り、|裏庭《うらには》に|妙《めう》な|音《おと》がするので|走《はし》り|来《き》て|見《み》れば、|二人《ふたり》の|男《をとこ》が|真裸体《まつぱだか》で|角力《すまふ》を|取《と》つてゐるので、チクチク|傍《そば》により|勝負《しようぶ》いかにと|眺《なが》めてゐた。テクはやうやくにして|起《お》き|上《あ》がり、さも|嬉《うれ》しさうな|顔付《かほつ》きにて、
『サア|姫様《ひめさま》、お|約束通《やくそくどほ》り、リゥチナントのテクが|女房《にようばう》になつていただきませう。もはやキャプテンはかくのごとく|失脚《しつきやく》いたしました|以上《いじやう》は、リゥチナントがこの|関守《せきもり》を|勤《つと》めるのは|当然《たうぜん》、あまり|憎《にく》うはございますま|否《いな》、エヘヘヘヘ』
ワックス|外《ほか》|三人《さんにん》は|初稚姫《はつわかひめ》の|美貌《びばう》に|見惚《みと》れて、|首《くび》を|傾《かた》げ、|食指《しよくし》を|咬《くわ》へて、ポカンとしてゐる。
|初稚《はつわか》『テクさま、|本当《ほんたう》に|貴方《あなた》、|力《ちから》の|強《つよ》い|方《かた》ですな。お|約束通《やくそくどほ》り|女房《にようばう》にしていただきませう。しかしながらあの|通《とほ》りバラモン|信者《しんじや》のワックスさま|外《ほか》|三人《さんにん》が、テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》から|叩《たた》き|払《はら》ひに|遇《あ》うて、|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》|一行《いつかう》の|後《あと》をつけ|狙《ねら》ひ|此処《ここ》にみえてをりますから、あなたの|勝負《しようぶ》にお|勝《か》ちなさつたお|祝《いは》ひに、|此《こ》の|方《かた》がたをお|招《まね》き|申《まを》してお|神酒《みき》なとお|上《あ》げなさいませ。|乞食《こじき》も|身《み》の|祝《いは》ひといふ|事《こと》がございますからな』
テク『ウンヨシ、|女房《にようばう》のいふことなら、|何《なん》でも|聞《き》いてやる。|女房《にようばう》に|対《たい》して|忠実《ちうじつ》な、|親切《しんせつ》な、|慇懃《いんぎん》な、それはそれは|柔《やさ》しい、|同情《どうじやう》の|深《ふか》い、|誠《まこと》に|結構《けつこう》なテクさまだ。こんな|亭主《おやぢ》をもつた|女房《にようばう》も|世界一《せかいいち》の|幸福《しあわせ》ものだ。お|前《まへ》は|幸運《かううん》の|神《かみ》に|見舞《みま》はれたものだ。|俺《おれ》もまたその|通《とほ》りだ。「よい|嬶《かか》|持《も》つたら|一生《いつしやう》の|徳《とく》だよ、|近所《きんじよ》も|喜《よろこ》ぶ、テクさまも|喜《よろこ》ぶ、テクさまどころか|伜《せがれ》も|喜《よろこ》ぶ」。オイ、バラモン|信者《しんじや》のワックス|以下《いか》|外《ほか》|三人《さんにん》、|恋《こひ》の|勝利者《しようりしや》のテクさまがこの|館《やかた》の|関守《せきもり》だ。さうしてこのナイスが|内事《ないじ》|一切《いつさい》をかまふのだ。|貴様《きさま》もよいところへ|来《き》てくれた。|今日《けふ》から|俺《おれ》の|家来《けらい》にしてやらう、サアこちらへ|来《き》て|一杯《いつぱい》|飲《の》め』
ワックス『|有難《ありがた》うございます……エキス、ヘルマン、エルどうだ、やはり|私《わし》の|予言《よげん》は|違《ちが》ふまいがな。キヨの|港《みなと》に|着《つ》いたら|意外《いぐわい》の|喜《よろこ》びが|湧《わ》いて|来《く》るといつたらうがな』
エル『そりやさうだ。|尻《しり》の|千《せん》も|叩《たた》かれて|苦労《くらう》した|苦労《くらう》の|塊《かたまり》の|花《はな》が|咲《さ》いたのだからなア』
ワックス『シー、|尻《しり》の|話《はなし》はもうやめてくれ、|馬鹿《ばか》だな。こんな|所《ところ》まで|来《き》て|恥《はぢ》を|曝《さら》す|奴《やつ》があらうかい』
テク『こりや こりや|四人《よにん》の|家来《けらい》ども、|何《なに》をいつてゐるのだ。|新夫婦《しんふうふ》のお|祝《いは》ひ|酒《ざけ》でも|呑《の》まないか。この|館《やかた》には|確《しつか》り|仕込《しこ》むであるから、|幾《いく》ら|呑《の》みても|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。|十日《とをか》や|二十日《はつか》|飲《の》みつづけても|少《すこ》しもかまはぬのだ。|親方《おやかた》が|大黒主《おほくろぬし》だから|太《ふと》いものだぞ』
ワックス『ヤ|有難《ありがた》い、お|目出《めで》たう、それならお|言葉《ことば》に|甘《あま》へていただきます』
|初稚《はつわか》『モシ|貴方《あなた》、こちの|人《ひと》、テクさま、|妾《あたい》のお|手々《てて》を|握《にぎ》つて|頂戴《ちやうだい》、|握手《あくしゆ》しませうか』
テク『ヨシ、お|出《い》でた。|握手《あくしゆ》だらうがキッスだらうが、ちつとも|遠慮《ゑんりよ》はいらぬ』
と|猿臂《ゑんび》を|伸《の》ばして|柔《やは》らかい|初稚姫《はつわかひめ》の|手《て》を|握《にぎ》つた。たちまち|手《て》から|白《しろ》い|毛《け》がモジヤモジヤと|生《は》え|出《だ》した。ハツと|驚《おどろ》いた|途端《とたん》に、|驢馬《ろば》のやうな|大《おほ》きな|白狐《びやくこ》となつて、|竹箒《たけばうき》のやうな|太《ふと》い|尻尾《しつぽ》をブラリブラリと|振《ふ》つてゐる。テクは「こいつは|耐《たま》らぬ」と|一生懸命《いつしやうけんめい》|裏門《うらもん》より、|命《いのち》からがら|逃《に》げ|出《だ》した。ワックスほか|三人《さんにん》は|呆気《あつけ》に|取《と》られ、|逃《に》げ|行《ゆ》く|途端《とたん》、|以前《いぜん》の|陥穽《おとしあな》に|一蓮托生《いちれんたくしやう》、|四人《よにん》ともにバサバサと|落《お》ち|込《こ》むでしまつた。
|初稚姫《はつわかひめ》に|変化《へんげ》てゐた|怪物《くわいぶつ》は、|三五教《あななひけう》を|守護《しゆご》する、|旭《あさひ》の|白狐《びやくこ》であつた。|旭《あさひ》はノソリノソリと|庭園《ていゑん》の|木《き》の|茂《しげ》みを|潜《くぐ》つて|何処《いづこ》ともなく、その|姿《すがた》をかくした。
(大正一二・四・二 旧二・一七 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第三篇 |地底《ちてい》の|歓声《くわんせい》
第一三章 |案知《あんち》〔一五一三〕
キヨの|関所《せきしよ》の|館《やかた》をば  |探《さぐ》らむためにテクテクと
|玉国別《たまくにわけ》に|暇《いとま》|告《つ》げ  |斥候隊《せきこうたい》の|心地《ここち》して
チルテル|館《やかた》に|行《い》てみれば  |肝腎要《かんじんかなめ》の|事務室《じむしつ》は
|猫《ねこ》の|子《こ》|一匹《いつぴき》をらばこそ  |天井《てんじやう》の|鼠《ねずみ》がチウチウと
ちちくり|合《あ》うてゐる|声《こゑ》の  いと|騒《さわ》がしく|聞《き》こゆのみ
|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》も|荒男《あらをとこ》  |裏庭《うらには》|潜《くぐ》り|初稚姫《はつわかひめ》が
|居間《ゐま》を|目当《めあて》に|出《い》で|行《ゆ》けば  チルテル ヘールの|両人《りやうにん》が
|衣《ころも》|脱《ぬ》ぎすて|赤裸体《まつぱだか》  |節《ふし》くれだつたり|気張《きば》つたり
|山門《さんもん》|守《まも》る|仁王《にわう》さま  |虎搏撃攘《こはくげきじやう》の|真最中《まつさいちう》
コラ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い  |団扇《うちわ》はなけれど|俺《おれ》が|今《いま》
|行司《ぎやうじ》をやつてつかはそと  |勇《いさ》み|進《すす》むで|近《ちか》よれば
|初稚姫《はつわかひめ》は|声《こゑ》をかけ  お|前《まへ》はテクさまリュウチナント
|行司《ぎやうじ》は|妾《わらは》がいたします  あなたも|此処《ここ》で|衣《きぬ》を|脱《ぬ》ぎ
|力比《ちからくら》べの|消《け》しがかり  |最後《さいご》の|勝利《しようり》を|得《え》た|方《かた》に
|妾《わたし》はラブを|注《そそ》ぎます  |力《ちから》の|強《つよ》い|男《をとこ》をば
|妾《わたし》は|夫《をつと》に|持《も》つのだと  |梅花《ばいくわ》のやうな|唇《くちびる》を
いと|愛《あい》らしく|動《うご》かせて  |詞《ことば》|涼《すず》しく|宣《の》り|渡《わた》す
|聞《き》くよりテクは|雀躍《こをど》りし  |玉国別《たまくにわけ》の|斥候《せきこう》と
なりて|来《き》たりし|身《み》を|忘《わす》れ  うつつになつて|衣《きぬ》を|脱《ぬ》ぎ
いざ|来《こ》い|勝負《しようぶ》と|待《ま》ちゐたる  |時《とき》しもあれやチルテルは
|美事《みごと》にヘールを|投《な》げつけて  |見《み》るも|恐《おそ》ろし|陥穽《かんせい》に
|放《ほ》り|込《こ》みをはるをみるや|否《いな》  よし|来《き》た|勝負《しようぶ》と|手《て》を|拍《う》つて
|獅子奮迅《ししふんじん》の|猪突主義《ちよとつしゆぎ》  |発揮《はつき》しながらくらひつく
|体《からだ》の|汗《あせ》はぬらぬらと  |鰻《うなぎ》と|鯰《なまづ》が|組《く》みついて
|争《あらそ》ふごとき|為体《ていたらく》  |合《あ》うては|離《はな》れ|離《はな》れては
また|取《と》り|組《く》むでドスドスと  |庭《には》の|小砂《こずな》をへこませつ
ここを|先途《せんど》と|戦《たたか》へば  |初稚姫《はつわかひめ》は|手《て》をあげて
オホホホホホと|笑《わら》ひつつ  |愛嬌《あいけう》こもる|視線《しせん》をば
|二人《ふたり》の|頭上《づじやう》に|浴《あび》せかけ  |勝負《しようぶ》いかにと|待《ま》ちゐたる
チルテル テクの|両人《りやうにん》は  |女帝《によてい》の|前《まへ》の|晴勝負《はれしようぶ》
|世界《せかい》で|一《いち》の|色男《いろをとこ》  |世界《せかい》で|一《いち》のナイスをば
|女房《にようばう》になして|世《よ》の|中《なか》の  |有情男子《うじやうだんし》の|肝《きも》ひしぎ
その|成功《せいこう》を|誇《ほこ》らむと  |命《いのち》を|的《まと》に|挑《いど》み|合《あ》ふ
|新手《あらて》のテクは|漸《やうや》くに  |相手《あひて》の|褌《まはし》をひき|握《にぎ》り
ヅドンとばかり|地《ち》の|上《うへ》に  |岩石落《がんせきお》としに|投《な》げつくる
|勢《いきお》ひあまつてコロコロと  |再度《ふたたび》|三《み》たび|廻転《くわいてん》し
|汗《あせ》のにじゆんだ|肉体《にくたい》は  たちまち|砂《すな》の|祇園棒《ぎをんぼう》
|砂巻酢《すなまきずし》となりをへて  |千尋《ちひろ》の|深《ふか》き|陥穽《かんせい》へ
またたく|内《うち》に|落《お》ちにけり  さすがのテクも|気《き》をゆるし
|月桂冠《げつけいくわん》を|得《え》たりとて  |心《こころ》ホクホク|地《ち》の|上《うへ》に
|黒《くろ》いお|尻《しり》をドカとすゑ  ハートに|波《なみ》を|打《う》たせつつ
|四辺《あたり》を|見《み》ればこはいかに  バラモン|教《けう》のワックスや
エキス ヘルマン エル|四人《よにん》  にこにこしながら|立《た》つてゐる
|初稚姫《はつわかひめ》は|嬉《うれ》しげに  テクに|向《む》かつて|声《こゑ》をかけ
リュウチナントのテクさまえ  お|前《まへ》は|本当《ほんたう》に|強《つよ》い|人《ひと》
サアサアこれから|約束《やくそく》の  |私《わたし》は|女房《にようばう》になりまする
|握手《あくしゆ》を|一《ひと》つといひながら  |優《やさ》しき|白《しろ》き|手《て》を|出《だ》せば
|握手《あくしゆ》どころかキッスでも  |何《なん》でもかまはぬいたします
エヘヘヘヘヘエヘヘヘヘ  |涎《よだれ》をタラタラ|流《なが》しつつ
|猿臂《ゑんび》を|伸《の》ばして|目《め》を|細《ほそ》め  |白《しろ》き|腕《かひな》を|握《にぎ》らむと
なしたる|刹那《せつな》|初稚姫《はつわかひめ》の  |無比《むひ》のナイスはテクの|手《て》を
|取《と》るより|早《はや》く|白《しろ》い|毛《け》を  |現《あら》はし|玉《たま》へばテクの|奴《やつ》
ハツと|呆《あき》れてその|面《つら》を  |見上《みあ》ぐる|途端《とたん》にあら|不思議《ふしぎ》
|目《め》は|釣上《つりあ》がり|口元《くちもと》は  |耳《みみ》までさけしその|姿《すがた》
|驚《おどろ》き|後辺《しりへ》にドツと|伏《ふ》し  |眼《まなこ》キヨロキヨロ|光《ひか》らせば
|初稚姫《はつわかひめ》はたちまちに  |白狐《びやつこ》の|姿《すがた》と|還元《くわんげん》し
|箒《はうき》のやうな|尾《を》をふつて  のそりのそりと|歩《あゆ》み|出《だ》す
ワックスはじめ|三人《さんにん》は  |驚《おどろ》き|狼狽《あはて》|逃《に》げ|迷《まよ》ひ
|四人《よにん》|一度《いちど》に|陥穽《かんせい》に  バサリと|墜《お》ちてその|姿《すがた》
|地上《ちじやう》に|見《み》えずなりにける  テクはふたたび|仰天《ぎやうてん》し
やうやく|腰《こし》を|立《た》てながら  |足《あし》もヒヨロ ヒヨロ バタバタと
|勝手門《かつてもん》をば|潜《くぐ》り|脱《ぬ》け  |尻《しり》はし|折《を》つて|一散《いつさん》に
|玉国別《たまくにわけ》の|隠《かく》れたる  タダスの|森《もり》に|走《はし》り|行《ゆ》く
|日《ひ》は|漸《やうや》くに|黄昏《たそが》れて  |月《つき》は|御空《みそら》に|輝《かがや》けど
|梢《こずゑ》の|茂《しげ》みに|遮《さへぎ》られ  |一寸先《いつすんさき》も|見《み》え|分《わか》ぬ
|暗《やみ》の|帳《とばり》は|下《お》りにけり  |真純《ますみ》の|彦《ひこ》は|闇《やみ》の|森《もり》を
ブラリブラリと|進《すす》み|来《く》る  この|時《とき》|先方《むかふ》より|駈《か》け|来《き》たる
|一人《ひとり》の|男《をとこ》はたちまちに  |真純《ますみ》の|彦《ひこ》の|胸板《むないた》に
ドンと|頭《あたま》を|打《う》ちつけて  アツとばかりに|打《う》ち|倒《たふ》れ
ウンウン キヤアキヤア|唸《うな》りゐる  |真純《ますみ》の|彦《ひこ》は|怪《あやし》みて
|玉国別《たまくにわけ》をソツと|招《よ》び  |火打《ひうち》を|取《と》り|出《だ》し|火《ひ》を|点《てん》じ
よくよく|見《み》ればこはいかに  |斥候主任《せきこうしゆにん》のテクの|奴《やつ》
ポカンと|口《くち》をあけながら  |空《そら》を|仰《あふ》いで|倒《たふ》れゐる
そのスタイルは|池鮒《いけふな》の  |泥《どろ》に|酔《よ》ひたるごとくなり
アツパアツパと|口《くち》あけて  |目《め》をキヨロつかせ|眺《なが》めゐる。
|真純彦《ますみひこ》はいろいろ|介抱《かいはう》をし、テクを|抱《いだ》き|起《おこ》し、|背中《せなか》を|打《う》つたり|撫《な》でたりしながら、
『オイ、テク、|確《しつか》りせむかい。|敵《てき》の|様子《やうす》はどうだ。|三千彦《みちひこ》の|所在《ありか》は|分《わか》つたか。サア|早《はや》く|報告《はうこく》せよ』
テクは|息《いき》|苦《くる》しげに|起《お》き|上《あ》がり、|土《つち》の|上《うへ》に|両手《りやうて》をついて、
『ヘー、どうも|大変《たいへん》でございます。それはそれは|日《ひ》の|下《した》|開山《かいさん》|世界一《せかいいち》の|大角力《おほすまふ》がはじまつてをりました。|私《わたし》もその|角力《すまふ》に|参加《さんか》して|大勝利《だいしようり》を|得《え》ました。そして、キキキツネのニヨニヨ|女《によ》ン|房《ばう》を|褒美《はうび》にもらいました』
|真純《ますみ》『オイ、テク、しつかりせぬかい。|偵察《ていさつ》はどうだつたい。この|永《なが》の|日《ひ》を|今《いま》まで、|俺《おれ》|達《たち》は|待《ま》つてゐたのぢやないか、|何《なに》をしてをつたのだ。サア|詳細《つぶさ》に|注進《ちうしん》せい』
テク『イヤもう、|化物屋敷《ばけものやしき》の|探険《たんけん》には、さすがのテクもテクずりました。|角力取《すまふとり》が|穴《あな》へおちたり、|狐《きつね》が|現《あら》はれたり、バラモンのワックスが|見物《けんぶつ》に|出《で》て|来《き》たり、それはそれは|大《たい》した|人気《にんき》でございましたよ。せつかく、|命《いのち》カラガラ|大勝利《だいしようり》を|得《え》て、|初稚姫《はつわかひめ》といふ|古今無双《ここんむさう》のナイスを|女房《にようばう》に|持《も》つたと|思《おも》へば、キキ|狐《きつね》になつて、のそりのそりと|這《は》ひ|出《だ》しました。イヤもう、|怖《こは》いの|怖《こは》くないのつて、|口《くち》でいふやうなことぢやありませぬワ。|酒《さけ》の|酔《よ》ひも|何《なに》も、|一度《いちど》にどつかへか|逐転《ちくてん》してしまひました。アアア、アア|苦《くる》しい。こんな|怖《おそ》ろしい|苦《くる》しいことは、|生《うま》れてからまだありませぬワ。モシ|玉国別《たまくにわけ》|先生《せんせい》、あんな|所《ところ》へ|行《ゆ》くが|最後《さいご》、|陥穽《おとしあな》へ|堕《お》とされますよ。そしてあこの|奴《やつ》ア、|人間《にんげん》と|思《おも》うてたら|騙《だま》されますよ。みな|狐《きつね》になりますよ。あんな|危険《きけん》な|所《ところ》へは|行《い》て|下《くだ》さりますな。|御身《おんみ》が|大切《たいせつ》でございますから……』
『オイテク、|一向《いつかう》|要領《えうりやう》を|得《え》ぬぢやないか、モツと|明瞭《はつきり》|報告《はうこく》せないか』
『ヘーヘー、|要領《えうりやう》を|得《え》ないのは|当然《たうぜん》ですよ。|私《わたし》も|要領《えうりやう》を|得損《えそこな》つたのですからなア。……|本当《ほんたう》に|本当《ほんたう》に、|古今独歩《ここんどつぽ》、|珍無類《ちんむるい》の|奇妙奇天烈《きめうきてれつ》な|目《め》に|会《あ》つて|来《き》ましたワイ』
『|三千彦《みちひこ》の|消息《せうそく》は|分《わか》つたか』
『あまり|怖《こは》くつて、|目《め》が|眩《くら》み、【みち】|彦《ひこ》も|川彦《かはひこ》も|何《なに》も|分《わか》りませぬ。これだけ|暗《くら》いと、|人《ひと》に|行《ゆ》き|当《あた》つても、|知《し》れないのですから、どして【みち】|彦《ひこ》が|分《わか》りませうかい。アアア ホンニホンニうすい|目《め》に|会《あ》うたものだ』
|真純《ますみ》『|困《こま》つた|奴《やつ》だなア。|何《なん》のための|使《つかひ》だ。チツと|確《しつか》りせぬかい』
|玉国《たまくに》『オイ、テク、|少《すこ》し|気《き》を|落付《おちつ》けて|悠《ゆつく》りと|話《はな》してくれ。お|前《まへ》の|言葉《ことば》ではチツとも|要領《えうりやう》が|分《わか》らぬからのう』
テクはしばらく|休息《きうそく》した|上《うへ》、|館《やかた》の|表《おもて》より|進《すす》み|入《い》つて、|裏庭《うらには》を|見《み》れば|角力《すまふ》が|始《はじ》まりかけてゐたことや、|自分《じぶん》が|角力《すまふ》を|取《と》つて|勝《か》つたこと、|初稚姫《はつわかひめ》と|思《おも》つた|女《をんな》は|大《おほ》きな|白狐《びやつこ》であつたことなどを|細《こま》ごまと|復命《ふくめい》した。そして|三千彦《みちひこ》|外《ほか》|二人《ふたり》の|行衛《ゆくゑ》は|分《わか》らなかつたが、おほかた|陥穽《おとしあな》へ|落《お》ちてゐるだらう……と|心配《しんぱい》さうに|答《こた》へた。|玉国別《たまくにわけ》は|暫《しばら》く|首《くび》を|傾《かたむ》け|思案《しあん》に|暮《く》れてゐた。
|真純《ますみ》『モシ|先生《せんせい》、どういたしませうか、|三千彦《みちひこ》|以下《いか》|二人《ふたり》を、このまま|放任《はうにん》するわけにもゆかず、ぢやといつて、この|暗《くら》いのにうつかり|行《ゆ》かうものなら、またもや|陥穽《おとしあな》へ|突込《つつこ》まれちや|大変《たいへん》ですからなア』
アンチー『モシ、|先生様《せんせいさま》、そんな|御心配《ごしんぱい》は|要《い》りませぬ。|私《わたし》が|御恩報《ごおんはう》じに|瀬《せ》ぶみをいたしますから、どうぞ|後《あと》から|足跡《あしあと》を|踏《ふ》んで|来《き》て|下《くだ》さい。もし|私《わたし》が|落《お》ち|込《こ》むだら、そこを|通《とほ》らないやうにして|下《くだ》されば、それで|安心《あんしん》でせう。サア|参《まゐ》りませう。グヅグヅしてをつては、|三千彦《みちひこ》|様《さま》|御夫婦《ごふうふ》をはじめ|伊太彦《いたひこ》さまが|何《ど》うなるか|知《し》れませぬ。あの|館《やかた》には|沢山《たくさん》の|兵士《へいし》がをるといふことですからなア』
|玉国《たまくに》『ともかく|充分《じうぶん》|注意《ちうい》をして|進《すす》むことにせう。オイ、テク、お|前《まへ》はモウ、バーチルさまの|館《やかた》へ|帰《かへ》り、|番頭《ばんとう》さまの|役《やく》を|忠実《ちうじつ》に|勤《つと》めたがよからう。|狼狽者《あわてもの》を|伴《つ》れてゆくと、かへつて|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》の|齟齬《そご》を|来《き》たすからなア』
テク『めつさうもない、どこまでもお|伴《とも》をいたします、|大抵《たいてい》のところは|勝手《かつて》を|知《し》つてゐます。めつたに|落《お》ち|込《こ》むやうなこたいたしませぬ。なにほど|暗《くら》くても、|空《そら》さへ|見《み》れば|梢《こずゑ》の|調子《てうし》で、ここは|何処《どこ》だぐらいの|事《こと》は|分《わか》つてゐますからなア』
アンチー『しからば|私《わたし》が|先頭《せんとう》を|仕《つかまつ》りませう。あの|屋敷《やしき》は|私《わたし》も、|三年《さんねん》|以前《いぜん》にチヨコチヨコいつたことがあります。……オイ、テクさま、お|前《まへ》は|一番《いちばん》|後《あと》から|先生《せんせい》を|守《まも》つてついて|来《こ》い、……
|暗《やみ》の|帳《とばり》は|下《お》ろされて  |一寸先《いつすんさき》は|見《み》えずとも
|心《こころ》の|空《そら》の|日月《じつげつ》は  |鏡《かがみ》のごとく|輝《かがや》けり
|玉国別《たまくにわけ》の|神司《かむづかさ》や  |真純《ますみ》の|彦《ひこ》に|従《したが》ひて
|吾《われ》ら|二人《ふたり》は|勇《いさ》ましく  バラモン|教《けう》の|悪神《あくがみ》の
|醜《しこ》の|館《やかた》を|指《さ》して|行《ゆ》く  |何《なに》ほど|暗《くら》いといつたとて
|元《もと》より|盲《めくら》でないものは  |暗《やみ》になれたら|明《あか》くなる
ただ|恐《おそ》るるは|足許《あしもと》の  |百足《むかで》や|蝮《まむし》の|類《やから》のみ
それの|危難《きなん》を|遁《のが》れるは  |三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》の
|教《をし》へ|玉《たま》ひし|数歌《かずうた》を  |一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》つ|六《む》つ
|七《なな》|八《や》|九《ここの》つ|十《たり》|百《もも》|千《ち》  |万《よろづ》と|称《とな》へ|進《すす》むなら
いかなる|曲《まが》も|恐《おそ》るべき  かへつて|先方《むかふ》が|戦《をのの》きて
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げるだらう  |三千彦《みちひこ》さまのお|身《み》の|上《うへ》
デビスの|姫《ひめ》や|伊太彦《いたひこ》の  |悩《なや》みを|案《あん》じ|煩《わづら》ひつ
|心《こころ》の|駒《こま》のはやるまに  |神《かみ》の|光《ひかり》を|身《み》に|浴《あ》びて
|敵《てき》の|館《やかた》へ|進《すす》み|行《ゆ》く  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして  |玉国別《たまくにわけ》をはじめとし
|吾《われ》ら|一行《いつかう》|恙《つつが》なく  |三千彦《みちひこ》|様《さま》の|一行《いつかう》を
|救《すく》はせ|玉《たま》へと|願《ね》ぎまつる  |俄《には》か|番頭《ばんとう》のテクさまが
|真昼《まひる》の|内《うち》に|偵察《ていさつ》と  お|出《で》かけなされて|泡《あわ》をふき
|大化物《おほばけもの》や|昼狐《ひるぎつね》  |為体《えたい》の|知《し》れぬ|怪物《くわいぶつ》に
|肝《きも》を|奪《と》られて|帰《かへ》り|来《く》る  その|光景《くわうけい》の|可笑《をか》しさよ
このアンチーはどこまでも  |狐《きつね》や|狸《たぬき》にや|恐《おそ》れない
|無人《むじん》の|島《しま》に|三歳《みとせ》ぶり  |大蛇《をろち》や|鷹《たか》と|相棲居《あひずまゐ》
|一旦《いつたん》|鬼《おに》の|境遇《きやうぐう》に  |成《な》りさがりたる|経験上《けいけんじやう》
|何《なに》ほど|悪魔《あくま》が|攻《せ》め|来《く》とも  |決《けつ》して|恐《おそ》るるものでない
|玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》よ  |真純《ますみ》の|彦《ひこ》の|神司《かむづかさ》
|心《こころ》|平《たひ》らに|安《やす》らかに  アンチーの|後《あと》を|目当《めあて》とし
|進《すす》ませ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》  |神《かみ》の|守《まも》りで|安全《あんぜん》な
|場所《ばしよ》へ|案内《あんない》いたします』
かく|小声《こごゑ》で|歌《うた》ひながら、チルテル|館《やかた》の|裏門《うらもん》から|足元《あしもと》に|気《き》をつけながら、アンチー、テクは|後先《あとさき》に|立《た》つて|進《すす》み|入《い》る。
(大正一二・四・二 旧二・一七 於皆生温泉浜屋 松村真澄録)
第一四章 |舗照《ほてる》〔一五一四〕
|神《かみ》の|教《をしへ》の|三千彦《みちひこ》は  デビスの|姫《ひめ》を|救《すく》ひ|出《だ》し
|伊太彦司《いたひこつかさ》ともろともに  チルテル|館《やかた》の|庭前《にはさき》を
|木蔭《こかげ》に|身《み》をば|隠《かく》しつつ  |意気《いき》|揚々《やうやう》と|帰《かへ》り|行《ゆ》く
|忽《たちま》ち|足元《あしもと》バツサリと  |思《おも》ひがけなき|底脱《そこぬ》けの
|滑《すべ》り|落《お》ちたる|陥穽《おとしあな》  |三人《みたり》は|何《なん》の|怪我《けが》もなく
|地底《ちてい》の|一間《ひとま》に|安着《あんちやく》し  |四辺《あたり》を|見《み》れば|摩訶不思議《まかふしぎ》
|思《おも》ひもよらぬ|広《ひろ》い|洞《ほら》  |光《ひかり》きらめく|燐光《りんくわう》の
|常磐堅磐《ときはかきは》の|岩《いは》の|穴《あな》  |黒白《あやめ》も|分《わか》ぬ|暗《やみ》の|夜《よ》に
|光明世界《くわうみやうせかい》に|登《のぼ》りたる  |心地《ここち》しながら|悠々《いういう》と
|三人《みたり》は|手《て》をばつなぎつつ  |蒲鉾《かまぼこ》なりの|大道《だいだう》を
|進《すす》むが|如《ごと》くスタスタと  |足《あし》に|任《まか》せて|探《さぐ》り|行《ゆ》く。
|伊太《いた》『|何《なん》だかバツサリと|地底《ちてい》へ|落《お》ちたやうな|気《き》がしたと|思《おも》へば、|四辺《あたり》はキラキラと|光《ひか》り|輝《かがや》く|光明世界《くわうみやうせかい》だ。さてもさても|不思議《ふしぎ》なことがあるものだな。|三千彦《みちひこ》さま、|吾々《われわれ》は|夢《ゆめ》でも|見《み》てゐるのぢやありますまいかな』
|三千《みち》『いや|決《けつ》して|夢《ゆめ》ではありませぬ。|敵《てき》の|術中《じゆつちう》に|陥《おちい》り|陥穽《おとしあな》に|落《お》ち|込《こ》むだのですよ。すべて|此《こ》の|辺《へん》は|地中《ちちう》の|洞穴《ほらあな》が|沢山《たくさん》ある|所《ところ》です。この|暗夜《あんや》にキラキラ|光《ひか》るのは|全部《ぜんぶ》|燐鉱《りんくわう》です。しかしながらここは|昔《むかし》、|立派《りつぱ》な|人間《にんげん》の|住居《すまゐ》してゐた|所《ところ》に|違《ちが》ひありませぬ。どこか|此処辺《ここら》で|休息《きうそく》いたしませう』
|伊太《いた》『|比較的《ひかくてき》スベスベしたよく|慣《な》れた|岩窟《いはや》ですな。これくらゐだと|何処《どこ》か|探《さが》したら、|沢山《たくさん》な|座敷《ざしき》がとつてあるに|違《ちが》ひございませぬわ。|一《ひと》つ|念入《ねんい》りに|探《さが》して|見《み》て、|座敷《ざしき》でもあればまアあなた|御夫婦《ごふうふ》は|新所帯《しんしよたい》をなさいませ。|私《わたし》はまア|臨時番頭《りんじばんとう》となつて|御用《ごよう》をいたしませう。ねえ|奥様《おくさま》、|結構《けつこう》でせう』
デビス『ホホホホホ、|伊太彦《いたひこ》|様《さま》の|仰有《おつしや》ること、ようまアそんな|気楽《きらく》なことがいつてをられますな。ここは|敵《てき》の|屋敷《やしき》、|何時《なんどき》|煙攻《けむりぜ》めに|会《あ》はされるやら、|徳利攻《とつくりぜ》めにされるやら|分《わか》りもせぬのに、|本当《ほんたう》に|貴方《あなた》は|楽天主義《らくてんしゆぎ》ですな』
|伊太《いた》『|陥穽《おとしあな》からバツサリと|地底《ちてい》へ|落転主義《らくてんしゆぎ》です。まアまアよろしいわい。|刹那心《せつなしん》を|楽《たの》しみませう。|後《あと》には|玉国別《たまくにわけ》の|先生《せんせい》もあり|真純彦《ますみひこ》も|残《のこ》つてをりますから、きつと|尋《たづ》ね|出《だ》して|私《わたし》たちを|救《すく》つてくれるに|違《ちが》ひありませぬ。マア|取越苦労《とりこしくらう》をせずにこの|瞬間《しゆんかん》を|楽《たの》しみませう。|悔《くや》んでみたとこで、どうにもならぬぢやありませぬか。しばらく|馬鹿《ばか》になつてをれば|何《なに》も|苦《くる》しいことはありませぬわ。|世《よ》の|中《なか》に|馬鹿《ばか》と|狂人《きちがひ》になるくらゐ|幸福《かうふく》はありませぬからな。|神様《かみさま》も|始終《しじう》|馬鹿《ばか》と|狂人《きちがひ》になれとおつしやりますが、|本当《ほんたう》に|馬鹿《ばか》と|狂人《きちがひ》ぐらひ|気楽《きらく》なものはございませぬわい、アツハハハハ』
|三千《みち》『もうよい|加減《かげん》に|後《あと》へ|引返《ひきかへ》しませう。いくら|行《い》つても|際限《さいげん》がありませぬわ。これからベルチスタン、アフガニスタンの|方《はう》へ|行《ゆ》くと、こんな|岩窟《いはや》は|沢山《たくさん》あるといふことです。|醜《しこ》の|岩窟《いはや》といつて|随分《ずゐぶん》|有名《いうめい》なものもあるからな』
|伊太《いた》『ともかくも、も|一度《いちど》|念入《ねんい》りに|探《さが》してみませう』
とまた|元《もと》へ|引返《ひつかへ》し|其処《そこ》ら|中《ぢう》を|探《さが》して|見《み》ると、|自分《じぶん》の|落《お》ち|込《こ》むだ|穴《あな》の|横《よこ》に|少《すこ》し|凹《へつこ》んだ|処《ところ》がある。|伊太彦《いたひこ》はグツと|押《お》して|見《み》ると|広《ひろ》い|岩窟《いはや》があつて、|燐鉱《りんくわう》がキラキラと|四辺《あたり》に|光《ひか》つてゐる。
|伊太《いた》『ヤ、|有難《ありがた》い、ここで|暫《しば》らく|籠城《ろうじやう》ときめやう。これだけ|設備《せつび》が|出来《でき》てゐると|食糧《しよくりやう》も|水《みづ》も|何処《どこ》かにあるだらう』
と|先《さき》に|立《た》つて|進《すす》み|入《い》る。
|三人《さんにん》はドシドシ|奥《おく》へ|進《すす》むで|見《み》ると、|足《あし》にガシガシと|触《さは》るものがある。よくよく|見《み》れば|芭蕉《ばせう》の|葉《は》で|編《あ》んだ|莚《むしろ》が|敷《し》きつめてある。
|伊太《いた》『や、こいつア|意外《いぐわい》な|珍座敷《ちんざしき》だ。まアここで|三人《さんにん》が|悠《ゆつく》りと|雑魚寝《ざこね》をいたしませう。しかしお|邪魔《じやま》になれば|暫《しばら》く|控《ひか》へてゐませう』
デビス|姫《ひめ》『|思《おも》ひきや|醜《しこ》の|岩窟《いはや》に|落《お》とされて
|畳《たたみ》の|上《うへ》に|寝《い》ぬる|嬉《うれ》しさ
|菅畳《すがだたみ》いやさや|敷《し》きて|三人連《みたりづ》れ
|寝《ね》る|夢心地《ゆめごこち》してぞ|嬉《うれ》しき』
|伊太彦《いたひこ》『またしても|寝《ね》ることばかり|仰有《おつしや》るな
この|伊太彦《いたひこ》はセリバシーぞや』
デビス|姫《ひめ》『|妾《わらは》とて|神《かみ》の|御業《みわざ》の|済《す》むまでは
|同《おな》じ|思《おも》ひのセリバシーなり』
|伊太彦《いたひこ》『|千早《ちはや》|振《ふ》る|神代《かみよ》も|聞《き》かぬ|妹《いも》と|背《せ》が
セリバシーとは|怪《あや》しかりけり』
|三千彦《みちひこ》『|心《こころ》なき|人《ひと》は|三千彦《みちひこ》デビス|姫《ひめ》の
|仲《なか》を|怪《あや》しく|思《おも》ふなるらむ』
|伊太彦《いたひこ》『|人前《ひとまへ》を|飾《かざ》ることなく|詳細《まつぶさ》に
|告《つ》げさせ|玉《たま》へ|鴛鴦《をし》の|親《した》しみ』
デビス|姫《ひめ》『ただ|見《み》れば|夫婦《めをと》の|睦《むつ》びせしものと
|思《おも》ふなるらむ|世《よ》の|人々《ひとびと》は
さりながら|心《こころ》|健気《けなげ》な|三千彦《みちひこ》は
|怪《あや》しき|夢《ゆめ》を|結《むす》び|玉《たま》はず』
|三千彦《みちひこ》『|伊太彦《いたひこ》やデビスの|姫《ひめ》よ|村肝《むらきも》の
ゆめ|心《こころ》をな|傷《いた》めたまひそ』
|伊太彦《いたひこ》『|伊太彦《いたひこ》の|心《こころ》は|君《きみ》が|親《した》しみを
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|祈《いの》り|暮《くら》しつ
|村肝《むらきも》の|心《こころ》|配《くば》らせ|玉《たま》ふなく
|妹背《いもせ》の|道《みち》を|守《まも》らせ|玉《たま》へ
|妹《いも》と|背《せ》の|仲《なか》を|隔《へだ》つる|伊太彦《いたひこ》は
|人目《ひとめ》の|垣《かき》と|思召《おぼしめ》すらむ
|板垣《いたがき》を|潜《くぐ》りて|出《い》づる|門戸《もんこ》あり
|隙《ひま》|行《ゆ》く|駒《こま》の|例《ためし》|知《し》らずや
|根《ね》の|国《くに》や|底《そこ》の|国《くに》まで|落《お》ちしかと
|思《おも》ひしことも|夢《ゆめ》となりぬる
|何《なん》となく|心《うら》|勇《いさ》ましくなりにけり
|岩窟《いはや》の|中《なか》にあるを|忘《わす》れて
|栲衾《たくぶすま》いやさや|敷《し》きて|三人連《みたりづ》れ
|夜《よ》の|明《あ》くるをば|待《ま》ちつつ|寝《いね》む』
デビス|姫《ひめ》『いざさらば|伊太彦司《いたひこつかさ》|三千彦《みちひこ》よ
|心《こころ》|定《さだ》めて|寝《ねむ》りに|就《つ》かむ』
|三千彦《みちひこ》『|村肝《むらきも》の|心《こころ》にかかる|雲《くも》もなし
|花《はな》と|月《つき》との|君《きみ》とありせば』
|伊太彦《いたひこ》『|花《はな》は|姫《ひめ》|伊太彦司《いたひこつかさ》は|三千彦《みちひこ》に
つきの|姿《すがた》となりにけるかな』
|三千彦《みちひこ》『|伊太彦《いたひこ》やデビスの|姫《ひめ》の|真心《まごころ》を
|神《かみ》は|嘉《よみ》して|救《すく》ひ|玉《たま》はむ
|何事《なにごと》も|神《かみ》のまにまに|従《したが》ひて
|天《あま》の|岩戸《いはと》の|開《あ》くを|待《ま》たなむ』
かく|互《たが》ひに|三十一文字《みそひともじ》を|詠《よ》み|交《かは》しながら、その|夜《よ》は|他愛《たあい》もなく|眠《ねむ》らひにけり。
|地上《ちじやう》の|世界《せかい》は|漸《やうや》く|明《あか》るくなつたとみえて、|四辺《あたり》の|燐鉱《りんくわう》は|次第々々《しだいしだい》に|薄《うす》らぎ、|新《あたら》しき|光《ひかり》がどこともなく|刺《さ》して|来《き》た。|伊太彦《いたひこ》は|入口《いりぐち》の|間《ま》に|宿屋《やどや》の|番頭然《ばんとうぜん》として|一人《ひとり》|頬杖《ほほづえ》をついて|横《よこ》たはつてゐる。そこへバサリと|落《お》ちて|来《き》た|一人《ひとり》の|男《をとこ》がある。よくよく|見《み》ればユゥンケルのヘールなりける。
|伊太《いた》『や、|入《い》らつしやい』
ユゥンケルはこの|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて、
ヘール『や、あ、あなたは|何人《なにびと》でございますか。いつの|間《ま》にここにお|越《こ》しになつたのですか』
|伊太《いた》『つい|近頃《ちかごろ》|旅館《りよくわん》|開業《かいげふ》をいたしまして、まだ|設備《せつび》も|充分《じうぶん》に|出来《でき》てをりませぬが、どうぞ|足《あし》を|洗《あら》つて|奥《おく》へお|通《とほ》り|下《くだ》さいませ。そして|上等《じやうとう》が|一泊《いつぱく》|五円《ごゑん》、|但《ただ》し|昼飯《ちうはん》を|抜《ぬ》きにいたしましてでございます。|昼飯《ちうはん》ともに|七円《しちゑん》でございます。その|代《かは》り|茶代《ちやだい》|廃止《はいし》の|広告《くわうこく》をしておきましたから|比較的《ひかくてき》|安《やす》いものです。しかし|茶代《ちやだい》としてはいただきませぬが、お|土産《みやげ》としてならば|百円《ひやくゑん》でも|千円《せんゑん》でも|少《すこ》しも|辞退《じたい》はいたしませぬ』
『アハハハハ、|腹《はら》さへヘールやうな|事《こと》がなければ|辛抱《しんばう》いたします。|何分《なにぶん》この|頃《ごろ》は|貧乏神《びんばふがみ》に|見舞《みまは》れてをりますから、あまり|高《たか》い|宿賃《やどちん》は|出《だ》せませぬ。どうか|二等《にとう》ぐらゐの|所《とこ》でお|願《ねが》ひいたします』
『|開業《かいげふ》|匆々《さうさう》で|設備《せつび》も|出来《でき》てをりませぬから、チツとは|辛抱《しんばう》していただかねばなりませぬ。そして|食《く》つていただくものは|何《なに》もありませぬが、|鬼《おに》の|蕨《わらび》か、|捻《ひね》り|餅《もち》か、|鼻抓《はなつま》み|団子《だんご》ならば|無尽蔵《むじんざう》に|仕込《しこ》んであるから、|腕《うで》のつづくまで|食《く》つてもらはうとままでございますわ』
『いや、もう|結構《けつこう》です。|泊《と》めてさへいただけばそれで|宜《よろ》しい』
『それならお|望《のぞ》みに|任《まか》せませう。しかし|宿賃《やどちん》は|前金《ぜんきん》でございますから、そのお|積《つ》もりで|願《ねが》ひます。お|茶代《ちやだい》は|要《い》りませぬがチツと|小便臭《せうべんくさ》うございますが、|大変《たいへん》|暖《あたた》かくつて|丁度《ちやうど》|飲《の》みごろでございますよ』
『|折角《せつかく》|泊《と》めていただかうと|思《おも》ひましなが、|小便茶《せうべんちや》を|飲《の》まされちや|堪《たま》りませぬから、こつちから|小便《せうべん》いたします。|大《おほ》きに|有難《ありがた》う。また|次《つぎ》の|宿屋《やどや》で|御厄介《ごやくかい》になります』
『この|岩窟《がんくつ》ホテルは|何処《どこ》へおいでになつても、|皆《みな》この|伊太屋《いたや》の|屋敷《やしき》でございます。|伊太屋《いたや》の|主人《しゆじん》の|承諾《しようだく》なくては、どこの|端《はし》くれにも|置《お》くことは|出来《でき》ませぬ。|千日前《せんにちまへ》の|夜店《よみせ》でさへも|地代《ぢだい》をとられるのですから、そんな|事《こと》をしてをつては|商売《しやうばい》が|立《た》ちゆきませぬからな』
『アツハハハハ、それなら|極上等《ごくじやうとう》でお|願《ねが》ひいたしませう』
『いや|毎度《まいど》|御贔屓《ごひいき》に|有難《ありがた》うございます。さアどうぞ|奥《おく》へお|通《とほ》り|下《くだ》さいませ。デビス|姫《ひめ》といふ|仲居《なかゐ》も|居《を》り、|三千彦《みちひこ》といふ|幇間《たいこもち》もをりますから、|御退屈《ごたいくつ》なれば|何《なん》なりと|仰《おほ》せつけ|下《くだ》さいませ。それが|岩窟《がんくつ》ホテルの|特色《とくしよく》です。ウツフフフフ』
ヘール『それなら|御厄介《ごやくかい》になりませう』
と|奥《おく》の|間《ま》に|羽《は》ばたきしながら|進《すす》み|入《い》る。
|伊太《いた》『アツハハハハ、|宿屋《やどや》ごつこも|面白《おもしろ》いものだ。しかしながら|一晩《ひとばん》|五円《ごゑん》では、どうも|算盤《そろばん》が|合《あ》はぬやうだ。|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|高《たか》い|炭火《すみ》を|焚《た》いて|炬燵《こたつ》も|拵《こしら》へてやらねばならず、|一室《ひとま》に|一《ひと》つづつ|火鉢《ひばち》には|火《ひ》を|絶《た》やさぬやうにせねばならず、|不心得《ふこころえ》のお|客《きやく》になると|折角《せつかく》|畳替《たたみが》へした|畳《たたみ》に|煙草《たばこ》の|火《ひ》を|落《お》として|焦《こ》がすなり、|蒲団《ふとん》が|硬《かた》いの、|軟《やわ》らかいの、|薄《うす》いの、|厚《あつ》いの、|重《おも》たいの、|水《みづ》に|金気《かなけ》があるの、なんのと|叱言《こごと》ばかり|聞《き》かされて……ちよつと|五円《ごゑん》といふと|高《たか》いやうだが、|懐勘定《ふところかんぢやう》してみると|余《あんま》り、ぼろいものぢやないわい。アタ|邪魔《じやま》くさい、|一里《いちり》も|一里半《いちりはん》もある|警察《けいさつ》に|宿帳《やどちやう》を|持《も》つて|行《ゆ》かねばならず、|夏《なつ》の|日《ひ》はまだいいが、|冬《ふゆ》の|雪《ゆき》が|一丈《いちぢやう》も|積《つ》もつた|間《あひだ》は、|何程《いくら》もらつてもやりきれないわ。|開業《かいげふ》|匆々《さうさう》|一人《ひとり》のお|客《きやく》はあつたが、これでは|如何《どう》もつまらない。|三人《さんにん》の|家内《かない》が|一人《ひとり》ぐらゐお|客《きやく》を|泊《と》めたつて、そこかすりで|如何《どう》して|世帯《しよたい》が|持《も》てるものか。|電燈料《でんとうれう》も|払《はら》はねばならず、|戸数割《こすうわり》も|相当《さうたう》に|課《か》けられるなり、おまけに|家賃《やちん》に|地代《ぢだい》、|町内《ちやうない》の|交際《つきあい》、よう|物入《ものい》りのすることだ。|誰《たれ》か|大金持《おほがねもち》のお|客《きやく》さまが|泊《とま》つて、|金《かね》の|十千万両《とちまんりやう》も|雪隠《せつちん》の|中《なか》へ|落《お》としておいてくれると|宜《い》いけれどな。なにほど|山吹色《やまぶきいろ》だといつても、|雪隠《せつちん》に|浮《う》いとる|奴《やつ》では|糞《くそ》の|役《やく》にも|立《た》たず、アア|仕方《しかた》がないな。せめて|今晩《こんばん》は|客《きやく》の|十人《じふにん》ぐらゐは|泊《と》めたいものだな』
かく|一人《ひとり》|興《きよう》がつてゐるところへ、|上《うへ》の|方《はう》からズルズルズルドスンとさくなだりに|落《お》ち|込《こ》むで|来《き》た|一人《ひとり》の|大男《おほをとこ》がある。
|伊太《いた》『もしもし、あなたはテルモン|詣《まゐ》りでございますか。これから|先《さき》はちよつと|宿《やど》がございませぬから、|拙者《せつしや》の|宅《たく》へ|泊《とま》つて|行《い》つて|下《くだ》さいませ。キヨの|湖水《こすゐ》には|海賊船《かいぞくせん》が|横行《わうかう》いたしてをります。|海上《かいじやう》で|賊《ぞく》に|剥《は》ぎとられるよりも、|弊館《へいくわん》でお|泊《とま》り|下《くだ》さつて|剥《は》ぎとられなさつた|方《はう》が|安全《あんぜん》でございませう』
チルテル『お|前《まへ》はどこの|奴《やつ》だ。ここは|俺《おれ》の|屋敷内《やしきない》の|岩窟《がんくつ》だが、|誰《たれ》に|断《こと》わつて、こんな|所《ところ》にゐるのだ』
『|借地権《しやくちけん》は|已《すで》に|登記済《とうきずみ》となり、この|家《いへ》は|賃貸借法《ちんたいしやくはふ》によつて、|一ケ月《いつかげつ》|四十九円《しじふくゑん》(|始終《しじう》|食《く》えぬ)の|家賃《やちん》を|払《はら》つてゐます|以上《いじやう》は、やつぱり|伊太屋《いたや》の|財産《ざいさん》も|同様《どうやう》でございます。サアどうぞお|泊《とま》り|下《くだ》さい。|千客万来《せんきやくばんらい》|開業《かいげふ》|匆々《さうさう》|目出《めで》たいことだ。|御姓名《ごせいめい》は|何《なん》と|申《まを》します。ちよつと|宿帳《やどちやう》に|記《しる》していただきたいものです』
『エー、お|前《まへ》は|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にするのか。ただしは|呆《はう》けてゐるのか。ここはホテルでも|何《なん》でもない、キヨの|関所《せきしよ》の|庭前《にはさき》の|陥穽《おとしあな》だ。つまり|俺《おれ》の|領分内《りやうぶんない》だ。グヅグヅ|申《まを》すと|承知《しようち》せぬぞ』
『なるほど、あなたが|大家様《おほやさま》でございましたか。これはこれは|失礼《しつれい》いたしました。しかし|当家《たうけ》に|泊《とま》つてもらへば、|矢張《やつぱ》り|宿賃《やどちん》をもらはねばなりませぬ。|阿呆《あはう》の|国《くに》、|野留間郡《のるまぐん》|頓間村《とんまむら》|大字《おほあざ》|腰抜《こしぬけ》|小字《こあざ》|失恋《しつれん》、|第苦百苦集苦番地《だいくひやくくじふくばんち》の|始終苦《しじうく》、|狐騙《きつねだま》されゑ|門《もん》、|雅名《がめい》は|落胆《らくたん》と|書《か》いておきました。マアこれで|形式《けいしき》さへ|通《とほ》ればいいのですからな』
『エー、|合点《がてん》のゆかぬことだわい。|初稚姫《はつわかひめ》のナイス、テクの|奴《やつ》と|手《て》を|曳《ひ》いて、|今頃《いまごろ》にや|喜《よろこ》んでそこらをブラついてゐやがるだらう。ここへ|落《お》ち|込《こ》んで|来《く》ると|宜《い》いがな。エー|怪体《けつたい》なことだわい』
『|何《なに》はともあれ、|奥《おく》に|賓客室《ひんきやくしつ》がござます。そこには|下女《げぢよ》も|下男《げなん》もをりますから|世話《せわ》をさせませう。|初稚姫《はつわかひめ》よりもズツと|勝《すぐ》れたナイスが|開業《かいげふ》と|同時《どうじ》に|抱《かか》へ|込《こ》むでありますから、まアそんなむつかしい|顔《かほ》せずにお|泊《とま》り|下《くだ》さいませ』
チルテル『|何《なに》はともあれ、どんな|女《をんな》がをるか、|一《ひと》つ|調《しら》べてやらう』
といひながらスタスタと|奥《おく》の|間《ま》に|進《すす》み|入《い》る。ヘールは|奥《おく》の|間《ま》に|進《すす》むだ。|自分《じぶん》は|伊太彦《いたひこ》に|揶揄《からか》はれ、|何時《いつ》の|間《ま》にかお|客《きやく》さま|気取《きど》りになり、|横柄《わうへい》な|面《つら》をして|奥《おく》の|間《ま》へ|通《とほ》つてみれば、|三千彦《みちひこ》、デビス|姫《ひめ》の|二人《ふたり》が|一間《いつけん》ほど|距離《きより》を|隔《へだ》ててキチンと|坐《すわ》つてゐる。
ヘール『おい、お|客《きやく》さまだお|客《きやく》さまだ。こら、|少女《おちよぼ》、|早《はや》く|茶《ちや》を|出《だ》さないか。|料理人《いたば》と|昼日中《ひるひなか》|何《なに》|密談《みつだん》をやつてるのだ。そんなことで|商売《しやうばい》が|繁昌《はんじやう》するか。もう、これつきりで|泊《とま》つてやらぬぞ』
|三千彦《みちひこ》『お、お|前《まへ》さまは|赤裸体《まつぱだか》で|何処《どこ》から|来《き》たのですか』
ヘール『どこからも|何《なに》もあつたものかい。そこから|来《き》たのだ。|今《いま》ここの|番頭《ばんとう》に|掛合《かけあ》つて|最上等《さいじやうとう》で|泊《とま》ることにしたのだ。さア|早《はや》く|茶《ちや》を|汲《く》むだり|汲《く》むだり』
|三千彦《みちひこ》『|訝《いぶ》かしや|醜《しこ》の|岩窟《いはや》は|忽《たちま》ちに
|珍《うづ》のホテルとなりにけらしな』
デビス|姫《ひめ》『|何国《なにくに》の|旅《たび》のお|方《かた》か|知《し》らねども
|宿《やど》にはあらじ|宿《やど》の|妻《つま》ぞや』
ヘール『|吾《われ》こそはリュウチナントのヘールぞや
|憐《あは》れみ|玉《たま》へ|珍《うづ》のよき|人《ひと》
|初稚《はつわか》の|姫《ひめ》を|争《あらそ》ひ|角力《すまふ》とり
|負《ま》けて|岩窟《いはや》に|落《お》ち|込《こ》みし|吾《われ》』
デビス|姫《ひめ》『|汝《なれ》もまたこれの|岩窟《いはや》に|落《お》ちしかと
|思《おも》へばいとど|憐《あは》れなりけり
この|上《うへ》は|最早《もはや》ナイスに|憐《あは》れとも
あはれないとも|分《わか》らざりけり』
かかるところへまたも|真裸体《まつぱだか》のチルテルが、|面《つら》ふくらしながらノソリノソリとやつて|来《き》た。
ヘール『アツハハハハ、おい、チルテルさま、|君《きみ》もやつぱり|恋《こひ》の|敗者《はいしや》だな。や、|賛成《さんせい》|賛成《さんせい》、これで|漸《やうや》く|溜飲《りういん》が|下《さ》がつた。ウツフフフフ』
(大正一二・四・二 旧二・一七 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第一五章 |和歌意《わかい》〔一五一五〕
|三千彦《みちひこ》|伊太彦《いたひこ》デビス|姫《ひめ》  |三人《みたり》は|館《やかた》の|広庭《ひろには》を
|暗《やみ》に|紛《まぎ》れて|駈《か》け|出《い》だす  とたんに|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》に
スツテンコロリと|辷《すべ》り|落《お》ち  ここに|一夜《いちや》を|明《あ》かしつつ
|無聊《むれう》を|慰《なぐさ》むそのために  |伊太彦司《いたひこつかさ》は|口《くち》の|間《ま》に
|出《い》でて|胡床《あぐら》をかきながら  |思案《しあん》に|暮《く》るる|折《を》りもあれ
ツルツルツルと|落《お》ち|来《き》たる  |一人《ひとり》の|男《をとこ》を|見《み》るよりも
|驚《おどろ》きながら|胸《むね》を|据《す》ゑ  |新規《しんき》|開業《かいげふ》の|旅人宿《りよにんやど》
|気転《きてん》を|利《き》かす|面白《おもしろ》さ  |恋《こひ》を|争《あらそ》い|陥穽《かんせい》に
|投《な》げ|落《お》とされたヘール|司《つかさ》  |一目《ひとめ》|見《み》るより|仰天《ぎやうてん》し
お|前《まへ》はいづくの|何者《なにもの》か  |訝《いぶ》かしさよと|訊《たづ》ぬれば
|伊太彦《いたひこ》|頭《あたま》をかきながら  |私《わたし》は|伊太屋《いたや》の|番頭《ばんとう》です
なにとぞ|一夜《いちや》を|吾《わ》が|宅《たく》で  お|泊《とま》りなされて|下《くだ》さんせ
|一等《いつとう》|二等《にとう》|三等《さんとう》と  |区別《くべつ》がついてをりますが
あなたの|人格《じんかく》|調《しら》ぶれば  |金《かね》も|持《も》たない|真裸体《まつぱだか》
|一等《いつとう》|旅館《りよくわん》に|限《かぎ》ります  |開業《かいげふ》|早々《さうさう》で|何事《なにごと》も
|準備《じゆんび》が|整《ととの》ひをりませぬ  |鬼《おに》の|蕨《わらび》か|鉄拳《てつけん》か
|捻《ひね》り|餅《もち》など|沢山《たくさん》に  お|食《あが》りなさつて|下《くだ》されや
お|茶《ちや》は|熱《あつ》うなし|微温《ぬる》うなし  |魔法瓶《まはふびん》から|天然《てんねん》に
ちつと|臭《くさ》いが|幾何《いくら》でも  ついで|上《あ》げます サア|早《はや》う
|足《あし》を|洗《あら》つて|奥《おく》の|間《ま》へ  お|通《とほ》りなされ サア|早《はや》う
|今日《けふ》は|目出《めで》たき|開業日《かいげふび》  ようまア|泊《とま》つて|下《くだ》さつた
|何《なん》ぢやかんぢやと|揶揄《からか》へば  さすがのヘールも|呆《あき》れはて
そんならお|世話《せわ》になりませう  |何分《なにぶん》よろしく|頼《たの》むぞや
|始終食円《しじうくゑん》の|宿料《やどれう》を  |約束《やくそく》しながら|奥《おく》の|間《ま》へ
|通《とほ》れば|下女《げぢよ》のデビスさま  |料理人《いたば》まがひの|三千彦《みちひこ》が
|一間《いつけん》ばかり|相隔《あひへだ》て  |行儀《ぎやうぎ》|正《ただ》しく|坐《すわ》りをる
ヘールは|二人《ふたり》に|声《こゑ》をかけ  |一等客《いつとうきやく》が|参《まゐ》りました
|早《はや》くお|茶《ちや》でも|汲《く》みなされ  |料理人《いたば》と|下女《げぢよ》が|奥《おく》の|間《ま》で
|昼《ひる》の|最中《さいちう》にぬつけりと  |内証話《ないしやうばなし》をするといふ
|不都合《ふつがふ》なことがあるものか  アハハハハツハ アハハハハ
|三人《さんにん》|一度《いちど》に|声《こゑ》を|上《あ》げ  |笑《わら》ひ|興《きよう》ずる|時《とき》もあれ
|又《また》もや|入《い》り|来《く》る|荒男《あらをとこ》  よくよく|見《み》ればチルテルの
|此《こ》の|家《や》の|主《あるじ》キャプテンが  |眼《まなこ》|怒《いか》らし|睨《にら》み|入《い》る
その|面貌《めんばう》の|凄《すさま》じさ。
ヘール『ヤア、チルテルさま、|私《わたし》の|後《あと》を|追《お》つかけて、よう|来《き》て|下《くだ》さいました。これが|女《をんな》だと、|誠《まこと》に|都合《つがふ》がよからうになア、エヘヘヘヘ』
チルテル『そこにゐる|女《をんな》はデビスぢやないか、あれほど|厳《きび》しく|縛《しば》り|上《あ》げて、|土蔵《どざう》の|中《なか》に|繋《つな》いでおいたに、どうして|此処《ここ》へ|出《で》て|来《き》たのか』
デビス『オホホホホホ。あなたは|関守《せきもり》のキャプテンさまぢやありませぬか。この|間《あひだ》はえらいお|世話《せわ》になりましたなア。|妾《わらは》の|寝床《ねどこ》にわざわざお|出《い》で|下《くだ》さいまして、|神輿《みこし》か|何《なん》かのやうにワツシヨワツシヨと|舁《か》つぎ、|御丁寧《ごていねい》にお|倉《くら》の|中《なか》にお|入《い》れ|下《くだ》さいまして|有難《ありがた》うございます。しかしリュウチナントのカンナ|様《さま》がお|出《い》で|下《くだ》さいまして、「どうかこの|倉《くら》は|私《わたし》が|住宅《ぢうたく》にしたいから|早《はや》く|退《の》いて|下《くだ》さい」と|家主《やぬし》から|追《お》つ|立《た》てを|喰《く》ひましたので、|止《や》むを|得《え》ずこの|岩窟《がんくつ》ホテルに|移転《いてん》し、やつと|開業《かいげふ》したところです』
チルテル『ナニ、カンナと|入《い》れ|替《か》はつた。ハテ|合点《がてん》のゆかぬ|事《こと》をいふものぢやなア。イヤ|三千彦《みちひこ》もそこにゐるぢやないか。|此《この》|方《はう》の|家敷《やしき》へ|夜中《やちう》に|忍《しの》び|込《こ》み、|何《なに》か|好《よ》からぬ|事《こと》を|企《たく》み、その|天罰《てんばつ》でこの|陥穽《おとしあな》へ|辷《すべ》り|落《お》ちたのだらうがな』
|三千彦《みちひこ》『アハハハハ、オイ、チルテルさま、|女房《にようばう》がえらいお|世話《せわ》になりました。|有難《ありがた》うございます。しかし|貴方《あなた》はどうして|此処《ここ》へお|出《い》でになりました』
チルテル『これは|拙者《せつしや》の|管轄内《くわんかつない》だから、ちよつと|巡検《じゆんけん》に|来《き》たのだ。それが|何《なん》といたした』
ヘール『ハハハハハ。うまい|事《こと》おつしやいますわい。これ|三千彦《みちひこ》さま、|実《じつ》は|初稚姫《はつわかひめ》さまの|色香《いろか》に|迷《まよ》ひ、|鼻《はな》の|下《した》を|長《なが》うして|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》が|口説《くど》き|立《た》てたところ、|初稚姫《はつわかひめ》さまは、|角力《すまふ》をとつて|勝《か》つた|人《ひと》の|女房《にようばう》にならうといつたのです。さうしたところ|運《うん》|悪《わる》くも|足《あし》|踏《ふ》み|外《はづ》し、|真先《まつさき》に|私《わたし》が|落《お》ち|込《こ》むでしまつたのです。|後《あと》ではテクとこの|大将《たいしやう》が|勝負《しようぶ》する|事《こと》になつてゐましたが、やつぱり|負《ま》けたとみえてこの|岩窟《がんくつ》に|落《お》ちて|来《き》たのです。このキヨの|関所守《せきしよもり》は、この|岩窟《いはや》に|一度《いちど》でもおち|込《こ》むで|来《き》たら|免職《めんしよく》になるのですから、|今日《けふ》のチルテルはもはや、キャプテンではありませぬ。ユゥンケルぐらゐなら|棒《ぼう》に|振《ふ》つてもよろしいが、|折角《せつかく》ここまで|捏《こ》ね|上《あ》げたキャプテンの|職名《しよくめい》を|棒《ぼう》に|振《ふ》るのは|聊《いささ》かお|気《き》の|毒《どく》ですわい、ウフフフフ。もし|三千彦《みちひこ》さま、もうかうなれば、|吾々《われわれ》はバラモンの|軍人《ぐんじん》でも|何《なん》でもありませぬ、どうぞ|四海同胞《しかいどうはう》の|精神《せいしん》をもつて|可愛《かはい》がつて|下《くだ》さい。あなたの|奥《おく》さまを|担《かつ》ぎ|出《だ》したのは|吾々《われわれ》ぢやありませぬ。|皆《みな》このチルテルが|兵士《へいし》を|連《つ》れて|行《い》つて|盗《ぬす》み|出《だ》したのですよ。さうして|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》を|自分《じぶん》の|妻《つま》となし、リュウチナントのカンナさまに|口《くち》ふさぎのため、デビスさまをあてがうためにあんな|事《こと》をやつたのですよ。|御迷惑《ごめいわく》はお|察《さつ》しいたします』
デビス|姫《ひめ》『|吾《わ》が|身《み》をば|担《かつ》ぎ|出《だ》したるその|人《ひと》と
|今《いま》|打《う》ち|解《と》けて|向《む》かい|合《あ》ふかな
|何事《なにごと》もみな|神様《かみさま》のお|仕組《しぐみ》と
|悟《さと》れる|身《み》には|恨《うら》みだになし』
チルテル『|恋《こひ》といふ|醜《しこ》の|魔神《まがみ》に|眩《くら》まされ
|思《おも》はぬ|罪《つみ》を|重《かさ》ねけるかな
この|上《うへ》は|心《こころ》の|罪《つみ》を|委細《まつぶさ》に
|君《きみ》の|御前《みまへ》にさらけて|詫《わ》びむ』
『|赤心《まごころ》の|未《いま》だ|失《う》せざる|君《きみ》こそは
|神《かみ》の|救《すく》ひの|門口《かど》に|入《い》るなり』
『|有難《ありがた》し|汝《なれ》が|言葉《ことば》は|皇神《すめかみ》の
|深《ふか》き|情《なさ》けと|涙《なみだ》ぐまるる
|仇人《あだびと》を|憎《にく》みたまはず|懇《ねもごろ》に
いたはりたまふ|君《きみ》は|神《かみ》なり』
ヘール『キャプテンの|口《くち》の|車《くるま》に|乗《の》せられな
|苦《くる》しさゆゑの|吟《すさ》みなりせば
|又《また》しても|十八番《じふはちばん》の|奥《おく》の|手《て》を
|出《だ》した|男《をとこ》の|憎《にく》らしきかな
チルテルはいとしき|妻《つま》を|追《お》ひ|出《い》だし
|仇《あだ》し|女《をんな》を|娶《めと》らむとせり
|吾《われ》は|未《ま》だ|妻《つま》を|持《も》たざるセリバシー
|憐《あは》れみ|玉《たま》へ|無垢《むく》の|体《からだ》を』
チルテル『|横町《よこちやう》の|床屋《とこや》の|嬶《かか》に|眦《めじり》さげ
はぢかれたりし|時《とき》のをかしさ
お|多福《たふく》に|肱鉄砲《ひぢてつぼう》を|食《く》はされて
めそめそ|泣《な》きしヘールぞ|可笑《をか》しき』
『|人《ひと》の|非《ひ》を|大勢《おほぜい》の|前《まへ》に|素破抜《すつばぬ》く
|汝《な》は|曲神《まがつみ》の|器《うつは》なるらむ』
『|曲神《まがかみ》か|誠《まこと》の|神《かみ》か|知《し》らねども
ありし|誠《まこと》を|吾《われ》はいふなり』
|三千彦《みちひこ》『|面白《おもしろ》し|人《ひと》の|情《なさ》けは|唐日本《からやまと》
いづくの|果《はて》も|変《かは》らざりけり
|伊太彦《いたひこ》は|如何《いか》になしけむ|姿《すがた》をも
|今《いま》だにみせず|心《こころ》もとなや』
ヘール『|口《くち》の|間《ま》に|伊太屋《いたや》の|番頭《ばんとう》と|納《をさ》まりて
|帳面《ちやうめん》|片手《かたて》に|算盤《そろばん》|持《も》たせり
|面白《おもしろ》い|男《をとこ》もあればあるものよ
|岩窟《いはや》におちて|宿屋《やどや》|気取《きど》れる』
|三千彦《みちひこ》『この|上《うへ》は|心《こころ》の|垣《かき》を|取《と》り|払《はら》ひ
|助《たす》け|合《あ》ひつつ|神《かみ》の|道《みち》|行《ゆ》かむ』
チルテル『|有難《ありがた》し|誠《まこと》の|道《みち》を|宣《の》り|伝《つた》ふ
|君《きみ》の|心《こころ》の|分《わ》けへだてなき』
ヘール『バラモンのこれが|司《つかさ》であつたなら
こんな|訳《わけ》にはとても|行《ゆ》くまい』
デビス|姫《ひめ》『|古《いにしへ》ゆ|縁《えにし》の|糸《いと》に|繋《つな》がれて
|睦《むつ》び|合《あ》うたる|今日《けふ》ぞ|床《ゆか》しき』
チルテル『この|上《うへ》は|心《こころ》|清《きよ》めて|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|大道《おほぢ》に|進《すす》み|行《ゆ》くべし』
|三千彦《みちひこ》『バラモンの|神《かみ》の|教《をしへ》を|捨《す》てずして
わが|三五《あななひ》の|道《みち》を|守《まも》れよ』
かく|四人《よにん》は|打《う》ち|解《と》け、|互《たが》ひに|意見《いけん》を|交換《かうくわん》して、|兄弟《きやうだい》のごとく|睦《むつ》び|合《あ》ふこととなつた。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・四・二 旧二・一七 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
(昭和九・一一・三〇 王仁校正)
第一六章 |開窟《かいくつ》〔一五一六〕
|伊太彦《いたひこ》は|依然《いぜん》として、|入口《いりぐち》に|坐《すわ》つてゐると、ワックス、エキス、ヘルマン、エルの|四人《よにん》が|転《ころ》げ|込《こ》むだ。|次《つぎ》にたちまちバラスをぶち|開《あ》けたやうに、ドサドサドサと|十七八人《じふしちはちにん》のチュウリック|姿《すがた》の|若者《わかもの》|折《を》り|重《かさ》なつて|落《お》ち|込《こ》み|来《き》たる。
|伊太《いた》『ヤア、|大勢《おほぜい》さま、よく|御下向《ごげかう》になりました、サアここは|坂《さか》の|下《した》の|小竹屋《こたけや》でございます。|大竹屋《おほたけや》のやうに|決《けつ》してお|客《きやく》さまを|床《ゆか》の|下《した》から|手槍《てやり》でついて、|命《いのち》をとり|着物《きもの》を|剥《は》ぎ|取《と》つて|樽《たる》に|詰《つ》めて|海《うみ》へ|投《ほ》りに|行《ゆ》くやうな|事《こと》はありませぬ。まア|安心《あんしん》してお|泊《とま》り|下《くだ》さい。せいぜい|勉強《べんきやう》してお|安《やす》く|願《ねが》ひます。|昼飯《ひるめし》もこめまして、お|一人《ひとり》さまに|三円《さんゑん》づつで|泊《とま》つていただきます。アア|大繁昌《だいはんじやう》だ。|宿屋《やどや》もこれだけ|客《きやく》があれば|捨《す》てたものぢやないわい。|番頭《ばんとう》さまも|随分《ずゐぶん》|忙《いそ》がしいことだなア』
|一同《いちどう》はムクムクと|起《お》き|上《あ》がり、たがひにがやがやと|呟《つぶや》いてゐる。
|甲《かふ》『オイ、|貴様《きさま》が|俺《おれ》のいふことを|聞《き》かないから、たうとうこんな|奈落《ならく》へ|落《お》ちてしまつたのだ。|一体《いつたい》どうしてくれるのだい』
|乙《おつ》『|馬鹿《ばか》いふない。いつも|目標《もくへう》の|黒《くろ》い|棒杭《ぼうぐひ》が|立《た》つてゐたぢやないか、あの|脇《わき》を|通《とほ》ればよいのだ。|誰《たれ》かが、|棒杭《ぼうぐひ》の|位置《ゐち》を|変《か》へておきやがつたとみえて、こんな|失策《しつさく》をしたのだ』
|甲《かふ》『|馬鹿《ばか》いふない。ありや|棒杭《ぼうぐひ》ぢやない、|様子《やうす》が|違《ちが》つてゐるから、|気《き》をつけといつたぢやないか、しかるに|貴様《きさま》が「ナニ」というて|我《が》を|張《は》つたものだから、こんな|所《ところ》へ|皆《みな》|落《お》ちてしまつたのだよ。|誰《たれ》か|様子《やうす》を|知《し》つてゐるものが|救《すく》ひ|出《だ》してくれるより|外《ほか》に|出《で》る|道《みち》はない。まア、ミイラになるとこまで|辛抱《しんばう》するのだなア』
|伊太《いた》『お|客様《きやくさま》、ようお|出《い》でなさいました。|新規《しんき》|開業《かいげふ》の|宿屋《やどや》でございます。お|安《やす》く|願《ねが》ひます』
|甲《かふ》『ヤア|貴様《きさま》は|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》ぢやないか、どうしてゐるのだえ』
|伊太《いた》『エイ、あまり|宣伝使《せんでんし》といふ|商売《しやうばい》も|引《ひ》き|合《あ》ひませぬので、にはかに|岩窟《がんくつ》ホテルを|開《ひら》き、|商売替《しやうばいが》へをいたしました。|奥《おく》にチルテルのキャプテンも、ヘールのユゥンケルもおいでです。サア|御遠慮《ごゑんりよ》なくお|通《とほ》り|下《くだ》さい、|毎度《まいど》|御贔屓《ごひいき》に|有難《ありがた》うございます』
|乙《おつ》『|何《なん》だ、|怪体《けたい》なことがあるものだなア。しかしながら|奥《おく》へ|這入《はい》つてキャプテンに|遇《あ》ひ、|一時《いちじ》も|早《はや》く|助《たす》からねばならぬ』
と|委細《いさい》かまはずどやどやと|奥《おく》へ|進《すす》むで|行《ゆ》く。
チルテル『ヤアお|前《まへ》|達《たち》は|大勢《おほぜい》|一度《いちど》にこんな|所《ところ》へ|落《お》ち|込《こ》むで|来《き》たのか』
|甲《かふ》『ハイ、|旦那《だんな》のお|行方《ゆくへ》を|探《さが》しましたところ、どこにもお|姿《すがた》が|見《み》えないので、おほかた|岩窟《がんくつ》ホテルに|御投宿《ごとうしゆく》かと|思《おも》ひまして、|部下《ぶか》を|引《ひ》き|率《つ》れ、お|迎《むか》ひに|参《まゐ》りました』
『ヤ、それは|御苦労《ごくらう》だ。よく|迎《むか》へに|来《き》てくれた。|関所《せきしよ》の|入口《いりぐち》は|開《あ》けておいたらうなア。そこさへ|開《あ》けてあれば|出《で》るのは|甘《うま》いものだ。|三千彦《みちひこ》さま、デビスさま、もう|御安心《ごあんしん》なさい。|万古末代《まんごまつだい》|出《で》られないかと|思《おも》ひましたら、|入口《いりぐち》を|開《あ》けて|部下《ぶか》が|迎《むか》ひに|来《き》てくれました』
|甲《かふ》『ヘエ、|折角《せつかく》ながらその|入口《いりぐち》から、|開《あ》けてお|迎《むか》ひに|来《き》たのなら|都合《つがふ》がよいのですが、|思《おも》はず|知《し》らず|落《お》ち|込《こ》むで|来《き》たので、ヘエ、|誠《まこと》に|困《こま》つてをります。どこかに|抜穴《ぬけあな》はございますまいかな』
『アアもう|駄目《だめ》だ。|一人《ひとり》も|残《のこ》らず、ここへ|落《お》ち|込《こ》むでしまつた。|誰一人《たれひとり》も|助《たす》けに|来《く》るものは|無《な》いではないか。|残念《ざんねん》ながら|俺《おれ》たち|一同《いちどう》はここでミイラになるより|仕方《しかた》がないわ。|三千彦《みちひこ》|様《さま》、あなたはどうお|考《かんが》へですか』
|三千《みち》『|何《なん》だか|知《し》りませぬが、|私《わたし》は|玉国別《たまくにわけ》の|神司《かむづかさ》が、きつと|救《すく》ひに|来《き》てくれるやうな|気《き》がします。それだから、|少《すこ》しも|案《あん》じてはをりませぬ。|皆《みな》さま、|気《き》を|落《お》ちつけて|御休息《ごきうそく》なさいませ』
|一同《いちどう》はガサガサいふ|畳《たたみ》に|横《よこ》になり、ガヤガヤと|囁《ささや》きながら、|救《すく》ひの|人《ひと》の|現《あら》はれ|来《き》たるのを|待《ま》つてゐた。|三千彦《みちひこ》はデビス|姫《ひめ》と|共《とも》に|拍手《かしはで》を|打《う》つて|一生懸命《いつしやうけんめい》――「|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》、バラモン|教《けう》の|大神《おほかみ》、|守《まも》りたまへ|救《すく》ひたまへ」と|祈願《きぐわん》しはじめた。
|伊太彦《いたひこ》は|口《くち》の|間《ま》に|依然《いぜん》として|胡床《あぐら》をかいてゐる。
|日《ひ》は|暮《く》れたと|見《み》えて、またもや|燐光《りんくわう》キラキラと|閃《ひらめ》きはじめた。
|伊太《いた》『|何《なん》と|夜《よる》になると|綺麗《きれい》なものだな。まるで|不夜城《ふやじやう》のやうだ。|燈火《ともしび》を|点《とも》す|必要《ひつえう》もなく|油《あぶら》も|入《い》らず、|実《じつ》に|経済《けいざい》に|出来《でき》てゐるわい』
と|相変《あひかは》らず|阿呆口《あはうぐち》を|叩《たた》いてゐる。そこへドスン ドスン ドスンと|雪崩《なだれ》のごとく|落《お》ち|込《こ》むだのは|思《おも》ひがけなき、|玉国別《たまくにわけ》、|真純彦《ますみひこ》、アンチー、テクの|四人《よにん》であつた。|伊太彦《いたひこ》はまたバラモンの|連中《れんちう》が|落《お》ちて|来《き》たと|思《おも》ひながら、|宿屋《やどや》の|番頭《ばんとう》|気分《きぶん》になり、
|伊太《いた》『お|出《い》でやすお|出《い》でやす。これはこれはお|客様《きやくさま》、|毎度《まいど》|御贔屓《ごひいき》に|有難《ありがた》うございます。|開業《かいげふ》|間《ま》もなき|岩窟《がんくつ》ホテル、|伊太屋《いたや》の|番頭《ばんとう》です。|一名《いちめい》|坂《さか》の|下《した》|小竹屋《こたけや》とも|申《まを》します。サア|一《ひと》つ|十分《じふぶん》|勉強《べんきやう》をいたしておきますから、お|泊《とま》り|下《くだ》さいませ。その|代《かは》り|木賃《もくちん》ホテルですから|食物《しよくもつ》はさし|上《あ》げませぬ。エヘヘヘヘ』
|玉国《たまくに》『|何《なん》だか|妙《めう》な|声《こゑ》がするぢやないか、なア|真純彦《ますみひこ》』
|真純《ますみ》『|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》、|偉《えら》い|所《ところ》へ|落《お》ち|込《こ》むだものですワ。どこか|出口《でぐち》がありさうなものですなア』
|伊太彦《いたひこ》はこの|言葉《ことば》を|聞《き》いて|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》と|知《し》り|嬉《うれ》しげに、|言葉《ことば》も|元気《げんき》よく、
|伊太《いた》『あ、|先生《せんせい》でございましたか。|私《わたし》は|伊太彦《いたひこ》ですよ。たうとう|陥穽《おとしあな》へ|落《お》ち|込《こ》むで|出《で》るところがないので|因果腰《いんぐわごし》を|定《き》めてをりましたが、あなたどうしてまア、こんな|所《ところ》へお|出《い》でになつたのです』
|玉国《たまくに》『アアお|前《まへ》は|伊太彦《いたひこ》であつたか、|妙《めう》な|所《ところ》で|遇《あ》うたものだなア。さうして|三千彦《みちひこ》や、デビス|姫《ひめ》は|此処《ここ》にゐるのかなア』
|伊太《いた》『ヘエヘエ、|奥《おく》にゐられます。どうか|早《はや》く|御対面《ごたいめん》|下《くだ》さい。ついでにチルテル、ヘールをはじめ、バラモン|軍《ぐん》の|兵士《へいし》がザツと|二《に》ダースばかり|詰《つ》め|込《こ》むであります。お|蔭《かげ》でこの|岩窟《がんくつ》ホテルも|賑《にぎ》やかになりました』
|真純《ますみ》『オイ|伊太彦《いたひこ》、|気楽《きらく》なことをいつてゐる|時《とき》ぢやない。|何《なん》とかして|此処《ここ》を|逃《のが》れ|出《で》る|工夫《くふう》をせなくてはならないぢやないか』
|伊太《いた》『お|前《まへ》は|真純彦《ますみひこ》だな、ようまア【おつき】|合《あひ》に|落《お》ち|込《こ》むでくれたな。しかしもうかうなれば|万事《ばんじ》|窮《きう》す矣だ。|焦《あせ》つたところで|仕方《しかた》がない。|万事《ばんじ》|天《てん》に|任《まか》せて、|騒《さわ》がず、|焦《あせ》らず、|従容《しようよう》として|死期《しき》の|至《いた》るを|待《ま》つのだな』
テク『アアもう、かうなりや|仕方《しかた》がない、|因果腰《いんぐわごし》を|定《き》めるのだな。|助《たす》かるものなら|皆《みな》|一度《いちど》に|救《たす》かり、|死《し》ぬものなら|皆《みな》|一同《いちどう》に|死《し》ぬのだ。もはや|肉体《にくたい》は|完全《くわんぜん》に|保《たも》つことは|出来《でき》まい。ここへ|落《お》ちれば|食料《しよくれう》はなし、|誰人《たれ》も|投《ほ》り|込《こ》むではくれまいし、アア|困《こま》つた|事《こと》になつたものだなア』
|玉国別《たまくにわけ》は|三人《さんにん》を|従《したが》へ、|伊太彦《いたひこ》と|共《とも》に|奥《おく》へ|進《すす》むで|行《ゆ》く。|大勢《おほぜい》が|種々《いろいろ》と|半泣《はんな》き|声《ごゑ》を|出《だ》して|呟《つぶや》いてゐる。|玉国別《たまくにわけ》は|声《こゑ》|高《たか》らかに|歌《うた》ひ|初《はじ》めた。
『|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》  |天地《てんち》に|神《かみ》の|在《ま》す|限《かぎ》り
|救《すく》はせたまはぬ|事《こと》やある  |三千彦司《みちひこつかさ》をはじめとし
チルテル ヘールその|外《ほか》の  |天《あめ》の|益人《ますひと》|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|安《やす》く|平《たひ》らけく  |持《も》たせたまへよ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みは|草《くさ》や|木《き》の  |片葉《かきは》の|露《つゆ》に|至《いた》るまで
|宿《やど》らせたまふものなるぞ  いかに|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》に
|落《お》ち|込《こ》み|日蔭《ひかげ》を|見《み》ぬとても  |三五教《あななひけう》を|守《まも》ります
|尊《たふと》き|清《きよ》き|皇神《すめかみ》は  |必《かなら》ず|救《すく》ひたまふべし
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ
この|岩窟《がんくつ》に|集《あつ》まりし  |吾《われ》ら|一同《いちどう》|心《こころ》をば
|一《ひと》つになして|皇神《すめかみ》の  その|大恩《だいおん》を|讃《ほ》め|称《たた》へ
|心《こころ》の|底《そこ》から|改良《かいりやう》して  |誠《まこと》の|道《みち》に|叶《かな》ひなば
|必《かなら》ず|救《すく》ひたまふべし  |心《こころ》を|労《らう》する|事《こと》なかれ
|勇《いさ》めよ|勇《いさ》めよ|皆《みな》の|人《ひと》  |勇《いさ》めば|勇《いさ》むことが|来《く》る
|悔《く》やめば|悔《く》やむことが|来《く》る  たとへ|千尋《ちひろ》の|海底《うなそこ》に
|身《み》は|沈《しづ》むとも|何《なに》かあらむ  |神《かみ》の|守《まも》りのある|中《うち》は
|死《し》なむと|思《おも》へど|死《し》に|切《き》れず  これに|反《はん》して|大神《おほかみ》が
|吾《われ》らを|見放《みはな》したまひなば  |地上《ちじやう》に|安《やす》く|住《す》むとても
|命《いのち》を|召《め》させたまふべし  ただ|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》
|神《かみ》に|任《まか》して|赤心《まごころ》を  |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|現《あら》はしまつるに|如《し》くはなし  |祝《いは》へよ|祝《いは》へよ|神《かみ》の|徳《とく》
あがめよ あがめよ |神《かみ》のいづ  |此《こ》の|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》  ただ|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ  |身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ
|三五教《あななひけう》の|吾々《われわれ》は  いかなる|難《なや》みに|遇《あ》ふとても
すこしも|恐《おそ》れぬ|大和魂《やまとだま》  |生言霊《いくことたま》を|打《う》ち|出《だ》して
これの|岩窟《いはや》を|委曲《まつぶさ》に  |開《ひら》きて|救《すく》ひ|助《たす》くべし
|心《こころ》|安《やす》かれ|諸人《もろびと》よ  |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|玉国別《たまくにわけ》が|赤心《まごころ》を  |現《あら》はし|祈《いの》り|奉《たてまつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
|真純彦《ますみひこ》『いや|深《ふか》き|神《かみ》の|仕組《しぐみ》に|操《あやつ》られ
|千尋《ちひろ》の|底《そこ》に|天下《あまくだ》りけり
|黄昏《たそが》れて|地上《ちじやう》の|世界《せかい》は|暗《くら》けれど
この|岩窟《いはやど》の|光《ひか》る|怪《あや》しさ』
|伊太彦《いたひこ》『|光明《くわうみやう》の|世界《せかい》に|神《かみ》は|導《みちび》きて
|心《こころ》の|岩戸《いはと》|開《ひら》きたまひぬ』
|玉国別《たまくにわけ》『|摩訶不思議《まかふしぎ》|暗《くら》きはずなる|岩窟《いはやど》に
キラキラ|光《ひか》るものは|何《なん》ぞや』
|伊太彦《いたひこ》『この|岩窟《いはや》みな|燐砿《りんくわう》で|固《かた》めあり
|神《かみ》のまにまに|光《ひか》るのみなり』
テク『テクテクと|闇《やみ》の|道《みち》をば|歩《あゆ》みつつ
|土《つち》の|底《そこ》にと|落《お》ち|込《こ》みにけり
|初稚姫《はつわかひめ》|神《かみ》の|命《みこと》を|娶《めと》らむと
|争《あらそ》ひし|身《み》の|恥《は》づかしきかな』
アンチー『|案内《あんない》を|引《ひ》き|受《う》けながら|地《ち》の|底《そこ》の
|岩窟《いはや》に|落《お》ちし|吾《われ》ぞ|悔《く》やしき
|師《し》の|君《きみ》を|知《し》らず|知《し》らずに|根《ね》の|国《くに》へ
|導《みちび》きし|吾《われ》の|罪《つみ》の|重《おも》さよ
いかにしてこの|過《あやま》ちを|詫《わ》びむかと
|思《おも》ふも|詮《せん》なき|胸《むね》の|闇《やみ》かな』
|玉国別《たまくにわけ》『アンチーよテクの|司《つかさ》よ|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|悩《なや》めな|神《かみ》の|御業《みわざ》ぞ
|打《う》ち|揃《そろ》ひ|神《かみ》の|御名《おんな》を|宣《の》り|上《あ》げて
|吾《われ》|人《ひと》ともに|世《よ》に|暉《かが》やかむ』
|三千彦《みちひこ》『|岩窟《いはやど》に|皇大神《すめおほかみ》もしばらくは
|隠《かく》れましたるためしありけり
|尻込《しりく》めの|繩《なは》をおろして|吾々《われわれ》を
|救《すく》ひ|助《たす》くる|人《ひと》の|来《こ》よかし
|三五《あななひ》の|皇大神《すめおほかみ》は|吾々《われわれ》が
|今《いま》の|難《なや》みを|知《し》ろし|召《め》すらむ』
チルテル『わが|守《まも》る|屋敷《やしき》の|中《なか》の|陥穽《おちあな》へ
|自《みづか》ら|落《お》ちし|事《こと》のうたてさ
|兵士《つはもの》が|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|陥穽《おちあな》へ
|転《ころ》げ|込《こ》みしも|不思議《ふしぎ》なるかな
|浅《あさ》からぬ|神《かみ》の|仕組《しぐみ》のあることと
|首《くび》を|傾《かた》げて|訝《いぶ》かりゐるも』
ヘール『|初稚姫《はつわかひめ》|司《つかさ》の|恋《こひ》を|争《あらそ》ひし
|人《ひと》の|仕組《しぐみ》のいかであるべき
ただ|卑《いや》し|心《こころ》の|雲《くも》に|目《め》を|被《お》はれ
|奈落《ならく》に|落《お》ちし|身《み》の|終《をは》りかも』
テク『|何事《なにごと》の|在《おは》しますかは|知《し》らねども
|苦《くる》しさ|痛《いた》さに|涙《なみだ》こぼるる
この|穴《あな》に|落《お》ちたる|人《ひと》の|間《あひだ》には
|妻《つま》もあるべし|御子《みこ》もあるべし
|妻《つま》や|子《こ》はいふも|更《さら》なり|垂乳根《たらちね》の
|御親《みおや》はさこそ|嘆《なげ》きますらむ』
かく|互《たが》ひに|述懐《じゆつくわい》を|述《の》べ、|胸《むね》の|苦《くる》しみを|紛《まぎ》らしてゐる。たちまち|何処《いづく》ともなく、|頭《あたま》の|上《うへ》から、
『ウーウ、ウーウ、ワウワウワウ』
と|猛犬《まうけん》の|声《こゑ》が|聞《き》こえて|来《き》た。|三千彦《みちひこ》は|雀躍《こをど》りしながら、
|三千彦《みちひこ》『|有難《ありがた》や|初稚姫《はつわかひめ》の|伴《ともな》ひし
スマートの|声《こゑ》|聞《き》こえ|来《き》にけり
スマートがここに|現《あら》はれたる|上《うへ》は
|初稚姫《はつわかひめ》は|近《ちか》く|来《き》まさむ』
デビス|姫《ひめ》『|初稚姫《はつわかひめ》|君《きみ》の|命《みこと》の|神人《かみびと》が
|現《あ》れます|上《うへ》は|何《なに》か|怖《おそ》れむ
|人々《ひとびと》の|早《はや》|救《すく》はるる|時《とき》は|来《き》ぬ
かの|吠声《なきごゑ》は|神《かみ》の|御声《おんこゑ》』
かく|歌《うた》ひをる|時《とき》しも、スマートを|先《さき》に|立《た》てて|初稚姫《はつわかひめ》は|関所《せきしよ》の|庭《には》の|錠《ぢやう》を|外《はづ》し、|石段《いしだん》を|下《くだ》つて|燈火《あかり》を|左手《ゆんで》に|捧《ささ》げながら、|莞爾《くわんじ》として|現《あら》はれ|来《き》たる。|玉国別《たまくにわけ》ほか|一同《いちどう》は|欣喜雀躍《きんきじやくやく》のあまり、|初稚姫《はつわかひめ》の|傍《そば》|近《ちか》くよつて|声《こゑ》を|放《はな》つて|泣《な》き|伏《ふ》しぬ。|一同《いちどう》|期《き》せずして|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|初稚姫《はつわかひめ》の|後《あと》に|従《したが》つて、やうやく|岩窟《いはや》を|無事《ぶじ》に|抜《ぬ》け|出《だ》すことを|得《え》た。この|初稚姫《はつわかひめ》は|決《けつ》して|白狐《びやつこ》の|化身《けしん》ではなかつた。|神《かみ》の|命《めい》を|受《う》け|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》が|危難《きなん》を|救《すく》ふべく|向《む》かはせたまうたのである。|一同《いちどう》は|初稚姫《はつわかひめ》、スマートの|後《あと》に|従《したが》ひ、|入口《いりぐち》まで|還《かへ》つて|見《み》れば、イク、サールの|両人《りやうにん》が|厳然《げんぜん》として|警固《けいご》してゐた。
(大正一二・四・二 旧二・一七 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
(昭和九・一一・三〇 王仁校正)
第一七章 |倉明《くらあき》〔一五一七〕
|第一倉庫《だいいちさうこ》の|中《なか》には、カンナ、チルナの|両人《りやうにん》が|互《たが》ひに|悲歎《ひたん》の|涙《なみだ》に|暮《く》れながら、|世《よ》を|果敢《はか》なみて|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》つてゐる。
チルナ|姫《ひめ》『|恋《こ》ひ|慕《した》ふ|吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》は|曲神《まがかみ》に
カンナ………『|襲《おそ》はれ|玉《たま》ひし|事《こと》の|悲《かな》しさ
チルナ|姫《ひめ》…|暗《くら》がりの|倉《くら》に|情《つれ》なく|投《な》げ|込《こ》まれ
カンナ………|乾《かわ》く|由《よし》なき|吾《わ》が|涙《なみだ》かな
チルナ|姫《ひめ》…|初稚《はつわか》の|姫《ひめ》と|称《とな》ふる|曲神《まがかみ》は
カンナ………|此《こ》の|世《よ》を|乱《みだ》す|人鬼《ひとおに》ならめ
チルナ|姫《ひめ》…|何時《いつ》の|日《ひ》かこれの|鉄門《かなど》や|開《ひら》かれむ
カンナ………|頼《たよ》りなき|身《み》を|悶《もだ》え|苦《くる》しむ
チルナ|姫《ひめ》…|飢《う》ゑ|喝《かわ》くこの|苦《くる》しみを|如何《いか》にせむ
カンナ………|唾《つばき》さへ|出《で》ぬ|二人《ふたり》の|身《み》の|上《うへ》
チルナ|姫《ひめ》…|悲《かな》しさは|涙《なみだ》となりて|溢《あふ》れけり
カンナ………|世《よ》の|荒波《あらなみ》に|揉《も》まれし|身《み》には
チルナ|姫《ひめ》…|大空《おほぞら》に|月日《つきひ》は|清《きよ》く|輝《かがや》けど
カンナ………|心《こころ》の|空《そら》を|黒雲《くろくも》|包《つつ》めり
チルナ|姫《ひめ》…いかにしてこれの|鉄門《かなど》を|開《ひら》かむと
カンナ………あせれど|最早《もはや》|力《ちから》|尽《つ》きぬる
チルナ|姫《ひめ》…この|上《うへ》はただ|大神《おほかみ》に|願《ね》ぎ|奉《まつ》り
カンナ………|救《すく》はるる|時《とき》を|待《ま》つばかりなり
チルナ|姫《ひめ》…|恋雲《こひぐも》に|深《ふか》く|包《つつ》まれ|身《み》の|光《ひかり》
カンナ………|隠《かく》して|一人《ひとり》|吾《われ》は|苦《くる》しむ
チルナ|姫《ひめ》…|背《せ》の|君《きみ》は|女《をんな》に|心《こころ》とられましぬ
カンナ………|吾《われ》も|変《かは》らず|迷《まよ》ひ|苦《くる》しむ
カンナ……デビス|姫《ひめ》|娶《めと》らむものと|村肝《むらきも》の
チルナ|姫《ひめ》……|心《こころ》|砕《くだ》きし|人《ひと》の|憐《あは》れさ
カンナ……|太腿《ふともも》に|噛《かぶ》りつかれた|苦《くる》しさを
チルナ|姫《ひめ》……|思《おも》ひやるだに|涙《なみだ》ぐまるる
カンナ……チルナ|姫《ひめ》|暗《やみ》に|紛《まぎ》れて|吾《わ》が|腿《もも》に
チルナ|姫《ひめ》……|獅噛《しが》みついたる|事《こと》のくやしさ
カンナ……|惟神《かむながら》|神《かみ》の|御前《みまへ》に|罪《つみ》を|悔《く》い
チルナ|姫《ひめ》……|詫《わ》びつ|恨《うら》みつ|泣《な》き|渡《わた》るかな
カンナ……バラモンの|皇大神《すめおほかみ》は|吾《わ》が|身《み》をば
チルナ|姫《ひめ》……|救《すく》ひまさずやいとど|悲《かな》しき』
チルナ|姫《ひめ》『|月《つき》に|村雲《むらくも》|花《はな》には|嵐《あらし》  |吹《ふ》き|荒《すさ》むなる|世《よ》の|中《なか》に
|花《はな》をかざして|永久《とこしへ》に  |此《こ》の|世《よ》を|安《やす》く|渡《わた》らむと
|祈《いの》りしことも|水《みづ》の|泡《あわ》  |初稚姫《はつわかひめ》といふナイス
|現《あら》はれ|来《き》たりて|吾《わ》が|夫《つま》の  |清《きよ》き|心《こころ》を|濁《にご》らせつ
|心《こころ》にもなき|枉業《まがわざ》を  |尽《つく》させたまふ|恨《うら》めしさ
|吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》はバラモンの  キヨの|関所《せきしよ》を|預《あづ》かりて
ハルナの|都《みやこ》へ|攻《せ》め|寄《よ》する  |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|一人《ひとり》も|残《のこ》さず|引捕《ひつと》らへ  |地底《ちてい》に|深《ふか》く|穿《うが》ちたる
その|岩窟《がんくつ》に|投《な》げ|込《こ》みて  |此《こ》の|世《よ》の|災《わざは》ひ|払《はら》はむと
|誠心《まことごころ》を|捧《ささ》げつつ  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|大神《おほかみ》に
|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|太祝詞《ふとのりと》  |宣《の》らせ|玉《たま》ひし|折《を》りもあれ
|木花《このはな》|散《ち》らす|夜嵐《よあらし》に  |吹《ふ》き|捲《まく》られて|妹《いも》と|背《せ》の
|道《みち》を|誤《あやま》り|玉《たま》ひつつ  |妾《わらは》の|身《み》をば|館《やかた》より
|追放《つゐはう》せむとなしたまふ  その|曲業《まがわざ》ぞ|悲《かな》しけれ
|吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》の|迷《まよ》ひをば  |覚《さ》ましくれむと|心《こころ》にも
なき|偽《いつは》りをかまへつつ  |半狂乱《はんきやうらん》を|装《よそほ》ひて
|戸障子《としやうじ》|手道具《てだうぐ》ことごとく  |打折《うちを》り|砕《くだ》き|警告《けいこく》を
|与《あた》へしことの|仇《あだ》となり  |忽《たちま》ち|手足《てあし》を|縛《しば》られて
|無慙《むざん》や|暗《くら》き|倉《くら》の|中《なか》  |投《な》げ|入《い》れられし|悲《かな》しさよ
これも|全《まつた》くリュウチナント  カンナの|司《つかさ》の|待遇《もてな》しが
|面白《おもしろ》なかりしそのためと  |一度《いちど》は|怨《うら》みゐたりしが
カンナの|司《つかさ》も|今《いま》ここに  |吾《われ》らと|共《とも》に|苦《くる》しめる
|姿《すがた》を|見《み》るより|同情《どうじやう》の  |涙《なみだ》に|濡《ぬ》れて|吾《わ》が|怨《うら》み
|春野《はるの》の|雪《ゆき》と|消《き》えにけり  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|幸《さち》はひて  |一日《ひとひ》も|早《はや》く|片時《かたとき》も
|吾《われ》ら|二人《ふたり》の|身魂《みたま》をば  |広《ひろ》きに|救《すく》ひ|玉《たま》へかし
ひとへに|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る  |梵天《ぼんてん》|帝釈《たいしやく》|自在天《じざいてん》
|大国彦《おほくにひこ》の|大御神《おほみかみ》  |大国彦《おほくにひこ》の|神柱《かむばしら》
|御前《みまへ》に|慎《つつし》み|鹿児自物《かごじもの》  |膝折伏《ひざをりふ》せて|願《ね》ぎ|奉《まつ》る。
|天地《あめつち》に|神《かみ》は|在《ま》さずや|居《ゐ》まさずや
この|願《ね》ぎ|事《ごと》も|聞《き》こし|召《め》さずや
|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|暗《やみ》の|戸《と》|打《う》ち|開《あ》けて
|救《すく》はせ|玉《たま》へ|大御神《おほみかみ》たち』
カンナ『バラモン|教《けう》の|神柱《かむばしら》  ハルナの|都《みやこ》に|在《あ》れませる
|大黒主《おほくろぬし》の|命令《みこと》もて  リュウチナントに|任《にん》ぜられ
チルテル|司《つかさ》に|従《したが》ひて  おのが|務《つと》めを|忠実《ちうじつ》に
|仕《つか》へまつりしこのカンナ  いかなる|悪魔《あくま》の|魅《み》いりしか
|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|災難《さいなん》に  |不遇《ふぐう》を|喞《かこ》つ|今日《けふ》の|身《み》は
あるにあられぬ|悩《なや》みなり  チルテル・キャプテンに|頼《たの》まれて
チルナの|姫《ひめ》の|御前《おんまへ》に  |心《こころ》にあらぬ|偽《いつは》りを
づうづうしくも|並《なら》べ|立《た》て  |清《きよ》き|心《こころ》を|曇《くも》らせて
|姫《ひめ》の|災《わざは》ひ|招《まね》きたる  その|罪悪《ざいあく》を|省《かへり》みて
いと|恐《おそ》ろしくなりにけり  |暗《やみ》の|中《なか》とはいひながら
|吾《わ》が|太腿《ふともも》を|峻烈《しゆんれつ》に  |噛《か》み|切《き》りたまひしその|痛《いた》さ
|無念《むねん》の|歯噛《はが》みなしながら  |怨《うら》みを|晴《は》らしくれむずと
|拳《こぶし》を|固《かた》めて|二《ふた》つ|三《み》つ  |尊《たふと》き|面《おもて》を|殴《なぐ》りしは
|悔《く》やむで|返《かへ》らぬ|過失《あやまち》ぞ  |事《こと》の|起《おこ》りはこのカンナ
|物《もの》の|黒白《あやめ》も|分《わか》らずに  |慾《よく》に|迷《まよ》ひしその|為《ため》ぞ
|許《ゆる》させ|玉《たま》へチルナ|姫《ひめ》  |人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
もとより|鬼《おに》の|子《こ》でもない  |大蛇《をろち》の|腹《はら》に|生《うま》れたる
|蛇《じや》でもなければ|曲《まが》でない  いづれも|神《かみ》の|分霊《わけみたま》
|水晶魂《すいしやうだま》の|持主《もちぬし》よ  さはさりながら|大空《おほぞら》の
|月日《つきひ》もしばし|黒雲《くろくも》に  |包《つつ》まれ|姿《すがた》を|隠《かく》すごと
|吾《わ》が|魂《たましひ》も|何時《いつ》しかに  |悪魔《あくま》の|虜《とりこ》となり|果《は》てて
|思《おも》はぬ|不覚《ふかく》をとりました  かうなり|行《ゆ》くも|己《おのれ》が|身《み》の
|犯《をか》せし|罪《つみ》の|報《むく》ひぞや  チルテルさまや|姫様《ひめさま》を
もはや|少《すこ》しも|怨《うら》まない  |梵天《ぼんてん》|帝釈《たいしやく》|自在天《じざいてん》
|二人《ふたり》の|悩《なや》みを|逸早《いちはや》く  |救《すく》はせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|黒白《あやめ》も|分《わ》かぬ|暗《やみ》の|中《なか》  |双手《もろて》を|合《あは》せ|真心《まごころ》を
|捧《ささ》げて|祈《いの》り|奉《たてまつ》る』
かく|歌《うた》ふ|折《を》りしも|俄《には》かに|四辺《あたり》|騒《さわ》がしく、|数十人《すうじふにん》の|足音《あしおと》が|聞《き》こえて|来《き》た。|二人《ふたり》は|耳《みみ》をすまして|何者《なにもの》の|襲来《しふらい》なるかと|暫《しば》し|様子《やうす》を|窺《うかが》つてゐた。たちまちガチヤリと|戸《と》を|開《ひら》く|音《おと》、|見《み》れば|初稚姫《はつわかひめ》はじめチルテルそのほか|沢山《たくさん》な|宣伝使《せんでんし》や|兵士《へいし》が|立《た》つてゐる。チルナ|姫《ひめ》は|矢庭《やには》に|倉《くら》を|飛《と》び|出《だ》し、|初稚姫《はつわかひめ》|目《め》がけて|夜叉《やしや》のごとく|飛《と》びついた。|初稚姫《はつわかひめ》はヒラリと|体《たい》をかはし、
『|三五《あななひ》の|誠《まこと》の|道《みち》を|伝《つた》へ|行《ゆ》く
|吾《われ》は|初稚姫《はつわかひめ》の|神《かみ》ぞや
チルナ|姫《ひめ》|妾《わらは》の|姿《すがた》を|見誤《みあやま》り
|怨《うら》み|玉《たま》ふか|心《こころ》もとなや』
チルナ|姫《ひめ》『よく|見《み》れば|何処《どこ》とはなしに|御姿《おんすがた》
|変《かは》らせ|玉《たま》ひぬ|許《ゆる》させ|玉《たま》へ』
チルテル『いと|恋《こ》やの|妻《つま》の|命《みこと》よ|心《こころ》せよ
|吾《われ》も|初稚姫《はつわかひめ》に|救《すく》はれしぞや』
『|背《せ》の|君《きみ》に|刃向《はむ》かひまつりし|吾《わ》が|罪《つみ》を
|赦《ゆる》し|玉《たま》はれ|神《かみ》の|心《こころ》に』
『|吾《わ》が|胸《むね》に|巣《す》ぐへる|曲《まが》に|誘《いざな》はれ
|思《おも》はぬ|罪《つみ》を|犯《をか》しけるかな
|今日《けふ》よりは|心《こころ》の|駒《こま》を|立《た》て|直《なほ》し
チルナの|姫《ひめ》を|厚《あつ》く|愛《め》でなむ』
チルナ|姫《ひめ》『|有難《ありがた》しその|宣《の》り|言《ごと》を|聞《き》く|上《うへ》は
たとへ|死《し》すとも|怨《うら》まざらまし』
カンナ『チルテルの|司《つかさ》よ|清《きよ》く|許《ゆる》しませ
|罪《つみ》に|溺《おぼ》れし|吾《わ》が|魂《たましひ》を』
|玉国別《たまくにわけ》『|皇神《すめかみ》の|恵《めぐ》みの|露《つゆ》に|霑《うるほ》ひて
|吾《われ》|人《ひと》|共《とも》に|勇《いさ》みけるかな』
|三千彦《みちひこ》『|日影《ひかげ》なき|地底《ちてい》の|洞《ほら》に|落《お》とされて
|心《こころ》|砕《くだ》きしことの|果敢《はか》なさ
|初稚姫《はつわかひめ》|神《かみ》の|命《みこと》があれまして
|吾等《われら》が|命《いのち》を|救《すく》ひ|玉《たま》ひぬ
いつの|世《よ》かこの|御恵《みめぐ》みを|忘《わす》るべき
|弥勒《みろく》の|御世《みよ》の|末《すゑ》の|末《すゑ》まで』
ワックス『テルモンの|神《かみ》の|館《やかた》にいろいろの
|枉《まが》|企《たく》みたる|吾《われ》はワックス
|今《いま》こそは|誠心《まことごころ》に|帰《かへ》りけり
|許《ゆる》させ|玉《たま》へ|三千彦《みちひこ》の|君《きみ》』
|三千彦《みちひこ》『|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|花《はな》の|咲《さ》きぬれば
|世《よ》に|憎《にく》むべき|人《ひと》はあらまし』
ヘルマン『いかにして|己《おの》が|犯《をか》せし|罪科《つみとが》を
|詫《わ》びむと|思《おも》ふ|心《こころ》|苦《くる》しさ
デビス|姫《ひめ》の|清《きよ》き|身魂《みたま》を|曇《くも》らせし
|吾《われ》は|此《こ》の|世《よ》の|魔神《まがみ》なりしか』
エキス『|五百笞《いほむち》の|戒《いまし》め|受《う》けてはるばると
|来《き》たりてここに|夢《ゆめ》は|覚《さ》めけり』
エル『|三千彦《みちひこ》の|厚《あつ》き|情《なさ》けのお|計《はか》らひ
|仇《あだ》に|返《かへ》せし|吾《わ》が|身《み》の|嘆《うた》てさ
|三千彦《みちひこ》の|情《なさ》けの|盥《たらひ》なかりせば
|吾《わ》が|身体《からたま》の|如何《いか》で|保《たも》たむ
|海山《うみやま》の|恵《めぐ》みを|受《う》けし|身《み》ながらに
|仇《あだ》と|狙《ねら》ひしことの|苦《くる》しさ』
イク『|初稚姫《はつわかひめ》|神《かみ》の|命《みこと》の|後《あと》になり
|前《さき》になりつつ|進《すす》み|来《き》にけり』
サール『キヨ|港《みなと》|関守館《せきもりやかた》に|尋《たづ》ね|来《き》て
|思《おも》はぬ|人《ひと》に|巡《めぐ》り|会《あ》ひしよ』
テク『いざさらばバーチル|主《ぬし》の|館《やかた》へと
|急《いそ》いで|行《ゆ》かむ|皆《みな》の|人《ひと》たち』
チルテル『|今《いま》しばし|館《やかた》の|中《なか》を|片《かた》づけて
|後《のち》に|行《ゆ》くべし|先《さき》に|出《い》でませ』
|初稚姫《はつわかひめ》『いざさらば|吾《われ》はこれより|皇神《すめかみ》の
|宣《の》りのまにまに|別《わか》れ|行《ゆ》かなむ』
|玉国別《たまくにわけ》『|今《いま》しばし|待《ま》たせ|玉《たま》へよ|初稚姫《はつわかひめ》
|君《きみ》の|恵《めぐ》みに|報《むく》ゆ|術《すべ》なき』
|初稚姫《はつわかひめ》『|玉国別《たまくにわけ》|神《かみ》の|命《みこと》の|真心《まごころ》を
|力《ちから》となして|進《すす》み|行《ゆ》くべし』
かく|歌《うた》ひながら|一同《いちどう》に|目礼《もくれい》し、スマートを|従《したが》へ|足許《あしもと》|早《はや》く|館《やかた》の|門《もん》を|出《い》づるや、|忽《たちま》ち|姿《すがた》は|霞《かすみ》と|消《き》えさせ|玉《たま》うた。|初稚姫《はつわかひめ》はスマートの|背《せな》に|跨《また》がり|木《こ》の|間《ま》を|潜《くぐ》つてハルナの|都《みやこ》へと|急《いそ》がれたのである。イク、サールの|両人《りやうにん》は|折角《せつかく》|追《お》つついた|姫様《ひめさま》に|見捨《みす》てられては|大変《たいへん》と、|両人《りやうにん》は|取《と》る|物《もの》も|取《と》り|敢《あへ》ず、トントントンと|地響《ぢひび》き|打《う》たせ、|水晶《すいしやう》の|宝玉《はうぎよく》を|片手《かたて》に|固《かた》く|握《にぎ》りながら|追《お》つて|行《ゆ》く。
(大正一二・四・二 旧二・一七 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
(昭和九・一二・一 王仁校正)
第四篇 |六根猩々《ろくこんしやうじやう》
第一八章 |手苦番《てくばん》〔一五一八〕
|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》は  |九死一生《きうしいつしやう》の|危難《きなん》をば
|思《おも》ひもよらぬ|神柱《かむばしら》  |初稚姫《はつわかひめ》に|救《すく》はれて
|醜《しこ》の|岩窟《いはや》を|抜《ぬ》け|出《い》だし  |初稚姫《はつわかひめ》に|相別《あひわか》れ
アヅモス|山《さん》の|南麓《なんろく》に  |甍《いらか》も|高《たか》く|立並《たちなら》ぶ
スマの|里庄《りしやう》のバーチルが  |館《やかた》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く
バラモン|教《けう》のスパイをば  |勤《つと》めゐたりし|大酒豪《だいしゆがう》
テクは|一行《いつかう》の|先《さき》に|立《た》ち  |足《あし》に|力《ちから》を|入《い》れながら
|羽《は》ばたきテクテク|歌《うた》ひ|行《ゆ》く。
『テルモン|山《ざん》の|山颪《やまおろし》  キヨの|湖水《こすゐ》の|面《おもて》をば
ゆたかになでて|通《とほ》り|行《ゆ》く  その|鼻先《はなさき》はアヅモスの
|山《やま》の|麓《ふもと》のバーチルが  |館《やかた》に|当《あた》りガヤガヤと
|物騒《ものさわ》がしき|今日《けふ》の|空《そら》  |老若男女《らうにやくなんによ》は|勇《いさ》み|立《た》ち
|呑《の》めよ|唄《うた》への|大騒《おほさわ》ぎ  テクは|忽《たちま》ちバーチルの
|家《いへ》の|奴《やつこ》となりすまし  |祝《いは》ひを|兼《か》ねて|里人《さとびと》に
|酒《さけ》をすすむる|折《を》りもあれ  バラモン|教《けう》の|関守《せきもり》と
|古《ふる》く|仕《つか》へしチルテルが  |三五教《あななひけう》の|神司《かむつかさ》
|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|捉《とら》へむと  |駒《こま》に|鞭《むち》うちシトシトと
|表門《おもてもん》へと|進《すす》み|来《く》る  コリヤ|叶《かな》はぬとこのテクが
|孫呉《そんご》が|秘書《ひしよ》をまき|拡《ひろ》げ  |長柄《ながえ》の|杓《しやく》に|甘酒《うまざけ》を
|汲《く》むより|早《はや》く|鼻《はな》の|先《さき》  プンと|嚊《か》がせば|麻酔剤《ますゐざい》
|吸収《きふしう》したるその|如《ごと》く  はじめの|権幕《けんまく》どこへやら
ヒラリと|駒《こま》を|飛《と》びおりて  |老若男女《らうにやくなんによ》の|中《なか》に|入《い》り
|口汚《くちぎたな》くもガブガブと  |鯨飲馬食《げいいんばしよく》の|為体《ていたらく》
|何《なに》ほど|威張《ゐば》つたキャプテンも  |酒《さけ》にかけたらもろいもの
ソロソロ|酔《よ》ひがまはり|出《だ》し  |館《やかた》の|離室《はなれ》に|隠《かく》したる
|初稚姫《はつわかひめ》のナイスをば  |誘《いざな》ひ|来《き》たれ|成功《せいこう》すりや
リュウチナントにしてやろと  |酒《さけ》の|上《うへ》にてチヨロまかす
|元《もと》より|嘘《うそ》とは|知《し》りながら  これも|一興《いつきよう》と|勇《いさ》み|立《た》ち
|初稚姫《はつわかひめ》の|前《まへ》に|出《い》で  |軍人気取《ぐんじんきど》りで「あります」を
|連発《れんぱつ》したる|可笑《をか》しさよ  |初稚姫《はつわかひめ》と|思《おも》ひしは
|誠《まこと》の|人《ひと》にあらずして  しまひの|果《はて》にや|尻尾《しつぽ》|出《だ》し
|小牛《こうし》のやうな|白狐《びやつこ》と|変《な》り  |這《は》い|出《い》だしたる|怖《おそ》ろしさ
|怪事百出《くわいじひやくしゆつ》とめどなく  |遂《つひ》には|一同《いちどう》|穴倉《あなぐら》に
|突《つ》き|倒《たふ》されて|吐息《といき》つく  をりしも|真《まこと》の|姫様《ひめさま》が
|猛犬《まうけん》スマート|引《ひ》き|連《つ》れて  |吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》をはじめとし
チルテルそのほか|一同《いちどう》を  |救《すく》はせ|玉《たま》ひし|有難《ありがた》さ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|恵《めぐ》みはたちまちに
|旭《あさひ》のごとく|輝《かがや》きて  まだ|明《あ》けやらぬ|夜《よ》の|道《みち》も
|何《なん》とはなしに|気分《きぶん》よく  バーチル|館《やかた》へ|指《さ》して|行《ゆ》く
こんな|騒《さわ》ぎのありしとは  |夢《ゆめ》にも|知《し》らぬスマの|里《さと》
|集《あつ》まり|来《き》たる|老若《らうにやく》は  |七日七夜《なぬかななよ》の|酒宴《さかもり》に
|胴腰《どうこし》|据《す》ゑてガブガブと  |泣《な》いたり|笑《わら》うたり|怒《おこ》つたり
|牛飲馬食《ぎういんばしよく》の|大酒宴《だいしゆえん》  |喉《のど》を|鳴《な》らしてゐるだらう
サアこれからは これからは  このテクさまも|久《ひさ》しぶりに
|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》|般若湯《はんにやたう》  グイグイグイとひつかけて
|一《ひと》つ【げん】をば|直《なほ》しませう  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|玉国別《たまくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》  そのほか|百《もも》の|司《つかさ》たち
|向方《むかふ》に|見《み》える|森蔭《もりかげ》は  |夜目《よめ》には|確《しつか》り|分《わか》らねど
|正《ただ》しくバーチル|神館《かむやかた》  モウ|一息《ひといき》だ|膝栗毛《ひざくりげ》に
|鞭《むち》|打《う》ち|進《すす》み|帰《かへ》りませう  |旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  お|酒《さけ》の|味《あぢ》はいつまでも
|万劫未代《まんごふまつだい》|変《かは》らない  |酒《さけ》ほど|笑顔《ゑがほ》のよいものが
|三千世界《さんぜんせかい》にあるものか  |笑《わら》ふも|泣《な》くも|面白《おもしろ》い
|怒《おこ》り|狂《くる》ふも|一興《いつきよう》だ  |酒《さけ》の|上《うへ》にてした|事《こと》は
|決《けつ》して|世人《よびと》は|咎《とが》めない  【よい】|要口《えうこう》が|出来《でき》たもの
アア|燗酒《かんざけ》ぢや|燗酒《かんざけ》ぢや  |冷酒鯛汁《れいしゆたひじふ》は|甘《うま》くない』
などと|下《くだ》らぬ|歌《うた》うたひ  |勇《いさ》み|進《すす》むで|表門《おもてもん》を
|潜《くぐ》れば|数多《あまた》の|老若《らうにやく》が  |夜昼《よるひる》かまはず|赤裸《まつぱだか》
|黒《くろ》い|体《からだ》を|曝《さら》しつつ  |鯖《さば》の|鮨《すし》をばつけたよに
|肚《はら》|一杯《いつぱい》に|膨《ふく》らして  ゴロリゴロリと|高鼾《たかいびき》
|寝言《ねごと》の|声《こゑ》や|屁《へ》の|響《ひびき》  |人形箱《にんぎやうばこ》をぶちあけた
|大乱雑《だいらんざつ》の|光景《くわうけい》を  |眺《なが》めてテクは|吹《ふ》き|出《い》だし
アハハハハツハ アハハハハ  |面白《おもしろ》うなつてお|出《い》でたと
|大玄関《おほげんくわん》を|一跨《ひとまた》げ  ドスンドスンと|奥《おく》の|間《ま》へ
|勢《いきほ》ひこんで|進《すす》み|入《い》る。
アキス、カールの|両人《りやうにん》は|一行《いつかう》が|奥《おく》の|間《ま》へ|進《すす》まむとする|途中《とちう》、|畳廊下《たたみらうか》でベツタリ|出会《でつくは》した。テクは|見《み》るより、
『サア、|番頭《ばんとう》さまのお|帰《かへ》りだ。|早《はや》く|酒《さけ》を|一斗《いつと》ばかり|持《も》つて|来《こ》い。|何《なに》をグヅグヅしてゐるのだ。|新番頭《しんばんとう》さまの|天晴《あつぱ》れ|功名手柄話《こうみやうてがらばなし》、|汝《きさま》も|奥《おく》へ|来《き》てトツクリ|聞《き》くがよからうぞ』
アキス『ヘン、|馬鹿《ばか》にすない。|番頭《ばんとう》だなぞと、|勝手《かつて》に|定《き》めやがつて、|番犬《ばんけん》のバンタ|奴《め》、|汝《きさま》たちが|当家《たうけ》の|番頭《ばんとう》にならうものなら、それこそ|大変《たいへん》な|番狂《ばんぐる》はせだ』
テク『|馬鹿《ばか》いふな、|俺《おれ》は|主人公《しゆじんこう》からチヤンと|委任《ゐにん》をうけてるのだ。バーチル|家《け》の|家政《かせい》|一切《いつさい》は|皆《みな》このテクさまの|御支配《ごしはい》だぞ』
|玉国《たまくに》『コラコラ、こんな|所《とこ》で|喧嘩《けんくわ》をしてもつまらぬぢやないか』
テク『ハイ、|心得《こころえ》ました。アキスの|奴《やつ》、バンタだの|番犬《ばんけん》だのと、あまり|失敬《しつけい》なことをいふものですから、チツと|癪《しやく》に|障《さは》つたのですよ。サア、ともかく、|今度《こんど》の|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|主人公《しゆじんこう》に|報告《はうこく》いたしませう』
と|故意《わざ》とに|大手《おほて》を|振《ふ》り、|大股《おほまた》にドスン ドスンと|四股《しこ》をふみながら|主人《しゆじん》の|居間《ゐま》に|進《すす》み|入《い》る。
バーチル、サーベル|姫《ひめ》は、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|神前《しんぜん》に|向《む》かつて|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》の|無事《ぶじ》|安全《あんぜん》を|祈願《きぐわん》してゐる|最中《さいちう》であつた。|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》も|拍手《かしはで》を|拍《う》ち、|神前《しんぜん》に|無事《ぶじ》|凱旋《がいせん》せしことを|感謝《かんしや》し|了《をは》つて|席《せき》に|着《つ》いた。|夫婦《ふうふ》は|拝礼《はいれい》を|了《をは》り、|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》の|無事《ぶじ》な|顔《かほ》をみて|打《う》ち|喜《よろこ》び、|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》しながら、
バーチル『あ、|先生《せんせい》、ようまア|帰《かへ》つて|下《くだ》さいました。お|案《あん》じ|申《まを》してをりました』
サーベル『あ、デビス|姫様《ひめさま》、|三千彦《みちひこ》|様《さま》、|伊太彦《いたひこ》|様《さま》、どうしてゐられました。|旦那様《だんなさま》と|大変《たいへん》な|心配《しんぱい》をいたしまして、|神様《かみさま》の|前《まへ》にしがみついて|泣《な》いてお|願《ねが》ひをしてをりました。マアお|目出《めで》たうございます』
|玉国《たまくに》『ハイ|有難《ありがた》う。いろいろと|神様《かみさま》のお|試《ため》しに|会《あ》つて|参《まゐ》りました。やアもう、エライご|心配《しんぱい》をかけ|申《まを》し|訳《わけ》がございませぬ。マアこの|通《とほ》り|一人《ひとり》の|怪我《けが》もなく|無事《ぶじ》に|帰《かへ》りましたからお|喜《よろこ》び|下《くだ》さい』
|夫婦《ふうふ》は|一度《いちど》に|頭《かしら》を|下《さ》げ、|喜《よろこ》びのあまり|嬉涙《うれしなみだ》にかきくれてゐる。
テク『(のり)モウシモウシ|旦那様《だんなさま》  |一応《いちおう》お|聞《き》きなされませ
|三千彦司《みちひこつかさ》を|救《すく》はむと  |玉国別《たまくにわけ》の|神司《かむづかさ》
|真純《ますみ》の|彦《ひこ》に|従《したが》ひて  |先《さき》の|番頭《ばんとう》のアンチーを
|案内《あんない》させてスタスタと  |裏道《うらみち》|指《さ》して|出《い》でて|行《ゆ》く
|空《そら》には|日輪《にちりん》カンカンと  |輝《かがや》き|玉《たま》ひ|頭上《てつべ》から
|火熱《くわねつ》を|浴《あ》びせる|苦《くる》しさに  |森《もり》の|木蔭《こかげ》に|立《た》ち|寄《よ》つて
|玉国別《たまくにわけ》や|真純彦《ますみひこ》  アンチー|三人《みたり》を|休《やす》ませつ
このテク|奴《やつこ》はただ|一人《ひとり》  チルテル|館《やかた》の|裏門《うらもん》へ
|進《すす》むで|見《み》ればピツタリと  |戸締《とじま》り|厳《きび》しくありければ
|肝玉《きもだま》|放《ほ》り|出《だ》し|表門《おもてもん》  |廻《まは》つて|見《み》れば|人《ひと》もなし
|事務室《じむしつ》いかにと|眺《なが》むれば  |猫《ねこ》の|子《こ》|一匹《いつぴき》をらばこそ
|天井《てんじやう》に|鼠《ねずみ》がチウチウと  |恋《こひ》を|争《あらそ》ひ|狂《くる》ふ|声《こゑ》
こいつア|不思議《ふしぎ》と|裏口《うらぐち》に  |立出《たちい》でみれば|離屋《はなれ》の|座敷《ざしき》
|初稚姫《はつわかひめ》といふナイス  |白《しろ》い|面《つら》してニコニコと
|二人《ふたり》の|裸《はだか》を|前《まへ》におき  |何《なに》か|命令《めいれい》|下《くだ》しゐる
コリヤ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い  |仔細《しさい》あらむとかけよれば
|豈計《あにはか》らむやチルテルと  ヘールの|二人《ふたり》が|角力取《すまふと》り
|勝《か》つたお|方《かた》の|女房《にようばう》に  ならうとお|化《ばけ》が|甘《うま》い|事《こと》
いふた|嘘《うそ》をば|真《ま》に|受《う》けて  このテク|奴《やつこ》も|釣《つ》り|込《こ》まれ
ドスンドスンと|四股《しこ》ふみならし  |汗《あせ》をタラタラ|絞《しぼ》りつつ
にはかに|変《かは》る|力士《すまふとり》  |難《なん》なく|二人《ふたり》を|投《な》げつけて
|地底《ちてい》の|洞《ほら》へと|投《な》げ|込《こ》むだ  |初稚姫《はつわかひめ》はテク|奴《やつこ》の
お|手《て》を|握《にぎ》らしくれぬかと  |優《やさ》しい|顔《かほ》してつめかける
コリヤ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い  |男《をとこ》と|生《うま》れた|上《うへ》からは
|一《ひと》つ|握手《あくしゆ》しキッスをば  やつてみやうと|手《て》を|伸《の》ばし
グツとつかめばこはいかに  |細《ほそ》い|腕《かひな》は|毛《け》だらけだ
たちまち|白狐《びやつこ》となり|変《かは》り  |眼《まなこ》を|怒《いか》らし|睨《にら》みたる
その|権幕《けんまく》の|恐《おそ》ろしさ  あとをも|見《み》ずに
エツサツサエツサツサ  スタコラヨイヤサと|駈《か》け|出《い》だし
|玉国別《たまくにわけ》の|待《ま》ち|玉《たま》ふ  |森《もり》の|中《なか》をば|暗《くら》がりで
|当途《あてど》もなしに|走《はし》り|入《い》る  |暗《くら》さは|暗《くら》し|真純彦《ますみひこ》
|胸《むね》に|頭《かしら》をうちつけて  アツと|倒《たふ》れた|苦《くる》しさよ
まだまだ|先《さき》は|長《なが》けれど  お|酒《さけ》を|一杯《いつぱい》もらはねば
どうやら|息《いき》が|切《き》れさうだ  コレコレもうしアンチーさま
|早《はや》くお|酒《さけ》をついでくれ  これより|先《さき》はいはれない
|玉国別《たまくにわけ》や|皆《みな》さまの  |一生《いつしやう》の|恥《はぢ》になりまする
|言《い》はぬが|仏《ほとけ》|神心《かみごころ》  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
これにて|中止《ちうし》つかまつる  アハハハアツハ アハハハハ』
|一同《いちどう》『ウツフフフフ』
バーチル『オイテク、|芝居《しばゐ》がかりで、いろいろと|報告《はうこく》してくれたが、どうも|真相《しんさう》が|分《わか》りにくい。しかしながら|皆《みな》さまが|無事《ぶじ》に|帰《かへ》つて|下《くだ》さつたのだから、こんな|嬉《うれ》しいことはない。サアあちらへ|行《い》つて、|充分《じうぶん》|酒《さけ》でもあがつて|下《くだ》さい。そして、アキス、カールなどを、|決《けつ》して|揶揄《からか》つてはなりませぬぞ』
テク『ハイ、|畏《かしこ》まりました。しからば|御主人夫婦様《ごしゆじんふうふさま》、|玉国別一統様《たまくにわけいつとうさま》、|一寸《ちよつと》しばらく|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》ります。|左様《さやう》ならば』
といふより|早《はや》く|酒《さけ》の|場《ば》さして|駈《か》けて|行《ゆ》く。
(大正一二・四・二 旧二・一七 於皆生温泉浜屋 松村真澄録)
第一九章 |猩々舟《しやうじやうぶね》〔一五一九〕
|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》は|晩餐《ばんさん》を|与《あた》へられ、|再《ふたた》び|神《かみ》に|拝礼《はいれい》し、|寝《しん》に|就《つ》かむとする|時《とき》しも、サーベル|姫《ひめ》は|言葉《ことば》|静《しづ》かに|玉国別《たまくにわけ》の|耳《みみ》に|口《くち》を|寄《よ》せ、
『モシ|先生様《せんせいさま》、|猩々島《しやうじやうじま》に|残《のこ》しおかれた|三人《さんにん》の|男《をとこ》を|助《たす》けるため、|船《ふね》を|出《だ》していただけませぬでせうか、どうか|神様《かみさま》にお|願《ねが》ひ|下《くだ》さいまして、お|差支《さしつか》へなくば|彼《かれ》ら|三人《さんにん》を|助《たす》けてやりたうございます。そしてモ|一《ひと》つのお|願《ねが》ひは、|天王《てんわう》の|森《もり》に|一日《いちにち》も|早《はや》く|二棟《ふたむね》の|宮様《みやさま》を|建築《けんちく》し、|一方《いつぱう》は|三五《あななひ》の|大神様《おほかみさま》、|一方《いつぱう》はバラモンの|大神様《おほかみさま》を|鎮祭《ちんさい》していただく|事《こと》は|出来《でき》ませぬか』
|玉国《たまくに》『なるほど、それはいいお|考《かんが》へでございます。しかしあの|猩々ケ島《しやうじやうがしま》の|沢山《たくさん》の|眷族《けんぞく》は、|元《もと》はアヅモス|山《さん》のお|宮《みや》に|仕《つか》へてゐたもののやうに|直覚《ちよくかく》いたしましたが、|差支《さしつか》へなくば、|沢山《たくさん》の|船《ふね》を|用意《ようい》し、|一匹《いつぴき》も|残《のこ》らず|天王《てんわう》の|森《もり》へ|伴《つ》れて|帰《かへ》つてやりたいと|思《おも》ひますが、|如何《いかが》でございませうかな』
サーベル|姫《ひめ》は|俄《には》かにこの|言葉《ことば》を|聞《き》くより、|嬉《うれ》しさうに|飛《と》び|上《あが》り、「キヤツキヤツ」と|怪《あや》しき|声《こゑ》を|立《た》てながら|両手《りやうて》を|合《あは》せ、
『|妾《わらは》は|猩々姫《しやうじやうひめ》でございます。|沢山《たくさん》の|子《こ》や|孫《まご》が|残《のこ》してございますから、そればかりが|気《き》になつて、|夜《よる》もロクに|寝《ね》られませぬ。ようまア|言《い》うて|下《くだ》さいました。どうぞ|神様《かみさま》のお|許《ゆる》しがあれば、|一匹《いつぴき》も|残《のこ》らず|此方《こちら》へ|迎《むか》へさしていただきたうございます』
|玉国《たまくに》『ヤアそれはなほなほ|結構《けつこう》です。|左様《さやう》ならば|明日《みやうにち》|早《はや》く|船《ふね》の|用意《ようい》をいたしまして、|村人《むらびと》に|命《めい》じ|迎《むか》ひ|取《と》りにやりませう』
サーベル『どうか|貴師《あなた》の|御弟子《みでし》を|一人《ひとり》か|二人《ふたり》、|行《い》つていただくことは|出来《でき》ませぬか』
|伊太彦《いたひこ》は|側《そば》に|居《を》つて、|小耳《こみみ》にはさみ、
『|先生《せんせい》、その|御用《ごよう》は|伊太彦《いたひこ》が|承《うけたまは》ります。|三千彦《みちひこ》さま|夫婦《ふうふ》はどうかお|館《やかた》に|暫《しばら》く|逗留《とうりう》して、お|宮《みや》の|普請《ふしん》の|設計図《せつけいづ》でも|書《か》いてもらいませう。そして|先生《せんせい》は|暫《しばら》く|村人《むらびと》に|布教《ふけう》をしていただきまして、|真純彦《ますみひこ》さまがその|間《あひだ》を|補《おぎな》ふといふ|都合《つがふ》に|願《ねが》ひますれば|誠《まこと》に|結構《けつこう》ですがなア』
|玉国《たまくに》『イヤ、お|前《まへ》のやうな|慌者《あわてもの》は|絶対《ぜつたい》に|許《ゆる》すことは|出来《でき》ませぬ。|三千彦《みちひこ》|夫婦《ふうふ》に|願《ねが》ひませう』
|伊太《いた》『オイ、|三千彦《みちひこ》|夫婦《ふうふ》、あんな、よく|荒《あ》れる|海《うみ》の|上《うへ》、|女房《にようばう》のある|者《もの》が|行《ゆ》くものぢやないよ。|私《わし》のやうな|独身者《どくしんもの》なら|仮令《たとへ》|死《し》んでも|女房《にようばう》の|悔《く》やむ|心配《しんぱい》もいらず、|大変《たいへん》|都合《つがふ》がよい。そこは|俺《おれ》にお|株《かぶ》を|譲《ゆづ》つてもらいたいものだなア』
|三千《みち》『|先生《せんせい》のお|許《ゆる》しさへあれば、どうでもしてやる』
|伊太《いた》『|先生《せんせい》、|是非《ぜひ》|私《わたし》に|御下命《ごかめい》を|願《ねが》ひます』
|玉国《たまくに》『ウンヨシ、それならお|前《まへ》に|一任《いちにん》せう。|相当《さうたう》の|人物《じんぶつ》をお|前《まへ》から|選《えら》むで|伴《つ》れて|行《い》つたがよからう』
|伊太《いた》『イヤ、|有難《ありがた》い、|抃舞雀躍《べんぶじやくやく》だ、エヘヘヘヘ。サア、これから|北極探険隊《ほくきよくたんけんたい》だ。オイ、アンチーさま、お|前《まへ》は|副艦長《ふくかんちやう》だ。アキス、カールの|両人《りやうにん》は|分隊長《ぶんたいちやう》だ。テクの|番頭《ばんとう》さまは|家事《かじ》|万端《ばんたん》を|管掌《くわんしやう》せなくてはならないから、|出陣《しゆつぢん》は|許《ゆる》されない。サア、アキス、カール、|両人《りやうにん》さま、|屈強《くつきやう》な|人間《にんげん》を|選抜《せんばつ》してもらひませう。|猩々先生《しやうじやうせんせい》を|迎《むか》へに|行《ゆ》くのだから、|猩々潔白《しやうじやうけつぱく》の|霊《みたま》をよりぬいて|伴《つ》れて|行《ゆ》くやうにしてもらひませう。それから|潰《つぶ》れかけたボロ|船《ぶね》があれば|一艘《いつそう》つもりをしてもらひたい。こいつア、ヤッコス、ハール、サボールの|人一化九《にんいちばけきう》を|乗《の》せる|船《ふね》だ。アハハハハ』
アキス『そんなボロ|船《ぶね》は|一隻《いつせき》もございませぬよ』
|伊太《いた》『アア|仕方《しかた》がない。|人間《にんげん》の|姿《すがた》をしてゐるのだから、|中《なか》でも|堅牢《けんらう》な|船《ふね》を|選《えら》むで|持《も》つて|行《ゆ》くやうにしてくれ。|一体《いつたい》|猩々《しやうじやう》の|数《かず》は|何人《なんにん》さまほどゐられるのだらうな』
サーベル『ハイ、|三百三十三匹《さんびやくさんじふさんびき》だと|思《おも》つてをります』
|伊太《いた》『なるほど、|猩々潔白《しやうじやうけつぱく》の|身魂《みたま》が|三百三十三人《さんびやくさんじふさんにん》、バラモン、ヤッコスのなまくら|者《もの》のサボール|屋《や》の|人《ひと》の|頭《あたま》をよくハールといふ|人一化九《にんいちばけきう》が|三匹《さんびき》、アキス、カールさま、|抜目《ぬけめ》なく、|至急《しきふ》|用意《ようい》してもらひませう。サアいよいよ|伊太彦《いたひこ》も|三百三十三人《さんびやくさんじふさんにん》ならびに|三匹《さんびき》の|総司令官《そうしれいくわん》となつたのだ、アハハハハ。イヤ|先生《せんせい》、どうも|有難《ありがた》うございます。これが|私《わたし》の|登竜門《とうりようもん》、|出世《しゆつせ》の|門口《かどぐち》、|移民会社《いみんぐわいしや》の|社長《しやちやう》となつて、|大活動《だいくわつどう》をいたします。どうぞ|巧《うま》く|凱旋《がいせん》いたしましたら、|花火《はなび》を|打《う》ち|上《あ》げ、|里人《さとびと》|一同《いちどう》を|浜辺《はまべ》に|整列《せいれつ》させ、|伊太彦《いたひこ》|万歳《ばんざい》を|唱《とな》へて|下《くだ》さいませ。これが|何《なに》より|吾々《われわれ》の|楽《たの》しみでございますから』
サーベル|姫《ひめ》『|伊太彦《いたひこ》の|教《をしへ》の|君《きみ》よ|一時《ひととき》も
|早《はや》く|出《い》でませ|吾《わ》が|子《こ》|迎《むか》ひに』
|伊太彦《いたひこ》『これはまた|不思議《ふしぎ》な|事《こと》を|聞《き》くものだ
|猩々《しやうじやう》の|群《むれ》を|吾《わ》が|子《こ》なりとは』
サーベル|姫《ひめ》『からたまはよし|猩々《しやうじやう》に|生《うま》るとも
|霊《みたま》は|人《ひと》に|変《かは》らざりけり
|今《いま》の|世《よ》の|人《ひと》は|獣《けもの》の|容器《いれもの》よ
|獣《けもの》の|中《なか》に|人《ひと》の|魂《たま》あり』
|玉国別《たまくにわけ》『|面白《おもしろ》しサーベル|姫《ひめ》の|御言葉《おんことば》
|聞《き》くにつけてもうら|恥《は》づかしきかな』
|真純彦《ますみひこ》『|人《ひと》はみな|獣《けもの》の|棲《す》みかとなりはてて
|誠《まこと》の|人《ひと》は|影《かげ》だにもなし
|吾《われ》とても|罪《つみ》に|汚《けが》れし|獣《けだもの》の
|魂《たま》の|棲家《すみか》ぞ|恥《は》づかしき|哉《かな》』
|三千彦《みちひこ》『|恐《おそ》ろしき|八十《やそ》の|曲津《まがつ》の|猛《たけ》る|世《よ》は
|人《ひと》の|身《み》として|立《た》つ|術《すべ》もなき
それゆゑに|人《ひと》の|心《こころ》は|鬼《おに》となり
|大蛇《をろち》となりて|世《よ》を|渡《わた》るなり』
|伊太彦《いたひこ》『これはしたり|三千彦司《みちひこつかさ》の|世迷言《よまいごと》
|神《かみ》の|宮居《みやゐ》を|獣《けだもの》と|宣《の》らすか』
デビス|姫《ひめ》『|背《せ》の|君《きみ》の|宣《の》らせ|玉《たま》ひし|言霊《ことたま》は
|人《ひと》の|皮《かは》|着《き》る|獣《けだもの》のことよ
|伊太彦《いたひこ》の|珍《うづ》の|司《つかさ》は|神様《かみさま》よ
|人《ひと》の|中《なか》なる|人《ひと》の|神《かみ》なり』
|伊太彦《いたひこ》『いざさらばアキス カールよアンチーよ
|用意《ようい》|召《め》されよ|猩々《しやうじやう》の|船《ふね》』
これより|伊太彦《いたひこ》は|夜《よる》も|碌《ろく》に|眠《ねむ》らず、アキス、カール、アンチーを|指揮《しき》し、|船《ふね》に|熟練《なれ》たる|荒男《あらをとこ》を|選抜《せんばつ》し、|船《ふね》をキヨの|港《みなと》やそのほか|附近《ふきん》の|磯辺《いそべ》より|集《あつ》め|来《き》たり、やうやく|二十艘《にじつそう》の|小舟《こぶね》をしつらへ、おのおの|酒樽《さかだる》を|満載《まんさい》し、|猩々《しやうじやう》の|眷族《けんぞく》を|迎《むか》ふべく|夜明《よあ》くる|頃《ころ》までにすべての|準備《じゆんび》を|整《ととの》へた。
(大正一二・四・二 旧二・一七 於皆生温泉浜屋 松村真澄録)
第二〇章 |海竜王《さあがらりうわう》〔一五二〇〕
|猩々《しやうじやう》の|島《しま》へ|渡《わた》るべく  |使命《しめい》を|受《う》けし|伊太彦《いたひこ》は
アキスやカールやアンチーを  |左右《さいう》の|柱《はしら》と|定《さだ》めつつ
|二十《にじふ》の|舟《ふね》に|酒樽《さかだる》を  |半《なか》ばつめこみ|四十人《しじふにん》
|船頭《せんどう》を|選《えら》み|朝《あさ》まだき  |大海原《おほうなばら》を|勇《いさ》ましく
|波《なみ》に|鼓《つづみ》をうたせつつ  |旗鼓堂々《きこだうだう》と|辷《すべ》りゆく
をりから|吹《ふ》き|来《く》る|南風《なんぷう》に  |真帆《まほ》を|掲《かか》げて|驀地《まつしぐら》
|一瀉千里《いつしやせんり》の|勢《いきほ》ひは  |見《み》るも|目覚《めざま》しき|次第《しだい》なり。
アンチーは|船頭頭《せんどうがしら》として、|旗艦《きかん》の|先《さき》に|立《た》ち、
『ここは|名《な》に|負《お》ふキヨメの|湖《うみ》よ
|波《なみ》に|浮《う》かべる|猩々ケ島《しやうじやうがしま》へ
やらるる|此《こ》の|身《み》はいとはねど
|跡《あと》に|残《のこ》りしバーチルさまの
どうして|女房子《にようばうこ》が|永《なが》い|月日《つきひ》を|暮《くら》すやら。
なぜなれば
|人《ひと》の|体《からだ》で|人《ひと》でなし
ぢやとて|神《かみ》ではないほどに
さぞや|皆《みな》さまが|困《こま》るだろ
|案《あん》じすごして|舟《ふね》を|待《ま》つ。
|舟《ふね》を|待《ま》つ|間《ま》の|猩々《しやうじやう》の|姫《ひめ》は
|奥《おく》の|一間《ひとま》でキヤツ キヤツ キヤツと
|怪体《けたい》な|声《こゑ》を|張《は》りあげて
|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》に
|鎮魂帰神《ちんこんきしん》で|責《せ》められる
どうしてその|間《ま》が|暮《く》れるやら』
アキス『|内《うち》の|主人《しゆじん》は|偉《えら》い|人《ひと》  |三年三月《みとせみつき》も|和田中《わだなか》の
|猩々ケ島《しやうじやうがしま》に|現《あら》はれて  お|猿《さる》の|王《わう》をば|妻《つま》となし
|三百余《さんびやくあま》りの|子《こ》を|持《も》つて  |一《ひと》つの|島《しま》の|王《わう》となり
|誰《たれ》|憚《はばか》らず|悠々《いういう》と  |暮《くら》し|玉《たま》うた|猛者《つはもの》ぞ
|玉国別《たまくにわけ》の|神様《かみさま》が  |迎《むか》ひの|舟《ふね》に|乗《の》せられて
アヅモス|山《さん》の|聖場《せいぢやう》に  |帰《かへ》らせ|玉《たま》ひし|今日《けふ》の|日《ひ》は
スマの|神村《かみむら》|勇《いさ》み|立《た》ち  |老若男女《らうにやくなんによ》の|分《わか》ちなく
|呑《の》めよ|騒《さわ》げよと|勇《いさ》み|立《た》つ  たつた|一人《ひとり》のバーチルが
|帰《かへ》つてござつたばつかりに  イヅミの|国《くに》のスマの|里《さと》
|湿《しめ》りがちなる|草村《くさむら》も  |俄《には》かにかわきはしやいで
|夜明《よあけ》の|如《ごと》くなつたぞや  サアこれからはこれからは
アヅモス|山《さん》の|古社《ふるやしろ》  |眷族《けんぞく》さまの|木像《もくざう》を
|刻《きざ》み|直《なほ》して|古《いにしへ》の  |健康体《けんかうたい》に|造《つく》り|替《か》へ
|手《て》が|折《を》れ|足《あし》は|虫《むし》が|喰《く》ひ  |首《くび》までぬけた|負傷者《ふしやうしや》を
|一《ひと》つも|残《のこ》らずアヅモスの  |衛獣病院《ゑいじうびやうゐん》に|担《かつ》ぎこみ
|彫刻医者《てうこくいしや》をば|招《よ》んで|来《き》て  |完全無欠《くわんぜんむけつ》に|修繕《しうぜん》し
|新旧両派《しんきうりやうは》が|睦《むつ》まじく  |一《ひと》つの|宮《みや》に|集《あつ》まつて
|真善美愛《しんぜんびあい》の|実況《じつきやう》を  |現《あら》はし|玉《たま》ふ|世《よ》となつた
その|魁《さきが》けと|吾々《われわれ》は  |肝心要《かんじんかなめ》の|眷族《けんぞく》を
|伊太彦《いたひこ》さまに|従《したが》ひて  |迎《むか》へむために|二十艘《にじつそう》の
|舟《ふね》を|拵《こしら》へ|波《なみ》の|上《うへ》  |真帆《まほ》を|上《あ》げつつ|進《すす》むのだ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|恵《めぐ》みの|深《ふか》くして
|猩々ケ島《しやうじやうがしま》のお|客《きやく》さま  |一人《ひとり》も|残《のこ》さずこの|舟《ふね》に
|収容《しうよう》なして|恙《つつが》なく  アヅモス|山《さん》の|聖場《せいぢやう》に
|帰《かへ》らせ|玉《たま》へと|願《ね》ぎまつる  |旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|猩々ケ島《しやうじやうがしま》に|預《あづ》けたる  バラモン|教《けう》のヤッコスや
ハール サボール|三人《さんにん》は  |助《たす》けてやらないつもりだが
|伊太彦《いたひこ》さまのお|心《こころ》は  |私《わたし》は|計《はか》りかねてゐる
もしもあんな|者《もの》|舟《ふね》に|乗《の》せ  |連《つ》れて|帰《かへ》らうものなれば
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》と|治《をさ》まつた  イヅミの|国《くに》のスマ|里《さと》は
ふたたび|修羅《しゆら》の|八衢《やちまた》と  なるかも|知《し》らぬ|恐《おそ》ろしや
|鬼《おに》や|大蛇《をろち》や|狼《おほかみ》を  |野原《のはら》に|放《はな》ちしごとくだと
|里人《さとびと》たちが|案《あん》じてる  ただ|何事《なにごと》も|吾々《われわれ》の
|考《かんが》へ|通《どほ》りにやゆきませぬ  |皇大神《すめおほかみ》の|御心《みこころ》を
|奉戴《ほうたい》したる|伊太彦《いたひこ》の  |艦長《かんちやう》さまの|思召《おぼしめ》し
ただ|吾々《われわれ》はひたすらに  |従《したが》ひまつるばかりなり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  バラモン|教《けう》の|三人《さんにん》を
|何《なに》とぞスマの|聖場《せいぢやう》へ  |帰《かへ》らぬやうに|頼《たの》みます』
|伊太彦《いたひこ》の|乗《の》つた|舟《ふね》は|一艘《いつそう》|目立《めだ》つて|新《あたら》しく|大《おほ》きい。さうしてアキス、カールの|両人《りやうにん》が|左守右守然《さもりうもりぜん》と|控《ひか》へてゐる。|十九艘《じふくそう》の|船《ふね》を|指揮《しき》してゐるのはアンチーであつた。|各船《かくせん》は|雁列《がんれつ》の|陣《ぢん》を|張《は》つて、|旭《あさひ》の|照《て》り|輝《かがや》く|浪《なみ》の|上《うへ》を、おのおの|舷《ふなばた》を|叩《たた》き、|唄《うた》を|唄《うた》ひ、|鉦《しやう》をすり、|豆太鼓《まめだいこ》を|打《う》ち|鳴《な》らし、|海若《かいじやく》を|驚《おどろ》かしつつ|辷《すべ》つて|行《ゆ》く。|神《かみ》の|守《まも》りか|猩々姫《しやうじやうひめ》の|精霊《せいれい》の|守護《しゆご》か、|二十哩《にじふマイル》|以上《いじやう》の|速力《そくりよく》にて、|矢《や》のごとく|自然《しぜん》に|船《ふね》は|猩々ケ島《しやうじやうがしま》に|向《む》かつて、|船頭《せんどう》の|櫓櫂《ろかい》も|帆《ほ》の|力《ちから》も|何《なん》のものかはと|言《い》はぬばかりに、|帆《ほ》を|逆様《さかさま》に|膨《ふく》らせながら|走《はし》つて|行《ゆ》く。|風《かぜ》は|南《みなみ》から|吹《ふ》いてゐる。どうしても|帆《ほ》は|北《きた》の|方《はう》へ|膨《ふく》れねばならぬ。それにも|拘《かかは》らず、|帆《ほ》は|風《かぜ》の|方向《はうかう》へ|膨《ふく》れてるのを|見《み》ても、その|速力《そくりよく》の|早《はや》きを|伺《うかが》ひ|知《し》ることが|出来《でき》る。
|七八十里《しちはちじふり》の|湖路《うなぢ》を、|早《はや》くも|正午頃《まひるごろ》には|猩々ケ島《しやうじやうがしま》の|岸《きし》に、|一艘《いつそう》の|落伍船《らくごせん》もなく|横着《よこづ》けになつた。よくよく|見《み》れば、|幾丈《いくぢやう》とも|知《し》れぬ|大蛇《をろち》が|猩々島《しやうじやうじま》の|中心《ちうしん》に|屹立《きつりつ》せる|岩山《いはやま》を|取巻《とりま》き、|岩《いは》の|上《うへ》から|大口《おほぐち》をあけ|舌《した》をペロペロ|出《だ》しながら、|猩々《しやうじやう》の|群《むれ》を|一匹《いつぴき》も|残《のこ》さず|呑《の》み|喰《くら》はむとしてゐる|最中《さいちう》である。これはキヨメの|湖《うみ》の|底《そこ》|深《ふか》く|潜《ひそ》んでゐる|海竜《かいりう》で、サァガラ|竜王《りうわう》と|称《とな》へられ、|三年《さんねん》に|一度《いちど》ぐらゐこの|島《しま》に|現《あら》はれて、あらゆる|生物《いきもの》を|食《く》ひ|尽《つく》さむとする|怖《おそ》ろしき|悪竜《あくりう》である。|今《いま》まで|猩々王《しやうじやうわう》がこの|島《しま》に|厳然《げんぜん》として|控《ひか》へてゐたため、さすがのサァガラ|竜王《りうわう》も|上陸《じやうりく》することを|恐《おそ》れてゐたが、|王《わう》が|亡《な》くなつたのを|幸《さいは》ひ、その|死骸《しがい》をただ|一口《ひとくち》に|呑《の》んでしまひ、|勢《いきほ》ひに|乗《じやう》じて|上陸《じやうりく》し、|岩山《いはやま》を|長大《ちやうだい》なる|体《からだ》にて|巻《ま》きつけ、|一匹《いつぴき》も|残《のこ》らず|食《く》ひ|絶《た》やさむとしてゐる|真最中《まつさいちう》なりける。
|猩々《しやうじやう》はキヤツキヤツと|泣《な》き|叫《さけ》び、|磯端《いそばた》に|集《あつ》まり、ヤッコス、ハール、サボールの|側《そば》に|集《あつ》まり|来《き》たつて、かの|悪竜《あくりう》を|退治《たいぢ》し|吾《われ》らの|危難《きなん》を|救《すく》へと、|形容《けいよう》をもつて|歎願《たんぐわん》した。ヤッコスほか|二人《ふたり》も|猩々《しやうじやう》のみか、グヅグヅしてゐては、|自分《じぶん》たちも|共《とも》に|呑《の》まれてしまふのだ。|同《おな》じ|食《く》はれるのなら、|与《あた》ふ|限《かぎ》りの|抵抗《ていかう》をやつてみやうと|覚悟《かくご》を|定《き》め、|何一《なにひと》つ|武器《ぶき》がないので、|磯端《いそばた》の|手頃《てごろ》の|石《いし》を|拾《ひろ》ひ、|竜神《りうじん》の|急所《きふしよ》を|狙《ねら》つて|石礫《いしつぶて》を|投《な》げつける。|三百有余《さんびやくいうよ》の|猩々《しやうじやう》は|三人《さんにん》に|倣《なら》つて、おのおの|石《いし》を|拾《ひろ》ひ、|雨霰《あめあられ》と|打《う》ちつけてゐる。さすがの|竜王《りうわう》も|石礫《いしつぶて》に|辟易《へきえき》し、|岩山《いはやま》を|力《ちから》にグツと|尻尾《しつぽ》をもつて|巻《ま》きかかへながら、|鎌首《かまくび》を|立《た》て、まづ|人間《にんげん》より|呑《の》み|喰《くら》はむと|目《め》を|怒《いか》らし、|隙《すき》を|狙《ねら》つてゐる、その|光景《くわうけい》の|凄《すさ》まじさ。|伊太彦《いたひこ》は|見《み》るより|船《ふね》の|舳《へ》に|立《た》ち|上《あ》がりつつ、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|天《あま》の|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》した。|竜王《りうわう》は|俄《には》かに|身体《しんたい》の|各部《かくぶ》より|煙《けむり》を|吐《は》き|出《だ》し、|一枚一枚《いちまいいちまい》|鱗《うろこ》の|間《あひだ》から|火焔《くわえん》|立《た》ちのぼり、|熱《あつ》さ|苦《くる》しさに|堪《た》へかねてや、|矢《や》にはに|身《み》を|躍《をど》らして、|岩山《いはやま》を|転《ころ》げ|落《お》ちながら、バサリと|音《おと》を|立《た》てて|海中《かいちう》に|飛込《とびこ》むでしまつた。|四辺《あたり》|一里《いちり》ばかりは|忽《たちま》ち|海水《かいすゐ》は|湯《ゆ》のごとく|熱《あつ》くなり、|沢山《たくさん》の|魚《うを》が|白《しろ》、|青《あを》いろいろの|腹《はら》を|水面《すいめん》に|現《あら》はし、ブカブカと|浮《う》き|来《き》たる。
|伊太彦《いたひこ》はまたもや|魚族《ぎよぞく》を|助《たす》けむと|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|称《とな》へた。|漸《やうや》くにして|水《みづ》は|熱《ねつ》|冷《ひ》え、|魚《うを》は|溌溂《はつらつ》として|動《うご》き|出《だ》し、|幾十万《いくじふまん》とも|知《し》れず|磯端《いそばた》に|泳《およ》ぎ|来《き》たり、|伊太彦《いたひこ》に|向《む》かつて|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《あら》はすもののごとく、いづれも|一斉《いつせい》に|首《くび》を|上下《じやうげ》に|振《ふ》りながら|大小無数《だいせうむすう》の|魚族《ぎよぞく》は|一斉《いつせい》に|水中《すいちう》に|姿《すがた》を|隠《かく》しけり。
ヤッコスはじめ|猩々《しやうじやう》の|群《むれ》は|磯端《いそばた》に|立《た》つて|列《れつ》を|造《つく》り、|伊太彦《いたひこ》の|船《ふね》に|向《む》かつて|掌《て》を|合《あは》せ、|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《へう》してゐる。|伊太彦《いたひこ》は|一同《いちどう》に|向《む》かつて|酒樽《さかだる》の|鏡《かがみ》をぬくことを|命《めい》じた。|忽《たちま》ち|酒《さけ》の|匂《にほ》ひは|四辺《あたり》に|漂《ただよ》うた。|猩々《しやうじやう》の|群《むれ》は|先《さき》を|争《あらそ》うて、|吾《わ》が|身《み》の|危険《きけん》を|忘《わす》れ、|二十《にじふ》の|船《ふね》に|思《おも》ひ|思《おも》ひに|飛《と》び|乗《の》つた。|三人《さんにん》の|男《をとこ》も|恐《おそ》る|恐《おそ》る|伊太彦《いたひこ》の|船《ふね》に|飛《と》び|乗《の》り、|両手《りやうて》を|合《あは》せ|涙《なみだ》を|流《なが》して、|感謝《かんしや》の|誠《まこと》を|表《あら》はしゐる。
|伊太《いた》『アンチーさま、モウこれで|猩々潔白《しやうじやうけつぱく》さまはスツカリ|乗船《じやうせん》なされただらうかなア。|一人《ひとり》でも|残《のこ》つてゐるやうな|事《こと》があつては、|帰《かへ》つて|申《まを》し|訳《わけ》がないから、よく|査《しら》べて|下《くだ》さい』
アンチー『ハイたいてい|皆《みな》お|乗《の》りになつたと|思《おも》ひますが、|念《ねん》のためモ|一度《いちど》|査《しら》べてみませうか』
ヤッコス『お|査《しら》べには|及《およ》びませぬ。この|島《しま》の|猩々《しやうじやう》は|決《けつ》して|一人《ひとり》|離《はな》れて|遊《あそ》んだりはいたしませぬ。|暫《しばら》くの|間《あひだ》に|吾々《われわれ》によくなつき、|一緒《いつしよ》に|暮《くら》してをりましたが、|本当《ほんたう》に|友誼《いうぎ》の|厚《あつ》い|動物《どうぶつ》で|親切《しんせつ》なものです。また|一匹《いつぴき》でもゐないやうな|事《こと》があれば、キツと|猩々《しやうじやう》がどんな|場合《ばあひ》でも|探《さが》して|伴《つ》れて|参《まゐ》ります。|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
|伊太《いた》『|島《しま》の|王《わう》が|言《い》ふ|言葉《ことば》にはヨモヤ|間違《まちが》ひはあるまい。サアこれから|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、この|島《しま》に|別《わか》れを|告《つ》げることとせう』
と|言《い》ひながら、|船首《せんしゆ》を|全部《ぜんぶ》|島《しま》の|方《はう》に|向《む》け|直《なほ》し、|伊太彦《いたひこ》が|導師《だうし》の|下《もと》に|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し|了《をは》つて、ふたたび|船首《せんしゆ》を|転《てん》じ、この|度《たび》は|帆《ほ》を|巻《ま》き|下《お》ろし、|波《なみ》のまにまに|海上《かいじやう》を|漕《こ》ぎ|帰《かへ》ることとなつた。
(大正一二・四・三 旧二・一八 於皆生温泉浜屋 松村真澄録)
第二一章 |客々舟《きやつきやぶね》〔一五二一〕
|猩々王《しやうじやうわう》の|肉体《にくたい》の  |亡《ほろ》びし|姿《すがた》を|見《み》るよりも
|海竜王《さあがらりうわう》は|雀踊《こをどり》し  |猩々島《しやうじやうじま》に|駈《か》け|上《のぼ》り
|小猿《こざる》の|群《むれ》をことごとく  |呑《の》み|喰《くら》はむと|蜒々《えんえん》と
|体《からだ》も|太《ふと》く|弥長《いやなが》く  |島《しま》のかための|岩石《がんせき》に
|三周《みまは》り|四周《よまは》り|巻《ま》きつきて  |大《おほ》きな|口《くち》を|開《あ》けながら
|一《ひと》つも|残《のこ》さず|丸呑《まるの》みに  なさむものぞと|控《ひか》へゐる
|数多《あまた》の|猩々《しやうじやう》は|驚《おどろ》いて  |狼狽《うろた》へ|騒《さわ》ぎキヤツキヤツと
|悲鳴《ひめい》をあげてヤッコスや  ハール サボールの|前《まへ》に|寄《よ》り
|救《すく》ひを|乞《こ》へば|三人《さんにん》は  |猩々《しやうじやう》よりか|身《み》の|大事《だいじ》
たとへ|悪竜《あくりう》に|喰《く》はるるも  |能《あた》ふ|限《かぎ》りの|抵抗《ていかう》を
|試《こころ》みその|身《み》の|万一《まんいち》を  |僥倖《げうこう》せむと|磯端《いそばた》の
|石《いし》を|掴《つか》んでバラバラと  |悪竜《あくりう》|目《め》がけて|打《う》ちつける
|三百有余《さんびやくいうよ》の|猩々《しやうじやう》は  |猿《さる》の|人真似《ひとまね》|各自《めいめい》に
|石《いし》を|手《て》にして|投《な》げつける  さすがの|悪竜《あくりう》も|面喰《めんくら》ひ
しばし|躊躇《ためら》ふ|折《を》りもあれ  |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|伊太彦司《いたひこつかさ》が|現《あら》はれて  |天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し
|厳《いづ》の|言霊《ことたま》|一《ひ》|二《ふ》|三《み》|四《よつ》  |五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》
|百千万《ももちよろづ》の|声《こゑ》|共《とも》に  |打《う》ち|出《だ》す|言霊《ことたま》|石《いし》の|玉《たま》
|見《み》る|見《み》る|竜《りう》の|体《からだ》より  |黒煙《こくえん》|濛々《もうもう》|立《た》ち|昇《のぼ》り
|硬《かた》き|鱗《うろこ》の|間《あひだ》より  |紅蓮《ぐれん》の|舌《した》を|吐《は》き|出《い》だし
その|極熱《ごくねつ》にたへかねて  |海竜王《さあがらりうわう》は|岩山《いはやま》を
|下《くだ》りてバツサリ|海中《かいちう》に  |姿《すがた》|隠《かく》せし|嬉《うれ》しさよ
ヤッコス ハール サボールは  ハツと|胸《むね》をば|撫《な》で|下《お》ろし
|伊太彦司《いたひこつかさ》の|率《ひき》ゐたる  |二十《にじふ》の|船《ふね》に|打《う》ち|向《む》かひ
|両手《りやうて》を|合《あは》せて|感涙《かんるゐ》に  |咽《むせ》びかへるぞ|憐《あは》れなれ
|数多《あまた》の|猩々《しやうじやう》は|掌《て》を|合《あは》せ  |伊太彦司《いたひこつかさ》に|打《う》ち|向《む》かひ
キヤツキヤツキヤツと|鬨《とき》の|声《こゑ》  |嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|泣《な》き|叫《さけ》ぶ
たちまち|湖水《こすゐ》は|湧《わ》き|返《かへ》り  |熱湯《ねつとう》のごとくなり|変《かは》り
|大小無数《だいせうむすう》の|鱗族《うろくづ》は  みな|水面《すいめん》にポカポカと
|腹《はら》を|覆《かや》して|浮《うか》びゐる  |伊太彦《いたひこ》これを|憐《あは》れみて
|忽《たちま》ち|天地《てんち》の|大神《おほかみ》に  |向《む》かつて|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》つ|六《む》つ  |七《なな》|八《や》|九《ここの》つ|十《たり》|百《もも》|千《ち》
|万《よろづ》の|声《こゑ》に|千万《ちよろづ》の  |海《うみ》に|浮《うか》びし|鱗族《うろくづ》は
たちまち|元気《げんき》|恢復《くわいふく》し  |溌溂《はつらつ》として|撥《は》ね|廻《まは》り
|一同《いちどう》|首《かうべ》を|並《なら》べつつ  |感謝《かんしや》の|意《い》をば|表《へう》しける
|神《かみ》の|使《つかひ》の|伊太彦《いたひこ》は  |島《しま》に|残《のこ》りし|三人《さんにん》の
|神《かみ》の|御子《みこ》をば|相救《あひすく》ひ  |天王《てんわう》の|森《もり》の|眷族《けんぞく》と
|仕《つか》へまつりし|数百《すうひやく》の  |猩々《しやうじやう》の|命《いのち》を|救済《きうさい》し
|海《うみ》に|浮《うか》べる|鱗族《うろくづ》の  |生命《せいめい》までも|救《すく》ひつつ
|真善美愛《しんぜんびあい》の|神業《しんげふ》を  いと|極端《きよくたん》に|発揮《はつき》して
|心《こころ》も|勇《いさ》む|波《なみ》の|上《うへ》  |天津神《あまつかみ》たち|国津神《くにつかみ》
|三五教《あななひけう》を|守《まも》ります  |百《もも》のエンゼル|神使《かみつかひ》
その|外《ほか》|海《うみ》の|神々《かみがみ》に  |感謝《かんしや》の|祝詞《のりと》を|捧《ささ》げつつ
|科戸《しなど》の|風《かぜ》に|送《おく》られて  |心《こころ》いそいそ|帰《かへ》り|行《ゆ》く
かかる|例《ためし》はあら|尊《たふと》  |天地《あめつち》|開《ひら》けし|初《はじ》めより
またと|世界《せかい》に|荒波《あらなみ》の  |上《うへ》|漕《こ》ぎ|渡《わた》る|神《かみ》の|船《ふね》
|実《げ》にも|目出《めで》たき|次第《しだい》なり  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして  この|物語《ものがたり》|詳細《まつぶさ》に
|水《みづ》も|洩《も》らさずスクスクと  |述《の》べさせ|玉《たま》へと|瑞月《ずゐげつ》が
|畳《たたみ》の|波《なみ》に|浮《うか》びたる  |長方形《ちやうはうけい》の|方舟《はこぶね》に
|横《よこ》たはりつつ|舵《かぢ》をとり  |敷島煙草《しきしまたばこ》のマストより
|歪《ゆが》まぬ|煙《けむり》を|吹《ふ》きながら  |四月《しぐわつ》|三日《みつか》も|【北村】《きたむら》の 北村隆光
|【隆】々《りうりう》|【光】《ひか》る|朝日影《あさひかげ》  |背《せな》に|浴《あ》びつつ|述《の》べて|行《ゆ》く
|伯耆《はうき》の|国《くに》の|米子駅《よなごえき》  |一里半《いちりなかば》を|隔《へだ》てたる
|名《な》さへ|目出《めで》たき|皆生村《かいけむら》  |浜屋旅館《はまやりよくわん》の|二階《にかい》の|間《ま》
|生《い》きた|神代《かみよ》の|引《ひ》きうつし  |処女《しよぢよ》の|著作《ちよさく》の|物語《ものがたり》
|諄々《じゆんじゆん》ここに|述《の》べてゆく  |此《こ》の|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》  ただ|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞《き》き|直《なほ》せ  |身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》す
|三五教《あななひけう》の|大御神《おほみかみ》  |三十万年《さんじふまんねん》|末《すゑ》の|世《よ》に
|生《うま》れ|出《い》でたる|瑞月《ずゐげつ》が  |雲霧《くもきり》|分《わ》けて|朦《おぼろ》げに
|宣《の》べ|伝《つた》へゆく|物語《ものがたり》  |脱線誤謬《だつせんごびう》は|多《おほ》くとも
|広《ひろ》き|心《こころ》に|宣《の》り|直《なほ》し  |許《ゆる》させ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|神《かみ》のまにまに|述《の》べ|進《すす》む  そも|瑞月《ずゐげつ》が|此《こ》の|里《さと》に
|一行《いつかう》|五人《ごにん》|来《き》たりしゆ  |例《ためし》もあらぬ|豊漁《ほうれふ》と
|里《さと》の|男女《なんによ》が|囁《ささや》くを  |聞《き》くともなしに|聞《き》きをれば
|大本教《おほもとけう》の|神様《かみさま》が  この|地《ち》に|来《き》たりませしより
この|神徳《しんとく》を|村人《むらびと》が  |頂《いただ》きたりと|口々《くちぐち》に
|語《かた》りゐるこそ|床《ゆか》しけれ  |日本海《につぽんかい》に|連《つら》なりし
|夜見《よみ》の|浜辺《はまべ》の|波《なみ》|清《きよ》く  |日本国《につぽんごく》の|要《かなめ》ぞと
|海底《かいてい》|深《ふか》く|湧《わ》き|出《い》でし  |簸野川上《ひのかはかみ》の|大山《だいせん》は
|清《きよ》き|姿《すがた》を|天空《てんくう》に  |雪《ゆき》の|衣《ころも》を|被《かぶ》りつつ
|海《うみ》を|覗《のぞ》いた|水鏡《みづかがみ》  |天《てん》も|清浄《しやうじやう》|地《ち》も|清浄《しやうじやう》
|松《まつ》の|林《はやし》も|海水《かいすゐ》も  |人《ひと》の|身魂《みたま》の|六根《ろくこん》も
みな|清浄《しやうじやう》と|清《きよ》めつつ  |猩々島《しやうじやうじま》の|物語《ものがたり》
|心《こころ》|勇《いさ》みて|宣《の》り|伝《つた》ふ  |波《なみ》は|太平《たいへい》の|鼓《つづみ》うち
|清《きよ》めの|湖《うみ》は|塵《ちり》もなく  |竜宮海《りうぐうかい》の|乙姫《おとひめ》が
|数多《あまた》の|魚族《ぎよぞく》に|送《おく》らせつ  |方舟《はこぶね》ならぬ|猩々舟《しやうじやうぶね》
|幾百万《いくひやくまん》とも|限《かぎ》りなく  |大小無数《だいせうむすう》の|鱗族《うろくづ》が
ピンピンシヤンシヤン|撥《は》ねながら  |神船《みふね》を|押《お》して|進《すす》み|行《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
|伊太彦《いたひこ》は|声《こゑ》も|清《きよ》らかに|歌《うた》ふ。|猩々《しやうじやう》は|声《こゑ》を|揃《そろ》へて|拍子《ひやうし》をとる。
『|天津御空《あまつみそら》の|影《かげ》|映《うつ》す  |塵《ちり》もとどめぬキヨの|湖《うみ》
|二十《にじふ》の|船《ふね》を|相並《あひなら》べ  |猩々《しやうじやう》の|島《しま》に|立《た》ち|向《む》かひ
|天王《てんのう》の|森《もり》の|眷族《けんぞく》を  |三百三十三人《さんびやくさんじふさんにん》と
|人一化九《にんいちばけきう》の|三人《さんにん》を  やうやく|救《すく》ひ|帰《かへ》り|行《ゆ》く
キヤツキヤツキヤツキヤツ キヤツキヤツキヤツ  ドンドコ ドンドコ ドコドコドン
|波《なみ》も|静《しづ》かに|治《をさ》まりて  |一直線《いつちよくせん》に|水平《すゐへい》の
|上《うへ》|辷《すべ》り|行《ゆ》くこの|船《ふね》は  |天津御国《あまつみくに》の|助《たす》け|舟《ぶね》
|処女《しよぢよ》の|航路《かうろ》に|猩々隊《しやうじやうたい》  |二十《にじふ》の|船《ふね》に|満載《まんさい》し
|酒《さけ》の|鏡《かがみ》を|抜《ぬ》き|放《はな》ち  |勝手《かつて》|次第《しだい》に|飲《の》みながら
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》の|光景《くわうけい》を  |今《いま》|目《ま》のあたり|眺《なが》めつつ
|人《ひと》も|獣《けもの》も|化物《ばけもの》も  |喜《よろこ》び|勇《いさ》む|今日《けふ》の|空《そら》
|実《げ》にも|目出《めで》たき|次第《しだい》なり  キヤツキヤツキヤツキヤツ キヤツキヤツキヤツ
ドンドコ ドンドコ ドコドコドン  |三五教《あななひけう》に|仕《つか》へてゆ
この|伊太彦《いたひこ》は|行先《ゆくさき》で  |瓢軽者《へうきんもの》だ|狼狽者《あわてもの》
|出洒張者《でしやばりもの》と|笑《わら》はれて  |玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》に
|軽蔑《けいべつ》されてゐたけれど  |誰《たれ》|憚《はばか》らぬ|今日《けふ》こそは
|一人舞台《ひとりぶたい》の|艦長《かんちやう》さま  |何《なに》ほど|大《おほ》きいといつたとて
|牛《うし》の|尻尾《しつぽ》になるよりも  |鶏《とり》の|頭《あたま》になるがよい
|凱旋将軍《がいせんしやうぐん》|伊太彦《いたひこ》が  この|武者振《むしやぶ》りを|逸早《いちはや》く
|吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》や|真純彦《ますみひこ》  |三千彦《みちひこ》|夫婦《ふうふ》に|知《し》らせたい
アア|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや  |今日《けふ》は|天地《てんち》も|殊更《ことさら》に
|清《きよ》く|涼《すず》しく|広《ひろ》く|見《み》ゆ  キヤツキヤツキヤツキヤツ キヤツキヤツキヤツ
ドンドコ ドンドコ ドコドコドン  |人《ひと》には|一度《いちど》は|添《そ》うて|見《み》よ
|馬《うま》には|必《かなら》ず|乗《の》つてみよ  |何処《どこ》のいづくにどんな|人《ひと》が
|隠《かく》してあるか|知《し》れないと  |三五教《あななひけう》の|筆先《ふでさき》に
|明瞭《はつき》り|現《あら》はれをりまする  |誰様《どなた》の|事《こと》かと|思《おも》うたら
|一行《いつかう》の|中《なか》の|沓取《くつとり》と  |自分《じぶん》でさへも|信《しん》じたる
この|伊太彦《いたひこ》のことだつた  |真純《ますみ》の|彦《ひこ》や|三千彦《みちひこ》が
|何《なに》ほど|偉《えら》いといつたとて  |三百有余《さんびやくいうよ》の|団体《だんたい》の
|頭《かしら》となつて|権力《けんりよく》を  |振《ふ》り|廻《まは》したる|事《こと》はない
|俺《おれ》の|身魂《みたま》は|何《なん》として  |清浄《しやうじやう》のものであつただろ
キヤツキヤツキヤツキヤツ キヤツキヤツキヤツ  ドンドコ ドンドコ ドコドコドン
いや|待《ま》てしばし|待《ま》てしばし  |三百人《さんびやくにん》の|頭《かしら》ぢやと
|何《なに》ほどメートル|上《あ》げたとて  あンな|顔《かほ》した|人間《にんげん》を
|統率《とうそつ》したとて|偉《えら》さうに  |威張《ゐば》れた|道理《だうり》ぢやないほどに
|人《ひと》の|面《つら》した|奴《やつ》ならば  |乞食《こじき》でも|泥棒《どろばう》でもかまやせぬ
|頭《かしら》になつたら|面白《おもしろ》い  ちよつと|此奴《こいつ》は|閉口《へいこう》だ
とはいふものの|魂《たましひ》は  やつぱり|人《ひと》に|優《すぐ》れたる
|猩々《しやうじやう》さまといふからは  チツとは|誇《ほこ》つてもよいだらう
こんな|事《こと》まで|考《かんが》へりや  にはかに|力《ちから》が|落《お》ちて|来《き》た
|大《おほ》きな|顔《かほ》してベラベラと  |誇《ほこ》るわけにはゆくまいぞ
|玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》が  |汝《なれ》が|身魂《みたま》の|相応《さうおう》ぢやと
|選《え》りて|迎《むか》へにやつたぞと  もしも|一言《ひとこと》|仰有《おつしや》らば
それこそサツパリ|水《みづ》の|泡《あわ》  |真純《ますみ》の|彦《ひこ》や|三千彦《みちひこ》や
デビスの|姫《ひめ》に|殊更《ことさら》に  |馬鹿《ばか》にされるに|違《ちが》ひない
|思《おも》へば|思《おも》へば|阿呆《あほ》らしや  |阿呆《あほ》といはれる|悲《かな》しさに
せめてはマストを|裸《はだか》にし  |阿帆《あほ》の|帆《ほ》をば|巻《ま》き|下《お》ろし
|腕《うで》の|力《ちから》で|漕《こ》ぎ|帰《かへ》る  |俺《おれ》の|勇気《ゆうき》はこんなもの
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》のまにまに|任《まか》します
キヤツキヤツキヤツキヤツ キヤツキヤツキヤツ  ドンドコ ドンドコ ドコドコドン。
(|都々逸調《どどいつてう》)|浪《なみ》も|静《しづ》まるキヨメの|湖《うみ》に
|瑞《みづ》の|御魂《みたま》の|水鏡《みづかがみ》
|水鏡《みづかがみ》チヨイと|覗《のぞ》けばアラ|不思議《ふしぎ》
|俺《おれ》の|面《つら》まで|皺《しわ》が|寄《よ》る
そのはずぢや|波《なみ》の|上《うへ》|漕《こ》ぐこの|船《ふね》は
|板《いた》と|板《いた》との|継《つ》ぎ|合《あは》せ
|年並《としな》みも|寄《よ》らぬ|姿《すがた》に|波《なみ》が|打《う》つ
|人並《ひとな》み|勝《すぐ》れた|吾《わ》がちから』
と|歌《うた》ひながら、|長柄《ながえ》の|杓《しやく》で|酒《さけ》をグイグイひつかけつつ、|数万《すうまん》の|魚族《ぎよぞく》に|送《おく》られて|南《みなみ》をさして|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・四・三 旧二・一八 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第二二章 |五葉松《ごえふまつ》〔一五二二〕
|伊太彦司《いたひこつかさ》に|従《したが》ひて  |猩々迎《しやうじやうむか》ひの|副官《ふくくわん》と
|選《えら》み|出《だ》されたアンチーは  |船頭《せんとう》に|立《た》ちて|勇《いさ》ましく
|凱旋歌《がいせんか》をば|歌《うた》ひ|出《だ》す  |数多《あまた》の|猩々《しやうじやう》は|勇《いさ》み|立《た》ち
|一声一声《ひとこゑひとこゑ》|手《て》を|拍《う》つて  キヤツキヤツキヤツとなきながら
|拍子《ひやうし》を|取《と》るぞ|面白《おもしろ》き。
アンチーは|歌《うた》ひはじめた。その|歌《うた》
『|猩々《しやうじやう》の|島《しま》に|来《き》て|見《み》れば  この|湖《みづうみ》の|底《そこ》|深《ふか》く
|潜《ひそ》みし|海竜王《さあがらりうわう》が  |猩々王《しやうじやうわう》の|帰幽《きいう》をば
|見済《みすま》し|海《うみ》より|躍《をど》り|出《い》で  |島《しま》の|固《かた》めと|聞《き》こえたる
|大岩山《おほいはやま》に|蟠《わだか》まり  |長《なが》い|首《くび》をば|垂《た》れ|下《お》ろし
|大《おほ》きな|口《くち》をパツとあけ  |毒焔《どくえん》|吐《は》いてこの|島《しま》に
|集《あつ》まりゐたる|猩々《しやうじやう》を  ただ|一匹《いつぴき》も|残《のこ》さずに
|丸呑《まるの》みなして|吾《わ》が|腹《はら》を  |肥《こ》やさむとする|怖《おそ》ろしさ
かかるところへ|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|使《つかひ》の|伊太彦《いたひこ》が
|二十《にじふ》の|船《ふね》を|引《ひ》きつれて  |現《あら》はれ|給《たま》ひ|数歌《かずうた》を
|声《こゑ》も|涼《すず》しく|宣《の》りつれば  さすがの|海竜王《さあがらりうわう》も
|進退《しんたい》ここに|谷《きは》まりて  |体《からだ》|一面《いちめん》|焦熱《せうねつ》の
|悩《なや》みにたへずペラペラと  |紅蓮《ぐれん》の|舌《した》を|吐《は》き|出《い》だし
グレングレンとのた|打《う》つて  |苦《くる》しみ|悶《もだ》へ|湖原《うなばら》に
|落《お》ち|込《こ》み|逃《のが》れし|可笑《をか》しさよ  キヤツキヤツキヤツキヤツ キヤツキヤツキヤツ
ドンドコ ドンドコ ドコドコドン  バーチルさまと|諸共《もろとも》に
|湖水《こすゐ》の|魚《うを》を|漁《あさ》らむと  |三年前《さんねんまへ》に|館《やかた》をば
そつと|抜《ぬ》け|出《だ》し|怖《おそ》ろしき  |大海風《だいかいふう》に|出会《でつくは》して
|船《ふね》もろともに|水中《すゐちう》に  |沈《しづ》みて|苦《くる》しみ|悶《もだ》へつつ
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|救《すく》はれし  |事《こと》を|思《おも》へば|今《いま》は|早《はや》
|地獄《ぢごく》を|出《い》でて|天国《てんごく》に  |登《のぼ》りし|如《ごと》き|心地《ここち》なり
キヤツキヤツキヤツキヤツ キヤツキヤツキヤツ  ドンドコ ドンドコ ドコドコドン
|呑《の》めよ|呑《の》め|呑《の》めどつさり|飲《の》めよ  |二十戸前《にじつとまへ》の|酒《さけ》の|倉《くら》
|蓄《たくは》へおいたこの|酒《さけ》は  |猩々《しやうじやう》さまに|飲《の》ますため
バーチルさまはお|前《まへ》らの  |身魂《みたま》の|親《おや》であるほどに
|猩々姫《しやうじやうひめ》はお|屋敷《やしき》の  サーベル|姫《ひめ》に|憑依《のりうつ》り
|二重生活《にぢゆうせいくわつ》してござる  |三百三十三人《さんびやくさんじふさんにん》の
|猩々無垢《しやうじやうむく》のお|客《きやく》さま  |決《けつ》して|心配《しんぱい》いりませぬ
お|前《まへ》の|父《ちち》と|母《はは》さまの  |常磐堅磐《ときはかきは》に|現《あ》れませる
アヅモス|山《さん》の|南麓《なんろく》の  |広《ひろ》き|館《やかた》に|帰《かへ》るのだ
|悦《よろこ》び|勇《いさ》め|猩々《しやうじやう》よ  キヤツキヤツキヤツキヤツ キヤツキヤツキヤツ
ドンドコ ドンドコ ドコドコドン  これだけ|沢山《たくさん》|船客《せんきやく》が
あつても|人語《じんご》を|発《はつ》せない  キヤツキヤ|連中《れんちう》ばつかりで
|何《なん》だか|気乗《きの》りがいたさない  さはさりながら|天地《あめつち》の
|間《あひだ》に|生《い》きとし|生《い》けるもの  |何《いづ》れも|神《かみ》の|分《わ》け|御霊《みたま》
|言葉《ことば》かよはぬ|外国《ぐわいこく》の  |人《ひと》を|乗《の》せたと|諦《あきら》めりや
それで|心《こころ》は|済《す》むなれど  |頭《あたま》の|多《おほ》い|割合《わりあひ》に
|話《はなし》の|相手《あひて》がやつと|無《な》い  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|常夜《とこよ》の|闇《やみ》の|現世《うつしよ》は  |万《よろづ》の|曲《まが》のさやぎたて
|岩《いは》の|根《ね》|木《き》の|根《ね》も|立《た》ち|騒《さわ》ぎ  |草《くさ》の|片葉《かきは》も|言問《ことと》ひて
|普通選挙《ふつうせんきよ》ぢや|社会主義《しやくわいしゆぎ》  |四民平等《しみんべうどう》なにかにと
|騒《さわ》ぎ|廻《まは》つて|治《をさ》まらぬ  その|惨状《さんじやう》に|比《くら》ぶれば
キヤツキヤツキヤツキヤツといふばかり  |自分《じぶん》の|意見《いけん》を|主張《しゆちやう》せぬ
お|方《かた》の|制統《せいとう》は|易《やす》いもの  キヤツキヤツキヤツキヤツ キヤツキヤツキヤツ
ドンドコ ドンドコ ドコドコドン  |三五教《あななひけう》の|筆先《ふでさき》に
|誠《まこと》の|神徳《しんとく》|備《そな》はらば  |人《ひと》は|黙《だま》つて|俯《うつ》むいて
|小理窟《こりくつ》いはず|神徳《しんとく》を  |頂《いただ》くものだというてある
これを|思《おも》へば|猩々《しやうじやう》さま  |天地《てんち》の|神《かみ》の|御恵《みめぐ》みを
|霊《みたま》に|受《う》けてござるのか  ほんに|秩序《ちつじよ》の|整《ととの》うた
|猩々《しやうじやう》の|群《むれ》を|眺《なが》むれば  |人間界《にんげんかい》が|嫌《いや》になる
|人間《にんげん》なればよいけれど  |人《ひと》の|皮《かは》|被《き》る|狼《おほかみ》や
|狐《きつね》|狸《たぬき》の|化物《ばけもの》と  |暮《くら》してをるかと|思《おも》うたら
ほんに|怖《おそ》ろしうなつて|来《き》た  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》  |天《てん》はいつまで|物《もの》いはず
|地《ち》はどこまでも|言問《ことと》はぬ  |人《ひと》は|天地《てんち》に|神倣《かむなら》ひ
|下《くだ》らぬ|事《こと》を|喋舌《しやべ》るより  |心《こころ》に|神徳《しんとく》いただいて
いつも|確《しつか》り|口《くち》をつめ  |人《ひと》の|譏《そし》りや|蔭言《かげごと》を
|決《けつ》して|言《い》ふべきものでない  |言《い》はぬは|言《い》ふにいや|勝《まさ》る
|言葉《ことば》を|知《し》らぬ|猩々《しやうじやう》も  やつぱり|天地《てんち》の|御恵《みめぐ》みで
|生活《せいくわつ》するを|窺《うかが》へば  |言葉《ことば》の|必要《ひつえう》は|無《な》いだらう
|神《かみ》の|玉《たま》ひし|真善美《しんぜんび》  |善言美詞《みやびことば》を|外《ほか》にして
|人《ひと》を|怒《いか》らせ|恨《うら》ませる  |礼《いや》|無《な》き|言葉《ことば》は|言《い》はぬもの
|猩々《しやうじやう》さまがよい|鑑《かがみ》  ほんとに|感《かん》じ|入《い》りました
キヤツキヤツキヤツキヤツ キヤツキヤツキヤツ  ドンドコ ドンドコ ドコドコドン
|私《わたし》もこれからスマの|里《さと》  |無事《ぶじ》に|帰《かへ》つたことならば
|生《うま》れ|赤子《あかご》になりかはり  |無言《むごん》の|行《ぎやう》をいたしませう
アア|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや  |浪《なみ》もをさまる|湖《うみ》の|上《うへ》
|風《かぜ》も|涼《すず》しき|湖《うみ》の|上《うへ》  |百鳥《ひやくてう》|翼《つばさ》を|打《う》ち|拡《ひろ》げ
いと|楽《たの》しげに|舞《ま》ひ|遊《あそ》ぶ  |神《かみ》の|御国《みくに》か|海《うみ》の|上《うへ》
|大小無数《だいせうむすう》の|魚族《うろくづ》は  |吾《われ》らの|船《ふね》を|送《おく》りつつ
ピンピンシヤンシヤン|跳《は》ね|廻《まは》り  |無事泰平《ぶじたいへい》を|祝《ことほ》ぎて
|吾《われ》らの|一行《いつかう》を|送《おく》るなり  ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|有難《ありがた》き  キヤツキヤツキヤツキヤツ キヤツキヤツキヤツ
ドンドコ ドンドコ ドコドコドン』
|物《もの》はいふまい|物《もの》いふたゆゑに
|父《ちち》は|長良《ながら》の|人柱《ひとばしら》
|雉《きじ》も|鳴《な》かねば|打《う》たりよまい
|歌《うた》を|歌《うた》ふなら|快《こころよ》く|歌《うた》へ
|歌《うた》は|天地《てんち》の|神《かみ》の|声《こゑ》
|船《ふね》を|並《なら》べて|猩々ケ島《しやうじやうがしま》に
|進《すす》むアンチーの|身《み》の|冥加《みやうが》
|五十九《ごじふく》の|巻《まき》|真善美愛《しんぜんびあい》
|猩々潔白物語《しやうじやうけつぱくものがた》り
|霊界《れいかい》のありのままをば|委細《まつぶさ》に
|説《と》いて|教《をしへ》ゆる|神《かみ》の|教《のり》
|物《もの》|言《い》はにや|遠《とほ》き|神世《かみよ》の|有様《ありさま》を
|今《いま》の|世人《よびと》に|知《し》らされぬ
|加藤《かとう》|明子《はるこ》|口《くち》を|尖《とが》らし|万年筆《まんねんひつ》の
|首筋《くびすぢ》|掴《つか》むでかきなぐる
|大山《だいせん》の|雪《ゆき》の|衣《ころも》をはぎながら
|高麗《から》の|峰《みね》をば|瞰下《かんか》する
|一点《いつてん》の|曇《くも》りさへなき|弥生空《やよひぞら》
|船《ふね》に|臥《ふ》しつつ|空《そら》を|行《ゆ》く
|方舟《はこぶね》は|口述台《こうじゆつだい》の|又《また》の|御名《みな》
|床《とこ》に|飾《かざ》りし|五葉《ごよ》の|松《まつ》
|千年《せんねん》の|齢《よはひ》|保《たも》てる|五葉《ごよ》の|松《まつ》
|万年筆《まんねんひつ》の|針《はり》のやうに
|五《いつ》の|御霊《みたま》の|葉《は》も|茂《しげ》る
(大正一二・四・三 旧二・一八 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
(昭和九・一二・一 王仁校正)
第二三章 |鳩首《きうしゆ》〔一五二三〕
ヤッコス、ハール、サボールの|三人《さんにん》は、|伊太彦丸《いたひこまる》の|片隅《かたすみ》に|小《ちひ》さくなつて|不安《ふあん》の|面《つら》をさらしながら、コソコソ|密談《みつだん》をやつてゐる。
ヤッコス『オイ|両人《りやうにん》、こいつアちつと|怪《あや》しいぞ。|俺《おれ》たちを|置去《おきざ》りにして|行《ゆ》きやがつた|宣伝使《せんでんし》の|片《かた》われ|伊太彦《いたひこ》が|大将《たいしやう》になつて、これだけ|沢山《たくさん》の|船《ふね》をこしらへ、|猩々《しやうじやう》の|一族《いちぞく》を|引率《ひきつ》れ|帰《かへ》るについては、|何《なに》か|深《ふか》い|企《たく》みがあるに|違《ちが》ひない。|猩々《しやうじやう》の|前《まへ》で、|俺《おれ》たちを|一《ひと》つ|掻《か》きむしる|真似《まね》でもせうものなら、あれだけの|猩々《しやうじやう》が|一所《ひととこ》へ|固《かた》まつて|来《き》て、|真似《まね》の|上手《じやうず》な|奴《やつ》だから|掻《か》きむしり、|結局《しまひ》にや|一《ひと》つよりない|命《いのち》まで|取《と》つてしまふかも|分《わか》らぬぢやないか。これを|思《おも》へば|俺《おれ》はモウ|酒《さけ》を|呑《の》む|気《き》にもなれない、|汝《きさま》らどう|思《おも》ふか』
ハール『ナアニ、|三五教《あななひけう》は|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》、|博愛主義《はくあいしゆぎ》だと|聞《き》いてるから、|俺《おれ》たち|三人《さんにん》ぐらゐ|殺《ころ》したところで、|世界《せかい》の|米《こめ》が|安《やす》うなるといふわけもなし、|悪魔《あくま》が|根絶《こんぜつ》するといふ|道理《だうり》もないから、|滅多《めつた》にそんなこたアいたすまい。マア|安心《あんしん》したがよからうぞ。|俺《おれ》は|何《なん》だか|助《たす》けてくれるやうな|気《き》がするのだ』
サボール『イヤ、さう|安心《あんしん》もできまい。どつかの|磯端《いそばた》へ|伴《つ》れて|行《い》つて|猿攻《さるぜ》めに|会《あ》はすつもりだらう。|三五教《あななひけう》といふ|奴《やつ》ア、ズルイから、|自分《じぶん》が|手《て》を|下《くだ》して|人《ひと》を|殺《ころ》せば|天則違反《てんそくゐはん》になるのを|虞《おそ》れて、|猿公《えてこう》の|手《て》をかり、|俺《おれ》たち|三人《さんにん》をバラモンとやるつもりだらう。|一層《いつそう》のこと、|今《いま》の|内《うち》に|先《さき》んずれば|人《ひと》を|制《せい》すだ。|伊太彦《いたひこ》の|素《そ》ツ|首《くび》を|捻《ね》ぢ|切《き》つてやらうでないか。さうすれば|猿《さる》の|奴《やつ》|真似《まね》しやがつて、どの|船《ふね》もこの|船《ふね》も|船頭《せんどう》の|首《くび》を|捻《ね》ぢ|切《き》るだらう。|猩々《しやうじやう》は|何《なん》といつても|俺《おれ》たちとたとへ|三日《みつか》でも|同棲《どうせい》してゐた|馴染《なじみ》もある。また|大蛇《をろち》に|呑《の》まれかけた|時《とき》に|応援《おうゑん》もやつたし、|恩《おん》を|知《し》つてる|獣《けだもの》だから、|俺《おれ》たちの|危難《きなん》を|見《み》て|救《すく》はぬといふ|道理《だうり》がない。しかし|猿《さる》といふ|奴《やつ》、|先《さき》にやつた|者《もの》の|真似《まね》をするのだから、|遅《おく》れた|方《はう》が|敗《まけ》だ、|一《ひと》つ|決行《けつかう》せうぢやないか』
ヤッコス『まてまて、|伊太彦《いたひこ》|一人《ひとり》ぢやない、この|船《ふね》にはアンチーといふ|力強《ちからづよ》が|乗《の》つてゐるから、ウツカリ|手出《てだ》しをせうものなら、それこそ|窮鼠《きうそ》かへつて|猫《ねこ》を|咬《か》むやうな|破目《はめ》になるかも|知《し》れぬ。|何《なん》とかかとかいつて、|沢山《どつさり》|酒《さけ》を|呑《の》ませ|機嫌《きげん》を|取《と》つて|酔《よ》ひ|潰《つぶ》し、|寝鳥《ねとり》の|首《くび》を|締《し》めるやうに|甘《うま》くそこはやらかそぢやないか』
ハール『お|前《まへ》たち|両人《りやうにん》はどこまでも|人《ひと》を|疑《うたが》ふのか。|疑心暗鬼《ぎしんあんき》といつて、|自分《じぶん》の|心《こころ》の|鬼《おに》が|自分《じぶん》を|責《せ》めるのだ。|何《なに》ほど|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》だとて、おとなしい|者《もの》を|苦《くる》しめるこたア|出来《でき》ぬからのう。マアそんな|取越苦労《とりこしくらう》をするよりも、|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》を|御祈願《ごきぐわん》した|方《はう》が|安全《あんぜん》かも|知《し》れぬぞ』
ヤッコス『あ、ともかく|俺《おれ》は|険難《けんのん》でたまらない。しかしながらサボールの|言《い》つた|通《とほ》り、|一方《いつぱう》は|神力無双《しんりきむさう》の|宣伝使《せんでんし》、|一方《いつぱう》は|力強《ちからづよ》だから、|先《ま》づうまく|機嫌《きげん》を|取《と》り|酒《さけ》に|酔《よ》ひつぶし、その|上《うへ》|決行《けつかう》しよう。それが|最良《さいりやう》の|手段《しゆだん》|方法《はうはふ》だ。オイ、サボール、|汝《きさま》|常《つね》から|声自慢《こゑじまん》だから、|一《ひと》つ|慄《ふる》ひつくやうな|美声《びせい》を|出《だ》して|唄《うた》つてみよ。さうすりやキツと|伊太彦《いたひこ》が|気《き》を|許《ゆる》すに|違《ちが》ひない』
サボールは|首《くび》を|三《み》つ|四《よ》つ|縦《たて》にしやくりながら、|細《ほそ》い|涼《すず》しい|声《こゑ》で、|船《ふね》の|隅《すみ》の|方《はう》から|唄《うた》ひ|出《だ》したり。
『|三千世界《さんぜんせかい》の|世《よ》の|中《なか》に  |尊《たふと》いものが|四《よつ》つある
|第一番《だいいちばん》に|尊《たふと》きは  |豊栄《とよさか》|昇《のぼ》るお|日《ひ》イ|様《さま》
|次《つぎ》には|夜《よる》を|守《まも》ります  |円満清朗《ゑんまんせいらう》のお|月様《つきさま》
|大地《だいち》を|造《つく》り|固《かた》めたる  |三五教《あななひけう》の|守《まも》り|神《がみ》
|大国常立大御神《おほくにとこたちおほみかみ》  この|神様《かみさま》の|御恵《みめぐ》みで
|梵天《ぼんてん》|帝釈《たいしやく》|自在天《じざいてん》  |大国彦《おほくにひこ》の|神様《かみさま》も
|此《こ》の|世《よ》に|生《い》きてござるのだ  モ|一《ひと》つ|尊《たふと》い|御方《おんかた》は
|三五教《あななひけう》で|名《な》も|高《たか》き  この|船《ふね》|守《まも》る|伊太彦司《いたひこつかさ》
こんな|尊《たふと》い|御方《おんかた》と  |一《ひと》つの|船《ふね》に|乗《の》せられて
|鏡《かがみ》のやうな|海原《うなばら》を  |帰《かへ》つて|行《ゆ》く|身《み》は|有難《ありがた》い
|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|神様《かみさま》は  |禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》の|隔《へだ》てなく
|皆《みな》それぞれに|生命《せいめい》を  |一日《いちにち》なりと|永《なが》かれと
|守《まも》らせ|玉《たま》ふぞ|有難《ありがた》き  まして|天地《てんち》の|神様《かみさま》の
|大経綸《だいけいりん》に|仕《つか》ふべき  |神《かみ》の|鎮《しづ》まる|生宮《いきみや》を
|憐《あは》れみ|玉《たま》はぬことやある  モシ|神様《かみさま》が|人間《にんげん》を
たとへ|猩々《しやうじやう》の|手《て》を|借《か》つて  |悩《なや》め|玉《たま》ひし|事《こと》あるも
ヤツパリ|愛《あい》の|本体《ほんたい》が  |根本的《こんぽんてき》に|崩解《ほうかい》し
|神《かみ》の|資格《しかく》がゼロとなる  こんなみやすい|道理《だうり》をば
|悟《さと》らせ|玉《たま》はぬことあろか  かくも|仁慈《じんじ》の|神様《かみさま》に
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|赤心《まごころ》を  |捧《ささ》げて|仕《つか》へ|奉《まつ》ります
|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》  |中《なか》にもわけて|美《うるは》しき
|身魂《みたま》を|持《も》たせ|玉《たま》ひたる  |伊太彦司《いたひこつかさ》は|神様《かみさま》の
|珍《うづ》の|化身《けしん》と|人《ひと》がいふ  こんな|尊《たふと》い|神人《しんじん》に
|守《まも》られ|帰《かへ》る|吾々《われわれ》は  |大舟《おほぶね》に|乗《の》つた|心地《ここち》して
|先《さき》の|事《こと》をば|案《あん》じずに  |結構《けつこう》なお|神酒《みき》を|頂《いただ》いて
|猩々《しやうじやう》さまの|御伴《おんとも》を  さしてもらふが|宜《よ》からうぞ
これこれモウシ|宣伝使《せんでんし》  |三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》の
|深《ふか》き|恵《めぐ》みに|絆《ほだ》されて  あなたの|顔《かほ》を|見《み》るにつけ
|高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》の  |天人《てんにん》のやうに|思《おも》ひます
これを|思《おも》へばバラモンの  |教《をしへ》を|守《まも》る|神《かみ》さまは
|月《つき》とスツポン|雲《くも》と|泥《どろ》  |天地《てんち》のけじめがあるやうに
|何《なん》だか|思《おも》へてなりませぬ  これから|素張《すつぱ》りバラモンの
|教《をしへ》を|捨《す》てて|三五《あななひ》の  |誠《まこと》の|信徒《しんと》となりまする
スパイの|役《やく》を|勤《つと》めたり  |片商売《かたしやうばい》に|海賊《かいぞく》を
やつて|来《き》ました|吾々《われわれ》は  |心《こころ》の|底《そこ》から|悔悟《くわいご》して
あなたのお|弟子《でし》になりまする  |何《なに》ほど|罪《つみ》があるとても
|天地《てんち》の|神《かみ》の|御心《みこころ》を  |思《おも》ひ|出《だ》されて|吾々《われわれ》を
|必《かなら》ず|殺《ころ》して|下《くだ》さるな  もはや|私《わたし》は|悪神《あくがみ》の
|影《かげ》さへとめぬ【みづ】|御霊《みたま》  |鏡《かがみ》のごとき|魂《たましひ》と
にはかに|研《みが》き|上《あ》げました  あなたの|清《きよ》き|魂《たましひ》で
|私《わたし》の|心《こころ》の|奥底《おくそこ》を  |隅《すみ》から|隅《すみ》まで|透視《とうし》して
|疑《うたが》ひ|晴《は》らし|三人《さんにん》を  なにとぞお|助《たす》け|下《くだ》されや
|梵天《ぼんてん》|帝釈《たいしやく》|自在天《じざいてん》  オツトドツコイこら|違《ちが》うた
|天地《てんち》を|造《つく》り|固《かた》めたる  |天《てん》の|祖神《おやがみ》|三五《あななひ》の
|大国常立大御神《おほくにとこたちおほみかみ》  そのほか|百《もも》の|神《かみ》たちの
|御前《みまへ》に|畏《かしこ》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る  |旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|一旦《いつたん》|改心《かいしん》した|上《うへ》は  |決《けつ》して|元《もと》へは|返《かへ》らない
|天地《てんち》の|神《かみ》も|御照覧《ごせうらん》  |安心《あんしん》なさつて|沢山《どつさり》と
|結構《けつこう》なお|神酒《みき》をあがりませ  さうして|下《くだ》さることならば
|吾《われ》ら|三人《さんにん》|一時《いちどき》に  |直接行動《ちよくせつかうどう》ドツコイシヨ
|直接《ちよくせつ》|間接《かんせつ》|神様《かみさま》に  |誠《まこと》を|捧《ささ》げまつりませう
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
|伊太彦《いたひこ》『バラモンの|醜《しこ》の|司《つかさ》が|村肝《むらきも》の
|心《こころ》いらちて|疑《うたが》ひて|三人《みたり》
|吾《わ》が|心《こころ》すかして|三人《みたり》バラモンの
|醜《しこ》の|司《つかさ》よ|心《こころ》|安《やす》かれ』
ハール『|有難《ありがた》しそのお|言葉《ことば》を|聞《き》きしより
|心《こころ》も|広《ひろ》くゑみ|栄《さか》えぬる』
ヤッコス『|疑《うたが》ひの|雲霧《くもきり》|晴《は》れて|和田《わだ》の|原《はら》
|波《なみ》に|揺《ゆ》られて|帰《かへ》る|嬉《うれ》しさ
|人《ひと》は|皆《みな》|尊《たふと》き|神《かみ》の|生身魂《いきみたま》
|悩《なや》むる|人《ひと》は|鬼《おに》か|悪魔《あくま》ぞ
われもまた|鬼《おに》や|大蛇《をろち》とよばれつつ
|世人《よびと》なやめし|事《こと》を|悔《く》ゆなり』
アンチー『こそこそと|船《ふね》の|小隅《こすみ》に|集《あつ》まりて
|疑《うたが》ひ|三人《みたり》|酒《さけ》に|四人《よつたり》
|伊太彦《いたひこ》の|神《かみ》の|司《つかさ》よ|心《こころ》せよ
うはべを|飾《かざ》る|人《ひと》の|心《こころ》に』
|伊太彦《いたひこ》『|何事《なにごと》もただ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|任《まか》すのみなり
|和田《わだ》の|原《はら》|五百重《いほへ》の|波《なみ》を|辷《すべ》りつつ
|心《こころ》もスマの|岸《きし》を|目当《めあて》に
|帰《かへ》り|行《ゆ》く|猩々舟《しやうじやうぶね》は|勇《いさ》ましく
|常世《とこよ》の|春《はる》を|齎《もたら》し|帰《かへ》るも』
ハール『|伊太彦《いたひこ》の|道《みち》の|司《つかさ》は|神《かみ》なれや
その|言霊《ことたま》に|心《こころ》|栄《さか》えぬ』
ヤッコス『|何事《なにごと》も|伊太彦《いたひこ》さまの|御心《みこころ》の
|御船《みふね》の|舵《かぢ》に|任《まか》すのみなり
さりながら|何時《いつ》|荒風《あらかぜ》の|吹《ふ》きすさみ
|船《ふね》|覆《くつが》へす|事《こと》のこはさよ』
ハール『|疑《うたが》ひの|心《こころ》は|暗《やみ》の|鬼《おに》となる
|早《はや》く|晴《は》らせよ|胸《むね》の|曇《くもり》を』
(大正一二・四・三 旧二・一八 於皆生温泉浜屋 松村真澄録)
(昭和九・一二・一 王仁校正)
第二四章 |隆光《りうくわう》〔一五二四〕
アキスの|歌《うた》、
『|金鳥《きんてう》|銀鳥《ぎんてう》は|翼《つばさ》を|拡《ひろ》げ  |波《なみ》の|上《うへ》をば|縦横《たてよこ》に
いと|愉快《ゆくわい》げに|辷《すべ》り|行《ゆ》く  |天津御空《あまつみそら》にカンカンと
|夏《なつ》の|太陽《たいやう》は|照《て》り|渡《わた》る  |照《て》りつけられた|頭《あたま》には
|飲《の》んだお|酒《さけ》が|逆上《ぎやくじやう》し  |船《ふね》もろともにフラフラと
なんとも|知《し》れぬ|上機嫌《じやうきげん》  |面白《おもしろ》をかしくなつて|来《き》た
|人《ひと》の|皮《かは》|着《き》た|獣《けもの》やら  |獣《けもの》の|皮《かは》|着《き》た|人間《にんげん》を
|二十《にじふ》の|船《ふね》に|満載《まんさい》し  |泣《な》くやら|笑《わら》ふやら|慄《ふる》ふやら
|千姿万態《せんしばんたい》|波《なみ》の|上《うへ》  |吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》は|吾《わ》が|袖《そで》を
オヂオヂしながら|吹《ふ》いて|来《く》る  バラモン|教《けう》の|御連中《ごれんちう》は
|半安半危《はんあんはんき》の|状態《じやうたい》で  |伊太彦丸《いたひこまる》の|船底《せんてい》に
|蟠《うづくま》りゐてひそびそと  |前途《ぜんと》の|光明《くわうみやう》|楽《たの》しみつ
|囁《ささや》き|玉《たま》ふ|訝《いぶ》かしさ  たとへ|天地《てんち》は|覆《かへ》るとも
|清《きよ》めの|湖《うみ》は|涸《かわ》くとも  |海竜王《かいりうわう》が|現《あら》はれて
|船《ふね》もろともに|呑《の》み|喰《くら》ふとも  |何《なに》か|恐《おそ》れむ|神《かみ》の|道《みち》
|天津御空《あまつみそら》の|日《ひ》の|影《かげ》は  |波間《なみま》を|隈《くま》なく|照《て》らしまし
|打《う》つ|度《たび》ごとにキラキラと  |魚鱗《ぎよりん》のごとく|輝《かがや》きぬ
かかる|目出《めで》たき|太平《たいへい》の  |大湖原《おほうなばら》に|舵《かぢ》をとり
|三百有余《さんびやくいうよ》の|喜《よろこ》びを  |乗《の》せて|霊地《れいち》へ|帰《かへ》り|行《ゆ》く
アキス カールの|両人《りやうにん》は  バーチル|館《やかた》の|番頭《ばんとう》さま
|主人《あるじ》の|所在《ありか》を|尋《たづ》ねつつ  |日日《ひにち》|毎日《まいにち》|泣《な》き|暮《くら》し
|悲《かな》しく|淋《さび》しく|月日《つきひ》をば  |送《おく》りゐたりし|時《とき》もあれ
|天地《てんち》の|神《かみ》の|御恵《みめぐ》みに  |主《あるじ》の|君《きみ》はニコニコと
|神《かみ》の|使《つかひ》に|助《たす》けられ  |寄《よ》る|年波《としなみ》も|穏《おだや》かに
アンチーさまともろともに  |帰《かへ》り|来《き》ませる|嬉《うれ》しさよ
|吾々《われわれ》|二人《ふたり》は|磯端《いそばた》に  |手《て》を|繋《つな》ぎ|合《あ》ひトントンと
|燕《つばめ》のダンスを|演《えん》じつつ  |主《あるじ》の|君《きみ》や|宣伝使《せんでんし》
|尊《たふと》き|一行《いつかう》の|先《さき》に|立《た》ち  バーチル|館《やかた》へドシドシと
|凱歌《がいか》を|奏《そう》して|帰《かへ》りけり  その|嬉《うれ》しさは|天地《あめつち》の
|一度《いちど》に|開《ひら》く|心地《ここち》して  |二十戸前《にじつとまへ》の|倉《くら》を|開《あ》け
|貯《たくは》へおきし|酒樽《さかだる》を  |里人《さとびと》ともに|担《かつ》ぎ|出《だ》し
|七日七夜《なぬかななよ》の|大酒宴《だいしゆえん》  その|最中《さいちう》にサーベルの
|姫《ひめ》の|命《みこと》の|神懸《かむがかり》  |猩々《しやうじやう》の|島《しま》に|残《のこ》したる
|三百三十三柱《さんびやくさんじふみはしら》の  |眷族《けんぞく》さまを|懇《ねむごろ》に
|迎《むか》へ|帰《かへ》れの|御託宣《ごたくせん》  |主《あるじ》の|君《きみ》の|命《めい》を|受《う》け
|伊太彦司《いたひこつかさ》に|従《したが》ひて  |海《うみ》に|慣《な》れたるアンチーと
|波《なみ》を|押分《おしわ》け|進《すす》み|行《ゆ》く  かかる|例《ためし》は|荒金《あらがね》の
|地球《つち》|固《かた》まりし|昔《むかし》より  |夢《ゆめ》にも|聞《き》かぬ|瑞祥《ずゐしやう》ぞ
|猩々姫《しやうじやうひめ》の|御眷族《ごけんぞく》  |一人《ひとり》も|残《のこ》らずこの|船《ふね》に
|満載《まんさい》なして|堂々《だうだう》と  |波間《なみま》を|分《わ》けて|帰《かへ》り|行《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  アヅモス|山《さん》の|森林《しんりん》は
|昔《むかし》の|寂寥《せきれう》に|相反《あひはん》し  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なにキヤツキヤツと
|猿《ましら》の|声《こゑ》の|賑《にぎ》はしく  |四辺《あたり》に|響《ひび》くことだらう
この|船《ふね》|磯辺《いそべ》に|着《つ》くならば  |酒《さけ》に|酔《よ》ひたる|里人《さとびと》は
バーチルさまに|従《したが》ひて  |磯辺《いそべ》に|人《ひと》の|垣《かき》をつき
|歓呼《くわんこ》の|声《こゑ》は|中天《ちうてん》に  |響《ひび》き|渡《わた》りて|吾々《われわれ》の
|猩々隊《しやうじやうたい》を|懇《ねむごろ》に  |歓迎《くわんげい》なさることだらう
|思《おも》へば|思《おも》へば|勇《いさ》ましや  |神《かみ》の|御《おん》ため|世《よ》のために
|誠《まこと》を|開《ひら》く|宣伝使《せんでんし》  |蒼生《あをひとぐさ》はいふも|更《さら》
|波《なみ》に|泛《うか》べる|離《はな》れ|島《じま》  |人《ひと》なき|島《しま》に|現《あら》はれし
|猩々《しやうじやう》の|群《むれ》まで|救《すく》ひ|行《ゆ》く  その|功績《いさをし》ぞ|尊《たふと》けれ
|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》  |神《かみ》に|等《ひと》しき|身魂《みたま》ぞと
|誇《ほこ》りはすれど|内実《ないじつ》は  |虎《とら》|狼《おほかみ》の|棲処《すみか》ぞや
|猩々隊《しやうじやうたい》の|一行《いつかう》は  |尊《たふと》き|神《かみ》の|眷族《けんぞく》と
なりてそれぞれ|神業《しんげふ》に  |仕《つか》へて|穢《けが》れし|世《よ》の|人《ひと》の
|百《もも》の|災《わざは》ひ|払《はら》ひまし  |神《かみ》の|造《つく》りし|天地《あめつち》を
いと|安《やす》らけく|平《たひ》らけく  |守《まも》らむための|御使《おんつかひ》
|思《おも》へば|思《おも》へば|有難《ありがた》や  |猩々《しやうじやう》さまの|万歳《ばんざい》を
|慎《つつし》み|三唱《さんしやう》し|奉《たてまつ》る  |万歳《ばんざい》|万歳《ばんざい》|万々歳《ばんばんざい》』
|猩々《しやうじやう》の|島《しま》の|昔《むかし》の|物語《ものがたり》
|漸《やうや》く|記《しる》し|【北村】《きたむら》の|筆《ふで》 北村隆光
|【隆】々《りうりう》と|昇《のぼ》る|朝日《あさひ》の|【光】《ひかり》をば
|燈《あかり》となして|物語《ものがた》りする。
(大正一二・四・三 旧二・一八 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第二五章 |歓呼《くわんこ》〔一五二五〕
|太陽《たいやう》は|漸《やうや》く|西《にし》の|浪間《なみま》に|沈《しづ》むと|共《とも》に、|大空《たいくう》には|金銀《きんぎん》の|星光《せいくわう》|瞬《またた》き|初《そ》めた。あまたの|小猿《こざる》は、|夜《よる》の|海上《かいじやう》を|眺《なが》めてやや|不安《ふあん》の|念《ねん》を|起《おこ》したとみえ、|三百有余匹《さんびやくいうよひき》の|口《くち》からキヤツキヤツキヤツと|一斉《いつせい》に|叫《さけ》び|出《だ》した。この|声《こゑ》に|圧《あつ》せられて、|〓乃《ふなうた》の|声《こゑ》も|話声《はなしごゑ》も、|船底《ふなぞこ》を|打《う》つ|浪《なみ》の|鼓《つづみ》の|音《おと》も、|闇《やみ》と|共《とも》に|包《つつ》まれてしまつた。|伊太彦《いたひこ》は|勢《いきほ》ひを|見《み》せ、|小猿《こざる》たちの|心《こころ》を|安《やす》むぜむと|舷頭《げんとう》に|立《た》ち、|手《て》を|左右《さいう》にふりながら|面白《おもしろ》をかしく、|歌《うた》ひ|踊《をど》つて|見《み》せた。|夜目《よるめ》の|光《ひか》る|猩々《しやうじやう》はこの|姿《すがた》を|見《み》てやや|安心《あんしん》しながら、|俄《には》かに|陽気立《やうきだ》ち、いづれも|手《て》を|振《ふ》り、|嬉《うれ》しげにキヤツキヤツキヤツと|踊《をど》り|出《だ》した。|船頭《せんどう》は|船《ふね》の|動揺《どうえう》を|制《せい》すべく、しきりに|櫓《ろ》を|握《にぎ》つてその|平衡《へいかう》を|保《たも》ちつつ、|北風《きたかぜ》に|帆《ほ》を|揚《あ》げて|海面《かいめん》を|辷《すべ》り|行《ゆ》く。
|伊太彦《いたひこ》『|夜《よる》の|帳《とばり》は|下《お》ろされて  |漸《やうや》く|四辺《あたり》は|静《しづ》まりぬ
|天津御空《あまつみそら》を|眺《なが》むれば  |大小無数《だいせうむすう》の|星影《ほしかげ》は
|金銀《きんぎん》|瑪瑙《めなう》|瑠璃《るり》|〓〓《しやこ》  ダイヤモンドも|啻《ただ》ならず
おのもおのもに|丹精《たんせい》を  こらして|光《ひか》り|輝《かがや》きぬ
|浪《なみ》の|底《そこ》をば|眺《なが》むれば  |大小無数《だいせうむすう》の|鱗族《うろくづ》が
|前後左右《ぜんごさいう》にゆき|通《かよ》ふ  その|度《たび》ごとにキラキラと
|光《ひか》り|輝《かがや》く|星影《ほしかげ》を  |遮《さへぎ》り|隠《かく》す|床《ゆか》しさよ
|船《ふね》の|中《なか》には|猩々《しやうじやう》さま  |赤子《あかご》のやうな|声《こゑ》あげて
キヤツキヤツキヤツと|歌《うた》ひつつ  |恋《こひ》しき|母《はは》の|御許《おんもと》へ
|知《し》らず|知《し》らずに|進《すす》み|行《ゆ》く  |吾《われ》は|伊太彦《いたひこ》|宣伝使《せんでんし》
デビスの|姫《ひめ》を|救《すく》はむと  |三千彦《みちひこ》さまを|伴《ともな》ひて
キヨの|港《みなと》の|関守《せきもり》が  |館《やかた》をさして|夜《よ》に|紛《まぎ》れ
|足音《あしおと》|忍《しの》ばせ|進《すす》み|入《い》り  デビスの|姫《ひめ》を|救《すく》ひ|出《だ》し
|逃《に》げ|行《ゆ》くとたんに|曲神《まがかみ》の  |企《たく》みの|罠《わな》に|引《ひ》つかかり
|奈落《ならく》の|底《そこ》に|転落《てんらく》し  |因果《いんぐわ》を|定《さだ》め|度胸《どきよう》|据《す》ゑ
|心《こころ》の|中《なか》の|煩悶《はんもん》を  |湮滅《いんめつ》せむと|惟神《かむながら》
|神《かみ》に|吾《わ》が|身《み》を|任《まか》せつつ  ホテルの|番頭《ばんとう》と|洒落《しやれ》こみて
|悲運《ひうん》を|歎《かこ》つをりもあれ  |落《お》ち|込《こ》み|来《き》たるバラモンの
ヘール|司《つかさ》のユゥンケル  チルテル|司《つかさ》のキャプテンが
|褌《まはし》|一《ひと》つの|真裸体《まつぱだか》  |落《お》ち|込《こ》み|来《き》たるぞ|怪《あや》しけれ
|滑稽諧謔《こつけいかいぎやく》|並《なら》べ|立《た》て  |奥《おく》の|一間《ひとま》に|案内《あんない》し
またもや|帳場《ちやうば》に|居坐《ゐすわ》つて  |客《きやく》を|待《ま》ちける|折《を》りもあれ
ドカドカドカと|大勢《おほぜい》が  |雪崩《なだれ》のごとく|落《お》ちて|来《く》る
|千客万来《せんきやくばんらい》|大繁昌《だいはんじやう》  なぞと|洒落《しやれ》つつ|煩悶《はんもん》を
|紛《まぎ》らしゐたる|時《とき》もあれ  |思《おも》ひがけなき|三五《あななひ》の
|玉国別《たまくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》  |真純《ますみ》の|彦《ひこ》やアンチーや
テクの|司《つかさ》ともろともに  ドスドスドスと|辷《すべ》り|込《こ》む
|思《おも》ひもよらぬこの|奇遇《きぐう》  |敵《てき》も|味方《みかた》も|一場《いちぢやう》に
|首《くび》を|鳩《あつ》めて|神界《しんかい》の  |尊《たふと》き|教《をしへ》の|物語《ものがた》り
|互《たが》ひに|心《こころ》|打《う》ち|解《と》けて  |皇大神《すめおほかみ》の|神恩《しんおん》を
|涙《なみだ》と|共《とも》に|崇《あが》めゐる  |鼓膜《こまく》に|響《ひび》く|犬《いぬ》の|声《こゑ》
はて|訝《いぶ》かしと|疑《うたが》へば  |思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|助《たす》け|舟《ぶね》
|初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむつかさ》  |猛犬《まうけん》スマート|引《ひ》き|連《つ》れて
|醜《しこ》の|岩窟《いはや》の|入口《いりぐち》の  |鉄戸《かなど》を|開《あ》けて|来《き》たりまし
|吾《われ》ら|一同《いちどう》を|恙《つつが》なく  |尊《たふと》き|地上《ちじやう》に|救《すく》ひまし
たちまち|尊《たふと》き|御姿《みすがた》を  |隠《かく》し|給《たま》ひし|不思議《ふしぎ》さよ
|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》と  バーチル|館《やかた》に|立《た》ち|帰《かへ》り
|海川山野《うみかはやまの》|種々《くさぐさ》の  |清《きよ》き|待遇《もてな》し|受《う》けながら
|嬉《うれ》しく|楽《たの》しく|神恩《しんおん》を  |崇《あが》めゐるをりサーベルの
|姫《ひめ》の|命《みこと》の|神懸《かむがかり》  |猩々《しやうじやう》の|姫《ひめ》が|現《あら》はれて
|島《しま》に|残《のこ》せし|眷族《けんぞく》を  ただ|一刻《いつこく》も|速《すみ》やかに
これの|館《やかた》に|迎《むか》へとり  |救《すく》ひ|給《たま》へと|悲《かな》しげに
|頼《たの》み|入《い》るこそ|可憐《いぢ》らしき  |玉国別《たまくにわけ》の|許可《ゆるし》|得《え》て
|二十《にじふ》の|船《ふね》を|呼《よ》び|集《あつ》め  |準備《じゆんび》|全《まつた》く|整《ととの》うて
|命《めい》のまにまに|猩々島《しやうじやうじま》  |浪路《なみぢ》も|安《やす》く|到着《たうちやく》し
|使命《しめい》を|全《まつた》く|相果《あひは》たし  |漸《やうや》くここに|帰《かへ》りけり
もはや|湖路《うなぢ》も|十四五里《じふしごり》  |朝日《あさひ》の|豊栄《とよさか》|昇《のぼ》るころ
|日出《ひので》にスマに|着《つ》くだらう  |思《おも》へば|思《おも》へば|勇《いさ》ましや
|天地《あめつち》|百《もも》の|大御神《おほみかみ》  |吾《わ》が|師《し》の|君《きみ》の|御前《おんまへ》に
|謹《つつし》み|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  バラモン|教《けう》のヤッコスや
ハール サボール|三人《さんにん》は  |恨《うら》みず|憎《にく》まずどこまでも
|神《かみ》のまにまに|救《すく》ふべし  |心《こころ》|安《やす》かれ|三人《みたり》|共《とも》
|真善美愛《しんぜんびあい》の|神《かみ》の|道《みち》  いかでか|人《ひと》を|損《そこな》はむ
|勇《いさ》めよ|勇《いさ》め|皆《みな》|勇《いさ》め  |猩々《しやうじやう》でさへもあの|通《とほ》り
|喜《よろこ》び|勇《いさ》むで|舞《ま》ひ|踊《をど》る  ましてや|人《ひと》の|身《み》をもつて
この|瑞祥《ずゐしやう》を|祝《いは》はずば  |神《かみ》に|対《たい》して|済《す》まないぞ
|勇《いさ》めや|勇《いさ》めもろともに  |伊太彦司《いたひこつかさ》が|赤心《まごころ》を
|籠《こ》めて|汝《なんぢ》を|救《すく》ふべく  |神《かみ》に|誓《ちか》ひて|宣《の》り|伝《つた》ふ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
かく|歌《うた》ひ|終《をは》るや|否《いな》や、|東《ひがし》の|空《そら》は|茜《あかね》さし、|浪《なみ》の|中《なか》より|金覆輪《きんぷくりん》の|太陽《たいやう》は、|鮮麗《せんれい》なる|光輝《くわうき》を|放《はな》つて|覗《のぞ》き|玉《たま》うた。|前方《ぜんぱう》を|見《み》ればスマの|浜《はま》に|数百千《すうひやくせん》の|老若男女《らうにやくなんによ》が|鉦《かね》や|太鼓《たいこ》を|鳴《な》らし、|鬨《とき》の|声《こゑ》を|造《つく》りて、|船影《ふなかげ》を|認《みと》め、どよめき|渡《わた》つてゐる。この|光景《くわうけい》を|見《み》るよりヤッコス、サボールの|両人《りやうにん》は|俄《には》かに|怖気《おぢけ》づき、|身《み》を|躍《をど》らして|海中《かいちう》に|飛《と》び|込《こ》み|姿《すがた》を|隠《かく》した。|磯辺《いそべ》に|立《た》つた|群衆《ぐんしう》は|二人《ふたり》の|入水《じゆすゐ》を|見《み》て、「アレヨ アレヨ」と|手《て》を|振《ふ》り、|声《こゑ》を|限《かぎ》りにぞよめき|出《だ》した。かかるところへ|矢《や》を|射《い》るごとく、|一艘《いつそう》の|小舟《こぶね》|現《あは》はれ|来《き》たり、|二人《ふたり》の|飛《と》び|込《こ》むだ|波上《はじやう》を|目《め》がけ|進《すす》み|行《ゆ》く。これは|真純彦《ますみひこ》、|三千彦《みちひこ》の|操《あや》る|船《ふね》であつた。
|日月《じつげつ》の|恵《めぐ》みをうけて|委曲《まつぶさ》に
|説《と》き|明《あか》したる|此《こ》の|物語《ものがたり》
いそのかみ|古《ふる》き|神代《かみよ》の|出来事《できごと》を
|今《いま》|新《あたら》しく|説《と》き|明《あか》すなり
(大正一二・四・三 旧二・一八 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
(昭和一〇・二・一八 於彦根楽々園 王仁校正)
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霊界物語 第五九巻 真善美愛 戌の巻
終り