霊界物語 第五七巻 真善美愛 申の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第五七巻』愛善世界社
2006(平成18)年11月05日 第一刷発行
『霊界物語 第五十七巻』天声社
1970(昭和45)年12月08日 第二刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年10月09日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|総説歌《そうせつか》
第一篇 |照門山颪《てるもんざんおろし》
第一章 |大山《だいせん》〔一四五一〕
第二章 |煽動《せんどう》〔一四五二〕
第三章 |野探《やさがし》〔一四五三〕
第四章 |妖子《えうし》〔一四五四〕
第五章 |糞闘《ふんとう》〔一四五五〕
第六章 |強印《がういん》〔一四五六〕
第七章 |暗闇《くらがり》〔一四五七〕
第八章 |愚摺《ぐすり》〔一四五八〕
第二篇 |顕幽両通《けんいうりやうつう》
第九章 |婆娑《ばしや》〔一四五九〕
第一〇章 |転香《てんこう》〔一四六〇〕
第一一章 |鳥逃《とりにが》し〔一四六一〕
第一二章 |三狂《さんきやう》〔一四六二〕
第一三章 |悪酔怪《あくすゐくわい》〔一四六三〕
第一四章 |人畜《にんちく》〔一四六四〕
第一五章 |糸瓜《へちま》〔一四六五〕
第一六章 |犬労《けんらう》〔一四六六〕
第三篇 |天上天下《てんじやうてんか》
第一七章 |涼窓《りやうさう》〔一四六七〕
第一八章 |翼琴《よくきん》〔一四六八〕
第一九章 |抱月《だきつき》〔一四六九〕
第二〇章 |犬闘《けんとう》〔一四七〇〕
第二一章 |言触《ことぶれ》〔一四七一〕
第二二章 |天葬《てんさう》〔一四七二〕
第二三章 |薬鑵《やくくわん》〔一四七三〕
第二四章 |空縛《くうばく》〔一四七四〕
第二五章 |天声《てんせい》〔一四七五〕
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|序文《じよぶん》
|伯耆国《はうきのくに》|皆生温泉《かいけをんせん》|浜屋旅館《はまやりよくわん》の|見晴《みはら》し|佳《よ》き|二階《にかい》の|広間《ひろま》を|当《あて》がはれ、|朝日《あさひ》の|光《ひかり》と|大山《だいせん》の|雄姿《ゆうし》を|眺《なが》め|乍《なが》ら、|大正《たいしやう》|十二年《じふにねん》|如月《きさらぎ》|八日《やうか》より|十日《とをか》|迄《まで》|三日間《みつかかん》にていよいよ|第五十七巻《だいごじふしちくわん》を|口述《こうじゆつ》し|了《をは》りぬ。
スーラヤ(|日天子《につてんし》)チヤンドラ・デーワブトラ(|月天子《ぐわつてんし》)サマンタガン(|普光天子《ふくわうてんし》)ラトナブラバ(|宝光天子《ほうくわうてんし》)アワバーサブラ(|光耀天子《くわうえうてんし》)の|守護《しゆご》の|下《もと》に、|漸《やうや》く|印度《ツキ》の|国《くに》|波斯《フサ》の|国境《こくきやう》テルモン|山《ざん》の|昔物語《むかしものがたり》を|大要《たいえう》|述《の》べ|了《をは》りました。|顧《かへり》みれば|瑞月《ずゐげつ》が|神《かみ》の|大道《おほぢ》に|入《い》りしより|満《まん》|二十五年《にじふごねん》に|相当《さうたう》する|今日《こんにち》、|富士《ふじ》の|神使《しんし》に|導《みちび》かれ|神教《しんけう》を|伝《つた》へられたる|今日《こんにち》、|出雲富士《いづもふじ》とて|名《な》も|高《たか》き|大山《だいせん》の|雄姿《ゆうし》を|拝《はい》し、|三保《みほ》の|松原《まつばら》に|等《ひと》しき|夜見ケ浜《よみがはま》の|白砂《はくしや》|青松《せいしよう》の|磯辺《いそべ》を|筆録者《ひつろくしや》と|共《とも》に|逍遥《せうえう》し|乍《なが》ら、|今昔《こんじやく》の|感《かん》に|打《う》たれ、|思《おも》はず|歎息《たんそく》せざるを|得《え》ない。|隠岐《をき》の|嶋《しま》は|遠《とほ》く|波間《なみま》に|浮《うか》び、|幽《かす》かに|山《やま》の|頂《いただき》を|顕《あら》はし、|三保ケ関《みほがせき》の|霊地《れいち》は|眼前《がんぜん》に|横《よこた》はり|日本海《にほんかい》の|波《なみ》に|漂《ただよ》へるが|如《ごと》く|見《み》えて|居《ゐ》る。|八大竜王《はちだいりうわう》ナンダナーガラーシャ(|歓喜竜王《くわんきりうわう》)、ウバナンダ(|善歓喜竜王《ぜんくわんきりうわう》)、サーガラ(|海竜王《かいりうわう》)、ワーシュキ(|多頭竜王《たとうりうわう》)、タクシャカ(|視毒竜王《しどくりうわう》)、マナスヰン(|大身大力竜王《たいしんたいりきりうわう》)、ウッパラカ(|青蓮華色竜王《せいれんげしよくりうわう》)、アナワタブタ(|無悩清涼竜王《むなうせいりやうりうわう》)、は|鼓《つづみ》を|打《う》つて|吾等《われら》|一行《いつかう》を|迎《むか》へ|給《たま》ふ。|北村《きたむら》|隆光《たかてる》、|加藤《かとう》|明子《はるこ》、|藤田《ふぢた》、|松田《まつだ》、|紙本《かみもと》の|諸氏《しよし》を|始《はじ》め|谷川《たにかは》|常清《つねきよ》|氏《し》、|湯浅《ゆあさ》|清高《きよたか》|並《ならび》に|米子《よなご》|支部《しぶ》|信者《しんじや》、|及《およ》び|近国《きんごく》の|信者《しんじや》|諸氏《しよし》の|日々《にちにち》の|訪問《はうもん》を|歓喜《くわんき》し|乍《なが》ら、|神《かみ》の|恵《めぐ》みのまにまに五七の|巻《まき》を|演《の》べ|了《をは》る。|時《とき》しも|綾《あや》の|聖地《せいち》より|三代《さんだい》|直澄《なほずみ》|教主《けうしゆ》は|大本瑞祥会《おほもとずゐしやうくわい》|会長《くわいちやう》|井上《ゐのうへ》|留五郎《とめごらう》|氏《し》|及《およ》び|前会長《ぜんくわいちやう》|湯川《ゆかは》|貫一《くわんいち》|氏《し》と|倶《とも》に|来《きた》らる。|瑞月《ずゐげつ》は|感《かん》|極《きは》まつて|言《い》ふ|所《ところ》を|知《し》らず。|茲《ここ》に|序文《じよぶん》に|代《か》へ|一言《いちごん》を|記《しる》すことと|致《いた》しました。
大正十二年旧二月十日
於伯州皆生温泉
|総説歌《そうせつか》
|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|善《ぜん》の|中《なか》にも|悪《あく》があり |悪《あく》の|中《なか》にも|善《ぜん》がある
|善悪正邪《ぜんあくせいじや》はオーニーの |知識《ちしき》の|程度《ていど》で|判《わか》らない
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》 |神《かみ》の|御旨《みむね》に|任《まか》すのみ
|此《こ》の|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し
|世《よ》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ |人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|天津使《あまつつかひ》のエンゼルの その|精霊《せいれい》に|神格《しんかく》を
|充《みた》され|肉体人《にくたいじん》に|容《い》り |天地経綸《てんちけいりん》の|神業《しんげふ》に
|奉仕《ほうし》せむため|生《うま》れ|来《き》ぬ アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましまして |此《こ》の|世《よ》の|終《をは》りに|日地月《につちげつ》
|誠《まこと》の|神《かみ》が|降《くだ》りまし |瑞《みづ》の|御霊《みたま》に|神業《しんげふ》を
|任《よ》さし|玉《たま》ひし|尊《たふと》さよ |世《よ》は|常暗《とこやみ》となり|果《は》てて
|黒白《あやめ》も|判《わ》かぬ|時《とき》なれど |光《ひかり》の|神《かみ》は|御空《みそら》より
|鳩《はと》の|如《ごと》くに|降《くだ》りまし |空前絶後《くうぜんぜつご》の|神業《しんげふ》を
|経綸《けいりん》さるるぞ|有難《ありがた》き |国《くに》の|御祖《みおや》の|大御神《おほみかみ》
|厳《いづ》の|精霊《みたま》に|神格《しんかく》を |充《み》たし|予言者《よげんしや》の|体《たい》に|依《よ》り
|出口《いつき》の|守《かみ》と|現《あらは》れて この|世《よ》を|照《てら》し|玉《たま》ふ|世《よ》は
|漸《やうや》く|近《ちか》づき|来《きた》りけり |仰《あふ》ぎ|敬《ゐやま》へ|四方《よも》の|国《くに》
|青人草《あをひとぐさ》の|末《すゑ》までも |三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》は
|最後《さいご》の|光明《くわうみやう》|艮《とど》めなり |眼《まなこ》を|醒《さ》ませ|耳《みみ》|開《ひら》き
|神《かみ》の|生宮《いきみや》|予言者《よげんしや》の |貴《うづ》の|言霊《ことたま》|守《まも》るべし
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|地《つち》|震《ゆ》り|海《うみ》は|浅《あ》するとも |誠《まこと》|一《ひと》つは|世《よ》を|救《すく》ふ
エスペラントやバハイ|教《けう》 |紅卍字教《こうまんじけう》や|普化教《ふけけう》も
|残《のこ》らず|元津大神《もとつおほかみ》の |仕組《しぐ》み|給《たま》ひし|御経綸《ごけいりん》
その|外《ほか》|諸々《もろもろ》の|神教《しんけう》は |此《こ》の|世《よ》の|末《すゑ》に|現《あら》はれて
|世《よ》を|立直《たてなほ》す|為《ため》ぞかし |国会開《こくくわいびら》きが|始《はじ》まりて
|十二《じふに》の|流《なが》れ|一時《いつとき》に |清《きよ》く|流《なが》るる|和田《わだ》の|原《はら》
|底井《そこゐ》も|知《し》れぬ|海潮《かいてう》の |深《ふか》き|思《おも》ひぞ|計《はか》れかし
いよいよ|五六七《みろく》の|世《よ》となれば |山河草木《さんかさうもく》|言《い》ふも|更《さら》
|禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》も|押並《おしな》べて |神《かみ》の|仁慈《じんじ》の|露《つゆ》にぬれ
|一入《ひとしほ》|清《きよ》き|霊光《れいくわう》を |照《て》らし|栄《さか》ふる|世《よ》とならむ
|仰《あふ》ぎ|敬《ゐやま》へ|神《かみ》の|徳《とく》 |慶《よろこ》び|奉《まつ》れ|神《かみ》の|愛《あい》。
大正十二年旧二月十日
皆生温泉にて
第一篇 |照門山颪《てるもんざんおろし》
第一章 |大山《だいせん》〔一四五一〕
|金輪奈落《こんりんならく》の|地底《ちてい》から |風輪《ふうりん》、|水輪《すいりん》、|地輪《ちりん》をば
|貫《つらぬ》き|出《い》でたる|大高峰《だいかうほう》 |伯耆《はうき》の|国《くに》の|大山《だいせん》は
|日本大地《にほんだいち》の|要《かなめ》なり |白扇《はくせん》|空《そら》に|逆様《さかさま》に
|懸《かか》りて|沈《しづ》む|日本海《にほんかい》 |八岐大蛇《やまたをろち》の|憑依《ひようい》せる
|大黒主《おほくろぬし》の|曲津見《まがつみ》が |簸《ひ》の|川上《かはかみ》に|割拠《かつきよ》して
|風雨《ふうう》を|起《おこ》し|洪水《みづ》おこし |狭田《さだ》や|長田《ながた》に|生《お》ひ|立《た》ちし
|稲田《いなだ》の|姫《ひめ》を|年々《としどし》に |悩《なや》ませ|人《ひと》の|命《いのち》をば
|取《と》らむとせしぞ|歎《うた》てけれ |大正《たいしやう》|十二《じふに》|癸《みづのと》の
|亥年《ゐどし》の|春《はる》や|如月《きさらぎ》の |日光《につくわう》|輝《かがや》く|夜見ケ浜《よみがはま》
|小松林《こまつばやし》の|中央《まんなか》に |堅磐常磐《かきはときは》に|築《きづ》きたる
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|温泉場《をんせんば》 |浜屋旅館《はまやりよくわん》の|二階《にかい》の|間《ま》
いつもの|通《とほ》り|横《よこ》に|臥《ふ》し |真善美愛《しんぜんびあい》|第九巻《だいくくわん》
|波斯《ペルシヤ》と|月《つき》の|国境《くにざかひ》 |朝日《あさひ》もきらきらテルモンの
|山《やま》の|館《やかた》に|住《す》まひたる |小国別《をくにのわけ》が|物語《ものがたり》
|三千年《さんぜんねん》の|末《すゑ》|迄《まで》も その|功《いさをし》を|残《のこ》したる
|三五教《あななひけう》の|三千彦《みちひこ》が |難行《なんぎやう》|苦行《くぎやう》の|経緯《いきさつ》を
いよいよカータルブラバーサ マハーダルマ・タダアガタ
|唯《ただ》|一言《いちごん》も|漏《も》らさじと |東《ひがし》の|窓《まど》に|向《むか》ひつつ
|万年筆《まんねんひつ》を|走《はし》らせる |夜見《よみ》の|浜風《はまかぜ》|颯々《さつさつ》と
|吹《ふ》き|来《く》る|度《たび》にカーテンが バタリバタリと|拍子《ひやうし》|取《と》り
|言霊車《ことたまぐるま》|押《お》し|来《きた》る アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましまして |五十《ごじふ》と|七《なな》つの|物語《ものがたり》
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|述《の》べ|終《を》へて |綾《あや》の|聖地《せいち》の|家苞《いへづと》に
なさしめ|給《たま》へと|大神《おほかみ》の |御前《みまへ》に|謹《つつし》み|願《ね》ぎまつる
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の
|教《をしへ》の|主意《しゆい》を|一通《ひととほ》り |写《うつ》さにやならぬ|神《かみ》の|法《のり》
|湯《ゆ》にあてられて|瑞月《ずゐげつ》が |腹《はら》をガラガラ|下《くだ》らせつ
|下《くだ》らぬ|理窟《りくつ》を|交《こきま》ぜて |浜辺《はまべ》で|取《と》れた|法螺貝《ほらがひ》の
|止度《とめど》もなしに|吹《ふ》き|立《た》てる
○
|三五教《あななひけう》は|大神《おほかみ》の|直接内流《ちよくせつないりう》を|受《う》け、|愛《あい》の|善《ぜん》と、|信《しん》の|真《しん》をもつて|唯一《ゆゐいつ》の|教理《けうり》となし、|智愛勇親《ちあいゆうしん》の|四魂《しこん》を|活用《くわつよう》させ、|善《ぜん》の|為《ため》に|善《ぜん》を|行《おこな》ひ、|用《よう》の|為《ため》に|用《よう》を|勤《つと》め、|真《しん》の|為《ため》に|真《しん》を|励《はげ》む。|故《ゆゑ》に|其《その》|言行心《げんかうしん》は|常《つね》に|神《かみ》に|向《むか》ひ、|神《かみ》と|共《とも》にあり、|所謂《いはゆる》|神《かみ》の|生宮《いきみや》にして|天地経綸《てんちけいりん》の|主宰者《しゆさいしや》たるの|実《じつ》を|挙《あ》げ、|生《い》き|乍《なが》ら|天国《てんごく》に|籍《せき》を|置《お》き、|恰《あだか》も|黄金時代《わうごんじだい》の|天人《てんにん》の|如《ごと》く、|神《かみ》の|意志《いし》|其《その》|儘《まま》を|地上《ちじやう》の|蒼生《さうせい》に|宣伝《せんでん》し|実行《じつかう》し、|以《もつ》て|衆生一切《しゆじやういつさい》を|済度《さいど》するをもつて|唯一《ゆゐいつ》の|務《つと》めとして|居《ゐ》たのである。|故《ゆゑ》にバラモン|教《けう》ウラル|教《けう》|其《その》|他《た》|数多《あまた》の|教派《けうは》の|如《ごと》く、|自愛《じあい》|又《また》は|世間愛《せけんあい》に|堕《だ》して|知《し》らず|識《し》らずに|神《かみ》に|背《そむ》き、|虚偽《きよぎ》を|真理《しんり》と|信《しん》じ、|悪《あく》を|善《ぜん》と|誤解《ごかい》するが|如《ごと》き|行動《かうどう》は|取《と》らなかつたのである。|神《かみ》より|来《きた》れる|愛《あい》|及《およ》び|善《ぜん》|並《ならび》に|信真《しんしん》の|光《ひかり》に|浴《よく》し、|惟神《かむながら》の|儘《まま》に|其《その》|実《じつ》を|示《しめ》すが|故《ゆゑ》に、|麻柱《あななひ》の|教《をしへ》と|神《かみ》から|称《とな》へられたのである。|自愛《じあい》|及《およ》び|世間愛《せけんあい》に|堕落《だらく》せる|教《をしへ》は|所謂《いはゆる》|外道《げだう》である。|外道《げだう》とは|天地《てんち》|惟神《かむながら》の|大道《だいだう》に|外《はづ》れたる|教《をしへ》を|云《い》ふ。これ|皆《みな》|邪神界《じやしんかい》に|精霊《せいれい》を|蹂躙《じうりん》され、|知《し》らず|知《し》らずに|地獄界《ぢごくかい》|及《およ》び|兇党界《きようたうかい》に|堕落《だらく》したものである。|外道《げだう》には九十五の|種類《しゆるゐ》があつて、|其《その》|重《おも》なるものは、カビラ・マハールシといふ。このカビラ・マハールシは、|即《すなは》ち|大黒主《おほくろぬし》の|事《こと》であり、|三五教《あななひけう》の|真善美《しんぜんび》の|言霊《ことたま》に|追《お》ひ|捲《まく》られて|自転倒島《おのころじま》の|要《かなめ》と|湧出《ゆうしゆつ》したる|伯耆《はうき》の|国《くに》のマハールシ(|大山《だいせん》)に|八岐大蛇《やまたをろち》の|霊《れい》と|共《とも》に|割拠《かつきよ》し、|六師外道《ろくしげだう》と|云《い》つて|外道《げだう》の|中《なか》にても|最《もつと》も|勝《すぐ》れたる|悪魔《あくま》を|引《ひ》き|率《つ》れ|天下《てんか》を|攪乱《かくらん》し、|遂《つひ》に|素盞嗚尊《すさのをのみこと》のために|言向《ことむ》け|和《やは》されたのである。|六師外道《ろくしげだう》とは、ブランナーカーシャバ、マスカリー・ガーシャリーブトラ、サンジャイーヴィ・ラチャーブトラ、アザタケー・シャカムバラ、カクダカー・トヤーヤナ、ニルケラントー・ヂニヤー・ヂブトラの|六大外道《ろくだいげだう》である。|此《この》|外道《げだう》は|古今東西《ここんとうざい》の|区別《くべつ》なく|今日《こんにち》と|雖《いへど》も|尚《なほ》|天下《てんか》を|横行《わうかう》|濶歩《くわつぽ》し、|暴威《ばうゐ》を|逞《たくま》しうして|居《ゐ》るのである。
ブランナーカーシャバとは|君臣《くんしん》、|父子《ふし》、|夫婦《ふうふ》、|兄弟《きやうだい》、|朋友《ほういう》|等《など》の|道《みち》を|軽《かろ》んじ、|現界《げんかい》の|一切《いつさい》を|無視《むし》し、|生存競争《せいぞんきやうそう》、|優勝劣敗《いうしようれつぱい》をもつて|人生《じんせい》の|本義《ほんぎ》となし、|軽死重生《けいしぢゆうせい》の|主義《しゆぎ》を|盛《さかん》に|主張《しゆちやう》し、|宇宙《うちう》|一切《いつさい》は|総《すべ》て|空《くう》なり、|無《む》なり、|人間《にんげん》の|肉体《にくたい》は|死滅《しめつ》するや|否《いな》や|煙《けむり》の|如《ごと》く|消《き》え|果《は》て、|死後《しご》の|霊魂《れいこん》|等《など》は|決《けつ》して|残《のこ》るものでない。|果《はた》して|死後《しご》に|霊魂《れいこん》ありとすれば、|例《たと》へば|唐辛子《たうがらし》を|焼《や》いて|灰《はひ》となし、|尚《な》ほ|其《その》|後《あと》にも|唐辛子《たうがらし》の|辛味《しんみ》|存《そん》するや、|決《けつ》して|存在《そんざい》せざるべし。|是《これ》を|思《おも》へば|人間《にんげん》|死後《しご》の|生活《せいくわつ》を|論《ろん》ずるは|迂愚《うぐ》の|骨頂《こつちやう》なり、|迷妄《めいまう》の|極《きは》みなりと|断案《だんあん》を|下《くだ》す|唯物論者《ゆゐぶつろんしや》の|如《ごと》きものである。|次《つぎ》に、
マスカリー・ガーシャリーブトラは、|一切衆生《いつさいしゆじやう》の|苦悩《くなう》も|歓楽《くわんらく》も|決《けつ》して|人間《にんげん》の|行因《ぎやういん》に|依《よ》るものではない。|何《いづ》れも|自然《しぜん》に|苦楽《くらく》が|来《く》るものである。|例《たと》へば|茲《ここ》に|一《ひと》つの|種子《しゆし》を|蒔《ま》くに、|其《その》|種子《しゆし》は|肥《こ》えた|土《つち》の|日当《ひあた》りよき|所《ところ》に|蒔《ま》かれたのは、|他《た》に|勝《すぐ》れて|発達《はつたつ》し、|枚葉《しえう》|繁茂《はんも》し、|麗《うるは》しき|花《はな》を|咲《さ》かせ、|麗《うるは》しき|実《み》を|結《むす》び、|人《ひと》に|愛《あい》せらるるに|引《ひ》き|替《か》へ、|同《おな》じ|種子《しゆし》でありながら、|痩《や》せた|土地《とち》に|蒔《ま》かれ、|或《あるひ》は|陰裏《かげうら》に|蒔《ま》かれた|時《とき》は|十分《じふぶん》の|光線《くわうせん》を|受《う》くる|事《こと》|能《あた》はず|其《その》|発育《はついく》も|悪《あ》しく|花《はな》も|小《ちひ》さく、|満足《まんぞく》な|実《み》も|結《むす》ばないやうなものである。|然《しか》るに|其《その》|種子《しゆし》に|善悪《ぜんあく》は|決《けつ》してない。|同《おな》じ|木《き》から|取《と》つた|同《おな》じ|種《たね》である。|又《また》|其《その》|種《たね》には|決《けつ》して|善《ぜん》の|行《おこな》ひも|悪《あく》の|行《おこな》ひもない。|唯《ただ》|蒔《ま》かれた|所《ところ》の|場所《ばしよ》|即《すなは》ち|境遇《きやうぐう》によつて、|或《あるひ》は|歓喜《くわんき》に|浴《よく》し、|或《あるひ》は|苦悩《くなう》に|浸《ひた》るのである。|故《ゆゑ》に|人間《にんげん》は、|蒔《ま》かれた|所《ところ》が|悪《あし》ければ、何程|気張《きば》つてもよき|場所《ばしよ》に|蒔《ま》かれた|種《たね》に|勝《か》つ|事《こと》は|出来《でき》ない。|故《ゆゑ》に|人間《にんげん》の|苦楽《くらく》には|決《けつ》して|行因《ぎやういん》はないものだ、と|主張《しゆちやう》する|無因外道《むいんげだう》である。|又《また》|是《これ》を|自然外道《しぜんげだう》とも|云《い》ふ。|次《つぎ》に、
サンジャイーヴィ・ラチャーブトラと|云《い》ふのは、|人間《にんげん》は|決《けつ》して|修業《しゆげふ》なんかする|必要《ひつえう》がない。|天地《てんち》の|草木《くさき》を|見《み》ても|春《はる》が|来《く》れば|自然《しぜん》に|花《はな》が|咲《さ》き、|秋《あき》が|来《く》れば|自然《しぜん》に|実《み》が|生《な》り、|冬《ふゆ》が|来《く》れば|自然《しぜん》に|葉《は》が|散《ち》る|如《ごと》く、|八万劫《はちまんごふ》が|来《く》れば|自然《しぜん》に|人間《にんげん》の|苦《く》は|尽《つ》きて|道《みち》を|得《う》るとなすものである。|要《えう》するに|自暴自棄《じばうじき》、|惟神中毒《かむながらちうどく》の|外道《げだう》であつて、|是《これ》を|無因外道《むいんげだう》の|一種《いつしゆ》となすのである。|二十世紀《にじつせいき》の|三五教《あななひけう》には|此《こ》の|種《しゆ》の|人《ひと》が|随分《ずいぶん》|混入《こんにふ》して|居《ゐ》るやうである。|次《つぎ》に、
アザタケー・シャカムバラ、|此《この》|外道《げだう》は|現世《げんせ》に|於《おい》て、|何《なん》でも|構《かま》はぬ、|苦《くる》しみさへして|置《お》けば、きつと|他生《たしやう》に|於《おい》て、|天国《てんごく》に|生《うま》れ、|無限《むげん》の|歓楽《くわんらく》に|浴《よく》し、|百味《ひやくみ》の|飲食《おんじき》を|与《あた》へられ、|栄耀《えいえう》|栄華《えいぐわ》に|平和《へいわ》の|生活《せいくわつ》を|永遠《ゑいゑん》|無限《むげん》に|送《おく》られるものとなし、|人間《にんげん》として|営《いとな》むべき|事業《じげふ》も|為《な》さず|深山幽谷《しんざんいうこく》に|身《み》を|潜《ひそ》め、|火物断《ひものだち》をしたり、|穀食《こくじき》を|避《さ》け、|松葉《まつば》を|噛《しが》み、|芋《いも》などを|掘《ほ》り、|空気《くうき》を|吸《す》ひ、|寒中《かんちう》|真裸《まつぱだか》、|真裸足《まつぱだし》となりて|寒《さむ》さを|耐《こら》へ、|夏《なつ》は|蚊《か》に|刺《さ》されて|所有《あらゆる》|苦《くる》しみをなし、|其《その》|苦《く》の|報《むく》いを|来世《らいせい》に|得《え》むとする|所謂《いはゆる》|苦行外道《くぎやうげだう》である。|此《この》|外道《げだう》も|亦《また》|今日《こんにち》は|随分《ずいぶん》|彼方《あちら》|此方《こちら》に|現《あら》はれて|居《ゐ》る。さうして|真理《しんり》に|暗《くら》き|現在《げんざい》の|人間《にんげん》はかかる|苦行外道《くぎやうげだう》を|指《さ》して|真人《しんじん》となし、|聖人《せいじん》と|尊《たふと》び|神《かみ》|仏《ほとけ》の|如《ごと》く|尊敬《そんけい》するものである。|斯《か》かる|苦行外道《くぎやうげだう》を|尊敬《そんけい》する|人間《にんげん》も|亦《また》、|同気《どうき》|相求《あひもと》むるの|理《り》によつて|知《し》らず|識《し》らずに|地獄道《ぢごくだう》に|籍《せき》を|置《お》いて|居《ゐ》る|小外道《せうげだう》である。|次《つぎ》に、
カクダカー・トヤーヤナ、この|外道《げだう》はバンロギズム(|汎理論《はんりろん》)、スピリチュアリスチック・バンセイズム(|唯心的《ゆゐしんてき》|汎神論《はんしんろん》)だとか、バンフシギズム(|汎心論《はんしんろん》)だとか、アーセイズム(|無神論《むしんろん》)だとか、ブルラリズム(|多元論《たげんろん》)だとか、モニズム(|一元論《いちげんろん》)だとか|或《あるひ》はソシアリズム(|社会主義《しやくわいしゆぎ》)アナーキズム(|無政府主義《むせいふしゆぎ》)だとか、ニヒリズム(|虚無主義《きよむしゆぎ》)だとか、コンミュニズム(|共産主義《きようさんしゆぎ》)だとか、|種々雑多《しゆじゆざつた》の|利己的《りこてき》、|形体的《けいたいてき》、|自然的《しぜんてき》、|世界的《せかいてき》|愛《あい》に|対《たい》して|意見《いけん》を|盛《さかん》に|主張《しゆちやう》し、|無形《むけい》の|霊界《れいかい》に|対《たい》して|一瞥《いちべつ》も|呉《く》れず、|且《かつ》|霊界《れいかい》や|神仏《しんぶつ》を|無視《むし》しながらも、|現界《げんかい》に|於《おい》ても|徹底《てつてい》する|能《あた》はず、|霊界《れいかい》に|於《おい》ては|等閑《なほざり》ながらも、|或《ある》|時《とき》は|些《すこ》しく|霊界《れいかい》の|存在《そんざい》を|認《みと》めて|見《み》たり、|或《ある》|時《とき》は|現界《げんかい》|計《ばか》りに|執着《しふちやく》したり、|精神《せいしん》の|帰着点《きちやくてん》を|失《うしな》ふたり、|二途不摂《にとふせつ》の|異見外道《いけんげだう》である。|次《つぎ》に、
ニルケラントー・ヂニヤー・ヂブトラ、|此《この》|外道《げだう》は、|人間《にんげん》の|苦楽《くらく》と|云《い》ふものは|素《もと》から|因縁《いんねん》が|定《きま》つて|居《ゐ》るものだ。|例《たと》へば|三碧《さんぺき》の|星《ほし》はどうだとか、|九紫《きうし》の|星《ほし》はどうだとか、|子《ね》の|年《とし》に|生《うま》れたからどうの、|丑《うし》の|年《とし》に|生《うま》れたからどうだとか、|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》が|好《よ》いとか|悪《わる》いとか、|宿命説《しゆくめいせつ》に|堕落《だらく》した|宿命外道《しゆくめいげだう》である。|斯《かか》る|宿命外道《しゆくめいげだう》は|如何《いか》|程《ほど》|神仏《しんぶつ》を|信仰《しんかう》するとも、|自分《じぶん》の|定《さだ》まつた|運命《うんめい》を|転換《てんくわん》する|事《こと》は|出来《でき》ない。|何事《なにごと》も|運命《うんめい》と|諦《あきら》めて|其《その》|道《みち》に|殉《じゆん》ずるより|外《ほか》はない。オタマ|杓子《じやくし》は|鯰《なまづ》に|似《に》てゐるが、|少《すこ》し|大《おほ》きくなると|手足《てあし》が|生《は》へて|蛙《かへる》になつて|了《しま》ふ。どうしても|鯰《なまづ》になる|事《こと》は|出来《でき》ない。それ|故《ゆゑ》|因縁《いんねん》の|悪《わる》いものが|神《かみ》を|信《しん》じた|所《ところ》で|誠《まこと》を|尽《つく》した|所《ところ》で|決《けつ》して|立派《りつぱ》なものになれさうな|事《こと》はない。|何《なに》も|前世《ぜんせ》の|因縁《いんねん》|性来《しやうらい》だと|断定《だんてい》をくだす|無明暗黒《むみやうあんこく》なる|常見外道《じやうけんげだう》であるが、|斯《かく》の|如《ごと》き|外道《げだう》は、|何《いづ》れも|神《かみ》|或《あるひ》は|仏《ほとけ》|以外《いぐわい》の|所見《しよけん》にして、|各《おのおの》|一派《いつぱ》の|学説《がくせつ》を|立《た》て、|科学《くわがく》に|立脚《りつきやく》したる|霊魂《れいこん》|研究《けんきう》でなければ|駄目《だめ》だとか、|或《あるひ》は|神仏《しんぶつ》の|名《な》を|標榜《へうぼう》する|事《こと》を|忌《い》み|嫌《きら》ひ、|太霊道《たいれいだう》だとか、|二灯園《にとうゑん》だとか、|或《あるひ》は|何々会《なになにくわい》だとか、|勝手《かつて》な|名《な》を|附《ふ》して|霊界《れいかい》を|研究《けんきう》せむとする|所謂《いはゆる》|常見外道《じやうけんげだう》である。|現代《げんだい》は|此《この》|外道《げだう》|最《もつと》も|蔓延《まんえん》し|神仏《しんぶつ》の|名《な》を|称《とな》ふるよりも|霊智学《れいちがく》とか、|神霊研究《しんれいけんきう》だとか、|霊学研究会《れいがくけんきうくわい》だとか|云《い》ふ|科学的《くわがくてき》|名称《めいしよう》に|隠《かく》るるを|以《もつ》て|文明人《ぶんめいじん》の|態度《たいど》らしく|装《よそほ》ひ、|蟻《あり》の|甘《あま》きに|集《つど》ふが|如《ごと》く|集《あつ》まり|来《きた》つて、|雲《くも》の|彼方《かなた》の|星《ほし》を|探《さぐ》らふとする|如《ごと》き|外道《げだう》である。|斯《かく》の|如《ごと》きニルケラントー・ヂニヤー・ヂブトラは|三五教《あななひけう》の|中《うち》からも|折々《をりをり》|発生《はつせい》したものである。|何《いづ》れも|自尊主義《じそんしゆぎ》の|慢心《まんしん》から、|斯《かか》る|外道《げだう》に|知《し》らず|識《し》らず|堕落《だらく》するのである。
|序《ついで》に|十二因縁《じふにいんねん》を|略解《りやくかい》して|置《お》く、|人間《にんげん》には、
一、|無明《むみやう》、 アヰ゛ドヤー
二、|行《ぎやう》、 サンスカーラ
三、|識《しき》、 ボヂニヤーナ
四、|名色《みやうしき》、 ナーマルーバ
五、|六入《ろくにふ》、 サダーヤタナ
六、|触《しよく》、 スバルシャ
七、|愛《え》、 エータナー
八、|愛《あい》、 ツルシューナー
九、|取《しゆ》、 ウバーダーナ
十、|有《う》、 バワ゛
十一、|生《しやう》、 ヂャーチ
十二、|老死《らうし》、 ヂャラー・マラナ
の|十二因縁《じふにいんねん》がある。
|無明《むみやう》とは、|過去《くわこ》|一切《いつさい》の|煩悩《ぼんなう》を|云《い》ひ、|行《ぎやう》とは|過去《くわこ》|煩悩《ぼんなう》の|造作《ざうさ》を|云《い》ひ、|識《しき》とは|現世《げんせ》|母《はは》の|体中《たいちう》に|托《たく》する|陰妄《いんばう》の|意識《いしき》を|云《い》ふ。|名色《みやうしき》の|名《みやう》とは|心《こころ》の|四蘊《しうん》であり、|色《しき》とは|形質《けいしつ》の|一蘊《いちうん》である。|六入《ろくにふ》とは、|母《はは》の|体中《たいちう》にある|中《うち》に|於《おい》て|六根《ろくこん》を|成《じやう》ずるを|云《い》ふ。|触《しよく》とは|三四才《さんしさい》|迄《まで》に|外的《ぐわいてき》の|塵埃《ぢんあい》の|根元《こんげん》に|触《ふ》るるを|覚《おぼ》ゆる|状態《じやうたい》を|云《い》ふ。|愛《え》とは|生《うま》れて|五六才《ごろくさい》より|十二三才《じふにさんさい》|迄《まで》の|間《あひだ》に|強《つよ》く|外部《ぐわいぶ》の|塵埃《ぢんあい》を|受《う》けて、|好悪《かうを》の|識別《しきべつ》を|起《おこ》すを|云《い》ふ。|愛《あい》とは|十四五才《じふしごさい》より|十八九才《じふはちくさい》までの|間《あひだ》に|外塵《ぐわいぢん》を|貪《むさぼ》り|愛《あい》する|念慮《ねんりよ》を|起《おこ》すを|云《い》ふ。|取《しゆ》とは|二十才《にじつさい》|以後《いご》|一層《いつそう》|強《つよ》く、|外塵《ぐわいぢん》に|執着《しふちやく》の|念《ねん》を|生《しやう》ずるを|云《い》ふ。|有《う》とは、|未来三有《みらいさんう》の|果《くわ》を|招《まね》くべき|種々《しゆじゆ》の|業因《ごふいん》を|造作《ざうさ》し、|積集《せきしふ》するを|云《い》ふ。|生《しやう》とは|未来六道《みらいろくだう》|又《また》は|八衢《やちまた》の|中《うち》に|生《しやう》ずるを|云《い》ふ。|老死《らうし》とは|未来愛生《みらいあいしやう》の|身体《からだ》、|又《また》|遂《つひ》に|朽壊《きうくわい》するを|云《い》ふ。この|十二因縁《じふにいんねん》はどうしても|人間《にんげん》として|避《さ》くべからざる|事《こと》である。|併《しか》し|乍《なが》ら、|此《この》|十二因縁《じふにいんねん》の|関門《くわんもん》を|通過《つうくわ》して|初《はじ》めて|人間《にんげん》は|神《かみ》の|生涯《しやうがい》に|入《い》り、|永遠無窮《ゑいゑんむきう》の|真《しん》の|生命《せいめい》に|入《い》つて、|天人的《てんにんてき》|生治《せいくわつ》を|送《おく》るべきものである。|然《しか》るに|総《すべ》ての|多《おほ》くの|人間《にんげん》は|九十五種《くじふごしゆ》|外道《げだう》のために|身心《しんしん》を|曇《くも》らされ|忽《たちま》ち|地獄道《ぢごくだう》に|進《すす》み|入《い》り、|宇宙《うちう》の|大元霊《だいげんれい》たる|神《かみ》に|背《そむ》き、|無限《むげん》の|苦《く》を|嘗《な》むるに|至《いた》るものが|多《おほ》い。|故《ゆゑ》に|神《かみ》は、|厳瑞《げんずゐ》|二霊《にれい》を|地上《ちじやう》に|下《くだ》し|天国《てんごく》の|福音《ふくいん》を|普《あまね》く|宣伝《せんでん》せしめ、|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|天国《てんごく》の|住民《ぢゆうみん》たらしめむと、|聖霊《せいれい》を|充《みた》して|予言者《よげんしや》に|来《きた》らせ|給《たま》ふたのである。|如何《いか》に|現世《げんせ》に|於《おい》て|聖人《せいじん》|賢人《けんじん》、|有徳者《うとくしや》と|称《とな》へらるる|共《とも》、|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》に|通《つう》ぜず、|神《かみ》の|恩恵《おんけい》を|無《な》みするものは、|其《その》|心《こころ》|既《すで》に|神《かみ》に|背《そむ》けるが|故《ゆゑ》に、|到底《たうてい》|天国《てんごく》の|生涯《しやうがい》を|送《おく》る|事《こと》は|出来難《できがた》いものである。|約束《やくそく》なき|救《すく》ひは|決《けつ》して|求《もと》められないものである。|故《ゆゑ》に|神《かみ》は|前《さき》にシャキャームニ・タダーガタを|下《くだ》して|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》を|世人《せじん》に|示《しめ》し|給《たま》ひ、|又《また》ハリストスやマホメット|其《その》|他《た》の|真人《しんじん》を|予言者《よげんしや》として|地上《ちじやう》に|下《くだ》し、|万民《ばんみん》を|天国《てんごく》に|救《すく》ふ|約束《やくそく》を|垂《た》れさせられた。されど|九十五種《くじふごしゆ》|外道《げだう》の|跋扈《ばつこ》|甚《はなは》だしく、|神《かみ》の|約束《やくそく》を|信《しん》ずるもの|殆《ほとん》ど|無《な》きに|至《いた》つた。それ|故《ゆゑ》|世《よ》は|益々《ますます》|暗黒《あんこく》となり、|餓鬼《がき》、|畜生《ちくしやう》、|修羅《しゆら》の|巷《ちまた》となつて|仕舞《しま》つた。|茲《ここ》に|至仁《しじん》|至愛《しあい》なる|皇大神《すめおほかみ》は、この|惨状《さんじやう》を|救《すく》はむが|為《ため》に、|厳瑞《げんずゐ》|二霊《にれい》を|地上《ちじやう》に|下《くだ》し、|万民《ばんみん》に|神約《しんやく》を|垂《た》れ|給《たま》ふたのである。ああされど|無明暗黒《むみやうあんこく》の|中《うち》に|沈《しづ》める|一切《いつさい》の|衆生《しゆじやう》は|救世《きうせい》の|慈音《じおん》に|耳《みみ》を|傾《かたむ》くる|者《もの》は|少《すくな》い。|実《じつ》に|思《おも》うて|見《み》れば|悲惨《ひさん》の|極《きは》みである。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・三・二四 旧二・八 於伯耆国皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第二章 |煽動《せんどう》〔一四五二〕
テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》の|奥《おく》の|間《ま》には、|小国別《をくにわけ》の|病《やまひ》|益々《ますます》|重《おも》く、|命《めい》|旦夕《たんせき》に|迫《せま》つて|来《き》た。|館《やかた》の|内《うち》は|上《うへ》を|下《した》へと|騒《さわ》ぎ|廻《まは》り、|小国姫《をくにひめ》、|三千彦《みちひこ》|及《およ》び|家令《かれい》のオールスチンは、|二人《ふたり》の|看護婦《かんごふ》と|共《とも》に|病床《びやうしやう》につききり、|死《し》に|行《ゆ》く|人《ひと》の|身《み》の|上《うへ》を|案《あん》じ、|胸《むね》を|躍《をど》らせつつあつた。|三千彦《みちひこ》は|最早《もはや》|是非《ぜひ》なしと|神《かみ》に|向《むか》つて|天国《てんごく》へ|救《すく》ひ|玉《たま》はむ|事《こと》を|祈願《きぐわん》した。|小国別《をくにわけ》は|顕幽《けんいう》|弁別《べんべつ》のつかざる|精神状態《せいしんじやうたい》となつた。|小国別《をくにわけ》は|嬉《うれ》しさうな|顔《かほ》して|空《そら》を|眺《なが》め、
『アア|貴方《あなた》はチヤンドラ・デーワブトラ|様《さま》(|月天子《ぐわつてんし》)、|貴方《あなた》はスーラヤ|様《さま》(|日天子《につてんし》)ようマア……|只今《ただいま》|参《まゐ》ります。|併《しか》し|乍《なが》らモウ|一目《ひとめ》|吾《わが》|二人《ふたり》の|娘《むすめ》に|会《あ》ふまで|御猶予《ごいうよ》を|下《くだ》さいませ。アア|何《なん》と|云《い》ふマノーヂニヤスワ゛ラ(|楽音《がくおん》)だらう。|女房《にようばう》にもあの|声《こゑ》が|聞《き》かしてやり|度《た》い。これ|小国姫《をくにひめ》、お|前《まへ》はあのマノーヂニヤスワ゛ラ(|楽音《がくおん》)が|聞《きこ》えて|居《ゐ》るか。あの|綺麗《きれい》なエンゼルが|目《め》につくか。もしもしエンゼル|様《さま》、|暫《しば》らく|御猶予《ごいうよ》を|願《ねが》ひます。これが|此《この》|世《よ》の|別《わか》れで|厶《ござ》いますから』
と|頻《しき》りに|掌《て》を|合《あは》して|居《ゐ》る。
|小国姫《をくにひめ》『モシ|旦那様《だんなさま》、|確《しつか》りして|下《くだ》さいませ。|貴方《あなた》は|病気《びやうき》のために|左様《さやう》な|幻覚《げんかく》を|感《かん》じて|居《ゐ》られるのでせう。マノーヂニヤガンダルワ゛(|楽《がく》)の|声《こゑ》も|聞《きこ》えては|居《ゐ》ないぢやありませぬか。そしてエンゼルのお|姿《すがた》も|決《けつ》して|見《み》えませぬよ。|確《しつか》りなさいませ。|軈《やが》て|姉妹《きやうだい》|二人《ふたり》が|帰《かへ》つて|参《まゐ》りますから』
|小国別《をくにわけ》は|女房《にようばう》の|声《こゑ》が|耳《みみ》に|這入《はい》らぬと|見《み》えて、|尚《なほ》も|言葉《ことば》をつづけ、
『|何《なん》とマア|美《うつく》しい|花《はな》だこと、もしエンゼル|様《さま》、|之《これ》はダリヤの|花《はな》で|厶《ござ》いますか。エ、|桃《もも》の|花《はな》、こんな|大《おほ》きな|桃《もも》の|花《はな》が、どうして|又《また》|咲《さ》いたのでせう。|何《なん》と|仰有《おつしや》います、|第一天国《だいいちてんごく》の|桃林《たうりん》の|桃《もも》の|花《はな》、ヘー、|美《うつく》しいもので|厶《ござ》いますなア。|私《わたし》、それへ|参《まゐ》るのですか。いや|有難《ありがた》う|厶《ござ》います』
|小国姫《をくにひめ》『モシ|三千彦《みちひこ》の|先生様《せんせいさま》、どうで|厶《ござ》いませうか。|到底《たうてい》|主人《しゆじん》の|生命《いのち》は|駄目《だめ》で|厶《ござ》いませうな。せめてデビスやケリナの|帰《かへ》つて|来《く》る|迄《まで》、|何《なん》とかして|命《いのち》をとり|止《と》めて|頂《いただ》き|度《た》いものです』
|三千彦《みちひこ》『お|喜《よろこ》びなさいませ。|決《けつ》して|幻覚《げんかく》でも|何《なん》でもありませぬ。|貴方《あなた》の|目《め》には|分《わか》らぬか|知《し》りませぬが、あの|通《とほ》りチヤンドラデーワブトラ|様《さま》やスーラヤ|様《さま》がエンゼルとなつて|天国《てんごく》に|救《すく》ふべくお|見《み》えになつて|居《ゐ》ます。|今《いま》お|願《ねがひ》を|致《いた》しますから、|親娘《おやこ》|対面《たいめん》が|済《す》む|迄《まで》、|天国行《てんごくゆき》の|猶予《いうよ》を|願《ねが》ひませう』
と|三千彦《みちひこ》は|拍手《かしはで》をうち、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|祈願《きぐわん》を|籠《こ》めた。|月天子《ぐわつてんし》、|日天子《につてんし》の|両《りやう》エンゼルは|三千彦《みちひこ》の|乞《こひ》を|容《い》れ、|四辺《あたり》に|芳香《はうかう》を|投《な》げ、|微妙《びめう》の|音楽《おんがく》につれて|一先《ひとま》づ|天上《てんじやう》に|帰《かへ》り|玉《たま》うた。|殆《ほとん》ど|帰幽《きいう》して|居《ゐ》た|小国別《をくにわけ》は|再《ふたた》び|正気《しやうき》になり、|目《め》を|静《しづ》かに|開《ひら》ひて|四辺《あたり》を|打眺《うちなが》め、
『ア、|女房《にようばう》、そこに|居《ゐ》たか。|貴方《あなた》は|三千彦《みちひこ》|様《さま》、ア、|大変《たいへん》な|美《うつく》しいエンゼル|様《さま》に|結構《けつこう》な|処《ところ》へ|導《みちび》かれて|行《ゆ》く|所《ところ》だつた。|娘《むすめ》は|未《ま》だ|帰《かへ》つて|来《こ》ぬかな』
|小国姫《をくにひめ》『ハイ、|未《ま》だ|帰《かへ》りませぬが、|軈《やが》て|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》で|無事《ぶじ》な|顔《かほ》を|見《み》せるで|厶《ござ》いませう。|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
と|自分《じぶん》も|二人《ふたり》の|姉妹《きやうだい》の|事《こと》を|案《あん》じ|乍《なが》ら|故意《わざ》とに|気楽《きらく》さうに|云《い》つてゐる。|小国別《をくにわけ》は『|会《あ》ひたいものだな』と|頻《しき》りに|憧《あこが》れ|乍《なが》らスヤスヤと|眠《ねむ》りに|就《つ》いた。|此《この》|時《とき》|館《やかた》の|周囲《しうゐ》に|当《あた》つて|老若男女《らうにやくなんによ》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》が|聞《きこ》えて|来《き》た。|小国姫《をくにひめ》は|夫《をつと》の|看護《かんご》に|手《て》が|放《はな》されないので、ソファーの|側《かたは》らに|看護婦《かんごふ》と|共《とも》に|附《つき》きつて|居《ゐ》る。オールスチンは|三千彦《みちひこ》と|共《とも》に|玄関口《げんくわんぐち》に|現《あら》はれ|見《み》れば|赤鉢巻《あかはちまき》に|赤襷《あかたすき》の|荒《あら》くれ|男《をとこ》|酒《さけ》に|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れてヒヨロヒヨロし|乍《なが》ら|雪崩《なだれ》の|如《ごと》く|押《おし》かけ|来《きた》り、|矢場《やには》にオールスチンを|突飛《つきと》ばし、|其《その》|上《うへ》をドカドカと|踏《ふ》みにじり、|三千彦《みちひこ》を|寄《よ》つて|集《たか》つて|手《て》をとり、|足《あし》をとり、|凱歌《がいか》を|挙《あ》げてドンドンドンとテルモン|山《ざん》の|山奥《やまおく》|指《さ》して、|数十人《すうじふにん》の|荒男《あらをとこ》がワツショワツショと|掛《か》け|声《ごゑ》|諸共《もろとも》|運《はこ》び|行《ゆ》く。オールスチンの|悴《せがれ》ワックスは、|驢馬《ろば》に|跨《またが》り|群衆《ぐんしう》を|指揮《しき》し|乍《なが》ら|采配《さいはい》を|振《ふ》つて|居《ゐ》る。|目的物《もくてきぶつ》の|三千彦《みちひこ》は|漸《やうや》く|攫《さら》はれた。ワックスは|先《ま》づ|一安心《ひとあんしん》と|玄関口《げんくわんぐち》に|進入《しんにふ》し|見《み》れば、|父《ちち》のオールスチンが|人事不省《じんじふせい》になつて|倒《たふ》れてゐる。|矢場《やには》に|両眼《りやうがん》に|目隠《めかく》しを|施《ほどこ》こし、|水《みづ》を|吹《ふき》かけ|気《き》つけを|飲《の》ませ、|漸《やうや》くにして|蘇生《そせい》せしめた。|両眼《りやうがん》を|布《ぬの》で|括《くく》つて|置《お》いたのは|父《ちち》にワックスの|姿《すがた》を|覚《さと》られぬための|用意《ようい》であつた。|流石《さすが》|悪人《あくにん》のワックスも|父《ちち》の|危難《きなん》を|見《み》ては|救《すく》はずには|居《を》られなかつたからである。ワックスは|三千彦《みちひこ》を|悪友《あくいう》のエキス、ヘルマンに|命《めい》じ|山奥《やまおく》に|拉《らつ》し|去《さ》らしめ、|冷《つめ》たい|岩窟《がんくつ》の|中《なか》に|押込《おしこ》めて|置《お》いた。
ワックス『サア、|之《これ》からデビス|姫《ひめ》を|生捕《いけどり》せねばならぬ。さりとて|何《なん》とか|群衆《ぐんしう》を|誑《たぶらか》さねば|此《この》|目的《もくてき》は|達《たつ》し|得《え》ない』
と|再《ふたた》び|驢馬《ろば》を|引返《ひつかへ》し|十字街頭《じふじがいとう》に|立《た》ち、|豆太鼓《まめだいこ》を|叩《たた》き|乍《なが》ら、|又《また》もや|辻説法《つじせつぽふ》を|始《はじ》め|出《だ》した。
ワックス『|宮町《みやまち》の|老若男女《らうにやくなんによ》|諸君《しよくん》よ、|諸君《しよくん》の|尽力《じんりよく》によつてテルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》に|禍《わざはひ》する|三五教《あななひけう》の|悪宣伝使《あくせんでんし》|三千彦《みちひこ》を|漸《やうや》くの|事《こと》に|生捕《いけど》りました。|彼奴《あいつ》は|館《やかた》の|嬢様《ぢやうさま》デビス|姫《ひめ》と|密《ひそ》かに|牒《しめ》し|合《あは》せ|此《この》|神館《かむやかた》を|横領《わうりやう》し、あらゆる|魔法《まはふ》を|使《つか》つて|町民《ちやうみん》|諸氏《しよし》を|苦《くる》しめる|準備《じゆんび》を|致《いた》して|居《を》りましたぞ。|此《この》|度《たび》の|小国別《をくにわけ》|様《さま》の|御病気《ごびやうき》も|全《まつた》く|三千彦《みちひこ》がなす|業《わざ》、|大恩《だいおん》ある|生神様《いきがみさま》の|御恩《ごおん》を|報《はう》ずるは|今《いま》この|時《とき》で|厶《ござ》る。|何程《なにほど》デビス|姫《ひめ》が|大切《たいせつ》なお|嬢《ぢやう》さまとは|云《い》へ、バラモン|教《けう》の|教敵《けうてき》なる|三五教《あななひけう》の|悪宣伝使《あくせんでんし》と|情《じやう》を|通《つう》じ、|父《ちち》のお|館《やかた》を|占領《せんりやう》し、|町民《ちやうみん》を|苦《くるし》めむと|致《いた》さるる|以上《いじやう》は、|一時《いちじ》|改心《かいしん》が|出来《でき》るまでは|吾々《われわれ》の|手《て》に|預《あづか》つて、お|館《やかた》に|帰《かへ》さないやうにせなくてはなりませぬ。|今《いま》の|心《こころ》で|館《やかた》へ|帰《かへ》られては|大変《たいへん》で|厶《ござ》るぞ。|如意宝珠《によいほつしゆ》のお|館《やかた》の|宝《たから》も|三千彦《みちひこ》と|両人《りやうにん》|牒《しめ》し|合《あは》せ|奪《うば》ひ|取《と》つたに|相違《さうゐ》|厶《ござ》いませぬ。それで|皆《みな》さまの|力《ちから》をかつて、デビス|姫《ひめ》が|今《いま》ここに|帰《かへ》り|来《きた》らば、|有無《うむ》を|云《い》はせず、テルモン|山《ざん》の|岩窟《がんくつ》に|連《つ》れ|行《ゆ》く|事《こと》に|致《いた》しませう。|之《これ》は|決《けつ》してワックスの|私言《しげん》では|厶《ござ》いませぬ。|館《やかた》の|小国姫《をくにひめ》の|御命令《ごめいれい》で|厶《ござ》いますぞ。|皆《みな》さま、|宜《よろ》しく|頼《たの》みます』
と|呶鳴《どな》りつけた。|熱《ねつ》しきつたる|群衆《ぐんしう》は|馬鹿息子《ばかむすこ》のワックスが|言葉《ことば》を、さまで|信用《しんよう》するものはないが、|群衆心理《ぐんしうしんり》と|云《い》ふものは|不思議《ふしぎ》なもので、|三千彦《みちひこ》を|捕虜《ほりよ》とした|勢《いきほひ》に|乗《じやう》じ、|一《いち》も|二《に》も|無《な》くワックスの|言葉《ことば》を|鵜呑《うの》みにし、|第二《だいに》の|計画《けいくわく》としてデビス|姫《ひめ》を|捕縛《ほばく》せむと|宮町《みやまち》を|後《あと》に|郊外《かうぐわい》まで|駆《か》け|出《だ》した。
|折《をり》から|大原野《だいげんや》の|中央《まんなか》を|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|男女《なんによ》|四人連《よにんづ》れ|此方《こなた》に|向《むか》つて|進《すす》み|来《く》るものがあつた。
エミシ『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善神《ぜんしん》|邪神《じやしん》を|立分《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞《き》き|直《なほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|治国別《はるくにわけ》に|助《たす》けられ バラモン|教《けう》のカーネルと
|仕《つか》へ|侍《はべ》りし|此《この》エミシ |現実界《げんじつかい》の|慾《よく》を|棄《す》て
|一切万事《いつさいばんじ》|神界《しんかい》に |身《み》も|魂《たましひ》も|任《まか》せつつ
|比丘《びく》の|姿《すがた》と|相成《あひな》りて |山川《やまかは》|渡《わた》り|野路《のぢ》を|越《こ》え
|神《かみ》の|教《をしへ》を|遠近《をちこち》に |宣《の》り|伝《つた》へ|行《ゆ》く|折《をり》もあれ
エルシナ|川《がは》の|激流《げきりう》に |落《お》ち|込《こ》み|漂《ただよ》ふ|人々《ひとびと》を
|命《いのち》を|的《まと》に|救《すく》ひ|上《あ》げ |検《あらた》め|見《み》ればこは|如何《いか》に
バラモン|教《けう》に|仕《つか》へたる ベル、ヘル、シャルの|軍人《いくさびと》
ケリナの|姫《ひめ》の|四人連《よにんづ》れ やうやう|三人《みたり》の|命《いのち》をば
|取《と》り|返《かへ》しつつ|川岸《かはぎし》を |伝《つた》うて|来《き》たる|草野原《くさのはら》
ベルとヘルとの|両人《りやうにん》は |俄《にはか》に|悪心《あくしん》|萌芽《はうが》して
|吾《われ》|等《ら》|二人《ふたり》の|命《いのち》をば |奪《と》らむとしたる|浅間《あさま》しさ
|月照彦《つきてるひこ》の|神力《しんりき》に |照《て》らされ|悪魔《あくま》は|忽《たちま》ちに
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げて|行《ゆ》く |後《あと》に|二人《ふたり》は|勇《いさ》み|立《た》ち
|月《つき》の|光《ひかり》を|身《み》に|浴《あ》びて |露野《つゆの》を|渉《わた》り|進《すす》む|折《をり》
|道《みち》の|傍《かたへ》の|方岩《はこいは》に |俄《にはか》に|唸《うめ》く|人《ひと》の|声《こゑ》
はて|訝《いぶ》かしと|窺《うかが》へば デビスの|姫《ひめ》やベル、ヘルの
|三人《みたり》の|男女《なんによ》と|知《し》るよりも |二度《にど》ビツクリの|二人連《ふたりづ》れ
|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|介抱《かいはう》して |三人《みたり》の|命《いのち》を|相救《あひすく》ひ
|喜《よろこ》ぶ|間《ま》もなくベルの|奴《やつ》 デビスの|姫《ひめ》の|身《み》につけし
|七宝《しつほう》|悉《ことごと》く|掠奪《りやくだつ》し |草野《くさの》に|姿《すがた》を|隠《かく》しける
アア|如何《いか》にせむ|曲神《まがかみ》に |呪《のろ》はれきつた|盗人《ぬすびと》の
|如何《いか》に|誠《まこと》を|説《と》くとても |悟《さと》る|術《すべ》なき|憐《あは》れさよ
|手負《てお》ひ|玉《たま》ひしデビス|姫《ひめ》 ヘルの|背中《せなか》に|負《お》はせつつ
テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》 |目当《めあて》に|進《すす》む|野路《のぢ》の|上《うへ》
|守《まも》らせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》 |神《かみ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞《き》き|直《なほ》せ
|身《み》の|過《あやまち》は|宣《の》り|直《なほ》せ |神《かみ》は|吾《われ》|等《ら》と|倶《とも》にあり
|如何《いか》なる|曲《まが》の|攻《せ》め|来《く》とも |誠《まこと》|一《ひと》つの|大道《おほみち》に
さやる|術《すべ》なき|曲津神《まがつかみ》 |一日《ひとひ》も|早《はや》く|魂《たましひ》を
|洗《あら》ひ|清《きよ》めて|大神《おほかみ》の |誠《まこと》の|道《みち》に|帰《かへ》れかし
アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
ヘルはデビス|姫《ひめ》を|背《せ》に|負《お》ひ|乍《なが》ら|息《いき》も|苦《くる》しげに|一歩《ひとあし》|々々《ひとあし》|拍子《ひやうし》をとつて|歌《うた》ひ|出《だ》した。
『ウントコドツコイ ドツコイシヨ |悪《あく》の|酬《むく》いは|目《ま》のあたり
バラモン|軍《ぐん》の|解散《かいさん》と |同時《どうじ》に|心《こころ》|侫《ねぢ》け|出《だ》し
|忽《たちま》ち|魔道《まだう》に|逆転《ぎやくてん》し |覆面《ふくめん》|頭巾《づきん》の|怪装《くわいさう》で
|旅人《りよじん》を|掠《かす》め|懐《ふところ》の |宝《たから》を|奪《うば》ふ|追剥《おひはぎ》と
|一度《いちど》はなりし|果敢《はか》なさよ ベルとシャルとの|悪友《あくいう》に
|唆《そその》かされて|忽《たちま》ちに |思《おも》ひもよらぬ|泥坊《どろばう》の
|仲間《なかま》となりて|行《ゆ》く|人《ひと》の |衣《ころも》を|脱《ぬ》がせ|金《かね》を|奪《と》り
|挙句《あげく》の|果《はて》は|命《いのち》まで |奪《と》りて|露命《ろめい》を|繋《つな》ぎつつ
エルシナ|川《がは》の|袂《たもと》まで |忍《しの》び|忍《しの》びに|来《き》て|見《み》れば
ザンブと|立《た》ちし|水煙《みづけむり》 |如何《いか》なる|人《ひと》の|投身《みなげ》ぞや
|命《いのち》を|助《たす》けにやなるまいと |身《み》を|躍《をど》らして|深淵《ふかぶち》に
|跳《と》び|込《こ》み|二人《ふたり》を|救《すく》ひ|出《だ》し |又《また》もやベルの|悪人《あくにん》と
つまらぬ|事《こと》を|争《あらそ》ひつ |再《ふたた》び|淵《ふち》に|転落《てんらく》し
|魂《たま》は|中空《ちうくう》に|跳《と》び|出《だ》して |八衢街道《やちまたかいだう》の|旅《たび》をなし
|闇《やみ》に|迷《まよ》へる|時《とき》もあれ |忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|法螺《ほら》の|声《こゑ》
|高姫館《たかひめやかた》の|危難《きなん》をば |求道居士《きうだうこじ》に|救《すく》はれて
|再《ふたた》び|此《この》|世《よ》の|人《ひと》となり |神《かみ》の|恵《めぐ》みを|喜《よろこ》びつ
|居士《こじ》の|御後《みあと》に|従《したが》ひて エルシナ|谷《だに》の|山口《やまぐち》に
|来《き》かかる|折《をり》しも|一万両《いちまんりやう》 |所持《しよぢ》し|玉《たま》ふと|聞《き》くよりも
|心《こころ》の|鬼《おに》は|忽《たちま》ちに |角《つの》|振《ふ》り|立《た》てて|狂《くる》ひ|出《だ》し
ベルと|二人《ふたり》が|牒《しめ》し|合《あ》ひ |如何《いか》にもなしてこの|金《かね》を
|奪《うば》はむものと|四苦八苦《しくはつく》 |遂《つひ》には|神《かみ》に|嚇《おどか》され
|命《いのち》からがら|山《やま》を|越《こ》え |不動《ふどう》の|滝《たき》に|逃《に》げ|行《ゆ》きて
|怪《あや》しき|姿《すがた》に|驚《おどろ》きつ |慄《ふる》ひ|戦《をのの》く|折《をり》もあれ
|怪《あや》しの|姿《すがた》は|滝壺《たきつぼ》を |上《のぼ》りてトボトボ|山坂《やまさか》を
|木《こ》の|間《ま》を|潜《くぐ》り|帰《かへ》り|行《ゆ》く |木《こ》の|間《ま》を|洩《も》るる|月影《つきかげ》に
|光《ひかり》|眩《まばゆ》き|宝石《ほうせき》は |星《ほし》の|如《ごと》くにピカピカと
|輝《かがや》きわたる|人《ひと》の|顔《かほ》 これ|見逃《みのが》してなるものか
|俺《おれ》につづけと|云《い》ひ|乍《なが》ら ベルは|一歩前《ひとあしさき》に|立《た》ち
|暗《くら》き|谷間《たにま》を|潜《くぐ》り|抜《ぬ》け |月《つき》の|白《しら》みし|山口《やまぐち》の
|草《くさ》|茫々《ばうばう》と|生《は》え|茂《しげ》る |中《なか》に|目立《めだ》ちていと|広《ひろ》き
|巌《いはほ》の|側《そば》に|来《き》て|見《み》れば |以前《いぜん》の|女《をんな》は|方岩《はこいは》の
|上《うへ》に|安坐《あんざ》し|月光《げつくわう》に |向《むか》つて|何《なに》か|祈《いの》り|居《ゐ》る
|隙《すき》を|覗《うかが》ひベルの|奴《やつ》 |猿臂《ゑんぴ》を|伸《の》ばして|宝玉《ほうぎよく》の
|光《ひかり》を|狙《ねら》つて【ムシ】らむと |飛《と》びかかりたる|一刹那《いつせつな》
ズドンと|許《ばか》り|二三間《にさんげん》 |投《な》げ|出《だ》されたる|浅間《あさま》しさ
|之《これ》を|見《み》るよりウントコシヨ |四辺《あたり》に|白《しろ》く|光《ひか》りたる
|枯木杭《かれぼくくひ》を|拾《ひろ》ひ|上《あ》げ |無性《むしやう》|矢鱈《やたら》にウントコシヨ
|骨《ほね》も|挫《くだ》けと|女《をんな》をば |目《め》あてにウンと|打下《うちおろ》す
キヤツと|一声《ひとこゑ》|断末魔《だんまつま》 やれ|安心《あんしん》と|胸《むね》を|撫《な》で
ベルに|水《みづ》をば|与《あた》へつつ |種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|介抱《かいはう》して
|漸《やうや》く|息《いき》を|吹《ふ》き|返《かへ》し |又《また》もや|宝《たから》の|奪合《とりあ》ひに
|一悶錯《ひともんさく》をおツ|初《ぱじ》め |二人《ふたり》は|息《いき》も|絶々《たえだえ》に
|露《つゆ》おく|草《くさ》に|倒《たふ》れけり かかる|処《ところ》へ|三五《あななひ》の
|教《をしへ》の|道《みち》の|求道居士《きうだうこじ》 ケリナの|姫《ひめ》と|諸共《もろとも》に
|現《あら》はれまして|吾々《われわれ》の |命《いのち》を|救《すく》ひ|玉《たま》ひてゆ
ここに|心《こころ》をとり|直《なほ》し |罪亡《つみほろ》ぼしの|其《その》|為《た》めに
デビスの|姫《ひめ》を|背《せな》に|負《お》ひ |重《おも》たき|足《あし》を|引摺《ひきず》りつ
テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》 |小国別《をくにのわけ》の|御前《おんまへ》に
お|詫《わび》|旁《かたがた》|進《すす》み|行《ゆ》く |吾《わが》|身《み》の|上《うへ》ぞ|果敢《はか》なけれ
アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
ヘルが|犯《おか》せし|罪科《つみとが》を |一日《ひとひ》も|早《はや》く|赦《ゆる》しまし
|生《い》きては|神《かみ》の|御用《ごよう》に|立《た》ち |死《し》しては|尊《たふと》き|天国《てんごく》の
|清《きよ》き|生涯《しやうがい》|送《おく》るべく |守《まも》らせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|天地《てんち》を|統《す》ぶる|大神《おほかみ》の |御前《みまへ》に|畏《かしこ》み|祈《ね》ぎまつる』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》らテルモン|山《ざん》の|中腹《ちうふく》、|宮町《みやまち》を|指《さ》して|爪先上《つまさきあが》りの|原野《げんや》を|帰《かへ》り|来《く》る。|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》の|旗《はた》を|立《た》てた|宮町《みやまち》の|老若男女《らうにやくなんによ》はワックスを|隊長《たいちやう》とし、デビス|姫《ひめ》を|兎《と》も|角《かく》|生捕《いけど》らむものと、|町内《ちやうない》|隈《くま》なく|探《さが》し、|遂《つひ》に|郊外《かうぐわい》にまで|現《あら》はれて|来《き》た。|求道居士《きうだうこじ》|一行《いつかう》は、そんな|変事《へんじ》が|起《おこ》つてゐるとは|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、|悠々《いういう》として|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら、|道《みち》の|傍《かたへ》のパインの|森《もり》に|少時《しばし》|息《いき》を|休《やす》めて|居《ゐ》た。|群衆《ぐんしう》の|喊声《かんせい》は|時々刻々《じじこくこく》に|高《たか》まり|来《きた》る。
(大正一二・三・二四 旧二・八 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第三章 |野探《やさがし》〔一四五三〕
|求道居士《きうだうこじ》はデビス、ケリナをパインの|森《もり》|迄《まで》|送《おく》り|来《きた》り、ヘルと|共《とも》に|少時《しばし》|息《いき》を|休《やす》めて|居《ゐ》た。|忽《たちま》ち|老若男女《らうにやくなんによ》の|鬨《とき》の|声《こゑ》、|鉦《かね》や|太鼓《たいこ》を|鳴《な》らしながら、
|群衆《ぐんしう》『|返《かへ》せ|戻《もど》せ、|三五教《あななひけう》の|悪神《あくがみ》よ ドンドコドンドコ ドコドコドン
チヤンチキチヤンチキ チヤンチキチン |大事《だいじ》の|大事《だいじ》のお|姫《ひめ》さま
テルモン|館《やかた》のお|姫《ひめ》さま ドンドコドンドコ ドコドコドン
チヤンチキチヤンチキ チヤンチキチン |不動《ふどう》の|滝《たき》へ|引《ひ》き|込《こ》んで
|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|三千彦《みちひこ》を お|先《さき》へ|館《やかた》へ|忍《しの》ばせつ
|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》 |大事《だいじ》の|大事《だいじ》のお|宝《たから》を
|隠《かく》した|奴《やつ》は|三千彦《みちひこ》だ |返《かへ》せ |戻《もど》せ |如意宝珠《によいほつしゆ》
ドンドコドンドコ ドコドコドン チヤンチキチヤンチキ チヤンチキチン
|如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》はバラモンの |神《かみ》のお|蔭《かげ》で|返《かへ》つたが
|肝腎要《かんじんかなめ》のお|姫《ひめ》さま |返《かへ》せ|戻《もど》せやサア|早《はや》う
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |如何《いか》なる|魔法《まはふ》を|使《つか》ふとも
|此方《こちら》にや|此方《こちら》の|魔法《まはふ》がある |返《かへ》せ|戻《もど》せサア|早《はや》く
|大事《だいじ》の|大事《だいじ》のお|姫《ひめ》さま も|一《ひと》つ|大事《だいじ》なケリナ|姫《ひめ》
|三年前《さんねんまへ》に|館《やかた》をば お|出《で》ましなさつたそれ|限《かぎ》り
|根《ね》つから|帰《かへ》つて|厶《ござ》らない ドンドコドンドコ ドコドコドン
チヤンチキチヤンチキ チヤンチキチン これも|矢張《やつぱり》|三五《あななひ》の
|悪神《わるがみ》|共《ども》のなす|業《わざ》と ワックス|司《つかさ》の|御託宣《ごたくせん》
よもや|間違《まちが》ひ|厶《ござ》るまい ドンドコドンドコ ドコドコドン
チヤンチキチヤンチキ チヤンチキチン エーエーエ
さても|此《この》|度《たび》テルモン|館《やかた》 |俄《にはか》に|悪魔《あくま》が|到来《たうらい》し
|肝腎要《かんじんかなめ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》 |盗《ぬす》んで|次《つぎ》にお|姫《ひめ》さま
|銜《くわ》へて|帰《い》なうと|企《たく》みつつ まづ|手初《てはじ》めに|教主《けうしゆ》さま
|小国別《をくにのわけ》の|命《いのち》をば |所在《あらゆる》|魔法《まはふ》を|使《つか》ひつつ
|命《いのち》を|取《と》らうと|企《たく》み|居《ゐ》る |斯《か》うなりや|館《やかた》の|損《そん》でない
|宮町中《みやまちぢう》の|大損《おほぞん》だ テルモン|山《ざん》の|中腹《ちうふく》に
|泰平《たいへい》の|夢《ゆめ》を|貪《むさぼ》りし |天下《てんか》|唯一《ゆゐいつ》のパラダイス
|三五教《あななひけう》の|鬼《おに》が|来《き》て |水《みづ》も|漏《も》らさぬ|悪企《わるだく》み
|根本的《こんぽんてき》に|看破《かんぱ》した ワックスさまは|偉《えら》いもの
テルモン|館《やかた》の|救世主《きうせいしゆ》 |宮町中《みやまちぢう》の|救《たす》け|神《がみ》
|悪《わる》いお|方《かた》と|聞《き》いてたに |古今無双《ここんむさう》の|神力《しんりき》を
|現《あら》はしなさつた|偉《えら》い|人《ひと》 |讃《ほ》めよ|称《たた》へよ|崇《あが》めよ|拝《をが》め
|讃《ほ》めよ|称《たた》へよ|崇《あが》めよ|拝《をが》め ドンドコドンドコ ドコドコドン
チヤンチキチヤンチキ チヤンチキチン パインの|森《もり》には|何《なん》となく
|怪《あや》しい|人《ひと》の|影《かげ》がある これも|矢張《やつぱり》|三五《あななひ》の
|悪神《わるがみ》|共《ども》の|襲来《しふらい》か デビス、ケリナの|姫《ひめ》さまの
|吾々《われわれ》|町人《ちやうにん》|一同《いちどう》は |一度《いちど》もお|顔《かほ》は|拝《をが》まねど
|御容色《ごきりよう》の|勝《すぐ》れた|人《ひと》ぢやげな |皆《みな》さま|確《しつか》りなされませ
|三五教《あななひけう》を|守護《しゆごう》する |高倉《たかくら》、|旭《あさひ》の|明神《みやうじん》が
|女《をんな》に|化《ば》けてテルモンの |館《やかた》へ|侵入《しんにふ》すると|云《い》ふ
|大国彦《おほくにひこ》の|神様《かみさま》の さしも|厳《きび》しき|御託宣《ごたくせん》
ワックスさまに|降《くだ》りしと |聞《き》いて|吾等《われら》はうかうかと
|無事《ぶじ》|泰平《たいへい》の|夢《ゆめ》を|見《み》て これが|暮《くら》して|居《を》られうか
|何程《なにほど》|姫《ひめ》に|見《み》えたとて |決《けつ》して|信《しん》じちやなりませぬ
ワックスさまの|云《い》ふ|通《とほ》り |一旦《いつたん》|女《をんな》を|見《み》つけたら
とつ|捉《つか》まへてワックスの お|目《め》にかけた|上《うへ》でなくば
|決《けつ》して|館《やかた》に|送《おく》るなよ ドンドコドンドコ ドコドコドン
チヤンチキチヤンチキ チヤンチキチン』
と、|赤襷《あかだすき》|赤鉢巻《あかはちまき》に|白《しろ》い|旗《はた》に|文字《もじ》をムシヤムシヤと|書《か》いたのを|立《た》て|乍《なが》ら、|黒《くろ》い|顔《かほ》した|老若男女《らうにやくなんによ》が|坂道《さかみち》を|下《くだ》つて|来《く》る。|斯《かく》の|如《ごと》く|町民《ちやうみん》|一同《いちどう》が|脱線的《だつせんてき》|蠢動《しゆんどう》を|初《はじ》めたのは、ワックスがいつも|使役《しえき》して|居《ゐ》る|悪狐《あくこ》の|所為《しよゐ》である。この|悪狐《あくこ》は|妖幻坊《えうげんばう》の|部下《てした》であつて|三九坊《さんきうばう》と|称《とな》ふる|数千年《すうせんねん》の|劫《ごふ》を|経《へ》た|古狐《ふるぎつね》で、|時々《ときどき》テルモン|山《ざん》に|夜中《やちう》|数千《すうせん》の|火《ひ》を|点《とぼ》し、|或《あるひ》は|文字《もじ》をもつて|大《だい》の|字《じ》を|現《あら》はしなどして、|町民《ちやうみん》を|誤魔化《ごまくわ》して|居《ゐ》たのである。|此《この》|三九坊《さんきうばう》はワックスの|体内《たいない》に|出入《でいり》して|何時《いつ》も|好《よ》からぬ|事《こと》を|計劃《けいくわく》して|居《ゐ》た。|其処《そこ》へ|三五教《あななひけう》の|三千彦《みちひこ》が|突然《とつぜん》やつて|来《き》たので、|自分《じぶん》の|正体《しやうたい》の|現《あら》はれむ|事《こと》を|恐《おそ》れ、|三千彦《みちひこ》を|排斥《はいせき》し、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|一人《ひとり》も|窺《うかが》はしめざるやう|為《な》すは|今《いま》|此《この》|時《とき》と、|有《あ》らむ|限《かぎ》りの|力《ちから》を|尽《つく》し、|先《ま》づ|第一《だいいち》に|町民《ちやうみん》の|精心《せいしん》を|攪乱《かくらん》すべく、ワックスの|口《くち》を|藉《か》つて|辻演説《つじえんぜつ》を|初《はじ》めたものである。|百戸《ひやくこ》|許《ばか》りの|町民《ちやうみん》は、ワックスの|妖言《えうげん》を|一《いち》も|二《に》もなく|信《しん》じて|仕舞《しま》ひ、|家《いへ》を|空《から》にして|姫《ひめ》の|捜索《そうさく》に|出掛《でか》けたのである。どの|家《いへ》もどの|家《いへ》も|家《いへ》を|空《から》にして|外《そと》に|飛《と》び|出《だ》し、|猫《ねこ》の|子《こ》|一匹《いつぴき》|留守《るす》をして|居《ゐ》なかつた。|其《その》|間《あひだ》にオークス、ビルマの|両人《りやうにん》はワックスの|内命《ないめい》により、|留守《るす》の|家々《いへいへ》を|探《さぐ》つて|目《め》ぼしい|物品《ぶつぴん》を|残《のこ》らず|盗《ぬす》み|出《だ》し、テルモン|山《ざん》の|或《あ》る|岩窟《がんくつ》へ|運《はこ》ばせて|置《お》いた。|百戸《ひやくこ》が|百戸《ひやくこ》とも|最《もつと》も|大切《たいせつ》なる|物品《ぶつぴん》を|一《ひと》つも|盗《ぬす》まれない|家《いへ》は|無《な》かつた。ワックスは|数多《あまた》の|人々《ひとびと》を|引《ひ》き|連《つ》れ|乍《なが》ら、|四人《よにん》の|休息《きうそく》せるパインの|森《もり》に|押《お》し|寄《よ》せ|来《きた》り|大音声《だいおんじやう》、
ワックス『ヤアヤアそれなる、|円頂緇衣《ゑんちやうしえ》の|比丘《びく》|共《ども》、|汝《なんぢ》は|三五教《あななひけう》の|魔法《まはふ》を|使《つか》ひ、|二人《ふたり》の|姫様《ひめさま》をいづくにか、|奪《うば》い|取《と》り|隠《かく》し|置《お》き、|旭《あさひ》、|高倉《たかくら》の|白狐《びやくこ》を|使《つか》ひ、デビス|姫《ひめ》、ケリナ|姫《ひめ》に|化《ば》けさせ、|再《ふたた》び|如意宝珠《によいほつしゆ》の|宝《たから》を|手《て》に|入《い》れむとして|進《すす》み|来《きた》りし|大悪人《だいあくにん》|奴《め》、|又《また》|一人《ひとり》は|一ケ月《いつかげつ》|以前《いぜん》|三人《さんにん》|抜刀《ばつたう》をもつて|宮町《みやまち》を|荒《あら》した|大泥坊《おほどうばう》の|中《なか》の|片割《かたわれ》、|隠《かく》しても|隠《かく》されまい。サアどうぢや、|尋常《じんじやう》に|縛《ばく》につけ』
と|呶鳴《どな》り|立《た》てた。|求道居士《きうだうこじ》は|言葉《ことば》|柔《やさ》しく、
『|拙者《せつしや》は|決《けつ》して|悪神《わるがみ》では|厶《ござ》らぬ、|元《もと》はバラモン|教《けう》のカーネル、エミシと|申《まを》すもの、|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|命《めい》を|奉《ほう》じ、|鬼春別《おにはるわけ》、|久米彦《くめひこ》|両将軍《りやうしやうぐん》に|従《したが》ひ、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|進軍《しんぐん》の|途中《とちう》、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|迦葉尊者《かせうそんじや》、|治国別《はるくにわけ》に|出遇《であ》ひ|誠《まこと》の|道《みち》を|説《と》き|示《しめ》され、|比丘《びく》となつたもので|厶《ござ》る。さうして|此《この》|御両人《ごりやうにん》はテルモン|館《やかた》のデビス|姫様《ひめさま》、ケリナ|姫様《ひめさま》で|厶《ござ》るぞ。|危急《ききふ》の|場合《ばあひ》をお|助《たす》け|申《まを》し、|此処《ここ》|迄《まで》お|送《おく》り|申《まをし》たもので|厶《ござ》る。サア|疑《うたがひ》を|晴《は》らして|吾々《われわれ》|一同《いちどう》を|御案内《ごあんない》|召《め》され』
ワックス『アハハハハハ、|吐《ぬか》したりな|糞坊主《くそばうず》|奴《め》、|怪弁《くわいべん》をもつて|神力無双《しんりきむさう》の|某《それがし》を|誤魔化《ごまくわ》さむと|致《いた》すとも、|左様《さやう》な|事《こと》に|誑《たばか》らるる|如《ごと》き|某《それがし》では|厶《ござ》らぬぞ。デビス|姫様《ひめさま》は|決《けつ》してそのやうなお|耳《みみ》はして|厶《ござ》らぬ。|全《まつた》く|高倉《たかくら》と|申《まを》す|悪狐《あくこ》で|厶《ござ》らう、|化損《ばけそこ》ねて|犬《いぬ》に|耳《みみ》を|噛《か》まれた|証拠《しようこ》にはまだ|血《ち》が|滴《したた》つて|居《ゐ》るぢやないか。もう|一人《ひとり》のケリナ|姫《ひめ》に|化《ば》けた|奴狐《どぎつね》も|首筋《くびすぢ》に|創《きず》を|致《いた》して|居《を》るぢやないか、|其《その》|方《はう》も|亦《また》|耳《みみ》の|辺《あた》りに|創《きず》の|跡《あと》がある。きつと|犬《いぬ》に|噛《か》まれて、|化《ば》けて|此処《ここ》まで|来《き》よつたに|違《ちが》ひない。サア|皆《みな》の|者《もの》|猶予《いうよ》はいらぬ、ワックスの|命《めい》だ、|縛《しば》りあげて|姫《ひめ》の|住所《ありか》を|白状《はくじやう》させる|為《た》め、テルモン|山《ざん》の|岩窟《がんくつ》に|送《おく》つたがよからう』
デビス『これお|前《まへ》は|家令《かれい》の|悴《せがれ》、|野呂作《のろさく》のワックスぢやないか、|何《なん》と|云《い》ふ|失礼《しつれい》な|事《こと》を|云《い》ふのだ。|妾《わらは》の|命《いのち》を|助《たす》けて|下《くだ》さつた|御恩人《ごおんじん》、|無礼《ぶれい》の|事《こと》を|致《いた》すと|量見《れうけん》は|致《いた》しませぬぞ』
ケリナ『ヤア|珍《めづら》しやワックス|殿《どの》、|其方《そなた》は|相変《あひかは》らず|脱線《だつせん》を|続《つづ》ける|男《をとこ》だな。|吾等《われら》|妹姉《きやうだい》は|小国別《をくにのわけ》の|娘《むすめ》に|間違《まちが》ひない|程《ほど》に、サア|早《はや》く|其処《そこ》を|退《の》いてお|呉《く》れ、お|父上《ちちうへ》の|御身《おみ》の|上《うへ》が|気《き》にかかるから|一時《いちじ》も|早《はや》く|帰《かへ》らねばなりませぬ』
ワックス『ツベコベと|吾々《われわれ》を|誤魔化《ごまくわ》さむと|致《いた》しても|其《その》|手《て》に|乗《の》るものではない。サア|皆《みな》さま、あの|耳《みみ》を|噛《か》まれて|居《ゐ》るのが|四足《よつあし》の|証拠《しようこ》だ。|早《はや》く|縛《しば》りなさい』
と|下知《げち》すれば、|数十人《すうじふにん》の|荒男《あらをとこ》は|有無《うむ》を|言《い》はせず|四人《よにん》を|雁字搦《がんじがらみ》に|縛《しば》り|上《あ》げた。|求道居士《きうだうこじ》|初《はじ》め|其《その》|外《ほか》|三人《さんにん》は|名《な》もなき|小童《こわつぱ》|共《ども》にムザムザ|縛《しば》られるやうな|者《もの》ではなかつたが、|一層《いつそ》の|事《こと》|縛《しば》られて|館《やかた》へ|帰《かへ》り、ワックス|其《その》|外《ほか》を|驚《おどろ》かしてやらうと、|態《わざ》とに|縛《ばく》に|就《つ》いたのである。|然《しか》るにワックスは|胸《むね》に|一物《いちもつ》ある|事《こと》とて、|三九坊《さんきうばう》の|副守《ふくしゆ》の|命《めい》ずる|儘《まま》に|三千彦《みちひこ》を|放《ほ》り|込《こ》んだ|向《む》かひ|側《がは》の|谷間《たにま》の|岩窟《がんくつ》に|一人《ひとり》|宛《づつ》|分《わ》けて、|大勢《おほぜい》と|共《とも》に|送《おく》り|込《こ》み|錠《ぢやう》を|固《かた》く|鎖《とざ》して|仕舞《しま》つたのである。
|町民《ちやうみん》は|勝鬨《かちどき》をあげて|各《おのおの》|家路《いへぢ》に|帰《かへ》り|見《み》れば、バラモン|神《がみ》を|祭《まつ》る|最《もつと》も|必要《ひつえう》な|金銀製《きんぎんせい》の|香炉《かうろ》や|水壺《みづつぼ》が、|一個《いつこ》も|残《のこ》らず|紛失《ふんしつ》して|居《ゐ》た。|何《いづ》れも|周章狼狽《あわてふためき》|街路《がいろ》に|出《で》て、|互《たがひ》に|盗難《たうなん》の|次第《しだい》を|物語《ものがた》つて|居《ゐ》る。|其処《そこ》へ|意気《いき》|揚々《やうやう》として|驢馬《ろば》に|跨《またが》りやつて|来《き》たのは、ワックス、オークス、ビルマの|三人《さんにん》であつた。|一同《いちどう》は|三人《さんにん》の|周囲《しうゐ》に|群《むら》がり|来《きた》り、|盗難《たうなん》の|次第《しだい》を|訴《うつた》へた。オークスは|馬上《ばじやう》より|大音声《だいおんじやう》を|発《はつ》して|云《い》ふ。
『|三五教《あななひけう》の|悪宣伝使《あくせんでんし》、テルモン|山《ざん》の|館《やかた》へ|忍《しの》び|込《こ》み、デビス|姫《ひめ》をチヨロまかし、|如意宝珠《によいほつしゆ》を|隠《かく》し、|小国別《をくにのわけ》を|呪咀《じゆそ》して|命《いのち》を|取《と》り|尚《なほ》|是《これ》にては|飽《あ》き|足《た》らず、|宮町《みやまち》の|家々《いへいへ》の|重宝《ぢゆうほう》、バラモン|神《がみ》を|祭《まつ》る|重要《ぢゆうえう》の|器具《きぐ》を|一《ひと》つも|残《のこ》さず|奪《うば》ひ|取《と》りしは、|全《まつた》く|彼等《かれら》の|魔法《まはふ》の|致《いた》す|所《ところ》、|決《けつ》して|油断《ゆだん》をするな。グヅグヅして|居《ゐ》ると|大切《たいせつ》な|娘《むすめ》を|取《と》られ、|財産《ざいさん》を|奪《うば》はれ、|遂《つひ》には|皆《みな》さまの|命《いのち》|迄《まで》|取《と》られますよ。|最早《もはや》テルモンの|神館《かむやかた》は|小国別《をくにのわけ》|様《さま》は|九死一生《きうしいつしやう》の|場合《ばあひ》、とてもお|命《いのち》は|難《むつか》しい。|加《くわ》ふるに|二人《ふたり》のお|娘子《むすめご》は|魔法使《まはふつかひ》の|為《ため》に|行方《ゆくへ》は|分《わか》らず、|到底《たうてい》|安心《あんしん》して|暮《くら》す|事《こと》は|出来《でき》ますまい。|又《また》|肝腎要《かんじんかなめ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》を|失《うしな》うた|上《うへ》はハルナの|都《みやこ》に|坐《まし》ます|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|怒《いかり》に|触《ふ》れ|村中《むらぢう》|追放《つゐはう》に|遇《あ》ふか、|或《あるひ》は|鏖殺《みなごろし》に|遇《あ》はねばならぬ|所《ところ》を|此《この》ワックス|様《さま》が、|御神力《ごしんりき》によつて|如意宝珠《によいほつしゆ》を|手《て》に|入《い》れて|下《くだ》さつた|為《た》め、|宮町《みやまち》|百戸《ひやくこ》の|罪《つみ》は|逃《のが》れたと|申《まを》すもの、されば|今後《こんご》はワックス|様《さま》を|館《やかた》の|主《あるじ》と|崇《あが》め|奉《まつ》り、|本当《ほんたう》のデビス|姫《ひめ》が|見《み》つかつた|上《うへ》で|御夫婦《ごふうふ》にお|成《な》り|下《くだ》さるやう、|御両人《ごりやうにん》に|村中《むらぢう》がお|勧《すす》め|申《まを》し、そして|祖先《そせん》より|伝《つた》はつた|家《いへ》を|守《まも》らうでは|厶《ござ》いませぬか。ワックス|様《さま》は|今日《こんにち》|迄《まで》は|故意《わざ》とに|馬鹿《ばか》になり、|放蕩息子《はうたうむすこ》と|見《み》せかけて、|此《この》|国難《こくなん》をお|救《すく》ひ|下《くだ》さつた|誠《まこと》の|救世主《きうせいしゆ》で|厶《ござ》いますぞや』
と|嘘《うそ》を|甘《うま》く|並《なら》べ|立《た》て、|説《と》きつけた。|集《あつ》まり|来《きた》りし|老若男女《らうにやくなんによ》は、|何《いづ》れも|三五教《あななひけう》の|悪神《わるがみ》の|魔法《まはふ》にかかつて|苦《くる》しむ|事《こと》を|恨《うら》み、|且《か》つワックスの|神力《しんりき》を|賞揚《しやうやう》し、『ワックス|万歳《ばんざい》』を|三唱《さんしやう》し|乍《なが》ら|各《おのおの》|家路《いへぢ》に|急《いそ》ぎ|帰《かへ》る。|帰《かへ》つて|見《み》れば|先祖代々《せんぞだいだい》から|伝《つた》はつた|財物《ざいぶつ》の|祭具《さいぐ》が|無《な》いので|又《また》もや|憂《うれひ》に|沈《しづ》み、|益々《ますます》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|憎《にく》み、その|反対《はんたい》にワックスを|神《かみ》の|如《ごと》くに|尊敬《そんけい》するに|至《いた》りぬ。
(大正一二・三・二四 旧二・八 於伯耆国皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第四章 |妖子《えうし》〔一四五四〕
|館《やかた》の|家令《かれい》オールスチンは、|老齢《らうれい》|衰弱《すゐじやく》の|身《み》を|大勢《おほぜい》の|荒男《あらをとこ》に|所《ところ》|構《かま》はず|踏《ふ》み|倒《たふ》され、ワックスの|介抱《かいはう》に|依《よ》りて|再《ふたた》び|息《いき》は|吹《ふ》き|返《かへ》したものの、|苦《くる》しみに|堪《た》えず、|吾《わが》|館《やかた》に|舁《か》つぎ|込《こ》まれ、|発熱《はつねつ》|甚《はなは》だしく、|日夜《にちや》|苦悶《くもん》を|続《つづ》けて|居《ゐ》た。
|一方《いつぱう》|館《やかた》に|於《おい》ては|小国別《をくにのわけ》は|仮死状態《かしじやうたい》に|陥《おちい》り、|囈言《うはごと》|計《ばか》り|云《い》うて|居《ゐ》る。さうしてデビス、ケリナの|両女《りやうぢよ》は|行衛《ゆくゑ》は|容易《ようい》に|分《わか》らず、|又《また》|力《ちから》と|頼《たの》む|三千彦《みちひこ》の|行衛《ゆくゑ》も|分《わか》らなくなり、|小国姫《をくにひめ》は|悲痛《ひつう》の|淵《ふち》に|沈《しづ》み、|身《み》をワナワナと|慄《ふる》はせ|乍《なが》ら、|世《よ》を|果敢《はか》なみ、|生《いき》たる|心地《ここち》はせなかつた。されど|如何《いか》にもして|一時《いちじ》なりとも|夫《をつと》の|病《やまひ》を|長引《ながびか》せ|二人《ふたり》の|娘《むすめ》に|会《あ》はせたきものと、|夫《それ》のみ|力《ちから》に|日《ひ》を|送《おく》つて|居《ゐ》た。|館《やかた》の|中《なか》はオークス、ビルマの|両人《りやうにん》が|万事《ばんじ》|切《き》り|廻《まは》して|居《ゐ》る。|受付《うけつけ》のエルは|牛《うし》に|睾丸《きんたま》を|潰《つぶ》されたきり、|綿屋《わたや》の|奥《おく》の|間《ま》で|高枕《たかまくら》をして|苦《くる》しんで|居《ゐ》る。|小国姫《をくにひめ》はオークス、ビルマを|居間《ゐま》に|招《まね》き、|種々《いろいろ》と|相談《さうだん》をかけた。|二人《ふたり》は|時節《じせつ》|到来《たうらい》、ワックスの|思惑《おもわく》を|成就《じやうじゆ》させ、|甘《うま》い|汁《しる》を|吸《す》はむものと|胸《むね》を|躍《をど》らせながら、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》して|心配気《しんぱいげ》に|俯向《うつむ》いて|居《ゐ》る。
|小国姫《をくにひめ》『オークス、お|前《まへ》に|折《を》り|入《い》つて|相談《さうだん》したい|事《こと》がある。|旦那様《だんなさま》はあの|通《とほ》り|何時《いつ》お|帰幽《くにがへ》なさるか|知《し》れぬ|御容態《ごようだい》、|又《また》|家令《かれい》のオールスチンは|重病《ぢゆうびやう》で|苦《くる》しんで|居《ゐ》るなり、ワックスは|旦那様《だんなさま》や、オールスチンの|病気《びやうき》|平癒《へいゆ》のために|荒行《あらぎやう》に|行《ゆ》くと|云《い》つて|出《で》たきり|顔《かほ》を|見《み》せないし、|二人《ふたり》の|娘《むすめ》は|未《ま》だ|帰《かへ》つて|来《こ》ず、|若《もし》もの|事《こと》があつたら、|如何《どう》したら|好《よ》からうか、お|前《まへ》も|一《ひと》つ|考《かんが》へて|貰《もら》ひ|度《た》いものだがなア』
オークス『|実《まこと》にお|気《き》の|毒《どく》な|事《こと》が|出来《しゆつたい》したもので|厶《ござ》いますワイ。お|館《やかた》|計《ばかり》の|難儀《なんぎ》ではなく|宮町《みやまち》|一統《いつとう》の|難儀《なんぎ》で|厶《ござ》います。|貴女《あなた》はバラモン|教《けう》の|館《やかた》を|守護《しゆご》する|役《やく》であり|乍《なが》ら、|素性《すじやう》の|分《わか》らぬ|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》を|町民《ちやうみん》に|内証《ないしよう》で|引《ひ》き|入《い》れなさつたものですから、|此《この》|様《やう》な|惨《むご》い|目《め》に|会《あ》はされたのです。これからは|些《ちつ》と|吾々《われわれ》の|云《い》ふ|事《こと》も|聞《き》いて|貰《もら》はなくてはなりませぬ。|町中《まちぢう》の|噂《うはさ》によれば、あの|三千彦《みちひこ》と|云《い》ふ|奴《やつ》は、|三五教《あななひけう》きつての|魔法使《まはふつかひ》で、お|館《やかた》に|最《もつと》も|大切《たいせつ》な|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|忍術《にんじゆつ》をもつて|奪《うば》ひ|取《と》り、お|館《やかた》に|有《あ》るにあられぬ|心配《しんぱい》をかけて|置《お》き、|進退《しんたい》|維谷《これきは》まる|場合《ばあひ》を|考《かんが》へ|澄《す》まし、バラモン|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》に|化《ば》けて|這入《はい》つて|来《き》よつたので|厶《ござ》います。|夫《それ》|故《ゆゑ》|今《いま》|迄《まで》|家《いへ》に|厶《ござ》つたデビス|姫様《ひめさま》|迄《まで》お|行方《ゆくへ》は|分《わか》らぬ|様《やう》になり、|此《この》|町中《まちぢう》は|大切《たいせつ》な|御神具《ごしんぐ》を|残《のこ》らず|盗《ぬす》まれ、|大変《たいへん》な|大騒動《おほさうどう》で|厶《ござ》います。こんな|事《こと》が|町民《ちやうみん》に|分《わか》らうものなら、|夫《それ》こそ|貴女《あなた》の|御身《おんみ》の|大事《だいじ》、|大《おほ》きな|顔《かほ》して|此《この》お|館《やかた》には|居《を》られますまい。そつと|早馬《はやうま》でハルナの|都《みやこ》に|報告《はうこく》でもしようものなら、|旦那様《だんなさま》は|病気《びやうき》で|亡《な》くなられたとした|所《ところ》で、お|前《まへ》さまは|逆磔刑《さかはりつけ》にあはされるでせう。|大変《たいへん》な|事《こと》をして|下《くだ》さつた。|私《わたし》は|貴女《あなた》の|境遇《きやうぐう》に|御同情《ごどうじやう》をすると|共《とも》に、|貴女《あなた》の|御処置《ごしよち》を|恨《うら》んで|居《ゐ》ます。もし|斯《こ》んな|事《こと》が|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》のお|耳《みみ》に|入《はい》らうものなら、|吾々《われわれ》もどんな|刑罰《けいばつ》に|会《あ》はされるかも|知《し》れませぬ。|今後《こんご》はちつとオークスの|云《い》ふ|事《こと》も|聞《き》いて|貰《もら》ひ|度《た》いものです』
|小国姫《をくにひめ》『あの|三千彦《みちひこ》さまに|限《かぎ》つてそんな|悪党《あくたう》な|方《かた》では|有《あ》りませぬぞや、|夫《それ》は|何《なに》かの|間違《まちが》ひでせう。|金剛不壊《こんがうふえ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》を|隠《かく》したのは|決《けつ》して|三千彦《みちひこ》さまぢやない、|家令《かれい》の|悴《せがれ》のワックスに|間違《まちが》ひないのだ。あれが|吾《わが》|娘《むすめ》デビス|姫《ひめ》を|無理往生《むりわうじやう》に|娶《めと》らむとして|種々《しゆじゆ》とエキス、ヘルマンなどを|使《つか》ひ|企《たく》んだと|云《い》ふ|事《こと》は|明瞭《はつき》り|分《わか》つて|居《を》るのだよ。|勿体《もつたい》ない、|誠《まこと》の|宣伝使《せんでんし》にそんな|罪《つみ》を|被《き》せるものぢやありませぬ』
オークス『|奥様《おくさま》、|夫《それ》が|第一《だいいち》|貴女《あなた》のお|考《かんが》へ|違《ちが》ひです。ワックスさまは|何《なに》を|云《い》うても|家令《かれい》の|悴《せがれ》、このお|館《やかた》が|立《た》ち|行《ゆ》かねば|自分《じぶん》の|家《いへ》も|立《た》ち|行《ゆ》かないのですから、よう|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい、そんな|不利益《ふりえき》の|事《こと》をなさいますか。そこが|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》の|甘《うま》い|所《ところ》で……ワックスさまは|人《ひと》がよいから、|塗《ぬ》りつけられたのですよ。|奥《おく》の|奥《おく》を|考《かんが》へて|貰《もら》はねば|実《まこと》にワックスさまに|気《き》の|毒《どく》で|厶《ござ》いますワ。よく|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさいませ。|三千彦《みちひこ》と|云《い》ふ|魔法使《まはふつかひ》は、|町民《ちやうみん》の|鬨《とき》の|声《こゑ》に|驚《おどろ》かされて|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|失《う》せ、|旦那様《だんなさま》はどう|贔屓目《ひいきめ》に|見《み》ても|御養生《ごやうじやう》は|叶《かな》ひますまい。そして|家令《かれい》のオールスチンさまも|御本復《ごほんぷく》は|難《むつかし》いこの|場合《ばあひ》、|此《この》お|館《やかた》のお|力《ちから》になる|者《もの》は|誰《たれ》だと|思召《おぼしめ》す。ワックスさまより|外《ほか》|無《な》いぢやありませぬか。|貴女《あなた》はワックスさまをお|疑《うたが》ひなさると、これ|程《ほど》|人気《にんき》の|有《あ》るワックスさまの|為《ため》に|町民《ちやうみん》が|承知《しようち》|致《いた》しませぬぞや。よく|胸《むね》に|手《て》を|当《あ》ててお|考《かんが》へにならないと、お|館《やかた》の|一大事《いちだいじ》で|厶《ござ》います』
|小国姫《をくにひめ》『ハテ|合点《がつてん》のゆかぬ|事《こと》だなア、ビルマ|其方《そなた》は|何《なん》と|思《おも》ふか』
ビルマ『ハイ|私《わたし》は|町内《ちやうない》の|噂《うはさ》を|調《しら》べて|見《み》ましたが、ワックスさまは|本当《ほんたう》に|偉《えら》い|人《ひと》ですよ。|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》が|隠《かく》して|置《お》いた|如意宝珠《によいほつしゆ》をも、|甘《うま》く|自分《じぶん》が|罪《つみ》を|負《お》ふと|云《い》うて|吐《は》き|出《だ》させなさつたので|厶《ござ》います。|真実《ほんとう》の|忠臣《ちうしん》|義士《ぎし》と|云《い》ふのは、あのワックスさまで|厶《ござ》います。あの|宝《たから》が|無《な》かつたらお|館《やかた》は|勿論《もちろん》、|宮町《みやまち》|一同《いちどう》が|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》から|所刑《おしおき》に|遇《あ》はねばならぬ|所《ところ》を|助《たす》けて|下《くだ》さつたのだから、テルモン|国《こく》の|救世主《きうせいしゆ》だと|云《い》つて|居《ゐ》ます。どうしてもデビス|姫様《ひめさま》の|御養子《ごやうし》になさつて|此《この》|国《くに》を|治《をさ》めねば|町民《ちやうみん》が|承知《しようち》しませぬ。|私《わたし》は|別《べつ》にワックスさまがお|世継《よつぎ》にならうとなるまいと|利害関係《りがいくわんけい》はないのですから、ワックスさまの|為《ため》に|弁護《べんご》は|致《いた》しませぬ。|中立地帯《ちうりつちたい》に|身《み》を|置《お》いて、|自分《じぶん》の|所信《しよしん》を|包《つつ》まず|隠《かく》さず|申上《まをしあ》げます』
|小国姫《をくにひめ》『|町民《ちやうみん》|迄《まで》がさう|信《しん》じて|居《ゐ》る|以上《いじやう》は、どうも|仕方《しかた》がない。|兎《と》も|角《かく》|今日《こんにち》の|場合《ばあひ》、|養子《やうし》にするせぬは|後《あと》の|事《こと》として、|一度《いちど》ワックスさまに|来《き》て|貰《もら》ひ|度《た》いものだなア』
オークス『それは|結構《けつこう》で|厶《ござ》いますが、ワックスさまは|神様《かみさま》の|為《た》め、お|館《やかた》の|為《ため》、|町民《ちやうみん》の|為《た》め、|命《いのち》がけの|業《げふ》をすると|云《い》うて|出《で》かけられましたから、お|行衛《ゆくゑ》が|分《わか》らず、|何時《いつ》|帰《かへ》らるるとも|見当《けんたう》が|付《つ》きませぬ。|就《つい》ては|家事《かじ》|万端《ばんたん》を|処理《しより》する|役員《やくゐん》が|無《な》ければ|不都合《ふつがふ》で|厶《ござ》いませう。|家令《かれい》はあの|通《とほ》り|胸板《むないた》を|踏《ふ》まれ、|恢復《くわいふく》の|見込《みこ》みは|立《た》ちませぬ、|二人《ふたり》の|姫様《ひめさま》は|行方《ゆくへ》が|分《わか》らず、|旦那様《だんなさま》は|御重病《ごぢゆうびやう》、|誰《たれ》か|家令《かれい》を|新《あらた》にお|命《めい》じなさらなくては、|一日《いちにち》も|館《やかた》の|事務《じむ》が|執《と》れますまい。|私《わたし》も|門番《もんばん》|位《くらゐ》|勤《つと》めて|居《を》つては|大奥《おほおく》の|御用《ごよう》は|出来《でき》ませぬしなア』
|小国姫《をくにひめ》『アアそんなら、|順々《じゆんじゆん》に|抜擢《ばつてき》してお|世話《せわ》にならう。|受付《うけつけ》のエルを|臨時《りんじ》|家令《かれい》となし、お|前《まへ》は|受付《うけつけ》になつて|貰《もら》はう、さうすれば|万事《ばんじ》|万端《ばんたん》|都合《つがふ》よく|運《はこ》ぶであらう』
オークス『|成程《なるほど》それは|順当《じゆんたう》で|至極《しごく》|結構《けつこう》でせう。|併《しか》し|乍《なが》ら、エルさまの|慌者《あわてもの》、|旦那様《だんなさま》が、まだ|命《いのち》のある|中《うち》から|御帰幽《ごきいう》になつたと|云《い》うて|町中《まちぢう》を|触《ふ》れ|歩《ある》き、|大勢《おほぜい》を|騒《さわ》がし、お|負《まけ》に|牛《うし》の|尻《しり》に|突《つ》き|当《あた》り|睾丸《きんたま》を|踏《ふ》み|潰《つぶ》され、|綿屋《わたや》の|離室《はなれ》に|有《あ》らむ|限《かぎ》りの|苦《くる》しみをして|居《を》ります。さうして|道端《みちばた》に|繋《つな》いであるあれ|程《ほど》|大《おほ》きな|牛《うし》が|目《め》に|付《つ》かないやうな|事《こと》では|門番《もんばん》も|出来《でき》ないと|云《い》うて、|町中《まちぢう》の|笑《わら》はれ|者《もの》になつて|居《を》りますよ。あんな|慌者《あわてもの》が|家令《かれい》にでもならうものなら、お|館《やかた》の|威勢《ゐせい》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|神様《かみさま》の|御威勢《ごゐせい》|迄《まで》も|落《お》ちると|云《い》つて、|町中《まちぢう》の|大反対《だいはんたい》で|厶《ござ》います。|夫《それ》はおよしになつた|方《はう》がお|為《ため》で|厶《ござ》いませう』
|小国姫《をくにひめ》『ハテ|困《こま》つた|事《こと》だなア。そんならワックスが|帰《かへ》つて|来《き》たら、|暫《しば》し|親父《おやぢ》の|代理《だいり》を|勤《つと》めさす|事《こと》に|致《いた》しませう。|夫《それ》|迄《まで》お|前《まへ》は|臨時《りんじ》|家令《かれい》の|役《やく》をやつて|貰《もら》ひ|度《た》い』
オークス『|私《わたし》のやうな|不都合《ふつがふ》な|者《もの》は、|到底《たうてい》|臨時《りんじ》|家令《かれい》のやうな|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|平《ひら》にお|断《ことわ》り|申《まを》します、|却《かへつ》てお|館《やかた》の|不都合《ふつがふ》な|事《こと》を|仕出《しで》かすといけませぬから。|総《すべ》て|臨時《りんじ》と|云《い》ふものは|水臭《みづくさ》い|文字《もじ》で、|本気《ほんき》にお|館《やかた》の|為《ため》に|尽《つく》すと|云《い》ふ|気《き》が|出《で》て|来《き》ませぬワ』
ビルマ『|一層《いつそう》の|事《こと》、ドツと|張《は》り|込《こ》んで、オークスさまを|家令《かれい》に|任命《にんめい》なさつたらどうでせう、|屹度《きつと》それ|丈《だけ》の|腕前《うでまへ》は|厶《ござ》いますよ。|貴女《あなた》は|奥《おく》にばかり|厶《ござ》るから|外《そと》の|事情《じじやう》は|分《わか》りますまいが、|私《わたし》が|証明《しようめい》|致《いた》します。|町民《ちやうみん》|一同《いちどう》の|希望《きばう》はワックス|様《さま》を|御養子《ごやうし》となし、オークスさまを|家令《かれい》と|遊《あそ》ばし、さうして○○を|家扶《かふ》にお|命《めい》じになれば、お|嬢様《ぢやうさま》も|帰《かへ》られ、お|妹御《いもうとご》のケリナさまも|無事《ぶじ》|帰《かへ》られると|云《い》ふ|噂《うはさ》で|厶《ござ》います。|世間《せけん》の|噂《うはさ》と|云《い》ふものは|余《あんま》り|馬鹿《ばか》にはならぬもので|厶《ござ》いますよ。|神様《かみさま》の|為《た》め、お|館《やかた》の|為《た》め、それが|最善《さいぜん》の|方法《はうはふ》と|私《わたし》は|考《かんが》へます』
|小国姫《をくにひめ》『○○を|家扶《かふ》にせいとは|誰《たれ》の|事《こと》だい、もつと|明瞭《はつき》りと|云《い》うて|貰《もら》はなくては|分《わか》らぬぢやないか』
ビルマ『ヘイ、|到底《たうてい》|申《まを》し|上《あ》げた|所《ところ》で|門番《もんばん》|位《ぐらゐ》が|家扶《かふ》には|成《な》れますまい。|云《い》はぬが|花《はな》で|厶《ござ》いませう』
|小国姫《をくにひめ》『ホホホホホ、ビルマ、|自分《じぶん》を|推薦《すゐせん》して|居《ゐ》るのだらう。お|前《まへ》も|抜目《ぬけめ》の|無《な》い|男《をとこ》だなア』
ビルマ『|此《この》|頃《ごろ》の|世《よ》の|中《なか》は|盲人《めくら》|計《ばか》りで|厶《ござ》いますから、|自分《じぶん》から|自分《じぶん》の|技能《ぎのう》を|発表《はつぺう》しなくては、|何時《いつ》になつても|金槌《かなづち》の|川《かは》|流《なが》れ、|栄達《えいだつ》の|道《みち》はつきませぬ。|正真正銘《しやうしんしやうめい》のネットプライスの|技量《ぎりやう》を|放《ほ》り|出《だ》して、それをお|認《みと》めになる|御器量《ごきりやう》があればよし、|無《な》ければ|時節《じせつ》|到《いた》らぬと|覚悟《かくご》するより|外《ほか》は|厶《ござ》いませぬ。|私《わたし》を|御採用《ごさいよう》なければオークスだつて|決《けつ》して|家令《かれい》の|職《しよく》に|置《お》きませぬ。|此《この》|男《をとこ》も|今度《こんど》の|事件《じけん》については、チと|弱点《じやくてん》……いや|弱点《じやくてん》は|無《な》いのです。|貴女《あなた》がそつと|魔法使《まはふつかひ》を|引《ひ》き|入《い》れなさつたのが|弱点《じやくてん》ですから、|吾々《われわれ》|二人《ふたり》が|揉《も》み|消《け》し|運動《うんどう》をやつたので、|町内《ちやうない》の|騒《さわ》ぎがやつと|治《をさ》まつたので|厶《ござ》いますからなア』
|小国姫《をくにひめ》『そんなら|仕方《しかた》がありませぬ。お|前《まへ》を|臨時《りんじ》|家扶《かふ》に|命《めい》じませう』
ビルマ『モシ|奥様《おくさま》、|臨時《りんじ》|家扶《かふ》と|云《い》ふのは|釜焚《かまた》きとは|違《ちが》ひますよ。|家令《かれい》の|次《つぎ》の|職《しよく》、|重職《ぢうしよく》で|厶《ござ》いますよ。|念《ねん》の|為《た》め|一寸《ちよつと》|申上《まをしあ》げて|置《お》きます』
|小国姫《をくにひめ》『|門番《もんばん》が|家扶《かふ》に|出世《しゆつせ》したら|結構《けつこう》ぢやないか。|此《この》|館《やかた》は|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|命令《めいれい》で|家令《かれい》|一人《ひとり》と|定《きま》つて|居《ゐ》るが、|家扶《かふ》を|置《お》く|事《こと》は|出来《でき》ないのだから、|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》らお|前《まへ》は|門番頭《もんばんがしら》で|辛抱《しんばう》して|下《くだ》さい』
かかる|所《ところ》へ|一人《ひとり》の|看護婦《かんごふ》が|慌《あわただ》しく|入《い》り|来《きた》り、
『|奥様《おくさま》|早《はや》く|来《き》て|下《くだ》さいませ、|旦那様《だんなさま》は|御臨終《ごりんじう》と|見《み》えまして、|大変《たいへん》|御様子《ごやうす》が|変《かは》つて|参《まゐ》りました』
と|心配《しんぱい》さうに|云《い》ふ。|小国姫《をくにひめ》は|胸《むね》を|撫《な》でながら|慌《あわただ》しく|主人《しゆじん》の|病室《びやうしつ》に|駆《か》けり|行《ゆ》く。オークスはビルマと|共《とも》に|小国姫《をくにひめ》の|後《あと》に|従《したが》ひ|病室《びやうしつ》に|入《い》る。|小国別《をくにわけ》は|俄《にはか》にムクムクと|起《お》き|上《あが》り、|痩《やせ》こけた|顔《かほ》の|窪《くぼ》んだ|目《め》を|光《ひか》らせ|乍《なが》ら、
|小国別《をくにわけ》『|女房《にようばう》お|前《まへ》は|何処《どこ》に|行《い》つて|居《ゐ》た。|最前《さいぜん》から|大変《たいへん》|待《ま》ち|兼《か》ねて|居《ゐ》たぞよ、さうして|二人《ふたり》の|娘《むすめ》はまだ|帰《かへ》つて|来《こ》ぬかノウ』
|小国姫《をくにひめ》『ハイもう|軈《やが》て|帰《かへ》るで|厶《ござ》いませう。まだ|何《なん》とも|便《たよ》りが|厶《ござ》いませぬ』
|小国別《をくにわけ》『ハテ|困《こま》つた|事《こと》だなア、|此《この》|世《よ》ではもう|娘《むすめ》に|遇《あ》ふ|事《こと》が|出来《でき》んのかなア。エエ|残念《ざんねん》ぢや』
|小国姫《をくにひめ》『|旦那様《だんなさま》、|何卒《どうぞ》|気《き》を|落《おと》さないやうにして|下《くだ》さい、|屹度《きつと》|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》で|会《あ》はして|下《くだ》さるでせう』
|小国別《をくにわけ》『|三千彦《みちひこ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》や|家令《かれい》は|何処《どこ》へ|行《い》つたかなア、|早《はや》く|会《あ》ひたいものだ』
|小国姫《をくにひめ》『|三千彦《みちひこ》|様《さま》は|俄《にはか》にお|行衛《ゆくゑ》が|分《わか》らぬやうになりました。|屹度《きつと》|娘《むすめ》|二人《ふたり》を|迎《むか》ひに|行《い》つて|下《くだ》さつたのでせう』
|小国別《をくにわけ》『ウン|夫《そ》れは|御苦労《ごくらう》だなア。|屹度《きつと》|会《あ》はして|下《くだ》さるだらう。|家令《かれい》のオールスチンはまだ|来《こ》ぬか、|何《なに》をして|居《ゐ》るのだらう』
|小国姫《をくにひめ》『ハイ、|一寸《ちよつと》|用《よう》が|厶《ござ》いますので、つひ|遅《おく》れて|居《ゐ》ます、やがて|参《まゐ》るで|厶《ござ》いませう』
オークス『モシ|旦那様《だんなさま》、|家令《かれい》のオールスチンは|町民《ちやうみん》に|胸板《むないた》を|踏《ふ》み|折《を》られ、|九死一生《きうしいつしやう》の|苦《くる》しみを|受《う》け|自館《やかた》に|帰《かへ》つて|居《を》られます。そして|町中《まちぢう》は|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》をお|館《やかた》へお|入《い》れなさつたと|云《い》うて、|鼎《かなへ》の|沸《わ》くやうな|騒《さわ》ぎで|厶《ござ》います。そこを|私《わたし》|等《たち》|二人《ふたり》が|鎮定《ちんてい》|致《いた》し、|今《いま》|奥様《おくさま》と|御相談《ごさうだん》の|上《うへ》、|私《わたし》がたつた|今《いま》|家令《かれい》となりましたから、|何分《なにぶん》|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|申《まを》します。|今後《こんご》は|粉骨砕身《ふんこつさいしん》、|十二分《じふにぶん》の|成績《せいせき》を|挙《あ》げてお|目《め》にかけますから|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
|小国別《をくにわけ》『お|前《まへ》は|門番《もんばん》のオークスぢやないか。|何程《なにほど》|人望《じんばう》があると|云《い》つても、さう|一足飛《いつそくと》びに|門番《もんばん》が|家令《かれい》になると|云《い》ふ|訳《わけ》にはゆくまい。|奥《おく》、お|前《まへ》はそんな|事《こと》を|許《ゆる》したのか』
|小国姫《をくにひめ》『ハイ、……イイエ』
とモジモジして|居《ゐ》る。
|小国別《をくにわけ》『|家令《かれい》を|任命《にんめい》するには|何《ど》うしてもオールスチンの|承諾《しようだく》を|得《え》、|彼《かれ》が|辞表《じへう》を|出《だ》した|上《うへ》でハルナの|都《みやこ》に|伺《うかが》ひを|立《た》て、|其《その》|上《うへ》でなくてはならぬ。さう|勝手《かつて》に|定《き》める|訳《わけ》にはいけぬ。この|館《やかた》は|特別《とくべつ》だから|何事《なにごと》も|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|伺《うかが》はねばならぬ。よもや|真実《ほんとう》ではあるまい。|奥《おく》、お|前《まへ》は|当座《たうざ》の|冗談《てんご》を|云《い》ふたのであらう』
|小国姫《をくにひめ》はモジモジしながら|幽《かす》かな|声《こゑ》で『ハイ』と|一言《ひとこと》、|俯向《うつむ》いて|居《ゐ》る。
オークス『|苟《いやし》くも|館《やかた》の|主人《あるじ》の|奥様《おくさま》とも|在《あ》らう|方《かた》が、|冗談《てんご》を|仰有《おつしや》らう|筈《はず》はありますまい。|奥様《おくさま》のお|言葉《ことば》は|金鉄《きんてつ》よりも|重《おも》いものと|信《しん》じて|居《を》ります。|何《なん》と|仰有《おつしや》つてもオークスは|当家《たうけ》の|家令《かれい》で|厶《ござ》います。|万事万端《ばんじばんたん》|館《やかた》の|事務《じむ》を|取調《とりしら》べ、ハルナの|都《みやこ》に|報告《はうこく》を|致《いた》さねばなりませぬ。|何処《どこ》|迄《まで》も|此《この》オークスを|排斥《はいせき》なさるならば、|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》をお|館《やかた》へお|入《い》れなさつた|事《こと》を|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|注進《ちゆうしん》|致《いた》しませうか、それでも|苦《くる》しうは|厶《ござ》いませぬか』
と|命《めい》|旦夕《たんせき》に|迫《せま》つて|居《ゐ》るのにつけ|込《こ》んで|無理《むり》やりに|頑張《ぐわんば》つて|居《を》る|極悪無道《ごくあくぶだう》の|曲者《くせもの》である。
|小国別《をくにわけ》『これ|奥《おく》、|私《わし》はお|前《まへ》の|見《み》る|通《とほ》り、|今度《こんど》はどうも|本復《ほんぷく》せないやうだ。|何《ど》うか|一時《いちじ》も|早《はや》く|三千彦《みちひこ》さまを|尋《たづ》ね|出《だ》し、|此《この》|館《やかた》のお|力《ちから》となつて|頂《いただ》け。あの|御神力《ごしんりき》をもつて|守《まも》つて|頂《いただ》けば、|如何《いか》に|大黒主《おほくろぬし》の|神《かみ》、|数万《すうまん》の|軍勢《ぐんぜい》をもつて|攻《せ》め|寄《よ》せ|来《きた》るとも|恐《おそ》るる|事《こと》は|要《い》らぬ、かやうな|悪人《あくにん》を|決《けつ》して|吾《わが》|死後《しご》|用《もち》ひてはならぬ。|今日《けふ》から|門番《もんばん》を|免職《めんしよく》して|呉《く》れ。エエ|穢《けが》らはしい』
と|衰弱《すゐじやく》の|身心《しんしん》に|怒気《どき》を|含《ふく》み、|呶鳴《どな》り|立《た》てた。それつきり|又《また》もやグタリと|弱《よわ》り、|忽《たちま》ち|昏睡状態《こんすゐじやうたい》に|陥《おちい》つた。
|小国姫《をくにひめ》は、|身《み》も|世《よ》もあらぬ|悲《かな》しみに|浸《ひた》されながら、|故意《わざ》とに|涙《なみだ》を|隠《かく》し|容《かたち》を|改《あらた》め、|両人《りやうにん》に|向《むか》ひ、
『オークス、ビルマの|両人《りやうにん》、|其《その》|方《はう》は|御主人様《ごしゆじんさま》の|命令《めいれい》だから、|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら|只今《ただいま》|限《かぎ》り|此《この》|館《やかた》を|帰《かへ》つて|下《くだ》さい。|仮令《たとへ》どうならうとも|其《その》|方《はう》のやうな|傲慢《がうまん》|無礼《ぶれい》な|僕《しもべ》に|厄介《やくかい》にならうとは|思《おも》はないから、……モシ|旦那様《だんなさま》|何卒《どうぞ》|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
と|耳《みみ》に|口《くち》を|寄《よ》せて|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|涙交《なみだまじ》りに|述《の》べ|立《た》てた。|小国別《をくにわけ》は|幽《かす》かにこの|声《こゑ》が|耳《みみ》に|入《はい》つたと|見《み》え、|力無《ちからな》げにニタリと|笑《わら》ふ。オークスは|横柄面《わうへいづら》を|曝《さら》し|乍《なが》ら|威猛高《ゐたけだか》になり、
『モシ|奥様《おくさま》、|旦那様《だんなさま》は|大病《たいびやう》に|悩《なや》み|耄《ほう》けて|居《ゐ》らつしやいます。|決《けつ》して|仰有《おつしや》る|事《こと》は|真《まこと》ぢやありませぬ。|熱《ねつ》に|浮《うか》されたお|言葉《ことば》、|左様《さやう》な|事《こと》を|本当《ほんたう》になさるやうでは|此《この》お|館《やかた》は|大騒動《おほさうどう》が|起《おこ》りますよ。|今日《こんにち》|此《この》お|館《やかた》を|双肩《さうけん》に|担《にな》うて|立《た》つものは、ワックスや|吾々《われわれ》|二人《ふたり》の|外《ほか》に|誰《たれ》がありませうか。|克《よ》くお|考《かんが》へなされませ。|門番《もんばん》は|家令《かれい》になれないと|仰有《おつしや》いましたが、|何《なん》と|云《い》ふ|階級的《かいきふてき》の|考《かんが》へに|捉《とら》はれて|居《ゐ》らつしやるのですか。|昔《むかし》|常世城《とこよじやう》の|門番《もんばん》は、|直《ただち》に|抜擢《ばつてき》されて|右守《うもり》の|司《かみ》になつたぢやありませぬか。それも|失敗《しつぱい》の|結果《けつくわ》でせう。|吾々《われわれ》はお|館《やかた》の|危急《ききふ》を|救《すく》つた|殊勲者《しゆくんしや》です。|若《も》しお|気《き》に|入《い》らねば|仕方《しかた》はありませぬ、|吾々《われわれ》は|吾々《われわれ》としての|一《ひと》つの|考《かんが》へが|厶《ござ》います、|後《あと》で|後悔《こうくわい》なさいますなよ。|町民《ちやうみん》|一般《いつぱん》が|大切《たいせつ》な|宝《たから》を|盗《ぬす》まれたのも、みんな|三千彦《みちひこ》の|魔法使《まはふつかひ》によつて|大勢《おほぜい》の|者《もの》が|難儀《なんぎ》をして|居《を》るので|厶《ござ》います。|云《い》はば|三千彦《みちひこ》は|町民《ちやうみん》の|敵《てき》で|厶《ござ》います。|其《その》|敵《てき》を|何時《いつ》|迄《まで》もお|構《かま》ひなさるのならば、|矢張《やはり》|貴方方《あなたがた》|御夫婦《ごふうふ》は|国敵《こくてき》と|認《みと》めます。|大黒主《おほくろぬし》のお|開《ひら》きなされた|此《この》|霊場《れいぢやう》を、みすみす|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》に|蹂躙《じうりん》せられるとは、|町民《ちやうみん》|一般《いつぱん》の|忍《しの》び|難《がた》い|所《ところ》でせう。|私《わたし》を|家令《かれい》にお|使《つか》ひなさらぬなら、たつては|頼《たの》みませぬ。|此《この》|始末《しまつ》を|町民《ちやうみん》に|報告《はうこく》|致《いた》します。さうすれば|町民《ちやうみん》は、|貴方方《あなたがた》をバラモン|教《けう》の|仇《あだ》、|神様《かみさま》の|敵《てき》として|押《お》し|寄《よ》せて|参《まゐ》ります。お|覚悟《かくご》なさいませ』
と|云《い》ひ|放《はな》ち、|勢《いきほひ》|鋭《するど》く|表《おもて》へ|駆《か》け|出《だ》す。|睾丸《きんたま》を|牛《うし》に|踏《ふ》み|潰《つぶ》され、|綿屋《わたや》の|離室《はなれ》に|養生《やうじやう》して|居《ゐ》たエルは|漸《やうや》う|二三人《にさんにん》の|子供《こども》に|送《おく》られて|玄関《げんくわん》に|帰《かへ》つて|来《き》た。オークス、ビルマの|二人《ふたり》は|玄関《げんくわん》にてふと|出会《であ》うた。エルは|二人《ふたり》の|相好《さうがう》の|唯事《ただごと》ならぬに|不審《ふしん》を|起《おこ》し、
エル『オイ、|両人《りやうにん》、|血相《けつさう》|変《か》へて|何処《どこ》へ|行《ゆ》くのだ。|是《これ》には|何《なに》か|様子《やうす》があるであらう、まづ|俺《おれ》に|聞《き》かして|呉《く》れ。|何《なん》とか|仲裁《ちうさい》してやるから』
オークス、ビルマの|両人《りやうにん》は|脅迫的《けふはくてき》に|此処《ここ》|迄《まで》|来《き》たのだが、うつかり|町民《ちやうみん》に|妙《めう》な|事《こと》を|喋《しやべ》つて、|後《あと》の|取纒《とりまと》めに|困《こま》つてはならぬと|思《おも》つて|居《ゐ》た|矢先《やさき》、エルに|止《と》められたので、これ|幸《さいはひ》と|二人《ふたり》は|受付《うけつけ》にドツカと|坐《ざ》し、|密々話《ひそびそばなし》に|耽《ふけ》つて|居《ゐ》る。
(大正一二・三・二四 旧二・八 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第五章 |糞闘《ふんとう》〔一四五五〕
|館《やかた》の|受付《うけつけ》の|溜《たま》りにはエル、オークス、ビルマの|三人《さんにん》、|机《つくゑ》を|真中《まんなか》に|置《お》いて|胡床《あぐら》をかき|虫《むし》のよい|夢《ゆめ》を|見《み》て、|互《たがひ》に|泡沫《はうまつ》の|如《ごと》き|出世譚《しゆつせばなし》を|争《あらそ》うて|居《ゐ》る。
エル『おい、オークス、|貴様《きさま》は|門番《もんばん》の|癖《くせ》にドカドカと|受付《うけつけ》の|関所《せきしよ》を|突破《とつぱ》して|奥《おく》の|間《ま》へ|進入《しんにふ》して|行《い》つたと|見《み》えるが、|余程《よほど》|奥様《おくさま》からお|目玉《めだま》を|喰《く》つたと|見《み》え、|随分《ずいぶん》|面《つら》を|膨《ふく》らしてゐるぢやないか。|俺《おれ》は|梟《ふくろふ》の|化物《ばけもの》と|思《おも》つたよ』
オークス『ヘン、|門番《もんばん》|門番《もんばん》て、|偉相《えらさう》に|云《い》ふない。|睾丸潰《きんたまつぶ》しの|大将《たいしやう》|奴《め》、|俺《おれ》は|今《いま》|迄《まで》の|門番《もんばん》オークスとはチト|違《ちが》ふのだ。これから|此館《ここ》の|家令職《かれいしよく》となり、|奥住《おくずま》ひとなつて【オークス】|勤《づと》めをするのだから、|何事《なにごと》も|此《この》|方《はう》の|吩咐《いひつけ》に|服従《ふくじゆう》するのだぞ。なあビルマ、お|前《まへ》がよく|知《し》つてるだらう』
ビルマ『さうだな。マアマア|夢《ゆめ》の|中《なか》の|家令《かれい》|位《ぐらゐ》なものだらうかい。こんな|処《ところ》で、【かれい】、これ|云《い》うて|居《ゐ》ると|人《ひと》に|聞《き》かれて、サア|今《いま》と|云《い》ふ|時《とき》に|総《すべ》ての|計劃《けいくわく》が|画餅《ぐわへい》に|帰《き》するかも|知《し》れないぞ。|成功《せいこう》する|人《ひと》は|黙《だま》つて|居《ゐ》るよ。|黙《だま》つてる|人《ひと》が|夜光《やくわう》の|玉《たま》をとると|云《い》つてな、|何《なん》でもガラガラ|云《い》ふものぢやない。|沈黙《ちんもく》が|一等《いつとう》だ』
オークス『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。|已《すで》に|已《すで》に|奥様《おくさま》から|証言《しようげん》を|得《え》て|居《ゐ》るのだ。|誰《たれ》が|何《なん》と|云《い》つてもワックスさまを|此館《ここ》の|主人《あるじ》となし、デビス|姫様《ひめさま》と|芽出《めで》たく|合衾《がふきん》の|式《しき》を|挙《あ》げさせ、|此《この》オークスが|家令職《かれいしよく》となり、|妹《いもうと》のケリナ|姫《ひめ》が|軈《やが》て|帰《かへ》らるると|云《い》ふ|事《こと》だから、ケリナ|姫《ひめ》の|夫《をつと》となり、|教務《けうむ》、|政務《せいむ》を|刷新《さつしん》し、|綱紀《かうき》を|振粛《しんしゆく》し|尭舜《げうしゆん》の|世《よ》を|来《き》たすのだ。|今《いま》|迄《まで》のやうな|老耄《おいぼれ》や、|狼狽者《あわてもの》の|睾丸潰《きんたまつぶ》しの|受付《うけつけ》では|駄目《だめ》だからな。エツヘヘヘヘヘ』
エル『イツヒヒヒヒヒアイタタタタ|余《あんま》りしようもない|事《こと》を|吐《ぬか》すので、|可笑《をか》しうて|睾丸《きんたま》に|響《ひび》いて|睾丸《きんたま》が|痛《いた》くて|碌《ろく》に|笑《わら》ふことも|出来《でき》やせないわ。|貴様《きさま》|日《ひ》が|永《なが》いので、そんな|夢《ゆめ》でも|見《み》たのだらう。それよりも|早《はや》く|門番《もんばん》を|神妙《しんめう》に|勤《つと》めぬかい。|旦那様《だんなさま》が|何時《いつ》|知《し》れぬ|様《やう》な|御病気《ごびやうき》が|起《おこ》つてるのに、ウカウカして|居《ゐ》る|時《とき》ぢやないぞ』
オークス『おい、エル、|旦那様《だんなさま》は|已《すで》に|御帰幽《ごきいう》になつたと|云《い》つて|触《ふ》れて|歩《ある》いたぢやないか。|随分《ずいぶん》いい|狼狽者《あわてもの》だな』
エル『|定《きま》つた|事《こと》だ。|何《なん》でも|手廻《てまは》しよくして|置《お》かねば|間尺《ましやく》に|合《あは》ぬぢやないか。|病人《びやうにん》ぢやなくても|年寄《としより》が|先《さき》に|死《し》ぬのは|当然《あたりまへ》だ。|何時《いつ》|迄《まで》も|旦那様《だんなさま》が|生《い》きて|居《ゐ》ると|思《おも》へば|何時《なんどき》アフンとせなくちやならぬか|分《わか》らぬから、|一寸《ちよつと》|町民《ちやうみん》の|目《め》を|覚《さ》ますために|布令《ふれ》を|出《だ》し、|予行演習《よかうえんしふ》をやつたのだ。|英雄《えいゆう》の|心事《しんじ》が|門番《もんばん》に|分《わか》つて|堪《たま》るかい。エヘン、イヒン、アイタタタタどうも|睾丸《きんたま》の|奴《やつ》、【もの】|云《い》ひやがつて|仕方《しかた》がないわ』
オークス『おい、エル、ここは|一《ひと》つ|真面目《まじめ》になつて|聞《き》いて|呉《く》れ。|本当《ほんたう》に|俺《おれ》は|今日《けふ》から|家令職《かれいしよく》だぞ。そしてワックス|様《さま》が|当館《たうやかた》の|御世継《およつぎ》だ。それから|此《こ》のビルマが|受付《うけつけ》に|坐《すわ》り、お|前《まへ》は|暫《しばら》く|睾丸《きんたま》が|癒《なほ》る|迄《まで》お|暇《ひま》を|賜《たまは》つて|休養《きうやう》するのだな。|俺《おれ》が|家令《かれい》になつた|上《うへ》は、|滅多《めつた》に|受付《うけつけ》より|下《した》の|役《やく》はささぬから、|柔順《おとな》しく|控《ひか》へたが|宜《よ》からう』
エル『|俺《おれ》は|死《し》んでも|受付《うけつけ》は|止《や》めぬのだ。|何程《なにほど》|貴様《きさま》が|家令《かれい》になつた|処《ところ》で、|俺《おれ》の|受付《うけつけ》はハルナの|都《みやこ》の|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》から、|命令《めいれい》を|受《う》けてゐるのだから、|俺《おれ》の|地位《ちゐ》を|到底《たうてい》|動《うご》かすことは|出来《でき》まい。そんな|事《こと》|云《い》はずに|門番《もんばん》でも|神妙《しんめう》に|勤《つと》めたが|宜《よ》からうぞ』
オークス『よし、そんなら|俺《おれ》が|受付《うけつけ》を|免職《めんしよく》させて|見《み》せよう。|貴様《きさま》は|受付《うけつけ》であり|乍《なが》ら|門外《もんぐわい》へ|飛《と》び|出《だ》し、|死《し》んでも|厶《ござ》らぬ|旦那様《だんなさま》をお|逝《かく》れになつたと|触《ふ》れ|歩《ある》き、|町内《ちやうない》を|騒《さわ》がした|大罪人《だいざいにん》だ。これを|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|上申《じやうしん》しようものなら、それこそ|免職《めんしよく》は|宵《よひ》の|口《くち》、|貴様《きさま》の|笠《かさ》の|台《だい》が|飛《と》んで|了《しま》ふのだ。どうだ、それでも|苦《くる》しうないのか』
エル『マママママ|待《ま》つて|呉《く》れ。それやさうぢやけれど、|実《じつ》の|所《ところ》は|夢《ゆめ》を|見《み》て|居《を》つたのだ。|夢《ゆめ》でした|事《こと》は|仕方《しかた》がないぢやないか』
オークス『|何《なに》、|夢《ゆめ》を|見《み》たと、|貴様《きさま》はさうすると|怠慢《たいまん》の|罪《つみ》を|免《まぬが》るる|事《こと》は|出来《でき》ない。|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|平家蟹《へいけがに》のやうに|目《め》の|玉《たま》をツン|出《だ》して、お|役目《やくめ》|大切《たいせつ》に|受付《うけつけ》を|守《まも》つて|居《を》らねばならぬ|役目《やくめ》でありながら、|昼《ひる》の|中《うち》からサボタージュをやつて|昼寝《ひるね》をやつて|居《を》つたのだな。|益々《ますます》|怪《け》しからぬ。おいビルマ、|貴様《きさま》が|証拠人《しようこにん》だ。ここで|一《ひと》つ|上申書《じやうしんしよ》を|書《か》くから、お|前《まへ》|証拠人《しようこにん》になつて|呉《く》れ』
ビルマ『そら、|俺《おれ》も|証拠人《しようこにん》にならぬ|事《こと》はないが、|町《ちやう》に|事勿《ことなか》れと|云《い》つてエルの|事《こと》を|上申《じやうしん》すると、それが|一《ひと》つの|引《ひつ》かかりとなり、|終《しまひ》には|貴様《きさま》と|俺《おれ》との……それ……|窃盗《せつたう》|事件《じけん》が|発覚《はつかく》するぢやないか。ここはお|互《たがひ》に|辛抱《しんばう》したが|宜《よ》からうぞ』
オークス『|何《なに》、|何時《いつ》|俺《おれ》が|窃盗《せつたう》した。|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|云《い》ふな』
ビルマ『セツトウと|云《い》ふのは|盗人《ぬすびと》の|事《こと》ぢやない。|去年《きよねん》の|冬《ふゆ》、テルモン|山《ざん》の|谷間《たにあひ》で|雪《ゆき》を|固《かた》めて|洞《ほら》を|穿《うが》ち、そこで|遊《あそ》んだ|事《こと》があるだらう。それを【|雪洞《せつとう》】と|云《い》ふのだ。それでも|矢張《やつぱり》サボになるからのう』
オークス『|何《なに》、|俺等《おれたち》は|門番《もんばん》だから、|立派《りつぱ》な|門《もん》を|造《つく》らうと|思《おも》つて、|雪《ゆき》で|雛型《ひながた》を|作《つく》つて|其《その》|下《した》を|通《とほ》つたのだから、|云《い》はば|職務《しよくむ》に|忠実《ちうじつ》になるのだ。そんな|事《こと》が|何《なに》、|罪《つみ》にならう』
と|巧《うま》く|二人《ふたり》|寄《よ》つて|窃盗《せつたう》|事件《じけん》を|誤魔化《ごまくわ》して|了《しま》つた。
エル『ヒヒヒヒ、アイタタタタ|何《なん》だか|知《し》らぬが、|二人《ふたり》とも|云《い》ひ|滑《すべ》つた|事《こと》を|巧《うま》く|塗《ぬ》りつけたやうな|気分《きぶん》がしてならぬわ。|此奴《こいつ》ア|探《さぐ》つて|見《み》れば|何《なに》かあるに|相違《さうゐ》ない。|香爐《かうろ》や|金銀《きんぎん》の|水壺《みづつぼ》を、あの|騒《さわ》ぎに|皆《みな》|盗《ぬす》んで|了《しま》つたと|云《い》うてるからにやお|前等《まへたち》が、よもや……ではあるまいかの』
オークス『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。|俺《おれ》は|旦那様《だんなさま》の|御病気《ごびやうき》について、|門番《もんばん》を|休《やす》んで|今《いま》の|今《いま》まで|奥《おく》で|御用《ごよう》をして|居《を》つたのだから、そんな|事《こと》は|些《ちつ》とも|知《し》らないわ。|大方《おほかた》|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》が|持《も》つて|去《い》んだのだらう』
ビルマ『オイ|両人《りやうにん》、こんな|話《はなし》は|止《や》めにして、|兎《と》も|角《かく》|旦那様《だんなさま》が|何時《いつ》お|国替《くにが》へになるやら|分《わか》らぬなり、|家令《かれい》も|亦《また》|何時《いつ》|死《し》ぬか|知《し》れぬ|場合《ばあひ》だ。ここで|俺《おれ》|等《たち》|三人《さんにん》|同盟《どうめい》して|一《ひと》つ|出世《しゆつせ》の|門《もん》を|開《ひら》かうぢやないか。|何時《いつ》|迄《まで》も|門番《もんばん》や|受付《うけつけ》では|面白《おもしろ》うないからのう。|幸《さいは》ひ|年《とし》も|若《わか》し|独身者《ひとりもの》だから、|家令《かれい》の|息子《むすこ》のワックスの|馬鹿《ばか》を|此館《ここ》の|養子《やうし》にするのは|勿体《もつたい》ない。|一層《いつそ》の|事《こと》、|俺《おれ》|等《たち》|三人《さんにん》で、|此館《ここ》のお|世継《よつぎ》と、|家令《かれい》と、|受付《うけつけ》|兼《けん》|内事頭《ないじがしら》の|三《み》つの|役《やく》を|占領《せんりやう》する|事《こと》にしようぢやないか』
エル『ウン、そりや|面白《おもしろ》からう。|然《しか》し|乍《なが》ら|奥《おく》さまが|諾《うん》と|云《い》つて|呉《く》れるだらうかな』
オツクス『そこはそれ、|弱味《よわみ》につけ|込《こ》む|風《かぜ》の|神《かみ》さまだ。|此《この》|尊《たふと》い|霊地《れいち》に|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》をソツと|引張《ひつぱ》り|込《こ》んだと|云《い》ふ、|奥《おく》さまに|弱点《じやくてん》があるのだから、|屹度《きつと》|俺《おれ》|等《たち》の|意見《いけん》を|採用《さいよう》するにきまつてる。|若《も》し|採用《さいよう》せなけりや|身《み》の|破滅《はめつ》だからな』
エル『|成程《なるほど》、そりや|妙案《めうあん》だ。そんなら|俺《おれ》が|此館《ここ》の|養子《やうし》になるから、|貴様《きさま》|等《たち》|両人《りやうにん》は|家令《かれい》|並《なら》びに|内事係《ないじがかり》|兼《けん》|受付《うけつけ》としてやらう。|門番《もんばん》の|分際《ぶんざい》として|異数《いすう》の|抜擢《ばつてき》だらう』
オークス『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。|俺《おれ》はデビス|姫《ひめ》さまの|夫《をつと》となり|当家《たうけ》のお|世継《よつぎ》だ。お|前《まへ》|等《たち》|二人《ふたり》は|籤《くじ》でもして|家令《かれい》と|受付《うけつけ》とをやつたが|宜《よ》からう。|家令職《かれいしよく》と|受付《うけつけ》とは|大変《たいへん》な|段階《だんかい》がある。|若《もし》|受付《うけつけ》となつたものは、|妹《いもうと》さまが|帰《かへ》られたら|受付《うけつけ》の|女房《にようばう》にする。お|世継《よつぎ》はどうしても|姉《あね》さまの|婿《むこ》に|限《かぎ》つてる。|家令《かれい》は|役柄《やくがら》が|上《うへ》だから|姫様《ひめさま》を|貰《もら》はずに|辛抱《しんばう》するのだ。さうすりや|不公平《ふこうへい》が|無《な》いだらう』
エル『|時《とき》に|綿屋《わたや》の|老爺《おやぢ》の|話《はなし》に|聞《き》けば、|高倉《たかくら》とか、|旭《あさひ》とか|云《い》ふ|三五教《あななひけう》の|化狐《ばけきつね》が、|二人《ふたり》の|姫様《ひめさま》に|化《ば》けて|狸坊主《たぬきばうず》と|一緒《いつしよ》にパインの|森《もり》で|捉《つか》まへられたと|云《い》ふ|事《こと》だが、|実際《じつさい》そんな|事《こと》があるだらうか。|俺《おれ》や|不思議《ふしぎ》で|堪《たま》らぬのだ。|中《なか》にはコソコソ|話《はなし》をしてる|奴《やつ》があつて、あれは|狐《きつね》ぢやない|本真物《ほんまもの》の|姫様《ひめさま》と|云《い》つてるものもあるが、あれが|本真物《ほんまもの》ならばワックスが|匿《かく》しよつた|岩窟《いはや》に|助《たす》けに|行《い》つて、|姫《ひめ》さまの|恋《こひ》を|独占《どくせん》するのも|一興《いつきよう》だがな』
オークス『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。|彼奴《あいつ》は|狐《きつね》にきまつてる。|犬《いぬ》に|噛《か》まれよつて|首筋《くびすぢ》や|耳《みみ》を|噛《か》まれたり、|狸坊主《たぬきばうず》|迄《まで》が|首筋《くびすぢ》を|噛《か》まれたと|云《い》つて、|紫《むらさき》になつてはれ|上《あが》つて|居《を》つた、|何《なん》ぼ|本真物《ほんまもの》でも、あの|御面相《ごめんさう》では|御免《ごめん》だ』
ビルマ『おい、エル、|貴様《きさま》は|睾丸《きんたま》を|潰《つぶ》されて|綿屋《わたや》の|離室《はなれ》にスツ|込《こ》んで|居《を》り|乍《なが》ら、どうしてそんな|事《こと》が|目《め》に|着《つ》いたのだ。チツト|可笑《をか》しいぢやないか』
エル『|何《なに》、|俺《おれ》だつて|女《をんな》と|聞《き》いちやジツとして|聞《き》いて|居《を》れないので、「ワツシヨワツシヨ」と|門前《かどさき》を|担《かつ》いで|行《ゆ》くのを、|門口《かどぐち》に|飛《と》び|出《だ》し、トツクリ|見《み》た|所《ところ》が|姫様《ひめさま》に|似《に》て|居《ゐ》るが、|何《なん》となしに|険相《けんさう》な|顔《かほ》して|居《ゐ》るので、|狐《きつね》のお|化《ば》けかと|思《おも》つて|居《ゐ》たのだ。どうも|人間《にんげん》の|目《め》で|真偽《しんぎ》は|分《わか》らぬが、マア|百人《ひやくにん》の|者《もの》が|七十人《しちじふにん》|迄《まで》がお|化《ば》けと|云《い》ふのだから、|大勢《おほぜい》の|目《め》の|方《はう》が|本当《ほんたう》だらうかい』
オークス『サア、|無駄話《むだばなし》はどうでも|宜《よ》いが、|手《て》つ|取《と》り|早《ばや》く|約束《やくそく》を|定《き》めて|置《お》かうぢやないか。|俺《おれ》は|此館《ここ》の|御養子《ごやうし》にきめて|置《お》いて、|家令職《かれいしよく》と|受付《うけつけ》との、これから|約束《やくそく》だ。どうぢや|家令職《かれいしよく》になれば|姫様《ひめさま》はもらへぬなり、|低《ひく》い|役《やく》の|受付《うけつけ》になればケリナ|姫《ひめ》を|女房《にようばう》に|貰《もら》へるのだ。|位《くらゐ》をとるか、|色《いろ》をとるか、と|云《い》ふ|処《ところ》だ』
ビルマ『そんなら|俺《おれ》は|受付《うけつけ》になるわ』
エル『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。|受付《うけつけ》は|俺《おれ》の|持前《もちまへ》だ。|天下御免《てんかごめん》の|受付《うけつけ》だ。|受付《うけつけ》は|俺《おれ》にきまつてる。ヘン|済《す》みませぬな』
オークス『オイ、|両人《りやうにん》、|姫様《ひめさま》は|実際《じつさい》|生《い》きて|厶《ござ》るか|厶《ござ》らぬか|分《わか》らぬのだ。|万一《まんいち》|此《この》|世《よ》に|生《い》きて|厶《ござ》らぬとすれば|矢張《やつぱり》|家令《かれい》になつた|方《はう》が|得《とく》だぞ』
エル『そんなら、|思《おも》ひきつて|俺《おれ》は|家令《かれい》になるわ。ビルマ、お|前《まへ》、|受付《うけつけ》になつて|呉《く》れ』
ビルマ『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな、|誰《たれ》が|受付《うけつけ》なんかするものかい。|適材適所《てきざいてきしよ》と|云《い》つて、|此館《ここ》の|家令《かれい》は|貴様《きさま》のやうな|狼狽者《あわてもの》では|到底《たうてい》|勤《つと》まりつこはない。ビルマに|限《かぎ》つてるワイ』
エル『|然《しか》し、さうするとワックスさまのやり|場《ば》が|無《な》いぢやないか』
オークス『|何《なに》、ワックスなんか、|彼奴《あいつ》の|悪事《あくじ》を|素破抜《すつぱぬ》いてやれば、|文句《もんく》なしに|命《いのち》|惜《を》しさに|逃《に》ぐるにきまつてる。|三人《さんにん》でさへも|配置《はいち》に|困《こま》つてるのに、|彼奴《あいつ》が|出《で》て|来《き》て|堪《たま》らうかい。|彼奴《あいつ》は|勘定外《かんぢやうぐわい》だ。|彼奴《あいつ》の|老爺《おやぢ》も|近々《ちかぢか》に|死《し》んで|了《しま》ふから、さうすりや|門番《もんばん》の|端《はし》にでも|使《つか》つてやるのだな。エツヘヘヘヘヘヘ』
|斯《か》く|何時《いつ》の|間《ま》にか|話《はなし》に|身《み》が|入《い》つて|大声《おほごゑ》で|囀《さへづ》つて|居《ゐ》る。|最前《さいぜん》からワックスは|壁《かべ》に|耳《みみ》をあてて|体《からだ》を|隠《かく》し、|三人《さんにん》の|話《はなし》を|聞《き》いて|居《ゐ》たが|業《ごふ》が|湧《わ》いて|堪《たま》らぬので、ソツと|大便所《だいべんじよ》に|入《い》り|長柄杓《ながびしやく》に|汚《きたな》いものを|持《も》つて|来《き》て、|自分《じぶん》の|顔《かほ》を|隠《かく》し|乍《なが》ら|三人《さんにん》の|前《まへ》に|現《あら》はれ、バツと|顔《かほ》にふりかけ、|逃《に》げ|出《だ》す|途端《とたん》に|畳《たたみ》の|破《やぶ》れに|足《あし》を|引《ひ》つかけ、スツテンドウと|倒《たふ》れて|了《しま》つた。|倒《たふ》れた|拍子《ひやうし》に|間《ま》と|間《ま》を|隔《へだ》てた|閾《しきゐ》に|高《たか》い|鼻《はな》を|打《う》ち、ウンと|息《いき》をつめ、ビクともせず|苦《くる》しんで|居《ゐ》る。
|三人《さんにん》は|不意《ふい》に|臭《くさ》い|物《もの》を|顔《かほ》|一面《いちめん》にかけられ、|顔《かほ》をハンカチーフにて|抑《おさ》へ|乍《なが》ら、|炊事場《すゐじば》の|方《はう》へ|洗《あら》ひに|行《ゆ》かうと|走《はし》つた|途端《とたん》に、ワックスの|体《からだ》に|躓《つまづ》きバタリと|倒《たふ》れた。|次《つぎ》から|次《つぎ》から|四人《よにん》が|糞《くそ》まぶれになつて|引《ひ》つくり|覆《かへ》り、ウンウン|唸《うめ》いて|居《ゐ》る。|此《この》|物音《ものおと》に|小国姫《をくにひめ》は|此《この》|場《ば》に|走《はし》り|来《きた》り|見《み》れば、|何《なん》とも|云《い》へぬ|臭《くさ》い|香《にほひ》がプンプンと|鼻《はな》をつく。|姫《ひめ》は|鼻《はな》を|抓《つま》み|乍《なが》ら|近寄《ちかよ》り|見《み》れば、|糞《くそ》まぶれの|長柄杓《ながびしやく》が|一本《いつぽん》と、|四人《よにん》の|男《をとこ》が|糞《くそ》まぶれになつて、|其処《そこ》へ|倒《たふ》れ|居《ゐ》たり。
|小国姫《をくにひめ》『|糞度胸《くそどきよう》|据《す》ゑた|男《をとこ》が|糞《くそ》まぶれ
|足《あし》|躓《つまづ》いて|苦楚《くそ》を|嘗《な》めけり。
|婆《ばば》の|身《み》も|糞《くそ》にまぶれた|糞奴《くそやつこ》
|臭《くさ》い|奴《やつ》には|呆《あき》れ|果《は》てたり。
|物臭《ものくさ》い|企《たく》み|致《いた》した|天罰《てんばつ》で
|男《をとこ》が|癪《しやく》で|倒《たふ》れしならむ。
オークスの|心《こころ》|汚《きたな》き|門番《もんばん》が
|今日《けふ》は【|大糞《おほくそ》】|被《かぶ》りけるかな。
|睾丸《きんたま》を|牛《うし》に|踏《ふ》まれて|又《また》ここで
|糞《くそ》|被《かぶ》せられ|吠《ほ》【エル】|馬鹿者《ばかもの》。
ワックスか|又《また》は|糞《くそ》かは|知《し》らねども
どちらにしても|臭《くさ》い|奴《やつ》かな』
ワックス『|糞奴《くそやつこ》|三人《さんにん》|揃《そろ》ふ|其《その》|中《なか》へ
|糞《くそ》まぶしたり|糞婆《くそばば》の|家《いへ》で』
|小国姫《をくにひめ》『ワックスよ、|吾《われ》に|向《むか》つて|糞婆《くそばば》と
|云《い》つた|言葉《ことば》を|忘《わす》れずに|居《ゐ》よ。
いろいろと|臭《くさ》い|思案《しあん》を|廻《めぐ》らして
|糞《くそ》を|嘗《な》めたる|今《いま》の|天罰《てんばつ》』
オークス『テルモンの|館《やかた》の|家令《かれい》となる|身《み》には
|糞《くそ》の|苦労《くらう》も|何《なん》のものかは』
|小国姫《をくにひめ》『いろいろと|臭《くさ》い|奴《やつ》めが|寄《よ》り|合《あ》うて
これの|館《やかた》に|糞《くそ》まき|散《ち》らす。
これよりはハルナの|都《みやこ》の|神柱《かむばしら》
|大黒主《おほくろぬし》に|申上《まをしあ》げなむ。
|何事《なにごと》も|皆《みな》|三千彦《みちひこ》の|神司《かむづかさ》
|諭《さと》し|玉《たま》ひぬ|汝等《なれら》が|企《たく》みを。
|人《ひと》の|家《いへ》の|悩《なや》みにつけ|込《こ》み|糞思案《くそじあん》
|廻《めぐ》らし|吾《わが》|身《み》を|捨《す》つる|馬鹿者《ばかもの》』
オークス『|三千彦《みちひこ》は|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》
|詳《つぶ》さに|告《つ》げむ|大黒主《おほくろぬし》へ。
|大黒主《おほくろぬし》|此《この》|有様《ありさま》を|聞《き》きまさば
|小国姫《をくにのひめ》の|身《み》の|終《をは》りぞや』
かかる|処《ところ》へエキス、ヘルマンの|両人《りやうにん》は|慌《あわただ》しく|走《はし》り|来《きた》り、プンプン|嗅《にほ》ふ|臭気《しうき》に|鼻《はな》を|抓《つま》み|乍《なが》ら、
エキス『モシ|奥様《おくさま》、ワックス|其《その》|他《た》の|連中《れんぢう》ぢや|厶《ござ》いませぬか。|貴女《あなた》は|四人《よにん》の|者《もの》に|陰謀《いんぼう》|露顕《ろけん》を|恐《おそ》れて|糞《くそ》を|浴《あ》びせ|打《う》ち|倒《たふ》し、|命《いのち》をとらうとなさつたのですか、こりや|怪《け》しからぬ。モウ|斯《か》うなつては|御主人様《ごしゆじんさま》だとて|容赦《ようしや》は|致《いた》しませぬぞ。さあワックスさま|確《しつか》りなさいませ。|之《これ》からハルナの|都《みやこ》へ|早馬使《はやうまづかひ》を|立《た》て|貴方等《あなたがた》の|敵《かたき》を|討《う》つて|上《あ》げませう』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|尻《しり》ひつからげ、エキス、ヘルマン|両人《りやうにん》は|表門《おもてもん》さして|雲《くも》を|霞《かすみ》と|駆《か》け|出《だ》したり。|四人《よにん》はヤツと|起《お》き|上《あが》り、|互《たがひ》に|体《からだ》の|洗濯《せんたく》を|終《をは》り、|一間《ひとま》に|入《い》つて|今《いま》|迄《まで》の|喧嘩《けんくわ》は|暫《しばら》く|横《よこ》に|置《お》き、|再《ふたた》び|野心《やしん》を|充《みた》すべく|秘密相談会《ひみつさうだんくわい》を|開《ひら》く|事《こと》となつた。|小国姫《をくにひめ》は|夫《をつと》の|病気《びやうき》を|気遣《きづか》ひ|匆々《さうさう》に|此《この》|場《ば》を|立《た》つて|奥《おく》の|間《ま》に|身《み》を|隠《かく》しけり。
(大正一二・三・二四 旧二・八 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第六章 |強印《がういん》〔一四五六〕
テルモン|山《ざん》の|館《やかた》より|十七八丁《じふしちはちちやう》|奥《おく》の|谷間《たにあひ》に|大蛇《をろち》の|岩窟《いはや》と|云《い》ふ|深《ふか》い|穴《あな》がある。そこには|三千彦《みちひこ》を|無理無体《むりむたい》に|押《お》し|込《こ》め、|二人《ふたり》の|門番《もんばん》が|厳重《げんぢゆう》にワックスの|命令《めいれい》によつて|守《まも》つて|居《ゐ》た。
|甲《かふ》『オイ、|何《なん》でも|此《この》|中《なか》に|突込《つつこ》んである|魔法使《まはふつかひ》は|大《だい》それた|事《こと》をしやがつたさうだな。|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|盗《ぬす》み|出《だ》し、そしてワックス|様《さま》が|匿《かく》して|居《を》つた|等《など》と|讒言《ざんげん》をし、デビス|姫様《ひめさま》の|夫《をつと》となり、|此《この》|館《やかた》を|占領《せんりやう》しようとしたドテライ|悪人《あくにん》だと|云《い》ふ|事《こと》だが|魔法使《まはふつかひ》だから|何時《いつ》|此《この》|鉄《てつ》の|門《もん》を|破《やぶ》つて|出《で》るか|分《わか》らぬ。|出《で》たが|最後《さいご》、どんな|目《め》に|会《あ》はすか|知《し》れないぞ。|何程《なにほど》|日当《につたう》を|沢山《たくさん》|貰《もら》つても|斯《こ》んな|剣呑《けんのん》な|商売《しやうばい》は|御免《ごめん》|被《かうむ》りたいものだな』
|乙《おつ》『|何《なに》、|心配《しんぱい》するな。|魔法使《まはふつかひ》と|云《い》ふものは|或《ある》|程度《ていど》|迄《まで》は|法《はふ》が|利《き》くだらうが、もう|種《たね》が|無《な》くなつて|皆《みな》に|捉《つか》まへられ、|斯《こ》んな|処《ところ》へ|突込《つつこ》まれよつたのだから、もう|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。|滅多《めつた》に|出《で》る|気遣《きづか》ひはないわ。|斯《か》うして|十日《とをか》も|二十日《はつか》も|番《ばん》して|居《を》れば|饑《かつ》ゑて|死《し》んで|了《しま》ふ、さうすりや|大丈夫《だいぢやうぶ》だよ。|俺《おれ》|等《たち》は|日給《につきふ》さへ|貰《もら》へば|宜《よ》いのだからな』
|甲《かふ》『|然《しか》し、|此奴《こいつ》が|死《し》んで|化《ば》けて|出《で》やがつたら、それこそ|大変《たいへん》だぞ。|何《なん》とかして|断《ことわ》り|云《い》ふ|訳《わけ》には|行《ゆ》くまいかな』
|乙《おつ》『そんな|事《こと》、いくものかい。|何時《いつ》もワックスの|旦那《だんな》に|難儀《なんぎ》な|時《とき》に|無心《むしん》を|云《い》つて|助《たす》けて|貰《もら》つてるのだから、|斯《こ》んな|時《とき》に|御恩報《ごおんはう》じをするのだ。|宮町中《みやまちぢう》の|難儀《なんぎ》になる|処《ところ》を、ワックスさまのお|蔭《かげ》で|此奴《こいつ》の|盗《ぬす》んで|居《を》つた|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》も|分《わか》り、|俺《おれ》|等《たち》の|生命《いのち》まで|助《たす》けて|貰《もら》つたのだから、|此奴《こいつ》が|斃《くたば》る|所《ところ》|迄《まで》|俺《おれ》|等《たち》は|根比《こんくら》べをやらねばならぬのだ。|余《あんま》り|心配《しんぱい》するな。|心配《しんぱい》すると|頭《あたま》の|毛《け》が|白《しろ》うなるぞ』
|斯《か》く|話《はな》して|居《ゐ》る|処《ところ》へ|遥《はる》か|上《うへ》の|方《はう》の|森林《しんりん》から|頭《あたま》の|割《わ》れるやうな|宣伝歌《せんでんか》が|聞《きこ》えて|来《き》た。
|三千彦《みちひこ》『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |三千彦司《みちひこつかさ》が|現《あら》はれて
|三九坊《さんきうばう》に|魅《み》せられし |家令《かれい》の|悴《せがれ》ワックスが
|神《かみ》の|館《やかた》の|重宝《ぢゆうはう》を |密《ひそ》かに|匿《かく》し|置《お》き|乍《なが》ら
|三千彦司《みちひこつかさ》に|看破《かんぱ》され |吾《わが》|身《み》|危《あやふ》くなりしより
|正反対《せいはんたい》に|如意宝珠《によいほつしゆ》 |匿《かく》せしものは|三千彦《みちひこ》と
|宮町《みやまち》|一般《いつぱん》|触《ふ》れ|歩《ある》き |何《なん》にも|知《し》らぬ|人々《ひとびと》を
|誑《たばか》りおほせし|憎《にく》らしさ |如何《いか》にワックス|奸智《かんち》をば
|振《ふる》ひて|一時《いちじ》は|世《よ》の|中《なか》を |欺《あざむ》き|渡《わた》る|事《こと》あるも
|天地《てんち》を|造《つく》り|玉《たま》ひたる |此《この》|世《よ》の|主《あるじ》と|現《あれ》ませる
|誠《まこと》の|神《かみ》は|何時《いつ》|迄《まで》も |曲《まが》の|猛《たけ》びを|許《ゆる》さむや
|吾《われ》は|三千彦《みちひこ》|神司《かむづかさ》 |岩窟《いはや》の|中《なか》に|押込《おしこ》まれ
|暫《しば》し|思案《しあん》に|暮《く》るる|折《をり》 |月照彦《つきてるひこ》の|大神《おほかみ》の
|遣《つか》はし|玉《たま》ふエンゼルが |現《あら》はれ|玉《たま》ひ|忽《たちま》ちに
|真鋼《まがね》の|鎚《つち》を|打揮《うちふる》ひ |此《この》|岩窟《がんくつ》に|穴《あな》|穿《うが》ち
|容易《たやす》く|救《すく》ひ|玉《たま》ひけり |初稚姫《はつわかひめ》の|遣《つか》はせし
|神《かみ》の|変化《へんげ》のスマートが |今《いま》や|吾《わが》|身《み》に|附添《つきそ》ひて
|守《まも》らせ|給《たま》ふ|上《うへ》からは |仮令《たとへ》ワックス|幾万《いくまん》の
|軍《いくさ》を|率《ひき》ゐ|攻《せ》め|来《く》とも |如何《いか》でか|恐《おそ》れむ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|息吹《いぶき》の|言霊《ことたま》に |一人《ひとり》|残《のこ》さず|吹《ふ》き|散《ち》らし
|愛《あい》と|善《ぜん》との|聖徳《せいとく》を |此《この》|土《ど》の|上《うへ》に|輝《かがや》かし
|信《しん》と|真《しん》との|光明《くわうみやう》を |天地《てんち》の|間《あひだ》に|照《て》らしつつ
これの|館《やかた》の|禍《わざはひ》を |払《はら》はにやおかぬ|神《かみ》の|道《みち》
アア|面白《おもしろ》や|面白《おもしろ》や |神《かみ》の|力《ちから》は|目《ま》のあたり
|現《あら》はれ|来《きた》る|神館《かむやかた》 |汝等《なんぢら》|二人《ふたり》の|番卒《ばんそつ》よ
|悔《く》い|改《あらた》めて|吾《わが》|前《まへ》に |来《きた》りて|罪《つみ》を|謝《しや》すならば
|根底《ねそこ》の|国《くに》の|苦《くるし》みを |神《かみ》に|祈《いの》りて|救《すく》ひやり
|永遠無窮《ゑいゑんむきう》の|楽《たのし》みを |味《あぢ》はひ|暮《くら》す|天国《てんごく》へ
|導《みちび》きやらむ|惟神《かむながら》 |神《かみ》に|誓《ちか》ひて|宣《の》り|伝《つた》ふ』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|猛犬《まうけん》を|引連《ひきつ》れ|悠々《いういう》と|岩窟《いはや》の|上面《じやうめん》を|下《くだ》り|来《きた》る。|二人《ふたり》の|番卒《ばんそつ》は|此《この》|姿《すがた》を|見《み》るより|大地《だいち》に|頭《かしら》をすりつけ、|尻《しり》をつつ|立《た》てて|一言《いちごん》も|発《はつ》し|得《え》ず、|謝罪《しやざい》の|意《い》を|表《へう》し|乍《なが》ら|慄《ふる》うてゐる。|太陽《たいやう》は|漸《やうや》く|西山《せいざん》に|没《ぼつ》し、|四辺《あたり》はおひおひと|暗《くら》くなつて|来《き》た。|三千彦《みちひこ》は|二人《ふたり》に|案内《あんない》させ|密《ひそ》かに|抜《ぬ》け|道《みち》より|館《やかた》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
ワックス、オークス、ビルマ、エルの|四人《よにん》は|体《からだ》を|水《みづ》にて|洗《あら》ひ、|会議室《くわいぎしつ》に|入《はい》つてコソコソと、|昼《ひる》の|間《うち》から|日《ひ》の|暮《く》れるのも|知《し》らず|野心会《やしんくわい》の|打合《うちあは》せをやつて|居《ゐ》た。スマートは|室内《しつない》の|怪《あや》しき|臭《にほひ》に|鼻《はな》をぴこつかせ、|小声《こごゑ》で『ウーウー』と|唸《うな》り|乍《なが》ら、|三千彦《みちひこ》に|四人《よにん》の|悪者《わるもの》が|密談《みつだん》に|耽《ふけ》つてゐる|事《こと》を|知《し》らした。|三千彦《みちひこ》は|二人《ふたり》の|番卒《ばんそつ》を|霊縛《れいばく》したまま|裏口《うらぐち》よりソツと|小国姫《をくにひめ》の|居間《ゐま》に|進《すす》み|入《い》つた。|小国姫《をくにひめ》は|悲痛《ひつう》の|涙《なみだ》にくれ、|今後《こんご》|如何《いか》になり|行《ゆ》くならむと|青息吐息《あをいきといき》をつきゐたり。
|小国姫《をくにひめ》『|如何《いか》にせむ|今日《けふ》の|悩《なや》みを|切《き》り|抜《ぬ》けむ
|三千彦司《みちひこつかさ》の|偲《しの》ばるるかな。
|三千彦《みちひこ》の|道《みち》の|司《つかさ》は|三五《あななひ》の
|誠《まこと》の|神《かみ》の|使《つかひ》なるらむ。
|下男《しもをとこ》|僕《しもべ》は|数多《あまた》あり|乍《なが》ら
|心《こころ》|汚《きたな》きものばかりなり。
|吾《わが》|身《み》のみ|愛《あい》する|輩《やから》|集《あつ》まりて
|主人《あるじ》を|思《おも》ふ|人《ひと》ぞなきかな。
|泣《な》き|干《ほ》して|涙《なみだ》の|種《たね》もつきにけり
|救《すく》はせ|玉《たま》へ|三五《あななひ》の|神《かみ》。
|如何《いか》ならむ|悩《なや》みに|会《あ》ふも|神館《かむやかた》
|守《まも》らむ|為《た》めには|吾《わが》|身《み》を|惜《を》しまじ。
|如意宝珠《によいほつしゆ》|貴《うづ》の|宝《たから》は|帰《かへ》りぬれど
|吾《わが》|子宝《こだから》は|如何《いか》になりしぞ。
|背《せ》の|君《きみ》の|病《やまひ》|益々《ますます》|重《かさ》なりて
|早《はや》|縡糸《こといと》の|断《き》れむとぞする。
|世《よ》の|中《なか》に|憂《うき》に|悩《なや》める|人々《ひとびと》は
ありとし|聞《き》けど|吾《われ》に|如《し》かめや。
|如何《いか》ならむ|昔《むかし》の|罪《つみ》の|廻《めぐ》り|来《き》て
かかる|苦《くる》しき|日《ひ》を|送《おく》るらむ。
|待《ま》て|暫《しば》し|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|深《ふか》ければ
やがて|三千彦《みちひこ》|帰《かへ》り|玉《たま》はむ。
|三五《あななひ》の|教司《をしへつかさ》と|仕《つか》へます
|誠《まこと》|一《ひと》つの|君《きみ》は|益良夫《ますらを》』
と|悲《かな》しげに|述懐《じゆつくわい》を|宣《の》べて|居《ゐ》る。そこへ|三千彦《みちひこ》は|忍《しの》び|足《あし》にて|帰《かへ》り|来《き》たり。
『|奥様《おくさま》|奥様《おくさま》』
と|小声《こごゑ》に|呼《よ》ぶ。|小国姫《をくにひめ》は|此《この》|声《こゑ》を|微《かすか》に|聞《き》いて|夢《ゆめ》かと|許《ばか》り|打驚《うちおどろ》き|乍《なが》ら、|微暗《ほのぐら》き|行燈《あんどん》の|光《ひかり》に|透《す》かして|見《み》れば|擬《まが》ふ|方《かた》なき|三千彦司《みちひこつかさ》であつた。
|小国姫《をくにひめ》『ア、|貴方《あなた》は|三千彦《みちひこ》|様《さま》、よう、マア|帰《かへ》つて|来《き》て|下《くだ》さいました。|何処《どこ》へお|出《い》でになつて|居《を》りましたか』
|三千彦《みちひこ》『ハイ、これには|長《なが》いお|話《はなし》が|厶《ござ》います。|然《しか》しこれ|等《ら》|両人《りやうにん》が|聞《き》いて|居《を》りますれば、|暫《しばら》く|霊縛《れいばく》を|加《くは》へて|置《お》きます』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|耳《みみ》と|口《くち》とに|霊縛《れいばく》を|加《くは》へ、|次《つぎ》の|間《ま》に|忍《しの》ばせ|置《お》きスマートをして|警護《けいご》せしめた。スマートは|二人《ふたり》の|番卒《ばんそつ》の|一挙一動《いつきよいちどう》にも|眼《まなこ》を|配《くば》り、|二人《ふたり》が|一寸《ちよつと》でも|動《うご》かうとすれば|目《め》を|怒《いか》らし、|噛《か》みつかむとする|勢《いきほひ》に|恐《おそ》れをなして、|慄《ふる》ひ|慄《ふる》ひ|次《つぎ》の|間《ま》に|控《ひか》へて|居《ゐ》た。
|三千彦《みちひこ》『サアもう、これで|大丈夫《だいぢやうぶ》、|然《しか》し|乍《なが》ら|旦那様《だんなさま》は|如何《いかが》で|厶《ござ》いますか』
|小国姫《をくにひめ》『ハイ、お|蔭様《かげさま》で、まだ|続《つづ》いて|居《を》ります。|一時《いちじ》も|早《はや》く|娘《むすめ》に|会《あ》うて|死《し》にたいと|申《まを》して|居《を》りますが、まだ|娘《むすめ》の|行衛《ゆくゑ》は|分《わか》りませぬので、|今《いま》も|今《いま》とて|貴方《あなた》の|事《こと》を|思《おも》ひ|出《だ》し、|泣《な》いて|居《を》つた|処《ところ》で|厶《ござ》います』
|三千彦《みちひこ》『どうしてもお|嬢《ぢやう》さま|二人《ふたり》とも、|修験者《しうげんじや》に|送《おく》られ、|已《すで》に|此館《ここ》へお|帰《かへ》りになつて|居《を》らねばならぬ|筈《はず》で|厶《ござ》います。|之《これ》には|何《なに》か|悪人輩《あくにんばら》の|企《たく》みがあるので|厶《ござ》いませう。|今《いま》あの|会議室《くわいぎしつ》でワックス|以下《いか》|四人《よにん》の|連中《れんちう》が|密々《ひそびそ》と|相談《さうだん》を|致《いた》して|居《を》りますれば、|私《わたし》が|此館《ここ》へ|帰《かへ》つた|事《こと》を|覚《さと》れば|彼等《かれら》は|如何《いか》なる|事《こと》を|致《いた》すか|分《わか》りませぬ。|何卒《どうぞ》|誰《たれ》も|来《く》る|事《こと》の|出来《でき》ない|居間《ゐま》へ|案内《あんない》して|頂《いただ》き|度《た》いもので|厶《ござ》います。そこでトツクリとお|話《はなし》を|申上《まをしあ》げませう』
|小国姫《をくにひめ》『チツト|窮屈《きうくつ》で|厶《ござ》いますが|吾《わが》|夫《をつと》の|病室《びやうしつ》の|上《うへ》に|暗《くら》い|居間《ゐま》が|厶《ござ》います。そこは|誰《たれ》も|上《あが》る|事《こと》は|出来《でき》ませぬから、そこへお|越《こ》しを|願《ねが》うて、|何《なに》かの|事《こと》を|承《うけたま》はり|度《た》う|厶《ござ》います』
|三千彦《みちひこ》『それは|好都合《かうつがふ》です。サア|早《はや》く|参《まゐ》りませう。|何時《なんどき》|悪者《わるもの》がやつて|来《く》るか|知《し》れませぬから』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|小国姫《をくにひめ》に|導《みちび》かれて|二階《にかい》の|暗《くら》き|一間《ひとま》に|微《かすか》な|火《ひ》を|点《てん》じ、|身《み》を|隠《かく》し|密々話《ひそびそばなし》に|耽《ふけ》つた。
|三千彦《みちひこ》『|実《じつ》の|所《ところ》は|二人《ふたり》のお|嬢様《ぢやうさま》は|私《わたし》の|察《さつ》する|所《ところ》、テルモン|山《ざん》の|岩窟《いはや》に|隠《かく》して|居《を》るやうに|考《かんが》へます。ワックスと|云《い》ふ|奴《やつ》、デビス|姫様《ひめさま》に|恋着《れんちやく》し、|肱鉄砲《ひぢてつぱう》を|喰《く》はされたのを、|性懲《しやうこ》りもなく、|飽迄《あくまで》|恋《こひ》の|慾望《よくばう》を|遂《と》げむとし、|如意宝珠《によいほつしゆ》を|隠《かく》してお|館《やかた》を|困《こま》らせた|上《うへ》、|往生《わうじやう》づくめで|押掛《おしか》け|婿《むこ》にならうと|企《たく》んで|居《ゐ》た|所《ところ》へ、|拙者《せつしや》が|参《まゐ》つたものですから|陰謀《いんぼう》|露顕《ろけん》を|恐《おそ》れ、|反対《はんたい》に|拙者《せつしや》を|魔法使《まはふつかひ》と|触《ふ》れ|廻《まは》り、|如意宝珠《によいほつしゆ》を|隠《かく》したのも|拙者《せつしや》だと|主張《しゆちやう》|致《いた》し|何《なに》も|知《し》らぬ|町民《ちやうみん》は|彼《かれ》が|言葉《ことば》を|真《ま》に|受《う》け、|又《また》|修験者《しゆげんじや》が|送《おく》つて|来《き》た|御両人様《ごりやうにんさま》を|化物《ばけもの》だと|吹聴《ふいちやう》し、|岩窟《いはや》に|匿《かく》しおき、|往生《わうじやう》づくめに|姫様《ひめさま》に|得心《とくしん》させた|上《うへ》、|御主人《ごしゆじん》の|御死去後《ごしきよご》|正々堂々《せいせいだうだう》と|乗《の》り|込《こ》まうと|云《い》ふ|悪《わる》い|企《たく》みで|厶《ござ》いませう。|併《しか》し|乍《なが》らお|嬢様《ぢやうさま》は|確《しつか》りした|女丈夫《ぢよぢやうぶ》ですから、|決《けつ》して|彼《かれ》が|毒手《どくしゆ》におかかり|遊《あそ》ばす|案《あん》じは|要《い》りませぬ。|又《また》|決《けつ》して|彼等《かれら》に|身《み》を|任《まか》せ、|操《みさを》を|破《やぶ》らるる|事《こと》はありませぬから|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ。|併《しか》し|乍《なが》ら|今《いま》|直《すぐ》に|如何《どう》すると|云《い》ふ|事《こと》も|出来《でき》ませぬ。|町内《ちやうない》の|人《ひと》の|心《こころ》が|鎮《しづ》まつた|上《うへ》、|徐《おもむろ》にワックスの|陰謀《いんぼう》が|現《あら》はれた|処《ところ》へ|拙者《せつしや》が|首《くび》を|出《だ》し、|姫様《ひめさま》をお|助《たす》けする|事《こと》に|致《いた》しませう。ここ|二三日《にさんにち》は|落着《おちつ》いて|居《を》らねばなりませぬ。|又《また》|御主人《ごしゆじん》の|御病気《ごびやうき》に、さしひきがあつても|此《この》|四五日《しごにち》は|何《なん》ともありませぬから|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
|小国姫《をくにひめ》『それを|承《うけたま》はりまして|一寸《ちよつと》|安心《あんしん》|致《いた》しました。|娘《むすめ》は|無事《ぶじ》で|居《を》りませうかな。|主人《しゆじん》が|聞《き》きましたら|何程《なにほど》|喜《よろこ》ぶ|事《こと》でせう。これを|冥土《めいど》の|土産《みやげ》として|潔《いさぎよ》く|帰幽《きいう》する|事《こと》で|厶《ござ》いませう。アア|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。|然《しか》しワックスと|云《い》ふ|奴《やつ》は|親《おや》にも|似《に》ぬ|悪党《あくたう》で|厶《ござ》いますな。さうしてマンの|悪《わる》い|時《とき》には|悪《わる》い|事《こと》が|重《かさ》なるもので、|家令《かれい》のオールスチンは|大怪我《おほけが》を|致《いた》し|吾《わが》|主人《しゆじん》よりも|先《さき》に|死《し》ぬかも|知《し》れぬ|様《やう》な|重態《ぢゆうたい》で|厶《ござ》います。あれを|助《たす》けてやる|訳《わけ》には|行《ゆ》きますまいかな』
|三千彦《みちひこ》『とても|助《たす》かりますまい。|肋骨《ろつこつ》を|二本《にほん》|迄《まで》|折《を》つて|居《ゐ》ますから』
|小国姫《をくにひめ》『さても|困《こま》つた|事《こと》で|厶《ござ》います。これも|何《なに》かの|因縁《いんねん》で|厶《ござ》いませう。あまり|悴《せがれ》が|悪党《あくたう》を|致《いた》しますので|子《こ》の|罪《つみ》が|親《おや》に|酬《むく》うたのでは|厶《ござ》いますまいか』
|三千彦《みちひこ》『|決《けつ》して|決《けつ》して、|子《こ》の|罪《つみ》が|親《おや》に|酬《むく》ふ|等《など》といふ|道理《だうり》が|厶《ござ》いませぬ。|神様《かみさま》は|公平無私《こうへいむし》にゐらつしやいますから|決《けつ》して|人《ひと》を|罰《きた》め、|苦《くるし》める|様《やう》な|事《こと》をなさる|筈《はず》が|厶《ござ》いませぬ。|况《ま》して|罪《つみ》なき|本人《ほんにん》に|子《こ》の|罪《つみ》|迄《まで》おきせ|遊《あそ》ばす|不合理《ふがふり》な|事《こと》がありませうか。|只《ただ》|此《この》|上《うへ》はオールスチン|様《さま》の|冥福《めいふく》を|祈《いの》つてやるより|外《ほか》に|道《みち》はありますまい。そして|一時《いちじ》も|早《はや》く|国替《くにがへ》をなさつて|病気《びやうき》のお|苦《くるし》みをお|助《たす》かり|遊《あそ》ばす|様《やう》、|祈《いの》るより|外《ほか》に|道《みち》は|厶《ござ》いませぬ』
|斯《か》く|密々話《ひそびそばなし》をして|居《を》る|処《ところ》へ、ワックス、オークス、ビルマ、エルの|四人《よにん》は|酒《さけ》を|矢鱈《やたら》にあふり|乍《なが》ら、ドヤドヤと|病室《びやうしつ》に|入《い》り|来《きた》り、
ワックス『これはこれは、|小国別《をくにわけ》の|御主人様《ごしゆじんさま》、|御病気《ごびやうき》は|如何《いかが》で|厶《ござ》います。お|訪《たづ》ね|致《いた》さねば|済《す》まないのですが、|何分《なにぶん》|私《わたし》の|父《ちち》が|大怪我《おほけが》を|致《いた》しましたので、|一人《ひとり》よりない|親《おや》、|見逃《みのが》す|訳《わけ》にもゆかず、|夜《よ》の|目《め》も|寝《ね》ず、|孝行《かうかう》|第一《だいいち》に|看病《かんびやう》|致《いた》して|居《を》りました。だと|申《まを》して|大切《たいせつ》な|御主人様《ごしゆじんさま》お|訪《たづ》ね|致《いた》さぬも|不忠《ふちう》の|至《いた》りと、|気《き》が|気《き》でならず、|宅《うち》に|居《を》つても|心《こころ》は|御主人様《ごしゆじんさま》の|身《み》の|上《うへ》に|通《かよ》つて|居《を》ります。アア|忠《ちう》ならむと|欲《ほつ》すれば|孝《かう》ならず、|孝《かう》ならむと|欲《ほつ》すれば|忠《ちう》ならず、どうも|世《よ》の|中《なか》は|思《おも》ふやうには|行《ゆ》きませぬ。どつちや……いえ、どつち|道《みち》、|私《わたし》の|爺《おやぢ》は|肋骨《ろつこつ》を|折《を》られて|居《ゐ》ますから、|死《し》なねばならぬ|運命《うんめい》で|厶《ござ》います。それで|早《はや》く|死《し》んで|呉《く》れますれば、|御主人様《ごしゆじんさま》のお|世話《せわ》が|出来《でき》ます|事《こと》と、|心《こころ》は|焦《あせ》りますれど、|病気《びやうき》|計《ばか》りは|人間《にんげん》がどうする|事《こと》も|出来《でき》ませぬので、ツヒ|失礼《しつれい》を|致《いた》して|居《を》りました。|何卒《どうぞ》|御無礼《ごぶれい》の|罪《つみ》お|赦《ゆる》し|下《くだ》さいませ。モシ|御主人様《ごしゆじんさま》、|家令《かれい》の|父《ちち》が|亡《な》くなりましても|此《この》ワックスがビチビチして|後《あと》に|控《ひか》へて|居《を》りますれば、|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな。そしてデビス|姫様《ひめさま》とケリナ|姫様《ひめさま》とは|間近《まぢか》い|内《うち》にお|帰《かへ》りになりませうから、|及《およ》ばず|乍《なが》ら|私《わたし》がお|世話《せわ》をさして|頂《いただ》きます。これも|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ。|予《あらかじ》めワックスに|娘《むすめ》|二人《ふたり》を|宜《よろ》しく|頼《たの》むと|只《ただ》|一言《ひとこと》|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいますれば、|獅子奮迅《ししふんじん》の|活動《くわつどう》を|致《いた》し、|姫様《ひめさま》を|御目《おめ》にかけるで|厶《ござ》いませう。ここに|貴方《あなた》の|遺言状《ゆゐごんじやう》を|代書《だいしよ》して|来《き》ましたから、|一寸《ちよつと》|拇印《ぼいん》を|捺《お》して|下《くだ》さいますまいか。|何《なに》もワックス|一人《ひとり》の|為《ため》では|厶《ござ》いませぬ。お|館《やかた》、|町内《ちやうない》|一同《いちどう》の|為《ため》は|申《まを》す|迄《まで》もなく、テルモン|国《ごく》|一国《いつこく》の|為《ため》で|厶《ござ》いますから』
|小国別《をくにわけ》はソファーの|上《うへ》にヤツと|起《お》き|上《あが》り|凹《くぼ》んだ|目《め》をクワツと|瞠《みひら》き、|力《ちから》なき|声《こゑ》にて、
『お|前《まへ》はワックスだつたか、|何《なん》とか|云《い》つてる|様《やう》だが|病気《びやうき》のせいか、|耳《みみ》がワンワンして|何《なに》も|聞《きこ》えない。|女房《にようばう》が|其処辺《そこら》に|居《を》るだらうから|話《はなし》があるならトツクリと|女房《にようばう》として|呉《く》れ。|私《わし》はもう|体《からだ》が|弱《よわ》つて|耳《みみ》さえ|聞《きこ》えなくなつたから』
と|故意《わざ》と|小国別《をくにわけ》は|煩《うるさ》さを|排除《はいじよ》せむと|耳《みみ》に|事寄《ことよ》せて|取《と》り|合《あ》はぬ。
ワックス『モシ、|御主人様《ごしゆじんさま》、チト|確《しつか》りして|下《くだ》さいませ。|此《この》|館《やかた》には|三千彦《みちひこ》と|云《い》ふ|魔法使《まはふつかひ》が|来《き》ましてから|怪事百出《くわいじひやくしゆつ》、|貴方《あなた》の|御病気《ごびやうき》も|彼奴《きやつ》の|魔法《まはふ》の|為《ため》で|厶《ござ》いますよ。その|三千彦《みちひこ》をテルモン|山《ざん》の|牢獄《らうごく》へ|押込《おしこ》め、お|館《やかた》の|禍《わざはひ》を|除《のぞ》いたのは|此《この》ワックスで|厶《ござ》いますから、|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
|小国別《をくにわけ》『|何《なに》、あの|三千彦《みちひこ》|様《さま》を|岩窟《いはや》へ|打《う》ち|込《こ》んだとは、そりや|大変《たいへん》な|事《こと》をして|呉《く》れた。あのお|方《かた》は|生神様《いきがみさま》だ。|左様《さやう》な|事《こと》を|致《いた》したらお|前《まへ》|等《たち》に|神罰《しんばつ》が|当《あた》るぞ。|早《はや》くお|助《たす》け|申《まを》して|吾《わが》|前《まへ》に|送《おく》つて|参《まゐ》れ。|怪《け》しからぬ|事《こと》を|致《いた》すでないか』
と|怒気《どき》を|帯《お》びて|力《ちから》|無《な》き|声《こゑ》に|呶鳴《どな》りつけた。
ワックス『ハハハハハ、|貴方《あなた》の|聾《つんぼ》は|嘘《うそ》で|厶《ござ》いましたか。|何《なん》と|都合《つがふ》の|好《よ》い|耳《みみ》で|厶《ござ》いますな。|御主人様《ごしゆじんさま》、よく|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさいませ。|今日《けふ》か|明日《あす》か|知《し》れぬ|身《み》を|以《もつ》て、さう|頑張《ぐわんば》るものぢやありませぬ。|此《この》お|館《やかた》は|此《この》ワックスが|居《を》らねば|駄目《だめ》で|厶《ござ》います。バラモン|教《けう》の|聖場《せいぢやう》へ|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|引張《ひつぱり》|込《こ》む|等《など》とは|重大《ぢゆうだい》なる|罪《つみ》で|厶《ござ》いませう。こんな|事《こと》が|大黒主《おほくろぬし》の|耳《みみ》に|這入《はい》つたら|如何《どう》|致《いた》します。お|道《みち》の|為《ため》には|此《この》ワックスは|御主人様《ごしゆじんさま》でも、|何《なん》でも|厶《ござ》いませぬ』
と|呶鳴《どな》り|立《た》てた。
|小国姫《をくにひめ》、|三千彦《みちひこ》は|頭《あたま》の|上《うへ》の|二階《にかい》にワックスの|声《こゑ》を|聞《き》いて|居《ゐ》たが|下《お》りる|訳《わけ》にもゆかず、……マンの|悪《わる》い|処《ところ》へ|悪《わる》い|奴《やつ》が|出《で》て|来《き》たものだ……と|顔《かほ》を|顰《しか》め、|一時《いちじ》も|早《はや》く|帰《かへ》りますやうにと、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|三千彦《みちひこ》は|大神《おほかみ》に|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らして|居《ゐ》た。
ワックスは|益々《ますます》|大《おほ》きな|声《こゑ》で|主人《しゆじん》より|拇印《ぼいん》をとらむと|迫《せま》つて|居《ゐ》る。|看護婦《かんごふ》のセールは|見《み》るに|見《み》かねて、
セール『もし、ワックス|様《さま》、|旦那様《だんなさま》は|御大病《ごたいびやう》のお|身《み》の|上《うへ》、お|体《からだ》に|障《さは》りますから|何卒《どうぞ》お|控《ひか》へ|下《くだ》さいませ。|奥様《おくさま》がお|帰《かへ》りになつた|上《うへ》、とつくりと|御相談《ごさうだん》|遊《あそ》ばしたが|宜《よろ》しからう』
ワックス『エー、|看護婦《かんごふ》の|分際《ぶんざい》として、|家令《かれい》の|悴《せがれ》ワックスに|向《むか》ひ、|無礼《ぶれい》の|申《まを》し|様《やう》、すつ|込《こ》んで|居《を》れ。|汝等《きさまら》|如《ごと》き|卑女《はしため》の|容喙《ようかい》する|処《ところ》でない。モシ|御主人様《ごしゆじんさま》、|是非《ぜひ》ともこれに|拇印《ぼいん》を|願《ねが》ひます』
とつきつける。|小国別《をくにわけ》は|止《や》むを|得《え》ず、
『アア|私《わし》は|目《め》も|眩《くら》み、|耳《みみ》も|遠《とほ》くなつて|何《なん》にも|分《わか》らないが、どんな|事《こと》が|書《か》いてあるのか|大《おほ》きな|声《こゑ》で|読《よ》んで|呉《く》れ。そしてワックスが|読《よ》んだのでは|当《あて》にならぬ。セール、|私《わし》に|代《かは》つて、その|遺言状《ゆゐごんじやう》を|読《よ》んで|呉《く》れ』
セール『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました。ワックス|様《さま》、サア|此方《こつち》へお|渡《わた》し|下《くだ》さい。|妾《わたし》が|旦那様《だんなさま》の|代《かは》りに|読《よ》まして|貰《もら》ひますから』
ワックス『モシ、|御主人様《ごしゆじんさま》、|読《よ》んだ|以上《いじやう》は|拇印《ぼいん》を|捺《お》して|下《くだ》さいますか。|捺《お》して|貰《もら》はなくては|読《よ》んで|貰《もら》つても|何《なん》にもなりませぬからな。それから|前《さき》に|定《き》めて|置《お》かねば|読《よ》む|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬ』
|小国別《をくにわけ》『|読《よ》んだ|上《うへ》で|拇印《ぼいん》を|捺《お》してやらう』
ワックス『イヤ|有難《ありがた》い。おい、セール、そこは……それ……|腹《はら》で|読《よ》むのだ。|妙《めう》な|読《よ》みやうを|致《いた》すと|家令《かれい》の|悴《せがれ》ワックスが|承知《しようち》|致《いた》さぬぞ』
と|睨《にら》みつける。セールは|委細《ゐさい》|頓着《とんちやく》なく|病人《びやうにん》の|耳許《みみもと》に|口《くち》を|寄《よ》せて|声《こゑ》|高《たか》らかに|読《よ》み|初《はじ》めた。
|遺言状《ゆゐごんじやう》の|事《こと》
一、|吾《わ》れ|帰幽《きいう》せし|後《のち》はテルモン|山《ざん》の|館《やかた》の|事務《じむ》|一切《いつさい》を|家令《かれい》の|悴《せがれ》ワックスに|一任《いちにん》すること。
一、|小国姫《をくにひめ》は|別《べつ》に|館《やかた》を|建《た》て、|比丘尼《びくに》として|一生《いつしやう》を|安楽《あんらく》に|送《おく》らすこと。
一、デビス|姫《ひめ》、ケリナ|姫《ひめ》はワックスに|一切《いつさい》|身《み》を|任《まか》すこと。
一、ワックスを|当館《たうやかた》の|養子《やうし》となし、デビス|姫《ひめ》を|女房《にようばう》とすること。
一、ケリナ|姫《ひめ》はワックスの|意志《いし》により|第二夫人《だいにふじん》となすもよし、|都合《つがふ》によれば|他家《たけ》へ|縁《えん》づかすもワックスの|自由《じいう》たるべきこと。
|右《みぎ》の|遺言状《ゆゐごんじやう》は|小国別《をくにわけ》|重病《ぢゆうびやう》のため|筆写《ひつしや》する|事《こと》|能《あた》はざるを|以《もつ》て、ワックスに|代筆《だいひつ》せしめ|後日《ごじつ》のため|拇印《ぼいん》|押捺《あふなつ》するもの|也《なり》。
|年月日《ねんぐわつぴ》 |小国別《をくにわけ》|神司《かむづかさ》
セール『ホホホホホ|何《なん》とマア|虫《むし》のよい|遺言状《ゆゐごんじやう》で|厶《ござ》いますこと、モシ、|旦那様《だんなさま》、こんな|事《こと》|御承知《ごしようち》|遊《あそ》ばしますか』
|小国別《をくにわけ》『|以《もつ》ての|外《ほか》の|事《こと》だ。|左様《さやう》な|遺言状《ゆゐごんじやう》には|拇印《ぼいん》は|決《けつ》して|捺《お》さない。|引裂《ひきさ》いて|了《しま》へ』
と|怒《いか》りの|声《こゑ》|諸共《もろとも》にワックスを|睨《ね》めつけた。ワックスは|手早《てばや》くセールの|手《て》より|遺言状《ゆゐごんじやう》を|奪《うば》ひ|取《と》り、|主人《しゆじん》の|指《ゆび》に|印肉《いんにく》をつけ、|無理《むり》に|捺《お》させ|様《やう》とした。|老衰《らうすゐ》の|小国別《をくにわけ》は|抵抗《ていかう》する|力《ちから》もなく|進退《しんたい》|維《これ》|谷《きは》まつた|処《ところ》へ、|宙《ちう》を|飛《と》んで|馳来《はせきた》る|一頭《いつとう》の|猛犬《まうけん》、ウーウーウー、ワツワツと|叫《さけ》び|乍《なが》らワックスに|跳《と》びかかり|腰《こし》の|帯《おび》をグツと|銜《くは》へて、|猫《ねこ》が|鼠《ねづみ》を|銜《くは》へた|様《やう》な|調子《てうし》で|館《やかた》の|外《そと》へ|運《はこ》び|行《ゆ》く。オークス、ビルマ、エルの|三人《さんにん》は|顔色《かほいろ》をサツと|変《か》へ、スゴスゴと|受付《うけつけ》の|間《ま》に|走《はし》り|込《こ》み、|青《あを》い|顔《かほ》して|慄《ふる》うて|居《ゐ》る。|小国姫《をくにひめ》はヤツと|胸《むね》|撫《な》で|下《おろ》し|四辺《あたり》を|窺《うかが》ひ|乍《なが》ら|病床《びやうしやう》に|下《くだ》つて|来《き》た。
(大正一二・三・二四 旧二・八 於伯耆皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第七章 |暗闇《くらがり》〔一四五七〕
ワックスは|猛犬《まうけん》スマートに|銜《くは》へられ、|門《もん》の|外《そと》に|運《はこ》び|出《だ》され、|暫《しばら》くは|気《き》も|遠《とほ》くなり、|夏草《なつぐさ》の|上《うへ》に|身《み》を|横《よこ》たへて|唸《うめ》いて|居《ゐ》た。|斯《かか》る|所《ところ》へビルマは|月《つき》を|賞《ほ》め|鼻唄《はなうた》を|歌《うた》ひ|乍《なが》らやつて|来《き》た。|忽《たちま》ち|一天《いつてん》|掻《か》き|曇《くも》り、|大空《おほぞら》は|墨《すみ》を|流《なが》した|如《ごと》く、サツと|月光《げつくわう》を|包《つつ》んで|仕舞《しま》つた。
ビルマ『|暗闇《くらがり》の|一滴《いつてき》が
|天《てん》と|地《ち》との|間《あひだ》に
ぼつたりと|落《お》ちると
|暗黒《あんこく》と|静寂《せいじやく》が
うろたへてやつて|来《く》る
○
ふくれ|上《あが》つた|暗闇《くらやみ》の|中《なか》に
|甍《いらか》の|波《なみ》はどよみ
|煙突《えんとつ》の|林《はやし》は|黙立《もくりつ》し
|四方《よも》の|山脈《さんみやく》は|横臥《わうぐわ》し
|万物《ばんぶつ》は
|今《いま》し
|暗灰色《あんくわいしよく》に|溶《と》けて|行《ゆ》く
○
|暗闇《くらやみ》の|一《ひと》つの|壁《かべ》から
|煤《すす》けた
|赤《あか》らんだ
|月《つき》が
|顔《かほ》をしかめた
○
|月《つき》はユララ ユララと
ゆらめきながら
|険《けは》しい|雲《くも》の|坂路《さかみち》を
|昇《のぼ》り|初《はじ》めた
○
しばし
やがて
|悪魔《あくま》が|翼《つばさ》をひろげて
|黒雲《くろくも》の|臥床《ふしど》に
|月《つき》を|閉《と》ぢ|込《こ》めて|了《しま》ふと
|暗闇《くらやみ》がぬけ|落《お》ちた|歯《は》の|間《あひだ》から
ゲラゲラと|笑《わら》うて
|急《いそ》いで|地《ち》の|中《なか》へ|潜《もぐ》り|込《こ》んだ
○
|翌《あく》る|朝《あさ》
|生温《なまぬる》い|雨《あめ》が
しよぼしよぼと|降《ふ》つて|居《ゐ》た
○
|月《つき》は|恐《おそ》ろし|雲間《くもま》に|隠《かく》れ ワックス|司《つかさ》は|雲《くも》がくれ
|黒《くろ》い|犬《いぬ》|奴《め》が|飛《と》んで|来《き》て ウウ、ワンワン|吠《ほ》へ|猛《たけ》る
ワツと|驚《おどろ》くワックスが |帯《おび》を|銜《くは》へてトントンと
|門《もん》の|外《そと》へと|引《ひき》ずり|出《だ》した その|怖《おそ》ろしい|権幕《けんまく》に
ビルマはビルビル|慄《ふる》ひ|出《だ》し オークスさまは|逃《に》げ|出《いだ》す
|睾丸《きんたま》|潰《つぶ》したエルの|奴《やつ》 |雲《くも》を|霞《かすみ》と|隠《かく》れ|行《ゆ》く
さはさり|乍《なが》らデビスのお|姫《ひめ》さま どこの|何処《いづこ》へ|雲《くも》がくれ
|月雪花《つきゆきはな》にも|擬《まが》うよな |綺麗《きれい》な|綺麗《きれい》なお|顔立《かほだち》
|一寸《ちよつと》|見《み》てさへ|顫《ふる》ひつく |雲《くも》がお|月《つき》を|隠《かく》すよに
いづこの|曲津《まがつ》がやつて|来《き》て テルモン|館《やかた》の|蓮華花《れんげばな》
|何処《どこ》へ|隠《かく》したか|知《し》らねども ワックスさまは|気《き》が|揉《も》める
あれ|程《ほど》|惚《ほ》れたお|姫《ひめ》さま |三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》
みちみち|彦《ひこ》に|攫《さら》はれて |指《ゆび》を|銜《くは》へてアングリと
|嘸《さぞ》|今《いま》|頃《ごろ》は|草《くさ》の|露《つゆ》 |涙《なみだ》に|湿《しめ》る|事《こと》だらう
とは|云《い》ふものの|俺《おれ》だとて |木石《ぼくせき》ならぬ|人《ひと》の|身《み》だ
|男《をとこ》と|生《うま》れて|来《き》たからは あんなナイスと|一夜《いちや》の|枕《まくら》を
|交《かは》してみたい|気《き》も|起《おこ》る ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|月下氷人《むすぶのかみ》の|引《ひ》き|合《あは》せ |姫《ひめ》の|所在《ありか》を|尋《たづ》ね|出《だ》し
|第一番《だいいちばん》の|功名《こうみやう》|手柄《てがら》 やらねばならぬ|羽目《はめ》となり
|弥々《いよいよ》|館《やかた》を|抜《ぬ》け|出《だ》して |月《つき》の|光《ひかり》を|頼《たよ》りとし
|此処《ここ》|迄《まで》やつて|来《き》たものの |一寸先《いつすんさき》も|見《み》えわかぬ
|真暗《まつくら》がりの|馬場道《ばんばみち》 アイタタツタ|何者《なにもの》ぢや
|嫌《いや》らしいものが|触《さは》つたぞ これやこれや|其方《そち》は|化物《ばけもの》か
|合点《がてん》のゆかぬ|代物《しろもの》ぢや |三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》
こんな|所《ところ》に|化物《ばけもの》を |現《あら》はし|俺《おれ》の|肝玉《きもだま》を
|取《と》らうとしても|駄目《だめ》だぞよ ウンウンウンウンそれや|何《なん》だ
|狐《きつね》か|狸《たぬき》か|狼《おほかみ》か |但《ただし》は|天狗《てんぐ》か|古狸《ふるだぬき》
|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|唸《うな》り|声《ごゑ》 |逃《に》げようと|云《い》つても|足許《あしもと》が
ハツキリ|分《わか》らぬ|此《この》|場合《ばあひ》 この|怪物《くわいぶつ》の|正体《しやうたい》を
|度胸《どきよう》を|据《す》ゑて|調《しら》べよか もしも|姫《ひめ》さまであつたなら
それこそ|思《おも》はぬ|儲《まう》けもの アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
と|慄《ふる》ひ|慄《ふる》ひ|歌《うた》つて|居《ゐ》る。|俄《にはか》に|黒雲《くろくも》はパツと|晴《は》れて|皎々《かうかう》たる|夏《なつ》の|月《つき》は|四辺《あたり》を|昼《ひる》の|如《ごと》く|照《てら》した。|草《くさ》に|置《お》く|露《つゆ》の|玉《たま》には|月光《げつくわう》|宿《やど》り|瑠璃《るり》の|如《ごと》くに|光《ひか》つて|居《ゐ》る。ビルマは|足許《あしもと》の|黒《くろ》い|影《かげ》を|見《み》て|首《くび》を|傾《かたむ》け|窺《うかが》へば|正《まさ》しく|人間《にんげん》の|唸《うな》り|声《ごゑ》である。|怖々《こはごは》ながら|側《そば》に|寄《よ》り『オーイオーイ』と|二《ふた》つ|三《み》つ|揺《ゆす》つて|見《み》た。|倒《たふ》れた|影《かげ》はムクムクと|起《お》き|上《あが》りビルマの|顔《かほ》を|覗《のぞ》くやうにして|凝視《みつ》めて|居《ゐ》る。ビルマは|月《つき》を|背《せ》に|負《お》うて|居《ゐ》たのでハツキリ|顔《かほ》が|分《わか》らなかつたが、|一方《いつぱう》の|顔《かほ》には|月光《げつくわう》を|受《う》けて|顔《かほ》の|生地《きぢ》|迄《まで》|分《わか》つてゐる。
ビルマ『ヤアお|前《まへ》はワックスぢやないか。|随分《ずいぶん》|甚《ひど》い|目《め》に|遇《あ》つたものだなア。どこともなしに|山犬《やまいぬ》がやつて|来《き》やがつてお|前《まへ》を|銜《くは》へて|出《で》た|時《とき》の|怖《おそ》ろしさ、|友達《ともだち》の|難儀《なんぎ》を|見捨《みす》てる|訳《わけ》にもゆかず、オークス、エルの|奴《やつ》はビリビリ|慄《ふる》つて|居《ゐ》るなり、|剛胆不敵《がうたんふてき》の|此《この》ビルマが|助《たす》けようと|思《おも》うてやつて|来《き》た|所《ところ》、お|前《まへ》に|突《つ》き|当《あた》り、どうも|済《す》まぬ|事《こと》をした。どうだ、どこも|怪我《けが》は|無《な》かつたか』
ワックス『ウン|有難《ありがた》う、よう|来《き》て|呉《く》れた。|友達《ともだち》なればこそ|来《き》て|呉《く》れたのだなア。|山犬《やまいぬ》が|出《で》て|来《き》て|此処《ここ》|迄《まで》|俺《おれ》を|銜《くは》へ|込《こ》み、|最後《さいご》になつて|三《み》つ|四《よ》つ|振《ふ》りやがつた|時《とき》には|目《め》がマクマクして|怖《こは》かつたよ。|併《しか》し|乍《なが》ら|親友《しんいう》なればこそお|前《まへ》が|来《き》て|呉《く》れたのだ。この|儘《まま》|放《ほ》つて|置《お》けば|俺《おれ》の|命《いのち》は|無《な》くなつたかも|知《し》れない。アア|有難《ありがた》い、お|礼《れい》|申《まを》す、|屹度《きつと》|俺《おれ》が|目的《もくてき》を|達《たつ》したならお|前《まへ》を|家令《かれい》にしてやるから|楽《たの》しんで|待《ま》つて|居《を》れ』
ビルマ『|何《なん》と|俄《にはか》に|雲行《くもゆき》が|変《かは》つたものですな。いつも|私《わたし》を|門番《もんばん》|門番《もんばん》と|呼《よ》び|付《つけ》になさいましたが、|今日《けふ》に|限《かぎ》つて|親友《しんいう》だと|云《い》つて|下《くだ》さつた。アア|有難《ありがた》い、|幾久《いくひさ》しう|親友《しんいう》として|御交際《ごかうさい》|願《ねが》ひますよ。いつもなら|吾々《われわれ》を|塵埃《ちりあくた》の|如《ごと》く|振向《ふりむ》いても|下《くだ》さらぬのだが、|矢張《やつぱ》り|叶《かな》はぬ|時《とき》の|神頼《かみだの》み、こんな|時《とき》に|来《き》て|貰《もら》うと|嬉《うれ》しいと|見《み》えますな。|併《しか》し|斯様《かやう》の|所《ところ》に|居《ゐ》ると|誰《たれ》に|見《み》つかるかも|分《わか》りませぬ。サア|一時《いちじ》も|早《はや》く|貴方《あなた》のお|館《やかた》|迄《まで》|送《おく》つて|上《あ》げませう』
ワックス『|家《いへ》へ|帰《かへ》る|所《どこ》か、お|前《まへ》は|何《なん》と|思《おも》ふかも|知《し》れぬが、|又《また》しても|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》が|館《やかた》の|中《なか》に|潜《もぐ》り|込《こ》んで|居《ゐ》るやうだ。さうでなければあの|犬《いぬ》が|出《で》て|来《く》る|筈《はず》がない。サア|是《これ》から、|人気《にんき》の|立《た》つたを|幸《さいは》ひ、|鉦《かね》や|太鼓《たいこ》を|叩《たた》いて|辻説法《つじせつぽふ》を|初《はじ》め、あの|三千彦《みちひこ》を|門外《もんぐわい》に|誘《おび》き|出《だ》し、やつつけねば|陰謀《いんぼう》|露見《ろけん》して|吾等《われら》の|笠《かさ》の|台《だい》が|飛《と》ぶかも|知《し》れぬ。|少《すこ》し|腰《こし》が|痛《いた》くとも|辛抱《しんばう》して|今晩《こんばん》は|大活動《だいくわつどう》をやるのだな。アイタタツタ。|山犬《やまいぬ》の|奴《やつ》、ひどくやつ|付《つ》けやがつた。おい、ビルマ、|何処《どこ》かで|驢馬《ろば》でも|引《ひ》つ|張《ぱり》|出《だ》して|来《き》て|呉《く》れ。そして|鉦《かね》も|太鼓《たいこ》も|探《さが》して|持《も》つて|来《こ》い。|天《てん》へ|登《のぼ》るか|地獄《ぢごく》へ|堕《お》ちるかと|云《い》ふ|境目《さかひめ》だからな』
ビルマ『|三千彦《みちひこ》の|魔法使《まはふつかひ》は|岩窟《がんくつ》の|中《なか》へ|閉《と》ぢ|込《こ》めて、|二人《ふたり》の|番卒《ばんそつ》がつけてある|上《うへ》は、|滅多《めつた》に|館《やかた》の|中《うち》に|帰《かへ》つて|来《く》る|筈《はず》がありますまい。お|前《まへ》さま|山犬《やまいぬ》に|振《ふ》られて|気《き》が|狂《くる》うたのではありますまいか』
ワックス『エ、|馬鹿《ばか》|云《い》ふな、その|位《くらゐ》な|事《こと》に|気《き》が|狂《くる》ふものか、サア|事《こと》|遅《おく》れては|一大事《いちだいじ》だ、|早《はや》く|早《はや》く』
と|急《せ》き|立《た》てる、ビルマは|一目散《いちもくさん》に|駆《か》け|出《だ》し、|驢馬《ろば》に|跨《またが》り|一頭《いつとう》を|引《ひ》き|連《つ》れ|来《きた》り、ワックスを|助《たす》け|乗《の》せ、|自分《じぶん》は|豆太鼓《まめだいこ》や|摺鉦《すりがね》を|打《う》ち|鳴《な》らしながら、|宮町《みやまち》の|四辻《よつつじ》に|向《むか》つて|駆《か》け|出《だ》し、
トントンチンチン トンチンチン
チントン チントン チントントン
と|夜中《よなか》に|飴屋式《あめやしき》に|囃《はや》し|立《た》てた。|杢平《もくべい》、|八平《はちべい》、|田吾作《たごさく》もこの|声《こゑ》に|夢《ゆめ》を|破《やぶ》られて|慌《あわ》てて|戸外《こぐわい》に|駆《か》け|出《だ》した。ワックスは|馬上《ばじやう》より|大声《おほごゑ》を|張《は》り|上《あ》げ、
『ヤアヤア|宮町《みやまち》の|連中殿《れんちうどの》、|又《また》もや|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》がお|館《やかた》に|現《あら》はれた。サア|戸毎《こごと》に|叩《たた》き|起《おこ》し|脛腰《すねこし》の|立《た》つものは|拙者《せつしや》に|従《したが》つて|館《やかた》の|表門《おもてもん》に|押《お》しかけられよ、|時《とき》|後《おく》れては|一大事《いちだいじ》、|魔法使《まはふづかひ》が|先度《せんど》のやうに|宝《たから》を|奪《うば》ひ|取《と》り、|終《しま》ひには|命《いのち》|迄《まで》|取《と》つて|仕舞《しま》ひますぞ。|悪魔《あくま》を|滅《ほろ》ぼすは|今《いま》|此《この》|時《とき》』
と|呶鳴《どな》り|立《た》てた。|次《つぎ》から|次《つぎ》へと|慌者《あわてもの》が|触《ふ》れ|歩《ある》き、|瞬《またた》く|間《うち》に|二三百《にさんびやく》の|老若男女《らうにやくなんによ》が|四辻《よつつじ》に|集《あつ》まつて|来《き》た。ビルマは|馬上《ばじやう》より、
ドンドコ ドンドコ ドコドコドン
チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン
と|囃《はや》し|立《た》て|乍《なが》ら|先頭《せんとう》に|立《た》つて|進《すす》む。ワックスは|馬上《ばじやう》から|進軍《しんぐん》の|歌《うた》を|歌《うた》ひ|初《はじ》めた。
ワックス『|出《で》た|出《で》た|出《で》た|出《で》た|鬼《おに》が|出《で》た テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》
|小国別《をくにわけ》の|奥《おく》の|間《ま》に |打《う》てよ|打《う》て|打《う》て|今《いま》|打《う》てよ
|館《やかた》の|大事《だいじ》は|云《い》ふも|更《さら》 |汝等《なんぢら》|一同《いちどう》の|難儀《なんぎ》だぞ
ドンドコ ドンドコ ドコドコドン チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン
|各自《めいめい》|家《いへ》の|重宝《ぢゆうはう》を |戸毎《こごと》に|盗《ぬす》んだ|泥坊《どろばう》も
|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》 |三千彦司《みちひこつかさ》と|云《い》ふ|鬼《おに》だ
|殺《ころ》せよ|殺《ころ》せよ|打《う》ち|殺《ころ》せ これを|見逃《みのが》し|置《お》いたなら
|神《かみ》の|館《やかた》は|云《い》ふも|更《さら》 お|前等《まへら》|一同《いちどう》の|身《み》の|終《をは》り
|命《いのち》を|取《と》るか|取《と》られるか |千騎一騎《せんきいつき》の|正念場《しやうねんば》
ドンドコ ドンドコ ドコドコドン チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン』
|歌《うた》と|拍子《ひやうし》につれて|数多《あまた》の|老若男女《らうにやくなんによ》は|月光《げつくわう》を|浴《あ》びながら|館《やかた》の|表門《おもてもん》|指《さ》して|押《お》し|寄《よ》せた。この|物音《ものおと》に|小国姫《をくにひめ》、|三千彦《みちひこ》は|不審《ふしん》を|起《おこ》し、|三千彦《みちひこ》は|小国姫《をくにひめ》に|病人《びやうにん》の|看護《かんご》をさせ|置《お》き、|自分《じぶん》は|唯《ただ》|一人《ひとり》|門外《もんぐわい》に|駆《か》け|出《だ》した。ワックスは|三千彦《みちひこ》の|姿《すがた》を|見《み》るより、
ワックス『ヤアヤア|皆《みな》の|者《もの》、|今《いま》|其処《そこ》に|現《あら》はれた|奴《やつ》が|町民《ちやうみん》の|仇《あだ》、|大泥坊《おほどうばう》の|魔法使《まはふつかひ》だ、それ|逃《に》がすな』
と|下知《げち》すれば、|何《なに》も|知《し》らぬ|老若男女《らうにやくなんによ》は|蚯蚓《みみず》に|蟻《あり》が|集《あつ》まつたやうに|四方《しはう》から|木片《きぎれ》をもつて|打《う》ち|叩《たた》き、|寄《よ》つて|集《たか》つてふん|縛《じば》り、ワツシヨワツシヨと|声《こゑ》を|揃《そろ》へてアンブラック|川《がは》の|水瀬《みなせ》にザンブと|許《ばか》り|投《な》げ|込《こ》んで|仕舞《しま》つた。アア|三千彦《みちひこ》の|運命《うんめい》はどうなるであらうか。
(大正一二・三・二四 旧二・八 於伯耆皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第八章 |愚摺《ぐすり》〔一四五八〕
ワックスはビルマと|共《とも》に|巧《うま》く|町民《ちやうみん》を|煽動《せんどう》し、|三千彦《みちひこ》を|袋叩《ふくろだた》きにして、アンブラック|川《がは》に|投《な》げ|込《こ》み、|意気《いき》|揚々《やうやう》として|己《おの》が|館《やかた》に|帰《かへ》つて|来《き》た。|父《ちち》のオールスチンは|二人《ふたり》の|看護婦《かんごふ》に|看護《かんご》され|乍《なが》ら|現《うつつ》になつて、ワックス ワックスと|連呼《れんこ》してゐる。そこへソツと|帰《かへ》つて|来《き》たワックスは、|盗猫《ぬすとねこ》が|留守《るす》の|家《いへ》を|覗《のぞ》く|様《やう》な|態度《たいど》で、ノソリノソリと|這入《はい》り|来《きた》り|父《ちち》の|病床《びやうしやう》に|近寄《ちかよ》り、|二人《ふたり》の|看護婦《かんごふ》に|向《むか》ひ、|小《ちひ》さい|声《こゑ》で、
ワックス『モシ、|看護婦《かんごふ》さま、|日夜《にちや》|御苦労《ごくらう》ですが|老爺《おやぢ》の|病気《びやうき》は|助《たす》かりませうかな』
|看護婦《かんごふ》の|一人《ひとり》『ハイ、お|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら|到底《たうてい》|諦《あきら》めて|貰《もら》はねばなりますまい』
ワックス『|成程《なるほど》、それも|仕方《しかた》がありませぬ。|何程《なにほど》|悔《くや》んだつて|寿命《じゆみやう》はどうする|事《こと》も|出来《でき》ませぬからな』
ビルマ、|小《ちひ》さい|声《こゑ》で、
『|親《おや》の|財産《ざいさん》あてにすりや
|薬罐頭《やくわんあたま》が|邪魔《じやま》になる』
とウツカリ|喋《しやべ》つた。|病人《びやうにん》のオールスチンは|耳敏《みみざと》くも|此《この》|声《こゑ》を|聞《き》きつけて|苦《くる》しい|体《からだ》を|起《お》き|上《あが》り、……|悴《せがれ》のワックス|奴《め》、|大切《たいせつ》な|親《おや》の|死《し》ぬのを|待《ま》つて|居《ゐ》やがるのだな……と|苦痛《くつう》を|忘《わす》れ、|声《こゑ》を|尖《とが》らして、
オールスチン『こりや|悴《せがれ》、|何《なん》と|云《い》ふ|不孝《ふかう》な|事《こと》を|申《まを》すのか。ま|一度《いちど》|今《いま》|云《い》つた|事《こと》を|云《い》つて|見《み》よ』
ワックス『へ、あまり|御病気《ごびやうき》が|重《おも》いので|心配《しんぱい》して|看護婦《かんごふ》に|尋《たづ》ねて|居《を》つた|処《ところ》です。ここに|来《き》てゐる|門番《もんばん》のビルマと|云《い》ふ|奴《やつ》、お|父《とう》さまが|大病《たいびやう》で、|私《わし》がこれ|丈《だ》け|心配《しんぱい》してるのに|其《その》|心《こころ》も|知《し》らず、あんな|事《こと》を|云《い》ひやがつたのです』
オールスチン『さうぢやあるまい。|貴様《きさま》|常平生《つねへいぜい》から|左様《さやう》の|事《こと》を|云《い》つて|居《ゐ》るものだからビルマが|真似《まね》をしたのだらう。|貴様《きさま》はチツと|心得《こころえ》ねばならぬぞ。|俺《おれ》が|目《め》を|冥《つぶ》つて|了《しま》へばお|前《まへ》の|身辺《しんぺん》は|忽《たちま》ち|危《あや》ふくなつて|来《く》るぞ。|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|隠《かく》したり、|種々雑多《しゆじゆざつた》と|陰謀《いんぼう》を|企《くはだ》てて|居《を》つた|事《こと》は|三五教《あななひけう》の|三千彦《みちひこ》|様《さま》がスツパリ|御存《ごぞん》じだ。こんな|事《こと》が|表沙汰《おもてざた》になつたならば|家令《かれい》の|家《いへ》は|断絶《だんぜつ》、お|前《まへ》の|命《いのち》はなきものと|覚悟《かくご》せねばなるまい。これが|一生《いつしやう》の|別《わか》れだから|憎《にく》い|悴《せがれ》でも|矢張《やつぱ》り|親《おや》の|因果《いんぐわ》として|庇《かば》い|度《た》うなつて|来《く》る。|今《いま》の|間《うち》|何処《どこ》かへ|身《み》を|隠《かく》し、|遠《とほ》い|国《くに》へ|行《い》つて|苦労《くらう》を|致《いた》したが|宜《よ》からう』
ワックス『お|父《とう》さま、そりや|違《ちが》ひます。|三千彦《みちひこ》と|云《い》ふ|魔法使《まはふつかひ》が|盗《と》つて|居《ゐ》たのですよ。その|証拠《しようこ》には|町中《まちぢう》の|者《もの》が|袋叩《ふくろだた》きにして……ムニヤムニヤムニヤ』
オールスチン『|何《なに》、|町中《まちぢう》の|者《もの》が、|三千彦《みちひこ》を|袋叩《ふくろだた》きにしたと|云《い》ふのか。そりや|大変《たいへん》な|事《こと》をして|呉《く》れた。|早《はや》くお|詫《わび》をせなくちやお|館《やかた》の|一大事《いちだいじ》が|起《おこ》るかも|知《し》れぬぞ』
ビルマ『|何《なん》と|云《い》つても|町内《ちやうない》が|寄《よ》つて|集《たか》つて|雁字搦《がんじがら》みにし、アンブラック|川《がは》に|投《な》げ|込《こ》んだものですから、|疾《と》うの|昔《むかし》に|死《し》んでゐますよ。|滅多《めつた》にワックスさまの|難儀《なんぎ》になる|気遣《きづか》ひはありませぬ。|寧《むし》ろ|神館《かむやかた》の|悪魔《あくま》を|退治《たいぢ》なさつた|結構《けつこう》な|救世主《きうせいしゆ》です。そして|小国別《をくにわけ》|様《さま》の|御養子《ごやうし》になられる|約束《やくそく》がチヤンと|奥《おく》さまとの|間《あひだ》に|定《きま》つたのですから、オールスチン|様《さま》、|御安心《ごあんしん》なさいませ』
オールスチン『|一人《ひとり》の|悴《せがれ》を|養子《やうし》にやると|云《い》ふ|事《こと》はどうしても|出来《でき》ない。さうすればオールスチンの|家《いへ》は|血統《けつとう》が|絶《た》えるぢやないか』
ワックス『お|父《とう》さま、そんな|心配《しんぱい》は|為《な》さらず|早《はや》く|成仏《じやうぶつ》して|下《くだ》さい。|貴方《あなた》の|苦《くるし》みを|見《み》て|居《ゐ》るのが|子《こ》として|見《み》て|居《を》られませぬからな。|私《わたし》とデビス|姫《ひめ》と|結婚《けつこん》した|上《うへ》は|三人《さんにん》や|五人《ごにん》の|子《こ》は|出来《でき》るでせう。|総領《そうりやう》は|養家《やうか》の|後継《あとつぎ》とし、|次男《じなん》をオールスチン|家《け》の|後目相続《あとめさうぞく》にすれば|宜《よ》いぢやありませぬか。|貴方《あなた》の|血統《けつとう》たる|私《わたし》が|残《のこ》つてる|以上《いじやう》は|大丈夫《だいぢやうぶ》です。ゴテゴテ|云《い》つたら|養家《やうか》をオールスチン|家《け》にして|了《しま》へば|宜《よ》いのです。(|小声《こごゑ》)エー|年寄《としより》だてら|死際《しにぎは》になつて|要《い》らぬお|節介《せつかい》だ。いい|加減《かげん》に|斃《くたば》つたら|宜《よ》いのにな』
と|後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》つて|小声《こごゑ》に|呟《つぶや》いて|居《ゐ》る。|幸《さいはひ》に|病躯《びやうく》に|悩《なや》む|父《ちち》の|耳《みみ》には|這入《はい》らなかつた。オールスチンはグタリとなつて|苦《くる》しげに|又《また》もや|寝台《しんだい》の|上《うへ》に|倒《たふ》れて|了《しま》つた。
|看護婦《かんごふ》『モシ|若旦那様《わかだんなさま》、|余《あんま》り|八釜《やかま》しう|仰有《おつしや》いますと|御病気《ごびやうき》に|障《さは》りますから、|何卒《どうぞ》|別館《はなれ》の|方《はう》へ|行《い》つてお|休《やす》み|下《くだ》さいませ』
ワックス『オツト、ヨシヨシ、それを|待《ま》つて|居《ゐ》たのだ。|然《しか》し|看護婦《かんごふ》さま、|此方《こちら》にも|都合《つがふ》があるのだが、お|前《まへ》の|考《かんが》へでは|今日《けふ》|一日《いちにち》は|大丈夫《だいぢやうぶ》だと|思《おも》ふか。|葬礼《さうれい》の|用意《ようい》もせなならぬからな』
|看護婦《かんごふ》『|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|屹度《きつと》|本復《ほんぷく》さして|上《あ》げます。|仮令《たとへ》お|亡《な》くなり|遊《あそ》ばすとしても、|三十日《さんじふにち》や|五十日《ごじふにち》は|大丈夫《だいぢやうぶ》ですからな』
ワックス『へー、|何分《なにぶん》|御介抱《ごかいはう》を|宜《よろ》しう|頼《たの》みます』
と|云《い》ひながら|別館《はなれ》の|間《ま》に|至《いた》り、|冷酒《ひやざけ》を|両人《りやうにん》|差向《さしむか》ひになつてグイグイとやり|初《はじ》めた。ビルマはへべれけに|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れ、ソロソロ|銅羅声《どらごゑ》を|張《は》り|上《あ》げて|唄《うた》ひ|出《だ》した。
ビルマ『オールスチンの|老爺《おやぢ》さま |肋骨《あばら》を|折《を》られてウンウンと
|呻《うな》つて|厶《ござ》る|憐《いぢ》らしさ |癒《なほ》りもせねば|死《し》にもせず
|厄介《やくかい》|至極《しごく》の|老爺《おやぢ》さま ワックスさまも|嘸《さぞ》や|嘸《さぞ》
|困《こま》つて|厶《ござ》るに|違《ちが》ひない |早《はや》く|何《なん》とか|埒《らち》つけて
ワックスさまの|目的《もくてき》を |立《た》てさしてやらねばなるまいぞ
もしも|都合《つがふ》|好《よ》う|行《い》つたなら |私《わたし》は|一躍《いちやく》|家令職《かれいしよく》
|之《これ》を|思《おも》へば|一時《いつとき》も |早《はや》く|老爺《おやぢ》さまに|死《し》んで|欲《ほ》しい
|欲《ほ》しいわいな|欲《ほ》しいわいな|欲《ほ》しいわいな |薬鑵老爺《やくわんおやぢ》が|死《し》んだなら
|皆《みな》さま|喜《よろこ》ぶ|事《こと》だらう ヨーイセー ヨーイセー
|思《おも》ふやうにはいかぬもの ホンニ|浮世《うきよ》はじれつたい
ヨーイトセー ヨーイトセー』
ワックス『こりや|何《なん》ぼ|何《なん》でも|俺《おれ》の|前《まへ》で、そんな|事《こと》を|唄《うた》ふ|奴《やつ》があるか。|俺《おれ》だつて|肉身《にくしん》の|親《おや》だもの、|死《し》ぬのがチツトは……|嬉《うれ》しいとも|悲《かな》しいとも|思《おも》はないよ。|併《しか》し|乍《なが》ら|老爺《おやぢ》が|死《し》ねば|此《この》|財産《ざいさん》がスツカリ|俺《おれ》の|所有物《もの》になるのだから|嬉《うれ》しい|様《やう》でもあり、|只《ただ》|一人《ひとり》の|親《おや》が|死《し》ぬのだから|悲《かな》しい|様《やう》でもあり、|嫁入《よめい》りと|葬式《さうしき》と|一緒《いつしよ》に|来《き》たやうで|一掬同情《いつきくどうじやう》の|涙《なみだ》を|流《なが》して|居《ゐ》るのだ。|貴様《きさま》も|余程《よつぽど》|没分暁漢《わからずや》だなア』
ビルマ『|没分暁漢《わからずや》か、|何《なに》か|知《し》らぬが|此《この》ビルマは|心《こころ》にもない|追従《つゐしやう》を|云《い》ふのは|嫌《きら》ひだ。ワックスさま、お|前《まへ》の|心《こころ》は|此《この》ビルマが|云《い》つた|通《とほ》りだらう。そんな|目《め》に|唾《つば》を|着《つ》けるやうな|同情《どうじやう》は|止《や》めなさい。それよりも|態《てい》よう|老爺《おやぢ》に|早《はや》く|死《し》んだらよいと|云《い》うたが|宜《よろ》しからうぜ。|悪党《あくたう》なら|悪党《あくたう》らしく、|男《をとこ》らしくせぬのかい。そんな|事《こと》で|大陰謀《だいいんぼう》が|成就《じやうじゆ》するものか、お|前《まへ》さまも|徹底的《てつていてき》の|悪人《あくにん》だと|思《おも》つたが|大徹底的《だいてつていてき》の|悪人《あくにん》だつたな。|悲《かな》しくもないのに|悲《かな》しい|様《やう》に|云《い》ふ|丈《だ》け|人間《にんげん》が|悪《わる》いわ』
と|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》を|管巻《くだま》く。
|斯《か》かる|処《ところ》へエキス、ヘルマンの|両人《りやうにん》、ズブ|六《ろく》に|酔《よ》ひ|乍《なが》ら|門《もん》の|戸《と》を|矢鱈《やたら》に|叩《たた》き、
|両人《りやうにん》『ヘー、|御免《ごめん》なせえ。|鬼門《きもん》の|神《かみ》がやつて|来《き》やした。ワックスさまの|陰謀《いんぼう》|先生《せんせい》は|在宅《ざいたく》ですかな。|何《なん》だ、|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|返事《へんじ》しやがらぬな。ハハア、|俺《おれ》を|排斥《はいせき》してけつかるのか。ヨーシ、|何《なに》もかも、|之《これ》から|館《やかた》へ|行《い》つて|陰謀《いんぼう》を|素破抜《すつぱぬ》いてやらう……と|云《い》つても|俺《おれ》も|其《その》|仲間《なかま》だ。|何時《なんどき》|暴露《ばれ》て|笠《かさ》の|台《だい》が|飛《と》ぶかも|知《し》れないのだ。それを|思《おも》へば|甘《うめ》え|酒《さけ》も|不味《まづ》うなつて|来《く》る。|斯《か》う|毎日《まいにち》|毎日《まいにち》|心《こころ》の|鬼《おに》に|責《せ》められては、やりきれない。|一《ひと》つワックスの|若造《わかざう》に|無心《むしん》を|云《い》つて|三百両《さんびやくりやう》ばかりおつ|放《ぽ》り|出《だ》させ、|自棄酒《やけざけ》でも|飲《の》んで|過《す》ごさにややりきれないわ』
と|戸《と》を|無理《むり》に|引《ひ》き|開《あ》け、ドカドカと|病室《びやうしつ》に|駆《か》け|込《こ》み、
エキス『ヤ、|御大将《おんたいしやう》、|矢張《やつぱり》|御病気《ごびやうき》ですかな。そりや|誠《まこと》にお|気《き》の|毒《どく》だ。|然《しか》し|乍《なが》ら|一《ひと》つ|願《ねが》ひ|度《て》え|事《こと》があつて|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》がやつて|来《き》やした。|此《この》|様子《やうす》では|御家令《ごかれい》さまも、とても|助《たす》かりますまい。|沢山《たくさん》の|財産《ざいさん》を|持《も》つて|冥土《めいど》に|行《ゆ》く|訳《わけ》にもゆくまいし、チツトは|善根《ぜんこん》の|為《ため》にわれわれ|両人《りやうにん》に|三百両《さんびやくりやう》ばかり|死土産《しにみやげ》を|下《くだ》つせえ。お|前《まへ》の|大切《たいせつ》の|倅《せがれ》の|首《くび》がつなげるのも、つなげぬのも、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》の|舌《した》|三寸《さんずん》の|使《つか》ひやうだ。|死《し》んでも|心残《こころのこ》りのない|様《やう》に、サア、スツパリと|三百両《さんびやくりやう》|〆《しめ》て|六百両《ろくぴやくりやう》|出《だ》して|頂《いただ》きやせう。|御家令《ごかれい》さま、|小倅《こせがれ》の|命《いのち》が|繋《つな》げると|思《おも》へば|安価《やす》いものでせう』
|看護婦《かんごふ》『コレお|二方《ふたかた》、|旦那様《だんなさま》が|御病気《ごびやうき》の|処《とこ》へ、そんな|事《こと》を|云《い》つて|来《く》るものぢやありませぬよ。|若旦那《わかだんな》が|別館《はなれ》に|居《を》られますから、|彼処《あそこ》に|行《い》つて|下《くだ》さい。|此《この》|病室《びやうしつ》へは|這入《はい》つてはなりませぬ。ここは|看護婦《かんごふ》の|許可《ゆるし》がなけりや|一歩《ひとあし》も|這入《はい》つてはいけませぬ』
エキス『|成程《なるほど》、これは|恐《おそ》れ|入《い》つた。ワックスの|若《わか》が|別館《はなれ》に|居《ゐ》るさうだ。|一《ひと》つ|彼奴《あいつ》に|談判《だんぱん》してドツサリと【むし】つて|来《こ》ようぢやないか。グツツツツゲゲゲゲガラガラガラドツツツツ』
と|八百屋店《やほやみせ》を|出《だ》す。
|看護婦《かんごふ》『エー、|好《す》かんたらしい、|掃除《さうぢ》をなさい。|妾《わたし》はお|前《まへ》|等《たち》の|掃除役《さうぢやく》ではありませぬぞえ』
エキス『エー、|八釜《やかま》しう|云《い》ふない。|出《で》たものは|仕方《しかた》がないわ。グヅグヅ|吐《ぬか》して|六百両《ろくぴやくりやう》の|金《かね》を|出《だ》し|惜《をし》みしやがるものだから|嘔吐《へど》の|奴《やつ》、|気《き》を|利《き》かして|八百両《はつぴやくりやう》、いや|八百屋店《はつぴやくやみせ》を|出《だ》したのだ。エー、|臭《くさ》い|臭《くさ》い、おいヘルマン、|行《い》かうぢやないか。こんな|斃《くたば》つた|老爺《おやぢ》に|向《むか》つて|文句《もんく》を|並《なら》べたつて|仕方《しかた》がないや』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、ヒヨロリヒヨロリ|廊下《らうか》を|伝《つた》つて|足《あし》をヨボヨボさせ|乍《なが》ら|進《すす》み|入《い》る。
エキス『おい、ワックスの|大将《たいしやう》、|金《かね》だ|金《かね》だ。|今日《けふ》は|何《なん》と|云《い》つても|貰《もら》はなくちや|動《うご》かねえのだ。エー、よう|考《かんが》へてみよ。|宮町《みやまち》|一般《いつぱん》の|人間《にんげん》を|騙《だま》くらかし、|大切《たいせつ》なお|姫様《ひめさま》を|狐《きつね》のお|化《ばけ》だと|云《い》つて、あんな|岩窟《いはや》に|押込《おしこ》めよつて|往生《わうじやう》づくめでウンと|云《い》はさうと|思《おも》つても、さうはいかぬぞ。サア|六百両《ろくぴやくりやう》、|耳《みみ》を|揃《そろ》へて|出《だ》したり|出《だ》したり、グヅグヅ|吐《ぬか》すと|二人《ふたり》が|之《これ》からお|館《やかた》へ|行《い》つて|素破抜《すつぱぬ》くが|如何《どう》だ。|三千彦《みちひこ》の|宣伝使《せんでんし》にだつて、あんな|事《こと》をしやがつて、|本当《ほんたう》に|太《ふて》え|野郎《やらう》だ。サア、キリキリチヤツと、|四《し》の|五《ご》の|吐《ぬか》さず|六百両《ろくぴやくりやう》|出《だ》さぬかい。エー|篦棒《べらぼう》|奴《め》、|無《な》いと|云《い》ふのか。こんなデツカイ|屋台骨《やたいぼね》をしやがつて|金《かね》の|千両《せんりやう》や|一万両《いちまんりやう》、|無《な》いとは|云《い》はさぬぞ。お|前《まへ》の|老爺《おやぢ》は|家令《かれい》をしやがつて、うまい|事《こと》して|沢山《たくさん》の|金《かね》を|穴倉《あなぐら》へ|仕舞《しま》ひ|込《こ》んだと|云《い》ふ|事《こと》だ。|渋老爺《しぶおやぢ》の|鬼老爺《おにおやぢ》の|倅《せがれ》だけあつて|貴様《きさま》も|中々《なかなか》|出《だ》し|嫌《ぎら》ひと|見《み》えるが、|何《なん》と|云《い》つても|俺《おれ》には|出《だ》さにやならぬ|理由《わけ》がある。サア、キリキリ チヤツとおつ|放《ぽ》り|出《だ》さぬかい。マゴマゴして|居《ゐ》やがると|貴様《きさま》の|首《くび》が|飛《と》んで|了《しま》ふぞ』
ワックス『オイ、|又《また》しても|又《また》してもさう|脅喝《けふかつ》に|来《き》ては|困《こま》るぢやないか。|今《いま》|老爺《おやぢ》が|千騎一騎《せんきいつき》の|場合《ばあひ》だから……|只《ただ》|一人《ひとり》の|親《おや》に|離《はな》れようとする|最中《さいちう》だから、チツと|俺《おれ》の|身《み》にもなつて|呉《く》れ。|老爺《おやぢ》が|亡《な》くなつてから|如何《どう》でもしてやるから』
エキス『|暫《しば》らく|待《ま》たれる|位《くらゐ》なら|病人《びやうにん》で|取込《とりこ》んで|居《ゐ》る|家《うち》へやつて|来《く》るものかい。お|前《まへ》はさう|陽気《やうき》な|事《こと》を|云《い》つてるが|俺《おれ》は|尻《しり》に|火《ひ》がついて|居《ゐ》るのだ。サア|早《はや》くキリキリチヤツと|出《だ》したり|出《だ》したり』
ビルマ『オイ|両人《りやうにん》、さう|八釜《やかま》しう|云《い》はずに、|俺《おれ》と|一緒《いつしよ》に|酒《さけ》でも|飲《の》んだら|如何《どう》だ。|話《はなし》は|後《あと》で|緩《ゆつく》りしたら|宜《い》いぢやないか』
エキス『ウン、|酒《さけ》なら|飲《の》んでやらぬ|事《こと》はない。|四斗樽《しとだる》と|仇名《あだな》をとつたエキス、ヘルマンの|両人《りやうにん》だ。お|酒《さけ》の|御用《ごよう》なら|後《あと》へは|退《ひ》かぬぞ』
とドツカリと|坐《ざ》し、|柄杓《ひしやく》に|掬《すく》うてグーグーと|飲《の》み|始《はじ》めた、|四人《よにん》はへべれけに|酔《よ》ひ、|四辺《あたり》|構《かま》はず|堤《どて》を|切《き》らして|唄《うた》ひ|初《はじ》めた。
エキス『|慾《よく》と|色《いろ》との|二道《ふたみち》かけて |極道息子《ごくだうむすこ》のワックスが
|二人《ふたり》の|男《をとこ》をちよろまかし テルモン|館《やかた》の|御宝《おんたから》
マンマと|盗《ぬす》み|出《いだ》さして |自分《じぶん》がデビスの|婿《むこ》となり
|終《しま》ひの|果《は》てにや|小国別《をくにわけ》の |権利《けんり》|財産《ざいさん》|横奪《わうだつ》し
|栄耀《えいえう》|栄華《えいぐわ》に|暮《くら》さうと テツキリ|梟《ふくろふ》の|宵企《よひだく》み
|夜食《やしよく》に|外《はづ》れて|青《あを》い|顔《かほ》 |致《いた》さにやならぬ|時《とき》が|来《き》た
ドツコイシヨ ドツコイシヨ それさへあるにデビス|姫《ひめ》
|類《たぐ》ひ|稀《まれ》なるナイスさま ケリナの|姫《ひめ》と|諸共《もろとも》に
テルモン|山《ざん》の|岩窟《がんくつ》へ |狐《きつね》のお|化《ばけ》とちよろまかし
|押《お》し|込《こ》んで|置《お》いて|夜《よ》な|夜《よ》なに |口説《くど》きに|行《ゆ》きよる|馬鹿男《ばかをとこ》
|之《これ》|程《ほど》|悪《あく》を|企《たく》む|奴《やつ》 |六百両《ろくぴやくりやう》の|黄金《わうごん》が
|惜《をし》うて|出《だ》せぬ|位《くらゐ》なら |首《くび》でも|吊《つ》つて|死《し》ぬがよい
|何《いづ》れ|死《し》なねばならぬ|奴《やつ》 |今《いま》に|天罰《てんばつ》|報《むく》い|来《き》て
|家《いへ》は|断絶《だんぜつ》その|身《み》は|所刑《しおき》 これの|館《やかた》は|風前《ふうぜん》の
|燈火《とうくわ》の|如《ごと》く|刻々《こくこく》に |危険《きけん》の|迫《せま》るを|知《し》らないか
|生命《いのち》が|大切《だいじ》か|黄金《わうごん》が |大切《だいじ》かよつく|考《かんが》へよ
|金《かね》と|命《いのち》の|引替《ひきか》へに |早《はや》く|渡《わた》せよワックスよ
|俺等《おいら》|二人《ふたり》は|自棄糞《やけくそ》だ |之《これ》から|館《やかた》へ|飛《と》び|込《こ》んで
|恐《おそ》れ|乍《なが》らと|白状《はくじやう》する そしたら|貴様《きさま》は|第一《だいいち》に
|悪《あく》の|兇頭《きやうとう》と|定《さだ》められ |命《いのち》のないのは|知《し》れた|事《こと》
|俺《おれ》|等《たち》|二人《ふたり》は|従犯《じゆうはん》だ |重《おも》い|所《ところ》で|遠島《ゑんたう》か
|所払《ところばら》ひになる|位《くらゐ》 |早《はや》く|出《だ》せ|出《だ》せ|六百両《ろくぴやくりやう》
ヨイトシヨー ヨイトシヨー こんな|酸《す》つぱい|酒《さけ》|位《ぐらゐ》
|飲《の》ましておいて|箝口令《かんこうれい》 |布《し》いた|所《ところ》で|駄目《だめ》ぢやぞよ
|暴露《ばら》してやらうかワックスよ |命《いのち》が|惜《をし》けりや|金《かね》を|出《だ》せ
デビスが|欲《ほ》しけりや|金《かね》を|出《だ》せ ケリナが|欲《ほ》しくば|金《かね》を|出《だ》せ
|館《やかた》の|養子《やうし》になり|度《た》くば ヤツパリ|六百両《ろくぴやくりやう》の|金《かね》を|出《だ》せ
|金《かね》を|出《だ》すのが|嫌《いや》なれば |俺《おれ》|等《たち》の|前《まへ》に|首《くび》を|出《だ》せ
|此《この》|出刃庖丁《でばばうちよう》でチヨンぎつて アンブラック|川《がは》へドンブリと
|流《なが》してやらうか|御承知《ごしようち》か アア|金《かね》が|欲《ほ》しい、|金《かね》が|欲《ほ》しい
|金《かね》が|敵《かたき》の|世《よ》の|中《なか》ぢや |何程《なにほど》|敵《かたき》と|云《い》つたとて
|金《かね》ほど|笑顔《ゑがほ》のよい|奴《やつ》が |又《また》と|世界《せかい》にあるものか
ドツコイシヨ ドツコイシヨ |金《かね》ぢや|金《かね》ぢや|早《は》や|金《かね》ぢや
|警鐘乱打《けいしようらんだ》の|声《こゑ》よりも |俺《おれ》の|催促《さいそく》|烈《はげ》しいぞ
コラコラ|悪党《あくたう》ワックスよ |色《いろ》と|慾《よく》との|二道《ふたみち》かけた
|此《この》|大芝居《おほしばゐ》をやり|遂《と》げて |安全《あんぜん》|無事《ぶじ》に|此《こ》の|世《よ》をば
|送《おく》らうと|思《おも》へば|金《かね》を|出《だ》せ |資本《もとで》がなくては|何事《なにごと》も
|成就《じやうじゆ》せないは|世《よ》の|習《なら》ひ アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|金《かね》をドツサリ|下《くだ》さんせ バラモン|帝釈《たいしやく》|自在天《じざいてん》
|大国彦《おほくにひこ》の|御前《おんまへ》に エキス ヘルマン|両人《りやうにん》が
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる ウントコシヨ ドツコイシヨ
|八釜《やかま》しい|声《こゑ》が|人耳《ひとみみ》に |入《い》るのが|嫌《いや》なら|金《かね》を|出《だ》せ
どんな|難《むつかし》い|問題《もんだい》も |金《かね》で|治《をさ》まる|世《よ》の|中《なか》だ
|兎角《とかく》|浮世《うきよ》は|色《いろ》と|酒《さけ》 |此《この》|慾望《よくばう》を|充《みた》すのは
ヤツパリ|金《かね》の|神様《かみさま》だ お|前《まへ》の|首《くび》をつなぐのも
ヤツパリ|金《かね》の|御利益《ごりやく》だ |蒔《ま》かない|種子《たね》は|生《は》えぬぞや
|早《はや》く|命《いのち》の|種子《たね》を|蒔《ま》け ドツコイシヨー ドツコイシヨー
|扨《さ》ても|強情《しぶと》い|吝嗇《しみたれ》だ それ|程《ほど》|金《かね》が|惜《をし》いかい
|雪隠《せつちん》の|側《そば》の|猿不食柿《さるくはず》 |渋《しぶ》うて|汚《きたな》うて|小《こま》かうて
|喰《く》へない|奴《やつ》は|貴様《きさま》ぞや アア|金《かね》が|欲《ほ》しい|金《かね》が|欲《ほ》しい
|目玉《めだま》|飛《と》び|出《だ》しましませよ』
と|自棄糞《やけくそ》になつてワックスを|困《こま》らせるために|四辺《あたり》|構《かま》はず|喚《わめ》き|立《た》てる。ワックスは|堪《たま》りかねて|矢場《やには》に|父《ちち》の|病室《びやうしつ》に|駆《か》け|入《い》り、ソファーの|下《した》に|匿《かく》してある|黄金《わうごん》を|無理《むり》に|引《ひつ》たくり、|二人《ふたり》の|前《まへ》に|投《な》げつけた。
エキス『エヘヘヘヘ|流石《さすが》は|哥兄《あにき》だ。|偉《えら》い|偉《えら》い、|吾《わが》|意《い》を|得《え》たりと|云《い》ふべしだ。|成程《なるほど》|山吹色《やまぶきいろ》の|黄金《わうごん》で|耳《みみ》を|揃《そろ》へて|六百両《ろくぴやくりやう》、マアこれで|三十日《さんじふにち》ばかりは|沈黙《ちんもく》を|守《まも》つて|居《ゐ》るから、|次《つぎ》に|来《く》る|迄《まで》|用意《ようい》をして|置《お》くが|宜《よ》からうぞ。|今度目《こんどめ》にゴテゴテ|云《い》うと|駄目《だめ》だからな』
と|下駄《げた》を|預《あづ》け|乍《なが》ら、|六百両《ろくぴやくりやう》を|二人《ふたり》が|懐《ふところ》に|捻《ね》ぢ|込《こ》み、ブラリブラリと|臭《くさ》い|息《いき》を|吐《は》きながら|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二四 旧二・八 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第二篇 |顕幽両通《けんいうりやうつう》
第九章 |婆娑《ばしや》〔一四五九〕
|霜《しも》に|打《う》たれて|茶滓《ちやかす》のやうになつた|椋《むく》の|葉《は》は、|凩《こがらし》に|吹《ふ》かれてハラハラと|小鳥《ことり》の|群《むれ》|立《た》つやうに|四辺《あたり》に|飛《と》び|散《ち》つて|居《ゐ》る。|木《こ》の|葉《は》の|羽衣《はごろも》を|脱《ぬ》いだ|栗《くり》の|梢《こずゑ》には|成育《せいいく》|悪《あ》しき|虫《むし》の|綴《つづ》つた|毬栗《いがぐり》が|二《ふた》つ|三《み》つ|蜘蛛《くも》の|巣《す》と|共《とも》に|中空《ちうくう》に|慄《ふる》つて|居《ゐ》る。|鴉《からす》は|皺嗄声《しわがれごゑ》を|出《だ》して|岩窟《いはや》の|麓《ふもと》の|屑屋葺《くづやぶき》の|屋根《やね》にとまつて|悲《かな》しげに|鳴《な》き|立《た》てる。どこともなしにボーンボーンと|諸行無常《しよぎやうむじやう》を|告《つ》ぐる|梵鐘《ぼんしよう》が|聞《きこ》えて|来《く》る。|鬼哭耿々《きこくしうしう》として|寂寥《せきれう》|身《み》に|迫《せま》り、|歯《は》の|根《ね》も|合《あ》はぬガタガタ|慄《ぶる》ひ、|破《やぶ》れ|障子《しやうじ》の|隙間《すきま》から|耳《みみ》を|射《さ》すやうな|凩《こがらし》がピウピウと|矢《や》のやうに|這入《はい》つて|来《く》る。|黒《くろ》ずんだ|破《やぶ》れ|畳《だたみ》は|歩《ある》く|度《たび》|毎《ごと》に|足《あし》にもつれつき、|幾度《いくたび》となく|人《ひと》を|転《ころ》ばして|笑《わら》つて|居《ゐ》る。|霜柱《しもばしら》は|覚束《おぼつか》なげに|一本橋《いつぽんばし》を|真白《まつしろ》けに|染《そ》め、|川水《かはみづ》は|直濁《ひたにごり》に|濁《にご》り、|岩《いは》を|噛《か》んでは|吠猛《ほえたけ》つて|居《ゐ》る。|高姫《たかひめ》はシャルと|共《とも》に|裏《うら》の|岩山《いはやま》から|小柴《こしば》の|朽《く》ちた、|半《なかば》|水《みづ》を|含《ふく》んだ|枯枝《かれえだ》を|拾《ひろ》ひ|来《きた》り、|縁《ふち》の|欠《か》けた|囲爐裏《ゐろり》に|燻《くす》べ、|耳《みみ》の|欠《か》けた|四角《しかく》い|湯釜《ゆがま》を|天釣《てんどり》に|釣《つ》り|下《さ》げ、|真黒《まつくろ》けの|竹《たけ》の|柄杓《ひしやく》で|汲《く》んでは|飲《の》み、|汲《く》んでは|飲《の》み、|燻《くすぶ》つた|顔《かほ》をつき|合《あは》せ|乍《なが》ら|目玉《めだま》|計《ばか》りを【キヨロ】づかせ、|又《また》|煽《あふ》り|乍《なが》ら、|何《なに》かブツブツ|不機嫌《ふきげん》な|顔《かほ》をして|囁《ささや》いて|居《ゐ》る。
|高姫《たかひめ》『これシャル、お|前《まへ》も|此処《ここ》へ|来《き》てから|大分《だいぶ》|日日《ひにち》が|立《た》つたやうだが、もう|些《ちつ》と|此《この》|生宮《いきみや》の|精神《せいしん》が|分《わか》りさうなものぢやないか。|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》|灰猫《はひねこ》のやうに|囲炉裏《ゐろり》の|傍《そば》にヘバリついて、|湯《ゆ》ばかり|餓鬼《がき》の|様《やう》にガブガブ|呑《の》んで|居《ゐ》ないで、|些《ちつ》と|外《そと》へ|出《で》て|活動《くわつどう》しては|如何《どう》だい。|第一霊国《だいいちれいごく》の|天人《てんにん》の|身魂《みたま》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》に|亡者引《もさひき》をさして、お|前《まへ》は|灰猫爺《はひねこおやぢ》の|様《やう》に|燻《くすぶ》つて|居《ゐ》ても、|社会《しやくわい》の|為《ため》|貢献《こうけん》する|事《こと》が|出来《でき》ないぢやないか。|些《ちつ》と|活動《くわつどう》して|貰《もら》はなくては、どうしてウラナイ|教《けう》のお|道《みち》が|開《ひら》けますかい。お|前《まへ》サンも|見掛《みかけ》によらぬ【どたふし】ものだなア』
シャル『そりや|何《なに》をおつシャールのだ、よう|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|斯《か》う|俄《にはか》に|陽気《やうき》が|悪《わる》くなり|夜《よる》とも|昼《ひる》とも|分《わか》らぬやうな|世《よ》の|中《なか》にどうして|活動《くわつどう》が|出来《でき》ますか。|外《そと》はビユウビユウと|凩《こがらし》が|吹《ふ》き、|霜柱《しもばしら》が|立《た》つて|鴉《からす》さへも|怖《こは》さうに|啼《な》いて|居《ゐ》るぢやありませぬか。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》なら|些《ちつ》と|日輪様《にちりんさま》でも|昇《のぼ》つて|貰《もら》つて|陽気《やうき》が|暖《あたた》かくなるやうにして|下《くだ》さい。どれ|程《ほど》|活動《くわつどう》しようと|思《おも》うても|体《からだ》が|縮《ちぢ》こまつて、|寒《さむ》うて|淋《さび》しうて|何《なん》だか|怖《おそ》ろしうて|手《て》も|足《あし》も|出《だ》せないぢやありませぬか。|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》も|好《よ》い|加減《かげん》なものですよ。これ|程《ほど》|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|頼《たの》むのに|日一日《ひいちにち》と|寒《さむ》くなる|計《ばか》り、こんな|薄着《うすぎ》でどうして|日《ひ》が|越《こ》せませうか』
|高姫《たかひめ》『エエ|訳《わけ》の|分《わか》らぬ【トマ】|助《すけ》だなア。いつも|云《い》ふ|通《とほ》り|苦労《くらう》の|塊《かたまり》の|花《はな》が|咲《さ》く|御教《みをしへ》だ。|寒《さむ》い|目《め》をするのも|飢《ひだる》い|目《め》をするのも|苦《くるし》い|目《め》をするのも|皆《みな》|神様《かみさま》のお|恵《めぐみ》だよ。|現世《げんせ》は|仮《かり》の|世《よ》と|云《い》うて、|限《かぎ》りがある。どうせ|一度《いちど》は|死《し》なねばなりませぬよ。|死《し》んでから、エターナルに|無上《むじやう》の|歓喜《くわんき》を|摂受《せつじゆ》し、|天国《てんごく》の|住民《ぢゆうみん》として|暮《くら》さうと|思《おも》へば、|五十年《ごじふねん》や|百年《ひやくねん》|寒《さむ》い|目《め》をしたつて|飢《ひだる》い|目《め》をしたつて|易《やす》いものだ。|肉体《にくたい》を|苦《くる》しめて、|霊《みたま》を|鍛《きた》へ|上《あ》げ、|立派《りつぱ》な|立派《りつぱ》な|神《かみ》の|生宮《いきみや》となるのだよ。|此《この》|高姫《たかひめ》の|事《こと》を|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|何程《なにほど》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》と|云《い》うたつて、|肉体《にくたい》が|有《あ》る|限《かぎ》り|矢張《やつぱ》りお|前《まへ》サンと|同《おな》じやうに|寒《さむ》い|時《とき》には|寒《さむ》い、|飢《ひだる》い|時《とき》には|飢《ひだる》いのだ。|結構《けつこう》な|火《ひ》と|水《みづ》とを|戴《いただ》いて|喉《のど》が|乾《かわ》けば|水《みづ》を|頂《いただ》き|寒《さむ》ければ|火《ひ》を|戴《いただ》いて|暖《あたた》まる、|何《なん》と|云《い》ふ|勿体《もつたい》ない|事《こと》を|云《い》ふのだえ。|火《ひ》と|水《みづ》とお|土《つち》との|御恩《ごおん》を|忘《わす》れては|人間《にんげん》は|此《この》|世《よ》に|立《た》つてゆけないと|何時《いつ》も|云《い》ふぢやありませぬか。|扨《さて》も|扨《さて》も|覚《おぼ》えの|悪《わる》い|健忘症《けんばうしやう》だなア、|苦《くる》しいのが|結構《けつこう》だよ。|苦《くる》しみの|後《あと》には|屹度《きつと》|楽《たの》しみが|来《く》る、|寒《さむ》い|冬《ふゆ》の|後《あと》には|春《はる》が|来《く》る、|何程《なにほど》|冬《ふゆ》を|春《はる》にしようとしても、それは|天地《てんち》のお|規則《きそく》だから、|人間《にんげん》が|左右《さいう》する|事《こと》は|出来《でき》ませぬぞや』
シャル『|何《なに》|程《ほど》、|火《ひ》の|御恩《ごおん》と|仰有《おつしや》つても、こう|日月《じつげつ》の|光《ひかり》もなく、|四面暗澹《しめんあんたん》として|闇《やみ》が|砕《くだ》けたやうに、|空《そら》から|落《お》ちて|来《き》ては|根《ね》つから|火《ひ》も|暖《あたた》かうないぢやありませぬか。|此処《ここ》の|火《ひ》は、|何《なん》だか|水《みづ》の|中《なか》に|屁《へ》を|放《ひ》つたやうに|力《ちから》がありませぬわ。|何程《なんぼ》|焚《た》いても|焚《た》いても|体《からだ》が|暖《あたた》まる|所《とこ》へはゆかず、|煙《けむ》たい|計《ばか》りで、|焚物《たきもの》|迄《まで》が|腹《はら》を|立《た》てて、ブツブツ|小言《こごと》を|云《い》ひ、シユンシユンと|涙《なみだ》|迄《まで》|澪《こぼ》して|居《ゐ》るぢありませぬか。こんな|火《ひ》にあたつたところで|燈明《とうみやう》の|火《ひ》で|尻《しり》を|炙《あぶ》つて|居《ゐ》るやうなものです。|此《この》|頃《ごろ》の|火《ひ》は|老耄《おいぼれ》たのでせうか、テント|勢力《せいりよく》がありませぬわ』
|高姫《たかひめ》『コレ、|何《なん》と|云《い》ふ|勿体《もつたい》ない|事《こと》を|云《い》ふのだい。お|燈明《とうみやう》で|尻《しり》を|炙《あぶ》つたやうだなどとは|怪体《けたい》の|事《こと》を|云《い》ふぢやないか。お|前《まへ》さまは|霊《みたま》が|悪《わる》いから、|精霊《せいれい》が|籍《せき》を|八寒地獄《はつかんぢごく》に|置《お》いて|居《ゐ》るから、それで|寒《さむ》いのだよ。|妾《わたし》のやうに|御神徳《ごしんとく》を|頂《いただ》きなさい。|精霊《せいれい》は|地獄《ぢごく》、|肉体《にくたい》は|八衢《やちまた》に|彷徨《さまよ》うて|居《を》るやうな|事《こと》で、どうして|神《かみ》の|生宮《いきみや》と|云《い》へますか』
シャル『|何《なん》だか|知《し》りませぬが、|高姫《たかひめ》さまの|仰有《おつしや》る|事《こと》は|些《ちつ》とも|腹《はら》に|這入《はい》りませぬがなア』
|高姫《たかひめ》『|定《きま》つた|事《こと》だよ、そこら|中《ぢう》|泥坊《どろばう》に|歩《ある》いて|居《ゐ》たやうな|悪党者《あくたうもの》だから、|一旦《いつたん》|染《し》み|込《こ》んだ|灰汁《あく》は|容易《ようい》に|落《お》ちはせぬワイ。|誠水晶《まことすゐしやう》の|塊《かたまり》の|日本魂《やまとだましひ》の|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|生宮《いきみや》さまの|身魂《みたま》と、|蛆虫《うじ》の|生《わ》いた|糞《くそ》まぶれの|身魂《みたま》とはどうしてもバツが|合《あ》はないのは|当然《たうぜん》だ。|何《なに》を|云《い》うても|最奥第一霊国《さいあうだいいちれいごく》と|最下層地獄《さいかそうぢごく》に|霊《みたま》を|置《お》いて|居《ゐ》る|者《もの》との|応対《おうたい》だから、|妾《わし》が|云《い》ふ|事《こと》が|分《わか》らぬのも|無理《むり》はないが、|併《しか》しこう|永《なが》らく|妾《わし》の|傍《そば》に|居《を》るのだから、も|少《すこ》しは|身魂《みたま》が|研《みが》けさうなものだが|矢張《やつぱり》|身魂《みたま》が|我羅苦多《がらくた》だから|骨《ほね》の|折《を》れる|事《こと》だよ。|毎日《まいにち》|日日《ひにち》お|前《まへ》|一人《ひとり》にかかつて|言霊《ことたま》の|原料《げんれう》が|無《な》くなるほど|説《と》き|諭《さと》して|居《ゐ》るのに、|鵜《う》の|毛《け》の|露《つゆ》|程《ほど》も|改心《かいしん》が|出来《でき》てゐないぢやないか、|盲《めくら》|聾《つんぼ》と|云《い》ふものは、どうにもかうにも|料理《れうり》の|仕様《しやう》が|無《な》いものぢやなア。|天人《てんにん》の|霊《みたま》にこの|高姫《たかひめ》が|一言《ひとこと》|云《い》うて|分《わか》る|事《こと》を、|地獄霊《ぢごくみたま》のお|前《まへ》には|数百万言《すうひやくまんげん》を|費《つひや》さねばならぬのだから、|本当《ほんたう》に|厄介者《やつかいもの》を|引張《ひつぱり》|込《こ》んだものだ。|是《これ》でも|神様《かみさま》は|至仁《しじん》|至愛《しあい》だからトコトン|改心《かいしん》させねばならぬ。お|前《まへ》さへ|改心《かいしん》して|呉《く》れたなら、|世界中《せかいぢう》|一遍《いつぺん》に|改心《かいしん》すると|底津岩根《そこついはね》の|大神様《おほかみさま》が|仰有《おつしや》るのだから|何卒《どうぞ》|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|手《て》を|合《あは》して|頼《たの》むから、|聞《き》いて|下《くだ》さい。|神《かみ》も|人《ひと》|一人《ひとり》|改心《かいしん》させようと|思《おも》へば|骨《ほね》が|折《を》れるぞよ。チト|神《かみ》の|心《こころ》も|察《さつ》して|下《くだ》されよ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》の|申《まを》した|事《こと》は|一分一厘《いちぶいちりん》|毛筋《けすぢ》の|横巾《よこはば》|程《ほど》も|間違《まちが》ひは|厶《ござ》らぬぞよ』
シャル『|高姫《たかひめ》さま|貴女《あなた》の|仰有《おつしや》る|事《こと》は、|一《いち》から|十《じふ》|迄《まで》|間違《まちが》ひだらけぢやありませぬか。|一《ひと》つだつて|貴女《あなた》の|仰有《おつしや》つた|事《こと》が|的中《てきちう》した|事《こと》が|無《な》いぢやありませぬか。よう|其《そ》れ|程《ほど》|間違《まちが》つた|事《こと》を|云《い》うて|置《お》いて、|自分《じぶん》から|愛想《あいそ》が|尽《つ》きない|事《こと》ですな。……|明日《あす》は|日輪《にちりん》さまを|出《だ》してやらう、|若《も》しこれが|間違《まちが》つたら|日《ひ》の|出神《でのかみ》は|此《この》|世《よ》に|居《を》らぬぞよ……と|啖呵《たんか》を|切《き》つて|置《お》きながら、|其《その》|日《ひ》になるとザアザアと|雨《あめ》が|降《ふ》り、そこらが|真黒《まつくろ》けになつたぢやありませぬか。|其《その》|時《とき》になつてお|前《まへ》さまは|何《ど》んな|顔《かほ》をなさるかと|考《かんが》へて|居《を》れば……アア|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》|御苦労様《ごくらうさま》で|厶《ござ》います。|日輪様《にちりんさま》がお|上《あが》りなさらないのも|御無理《ごむり》は|厶《ござ》いませぬ。|此《この》|高姫《たかひめ》の|傍《そば》には|身魂《みたま》の|曇《くも》つたものが【シヤツ】ついて|居《を》るから、|仕様《しやう》が|厶《ござ》いませぬ……とか|何《なん》とか|甘《うま》い|理窟《りくつ》をつけて|澄《す》まし|込《こ》んで|厶《ござ》るのだから、|私《わたし》も|愛想《あいそ》が|尽《つ》きました。よう|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい、|仮令《たとへ》|私《わたし》が|極悪人《ごくあくにん》であらうとも|一人《ひとり》の|為《ため》にお|日様《ひいさま》が|出《で》なかつたり、|空《そら》が|曇《くも》つたりするやうな|道理《だうり》がありますか、|万一《まんいち》|私《わたし》に|曇《くも》りがある|為《ため》に|天地《てんち》が|曇《くも》るのなら|私《わたし》の|一挙一動《いつきよいちどう》は|天地《てんち》に|感動《かんどう》して|居《を》るやうなもの、そんな|偉《えら》い|者《もの》ぢやありますまい。お|前《まへ》さまは|私《わたし》の|悪口《わるくち》を|云《い》ひ|乍《なが》ら|私《わたし》を|天地《てんち》|稀《まれ》なる|比類《たぐひ》|無《な》き|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》にして|下《くだ》さつたやうなものだ。|其処辺《そこら》の|点《てん》がどうしても|私《わたし》には|合点《がつてん》がゆかないのですよ』
|高姫《たかひめ》『エエ|何《なに》をつべこべと|下《くだ》らぬ|理窟《りくつ》を|云《い》ふのだえ。お|前《まへ》は|因縁《いんねん》の|悪《わる》い|身魂《みたま》だからバラモン|教《けう》からは|追出《おひだ》され|小盗人《こぬすと》からは|除《は》ね|出《だ》され、しよう|事《こと》なしにこの|高姫《たかひめ》の|尻《しり》に|喰《くら》ひついて|居《ゐ》るのぢやないか。お|前《まへ》のやうな|我羅苦多《がらくた》が|天地《てんち》を|動《うご》かすやうな|力《ちから》はありさうな|事《こと》はない。|併《しか》し|乍《なが》ら|神様《かみさま》がお|前《まへ》を|世界悪《せかいあく》の|映象《えいぞう》として|三五教《あななひけう》の|変性女子《へんじやうによし》のやうに|型《かた》に|出《だ》して|厶《ござ》るのだから、|世界《せかい》の|悪身魂《あくみたま》がお|前《まへ》に|写《うつ》り、お|前《まへ》の|悪身魂《あくみたま》が|世界《せかい》に|写《うつ》るのだ。それだからお|前《まへ》さへ|改心《かいしん》して|呉《く》れたら|世界中《せかいぢう》が|改心《かいしん》|致《いた》すと|云《い》ふのだよ。この|日《ひ》の|出神《でのかみ》は|天《てん》も|構《かま》へば|地《ち》も|構《かま》ふ、|又《また》|八衢《やちまた》も|構《かま》ふ|大《おほ》ミロク|様《さま》の|太柱《ふとばしら》だから、|零落《おちぶ》れて|居《を》ると|思《おも》うて|侮《あなど》りて|居《を》ると、スコタンを|喰《く》ふ|事《こと》が|出来《でき》ますぞや。|先《さき》を|見《み》て|居《ゐ》て|下《くだ》され、|先《さき》になりてから、……アア|高姫《たかひめ》さまは|立派《りつぱ》なお|方《かた》だつた、こんな|事《こと》なら、|口答《くちごたへ》も|致《いた》さず、も|些《ちつ》と|許《ばか》り|大事《だいじ》に|敬《うやま》うて|居《ゐ》たらよかつた……と|地団駄《ぢだんだ》|踏《ふ》んでも|後《あと》の|祭《まつ》り、|何程《なにほど》|其処《そこ》になりて……|改心《かいしん》|致《いた》しますから|助《たす》けて|下《くだ》され……と|云《い》つても|日《ひ》の|出神《でのかみ》は|知《し》りませぬぞや。さうだから|今《いま》の|間《うち》に|柔順《おとな》しう|致《いた》して|素直《すなほ》になさるがお|主《ぬし》のお|得《とく》だ。|此《この》|世《よ》でさへも|切替《きりかへ》があるのに|何《なに》をグヅグヅして|厶《ござ》るのだ。|早《はや》く|心《こころ》の|切替《きりかへ》をなさらぬかいナ』
シャル『|高姫《たかひめ》さま|本当《ほんたう》ですかいな。そんな|事《こと》|云《い》つて|大法螺《おほぼら》を|吹《ふ》くのぢやありませぬか、|口《くち》から|法螺《ほら》を|吹《ふ》き、|尻《しり》から|喇叭《ラツパ》を|吹《ふ》くのは|当世《たうせい》の|流行《りうかう》ものですからなア』
|高姫《たかひめ》『それはお|前《まへ》の|悪《あく》が|水晶《すいしやう》の|鏡《かがみ》の|此《この》|生宮《いきみや》に|写《うつ》つて|居《を》るのだよ。……|人《ひと》の|事《こと》だと|思《おも》うて|居《を》ると|皆《みな》|吾《わが》|事《こと》だぞよ……と|変性男子《へんじやうなんし》のお|筆《ふで》に|出《で》て|居《を》るぢやありませぬか、|犬《いぬ》が|魚《さかな》を|銜《くわ》へて|一本橋《いつぽんばし》の|上《うへ》を|渡《わた》ると、|水《みづ》の|底《そこ》にも|亦《また》|一匹《いつぴき》の|犬《いぬ》が|居《ゐ》て|魚《さかな》を|銜《くわ》へ|倒《さかさ》に|立《た》てつて|歩《ある》いて|居《ゐ》るのを|見《み》て……|此奴《こいつ》|怪《け》しからぬ|奴《やつ》だ、|足《あし》を|天《てん》にし|背中《せなか》を|地《ち》にして|歩《ある》いて|居《ゐ》る。|一《ひと》つ|叱《しか》つてやれ……と、ワンと|云《い》うた|途端《とたん》に|口《くち》に|銜《くわ》へて|居《ゐ》た|魚《さかな》がバツサリと|水《みづ》の|中《なか》へ|落《お》ちたと|云《い》ふ|話《はなし》があるだらう。|恰度《ちやうど》お|前《まへ》さまは|橋《はし》の|上《うへ》の|犬《いぬ》だ。|水晶《すいしやう》の|水鏡《みづかがみ》、|即《すなは》ち|高姫《たかひめ》の|霊《みたま》にお|前《まへ》の|醜《みにく》い|霊《みたま》が|写《うつ》つて|何事《なにごと》も|逆様《さかさま》に|取《と》られるのだぞよ。|蟇蛙《ひきがへる》の|膏《あぶら》を|取《と》る|時《とき》には|四方《しはう》|八方《はつぱう》ガラスを|立《た》てた|箱《はこ》に|入《い》れて|置《お》くと、|四方《しはう》|八方《はつぱう》に|自分《じぶん》の|醜《みにく》い|姿《すがた》が|写《うつ》るので、|自分《じぶん》の|敵《かたき》と|思《おも》ひ、|彼方《あつち》へ|突《つ》き|当《あた》り、|此方《こつち》に|飛《と》びつき、|終《しまひ》の|果《はて》にはすつかり|疲《つか》れて|膏《あぶら》を|出《だ》してカンピンタンになつて|死《し》ぬものだ。この|高姫《たかひめ》が|悪《わる》く|見《み》えるのは|約《つま》りお|前《まへ》さまの|霊《みたま》が|悪《わる》いのだ。
|立《た》ち|向《むか》ふ|人《ひと》の|姿《すがた》は|鏡《かがみ》なり
|己《おの》が|心《こころ》を|写《うつ》してや|見《み》む。
と|云《い》ふ|道歌《だうか》を|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい、|皆《みな》|人《ひと》が|悪《わる》く|見《み》えるのは|自分《じぶん》が|悪《わる》いからぢやぞえ。ても|扨《さ》ても|犬蛙人種《いぬかわづ》と|云《い》ふものは|仕方《しかた》のないものだなア』
シャル『|高姫《たかひめ》さま、|善言美辞《ぜんげんびじ》の|教《をしへ》だと|何時《いつ》も|仰有《おつしや》るが、|随分《ずゐぶん》|悪言暴語《あくげんばうご》を|放出《はうしゆつ》なさるぢやありませぬか。それでは|神《かみ》の|資格《しかく》はゼロですよ』
|高姫《たかひめ》『それは|又《また》|何《なん》と|云《い》ふ|分《わか》らぬ|事《こと》を|云《い》ふのだえ、|最前《さいぜん》からあれ|程《ほど》|鏡《かがみ》の|喩《たとへ》を|引《ひ》いて|説明《せつめい》してやつたぢやないか。エエ|鈍《どん》な|身魂《みたま》は|困《こま》つたものだなア。|高姫《たかひめ》が|悪言暴語《あくげんばうご》するのはお|前《まへ》さまの|霊《みたま》が|写《うつ》つて|居《を》るのだ。いやお|前《まへ》さまのためだ。|此《この》|高姫《たかひめ》は|半鐘《はんしよう》のやうなものだ。|柔《やはら》かく|打《う》てば|柔《やはら》かく|響《ひび》く、|強《つよ》く|打《う》てば|強《つよ》く|響《ひび》く、|高《たか》く|打《う》てば|高《たか》く|響《ひび》く、|低《ひく》く|打《う》てば|低《ひく》い|音《ね》が|出《で》るのだ。お|前《まへ》さまが|下《くだ》らぬ|口《くち》を|叩《たた》くからこんな|言葉《ことば》が|出《で》るのだよ。お|前《まへ》さまがモ|些《ちつ》と|素直《すなほ》になり、|長上《ちやうじやう》を|敬《うやま》ひ、もつと|柔《やさ》しき|言葉《ことば》を|使《つか》へば|柔《やさ》しくなるのだ、……|此《この》|神《かみ》は|従《したが》つて|来《く》れば|誠《まこと》に|柔《やさ》しき|神《かみ》であるなれど、|敵対心《てきたいごころ》で|神《かみ》の|前《まへ》に|来《き》て|見《み》よれ、|鬼《おに》か|蛇《じや》の|相好《さうがう》になるぞや……』
シャル『モシ|高姫《たかひめ》さま、それや|現界《げんかい》の|理窟《りくつ》ぢやありませぬか、|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|大《おほ》ミロク|様《さま》なら、|悪人《あくにん》が|来《く》れば|尚《なほ》|可愛《かあい》がり、|善人《ぜんにん》が|来《く》れば|又《また》|可愛《かあい》がり、|決《けつ》して|憎悪《ぞうを》の|念《ねん》をお|持《も》ちなさらないのが|神様《かみさま》でせう。|己《おのれ》に|敵《てき》する|者《もの》に|対《たい》して|鬼畜《きちく》の|相《さう》を|現《あら》はし、|己《おのれ》に|従《したが》ふ|者《もの》には|柔和《にうわ》の|相《さう》を|現《あら》はすと|云《い》ふのなら、お|前《まへ》さまを|尊敬《そんけい》することが|出来《でき》ませぬわ。|何《ど》んな|悪《わる》い|者《もの》でも|此方《こつち》が|親切《しんせつ》にしてやれば|喜《よろこ》んで|従《したが》ひ、キツト|恩返《おんがへ》しをするものです。|己《おのれ》に|従《したが》ふものを|愛《あい》し、|敵《てき》するものを|憎《にく》むのなら、それは|自愛《じあい》であつて、|八衢人足《やちまたにんそく》や、|地獄界《ぢごくかい》の|邪気《じやき》のする|業《わざ》でせう。|神様《かみさま》は|決《けつ》して|憤慨《ふんがい》したり|憎悪《ぞうを》したりなさるものぢやありませぬぞ。|神様《かみさま》がもし|憎悪《ぞうを》の|念《ねん》を|起《おこ》したりなさるとすれば、|神《かみ》|自体《じたい》が|既《すで》に|亡《ほろ》ぶぢやありませぬか』
|高姫《たかひめ》『エエ、|第一霊国《だいいちれいごく》の|天人《てんにん》の|申《まを》す|事《こと》がお|前等《まへら》に|分《わか》るものか、モ|些《ちつ》と|修業《しうげふ》なされ。|器《うつは》が|大《おほ》きくなつたら|此《この》|高姫《たかひめ》の|申《まを》す|事《こと》が|明白《はつきり》|分《わか》るだらう。|夫《それ》よりも|早《はや》く|四辻《よつつじ》に|出《で》て|旅人《たびびと》を|引張《ひつぱ》つて|来《き》なさい。こう|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|結構《けつこう》な|光陰《くわういん》を|空費《くうひ》して|居《ゐ》ては、|天地《てんち》の|神様《かみさま》に|勿体《もつたい》ない、|一人《ひとり》でも|改心《かいしん》さしてウラナイ|教《けう》の|信者《しんじや》を|拵《こしら》へねば、|天地《てんち》の|神様《かみさま》に|済《す》まない。お|前《まへ》も|此《この》|世《よ》に|生《うま》れて|来《き》た|甲斐《かひ》があるまい。サア、トツトと|四辻《よつつじ》|迄《まで》|行《い》つて|来《き》なさい』
シャル『|高姫《たかひめ》さま|貴女《あなた》も|一緒《いつしよ》に|来《き》て|下《くだ》さらぬか。|又《また》|文治別《あやはるわけ》とか|云《い》ふエンゼルがやつて|来《き》たら|困《こま》りますからなア』
|高姫《たかひめ》『エエ|何《なん》と|云《い》ふ|気《き》の|弱《よわ》い|事《こと》を|云《い》ふのだい。|文治別《あやはるわけ》なんて、あんな|者《もの》が|千人《せんにん》や|万人《まんにん》|束《たば》に|結《ゆ》うて|来《き》た|所《とこ》が、こたへるやうな|生宮《いきみや》ぢやありませぬぞや』
シャル『ハハハハハ、どこ|迄《まで》も|我執《がしふ》の|念《ねん》の|強《つよ》い|人《ひと》ですなア。|山《やま》を|越《こ》え、|谷《たに》を|越《こ》え|荊棘掻《いばらがき》をしながら、のたくつて|逃《に》げたぢやありませぬか。なぜ|夫《それ》|程《ほど》|偉《えら》いお|方《かた》なら、あのエンゼルを|此処《ここ》にじつとして|居《ゐ》て|凹《へこ》ませてやらぬのですか』
|高姫《たかひめ》『エエ|分《わか》らぬ|男《をとこ》だなア。|国治立尊《くにはるたちのみこと》|様《さま》さへも|謙譲《けんじやう》の|徳《とく》を|守《まも》り|悪神《あくがみ》に|世《よ》を|譲《ゆづ》つて|艮《うしとら》へ|退却《たいきやく》なさつたぢやないか、そこが|神様《かみさま》の|尊《たふと》い|所《とこ》だよ。|此《この》|生宮《いきみや》も|変性男子《へんじやうなんし》の|系統《ひつぽう》ぢやから、|謙譲《けんじやう》の|徳《とく》を|守《まも》つてエンゼルに|花《はな》を|持《も》たせて|逃《に》げてやつたのだよ。|救世主《きうせいしゆ》の|仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|精神《せいしん》が|小盗人《こぬすと》|上《あが》りのお|前《まへ》に|分《わか》らうか。「|物《もの》|言《い》へば|唇《くちびる》|寒《さむ》し|秋《あき》の|風《かぜ》」と、|可惜《あたら》|口《くち》に|風《かぜ》を|引《ひ》かすより、ここは|一《ひと》つ|沈黙《ちんもく》を|守《まも》らう。サア|早《はや》く|四辻《よつつじ》に|行《い》つて|来《き》なさい』
シャル『エ|仕方《しかた》がありませぬ、そんなら|暫《しばら》く|行《い》つて|参《まゐ》ります。アア|寒《さむ》い|事《こと》だなア。こんな|事《こと》なら|高姫《たかひめ》さまの|傍《そば》に|居《を》るのぢやなかつたに。|今更《いまさら》ベル、ヘルの|仲間《なかま》に|逆転《ぎやくてん》すると|云《い》うても|寄《よ》せても|呉《く》れまい。|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|亡者引《もさひき》をやつては|撥《は》ね|飛《と》ばされ、|云《い》ひ|負《まか》されて|耐《たま》つたものぢやないわ』
とブツブツ|小言《こごと》を|云《い》ひ|乍《なが》ら、|霜柱《しもばしら》の|置《お》いた|一本橋《いつぽんばし》を|怖《こは》さうに|跨《また》げながら|出《い》でて|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二五 旧二・九 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第一〇章 |転香《てんこう》〔一四六〇〕
|寒風《かんぷう》|吹《ふ》き|捲《ま》くる|四辻《よつつじ》に|若布《わかめ》のやうな|弊衣《へいい》を|纒《まと》うて|唇《くちびる》まで|紫色《むらさきいろ》に|染《そ》め、|慄《ふる》ひ|慄《ふる》ひ|立《た》つて|居《ゐ》る|一人《ひとり》の|男《をとこ》はシャルであつた。シャルは|道別《みちわけ》の|立石《たていし》に|凭《もた》れてブルブル|慄《ふる》ひ|乍《なが》ら|一人《ひとり》|呟《つぶや》いて|居《ゐ》る。
シャル『エー|糞《くそ》|面白《おもしろ》うもない。|此《この》|風《かぜ》の|吹《ふ》きつ|放《ぱな》しに|罪《つみ》もないのに|立《た》たされて……|石地蔵《いしぢざう》でもあるまいに……|俺《おれ》|等《たち》はこれでも|血液《けつえき》が|通《かよ》つて|居《ゐ》るのだぞ。|高姫《たかひめ》の|婆《ばば》|奴《め》、|人《ひと》を|滅多《めつた》|矢鱈《やたら》にこき|使《つか》ひやがつて、|馬鹿《ばか》にしてやがる。|此《こ》の|寒《さむ》いのに|斯《こ》んな|処《ところ》に|亡者引《もさひ》きに|来《く》る|位《くらゐ》なら|矢張《やつぱ》り|泥坊《どろばう》でもやつて|居《ゐ》た|方《はう》が|何程《なにほど》|男《をとこ》らしいか|知《し》れやしないわ。|水《みづ》の|流《なが》れと|人《ひと》の|行末《ゆくすゑ》、|変《かは》れば|変《かは》るものだな。|俺《おれ》もバラモン|教《けう》の|軍人《ぐんじん》さまで|公然《こうぜん》と|強姦《がうかん》もやり、|強盗《がうたう》もやり、|法螺《ほら》も|吹《ふ》き、|喇叭《ラツパ》も|吹《ふ》いて|来《き》たものだが|斯《か》う|零落《おちぶ》れては、もう|仕方《しかた》がない。|腹《はら》は|空腹《くうふく》となる|喉《のど》は|渇《かわ》く、|着物《きもの》は|破《やぶ》れ|虱《しらみ》はしがむ、|何処《どこ》ともなしに|身体《からだ》は|慄《ふる》ひ|出《だ》す、|宛然《まるで》|地獄《ぢごく》の|様《やう》だワイ。|一丈《いちぢやう》|二尺《にしやく》の|褌《まはし》をかいた|荒男《あらをとこ》がアトラスの|様《やう》な|面《つら》した|婆《ばば》にこき|使《つか》はれて、アタ|胸糞《むねくそ》の|悪《わる》い、|糞《くそ》|面白《おもしろ》うもない、ケツタ|糞《くそ》が|悪《わる》いワイ。それにまだまだケツタ|臭《くさ》い|事《こと》は、|高姫《たかひめ》の|奴《やつ》|己《おのれ》の|放《た》れた|糞《くそ》|小便《せうべん》を|掃除《さうぢ》せいと|吐《ぬか》しやがる。|金勝要《きんかつかね》の|大神《おほかみ》さまだつて|雪隠《せつちん》へ|落《おと》されたのだから、お|前《まへ》|等《たち》が|雪隠《せつちん》の|掃除《さうぢ》するのは|結構《けつこう》な|御神徳《おかげ》だ|等《など》と|本当《ほんたう》に|馬鹿《ばか》にして|居《ゐ》やがる。|実《じつ》に|糞慨《ふんがい》の|至《いた》りだ。だと|云《い》つて|何処《どこ》へ|行《ゆ》く|所《ところ》もなし、|八尺《はつしやく》の|体《からだ》の|置場《おきば》に|困《こま》つて|居《ゐ》るのだからチツトは|気《き》に|喰《く》はいでも、あの|婆《ばば》に|喰《くら》ひついて|居《ゐ》るより|仕方《しかた》がないわ。エー|糞《くそ》|忌々《いまいま》しい。|誰《たれ》かモ|一人《ひとり》|俺《おれ》の|云《い》ふ|事《こと》を|肯《き》く|奴《やつ》が|来《き》て|呉《く》れると|雪隠《せつちん》の|掃除《さうぢ》をさしてやるのだが、|来《く》る|奴《やつ》|来《く》る|奴《やつ》、|高姫《たかひめ》と|喧嘩《けんくわ》して|逃《に》げて|去《い》にやがるものだから、|宛然《まるで》|籠《かご》に|水《みづ》を|入《い》れて|居《ゐ》る|様《やう》なものだ。|何時《いつ》|迄《まで》かかつたつて|満足《まんぞく》な|信者《しんじや》は|一人《ひとり》だつて|出来《でき》やしないわ。ウラナイ|教《けう》か|何《なに》か|知《し》らぬが|教祖《けうそ》もし、|役員《やくゐん》もし、|信者《しんじや》も|一人《ひとり》で|兼《か》ねてるのだから|婆《ばば》も|忙《いそが》しいだらう。|此《この》|間《あひだ》も|信者《しんじや》が|幾何《いくら》あると|聞《き》いて|見《み》たら|四十一人《しじふいちにん》あると|吐《ぬか》しよつた。よく|考《かんが》へて|見《み》ればアタ|阿呆《あはう》らしい、|四十《しじふ》と|云《い》ふ|意味《いみ》は|始終《いつも》と|云《い》ふ|意味《いみ》だつた。|今年《ことし》で|殆《ほとん》ど|四十四年《しじふしねん》も|布教《ふけう》してると|云《い》ひやがつたが、まだ|三人《さんにん》|四人《しにん》と|信者《しんじや》が|出来《でき》ぬのだから|大《たい》したものだワイ。|姑《しうとめ》の|十八《じふはち》ばつかり|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|並《なら》べ|立《た》てやがつて、|一人《ひとり》よがりの|一人自慢《ひとりじまん》、|上《あ》げも|下《おろ》しもならぬ|糞婆《くそばば》だ。|年《とし》は|幾才《いくつ》だと|聞《き》いて|見《み》たら|四十九才《しじふくさい》だと|吐《ぬか》しやがる。|俺《おれ》の|見《み》た|所《ところ》では、どうしても|五十五六《ごじふごろく》に|見《み》えるがヤツパリ|年寄《としより》と|見《み》られるのが|辛《つら》いと|見《み》えるワイ。|何《なん》だか|知《し》らぬが【|始終《しじう》|臭《くさ》い】|事《こと》ばかり|吐《ぬか》しやがる。アタ|辛気臭《しんきくさ》い もう|厭《いや》になつて|了《しま》つた。|誰《たれ》かよい|馬鹿野郎《ばかやらう》が|出《で》て|来《き》て|俺《おれ》の|仕事《しごと》を|手伝《てつだ》つて|呉《く》れる|奴《やつ》があるまいかな』
と|自暴糞《やけくそ》になり|四股《しこ》を|踏《ふ》み|乍《なが》ら|一人《ひとり》|呶鳴《どな》つて|居《ゐ》る。そこへ|向《むか》ふの|方《はう》から|寒《さむ》さうな|風姿《ふう》をして|稍《やや》|俯向《うつむ》き|気味《ぎみ》に|破《やぶ》れ|笠《がさ》を|被《かぶ》り|臭気《しうき》|紛々《ふんぷん》たる|着物《きもの》をつけ|乍《なが》ら、やつて|来《き》た|蒼白《あをじろ》い|中肉中背《ちうにくちうぜい》の|男《をとこ》があつた。シャルは|此《この》|男《をとこ》を|見《み》るより|大喝一声《だいかついつせい》『|待《ま》てツ』と|叫《さけ》んだ。|男《をとこ》は|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いてハツと|立止《たちど》まり、|少《すこ》し|尻《しり》を|後《うしろ》へ|出《だ》し、|両手《りやうて》を|金剛杖《こんがうづゑ》の|上《うへ》にキチンと|載《の》せ|乍《なが》ら、
|男《をとこ》『|何用《なによう》で|厶《ござ》いますかな』
シャル『|何用《なによう》でもない。|一寸《ちよつと》|尋《たづ》ねたい|事《こと》があるのだ。|貴様《きさま》の|姓名《せいめい》は|何《なん》と|云《い》ふか』
|男《をとこ》『ハイ、|私《わたし》は|元《もと》はアブナイ|教《けう》の|信者《しんじや》で|厶《ござ》いまして|鰐口曲冬《わにぐちまがふゆ》と|云《い》ひ、|今《いま》は|人間《にんげん》の|一等《いつとう》|厭《きら》ふ|一等厭《いつとうえん》と|云《い》ふ|偽君子《ぎくんし》の|団体《だんたい》へ|這入《はい》つて|懺悔《ざんげ》の|生活《せいくわつ》をやつてる|者《もの》で|厶《ござ》います。どうか|小便壺《せうべんつぼ》、|雪隠壺《せつちんつぼ》、|塵芥場《ごもくば》の|掃除《さうぢ》をさして|頂《いただ》けませぬだらうかな』
シャル『ヤ、そいつは|感心《かんしん》だ。|大《おほい》に|吾《わが》|意《い》を|得《え》たりと|云《い》ふべしだ。|実《じつ》の|所《ところ》、|俺《おれ》の|館《やかた》はここ|三月《みつき》|許《ばか》り|小便《せうべん》、|糞《くそ》は|云《い》ふに|及《およ》ばず、|汚《きたな》い|塵芥《ごもくた》が|庭《には》の|隅《すみ》にかためてあるのだ。どうだ、|掃除《さうぢ》して|貰《もら》ふ|訳《わけ》には|行《ゆ》くまいかな』
|曲冬《まがふゆ》『|謹《つつし》んで|掃除《さうぢ》をさして|頂《いただ》きます。|十分《じふぶん》の|活動《くわつどう》を|致《いた》しますから、|何卒《どうぞ》|麦飯《むぎめし》でも|宜《い》いから|饗《よ》んで|頂《いただ》きたいものです』
シャル『|小便《せうべん》は【シシ】と|云《い》ひ、|糞《くそ》は【フン】と|云《い》ひ|塵埃《ごもく》は【ジン】|埃《あい》と|云《い》ふから【|獅子奮迅《ししふんじん》】の|活動《くわつどう》をやつて|見《み》せて|呉《く》れ。さうすりや|俺《おれ》の|師匠《ししやう》の|八釜《やかま》しやの|高姫《たかひめ》も|麦飯《むぎめし》の|一杯《いつぱい》|位《ぐらゐ》は|饗《よ》んで|呉《く》れぬ|事《こと》もあるまい。|兎《と》も|角《かく》、お|前《まへ》の|働《はたら》き|次第《しだい》だ。|芸《げい》は|身《み》を|助《たす》けると|云《い》ふから|屹度《きつと》お|前《まへ》も|高姫《たかひめ》さまに|重宝《ちようほう》がられるだらう。サアこれから|一《ひと》つ|帰《かへ》つて|高姫《たかひめ》さまに|対《たい》して|信者《しんじや》を|造《つく》つたのを|土産《みやげ》となし、|俺《おれ》の|仕事《しごと》を|助《たす》けて|貰《もら》ふ|事《こと》ともなり|一挙両得《いつきよりやうとく》だ。マアこれで|俺《おれ》も|一寸《ちよつと》|息《いき》が|出来《でき》ると|云《い》ふものだ。オイ|曲冬《まがふゆ》とやら、|永《なが》らく|俺《おれ》の|部下《ぶか》となつて|雪隠《せんち》の|掃除《さうぢ》だけ|受持《うけも》つて|呉《く》れ。|何《なん》と|懺悔《ざんげ》の|生活《せいくわつ》と|云《い》ふものは|重宝《ちようほう》なものだのう』
|曲冬《まがふゆ》『|初稚姫《はつわかひめ》さまは|天刑病者《てんけいびやうしや》の|膿血《うみち》を|吸《す》うて|助《たす》けてやられた|事《こと》があるでせう。|糞《くそ》|小便《せうべん》の|掃除《さうぢ》|位《ぐらゐ》が|何《なん》ですか。|人間《にんげん》は|皆《みな》|糞《くそ》|小便《せうべん》を|喜《よろこ》んで|喰《く》つて|居《ゐ》るのですよ。|直接《ちよくせつ》に|喰《く》ふ|奴《やつ》は|犬《いぬ》だけど|間接《かんせつ》に|喰《く》うのは|皆《みな》|人間《にんげん》です。|糞《くそ》たれては|大根《だいこん》、|蕪《かぶら》、|稲《いね》、|麦《むぎ》|等《など》にかけ、その|肥料《こやし》で|野菜《やさい》が|成長《せいちやう》し、|米麦《こめむぎ》が|実《みの》るのだ。|云《い》はば|間接《かんせつ》の|糞喰《くそく》ひ、|小便呑《せうべんの》み|人間《にんげん》だ。|糞《くそ》の|掃除《さうぢ》|位《ぐらゐ》が|何《なに》それ|程《ほど》|汚《きたな》いものか。|喜《よろこ》んで|汚《きたな》い|処《ところ》の|掃除《さうぢ》をする|心《こころ》にならないと|本当《ほんたう》の|善《ぜん》にはなりませぬよ。これが|誠《まこと》の|神心《かみごころ》ですからな。|己《おのれ》の|欲《ほつ》する|所《ところ》を|人《ひと》に|施《ほどこ》し、|己《おのれ》の|欲《ほつ》せざる|所《ところ》を|努《つと》めて|行《おこな》はなくては|懺悔《ざんげ》の|生活《せいくわつ》ではありませぬワイ』
シャル『イヤ|感心《かんしん》|致《いた》した。サ、|来《き》て|下《くだ》さい。お|前《まへ》の|事業《じげふ》は|何程《いくら》でも|溜《たま》つてる、|随分《ずいぶん》|好《よ》い|顧客《とくい》だよ』
|曲冬《まがふゆ》『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います』
と|云《い》ひ|乍《なが》らシャルの|後《あと》に|従《したが》ひ|冷《つめた》い|野分《のわけ》に|吹《ふ》かれ|乍《なが》ら|岩山《いはやま》の|麓《ふもと》の|茅家《あばらや》に|導《みちび》かれた。
シャルは|斜《はすかい》になつた|戸《と》を、がたつかせ|乍《なが》ら|漸《やうや》うに|引《ひ》き|開《あ》け、
シャル『サ、|曲冬《まがふゆ》さま、|此処《ここ》は|大弥勒様《おほみろくさま》の|金殿玉楼《きんでんぎよくろう》だ。マア|這入《はい》つて|冷《つめた》い|茶《ちや》なつと|一杯《いつぱい》|飲《あが》つて|下《くだ》さい。モシ|高姫《たかひめ》さま、よい|鳥《とり》を|一羽《いちは》|生捕《いけど》つて|来《き》ました。サア|何卒《どうぞ》お|前《まへ》さまの|大和魂《やまとだましひ》で、|好《す》きすつぽうに|料理《れうり》して|下《くだ》さい。|屹度《きつと》|此奴《こいつ》アお|気《き》に|入《い》るかも|知《し》れませぬぜ』
|高姫《たかひめ》『これこれシャル、|結構《けつこう》な|人間様《にんげんさま》を|御案内《ごあんない》し|乍《なが》ら|何《なん》と|云《い》ふ|御無礼《ごぶれい》な|事《こと》を|申《まを》すのだ。|何故《なぜ》|善言美詞《ぜんげんびし》を|用《もち》ひないのか。|悪言醜詞《あくげんしうし》は|禁物《きんもつ》だと、|何時《いつ》も|云《い》つてあるぢやないかい』
シャル『エ、|酢《す》につけ、|味噌《みそ》につけ、|何《なん》とかかんとか|叱言《こごと》を|云《い》はねば|気《き》の|済《す》まぬ|人《ひと》ですな。|此《この》|人《ひと》は|一等厭《いつとうえん》の|曲冬《まがふゆ》さまとか|云《い》つて|懺悔《ざんげ》の|生活《せいくわつ》をして|居《ゐ》る|偽君子《ぎくんし》ですよ。|貴方《あなた》の|弁舌《べんぜつ》で|一《ひと》つ|帰順《きじゆん》させて|御覧《ごらん》なさいませ。そして|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》をさして|呉《く》れと|仰有《おつしや》るのです。|何《なん》とマア|結構《けつこう》なお|方《かた》もあればあるものですな』
|高姫《たかひめ》『ア、|曲冬《まがふゆ》さまとやら、そこは|端近《はしぢか》、マア|囲炉裏《ゐろり》の|側《そば》へお|寄《よ》りなさいませ。|嘸《さぞ》|寒《さむ》かつたで|厶《ござ》いませう。|此《この》|婆《ばば》は|斯《こ》う|見《み》えても|見《み》かけによらぬ|優《やさ》しい|者《もの》だから|安心《あんしん》して|下《くだ》さい。そしてお|前《まへ》、|懺悔《ざんげ》の|生活《せいくわつ》をしてると|云《い》ふことだが、|懺悔《ざんげ》せにやならぬやうな|悪事《あくじ》をしたのかい』
|曲冬《まがふゆ》『ハイ、これと|云《い》つて|別《べつ》に|悪《わる》い|事《こと》をしたやうにも|思《おも》ひませぬが、|人間《にんげん》と|云《い》ふものは|知《し》らず|識《し》らずの|罪《つみ》を|作《つく》つてるものですから|懺悔《ざんげ》のために、|人《ひと》の|一等《いつとう》|厭《いや》な|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》や|塵芥場《ごもくば》の|掃除《さうぢ》をさして|頂《いただ》き、|其処辺《そこらぢう》を|巡《めぐ》つてるので|厶《ござ》います』
|高姫《たかひめ》『|扨《さ》て|扨《さ》て|奇特《きとく》な|事《こと》だ。|併《しか》し|乍《なが》らよう|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》をするのは|女房《にようばう》や|女衆《をんなしう》の|役《やく》ぢやありませぬか。|男《をとこ》は|男《をとこ》としての|立派《りつぱ》な|事業《じげふ》があるでせう。それに|何《なん》ぞや、|睾丸《きんたま》さげた|男《をとこ》が|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》にも|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》をするとは、チト|可笑《をか》しいぢやありませぬか。お|前《まへ》さま|等《たち》がそんな|事《こと》をするものだから|此《この》|頃《ごろ》の|女中《ぢよちう》は|皆《みな》|増長《ぞうちよう》して|了《しま》ひ、「|私《わたし》は|下女《げぢよ》には|来《き》たが|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》は|約束外《やくそくぐわい》だ」と、|自分《じぶん》の|放《こ》いたもの|迄《まで》|主人《しゆじん》の|奥《おく》さまに|掃除《さうぢ》さす|様《やう》になつたのも、|皆《みな》お|前《まへ》|等《たち》が|悪《わる》いからだ。|世界《せかい》の|男子《だんし》が、|何《ど》れも|之《これ》も|一等厭《いつとうえん》に|這入《はい》り、|便所《べんじよ》|掃除《さうぢ》になつたら|如何《どう》するのです。|自分《じぶん》の|放《こ》いた|糞《くそ》まで|人《ひと》に|掃除《さうぢ》させたり、|又《また》|人《ひと》の|糞《くそ》まで|掃除《さうぢ》して|歩《ある》く|様《やう》な|不合理《ふがふり》な|罰当《ばちあた》りの|事《こと》が|何処《どこ》にありますかい。それだから|世間《せけん》の|人《ひと》は|一等厭《いつとうえん》の|奴《やつ》はド|奴《やつこ》の|糞奴《くそやつこ》|計《ばか》りだと|云《い》ふのですよ。|何《なん》だか|怪体《けたい》な|香《にほひ》がすると|思《おも》へばお|前《まへ》の|着物《きもの》に|尿糞塵《ししふんじん》の|香《にほひ》が|浸《し》みこんで|居《ゐ》る。|地獄《ぢごく》に|籍《せき》を|置《お》いたものは|鼻《はな》をつく|様《やう》な|堆糞《たいふん》の|場所《ばしよ》や|便所《べんじよ》|塵芥場《ごもくば》を|喜《よろこ》ぶものだ。|其《その》|臭気《しうき》をまるで|高天原《たかあまはら》の|天香《てんかう》の|様《やう》に|思《おも》うて|居《ゐ》るのだから|困《こま》つたものだな。|鼻《はな》もそこ|迄《まで》|痳痺《まひ》しては|善悪美醜《ぜんあくびしう》の|区別《くべつ》もつかなくなり、|却《かへつ》て|楽《らく》かも|知《し》れない。|併《しか》し|乍《なが》ら|折角《せつかく》|神《かみ》の|分霊《ぶんれい》を|貰《もら》つてる|人間《にんげん》が|酔生夢死《すゐせいむし》の|生活《せいくわつ》を|送《おく》るのも|勿体《もつたい》ない、|自分《じぶん》の|放《こ》いた|糞《くそ》は|自分《じぶん》で|掃除《さうぢ》すれば|宜《い》いのだ。|人《ひと》の|放《こ》いた|糞《くそ》まで|掃除《さうぢ》させたり、したりするものぢやない。|他人《ひと》に|糞《くそ》の|掃除《さうぢ》をさせるのは|赤《あか》ん|坊《ばう》の|間《うち》だ。|又《また》その|糞《ふん》を|掃除《さうぢ》するものは|赤坊《あかんばう》を|負《お》うた|母親《ははおや》か、|子守《こもり》の|仕事《しごと》だ。チツト|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい』
|曲冬《まがふゆ》『さう|一口《ひとくち》にコキ|下《おろ》されては|【便】明《べんめい》の|辞《じ》がありませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|一等厭《いつとうえん》は|一等厭《いつとうえん》としての|主義《しゆぎ》|綱領《かうりやう》があります。どうか|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》をさして|頂《いただ》き|度《た》いものですな』
|高姫《たかひめ》『イヤイヤなりませぬ。|何《なん》と|心得《こころえ》て|厶《ござ》る。ここの|便所《べんじよ》は|普通《ふつう》|一般《いつぱん》の|便所《べんじよ》とは|違《ちが》ひますぞや。|勿体《もつたい》なくも|大弥勒様《おほみろくさま》のお|尻《いど》から|出《で》たお|肥料様《こえさま》だ。そこへシャルの|汚《きたな》い|奴《やつ》も|交《まじ》つて|居《ゐ》るが、|然《しか》し|此《この》|館《やかた》にはシャルと|云《い》ふものが|居《を》りますから……ここの|便所《べんじよ》なんか|身魂《みたま》の|研《みが》けない|人《ひと》に|構《かま》つて|貰《もら》ふ|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|中々《なかなか》|大弥勒《おほみろく》さまの|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》をさして|貰《もら》はうと|思《おも》へば|並《なみ》や|大抵《たいてい》の|事《こと》ぢやありませぬぞや。|余程《よほど》|神徳《しんとく》を|貰《もら》はなくちや|出来《でき》ませぬ。そんな|事《こと》|云《い》つて|麦飯《むぎめし》の|一杯《いつぱい》も|饗《よ》ばれようと|思《おも》つてるのだらうが、|此《こ》の|辛《から》い|世《よ》の|中《なか》に、|誰《たれ》がそんな|糞奴《くそやつこ》に|飯《めし》の|一杯《いつぱい》も|食《く》はす|者《もの》がありますかい。それよりもチツト|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》が|申《まを》す|事《こと》を|腹《はら》へ|締《し》め|込《こ》んで|置《お》きなされ。さうすれば|結構《けつこう》な|出世《しゆつせ》が|出来《でき》ますぞや。|折角《せつかく》|結構《けつこう》な|人間《にんげん》と|生《うま》れて|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》をやつて|居《を》つては|神様《かみさま》に|対《たい》しても|済《す》まぬぢやありませぬか。お|前《まへ》さまの|様《やう》な|連中《れんちう》が|沢山《たくさん》|出来《でき》て|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》を|引受《ひきう》けて|下《くだ》さるのは|宜《よろ》しいが、これが|百年《ひやくねん》も|将来《さき》に|行《い》つて|御覧《ごらん》なさい。|世間《せけん》から|特種部落《とくしゆぶらく》|扱《あつか》ひをされて、|便族《べんぞく》と|云《い》ふ|名《な》がつきますぞや。さうすりや|普通《ふつう》の|人間《にんげん》と|縁組《えんぐみ》も|出来《でき》ませぬぞえ。|宜《い》い|加減《かげん》【テンコウ】して|置《お》くが|宜《よろ》しからう。|特種部落《とくしゆぶらく》の|開祖《かいそ》になる|積《つも》りだらうが、そんな|事《こと》するより|三千世界《さんぜんせかい》を|助《たす》けるウラナイ|教《けう》にお|這入《はい》りなさい|何《なに》|程《ほど》|結構《けつこう》だか|知《し》れませぬぞや』
|曲冬《まがふゆ》『それもさうですな。|実《じつ》の|所《ところ》は|厭《いや》で|堪《たま》らないのだけど、|喰《く》はんが|悲《かな》しさに|人《ひと》の|厭《いや》がる|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》をして|其《その》|日《ひ》の|飢《うゑ》を|凌《しの》いで|居《ゐ》るのです。それでも|世間《せけん》は|馬鹿者《ばかもの》が|多《おほ》いと|見《み》えて|一種《いつしゆ》の|態《てい》のよい|乞食《こじき》を|聖人《せいじん》だ、|君子《くんし》だと|崇《あが》めて|呉《く》れますからな。|新聞《しんぶん》や|雑誌《ざつし》に|書《か》き|立《た》てて|褒《ほ》めるのですもの、チツト|位《ぐらゐ》|臭《くさ》くても|辛抱《しんばう》が|出来《でき》たものですよ。|併《しか》し|乍《なが》ら|天香宗《てんかうしう》の|教祖様《けうそさま》は|表《おもて》から|見《み》れば|随分《ずいぶん》|立派《りつぱ》なお|方《かた》ですが、ヤツパリ|株《かぶ》を|売買《ばいばい》したり、|儲《まう》かりさうな|鉱山《くわうざん》を|買占《かひし》めたり、|借《か》つたものは|何《なん》とか|云《い》つて|返《かへ》さず、|取《と》り|込《こ》む|事《こと》は|随分《ずいぶん》|上手《じやうず》ですよ。それでも|上流社会《じやうりうしやくわい》から|非常《ひじやう》に|褒《ほ》めそやされ、|沢山《たくさん》な|書物《かきもの》が|売《う》れるのですから、|世《よ》の|中《なか》は|妙《めう》なものですな。|児島《こじま》|高徳《たかのり》が|桜《さくら》の|木《き》に「|天香《てんかう》|雪隠《せんち》を|空《むな》しうする|勿《なか》れ、|時《とき》に|飯礼《はんれい》|無《な》きにしも|非《あら》ず」と|云《い》つて、|私《わたくし》の|狂祖《きやうそ》さまの|事《こと》を|予言《よげん》しておいた|位《くらゐ》ですもの、|余《あま》り|馬鹿《ばか》にはなりませぬワイ』
|高姫《たかひめ》『サ、それが|暗《くら》がりの|世《よ》の|中《なか》と|云《い》ふのだよ。|善人《ぜんにん》は|悪《あく》とせられ、|悪人《あくにん》は|善人《ぜんにん》と|推称《すゐしよう》せらるる|逆様《さかさま》の|世《よ》の|中《なか》だから、それで|此《この》|度《たび》|天《てん》から|大弥勒様《おほみろくさま》が、|此《この》|地《ち》の|上《うへ》にお|降《くだ》り|遊《あそ》ばし、|此《この》|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》を|宿《やど》として|衆生済度《しうじやうさいど》の|為《ため》にウラナイの|道《みち》をお|開《ひら》き|遊《あそ》ばしたのだ、|何《なん》と|有難《ありがた》い|事《こと》ではないかな。|天香教《てんかうけう》とウラナイ|教《けう》と|何方《どちら》が|誠《まこと》と|思《おも》ひますか』
|曲冬《まがふゆ》『|天香教《てんかうけう》には|永《なが》らく|這入《はい》つて|居《を》りましたので|大抵《たいてい》の|教理《けうり》は|分《わか》りましたが、まだウラナイ|教《けう》は|何《なに》も|聞《き》いて|居《を》りませぬから、どちらが|善《よ》いか|悪《わる》いか、|判断《はんだん》がつきませぬ。|先《ま》づ|御説教《おせつけう》を|聞《き》かして|貰《もら》つた|上《うへ》でお|返事《へんじ》|致《いた》しませう』
|高姫《たかひめ》『|成程《なるほど》、|何程《なにほど》おいしいものでも|食《く》つて|見《み》ねば|味《あぢ》の|分《わか》らぬ|道理《だうり》だ。お|前《まへ》の|云《い》ふ|事《こと》には|一理《いちり》がある。|米《こめ》の|飯《めし》と|麦《むぎ》の|飯《めし》と|食《く》ひ|比《くら》べて|見《み》れば、|米《こめ》の|飯《めし》がうまいと|誰《たれ》も|云《い》ふだらう。|此《この》ウラナイ|教《けう》は|実《じつ》は|農業《のうげふ》を|基《もと》とする|教《をしへ》だ。それだから|北山村《きたやまむら》に|農園《のうゑん》を|開《ひら》いて|種物神社《たねものじんじや》を|祀《まつ》つてるのだよ。ウラナイ|教《けう》の|標《しるし》を|見《み》て|御覧《ごらん》なさい。|八木《はちぼく》と|書《か》いてあるでせう。|八木《はちぼく》は|所謂《いはゆる》|米《こめ》といふ|字《じ》だ。|米国《べいこく》から|渡《わた》つて|来《き》た|常世姫《とこよひめ》の|教《をしへ》だからな』
|曲冬《まがふゆ》『|日《ひ》の|出神《でのかみ》さまの|御紋《ごもん》に|米《こめ》の|字《じ》とはチツト|釣合《つりあ》ひがとれぬぢやありませぬか』
|高姫《たかひめ》『お|前《まへ》は|考《かんが》へが|浅《あさ》いから、そんな|事《こと》を|云《い》ふのだ。
|日《ひ》の|出《で》の|日《ひ》の|字《じ》は|朝日《あさひ》の|日《ひ》の|字《じ》
|米国《べいこく》の|米《べい》の|字《じ》は|米《こめ》と|書《か》く
|軈《やが》て|日《ひ》の|出《で》の【まま】となる。
と|云《い》ふ|歌《うた》があるだらう。|此《この》|歌《うた》は|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》が|世界《せかい》の|人間《にんげん》に|知《し》らす|為《ため》に|作《つく》つて|置《お》いたのだよ。|何《なん》と|理《り》のつんだ|歌《うた》だらうがな。|到底《たうてい》|人間《にんげん》の|作物《さくぶつ》ぢやありますまい。それだから|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて|居《を》れば|此《この》|世《よ》の|中《なか》が【まま】になるのだ。|分《わか》りましたかな』
|曲冬《まがふゆ》『|何《なん》と|言霊《ことたま》と|云《い》ふものは|偉《えら》いものですな。よく|理《り》がつんで|居《を》りますワイ』
|高姫《たかひめ》『エ、|又《また》しても、こましやくれた|言霊《ことたま》なんて……|何《なに》を|仰有《おつしや》るのだ。|言霊《ことたま》は|変性女子《へんじやうによし》の|緯身魂《よこみたま》の|云《い》ふ|事《こと》だ。ここは|誠生粋《まこときつすゐ》の|日《ひ》の|出《で》|魂《だましひ》の|教《をしへ》を|致《いた》す|経《たて》の|御用《ごよう》だから、|言霊《ことたま》なんか|云《い》つて|下《くだ》さるな。【こと】と|云《い》ふ|奴《やつ》ア|横《よこ》に|寝《ね》さされて、|沢山《たくさん》な|筋《すぢ》を|並《なら》べてピンピンシヤンシヤンと|誤魔化《ごまくわ》す|奴《やつ》だ。ここは|誠一筋《まことひとすぢ》を|立通《たてとほ》す|善一筋《ぜんひとすぢ》の|教《をしへ》だから、その|積《つも》りで|居《を》つて|下《くだ》さいや』
|曲冬《まがふゆ》『イヤ、|大《おほ》きに|有難《ありがた》う。こんなお|話《はなし》を|何時《いつ》|迄《まで》|聞《き》いて|居《を》つても|埒《らち》が|明《あ》きませぬから|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りませう』
|高姫《たかひめ》『コレコレ、さう|短気《たんき》を|起《おこ》さずにジツクリ|落着《おちつ》いて|聞《き》きなされ。|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|誠一厘《まこといちりん》の|仕組《しぐみ》を|教《をし》へてあげますぞや』
|曲冬《まがふゆ》『|一厘《いちりん》も|二厘《にりん》も|要《い》りませぬ。|左様《さやう》なら』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|足早《あしばや》に|門口《かどぐち》さして|逃《に》げ|出《だ》す。|高姫《たかひめ》は、
|高姫《たかひめ》『|此《この》|儘《まま》|逃《に》がしてなるものか、|嫌《いや》でも|応《おう》でも|後《あと》おつ|駆《か》けて|引捉《ひつとら》へ、ウラナイ|教《けう》の|信者《しんじや》になさねば|置《お》くものか、シャル、つづけ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|家鴨《あひる》の|火事見舞《くわじみまひ》の|様《やう》な|足《あし》つきでペタペタペタと|内鰐足《うちわにあし》で|後《あと》を|追駆《おひか》けて|行《ゆ》く。|曲冬《まがふゆ》は|細長《ほそなが》いコンパスに|身《み》も|軽《かる》くトントントンと|四辻《よつつじ》まで|引返《ひきかへ》し、|北《きた》へ|北《きた》へと|走《はし》り|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二五 旧二・九 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第一一章 |鳥逃《とりにが》し〔一四六一〕
|白髪《しらが》|交《まじ》りの|藁箒《わらばうき》のやうな|髪《かみ》をサンバラに|凩《こがらし》に|靡《なび》かせ|乍《なが》ら|夜叉《やしや》のやうにペタペタと|大地《だいち》を|鳴《な》らせつつ|四辻《よつつじ》までやつて|来《き》た。|見《み》れば、|最前《さいぜん》きた|天香教《てんかうけう》の|曲冬《まがふゆ》は|尻引《しりひつ》からげトントンと|大股《おほまた》に|夜這星《よばひぼし》のやうに|黒《くろ》い|褌《ふんどし》を|引《ひ》きずり|乍《なが》ら|走《はし》つて|居《ゐ》る。|何程《なにほど》|高姫《たかひめ》が|呼《よ》んでも|叫《さけ》んでも|振《ふ》り|向《む》かばこそ、|駆《か》け|出《だ》す|其《その》|勢《いきほひ》に|高姫《たかひめ》も|追《おひ》つく|事《こと》を|得《え》ず|四辻《よつつじ》に|歯噛《はが》みをなし|地団駄《ぢだんだ》を|踏《ふ》んで、
|高姫《たかひめ》『エイ|残念《ざんねん》やなア、これシャルお|前《まへ》が|鈍馬《とんま》だから|折角《せつかく》|出《で》てきた|鳥《とり》を|逃《に》がして|仕舞《しま》つたのだ。なぜ|知《し》らぬ|間《ま》に|綱《つな》でも|掛《か》けて|置《お》かなんだのかい。「|神《かみ》が|綱《つな》さへかけて|置《お》けば|何《なに》|程《ほど》ヂリヂリ|悶《もだ》へをしても|離《はな》さんぞよ」とお|筆《ふで》に|出《で》て|居《ゐ》るぢやないか』
シャル『|私《わたし》は|人間《にんげん》、|貴女《あなた》は|神様《かみさま》でせう。|人間《にんげん》が|綱《つな》かけたつて|何《なん》になりませう。|私《わたし》に|不足《ふそく》を|云《い》ふより、なぜ|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》が|綱《つな》かけなかつたのですか。その|不足《ふそく》は|聞《き》きませぬ』
|高姫《たかひめ》『エ、よう|小理窟《こりくつ》を|云《い》ふ|男《をとこ》だなア。なぜ|絶対服従《ぜつたいふくじゆう》をせないのだ。|一体《いつたい》|妾《わし》を|誰人《どなた》と|心得《こころえ》て|居《ゐ》るのだい』
シャル『ハイ、|誰人《どなた》さまかと|思《おも》へば|矢張《やつぱり》|此方《こなた》さまで|厶《ござ》いました。|此方《こなた》さまかと|思《おも》へば|矢張《やつぱり》|高姫《たかひめ》さま、|高姫《たかひめ》さまかと|思《おも》へば|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》、さうかと|思《おも》へば|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒《おほみろく》さま、|大弥勒《おほみろく》|様《さま》かと|思《おも》へば|第一霊国《だいいちれいごく》の|天人《てんにん》|様《さま》、|天人《てんにん》|様《さま》かと|思《おも》へば|現界《げんかい》、|幽界《いうかい》、|神界《しんかい》の|救主《すくひぬし》さま、|救主《すくひぬし》さまかと|思《おも》へば|杢助《もくすけ》さまの|奥様《おくさま》、|杢助《もくすけ》さまの|奥様《おくさま》かと|思《おも》へば|常世姫《とこよひめ》の|御霊《おみたま》|様《さま》、|常世姫《とこよひめ》のお|霊《みたま》|様《さま》かと|思《おも》へば|高宮姫《たかみやひめ》|様《さま》、|高宮姫《たかみやひめ》|様《さま》かと|思《おも》へば|定子姫《さだこひめ》|様《さま》、|誰人《どなた》が|誰人《どなた》やら、|薩張《さつぱり》|見当《けんたう》がつきませぬワイ。|矢張《やつぱり》|此方《こなた》さまにして|置《お》きませうかい』
|高姫《たかひめ》『エ、|仕様《しやう》もない、|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》を|云《い》ふのだい。|沢山《たくさん》の|名《な》を|並《なら》べて、|一《ひと》つ|云《い》つたらよいぢやないか。|繁文褥礼《はんぶんじよくれい》は|流行《はや》りませぬぞや。そんな|複雑《ふくざつ》な|名《な》を|云《い》はいでも、もちつと|単純《たんじゆん》に|生宮《いきみや》さまとなぜ|云《い》はんのかい。|法性寺《ほつしやうじ》の|入道《にふだう》が|運上取《うんじやうと》りに|来《く》るぢやないか』
シャル『それでもシンプルな|名称《めいしよう》では、お|前様《まへさま》のお|気《き》に|入《い》りますまい。|些《ちつ》とでも|長《なが》く|云《い》ふ|程《ほど》、|貴女《あなた》の|御機嫌《ごきげん》がよいのですからなア。|足曳《あしびき》の|山鳥《やまどり》の|尾《を》のしだり|尾《を》の|長々《ながなが》しう|云《い》ふのが、どこともなしに|価値《ねうち》があるやうですよ。|第一《だいいち》|雅味《がみ》がありますからなア』
|高姫《たかひめ》『エエ、シンプルだの、|複雑《ふくざつ》だの|雅味《がみ》だのと|何《なに》をガミガミ|云《い》ふのだい。そんな|毛唐《けたう》のやうな|言葉《ことば》は|地《ち》の|高天原《たかあまはら》では|用《もち》ひませぬぞや』
シャル『それでも|貴女《あなた》|時々《ときどき》|英語《えいご》を|使《つか》ふぢやありませぬか』
|高姫《たかひめ》『あれや|英語《えいご》ぢやない|神世《かみよ》の|生粋《きつすゐ》のお|言葉《ことば》ぢや、|此《この》|忙《いそが》しいのにさう|長《なが》く|名《な》を|云《い》はれると|余《あま》り|気分《きぶん》のよいものぢやない。お|前《まへ》も|一《ひと》つ|云《い》うて|上《あ》げようか、さうしたら|味《あぢ》が|分《わか》るだらう。|何処《どこ》の|奴《やつ》かと|思《おも》へば|此処《ここ》の|奴《やつ》だ。バラモン|教《けう》の|旗持人足《はたもちにんそく》かと|思《おも》へば|小盗人《こぬすと》だ。|小盗人《こぬすと》かと|思《おも》へば|川陥《かははまり》だ。|川陥《かははまり》かと|思《おも》へば、|死損《しにぞこな》ひの|八衢人足《やちまたにんそく》だ。|八衢人足《やちまたにんそく》かと|思《おも》へば、|地獄《ぢごく》に|籍《せき》をおいた|亡者《まうじや》の|魂《みたま》だ。|亡者《まうじや》の|魂《みたま》かと|思《おも》へば|極道息子《ごくだうむすこ》だ。|極道息子《ごくだうむすこ》かと|思《おも》へば|腰抜《こしぬ》けだ。|間抜《まぬ》けに|歯抜《はぬ》け、|魂抜《たまぬ》け|野郎《やらう》だ。|魂抜《たまぬ》け|野郎《やらう》かと|思《おも》へば|高姫《たかひめ》の|尻拭《しりふ》きだ。|尻拭《しりふ》きかと|思《おも》へば|矢張《やつぱり》シャルだ。オツホホホホ』
シャル『どうも|甚《ひど》いですな、それ|丈《だけ》よう|悪口《あくこう》が|陳列《ちんれつ》|出来《でき》たものですワイ。|矢張《やつぱり》お|前《まへ》さまは|義理天上《ぎりてんじやう》は|嘘《うそ》だ、|金毛九尾《きんまうきうび》の|容器《いれもの》でせう』
|高姫《たかひめ》『|定《きま》つた|事《こと》だよ。|金毛九尾《きんまうきうび》と|云《い》ふ|守護神《しゆごじん》は|初《はじ》めは|悪《あく》だつたけれど、|今度《こんど》、|高姫《たかひめ》の|悪《あく》が|善《ぜん》に|改心《かいしん》して、|善《ぜん》に|立《た》ち|帰《かへ》つたのだから、|三千世界《さんぜんせかい》の|事《こと》は|何《なん》でも|彼《か》でも|皆《みな》|知《し》つて|居《を》るのだ』
シャル『|成程《なるほど》、どこともなしに【|九尾《きゆび》】|九尾《きゆび》して|居《ゐ》ますワイ。|併《しか》し|貴女《あなた》は|女《をんな》だからよもや【キン】|毛《まう》は|厶《ござ》いますまい』
|高姫《たかひめ》『コレお|前《まへ》は|此処《ここ》にすつこんで|居《ゐ》なさい、|彼方《あつち》から|何《なん》だか|出《で》て|来《く》るやうだ。|妾《わし》が|一《ひと》つ|説教《せつけう》を、|捉《つか》まへてするから、お|前《まへ》は|決《けつ》して|口出《くちだ》しをしてはならぬぞや。|此《この》|枯草《かれくさ》の|中《なか》に|身《み》を|隠《かく》して|聞《き》いて|居《ゐ》なさい。|少《すこ》し|勉強《べんきやう》せねば|今日《けふ》のやうに|折角《せつかく》|出《で》て|来《き》た|鳥《とり》を|逃《に》がしては|何《なん》にもならぬからなア。サア|早《はや》く|引込《ひつこ》んだり|引込《ひつこ》んだり』
シャル『それでは|暫《しばら》く|螽斯《きりぎりす》ぢやないが|草《くさ》の|中《なか》に|引込《ひつこ》みます。|長話《ながばなし》はおいて|下《くだ》さい、|足《あし》が|痺《しび》れますからなア』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、ガサガサと|萱草《かやくさ》の|中《なか》に|潜《もぐ》り|込《こ》んだ。|幽《かす》かな|声《こゑ》で|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|一人《ひとり》の|男《をとこ》がやつて|来《く》る。
|三千彦《みちひこ》『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善神《ぜんしん》|邪神《じやしん》を|立《た》て|別《わ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》す
|三五教《あななひけう》の|神館《かむやかた》 |総務《そうむ》の|司《つかさ》と|仕《つか》へたる
|東野別《あづまのわけ》を|慕《した》ひつつ |自転倒島《おのころじま》を|立《た》ち|出《い》でて
|恋《こひ》に|狂《くる》うた|高姫《たかひめ》が |恥《はぢ》も|人情《にんじやう》も|知《し》らばこそ
|眼《まなこ》は|暗《くら》み|耳《みみ》は|聾《し》え |恋《こひ》の|悪魔《あくま》に|囚《とら》はれて
|所《ところ》もあらうに|聖場《せいぢやう》で あらむ|限《かぎ》りの|醜態《しうたい》を
|暴露《ばくろ》せしこそ|果敢《はか》なけれ |心《こころ》|乱《みだ》れし|高姫《たかひめ》は
|金毛九尾《きんまうきうび》に|誑《たばか》られ |泣《な》く|泣《な》く|館《やかた》を|立《た》ち|出《い》でて
|河鹿峠《かじかたうげ》の|急坂《きふはん》を |風《かぜ》に|裾《すそ》をば|煽《あふ》られつ
|太股《ふともも》|迄《まで》も|放《ほ》り|出《だ》して スタスタ|下《くだ》るスタイルは
|地獄《ぢごく》の|町《まち》を|通《かよ》ひ|居《ゐ》る |夜叉《やしや》の|如《ごと》くに|見《み》えにける
|祠《ほこら》の|森《もり》に|立《た》ち|寄《よ》りて |妖幻坊《えうげんばう》の|曲者《まがもの》に
|霊《たま》をぬかれて|愚《ぐ》にかへり |所在《あらゆる》|醜態《しうたい》|演出《えんしゆつ》し
|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》と |手《て》に|手《て》をとつて|小北山《こぎたやま》
|聖場《せいぢやう》に|横柄面《わうへいづら》さげて |詣《まう》でたところ|月《つき》の|宮《みや》
|扉《とびら》の|中《なか》より|迸《ほとばし》る その|霊光《れいくわう》に|肝《きも》つぶし
|命《いのち》|辛々《からがら》|逃《に》げて|行《ゆ》く |浮木《うきき》の|森《もり》に|立《た》ち|寄《よ》りて
|狐《きつね》|狸《たぬき》に|誑《たばか》られ |初稚姫《はつわかひめ》やスマートの
|生言霊《いくことたま》に|怖《お》ぢ|恐《おそ》れ |妖幻坊《えうげんばう》と|諸共《もろとも》に
|心《こころ》も|暗《くら》き|黒雲《くろくも》に |乗《の》りて|逃《に》げ|出《だ》すその|途端《とたん》
|如何《いかが》はしけむ|中空《ちうくう》より |真逆様《まつさかさま》に|顛落《てんらく》し
|行方不明《ゆくへふめい》となりにけり |嘸《さぞ》|今頃《いまごろ》は|高姫《たかひめ》は
|此《この》|世《よ》にありて|尽《つく》したる |驕傲《けうがう》|尊大《そんだい》|脱線《だつせん》の
|道《みち》を|辿《たど》りて|中有界《ちううかい》 どこかの|野辺《のべ》に|潜伏《せんぷく》し
|道《みち》|行《ゆ》く|精霊《せいれい》に|相対《あひたい》し |支離滅裂《しりめつれつ》の|教理《けうり》をば
|吹《ふ》き|立《た》て|居《ゐ》るに|違《ちが》ひない |吾《われ》は|三千彦《みちひこ》|宣伝使《せんでんし》
|玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》と |別《わか》れて|一人《ひとり》テルモンの
|神《かみ》の|館《やかた》に|立《た》ち|向《むか》ひ |悪人輩《あくにんばら》の|企《たく》みをば
|暴露《ばくろ》し|館《やかた》の|難儀《なんぎ》をば |助《たす》けむために|来《きた》りけり
|此処《ここ》はいづくぞフサの|国《くに》 アンブラック|川《がは》の|片傍《かたほとり》
|草《くさ》|茫々《ばうばう》と|生《は》え|茂《しげ》る |青野ケ原《あをのがはら》と|覚《おぼ》えたり
|小鳥《ことり》は|唄《うた》ひ|花《はな》|匂《にほ》ひ |天国《てんごく》|浄土《じやうど》も|目《ま》の|当《あた》り
|実《げ》にも|愉快《ゆくわい》の|心地《ここち》する ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》
|一時《いちじ》も|早《はや》く|帰《かへ》しませ |神《かみ》のみ|前《まへ》に|願《ね》ぎまつる』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》らやつて|来《く》る。|高姫《たかひめ》は|余《あま》り|遠《とほ》くて|自分《じぶん》の|事《こと》を|歌《うた》つて|居《を》るのは|気《き》がつかなかつたが、|小鳥《ことり》は|唄《うた》ひ|花《はな》|匂《にほ》ひ、|青野ケ原《あをのがはら》で|云々《うんぬん》と|云《い》ふ|一句《いつく》を|聞《き》いて、
|高姫《たかひめ》『これだけ|霜《しも》に|痛《いた》んだ|枯野ケ原《かれのがはら》を、|鳥《とり》が|唄《うた》ふの|花《はな》が|咲《さ》くのと|云《い》ふのは|狂人《きちがひ》ではあるまいかな、うつかり|相手《あひて》になつて|先方《せんぱう》が|狂人《きちがひ》だつたら|仕末《しまつ》がつかない。|茲《ここ》は|一《ひと》つ|柔《やんわ》り|出《で》て|様子《やうす》を|考《かんが》へて|見《み》よう』
と|四辻《よつつじ》に|立《た》つて|居《ゐ》る。|三千彦《みちひこ》は|漸《やうや》く|此処《ここ》に|進《すす》み|来《きた》り|高姫《たかひめ》を|見《み》て、よう|似《に》た|顔《かほ》だとは|思《おも》ひ|乍《なが》ら、|自分《じぶん》も|八衢《やちまた》に|来《き》て|居《ゐ》るとは|気《き》がつかず、
|三千彦《みちひこ》『モシ|一寸《ちよつと》お|尋《たづ》ね|致《いた》しますが、|波斯《フサ》の|国《くに》のテルモン|山《ざん》は、|何方《どちら》の|方面《はうめん》に|当《あた》りますかな』
|高姫《たかひめ》『ヘイ、あのテルモン|山《ざん》で|厶《ござ》いますか、|此処《ここ》は|浮木《うきき》の|森《もり》で|厶《ござ》いますが、まだ|随分《ずいぶん》|遠《とほ》いと|云《い》ふ|事《こと》で|厶《ござ》います。そして|貴方《あなた》、テルモン|山《ざん》へ|何御用《なにごよう》があつてお|出《いで》になりますか』
|三千彦《みちひこ》『ハイ、|私《わたし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》で|厶《ござ》いますが、テルモン|山《ざん》の|館《やかた》には|大騒動《おほさうどう》が|起《おこ》つて|居《を》りますので、お|助《たす》け|申《まをし》|度《た》いと|思《おも》つて|心《こころ》を|配《くば》つて|居《ゐ》ます。|併《しか》し|乍《なが》ら、どう|道《みち》を|踏《ふ》み|迷《まよ》うたか|知《し》らないが、こんな|所《ところ》へ|来《き》たのですよ』
|高姫《たかひめ》『|貴方《あなた》は|三五教《あななひけう》で|厶《ござ》いますか、それはそれは|結構《けつこう》で|厶《ござ》いますな。|併《しか》しテルモン|山《ざん》にはバラモン|教《けう》の|神様《かみさま》が|祭《まつ》つてあるでは|厶《ござ》いませぬか』
|三千彦《みちひこ》『ハイ、さうです』
|高姫《たかひめ》『テルモン|山《ざん》、……テルモン|山《ざん》はバラモン|教《けう》の、それバラモン|教《けう》の|神館《かむやかた》でせう。そして|小国別《をくにわけ》と|云《い》ふ、|酢《す》でも|蒟蒻《こんにやく》でもいかぬ、|梃《てこ》でも|棒《ぼう》でも|槍《やり》でも|鉄砲《てつぽう》でもいかぬと|云《い》ふ、|誠《まこと》に|早《はや》|狂暴《きやうばう》|無頼《ぶらい》な、|狂暴《きやうばう》|無頼《ぶらい》な、|神司《かむつかさ》が|控《ひか》へて|居《ゐ》るぢやありませぬか。そんな|者《もの》をお|前《まへ》、そんな|者《もの》をお|前《まへ》はどうしてお|前《まへ》は|助《たす》けに|又《また》、どうして|助《たす》けに|行《ゆ》くのですかい』
|三千彦《みちひこ》『ハイ、つひ|行《ゆき》がかりで|後《あと》へ|引《ひ》くにも|引《ひ》かれぬ|事《こと》が|出来《でき》たのです。|貴女《あなた》は|失礼《しつれい》ですが、|高姫《たかひめ》さまぢや|厶《ござ》いませぬか。お|帰幽《くにがへ》になつたと|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて|居《ゐ》ましたが、|矢張《やつぱり》|御壮健《ごさうけん》でウラナイ|教《けう》をお|開《ひら》きで|厶《ござ》いますか』
|高姫《たかひめ》『ハイ、そんな|噂《うはさ》が|厶《ござ》いますかな、|高姫《たかひめ》はこんなに|丈夫《ぢやうぶ》でビチビチして|居《ゐ》ますから|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さい。これから|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|説教《せつけう》を|致《いた》しますから、|一寸《ちよつと》|立寄《たちよ》つて|下《くだ》さいますまいか』
|草《くさ》の|中《なか》からシャルは|顔《かほ》を|出《だ》し、
シャル『|駄目《だめ》だ|駄目《だめ》だ』
と|云《い》つては|顔《かほ》を|隠《かく》す。
|三千彦《みちひこ》『モシ|高姫《たかひめ》さま、|貴方《あなた》の|後《うしろ》からデクの|坊《ばう》のやうな|者《もの》が|変現出没《へんげんしゆつぼつ》して|居《ゐ》ますが、あれは|何《なん》ですか』
|草《くさ》の|中《なか》から、
シャル『|三千彦《みちひこ》さま|私《わたし》も|連《つ》れて|行《い》つて|下《くだ》さい』
と|云《い》ふ。
|三千彦《みちひこ》『ハテナ、|何《なん》だか|妙《めう》なものが|草《くさ》の|中《なか》から|私《わたし》の|名《な》を|呼《よ》んで|居《ゐ》るやうです』
|高姫《たかひめ》『イエ、あれは|九官鳥《きうくわんてう》ですよ。|此《こ》の|原野《げんや》には|鸚鵡《あうむ》や|九官鳥《きうくわんてう》が|棲《す》んで|居《ゐ》ますからチヨコチヨコああ|云《い》ふ|事《こと》を|云《い》ふのです』
|三千彦《みちひこ》『ヘエ|妙《めう》ですなア。|此《この》|九官鳥《きうくわんてう》は|人間《にんげん》の|姿《すがた》をして|居《を》るぢやありませぬか』
|高姫《たかひめ》『そりやさうでせうとも、|化物《ばけもの》の|世《よ》の|中《なか》ですもの。|岩根《いはね》|木根《きね》|立草《たちくさ》の|片葉《かきは》|迄《まで》も|言問《ことと》ふ|世《よ》の|中《なか》ですから、|些《ちつ》とは|変化《へぐれ》て|出《で》るのでせう。それだから|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|水晶《すいしやう》の|世《よ》に|立直《たてなほ》さうと|思《おも》うて、|高姫《たかひめ》の|肉宮《にくみや》を|借《か》り、|御苦労《ごくらう》|遊《あそ》ばすのです』
|三千彦《みちひこ》『|成程《なるほど》|妙《めう》な|事《こと》もあるものです』
|草《くさ》の|中《なか》から、
シャル『|変化《へぐれ》の|変化《へぐれ》の|変化武者《へぐれむしや》、|変化神社《へぐれじんしや》の|高姫《たかひめ》さま、|変化《へぐれ》の|変化《へぐれ》の|変化武者《へぐれむしや》、|変化神社《へぐれじんしや》のシャルさま、ウツポツポー、ホーツク、ホーツクホーホー、ホホホホー、ホーホケキヨ ホーホケキヨ、ケキヨ ケキヨ、ニヤーン、モウー、ヒンヒンヒン、ワンワンワン、ウーウーウー、キヤツ キヤツ キヤツ、チウチウチウ、キユツ キユツ キユツ、ウツポツポ、アハハハハハ』
|三千彦《みちひこ》『|何《なん》とマア|変化《へぐ》れるものですなア、こんな|所《ところ》に|居《を》ると|何《なに》が|出《で》て|来《く》るか|知《し》れませぬ。|左様《さやう》なら|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》ります』
とスタスタ|立《た》つて|行《ゆ》かうとする。|高姫《たかひめ》は|大手《おほで》を|拡《ひろ》げて、
|高姫《たかひめ》『|待《ま》つた|待《ま》つた、|此《この》|関所《せきしよ》は|容易《ようい》に|潜《くぐ》る|事《こと》は|出来《でき》ませぬぞや、|潜《くぐ》り|度《た》くば|高姫《たかひめ》の|云《い》ふ|事《こと》を|一応《いちおう》|腹《はら》へ|確《しつか》りと|締《し》めこんで|行《ゆ》きなさい、|後《あと》で|後悔《こうくわい》する|事《こと》が|出来《でき》ますぞや』
|三千彦《みちひこ》『ヤ|有難《ありがた》う。|併《しか》し|私《わたし》は|少《すこ》し|急《いそ》ぎますから|今度《こんど》|又《また》|悠《ゆつ》くり|聞《き》かして|頂《いただ》きませう』
シャル『モシモシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、こんな|婆《ばば》に|相手《あひて》にならず、トツトと|行《ゆ》きなさいませ。さうして|私《わたし》も|何卒《どうぞ》|連《つ》れて|行《い》つて|下《くだ》さい。|我《が》の|強《つよ》い|仕方《しかた》のない|婆《ば》さまですよ』
|三千彦《みちひこ》『アアお|前《まへ》が|九官鳥《きうくわんてう》だつたか、そんな|所《ところ》に|何《なに》をして|居《ゐ》るのだ』
シャル『ハイ、|鷹《たか》の|命令《めいれい》によつて|九官鳥《きうくわんてう》|此処《ここ》に|新聞《しんぶん》の【きうかん】(休刊)して|居《ゐ》ました』
|高姫《たかひめ》『こりやシャル、|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》を|申《まを》すか。もう|了見《れうけん》せぬぞや』
とグツと|胸倉《むなぐら》を|取《と》り、|喉元《のどもと》をグウグウ|押《おさ》へつける。シャルは|目《め》を|白黒《しろくろ》させながら|苦《くる》しさに|手足《てあし》をバタバタと|藻掻《もが》いて|居《を》る。|三千彦《みちひこ》は|見《み》るに|見兼《みか》ね、|高姫《たかひめ》の|頭髪《とうはつ》をグツと|握《にぎ》つて|引《ひ》き|倒《たふ》した。|同時《どうじ》にシャルは|起《お》き|上《あが》り、
シャル『モシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、サ|早《はや》く|参《まゐ》りませう。|私《わたし》が|何処《どこ》へでも|案内《あんない》|致《いた》します。こんな|婆《ばば》に|相手《あひて》になつて|居《ゐ》ては|耐《たま》りませぬからなア』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、スタスタと|駆《か》け|出《だ》す。|三千彦《みちひこ》は、
『|高姫《たかひめ》|様《さま》|左様《さやう》なら、|悠《ゆつ》くり|草《くさ》の|褥《しとね》で|一休《ひとやす》みなさいませ』
と|青草《あをくさ》|茂《しげ》る|田圃道《たんぼみち》をスタスタと|進《すす》み|行《ゆ》く。|高姫《たかひめ》は|歯《は》ぎしりし|乍《なが》ら|恨《うら》めし|気《げ》に|二人《ふたり》の|姿《すがた》を|見送《みおく》つて|居《ゐ》た。
シャルの|目《め》には|今《いま》|迄《まで》|寒風《かんぷう》|吹《ふ》き|荒《すさ》む|枯野ケ原《かれのがはら》と|見《み》えて|居《ゐ》たのに、|三千彦《みちひこ》に|遇《あ》うてから|其処等《そこら》|一面《いちめん》が|春野《はるの》のやうになり、|鳥《とり》|唄《うた》ひ、|花《はな》|匂《にほ》ふ|光景《くわうけい》が|目《め》に|入《い》るやうになつた。シャルは|嬉々《きき》として|三千彦《みちひこ》の|後《あと》になり|先《さき》になり、|北《きた》へ|北《きた》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二五 旧二・九 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第一二章 |三狂《さんきやう》〔一四六二〕
|三千彦《みちひこ》はシャルと|共《とも》に|小声《こごゑ》にて|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|八衢街道《やちまたかいだう》とは|知《し》らず|現界《げんかい》の|道路《だうろ》を|通過《つうくわ》する|気分《きぶん》にて|進《すす》み|行《ゆ》く。|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》には|例《れい》の|如《ごと》く|赤面《あかづら》、|白面《しろづら》の|二人《ふたり》の|守衛《しゆゑい》が|儼然《げんぜん》と|控《ひか》へて|居《を》る。|見《み》れば|一人《ひとり》の|男《をとこ》が|赤面《あかづら》の|守衛《しゆゑい》に|何事《なにごと》か|調《しら》べられて|居《ゐ》た。
|赤《あか》『その|方《はう》の|姓名《せいめい》は|何《なん》と|申《まを》すか』
|男《をとこ》『ハイ、|私《わたし》は|鰐口曲冬《わにぐちまがふゆ》と|申《まを》します』
|赤《あか》『|其《その》|方《はう》は|何《なに》か|信仰《しんかう》を|有《も》つてゐるか』
|曲冬《まがふゆ》『ハイ、|別《べつ》にこれと|云《い》ふ|信仰《しんかう》も|厶《ござ》いませぬが、|神儒仏《しんじゆぶつ》|三教《さんけう》を|少《すこ》し|許《ばか》り|噛《かぢ》つて|居《を》ります』
|赤《あか》『|其《その》|中《うち》で|何教《なにけう》が|一番《いちばん》お|前《まへ》の|心《こころ》に|適《てき》したか、|否《いな》|徹底《てつてい》して|居《ゐ》たと|考《かんが》へたか』
|曲冬《まがふゆ》『ハイ、|初《はじ》めは|一生懸命《いつしやうけんめい》に|仏教《ぶつけう》を|研究《けんきう》|致《いた》しました。さうした|処《ところ》が|何処《どこ》に|一《ひと》つ|拠《よ》る|所《とこ》がないので|止《や》めまして|厶《ござ》います。|要《えう》するに|仏教《ぶつけう》は|百合根《ゆりね》の|様《やう》なもので、|一枚《いちまい》|々々《いちまい》|皮《かは》を|剥《む》いて|奥《おく》|深《ふか》く|進《すす》みますと、|何《なん》にも|無《な》くなつて|了《しま》ひます、|所謂《いはゆる》|仏教《ぶつけう》は|無《む》だと|思《おも》ひます。|能書《のうがき》|計《ばか》り|沢山《たくさん》|並《なら》べ|立《た》て、まるで|薬屋《くすりや》の|広告《くわうこく》|見《み》た|様《やう》なものですからな。|売薬《ばいやく》の|広告《くわうこく》ならば「|此《この》|薬《くすり》は|腹痛《はらいたみ》とか、|疝気《せんき》とか、|肺病《はいびやう》に|用《もち》ゆべし。|又《また》|日《ひ》に|何回《なんくわい》|服用《ふくよう》とか、|湯《ゆ》で|飲《の》めとか、|水《みづ》にて|飲《の》めとか、|食前《しよくぜん》がよいとか、|食後《しよくご》がよいとか、|大人《おとな》ならば|何粒《なんつぶ》、|小人《せうにん》ならば|何粒《なんつぶ》、|何才《なんさい》|以下《いか》は|何粒《なんつぶ》」と|御叮嚀《ごていねい》に|服用書《ふくようがき》が|附《つ》いて|居《ゐ》ますが、|仏教《ぶつけう》の|経典《きやうてん》は|只《ただ》|観音《くわんおん》を|念《ねん》じたら|悪事《あくじ》|災難《さいなん》を|逃《のが》れるとか、|阿弥陀《あみだ》を|念《ねん》じたら|極楽《ごくらく》にやると|書《か》いてあるのみで、|八万《はちまん》|四千《よんせん》の|経巻《きやうくわん》も|何処《どこ》にも|其《その》|用法《ようはふ》が|示《しめ》してないので|駄目《だめ》だと|思《おも》ひました』
|赤《あか》『お|前《まへ》は|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》を|洩《も》らしたる|仏教《ぶつけう》に|対《たい》し|尊敬《そんけい》|帰依《きえ》の|心《こころ》を|捨《す》て、なまじひに|研究《けんきう》|等《など》と|申《まを》してかかるから、|何《なん》にも|掴《つか》めないのだ。|霊界《れいかい》の|幽遠《いうゑん》|微妙《びめう》なる|真理《しんり》が|物質界《ぶつしつかい》の|法則《はふそく》を|基礎《きそ》として|幾万年《いくまんねん》|研究《けんきう》するとも|解決《かいけつ》のつく|道理《だうり》がない。|暫《しば》らく|理智《りち》を|捨《す》て、|意志《いし》を|専《もつぱ》らとして|研究《けんきう》すれば|神《かみ》の|愛《あい》、|仏《ほとけ》の|善《ぜん》、|及《およ》び|信《しん》と|真《しん》との|光明《くわうみやう》がさして|来《く》るのだ。|仏教《ぶつけう》がつまらない|等《など》と|感《かん》ずるのは、|所謂《いはゆる》お|前《まへ》の|精神《せいしん》がつまらないからだ。|仏《ほとけ》の|清《きよ》きお|姿《すがた》がお|前《まへ》の|曇《くも》つた|鏡《かがみ》に|映《うつ》らないからだ』
|曲冬《まがふゆ》『さう|承《うけたま》はれば、さうかも|知《し》れませぬが、|如何《どう》も|分《わか》り|難《にく》う|厶《ござ》います』
|赤《あか》『|人間《にんげん》の|分際《ぶんざい》として|仏《ほとけ》の|御精神《ごせいしん》を|理解《りかい》しようとするのが|間違《まちが》ひだ。|仏《ほとけ》は|慈悲《じひ》|其《その》ものだ、|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|意味《いみ》が|分《わか》れば|一切《いつさい》の|経文《きやうもん》が|分《わか》つたのだ』
|曲冬《まがふゆ》『ア、さうで|厶《ござ》いましたか。それは、|偉《えら》い|考《かんが》へ|違《ちが》ひをして|居《を》りました。|之《これ》から|一《ひと》つ|研究《けんきう》をやつて|見《み》ませう』
|赤《あか》『|駄目《だめ》だ。|二《ふた》つ|目《め》には|研究《けんきう》|々々《けんきう》と|口癖《くちぐせ》の|様《やう》に|申《まを》すが、お|前《まへ》の|云《い》ふ|研究《けんきう》は|犬《いぬ》に|炙《やいと》だ。ワンワン|吠猛《ほえたけ》るばかりが|能《のう》だ。|止《や》めたら|宜《よ》からう。|左様《さやう》な|心理状態《しんりじやうたい》では|到底《たうてい》|仏《ほとけ》の|御心《みこころ》を|悟《さと》る|事《こと》は|出来《でき》ない。それから|次《つぎ》は|何《なに》を|信仰《しんかう》したのだ』
|曲冬《まがふゆ》『ハイ、|別《べつ》に|信仰《しんかう》は|致《いた》しませぬが、ヤハリ|聖書《せいしよ》を|研究《けんきう》|致《いた》しました』
|赤《あか》『|旧約《きうやく》か、|新約《しんやく》か』
|曲冬《まがふゆ》『|勿論《もちろん》|旧約《きうやく》で|厶《ござ》います』
|赤《あか》『|何《なに》か|得《う》る|処《ところ》があつたか』
|曲冬《まがふゆ》『ハイ、|売《う》る|処《ところ》も|買《か》う|所《ところ》も|厶《ござ》いませぬ。これもヤツパリ|私《わたし》の|性《しやう》に|合《あ》ひませぬので|五里霧中《ごりむちゆう》に|逍遙《さまよ》ふ|所《ところ》に、|或人《あるひと》の|勧《すす》めによつて|三五教《あななひけう》に|入《はい》つて、|可《か》なり|真面目《まじめ》に|研究《けんきう》して|見《み》た|所《ところ》、どうも|変性女子《へんじやうによし》の|言行《げんかう》が|気《き》に|喰《く》はないので、|弊履《へいり》を|棄《す》つる|如《ごと》く|脱会《だつくわい》し、|今《いま》は|懺悔生活《ざんげせいくわつ》に|入《はい》つて|居《を》ります』
|赤《あか》『その|方《はう》は|霊界物語《れいかいものがたり》の|筆写《ひつしや》|迄《まで》やつたぢやないか。|直接《ちよくせつ》に|教示《けうじ》を|受《う》け|乍《なが》ら、|分《わか》らぬとは|扨《さ》ても|困《こま》つた|盲《めくら》だな。|矢張《やつぱり》|研究的《けんきうてき》|態度《たいど》を|以《もつ》てかかつて|居《を》るからだ。|結構《けつこう》な|神《かみ》の|教《をしへ》を|筆写《ひつしや》し|乍《なが》ら、ホンの|機械《きかい》に|使《つか》はれたやうなものだ。さうして|幾分《いくぶん》か|信《しん》ずる|処《ところ》があつたのか』
|曲冬《まがふゆ》『ハイ、|女子《によし》の|方《はう》は|幾分《いくぶん》か|信《しん》じて|居《を》りましたが、|然《しか》しこれは|宜《い》い|加減《かげん》なペテンだと|考《かんが》へて|居《を》りました。それよりも|変性男子《へんじやうなんし》の|神諭《しんゆ》に|重《おも》きを|置《お》いて|居《を》つた|所《ところ》、|其《その》|原書《げんしよ》を|見《み》て|余《あんま》り|文章《ぶんしやう》の|拙劣《せつれつ》なのに|愛想《あいさう》をつかし、|信仰《しんかう》が|次第《しだい》に|剥《は》げて|了《しま》ひました』
|赤《あか》『|馬鹿《ばか》だな。|神《かみ》の|教《をしへ》は|文章《ぶんしやう》の|巧拙《かうせつ》によるものでないぞ。|文章《ぶんしやう》なんかは|枝葉《しえう》の|問題《もんだい》だ、その|言葉《ことば》の|中《なか》に|包含《はうがん》する|密意《みつい》を|味《あぢは》ふのだ。|目《め》はあれども|節穴《ふしあな》|同然《どうぜん》、|耳《みみ》はあれども|木耳《きくらげ》|同然《どうぜん》、|舌《した》はあれども|数《かず》の|子《こ》|同然《どうぜん》、|鼻《はな》はあれども|節瘤《ふしこぶた》|同然《どうぜん》、そんな|事《こと》で|三五教《あななひけう》が|善《い》いの、|悪《わる》いの、|男子《なんし》がどうの、|女子《によし》がどうのと|云《い》ふ|資格《しかく》があるか。よくも|慢心《まんしん》したものだのう』
|曲冬《まがふゆ》『|別《べつ》に|慢心《まんしん》はして|居《を》りませぬ。|世界《せかい》の|人間《にんげん》に|宣伝《せんでん》しようと|思《おも》へば|信仰《しんかう》も|信仰《しんかう》ですが|充分《じうぶん》|研究《けんきう》を|遂《と》げ、これなら|社会《しやくわい》に|施《ほどこ》して|差支《さしつかへ》ないと|云《い》ふ|所《ところ》まで|調《しら》べ|上《あ》げねば|社会《しやくわい》に|害毒《がいどく》を|流《なが》しますからな。|云《い》はば|社会《しやくわい》の|為《ため》に|忠実《ちうじつ》なる|研究《けんきう》ですよ』
|赤《あか》『お|前《まへ》は|未《ま》だ|我執《がしふ》|我見《がけん》がとれぬからいけない。|異見外道《いけんげだう》、|自然外道《しぜんげだう》、|断見外道《だんけんげだう》と|云《い》ふものだ。そんな|態度《たいど》では|何処《どこ》|迄《まで》も|神様《かみさま》は|真理《しんり》を|悟《さと》らして|下《くだ》さらぬぞ。|神様《かみさま》は|愚《おろか》なるもの、|弱《よわ》きもの、|小《ちひ》さきものをして|誠《まこと》の|道《みち》を|諭《さと》させ|玉《たま》ふのだ。|決《けつ》して|研究的《けんきうてき》|態度《たいど》を|採《と》る|様《やう》な|慢心者《まんしんもの》には、|密意《みつい》はお|示《しめ》しなさらぬ。お|前《まへ》は|大学《だいがく》を|卒業《そつげふ》して|一廉《ひとかど》|学者《がくしや》の|積《つも》りで|居《ゐ》るが、|其《その》|学問《がくもん》は|八衢《やちまた》や|地獄《ぢごく》では|一文《いちもん》の|価値《かち》もない。いや|却《かへつ》て|妨《さまた》げとなり|苦悩《くなう》の|因《いん》となるものだ。お|前《まへ》の|両親《りやうしん》も|困《こま》つた|事《こと》をしたものだな』
|曲冬《まがふゆ》『お|前《まへ》は|門番《もんばん》の|癖《くせ》に|文士《ぶんし》に|向《むか》つて|偉《えら》さうに|云《い》ひますが、|日進月歩《につしんげつぽ》|文明《ぶんめい》の|世《よ》の|中《なか》に|学《がく》を|排斥《はいせき》するとは|以《もつ》ての|外《ほか》ぢやありませぬか。|国民《こくみん》が|残《のこ》らず|無学者《むがくしや》であつたなら|皆《みな》|外《ほか》の|文明国《ぶんめいこく》に|奪《と》られて|了《しま》ふぢやありませぬか。|人文《じんぶん》の|発達《はつたつ》を|図《はか》り、|国威《こくゐ》の|宣揚《せんやう》を|企図《きと》する|為《ため》には、どうしても|大学《だいがく》|程度《ていど》の|学問《がくもん》がなければ|駄目《だめ》ですよ。お|前《まへ》|等《たち》は|僅《わづ》か|小学《せうがく》を|卒業《そつげふ》した|位《くらゐ》だから|世間《せけん》の|事《こと》に|徹底《てつてい》して|居《ゐ》ない。それだからポリス|代用《だいよう》の|門衛《もんゑい》をして|居《ゐ》るのだ。|到底《たうてい》|拙者《せつしや》の|論説《ろんせつ》に|楯突《たてつ》く|事《こと》は|出来《でき》ますまい。|何科《なにとが》あつて|調《しら》べらるるか|知《し》らぬが、もつと|確《しつか》りした|分《わか》る|方《かた》を|呼《よ》んで|来《き》て|下《くだ》さい。|知識《ちしき》の|階段《かいだん》が|違《ちが》うてるからお|前《まへ》さまには|分《わか》りますまい』
|赤《あか》『|馬鹿《ばか》を|云《い》ふな、|此処《ここ》は|霊界《れいかい》の|八衢《やちまた》だ。|博士《はかせ》も|学士《がくし》も|皆《みな》|出《で》て|来《く》る|所《ところ》だ。|無学《むがく》でどうして|此《この》|門番《もんばん》が|勤《つと》まるか。お|前《まへ》|等《たち》は|自然界《しぜんかい》の|下《くだ》らぬ|学説《がくせつ》に|心身《しんしん》を|蕩《とろ》かし、|虚偽《きよぎ》を|以《もつ》て|真理《しんり》となし|優勝劣敗《いうしようれつぱい》|弱肉強食《じやくにくきやうしよく》の|制度《せいど》を|以《もつ》て|最善《さいぜん》の|方法《はうはふ》と|考《かんが》へてる|亡者《まうじや》だから|到底《たうてい》|真理《しんり》の|蘊奥《うんのう》は|分《わか》らないのだ。お|前《まへ》のやうなものが|霊界《れいかい》へ|来《く》ると|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|理窟《りくつ》を|云《い》つて|精霊《せいれい》を|汚《けが》すから、ここで|現界《げんかい》で|研究《けんきう》して|来《き》た|下《くだ》らぬ|学術《がくじゆつ》を|皆《みな》|剥奪《はくだつ》してやらう』
|曲冬《まがふゆ》『コレ|赤《あか》さま、お|前《まへ》は|発狂《はつきやう》してるのか、|但《ただし》は|酒《さけ》に|酔《よ》うて|居《ゐ》るのかい。ここを|霊界《れいかい》の|八衢《やちまた》だ|等《など》と、それは|何《なに》を|云《い》ふのかい。|霊界《れいかい》や|八衢《やちまた》や|地獄《ぢごく》があつて|堪《たま》りますかい、|人間《にんげん》は|子孫《しそん》を|残《のこ》して|死《し》ねば、それ|迄《まで》のものだ。チツト|哲学的《てつがくてき》|知識《ちしき》を|養《やしな》うて|置《お》きなさい。|社会《しやくわい》の|落伍者《らくごしや》となつて|遂《つひ》に|門番《もんばん》も|勤《つと》まらなくなりますよ』
|赤《あか》『|門番《もんばん》が、それ|程《ほど》、|其《その》|方《はう》は|賤《いや》しいと|思《おも》ふのか。|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》や|塵捨場《ごみすてば》の|掃除《さうぢ》は|如何《どう》だ。それの|方《はう》が|矢張《やつぱり》|尊《たふと》いのか』
|曲冬《まがふゆ》『さうですとも、|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|心《こころ》を|以《もつ》て|人《ひと》の|嫌《いや》がる|事《こと》を|喜《よろこ》んでするのが、|人間《にんげん》の|人格《じんかく》を|向上《かうじやう》する|所以《ゆゑん》です。|便所《べんじよ》の|掃除《さうぢ》する|者《もの》や|塵《ごみ》の|掃除《さうぢ》する|者《もの》が|無《な》ければ、|世《よ》の|中《なか》は|尿糞塵《ししふんぢん》の|泥濘混濁世界《でいねいこんだくせかい》となるぢやありませぬか。それで|私《わたし》|等《たち》は|伊吹戸主《いぶきどぬし》の|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をして|居《ゐ》るのだ。|汚《きたな》いものを|美《うつく》しうする|位《くらゐ》|神聖《しんせい》な|仕事《しごと》はありますまい。|私《わたし》は|賤《いや》しい|仕事《しごと》とも|汚《きたな》い|商売《しやうばい》とも|思《おも》つて|居《を》りませぬ』
|赤《あか》『ア、さうか、それではお|前《まへ》の|最《もつと》も|愛《あい》する|処《ところ》へやつてやらう。|地獄《ぢごく》には|塵捨場《ごみすてば》もあれば|堆糞《たいふん》の|塚《つか》も|沢山《たくさん》にある。|娑婆《しやば》の|亡者《まうじや》がやつて|来《き》て|腐肉《ふにく》に|蠅《はへ》が|集《たか》る|様《やう》に|喜《よろこ》んで|嗅《か》いで|居《ゐ》る。|現世《げんせ》にある|時《とき》の|所主《しよしゆ》の|愛《あい》によつて|身魂相応《みたまさうおう》の|処《ところ》に|行《い》つたが|宜《よ》からう。|夜《よる》もなく|冬《ふゆ》もなき|天国《てんごく》に|於《おい》て、|総《すべ》ての|神《かみ》の|御用《ごよう》に|仕《つか》へまつり|無限《むげん》の|歓喜《くわんき》に|浴《よく》するよりも、|其《その》|方《はう》は|臭気《しうき》|紛々《ふんぷん》たる|地獄道《ぢごくだう》へ|行《ゆ》くのが|得心《とくしん》だらう。サア|遠慮《ゑんりよ》は|要《い》らぬ、トツトと|行《い》つたが|宜《よ》からうぞ』
|曲冬《まがふゆ》『はてな、さうすると|此処《ここ》は|矢張《やつぱり》|霊界《れいかい》ですかな』
|赤《あか》『|定《きま》つた|事《こと》だ。|霊界《れいかい》か|現界《げんかい》か|分《わか》らぬ|様《やう》な|亡者《まうじや》が|如何《どう》なるものか。それだから|心《こころ》の|盲《めくら》と|云《い》ふのだ』
|曲冬《まがふゆ》『|然《しか》らばどうか|天国《てんごく》へやつて|頂《いただ》き|度《た》いものです』
|赤《あか》『マアここで|或《ある》|一定《いつてい》の|時間《じかん》を|経《へ》なくては、お|前《まへ》の|様《やう》な|汚《けが》れた|魂《たましひ》は|直《すぐ》に|天国《てんごく》にやる|事《こと》は|出来《でき》ない。|先《ま》づ|外部的《ぐわいぶてき》|要素《えうそ》をスツカリ|取《と》らなくてはならぬ。|現世《げんせ》に|於《おい》て|心《こころ》にもない|事《こと》を|云《い》つたり、|阿諛《おべつか》を|使《つか》つたり、|体《からだ》を|窶《やつ》したり、|種々《いろいろ》とやつて|来《き》た|其《その》|外念《ぐわいねん》をスツカリ|取《と》り|外《はづ》し、|第二《だいに》の|内部《ないぶ》|状態《じやうたい》に|入《い》り、|内的《ないてき》|生涯《しやうがい》の|関門《くわんもん》を|越《こ》えるのだ。|内的《ないてき》とは|意志《いし》|想念《さうねん》だ。|果《はた》してその|意志《いし》が|善《ぜん》であり|真《しん》であらば|天国《てんごく》へ|上《のぼ》る|事《こと》が|出来《でき》るであらう。|併《しか》し|乍《なが》ら|内的《ないてき》|状態《じやうたい》になつてからエンゼルの|教《をしへ》を|聞《き》き、|其《その》|教《をしへ》が|耳《みみ》に|這入《はい》る|様《やう》ならば|天国《てんごく》へ|行《ゆ》く|資格《しかく》が|具備《ぐび》してるなり、|如何《どう》しても|耳《みみ》に|這入《はい》らねば|地獄《ぢごく》|行《ゆ》きだ。|之《これ》を|第三状態《だいさんじやうたい》と|云《い》つて|精霊《せいれい》の|去就《きよしう》を|決《けつ》する|時《とき》だ』
|曲冬《まがふゆ》『ヘー、|随分《ずいぶん》|難《むつかし》いものですな。|矢張《やつぱり》|天国《てんごく》も|地獄《ぢごく》もあるものですかな』
|斯《か》く|話《はな》す|所《ところ》へ|高姫《たかひめ》は|皺嗄声《しわがれごゑ》を|張《は》り|上《あ》げ|乍《なが》ら、
|高姫《たかひめ》『オーイ、|三千彦《みちひこ》、シャル、|待《ま》つた|待《ま》つた。|云《い》ひ|度《た》い|事《こと》がある』
と|天塩昆布《てしほこぶ》の|様《やう》になつた|帯《おび》を|引摺《ひきず》り|乍《なが》ら|走《はし》り|来《きた》り、
|高姫《たかひめ》『こら、シャル、|恩《おん》|知《し》らず|奴《め》、|妾《わし》が|此《この》|三千彦《みちひこ》の|極道《ごくだう》に|引倒《ひきたふ》され、|苦《くる》しんでゐる|間《ま》に|悪口《あくこう》をついて|逃《に》げて|来《き》たぢやないか。コレコレお|役人《やくにん》さま、|此奴《こいつ》は|悪党者《あくたうもの》で|厶《ござ》います。|義理天上《ぎりてんじやう》が|直接《ちよくせつ》|成敗《せいばい》する|処《ところ》なれど|神界《しんかい》の|御用《ごよう》が|忙《いそが》しいから、お|前《まへ》さまに|任《まか》すから|厳《きび》しく|膏《あぶら》をとつてやつて|下《くだ》さいや』
|赤《あか》『ヤ、お|前《まへ》は|高姫《たかひめ》ぢやないか。|霊界《れいかい》へ|来《き》て|迄《まで》|噪《はし》やいで|居《ゐ》るのか。モウいい|加減《かげん》に|外部的《ぐわいぶてき》|状態《じやうたい》から|離《はな》れたら|如何《どう》だ。|一年《いちねん》にもなるのに|何《なん》と|渋太《しぶと》い|奴《やつ》だな』
|高姫《たかひめ》『ヘン、よう|仰有《おつしや》りますワイ。|一年《いちねん》にならうと|二年《にねん》にならうとお|構《かま》ひ|御免《ごめん》だ。いつやらも|杢助《もくすけ》さまを|隠《かく》しやがつて、|量見《れうけん》せぬのだが|何《なに》を|云《い》つても|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|大弥勒《おほみろく》さまの|生宮《いきみや》だから、|大目《おほめ》に|見《み》て|居《ゐ》るのだ。グヅグヅ|申《まを》すと|此《この》|生宮《いきみや》が|承知《しようち》|致《いた》さんぞや』
|赤《あか》『|白《しろ》さま、|此《この》|婆《ば》アさまは、|邪魔《じやま》になつて|仕方《しかた》がないから|何処《どこ》かへ|突《つ》き|出《だ》して|下《くだ》さい』
|高姫《たかひめ》『ヘン、お|邪魔《じやま》になりますかな。そりや、さうでせう。|誠《まこと》の|神《かみ》の|言葉《ことば》は|悪人《あくにん》の|耳《みみ》には、きつう|応《こた》へませう。お|気《き》の|毒《どく》|様《さま》|乍《なが》ら|此《この》|生宮《いきみや》は|世界《せかい》|万民《ばんみん》|救済《きうさい》の|為《ため》、チツトお|耳《みみ》が|痛《いた》うても|云《い》ふ|丈《だ》け|云《い》はして|貰《もら》ひませう。|弥勒様《みろくさま》の|因縁《いんねん》を|知《し》つて|居《ゐ》ますか、|一厘《いちりん》の|仕組《しぐみ》が|分《わか》りますか、エー、よもや|解《わか》りますまい。ヘン、|一厘《いちりん》の|仕組《しぐみ》も|分《わか》らぬ|癖《くせ》に|偉《えら》さうに|云《い》ふものぢやないわ』
|赤《あか》『|白《しろ》さま、|早《はや》く|何処《どこ》かへやつて|下《くだ》さい』
|白《しろ》『コレコレ|高姫《たかひめ》さま、ここは|八衢《やちまた》だからお|前《まへ》は|早《はや》く|何処《どこ》かへ|行《い》つて|下《くだ》さい。|職務《しよくむ》の|邪魔《じやま》になりますからな』
|高姫《たかひめ》『コウリヤ|白狐《しろぎつね》、お|前《まへ》は|赤狐《あかぎつね》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて|此《この》|日《ひ》の|出神《でのかみ》を|放出《ほりだ》さうとするのか。ハテ|悪《わる》い|量見《れうけん》だぞえ。よう|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|天地《てんち》の|間《あひだ》は|何一《なにひと》つ|弥勒様《みろくさま》のお|構《かま》ひなさらぬ|処《ところ》はないぞえ。お|土《つち》とお|水《みづ》とお|火《ひ》の|御恩《ごおん》を|知《し》つてますか。その|本《もと》を|掴《つか》んだ|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒《おほみろく》さまを|何《なん》と|心得《こころえ》て|厶《ござ》る。|扨《さ》ても|扨《さ》ても|盲《めくら》|程《ほど》|困《こま》つた|者《もの》は|無《な》いワイ。ヤ|最前《さいぜん》から|怪体《けたい》な|男《をとこ》が|立《た》つて|居《を》ると|思《おも》つたが、お|前《まへ》はアブナイ|教《けう》の|菊石彦《みつちやひこ》だな。|先《さき》|程《ほど》は|大《おほ》きに|憚《はばか》りさま、ヨー|突《つ》き|倒《たふ》して|下《くだ》さつた。コレコレ|赤《あか》に|白《しろ》、|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|吩咐《いひつ》ける。|此《この》|菊石彦《みつちやひこ》は|此《この》|生宮《いきみや》を|引倒《ひきたふ》した|悪人《あくにん》だから|一《ひと》つきつい|制敗《せいばい》に|遭《あ》はしなさい。|屹度《きつと》|申付《まをしつ》けて|置《お》きますぞや』
|白《しろ》の|守衛《しゆゑい》は|止《や》むを|得《え》ず、|棕櫚箒《しゆろばうき》を|以《もつ》てシャル、|高姫《たかひめ》の|両人《りやうにん》に|向《むか》つて|掃出《はきだ》した。|二人《ふたり》は|驚《おどろ》いて|雲《くも》を|霞《かすみ》と|南《みなみ》を|指《さ》して|逃《に》げて|行《ゆ》く。
|三千彦《みちひこ》『モシ、|門番様《もんばんさま》、ここは|実際《じつさい》の|霊界《れいかい》で|厶《ござ》いますか』
|赤《あか》『ハイ、さうです。|貴方《あなた》はアンブラック|川《がは》へ|悪者《わるもの》に|縛《しば》られ|投《な》げ|込《こ》まれなさつた|一刹那《いちせつな》、|気絶《きぜつ》なさつた|為《ため》、|精霊《せいれい》が|此処《ここ》へ|遊行《いうかう》して|来《き》たのですよ。|神《かみ》の|化身《けしん》のスマートと|云《い》ふ|義犬《ぎけん》が|矢場《やには》に|川《かは》に|跳《と》び|込《こ》み、|貴方《あなた》の|死骸《しがい》を|啣《くわ》へて|堤《つつみ》へ|引上《ひきあ》げ、|縛《いましめ》を|解《と》いて|今《いま》|一生懸命《いつしやうけんめい》に|貴方《あなた》の|肉体《にくたい》に|対《たい》し|介抱《かいはう》をして|居《を》ります。|軈《やが》てスマートが|迎《むか》へに|来《く》るでせうから|一緒《いつしよ》にお|帰《かへ》りなさい。まだ|此処《ここ》に|来《く》る|時《とき》ではありませぬ。そしてテルモン|山《ざん》に|悪者《わるもの》が|跳梁《はびこ》つて|居《ゐ》ますから|充分《じうぶん》|注意《ちうい》して|臨《のぞ》まねばなりますまい』
|三千彦《みちひこ》『さう|承《うけたまは》らば|幽《かす》かに|記憶《きおく》に|浮《うか》んで|来《き》ます。|矢張《やつぱり》|私《わたし》は|溺死《できし》したのですかいな。|霊界《れいかい》と|云《い》ふ|所《ところ》は|現界《げんかい》と|少《すこ》しも|違《たが》はない|所《ところ》ですな。|一《ひと》つ|不思議《ふしぎ》なのは、あの|高姫《たかひめ》さまは|命《いのち》がなくなつたと|聞《き》いて|居《を》りましたのに|随分《ずいぶん》えらい|脱線振《だつせんぶ》り、あの|方《かた》も|矢張《やつぱり》|霊界《れいかい》に|居《を》られるのですかな』
|赤《あか》『まだ|現界《げんかい》に|三十年《さんじふねん》|許《ばか》り|生命《せいめい》が|残《のこ》つて|居《を》りますが|余《あんま》り|現界《げんかい》で|邪魔《じやま》をするので、|時置師神《ときおかしのかみ》|様《さま》がお|出《いで》になり、|伊吹戸主《いぶきどぬし》の|大神《おほかみ》にお|願《ねが》ひ|遊《あそ》ばして、|三年《さんねん》が|間《あひだ》|中有界《ちううかい》に|放《はな》つてあるので|厶《ござ》います。|三年《さんねん》すれば|屹度《きつと》|外《ほか》の|肉体《にくたい》に|憑《かか》つて|再《ふたた》び|現界《げんかい》で|活動《くわつどう》するでせう。|今《いま》の|精神《せいしん》で|現界《げんかい》に|行《ゆ》かれちや、やりきれませぬから、あと|二年《にねん》の|間《あひだ》に|充分《じうぶん》の|修業《しうげふ》をさして|現界《げんかい》に|還《かへ》す|積《つも》りです』
|三千彦《みちひこ》『|成程《なるほど》、|何《なに》から|何《なに》まで、|神様《かみさま》のなさる|事《こと》はよく|行《ゆ》き|渡《わた》つたものですな。|併《しか》し|乍《なが》ら|三年《さんねん》の|後《のち》には|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》は|最早《もはや》|駄目《だめ》でせう』
|赤《あか》『|三年《さんねん》の|後《のち》に|生命《いのち》|尽《つ》きて|霊界《れいかい》に|来《く》る|肉体《にくたい》がありますから、|其《その》|肉体《にくたい》に|高姫《たかひめ》の|精霊《せいれい》を|宿《やど》らせ、|残《のこ》り|三十年《さんじふねん》を|現界《げんかい》で|活動《くわつどう》させる|手筈《てはず》となつて|居《を》ります』
|三千彦《みちひこ》『ア、さうですか。|三年先《さんねんさき》になれば|誰《たれ》かの|肉体《にくたい》に|憑《うつ》つて|脱線的《だつせんてき》|布教《ふけう》をやるのですな、|困《こま》つたものですな』
|赤《あか》『もう|已《すで》に|一年《いちねん》を|経過《けいくわ》したのだから、|後《あと》|二年《にねん》ですよ。あの|我執《がしふ》|我見《がけん》を|此《この》|二年《にねん》の|間《あひだ》に|何《なん》とか|改良《かいりやう》せねばならぬのですから、|霊界《れいかい》に|於《おい》ても|大変《たいへん》|手古摺《てこず》つて|居《ゐ》ます。|今《いま》は|岩山《いはやま》の|麓《ふもと》に|小《ちひ》さき|家《いへ》を|建《た》てて|一人暮《ひとりぐら》しをして|居《ゐ》ますが、マア|一人《ひとり》で|暮《くら》して|居《を》れば|余《あま》り|害《がい》がないから|大神様《おほかみさま》も|大目《おほめ》に|見《み》て|厶《ござ》るのですよ。エンゼルが|行《い》つても|減《へ》らず|口《ぐち》|計《ばか》りたたいて、|受付《うけつ》けぬから|困《こま》つたものです。|人間《にんげん》の|精霊《せいれい》も、あれ|丈《だ》け|我執《がしふ》に|固《かた》まつて|了《しま》つては|仕方《しかた》の|無《な》いものですワイ』
|斯《か》く|話《はな》す|時《とき》しも|南《みなみ》の|方《はう》より|宙《ちう》を|跳《と》んで|走《はし》り|来《く》る|一頭《いつとう》の|猛犬《まうけん》、『ウーウー、ウワツ ウワツ』と|二声《ふたこゑ》|三声《みこゑ》|高《たか》く|叫《さけ》んだ。|此《この》|声《こゑ》にハツと|気《き》がつき|四辺《あたり》を|見《み》れば|今《いま》|迄《まで》の|八衢《やちまた》の|光景《くわうけい》は|影《かげ》もなく|消《き》え|失《う》せ、アンブラック|川《がは》の|堤《どて》の|青芝《あをしば》の|上《うへ》に|横《よこ》たはつて|居《ゐ》た。|側《そば》には|猛犬《まうけん》スマートが|行儀《ぎやうぎ》よく|坐《すわ》つて|嬉《うれ》しげに|三千彦《みちひこ》の|顔《かほ》を|眺《なが》め|尾《を》を|掉《ふ》つて|居《ゐ》る。テルモン|山《ざん》の|方《はう》を|眺《なが》むれば|黒煙《こくえん》|濛々《もうもう》として|立《た》ち|上《のぼ》り|黒雲《くろくも》の|如《ごと》く|空《そら》を|封《ふう》じて|居《ゐ》る。|月《つき》は|黒煙《こくえん》の|間《あひだ》に|隠顕《いんけん》|出没《しゆつぼつ》しつつ|足早《あしばや》に|走《はし》る|如《ごと》く|見《み》えて|居《ゐ》る。
(大正一二・三・二五 旧二・九 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第一三章 |悪酔怪《あくすゐくわい》〔一四六三〕
ワックスは|父《ちち》の|病《やまひ》|旦夕《たんせき》に|迫《せま》り、|嬉《うれ》しうもあり|悲《かな》しうもあり、|大事《だいじ》の|嬶《かか》を|死《し》なして|同時《どうじ》に|美人《びじん》の|芸者《げいしや》を|後連《あとづ》れに|貰《もら》うたやうな、|悲喜《ひき》|交々《こもごも》の|体《てい》であつた。|其処《そこ》へ、エキス、ヘルマンの|二人《ふたり》が|幾度《いくど》とやくなつて|来《き》て、|金《かね》を【むし】り|取《と》り、|今《いま》|又《また》|大枚《たいまい》|六百両《ろくぴやくりやう》|強奪《がうだつ》して|立《た》ち|去《さ》り、|三十日《さんじふにち》の|後《のち》には|再《ふたた》び|無心《むしん》に|来《く》ると|下駄《げた》を|預《あづ》けて|帰《かへ》つたので、|心《こころ》も|心《こころ》ならず、|何《なん》とかして|強力《きやうりよく》なる|団体《だんたい》を|造《つく》り、|二人《ふたり》の|害《がい》を|免《まぬが》れむものと|苦心《くしん》|惨憺《さんたん》の|結果《けつくわ》、|無《な》い|智恵《ちゑ》を|搾《しぼ》り|出《だ》して|悪酔怪《あくすゐくわい》なるものを|編《あ》み|出《だ》したのである。そして|一方《いつぱう》にはアンブラック|川《がは》に|投《な》げ|込《こ》んだる、|三五教《あななひけう》の|三千彦《みちひこ》が、スマートに|助《たす》けられ、|何処《どこ》かに|姿《すがた》を|隠《かく》したと|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて|心《こころ》も|心《こころ》ならず、|今《いま》の|中《うち》に|強力《きようりよく》なる|団体《だんたい》を|組織《そしき》し、|三千彦《みちひこ》を|威喝《ゐかつ》し|又《また》|自分《じぶん》の|悪事《あくじ》の|暴露《ばくろ》したる|時《とき》は、この|団体《だんたい》の|力《ちから》を|以《もつ》て|防《ふせ》がむと|千思万慮《せんしばんりよ》の|結果《けつくわ》、|同志《どうし》を|糾合《きうがふ》して|本会《ほんくわい》を|設立《せつりつ》したのである。|本会《ほんくわい》の|敵《てき》とする|所《ところ》は|三千彦《みちひこ》のみならず、|水平会《すいへいくわい》をも|唯一《ゆゐいつ》の|敵《てき》と|見做《みな》し、|弱《よわ》きを|挫《くじ》き|強《つよ》きに|従《したが》ふと|云《い》ふ、|奇妙奇天烈《きめうきてれつ》な|結社《けつしや》である。
ワックスは|創立委員長《さうりつゐゐんちやう》としてテルモン|山《ざん》の|議事堂《ぎじだう》に|集《あつ》まり、オークスを|臨時《りんじ》|痴爺《ちぢ》として|開怪《かいくわい》の|辞《じ》を|朗読《らうどく》せしめたのである。|今《いま》|左《さ》に|開怪《かいくわい》の|辞《じ》と|縮辞《しゆくじ》、|並《ならび》に|挨拶《あいさつ》を|摘記《てきき》する|事《こと》にした。アア|叶《かな》はぬから|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
|弱《よわ》きを|挫《くじ》き|強《つよ》きを|助《たす》く、|天晴男《てんせいだん》の|悪酔怪《あくすゐくわい》
|痴爺《ちぢ》の|縮辞《しゆくじ》と|怪長《くわいちやう》の|瞹擦《あいさつ》
|大《だい》テルモン|国《ごく》、|悪酔怪《あくすゐくわい》、スマネーケン|凡夫《ほんぶ》|発怪色《はつくわいしき》は、|鬼報《きはう》の|通《とほ》り、|二重惨《にぢうさん》|日《にち》|午後《ごご》|一《いち》|爺《ぢ》より|待合《まちあひ》に|於《おい》て|開催《かいさい》されたが、|尾皮《をがは》|怪長《くわいちやう》の|辞《じ》、|並《ならび》に|痴爺《ちぢ》の|縮辞《しゆくじ》は|左《さ》の|通《とほ》りであつた。
|開怪《かいくわい》の|辞《じ》
|隔靴《かくくわ》、|並《ならび》に|頭掻位《あたまかくゐ》の|臨場《りんぢやう》を|忝《かたじけ》なふし、|怪員《くわいゐん》|笑死《しよし》の|出席《しゆつせき》を|得《え》、|茲《ここ》に|大《だい》テルモン|国《ごく》、|悪酔怪《あくすゐくわい》スマネーケン|凡夫《ほんぶ》|発怪式《はつくわいしき》を|狂行《きよかう》するに|至《いた》りたるは|金睾《きんかう》とする|所《ところ》|也《なり》。|思《おも》ふに|我《わが》テルモン|国《ごく》は|一大蚊属国《いちだいかぞくこく》にして、バラモン|神祖《しんそ》|以来《いらい》|歴代《れきだい》|盗《たう》を|垂《た》れ|蛮民《ばんみん》を|撫育《ぶいく》し、|化身哀哭《けんしんあいこく》の|心情《しんじやう》を|発露《はつろ》し|上下不和《しやうかふわ》もつて|辛《から》うじて|国家《こくか》を|支持《しぢ》し|国威《こくゐ》を|中外《ちうぐわい》に|失墜《しつつゐ》し、|烈国《れつこく》|平和《へいわ》の|攪乱《かくらん》をなす。これ|我国《わがくに》の|情弊《じやうへい》にして、|宇内《うだい》に|冠絶《くわんぜつ》する|所以《ゆゑん》なり。|然《しか》るにバラモン|軍《ぐん》と、|三五軍《あななひぐん》との|大戦《たいせん》|以来《いらい》、|死葬怪《しさうくわい》|悪化《あくくわ》の|影響《えいきやう》を|受《う》け、|仁義《じんぎ》|道徳《だうとく》|漸《やうや》く|廃《すた》れ、|盛《さか》んに|弱肉強食《じやくにくきやうしよく》|行《おこな》はれ、|社会《しやくわい》の|秩序《ちつじよ》|全《まつた》く|紊乱《ぶんらん》せむとす。|加《くは》ふるに|物質的《ぶつしつてき》|卑吝《ひりん》の|発達《はつたつ》と|学研的《がくけんてき》|陋説《ろうせつ》の|横行《わうかう》とは|正《まさ》にテルモン|国《ごく》の|人民《じんみん》を|犯《をか》して|今《いま》や|正《まさ》に|解乱《かいらん》せむとす。|外《そと》に|国際状態《こくさいじやうたい》を|案《あん》ずるに、|其《その》|実力的《じつりよくてき》|圧迫《あつぱく》の|過重《くわぢゆう》に|堪《た》へ|得《う》るやの|疑惧《ぎぐ》あり。|内憂外患《ないいうぐわいくわん》|交々《こもごも》|至《いた》る|現状《げんじやう》は|上下《しやうか》|三十五万年《さんじふごまんねん》|未《いま》だ|嘗《かつ》て|見《み》ざる|鬼期《きき》を|目睫《もくせふ》の|間《あひだ》に|控《ひか》へたるものと|言《い》ふべし。|吾《われ》、|徳《とく》、|学《がく》あり、|智《ち》あり、|財《ざい》あるなし。|併《しか》し|栄位《えいゐ》を|有《いう》すと|雖《いへど》も、バラモン|神祖《しんそ》より|享受《きやうじゆ》せるバラモン|魂《だましひ》は|茫漠《ばうばく》として|存《そん》す。|此《この》|発露《はつろ》によりて、|金権《きんけん》に|屈《くつ》するの|気骨《きこつ》を|有《いう》す。|同情《どうじやう》に|泣《な》く|涙《なみだ》を|有《いう》せず。|時勢《じせい》を|慨《がい》する|熱血《ねつけつ》なく、|献身《けんしん》|奉公《ほうこう》の|仁侠《じんけふ》を|有《いう》せず、|斯《かく》の|如《ごと》き|不正意《ふせいい》をもつて|立《た》つて|時患《じくわん》を|救済《きうさい》すべからざる|時《とき》の|来《きた》れるものと|覚悟《かくご》す。これ|大《だい》テルモン|国《ごく》、|悪酔怪《あくすゐくわい》の|生《うま》れたる|所以《ゆゑん》なり。スマネーケン|同志《どうし》|之《これ》に|狂鳴《きやうめい》し、|力《ちから》を|分《わか》ち、|心《こころ》を|二《ふた》つにして|奉公《ほうこう》の|実《じつ》を|上《あ》げざらむとす。|幸《さいはひ》に|隔靴《かくくわ》|並《ならび》に|頭掻位《あたまかくゐ》の|御援助《ごゑんじよ》と|会員《くわいいん》|一同《いちどう》の|御賛助《ごさんじよ》を|得《え》て、|呱々《ここ》の|声《こゑ》を|上《あ》ぐるを|得《え》たるは、|金塊《きんくわい》|禁《きん》ずる|能《あた》はざる|所《ところ》なり。|希《こひねが》はくは|怪員《くわいゐん》|諸氏《しよし》は|一層《いつそう》|自製《じせい》|発糞《はつぷん》もつて|凡怪《ほんくわい》の|臭意《しゆい》、|目的《もくてき》の|貫徹《くわんてつ》に|務《つと》められむ|事《こと》を|鬼望《きばう》す。|敢《あへ》て|心情《しんじやう》を|披瀝《ひれき》して|謝辞《しやじ》を|述《の》べ、|開怪《かいくわい》の|爺《ぢ》とす。
バラモン|始終苦《しじうく》|念《ねん》|惨《さん》|喝《かつ》|惨重惨《さんぢうさん》|日《にち》 |拙立《せつりつ》|異淫長《いいんちやう》ワックス
|痴爺《ちぢ》|縮辞《しゆくじ》
|茲《ここ》に|悪酔怪《あくすゐくわい》はスマネーケン|凡夫《ほんぶ》|拙立《せつりつ》|成《な》り、|凡日《ほんじつ》をもつて|発怪式《はつくわいしき》を|挙《あ》げられたり。|余《よ》も|此《この》|発怪式《はつくわいしき》に|列《れつ》し、|一言《いちごん》|縮意《しゆくい》を|表《へう》し、|併《あは》せて|諸怪《しよくわい》を|述《の》べる|鬼怪《きくわい》を|得《え》たるは|最《もつと》も|欣鬼《きんき》に|堪《た》へざる|所《ところ》なり。|思《おも》ふに|吾《わが》テルモン|国《ごく》は|大自在天《だいじざいてん》、|大国彦命《おほくにひこのみこと》|建国《けんこく》|以来《いらい》|三十五万年《さんじふごまんねん》|連綿《れんめん》として|万古不易《ばんこふえき》ならず。|世界《せかい》|無比《むひ》の|動乱国《どうらんこく》として|国光《こくくわう》を|宇内《うだい》に|失墜《しつつゐ》し、|国辱《こくじよく》を|海外《かいぐわい》に|発揚《はつやう》し|今《いま》や|世界《せかい》|最小《さいせう》|弱国《じやくこく》の|班《はん》に|列《れつ》するに|至《いた》る。|是《これ》|素《もと》より|大自在天《だいじざいてん》|神祖《しんそ》の|守護《しゆご》の|厚《あつ》からざる|所《ところ》にして、|国民《こくみん》|上下《しやうか》|不一致《ふいつち》の|哀哭《あいこく》の|死状《しじやう》と|偽勇《ぎゆう》|彷徨《はうくわう》、|死誠《しせい》とを|以《もつ》て|我《わが》|民族精神《みんぞくせいしん》となし、|不誠意《ふせいい》|哭家《こくか》の|隆盛《りうせい》に|貢献《こうけん》せざりしもの|与《あづか》りて|力《ちから》ありと|云《い》はざるべからず。|然《しか》るに|今回《こんくわい》、|河鹿峠《かじかたうげ》の|戦闘《せんとう》の|結果《けつくわ》として|彼我《ひが》|共《とも》に|異常《いじやう》の|変革《へんかく》を|呈《てい》し、|死想怪《しさうくわい》|又《また》|著《いちぢる》しく|混乱《こんらん》し|甚《はなはだ》しきは|過劇《くわげき》なる|死想《しさう》を|助長《じよちやう》し、|我《わが》|国《くに》も|亦《また》|此《この》|死想《しさう》の|大根元《だいこんげん》となれり。|事《こと》の|理非曲直《りひきよくちよく》|物《もの》の|正邪《せいじや》|善悪《ぜんあく》を|極《きは》めずして|附和雷同《ふわらいどう》し、この|国体《こくたい》と|相容《あひいる》る|所《ところ》の|不完全《ふくわんぜん》なる|死想《しさう》に|感染《かんせん》し、|以《もつ》て|国家《こくか》|社会《しやくわい》の|秩序《ちつじよ》を|乱《みだ》し、バラモン|国家《こくか》の|本義《ほんぎ》を|忘《わす》るべからず。|殊《こと》に|経済的《けいざいてき》の|変動《へんどう》は|労働問題《らうどうもんだい》を|惹起《じやくき》し、|労資《らうし》の|関係《くわんけい》を|紛糾《ふんきう》せしめ、|其《その》|協調《けふてう》を|破《やぶ》り、|従《したが》つて|人心《じんしん》を|不安《ふあん》に|陥《おとしい》れむとする|情勢《じやうせい》を|呈《てい》するに|至《いた》りしは、|誠《まこと》に|偉観《ゐくわん》とする|所《ところ》なり。|此《この》|時《とき》に|災《さい》し|憂国《いうこく》の|士《し》|相計《あひはか》り、バラモン|国《こく》|悪酔怪《あくすゐくわい》を|組織《そしき》し、|正義公道《せいぎこうだう》を|経《たて》とし、|仁侠死誠《じんけふしせい》を|緯《ぬき》とし、|同身一体《どうしんいつたい》|結束《けつそく》を|固《かた》くし、|以《もつ》て|時弊《じへい》を|救急《きうきふ》し、|万邦無比《ばんぱうむひ》の|動乱《どうらん》、|国《くに》を|毀損《きそん》する|如《ごと》き、|失態《しつたい》あるべからず。|狐狗狸眠副《こくりみんぷく》の|増進《ぞうしん》を|計《はか》る|事《こと》に|努力《どりよく》せざらむ|事《こと》を|期《き》し、|既《すで》に|死想団体《しさうだんたい》として|無力《むりよく》なる|地歩《ちほ》を|占《し》むるに|至《いた》りしはバラモン|国《ごく》の|為《た》め|慶賀《けいが》に|堪《た》へざる|所《ところ》なり。|由来《ゆらい》|我《わが》スマネーケンたる、|神代《かみよ》に|於《おい》てバラモン|神《しん》の|世《よ》を|統治《とうち》し、|悪政《あくせい》を|布《し》き|給《たま》ひし|以来《いらい》|邪智《じやち》の|念《ねん》|深《ふか》く、|加之《しかのみならず》テルモン|山麓《さんろく》の|一角《いつかく》に|僻在《へきざい》するを|以《もつ》て|一般《いつぱん》の|民風《みんぷう》|質素《しつそ》|剛健《がうけん》ならず、|軽挙妄動《けいきよもうどう》の|風《ふう》あり。|産業怪《さんげふくわい》の|葬儀《さうぎ》の|如《ごと》き|又《また》|多《おほ》く|顕現《けんげん》し、|勃発《ぼつぱつ》し、|動《やや》もすれば|近時《きんじ》|世《よ》の|風潮《ふうてう》に|逆《さか》らひ、|頓幸微風《とんかうびふう》、|道義観念《だうぎくわんねん》|等《とう》|漸次《ぜんじ》|廃頽《はいたい》の|傾向《けいかう》を|示《しめ》したるは|実《じつ》に|我《わが》|国体《こくたい》の|為《ため》に|金睾《きんかう》とする|所《ところ》なり。|今《いま》や|同憂《どういう》の|士《し》を|相鳩合《あひきうがふ》しバラモン|国《ごく》、|悪酔怪《あくすゐくわい》スマネーケン|凡夫《ほんぶ》を|葬説《さうせつ》して|天下惑乱《てんかわくらん》の|主義《しゆぎ》|綱領《かうりやう》を|体《たい》し、|大《おほい》に|濁世害民《ぢよくせがいみん》の|実《じつ》をあげむとす。|誠《まこと》に|時期《じき》に|適《てき》したる|愚挙《ぐきよ》にして、|其《その》|効果《かうくわ》|蓋《けだ》し|甚大《じんだい》なるものあるべしと|信《しん》ず。|希《こひねが》はくは|怪淫《くわいいん》|妾窘《しよくん》|其《その》|責任《せきにん》の|重《ぢう》|且《か》つ|大《だい》なるを|思《おも》ひ、|自重自愛《じちようじあい》、|苟《いやし》くも|本怪《ほんくわい》の|臭意《しゆい》に|反《はん》する|事《こと》なく、|不同心《ふどうしん》、|不協力《ふけふりよく》、|不確乎《ふかくこ》、|不不抜《ふふばつ》の|精神《せいしん》をもつて|凡怪《ほんくわい》の|目的《もくてき》を|達成《たつせい》し、|幽醜《いうしう》の|鼻下《びか》を|上《あ》ぐる|事《こと》に|災前《さいぜん》の|努力《どりよく》を|致《いた》し、もつて|国家《こくか》に|貢献《こうけん》せざらむ|事《こと》を|望《のぞ》む。|終《をは》りに|凡怪《ほんくわい》|不健全《ふけんぜん》なる|不発達《ふはつたつ》と|怪淫《くわいいん》|妾窘《しよくん》の|不健康《ふけんかう》を|祈《いの》る。|聊《いささ》か|蕪辞《ぶじ》を|述《の》べて|縮辞《しゆくじ》となす。
バラモン|国《こく》|始終苦《しじふく》|念《ねん》|惨《さん》|喝《かつ》|惨重惨《さんぢうさん》|日《にち》
スマネーケン|痴爺《ちぢ》 |重死位《ぢうしゐ》|窘惨倒《くんさんたふ》 |田柄屁《たからべ》|唸《うなる》
ワックスは、|式《しき》を|無事《ぶじ》に|終《をは》り|一場《いちぢやう》の|演説《えんぜつ》を|試《こころ》みた。
ワックス『|皆《みな》さま|今日《こんにち》は|御多忙中《ごたばうちう》に|関《かか》はらず|賑々《にぎにぎ》しく|御来会《ごらいくわい》|下《くだ》さいまして、|発起者《ほつきしや》|身《み》に|取《と》り|恐悦《きようえつ》|至極《しごく》に|存《ぞん》じます。|就《つい》ては、|開怪《かいくわい》の|辞《じ》に|述《の》べました|通《とほ》り、|大《だい》バラモン|国《ごく》の|主義《しゆぎ》|主張《しゆちやう》に|則《のつと》り、|弱肉強食《じやくにくきやうしよく》を|真理《しんり》と|認《みと》め、|弱《よわ》きを|挫《くじ》き、|強《つよ》きに|従《したが》ふ|時代《じだい》|思想《しさう》を|遺憾《ゐかん》なく|発揮《はつき》したもので|厶《ござ》います。|例《たと》へば|此処《ここ》に|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|一人《ひとり》|現《あら》はれたと|致《いた》しますれば、それは|果《はた》して|強者《きやうしや》で|厶《ござ》いませうか。|何事《なにごと》も|多数決《たすうけつ》を|尊《たふと》ぶ|世《よ》の|中《なか》、|吾々《われわれ》|会員《くわいゐん》は|無慮《むりよ》|数百名《すうひやくめい》、|敵《てき》は|唯《ただ》|一人《ひとり》で|厶《ござ》います。|如何《いか》に|強《つよ》いと|云《い》うても|多数《たすう》には|勝《か》てませぬ。|夫《それ》|故《ゆゑ》|三千彦《みちひこ》の|宣伝使《せんでんし》は|弱者《じやくしや》で|厶《ござ》います。|故《ゆゑ》に|宮町《みやまち》|町民《ちやうみん》の|為《ため》に|手足《てあし》を|縛《しば》られ、アンブラック|川《がは》に|投《な》げ|込《こ》まれたのはバラモン|国《ごく》の|伝統《でんとう》の|教義《けうぎ》として|最《もつと》も|尊《たふと》ぶべき|行為《かうゐ》と|思《おも》ひます。|然《しか》るに|又《また》|彼《かれ》|三千彦《みちひこ》は|四足《よつあし》に|命《いのち》を|救《すく》はれ、|此《この》テルモン|山《ざん》の|何《いづ》れにか|潜伏《せんぷく》|致《いた》して|居《ゐ》る|形跡《けいせき》がありますれば、|本会《ほんくわい》の|規則《きそく》により、|見《み》つけ|次第《しだい》|容赦《ようしや》なく|縛《しば》りつけ、|今回《こんくわい》は|石《いし》を|括《くく》りつけ|放《ほ》り|込《こ》まれたいもので|厶《ござ》います。|拙者《せつしや》の|如《ごと》きはテルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》に|於《おい》ては|家令《かれい》の|倅《せがれ》として|最《もつと》も|強《つよ》きもので|厶《ござ》います。その|最《もつと》も|強《つよ》き|者《もの》に|対《たい》してエキス、ヘルマンなどの|弱者《じやくしや》が|折々《をりをり》|金《かね》の|無心《むしん》に|参《まゐ》り、|駄々《だだ》を|捏《こ》ねまする|故《ゆゑ》、もし|今後《こんご》そんな|事《こと》を|致《いた》した|時《とき》には|会長《くわいちやう》の|私《わたし》から、|会員《くわいゐん》|諸君《しよくん》に|通知《つうち》を|発《はつ》しますから|皆《みな》さま|悪酔怪《あくすゐくわい》|設立《せつりつ》の|趣旨《しゆし》に|従《したが》つて|速《すみやか》にお|駆《かけ》つけ|下《くだ》さらむ|事《こと》を|悪酔怪《あくすゐくわい》の|規則《きそく》によつてお|願《ねが》ひして|置《お》きます』
エキスは|此《この》|時《とき》|群衆《ぐんしう》の|中《なか》より、|怒髪《どはつ》|天《てん》を|衝《つ》いて|現《あら》はれ|来《きた》り|反《そ》り|身《み》になつて、
エキス『|皆《みな》さま、|今《いま》ワックス|殿《どの》が|述《の》べられました|通《とほ》り、|弱《よわ》きを|挫《くじ》き|強《つよ》きに|従《したが》ふが|本会《ほんくわい》の|趣旨《しゆし》たる|事《こと》は|御存《ごぞん》じでせう。|一人《ひとり》の|男《をとこ》が|二人《ふたり》の|男《をとこ》に|脅迫《けふはく》され、|命《いのち》よりも|大事《だいじ》な|六百両《ろくぴやくりやう》の|金《かね》をおつ|放《ぽ》り|出《だ》し、|命《いのち》を|助《たす》けて|貰《もら》うたものがありとすれば、|皆《みな》さまどちらが|強《つよ》いと|思《おも》はれますか、|又《また》|二人《ふたり》と|一人《ひとり》とは、|何方《どちら》が|強《つよ》いと|思《おも》ひますか。|本会《ほんくわい》の|主義《しゆぎ》|精神《せいしん》に|基《もとづ》いて|拙者《せつしや》|等《ら》|両人《りやうにん》が|強者《きやうしや》なる|事《こと》を|認《みと》め、|拙者《せつしや》|等《ら》|二人《ふたり》がワックスの|館《やかた》に|押寄《おしよ》せたる|時《とき》は、|何卒《なにとぞ》|御援助《ごゑんじよ》を|願《ねが》ひます。|此《こ》のワックスと|云《い》ふ|奴《やつ》は、|宮町《みやまち》の|町民《ちやうみん》を|馬鹿《ばか》に|致《いた》して|居《ゐ》る|人犬《にんげん》で|厶《ござ》いますから、|皆《みな》さま|御用心《ごようじん》なさいませ。|家々《いへいへ》の|大切《たいせつ》な|宝《たから》をあの|騒動《さうだう》に|紛《まぎ》れ|盗《ぬす》ませたのはワックスで|厶《ござ》いますよ。|其《その》|窃盗《せつとう》の|衝《しよう》に|当《あた》つた|強者《きやうしや》は|此処《ここ》に|二人《ふたり》|許《ばか》り|顔《かほ》を|並《なら》べて|居《ゐ》られます。これは|皆様《みなさま》の|御判断《ごはんだん》に|任《まか》す|事《こと》に|致《いた》しませう』
|聴衆《ちやうしう》の|中《なか》より、
『オイ、エキス、それや|本当《ほんたう》か、よもや|嘘《うそ》ではあるまいな』
エキス『|滅相《めつさう》な、|何程《なにほど》|悪酔怪《あくすゐくわい》だと|云《い》つて、そんな|見《み》え|透《す》いた|嘘《うそ》が|申《まを》されませうか。|宝《たから》の|泥坊《どろばう》は|全《まつた》くワックス|以下《いか》|両人《りやうにん》の|仕事《しごと》で|厶《ござ》います。そして|其《その》|盗《ぬす》まれた|品《しな》はテルモン|山《ざん》の|鳩《はと》の|岩窟《いはや》にすつかり|隠《かく》して|厶《ござ》いますから、|嘘《うそ》と|思《おも》はれるなら|皆《みな》さま|行《い》つて|調《しら》べて|御覧《ごらん》なさい』
ワックスは|二《ふた》つ|三《みつ》つ|咳払《せきばら》ひをしながら、
ワックス『|皆《みな》さま、エキスの|言葉《ことば》に|誑《だま》されてはなりませぬ。|現在《げんざい》|宝《たから》の|隠《かく》し|場所《ばしよ》を|知《し》つて|居《ゐ》る|以上《いじやう》、|御本人《ごほんにん》が|盗《ぬす》んだに|相違《さうゐ》|厶《ござ》いませぬ。|本人《ほんにん》が|盗《ぬす》まぬのに|知《し》つて|居《ゐ》る|筈《はず》がありますまい』
|悪酔怪《あくすゐくわい》と|称《しよう》する|一同《いちどう》は|忽《たちま》ち|総立《さうだち》となり、
|一同《いちどう》『ワックスを|撲《なぐ》れ、エキスを|殺《ころ》せ』
と|猛《たけ》り|狂《くる》うた。
|此《この》|騒《さわ》ぎにワックス、エキス、オークス、ビルマは|細《ほそ》くなつて、テルモン|山《ざん》の|山奥《やまおく》|指《さ》して|一散《いつさん》に|駆出《かけだ》した。そこへ、エルが|睾丸《きんたま》を|押《おさ》へ|乍《なが》らエチエチと|演壇《えんだん》に|登《のぼ》り|来《きた》り|大喝一声《たいかついつせい》、
エル『|皆様《みなさま》お|静《しづ》まりなさいませ、|貴方方《あなたがた》は|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》ぢやありませぬか。ワックス|様《さま》を|初《はじ》め|其《その》|外《ほか》の|方々《かたがた》がどうしてそんな|事《こと》をなさいませう。|発会式《はつくわいしき》の|余興《よきよう》に|皆《みな》さま|方《がた》の|肝玉《きもだま》を|試《ため》さむと|思《おも》ひ|故意《わざ》とにあんな|事《こと》を|云《い》うて|喧嘩《けんくわ》をして|見《み》せられたのです。|皆《みな》さまこれから|鉢巻《はちまき》をして|腹帯《はらおび》を|締《し》め、|弱《よわ》きを|挫《くじ》き|強《つよ》きに|従《したが》ふの|大精神《だいせいしん》になつて|貰《もら》はなくてはなりませぬ。|今《いま》のワックス、エキスの|争《あらそ》ひは|八百長《やほちやう》ですから、|本当《ほんたう》にしてはなりませぬ。それよりもバラモン|教《けう》の|聖地《せいち》に、|幾度《いくたび》となく|入《い》り|込《こ》み|来《きた》る|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|防《ふせ》ぐために、|貴方方《あなたがた》のお|力《ちから》を|頼《たの》まねばなりませぬ。|其《その》|為《ため》に|本会《ほんくわい》を|組織《そしき》したので|厶《ござ》います。|水平会《すゐへいくわい》などを|相手《あひて》にするのが|目的《もくてき》ぢやありませぬ。|皆《みな》さまは|非常《ひじやう》な|特権《とくけん》を|与《あた》へられて|居《ゐ》る|事《こと》を|知《し》つて|居《ゐ》ますか』
|群衆《ぐんしう》の|中《なか》より、
『その|特権《とくけん》とは|何《なん》だ。|詳細《しやうさい》に|説明《せつめい》を|願《ねが》ふ』
エル『|其《その》|特権《とくけん》と|申《まを》すのは|表面《へうめん》には|申《まを》されませぬが、|月《つき》の|国《くに》、ハルナの|都《みやこ》の|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》より、|烏鷺《うろ》の|勝負《しようぶ》の|黙認《もくにん》を|得《え》て|居《ゐ》るので|厶《ござ》います。それ|故《ゆゑ》|昼間《ひるま》|褞袍《どてら》を|着《き》てウロウロ|致《いた》し、ウロをうつて|居《ゐ》ても|見《み》て|見《み》ぬ|風《ふう》をするから|夫《それ》が|第一《だいいち》の|特権《とくけん》です。|皆《みな》さま|是《これ》から|悪酔怪《あくすゐくわい》の|万歳《ばんざい》を|三唱《さんしやう》し、|悪酔踊《あくすゐをど》りでも|盛《さか》んにやつて|本会《ほんくわい》の|創立《さうりつ》を|心《こころ》から|祝《しゆく》して|下《くだ》さいませ。|酒《さけ》は|弱者《じやくしや》から|徴発《ちようはつ》して|来《き》たのが|沢山《たくさん》に|厶《ござ》いますから』
|一同《いちどう》『ウロー、ウロー』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|荒《あら》くれ|男《をとこ》が、|毛脛《けずね》を|出《だ》して|縦横《たてよこ》|十文字《じふもんじ》に|踊《をど》り|狂《くる》ひ、|議事堂《ぎじだう》は|忽《たちま》ち|床《ゆか》|墜落《つゐらく》し、|数百《すうひやく》の|鼠《ねずみ》が|驚《おどろ》いて|一生懸命《いつしやうけんめい》に|戸外《こぐわい》に|逃《に》げ|出《だ》し、
『クウクウクウ チウチウチウチウ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|強者《きやうしや》に|敵《てき》し|難《がた》く|弱《よわ》り|切《き》つて|叢《くさむら》の|中《なか》へ|命《いのち》からがら|逃《に》げて|行《ゆ》く。|嗚呼《ああ》|叶《かな》はぬから|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
|弱《よわ》きをば|扶《たす》け|強《つよ》きを|挫《くじ》くとは
|表面《へうめん》ばかり|鬼《おに》の|念仏《ねんぶつ》。
その|実《じつ》は|弱身《よわみ》につけ|込《こ》む|風《かぜ》の|神《かみ》
|強《つよ》い|奴等《やつら》に|尾《を》を|掉《ふ》る|偽侠《ぎけふ》よ。
(大正一二・三・二五 旧二・九 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第一四章 |人畜《にんちく》〔一四六四〕
テルモン|山《ざん》の|山麓《さんろく》の|楠《くす》の|岩窟《いはや》には、|神館《かむやかた》の|姉娘《あねむすめ》デビス|姫《ひめ》を|悪狐《あくこ》の|化物《ばけもの》として|押込《おしこ》めてあつた。|宮町《みやまち》|一般《いつぱん》の|老若男女《らうにやくなんによ》は|八九分通《はちくぶどほ》りまで|実《まこと》の|姫《ひめ》とは|知《し》らず、|何《いづ》れも|妖怪《えうくわい》の|変化《へんげ》とのみ|信《しん》じ、|恐《おそ》れて|近《ちか》づく|者《もの》が|無《な》かつた。ワックスは|夜《よる》|密《ひそ》かに|燈火《あかり》を|点《てん》じ、|親切《しんせつ》らしく|窟内《くつない》の|姫《ひめ》を|訪《と》うた。|姫《ひめ》は|暗《くら》がりの|窟内《くつない》に|端坐《たんざ》し、|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》つて|居《ゐ》る。
デビス|姫《ひめ》『|世《よ》は|常暗《とこやみ》となり|果《は》てて |月日《つきひ》の|影《かげ》も|薄《うす》らぎつ
|悪魔《あくま》は|四方《よも》に|横行《わうかう》し |善《ぜん》を|損《そこな》ひ|悪《あく》を|助《たす》け
|所在《あらゆる》|手段《しゆだん》を|廻《めぐ》らして テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》
|狙《ねら》ひ|居《ゐ》るこそ|嘆《うた》てけれ |家令《かれい》の|倅《せがれ》ワックスは
|表《おもて》に|善《ぜん》を|標榜《へうぼう》し |甘《あま》き|言葉《ことば》を|並《なら》べつつ
|尻《しり》に|剣《けん》|持《も》つ|蜜蜂《みつばち》の |空《そら》|恐《おそ》ろしき|悪漢《しれもの》ぞ
|妾《わらは》を|日頃《ひごろ》|恋《こ》ひ|慕《した》ひ |目尻《めじり》を|下《さ》げて|寄《よ》り|来《きた》る
そのスタイルの|嫌《いや》らしさ |妾《わらは》はもとより|女《をんな》の|身《み》
|何《いづ》れは|夫《をつと》を|持《も》つ|身《み》なれど せめて|男《をとこ》らしき|益良夫《ますらを》を
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》と|崇《あが》めつつ |父《ちち》の|家《いへ》をば|克《よ》く|守《まも》り
|母《はは》の|心《こころ》を|慰《なぐさ》めて |神《かみ》の|御為《おんため》|世《よ》の|為《ため》に
|誠《まこと》|一《ひと》つを|立通《たてとほ》し |此《この》|世《よ》の|鑑《かがみ》と|謳《うた》はれて
|恵《めぐ》みの|露《つゆ》を|民草《たみぐさ》の |上《うへ》に|浸《ひた》しつ|神《かみ》の|子《こ》と
|生《うま》れ|出《い》でたる|務《つと》めをば |尽《つく》さむものと|朝夕《あさゆふ》に
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|祈《いの》りしが |如何《いか》なる|悪魔《あくま》のさやりしか
|大黒主《おほくろぬし》の|開《ひら》きたる |珍《うづ》の|聖地《せいち》も|何日《いつ》しかに
|魔神《まがみ》の|棲処《すみか》となり|果《は》てて |吾《わが》|家《や》の|為《ため》に|力《ちから》をば
|尽《つく》して|仕《つか》へ|奉《まつ》るべき |家令《かれい》の|倅《せがれ》ワックスは
|恋《こひ》の|虜《とりこ》と|成《な》り|果《は》てて |日毎《ひごと》|夜毎《よごと》の|悪企《わるだく》み
|大黒主《おほくろぬし》の|残《のこ》されし |如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》を|盗《ぬす》み|出《だ》し
|妾《わらは》が|家《いへ》に|仇《あだ》をなし |父《ちち》と|母《はは》とを|苦《くる》しめて
|往生《わうじやう》づくめに|妾《わらは》をば |妻《つま》となさむと|企《たく》らみつ
|振舞《ふるま》ひたるぞ|憎《にく》らしき |父《ちち》は|心《こころ》を|苦《くる》しめて
|重《おも》き|病《やまひ》に|臥《ふ》し|玉《たま》ひ |命《いのち》の|程《ほど》も|計《はか》られぬ
|御身《おんみ》とこそはなり|玉《たま》ひ |悲嘆《ひたん》の|涙《なみだ》は|神館《かむやかた》
|時《とき》じく|降《ふ》りて|晴《は》れ|間《ま》なく |苦《くる》しみ|悶《もだ》ゆる|親娘《おやこ》の|心《こころ》
|憐《あは》れみ|玉《たま》へ|物凄《ものすご》き |深山《みやま》の|奥《おく》に|只《ただ》|一人《ひとり》
|夜《よ》な|夜《よ》な|通《かよ》ひて|水垢離《みづごうり》 |三七日《さんしちにち》の|其《その》|揚句《あげく》
さも|恐《おそ》ろしき|盗人《ぬすびと》に |途中《とちう》に|出会《であ》ひ|玉《たま》の|緒《を》の
|命《いのち》|絶《た》えむとする|時《とき》ゆ |三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》
|求道居士《きうだうこじ》が|妹《いもうと》の ケリナを|伴《ともな》ひ|来《きた》りまし
|妾《わらは》の|命《いのち》を|救《すく》ひつつ |仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|心《こころ》もて
ベルとヘルとの|二人《ふたり》まで |救《すく》はせ|玉《たま》ひし|健気《けなげ》さよ
|妾《わらは》は|居士《こじ》に|従《したが》ひて |露《つゆ》おく|野路《のぢ》をスタスタと
パインの|森《もり》に|立向《たちむか》ひ |少時《しばし》|休《やす》らふ|折《を》りもあれ
|鉦《かね》や|太鼓《たいこ》でドンチヤンと |旗指物《はたさしもの》を|押立《おした》てて
|進《すす》み|来《きた》りしワックスが |数多《あまた》の|町人《ちやうにん》|使嗾《しそう》して
|妾《わらは》を|狐《きつね》の|化身《けしん》ぞと |云《い》ひくるめつつ|手足《てあし》をば
|固《かた》く|縛《しば》つて|岩窟《がんくつ》に |投《な》げ|込《こ》みたるぞ|恐《おそ》ろしき
|如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》は|今《いま》|何処《いづこ》 |父《ちち》の|命《いのち》は|今《いま》もまだ
つづかせ|玉《たま》ふか|雁《かりがね》の |便《たよ》りもがなと|思《おも》へども
|尋《たづ》ねむ|由《よし》もなく|斗《ばか》り |求道居士《きうだうこじ》や|妹《いもうと》の
|身《み》の|上《うへ》|如何《いか》になりしかと |思《おも》へば|胸《むね》も|張《は》り|裂《さ》くる
|此《この》|苦《くるし》みを|如何《いか》にして |癒《い》やさむ|術《すべ》もなき|倒《たふ》れ
|舌《した》|噛《か》み|切《き》つて|死《し》なむかと |思《おも》ひしことも|幾度《いくたび》か
さはさり|乍《なが》ら|待《ま》てしばし |年《とし》|老《お》い|玉《たま》ひし|父母《ちちはは》の
|此《この》|世《よ》に|居《ゐ》ますその|限《かぎ》り |短気《たんき》を|起《おこ》し|身《み》|失《う》せなば
|不孝《ふかう》の|罪《つみ》の|重《かさ》なりて |未来《みらい》の|程《ほど》も|恐《おそ》ろしと
|又《また》とり|直《なほ》す|心《こころ》の|弓《ゆみ》 |矢竹心《やたけごころ》の|何処《どこ》までも
|通《とほ》さにやおかぬ|吾《わが》|思《おも》ひ |三五教《あななひけう》を|守《まも》ります
|国治立《くにはるたち》の|大御神《おほみかみ》 |豊国主《とよくにぬし》の|大御神《おほみかみ》
|果敢《はか》なき|吾等《われら》が|身《み》の|上《うへ》を |守《まも》らせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|御前《みまへ》に|慎《つつし》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の |神《かみ》の|教《をしへ》は|世《よ》を|救《すく》ふ
|救《すく》ひの|神《かみ》を|頼《たの》めよと |宣《の》らせ|玉《たま》ひし|師《し》の|君《きみ》の
|言葉《ことば》は|今《いま》に|忘《わす》られず いと|懐《なつか》しき|求道居士《きうだうこじ》
|健《まめ》で|居《ゐ》ませや|妹《いもうと》よ それにつけてもヘル|司《つかさ》
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|大神《おほかみ》の |恵《めぐ》みの|露《つゆ》を|身《み》に|浴《あ》びて
|岩窟《いはや》の|中《なか》の|苦《くる》しみを |免《のが》れ|出《い》でませ|惟神《かむながら》
|神《かみ》かけ|祈《いの》り|奉《たてまつ》る |三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》
|一度《いちど》に|開《ひら》く|例《ためし》もあるに |梅《うめ》と|桜《さくら》に|譬《たと》ふべき
|吾《わが》|姉妹《おとどひ》は|如何《いか》にして |蕾《つぼみ》の|花《はな》の|開《ひら》かざる
|早《はや》く|岩戸《いはと》を|何人《なにびと》か |情《なさけ》の|深《ふか》き|武士《もののふ》の
|尋《たづ》ね|来《きた》りて|開《ひら》きませ |心《こころ》の|空《そら》に|日月《じつげつ》は
|伊照《いて》り|渡《わた》れど|現身《うつそみ》の |儘《まま》ならぬ|身《み》は|如何《いか》にせむ
|鋼《はがね》の|壁《かべ》に|隔《へだ》てられ |曇《くも》り|果《は》てたる|現世《うつしよ》の
|光《ひかり》さへ|見《み》ぬ|浅間《あさま》しさ |此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》 |只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し |身《み》の|禍《わざはひ》は|宣《の》り|直《なほ》し
|救《すく》はせ|玉《たま》ふ|大神《おほかみ》の |御袖《みそで》に|縋《すが》り|奉《たてまつ》る
|妾《わらは》の|生命《いのち》は|惜《をし》まねど |父《ちち》と|母《はは》との|御身《おみ》の|上《うへ》
|如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》の|宝《たから》をば |救《すく》はせ|玉《たま》へ|大御神《おほみかみ》
|心《こころ》も|乱《みだ》れ|気《き》も|狂《くる》ひ |前後《ぜんご》も|知《し》らぬ|乙女子《をとめご》の
|後《あと》や|前《さき》なる|口説《くど》き|言《ごと》 |許《ゆる》させ|玉《たま》へ|素盞嗚《すさのを》の
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御前《おんまへ》に |慎《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
ワックスは|鉄《てつ》の|門扉《もんぴ》を|隔《へだ》てて|此《この》|歌《うた》をスツカリ|聞《き》いて|了《しま》ひ、|双手《もろて》を|組《く》んで|吐息《といき》をつき|乍《なが》ら|独言《ひとりごと》、
ワックス『アア|今《いま》の|歌《うた》の|様子《やうす》ではデビス|姫《ひめ》は|余程《よほど》|俺《おれ》を|怨《うら》めてゐる|様《やう》だ。こりや|一通《ひととほ》りでは|靡《なび》くまい。|何《なん》とかうまく|言葉《ことば》を|設《まう》けて|姫《ひめ》の|歓心《くわんしん》を|買《か》ひ、ワックスに|怨《うらみ》がないものだと|思《おも》はしめねばならぬ。ハテ|困《こま》つた|事《こと》だな。……ウン、ヨシヨシ|此奴《こいつ》あエキスに、にじりつけてやらう。さうすりや、|屹度《きつと》デビス|姫《ひめ》が|疑《うたがひ》を|晴《は》らし|自分《じぶん》を|信用《しんよう》するに|違《ちが》ひない。|万一《まんいち》|三千彦《みちひこ》の|奴《やつ》、こんな|処《ところ》へ|隠《かく》してある|事《こと》を|探《さぐ》り、|救《すく》ひ|出《だ》さうものなら、それこそ|大変《たいへん》だ。|何《なん》でも|今晩《こんばん》の|間《うち》に、|巧《うま》くやつつけねば|六菖十菊《ろくしやうじつきく》の|悔《くい》を|貽《のこ》さねばなるまい。だと|云《い》つて|俄《にはか》に|良《よ》い|知恵《ちゑ》も|出《で》ない、|困《こま》つたものだ』
と|独語《ひとりご》ちつつ|半時《はんとき》ばかり|考《かんが》へて|居《ゐ》た。ワックスは|何《なに》か|良《よ》い|思案《しあん》が|浮《うか》んだと|見《み》え、|嫌《いや》らしい|笑《ゑみ》を|浮《う》かべ|乍《なが》ら、|月《つき》|西山《せいざん》に|没《かく》れたのを|幸《さいは》ひ、|入口《いりぐち》に|進《すす》み|寄《よ》つて、
『ヤアヤア、これなる|岩窟《がんくつ》に|押込《おしこ》められ|玉《たま》ふ|御方《おんかた》は|如何《いか》なる|御仁《ごじん》で|厶《ござ》るか。|道聴途説《だうちやうとせつ》によれば|三五教《あななひけう》の|悪狐《あくこ》|高倉稲荷《たかくらいなり》の|化身《けしん》との|事《こと》、|拙者《せつしや》は|大悪人《だいあくにん》のエキスに|誤《あやま》られ|大切《たいせつ》なる|姫君様《ひめぎみさま》を|高倉稲荷《たかくらいなり》が|取《と》り|喰《く》らひ、その|御姿《おすがた》に|巧《うま》く|化《ば》け|居《を》るものと|信《しん》じ、|姫様《ひめさま》の|敵《かたき》を|討《う》たむものと、|畏《おそ》れ|多《おほ》くも|此《この》|岩窟内《がんくつない》に|閉《と》ぢ|込《こ》めたり。これ|全《まつた》くワックスの|心《こころ》より|出《い》でしものに|非《あら》ず、|併《しか》し|乍《なが》ら|姫様《ひめさま》の|仇《あだ》を|報《むく》はむとの|真心《まごころ》は|矢《や》も|楯《たて》も|堪《たま》らず|無慚《むざん》にも|白狐《びやくこ》の|化身《けしん》と|思《おも》ひ|誤《あやま》り|押込《おしこ》め|参《まゐ》らせたり。|昨晩《さくばん》のバラモン|大神《おほかみ》の|夢《ゆめ》のお|告《つ》げに、|此《この》|岩窟《がんくつ》に|入《はい》られ|玉《たま》ふ|姫様《ひめさま》は|実《まこと》のお|姫様《ひめさま》との|事《こと》、|直様《すぐさま》|罷《まか》り|出《い》で、お|助《たす》け|申《まを》さむと|心《こころ》は|矢竹《やたけ》に|逸《はや》れども、|悪人《あくにん》エキス、ヘルマン、|吾《わが》|身辺《しんぺん》を|看守《みまも》り|居《を》れば、|無念《むねん》|乍《なが》ら|夜陰《やいん》を|待《ま》ち、|只今《ただいま》お|迎《むか》への|為《ため》|参上《さんじやう》|仕《つかまつ》つたり。|姫君様《ひめぎみさま》、|如意宝珠《によいほつしゆ》のお|玉《たま》もエキス、ヘルマンの|両人《りやうにん》|盗《ぬす》み|居《ゐ》たりしを|此《この》ワックス|慧眼《けいがん》を|以《もつ》て|看破《かんぱ》し、|直《ただ》ちに|小国別《をくにわけ》|様《さま》に|返附《へんぷ》させたれば|此《この》|事《こと》は|御安心《ごあんしん》あれ。|又《また》|御父上様《おちちうへさま》は|未《ま》だ|御壮健《ごさうけん》に|在《ま》しませば|必《かなら》ず|心慮《しんりよ》を|悩《なや》ませ|玉《たま》ふ|事《こと》|勿《なか》れ。|御両親《ごりやうしん》は|此《この》ワックスの|忠誠《ちうせい》を|御称讃《ごしようさん》|遊《あそ》ばされ、|今《いま》やデビス|姫《ひめ》の|御夫《おんをつと》と|御定《おさだ》めの|上《うへ》、|神館《かむやかた》の|御相続人《ごさうぞくにん》とお|定《さだ》めありし|上《うへ》は、|今日《こんにち》|只今《ただいま》より|姫様《ひめさま》は|拙者《せつしや》の|女房《にようばう》、|妻《つま》の|為《ため》には|身命《しんめい》も|惜《をし》まぬ|此《この》ワックス、|御安心《ごあんしん》なされませ。|又《また》|御妹君《おんいもうとぎみ》ケリナ|様《さま》も|御無事《ごぶじ》で|居《ゐ》られますれば、お|喜《よろこ》びなされませ。これ|全《まつた》くワックスが|尽力《じんりよく》の|致《いた》す|所《ところ》、|必《かなら》ずお|疑《うたが》ひ|下《くだ》さいますな。ワックス、|只今《ただいま》|人目《ひとめ》を|忍《しの》びお|迎《むか》へに|参上《さんじやう》|仕《つかまつ》りました』
と|大音声《だいおんじやう》に|呼《よば》はつた。|中《なか》よりデビス|姫《ひめ》は|細《ほそ》き|声《こゑ》にて、
デビス|姫《ひめ》『|夜陰《やいん》にも|拘《かかは》らず|此《この》|恐《おそ》ろしき|山奥《やまおく》に|妾《わらは》を|訪《たづ》ね|来《きた》るは|何者《なにもの》ぞ。|狐狸《こり》か、|妖怪《えうくわい》か、|速《すみやか》にここを|立去《たちさ》れ。|左様《さやう》な|世迷言《よまいごと》は|聞《き》く|耳《みみ》|持《も》たぬ。エー|汚《けが》らはしい』
ワックス『これはしたり、デビス|姫様《ひめさま》、|拙者《せつしや》は|狐狸《こり》でも|妖怪《えうくわい》でも|厶《ござ》らぬ。|正真正銘《しやうしんしやうめい》の|家令《かれい》の|倅《せがれ》ワックスで|厶《ござ》います。|貴女《あなた》を|助《たす》けむために|何《ど》れ|丈《だ》け|苦労《くらう》を|致《いた》したか|分《わか》りませぬ。|御推量《ごすゐりやう》|下《くだ》さいませ』
デビス|姫《ひめ》『|人間《にんげん》か、|怪物《くわいぶつ》か|知《し》らないが|其方《そなた》は|人《ひと》の|面《めん》を|被《かぶ》つた|古狐《ふるぎつね》|古狸《ふるだぬき》だ。|否《い》や|大妖怪《だいえうくわい》だ。|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|邪鬼《じやき》、|羅刹《らせつ》、|汝《なんぢ》の|言葉《ことば》を|聞《き》くも|汚《けが》らわしい。|又《また》|仮令《たとへ》|真《しん》のワックスにもせよ。|決《けつ》して|言葉《ことば》を|交《かは》す|所存《しよぞん》はない。|卑劣《ひれつ》|極《きは》まる|根性《こんじやう》を|提《ひつさ》げて|夜中《やちう》に|忍《しの》び|忍《しの》び|岩窟《がんくつ》に|来《きた》るとは|腹黒《はらぐろ》き|曲者《くせもの》、|最早《もはや》|妾《わらは》は|此《この》|岩窟《がんくつ》の|女王《ぢよわう》となり|数多《あまた》のエンゼルに|救《すく》はれ、|食物《しよくもつ》にも|不自由《ふじゆう》なく|安心《あんしん》に|暮《くら》して|居《ゐ》る。|汝《なんぢ》が|如《ごと》き|犬畜生輩《いぬちくしやうばら》には|死《し》んでも|御世話《おせわ》にならない。|及《およ》ばぬ|望《のぞ》みを|起《おこ》すよりも、トツトと|尾《を》を|掉《ふ》つて|帰《かへ》れ、|人畜生《にんちくしやう》|奴《め》』
と|言葉《ことば》|厳《きび》しく|罵《ののし》つた。ワックスはクワツと|怒《いか》り、|鉄門《かなど》を|石《いし》にてガンガンと|力《ちから》|限《かぎ》りに|打《う》ち|続《つづ》け|脅喝《けふかつ》し|乍《なが》ら、
ワックス『コレ、|姫《ひめ》さま、そんな|事《こと》を|云《い》つた|所《ところ》で|岩窟内《がんくつない》に|食物《しよくもつ》がある|筈《はず》もなし、|名代《なだい》の|魔窟《まくつ》にエンゼルのお|降《くだ》り|遊《あそ》ばす|道理《だうり》はない。|痩我慢《やせがまん》を|張《は》るよりも|因果腰《いんぐわごし》を|定《き》めて|此《この》ワックスの|恋《こひ》をお|聞《き》き|下《くだ》さい。|魚心《うをごころ》あれば|水心《みづごころ》あり、テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》を|初《はじ》め|御両親《ごりやうしん》のお|身《み》の|上《うへ》を|守《まも》るは|此《この》ワックスより|外《ほか》には|厶《ござ》いませぬぞ。|左様《さやう》な|無分別《むふんべつ》な|事《こと》を|云《い》はずに|諾《うん》と|云《い》ひなされ。どこ|迄《まで》も|頑張《ぐわんば》つて|肯《き》かなければ|此方《こちら》にも|覚悟《かくご》が|厶《ござ》る。|恋《こひ》の|叶《かな》はぬ|意趣返《いしゆがへ》し、|嬲殺《なぶりごろ》しに|致《いた》しても|恐《おそ》ろしうは|厶《ござ》らぬか』
デビス|姫《ひめ》『エー、|汚《けが》らはしや、|悪党者《あくたうもの》、|主人《しゆじん》に|向《むか》つて|無礼《ぶれい》の|罪《つみ》、|赦《ゆる》しは|致《いた》さぬぞ、|覚悟《かくご》しや』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|岩片《がんぺん》を|拾《ひろ》ふより|早《はや》く|鉄《てつ》の|格子窓《こうしまど》の|間《あひだ》よりワックスに|向《むか》つて|投《な》げつけた。ワックスは|烈火《れつくわ》の|如《ごと》く|憤《いきどほ》り|竹槍《たけやり》を|扱《しご》いて|垣越《かきご》しに|骨《ほね》も|通《とほ》れよと、デビス|姫《ひめ》|目蒐《めが》けて|突《つ》き|出《だ》した。|狭《せま》き|岩窟《がんくつ》に|隔《へだ》てられ、デビス|姫《ひめ》は|身《み》を|避《さ》くる|余地《よち》が|無《な》い。あわや|突殺《つきころ》されむとする|一刹那《いちせつな》、|何処《いづく》ともなく|宙《ちう》を|飛《と》んで|駆《か》け|来《きた》る|猛犬《まうけん》、『ウーウー、ウワッウワッ』と|威喝《ゐかつ》し|乍《なが》らワックスの|利腕《ききうで》に|噛《かじ》り|付《つ》いた。ワックスはアツと|云《い》うた|儘《まま》、|其《その》|場《ば》に|脆《もろ》くも|倒《たふ》れた。|猛犬《まうけん》スマートは|後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り|振《ふ》り|返《かへ》り『ウーウーウー』と|叱《しか》りつけ|乍《なが》ら、|何処《いづく》ともなく|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|暫《しば》らくあつてワックスは|気《き》がつき、|腕《うで》の|血《ち》を|拭《ぬぐ》ひ|四辺《あたり》の|草《くさ》にて|括《くく》り|乍《なが》ら|這々《はふばふ》の|態《てい》にて|一先《ひとま》づ|吾《わが》|館《やかた》へスゴスゴと|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|四辺《あたり》の|木《き》の|茂《しげ》みから|梟《ふくろふ》の|声《こゑ》『アホーアホー、ゴロツトカヘセ、ヤラレタナー、バカバカ』と|啼《な》いて|居《ゐ》る。|俄《にはか》に|山柿《やまがき》の|枝《えだ》から|蝉《せみ》の|声《こゑ》『ザマ ザマ ザマ、ミーン ミーン ミーン ミーン』、|蟋蟀《きりぎりす》の|声《こゑ》『ケラ ケラ ケラ』。
(大正一二・三・二五 旧二・九 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第一五章 |糸瓜《へちま》〔一四六五〕
テルモン|山《ざん》の|夜嵐《よあらし》に |染黒《しぐろ》い|顔《かほ》を|煽《あふ》られて
スタスタ|来《きた》る|二人連《ふたりづ》れ |鳩《はと》の|岩窟《いはや》の|入口《いりぐち》に
|少時《しばし》|佇《たたず》み|息《いき》|凝《こ》らし |中《なか》の|様子《やうす》を|窺《うかが》へば
|押籠《おしこ》められしケリナ|姫《ひめ》 |鈴《すず》の|鳴《な》るやうな|声《こゑ》をして
|何《なに》か|述懐《じゆつくわい》|歌《うた》ひ|居《ゐ》る エキス、ヘルマン|両人《りやうにん》は
|胸《むね》ををどらし|入口《いりぐち》の |鉄門《かなど》に|身《み》をばよせ|乍《なが》ら
|叶《かな》はぬ|恋《こひ》と|知《し》らずして |訪《たづ》ね|来《きた》るぞ|可笑《をか》しけれ
|岩窟《いはや》の|外《そと》に|人《ひと》ありと |知《し》らぬが|仏《ほとけ》のケリナ|姫《ひめ》
|其《その》|身《み》の|不運《ふうん》を|歎《かこ》ちつつ |湿《しめ》り|勝《がち》なる|歌《うた》ひ|声《ごゑ》
|秋野《あきの》にすだく|虫《むし》の|音《ね》か |但《ただし》は|駒《こま》の|鈴《すず》の|音《ね》か
|紛《まが》ふべらなる|憂音《いうおん》に |語《かた》り|出《いだ》すぞ|可憐《いぢら》しき。
|二人《ふたり》は|声《こゑ》を|秘《ひそ》め|乍《なが》ら、
エキス『オイ、ヘルマン、ワックスの|奴《やつ》、テルモン|山《ざん》の|奥《おく》へ|悪酔怪《あくすゐくわい》の|演説《えんぜつ》が|祟《たた》つて|逃《に》げ|失《う》せたのを|幸《さいはひ》、|貴様《きさま》と|俺《おれ》と|二人《ふたり》で|探《さが》し|出《だ》し、|姫《ひめ》の|歓心《くわんしん》を|得《え》て|恋《こひ》の|優勝者《いうしようしや》とならうぢやないか、こんな|機会《きくわい》は|又《また》とあるものぢやない』
ヘルマン『ウン、それやさうだ。|六百両《ろくぴやくりやう》の|金《かね》はぼつたくり、|又《また》テルモン|山《ざん》の|花《はな》と|謳《うた》はれた|美人《びじん》を|娶《めと》り|楽《たの》しく|嬉《うれ》しく|暮《くら》すのも|亦《また》|乙《おつ》ぢやないか。|併《しか》しこれは|借《か》りて|来《き》た|知恵《ちゑ》では|駄目《だめ》かも|知《し》れない。|迂《う》つかり|肱鉄《ひぢてつ》をかまされては|取返《とりかへ》しがつかぬからなア。|何《なん》とかして|知恵《ちゑ》を|絞《しぼ》り|出《だ》して、|甘《うま》くやらねばならぬ。|余《あま》り|近《ちか》くによつてケリナ|姫《ひめ》さまの|耳《みみ》に|入《はい》つては|大変《たいへん》だ。|四五間《しごけん》ここを|離《はな》れて|悠《ゆつ》くり|相談《さうだん》しようかい』
エキス『ウン、それが|上分別《じやうふんべつ》だ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|四五間《しごけん》|傍《かたはら》の|雑草《ざつさう》の|中《なか》にドツカリと|腰《こし》を|下《お》ろし、
エキス『オイ、|後《あと》の|喧嘩《けんくわ》を|先《さき》にして|置《お》くのだが、|甘《うま》く|手《て》に|入《い》つた|時《とき》には|貴様《きさま》は|何方《どちら》を|取《と》るのだ』
ヘルマン『ウン、|俺《おれ》はデビス|姫《ひめ》を|申受《まをしう》ける|積《つも》りだ』
エキス『ヘン、|些《ちつ》と|面《つら》と|相談《さうだん》をして|見《み》よ。デビス|姫《ひめ》の|夫《をつと》になれば、|小国別《をくにわけ》|様《さま》の|御世継《およつぎ》だぞ。|貴様《きさま》のやうな|野呂作《のろさく》がどうして|左様《さやう》な|事《こと》が|勤《つと》まらうかい』
ヘルマン『マア|何方《どちら》でもよいわ、|取《と》らぬ|狸《たぬき》の|皮算用《かはざんよう》して|居《ゐ》た|所《ところ》で|面白《おもしろ》くない。それより|姉妹《おとどい》のナイスに|選《えら》ましたらよいではないか、それが|一番《いちばん》|公平《こうへい》だからなア』
エキス『それも|面白《おもしろ》からう、|併《しか》し|先方《むかふ》に|選《えら》ませるなら|姉妹《おとどい》|共《とも》、|俺《おれ》の|方《はう》に|秋波《しうは》を|送《おく》るに|定《きま》つて|居《ゐ》る。|其《その》|時《とき》には|一寸《ちよつと》|加減《かげん》を|見《み》て|貴様《きさま》にお|古《ふる》を|譲《ゆづ》つてやらうか』
ヘルマン『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな、|貴様《きさま》のやうな|糸瓜《へちま》に|目鼻《めはな》をつけたやうな|細長《ほそなが》い|顔《かほ》をしながら|自惚《うぬぼ》れた|事《こと》を|云《い》ふな』
エキス『|俺《おれ》が|糸瓜《へちま》なら|貴様《きさま》は|南瓜《かぼちや》だ』
ヘルマン『|南瓜《かぼちや》も|糸瓜《へちま》もあつたものかい。マア|見《み》て|居《を》れ、この|南瓜《かぼちや》がどんな|事《こと》をするか、|歌《うた》にも|云《い》ふだらう、
|今年《ことし》|南瓜《かぼちや》の|当《あた》り|年《どし》、
|糸瓜《へちま》の|当《あた》り|年《どし》とは|開闢《かいびやく》|以来《いらい》|聞《き》いた|事《こと》はないわ、エヘヘヘヘ』
エキス『コリヤどて|南瓜《かぼちや》、|何《なに》を【ごうたく】|吐《こ》きやがるのだ。マア|兎《と》も|角《かく》|俺《おれ》が|年嵩《としかさ》だから|長上《ちやうじやう》を|敬《うやま》ふ|礼儀《れいぎ》に|従《したが》つて|俺《おれ》に|任《まか》して|置《お》いたらよからう。|未《ま》だ|先方《せんぱう》の|意向《いかう》も|分《わか》らぬのに|喧嘩《けんくわ》したつて|仕方《しかた》が|無《な》いからのう』
ヘルマン『ウンさうだ。こんな|所《ところ》で|角目立《つのめだ》つて|喧嘩《けんくわ》して|居《ゐ》た|所《ところ》で|面白《おもしろ》くない。まづ|第一《だいいち》ケリナ|姫《ひめ》をチヨロまかし、|先方《むかふ》の|意志《いし》に|任《まか》す|事《こと》にしよう。サアこれから|岩窟《いはや》の|前《まへ》に|立《た》つて|歌《うた》を|歌《うた》ひ、ケリナさまに|思《おも》ひつかすのだ』
と|二人《ふたり》は|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ|岩窟《がんくつ》の|傍《そば》に|躙寄《にじりよ》り、
エキス『|悪者《わるもの》に|誘拐《かどはか》されて|岩窟《いはやど》に
|押込《おしこ》められし|君《きみ》ぞいとしき』
ヘルマン『|天照《あまてら》す|皇大神《すめおほかみ》よ|岩窟《いはやど》を
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|立《た》ち|出《い》でませよ』
エキス『|手力男《たぢからを》|神《かみ》の|命《みこと》の|現《あら》はれて
ケリナの|姫《ひめ》が|岩戸《いはと》を|開《ひら》かむ』
ヘルマン『あなさやけあな|面白《おもしろ》の|御姿《みすがた》を
|拝《をが》む|吾《われ》こそ|楽《たの》しかりけり』
エキス『テルモンの|神《かみ》の|館《やかた》にあれましし
ケリナの|姫《ひめ》の|姿《すがた》やさしき』
ヘルマン『|此《この》|君《きみ》は|天下無双《てんかむさう》のナイスなり
|如何《いか》でかエキスに|靡《なび》き|給《たま》はむ』
エキス『ヘルマンの|醜《しこ》の|司《つかさ》が|偉《えら》さうに
ケリナの|姫《ひめ》を|慕《した》ひ|来《く》るかな』
ヘルマン『こらエキス|余《あんま》り|口《くち》が|過《す》ぎるぞや
|如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》は|誰《たれ》が|盗《ぬす》んだ』
エキス『|如意宝珠《によいほつしゆ》|盗《ぬす》んだ|奴《やつ》はワックスよ
エキスの|為《ため》に|館《やかた》に|納《をさ》まる』
ヘルマン『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな|宝珠《ほつしゆ》の|玉《たま》は|三五《あななひ》の
|三千彦司《みちひこつかさ》の|手柄《てがら》ならずや』
エキス『そんな|事《こと》、こんな|所《ところ》で|云《い》ふ|馬鹿《ばか》が
|又《また》と|世界《せかい》に|一人《ひとり》あらうか』
ヘルマン『|是《これ》はしたりケリナの|姫《ひめ》の|隠《かく》れます
|岩窟《いはや》の|前《まへ》をうかと|忘《わす》れて』
エキス『それだからトンマ|男《をとこ》の|南瓜面《かぼちやづら》
|訳《わけ》も|糸瓜《へちま》もないと|云《い》ふのだ』
ヘルマン『|糸瓜野郎《へちまやらう》|青《あを》い|顔《かほ》して|何《なん》と|云《い》ふ
|擂《すりこぎ》のやうな|頭《どたま》かかへて』
エキス『|斯《か》うなれば|義理《ぎり》も|糸瓜《へちま》もあるものか
サア|来《こ》い|勝負《しようぶ》|力比《ちからくら》べだ』
ヘルマン『|言論《げんろん》の|尊《たふと》ばれつる|世《よ》の|中《なか》に
|直接行動《ちよくせつかうどう》は|野蛮《やばん》の|骨頂《こつちやう》』
エキス『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな|最後《さいご》の|勝利《しようり》は|実力《じつりよく》だ
|見事《みごと》ケリナを|取《と》つて|見《み》せうぞ』
ヘルマン『|糸瓜野郎《へちまやらう》、|何程《なにほど》|姫《ひめ》に|惚《ほ》れたとて
|先方《むかふ》がきかねば|馬鹿《ばか》を|見《み》るのみ』
エキス『|此《この》|上《うへ》は|南瓜頭《かぼちやあたま》をかち|割《わ》つて
|鬱憤《うつぷん》|晴《は》らさにや|男《をとこ》が|立《た》たぬ』
ヘルマン『こりや|糸瓜《へちま》|南瓜《かぼちや》の|腕《うで》を|知《し》つて|居《ゐ》るか』
エキス……『|知《し》つて|居《を》れやこそ|喧嘩《けんくわ》するのだ』
たうとう|終《しまひ》には|大喧嘩《おほげんくわ》となり、ケリナ|姫《ひめ》の|事《こと》はそつちのけにして|長《なが》い|男《をとこ》と|短《みじか》い|太《ふと》い|男《をとこ》とが|組《く》んず|組《く》まれつ、ウンウンキヤーキヤーと|喚《わめ》きながら|毛《け》を【むし】つたり|睾丸《きんたま》を|掴《つか》んだり、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|格闘《かくとう》をして|居《ゐ》る。ケリナ|姫《ひめ》は|二人《ふたり》の|問答《もんだふ》を|聞《き》いて|自分《じぶん》の|苦《くる》しき|岩窟内《がんくつない》にあるのもうち|忘《わす》れ、|思《おも》はず|知《し》らずホホホホホと|笑《わら》ふ。ケリナ|姫《ひめ》は|静《しづか》に|歌《うた》ふ。
ケリナ|姫《ひめ》『|人里《ひとざと》|離《はな》れしテルモンの |深山《みやま》の|奥《おく》の|岩窟《がんくつ》に
|情《つれ》なき|男《をとこ》に|攫《さら》はれて |不運《ふうん》を|歎《かこ》つ|吾《わが》|身《み》にも
|心《こころ》の|慰《なぐさ》む|時《とき》は|来《き》ぬ |悪《あく》に|長《た》けたる|二人連《ふたりづ》れ
|神《かみ》の|館《やかた》の|御宝《みたから》を |盗《ぬす》み|出《いだ》して|父母《ちちはは》を
|苦《くる》しめまつりワックスの |悪魔《あくま》と|共《とも》に|怖《おそ》ろしき
|企《たく》みを|致《いた》す|馬鹿男《ばかをとこ》 |妾《わらは》の|色香《いろか》に|目《め》が|眩《くら》み
|岩窟《いはや》の|前《まへ》に|塞《ふさ》がりて |互《たがひ》に|心《こころ》の|黒幕《くろまく》を
|捲《まく》り|上《あ》げたる|浅《あさ》はかさ |如何《いか》に|曇《くも》りし|世《よ》の|中《なか》の
|盲《めくら》|聾《つんぼ》と|云《い》ふとても これ|程《ほど》|馬鹿《ばか》が|世《よ》にあろか
|自分《じぶん》の|企《たく》みを|吾《わが》|前《まへ》に |一《ひと》つも|残《のこ》らず|曝《さら》け|出《だ》し
あた|汚《けが》らはしき|色恋《いろこひ》と |糸瓜《へちま》や|南瓜《かぼちや》のお|化《ばけ》|等《ら》が
|囁《ささや》く|声《こゑ》ぞ|憐《あは》れなり |馬鹿《ばか》に|与《あた》ふる|薬《くすり》はないと
|世《よ》の|諺《ことわざ》も|目《ま》の|当《あた》り |眺《なが》めし|妾《わらは》の|可笑《をか》しさよ
|旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |吾《わが》|身《み》の|命《いのち》は|失《う》するとも
|神力無双《しんりきむさう》の|求道《きうだう》さま |二世《にせ》の|夫《をつと》と|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|中《うち》に|定《さだ》めてゆ |何程《なにほど》|綺麗《きれい》な|男《をとこ》でも
|妾《わらは》の|目《め》には|鬼瓦《おにがはら》 |顧《かへり》みるだに|嫌《いや》らしき
エキス、ヘルマン|二人《ふたり》の|馬鹿《ばか》|奴《め》 |互《たがひ》に|命《いのち》の|奪《と》り|合《あひ》を
|始《はじ》めて|苦《くる》しむ|可笑《をか》しさよ アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて |一日《ひとひ》も|早《はや》く|吾《わが》|身《み》をば
|救《すく》はせ|給《たま》へ|求道《きうだう》さま |教司《をしへつかさ》の|身《み》の|上《うへ》を
|守《まも》らせ|給《たま》へと|大神《おほかみ》の |御前《みまへ》に|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる』
|外《そと》には、エキス、ヘルマンの|二人《ふたり》|血塗《ちみどろ》になつて|顔《かほ》を|掻《か》き【むし】られ、|息《いき》も|絶《た》え|絶《だ》えに|格闘《かくとう》して|居《ゐ》る。|其処《そこ》へスマートを|連《つ》れてやつてきたのは、|三五教《あななひけう》の|三千彦《みちひこ》であつた。スマートは|矢場《やには》に|岩窟《がんくつ》の|入口《いりぐち》に|近《ちか》より、フンフンと|鋭敏《えいびん》な|嗅覚《きうかく》で|嗅《かぎ》つけ|乍《なが》ら、ケリナ|姫《ひめ》の|居《を》る|事《こと》を|確《たしか》めたものの|如《ごと》く、|頻《しき》りに|尾《を》を|掉《ふ》つて、ウーウーと|唸《うな》り|出《だ》した。|三千彦《みちひこ》は|岩窟《がんくつ》の|入口《いりぐち》より|声《こゑ》をかけ、
|三千彦《みちひこ》『|私《わたし》は|三五教《あななひけう》の|神司《かむつかさ》|三千彦《みちひこ》で|厶《ござ》います。|先日《せんじつ》よりお|館《やかた》にお|世話《せわ》になり|貴女《あなた》のお|行衛《ゆくゑ》を|探《さが》して|居《を》りましたが、|漸《やうや》く|此処《ここ》にお|隠《かく》れと|判明《はんめい》し、お|迎《むか》ひに|参《まゐ》りました。|暫《しばら》くお|待《ま》ち|下《くだ》さい。|今《いま》|此《この》|入口《いりぐち》の|戸《と》を|開《あ》けますから』
ケリナ|姫《ひめ》は|暫《しば》し|無言《むごん》の|儘《まま》|考《かんが》へ|込《こ》んで|居《ゐ》た。
ケリナ|姫《ひめ》『さしこもる|岩窟《いはや》の|中《なか》の|姫神《ひめがみ》は
|如何《いか》でか|靡《なび》かむ|見知《みし》らぬ|人《ひと》に。
|今《いま》の|先《さき》も|怪《あや》しき|男《をとこ》が|只《ただ》|二人《ふたり》
|来《きた》りて|吾《われ》を|誘《さそ》はむとせし。
|身《み》はたとへ|岩窟《いはや》の|中《なか》に|朽《く》つるとも
|仇《あだ》し|男《をとこ》に|身《み》をな|任《まか》さじ』
|三千彦《みちひこ》『これはしたりケリナの|姫《ひめ》の|御言葉《おんことば》
|神《かみ》の|使《つかひ》にかざり|言《ごと》なし。
|村肝《むらきも》の|心《こころ》|鎮《しづ》めて|出《い》でませよ
|神《かみ》のまにまに|吾《われ》は|来《きた》りぬ』
ケリナ|姫《ひめ》『|情《なさ》けある|人《ひと》の|言葉《ことば》に|従《したが》ひて
|岩窟《いはや》を|出《い》でむ|早《はや》|開《ひら》きませ』
|三千彦《みちひこ》は|四辺《あたり》の|岩片《がんぺん》を|手《て》に|取《と》るより|早《はや》く|錠前《ぢやうまへ》をへし|折《をり》、|漸《やうや》くにしてカツと|開《ひら》ひた。
ケリナ|姫《ひめ》『ヤア|三千彦《みちひこ》|様《さま》とやら、|好《よ》くマア|助《たす》けに|来《き》て|下《くだ》さいました。|此《この》|御恩《ごおん》は|決《けつ》して|忘《わす》れませぬ』
|三千彦《みちひこ》『サア|早《はや》く|帰《かへ》りませう。|御両親《ごりやうしん》がお|待《ま》ち|兼《かね》で|厶《ござ》います。|就《つ》いてはお|姉様《あねさま》も|助《たす》け|出《だ》さねばなりませず、|求道様《きうだうさま》も|助《たす》け|出《だ》さねばなりませぬから、サア|早《はや》く|出《で》て|下《くだ》さい』
ケリナ|姫《ひめ》『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》いますが、|足《あし》がワナワナ|致《いた》しまして|些《ちつ》とも|立《た》ちませぬので、|困《こま》つて|居《を》ります』
|三千彦《みちひこ》『アアさうでせう。|斯《こ》んな|処《ところ》に|閉《と》ぢ|籠《こ》められて|居《ゐ》てはお|足《あし》も|弱《よわ》つたでせう。サア|私《わたし》の|背《せな》に|負《おぶ》さつて|下《くだ》さい。|此処《ここ》に|居《を》る|犬《いぬ》はスマートと|申《まを》しまして、|幾度《いくど》も|私《わたし》を|助《たす》けて|呉《く》れた|義犬《ぎけん》です。これさへ|居《を》れば|大丈夫《だいぢやうぶ》で|厶《ござ》います』
と|背《せな》を|突《つ》き|出《だ》す。ケリナ|姫《ひめ》は|大舟《おほぶね》に|乗《の》つたやうに|安心《あんしん》して|素直《すなほ》に|三千彦《みちひこ》の|背《せな》に|背負《せお》はれ、|漸《やうや》くにして|苦《くるし》き|岩窟《がんくつ》を|出《で》た。|星《ほし》の|光《ひかり》は|金砂《きんしや》|銀砂《ぎんしや》を|鏤《ちりば》めた|如《ごと》く、|満天《まんてん》に|輝《かがや》いて|居《ゐ》る。
ケリナ|姫《ひめ》『モシ|三千彦《みちひこ》|様《さま》、|此処《ここ》に|悪漢《わるもの》が|二人《ふたり》|斃《たほ》れて|居《ゐ》ますが、この|儘《まま》|見逃《みのが》して|置《お》いても|宜敷《よろし》いでせうか』
|三千彦《みちひこ》『|成程《なるほど》|余《あま》り|貴女《あなた》の|方《はう》に|気《き》を|取《と》られて|居《ゐ》ましたので|悪漢《わるもの》の|仕末《しまつ》を|忘《わす》れて|居《ゐ》ました。サア|姫様《ひめさま》、|一寸《ちよつと》|下《お》りて|居《ゐ》て|下《くだ》さい。|漸《しばら》く|貴女《あなた》の|旧宅《きうたく》に|閉《と》ぢ|込《こ》めて|置《お》きませう、アハハハハハ』
ケリナ|姫《ひめ》『オホホホホホ、|三千彦《みちひこ》|様《さま》、|随分《ずいぶん》|好《よ》からぬ|奴《やつ》ですから、|改心《かいしん》する|迄《まで》|大事《だいじ》に|放《ほ》り|込《こ》んで|置《お》いて|下《くだ》さいませ』
|三千彦《みちひこ》は『|宜敷《よろし》い』と|云《い》ひ|乍《なが》ら|二人《ふたり》の|足《あし》を|剛力《がうりき》に|任《まか》せて|左右《さいう》の|手《て》に|片足《かたあし》づつ|握《にぎ》り、|芝草《しばくさ》の|上《うへ》を|引《ひき》ずり|来《きた》り。|猫《ねこ》でも|引《ひ》きずるやうにポイと|放《ほ》り|込《こ》み、|入口《いりぐち》の|戸《と》を【カチリ】と|閉《し》め、|丁寧《ていねい》に|突張《つつぱり》をかひ、
|三千彦《みちひこ》『オイ|金剛不壊《こんがうふゑ》の|玉《たま》の|大盗人《おほぬすと》、エキス、ヘルマンの|両人《りやうにん》|暫《しばら》く|此処《ここ》に|楽隠居《らくいんきよ》でもして|居《を》るがよからう。|改心《かいしん》が|出来《でき》たら|又《また》|出《だ》してやらうまいものでもない。|俺《おれ》は|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》でないから、|弱《よわ》き|女《をんな》を|助《たす》け、|悪《あく》に|強《つよ》き|奴《やつ》を|懲《こ》らしてやるのだ。|斯《か》うなるのも|皆《みな》|身《み》から|出《で》た|錆《さび》だと|思《おも》うて|観念《くわんねん》したがよからう』
エキス『モシモシ|三千彦《みちひこ》|様《さま》、|何卒《どうぞ》|吾等《われら》|二人《ふたり》を|助《たす》けて|下《くだ》さいませ。|其《その》|代《かは》りワックスを|此処《ここ》へ|捉《つか》まへて|来《き》て|入《い》れるやうに|致《いた》しますから、|実《じつ》の|所《ところ》はワックスの|命令《めいれい》によつて|盗《ぬす》んだので|厶《ござ》います。|張本人《ちやうほんにん》はワックスで|厶《ござ》います』
|三千彦《みちひこ》『アハハハハハ、マア|気《き》の|毒《どく》だけれど|些《ちつ》と|御休息《ごきうそく》なさいませ。サア|姫様《ひめさま》|帰《かへ》りませう』
と|背《せ》に|負《お》ひ、スマートに|道案内《みちあんない》されて、デビス|姫《ひめ》の|閉《と》ぢ|籠《こ》められた|岩窟《がんくつ》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。|二人《ふたり》は|入口《いりぐち》の|戸《と》を|無性《むしやう》|矢鱈《やたら》に|叩《たた》き、
|両人《りやうにん》『|助《たす》けて|呉《く》れエ|助《たす》けて|呉《く》れエ、|此《この》|世《よ》に|神《かみ》や|仏《ほとけ》は|無《な》いものか。エエ|残念《ざんねん》や|口惜《くちを》しやなア』
と|身勝手《みがつて》な|事《こと》|許《ばか》り|愚痴《ぐち》つて|居《ゐ》る。|岩窟《がんくつ》の|奥《おく》の|方《はう》から『ケラ ケラ ケラ』と|嫌《いや》らしい、|身《み》の|毛《け》のよだつやうな|笑《わら》ひ|声《ごゑ》が|聞《きこ》えて|来《き》た。
(大正一二・三・二五 旧二・九 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第一六章 |犬労《けんらう》〔一四六六〕
|三千彦《みちひこ》はテルモン|山《ざん》の|中腹《ちうふく》をケリナ|姫《ひめ》を|背《せ》に|負《お》ひ、スマートに|道案内《みちあんない》をさせ|乍《なが》ら|草《くさ》|茫々《ばうばう》たる|歩《ある》き|難《にく》き|道《みち》を|辿《たど》り|辿《たど》つて、デビス|姫《ひめ》を|押込《おしこ》めた|岩窟《いはや》の|前《まへ》に|漸《やうや》く|着《つ》いた。
デビス|姫《ひめ》はワックスの|話《はなし》によつて、|如意宝珠《によいほつしゆ》の|帰《かへ》り|来《きた》れる|事《こと》|及《およ》び|父《ちち》の|存命《ぞんめい》なる|事《こと》、|並《なら》びに|妹《いもうと》の|安全《あんぜん》なる|事《こと》を|略《ほぼ》|覚《さと》り、|胸《むね》を|撫《な》で|下《おろ》し、|稍《やや》|心《こころ》も|弛《ゆる》みグツタリと|岩《いは》に|凭《もた》れて|眠《ねむり》に|就《つ》いた。|漸《やうや》くにして|三千彦《みちひこ》は|岩窟《いはや》の|入口《いりぐち》に|着《つ》いた。
|三千彦《みちひこ》『もし、デビス|姫様《ひめさま》、|私《わたし》は|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》|三千彦《みちひこ》で|厶《ござ》います』
ケリナ|姫《ひめ》『お|姉様《あねさま》、ケリナで|厶《ござ》います』
と|二人《ふたり》が|代《かは》る|代《がは》る|名《な》を|呼《よ》べども|少《すこ》しも|答《こたへ》がない。ケリナ|姫《ひめ》は、……|姉《あね》は|最早《もはや》|何者《なにもの》にか|攫《さら》はれ|玉《たま》ひしか……と|心《こころ》も|心《こころ》ならず、
ケリナ|姫《ひめ》『|三千彦《みちひこ》|様《さま》、どう|致《いた》しませう。|姉上様《あねうへさま》は|何者《なにもの》にか|攫《さら》はれ|遊《あそ》ばしたと|見《み》えまする。これ|程《ほど》|呼《よ》んでもお|答《こたへ》がないのは|不思議《ふしぎ》では|厶《ござ》いませぬか』
|三千彦《みちひこ》『|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|鼾《いびき》の|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|居《ゐ》ます。|屹度《きつと》お|眠《やす》みになつて|居《ゐ》るのでせう』
スマートは|四辺《あたり》の|空気《くうき》を|震動《しんどう》させ、『ウワツ ウワツ』と|叫《さけ》んだ。|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いてデビス|姫《ひめ》は|夢《ゆめ》を|破《やぶ》られ|窓口《まどぐち》を|見《み》て、……|何《なに》か|人声《ひとごゑ》がする|様《やう》だ……と|戸口《とぐち》に|躙寄《にじりよ》り、|隙間《すきま》より|透《す》かし|見《み》れば|星月夜《ほしづくよ》の|事《こと》とて|明瞭《はつきり》|姿《すがた》は|分《わか》らねど、どうやら|妹《いもうと》のスタイルによく|似《に》て|居《を》るので、
デビス|姫《ひめ》『|花《はな》の|色《いろ》はうつりに【けりな】|姫《ひめ》の|姿《すがた》
|窶《やつ》れ|玉《たま》ひしことの|苦《くる》しさ。
|吾《わが》|命《いのち》|助《たす》け|玉《たま》ひし|犬彦《いぬひこ》の
|黒《くろ》き|姿《すがた》の|慕《した》はしきかな』
ケリナは|此《この》|声《こゑ》に|打悦《うちよろこ》び、
ケリナ|姫《ひめ》『|三千彦《みちひこ》の|情《なさけ》の|御手《みて》に|助《たす》けられ
|汝《な》を|救《すく》はむと|尋《たづ》ね|来《きた》りぬ』
|三千彦《みちひこ》『|神館《かむやかた》|珍《うづ》の|御子《おんこ》とあれませる
デビスの|姫《ひめ》よ|安《やす》く|出《い》でませ。
いざさらば|此《こ》れの|鉄門《かなど》を|打破《うちやぶ》り
|救《すく》ひまつらむ|神《かみ》のまにまに』
デビス|姫《ひめ》『|嬉《うれ》しさは|乙女《をとめ》の|胸《むね》に|三千彦《みちひこ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》を|伏《ふ》し|仰《あふ》ぐかな』
|三千彦《みちひこ》は|強力《がうりき》に|任《まか》せて|錠前《ぢやうまへ》を|捻切《ねぢき》り、|窟内《くつない》に|入《はい》つてデビス|姫《ひめ》の|手《て》を|執《と》り、|引抱《ひつかか》へ|救《すく》ひ|出《だ》した。ケリナは|見《み》るよりデビスに|抱《だ》きつき、
ケリナ|姫《ひめ》『|姉上様《あねうへさま》』
と|云《い》つたきり|後《あと》は|一言《ひとこと》も|発《はつ》し|得《え》ず、|悲《かな》しさと|嬉《うれ》しさに|咽返《むせかへ》つて|居《ゐ》る。デビス|姫《ひめ》も|同《おな》じ|思《おも》ひの|懐《なつか》しさに、|妹《いもうと》の|体《からだ》を|抱《だ》きしめ|熱涙《ねつるゐ》を|流《なが》し、|言葉《ことば》さへ|得出《えだ》さず、|嬉《うれ》し|泣《な》きに|泣《な》きしやくつて|居《ゐ》る。
|三千彦《みちひこ》『お|二人様《ふたりさま》、|斯様《かやう》な|処《ところ》に|長居《ながゐ》は|恐《おそ》れで|厶《ござ》います。|一時《いちじ》も|早《はや》く|求道居士《きうだうこじ》やヘルを|救《すく》ひ|出《だ》さねばなりますまい。サア|参《まゐ》りませう』
デビス|姫《ひめ》『ハイ、|御親切《ごしんせつ》に|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。どうも|妾《わたし》は|斯様《かやう》な|処《ところ》に|押込《おしこ》められて|立《た》ちもならず、|坐《すわ》りもならず|居《を》りましたので|歩《ある》く|事《こと》が|出来《でき》ませぬ。|如何《どう》したら|宜《よろ》しう|厶《ござ》いませうかな』
|三千彦《みちひこ》『ア、さうでせうとも、お|察《さつ》し|申《まを》します。|失礼《しつれい》ながらお|二人《ふたり》さま、|私《わたし》の|背《せな》に|負《おぶ》さつて|下《くだ》さい。どうなり、かうなりお|館《やかた》|迄《まで》お|届《とど》けしませう。|再《ふたた》び|出直《でなほ》してスマートに|案内《あんない》させて|居士《こじ》を|救《すく》ひ|出《だ》しに|参《まゐ》りませう』
デビス|姫《ひめ》『|危急《ききふ》の|場合《ばあひ》で|厶《ござ》いますからお|言葉《ことば》に|甘《あま》へて、さう|願《ねが》ひませうかな。|本当《ほんたう》に|済《す》まない|事《こと》で|厶《ござ》います』
|三千彦《みちひこ》『|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》は|要《い》りませぬ。サア』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|少《すこ》し|蹲《しやが》んで|背《せな》を|突《つ》き|出《だ》す。|二人《ふたり》は|三千彦《みちひこ》の|背《せな》に|負《お》ぶさつた|儘《まま》、|星月夜《ほしづくよ》の|山坂《やまさか》をトボトボと|下《くだ》つて|神館《かむやかた》へ|密《ひそ》かに|帰《かへ》り|行《ゆ》く。スマートは|後前《あとさき》を|警護《けいご》し|乍《なが》ら|人影《ひとかげ》なき|所《ところ》を|案内《あんない》し、|夜明《よあ》け|前《まへ》、ヤツトの|事《こと》で|館《やかた》に|着《つ》いた。
|館《やかた》の|玄関口《げんくわんぐち》にはエルが|依然《いぜん》として|高鼾《たかいびき》をかいて|当直《たうちよく》を|勤《つと》めて|居《を》る。|受付《うけつけ》の|寝《ね》て|居《を》るのを|幸《さいは》ひ|勝手《かつて》|覚《おぼ》えし|家《いへ》の|中《うち》、|小国別《をくにわけ》の|病室《びやうしつ》をさして|二人《ふたり》の|娘《むすめ》を|背負《せお》つた|儘《まま》|進《すす》み|入《い》つた。|小国別《をくにわけ》は|今《いま》や|断末魔《だんまつま》の|息《いき》を|引《ひ》き|取《と》らむとする|所《ところ》であつた。|小国姫《をくにひめ》は|最早《もは》や、これ|迄《まで》と|夫《をつと》の|側《そば》に|附添《つきそ》ひ、|首《くび》|頸垂《うなだ》れて|憂《うれ》ひに|沈《しづ》んでゐる。それ|故《ゆゑ》|三千彦《みちひこ》の|帰《かへ》つて|来《き》たのに|気《き》がつかなかつた。|三千彦《みちひこ》は|言葉《ことば》|静《しづ》かに、
|三千彦《みちひこ》『|奥様《おくさま》、お|嬢《ぢやう》さまをお|伴《とも》して|帰《かへ》りました。|御安心《ごあんしん》なさいませ』
と|云《い》ふ|声《こゑ》に|小国姫《をくにひめ》はフと|此方《こちら》を|向《む》いた。|見《み》れば|三千彦《みちひこ》が|二人《ふたり》の|娘《むすめ》を|背《せな》に|負《お》うて|立《た》つて|居《ゐ》る。|小国姫《をくにひめ》は|夢《ゆめ》か、|現《うつつ》か、|幻《まぼろし》かと|嬉《うれ》しさ|余《あま》つてものをも|得《え》|云《い》はず、|口《くち》を|開《あ》け、|目《め》を|瞠《みは》つた|儘《まま》、|石像《せきざう》の|如《ごと》く|突《つ》つ|立《た》つて|居《ゐ》る。|三千彦《みちひこ》は|二人《ふたり》の|娘《むすめ》を|労《いたは》り、ソツと|居間《ゐま》に|下《お》ろした。|二人《ふたり》の|乙女《をとめ》は|身体《しんたい》|綿《わた》の|如《ごと》く|疲《つか》れ|果《は》て|一人《ひとり》で|歩《あゆ》む|事《こと》が|出来《でき》なくなつてゐた。
デビス|姫《ひめ》『お|父様《とうさま》、お|母様《かあさま》、|漸《やうや》く|此《この》|方《かた》に|助《たす》けられ|帰《かへ》つて|参《まゐ》りました。|誠《まこと》に|御心配《ごしんぱい》かけて|済《す》まぬ|事《こと》で|厶《ござ》いました』
ケリナ|姫《ひめ》『|御両親様《ごりやうしんさま》、つひ|悪魔《あくま》に|誘《さそ》はれて|家出《いへで》を|致《いた》し、|種々《いろいろ》と|御心配《ごしんぱい》を|掛《か》けましてお|詫《わび》の|申《まを》し|様《やう》も|厶《ござ》いませぬ。|何卒《どうぞ》|御許《おゆる》し|下《くだ》さいませ』
と|涙《なみだ》と|共《とも》に|詫入《わびい》る。
|小国姫《をくにひめ》『ア、|夢《ゆめ》かと|思《おも》つたら|夢《ゆめ》ではなかつたかな。|三千彦《みちひこ》|様《さま》、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|旦那様《だんなさま》が|貴方《あなた》の|事《こと》を|云《い》うて|今《いま》の|今《いま》|迄《まで》|待《ま》ち|兼《か》ねて|居《を》られた|様子《やうす》でしたが|最早《もはや》|絶命《ことぎ》れた|様《やう》です。アーア|何《なん》とかして|貴方《あなた》のお|顔《かほ》や|娘《むすめ》の|顔《かほ》を、も|一度《いちど》|見《み》せ|度《た》いものですが、とても|此《この》|世《よ》では|叶《かな》ひますまいな』
とワツと|泣《な》き|倒《たふ》れる。|二人《ふたり》の|娘《むすめ》は|父《ちち》の|枕辺《まくらべ》にすり|寄《よ》つて、
『お|父様《とうさま》お|父様《とうさま》』
と|泣《な》き|叫《さけ》ぶ。|三千彦《みちひこ》は|此《この》|惨状《さんじやう》を|見《み》るに|忍《しの》びず、
『|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》|様《さま》、|豊国主大神《とよくにぬしのおほかみ》|様《さま》、|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》|様《さま》、|何卒《なにとぞ》|々々《なにとぞ》、も|一度《いちど》|病人《びやうにん》の|魂返《たまがへ》しをお|許《ゆる》し|下《くだ》さいまして|親娘《おやこ》の|対面《たいめん》さして|下《くだ》さい』
と|汗《あせ》をタラタラ|流《なが》し|乍《なが》ら|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らし、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|唱《とな》へ|出《だ》した。|昏睡状態《こんすゐじやうたい》に|陥《おちい》つた|小国別《をくにわけ》はパツと|目《め》を|開《ひら》き、|二人《ふたり》の|娘《むすめ》が|枕許《まくらもと》に|居《を》るのを|見《み》て|打驚《うちおどろ》き、
|小国別《をくにわけ》『ア、|其方《そなた》はデビス|姫《ひめ》、ケリナ|姫《ひめ》であつたか。|臨終《いまは》の|際《きは》に|一目《ひとめ》|会《あ》ひたかつた。ようマア|宜《よ》い|処《ところ》へ|帰《かへ》つて|下《くだ》さつた。|嘸《さぞ》|苦労《くらう》をしたであらうな』
と|男泣《をとこな》きに|泣《な》く。|二人《ふたり》の|姉妹《おとどい》は|声《こゑ》を|揃《そろ》へて、
『お|父様《とうさま》、お|懐《なつか》しう|厶《ござ》います。|何卒《どうぞ》|確《しつか》りして|下《くだ》さいませ。|三千彦《みちひこ》|様《さま》が|居《ゐ》らつしやいますから|大丈夫《だいぢやうぶ》で|厶《ござ》います。さうお|気《き》の|弱《よわ》い|事《こと》を|云《い》はずに|長生《ながいき》して|下《くだ》さいませ』
|小国別《をくにわけ》『ア、|娘《むすめ》、よう|云《い》うて|呉《く》れた。その|言葉《ことば》を|聞《き》くからは、|父《ちち》はもう、|何時《いつ》|死《し》んでも|心残《こころのこ》りはない』
|小国姫《をくにひめ》は|漸《やうや》うに|顔《かほ》をあげ、
『|旦那様《だんなさま》、|嘸《さぞ》|御満足《ごまんぞく》で|厶《ござ》いませうな。|妾《わたし》も|斯《こ》んな|有難《ありがた》い|事《こと》は|厶《ござ》いませぬ』
|小国別《をくにわけ》は「ウン」と|云《い》つたきり、|又《また》もやスヤスヤ|昏睡状態《こんすゐじやうたい》に|入《い》つた。|三千彦《みちひこ》は|小国姫《をくにひめ》に|向《むか》ひ、
『ケリナ|姫様《ひめさま》、デビス|姫様《ひめさま》をお|助《たす》け|下《くだ》さつた|求道居士《きうだうこじ》が、|悪漢《わるもの》の|為《ため》に|岩窟内《がんくつない》に|押込《おしこ》められて|居《を》りますから、|私《わたし》は|之《これ》から|救《すく》うて|参《まゐ》ります。さうして|姫様《ひめさま》がお|帰《かへ》りになつた|事《こと》は|私《わたし》が|帰《かへ》る|迄《まで》|内密《ないみつ》に|願《ねが》ひます。|何卒《どうぞ》、|別《べつ》の|座敷《ざしき》に|移《うつ》してお|忍《しの》ばせを|願《ねが》ひます』
と|裏口《うらぐち》よりスマートと|共《とも》に|飛《と》び|出《だ》した。
|受付《うけつけ》のエルは|奥《おく》の|様子《やうす》が|何《なん》となく|騒《さわ》がしいのでフと|目《め》を|覚《さ》まし、|四這《よつばひ》になつて|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ|乍《なが》ら|親娘《おやこ》|対面《たいめん》の|様子《やうす》を|聞《き》いて|居《ゐ》た。|今《いま》|三千彦《みちひこ》が|飛《と》び|出《だ》したので|自分《じぶん》も|裏口《うらぐち》から|真跣足《まつぱだし》の|儘《まま》、|飛《と》び|出《だ》し、|見《み》え|隠《かく》れにトントントンと|後《あと》を|追《お》うて|行《ゆ》く。|三千彦《みちひこ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》にスマートの|後《あと》に|従《したが》ひ、|求道居士《きうだうこじ》を|救《すく》ふべく|道《みち》を|急《いそ》いだ。|岩窟《がんくつ》の|一町《いつちやう》ばかり|手前《てまへ》|迄《まで》|来《き》て|見《み》ると|数多《あまた》の|荒男《あらをとこ》がワイワイと|何事《なにごと》か|喚《わめ》いて|居《を》る。
|三千彦《みちひこ》は|暫《しば》らく|様子《やうす》を|窺《うかが》はむと|草《くさ》の|中《なか》に|身《み》を|隠《かく》し、|考《かんが》へて|居《ゐ》た。エルは|道《みち》を|転《てん》じて|草《くさ》を|分《わ》け|大勢《おほぜい》の|前《まへ》へ|走《はし》り|寄《よ》つて、
エル『|今《いま》|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》|三千彦《みちひこ》と|云《い》ふ|奴《やつ》、|二人《ふたり》の|姫様《ひめさま》を|連《つ》れ|帰《かへ》り、|今《いま》|又《また》|求道居士《きうだうこじ》を|救《すく》ひ|出《だ》すべくやつて|来《き》て、|其処《そこ》の|草原《くさはら》に|隠《かく》れて|居《ゐ》る』
と|報告《はうこく》したので|数十人《すうじふにん》の|荒《あら》くれ|男《をとこ》は|二《ふた》つに|分《わか》れ、|三十人《さんじふにん》|許《ばか》りは|三千彦《みちひこ》を|召捕《めしと》らむとエルが|案内《あんない》の|下《もと》に|詰《つ》めかけて|来《き》た。スマートは|忽《たちま》ち|毛《け》を|逆立《さかだ》て|縦横無尽《じうわうむじん》に|駆《か》け|廻《めぐ》り、|足《あし》を|啣《くわ》へて|将棊倒《しやうぎだふ》しにバタバタと|倒《たふ》して|了《しま》つた。|此《この》|勢《いきほ》ひに|辟易《へきえき》し、|何《いづ》れも|四這《よつばひ》となつて|雑草《ざつさう》の|中《なか》に|身《み》を|隠《かく》し|慄《ふる》うて|居《ゐ》る。|三千彦《みちひこ》は、
|三千彦《みちひこ》『アハハハハハ』
と|高笑《たかわら》ひし|乍《なが》ら|岩窟《がんくつ》に|近付《ちかづ》けば、|求道居士《きうだうこじ》、ヘルの|両人《りやうにん》を|雁字搦《がんじがら》みにして|数十人《すうじふにん》の|男《をとこ》が|棒片《ぼうちぎれ》を|以《もつ》て|叩《たた》きつけて|居《ゐ》る。
|求道居士《きうだうこじ》、ヘルの|両人《りやうにん》は|半死半生《はんしはんしやう》の|態《てい》にて|顔面《がんめん》|血潮《ちしほ》を|漲《みなぎ》らし|倒《たふ》れて|居《ゐ》た。|三千彦《みちひこ》は|其《その》|場《ば》に|現《あら》はれ、
|三千彦《みちひこ》『|罪《つみ》なき|修験者《しゆげんじや》を|打擲《ちやうちやく》するとは|何事《なにごと》ぞ。|理由《りいう》を|承《うけたま》はり|度《た》い』
と|云《い》はせも|果《は》てず、
|群衆《ぐんしう》『|其《その》|方《はう》は|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》、サアよい|所《ところ》に|来《き》た。|貴様《きさま》も|血祭《ちまつり》にして|呉《く》れむ』
と|棍棒《こんぼう》、|竹槍《たけやり》を|持《も》つて|勢《いきほひ》よく|迫《せま》り|来《く》る。|三千彦《みちひこ》は|右《みぎ》に|左《ひだり》に|体《たい》をすかし、|一方《いつぱう》|求道居士《きうだうこじ》を|庇《かば》ひながら、|敵《てき》の|刀《かたな》をひつたくり、|仁王立《にわうだ》ちとなつて、|寄《よ》らば|斬《き》らむと|身構《みがま》へして|居《ゐ》る。|空《くう》を|切《き》つて|駆《か》け|来《きた》るスマートは、|又《また》もや|縦横無尽《じうわうむじん》に|駆《か》け|廻《めぐ》り|足《あし》を|啣《くわ》へ|手《て》を|噛《か》み|一人《ひとり》も|残《のこ》さず|草原《くさはら》の|中《なか》へ|投倒《なげたふ》した。|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》の|面々《めんめん》は|何《いづ》れも|不意《ふい》を|喰《くら》ひ、|肝《きも》を|潰《つぶ》し|四這《よつばひ》となつて|草野《くさの》を|潜《くぐ》り|乍《なが》ら|各《おのおの》|思《おも》ひ|思《おも》ひに|逃《に》げて|行《ゆ》く。
|求道居士《きうだうこじ》|及《および》ヘルは|余《あま》りの|負傷《いたで》に|気《き》も|遠《とほ》くなり、|呆《ほう》けた|様《やう》になつて|首《くび》ばかり|振《ふ》つて|居《ゐ》る。|三千彦《みちひこ》は|声《こゑ》を|励《はげ》まし、
|三千彦《みちひこ》『|求道居士《きうだうこじ》|殿《どの》、ヘル|殿《どの》、|確《しつか》りなさいませ。|私《わたし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|三千彦《みちひこ》で|厶《ござ》いますぞ』
と|耳許《みみもと》にて|呼《よば》はつた。|求道居士《きうだうこじ》はハツと|気《き》を|取《と》り|直《なほ》し、|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》し|乍《なが》らヤツと|安心《あんしん》の|態《てい》にて、
|求道居士《きうだうこじ》『ア、|危《あやふ》い|所《ところ》へよく|助《たす》けに|来《き》て|下《くだ》さいました。|二三日《にさんにち》|以前《いぜん》から|此《この》|岩窟《がんくつ》に|投《な》げ|込《こ》まれ、|夜中《よなか》|頃《ごろ》|引張《ひつぱ》り|出《だ》されて|種々《いろいろ》と|打擲《ちやうちやく》に|合《あ》ひ、|到底《たうてい》|助《たす》かるまいと|思《おも》ひましたが|貴方《あなた》がおいでなさつて|私《わたし》の|命《いのち》をお|助《たす》け|下《くだ》さつて、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。そしてデビス|様《さま》、ケリナ|様《さま》は|無事《ぶじ》で|厶《ござ》いませうか。どうも、それが|気《き》にかかりましてなりませぬ』
|三千彦《みちひこ》『|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|姫様《ひめさま》はお|二人《ふたり》とも|私《わたし》が|救《すく》ひ|出《だ》し|今《いま》お|館《やかた》へ|送《おく》り|届《とど》けました。そして|親娘《おやこ》の|対面《たいめん》をなさいました。|兎《と》も|角《かく》|貴方《あなた》の|事《こと》が|気《き》にかかりお|救《すく》ひに|参《まゐ》りまして|厶《ござ》います』
|求道居士《きうだうこじ》『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|併《しか》し|乍《なが》ら|如何《どう》したものか|私《わたし》は|足《あし》が|立《た》たない|様《やう》で|厶《ござ》います』
|三千彦《みちひこ》『|私《わたし》は|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|独活《うど》の|大木《たいぼく》と|云《い》はれた|位《くらゐ》ですから、お|二人《ふたり》さまとも|私《わたし》の|背《せ》に|負《おぶ》さつて|下《くだ》さい。|兎《と》も|角《かく》お|館《やかた》までお|届《とど》け|致《いた》します』
|求道居士《きうだうこじ》『|実《まこと》に|腑甲斐《ふがひ》ない|事《こと》で|厶《ござ》いますが、そんなら|助《たす》けて|頂《いただ》きませう。ヘルさま、|貴方《あなた》は|如何《どう》ですか』
ヘル『ハイ、|私《わたし》はどうなりと|歩《ある》けるだらうと|思《おも》ひます』
|三千彦《みちひこ》『もし|歩《ある》けなかつたら、スマートさまの|首《くび》にでも|喰《くら》いついてお|帰《かへ》りなさい』
ヘル『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います、|命《いのち》の|親様《おやさま》』
と|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》を|流《なが》し|乍《なが》らエチエチと|神館《かむやかた》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふつかひ》、|並《ならび》に|狂犬《きやうけん》が|現《あら》はれたと|云《い》ふので、|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》や|宮町《みやまち》の|老若男女《らうにやくなんによ》は|戦々恟々《せんせんきようきよう》として|魔法使《まはふつかひ》|及《およ》び|狂犬《きやうけん》|撲殺《ぼくさつ》の|相談会《さうだんくわい》を|彼方《あちら》|此方《こちら》に|開《ひら》いて|居《ゐ》た。
|惟神《かむながら》|神《かみ》のまにまに|述《の》べて|行《ゆ》く
テルモン|館《やかた》にありし|次第《しだい》を。
(大正一二・三・二五 旧二・九 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第三篇 |天上天下《てんじやうてんか》
第一七章 |涼窓《りやうさう》〔一四六七〕
|色《いろ》と|慾《よく》とに|囚《とら》はれし |家令《かれい》の|倅《せがれ》ワックスは
|日頃《ひごろ》の|野望《やばう》を|達《たつ》せむと |悪友《あくいう》|二人《ふたり》を|唆《そその》かし
|神《かみ》の|館《やかた》に|納《をさ》まりし |如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》を|盗《ぬす》みだし
|其《その》|監督《かんとく》を|任《まか》されし |小国別《をくにのわけ》を|陥《おとしい》れ
|無理往生《むりわうじやう》に|最愛《さいあい》の デビスの|姫《ひめ》を|手《て》に|入《い》れて
|神《かみ》の|館《やかた》を|占領《せんりやう》し |栄耀《えいえう》|栄華《えいぐわ》に|暮《くら》さむと
|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|企《たく》みをば |今《いま》や|遂《と》げむとする|時《とき》に
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |神《かみ》の|教《をしへ》の|三千彦《みちひこ》が
|旭《あさひ》の|如《ごと》くに|下《くだ》り|来《き》て |旧悪《きうあく》|忽《たちま》ち|暴露《ばくろ》され
|身《み》のおき|処《どころ》なきままに |種々《いろいろ》|雑多《ざつた》の|奸計《かんけい》を
|巡《めぐ》らし|遂《つひ》に|三千彦《みちひこ》を |魔法使《まはふづかひ》と|云《い》ひ|触《ふ》らし
|姫《ひめ》の|危急《ききふ》を|救《すく》ひたる |求道居士《きうだうこじ》を|初《はじ》めとし
|憐《あは》れや|二人《ふたり》の|姉妹《おとどい》を |白狐《びやくこ》の|化身《けしん》と|強弁《きやうべん》し
|数多《あまた》の|町人《まちびと》|詐《いつは》りて |雁字搦《がんじがら》みに|縛《しば》り|上《あ》げ
テルモン|山《ざん》の|奥《おく》|深《ふか》く |醜《しこ》の|岩窟《いはや》に|叩《たた》き|込《こ》み
|時《とき》を|窺《うかが》ひ|夜《よ》な|夜《よ》なに |岩窟《いはや》の|前《まへ》に|忍《しの》び|行《ゆ》き
|恋《こひ》の|炎《ほのほ》を|燃《も》やしつつ |口説《くど》き|立《た》つれど|魂《たましひ》の
|据《すわ》りきつたる|姉妹《おとどい》は |何《なん》の|容赦《ようしや》もあら|涙《なみだ》
|怒《いか》りて|手《て》もなく|撥《は》ねつける |恋《こひ》の|奴隷《どれい》となり|果《は》てし
|頓馬息子《とんまむすこ》のワックスも |手《て》を|下《くだ》すべき|余地《よち》もなく
|遂《つひ》には|自暴自棄《じばうじき》となり |鋭利《えいり》な|竹槍《たけやり》|引《ひ》き|扱《しご》き
デビスの|姫《ひめ》を|一突《ひとつ》きと |構《かま》ふる|折《をり》しも|草《くさ》を|分《わ》け
|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》く|飛《と》び|来《きた》る |神《かみ》の|使《つかひ》のスマートに
|右《みぎ》の|利腕《ききうで》|一噛《ひとか》ぶり アツと|悲鳴《ひめい》を|上《あ》げながら
|少時《しばし》|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れしが |痛《いた》さを|耐《こら》へて|起《お》き|上《あが》り
|恋《こひ》の|恨《うらみ》を|晴《は》らさむと |悪酔怪《あくすゐくわい》の|荒武者《あらむしや》を
|煽動《せんどう》なして|引《ひ》き|来《きた》り |求道居士《きうだうこじ》を|閉《と》ぢ|込《こ》めし
|岩窟《いはや》の|前《まへ》に|押《お》し|寄《よ》せて |鉄門《かなど》を|手《て》もなく|打破《うちやぶ》り
|二人《ふたり》を|外《そと》へ|引《ひ》き|出《いだ》し |各自《てんで》に|槍《やり》や|刀《かたな》をば
|携《たづさ》へ|二人《ふたり》を|責《せめ》つける |身《み》に|数十《すうじふ》の|創《きず》を|受《う》け
|露《つゆ》の|命《いのち》の|落《お》ちなむと する|時《とき》もあれ|三千彦《みちひこ》が
|猛犬《まうけん》スマート|引《ひ》き|連《つ》れて |求道居士《きうだうこじ》を|救《すく》はむと
|来《きた》りて|見《み》れば|案《あん》の|定《ぢやう》 |数十人《すうじふにん》の|荒男《あらをとこ》
|三千彦《みちひこ》|目蒐《めが》けて|攻《せ》め|来《きた》る |少《すこ》しも|騒《さわ》がぬ|三千彦《みちひこ》は
|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し |生言霊《いくことたま》の|数歌《かずうた》を
|唱《とな》へ|居《ゐ》たりし|真最中《まつさいちう》 |猛犬《まうけん》スマートは|右左《みぎひだり》
|獅子奮迅《ししふんじん》の|勢《いきほひ》で |大活動《だいくわつどう》を|始《はじ》め|出《だ》し
|何《なん》の|容赦《ようしや》も|荒男《あらをとこ》 バタバタバタと|小口《こぐち》から
|将棊倒《しやうぎだふ》しに|苛《さいな》めば |遉《さすが》|無謀《むぼう》の|若者《わかもの》も
これや|敵《かな》はぬと|吾先《われさき》に |草《くさ》|生茂《おひしげ》る|野《の》の|中《なか》を
のたのたのたと|四這《よつば》ひに |思《おも》ひ|思《おも》ひに|逃《に》げて|行《ゆ》く
|其《その》|光景《くわうけい》ぞ|可笑《をか》しけれ |三千彦《みちひこ》|思《おも》はず|吹《ふ》き|出《いだ》し
アハハハハと|笑《わら》ふ|間《ま》も |容赦《ようしや》|嵐《あらし》に|吹《ふ》かれつつ
|求道居士《きうだうこじ》の|傍《そば》により |言葉《ことば》|優《やさ》しく|慰《なぐさ》めつ
|手負《ておひ》を|背《せな》に|負《お》ひながら ヘル|諸共《もろとも》に|神館《かむやかた》
|人目《ひとめ》を|忍《しの》び|帰《かへ》り|行《ゆ》く アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|助《たす》けぞ|有難《ありがた》き。
|小国《をくに》の|姫《ひめ》を|初《はじめ》とし デビス、ケリナの|姉妹《おとどい》は
|求道居士《きうだうこじ》を|背《せな》に|負《お》ひ スマート、ヘルを|従《したが》へて
|神《かみ》の|館《やかた》の|裏口《うらぐち》に |悠々《いういう》|帰《かへ》り|来《きた》りたる
|三千彦司《みちひこつかさ》を|待《ま》ち|迎《むか》へ
|小国姫《をくにひめ》『|神《かみ》の|柱《はしら》の|宣伝使《せんでんし》 |其《その》|神徳《しんとく》も|三千彦《みちひこ》の
|誠《まこと》|一《ひと》つの|救主《すくひぬし》 いかいお|世話《せわ》になりました
サアサア|早《はや》く|奥《おく》の|間《ま》に お|進《すす》みなさつて|一休《ひとやす》み
|醍醐味《だいごみ》なりときこし|召《め》し |疲《つか》れを|休《やす》め|下《くだ》さんせ
|数多《あまた》の|手創《てきず》を|負《お》ひ|給《たま》ふ |求道居士《きうだうこじ》やヘルさまは
ケリナの|姫《ひめ》が|付添《つきそ》うて |厚《あつ》く|看護《かんご》を|致《いた》します
|先《ま》づ|先《ま》づ|安心《あんしん》なさいませ |娘《むすめ》|二人《ふたり》が|大変《たいへん》な
|厚《あつ》いお|世話《せわ》になりました |貴方《あなた》は|二人《ふたり》の|助《たす》け|神《がみ》
|三千彦《みちひこ》さまと|相並《あひなら》び |経《たて》と|緯《よこ》との|神柱《かむばしら》
その|神徳《しんとく》の|高《たか》きをば |尊《たふと》び|敬《うやま》ひ|奉《たてまつ》る
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |誠《まこと》の|神《かみ》の|在《ま》す|限《かぎ》り
テルモン|山《ざん》の|此《この》|館《やかた》 |如何《いか》なる|曲《まが》の|攻《せ》め|来《く》とも
|如何《いか》でか|畏《おそ》れむ|敷島《しきしま》の |誠心《まことごころ》を|振《ふ》り|起《おこ》し
|破邪《はじや》の|剣《つるぎ》を|振《ふ》り|翳《かざ》し |快刀乱麻《くわいたうらんま》を|断《た》つ|如《ごと》き
|無限《むげん》の|神徳《しんとく》|現《あら》はして |迷《まよ》へる|百《もも》の|人々《ひとびと》を
|誠《まこと》の|神《かみ》の|御教《みをしへ》に |救《すく》はにや|置《お》かぬ|吾《わが》|心《こころ》
|守《まも》らせたまへ|惟神《かむながら》 |国治立《くにはるたち》の|大御神《おほみかみ》
|其《その》|外《ほか》|百《もも》の|大御神《おほみかみ》 |救《すく》ひの|司《つかさ》と|現《あ》れませる
|三千世界《さんぜんせかい》の|救世主《きうせいしゆ》 |三千彦司《みちひこつかさ》や|求道居士《きうだうこじ》
|守《まも》らせたまへ|吾々《われわれ》が |親子《おやこ》の|者《もの》の|運命《うんめい》を
アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |清《きよ》き|心《こころ》を|現《あら》はして
|神《かみ》に|誓《ちか》ひて|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
と|歌《うた》ひ、|双手《もろて》を|拍《う》つて|三千彦《みちひこ》の|無事《ぶじ》|帰館《きくわん》を|祝《しゆく》し|且《か》つ|将来《しやうらい》の|覚悟《かくご》を|述《の》べた。|三千彦《みちひこ》は|小国姫《をくにひめ》の|案内《あんない》につれて|奥《おく》の|一室《ひとま》に|通《とほ》りデビス|姫《ひめ》と|四方八方《よもやも》の|話《はなし》に|時《とき》を|移《うつ》した。|求道居士《きうだうこじ》、ヘルの|両人《りやうにん》は|見晴《みはら》しのよき|一室《ひとま》に|担《かつ》ぎ|込《こ》まれ|窓《まど》を|開《あ》け|放《はな》ち、|涼《すず》しき|夜風《よかぜ》を|浴《あ》びながら|創所《きずしよ》の|痛《いた》みも|打《う》ち|忘《わす》れ、|親切《しんせつ》なケリナ|姫《ひめ》の|介抱《かいはう》のもとにソファーの|上《うへ》に|横《よこた》はつた。ヘルも|亦《また》|枕《まくら》を|並《なら》べて|横《よこた》はり、ケリナ|姫《ひめ》の|親切《しんせつ》な|介抱《かいはう》を|受《う》くる|事《こと》となつた。
(大正一二・三・二六 旧二・一〇 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第一八章 |翼琴《よくきん》〔一四六八〕
|小国別《をくにわけ》の|重病《ぢゆうびやう》は、|二人《ふたり》の|姉妹《おとどい》の|無事《ぶじ》に|帰《かへ》り|来《きた》りしに|力《ちから》づきしものと|見《み》え、|時々刻々《じじこくこく》に|元気《げんき》を|増《ま》し、|最早《もはや》|憂慮《いうりよ》を|要《えう》せざる|容態《ようだい》となつて|来《き》た。|小国姫《をくにひめ》|初《はじ》め|家族《かぞく》|一同《いちどう》の|喜《よろこ》びは|譬《たと》ふるに|物《もの》なき|程《ほど》であつた。|又《また》|求道居士《きうだうこじ》、ヘルの|負傷《ふしやう》も|比較的《ひかくてき》|浅《あさ》かりしため、ケリナ|姫《ひめ》の|注意《ちうい》|周到《しうたう》なる|看護《かんご》によつて|日《ひ》に|日《ひ》に|快方《くわいはう》に|向《むか》ひ、ケリナ|姫《ひめ》に|手《て》を|引《ひ》かれ、|裏《うら》の|庭園《ていゑん》を|散歩《さんぽ》し|得《う》る|迄《まで》に|到《いた》つた。
|扨《さ》てデビス|姫《ひめ》は|三千彦《みちひこ》と|共《とも》に|離《はな》れの|間《ま》に|入《い》つて、|大神《おほかみ》を|念《ねん》じ、|館《やかた》の|無事《ぶじ》を|祈願《きぐわん》し|終《をは》り、|睦《むつま》じく|四方八方《よもやも》の|話《はなし》に|耽《ふけ》つた。デビスは|久《ひさ》し|振《ぶ》りにクラヴィコード(|翼琴《よくきん》)を|取《と》り|出《だ》し、|三千彦《みちひこ》の|労《らう》を|犒《ねぎら》はむため、|微妙《びめう》なる|声音《せいおん》を|張《は》り|上《あ》げて|指先《ゆびさき》|巧《たくみ》にコードを|弾《だん》じながら、|心《こころ》の|丈《たけ》を|糸《いと》に|托《たく》して|述《の》べ|初《はじ》めた。
デビス|姫《ひめ》『|久方《ひさかた》の|天津御国《あまつみくに》の|皇神《すめかみ》の |清《きよ》き|尊《たふと》き|麗《うるは》しき
|外《ほか》に|例《ためし》もあら|尊《たふと》 |珍《うづ》の|御教《みのり》を|四方《よも》の|国《くに》
|開《ひら》かせ|給《たま》ひて|天地《あめつち》の |中《うち》に|生《いき》とし|生《い》ける|者《もの》
|蒼生《あをひとぐさ》は|云《い》ふも|更《さら》 |鳥《とり》|獣《けだもの》や|虫《むし》けらや
|草《くさ》の|片葉《かきは》に|至《いた》る|迄《まで》 |恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|与《あた》へむと
|国治立《くにはるたち》の|大御神《おほみかみ》 |豊国姫《とよくにひめ》の|大御神《おほみかみ》
|埴安彦《はにやすひこ》や|埴安姫《はにやすひめ》の |珍《うづ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|神《かみ》の|都《みやこ》のエルサレム |黄金山下《わうごんさんか》に|現《あれ》まして
|教《をしへ》を|開《ひら》き|四方《よも》の|国《くに》 |島《しま》の|八十島《やそしま》|八十国《やそくに》を
|黄金世界《わうごんせかい》に|作《つく》り|上《あ》げ |天国《てんごく》|浄土《じやうど》を|地《ち》の|上《うへ》に
|移《うつ》さむものと|瑞御霊《みづみたま》 |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は
|厳《いづ》の|雄健《をたけ》び|踏《ふ》み|健《たけ》び |厳《いづ》の|嘖譲《ころび》を|起《おこ》しつつ
|此《この》|世《よ》を|乱《みだ》す|曲津神《まがつかみ》 |八岐大蛇《やまたをろち》や|醜狐《しこぎつね》
|曲鬼《まがおに》|共《ども》を|言向《ことむ》けて |仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|御心《みこころ》を
|普《あまね》く|天下《てんか》に|照《て》らさむと |雪《ゆき》の|晨《あした》や|霜《しも》の|宵《よひ》
|嵐《あらし》に|髪《かみ》を|梳《くしけ》づり |雨《あめ》に|御身《みま》をば|曝《さら》しつつ
|彼方《あなた》|此方《こなた》と|漂浪《さすらひ》の |長《なが》き|旅路《たびぢ》を|続《つづ》けまし
|黄金山《わうごんざん》を|初《はじ》めとし |斎苑《いそ》の|館《やかた》やコーカス|山《ざん》
|霊鷲山《りやうしうざん》や|万寿山《まんじゆざん》 |自転倒島《おのころじま》の|中心地《ちうしんち》
|四尾《よつを》の|峰《みね》に|下《くだ》りまし |種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|御心《みこころ》を
|配《くば》らせ|給《たま》ひ|世《よ》の|中《なか》の |遍《あまね》く|罪《つみ》を|清《きよ》めむと
|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ひ|給《たま》ひ |心《こころ》|正《ただ》しくいと|清《きよ》く
|優《やさ》しき|数多《あまた》の|神司《かむづかさ》 |四方《よも》に|使《つか》はし|給《たま》ひつつ
|世人《よびと》を|救《すく》ふ|宣伝使《せんでんし》 |中《なか》にも|別《わ》けて|三千彦《みちひこ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》の|雄々《をを》しさよ バラモン|教《けう》の|敵城《てきじやう》に
|怯《お》めず|恐《おそ》れず|唯《ただ》|一人《ひとり》 |神《かみ》の|教《をしへ》を|力《ちから》とし
|光《ひかり》|輝《かがや》き|下《くだ》りまし |妾等《われら》|親子《おやこ》の|悩《なや》みをば
|救《すく》はせ|給《たま》ひし|有難《ありがた》さ |仮令《たとへ》|天地《てんち》はかへるとも
|月《つき》|落《お》ち|星《ほし》は|失《う》するとも |大海原《おほうなばら》は|涸《か》るるとも
|此《この》|御恵《みめぐみ》はいつの|世《よ》か |忘《わす》れまつらむ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|御為《おんた》め|道《みち》の|為《た》め |賤《いや》しき|吾《わが》|身《み》を|奉《たてまつ》り
|三千彦司《みちひこつかさ》と|諸共《もろとも》に |八岐大蛇《やまたをろち》に|魂《たましひ》を
|抜《ぬ》かれ|給《たま》ひしバラモンの |教《をしへ》の|柱《はしら》|大黒主《おほくろぬし》の
|司《つかさ》の|君《きみ》に|赤心《まごころ》を |捧《ささ》げて|救《すく》ひ|奉《たてまつ》り
バラモン|教《けう》や|三五《あななひ》の |教《をしへ》の|道《みち》の|隔《へだ》てをば
|隈《くま》なく|取《と》りて|相共《あひとも》に |此《この》|世《よ》を|造《つく》り|給《たま》ひたる
|祖神様《おやがみさま》の|御教《みをしへ》に |力《ちから》を|合《あは》せ|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|一《ひと》つに|結《むす》びつつ |曇《くも》りきつたる|現世《うつしよ》を
ブラバーサの|世界《せかい》とし |天地《てんち》の|神《かみ》の|御前《おんまへ》に
|功《いさを》を|立《た》てて|山海《さんかい》の |恵《めぐみ》に|酬《むく》い|奉《まつ》るべし
|神《かみ》の|教《をしへ》の|霊《たま》|幸《ち》はふ |道《みち》の|司《つかさ》の|三千彦《みちひこ》さまよ
|妾《わらは》が|小《ちひ》さき|胸《むね》の|中《うち》 |燃《も》ゆる|炎《ほのほ》を|瑞霊《みづみたま》
|注《そそ》がせ|給《たま》ひて|片時《かたとき》も |早《はや》く|休《やす》ませ|給《たま》へかし
|如何《いか》に|世界《せかい》は|広《ひろ》くとも |吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》と|打《う》ち|仰《あふ》ぎ
|仕《つか》へまつらむ|武士《もののふ》は |汝《な》が|身《み》をおきて|外《ほか》になし
さはさりながら|三千彦司《みちひこつかさ》 |汝《なれ》は|彦知《ひこぢ》にましませば
|打《う》ち|見《み》る|島《しま》の|先々《さきざき》や かき|見《み》る|磯《いそ》の|隈々《くまぐま》おちず
|若草《わかくさ》の|妻《つま》|持《も》たせらめ |吾《あれ》こそは|女《め》にしあれば
|汝《なれ》をおきては|男子《をのこ》なし |汝《なれ》の|外《ほか》には|夫《つま》はなし
|綾垣《あやがき》の|浮《ふ》はやが|下《した》に|蒸衾《むしぶすま》 さやぐが|下《した》に|淡雪《あわゆき》の
|若《わか》やる|胸《むね》を|素抱《すだた》きて |白《しろ》き|腕《ただむき》|取《と》り|交《かは》し
たたきまながり|真玉手《またまで》|玉手《たまで》 いやさしまきてもも|長《なが》に
|寝《い》をしなせませ|豊神酒《とよみき》きこしめせ なつかしの|君《きみ》よ|恋《こひ》しき|男子《をのこ》よ
|青山《あをやま》に|日《ひ》が|隠《か》くらば |烏羽玉《うばたま》の|夜《よ》は|出《い》でなむ
|旭《あさひ》の|笑《ゑ》み|栄《さか》えまして |妾《わらは》が|厚《あつ》き|願《ねが》ひをば
|完全《うまら》に|委曲《つばら》にきこし|召《め》せ |神《かみ》に|誓《ちか》ひて|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
|金勝要《きんかつかね》の|大御神《おほみかみ》 イドムの|神《かみ》のおとりなし
|偏《ひとへ》に|幸《さち》を|願《ね》ぎ|奉《まつ》る アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、クラヴィコードを|傍《かたはら》に|直《なほ》し、|顔《かほ》を|赤《あか》らめ|乍《なが》ら、いと|恥《は》づかしげに|三千彦《みちひこ》に|向《むか》つて|玉《たま》の|盃《さかづき》をさし|出《だ》した。|三千彦《みちひこ》は|聊《いささ》か|有難迷惑《ありがためいわく》の|体《てい》にて、|胸《むね》を|轟《とどろ》かせながら|黙《だま》つて|姫《ひめ》のさし|出《だ》す|盃《さかづき》を|取《と》り|醍醐味《だいごみ》を|浪々《なみなみ》と|注《つ》がれて|押《お》し|頂《いただ》き、|感謝《かんしや》と|共《とも》にグツと|飲《の》み|乾《ほ》し、|決心《けつしん》の|臍《ほぞ》を|固《かた》めて|声《こゑ》も|涼《すず》しく|返歌《かへしうた》を|歌《うた》ふ。
|三千彦《みちひこ》『|仰《あふ》げば|高《たか》し|久方《ひさかた》の |天津空《あまつそら》より|下《くだ》りまし
|天《あめ》の|下《した》なる|諸々《もろもろ》を |救《すく》ひ|守《まも》らす|産土《うぶすな》の
|神《かみ》の|館《やかた》に|永久《とこしへ》に |鎮《しづ》まり|居《ゐ》ます|瑞霊《みづみたま》
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の |教《をしへ》の|館《やかた》を|統《す》べたまふ
|八島《やしま》の|主《ぬし》の|御言《みこと》もて |玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》と
|真純《ますみ》の|彦《ひこ》や|伊太彦《いたひこ》を |伴《ともな》ひ|目出度《めでたく》|神館《かむやかた》
|伏《ふ》し|拝《をが》みつつ|旅枕《たびまくら》 |軽《かる》き|身装《みなり》の|扮装《いでたち》に
|河鹿峠《かじかたうげ》の|急坂《きふはん》を |登《のぼ》りつ|下《くだ》りつ|種々《いろいろ》の
|難《なや》みに|遇《あ》ひて|漸《やうや》くに |虎《とら》|狼《おほかみ》の|吠猛《ほえたけ》る
|荒野《あらの》を|渉《わた》り|四人連《よにんづ》れ ハルナの|都《みやこ》に|進《すす》まむと
|来《きた》る|折《をり》しもバラモンの |醜《しこ》の|司《つかさ》に|襲《おそ》はれて
|師弟《してい》|四人《よにん》は|散々《ちりぢり》に |行方《ゆくへ》も|知《し》れず|分《わか》れけり
|吾《わが》|師《し》の|君《きみ》は|今《いま》|何処《いづこ》 |教《をしへ》の|友《とも》は|如何《いか》にせしと
|心《こころ》にかかる|夏《なつ》の|空《そら》 |山野《さんや》は|笑《わら》ひ|新緑《しんりよく》の
|芽《め》を|吹《ふ》き【いとど】|嬉《うれ》しげに |風《かぜ》に|梢《こずゑ》を|翻《ひるがへ》し
|舞踏《ぶたふ》を|演《えん》じ|勇《いさ》ましく |笑《わら》ひ|栄《は》ゆれど|三千彦《みちひこ》の
|心《こころ》の|空《そら》は|五月暗《さつきやみ》 |青葉《あをば》に|姿《すがた》|隠《かく》しつつ
|鳴《な》く|時鳥《ほととぎす》も|只《ただ》ならず |八千八度《はつせんやたび》の|声《こゑ》|涸《か》れて
|尋《たづ》ぬるよしも|泣逆吃《ないじやくり》 |淋《さび》しき|旅《たび》を|続《つづ》けつつ
|青野ケ原《あをのがはら》をトボトボと |烈《はげ》しき|風《かぜ》に|煽《あふ》られて
|神《かみ》の|化身《けしん》のスマートに |危《あや》ふき|命《いのち》を|救《たす》けられ
アンブラック|川《がは》を|打《う》ち|渡《わた》り テルモン|山《ざん》の|聖場《せいぢやう》に
|向《むか》つて|進《すす》む|折《を》りもあれ |小国姫《をくにのひめ》の|御姿《おんすがた》
|道《みち》の|傍《かたへ》に|廻《めぐ》り|会《あ》ひ |請《こ》はるるままに|神館《かむやかた》
|深《ふか》く|忍《しの》びて|三五《あななひ》の |教《をしへ》の|道《みち》を|宣《の》べ|伝《つた》へ
これの|館《やかた》を|包《つつ》みたる |八重黒雲《やへくろくも》を|科戸辺《しなどべ》の
|神《かみ》の|御息《みいき》に|吹《ふ》き|払《はら》ひ |月日《つきひ》も|空《そら》にテルモンの
|目出度《めでた》き|館《やかた》となりにける |時《とき》しもあれや|曲津神《まがつかみ》
|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ひて|凄《すさま》じく |此《これ》の|館《やかた》に|仇《あだ》をなし
|狂《くる》ひ|廻《まは》るぞうたてけれ |身《み》の|不覚《ふかく》より|三千彦《みちひこ》は
|曲神《まがかみ》|共《ども》に|捉《とら》へられ |情《なさ》け|容赦《ようしや》も|荒縄《あらなは》に
|縛《しば》りつけられ|免《まぬか》れむ |道《みち》も|手段《てだて》も|荒川《あらかは》に
|投《な》げ|捨《す》てられて|玉《たま》の|緒《を》の |露《つゆ》の|命《いのち》を|失《うしな》ひつ
|神霊界《しんれいかい》の|八衢《やちまた》に |彷徨《さまよ》ひ|進《すす》む|折《をり》もあれ
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|弥深《いやふか》く |猛犬《まうけん》スマート|遣《つか》はして
|吾《われ》の|霊魂《みたま》を|現世《うつしよ》に |迎《むか》へ|還《かへ》させ|給《たま》ひけり
|呼々《ああ》|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|恵《めぐみ》の|尊《たふと》さよ
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|星《ほし》は|空《そら》より|落《お》つるとも |大海原《おほうなばら》は|涸《か》るるとも
|道《みち》に|捧《ささ》げし|三千彦《みちひこ》の |露《つゆ》の|命《いのち》を|惜《をし》まむや
|館《やかた》の|難《なや》みを|見《み》るにつけ |見捨《みす》て|兼《か》ねてぞ|三千彦《みちひこ》が
|心《こころ》の|駒《こま》の|進《すす》むまに |命《いのち》を|的《まと》にテルモンの
|深山《みやま》の|奥《おく》の|岩窟《がんくつ》に |人目《ひとめ》を|忍《しの》び|尋《たづ》ねより
|心《こころ》も|姿《すがた》も|麗《うるは》しき |二人《ふたり》の|姫《ひめ》を|救《すく》ひ|出《だ》し
ようよう|此処《ここ》に|帰《かへ》りける |心《こころ》にかかりし|父君《ちちぎみ》の
|病《やまひ》もおひおひ|癒《い》え|給《たま》ひ |求道居士《きうだうこじ》やヘル|司《つかさ》
|二人《ふたり》の|身魂《みたま》も|安《やす》らかに |元《もと》に|復《かへ》りて|勇《いさ》ましく
ケリナの|姫《ひめ》に|導《みちび》かれ |花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|神苑《しんゑん》を
|心《うら》|楽《たの》しげに|逍遥《せうえう》し |恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|嬉《うれ》しみて
|楽《たの》しむ|身《み》とはなりにけり アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|尊《たふと》さよ さはさりながらデビス|姫《ひめ》
|汝《なれ》が|命《みこと》の|御心《みこころ》は |吾《わが》|赤心《まごころ》に|通《かよ》へども
|吾《われ》は|尊《たふと》き|大神《おほかみ》の |一大使命《いちだいしめい》を|帯《お》ぶる|身《み》よ
|其《その》|神業《しんげふ》の|半途《はんと》にて |思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|妻定《つまさだ》め
|如何《いか》でか|神《かみ》の|許《ゆる》さむや |此《この》|事《こと》|許《ばか》りは|諦《あきら》めて
|吾《われ》の|負《お》ひたる|使命《しめい》をば |果《はた》させ|給《たま》へ|惟神《かむながら》
|神《かみ》に|誓《ちか》ひて|汝《な》が|前《まへ》に |誠《まこと》を|明《あか》し|宣《の》り|奉《まつ》る
アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、デビス|姫《ひめ》の|御親切《ごしんせつ》なる|御志《おこころざし》は、|実《じつ》に|感謝《かんしや》に|堪《た》へないが、|神《かみ》の|使命《しめい》を|帯《お》び、|吾《わが》|師《し》の|君《きみ》と|共《とも》に|神業《しんげふ》に|仕《つか》ふる|中途《ちうと》なれば|折角《せつかく》のお|志《こころざし》なれどお|断《こと》わり|致《いた》すとの|意味《いみ》を、いと|細《こま》やかに|述《の》べ|終《をは》つたのである。アア|此《この》|両人《りやうにん》の|恋愛関係《れんあいくわんけい》は|如何《いか》にして|落着《らくちやく》するであらうか。
(大正一二・三・二六 旧二・一〇 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第一九章 |抱月《だきつき》〔一四六九〕
|求道居士《きうだうこじ》は|月夜《つきよ》の|庭園《ていゑん》をブラリブラリとケリナ|姫《ひめ》に|導《みちび》かれ|逍遥《せうえう》した。ケリナ|姫《ひめ》は|遥《はるか》に|西南方《せいなんぱう》を|指《さ》し、
ケリナ|姫《ひめ》『|求道《きうだう》さま|遥《はるか》|向《むか》ふの|方《はう》に|霞《かすみ》の|如《ごと》く、|鏡《かがみ》の|如《ごと》く|白《しろ》く|光《ひか》つて|居《ゐ》る|物《もの》が|見《み》えませう。あれはテルモン|湖水《こすゐ》と|申《まを》してアンブラック|川《がは》の|水《みづ》の|落《お》ち|込《こ》む|東西《とうざい》|百里《ひやくり》、|南北《なんぽく》|二百里《にひやくり》と|称《とな》へらるる|大湖水《だいこすゐ》で|厶《ござ》います。|深《ふか》さは|竜宮城《りうぐうじやう》|迄《まで》|届《とど》いて|居《を》ると|昔《むかし》から|申《まを》しますが、どうかあの|湖水《こすゐ》の|様《やう》に|広《ひろ》く、|深《ふか》く、|清《きよ》き|者《もの》となり|度《た》いもので|厶《ござ》いますなア。それに|月《つき》の|影《かげ》が|水面《すいめん》に|浮《うか》んだ|時《とき》には、|得《え》も|云《い》はれぬ|絶景《ぜつけい》で|厶《ござ》います。|常磐堅磐《ときはかきは》のパインの|老木《らうぼく》は|湖水《こすゐ》の|周囲《めぐり》に|環《わ》の|如《ごと》く|取《と》り|巻《ま》き、|白砂《はくしや》|青松《せいしよう》の|得《え》も|云《い》はれぬ|風景《ふうけい》で|厶《ござ》います。|一度《いちど》|貴方《あなた》が|御全快《ごぜんくわい》|遊《あそ》ばしたら|御案内《ごあんない》|申上《まをしあげ》たいもので|厶《ござ》いますわ』
|求道居士《きうだうこじ》『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|嘸《さぞ》|景色《けしき》のよい|事《こと》で|厶《ござ》いませうなア』
ケリナ|姫《ひめ》『|求道様《きうだうさま》、|貴方《あなた》は|妾《わたし》を|永遠《ゑいゑん》に|愛《あい》して|下《くだ》さるでせうなア』
|求道居士《きうだうこじ》『これは|又《また》|不思議《ふしぎ》な|事《こと》を|承《うけたま》はります。|貴女《あなた》に|限《かぎ》らず、|天下万民《てんかばんみん》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|草《くさ》の|片葉《かきは》に|至《いた》る|迄《まで》|神様《かみさま》の|愛《あい》を|取《と》りつぐ|私《わたくし》は|比丘《びく》で|厶《ござ》いますから、|力《ちから》|限《かぎ》り|愛善《あいぜん》の|徳《とく》を|施《ほどこ》したいと|願《ねが》つて|居《を》ります』
ケリナ|姫《ひめ》『|貴方《あなた》は|広《ひろ》い|世界《せかい》の|中《うち》で|特別《とくべつ》に|愛《あい》を|注《そそ》ぐものが|一人《ひとり》|厶《ござ》いませう』
|求道居士《きうだうこじ》『|神《かみ》の|愛《あい》は|平等愛《びやうどうあい》です、つまり|博愛《はくあい》ですから|愛《あい》に|依怙贔屓《えこひいき》は|厶《ござ》いませぬ。|老若男女《らうにやくなんによ》|禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》に|至《いた》る|迄《まで》|力一杯《ちからいつぱい》|愛《あい》する|考《かんが》へで|厶《ござ》います。|愛《あい》に|偏頗《へんぱ》があれば|愛《あい》|自体《じたい》は|既《すで》に|不完全《ふくわんぜん》のもので|厶《ござ》いますからなア』
ケリナ|姫《ひめ》『ハイ、それは|分《わか》つて|居《を》ります。|併《しか》し|乍《なが》ら|貴方《あなた》は、ラブ イズ ベストを|何《なん》とお|心得《こころえ》で|厶《ござ》いますか』
|求道居士《きうだうこじ》『|今《いま》|迄《まで》のバラモン|軍《ぐん》のカーネルならば|盛《さか》んにラブ イズ ベストを|唱《とな》へました。|併《しか》し|御覧《ごらん》の|通《とほ》り|円頂緇衣《ゑんちやうしえ》の|修験者《しゆげんじや》となり、|忍辱《にんにく》の|衣《ころも》を|身《み》につけた|上《うへ》からは、ラブなどは|夢《ゆめ》にも|思《おも》つた|事《こと》は|厶《ござ》いませぬ』
ケリナ|姫《ひめ》『|思《おも》ひきやラブせし|人《ひと》は|隼《はやぶさ》の
|羽《は》ばたき|強《つよ》しパインの|林《はやし》に。
|常磐木《ときはぎ》の|松《まつ》の|心《こころ》のさきくあれと
|祈《いの》りし|君《きみ》を|恨《うら》めしくぞ|思《おも》ふ』
|求道居士《きうだうこじ》『|皇神《すめかみ》の|道《みち》を|畏《かしこ》み|進《すす》む|身《み》は
|如何《いか》で|女《をんな》に|心《こころ》うつさむ』
ケリナ|姫《ひめ》『|求道様《きうだうさま》、どうしても|妾《わらは》の|願《ねがひ》は|聞《き》いて|下《くだ》さいませぬか。|貴方《あなた》は|三千彦《みちひこ》|様《さま》とは|違《ちが》つて|宣伝使《せんでんし》では|厶《ござ》いますまい。|又《また》|大切《たいせつ》な|使命《しめい》を|帯《お》びて|征途《せいと》に|上《のぼ》らるる|御身《おんみ》でもありますまいに、この|憐《あはれ》な|女《をんな》を|見殺《みごろ》しに|遊《あそ》ばす|御所存《ごしよぞん》で|厶《ござ》いますか。|貴方《あなた》のお|考《かんが》へ|一《ひと》つで|妾《わらは》は|天国《てんごく》に|遊《あそ》び、|又《また》は|地獄《ぢごく》の|底《そこ》に|陥《おち》るので|厶《ござ》います。|可憐《かれん》な|乙女《をとめ》を|地獄《ぢごく》に|堕《おと》しても|比丘《びく》のお|役目《やくめ》が|勤《つと》まりますか、それから|承《うけたま》はりたう|厶《ござ》います。|妾《わらは》のラブは|九寸五分式《くすんごぶしき》、|岩《いは》をも|射貫《いぬ》く|大決心《だいけつしん》で|厶《ござ》います』
|求道居士《きうだうこじ》『アハハハハハ|姫様《ひめさま》|冗談《じようだん》|云《い》つてはいけませぬよ。|好《よ》い|加減《かげん》に|揶揄《からか》つて|置《お》いて|下《くだ》さいませ』
ケリナ|姫《ひめ》『|動《うご》くこそ|人《ひと》の|赤心《まごころ》|動《うご》かずと
|云《い》ひて|誇《ほこ》らふ|人《ひと》は|石木《いはき》か
と|云《い》ふ|歌《うた》が|厶《ござ》いませう、|夫《それ》を|何《なん》と|考《かんが》へなさいますか。|人間《にんげん》の|身体《からだ》はよもや|石木《いはき》では|厶《ござ》いますまい。|愛情《あいじやう》の|炎《ほのほ》が|心中《しんちう》に|燃《も》えて|居《を》らねば|衆生済度《しゆじやうさいど》も|出来《でき》ますまい。|理論《りろん》のみに|走《はし》つて|冷《ひや》やかな|態度《たいど》のみを|保《たも》つのが|決《けつ》して|貴方《あなた》の|御本心《ごほんしん》では|厶《ござ》いますまい』
|求道居士《きうだうこじ》『アア、|迷惑《めいわく》な|事《こと》が|出来《でき》たものだなア。|又《また》|一《ひと》つ|煩悶《はんもん》の|種《たね》が|殖《ふ》へて|来《き》たワイ』
ケリナ|姫《ひめ》『|卑《はした》ない|愚《おろか》な|女《をんな》にラブされて|嘸《さぞ》|御迷惑《ごめいわく》で|厶《ござ》いませう。|貴方《あなた》に|愛《あい》の|無《な》いのを|妾《わらは》はたつてとは|申《まを》しませぬ』
|求道居士《きうだうこじ》『|姫様《ひめさま》さう|悪取《わるどり》をして|貰《もら》つては|求道《きうだう》も|本当《ほんたう》に|困《こま》ります。|貴方《あなた》のやうな|才媛《さいえん》をどうして|嫌《きら》ひませうか。|私《わたくし》だつて|未《ま》だ|年若《としわか》い|有情《うじやう》の|男子《だんし》で|厶《ござ》いますよ。|併《しか》し|乍《なが》ら|一旦《いつたん》|神様《かみさま》にお|任《まか》せした|身《み》で|厶《ござ》いますから、さう|勝手《かつて》に|恋愛味《れんあいみ》を|吸収《きふしう》する|訳《わけ》には|参《まゐ》りますまい』
ケリナ|姫《ひめ》『モシ|求道《きうだう》|様《さま》、|貴方《あなた》はまだ|或物《あるもの》に|捉《とら》はれて|居《ゐ》られますなア。それでは|解脱《げだつ》なされたとは|申《まを》されますまい。|況《まし》て|比丘《びく》は|宣伝使《せんでんし》ではなく、|半俗半聖《はんぞくはんせい》の|御身《おんみ》の|上《うへ》で|厶《ござ》いませぬか。|神様《かみさま》のお|道《みち》は|総《すべ》て|解放的《かいはうてき》では|厶《ござ》いませぬか。|何物《なにもの》にも|捉《とら》へらるる|事《こと》なく、|坦々《たんたん》たる|大道《だいだう》を|自由自在《じいうじざい》に|進《すす》み|得《う》るのが|仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|神様《かみさま》のお|道《みち》でせう。|情《なさけ》を|知《し》らぬは|決《けつ》して|男子《だんし》とは|申《まを》されますまい』
|求道居士《きうだうこじ》『さう|短兵《たんぺい》|急《きふ》に|大手《おほて》|搦手《からめて》から|追撃《つゐげき》されてはこの|円坊主《まるばうず》も|逃《に》げ|道《みち》が|厶《ござ》いませぬワイ、|今日《けふ》は|何卒《どうぞ》|大目《おほめ》に|見《み》て|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
ケリナ|姫《ひめ》『ホホホホ、|貴方《あなた》は|比較的《ひかくてき》|卑怯《ひけふ》なお|方《かた》で|厶《ござ》いますなア。そんな|事《こと》でどうして|衆生済度《しうじやうさいど》が|出来《でき》ますか。|貴方《あなた》は|平和《へいわ》の|女神《めがみ》を|一人《ひとり》|堕落《だらく》さす|考《かんが》へですか。|比丘《びく》と|云《い》ふ|雅号《ががう》を|取《と》り|除《のぞ》けば|普通《ふつう》の|人間《にんげん》ぢや|厶《ござ》いませぬか。|大神様《おほかみさま》は|変化《へんげ》の|術《じゆつ》を|用《もち》ひて|衆生《しゆじやう》を|済度《さいど》|遊《あそ》ばすでせう、|貴方《あなた》も|暫《しばら》く|観自在天《くわんじざいてん》の|境地《きやうち》になつて|憐《あは》れな|女《をんな》を|救《すく》ふお|考《かんが》へは|厶《ござ》いませぬか。|女《をんな》に|関係《くわんけい》して|行力《ぎやうりき》が|落《お》ちるなぞと|頑迷固陋《ぐわんめいころう》の|思想《しさう》に、|失礼《しつれい》ながら|囚《とら》はれてお|出《いで》なさるのでは|厶《ござ》いますまいか』
|求道居士《きうだうこじ》『|何分《なにぶん》|私《わたし》の|両親《りやうしん》が|一夜《ひとよさ》の|間《ま》に|粗製《そせい》|濫造《らんざう》してくれた|代物《しろもの》で|厶《ござ》いますから、|今時《いまどき》の|新《あたら》しい|婦人方《ふじんがた》のお|考《かんが》へは、|容易《ようい》に|頭《あたま》に|滲《し》みませぬ。|実《じつ》に|時代後《じだいおく》れの|骨董品《こつとうひん》で|厶《ござ》います。|何《いづ》れ|徴古館《ちようこくわん》に|陳列《ちんれつ》される|代物《しろもの》ですからなア、アハハハハ』
ケリナ|姫《ひめ》『エエ|辛気《しんき》|臭《くさ》い、ジレツたい、|何《なん》と|仰有《おつしや》つても|妾《わらは》は|初心《しよしん》を|貫徹《くわんてつ》せなくては|現代《げんだい》|婦人《ふじん》に|対《たい》しても|妾《わらは》の|顔《かほ》が|立《た》ちませぬ。|婦人《ふじん》の|面貌《めんばう》に|泥《どろ》を|塗《ぬ》つては|済《す》みませぬ。|妾《わらは》が|貴方《あなた》に|擯斥《ひんせき》せられたのは|決《けつ》して|妾《わらは》|一人《ひとり》ではございませぬ、|現代《げんだい》|婦人《ふじん》の|代表的《だいへうてき》|侮辱《ぶじよく》を|受《う》けたやうなもので|厶《ござ》いますから、そのお|覚悟《かくご》で|居《ゐ》て|下《くだ》さい』
と|自棄気味《やけぎみ》になり、|猛烈《まうれつ》な|気焔《きえん》を|吐《は》きかけた。
|求道居士《きうだうこじ》『アア|夢《ゆめ》では|無《な》からうかなア。バラモン|軍《ぐん》に|居《を》つた|時《とき》には、|干瓢《かんぴよう》に|目鼻《めはな》をつけたやうな|女《をんな》にさへ|嫌《きら》はれたものだが、|修験者《しゆげんじや》の|身《み》になつて|女《をんな》を|断念《だんねん》したと|思《おも》へば、|生《うま》れてから|無《な》いやうな、|婦人《ふじん》の|方《はう》からラブされるとは、|世《よ》の|中《なか》も|変《かは》つたものだ、|否《いな》|私《わたし》の|境遇《きやうぐう》も|地異天変《ちいてんぺん》が|起《おこ》つたやうなものだ。エエ|仕方《しかた》がない、|仮令《たとへ》|神罰《しんばつ》を|蒙《かうむ》つて|根《ね》の|国《くに》|底《そこ》の|国《くに》へ|堕《お》ちるとも|貴方《あなた》の|熱愛《ねつあい》に|酬《むく》いませう』
ケリナ|姫《ひめ》『|求道《きうだう》|様《さま》、|決《けつ》して|根底《ねそこ》の|国《くに》へは|妾《わらは》が|堕《おと》しませぬ。|夜《よる》なく|冬《ふゆ》なき|天国《てんごく》の|楽《たの》しみを|此《この》|世《よ》|乍《なが》らに|楽《たの》しみ、|大神《おほかみ》の|御用《ごよう》に|夫婦《ふうふ》|和合《わがふ》して|仕《つか》へませう、|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ。|夫《それ》について|男《をとこ》の|心《こころ》と|秋《あき》の|空《そら》とか|云《い》ひますから、|此処《ここ》で|一《ひと》つ|誓《ちか》つて|下《くだ》さいませ』
|求道居士《きうだうこじ》『|然《しか》らば|大空《おほぞら》に|澄《す》み|渡《わた》る|麗《うるは》しき|月《つき》に|向《むか》つて|誓《ちか》ひませう』
ケリナ|姫《ひめ》『|月《つき》には|盈《み》つると|虧《か》くるの|変化《へんくわ》が|厶《ござ》います。|途中《とちう》に|変《かは》られては|困《こま》りますから、|何卒《どうぞ》この|庭先《にはさき》の|千引岩《ちびきいは》に|誓《ちか》つて|下《くだ》さいませ』
|求道居士《きうだうこじ》『|千代《ちよ》|八千代《やちよ》|千引《ちびき》の|岩《いは》の|動《うご》きなく
|君《きみ》を|愛《め》でむと|誓《ちか》ふ|今日《けふ》かな』
ケリナ|姫《ひめ》『|千引岩《ちびきいは》|押《お》せども|引《ひ》けども|動《うご》きなき
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》と|千代《ちよ》を|契《ちぎ》らむ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|求道《きうだう》の|手《て》を|固《かた》く|握《にぎ》り|二《ふた》つ|三《み》つ|上下左右《じやうげさいう》に|強《つよ》く|揺《ゆす》つた。|求道《きうだう》も|亦《また》|姫《ひめ》の|手《て》を|取《と》り、|頬《ほほ》と|頬《ほほ》とをピタリと|合《あは》し、|千代《ちよ》の|固《かた》めとした。|暫《しばら》く|両人《りやうにん》はパインの|蔭《かげ》に|直立《ちよくりつ》し|手《て》を|握《にぎ》り|合《あ》つて|無言《むごん》の|儘《まま》ハートに|浪《なみ》を|打《う》たせて|居《ゐ》る。ヘルは|退屈《たいくつ》|紛《まぎ》れに|月《つき》を|眺《なが》めながらブラリブラリと|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、
ヘル『イヤ、|御両所様《ごりやうしよさま》、お|祝《いは》ひ|申《まを》します』
ケリナ|姫《ひめ》『ヤア|貴方《あなた》はヘルさまで|厶《ござ》いましたか。|月《つき》の|景色《けしき》がよいので|求道《きうだう》|様《さま》とブラついて|居《ゐ》ましたのですよ』
ヘル『|何卒《どうぞ》|毎晩《まいばん》|月夜《つきよ》で|厶《ござ》いますからお|楽《たの》しみ|遊《あそ》ばしませ。|私《わたくし》は|気《き》を|利《き》かして|控《ひか》へて|居《ゐ》ましたのですよ、アハハハハ』
|求道居士《きうだうこじ》『…………』
ケリナ|姫《ひめ》『ホホホホ、お|月様《つきさま》が|可笑《をか》しさうにニコニコと|笑《わら》つてゐらつしやいますわ』
ヘル『|貴女《あなた》も|嬉《うれ》しさうに|笑《わら》つてゐらつしやいましたね』
(大正一二・三・二六 旧二・一〇 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第二〇章 |犬闘《けんとう》〔一四七〇〕
|空《そら》はドンヨリと|曇《くも》り、|濃淡《のうたん》の|雲片《うんぺん》|雲塊《うんくわい》は|所斑《ところまんだら》に|満天《まんてん》を|包《つつ》み、|少《すこ》し|許《ばか》りの|雲《くも》の|破《やぶ》れから|青雲《あをくも》の|肌《はだへ》をチラチラと|七八箇所《ななやかしよ》|許《ばか》り|見《み》せて|居《を》る。|風《かぜ》もなく|木《こ》の|葉《は》のそよぎも|止《と》まり、|体《からだ》|一面《いちめん》に|汗《あせ》が|滲《にじ》り|出《で》る。|湿《しめ》つぽい|空気《くうき》が|天地《てんち》を|充塞《じうそく》して|居《ゐ》る。|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》は|彼方《あちら》に|三人《さんにん》、|此方《こちら》に|五人《ごにん》と|集《あつま》り|犬《いぬ》に|噛《か》まれた|無念話《むねんばなし》の|花《はな》を|咲《さ》かし、|目《め》を|釣《つ》り|上《あ》げ|額《ひたひ》に|青筋《あをすぢ》を|立《た》て、|中《なか》には|歯《は》ぎしり|噛《か》んで|怒《いか》り|狂《くる》ふ|者《もの》もあつた。|余《あま》り|腹立《はらだ》たしさに|何《いづ》れも|酒《さけ》をあふり|苦痛《くつう》を|紛《まぎ》らす|為《ため》とて|銅羅《どら》の|様《やう》な|蛮声《ばんせい》を|張《は》り|上《あ》げ、|自暴自棄的《じばうじきてき》にさざめいて|居《を》る。そこへ|白《しろ》き|繃帯《はうたい》を|腕《うで》に|巻《ま》きつけ|驢馬《ろば》に|跨《またが》りオークス、ビルマを|従《したが》へてやつて|来《き》たのはワックスであつた。ワックスは|十字街頭《じふじがいとう》に|立《た》ち、|薄《うす》つぺらな|豆太鼓《まめだいこ》を|誓願寺《せいぐわんじ》の|遍歴者《へんれきしや》が|叩《たた》く|様《やう》に、「ドンドン、ドンドンドン、チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン」と、|擦鉦《すりがね》と|共《とも》に|囃《はや》し|立《た》て|乍《なが》ら|現《あら》はれ|来《きた》り、|馬上《ばじやう》にツツと|立《た》ち|乍《なが》ら、
ワックス『|一大事《いちだいじ》|突発《とつぱつ》せり。|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》は|申《まを》すに|及《およ》ばず|脛腰《すねこし》の|立《た》つ|者《もの》は|何《いづ》れも|鐘路《しようろ》に|集《あつ》まれ』
と|大喝《だいかつ》するや、|怒《いか》り|立《た》つたる|老若男女《らうにやくなんによ》は|瞬《またた》く|間《うち》に|数百人《すうひやくにん》|集《あつ》まり|来《きた》り、「ワーイ ワーイ」と|鬨《とき》の|声《こゑ》を|挙《あ》げ、ワックスの|演説《えんぜつ》を|聞《き》かむと|囃《はや》し|立《た》ててゐる。オークスは|太鼓《たいこ》の|手《て》をやめて|馬上《ばじやう》に|衝《つ》ツ|立《た》ち|乍《なが》ら、|大手《おほて》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、|鰐口《わにぐち》をあけて|大道演説《だいだうえんぜつ》を|始《はじ》め|出《だ》した。
オークス『|皆《みな》さま、|神館《かむやかた》の|門番頭《もんばんがしら》、|未来《みらい》の|家令職《かれいしよく》オークスで|厶《ござ》る、|今《いま》ここへ|現《あら》はれ|玉《たま》うたワックス|先生《せんせい》は、|御覧《ごらん》の|如《ごと》く|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》が|使役《しえき》する|狂犬《きやうけん》に|腕《うで》を|咬《か》まれ、|又《また》|吾々《われわれ》は|此《この》|通《とほ》り|足《あし》を|噛《か》み|切《き》られ、|散々《さんざん》の|目《め》に|合《あ》はされました。|否《い》や|吾々《われわれ》のみならず|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》の|大部分《だいぶぶん》は|皆《みな》|彼《か》の|狂犬《きやうけん》に|傷《きず》つけられたでは|厶《ござ》らぬか。|吾々《われわれ》テルモン|山《ざん》の|霊地《れいち》に|住居《すまゐ》|致《いた》す|神《かみ》の|選民《せんみん》が、どうして|之《これ》を|不問《ふもん》に|附《ふ》する|事《こと》が|出来《でき》ませうか。|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|水平会員《すいへいくわいゐん》|並《ならび》に|本町《ほんちやう》の|老若男女《らうにやくなんによ》は|此《この》|霊地《れいち》を|守《まも》るべく|身《み》を|挺《てい》して|館《やかた》につめよせ、|魔法使《まはふづかひ》の|三千彦《みちひこ》、|求道居士《きうだうこじ》を|召捕《めしと》り|彼《か》の|狂犬《きやうけん》を|撲殺《ぼくさつ》し、|霊地《れいち》を|清《きよ》むる|御所存《ごしよぞん》は|厶《ござ》いませぬか。|誠《まこと》に|残念《ざんねん》|至極《しごく》で|厶《ござ》います。これが|何《なん》ともない|様《やう》な|人間《にんげん》なら、それは|木石《ぼくせき》に|等《ひと》しきもので|厶《ござ》いませう。|人《ひと》は|感情《かんじやう》の|動物《どうぶつ》です。どうか|皆《みな》さま、バラモン|魂《だましひ》を|発揮《はつき》し、|吾々《われわれ》の|後《あと》に|跟《つ》いて|此《この》|壮挙《さうきよ》に|賛同《さんどう》あらむ|事《こと》を|希望《きばう》|致《いた》します』
|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》の|中《うち》より、へべれけに|酔《よ》うた|男《をとこ》、|繃帯《はうたい》し|乍《なが》ら|現《あら》はれ|来《きた》り、
|男《をとこ》『ヤア|門番《もんばん》、オークス、|御苦労《ごくらう》|御苦労《ごくらう》、お|前《まへ》がそんな|事《こと》|云《い》はずとも|此《この》トンクさまが|一人《ひとり》でも|敵《かたき》を|討《う》たなくちや|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》の|顔《かほ》が|立《た》たねーだ。|然《しか》し|乍《なが》ら|暫《しばら》く|足《あし》の|癒《なほ》る|迄《まで》|此《この》|攻撃《こうげき》は|待《ま》つて|呉《く》れ。|此《この》トンク|一人《ひとり》の|力《ちから》でも|美《み》ん|事《ごと》、やつつけて|見《み》せる。|本当《ほんたう》に|怪体《けつたい》の|悪《わる》い、これが|黙《だま》つて|居《を》られやうかい』
|群衆《ぐんしう》の|中《なか》より、
『|尤《もつと》もだ|尤《もつと》もだ。|猶予《いうよ》はならぬ。やつつけよ やつつけよ』
と|口々《くちぐち》に|叫《さけ》び|罵《ののし》る。ワックスは|潮時《しほどき》を|見《み》すまし|繃帯《はうたい》を|解《ほど》き|傷所《きずしよ》を|現《あら》はし|乍《なが》ら、
ワックス『|皆《みな》さま、|私《わたし》は|魔法使《まはふづかひ》の|為《た》めに|此《この》|通《とほ》り|惨《むご》い|目《め》に|会《あ》ひました。|私《わたし》が|舎身的《しやしんてき》|活動《くわつどう》を|致《いた》し、|斯様《かやう》な|負傷《ふしやう》をしたのも|皆《みな》さまを|思《おも》ふ|為《ため》で|厶《ござ》いますぞ。|苟《いやし》くも|悪酔怪《あくすゐくわい》の|統率者《とうそつしや》たるもの、|仮令《たとへ》|貴重《きちよう》なる|生命《せいめい》を|捨《す》つるとも|諸君《しよくん》の|為《た》め|犠牲《ぎせい》となつて|弱《よわ》きを|挫《くじ》き、|強《つよ》きを|助《たす》けねばなりますまい、サア|時《とき》|遅《おく》れては|却《かへ》つて|敵《てき》に|逃《に》げられるかも|知《し》れませぬから、|皆《みな》さまは|此《この》ワックスに|従《したが》ひ|脛腰《すねこし》の|立《た》つ|方《かた》は|館《やかた》に|押《お》し|寄《よ》せ|敵《てき》を|捕縛《ほばく》して|下《くだ》さい。さうして|負傷《ふしやう》した|方《かた》は|是非《ぜひ》に|及《およ》ばぬとしてお|休《やす》みになつても|宜《よろ》しい。|然《しか》し|乍《なが》ら|人間《にんげん》は|心《こころ》の|持《も》ち|方《かた》が|肝腎《かんじん》です、|此《この》|通《とほ》り|腕《うで》を|噛《か》まれ|足《あし》を|咬《か》まれて|激痛《げきつう》を|忍《しの》び|乍《なが》ら、|漸《やうや》く|驢馬《ろば》に|跨《またが》り|活動《くわつどう》を|致《いた》して|居《を》る|私《わたし》の|苦心《くしん》をお|察《さつ》し|下《くだ》さらば、|少々《せうせう》の|怪我《けが》|位《ぐらゐ》は|憂《うれ》ふるに|及《およ》びますまい。|千騎一騎《せんきいつき》の|此《この》|場合《ばあひ》、|協心戮力的《けふしんりくりよくてき》|大活動《だいくわつどう》を|祈《いの》ります』
と|言葉《ことば》|巧《たくみ》に|述《の》べ|終《をは》るや、|慌者《あわてもの》の|弥次馬《やじうま》は|各自《てんで》に|棍棒《こんぼう》を|携《たづさ》へ、|或《あるひ》は|竹槍《たけやり》、|長剣《ちやうけん》を|揮《ふる》つてワックスが|指揮《しき》の|下《もと》に|潮《うしほ》の|如《ごと》く|館《やかた》の|門前《もんぜん》さして、|列《れつ》を|正《ただ》し|旗《はた》を|押《お》し|立《た》て、|太鼓《たいこ》を|叩《たた》き|擦鉦《すりがね》を|鳴《な》らし|乍《なが》ら|進《すす》み|行《ゆ》く。ワックスは|先《さき》に|立《た》ち|進軍歌《しんぐんか》を|歌《うた》ひ|初《はじ》めた。
ドーン ドーン ドーン チヤンチキチヤンチキ チヤンチキチン
ワックス『|皆《みな》さま|皆《みな》さま|確《しつか》りと |鉢巻《はちまき》|締《し》めて|帯《おび》|締《し》めて
|草鞋《わらぢ》の|紐《ひも》をよく|結《むす》び |手《て》に|手《て》に|柄物《えもの》を|携《たづさ》へて
テルモン|山《ざん》の|聖場《せいぢやう》を |覆《くつが》へさむと|企《たく》む|奴《やつ》
ドーン ドーン ドーン チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン
|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》 みち|三千彦《みちひこ》や|求道居士《きうだうこじ》
それに|従《したが》ふ|小盗人《こぬすびと》 |狂犬《きやうけん》スマート|諸共《もろとも》に
|只《ただ》|一匹《いつぴき》も|残《のこ》さずに |命《いのち》を|的《まと》に|立向《たちむか》ひ
|往生《わうじやう》さしてやりませう ドーン ドーン ドーン
チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン |人《ひと》は|心《こころ》が|第一《だいいち》だ
|弱《よわ》き|奴《やつ》にはドツと|行《ゆ》け |強《つよ》い|奴《やつ》にはドツと|逃《に》げ
もしも|先方《むかふ》が|強《つよ》ければ |暫《しばら》く|予定《よてい》の|退却《たいきやく》し
|再《ふたた》び|戦備《せんび》を|整《ととの》へて |捲土重来《けんどぢゆうらい》|進《すす》み|行《ゆ》く
ドーン ドーン ドーン チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン
|凡《すべ》て|軍《いくさ》の|駆引《かけひき》は |潮《しほ》の|満干《さしひき》ある|様《やう》に
|千変万化《せんぺんばんくわ》の|秘術《ひじゆつ》をば |尽《つく》して|敵《てき》に|向《むか》ふのが
|誠《まこと》の|兵法《へいはふ》と|云《い》ふものだ |仮令《たとへ》|三年《さんねん》かかるとも
|此《この》|残念《ざんねん》を|晴《は》らさねば |悪酔怪《あくすゐくわい》や|水平会《すいへいくわい》
|霊地《れいち》に|住《す》まへる|人々《ひとびと》の |男《をとこ》の|顔《かほ》は|丸潰《まるつぶ》れ
|女《をんな》の|顔《かほ》も|台《だい》なしに なつて|天地《てんち》に|恥《はぢ》|曝《さら》し
|末代《まつだい》|迄《まで》も|笑《わら》はれる それを|防《ふせ》ぐは|今《いま》だぞや』
ドンドコ ドンドコ ドコドコドン チヤンチキ チヤンチキ チヤンチキチン
と|太鼓《たいこ》|擦鉦《すりがね》の|忙《せは》しき|鳴《な》り|音《おと》につれて|足並《あしなみ》|早《はや》く|忽《たちま》ち|門前《もんぜん》に|進《すす》み|寄《よ》り、ワックスは|後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り、|又《また》もや|馬上演説《ばじやうえんぜつ》を|始《はじ》め|出《だ》した。
ワックス『|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》、|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|三千彦《みちひこ》を|初《はじ》め|求道居士《きうだうこじ》の|堕落僧《だらくそう》、|並《ならび》に|小盗人《こぬすと》のヘルの|三人《さんにん》、|狂犬《きやうけん》スマートと|諸共《もろとも》に|正《まさ》に|此《この》|館《やかた》にあり。|国家《こくか》の|興亡《こうばう》、|旦夕《たんせき》に|迫《せま》る。|汝《なんぢ》|等《ら》|一同《いちどう》の|勇士《ゆうし》|諸君《しよくん》、|獅子奮迅《ししふんじん》の|勢《いきほひ》を|以《もつ》て|武備《ぶび》なき|此《この》|館《やかた》、|前《まへ》と|後《うしろ》より|乱入《らんにふ》し、|先《ま》づ|悪人輩《あくにんばら》を|捕縛《ほばく》し、|魔法使《まはふづかひ》に|魂《たましひ》を|抜《ぬ》かれたる|小国別《をくにわけ》|夫婦《ふうふ》、|並《ならび》に|悪狐《あくこ》の|変化《へんげ》なる|二人《ふたり》の|姫《ひめ》を|虜《とりこ》にし、|此《この》|馬場《ばば》の|物干竿《ものほしざを》に|縛《しば》りつけ、|懲《こら》しめられ|度《た》し。|時《とき》|遅《おく》れては|遁走《とんそう》の|虞《おそれ》あり。|早《はや》く|早《はや》く』
と|下知《げち》すれば|逸《はや》りきつたる|群衆《ぐんしう》は『ワツワツ』と|鬨《とき》を|作《つく》り|雪崩《なだれ》をうつて|門内《もんない》に|乱入《らんにふ》せむとする|其《その》|勢《いきほ》ひ|物凄《ものすご》く、|狂瀾怒濤《きやうらんどたう》の|岸《きし》に|噛《か》み|付《つ》く|如《ごと》き|光景《くわうけい》となつて|来《き》た。|何処《いづこ》よりともなく|現《あら》はれ|来《きた》りしスマートは、ここを|先途《せんと》と|唸《うな》り|出《だ》し、|山岳《さんがく》も|揺《ゆ》るぐ|許《ばか》りの|声《こゑ》を|発《はつ》した。|流石《さすが》の|群衆《ぐんしう》もワックスも|此《この》|唸《うな》り|声《ごゑ》に|辟易《へきえき》し、|進《すす》み|兼《か》ねたる|折《をり》もあれ、スマートは|群衆《ぐんしう》の|中《なか》に|矢《や》の|如《ごと》く|飛《と》び|入《い》り、|縦横無尽《じうわうむじん》に|駆《か》け|廻《まは》り、|悪酔怪員《あくすゐくわいゐん》のみを|目蒐《めが》けてバタリバタリと|咬《か》み|倒《たふ》した。|群集《ぐんしふ》は|驚《おどろ》き|慌《あわ》てて|色《いろ》を|失《うしな》ひ、|各《おのおの》|思《おも》ひ|思《おも》ひに|生命《いのち》からがら|逃《に》げ|散《ち》つた。ワックスはオークス、ビルマ、エルを|従《したが》へ|己《おの》が|館《やかた》をさして|一目散《いちもくさん》に|驢馬《ろば》に|鞭《むち》|打《う》ち|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二六 旧二・一〇 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第二一章 |言触《ことぶれ》〔一四七一〕
ワックスは|驚《おどろ》き|吾《わが》|家《や》に|馳帰《はせかへ》り|見《み》れば|父《ちち》のオールスチンは|病《やまひ》|益々《ますます》|重《おも》く、|殆《ほとん》ど|虫《むし》の|息《いき》になつて|居《ゐ》た。|流石《さすが》のワックスも|驚《おどろ》いて|父《ちち》の|病床《びやうしやう》に|駆《か》け|寄《よ》り、|涙《なみだ》の|声《こゑ》を|絞《しぼ》り|乍《なが》ら、
ワックス『お|父様《とうさま》、|如何《いかが》で|厶《ござ》います。お|苦《くる》しう|厶《ござ》いますか』
とツヒになく|優《やさ》しく|尋《たづ》ねる。オールスチンはクワツと|目《め》を|瞠《みひら》き、ニタリと|笑《わら》つた|儘《まま》|瞑目《めいもく》して|了《しま》つた。
ワックス『アーア|到頭《とうとう》|大切《たいせつ》の|大切《たいせつ》のお|父《とう》さまはなくなつて|了《しま》つた。アアどうしようかな。おい、オークス、ビルマ、も|一度《いちど》どうかして|甦《よみがへ》つて|貰《もら》ふ|道《みち》はあるまいかな。コラ|看護婦《かんごふ》、|貴様達《きさまたち》|二人《ふたり》も|附《つ》いて|居《を》つて|何《なに》して|居《ゐ》た。|親爺《おやぢ》が|死《し》ぬやうな|看護《かんご》を|頼《たの》みはせぬぞ、|病気《びやうき》が|癒《なほ》る|為《ため》、|高《たか》い|金《かね》を|出《だ》して|雇《やと》うて|居《ゐ》たのだ。|俺《おれ》の|不在《るす》の|間《ま》に|何《なに》か|悪《わる》い|事《こと》したのだらう。トツトと|出《で》て|行《ゆ》け』
とソロソロ|地金《ぢがね》を|出《だ》しワヤな|事《こと》を|云《い》ひ|出《だ》した。|看護婦《かんごふ》は|呆《あき》れて|返《かへ》す|言葉《ことば》もなく、|面《つら》を|膨《ふく》らし|乍《なが》ら|自分《じぶん》の|持物《もちもの》を|取《と》りまつべて|逃《に》げ|帰《かへ》らうとする。
ワックス『コリヤ|一寸《ちよつと》|待《ま》て、その|荷物《にもつ》を|税関《ぜいくわん》で|調《しら》べてやらう。|親爺《おやぢ》の|小判《こばん》をソファーの|下《した》から|引張《ひつぱ》り|出《だ》して|詰《つ》めて|居《ゐ》るのだらう』
|看護婦《かんごふ》『ホホホそんな|安《やす》い|人間《にんげん》と|思《おも》つて|貰《もら》ひますと|片腹《かたはら》|痛《いた》う|厶《ござ》います。|然《しか》し|此《この》トランクは|私《わたし》の|物《もの》ですから|指一本《ゆびいつぽん》|触《さ》へるなら|触《さ》へて|御覧《ごらん》なさい』
ワックス『ヨシ、みん|事《ごと》|調《しら》べてやらう。|大泥棒《おほどろぼう》|奴《め》が』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|二人《ふたり》の|看護婦《かんごふ》のトランクを|無理《むり》に|捻開《ねぢあ》けた。|忽《たちま》ち|白《しろ》き|煙《けむり》シユーシユーと|音《おと》を|立《た》てて|立《たち》あがり、|中《なか》よりデビス|姫《ひめ》、ケリナ|姫《ひめ》の|二人《ふたり》がニコニコしながら|立《た》ち|現《あら》はれた。ワックスはアツと|驚《おどろ》き|腰《こし》を|抜《ぬ》かし『バ……|化物《ばけもの》』と|呼《よ》んだきり、|喉《のど》がつまり|口《くち》をワナワナさせ|慄《ふる》うて|居《ゐ》る。オークス、ビルマは|其《その》|間《あひだ》にソファーを|取《と》り|除《の》け、|畳《たたみ》をめくり、オールスチンの|隠《かく》して|置《お》いた|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》を|引張《ひつぱり》|出《だ》し、|看護婦《かんごふ》のトランクに|詰《つ》め|込《こ》み、|倒《たふ》れて|居《ゐ》るワックスの|前《まへ》に|見《み》せびらかし、
オークス『もし、ワックス|様《さま》、これ|丈《だけ》の|戦利品《せんりひん》が|厶《ござ》いましたよ。|後《あと》にはもう|一《ひと》つも|残《のこ》つて|居《を》りませぬ。ビルマと|両人《りやうにん》が|有難《ありがた》く|頂戴《ちやうだい》|致《いた》します。お|前《まへ》さまはお|化《ばけ》の|姫様《ひめさま》と|仲良《なかよ》う|暮《くら》しなさい。お|前《まへ》さまの|腰《こし》は|三日《みつか》や|四日《よつか》にや|立《た》ちますまいから、これから|両人《りやうにん》が|聖地《せいち》を|逐電《ちくでん》|致《いた》し、ハルナの|都《みやこ》に|行《い》つて|栄耀《えいえう》|栄華《えいぐわ》に|暮《くら》します、アバよ、ウツフフフフフフ』
と|腮《あご》をしやくり|嘲笑《てうせう》しながらスタスタと|表《おもて》へ|駆《か》け|出《だ》す。|二人《ふたり》の|看護婦《かんごふ》の|姿《すがた》は|何処《どこ》へ|行《い》つたか|皆目《かいもく》|見《み》えなかつた。ワックスは|無念《むねん》をこらへ|歯切《はぎ》りを|噛《か》んで|逃《に》げ|行《ゆ》く|二人《ふたり》の|後《あと》を|怨《うら》めしげに|見送《みおく》つて|居《ゐ》た。|狼狽者《あわてもの》のエルはトランクの|中《なか》から|美人《びじん》が|出《で》たのと、オールスチンの|絶命《ことぎ》れたのを|見《み》て|逸早《いちはや》く|飛《と》び|出《だ》し、|再《ふたた》び|十字街頭《じふじがいとう》に|立《た》ち|現《あら》はれ、|大音声《だいおんじやう》を|張《は》り|上《あ》げて|言触《ことぶれ》を|始《はじ》め|出《だ》した。
エル『ドンドコ ドンドコ ドンドコドン ヤア|大変《たいへん》ぢやア|大変《たいへん》ぢやア
|天《てん》が|地《ち》となり|地《ち》が|天《てん》となる ドンドコ ドンドコ ドンドコドン
ワックスさまの|親爺《おやぢ》さま |神《かみ》の|館《やかた》の|家老職《からうしよく》
オールスチンが|命《めい》|尽《つ》きて |極楽《ごくらく》|参《まゐ》りを|致《いた》したぞ
ドンドコ ドンドコ ドンドコドン |皆《みな》さま|早《はや》う|駆《か》けつけて
|葬式《さうしき》|万端《ばんたん》|手伝《てつだ》うて |野辺《のべ》の|送《おく》りをするが|宜《よ》い
|悪酔怪《あくすゐくわい》の|会長《くわいちやう》さま ワックスさまは|腰《こし》|抜《ぬ》かし
アフンとばかり|口《くち》|開《あ》けて 【もの】をも|言《い》はず|倒《たふ》れてる
ドンドコ ドンドコ ドンドコドン それにまだまだ|不思議《ふしぎ》なは
|二人《ふたり》の|看護婦《かんごふ》|忽《たちま》ちに |雲《くも》を|霞《かすみ》と|消《き》え|失《う》せた
|不思議《ふしぎ》と|思《おも》ふ|最中《さいちう》に ワックスさまがパツと|開《あ》けた
トランクの|中《なか》からシユーシユーと |白《しろ》い|煙《けぶり》が|立《た》ち|昇《のぼ》り
ドンドコ ドンドコ ドンドコドン あらマア|不思議《ふしぎ》|摩訶不思議《まかふしぎ》
|神《かみ》の|館《やかた》にあれませる デビスの|姫《ひめ》やケリナ|姫《ひめ》
ニコニコし|乍《なが》ら|現《あら》はれた ドンドコ ドンドコ ドンドコドン
これもヤツパリ|三五《あななひ》の |魔法使《まはふづかひ》の|仕業《しわざ》だと
|思《おも》へば|俄《にはか》に|怖《こは》くなり |家令《かれい》の|死《し》んだ|報告《はうこく》や
ワックスさまの|腰《こし》|抜《ぬ》かし お|化女《ばけをんな》の|出現《しゆつげん》を
|報告《はうこく》がてらにやつて|来《き》た ドンドコ ドンドコ ドンドコドン
|今度《こんど》は|嘘《うそ》では|無《な》い|程《ほど》に |本真《ほんま》に|本真《ほんま》に|死《し》んだのだ
ソファーの|下《した》にドツサリと |金《きん》と|銀《ぎん》との|小玉《こだま》|奴《め》が
|目玉《めだま》を|剥《む》いて|唸《うな》つてる |手《て》に|入《い》れるなら|今《いま》だぞや
|凡《すべ》て|此《この》|世《よ》の|財産《ざいさん》は |人一代《ひといちだい》と|云《い》ふ|事《こと》だ
|親爺《おやぢ》が|悴《せがれ》に|渡《わた》さずに |残《のこ》して|死《し》んだ|宝《たから》なら
|誰《たれ》が|拾《ひろ》うても|同《おな》じ|事《こと》 これは|天下《てんか》の|所有品《しよいうひん》
お|金《かね》の|欲《ほ》しい|代物《しろもの》は |一時《いちじ》も|早《はや》く|飛《と》んで|出《で》て
|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》|引掴《ひつつか》み |栄耀《えいえう》|栄華《えいぐわ》に|暮《く》らさんせ
ドンドコ ドンドコ ドンドコドン |執念《しふねん》かかつた|金銀《きんぎん》を
|俺《おれ》は|拾《ひろ》はうと|思《おも》はない さはさり|乍《なが》ら|黄金《わうごん》が
【もの】|云《い》ふ|時節《じせつ》だ|皆《みな》さまよ ドンドコ ドンドコ ドンドコドン
|強慾爺《がうよくぢぢ》の|葬礼《さうれい》を |表《おもて》にかこつけドシドシと
|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》も|要《い》らぬ|故《ゆゑ》 |押《お》しかけ|行《ゆ》きて|宝《たから》をば
|各自《めんめ》にせしめた|方《はう》がよい ワックスさまの|腰抜《こしぬ》けが
もとへ|戻《もど》らぬ|其《その》|先《さき》に |早《はや》く|行《い》つたら|行《ゆ》き|得《どく》ぢや
|一歩先《ひとあしさき》へ|行《ゆ》く|者《もの》が どうしてもお|神徳《かげ》が|多《おほ》いぞや
ドンドコ ドンドコ ドンドコドン ア、エーエエエ エーエエエ
|扨《さ》ても|果敢《はか》ない|人間《にんげん》の|命《いのち》 |慾《よく》の|皮《かは》をば|引張《ひつぱ》つて
|小国別《をくにのわけ》のお|館《やかた》の |家令《かれい》の|勤《つと》めチヨコ チヨコと
|上前《うはまへ》はねて|貯《た》め|置《お》いた |罪《つみ》と|穢《けがれ》の|凝固《かたま》つた
|金《きん》と|銀《ぎん》とを|沢山《たくさん》に |残《のこ》して|死《し》んだ|気味《きみ》の|良《よ》さ
|悪《あく》はどうしても|長《なが》つづき |致《いた》さぬものだと|今更《いまさら》に
|此《この》エルさまは|悟《さと》りました オールスチンの|親爺《おやぢ》|奴《め》が
|何時《いつ》も|偉《えら》さうに|俺様《おれさま》を エルよエルよと|呼《よ》び|棄《す》てに
こき|使《つか》ひやがつた|其《その》|酬《むく》い |今《いま》|目《ま》のあたり|面白《おもしろ》や
ドンドコ ドンドコ ドンドコドン |人《ひと》はどうしても|生前《せいぜん》に
|善《ぜん》を|行《おこな》ひ|施《ほどこ》しを やつて|置《お》かねば|詰《つま》らない
|今度《こんど》の|家令《かれい》が|好《よ》い|手本《てほん》 |皆《みな》さま|確《しつか》りなさいませ
ドンドコ ドンドコ ドンドコドン サアサア|私《わたし》が|御案内《ごあんない》
|皆《みな》さま|跟《つ》いて|厶《ござ》いませ ドンドコ ドンドコ ドンドコドン』
と|豆太鼓《まめだいこ》を|叩《たた》き|乍《なが》ら|駆《か》け|出《だ》した。|慾《よく》に|目《め》の|無《な》い|群衆《ぐんしう》は|先《ま》づ|第一《だいいち》に|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》を|一《ひと》つなりとも|拾得《しふとく》し、|其《その》|葬式《さうしき》に|加《くは》はり、|故人《こじん》の|霊《れい》を|慰《なぐさ》めむものと、|蒸《む》し|暑《あつ》い|夏《なつ》の|日《ひ》を|慾《よく》の|皮《かは》を|引張《ひつぱ》つて、|汗《あせ》をタラタラ|絞《しぼ》り|乍《なが》ら|走《はし》り|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二六 旧二・一〇 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第二二章 |天葬《てんさう》〔一四七二〕
エルは|先頭《せんとう》に|立《た》ちワックスの|家《いへ》に|駆《か》けつけた。オールスチンのコルブスはソファーの|上《うへ》に|静《しづ》かに|眠《ねむ》つて|居《ゐ》る。|其《その》|傍《かたはら》にワックスは|田螺《たにし》のやうな|目《め》を|剥《む》き|口《くち》あんぐりさせ|乍《なが》ら、|天井《てんじやう》の|棧《さん》を|睨《にら》みつけたやうなスタイルで、|手《て》を|畳《たたみ》につき、|足《あし》を|投《な》げ|出《だ》して|中腰《ちうごし》に|倒《たふ》れて|居《ゐ》る。そして|目玉《めだま》ばかりクリクリと|回転《くわいてん》さして|居《ゐ》た。|其《そ》の|嫌《いや》らしさ、|到底《たうてい》|化物《ばけもの》とより|見《み》えなかつた。|日《ひ》はソロソロ|暮《く》れかかる。|何《なん》ともなしに|嫌《いや》らしさが|四辺《しへん》から|襲《おそ》うて|来《く》る。|数多《あまた》の|慾惚《よくばう》けの|連中《れんちう》は|直《ただ》ちに|奥《おく》の|間《ま》にドカドカと|先《さき》を|争《あらそ》うて|押入《おしい》り、ソファーの|下《した》を|見《み》れば|一文《いちもん》も|残《のこ》つて|居《ゐ》ない……こりや|大方《おほかた》|倉《くら》の|中《なか》だらう……と|鍵《かぎ》を|探《さが》し|出《だ》し|倉《くら》の|中《なか》に|押入《おしい》つて、|其処辺《そこら》の|什器《じふき》を|引繰《ひつくり》|覆《かへ》し、|金《かね》の|所在《ありか》を|探《さが》して|居《ゐ》る。
エルはワックスの|前《まへ》に|丁寧《ていねい》に|両手《りやうて》をつき、
エル『もし、ワックス|様《さま》、|存《ぞん》じもよらぬ、お|父様《とうさま》にはお|気《き》の|毒《どく》な|事《こと》が|出来《でき》まして、|嘸《さぞ》|御心配《ごしんぱい》で|厶《ござ》いませう。|併《しか》し|乍《なが》ら|斯《か》うして|置《お》く|訳《わけ》にも|行《ゆ》きませぬので、|此《この》エルは|直様《すぐさま》|町内《ちやうない》へ|報告《はうこく》|致《いた》し、|此《この》|通《とほ》り|大勢《おほぜい》の|者《もの》を|連《つ》れて|参《まゐ》りました。|何卒《どうぞ》|安心《あんしん》|下《くだ》さいませ。それに|就《つ》いてお|父上様《ちちうへさま》が|生前《せいぜん》に|貯《たくは》へ|置《お》かれた|金銀《きんぎん》のお|宝《たから》、|町民《ちやうみん》|一般《いつぱん》に|遺物《かたみ》の|為《ため》、|競争的《きやうさうてき》に|取《と》らせるのが|此《この》|町内《ちやうない》の|習慣《しふくわん》で|厶《ござ》いますから、それは|御異存《ごいぞん》|厶《ござ》いますまいな。|当家《たうけ》の|財産《ざいさん》は|全部《ぜんぶ》オールスチンの|物《もの》、|其《その》|所有主《しよいうぬし》が|帰幽《きいう》された|以上《いじやう》は、これは|公有物《こういうぶつ》で|厶《ござ》いますから、|町民《ちやうみん》の|自由《じいう》に|任《まか》せ|什器《じふき》|一切《いつさい》を|持《も》ち|去《さ》る|事《こと》にするでせうから、そのお|考《かんが》へをして|居《ゐ》なさるが|宜《よろ》しからう。|其《その》|代《かは》り|葬式《さうしき》の|費用《ひよう》は|諸道具《しよだうぐ》を|売払《うりはら》つて|其《その》|一部《いちぶ》で|当《あ》てませう。お|前《まへ》も|一《ひと》つ|働《はたら》いて|財産《ざいさん》を|残《のこ》して|置《お》くが|宜《よ》からう。|何故《なぜ》お|前《まへ》は|生前《せいぜん》|財産《ざいさん》の|一部分《いちぶぶん》を|譲《ゆづ》つて|貰《もら》つて|置《お》かないのです。|本当《ほんたう》に|智慧《ちゑ》のない|事《こと》でしたね』
ワックスは|漸《やうや》く|口《くち》を|開《ひら》き、|残念《ざんねん》さうに|白眼勝《しろめがち》の|目玉《めだま》から|涙《なみだ》を|垂《た》らし|乍《なが》ら、
ワックス『アーア、おい、エル、|残念《ざんねん》な|事《こと》をしたワイ。|一歩《ひとあし》|帰《かへ》るが|遅《おそ》かつたので|到頭《たうとう》|財産《ざいさん》を|譲《ゆづ》り|受《う》ける|事《こと》が|出来《でき》なかつた。そこへ|化物《ばけもの》が|出《で》て|来《き》やがつたので|腰《こし》を|抜《ぬ》かし|身動《みうご》きのならぬ|処《ところ》に、オークス、ビルマの|奴《やつ》、|大《おほ》トランクに|金銀《きんぎん》を|詰《つ》め|込《こ》みエチエチと|逃《に》げ|出《だ》しよつた。まだ|遠《とほ》くは|行《ゆ》くまいから|誰《たれ》か|行《い》つて|彼奴《あいつ》を|取《と》ツ|捉《つか》まへて|分配《ぶんぱい》をし、|其《その》|中《うち》から|三千両《さんぜんりやう》ばかり|俺《おれ》に|返《かへ》して|呉《く》れまいかな』
エル『ソリヤ、もう|仕方《しかた》が|無《な》いぢやないか。|先取権《せんしゆけん》があるのだからな』
ワックス『エー|残念《ざんねん》な|事《こと》をした。|此《この》|怨《うら》みを|如何《どう》しても|晴《は》らさにやおかぬのだ』
エル『|男《をとこ》らしくもない。そんな|執着心《しふちやくしん》を|持《も》つな。それよりも|早《はや》く|腰《こし》を|上《あ》げて|神館《かむやかた》に|参《まゐ》り|親《おや》の|帰幽《きいう》を|報告《ほうこく》し、|厚《あつ》く|葬《はうむ》る|手続《てつづ》きをした|上《うへ》、|御養子《ごやうし》になつたら|如何《どう》だ』
ワックス『|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》が|滅《ほろ》びぬ|間《うち》は|駄目《だめ》だ。|何《なん》とかして|彼奴《あいつ》を|平《たひら》げる|工夫《くふう》はあるまいかな』
エル『あらいでかい。|何《なに》も|彼《か》も|俺《おれ》がスツカリ|呑《の》み|込《こ》んで|居《ゐ》るのだ』
と|利口《りこう》らしく|云《い》つて|居《ゐ》る。そこへ|沢山《たくさん》の|爺《ぢぢ》、|婆《ばば》が|水鼻汁《みづばな》を|垂《た》らし|乍《なが》らやつて|来《き》て、|目《め》を|擦《こす》り|手鼻汁《てばな》をかみつつ、
|一同《いちどう》(|泣声《なきごゑ》)『ワーンワーンワーンワーン、オーンオーンオーンオーン、これワックスさま。|確《しつか》りしなされや。|悲《かな》しい|事《こと》ぢやないかいな。ワーンワーンワーン、オーンオーンオーン』
と|義理一遍《ぎりいつぺん》の|作《つく》り|泣《な》きを|始《はじ》め|出《だ》した。|家《いへ》の|外《そと》にも|内《うち》にも|目《め》に|唾《つば》をつけて|義理泣《ぎりな》きが|始《はじ》まつた。|此処《ここ》の|習慣《しふくわん》として|何《なに》|程《ほど》|憎《にく》らしい|敵《かたき》が|死《し》んでも、|義理泣《ぎりな》きをせなくば|町外《ちやうはづ》れをされる|規則《いましめ》がある。|倉《くら》の|中《なか》の|財産《ざいさん》に|目《め》をつけた|連中《れんちう》も|各自《めいめい》に|自分《じぶん》の|名札《なふだ》を|記《つ》け|終《をは》り、ヤツト|安心《あんしん》してワックスの|前《まへ》に|来《きた》り、
|一同《いちどう》(|泣声《なきごゑ》)『ワーンワーンワーンワーン オーンオーンオーンオーン ワーンワーンワーン ウーンウーンウーンウーン、ワックスさま、|誠《まこと》にお|気《き》の|毒《どく》でござます。もう|諦《あきら》めなさいませ、|私《わたし》も|諦《あきら》めます。|沢山《たくさん》な|遺物《かたみ》を|頂戴《ちやうだい》して|有難涙《ありがたなみだ》が|出《で》ます。ワーンワーンワーンワーン オーンオーンオーンオーン』
|暫《しば》らくすると|町内《ちやうない》の|葬式係《さうしきがかり》がやつて|来《き》た。さうして|比丘《びく》が|鈴《りん》を|恭《うやうや》しく|左手《ゆんで》に|持《も》ち|右《みぎ》の|手《て》に|数珠《じゆず》を|巻《ま》き|乍《なが》ら、コルブスの|前《まへ》に|端坐《たんざ》し、|怪《あや》しき|経文《きやうもん》を|唱《とな》へ|初《はじ》めた。
|比丘《びく》『チーン、チンチンチン、|諸行無常《しよぎやうむじやう》、|是生滅法《ぜしやうめつぽふ》、|生滅々已《しやうめつめつち》、|寂滅為楽《じやくめつゐらく》、|南無《なむ》|波羅門尊天子《ばらもんそんてんし》、|大自在天子《だいじざいてんし》、|大国彦命《おほくにひこのみこと》、|帰妙頂来《きめうちやうらい》、|霊宝加持《れいほうかぢ》。|惟《おもんみ》るに|現世《げんせ》に|生存《せいぞん》する|事《こと》、|八十有余年《やそいうよねん》、その|間《あひだ》に|於《おい》てテルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》に|仕《つか》へ、|家令《かれい》の|職《しよく》となり|上《あが》り、|館《やかた》の|会計《くわいけい》は|云《い》ふに|及《およ》ばず、|一切《いつさい》の|事務《じむ》を|処理《しより》し、|其《その》|功《こう》|空《むな》しからずと|雖《いへど》、|元来《ぐわんらい》|貪《とん》、|瞋《じん》、|痴《ち》の|罪悪《ざいあく》|深《ふか》きを|以《もつ》つて、バラモン|天《てん》より|賜《たまは》りし|一子《いつし》ワックスは|無頼《ぶらい》の|悪漢《あくかん》となり、|且《かつ》|痴愚《ちぐ》|迷妄《めいまう》の|徒《と》と|蔑《さげし》まれ、|糟糠《さうかう》の|妻《つま》には|早《はや》く|別《わか》れ、|淋《さび》しき|浮世《うきよ》を|送《おく》りたるは|全《まつた》く|天命《てんめい》の|然《しか》らしむる|所《ところ》、|然《さ》り|乍《なが》ら|神《かみ》は|至仁《しじん》|至愛《しあい》に|在《い》ますが|故《ゆゑ》に、|今回《こんくわい》の|帰幽《きいう》と|共《とも》に、|外部的《ぐわいぶてき》|状態《じやうたい》を|除去《ぢよきよ》して、|八衢《やちまた》に|於《おい》て|凡《すべ》ての|罪悪《ざいあく》を|削除《さくぢよ》し|清浄無垢《せいじやうむく》の|精霊《せいれい》となし、|天国《てんごく》に|救《すく》ひ|玉《たま》ふ|事《こと》|必定《ひつぢやう》なり。|汝《なんぢ》オールスチンの|精霊《せいれい》、|現世《げんせ》に|執着心《しふちやくしん》を|残《のこ》さず、|速《すみやか》に|幽冥界《いうめいかい》の|法則《はふそく》に|従《したが》つて|不老不死《ふらうふし》の|霊界《れいかい》へ|旅立《たびだ》ちせよ。|必《かなら》ず|迷《まよ》ふ|事《こと》|勿《なか》れ。|迷《まよ》ひは|地獄《ぢごく》の|種《たね》なるぞ。|帰妙頂礼《きめうちやうらい》、|南無《なむ》|波羅門尊天《ばらもんそんてん》、|守《まも》り|玉《たま》へ|恵《めぐ》ませ|玉《たま》へ、チーン、チンチンチンチンチン』
|比丘《びく》『サアサ、これでスツカリ|引導《いんだう》を|渡《わた》して|置《お》いた。|皆《みな》さま|土葬《どさう》に|致《いた》しますか、|水葬《すいさう》にしますか、|但《ただし》は|天葬《てんさう》に|致《いた》すか、どちらが|宜《よろ》しいか。それは|御勝手《ごかつて》、|定《き》めて|下《くだ》さいませ』
ワックス『|私《わたし》は|喪主《もしゆ》だから|私《わたし》の|望《のぞ》み|通《どほ》りにして|貰《もら》ひませう。|何卒《どうぞ》|天葬《てんさう》に|願《ねが》ひませう。さすれば|天国《てんごく》へ|参《まゐ》るでせうから』
|比丘《びく》『|皆様《みなさま》、ワックス|様《さま》の|意見《いけん》に|従《したが》ひ、これから|天葬《てんさう》に|致《いた》しますから、|御苦労《ごくらう》|乍《なが》ら|其《その》|用意《ようい》をして|下《くだ》さい』
|一同《いちどう》は『|承知《しようち》|致《いた》しました』と|総《すべ》ての|準備《じゆんび》を|整《ととの》へ、オールスチンのコルブスを|戸板《といた》に|載《の》せて、テルモン|山《ざん》の|墓地《ぼち》を|指《さ》して|送《おく》り|行《ゆ》く。
|天葬《てんさう》と|云《い》へばコルブス(|死骸《しがい》)を|墓地《ぼち》に|運《はこ》び|石刀《せきたう》や|丸石《まるいし》を|以《もつ》て|体《からだ》を|細々《こまごま》にきざみ、|骨《ほね》も|残《のこ》らず|粉《こな》にして|了《しま》ひ、|麦《むぎ》の|煎粉《いりこ》をまぶして|団子《だんご》をつくり、|沢山《たくさん》な|禿鷲《はげわし》に|喰《く》はして|了《しま》ふ|儀式《ぎしき》である。|又《また》|水葬《すいさう》と|云《い》へばコルブスを|其《そ》の|儘《まま》|川《かは》へ|投《な》げ|込《こ》んで|了《しま》ふ|儀式《ぎしき》である。|数多《あまた》の|老若男女《らうにやくなんによ》は|石刀《せきたう》や|石片《いしくれ》や|種々《いろいろ》の|木刀《ぼくたう》を|以《もつ》てコルブスを|一寸刻《いつすんきざ》み|五分試《ごぶだめ》しとなし、|潔《きよ》き|歌《うた》を|唄《うた》ひながら|汗《あせ》をタラタラ|出《だ》して|天葬《てんさう》の|準備《じゆんび》に|着手《ちやくしゆ》した。|禿鷲《はげわし》は|中空《ちうくう》に|羽《は》ばたきしながら|幾百《いくひやく》ともなく|〓翔《こうしやう》して|待《ま》つてゐる。|比丘《びく》は|歌《うた》を|歌《うた》ふ。|一同《いちどう》は|拍子《ひやうし》をとつてコルブスを|挫《くじ》く。
|比丘《びく》の|歌《うた》
『|諸行無常《しよぎやうむじやう》、|是生滅法《ぜしやうめつぼふ》 |生滅々已《しやうめつめつち》、|寂滅為楽《じやくめつゐらく》は|世《よ》の|習《なら》ひ
|兎角《とかく》|此《この》|世《よ》は|仮《かり》の|世《よ》だ |鷲《わし》の|腹《はら》へと|葬《はうむ》られ
|翼《つばさ》なき|身《み》に|中空《ちうくう》を |翔《かけ》りて|尊《たふと》き|天国《てんごく》に
|難《なん》なく|上《のぼ》る|目出度《めでた》さよ チンチンチンチン、チンチンチン
|皆《みな》さま|確《しつか》り|頼《たの》みます オールスチンのコルブスは
チツトは|骨《ほね》が|折《を》れるぞや |皮《かは》と|骨《ほね》とが|沢山《たくさん》で
チツトも|肉《にく》がない|故《ゆゑ》に |禿鷲《はげわし》どもの|喜《よろこ》んで
|喰《く》つて|呉《く》れるか|知《し》らないが そこは、それそれ|焦《こが》し|麦《むぎ》
|粉《こな》をドツサリ|塗《ぬ》りつけて うまく|味《あぢ》をば|付《つ》けるのだ
|只《ただ》|一片《ひときれ》も|地《ち》の|上《うへ》に |残《のこ》しちやならぬ|天葬式《てんさうしき》
|禿鷲《はげわし》どのも|骨《ほね》|折《を》つて |一《ひと》つも|残《のこ》らず|喰《く》つて|呉《く》れ
チンチンチンチン チンチンチン |諸行無常《しよぎやうむじやう》、|是生滅法《ぜしやうめつぼふ》
|生滅々已《しやうめつめつち》、|寂滅為楽《じやくめつゐらく》 |仮《かり》の|浮世《うきよ》を|後《あと》にして
|執着心《しふちやくしん》を|脱却《だつきやく》し |身《み》も|魂《たましひ》も|天国《てんごく》に
|黄金《こがね》の|翼《つばさ》に|乗《の》つて|行《ゆ》け こんな|芽出度《めでた》い|事《こと》あろか
ワックスさまも|幸福《しあわせ》だ |土葬《どさう》|水葬《すいさう》|火葬《くわさう》とて
|賤《いや》しき|民《たみ》の|葬式《さうしき》に |比《くら》べて|見《み》れば|最善《さいぜん》の
|此《この》|法式《はふしき》で|天国《てんごく》へ |救《すく》はれて|行《ゆ》く|父上《ちちうへ》は
|誠《まこと》に|結構《けつこう》な|身魂《みたま》ぞや |喜《よろこ》び|祝《いは》へ|皆《みな》さまよ
チンチンチンチン チンチンチン |天国《てんごく》|浄土《じやうど》で|永久《とこしへ》に
|百味《ひやくみ》の|飲食《おんじき》|与《あた》へられ |華《はな》の|台《うてな》に|坐《ざ》を|占《し》めて
|下界《げかい》を|遥《はる》かに|見下《みお》ろしつ テルモン|山《ざん》は|云《い》ふも|更《さら》
|神《かみ》の|館《やかた》を|始《はじ》めとし |此《この》|町内《ちやうない》の|人々《ひとびと》の
|悩《なや》みを|払《はら》ひ|身《み》の|幸《さち》を |守《まも》りて|誠《まこと》の|生神《いきがみ》と
ならせ|玉《たま》へよ、チンチンチン チンチンチンチン チンチンチン
|皆《みな》さま|之《これ》で|有難《ありがた》い バラモン|教《けう》の|読経《どくきやう》が
|目出度《めでた》く|終結《しうけつ》|致《いた》しました さらばお|先《さき》へ|帰《かへ》ります
|第一番《だいいちばん》の|天葬式《てんさうしき》 |営《いとな》みなさつた|事《こと》ならば
お|布施《ふせ》もドツサリ|張《は》り|込《こ》んで |後《あと》から|持《も》つて|来《き》てお|呉《く》れ
|遺産《かたみ》が|沢山《たくさん》ある|故《ゆゑ》に |何程《なにほど》お|金《かね》を|使《つか》うたとて
|皆《みな》さま|腹《はら》が|痛《いた》むでも |頭《あたま》が|悩《なや》むでもない|程《ほど》に
|同《おな》じ|風呂屋《ふろや》の|湯《ゆ》の|水《みづ》を |汲《く》んで|隣《となり》のお|客《きやく》さまに
|与《あた》へてやるも|同《おな》じ|事《こと》 |比丘《びく》を|大切《だいじ》になさいませ
|帰依仏《きえぶつ》|帰依法《きえほふ》|帰依比丘《きえびく》だ |此《この》|大法《だいほふ》を|謬《あやま》らば
|皆《みな》さま|死《し》んで|地獄道《ぢごくだう》へ |忽《たちま》ち|堕《お》ちると|覚悟《かくご》して
お|布施《ふせ》を|惜《を》しまず|出《だ》しなされ アア|左様《さやう》なれば|左様《さやう》なれば
これからお|先《さき》へ|帰《かへ》ります チンチンチンチン チンチンチン』
と|鈴《りん》を|打《う》ち|乍《なが》ら|二人《ふたり》の|従者《じうしや》を|引率《ひきつ》れ|自分《じぶん》の|庵《いほり》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|一同《いちどう》は|漸《やうや》く|天葬式《てんさうしき》を|済《す》ませ、|再《ふたた》びワックスの|館《やかた》に|帰《かへ》り、|種々《いろいろ》の|馳走《ちそう》を|惜気《をしげ》もなく|拵《こしら》へて|暴飲《ばういん》|暴食《ばうしよく》にうつつを|抜《ぬ》かした。ここに|又《また》|一場《いちぢやう》の|大活劇《だいくわつげき》が|演《えん》ぜられた。それはスマートが|酒宴《しゆえん》の|最中《さいちう》に|跳《と》び|込《こ》んで|来《き》た|事《こと》である。
(大正一二・三・二六 旧二・一〇 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
第二三章 |薬鑵《やくくわん》〔一四七三〕
オールスチンの|天葬式《てんさうしき》も|無事《ぶじ》|終了《しうれう》し、|新主人《しんしゆじん》ワックスの|館《やかた》には|町人《まちびと》が|数百人《すうひやくにん》|集《あつ》まり|来《きた》り、|家《いへ》の|外《そと》に|蓆《むしろ》を|敷《し》いて|坐《すわ》つたり、|草《くさ》の|上《うへ》に|腰《こし》をおろして|握《にぎ》り|飯《めし》を|噛《か》じつたり、|醍醐味《だいごみ》をあふつて|盛《さか》んにメートルを|上《あ》げてゐる。|其処《そこ》へ|何処《いづく》とも|無《な》く|飛《と》んで|来《き》た|一頭《いつとう》の|猛犬《まうけん》、|矢場《やには》に|座敷《ざしき》に|駆《か》け|上《あが》り、|前後左右《ぜんごさいう》に|荒《あ》れ|廻《まは》る。されど|不思議《ふしぎ》にも|誰一人《たれひとり》|創《きず》つけられたものは|無《な》かつた。ワックスは、
ワックス『それスマートの|狂犬《きやうけん》が|来《き》た。|此奴《こいつ》が|俺《おれ》の|肱《ひじ》を|噛《かじ》り、|恋《こひ》の|邪魔《じやま》をした|畜生《ちくしやう》だ。|思《おも》ひ|知《し》れ』
と|立《た》ち|上《あが》り、|長押《なげし》の|槍《やり》を|取《と》るより|早《はや》くスマート|目蒐《めが》けて|突《つ》いてかかる。スマートは|前後左右《ぜんごさいう》に|身《み》をかはし|巧《たくみ》に|逃《に》げて|居《ゐ》る。|老若男女《らうにやくなんによ》は|右往左往《うわうさわう》に|逃《に》げ|廻《まは》り、|石《いし》を|拾《ひろ》うて|投《な》げつけるものあり、ウウウー、ワンワンワンの|犬《いぬ》の|声《こゑ》と|共《とも》に、|阿鼻叫喚《あびけうくわん》の|地獄《ぢごく》と|忽《たちま》ち|化《くわ》して|仕舞《しま》つた。エルは|矢場《やには》にワックスの|腕《うで》を|握《にぎ》り、
エル『これこれワックスさま、|今日《けふ》はお|父《とう》さまの|御命日《ごめいにち》なり、|仮令《たとへ》|畜生《ちくしやう》なりとて|殺生《せつしやう》をしてはなりませぬ。マアお|鎮《しづ》まりなされ。お|父《とう》さまの|天国行《てんごくゆき》の|邪魔《じやま》なさつては|不孝《ふかう》の|上《うへ》の|不孝《ふかう》です』
ワックス『|何《なに》、あの|爺《おやぢ》、|俺《おれ》を|恨《うら》んで|居《ゐ》たのだ。|臨終《いまは》の|隙《きは》まで|金銀《きんぎん》を|床《ゆか》の|下《した》に|隠《かく》し、|遺言《ゆいごん》もせずに|死《し》んで|仕舞《しま》つた。|夫《それ》|故《ゆゑ》オークス、ビルマの|奴《やつ》に|旨《うま》くしてやられ、こんな|残念《ざんねん》な|事《こと》があらうかい。この|犬《いぬ》に|腕《うで》を|咬《か》まれてさへ|居《ゐ》なかつたら、|滅多《めつた》に|彼奴《あいつ》に|取《と》られるのぢやなかつたに、|思《おも》へば|思《おも》へば|此《この》|犬《いぬ》が|恨《うら》めしい、|放《ほ》つて|置《お》いて|呉《く》れ』
と|無理《むり》に|振《ふ》り|放《はな》さうとする。スマートはいつの|間《ま》にか|鉄瓶《てつびん》に|化《ば》けて|仕舞《しま》ひ、チンチンと|湯気《ゆげ》を|立《た》て、|厚《あつ》い|鉄蓋《てつぶた》を|動《うご》かして|唸《うな》つてゐる。
エル『ア、|何《なん》だ、|犬《いぬ》だと|思《おも》へば|忽《たちま》ち|鉄瓶《てつびん》に|化《ば》けやがつた。これや|犬鉄《けんてつ》、|貴様《きさま》は|何《なに》|恨《うら》みがあつて|当館《たうやかた》へ|乱入《らんにふ》|致《いた》したのだ。|返答《へんたふ》|次第《しだい》によつて|容赦《ようしや》はせぬぞ』
と|詰《つ》めかける。|鉄瓶《てつびん》の|口《くち》からは|熱《あつ》い|湯《ゆ》を|何斗《なんど》となく|吐《は》き|出《だ》す|怪《あや》しさ。|一同《いちどう》は、
『アッツツー』
と|叫《さけ》びつつ|逃《に》げ|出《だ》し、|遠目《とほめ》から|不思議《ふしぎ》さうに|見《み》て|居《ゐ》る。|暫《しばら》くすると|鉄瓶《てつびん》は|俄薬鑵《にはかやくわん》に|変《かは》つて|仕舞《しま》つた。|忽《たちま》ち|目《め》が|出来《でき》、|鼻《はな》が|出来《でき》、|耳《みみ》がつき、|手足《てあし》が|生《は》へて|踊《をど》り|出《だ》した。|一同《いちどう》は|夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|化物《ばけもの》かと|真青《まつさを》な|顔《かほ》をして|見詰《みつ》めて|居《ゐ》る。|薬鑵《やくわん》は|忽《たちま》ちオールスチンの|姿《すがた》となり、|薬鑵頭《やくわんあたま》に|湯気《ゆげ》を|立《た》てて、ソロソロ|演説《えんぜつ》を|始《はじ》め|出《だ》した。
|薬鑵《やくわん》の|化物《ばけもの》『|皆《みな》さま、|当家《たうけ》の|主人《しゆじん》オールスチンの|帰幽《きいう》につきまして、|大変《たいへん》な|御苦労《ごくらう》をかけました。|私《わたくし》はオールスチンの|精霊《せいれい》で|厶《ござ》います。|初《はじ》めに|犬《いぬ》となつて|吾《わが》|家《や》へ|帰《かへ》り|漸《やうや》く|鉄瓶《てつびん》から|薬鑵《やくわん》に|変化《へんげ》し、|茲《ここ》に|精霊《せいれい》|完成《くわんせい》してお|暇乞《いとまご》ひの|演説《えんぜつ》を|致《いた》す|事《こと》になりました。|決《けつ》して|妖怪《えうくわい》でも|何《なん》でも|厶《ござ》いませぬから|近《ちか》よつて|下《くだ》さいませ』
エル『モシ|薬鑵《やくわん》さま|近《ちか》よらぬ|事《こと》はありませぬが|熱湯《ねつたう》を|口《くち》から|噴《ふ》き|出《だ》して、|吾々《われわれ》|一同《いちどう》を|悩《なや》ます|積《つも》りぢや|厶《ござ》いませぬか』
|薬鑵《やくわん》の|化物《ばけもの》『|決《けつ》して|左様《さやう》な|事《こと》は|致《いた》しませぬ。|私《わたくし》は|現世《げんせ》に|生《うま》れてから|八十有余年《はちじふいうよねん》。その|間《あひだ》に|人《ひと》の|秘密《ひみつ》を|探《さぐ》り、|犬《いぬ》の|役《やく》を|勤《つと》め、たうとう|此《こ》の|神館《かむやかた》の|御主《おんあるじ》|小国別《をくにわけ》|様《さま》に|見出《みいだ》され、|家令《かれい》の|職《しよく》にまで|抜擢《ばつてき》されました。|夫《それ》より|日々《にちにち》|館《やかた》の|番犬《ばんけん》を|勤《つと》め、|臭《くさ》い|物《もの》を|嗅出《かぎだ》して|手柄《てがら》と|致《いた》して|居《を》りました。その|罪障《ざいしやう》が|現《あら》はれて|吾《わが》|精霊《せいれい》は|犬《いぬ》と|変化《へんげ》し、|御存《ごぞん》じの|通《とほ》りの|暴虐《ばうぎやく》をやつて|来《き》た|罪《つみ》の|映象《えいしやう》が|現《あら》はれたので|厶《ござ》います。それから|皆《みな》さまに|面《つら》の|皮《かは》の|厚《あつ》い|奴《やつ》だ|鉄面皮《てつめんぴ》だと|罵《ののし》られ、|其《その》|名《な》の|如《ごと》く|一時《いちじ》は|厚顔無恥《こうがんむち》の|鉄瓶《てつびん》となり、|皆《みな》さまに|熱茶《にえちや》を|浴《あ》びせた|悪党《あくたう》で|厶《ござ》います。|然《しか》し|私《わたくし》の|尻《しり》には|彼《か》の|鉄瓶《てつびん》の|如《ごと》くあのやうに|烈火《れつくわ》が|燃《も》え|立《た》ち、|実《まこと》に|苦《くる》しうて|耐《た》へられなかつたので|厶《ござ》います。|漸《やうや》く|罪《つみ》が|取《と》れると|共《とも》に|面《つら》の|皮《かは》が|少《すこ》しく|薄《うす》くなり、|慾《よく》の|皮《かは》は|少《すこ》し|削《けづ》られた|為《ため》にあの|通《とほ》り|薄《うす》い|薬鑵《やくわん》となり、|頭《あたま》の|毛《け》|迄《まで》が|脱《ぬ》けて|倅《せがれ》のワックスの|奴《やつ》に|薬鑵爺《やくわんおやぢ》と|云《い》はれて|居《ゐ》ました。|貴方方《あなたがた》からも|矢張《やは》り|薬鑵《やくわん》|々々《やくわん》と|罵《ののし》られて|居《を》りました。|其《その》|言霊《ことたま》が|凝《こ》り|固《かた》まつてこんな|薬鑵《やくわん》となり、|無念《むねん》の|熱湯《ねつたう》を|噴《ふ》いたので|厶《ござ》います。|最早《もはや》|私《わたくし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|教訓《けうくん》によりて|罪《つみ》から|救《すく》はれ、|霊界《れいかい》に|参《まゐ》りますから、どうか|私《わたくし》の|財産《ざいさん》は|此《この》|国《くに》の|規則通《きそくどほ》り|皆《みな》さまで|分配《ぶんぱい》して|下《くだ》さい。|倅《せがれ》のワックスは|私《わたくし》の|悪《あく》を|企《たく》んで|居《ゐ》た|時《とき》に|出来《でき》た|者《もの》で|厶《ござ》いますから、|身魂《みたま》が|汚《けが》れて|居《ゐ》ますから、|一苦労《ひとくらう》させねばなりませぬから、|私《わたくし》の|財産《ざいさん》は|一物《いちもつ》も|与《あた》へないやう|願《ねが》ひます。|何卒《どうぞ》|皆《みな》さま|御勝手《ごかつて》に|御処分《ごしよぶん》を|願《ねが》ひます』
と|云《い》ひ|終《をは》り、|俄《にはか》に|麗《うるは》しき|若《わか》き|天人《てんにん》の|姿《すがた》となつて、|地上《ちじやう》|七八尺《しちはつしやく》の|空中《くうちう》を|歩《あゆ》んでテルモン|山《ざん》の|山奥《やまおく》さして|姿《すがた》を|隠《かく》した。
エル『|此奴《こいつ》は|怪《け》しからぬ。【どてらい】|化物《ばけもの》が|現《あら》はれたものだな。オイ|皆《みな》さまあれを|本当《ほんたう》のオールスチンの|精霊《せいれい》だと|思《おも》ひますか。|全《まつた》く|三五教《あななひけう》の|魔法使《まはふづかひ》が、|吾々《われわれ》|一同《いちどう》を|三五教《あななひけう》に|引《ひ》つ|張《ぱ》り|込《こ》まうと|思《おも》つてあんな|事《こと》をやつたのに|違《ちが》ひありませぬ。|屹度《きつと》|信《しん》じてはいけませぬ』
|群衆《ぐんしう》の|中《なか》から|毛《け》だらけの|顔《かほ》した|男《をとこ》がヌツと|立《た》ち|上《あが》り、
|男《をとこ》『おい、エルの|大将《たいしやう》、それや|何《なに》を|云《い》ふのだ。|化物《ばけもの》があんな|事理整然《じりせいぜん》たる|事《こと》を|云《い》ふかい。あれやきつとオールスチンの|精霊《せいれい》に|間違《まちが》ひ|無《な》いわ。|貴様《きさま》も|些《ちつ》と|改心《かいしん》したがよいわ。このタンクさまの|眼力《がんりき》で|睨《にら》んだらちつとも|間違《まちが》ひはないわ。|本物《ほんもの》か|間違《まちが》ひか|鑑定《かんてい》がつかないやうでお|館《やかた》の|受付《うけつけ》が|出来《でき》るか、|馬鹿《ばか》だなア』
エル『おい、ワックスさま、お|前《まへ》|何《なん》と|思《おも》ふか、タンクの|云《い》ふ|事《こと》が|本当《ほんたう》か、エルの|云《い》ふ|事《こと》が|本当《ほんたう》か、|一《ひと》つ|考《かんが》へて|貰《もら》ひ|度《た》いものだなア』
ワックス『|子《こ》の|可愛《かあい》うない|親《おや》は|世間《せけん》にない|筈《はず》だ。|極道《ごくだう》の|子《こ》|程《ほど》|可愛《かあい》のが|親《おや》の|情《なさけ》だ。それに|親《おや》|一人《ひとり》|子《こ》|一人《ひとり》の|俺《おれ》を|残《のこ》して|置《お》いて、|財産《ざいさん》を|一《ひと》つも|遣《や》つて|呉《く》れるなと|云《い》ふ|奴《やつ》は、テツキリ|化物《ばけもの》に|定《きま》つて|居《ゐ》るわ。|是《これ》はきつと|三五教《あななひけう》の|悪魔《あくま》が|化《ば》けて|来《き》よつたに|違《ちが》ひない。オイ|悪酔怪《あくすゐくわい》の|御一同《ごいちどう》、|親父《おやぢ》の|弔合戦《とむらひがつせん》だと|思《おも》つて、|小国別《をくにわけ》の|館《やかた》へ|押《お》し|寄《よ》せ、|魔法使《まはふづかひ》をふん|縛《じば》らうではないか。さうしなければ|吾々《われわれ》|町民《ちやうみん》が|枕《まくら》を|高《たか》うして|眠《やす》む|事《こと》も|出来《でき》ない。|況《まし》て|悪酔怪《あくすゐくわい》の|務《つと》めが|勤《つと》まらぬぢやないか』
エル『それでもスマートと|云《い》ふ|畜生《ちくしやう》が|門《もん》に|目《め》を|剥《む》いて|居《ゐ》やがるから|駄目《だめ》ぢやないか。なあタンク、お|前《まへ》どう|思《おも》ふ』
タンク『|何《なに》|構《かま》うものか、|酒《さけ》のタンクと|呼《よ》ばれたタンクさまが、|酒《さけ》の|勢《いきほひ》で|表門《おもてもん》に|立《た》ち|向《むか》ひ、スマートの|腮《あご》に|両手《りやうて》をかけ、メリメリメリと|二《ふた》つに|引《ひ》き|裂《さ》いてお|目《め》にかけよう。|日頃《ひごろ》の|手練《てなみ》を|表《あら》はすのは|今《いま》|此《この》|時《とき》だ。|高《たか》が|畜生《ちくしやう》の|一匹《いつぴき》|位《ぐらゐ》|何《なん》でもない。|貴様《きさま》は|腰抜《こしぬけ》だから、|一匹《いつぴき》の|犬《いぬ》に|数百人《すうひやくにん》が|押《お》し|寄《よ》せてウスイ|目《め》に|遇《あ》つたぢやないか。こんな|引合《ひきあ》はぬ|事《こと》があるか。|犬《いぬ》に|咬《かま》れた|位《くらゐ》のものだと|云《い》ふが、|世間《せけん》に|此《この》|位《くらゐ》|引合《ひきあは》ぬものは|無《な》からう。サアこれからタンクが|先頭《せんとう》に|立《た》つて|征伐《せいばつ》に|出《で》かけるから、|誰奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|酒《さけ》の|酔《よ》ひの|醒《さ》めない|中《うち》に|跟《つ》いて|来《こ》い』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|大手《おほて》を|振《ふ》つて|歩《あゆ》み|出《だ》した。ワックス、エルの|両人《りやうにん》は|後《あと》に|従《したが》ひ|千鳥《ちどり》の|行列《ぎやうれつ》|宜敷《よろし》く、|酒《さけ》で|作《つく》つた|空元気《からげんき》を|発揮《はつき》しながら、|口々《くちぐち》に|歌《うた》を|歌《うた》つて|攻《せ》めて|行《ゆ》く。
オークス、ビルマの|両人《りやうにん》は|大《おほ》トランクに|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》を|詰《つ》め|込《こ》み、|坂道《さかみち》を|下《くだ》つて|行《ゆ》く|途端《とたん》、|二人《ふたり》|一度《いちど》に|足《あし》を|辷《すべ》らせ|谷川《たにがは》に|真逆様《まつさかさま》に|転落《てんらく》し、トランクの|口《くち》は|欠伸《あくび》をして、|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》は|谷川《たにがは》にキラキラと|目《め》を|剥《む》いて|落《お》ちて|居《ゐ》る。タンクは|早《はや》くも|此《この》|様《さま》を|見《み》て|小躍《こをど》りし、
タンク『ヤア、|此《この》|谷底《たにぞこ》に|沢山《たくさん》の|小玉《こだま》が|落《お》ちて|居《ゐ》る』
と|云《い》ひながら、|身《み》を|躍《をど》らして|谷底《たにぞこ》に|飛《と》び|下《を》りた。|続《つづ》いてエル、ワックス|其《その》|他《た》|数十人《すうじふにん》|折重《をりかさ》なつて|忽《たちま》ち|谷底《たにぞこ》に|人《ひと》の|山《やま》を|築《きづ》いた。オークス、ビルマの|両人《りやうにん》は|頭《あたま》に【ひび】を|入《い》れて|苦《くる》し|気《げ》に|唸《うな》つて|居《ゐ》る。|二《ふた》つのトランクをタンクは|引抱《ひつかか》へ、|水《みづ》の|底《そこ》に|光《ひか》つて|居《ゐ》る|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》を|砂《すな》ぐち|掴《つか》んで|放《ほ》り|込《こ》む|慾深《よくふか》さ。|次《つぎ》から|次《つぎ》へやつて|来《き》て、|茲《ここ》に|忽《たちま》ち|宝《たから》の|取合《とりあひ》が|初《はじ》まり|一悶錯《ひともんさく》が|起《おこ》つた。
タンクは|手早《てばや》く|二三千両《にさんぜんりやう》の|金《かね》を|拾《ひろ》ひ、|一《ひと》つのトランクの|底《そこ》に|捻込《ねぢこ》み、|肩《かた》に|引《ひ》つかけ|谷川《たにがは》に|沿《そ》うて|何処《いづく》ともなく|逃《に》げて|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二六 旧二・一〇 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第二四章 |空縛《くうばく》〔一四七四〕
|小国別《をくにわけ》の|神館《かむやかた》には|家令《かれい》のオールスチンが|帰幽《きいう》せし|事《こと》を、トンクの|報告《はうこく》によりて|知《し》り、|直《ただち》に|大神殿《だいしんでん》に|進《すす》んで|山野河海《さんやかかい》の|供物《くもつ》を|献《けん》じ、|三千彦《みちひこ》を|祭主《さいしゆ》となし|求道居士《きうだうこじ》、|小国姫《をくにひめ》、デビス|姫《ひめ》、ケリナ|姫《ひめ》、ヘルその|他《た》の|下男《げなん》、|下女《げぢよ》、|参列《さんれつ》して、オールスチンの|帰幽報告祭《きいうはうこくさい》を|行《おこな》ひ、|且《か》つ|其《その》|冥福《めいふく》を|祈《いの》るべく、|盛大《せいだい》なる|祭典《さいてん》を|行《おこな》うて|居《ゐ》た。|斯《か》かる|所《ところ》へハルナの|都《みやこ》の|大黒主《おほくろぬし》が|使者《ししや》として、ニコラス|宣伝使《せんでんし》はポリト、バット、リーベナ、ハンナ、マリス、ルイキンの|六人《ろくにん》の|従者《じうしや》に|数十人《すうじふにん》の|兵卒《へいそつ》を|引《ひ》き|率《つ》れ、|此《こ》の|館《やかた》に|慌《あわただ》しく|入《い》り|来《きた》り、|応接室《おうせつしつ》に|陣取《ぢんど》つて|祭典《さいてん》の|済《す》むのを|待《ま》つて|居《ゐ》た。|三千彦《みちひこ》その|他《た》の|一同《いちどう》は、ニコラスが|数十人《すうじふにん》の|兵《へい》を|引《ひ》き|率《つ》れ|此《この》|館《やかた》に|来《きた》りし|事《こと》を|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、|一心不乱《いつしんふらん》に|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らし|悠々《いういう》として|奥《おく》の|間《ま》に|引《ひ》き|返《かへ》し|休息《きうそく》せむとする|時《とき》しも、ニコラスは|長剣《ちやうけん》を|腰《こし》に|吊《つ》つたまま|入《い》り|来《きた》り、
ニコラス『|拙者《せつしや》はハルナの|都《みやこ》の|大黒主《おほくろぬし》の|神様《かみさま》より、|重大《ぢゆうだい》なる|使命《しめい》を|帯《お》びて|出張《しゆつちやう》|致《いた》した|者《もの》で|厶《ござ》る。|長途《ちやうと》の|旅《たび》にて|引率《いんそつ》せる|兵卒《へいそつ》も|疲《つか》れ|居《を》りますれば|相当《さうたう》の|休養所《きうやうじよ》をお|与《あた》へ|下《くだ》さい。して、|小国別《をくにわけ》|殿《どの》は|如何《いかが》|致《いた》されたか、|速《すみやか》に|此処《ここ》にお|出《で》ましを|願《ねが》ひ|度《た》い』
|小国姫《をくにひめ》『これはこれは|遥々《はるばる》と|御上使《ごじやうし》のお|出《いで》、|夫《をつと》|小国別《をくにわけ》お|出迎《でむか》へ|仕《つかまつ》るが|本意《ほんい》で|厶《ござ》いますれど、|生命《せいめい》に|関《かかは》る|位《くらゐ》の|大病《たいびやう》を|煩《わづら》ひ、|今《いま》|漸《やうや》く|命《いのち》を|取《と》り|留《と》めたる|所《ところ》で|厶《ござ》いますれば、|不本意《ふほんい》ながら|失礼《しつれい》|致《いた》して|居《を》ります。|何卒《なにとぞ》|々々《なにとぞ》お|赦《ゆる》し|下《くだ》さいませ』
ニコラス『|小国姫《をくにひめ》|殿《どの》、それは|嘸《さぞ》|御心配《ごしんぱい》で|厶《ござ》らう。|御病気《ごびやうき》とあればたつてお|目《め》にかからうとは|申《まを》さぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら、|当館《たうやかた》には|外道《げだう》の|宣伝使《せんでんし》|三千彦《みちひこ》とやら|申《まを》す|魔法使《まはふづかひ》が|囲《かくま》ひあるよし|聞《き》き|及《およ》ぶが、|如何《いかが》で|厶《ござ》るか。|其方《そなた》も|大切《たいせつ》なるバラモン|教《けう》の|霊場《れいぢやう》、|殊《こと》に|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》|発祥《はつしやう》の|館《やかた》を|預《あづか》らるる|身《み》の|上《うへ》なれば、よもや|左様《さやう》な|取違《とりちが》ひはあるまいな。|速《すみやか》に|御返答《ごへんたふ》|承《うけたま》はりませう』
|小国姫《をくにひめ》『ハイ、|此《この》|期《ご》に|及《およ》んで|何《なに》を|隠《かく》しませう。お|察《さつ》しの|通《とほ》り|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|三千彦《みちひこ》|様《さま》|初《はじ》め|求道《きうだう》|様《さま》と|云《い》ふ|真人《しんじん》が|参《まゐ》つて|居《ゐ》られます』
ニコラス『かかる|尊《たふと》き|聖場《せいぢやう》へ、|誰人《たれ》の|許《ゆる》しを|受《う》けてお|入《いれ》なされたか、|其《その》|理由《りいう》を|承《うけたま》はらう』
|小国姫《をくにひめ》はハツと|胸《むね》をつきながら、|叶《かな》はぬ|処《ところ》と|覚悟《かくご》を|定《さだ》め、|涙《なみだ》を|片手《かたて》に|拭《ぬぐ》ひ、
『|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》のない|次第《しだい》で|厶《ござ》いますが、|是《これ》には|深《ふか》い|仔細《しさい》が|厶《ござ》います。|何卒《どうぞ》|一応《いちおう》お|聞《き》き|取《とり》を|願《ねが》ひます。|此《この》お|館《やかた》には|悪人《あくにん》|蔓《はびこ》り、|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》より|吾々《われわれ》が|預《あづか》りし|御神宝《ごしんぱう》を|盗《ぬす》み|取《と》られ|途方《とはう》に|呉《く》れ、|吾々《われわれ》|二人《ふたり》は|腹《はら》かつさばいて|申訳《まをしわけ》をせむかと|思《おも》ふ|所《ところ》へ、|飄然《へうぜん》として|三五教《あななひけう》の|三千彦《みちひこ》|宣伝使《せんでんし》がお|越《こ》しになり、|玉《たま》の|所在《ありか》を|教《をし》へて|下《くだ》さいました。|又《また》|妾《わらは》が|娘《むすめ》|二人《ふたり》|迄《まで》|悪漢《わるもの》に|誘拐《かどはか》され、|憂愁《いうしう》の|涙《なみだ》に|暮《くれ》て|居《を》る|所《ところ》をお|救《すく》ひ|下《くだ》さつて|漸《やうや》く|親子《おやこ》の|対面《たいめん》|致《いた》した|所《ところ》で|厶《ござ》います。それ|故《ゆゑ》この|二人《ふたり》のお|方《かた》は|此《この》|館《やかた》の|救《すく》ひ|主《ぬし》と|思《おも》ひまして、|早《はや》く|帰《かへ》り|度《た》いと|仰有《おつしや》るのを|無理《むり》に|引《ひ》き|留《と》めて|居《を》ります。|決《けつ》して|三千彦《みちひこ》|様《さま》や|求道《きうだう》|様《さま》に|罪《つみ》は|厶《ござ》いませぬ。|皆《みんな》|妾《わたし》が|引《ひ》き|入《い》れたのですから、|如何《いか》やうとも|御成敗《ごせいばい》を|願《ねが》ひます』
ニコラス『|其方《そなた》の|成敗《せいばい》は|一先《ひとま》づ|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|御意見《ごいけん》を|聞《き》かねば|処置《しよち》する|事《こと》が|出来《でき》ぬ。|夫《それ》|迄《まで》|神妙《しんめう》に|控《ひか》へて|居《を》られたがよからう。|併《しか》し|乍《なが》ら、|外道《げだう》の|宣伝使《せんでんし》は|一刻《いつこく》も|猶予《いうよ》はならぬ、サ|一刻《いつこく》も|早《はや》く|此《この》|方《はう》の|前《まへ》に|引《ひ》き|出《だ》しめされ』
|小国姫《をくにひめ》『ハイ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|顔色《かほいろ》を|変《か》へてモジモジして|居《ゐ》る。
|三千彦《みちひこ》『|拙者《せつしや》がお|尋《たづ》ねの|三千彦《みちひこ》で|厶《ござ》る。|今日《こんにち》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》とは|云《い》ひ|乍《なが》ら|此《この》|館《やかた》の|養子《やうし》デビス|姫《ひめ》の|夫《をつと》で|厶《ござ》れば|貴方《あなた》の|自由《じいう》にはなりますまい。|御意見《ごいけん》あらば|承《うけたま》はりませう』
|求道居士《きうだうこじ》『|拙者《せつしや》は|三五教《あななひけう》の|修験者《しゆげんじや》|求道居士《きうだうこじ》と|申《まを》すもの、|当家《たうけ》の|娘《むすめ》ケリナ|姫《ひめ》の|夫《をつと》で|厶《ござ》る。|不都合《ふつがふ》が|厶《ござ》れば|如何《いか》やうともなさつたがよからう』
デビス|姫《ひめ》『お|上使様《じやうしさま》、|妾《わらは》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|妻《つま》で|厶《ござ》います。どうか|夫《をつと》の|代《かは》りに|妾《わらは》を|御処刑《ごしよけい》|下《くだ》さるやうにお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
ケリナ|姫《ひめ》『|妾《わらは》も|夫《をつと》の|身替《みがは》りに|御処刑《ごしよけい》を|受《う》けまする』
|三千彦《みちひこ》『アハハハハ、ニコラス|殿《どの》、サア|早《はや》く|吾々《われわれ》をお|縛《しば》りなされ』
ニコラスは|謝《あやま》るかと|思《おも》ひの|外《ほか》、|度胸《どきよう》の|据《すわ》つた|四人《よにん》の|勢《いきほひ》に|辟易《へきえき》しながらも、|六人《ろくにん》の|従者《じうしや》に|目《め》くばせした。|六人《ろくにん》は|懐《ふところ》より|捕縄《ほじよう》を|取《と》り|出《だ》し、|四人《よにん》に|縄《なは》をかけた。|四人《よにん》は|従容《しやうよう》として|縛《ばく》されたまま|表門《おもてもん》に|引《ひ》かれ|行《ゆ》く。ニコラスは|天下《てんか》の|懲戒《みせしめ》と|門前《もんぜん》の|広場《ひろば》に|杭《くひ》を|打《う》ち、|四人《よにん》を|雁字搦《がんじがら》みに|繋《つな》ぎ|置《お》き、|数十人《すうじふにん》の|兵卒《へいそつ》に|固《かた》く|守《まも》らせ|置《お》き、|六人《ろくにん》を|従《したが》へ、|肱《ひぢ》を|張《は》り|再《ふたた》び|奥《おく》の|間《ま》に|帰《かへ》り|来《きた》る。
|小国姫《をくにひめ》は|唯《ただ》|一人《ひとり》|脇息《けふそく》に|凭《もた》れ|憂《うれ》ひに|沈《しづ》んで|居《ゐ》る。
ニコラス『アイヤ、|小国姫《をくにひめ》|殿《どの》、|斯《かく》の|如《ごと》き|弱虫《よわむし》を|何《なん》と|思《おも》つて|御館《おやかた》へお|入《い》れなさつたか、|貴女《あなた》にも|似合《にあは》ぬやり|方《かた》、|二人《ふたり》の|娘《むすめ》|迄《まで》|咎人《とがにん》となさるとは|早《はや》まつたやり|方《かた》だ。|気《き》の|毒《どく》ながらもはや|助《たす》ける|訳《わけ》にはゆきませぬ。|覚悟《かくご》をなされたがよろしからう』
|小国姫《をくにひめ》『|何処《どこ》|迄《まで》も|付《つ》け|狙《ねら》ふ|禍《わざわひ》の|神《かみ》、もはや|覚悟《かくご》は|致《いた》して|居《を》ります。|皆様《みなさま》、オサラバ』
と|云《い》ふより|早《はや》く|懐《ふところ》の|懐剣《くわいけん》を|取《と》り|出《だ》し|突《つ》き|立《た》てんとする|一刹那《いちせつな》、スマートは|宙《ちう》を|飛《と》んで|駆《か》け|来《きた》り、ワンと|一声《ひとこゑ》|懐剣《くわいけん》に|咬《かじ》り|付《つ》き、もぎ|取《と》り|表《おもて》をさして|韋駄天走《ゐだてんばし》りに|走《はし》り|行《ゆ》く。|隣室《りんしつ》より|三千彦《みちひこ》の|声《こゑ》として、
『|千早《ちはや》ふる|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|抱《いだ》かれし
|吾《わが》|体《からたま》を|縛《しば》るよしなし。
|三五《あななひ》の|神《かみ》の|教《をしへ》の|宣伝使《せんでんし》
|今《いま》|此処《ここ》にありニコラスの|君《きみ》』
ニコラスは、|此《この》|声《こゑ》を|聞《き》いて|不審《ふしん》|晴《は》れやらず、
『イヤ|小国姫《をくにひめ》|殿《どの》、|其方《そなた》は|三五教《あななひけう》の|魔法《まはふ》を|習《なら》つたと|見《み》える。ますますもつて|怪《け》しからぬ|代物《しろもの》だ。もうかうなる|上《うへ》は|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|御命令《ごめいれい》を|待《ま》つ|迄《まで》もなく、ふん|縛《じば》つて|成敗《せいばい》を|致《いた》すで|厶《ござ》らう。ハンナ、マリス、|其《その》|外《ほか》の|四人《よにん》|速《すみやか》に|此《この》|女《をんな》を|縛《ばく》せ』
『ハイ』と|答《こた》へて|六人《ろくにん》は|小国姫《をくにひめ》を|無雑作《むざふさ》に|縛《しば》り|上《あ》げむとす。|此《この》|時《とき》|隣《となり》の|室《ま》より|涼《すず》しき|声《こゑ》にて、
『|一《ひと》、|二《ふた》、|三《み》、|四《よ》、|五《いつ》、|六《むゆ》、|七《なな》、|八《や》、|九《ここの》、|十《たり》、|百《もも》、|千《ち》、|万《よろづ》』
と|天《あま》の|数歌《かずうた》が|聞《きこ》えて|来《き》た。|小国姫《をくにひめ》の|肉体《にくたい》より、|忽《たちま》ち|金色《こんじき》の|光《ひかり》|放射《はうしや》し、ニコラス|初《はじ》め|六人《ろくにん》の|者《もの》は|忽《たちま》ち|眼《まなこ》|眩《くら》み、タヂタヂと|後《あと》しざりしながらバタリと|座敷《ざしき》の|真中《まんなか》に|倒《たふ》れける。
|三千彦《みちひこ》、|求道《きうだう》、デビス、ケリナの|四人《よにん》は|莞爾《にこにこ》しながら、|次《つぎ》の|間《ま》から|悠々《いういう》として|現《あら》はれ|来《きた》り、|小国姫《をくにひめ》の|前《まへ》に|座《ざ》を|占《し》めた。|小国姫《をくにひめ》は|見《み》るより|二度《にど》|吃驚《びつくり》、
『ア、|貴方《あなた》は|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、ヤ、|娘《むすめ》、どうしてあの|縛《いましめ》を|解《と》いて|帰《かへ》られたか』
|三千彦《みちひこ》『|誠《まこと》|一《ひと》つの|肉体《にくたい》には、|刄《やいば》は|立《た》ちませぬ。|縛《しば》つても|縛《しば》る|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|御安心《ごあんしん》なさいませ』
|小国姫《をくにひめ》『|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|三五教《あななひけう》の|大神様《おほかみさま》、ようお|助《たす》け|下《くだ》さいました。|只今《ただいま》|限《かぎ》りバラモンは|思《おも》ひ|切《き》り|神殿《しんでん》は|取《と》り|除《の》けますれば、|何卒《どうぞ》お|許《ゆる》し|下《くだ》さいませ。アア|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|合掌《がつしやう》して|居《ゐ》る。
ニコラス|以下《いか》|六人《ろくにん》は|又《また》もやムクムクと|起《お》き|上《あが》り、
ニコラス『ヤア|其方《そなた》はどうして|縛《いましめ》を|解《と》き|帰《かへ》つてうせたか、|不届者《ふとどきもの》|奴《め》。サア|早《はや》く|手《て》を|廻《まは》せ』
|四人《よにん》は|一度《いちど》に、
『アハハハハ、ホホホホホ』
と|哄笑《こうせう》し|乍《なが》ら|手《て》を|廻《まは》した。|六人《ろくにん》は|念入《ねんい》りに|四人《よにん》を|縛《しば》り|上《あ》げ、|今度《こんど》は|最早《もはや》|大丈夫《だいぢやうぶ》と、|細《ほそ》き|針金《はりがね》をもつて|其《その》|上《うへ》を|縛《しば》り|乍《なが》ら、|又《また》もや|門前《もんぜん》に|引《ひ》いて|行《ゆ》く。|数十人《すうじふにん》の|兵士《へいし》は|何《いづ》れも|長途《ちやうと》の|旅《たび》に|労《つか》れ【グタリ】となつて|他愛《たあい》もなく|眠《ねむ》つて|居《ゐ》る。ニコラスは|大音声《だいおんじやう》にて、
ニコラス『|汝等《なんぢら》|兵士《へいし》の|奴輩《やつばら》、|大切《たいせつ》なる|咎人《とがにん》を|取《と》り|逃《にが》し|眠《ねむ》つて|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》があるか。|左様《さやう》な|事《こと》で|大切《たいせつ》な|御用《ごよう》が|勤《つと》まるか』
と|呶鳴《どな》りつけた。|此《この》|声《こゑ》に|兵士《へいし》は|一同《いちどう》|驚《おどろ》き|立《た》ち|上《あが》り、「|気《き》をつけ」の|姿勢《しせい》で|直立《ちよくりつ》し、|行儀《ぎやうぎ》よく|並《なら》んだ。ニコラスは|又《また》もや|四人《よにん》を|同《おな》じく|縛《しば》りつけて|置《お》き、|兵士《へいし》に|厳重《げんぢゆう》に|監督《かんとく》|警護《けいご》すべく|命《めい》じ、オホンと|呟払《せきばら》ひしながら|大手《おほで》を|振《ふ》つて|六人《ろくにん》を|従《したが》へ、|奥《おく》の|間《ま》に|進《すす》み|入《い》る。|奥《おく》の|間《ま》には|小国姫《をくにひめ》、ヘルが|心配《しんぱい》さうに|火鉢《ひばち》を|中《なか》に|置《お》いて|何事《なにごと》か|囁《ささや》いて|居《ゐ》る。ニコラスは|威猛高《ゐたけだか》になり、
ニコラス『|如何《いか》に|小国姫《をくにひめ》、|千変万化《せんぺんばんくわ》の|妖術《えうじゆつ》を|使《つか》ふとも、|斯《かく》の|如《ごと》く|針金《はりがね》をもつて|縛《しば》りつけ|数多《あまた》の|兵士《へいし》に|守《まも》らせたれば|最早《もはや》|逃《のが》れる|道《みち》はない。サア|是《これ》から|其《その》|方《はう》の|番《ばん》だ。|速《すみやか》に|手《て》を|廻《まは》せ』
|小国姫《をくにひめ》『ホホホホホ、どうせ|命《いのち》を|捨《す》てようと|決心《けつしん》した|妾《わらは》で|厶《ござ》います。そんな|難《むつかし》い|顔《かほ》をせずに|縛《しば》り|上《あ》げて、|突《つ》きなと、|斬《き》るなと|御勝手《ごかつて》になさいませ』
ヘル『オイ、ニコラス、|貴様《きさま》は|俺《おれ》の|顔《かほ》を|知《し》つて|居《ゐ》るか、|俺《おれ》は|軍曹《ぐんさう》のヘルさまだぞ。|今日《こんにち》は|押《お》しも|押《お》されもせぬ|天下《てんか》の|泥坊様《どろばうさま》だ。サア|縛《しば》つて|行《ゆ》け。|貴様《きさま》の|今《いま》|縛《しば》つて|行《い》つた|求道居士《きうだうこじ》は、|鬼春別《おにはるわけ》|将軍《しやうぐん》の|秘書官《ひしよくわん》エミシのカーネルさまだ。|下級《かきふ》の|者《もの》が|上官《じやうくわん》を|縛《しば》り|上《あ》げると|云《い》ふ|事《こと》があるか、|反対《あべこべ》に|俺《おれ》の|方《はう》からハルナの|都《みやこ》へ|注進《ちゆうしん》しようか』
ニコラス『エエ、カーネルでもヘルでも|容赦《ようしや》があらうか。|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|反抗《はんかう》|致《いた》した|大罪人《だいざいにん》、サア|早《はや》くハンナ、マリス、|容赦《ようしや》は|要《い》らぬ、|直《ただ》ちに|縛《しば》り|上《あ》げよ』
『ハイ』と|答《こた》へて|六人《ろくにん》は|又《また》もや|二人《ふたり》を|厳《きび》しく|縛《しば》り|上《あ》げ、|門前《もんぜん》の|広場《ひろば》へ|引《ひ》きつれ|行《ゆ》く。
(大正一二・三・二六 旧二・一〇 於皆生温泉浜屋 加藤明子録)
第二五章 |天声《てんせい》〔一四七五〕
ニコラスのキャプテンはハンナ、マリス|外《ほか》|四人《よにん》と|共《とも》に|小国姫《をくにひめ》、ヘルの|二人《ふたり》を|高手小手《たかてこて》に|縛《いまし》め、|門前《もんぜん》の|馬場《ばば》に|来《き》て|見《み》れば|警固《けいご》させ|置《お》いた|兵士《へいし》は|何《いづ》れも|一蓮托生《いちれんたくしやう》、|立《た》つた|儘《まま》|白河夜船《しらかはよぶね》を|漕《こ》いで|居《ゐ》る。|大杭《おほぐひ》に|縛《しば》りつけて|置《お》いた|三千彦《みちひこ》|以下《いか》|四人《よにん》の|姿《すがた》は|影《かげ》もなく、|又《また》|今《いま》|縛《しば》つてきた|二人《ふたり》も|何時《いつ》の|間《ま》にか|縄《なは》ばかりになつて|居《ゐ》る。ニコラスは|不審《ふしん》に|堪《た》へず|双手《もろて》を|組《く》んで|首《かうべ》を|垂《た》れ|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。|俄《にはか》に|禿鷲《はげわし》がパツと|空《そら》から|飛《た》つて|来《き》て|軍帽《ぐんばう》の|上《うへ》から|頭《あたま》をカンカンとコツいた。アツと|叫《さけ》んでニコラスは|芝原《しばはら》に|蹲《しやが》み|頭《あたま》を|抱《かか》へて|慄《ふる》うて|居《ゐ》る。|禿鷲《はげわし》は|五十人《ごじふにん》の|兵士《へいし》の|居眠《ゐねむ》つて|居《ゐ》る|頭《あたま》の|上《うへ》から|一《いち》、|二《に》、|三《さん》、|四《し》と|万遍《まんべん》なく、コツき|廻《まは》つた。さうして|最後《さいご》の|一人《ひとり》をグツと|掴《つか》んで|中空《ちうくう》に|翼《つばさ》を|拡《ひろ》げ、|誇《ほこ》り|顔《がほ》に|舞《ま》うて|居《ゐ》る。|兵士《へいし》は|一時《いつとき》に|兇霊《きやうれい》の|襲来《しふらい》を|受《う》け|各《おのおの》|刀《かたな》を|引《ひ》き|抜《ぬ》き、ニコラス|外《ほか》|六人《ろくにん》の|士官《しくわん》に|向《むか》つて、|無性矢鱈《むしやうやたら》に|斬《き》り|込《こ》んで|来《き》た。ニコラスも|頭《あたま》の|痛《いた》さをこらへハンナ、マリス|以下《いか》|四人《よにん》を|指図《さしづ》し、|兵士《へいし》にむかつて|応戦《おうせん》した。|忽《たちま》ち|十数人《じふすうにん》の|重軽傷者《ぢゆうけいしやうしや》を|出《いだ》し、|草《くさ》を|紅《あけ》に|染《そ》めてしまつた。|此《この》|時《とき》|空中《くうちう》に|音楽《おんがく》ひびき、|淑《しとや》かな|宣伝歌《せんでんか》が|聞《きこ》えて|来《き》た。
|其《その》|歌《うた》、
|隆光彦《たかてるひこ》『|天津御神《あまつみかみ》の|御言《みこと》もて バラモン|教《けう》の|神館《かむやかた》
テルモン|山《ざん》の|霊場《れいぢやう》を |救《すく》はむ|為《ため》に|三五《あななひ》の
|珍《うづ》の|司《つかさ》の|三千彦《みちひこ》を バラモン|神《がみ》の|乞《こひ》を|容《い》れ
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は |此処《ここ》に|遣《つか》はし|玉《たま》ひけり
その|御心《みこころ》も|露知《つゆし》らず バラモン|軍《ぐん》のキャプテンが
|数十《すうじふ》の|兵士《へいし》を|引率《ひきつ》れて これの|館《やかた》に|出陣《しゆつぢん》し
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|拝礼《はいれい》も なさず|忽《たちま》ち|奥《おく》の|間《ま》に
|闖入《ちんにふ》なして|神館《かむやかた》 |主人《あるじ》の|妻《つま》を|初《はじ》めとし
|誠《まこと》の|道《みち》の|神柱《かむばしら》 |一人《ひとり》も|残《のこ》らずフン|縛《じば》り
|無慙《むざん》の|仕打《しうち》をなせしより |仁慈無限《じんじむげん》の|天地《あめつち》の
|神《かみ》は|怒《いか》らせ|玉《たま》ひつつ |旭《あさひ》、|高倉《たかくら》|二柱《ふたはしら》
|神《かみ》の|使《つかひ》を|遣《つか》はして |勝《か》ち|誇《ほこ》りたるニコラスの
|軍《いくさ》を|悉《ことごと》|目《め》を|覚《さま》し |尊《たふと》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》に
|言向和《ことむけやは》す|御仕組《おんしぐみ》 ニコラス|如何《いか》に|勇《ゆう》あるも
|神《かみ》の|力《ちから》に|及《およ》ばむや |悔《く》い|改《あらた》めよ|省《かへり》みよ
|三五教《あななひけう》やバラモンの |教《をしへ》と|御名《みな》は|変《かは》れども
その|源《みなもと》を|尋《たづ》ぬれば |大国治立大神《おほくにはるたちおほかみ》の
|珍《うづ》の|御裔《みすゑ》と|知《し》らざるか アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|教《をしへ》にいと|暗《くら》き |色盲患者《しきまうくわんじや》の|武士《つはもの》よ
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|真心《まごころ》に かへりて|天地《てんち》の|大道《だいだう》を
|弁《わきま》へ|悟《さと》れ|惟神《かむながら》 |神《かみ》は|汝《なんぢ》と|倶《とも》にあり
|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》 |心《こころ》の|魂《たま》の|清《きよ》ければ
|如何《いか》なる|曲《まが》の|襲《おそ》ふとも |如何《いか》で|恐《おそ》るる|事《こと》あらむ
|汝《なれ》が|力《ちから》に|相任《あひまか》せ |縛《しば》り|上《あ》げたる|宣伝使《せんでんし》
|其《その》|外《ほか》|五人《ごにん》の|真人《まさびと》は |誠《まこと》|一《ひと》つの|勇士《ゆうし》ぞや
|悔《く》い|改《あらた》めて|大神《おほかみ》の |御旨《みむね》に|叶《かな》ひ|奉《まつ》りたる
|尊《たふと》き|神《かみ》の|太柱《ふとばしら》 |如何《いか》でか|汝《なんぢ》|等《ら》|曲神《まがかみ》の
|縄《なは》に|縛《しば》られ|怯《ひる》むべき |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|天地《てんち》は|覆《かへ》るとも
|誠《まこと》|一《ひと》つを|尽《つく》しなば |現幽神《げんいうしん》の|三界《さんかい》は
|思《おも》ふがままになるものぞ |眼《まなこ》を|覚《さ》ませ|早《はや》|覚《さ》ませ
|吾《われ》は|隆光彦《たかてるひこ》の|神《かみ》 |天津御空《あまつみそら》の|天国《てんごく》の
|神《かみ》の|使命《しめい》を|蒙《かがぶ》りて |汝等《なんぢら》|一同《いちどう》の|曲神《まがかみ》を
|誠《まこと》の|道《みち》に|救《すく》はむと |天《あめ》の|八重雲《やへくも》|掻《か》き|分《わ》けて
|降《くだ》り|来《きた》れるものなるぞ |此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》 |只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|宣《の》り|直《なほ》し |吾《わが》|身《み》の|罪《つみ》を|悔《く》い|覚《さと》り
|人《ひと》の|過《あやま》ち|悉《ことごと》く |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
それが|誠《まこと》の|神心《かみごころ》 |神《かみ》の|心《こころ》に|曇《くも》りなし
|誠《まこと》の|道《みち》にさやりなし |誠《まこと》は|天地《てんち》の|宝《たから》ぞや
そもそもこれの|神館《かむやかた》 バラモン|教《けう》の|大神《おほかみ》を
|斎《いつ》き|奉《まつ》りしものなれど |天津国《あまつくに》より|降《くだ》りたる
|如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》のある|限《かぎ》り |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|霊場《れいぢやう》ぞ
|大黒主《おほくろぬし》は|霊宝《れいほう》の |威徳《ゐとく》に|恐《おそ》れて|逃《に》げ|出《いだ》し
|千里《せんり》の|山野《さんや》を|打渡《うちわた》り |今《いま》は|漸《やうや》く|月《つき》の|国《くに》
ハルナの|都《みやこ》に|居《きよ》を|定《さだ》め |大雲山《だいうんざん》の|岩窟《がんくつ》に
|弥《いや》|永遠《とこしへ》に|棲《す》まひたる |八岐大蛇《やまたをろち》に|操《あやつ》られ
|偽《いつは》り|事《ごと》を|真《まこと》とし |悪《あく》をば|善《ぜん》と|信《しん》じつつ
|脱線《だつせん》だらけの|宣伝《せんでん》を |始《はじ》めたるこそ|嘆《うた》てけれ
|汝《なんぢ》ニコラス、キャプテンよ |吾《わが》エンゼルの|言《こと》の|葉《は》を
|只《ただ》|一言《ひとこと》も|洩《も》らさずに |胸《むね》の|奥《おく》にと|畳《たた》み|込《こ》み
|深《ふか》く|省《かへり》みよく|悟《さと》り |尊《たふと》き|神《かみ》の|御心《みこころ》を
|麻柱《あななひ》|奉《まつ》れ|惟神《かむながら》 |神《かみ》のまにまに|諭《さと》し|置《お》く
|吾《われ》はこれより|久方《ひさかた》の |高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》に
|大宮柱《おほみやばしら》|太知《ふとし》りて |鎮《しづ》まり|居《ゐ》ます|月《つき》の|神《かみ》
|貴《うづ》の|館《やかた》に|舞《ま》ひ|上《のぼ》り |此《この》|有様《ありさま》を|詳細《まつぶさ》に
いとこまごまと|復命《ふくめい》し |汝等《なんぢら》|一同《いちどう》|神《かみ》の|子《こ》の
|罪《つみ》をば|許《ゆる》し|玉《たま》ふべく |願《ねが》ひ|奉《まつ》らむいざさらば
|心《こころ》の|底《そこ》より|改《あらた》めて |神《かみ》の|御為《おんため》|世《よ》の|為《ため》に
|真心《まごころ》|捧《ささ》げて|尽《つく》せかし アア|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》のまにまに|宣《の》り|伝《つた》ふ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|淡《あは》き|煙《けむり》となつて|何処《どこ》ともなく|中空《ちうくう》に|消《き》え|玉《たま》うた。|今《いま》まで|居眠《ゐねむ》つて|居《ゐ》て|禿鷲《はげわし》に|片身《かたみ》|怨《うら》みなく|額《ひたひ》をコツかれ、|苦痛《くつう》に|悩《なや》んで|居《ゐ》た|兵士《つはもの》の|傷《きず》は|忽《たちま》ち|癒《い》え、|眠気《ねむけ》も|頓《とみ》に|覚《さ》め、|精神《せいしん》|爽快《さうくわい》を|覚《おぼ》え、|何《な》んとなく|顔色《かほいろ》まで|生々《いきいき》して|来《き》た。ニコラスは|合点《がてん》|行《ゆ》かず、ハンナ、マリス|外《ほか》|四人《よにん》の|士官《しくわん》を|引率《ひきつ》れ、|再《ふたた》び|館《やかた》の|奥《おく》の|間《ま》に|進《すす》み|入《い》り|見《み》れば|豈《あに》|図《はか》らむや、|小国姫《をくにひめ》、|三千彦《みちひこ》を|初《はじ》め|縛《しば》り|上《あ》げた|人々《ひとびと》は|嬉《うれ》しげに|手《て》を|拍《う》つて|酒宴《さかもり》の|最中《さいちう》であつた。ニコラスは|翻然《ほんぜん》として|悟《さと》り、|神徳《しんとく》の|広大《くわうだい》なるに|感《かん》じ、|涙《なみだ》を|流《なが》して|三千彦《みちひこ》に|無礼《ぶれい》の|罪《つみ》を|謝《しや》した。|此《この》|時《とき》|館《やかた》の|外《そと》にはワイワイと|山岳《さんがく》も|揺《ゆる》ぐばかりの|喊声《かんせい》が|聞《きこ》えて|来《き》た。|一同《いちどう》は|何事《なにごと》ならむと|耳《みみ》を|欹《そばだ》て|暫《しば》し|様子《やうす》を|窺《うかが》つて|居《ゐ》る。スマートの|声《こゑ》は|耳《みみ》を|劈《つんざ》く|様《やう》に『ウワッウワッ』と|四辺《あたり》の|木霊《こだま》を|響《ひび》かして|居《ゐ》る。
(大正一二・三・二六 旧二・一〇 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
(昭和一〇・六・一五 王仁校正)
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霊界物語 第五七巻 真善美愛 申の巻
終り