霊界物語 第五八巻 真善美愛 酉の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
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●底本
『霊界物語 第五八巻』愛善世界社
2007(平成19)年02月03日 第一刷発行
『霊界物語 第五十八巻』天声社
1971(昭和46)年01月10日 第二刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年10月09日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|総説《そうせつ》
第一篇 |玉石混淆《ぎよくせきこんかう》
第一章 |神風《しんぷう》〔一四七六〕
第二章 |多数尻《たすうけつ》〔一四七七〕
第三章 |怪散《くわいさん》〔一四七八〕
第四章 |銅盥《あかがねだらひ》〔一四七九〕
第五章 |潔別《けつべつ》〔一四八〇〕
第二篇 |湖上神通《こじやうじんつう》
第六章 |茶袋《ちやぶくろ》〔一四八一〕
第七章 |神船《しんせん》〔一四八二〕
第八章 |孤島《こたう》〔一四八三〕
第九章 |湖月《こげつ》〔一四八四〕
第三篇 |千波万波《せんぱばんぱ》
第一〇章 |報恩《ほうおん》〔一四八五〕
第一一章 |〓乃《ふなうた》〔一四八六〕
第一二章 |素破抜《すつぱぬき》〔一四八七〕
第一三章 |兎耳《うさぎみみ》〔一四八八〕
第一四章 |猩々島《しやうじやうじま》〔一四八九〕
第一五章 |哀別《あいべつ》〔一四九〇〕
第一六章 |聖歌《せいか》〔一四九一〕
第一七章 |怪物《くわいぶつ》〔一四九二〕
第一八章 |船待《ふなまち》〔一四九三〕
第四篇 |猩々潔白《しやうじやうけつぱく》
第一九章 |舞踏《ぶたふ》〔一四九四〕
第二〇章 |酒談《しゆだん》〔一四九五〕
第二一章 |館帰《くわんき》〔一四九六〕
第二二章 |獣婚《じうこん》〔一四九七〕
第二三章 |昼餐《ちうさん》〔一四九八〕
第二四章 |礼祭《れいさい》〔一四九九〕
第二五章 |万歳楽《ばんざいらく》〔一五〇〇〕
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|序文《じよぶん》
|本巻《ほんくわん》も|又《また》|例《れい》の|如《ごと》く|三日《みつか》の|間《あひだ》に|口述《こうじゆつ》|編纂《へんさん》を|終《をは》りました。|着手《ちやくしゆ》(|三月《さんぐわつ》|廿八日《にじふはちにち》)|以来《いらい》|天候《てんこう》|険悪《けんあく》にして、|夜見《よみ》の|浜《はま》に|打寄《うちよ》する|激浪《げきらう》|怒濤《どたう》の|響《ひび》きや、|硝子戸《がらすど》を|暴風《ばうふう》の|揺《ゆす》る|音《おと》、|春雨《はるさめ》の|声《こゑ》、|並《ならび》に|東北隣《とうほくどなり》の|旅亭《りよてい》に|聞《き》こゆる|三味線《しやみせん》、|安来節《やすぎぶし》の|声《こゑ》|等《とう》に|合《あは》せ|口述《こうじゆつ》の|拍子《ひやうし》を|採《と》りながら|諄々《じゆんじゆん》として|進《すす》み|行《ゆ》く。
|出雲富士《いづもふじ》ほど|苦労《くらう》はしても
|末《すゑ》を|松江《まつえ》で|気《き》は|安来《やすぎ》
この|歌《うた》の|文句《もんく》を|栞《しをり》となし|乍《なが》ら、|末《すゑ》の|代《よ》のため|松《まつ》の|神世《かみよ》、|五六七《みろく》の|神代《かみよ》の|教草《をしへぐさ》の|一端《いつたん》にもと、|油《あぶら》の|渇《かわ》きし|口車《くちぐるま》、|湯茶《ゆちや》をガブガブ|呑《の》みながら、|口述台《こうじゆつだい》に|安臥《あんぐわ》して|神《かみ》の|儘《ま》に|儘《ま》に|述《の》べ|終《をは》る。|筆者《ひつしや》は|加藤《かとう》、|北村《きたむら》|両氏《りやうし》にして|前巻《ぜんくわん》も|同様《どうやう》なり。アア|惟神《かむながら》|御霊《みたま》の|恩頼《ふゆ》を|謹《つつし》み|感謝《かんしや》し|奉《まつ》る。
大正十二年三月三十日午后三時
|総説《そうせつ》
|聖言《せいげん》に|曰《い》ふ『|神《かみ》は|最《もつと》も|弱《よわ》き|者《もの》、|小《ちひ》さき|者《もの》、|及《およ》び|愚《おろか》なるものに|真理《まこと》を|覚《さと》し|玉《たま》ふ』とあり。|大本神諭《おほもとしんゆ》に|曰《いは》く『|生《うま》れ|赤児《あかご》の|混《まじ》りの|無《な》い|心《こころ》にならねば|神《かみ》の|誠《まこと》の|大精神《だいせいしん》は|判《わか》らぬぞよ』と|示《しめ》されあり、|仏教《ぶつけう》には『|難問《なんもん》する|所《ところ》あれば|小乗《せうじやう》の|法《はふ》を|以《もつ》て|答《こた》えざれ、|但《ただし》|大乗《だいじやう》を|以《もつ》て|為《ため》に|解脱《げだつ》して|一切種智《いつさいしゆち》を|得《え》せしめよ、|云々《うんぬん》』『|菩薩《ぼさつ》は|常《つね》に|安穏《あんのん》ならしめむことを|楽《ねが》ひて|法《はふ》を|説《と》け、|云々《うんぬん》』とあり。|大乗《だいじやう》に|非《あ》らざれば|覚《さと》り|得《え》ざる|如《ごと》き|学盲者《がくまうじや》は|只《ただ》その|種智《しゆち》を|得《う》るに|過《す》ぎない。|決《けつ》して|天国《てんごく》の|愛《あい》と|善《ぜん》、|信《しん》と|真《しん》との|光明《くわうみやう》|霊徳《れいとく》に|浴《よく》する|事《こと》は|出来《でき》ないものである。|安穏《あんのん》にして|法《はふ》を|説《と》けとは|老幼婦女子《らうえうふぢよし》にも|解《かい》し|易《やす》きやう|極《きは》めて|卑近《ひきん》の|例《れい》を|引《ひ》き、|平易《へいい》|簡単《かんたん》にして|直《ただ》ちにその|精神《せいしん》を|諒解《りやうかい》し|得《え》らるるやうに|説《と》けとの|意《い》である。この|物語《ものがたり》も|亦《また》|神示《しんじ》に|従《したが》ひ|可成的《なるべく》|平易《へいい》なる|文句《もんく》にて|説《と》き、|卑近《ひきん》なる|言語《げんご》を|使用《しよう》して|神明《しんめい》の|深《ふか》き|大御心《おほみこころ》を|悟《さと》らしめむと|努《つと》めたるを|以《もつ》て、|学者《がくしや》|紳士《しんし》の|読物《よみもの》としては|適当《てきたう》しないものたるは|素《もと》より|覚悟《かくご》の|前《まへ》である。|一人《ひとり》なり|共《とも》|多数《たすう》の|人々《ひとびと》に|解《かい》し|易《やす》く|徹底《てつてい》し|易《やす》からしめむと|欲《ほつ》する|至情《しじやう》より|口述《こうじゆつ》せしものであります。|又《また》|本《ほん》|物語《ものがたり》は|読者《どくしや》を|決《けつ》して|今日《こんにち》の|所謂《いはゆる》|知識階級《ちしきかいきふ》に|求《もと》めやうとするのでは|有《あ》りませぬ。|愚者《ぐしや》|無学者《むがくしや》|弱者《じやくしや》のため|編著《へんちよ》したものであります。
大正十二年三月卅日
第一篇 |玉石混淆《ぎよくせきこんかう》
第一章 |神風《しんぷう》〔一四七六〕
|青葉《あをば》を|渡《わた》る|夏風《なつかぜ》の |清《きよ》き|音彦《おとひこ》|宣伝使《せんでんし》
|心《こころ》の|玉国別司《たまくにわけつかさ》 |御空《みそら》も|清《きよ》き|真純彦《ますみひこ》
|伊太彦司《いたひこつかさ》を|伴《ともな》ひて |稲田《いなだ》のそよぐ|田圃道《たんぼみち》
|彼方《あなた》|此方《こなた》に|花蓮葉《はなはちす》 |所斑《ところまんだら》|咲《さ》き|乱《みだ》れ
いと|芳《かんば》しき|香《にほひ》をば |送《おく》り|来《きた》るぞ|床《ゆか》しけれ
|御伴《みとも》の|神《かみ》と|仕《つか》へたる |三千彦司《みちひこつかさ》の|行方《ゆくへ》をば
|尋《たづ》ねむものと|三人連《みたりづ》れ |草鞋《わらぢ》を|濡《ぬ》らす|田圃道《たんぼみち》
|彼方《あなた》|此方《こなた》と|飛《と》び|越《こ》へて やうやう|来《きた》るテルモンの
|山《やま》の|麓《ふもと》に|着《つ》きにけり |空《そら》|打仰《うちあふ》ぎ|眺《なが》むれば
テルモン|山《ざん》の|中腹《ちうふく》に |靉靆《たなび》き|渡《わた》る|紫《むらさき》の
|八重棚雲《やへたなぐも》は|神人《しんじん》が |集《あつ》まり|居《ゐ》ます|象徴《しやうちやう》か
|但《ただし》は|神《かみ》の|出現《しゆつげん》か |何《なに》は|兎《と》もあれバラモンの
|大黒主《おほくろぬし》の|発祥地《はつしやうち》 つと|立《た》ち|寄《よ》りて|様子《やうす》をば
|探《さぐ》らむものと|勇《いさ》み|立《た》ち |爪先上《つまさきあが》りの|山道《やまみち》を
|平野《へいや》を|後《あと》にスタスタと |息《いき》|喘《はづ》まして|登《のぼ》りつつ
アンブラック|川《がは》の|辺《ほとり》|迄《まで》 やうやく|進《すす》み|来《きた》りけり
ここにも|一《ひと》つの|平野《へいや》あり |数多《あまた》の|稲田《いなだ》は|東西《とうざい》に
いと|広《ひろ》らかに|展開《てんかい》し |所々《ところどころ》に|蓮花《はちすばな》
そよ|吹《ふ》く|風《かぜ》に|翻《ひるがへ》り |天国《てんごく》|浄土《じやうど》の|高原《かうげん》を
|進《すす》むが|如《ごと》き|思《おも》ひなり ここに|三人《みたり》の|宣伝使《せんでんし》
アンブラック|川《がは》を|打渉《うちわた》り いよいよ|霊地《れいち》に|着《つ》きければ
|俄《にはか》に|起《おこ》る|鬨《とき》の|声《こゑ》 |聞《きこ》ゆる|間《ま》もなく|数百《すうひやく》の
|荒《あら》くれ|男《をとこ》が|現《あら》はれて |棍棒《こんぼう》|打振《うちふ》り|石《いし》を|投《な》げ
|三人《みたり》に|向《むか》つて|攻《せ》め|来《きた》る |其《その》|光景《くわうけい》ぞ|凄《すさま》じき。
|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》はアンブラック|川《がは》を|渡《わた》り|一二丁《いちにちやう》|前進《ぜんしん》する|折《をり》しも|悪酔怪《あくすゐくわい》の|会長《くわいちやう》ワックスは|数多《あまた》の|無頼漢《ぶらいかん》を|引率《いんそつ》し、
ワックス『|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》|三千彦《みちひこ》の|同類《どうるゐ》|現《あら》はれたり。|今《いま》|此《この》|時《とき》|彼《かれ》を|亡《ほろ》ぼさざれば|此《この》|聖地《せいち》は|三五教《あななひけう》に|蹂躙《じうりん》されむ。|今《いま》が|千騎一騎《せんきいつき》の|場合《ばあひ》だ。|進《すす》め|進《すす》め』
と|采配《さいはい》|振《ふ》つて|下知《げち》をなす。
|岩窟《いはや》の|中《なか》へ|閉《と》ぢ|込《こ》められて|居《ゐ》たエキス、ヘルマンは|之《これ》|亦《また》|驢馬《ろば》に|跨《またが》り|味方《みかた》を|三方《さんぱう》に|配置《はいち》し、|歌《うた》を|歌《うた》つて|僅《わづ》か|三人《さんにん》の|敵《てき》に|向《むか》つて|潮《うしほ》の|如《ごと》く|鶴翼《くわくよく》の|陣《ぢん》を|張《は》り|遠巻《とほまき》に|巻《ま》いて|居《ゐ》る。そして|小石《こいし》を|掴《つか》んで|各自《めいめい》に|投《な》げつける。|三人《さんにん》の|身辺《しんぺん》には|石《いし》の|雨《あめ》|篠《しの》つく|如《ごと》く|寄《よ》り|来《きた》り|其《その》|危険《きけん》|名状《めいじやう》すべからず。|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》は|突《つ》き|出《で》た|巌《いは》の|下陰《したかげ》に|身《み》を|忍《しの》び、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|声《こゑ》を|揃《そろ》へて|唱《とな》へ|上《あ》げた。|一同《いちどう》は|遠巻《とほまき》に|巻《ま》き|乍《なが》ら|相変《あひかは》らず|石《いし》の|雨《あめ》を|降《ふ》らして|居《ゐ》る。|伊太彦《いたひこ》は|尖《とが》つた|石礫《いしつぶて》を|向脛《むかふずね》に|負《お》はされアツと|云《い》ふより|早《はや》くその|場《ば》に|倒《たふ》れた。|此《この》|有様《ありさま》を|見《み》た|敵《てき》は|益々《ますます》|勢《いきほひ》を|得《え》、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|雨《あめ》|霰《あられ》と|石《いし》を|投《な》げつける。|玉国別《たまくにわけ》は|泰然自若《たいぜんじじやく》として|頻《しき》りに|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》して|居《ゐ》る。|真純彦《ますみひこ》は|伊太彦《いたひこ》を|介抱《かいはう》し|乍《なが》ら|岩陰《いはかげ》に|伊太彦《いたひこ》の|体《からだ》を|忍《しの》ばせた。|数百人《すうひやくにん》の|荒《あら》くれ|男《をとこ》は|太鼓《たいこ》を|拍《う》ち、|擦鉦《すりがね》を|鳴《な》らし|乍《なが》ら、チクチクと|引網《ひきあみ》の|如《ごと》くに|近寄《ちかよ》り|来《きた》る。|伊太彦《いたひこ》は|余《あま》りの|痛《いた》さに|顔《かほ》を|顰《しか》めて|声《こゑ》をも|得出《えだ》さず|苦《くる》しんで|居《ゐ》る。|敵《てき》はおひおひ|迫《せま》つて|来《き》た。|流石《さすが》の|玉国別《たまくにわけ》も|進退《しんたい》|維《これ》|谷《きは》まり|運《うん》を|天《てん》に|任《まか》し、|真純彦《ますみひこ》の|背《せな》に|伊太彦《いたひこ》を|負《お》はせ|危険《きけん》を|犯《をか》して|敵《てき》の|重囲《ぢうゐ》を|解《と》き、|血路《けつろ》を|開《ひら》いて|逃《に》げむと|覚悟《かくご》を|極《きは》め|敵中《てきちう》に|野猪《やちよ》の|如《ごと》くに|突進《とつしん》した。|衆寡《しうくわ》|敵《てき》せず、|三人《さんにん》は|瞬《またた》く|間《うち》に|打据《うちす》ゑられた。かかる|処《ところ》へ|宙《ちう》を|飛《と》んで|駆《か》け|来《きた》る|猛犬《まうけん》スマートは、『ウー、ウワッ ウワッ』と|二声《ふたこゑ》|三声《みこゑ》|叫《さけ》ぶや|否《いな》や、スマートに|荒肝《あらぎも》を|取《と》られた|一同《いちどう》は、『|強敵《きやうてき》|厶《ござ》んなれ』と|三人《さんにん》を|捨《す》て|驀地《まつしぐら》に|館《やかた》をさして|兵士《へいし》の|応援《おうゑん》を|受《う》けむと|駆《か》けり|行《ゆ》く。
|玉国別《たまくにわけ》はスマートに|向《むか》ひ|一応《いちおう》|謝辞《しやじ》を|述《の》べ、|且《かつ》|頭《かしら》を|撫《な》で|背《せな》を|撫《な》で|等《など》して|好意《かうい》を|謝《しや》して|居《ゐ》る。スマートは|嬉《うれ》しげに|尾《を》を|振《ふ》り|乍《なが》ら、|伊太彦《いたひこ》の|傷所《きずしよ》を|見《み》るより|直《すぐ》に|擦《す》り|寄《よ》つて|傷所《きずしよ》を|嘗《な》めた。|忽《たちま》ち|血《ち》は|止《と》まり|苦痛《くつう》は|頓《とみ》に|去《さ》り、|漸《やうや》くにして|立《た》つ|事《こと》を|得《え》た。これよりスマートと|共《とも》に|三人《さんにん》は|神館《かむやかた》を|指《さ》して|意気《いき》|揚々《やうやう》と|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|急阪《きふはん》を|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|逃《に》げ|去《さ》つたるワックスは|館《やかた》の|前《まへ》のバラモン|軍《ぐん》の|前《まへ》に|現《あら》はれ、|頭《かしら》を|下《さ》げ|手《て》をつき|涙《なみだ》を|流《なが》して|云《い》ふ。
ワックス『バラモン|軍《ぐん》の|軍人様《ぐんじんさま》、お|願《ねが》ひが|厶《ござ》います。|只今《ただいま》|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》が|又《また》もや|三人《さんにん》|現《あら》はれました。さうして|猛悪《まうあく》なる|狂犬《きやうけん》が|此《この》|霊地《れいち》に|横行《わうかう》しますれば|何卒《どうぞ》|貴方《あなた》|等《がた》のお|力《ちから》を|以《もつ》て|退却《たいきやく》を、……|否《いな》|殲滅《せんめつ》する|様《やう》お|取計《とりはか》らひを|願《ねが》ひます。|此《この》|神館《かむやかた》は|先日来《せんじつらい》|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》が|只《ただ》|一人《ひとり》|忍《しの》び|込《こ》み|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》の|悪事《あくじ》を|致《いた》し、|吾々《われわれ》バラモン|信者《しんじや》を|苦《くる》しめる|事《こと》、|一再《いつさい》ならず、|然《しか》るに|今《いま》|亦《また》|三人《さんにん》の|魔法使《まはふづかひ》がアンブラック|川《がは》を|渉《わた》り、|此方《こなた》へ|参《まゐ》りました|以上《いじやう》は|如何《いか》なる|事《こと》を|仕出《しで》かすか|分《わか》りませぬ。|事《こと》の|大《おほ》きくならぬ|中《うち》、|何《なん》とか|軍隊《ぐんたい》の|力《ちから》を|以《もつ》て|殲滅《せんめつ》させて|下《くだ》さい。|吾々《われわれ》|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》|一同《いちどう》はお|後《あと》に|従《したが》ひ|充分《じゆうぶん》の|応援《おうゑん》を|致《いた》します』
バラモン|軍《ぐん》の|軍曹《ぐんさう》イールは|直《ただ》ちに|承諾《しようだく》の|旨《むね》を|答《こた》へ、ニコラスの|承諾《しようだく》も|得《え》ず、|五十《ごじふ》の|軍人《ぐんじん》を|引《ひ》き|率《つ》れ、ワックスの|一隊《いつたい》と|共《とも》にテルモン|山《ざん》を|下《くだ》り、アンブラック|川《がは》の|辺《ほとり》に|向《むか》ふ|事《こと》となつた。
|伊太彦《いたひこ》は|道々《みちみち》|行軍歌《かうぐんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|進《すす》み|行《ゆ》く。
|伊太彦《いたひこ》の|歌《うた》、
|伊太彦《いたひこ》『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立分《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》す
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |玉国別《たまくにわけ》に|従《したが》ひて
|心《こころ》の|色《いろ》も|真純彦《ますみひこ》 |足《あし》の|傷所《きずしよ》も|伊太彦《いたひこ》が
|神《かみ》の|使《つかひ》のスマートに |危《あやふ》き|処《ところ》を|助《たす》けられ
バラモン|信徒《しんと》の|重囲《ぢうゐ》をば |苦《く》もなく|解《と》いて|進《すす》み|行《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|力《ちから》の|偉大《ゐだい》なる
|恵《めぐ》みの|露《つゆ》のいや|深《ふか》き |今更《いまさら》|乍《なが》ら|有難《ありがた》く
|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|咽返《むせかへ》る |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ |誠《まこと》の|道《みち》の|宣伝使《せんでんし》
|誠《まこと》|一《ひと》つを|守《まも》り|行《ゆ》く |大和男子《やまとをのこ》の|益良夫《ますらを》に
|敵《てき》する|曲《まが》のあるべきぞ |進《すす》めよ|進《すす》めいざ|進《すす》め
テルモン|山《ざん》は|高《たか》くとも |敵《てき》は|幾万《いくまん》ありとても
|何《なに》か|恐《おそ》れむ|三五《あななひ》の |誠《まこと》の|道《みち》の|宣伝使《せんでんし》
|神《かみ》の|試《ため》しに|会《あ》ひ|乍《なが》ら |心《こころ》を|磨《みが》き|魂《たま》を|錬《ね》り
|獅子奮迅《ししふんじん》の|勇気《ゆうき》をば |完全《うまら》に|委曲《つばら》に|発揮《はつき》して
|神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《かむわざ》に |仕《つか》へまつらむ|吾《わが》|使命《しめい》
アア|勇《いさ》ましし|勇《いさ》ましし |夏野《なつの》を|渡《わた》る|涼風《りやうふう》は
|吾《わが》|身《み》の|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》ひつつ |蓮《はちす》の|花《はな》の|香《かをり》をば
|交《まじ》へて|横《よこ》ぎる|芳《かん》ばしさ |山時鳥《やまほととぎす》|遠近《をちこち》に
|姿《すがた》を|隠《かく》し|啼《な》き|立《た》てる |神《かみ》の|教《をしへ》の|三千彦《みちひこ》が
|行衛《ゆくゑ》を|尋《たづ》ね|探《さぐ》らむと |吾《わが》|師《し》の|君《きみ》に|従《したが》ひて
|広野《ひろの》を|渡《わた》り|川《かは》を|越《こ》え |此方《こなた》に|進《すす》む|折《をり》もあれ
|俄《にはか》に|聞《きこ》ゆる|鬨《とき》の|声《こゑ》 |何事《なにごと》ならむと|岩蔭《いはかげ》に
|潜《ひそ》む|間《ま》もなく|四方《しはう》より |現《あら》はれ|来《きた》る|敵《てき》の|影《かげ》
|棍棒《こんぼう》|打《うち》ふり|石《いし》を|投《な》げ その|勢《いきほひ》の|凄《すさま》じさ
|石《いし》の|礫《つぶて》は|雨《あめ》と|降《ふ》り |進《すす》まむ|由《よし》もなき|儘《まま》に
|岩《いは》をば|楯《たて》に|戦《たたか》へど |衆寡《しうくわ》|敵《てき》せず|吾《わが》|脛《すね》は
|敵《てき》の|矢玉《やだま》に|破《やぶ》られて |無念《むねん》|乍《なが》らも|打倒《うちたふ》れ
|痛《いた》みに|堪《た》へず|苦《くる》しめば |弱目《よわめ》につけ|込《こ》む|敵《てき》の|勢《せい》
チクリチクリと|近寄《ちかよ》りて |早《はや》くも|危殆《きたい》に|瀕《ひん》しけり
|真純《ますみ》の|彦《ひこ》に|助《たす》けられ |吾《わが》|師《し》の|君《きみ》と|諸共《もろとも》に
|血路《けつろ》を|開《ひら》き|進《すす》まむと |群《むら》がる|敵《てき》の|真中《まんなか》に
|危険《きけん》を|犯《をか》して|飛《と》び|込《こ》めば |何条《なんでう》|以《もつ》て|堪《たま》るべき
|瞬《またた》く|間《うち》に|倒《たふ》されて |無念《むねん》の|歯噛《はが》みなす|時《とき》ゆ
|現《あら》はれ|来《きた》るスマートが |天地《てんち》も|揺《ゆる》ぐ|唸《うな》り|声《ごゑ》
その|言霊《ことたま》に|辟易《へきえき》し |流石《さすが》の|敵《てき》も|雲霞《くもかすみ》
|吾等《われら》を|見捨《みすて》て|逃《に》げて|行《ゆ》く アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|力《ちから》の|偉大《ゐだい》さよ |吾等《われら》は|神《かみ》に|何事《なにごと》も
|任《まか》せまつりし|身《み》なれども |油断大敵《ゆだんたいてき》|中々《なかなか》に
|心《こころ》の|綱《つな》は|弛《ゆる》め|得《え》ず |四辺《あたり》に|眼《まなこ》|配《くば》りつつ
|神《かみ》の|館《やかた》を|目当《めあて》とし スマートさまと|諸共《もろとも》に
|何処々々《どこどこ》|迄《まで》も|進《すす》むべし |神《かみ》は|吾等《われら》と|倶《とも》にあり
|神《かみ》に|仕《つか》へし|此《この》|体《からだ》 |仮令《たとへ》|命《いのち》は|失《う》するとも
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の |任《よ》さし|玉《たま》ひしメッセージ
|尽《つく》さにや|置《お》かぬ|益良夫《ますらを》の |心《こころ》の|鏡《かがみ》はテラテラと
|三千世界《さんぜんせかい》に|輝《かがや》きて |如何《いか》でか|曇《くも》らむ|大和魂《やまとだま》
アア|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや |大黒主《おほくろぬし》が|発祥《はつしやう》の
|霊地《れいち》と|高《たか》く|聞《きこ》えたる テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》
|一人《ひとり》も|残《のこ》さず|三五《あななひ》の |誠《まこと》の|道《みち》を|説《と》き|諭《さと》し
|帰順《きじゆん》させねば|措《お》くものか |進《すす》めよ|進《すす》めいざ|進《すす》め
|又《また》もや|敵《てき》の|現《あら》はれて |勢《いきほ》ひ|猛《たけ》く|攻《せ》め|来《く》とも
|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|包《つつ》まれし |吾《わが》|師《し》の|君《きみ》やスマートの
あります|限《かぎ》り|幾百《いくひやく》の |強《つよ》き|仇《あだ》をも|恐《おそ》れむや
ああ|面白《おもしろ》し|面白《おもしろ》し |神《かみ》の|恵《めぐ》みを|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|無人《むじん》の|野《や》を|行《ゆ》く|如《ごと》く、ドシドシと|館《やかた》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
|宮町《みやまち》の|十字街頭《じふじがいとう》なる|鐘路《しようろ》に|着《つ》いた。|俄《にはか》に|左右《さいう》の|家《いへ》の|中《なか》より|矢《や》を|射《い》かけ、|三人《さんにん》は|進退《しんたい》|維《これ》|谷《きは》まつて|街頭《がいとう》に|佇立《ていりつ》し、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|数歌《かずうた》を|歌《うた》つて|居《ゐ》る。|前方《ぜんぱう》よりはバラモンの|兵《へい》、|長槍《ちやうさう》を|扱《しご》き|乍《なが》ら|進《すす》み|来《きた》る。|後《あと》よりは|老若男女《らうにやくなんによ》がワイワイと|鬨《とき》を|作《つく》つて|押寄《おしよ》せ|来《きた》る。スマートは『ウワツ ウワツ』と|吠猛《ほえたけ》る。その|声《こゑ》は|狼《おほかみ》の|如《ごと》く|戸障子《としやうじ》を|震動《しんどう》させ、|一同《いちどう》の|肝《きも》を|痳痺《まひ》させ、|俄《にはか》に|矢《や》の|玉《たま》はピタンと|止《と》まつた。|鬨《とき》の|声《こゑ》も|一時《いちじ》|聞《きこ》えなくなつた。バラモン|軍《ぐん》の|兵士《へいし》は|何《なに》|思《おも》ひけむ、|館《やかた》の|馬場《ばば》をさして|一目散《いちもくさん》に|駆《か》けり|行《ゆ》く。
スマートは|何処《どこ》ともなく|又《また》もや|姿《すがた》を|隠《かく》した。|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》はバラモン|軍《ぐん》の|後《あと》を|追《お》ひ|進《すす》み|行《ゆ》く。
ワックスは|又《また》もや|驢馬《ろば》に|跨《またが》り|大音声《だいおんじやう》を|張《は》り|上《あ》げ|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》を|鞭撻《べんたつ》して、|三人《さんにん》の|後《あと》を|追《お》つ|駆《か》け|来《きた》り、|馬場《ばんば》の|前《まへ》にて|大衝突《だいしようとつ》を|初《はじ》め|遂《つひ》には|敵味方《てきみかた》の|区別《くべつ》もなく|入《い》り|乱《みだ》れ、バラモン|軍《ぐん》とワックスの|率《ひき》ゆる|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》との|争闘《さうとう》となつて|了《しま》つた。
|忽《たちま》ち|阿鼻叫喚《あびけうくわん》の|声《こゑ》、|剣戟《けんげき》の|音《おと》、|見《み》るに|忍《しの》びざる|惨状《さんじやう》を|呈《てい》した。|玉国別《たまくにわけ》は|二人《ふたり》の|宣伝使《せんでんし》と|共《とも》に|表門《おもてもん》を|悠々《いういう》と、|此《この》|争《あらそ》ひを|後《あと》に|眺《なが》めて|進《すす》み|入《い》る。スマートは|何処《どこ》ともなく|現《あら》はれ|来《きた》り、|門口《かどぐち》より|一生懸命《いつしやうけんめい》に『ウワツ ウワツ』と|喚《わめ》き|立《た》てて|居《ゐ》る。
(大正一二・三・二八 旧二・一二 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第二章 |多数尻《たすうけつ》〔一四七七〕
|奥《おく》の|一間《ひとま》には|小国姫《をくにひめ》、ニコラス、|三千彦《みちひこ》、|其《その》|外《ほか》|一同《いちどう》が|打解《うちと》けて|神徳話《しんとくばなし》に|余念《よねん》なく、|茶《ちや》を|啜《すす》り|乍《なが》ら|懇親《こんしん》を|結《むす》んでゐる。
かかる|処《ところ》へ|門前《もんぜん》|俄《にはか》に|騒《さわ》がしく|猛犬《まうけん》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》、|合点《がてん》|行《ゆ》かぬと|何《いづ》れも|耳《みみ》を|欹《そばだ》てたが、|三千彦《みちひこ》は|一同《いちどう》に|向《むか》ひ、
|三千《みち》『|皆《みな》さま、どうやら|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》の|暴動《ばうどう》と|見《み》えます。|私《わたし》が|一寸《ちよつと》|調《しら》べて|参《まゐ》りますから|御休息《ごきうそく》して|居《ゐ》て|下《くだ》さいませ』
といひ|捨《す》てて|表《おもて》に|駆《か》け|出《だ》す。
ニコラスはハンナに|命《めい》じ|三千彦《みちひこ》と|共《とも》に|表門《おもてもん》に|向《むか》はしめた。|表門《おもてもん》に|行《い》つて|見《み》れば|三千彦《みちひこ》が|昼夜《ちうや》|念頭《ねんとう》を|離《はな》れざりし|恋《こひ》しき|師《し》の|君《きみ》|玉国別《たまくにわけ》、|良友《りやういう》の|真純彦《ますみひこ》、|伊太彦《いたひこ》が|莞爾《にこにこ》として|門内《もんない》に|潜《くぐ》り|来《きた》るにパツと|出会《でつくは》した。|三千彦《みちひこ》は|倒《たふ》れぬばかりに|且《か》つ|驚《おどろ》きかつ|喜《よろこ》び、アツと|云《い》つたきり|暫《しば》らくは|言葉《ことば》も|出《で》なかつた。
|伊太《いた》『やア、お|前《まへ》は|三千彦《みちひこ》ぢやないか。|俺《おれ》|等《たち》はお|師匠様《ししやうさま》と|共《とも》に、どれ|丈《だ》けお|前《まへ》を|探《さが》して|居《を》つたか|知《し》れないのだ。|処《ところ》もあらうにバラモン|教《けう》の|聖場《せいぢやう》に|納《をさ》まりかへつて|居《ゐ》るとは|合点《がてん》が|行《ゆ》かぬ。これは|何《なに》か|様子《やうす》があるのだらう。さア|早《はや》くお|師匠様《ししやうさま》に|申上《まをしあ》げぬか』
|三千彦《みちひこ》は|胸《むね》|撫《な》で|下《おろ》し、|涙《なみだ》を|流《なが》し|乍《なが》ら、
|三千《みち》『|御師匠様《おししやうさま》、よう|無事《ぶじ》で|居《ゐ》て|下《くだ》さいました。|貴方《あなた》の|所在《ありか》を|尋《たづ》ねむものと、バラモン|教《けう》の|聖場《せいぢやう》に|入《い》り|込《こ》み、|種々雑多《しゆじゆざつた》と|苦労《くらう》を|致《いた》しました。|斯様《かやう》な|所《ところ》でお|目《め》にかかるとは|全《まつた》く|神様《かみさま》の|御引合《おひきあは》せで|厶《ござ》います。さア|奥《おく》へお|通《とほ》り|下《くだ》さいませ』
|玉国《たまくに》『あ、|三千彦《みちひこ》|殿《どの》、まア|結構《けつこう》だつたな。|随分《ずいぶん》|吾々《われわれ》|三人《さんにん》はお|前《まへ》の|身《み》の|上《うへ》を|案《あん》じて|居《ゐ》たのだ。|只今《ただいま》|無事《ぶじ》な|顔《かほ》を|見《み》て、こんな|嬉《うれ》しい|事《こと》はない。|然《しか》し|此《この》|通《とほ》りバラモン|軍《ぐん》と|無頼漢《ぶらいかん》との|同士打《どうしう》ちが|初《はじ》まつてるが、もとは|吾々《われわれ》|一行《いつかう》に|対《たい》しての|挑戦《てうせん》であつたが、|何時《いつ》の|間《ま》にか|相手《あひて》が|変《かは》つて|味方《みかた》の|同士打《どうしう》ちとなつた。|実《じつ》に|気《き》の|毒《どく》だから|之《これ》を|一先《ひとま》づ|鎮撫《ちんぶ》せなくてはなるまい。|緩《ゆつく》り|奥《おく》で|休息《きうそく》する|訳《わけ》にも|行《ゆ》かぬぢやないか』
|三千《みち》『|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》なさいますな。スマートさまに|一任《いちにん》して|置《お》けば|大丈夫《だいぢやうぶ》ですよ。アハハハハ』
|真純《ますみ》『うん、そらさうだ。|吾々《われわれ》|四人《よにん》の|宣伝使《せんでんし》よりも|余程《よほど》|神力《しんりき》が|備《そな》はつて|居《ゐ》るのだからな、|四足《よつあし》だつて|余《あんま》り|馬鹿《ばか》に|出来《でき》ぬぢやないか。|吾々《われわれ》はスマート|大明神《だいみやうじん》のお|蔭《かげ》で|命《いのち》が|助《たす》かつたのだ。アハハハハハ』
と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら|三千彦《みちひこ》に|案内《あんない》されて|奥《おく》の|間《ま》を|指《さ》して|進《すす》み|入《い》る。
ハンナは|部下《ぶか》の|兵士《へいし》が|無頼漢《ぶらいかん》と|入《い》り|乱《みだ》れて|戦《たたか》つて|居《ゐ》るのを|見逃《みのが》す|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|直《ただ》ちに|驢馬《ろば》に|跨《またが》り|両方《りやうはう》|混戦《こんせん》の|中《なか》に|駆《か》け|入《い》つて|声《こゑ》を|嗄《か》らし『|鎮《しづ》まれ|鎮《しづ》まれ』と|厳《きび》しき|下知《げち》を|伝《つた》へた。
|此《この》|声《こゑ》を|聞《き》くより|敵味方《てきみかた》ともに|水《みづ》を|打《う》つたる|如《ごと》くピタンと|戦闘《せんとう》は|停止《ていし》された。スマートは|忽《たちま》ち|駆《か》け|来《きた》り、ワックス、エキス、ヘルマン、エルの|四人《よにん》を|探《さが》し|索《もと》めて|引倒《ひきたふ》し、ハンナの|前《まへ》に|一々《いちいち》|引《ひ》き|来《きた》りワンワンと|叫《さけ》んで、|之《これ》を|縛《しば》れよとの|意《い》を|示《しめ》した。ハンナは|四人《よにん》を|手早《てばや》く|縛《ばく》し|上《あ》げ、|馬場《ばんば》の|前《まへ》の|大杭《おほぐひ》にシカと|縛《しば》りつけた。|弱《よわ》きを|挫《くじ》き|強《つよ》きに|従《したが》ふ|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》は、|会則《くわいそく》を|遵守《じゆんしゆ》して|一人《ひとり》も|残《のこ》さず、コソコソと|己《おの》が|家路《いへぢ》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。トンクは|驢馬《ろば》に|跨《またが》つた|儘《まま》、|十字街頭《じふじがいとう》の|鐘路《しようろ》に|現《あら》はれ、|臆病風《おくびやうかぜ》に|誘《さそ》はれた|数多《あまた》の|老若男女《らうにやくなんによ》を|集《あつ》めて|一場《いちぢやう》の|訓戒《くんかい》|演説《えんぜつ》をはじめて|居《ゐ》る。
トンク『|御一同様《ごいちどうさま》の|中《なか》には|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》も|水平怪員《すいへいくわいゐん》も、|其《その》|他《た》|町内《ちやうない》|有志《いうし》|諸君《しよくん》も|居《を》られますが、よくまア|会則《くわいそく》を|遵守《じゆんしゆ》し、|一人《いちにん》も|残《のこ》らず|退却《たいきやく》して|下《くだ》さいました。|実《じつ》に|幹部《かんぶ》たる|吾々《われわれ》は、|諸君《しよくん》の|行動《かうどう》に|対《たい》し、|欣幸《きんかう》|措《お》く|能《あた》はざる|所《ところ》で|厶《ござ》います。|今日《こんにち》|迄《まで》は|神館《かむやかた》には|只《ただ》|一人《ひとり》の|魔法使《まはふづかひ》|三千彦《みちひこ》と|云《い》ふ|大先生《だいせんせい》、|並《なら》びに|求道居士《きうだうこじ》の|二人《ふたり》の|魔法使《まはふづかひ》、それ|故《ゆゑ》|吾々《われわれ》|一同《いちどう》に|比較《ひかく》すれば|先方《せんぱう》は|弱者《じやくしや》で|厶《ござ》いました。|併《しか》し|乍《なが》らもはや|今日《こんにち》は|新《あらた》に|三人《さんにん》の|魔法使《まはふづかひ》の|大先生《だいせんせい》が|御出現《ごしゆつげん》|遊《あそ》ばされ、|又《また》|武器《ぶき》を|携《たづさ》へたニコラスキャプテンが|五十《ごじふ》の|兵士《へいし》を|引率《いんそつ》して|館《やかた》を|固《かた》くお|守《まも》りになり、|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》と|同盟《どうめい》|遊《あそ》ばした|上《うへ》は、|忽《たちま》ち|地位《ちゐ》|転倒《てんたう》して|先方《せんぱう》は|強者《きやうしや》となり、|吾々《われわれ》は|弱者《じやくしや》の|地位《ちゐ》に|立《た》たねばならなくなりました。|加《くは》ふるにスマートと|云《い》ふ、あの|猛犬《まうけん》|大明神《だいみやうじん》は|中々《なかなか》の|強者《きやうしや》で|厶《ござ》います。|併《しか》し|乍《なが》ら|弱者《じやくしや》は|弱者《じやくしや》として|独立《どくりつ》する|訳《わけ》にはゆきませぬ。|会則《くわいそく》にある|通《とほ》り、|弱《よわ》きを|挫《くじ》き、|強《つよ》きに|従《したが》ふのが|吾々《われわれ》の|本領《ほんりやう》で|厶《ござ》います。それ|故《ゆゑ》|吾々《われわれ》|一同《いちどう》は|神館《かむやかた》に|至《いた》り|心《こころ》から|帰順《きじゆん》|致《いた》し、|馬場《ばんば》に|繋《つな》ぎあるワックス|等《たち》に|大痛棒《だいつうぼう》を|加《くは》へ|天晴《あつぱれ》|融通《ゆうづう》を|利《き》かし、|三五教《あななひけう》|及《およ》びバラモン|軍《ぐん》に|帰順《きじゆん》の|誠《まこと》を|現《あら》はし、|身《み》の|安全《あんぜん》を|図《はか》るを|以《もつ》て|第一《だいいち》と|心得《こころえ》ます。|皆《みな》さまの|御意見《ごいけん》は|如何《いかが》で|厶《ござ》いますか』
と|呼《よば》はつた。|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》を|初《はじ》め、その|他《た》の|連中《れんちう》はトンクの|詭弁《きべん》に|何《いづ》れも|感心《かんしん》し、|一《いち》も|二《に》もなく|手《て》を|拍《う》つて|賛意《さんい》を|表《へう》した。トンクは|此《この》|態《てい》を|見《み》て|威猛高《ゐたけだか》になり、
トンク『|皆《みな》さま、|早速《さつそく》の|御承知《ごしようち》、トンク|身《み》にとり|満足《まんぞく》に|存《ぞん》じます。|就《つい》てはワックスの|会長《くわいちやう》を|皆様《みなさま》より|免《めん》じ、|新《あらた》に|強者《きやうしや》を|会長《くわいちやう》に|任命《にんめい》されむ|事《こと》を|希望《きばう》|致《いた》します。その|強者《きやうしや》とは|申《まを》す|迄《まで》もなく|私《わたし》はトンクだと|思《おも》ひます。トンクに|御賛成《ごさんせい》の|方《かた》は|手《て》を|拍《う》つて|下《くだ》さい。|不賛成《ふさんせい》の|方《かた》は|背《せな》を|向《む》けて|尻《しり》を|捲《まく》つて|下《くだ》さい。|何事《なにごと》も|多数決《たすうけつ》で|厶《ござ》いますから』
|手《て》を|拍《う》つもの|半分《はんぶん》、|尻《しり》を|捲《まく》つて|背《せ》をそむけるもの|半分《はんぶん》、トンクは|馬上《ばじやう》より|之《これ》を|眺《なが》めて、
トンク『|皆《みな》さま、|手《て》を|拍《う》つて|下《くだ》さる|方《かた》が|半分《はんぶん》、|尻《けつ》を|捲《まく》つて|反対《はんたい》を|表《へう》する|方《かた》が|半分《はんぶん》と|見《み》えます。これでは【ハンケツ】がつきませぬ。|何《なん》とか、も|一度《いちど》|考《かんが》へ|直《なほ》して|頂《いただ》き|度《た》う|厶《ござ》います』
|此《この》|声《こゑ》と|共《とも》に|今度《こんど》は|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|黒《くろ》い|尻《しり》を|捲《まく》つてトンクの|方《はう》に|向《む》けた。さうして|群集《ぐんしふ》の|中《なか》より『|即《そく》ケツ|否《ひ》ケツ』と|叫《さけ》ぶものがある。トンクは|馬上《ばじやう》より|歯《は》ぎしりをし|乍《なが》ら、
トンク『エー、|尻太異《けつたい》な|事《こと》だな』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|驢馬《ろば》に|跨《またが》りチヨク チヨクと|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《き》たのはタンクであつた。タンクはトランクの|口《くち》を|開《ひら》き、|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》を|掴《つか》んでは|投《な》げ、|掴《つか》んでは|投《な》げ、
タンク『|皆《みな》さま、|私《わたし》が|悪酔怪《あくすゐくわい》の|怪長《くわいちやう》の|候補者《こうほしや》で|厶《ござ》います。|今《いま》|黄白《くわうはく》を|斯《か》くの|通《とほ》り|撒《ま》き|散《ち》らしますから|十分《じふぶん》|拾得競争《しふとくきやうさう》をやつて|下《くだ》さい。|拾得《しふとく》された|方《かた》は|其《その》|方《かた》の|所有《しよいう》で|厶《ござ》います。|其《その》|代《かは》り|神聖《しんせい》なる|一票《いつぺう》を|此《この》タンクにお|与《あた》へ|下《くだ》されむ|事《こと》を|希望《きばう》|致《いた》します』
と|掴《つか》んでは|投《な》げ、|掴《つか》んでは|投《な》げ、|前後左右《ぜんごさいう》に|駒《こま》を|進《すす》めて|残《のこ》らず|万遍《まんべん》なく|撒《ま》き|散《ち》らして|了《しま》つた。トンクも|手早《てばや》く|馬《うま》から|下《お》り、|矢庭《やには》に|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》をを|拾《ひろ》つては|懐中《ふところ》につつ|込《こ》み、|再《ふたた》び|馬上《ばじやう》につつ|立《た》ち|選挙《せんきよ》の|様子《やうす》を|観望《くわんばう》して|居《ゐ》る。タンクは|全部《ぜんぶ》|黄白《くわうはく》を|撒《ま》き|散《ち》らし、もはや|欠《か》けたカンツも|無《な》くなつて|居《ゐ》た。タンクは|馬上《ばじやう》より|雷声《らいせい》を|張《は》り|上《あ》げ、
タンク『|皆《みな》さま、|私《わたし》を|怪長《くわいちやう》に|選挙《せんきよ》して|下《くだ》さいますまいか。|賛成《さんせい》の|方《かた》は|手《て》を|拍《う》つて|下《くだ》さい。|万一《まんいち》|不賛成《ふさんせい》のお|方《かた》は|尻《しり》を|捲《まく》つて|屁《へ》を|一発《いつぱつ》|手向《たむ》けて|頂《いただ》き|度《た》い。|何程《なにほど》お|尻《しり》を|捲《まく》られても、|屁《へ》の|出《で》ない|方《かた》は|賛成《さんせい》と|認《みと》めます』
とうまく|孫呉《そんご》の|屁法《へいはふ》で|予防線《よばうせん》を|張《は》つて|了《しま》つた。ここに|半分《はんぶん》は|手《て》を|拍《う》ち|半分《はんぶん》は|尻《しり》を|捲《まく》らず、|手《て》も|拍《う》たず、|茫然《ばうぜん》として|控《ひか》へて|居《ゐ》る。タンクは|怪訝《けげん》な|顔《かほ》して|馬上《ばじやう》より|様子《やうす》を|窺《うかが》つて|居《ゐ》た。|此《この》|時《とき》トンクはタンクの|撒《ま》いた|金銀《きんぎん》を|馬上《ばじやう》より|見《み》せびらかし|乍《なが》ら、
トンク『|皆《みな》さま、|最前《さいぜん》|手《て》を|拍《う》つて|下《くだ》さつたお|方《かた》は|私《わたし》の|賛成者《さんせいしや》と|認《みと》めます。|今《いま》タンクさまに|対《たい》して|手《て》を|拍《う》たず、|尻《しり》を|向《む》けない|方《かた》は|中立者《ちうりつしや》と|認《みと》めます。その|方《かた》に|対《たい》して|此《この》|黄白《くわうはく》を|撒《さん》ずる|考《かんが》へですから|賛成《さんせい》の|方《かた》は|手《て》を|拍《う》つて|下《くだ》さい。|今《いま》ここで|撒《ま》き|散《ち》らしますと、|二重取《にぢうど》りされると|折角《せつかく》の|賛成者《さんせいしや》の|手《て》に|入《い》りませぬから、|私《わたし》の|宅《たく》でお|渡《わた》ししませう。|少《すくな》くとも|千両《せんりやう》の|金《かね》はありますから|百人《ひやくにん》に|分配《ぶんぱい》しても|十両《じふりやう》づつは|確《たしか》で|厶《ござ》います。さア|一《いち》、|二《に》、|三《さん》で|願《ねが》ひます』
|今度《こんど》は|如何《どう》したものか、|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|尻《しり》を|捲《まく》つて|口屁《くちべ》をプウプウと|鳴《な》らして|居《ゐ》る。|中《なか》には|尻《けつ》から|黒《くろ》い|湿《しめ》つぽい|輪廓《りんくわく》の|不完全《ふくわんぜん》な|煙《けむり》を|吐《は》き|出《だ》す|奴《やつ》も|少《すこ》しはあつた。
トンク『|然《しか》らば|拙者《せつしや》が|副怪長《ふくくわいちやう》となり、タンクさまを|怪長《くわいちやう》に|選《えら》んで|下《くだ》さい。さうすれば|双方《さうはう》|共《とも》|顔《かほ》が|立《た》ちますから』
|大勢《おほぜい》の|中《なか》から、
『オーイ、トンク、|貴様《きさま》の|今《いま》|持《も》つてる|金《かね》は|皆《みんな》タンクさまの|撒《ま》いた|金《かね》だ。|副怪長《ふくくわいちやう》に|任《にん》じて|欲《ほ》しけりや|皆《みな》バラ|撒《ま》くのだ。そしたら|副怪長《ふくくわいちやう》にしてやろう』
トンク『|成程《なるほど》|然《しか》らば|皆《みな》さまに|撒《ま》き|散《ち》らしますから、よう|拾《ひろ》はない|人《ひと》は|運命《うんめい》だと|締《あきら》めて|下《くだ》さい。|兎《と》も|角《かく》|半数者《はんすうしや》|以上《いじやう》の|賛成《さんせい》があれば|可《い》いのです』
と|懐《ふところ》より|一《ひと》つも|残《のこ》らず|取《と》り|出《いだ》し、|前後左右《ぜんごさいう》にまき|散《ち》らして|了《しま》つた。|此《この》|潮時《しほどき》を|見済《みす》まし、タンクは|大音声《だいおんじやう》、
タンク『|皆《みな》さま、|私《わたし》を|怪長《くわいちやう》に|選《えら》んで|下《くだ》さつた|事《こと》を|有難《ありがた》く|感謝《かんしや》します。|何《なん》と|云《い》つても|運動費《うんどうひ》が|無《な》くては|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》は|駄目《だめ》です。|墓標議員《ぼへうぎゐん》の|事故議員《じこぎゐん》、|妥協議員《だけふぎゐん》にならうと|思《おも》つても、|五万《ごまん》や|十万《じふまん》の|金《かね》が|入《い》る|時節《じせつ》ですから、|無一文《むいちもん》で|議員《ぎゐん》にならう|等《など》とは|余《あま》り|虫《むし》が|良《よ》すぎます。|私《わたし》は|副怪長《ふくくわいちやう》なんかは|必要《ひつえう》はないと|思《おも》ひます。|官《くわん》の|為《ため》|人《ひと》を|選《えら》むのではなく、|人《ひと》の|為《ため》に|官《くわん》を|作《つく》ると|云《い》ふ|事《こと》は|最《もつと》も|不利益《ふりえき》|且《か》つ|不経済《ふけいざい》、|秩序紊乱《ちつじよぶんらん》の|端緒《たんちよ》を|開《ひら》くもの|私《わたし》は|副怪長《ふくくわいちやう》の|必要《ひつえう》はないと|思《おも》ひます。|皆《みな》さま、|必要《ひつえう》と|認《みと》めた|方《かた》は|手《て》を|拍《う》つて|下《くだ》さい、|不必要《ふひつえう》と|認《みと》めた|方《かた》は、も|一度《いちど》|尻《しり》を|捲《まく》つてトンクさまの|方《はう》へ|見《み》せて|下《くだ》さい。それを|以《もつ》て|貴方《あなた》|等《がた》の|意志《いし》を|明《あきら》かに|致《いた》します』
|一同《いちどう》は|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|真黒《まつくろ》の|尻《しり》を|捲《まく》つてトンクの|方《はう》へ|尻《しり》をさし|向《む》け、|御叮嚀《ごていねい》にピシヤ ピシヤと|黒《くろ》い|臀肉《でんにく》を|叩《たた》いて|見《み》せた。トンクはスゴスゴと|驢馬《ろば》の|尻《しり》を|無性《むしやう》|矢鱈《やたら》に|叩《たた》き、|業腹《ごふばら》|煮《に》やして|何処《どこ》ともなく|姿《すがた》を|隠《かく》した。
これよりタンクは|大勢《おほぜい》の|前《まへ》に|立《た》ち|凱旋歌《がいせんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|神館《かむやかた》をさして|練《ね》り|込《こ》んで|行《ゆ》く。|大勢《おほぜい》は|擦鉦《すりがね》を|叩《たた》き、|歌《うた》に|合《あは》せて|拍子《ひやうし》をとり|跟《つ》いて|行《ゆ》く。
『|扨《さ》ても|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》は |弱《よわ》きを|挫《くじ》き|強者《きやうしや》には
|恐《おそ》れて|従《したが》ふ|卑怯者《ひけふもの》 |平安《へいあん》|無事《ぶじ》が|第一《だいいち》だ
|強《つよ》い|奴《やつ》にはドツと|逃《に》げ |弱《よわ》い|奴《やつ》にはドツと|行《ゆ》け
これが|軍《いくさ》の|駆引《かけひき》だ チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン
いやいや|軍《いくさ》のみでない |万事《ばんじ》|万端《ばんたん》その|通《とほ》り
どんな|商売《しやうばい》|致《いた》しても |小《ちひ》さい|店《みせ》を|踏《ふ》み|倒《たふ》し
|小《ちひ》さい|資本《しほん》の|会社《くわいしや》をば |片《かた》ツ|端《ぱし》から|押《お》し|倒《たふ》し
|大《おほ》きな|奴《やつ》には|尾《を》を|巻《ま》いて |暫《しば》らく|忍《しの》び|時《とき》を|待《ま》ち
いつとはなしに|強《つよ》くなり |大《おほ》きくなつたその|時《とき》に
|己《おの》が|所信《しよしん》を|貫徹《くわんてつ》し |世界《せかい》の|強者《きやうしや》と|崇《あが》められ
|優勝劣敗《いうしようれつぱい》|経《たて》となし |弱肉強食《じやくにくきやうしよく》|緯《ぬき》として
|此《この》|世《よ》を|渡《わた》るが|利口者《りこうもの》 チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン
|神《かみ》の|館《やかた》に|現《あれ》ませる |三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》
|三千彦《みちひこ》さまは|弱《よわ》いとは |云《い》へど|其《その》|実《じつ》|強《つよ》い|人《ひと》
|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|魔法《まはふ》をば |使《つか》つて|吾等《われら》を|苦《くる》しめつ
|何処々々《どこどこ》|迄《まで》もやり|通《とほ》す こんなお|方《かた》に|逆《さか》らうて
どうして|吾《わが》|身《み》が|立《た》つものか チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン
|弱《よわ》きを|挫《くじ》き|強《つよ》きをば |助《たす》ける|吾々《われわれ》|怪員《くわいゐん》は
ワックス、エキス、ヘルマンや エルの|司《つかさ》を|虐《しへた》げて
|悪酔怪《あくすゐくわい》の|至誠《しせい》をば |現《あら》はし|館《やかた》に|立向《たちむか》ひ
そこはそれそれ|都合《つがふ》よく |頭《あたま》を|下《さ》げて|胡麻《ごま》を|摺《す》り
|身《み》の|安全《あんぜん》を|図《はか》るのだ こんな|神謀鬼策《しんぼうきさく》をば
もしもトンクが|怪長《くわいちやう》なら どうして|捻《ひね》り|出《だ》されよか
|智慧《ちゑ》の|袋《ふくろ》のタンクさま |神謀鬼策《しんぼうきさく》の|妙案《めうあん》は
|胸《むね》の|袋《ふくろ》にタンク|山《さん》に |蔵《しま》つて|厶《ござ》るぞ|皆《みな》さまよ
|心《こころ》を|丈夫《ぢやうぶ》に|持《も》つが|良《よ》い チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン
|早《はや》くも|馬場《ばんば》に|近《ちか》づいた |皆《みな》さま|声《こゑ》を|打揃《うちそろ》へ
|三五教《あななひけう》やバラモンの |神《かみ》の|司《つかさ》の|万歳《ばんざい》を
ここから|唱《とな》へ|上《あ》げませう それに|続《つづ》いてスマートの
|犬《いぬ》|大明神《だいみやうじん》の|万歳《ばんざい》を |三唱《さんしやう》し|乍《なが》ら|進《すす》みませう
チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|叶《かな》はぬから|叶《かな》はぬから |目玉《めだま》|飛《と》び|出《だ》しましませよ
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |強《つよ》きを|助《たす》け|弱《よわ》きをば
|挫《くじ》くが|天地《てんち》の|道理《だうり》ぞや |大魚《たいぎよ》は|小魚《せうぎよ》を|呑《の》み|喰《くら》ひ
|大獣《たいじう》は|小獣《せうじう》を|噛《か》み|喰《くら》ひ |強者《きやうしや》は|弱者《じやくしや》を|虐《しへた》げる
|富者《ふうしや》は|貧者《ひんじや》をこき|使《つか》ひ |役人《やくにん》さまは|平民《へいみん》を
|奴隷《どれい》の|如《ごと》く|足《あし》にかけ |腮《あご》をしやくつて|使《つか》ふのだ
これが|天地《てんち》の|道理《だうり》ぞや |必《かなら》ず|迷《まよ》ふちやならないぞ
チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン』
と|勝手《かつて》な|熱《ねつ》を|吹《ふ》き|悠々《いういう》として|驢馬《ろば》に|跨《またが》り、|先頭《せんとう》に|立《た》ち|早《はや》くも|門内《もんない》に|進《すす》み|入《い》る。
(大正一二・三・二八 旧二・一二 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第三章 |怪散《くわいさん》〔一四七八〕
|清《きよ》き|心《こころ》の|玉国別《たまくにわけ》は |夏《なつ》の|御空《みそら》の|真純彦《ますみひこ》
|足《あし》を|傷《きず》づく|伊太彦《いたひこ》の |二人《ふたり》の|弟子《でし》を|伴《ともな》ひて
|天津日影《あまつひかげ》もテルモンの |珍《うづ》の|館《やかた》の|表門《おもてもん》
|神《かみ》の|使《つかひ》のスマートに |守《まも》られながら|進《すす》み|入《い》る
|老若男女《らうにやくなんによ》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》 |矢叫《やさけ》びの|音《ね》に|驚《おどろ》いて
|立《た》ち|現《あら》はれし|三千彦《みちひこ》は |表《おもて》の|門《もん》の|入口《いりぐち》に
|焦《こが》れ|慕《した》ふた|師《し》の|君《きみ》や |二人《ふたり》の|友《とも》に|廻《めぐ》り|会《あ》ひ
|嬉《うれ》しさ|余《あま》り|胸《むね》|迫《せま》り |何《なん》の|応答《いらへ》も|泣《な》く|許《ばか》り
|漸《やうや》く|心《こころ》|取《と》り|直《なほ》し |奥《おく》の|一間《ひとま》に|静々《しづしづ》と
|三人《みたり》を|伴《ともな》ひ|進《すす》み|入《い》る |小国姫《をくにひめ》を|初《はじ》めとし
デビスの|姫《ひめ》やケリナ|姫《ひめ》 バラモン|教《けう》の|神司《かむづかさ》
ニコラスキャプテン|初《はじ》めとし |求道居士《きうだうこじ》やヘル|司《つかさ》
マリス、リーベナ、ルイキン、ポリト バットを|初《はじ》め|四五人《しごにん》の
|僕《しもべ》と|共《とも》に|控《ひか》へ|居《ゐ》る |小国姫《をくにひめ》は|三人《さんにん》の
|姿《すがた》を|見《み》るより|喜《よろこ》びて |其《その》|坐《ざ》を|下《くだ》り|手《て》を|支《つか》へ
よくこそお|出《いで》|下《くだ》さつた |貴方《あなた》は|三千彦《みちひこ》|宣伝使《せんでんし》
|救《すく》ひの|神《かみ》の|師匠様《ししやうさま》 まあまあこれへと|請《しやう》ずれば
|玉国別《たまくにわけ》は|目礼《もくれい》し |其《その》|言《こと》の|葉《は》に|従《したが》ひて
|設《まう》けの|席《せき》につきにける。
|小国姫《をくにひめ》『|此処《ここ》はバラモン|教《けう》の|神館《かむやかた》、|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|発祥《はつしやう》の|地《ち》、|其《その》お|館《やかた》を|守《まも》る|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》、いろいろと|禍《わざはひ》の|神《かみ》に|見舞《みま》はれ、|煩悶《はんもん》|苦悩《くなう》の|最中《さいちう》へ|貴方《あなた》のお|弟子《でし》|三千彦《みちひこ》|様《さま》がお|出《いで》|下《くだ》さいまして、|吾々《われわれ》|一同《いちどう》の|難儀《なんぎ》をお|救《たす》け|下《くだ》さいました。|其《その》|胆力《たんりよく》と|義侠心《ぎけふしん》に|対《たい》し、|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》を|零《こぼ》して|居《を》ります。|何卒《どうぞ》|今後《こんご》はお|見捨《みす》てなく|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|致《いた》します。|又《また》、この|求道居士《きうだうこじ》は|元《もと》は、バラモン|教《けう》のカーネルさま、|治国別《はるくにわけ》|様《さま》のお|言葉《ことば》に|感《かん》じ|比丘《びく》となり|三五教《あななひけう》のお|道《みち》をお|開《ひら》きなさる|道《みち》すがら、|私《わたし》の|娘《むすめ》|二人《ふたり》の|危難《きなん》をお|救《すく》ひ|下《くだ》さつた|御恩人《ごおんじん》で|厶《ござ》います、|何《なん》ともお|礼《れい》の|申《まをし》やうが|厶《ござ》いませぬ』
|玉国《たまくに》『それはそれは、|結構《けつこう》なお|神徳《かげ》を|頂《いただ》かれました。お|目出度《めでた》う|存《ぞん》じます。そして|貴方《あなた》は|求道居士《きうだうこじ》|様《さま》ですか、よくまア|入信《にふしん》なさいました』
|求道《きうだう》『ハイ、|私《わたくし》はバラモン|軍《ぐん》のカーネル、エミシと|申《まを》すもの、|鬼春別《おにはるわけ》、|久米彦《くめひこ》|将軍《しやうぐん》に|従《したが》ひ|浮木《うきき》の|森《もり》|迄《まで》|進軍《しんぐん》|致《いた》し、|河鹿峠《かじかたうげ》の|味方《みかた》の|敗戦《はいせん》によりビクの|国《くに》|迄《まで》|退陣《たいぢん》|致《いた》し、|此処《ここ》を|又《また》|立《た》ち|出《いで》て、|猪倉山《ゐのくらやま》の|岩窟《がんくつ》に|要塞《えうさい》を|構《かま》へ、|難攻不落《なんこうふらく》と|誇《ほこ》つて|居《を》る|所《ところ》へ|治国別《はるくにわけ》|様《さま》がお|越《こし》になり、|神様《かみさま》の|道《みち》をお|諭《さと》し|下《くだ》さいましてから、|翻然《ほんぜん》として|悟《さと》り、|今《いま》は|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》となり、|御神業《ごしんげふ》に|奉仕《ほうし》さして|頂《いただ》いて|居《ゐ》ます。|足《たら》はぬ|某《それがし》、|何卒《なにとぞ》|厚《あつ》き|御指導《ごしだう》をお|願《ねが》ひ|申《まをし》ます』
|玉国《たまくに》『お|互《たがひ》に|手《て》を|引《ひ》き|合《あ》うて、|御用《ごよう》に|立《た》てさせて|頂《いただ》きませう』
|求道《きうだう》『|此処《ここ》に|見《み》えて|居《ゐ》る|七人《しちにん》の|方《かた》は、バラモン|軍《ぐん》の、ニコラスと|云《い》ふ、キャプテンで|厶《ござ》います、|其《その》|他《た》の|六人《ろくにん》は|何《いづ》れも|下士官《かしくわん》で|厶《ござ》いますが、|鬼春別《おにはるわけ》|将軍《しやうぐん》の|変心《へんしん》|及《およ》び|其《その》|後《ご》の|模様《もやう》を|調査《てうさ》すべく、|先刻《せんこく》この|館《やかた》に|御出張《ごしゆつちやう》になり、|吾々《われわれ》の|話《はなし》を|聞《き》いて、|漸《やうや》く|賛成《さんせい》|下《くだ》さつた|所《ところ》です。|何卒《なにとぞ》|宜敷《よろし》く|御指導《ごしだう》を|願《ねが》ひ|上《あ》げます』
|玉国《たまくに》『|何分《なにぶん》お|互《たがひ》に|宜敷《よろし》く|願《ねが》ひませう。ああ、|貴方《あなた》がニコラス|様《さま》で|厶《ござ》いますか。や、|御一同様《ごいちどうさま》|初《はじ》めてお|目《め》にかかります。|世《よ》の|中《なか》には|敵《てき》もなければ|味方《みかた》も|厶《ござ》いませぬ、|同《おな》じ|神様《かみさま》に|育《はぐく》まれて|居《ゐ》る|吾々《われわれ》|人間《にんげん》は|互《たがひ》に|仲《なか》よくせねばなりませぬからなア』
ニコラス|以下《いか》|六人《ろくにん》はハツと|頭《かしら》を|下《さ》げ、
『|何分《なにぶん》|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|申《まをし》ます』
と|心《こころ》の|底《そこ》より|挨拶《あいさつ》をする。|斯《かか》る|所《ところ》に|門前《もんぜん》|俄《にはか》に|騒《さわ》がしく|擦鉦《すりがね》の|音《おと》、|大声《おほごゑ》に|歌《うた》ふ|声《こゑ》|聞《きこ》え|来《く》る。|三千彦《みちひこ》はツと|立《た》つて|何事《なにごと》ならむと|表門《おもてもん》に|出《で》た。スマートは|厳然《げんぜん》として|門《もん》を|守《まも》つて|居《ゐ》る。|悪酔怪長《あくすゐくわいちやう》タンクは|先《さき》に|立《た》ちて|進《すす》み|来《きた》り、|三千彦《みちひこ》に|向《むか》ひ|揉手《もみで》をしながら、|米搗《こめつき》バツタのやうにピヨコ ピヨコと|腰《こし》を|折《を》り|頭《かしら》を|下《さ》げ、|媚《こび》を|呈《てい》し|乍《なが》ら、
タンク『エエ、これはこれは、|三五教《あななひけう》の|大宣伝使《だいせんでんし》、|神力無双《しんりきむさう》の|三千彦《みちひこ》|様《さま》で|厶《ござ》いますか。まアよく|遥々《はるばる》と|神館《かむやかた》にお|出《いで》|下《くだ》さいまして、|館《やかた》の|危難《きなん》をお|救《すく》ひ|下《くだ》さり、これの|館《やかた》の|黒雲《くろくも》を|除《のぞ》き、|天下泰平《てんかたいへい》にお|治《をさ》め|下《くだ》さいました|段《だん》、|宮町《みやまち》|一同《いちどう》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|国民《こくみん》|一同《いちどう》の|感謝《かんしや》|措《お》かざる|所《ところ》です。|私《わたし》は|天下《てんか》の|無頼漢《ぶらいかん》、イヤ、オツトドツコイ|無頼漢《ぶらいかん》を|懲《こら》す、|悪酔怪《あくすゐくわい》の|怪長《くわいちやう》タンクと|云《い》ふ【ケチナ】|野郎《やらう》で|厶《ござ》います。|怪員《くわいゐん》|一同《いちどう》に|代《かは》り、|貴方《あなた》の|御高徳《ごかうとく》を|感謝《かんしや》する|為《ため》に|罷《まか》りつん|出《で》ました。スマート|様《さま》にもそれはそれは|何《なん》とも|云《い》へぬ|御尽力《ごじんりよく》に|預《あづか》りまして|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます。ワックス、ヘルマン、エキス、エルの|悪人輩《あくにんばら》が|集《あつ》まりまして、|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|盗《ぬす》むやら、|家々《いへいへ》の|宝《たから》を|盗《ぬす》むやら|騒動《さうだう》をおつ|始《ぱじ》め、どうとも|斯《か》うともならない|難儀《なんぎ》で|厶《ござ》いましたが、|貴方様《あなたさま》のお|出《いで》|以来《いらい》、|風塵《ふうじん》|治《をさ》まり、|天下泰平《てんかたいへい》の|端緒《たんちよ》を|得《え》ましたのは、|私《わたし》|等《ら》の|抃舞《べんぶ》|措《お》く|能《あた》はざる|所《ところ》です。|何卒《なにとぞ》|吾々《われわれ》の|至誠《しせい》をお|認《みと》め|下《くだ》さいまして、|今後《こんご》|御贔屓《ごひいき》|下《くだ》さるやうお|願《ねが》ひ|致《いた》します。|此《こ》の|通《とほ》り|数多《あまた》の|町民《ちやうみん》が|参《まゐ》りましたのも|皆《みな》、|貴方《あなた》の|御高徳《ごかうとく》を|感謝《かんしや》せむ|為《ため》に|参上《さんじやう》|致《いた》しましたので|厶《ござ》いますから、|何卒《どうぞ》|宜敷《よろし》く|可愛《かあい》がつて|頂《いただ》き|度《た》う|厶《ござ》います』
|三千《みち》『ヤア|夫《それ》は|結構《けつこう》だ。|吾々《われわれ》に|対《たい》する|誤解《ごかい》が|解《と》けましたかな。|今後《こんご》は|互《たがひ》に|手《て》を|引《ひ》きやうて、お|館《やかた》のため、お|国《くに》のため|協力《けふりよく》|一致《いつち》、|誠《まこと》を|捧《ささ》げられむ|事《こと》を|祈《いの》ります。|然《しか》し|乍《なが》ら、かう|大勢《おほぜい》|館《やかた》へ|入《はい》り|込《こ》まれましては|小国別《をくにわけ》|様《さま》も|御病中《ごびやうちう》なり、|御迷惑《ごめいわく》をせられませうから、|門前《もんぜん》の|馬場《ばんば》にてお|目《め》にかかりませう』
とスマートを|引《ひ》き|連《つ》れ|門《もん》を|出《い》で、|階段《かいだん》を|下《くだ》り|草《くさ》|青《あを》き|馬場《ばんば》に|出《いで》|立《た》ち|見《み》れば、|五十《ごじふ》の|兵士《へいし》は|列《れつ》を|正《ただ》し、ワックス|外《ほか》|四人《よにん》を|縛《ばく》したまま|警護《けいご》して|居《ゐ》る。|軍人側《ぐんじんがは》と、|悪酔怪側《あくすゐくわいがは》とはいつしか|和睦《わぼく》が|出来《でき》たと|見《み》えて|互《たがひ》にニコニコ|笑《わら》つて|居《ゐ》る。タンクは|再《ふたた》び|驢馬《ろば》に|跨《またが》り、ワックス|外《ほか》|三人《さんにん》の|前《まへ》に|馬《うま》を|留《とど》め|大音声《だいおんじやう》にて|演説《えんぜつ》を|初《はじ》めかけた。|三千彦《みちひこ》は|麗《うるは》しき|赤《あか》、|白《しろ》、|黄《き》、|紫《むらさき》のデリケートの|花《はな》の|咲《さ》き|満《み》ちた|青芝《あをしば》の|上《うへ》に|腰《こし》を|下《お》ろし、スマートの|頭《かしら》を|撫《な》で|乍《なが》ら、ニコニコとして|控《ひか》へて|居《ゐ》る。
タンク『そもそも|此処《ここ》に|繋《つな》がれし テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》
|荒《あら》し|廻《まは》りしワックスや |其《その》|外《ほか》|三人《みたり》の|悪漢《わるもの》は
|大黒主《おほくろぬし》の|御宝《おんたから》 |如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》を|横奪《わうだつ》し
|館《やかた》の|主《あるじ》を|苦《くる》しめて ギウギウ|云《い》はせ|吾《わが》|恋《こひ》の
|野望《やばう》を|甘《うま》く|達《たつ》せむと |所在《あらゆる》|手段《しゆだん》を|廻《めぐ》らして
|悪《あく》の|限《かぎ》りを|尽《つく》したる |極悪無道《ごくあくぶだう》の|痴漢《しれもの》ぞ
|三五教《あななひけう》の|神使《かむづかひ》 |三千彦《みちひこ》さまの|威《ゐ》に|打《う》たれ
|如何《いかん》ともする|術《すべ》もなく |首《くび》も|廻《まは》らぬ|苦《くる》しさに
|魔法使《まはふづかひ》と|布令《ふれ》|廻《まは》し |吾々《われわれ》|一同《いちどう》|町民《ちやうみん》を
|甘《うま》く|偽《いつは》り|暴動《ばうどう》を |起《おこ》させたるぞ|憎《にく》らしき
|此《この》|宮町《みやまち》の|町民《ちやうみん》は テルモン|山《ざん》の|霊地《れいち》をば
|堅磐常磐《かきはときは》によく|守《まも》り |天地《てんち》の|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》に
|報《むく》ひむ|為《ため》に|赤誠《まごころ》を |力《ちから》|限《かぎ》りに|尽《つく》すのみ
|知《し》らぬが|仏《ほとけ》の|町民《ちやうみん》は |家令《かれい》の|悴《せがれ》ワックスが
|企《たく》みの|罠《わな》におとされて |神力無双《しんりきむさう》の|神人《しんじん》に
|刄向《はむ》かひ|奉《まつ》りし|愚《おろか》さよ |悪《あく》に|長《た》けたるワックスは
|吾《わが》|身《み》の|罪《つみ》を|蔽《おほ》はむと |茲《ここ》に|一計《いつけい》|案出《あんしゆつ》し
|悪酔怪《あくすゐくわい》を|組織《そしき》して |弱《よわ》きを|挫《くじ》き|強《つよ》きをば
|助《たす》けむものと|主張《しゆちやう》しつ |数百《すうひやく》|余人《よにん》の|団体《だんたい》を
|造《つく》りて|誠《まこと》の|神人《しんじん》を |悩《なや》まし|奉《まつ》り|神館《かむやかた》
|占領《せんりやう》せむと|企《たく》みたる |其《その》|悪計《あくけい》ぞ|怖《おそ》ろしき
|天罰《てんばつ》|忽《たちま》ち|報《むく》ひ|来《き》て |己《おの》が|率《ひき》ゆる|怪員《くわいゐん》に
|手《て》もなく|体《からだ》を|縛《しば》られて これの|馬場《ばんば》に|万世《よろづよ》の
|恥《はぢ》を|晒《さら》すぞ|可笑《をか》しけれ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|誠《まこと》の|神《かみ》はいつ|迄《まで》も |悪《あく》の|企《たく》みを|許《ゆる》さむや
|吾等《われら》はタンクと|云《い》ふ|男《をとこ》 |六百人《ろくぴやくにん》の|町民《ちやうみん》に
やつと|選《えら》まれ|長《をさ》となり |今《いま》|又《また》|茲《ここ》に|悪酔怪《かたまり》の
|頭《かしら》とおされ|町民《ちやうみん》を |代表《だいへう》なして|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》の|御前《おんまへ》に |誠《まこと》の|心《こころ》を|顕彰《けんしやう》し
|御国《みくに》の|為《ため》に|尽《つく》さむと |衆《しう》を|率《ひ》きつれ|来《きた》りたり
|赦《ゆる》させたまへ|惟神《かむながら》 |神《かみ》かけ|念《ねん》じ|奉《たてまつ》る
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞《き》き|直《なほ》せ
|身《み》の|過《あやまち》は|宣《の》り|直《なほ》せ |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|三千彦司《みちひこつかさ》の|前《まへ》なれど これに|繋《つな》ぎし|四人連《よにんづ》れ
これの|聖地《せいち》を|朝夕《あさゆふ》に |掻《か》き|乱《みだ》し|行《ゆ》く|曲者《くせもの》ぞ
|必《かなら》ず|許《ゆる》し|給《たま》ふ|無《な》く |厳《きび》しき|笞《むち》を|加《くは》へつつ
これの|聖地《せいち》を|追《お》ひ|出《いだ》し |懲《こら》しめたまへ|惟神《かむながら》
|六百人《ろくぴやくにん》になり|代《かは》り |更《あらた》め|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ
かかる|悪魔《あくま》の|聖場《せいぢやう》に |姿《すがた》を|見《み》する|其《その》|内《うち》は
|如何《いか》なる|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》も |如何《いか》なる|誠《まこと》の|御教《みをしへ》も
|如何《いか》で|開《ひら》けむ|常闇《とこやみ》の |世《よ》は|追《お》ひ|追《お》ひと|曇《くも》るのみ
ああ|願《ねが》はくば|三千彦《みちひこ》の |誠《まこと》の|教《をしへ》の|宣伝使《せんでんし》
|吾等《われら》の|願《ねが》ひを|逸早《いちはや》く |聞《き》き|取《と》りたまひ|片時《かたとき》も
|早《はや》く|聖地《せいち》を|追《お》ひ|出《いだ》し これの|霊地《れいち》の|禍《わざはひ》を
|除《のぞ》かせ|給《たま》へと|願《ね》ぎまつる ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
と|歌《うた》をもつて|演説《えんぜつ》に|代《か》へ、|且《か》つ|三千彦《みちひこ》に|向《むか》ひ、|是《これ》|等《ら》|四人《よにん》の|悪党《あくたう》を|一時《いちじ》も|早《はや》く|此《この》|聖場《せいぢやう》より|追放《つゐはう》されむ|事《こと》を|祈《いの》つた。|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》|一同《いちどう》は、|一斉《いつせい》に|手《て》を|打《う》つてタンクの|説《せつ》に|賛成《さんせい》の|意《い》を|表《へう》した。|三千彦《みちひこ》は|歌《うた》をもつて|之《これ》に|答《こた》ふ。
|三千彦《みちひこ》『|世《よ》は|常闇《とこやみ》となり|果《は》てて |悪魔《あくま》は|天下《てんか》を|横行《わうかう》し
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》は|腥《なまぐさ》く |絶《た》ゆる|間《ま》のなき|人馬《じんば》の|音《ね》
|払《はら》はむよしもなきままに |難《なや》み|苦《くる》しむ|宮町《みやまち》の
|老若男女《らうにやくなんによ》の|心根《こころね》は |今《いま》|更《さら》|思《おも》ひ|知《し》られけり
テルモン|山《ざん》の|峰《みね》|清《きよ》く |蓮華《はちす》の|花《はな》の|四方八方《よもやも》に
|芳香《はうかう》|薫《くん》じ|夏風《なつかぜ》に |揺《ゆ》られて|御代《みよ》の|泰平《たいへい》を
|謳《うた》へど|神《かみ》の|御館《おんやかた》 |日毎《ひごと》|夜毎《よごと》に|憂愁《いうしう》に
|包《つつ》まれたまひ|神柱《かむばしら》 |小国別《をくにのわけ》や|姫命《ひめみこと》
|其《その》|外《ほか》|二人《ふたり》の|乙女《をとめ》|達《たち》 |其《その》|身《み》の|不覚《ふかく》を|歎《なげ》きつつ
|家令《かれい》の|悴《せがれ》ワックスが |醜《しこ》の|猛《たけ》びに|敵《てき》し|得《え》ず
|持《も》ち|倦《あぐ》みます|時《とき》もあれ |神《かみ》の|御言《みこと》を|蒙《かうむ》りて
|救《すく》ひの|神《かみ》と|現《あら》はれし |三千彦司《みちひこつかさ》は|身《み》を|砕《くだ》き
|心《こころ》を|痛《いた》め|種々《くさぐさ》の |難《なや》みに|会《あ》いて|漸《やうや》うに
|神《かみ》の|館《やかた》を|包《つつ》みたる |醜《しこ》の|雲霧《くもきり》|吹《ふ》き|払《はら》ひ
|旭《あさひ》の|豊阪《とよさか》|登《のぼ》るごと |漸《やうや》く|生《うま》れ|代《かは》りけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|御稜威《みいづ》の|著《いちじる》く
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》の|深《ふか》きをば |喜《よろこ》び|祝《いは》ひ|奉《たてまつ》り
|玉《たま》の|所在《ありか》も|漸《やうや》くに |現《あら》はれまして|神館《かむやかた》
|上《うへ》を|下《した》へと|歓《えら》ぎつつ |元《もと》の|姿《すがた》となりにけり
さはさりながら|団体《だんたい》の |長《をさ》とあれますタンクさま
|悪酔怪《あくすゐくわい》の|綱領《かうりやう》は |弱《よわ》きを|挫《くじ》き|強《つよ》きをば
|助《たす》くるよしに|聞《き》き|及《およ》ぶ |悪魔《あくま》に|等《ひと》しき|団体《だんたい》は
|天地《てんち》の|神《かみ》の|御心《みこころ》に |背反《はいはん》したる|暴挙《ばうきよ》ぞや
いと|速《すみやか》に|改《あらた》めて |此《この》|団体《だんたい》を|解散《かいさん》し
|誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の |教《をしへ》の|道《みち》に|帰順《きじゆん》せば
|吾等《われら》も|共《とも》に|手《て》を|引《ひ》いて これの|聖地《せいち》を|守《まも》るべし
|顧《かへり》りみたまへ|惟神《かむながら》 |神《かみ》の|御前《みまへ》に|赤心《まごころ》を
|捧《ささ》げて|茲《ここ》に|願《ね》ぎまつる |旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ |誠《まこと》の|道《みち》に|皆《みな》|来《きた》れ
|悪酔怪《あくすゐくわい》の|目的《もくてき》は |決《けつ》して|世《よ》の|為《た》め|人《ひと》の|為《た》め
|利益《りえき》となるべきものでなし |否々《いないな》|却《かへつ》て|世《よ》を|汚《けが》し
|大混乱《だいこんらん》の|種《たね》ぞかし |顧《かへり》み|給《たま》へタンクさま
|其《その》|外《ほか》|会員《くわいゐん》|御一同《ごいちどう》 |三五教《あななひけう》の|三千彦《みちひこ》が
|心《こころ》を|籠《こ》めて|宣《の》りまつる ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
タンク『いざさらば|君《きみ》の|教《をしへ》に|従《したが》ひて
これの|集団《つどひ》を|解《と》き|放《はな》ちなむ。
この|集団《つどひ》|吾等《われら》|一同《いちどう》の|心《こころ》より
|出《い》でしに|非《あら》ずワックスの|胸《むね》。
ワックスの|百《もも》の|企《たく》みの|現《あら》はれし
|上《うへ》は|尚更《なほさら》|何《なん》の|要《えう》なき。
|弱《よわ》きをば|挫《くじ》き|強《つよ》きを|助《たす》くるは
|曲津《まがつ》の|神《かみ》の|仕業《しわざ》なるらむ』
|三千彦《みちひこ》『|健気《けなげ》なるタンクの|君《きみ》の|言《こと》の|葉《は》は
|誠《まこと》の|神《かみ》の|御声《みこゑ》とぞ|思《おも》ふ。
いざ|早《はや》く|曲《まが》の|集団《つどひ》を|解《と》きほどき
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|赤心《まごころ》ささげよ』
かく|歌《うた》を|取《と》り|交《かは》し、|和気《わき》|靄々《あいあい》として|茲《ここ》に|悪酔怪《あくすゐくわい》の|解散《かいさん》をなし、|町民《ちやうみん》|一同《いちどう》|打《う》ち|揃《そろ》ひ、|神館《かむやかた》に|恭《うやうや》しく|詣《まう》でて|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|言葉《ことば》を|奏上《そうじやう》した。|中空《ちうくう》には|微妙《びめう》の|音楽《おんがく》|聞《きこ》え、|天津乙女《あまつをとめ》の|姿《すがた》|二《ふた》つ|三《み》つ|嬉《うれ》しげに|舞《ま》ひ|狂《くる》ひ、|優曇華《うどんげ》の|花弁《はなびら》|風《かぜ》に|翻《ひるがへ》り、|各人《かくじん》の|頭《あたま》にパラリパラリと|落《お》ち|来《きた》る。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・三・二八 旧二・一二 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第四章 |銅盥《あかがねだらひ》〔一四七九〕
タンクの|会長《くわいちやう》は|三千彦《みちひこ》と|相談《さうだん》の|結果《けつくわ》、|悪酔怪《あくすゐくわい》を|解散《かいさん》し|神館《かむやかた》の|神殿《しんでん》に|一同《いちどう》|参拝《さんぱい》し|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し|了《をは》つた。|日《ひ》は|已《すで》に|暮《く》れて|暗《やみ》の|帳《とばり》はボトボトとテルモン|山《ざん》の|麓《ふもと》より|下《お》ろされて|来《き》た。|数百《すうひやく》の|会員《くわいゐん》|並《ならび》に|町民《ちやうみん》|一同《いちどう》はワックス|以下《いか》の|悪漢《わるもの》に|誤魔化《ごまくわ》され、|思《おも》はぬ|暴動《ばうどう》をつづけ|大神《おほかみ》の|道《みち》に|背《そむ》きたる|事《こと》を|悔《く》ひ、|且《か》つ|懲戒《みせしめ》の|為《ため》ワックス|以下《いか》|四人《よにん》に|笞《むち》を|加《くは》へ|追放《つゐはう》せむ|事《こと》を|主張《しゆちやう》して|止《や》まなかつた。|三千彦《みちひこ》は|種々《いろいろ》|言葉《ことば》を|尽《つく》し、|其《その》|不合理《ふがふり》を|責《せめ》た。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|町《まち》の|昔《むかし》からの|不文律《ふぶんりつ》、|俄《にはか》に|破《やぶ》る|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬと|云《い》ふので|三千彦《みちひこ》も|止《や》むを|得《え》ず|笞刑《ちけい》を|許《ゆる》した。|笞《むち》|打《う》つ|役《やく》はトンク、タンクの|二人《ふたり》が|当《あた》つた。ワックスには|一千《いつせん》の|笞《むち》、|其《その》|外《ほか》の|連中《れんちう》には|五百《ごひやく》づつの|笞《むち》を|加《くは》へて|放逐《はうちく》する|事《こと》となつた。|四人《よにん》は|杭《くひ》に|後向《うしろむ》きに|繋《つな》がれ、|竹《たけ》の|根節《ねぶし》の|笞《むち》にて|力《ちから》|限《かぎ》りに|打《う》たれる|事《こと》となつた。|三千彦《みちひこ》は|暗夜《あんや》を|幸《さいは》ひ、|四人《よにん》の|尻《しり》に|銅《あかがね》の|金盥《かなだらひ》を|括《くく》りつけ、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》して|居《ゐ》た。タンク、トンク|両人《りやうにん》は|少《すこ》しも|覚《さと》らず|松明《たいまつ》をドンドン|焚《た》き|乍《なが》らソロソロ|笞《むち》を|打《う》ち|初《はじ》めた。|一同《いちどう》は|拍子《ひやうし》をとつて|之《これ》に|和《わ》す。|銅《あかがね》の|盥《たらひ》の|上《うへ》には|着物《きもの》がかかつて|居《ゐ》るから|何程《なにほど》|松明《たいまつ》の|火《ひ》が|明《あか》くても|容易《ようい》に|誰《たれ》の|目《め》にもつかなかつた。タンクは|笞《むち》を|振《ふ》り|上《あ》げ|一節《ひとふし》|歌《うた》つてはワックスの|尻《しり》をピシヤと|殴《なぐ》る。|其《その》|度《たび》|毎《ごと》にカンと|妙《めう》な|音《おと》がする。トンクはエキスの|尻《しり》を|目蒐《めが》けてピシヤと|打《う》つ。これ|亦《また》カンと|鳴《な》る。
『テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》 |珍《うづ》の|聖地《せいち》に|仕《つか》へたる
ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て カーン カーン
アイタタアイタタアイタタツタ |家令《かれい》の|悴《せがれ》ワックスは
|古今無双《ここんむさう》の|悪党者《あくたうもの》 エキス、ヘルマン、エルの|奴《やつ》
うまく|騙《だま》かし|如意宝珠《によいほつしゆ》 |館《やかた》の|宝《たから》を|盗《ぬす》み|出《だ》し
ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て カーン カーン
アイタタアイタタアイタタツタ |小国別《をくにのわけ》の|御夫婦《ごふうふ》に
あらぬ|難題《なんだい》|塗《ぬ》りつけて せつぱつまつたその|挙句《あげく》
|自分《じぶん》のラブした|姫《ひめ》さまを うまく|手《て》に|入《い》れ|御養子《ごやうし》と
ならうと|致《いた》した|悪漢《わるもの》だ ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て
カーン カーン アイタタアイタタアイタタツタ
|此《この》|世《よ》に|神《かみ》のます|限《かぎ》り |悪《あく》は|何時《いつ》|迄《まで》つづかない
|蜴《とかげ》の|様《やう》な|面《つら》をして |色《いろ》の|恋《こひ》のと|何《なん》の|事《こと》
|色《いろ》と|慾《よく》との|二道《ふたみち》を かけた|家令《かれい》の|小悴《こせがれ》|奴《め》
|馬鹿《ばか》を|尽《つく》すも|程《ほど》がある ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て
カーン カーン アイタタアイタタアイタタツタ
|此奴《こいつ》の|尻《しり》はどうしてか |笞《むち》|打《う》つ|度《たび》にカンカンと
|怪体《けたい》な|音《おと》がするぢやないか |面《つら》の|皮《かは》まで|厚《あつ》い|奴《やつ》
お|尻《けつ》の|皮《かは》まで|厚《あつ》いのか ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て
カーン カーン アイタタアイタタアイタタツタ
|三千彦《みちひこ》さまの|神司《かむつかさ》 |野蛮《やばん》な|事《こと》は|止《や》めにして
|助《たす》けてやれと|仰有《おつしや》つた それも|一応《いちおう》|尤《もつと》もだ
さはさり|乍《なが》ら|昔《むかし》から きまつた|所刑《しおき》を|今《いま》となり
どうして|廃止《はいし》がなるものか |打《う》たねばならぬ|四人連《よにんづ》れ
お|尻《けつ》の|皮《かは》が|剥《む》けるまで ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て
カーン カーン アイタタアイタタアイタタツタ
こりやこりやワックス|初《はじ》めとし エキス、ヘルマン、エルの|奴《やつ》
もう|斯《か》うなれば|是非《ぜひ》がない |十分《じふぶん》|覚悟《かくご》を|相定《あひさだ》め
お|尻《けつ》の|肉《にく》が|取《と》れる|迄《まで》 |打《う》つて|貰《もら》つて|俺《おれ》|等《たち》を
|今《いま》|迄《まで》|騙《だま》し|苦《くる》しめた |罪《つみ》の|償《つぐな》ひするがよい
ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て カーン カーン
アイタタアイタタアイタタツタ お|前《まへ》がここを|去《さ》つたなら
テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》 |宮町中《みやまちぢう》は|餅《もち》|搗《つ》いて
ポンポンポンと|勇《いさ》み|立《た》ち |平和《へいわ》に|其《その》|日《ひ》を|送《おく》るだろ
|悪酔怪《あくすゐくわい》を|組織《そしき》して |吾等《われら》|一同《いちどう》を|抱《いだ》き|込《こ》み
|神《かみ》の|使《つかひ》の|三千彦《みちひこ》を |苦《くる》しめまつりお|館《やかた》を
|占領《せんりやう》せむとの|悪企《わるだく》み いつ|迄《まで》|神《かみ》は|許《ゆる》さむぞ
ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て カーン カーン
アイタタアイタタアイタタツタ |此奴《こいつ》のお|尻《けつ》は|渋太《しぶと》いな
|観音《くわんおん》さまでもあるまいに カンカンカンと|音《おと》がする
|余程《よつぽど》|因果《いんぐわ》な|生《うま》れつき |家令《かれい》の|悴《せがれ》と|生《うま》れ|来《き》て
|水平会《すゐへいくわい》や|町民《ちやうみん》に |声《こゑ》を|揃《そろ》へて|唄《うた》はれて
|笞刑《ちけい》の|恥《はぢ》を|曝《さら》すとは |憎《にく》い|乍《なが》らもお|気《き》の|毒《どく》
これも|規則《きそく》だ|仕様《しやう》がない |涙《なみだ》を|呑《の》んで|辛抱《しんばう》せよ
ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て カーン カーン
アイタタアイタタアイタタツタ ほんとに|厄介《やくかい》な|者《もの》だなア
デビスの|姫《ひめ》やケリナ|姫《ひめ》 |尊《たふと》い|尊《たふと》いお|姫様《ひめさま》
|生命《いのち》を|助《たす》けて|下《くだ》さつた |求道居士《きうだうこじ》の|修験者《しゆげんじや》
|狐《きつね》に|狸《たぬき》の|化物《ばけもの》と うまく|俺《おれ》|等《ら》を|騙《だま》かして
|鳩《はと》の|岩窟《いはや》に|放《ほ》り|込《こ》んで |夜《よ》な|夜《よ》な|自分《じぶん》が|通《かよ》ひ|込《こ》み
|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|辞《じ》を|設《まう》け |二人《ふたり》の|姫《ひめ》の|歓心《くわんしん》を
|買《か》つて|天晴《あつぱれ》|色男《いろをとこ》 |鼻毛《はなげ》をよまれ|涎《よだれ》くり
|目尻《めじり》を|下《さ》げて|出《い》でて|行《ゆ》く そのスタイルが|見《み》たかつた
ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て カーン カーン
アイタタアイタタアイタタツタ |二人《ふたり》のナイスに|肱鉄《ひぢてつ》を
|喰《く》つた|其《その》|上《うへ》スマートに |腕《うで》をば|咬《か》まれ|足《あし》|噛《か》まれ
|半死半生《はんしはんしやう》と|成《な》り|果《は》てて |血《ち》まぶれ|姿《すがた》の|憐《あは》れさよ
|自業自得《じごふじとく》と|締《あきら》めて |町民《ちやうみん》|一同《いちどう》の|志《こころざし》
きつい|笞《むち》をば|受《う》けなされ |俺《おい》|等《ら》もヤツパリ|人間《にんげん》だ
|痛《いた》い|苦《くる》しい|其《その》|味《あぢ》は |決《けつ》して|知《し》らぬ|者《もの》ぢやない
それでも|以後《いご》の|懲戒《みせしめ》だ |涙《なみだ》を|呑《の》んで|尻《しり》|叩《たた》く
|止《や》むに|止《や》まれず|尻《しり》|叩《たた》く ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て
カーン カーン アイタタアイタタアイタタツタ
|斯《か》うなりやお|前《まへ》も|金盥《かなだらひ》 |叩《たた》いた|様《やう》な|音《おと》がする
|余程《よつぽど》お|尻《けつ》が|腫《はれ》ただろ |痛《いた》いとて|辛抱《しんばう》するが|宜《よ》い
たつた|五百《ごひやく》や|一千《いつせん》の |笞《しもと》を|受《う》けてメソメソと
|吠面《ほえづら》かわく|奴《やつ》があるか お|前《まへ》も|一度《いちど》は|団体《だんたい》の
|頭《かしら》となつた|男《をとこ》ぞや |男《をとこ》の|中《なか》の|男《をとこ》ぞと
|誇《ほこ》つて|厶《ござ》つたワックスよ それに|従《したが》ふ|三人連《みたりづ》れ
|相《あひ》も|変《かは》らず|無頼漢《ならずもの》 お|気《き》の|毒《どく》だがもう|暫《しば》し
|規則通《きそくどほ》りにカンカンと |神妙《しんめう》に|打《う》たれて|置《お》きなされ
|万劫末代《まんごふまつだい》|名《な》が|残《のこ》る ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て
カーン カーン アイタタアイタタアイタタツタ
|悪酔怪《あくすゐくわい》の|会長《くわいちやう》と |町民《ちやうみん》|諸君《しよくん》に|選《えら》まれた
|神力無双《しんりきむさう》のタンクさま |此方《こなた》の|腕《うで》には|骨《ほね》がある
あんまり|強《きつ》う|叩《たた》かねど |力《ちから》が|充《み》ちて|居《を》ると|見《み》え
|軟《やら》かい|尻《けつ》を|叩《たた》くのに カンカンカンと|音《おと》がする
こりや|又《また》|如何《どう》した|事《こと》だらう ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て
カーン カーン アイタタアイタタアイタタツタ
|落選《らくせん》したるトンクさま ヤツパリ|俺《おれ》と|同《おな》じ|様《やう》に
|竹《たけ》の|根節《ねぶし》を|振《ふ》り|上《あ》げて エキスの|尻《しり》を|打叩《うちたた》く
ヤツパリこれも|腕力《うでぢから》 |備《そな》はり|居《ゐ》ると|見《み》えまして
|打《う》つ|度《たび》|毎《ごと》にカンカンと |怪体《けたい》な|音《おと》が|響《ひび》いてゐる
|尻観音《けつくわんのん》か|知《し》らねども |何程《なにほど》カンカン|云《い》つたとて
|最早《もはや》|貫目《くわんめ》は|保《たも》たれぬ カンカラカンのカンカラカン
カンツク カンツク カンツクカン カンカンベラボウ、ボンボラボウ
ボンボラ|坊主《ばうず》の|四《よ》つの|尻《けつ》 ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て
カーン カーン アイタタアイタタアイタタツタ
|何程《なにほど》|尻《しり》を|叩《たた》いても |痛《いた》い|痛《いた》いと|云《い》ふ|計《ばか》り
|涙《なみだ》|一《ひと》つも|零《こぼ》さない クスクスクスと|笑《わら》つてる
|余程《よつぽど》|肝《きも》の|太《ふと》い|奴《やつ》 これを|思《おも》へば|神館《かむやかた》
|思《おも》ふが|儘《まま》に|占領《せんりやう》して |天下無双《てんかむさう》の|美人《びじん》なる
デビスの|姫《ひめ》に|目《め》をかけて |思惑《おもわく》|立《た》てたは|当然《あたりまへ》
ホンに|図太《づぶと》い|奴《やつ》だな |此奴《こいつ》の|尻《けつ》は|不死身《ふじみ》だらう
|何程《なにほど》|打《う》つてやつたとて チツとも|往生《わうじやう》|致《いた》さない
|打《う》てよ|打《う》て|打《う》て|確《しつか》り|打《う》てよ ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て
カーン カーン アイタタアイタタアイタタツタ』
トンク『さあエキスの|分《ぶん》は|済《す》んだ。これからヘルマンだ。おい、ヘルマン|無情《むじやう》な|奴《やつ》と|怨《うら》めて|呉《く》れな。これも|貴様《きさま》の|心《こころ》から|出《で》た|錆《さび》だから|仕方《しかた》がないわ。|尻《しり》の|結目《つばめ》の|合《あ》はぬ|事《こと》するから、シリが|来《く》るのだ。それだから|俺《おれ》もお|前《まへ》|等《たち》のシリ|合《あひ》だけれど|此《この》|町《まち》の|規則《きそく》によつて|尻《しり》を|打《う》たねばならぬ|破目《はめ》となつたのだ。|悪《わる》い|事《こと》をするなら|何故《なぜ》もつと|尻《しり》を|結《むす》んで|置《お》かないのだ。シリ|滅裂《めつれつ》の|計画《けいくわく》をやるものだから|到頭《たうとう》|終《しま》ひの|尻《けつ》は|町民《ちやうみん》に|笞刑《ちけい》|五百《ごひやく》と|判《はん》ケツされてこんなケツい|目《め》に|会《あ》ふのだ。|然《しか》しまあケツ|構《こう》と|思《おも》へ、|命《いのち》とられぬ|丈《だけ》ケツ|構《こう》だから。お|姫様《ひめさま》をケツねだの、|狸《たぬき》だのと|吐《ぬか》した|酬《むく》いでケツ|構《こう》な|目《め》に|遭《あ》はなならぬのだから|観念《くわんねん》するがよいわ。いやもうカン|念《ねん》してるに|相違《さうゐ》ない。エキス、ワックスはカン|念《ねん》カン|念《ねん》と|云《い》つて|居《ゐ》る。|何分《なにぶん》|尻《けつ》|迄《まで》|物《もの》|云《い》ふ|時代《じだい》だから|馬鹿《ばか》にならぬわい。これから|俺《おれ》が|音頭《おんどう》とるのだ。さア|辛抱《しんばう》せい。ワックスはまだ|半分《はんぶん》|残《のこ》つてる。これを|思《おも》へば|貴様《きさま》は|半分《はんぶん》で|済《す》むのだからケツ|構《こう》だぞ。
ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て カーン カーン
アイタタアイタタアイタタツタ |家令《かれい》の|館《やかた》へ|押掛《おしかけ》て
チヨコ チヨコ サイサイ|金銀《きんぎん》の |小玉《こだま》をドツサリ|強請《ゆす》りとり
うまい|汁《しる》をば|吸《す》ひよつた その|証《しるし》にや|尻《けつ》|迄《まで》が
ブクブク|太《ふと》つてケツからア さアさア|痛《いた》うても|辛抱《しんばう》せよ
|俺《おれ》も|涙《なみだ》は|零《こぼ》してる |現在《げんざい》|互《たがひ》に|識《し》つた|仲《なか》
こんな|役目《やくめ》を|勤《つと》むるは |俺《おれ》も|嬉《うれ》しうはないけれど
|止《や》むにやまれぬ|此《この》|場合《ばあひ》 ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て
カーン カーン アイタタアイタタアイタタツタ
|此奴《こいつ》の|尻《けつ》も|亦《また》|不思議《ふしぎ》 |又々《またまた》カンカン|唸《うな》り|出《だ》す
|顔《かほ》に|被《かぶ》つた|鉄面皮《てつめんぴ》 |此奴《こいつ》は|尻《しり》|迄《まで》|鉄面《てつめん》だ
|手詰《てづめ》になつた|此《この》|場合《ばあひ》 いやでも|打《う》たねばならうまい
|宮町中《みやまちぢう》の|怨霊《をんりやう》が お|前《まへ》の|尻《けつ》に|集《あつ》まつて
|此《この》ケツ|断《だん》になつたのだ お|前《まへ》も|決心《けつしん》するが|宜《よ》い
|打《う》たねばならぬ|此《この》|場合《ばあひ》 ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て
カーン カーン アイタタアイタタアイタタツタ
これから|此処《ここ》を|立出《たちい》でて |荒野ケ原《あらのがはら》を|打渉《うちわた》り
テルモン|山《ざん》を|後《あと》にして |運《うん》も|命《いのち》も|月《つき》の|国《くに》
デカタン|高原《かうげん》さして|行《ゆ》け お|前《まへ》によう|似《に》た|悪人《あくにん》が
|沢山《たくさん》|集《よ》つて|居《ゐ》ると|云《い》ふ |此《この》|霊場《れいぢやう》に|置《お》くならば
|又《また》もや|悪事《あくじ》を|企《たく》み|出《だ》し |吾等《われら》|一同《いちどう》に|難儀《なんぎ》をば
|必《かなら》ず|掛《かけ》るに|違《ちが》ひない |気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら|打《う》つてやらう
ヨーイ ヨーイ ドンと|打《う》て カーン カーン
アイタタアイタタアイタタツタ』
|漸《やうや》くにして|規則通《きそくどほ》り|四人《よにん》は|数百人《すうひやくにん》に|声《こゑ》を|揃《そろ》へて|囃《はや》され|乍《なが》ら|尻《しり》を|打《う》たれた|挙句《あげく》、|縛《いましめ》を|解《と》かれて、|夜陰《やいん》に|紛《まぎ》れ|逃《に》げ|出《だ》す|途端《とたん》、|金盥《かなだらひ》はガランガランと|音《おと》をして|芝生《しばふ》の|上《うへ》に|仰天《ぎやうてん》してキラキラと|篝火《かがりび》に|輝《かがや》いて|居《ゐ》る。
トンク『やア、|余《あんま》り|強《ひど》く|打《う》つたので|尻《けつ》に|血《ち》が|凝《かたま》つたので、|斯《こ》んな|大《おほ》きな|肉塊《にくくわい》を|落《おと》して|行《い》つた』
とよくよく|見《み》れば|四《よつ》つの|金盥《かなだらひ》が|大《おほ》きな|口《くち》を|開《あ》けて|天《てん》を|眺《なが》めて|居《ゐ》る。
トンク『ハハア、|皆《みな》さま、これ|御覧《ごらん》なさいませ。|何《なに》がカンカン|云《い》ふかと|思《おも》へば|四人《よにん》の|奴《やつ》の|尻《しり》は|此《この》|通《とほ》り|金《かね》になつて|了《しま》ひました。ヤツパリ|余《あんま》り|金《かね》を|使《つか》つた|天罰《てんばつ》でせう』
|一同《いちどう》は、タンク、トンクの|両人《りやうにん》が|両方《りやうはう》の|手《て》に|金盥《かなだらひ》を|一《ひと》つづつ|捧《ささ》げて|来《き》て|見《み》せるのを|不思議相《ふしぎさう》に『ワーイ ワーイ』と|叫《さけ》んで、
『|溜飲《りういん》が|下《さが》つた、|胸《むね》がスツとした。これで|飯《めし》がうまい。|帰《い》んで|一杯《いつぱい》やらうかい』
と|口々《くちぐち》に|囁《ささや》き|乍《なが》ら|各《おのおの》|吾家《わがや》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。タンク、トンクの|両人《りやうにん》は|無事《ぶじ》|笞刑《ちけい》の|済《す》んだのを|報告《はうこく》すべく|金盥《かなだらひ》を|四《よつ》つ、|各自《めいめい》に|抱《かか》へて|神館《かむやかた》の|大神殿《だいしんでん》に|進《すす》み|入《い》り、|恭《うやうや》しく|呈上《ていじやう》した。|三千彦《みちひこ》は|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、
|三千《みち》『タンクさま、トンクさま、|御苦労《ごくらう》で|厶《ござ》いました。|四人《よにん》は|嘸《さぞ》|弱《よわ》つたでせうな』
タンク『はい、|何《なん》だか|知《し》りませぬが|余《あんま》り|打《う》つたものですから、|此《この》|通《とほ》り|尻《しり》が|硬《かた》くなり、|血《ち》が|滲《にじ》んで|尻《けつ》の|凝固《かたまり》を|落《おと》して|逃《に》げました。|然《しか》し|随分《ずいぶん》|元気《げんき》よく|何処《どこ》かへ|逃《に》げましたよ、アハハハハハ』
タンク『|三千彦《みちひこ》の|神《かみ》の|司《つかさ》の|慈《いつくし》み
|尻《しり》に|鎧《よろひ》を|着《き》せ|玉《たま》ひけり』
トンク『|金盥《かなだらひ》とは|知《し》り|乍《なが》ら|大神《おほかみ》の
|恵《めぐみ》|嬉《うれ》しみ|打据《うちす》ゑにける』
|三千彦《みちひこ》『|大神《おほかみ》の|恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|負《お》ひし|身《み》は
|如何《いか》でか|人《ひと》を|損《そこな》ひ|得《う》べき。
|皇神《すめかみ》も|二人《ふたり》の|司《つかさ》の|誠心《まごころ》を
さぞ|喜《よろこ》びて|諾《うべな》ひますらむ』
(大正一二・三・二八 旧二・一二 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第五章 |潔別《けつべつ》〔一四八〇〕
テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》 |青葉《あをば》の|茂《しげ》る|庭園《ていゑん》に
|咲《さ》き|誇《ほこ》りたる|花菖蒲《はなあやめ》 |青《あを》|紫《むらさき》や|白《しろ》|黄色《きいろ》
|所《ところ》|狭《せき》まで|燕子花《かきつばた》 |咲《さ》き|匂《にほ》ひたる|床《ゆか》しさよ
パインの|枝《えだ》は|涼風《りやうふう》に |吹《ふ》かれて|自然《しぜん》の|音楽《おんがく》を
|奏《かな》でて|舞踏《ぶたふ》を|演《えん》じつつ |至治泰平《しちたいへい》の|瑞祥《ずゐしやう》を
|現《あら》はし|居《ゐ》るこそ|目出度《めでた》けれ |常磐《ときは》の|松《まつ》の|青々《あをあを》と
|緑《みどり》ものびて|玉《たま》の|露《つゆ》 |風《かぜ》|吹《ふ》く|毎《ごと》にバタバタと
|金砂《きんしや》|銀砂《ぎんしや》の|上《うへ》に|落《お》つ |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|浴《あ》びながら |進《すす》んで|来《きた》りし|玉国《たまくに》の
|別《わけ》の|命《みこと》を|初《はじ》めとし |比丘《びく》の|姿《すがた》の|求道居士《きうだうこじ》
バラモン|教《けう》のキャプテンが |伴《ともな》ひ|来《きた》る|下士官《かしくわん》と
|膝《ひざ》を|交《まじ》へて|奥《おく》の|間《ま》に |涼《すず》しき|風《かぜ》を|入《い》れながら
|天地《てんち》の|恵《めぐみ》を|嬉《うれ》しみて |心《こころ》の|隔《へだ》て|相《あひ》はづし
|語《かた》り|出《い》づるも|神《かむ》ながら |誠《まこと》の|道《みち》の|教《をしへ》より
|外《ほか》に|言葉《ことば》は|荒風《あらかぜ》の |青野《あをの》を|渡《わた》る|有様《ありさま》に
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》の|真相《しんさう》を |今《いま》|目《ま》の|当《あた》り|見《み》る|如《ごと》し
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》はひて
|三五教《あななひけう》やバラモンの |教《をしへ》の|区別《くべつ》を|取《と》り|払《はら》ひ
|旭《あさひ》も|清《きよ》くテルモンの |山《やま》の|麓《ふもと》に|楽園《らくゑん》を
|築《きづ》き|初《そ》めしぞ|尊《たふと》けれ |茲《ここ》に|三千彦《みちひこ》|宣伝使《せんでんし》
|神《かみ》の|館《やかた》に|仇《あだ》なせる ワックス、エキス、ヘルマンや
エルの|司《つかさ》を|追放《つゐはう》し タンク、トンクを|伴《ともな》ひて
|悠々《いういう》|帰《かへ》り|坐《ざ》につけば |玉国別《たまくにわけ》は|声《こゑ》をかけ
|汝《なんぢ》|三千彦《みちひこ》|神司《かむづかさ》 |館《やかた》の|前《まへ》の|馬場《ばんば》にて
|老若男女《らうにやくなんによ》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》 |御空《みそら》を|焦《こが》す|篝火《かがりび》の
その|顛末《てんまつ》を|詳細《まつぶさ》に |宣《の》らせたまへと|促《うなが》せば
|三千彦《みちひこ》|両手《りやうて》をつき|乍《なが》ら |恭《うやうや》しくも|答《こた》へける。
○
『|月《つき》の|都《みやこ》に|現《あれ》ませる |大黒主《おほくろぬし》の|神柱《かむばしら》
|古《いにしへ》|此処《ここ》に|在《ま》しまして バラモン|教《けう》の|御教《みをしへ》を
|開《ひら》き|給《たま》ひし|霊場《れいぢやう》の |記念《かたみ》となして|如意宝珠《によいほつしゆ》
|珍《うづ》の|宝《たから》を|奉斎《ほうさい》し |館《やかた》の|主人《あるじ》|二柱《ふたはしら》
|教司《をしへつかさ》に|相命《あひめい》じ |固《かた》く|守《まも》らせ|給《たま》ひしが
オールスチンの|悴《せがれ》なる |頑迷《ぐわんめい》|愚鈍《ぐどん》のワックスが
|野心《やしん》を|充《みた》す|其《その》|為《ため》に エキス、ヘルマン|両人《りやうにん》を
|使嗾《しそう》なしつつ|奥殿《おくでん》に |忍《しの》ばせ|玉《たま》を|窃取《せつしゆ》して
|深《ふか》く|吾《わが》|家《や》の|床下《ゆかした》に |土《つち》をば|被《おほ》ひ|隠《かく》し|居《を》る
|其《その》|心根《こころね》の|醜《みにく》さよ |館《やかた》の|主人《あるじ》は|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|痛《いた》め|給《たま》ひつつ |重《おも》き|病《やまひ》の|身《み》となりて
|命《めい》|旦夕《たんせき》に|迫《せま》る|折《をり》 |神《かみ》の|命《みこと》を|畏《かしこ》みて
これの|館《やかた》に|入《い》り|来《きた》り |小国姫《をくにのひめ》に|頼《たの》まれて
|玉《たま》の|所在《ありか》を|探索《たんさく》し |館《やかた》の|難儀《なんぎ》を|救《すく》ひつつ
|少時《しばし》|留《とど》まる|折《をり》もあれ |色《いろ》と|慾《よく》とに|迷《まよ》ひたる
ワックス|司《つかさ》|初《はじ》めとし |其《その》|外《ほか》|百《もも》の|悪漢《わるもの》が
|教《をしへ》の|道《みち》の|三千彦《みちひこ》を |魔法使《まはふづかひ》と|云《い》ひ|触《ふ》らし
|此《この》|霊場《れいぢやう》に|永久《とこしへ》に |住《す》める|男女《なんによ》を|嗾《そその》かし
|悪酔怪《あくすゐくわい》を|組織《そしき》して |館《やかた》を|目《め》|宛《あて》に|攻《せ》め|来《きた》る
|其《その》|勢《いきほひ》の|凄《すさま》じさ |吾《われ》は|僅《わづ》かに|身《み》をもつて
|寄《よ》せくる|曲《まが》に|打《う》ち|向《むか》ひ |力《ちから》|限《かぎ》りに|戦《たたか》へど
|味方《みかた》は|一人《ひとり》|敵軍《てきぐん》は |雲霞《うんか》の|如《ごと》き|勢《いきほひ》に
やみやみ|敵《てき》に|捉《とら》へられ アンブラック|河《がは》に|投《な》げ|込《こ》まれ
|生死不明《せいしふめい》の|境涯《きやうがい》に |陥《おちい》りたるぞ|腑甲斐《ふがひ》なき
|斯《かか》る|所《ところ》へスマートが |現《あら》はれ|来《きた》り|懇《ねもごろ》に
|厳《いづ》の|言霊《ことたま》のり|出《いだ》し |清水《しみづ》を|口《くち》に|含《ふく》みつつ
|吾《わ》が|生魂《いくたま》を|呼《よ》び|生《い》けて |再《ふたた》び|元《もと》の|身《み》となしぬ
|勇気《ゆうき》|日頃《ひごろ》に|百倍《ひやくばい》し |神《かみ》の|館《やかた》の|災《わざはひ》を
|取《と》り|除《のぞ》かむと|勇《いさ》み|立《た》ち |種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|身《み》を|焦《こが》し
|心《こころ》を|配《くば》り|漸《やうや》くに |悪漢《わるもの》|共《ども》を|捕縛《ほばく》して
|定《さだ》めの|儘《まま》に|鞭《むち》を|当《あ》て タンク、トンクの|両人《りやうにん》が
|笞《しもと》の|下《もと》に|悪漢《わるもの》は |雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》りぬ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |貴《たふと》き|神《かみ》の|御恵《おんめぐみ》
|危《あやふ》き|命《いのち》を|助《たす》けられ |館《やかた》の|主人《あるじ》の|重病《ぢうびやう》も
|日《ひ》に|夜《よ》に|快方《くわいはう》に|相向《あひむか》ひ デビスの|姫《ひめ》やケリナ|姫《ひめ》
|目出度《めでたく》|茲《ここ》に|帰《かへ》りまし |親子《おやこ》|対面《たいめん》|恙《つつが》なく
|済《す》まして|喜《よろこ》ぶ|折《をり》もあれ |玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》が
|真純《ますみ》の|彦《ひこ》や|伊太彦《いたひこ》を |伴《ともな》ひ|来《きた》り|嬉《うれ》しくも
|師弟《してい》の|対面《たいめん》なし|遂《と》げぬ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|赤心《まごころ》を |捧《ささ》げて|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|空《そら》おち|星《ほし》は|失《う》するとも |千尋《ちひろ》の|海《うみ》は|涸《か》るるとも
|神《かみ》の|依《よ》さしの|熱誠《ねつせい》に |尽《つく》さにやおかぬ|三千彦《みちひこ》が
|心《こころ》を|察《さつ》し|師《し》の|君《きみ》が これの|館《やかた》を|立《た》ち|出《い》でて
|吾等《われら》と|共《とも》に|月《つき》の|国《くに》 ハルナの|都《みやこ》にスクスクと
|進《すす》ませ|給《たま》へ|惟神《かむながら》 |猶予《いうよ》もならぬ|今日《けふ》の|空《そら》
|昨日《きのふ》に|変《かは》り|四方八方《よもやも》に |霞《かすみ》|棚引《たなび》き|風《かぜ》|荒《あら》く
|雨《あめ》さへ|交《まじ》る|夏《なつ》の|日《ひ》の |行方《ゆくへ》|定《さだ》めぬ|人《ひと》の|身《み》は
|片時《かたとき》さへも|空費《くうひ》せず |神《かみ》の|御為《おんため》|世《よ》の|為《ため》に
|進《すす》ませ|給《たま》へと|願《ね》ぎ|奉《まつ》る デビスの|姫《ひめ》は|吾《わが》|前《まへ》に
|百《もも》の|言霊《ことたま》|宣《の》り|給《たま》ひ |妹背《いもせ》の|道《みち》を|契《ちぎ》らむと
|心《こころ》せつなき|談判《かけあひ》に |吾《われ》は|言葉《ことば》も|返《かへ》しかね
|躊《ためら》ひ|居《ゐ》たる|時《とき》ぞかし |吾《わが》|師《し》の|君《きみ》の|出《いで》ましを
これ|幸《さいはひ》と|逸早《いちはや》く |館《やかた》を|出《い》でて|月《つき》の|国《くに》
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|進《すす》むべし |真純《ますみ》の|彦《ひこ》よ|伊太彦《いたひこ》よ
|神《かみ》の|教《をしへ》の|三千彦《みちひこ》が |生言霊《いくことたま》を|諾《うべな》ひて
|吾《わが》|師《し》の|君《きみ》と|諸共《もろとも》に |膝《ひざ》の|栗毛《くりげ》に|鞭《むちう》ちて
|青野《あをの》が|原《はら》を|打《う》ち|渡《わた》り |暑熱《しよねつ》と|戦《たたか》ひ|雨《あめ》を|浴《あ》び
|風《かぜ》に|髪《かみ》をば|梳《くしけ》ずり |進《すす》みて|行《ゆ》かむいざ|早《はや》く
|早《はや》く|早《はや》く』とせき|立《た》てる
○
|真純《ますみ》の|彦《ひこ》は|立上《たちあが》り |大神前《だいしんぜん》に|打《う》ち|向《むか》ひ
|恭《うやうや》しくも|拍手《はくしゆ》して |玉国別《たまくにわけ》に|打《う》ち|向《むか》ひ
|言葉《ことば》も|低《ひく》う|腰《こし》|屈《かが》め 『|吾《わが》|師《し》の|君《きみ》と|仕《つか》へたる
|玉国別《たまくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》 |三千彦司《みちひこつかさ》の|言《こと》の|葉《は》を
|諾《うべな》ひまして|片時《かたとき》も |早《はや》く|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|出《い》でて
|悪魔《あくま》の|征途《せいと》に|上《のぼ》りませ |如何《いか》なる|曲《まが》の|攻《せ》め|来《く》とも
|如何《いか》でか|怖《おそ》れむ|神《かみ》の|道《みち》 |千里《せんり》の|山川《やまかは》|打《う》ち|越《こ》えて
|浪風《なみかぜ》|猛《たけ》る|湖《みづうみ》や |濁水《だくすゐ》|漲《みなぎ》る|大川《おほかは》を
|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|打《う》ち|渡《わた》り |嶮《けは》しき|坂《さか》を|攀登《よぢのぼ》り
|道々《みちみち》|悪魔《あくま》を|言向《ことむ》けて |進《すす》み|行《ゆ》かなむ|惟神《かむながら》
|許《ゆる》させたまへと|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
○
|玉国別《たまくにわけ》『テルモンの|山《やま》の|嵐《あらし》もをさまりぬ
いざ|立《た》ち|行《ゆ》かむ|月《つき》の|御国《みくに》へ』
|三千彦《みちひこ》『|師《し》の|君《きみ》の|宣《の》りのまにまに|出《い》でて|行《ゆ》く
|行手《ゆくて》の|道《みち》は|安《やす》けからまし』
デビス|姫《ひめ》『|三千彦《みちひこ》の|神《かみ》の|司《つかさ》よ|若草《わかくさ》の
|妻《つま》を|伴《ともな》ひ|進《すす》ませ|給《たま》へ』
|三千彦《みちひこ》『|大神《おほかみ》の|宣《の》りのまにまに|出《い》でて|行《ゆ》く
|三千彦司《みちひこつかさ》|如何《いか》に|苦《くる》しき。
|師《し》の|君《きみ》の|許《ゆる》させ|給《たま》ふ|事《こと》あらば
|伴《ともな》ひ|行《ゆ》かむ|月《つき》の|御国《みくに》へ』
デビス|姫《ひめ》『|玉国別《たまくにわけ》|神《かみ》の|命《みこと》に|物申《ものまを》す
|妾《わらは》を|印度《ツキ》につれて|行《ゆ》きませ』
|玉国別《たまくにわけ》『|垂乳根《たらちね》の|許《ゆる》しありせば|連《つ》れ|行《ゆ》かむ
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|神《かみ》のまにまに』
|小国姫《をくにひめ》『デビス|姫《ひめ》|三千彦司《みちひこつかさ》の|妻《つま》として
|連《つ》れさせ|給《たま》へ|神《かみ》の|司《つかさ》よ』
|玉国別《たまくにわけ》『|垂乳根《たらちね》の|母《はは》の|許《ゆる》しのある|上《うへ》は
|如何《いか》で|拒《こば》まむ|旅《たび》の|伴連《ともづ》れ』
|真純彦《ますみひこ》『|永久《とこしへ》の|花《はな》|開《ひら》くなる|春秋《はるあき》の
|喜《よろこ》び|胸《むね》に|三千彦《みちひこ》の|君《きみ》』
|伊太彦《いたひこ》『いたいけのデビスの|姫《ひめ》を|妻《つま》となし
|旅《たび》に|出《い》でます|君《きみ》ぞかしこき』
|三千彦《みちひこ》『さりとても|心《こころ》に|染《そ》まぬ|道連《みちづ》れよ
|神《かみ》の|使命《しめい》を|相果《あひはた》すまで』
|真純彦《ますみひこ》『|言《こと》の|葉《は》の|綾《あや》をかざりて|若草《わかくさ》の
|妻《つま》|忌《い》みがてにのるぞ|可笑《をか》しき』
|求道居士《きうだうこじ》『|三千彦《みちひこ》の|神《かみ》の|司《つかさ》の|心根《こころね》は
|三五《さんご》の|月《つき》の|如《ごと》くなりけり。
いざさらば|吾《われ》は|此《この》|家《や》に|止《とど》まりて
|二人《ふたり》の|親《おや》に|厚《あつ》く|仕《つか》へむ』
ニコラス『|玉国《たまくに》の|別《わけ》の|命《みこと》に|物申《ものまを》す
これの|館《やかた》を|如何《いか》に|治《をさ》めむ』
|玉国別《たまくにわけ》『バラモンや、|三五教《あななひけう》の|隔《へだ》てなく
|斎《いつき》たまはれ|大本《おほもと》の|神《かみ》。
さりながらこれの|館《やかた》はバラモンの
|神《かみ》をば|捨《す》つる|訳《わけ》にはゆかず。
|三五《あななひ》の|神《かみ》を|斎《いつ》きてバラモンの
|皇大神《すめおほかみ》に|厚《あつ》く|仕《つか》へよ』
ニコラス『|隔《へだ》てなき|君《きみ》の|言葉《ことば》に|従《したが》ひて
|斎《いつ》き|奉《まつ》らむ|百《もも》の|神達《かみたち》。
バラモンの|軍《いくさ》の|君《きみ》を|今日《けふ》よりは
|離《はな》れて|厚《あつ》く|神《かみ》に|仕《つか》へむ』
|玉国別《たまくにわけ》『いざさらば|百《もも》の|司《つかさ》よ|心安《うらやす》く
いとまめやかに|世《よ》を|過《す》ごしませ』
|小国姫《をくにひめ》『|懐《なつか》しき|教《をしへ》の|君《きみ》に|遇《あ》ひ|乍《なが》ら
いま|別《わか》れむとする|胸《むね》の|苦《くる》しさ』
ケリナ|姫《ひめ》『|皇神《すめかみ》の|教《をしへ》の|道《みち》を|伝《つた》へ|行《ゆ》く
|玉国別《たまくにわけ》よやすく|出《い》でませ』
|玉国別《たまくにわけ》『|時《とき》の|間《ま》は|早《はや》くも|移《うつ》りケリナ|姫《ひめ》
|親《おや》に|仕《つか》へて|清《きよ》くましませ』
と、|互《たがひ》に|離別《りべつ》の|歌《うた》を|歌《うた》ひ|和気《わき》|靄々《あいあい》として|盃《さかづき》を|取《と》りかはし|玉国別《たまくにわけ》、|真純彦《ますみひこ》、|伊太彦《いたひこ》、|三千彦《みちひこ》、デビス|姫《ひめ》の|一行《いつかう》は、|後事《こうじ》を|求道居士《きうだうこじ》に|一任《いちにん》し|置《お》き、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら、|欣々《いそいそ》としてテルモン|山《ざん》を|南《みなみ》に|下《くだ》り、|青葉《あをば》の|影《かげ》に|隠《かく》れ|行《ゆ》く。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・三・二八 旧二・一二 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第二篇 |湖上神通《こじやうじんつう》
第六章 |茶袋《ちやぶくろ》〔一四八一〕
|三千彦《みちひこ》は|先《さき》に|立《た》ちテルモン|山《ざん》の|中腹《ちうふく》を|南《みなみ》へ|南《みなみ》へと|下《くだ》り|行《ゆ》く。|比較的《ひかくてき》|嶮峻《けんしゆん》な|坂道《さかみち》で|足許《あしもと》に|少《すこ》しも|目放《めはな》しが|出来《でき》ぬ。|金剛杖《こんがうづゑ》を|力《ちから》に|指《ゆび》の|先《さき》に|全身《ぜんしん》の|重味《おもみ》を|集中《しふちう》し|乍《なが》ら|拍子《ひやうし》をとつて|下《くだ》り|行《ゆ》く。
|三千彦《みちひこ》『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |如何《いか》なる|敵《てき》も|恐《おそ》れねど
|板《いた》を|立《た》てたる|坂道《さかみち》の ヌルリヌルリと|辷《すべ》るのは
|誠《まこと》に|閉口《へいこう》|仕《つかまつ》る |玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》よ
デビスの|姫《ひめ》よ|気《き》をつけて |転倒《てんたう》せぬ|様《やう》になされませ
|月《つき》の|都《みやこ》に|立向《たちむか》ふ |神力無双《しんりきむさう》の|宣伝使《せんでんし》
|其《その》|首途《かどいで》に|過《あやま》つて もしも|転倒《てんたう》したならば
それこそ|前途《ぜんと》が|気《き》にかかる |御幣《ごへい》を|担《かつ》ぐぢやなけれども
|今日《けふ》は|大切《だいじ》の|出陣《しゆつぢん》も |変《かは》らぬ|様《やう》な|旅《たび》の|空《そら》
|天津御空《あまつみそら》に|目《め》をやらず |暫《しば》らく|足《あし》の|爪先《つまさき》に
|眼《まなこ》を|注《そそ》ぎ|気《き》を|配《くば》り ウントコドツコイ、ズウズウズウ
|云《い》ふより|早《はや》く|足《あし》|滑《すべ》り ドスンと|搗《つ》いた|尻餅《しりもち》は
|吾等《われら》が|前途《ぜんと》を|祝《しゆく》すべく |空《そら》に|輝《かがや》く|望月《もちづき》の
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御守《おんまも》り |前途《ぜんと》|必《かなら》ず|吉祥《きつしやう》と
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|宣《の》り|直《なほ》し |足《あし》もワナワナ|下《くだ》り|坂《ざか》
|面白《おもしろ》をかしく|脛《すね》|笑《わら》ふ |今日《けふ》の|旅出《たびで》の|勇《いさ》ましさ
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|梢《こずゑ》に|蝉《せみ》は|吠《ほえ》るとも |汗《あせ》は|何程《なにほど》|出《で》るとても
|頭《あたま》の|上《うへ》からカンカンと |日《ひ》の|大神《おほかみ》が|照《て》らすとも
|神《かみ》に|任《まか》せし|此《この》|体《からだ》 |岩《いは》より|固《かた》い|魂《たましひ》は
|常磐《ときは》の|松《まつ》の|岩《いは》の|上《へ》に |生茂《おひしげ》りたる|如《ごと》くなり
ウントコドツコイ ドツコイシヨ よくまあ|辷《すべ》る|坂《さか》だなア
|赭土《あかつち》|許《ばか》りがピカピカと |光《ひか》つた|上《うへ》に|湿《しめ》りをば
|帯《おび》て|居《ゐ》るのでよく|辷《すべ》る |誰《たれ》が|通《とほ》つたか|知《し》らないが
こりや|又《また》えらい|磨《みが》けよう |流石《さすが》のスマートさまでさへ
|四《よつ》つの|足《あし》を|持《も》ち|乍《なが》ら あれ、あの|通《とほ》りチガチガと
|体《からだ》を|斜《はす》に|構《かま》へつつ |下《くだ》つて|行《ゆ》くのを|眺《なが》むれば
|余程《よつぽど》きつい|坂道《さかみち》だ これから|先《さき》はテルモンの
|音《おと》に|名高《なだか》き|湖《みづうみ》だ |吾等《われら》|一行《いつかう》|宣伝使《せんでんし》
この|湖《みづうみ》を|渡《わた》らねば |月《つき》の|御国《みくに》にや|行《ゆ》かれない
ウントコドツコイ、ズウズウズウ ほんに|危険《きけん》な|辷《すべ》り|坂《ざか》
|坊主頭《ばうずあたま》を|瓢箪《へうたん》で |撫《な》でてる|様《やう》な|足具合《あしぐあひ》
うつかりすると|転倒《てんたう》し |天狗《てんぐ》の|面《めん》やお|多福《たふく》の
|玉《たま》の|御舟《みふね》を|雨曝《あまざら》し せなくちやならぬ|恐《こは》い|道《みち》
|気《き》をつけなされ|皆《みな》さまよ ウントコドツコイ ドツコイシヨ
どうやら|坂《さか》が|緩《ゆる》うなつた ここで|油断《ゆだん》をしちやならぬ
バラモン|教《けう》の|悪神《あくがみ》が |吾等《われら》|一行《いつかう》の|前途《ぜんと》をば
|擁《よう》して|待《ま》ちさうな|処《ところ》だぞ |何程《なにほど》|敵《てき》が|来《きた》るとも
|腕《うで》に|覚《おぼ》えのある|上《うへ》は |決《けつ》して|怯《ひる》まぬ|大和魂《やまとだま》
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》のまにまに|下《くだ》り|行《ゆ》く』
|真純彦《ますみひこ》は|亦《また》|歌《うた》ふ。
『テルモン|山《ざん》の|南坂《みなみざか》 |鰻《うなぎ》の|様《やう》に|辷《すべ》る|道《みち》
|三千彦《みちひこ》さまが|先《さき》に|立《た》ち |吾《わが》|師《し》の|君《きみ》と|若草《わかくさ》の
|妻《つま》の|命《みこと》のデビス|姫《ひめ》 |二人《ふたり》の|名《な》をば|呼《よ》び|乍《なが》ら
|真純彦《ますみひこ》とも|伊太公《いたこう》とも |仰有《おつしや》らないのは|何事《なにごと》だ
ほんにお|前《まへ》は|水臭《みづくさ》い |玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》の
|御名《おんな》を|呼《よ》んで|親切《しんせつ》に |注意《ちうい》をしたのは|表向《おもてむ》き
|実地《じつち》|誠《まこと》の|腹《はら》の|中《なか》 |新婚旅行《しんこんりよかう》のデビス|姫《ひめ》
その|身《み》の|上《うへ》が|気《き》にかかり |義理《ぎり》か|妬《や》くかで|師《し》の|君《きみ》の
お|名《な》を|呼《よ》んだに|違《ちが》ひない アハハハハツハ、アハハハハ
|現銀《げんぎん》|至極《しごく》の|男《をとこ》だな それだによつて|宣伝《せんでん》の
|途中《とちう》に|於《おい》て|若者《わかもの》に |女房《にようばう》を|持《も》たすと|魂《たましひ》が
|砕《くだ》けて|誠《まこと》の|間《ま》に|合《あ》はぬ |女《をんな》に|心《こころ》|引《ひ》かされて
|大切《だいじ》の|大切《だいじ》の|使命《しめい》をば |怠《おこた》る|事《こと》があるものだ
さはさり|乍《なが》ら|三千彦《みちひこ》の |神《かみ》の|使《つかひ》は|格別《かくべつ》だ
|案《あん》ずる|事《こと》はなけれども |第一《だいいち》|女《をんな》に|気《き》をとられ
|魂《たま》は|中有《ちうう》に|飛《と》び|散《ち》りて |肝腎要《かんじんかなめ》の|足許《あしもと》が
|目《め》につかないか|二度《にど》|三度《さんど》 スウ スウ スウと|辷《すべ》りよつた
|肝腎要《かんじんかなめ》の|先《さき》に|立《た》つ |道案内《みちあんない》の|三千彦《みちひこ》が
|辷《すべ》つて|転《こ》けて|吾々《われわれ》が |無事《ぶじ》に|此《この》|坂《さか》|下《くだ》るのは
|何《なに》か|一《ひと》つの|原因《げんいん》が なければならぬ|道理《だうり》ぞや
|省《かへり》み|玉《たま》へ|三千彦《みちひこ》よ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》に|代《かは》りて|気《き》をつける』
|伊太彦《いたひこ》は|亦《また》|歌《うた》ふ。
|伊太彦《いたひこ》『ウントコドツコイ ドツコイシヨ |悪魔《あくま》は|出《で》るとも|逃《に》ぐるとも
|憑物《つきもの》|皆《みんな》|駆《か》け|出《だ》すも |此《この》|坂道《さかみち》になつたなら
どうしても|体《からだ》が|草臥《くたびれ》る さはさり|乍《なが》ら|最愛《さいあい》の
|女房《にようばう》を|連《つ》れた|三千彦《みちひこ》は |嘸《さぞ》や|楽《たの》しい|事《こと》だらう
|元気《げんき》|日頃《ひごろ》に|百倍《ひやくばい》し |意気《いき》|揚々《やうやう》と|肱《ひぢ》を|張《は》り
|六方《ろくぱう》を|踏《ふ》んで|坂道《さかみち》を |八王神《やつこす》|歩《あゆ》みそのままに
エンヤラ エンヤラ エンヤラと そのスタイルは|蟷螂《かまきり》か
|但《ただし》は|蛙《かはづ》の|手踊《てをどり》か |又《また》も|違《ちが》ふたら|山猿《やまざる》の
ステテコ|踊《をど》りと|云《い》ふ|様《やう》な さても|怪《あや》しきスタイルだ
アハハハハツハ、ズウズウズウ オツトドツコイ|足《あし》|辷《すべ》り
お|尻《しり》をドンと|打《う》ちました |天狗《てんぐ》の|面《めん》も|茶袋《ちやぶくろ》も
|神《かみ》の|御蔭《おかげ》で|御安全《ごあんぜん》 |二《ふた》つの|玉《たま》は|完全《くわんぜん》に
お|腹《なか》の|中《なか》へ|舞《ま》ひ|上《あが》り |大急行《だいきふかう》で|洋行《やうかう》した
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |目玉《めだま》のとび|出《で》るきつい|坂《さか》
|土蟹《づがに》ぢやないが|横歩《よこある》き |正面《まとも》に|足《あし》が|運《はこ》べない
|三千彦《みちひこ》さまの|御夫婦《ごふうふ》は |転《こ》けよと|倒《たふ》れよと|構《かま》はぬが
|吾《わが》|師《し》の|君《きみ》よ|真純彦《ますみひこ》よ |何卒《なにとぞ》|用心《ようじん》|遊《あそ》ばして
|此《この》|坂《さか》|無事《ぶじ》に|下《くだ》りませ |夏《なつ》の|木立《こだち》に|鳴《な》く|蝉《せみ》の
|声《こゑ》はミンミン|眠《ねむ》たげに |寝言交《ねごとまじ》りに|歌《うた》ふて|居《ゐ》る
そんな|陽気《やうき》な|事《こと》かいな |此《この》|坂道《さかみち》は|命懸《いのちが》け
どうして|之《これ》が|眠《ねむ》られよか |足《あし》のこぶらがブクブクと
|酒徳利《さけどつくり》の|様《やう》になつた ズウズウズウズウ アイタタツタ
ヤツパリ|坂《さか》を|下《くだ》るのは |口《くち》を|噤《つま》へて|俯向《うつむ》いて
|下《くだ》らにやならぬと|云《い》ふ|事《こと》を |初《はじ》めて|体得《たいとく》|致《いた》しました
|三千彦司《みちひこつかさ》が|先《さき》に|立《た》ち くだらぬ|歌《うた》を|喋《しやべ》る|故《ゆゑ》
|真純《ますみ》の|彦《ひこ》も|伊太彦《いたひこ》も つひ|釣《つ》り|出《だ》されウツカリと
|退屈《たいくつ》|紛《まぎ》れに|喋《しやべ》つたが それが|吾《わが》|身《み》の|仇《あだ》となり
デツカイお|尻《しり》を|打《う》ちました ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
こんな|事《こと》だと|知《し》つたなら ワックスさまが|馬場《ばんば》にて
|笞刑《ちけい》を|受《う》けた|時《とき》のやうに |銅盥《あかがねだらひ》を|尻《しり》につけ
|下《くだ》つて|来《く》れば|宜《よ》かつたに |下司《げす》の|知識《ちしき》は|後《あと》からと
|人《ひと》が|云《い》ふのも|無理《むり》は|無《な》い ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
これこれデビスのお|姫《ひめ》さま お|前《まへ》も|一《ひと》つ|附合《つきあ》ひに
|此《この》|坂道《さかみち》を|下《くだ》りつつ |下坂《げはん》の|歌《うた》を|歌《うた》ひませ
|三千彦《みちひこ》さまの|機嫌《きげん》のみ とらず|吾々《われわれ》|一行《いつかう》の
チツとは|心《こころ》を|慰《なぐさ》めて |平和《へいわ》の|女神《めがみ》の|本領《ほんりやう》を
|発揮《はつき》し|玉《たま》へ|惟神《かむながら》 |神《かみ》の|使《つかひ》の|宣伝使《せんでんし》
|伊太彦《いたひこ》さまが|頼《たの》みます ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
デビス|姫《ひめ》『|妾《わらは》は|三千彦《みちひこ》|宣伝使《せんでんし》 |夫《をつと》に|持《も》つたデビス|姫《ひめ》
|神《かみ》のお|道《みち》に|仕《つか》ふ|身《み》は |夫婦《ふうふ》ありては|肝腎《かんじん》の
|御用《ごよう》が|出来《でき》ぬと|聞《き》きました |兎《と》は|云《い》ふものの|玉《たま》の|緒《を》の
|命《いのち》を|助《たす》け|下《くだ》さつた |大恩《たいおん》|深《ふか》き|神司《かむづかさ》
|悪魔《あくま》の|猛《たけ》り|狂《くる》ふなる |荒野ケ原《あらのがはら》を|打渉《うちわた》り
|雲霞《うんか》の|如《ごと》き|敵軍《てきぐん》の |中《なか》に|向《むか》つて|進《すす》み|行《ゆ》く
その|雄々《をを》しさを|思《おも》ひ|出《だ》し |女《をんな》|乍《なが》らもジツとして
どうして|館《やかた》に|居《を》られませう |婦《をんな》は|夫《をつと》に|従《したが》ひて
|力《ちから》を|尽《つく》し|身《み》を|庇《かば》ひ マサカの|時《とき》が|出《で》て|来《き》たら
|命《いのち》を|的《まと》に|吾《わが》|夫《つま》の |使命《しめい》を|全《まつた》く|遂《と》げさせて
|女《をんな》の|道《みち》を|尽《つく》さねば |済《す》まぬ|事《こと》だと|覚悟《かくご》して
|住《す》み|心地《ここち》よき|吾《わが》|館《やかた》 |後《あと》に|眺《なが》めて|遥々《はるばる》と
|踏《ふ》みも|習《なら》はぬ|旅枕《たびまくら》 |苦労《くらう》を|覚悟《かくご》で|行《ゆ》きまする
|陽気《やうき》|浮気《うはき》で|斯《こ》んな|事《こと》 どうして|繊弱《かよわ》き|女《をんな》の|身《み》
|出来《でき》そな|事《こと》がありませうか |揶揄《からか》ひなさるも|程《ほど》がある
|妾《わらは》の|心《こころ》は|真剣《しんけん》だ |人《ひと》が|笑《わら》ふが|譏《そし》らうが
|一旦《いつたん》|夫《をつと》に|魂《たましひ》も |体《からだ》も|共《とも》に|任《まか》したら
|決《けつ》して|中途《ちうと》に|怯《ひる》まない |女《をんな》|乍《なが》らも|天晴《あつぱれ》と
|貴方《あなた》に|劣《おと》らぬ|功績《いさをし》を |立《た》てて|御目《おんめ》にかけまする
|玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》よ |真純《ますみ》の|彦《ひこ》の|神司《かむつかさ》
|伊太彦司《いたひこつかさ》も|諸共《もろとも》に |妾《わらは》の|心《こころ》の|清《きよ》きをば
|真面目《まじめ》に|覚《さと》らせ|玉《たま》へかし |決《けつ》して|色《いろ》や|恋《こひ》のため
|菊石《あばた》の|出来《でき》た|宣伝使《せんでんし》 |三千彦《みちひこ》さまに|惚《ほ》れませう
|何程《なにほど》|顔《かほ》は|醜《みにく》ても |肝腎要《かんじんかなめ》の|魂《たましひ》は
|三五《さんご》の|月《つき》の|姿《すがた》より |百倍《ひやくばい》|増《ま》して|美《うつく》しく
|心《こころ》の|鏡《かがみ》に|映《うつ》りしゆ |神《かみ》の|御為《おんため》|世《よ》の|為《ため》に
かかる|健気《けなげ》な|武士《もののふ》と |一度《ひとたび》|腕《うで》に|撚《より》かけて
|世界《せかい》の|為《ため》に|尽《つく》さむと |思《おも》ふばかりの|真心《まごころ》が
|凝《こ》り|固《かた》まりし|今日《けふ》の|旅《たび》 |笑《わら》はせ|玉《たま》ふ|事《こと》もなく
|繊弱《かよわ》き|女《をんな》の|身《み》なれども |許《ゆる》させ|玉《たま》へ|何処《どこ》|迄《まで》も
|吾等《われら》|夫婦《ふうふ》を|従《したが》へて |進《すす》ませ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|誠心《まごころ》を |誓《ちか》ひて|告白《こくはく》|仕《つかまつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|了《をは》り|流石《さすが》の|坂道《さかみち》も|賑々《にぎにぎ》しく|笑《わら》ひ|興《きよう》じ|乍《なが》ら、|揶揄《からか》ひ|半分《はんぶん》に|下《くだ》り|行《ゆ》く。|漸《やうや》くにして|下《くだ》り|三里《さんり》の|急坂《きふはん》を|越《こ》えテルモン|湖《こ》の|辺《ほとり》に|着《つ》いた。|坂道《さかみち》で|絞《しぼ》つた|汗《あせ》は|湖面《こめん》を|吹《ふ》く|涼風《りやうふう》に|吹《ふ》き|払《はら》はれ、|得《え》も|云《い》はれぬ|爽快《さうくわい》の|気分《きぶん》に|漂《ただよ》ふた。|東西《とうざい》|百里《ひやくり》|南北《なんぽく》|二百里《にひやくり》の|大湖水《だいこすい》は|金銀色《きんぎんしよく》の|魚鱗《ぎよりん》の|波《なみ》を|湛《たた》へ、|洋々《やうやう》として|静《しづ》かに|横《よこ》たはつて|居《ゐ》る。
(大正一二・三・二八 旧二・一二 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第七章 |神船《しんせん》〔一四八二〕
|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》はテルモン|湖《こ》の|辺《ほとり》に|着《つ》いた。|万波《まんぱ》|洋々《やうやう》たる|紫《むらさき》の|水面《すいめん》を|或《あるひ》は|高《たか》く|或《あるひ》は|低《ひく》く、アンボイナが|翼《つばさ》を|逆八《さかはち》の|字《じ》に|拡《ひろ》げて「|大鳥《おほとり》は|羽《はね》を|急《いそ》がぬ」と|云《い》ふやうな、|鷹揚《おうやう》ぶりを|見《み》せ|滑走《くわつそう》して|居《ゐ》る。|信天翁《あはうどり》、|鵜《う》の|群《むれ》は|東西南北《とうざいなんぼく》に|或《あるひ》は|百羽《ひやつぱ》、|或《あるひ》は|二百羽《にひやつぱ》|密集《みつしふ》して|羽《はね》を|忙《いそが》しさうに|一直線《いつちよくせん》に|飛《と》んで|居《ゐ》る。|水面《すいめん》は|凪《ない》だとは|云《い》へ、|名《な》に|負《お》ふ|大湖水《だいこすい》、|幽《かす》かに|吹《ふ》く|北風《きたかぜ》に|煽《あふ》られて|七五三《しちごさん》の|浪《なみ》が|磯辺《いそべ》に|鼓《つづみ》をうつて|居《ゐ》る。|遠《とほ》く|目《め》を|放《はな》てば、|白砂《はくしや》|青松《せいしよう》の|浜《はま》、|左《ひだり》の|方《はう》や|右《みぎ》の|方《はう》に|輪廓《りんくわく》|正《ただ》しく|線《せん》を|揃《そろ》へて|断《き》りたてたやうに|並《なら》んで|居《ゐ》る|壮絶《さうぜつ》|快絶《くわいぜつ》、|心胆《しんたん》を|洗《あら》ふが|如《ごと》く、|一《ひと》つ|島《じま》の|諏訪《すは》の|湖《みづうみ》もかくやと|思《おも》ふ|許《ばか》りであつた。|玉国別《たまくにわけ》は|万波《まんぱ》|洋々《やうやう》たる|湖面《こめん》を|眺《なが》めて、
|玉国別《たまくにわけ》『|打《う》ちよする|波《なみ》の|鼓《つづみ》の|音《ね》も|清《きよ》く
|響《ひび》き|渡《わた》れり|玉国別《たまくにわけ》の|耳《みみ》に。
|湖面《うなばら》を|右《みぎ》や|左《ひだり》に|飛《と》びかひつ
|魚《うを》を|漁《あさ》るか|鵜《う》の|鳥《とり》|幾群《いくむれ》』
|三千彦《みちひこ》『|湖《みづうみ》の|岸辺《きしべ》に|匂《にほ》ふ|燕子花《かきつばた》
|打《う》つ|白浪《しらなみ》に|擬《まが》ふべらなり』
|真純彦《ますみひこ》『|大空《おほぞら》も|湖《うみ》の|面《おもて》も|澄《す》みわたる
|潮《しほ》|三千彦《みちひこ》の|合《あは》せ|鏡《かがみ》か』
|伊太彦《いたひこ》『|見渡《みわた》せば|雲《くも》か|霞《かすみ》か|白浪《しらなみ》の
|彼方《あなた》に|見《み》ゆる|珍《うづ》の|松原《まつばら》』
デビス|姫《ひめ》『|水《みづ》の|面《おも》に|浮《うか》びて|遊《あそ》ぶ|鴛鴦《をしどり》の
|姿《すがた》|眺《なが》めて|心《こころ》|轟《とどろ》く』
|真純彦《ますみひこ》『|千代《ちよ》|迄《まで》と|契《ちぎ》る|言葉《ことば》も|口籠《くちごも》る
|鴛鴦《をし》の|番《つがひ》の|若夫婦《わかふうふ》かな』
|玉国別《たまくにわけ》『|斎苑館《いそやかた》|立《た》ち|出《い》でしより|山野原《やまのはら》
のみ|渉《わた》りたる|目《め》には|珍《めづら》し。
この|湖《うみ》の|広《ひろ》く|深《ふか》くて|清《きよ》らけき
|姿《すがた》は|瑞《みづ》の|御霊《みたま》なるらむ。
|素盞嗚《すさのを》の|神《かみ》の|尊《みこと》に|今《いま》|一度《いちど》
これの|景色《けしき》をお|目《め》にかけたし。
|村肝《むらきも》の|心《こころ》のままになるならば
この|湖《みづうみ》を|家苞《いへづと》にせむ。
|皇神《すめかみ》の|恵《めぐみ》は|深《ふか》し|八千尋《やちひろ》の
|底《そこ》ひも|知《し》れぬこれの|湖《みづうみ》』
デビス|姫《ひめ》『|如何《いか》にして|此《この》|湖水《みづうみ》を|渡《わた》らむか
|頼《たよ》る|船《ふね》なき|今日《けふ》の|旅立《たびだち》』
|真純彦《ますみひこ》『|唯《ただ》|一人《ひとり》|玉《たま》の|御船《みふね》を|抱《かか》へつつ
|現《あ》れます|女神《めがみ》のデビス|姫《ひめ》あはれ』
デビス|姫《ひめ》『|此《この》|船《ふね》は|世人《よびと》を|乗《の》する|船《ふね》ならず
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》の|専有物《せんいうぶつ》ぞや。
|湖《みづうみ》の|辺《ほとり》を|漁《あさ》り|烏貝《からすがひ》
|拾《ひろ》ひて|船《ふね》にかへむとぞ|思《おも》ふ』
|三千彦《みちひこ》『アンボイナ|翼《つばさ》に|乗《の》りて|易々《やすやす》と
|神《かみ》のまにまに|過《よぎ》り|行《ゆ》かまし』
|伊太彦《いたひこ》『いつ|迄《まで》か|心《こころ》を|苦《くる》しめ|悩《なや》むとも
|渡《わた》る|術《すべ》なし|遠《とほ》き|浪路《なみぢ》を』
かく|一行《いつかう》|五人《ごにん》は|湖畔《こはん》に|立《た》つて|下《くだ》らぬ|歌《うた》を|詠《よ》み|乍《なが》ら、|如何《いか》にしてこの|湖水《こすい》を|渡《わた》らむかと|稍《やや》|当惑《たうわく》の|体《てい》であつた。かかる|処《ところ》へ|一艘《いつさう》の|漁船《ぎよせん》、|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|走《はし》り|来《きた》る。|一行《いつかう》は|救《すく》ひの|船《ふね》の|到来《たうらい》と、|望《のぞ》みを|抱《いだ》いて|船《ふね》の|此方《こなた》に|到着《たうちやく》するを|待《ま》つて|居《ゐ》た。|船頭《せんどう》は、|拍子《ひやうし》の|抜《ぬ》けた|声《こゑ》で、
|船頭《せんどう》『オイ、お|前《まへ》|達《たち》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》と|見《み》えるが、|此《この》|湖《みづうみ》を|渡《わた》る|積《つも》りか。ハルナの|都《みやこ》の|大黒主《おほくろぬし》の|神様《かみさま》から、|吾々《われわれ》は|沢山《たくさん》のお|手当《てあて》を|頂《いただ》いて……|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|此処《ここ》へ|来《き》たならば|決《けつ》して|渡《わた》してはならない……と|厳《きび》しき|命令《めいれい》を|受《う》けて|居《ゐ》るのだ。|渡《わた》し|度《た》うても|渡《わた》してやる|事《こと》は|出来《でき》ない。ぢやと|云《い》ふて|一枚《いちまい》の|紙《かみ》にも|裏表《うらおもて》があるものだ。|海《うみ》には|船《ふね》、|水《みづ》には|空気《くうき》、|男《をとこ》には|女《をんな》だ、|鑿《のみ》には|槌《つち》、|硯《すずり》には|墨《すみ》と|昔《むかし》からちやんと|定《きま》つて|居《ゐ》る。お|前《まへ》の|出《で》やうによつては|渡《わた》してやらぬ|事《こと》もない|事《こと》もない。どうする|積《つ》もりだ。いつ|迄《まで》も|溺死《できし》よけの|石地蔵《いしぢざう》のやうに|湖水《こすい》を|眺《なが》めて|永久《えいきう》に|立《た》つて|居《を》る|積《つもり》か。|返答《へんたふ》が|無《な》ければこの|船《ふね》を|又《また》|彼方《あつち》に|持《も》つて|行《ゆ》くから、|何《なん》とか|考《かんが》へたがよからうぞ』
|伊太彦《いたひこ》『オイ|船頭《せんどう》、そんな|事《こと》|云《い》つても|要領《えうりやう》が|分《わか》らぬぢやないか。|表向《おもてむき》|渡《わた》す|事《こと》は|出来《でき》ないが、|沢山《たくさん》の|金《かね》を|呉《く》れたら、|渡《わた》さうと|云《い》ふのだらう、そんなら|分《わか》つて|居《ゐ》る。|幾何《いくら》でもやるから|向岸《むかふぎし》|迄《まで》|早《はや》く|渡《わた》して|呉《く》れ』
|船頭《せんどう》『|何《なん》と|云《い》つてもこの|湖水《こすい》は|南北《なんぽく》|二百里《にひやくり》もあるのだから、ちよつくら|一寸《ちよつと》|渡《わた》る|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬ。お|前達《まへたち》を|乗《の》せた|以上《いじやう》は、|飯《めし》も|食《く》はしてやらねばならず、|何程《なにほど》|急《いそ》いでも|十日《とをか》はかかるのだから、|余程《よつぽど》|沢山《たくさん》|貰《もら》はなければ|引《ひ》き|合《あ》はないのだ。|後《あと》の|喧嘩《けんくわ》を|前《さき》にして|置《お》かなくつては、|向《むか》ふへ|着《つ》いてから、|高《たか》いの|安《やす》いのと|云《い》はれては|詮《つま》[#ママ 詰?]らぬからのう』
|玉国別《たまくにわけ》『|幾何《いくら》でもやるから、|早《はや》く|船《ふね》を|出《だ》して|呉《く》れ』
|船頭《せんどう》『そんなら|百両《ひやくりやう》|呉《く》れますか、|五人《ごにん》さまと|犬《いぬ》|一匹《いつぴき》だから|平均《へいきん》|二十両《にじふりやう》にもなりませぬ。|安《やす》いものでせう』
|玉国《たまくに》『|一両《いちりやう》|出《だ》せばお|米《こめ》が|一石《いつこく》あるぢやないか、|百両《ひやくりやう》とはちと|高《たか》いぢやないか』
|船頭《せんどう》『|高《たか》けりや|止《や》めとこかい、|左様《さやう》なら』
と|早《はや》くも|櫓《ろ》を|漕《こ》いで|立《た》ち|去《さ》る|勢《いきほひ》を|見《み》せる。デビス|姫《ひめ》は|逃《に》げられては|大変《たいへん》と|気《き》を|焦《いら》ち、
デビス『|船頭《せんどう》さま、|望《のぞ》み|通《どほ》り|百両《ひやくりやう》|上《あ》げます。|何卒《どうぞ》|早《はや》く|向《むかふ》へ|渡《わた》して|下《くだ》さい』
|船頭《せんどう》『ヤ|有難《ありがた》い、お|前《まへ》は|神館《かむやかた》のお|姫《ひめ》さまだな。こんな|好《よ》い|男《をとこ》と、どこかへ|駆落《かけおち》をするのだらう。|百両《ひやくりやう》は|安《やす》いものだ。もう|百両《ひやくりやう》|出《だ》しなさい。さうすれば、お|前《まへ》さまがこの|湖《みづうみ》を|渡《わた》つて|駆落《かけおち》をしたと|云《い》ふ|事《こと》を|隠《かく》して|上《あ》げる。|口止料《くちどめれう》として|百両《ひやくりやう》は|安《やす》いものだらう』
デビス『エエ|仕方《しかた》が|厶《ござ》いませぬ、|望《のぞ》み|通《どほ》り|上《あ》げるから|早《はや》く|乗《の》せて|下《くだ》さい』
|船頭《せんどう》はニコニコし|乍《なが》ら|船《ふね》を|横付《よこづけ》にした。|五人《ごにん》はスマートと|共《とも》に|早《はや》くも|飛《と》びのつた。
|折《をり》しもそよそよと|吹《ふ》く|北風《きたかぜ》に|白帆《しらほ》をあげ、|少時《しばし》|湖面《こめん》をスルスルと|辷《すべ》つて|行《ゆ》く。|船頭《せんどう》は|艫《とも》に|立《た》ち|櫓《ろ》を|手《て》に|握《にぎ》りながら、|風《かぜ》に|破《やぶ》つた|太《ふと》い|喉《のど》から、|透通《すきとほ》るやうな|声《こゑ》を|出《だ》して|〓乃《ふなうた》を|唄《うた》ひ|出《だ》した。
『|此処《ここ》はアーエー
|天竺《あまぎ》のーテルモン|湖水《こすい》
|渡《わた》るもー|嬉《うれ》しいーやあ、|夫婦連《めをとづ》れエー
|月《つき》のオーエー
|国《くに》にはア、|名所《めいしよ》がアー|厶《ござ》るウー
ハルナーアのーエー
|都《みやこ》のオーー、|蓮《はす》の|池《いけ》
|浪《なみ》はアー、うつうつー、|鼓《つづみ》のオー|音《ね》か
|但《ただ》し|竜宮《りうぐう》のオー、|乙姫《おとひめ》かアー』
と|唄《うた》ひ|乍《なが》ら、|追々《おひおひ》|岸《きし》を|離《はな》れて、|南《みなみ》へ|南《みなみ》へと|一直線《いつちよくせん》に|進《すす》んで|行《ゆ》く。|次第々々《しだいしだい》に|乗《の》り|場《ば》の|老松《おいまつ》は|姿《すがた》|小《ちひ》さくなり、テルモン|山《ざん》の|頂《いただ》きは|却《かへつ》て|高《たか》く|見《み》えて|来《き》た。|此《この》|時《とき》|船《ふね》の|底《そこ》より|現《あら》はれ|出《い》でた|四人《よにん》の|荒男《あらをとこ》、|体《からだ》|一面《いちめん》|網襦袢《あみじゆばん》や|網《あみ》ズボンを|着《ちやく》し、|大刀《だいたう》を|提《ひつさ》げて|五人《ごにん》の|前《まへ》に|進《すす》み|来《きた》り、|嫌《いや》らしき|笑《ゑみ》を|浮《うか》べ|睨《ね》めつけて|居《ゐ》る。これはワックス、エキス、ヘルマン、エルの|四人《よにん》がこの|湖上《こじやう》にて|恨《うらみ》を|晴《は》らさむと、|故意《わざ》とに|船頭《せんどう》に|沢山《たくさん》の|金《かね》を|与《あた》へ|湖水《こすい》の|中央《まんなか》にて|五人《ごにん》の|男女《なんによ》を|斬《き》り|殺《ころ》さむと|企《たく》んだ|仕事《しごと》である。
ワックス『ヤア|珍《めづ》らしや|三千彦《みちひこ》、|其《その》|外《ほか》|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》、|並《ならび》に|吾々《われわれ》に|恥《はぢ》を|掻《か》かしたデビス|姫《ひめ》の|阿魔《あま》つ|女《ちよ》。よくまア|吾々《われわれ》の|計略《けいりやく》に|釣《つ》られよつたな。|最早《もはや》|此処《ここ》|迄《まで》|釣《つ》り|出《だ》した|以上《いじやう》は、|如何《いか》に|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|魔法《まはふ》を|使《つか》ふとも|逃《のが》るる|事《こと》は|出来《でき》まい。サア|是《これ》から|吾々《われわれ》|四人《よにん》が|汝《きさま》|等《たち》を|青竜刀《せいりようとう》の|錆《さび》となし|呉《く》れむ。|又《また》この|犬畜生《いぬちくしやう》も|湖《みづうみ》の|上《うへ》では|如何《いかん》ともする|事《こと》が|出来《でき》まい。|何《いづ》れも|観念《くわんねん》を|致《いた》したがよからう。|此《この》|船底《ふなぞこ》には|数十人《すうじふにん》の|荒男《あらをとこ》が|隠《かく》してあれば、ヂタバタ|致《いた》してももう|駄目《だめ》だ。デビス|姫《ひめ》を|潔《いさぎよ》く|此《この》|方《はう》に|渡《わた》して、|其《その》|方《はう》はこの|湖水《こすい》に|身《み》を|投《な》げて|往生《わうじやう》いたすか。|左《さ》もなければ|気《き》の|毒《どく》ながら|吾々《われわれ》が|刀《かたな》の|錆《さび》にして|呉《く》れる。ても、さても|鈍馬野郎《とんまやらう》だなア』
|玉国別《たまくにわけ》は|平然《へいぜん》として|些《すこし》も|騒《さわ》がず、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。|如何《いかが》はしけむ、|俄《にはか》に|暴風《ばうふう》|吹《ふ》き|来《きた》り、|山岳《さんがく》のやうな|浪《なみ》|猛《たけ》り|狂《くる》ひ、|船《ふね》は|木《こ》の|葉《は》を|散《ち》らすが|如《ごと》く、|前後左右《ぜんごさいう》に|動揺《どうえう》し|初《はじ》めた。|遉《さすが》のワックス|以下《いか》の|悪人《あくにん》も|身《み》の|置所《おきどころ》なき|船《ふね》の|動揺《どうえう》につれて|右《みぎ》にコロコロ、|左《ひだり》にコロコロ、きねぐそを|糠《ぬか》にまぶしたやうにごろつき|初《はじ》めた。|遉《さすが》の|玉国別《たまくにわけ》も|余《あま》り|激《はげ》しき|船《ふね》の|動揺《どうえう》に|眼《まなこ》|眩《くら》みむかづきさうになつて|来《き》た。|敵味方《てきみかた》の|区別《くべつ》なく|一生懸命《いつしやうけんめい》に|叶《かな》はぬ|時《とき》の|神頼《かみだの》み、|口《くち》の|奥《おく》にて|祈《いの》つて|居《ゐ》る。|船頭《せんどう》は|船《ふね》の|動揺《どうえう》した|機《はづみ》に|櫓《ろ》の【つか】に|撥《はね》られ、もんどり|打《う》つて|荒狂《あれくる》ふ|荒浪《あらなみ》の|中《なか》にドンブと|許《ばか》り|投《な》げつけられ、|石《いし》の|地蔵《ぢざう》を|投《ほ》り|込《こ》んだやうに、ブルブルとも|何《なん》とも|云《い》はずに|湖底《こてい》|深《ふか》く|沈《しづ》んで|仕舞《しま》つた。|斯《かか》る|所《ところ》へ|一艘《いつさう》の|船《ふね》、|七八人《しちはちにん》の|若者《わかもの》|一生懸命《いつしやうけんめい》に|櫂《かい》を|漕《こ》ぎながら、|此方《こなた》を|目蒐《めが》けて|馳来《はせきた》る。|見《み》れば|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|初稚姫《はつわかひめ》が、|斯《か》くあらむ|事《こと》を|予期《よき》し、|島陰《しまかげ》に|隠《かく》れて|待《ま》つて|居《ゐ》たのである。|初稚姫《はつわかひめ》は|舷頭《げんとう》に|立《た》ち|現《あら》はれ、
|初稚《はつわか》『|玉国別《たまくにわけ》さま、|御一同《ごいちどう》さま、サア|早《はや》く|此《この》|船《ふね》にお|乗《の》り|下《くだ》さい、|此《この》|船《ふね》なれば|如何《いか》なる|荒浪《あらなみ》も|大丈夫《だいぢやうぶ》です』
|一同《いちどう》は、|救《すく》ひの|船《ふね》と|拍手《はくしゆ》|感謝《かんしや》し|乍《なが》ら|手早《てばや》く|乗《の》り|移《うつ》つた。|八人《はちにん》の|水夫《かこ》は|荒浪《あらなみ》を|乗《の》り|切《き》り、|驀地《まつしぐら》にすうすうと|進《すす》み|行《ゆ》く。スマートはザンブと|許《ばか》り|飛《と》び|込《こ》んだ。|初稚姫《はつわかひめ》も|亦《また》ザンブと|許《ばか》り|飛《と》び|込《こ》み、スマートに|跨《またが》り|湖面《こめん》を|泳《およ》ぎ|出《だ》した。|忽《たちま》ち|荒波《あらなみ》は|鎮《おさ》まり、|油《あぶら》を|流《なが》したる|如《ごと》き|鏡《かがみ》の|湖《みづうみ》と|化《くわ》して|仕舞《しま》つた。|初稚姫《はつわかひめ》は|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》くスマートに|跨《またが》り、|見《み》る|見《み》る|其《その》|姿《すがた》は|一行《いつかう》の|視線《しせん》を|離《はな》れて|仕舞《しま》つた。ワックスの|乗《の》つて|居《ゐ》た|大船《おほふね》は|肝腎《かんじん》の|船頭《せんどう》を|失《うしな》ひ、|櫓《ろ》を|操《あやつ》る|事《こと》を|知《し》らず、|歯《は》がみをしながら|水面《すいめん》にキリキリ|舞《まひ》をひをやつて|居《ゐ》る。|三千彦《みちひこ》、|伊太彦《いたひこ》は|舷《ふなばた》を|叩《たた》き|愉快《ゆくわい》げに|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|舳《へさき》を|南《みなみ》に|向《む》け|微風《びふう》に|帆《ほ》を|孕《はら》ませ|走《はし》り|行《ゆ》く。
|三千彦《みちひこ》『|此処《ここ》は|名《な》に|負《お》ふテルモン|湖《こ》 |東西《とうざい》|百里《ひやくり》|南北《なんぽく》は
|二百里《にひやくり》ありと|聞《き》き|及《およ》ぶ |神《かみ》の|使《つかひ》の|宣伝使《せんでんし》
テルモン|館《やかた》を|後《あと》にして |足許《あしもと》|辷《すべ》る|坂道《さかみち》を
|漸《やうや》う|下《くだ》り|来《き》て|見《み》れば |金波《きんぱ》|銀波《ぎんぱ》の|漂《ただよ》へる
|大海原《おほうなばら》の|右左《みぎひだり》 パインの|林《はやし》は|立《た》ち|並《なら》び
|金砂《きんしや》|銀砂《ぎんしや》は|日光《につくわう》に |輝《かがや》きわたる|麗《うるは》しさ
|静《しづ》かな|浪《なみ》は|舷《ふなばた》に |押《お》し|寄《よ》せ|来《きた》り|鼓《つづみ》|打《う》つ
ああ|天国《てんごく》か|楽園《らくゑん》か |譬《たとへ》がたなき|風景《ふうけい》ぞ
|待《ま》つ|間《ま》|程《ほど》なく|一艘《いつさう》の |老朽船《らうきうせん》が|現《あら》はれて
|吾等《われら》|一行《いつかう》を|乗《の》せながら |南《みなみ》へ|南《みなみ》へと|進《すす》む|折《をり》
|忽《たちま》ちワックス|船底《せんてい》より |現《あら》はれ|来《きた》り|大刀《だいたう》を
|引《ひ》き|抜《ぬ》き|吾等《われら》|一行《いつかう》を |力《ちから》|限《かぎ》りに|脅迫《けふはく》し
|暴逆無道《ばうぎやくぶだう》の|手《て》を|下《くだ》し |恋《こひ》の|恨《うらみ》を|晴《は》らさむと
|湖《みづうみ》の|如《ごと》き|巻舌《まきじた》を |並《なら》べてゴロつく|折《をり》もあれ
|俄《にはか》に|吹《ふ》き|来《く》る|湖嵐《うなあらし》 |前後左右《ぜんごさいう》に|吹《ふ》きまくり
|小山《こやま》のやうな|浪《なみ》を|立《た》て |瞬《またた》く|中《うち》に|船体《せんたい》は
|風《かぜ》に|木《こ》の|葉《は》の|散《ち》る|如《ごと》く |危《あやふ》さ|刻々《こくこく》|増《まし》|来《きた》り
|櫓《ろ》を|操《あやつ》りし|船頭《せんどう》は |撥《は》ね|飛《と》ばされて|無慙《むざん》にも
|湖《うみ》の|藻屑《もくづ》となり|果《は》てぬ |遉《さすが》|無道《ぶだう》のワックスや
|其《その》|他《た》|三人《みたり》の|悪漢《わるもの》も |激《はげ》しき|颶風《ぐふう》に|敵《てき》しかね
|右《みぎ》や|左《ひだり》にヨロヨロと |転《ころ》げ|廻《まは》りしおかしさよ
|吾《わが》|師《し》の|君《きみ》を|初《はじめ》とし |吾等《われら》|一行《いつかう》も|船体《せんたい》を
|揺《ゆ》られて|苦《くる》しむ|時《とき》もあれ |左手《ゆんで》に|浮《うか》ぶ|島《しま》の|陰《かげ》
|現《あら》はれ|来《きた》る|一艘《いつさう》の |船《ふね》は|此方《こなた》に|竜《りう》の|如《ごと》く
|進《すす》み|来《きた》るぞ|不思議《ふしぎ》なれ |吾等《われら》は|愁眉《しうび》を|開《ひら》きつつ
こは|何人《なにびと》の|船《ふね》なると |瞳《ひとみ》を|据《す》ゑてよく|見《み》れば
|豈《あに》|計《はか》らむや|三五《あななひ》の |教《をしへ》の|道《みち》に|名《な》も|高《たか》き
|初稚姫《はつわかひめ》の|御姿《おんすがた》 |吾等《われら》が|危難《きなん》を|救《すく》はむと
|目無堅間《めなしかたま》の|御船《みふね》をば |用意《ようい》|遊《あそ》ばし|玉《たま》ひしと
|聞《き》くより|嬉《うれ》しさ|限《かぎ》りなく |感謝《かんしや》の|涙《なみだ》|止《と》めあへず
ヒラリと|船《ふね》に|飛《と》び|乗《の》れば |今《いま》|迄《まで》|吾等《われら》を|助《たす》けたる
|神《かみ》の|司《つかさ》のスマートは ザンブと|許《ばか》り|浪《なみ》の|上《うへ》
|身《み》を|躍《をど》らして|飛《と》び|込《こ》みぬ あはやと|思《おも》ふ|暇《ひま》もなく
|初稚姫《はつわかひめ》は|忽《たちま》ちに |其《その》|身《み》を|湖面《こめん》に|投《な》げながら
スマートの|背《せな》に|跨《またが》りて |矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|出《い》でたまふ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|変化《へんげ》か|神人《しんじん》か
|唯《ただ》しは|誠《まこと》の|三五《あななひ》の |初稚姫《はつわかひめ》のお|姿《すがた》か
|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|御救《おんすく》ひ |嬉《うれ》しく|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る
|後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り|眺《なが》むれば |今《いま》|迄《まで》|乗《の》り|来《き》しぼろ|船《ふね》は
|肝腎要《かんじんかなめ》の|船頭《せんどう》を |浪《なみ》に|呑《の》まれて|操縦《さうじう》の
|機関《きくわん》を|失《うしな》ひ|浪《なみ》の|上《うへ》 クルクルクルと|回転《くわいてん》し
|進《すす》みなやむぞ|可笑《をか》しけれ |旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|如何《いか》なる|嵐《あらし》が|吹《ふ》くとても |誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の
|神《かみ》に|任《まか》せし|吾々《われわれ》は まさかの|時《とき》の|救《たす》け|舟《ぶね》
|天《てん》より|下《くだ》し|玉《たま》ふなり ああ|尊《たふと》しや|有難《ありがた》や
|神《かみ》は|汝《なんぢ》と|共《とも》にあり |人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|恐《おそ》るるためしは|要《い》らないと |諭《さと》し|給《たま》ひし|三五《あななひ》の
|教《をしへ》を|今更《いまさら》|目《ま》の|当《あた》り |知《し》るぞ|嬉《うれ》しき|湖《うみ》の|上《うへ》
|千尋《ちひろ》の|深《ふか》き|御恵《おんめぐみ》 |必《かなら》ず|忘《わす》れまつらむや
|弘誓《ぐぜい》の|船《ふね》に|帆《ほ》を|上《あ》げて |涼《すず》しき|風《かぜ》に|吹《ふ》かれつつ
|夏《なつ》の|央《なかば》と|云《い》ひ|乍《なが》ら ハルナの|都《みやこ》に|進《すす》み|行《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|意気《いき》|揚々《やうやう》として|際限《さいげん》もなき|湖水《こすい》を|進《すす》み|行《ゆ》く。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・三・二八 旧二・一二 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第八章 |孤島《こたう》〔一四八三〕
テルモン|湖水《こすい》の|真中《まんなか》に |波《なみ》に|漂《ただよ》ふ|一《ひと》つ|島《じま》
|全島《ぜんたう》|巌《いはほ》に|包《つつ》まれて |少《すこ》しばかりの|笹草《ささぐさ》が
|彼方《あなた》|此方《こなた》に|点々《てんてん》と |僅《わづ》かに|生《は》えしツミの|島《しま》
|周回《しうくわい》|一里《いちり》|磯辺《いそばた》に いつも|荒波《あらなみ》|噛《か》みつきて
さも|凄惨《せいさん》の|気《き》に|充《み》ちぬ そも|此《この》|島《しま》は|罪人《つみびと》を
|自《みづか》ら|命《いのち》|終《をは》るまで |食物《しよくもつ》さへも|与《あた》へずに
|流《なが》し|捨《す》つべき|地獄《ぢごく》なり |此《この》|鬼島《おにじま》に|現《あら》はれし
|憐《あは》れな|人《ひと》は|磯辺《いそばた》の |逆捲《さかま》く|波《なみ》に|飛《と》び|込《こ》みて
|貝《かひ》をば|拾《ひろ》ひ|蟹《かに》を|採《と》り |僅《わづ》かに|露命《ろめい》をつなぎつつ
|骨《ほね》と|皮《かは》とになり|果《は》てて |恰《あたか》も|餓鬼《がき》の|如《ごと》くなり
|折《をり》から|来《きた》るバラモンの |四五《しご》の|勇士《ゆうし》は|船《ふね》を|漕《こ》ぎ
|傍《かたへ》の|沖《おき》を|通《とほ》る|折《をり》 |忽《たちま》ち|吹《ふ》き|来《く》る|荒風《あらかぜ》に
|無慙《むざん》や|船《ふね》を|暗礁《あんせう》に |突《つ》き|当《あ》て|忽《たちま》ちパリパリと
|木端微塵《こつぱみぢん》に|船体《せんたい》を |打挫《うちくだ》きたる|悲《かな》しさに
|五人《ごにん》の|男《をとこ》はツミの|島《しま》 |目当《めあて》に|漸《やうや》く|泳《およ》ぎ|着《つ》き
|二人《ふたり》は|水《みづ》に|呑《の》まれつつ どこともなしに|隠《かく》れける
|後《あと》に|残《のこ》りし|三人《さんにん》は ハール、ヤッコス、サボールの
バラモン|教《けう》で|名《な》も|高《たか》き |荒《あら》くれ|男《をとこ》のヤンチヤ|者《もの》
|漸《やうや》くここに|来《き》て|見《み》れば |殺人罪《さつじんざい》の|廉《かど》により
|此《この》ツミ|島《じま》に|捨《す》てられし ダルとメートの|両人《りやうにん》が
|巌《いはほ》の|穴《あな》に|身《み》を|潜《ひそ》め |衣《ころも》も|着《つ》けず|真裸《まつぱだか》
|髯《ひげ》|蓬々《ばうばう》と|猿《さる》の|如《ごと》 |髪《かみ》は|鳶《とんび》の|巣《す》の|様《やう》に
|縺《もつ》れからみし|穴棲居《あなずまゐ》 かかる|所《ところ》へ|船《ふね》を|割《わ》り
|漂《ただよ》ひ|来《きた》りし|三人《さんにん》は |先《ま》づ|第一《だいいち》に|食糧《しよくりやう》を
|探《さぐ》らむものと|磯辺《いそばた》を |彼方《かなた》|此方《こなた》と|探《さが》せども
|寄《よ》せては|返《かへ》す|荒波《あらなみ》の |危《あや》ふき|状《さま》に|辟易《へきえき》し
|空《むな》しき|腹《はら》を|抱《かか》へつつ |島《しま》の|遠近《をちこち》ウロウロと
|尋《たづ》ね|逍遙《さまよ》ひ|漸《やうや》くに |此《この》|岩窟《がんくつ》を|見付《みつ》け|出《だ》し
|二人《ふたり》の|男《をとこ》の|姿《すがた》をば |見《み》るより|早《はや》く|三人《さんにん》は
|此《この》|罪人《ざいにん》を|打殺《うちころ》し |当座《たうざ》の|餌《ゑじき》にせむものと
|顔《かほ》|見合《みあは》して|嫌《いや》らしく |笑《ゑみ》を|漏《もら》すぞ|恐《おそ》ろしき。
|三人《さんにん》の|男《をとこ》は|漸《やうや》く|此《この》|島《しま》に|命《いのち》からがら|辿《たど》り|着《つ》いた。|往来《ゆきき》の|船《ふね》も|少《すくな》く、いつ|迄《まで》|待《ま》つても|大陸《たいりく》へ|帰《かへ》る|見込《みこみ》がない。|山《やま》|一面《いちめん》|岩《いは》だらけで|草《くさ》の|根《ね》を|掘《ほ》つて|喰《く》ふ|事《こと》もならず、|磯辺《いそばた》の|貝《かひ》や|蟹《かに》を|漁《あさ》らむとすれども、ここは|殊更《ことさら》|湖中《こちう》の|波《なみ》|荒《あら》き|所《ところ》、|到底《たうてい》|一匹《いつぴき》の|蟹《かに》も|一芥《いつかい》の|貝《かひ》も|手《て》に|入《い》れる|事《こと》が|出来《でき》ぬ。|三人《さんにん》は|餓死《がし》する|外《ほか》なき|破目《はめ》に|陥《おちい》つた。|何《なに》か|獲物《えもの》もがなと、|彼方《あなた》|此方《こなた》と|小《ちひ》さき|島《しま》を|隈《くま》なく|探《さが》し|廻《まは》り、|漸《やうや》く|此《この》|岩窟《いはや》の|中《なか》に|二人《ふたり》の|罪人《ざいにん》が|痩《やせ》こけて|忍《しの》んで|居《を》るのに|気《き》がついた。|三人《さんにん》は|空腹《くうふく》に|堪《た》へ|兼《か》ね|此《この》|二人《ふたり》の|男《をとこ》を|当座《たうざ》の|餌《ゑじき》にせむものと|恐《おそ》ろしき|心《こころ》を|起《おこ》し、|二人《ふたり》の|前《まへ》にツカツカと|立寄《たちよ》り、|矢庭《やには》に|一人《ひとり》を|引掴《ひつつか》み、|双方《さうはう》より|両《りやう》の|腕《うで》を|以《もつ》てメリメリと|力《ちから》|限《かぎ》りに【むしり】|取《と》らうとした。|一人《ひとり》の|男《をとこ》は|岩窟《いはや》に|隠《かく》しあつた|鋭利《えいり》な|石刀《いしがたな》を|揮《ふる》つて|一人《ひとり》の|友《とも》を|救《すく》はむと|立向《たちむか》ふた。|三人《さんにん》は|此《この》|権幕《けんまく》に|恐《おそ》れてパツと|手《て》を|放《はな》した|途端《とたん》に、さしもに|険峻《けんしゆん》な|岩山《いはやま》を|兎《うさぎ》の|如《ごと》く|逃《に》げ|登《のぼ》り、|頭上《づじやう》より|岩石《がんせき》の|片《かけ》を|拾《ひろ》つては|三人《さんにん》|目蒐《めが》けて|投《な》げつける。|三人《さんにん》は|止《や》むを|得《え》ず、|此《この》|危険《きけん》を|免《まぬが》れむために|二人《ふたり》の|潜《ひそ》んで|居《ゐ》た|岩窟《いはや》の|中《なか》へ|身《み》を|隠《かく》した。|二人《ふたり》の|男《をとこ》は、|最早《もはや》|三人《さんにん》の|人喰《ひとく》ひ|人種《じんしゆ》が|吾《わ》が|投《な》げ|下《おろ》す|数多《あまた》の|岩石《がんせき》に|打《う》たれて|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|倒《たふ》れたるならむ、|久振《ひさしぶ》りにて|人肉《にんにく》の|暖《あたたか》き|奴《やつ》を|鱈腹《たらふく》|喰《く》つて|元気《げんき》をつけむものと|色々《いろいろ》|廻《まは》り|道《みち》して、|稍《やや》|緩《ゆる》き|山腹《さんぷく》を|下《くだ》り|磯辺《いそばた》を|伝《つた》ふて|吾《わが》|住《すま》ひたる|岩窟《いはや》の|側《そば》へ|寄《よ》つて|来《き》た。|見《み》れば|三人《さんにん》は|少《すこ》しの|怪我《けが》もなく|穴《あな》の|中《なか》に|鼎坐《かなへざ》となつて|胡床《あぐら》をかき、|何事《なにごと》か|話《はなし》して|居《ゐ》る。|二人《ふたり》はこれを|見《み》るより『やア、まだピチピチして|居《ゐ》る。こりや|大変《たいへん》だ』と|磯端《いそばた》を|伝《つた》ひ、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|逃《に》げ|出《いだ》す。その|足音《あしおと》にハツと|気《き》がつき|三人《さんにん》は『さア、|今《いま》の|間《うち》に|取掴《とつつか》まへて|口腹《こうふく》を|充《み》たさむもの』と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|二人《ふたり》の|後《あと》を|追《お》ふた。|二人《ふたり》は|小石《こいし》を|拾《ひろ》ひ|投《な》げつけ|乍《なが》ら|逃《に》げて|行《ゆ》く。|三人《さんにん》は『|己《おの》れ|逃《に》がしてなるものか、|山《やま》へ|上《あ》げては|大変《たいへん》』と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|追《お》ふて|行《ゆ》く。メート、ダルの|両人《りやうにん》は|磯端《いそばた》の|簫《せう》を|立《た》てた|様《やう》な|岩《いは》の|前《まへ》に|追《お》ひ|捲《まく》られ、|進退《しんたい》|維《これ》|谷《きは》まり、|死物狂《しにものぐるひ》となつて|三人《さんにん》に|向《むか》ひ|組《く》みついた。ここに|三人《さんにん》の|空腹者《くうふくしや》と、|痩《やせ》た|乍《なが》ら|蟹《かに》や|貝《かひ》に|腹《はら》を|拵《こしら》へ、|饑餓《きが》に|慣《な》れて|居《ゐ》る|二人《ふたり》の|男《をとこ》と|組《く》んず|組《く》まれつ、|磯端《いそばた》に|餓鬼同士《がきどうし》の|大活劇《だいくわつげき》を|演《えん》じて|居《ゐ》る。
|玉国別《たまくにわけ》の|乗《の》れる|船《ふね》は|四五丁《しごちやう》|許《ばか》り|沖《おき》の|方《はう》を|白帆《しらほ》に|風《かぜ》を|孕《はら》ませ|乍《なが》ら|走《はし》つて|居《ゐ》る。|舳《へさき》に|立《た》つて|居《ゐ》た|伊太彦《いたひこ》は|不思議《ふしぎ》な|島《しま》が|湖中《こちう》に|浮《う》かんで|居《ゐ》ると、よくよく|見《み》れば|磯端《いそばた》に|四五人《しごにん》の|男《をとこ》が|明瞭《はつき》り|分《わか》らねど、|何《なに》か|格闘《かくとう》をやつてる|様《やう》に|見《み》える。|直《ただ》ちに|苫葺《とまぶき》の|中《なか》に|潜《もぐ》り|込《こ》み、
|伊太《いた》『もし|先生《せんせい》、|彼処《あそこ》に|不思議《ふしぎ》な|島《しま》が|浮《うか》んで|居《ゐ》ます。そして|人間《にんげん》の|影《かげ》らしい|者《もの》が|磯端《いそばた》で|大喧嘩《おほげんくわ》をして|居《を》る|様《やう》ですが|一寸《ちよつと》|御覧《ごらん》なさいませ』
|玉国《たまくに》『うん、|大方《おほかた》|有名《いうめい》なツミの|島《しま》の|側《そば》へ|近寄《ちかよ》つて|来《き》たのだらう、|彼処《あこ》には|大罪人《だいざいにん》が|押込《おしこ》めてあると|云《い》ふ|事《こと》だ、|可憐《かはい》さうなものだな』
|伊太《いた》『どうでせう、|一《ひと》つ|船《ふね》を|寄《よ》せて|罪人《ざいにん》ならば|尚《なほ》の|事《こと》、|大神様《おほかみさま》の|教《をしへ》を|説《と》き|諭《さと》し、|助《たす》けてやらうぢやありませぬか。|現在《げんざい》|人《ひと》の|難儀《なんぎ》を|見《み》て|通《とほ》り|越《こ》すと|云《い》ふ|事《こと》は|吾々《われわれ》|宣伝使《せんでんし》の|勤《つと》めでは|厶《ござ》いますまいがな』
|玉国《たまくに》『うん、さうだ。|助《たす》けてやりたいものだ。おい|船頭《せんどう》、どうか|彼《あ》の|島《しま》へ|船《ふね》を|着《つ》けて|呉《く》れまいか』
|船頭《せんどう》の|一人《ひとり》『はい、|仰《おほ》せとあれば|近《ちか》く|迄《まで》は|船《ふね》を|寄《よ》せて|見《み》ませうが、|彼処《あそこ》には|大変《たいへん》な|悪人《あくにん》ばかりで、うつかり|船《ふね》でも|寄《よ》せやうものなら|喰《く》はれて|了《しま》ひますよ。|先繰《せんぐ》り|先繰《せんぐ》り|送《おく》られて|行《ゆ》く|奴《やつ》が|食物《しよくもつ》がない|為《ため》、|弱《よわ》い|奴《やつ》から|喰《く》はれて|了《しま》ひ、|後《あと》に|残《のこ》つて|居《ゐ》る|奴《やつ》は|手《て》にも|足《あし》にも|合《あ》はぬ|人鬼《ひとおに》ばかりだと|云《い》ふ|事《こと》です。|上陸《じやうりく》さへなさらねば|近《ちか》く|迄《まで》|船《ふね》を|寄《よ》せて|見《み》ませう』
|伊太彦《いたひこ》は|又《また》もや|舷頭《げんとう》に|立《た》ち|現《あら》はれ、
|伊太《いた》『おい、|船頭《せんどう》|大変《たいへん》な|活劇《くわつげき》が|演《えん》ぜられて|居《ゐ》る|様《やう》だ。|一《ひと》つ|見物《けんぶつ》して|行《ゆ》かうぢやないか』
|船頭《せんどう》『そんなら|近《ちか》くまで|寄《よ》せて|見《み》ませう。|随分《ずいぶん》|恐《おそ》ろしい|処《ところ》ですよ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|八挺櫓《はつちやうろ》を|漕《こ》いで|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|島《しま》の|近辺《きんぺん》まで|船《ふね》を|寄《よ》せた。|島《しま》の|近《ちか》く|四五十間《しごじつけん》の|間《あひだ》は、どうしたものか|非常《ひじやう》に|波《なみ》|高《たか》く|且《か》つ|暗礁《あんせう》|点綴《てんてつ》して|実《じつ》に|危険《きけん》|極《きは》まる|場所《ばしよ》である。|船頭《せんどう》は|巧《たくみ》に|暗礁《あんせう》をくぐり、|漸《やうや》くにして|十間《じつけん》ばかり|磯端《いそばた》の|手前《てまへ》に|近《ちか》づいた。|五人《ごにん》の|男《をとこ》は|何《いづ》れもヘタヘタになつて|息《いき》も|絶《た》え|絶《だ》えに|倒《たふ》れて|居《ゐ》る。
|玉国《たまくに》『やア、|船頭《せんどう》、|御苦労《ごくらう》だがソツと|船《ふね》を|着《つ》けて|呉《く》れ。どうやら|五人《ごにん》の|男《をとこ》が|互《たがひ》に|争《あらそ》ふた|結果《けつくわ》、|息《いき》も|絶《た》え|絶《だ》えになつてる|様《やう》だ。|何《なん》とかして|助《たす》けてやらねばならぬ』
|船頭《せんどう》『もし、お|客様《きやくさま》、あの|様《やう》な|者《もの》を|助《たす》けやうものなら|大変《たいへん》、|此方《こちら》が|罪人《ざいにん》になり、|此《この》|島《しま》へ|数多《あまた》の|兵士《へいし》に|送《おく》られて|永遠《えいゑん》に|捨《す》てられねばなりませぬ。それはお|止《よ》しになつたが|宜《よろ》しう|厶《ござ》いませう』
|玉国《たまくに》『|何《なに》、|構《かま》ふものか。|人《ひと》の|難儀《なんぎ》を|見《み》て|吾々《われわれ》は|見逃《みのが》す|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬ。さア|早《はや》く|船《ふね》を|着《つ》けて|呉《く》れ。|万一《まんいち》お|前《まへ》が|船《ふね》を|着《つ》けた|為《ため》、|罪人《ざいにん》になる|様《やう》な|事《こと》があつたら、|私《わし》が|弁解《べんかい》してやらう。そして|屹度《きつと》|助《たす》けるから|安心《あんしん》して|磯端《いそばた》に|寄《よ》せて|呉《く》れ』
|船頭《せんどう》の|一人《ひとり》『そんなら|仰《おほ》せに|従《したが》ひ、|兎《と》も|角《かく》|船《ふね》を|着《つ》けて|見《み》ませう』
と|稍《やや》|湾形《わんけい》になつた|波《なみ》の|低《ひく》き|岩蔭《いはかげ》に|船《ふね》を|寄《よ》せた。ここに|船頭《せんどう》は|船《ふね》を|固《かた》く|磯端《いそばた》の|岩《いは》に|縛《しば》りつけ、|波《なみ》に|攫《さら》はれて|漂流《へうりう》する|憂《うれ》ひなき|様《やう》、|幾筋《いくすぢ》も|綱《つな》を|曳《ひ》いて|繋《つな》ぎつけた。
|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》は|磯端《いそばた》を|伝《つた》ひ|乍《なが》ら、|五人《ごにん》が|倒《たふ》れて|居《ゐ》る|側《そば》に|荒石《あらいし》を|跳《と》び|越《こ》え|跳《と》び|越《こ》え|進《すす》み|寄《よ》つた。|五人《ごにん》は|宣伝使《せんでんし》の|姿《すがた》を|眺《なが》めて|怪訝《けげん》な|顔《かほ》して|居《ゐ》る。
|伊太彦《いたひこ》は|先《ま》づ|五人《ごにん》の|側《そば》に|寄《よ》り、
|伊太《いた》『お|前達《まへたち》|五人《ごにん》は|斯《こ》んな|離《はな》れ|島《じま》に|何《なに》をして|居《ゐ》るのだ。|見《み》れば|各自《めいめい》に|顔《かほ》から|血《ち》を|出《だ》して|居《ゐ》るぢやないか。|斯様《かやう》な|島《しま》へ|罪《つみ》あつて|流《なが》された|上《うへ》は、|互《たがひ》に|仲良《なかよ》く|暮《くら》したら|如何《どう》だ』
バラモン|軍《ぐん》のヤッコスはムクムクと|起《お》き|上《あが》り、|顔《かほ》の|血糊《ちのり》を|手《て》にて|拭《ぬぐ》ひ|乍《なが》ら、
ヤッコス『|私《わたくし》はハルナの|都《みやこ》の|大黒主様《おほくろぬしさま》から|或《ある》|使命《しめい》を|帯《お》びて|此《この》|湖水《こすい》を|渡《わた》り、|北《きた》に|向《むか》つて|進《すす》む|折《をり》しも|暴風《ばうふう》に|遭《あ》ひ|暗礁《あんせう》に|衝突《しようとつ》し|船体《せんたい》は|木端微塵《こつぱみぢん》となり、|二人《ふたり》の|同僚《どうれう》は|逆巻《さかま》く|波《なみ》に|呑《の》まれ|行衛不明《ゆくゑふめい》となり、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》|此《この》|島《しま》に|漸《やうや》く|漂着《へうちやく》|致《いた》しました。|別《べつ》に|怪《あや》しいものでは|厶《ござ》いませぬから、|何卒《どうぞ》お|助《たす》けを|願《ねが》ひます』
メート『|貴方《あなた》は|神様《かみさま》のお|使《つかひ》と|見《み》えますが、|何卒《どうぞ》|私《わたし》|等《ら》|二人《ふたり》をお|助《たす》け|下《くだ》さいませ。|此《この》|三人《さんにん》が|二時《ふたとき》ばかり|以前《いぜん》に|此処《ここ》へ|漂着《へうちやく》し、|吾々《われわれ》|二人《ふたり》の|命《いのち》をとり、|餌食《ゑじき》にせむと|追《お》ひ|駆《か》けますので、|逃《に》げ|場《ば》を|失《うしな》ひ|死物狂《しにものぐるひ》となつて|防《ふせ》ぎ|戦《たたか》ふて|居《ゐ》ましたが、|最早《もはや》|力《ちから》|尽《つ》き|手《て》も|足《あし》も|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》かなくなりました。|何卒《なにとぞ》|憐《あは》れに|思《おも》ひ|命《いのち》をお|助《たす》け|願《ねが》ひます。そして|三人《さんにん》は|何処《どこ》かへ|連《つ》れてお|帰《かへ》り|下《くだ》さいませ。|斯様《かやう》な|人喰人種《ひとくひじんしゆ》が|此《この》|島《しま》へ|居《を》りましては|吾々《われわれ》は|堪《たま》りませぬから』
と|嫌《いや》らしい|飛《と》び|出《だ》した|目《め》から|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》し|水鼻汁《みづばな》を|垂《た》らして|悲《かな》しげに|頼《たの》み|入《い》る。
|玉国別《たまくにわけ》は|船中《せんちう》に|貯《たくは》へあるパンを|取《と》り|出《いだ》し、|言葉《ことば》|優《やさ》しく|五人《ごにん》に|取《と》らせ、|且《か》つ|種々《いろいろ》と|一同《いちどう》が|心《こころ》を|籠《こ》めて|介抱《かいはう》した。|五人《ごにん》はパンを|与《あた》へられ、|又《また》|久振《ひさしぶ》りでダル、メートは|真水《まみづ》を|与《あた》へられ、|嬉《うれ》し|泣《な》きに|泣《な》き|乍《なが》ら、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|掌《て》を|合《あは》せて|拝《をが》み|倒《たふ》して|居《ゐ》る。
|三千彦《みちひこ》、デビス|姫《ひめ》は|言葉《ことば》|優《やさし》く|五人《ごにん》を|労《いたは》り、|足《あし》の|弱《よわ》つたものは|手《て》を|曳《ひ》き、|或《あるひ》は|肩《かた》にかけ|等《など》して|乗《の》り|来《きた》りし|船《ふね》の|側《そば》|近《ちか》く|誘《いざな》ひ|来《きた》り、|各自《めいめい》|五人《ごにん》の|体《からだ》を|舁《か》く|様《やう》にして|船《ふね》の|中《なか》へ|救《すく》ひ|入《い》れ、|横《よこ》に|寝《ね》させ|又《また》もや|帆《ほ》を|上《あげ》て|南《みなみ》へ|南《みなみ》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。
|真純彦《ますみひこ》は|舷頭《げんとう》に|立《た》ち|歌《うた》を|歌《うた》ふ。|三千彦《みちひこ》、|伊太彦《いたひこ》は|舷《ふなばた》を|叩《たた》いて|潔《いさぎよ》く|拍子《ひやうし》を|取《と》る。
|真純彦《ますみひこ》『テルモン|湖水《こすい》の|真中《まんなか》に |波《なみ》を|浴《あ》びつつ|衝《つ》つ|立《た》てる
|名《な》も|恐《おそ》ろしきツミの|島《しま》 |人喰人種《ひとくひじんしゆ》か|知《し》らねども
|五人《ごにん》の|姿《すがた》を|見《み》るよりも いとど|憐《あは》れを|催《もよほ》して
|見捨《みす》て|兼《か》ねたる|吾《わが》|一行《いつかう》 |危《あやふ》き|暗礁《あんせう》|潜《くぐ》りぬけ
|漸《やうや》く|船《ふね》を|磯端《いそばた》に |繋《つな》ぎてここに|上陸《じやうりく》し
|五人《ごにん》の|男《をとこ》を|相救《あひすく》ひ |目無堅間《めなしかたま》の|船《ふね》に|乗《の》せ
|折《をり》から|吹《ふ》き|来《く》る|順風《じゆんぷう》に |帆《ほ》を|孕《はら》ませて|波《なみ》の|上《うへ》
|船《ふね》|辷《すべ》らして|進《すす》み|行《ゆ》く |如何《いか》なる|罪《つみ》を|犯《をか》せしか
|事《こと》の|次第《しだい》は|知《し》らねども |人《ひと》は|天地《てんち》の|分霊《わけみたま》
ムザムザ|殺《ころ》すものならず バラモン|国《ごく》の|掟《おきて》とし
|罪人《ざいにん》なりと|憎《にく》しみて |鳥《とり》も|通《かよ》はぬ|此《この》|島《しま》に
|情《つれ》なく|捨《す》てて|自滅《じめつ》をば |待《ま》たすと|云《い》ふは|何《なん》の|事《こと》
|呆《あき》れ|果《は》てたる|制度《せいど》なり |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|如何《いか》なる|罪《つみ》も|宣《の》り|直《なほ》し |悪《あし》き|心《こころ》や|行《おこな》ひを
|改《あらた》めしめて|天国《てんごく》の |神苑《みその》に|救《すく》ふ|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》の|宣伝使《せんでんし》 |心《こころ》|安《やす》かれメート、ダル
|二人《ふたり》の|男《を》の|子《こ》は|三五《あななひ》の |神《かみ》の|司《つかさ》が|預《あづか》りて
|身《み》を|安全《あんぜん》に|何処《どこ》|迄《まで》も |心《こころ》を|籠《こ》めて|守《まも》るべし
さはさり|乍《なが》ら|両人《りやうにん》よ |今日《けふ》を|境《さかひ》に|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|底《そこ》より|改《あらた》めて |悪《あく》と|虚偽《きよぎ》との|行《おこな》ひを
|一時《いちじ》も|早《はや》く|悔悟《くわいご》して |誠《まこと》の|道《みち》に|適《かな》へかし
|神《かみ》は|汝《なんぢ》と|倶《とも》にあり |神《かみ》に|任《まか》せし|人《ひと》の|身《み》は
|世《よ》に|恐《おそ》るべきものはなし ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みを|朝夕《あさゆふ》に |心《こころ》に|深《ふか》く|刻《きざ》み|込《こ》み
|束《つか》の|間《あひだ》も|忘《わす》れなよ |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |荒波《あらなみ》|猛《たけ》り|狂《くる》ふとも
|仮令《たとへ》|神船《みふね》は|覆《かへ》るとも |仁慈《じんじ》の|神《かみ》の|在《ま》す|限《かぎ》り
|恐《おそ》るる|事《こと》はあらざらめ |勇《いさ》めよ|勇《いさ》め|皆《みな》|勇《いさ》め
バラモン|軍《ぐん》に|仕《つか》へたる ヤッコス、ハール、サボールよ
|汝《なんぢ》も|今《いま》より|心《こころ》をば よく|改《あらた》めて|三五《あななひ》の
|誠《まこと》の|教《をしへ》を|聞《き》くがよい |汝《なんぢ》|等《ら》|三人《さんにん》|月《つき》の|国《くに》
|大黒主《おほくろぬし》の|命《めい》を|受《う》け これの|湖水《こすい》を|渡《わた》りしは
|三五教《あななひけう》の|神軍《しんぐん》を |途中《とちう》に|喰《く》ひとめ|進路《しんろ》をば
|妨《さまた》げせむとの|企《たく》みぞと |吾等《われら》は|早《はや》くも|覚《さと》りけり
さはさりながら|世《よ》の|中《なか》に |敵《てき》もなければ|仇《あだ》もない
|天地《てんち》の|間《あひだ》に|人《ひと》となり |同《おな》じ|月日《つきひ》の|光《ひかり》をば
|浴《あ》びて|此《この》|世《よ》にある|限《かぎ》り |互《たがひ》に|助《たす》け|睦《むつ》び|合《あ》ひ
|誠《まこと》|一《ひと》つを|楯《たて》として |互《たがひ》に|手《て》を|曳《ひ》き|現世《うつしよ》を
|楽《たの》しく|嬉《うれ》しく|面白《おもしろ》く |渡《わた》るが|人《ひと》の|務《つと》めぞや
|必《かなら》ず|悪《あく》に|迷《まよ》ふなよ |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|神《かみ》の|司《つかさ》の|真純彦《ますみひこ》が |荒波《あらなみ》|猛《たけ》る|湖《うみ》の|上《うへ》
|神《かみ》に|代《かは》りて|説《と》き|諭《さと》す ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|船底《せんてい》にコトコトと|鼓《つづみ》を|拍《う》たせ|乍《なが》ら|際限《さいげん》なき|湖上《こじやう》を|辷《すべ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二八 旧二・一二 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第九章 |湖月《こげつ》〔一四八四〕
|浪《なみ》より|出《い》でて|浪《なみ》に|入《い》る |玉兎《ぎよくと》の|玉国別司《たまくにわけつかさ》
|初稚姫《はつわかひめ》の|賜《たまは》りし |目無堅間《めなしかたま》の|船《ふね》に|乗《の》り
|果《はて》しも|知《し》らぬ|湖原《うなばら》を |五人《ごにん》の|男《をとこ》を|救《すく》ひつつ
|〓乃《ふなうた》|高《たか》く|潔《いさぎよ》く |歌《うた》ひて|進《すす》む|浪《なみ》の|上《うへ》
|星《ほし》の|光《ひかり》はキラキラと |深《ふか》く|沈《しづ》める|湖《うみ》の|底《そこ》
|天津御空《あまつみそら》も|船底《せんてい》も |金砂《きんしや》|銀砂《ぎんしや》を|鏤《ちりば》めし
|其《その》|中間《ちうかん》を|渡《わた》り|行《ゆ》く |天《あま》の|河原《かはら》は|南北《なんぽく》に
|清《きよ》く|流《なが》れて|果《はて》もなく |洗《あら》ふたやうな|月影《つきかげ》は
|湖底《うみぞこ》|深《ふか》くきらきらと |銀竜《ぎんりう》の|如《ごと》く|揺《ゆ》らぎ|居《を》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|依《よ》さしの|宣伝使《せんでんし》
|浪音《なみおと》|清《きよ》き|音彦《おとひこ》の |玉国別《たまくにわけ》を|初《はじ》めとし
|星《ほし》は|御空《みそら》に|三千彦《みちひこ》の |姿《すがた》を|写《うつ》す|真純空《ますみぞら》
|伊太彦《いたひこ》|一枚《いちまい》|隔《へだ》てたる |千尋《ちひろ》の|深《ふか》き|水地獄《みづぢごく》
デビスの|姫《ひめ》と|諸共《もろとも》に |声《こゑ》|爽《さはや》かに|宣伝歌《せんでんか》
|歌《うた》ひ|歌《うた》ひて|進《すす》み|行《ゆ》く |天《あま》の|川原《かはら》に|棹《さを》さして
エデンの|河《かは》に|船《ふね》を|漕《こ》ぎ |顕恩郷《てんおんきやう》に|上《のぼ》るごと
|心《こころ》|涼《すず》しく|勇《いさ》ましく |思《おも》はず|知《し》らず|進《すす》み|行《ゆ》く
|汗《あせ》|拭《ふ》き|払《はら》ふ|夏《なつ》の|風《かぜ》 いやな|潮《うしほ》の|香《にほひ》なく
|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|帆《ほ》を|孕《はら》み マストは|弓《ゆみ》に|曲《まが》りつつ
|折《をり》から|起《おこ》る|荒浪《あらなみ》を |乗《の》り|切《き》り|乗《の》り|切《き》る|勇《いさ》ましさ
|長《なが》らく|陸路《くがぢ》の|旅《たび》を|経《へ》し |玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》は
|何《なん》とはなしに|気《き》も|勇《いさ》み |身《み》も|冴《さ》え|冴《ざ》えと|元気《げんき》よく
|沖《おき》の|鴎《かもめ》やアンボイナ |飛《と》び|交《か》ふ|景色《けしき》を|賞《ほめ》ながら
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》に|昇《のぼ》るごと |風《かぜ》に|任《まか》して|馳《はせ》て|行《ゆ》く
|危《あやふ》き|命《いのち》を|救《すく》はれし ダルとメートの|両人《りやうにん》は
|漸《やうや》く|元気《げんき》|恢復《くわいふく》し |皺枯《しわが》れ|声《ごゑ》を|張《は》り|上《あ》げて
|面白《おもしろ》さうに|歌《うた》ひ|出《だ》す
メート『|私《わたし》の|生《うま》れは|月《つき》の|国《くに》 テルモン|山《ざん》の|南麓《なんろく》に
|首陀《しゆだ》と|生《うま》れしメーテルの |私《わたし》は|一人《ひとり》の|息子《むすこ》です
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 これの|湖水《こすい》を|渡《わた》らむと
いと|懇《ねもごろ》にことわけて |宣《の》らせたまひし|時《とき》もあれ
|掟《おきて》をやぶると|知《し》り|乍《なが》ら ダルと|二人《ふたり》が|船《ふね》を|出《だ》し
キヨの|港《みなと》にはるばると |安着《あんちやく》したる|時《とき》もあれ
バラモン|教《けう》の|目付役《めつけやく》 カンナ、ヘールの|両人《りやうにん》が
|有無《うむ》を|云《い》はせず|引捉《ひつとら》へ キヨの|関所《せきしよ》につれ|行《ゆ》きて
|三千五百《さんぜんごひやく》の|笞《むち》をあて |揚句《あげく》の|果《はて》は|船《ふね》に|乗《の》せ
|湖中《こちう》に|浮《うか》ぶツミの|島《しま》 |送《おく》り|届《とど》けて|逸早《いちはや》く
|逃《に》げ|行《ゆ》く|後《あと》を|打《う》ち|眺《なが》め |悲歎《ひたん》の|涙《なみだ》に|暮《く》れにける
|家《いへ》に|残《のこ》せし|父母《ちちはは》は |如何《いか》に|過《すご》させ|給《たま》ふらむ
|夢《ゆめ》になりともこの|様《さま》を |知《し》らさむものと|思《おも》へども
|翼《つばさ》なき|身《み》は|如何《いか》にせむ |音《おと》づるよしも|泣逆吃《ないじやくり》
ダルと|二人《ふたり》が|抱《いだ》き|合《あ》ひ |世《よ》を|果敢《はか》なみて|怖《おそ》ろしき
|磯《いそ》に|打《う》ち|来《く》る|浪《なみ》の|音《おと》 |頼《たよ》りに|月日《つきひ》を|送《おく》りつつ
|磯辺《いそべ》の|蟹《かに》や|貝《かひ》を|獲《と》り |僅《わずか》に|露命《ろめい》をつなぎつつ
|救《すく》ひの|船《ふね》の|一日《いちにち》も |早《はや》く|来《きた》れと|天地《あめつち》の
|神《かみ》に|祈《いの》りをかくる|折《をり》 |漂《ただよ》ひ|来《きた》る|三人連《みたりづ》れ
|吾等《われら》の|姿《すがた》を|見《み》るよりも |叩《たた》き|殺《ころ》して|三人《さんにん》が
|餌食《ゑじき》になさむと|怖《おそ》ろしき |其《その》|言《こと》の|葉《は》を|聞《き》くよりも
|狭《せま》き|岩窟《いはや》を|立《た》ち|出《い》でて |敵《てき》の|毒手《どくしゆ》を|逃《のが》れつつ
さしも|嶮《けは》しき|岩山《いはやま》を |猿《ましら》の|如《ごと》く|駆《か》け|登《のぼ》り
|手《て》ごろの|石《いし》を|手《て》に|取《と》つて |人喰《ひとく》ひ|人種《じんしゆ》を|打《う》ち|殺《ころ》し
|吾《わが》|身《み》の|危難《きなん》を|逃《のが》れむと |心《こころ》を|千々《ちぢ》に|砕《くだ》きつつ
|最早《もはや》|三人《みたり》の|食人鬼《しよくじんき》 |吾《わが》なげ|下《おろ》す|岩片《がんぺん》に
|打《う》たれて|脆《もろ》くも|身《み》|失《う》せしと |思《おも》ひて|窺《うかが》ひ|立《たち》よれば
|豈《あに》|計《はか》らむや|三人《さんにん》は |岩窟《いはや》の|中《なか》に|端坐《たんざ》して
|白《しろ》い|眼《まなこ》を|剥《む》きながら |吾等《われら》|二人《ふたり》の|姿《すがた》をば
|見《み》つけて|又《また》もや|殺《ころ》さむと |力《ちから》|限《かぎ》りに|追《お》ひ|来《きた》る
|吾等《われら》|二人《ふたり》は|大切《たいせつ》の |命《いのち》を|取《と》られちやならないと
|息《いき》|絶《た》え|絶《だ》えに|逃《に》げ|出《いだ》し ピツタリと|止《と》まつた|簫《せう》の|岩《いは》
|進退《しんたい》|茲《ここ》に|谷《きは》まりて |窮鼠《きうそ》|却《かへつ》て|猫《ねこ》を|食《は》む
|命《いのち》を|的《まと》に|逆襲《ぎやくしふ》と |騎《こま》|立《た》て|直《なほ》す|苦《くる》しさよ
|茲《ここ》に|五人《ごにん》は|全身《ぜんしん》の |力《ちから》を|籠《こ》めて|揉《も》み|合《あ》ひつ
|疲《つか》れて|互《たがひ》に|打《う》ち|倒《たふ》れ |前後不覚《ぜんごふかく》になりにけり
|時《とき》しもあれや|三五《あななひ》の |救《すく》ひの|道《みち》を|述《の》べ|伝《つた》ふ
|仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|宣伝使《せんでんし》 |現《あら》はれまして|吾々《われわれ》が
|危難《きなん》を|救《すく》ひ|給《たま》ひつつ |味《あぢ》よきパンを|与《あた》へまし
|安全《あんぜん》|無事《ぶじ》の|此《この》|船《ふね》に |助《たす》けていとど|親切《しんせつ》に
|吾等《われら》が|住所《すみか》に|送《おく》らむと |宣《の》らせ|給《たま》ひし|有難《ありがた》さ
それに|引《ひ》き|換《かへ》バラモンは ヤッコス、ハール、サボールの
|情《なさけ》を|知《し》らぬ|人畜生《にんちくしやう》 |取《と》り|喰《くら》はむと|角《つの》を|立《た》て
|迫《せま》り|来《きた》るぞ|怖《おそ》ろしき さはさりながら|吾々《われわれ》は
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御使《みつかひ》に |守《まも》られ|茲《ここ》にある|上《うへ》は
|最早《もはや》|怖《おそ》るる|事《こと》はなし バラモン|軍《ぐん》の|三人《さんにん》よ
|汝《なれ》も|心《こころ》を|改《あらた》めて |誠《まこと》の|心《こころ》に|立《た》ち|帰《かへ》り
|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|精神《せいしん》を |仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|神様《かみさま》に
ならひて|払《はら》ひ|清《きよ》むべし |人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|吾《われ》は|元《もと》よりバラモンの |教《をしへ》の|道《みち》の|御子《みこ》なれど
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |吾《わが》|家《や》に|一夜《ひとや》|泊《とま》らせて
|誠《まこと》の|道《みち》を|伝《つた》へてゆ |茲《ここ》に|心《こころ》を|改《あらた》めて
|御船《みふね》を|出《いだ》し|湖原《うなばら》を |遠《とほ》く|送《おく》りてキヨ|港《みなと》
|思《おも》はぬ|人《ひと》に|見《み》つけられ |身《み》の|災《わざはひ》となり|果《は》てて
|人喰鬼《ひとくひおに》の|住《す》むと|云《い》ふ |浪風《なみかぜ》|荒《あら》き|浮島《うきしま》に
|流《なが》され|居《ゐ》たるぞ|悲《かな》しけれ |仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|大神《おほかみ》は
|珍《うづ》の|使《つかひ》を|遣《つか》はして |愈《いよいよ》|吾等《われら》を|救《すく》ひまし
|湖路《うなぢ》を|守《まも》り|給《たま》ひつつ |送《おく》らせ|給《たま》ふ|有難《ありがた》さ
|仮令《たとへ》|天地《てんち》は|変《かは》るとも バラモン|教《けう》の|御教《みをしへ》は
|孫子《まごこ》に|伝《つた》へて|守《まも》らない |玉国別《たまくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|其《その》|外《ほか》|百《もも》の|司《つかさ》|達《たち》 |吾等《われら》を|憐《あは》れみ|給《たま》へかし
|皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に |赤心《まごころ》|捧《ささ》げ|両人《りやうにん》が
|謹《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|願《ね》ぎまつる』
バラモン|軍《ぐん》の|捕手《とりて》、ヤッコスは|舷《ふなばた》に|立《た》つてそろそろ|歌《うた》ひ|出《だ》した。
ヤッコス『バラモン|軍《ぐん》に|仕《つか》へたる |吾《われ》はヤッコス|目付役《めつけやく》
|四人《よにん》の|部下《ぶか》を|引《ひ》き|連《つ》れて テルモン|湖上《こじやう》を|打《う》ち|渡《わた》り
ニコラス|大尉《たいゐ》の|後《あと》を|追《お》ひ |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|若《もし》も|湖水《こすい》を|渡《わた》りなば |引捉《ひつつか》まへて|懲《こら》せよと
|大黒主《おほくろぬし》の|命《めい》を|受《う》け |船《ふね》に|真帆《まほ》をば|孕《はら》ませて
|北《きた》へ|北《きた》へと|進《すす》む|折《をり》 |俄《にはか》の|颶風《しけ》に|出会《でつくは》し
|船《ふね》は|暗礁《あんせう》に|乗《の》り|上《あ》げて |船体《せんたい》|忽《たちま》ち|粉微塵《こなみぢん》
|衣類《いるゐ》を|脱《ぬ》ぎすて|辛《から》うじて |荒浪《あらなみ》|猛《たけ》る|罪《つみ》の|島《しま》
|命《いのち》|辛々《からがら》|泳《およぎ》つき |食《しよく》を|求《もと》めて|遠近《をちこち》と
|彷徨《さまよ》ひ|廻《まは》れど|浪《なみ》|荒《あら》く |一《ひと》つの|餌食《ゑじき》も|無《な》かりしゆ
|三人《みたり》は|磯辺《いそべ》をぶらぶらと |足《あし》もとぼとぼ|歩《あゆ》みつつ
|岩蔭《いはかげ》さして|立《たち》よれば |骨《ほね》と|皮《かは》との|二人連《ふたりづ》れ
|人喰人種《ひとくひじんしゆ》にあらねども |飢《うゑ》たる|時《とき》には|是非《ぜひ》もなし
|心《こころ》を|鬼《おに》に|持《も》ち|直《なほ》し |二人《ふたり》の|男《をとこ》を|打《う》ち|殺《ころ》し
|一時《いちじ》の|飢《うゑ》を|凌《しの》がむと |心《こころ》にもなき|悪逆《あくぎやく》を
|企《たく》みたるこそうたてけれ |生《うま》れついての|鬼《おに》でない
|仁義《じんぎ》|道徳《だうとく》|一通《ひととほ》り |習《なら》ひ|覚《おぼ》へた|人《ひと》の|子《こ》よ
さはさりながらやむを|得《え》ず |小人《せうにん》|下司《げす》の|常《つね》として
|窮《きう》すれや|乱《らん》すといふ|譬《たとへ》 |心《こころ》ならずも|悪業《あくごふ》を
|企《たく》みたるこそ|是非《ぜひ》もなき |優勝劣敗《いうしようれつぱい》|弱肉強食《じやくにくきやうしよく》の
|世界《せかい》に|傚《なら》ふて|果敢《はか》なくも |皇大神《すめおほかみ》の|御教《みをしへ》を
|忘《わす》れたるこそ|苦《くる》しけれ |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|心《こころ》も|清《きよ》き|玉国《たまくに》の |別《わけ》の|命《みこと》が|現《あら》はれて
|敵《かたき》と|狙《ねら》ふ|吾々《われわれ》を |救《すく》はせ|給《たま》ひし|有難《ありがた》さ
|天《あめ》が|下《した》には|敵《てき》なしと |教《をし》へられたる|言《こと》の|葉《は》は
|今《いま》|目《ま》の|当《あた》り|悟《さと》りけり |吾等《われら》も|是《これ》より|慎《つつし》みて
|残虐無道《ざんぎやくぶだう》の|行動《かうどう》を |改《あらた》め|神《かみ》の|御為《おんため》に
|誠《まこと》を|尽《つく》し|世《よ》の|人《ひと》を |救《すく》ひて|人《ひと》と|生《うま》れたる
|其《その》|天分《てんぶん》を|尽《つく》すべし |三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》
|吾等《われら》が|心《こころ》を|憐《あはれ》みて |尊《たふと》き|君《きみ》の|御伴《おんとも》に
|使《つか》はせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》 |神《かみ》に|誓《ちか》ひて|願《ね》ぎまつる
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》|落《お》ち|星《ほし》は|失《う》するとも
|仮令《たとへ》|命《いのち》は|捨《す》つるとも |深《ふか》き|恵《めぐみ》を|蒙《かうむ》りし
|司《つかさ》の|君《きみ》の|高恩《かうおん》は |子孫《しそん》に|伝《つた》へて|忘《わす》るまじ
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|総《すべ》ての|罪《つみ》を|悉《ことごと》く |宣《の》り|直《なほ》します|三五《あななひ》の
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御心《おんこころ》 |深《ふか》くも|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》|倍《はへ》ましませよ』
ハールは|又《また》|歌《うた》ふ、
ハール『|一切万事《いつさいばんじ》の|経緯《いきさつ》は |目付頭《めつけがしら》のヤッコスが
|概略《がいりやく》|茲《ここ》に|述《の》べました |私《わたし》も|元《もと》はウラル|教《けう》
|信者《しんじや》の|端《はし》に|加《くは》はりて |神《かみ》の|教《をしへ》を|崇《あが》めつつ
|其《その》|日《ひ》を|送《おく》り|居《ゐ》たりしが |何分《なにぶん》|酒《さけ》に|身《み》を|崩《くづ》し
|二世《にせ》と|契《ちぎ》つた|女房《にようばう》に |夜脱《よぬ》けせられて|是非《ぜひ》もなく
|彼方《あなた》|此方《こなた》に|彷徨《さまよ》ひつ |心《こころ》は|日《ひ》に|夜《よ》に|僻《ひが》み|行《ゆ》く
もう|此《この》|上《うへ》は|盗人《ぬすびと》の |群《むれ》に|加《くは》はり|長《なが》からぬ
|浮世《うきよ》を|太《ふと》く|暮《くら》さむと |心《こころ》を|鬼《おに》に|持《も》ち|直《なほ》し
|思案《しあん》に|暮《く》るる|折《をり》もあれ バラモン|教《けう》のヤッコスが
|情《なさけ》の|言葉《ことば》に|絆《ほだ》されて |茲《ここ》に|目付《めつけ》の|役《やく》となり
|一年前《いちねんまへ》から|忠実《ちうじつ》に |目付《めつけ》の|役《やく》を|勤《つと》めつつ
|此《この》|湖原《うなばら》を|越《こ》え|来《きた》る |三五教《あななひけう》の|司《つかさ》をば
|一人《ひとり》|残《のこ》らず|引捉《ひつとら》へ |吾《わが》|身《み》の|出世《しゆつせ》を|誇《ほこ》らむと
|思《おも》ひ|居《ゐ》たるぞ|果敢《はか》なけれ まだ|幸《さいはひ》に|一人《いちにん》の
|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》をも |神《かみ》の|司《つかさ》も|捉《つか》まへず
|罪《つみ》を|重《かさ》ねし|事《こと》なきは せめては|私《わたし》の|胸《むね》やすめ
|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》 |私《わたし》は|唯今《ただいま》|述《の》べました
やうな|身分《みぶん》で|厶《ござ》います |如何《いか》なる|罪《つみ》がありとても
|広《ひろ》き|心《こころ》に|宣《の》り|直《なほ》し |赦《ゆる》させ|給《たま》へどこ|迄《まで》も
|御伴《みとも》に|使《つか》ひ|給《たま》へかし |神《かみ》かけ|念《ねん》じ|奉《たてまつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》|倍《はへ》ましませよ』
と|述懐《じゆつくわい》の|歌《うた》を|歌《うた》ふ。かかる|所《ところ》へ|七八艘《しちはつさう》の|海賊船《かいぞくせん》、|船《ふね》の|行手《ゆくて》に|横梯陣《わうていぢん》を|張《は》り、|前途《ぜんと》を|壅塞《ようそく》し、|手具脛《てぐすね》|引《ひ》いて|待《ま》ち|居《を》るものの|如《ごと》くであつた。ああ|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》は|如何《いか》なる|運命《うんめい》に|遭遇《さうぐう》するであらうか。
(大正一二・三・二八 旧二・一二 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第三篇 |千波万波《せんぱばんぱ》
第一〇章 |報恩《ほうおん》〔一四八五〕
|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》の|搭乗《たふじやう》した|船《ふね》は|仮《かり》に|初稚丸《はつわかまる》と|命名《めいめい》された。その|理由《りいう》は|初稚姫《はつわかひめ》に|危急《ききふ》の|場合《ばあひ》この|堅牢《けんらう》なる|船《ふね》を|与《あた》へられたからである。|月《つき》|照《て》る|湖面《こめん》を|白帆《しらほ》をかかげ|南《みなみ》へ|南《みなみ》へと|急速力《きふそくりよく》にて|翔《かけ》つて|行《ゆ》く。|前方《ぜんぱう》に|当《あた》り|七八艘《しちはつさう》の|船《ふね》が|単梯陣《たんていぢん》を|張《は》つて|初稚丸《はつわかまる》|目蒐《めが》けて|押《お》し|寄《よ》せ|来《きた》る|形勢《けいせい》が|見《み》えて|居《ゐ》た。ヤッコスは|之《これ》を|見《み》るより|早《はや》く、
ヤッコス『もし、|御一同様《ごいちどうさま》、あの|前方《ぜんぱう》に|並《なら》んでゐます|七八艘《しちはつさう》の|船《ふね》は|此《この》|湖《うみ》に|陰顕出没《いんけんしゆつぼつ》して|南北《なんぽく》|往来《ゆきき》の|船《ふね》を|掠《かす》める|賊船《ぞくせん》で|厶《ござ》います。|捉《つか》まつては|一大事《いちだいじ》ですから|何《なん》とか|工夫《くふう》をせなくてはなりますまい。|私《わたし》はこれから|舳《へさき》を|少《すこ》しく|西南《せいなん》に|向《む》けやうと|思《おも》ひますから|其《その》|覚悟《かくご》で|居《ゐ》て|下《くだ》さい。|西南《せいなん》へ|向《むか》ひますれば|暗礁《あんせう》|点綴《てんてつ》して|容易《ようい》に|賊船《ぞくせん》は|追《お》つ|駆《か》ける|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|然《しか》し|私《わたし》も|表面《へうめん》バラモン|軍《ぐん》に|仕《つか》へ|目付頭《めつけがしら》を|致《いた》して|居《を》りますが|海賊《かいぞく》の|大親分《おほおやぶん》です。|船路《せんろ》の|様子《やうす》を|知《し》つてるのは|私《わたし》|許《ばか》りです。もしも|強敵《きやうてき》に|出会《であ》つた|時《とき》は、|何時《いつ》も|此《この》|航路《かうろ》をとり|逃《に》げます。|追駆《おつか》けて|来《き》た|船《ふね》は|必《かなら》ずその|辺《へん》で|難船《なんせん》し、|或《あるひ》は|沈没《ちんぼつ》するものです。|左様《さう》さして|頂《いただ》いても|宜《よろ》しいか』
|玉国《たまくに》『|船路《せんろ》の|勝手《かつて》を|知《し》つてるお|前《まへ》に|何事《なにごと》も|一任《いちにん》する。さア|早《はや》くその|用意《ようい》をして|呉《く》れ』
ヤッコス『はい、|御恩《ごおん》の|報《はう》じ|時《どき》で|厶《ござ》います。|然《しか》らばこれから|私《わたし》が|船《ふね》を|操《あやつ》ります』
と|櫓《ろ》を|握《にぎ》り|八人《はちにん》の|水夫《かこ》に|一生懸命《いつしやうけんめい》に|櫂《かい》を|漕《こ》がせ|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|走《はし》り|出《だ》した。|賊船《ぞくせん》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|舳《へさき》を|転《てん》じ|初稚丸《はつわかまる》の|後《あと》を|追《お》ふて|追駆《おつか》け|来《きた》る。
ヤッコスは|一生懸命《いつしやうけんめい》に|水夫《かこ》を|励《はげ》まし、|櫓《ろ》を|漕《こ》ぐ。|漸《やうや》く|危険区域《きけんくゐき》に|船《ふね》が|差蒐《さしかか》つた|時《とき》、|賊船《ぞくせん》の|二三艘《にさんそう》は|早《はや》くも|舷々《げんげん》|相摩《あひま》する|処《ところ》|迄《まで》、|近《ちか》づいて|来《き》た。さうして|錨《いかり》を|初稚丸《はつわかまる》に|投《な》げつけた。|初稚丸《はつわかまる》は|到頭《たうとう》おつつかれて|了《しま》つた。グヅグヅして|居《ゐ》る|間《ま》に|八艘《はつさう》の|船《ふね》は|初稚丸《はつわかまる》の|周囲《しうゐ》に|船垣《ふながき》を|作《つく》り、|各自《めいめい》に|弓《ゆみ》を|満月《まんげつ》に|絞《しぼ》つて|威喝《ゐかつ》を|試《こころ》みて|居《ゐ》る。ヤッコスは|大声《おほごゑ》をあげ、
ヤッコス『オイ、|貴様《きさま》|等《たち》は|賊船《ぞくせん》ではないか。|俺《おれ》を|誰《たれ》と|心得《こころえ》てる。|賊船頭《ぞくせんがしら》のヤッコスだぞ。|俺《おれ》は|今《いま》|大黒主《おほくろぬし》の|命令《めいれい》によつて|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|捕縛《ほばく》し、キヨの|港《みなと》の|関所《せきしよ》に|送《おく》る|途中《とちう》だ|邪魔《じやま》をひろぐと|容赦《ようしや》は|致《いた》さぬぞ』
|八艘《はつさう》の|船《ふね》を|統率《とうそつ》して|居《ゐ》た|海賊《かいぞく》のデブは|舷頭《げんとう》に|立《た》ち、
デブ『あ、|親方《おやかた》で|厶《ござ》いましたか。えらい|失礼《しつれい》を|致《いた》しました。|貴方《あなた》のお|乗込《のりこみ》の|御用船《ごようせん》とは|知《し》らず、よい|獲物《えもの》が|現《あら》はれたと、|全隊《ぜんたい》を|引率《ひきつ》れて、ここ|迄《まで》おつ|駆《か》けて|来《き》ました。|誠《まこと》に|済《す》まない|事《こと》を|致《いた》しました。|何卒《どうぞ》お|許《ゆる》しを|願《ねが》ひます』
ヤッコス『|今後《こんご》は|必《かなら》ず|心得《こころえ》たが|宜《よ》からう。|其《その》|方《はう》が|安閑《あんかん》として|此《この》|湖上《こじやう》に|悪性商売《あくしやうしやうばい》が|出来《でき》るのも|皆《みな》|此《この》ヤッコスがバラモン|軍《ぐん》の|目付頭《めつけがしら》になつてる|余徳《よとく》ぢやないか。|俺《おれ》が|一《ひと》つ|首《かぶり》を|振《ふ》らうものなら、|忽《たちま》ち|数千人《すうせんにん》の|軍隊《ぐんたい》を|以《もつ》て|貴様《きさま》|達《たち》を|捕縛《ほばく》し、|且《かつ》|貴様《きさま》|等《ら》の|住宅《ぢうたく》を|皆《みな》|知《し》つてるから、|妻子《さいし》|眷族《けんぞく》も|召捕《めしと》つて|重《おも》い|成敗《せいばい》に|会《あ》はされるのだ。それよりもこれから|北《きた》へ|北《きた》へと|進《すす》んで、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|七八十人《しちはちじふにん》やつて|来《く》るから、それを|捕縛《ほばく》すべく|進《すす》んだが|宜《よ》からう。それを|巧《うま》くやつたならば、|其《その》|方《はう》に|望《のぞ》み|次第《しだい》の|褒美《ほうび》を、|関所《せきしよ》の|役人《やくにん》に|執持《とりも》つて|貰《もら》つてやらう。さア|行《ゆ》け。|後《あと》に|居《ゐ》る|奴《やつ》は|皆《みんな》|弱虫《よわむし》|許《ばか》りだ。|一番《いちばん》|強《つよ》い|奴《やつ》はここに|五六人《ごろくにん》ふん|縛《じば》つて|連《つ》れて|来《き》たのだ。グヅグヅしてゐると|影《かげ》を|見失《みうしな》ふかも|知《し》れぬぞ。|早《はや》く|船《ふね》を|引返《ひつかへ》し、|真北《まきた》に|向《むか》つて|進《すす》んだが|宜《よ》からう』
デブ『はい、|承知《しようち》|致《いた》しました。|何分《なにぶん》|宜《よろ》しう|願《ねが》ひます。さア|皆《みな》の|者《もの》、|舳《へさき》を|北《きた》に|向《む》け、|急速力《きふそくりよく》で|漕《こ》ぎ|出《だ》せ』
と|命令《めいれい》した。|忽《たちま》ち|八艘《はつさう》の|船《ふね》は|船首《せんしゆ》を|北《きた》に|向《む》け|一生懸命《いつしやうけんめい》にグイグイと|櫂《かい》の|音《おと》|賑《にぎは》しく|鳥《とり》の|飛《た》つ|如《ごと》き|勢《いきほひ》で|遠《とほ》ざかり|行《ゆ》く。
ヤッコス『アハハハハハ、もし、|玉国別《たまくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|悪人《あくにん》も|斯《こ》んな|時《とき》には|間《ま》に|合《あ》ふもので|厶《ござ》いませうがな。|私《わたし》も|昨日《きのふ》|迄《まで》のヤッコスであればここで|怎《ど》んな|謀反《むほん》を|起《おこ》すか|分《わか》らないのですが、|貴方《あなた》|等《がた》の|仁慈《じんじ》|無限《むげん》のお|心《こころ》に|感《かん》じ、|今《いま》|迄《まで》やつて|来《き》た|事《こと》が|恐《おそ》ろしくなりまして、|今日《けふ》は|漸《やうや》く|人間《にんげん》らしい|気分《きぶん》になりました。|神様《かみさま》の|教《をしへ》を|聞《き》いたものが|嘘《うそ》|偽《いつは》りを|申《まを》すのは|誠《まこと》に|済《す》まぬ|事《こと》とは|存《ぞん》じ|乍《なが》ら、|此《この》|場合《ばあひ》|臨機応変《りんきおうへん》の|処置《しよち》を|採《と》らなくてはならぬと|存《ぞん》じ、|心《こころ》にもなき|偽《いつは》りを|申《まを》しました。|何卒《なにとぞ》|神様《かみさま》にお|詫《わび》を|貴方様《あなたさま》からして|下《くだ》さいます|様《やう》お|願《ねがひ》|致《いた》します』
と|真心《まごころ》を|面《おもて》に|現《あら》はして|頼《たの》み|入《い》る。
|玉国《たまくに》『ハハハハハやア|感心《かんしん》だ。|人喰人種《ひとくひじんしゆ》が|俄《にはか》に|如来様《によらいさま》になつたのだな。それではダル、メート|様《さま》も、もはや|喰《く》はれる|心配《しんぱい》もないから|今《いま》|迄《まで》の|怨《うら》みをスツクリ|湖《うみ》に|流《なが》して|同《おな》じ|船《ふね》の|一蓮托生《いちれんたくしやう》、|和気《わき》|靄々《あいあい》と|打解《うちけ》て|此《この》|湖《うみ》を|渡《わた》らうぢやないか』
バラモン|組《ぐみ》、|並《ならび》にメート、ダルの|両人《りやうにん》は『ハイ』と|嬉《うれ》しげに|差俯向《さしうつむ》き|涙《なみだ》さへ|滲《にじ》ませて|居《ゐ》る。
ヤッコスは|櫓《ろ》を|操《あやつ》り|乍《なが》ら|歌《うた》ひ|初《はじ》めた。|一同《いちどう》は|舷《ふなばた》を|叩《たた》いて|賑々《にぎにぎ》しく|之《これ》に|和《わ》した。その|声《こゑ》は|水面《すいめん》に|響《ひび》き|渡《わた》り|海底《かいてい》の|竜神《りうじん》を|驚《おどろ》かす|許《ばか》りに|思《おも》はれた。
ヤッコス『テルモン|湖水《こすい》に|昔《むかし》から |鬼《おに》よ|悪魔《あくま》と|呼《よ》ばれつつ
|往来《ゆきき》の|船《ふね》を|引捕《ひつと》らへ |宝《たから》を|奪《うば》ひ|衣《きぬ》を|剥《は》ぎ
|尊《たふと》き|人《ひと》の|命《いのち》まで とりて|其《その》|日《ひ》を|送《おく》りたる
|悪逆無道《あくぎやくぶだう》のヤッコスも バラモン|軍《ぐん》の|勢《いきほひ》に
|辟易《へきえき》してゆ|黄白《くわうはく》を |数多《あまた》|散《さん》じて|賄賂《わいろ》とし
キヨの|港《みなと》の|関守《せきもり》に うまく|取入《とりい》りバラモンの
|目付頭《めつけがしら》と|選《えら》まれて |密《ひそ》かに|海賊《かいぞく》|使役《しえき》しつ
|悪《あく》と|虚偽《きよぎ》とに|日《ひ》を|送《おく》る |此《この》ヤッコスも|天命《てんめい》|尽《つ》き
|勝手《かつて》|覚《おぼ》えし|海原《うなばら》も |俄《にはか》の|暴風《しけ》に|進路《しんろ》をば
|謬《あやま》り|暗礁《あんせう》に|乗《の》り|上《あ》げ |木端微塵《こつぱみぢん》に|船《ふね》|砕《くだ》き
ここに|五人《ごにん》は|真裸体《まつぱだか》 |波《なみ》を|潜《くぐ》りて|漸《やうや》くに
|水泳《すいえい》に|長《た》けた|三人《さんにん》は |人《ひと》の|恐《おそ》れて|寄《よ》りつかぬ
|荒波《あらなみ》|狂《くる》ふツミ|島《じま》へ |命《いのち》からがら|泳《およ》ぎつき
|飢《うゑ》に|迫《せま》りて|罪人《つみびと》を |屠《ほふ》り|殺《ころ》して|喰《くら》はむと
|力《ちから》|限《かぎ》りに|格闘《かくとう》し |互《たがひ》に|体《からだ》は|疲《つか》れ|果《は》て
|息《いき》も|絶《た》えむとする|時《とき》に |仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|三五《あななひ》の
|教《をしへ》の|道《みち》の|宣伝使《せんでんし》 |現《あら》はれまして|吾々《われわれ》が
|危《あやふ》き|命《いのち》を|救《すく》ひまし |清《きよ》き|教《をしへ》を|諄々《じゆんじゆん》と
|説《と》き|玉《たま》ひたる|有難《ありがた》さ |流石《さすが》|無道《ぶだう》の|吾々《われわれ》も
|神《かみ》の|御声《みこゑ》に|目《め》を|覚《さ》まし |有難涙《ありがたなみだ》にくれ|乍《なが》ら
|初稚丸《はつわかまる》に|乗《の》せられて キヨの|港《みなと》に|帰《かへ》らむと
|波《なみ》に|漂《ただよ》ふ|折《をり》もあれ |前方《ぜんぱう》に|浮《うか》ぶ|八艘《はつさう》の
|船《ふね》は|正《まさ》しく|吾《わが》|部下《ぶか》の デブの|率《ひき》ゆる|賊船《ぞくせん》と
|見《み》るより|早《はや》く|進路《しんろ》をば |転《てん》じて|湖中《こちう》の|危険地《きけんち》と
|聞《きこ》えし|灘《なだ》に|駆《か》け|向《むか》ふ |湖《うみ》に|慣《な》れたる|賊船《ぞくせん》は
|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》くおツついて |思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|獲物《えもの》ぞと
|四方《しはう》|八方《はつぱう》|取囲《とりかこ》む |海《うみ》より|深《ふか》き|恩人《おんじん》の
|命《いのち》を|救《すく》ひ|高恩《かうおん》に |報《むく》ひまつるは|此《この》|時《とき》と
|幸《さいは》ひ|部下《ぶか》のデブ|以下《いか》に |嚇《おど》し|文句《もんく》や|偽《いつはり》を
|並《なら》べて|漸《やうや》く|追《お》ひ|散《ち》らし |初《はじ》めて|胸《むね》もサヤサヤと
|晴《は》れ|渡《わた》りたる|月《つき》の|空《そら》 |実《げ》にも|芽出度《めでた》き|次第《しだい》なり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》|倍《はへ》ましまして
|暗礁《あんせう》|点綴《てんてつ》する|湖《うみ》を |無事《ぶじ》に|彼岸《ひがん》に|達《たつ》せしめ
|吾等《われら》|一行《いつかう》をやすやすと キヨの|港《みなと》へ|着《つ》かしめよ
|思《おも》へば|思《おも》へば|昔《むかし》より |神《かみ》の|心《こころ》は|露知《つゆし》らず
|善《ぜん》と|真《しん》とに|背《せな》を|向《む》け |悪《あく》と|虚偽《きよぎ》とに|一心《いつしん》に
|心《こころ》を|曇《くも》らせ|居《ゐ》たるこそ |実《げ》にも|愚《おろか》の|至《いた》りぞと
|省《かへり》みすれば|後《さき》の|世《よ》が いと|恐《おそ》ろしくなりにけり
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》す
|三五教《あななひけう》の|大御神《おほみかみ》 |今《いま》まで|犯《をか》せし|身《み》の|罪《つみ》を
|赦《ゆる》させ|玉《たま》へと|願《ね》ぎ|奉《まつ》る |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも これの|湖水《こすい》は|乾《かわ》くとも
|仮令《たとへ》|命《いのち》は|失《う》するとも |一旦《いつたん》|神《かみ》に|真心《まごころ》を
|捧《ささ》げ|奉《まつ》りしヤッコスは |如何《いか》でか|曲《まが》に|溺《おぼ》れむや
|憐《あは》れみ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》 |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|漸《やうや》くに|船首《せんしゆ》を|再《ふたた》び|西南《せいなん》に|転《てん》じ|潮流《てうりう》にのつて|月《つき》の|海面《かいめん》を|辷《すべ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二九 旧二・一三 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第一一章 |〓乃《ふなうた》〔一四八六〕
|漸《やうや》くにして|月《つき》は|西《にし》の|波間《なみま》に|沈《しづ》み、|星《ほし》は|次第々々《しだいしだい》に|隠《かく》れ、|東《ひがし》の|波間《なみま》よりはカツと|明《あか》りがさして|来《き》た。|雲《くも》か|波《なみ》か、|天《てん》か|海《うみ》か、|区別《くべつ》のつかぬ|遥《はる》かの|空《そら》は|次第々々《しだいしだい》に|茜《あかね》さし、|湖上《こじやう》を|渡《わた》る|百鳥《ももどり》の|声《こゑ》は|数千人《すうせんにん》の|楽隊《がくたい》の|一時《いちじ》に|楽《がく》を|奏《そう》する|如《ごと》く|頭上《づじやう》|一面《いちめん》に|聞《きこ》えて|来《き》た。|白《しろ》、|青《あを》、|黒《くろ》、|緑《みどり》、|黄色《きいろ》、|赤《あか》|等《など》の|色々《いろいろ》の|羽《はね》を|翻《ひるがへ》して|前後左右《ぜんごさいう》に|飛《と》び|交《か》ふ|水鳥《みづどり》の|影《かげ》は|実《じつ》に|壮観《さうくわん》であつた。
|玉国別《たまくにわけ》は|舷頭《げんとう》に|立《た》ち|現《あら》はれ、|東《ひがし》の|空《そら》に|向《むか》つて|拍手《はくしゆ》し|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|航路《かうろ》の|無事《ぶじ》を|祈願《きぐわん》した。|続《つづ》いて|三千彦《みちひこ》|其《その》|外《ほか》|一同《いちどう》は|玉国別《たまくにわけ》に|傚《なら》つて|東方《とうはう》を|拝《はい》した。|輪廓《りんくわく》のハツキリした|巨大《きよだい》な|太陽《たいやう》は|湖水《こすい》の|中《なか》から|覗《のぞ》き|初《はじ》めた。|夏《なつ》の|朝《あした》の|海上《かいじやう》は|又《また》|一入《ひとしほ》|爽快《さうくわい》なものである。
|玉国別《たまくにわけ》『|雲《くも》か|波《なみ》か|天《あめ》と|地《つち》とを|結《むす》びたる
|帳《とばり》を|分《わ》けて|浮《う》かぶ|日《ひ》の|神《かみ》。
|今日《けふ》も|亦《また》これの|海路《うなぢ》の|幸《さき》くあれと
|心《こころ》も|清《きよ》く|祈《いの》りけるかな。
|百鳥《ももどり》は|波《なみ》の|上《うへ》をば|辷《すべ》りつつ
|吾《わが》|乗《の》る|船《ふね》を|守《まも》るべらなり』
|三千彦《みちひこ》『テルモンの|峰《みね》の|頂上《いただき》ほのぼのと
|波《なみ》に|浮《うか》びて|明《あか》くなり|行《ゆ》く』
|真純彦《ますみひこ》『|何一《なにひと》つ|眼《まなこ》に|入《い》らぬ|湖原《うなばら》も
テルモンの|山《やま》の|姿《すがた》のみ|見《み》ゆ。
テルモンの|山《やま》|打仰《うちあふ》ぎ|思《おも》ふかな
ケリナの|姫《ひめ》は|如何《いか》に|在《ま》すかと』
|伊太彦《いたひこ》『|又《また》しても|姫《ひめ》の|事《こと》のみ|気《き》にかかる
|教司《をしへつかさ》の|心《こころ》|怪《あや》しき』
|真純彦《ますみひこ》『いたいけな|女《をんな》を|思《おも》ふ|誠心《まごころ》は
|男子《をのこ》の|中《なか》の|男子《をのこ》なるぞや』
|伊太彦《いたひこ》『|何事《なにごと》も|女《をんな》ならでは|夜《よ》が|明《あ》けぬ
|世《よ》の|諺《ことわざ》を|真《ま》に|受《う》けし|君《きみ》。
|女《をんな》のみ|此《この》|世《よ》にゴラゴラ|居《を》るならば
|如何《いか》で|栄《さか》えむ|天地《あめつち》の|間《うち》』
|三千彦《みちひこ》『|益良夫《ますらを》が|思《おも》ひつめたる|真心《まごころ》は
|通《かよ》はざらめや|女心《をんなごころ》に』
|伊太彦《いたひこ》『よくもまア|惚《のろ》けたものだ|三千彦《みちひこ》の
|目鼻《めはな》の|位置《ゐち》も|何時《いつ》か|変《かは》りぬ』
デビス|姫《ひめ》『|益良夫《ますらを》の|中《なか》に|交《まじ》りて|只《ただ》|一人《ひとり》
|胸《むね》を|痛《いた》めつ|御後《みあと》に|従《したが》ふ。
|男子《をのこ》のみ|如何《いか》に|力《ちから》が|在《ま》すとても
|女《をんな》の|目《め》には|敵《てき》し|難《がた》けむ。
|只《ただ》|一目《ひとめ》|瞳《ひとみ》を|清《きよ》く|射照《いて》らせば
|春《はる》の|氷《こほり》の|一《ひと》たまりなし』
|真純彦《ますみひこ》『|猛烈《まうれつ》な|二人《ふたり》の|恋《こひ》にせめられて
|吾《われ》は|言葉《ことば》もつまりけるかな。
|呆《あき》れ|果《は》て|物《もの》さへ|云《い》へぬ|船《ふね》の|上《うへ》
|潮《しほ》|三千彦《みちひこ》の|思《おも》ひやらるる』
ヤッコス『|皆様《みなさま》は|暢気《のんき》な|事《こと》を|言《い》ひ|交《か》はし
|笑《わら》はせ|玉《たま》ふ|身《み》こそ|羨《うら》めし。
|朝夕《あさゆふ》に|心《こころ》の|鬼《おに》に|怖《お》ぢ|乍《なが》ら
|悪《あく》を|行《おこな》ふ|身《み》こそ|悲《かな》しき。
|一日《いちにち》も|心《こころ》|安《やす》けく|送《おく》りたる
|時《とき》ぞ|無《な》かりし|賊《ぞく》の|身《み》の|上《うへ》。
さり|乍《なが》ら|神《かみ》の|教《をしへ》を|聞《き》きしより
|心《こころ》|安《やす》けくなりにけるかな』
ハール『|吾《われ》も|亦《また》|心《こころ》の|鬼《おに》は|何処《どこ》へやら
|逃《に》げ|失《う》せたりし|心地《ここち》こそすれ。
|悪《あし》き|事《こと》なす|程《ほど》|馬鹿《ばか》が|世《よ》にあろか
|寝《ね》ても|覚《さ》めても|心《こころ》おぢおぢ。
|今《いま》となり|誠《まこと》の|道《みち》の|味《あぢ》はひを
|覚《さと》りけるかな|神《かみ》の|恵《めぐみ》に』
サボール『|世《よ》の|人《ひと》に|懶怠漢《なまくらもの》よサボールと
|譏《そし》られ|月日《つきひ》を|送《おく》りたる|曲《まが》。
|曲神《まがかみ》も|心《こころ》の|空《そら》に|月《つき》|照《て》りて
|吾《わが》|身《み》も|広《ひろ》く|安《やす》くなりける』
メート『|恐《おそ》ろしきメートの|旅《たび》をなすのかと
|思《おも》ふ|間《ま》もなく|救《すく》はれにける。
|冥土《めいど》|行《ゆ》き|神《かみ》に|救《すく》はれ|之《これ》からは
|誠《まこと》の|道《みち》にメートル|上《あ》げむ』
ダル『|手《て》も|足《あし》も|痩衰《やせおとろ》へてダルの|吾《われ》
|蟹《かに》や|貝《かひ》にて|露命《ろめい》つなぎつ。
|久振《ひさしぶ》りうましきパンを|与《あた》へられ
|蘇生《よみがへ》りけり|餓鬼《がき》の|吾々《われわれ》』
|玉国別《たまくにわけ》『|天地《あめつち》の|神《かみ》の|恵《めぐ》みは|海《わだ》の|原《はら》
|広《ひろ》けき|波《なみ》の|底《そこ》ひ|知《し》られず。
いざさらば|心《こころ》の|駒《こま》を|立直《たてなほ》し
|進《すす》みて|行《ゆ》かむ|神《かみ》の|御国《みくに》へ』
デビス|姫《ひめ》は|舷頭《げんとう》に|立《た》ち|湖面《こめん》の|風景《ふうけい》を|眺《なが》め|小声《こごゑ》になつて|歌《うた》ひ|初《はじ》めた。
デビス|姫《ひめ》『|久方《ひさかた》の|天津御空《あまつみそら》を
|打仰《うちあふ》ぎ|大海原《おほうなばら》を
|打眺《うちなが》めよくよく|見《み》れば
|天地《あめつち》の|神《かみ》の|功業《いさを》は
|目《ま》のあたり|現《あら》はれましぬ
あな|尊《たふと》あな|畏《かしこ》しや
あなさやけ|天津日影《あまつひかげ》は
|海原《うなばら》を|照《て》らして|昇《のぼ》り
|御光《みひかり》を|天地《あめつち》|四方《よも》に
|配《くば》らせつ|百《もも》の|人草《ひとぐさ》
|草《くさ》や|木《き》の|片葉《かきは》の|露《つゆ》に
|至《いた》る|迄《まで》|宿《やど》らせ|玉《たま》ふ
|大稜威《おほみいづ》|四海《しかい》の|波《なみ》は
|穏《おだや》かに|治《をさ》まりまして
|常磐木《ときはぎ》の|松《まつ》の|緑《みどり》は
すくすくと|生立《おひた》ち|茂《しげ》り
|春《はる》|来《く》れば|百花《ももばな》|千花《ちばな》
|咲《さ》き|匂《にほ》ひ|神《かみ》の|御国《みくに》は
|眼《ま》のあたり|開《ひら》け|進《すす》みて
|勇《いさ》ましや|波《なみ》|漕《こ》ぐ|船《ふね》の
すくすくと|彼方《あなた》の|岸《きし》に
|渡《わた》らひの|神《かみ》の|使《つかひ》の
|宣伝使《せんでんし》|真幸《まさき》くあれと
|宣《の》り|奉《まつ》る|朝日《あさひ》は|照《て》るとも
|曇《くも》るとも|月《つき》は|盈《み》つとも
|虧《か》くるとも|星《ほし》は|空《そら》より
|落《お》つるとも|誠《まこと》|一《ひと》つの
|三五《あななひ》の|教《をしへ》の|道《みち》は
|世《よ》を|救《すく》ふテルモン|山《ざん》の
|神館《かむやかた》|小国別《をくにわけ》の
|父《ちち》の|前《まへ》|母《はは》の|御側《みそば》を
|相離《あひはな》れ|千里《せんり》の|海《うみ》を
|乗《の》り|越《こ》えて|万里《ばんり》の|旅《たび》に
|出《い》でて|行《ゆ》く|吾《われ》は|女《をんな》の
|身《み》なれども|男子《をのこ》の|中《なか》の
|男子《をのこ》なる|玉国別《たまくにわけ》の
|神司《かむつかさ》|心《こころ》の|空《そら》も
|真純彦《ますみひこ》|喜《よろこ》び|胸《むね》に
|三千彦《みちひこ》の|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》に
|従《したが》ひて|曲《まが》の|征途《せいと》に
|上《のぼ》り|行《ゆ》く|吾《わが》|身《み》の|上《うへ》ぞ
|楽《たの》しけれ|此《この》|世《よ》を|造《つく》り
|玉《たま》ひたる|国治立《くにはるたち》の
|大御神《おほみかみ》|豊国主《とよくにぬし》の
|神柱《かむばしら》|神素盞嗚《かむすさのを》の
|瑞御霊《みづみたま》|斎苑《いそ》の|館《やかた》や
コーカスの|珍《うづ》の|聖地《せいち》に
|現《あ》れまして|天ケ下《あめがした》なる
|諸々《もろもろ》を|救《すく》ひ|助《たす》けて
|神《かみ》の|世《よ》の|無限《むげん》の|歓喜《くわんき》を
|与《あた》へむと|聖《きよ》き|心《こころ》を
|配《くば》りまし|百《もも》の|司《つかさ》を
|任《ま》け|玉《たま》ひ|魔神《まがみ》の|猛《たけ》ぶ
|葦原《あしはら》の|島《しま》の|八十島《やそしま》
|八十《やそ》の|国《くに》|弥《いや》|永久《とこしへ》に
|治《をさ》めむと|仁慈《みろく》の|心《こころ》を
|現《あら》はして|励《はげ》み|玉《たま》ふぞ
|畏《かしこ》けれ|励《はげ》み|給《たま》ふぞ
|畏《かしこ》けれ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》の|恩頼《ふゆ》を|願《ね》ぎまつる』
|船頭《せんどう》のイールは|櫓《ろ》を|操《あやつ》り|乍《なが》ら|声《こゑ》も|涼《すず》しく|歌《うた》ひ|初《はじ》めた。
イール『|北見《きたみ》の|浜《はま》を|立出《たちい》でて |南《みなみ》をさして|進《すす》み|行《ゆ》く
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》はそよそよと |汗《あせ》に【にじ】んだ|顔《かほ》|洗《あら》ふ
|極楽浄土《ごくらくじやうど》か|天国《てんごく》か |波《なみ》は|平《たひら》に|安《やす》らかに
|船底《ふなぞこ》|静《しづか》に|鼓《つづみ》|拍《う》つ |波《なみ》から|出《い》でて|波《なみ》に|入《い》る
|月日《つきひ》の|影《かげ》も|清《きよ》らかに |夜《よる》と|昼《ひる》との|隔《へだ》てなく
|光《ひか》りを|投《な》げる|湖《うみ》の|面《おも》 |雲《くも》の|空《そら》|行《ゆ》く|此《この》|船《ふね》は
|天《あま》の|川原《かはら》を|打渡《うちわた》る |目無堅間《めなしかたま》の|神《かみ》の|船《ふね》
|鳥《とり》は|中空《ちうくう》に|嬉《うれ》しげに チンチンチユンチユン|啼《な》き|亘《わた》る
|波《なみ》はドンドン|鼓《つづみ》|拍《う》つ |天《あま》の|川原《かはら》に|船《ふね》|泛《うか》べ
|棚織姫《たなばたひめ》が|漕《こ》ぎ|渡《わた》る ここは|竜宮《りうぐう》の|波《なみ》の|上《うへ》
|乙姫《おとひめ》さまも|嘸《さぞ》や|嘸《さぞ》 |空《そら》を|仰《あふ》いで|行《ゆ》く|船《ふね》を
|笑《ゑみ》を|湛《たた》へて|見《み》て|厶《ござ》らう |千尋《ちひろ》の|海《うみ》を|渡《わた》り|行《ゆ》く
|天津御空《あまつみそら》か|中空《ちうくう》か |月日《つきひ》も|星《ほし》も|下《した》に|照《て》る
|月《つき》は|波間《なみま》に|輝《かがや》き|玉《たま》ひ |海《うみ》の|底《そこ》には|星《ほし》の|影《かげ》
|天《あま》の|川原《かはら》が|横《よこた》はる |空《そら》|漕《こ》ぎ|渡《わた》る|玉《たま》の|船《ふね》
|如何《いか》に|荒波《あらなみ》|猛《たけ》るとも |神《かみ》の|守《まも》りの|此《この》|船《ふね》は
|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|救《すく》ひ|舟《ぶね》 |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|守《まも》り|舟《ぶね》
|千里《せんり》の|波《なみ》を|打渡《うちわた》り |心《こころ》やすやすキヨ|港《みなと》
|水《みづ》は|紫《むらさき》|野《の》は|青《あを》く |花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|国《くに》へ|行《ゆ》く』
|声《こゑ》もなだらかに|海《うみ》に|慣《な》れたる|調子《てうし》で|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|櫓《ろ》を|操《あやつ》り|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二九 旧二・一三 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第一二章 |素破抜《すつぱぬき》〔一四八七〕
|南北《なんぽく》|二百里《にひやくり》の|航路《かうろ》にはそろそろ|退屈気分《たいくつきぶん》が|漂《ただよ》ひ、いろいろと|腮《あご》を|解《と》く|雑談《ざつだん》が|初《はじ》まつて|来《き》た。|彼方《あちら》にも|此方《こちら》にも|欠伸《あくび》に|節《ふし》をつけたり|放屁《はうひ》を|刻《きざ》んだり、|他愛《たあい》もなく|笑《わら》ひ|狂《くる》ふて|居《ゐ》る。ダルは|船中《せんちう》の|無聊《ぶれう》を|慰《なぐさ》むる|為《た》め、|骨《ほね》と|皮《かは》との|餓鬼《がき》のやうな|体《からだ》を|前後左右《ぜんごさいう》に|揺《ゆす》り|阿保陀羅文句《あほだらもんく》を|並《なら》べだした。
ダル『カカポコカカポコ、ポコポコポコ。──エー|憚《はばか》り|乍《なが》ら、|所《ところ》は|何処《いづく》と|尋《たづ》ねましたら、|愛想《あいさう》もこそも|月《つき》の|国《くに》、|人《ひと》を|取《と》り|食《く》ふ|曲津神《まがつかみ》|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》の|住家《すみか》なる、|大雲山《だいうんざん》の|岩窟《がんくつ》に、|後前《あとさき》バラバラ バラモンの、|神《かみ》を|祭《まつ》つた|洞《ほら》の|中《なか》、|中《うち》はホラホラ|外《そと》はスブスブと、|焼野《やけの》の|鼠《ねずみ》ぢやないけれど、この|世《よ》を|乱《みだ》すバラモンの、ガラクタ|神《がみ》が|巣《す》をくんで、|彼方《あなた》|此方《こなた》と|駆《か》け|廻《めぐ》り、|人《ひと》の|女房《にようばう》を|誘拐《かどはか》し、|汗水《あせみづ》|垂《た》らして|儲《まう》けた|金《かね》を、スツカリコンのコンコロコンと、|引《ひ》つたくり、|六百六号《ろくぴやくろくがう》の|御開山《ごかいさん》、|鼻落《はなお》ち|女《をんな》に|現《うつつ》をぬかし、|終《しまひ》の|果《はて》にはフガフガフガと、|鼻声《はなごゑ》|交《まじ》りに、|痘痕《あばた》の|面《つら》を|曝《さら》しつつ、|人《ひと》には|嫌《きら》はれ|鬼《おに》や|悪魔《あくま》と|厭《いや》がられ、|一人《ひとり》よがりの【ヒヨツトコ】|男《をとこ》、|此処《ここ》にも|一人《ひとり》や|三人《さんにん》は、あるかも|知《し》れないバラモンの、|泥棒《どろばう》|上《あが》りの|目付役《めつけやく》、おつとどつこい|間違《まちが》つた。|泥棒《どろばう》やめて|神様《かみさま》の、|誠《まこと》の|教《をしへ》に【コツクリコツ】と|帰順《きじゆん》をなされました。それは|誠《まこと》に|誠《まこと》に|御結構《ごけつこう》とは|云《い》ふものの|行先《ゆくさき》が、|私《わたし》は|案《あん》じられてなりませぬ。キヨの|港《みなと》に|着《つ》いたなら、ウンバラサンバラ、バラバラバラバラ バラモンの、|捕吏《とりて》の|奴《やつ》|等《ら》がやつて|来《き》て、|玉国別《たまくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》、|神《かみ》の|使《つかひ》を|初《はじ》めとし、|俺《おれ》|達《たち》|二人《ふたり》を|引《ひ》んづかみ、|惨《むご》い|目《め》|見《み》せて|呉《く》れむずと、|心《こころ》の|鬼《おに》が|角《つの》|生《は》やし、|待《ま》つて|居《ゐ》るのに|違《ちが》ひない、カカポコカカポコ、ポコポコポコ。|人《ひと》の|心《こころ》は|分《わか》らない、|改心《かいしん》したと|見《み》せかけて、これの|湖水《こすい》をまんまと|渡《わた》り、|岸《きし》へヒヨツクリコと|登《のぼ》るや|否《いな》や、|又《また》もや|地金《ぢがね》を|現《あら》はして、|目付《めつけ》の|役《やく》を|振《ふ》り|廻《まは》し、|難《むつかし》い|顔《かほ》をして|居《ゐ》るだらう。|何程《なにほど》|改心《かいしん》したとても、|瓦《かはら》は|黄金《こがね》になりはせぬ。|身魂《みたま》の|悪《わる》い|曲津神《まがつかみ》、|何《なに》を|云《い》ふやら|蜜柑《みかん》やら、|金柑《きんかん》|桝《ます》で|量《はか》るやら、|橙《だいだい》だいの|厄介物《やくかいもの》よ、これを|思《おも》へば|迂《う》つかりと、|温《ぬく》い|夢《ゆめ》みてネーブルと、|云《い》ふよな|訳《わけ》には|参《まゐ》らない。|罪《つみ》の|島《しま》へとやつて|来《き》て、|蟹《かに》や|貝《かひ》をば|漁《あさ》りつつ、|寄《よ》せ|来《く》る|浪《なみ》にも|怯《お》ぢ|怖《おそ》れ、|腹《はら》はペコペコ|胃袋《ゐぶくろ》を、|充実《じゆうじつ》させむと|穴《あな》さがし、|岩窟《いはや》の|口《くち》へとやつて|来《き》て、|俺《おれ》|等《ら》の|両腕《りやううで》|引掴《ひつつか》み、バラバラバラと|引《ひ》き|裂《さ》いて、|頭《あたま》からかぶらうとした|奴《やつ》は、|矢張《やつぱ》り|鬼《おに》の|性来《しやうらい》だ。これを|思《おも》へば|怖《おそ》ろしや、チヤカポコチヤカポコ、ポコポコポコ。これこれ|申《まを》し|皆《みな》さまよ、|随分《ずいぶん》|用心《ようじん》なさいませ、|虎《とら》|狼《おほかみ》を|船《ふね》に|乗《の》せ、|虎穴《こけつ》に|入《い》つてやすやすと、|睡《ねむ》つて|居《ゐ》るよな|剣呑《けんのん》さ、それより|一層《いつそう》|今《いま》|此処《ここ》で、|同盟軍《どうめいぐん》を|組織《そしき》して、|改心《かいしん》したと|見《み》せかけて、|猫《ねこ》を|被《かぶ》つて|居《ゐ》る|狸《たぬき》、|成敗《せいばい》したらどうでしよか、|後《あと》の|後悔《こうくわい》|間《ま》に|合《あ》はぬ、こんな|奴《やつ》|等《ら》の|命《いのち》をば、|助《たす》けた|所《ところ》で|世《よ》の|為《ため》に、|一《ひと》つもなるでは|有《あ》らうまい、お|米《こめ》が|高《たか》うなる|許《ばか》り、|製糞機械《せいふんきかい》がウヨウヨと、|辛《から》い|時節《じせつ》に|迂路《うろ》づいて、コソコソコソと|暗《くら》いとこ、|穴《あな》のありかを|嗅《かぎ》つけて、スパイの|役《やく》をする|餓鬼《がき》は、|人間姿《にんげんすがた》の|犬畜生《いぬちくしやう》、|仇《あだ》を|打《う》つなら|今《いま》ぢやぞや、チヤカポコチヤカポコ、ポコポコポコ、|骨《ほね》と|皮《かは》とになり|果《は》てた、ばつちよ|笠《がさ》|見《み》たよな|俺《おれ》|等《たち》の、|肉《にく》でも|叩《たた》いて|喰《くら》はうと、|企《たく》んだ|餓鬼《がき》は|怖《おそ》ろしい、|因縁《いんねん》|悪《わる》い|生《うま》れつき、|可愛《かあい》さうだと|思《おも》へども、|吾《わが》|身《み》が|可愛《かあい》と|思《おも》ふたら、|敵《てき》をムザムザ|許《ゆる》せない、|悪人輩《あくにんばら》を|平《たひら》げて、|根底《ねそこ》の|国《くに》へ|追《お》ひやれば、キツと|世界《せかい》の|為《ため》となる、|杢平《もくべい》も|助《すけ》も、|田吾作《たごさく》も|喜《よろこ》んで、お|前《まへ》は|世界《せかい》の|救《すく》ひ|主《ぬし》、|偉《えら》い|手柄《てがら》をして|呉《く》れた、|餅《もち》でもついて|祝《いは》はうと、|近所合壁《きんじよがつぺき》|呼《よ》び|集《つど》へ、|疳瘡《かんさう》や|痒癬《ひぜん》の|親方《おやかた》を、ようま|殺《ころ》して|下《くだ》さつた、なぞと|云《い》ひ|云《い》ひ|手《て》を|拍《う》つて、|踊《をど》り|狂《くる》ふに|違《ちが》ひない、ああ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、バラモン|軍《ぐん》の|目付役《めつけやく》、ヤッコス、ハール、サボールの、|贋改心《にせかいしん》の|御大将《おんたいしやう》、|茲《ここ》に|本音《ほんね》を|吹《ふ》くがよい、|海賊船《かいぞくせん》に|出会《であ》つた|時《とき》、お|前《まへ》の|視線《しせん》が|何《なん》となく、|奇妙《きめう》|奇怪《きくわい》にキラキラと、|光《ひか》つて|居《ゐ》たのを|一寸《ちよつと》|見《み》た。あの|八艘《はつそう》の|賊船《ぞくせん》は、|初稚丸《はつわかまる》が|安々《やすやす》と、【キヨ】の|港《みなと》へ|着《つ》いた|時《とき》、|関守《せきもり》さまと|腹《はら》|合《あは》せ、|先《さき》へ|帰《かへ》つて|待《ま》つて|居《ゐ》て、|苦労《くらう》もなしに|吾々《われわれ》を、|一網打尽《いちまうだじん》にふん|縛《じば》り、|甘《うま》く|目的《もくてき》|達成《たつせい》し、ハルナの|都《みやこ》の|鬼神《おにがみ》の、|前《まへ》に|手柄《てがら》を|立《た》てやうと、|深《ふか》く|企《たく》んで|厶《ござ》ろがな、そんな|企《たく》みの|分《わか》らない、|玉国別《たまくにわけ》の|神司《かむつかさ》、|神《かみ》の|使《つかひ》ぢやない|程《ほど》に、|改心《かいしん》するのがお|身《み》の|徳《とく》、ダルに|的切《てつき》り|図星《づぼし》をば、|指《さ》されて|胸《むね》が|痛《いた》からう、|仮令《たとへ》|天地《てんち》は|変《かは》るとも、ダルの|言葉《ことば》は|変《かは》らない、|俺《おれ》の|眼《まなこ》で|睨《にら》んだら、|決《けつ》して|間違《まちが》ひ|無《な》い|程《ほど》に、コラコラどうだバラモンの、|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|目付役《めつけやく》、もう|斯《か》うなつた|上《うへ》からは、お|前《まへ》の|心《こころ》の|黒幕《くろまく》を、|薩張《さつぱり》こんと|打《う》ちあけて、|心《こころ》の|底《そこ》のどん|底《ぞこ》の、|暗《くら》い|穴《あな》|迄《まで》|見《み》て|置《お》いた。これに|間違《まちが》ひあるまいぞ、これこれ|皆《みな》さまこのダルが、|申《まを》す|言葉《ことば》を|疑《うたが》はず、|固《かた》く|信《しん》じて|下《くだ》さんせ、|私《わたし》は|観相《くわんそう》に|妙《めう》を|得《え》た、イヅミの|国《くに》で|名《な》の|高《たか》い、ダルのシヤンクと|云《い》ふ|男《をとこ》、|天眼力《てんがんりき》で|調《しら》べました、この|大湖《おほうみ》の|中央《まんなか》で、|一《ひと》つの|成敗《せいばい》なされませ、|後《あと》で|後悔《こうくわい》せぬやうに、|夫《そ》れ|夫《そ》れ|御覧《ごらん》それ|御覧《ごらん》、|心《こころ》の|色《いろ》が|現《あら》はれた、|青《あを》い|顔《かほ》してビリビリと、|手足《てあし》はワナワナ|慄《ふる》ひ|出《だ》す、これが|外《はづ》れぬ|証拠《しようこ》です、ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》、|叶《かな》はぬからとて|涙《なみだ》ぐみ、|魂《たま》は|中空《ちうくう》に|飛《と》び|散《ち》つて、ズ|蟹《がに》のやうに|目玉《めだま》|迄《まで》、|一寸先《いつすんさき》へつん|出《で》てる、さても|愚僧《ぐそう》が|三千世界《さんぜんせかい》を|遍歴《へんれき》し、|数千万《すうせんまん》の|人相《にんさう》を、|取《と》り|調《しら》べたる|経験上《けいけんじやう》、どうしても|此奴《こいつ》は|悪人《あくにん》だ、|芝《しば》をかぶらにや|直《なほ》らない、|地獄《ぢごく》に|籍《せき》をおいて|居《ゐ》る、|奸怪変化《えうくわいへんげ》の|容器《いれもの》だ、ああ|惟神《かむながら》、あのまア|目玉《めだま》の|飛《と》び|出《で》やう、アハハハハツハ、アハハハハ。|呆《あき》れて|物《もの》が|云《い》はれない、|頭《あたま》を|掻《か》いて|俯向《うつむ》いて、|青《あを》い|顔《かほ》して|泡《あわ》を|吹《ふ》く、イヒヒヒヒツヒイヒヒヒヒ。|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|言葉《ことば》を|構《かま》へ|佯《いつは》り|並《なら》べて|肝腎要《かんじんかなめ》の|命《いのち》をば、|暫《しば》しながらへ、|陸《くが》に|登《のぼ》つた|其《その》|上《うへ》で、|以心伝心《いしんでんしん》|関守《せきもり》と、|異様《いやう》な|眼《まなこ》を|交換《かうくわん》し、|威張《ゐば》り|散《ち》らしてインチキに、かけて|吾等《われら》を|縛《しば》らむと、|企《たく》む|心《こころ》は|顔色《かほいろ》に、すつかり|見《み》えて|居《を》りますぞ、ウフフフフツフ、ウフフフフ。うかうか|致《いた》して|居《を》りたなら、|動《うご》きの|取《と》れぬ|事《こと》になる、|甘《うま》い|言葉《ことば》を|並《なら》べたて、|甘《うま》い|汁《しる》をば|絞《しぼ》らうと、|甘《うま》く|企《たく》んだ|大泥棒《おほどろばう》、バラモン|教《けう》の|目付役《めつけやく》、ヤッコス、ハール、サボールの、|迂散《うさん》な|顔《かほ》を|見《み》なされや、うるさい|奴《やつ》が|乗《の》つたものだ。エヘヘヘヘツヘ、エヘヘヘヘ。えぐいと|云《い》つてもこれ|位《くらゐ》、えぐたらしい、|餓鬼《がき》どもが|又《また》と|世界《せかい》に|有《あ》りませうか、|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》はいらないで、|今《いま》から|師弟《してい》の|縁《えん》を|切《き》り、【えたい】の|知《し》れぬ|餓鬼《がき》|共《ども》を、|一《ひと》つ|成敗《せいばい》なされませ、オホホホホツホ、オホホホホ。|怖《おそ》ろし|企《たく》みを|懐《いだ》いてる、|鬼《おに》か|大蛇《をろち》か|曲神《まがかみ》の、お|化《ばけ》に|等《ひと》しき|横道《わうど》もの、|心《こころ》の|底《そこ》が|現《あら》はれて、|思《おも》へば|思《おも》へばお|気《き》の|毒《どく》、|恐《おそ》れ|入《い》つたかバラモンの、|海賊《かいぞく》|上《あが》りの|目付役《めつけやく》、|俺《おれ》の|言葉《ことば》が|違《ちが》ふたら、お|前《まへ》の|前《まへ》で|尻《しり》まくり、|犬蹲《いぬつくばひ》になつてやろ、カカカカカツカ、カカカカカ。|叶《かな》はぬ|時《とき》の|神頼《かみだの》み、|蟹《かに》のやうなる|泡《あわ》|吹《ふ》ひて、|悲《かな》しみ|歎《なげ》いて|見《み》た|所《とこ》で、もう|勘忍《かんにん》は|出来《でき》ないで、|観念《くわんねん》するのが|第一《だいいち》だ、チヤカポコチヤカポコ、ポコポコポコ、|未《ま》だ|未《ま》だ|先《さき》はあるけれど、|頂《いただ》くお|金《かね》の|愛想《あいそ》だけ、|此《この》|先《さき》|聞《きこ》うと|思《おも》ふたら、お|金《かね》を|沢山《どつさり》|下《くだ》しやんせ、|肝腎要《かんじんかなめ》の|正念場《しやうねんば》、|供養《くやう》の|為《ため》にダルさまが、ゆるゆる|申《まを》し|述《の》べませう、カカポコ カカポコ ポコポコポコ』
ダルに|素《す》ツ|破《ぱ》|抜《ぬ》かれて、ヤッコス|外《ほか》|二人《ふたり》は|顔色《がんしよく》を|変《か》へ、|肩《かた》で|息《いき》をして|船底《ふなぞこ》へ|小《ちひ》さくなつて|踞《しやがん》で|居《ゐ》る、|伊太彦《いたひこ》は|三人《さんにん》の|前《まへ》に|進《すす》み|寄《よ》り、
|伊太《いた》『オイ、ヤッコス、お|前達《まへたち》は|何《なに》さう|鬱《ふさ》いで|居《ゐ》るのだ。|滑稽《こつけい》|交《まじ》りの|阿呆陀羅《あほだら》がお|前達《まへたち》は|気分《きぶん》が|悪《わる》いのか、|誰《たれ》があんな|事《こと》|本当《ほんたう》にするものか、|間違《まちが》つて、よしやお|前達《まへたち》がダルの|云《い》つた|通《とほ》りの|悪人《あくにん》であつたにせよ、|酷《ひど》い|事《こと》はしないよ。そんな|事《こと》をする|位《くらゐ》なら、|罪《つみ》の|島《しま》へ|残《のこ》して|置《お》くのだ。|吾々《われわれ》は|紳士的《しんしてき》|態度《たいど》を|取《と》るものだ。|決《けつ》して|卑怯《ひけふ》な|事《こと》はしないよ。|夫《それ》よりも|歌《うた》でも|歌《うた》つて|機嫌《きげん》を|直《なほ》したまへ。|玉国別《たまくにわけ》の|先生《せんせい》だつて|些《ちつ》とも|気《き》にかけて|厶《ござ》るやうな|方《かた》ではないからなア』
ヤッコス『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。それを|承《うけたま》はつて|安心《あんしん》|致《いた》しました。ダルの|奴《やつ》どこ|迄《まで》も|私《わたし》を|恨《うら》んであんな|讒言《ざんげん》するのです。|何卒《どうぞ》|御推量《ごすいりやう》|下《くだ》さいませ』
|伊太《いた》『ヨシヨシ、|誰《たれ》も|彼《か》れもみんな、|心《こころ》の|盲《めくら》は|居《ゐ》ないから、|腹《はら》のどん|底《ぞこ》|迄《まで》|分《わか》つて|居《ゐ》るのだ。|仮令《たとへ》|仮《かり》にお|前《まへ》がダルの|云《い》つたやうな|事《こと》を|企《たく》んで|居《を》つたつて、そんな|事《こと》にびくつくやうなものは|一人《ひとり》も|居《ゐ》ないのだから、|安心《あんしん》したがよからう。お|前《まへ》も|一《ひと》つ|歌《うた》でも|歌《うた》つて|船中《せんちう》の|無聊《ぶれう》を|慰《なぐさ》めたらどうだ』
ヤッコス『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。そんならお|言葉《ことば》に|甘《あま》へ|長《なが》の|航路《かうろ》で|厶《ござ》いますから、|不調法《ぶてうはふ》ながら|歌《うた》はして|頂《いただ》きませう』
|伊太《いた》『ヨシヨシ、|何《なん》でも|構《かま》はぬ、|一《ひと》つ|機嫌《きげん》を|直《なほ》して|歌《うた》つてくれ』
ヤッコス『ハイ|有難《ありがた》う、|御免《ごめん》|下《くだ》さい』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、ダルの|前《まへ》にツカツカと|進《すす》み、ダルが|左右《さいう》の|耳《みみ》を|自分《じぶん》の|両手《りやうて》でグツと|握《にぎ》り、|顔《かほ》を|前《まへ》へ|突《つ》き|出《だ》して、|一口《ひとくち》|歌《うた》つては、|首《くび》をしやくり、|一口《ひとくち》|歌《うた》つては|首《くび》をしやくり|乍《なが》ら|弁解的《べんかいてき》|阿呆駄羅経《あほうだらきやう》を|喋《しやべ》り|出《だ》した。
(大正一二・三・二九 旧二・一三 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第一三章 |兎耳《うさぎみみ》〔一四八八〕
ヤッコスは|自分《じぶん》の|弁解《べんかい》を|兼《か》ね、|且《か》つダルが|自分《じぶん》の|内心《ないしん》を|素破《すつぱ》|抜《ぬ》いた|其《その》|恨《うらみ》に|報《むく》いむと、|下女《げぢよ》が|鍋《なべ》の|耳《みみ》を|掴《つか》んだやうな|調子《てうし》で|抱《かか》へ|乍《なが》ら、|歌《うた》の|節《ふし》につれ、ダルの|首《くび》を【しやくり】つつ|臭《くさ》い|息《いき》を|顔《かほ》に|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》もなく|吹《ふ》きかけ|呶鳴《どな》り|初《はじ》めた。
ヤッコス『エーエ、|憚《はばか》り|乍《なが》ら|一寸《ちよつと》|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りまして、|三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》の、|大神徳《だいしんとく》に|帰順《きじゆん》した、ヤッコス|司《つかさ》が|一場《いちぢやう》の、お|経《きやう》の|文句《もんく》を|唱《とな》へ|上《あ》げますならば、チヤカポコ チヤカポコ ポコポコポコ』
ダル『こりやこりや、さう|耳《みみ》をしやくつては|痛《いた》いぢやないか、|放《はな》さぬかい』
ヤッコス『エー、なかなかなかなか、|此《この》|耳《みみ》|放《はな》してなりませうか。ズ|蟹《がに》のやうに|泡《あわ》をふくの、|目玉《めだま》が|一寸《いつすん》|飛《と》び|出《だ》したのと、|善言美辞《ぜんげんびじ》の|神様《かみさま》の、|教《をしへ》を|罵《ののし》り|聞《き》き|乍《なが》ら、|悪言暴語《あくげんばうご》のダルの|口《くち》、|一《ひと》つ|懲《こら》してやらなけりや、|私《わたし》の|男《をとこ》が|立《た》ちませぬ、|自分《じぶん》の|心《こころ》に|引《ひ》き|比《くら》べ、|正真正銘《しやうしんしやうめい》|正直《しやうぢき》の、ヤッコスを|捉《つか》まへて、|大勢《おほぜい》さまの|目《め》の|前《まへ》で、|讒言《ざんげん》するとは|何《なん》の|事《こと》、|決《けつ》して|許《ゆる》しはせぬほどに、こりやこりや がりぼし|瘠《やせ》つぽし、バツチヨ|笠《がさ》のやうな|態《ざま》をして、|骨《ほね》と|皮《かは》とになり|乍《なが》ら、|腮《あご》を|叩《たた》くも|程《ほど》がある、|貴様《きさま》の|耳《みみ》は|兎耳《うさぎみみ》、|握《にぎ》つた|上《うへ》は|中々《なかなか》に、|放《はな》しはせぬぞこりやどうだ、|誠《まこと》に|済《す》まぬ|事《こと》|許《ばか》り、|申《まを》しましたと|皆《みな》さまの、お|前《まへ》でお|詫《わび》をすればよし、|性懲《しやうこり》もなく|何時《いつ》|迄《まで》も、|頑張《ぐわんば》り|散《ち》らす|其《その》|時《とき》は、|俺《おれ》も|承知《しようち》をせぬ|程《ほど》に、サアサアどうだ【がりつぽし】、|貴様《きさま》の|目玉《めだま》は|何《なん》の|事《こと》、|道案内《みちあんない》の|表札《へうさつ》を、|立《た》てて|置《お》かねば|分《わか》らない、|目玉《めだま》が|奥《おく》に|引《ひ》つ|込《こ》んで、おまけに|白眼《しろめ》が|七八分《しちはちぶ》、これでも|矢張《やはり》|人間《にんげん》の、|面《つら》ぢやと|思《おも》ふて|居《ゐ》よるのか、|大化物《おほばけもの》か|馬鹿者《ばかもの》か、|合点《がつてん》のゆかぬ|馬鹿者《ばかもの》ぢや、|貴様《きさま》の|眉《まゆ》は|何《なん》の|事《こと》、|千切《ちぎ》れ|千切《ちぎ》れのベラサク|眉《まゆ》、|毛虫《けむし》のとまつたやうぢやぞや、|鼻《はな》の|柱《はしら》は|胡坐《あぐら》かき、|不整頓《ふせいとん》なる|小鼻《こばな》|奴《め》が、|眼鏡《めがね》のやうについて|居《ゐ》る、|口《くち》は|鰐口《わにぐち》|歯《は》は|出歯《でば》で、|加之《おまけ》に|前歯《まへば》が|欠《か》げて|居《ゐ》る、|腮《あご》の|短《みじか》いこの|面《つら》は、|譬方《たとへがた》ない|畜生面《ちくしやうづら》、こんな|口《くち》からベラベラと、|何《なん》の|誠《まこと》が|喋舌《しやべら》りよか、|身《み》の|程《ほど》|知《し》らぬもあんまりぢや、こりやこりやも|一《ひと》つ|揺《ゆす》らうか、|痛《いた》いと|云《い》つても|俺《おれ》の|耳《みみ》、|決《けつ》して|痛《いた》くはない|程《ほど》に、アハハハハツハ、アハハハハ、|呆《あき》れて|物《もの》が|云《い》はれない、イヒヒヒヒツヒ、イヒヒヒヒ。|歪《ゆが》み|面《づら》|陰気《いんき》な|顔《かほ》の|真中《まんなか》に、|歪《ゆが》んだ|鼻《はな》がドツカリと、|胡床《あぐら》をかいて|居《ゐ》やがるわ、ウフフフフツフ|兎耳《うさぎみみ》、|驢馬《ろば》の|土産《みやげ》にやつたなら、|定《さだ》めし|満足《まんぞく》するだらう、エヘヘヘヘツヘ、エヘヘヘヘ、|偉相《えらさう》に|吐《ぬか》す|減《へら》ず|口《ぐち》、|四角《しかく》い|口《くち》を|不行儀《ふぎやうぎ》に、|厚《あつ》い|唇《くちびる》つき|出《だ》して、|馬来人種《マレーじんしゆ》がやつて|来《き》て、|運上《うんじやう》とるやうな|妙《めう》な|口《くち》、オホホホホツホ、オホホホホ、おづおづ|致《いた》して|慄《ふる》うてる、|骨《ほね》と|皮《かは》との【がり】|坊子《ばうし》、どこを|押《お》したらあんな|事《こと》、ようまあ|吐《ぬか》せたものだなア、|貴様《きさま》は|人《ひと》に|禍《わざはひ》を、|被《き》せて|喜《よろこ》ぶ|曲津神《まがつかみ》、|滅多《めつた》な|事《こと》を|喋舌《しやべ》りよると、|此《この》|儘《まま》|承知《しようち》しはせぬぞ、|俺《おれ》でも|矢張《やつぱり》|神《かみ》の|子《こ》だ。|一時《いつとき》|雲《くも》に|包《つつ》まれて、|悪魔《あくま》の|擒《とりこ》となつたとて、|何時《いつ》|迄《まで》それで|居《ゐ》るものか、|馬鹿《ばか》にするのも|程《ほど》がある、ま|一度《いちど》|腮《あご》を|叩《たた》いて|見《み》よれ、|此《この》|儘《まま》|許《ゆる》しはせぬ|程《ほど》に、チヤカポコ チヤカポコ』
ダル『こりや、よい|加減《かげん》に|放《はな》さぬかい、|耳《みみ》が|千切《ちぎ》れるぢやないか。|肝腎要《かんじんかなめ》の|企《たく》みを|云《い》ひ|当《あて》られて|腹《はら》が|立《た》つのも|最《もつと》もだが、|貴様《きさま》も|茲《ここ》が|好《よ》い|改心《かいしん》のし|時《どき》だ。これ|痛《いた》いわい、|何《なに》しやがるのだ、|放《はな》さぬかい』
ヤッコス『|放《はな》さぬ|放《はな》さぬ|放《はな》さぬぞ、このヤッコスはどこ|迄《まで》も、|耳《みみ》の|千切《ちぎれ》る|所《ところ》|迄《まで》、|因縁《いんねん》|説《と》いて|聞《き》かさねば、どうしても|胸《むね》が|治《おさ》まらぬ、これや これや どうだダルの|奴《やつ》、|今《いま》|迄《まで》|申《まをし》た|悪垂口《あくたれぐち》、|誠《まこと》に|済《す》まぬ|嘘《うそ》|許《ばか》り、|申《まをし》ましたと|宣《の》り|直《なほ》し、|玉国別《たまくにわけ》や|其《その》|外《ほか》の、|神《かみ》の|司《つかさ》の|疑《うたがひ》を、|晴《は》らして|呉《く》れよ|何処《どこ》|迄《まで》も、|俺《おれ》は|此《この》|耳《みみ》|放《はな》さない、|何《なん》だい|涙《なみだ》を|出《だ》しやがつて、|貴様《きさま》は|卑怯《ひけふ》な|奴《やつ》だなア』
|側《そば》に|見《み》て|居《ゐ》た、メートは|耐《たま》り|兼《か》ね、|又《また》|後《うしろ》から、ヤッコスの|両方《りやうはう》の|耳《みみ》をグツと|握《にぎ》り、
メート『こりやこりや|悪漢《わるもの》ヤッコスよ、|乱暴《らんばう》な|事《こと》を|致《いた》すなよ、|吾《わが》|身《み》を|抓《つめ》つて|人《ひと》の|痛《いた》さを|知《し》れと|云《い》ふ|事《こと》は、|昔《むかし》の|聖者《せいじや》の|御教《みをしへ》だ、|俺《おれ》も|貴様《きさま》の|両耳《りやうみみ》を、|握《にぎ》つて|思《おも》ひ|知《し》らしてやる、これやこれや|痛《いた》いか|痛《いた》いだらう、|貴様《きさま》がダルの|耳朶《みみたぶ》を、|謝《あやま》り|入《い》つて|放《はな》す|迄《まで》、|此《この》|耳《みみ》はどうしても|放《はな》さない、|痛《いた》いか|痛《いた》いかこれやどうだ、|貴様《きさま》の|耳《みみ》は|驢馬《ろば》の|耳《みみ》、|内耳《うちみみ》も|外耳《そとみみ》もむしやむしやと、|獣《けもの》のやうな|毛《け》が|生《は》へて、|気分《きぶん》のよくない|手触《てざは》りだ、|胡麻煎頭《ごまいりあたま》を|持《も》ち|乍《なが》ら、|口《くち》の|先《さき》にて|胡麻《ごま》を|摺《す》り、|一時逃《いちじのが》れに|甘《うま》い|事《こと》、|吐《ぬか》した|所《ところ》で|神様《かみさま》は、|心《こころ》の|底《そこ》|迄《まで》|御承知《ごしようち》だぞ』
ヤッコスはメートに|背《せな》から|耳《みみ》を|力一杯《ちからいつぱい》|握《にぎ》られ|頭《あたま》をしやくられ、|涙《なみだ》を|流《なが》し|乍《なが》ら|猶《なほ》も|執念深《しふねんぶか》く、ダルの|両耳《りやうみみ》を|握《にぎ》つて|放《はな》さない。|見《み》るに|見兼《みかね》て、ハールは|又《また》|両耳《りやうみみ》を|掴《つか》もうとする。|伊太彦《いたひこ》は|大喝《だいかつ》|一声《いつせい》、
|伊太《いた》『こりやこりや、ヤッコス、|何《なに》|乱暴《らんばう》な|事《こと》をするのだ、さう|耳《みみ》を|掴《つか》まなくても|話《はなし》は|出来《でき》るぢやないか、サア|早《はや》く|放《はな》さないか』
ヤッコスは|不承無精《ふしようぶしよう》に『ハイ』と|云《い》つたきりダルの|耳《みみ》を|放《はな》した。
ダル『アハハハハハ、|態《ざま》|見《み》い、|痛《いた》からう。オイ、メート|確《しつか》り|引張《ひつぱ》つてやつて|呉《く》れ、|大分《だいぶん》|此奴《こいつ》の|耳《みみ》は|金挺《かなてこ》だから、|少々《せうせう》|片《かた》つ|方《ぱう》|位《ぐらゐ》ちぎつたつて、|神経《しんけい》が|通《かよ》つて|居《ゐ》ないから、|痛《いた》がる|気遣《きづか》ひは|無《な》からうよ』
メート『よし、お|前《まへ》の|命令《めいれい》だ、どうしても|放《はな》すものか、もう|斯《か》うなれば|蟹《かに》に|手《て》を|挟《はさ》まれたも|同様《どうやう》だ。|鼈《すつぽん》に|噛《か》まれたも|同様《どうやう》だ、|千切《ちぎ》れる|所《ところ》まで|放《はな》すものか』
ヤッコス『アイタタタタ、これメート、|俺《おれ》も|放《はな》したのだから、|貴様《きさま》も|放《はな》して|呉《く》れ』
メート『|痛《いた》むやうに|引《ひ》つぱつて|居《ゐ》るのだ。|未《ま》だ|宣伝使《せんでんし》の|命令《めいれい》が|下《くだ》らないから|命令《めいれい》の|下《くだ》るまで、【がりぼし】の|手《て》で|引《ひ》つ|張《ぱ》つてやる』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|引張《ひつぱ》る。|其《その》|度《たび》|毎《ごと》に|鮒《ふな》が|泥《どろ》に|酔《よ》うたやうに、パクパクと|歯並《はなみ》の|悪《わる》い|口《くち》を|開閉《かいへい》して|居《ゐ》る。
|伊太《いた》『オイ、メート、もうよい|加減《かげん》に|放《はな》してやれ、|此奴《こいつ》は|吾《わが》|身《み》|知《し》らずぢやない、|耳《みみ》|知《し》らずだから、|人《ひと》の|耳《みみ》を|直《すぐ》に|狙《ねら》ふのだ。|耳《みみ》ばかりかと|思《おも》へば|睾丸《きんたま》|狙《ねら》ひだ。|皆《みな》よく|気《き》をつけたらよからうぞ』
メート『そんなら|放《はな》してやりませうか。|大分《だいぶ》に|耳《みみ》が、|伊太彦《いたひこ》さまだと|見《み》えますわい、アハハハハハ』
|伊太《いた》『|傍《はた》の|見《み》る|目《め》もいたいたしい、まア|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》して|許《ゆる》してやるがよからう』
メート『ヤッコスが|耳《みみ》|引張《ひつぱ》られ|顔《かほ》しかめ
ああ|伊太彦《いたひこ》に|救《すく》はれにける。
|伊太々々《いたいた》し|伊太彦《いたひこ》さまのお|情《なさけ》を
|守《まも》りて|耳《みみ》を|放《はな》す|惜《をし》さよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》つて|耳《みみ》をパツと|放《はな》した。
ヤッコスの|耳《みみ》はメートの|堅《かた》い|爪《つめ》が|深《ふか》く|這入《はい》り|込《こ》んだと|見《み》えて、|血《ち》をぼとりぼとりと|滴《た》らしながら、|残念《ざんねん》さうにメートの|横顔《よこがほ》を|睨《ね》めつけて|居《ゐ》る。
|伊太彦《いたひこ》『ヤッコスに|耳《みみ》つかまれたダルさまは
|目《め》|口《くち》|鼻《はな》|迄《まで》ゆがめつるかも。
|渋面《じうめん》を|作《つく》つて|涙《なみだ》ぽろぽろと
|腮辺《しへん》にダルの|顔《かほ》の|憐《あはれ》さ。
|後《うしろ》から|二《ふた》つの|耳《みみ》を|引《ひ》つ|張《ぱ》られ
メート|鼻《はな》とをむけむけとする』
メート『|此《この》|男《をとこ》メートの|旅《たび》に|送《おく》らむと
|思《おも》ふ|矢先《やさき》に|伊太彦《いたひこ》の|声《こゑ》。
|伊太彦《いたひこ》の|鶴《つる》の|一声《ひとこゑ》|拒《こば》まれず
|無念《むねん》ながらも|耳《みみ》|放《はな》しけり』
ヤッコス『|人《ひと》の|耳《みみ》|掴《つか》んで|見《み》ても|痛《いた》くなし
されどヤッコス|耳《みみ》は|痛《いた》かり。
|神経《しんけい》の|通《かよ》はぬ|耳《みみ》か|力《ちから》|限《かぎ》り
ダルを|引《ひ》けども|痛《いた》くなかりし。
|吾《わが》|耳《みみ》は|温《ぬく》い|血潮《ちしほ》が|通《かよ》つて|居《ゐ》る
|引《ひ》かれた|時《とき》の|耳《みみ》の|痛《いた》さよ』
|耳《みみ》の|喧嘩《けんくわ》は|漸《やうや》く|済《す》んだ。ダル、ヤッコス|両人《りやうにん》は、|不機嫌《ふきげん》な|顔《かほ》して|黙《だま》り|込《こ》んで|仕舞《しま》つた。|船頭《せんどう》のイールは、|広《ひろ》き|湖原《うなばら》の|風《かぜ》に|曝《さら》された|流暢《りうちやう》な|声《こゑ》で|歌《うた》ひ|出《だ》した。
イール『ダルとヤッコス|二人《ふたり》の|喧嘩《けんくわ》
|耳兎《みみづく》|兎《うさぎ》のゆがみ|合《あ》い
|浪《なみ》はどんどん|押《お》し|寄《よ》せ|来《きた》る
|耳《みみ》の|鼓膜《こまく》をひびかせて
|聞《き》くも|怖《おそ》ろしヤッコスの|企《たく》み
ばらすダルさまは|面白《おもしろ》い
|痛《いた》い|痛《いた》いと|互《たがひ》に|耳《みみ》を
|引《ひ》いて|苦《くる》しむ|浪《なみ》の|上《うへ》
|耳《みみ》の|痛《いた》いよな|小言《こごと》を|聞《き》いて
|又《また》もや|痛《いた》い|程《ほど》|耳《みみ》ひかれ
|目《め》|鼻《はな》|口《くち》|耳《みみ》|眉毛《まゆげ》のおきば
|並《なら》べ|立《た》てたる|面黒《おもくろ》さ
|顔《かほ》はお|猿《さる》で|心《こころ》は|鬼《おに》よ
やがて|鴉《からす》が|婿《むこ》にとる
|長《なが》い|船路《ふなぢ》を|辷《すべ》りて|行《ゆ》けば
|船《ふね》の|中《うち》にもおとし|穴《あな》
|人《ひと》を|陥《おとし》て|自分《じぶん》の|望《のぞ》み
|経《たて》と|緯《よこ》との|悪企《わるだく》み
|百里《ひやくり》|二百里《にひやくり》|遠《とほ》くはないが
|神《かみ》の|御国《みくに》は|近《ちか》くない
|西《にし》は|照国《てるくに》|東《ひがし》は|木国《きくに》
|北《きた》はテルモン|南《みなみ》はイヅミ
|中《なか》に|漂《ただよ》ふキヨの|湖《うみ》』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|湧《わ》き|返《かへ》るやうな、|暑《あつ》い|浪《なみ》を|分《わ》けて|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二九 旧二・一三 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第一四章 |猩々島《しやうじやうじま》〔一四八九〕
|印度《ツキ》の|国《くに》の|北端《ほくたん》、テルモンの|湖水《こすい》を|南《みなみ》に|渡《わた》つたイヅミの|国《くに》のスマの|里《さと》にバーチルと|云《い》ふ|豪農《がうのう》があつた。バーチルは|何不自由《なにふじいう》なき|身《み》であり|乍《なが》ら、|暇《ひま》ある|毎《ごと》に|湖水《こすい》に|船《ふね》を|浮《うか》べ、|魚《うを》を|漁《あさ》る|事《こと》を|唯一《ゆゐいつ》の|楽《たのし》みとして|居《ゐ》た。|妻《つま》のサーベルは|何時《いつ》も『|危険《きけん》な|漁業《ぎよげふ》を|止《や》めて|家《いへ》におとなしく|居《を》つて|財産《ざいさん》の|整理《せいり》をせよ』と|諫言《かんげん》したが、どうしても|聞《き》かうとはせず、|女房《にようばう》の|寝静《ねしづ》まつたのを|考《かんが》へ|浜辺《はまべ》に|出《い》で|例《れい》の|如《ごと》く|網《あみ》をうち|釣《つり》を|垂《た》れ、あまり|面白《おもしろ》いので|何時《いつ》とはなしに|沖《おき》へ|沖《おき》へと|流《なが》れ|出《い》で、|到底《たうてい》|一日《いちにち》で|帰《かへ》る|事《こと》の|出来《でき》ない|地点《ちてん》|迄《まで》|行《い》つて|了《しま》つた。|舟《ふね》を|出《だ》した|夜《よ》は|明《あ》け|放《はな》れ、その|日《ひ》も|亦《また》ズツポリ|暮《く》れて、|日《ひ》の|移《うつ》るを|忘《わす》れて|一生懸命《いつしやうけんめい》に|一人《ひとり》の|僕《しもべ》と|共《とも》によく|釣《つ》れるのに|心《こころ》を|奪《と》られて|居《ゐ》た。
|満天《まんてん》|俄《にはか》に|黒雲《くろくも》|起《おこ》り、|一点《いつてん》の|星影《ほしかげ》さへも|見《み》えなくなり、|雨風《あめかぜ》|烈《はげ》しく|波《なみ》|高《たか》く|沢山《たくさん》な|魚《うお》を|舟《ふね》に|積《つ》んで|居《ゐ》ては|到底《たうてい》|危険《きけん》を|免《まぬが》れ|難《がた》くなつて|来《き》た。されど|折角《せつかく》|骨《ほね》を|折《を》つて|釣《つ》つた|魚《さかな》をムザムザ|湖中《こちう》へ|投《な》げて|了《しま》ふのは、どうも|惜《を》しくて|堪《たま》らない、だと|云《い》つて|少《すこ》しは|重《おも》みを|軽《かる》くせなくては|到底《たうてい》|舟《ふね》の|覆没《ふくぼつ》は|免《まぬが》れなくなつて|来《き》た。|僕《しもべ》のアンチーは|慄《ふる》ひ|戦《をのの》き、|泣声《なきごゑ》を|出《だ》して、
アンチー『|旦那様《だんなさま》、どう|致《いた》しませう。|到底《たうてい》|此《この》|暗《くら》がりに|大暴風《おほあらし》と|来《き》ては|助《たす》かりこはありますまい。|貴方《あなた》が|折角《せつかく》お|釣《つ》りになつた|此《この》|魚《さかな》を|一《ひと》つも|残《のこ》らず|湖《うみ》に|投《とう》じて|了《しま》ひませう。さうすれば|舟《ふね》が|軽《かる》くなり、どうなり、こうなり|何《ど》ツ|処《か》の|島《しま》に|着《つ》いて|命《いのち》を|保《たも》つ|事《こと》が|出来《でき》ませう。|何卒《どうぞ》|一匹《いつぴき》も|残《のこ》らず|棄《す》てさして|下《くだ》さいませぬか』
と|泣声《なきごゑ》になつて|歎願《たんぐわん》した。バーチルは|僕《しもべ》の|言葉《ことば》に|腹《はら》を|立《た》て、|声《こゑ》を|尖《とが》らして、
バーチル『こりやアンチー、|俺《おれ》がこれ|丈《だ》け|危険《きけん》を|犯《をか》して|折角《せつかく》|釣《つ》つた|魚《さかな》を|皆《みな》|流《なが》せとは、|何《なん》と|云《い》ふ|失礼《しつれい》な|事《こと》を|云《い》ふ。|魚《さかな》が|重《おも》たくて|舟《ふね》が|覆《かへ》る|虞《おそれ》があると|云《い》ふのなら、|貴様《きさま》のやうな|重量《ぢうりやう》の|多《おほ》い、|柄見倒《がらみだふ》しが|湖《うみ》へ|飛《と》び|込《こ》めば|此《この》|舟《ふね》は|余程《よほど》|軽《かる》くなつて|魚《さかな》が|助《たす》かるのだ』
と|半狂《はんきやう》の|男《をとこ》とて|魚《さかな》にかけたら|目《め》も|鼻《はな》もない。|僕《しもべ》に|対《たい》して|実《じつ》に|無慈悲《むじひ》|極《きは》まる|叱言《こごと》を|云《い》つた。
アンチー『|旦那《だんな》さま、|私《わたし》は|幼《をさな》い|時《とき》から|貴方《あなた》の|邸《うち》に|養《やしな》はれた|僕《しもべ》ですから、|貴方《あなた》のお|命《いのち》に|係《かか》はる|様《やう》の|事《こと》あれば、お|身代《みがは》りとなる|事《こと》は|覚悟《かくご》の|前《まへ》で|厶《ござ》います。|然《しか》し|何程《なにほど》|僕《しもべ》と|云《い》つても、|矢張《やつぱ》り|人間《にんげん》で|厶《ござ》います。|魚《さかな》は|幾何《いくら》でも|獲《と》れませうが、|此《この》アンチーの|体《からだ》は|世界《せかい》に|一《ひと》つほか|有《あ》りませぬから、そんな|無慈悲《むじひ》な|事《こと》を|仰有《おつしや》らずに|早《はや》く|此《この》|魚《さかな》を|棄《す》てさせて|下《くだ》さいませ』
バーチル『その|方《はう》は|主人《しゆじん》の|危難《きなん》を|救《すく》ふと|今《いま》|申《まを》しただらう。|主人《しゆじん》が|大切《たいせつ》に|丹精《たんせい》を|凝《こ》らして|獲《と》つた|此《この》|魚《うを》を|助《たす》けて、|何故《なぜ》|其《その》|方《はう》は|重量《ぢうりやう》を|減《げん》ずるために|湖《うみ》に|飛《と》び|込《こ》まないのか。そんな|事《こと》で|僕《しもべ》の|務《つと》めが|勤《つと》まるのか。|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|代物《しろもの》だな』
アンチー『|旦那様《だんなさま》、|死《し》んだ|魚《さかな》よりも|私《わたし》の|命《いのち》の|方《はう》が|余程《よつぽど》|安《やす》いので|厶《ござ》いますか。そりや|余《あんま》り|没義道《もぎだう》ぢや|厶《ござ》いませぬか』
バーチル『|馬鹿《ばか》|申《まを》せ。|魚《さかな》は|宅《うち》へ|持《も》つて|帰《かへ》れば|自分《じぶん》も|楽《たの》しみ|村中《むらぢう》の|奴《やつ》にも|刺身《つくり》にしたり、|煮〆《にしめ》にしても、|焼《や》いて|食《く》はさうと|儘《まま》だ。|何程《なにほど》|肥太《こえふと》つて|居《ゐ》ても|貴様《きさま》の|体《からだ》が|刺身《さしみ》にもなるかい。|誰《たれ》だつて|一人《ひとり》でも|喜《よろこ》んで|戴《いただ》くものはない。|俺《おれ》に|忠義《ちうぎ》を|尽《つく》さうと|思《おも》ふなら|早《はや》く|貴様《きさま》の|方《はう》から|飛《と》び|込《こ》まぬか。グヅグヅして|居《ゐ》ると|舟《ふね》が|転覆《てんぷく》して|了《しま》ふぢやないか。|貴様《きさま》|一人《ひとり》の|命《いのち》を|亡《な》くするか、|二人《ふたり》の|命《いのち》を|亡《な》くするかと|云《い》ふ|瀬戸際《せとぎは》だ。さア|早《はや》く|気《き》を|利《き》かして|飛《と》び|込《こ》め』
アンチー『これは|又《また》|怪《け》しからぬ|事《こと》を|仰有《おつしや》います。|貴方《あなた》はどうかして|居《を》りますな。|俄《にはか》に|仰有《おつしや》る|事《こと》が【へん】になつたぢやありませぬか』
バーチルは|暫《しば》らく|俯向《うつむ》いて|考《かんが》へて|居《ゐ》たが|俄《にはか》に、|驚《おどろ》いた|様《やう》な|声《こゑ》で、
バーチル『やア|如何《いか》にもさうだ。|余《あんま》り|吃驚《びつくり》して|魚《さかな》と|人間《にんげん》の|軽重《けいぢう》を|誤《あやま》つて|居《を》つた。やア|堪《こら》へて|呉《く》れ、せうもない|事《こと》を|云《い》つたものだ。|余《あんま》り|魚《さかな》に|気《き》をとられ|頭《あたま》に|気《き》を|揉《も》んだものか、|妙《めう》な|幻覚《げんかく》を|起《おこ》したものだ。さアお|前《まへ》の|云《い》ふ|通《とほ》りにする。さアさア|魚《さかな》を|放《ほ》つた|放《ほ》つた』
と、ここに|主従《しゆじゆう》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|折角《せつかく》|釣《つ》つた|魚《さかな》を|掴《つか》んでは|海中《かいちう》に|投《な》げ、|掴《つか》んでは|投《な》げして、|漸《やうや》く|半分《はんぶん》|許《ばか》り|放《ほか》し|出《だ》したと|思《おも》ふ|時分《じぶん》に、|虎《とら》の|咆《ほ》ゆるが|如《ごと》き|音《おと》をして|襲《おそ》ふて|来《き》た|大海嘯《おほつなみ》にバツサリと|呑《の》まれて、|舟《ふね》|諸共《もろとも》|波《なみ》に|捲《ま》き|込《こ》まれて|了《しま》つた。|二人《ふたり》は|暗夜《あんや》の|荒湖《あらうみ》に|落《お》ち|込《こ》み、|最早《もは》や|如何《いかん》ともする|事《こと》が|出来《でき》ないので|運《うん》を|天《てん》に|任《まか》して|居《ゐ》た。
イヅミの|国《くに》のスマの|里《さと》 |首陀《しゆだ》の|豪農《がうのう》バーチルは
|妻《つま》の|諫《いさ》めも|聞《き》かばこそ |気色《けしき》の|悪《わる》い|夜《よる》の|海《うみ》
こんな|時《とき》には|何時《いつ》よりも |獲物《えもの》が|多《おほ》いと|云《い》ひ|乍《なが》ら
|僕《しもべ》アンチー|伴《ともな》ひて スマの|浦《うら》より|舟《ふね》を|出《だ》し
|何時《いつ》もにもなき|豊漁《ほうれふ》に うつつを|抜《ぬ》かし|知《し》らぬ|間《ま》に
|沖合《おきあひ》|遠《とほ》く|流《なが》れ|出《い》で |一夜《いちや》を|明《あ》かし|晨《あした》より
|又《また》もや|黄昏《たそがれ》|過《す》ぐる|迄《まで》 |一心不乱《いつしんふらん》に|漁《すなど》りし
|夜中《よなか》の|頃《ころ》となりし|時《とき》 |一天《いつてん》|俄《にはか》に|掻《か》き|曇《くも》り
|黒白《あやめ》も|分《わ》かぬ|暗《やみ》となり |忽《たちま》ち|襲《おそ》ふ|暴風雨《ばうふうう》
|波《なみ》は|高《たか》まり|白波《しらなみ》の |鬣《たてがみ》|震《ふる》ひ|釣舟《つりぶね》に
|噛《か》みつき|来《きた》る|恐《おそ》ろしさ |虎《とら》|咆《ほ》え|猛《たけ》り|竜《りよう》|吟《ぎん》じ
|獅子《しし》の|猛《たけ》びの|物凄《ものすご》く |風《かぜ》と|波《なみ》との|唸《うな》り|声《ごゑ》
|撓《たゆ》まず|屈《くつ》せずバサバサと |網《あみ》|打下《うちお》ろし|様々《さまざま》の
|大《おほ》きな|魚《さかな》を|漁《あさ》りつつ |現《うつつ》になれる|折《をり》もあれ
|漁船《ぎよせん》を|木《こ》の|葉《は》の|散《ち》る|如《ごと》く |上下左右《じやうげさいう》に|翻弄《ほんろう》し
|身辺《しんぺん》|危《あやふ》くなりければ ここに|主従《しゆじゆう》|二人連《ふたりづ》れ
|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|争《あらそ》ひつ |折角《せつかく》|捕《と》らへし|魚族《ぎよぞく》をば
スツカリ|海《うみ》に|投《な》げやりて せめて|命《いのち》を|拾《ひろ》はむと
あせる|折《をり》しも|山岳《さんがく》の |様《やう》なる|波《なみ》に|船体《せんたい》は
|忽《たちま》ち|呑《の》まれて|無残《むざん》にも |水《みづ》の|藻屑《もくず》となりにけり
|僕男《しもべをとこ》のアンチーは |行衛不明《ゆくゑふめい》となり|果《は》てて
|呼《よ》べど|帰《かへ》らぬ|死出《しで》の|旅《たび》 |聞《き》くも|憐《あは》れな|次第《しだい》なり
|大海中《おほわだなか》に|衝《つ》つ|立《た》てる |人《ひと》の|恐《おそ》れて|寄《よ》りつかぬ
|猩々ケ島《しやうじやうがしま》の|磯端《いそばた》に |打上《うちあ》げられしバーチルが
|波《なみ》に|体《からだ》を|翻弄《ほんろう》され |息《いき》|絶《た》え|絶《だ》えになりし|時《とき》
|猩々《しやうじやう》の|王《わう》が|現《あら》はれて |手早《てばや》く|陸《くが》へ|救《すく》ひ|上《あ》げ
|真水《まみづ》を|口《くち》に|啣《ふく》ませて |漸《やうや》く|命《いのち》を|救《すく》ひける
|実《げ》に|面白《おもしろ》き|物語《ものがたり》 |畳《たたみ》の|波《なみ》に|浮《うか》びたる
|長方形《ちやうはうけい》の|舟《ふね》に|乗《の》り |敷島《しきしま》|煙草《たばこ》を|燻《くゆ》らせて
ここ|迄《まで》|述《の》べて|北村《きたむら》の |隆光彦《たかてるひこ》の|筆《ふで》の|先《さき》
|写《うつ》して|千代《ちよ》に|伝《つた》へむと |万年筆《まんねんひつ》の|剣尖《けんさき》を
|原稿用紙《げんかうようし》につきつけて あらあらここに|記《しる》し|置《お》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
バーチルはフツと|気《き》がつけば|夜《よ》は|已《すで》に|明《あ》け|放《はな》れ、|自分《じぶん》は|名《な》も|知《し》らぬ|孤島《こたう》の|磯端《いそばた》に|横臥《わうぐわ》し、|沢山《たくさん》の|猩々《しやうじやう》が|集《あつ》まり|来《きた》つて『キヤーキヤー』と|鳴《な》き|立《た》て|乍《なが》ら|自分《じぶん》の|周囲《しうゐ》を|蟻《あり》の|如《ごと》く|取巻《とりま》いて|居《ゐ》る。|傍《かたはら》に|優《すぐ》れて|大《だい》なる|一匹《いつぴき》の|猩々《しやうじやう》が|自分《じぶん》の|顔《かほ》を|見《み》てさも|同情《どうじやう》に|堪《た》へざるものの|如《ごと》く|首《くび》を|傾《かたむ》け|涙《なみだ》を|流《なが》して|居《ゐ》る。よくよく|見《み》れば|噂《うはさ》に|聞《き》いた|猩々《しやうじやう》の|島《しま》である。
バーチル『ああ|私《わし》は|恐《おそ》ろしい|斯《こ》んな|島《しま》へ|漂着《へうちやく》したのか。あまり|自我心《じがしん》が|強《つよ》い|為《ため》に|女房《にようばう》の|諫《いさ》めも|聞《き》かず|隠《かく》れて|漁《れふ》に|出《で》たのが|一生《いつしやう》の|不覚《ふかく》だつた。さうして|僕《しもべ》のアンチーは|如何《どう》なつたであらう。ああ|恐《おそ》ろしい|事《こと》になつた。|帰《かへ》らうと|思《おも》つても|舟《ふね》はなし、|猩々《しやうじやう》の|餌《ゑじき》になつて|了《しま》ふのか』
と|恐怖心《きようふしん》に|駆《か》られて|怖《おそ》れ|戦《をのの》いて|居《ゐ》た。
|意外《いぐわい》にも|猩々《しやうじやう》の|王《わう》とも|覚《おぼ》しき|大猿《おほざる》は|親切《しんせつ》さうにバーチルに|背《せな》を|向《む》け、『|吾《わが》|背《せ》に|負《お》はれよ』との|意《い》を|形容《けいよう》に|示《しめ》して|居《ゐ》る。バーチルは『もう|斯《か》うなつては|因果腰《いんぐわごし》を|定《き》めるより|仕方《しかた》がない。|彼等《かれら》の|為《な》すがままに|任《まか》さむ』かと|猩々《しやうじやう》の|背《せな》に|怖々《こはごは》|乍《なが》ら|抱《だ》きついた。|猩々《しやうじやう》は|背《せ》に|負《お》ふたまま、きつい|岩山《いはやま》をいと|安々《やすやす》と|登《のぼ》り、|頂上《ちやうじやう》の|屏風《びやうぶ》を|立《た》てた|様《やう》な|岩《いは》に|穿《あ》いてある|深《ふか》い|洞穴《ほらあな》の|中《なか》へ、サツサと|連《つ》れ|込《こ》んで|了《しま》つた。バーチルは|岩窟《いはや》の|中《なか》に|導《みちび》かれ、|胸《むね》を|轟《とどろ》かして|居《ゐ》ると、|珍《めづ》らしき|果物《くだもの》を|小猿《こざる》に【むしら】せ|来《きた》つて|皮《かは》を|剥《む》き|等《など》して、|之《これ》を|喰《く》へよと|勧《すす》めるのである。|意外《いぐわい》の|猩々《しやうじやう》の|態度《たいど》に、ヤツと|胸《むね》を|撫《な》で|下《お》ろし、|体《からだ》が|疲《つか》れて|縄《なは》の|様《やう》にグニヤグニヤになつて|居《ゐ》るのを、|暫《しば》し|休養《きうやう》せむとゴロリと|横《よこ》になつた。|猩々《しやうじやう》は|木《こ》の|葉《は》の|半《なかば》|乾《かわ》いたのを|厚《あつ》く|敷《し》いて、バーチルを|抱《かか》へ|自分《じぶん》が|手枕《てまくら》をして|母親《ははおや》が|赤《あか》ン|坊《ばう》の|添乳《そへち》をする|様《やう》に、いと|親切《しんせつ》に|体中《からだぢう》を|撫《な》で|擦《さす》り、|介抱《かいはう》に|熱中《ねつちう》して|居《ゐ》る。かくの|如《ごと》くしてバーチルは|三年《さんねん》の|月日《つきひ》を|此《この》|猩々ケ島《しやうじやうがしま》に|送《おく》る|事《こと》となつた。|此《この》|猩々《しやうじやう》は|牝《めす》であつて|此《この》|島《しま》の|動物《どうぶつ》の|王《わう》である。|猩々《しやうじやう》の|外《ほか》に|鹿《しか》や|兎《うさぎ》が|棲《す》んで|居《ゐ》た。されど|兎《うさぎ》も|鹿《しか》も|時々《ときどき》|猩々王《しやうじやうわう》の|側《そば》にやつて|来《き》て|睦《むつ》まじげに|遊《あそ》んで|居《ゐ》る。
|二年目《にねんめ》に|猩々《しやうじやう》とバーチルの|間《あひだ》に|半人半獣《はんにんはんじう》の|妙《めう》な|赤《あか》ン|坊《ばう》が|生《うま》れた。|猩々《しやうじやう》の|王《わう》は|掌中《しやうちう》の|玉《たま》と|慈《いつくし》み、バーチルに|自慢《じまん》さうに|抱《いだ》かせたり、|自分《じぶん》が|顔《かほ》を|嘗《な》めたり|乳《ちち》を|飲《の》まして|其《その》|子《こ》の|成人《せいじん》を|待《ま》つものの|如《ごと》くであつた。バーチルも|国《くに》へ|帰《かへ》らうと|思《おも》つても|肝腎《かんじん》の|舟《ふね》はなし、|又《また》|猩々王《しやうじやうわう》の|目《め》を|忍《しの》んで|帰《かへ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かなかつた。バーチルは|三年《さんねん》の|間《あひだ》|猩々《しやうじやう》と|同棲《どうせい》し、|大抵《たいてい》|表情《へうじやう》を|以《もつ》て|意志《いし》を|通《つう》ずる|事《こと》が|出来《でき》る|様《やう》になつて|来《き》た。|何《なん》となく|浜辺《はまべ》へ|出《で》たくなつて|堪《たま》らないので|猩々王《しやうじやうわう》に|身振《みぶり》を|以《もつ》て|浜辺《はまべ》に|遊《あそ》びに|行《ゆ》かうかと|云《い》つた。|猩々王《しやうじやうわう》も|嬉《うれ》しげに|頷《うなづ》いて|子《こ》を|抱《だ》き|乍《なが》ら|数多《あまた》の|小猿《こざる》を|従《したが》へ、バーチルの|身辺《しんぺん》を|守《まも》り|乍《なが》ら、|嶮峻《けんしゆん》な|岩山《いはやま》を|下《くだ》つて|磯端《いそばた》に|出《で》て|蟹《かに》を|追《お》ひかけたり、|砂《すな》を|掘《ほ》つたり、|色々《いろいろ》の|慰《なぐさ》みをして|嬉《うれ》しさうに|夏《なつ》の|磯辺《いそべ》|遊《あそ》びをやつて|居《ゐ》た。
|忽《たちま》ち|二三丁《にさんちやう》ばかり|沖合《おきあひ》を|白帆《しらほ》を|上《あ》げて|通《とほ》る|船《ふね》がある。|此《この》|附近《ふきん》は|容易《ようい》に|船《ふね》の|通《とほ》る|事《こと》の|出来《でき》ない、|暗礁《あんせう》|点綴《てんてつ》の|危険区域《きけんくゐき》である。バーチルは|此《この》|舟《ふね》を|見《み》るより|両手《りやうて》を|打振《うちふ》り|打振《うちふ》り、|人間《にんげん》が|此《この》|島《しま》に|漂着《へうちやく》して|居《ゐ》ると|云《い》ふ|合図《あひづ》を|示《しめ》した。|船頭《せんどう》のイールはフツと|此《この》|姿《すがた》を|見《み》て|驚《おどろ》いた|様《やう》な|声《こゑ》で、
イール『あ、|皆様《みなさま》、|一寸《ちよつと》|御覧《ごらん》なさいませ。あの|島《しま》は|猩々ケ島《しやうじやうがしま》と|云《い》つて|猩々《しやうじやう》ばかりが|棲《す》んで|居《ゐ》ますが、|不思議《ふしぎ》な|事《こと》には|人間《にんげん》らしいものが|磯端《いそばた》に|立《た》つて、|数多《あまた》の|猩々《しやうじやう》に|取囲《とりかこ》まれ、|手《て》を|振《ふ》つて|居《を》ります。|随分《ずいぶん》|沢山《たくさん》の|猩々《しやうじやう》ですよ』
|伊太《いた》『|何《なに》、|猩々《しやうじやう》の|島《しま》、そりや|面白《おもしろ》からう』
と|云《い》ふより|早《はや》く|苫屋根《とまやね》の|中《なか》から|舳《へさき》に|這《は》ひ|出《で》てよくよく|見《み》れば、イールの|云《い》つた|通《とほ》り|人間《にんげん》らしいものが|頻《しき》りに|腕《うで》を|振《ふ》つて|居《ゐ》る。
|伊太《いた》『もし、|先生《せんせい》、どうやら、あの|島《しま》に|人間《にんげん》が|漂着《へうちやく》して|居《ゐ》る|様子《やうす》です。|一《ひと》つ|何《なん》とかして|舟《ふね》を|寄《よ》せ|調《しら》べて|行《ゆ》かうぢやありませぬか』
ヤッコス『あれは|大変《たいへん》な|悪《わる》い|猩々《しやうじやう》が|居《ゐ》るのです。あんな|処《ところ》へ|行《ゆ》かうものなら、|皆《みな》|両眼《りやうがん》を|刳《く》り|抜《ぬ》かれ|命《いのち》を|取《と》られて|了《しま》ひます。そんな|険呑《けんのん》な|処《ところ》へ|行《ゆ》くものぢやありませぬ。|決《けつ》して|悪《わる》い|事《こと》は|申《まを》しませぬ。お|止《や》めなさいませ』
|伊太《いた》『|先生《せんせい》、|側《そば》まで|船《ふね》を|寄《よ》せて|調《しら》べて|見《み》ようぢやありませぬか。|別《べつ》に|上陸《じやうりく》さへせなければ|危険《きけん》はありませぬ。|兎《と》も|角《かく》|人間《にんげん》か|獣《けだもの》か、よく|調《しらべ》て、|人間《にんげん》ならば|助《たす》けてやらねばなりますまい。|是非《ぜひ》とも|船《ふね》を|着《つ》け|度《た》いものですな』
|玉国《たまくに》『|成程《なるほど》、お|前《まへ》の|云《い》ふ|通《とほ》りだ。どうも|人間《にんげん》らしい。あんな|無人島《むじんたう》に|獣《けだもの》と|同棲《どうせい》してるのだらう。|何《なに》か|面白《おもしろ》い|話《はなし》が|聞《き》けるかも|知《し》れない。|兎《と》も|角《かく》|僅《わず》か|二三丁《にさんちやう》の|処《ところ》だから、|船頭《せんどう》さま、|一寸《ちよつと》|船《ふね》をつけて|呉《く》れまいか』
イール『はい、|初稚様《はつわかさま》と|云《い》ふお|方《かた》に|沢山《たくさん》なお|金《かね》を|頂《いただ》き、|又《また》|宣伝使《せんでんし》の|仰有《おつしや》る|通《とほ》りにして|呉《く》れとのお|頼《たの》みで|厶《ござ》いますから|仰《おほ》せに|従《したが》ひませう』
|玉国《たまくに》『や、そりや|有難《ありがた》い、そんなら|頼《たの》む』
『はい』と|答《こた》えてイールは|舳《へさき》を|転《てん》じ|水先《みづさき》を|考《かんが》へ|乍《なが》ら|漸《やうや》くにして|磯辺《いそべ》に|着《つ》いた。
(大正一二・三・二九 旧二・一三 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第一五章 |哀別《あいべつ》〔一四九〇〕
|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》は|初稚丸《はつわかまる》を|猩々島《しやうじやうじま》の|磯辺《いそべ》につけ、よくよく|見《み》れば、|勝《すぐ》れて|大《だい》なる|猩々《しやうじやう》が、|人間《にんげん》とも|猿《さる》とも|知《し》れぬ|子《こ》を|抱《だ》いて|居《ゐ》る。|傍《そば》に|髯《ひげ》むしやむしやと|生《は》えた、|人間《にんげん》か|猿《さる》か|分《わか》らぬ|人間《にんげん》が|一人《ひとり》|立《た》つて|居《ゐ》る。|伊太彦《いたひこ》は|其《その》|男《をとこ》に|向《むか》つて、
|伊太《いた》『オイ|其処《そこ》に|立《た》つて|居《ゐ》るのは|人間《にんげん》か、|人間《にんげん》ならものを|云《い》つて|呉《く》れ』
バーチルは|三年振《さんねんぶ》りで|人間《にんげん》の|顔《かほ》を|見《み》、|人間《にんげん》の|声《こゑ》を|聞《き》いて、|懐《なつか》しさ|嬉《うれ》しさに、|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》した。そして、
バーチル『ハイ|私《わたくし》は|人間《にんげん》です。どうか|助《たす》けて|下《くだ》さい、|三年《さんねん》|以前《いぜん》に|此《この》|島《しま》に|漂着《へうちやく》し、|此《こ》の|通《とほ》り|猩々《しやうじやう》の|群《むれ》と|一緒《いつしよ》に|淋《さび》しい|生活《せいくわつ》を|送《おく》つて|居《を》りました』
|伊太《いた》『ヤア、そいつは|奇妙《きめう》な|話《はなし》だ、|深《ふか》い|様子《やうす》があるだらう。|兎《と》も|角《かく》、とつくりと|聞《き》かして|貰《もら》はう。もし|先生《せんせい》、こいつは|一《ひと》つ|上陸《じやうりく》して|見《み》ませう。【ひよつ】としたら|宝石《はうせき》の|島《しま》かも|知《し》れませぬぞや』
|玉国《たまくに》『ウン、|兎《と》も|角《かく》|上陸《じやうりく》して、|様子《やうす》を|探《さぐ》つて|見《み》よう。サア|皆《みな》さま|一同《いちどう》|上陸《じやうりく》しなさい』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、ポイと|飛《と》んで|磯辺《いそばた》に|降《くだ》つた。|続《つづ》いて|一同《いちどう》は|船頭《せんどう》を|残《のこ》したまま、|皆《みな》|好奇心《かうきしん》にかられて|上《あが》つて|来《き》た。|猩々《しやうじやう》は|沢山《たくさん》の|凛々《りり》しい|男《をとこ》がやつて|来《き》たので、|稍《やや》|怯気《おぢけ》を|生《しやう》じ、|猩々《しやうじやう》の|王《わう》は|児《こ》を|抱《だ》いて|七八間《しちはちけん》も|後《あと》に|退《しりぞ》き、|首《くび》を|傾《かた》げて|様子《やうす》を|考《かんが》へて|居《ゐ》る。|沢山《たくさん》の|小猿《こざる》は|一緒《いつしよ》に|集《あつ》まつてキャキャ|云《い》ひ|乍《なが》ら|瞬《またた》きもせず、|瞠《みつ》めて|居《ゐ》る。
|玉国《たまくに》『アア、お|前《まへ》さまはどこの|人《ひと》ですか。どうしてまアこんな|離《はな》れ|島《じま》に|猩々《しやうじやう》なんかと|同棲《どうせい》して|居《ゐ》たのです。|一通《ひととほ》り|話《はな》して|見《み》て|下《くだ》さい。|私《わたし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|人《ひと》を|助《たす》けるのが|役《やく》です。|決《けつ》して|御案《おあん》じなさるやうな|人間《にんげん》ぢや|厶《ござ》いませぬ。|安心《あんしん》してお|話《はなし》を|願《ねが》ひます』
バーチル『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|私《わたくし》はイヅミの|国《くに》、スマの|里《さと》の|首陀《しゆだ》で、バーチルと|申《まを》す|百姓《ひやくしやう》で|厶《ござ》いますが、|大変《たいへん》|漁《れふ》が|好《す》きな|所《ところ》より、|荒《あ》れ|模様《もやう》の|海《うみ》を|犯《をか》して|僕《しもべ》と|共《とも》に|三年《さんねん》|以前《いぜん》に|湖中《こちう》|遠《とほ》く|漁《すなどり》をやつて|居《を》りますと、|俄《にはか》に|暴風《しけ》に|遇《あ》ひ|船体《せんたい》は|浪《なみ》にのまれ、|私《わたくし》はお|蔭《かげ》で|此《この》|島《しま》につき、|猩々《しやうじやう》の|王《わう》に|助《たす》けられ|今日《けふ》|迄《まで》|命《いのち》を|保《たも》つて|参《まゐ》りました。|嘸《さぞ》|国元《くにもと》には|女房《にようばう》が|心配《しんぱい》して|居《ゐ》る|事《こと》で|厶《ござ》いませう。|何卒《どうぞ》お|助《たす》けをお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
|玉国《たまくに》『|成程《なるほど》それは|御難儀《ごなんぎ》でしたらう。もう|斯《か》うなる|上《うへ》は|御心配《ごしんぱい》なさるな。|此《この》|船《ふね》に|貴方《あなた》を|救《すく》ふて|帰《かへ》りませう』
バーチル『ハイ、|何分《なにぶん》|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|申《まをし》ます。|三年《さんねん》|以来《いらい》|此《この》|島《しま》で|猩々《しやうじやう》に|助《たす》けられ|食物《しよくもつ》に|不自由《ふじゆう》は|致《いた》しませぬが、|何《なに》を|云《い》ふても|相手《あひて》が|畜生《ちくしやう》の|事《こと》、|言葉《ことば》が|通《つう》じないので|困《こま》りました』
かく|話《はな》す|折《をり》、|猩々《しやうじやう》の|王《わう》は|赤《あか》ン|坊《ばう》を|抱《だ》いて|其《その》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|児《こ》を|指《ゆびさ》しては|分《わか》らぬ|事《こと》をキャキャと|叫《さけ》んで|居《ゐ》る。|伊太彦《いたひこ》はつくづくと|其《その》|子《こ》を|見《み》て、
|伊太《いた》『アア|此《この》|児《こ》は|人間《にんげん》と|猿《さる》との|混血児《あひのこ》ぢやな。ハハア|妙《めう》な|事《こと》があるものだ。|若《も》しバーチルさま、こりやお|前《まへ》さまと|猩々《しやうじやう》さまとの|中《なか》に|出来《でき》た|鎹《かすがひ》ぢやなからうなア』
バーチル『ハイ、|実《じつ》にお|恥《はづ》かしい|事《こと》で|厶《ござ》いますが、あの|猩々《しやうじやう》の|王《わう》と|夫婦《ふうふ》になつたお|蔭《かげ》で、|今日《けふ》|迄《まで》|命《いのち》が|保《たも》てたので|厶《ござ》います。|因果《いんぐわ》の|種《たね》が|宿《やど》つてあのやうな|児《こ》が|出来《でき》ました。|実《じつ》に|困《こま》つたもので|厶《ござ》います。|畜生《ちくしやう》の|腹《はら》に|出来《でき》たとは|云《い》ひ|乍《なが》ら|私《わたくし》も|実《じつ》に|未練《みれん》が|残《のこ》ります。|併《しか》しあんなものを|連《つ》れて|帰《かへ》る|訳《わけ》にも|参《まゐ》りませず、|又《また》|猩々《しやうじやう》の|女房《にようばう》を|連《つ》れて|帰《かへ》る|訳《わけ》にも|参《まゐ》りませぬ。|実《じつ》に|畜生《ちくしやう》と|云《い》ひながら|親切《しんせつ》なもので|厶《ござ》います。|国《くに》へ|帰《かへ》りたいは|山々《やまやま》で|厶《ござ》いますが、|斯《か》う|云《い》へばお|笑《わら》ひなさるか|知《し》れませぬが、|実《じつ》にあの|猩々《しやうじやう》が|可愛《かあい》さうです』
|玉国《たまくに》『|実《じつ》にお|察《さつ》し|申《まを》します。こりや|可愛《かあい》さうな|事《こと》だ。バーチルさまを|連《つ》れて|帰《かへ》れば|家《いへ》の|奥《おく》さまはお|喜《よろこ》びなさるだらうが、|第二夫人《だいにふじん》の|猩々姫《しやうじやうひめ》の|心《こころ》が|察《さつ》せらるる。|何《なん》とかして|連《つ》れて|帰《かへ》る|訳《わけ》には|参《まゐ》りますまいかな』
バーチル『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》いますが、|併《しか》し|猩々《しやうじやう》は|決《けつ》して|此《この》|島《しま》を|離《はな》れは|致《いた》しませぬ。あれだけ|沢山《たくさん》の|猩々《しやうじやう》が、|時々《ときどき》|現《あら》はれる|大蛇《をろち》にも|呑《の》まれず、ああして|居《ゐ》るのはあの|王《わう》があるからで|厶《ござ》います。あの|猩々《しやうじやう》を|連《つ》れて|帰《かへ》れば|眷族《けんぞく》を|見殺《みごろし》にせねばなりませぬ。|又《また》|猩々《しやうじやう》は|自分《じぶん》の|眷族《けんぞく》を|見殺《みごろし》にして|吾々《われわれ》に|跟《つ》いては|参《まゐ》りますまい、|実《じつ》に|情《なさけ》|深《ぶか》い|動物《どうぶつ》ですから』
|伊太《いた》『|三年《さんねん》も|畜生《ちくしやう》とは|云《い》ひ|乍《なが》ら|夫婦《ふうふ》となつて|暮《くら》して|居《ゐ》たとすれば、さうも|未練《みれん》が|残《のこ》るものかな。アアてもさても|人間《にんげん》の|心理状態《しんりじやうたい》と|云《い》ふものは|分《わか》らぬものだなア』
|玉国《たまくに》『|人間《にんげん》であらうが|獣《けだもの》であらうが、|決《けつ》して|愛情《あいじやう》に|変《かは》りはない。|況《まし》て|人間《にんげん》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|少《すこ》しく|気《き》に|喰《く》はねば|女房《にようばう》を|放《ほ》り|出《だ》したり、|夫《をつと》を|捨《す》てたりするものだが、|畜生《ちくしやう》は|其《その》|点《てん》になれば|偉《えら》いものだ。|空《そら》|飛《と》ぶ|鳥《とり》さへも|一方《いつぱう》が|人《ひと》に|取《と》られるとか、|又《また》は|死《し》んで|仕舞《しま》ふとかすれば、|仮《かり》にも|二度目《にどめ》の|雄《をす》を|持《も》つたり、|雌《めす》を|持《も》つたりしないものだ。これを|思《おも》へば、|人間《にんげん》は|鳥《とり》|獣《けだもの》に|劣《おと》つて|居《ゐ》るやうだ』
|伊太《いた》『|成程《なるほど》|感心《かんしん》なものですな。これ|三千彦《みちひこ》さま、お|前《まへ》さまも|今《いま》の|先生《せんせい》のお|話《はなし》を|腹《はら》に|入《い》れて、|決《けつ》してデビス|姫《ひめ》を|出《だ》したりしてはなりませぬぞや。|又《また》|仮令《たとへ》|奥《おく》さまが|亡《な》くなつても、|二度目《にどめ》の|奥《おく》さまは|持《も》たないやうになさいませ。|奥《おく》さまも|奥《おく》さまですよ、どんな|事《こと》があつても|決《けつ》して|二度目《にどめ》の|夫《をつと》を|持《も》つたり、|臀《しり》をふつてはなりませぬぞや』
|三千《みち》『ハハハ。|何《なに》から|何《なに》|迄《まで》|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|決《けつ》して|仰《おほせ》に|背《そむ》くやうな|事《こと》は|致《いた》しませぬから、|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
|伊太《いた》『|本当《ほんたう》だよ、|決《けつ》して|伊太彦《いたひこ》の|話《はなし》を|軽《かる》く|聞《き》いてはなりませぬぞや。いやもう、|今《いま》の|話《はなし》で|実《じつ》に|涙《なみだ》が|零《こぼ》れました』
|玉国《たまくに》『どうも、|何時《いつ》|迄《まで》|悔《くや》んで|居《ゐ》た|所《ところ》で|仕方《しかた》がない、|兎《と》も|角《かく》バーチルさま|此《この》|船《ふね》にお|乗《の》りなさい。|一先《ひとま》づ|帰《かへ》つて|奥《おく》さまに|安心《あんしん》させたが|宜《よろ》しからう』
バーチル『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|何卒《どうぞ》|宜《よろ》しく|願《ねが》ひます』
|子猿《こざる》はキャッキャッと|云《い》ひ|乍《なが》ら、|追々《おひおひ》と|近《ちか》よつて|来《く》る。バラモン|組《ぐみ》のヤッコス、ハール、サボールの|三人《さんにん》は|小猿《こざる》の|群《むれ》を|面白《おもしろ》がつて|追《お》つかけ|乍《なが》ら、|荒《あ》れ|廻《まは》つて|居《ゐ》る。|其《その》|間《あひだ》に|船《ふね》は|三人《さんにん》を|残《のこ》して、|磯辺《いそばた》を|七八間《しちはちけん》|許《ばか》り|離《はな》れた。|猩々《しやうじやう》の|王《わう》は|悲鳴《ひめい》を|上《あ》げて|磯辺《いそばた》に|佇《たたず》み、|赤《あか》ン|坊《ばう》をつき|出《だ》し、バーチルの|顔《かほ》を|眺《なが》めて|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》し、|口《くち》には|云《い》はねど、『|此《この》|子《こ》は|貴方《あなた》、|可愛《かあい》う|厶《ござ》いませぬか。|妻《つま》を|見捨《みす》てて|帰《かへ》るとは|惨酷《ざんこく》では|厶《ござ》いませぬか』との|表情《へうじやう》を|示《しめ》し、|地団駄《ぢだんだ》|踏《ふ》んで|居《ゐ》る。|時々《ときどき》|小猿《こざる》を|股《また》から|引《ひ》き|裂《さ》く|様《さま》を|見《み》せて|脅喝《けふかつ》を|試《こころ》みた。|併《しか》し|一同《いちどう》|心《こころ》を|鬼《おに》にして、|止《や》むを|得《え》ぬ|今日《けふ》の|場合《ばあひ》と|船《ふね》を|漕《こ》ぎ|初《はじ》めた。|猩々王《しやうじやうわう》は、|見《み》る|見《み》る|自分《じぶん》の|子《こ》の|喉《のど》を|締《し》めて|殺《ころ》し、|自分《じぶん》は|藤蔓《ふぢかづら》に|重《おも》い|石《いし》を|縛《くく》りつけ、ドンブと|許《ばか》り|海中《かいちう》に|身《み》を|投《とう》じて|仕舞《しま》つた。
|此《この》|惨状《さんじやう》を|見《み》て、|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》は|悲歎《ひたん》の|涙《なみだ》に|暮《く》れた。ヤッコス、ハール、サボールの|三人《さんにん》は|船《ふね》が|出《で》たのを|見《み》て|驚《おどろ》き|磯辺《いそばた》に|慌《あわ》ただしく|駆《か》け|来《きた》り、
|三人《さんにん》『オーイ オーイ|待《ま》つた|待《ま》つた、|俺達《おれたち》|三人《さんにん》|此処《ここ》に|残《のこ》つて|居《ゐ》るぢやないか。|其《その》|船《ふね》|返《かへ》せ』
と|地団駄《ぢだんだ》|踏《ふ》んで|叫《さけ》んで|居《ゐ》る。メート、ダルの|二人《ふたり》は、|舷頭《げんとう》に|立《た》ち|妙《めう》な|恰好《かつかう》して|腮《あご》をしやくり、|幾度《いくたび》となく|拳骨《げんこつ》で|空《くう》を|打《う》ち|乍《なが》ら、
『イヒヒヒ、ウフフフ。オーイ|三人《さんにん》の|悪人《あくにん》|奴《め》、|貴様《きさま》はキヨの|港《みなと》で|俺達《おれたち》|一同《いちどう》を|捕縛《ほばく》する|計略《けいりやく》をやつて|居《ゐ》るやうだが、そんな|事《こと》はちやんと|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》も|御存《ごぞん》じだ。|夫《それ》だから|貴様《きさま》|等《ら》|三人《さんにん》を|此処《ここ》に|置《お》き|去《ざ》りにしてお|帰《かへ》り|遊《あそ》ばすのだ。まア|猿島《さるじま》の|王《わう》となり、|猿《さる》と|夫婦《めをと》となり|子孫《しそん》|繁栄《はんゑい》の|道《みち》を|講《かう》じたらよからう。アバヨ、お|気《き》の|毒《どく》|様《さま》、|御悠《ごゆつく》りと、|左様《さやう》なら』
と|所有《あらゆる》|嘲笑《てうせう》をなし、|三人《さんにん》が|磯辺《いそばた》に|立《た》つて|居《ゐ》るのに|素知《そし》らぬ|顔《かほ》をしながら、|折《をり》から|吹《ふ》き|来《く》る、|微風《びふう》に|帆《ほ》を|上《あ》げて|西南《せいなん》の|方《はう》さして|辷《すべ》り|行《ゆ》く。
|船頭《せんどう》は|櫓《ろ》をゆるやかに|操《あやつ》り|乍《なが》ら|涼《すず》しい|声《こゑ》で|歌《うた》ひ|出《だ》した。
|船頭《せんどう》『ヤンサモンサで|沖《おき》を|漕《こ》ぐ|船《ふね》は
|女郎《ぢよらう》が|招《まね》けば|何《な》んと|磯《いそ》による、
ヤンサ、|女郎《ぢよらう》が|招《まね》くとも
|磯《いそ》にども|寄《よ》るな
ナント|女郎《ぢよらう》は|化物《ばけもの》|昼狐《ひるぎつね》
ヤンサヨー
|泥坊《どろばう》の|泥坊《どろばう》の|三人連《さんにんづれ》が
|声《こゑ》を|涸《か》らして|招《まね》くとも
ヤンサー、|磯《いそ》には|寄《よ》るな
|彼奴《あいつ》ア|盗人《ぬすびと》|昼狐《ひるぎつね》
キヨの|港《みなと》についたなら
ヤンサー、エンサー
ヤンヤーノヤー
|目付《めつけ》の|奴等《やつら》と|諜《しめ》し|合《あ》ひ
|数百《すうひやく》の|手下《てした》を|引《ひ》き|率《つ》れて
ヤンサー コレワイサー
|玉国別《たまくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|其《その》|外《ほか》|一同《いちどう》の|生神《いきがみ》を
|一網打尽《いちまうだじん》にして|呉《く》りよと
|手具脛《てぐすね》|引《ひ》いて|待《ま》つて|居《ゐ》る
|其《その》|手《て》に|乗《の》つて|耐《たま》らうか
ヤンサ、エーンサーノ
エンヤラヤー
|猩々《しやうじやう》の|島《しま》にと|蟄居《ちつきよ》して
|猩々姫《しやうじやうひめ》をば|嫁《よめ》に|取《と》り
|結構《けつこう》|毛《け》だらけ|子《こ》を|生《う》んで
キヤツキヤツと|泣《な》いて|暮《くら》しやんせ
これが|此《この》|世《よ》の|懲戒《みせしめ》か
ほんにお|前《まへ》は|偉《えら》い|奴《やつ》
|猩々《しやうじやう》の|島《しま》の|王《わう》となり
|治外法権《ちぐわいはふけん》の|生涯《しやうがい》を
|送《おく》らしやんせよいつ|迄《まで》も
これもお|前《まへ》さまの|身《み》の|錆《さび》だ
|折角《せつかく》|命《いのち》|助《たす》けられ
ヤンサ、エンサ
エンヤラサー
|心《こころ》の|底《そこ》に|悪企《わるだく》み
それを|悟《さと》つた|宣伝使《せんでんし》
|俺《おれ》|等《ら》もすつかり|知《し》つて|居《ゐ》る
ほんに|貴様《きさま》は|気《き》の|毒《どく》ぢや
|月《つき》は|照《て》る|照《て》る|涼風《すずかぜ》は|吹《ふ》く
|浪《なみ》も|静《しづか》にさやさやと
|面白《おもしろ》おかしく|潔《いさぎよ》く
キヨの|港《みなと》にや|着《つ》かないで
イヅミの|国《くに》のスマの|浦《うら》
バラモン|教《けう》の|目付《めつけ》|等《ら》が
|鼻《はな》をあかして
|吃驚《びつくり》さしてやらう
エンサ、エンサノ
エンヤラヤー』
と|手《て》をふり|足《あし》をふり|三人《さんにん》を|嘲弄《てうろう》し|乍《なが》ら、|追々《おひおひ》|島《しま》に|遠《とほ》ざかり|行《ゆ》く。
バーチル『|久方《ひさかた》の|天津御空《あまつみそら》の|救《すく》ひ|神《がみ》
|天降《あもり》ましたる|今日《けふ》ぞ|嬉《うれ》しき。
さりながら|三年《みとせ》の|間《あひだ》|吾《わが》|妻《つま》と
|慈《いつくしみ》たる|姫《ひめ》こそ|哀《あは》れ。
|猩々《しやうじやう》の|姫《ひめ》に|宿《やど》りし|吾《わが》|胤《たね》を
|見殺《みごろし》にする|心《こころ》|苦《くる》しさ。
|妻《つま》となり|夫《をつと》となるも|前《さき》の|世《よ》の
|深《ふか》き|縁《えにし》と|白浪《しらなみ》の|上《うへ》。
|白浪《しらなみ》の|上《うへ》|漕《こ》ぎ|渡《わた》る|此《この》|船《ふね》は
|百《もも》の|哀《あは》れを|乗《の》せて|走《はし》れる。
|訪《と》ふ|人《ひと》もなき|荒島《あらしま》に|残《のこ》されし
|三人男《みたりをとこ》の|心《こころ》しのばゆ。
|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|鬼《おに》にせめられて
かく|浅《あさ》ましき|身《み》とぞなりしか』
|真純彦《ますみひこ》『|大空《おほぞら》も|水《みづ》の|底《そこ》ひもすみ|渡《わた》る
さはさり|乍《なが》ら|心《こころ》|悲《かな》しき。
|猩々《しやうじやう》の|憐《あはれ》な|最後《さいご》を|見《み》るにつけ
|耐《こら》へ|兼《か》ねたる|吾《わが》|涙《なみだ》かな』
メート『|三人《さんにん》の|悪漢《わるもの》どもを|島《しま》におき
|帰《かへ》りて|行《ゆ》かむ|吾《われ》ぞ|嬉《うれ》しき。
ヤッコスは|嘸《さぞ》|今頃《いまごろ》は|磯辺《いそばた》に
|吾《わが》|船《ふね》|眺《なが》め|泣《な》きくづれ|居《ゐ》む』
ダル『|何事《なにごと》も|心《こころ》の|罪《つみ》の|播《ま》きし|種《たね》
|猩々《しやうじやう》の|島《しま》に|生《は》えしなるらむ。
|少々《せうせう》の|過《あやま》ちなれば|兎《と》も|角《かく》も
|空《そら》|怖《おそ》ろしき|曲神《まがかみ》の|罪《つみ》』
|三千彦《みちひこ》『|悲《かな》しさは|涙《なみだ》の|壺《つぼ》に|三千彦《みちひこ》の
|汲《く》むすべもなき|今日《けふ》の|哀《あは》れさ』
デビス|姫《ひめ》『|三柱《みはしら》の|醜《しこ》の|司《つかさ》も|皇神《すめかみ》の
|厚《あつ》き|守《まも》りに|安《やす》く|住《す》むらむ』
|玉国別《たまくにわけ》『スマの|浦《うら》|浪《なみ》|打《う》ち|際《ぎは》につきし|上《うへ》は
|態人《わざびと》をもて|向《むか》ひ|助《たす》けむ』
と|各《おのおの》|述懐《じゆつくわい》を|述《の》べ|乍《なが》ら、|潮流《てうりう》に|乗《の》つて|湖上《こじやう》を|右《みぎ》に|左《ひだり》に|辷《すべ》り|行《ゆ》く。|遙《はる》か|前方《ぜんぱう》に|当《あた》つて|霞《かすみ》のやうに|浮《うか》びたる|小《ちひ》さき|島影《しまかげ》が|目《め》についた。イールは|目敏《めざと》く|之《これ》を|見《み》て、
イール『ああ|仕舞《しま》つた、たうとう|魔《ま》の|海《うみ》に|船《ふね》が|流《なが》れ|込《こ》みました。あれへ|廻《まは》れば|三四十里《さんしじふり》の|廻《まは》り|道《みち》で|厶《ござ》いますが、この|湖《みづうみ》はもうあの|潮流《てうりう》に|乗《の》つたが|最後《さいご》、|方向《はうかう》を|転《てん》ずる|事《こと》が|出来《でき》ませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|暗礁《あんせう》のない|限《かぎ》り|滅多《めつた》に|危険《きけん》な|事《こと》は|厶《ござ》いませぬ。|皆《みな》さま|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ。スマの|港《みなと》に|着《つ》かうと|思《おも》へば|余程《よほど》の|廻《まは》りですが、これも|成《な》り|行《ゆき》だと|締《あきら》めて|下《くだ》さい』
|玉国《たまくに》『|何《なに》かの|神様《かみさま》の|御都合《ごつがふ》だらう。|浪《なみ》のまにまに|任《まか》して、|充分《じゆうぶん》|気《き》をつけてやつて|呉《く》れ。|又《また》|大変《たいへん》な|獲物《えもの》があるかも|知《し》れないから』
イール『ハイ、|有難《ありがた》う、それで|私《わたし》も|安心《あんしん》|致《いた》しました』
と|鉢巻《はちまき》をしながら、|八人《はちにん》の|水夫《かこ》を|指揮《しき》し、|一生懸命《いつしやうけんめい》、|真裸体《まつぱだか》となつて|漕《こ》ぎ|初《はじ》めた。|船《ふね》は|蜒々《えんえん》として|浪《なみ》のまにまに|漂《ただよ》ひ|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二九 旧二・一三 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第一六章 |聖歌《せいか》〔一四九一〕
|初稚丸《はつわかまる》に|帆《ほ》をあげて |潮《しほ》のまにまに|辷《すべ》り|行《ゆ》く
|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》は |前途《ぜんと》に|当《あた》る|島陰《しまかげ》を
|眺《なが》めて|何《なに》か|心中《しんちう》に |朧《おぼろ》げ|乍《なが》ら|望《のぞ》みをば
|抱《いだ》きていそいそ|湖風《うなかぜ》に |吹《ふ》かれて|進《すす》む|波《なみ》の|上《うへ》
|月《つき》は|漸《やうや》く|中天《ちうてん》に |昇《のぼ》らせ|玉《たま》ひ|清涼《せいりやう》の
|空気《くうき》はおひおひ|身《み》に|迫《せま》る |何《なん》とも|云《い》へぬ|心持《こころもち》
|思《おも》はず|知《し》らず|苫《とま》の|屋根《やね》 |立出《たちい》で|来《きた》り|舷頭《げんとう》に
|遠《とほ》くに|霞《かす》む|島陰《しまかげ》を |打仰《うちあふ》ぎつつ|独言《ひとりごと》
|玉国別《たまくにわけ》『|際限《さいげん》もなき|湖原《うなばら》の |彼方《かなた》に|見《み》ゆる|浮島《うきしま》は
|如何《いか》なる|人《ひと》の|住《す》みけるか |但《ただ》しは|人《ひと》|無《な》き|孤島《ひとりじま》か
|猩々島《しやうじやうしま》の|片割《かたわ》れか |波《なみ》に|呑《の》まれて|船《ふね》を|割《わ》り
バーチルさまの|二《に》の|舞《まひ》を |演《えん》じて|漸《やうや》う|漂着《へうちやく》し
|猩々《しやうじやう》の|姫《ひめ》を|妻《つま》に|持《も》ち |浮世《うきよ》|離《はな》れし|別世界《べつせかい》
|其《その》|日《ひ》を|暮《くら》す|人《ひと》あらば |又《また》もや|悲《かな》しき|生《い》き|別《わか》れ
|救《すく》ふも|辛《つら》し|救《すく》はねば |神《かみ》に|対《たい》して|相済《あひす》まず
|何《なに》は|兎《と》もあれ|波《なみ》の|間《ま》に |進《すす》みて|実地《じつち》を|探《さぐ》り|見《み》む
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さちは》ひましまして
|神《かみ》の|賜《たま》ひし|此《この》|御船《みふね》 |波路《なみぢ》も|安《やす》く|渡《わた》らせよ
|国治立《くにはるたち》の|大御神《おほみかみ》 |豊国主《とよくにぬし》の|大御神《おほみかみ》
|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|在《あ》れませる |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御前《おんまへ》に
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |玉国別《たまくにわけ》を|初《はじ》めとし
|神《かみ》の|稜威《みいづ》も|三千彦《みちひこ》や その|外《ほか》|百《もも》の|神司《かむづかさ》
|遠《とほ》き|海路《うなぢ》を|恙《つつが》なく |進《すす》ませ|玉《たま》へと|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
|初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむづかさ》 |此《この》|荒波《あらなみ》を|乗《の》り|切《き》りて
|猛犬《まうけん》スマートに|跨《またが》りて |波《なみ》のまにまに|出《い》で|玉《たま》ふ
その|扮装《いでたち》の|勇《いさ》ましさ もしも|彼方《かなた》の|島陰《しまかげ》に
|休《やす》らひ|玉《たま》ふ|事《こと》あれば |実《じつ》に|嬉《うれ》しき|限《かぎ》りなり
|初稚姫《はつわかひめ》の|逸早《いちはや》く |船《ふね》を|見棄《みす》てて|犬《いぬ》に|乗《の》り
|出《い》で|行《ゆ》き|玉《たま》ひし|心根《こころね》は |何《なに》かは|知《し》らねど|重大《ぢうだい》の
|使命《しめい》の|在《ま》すと|覚《おぼ》えたり |吾等《われら》|一同《いちどう》の|行先《ゆくさき》に
|又《また》もや|曲《まが》の|現《あら》はれて |如何《いか》なる|仇《あだ》をなさむやも
|図《はか》られ|知《し》らぬキヨの|湖《うみ》 |只《ただ》|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》
|大御心《おほみこころ》に|任《まか》せつつ |天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し
|天《あま》の|数歌《かずうた》|歌《うた》ひ|上《あ》げ |一同《いちどう》|声《こゑ》を|相揃《あひそろ》へ
|神《かみ》の|御名《おんな》を|称《たた》ふべし ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さちは》ひましませよ』
と|歌《うた》ひ|了《をは》り、|一同《いちどう》と|共《とも》に|型《かた》の|如《ごと》く|恭《うやうや》しく|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|終《をは》つて|宣伝歌《せんでんか》を|節《ふし》|面白《おもしろ》く|称《とな》へ|初《はじ》めた。
|玉国別《たまくにわけ》『|地《ち》|水《すい》|火《くわ》|風《ふう》|空《くう》の|大本《おほもと》を |造《つく》り|玉《たま》ひし|神御祖《かむみおや》
|大国常立大御神《おほくにとこたちおほみかみ》 |宇宙《うちう》の|外《そと》に|在《ま》しまして
|天地《てんち》|日月《じつげつ》|星辰《せいしん》を |完全《うまら》に|委曲《つばら》に|造《つく》り|終《を》へ
|青人草《あをひとぐさ》や|鳥《とり》|獣《けもの》 |虫族《むしけら》|初《はじ》め|草《くさ》や|木《き》の
|片葉《かきは》の|露《つゆ》に|至《いた》るまで |厳《いづ》の|恵《めぐ》みを|垂《た》れ|玉《たま》ひ
|此《この》|美《うる》はしき|世《よ》の|中《なか》を |守《まも》らせ|玉《たま》ふ|有難《ありがた》さ
|先《ま》づ|第一《だいいち》に|日《ひ》の|御神《みかみ》 |高皇産霊《たかみむすび》の|大御神《おほみかみ》
|月《つき》の|御神《みかみ》と|現《あ》れませる |神皇産霊《かむみむすび》の|大御神《おほみかみ》
|水火《みづひ》の|業《わざ》を|受持《うけも》ちて |天地《てんち》|万有《ばんいう》|按配《あんばい》し
|各《おのおの》その|所《しよ》を|得《え》せしめて |無限《むげん》の|歓喜《くわんき》を|与《あた》へつつ
|弥勒《みろく》の|聖代《みよ》を|細《まつぶさ》に |築《きづ》かせ|玉《たま》ふ|尊《たふと》さよ
|先《ま》づ|第一《だいいち》に|人《ひと》を|生《う》み |天足《あだる》の|彦《ひこ》や|胞場姫《えばひめ》を
|青人草《あをひとぐさ》の|祖先《そせん》とし エデンの|園《その》に|下《くだ》しまし
|神《かみ》の|形《かたち》に|造《つく》られし |人《ひと》の|子《こ》|数多《あまた》|生《う》み|終《を》はせ
|此《この》|世《よ》の|中《なか》を|開《ひら》かむと かからせ|玉《たま》ふ|時《とき》もあれ
|天足《あだる》の|彦《ひこ》や|胞場姫《えばひめ》が |皇大神《すめおほかみ》の|御心《みこころ》に
|反《そむ》き|奉《まつ》りし|邪心《じやしん》より |天地《てんち》に|妖邪《えうじや》の|空気《くうき》|充《み》ち
|八岐大蛇《やまたをろち》や|醜狐《しこぎつね》 |曲鬼《まがおに》などの|生《うま》れ|来《き》て
|益々《ますます》|此《この》|世《よ》を|乱《みだ》し|行《ゆ》く |高皇産霊《たかみむすび》の|大神《おほかみ》の
|厳《いづ》の|御霊《みたま》と|在《あ》れませる |国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》は
|天津御神《あまつみかみ》の|御言《みこと》もて |遥々《はるばる》|天《てん》より|降《くだ》りまし
|此《この》|地《ち》の|上《うへ》の|万有《ばんいう》を いと|安《やす》らけく|平《たひら》けく
|治《をさ》めむものと|千万《ちよろづ》の |掟《おきて》を|定《さだ》め|神々《かみがみ》を
|生《う》みなし|玉《たま》ひて|三界《さんかい》を |救《すく》はむ|為《た》めに|種々《いろいろ》に
|心《こころ》を|悩《なや》ませ|玉《たま》ひけり |神皇産霊《かむみむすび》の|大神《おほかみ》の
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》と|在《あ》れませる |豊国姫《とよくにひめ》の|大神《おほかみ》は
|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|神業《しんげふ》を |助《たす》け|玉《たま》ひて|遠近《をちこち》の
|山野海河《やまのうみかは》|悉《ことごと》く |心《こころ》を|配《くば》り|守《まも》りまし
|八岐大蛇《やまたをろち》の|憑《かか》りたる |常世《とこよ》の|彦《ひこ》や|常世姫《とこよひめ》
|金毛九尾《きんまうきうび》|曲鬼《まがおに》の |醜《しこ》の|魅魂《みたま》に|霊魂《たましひ》を
|攪乱《かきみだ》されて|大神《おほかみ》の |大神業《だいしんげふ》を|妨害《ばうがい》し
|遂《つひ》には|枉《まが》の|集《あつ》まりて |天津御国《あまつみくに》に|在《ま》しませる
|元津御祖《もとつみおや》の|大神《おほかみ》に |厳《いづ》と|瑞《みづ》との|二柱《ふたはしら》
|神《かみ》の|掟《おきて》を|悪《あ》しざまに |申上《まをしあ》げたる|枉業《まがわざ》に
|皇大神《すめおほかみ》は|止《や》むを|得《え》ず |熱《あつ》き|涙《なみだ》を|湛《たた》へまし
|弥勒《みろく》の|聖代《みよ》の|来《きた》る|迄《まで》 |国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》を
|地上《ちじやう》の|世界《せかい》の|艮《うしとら》に |長《なが》く|浮《うか》べる|自転倒《おのころ》の
|根別《ねわ》けの|島《しま》に|押込《おしこ》めて |時節《じせつ》を|待《ま》たせ|玉《たま》ひつつ
|豊国姫《とよくにひめ》の|大神《おほかみ》は メソポタミヤの|瑞穂国《みづほくに》
|境《さかひ》を|限《かぎ》りて|今《いま》|暫《しば》し |弥勒《みろく》の|聖代《みよ》の|来《きた》るまで
|時節《じせつ》を|待《ま》てと|厳《おごそ》かに |宣《の》らせ|玉《たま》ひし|悲《かな》しさに
|厳《いづ》と|瑞《みづ》との|大神《おほかみ》は |涙《なみだ》を|呑《の》んで|潔《いさぎよ》く
|各自々々《おのもおのも》の|隠遁所《かくれが》に その|身《み》を|忍《しの》ばせ|玉《たま》ひしが
|一度《いちど》に|開《ひら》く|蓮葉《はちすば》の |開《ひら》いて|薫《かをる》|御代《みよ》となり
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は |千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ひ|乍《なが》ら
|斎苑《いそ》の|館《やかた》やコーカスの |山《やま》に|姿《すがた》を|隠《かく》しまし
|島《しま》の|八十島《やそしま》|八十《やそ》の|国《くに》 |隈《くま》なく|教《をしへ》を|垂《た》れ|玉《たま》ひ
|世人《よびと》を|教《をし》へ|曲神《まがかみ》を |言向和《ことむけやは》し|天地《あめつち》を
|清《きよ》めて|元《もと》の|神国《かみくに》に |立直《たてなほ》さむと|宣伝使《せんでんし》
|数多《あまた》|養《やしな》ひ|育《そだ》てつつ |彼方《かなた》|此方《こなた》に|派遣《はけん》して
|曇《くも》りきつたる|世《よ》の|中《なか》を |照《て》らさせ|玉《たま》ふぞ|有難《ありがた》き
|神《かみ》の|使《つかひ》の|数《かず》|多《おほ》く |在《ま》します|中《なか》にいと|勝《すぐ》れ
|神徳《しんとく》|強《つよ》き|神柱《かむばしら》 |初稚姫《はつわかひめ》は|只《ただ》|一人《ひとり》
|魔神《まがみ》の|猛《たけ》ぶ|荒野原《あらのはら》 |山川海《やまかはうみ》を|乗《の》り|越《こ》えて
|猛犬《まうけん》スマートと|諸共《もろとも》に |神変不思議《しんぺんふしぎ》の|神力《しんりき》を
|現《あら》はし|玉《たま》ふ|畏《かしこ》さよ |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ |誠《まこと》の|道《みち》の|御教《みをしへ》を
|教《をし》へられたる|吾々《われわれ》は |皇大神《すめおほかみ》の|御為《おんため》に
あらゆる|艱難《なやみ》を|凌《しの》ぎつつ |道《みち》の|御為《おんため》|世《よ》の|為《ため》に
|尽《つく》さにやならぬ|宣伝使《せんでんし》 ああ|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し
|斎苑《いそ》の|館《やかた》を|出《い》でしより |種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|大神《おほかみ》の
|恵《めぐ》みの|試《ため》しに|遭《あ》ひ|乍《なが》ら その|度《たび》|毎《ごと》に|神力《しんりき》を
いと|爽《さはや》かに|与《あた》へられ |所々《ところどころ》に|功勲《いさをし》を
|現《あら》はしまつり|今《いま》|此処《ここ》に |清《きよ》めの|湖《うみ》に|浮《うか》びつつ
|仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|大神《おほかみ》の |教《のり》の|御船《みふね》に|棹《さを》さして
|進《すす》み|行《ゆ》くこそ|楽《たの》しけれ |真純《ますみ》の|彦《ひこ》よ|三千彦《みちひこ》よ
デビスの|姫《ひめ》よ|伊太彦《いたひこ》よ いざ|之《これ》よりは|腹帯《はらおび》を
|下津岩根《したついはね》に|締《し》め|直《なほ》し |上津岩根《うはついはね》に|締《し》め|固《かた》め
バラモン|教《けう》やウラル|教《けう》 |神《かみ》の|館《やかた》に|蟠《わだか》まる
|醜《しこ》の|曲津《まがつ》に|打向《うちむか》ひ |善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》や
|堪《こら》へ|忍《しの》びの|剣《つるぎ》もて |吾《わが》|身《み》を|厭《いと》はず|進《すす》むべし
|神《かみ》は|吾等《われら》と|倶《とも》にあり |人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|如何《いか》なる|敵《てき》の|攻《せ》め|来《く》とも |恐《おそ》るる|事《こと》のあるべきぞ
ハルナの|都《みやこ》に|蟠《わだか》まる |八岐大蛇《やまたをろち》や|醜神《しこがみ》を
|神《かみ》の|賜《たま》ひし|言霊《ことたま》に |言向和《ことむけやは》し|斎苑館《いそやかた》
|皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に |勝鬨《かちどき》あげて|帰《かへ》る|迄《まで》
|心《こころ》を|弛《ゆる》さぬ|此《この》|旅路《たびぢ》 |守《まも》らせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に |玉国別《たまくにわけ》が|一行《いつかう》を
ここに|代表《だいへう》|仕《つかまつ》り |畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さちは》ひましませよ』
|船頭《せんどう》のイールは、|櫓《ろ》を|操《あやつ》り|乍《なが》ら|又《また》もや|歌《うた》ひ|出《だ》した。
イール『(|喇叭節《ラツパぶし》)|風《かぜ》はそよそよ|吹《ふ》き|渡《わた》る
|清《きよ》めの|湖《うみ》には|百鳥《ももどり》が
|彼方《あちら》|此方《こちら》と|翻《ひるがへ》る
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》も|目《ま》のあたり。
|向《むか》ふに|見《み》えるは|猩々《しやうじやう》の|島《しま》か
|猩々島《しやうじやうしま》ならもう|行《ゆ》かぬ
|波《なみ》に|浮《うか》べるあの|島陰《しまかげ》は
|吾《われ》をまつ|風《かぜ》フクの|島《しま》。
(|琉球節《りうきうぶし》)フクの|島《しま》には|真水《まみづ》が|厶《ござ》る
|真水《まみづ》|許《ばか》りか|洞《ほら》がある。
|洞《ほら》の|中《なか》には|大蛇《だいじや》が|棲《す》むと
|云《い》ふて|恐《おそ》れる|一《ひと》つ|島《じま》。
いやが|応《おう》でも|此《この》|潮流《てうりう》は
フクの|島《しま》へと|船《ふね》|流《なが》す。
もしも|大蛇《をろち》が|出《で》て|来《き》たなれば
|厳《いづ》の|言霊《ことたま》|頼《たの》みます。
|厳《いづ》の|言霊《ことたま》|打《う》ち|出《だ》すなれば
|鬼《おに》も|大蛇《をろち》も|丸跣足《まるはだし》。
|私《わし》はイヅミのスマ|里《ざと》|生《うま》れ
|若《わか》い|時《とき》から|船《ふね》の|上《うへ》』
と|唄《うた》ひ|乍《なが》ら|一生懸命《いつしやうけんめい》に|櫓《ろ》を|操《あやつ》つて|居《ゐ》る。
(大正一二・三・二九 旧二・一三 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第一七章 |怪物《くわいぶつ》〔一四九二〕
|初稚丸《はつわかまる》は、|漂渺《へうべう》たる|海路《うなぢ》を|渡《わた》つて|漸《やうや》く|周囲《しうゐ》|二十五町《にじふごちやう》ばかりのフクの|島《しま》についた。|非常《ひじやう》に|荒波《あらなみ》|岸《きし》を|噛《か》み|剣呑《けんのん》にして|寄《よ》りつく|事《こと》が|出来《でき》ない|大難関《だいなんくわん》である。|見《み》れば|山《やま》の|中腹《ちうふく》に|非常《ひじやう》に|大《おほ》きい|岩窟《がんくつ》が|自然《しぜん》に|穿《うが》たれて|其《その》|中《なか》に|何《なに》か|動《うご》いて|居《ゐ》るやうに|見《み》えて|居《ゐ》る。|伊太彦《いたひこ》は|一目《ひとめ》|見《み》るより、
|伊太《いた》『|猩々《しやうじやう》だ|猩々《しやうじやう》だ、これバーチルさまお|前《まへ》の|御親類《ごしんるい》かも|知《し》れないよ。|一《ひと》つ|何《なん》とかして|島《しま》に|漕《こぎ》つけ、|正体《しやうたい》を|調《しら》べて|見《み》たいものだなア』
バーチルは|一目《ひとめ》|見《み》るより、アツと|叫《さけ》んで|倒《たふ》れむ|許《ばか》りになつた。
|伊太《いた》『ア、|此奴《こいつ》は|不思議《ふしぎ》だ。バーチルさま、|彼《あ》の|怪物《くわいぶつ》の|姿《すがた》を|見《み》てお|前《まへ》さまはアツと|云《い》つて|倒《たふ》れかけたが|一体《いつたい》|何《なん》だ。|何《なに》か|心当《こころあた》りがあるのかなア』
バーチル『ハイ、どうも|明瞭《はつきり》は|致《いた》しませぬが、|何《なん》だか|見《み》たやうな|男《をとこ》の|姿《すがた》に|見《み》えましたから|思《おも》はず|叫《さけ》んだので|厶《ござ》います』
|伊太《いた》『|矢張《やつぱ》り|別世界《べつせかい》に|棲《す》んで|居《ゐ》ただけあつて、|神経過敏《しんけいくわびん》になつて|居《ゐ》るのだ。|併《しか》しこんな|離《はな》れ|島《じま》に|人間《にんげん》のやうなものが|棲《す》んで|居《ゐ》るとは|不思議《ふしぎ》だよ。|矢張《やつぱり》|難破船《なんぱせん》に|遇《あ》つたものが、こんな|島《しま》に|打《う》ち|上《あ》げられて|居《ゐ》るのかも|知《し》れない。ヤヤ|好奇心《かうきしん》が|起《おこ》つて|仕様《しやう》がない、|危険《きけん》でも|上《あが》つて|正体《しやうたい》を|調《しら》べようぢやないか。|一《ひと》つ|先生《せんせい》|私《わたし》に|魔窟《まくつ》の|探険《たんけん》を|仰《おほ》せつけ|下《くだ》さるまいかなア』
|玉国《たまくに》『ウン、|一《ひと》つやつて|見《み》たがよからう。バーチルさまは|随分《ずゐぶん》|島《しま》になれて|居《ゐ》るから、|探険《たんけん》には|適任《てきにん》だらう』
バーチル『ハイ、|何卒《どうぞ》|私《わたくし》にもお|許《ゆる》し|下《くだ》さい。どうしても|調《しら》べなければならないやうな|気《き》がします』
|怪物《くわいぶつ》は|此《この》|船《ふね》を|見《み》るより|慌《あわ》ただしく|岩窟《がんくつ》を|出《い》で|険阻《けんそ》な|岩角《いはかど》を|猿《ましら》の|如《ごと》く|下《くだ》り|来《きた》り、|毛《け》だらけの|顔《かほ》をさらし|乍《なが》ら、
『オーイ、オーイ』
と|手招《てまね》きして|居《ゐ》る。|此《この》|時《とき》|船《ふね》は|一町《いつちやう》|許《ばか》り|手前《てまへ》|迄《まで》|進《すす》んで|居《ゐ》る。|漸《やうや》くにして|海中《かいちう》に|突出《とつしゆつ》して|居《ゐ》る|岩島《いはじま》に|船《ふね》を|寄《よ》せ、|辛《から》うじて、|伊太彦《いたひこ》、バーチル、メート、ダルの|四人《よにん》は|島《しま》に|駆《か》けつけた。|実《じつ》に|危険《きけん》|極《きは》まる|芸当《げいたう》である。|一丈《いちぢやう》|許《ばか》りの|玉《たま》となつて|竜《りう》の|天上《てんじやう》する|如《ごと》く、|落《お》ち|来《く》る|浪飛沫《なみしぶき》は|実《じつ》に|悽惨《せいさん》の|気《き》に|打《う》たれざるを|得《え》なかつた。|四人《よにん》は|屈《くつ》せず|男《をとこ》の|傍《そば》に|走《はし》り|寄《よ》り、|不思議《ふしぎ》さうに|顔《かほ》を|覗《のぞ》いて|居《ゐ》る。|怪《あや》しの|男《をとこ》は|四人《よにん》の|顔《かほ》をつくづくと|眺《なが》め、
|男《をとこ》『あ、|貴方《あなた》は|御主人様《ごしゆじんさま》ぢや|厶《ござ》いませぬか、ようまア|来《き》て|下《くだ》さいました』
バーチル『やア、お|前《まへ》は|僕《しもべ》のアンチーであつたか。どうしてこんな|所《ところ》に|助《たす》かつて|居《ゐ》たのだ。あの|荒波《あらなみ》に|呑《の》まれて|水《みづ》の|藻屑《もくづ》になり、|最早《もはや》|此《この》|世《よ》では|会《あ》へないものと|覚悟《かくご》して|居《ゐ》た、ようまア|生《いき》て|居《ゐ》て|呉《く》れた。|私《わたし》も|今《いま》|此《この》|船《ふね》に|助《たす》けられ|帰《かへ》る|途中《とちう》、|潮流《てうりう》の|都合《つがふ》でこんな|所《ところ》へやつて|来《き》たのだ。これも|矢張《やつぱり》|神様《かみさま》のお|引《ひ》き|合《あは》せであつたか』
アンチーは、|髯《ひげ》だらけの|顔《かほ》に|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》し、|男泣《をとこな》きに|泣《な》き|出《だ》した。
|伊太《いた》『これアンチーさま、|何《なに》を|泣《な》くのだ。|確《しつか》りせないか、サアこれからお|前《まへ》を|連《つ》れて|帰《かへ》るのだから、|何《なに》も【アンチル】|事《こと》は|要《い》らぬ、|安心《あんしん》して|跟《つ》いて|来《く》るのだ。|併《しか》し|俺《おれ》も|何《なん》だか|涙《なみだ》のやつ、|無断《むだん》で|両眼《りやうがん》から|飛《と》び|出《だ》して|来《く》る』
と、はや|泣《な》き|声《ごゑ》になつて|居《ゐ》る。
アンチーは|涙《なみだ》を|手《て》にて|拭《ぬぐ》ひながら、
アンチー『|旦那《だんな》|様《さま》、|私《わたし》は|貴方《あなた》と|一緒《いつしよ》に|浪《なみ》に|呑《の》まれ、|人事不省《じんじふせい》に|陥《おちい》り|此《この》|島《しま》に|打《う》ち|上《あ》げられて|居《ゐ》ました|処《ところ》へ、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》とか|云《い》ふ|綺麗《きれい》な|女神様《めがみさま》がお|越《こ》しになり、いろいろ|介抱《かいはう》して|下《くだ》さいました。|其《その》お|蔭《かげ》で|今日《けふ》|迄《まで》|命《いのち》を|保《たも》つて|居《を》りました。|幸《さいはひ》|此《この》|島《しま》には|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|沢山《たくさん》の|鳥《とり》が|居《ゐ》ますなり、|又《また》|少《すこ》しの|果物《くだもの》も|実《み》のり、|夫《それ》|故《ゆゑ》どうなりかうなり|一人《ひとり》の|食料《しよくれう》は|与《あた》へられました』
|伊太《いた》『ハテ、|合点《がてん》のゆかぬ|事《こと》を|云《い》ふぢやないか。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は|昨日《きのふ》|此方《こちら》へお|通《とほ》りになつた|許《ばか》りだ。さうして、|船《ふね》にでも|乗《の》つてお|出《いで》になつたか、|但《ただし》は、|犬《いぬ》にでも|乗《の》つて|来《こ》られたか、|合点《がてん》のゆかぬ|事《こと》だなア』
アンチー『いえいえ|船《ふね》も|持《も》たず|犬《いぬ》も|連《つ》れず、|何処《どこ》ともなくお|出《いで》になり、|又《また》|何処《どこ》ともなく|姿《すがた》をお|消《け》し|遊《あそ》ばしました。|夫《それ》から|二三日前《にさんにちまへ》にも|立派《りつぱ》な|姿《すがた》を|現《あら》はし、お|前《まへ》を|迎《むか》ひに|来《き》てやるからと|仰有《おつしや》いました、「お|前《まへ》も|三年《さんねん》の|修業《しふげふ》が|出来《でき》たから、これで|立派《りつぱ》な|人間《にんげん》になるであらう、|夢々《ゆめゆめ》|疑《うたが》ふな」と|仰有《おつしや》つたきり|今度《こんど》は|犬《いぬ》に|乗《の》り|荒浪《あらなみ》を|渡《わた》り、|南《みなみ》の|方《はう》を|指《さ》して|帰《かへ》つて|仕舞《しま》はれました。|本当《ほんたう》に|不思議《ふしぎ》のことで|厶《ござ》います』
|伊太《いた》『|成程《なるほど》|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は|生神様《いきがみさま》だと|聞《き》いて|居《ゐ》たが|偉《えら》いものだなア。|第一天国《だいいちてんごく》の|天人《てんにん》だと|云《い》ふ|事《こと》だが、さうでなければこんな|離《はな》れ|業《わざ》が|出来《でき》るものでない。これを|思《おも》へば|俺《おれ》|達《たち》のお|師匠《ししやう》さまもまだまだ|修業《しふげふ》をせねば|駄目《だめ》だなア。|何《なに》はさて|置《お》き、いつ|風《かぜ》が|荒《あら》うなるかも|知《し》れないから、この|危険区域《きけんくゐき》を|一時《いちじ》も|早《はや》く|去《さ》りませう』
と|鬣《たてがみ》を|振《ふる》ふて|猛《たけ》り|狂《くる》ふ|白浪《しらなみ》の|中《なか》を|潜《くぐ》り|抜《ぬ》け、|茲《ここ》に|五人《ごにん》は|無事《ぶじ》に|船中《せんちう》の|人《ひと》となり、|急《いそ》ぎ|舳先《へさき》を|転《てん》じ、|櫓櫂《ろかい》を|操《あやつ》り、|潮流《てうりう》に|従《したが》うて、|西南《せいなん》さして|進《すす》み|行《ゆ》く|事《こと》となつた。|船中《せんちう》にはアンチーの|漂流談《へうりうだん》に|種々《いろいろ》|花《はな》が|咲《さ》いた。
|伊太《いた》『もし|御一同《ごいちどう》さま、|何《なん》と|不思議《ふしぎ》の|事《こと》があるものですなア。|此《この》|方《かた》はバーチルさまの|僕《しもべ》だつたさうです。|三年前《さんねんまへ》に|難船《なんせん》して|主従《しゆじう》が|何《いづ》れも|無人島《むじんたう》に|命《いのち》を|保《たも》ち、|又《また》|吾々《われわれ》の|船《ふね》に|一時《いつとき》に|助《たす》けらるるとは|実《じつ》に|奇中《きちう》の|奇《き》ぢやありませぬか。こんな|事《こと》を|思《おも》ふと、|吾々《われわれ》は|一挙一動《いつきよいちどう》|大神様《おほかみさま》の|綱《つな》に|操《あやつ》られて|居《ゐ》るやうな|心持《こころもち》が|致《いた》しますなア』
|玉国《たまくに》『|何事《なにごと》も|人間《にんげん》は|神様《かみさま》のお|道具《だうぐ》だから|唯《ただ》|惟神《かむながら》にお|任《まか》せするより|外《ほか》、|道《みち》はないのだ。|何事《なにごと》も|皆《みな》|神業《かむわざ》だから、|是《これ》からお|前《まへ》もどんな|事《こと》があつても|今《いま》|迄《まで》のやうにブツブツ|小言《こごと》を|云《い》つたり|理窟《りくつ》を|並《なら》べたりするものぢやありませぬよ。|神様《かみさま》がよい|実物教育《じつぶつけういく》をして|下《くだ》さつたのだからなア』
|伊太《いた》『|成程《なるほど》、|実《じつ》に|有難《ありがた》いもので|厶《ござ》いますなア。オイ、|真純彦《ますみひこ》、|三千彦《みちひこ》の|御両人《ごりやうにん》、こんな|事《こと》を|思《おも》ふと、ゾツとするやうだなア、|私《わたし》はもう|神様《かみさま》が|恐《おそ》ろしくなつて|来《き》た』
|三千《みち》『|如何《いか》にもお|前《まへ》の|云《い》ふ|通《とほ》りだ。|何事《なにごと》も|人間《にんげん》の|考《かんが》へではいくものでない。|夫《それ》だから|私《わたし》も|御用《ごよう》の|途中《とちう》にデビス|姫《ひめ》を|連《つ》れて|行《ゆ》くものではないと、|一度《いちど》は|拒《こば》んで|見《み》たが、これも|神様《かみさま》の|思召《おぼしめし》だと|思《おも》ふて|連《つ》れて|来《き》たのだよ』
|伊太《いた》『アハハハハ。|何《なん》とまア、えらい|所《ところ》へロジツクが|当《あ》て|箝《は》まつたものだなア。これも|皆《みな》|神様《かみさま》の|御都合《ごつがふ》かなア、エヘヘヘヘ』
|三千《みち》『|伊太彦《いたひこ》さま、エヘヘヘヘ、と|云《い》ふ|其《その》|言霊《ことたま》の|色《いろ》には|大《おほい》に|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》を|悔蔑《ぶべつ》|嘲笑《てうせう》して|居《ゐ》る|形跡《けいせき》が|見《み》えるぢや|無《な》いか。|本当《ほんたう》に|冗談《じやうだん》ぢやない。|私《わたし》は|真剣《しんけん》だからなア』
|伊太《いた》『プツフフフフ、それや|真剣《しんけん》だらう。|私《わたし》だつてこんなナイスと|道連《みちづ》れになるのなら、|真剣《しんけん》も|真剣《しんけん》、|大真剣《だいしんけん》になるのだがなア』
|三千《みち》『エエどこ|迄《まで》も|馬鹿《ばか》にしたものだなア。|併《しか》し|何《なん》と|云《い》ふても|足弱《あしよわ》の|女《をんな》を|連《つ》れて|居《ゐ》るのだから|負《まけ》て|置《お》きませう。|行《ゆ》く|所《ところ》|迄《まで》|行《い》つたら|分《わか》りませうかい。|万一《まんいち》|女《をんな》を|連《つ》れて|行《ゆ》くが|悪《わる》いのなら、|玉国別《たまくにわけ》の|先生《せんせい》がお|留《と》めなさるに|違《ちが》ひない、|黙《だま》つていらつしやる|所《ところ》を|見《み》れば|何《なに》か|御都合《ごつがふ》のある|事《こと》だらう。なア|真純彦《ますみひこ》さま、|貴方《あなた》はどう|思《おも》ひます』
|真純《ますみ》『|私《わたし》は|何《なん》とも|申《まをし》ませぬ。よいとか|悪《わる》いとか|云《い》ふだけの|知識《ちしき》も|無《な》ければ|権能《けんのう》もありませぬ。|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》だとお|蔭《かげ》を|頂《いただ》いて|居《を》ります』
|伊太《いた》『ハハハハハ。さうすると|伊太彦《いたひこ》さまの|敗北《はいぼく》かな、ヤ|恐《おそ》れ|入《い》りました。|到底《たうてい》|寡《くわ》を|以《もつ》て|衆《しう》に|敵《てき》する|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。もう|此《この》|上《うへ》は|謹《つつし》んで|御夫婦《ごふうふ》の|前途《ぜんと》を|祝《しゆく》します。そして|悋気《りんき》がましい|事《こと》はこれより|止《や》めますから、|何卒《どうぞ》|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》しを|願《ねが》ひませう』
|玉国《たまくに》『まアまアこれで|内訌《ないこう》も|治《をさ》まり、|一先《ひとま》づ|安心《あんしん》だ』
アンチーは|嬉《うれ》しさの|余《あま》り、|無雑作《むざふさ》に|生《は》えた|髯《ひげ》を|撫《な》で|乍《なが》ら、|島《しま》で|作《つく》つて|歌《うた》つて|居《ゐ》た|歌《うた》を|交《まじ》へて|船唄《ふなうた》を|歌《うた》ひ、|一同《いちどう》の|御愛嬌《ごあいけう》に|供《きよう》した。
アンチー『イヅミの|国《くに》のスマの|里《さと》 バーチルさまの|家《いへ》の|子《こ》と
|仕《つか》へて|茲《ここ》に|二十年《にじふねん》 |日日《ひにち》|毎日《まいにち》|主従《しうじゆう》が
|月夜《つきよ》と|暗《やみ》の|隔《へだ》てなく キヨメの|湖《うみ》の|魚《うろくず》を
|掻《か》きまはしつつ|殺生《せつしやう》した |其《その》|天罰《てんばつ》が|報《むく》い|来《き》て
|漁舟《すなどりぶね》は|沈没《ちんぼつ》し |力《ちから》と|思《おも》ふ|吾《わが》|主人《あるじ》
|行衛《ゆくゑ》も|知《し》れずなり|給《たま》ひ |後《あと》に|残《のこ》つたアンチーは
|人《ひと》|無《な》き|島《しま》に|助《たす》けられ |鳥《とり》の|卵《たまご》や|果物《くだもの》を
|取《と》りて|漸《やうや》く|生命《せいめい》を |保《たも》ち|居《ゐ》るこそ|果敢《はか》なけれ
|沖《おき》を|遙《はるか》に|見渡《みわた》せば |幽《かす》かに|白帆《しらほ》の|影《かげ》|見《み》ゆる
|呼《よ》べど|叫《さけ》べど|此《この》|島《しま》は |危険区域《きけんくゐき》と|知《し》る|故《ゆゑ》に
|鳥《とり》の|外《ほか》より|近寄《ちかよ》らぬ |声《こゑ》を|嗄《から》して|叫《さけ》べども
|打《う》ち|寄《よ》せ|来《きた》る|波《なみ》の|音《ね》に |呑《の》まれて|声《こゑ》は|響《ひび》かない
|八千八声《はつせんやこゑ》の|時鳥《ほととぎす》 この|岩洞《いはあな》に|姿《すがた》をば
|隠《かく》して|朝夕《あさゆふ》|泣《な》くばかり もう|此《この》|上《うへ》は|因果腰《いんぐわごし》
|定《さだ》めて|島《しま》の|王《わう》となり いや|永久《とこしへ》にセリバシー
|生涯《しやうがい》|此処《ここ》に|送《おく》らむと |思《おも》ひ|定《さだ》めし|苦《くる》しさよ
|朝日《あさひ》は|空《そら》に|煌々《くわうくわう》と |輝《かがや》きたまひ|夜《よ》を|守《まも》る
|月《つき》の|姿《すがた》はテラテラと |昼《ひる》と|夜《よる》との|隔《へだ》てなく
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|垂《た》れたまひ |果敢《はか》なき|身《み》をば|守《まも》ります
|此《この》フク|島《じま》につきしより |長《なが》の|年月《としつき》|人《ひと》の|声《こゑ》
|一度《いちど》も|聞《き》いた|事《こと》はない |鴎《かもめ》の|声《こゑ》や|鵜《う》の|鳥《とり》が
|夕《ゆふべ》の|空《そら》に|帰《かへ》り|来《き》て |翼《つばさ》をやすめ|朝《あさ》まだき
|朝日《あさひ》の|登《のぼ》るを|待《ま》ちかねて チンチン チユンチユン|騒《さわ》がしく
さながら|天女《てんによ》の|音楽《おんがく》を |奏《そう》する|如《ごと》く|聞《きこ》え|来《く》る
|此《この》|声《こゑ》こそは|吾《わが》|身《み》をば |慰《なぐさ》めたまふ|神《かみ》の|声《こゑ》
|忝《かたじけ》なしと|伏《ふ》し|拝《をが》み |風《かぜ》に|吹《ふ》かれ|雨《あめ》に|濡《ぬ》れ
|漸《やうや》く|茲《ここ》|迄《まで》ながらへぬ |明日《あす》をも|知《し》らぬ|人《ひと》の|身《み》の
|人《ひと》なき|島《しま》に|斃《たふ》れなば |吾《わが》|遺骸《なきがら》を|如何《いか》にせむ
せめて|命《いのち》のある|中《うち》に |身《み》を|躍《をど》らして|水底《みなそこ》へ
|落《お》ち|込《こ》み|此《この》|世《よ》の|苦《くる》しみを |逃《のが》れむものと|幾度《いくたび》か
|思《おも》ひ|煩《わづら》ひ|居《ゐ》たりしが ハツと|心《こころ》を|取《と》り|直《なほ》し
|斯《か》くも|月日《つきひ》の|御守《おんまも》り |吾《わが》|身《み》の|上《うへ》に|照《て》る|上《うへ》は
いつかは|海路《かいろ》の|風《かぜ》が|吹《ふ》き |助《たす》けの|船《ふね》の|現《あら》はれて
|恋《こひ》しきスマの|故郷《ふるさと》へ |帰《かへ》られる|事《こと》もあらうかと
|気《き》を|取《と》り|直《なほ》し|手《て》を|拍《う》つて |天地《てんち》の|御恩《ごおん》を|感謝《かんしや》しつ
|際限《さいげん》もなき|海原《うなばら》を |眺《なが》めて|又《また》もや|生《いき》かへり
いつしか|淋《さび》しさ|悲《かな》しさも |歓喜《くわんき》の|涙《なみだ》となりかはる
|人《ひと》は|心《こころ》の|持《も》ちやうで |安全地帯《あんぜんちたい》の|此《この》|島《しま》も
|地獄《ぢごく》の|底《そこ》と|感《かん》じたり |天国《てんごく》|浄土《じやうど》と|感《かん》じつつ
|悲喜《ひき》|交々《こもごも》の|生涯《しやうがい》を |送《おく》りし|吾《われ》ぞ|奇《くし》びなれ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸倍《さちはへ》て
|今日《けふ》の|生日《いくひ》の|生時《いくとき》に |三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》
|初稚姫《はつわかひめ》のお|弟子《でし》なる |数多《あまた》の|司《つかさ》に|助《たす》けられ
|又《また》もや|恋《こひ》しき|御主《おんあるじ》 |無事《ぶじ》なお|顔《かほ》を|伏《ふ》し|拝《をが》み
|久《ひさ》し|振《ぶり》にて|故郷《ふるさと》に |帰《かへ》り|行《ゆ》くこそ|嬉《うれ》しけれ
|嬉《うれ》し|涙《なみだ》は|胸《むね》に|満《み》ち |心《こころ》はいそいそ|飛《と》び|立《た》つ|思《おも》ひ
|夜《ゆめ》か|現《うつつ》か|幻《まぼろし》か |吾《われ》と|吾《わ》が|身《み》がはかられぬ
|深《ふか》き|恵《めぐみ》のキヨの|湖《うみ》 |浪間《なみま》を|辷《すべ》り|帰《かへ》り|行《ゆ》く
スマの|館《やかた》へ|帰《かへ》りなば |主人《あるじ》の|妻《つま》のサーベルさま
|嬉《うれ》し|涙《なみだ》を|湛《たた》へつつ |手足《てあし》に|取《と》りつきし|噛《が》みつき
|喜《よろこ》びたまふ|事《こと》だらう |私《わたし》は|元《もと》より|独身者《ひとりもの》
ようまアお|帰《かへ》りなさつたと |訪《おと》のう|妻《つま》は|有《あ》りませぬ
|思《おも》へば|思《おも》へば|味気《あぢき》なき |憂世《うきよ》を|渡《わた》る|独身者《ひとりもの》
|憫《あはれ》みたまへ|惟神《かむながら》 |神《かみ》の|教《をしへ》の|神司《かむづかさ》
|心《こころ》に|積《つも》りしありたけを |一《ひと》つも|残《のこ》さず|吐《は》き|出《だ》して
|救《すく》ひを|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る |三年振《さんねんぶり》にて|海《うみ》の|上《うへ》
|目無堅間《めなしかたま》の|船《ふね》に|乗《の》り |帰《かへ》りて|行《ゆ》くぞ|有難《ありがた》き
|主従《しゆじゆう》|二人《ふたり》が|謹《つつし》みて |此《この》|世《よ》を|救《すく》ふ|大神《おほかみ》の
|御前《みまへ》に|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
|伊太《いた》『アハハハハ、|矢張《やつぱり》アンチーさまも|一人《ひとり》は|淋《さび》しいと|見《み》えるな、
|家《いへ》へ|帰《かへ》つて|精《せ》の|無《な》い|私《わたし》
|門《かど》に|迎《むか》へる|妻《つま》はない。
と|云《い》ふ|筆法《ひつぱふ》ぢやな。それや|私《わたし》も|同《おな》じ|事《こと》だ。|折角《せつかく》|宣伝使《せんでんし》|様《さま》のお|伴《とも》して、|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|現《あら》はし|家《いへ》に|帰《かへ》つた|所《ところ》で、|考《かんが》へて|見《み》れば|妻《つま》もなし、ほんに|思《おも》へば|思《おも》へば|淋《さび》しいものだよ。お|前《まへ》も|三千彦《みちひこ》さまの|夫婦連《ふうふづ》れを|見《み》て|羨《けなり》うなつて|来《き》たのだな。|併《しか》しこの|伊太彦《いたひこ》|双手《もろて》を|上《あ》げて|賛成《さんせい》だ。ヤア|是《これ》で|俺《おれ》も|一人《ひとり》の|知己《ちき》を|得《え》たものだ。|同病《どうびやう》|相憐《あひあは》れむと|云《い》ふ|事《こと》があるからアンチーさま|今後《こんご》は|私《わたし》と|堅《かた》い|握手《あくしゆ》をして|互《たがひ》に|力《ちから》にならうぢやないか。お|前《まへ》と|私《わたし》の|私交上《しかうじやう》の|事《こと》だから|別《べつ》に|先生《せんせい》の|許《ゆる》しを|受《う》ける|必要《ひつえう》もなし、|三千彦《みちひこ》さまや、|真純彦《ますみひこ》さまに|気兼《きがね》も|要《い》らぬ。|一《ひと》つ|日英同盟《にちえいどうめい》でもやらうぢやないか。なあアンチーさま』
アンチー『ハイ、|有難《ありがた》う、|何分《なにぶん》|宜敷《よろし》く|願《ねが》ひます。|私《わたし》も|何時《いつ》|迄《まで》も|御主人《ごしゆじん》の|家《うち》に|御厄介《ごやくかい》になつて|居《ゐ》るのも|詮《つま》りませぬから、|何《なん》とか|国《くに》へ|帰《かへ》つたら|身《み》の|振《ふ》り|方《かた》を|考《かんが》へねばならないと|思《おも》ふて|居《ゐ》ます』
|伊太《いた》『ヤア、そりや|感心《かんしん》だ、さうなくてはならぬ。もし|三千彦《みちひこ》さま、|私《わたし》は|同性《どうせい》の|女房《にようばう》を|持《も》ちましたから、|何卒《どうぞ》|宜敷《よろし》く|御交際《ごかうさい》を|願《ねが》ひます、アハハハハ』
(大正一二・三・二九 旧二・一三 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第一八章 |船待《ふなまち》〔一四九三〕
スマの|浜辺《はまべ》の|青芝草《あをしばぐさ》の|上《うへ》に|胡床《あぐら》をかき、|湖水《こすい》の|波《なみ》を|眺《なが》めて|欠伸《あくび》をきざみ|乍《なが》ら|雑談《ざつだん》に|耽《ふけ》つて|居《ゐ》る|二人《ふたり》の|男《をとこ》があつた。|此《この》|二人《ふたり》はバーチルが|家《いへ》の|僕《しもべ》アキス、カールであつた。
アキス『おい、カール、|昨日《きのふ》から|今日《けふ》で|三日《みつか》が|間《あひだ》、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|案山子《かがし》か|何《なに》かの|様《やう》に|湖《みづうみ》の|面《つら》ばつかり|眺《なが》めて|頬辺《ほほべた》を|蟆子《ぶと》に|咬《か》まれ、|待《ま》つてるのも|宜《い》い|加減《かげん》のものぢやないか。まるで|夢《ゆめ》でも|見《み》て|居《ゐ》る|様《やう》だな、|俺《おれ》ヤもう|斯《こ》んな|事《こた》ア|嫌《いや》になつた。さつぱりアキスだよ』
カール『|何《なん》と|云《い》つても|御主人《ごしゆじん》が|三年《さんねん》も|行衛《ゆくゑ》が|分《わか》らず、|何時《いつ》カールか、|帰《かへ》らぬか|分《わか》らないのだからな。|奥《おく》さまがあつても|主人《あるじ》が|居《を》らなけりや|矢張《やつぱり》アキス|見《み》たやうなものだ。|然《しか》しまあアキス|狙《ねら》ひが|出《で》て|来《こ》ぬので、まア|結構《けつこう》だ。|此《この》|頃《ごろ》|奥《おく》さまは|神経《しんけい》|興奮《こうふん》して|主人《あるじ》が|帰《かへ》つて|来《く》るから、|迎《むか》へに|行《ゆ》け|迎《むか》へに|行《ゆ》けと|尻《しり》に|火《ひ》がついた|様《やう》に|仰有《おつしや》るものだから、かう|来《き》たものの、|奥《おく》さまは|夢《ゆめ》でも|見《み》たのだらうかのう。|本当《ほんたう》に|御夫婦《ごふうふ》|仲《なか》の|良《よ》いものだつたが、ああ|鰥鳥《やもめどり》となると|何《なん》とはなしに|淋《さび》しうなつて|来《き》てチツとは|気《き》も|変《へん》になつて|来《こ》やうかい。|奥《おく》さまは|旦那様《だんなさま》が|漁《れふ》に|行《い》つたきり、|番頭《ばんとう》のアンチーを|連《つ》れて、|十日《とをか》|経《た》つても|二十日《はつか》|経《た》つても|姿《すがた》をお|見《み》せ|遊《あそ》ばさないので、|到頭《たうとう》|出《で》られた|日《ひ》を|命日《めいにち》として|鄭重《ていちよう》な|葬式《さうしき》を|遊《あそ》ばし、|石塔《せきたふ》までお|拵《こしら》へになつた|位《くらゐ》だから、もう|旦那様《だんなさま》は|帰《かへ》らぬと|締《あきら》めて|居《を》られると|思《おも》つて|居《を》つたのに、|此《この》|頃《ごろ》は|何《なに》かイソイソとして|旦那様《だんなさま》が|帰《かへ》つて|来《く》る|帰《かへ》つて|来《く》ると|仰有《おつしや》るが|本当《ほんたう》に|困《こま》つて|了《しま》ふわ』
アキス『それでも|今年《ことし》で|三年《さんねん》にもなるのに|後添《のちぞ》ひも|入《い》れず|神妙《しんめう》に|貞淑《ていしゆく》を|守《まも》つて|居《ゐ》なさる|所《ところ》は|本当《ほんたう》に|見上《みあ》げたものだよ。|何《なん》と|云《い》つてもスマきつての|財産家《ざいさんか》だから|種々《いろいろ》の|男《をとこ》が|色《いろ》と|慾《よく》とで|言《い》ひ|寄《よ》り、|初《はじ》めの|間《うち》は|淋《さび》しからうとか、|留守見舞《るすみまひ》だとか|云《い》つて|出入《でい》りする|罪《つみ》|深《ふか》い|奴《やつ》が|沢山《たくさん》あつたが、|誰《たれ》も|彼《かれ》も|皆《みな》エッパッパを|喰《く》はされて、|此《この》|頃《ごろ》は|到底《たうてい》|駄目《だめ》だと|締《あきら》めて|性悪男《しやうわるをとこ》の|影《かげ》も|見《み》ない|様《やう》になつたのは、まだしもの|幸《さいはひ》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|大変《たいへん》な|神経質《しんけいしつ》ぢやないか。あの|一年祭《いちねんさい》の|法事《はふじ》を|勤《つと》められた|時《とき》、|俺《おれ》|等《ら》も|一緒《いつしよ》に|旦那様《だんなさま》の|石碑《せきひ》の|前《まへ》で|祭典《さいてん》を|行《おこな》ひ、|奥様《おくさま》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|泣声《なきごゑ》を|出《だ》して|口説《くど》いて|厶《ござ》つた|時《とき》は|本当《ほんたう》に|側《そば》に|居《ゐ》る|俺《おれ》|等《たち》も|涙《なみだ》が|零《こぼ》れたよ。|夫婦《ふうふ》の|情《じやう》と|云《い》ふものは|斯《こ》んなものかと|感心《かんしん》したよ。|本当《ほんたう》に|貞淑《ていしゆく》な|女《をんな》だなア』
カール『うん、さうさう、|俺《おれ》もその|時《とき》には|本当《ほんたう》に|涙《なみだ》が|零《こぼ》れたよ。やがて|三年祭《さんねんさい》が|出《で》て|来《く》るのだが、あの|時《とき》の|様《やう》な|滑稽《こつけい》は|今度《こんど》はあるまいね。|奥様《おくさま》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|石塔《せきたふ》に|向《むか》つて|仰有《おつしや》るのには、「もし、|旦那様《だんなさま》、|貴方《あなた》は|可愛《かあい》い|妻子《つまこ》を|振《ふ》り|棄《す》てて|私《わたし》がお|諫《いさ》め|申《まを》すのもお|聞《き》き|遊《あそ》ばさず、|番頭《ばんとう》と|一緒《いつしよ》に|性凝《しやうこ》りもなく|殺生《せつしやう》をしておいで|遊《あそ》ばした。その|天罰《てんばつ》と|申《まを》しますか、|何《なん》と|申《まを》すか|知《し》りませぬが|到頭《たうとう》|貴方《あなた》は|魚《さかな》の|為《ため》に|尊《たふと》い|命《いのち》を|奪《と》られたぢやありませぬか。もし|貴方《あなた》に|霊《れい》があるのなれば|何《なん》とか|証《しるし》を|見《み》せて|下《くだ》さい」とそれはそれは|人目《ひとめ》も|憚《はばか》らずお|泣《な》き|遊《あそ》ばした|時《とき》は|本当《ほんたう》に|側《そば》に|居《ゐ》るのも|苦《くる》しい|様《やう》だつた。そした|所《ところ》、|旦那様《だんなさま》の|石塔《せきたふ》がガタガタと|動《うご》き|出《だ》した。|俺《おれ》は|吃驚《びつくり》して|魂《たましひ》が|宙《ちう》を|飛《と》ぶ|様《やう》になつて|居《ゐ》た。それでも|奥様《おくさま》は|泰然自若《たいぜんじじやく》たるもので、「|旦那様《だんなさま》、|貴方《あなた》は|石塔《せきたふ》になつてからも|私《わたし》の|事《こと》を|思《おも》ふて|下《くだ》さいますと|見《み》えまして、|只今《ただいま》|石塔《せきたふ》がお|動《うご》き|遊《あそ》ばしたのは、|全《まつた》く|性念《しやうねん》がお|在《あ》りになるので|厶《ござ》いませう。|何卒《どうぞ》|一言《ひとこと》|女房《にようばう》と|云《い》つて|下《くだ》さい。お|願《ねが》ひで|厶《ござ》います」と|泣《な》いて|口説《くど》かれた|時《とき》は|本当《ほんたう》に|気《き》の|毒《どく》で|堪《たま》らなかつたぢやないか。|後《あと》から|考《かんが》へて|見《み》れば|石塔《せきたふ》が|動《うご》いたのは|丁度《ちやうど》その|時《とき》、|地震《ぢしん》があつたのだ。あの|時《とき》、ケルの|家《いへ》もタク|公《こう》の|家《いへ》もメチヤメチヤに|壊《こは》されて|了《しま》つたぢやないか。その|時《とき》は|本当《ほんたう》に|旦那様《だんなさま》の|石塔《せきたふ》が|動《うご》いたのかと|思《おも》つて、どれ|丈《だ》け|俺《おれ》は|肝《きも》を|潰《つぶ》したか|分《わか》らなかつたよ。|後《あと》で|思《おも》つて|見《み》れば|実《じつ》に|滑稽《こつけい》だつたな』
アキス『うん、そんな|事《こと》があつたね。|然《しか》し|余《あんま》り|気《き》の|毒《どく》で、|地震《ぢしん》で|動《うご》いたのだと|云《い》ふ|事《こと》も|出来《でき》ず、|奥様《おくさま》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|矢張《やつぱ》り|石塔《せきたふ》が|奥様《おくさま》の|誠《まこと》に|感《かん》じて|動《うご》いたのだと|信《しん》じて|厶《ござ》るのだから、|本当《ほんたう》にお|憐《いとし》いものだ。|然《しか》しどうだらうな、|本当《ほんたう》に|旦那様《だんなさま》がお|帰《かへ》りになるのだらうか。|昨日《きのふ》の|日《ひ》の|暮《く》れ|頃《ごろ》に|海賊船《かいぞくせん》が|七八艘《しちはつそう》、|向《むか》ふの|方《はう》を|通《とほ》りキヨの|港《みなと》に|行《い》つたきり、|漁船《ぎよせん》も|通《とほ》らねば|船《ふね》らしいものは、|此方《こちら》に|来《こ》ないぢやないか。|奥様《おくさま》の|話《はなし》によれば|立派《りつぱ》な|船《ふね》に|乗《の》つて|沢山《たくさん》の|人《ひと》に|送《おく》られて|帰《かへ》つて|厶《ござ》ると|仰有《おつしや》るが、まるで|雲《くも》を|掴《つか》む|様《やう》な|話《はなし》ぢやないか。この|炎天《えんてん》に|頭《あたま》を|曝《さら》されてはやりきれないわ。|木《き》の|蔭《かげ》でもあれば|辛抱《しんばう》が|出来《でき》るのだが、|見渡《みわた》す|限《かぎ》り|木《き》|一本《いつぽん》もない|此《この》|浜辺《はまべ》に|居《ゐ》るのは、もうアキスだ。|何処《どこ》か|友達《ともだち》の|処《ところ》にでも|行《い》つて|悠《ゆつ》くり|休息《きうそく》して|帰《かへ》らうぢやないか』
カール『それだと|云《い》つて、もしや、ひよつと|旦那様《だんなさま》が|帰《かへ》られたなら、それこそ|大変《たいへん》なお|目玉《めだま》を|喰《くら》はねばならぬよ。あれ|丈《だ》け|奥様《おくさま》が|喧《やかま》しく|狂人《きちがひ》の|様《やう》に|仰有《おつしや》るのだから|間違《まちがひ》なからうと|思《おも》ふよ』
『|俺《おれ》も|何《なん》だか|帰《かへ》つて|厶《ござ》る|様《やう》な|気持《きもち》もするなり、|帰《かへ》られぬ|様《やう》な|気《き》もするなり、|変《へん》な|気《き》になつて|来《き》た。もしや|気《き》が|違《ちが》ふのぢやあるまいかな。|余《あんま》り|炎天《えんてん》に|照《て》らされたので|頭《あたま》がカンカンする|様《やう》になつたのだから|可怪《をか》しいものだぞ』
|斯《かか》る|所《ところ》へ|一人《ひとり》の|男《をとこ》、ヒヨロリ ヒヨロリと|千鳥足《ちどりあし》に|真赤《まつか》な|顔《かほ》し|乍《なが》ら|歩《あゆ》み|来《きた》り、
|男《をとこ》『エ、ベランメー、|貴様《きさま》は|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|此《この》|暑《あつ》いのに、|斯《こ》んな|処《ところ》に|屁太《へた》りやがつて、|何《なに》をしてけつかるのだ。|何程《なにほど》|湖水《こすい》を|眺《なが》めて|居《を》つても、|滅多《めつた》に|魚《さかな》はお|前《まへ》の|前《まへ》へ|跳《と》んで|来《く》る|気遣《きづか》ひは|無《な》いぞ。|空《そら》|飛《た》つ|鳥《とり》がお|前《まへ》の|前《まへ》へパタリと|落《お》ちて|来《く》る|筈《はず》もなからう。|何《なん》だ、|用《よう》もないのに|荒男《あらをとこ》が|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|欠伸《あくび》ばつかりしやがつて|気《き》の|利《き》かない|野郎《やらう》だな。|此《この》|頃《ごろ》はチツと|逆上《のぼ》せて|居《ゐ》やがるのだな。お|前《まへ》の|宅《うち》の|女主人《をんなしゆじん》が|変《へん》な|事《こと》を|口走《くちばし》るものだから、|狂人《きちがひ》が|伝染《でんせん》しよつて、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|斯《こ》んな|処《ところ》に|烏《からす》の|嚇《おど》しの|様《やう》に|来《き》やがつて、|何《なん》だ。|措《お》け|措《お》け、それよりも|俺《おれ》の|所《ところ》へ|来《き》て|酒《さけ》の|一杯《いつぱい》も|飲《の》んだ|方《ほう》が|面白《おもしろ》いぞ。|此《この》テクさまは|朝《あさ》から|晩《ばん》まで、バラモンさまから|結構《けつこう》な|御手当《おてあて》を|頂戴《ちやうだい》して|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》や|信者《しんじや》を|探《さが》し|廻《まは》つて|居《ゐ》るのだ。|何《なん》でも|今日《けふ》|明日《あす》の|中《うち》にキヨの|港《みなと》へ|着《つ》くと|云《い》ふ|事《こと》だが、|其奴《そいつ》でも|取《と》ツ|捉《つか》まへて|見《み》よ。|結構《けつこう》な|御褒美《ごほうび》を|頂《いただ》いて、|甘《うめ》え|酒《さけ》が|鱈腹《たらふく》|飲《の》めるのだ。チツと|俺《おれ》の|宅《うち》へ|出《で》て|来《き》て|酸《す》ツぱい|酒《さけ》の|一杯《いつぱい》もやつて|一働《ひとはたら》きする|気《き》はないか。こんな|所《ところ》へ|屁太張《へたば》つて|居《ゐ》ても|気《き》が|利《き》かねーや』
アキス『おい、テク、|貴様《きさま》は|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|酒《さけ》に|酔《よ》つ|払《ぱら》つて、どうして|其《その》|金《かね》が|出来《でき》るかと|思《おも》つたらバラモンのスパイをやつてるのだな。それではスパイ|酒《ざけ》でも|飲《の》める|筈《はず》だ。|然《しか》し|人間《にんげん》と|生《うま》れて|犬《いぬ》の|様《やう》な|事《こと》はせぬものだな』
テク『|何《なに》、|犬《いぬ》とは|何《なん》だ。|馬鹿《ばか》にするない。そんな|事《こと》|申《まを》すと、|貴様《きさま》を|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》と|申《まを》し|立《た》て、|関所《せきしよ》へ「|恐《おそ》れながら……」と|密告《みつこく》するが|如何《どう》だ』
アキス『ヘン、そんな|嚇《おど》し|文句《もんく》を|喰《く》う|様《やう》な|俺《おれ》かい。|俺《おれ》の|主人《しゆじん》はバラモン|教《けう》の|立派《りつぱ》な|信者《しんじや》だ。そこの|宅《うち》に|奉公《ほうこう》してる|俺《おれ》だぞ。いつもバラモン|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》が|何《なん》だか|難《むつ》かしいお|教《きやう》を|旦那様《だんなさま》の|霊前《れいぜん》に|唱《とな》へに|来《き》て|下《くだ》さる|位《くらゐ》だから、そんな|事《こと》|云《い》つたつて、お|取《と》り|上《あ》げになるものかい』
テク『やア、そいつア|失敗《しま》つた。それぢや|物《もの》にならぬわ。|然《しか》し|乍《なが》ら|貴様《きさま》に|云《い》つて|置《お》くが、ひよつとしたら|風《かぜ》の|吹《ふ》き|廻《まは》しで|此《この》|磯端《いそばた》へ|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》が|漂着《へうちやく》するかも|知《し》れぬから、その|時《とき》|俺《おれ》の|所《ところ》へソツと|知《し》らせに|来《き》て|呉《く》れ。さうすりや|沢山《たくさん》の|御褒美《ごほうび》を|戴《いただ》いて、うまい|酒《さけ》を|鱈腹《たらふく》|飲《の》まうと|儘《まま》だからなア』
アキス『|俺《おれ》は|酒《さけ》は|嫌《きら》ひだ。もとより|下戸《げこ》だからのう。そんな|人《ひと》の|嫌《いや》がる|事《こと》をして|金《かね》を|貰《もら》ひ、|酒《さけ》を|飲《の》んだ|所《ところ》が|腸《はらわた》を|腐《くさ》らす|許《ばか》りで、|何《なん》の|得《う》る|所《ところ》もないから、まア|御免《ごめん》|蒙《かうむ》つとこかい』
テク『ヘン|措《お》きやがれ。|唐変木《たうへんぼく》|奴《め》、|酒《さけ》の|趣味《しゆみ》の|分《わか》らぬ|数《かず》の|子《こ》|舌《した》では|話《はなし》がないわい。|馬鹿《ばか》らしい、これから|一《ひと》つ|浜辺《はまべ》を|迂路《うろ》ついてよい|鳥《とり》を|見《み》つけ|出《だ》して|酒銭《さかて》を|拵《こしら》へよう。まア|貴様《きさま》|等《たち》は|其処《そこ》で|悠《ゆつ》くり|酒甕《さけがめ》の|背《せな》を|干《ほ》して|居《ゐ》るが|宜《よ》からうぞ』
カール『|構《かま》ふて|呉《く》れない。お|金《かね》が|欲《ほ》しけりや|奥《おく》さまに|何程《なんぼ》でも|俺《おれ》は|頂戴《ちやうだい》するのだ。チツと|貴様《きさま》とは|境遇《きやうぐう》が|違《ちが》ふのだからな』
テク『ナナナナ|何《なん》だ。|虎《とら》の|威《ゐ》を|借《か》る|古狐《ふるぎつね》|奴《め》、|主人《しゆじん》が|何程《なんぼ》|金持《かねもち》だつて、それが|何《なん》になる。|貴様《きさま》はド|甲斐性《がひしやう》の|無《な》い、「ヘーヘー、ハイハイ」と|首陀《しゆだ》の|家《いへ》に、こき|使《つか》はれ|五斗米《ごとべい》に|腰《こし》を|屈《くつ》する|卑劣《ひれつ》な|奴《やつ》だ。|此《この》|方《はう》は|独立《どくりつ》|独歩《どくぽ》の|御主人様《ごしゆじんさま》で|十日《とをか》に|十人口《じふにんぐち》だ。こんな|大家族《だいかぞく》を|支《ささ》へて|行《ゆ》く|丈《だ》けの|腕前《うでまへ》があるのだからな。ヘン、チツと|身魂《みたま》の|製造《せいざう》が|違《ちが》ふのだから、|余《あんま》り|馬鹿《ばか》にして|貰《もら》ふまいかい』
アキス『アハハハハ、|独身生活《どくしんせいくわつ》をし|乍《なが》ら|十人口《じふにんぐち》の|大家族《だいかぞく》だなんて、|何《なに》、|馬鹿《ばか》|吐《こ》きやがるのだ。|俺《おれ》だつて|百日《ひやくにち》に|百人口《ひやくにんぐち》だ。|十人口《じふにんぐち》の|家族《かぞく》よりも|百人口《ひやくにんぐち》の|家族《かぞく》の|方《はう》が|余程《よつぽど》|世帯《しよたい》が|大《おほ》きいぞ。よい|加減《かげん》に|酒喰《さけくら》ひは、ここを|立去《たちさ》つて|呉《く》れ。|熟柿《じゆくし》|臭《くさ》くて|鼻《はな》が|曲《まが》りさうだ、|八百屋店《やほやみせ》でも|広《ひろ》げられ|様《やう》ものなら|堪《こば》りきれないからのう』
テク『エー、こんな|没分暁漢《わからずや》に|係《かか》り|合《あ》つて|居《を》つても|鐚《びた》|一文《いちもん》にもならないわ。|此《この》テクさまも|一《ひと》つテクテクと|其処辺中《そこらぢう》をテクツて|見《み》て、|犬《いぬ》ぢやないが|棒《ぼう》に|当《あた》つて|見《み》ようかい。|酒《さけ》も|酒《さけ》も|分《わか》らぬ|奴《やつ》だなア』
と|悪垂《あくた》れ|口《ぐち》を|吐《つ》き|乍《なが》らヒヨロリ ヒヨロリ|浜辺《はまべ》|伝《づた》ひにキヨの|港《みなと》|方面《はうめん》さして|足許《あしもと》|危《あやふ》く|歩《あゆ》み|行《ゆ》く。
アキス、カールの|両人《りやうにん》はテクの|後姿《うしろすがた》を|見送《みおく》つて、|時《とき》にとつての|慰《なぐさ》みと|手《て》を|拍《う》つて|笑《わら》つて|居《ゐ》る。
アキス『テクテクとテクの|棒《ぼう》|奴《め》がやつて|来《き》て
グデングデンと|舌《した》を|捲《ま》きつつ。
|千鳥足《ちどりあし》ヒヨロリヒヨロリと|浜伝《はまづた》ひ
|酒《さけ》の|肴《さかな》を|漁《あさ》りつつ|行《ゆ》く』
カール『いつとてもテクの|棒《ぼう》|奴《め》がスパイをば
|勤《つと》めてスツパイ|酒《さけ》を|飲《の》むなり。
バラモンの|俺《おれ》はスパイと|偉《えら》さうに
|法螺《ほら》|吹《ふ》き|散《ち》らしスパイ|屁《へ》を|放《ひ》る』
アキス『|待《ま》ち|詫《わ》びし|主人《あるじ》の|君《きみ》は|帰《かへ》りまさず
|家《いへ》に|帰《かへ》りて|如何《いか》に|答《こた》へむ。
あてもなき|主人《あるじ》の|君《きみ》を|待《ま》ち|詫《わび》て
|暑《あつ》さに|悩《なや》む|吾《われ》ぞ|果敢《はか》なき』
カール『どうしても|主人《あるじ》の|君《きみ》が|帰《かへ》りますと
|云《い》ひきり|玉《たま》ふ|奥様《おくさま》の|口《くち》。
|口《くち》ばかり|帰《かへ》る|帰《かへ》ると|云《い》つたとて
|向《むか》ふみずなる|湖《うみ》に|影《かげ》なし』
アキス『|今日《けふ》も|亦《また》|空《むな》しく|待《ま》ちし|信天翁《あはうどり》
|羽《は》ばたきするも|心《こころ》|曳《ひ》かるる。
|鵜《う》の|様《やう》に|首《くび》を|傾《かた》げて|待《ま》つ|二人《ふたり》
|只《ただ》|海風《うなかぜ》の|音《おと》のみぞ|聞《き》く』
|斯《か》く|歌《うた》ふ|折《をり》しも|遥《はる》か|向《むか》ふの|水面《すいめん》に|霞《かすみ》の|間《あひだ》から|小《ちひ》さき|白帆《しらほ》が|浮《うか》んで|居《ゐ》るのが|目《め》についた。アキスは|手《て》を|拍《う》つて|打喜《うちよろこ》び、
アキス『|有難《ありがた》し|向《むか》ふに|見《み》ゆる|白帆《しらほ》こそ
|主人《あるじ》の|君《きみ》の|御船《みふね》なるらむ』
カール『|船《ふね》|見《み》れば|主人《あるじ》の|君《きみ》と|思《おも》ひ|込《こ》む
その|喜《よろこ》びは|水《みづ》の|泡《あわ》ぞや』
アキス『|今日《けふ》で|三日《みつか》|船《ふね》の|姿《すがた》も|見《み》ざりけり
|何《なに》は|兎《と》もあれ|床《ゆか》しくぞ|思《おも》ふ』
カール『|頼《たの》みなき|船《ふね》を|眺《なが》めて|吾《わが》|主人《あるじ》
|帰《かへ》りますぞと|思《おも》ふ|果敢《はか》なさ』
アキス『|何《なん》となく|心《こころ》の|勇《いさ》み|来《く》るを|見《み》れば
|主人《あるじ》の|君《きみ》と|信《しん》ぜられける』
カール『あの|船《ふね》にもしも|主人《あるじ》の|在《ま》しまさば
|吾《わが》|身《み》の|疲《つか》れ|頓《とみ》に|癒《い》ゆべし。
さり|乍《なが》ら|竿《さを》にて|星《ほし》をがらつ|様《やう》な
|果敢《はか》なき|夢《ゆめ》を|見《み》る|人《ひと》ぞ|憐《あは》れ』
アキス『|何故《なにゆゑ》か|白帆《しらほ》の|影《かげ》は|懐《なつか》しく
|思《おも》はれにけり|心《こころ》|勇《いさ》みて』
カール『|真帆《まほ》|片帆《かたほ》|揚《あ》げて|通《かよ》ふ|此《この》|湖《うみ》は
|量《はか》り|知《し》られぬ|魔《ま》の|湖《うみ》と|聞《き》く。
|吾々《われわれ》が|迷《まよ》ふ|心《こころ》を|推《お》し|量《はか》り
|醜《しこ》の|魔神《まがみ》の|図《はか》るなるらむ』
アキス『|待《ま》ち|詫《わ》びし|船《ふね》の|姿《すがた》を|眺《なが》むれば
|半《なかば》|心《こころ》は|安《やす》まりにける。
|吾《わが》|主人《あるじ》もしも|居《ゐ》まさぬその|時《とき》は
|一《ひと》つの|首《くび》を|汝《なれ》に|与《あた》ふる』
カール『|面白《おもしろ》い|自信《じしん》の|強《つよ》い|其《その》|言葉《ことば》
アタ|邪魔臭《じやまくさ》い|首《くび》を|貰《もら》ふか』
アキス『|此《この》|首《くび》は|一生《いつしやう》|使《つか》ふ|吾《わが》|宝《たから》
うかうか|渡《わた》す|馬鹿《ばか》があらうか。
|吾《わが》|主人《あるじ》|乗《の》ります|船《ふね》と|知《し》りしより
かたき|誓《ちか》ひを|立《た》てしものぞや』
カール『|誠《まこと》ならば|吾《われ》も|喜《よろこ》び|手《て》を|拍《う》つて
|雀踊《すずめをど》りを|舞《ま》ふて|見《み》せなむ』
アキス『おひおひに|近《ちか》づく|船《ふね》の|影《かげ》|見《み》れば
|心《こころ》|楽《たの》しくなり|増《ま》さり|行《ゆ》く。
かたい|事《こと》|云《い》ふぢやなけれど|彼《あ》の|船《ふね》は
|主人《あるじ》の|君《きみ》が|屹度《きつと》|在《ま》します。
もし|之《これ》が|違《ちが》ふた|時《とき》は|約束《やくそく》の
|首《くび》をお|前《まへ》に|渡《わた》す|覚悟《かくご》だ』
カール『ほんにまアお|前《まへ》の|強《つよ》い|自我心《じがしん》に
|俺《おれ》も|呆《あき》れて|物《もの》が|云《い》はれぬ。
あの|船《ふね》にもしも|主人《あるじ》が|在《ま》しまさば
お|餅《もち》を|搗《つ》いて|大祝《おほいは》ひせむ』
アキス『|村中《むらぢう》に|酒《さけ》や|肴《さかな》に|餅《もち》|配《くば》り
|十日《とをか》|二十日《はつか》と|祝《いは》ひつづけむ。
|奥様《おくさま》が|俺《おれ》に|確《しつか》り|云《い》はしやつた
|主人《あるじ》の|顔《かほ》は|望月《もちつき》の|神《かみ》』
|斯《か》く|二人《ふたり》は|半信半疑《はんしんはんぎ》の|念《ねん》に|駆《か》られ、|近《ちか》づき|来《きた》る|船《ふね》を|眺《なが》めて|首《くび》を|鶴《つる》の|如《ごと》く|延《の》ばして、もどかしげに|待《ま》ち|倦《あぐ》んで|居《ゐ》る。|白帆《しらほ》の|形《かたち》は|次第々々《しだいしだい》に|大《おほ》きくなつて|舳《へさき》に|立《た》つて|居《ゐ》る|人《ひと》の|影《かげ》さへ|肉眼《にくがん》にて|認《みと》め|得《う》る|迄《まで》|近《ちか》づいて|来《き》た。|二人《ふたり》は|手《て》をつなぎ|磯端《いそばた》にキリキリ|舞《まひ》をして、|何《なん》とはなしに|心《こころ》|勇《いさ》み|跳《と》び|廻《まは》つて|居《ゐ》る。|空《そら》には|巨鳥《きよてう》が|一文字《いちもんじ》に|羽《はね》を|拡《ひろ》げ|微風《びふう》をきつて、いと|鷹揚《おうやう》げに|前後左右《ぜんごさいう》に|自動飛行機《じどうひかうき》の|演習《えんしふ》をやつて|居《ゐ》る。
(大正一二・三・二九 旧二・一三 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第四篇 |猩々潔白《しやうじやうけつぱく》
第一九章 |舞踏《ぶたふ》〔一四九四〕
|酷熱《こくねつ》の|太陽《たいやう》は、|脳天《なうてん》から|火《ひ》を|浴《あ》びせるやうに|照《て》りつける。スマの|浜辺《はまべ》の|小芝草《こしばぐさ》は、|暑熱《しよねつ》に|堪《た》へ|兼《か》ねて|喉《のど》を|乾《かわ》かし、|何《いづ》れの|葉《は》もキリキリと|渦《うづ》を|巻《ま》ひて、|針《はり》のやうになつて|居《ゐ》る。アキス、カールの|二人《ふたり》はサーベル|姫《ひめ》の|命令《めいれい》に|依《よ》つて|炎天《えんてん》の|太陽《たいやう》を|浴《あ》びながら、|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》|沖《おき》を|眺《なが》めて|当《あて》もなき|主《あるじ》の|帰《かへ》り|来《く》るを|夢路《ゆめぢ》を|辿《たど》る|心地《ここち》で|待《ま》つて|居《ゐ》る。
|遙《はるか》の|沖合《おきあひ》に|白帆《しらほ》が、ポツと|目《め》に|映《うつ》つた。|二人《ふたり》はこれこそ|主人《しゆじん》の|帰《かへ》り|来《く》る|船《ふね》であらうか、|但《ただ》しは|他人《たにん》の|航海船《かうかいせん》だらうかと、|半信半疑《はんしんはんぎ》ながらも|稍《やや》|望《のぞみ》を|属《しよく》して|居《ゐ》た。|白帆《しらほ》は|刻々《こくこく》に|近《ちか》より|来《く》る。|二人《ふたり》は|手《て》を|繋《つな》いで|磯辺《いそべ》の|芝草《しばくさ》の|上《うへ》に、まだ|分《わか》らぬ|主人《しゆじん》の|帰国《きこく》を、|喜《よろこ》びながらダンスをやつて|居《ゐ》る。|心《こころ》のせいか|頭上《づじやう》に|飛《と》ぶ|諸鳥《もろどり》も|二人《ふたり》のダンスに|和《わ》して、|主人《しゆじん》の|帰国《きこく》を|祝《しゆく》する|如《ごと》く|思《おも》はれ、|上下一致《じやうげいつち》|抃舞雀躍《べんぶじやくやく》の|光景《くわうけい》を|誰《たれ》|憚《はばか》らず|呈《てい》して|居《ゐ》る。
|二人《ふたり》は|汗塗《あせみどろ》になつて|息《いき》を|喘《はづ》ませ、|少時《しばらく》|息《いき》をやすめて|沖《おき》を|見《み》て|居《ゐ》る。|忽《たちま》ち|沖合《おきあひ》より|七八艘《しちはつそう》の|船《ふね》、|垢染《あかじん》だ|帆《ほ》を|上《あ》げ、|見《み》る|見《み》る|内《うち》に|白帆《しらほ》の|船《ふね》を|前後左右《ぜんごさいう》より|取《と》り|囲《かこ》んでしまつた。|茶色《ちやいろ》の|帆《ほ》は|七《なな》ツ|八《やつ》ツ、|白帆《しらほ》は|一《ひと》ツ|互《たがひ》に|追《おひ》つ|追《お》はれつ|浪《なみ》|静《しづ》かなる|湖上《こじやう》に|蝶《てふ》の|舞《ま》ふ|如《ごと》く|活動《くわつどう》を|初《はじ》めて|居《を》る。
アキス『おイ、カールもう|駄目《だめ》だ、|又《また》|違《ちが》つたやうだ。あの|白帆《しらほ》をあげたのは|何《ど》うやら|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|乗《の》つて|居《ゐ》る|船《ふね》らしいぞ。さうして|垢染《あかじん》だ|帆《ほ》を|上《あ》げて|居《ゐ》る|船《ふね》はバラモンの|捕吏《とりて》の|船《ふね》だ。|旦那様《だんなさま》がお|乗《の》り|遊《あそ》ばして|居《ゐ》る|船《ふね》ならばバラモン|信者《しんじや》だから、|滅多《めつた》に|追《お》ひかける|筈《はず》がない。お|前《まへ》どう|思《おも》ふか』
カール『どうも|合点《がつてん》が|行《い》かぬぢやないか、|折角《せつかく》ながらもう|締《あきら》めて|暫《しばら》く、アヅモス|山《さん》の|木蔭《こかげ》へでも|這入《はい》つて|暑《あつ》さを|凌《しの》がうぢやないか。いつ|迄《まで》もこんな|所《とこ》に|居《を》つては|日射病《につしやびやう》に|罹《かか》つて|仕舞《しま》ふよ。アアあれ|見《み》よ、|白帆《しらほ》が|見《み》えなくなつたぢやないか、まさか|沈没《ちんぼつ》したのぢやあるまいなア。|暑《あつ》いから|帰《かへ》らうぢやないか、アヅモス|山《さん》の|木蔭《こかげ》|迄《まで》』
アキス『それでも|主命《しゆめい》に|背《そむ》く|訳《わけ》には|行《ゆ》かない。「|心頭《しんとう》を|滅《めつ》すれば|火《ひ》も|亦《また》|自《おのづか》ら|涼《すず》し」と|云《い》ふぢやないか。|一《ひと》つ|此処《ここ》で|歌《うた》でも|詠《よ》んで|心《こころ》を|練《ね》り|直《なほ》し、|元気《げんき》をつけて|見《み》ようかい。|先《ま》づ|兼題《けんだい》として|夏《なつ》の|歌《うた》で、|先《ま》づ|俺《おれ》から|初《はじ》めて|見《み》よう』
アキス『|夏《なつ》は
|人間《にんげん》にとりて
|休《やす》むべき|時《とき》ではない
むしろ|一層《いつそう》|強《つよ》く
|働《はたら》くべき|時《とき》だ
|見《み》よ
|日《ひ》は|天《てん》に|輝《かがや》き
|雷霆《らいてい》|轟《とどろ》き
|人間《にんげん》の|周囲《しうゐ》にある
|草《くさ》も|木《き》も
|此《この》|時《とき》に|孳々《しし》として
|盛《さか》んに|生長《せいちやう》し|繁茂《はんも》しあるに
|人間《にんげん》のみ|安閑《あんかん》として
ひとり
|徒然《とぜん》として
|避暑《ひしよ》に|耽《ふけ》り
|遊惰《いうだ》にこの|好日《かうじつ》を
|銷過《せうくわ》することが|出来《でき》やうか
|国祖《こくそ》の|大神《おほかみ》は
|開闢《かいびやく》の|太初《はじめ》より|今日《こんにち》に|至《いた》る|迄《まで》
|一日《いちにち》も
|片時《かたとき》も|秒間《べうかん》も
|休養《きうやう》せずに|吾人《ごじん》のために
|働《はたら》きたまふではないか
|真《しん》に
|天地《てんち》の|間《あひだ》に|流行《りうかう》する
この|孟然《まうぜん》たる
|至大霊活《しだいれいくわつ》の|一気《いつき》を
|感得《かんとく》するものにありては
|労働《らうどう》こそ
|却《かへつ》て|無上唯一《むじやうゆゐいつ》の|安息《あんそく》である
|蓋《けだ》し
|真《しん》の|安息《あんそく》は
|彼《か》の|臍帯《せいたい》によりて
|母体《ぼたい》と|気息《きそく》を|通同《つうどう》する
|胎児《たいじ》のそれの|如《ごと》く
|自然法界《しぜんはふかい》の|霊運《れいうん》に
|順応《じゆんおう》する|生活《せいくわつ》
|活動《くわつどう》の|中《うち》に|存《そん》する|而已《のみ》である』
カール『|成程《なるほど》そいつは|面白《おもしろ》い、|万木《ばんぼく》|万草《ばんさう》のせつせつと|繁茂《はんも》する|夏《なつ》はよいシーズンだ。|人間《にんげん》は|夏《なつ》が|来《く》れば|冬《ふゆ》の|来《く》る|事《こと》を|望《のぞ》み、|冬《ふゆ》が|来《く》れば|又《また》|夏《なつ》の|来《く》る|事《こと》を|希望《きばう》する、|勝手《かつて》な|厄介《やくかい》な|代物《しろもの》だ。|俺《おれ》も|一《ひと》つ|夏《なつ》の|歌《うた》を|詠《よ》んで|見《み》よう、
|夏《なつ》の|日《ひ》は
|決《けつ》して|暑《あつ》いものではない
またしても またしても
|吾人《ごじん》の|心《こころ》に|燃《も》えつく
|名利肉楽《みやうりにくらく》の|慾火《よくくわ》が|熱《あつ》いのだ
|生《うま》れながら
|吾人《ごじん》の|心中《しんちう》に|燃《も》えてゐる
|貪瞋痴愛《どんしんちあい》の
|毒〓《どくえん》があついのだ
|四時《しじ》|永久《とこしへ》に
|吹《ふき》わたる
|聖霊《せいれい》の|涼風《りやうふう》を|納《い》れて
かの|慾火《よくくわ》と
|毒炎《どくえん》とを
|消《け》すことを|礙《さまた》ぐる
|密《ひそか》に
|鎖《とざ》された
|心《こころ》の|頑壁《ぐわんぺき》そのものが
|清涼《せいりやう》なるべき|夏《なつ》を
さながら|焦熱地獄《せうねつぢごく》と
|感《かん》ぜしむるのだ
|吾人《ごじん》は|聖霊《せいれい》の|涼風《りやうふう》に
|吹《ふ》かれて
|天国《てんごく》の|春《はる》に|進《すす》むべきのみだ』
アキス『アハハハハ、|如何《いか》にも|夏《なつ》らしいなつかしき|歌《うた》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|口《くち》では|強《つよ》い|事《こと》を|云《い》つて|居《を》るものの、|矢張《やは》り|暑《あつ》い|時《とき》は|暑《あつ》いなア。この|芝草《しばぐさ》もたうとう|屁古垂《へこた》れたと|見《み》えて、|錐《きり》のやうに|縮《ちぢ》かんだぢやないか。|旗《はた》を|捲《ま》き|矛《ほこ》を|納《をさ》めて、|炎熱軍《えんねつぐん》に|追撃《つゐげき》され、|山寨《さんさい》に|立《た》て|籠《こも》つたと|云《い》ふ|体裁《ていさい》だ。ほんたうに|夏草《なつぐさ》の|先生《せんせい》、このアキスも|同情《どうじやう》|致《いた》しますよ。|俺《おれ》も|何《なん》だか|俄《にはか》に|急性退屈炎《きふせいたいくつえん》が|勃発《ぼつぱつ》しさうだ。エ、|気分直《きぶんなほ》しに|秋《あき》の|歌《うた》でも|詠《よ》んで|見《み》よう。
|涼《すず》しい|秋《あき》が|来《き》た
そして|何処《どこ》ともなしに
もの|寂《さび》しい
|遠《とほ》き|近《ちか》き|四方《よも》の|山野《やまの》に
|錦《にしき》を|織出《おりだ》した|佐保姫《さほひめ》の|姿《すがた》は
|満目《まんもく》|光耀《くわうえう》として
|心《こころ》の|駒《こま》も
いやに|落付《おちつ》く
|紅《あか》や|萌黄《もえぎ》の|色《いろ》あでやかな
|楓《かへで》は
|日夜《にちや》に|其《その》|美《び》を|発揮《はつき》し
|万丈《ばんじやう》の|衣《ころも》を|晒《さら》すに|似《に》たり
|山奥《やまおく》に|妻《つま》|呼《よ》ぶ
|小男鹿《さをしか》の|声《こゑ》は
|偕老々々《かいらうかいらう》と|聞《きこ》ゆれど
|何《なん》となく|悲調《ひてう》あり
|小夜砧《さよぎぬた》の|音《おと》もまばらになりて
|霜《しも》の|夜《よ》を|艱《かこ》つか
|日鶏《ちやぼ》の|謳《うた》ふ|声《こゑ》も
いとど|憐《あは》れを|催《もよほ》し
|四方《よも》の|田《た》の|面《も》は
|黄金《こがね》の|波《なみ》を|漂《ただよ》え
|御代《みよ》の|富貴《ふうき》を|誇《ほこ》りつ
|鍬《くは》|取《と》りし|農夫《のうふ》の
|書《か》き|入《い》れ|時期《じき》とはなりぬ
アア|去《さ》れど
|自然界《しぜんかい》の|太陽《たいやう》は
|光《ひか》り|益々《ますます》|強《つよ》くして
その|愛熱《あいねつ》|衰《おとろ》へ
|秋霜烈日《しうさうれつじつ》の|輝《かがや》き
|斜《ななめ》に|万木万草《ばんぼくばんさう》を
|悩《なや》ませしへたげ|滅尽《めつじん》し|了《を》へねば
|休止《きうし》せない|勢《いきほひ》である
アア|地上《ちじやう》の|草木《さうもく》は
|熱《ねつ》に|遠《とほ》ざかり
|光《ひか》りに|害《そこな》はれ
|枯《か》れ|朽《く》つることありとも
|夕《ゆふべ》の|虫《むし》の|数々《かずかず》は
|声《こゑ》を|揃《そろ》へて|果敢《はか》なげに
|世《よ》を|歎《なげ》くとも
|尊《たふと》き|大神《おほかみ》の
|愛善《あいぜん》と|神熱《しんねつ》と
|温《あたたか》みの|籠《こ》もれる
|神光《しんくわう》を|十二分《じふにぶん》に|与《あた》えられた
|吾人《ごじん》は|所謂《いはゆる》
|万物《ばんぶつ》の|霊長《れいちやう》だ
|天地《てんち》の|花《はな》だ|果実《くわじつ》だ
|永遠《ゑいゑん》に|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
|天界《てんかい》と|地上《ちじやう》の|花《はな》だ
|神《かみ》の|生宮《いきみや》
|天人《てんにん》の|前身《ぜんしん》だ
|否《い》な|天人《てんにん》の|霊身《れいしん》と
|自然界《しぜんかい》の|肉身《にくしん》の|相応神《さうおうしん》たる
|吾人《ごじん》には
|秋《あき》も|無《な》ければ
|冬《ふゆ》さえも|来《きた》らない
|只《ただ》|永遠《えいゑん》に|花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ひ
|鳥《とり》|謳《うた》ひ|蝶《てふ》|舞《ま》ひ|遊《あそ》ぶ
|春《はる》の|日《ひ》と
|万木万草《ばんぼくばんさう》の|繁《しげ》り|栄行《さかゆ》く
|天恵的《てんけいてき》の|夏《なつ》と|計《ばか》りだ
|去《さ》れば|吾人《ごじん》は
|秋《あき》も|冬《ふゆ》も|苦《く》にはならない
|主《す》の|神《かみ》の|内流的《ないりうてき》|神格《しんかく》に
|恵《めぐ》まれた|生《い》ける|身魂《みたま》たる|以上《いじやう》は
|永遠無窮《えいゑんむきう》に
|天国《てんごく》|地上《ちじやう》の|花《はな》だ
|剣《つるぎ》をかざして|万有《ばんいう》に|迫《せま》る|霜柱《しもばしら》も
|冷《つめ》たき|空《そら》の|残月《ざんげつ》に|照《て》る|恐《おそ》ろしさ
|吾《われ》はこの|惨憺《さんたん》たる|光景《くわうけい》を|見《み》て
|天人《てんにん》の|白《しろ》き|柔《やはら》かき
|温情《をんじやう》の|籠《こも》る
|肌《はだへ》と|感《かん》ずるのだ
|又《また》ピユウ ピユウと|吹《ふ》き|荒《すさ》ぶ
けたたましい|木枯《こがらし》の|音《おと》も
|天津乙女《あまつをとめ》の|奏《かな》づる
|笙《しやう》の|音《ね》とぞ|聞《き》く
アア|面白《おもしろ》きかな
|天国《てんごく》の|春《はる》よ
|人間《にんげん》の|世界《せかい》の|秋《あき》よ』
カール『|成程《なるほど》、|偉《えら》い|馬力《ばりき》だ。|甘《うま》い|事《こと》を|云《い》ふなア。|併《しか》しお|前《まへ》にそれだけの|覚悟《かくご》があるのか、ちつと|怪《あや》しいものだなア』
アキス『アキスだから、|兎《と》も|角《かく》|秋《あき》の|歌《うた》を|詠《よ》んで|見《み》たまでだ。|総《すべ》て|詩人《しじん》と|云《い》ふものは|空想《くうさう》を|描《ゑが》いたり、|上手《じやうず》に|嘘《うそ》をつくもの、|三十五万年《さんじふごまんねん》|未来《みらい》の|桃中軒《たうちうけん》|雲右衛門《くもゑもん》だつて、|武士道《ぶしだう》|鼓吹《こすゐ》だとか、|勧善懲悪《くわんぜんちようあく》だとか|聖人《せいじん》らしい|事《こと》を|云《い》つて|居《を》るが、|其《その》|内実《ないじつ》はお|師匠《ししやう》さまの|女房《にようばう》を|横領《わうりやう》して|平気《へいき》で|演台《えんだい》に|立《た》つて|居《ゐ》るのだからなア、|近頃《ちかごろ》|雨後《うご》の|筍《たけのこ》のやうに、ムクムク|頭《かしら》を|上《あ》げだした|道学《だうがく》|先生《せんせい》だつて、バラモンの|宣伝使《せんでんし》だつて、|皆《みな》|裏面《りめん》に|這入《はい》つて|見《み》ればよい|加減《かげん》なものだよ。|却《かへつ》て|俗人《ぞくじん》の|方《はう》がどの|位《くらゐ》|正《ただ》しいか|分《わか》らぬからなア。|偽善者《きぜんしや》や|悪人《あくにん》の|尊《たふと》まれる|闇《やみ》の|世《よ》の|中《なか》だもの、|俺《おれ》だつて|腹《はら》の|底《そこ》を|叩《たた》けば|矢張《やつぱり》|偽善者《きぜんしや》の|仲間《なかま》かも|知《し》れないよ』
カール『ウンさうすると|俺《おれ》も|矢張《やつぱ》り|偽善者《きぜんしや》かなア。|何《なん》だか|自分《じぶん》の|心《こころ》が|憎《にく》らしうなつて|来《き》た』
アキス『オイ、あれを|見《み》よ、|何時《いつ》の|間《ま》にか|沢山《たくさん》の|船《ふね》が|見《み》えなくなり、|唯《ただ》|一艘《いつそう》|此方《こちら》に|向《むか》つて|慌《あわただ》しく|漕《こ》いで|来《く》るぢやないか。|矢張《やつぱ》りあれは、|旦那様《だんなさま》の|御船《おふね》かも|知《し》れぬぞ。
|来《く》るか|来《く》るかと|浜《はま》へ|出《で》て|見《み》れば
|心《こころ》|嬉《うれ》しき|船《ふね》が|来《く》る』
カール『|沖《おき》の|浪間《なみま》に|白帆《しらほ》が|見《み》えるヨー
あれは|主人《あるじ》の|居《ゐ》ます|船《ふね》。ア、コラコラ』
と|頓《とみ》に|元気《げんき》|回復《くわいふく》して、|二人《ふたり》は|又《また》もやダンスを|初《はじ》めかけた。|船《ふね》は|八挺櫓《はつちやうろ》を|漕《こ》いで|船首《せんしゆ》に|白浪《しらなみ》を|立《た》て|乍《なが》ら|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》と|共《とも》に|近《ちか》より|来《く》る。
(大正一二・三・三〇 旧二・一四 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第二〇章 |酒談《しゆだん》〔一四九五〕
|初稚丸《はつわかまる》は|白帆《しらほ》を|畳《たた》んだまま、|漸《やうや》くにして|磯辺《いそべ》に|着《つ》いた。アキス、カールの|両人《りやうにん》は|雀躍《こをど》りし|乍《なが》ら、|尻《しり》を|巻《まく》[#ママ]つて|遠浅《とほあさ》の|海《うみ》をバサバサバサと|待《ま》ち|兼《かね》て|走《はし》り|行《ゆ》き、|船《ふね》に|食《くら》ひつき、|中《なか》を|覗《のぞ》き|見《み》れば|髯《ひげ》|蓬々《ぼうぼう》と|生《はえ》た|男《をとこ》が|二人《ふたり》、|外《ほか》に|眉目清秀《びもくせいしう》の|宣伝使《せんでんし》や|美人《びじん》が|乗《の》つて|居《ゐ》るに|打《う》ち|驚《おどろ》き、|思《おも》はず|大声《おほごゑ》を|上《あ》げて、
アキス『ア、|旦那様《だんなさま》、ヤ、|番頭様《ばんとうさま》』
と|云《い》つた|切《き》り、|早《はや》くも|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|暮《く》れ、|後《あと》は|一言《いちごん》も|発《はつ》し|得《え》ず、|船《ふね》の|後《うしろ》へ|廻《まは》り|遠浅《とほあさ》を|幸《さいはひ》|力《ちから》|限《かぎ》りに|押《お》して|行《ゆ》く。|漸《やうや》く|一同《いちどう》は|玉国別《たまくにわけ》を|先頭《まつさき》に、|順々《じゆんじゆん》に|上陸《じやうりく》した。
|玉国《たまくに》『ヤ、イールさま、|其《その》|外《ほか》|御一同《ごいちどう》、|御苦労《ごくらう》で|厶《ござ》いました。サア|是《これ》は|私《わたし》の|心《こころ》だけだ。お|酒《さけ》なと|食《あが》つて|下《くだ》さい』
と|懐《ふところ》より|若干《じやくかん》の|金《かね》を|取《と》り|出《だ》し|渡《わた》さうとする。
イール『|旦那様《だんなさま》、|決《けつ》して|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》から|沢山《たくさん》の|賃《ちん》を|頂《いただ》いて|居《を》りますから、|此《この》|上《うへ》|頂《いただ》いては|冥加《みやうが》につきます、お|志《こころざし》は|有難《ありがた》く|頂《いただ》きます。|何卒《どうぞ》お|納《をさ》め|下《くだ》さいませ』
|玉国《たまくに》『|宣伝使《せんでんし》が|一《いつ》たん|突《つ》き|出《だ》したもの、|何《なん》と|云《い》つても|元《もと》に|戻《もど》す|事《こと》は|出来《でき》ぬ。|何卒《どうぞ》|受取《うけと》つて|貰《もら》ひたい』
イール『|左様《さやう》なれば|御辞退《ごじたい》|申《まを》すも|却《かへつ》て|失礼《しつれい》、|有難《ありがた》く|頂戴《ちやうだい》|致《いた》します』
と|押《お》し|頂《いただ》き、|直《ただ》ちに|海面《かいめん》に|向《むか》ひ、
イール『|竜神様《りうじんさま》、お|蔭《かげ》で|無事《ぶじ》に|送《おく》らして|頂《いただ》きました。|何卒《どうぞ》これから|帰《かへ》り|道《みち》も|長《なが》う|厶《ござ》いますれば、キタの|港《みなと》に|帰《かへ》れますやう|御守護《ごしゆご》を|願《ねが》ひます。これは|幣帛料《へいはくれう》として|差上《さしあ》げます』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|湖中《こちう》に|向《むか》つてバラバラと|投《な》げ|込《こ》んで|仕舞《しま》ひ、|一同《いちどう》に|別《わか》れを|告《つ》げ|潔《いさぎよ》く|櫓櫂《ろかい》を|操《あやつ》り、|〓乃《ふなうた》を|唄《うた》ひ|乍《なが》ら|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|玉国《たまくに》『アア|船頭《せんどう》と|云《い》ふものは|信心《しんじん》の|強《つよ》いものだなア。|本当《ほんたう》に|正直《しやうぢき》なものだ。|寡慾恬淡《くわよくてんたん》にして|少《すこ》しも|貪《むさぼ》る|心《こころ》のないのは|感《かん》じ|入《い》つたものだ。あの|船頭《せんどう》の|純潔《じゆんけつ》な|心《こころ》を|見《み》るにつけ、|自分達《じぶんたち》の|心《こころ》が|恥《はづ》かしくなつて|来《き》た。いや|吾々《われわれ》はまだまだ|修養《しうやう》が|足《た》りない。ああ|神様《かみさま》、|有難《ありがた》き|教訓《けうくん》を|頂《いただ》きました。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|暮《く》れながら|無事《ぶじ》の|着港《ちやくかう》を|祝《しゆく》した。
バーチルは、アキス、カールの|二人《ふたり》の|手《て》を|取《と》り、
バーチル『お|前《まへ》は|下僕《かぼく》であつたか、よう|迎《むか》ひに|来《き》て|呉《く》れた。|奥《おく》はどうして|居《ゐ》るか』
アキス『ハイ|御壮健《ごさうけん》でゐらつしやいます。|坊様《ばうさま》も|極《きは》めてお|元気《げんき》で|厶《ござ》います』
カール『|何《なん》だか|二三日前《にさんにちまへ》から|神懸《かむがかり》のやうになられまして、|時々《ときどき》|妙《めう》な|事《こと》を|仰有《おつしや》いますが、|実《じつ》に|感心《かんしん》|致《いた》しました。|旦那様《だんなさま》がお|帰《かへ》りになるからスマの|浜《はま》まで|行《い》つて|来《こ》いと、それはそれは|喧《やかま》しう|仰有《おつしや》いますので、|私《わたくし》が|此処《ここ》に|三日《みつか》|立《た》ち|待《ま》ちをして|居《ゐ》ました。ようまア|帰《かへ》つて|下《くだ》さいました。|嬉《うれ》しう|厶《ござ》います』
バーチル『ああさうであつたか、それは|不思議《ふしぎ》の|事《こと》だ。|兎《と》も|角《かく》もこの|先生《せんせい》のお|伴《とも》して|一時《いちじ》も|早《はや》く|吾《わが》|家《や》に|帰《かへ》り、|悠《ゆつ》くりと|休息《きうそく》をして|戴《いただ》かう。サア|早《はや》く|御案内《ごあんない》を|申《まを》せ』
|両人《りやうにん》は|一時《いちじ》に、
『ハイ、|然《しか》らば|皆様《みなさま》|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう』
と|早《はや》くも|先《さき》に|立《た》つて|歩《あゆ》みかけた。|向《むか》ふの|方《はう》より|一人《ひとり》の|男《をとこ》、|大手《おほで》を|拡《ひろ》げて|走《はし》り|来《きた》り、
|男《をとこ》『オイ|待《ま》つた|待《ま》つた、|此奴等《こいつら》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》だ。|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|魔法使《まはふづかひ》だ。|貴様《きさま》の|主人《しゆじん》はバラモン|教《けう》でありながら、|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》を|連《つ》れて|帰《かへ》ると|云《い》ふ|叛教者《はんけうしや》だ。バラモン|教《けう》に|対《たい》しての、プロテスタントだ。イヤ、バーチルスだ。オイ、バーチル|一寸《ちよつと》|調《しら》べる|事《こと》がある。キヨの|港《みなと》の|関所《せきしよ》|迄《まで》|一寸《ちよつと》|来《こ》い』
アキス『|貴様《きさま》は|泥酔漢《よひどれ》のテクぢやないか。グヅグヅ|吐《ぬか》すと|此《この》|鉄拳《てつけん》がお|見舞《みまひ》|申《まを》すぞ』
テク『ヘン|此《この》|方《はう》の|体《からだ》は|三葉葵《みつばあふひ》の|紋《もん》が|体《からだ》|一面《いちめん》について|居《ゐ》るのだ。|指一本《ゆびいつぽん》でもさへるならさへて|見《み》よ』
|玉国別《たまくにわけ》は|携《たづさ》へもつた|瓢箪《へうたん》の|口《くち》をあけて、テクの|鼻《はな》の|先《さき》につきつけ、|微笑《びせう》しながら、
|玉国《たまくに》『お|役目《やくめ》|御苦労《ごくらう》で|厶《ござ》いますな。|暑気払《しよきばら》ひに|一寸《ちよつと》|召《め》し|上《あが》つたらどうですか』
テク『エヘヘヘヘ。|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》でも|一寸《ちよつと》|話《はな》せるわい、ヤ|大《おほい》に|気《き》に|入《い》つた。|世《よ》の|中《なか》は|斯《か》うなくては、|人間《にんげん》は|渡《わた》れないものだ、「|酒《さけ》なくて、|何《なん》の|己《おのれ》が|宣伝使《せんでんし》かな」だ。まづまづ|一杯《いつぱい》|頂戴《ちやうだい》|仕《つかまつ》らう』
とホクホクしながら|瓢《ひさご》の|口《くち》から|息《いき》もつかず、|喉《のど》をゴロゴロ|鳴《な》らせながら|胃《ゐ》の|腑《ふ》のタンクに|臨時《りんじ》|灌漑《くわんがい》し、|瓢《ひさご》を|逆《さか》さにして|掌《てのひら》の|上《うへ》に|二《ふた》つ|三《みつ》つ|舞踏《ぶたふ》させながら、|滴《したた》る|二滴《にてき》ばかりの|酒《さけ》を|御叮嚀《ごていねい》にゲソゲソと|舐《なめ》て|俄《にはか》に|態度《たいど》をかへ、
テク『ヤどうも、|飛《と》び|切《き》り|上等《じやうとう》の|醍醐味《だいごみ》を|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しまして、テク|実《じつ》に|乾盃《かんぱい》の|至《いた》りで|厶《ござ》います。|瓢《ひさご》ぶりに、どうした|拍子《ひやうし》の|瓢箪《へうたん》やら、スコタンやら、コンタンやら、|邯鄲《かんたん》|夢《ゆめ》の|枕《まくら》のやうな、|嬉《うれ》しい|心持《こころもち》が|致《いた》しますわい。|私《わたくし》|是《これ》からずつと|改心《かいしん》をして|貴方《あなた》のお|弟子《でし》にして|頂《いただ》き、ドツサリドツサリ|瓢箪酒《へうたんざけ》を、この|甘《うま》い|甘《うま》い、|瓢箪酒《へうたんざけ》を、チヨコチヨコ、サイサイ|呑《の》まして|頂《いただ》く|儀《ぎ》にはゆきますまいかな、|訳《わけ》にはゆきますまいか。|本当《ほんたう》に|気《き》の|利《き》いた|先生《せんせい》だ、イヤ|気《き》に|入《い》つた|先生《せんせい》だ。|専制主義《せんせいしゆぎ》のバラモンよりも|四民平等主義《しみんべうどうしゆぎ》の、|四民平等《しみんべうどう》|人類愛《じんるゐあい》の|三五教《あななひけう》が|余程《よつぽど》、|余程《よつぽど》、|余程《よつぽど》|甘味《うまみ》が|厶《ござ》いますわい。ウマ|味《み》がたつぷり|厶《ござ》います。|甘味《うまみ》と|云《い》つたら|今《いま》|飲《の》んだ|酒《さけ》も|些《ちつ》と|許《ばか》り、チヨツクラチヨツト、|些《すこ》し|許《ばか》り、|少《すこ》しでも|沢山《たくさん》、ドツサリと|頂《いただ》き|度《た》いもので|厶《ござ》います。|酒《さけ》さへ|呑《の》ましておけば、|酒《さけ》の|気《け》さへあれば、このテクも、|猫《ねこ》のやうな|柔《やさ》しい、|温順《をんじゆん》な、|柔和《にうわ》な、|柔順《じうじゆん》な、|結構《けつこう》な、お|目出度《めでた》い|人間《にんげん》ですよ。それはそれはお|目出度《めでた》い|人間《にんげん》です。エヘヘヘヘ』
|玉国《たまくに》『アハハハハ』
バーチル『これ、テクさま|私《わたし》が|三年振《さんねんぶり》で|目出度《めでたく》|吾《わが》|家《や》へ|帰《かへ》つたのだから、|茲《ここ》|一週間《いつしうかん》|許《ばか》り、|家《いへ》の|財産《ざいさん》が|無《な》くなつても|構《かま》はぬ、|大祝宴《だいしゆくえん》を|開《ひら》くのだから、お|前《まへ》さま|一《ひと》つ|酒《さけ》の|方《はう》の|世話《せわ》をして|貰《もら》へまいかな。そして|飛《と》び|切《き》り|上等《じやうとう》の|酒《さけ》を|何十石《なんじつこく》でもよい|取寄《とりよ》せて、|献立《こんだて》をして|貰《もら》ひ|度《た》いものだ』
テク『もつとももつとも、|御尤《ごもつと》も|千万《せんばん》、|渡《わた》りに|船《ふね》、|追手《えて》に|帆《ほ》、|女《をんな》に|男《をとこ》、テクに|甘酒《うまざけ》、お|酒《さけ》にテク、テクにお|酒《さけ》、|酒《さけ》がテクか、テクが|酒《さけ》か、|酒《さけ》の|中《なか》から|生《うま》れたテクぢや、いやはや|承知《しようち》|致《いた》しました。|確《たしか》に|承諾《しようだく》|仕《つかまつ》りました。ああああ|何《なん》だか|甘酒《うまざけ》と|聞《き》くと|喉《のど》の|奴《やつ》、|喉《のど》の|猫《ねこ》|奴《め》がゴロゴロと|唸《うな》り|出《だ》しやがつた。|唾《つば》の|奴《やつ》|酒《さけ》の|顔《かほ》を|見《み》ぬ|先《さき》から|門口《かどぐち》|迄《まで》お|出迎《でむか》へに|出《で》て|来《く》る。イヤ|唾《つば》、|酒《さけ》のつばものも|少《すこ》し|辛抱《しんばう》せ。|今《いま》|直《ただ》ちに|供給《きようきふ》してやる。|否《いな》|灌漑《くわんがい》してやる。|蒸気《じやうき》ポンプ|装置《さうち》が、いや|据付《すゑつ》けが|出来《でき》る|間《ま》だけ|辛抱《しんばう》したらよからう。いや、とは|云《い》ふものの|俺《おれ》も|辛抱《しんばう》|仕悪《しに》くなつた。オイ|先生《せんせい》、この|外《ほか》に|臨時《りんじ》|御携帯《ごけいたい》のお|持《も》ち|合《あ》はせの|瓢箪《へうたん》、|瓢《ふくべ》、ひよう ひようは|厶《ござ》いませぬかな』
|三千《みち》『アハハハハ。|随分《ずゐぶん》タンクと|見《み》えますな、そんなら|拙者《せつしや》の|分《ぶん》も|進上《しんじやう》|致《いた》さう。|又《また》|何《いづ》れバーチルさまのお|宅《たく》へ|行《い》つて|新《あたら》しいのと|詰替《つめかへ》ますから………|大分《だいぶ》|浪《なみ》の|上《うへ》を|渡《わた》つて|来《き》たから|此《この》|酒《さけ》は【くたびれ】て|居《を》りますれど|御辛抱《ごしんばう》|下《くだ》さい』
テク『ヤ、そいつは|有難《ありがた》い、|瓢箪酒《へうたんざけ》は|古《ふる》くなる|程《ほど》|味《あぢ》がよいのだ。|風味《ふうみ》があるのだ。|三日《みつか》も|四日《よつか》も|揺《ゆす》つた|酒《さけ》はねんばりとして、むつくりとして|口当《くちあた》りがよいものだ。ヤ|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い』
と|云《い》ひ|乍《なが》らグイと|三千彦《みちひこ》の|手《て》より|引手繰《ひつたく》るやうにして|受取《うけと》り、|瓢《ひさご》を|額《ひたひ》の|辺《あた》りまで|突《つ》き|上《あ》げ|尻《しり》を|見《み》て、
テク『エヘヘヘヘこの|瓢助《へうすけ》の|奴《やつ》、|随分《ずいぶん》|酒《さけ》を|喰《くら》ひよつたと|見《み》えて、イヤ|吸《す》ふたと|見《み》えて|赤《あか》い|顔《かほ》をして|居《ゐ》やがる。いや|赤《あか》い|尻《けつ》をして|居《ゐ》やがる。|恰《まる》でお|猿《さる》を|見《み》たやうだ。お|猿《さる》の|尻《けつ》は|赤《あか》い。やア|面白《おもしろ》うなつて|来《き》おつた。いや|尻《けつ》|赤《あか》い、|尾《を》も|白狸《しろだぬき》の|腹鼓《はらづつみ》、|切《き》れる|程《ほど》|頂《いただ》きませう。ヤ、|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しませう』
と|口《くち》をポンと|取《と》り|餓鬼《がき》のやうに|喇叭呑《らつぱの》みを|初《はじ》め|出《だ》した。|瓢酒《ふくべざけ》の|音《おと》トブ トブ トブ トブ、|喉《のど》の|音《おと》ゴロゴロ、キユウ キユウ キユウ、チユウー。
テク『アア、よう|利《き》く|般若湯《はんにやたう》だ。|醍醐味《だいごみ》だ。|命《いのち》の|水《みづ》だ。|百薬《ひやくやく》の|長《ちやう》だ。|何《なん》とまア、|調法《てうはふ》なものだなア。|結構《けつこう》|毛《け》だらけ|猫灰《ねこはひ》だらけ。|余《あま》り|甘《うま》くて|美味《おい》しうて、|味《あぢ》がようて、|開《あ》いた|口《くち》がすぼまりませぬよ。|開《あ》いた|口《くち》に|牡丹餅《ぼたもち》。|兎口《みつくち》にしんこ、|四角口《よつぐち》に|羊羹《やうかん》、○○に|踵《きびす》、テクの|口《くち》に|般若湯《はんにやたう》、|渡《わた》りに|船《ふね》、|順風《じゆんぷう》に|帆《ほ》、|鑿《のみ》に|槌《つち》、|女房《にようばう》に|夫《おやぢ》、|老爺《ぢいさん》に|初孫《うひまご》、どうした|拍子《ひやうし》の|瓢箪《へうたん》やら、|甘《うま》い|甘《おい》しい、|呑《のめ》や|甘《うま》い、|甘《うま》い|事《こと》づくめが|重《かさ》なつたものだ。|目出度《めでた》い|目出度《めでた》い、お|目出度《めでた》い。|目出度《めでた》、|目出度《めでた》が|三《み》つ|重《かさ》なりて|鶴《つる》が|御門《ごもん》に|巣《す》をかける、|奥《おく》さま|館《やかた》にお|待《ま》ちかね。|吾等《われら》もスパイをすつかりやめて、|人《ひと》の|嫌《いや》がる|探偵《たんてい》やめて、バーチルさまの|御厄介《ごやくかい》になり、お|世話《せわ》によつてお|酒《さけ》の|御用《ごよう》を|確《しつか》り|勤《つと》めませう。エヘヘヘ』
アキス『アハハハハ、|此奴《こいつ》は|面白《おもしろ》い。|酒《さけ》の|味《あぢ》のよい|御愛嬌《ごあいけう》だ、さア|旦那様《だんなさま》、|早《はや》く|帰《かへ》りませう』
と|先《さき》に|立《た》ち、|道々《みちみち》|元気《げんき》よく|歌《うた》を|歌《うた》ひ、ヤッコス|踊《をどり》を|踊《をど》りながら、|夏《なつ》の|草野《くさの》の|炎天《えんてん》を|帰《かへ》り|行《ゆ》く。アヅモス|山《さん》の|南麓《なんろく》に|老樹《らうじゆ》|生《は》え|茂《しげ》つた|一《ひと》つの|森《もり》が|見《み》える。それがバーチルの|広大《くわうだい》な|邸宅《ていたく》であつた。
(大正一二・三・三〇 旧二・一四 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第二一章 |館帰《くわんき》〔一四九六〕
アキスは|一行《いつかう》の|先《さき》に|立《た》ち|元気《げんき》よく|歌《うた》ひ|出《だ》した。
アキス『ああ|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し |恋《こひ》に|焦《こが》れた|旦那《だんな》さま
|番頭《ばんとう》さまと|諸共《もろとも》に |行衛《ゆくゑ》|失《うしな》ふ|其《その》|日《ひ》より
|今日《けふ》で|殆《ほとん》どまる|三年《みとせ》 |流石《さすが》|平和《へいわ》の|家中《いへなか》も
|主人《あるじ》の|不在《るす》となり|果《は》てて |春《はる》は|来《く》れども|花《はな》|咲《さ》かず
|夏《なつ》の|木立《こだち》も|萎《しを》れ|勝《が》ち |秋《あき》の|木枯《こがらし》|吹《ふ》き|荒《すさ》み
|樹々《きぎ》の|梢《こづゑ》は|羽衣《はごろも》を |脱《ぬ》いでブルブル|慄《ふる》ふ|如《ごと》
|何《なん》とはなしに|家《いへ》の|内《うち》 |冷《つめ》たく|悲《かな》しく|暮《くら》しける
サーベル|姫《ひめ》の|奥様《おくさま》は |一人《ひとり》の|坊《ぼん》さま|力《ちから》とし
いつ|帰《かへ》るとも|白波《しらなみ》の |海《うみ》に|消《き》えたるバーチルの
|夫《をつと》の|君《きみ》を|慕《した》ひつつ |涙《なみだ》|片手《かたて》に|懇《ねもご》ろに
|問《と》ひ|弔《とむら》ひを|営《いとな》みつ |朝《あさ》は|早《はや》うからバラモンの
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|拝礼《はいれい》し |主人《あるじ》の|君《きみ》の|冥福《めいふく》を
|祈《いの》らせ|玉《たま》ひ|日《ひ》の|暮《くれ》は アヅモス|山《さん》の|御墓場《おんはかば》
|香華《かうげ》を|手向《たむ》け|水《みづ》|供《そな》へ |山野河海《さんやかかい》の|珍味物《うましもの》
|心《こころ》を|籠《こ》めて|奉《たてまつ》り |夫婦《ふうふ》の|情《なさけ》の|何処《どこ》|迄《まで》も
|深《ふか》きを|面《おもて》に|現《あら》はして |貞女烈婦《ていぢよれつぷ》の|鑑《かがみ》ぞと
|四方《よも》に|謳《うた》はれ|玉《たま》ひけり |主人《しゆじん》の|家《いへ》に|古《ふる》くより
|仕《つか》へまつりし|吾々《われわれ》は |女主人《をんなしゆじん》の|御顔《おんかほ》を
|見《み》る|度《たび》|毎《ごと》に|涙《なみだ》ぐみ |胸《むね》に|迫《せま》りてハアハアと
|吐息《といき》をつくも|幾度《いくたび》か |測《はか》り|知《し》られぬ|悲《かな》しみを
やうやう|忍《しの》びて|早《はや》|三年《みとせ》 |皇大神《すめおほかみ》は|此《この》|様《さま》を
|憐《あは》れみ|玉《たま》ひてバーチルの |家《いへ》に|降臨《かうりん》|遊《あそ》ばされ
サーベル|姫《ひめ》に|神懸《かむがかり》 |遊《あそ》ばしまして|主《しゆ》の|君《きみ》の
|帰《かへ》り|来《き》ますと|厳《おごそ》かに |告《つ》げさせ|玉《たま》ひし|尊《たふと》さよ
|余《あま》りの|事《こと》に|吾々《われわれ》も |半信半疑《はんしんはんぎ》の|村雲《むらくも》に
|包《つつ》まれ|乍《なが》ら|炎天《えんてん》を |侵《をか》してスマの|磯《いそ》に|立《た》ち
|主人《あるじ》の|君《きみ》の|帰《かへ》りをば |首《くび》を|延《の》ばして|待《ま》ち|居《ゐ》たる
|時《とき》しもあれや|白浪《しらなみ》の |彼方《かなた》に|見《み》ゆる|白帆影《しらほかげ》
|主人《あるじ》の|君《きみ》か|他人《あだびと》か |神《かみ》ならぬ|身《み》の|吾々《われわれ》は
|覚《さと》らむ|由《よし》も|夏《なつ》の|日《ひ》の |芝生《しばふ》に|尻《しり》を|打据《うちす》ゑて
|恋《こひ》しき|人《ひと》は|吾《わが》|前《まへ》に |帰《かへ》りますかと|待《ま》ち|倦《あぐ》む
|心《こころ》の|暗《やみ》の|開《ひら》け|口《ぐち》 |暗夜《やみよ》を|照《て》らして|日《ひ》の|神《かみ》の
|東《ひがし》の|山《やま》の|端《は》|昇《のぼ》りまし |下界《げかい》に|光明《くわうみやう》|投《な》げ|玉《たま》ふ
|嬉《うれ》しき|時《とき》は|来《きた》りけり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》を |四方《よも》に|伝《つた》ふる|宣伝使《せんでんし》
|玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》に |無人《むじん》の|島《しま》より|助《たす》けられ
アンチーさまと|諸共《もろとも》に |帰《かへ》りますこそ|嬉《うれ》しけれ
サーベル|姫《ひめ》は|云《い》ふも|更《さら》 |五歳《いつつ》になつた|坊様《ばうさま》も
|欣喜雀躍《きんきじやくやく》|遊《あそ》ばして |嬉《うれ》し|悲《かな》しの|活劇《くわつげき》が
|奥《おく》の|一間《ひとま》で|遺憾《ゐかん》なく |演出《えんしゆつ》さるるでありませう
ああ|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し バーチル|一家《いつか》は|云《い》ふも|更《さら》
|恩顧《おんこ》を|受《う》けし|里人《さとびと》は |主人《あるじ》の|君《きみ》が|恙《つつが》なく
|三年振《さんねんぶ》りで|吾《わが》|家《いへ》に |帰《かへ》りましたと|聞《き》くならば
|爺々《ぢぢい》も|婆々《ばばあ》も|孫《まご》|連《つ》れて お|祝《いはひ》|申《まを》しに|来《く》るであらう
|門前《もんぜん》|忽《たちま》ち|市《いち》をなし |歓喜《くわんき》の|声《こゑ》は|一時《いつとき》に
|潮《うしほ》の|寄《よ》せ|来《く》る|其《その》|如《ごと》く |館《やかた》の|周囲《まはり》は|人山《ひとやま》を
|築《きづ》いて|歓喜《くわんき》の|花《はな》|開《ひら》き |常世《とこよ》の|春《はる》の|賑《にぎは》しさ
|眺《なが》めて|祝《いは》ふ|瑞祥《ずゐしやう》を |今《いま》|目《ま》のあたり|見《み》る|心地《ここち》
|心《こころ》も|勇《いさ》み|胸《むね》|躍《をど》り |体《からだ》は|宙《ちう》に|立《た》つ|如《ごと》く
|重《おも》たき|足《あし》も|軽々《かるがる》と |知《し》らず|知《し》らずに|進《すす》み|行《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|恵《めぐ》みの|幸《さち》はひて
|憂《うれ》ひに|沈《しづ》む|此《この》|館《やかた》 |地獄《ぢごく》の|様《やう》な|光景《くわうけい》も
|忽《たちま》ち|変《かは》る|天国《てんごく》の |弥《いや》|永久《とこしへ》の|春《はる》となり
|飲《の》めよ|唄《うた》への|大歓喜《だいくわんき》 ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みを|慎《つつし》みて |遥《はる》かに|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |神《かみ》の|恵《めぐ》みに|助《たす》けられ
|無事《ぶじ》でお|健《まめ》で|莞爾《にこにこ》と |帰《かへ》りましたる|吾《わが》|主人《あるじ》
その|高恩《かうおん》は|何時《いつ》の|世《よ》か |必《かなら》ず|忘《わす》れ|玉《たま》ふまじ
|僕《しもべ》に|仕《つか》ふる|吾々《われわれ》も |神《かみ》の|恵《めぐみ》を|嬉《うれ》しみて
|心《こころ》の|鬼《おに》を|追《お》ひ|出《いだ》し |誠《まこと》|一《ひと》つの|御道《おんみち》に
|真心《まごころ》|籠《こ》めて|朝夕《あさゆふ》に |仕《つか》へ|奉《まつ》りて|主《ぬし》の|為《ため》
|力《ちから》の|限《かぎ》り|身《み》の|極《きは》み |誠《まこと》を|尽《つく》し|守《まも》るべし
|守《まも》らせ|玉《たま》へ|大御神《おほみかみ》 |御前《みまへ》に|祈《いの》り|奉《たてまつ》る』
カールは|又《また》|歌《うた》ふ。
『|有為転変《うゐてんぺん》は|世《よ》の|習《なら》ひ とは|云《い》ふものの|情《なさけ》ない
スマの|里《さと》にて|第一《だいいち》の |大物持《おほものもち》と|聞《きこ》えたる
|主人《あるじ》の|君《きみ》は|朝夕《あさゆふ》に |漁《すなど》り|許《ばか》りを|楽《たの》しんで
|暇《ひま》ある|毎《ごと》に|舟《ふね》を|漕《こ》ぎ |大海原《おほうなばら》に|網《あみ》を|打《う》ち
|大小《だいせう》|幾多《いくた》の|魚族《うろくづ》を |捕獲《ほくわく》し|玉《たま》ひ|里人《さとびと》に
|惜《を》しげもなしに|与《あた》へまし うまいうまいと|舌鼓《したつづみ》
|打《う》つ|里人《さとびと》の|声《こゑ》を|聞《き》き これが|唯一《ゆゐいつ》の|楽《たのし》みと
|家《いへ》の|業《わざ》をも|打忘《うちわす》れ |凝《こ》り|固《かた》まりし|漁《すなど》りの
|妙技《めうぎ》は|益々《ますます》|発達《はつたつ》し |漁師《れふし》の|神《かみ》と|仇名《あだな》され
|清《きよ》めの|海《うみ》の|魚族《ぎよぞく》をば |鬼《おに》の|如《ごと》くに|驚《おどろ》かせ
|一大得意《いちだいとくい》になりまして |益々《ますます》|漁業《ぎよげふ》に|勉励《べんれい》し
|遂《つひ》に|悪魔《あくま》に|魅《みい》られて レコード|破《やぶ》りの|暴風《しけ》に|遇《あ》ひ
|山《やま》と|寄《よ》せ|来《く》る|荒波《あらなみ》に |船《ふね》|諸共《もろとも》に|呑《の》まれまし
|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ|猩々島《しやうじやうじま》 |神《かみ》の|守《まも》りに|救《すく》はれて
|三年《みとせ》の|憂《うき》を|忍《しの》びつつ |三五教《あななひけう》の|司《つかさ》|等《ら》に
|送《おく》られ|帰《かへ》り|玉《たま》ひけり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|有難《ありがた》さ |主人《あるじ》の|君《きみ》のバーチルよ
これから|心《こころ》を|取直《とりなほ》し |仮令《たとへ》|魚族《ぎよぞく》の|端《はし》と|云《い》へ
|天地《てんち》の|恵《めぐ》みを|楽《たの》しみて |悠々《いういう》|遊《あそ》べる|生物《いきもの》を
|必《かなら》ず|苦《くる》しむ|事《こと》|勿《なか》れ |禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》は|云《い》ふも|更《さら》
|虫族《むしけら》|草木《くさき》に|至《いた》る|迄《まで》 |皆《みな》|神様《かみさま》の|生身霊《いくみたま》
|宿《やど》らせ|玉《たま》ふ|御霊物《みたまもの》 |無益《むえき》の|殺生《せつしやう》し|玉《たま》ふな
カールの|僕《しもべ》|慎《つつし》みて お|家《いへ》の|為《ため》に|真心《まごころ》を
|捧《ささ》げて|諫《いさ》め|奉《たてまつ》る ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ |館《やかた》の|森《もり》に|近《ちか》づいて
|木々《きぎ》の|梢《こづゑ》は|青々《あをあを》と |主人《しゆじん》の|帰《かへ》りを|待《ま》つて|居《ゐ》る
|牡丹《ぼたん》の|花《はな》は|広庭《ひろには》に |媚《こ》びを|呈《てい》して|打笑《うちわら》ひ
|腮《あご》を|外《はづ》した|芍薬《しやくやく》の |花《はな》は|舌《した》をばペラペラと
|風《かぜ》のまにまに|動《うご》かせつ |祝《いは》ひの|酒《さけ》を|待《ま》ち|兼《か》ねつ
|喉《のど》を|鳴《な》らして|待《ま》つて|居《ゐ》る |屋根《やね》の|間《あひだ》に|巣《す》を|組《く》んだ
|雀《すずめ》の|群《むれ》はチヨチヨと お|家《いへ》の|栄《さか》えを|祝《いは》ひつつ
|軒端《のきば》に|匂《にほ》ふ|花《はな》|燕子花《あやめ》 |菖蒲《しやうぶ》の|剣《つるぎ》はヒラヒラと
|刃《やいば》を|翳《かざ》して|警護《けいご》する |実《げ》にも|目出度《めでた》き|今日《けふ》の|日《ひ》は
|幽冥界《いうめいかい》より|帰《かへ》り|来《く》る |主人《あるじ》の|君《きみ》の|甦《よみがへ》り
|竜宮城《りうぐうじやう》に|遥々《はるばる》と |亀《かめ》の|背中《せなか》に|乗《の》せられて
|進《すす》みましたる|浦島《うらしま》が |乙姫《おとひめ》さまの|玉手箱《たまてばこ》
|戴《いただ》き|帰《かへ》りませし|如《ごと》 その|喜《よろこ》びは|何物《なにもの》も
|譬《たと》へむ|術《すべ》ぞなかるべし ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》に|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|一行《いつかう》は|早《はや》くも|宏大《くわうだい》なる|邸《やしき》の|表門《おもてもん》に|着《つ》いた。
(大正一二・三・三〇 旧二・一四 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第二二章 |獣婚《じうこん》〔一四九七〕
|玉国別《たまくにわけ》を|先頭《せんとう》にバーチルは|三年振《さんねんぶ》りに|恋《こひ》しき|吾《わが》|家《や》の|表門《おもてもん》を|潜《くぐ》つた。|四辺《あたり》の|光景《くわうけい》は|自分《じぶん》の|不在《るす》にも|似合《にあ》はず、|極《きは》めて|生々《いきいき》として|居《ゐ》る。|庭《には》の|手入《てい》れも|殊更《ことさら》|行届《ゆきとど》き、|牡丹《ぼたん》、|芍薬《しやくやく》、|燕子花《あやめ》、|日和草《ひよりぐさ》、その|外《ほか》|鳳仙花《ほうせんくわ》、|鶏頭《けいとう》|等《など》が、|広庭《ひろには》の|彼方《あちら》|此方《こちら》に|主人《しゆじん》の|不在《るす》を|知《し》らず|顔《がほ》に、|艶《えん》を|競《きそ》ふて|咲《さ》き|誇《ほこ》つて|居《ゐ》る。|雀《すずめ》や|燕《つばめ》は|主人《しゆじん》の|帰《かへ》りを|祝《しゆく》するものの|如《ごと》く、|殊更《ことさら》|高《たか》い|声《こゑ》をして|囀《さへづ》り|出《だ》した。バーチルは|感慨無量《かんがいむりやう》の|面持《おももち》にて|表玄関《おもてげんくわん》より|玉国別《たまくにわけ》に|従《したが》ひ、|奥《おく》の|間《ま》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》る。
|自分《じぶん》が|久《ひさ》し|振《ぶ》りに|帰《かへ》つて|来《き》たのだから|女房《にようばう》のサーベルは|道《みち》の|四五丁《しごちやう》も|喜《よろこ》んで|迎《むか》へに|来《き》て|居《ゐ》さうなものだのに、どうしたものか、|玄関口《げんくわんぐち》|迄《まで》も|迎《むか》へに|来《こ》ないのは、|何《なに》か|大病《たいびやう》でも|患《わづら》つて|居《ゐ》るのではあるまいかと|案《あん》じ|乍《なが》ら、|吾《わが》|居間《ゐま》に|宣伝使《せんでんし》と|共《とも》に|進《すす》み|見《み》れば、サーベル|姫《ひめ》は|床《とこ》の|間《ま》に|儼然《げんぜん》として|胡座《あぐら》をかき、|両手《りやうて》をキチンと|合《あは》して、|莞爾《にこにこ》し|乍《なが》ら|控《ひか》へて|居《ゐ》る。
バーチルの|姿《すがた》を|見《み》るより|床《とこ》の|間《ま》をヒラリと|飛《と》び|下《お》り、『キャッキャッ』と|怪《あや》しき|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げ|乍《なが》ら、
サーベル『ホホホホホこれはこれはお|旦那様《だんなさま》、えらう|遅《おそ》い|事《こと》で|厶《ござ》いましたね。|妾《わたし》は|一歩《ひとあし》お|先《さき》へ|参《まゐ》りまして|僕《しもべ》に|準備《じゆんび》をさせ、|待《ま》つてゐましたのよ。|貴方《あなた》も|妾《わたし》と|三年《さんねん》が|間《あひだ》、あの|離《はな》れ|島《じま》に|御苦労《ごくらう》なさいましたね。もう|此処《ここ》へお|帰《かへ》りになれば|何《なに》かにつけて|便利《べんり》もよく、|何卒《どうぞ》|幾久敷《いくひさし》く|偕老同穴《かいらうどうけつ》の|契《ちぎり》を|結《むす》んで|下《くだ》さいます|様《やう》にお|願《ねが》ひ|申《まを》します。|宣伝使《せんでんし》|様《さま》も|妾《わたし》の|肉体《にくたい》を|連《つ》れて|帰《かへ》つてやらうかと|親切《しんせつ》に|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいましたが、|何《なん》と|云《い》つても|畜生《ちくしやう》の|肉体《にくたい》、|到底《たうてい》|立派《りつぱ》な|貴方様《あなたさま》のお|側《そば》に|仕《つか》へる|事《こと》は|出来《でき》ぬと|存《ぞん》じまして|海中《かいちう》に|身《み》を|投《とう》じ、|性《しやう》を|変《へん》じて|奥様《おくさま》の|肉体《にくたい》に|憑《かか》りました。|妾《わたし》は|貴方《あなた》の|愛《あい》して|下《くだ》さつた|猩々夫人《しやうじやうふじん》で|厶《ござ》います。|第二夫人《だいにふじん》として|使《つか》つて|下《くだ》さいませ』
バーチル『はて、|合点《がてん》のゆかぬ|事《こと》だな。もし|先生様《せんせいさま》、|奥《おく》は|発狂《はつきやう》したのではありますまいか。|怪体《けたい》な|事《こと》を|申《まを》すぢや|厶《ござ》いませぬか』
|玉国《たまくに》『いや|決《けつ》して|発狂《はつきやう》でも|何《なん》でもありませぬ。|精神《せいしん》|清浄《しやうじやう》|潔白《けつぱく》にして|純朴《じゆんぼく》|無垢《むく》な|猩々姫《しやうじやうひめ》|様《さま》が、|貴方《あなた》を|慕《した》つて|精霊《せいれい》となり、|奥様《おくさま》の|肉体《にくたい》にお|宿《やど》りなさつたのですよ。これも|因縁《いんねん》で|厶《ござ》いますから|仲良《なかよ》うお|暮《くら》し|下《くだ》さいませ』
バーチル『|何《なん》だか|化物《ばけもの》の|様《やう》な|感《かん》じが|致《いた》します。|嫌《いや》らしい|者《もの》ですな。さうして|奥《おく》の|魂《たましひ》はどうなつたでせうか』
|玉国《たまくに》『|奥様《おくさま》とお|二人《ふたり》ですよ。つまり|一体二霊《いつたいにれい》ですから|之《これ》も|因縁《いんねん》と|締《あきら》めて|仲良《なかよ》くお|暮《くら》しなさるが|宜《よろ》しい。これには|何《なに》か|深《ふか》い|因縁《いんねん》が|此《この》|家《や》に|絡《からま》つてあるに|違《ちが》ひありませぬ』
バーチル『へー………』
サーベル『|妾《わたし》の|夫《をつと》はアヅモス|山《さん》の|天王《てんわう》の|森《もり》を|守護《しゆご》して|居《ゐ》る|猩々《しやうじやう》で|厶《ござ》いましたが、バーチルさまの|父上《ちちうへ》バークスさまが|妾《わたし》の|夫《をつと》を|罠《おとし》にかけ|命《いのち》を|奪《と》られました。それ|故《ゆゑ》|精霊《せいれい》の|行《ゆ》く|処《ところ》がありませぬので、バークス|様《さま》の|御息子《ごそくし》、|即《すなは》ち|此《この》|夫《をつと》バーチルさまの|肉体《にくたい》に|納《をさ》まりましたので|厶《ござ》います。|云《い》はばバーチルさまの|精霊《せいれい》は|妾《わたし》の|夫《をつと》で|厶《ござ》います。|妾《わたし》は|眷族《けんぞく》を|引《ひ》き|連《つ》れ、アヅモス|山《さん》の|森《もり》を|逃《に》げ|出《だ》し、|磯辺《いそべ》に|繋《つな》いであつた|船《ふね》に|眷族《けんぞく》を|乗《の》せ、|漸《やうや》く|猩々《しやうじやう》の|島《しま》に|渡《わた》つて|夫《をつと》の|来《く》るのを|待《ま》つて|居《を》りました。それ|故《ゆゑ》|妾《わたし》の|精霊《せいれい》が|夫《をつと》の|精霊《せいれい》と|通《かよ》ひし|為《た》めバーチルさまは|海《うみ》を|見《み》るのが|好《す》きになり、|漁《れふ》を|遊《あそ》ばし|到頭《たうとう》|漁船《ぎよせん》は|難破《なんぱ》して|妾《わたし》の|島《しま》へ|漂着《へうちやく》|遊《あそ》ばす|様《やう》に|夫《をつと》の|精霊《せいれい》が|致《いた》したので|厶《ござ》います。|決《けつ》して|三年前《さんねんぜん》から|夫婦《ふうふ》になつたのでは|厶《ござ》いませぬ』
バーチル『はてな、さうすると|私《わし》は|矢張《やつぱ》り|二人暮《ふたりぐら》しであつたのか。|何《なん》とまア|合点《がてん》のいかぬものだな。いつの|間《ま》にか|猩々彦《しやうじやうひこ》の|生宮《いきみや》となつてゐたものと|見《み》える。|扨《さ》ても|扨《さ》ても|合点《がつてん》のゆかぬ|事《こと》だな』
|玉国《たまくに》『|霊魂《みたま》の|力《ちから》と|云《い》ふものは|恐《おそ》ろしいもので|厶《ござ》いますよ。|云《い》はば|貴方《あなた》の|肉体《にくたい》はバーチルさまと|猩々彦《しやうじやうひこ》の|合体《がつたい》、|奥様《おくさま》の|肉体《にくたい》はサーベル|姫《ひめ》と|猩々姫《しやうじやうひめ》の|合体《がつたい》ですから|一夫婦《ひとふうふ》で|二夫婦《ふたふうふ》の|生活《せいくわつ》を|営《いとな》んでゐる|様《やう》なものです』
バーチル『|思《おも》ひきや|猩々彦《しやうじやうひこ》の|肉宮《にくみや》と
|知《し》らず|知《し》らずに|世《よ》を|過《す》ごしける。
|夜《よ》も|昼《ひる》も|湖《うみ》の|上《うへ》のみ|憧憬《あこが》れて
|漁《すなど》りせしも|仇事《あだごと》でなし』
サーベル『|心《こころ》なき|人《ひと》の|矛《ほこ》をば|避《さ》け|乍《なが》ら
|猩々ケ島《しやうじやうがしま》より|魂《たま》|通《かよ》はせつ。
|猩々《しやうじやう》の|果敢《はか》なき|身《み》をば|持《も》ち|乍《なが》ら
|物《もの》|云《い》ふ|人《ひと》に|宿《やど》る|嬉《うれ》しさ』
|伊太彦《いたひこ》『これはしたり|思《おも》ひも|寄《よ》らぬローマンスを
|目《ま》のあたり|見《み》る|訝《いぶ》かしさかな。
|三千彦《みちひこ》の|神《かみ》の|司《つかさ》よ|心《こころ》せよ
|汝《なれ》も|猩々《しやうじやう》の|身霊《みたま》ならずや』
|三千彦《みちひこ》『バーチルは|宝《たから》に|富《と》める|人《ひと》なれば
|二重生活《にぢうせいくわつ》|苦《くる》しからまじ。
さり|乍《なが》ら|宝《たから》|貧《まづ》しき|三千彦《みちひこ》は
|二重生活《にぢうせいくわつ》する|術《すべ》もなし』
デビス|姫《ひめ》『|吾《われ》とても|矢張《やつぱり》|二重生活《にぢうせいくわつ》よ
|神《かみ》の|任《よ》さしの|正守護神《せいしゆごじん》|在《ま》す』
|伊太彦《いたひこ》『それならば|俺《おれ》も|矢張《やつぱり》|同《おな》じ|事《こと》
|本《ほん》|正《せい》|副《ふく》の|三重生活《さんぢうせいくわつ》』
|真純彦《ますみひこ》『|世《よ》の|中《なか》の|人《ひと》は|何《いづ》れも|同《おな》じ|事《こと》
|善《ぜん》と|悪《あく》との|魂《たま》の|容物《いれもの》』
|玉国別《たまくにわけ》『|天地《あめつち》の|誠《まこと》の|道《みち》を|悟《さと》りけり
|心《こころ》より|来《く》る|人《ひと》の|生涯《しやうがい》。
|猩々《しやうじやう》も|皆《みな》|天地《あめつち》の|生神《いきがみ》の
|尊《たふと》き|霊《たま》の|分《わか》れなりけり。
|猩々姫《しやじやうひめ》|主人《あるじ》に|尽《つく》す|誠心《まごころ》を
|見《み》るにつけても|涙《なみだ》こぼるる』
|三千彦《みちひこ》『|人《ひと》の|皮《かは》|着《き》た|獣《けだもの》の|多《おほ》き|世《よ》に
|獣《けもの》の|皮《かは》を|着《き》たる|人《ひと》あり。
|毛衣《けごろも》を|脱《ぬ》いで|芽出《めで》たく|猩々姫《しやうじやうひめ》
|今《いま》|更《あらた》めて|人《ひと》の|皮《かは》|着《き》る。
つまを|持《も》つ|二人《ふたり》の|中《なか》に|又《また》|二人《ふたり》
つま|持《も》つ|人《ひと》を|獣婚《じうこん》(|重婚《ぢうこん》)と|謂《い》ふ』
サーベル『|有難《ありがた》し|神《かみ》の|大路《おほぢ》に|目覚《めざ》めたる
|道《みち》の|司《つかさ》の|厳《いづ》の|言霊《ことたま》』
バーチル『|斯《か》うならば|只《ただ》|何事《なにごと》も|神様《かみさま》に
|任《まか》せて|世《よ》をば|安《やす》く|渡《わた》らむ。
|猩々姫《しやうじやうひめ》|妻《つま》の|体《からだ》を|宿《やど》として
|吾《われ》に|仕《つか》へよ|千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に』
アンチー『これは|又《また》|思《おも》ひもよらぬ|出来事《できごと》よ
|呆《あき》れ|果《は》てたる|吾《わが》|心《こころ》かな。
さり|乍《なが》ら|情《なさけ》の|道《みち》は|同《おな》じ|事《こと》
|殊更《ことさら》|清《きよ》き|姫《ひめ》の|御心《みこころ》』
アキス『|奥様《おくさま》と|只《ただ》|一心《いつしん》に|思《おも》ひつめ
|猩々《しやうじやう》の|姫《ひめ》に|仕《つか》へけるかな』
カール『|肉体《にくたい》はよし|猩々《しやうじやう》に|在《ま》すとても
|心《こころ》の|清《きよ》き|姫《ひめ》ぞ|尊《たふと》き』
|玉国別《たまくにわけ》『|霊界《れいかい》のその|消息《せうそく》を|詳細《まつぶさ》に
|教《をし》へ|玉《たま》ひぬ|厳《いづ》の|大神《おほかみ》。
|鳥《とり》|獣《けもの》|虫族《むしけら》|草木《くさき》に|至《いた》るまで
|皇大神《すめおほかみ》の|珍《うづ》の|霊《みたま》よ。
|立《た》ちて|行《ゆ》くばかりが|人《ひと》の|所作《しよさ》でなし
|誠《まこと》を|立《た》つる|人《ひと》ぞ|人《ひと》なれ。
|人《ひと》|多《おほ》き|人《ひと》の|中《なか》にも|人《ひと》ぞなき
あらぬ|獣《けもの》が|人《ひと》の|皮《かは》|着《き》て。
|表面《うはべ》こそ|人《ひと》と|見《み》ゆれど|魂《たましひ》は
|獣《けもの》の|多《おほ》き|今《いま》の|世《よ》の|中《なか》』
サーベル『|猩々姫《しやうじやうひめ》|暫《しばら》く|控《ひか》へ|奉《たてまつ》る
サーベル|姫《ひめ》に|口《くち》を|譲《ゆづ》りて』
サーベル『|背《せ》の|君《きみ》の|帰《かへ》りまししと|聞《き》きしより
|心《こころ》|勇《いさ》みぬ|身《み》もたなしらに。
|背《せ》の|君《きみ》を|庇《かば》ひ|玉《たま》ひし|猩々姫《しやうじやうひめ》
|吾《わが》|身《み》を|宿《やど》と|定《さだ》めましける。
|何《なん》となく|身《み》も|健《すこや》かになりにけり
|腹《はら》に|力《ちから》の|充《み》ち|満《み》ちしより。
|猩々《しやうじやう》の|姫《ひめ》の|命《みこと》の|生身霊《いくみたま》
|吾《わが》|身《み》を|強《つよ》く|守《まも》りますらむ』
|伊太彦《いたひこ》『|何事《なにごと》も|神《かみ》のまにまに|人《ひと》の|身《み》は
|仕《つか》ふべき|由《よし》|今《いま》や|悟《さと》りぬ』
サーベル|姫《ひめ》『これは これは|旦那様《だんなさま》、お|懐《なつか》しう|厶《ござ》います。ようまア|無事《ぶじ》でお|帰《かへ》り|下《くだ》さいました。|貴方《あなた》の|行衛《ゆくゑ》が|分《わか》らなくなつてからと|云《い》ふものは|朝夕《あさゆふ》アヅモス|山《さん》の|天王《てんわう》の|森《もり》へ|参拝《さんぱい》|致《いた》し、|種々《いろいろ》と|御祈願《ごきぐわん》を|籠《こ》めましたが、どうしても|御所在《おありか》が|分《わか》りませぬので、|荒波《あらなみ》に|呑《の》まれて|魚腹《ぎよふく》に|葬《はうむ》られた|事《こと》と|観念《くわんねん》しまして、|形《かたち》|許《ばか》りの|野辺《のべ》の|送《おく》りを|済《す》ませ、|朝《あさ》は|天王《てんわう》の|森《もり》に|夫《をつと》の|冥福《めいふく》を|祈《いの》り、|夕《ゆふべ》はアヅモス|山《さん》の|山腹《さんぷく》の|墓《はか》に|参詣《さんけい》し、|悲《かな》しき|光陰《くわういん》を|今日《こんにち》|迄《まで》|送《おく》つて|参《まゐ》りました。さうした|所《ところ》、|二三日《にさんにち》|以前《いぜん》より|俄《にはか》に|妾《わたし》の|体《からだ》が|重《おも》くなり、|腹《はら》の|中《なか》から|種々《いろいろ》の|事《こと》を|囁《ささや》き|出《だ》し、|貴方《あなた》が|近《ちか》い|中《うち》に|無事《ぶじ》にお|帰《かへ》りになるとの|知《し》らせ、それ|故《ゆゑ》|二人《ふたり》の|僕《しもべ》を|浜辺《はまべ》に|出《だ》し、お|帰《かへ》りを|待《ま》たせて|居《を》りました。|妾《わたし》の|肉体《にくたい》には|猩々姫《しやうじやうひめ》とやら|云《い》ふ|精霊《せいれい》が|宿《やど》つてる|様《やう》で|厶《ござ》いますが、|最前《さいぜん》からの|猩々姫《しやうじやうひめ》の|歌《うた》を|聞《き》きまして、|最早《もはや》|覚悟《かくご》は|致《いた》しました。|何卒《どうぞ》|仲良《なかよ》くして|添《そ》ふて|下《くだ》さいませ。お|願《ねが》ひで|厶《ござ》います』
バーチル『ああ|女房《にようばう》、どうやら|本性《ほんしやう》になつたらしい。|実《じつ》の|所《ところ》はお|前《まへ》の|本当《ほんたう》の|声《こゑ》が|聞《き》きたかつたのだ。|今《いま》|詠《よ》んだ|歌《うた》はお|前《まへ》|覚《おぼ》えて|居《ゐ》るかな』
サーベル『はい、|妾《わたし》は|貴方《あなた》の|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|歌《うた》なんか|一《ひと》つも|出来《でき》ませぬ。|猩々姫《しやうじやうひめ》|様《さま》が|妾《わたし》に|代《かは》つて|歌《うた》を|詠《よ》んでやらうと|腹《はら》の|中《なか》で|仰有《おつしや》いまして、あの|通《とほ》り|珍《めづ》らしい|歌《うた》を|詠《よ》めたので|厶《ござ》います』
バーチル『うん、さうに|違《ちが》ひない。|到底《たうてい》お|前《まへ》の|考《かんが》へではあんな|詩才《しさい》があるとは|思《おも》はなかつた。ほんに|不思議《ふしぎ》なものだな』
|伊太彦《いたひこ》『さうすると|奥様《おくさま》よりも|猩々姫《しやうじやうひめ》さまの|方《はう》が|余程《よほど》|詩才《しさい》に|富《と》んでゐられると|見《み》えますな。いや|恐《おそ》れ|入《い》つた。|之《これ》では|人間《にんげん》も|廃業《はいげふ》し|度《た》くなつて|来《く》る』
|玉国別《たまくにわけ》『|伊太彦《いたひこ》さま、お|前《まへ》だつてチヨコチヨコ|妙《めう》な|歌《うた》を|歌《うた》ふが|決《けつ》してお|前《まへ》の|知識《ちしき》の|産物《さんぶつ》ぢやないよ。|皆《みんな》|副守先生《ふくしゆせんせい》がお|前《まへ》の|口《くち》を|借《か》つて|厶《ござ》る|丈《だ》けだよ。|人《ひと》は|精霊《せいれい》のサツクの|様《やう》な|者《もの》だからな。アハハハハ』
|伊太《いた》『|精霊《せいれい》のサツク、ヘー、つまらぬものですな。さう|考《かんが》へて|見《み》ると|別《べつ》に|歌《うた》を|稽古《けいこ》したでもなし、|直《すぐ》に|当意即妙《たういそくめう》の|名歌《めいか》が|浮《うか》んで|来《く》ると|思《おも》つたら、|矢張《やつぱり》|守護神《しゆごじん》さまが|仰有《おつしや》つたのですかな。さうすると|私《わたし》の|御本体《ごほんたい》は|何処《どこ》にあるのでせうかな』
|玉国《たまくに》『|人間《にんげん》は|凡《すべ》て|精霊《せいれい》の|宿泊所《しゆくはくしよ》の|様《やう》なものだ。そして|其《その》|精霊《せいれい》は|一方《いつぱう》は|愛善《あいぜん》の|徳《とく》を|受《う》けて|天国《てんごく》に|向《むか》ひ、|一方《いつぱう》は|悪《あく》と|虚偽《きよぎ》との|愛《あい》の|為《ため》に|地獄《ぢごく》に|向《むか》つて|居《ゐ》る。|善悪混淆《ぜんあくこんかう》の|中間状態《ちうかんじやうたい》にゐるのが|所謂《いはゆる》|人間《にんげん》だ。それだから|八衢人足《やちまたにんそく》と|神様《かみさま》が|仰有《おつしや》るのも|決《けつ》して|誣言《ぶげん》ではないよ。どうしても|人間《にんげん》は|愛《あい》の|善《ぜん》と|信《しん》の|真《しん》に|依《よ》つて|所在《あらゆる》|徳《とく》を|積《つ》み|天国天人《てんごくてんにん》の|班《はん》に|加《くは》はらなねばならないのだ。|生《い》き|乍《なが》ら|天人《てんにん》の|列《れつ》に|加《くは》はつて|厶《ござ》るのは、あの|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》だ。あの|様《やう》な|立派《りつぱ》な|御精神《ごせいしん》にならなくては|到底《たうてい》|人間《にんげん》として|生《うま》れて|来《き》た|功能《こうのう》がないのだ。それで|私《わし》|等《たち》も|早《はや》くその|域《ゐき》に|達《たつ》したいと|思《おも》つて|神様《かみさま》の|御用《ごよう》を|勤《つと》めて|居《ゐ》るのだよ』
|斯《か》く|話《はな》す|所《ところ》へ|下女《げぢよ》は|沢山《たくさん》な|馳走《ちそう》を|拵《こしら》へ、
|下女《げぢよ》『さア|皆《みな》さま、|御飯《ごはん》が|出来《でき》ました。|悠《ゆつ》くりお|食《あが》り|下《くだ》さいませ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|膳部《ぜんぶ》を|運《はこ》び|来《く》る。
(大正一二・三・三〇 旧二・一四 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第二三章 |昼餐《ちうさん》〔一四九八〕
|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》は、|鄭重《ていちよう》なる|饗応《きやうおう》をうけ、|神酒《みき》を|汲《く》み|交《かは》し、|主客《しゆきやく》|打《う》ち|解《と》けて、|互《たがひ》に|神恩《しんおん》を|感謝《かんしや》し|祝歌《しゆくか》を|歌《うた》つて|此《この》|席《せき》を|賑《にぎは》した。|玉国別《たまくにわけ》は|盃《さかづき》を|取《と》り、|主人《しゆじん》のバーチルにさし、|自《みづか》ら|酒《さけ》を|注《つ》ぎ|愉快気《ゆくわいげ》に|歌《うた》ふ。
|玉国別《たまくにわけ》『アヅモス|山《さん》の|神《かみ》の|森《もり》 |下津岩根《したついはね》に|千木《ちぎ》|高《たか》く
|大宮柱《おほみやばしら》|太知《ふとし》りて |鎮《しづ》まり|居《ゐ》ますバラモンの
|主神《すしん》とあれます|自在天《じざいてん》 |大国彦《おほくにひこ》の|大神《おほかみ》を
|斎《いつき》|奉《まつ》りし|森林《しんりん》に |神《かみ》の|使《つかひ》と|現《あ》れませる
|猩々彦《しやうじやうひこ》や|猩々姫《しやうじやうひめ》 |如何《いか》なる|宿世《すぐせ》の|因縁《いんねん》か
|深《ふか》き|仔細《しさい》は|分《わか》らねど |此《この》|家《や》の|主《あるじ》の|父《ちち》とます
バークスさまに|玉《たま》の|緒《を》の |尊《たふと》き|命《いのち》を|奪《うば》はれて
|其《その》|精霊《せいれい》の|住所《ぢうしよ》をば |失《うしな》ひ|給《たま》ひ|世継《よつぎ》なる
バーチルさまの|体《たい》に|入《い》り |堅磐常磐《かきはときは》に|鎮《しづ》まりて
スマの|里《さと》なる|人草《ひとぐさ》を |心《こころ》の|底《そこ》より|愛《いつく》しみ
|尊《たふと》き|人《ひと》と|謳《うた》はれて |清《きよ》く|此《この》|世《よ》を|暮《くら》しつつ
|猩々彦《しやうじやうひこ》の|生霊《いくたま》や |猩々姫《しやうじやうひめ》の|精霊《せいれい》が
|導《みちび》くままに|和田《わだ》の|原《はら》 |棚無《たなな》し|舟《ぶね》に|乗《の》り|込《こ》みて
|暇《ひま》ある|毎《ごと》に|漁《すなど》りの |業《わざ》を|楽《たの》しみ|給《たま》ひつつ
|因縁《いんねん》の|綱《つな》に|引《ひ》かされて |猩々《しやうじやう》の|島《しま》へ|漂着《へうちやく》し
|霊《みたま》の|夫婦《ふうふ》が|廻《めぐ》り|合《あ》ひ |互《たがひ》に|睦《むつ》び|親《した》しみて
|人《ひと》|無《な》き|島《しま》に|三年《みとせ》ぶり |過《す》ごさせ|給《たま》ひし|不思議《ふしぎ》さよ
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |玉国別《たまくにわけ》の|一行《いつかう》は
|印度《ツキ》の|都《みやこ》に|現《あ》れませる |大黒主《おほくろぬし》の|神柱《かむばしら》
|言向《ことむ》け|和《やは》し|印度《ツキ》の|国《くに》 |旭《あさひ》|輝《かがや》く|神国《しんこく》と
|立《た》て|直《なほ》さむと|瑞御霊《みづみたま》 |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の
|御言《みこと》かしこみ|遙々《はるばる》と |百《もも》の|悩《なや》みを|忍《しの》びつつ
|彼方《あなた》|此方《こなた》の|聖場《せいぢやう》に |立寄《たちよ》り|功績《いさを》を|立《た》てながら
|尋《たづ》ね|求《もと》めし|三千彦《みちひこ》に |思《おも》はず|知《し》らずテルモンの
|神《かみ》の|館《やかた》に|廻《めぐ》り|遇《あ》ひ |茲《ここ》に|師弟《してい》の|再会《さいくわい》を
|悦《よろこ》び|祝《いは》ひ|皇神《すめかみ》の |御前《みまへ》に|嬉《うれ》しく|感謝《かんしや》しつ
|一行《いつかう》|五人《ごにん》|急坂《きふはん》を |下《くだ》りて|漸《やうや》く|北《きた》の|浜《はま》
|漂渺千里《へうべうせんり》の|埠頭際《はとばぎは》 |波濤《はたう》|眺《なが》むる|折《をり》もあれ
|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|辷《すべ》り|来《く》る |一艘《いつそ》の|船《ふね》に|身《み》を|任《まか》せ
|浪路《なみぢ》|遙《はるか》に|進《すす》む|折《をり》 |恨《うらみ》を|懐《いだ》きしワックスが
|数多《あまた》の|同志《どうし》を|引連《ひきつ》れて |船《ふね》の|底《そこ》より|出《い》で|来《きた》り
|仇《あだ》を|討《う》たむと|迫《せま》り|来《く》る スワ|一大事《いちだいじ》と|一行《いつかう》は
|帯《おび》|締《し》め|直《なほ》す|折《をり》もあれ |浪《なみ》を|辷《すべ》つて|馳来《はせきた》る
|一艘《いつそ》の|船《ふね》に|助《たす》けられ |初稚丸《はつわかまる》と|命名《めいめい》し
|大真人《だいしんじん》が|浪《なみ》の|上《うへ》 |犬《いぬ》の|背《せな》に|跨《またが》りて
|出《い》で|在《ま》す|後《あと》を|慕《した》ひつつ |夜《よ》を|日《ひ》についで|浪《なみ》の|上《うへ》
|進《すす》みて|行《ゆ》けば|罪《つみ》の|島《しま》 |左手《ゆんで》の|方《かた》に|横《よこ》たはる
よくよく|見《み》れば|磯端《いそばた》に |五人《ごにん》の|男《をとこ》が|何事《なにごと》か
|争《あらそ》ひ|居《ゐ》ると|見《み》るよりも |何《なに》か|仔細《しさい》のあるならむ
|近《ちか》より|様子《やうす》を|調《しら》べむと |船《ふね》|漕《こ》ぎ|寄《よ》せて|上陸《じやうりく》し
|五人《ごにん》の|男《をとこ》を|救《すく》ひつつ またもや|船《ふね》に|真帆《まほ》をあげ
|南《みなみ》を|指《さ》して|進《すす》む|折《をり》 |前途《ぜんと》に|当《あた》つて|賊船《ぞくせん》が
|横梯陣《わうていぢん》をはりながら |初稚丸《はつわかまる》を|攻《せ》め|囲《かこ》む
|其《その》|光景《くわうけい》の|怖《おそ》ろしさ |船《ふね》に|救《すく》ひしヤッコスは
|海賊船《かいぞくせん》に|打《う》ち|向《むか》ひ |俺《おれ》は|汝《きさま》の|頭梁株《とうりやうかぶ》
バラモン|教《けう》の|目付役《めつけやく》 ヤッコス|司《つかさ》で|厶《ござ》るぞや
|早《はや》く|退却《たいきやく》|致《いた》せよと |八百長芝居《やほちやうしばゐ》を|巧妙《かうめう》に
|企《たく》みたるこそ|可笑《をか》しけれ |茲《ここ》に|数多《あまた》の|賊船《ぞくせん》は
|舳《へさき》を|北《きた》に|転《てん》じつつ |何処《いづく》ともなく|逃《に》げてゆく
|暗礁《あんせう》|点綴《てんてつ》する|浪路《なみぢ》 |右《みぎ》に|左《ひだり》によけ|乍《なが》ら
いつとはなしに|潮流《てうりう》に |船《ふね》は|乗《の》り|入《い》り|西南《せいなん》に
|向《むか》つてずんずん|流《なが》れ|行《ゆ》く |雲《くも》か|霞《かすみ》か|将《は》た|山《やま》か
|彼方《かなた》に|見《み》ゆる|黒影《くろかげ》は |猩々島《しやうじやうじま》かと|怪《あや》しみつ
やうやう|近《ちか》づき|眺《なが》むれば |数多《あまた》の|小猿《こざる》に|取《と》りかこまれ
|猩々姫《しやうじやうひめ》と|諸共《もろとも》に バーチルさまが|立《た》つて|居《ゐ》た
これぞ|正《まさ》しく|人《ひと》の|子《こ》と |御船《みふね》に|救《すく》ひて|悠々《いういう》と
|還《かへ》る|時《とき》しも|猩々姫《しやうじやうひめ》 |脇《わき》に|抱《いだ》きし|稚子《をさなご》を
|見《み》るも|無慙《むざん》や|締《し》め|殺《ころ》し |其《その》|身《み》は|海《うみ》に|飛《と》び|込《こ》みて
|憐《あは》れや|水沫《みなわ》と|消《き》えましぬ |吾等《われら》|一同《いちどう》ふりかへり
|姫《ひめ》の|情緒《じやうちよ》をしのびつつ |悲歎《ひたん》の|涙《なみだ》に|暮《く》れながら
バラモン|教《けう》の|目付役《めつけやく》 |海賊《かいぞく》|兼《か》ねしヤッコスや
ハール、サボール|三人《さんにん》を |此《この》|猿島《さるじま》に|捨《す》て|置《お》いて
|船歌《ふなうた》|高《たか》く|歌《うた》ひつつ |浪《なみ》のまにまに|帰《かへ》り|来《く》る
|又《また》もや|左手《ゆんで》に|一《ひと》つ|島《じま》 |知《し》らず|知《し》らずに|吾《わが》|船《ふね》は
|島影《しまかげ》|近《ちか》く|進《すす》み|寄《よ》る よくよく|仰《あふ》ぎ|眺《なが》めむれば
|嶮《けは》しき|巌《いはほ》の|中央《ちうあう》に |自然《しぜん》の|岩窟《いはや》|穿《うが》たれて
そこに|怪《あや》しき|人《ひと》の|影《かげ》 |此方《こなた》に|向《むか》つて|手招《てまね》きし
|救《すく》ひを|叫《さけ》ぶ|如《ごと》くなり |逆巻《さかまく》|浪《なみ》を|乗《の》り|越《こ》えて
|船《ふね》を|間近《まぢか》に|漕《こ》ぎ|寄《よ》せつ |近《ちか》づき|見《み》ればバーチルが
|懐刀《ふところがたな》と|頼《たの》みたる |家《いへ》の|奴《やつこ》のアンチーさま
|飛《と》び|出《だ》し|来《きた》り|喜《よろこ》んで |初稚丸《はつわかまる》に|救《すく》ひ|上《あ》げ
|順風《じゆんぷう》に|真帆《まほ》を|上《あ》げながら |浪《なみ》のまにまに|船首《せんしゆ》をば
|東北方《とうほくはう》に|向《む》け|乍《なが》ら スマの|磯辺《いそべ》を|目当《めあて》とし
|帰《かへ》る|折《をり》しもバラモンの |司《つかさ》と|唱《とな》ふる|海賊《かいぞく》が
|八艘《はつさう》の|船《ふね》を|率《ひき》ゐつつ |前途《ぜんと》を|遮《さへぎ》る|執拗《しつえう》さ
|神《かみ》の|力《ちから》に|散《ち》らさむと |天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し
|厳《いづ》の|言霊《ことたま》|打《う》ち|出《だ》せば |其《その》|神徳《しんとく》におそれてか
|列《れつ》を|乱《みだ》して|逃《に》げて|行《ゆ》く ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|折《をり》から|吹《ふ》き|来《く》る|神風《しんぷう》に |櫓櫂《ろかい》を|強《つよ》く|操《あやつ》りつ
スマの|岸辺《きしべ》につき|見《み》れば アキス、カールの|両人《りやうにん》が
いと|嬉《うれ》しげに|迎《むか》へ|居《を》る ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|仕組《しぐみ》の|奇《くし》びなる |猩々《しやうじやう》の|姫《ひめ》は|逸早《いちはや》く
|吾《われ》より|先《さき》に|此《この》|館《やかた》 |主婦《しゆふ》と|在《ま》しますサーベルの
|姫《ひめ》の|体《からだ》に|憑依《のりうつ》り |霊《みたま》の|上《うへ》の|夫婦《ふうふ》なる
|猩々彦《しやうじやうひこ》の|生宮《いきみや》の |帰《かへ》り|来《きた》るを|待《ま》ち|給《たま》ふ
|斯《か》かるためしは|千早《ちはや》ふる |神代《かみよ》もきかぬ|奇蹟《きせき》なり
|霊《みたま》と|霊《みたま》と|肉《にく》と|肉《にく》 |二組《ふたくみ》|揃《そろ》ふた|夫婦連《ふうふづ》れ
|無事《ぶじ》に|館《やかた》に|納《をさ》まりて |神《かみ》の|大道《おほぢ》によく|仕《つか》へ
|此《この》|村人《むらびと》を|愛《いつく》しみ |恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|永久《とこしへ》に
|垂《た》れさせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》 |神《かみ》に|誓《ちか》ひて|願《ね》ぎまつる』
バーチル『|千早《ちはや》ふる|神代《かみよ》の|人《ひと》となり|代《かは》り
|人《ひと》の|初《はじ》めの|嫁《とつ》ぎするかな。
|人《ひと》は|皆《みな》|猩々《しやうじやう》の|子孫《しそん》と|聞《き》くからは
さながら|神世《かみよ》の|心地《ここち》こそすれ』
|伊太彦《いたひこ》『|人《ひと》は|人《ひと》|獣《けもの》は|獣《けもの》|昔《むかし》から
|其《その》|肉体《にくたい》に|差別《さべつ》あるなり。
さりながら|神《かみ》よりうけし|霊魂《たましひ》は
|人《ひと》も|猩々《しやうじやう》も|変《かは》らざるらむ』
サーベル|姫《ひめ》『|何事《なにごと》も|神《かみ》のまにまに|仕《つか》へなむ
|玉国別《たまくにわけ》に|救《すく》はれし|身《み》は』
|玉国別《たまくにわけ》『|玉国《たまくに》の|別《わけ》の|司《つかさ》の|功績《いさを》ならず
|皆《みな》|皇神《すめかみ》の|守《まも》りなりけり』
|真純彦《ますみひこ》『いざさらばこれの|宴会《うたげ》を|切《き》り|上《あ》げて
|厳《いづ》の|御前《みまへ》に|神祭《かみまつ》りせむ』
|玉国別《たまくにわけ》『|神司《かむづかさ》|宿《やど》の|主《あるじ》も|諸共《もろとも》に
|厳《いづ》の|御祭《みまつ》り|仕《つか》へまつれよ』
|漸《やうや》く|酒宴《しゆえん》を|終《をは》り|各《おのおの》|身体《しんたい》を|浄《きよ》め|汗染《あせじん》だ|衣服《いふく》を|着替《きか》へ、|感謝《かんしや》の|祭典《さいてん》|準備《じゆんび》に|着手《ちやくしゆ》する|事《こと》となつた。
(大正一二・三・三〇 旧二・一四 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第二四章 |礼祭《れいさい》〔一四九九〕
|愈《いよいよ》|祭典《さいてん》の|準備《じゆんび》にとりかかるべく|三千彦《みちひこ》、デビス|姫《ひめ》、バーチル、サーベルの|二夫婦《ふたふうふ》は|下男《げなん》にも|下女《げぢよ》にも|構《かま》はさず、せつせと|神饌物《しんせんもの》の|調理《てうり》に|熱中《ねつちう》して|居《ゐ》る。
|三千《みち》『もし、バーチルさま、|私《わたし》はお|察《さつ》しの|通《とほ》り|三五教《あななひけう》のヘボ|宣伝使《せんでんし》ですが、バラモンの|大神様《おほかみさま》の|神饌《しんせん》を|拵《こしら》へるのは|今《いま》が|初《はじ》めてで|厶《ござ》いますよ。|何《なん》だか|奥歯《おくば》に|物《もの》が、こまつた|様《やう》な|気分《きぶん》が|致《いた》しますわ。ハハハハハ』
バーチル『うつかりして|居《ゐ》ましたが|如何《いか》にも|吾々《われわれ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》に|助《たす》けられ、|又《また》|三五教《あななひけう》の|大神様《おほかみさま》の|御神徳《ごしんとく》を|感謝《かんしや》してる|者《もの》で|厶《ござ》いますから、どうしても|三五《あななひ》の|神様《かみさま》の|祭典《さいてん》を|第一《だいいち》に|致《いた》さねばなりませぬ。|如何《どう》でせうか』
|三千《みち》『さうですな。|神様《かみさま》はもとは|一株《ひとかぶ》ですから、どちらにしても|同《おな》じ|様《やう》なものの|神代《かみよ》からの|歴史《れきし》を|考《かんが》へて|見《み》ますと、|三五教《あななひけう》は|国治立《くにはるたち》の|大神様《おほかみさま》、|其《その》|外《ほか》|諸々《もろもろ》の|神様《かみさま》から|押籠《おしこ》められた|方《はう》の|神様《かみさま》で、|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》とは、|人間《にんげん》|同士《どうし》なら|敵同志《かたきどうし》の|様《やう》な|者《もの》ですが、|然《しか》し|神様《かみさま》のお|心《こころ》は|人間《にんげん》の|心《こころ》と|違《ちが》つて|寛大《くわんだい》なもので、|少《すこ》しも|左様《さやう》な|事《こと》に|御頓着《ごとんちやく》なく、|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》をお|助《たす》け|遊《あそ》ばさうと|思《おも》つて、バラモン|教《けう》を|言向和《ことむけやは》す|為《ため》に|吾々《われわれ》をお|遣《つか》はしになるのですからね。|然《しか》し|私《わたし》では|到底《とても》|決断《けつだん》がつきませぬから、|一寸《ちよつと》|之《これ》からお|師匠様《ししやうさま》に|伺《うかが》つて|参《まゐ》ります』
バーチル『はい、それは|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|序《ついで》に|先祖様《せんぞさま》の|霊《みたま》も|三五教《あななひけう》で|祭《まつ》つて|頂《いただ》き|度《た》う|厶《ござ》いますが、|之《これ》も|差支《さしつかへ》がないか|伺《うかが》つて|来《き》て|下《くだ》さいませぬか』
|三千彦《みちひこ》は『|承知《しようち》|致《いた》しました』と|此《この》|場《ば》を|立《た》つて|玉国別《たまくにわけ》の|居間《ゐま》に|打通《うちとほ》り、バーチルがバラモン|教《けう》を|脱退《だつたい》し、|三五教《あななひけう》に|入信《にふしん》し、|三五《あななひ》の|大神《おほかみ》を|祭《まつ》つて|貰《もら》ひ|度《た》い|事《こと》、|並《ならび》に|祖霊祭《それいさい》を|三五教《あななひけう》にて|営《いとな》み|度《た》い|事《こと》|等《など》の|願《ねがひ》を|告《つ》げ、|玉国別《たまくにわけ》に|対《たい》し|先《ま》づ|第一《だいいち》に|祖霊祭《それいさい》に|就《つ》いて|教示《けうじ》を|乞《こ》ふた。
|三千《みち》『|先生《せんせい》、|人間《にんげん》は|現世《げんせ》を|去《さ》つて|霊界《れいかい》へ|行《い》つた|時《とき》は、|極善者《ごくぜんしや》の|霊身《れいしん》は|直《ただ》ちに|天国《てんごく》に|上《のぼ》りて|天人《てんにん》と|相伍《あひご》し|天国《てんごく》の|生活《せいくわつ》を|営《いとな》み、|現界《げんかい》との|連絡《れんらく》が|切《き》れるとすれば、|現界《げんかい》にある|子孫《しそん》は|父祖《ふそ》の|霊祭《れいさい》などをする|必要《ひつえう》は|無《な》いものの|様《やう》に|思《おも》はれますが、それでも|祖霊祭《それいさい》を|為《し》なくてはならないのでせうか。|吾々《われわれ》の|考《かんが》へでは|真《まこと》に|無益《むえき》な|無意義《むいぎ》なことの|様《やう》に|感《かん》じられますがなア』
|玉国《たまくに》『|何程《なにほど》|天国《てんごく》へ|往《い》つて|地上現人《ちじやうげんじん》との|連絡《れんらく》が|断《た》たれたと|言《い》つても、|愛《あい》の|善《ぜん》と|信《しん》の|真《しん》とは|天地《てんち》に|貫通《くわんつう》して|少《すこ》しも|遅滞《ちたい》せないものである。|子孫《しそん》が|孝《かう》のためにする|愛善《あいぜん》と|信真《しんしん》の|籠《こ》もつた|正《ただ》しき|清《きよ》き|祭典《さいてん》が|届《とど》かないと|云《い》ふ|道理《だうり》は|決《けつ》して|無《な》い。|天国《てんごく》にあつても|矢張《やは》り|衣食住《いしよくぢう》の|必要《ひつえう》がある。|子孫《しそん》の|真心《まごころ》よりする|供物《くもつ》や|祭典《さいてん》は、|霊界《れいかい》にあるものをして|歓喜《くわんき》せしめ、|且《か》つその|子孫《しそん》の|幸福《かうふく》を|守《まも》らしむるものである』
|三千《みち》『|中有界《ちううかい》にある|精霊《せいれい》は|何程《なにほど》|遅《おそ》くても|三十年《さんじふねん》|以上《いじやう》|居《ゐ》ないといふ|教《をしへ》を|聞《き》きましたが、その|精霊《せいれい》が|現世《げんせ》に|再生《さいせい》して|人間《にんげん》と|生《うま》れた|以上《いじやう》は、|祖霊祭《それいさい》の|必要《ひつえう》は|無《な》いやうですが、|斯《か》ういふ|場合《ばあひ》でも|矢張《やは》り|祖霊祭《それいさい》の|必要《ひつえう》があるのですか』
|玉国《たまくに》『|顕幽一致《けんいういつち》の|神律《しんりつ》に|由《よ》つて、|例《たと》へその|精霊《せいれい》が|現界《げんかい》に|再生《さいせい》して|人間《にんげん》となり|霊界《れいかい》に|居《を》らなくても、|矢張《やは》り|祭典《さいてん》は|立派《りつぱ》に|執行《しつかう》するのが|祖先《そせん》に|対《たい》する|子孫《しそん》の|勤《つと》めである。|祭祀《さいし》を|厚《あつ》くされた|人《ひと》の|霊《みたま》は|霊界《れいかい》|現界《げんかい》の|区別《くべつ》なく、その|供物《くもつ》を|歓喜《くわんき》して|受《う》けるものである。|現世《げんせ》に|生《うま》れて|居《ゐ》ながら|猶《なほ》|且《か》つ|依然《いぜん》として|霊祭《みたままつり》を|厳重《げんぢう》に|行《おこな》ふて|貰《もら》ふて|居《ゐ》る|現人《げんじん》は|日々《にちにち》の|生活上《せいくわつじやう》においても、|大変《たいへん》な|幸福《かうふく》を|味《あぢ》はふことになるのである。|故《ゆゑ》に|祖霊《それい》の|祭祀《さいし》は|三十年《さんじふねん》どころか、|相成《あひな》るべくは|千年《せんねん》も|万年《まんねん》の|祖霊《それい》も、|子孫《しそん》たるものは|厳粛《げんしゆく》に|勤《つと》むべきものである。|地獄《ぢごく》に|落《お》ちた|祖霊《それい》などは|子孫《しそん》の|祭祀《さいし》の|善徳《ぜんとく》に|由《よ》つて、|忽《たちま》ち|中有界《ちううかい》に|昇《のぼ》り|進《すす》んで|天国《てんごく》に|上《のぼ》ることを|得《う》るものである。|又《また》|子孫《しそん》が|祭祀《さいし》を|厚《あつ》くして|呉《く》れる|天人《てんにん》は、|天国《てんごく》に|於《おい》ても|極《きは》めて|安逸《あんいつ》な|生涯《しやうがい》を|送《おく》り|得《え》られ、その|天人《てんにん》が|歓喜《くわんき》の|余波《よは》は|必《かなら》ず|子孫《しそん》に|自然《しぜん》に|伝《つた》はり|子孫《しそん》の|繁栄《はんえい》を|守《まも》るものである。|何《な》んとなれば|愛《あい》の|善《ぜん》と|信《しん》の|真《しん》は|天人《てんにん》の|神格《しんかく》と|現人《げんじん》(|子孫《しそん》)の|人格《じんかく》とに|内流《ないりう》して|何処迄《どこまで》も|断絶《だんぜつ》せないからである』
|三千《みち》『ウラル|教《けう》や|波羅門教《ばらもんけう》の|儀式《ぎしき》に|由《よ》つて|祖霊《それい》を|祭《まつ》つたものは、|各自《かくじ》その|所主《しよしゆ》の|天国《てんごく》へ|行《い》つて|居《を》るでせう。|夫《そ》れを|三五教《あななひけう》に|改式《かいしき》した|時《とき》はその|祖霊《それい》は|何《ど》うなるものでせうか』
|玉国《たまくに》『|人《ひと》の|精霊《せいれい》や|又《また》は|天人《てんにん》なるものは、|霊界《れいかい》に|在《あ》つて|絶《た》えず|智慧《ちゑ》と|証覚《しようかく》と|善真《ぜんしん》を|了得《れうとく》して|向上《かうじやう》せむことをのみ|望《のぞ》んで|居《を》るものです。|故《ゆゑ》に|現界《げんかい》に|在《あ》る|子孫《しそん》が|最《もつと》も|善《ぜん》と|真《しん》とに|透徹《とうてつ》した|宗教《しうけう》を|信《しん》じて、その|教《をしへ》に|準拠《じゆんきよ》して|祭祀《さいし》を|行《おこな》つて|呉《く》れることを|非常《ひじやう》に|歓喜《くわんき》するものである。|天人《てんにん》と|雖《いへど》も|元《もと》は|人間《にんげん》から|向上《かうじやう》したものだから|人間《にんげん》の|祖先《そせん》たる|以上《いじやう》は、|仮令《たとへ》|天国《てんごく》に|安住《あんぢう》するとも|愛《あい》と|真《しん》との|情動《じやうどう》は|内流的《ないりうてき》に|連絡《れんらく》して|居《ゐ》るものだから、|子孫《しそん》が|証覚《しようかく》の|最《もつと》も|優《すぐ》れた|宗教《しうけう》に|入《い》り、その|宗《しう》の|儀式《ぎしき》に|由《よ》つて、|自分《じぶん》|等《たち》の|霊《れい》を|祭《まつ》り|慰《なぐさ》めて|呉《く》れることは、|天人《てんにん》|及《およ》び|精霊《せいれい》|又《また》は|地獄《ぢごく》に|落《お》ちた|霊身《れいしん》に|取《と》つても、|最善《さいぜん》の|救《すく》ひと|成《な》り、|歓喜《くわんき》となるものである。|天国《てんごく》の|天人《てんにん》にも|善《ぜん》と|真《しん》との|向上《かうじやう》を|望《のぞ》んで|居《を》るのだから、|現在《げんざい》|地上人《ちじやうじん》が|最善《さいぜん》と|思惟《しゐ》する|宗教《しうけう》を|信《しん》じ、|且《か》つ|又《また》|祖先《そせん》の|奉《ほう》じて|居《ゐ》た|宗教《しうけう》を|止《や》めて|三五教《あななひけう》に|入信《にふしん》した|所《ところ》で、|別《べつ》に|祖霊《それい》に|対《たい》して|迷惑《めいわく》をかけるものでない。|又《また》|祖霊《それい》が|光明《くわうみやう》に|向《むか》つて|進《すす》むのだから|決《けつ》して|迷《まよ》ふやうな|事《こと》は|無《な》いのだ。|否《いな》|却《かへつ》て|祖霊《それい》は|之《これ》を|歓喜《くわんき》し、|天国《てんごく》に|在《あ》つて|其《その》|地位《ちゐ》を|高《たか》め|得《う》るものである。|故《ゆゑ》に|吾々《われわれ》|現身人《げんしんじん》は|祖先《そせん》に|対《たい》して|孝養《かうやう》のために|最善《さいぜん》と|認《みと》めた|宗教《しうけう》に|信仰《しんかう》を|進《すす》め、その|教《をしへ》に|由《よ》つて|祖先《そせん》の|霊《れい》に|満足《まんぞく》を|与《あた》へ、|子孫《しそん》たるの|勤《つと》めを|大切《たいせつ》に|遵守《じゆんしゆ》せなくてはならぬのである。アア|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
|三千《みち》『はい、|有難《ありがた》う|厶《ござ》いました。|当家《たうけ》の|主人《しゆじん》も、それで|安心《あんしん》|致《いた》しませう。それから、も|一《ひと》つお|尋《たづ》ねが|厶《ござ》いますが、バラモンの|神様《かみさま》を|如何《どう》いたしたら|宜《よろ》しいでせう』
|玉国《たまくに》『|祠《ほこら》の|森《もり》の|聖場《せいぢやう》でさへも|御三体《ごさんたい》の|大神様《おほかみさま》を|初《はじ》め|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》を|祀《まつ》つてあるのだから、|別《べつ》に|排斥《はいせき》するに|及《およ》ばぬぢやないか。|今《いま》|迄《まで》|此《この》|家《いへ》もバラモン|神《がみ》の|神徳《しんとく》を|享《う》けて|来《き》たのだから、そんな|薄情《はくじやう》な|事《こと》も|出来《でき》まい』
|三千《みち》『アヅモス|山《さん》の|聖地《せいち》にはバラモン|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》のお|宮《みや》が|建《た》つて|居《ゐ》るさうですが、|此《この》|際《さい》|主人《しゆじん》に|吩咐《いひつ》けて|祠《ほこら》の|森《もり》の|様《やう》にお|宮《みや》を|建《た》てさせ、あの|式《しき》に|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》を|脇《わき》に|祀《まつ》つたら|如何《いかが》で|厶《ござ》いませうか』
|玉国《たまくに》『|一度《いちど》|主人《しゆじん》を|呼《よ》んで|来《き》て|呉《く》れ。|宮《みや》を|建《た》てるとなると、さう|軽々《かるがる》しくは|行《ゆ》かぬから|一応《いちおう》|意見《いけん》を|聞《き》いて|見《み》る|積《つも》りだ』
|三千《みち》『はい、|承知《しようち》|致《いた》しました。|直様《すぐさま》|呼《よ》んで|参《まゐ》ります』
と、もとの|神饌調理室《しんせんてうりしつ》に|引返《ひきかへ》し、|祖霊祭《それいさい》に|関《くわん》する|玉国別《たまくにわけ》の|教示《けうじ》を|伝《つた》へ、|且《かつ》……|神霊奉斎《しんれいほうさい》に|就《つ》いて|師匠様《ししやうさま》がお|尋《たづ》ねし|度《た》いと|仰有《おつしや》るから|一寸《ちよつと》|来《き》て|下《くだ》さい……とバーチルを|誘《いざな》ひ、|玉国別《たまくにわけ》|等《ら》の|居間《ゐま》に|帰《かへ》つて|来《き》た。
|玉国《たまくに》『あ、バーチルさま、|貴方《あなた》はアヅモスの|森《もり》の|天王様《てんわうさま》のお|宮《みや》を、|如何《どう》なさるお|考《かんが》へで|厶《ござ》いますか』
バーチル『はい、|先祖代々《せんぞだいだい》お|祀《まつ》りして|来《き》たお|宮様《みやさま》なり、|又《また》|私《わたし》の|精霊《せいれい》が|眷族《けんぞく》として|仕《つか》へて|居《を》つたのですから、|今《いま》|俄《にはか》に|三五教《あななひけう》に|這入《はい》つたと|云《い》つて|直《すぐ》に|祀《まつ》り|変《か》へる|事《こと》は|如何《どう》かと|考《かんが》へます。これに|就《つ》いては|貴方様《あなたさま》にゆるゆるお|尋《たづ》ね|致《いた》し|度《た》いと|思《おも》つてゐました。|先生《せんせい》のお|考《かんが》へは|如何《いかが》で|厶《ござ》いませうか』
|玉国《たまくに》『|私《わたし》の|考《かんが》へとしてはアヅモス|山《さん》の|森林《しんりん》に|新《あらた》にお|宮《みや》を|二棟《ふたむね》|建造《けんざう》し、|一方《いつぱう》は|三五《あななひ》の|大神様《おほかみさま》、|一方《いつぱう》は|今《いま》の|天王様《てんわうさま》を|奉斎《ほうさい》し、さうして|猩々ケ島《しやうじやうがしま》に|残《のこ》つて|居《ゐ》る|小猿《こざる》を、|数十艘《すうじつさう》の|船《ふね》を|用意《ようい》して|迎《むか》へ|来《きた》り、|序《ついで》にバラモン|組《ぐみ》の|三人《さんにん》も|助《たす》けて|帰《かへ》る|様《やう》にし|度《た》いもので|厶《ござ》います。それが|神様《かみさま》に|対《たい》しても、|貴方《あなた》の|守護神《しゆごじん》に|対《たい》しても|最善《さいぜん》の|方法《はうはふ》だと|考《かんが》へます』
バーチル『|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|実《じつ》の|所《ところ》は|最前《さいぜん》から|何卒《どうぞ》さう|願《ねが》ひ|度《た》いものだと、|家内《かない》とひそびそ|話《はなし》をして|居《を》りました。あの|小猿《こざる》|共《ども》は|皆《みな》|猩々姫《しやうじやうひめ》の|子《こ》で|厶《ござ》いますから、|如何《どう》しても|自分《じぶん》の|手近《てぢか》に|引寄《ひきよ》せ|度《た》いのは|当然《たうぜん》で|厶《ござ》います。|私《わたし》も|何《なん》だか|猩々《しやうじやう》の|親《おや》になつた|様《やう》な、|妙《めう》な|気分《きぶん》が|致《いた》します。|何卒《どうぞ》さうして|下《くだ》さらば、これに|越《こ》したる|喜《よろこ》びは|厶《ござ》いませぬ』
|玉国《たまくに》『|貴方《あなた》の|決心《けつしん》が|定《きま》れば|直様《すぐさま》、その|準備《じゆんび》にかかる|事《こと》に|致《いた》しませう。|併《しか》し|乍《なが》ら|今日《けふ》は|只《ただ》|大神様《おほかみさま》へ|感謝《かんしや》の|祭典《さいてん》をする|許《ばか》りですから、|三五《あななひ》の|大神《おほかみ》とバラモンの|大神《おほかみ》を|並《なら》べて|祭《まつ》り、|下男《げなん》|下女《げぢよ》の|端《はし》に|至《いた》る|迄《まで》|参拝《さんぱい》させておやりなさるが|宜《よろ》しう|厶《ござ》いませう』
バーチル『はい、|何《なに》から|何《なに》|迄《まで》|御親切《ごしんせつ》なお|気付《きづ》け、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。
|人《ひと》の|親《おや》は|猿《さる》より|出《い》でしと|聞《き》きつるに
|猿《さる》の|親《おや》とぞなりにけるかな。
さる|昔《むかし》|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|古《いにし》より
きれぬ|縁《えにし》につながれし|吾《われ》』
|玉国別《たまくにわけ》『|天王《てんわう》の|森《もり》に|長《なが》らく|仕《つか》へたる
その|神徳《しんとく》で|人《ひと》の|宿《やど》かる。
|肉体《からたま》はよし|猩々《しやうじやう》と|生《うま》るとも
|霊魂《みたま》は|清《きよ》し|神《かみ》の|御使《みつかひ》』
バーチル『|有難《ありがた》し|宣《の》り|直《なほ》したる|師《し》の|君《きみ》の
|言葉《ことば》に|妻《つま》も|嘸《さぞ》|勇《いさ》むらむ。
|人猿《じんゑん》と|仮令《たとへ》|世人《よびと》は|笑《わら》ふとも
|罪《つみ》をとり【さる】|神《かみ》となりなむ』
かく|歌《うた》ひ|慌《あは》ただしく|神饌所《しんせんしよ》に|引返《ひきかへ》し、|用意《ようい》|万端《ばんたん》|整《ととの》へて|茲《ここ》に|芽出度《めでた》く|感謝祭《かんしやさい》を|執行《しつかう》する|事《こと》となつた。|玉国別《たまくにわけ》は|主人《しゆじん》の|乞《こひ》に|依《よ》つて|祭主《さいしゆ》となり、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|終《をは》つて|感謝《かんしや》の|歌《うた》を|奉《たてまつ》つた。
|玉国別《たまくにわけ》『|朝日《あさひ》|刺《さ》す|夕日《ゆふひ》の|照《て》らすアヅモスの、 |常磐堅磐《ときはかきは》の|森《もり》の|辺《へ》に、 |弥《いや》|永久《とこしへ》に|鎮《しづ》まり|玉《たま》ふ、 |大国彦《おほくにひこ》の|大神《おほかみ》の、 |珍《うづ》の|使《つかひ》と|仕《つか》へたる、 |猩々彦《しやうじやうひこ》の|精霊《せいれい》の、 |懸《かか》り|玉《たま》へる|館《やかた》の|主人《あるじ》、 バーチル|司《つかさ》に|代《かは》り|玉国別《たまくにわけ》の|神司《かむづかさ》、 |三五教《あななひけう》の|大御神《おほみかみ》、 バラモン|教《けう》の|大神《おほかみ》の、 |珍《うづ》の|御前《みまへ》に|慎《つつし》みて、 |吾々《われわれ》|一行《いつかう》は|云《い》ふも|更《さら》、 バーチル|初《はじ》めアンチーが、 |三年《みとせ》の|憂《う》きを|凌《しの》ぎつつ、 |漸《やうや》くここに|帰《かへ》りけるは、 |皇大神《すめおほかみ》のお|計《はか》らひと、 |喜《よろこ》び|敬《うやま》ひ|大御恵《おほみめぐ》みの、 |千重《ちへ》の|一重《ひとへ》にも|報《むく》い|奉《まつ》らむとして、 |山海河野《やまうみかはの》|種々《くさぐさ》の|珍味《うましもの》を、 |八足《やたり》の|机代《つくゑしろ》に、 |所《ところ》|狭《せ》き|迄《まで》|置《お》き|並《なら》べ、 |神酒《みき》は|甕《みか》の|瓶《へ》|甕《みか》の|腹《はら》|充《み》て|並《なら》べて、 |御水《みもひ》|堅塩《かたしほ》|大御饌《おほみけ》|奉《たてまつ》る|事《こと》の|由《よし》を、 |完全《うまら》に|委曲《つばら》に|聞召《きこしめ》し、 これの|館《やかた》の|人々《ひとびと》を|初《はじ》め、 |三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》、 スマの|里《さと》の|人々《ひとびと》を、 |厚《あつ》く|守《まも》らせ|玉《たま》へかしと、 |大御前《おほみまへ》に|摺伏《ひれふ》して、 |畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|仕《つか》へ|奉《たてまつ》る |惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|感謝祭《かんしやさい》も|無事《ぶじ》に|終了《しうれう》した。|玉国別《たまくにわけ》|一行《いつかう》は|美《うる》はしき|閑静《かんせい》な|離《はな》れ|座敷《ざしき》を|与《あた》へられ、|海上《かいじやう》の|疲労《つかれ》を|癒《い》やすべく、|師弟《してい》|五人《ごにん》は|足《あし》を|伸《の》ばして|休養《きうやう》する|事《こと》となつた。
(大正一二・三・三〇 旧二・一四 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第二五章 |万歳楽《ばんざいらく》〔一五〇〇〕
テクは、アキス、カールと|共《とも》に|番頭頭《ばんとうがしら》になつたやうな|気持《きもち》で、|捻鉢巻《ねぢはちまき》をしながら|褌《まはし》|一《ひと》つになり|倉《くら》から|酒《さけ》を|担《かつ》ぎ|出《だ》し、|樽《たる》の|詰《つめ》を|抜《ぬ》いて、|柄杓《ひしやく》の|口《くち》からグイと|一口《ひとくち》|呑《の》んでは|他愛《たあい》もなく|喋《しやべ》りつづけて|居《ゐ》る。|数百人《すうひやくにん》の|里人《さとびと》は|貴賤老若《きせんらうにやく》の|隔《へだ》てなく、
『バーチルさまが|帰《かへ》られた。|旦那様《だんなさま》の|無事《ぶじ》お|帰《かへ》りだ』
と|目《め》【やに】を|溜《た》めた|婆《ば》アさま、|鼻《はな》を|垂《た》らしたお|爺《ぢい》さま、|鼻曲《はなまが》り、|聾《つんぼ》、|盲《めくら》|迄《まで》が|押《お》し|寄《よ》せ|来《きた》り、|広《ひろ》き|邸内《ていない》に|酒樽《さかだる》の|鏡《かがみ》を|抜《ぬ》いて|一生懸命《いつしやうけんめい》に|唄《うた》ひ|舞《ま》ひなどして|底《そこ》ぬけ|騒《さわ》ぎをして|居《ゐ》る。テクは|得意《とくい》の|頂上《ちやうじやう》に|達《たつ》し、
テク『オイ、アキス、カール|確《しつか》りせないか、よくお|客《きやく》さまの|様子《やうす》を|調《しら》べ、|落《お》ち|度《ど》のないやうに|一人《ひとり》もお|神酒《みき》を|頂《いただ》かぬ|落伍者《らくごしや》のないやう|気《き》をつけるのだよ。|何《なに》を|云《い》ふても|俺《おれ》のやうな|清浄潔白《しやうじやうけつぱく》の|霊《みたま》でないものは|隅々《すみずみ》|迄《まで》|気《き》が|付《つ》かないからな。|走《はし》り|元《もと》、|雪隠《せつちん》の|中《なか》、|物置《ものおき》の|隅々《すみずみ》|迄《まで》も|気《き》の|付《つ》く|奴《やつ》でないと|誠《まこと》の|御用《ごよう》は|務《つと》まらぬぞよ。ああ|甘《うま》い|酒《さけ》だ。|俺《おれ》は|此《この》|家《いへ》の|部下《ぶか》だ、|猩々《しやうじやう》|位《ぐらゐ》|呑《の》み|倒《たふ》したつて、|何《なん》と|云《い》つたつてイヅミの|国《くに》|切《き》つての|豪家《がうか》だから|大《たい》したものだ。「|立寄《たちよ》れば|大樹《たいじゆ》の|蔭《かげ》だ。|箸《はし》と|親方《おやかた》は|大《おほ》きなのがよい」と|云《い》ふから、|俺《おれ》も|今日《けふ》からスパイを|廃《や》めて、バーチルさまの|一《いち》の|番頭《ばんとう》に|自分《じぶん》から|定《き》めて|成《な》つたのだから、|今後《こんご》は|俺《おれ》の|命令《めいれい》に|従《したが》ふのだよ。よいか、アキス、カール、のうアキス、カール、それでよいだらう。ヨイトサのヨイトサ、|好《よ》い|酒《さけ》、|好《よ》い|酒《さけ》、|酔《よ》うて|酔《よ》うておいしうてようて、|酔《よひ》が|廻《まは》つて、|酔《よ》うて、|甘《うま》うて|酔《よ》うて、ヨイヨイのテクテクだ。|猩々彦《しやうじやうひこ》の|四《よ》つ|手《で》のテクさまと|云《い》へば|俺《おれ》の|事《こと》だぞ。なんぼテクさまと|云《い》ふても|手癖《てくせ》は|悪《わる》くないから、|其《その》|積《つもり》で|居《を》つて|呉《く》れ』
アキス『ヘン、|俄《にはか》に|番頭顔《ばんとうがほ》をしよつて|偉《えら》さうに|云《い》ふない。|併《しか》し|乍《なが》ら|今日《けふ》はお|目出度《めでた》い|日《ひ》だから、|喧嘩《けんくわ》はやめて|置《お》かう。|今日《けふ》|一日《いちにち》の|番頭《ばんとう》だから、|何《なん》なりと|勝手《かつて》の|熱《ねつ》を|吹《ふ》いたがよいわ。のうカール』
カール『ウンさうだ。テクが|云《い》つて|居《ゐ》るのぢやない、|振舞《ふるま》ひ|酒《ざけ》が|云《い》つて|居《ゐ》るのだ。|酒《さけ》と|云《い》ふものは|狂水《きやうすい》と|云《い》ふが、ほんとに|面白《おもしろ》いものだなア。|俺達《おれたち》の|下戸《げこ》でも|一口《ひとくち》|呑《の》めば|気持《きもち》がハキハキして|来《く》るやうだ』
アキス『オイ、たつた|一口《ひとくち》と|云《い》ふたが、|最前《さいぜん》から|随分《ずゐぶん》|沢山《どつさり》|引《ひ》つかけたぢやないか。まるで|牛《うし》か|象《ざう》かが、|雑水《ざふすゐ》を|呑《の》むやうだつたよ』
カール『|定《き》まつた|事《こと》だよ。|五升徳利《ごしようどつくり》に|一口《ひとくち》ぢやほんの|少々《せうせう》ながら、ごしよごしよとやつて|見《み》たら、|俺《おれ》の|頬《ほほ》べたにほんのりと|紅《くれなゐ》の|花《はな》が|咲《さ》きかけたのだ、エヘヘヘヘ』
アキス『オイ|貴様《きさま》は|奥様《おくさま》から、|余《あま》り|円《まる》い|顔《かほ》をして|居《ゐ》るので|望月《もちづき》とか|餅《もち》が|好《す》きだとか|云《い》はれたぢやないか。|餅《もち》の|好《す》きな|奴《やつ》は|酒《さけ》を|呑《の》まぬものだが、|貴様《きさま》は|山川道楽《やまかはだうらく》だな。|俺《おれ》は|酒《さけ》は|一滴《いつてき》も|呑《の》まないと|云《い》ふて|赤《あか》い|顔《かほ》をしたり、|熟柿《じゆくし》|臭《くさ》い|息《いき》をしたりしたのは|内証《ないしよう》で|呑《の》んで|居《ゐ》たのだな、たうとう|化《ばけ》を|現《あら》はしやがつたな、|化虎《ばけとら》め』
カール『|定《きま》つた|事《こと》だい。いつも|酒倉《さかぐら》の|番《ばん》|許《ばか》りやらされて|居《ゐ》るのだもの、|樽《たる》に|錐穴《きりあな》をあけ、|麦藁《むぎわら》を|突《つ》つ|込《こ》んで、チウチウと|鼠鳴《ねずみな》きをして|居《ゐ》たのだ。そして|其《その》|後《あと》へ|釘《くぎ》を|突《つ》つ|込《こ》んで|置《お》くのだ。|貴様《きさま》は|長《なが》らく|俺《おれ》と|一緒《いつしよ》の|奉公《ほうこう》しておきながらノロ|作《さく》だなア』
アキス『|併《しか》し|此方《こなた》の|旦那様《だんなさま》は、|昔《むかし》から|酒《さけ》|許《ばか》り|沢山《たくさん》|作《つく》つて|売《う》るでもなく、|二十戸前《にじつとまへ》の|倉《くら》に|酒《さけ》を|蓄《たくは》へて|居《ゐ》るのは|不思議《ふしぎ》と|思《おも》つて|居《ゐ》たら、|矢張《やつぱり》|斯《か》う|云《い》ふ|時《とき》の|間《ま》に|合《あは》さうと|思《おも》つて|準備《じゆんび》して|居《ゐ》たのだな。ほんとに|偉《えら》い|人《ひと》ぢやないか』
カール『|併《しか》しアキス、|旦那様《だんなさま》と|奥《おく》さまに|天王《てんのう》の|森《もり》の|猩々《しやうじやう》が|憑《つい》て|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》ぢやないか。|俺《おれ》は|一寸《ちよつと》|次《つぎ》の|間《ま》から|聞《き》いて|居《ゐ》たが、ほんとに|不思議《ふしぎ》の|事《こと》だ。|貴様《きさま》どう|思《おも》ふか』
アキス『ウンそれが、【しやうじやうむく】(|清浄無垢《しやうじやうむく》)の|霊《みたま》と|云《い》ふのだらうかい。|何《なん》と|云《い》つても|旦那様《だんなさま》も|奥様《おくさま》も|人民《じんみん》を|憐《あはれ》みなさるから|里人《さとびと》の|人望《うけ》はよし、あんな|慈悲深《じひぶか》い|人《ひと》が、なぜ|三年《さんねん》も|離島《はなれじま》へ|行《い》つて|苦労《くらう》をなさつたかと|思《おも》へば、|神《かみ》も|仏《ほとけ》も|此《この》|世《よ》に|無《な》い|事《こと》かと|思《おも》ふは。|併《しか》しまアまア|帰《かへ》つて|下《くだ》さつて|奥様《おくさま》は|云《い》ふに|及《およ》ばず、スマの|里人《さとびと》がどれ|丈《だ》け|喜《よろこ》ぶ|事《こと》か|知《し》れないのう。|何《なん》ぢや|門《もん》の|方《はう》が|大変《たいへん》|賑《にぎや》かうなつて|来《き》た。|一《ひと》つ|調《しら》べて|見《み》ようか』
と|表口《おもてぐち》へ|駆《か》け|出《だ》して|来《き》た。
|見《み》ればテクは|大柄杓《おほびしやく》を|肩《かた》にかつぎ|乍《なが》ら|大勢《おほぜい》の|中央《まんなか》に|立《た》つて、|自《みずか》ら|踊《をど》り|狂《くる》うて|居《ゐ》る。|大勢《おほぜい》は|囃《はや》し|立《た》てて|居《ゐ》る。
テク『エーーーさても|目出《めで》たや |此方《こなた》の|館《やかた》、ヨイヨイ
|三年振《さんねんぶり》に|御主人《ごしゆじん》が |目出度《めでたく》お|帰《かへ》り|遊《あそ》ばした
|第一《だいいち》|奥《おく》さまのお|喜《よろこ》び |其《その》|次《つぎ》|坊《ぼつ》ちやま|番頭《ばんとう》さま
アキス、カールを|初《はじ》めとし ヨイヨイ
イヅミの|国《くに》のスマの|里《さと》 |老若男女《らうにやくなんによ》がより|集《つど》ひ
|二十戸前《にじつとまへ》の|酒倉《さかぐら》を ヨイヨイ
|開放《かいはう》|遊《あそ》ばし|皆《みな》さまに |呑《の》んで|呉《く》れよと|放《ほ》り|出《だ》した
その|肝玉《きもだま》の|太《ふと》い|事《こと》 ヨイヨイ
|此《この》テクさまは|今日《けふ》よりは バーチル|館《やかた》の|番頭《ばんとう》さま
バラモン|教《けう》のスパイをば さつぱりこんと|辞職《じしよく》して
お|酒《さけ》の|倉《くら》の|監督《かんとく》だ |皆《みな》さま|勇《いさ》んで|下《くだ》さんせ
ヨイヨイ これからテクが|居《を》る|上《うへ》は
これの|館《やかた》の|米《こめ》|麦《むぎ》や お|酒《さけ》をどつさり|皆《みな》さまに
|望《のぞ》み|通《どほ》りに|与《あた》へませう なに|程《ほど》|宝《たから》があつたとて
|命《いのち》がなければ|仕様《しやう》がない ヨイヨイ
|死《し》んだと|思《おも》ふた|主《あるじ》さま |目出度《めでたく》|家《いへ》に|帰《かへ》られて
|祝《いはひ》の|印《しるし》に|皆《みな》さまに お|酒《さけ》を|振舞《ふるまひ》なさるのだ
|固《かた》く|結《むす》んだ|握《にぎ》り|飯《めし》 お|腹《なか》が|膨《ふく》れて|瓢箪《へうたん》に
なる|所《とこ》までも|食《く》はしやんせ ヨイヨイ
ほんに|目出度《めでた》いお|目出度《めでた》い |天王《てんわう》の|森《もり》の|神《かみ》さまが
|御守護《ごしゆご》を|遊《あそ》ばし|御夫婦《おふたり》を |目出度《めでたく》|茲《ここ》に|顔《かほ》|合《あは》せ
|嬉《うれ》し|涙《なみだ》をドツサリと |流《なが》させ|給《たま》ふた|有難《ありがた》さ
ヨイヨイ |其《その》|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》にて
|生《うま》れて|此方《このかた》|一度《ひとたび》も |味《あぢ》はふた|事《こと》のない|甘酒《うまざけ》を
|鱈腹《たらふく》|呑《の》んで|勇《いさ》ましく |舞《ま》へよ|狂《くる》へよ|踊《をど》れよと
|神《かみ》|直々《ぢきぢき》の|御命令《ごめいれい》 こんな|嬉《うれ》しい|事《こと》あろか
ヨイヨイ アキスやカールの|番頭《ばんとう》さま
|元来《ぐわんらい》|肝玉《きもだま》|小《ちひ》さくて |是程《これほど》|沢山《たくさん》ある|酒《さけ》を
|番頭《ばんとう》の|職《しよく》にありながら |己《おのれ》も|飲《の》まず|人《ひと》さまに
|振舞《ふるま》ひもせず|捨《す》て|置《お》いた |冥加《みやうが》|知《し》らずの|罰当《ばちあた》り
ヨイヨイ テクが|是《これ》から|此《この》|家《いへ》の
|一《いち》の|番頭《ばんとう》となるからは ケチなやり|方《かた》|致《いた》さない
|村中《むらぢう》|上下《うへした》|隔《へだ》てなく |睦《むつ》び|親《した》しみ|神様《かみさま》の
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|感謝《かんしや》して お|神酒《みき》を|沢山《たくさん》|頂《いただ》けよ
こんな|目出度《めでた》い|事《こと》あろか ヨイヨイ
|猩々《しやうじやう》の|彦《ひこ》や|猩々姫《しやうじやうひめ》 |不思議《ふしぎ》の|縁《えん》で|廻《めぐ》り|会《あ》ひ
お|夫婦様《ふたりさま》の|体《たい》を|借《か》り これの|館《やかた》のお|夫婦《ふたり》は
|足《あし》が|二《ふた》つに|手《て》が|六《む》ツつ |夫婦《ふうふ》|合《あは》して|四《よ》つの|足《あし》
|十二《じふに》のお|手々《てて》を|打《う》ち|鳴《な》らし アヅモス|山《さん》の|神様《かみさま》の
|御前《みまへ》に|感謝《かんしや》の|太祝詞《ふとのりと》 |宣《の》らせたまへる|崇高《けだか》さよ
ヨイヨイ |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|目《め》の|玉国別《たまくにわけ》|宣伝使《せんでんし》 |心《こころ》まつ|黒《くろ》|真純彦《ますみひこ》
|頭《あたま》たたかれ|伊太彦《いたひこ》や お|酒《さけ》は|樽《たる》に|三千彦《みちひこ》の
|綺麗《きれい》なお|嬶《かか》のデビス|姫《ひめ》 デビスかエビスか|知《し》らねども
|大黒《だいこく》さまの|福《ふく》の|神《かみ》 |降《くだ》つて|湧《わ》いたる|此《この》|家《いへ》と
|酒《さけ》のイヅミの|国人《くにびと》は |嘸《さぞ》や|喜《よろこ》ぶ|事《こと》だらう
|皆《みな》さま|揃《そろ》ふて|手《て》を|拍《う》てよ ヨイヨイ
|酔《よひ》が|廻《まは》つたテクさまは |息《いき》が|苦《くる》しうなつて|来《き》た
|皆《みな》さまこれから|隠《かく》し|芸《げい》を |包《つつ》まず|隠《かく》さず|放《ほ》り|出《だ》して
|今日《けふ》の|目出度《めでた》いお|祝《いはひ》に |花《はな》を|咲《さ》かして|下《くだ》されよ
ヨイヨイ』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|音頭《おんどう》を|取《と》り、|数百人《すうひやくにん》の|老若男女《らうにやくなんによ》が|手《て》を|取《と》り|踊《をど》り|狂《くる》うて|居《ゐ》る。|斯《か》かる|所《ところ》へキヨの|港《みなと》の|関所《せきしよ》を|固《かた》めて|居《ゐ》るバラモン|軍《ぐん》のチルテルは|数十人《すうじふにん》の|部下《ぶか》を|引率《ひきつ》れ|馬《うま》に|跨《またが》り、シトシトと|門内《もんない》さして|進《すす》み|入《い》り、|馬上《ばじやう》に|立《た》ちて|大音声《だいおんじやう》、
チルテル『ヤアヤア|某《それがし》はバラモン|教《けう》の|関所《せきしよ》を|守《まも》る、キャプテンのチルテルだ。|当館《たうやかた》に|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|玉国別《たまくにわけ》|以下《いか》の|潜《ひそ》みゐると、スパイの|注進《ちうしん》により|召捕《めしとり》に|向《むか》ふたり。ヤアヤア|村人《むらびと》ども|宣伝使《せんでんし》の|所在《ありか》へ|案内《あんない》|致《いた》せ』
と|呶鳴《どな》りつけて|居《ゐ》る。これを|聞《き》くより、|柄杓《ひしやく》にテク、アキス、カールは|酒《さけ》をなみなみと|汲《く》みチルテルの|鼻先《はなさき》に|突《つ》き|出《だ》した。チルテルは|酒《さけ》と|聞《き》くより|矢《や》も|楯《たて》も|耐《たま》らず|馬《うま》をヒラリと|飛《と》び|降《お》り、|餓鬼《がき》が|水《みづ》を|呑《の》むやうな|勢《いきほひ》で、ガブリガブリと|呑《の》み|初《はじ》めた。|従《したが》ひ|来《きた》れる|数多《あまた》の|部下《ぶか》も|群衆《ぐんしう》に|交《まじ》つて、|吾《われ》|劣《おと》らずガブ|飲《の》みを|初《はじ》め、|肝腎《かんじん》の|使命《しめい》を|忘《わす》れ、|各《おのおの》|捻鉢巻《ねぢはちまき》をして、|尻《しり》ふりながら、ステテコ|踊《をどり》を|夢中《むちう》になつてやつて|居《ゐ》る。|中空《ちうくう》には|迦陵頻伽《かりようびんが》、|鳳凰《ほうわう》、|孔雀《くじやく》の|瑞鳥《ずゐてう》、|翼《つばさ》|寛《ゆた》かに|舞《ま》ひ|狂《くる》うて|居《ゐ》る。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・三・三〇 旧二・一四 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
(昭和一〇・六・一五 王仁校正)
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霊界物語 第五八巻 真善美愛 酉の巻
終り