霊界物語 第五六巻 真善美愛 未の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第五六巻』愛善世界社
2006(平成18)年08月05日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年10月09日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|総説《そうせつ》
第一篇 |自愛之柵《じあいのしがらみ》
第一章 |神慮《しんりよ》〔一四三一〕
第二章 |恋淵《こひぶち》〔一四三二〕
第三章 |仇花《あだばな》〔一四三三〕
第四章 |盗歌《とうか》〔一四三四〕
第五章 |鷹魅《ようみ》〔一四三五〕
第二篇 |宿縁妄執《しゆくえんまうしふ》
第六章 |高圧《かうあつ》〔一四三六〕
第七章 |高鳴《たかなり》〔一四三七〕
第八章 |愛米《あいまい》〔一四三八〕
第九章 |我執《がしふ》〔一四三九〕
第三篇 |月照荒野《げつせうくわうや》
第一〇章 |十字《じふじ》〔一四四〇〕
第一一章 |惚泥《でれどろ》〔一四四一〕
第一二章 |照門颪《てるもんおろし》〔一四四二〕
第一三章 |不動滝《ふどうたき》〔一四四三〕
第一四章 |方岩《はこいは》〔一四四四〕
第四篇 |三五開道《あななひかいだう》
第一五章 |猫背《ねこぜ》〔一四四五〕
第一六章 |不臣《ふしん》〔一四四六〕
第一七章 |強請《がうせい》〔一四四七〕
第一八章 |寛恕《くわんじよ》〔一四四八〕
第一九章 |痴漢《ちかん》〔一四四九〕
第二〇章 |犬嘘《けんきよ》〔一四五〇〕
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|序文《じよぶん》
|瑞月《ずゐげつ》|王仁《おに》が|横臥《わうぐわ》したまま、この|物語《ものがたり》を|神示《しんじ》に|従《したが》ひ|口述《こうじゆつ》せるを|見《み》て、|大本人《おほもとじん》の|中《なか》に|色々《いろいろ》の|批評《ひひやう》を|下《くだ》して|居《ゐ》る|方々《かたがた》があります。|役員《やくゐん》も|信者《しんじや》も|又《また》|長屋《ながや》の|主人《しゆじん》までも、|口《くち》を|揃《そろ》へて……|神様《かみさま》とも|在《あ》らうものが、|謹厳《きんげん》なるべき|霊界《れいかい》の|有様《ありさま》を|発表《はつぺう》するに|際《さい》し|行儀《ぎやうぎ》の|悪《わる》い|寝《ね》そべつてどうして|真実《しんじつ》の|事《こと》が|伝《つた》へられるものか。|斯《かく》の|如《ごと》き|手続《てつづき》に|由《よ》つて|成《な》りし|著書《ちよしよ》は|一読《いちどく》すべき|価値《かち》の|無《な》いものだ……と|謂《ゐ》つて|一口《ひとくち》に|毀《こぼ》つて|居《ゐ》る|人《ひと》もあります。|勿論《もちろん》|神様《かみさま》としては|口述者《こうじゆつしや》の|肉体《にくたい》を|行儀《ぎやうぎ》よく|端坐《たんざ》させておいて|御伝《おつた》へ|遊《あそ》ばされ|度《た》きは|最《もつと》もで|在《あ》りませう。|然《しか》し|乍《なが》ら|瑞月《ずゐげつ》は|一昨年《いつさくねん》|以来《いらい》|非常《ひじやう》に|健康《けんかう》を|害《がい》し、|日夜《にちや》|病気《びやうき》に|苦《くるし》み|悩《なや》み|到底《たうてい》|一時間《いちじかん》と|坐《すわ》つて|居《を》ることの|出来《でき》ない|状態《じやうたい》でありました。この|肉体《にくたい》の|健康《けんかう》に|復《ふく》するを|待《ま》つて|居《ゐ》やうものなれば|何時《いつ》になるか|判《わか》らない。|夫《そ》れでは|数多《あまた》の|信者《しんじや》や|世界《せかい》の|人々《ひとびと》に|対《たい》して|神様《かみさま》の|御仁慈《ごじんじ》の|御思召《おぼしめし》を|宣伝《せんでん》する|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|思想《しさう》の|悪潮流《あくてうりう》は|天下《てんか》に|氾濫《はんらん》し|殆《ほとん》ど|泥海《どろうみ》と|化《くわ》せむとするこの|際《さい》|一日《いちにち》も|猶予《いうよ》する|訳《わけ》には|行《ゆ》かない。|仁慈《じんじ》|深《ふか》き|大神《おほかみ》は|世界《せかい》|万民《ばんみん》を|救《すく》ひ|至治太平《しちたいへい》の|神代《かみよ》を|一日《いちにち》も|早《はや》く|築《きづ》き|上《あ》げ、|万有一切《ばんいういつさい》を|天国《てんごく》の|楽園《らくゑん》に|遊《あそ》ばしめ、|地獄《ぢごく》の|惨状《さんじやう》より|救《すく》はむとの|御考《おかんが》へより、|止《や》むを|得《え》ずして、|変則的《へんそくてき》|方法《はうはふ》を|一時《いちじ》お|採《と》りになつたのであります。|神《かみ》の|仁慈《じんじ》は|到底《たうてい》|人間《にんげん》の|計《はか》り|知《し》るべき|限《かぎ》りではない。|中《なか》には……|瑞月《ずゐげつ》は|神《かみ》に|仕《つか》ふる|身《み》なれば|二六時中《にろくじちう》|極《きは》めて|壮健《さうけん》にして|病気《びやうき》などに|犯《おか》さるべき|道理《だうり》が|無《な》い、それに|日夜《にちや》|病気《びやうき》に|苦《くる》しんで|居《を》るのは|何《なに》か|御神慮《ごしんりよ》に|叶《かな》はない|事《こと》が|有《あ》るのに|違《ちが》ひない。そんな|神慮《しんりよ》に|叶《かな》はない|人《ひと》の|口《くち》から|喋《しやべ》つた|寝言《ねごと》を|聞《き》いて|何《なん》にするか……と|言《い》つて|居《ゐ》る|人《ひと》もチヨコチヨコあるやうに|聞《き》いて|居《を》りますが、|王仁《おに》は|二六時中《にろくじちう》|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》の|病気《びやうき》|平癒《へいゆ》を|各地《かくち》に|於《おい》て|祈《いの》る|声《こゑ》が|耳《みみ》に|聞《きこ》え|来《く》ると|共《とも》に、その|苦痛《くつう》の|幾分《いくぶん》かを|助《たす》けて|居《を》るのだから、|大本信者《おほもとしんじや》に|病人《びやうにん》の|絶滅《ぜつめつ》せない|限《かぎ》りは、|瑞月《ずゐげつ》|王仁《おに》の|肉体《にくたい》は|断《だん》じて|健康体《けんかうたい》に|復《ふく》する|事《こと》はありませぬ。|瑞月《ずゐげつ》|王仁《おに》が|病気《びやうき》|病魔《びやうま》と|戦《たたか》いながら、|孜子《しし》として|神業《しんげふ》の|一端《いつたん》に|奉仕《ほうし》するその|苦衷《くちう》を|察《さつ》せない|人々《ひとびと》は|右様《みぎやう》の|批難《ひなん》や|攻撃《こうげき》をさるるのは|寧《むし》ろ|当然《たうぜん》でありませう。|昨年《さくねん》|未信者《みしんじや》|併《しか》も|基督教信者《キリストけうしんじや》の|某氏《ぼうし》が|瑞月《ずゐげつ》に|向《むか》つて……|霊界物語《れいかいものがたり》を|寝《ね》ながら|口述《こうじゆつ》するのは|不都合《ふつがふ》ではないか……と|詰問《きつもん》された|事《こと》がありました。|瑞月《ずゐげつ》はその|時《とき》|左記《さき》のやうな|事《こと》を|答《こた》へて|置《お》きました。
……|現代《げんだい》の|立派《りつぱ》な|人間様《にんげんさま》は|何《いづ》れも|大道《だいだう》を|直立《ちよくりつ》して|歩行《ほかう》|活動《くわつどう》して|居《ゐ》ながら、|蟹《かに》のやうに|神意《しんい》に|反《はん》せる|横道《よこみち》ばかりを|行《い》つて|居《ゐ》るぢやありませぬか。|社会《しやくわい》の|潮流《てうりう》は|滔々《たうたう》として|横流《わうりう》して|居《ゐ》る、|河《かは》の|水《みづ》も|潮水《しほみづ》も|皆《みな》|横《よこ》に|流《なが》れて|居《ゐ》る。|夫《そ》れ|故《ゆゑ》、|俗界《ぞくかい》の|人々《ひとびと》に|交《まじ》つて|共《とも》に|活動《くわつどう》せむと|思《おも》へば|神意《しんい》に|反《はん》したる|行動《かうどう》を|取《と》らなければならぬ。かう|謂《ゐ》へば|余《あま》り|消極的《せうきよくてき》だと|又《また》|言《い》はるるかは|知《し》らぬが、|横臥《わうぐわ》して|静《しづか》に|宇宙《うちう》の|真理《しんり》を|考《かんが》へ|神意《しんい》に|背《そむ》かざる|誠《まこと》の|解釈《かいしやく》をなし、|神教宣伝使《しんけうせんでんし》としての|公平《こうへい》なる|判断《はんだん》を|為《な》し、|社会《しやくわい》の|活動者《くわつどうしや》を|大神《おほかみ》の|愛護《あいご》の|下《もと》に|立派《りつぱ》に|能《よ》く|立《た》ち|働《はたら》かしめむとする|為《ため》である。|又《また》|横《よこ》に|寝《ね》て|王仁《おに》が|働《はたら》くと|云《い》つたのは、|眼《め》を|塞《ふさ》ぎ|眠《ねむ》ると|云《い》ふの|謎《なぞ》である。|体主霊従《たいしゆれいじう》の|現代人《げんだいじん》の|行動《かうどう》は|正《ただ》しき|人間《にんげん》としては|真面目《まじめ》に|眼《め》を|開《あ》けて|見《み》ては|居《を》られない。|一切《いつさい》の|自我心《じがしん》を|捨《す》て|安静《あんせい》|安眠《あんみん》の|境地《きやうち》に|立《た》つて|些《すこ》しも|偏《へん》せず、|宇宙精神《うちうせいしん》の|真髄《しんずゐ》を|探《さぐ》つて|之《これ》を|世人《せじん》に|伝《つた》へむ|為《ため》に、|霊界物語《れいかいものがたり》を|著《あら》はして|居《ゐ》るのである。|地上《ちじやう》を|横流《わうりう》する|河水《かすゐ》は|滔々《たうたう》として|些《すこ》しも|淹滞《えんたい》せない。|併《しか》し|士農工商《しのうこうしやう》に|従事《じゆうじ》する|活人《くわつじん》は、|無論《むろん》|立《た》つて|働《はたら》かねばならないのは|当然《たうぜん》であることを|心得《こころえ》て|貰《もら》ひたい……
と|云《い》つた|事《こと》がある。|要《えう》するに|之《これ》は|一種《いつしゆ》の|詭弁《きべん》でもありませうが、|実際《じつさい》のことを|言《い》へば|今日《こんにち》の|世態《せたい》を|見《み》て|吾々《われわれ》は|傍観《ばうくわん》する|事《こと》が|出来《でき》ない。|止《や》むを|得《え》ず、|病躯《びやうく》を|駆《か》つて|世《よ》の|為《ため》|道《みち》の|為《ため》に|犠牲的《ぎせいてき》に|立《た》ち|働《はたら》いて|居《を》るのであります。|何程《なにほど》|寝物語《ねものがたり》だと|謂《ゐ》つても|其《その》|内容《ないよう》は|決《けつ》して|眠《ねむ》つては|居《ゐ》ないことを|茲《ここ》に|告白《こくはく》しておきます。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
|蟹《かに》が|行《ゆ》く|横《よこ》さの|道《みち》を|歩《あゆ》むより
|横《よこ》に|立《た》ちつつ|道《みち》を【たて】|行《ゆ》く
大正十二年三月十四日
於竜宮館
|総説《そうせつ》
|人生《じんせい》の|目的《もくてき》は|決《けつ》して|現界《げんかい》の|幸福《かうふく》と|歓楽《くわんらく》を|味《あぢ》はふのみでない。|凡《すべ》ての|人間《にんげん》は|幸福《かうふく》|及《およ》び|歓楽《くわんらく》のみに|執着《しふちやく》して|苦悩《くなう》と|災厄《さいやく》を|免《まぬが》れむとのみ|焦慮《せうりよ》し、|自愛的《じあいてき》|方面《はうめん》に|熱中《ねつちゆう》して|居《を》るやうだ。|併《しか》し|神様《かみさま》が|人間《にんげん》を|世界《せかい》に|創造《さうざう》し|玉《たま》ふた|使命《しめい》は、|決《けつ》して|人間《にんげん》が|現界《げんかい》に|於《お》ける|生涯《しやうがい》の|安逸《あんいつ》を|計《はか》らしむるが|如《ごと》き|浅薄《せんぱく》なものではない、|人間《にんげん》は|神様《かみさま》の|目的《もくてき》|経綸《けいりん》をよくよく|考察《かうさつ》して、|何処《どこ》までも|善徳《ぜんとく》を|積《つ》み|信真《しんしん》の|光《ひかり》を|顕《あら》はし|神《かみ》の|生宮《いきみや》、|天地《てんち》|経綸《けいりん》の|御使《みつかひ》となつて|三界《さんがい》の|為《ため》に|大々的《だいだいてき》|活動《くわつどう》せなくては|成《な》らないものである。|又《また》|人間《にんげん》には|直接《ちよくせつ》|天国《てんごく》より|天人《てんにん》の|霊子《れいし》を|下《くだ》して|生《うま》れしめ|玉《たま》ふたものもあり、|或《あるひ》は|他《た》の|動物《どうぶつ》より|霊化《れいくわ》して|生《うま》れたものもある。|大神《おほかみ》は|初《はじ》めて|世界《せかい》に|生物《せいぶつ》を|造《つく》り|玉《たま》ふや|黴菌《ばいきん》に|始《はじ》まり、|蘚苔《せんたい》となり、|草木《さうもく》となり、|進《すす》んで|動物《どうぶつ》を|造《つく》り|玉《たま》ふた。|先《ま》づ|虫《むし》となり、|魚《うを》となり、|貝《かひ》となり、|鳥《とり》となり、|獣《けだもの》となり、|最後《さいご》に|人間《にんげん》を|生《う》み|出《だ》し|玉《たま》ひ、|神《かみ》は|自《みづか》ら|生物《せいぶつ》を|改良《かいりやう》して、|動物産生《どうぶつさんせい》の|終《をは》りに|総《すべ》ての|長所《ちやうしよ》を|具備《ぐび》して|理想《りさう》のままに|人間《にんげん》を|造《つく》られたと|云《い》つてゐる|学者《がくしや》もある。|動物《どうぶつ》|発生《はつせい》の|前後《ぜんご》に|関《くわん》する|問題《もんだい》は|霊界物語《れいかいものがたり》を|読《よ》まれた|読者《どくしや》の|判断《はんだん》に|任《まか》す|事《こと》として、|凡《すべ》て|人間《にんげん》は|大神《おほかみ》の|無限《むげん》の|力《ちから》を|賦与《ふよ》され|智能《ちのう》を|授《さづ》けられて|居《を》る|以上《いじやう》は、|日夜《にちや》|之《これ》を|研《みが》いて|啓発《けいはつ》し、|神《かみ》の|境域《きやうゐき》に|到達《たうたつ》し|得《う》る|資質《ししつ》を|具有《ぐいう》して|居《を》るものである。|春《はる》|生《しやう》じて|夏《なつ》|枯《か》るる|草《くさ》も、|朝《あした》に|生《うま》れて|夕《ゆふべ》に|死《し》する|蜉蝣《かげろう》の|如《ごと》き|小動物《せうどうぶつ》も|種子《しゆし》と|子孫《しそん》を|遺《のこ》さないものは|一《ひと》つも|無《な》い。|動植物《どうしよくぶつ》は|生《しやう》じては|枯《か》れ、|枯《か》れては|生《しやう》じ、|生《うま》れては|死《し》し、|死《し》しては|生《うま》る。|幾百千万歳《いくひやくせんまんざい》、|神《かみ》は|同《おな》じ|神業《しんげふ》を|繰返《くりかへ》させ|玉《たま》ふものである。|人間《にんげん》の|生死問題《せいしもんだい》も|宇宙《うちう》の|主宰《しゆさい》なる|大神《おほかみ》の|目《め》より|御覧《ごらん》になる|時《とき》は、|万年《まんねん》の|昔《むかし》も|万年《まんねん》の|未来《みらい》も|少《すこ》しも|変《かは》りは|無《な》いのである。|彼《か》の|草《くさ》を|見《み》るも|茎《くき》となり、|葉《は》となり、|花《はな》となり|実《み》となる。|草《くさ》の|本体《ほんたい》は|果《はた》して|何《いづ》れにあるか。|昆虫《こんちう》を|見《み》るに|幼虫《えうちう》となり、|蝶蛾《てふが》となり、|樹間《じゆかん》の|卵《たまご》となる。|生《せい》の|本体《ほんたい》は|抑《そも》|何《なに》ものぞ。|卵《たまご》は|虫《むし》の|始《はじ》めにして|又《また》|虫《むし》の|終《をは》りである。|初卵《しよらん》と|終卵《しうらん》とは|同《おな》じものか|異《こと》なれるものか、|詮《せん》じ|詰《つ》めれば|単《たん》に|一体《いつたい》の|変化《へんくわ》に|過《す》ぎない。|人間《にんげん》も|亦《また》|是《これ》に|類《るゐ》する|変化《へんくわ》は|免《まぬが》れ|得《え》ない。|幼《えう》たり|老《らう》たり|死《し》たるも|一体《いつたい》の|変化《へんくわ》のみ。|宇宙《うちう》の|万物《ばんぶつ》は|神《かみ》の|生成《せいせい》|以来《いらい》|幾万年間《いくまんねんかん》|同一体《どういつたい》にして|幾万年《いくまんねん》の|未来《みらい》に|至《いた》るも|変《かは》るものでは|無《な》い。|吾人《ごじん》は|神《かみ》が|生成《せいせい》し|玉《たま》ひし|祖先来《そせんらい》の|肉体《にくたい》にして|幾万年《いくまんねん》の|未来《みらい》までも|之《これ》を|伝承《でんしよう》し|得《う》るものである。|凡《すべ》て|生物《せいぶつ》に|死《し》の|関門《くわんもん》があるのは|神様《かみさま》が|進化《しんくわ》の|手段《しゆだん》として|施《ほどこ》し|玉《たま》ふ|所《ところ》の|神《かみ》の|御慈愛《ごじあい》である。|死《し》|無《な》きものは|固着《こちやく》して|変《かは》ることが|無《な》い。|若《も》し|人生《じんせい》に|死《し》の|関門《くわんもん》なき|時《とき》は|人間《にんげん》も|無《な》く|子孫《しそん》も|無《な》いものとなる。|生物《せいぶつ》は|死《し》あるを|以《もつ》て|生殖《せいしよく》の|機能《きのう》を|有《いう》するのである。|故《ゆゑ》に|死《し》なるものは|生物《せいぶつ》の|最《もつと》も|悲哀《ひあい》とする|所《ところ》なれども|是《これ》また|惟神《かむながら》の|摂理《せつり》である。|併《しか》し|人間《にんげん》は|他《た》の|動物《どうぶつ》と|異《こと》なり|死後《しご》|始《はじ》めて|霊界《れいかい》に|入《い》り|復活《ふくくわつ》して|天国《てんごく》の|生涯《しやうがい》を|営《いとな》むものなれば、|人間《にんげん》の|現肉体《げんにくたい》の|生命《せいめい》は|只《ただ》その|準備《じゆんび》に|外《ほか》ならない|事《こと》を|知《し》らねばならぬ。|人間社会《にんげんしやくわい》に|於《おい》て|往古《わうこ》より|今日《こんにち》に|至《いた》るまで|霊魂《れいこん》の|帰着《きちやく》に|就《つ》いて|迷《まよ》ふこと|久《ひさ》しく、|或《あるひ》は|天国《てんごく》を|説《と》き|或《あるひ》は|幽冥《いうめい》を|説《と》き|三界《さんがい》を|説《と》く|宗教家《しうけうか》は|今日《こんにち》|迄《まで》|幾万《いくまん》あつたか|知《し》れない。|然《しか》し|未《いま》だ|一《いつ》として|徹底的《てつていてき》に|宇宙《うちう》の|真相《しんさう》、|人生《じんせい》の|本義《ほんぎ》を|説《と》いたものは|無《な》い。……|弥勒出現《みろくしゆつげん》|成就《じやうじゆ》して|始《はじ》めて|苦集滅道《くしふめつだう》を|説《と》き|三界《さんかい》を|照破《せうは》し|道法礼節《だうほふれいせつ》を|開示《かいじ》す……とは|先聖《せんせい》|既《すで》に|言《い》ふ|所《ところ》である。|人《ひと》は|天地経綸《てんちけいりん》の|奉仕者《ほうししや》にして|所謂《いはゆる》|天地《てんち》の|花《はな》、|神《かみ》の|生宮《いきみや》たる|以上《いじやう》は|単《たん》に|他《た》の|動物《どうぶつ》の|如《ごと》く|卑劣《ひれつ》なるものでは|無《な》い。|神《かみ》に|代《かは》つて|天地《てんち》の|為《ため》に|活動《くわつどう》すべきものである。|王仁《おに》がこの|物語《ものがたり》を|口述《こうじゆつ》する|趣旨《しゆし》も|亦《また》|人生《じんせい》の|本義《ほんぎ》を|世人《せじん》に|覚悟《かくご》せしめ、|三五教《あななひけう》の|真相《しんさう》を|天下《てんか》に|照会《せうくわい》し、|時代《じだい》の|悪弊《あくへい》を|祓《はら》ひ|清《きよ》め|地上《ちじやう》に|天国《てんごく》を|建《た》て、|人間《にんげん》の|死後《しご》は|直《ただ》ちに|天界《てんかい》に|復活《ふくくわつ》し|人生《じんせい》の|大本分《だいほんぶん》を|尽《つく》さしめ、|神《かみ》の|御目的《おんもくてき》に|叶《かな》はしめむとするの|微意《びい》に|外《ほか》ならないのであります。
|附言《ふげん》
|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》、|大本教《おほもとけう》の|宣伝使《せんでんし》、|湯浅《ゆあさ》|仁斎《じんさい》|氏《し》の|紹介《せうかい》に|由《よ》つて、|鳥取県《とつとりけん》|気高郡《けたかぐん》|海徳村《かいとくむら》|大字《おほあざ》|徳尾《とくを》|宮東《みやひがし》|菜種田《なたねだ》に|於《おい》て|種苅《たねか》り|中《ちう》|鎌《かま》に|当《あた》り|拾得《しふとく》したる|天降石《てんかうせき》にして|明治《めいぢ》|廿三年《にじふさんねん》|四月《しぐわつ》|廿四日《にじふよつか》|森岡《もりをか》|直衛《なほゑ》|氏《し》の|所有《しよいう》なりしが、|本日《ほんじつ》その|息《そく》|直次郎《なほじらう》|氏《し》より|大本《おほもと》に|献納《けんなふ》されたり。|霊界物語《れいかいものがたり》(|霊主体従《れいしゆたいじゆう》)|第一巻《だいいつくわん》に|記載《きさい》せるシオン|山《ざん》より|出《い》でたる|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》なる|顕国魂《うつしくにのみたま》は|即《すなは》ち|之《これ》である。この|宝玉《はうぎよく》の|履歴書《りれきしよ》あり、|今《いま》|左《さ》に|転載《てんさい》す。
『一、|鳥取県《とつとりけん》|気高郡《けだかぐん》|海徳村《かいとくむら》|大字《おほあざ》|徳尾《とくを》、|森岡《もりをか》|直衛《なほゑ》、|宮東《みやひがし》、|菜種田《なたねだ》に|於《おい》て|種苅中《たねかりちう》|鎌《かま》に|当《あた》り|拾得《しふとく》す。|明治《めいぢ》|廿三年《にじふさんねん》|四月《しぐわつ》|二十四日《にじふよつか》|朝《あさ》
一、|鳥取《とつとり》|警察《けいさつ》に|届《とどけ》|出《だ》す、|警察《けいさつ》より|県庁《けんちやう》に|出《だ》す。|其《その》|後《ご》|中学校《ちうがくかう》|等《とう》にて|験《ただ》せ|共《ども》|無名石《むめいせき》にて|帰来《きらい》せり。
一、|此《この》|玉《たま》|拾得前《しふとくぜん》|弐拾壱日《にじふいちにち》より|弐拾参日《にじふさんにち》|迄《まで》|参日間《みつかかん》|鶏《にはとり》|夜叫《やけう》せり。|家内《かない》の|者《もの》|近所《きんじよ》の|人《ひと》|心配《しんぱい》なし|判定者《はんていしや》に|問《と》ふ。|判定者《はんていしや》の|言《げん》に|依《よ》れば|善事《ぜんじ》の|知《し》らせなりと|云《い》ふ。|其《その》|翌日《よくじつ》この|玉《たま》を|拾得《しふとく》せり』
|右《みぎ》は|原文《げんぶん》の|儘《まま》|也《なり》 |以上《いじやう》
大正十二年三月七日 旧正月二十一日
於竜宮館
第一篇 |自愛之柵《じあいのしがらみ》
第一章 |神慮《しんりよ》〔一四三一〕
○
|現代人《げんだいじん》はおもえらく |根底《ねそこ》の|国《くに》には|最初《さいしよ》より
|一個《いつこ》の|魔王《まわう》|厳在《げんざい》し |諸多《しよた》の|地獄《ぢごく》を|統轄《とうかつ》し
|堕《お》ち|来《く》る|精霊《みたま》の|罪悪《ざいあく》を |制配《せいばい》なすと|恐《おそ》れられ
|魔王《まわう》は|嘗《かつ》て|光明《くわうみやう》の |天人《てんにん》なりしも|叛逆《はんぎやく》の
|罪《つみ》に|問《と》はれて|衆族《しうぞく》と |共《とも》に|地獄《ぢごく》に|堕《おと》されし
ものとの|信仰《しんかう》|昔《むかし》より |深《ふか》く|心《こころ》に|刻《きざ》まれて
|真相《しんさう》|覚《さと》れるものも|無《な》し |魔王《まわう》もサタンもルシファーも
|約言《やくげん》すれば|地獄《ぢごく》なり |殊《こと》に|魔王《まわう》と|称《とな》ふるは
|背後《はいご》に|位置《ゐち》せる|地獄《ぢごく》にて |此処《ここ》に|住《す》めるを|兇鬼《きようき》と|云《い》ひ
|兇悪《きようあく》|最《もつと》も|甚《はなは》だし |又《また》|前面《ぜんめん》に|位《くらゐ》せる
|地獄《ぢごく》をサタンと|称《とな》ふなり サタンは|魔王《まわう》に|比《くら》ぶれば
さまで|兇悪《きようあく》ならざれば これをば|兇霊《きようれい》と|称《とな》ふなり
|又《また》ルシファーと|云《い》ふ|意味《いみ》は バベルに|属《ぞく》する|曲《まが》にして
|彼等《かれら》の|領土《りやうど》は|久方《ひさかた》の |天界《てんかい》までも|拡《ひろ》がれり
|故《ゆゑ》に|一個《いつこ》の|魔王《まわう》ありて |地獄《ぢごく》を|統治《とうち》し|坐《ま》さざるは
|地獄《ぢごく》|天界《てんかい》|両界《りやうかい》に |住《す》める|精霊《みたま》に|別《わか》ち|無《な》く
|皆《みな》これ|人《ひと》の|精霊《せいれい》より するものなるや|明《あきら》けし
|天地創造《てんちさうざう》の|始《はじ》めより |現代社会《げんだいしやくわい》に|至《いた》るまで
|幾億万《いくおくまん》の|人霊《じんれい》が |現実界《げんじつかい》に|在《あ》る|時《とき》に
|皇大神《すめおほかみ》の|神格《しんかく》に |反抗《はんかう》したる|度《ど》に|比《ひ》して
|各自《かくじ》に|一己《いつこ》の|悪魔《あくま》なる |業《ごふ》を|積《つ》み|積《つ》み|邪鬼《じやき》となり
|地獄《ぢごく》を|造《つく》り|出《だ》せし|由《よし》 |悟《さと》りて|常《つね》に|霊魂《れいこん》を
|浄《きよ》めて|神《かみ》の|坐《ま》す|国《くに》へ |昇《のぼ》り|行《ゆ》く|可《べ》く|努《つと》むべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はへ|坐《ま》しませよ。
○
|愛《あい》と|善《ぜん》との|徳《とく》に|充《み》ち |信《しん》と|真《しん》とに|住《す》みたまふ
|真《まこと》の|神《かみ》は|罪悪《ざいあく》と |虚偽《きよぎ》に|充《み》ちたる|人々《ひとびと》に
|仁慈《じんじ》と|光栄《さかえ》の|御面《みおもて》を |背《そむ》けて|之《これ》を|排斥《はいせき》し
|地獄《ぢごく》に|墜落《つゐらく》させたまひ |邪悪《じやあく》に|対《たい》して|怒《いか》りまし
|之《これ》をば|罰《ばつ》し|害《そこ》なふと |各宗各派《もものおしへ》の|教役者《とりつぎ》が
|伝《つた》へ|来《きた》りしものぞかし この|言説《げんせつ》は|大神《おほかみ》の
|大御心《おほみこころ》を|誤解《ごかい》せし |痴呆学者《ちはうがくしや》の|言葉《ことば》なり
|神《かみ》は|如何《いか》なる|罪人《つみんど》にも |面《おもて》を|背《そむ》け|排斥《はいせき》し
|怒《いか》りて|精霊《みたま》を|地獄界《ねのくに》へ |決《けつ》して|堕《おと》すものならず
その|故《ゆゑ》|如何《いかん》と|尋《たづ》ぬれば |善《ぜん》と|愛《あい》とは|主《す》の|神《かみ》の
|珍《うづ》の|身体《しんたい》なればなり |善《ぜん》の|自体《じたい》は|害悪《がいあく》を
|決《けつ》して|加《くは》ふるものならず |愛《あい》と|仁《じん》とは|何人《なにびと》も
|排斥《はいせき》すべき|理由《りいう》なし |万一《まんいち》|神《かみ》が|罪人《つみびと》に
|背《そむ》き|斥《しりぞ》け|怒《いか》りまさば |仁慈《じんじ》と|愛《あい》に|背反《はいはん》し
その|本性《ほんせい》に|戻《もと》りまし |神格《しんかく》|自体《じたい》に|反《そむ》く|可《べ》し
それ|故《ゆゑ》|神《かみ》は|何処《どこ》までも |人《ひと》の|精霊《みたま》に|接《せつ》しますや
|善《ぜん》と|仁慈《じんじ》と|愛《あい》により |臨《のぞ》ませ|玉《たま》はぬことは|無《な》し
|五六七《みろく》の|神《かみ》は|人《ひと》のため |善《ぜん》を|思念《しねん》し|克《よ》く|愛《あい》し
|仁慈《じんじ》を|施《ほどこ》し|玉《たま》ふのみ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ。
○
|神《かみ》より|人《ひと》に|流《なが》れ|来《く》る |凡《すべ》てのものは|愛《あい》の|善《ぜん》
|信《しん》と|真《しん》との|光《ひかり》のみ |根底《ねそこ》の|国《くに》より|来《く》るものは
|悪逆無道《あくぎやくぶだう》ばかりなり まことの|神《かみ》は|人間《にんげん》を
|悪《あく》より|離《はな》れて|善道《ぜんだう》に |立帰《たちかへ》らせむと|為《な》し|玉《たま》ふ
|之《これ》に|反《はん》して|地獄界《ぢごくかい》は |人《ひと》をば|悪《あく》に|誘《さそ》はむと
|一心不乱《いつしんふらん》に|焦慮《せうりよ》せり さは|去《さ》りながら|人間《にんげん》は
|天界《てんかい》|地獄《ぢごく》|両界《りやうかい》の |間《あひだ》に|介在《かいざい》なさざれば
|人《ひと》は|何等《なんら》の|想念《さうねん》も |意義《いぎ》も|自由《じいう》も|撰択《せんたく》も
あらず|身魂《みたま》も|亡《ほろ》ぶべし |人《ひと》に|善悪《ぜんあく》|二方面《にはうめん》
あるは|正邪《せいじや》を|平衡《ならし》する |神《かみ》の|賜《たまもの》なればなり
|神《かみ》|若《も》し|人《ひと》の|精霊《せいれい》に |面《おもて》を|背《そむ》けたまひなば
|悪事《あくじ》を|心《こころ》の|儘《まま》になし |人《ひと》たる|所以《ゆゑん》は|滅《ほろ》ぶべし
|神《かみ》より|人《ひと》に|向《むか》ひまし |流《なが》れ|来《きた》れる|光明《くわうみやう》は
|唯々《ただただ》|善《ぜん》の|徳《とく》のみぞ |然《しか》るに|悪《あ》しき|人間《にんげん》も
|善良無比《ぜんりやうむひ》の|身魂《みたま》にも |皆《みな》その|神徳《みとく》に|浴《よく》すなり
|少《すこ》しく|相違《さうゐ》の|点《てん》あるは |真《まこと》の|神《かみ》は|悪人《あくにん》に
|対《たい》して|悪《あく》を|離《はな》れしめ |救《すく》ひやらむと|為《な》したまひ
|善良無比《ぜんりやうむひ》の|身魂《みたま》には |益々《ますます》|円満具足《ゑんまんぐそく》なる
|善《ぜん》をば|積《つ》ませたまふなり |以上《いじやう》の|如《ごと》き|差異《さい》あるは
|人間《にんげん》|自身《じしん》の|心《こころ》より |之《これ》をば|敢《あへ》て|為《な》すものぞ
|凡《すべ》ての|人《ひと》は|天界《てんかい》や |地獄《ぢごく》の|所受《しよじゆ》の|器《うつは》にて
|中有界《ちううかい》に|居《を》ればなり。
○
|世界《せかい》の|人《ひと》は|天界《てんかい》の |流《なが》れを|受《う》けて|善《ぜん》を|為《な》し
|地獄《ぢごく》によりて|悪《あく》を|為《な》す |故《ゆゑ》に|大本神諭《おほもとしんゆ》には
|凡《すべ》ての|事物《じぶつ》は|霊界《れいかい》の |皆《みな》|精霊《せいれい》の|為《な》す|業《わざ》と
|示《しめ》させ|玉《たま》ふ|所以《ゆゑん》なり されども|人《ひと》はその|行為《わざ》を
|残《のこ》らず|己《おの》れの|身《み》よりすと |信《しん》ずる|故《ゆゑ》にその|為《な》せる
|悪《あく》は|皆《みな》その|自有《じう》となし |心中《しんちう》|深《ふか》く|膠着《こちやく》せり
それ|故《ゆゑ》|人《ひと》は|自身《じしん》より |悪《あく》と|虚偽《きよぎ》との|因《たね》となる
|神《かみ》の|関《くわん》する|由来《ゆらい》なし |人《ひと》の|身魂《みたま》に|包有《はうう》せる
|悪《あく》と|虚偽《きよぎ》とはその|人《ひと》の |心《こころ》の|中《なか》の|地獄《ぢごく》なり
|地獄《ぢごく》と|云《い》ふも|悪《あく》と|云《い》ふも |皆《みな》|同一《どういつ》の|事《こと》ぞかし
|人《ひと》は|自《みづか》ら|包有《はうう》せる |諸悪《しよあく》の|原因《げんいん》なる|故《ゆゑ》に
|地獄《ぢごく》に|墜《お》ちて|苦《くる》しむも |自《みづか》ら|赴《おもむ》く|次第《しだい》なり
|決《けつ》して|真《まこと》の|大神《おほかみ》は |地獄《ぢごく》に|堕《おと》し|苦《くる》しめて
|処罰《しよばつ》し|給《たま》ふものならじ |如何《いかん》となれば|人間《にんげん》が
|悪《あく》を|欲《ほ》せず|愛《あい》せずば |主《す》の|大神《おほかみ》は|地獄《ぢごく》より
|脱離《だつり》せしめて|天界《てんかい》へ |導《みちび》き|玉《たま》ひ|人《ひと》をして
|地獄《ぢごく》に|投《な》げやり|給《たま》ふこと |決《けつ》してなきを|悟《さと》るべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さちは》へましませよ。
(大正一二・三・一四 旧一・二七 於竜宮館 口述者識)
第二章 |恋淵《こひぶち》〔一四三二〕
|波斯《フサ》と|印度《ツキ》との|国境《くにざかひ》テルモン|山《ざん》の|山続《やまつづ》きエルシナ|谷《だに》の|山口《やまぐち》に、|淋《さび》しき|竈《かまど》の|煙《けぶり》も|絶《た》えて|春《はる》の|永日《ながひ》も、いとど|暮《くら》し|難《がた》く|柱《はしら》はゆるぎ|梁《うつばり》|朽《く》ちし|破《やぶ》れ|家《や》に、|火影《ほかげ》も|消《き》えし|秋《あき》の|夜《よ》の|長《なが》き|賤《しづ》が|伏家《ふせや》に|花《はな》を|欺《あざむ》く|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》、|破《やぶ》れし|衣《きぬ》に|身《み》を|纒《まと》ひ|只《ただ》|一人《ひとり》|悲嘆《ひたん》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。|嘗《かつ》て|鬼雲彦《おにくもひこ》が|仮《かり》の|館《やかた》を|結《むす》び、バラモン|教《けう》を|開《ひら》きたるテルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》の|跡《あと》を|守《まも》る|小国別《をくにわけ》、|小国姫《をくにひめ》の|二人《ふたり》があつた。|此《この》|二人《ふたり》の|夫婦《ふうふ》にはデビス|姫《ひめ》、ケリナ|姫《ひめ》と|云《い》ふ|二人《ふたり》の|美《うつく》しき|娘《むすめ》を|持《も》つて|居《ゐ》た。
ケリナ|姫《ひめ》は|近所《きんじよ》の|鎌彦《かまひこ》と|云《い》ふ|若《わか》き|男《をとこ》と|恋《こひ》に|落《お》ち、|両親《りやうしん》の|目《め》を|忍《しの》びテルモン|山《ざん》の|館《やかた》を|脱《ぬ》け|出《だ》し、エルシナ|谷《だに》の|一《ひと》つ|谷《だに》に|破家《あばらや》を|建《た》て、|夫婦気取《ふうふきど》りで|暮《くら》して|居《ゐ》たのである。|併《しか》し|乍《なが》ら|夫《をつと》は|一年《いちねん》|以前《いぜん》に|或《ある》|目的《もくてき》を|抱《いだい》て、ケリナ|姫《ひめ》を|此《この》|破家《あばらや》に|残《のこ》し|出《で》て|行《い》つたきり|何《なん》の|便《たより》もなく、|後《あと》に|残《のこ》つた|姫《ひめ》は|途方《とはう》に|暮《く》れ|親《おや》の|里《さと》に|帰《かへ》りもならず、|又《また》|外《ほか》へ|行《ゆ》く|事《こと》も|出来《でき》ず、|木《き》の|根《ね》を|食《くら》ひ、|或《あるひ》は|乏《とぼ》しき|果物《くだもの》|等《など》を|漁《あさ》つて|僅《わづ》かに|其《その》|日《ひ》を|送《おく》り、|夫《をつと》|鎌彦《かまひこ》の|消息《せうそく》を|待《ま》ちつつあつた。|家《いへ》は|益々《ますます》|貧《まづ》しくして|朋友知己《ほういうちき》もなく|訪《おとな》ふものは|峰《みね》の|嵐《あらし》と|雨《あめ》の|音《おと》のみであつた。
|広《ひろ》き|世界《せかい》を|自《みづか》ら|狭《せば》めて|山《やま》|深《ふか》く|世《よ》に|隠《かく》れ|住《す》む|身《み》の|悲《かな》しさ、やるせなく、|人跡《じんせき》なければ|道《みち》も|狭《せま》く|萱草《かやくさ》に|埋《うづ》もれ、|夏《なつ》の|炎天《えんてん》も|何《なん》となく|心《こころ》|淋《さび》しく|時々《ときどき》|猛獣《まうじう》の|声《こゑ》、|耳《みみ》を|劈裂《つんざ》き|魂《たましひ》を|宙《ちう》に|飛《と》ばすこと|幾回《いくくわい》なるを|知《し》らず。|何日《いつ》|迄《まで》|経《た》つても|帰《かへ》り|来《きた》らざる|夫《をつと》の|姿《すがた》、|全《まつた》く|神《かみ》の|恵《めぐ》みに|見放《みはな》され、|露《つゆ》の|命《いのち》を|野辺《のべ》に|曝《さら》し|玉《たま》ひしには|非《あら》ざるかと、とつおひつ、|思案《しあん》に|暮《く》れ|乍《なが》ら|月《つき》の|光《ひかり》を|便《たよ》りに|草《くさ》を|分《わ》け、|漸《やうや》うにして|谷《たに》の|口《くち》の|人通《ひとどほ》りに|出《で》た。
ここには|可《か》なり|大《おほ》きな|谷川《たにがは》が|流《なが》れ|激流《げきりう》|飛沫《ひまつ》を|飛《と》ばして|居《ゐ》る。|之《これ》をエルシナ|川《がは》と|云《い》ふ。ケリナ|姫《ひめ》は|世《よ》を|果敢《はか》なみて|前後《あとさき》の|考《かんが》へもなく、|身《み》を|躍《をど》らして|崖下《がいか》の|水中《すいちう》|目蒐《めが》けて|飛《と》び|込《こ》んだ。|月《つき》は|西《にし》の|峰《みね》に|隠《かく》れ|夜《よる》の|暗《やみ》は|益々《ますます》|濃厚《のうこう》となつて|来《き》た。|此《この》|時《とき》|谷川《たにがは》の|端《ふち》に|長剣《ちやうけん》を|腰《こし》に|提《さ》げ|覆面頭巾《ふくめんづきん》の|三人《さんにん》の|男《をとこ》、ひそびそと|何事《なにごと》か|囁《ささや》いてゐる。
|甲《かふ》『おい、|兄弟《きやうだい》、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》は|北《きた》の|森《もり》でゼネラル|様《さま》から|六千両《ろくせんりやう》の|金《かね》を|貰《もら》ひ|其《その》|御教訓《ごけうくん》によつて|一時《いちじ》も|早《はや》く|国許《くにもと》に|帰《かへ》り、|親《おや》や|女房《にようばう》や|子供《こども》を|喜《よろこ》ばさうと|思《おも》つてゐたが、|到頭《たうとう》|意《い》の|如《ごと》くならず、スツカリと|恵《めぐ》みの|金《かね》は|取《と》られて|了《しま》ひ、|如何《どう》しても|此《この》|儘《まま》で|国《くに》へ|帰《かへ》る|事《こと》は|出来《でき》ぬぢやないか。|何《なん》とかしてもう|一働《ひとはたら》きやつて、それを|機《しほ》に|泥棒《どろばう》をスツカリ|思《おも》ひきり、|国許《くにもと》に|帰《かへ》つて|正業《せいげふ》に|就《つ》き|度《た》いものだな』
|乙《おつ》『おい、ベル、|貴様《きさま》も|俺等《おれたち》も|皆《みな》|二千両《にせんりやう》づつ|分配《ぶんぱい》したのだが|今《いま》は|最早《もはや》|無一物《むいちぶつ》、|取《と》つたものを|取《と》られると|云《い》ふのは|天地《てんち》|自然《しぜん》の|道理《だうり》だから、|悪銭《あくせん》|身《み》につかず、もうスツカリ|思《おも》ひきつたら|如何《どう》ぢや。|俺《おれ》やもう|此《この》|商売《しやうばい》が|初《はじ》めから|好《す》かんのだが、|益々《ますます》|嫌《いや》になつて|来《き》たよ。|折角《せつかく》|盗《と》つた|金《かね》を|又《また》|取《と》られてしまへば|何《なん》にもならぬぢやないか。|只《ただ》|残《のこ》るのは|罪悪《ざいあく》ばかりだからな』
|丙《へい》『おい、ベル、ヘルの|両人《りやうにん》、|取《と》られたとはそりや|何《なん》だ。|吾々《われわれ》は|皆《みな》|娼婦《ばいた》に|惚《のろ》け、|酒《さけ》に|溺《おぼ》れて|使《つか》つてしまつたぢやないか。それ|丈《だ》け|愉快《ゆくわい》な|事《こと》をしたのだから|決《けつ》して|盗《と》られたのぢやないよ。それよりも|之《これ》から|十里《じふり》ばかり|行《ゆ》くとテルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》がある。そこへお|詣《まゐ》りしてスツカリ|心《こころ》を|改《あらた》めてゼネラル|様《さま》の|様《やう》に|山伏《やまぶし》となり|法螺貝《ほらがひ》でも|吹《ふ》いて|廻《まは》らうぢやないか。さうすれば|今《いま》|迄《まで》の|罪《つみ》が|滅《ほろ》びて|極楽参《ごくらくまゐ》りが|出来《でき》るかも|知《し》れないよ』
ベル『エー、しようもない、そんな|弱音《よわね》を|吹《ふ》きやがる|奴《やつ》は|此《この》|谷川《たにがは》へでも|身《み》を|投《な》げて|斃《くたば》つたが|宜《よ》からう。|俺《おれ》は|益々《ますます》これから|泥坊学《どろばうがく》の|研究《けんきう》をして|天下《てんか》の|財宝《ざいほう》を|自由自在《じいうじざい》に|致《いた》す|積《つも》りだ』
|丙《へい》『|然《しか》し、|何《なん》だか|妙《めう》な|音《おと》がしたぢやないか。まさか|投身《みなげ》ではあるまいな』
ベル『うん、どうやら|投身《みなげ》らしい。|然《しか》し|乍《なが》ら|死《し》にたい|奴《やつ》は|勝手《かつて》に|死《し》んだら|宜《よ》いのだ。|俺等《おれたち》はどこ|迄《まで》も|生《せい》の|執着《しふちやく》が|強《つよ》いのだから|千年《せんねん》も|万年《まんねん》も|生通《いきとほ》すつもりだよ』
|丙《へい》『|投身《みなげ》と|聞《き》けば、こりや|斯《か》うしては|居《を》られぬ。|何《なん》とかして|助《たす》けねばなるまいぞ。なあヘル』
ヘル『うん、さうだ。シヤルの|云《い》ふ|通《とほ》り|之《これ》から|真裸《まつばだか》になり|谷川《たにがは》へ|飛《と》び|込《こ》んで|救《すく》うてやらうかい。|愚図々々《ぐづぐづ》してゐると|何程《なにほど》|流《なが》れの|遅《おそ》い|淵《ふち》でも|死骸《しがい》がなくなるかも|知《し》れないよ』
シヤルは『おう、さうだ』と|云《い》ひ|乍《なが》ら|衣類《いるゐ》を|脱《ぬ》ぎ|棄《す》てザンブとばかり|暗《やみ》の|淵《ふち》|目蒐《めが》けて|跳《と》び|込《こ》んだ。|飛《と》び|込《こ》んだ|途端《とたん》に|自分《じぶん》の|足《あし》に|力《ちから》|限《かぎ》りに|喰《くら》ひついたものがある。シヤルは|驚《おどろ》いて|声《こゑ》を|限《かぎ》りに『|助《たす》けて|呉《く》れえ|助《たす》けて|呉《く》れえ』と|叫《さけ》ぶ。ヘルは|又《また》もやザンブと|跳《と》び|込《こ》んだ。|見《み》れば|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》が|淵《ふち》に|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ|掴《つか》み|合《あ》つてゐる。ヘルは|暗《くら》がりに|髪《かみ》の|毛《け》を|掴《つか》んで|浅瀬《あさせ》に|引張《ひつぱ》り|上《あ》げた。|二人《ふたり》とも|多量《たりやう》に|水《みづ》を|呑《の》んで|殆《ほとん》ど|息《いき》が|絶《た》へてゐた。ヘルは|声《こゑ》を|限《かぎ》りに、
ヘル『おい、ベル、|大変《たいへん》だ。シヤル|迄《まで》が|死《し》によつた|様《やう》だ。|早《はや》く|来《き》て|手伝《てつだ》つて|水《みづ》を|吐《は》かして|呉《く》れ』
ベルは|泰然《たいぜん》として|上《うへ》の|方《はう》から、
ベル『おい、ヘルの|奴《やつ》、シヤルはもう|死《し》んだか。|死《し》ぬ|事《こと》の|好《す》きな|奴《やつ》は|放《ほ》つといたら|宜《よ》いぢやないか。そして、も|一人《ひとり》の|奴《やつ》は|男《をとこ》か|女《をんな》か、どちらか。|女《をんな》なら|助《たす》けても|宜《よ》いがな』
ヘルは、
ヘル『エー、|薄情《はくじやう》な|奴《やつ》め』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|舞《ま》ひ|細砂《ごみ》の|上《うへ》に|二人《ふたり》を|引張《ひつぱ》り|上《あ》げ|色々《いろいろ》と|介抱《かいほう》をして|水《みづ》を|吐《は》かせた。|二人《ふたり》は|漸《やうや》くにして|息《いき》|吹《ふ》き|返《かへ》した。
ヘル『おい、シヤル、|危《あぶ》ない|事《こと》だつたのう。まア|気《き》がついて|何《なに》よりだ。|然《しか》し|何処《どこ》のお|女中《ぢよちう》か|知《し》らぬが、ようまア|甦生《いきかへ》つて|下《くだ》さつた。これで|吾々《われわれ》の|懸命《いのちがけ》の|働《はたら》きも|無駄《むだ》にはならない。ああ|嬉《うれ》しや、|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》』
と|合掌《がつしやう》する。ベルは|上《うへ》の|方《はう》からスパスパと|煙草《たばこ》を|吸《す》ひ|乍《なが》ら、
ベル『おい、|三人《さんにん》の|娑婆亡者《しやばまうじや》、|死損《しにぞこな》ひ|奴《め》、|何《なに》をグヅグヅしてゐるのだ。いい|加減《かげん》に|上《のぼ》つて|来《こ》ぬかい』
ヘル『おい、ベルの|奴《やつ》、|斯《か》う|暗《くら》くては|仕方《しかた》がない。|貴様《きさま》、そこらで|一《ひと》つ|火《び》を|焚《た》いて|灯明《あかり》をつけて|呉《く》れないか。|上《あが》り|道《みち》が|分《わか》らぬからのう』
ベル『|八釜《やかま》しう|云《い》ふない。|泥坊《どろばう》に|火《ひ》は|禁物《きんもつ》だ。|幸《さいは》ひ|夏《なつ》の|事《こと》でもあり|寒《さむ》くもあるまいから、|夜《よ》が|明《あ》ける|迄《まで》、そこへ|伏艇《ふくてい》してゐるがよからう。|水雷艇《すいらいてい》も|一隻《いつせき》あるさうだし、|都合《つがふ》が|好《い》いわ。|深《ふか》く|陥《はま》つた|恋《こひ》の|淵《ふち》、|何《なん》でも|馬鹿《ばか》な|女《をんな》が|居《を》つて|腐《くさ》れ|男《をとこ》に|心中立《しんぢうだて》をして|死《し》んだのだらう。そんな|奴《やつ》を|助《たす》けに|行《ゆ》く|奴《やつ》が|何処《どこ》にあるかい。|余程《よつぽど》お|目出度《めでた》い|奴《やつ》だな。アハハハハハ』
ヘル、シヤルの|二人《ふたり》はベルの|友情《いうじやう》を|知《し》らぬ|冷酷《れいこく》な|態度《たいど》に|憤慨《ふんがい》し|乍《なが》ら、|漸《やうや》くケリナ|姫《ひめ》を|助《たす》けて、|壁立《かべた》つ|様《やう》な|岩《いは》を|伝《つた》ふて|上《のぼ》つて|来《き》た。ベルは|女《をんな》と|聞《き》くよりその|美醜《びしう》を|試《ため》さむと|枯芝《かれしば》を|集《あつ》めてパツと|火《ひ》を|焚《た》いた。よくよく|見《み》れば|女《をんな》は|色《いろ》|飽《あ》く|迄《まで》|白《しろ》く、|気品《きひん》|高《たか》き|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》であるにも|拘《かかは》らず、その|着衣《ちやくい》は|実《じつ》に|見窄《みすぼ》らしき|弊衣《へいい》であつた。
ベル『やア、これはこれは|何処《どこ》のお|女中《ぢよちう》か|知《し》りませぬが、|随分《ずいぶん》|綺麗《きれい》なお|方《かた》、|襤褸《ぼろ》に|黄金《こがね》の|玉《たま》を|包《つつ》んだ|様《やう》な|貴女《あなた》の|様子《やうす》、さぞ|斯様《かやう》な|処《ところ》へ|投身《みなげ》をなさるに|就《つ》いては|何《なに》か|深《ふか》い|理由《わけ》があるでせう。|何《なに》は|兎《と》もあれ、お|助《たす》け|申《まを》さねばなるまいと|存《ぞん》じ、|家来《けらい》のヘル、シヤルをして|助《たす》けにやりました。さア|逐一《ちくいち》|事情《じじやう》をお|話《はなし》なさいませ』
シヤル『ヘン、うまい|事《こと》|仰有《おつしや》るわい。|俺等《おれたち》が|助《たす》けてやらうかと|云《い》つた|時《とき》、|死《し》に|度《た》い|奴《やつ》は|勝手《かつて》に|死《し》なしたら|宜《よ》いと|吐《ぬか》したでないか。のうヘル、|此《この》ナイスの|顔《かほ》を|見《み》て、|直《す》ぐアンナ|事《こと》|吐《ぬか》すのだから|呆《あき》れてものが|云《い》へぬぢやないか』
ヘル『うん、さうだ。|仕方《しかた》のない|奴《やつ》だ。もしもしお|女中《ぢよちう》さま、お|前《まへ》を|助《たす》け|様《やう》と|発企《ほつき》したのは|此《この》ヘルで|厶《ござ》ります。それで|私《わたし》の|家来《けらい》のシヤルが|第一着《だいいちちやく》に|跳《と》び|込《こ》み、お|前《まへ》に|水中《すいちう》に|取《と》つ|捉《つか》まつて|苦《くる》しんでる|処《ところ》を|私《わたし》が|跳《と》び|込《こ》みお|二人《ふたり》とも|命《いのち》を|助《たす》けたのですよ。|此《この》ヘルが|居《を》らなかつたならば、お|前《まへ》もシヤルも|既《すで》に|冥途《めいど》の|旅立《たびだち》をして|居《を》つたのですからな』
ケリナ『はい、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。ツヒ|女《をんな》の|小《ちひ》さい|心《こころ》からヒステリツクを|起《おこ》し、|一層《いつそう》|斯《こ》んな|憂世《うきよ》に|居《ゐ》るよりも|極楽参《ごくらくまゐ》りをしたが|得《まし》だと、|無分別《むふんべつ》を|出《だ》して|跳《と》び|込《こ》んで|見《み》ましたものの|余《あんま》り|苦《くる》しいのと、|俄《にはか》に|娑婆《しやば》が|恋《こひ》しくなつたので|如何《どう》しようかと|藻掻《もが》いて|居《ゐ》ます|矢先《やさき》、|貴方等《あなたがた》が|現《あら》はれてお|助《たす》け|下《くだ》さいましたのは|本当《ほんたう》に|神様《かみさま》のやうに|存《ぞん》じます。ようまアお|助《たす》け|下《くだ》さいました』
ヘル『エヘヘヘヘおい、ベル、どうだ。もう|貴様《きさま》の|野心《やしん》は|駄目《だめ》だぞ。|二人《ふたり》も|証拠人《しようこにん》が|居《ゐ》るのだからな。もしもしお|女中《ぢよちう》さま、|此奴《こいつ》ア|大悪人《だいあくにん》の|大泥棒《おほどろばう》ですよ。バラモン|教《けう》の|鬼春別《おにはるわけ》|将軍様《しやうぐんさま》でさへも|脅《おど》かして|懐《ふところ》のお|金《かね》を|奪《うば》ひとると|云《い》ふ|悪人《あくにん》ですからな』
ベル『アハハハハ|俺《おれ》が|泥棒《どろばう》なら|貴様《きさま》もヤツパリ|泥棒《どろばう》ぢやないか。これこれお|女中《ぢよちう》、|実《じつ》の|所《ところ》は|吾々《われわれ》|三人《さんにん》は|皆《みんな》バラモン|教《けう》の|軍人《ぐんじん》であつたが、|鬼春別《おにはるわけ》|将軍様《しやうぐんさま》が|猪倉山《ゐのくらやま》の|山寨《さんさい》で|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》に|言向和《ことむけやは》され|修験者《しうげんじや》になり|軍隊《ぐんたい》を|解散《かいさん》したものだから、|俺等《おれたち》も|止《や》むを|得《え》ず|泥棒《どろばう》と|商売替《しやうばいが》へをしたのだ。|併《しか》し|乍《なが》らお|前《まへ》は|心配《しんぱい》しなさるな。|泥棒《どろばう》は|決《けつ》して|人《ひと》の|生命《いのち》をとるのが|目的《もくてき》ぢやない、|宝《たから》を|横奪《わうだつ》するのが|目的《もくてき》だ。お|前《まへ》から|宝《たから》を|盗《と》らうと|云《い》つた|所《ところ》で|何一《なにひと》つありやせない。それだから|何《なに》も|請求《せいきう》しないわ。|然《しか》し|乍《なが》ら|只《ただ》|一《ひと》つここに|請求《せいきう》がある。それは|外《ほか》でもない。お|前《まへ》が|今《いま》|此処《ここ》で|死《し》んだと|思《おも》へば|如何《どん》な|諦《あきら》めもつく|筈《はず》だ。どうだ|私《わし》の|妻《つま》に……|仮令《たとへ》|三日《みつか》でもなつて|呉《く》れる|気《き》はないか』
ケリナ『ホホホホホ|好《す》かぬたらしい、モーよう|言《い》わむワ。|何程《なにほど》|命《いのち》が|惜《をし》うないと|云《い》つてもお|前《まへ》のやうな|鬼面《おにづら》の|泥棒《どろばう》に|身《み》を|任《まか》す|位《くらゐ》なら|潔《いさぎよ》く|淵《ふち》へ|身《み》を|投《な》げて|死《し》にますわいな。|妾《わたし》の|身《み》を|任《まか》す|男《をとこ》は|世界《せかい》に|只一人《たつたひとり》よりありませぬわ。お|生憎様《あいにくさま》』
ベル『こりや|女《をんな》、|命《いのち》を|助《たす》けて|貰《もら》ひ|乍《なが》ら|何《なん》と|云《い》ふ|愛想《あいそ》づかしを|申《まを》すのか。|不都合千万《ふつがふせんばん》な、|此《この》|儘《まま》には|差許《さしゆる》さぬぞ』
ケリナ『あのまア|得手勝手《えてかつて》な|事《こと》を|仰有《おつしや》りますわいのう。|妾《わたし》はお|前《まへ》に|助《たす》けて|貰《もら》つたのぢやない。|此《この》お|二人《ふたり》の|方《かた》に|救《すく》つて|貰《もら》つたのだから|大《おほ》きに|憚《はばか》りさま。ねえお|二人《ふたり》さま、さうでせう。|生命《いのち》を|的《まと》に|助《たす》けて|下《くだ》さつたのだから、これには|何《なに》かの|深《ふか》い|因縁《いんねん》がなくては|叶《かな》ひませぬわ』
ヘル『エヘヘヘヘおい、ベルの|大将《たいしやう》、|如何《どう》だい。|世界《せかい》に|一人《ひとり》より|身《み》を|任《まか》すものはないと|此《この》ナイスが|云《い》つて|居《ゐ》たのを|聞《き》いてるかい。|貴様《きさま》を|除《のぞ》けばシヤルと|俺《おれ》と|二人《ふたり》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|二人《ふたり》|乍《なが》ら|生命《いのち》を|助《たす》けたのは|此《この》ヘルだ。のうシヤル、よもや|俺《おれ》の|御恩《ごおん》は|忘《わす》れはしよまいな』
シヤル『うん、そりや|忘《わす》れぬ。|然《しか》し|乍《なが》ら|此《この》ナイスを|助《たす》けようと|思《おも》ふ|心《こころ》は|俺《おれ》もお|前《まへ》も|同様《どうやう》だ。さうだからお|前《まへ》と|俺《おれ》と|二人《ふたり》の|中《なか》から|此《この》ナイスに|選《えら》ましたら|宜《よ》いのだ。それが|順当《じゆんたう》だと|思《おも》ふよ。もし、ケリナさまとやら、|貴女《あなた》のお|考《かんが》へは|如何《どう》ですかな』
ケリナ『ホホホホホ』
ベル『エー、|如何《どう》しても|俺《おれ》に|靡《なび》かぬと|吐《ぬか》しや|靡《なび》かいでも|宜《よ》い。ま|一度《いちど》|放《ほ》り|込《こ》んでやるからさう|思《おも》へ』
ケリナ『あのまあベルさまとやらの|空威張《からゐば》りの|可笑《をか》しさ。そんな|事《こと》で|今日《こんにち》の|女《をんな》は|脅喝《けふかつ》され、|男《をとこ》に|盲従《まうじゆう》するやうな|馬鹿《ばか》はありませぬぞや。|貴方《あなた》が|放《ほ》り|込《こ》んでやると|仰有《おつしや》るなら|美事《みごと》、|放《ほ》り|込《こ》んで|見《み》なさい』
ベル『よし、|御注文《ごちうもん》とあれば、|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|皆《みな》|放《ほ》り|込《こ》んでやらう。さてもさても|憐《いぢ》らしいものだな。ここに|三人《さんにん》の|土左《どざ》はんが|出来《でき》るかと|思《おも》へば|聊《いささ》か|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》に|暮《く》れぬ|事《こと》もないわい、イツヒヒヒヒヒヒ』
ヘル『さアさア ケリナさま、こんな|奴《やつ》を|相手《あひて》にせず|何処《どこ》かへ|参《まゐ》りませう。そして|互《たがひ》に|身《み》の|打明《うちあ》け|話《ばなし》をしようぢやありませぬか。おいシヤル、|貴様《きさま》はベル|大将《たいしやう》のお|伴《とも》を|忠実《ちうじつ》にやつたら|宜《よ》からうぞ』
シヤル『|俺《おれ》だつて|何時《いつ》|迄《まで》も|泥坊《どろばう》の|乾児《こぶん》は|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りたい。ゼネラルさまの|訓戒《くんかい》を|思《おも》ひ|出《だ》せば|到底《たうてい》|泥坊《どろばう》なんて、|恐《おそ》ろしくて|出来《でき》るものぢやないからな』
ヘル『そんなら、シヤル、|若夫婦《わかふうふ》のお|伴《とも》に|使《つか》つてやるから|跟《つ》いて|来《き》たら|宜《よ》からう。その|代《かは》り、ベルと|絶縁《ぜつえん》をするのだぞ』
ベルは|矢庭《やには》に|長剣《ちやうけん》を|引抜《ひきぬ》いてケリナ|姫《ひめ》に|斬《き》りつけた。ヘル、シヤルの|両人《りやうにん》は|鞘《さや》の|儘《まま》ベルの|刀《かたな》を|受《う》け|止《と》め、ケリナ|姫《ひめ》を|身《み》を|以《もつ》て|囲《かこ》ふて|居《ゐ》る。|此《この》|間《あひだ》にケリナは|傍《かたはら》のパインの|木《き》に|猿《ましら》の|如《ごと》く|駆上《かけのぼ》つて|難《なん》を|避《さ》けた。ここに|三人《さんにん》は|各《おのおの》|長剣《ちやうけん》を|引抜《ひきぬ》き|闇《やみ》の|木《こ》の|間《ま》にケチヤン ケチヤンと|敵味方《てきみかた》の|区別《くべつ》もなく|刃《は》を|合《あは》せてゐる。その|度《たび》|毎《ごと》にピカピカと|星《ほし》の|様《やう》な|火花《ひばな》が|出《で》る。カチン カチンと|刃《やいば》の|擦《す》れ|合《あ》ふ|音《おと》、|火花《ひばな》の|光《ひか》り、|吾《われ》を|忘《わす》れてケリナ|姫《ひめ》はパインの|上《うへ》から|眺《なが》めてゐる。
ベルは|剣《つるぎ》を|投《な》げ|棄《す》て、
ベル『おい、ヘル、シヤルの|奴《やつ》、|到底《たうてい》|此《この》|闇《やみ》では|勝負《しようぶ》も|駄目《だめ》だ。どうだ、|之《これ》から|組打《くみうち》をやらうかい』
『よーし|来《き》た』とヘル、シヤルの|二人《ふたり》は|刀《かたな》を|投《な》げ|棄《す》てた。|此処《ここ》に|三人《さんにん》は|腕力《わんりよく》に|任《まか》せてジタンバタンと|組合《くみあ》ふて|居《ゐ》る。|遂《つひ》には|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|三人《さんにん》|組《く》んだまま|谷底《たにそこ》の|青淵《あをぶち》へドブンと|水音《みなおと》を|立《た》てて|落《お》ち|込《こ》んで|了《しま》つた。パインの|上《うへ》から|見《み》てゐたケリナ|姫《ひめ》は|自分《じぶん》の|恩人《おんじん》が|陥《はま》つたのを|見《み》るより『|助《たす》けにやならぬ』と|矢庭《やには》に|木《き》を|滑《すべ》り|下《お》り、|又《また》もや|青淵《あをぶち》|目蒐《めが》けてドブンと|跳《と》び|込《こ》んで|了《しま》つた。|四人《よにん》は|果《はた》して|如何《いか》なる|運命《うんめい》に|見舞《みま》はるるであらうか。
(大正一二・三・一四 旧一・二七 於竜宮館二階 北村隆光録)
第三章 |仇花《あだばな》〔一四三三〕
さつき|待《ま》つ|花橘《はなたちばな》の|香《か》を|嗅《か》げば
|昔《むかし》の|人《ひと》の|袖《そで》の|香《か》ぞする
|夢《ゆめ》にも|結《むす》ぶ|恋《こひ》しき|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》は|如何《いかが》なしつらむと、|恋路《こひぢ》も|深《ふか》き|思《おも》ひ|草《ぐさ》。
|花《はな》いろいろのブラックリストを|経《へ》て|咲《さ》き|出《い》づる|卯《う》の|花《はな》や、|燕子花《かきつばた》、|紫《むらさき》に|染《そむ》る|山吹《やまぶき》の|色香《いろか》に|愛《め》でて|唯《ただ》|一人《ひとり》トボトボと|青野ケ原《あをのがはら》を|辿《たど》り|行《ゆ》く。|花《はな》は|吾《わが》|身《み》の|進《すす》み|行《ゆ》く|道《みち》の|辺《べ》に|笑《わら》へども、|唯《ただ》|一声《ひとこゑ》の|訪《おとづ》れもせず、|其《その》|足音《あしおと》さへも|聞《きこ》えず、|百鳥《ももどり》は|四辺《あたり》の|山林《さんりん》に|啼《な》き|叫《さけ》べども、|吾《わが》|涙《なみだ》|未《いま》だ|尽《つ》きず。|実《げ》にも|尽《つ》きざる|恋《こひ》の|色《いろ》、|百花《ももばな》の|種子《たね》、|緑《みどり》、|紅《くれなゐ》、|白《しろ》、|赤《あか》、|黄《き》、|爛漫《らんまん》と|咲《さ》き|出《い》づる|恨《うらみ》は|深《ふか》し|深百合《ふかゆり》や、|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|深見草《ふかみぐさ》、|心《こころ》を|寄《よ》せて|進《すす》む|身《み》の、|恋《こひ》しき|吾《わ》が|夫《をつと》は|妾《わらは》の|心《こころ》を|白露《しらつゆ》の、|梢《こずゑ》に|霜《しも》はおくとても、|尚《なほ》|常磐《ときは》なれや、|橘《たちばな》の|目覚草《めざめぐさ》のいと|清《きよ》し、|君《きみ》の|御身《おんみ》には|何事《なにごと》も|恙在《つつま》せ|玉《たま》ふ|事《こと》は|無《な》くとも、|何方《いづかた》に|坐《おは》しますか、|昔《むかし》の|恋《こひ》を|忍《しの》ぶ|草《ぐさ》、|春《はる》めき|渡《わた》りて|花霞《はながすみ》、|立上《たちのぼ》り|行《ゆ》く|空《そら》を|見《み》すてて|行《ゆ》く|雁《かり》は、|花《はな》|無《な》き|里《さと》に|住《す》みや|習《なら》へるかと、|心《こころ》|空《そら》なる|疑《うたが》ひに|満《み》ちぬ。テルモン|山《ざん》の|神苑《しんゑん》に|咲《さ》き|誇《ほこ》りたる|若芽《わかめ》の|花《はな》を|見捨《みす》ててはや|一年《ひととせ》、|顧《かへり》み|玉《たま》はぬ|夫《をつと》の|情無《つれな》さ。|仮令《たとへ》|此《この》|身《み》は|屍《かばね》を|野辺《のべ》に|晒《さら》すとも、|思《おも》ひつめたる|恋《こひ》の|意地《いぢ》、|足乳根《たらちね》の|父母《ふぼ》の|許《ゆる》さぬ|恋《こひ》に|焦《こが》れし|身《み》は、|款冬《くわんとう》|誤《あやま》つて|晩春《ばんしゆん》の|風《かぜ》に|綻《ほころ》び、|躑躅《つつじ》は|夜遊《やいう》の|人《ひと》の|折《をり》を|得《え》て、|驚《おどろ》く|春《はる》の|夢《ゆめ》の|中《うち》、|胡蝶《こてふ》の|戯《たはむ》れ|色香《いろか》に|愛《め》でしも、|今《いま》となり|思《おも》ひ|廻《まは》せば|心《こころ》の|仇花《あだばな》なりしか。|今《いま》や|吾《わ》が|身《み》は|夏草《なつぐさ》の、|湿茸《しめじ》に|交《まじは》る|姫百合《ひめゆり》の、|手折《たを》る|人《ひと》なき|身《み》の|浅間《あさま》しさ。アア|恋《こひ》しき|鎌彦《かまひこ》の|君《きみ》は、|何《いづ》れにましますか、|唯《ただ》|一目《ひとめ》|会《あ》はまほしやと、|吹来《ふきく》る|風《かぜ》の|響《ひびき》にも、とつおひつ|心《こころ》を|悩《なや》ませ|乍《なが》ら、|北《きた》へ|北《きた》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。
|斯《かか》る|処《ところ》へ|前方《むかふ》より、
とぼとぼ|来《きた》る|一人《ひとり》の|男《をとこ》、
|女《をんな》を|見《み》るより|佇《たたず》みて、
いぶかし|気《げ》にも|眺《なが》め|入《い》る。
|女《をんな》は|見《み》るより|驚《おどろ》きの|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げて、
ケリナ『アア|貴方《あなた》は|恋《こひ》しき|鎌彦《かまひこ》さまぢや|厶《ござ》いませぬか、|何《ど》うしてマアこんな|処《ところ》に|居《を》られましたか。|妾《わたし》は|貴方《あなた》がエルシナ|谷《だに》の|庵《いほり》を|出《で》て、|些《ちつ》とばかり|商売《あきなひ》をして|金《かね》を|儲《まう》けて|来《く》るからと|仰有《おつしや》つて、|駱駝《らくだ》を|引《ひき》つれ|御出《おい》でになつた|其《その》|後《あと》は、|訪《おとな》ふ|人《ひと》も|無《な》き|一人住居《ひとりずまゐ》、|晨夕《あしたゆふべ》の|一人寝《ひとりね》も|猛獣《まうじう》の|声《こゑ》に|驚《おどろ》かされ、|秋《あき》の|夕《ゆふべ》の|虫《むし》の|音《ね》を|聞《き》いては|哀傷《あいしやう》の|涙《なみだ》にくれ、|憂《うき》|重《かさな》つて|心《こころ》は|益々《ますます》|感傷的《かんしやうてき》となり|身《み》も|世《よ》もあられぬ|思《おも》ひに|世《よ》を|果敢《はか》なみて、エルシナ|川《がは》に|身《み》を|投《な》げたと|思《おも》ひきや、|名《な》も|知《し》らぬ|斯様《かやう》な|処《ところ》へ|迷《まよ》つて|参《まゐ》りました。さても|嬉《うれ》しや|斯様《かやう》な|処《ところ》で|貴方《あなた》に|御目《おめ》に|掛《かか》らうとは|夢《ゆめ》にも|存《ぞん》じませ|何《なん》だ、お|懐《なつか》しう|厶《ござ》います』
と|抱《だ》きつけば|鎌彦《かまひこ》は|振《ふ》り|放《はな》し、
|鎌彦《かまひこ》『ケリナ|姫《ひめ》、お|前《まへ》も|定《さだ》めて|苦労《くらう》をしたであらう、|誠《まこと》にすまなかつた。|併《しか》し|乍《なが》ら|私《わし》はお|前《まへ》には|未《ま》だ|隠《かく》して|云《い》はなかつたが、お|前《まへ》と|結婚《けつこん》する|前《まへ》に、|恋《こひ》の|仇《かたき》と|思《おも》ひ|込《こ》み、ベルジーと|云《い》ふ|男《をとこ》をうまくチヨロマカして|淵《ふち》に|投《な》げ|込《こ》み、|生命《いのち》をとつた|其《そ》のお|蔭《かげ》で、お|前《まへ》と|嬉《うれ》しい|仲《なか》となり、|両親《りやうしん》の|目《め》を|忍《しの》んでエルシナ|谷《だに》に|庵《いほり》を|結《むす》び、|偕老同穴《かいらうどうけつ》を|契《ちぎ》る|折《をり》しも|夜《よ》な|夜《よ》なベルジーの|怨霊《をんりやう》|現《あら》はれ、|恐《おそ》ろしい|顔《かほ》をして|睨《にら》みつけるのでお|前《まへ》の|側《そば》に|居《を》る|事《こと》も|出来《でき》ず、|又《また》お|前《まへ》の|顔《かほ》がベルジーに|見《み》えて|来《き》て|怖《おそ》ろしくて|仕方《しかた》が|無《な》いので、|行商《ぎやうしやう》に|事寄《ことよ》せ、|駱駝《らくだ》を|引連《ひきつ》れて、お|前《まへ》に|別《わか》れ、|彼方此方《あなたこなた》と|彷徨《さまよ》ふうち|三人組《さんにんぐみ》の|泥坊《どろばう》に|出逢《であ》ひ、|持物《もちもの》|一切《いつさい》を|掠奪《りやくだつ》され|赤裸《まつぱだか》の|儘《まま》、ライオン|河《がは》に|投《な》げこまれ、|罪《つみ》の|報《むく》ひで|今《いま》は|冥途《めいど》の|八衢《やちまた》に|彷徨《さまよ》ふて|居《ゐ》るのだ。|何卒《どうぞ》|私《わし》の|事《こと》は|思《おも》ひ|切《き》つてくれぬと|何時《いつ》|迄《まで》も|天国《てんごく》へ|行《ゆ》く|事《こと》が|出来《でき》ないのだ。お|前《まへ》は|未《ま》だ|此処《ここ》へ|来《く》る|精霊《せいれい》ではないやうだ。|何《なん》とかして|早《はや》く|引返《ひきかへ》し、|御両親様《ごりやうしんさま》に|御詫《おわび》をなし、|相当《さうたう》の|夫《をつと》を|持《も》ち|一生《いつしやう》を|送《おく》つてくれ。それが|私《わし》の|頼《たの》みだ』
と|掌《て》を|合《あは》し|涙《なみだ》と|共《とも》に|拝《をが》んでゐる。
ケリナは|鎌彦《かまひこ》の|言葉《ことば》に|不審《ふしん》の|胸《むね》を|抱《いだ》き|乍《なが》ら|頭《かしら》を|傾《かたむ》けて、|寸時《しばし》|思案《しあん》に|沈《しづ》んでゐた。|暫《しばら》くあつて|顔《かほ》を|上《あ》げ、
ケリナ『モシ|鎌彦《かまひこ》さま、|今《いま》|初《はじ》めて|貴方《あなた》の|御言葉《おことば》を|聞《き》いて|驚《おどろ》きました。お|前《まへ》は|彼《あ》の|愛《あい》らしいベルジーさまを|殺《ころ》したのですか。|何故《なぜ》そんな|悪《わる》い|事《こと》をして|下《くだ》さいました。あのベルジーさまは|実《じつ》の|所《ところ》は|妾《わたし》の|兄《あに》で|厶《ござ》います。お|父《とう》さまが|内証女《ないしようをんな》を|孕《はら》ませて|母《はは》に|隠《かく》して|首陀《しゆだ》の|家《いへ》へやつたので|厶《ござ》いますよ。|妾《わたし》は|其《その》|事《こと》を|父《ちち》から|聞《き》いて|居《を》りましたから、|是《これ》|迄《まで》ベルジーさまが|私《わたし》を|妹《いもうと》と|知《し》らず|幾度《いくたび》も|言《い》ひ|寄《よ》り|遊《あそ》ばした|事《こと》が|厶《ござ》いますが、そこは|体《てい》よく|断《ことわ》つて|居《を》りました。|思《おも》へば|思《おも》へば|恋《こひ》しき|夫《をつと》は|兄《あに》の|仇《かたき》であつたか。|其《その》お|話《はなし》を|聞《き》くにつけ、|貴方《あなた》が|憎《にく》らしいやら、|恋《こひ》しいやら|吾《われ》|乍《なが》ら|吾《わが》|心《こころ》が|怪《あや》しうなつて|参《まゐ》りました』
|鎌彦《かまひこ》『|私《わし》は|一度《いちど》ベルジーさまに|御目《おめ》に|掛《かか》つてお|詫《わび》をせなくてはなりませぬ。|夫《それ》|故《ゆゑ》|霊界《れいかい》へ|来《き》てから|所々《しよしよ》|方々《はうばう》と|其《その》|所在《ありか》を|探《さが》し|一言《ひとこと》|御許《おゆる》しを|頂《いただ》きたいとあせつて|居《を》りますが、|噂《うはさ》に|聞《き》けば、|何《ど》うやら|天国《てんごく》にお|出《い》でになつたさうで|御目《おめ》にかかる|事《こと》も|出来《でき》ず、|実《じつ》に|困《こま》り|切《き》つて|居《を》ります。|貴方《あなた》が|兄妹《きやうだい》とあれば|御兄《おあにい》さまに|代《かは》つて|何卒《どうぞ》|一言《ひとこと》|許《ゆる》すと|言《い》つて|下《くだ》さいませ。さうすれば|此《この》|鎌彦《かまひこ》も|罪《つみ》が|解《ほど》けて|天国《てんごく》の|生涯《しやうがい》が|送《おく》れるでせう。|何卒《どうぞ》|今《いま》|迄《まで》の|厚誼《よしみ》に|一言《ひとこと》|許《ゆる》すとの|御言葉《おことば》を|頂《いただ》き|度《た》う|厶《ござ》います』
ケリナ『|妾《わたし》が|貴方《あなた》を|許《ゆる》すといふ|資格《しかく》は|厶《ござ》いませぬ。|又《また》|妾《わたし》も|兄《あに》の|仇《あだ》と|知《し》らずに|夫婦《ふうふ》になつた|罪《つみ》は|中々《なかなか》|容易《ようい》なものでは|厶《ござ》いますまい。|屹度《きつと》|地獄《ぢごく》のドン|底《ぞこ》に|堕《お》ちねばならぬ|此《この》|霊魂《みたま》、どうして|左様《さやう》な|事《こと》が|出来《でき》ませうか。アア|残念《ざんねん》で|厶《ござ》います』
と|泣《な》き|倒《たふ》れる。
|鎌彦《かまひこ》は|双手《もろて》を|組《く》み|草《くさ》|生茂《おひしげ》る|地上《ちじやう》にドツカと|坐《ざ》し、|悔悟《くわいご》の|涙《なみだ》に|暮《く》れてゐる。|斯《かか》る|処《ところ》ヘスタスタとベル、シヤル、ヘルの|三人《さんにん》、|覆面頭巾《ふくめんづきん》の|黒装束《くろしやうぞく》、|長《なが》い|剣《けん》を|腰《こし》にぶら|下《さ》げ|乍《なが》ら、ドシドシとやつて|来《き》た。ベルは|鎌彦《かまひこ》の|姿《すがた》を|見《み》るより|驚《おどろ》いて、
ベル『ヤア、お|前《まへ》はライオン|河《がは》の|川縁《かはべり》に|於《おい》て|駱駝《らくだ》を|率《ひき》ゐ|行商《ぎやうしやう》にやつて|来《き》た|旅人《たびびと》ではなかつたか』
|鎌彦《かまひこ》『ウン、さうだ。あの|時《とき》の|泥坊《どろばう》はお|前等《まへら》|三人《さんにん》であつたなア。|到頭《たうとう》|天命《てんめい》|尽《つ》きてお|前《まへ》も|冥途《めいど》へ|送《おく》られたのだな』
ベル『|馬鹿《ばか》をいふない。|貴様《きさま》は|気《き》が|違《ちが》ふたのか。|此処《ここ》は|冥途《めいど》ぢやないぞ。|俺達《おれたち》は|今《いま》テルモン|山《ざん》の|麓《ふもと》を|通《とほ》り、|泥坊稼《どろぼうかせ》ぎに|歩《ある》いて|居《ゐ》る|最中《さいちう》だ。ライオン|河《がは》の|激流《げきりう》へ|落《おと》し|込《こ》んでやつた|以上《いじやう》は|其《その》|方《はう》は|最早《もはや》|冥途《めいど》へ|行《い》つたと|思《おも》ひしに、さてもさても|生命冥加《いのちめうが》の|奴《やつ》ぢや。|何処《どこ》かの|奴《やつ》に|助《たす》けられ、こんな|処《ところ》へ|彷徨《さまよ》うてゐやがるのだな。アハハハハ、……アツお|前《まへ》はケリナとかいふナイスぢやないか。|何時《いつ》の|間《ま》にこんな|処《ところ》へ|出《で》て|来《き》たのぢや。サア、|此処《ここ》で|見《み》つけたを|幸《さいは》ひ|俺《おれ》の|女房《にようばう》になるのだぞ』
ケリナ『ホホホホホ、これはこれは|泥坊《どろばう》の|親方様《おやかたさま》、|貴方《あなた》はエルシナ|川《がは》に|落《お》ち|込《こ》んで|妾《わたし》|等《たち》と|一緒《いつしよ》に|冥途《めいど》へ|彷徨《さまよ》ひ|来《きた》り|乍《なが》ら、|未《ま》だ|泥坊《どろばう》をやらうとなさるのか。|好加減《いいかげん》に|改心《かいしん》をなさいませ』
ベル『ハテナ、さう|聞《き》くと、エー、|此奴等《こいつら》|二人《ふたり》の|奴《やつ》とお|前《まへ》の|取合《とりあ》ひから|格闘《かくとう》を|始《はじ》め、|深淵《ふかぶち》へ|落込《おちこ》んだと|思《おも》つたら、|其《その》|時《とき》に|矢張《やつぱ》り|死《し》んだのかなア。ハテ、|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|事《こと》ぢやワイ。|俺《わし》が|殺《ころ》したと|思《おも》ふ|男《をとこ》は|此処《ここ》に|立《た》つている。|又《また》ナイスも|此処《ここ》にゐる。さうして|四辺《あたり》の|景色《けしき》も|別《べつ》に|変《かは》つてゐないやうだし、|合点《がつてん》の|行《ゆ》かぬ|事《こと》だ。オイ、ヘル、シヤル、|貴様《きさま》は|此処《ここ》を|何《なん》と|思《おも》ふか』
ヘル『ウン、どうも|俺達《おれたち》には|現界《げんかい》とも|幽界《いうかい》とも|見当《けんたう》はつかないわ』
シヤル『|夢《ゆめ》でも|見《み》てゐるのぢやなからうかなア』
|鎌彦《かまひこ》『|決《けつ》して|此処《ここ》は|現界《げんかい》ぢやありませぬよ。モウ|少《すこ》し|向《むか》ふへ|行《い》つて|見《み》なさい。|伊吹戸主神《いぶきどぬしのかみ》|様《さま》のお|関所《せきしよ》が|厶《ござ》います。さうしたらスツカリとお|前《まへ》は|死《し》んでゐるか、|生《い》きてゐるか|判《わか》るでせう。|私《わたし》もお|前《まへ》の|御蔭《おかげ》で|生命《いのち》をとられ、|霊界《れいかい》へ|来《き》たので|生前《せいぜん》に|人《ひと》を|殺《ころ》した|罪《つみ》に|苦《くる》しめられてゐるよりは、|少《すこ》し|許《ばか》り|苦《くる》しさが|薄《うす》らいだやうに|思《おも》ふ。|併《しか》し|乍《なが》ら|人《ひと》を|殺《ころ》した|罪《つみ》は|何処《どこ》|迄《まで》も|消《き》ゆるものではない。お|前《まへ》も|又《また》|私《わたし》の|肉体《にくたい》を|殺《ころ》したのだから、|屹度《きつと》|其《その》|罪《つみ》は|除《と》れまい。|併《しか》し|乍《なが》ら|神様《かみさま》は|吾々《われわれ》を|地獄《ぢごく》へ|堕《おと》さうとはなさらぬ。|此《この》|中有界《ちううかい》へ|彷徨《さまよ》はして|天晴《あつば》れ|誠《まこと》の|霊身《れいしん》になり、|神《かみ》の|光《ひかり》を|身《み》に|浴《あ》び|天国《てんごく》の|生涯《しやうがい》を|送《おく》る|日《ひ》を|待《ま》たせ|玉《たま》ふのだ。これからお|前《まへ》もモウ|斯《か》うなつては|仕方《しかた》がないから|悔《く》い|改《あらた》めて|善道《ぜんだう》へ|立帰《たちかへ》り、|天国《てんごく》の|生涯《しやうがい》を|送《おく》つたがよからう』
ベル『ハーテ、|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》ばかり|言《い》ふ|奴《やつ》が|現《あら》はれたものだなア』
|鎌彦《かまひこ》『サア、|皆《みな》さま、これから|私《わたし》が|案内《あんない》を|致《いた》しませう』
と|先《さき》に|立《た》つ。|男女《なんによ》|四人《よにん》は|後《あと》に|従《したが》ひ、|草《くさ》|茫々《ばうばう》と|生《は》え、|種々《いろいろ》の|花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|青芝道《あをしばみち》を|心《こころ》|欣々《いそいそ》|進《すす》み|行《ゆ》く。
|漸《やうや》くにして|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》に|着《つ》いた。|白《しろ》と|赤《あか》との|守衛《しゆゑい》は|例《れい》の|如《ごと》く|儼然《げんぜん》として|控《ひか》へてゐる。|鎌彦《かまひこ》は|何時《いつ》の|間《ま》にやら|姿《すがた》は|見《み》えなくなつてゐた。|赤《あか》の|守衛《しゆゑい》は|四人《よにん》の|姿《すがた》を|見《み》て、まづ|第一《だいいち》にベルを|呼《よ》び|出《だ》し、|一々《いちいち》|生前《せいぜん》の|罪状《ざいじやう》を|取《と》り|調《しら》べ、
|赤《あか》『アアお|前《まへ》は|何《ど》うしても|地獄行《ぢごくゆ》きだなア。|可愛相《かあいさう》だけれど、|自分《じぶん》が|造《つく》つた|地獄《ぢごく》だから、アア|仕方《しかた》がないわ』
ベル『|成《な》る|程《ほど》、|私《わたし》は|仰《おほ》せの|如《ごと》くよからぬ|事《こと》を|致《いた》して|来《き》ました。|併《しか》し|乍《なが》らコレも|不知不識《しらずしらず》の|過《あやま》ちで|厶《ござ》いますから、|何卒《どうぞ》|許《ゆる》して|頂《いただ》きたう|厶《ござ》います。|神様《かみさま》は|愛《あい》を|以《もつ》て|御本体《ごほんたい》となさるぢやありませぬか。|何処《どこ》|迄《まで》も|悪人《あくにん》を|悪人《あくにん》として|罰《ばつ》せず、|地獄《ぢごく》の|苦《くる》しみを|課《くわ》せず、|天国《てんごく》に|救《すく》つて|下《くだ》さるが|神様《かみさま》だと|思《おも》ひます。|悪人《あくにん》を|罰《ばつ》するのならそれは|決《けつ》して|愛《あい》とは|申《まを》されますまい。|愛《あい》の|欠《か》けた|神《かみ》は|最早《もはや》|神《かみ》ではありますまい』
|赤《あか》『お|前《まへ》は|直《ただち》に|地獄《ぢごく》へ|行《ゆ》くべきものだが、|今《いま》|此処《ここ》でエンゼルが|御説教《おせつけう》をなさるから、|夫《それ》に|依《よ》つて|悔改《くいあらた》め、エンゼルの|御言葉《おことば》が|耳《みみ》に|入《い》り、|心《こころ》に|浸潤《しみこま》したならば|屹度《きつと》|天国《てんごく》へ|救《すく》はれるだらう。|併《しか》し|乍《なが》らお|前《まへ》の|造《つく》つた|悪業《あくごふ》では、エンゼルの|御言葉《おことば》は|耳《みみ》に|入《い》るまい。|人間《にんげん》が|霊肉脱離《れいにくだつり》して|霊界《れいかい》に|来《きた》り|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》を|越《こ》えて|伊吹戸主《いぶきどぬし》の|館《やかた》に|導《みちび》き|入《い》れられた|時《とき》には、エンゼルが|冥官《めいくわん》の|調《しら》べる|以前《いぜん》に|一応《いちおう》|接見《せつけん》して、|大神様《おほかみさま》や|高天原《たかあまはら》|及《およ》び|天人的《てんにんてき》|生涯《しやうがい》の|事《こと》をお|知《し》らせになり、|諸々《もろもろ》の|善《ぜん》や、|真実《しんじつ》を|教《をし》へて|下《くだ》さるやうになつてゐる。|併《しか》し|乍《なが》らお|前《まへ》の|精霊《せいれい》が|世《よ》に|在《あ》つた|時《とき》に、|神《かみ》は|屹度《きつと》|八衢《やちまた》に|於《おい》て|善悪《ぜんあく》の|教《をしへ》をなし|其《その》|心《こころ》の|向《む》けやうに|由《よ》つて|或《あるひ》は|天国《てんごく》へ、|或《あるひ》は|地獄《ぢごく》へ|自《みづか》ら|行《ゆ》くと|云《い》ふ|事《こと》は|生前《せいぜん》より|既《すで》に|承知《しようち》し|乍《なが》らも|心《こころ》の|中《うち》に|之《これ》を|否《いな》んだり、|或《あるひ》は|之《これ》を|軽《かる》く|見《み》てゐたから、|何《ど》うしてもエンゼルの|言葉《ことば》を|苦《くる》しくて|聞《き》く|事《こと》は|出来《でき》まい。エンゼルの|御面《おかほ》が|怖《おそ》ろしくなり|胸《むね》は|痛《いた》み、|居堪《ゐた》たまらず|悦《よろこ》んで|自分《じぶん》の|向《むか》ふ|地獄《ぢごく》へ|自《みづか》ら|飛《と》び|込《こ》むであらう。|神《かみ》は|決《けつ》して|世界《せかい》の|人間《にんげん》の|精霊《せいれい》を|一人《ひとり》も|地獄《ぢごく》へ|堕《おと》さうとは|御考《おかんが》へなさるのではない。|其《その》|人《ひと》が|自《みづか》ら|神様《かみさま》に|背《せな》を|向《む》け|光《ひかり》に|反《そむ》き|地獄《ぢごく》に|向《むか》ふのである。|其《その》|地獄《ぢごく》はお|前《まへ》が|現世《げんせ》に|居《を》つた|時《とき》|既《すで》に|和合《わがふ》した|所《ところ》のもので、|悪《あく》と|虚偽《きよぎ》とを|愛《あい》する|心《こころ》の|集《あつ》まり|場所《ばしよ》である。|大神様《おほかみさま》はエンゼルの|手《て》を|経《へ》たり、|且《かつ》|高天原《たかあまはら》の|内流《ないりう》に|依《よ》つて|各《おのおの》|精霊《せいれい》を|自分《じぶん》の|方《はう》へ|引寄《ひきよ》せむと|遊《あそ》ばすけれども、|素《もと》より|悪《あく》と|虚偽《きよぎ》とに|染《し》み|切《き》つたお|前達《まへたち》の|精霊《せいれい》は、|仁慈無限《じんじむげん》の|神様《かみさま》の|御取計《おとりはか》らひを|忌嫌《いみきら》ひ、|力《ちから》|限《かぎ》り|之《これ》に|抵抗《ていかう》し、|自分《じぶん》の|方《はう》から|神様《かみさま》を|振《ふ》り|棄《す》て|離《はな》れ|行《ゆ》くものである。|自分《じぶん》が|所有《しよいう》する|処《ところ》の|悪《あく》と|虚偽《きよぎ》は|鉄《かね》の|鎖《くさり》を|以《もつ》て|地獄《ぢごく》へ|自《みづか》ら|引入《ひきい》るるが|如《ごと》きものである。|謂《ゐ》はばお|前等《まへたち》が|自由《じいう》の|意志《いし》を|以《もつ》て|自《みづか》ら|地獄《ぢごく》へ|堕落《だらく》するものだから|神様《かみさま》は|之《これ》を|見《み》て|愛《あい》と|善《ぜん》と|真《しん》との|力《ちから》を|与《あた》へ、|一人《ひとり》も|地獄《ぢごく》へ|堕《おと》そまいと|焦《あ》せつて|厶《ござ》るのだ。どうぢやこれからエンゼルの|御話《おはなし》を|聞《き》いて、|神様《かみさま》に|反《そむ》いた|悪《あく》と|虚偽《きよぎ》とをスツカリと|払拭《ふつしき》し|天国《てんごく》の|生涯《しやうがい》を|送《おく》る|気《き》はないか』
ベル『ハイ、|兎《と》も|角《かく》|人間《にんげん》は|意志《いし》の|自由《じいう》を|束縛《そくばく》される|位《ぐらゐ》|苦《くる》しい|事《こと》は|厶《ござ》いませぬ。|天国《てんごく》へ|行《い》つて|自分《じぶん》の|意志《いし》に|合《あ》はぬ|苦《くる》しい|生活《せいくわつ》をするよりも、|一層《いつそう》の|事《こと》|地獄《ぢごく》へ|行《い》つて|力一杯《ちからいつぱい》|活動《くわつどう》して|見《み》たう|厶《ござ》います』
|赤《あか》『ウン、さうだらう。お|前《まへ》はどうしても|地獄代物《ぢごくしろもの》だ。|各《おのおの》|所主《しよしゆ》の|愛《あい》に|依《よ》つて|精霊《せいれい》の|籍《せき》が|定《さだ》まるものだから、どうしても|助《たす》けやうがないワ。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|生死簿《せいしぼ》には|未《ま》だお|前《まへ》は|此処《ここ》へ|来《く》る|精霊《せいれい》ぢやないから、|此《この》|関所《せきしよ》は|越《こ》ゆる|事《こと》は|出来《でき》ない』
ベル『ハテ、|合点《がてん》が|行《ゆ》かぬ|事《こと》だなア。|生《い》きて|居《を》るのか、|死《し》んで|居《を》るのか、|自分《じぶん》には|少《すこ》しも|合点《がてん》が|行《ゆ》かぬ。どうも|死《し》んだやうな|覚《おぼ》えもなし、だと|云《い》ふてエルシナ|川《がは》へ|飛《と》び|込《こ》んだ|事《こと》は|確《たしか》だし、|其《その》|間《あひだ》に|人《ひと》に|救《すく》はれて|生《い》きてゐるのか、|或《あるひ》は|死《し》んでからも|残《のこ》つて|居《ゐ》る|意志《いし》がハツキリしてゐるのか、どうも|其《その》|点《てん》が|私《わたし》には|分《わか》りませぬがなア』
|赤《あか》『ウン、そらさうだ、わかるまい。|仮令《たとへ》|肉体《にくたい》は|亡《ほろ》ぶるとも、|人間《にんげん》の|本体《ほんたい》たる|精霊《せいれい》は|意志想念《いしさうねん》を|継続《けいぞく》してゐるなり、|又《また》|生前《せいぜん》と|同様《どうやう》の|肉体《にくたい》を|保《たも》つて|居《ゐ》るのだから、|合点《がつてん》の|行《ゆ》かぬのは|無理《むり》もない。|併《しか》し|乍《なが》ら|此処《ここ》は|幽冥界《いうめいかい》だ。|霊肉脱離後《れいにくだつりご》の|人間《にんげん》(|即《すなは》ち|精霊《せいれい》)の|来《く》る|処《ところ》だ。サア、|早《はや》く|此処《ここ》を|立去《たちさ》れ。やがて|誰《たれ》かが|迎《むか》へに|来《く》るだらう。モシ|迎《むか》へに|来《こ》なかつたならば、お|前《まへ》の|好《す》きな|地獄《ぢごく》へ|行《ゆ》くだらう。サア|早《はや》く|立《た》てツ』
と|金棒《かなぼう》を|以《もつ》て|突出《つきだ》せば、ベルはヨロヨロとし|乍《なが》ら、|傍《かたはら》の|茫々《ばうばう》たる|草《くさ》の|中《なか》に|倒《たふ》れて|了《しま》つた。
(大正一二・三・一四 旧一・二七 於竜宮館二階 外山豊二録)
第四章 |盗歌《とうか》〔一四三四〕
|高天原《たかあまはら》と|根《ね》の|国《くに》を |中断《ちうだん》したる|中有界《ちううかい》
|百《もも》のエンゼル|下《くだ》り|来《き》て |伊吹戸主《いぶきどぬし》の|御館《おやかた》に
|集《あつ》まりたまひ|愛善《あいぜん》の |徳《とく》をば|教《をし》へ|信真《しんしん》の
|光《ひかり》を|照《てら》して|精霊《せいれい》を |皆《みな》|悉《ことごと》く|天界《てんかい》に
|救《すく》はむものと|大神《おほかみ》の |大御心《おほみこころ》を|畏《かしこ》みて
|言葉《ことば》を|尽《つく》し|気《き》を|配《くば》り |諭《さと》したまへど|現世《うつしよ》に
ありたる|時《とき》に|諸々《もろもろ》の |悪《あく》と|虚偽《きよぎ》との|罪悪《ざいあく》に
|御魂《みたま》を|汚《けが》し|破《やぶ》りたる |精霊《みたま》は|清《きよ》きエンゼルの
|宣《の》る|言霊《ことたま》に|堪《た》へきれず |頭《かしら》は|痛《いた》み|胸《むね》はやけ
|耳《みみ》には|針《はり》をさす|如《ごと》く いと|苦《くる》しげに|自《おのづか》ら
|自由自在《じいうじざい》に|根《ね》の|国《くに》や |底《そこ》の|国《くに》へと|駆《かけ》り|行《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |宇宙《うちう》の|主宰《しゆさい》と|現《あ》れませる
|仁慈無限《じんじむげん》の|大神《おほかみ》は |人《ひと》の|精霊《みたま》は|云《い》ふも|更《さら》
|禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》に|至《いた》るまで |霊《れい》あるものは|悉《ことごと》く
|皆《みな》|天国《てんごく》へ|救《すく》ひ|上《あ》げ |各団体《かくだんたい》の|円満《ゑんまん》を
はからせ|給《たま》へど|如何《いか》にせむ |悪《あく》に|慣《な》れたる|精霊《せいれい》は
|善《ぜん》と|真《しん》とを|忌《い》み|嫌《きら》ひ |悪《あく》と|虚偽《きよぎ》との|悪魔道《あくまだう》へ
|自《みづか》ら|勇《いさ》んで|降《くだ》りゆく |醜《しこ》の|御魂《みたま》ぞあはれなり
|皇大神《すめおほかみ》は|此《この》|様《さま》を |憐《あはれ》みたまひ|現世《うつしよ》に
|厳《いづ》の|御魂《みたま》や|瑞御魂《みづみたま》 |神《かみ》の|依《よ》さしのエンゼルを
|下《くだ》したまひて|霊界《れいかい》の |奇《くし》き|有様《ありさま》|悉《ことごと》く
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|説《と》き|諭《さと》し |示《しめ》させたまへど|現世《うつしよ》の
|自愛《じあい》の|慾《よく》に|囚《とら》はれて |眼《まなこ》をふさぎ|耳《みみ》を|閉《と》ぢ
|神《かみ》の|光《ひかり》を|背《せな》にして |皆《みな》|散《ち》り|散《ぢ》りに|逃《に》げて|行《ゆ》く
|醜《しこ》の|御魂《みたま》ぞ|憐《あは》れなり |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》と|悪《あく》との|報《むく》ひをば いと|審《つばらか》に|説《と》き|諭《さと》し
|罪《つみ》をば|宥《ゆる》し|救《たす》けむと |心《こころ》を|千々《ちぢ》に|砕《くだ》きつつ
|血《ち》を|吐《は》く|思《おも》ひの|杜鵑《ほととぎす》 |八千八度《はつせんやたび》の|声《こゑ》|枯《か》れて
|竜宮館《りうぐうやかた》の|渡船場《わたしば》に |立《た》たせたまふぞ|畏《かしこ》けれ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ。
|白赤《しろあか》の|守衛《しゆゑい》は、ヘル、シヤル、ケリナ|姫《ひめ》の|生死簿《せいしぼ》を|調《しら》べ、|未《ま》だ|何《いづ》れも|数十年《すうじふねん》|現界《げんかい》に|寿命《じゆみやう》の|残《のこ》つて|居《ゐ》ることを|三人《さんにん》に|宣《の》り|聞《き》かせ、|一時《いちじ》も|早《はや》く|此処《ここ》を|立《た》ち|去《さ》り|東《ひがし》に|向《むか》つて|進《すす》めよと|命《めい》じた。|三人《さんにん》は|夢《ゆめ》か|現《うつつ》か、|現界《げんかい》か、|幽界《いうかい》か、|少《すこ》しも|合点《がてん》ゆかず|暗中摸索《あんちうもさく》の|体《てい》にて、|守衛《しゆゑい》が|云《い》ふままに|踵《きびす》をかへし、|東《ひがし》を|指《さ》してトボトボと|進《すす》み|行《い》く。
ケリナ『|細《ほそ》き|煙《けぶり》も|絶《た》え|絶《だ》えの |光《ひかり》の|影《かげ》を|後《あと》にして
|恋《こひ》しき|夫《つま》を|尋《たづ》ねむと |草《くさ》の|枢《とぼそ》を|引《ひ》き|立《た》てて
エルシナ|河《がは》の|辺《ほとり》まで |進《すす》み|来《きた》れる|折《をり》もあれ
|傾《かたむ》く|峰《みね》の|月影《つきかげ》は |妾《わらは》が|姿《すがた》を|見下《みおろ》して
|諸行無常《しよぎやうむじやう》と|慄《ふる》ひ|居《を》る ああ|懐《なつか》しや|懐《なつか》しや
|恋《こひ》しき|人《ひと》の|後《あと》|追《お》ふて |荒野ケ原《あらのがはら》を|打《う》ち|渡《わた》り
|露《つゆ》に|体《からだ》を|霑《うるほ》して |涙《なみだ》を|絞《しぼ》る|悲《かな》しさよ
|濡《ぬ》るるも|花《はな》の|下影《したかげ》に |宿《やど》らむものと|立《た》ち|寄《よ》れば
|傾《かたむ》く|月《つき》は|夜《よ》を|残《のこ》し |仰《あふ》げば|高《たか》し|天《あま》の|河《かは》
|空《そら》には|雁《かり》の|声《こゑ》すれど |尋《たづ》ぬる|人《ひと》の|便《たよ》りをば
|聞知《ききし》るよしもないぢやくり ああ|如何《いか》にせむ|千秋《せんしう》の
|恨《うらみ》を|呑《の》んで|遠近《をちこち》と |彷徨《さまよ》ひ|来《きた》りエルシナの
|谷川《たにがは》|目蒐《めが》けて|身《み》を|投《とう》じ |寂滅為楽《じやくめつゐらく》となりしよと
|思《おも》ふまもなくヘル、シヤール |二人《ふたり》の|男《をとこ》に|助《たす》けられ
|又《また》も|浮世《うきよ》の|荒風《あらかぜ》に |当《あた》りて|心《こころ》を|砕《くだ》く|折《をり》
|泥坊頭《どろばうがしら》のベルさまが |無体《むたい》の|恋慕《れんぼ》を|吹《ふ》きかける
ヘルとシヤールの|両人《りやうにん》を |向《むか》ふにまはしケリナをば
|互《たがひ》に|妻《つま》に|娶《めと》らむと |鎬《しのぎ》を|削《けづ》る|果敢《はか》なさよ
|妾《わらは》は|驚《おどろ》き|森林《しんりん》の パインの|梢《こずゑ》にかけ|登《のぼ》り
|難《なん》を|避《さ》け|居《ゐ》る|時《とき》もあれ |闇《やみ》をつらぬく|水《みづ》の|音《おと》
|忽《たちま》ち|三人《みたり》の|黒影《くろかげ》は エルシナ|河《がは》の|深淵《しんえん》に
|落《お》ちたるものか|憐《あは》れやと |窺《うかが》ふ|途端《とたん》に|踏《ふ》み|外《はづ》し
ケリナも|共《とも》に|深淵《しんえん》に |落《お》ち|込《こ》みたりと|思《おも》ひきや
いつの|間《ま》にかは|知《し》らねども |草花《くさばな》|茂《しげ》る|田圃道《たんぼみち》
|彷徨《さまよ》ひ|来《きた》りし|訝《いぶか》しさ |思《おも》ふに|此地《ここ》は|霊界《れいかい》か
|探《たづ》ねあぐみし|背《せ》の|君《きみ》の |鎌彦《かまひこ》さまに|廻《めぐ》り|会《あ》ひ
|過《すぎ》し|昔《むかし》の|物語《ものがたり》 |聞《き》いて|驚《おどろ》く|吾《わが》|心《こころ》
|恋《こひ》しき|人《ひと》は|兄《あに》の|仇《あだ》 |如何《いか》なる|因果《いんぐわ》の|廻《めぐ》り|来《き》て
|斯《かく》も|不思議《ふしぎ》な|運命《うんめい》の |綱《つな》に|繋《つな》がれ|居《ゐ》たりしぞ
これも|現世《げんせ》の|宿業《しゆくごふ》が |廻《めぐ》り|廻《めぐ》りて|吾《われ》の|身《み》に
|来《きた》りしものか|情《なさ》けなや |兄《あに》のベルジーを|殺《ころ》したる
|夫《つま》と|恃《たの》みし|鎌彦《かまひこ》は |又《また》もやベルに|殺《ころ》されて
ライオン|河《がは》の|泡《あわ》となり |消《き》えて|後《あと》なく|霊界《れいかい》の
|巷《ちまた》に|迷《まよ》ふ|憐《あはれ》さよ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御魂《みたま》の|恩頼《ふゆ》を|賜《たまは》りて |中有界《ちううかい》に|迷《まよ》ひたる
|吾等《われら》の|御魂《みたま》を|速《すみやか》に |神《かみ》の|御国《みくに》へ|救《すく》へかし
|朝日《あさひ》も|照《て》らず|月《つき》もなく |星《ほし》さへ|見《み》えぬこの|道《みち》に
|咲《さ》き|誇《ほこ》りたる|百《もも》の|花《はな》 |香《かを》りはあまりなけれども
|艶《えん》を|競《きそ》ふて|並《なら》び|居《ゐ》る |草木《くさき》の|花《はな》に|至《いた》るまで
|常世《とこよ》の|春《はる》を|楽《たの》しみて |歓《ゑら》ぎ|遊《あそ》べる|世《よ》の|中《なか》に
|吾等《われら》|三人《みたり》は|何《なん》として |花《はな》も|実《み》もなき|霊界《れいかい》の
|心《こころ》|淋《さび》しき|此《この》|旅路《たびぢ》 |憐《あはれ》みたまへ|天津神《あまつかみ》
|国津神《くにつかみ》|達《たち》|八百万《やほよろづ》 |神《かみ》の|使《つかひ》の|御前《おんまへ》に
|謹《つつし》み|敬《うやま》ひ|願《ね》ぎまつる |謹《つつし》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|進《すす》み|行《ゆ》く。|一人《ひとり》の|泥酔男《よひどれをとこ》|頬被《ほほかぶ》りを|深《ふか》く|被《かぶ》り|乍《なが》ら、|淋《さび》しさうな|筒袖《つつそで》で、|労働姿《らうどうすがた》の|儘《まま》やつて|来《き》た。|三人《みたり》は|道《みち》の|傍《かたへ》の|木影《こかげ》に|立《た》ち|留《どま》り|其《その》|男《をとこ》を|目送《もくそう》して|居《ゐ》る。|余《あま》り|広《ひろ》からぬ|道《みち》を、|右《みぎ》によろよろ|左《ひだり》によろよろと|足許《あしもと》|危《あやふ》く、
|男《をとこ》『|晴《は》れを|待《ま》つ|宵《よひ》、|曇《くも》るも|憎《にく》や
|曇《くも》りまつよに、|晴《は》れる|月《つき》
【|恋《こひ》】は【|誰《た》】が(|五位《ごゐ》、|鷹《たか》)
【|教《をし》】(|鴛鴦《をし》)へ【つる】【かも】|【仮】初《かりそめ》に(|鶴《つる》、|鴨《かも》、|雁《かり》)
ほのみし【|影《かげ》】の|身《み》にしみて【|憂《う》】き(|家鶏《かけ》、|鵜《う》)
やつこらしよ、やつこらしよ……ぢや』
と|唄《うた》ひ|乍《なが》ら|三人《さんにん》にドンと|突《つ》き|当《あた》り、
|男《をとこ》『ドド|誰奴《どやつ》だい、|往来《わうらい》の|妨《さまた》げをしやがつて|些《ちつと》|済《す》まぬぢやないか。|見《み》れば|男《をとこ》が|二人《ふたり》に|女《をんな》が|一匹《いつぴき》、ヘン|馬鹿《ばか》にしてけつかるわい。|一寸《ちよつと》|見《み》た|所《ところ》では|綺麗《きれい》な|女《をんな》だが、その|衣類《きもの》は|何《なん》だい。まるきり|古家《ふるいへ》の|障子《しやうじ》|見《み》たやうに|窓《まど》が|明《あ》きさらして|肌《はだ》が|見《み》えて|居《を》るぢやないか。えらい、|虱《しらみ》だ。|何《なん》だ|美人《びじん》かと|思《おも》へば|虱太夫《しらみだいう》さまか、ペツペツペツ、ああ|汚《きたな》い、|臭《くさ》い|臭《くさ》い』
と|鼻《はな》を|撮《つま》む。
ヘル『こりや、どこの|誰奴《どやつ》か|知《し》らないが、|俺《おれ》の|奥《おく》さまを|捉《つかま》へて|何《なん》といふ|暴言《ばうげん》を|吐《は》くのだ、もう|承知《しようち》はしないぞ』
|男《をとこ》『アハハハハ。|乞食女《こじきをんな》を|奥《おく》さまだなんて|好《い》いデレ|助《すけ》だなア、ハハー、こんな|虱太夫《しらみだいう》でも|後《あと》を|慕《した》つて|来《く》る|男《をとこ》が|〆《しめ》て|二人《ふたり》もあるかと|思《おも》へば|世《よ》の|中《なか》は|不思議《ふしぎ》のものだなア。オイ|阿魔女《あまつちよ》お|前《まへ》の|名《な》は|何《なん》と|云《い》ふのだ。|虱《しらみ》のお|宿《やど》さま、|名《な》を|云《い》ふのが|恥《はづ》かしいのか、ペツペツペツ』
ヘル『こりや、|何所《どこ》の|奴《やつ》か|知《し》らぬが|一寸《ちよつと》|待《ま》て、|貴様《きさま》は|一体《いつたい》|此処《ここ》を|何処《どこ》と|心得《こころえ》て|居《ゐ》るか』
|男《をとこ》『ヘン、|何処《どこ》も|彼所《かしこ》もあるものかい、|此処《ここ》はフサの|国《くに》テルモン|山《ざん》の|麓《ふもと》の|高野ケ原《たかのがはら》だ。|俺《おれ》の|女房《にようばう》がこの|先《さき》の|村《むら》に|待《ま》つて|居《ゐ》るのだ。これから|帰《かへ》るのだよ。|夫《それ》は|夫《それ》は|別嬪《べつぴん》だぞ』
ヘル『これや、|惚《のろ》けやがるない、|貴様《きさま》は|此処《ここ》を|高野ケ原《たかのがはら》と|思《おも》つて|居《ゐ》るか|知《し》らぬが|此処《ここ》は|冥土《めいど》の|八衢《やちまた》だ。|些《ちつと》|確《しつか》りせぬかい、そして|此処《ここ》に|現《あら》はれた|女《をんな》の|方《かた》は|俺《おれ》の|女房《にようばう》とは|佯《いつは》り、|実《じつ》の|所《ところ》は|三十三相《さんじふさんさう》に|身《み》を|変《へん》じ|遊《あそ》ばす|観自在天様《くわんじざいてんさま》だぞ』
|男《をとこ》『ハハハハハ、|何《なに》を|吐《ぬか》しやがるのだい。|観自在天《くわんじざいてん》とはよく|洒落《しやれ》たものだ。このナイスの|体《からだ》には、|胡麻《ごま》を|撒《ふ》りかけた|如《ごと》く|観音様《くわんのんさま》が|御出現《ごしゆつげん》だからな、ウフフフフ
|噛《か》みつかば|許《ゆる》しはするなよただ|捻《ひね》れ
|布子《ぬのこ》の|裏《うら》にわたがみはなし
|梅桜《うめさくら》|摺縫箔《すりぬひはく》の|古小袖《ふるこそで》
|花見《はなみ》|虱《しらみ》の|飛《と》び|散《ち》りにけり
|汗水《あせみづ》になりて|世渡《よわた》る|人《ひと》の|身《み》の
|夏《なつ》の|虱《しらみ》は|浮《うき》つ|沈《しづ》みつ
か、ウントコシヨ、ウントコシヨ、か。
|引《ひ》きかつぎ|帷布《かたびら》ごしに|空《そら》|見《み》れば
|雲井《くもゐ》を|走《はし》る|月《つき》の|夜虱《よじらみ》
|冬籠《ふゆごもり》|布子《ぬのこ》の|綿《わた》に|住《す》む|虱《しらみ》
|雪《ゆき》の|如《ごと》くに|白《しら》けてぞ|臥《ふ》す』
ヘル『アハハハハ。こりや|虱太夫《しらみたいう》、ソロリソロリと|新左衛門坊主《しんざゑもんばうず》の|云《い》ふやうな|事《こと》を|吐《こ》くぢやないか、|貴様《きさま》は|余《よ》つ|程《ほど》|虱博士《しらみはかせ》と|見《み》えるな』
|男《をとこ》『|定《きま》つた|事《こと》だ。|俺《おれ》こそ|虱《しらみ》のお|庄屋《しやうや》さまだ。これ|見《み》ろ、こんな|浅黄《あさぎ》の|筒袖《つつそで》を|着《き》て|居《ゐ》るから|貴様《きさま》の|目《め》には|分《わか》るまいが、|俺《おれ》の|着物《きもの》は|六道《ろくだう》の|辻《つじ》だ。|沢山《たくさん》の|虱《しらみ》がウヨウヨと|右往左往《うわうさわう》に|活動《くわつどう》して|居《ゐ》るのぢや。|俺《おれ》の|名《な》も|六造《ろくざう》なり|合《あ》ふたり|叶《かな》ふたりだ。|一層《いつそ》の|事《こと》その|虱《しらみ》ナイスと|此処《ここ》で|一《ひと》つ|観音較《くわんのんくら》べをして|夫婦《ふうふ》になる|訳《わけ》にはゆくまいかなア』
ヘル『こりや、|貴様《きさま》は|今《いま》この|先《さき》に|美《うつく》しい|女房《にようばう》が|待《ま》つて|居《ゐ》ると|言《い》つたぢやないか、|夫《それ》にも|関《かかは》らず、このナイスと|結婚《けつこん》すれば|重婚《ぢうこん》の|罪《つみ》で|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》で|厳罰《げんばつ》に|処《しよ》せられるのを|知《し》らぬのか。|貴様《きさま》は|気《き》の|多《おほ》い、|箸豆人足《はしまめにんそく》と|見《み》えるわい』
|六造《ろくざう》『|実《じつ》の|所《ところ》はまだ|女房《にようばう》が|無《な》いのだ。|俺《おれ》の|方《はう》から|女房《にようばう》と|定《き》めて|居《ゐ》るだけで、|先方《せんぱう》の|意志《いし》はテンと|分《わか》らぬのだ。|今日《けふ》で|三年《さんねん》|計《ばか》り|顔《かほ》を|見《み》に|通《かよ》つて|居《ゐ》るのだが、まだ|一口《ひとくち》も|心《こころ》の|思《おも》ひを|先方《せんぱう》に|響《ひび》かした|事《こと》はないのだ。つまり|予定《よてい》の|女房《にようばう》だからなア』
ヘル『アハハハハ。|大方《おほかた》|其《その》|辺《へん》のことだと|思《おも》ふて|居《ゐ》たのだ。|貴様《きさま》のスタイルで|猫《ねこ》だつて|女房《にようばう》になる|奴《やつ》があるかい、|虱《しらみ》に|体《からだ》を|舐《ねぶ》らして|置《お》く|位《くらゐ》が|性《しやう》に|合《あ》つて|居《ゐ》るわい。も|少《すこ》し|先《さき》に|行《ゆ》くと|六道《ろくだう》の|辻《つじ》だから、|虱《しらみ》でも|提出《ていしゆつ》して|地獄行《ぢごくゆき》の|冥罰《めいばつ》を|助《たす》かつたらよからう、|虱《しらみ》は|観世音菩薩《くわんぜおんぼさつ》だからのう』
|六《ろく》『|碌《ろく》でもない|事《こと》を|云《い》ふない。|八衢《やちまた》だとか|六道《ろくだう》の|辻《つじ》だとか、|何《なに》を|呆《とぼけ》て|居《ゐ》るのだ。|此処《ここ》は|現界《げんかい》だ。|貴様《きさま》は|大方《おほかた》|夢《ゆめ》でも|見《み》て|居《ゐ》るのだらう。|虱《しらみ》のやうなものは|俺《おれ》も|実《じつ》は|好《す》かないのだけれど、|何分《なにぶん》|洗濯《せんたく》して|呉《く》れる|女房《にようばう》もなし、|噛《か》んだり|捻《ひね》つたり|縁側《えんがは》に|拡《ひろ》げて|徳利《とくり》を|転《ころ》がしたりして|征伐《せいばつ》しても|仲々《なかなか》|絶《た》え|切《き》らぬものだ。|六道《ろくだう》の|辻《つじ》と|云《い》へば|地獄《ぢごく》、|餓鬼《がき》、|畜生《ちくしやう》、|修羅《しゆら》、|人間《にんげん》、|天上《てんじやう》、と|云《い》ふ|事《こと》だが|夫《そ》れについて|面白《おもしろ》い|虱《しらみ》の|歌《うた》がある、|一《ひと》つ|聞《き》かしてやらうか』
ヘル『ウン、|承《うけたま》はらう、どうで|碌《ろく》な|歌《うた》ぢやあるまいが、|併《しか》し|乞食《こじき》の|門付《かどつ》けを|聞《き》くと|思《おも》つてお|耳《みみ》を|借《か》してやらう、|古汚《ふるきたな》い|虱《しらみ》のわくやうな|歌《うた》なら|御免《ごめん》だぞ』
|六《ろく》『どうせ|虱《しらみ》のわく|着物《きもの》は|古《ふる》いに|定《きま》つて|居《ゐ》るわ、|黴《かび》の|生《は》へた|頭《あたま》から|捻《ひね》り|出《だ》した|歌《うた》でなくては|虱《しらみ》に|対《たい》する|名歌《めいか》が|出来《でき》るものでない、|野暮《やぼ》の|事《こと》を|云《い》ふな。サアこれから|地獄《ぢごく》の|虱《しらみ》だ。
|地獄《ぢごく》
|捻《ひね》る|楽《らく》|潰《つぶ》す|極楽《ごくらく》|火《ひ》は|浄土《じやうど》
|水《みづ》に|入《い》るこそ|地獄《ぢごく》なりけり
|餓鬼《がき》
|脱《ぬ》ぎ|捨《す》てて|竿《さを》にかけたる|古布子《ふるぬのこ》
|餓鬼《がき》の|如《ごと》くに|痩虱《やせじらみ》かな
|畜生《ちくしやう》
|人《ひと》を|喰《く》ふ|事《こと》より|外《ほか》はいざ|虱《しらみ》
|生畜生《いきちくしやう》の|果《はて》と|云《い》ふべき
|修羅《しゆら》
|血交《ちまじ》りに|殺《ころ》し|捨《す》てたる|虱《しらみ》こそ
さながら|修羅《しゆら》の|衢《ちまた》なりけり
|人間《にんげん》
|帷布《かたびら》の|縫目《ぬひめ》に|宿《やど》る|虱《しらみ》こそ
|人《ひと》と|同《おな》じく|立《た》ちてゆくなり
|天上《てんじやう》
|五月雨《さみだれ》や|竜《たつ》の|鱗《うろこ》にわく|虱《しらみ》
つれてもろ|共《とも》|天《てん》に|登《のぼ》れり
かくれ|住《す》む|肌《はだ》の|守《まもり》の|虱《しらみ》こそ
|生《い》きた|観音菩薩《くわんのんぼさつ》なりけり』
シヤル『アハハハハ。|十八世紀《じふはちせいき》のお|茶坊主《ちやばうず》が|吐《ほざ》いた|歌《うた》ぢやないか、|貴様《きさま》の|作《つく》つたのぢやあるまい』
|六造《ろくざう》『|誰《たれ》が|作《つく》つても|同《おな》じ|事《こと》ぢや、|現在《げんざい》|俺《おれ》の|口《くち》から|出《で》たのぢやないか、|他人《ひと》のものなら|他人《ひと》の|口《くち》から|出《で》る、|俺《おれ》の|作《つく》つた|証拠《しようこ》には|俺《おれ》の|声《こゑ》をもつて|俺《おれ》の|口《くち》から|貴様《きさま》に|伝《つた》へてやつたぢやないか、ゴテゴテ|云《い》ふない』
シヤル『|他人《ひと》の|歌《うた》を|盗《ぬす》む|奴《やつ》は、|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》で|調《しら》べられたら|矢張《やつぱり》|咎《とがめ》られて|咎人《とがにん》になるぞよ、|歌《うた》を|盗《ぬす》む|奴《やつ》を|盗歌人《とがにん》といふのだぞ、ウフフフフ』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|蓑笠《みのかさ》を|被《かぶ》つた|五十余《ごじふあまり》の|一人《ひとり》の|婆《ばば》アが、|金剛杖《こんがうづゑ》をつき、|何《なに》か|小声《こごゑ》に|歌《うた》ひながら、トボトボと|進《すす》み|来《く》る。|四人《よにん》は|其《その》|姿《すがた》の|何処《どこ》ともなく|変《かは》つて|居《ゐ》るのに|不審《ふしん》を|抱《いだ》き、つくづくと|眺《なが》めて|居《ゐ》た。|婆《ばば》は|何《なに》か|急用《きふよう》でもあるやうに|頻《しき》りに|足許《あしもと》を|急《いそ》いで|居《ゐ》る。|四人《よにん》は|何《なん》と|思《おも》ふたか|道端《みちばた》の|背丈《せたけ》の|延《の》びた|雑草《ざつさう》の|中《なか》に|身《み》を|隠《かく》した。
(大正一二・三・一四 旧一・二七 於竜宮館二階 加藤明子録)
第五章 |鷹魅《ようみ》〔一四三五〕
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|元津祖《もとつおや》 |弥勒《みろく》の|神《かみ》は|高姫《たかひめ》が
|肉《にく》のお|宮《みや》に|憑《うつ》りたる |日《ひ》の|出神《でのかみ》とこじつけて
|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》 |其《その》|外《ほか》|百《もも》の|神宝《しんぱう》に
|執着《しふちやく》|強《つよ》く|四方《よも》の|国《くに》 |海洋万里《かいやうばんり》の|波《なみ》|渡《わた》り
|騒《さわ》ぎまはりし|其《その》|結果《けつくわ》 |仁慈無限《じんじむげん》の|瑞御霊《みづみたま》
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の |水《みづ》も|洩《も》らさぬ|執成《とりなし》に
|心《こころ》の|底《そこ》から|悔悟《くわいご》して |誠《まこと》の|道《みち》に|生《い》き|復《かへ》り
|暫《しば》らく|聖地《せいち》に|現《あら》はれて |教《をしへ》を|伝《つた》へ|居《ゐ》たりしが
|淡路《あはぢ》の|里《さと》の|東助《とうすけ》が |昔馴染《むかしなじみ》と|聞《き》きしより
|再《ふたた》び|狂《くる》ふ|心猿意馬《しんゑんいば》の |止《と》め|度《ど》もなしに|躍動《やくどう》し
|生田《いくた》の|森《もり》を|後《あと》にして |長《なが》の|海山《うみやま》|打渡《うちわた》り
|心《こころ》いそいそ|斎苑館《いそやかた》 ウブスナ|山《やま》の|聖場《せいぢやう》に
|詣《まう》で|来《きた》りて|東助《とうすけ》に |過《す》ぎし|昔《むかし》の|物語《ものがたり》
シツポリなして|旧交《きうかう》を |回復《くわいふく》せむと|恋愛《れんあい》の
|雲《くも》に|包《つつ》まれ|村肝《むらきも》の |心《こころ》は|暗《やみ》となりにけり
|信心《しんじん》|堅固《けんご》の|東助《とうすけ》は |恋《こひ》に|狂《くる》へる|高姫《たかひめ》に
|只《ただ》|一瞥《いちべつ》もくれずして いと|素気《すげ》なくも|刎《は》ねつける
|心《こころ》|曇《くも》りし|高姫《たかひめ》も |愈《いよいよ》|自暴自棄《じばうじき》となり
|又《また》もやもとの|悪身魂《あくみたま》 |再発《さいはつ》なして|河鹿山《かじかやま》
|嵐《あらし》に|面《おもて》を|曝《さら》しつつ |恥《はぢ》も|名誉《めいよ》も|知《し》らばこそ
|玉国別《たまくにわけ》の|築《きづ》きたる |祠《ほこら》の|森《もり》に|立寄《たちよ》りて
ここに|教主《けうしゆ》となりすまし |館《やかた》の|主人《あるじ》|珍彦《うづひこ》を
|眼下《がんか》に|見下《みくだ》し|居《ゐ》たる|折《をり》 |大雲山《だいうんざん》に|蟠《わだか》まる
|八岐大蛇《やまたをろち》の|片腕《かたうで》と |兇党界《きようたうかい》にて|名《な》も|高《たか》き
|妖幻坊《えうげんばう》に|操《あやつ》られ |斎苑《いそ》の|館《やかた》の|時置師《ときおかし》
|杢助《もくすけ》|総務《そうむ》と|誤解《ごかい》して うまく|抱《だ》き|込《こ》み|一旗《ひとはた》を
|挙《あ》げて|聖地《せいち》に|立籠《たてこ》もる |東野別《あづまのわけ》の|向《むか》ふ|張《は》り
|恋《こひ》の|意趣《いしう》を|晴《は》らさむと |企《たく》み|居《ゐ》たりし|折《をり》もあれ
|初稚姫《はつわかひめ》が|現《あら》はれて |千変万化《せんぺんばんくわ》の|活動《くわつどう》に
|居堪《ゐたま》りかねて|妖幻坊《えうげんばう》 |高姫《たかひめ》|諸共《もろとも》|森林《しんりん》を
|潜《くぐ》つてスタスタ|逃《に》げ|出《いだ》し |小北《こぎた》の|山《やま》の|神殿《しんでん》に
|夫婦気取《ふうふきどり》で|進《すす》み|入《い》り |神《かみ》の|光《ひかり》に|照《て》らされて
|曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|落《おと》しつつ |高姫《たかひめ》|諸共《もろとも》|逃《に》げ|出《いだ》す
|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》は |高姫司《たかひめつかさ》と|諸共《もろとも》に
バラモン|軍《ぐん》の|屯《たむろ》せし |浮木《うきき》の|森《もり》に|現《あら》はれて
あらゆる|魔法《まはふ》を|行《おこな》ひつ |世人《よびと》を|悩《なや》め|居《ゐ》たる|折《をり》
|三五教《あななひけう》に|名《な》も|高《たか》き |天女《てんによ》に|等《ひと》しき|神司《かむつかさ》
|初稚姫《はつわかひめ》やスマートの |声《こゑ》に|驚《おどろ》き|妖幻坊《えうげんばう》
|黒雲《くろくも》|起《おこ》し|高姫《たかひめ》を |小脇《こわき》に|抱《かか》へ|空中《くうちう》を
|逃《に》げ|行《ゆ》く|居《を》りもデカタンの |大高原《だいかうげん》の|中央《まんなか》に
|高姫司《たかひめつかさ》を|遺失《ゐしつ》して |雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げて|行《ゆ》く
|高姫《たかひめ》|空《そら》より|墜落《つゐらく》し |人事不省《じんじふせい》に|陥《おちい》りて
|霊肉脱離《れいにくだつり》の|関門《くわんもん》を |漸《やうや》く|越《こ》えて|遥々《はるばる》と
|八衢関所《やちまたせきしよ》に|来《き》て|見《み》れば さも|勇《いさ》ましき|赤白《あかしろ》の
|守衛《しゆゑい》に|行途《ゆくて》を|遮《さへぎ》られ |三歳《みとせ》の|間《あひだ》|中有《ちうう》の
|世界《せかい》に|有《あ》りて|精霊《せいれい》を |研《みが》き|清《きよ》むる|身《み》となりぬ
さは|去《さ》り|乍《なが》ら|高姫《たかひめ》の |身魂《みたま》は|地獄《ぢごく》に|籍《せき》を|置《お》き
|高天原《たかあまはら》の|霊光《れいくわう》を |畏《おそ》れ|戦《をのの》き|忌《い》み|嫌《きら》ひ
|一歳《ひととせ》|経《た》ちし|今日《けふ》の|日《ひ》も |中有界《ちううかい》をブラブラと
|彷徨《さまよ》ひ|巡《めぐ》り|迷《まよ》ひ|来《く》る |百《もも》の|精霊《せいれい》に|相対《あひたい》し
|現実界《げんじつかい》にありし|如《ごと》 |脱線《だつせん》だらけの|宣伝《せんでん》を
つづけ|居《ゐ》たるぞ|愚《おろか》なれ エリシナ|谷《だに》に|隠《かく》れたる
ケリナの|姫《ひめ》やバラモンの |軍人《いくさびと》なるヘル、シヤルや
|六造《ろくざう》の|四人《よにん》が|道《みち》の|辺《べ》の |草《くさ》に|隠《かく》るる|姿《すがた》をば
|目敏《めざと》く|眺《なが》め|立止《たちど》まり |皺枯声《しわがれごゑ》を|張上《はりあ》げて
|日出神《ひのでのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》 |弥勒《みろく》の|神《かみ》の|御先達《おせんだつ》
|高姫司《たかひめつかさ》の|生宮《いきみや》が |汝等《なんぢら》|四人《よにん》に|気《き》をつける
|早《はや》く|草原《くさはら》|飛《と》び|出《だ》して |吾《わが》|生宮《いきみや》の|前《まへ》に|出《で》よ
|如何《いか》に|如何《いか》にと|呼《よ》び|立《た》てる |其《その》スタイルぞ|可笑《をか》しけれ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |迷《まよ》ひ|切《き》つたる|霊魂《たましひ》は
|神《かみ》の|力《ちから》も|如何《いかん》とも |救《すく》はむ|手段《てだて》もなかりけり。
|高姫《たかひめ》は|道《みち》の|辺《べ》の|長《なが》い|草《くさ》の|中《なか》に|隠《かく》れてゐる|四人《よにん》の|男女《なんによ》に|向《むか》ひ|声《こゑ》を|尖《とが》らし|乍《なが》ら、|言葉《ことば》の|尻口《しりくち》をピンとあげて|口角《こうかく》|泡《あわ》を|飛《と》ばし、アトラスの|様《やう》な|顔《かほ》を|前《まへ》にニユツと|出《だ》し|二《ふた》つ|三《み》ツつ|腮《あご》をしやくり|肩《かた》を|揺《ゆす》り、|招《まね》き|猫《ねこ》の|様《やう》な|手《て》つきをして|二《ふた》つ|三《み》ツつ|空《くう》を|掻《か》き|乍《なが》ら、
|高姫《たかひめ》『これこれ、|何処《どこ》の|方《かた》か|知《し》らぬが|此《この》|原野《げんや》は|此《この》|高姫《たかひめ》の|管轄区域《くわんかつくゐき》だ。|何故《なぜ》こんな|処《ところ》まで|黙《だま》つて|来《き》たのだい。まア、ちつと|此方《こちら》へ|来《き》なさい。|結構《けつこう》な|話《はなし》をしてやらう。エーエー、|辛気《しんき》|臭《くさ》い。|早《はや》う|出《で》なさらんかいな。|蟋蟀《いとど》か|螽斯《ばつた》の|様《やう》に|草《くさ》の|中《なか》に|何時《いつ》|迄《まで》すつこんで|居《を》つても|埒《らち》は|明《あ》きませぬぞや』
|四人《よにん》は|怖々《こはごは》|草《くさ》を|分《わ》けガサガサと|高姫《たかひめ》の|二三間《にさんげん》|手前《てまへ》まで|現《あら》はれて|来《き》た。さうして|不思議《ふしぎ》|相《さう》に|稍《やや》|俯向《うつむき》|気味《きみ》になつて|高姫《たかひめ》の|顔《かほ》をチラチラと|偸《ぬす》む|様《やう》に|見《み》てゐた。
|高姫《たかひめ》『これ|皆《みな》さま、お|前《まへ》がここへ|来《く》る|途中《とちう》に|一《ひと》つの|家《いへ》があつただらう。|何故《なぜ》そこを|黙《だま》つて|通《とほ》つて|来《き》たのだい。|此《この》|高姫《たかひめ》はもとは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|今《いま》はウラナイ|教《けう》のエンゼルだぞえ。|天《てん》の|弥勒様《みろくさま》の|根本《こつぽん》の|根本《こつぽん》の|大柱《おほはしら》の|大弥勒様《おほみろくさま》で、|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》で|厶《ござ》るぞや。あんまり|現界《げんかい》の|人間《にんげん》が|身魂《みたま》が|曇《くも》つてゐるので、どうぞ|助《たす》けて|天国《てんごく》へやつてやり|度《た》いと|思《おも》つて|化身《けしん》の|法《はふ》を|使《つか》ひ、|高姫《たかひめ》の|肉宮《にくみや》を|使《つか》つて|此《この》|大野ケ原《おほのがはら》を|往来《ゆきき》する|人民《じんみん》を|片端《かたつぱし》から|取《と》ツ|捉《つか》まへて、|誠《まこと》の|教《をしへ》を|聞《き》かしてゐるのだ。さア|早《はや》く|出《で》て|来《き》なさい』
|六造《ろくざう》『お|前《まへ》さまは|音《おと》に|名高《なだか》い|高姫《たかひめ》さまで|厶《ござ》いましたか。お|名《な》は|承《うけたま》はつてゐましたが、お|目《め》にかかるのは|初《はじ》めてです』
|高姫《たかひめ》『うん、さうかな。|妾《わし》の|名《な》は|何《なん》と|云《い》つても|宇宙根本《うちうこつぽん》の|大神様《おほかみさま》の|生宮《いきみや》だから|津々浦々《つつうらうら》|迄《まで》|響《ひび》いてゐる|筈《はず》だ。|三人《さんにん》のお|方《かた》、お|前等《まへたち》も|妾《わし》の|名《な》を|聞《き》いて|居《を》つただらうな』
ヘル『ハイ、|根《ね》つから|聞《き》いた|事《こと》は|厶《ござ》いませぬ。|私《わたし》は|初稚姫《はつわかひめ》さまだとか、|清照姫《きよてるひめ》とか|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|方《かた》の|名《な》は|聞《き》いて|居《ゐ》ますが、|高姫《たかひめ》さまと|云《い》ふ|名《な》は|今日《こんにち》が|初《はじ》めてです』
|高姫《たかひめ》『さうかいな。|何《なん》とまア|遅《おく》れ|耳《みみ》だこと。|天地《てんち》の|間《あひだ》に|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》の|名《な》を|知《し》らぬものは|一人《ひとり》も|無《な》い|筈《はず》だが、|矢張《やつぱり》|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》がないと、|雷《かみなり》の|様《やう》な|声《こゑ》で|呼《よ》ばつても|耳《みみ》に|這入《はい》らぬと|見《み》えるわい。さア|此処《ここ》で|会《あ》ふたを|幸《さいは》ひ、|高姫《たかひめ》の|姿《すがた》を|拝見《はいけん》しお|声《こゑ》をよく|聞《き》いておきなさい。|決《けつ》して|高姫《たかひめ》が|云《い》ふのぢやありませぬぞや。|底津磐根《そこついはね》の|根本《こつぽん》の|大弥勒様《おほみろくさま》が|仰有《おつしや》るのだから|仇《あだ》に|聞《き》いては|罰《ばち》が|当《あた》りますぞえ』
ヘル『|何《なん》だか|知《し》りませぬが、|貴方《あなた》のお|声《こゑ》を|聞《き》くと|頭《あたま》が|痛《いた》くなりますわ。お|顔《かほ》を|見《み》ても|気分《きぶん》がよく|厶《ござ》いませぬわい』
|高姫《たかひめ》『そら、さうだらう。|霊国《れいごく》|天国《てんごく》を|兼《か》ねた|天人《てんにん》の|身魂《みたま》だから、|身魂《みたま》の|曇《くも》つた|悪《あく》の|守護神《しゆごじん》は|高姫《たかひめ》の|光明《くわうみやう》に|照《て》らされて、|目《め》が|眩《くら》み|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》にあてられて、|耳《みみ》が|鳴《な》り|頭《あたま》が|痛《いた》むのだよ。チツと|確《しつか》りしなさらんか。|今《いま》ここで|取違《とりちが》ひしたら、|万劫末代《まんごふまつだい》|浮《うか》ばれませぬぞや』
ヘル『ヘイヘイ、|畏《かしこ》まりました。|又《また》|御縁《ごえん》が|厶《ござ》いましたらお|世話《せわ》になりやせう』
|高姫《たかひめ》『ホホホホホ|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|癲狂《てんきやう》|痴呆《ちはう》だこと。あああ|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|根本《こつぽん》の|大弥勒《おほみろく》さまも、こんな|没分暁漢《わからずや》を|済度《さいど》なさらなならぬのか、ホンにおいとしいわいのう、オーンオーンオーン、|然《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|男《をとこ》はヘルとか|聞《き》いたが、|余程《よほど》|馬鹿《ばか》な|奴《やつ》と|見《み》える。おい、そこに|居《ゐ》る、も|一人《ひとり》の|男《をとこ》、お|前《まへ》は|高姫《たかひめ》の|名《な》|位《ぐらゐ》は|聞《き》いてゐるだらうな』
シヤル『ハイ、|聞《き》いて|居《を》りますが、|私《わたし》の|聞《き》いてる|高姫《たかひめ》は|貴女《あなた》では|厶《ござ》いますまい。|世界《せかい》に|同《おな》じ|名《な》は|沢山《たくさん》|厶《ござ》いますからな』
|高姫《たかひめ》『お|前《まへ》の|聞《き》いてる|高姫《たかひめ》と|云《い》ふのは|如何《どん》な|性質《せいしつ》の|人《ひと》だ。|一寸《ちよつと》|云《い》つて|御覧《ごらん》なさい』
シヤル『ヘイ、|吾々《われわれ》の|親方《おやかた》にして|宜《よ》い|様《やう》なお|方《かた》ですわ。|何《なん》でも|三五教《あななひけう》とやらに|這入《はい》つて|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》に|現《うつつ》を|抜《ぬ》かし|大勢《おほぜい》の|者《もの》に|嫌《きら》はれ、|屁《へ》の|出《で》の|神《かみ》とか|糞出《くそで》の|神《かみ》とか|云《い》つて|自《みづか》ら|触《ふ》れ|歩《ある》き、|終《しま》ひの|果《はて》には|婆《ばば》の|癖《くせ》に|恋《こひ》に|落《お》ち、|妖幻坊《えうげんばう》と|云《い》ふ|古狸《ふるだぬき》につままれて|何処《どこ》かへ|攫《さら》はれて|行《い》つたと|云《い》ふ|事《こと》です。その|高姫《たかひめ》なら|聞《き》いてゐますが|随分《ずゐぶん》|私《わたし》の|村《むら》では|悪《わる》い|婆《ばば》だと|云《い》ふ|評判《ひやうばん》が|立《た》つて|居《を》りますよ』
|高姫《たかひめ》『さうかな。|矢張《やつぱり》|妾《わし》の|名《な》に|似《に》た|婆《ばば》があると|見《み》えるワイ。|余《あんま》り|妾《わし》の|名《な》が|高《たか》いものだから|悪神《あくがみ》が|現《あら》はれて|高姫《たかひめ》の|名《な》を|騙《かた》り、|三五教《あななひけう》へ|這入《はい》つて、|又《また》もや|日出神《ひのでのかみ》の|名《な》を|騙《かた》り、|色々《いろいろ》の|事《こと》を|致《いた》したのだらう。どうも|油断《ゆだん》のならぬ|時節《じせつ》だ。|然《しか》し|妾《わし》は|同《おな》じ|高姫《たかひめ》でも、そんな|者《もの》とは|違《ちが》ひますぞや。|月《つき》と|鼈《すつぽん》、|雪《ゆき》と|墨《すみ》、|同《おな》じものと|見《み》られましては……ヘン……|此《この》|高姫《たかひめ》も|根《ね》つから|引合《ひきあ》ひませんわい。オホホホホホ』
シヤル『|私《わたし》は|今《いま》は|斯《か》うして|泥坊商売《どろばうしやうばい》に|変《かは》りましたが、|今《いま》|迄《まで》はバラモン|教《けう》の|軍人《ぐんじん》で|鬼春別《おにはるわけ》の|部下《ぶか》に|仕《つか》へたものです。その|時《とき》に|三五教《あななひけう》の|幹部連《かんぶれん》の|人相書《にんさうがき》や|絵姿《ゑすがた》が|廻《まは》つて|来《き》ましたが、|妖幻坊《えうげんばう》に|騙《だま》されたと|云《い》ふ|高姫《たかひめ》に、お|前《まへ》さまそつくりですよ。よもや|其《その》|高姫《たかひめ》では|厶《ござ》いますまいな。|彼奴《あいつ》の|云《い》ふ|事《こと》なら|口《くち》と|心《こころ》が|裏表《うらおもて》だから|決《けつ》して|聞《き》いてはならないと、バラモン|教《けう》は|云《い》ふに|及《およ》ばず|三五教《あななひけう》のピユリタンでさへも|云《い》つて|居《ゐ》ますよ』
|高姫《たかひめ》『ホホホホホ、|盗人《ぬすびと》の|分際《ぶんざい》として|高姫《たかひめ》の|真偽《しんぎ》が|判《わか》つて|堪《たま》らうか。あの|高姫《たかひめ》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|実《じつ》の|所《ところ》はバラモン|教《けう》に|居《を》つた|蜈蚣姫《むかでひめ》と|云《い》ふのだよ。それが|妾《わし》の|名《な》を|騙《かた》つて、あんな|事《こと》をやつたのだ。|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》は|馬鹿《ばか》だから、あまり|御光《ごくわう》が|強《つよ》いので|見分《みわけ》けがつかず|贋者《にせもの》を|掴《つか》んで|居《を》つたのだ。|何《なに》は|兎《と》もあれ、この|高姫《たかひめ》の|隠《かく》れ|家《が》|迄《まで》いらつしやい。|決《けつ》して|利益《ため》にならぬ|事《こと》は|云《い》はぬ。|皆《みんな》|天国《てんごく》へ|助《たす》けてやるのだからな』
シヤル『オイ、ヘルにケリナに、|六公《ろくこう》、|如何《どう》しようかな。|一《ひと》つ|此《この》|婆《ばば》アの|話《はなし》を|聞《き》いてやらうか』
|六造《ろくざう》『うん』
|高姫《たかひめ》『エー、そりや|何《なに》を|云《い》ふのだ。|此《この》|婆《ばば》の|話《はなし》を|聞《き》いてやらうも、|糞《くそ》もあつたものかい。|底津磐根《そこついはね》の|弥勒様《みろくさま》の|生宮《いきみや》だ。|何《なん》と|云《い》つても|助《たす》けにや|措《を》かぬ、さア|来《き》なされ|来《き》なされ。これ、|其処《そこ》な|若《わか》いお|女中《ぢよちう》、お|前《まへ》は|一寸《ちよつと》|見《み》た|所《とこ》で|仲々《なかなか》|気《き》が|利《き》いて|居《ゐ》る。|事《こと》と|品《しな》とによつたら|妾《わし》の|脇立《わきだち》に|使《つか》つてやらうまいものでもない。|何《なに》せよ、|曇《くも》りきつた|霊《みたま》が|直《すぐ》に|天国《てんごく》に|行《ゆ》くと|云《い》ふのは|余《あんま》り|気《き》が|良《よ》すぎる。|中途《ちうと》で|墜落《おち》る|様《やう》な|事《こと》をしてはならず、|苦労《くらう》の|花《はな》が|咲《さ》く|世《よ》の|中《なか》だから……|天国紫微宮《てんごくしびきう》から|人間《にんげん》の|姿《すがた》となつて|降《くだ》つて|来《き》たのだ。そして|苦労《くらう》の|手本《てほん》を|見《み》せて|皆《みな》に|改心《かいしん》させる|役《やく》だぞえ。お|前《まへ》も|出《で》て|来《き》て|苦労《くらう》をしなさい』
ケリナ『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|実《じつ》の|所《ところ》は|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》|迄《まで》|参《まゐ》りました|所《ところ》、まだ|生命《いのち》が|現世《げんせ》に|残《のこ》つて|居《を》るから|帰《かへ》れ、と|仰有《おつしや》つたから|帰《かへ》つて|来《き》たのです。|最早《もはや》|此処《ここ》は|現界《げんかい》で|厶《ござ》いますか』
|高姫《たかひめ》『きまつた|事《こと》だよ。|此処《ここ》は|現界《げんかい》も|現界《げんかい》、|大現界《おほげんかい》だ。|現幽神《げんいうしん》|三界《さんかい》の|救《すく》ひ|主《ぬし》だから|先《ま》づ|現界《げんかい》の|人間《にんげん》から|助《たす》けてやるのだよ』
ヘル『あああ、|何《なに》が|何《なん》だか|訳《わけ》が|分《わか》らなくなつて|来《き》た。|然《しか》しさう|聞《き》くと|現界《げんかい》の|様《やう》にもあるし、も|一《ひと》つ|心《こころ》の|底《そこ》に|疑念《ぎねん》も|残《のこ》つて|居《ゐ》る。こんな|道端《みちばた》に|立《た》つて|居《ゐ》た|所《ところ》が|仕方《しかた》が|無《な》い。|先《ま》づお|婆《ば》アの|後《あと》に|跟《つ》いて|何《なん》でも|可《い》いから|探《さぐ》らして|貰《もら》ふ|事《こと》にしようかい。のう|二男一女《になんいちによ》の|御連中《ごれんちう》』
|高姫《たかひめ》『|探《さぐ》らして|貰《もら》ふなんて、そりや|何《なに》を|云《い》ふのだい。|神《かみ》の|教《をしへ》は|正真一方《しやうじきいつぱう》だ。|水晶《すいしやう》の|様《やう》につきぬけて|居《を》るのだぞえ。スパイか|何《なん》ぞの|様《やう》に|探《さぐ》るなんて、|心《こころ》の|穢《きたな》い|事《こと》を|云《い》ふのぢやありませぬわい。さアさア|来《き》なさい』
と|羽《は》ばたきし|乍《なが》ら|欣々《いそいそ》と|東《ひがし》を|指《さ》して|小径《こみち》を|歩《あゆ》み|出《だ》した。|四人《よにん》は|兎《と》も|角《かく》、|婆《ばあ》さまの|館《やかた》に|行《い》つて|休息《きうそく》せむと|重《おも》い|足《あし》を|引摺《ひきず》り|乍《なが》ら|跟《つ》いて|行《ゆ》く。
|谷川《たにがは》の|辺《ほとり》に|萱《かや》で|葺《ふ》いた|二間作《ふたまづく》りの|小《ささや》かな|家《いへ》が|建《た》つて|居《ゐ》た。これが|高姫《たかひめ》の|中有界《ちううかい》に|於《お》ける|住家《すみか》である。ヒヨヒヨした|板《いた》の|一枚橋《いちまいばし》を|危《あやふ》く|渡《わた》り|乍《なが》ら|漸《やうや》くにして|四人《よにん》は|高姫《たかひめ》の|館《やかた》にやつと|着《つ》いた。
(大正一二・三・一四 旧一・二七 於竜宮館 北村隆光録)
第二篇 |宿縁妄執《しゆくえんまうしふ》
第六章 |高圧《かうあつ》〔一四三六〕
|高姫《たかひめ》に|導《みちび》かれて|四人《よにん》の|男女《なんによ》は、|細谷川《ほそたにがは》の|一本橋《いつぽんばし》を|渡《わた》り、|二間造《ふたまづく》りの|小《ちひ》さき|家《いへ》に|導《みちび》かれた。|高姫《たかひめ》の|精霊《せいれい》は|既《すで》に|地獄《ぢごく》に|籍《せき》を|置《お》き、|直《ただ》ちに|地獄《ぢごく》に|下《くだ》るべき|自然《しぜん》の|資格《しかく》が|備《そな》はつてゐる。|併《しか》し|乍《なが》ら|仁慈無限《じんじむげん》の|大神《おほかみ》は|如何《いか》にもして|其《その》|精霊《せいれい》を|救《すく》ひやらむと|三年《さんねん》の|間《あひだ》、ブルガリオの|修行《しうぎやう》を|命《めい》じ|給《たま》ふたのである。|総《すべ》て|精霊《せいれい》の|内分《ないぶん》は|忽《たちま》ち|外分《ぐわいぶん》に|現《あら》はれるものである。|外分《ぐわいぶん》とは|概《がい》して|言《い》へば|身体《しんたい》、|動作《どうさ》、|面貌《めんばう》、|言語《げんご》|等《とう》を|指《さ》すのである。|内分《ないぶん》とは|善愛《ぜんあい》の|想念《さうねん》や|情動《じやうどう》である。
|地獄界《ぢごくかい》に|籍《せき》を|有《いう》する|精霊《せいれい》は|最《もつと》も|尊大《そんだい》|自我《じが》の|心《こころ》|強《つよ》く、|他《た》に|対《たい》して|軽侮《けいぶ》の|念《ねん》を|持《ぢ》し|之《これ》を|外部《ぐわいぶ》に|不知不識《しらずしらず》の|間《あひだ》に|現《あら》はすものである。|自分《じぶん》を|尊敬《そんけい》せざるものに|対《たい》しては|忽《たちま》ち|威喝《ゐかつ》を|現《あら》はし、|又《また》は|憎悪《ぞうを》の|相好《さうがう》や|復讐的《ふくしうてき》の|相好《さうがう》を|現《あら》はすものである。
|故《ゆゑ》に|一言《いちごん》たりとも|其《その》|意《い》に|合《あ》はざる|事《こと》を|言《い》ふ|者《もの》は、|忽《たちま》ち|慢心《まんしん》だとか|悪《あく》だとか|虚偽《きよぎ》だとか、いろいろの|名称《めいしよう》を|附《ふ》して、|之《これ》を|叩《たた》きつけむとするのが|地獄界《ぢごくかい》に|籍《せき》を|置《お》くものの|情態《じやうたい》である。
|現界《げんかい》に|於《お》ける|人間《にんげん》も|亦《また》、|顕幽一致《けんいういつち》の|道理《だうり》に|依《よ》つて|同様《どうやう》である。|現界《げんかい》、|霊界《れいかい》を|問《と》はず|地獄《ぢごく》にあるものは、|全《すべ》て|世間愛《せけんあい》と|自己《じこ》よりする、|諸《もろもろ》の|悪《あく》と|諸《もろもろ》の|虚偽《きよぎ》に|浸《ひた》つてゐるが|故《ゆゑ》に、|其《その》|心《こころ》と|自己《じこ》の|心《こころ》と|相似《あひに》たるものとでなければ、|心《こころ》の|相応《さうおう》せないものと|一緒《いつしよ》に|居《を》る|事《こと》は|実《じつ》に|苦《くる》しく、|呼吸《こきふ》も|自由《じいう》に|出来《でき》ない|位《くらゐ》である。|併《しか》し|乍《なが》ら|悪《あく》|即《すなは》ち|地獄《ぢごく》に|於《お》ける|者《もの》は|悪心《あくしん》を|以《もつ》て|悪《あく》を|行《おこな》ひ、|又《また》|悪《あく》を|以《もつ》て|総《すべ》ての|真理《しんり》を|表明《へうめい》したり、|説明《せつめい》せむとするものである。|故《ゆゑ》に|其《その》|説明《せつめい》には|矛盾《むじゆん》|撞着《どうちやく》|支離滅裂《しりめつれつ》の|箇所《かしよ》ばかりで、|正《ただ》しき|人間《にんげん》や|精霊《せいれい》の|眼《め》から|見《み》れば、|実《じつ》に|不都合《ふつがふ》|極《きは》まるものである。|斯《か》かる|悪霊《あくれい》が|地獄界《ぢごくかい》に|自《みづか》ら|進《すす》んで|堕《お》ちゆく|時《とき》は、|其処《そこ》に|居《を》る|数多《あまた》の|悪霊《あくれい》は、|彼等《かれら》の|上《うへ》に|集《あつ》まり|来《きた》り、|峻酷獰猛《しゆんこくだうまう》なる|責罰《せきばつ》を|加《くは》へむとするものである。|其《その》|有様《ありさま》は|現界《げんかい》に|於《お》ける|法律《はふりつ》|組織《そしき》と|略《ほぼ》|類似《るゐじ》して|居《ゐ》る。|総《すべ》て|悪《あく》を|罰《ばつ》するものは|悪人《あくにん》でなければならぬ。|虚偽《きよぎ》、|譎詐《きつさ》、|獰猛《だうまう》、|峻酷《しゆんこく》|等《とう》の|悪徳《あくとく》|無《な》きものは|到底《たうてい》|悪人《あくにん》を|罰《ばつ》することは|出来得《できえ》ないのである。|併《しか》し|乍《なが》ら|現界《げんかい》と|幽界《いうかい》と|異《こと》なる|点《てん》は|現界《げんかい》にては|大悪《だいあく》が|発見《はつけん》されなかつたり、|又《また》|善人《ぜんにん》が|悪《あく》と|誤解《ごかい》されて|責罰《せきばつ》を|受《う》くる|事《こと》が|沢山《たくさん》にあるに|反《はん》し、|地獄界《ぢごくかい》に|於《おい》ては、|悪《あく》|其《その》|物《もの》が|自《みづか》ら|進《すす》んで|堕《お》ち|行《ゆ》くのであるから、|恰《あだか》も|衡《はかり》にかけた|如《ごと》く、|少《すこ》しの|不平衡《ふへいかう》も|無《な》いものである。
|而《しか》して|獰猛《だうまう》と|峻酷《しゆんこく》の|内分《ないぶん》も|亦《また》|外分《ぐわいぶん》|即《すなは》ち|相好《さうがう》の|上《うへ》に|現《あら》はるるものである。|故《ゆゑ》に|地獄《ぢごく》に|墜《お》ちて|居《を》る|邪鬼《じやき》|及《および》|邪霊《じやれい》は|何《いづ》れも|其《その》|内分相応《ないぶんさうおう》の|面貌《めんばう》を|保《たも》ち|生気《せいき》|無《な》き|死屍《しし》の|相《さう》を|現《げん》じ、|疣《いぼ》や|痣《ほくろ》、|大《だい》なる|腫物《しゆもつ》|等《とう》|一見《いつけん》して|実《じつ》に|不快《ふくわい》な|感《かん》じを|与《あた》ふる|者《もの》である。|然《しか》し|之《これ》は|天国《てんごく》に|到《いた》るべき|天人《てんにん》の|目《め》より|其《その》|内分《ないぶん》を|透《とほ》して|見《み》たる|形相《ぎやうさう》であつて、|地獄《ぢごく》の|邪霊《じやれい》|相互《さうご》の|間《あひだ》にては|決《けつ》して|余《あま》り|醜《みぐる》しく|見《み》えない|者《もの》である。|何故《なぜ》なれば|彼等《かれら》は|皆《みな》|虚偽《きよぎ》を|以《もつ》て|真《しん》と|信《しん》じ、|悪《あく》を|以《もつ》て|善《ぜん》と|感《かん》じて|居《ゐ》るからである。|時《とき》あつて|天上《てんじやう》より|大神《おほかみ》の|光明《くわうみやう》、|地獄界《ぢごくかい》を|照《てら》す|時《とき》は、|彼等《かれら》は|忽《たちま》ち|珍姿怪態《ちんしくわいたい》を|曝露《ばくろ》し、|恰《あだか》も|妖怪《えうくわい》の|如《ごと》き|相好《さうがう》を|現《あら》はし、|自《みづか》ら|其《その》|姿《すがた》の|恐《おそ》ろしきに|驚《おどろ》くものである。|併《しか》し|乍《なが》ら|天界《てんかい》より|光明《くわうみやう》|下《くだ》り|来《きた》る|時《とき》は、|朦朧《もうろう》たる|地獄《ぢごく》は|層一層《そういつそう》|暗黒《あんこく》の|度《ど》を|増《ま》すものである。|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|信真《しんしん》の|光明《くわうみやう》は|悪《あく》と|虚偽《きよぎ》とに|充《みた》されたる|地獄《ぢごく》では|益々《ますます》|暗黒《あんこく》となるものである。|故《ゆゑ》に|如何《いか》なる|神《かみ》の|稜威《みいづ》も|善徳《ぜんとく》も、|信真《しんしん》の|光明《くわうみやう》も、|地獄《ぢごく》に|籍《せき》を|置《お》きたる|人間《にんげん》より|見《み》たる|時《とき》は、|自分《じぶん》の|住《ぢゆう》する|世界《せかい》よりは|暗黒《あんこく》に|見《み》え、|真理《しんり》は|虚偽《きよぎ》と|感《かん》じ、|愛善《あいぜん》の|徳《とく》は|憎悪《ぞうを》と|感《かん》ずるに|至《いた》るものである。|故《ゆゑ》に|大部分《だいぶぶん》|地獄界《ぢごくかい》に|堕落《だらく》せる|現代人《げんだいじん》が、|大本《おほもと》の|光明《くわうみやう》を|見《み》て|却《かへつ》て|之《これ》を|暗黒《あんこく》となし、|至善《しぜん》|至美《しび》の|教《をしへ》を|以《もつ》て|至醜《ししう》|至悪《しあく》の|教理《けうり》となし、|或《あるひ》は|邪教《じやけう》と|誹《そし》るに|至《いた》るは、|其《その》|人《ひと》の|内分相応《ないぶんさうおう》の|理《り》に|依《よ》つて|寧《むし》ろ|当然《たうぜん》と|謂《ゐ》ふ|可《べ》きものである。
|高姫《たかひめ》は|中有界《ちううかい》に|放《はな》たれ|精霊《せいれい》の|修養《しうやう》を|積《つ》むべき|期間《きかん》を|与《あた》へられたるにも|拘《かかは》らず、|容易《ようい》に|地獄《ぢごく》の|境涯《きやうがい》を|脱《だつ》する|事《こと》を|得《え》ず、|虚偽《きよぎ》を|以《もつ》て|真理《しんり》と|為《な》し、|悪《あく》を|以《もつ》て|善《ぜん》と|信《しん》じ、|一心不乱《いつしんふらん》に|善《ぜん》の|道《みち》を|拡充《くわくじゆう》せむと|車輪《しやりん》の|活動《くわつどう》を|続《つづ》けて|居《ゐ》るのである。|類《るゐ》を|以《もつ》て|集《あつ》まるとか|云《い》つて、|自分《じぶん》の|内分《ないぶん》に|相似《あひに》たるものでなければ、|到底《たうてい》|相和《あひわ》する|事《こと》は|霊界《れいかい》に|於《おい》ては|出来《でき》ない。|現界《げんかい》ならばいろいろと|巧言令色《かうげんれいしよく》、|或《あるひ》は|虚偽《きよぎ》なぞに|由《よ》つて|内分《ないぶん》の|幾分《いくぶん》かを|包《つつ》み|得《う》るが|故《ゆゑ》に|高姫《たかひめ》の|教《をしへ》を|聞《き》くものも|多少《たせう》はあつたけれども、|最早《もはや》|霊界《れいかい》に|来《きた》つては|自分《じぶん》と|相似《さうじ》たるものでなければ、|共《とも》に|共《とも》に|生涯《しやうがい》を|送《おく》る|事《こと》が|出来《でき》なくなつてゐた。|併《しか》し|乍《なが》ら|高姫《たかひめ》は|依然《いぜん》として|現界《げんかい》に|居《を》るものとのみ|考《かんが》へ、|八衢《やちまた》の|守衛《しゆゑい》が|言葉《ことば》も|半信半疑《はんしんはんぎ》の|体《てい》に|取扱《とりあつか》ふてゐた。|霊界《れいかい》へ|来《き》てから|殆《ほとん》ど|一ケ年《いつかねん》、|月日《つきひ》を|経《ふ》るに|従《したが》つて|守衛《しゆゑい》の|言葉《ことば》は|少《すこ》しも|意《い》に|止《と》めなくなり、|益々《ますます》|悪化《あくくわ》し|乍《なが》らも|自分《じぶん》の|教《をしへ》は|至善《しぜん》である、|自分《じぶん》の|動作《どうさ》は|神《かみ》に|叶《かな》ひしものである、|而《しか》して|自分《じぶん》は|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》で、|天地《てんち》を|総轄《そうかつ》したる|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒《おほみろく》の|神《かみ》の|神柱《かみばしら》と|固《かた》く|信《しん》じてゐるのだから|堪《たま》らない。さて|高姫《たかひめ》は|四人《よにん》の|男女《なんによ》を|吾《わが》|居間《ゐま》に|導《みちび》き、|自分《じぶん》は|正座《しやうざ》に|傲然《がうぜん》としてかまへ、|諄々《じゆんじゆん》として|支離滅裂《しりめつれつ》なる|教《をしへ》を|説《と》き|初《はじ》めた。
|高姫《たかひめ》『|皆《みな》さま、よくまア|日出神《ひのでのかみ》の|教《をしへ》に|従《したが》つて|此処《ここ》へ|跟《つ》いて|厶《ござ》つた。お|前《まへ》は|余程《よつぽど》|因縁《いんねん》の|深《ふか》いお|方《かた》だぞえ。こんな|結構《けつこう》な|教《をしへ》は|鉄《かね》の|草鞋《わらぢ》が|減《へ》る|所《ところ》|迄《まで》|世界中《せかいぢう》を|探《さが》し|廻《まは》つても|外《ほか》にはありませぬぞや。そして|喜《よろこ》びなされ、|此《この》|高姫《たかひめ》は|高天原《たかあまはら》の|第一霊国《だいいちれいごく》のエンゼルの|身魂《みたま》で、|根本《こつぽん》の|根本《こつぽん》の|大神《おほかみ》の|生宮《いきみや》だから、|天《てん》も|構《かま》へば|地《ち》も|構《かま》ひ、|何処《どこ》も|彼処《かしこ》も|一《ひと》つに|握《にぎ》つた|太柱《ふとばしら》、|扇《あふぎ》で|譬《たと》へたら|要《かなめ》だぞえ。|時計《とけい》で|喩《たとへ》たら|竜頭《りうづ》の|様《やう》な|者《もの》だ。|扇《あふぎ》に|要《かなめ》が|無《な》ければバラバラと|潰《つぶ》れて|了《しま》ふ。|時計《とけい》に|竜頭《りうづ》が|無《な》ければ|捻《ねぢ》をかける|事《こと》も|出来《でき》ますまい。|夫《それ》だから|此《この》|高姫《たかひめ》は|根本《こつぽん》の|根本《こつぽん》の|世界《せかい》に|又《また》と|無《な》い|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》ぢやから、よく|聞《き》きなされや。お|前達《まへたち》は|泥坊《どろばう》をしたり、バラモンの|軍人《ぐんじん》になつたり|所在《あらゆる》|悪《あく》をやつて|来《き》たのだから、|直様《すぐさま》|地獄《ぢごく》へ|堕《おと》すべき|代物《しろもの》だけれども、|此《こ》の|高姫《たかひめ》の|生宮《いきみや》の|申《まを》す|事《こと》をよく|聞《き》いて|行《おこな》ひを|致《いた》したなれば|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|第一天国《だいいちてんごく》へでも|助《たす》けて|上《あ》げますぞや』
と|止《と》め|度《ど》もなく|大法螺《おほぼら》を|吹《ふ》き|立《た》てる。|併《しか》し|乍《なが》ら|高姫《たかひめ》|自身《じしん》は|決《けつ》して|自分《じぶん》の|言葉《ことば》は|大法螺《おほぼら》だとは|思《おも》つて|居《ゐ》ない。|正真正銘《しやうしんしやうめい》|一分一厘《いちぶいちりん》|間違《まちが》ひのない|神《かみ》の|慈言《じげん》だと|固《かた》く|信《しん》じて|居《ゐ》るのだ。
ヘル『モシ|高姫《たかひめ》|様《さま》、|貴女《あなた》が|夫《そ》れ|程《ほど》|偉《えら》い|御方《おかた》なら|何故《なぜ》|天《てん》へ|上《あが》つて|下界《げかい》を|御守護《ごしゆご》|遊《あそ》ばさぬのですか。|此《この》|様《やう》な|山《やま》の【ほでら】に|御殿《ごてん》を|建《た》てて|吾々《われわれ》の|様《やう》な|人間《にんげん》を|一人《ひとり》や|二人《ふたり》|捉《つか》まへて|説教《せつけう》をなさるとは、|神《かみ》としては|余《あま》り|迂濶《うくわつ》ぢやないですか。|世界中《せかいぢう》には|幾億万《いくおくまん》とも|知《し》れぬ|精霊《せいれい》があるにも|拘《かかは》らず、|根本《こつぽん》の|大神様《おほかみさま》の|生宮《いきみや》さまが|左様《さやう》な|事《こと》をなさるとは、|些《ちつ》と|合点《がつてん》が|参《まゐ》りませぬワ。|要《えう》するに|高姫《たかひめ》さまの|法螺《ほら》では|厶《ござ》いますまいかなア』
|高姫《たかひめ》は|忽《たちま》ち|地獄的《ぢごくてき》|精神《せいしん》になり、|軽侮《けいぶ》と|威喝《ゐかつ》と|憎悪《ぞうを》の|面相《めんさう》を|表《あら》はし、|且《かつ》プンプンとふくれ|出《だ》し|言葉《ことば》|迄《まで》|地獄《ぢごく》の|相《さう》を|現《あら》はして|来《き》た。
|高姫《たかひめ》『コレお|前《まへ》は|何《なん》といふ|途方《とはう》もない|事《こと》を|言《い》ふのだ。ホンに|虫《むし》【けら】|同然《どうぜん》のつまらぬ|代物《しろもの》だな。|勿体《もつたい》なくも|神《かみ》の|生宮《いきみや》を|軽蔑《けいべつ》するとは|以《もつ》ての|外《ほか》ぢや。そんな|不量見《ふれうけん》な|事《こと》では|此《この》|生宮《いきみや》は|許《ゆる》しませぬぞや。|直《ただ》ちに|地獄《ぢごく》へ|堕《おと》してやるから|其《その》|積《つも》りでゐなされよ』
と|獰猛《だうまう》なる|形相《ぎやうさう》に|憤怒《ふんぬ》の|色《いろ》を|現《あら》はし、|歯《は》をキリキリと|噛《か》みしめて、|眼《め》を|怒《いか》らし|睨《ね》めつけて|居《ゐ》る。
ヘルは|高姫《たかひめ》の|面貌《めんばう》を|見《み》てギヨツとしながら、|屹度《きつと》|胸《むね》をすゑ、|肱《ひぢ》を|張《は》りわざとに|体《からだ》を|前《まへ》の|方《はう》へ|突《つ》き|出《だ》し、|胸《むね》の|動悸《どうき》をかくし、
ヘル『アハハハハハ|吐《ぬか》したりな|高姫《たかひめ》、|其《その》|鬼面《おにづら》は|何《なん》の|事《こと》、|仁慈無限《じんじむげん》の|神様《かみさま》は|些《ちつ》と|許《ばか》り|気《き》に|入《い》らぬ|事《こと》を|云《い》つたからとて、そんな|六ケ敷《むつかし》い|相好《さうがう》はなさりませぬぞや。|神《かみ》は|愛《あい》と|善《ぜん》と|信《しん》とでは|厶《ござ》らぬか。|仮《かり》にも|人《ひと》を|威喝《ゐかつ》、|軽侮《けいぶ》、|憎悪《ぞうを》するやうな|事《こと》で、|何《ど》うして|正《ただ》しい|神《かみ》と|云《い》へますか。|御控《おひか》へ|召《め》され』
と|呶鳴《どな》りつけた。
|高姫《たかひめ》は|烈火《れつくわ》の|如《ごと》く|憤《いきどほ》り、|相好《さうがう》|益々《ますます》|獰猛《だうまう》となり、さも|憎々《にくにく》しげに|睨《ね》めつけ|乍《なが》ら、
|高姫《たかひめ》『コリヤ、バラモンの|小盗人《こぬすと》|奴《め》、|何《なに》を|云《い》ふのだ。|誠《まこと》の|生神《いきがみ》は|貴様《きさま》のやうな|盲《めくら》|聾《つんぼ》に|分《わか》つて|堪《たま》らうか。お|前《まへ》は|心《こころ》の|中《うち》に|悪《あく》と|云《い》ふ|地獄《ぢごく》を|築《きづ》き|上《あ》げてゐるから、|此《この》|日出神《ひのでのかみ》の|円満《ゑんまん》なる|美貌《びばう》が|怖《こは》く|見《み》えたり、|善言美詞《ぜんげんびし》が|悪言暴語《あくげんばうご》の|如《ごと》く|聞《きこ》ゆるのだ。|身魂《みたま》の|階級《かいきふ》が|違《ちが》ふと|悪《あく》が|善《ぜん》に|見《み》え、|善《ぜん》が|悪《あく》に|見《み》えたりするものだ』
と|自分《じぶん》の|悪《あく》と|虚偽《きよぎ》とにより|地獄《ぢごく》に|堕《お》ち|居《を》る|事《こと》を|知《し》らず、|無性矢鱈《むしやうやたら》に|他《た》に|対《たい》して|悪呼《あくよば》はりをしてゐる。|人間《にんげん》も|精霊《せいれい》も|此処《ここ》|迄《まで》|暗愚《あんぐ》になつては|如何《いか》なる|神《かみ》の|力《ちから》も|之《これ》を|救《すく》ふ|事《こと》は|出来《でき》ないものである。
ヘルは|高姫《たかひめ》の|前《まへ》に|首《くび》をヌツと|突《つ》き|出《だ》し、|背水《はいすゐ》の|陣《ぢん》を|張《は》つたつもりで、|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》め、
ヘル『|今一言《いまいちごん》、|何《なん》なと|言《い》つて|見《み》よ。この|鉄拳《てつけん》が|貴様《きさま》の|脳天《なうてん》に|障《さは》るや|否《いな》や|木端微塵《こつぱみぢん》にして|呉《く》れるぞよ』
との|勢《いきほひ》を|示《しめ》してゐる。|流石《さすが》の|高姫《たかひめ》も|其《その》|権幕《けんまく》に|辟易《へきえき》したか、ヘルに|向《むか》つては|夫《そ》れ|切《き》り|相手《あひて》にしなかつた。ヘルは|振《ふ》り|上《あ》げた|拳《こぶし》のやり|所《どころ》がなくなつて、|首尾《しゆび》|悪《わる》げに|元《もと》へ|直《なほ》した。
|高姫《たかひめ》はニヤリと|笑《わら》ひ|乍《なが》らさも|横柄《わうへい》な|面付《つらつき》して|後《うしろ》の|三人《さんにん》を|見下《みくだ》し、
|高姫《たかひめ》『コレ|六公《ろくこう》にシヤル、ケリナ、|何《なん》と|云《い》つても|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》|性来《しやうらい》の|事《こと》より|出来《でき》ぬのだから、|妾《わたし》の|云《い》ふ|事《こと》が|耳《みみ》に|入《はい》らぬ|人《ひと》は、|如何《どう》しても|地獄行《ぢごくゆ》きぢやぞえ。|皆々《みなみな》、どうだい、|一《ひと》つ|此《この》|生宮《いきみや》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて|天国《てんごく》へ|上《のぼ》る|気《き》はないか』
ケリナ『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|到底《たうてい》|妾《わたし》のやうな|罪《つみ》|深《ふか》き|人間《にんげん》は|自分《じぶん》の|造《つく》つた|罪業《ざいごふ》に|依《よ》つて|相応《さうおう》の|地獄《ぢごく》へ|行《ゆ》かねばなりますまい。|何程《なにほど》|貴女様《あなたさま》が|天国《てんごく》へ|救《すく》ひ|上《あ》げてやらうと|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さつても、|身魂不相応《みたまふさうおう》の|所《ところ》へ|行《ゆ》くのは|苦《くる》しくて|堪《た》えられませぬ。|妾《わたし》は|現在《げんざい》の|儘《まま》|何時《いつ》|迄《まで》も|此《この》|世《よ》に|暮《くら》したいと|存《ぞん》じます』
|高姫《たかひめ》『ハテ、さて|解《わか》らぬ|方《かた》だなア。|神《かみ》が|御蔭《おかげ》をやらうと|思《おも》ふてつき|出《だ》して|居《を》るのに|受取《うけと》らぬと|云《い》ふ|事《こと》があるものか。|諺《ことわざ》にも……|天《てん》の|与《あた》ふるものを|取《と》らざれば|却《かへ》つて|災《わざはひ》|其《その》|身《み》に|及《およ》ぶ……といふ|事《こと》があるぢやないか。|何故《なぜ》|此《この》|生宮《いきみや》がつき|出《だ》した|神徳《しんとく》を|辞退《じたい》するのだい』
ケリナ『ハイ、|御親切《ごしんせつ》は|有難《ありがた》う|厶《ござ》いますが、|神様《かみさま》から|頂《いただ》いた|神徳《しんとく》なれば|自分《じぶん》がお|返《かへ》し|申《まを》さぬ|限《かぎ》り|決《けつ》して|取上《とりあ》げらるる|事《こと》は|厶《ござ》いませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|人間《にんげん》さまから|頂《いただ》いた|神徳《しんとく》は、|何時《なんどき》|取返《とりかへ》されるか|知《し》れませぬから、|初《はじ》めから|頂《いただ》かない|方《はう》が、|双方《さうはう》の|利益《りえき》で|厶《ござ》いませう』
|高姫《たかひめ》『コレ、ケリナ、|何《なん》と|云《い》ふ|解《わか》らぬ|事《こと》をお|前《まへ》は|云《い》ふのだい。|最前《さいぜん》からも|云《い》つた|通《とほ》り、|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒《おほみろく》さまの|生宮《いきみや》ぢやないか。|此《この》|生宮《いきみや》を|人間《にんげん》ぢやと|思《おも》ふて|居《を》るのが、テンカラ|間違《まちが》ひぢやぞえ。それだからお|前《まへ》は|改心《かいしん》が|足《た》らぬといふのだ。お|前《まへ》が|妾《わたし》の|館《やかた》へ|来《き》たのも|昔《むかし》の|昔《むかし》の|根本《こつぽん》の|古《ふる》き|神代《かみよ》から、|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》があつて|引寄《ひきよ》せられたのだ。お|前《まへ》の|大先祖《おほせんぞ》は|大将軍様《だいしやうぐんさま》を|苦《くる》しめた|十悪道《じふあくだう》の|身魂《みたま》ぢやから、|其《その》|罪《つみ》が|子孫《しそん》に|伝《つた》はり|今度《こんど》は|世《よ》の|立替立直《たてかへたてなほ》しにつれて、|大掃除《おほさうぢ》が|始《はじ》まるのだから、|悪《あく》の|系統《ひつぽう》の|身魂《みたま》は|焼《や》き|亡《ほろ》ぼし、|天地《てんち》の|間《あひだ》に|置《お》かぬやうにするのだから、|此《この》|生宮《いきみや》の|申《まを》す|間《うち》に|柔順《すなほ》に|聞《き》く|方《はう》が、お|主《ぬし》の|徳《とく》ぢやぞえ』
ケリナ『ハイ、|御親切《ごしんせつ》は|有難《ありがた》う|厶《ござ》いますが、|妾《わたし》には|大先祖《おほせんぞ》がどんな|事《こと》をして|居《を》つたか、|中先祖《ちうせんぞ》が|何《ど》うだつたか、そんな|事《こと》はテンと|解《わか》りませぬ。|私《わたし》は|私《わたし》で|信《しん》ずる|神様《かみさま》が|厶《ござ》いますから、|折角《せつかく》|乍《なが》ら|御辞退《ごじたい》を|致《いた》します』
|高姫《たかひめ》『ドークズの|身魂《みたま》といふものは|上《あ》げも|下《おろ》しもならぬものだなア。|人間《にんげん》の|分際《ぶんざい》として|根本《こつぽん》の|因縁《いんねん》が|解《わか》るものかいなア。それだから|此《この》|高姫《たかひめ》が|身魂調《みたましら》べをして|各自《めんめ》に|因縁《いんねん》|性来《しやうらい》を|表《あら》はし、|因縁《いんねん》だけの|御用《ごよう》を|仰《おほ》せつけるのだ。|先祖《せんぞ》からの|因縁《いんねん》|性来《しやうらい》が|解《わか》らぬやうな|事《こと》で、|何《ど》うして|底津岩根《そこついはね》の|大神様《おほかみさま》の|生宮《いきみや》の|御用《ごよう》が|勤《つと》まりますか。|神《かみ》の|申《まを》す|間《うち》に|柔順《すなほ》に|聞《き》いて|置《お》きなさらぬと|後《あと》で|後悔《こうくわい》を|致《いた》しても、|其処《そこ》になりたらモウ|神《かみ》は|知《し》りませぬぞや。マア|悠《ゆつく》りと|胸《むね》に|手《て》を|当《あ》てて|雪隠《せつちん》へでも|入《はい》つて|考《かんが》へて|来《き》なさい。アーア|一人《ひとり》の|氏子《うぢこ》を|誠《まこと》の|道《みち》に|導《みちび》かうと|思《おも》へば、|並《なみ》や|大抵《たいてい》の|事《こと》ぢやない。|乃木《のぎ》|大将《たいしやう》が|旅順口《りよじゆんこう》を|十万《じふまん》の|兵士《へいし》を|以《もつ》て|落《おと》したよりも|難《むつかし》いものだ。|針《はり》の|穴《あな》へ|駱駝《らくだ》を|通《とほ》すよりも|難《むつかし》い。これでは|神《かみ》も|骨《ほね》が|折《を》れるワイ。|盲《めくら》|聾《つんぼ》に|何程《なにほど》|結構《けつこう》な|事《こと》を|噛《か》んで|含《くく》めるやうに|言《い》ひ|聞《き》かしてやつても、|豚《ぶた》に|真珠《しんじゆ》、|猫《ねこ》に|小判《こばん》のやうなものだ。|憐《あは》れみ|玉《たま》へ|助《たす》け|玉《たま》へ、|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒様《おほみろくさま》』
と|掌《て》を|合《あは》し|一生懸命《いつしやうけんめい》にケリナ|姫《ひめ》の|改心《かいしん》を|祈《いの》つてゐる。シヤル、|六造《ろくざう》の|二人《ふたり》は|此《この》|問答《もんだふ》をポカンと|口《くち》を|開《あ》けた|儘《まま》|延《の》び|上《あが》つて|立膝《たてひざ》し|乍《なが》ら|聞《き》いてゐる。|暫《しばら》くは|土佐犬《とさいぬ》の|噛《か》み|合《あ》ひのやうな|光景《くわうけい》で|沈黙《ちんもく》の|幕《まく》が|下《お》りた。|其処《そこ》へ|銅羅声《どらごゑ》を|張《は》り|上《あ》げて|門《かど》の|戸《と》をブチ|割《わ》れる|程《ほど》|叩《たた》くものがある。
|高姫《たかひめ》はツと|立上《たちあが》り|四人《よにん》を|尻目《しりめ》にかけ|乍《なが》ら、|門《かど》の|戸《と》を|開《ひら》く|可《べ》く|表《おもて》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・三・一四 旧一・二七 於竜宮館二階 外山豊二録)
第七章 |高鳴《たかなり》〔一四三七〕
|七重八重《ななへやへ》|言葉《ことば》の|花《はな》は|咲《さ》きぬれど |実《み》の|一《ひと》つさへなき|山吹《やまぶき》の
|花《はな》にも|擬《まが》ふ|教《をし》へ|草《ぐさ》 インフエルノのどん|底《ぞこ》に
|霊魂《みたま》の|籍《せき》をおきながら |底津岩根《そこついはね》の|大神《おほかみ》の
|誠《まこと》|一《ひと》つの|太柱《ふとばしら》 |此《この》|世《よ》を|救《すく》ふ|義理天上《ぎりてんじやう》
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》と |信《しん》じ|切《き》つたる|高姫《たかひめ》は
|如何《いか》なる|尊《たふと》き|御教《みをしへ》も |吾《わが》|魂《たましひ》に|添《そ》はざれば
|一々《いちいち》これを|排斥《はいせき》し |変性男子《へんじやうなんし》の|生御霊《いくみたま》
|書《か》かせ|給《たま》へる|御教《みをしへ》を |所《ところ》まんだら|撰《よ》り|出《いだ》し
|自《おの》が|曇《くも》りし|心《こころ》より |勝手《かつて》|次第《しだい》に|解釈《かいしやく》し
|其《その》|身《み》に|憑《うつ》る|曲霊《まがたま》に |身《み》も|魂《たましひ》も|曇《くも》らされ
|唯《ただ》|一心《いつしん》に|神《かみ》の|為《た》め |世人《よびと》のためと|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|尽《つく》すぞ|果敢《はかな》けれ |妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》に
|魂《たま》を|抜《ぬ》かれて|中空《ちうくう》より |印度《いんど》の|国《くに》のカルマタの
|草《くさ》|茫々《ばうばう》と|生《は》え|茂《しげ》る |原野《げんや》に|危《あやふ》く|墜落《つゐらく》し
|其《その》|精霊《せいれい》は|身体《からたま》を |首尾《しゆび》よく|脱離《だつり》しブルガリオ
|八衢関所《やちまたせきしよ》に|到着《たうちやく》し |赤白《あかしろ》|二人《ふたり》の|門番《もんばん》が
|情《なさけ》によりて|解放《かいはう》され |天《あめ》の|八衢《やちまた》|遠近《をちこち》と
|彷徨《さまよ》ひ|廻《まは》りて|岩山《いはやま》の |麓《ふもと》に|庵《いほり》を|結《むす》びつつ
|冥土《めいど》へ|来《きた》る|精霊《せいれい》を |三途《せうづ》の|川《かは》の|脱衣婆《だついば》の
|気取《きどり》になつて|点検《てんけん》し |一々《いちいち》|館《やかた》へ|連《つ》れ|帰《かへ》り
|支離滅裂《しりめつれつ》の|教理《けうり》をば |口角《こうかく》|泡《あわ》を|飛《と》ばせつつ
|一心不乱《いつしんふらん》に|説《と》き|立《た》てる |其《その》|熱心《ねつしん》は|天《てん》を|焼《や》き
|地《ち》を|焦《こ》がさむず|勢《いきほひ》に |遉《さすが》|慈愛《じあい》の|大神《おほかみ》も
|救《すく》はむよしもなきままに |三年《みとせ》の|間《あひだ》|高姫《たかひめ》が
|心《こころ》のままに|放任《はうにん》し |眼《まなこ》を|閉《と》ぢて|自《おのづか》ら
|眼醒《めさ》むる|時《とき》を|待《ま》ち|給《たま》ふ かくも|畏《かしこ》き|大神《おほかみ》の
|大御心《おほみこころ》を|覚《さと》り|得《え》ず |吾《わが》|身《み》に|憑《うつ》る|精霊《せいれい》は
|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》の|神霊《かむみたま》 |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》
|底津岩根《そこついはね》の|大神《おほかみ》と |曲《まが》の|霊《みたま》に|騙《たばか》られ
|信《しん》じ|居《ゐ》るこそ|憐《あは》れなり |八衢街道《やちまたかいだう》の|真中《まんなか》で
ふと|出会《でつくは》した|四人連《よにんづ》れ |言葉《ことば》|巧《たくみ》に|誘《いざな》ひて
|己《おの》が|館《やかた》へ|連《つ》れ|帰《かへ》り |心《こころ》をこめて|天国《てんごく》へ
|救《すく》ひやらむと|気《き》を|焦《いら》ち |力《ちから》を|尽《つく》す|高姫《たかひめ》が
|心《こころ》を|無《む》にしてバラモンの ヘルやケリナが|反抗《はんかう》し
|互《たがひ》に|顔《かほ》を|睨《にら》み|鯛《だい》 |小《ちひ》さき|部屋《へや》に|燻《くすぼ》つて
|白黒眼《しろくろまなこ》をつり|居《ゐ》たる |時《とき》しもあれや|表戸《おもてど》を
|叩《たた》くは|水鶏《くひな》か|泥坊《どろばう》か |但《ただし》は|嵐《あらし》の|行《ゆ》く|音《おと》か
|何《なに》は|兎《と》もあれ|門口《かどぐち》に |現《あら》はれ|実否《じつぴ》を|探《さぐ》らむと
|四人《よにん》の|男女《なんによ》を|睨《にら》みつつ |庭《には》に|下《お》り|立《た》ち|表戸《おもてど》を
ガラリと|開《あく》ればこは|如何《いか》に |髯《ひげ》|茫々《ばうばう》と|生《は》え|茂《しげ》る
バラモン|教《けう》の|落武者《おちむしや》が |泥坊《どろばう》|仲間《なかま》の|親分《おやぶん》と
|聞《き》くより|高姫《たかひめ》|目《め》を|瞠《みは》り |神《かみ》の|教《をしへ》の|言霊《ことたま》に
|誠《まこと》をさとし|助《たす》けむと |心《こころ》を|定《さだ》めて|誘《さそ》ひ|入《い》れ
|四人《よにん》の|前《まへ》に|引《ひ》き|来《きた》る ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸倍《さちは》ひて |一時《いちじ》も|早《はや》く|高姫《たかひめ》や
|其《その》|外《ほか》|五人《ごにん》の|精霊《せいれい》を |一日《ひとひ》も|早《はや》く|大神《おほかみ》の
|誠《まこと》の|教《をしへ》に|服《まつろ》はせ |救《すく》はせ|給《たま》へと|願《ね》ぎまつる
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ
|誠《まこと》の|道《みち》を|誤《あやま》りし |虚偽《きよぎ》に|満《み》ちたる|高姫《たかひめ》が
|教《をしへ》を|如何《いか》に|布《し》くとても |正《ただ》しき|神《かみ》の|在《ま》す|限《かぎ》り
|如何《いか》でか|目的《もくてき》|達《たつ》すべき さはさりながら|善人《ぜんにん》は
|愛《あい》と|善《ぜん》との|徳《とく》に|居《を》り |真《しん》と|信《しん》との|光明《くわうみやう》に
|浴《よく》し|仕《つか》ふるものなれば |善悪正邪《ぜんあくせいじや》は|忽《たちま》ちに
|心《こころ》の|空《そら》の|日月《じつげつ》に |映《うつ》ろひ|行《ゆ》けど|曲津見《まがつみ》に
|心《こころ》を|曇《くも》らす|精霊《せいれい》は |却《かへつ》て|悪《あく》を|善《ぜん》となし
|虚偽《きよぎ》をば|真理《しんり》と|誤解《ごかい》して |益々《ますます》|狂《くる》ふ|憐《あは》れさよ
|三五教《あななひけう》のピユリタンと |救《すく》はれきつた|精霊《せいれい》は
|如何《いか》でか|曲《まが》の|醜言《しこごと》に |尊《たふと》き|耳《みみ》を|傾《かたむ》けむや
|眼《まなこ》は|眩《くら》み|耳《みみ》ふさぎ |霊《みたま》の|汚《けが》れし|精霊《せいれい》は
|霊《たま》と|霊《たま》との|相似《さうじ》より |蟻《あり》の|甘《あま》きに|集《つど》ふごと
|喜《よろこ》び|勇《いさ》み|集《あつ》まりて |虚偽《きよぎ》と|不善《ふぜん》の|教《をしへ》をば
こよなきものと|確信《かくしん》し |随喜《ずゐき》|渇仰《かつかう》するものぞ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|大悲《だいひ》の|御心《みこころ》を
|量《はか》りまつりて|万斛《ばんこく》の |涙《なみだ》は|河《かは》と|流《なが》れゆく
|此《この》|河下《かはしも》は|三途川《せうづがは》 |脱衣婆々《だついばば》と|現《あら》はれて
|現幽《げんいう》|二界《にかい》の|精霊《せいれい》が |心《こころ》を|洗《あら》ふヨルダンの
|流《なが》れを|渡《わた》るぞ|憐《あは》れなる |此《この》|惨状《さんじやう》を|逸早《いちはや》く
|救《すく》はせ|給《たま》へと|瑞月《ずゐげつ》|王仁《おに》が |謹《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|赤心《まごころ》を |捧《ささ》げて|祈《いの》り|奉《たてまつ》る。
|高姫《たかひめ》は|今《いま》|来《き》た|男《をとこ》に|向《むか》ひ、|穴《あな》のあく|程《ほど》|其《その》|顔《かほ》を|打《う》ち|見守《みまも》りながら、
『ヤアお|前《まへ》の|面体《めんてい》には|殺気《さつき》が|溢《あふ》れて|居《ゐ》る。|大方《おほかた》|泥坊《どろばう》でもやつて|居《ゐ》るのぢやないかな』
『|是《これ》はしたり、|此処《ここ》へ|這入《はい》るや|否《いな》や|泥坊《どろばう》とは|恐《おそ》れ|入《い》ります。|成程《なるほど》|貴女《あなた》の|仰有《おつしや》る|通《とほ》り、|吾々《われわれ》は|元《もと》からの|泥坊《どろばう》では|厶《ござ》いませぬ。|月《つき》の|国《くに》ハルナの|都《みやこ》に|現《あら》はれたまふ|大黒主《おほくろぬし》の|御家来《ごけらい》、|鬼春別《おにはるわけ》のゼネラルのお|伴《とも》を|致《いた》し、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|進軍《しんぐん》の|真最中《まつさいちう》、|将軍《しやうぐん》の|部下《ぶか》|片彦《かたひこ》、|久米彦《くめひこ》が|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|治国別《はるくにわけ》の|言霊《ことたま》に|脆《もろ》くも|打《う》ち|破《やぶ》られ、|浮木《うきき》の|森《もり》に|引《ひ》き|返《かへ》し|来《きた》りたれば、|此処《ここ》に|軍隊《ぐんたい》を|二《ふた》つに|分《わか》ち、|一方《いつぱう》は|鬼春別《おにはるわけ》、|一方《いつぱう》はランチ、|各《おのおの》|三千騎《さんぜんき》を|引《ひ》き|率《つ》れ、ビクの|国《くに》を|蹂躙《じうりん》し、|次《つい》で|猪倉山《ゐのくらやま》に|陣営《ぢんえい》を|構《かま》へ、|武威《ぶゐ》を|八方《はつぱう》に|輝《かがや》かす|折《をり》しも、|又《また》もや|治国別《はるくにわけ》の|神軍《しんぐん》に|踏《ふ》み|破《やぶ》られ、|鬼春別《おにはるわけ》、|久米彦《くめひこ》の|両将軍《りやうしやうぐん》は|三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》|致《いた》され、|吾々《われわれ》は|解散《かいさん》の|厄《やく》に|遇《あ》ひ、|心《こころ》にも|無《な》き|剥《は》ぎ|取《と》り|泥坊《どろばう》を|彼方此方《あつちこつち》でやつて|居《ゐ》るもので|厶《ござ》る。|併《しか》し|私《わたし》が|泥坊《どろばう》だと|云《い》つてお|前《まへ》さまに|咎《とが》めらるる|道理《だうり》はありますまい。|泥坊《どろばう》は|泥坊《どろばう》としての|最善《さいぜん》を|尽《つく》し、|其《その》|商売《しやうばい》の|繁昌《はんじやう》を|計《はか》つて|居《ゐ》るのだから|泥坊呼《どろばうよ》ばはりはやめて|貰《もら》ひませうかい。|此方《こつち》が|泥坊《どろばう》なら|此処《ここ》に|居《を》る|四人《よにん》も|泥坊《どろばう》だ。|其《その》|外《ほか》|世界《せかい》の|奴《やつ》は|直接《ちよくせつ》|間接《かんせつ》の|違《ちが》ひこそあれ|泥坊根性《どろばうこんじやう》の|無《な》いものはない。いや|泥坊根性《どろばうこんじやう》の|無《な》いものは|無《な》いのみならず、|藁《わら》すべ|一本《いつぽん》なりと|泥坊《どろばう》せないものは|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》もありますまい』
|高姫《たかひめ》『オホホホホ。|泥坊《どろばう》にも|三分《さんぶ》の|理窟《りくつ》があるとか|云《い》つて、どうでも|理窟《りくつ》の|付《つ》くものだなア、|併《しか》し|乍《なが》らお|前《まへ》のやうに|泥坊《どろばう》を|自慢《じまん》らしく|云《い》ふものは|聞《き》いたことがない。|些《ちつ》と|恥《はぢ》を|知《し》りなさい。それだから|神様《かみさま》が「|今《いま》の|人間《にんげん》は|天《てん》の|賊《ぞく》だ、|泥坊《どろばう》の|世《よ》の|中《なか》だ」と|仰有《おつしや》るのだ。|遠慮《ゑんりよ》してコソコソやつて|居《ゐ》るのなら|可愛《かあい》らしい|所《ところ》もあるが、|大《おほ》きな|声《こゑ》で|泥坊《どろばう》だと|威張《ゐば》り|散《ち》らすやうになつてはもう|世《よ》も|末《すゑ》だぞへ。そこで|底津岩根《そこついはね》の|大神様《おほかみさま》が|今度《こんど》|立替《たてかへ》を|遊《あそ》ばし、|鬼《おに》も|大蛇《をろち》も|賊《ぞく》もないやうになさるのだよ。お|前《まへ》も|好《い》い|加減《かげん》に|改心《かいしん》なさらぬと|未来《みらい》の|程《ほど》が|怖《おそ》ろしいぞへ』
ベル『アハハハハ。|諺《ことわざ》にも「|猿《さる》の|尻笑《しりわら》ひ」と|云《い》ふ|事《こと》がありますぞや、|吾々《われわれ》は|泥坊《どろばう》といつても、|唯《ただ》|金銭《きんせん》|物品《ぶつぴん》を|泥坊《どろばう》する|許《ばか》りだ。それよりも|大泥坊《おほどうばう》、|否《いな》|天《てん》の|賊《ぞく》が|此処《ここ》に|一人《ひとり》あるやうだ。|鬼《おに》の|念仏《ねんぶつ》はこのベル、|根《ね》つから|聞《き》きたうは|厶《ござ》いませぬわい』
|高姫《たかひめ》『|天《てん》の|賊《ぞく》が|此処《ここ》に|一人《ひとり》|居《を》るとはそれや|誰《たれ》の|事《こと》だい。お|前《まへ》は|私《わたし》の|顔《かほ》を|睨《ね》めつけながら|天《てん》の|賊《ぞく》と|云《い》ふた|以上《いじやう》は、|誠生粋《まこときつすゐ》のこの|生宮《いきみや》を|取《と》り|違《ちが》ひして|天《てん》の|賊《ぞく》と|云《い》つたのだらうがな』
ベル『|勿論《もちろん》お|前《まへ》の|事《こと》だよ、よく|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|変性男子《へんじやうなんし》|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|生宮《いきみや》が、|大国常立尊《おほくにとこたちのみこと》の|伝達《でんたつ》|遊《あそ》ばした|神示《しんじ》を、そつと|腹《はら》に|締《し》め|込《こ》み、それを|自分《じぶん》の|物《もの》として|横領《わうりやう》して|居《ゐ》るぢやないか。そして|自分《じぶん》は|義理天上《ぎりてんじやう》だとか、|底津岩根《そこついはね》の|大神《おほかみ》の|生宮《いきみや》だとか|云《い》つて|得意《とくい》になつて|居《ゐ》るのは|実《じつ》に|天地《てんち》|容《い》れざる|大罪悪《だいざいあく》、|大虚偽《だいきよぎ》もこれに|越《こ》したるものはあるまい。それだからこのベルが|大泥坊《おほどうばう》|天《てん》の|賊《ぞく》と|云《い》つたのが、どこに|間違《まちが》ひが|厶《ござ》るかな、|不服《ふふく》とあらばベルの|前《まへ》で|説明《せつめい》をして|貰《もら》ひませう』
と|胡床《あぐら》をかき|言葉《ことば》|鋭《するど》く|詰《つめ》よつた。
|高姫《たかひめ》『ホホホホホ。ても|扨《さ》ても|分《わか》らぬ|男《をとこ》だな、|善《ぜん》|一《ひと》つの|誠生粋《まこときつすゐ》の|日本魂《やまとだましひ》の、|根本《こつぽん》の|根本《こつぽん》の|此《この》|世《よ》の|御先祖様《ごせんぞさま》の|憑《かか》らせたまふ|生宮《いきみや》に|対《たい》し|泥坊呼《どろばうよ》ばはりをするとは|無智《むち》にも|程《ほど》がある、お|前《まへ》のやうな|盲《めくら》|聾《つんぼ》が|娑婆《しやば》を|塞《ふさ》いで|居《ゐ》る|以上《いじやう》は|何時《いつ》になつても|神政成就《しんせいじやうじゆ》は|出来《でき》ませぬわい。|何《なん》と|云《い》ふても|霊《れい》が|地獄《ぢごく》に|堕《お》ちて|居《ゐ》るのだから、|人《ひと》の|眼《め》についている|塵《ちり》は|目《め》についても|己《おのれ》の|眼《まなこ》にある|梁《うつばり》は|目《め》に|入《はい》らぬと|見《み》える、これシヤル、|六造《ろくざう》、この|二人《ふたり》の|男《をとこ》を|見《み》て|改心《かいしん》なされや。|今《いま》が|肝腎《かんじん》の|時《とき》で|厶《ござ》いますぞえ。|人民《じんみん》の|分際《ぶんざい》として|善《ぜん》ぢやの|悪《あく》ぢやのとそれや|何《なに》を|云《い》ふのぢや。|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》にも「|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて、|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|分《わ》ける」とお|示《しめ》しになつて|居《ゐ》るぢやないか。|神様《かみさま》の|外《ほか》に|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|分《わ》けるものは|無《な》い。それも|根本《こつぽん》の|弥勒様《みろくさま》より|外《ほか》に|立分《たてわ》ける|者《もの》は|無《な》い、|枝《えだ》の|神《かみ》では|出来《でき》ない、それだから|根本《こつぽん》の|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をする|此《この》|高姫《たかひめ》の|言《い》ふことは|大神様《おほかみさま》の|御心《みこころ》だから、お|前《まへ》の|心《こころ》に|合《あ》はなくてもこの|高姫《たかひめ》の|云《い》ふ|通《とほ》り|素直《すなほ》になして|行《おこな》ひを|改《あらた》めさへすれば、|現界《げんかい》、|神界《しんかい》、|幽界《いうかい》、ともに|結構《けつこう》な|御用《ごよう》が|出来《でき》ますぞや』
|六造《ろくざう》『|高姫《たかひめ》さま、|何《なん》と|仰有《おつしや》つても|私《わたし》にはテンと|信用《しんよう》が|出来《でき》ませぬがな、お|前《まへ》の|御面相《ごめんさう》を|最前《さいぜん》から|考《かんが》へて|居《ゐ》るが、ちつとも|神様《かみさま》らしい|所《ところ》が|現《あら》はれて|居《を》りませぬ。|表向《おもてむき》にはニコニコとして|厶《ござ》るが、その|底《そこ》の|方《はう》に|何《なん》とも|云《い》へぬ|険悪《けんあく》な|相《さう》や、|憎悪《ぞうを》の|相《さう》が|現《あら》はれて|居《を》りますぞや。「|人間《にんげん》の|面貌《めんばう》は|心《こころ》の|索引《さくいん》」とか|云《い》ひまして、|何《ど》うしても|内分《ないぶん》は|包《つつ》む|事《こと》は|出来《でき》ませぬ、きつと|外分《ぐわいぶん》に|現《あら》はれて|来《く》るものですからなア』
|高姫《たかひめ》『アーアー、|何《ど》れもこれも|分《わか》る|霊《みたま》は|一人《ひとり》も|無《な》いわい。|神様《かみさま》も|仰有《おつしや》つた|筈《はず》だ「|誠《まこと》の|人《ひと》が|三人《さんにん》あつたら|三千世界《さんぜんせかい》の|立替立直《たてかへたてなほし》が|出来《でき》る」との|事《こと》、|今更《いまさら》|其《その》お|言葉《ことば》を|思《おも》ひ|出《だ》せば|実《じつ》に|感歎《かんたん》の|外《ほか》はない。|私《わたし》も|長《なが》らくこれ|程《ほど》|一生懸命《いつしやうけんめい》に|神様《かみさま》の|為《た》め、|世人《よびと》の|為《た》め、|粉骨砕身《ふんこつさいしん》の|活動《くわつどう》をして|来《き》たが|未《ま》だ|一人《ひとり》の|知己《ちき》を|得《う》る|事《こと》が|出来《でき》ないのか、|情《なさけ》なや|情《なさけ》なや ほんに|浮世《うきよ》が|嫌《いや》になつて|来《き》たわい』
シヤル『もし|高姫《たかひめ》|様《さま》、|私《わたし》はどこ|迄《まで》も|貴女《あなた》のお|言葉《ことば》を|信《しん》じます。|貴女《あなた》は|本当《ほんたう》の|根本《こつぽん》の|大神様《おほかみさま》の|生宮様《いきみやさま》に|間違《まちが》ひはありませぬ。|何卒《どうぞ》|私《わたし》を|貴女《あなた》のお|弟子《でし》にして|下《くだ》さいますまいか』
|高姫《たかひめ》『オホホホホ。|成程《なるほど》お|前《まへ》は|何処《どこ》ともなしに|気《き》の|利《き》いた|男《をとこ》だと|初《はじめ》から|見込《みこ》んで|置《お》いた。|矢張《やつぱ》り|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》の|目《め》は|違《ちが》はぬわい。これ|皆《みな》の|泥坊《どろばう》|共《ども》、|高姫《たかひめ》の|申《まを》す|事《こと》でも|誠《まこと》さへ|心《こころ》にありたら、このシヤルの|通《とほ》り|一遍《いつぺん》に|腹《はら》へ|入《はい》りますぞや。|分《わか》らぬのはお|前《まへ》の|心《こころ》が|曇《くも》つて|居《ゐ》るからであるぞや。ちと|御改心《ごかいしん》なされ、|足許《あしもと》から|鳥《とり》が|立《た》つぞや』
|斯《かか》る|所《ところ》へ|何処《いづく》ともなく、ブーウ ブーウと|山彦《やまひこ》を|轟《とどろ》かす|法螺貝《ほらがひ》の|声《こゑ》|近《ちか》づき|来《きた》る、ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・三・一四 旧一・二七 於竜宮館二階 加藤明子録)
第八章 |愛米《あいまい》〔一四三八〕
『|死《し》んでから|語呂《ごろ》つき|出《だ》した|法螺《ほら》の|貝《かひ》
|声《こゑ》|高姫《たかひめ》の|賤《しづ》が|伏家《ふせや》に』
『|内外《うちそと》にうなり|出《だ》したる|法螺《ほら》の|貝《かひ》
おどろきケリナ、ベル、シヤル、ヘル』
『|法螺《ほら》の|音《ね》を|聞《き》いて|高姫《たかひめ》|立上《たちあが》り
|胸《むね》|轟《とどろ》かす|茅屋《あばらや》の|戸口《とぐち》』
『|法螺《ほら》の|音《ね》は|近《ちか》くに|聞《きこ》え|又《また》|遠《とほ》く
|聞《きこ》えぬわいなと|神《かみ》を|恨《うら》めつ』
『あの|声《こゑ》は|矢張《やつぱ》り|夢《ゆめ》か|幻《まぼろし》か
|高姫司《たかひめつかさ》の|法螺吹《ほらふき》の|音《ね》か』
と|口々《くちぐち》に|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|四人《よにん》は|顔《かほ》|見合《みあ》はして、|不審《ふしん》の|雲《くも》に|包《つつ》まれてゐる。|高姫《たかひめ》は|法螺《ほら》の|声《こゑ》が|再《ふたたび》|止《と》まつたので、|又《また》|元《もと》の|座《ざ》に|引返《ひきかへ》し|来《きた》り、
|高姫《たかひめ》『あああ|皆々《みなみな》、|待《ま》たしました。|併《しか》し|乍《なが》らシヤルは|妾《わたし》の|知己《ちき》だ。|之《これ》から|大事《だいじ》にして|妾《わたし》の|片腕《かたうで》に|使《つか》うて|上《あ》げますぞや。|四人《よにん》の|方《かた》はモウ、トツトと|帰《かへ》つて|貰《もら》ひませう。|結構《けつこう》な|日出神《ひのでのかみ》の|御託宣《ごたくせん》を、ツベコベと|小理窟《こりくつ》|許《ばか》りひねるやうなお|方《かた》は、|到底《たうてい》|助《たす》けやうが|有《あ》りませぬ。|第一《だいいち》|霊魂《みたま》の|位置《ゐち》に|天地《てんち》の|相違《さうゐ》があるのだから、|此《この》|高姫《たかひめ》の|愛《あい》が|徹底《てつてい》しないと|見《み》えます、|誠《まこと》に|気《き》の|毒《どく》なものだ。|之《これ》も|自業自得《じごうじとく》と|諦《あきら》めて|帰《かへ》つて|貰《もら》ひませう。エーエ|汚《けが》らはしい、|今《いま》|聞《きこ》えた|法螺貝《ほらがひ》の|様《やう》に|腹《はら》の|中《なか》は|空洞《うつろ》のクセに、|大《おほ》きな|法螺《ほら》を|吹《ふ》く|許《ばか》りで、|仕方《しかた》のない【カラ】|霊魂《みたま》だ。サアサア、|此《この》|館《やかた》は|斯《か》う|見《み》えても|矢張《やつぱ》り|高姫《たかひめ》の|御殿《ごてん》だ。お|前《まへ》は|小《ちひ》さい|燻《くす》ぼつた|茅屋《あばらや》と|思《おも》つてゐるだらうが、|之《これ》でも|活眼《くわつがん》を|開《ひら》いて|能《よ》く|見《み》れば、|金殿玉楼《きんでんぎよくろう》、|精霊《みたま》の|曇《くもり》が|除《と》れぬと、こんな|立派《りつぱ》な|御殿《ごてん》が、お|前《まへ》には|茅屋《ばうをく》に|見《み》えませうがな、|心次第《こころしだい》に|何事《なにごと》も|映《うつ》るのだから|気《き》の|毒《どく》なものだよ。イツヒヒヒヒヒ』
ベル『|何《なん》とマア、|自我心《じがしん》の|強《つよ》い|婆《ばば》アだなア。|妙《めう》なインクリネーションを|持《も》つてゐるスフヰンクスだ。どつか|精神上《せいしんじやう》に|大変《たいへん》なラシャナリストがあると|見《み》えるワイ。オイ、ヘル、ケリナ、モウ|帰《かへ》らうぢやないか。|何時《いつ》|迄《まで》|居《を》つた|所《ところ》で|面白《おもしろ》くも|何《なん》ともない、|諄々《じゆんじゆん》と|口角《こうかく》|泡《あわ》を|飛《と》ばし、|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さつても、|心《こころ》に|誠《まこと》がないのだから、サツパリ|無味乾燥《むみかんさう》で、ドライアスダストの|様《やう》だ。サア、シヤルの|馬鹿者《ばかもの》|丈《だけ》|跡《あと》に|残《のこ》して|出立々々《しゆつたつしゆつたつ》、|一《いち》、|二《に》、|三《さん》』
|高姫《たかひめ》『エー、ツベコベとベルの|如《や》うに|囀《さへづ》る|男《をとこ》だなア。|併《しか》し|乍《なが》らここへ|来《き》た|以上《いじやう》は|帰《い》ねと|云《い》つたものの、|中々《なかなか》、|実《じつ》の|所《ところ》|帰《い》なす|気《き》はないぞや。|帰《い》にたけりや|帰《い》なしてやるが、お|前《まへ》の|肝玉《きもだま》を|抉《えぐ》り|出《だ》し、|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|霊《みたま》と|入《い》れ|替《か》へた|上《うへ》で|解放《かいはう》してやる。|此処《ここ》に|出刃《でば》も|用意《ようい》してあるから、|暫時《しばらく》|待《ま》つたがよからう、|動《うご》かうと|云《い》つたつて、ビクとも|出来《でき》ぬやうに、|曲輪《まがわ》の|法《はふ》が|使《つか》うてあるから|動《うご》いてみなさい。お|前《まへ》たちは|余程《よつぼど》よい|野呂作《のろさく》だから、|知《し》らぬ|間《ま》に|霊縛《れいばく》をかけておいたのだよ。イツヒヒヒヒ』
ベル『ナアニッ、チヨン|猪口才《ちよこざい》な、|汝等《きさまら》に|肝《きも》を|渡《わた》してたまるかい。|取《と》るなら|取《と》つてみよ』
|高姫《たかひめ》『|取《と》らいでかい。|何《なん》でも|彼《かん》でもスツカリ|取上《とりあ》げ|婆《ば》アさまだよ』
ヘル『コレ、もし、|高姫《たかひめ》さま、|私《わたし》は|堪《こら》へて|呉《く》れるでせうな。|実《じつ》の|所《ところ》はベルよりもお|前《まへ》さまの|方《はう》がどこともなしに|神《かみ》さまらしい|所《ところ》がある|様《やう》に|思《おも》ひます、|同《おな》じ|物《もの》を|取《と》るにも|肝玉《きもだま》を|取《と》るとは|振《ふる》つてゐる。|私《わたし》は|其《その》|一言《いちごん》にサツパリ|共鳴《きようめい》して|了《しま》ひました』
|高姫《たかひめ》『ウン、お|前《まへ》は|此《この》ベルからみれば、チツと|許《ばか》りホロましな|人足《にんそく》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|底津岩根《そこついはね》の|大神様《おほかみさま》の|生宮《いきみや》に|対《たい》し、|共鳴《きようめい》するなんて、|何《なん》と|云《い》ふ|傲慢不遜《がふまんふそん》の|言《い》ひ|方《かた》だい、チツとは|言霊《ことたま》を|謹《つつし》みなさい』
ヘル『|何分《なにぶん》バラモン|軍《ぐん》に|居《を》つて|少《すこ》し|許《ばか》り|青表紙《あをべうし》をかぢつたものだから、|比較的《ひかくてき》スピリットが|発達《はつたつ》してゐるものだから、お|前《まへ》さまのメデヲカチックなお|話《はなし》が|直接《ちよくせつ》ハートに|納《をさ》まりませぬ。それが|為《ため》に|煩悶《はんもん》|苦悩《くなう》してゐるのですよ』
|高姫《たかひめ》『スピリットだの、ハートだの、メデヲカチックだのと、そんな|怪《け》ツ|体《たい》な|四足語《よつあしご》を|使《つか》つたつて|分《わか》りませぬぞや。|此《この》|高姫《たかひめ》は|神《かみ》さまだから、|鳥《とり》|獣《けもの》の|様《やう》な|声《こゑ》は|耳《みみ》に|通《とほ》りませぬ|哩《わい》。なぜハツキリとしたスパルタ|語《ご》で|申上《まをしあ》げぬのかい』
ヘル『|何分《なにぶん》|霊魂《みたま》の|性来《しやうらい》が|悪《わる》いものだから、|満足《まんぞく》な|言霊《ことたま》が|出《で》ませぬワ。マア|堪《こら》えて|貰《もら》ひませうかい』
ベル『コリヤ、ヘルの|大将《たいしやう》、|汝《きさま》は|俺《おれ》に|反対的《はんたいてき》|態度《たいど》を|取《と》る|積《つもり》か。ヨーシ、それならそれで|俺《おれ》にも|考《かんが》へがある』
ヘル『|考《かんが》へがあるとは|何《ど》うすると|言《い》ふのだい』
ベル『|当家《たうけ》の|主人《あるじ》|高姫《たかひめ》を|第一着手《だいいちちやくしゆ》として、【バラモン】|教《けう》とやり、|其《その》|次《つぎ》に|高姫《たかひめ》のパラドックスに|共鳴《きようめい》する|汝《きさま》をバラモンとやり、ケリナをうまく|懐柔《くわいじう》して、ヘヘヘ、あとは|推量《すいりやう》せい。それ|以上《いじやう》|云《い》ふのも|野暮《やぼ》だし、|聞《き》くのも|野暮《やぼ》だから……』
ヘル『アハハハハ、ケリナが|嘸《さぞ》|喜《よろこ》んで|跟《つ》いて|行《ゆ》く|事《こと》だらう、|本当《ほんたう》に|馬鹿《ばか》だなア』
|高姫《たかひめ》『エー、|喧《やかま》しい、サア|是《これ》からこつちの|計画通《けいくわくどほ》り|実行《じつかう》だ。オイ、ヘル、シヤル、お|前《まへ》は|表口《おもてぐち》と|裏口《うらぐち》に|立番《たちばん》をしてゐなさい。そしてケリナは|女《をんな》の|事《こと》でもあり、|反対《はんたい》すると|云《い》つた|所《ところ》で、|余《あま》り|大《おほ》きな|事《こと》は|能《よ》うせうまいから、ここに|見《み》て|居《ゐ》るがよい、サア、ベル、|覚悟《かくご》はよいか』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|懐中《ふところ》から|赤錆《あかさび》になつた|出刃《でば》をニユツと|突《つ》き|出《だ》した。
ベルはビク|共《とも》|騒《さわ》がず、
ベル『アハハハハハ、そら|何《なん》だ。|蟷螂《かまきり》が|斧《をの》をふり|上《あ》げたやうな|格好《かくかう》しやがつて、そんな|威喝《ゐかつ》を|喰《く》ふベルぢやないぞ。|之《これ》でも|元《もと》はバラモン|軍《ぐん》のサアジャント|様《さま》だ。|斬合《きりあひ》|殺《ころ》し|合《あひ》はお|手《て》の|物《もの》だ。|自《みづか》ら|綯《な》うた|繩《なは》に|自《みづか》ら|縛《しば》られるやうなものだぞ』
|高姫《たかひめ》は|何《なん》と|思《おも》つたか、|出刃《でば》をパタリと|投付《なげつ》けた。ベルは|魔法《まはふ》にかかつて|腰《こし》から|下《した》がビク|共《とも》|動《うご》かなくなつてゐた。|併《しか》し|乍《なが》ら|手《て》や|口《くち》は|自由自在《じいうじざい》に|動《うご》くので、|自分《じぶん》の|前《まへ》に|落《お》ちた|出刃《でば》を|手早《てばや》く|拾《ひろ》ひ、|逆手《さかて》に|握《にぎ》り、|最早《もはや》|大丈夫《だいぢやうぶ》と|高姫《たかひめ》を|睨《ね》め|付《つ》け|乍《なが》ら、
ベル『アハハハハ、|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、ベルの|言霊《ことたま》に|辟易《へきえき》して|慄《ふる》ひ|戦《をのの》き、|出刃《でば》を|落《おと》しよつたな。エヘヘヘヘ、|最早《もはや》|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。サア|槍《やり》でも|鉄砲《てつぱう》でも|持《も》つて|来《こ》い、|之《これ》から|高姫館《たかひめやかた》の|道場破《だうぢやうやぶ》りだ。コリヤ、ヘル、シヤル、|汝《きさま》も|序《ついで》にバラしてやらう、|有難《ありがた》う|思《おも》へ』
|高姫《たかひめ》『イヒヒヒヒ、|何程《なにほど》|出刃《でば》を|振《ふ》り|上《あ》げて、|山蟹《やまがに》のやうなスタイルで|目玉《めだま》を|飛出《とびだ》し、|頑張《ぐわんば》つて|居《を》つても|駄目《だめ》だ。こつちには|二間《にけん》の|大身槍《おほみやり》がある。|遠《とほ》い|所《ところ》からグサリと|突《つ》いて|肝《きも》をぬいてやるのだ。オホホホホ。テモさてもいぢらしいものだな。|神《かみ》に|反《そむ》いた|天罰《てんばつ》と|云《い》ふものはこんなものだ。|今《いま》にみせしめの|為《ため》に|此《この》|高姫《たかひめ》が|成敗《せいばい》を|致《いた》すから、ヘル、シヤル、ケリナも|之《これ》を|見《み》て|改心《かいしん》なされや』
ヘル『ハイ、|改心《かいしん》は|致《いた》します、|何卒《どうぞ》|命《いのち》|許《ばか》りは|助《たす》けて|下《くだ》さいませ。どんな|事《こと》でも|致《いた》しますから』
|高姫《たかひめ》『ウン、よしよし、それに|間違《まちが》ひなくば、|命《いのち》|丈《だけ》は|許《ゆる》してやる。|其《その》|代《かは》り|高姫《たかひめ》が|尻《しり》を|拭《ふ》けと|云《い》つても|拭《ふ》くのだよ』
ヘル『ヘーエ、|宜《よろ》しあす。……|何《なん》とか|云《い》つて、|此《この》|場《ば》を|遁《のが》れなくちや|仕方《しかた》がないからな』
と|小声《こごゑ》で|呟《つぶや》く。ベルは|依然《いぜん》として|出刃《でば》を|振上《ふりあ》げたまま、|高姫《たかひめ》の|兇手《きようしゆ》を|防《ふせ》がむと|身構《みがま》へしてゐる。|高姫《たかひめ》はツと|立《た》つて、|何処《どこ》からか|大身槍《おほみやり》をひつさげ|来《きた》り、ベルの|胸《むね》を|目蒐《めが》けて|只《ただ》|一突《ひとつき》につき|殺《ころ》さうと|構《かま》へてゐる。ベルは|出刃《でば》をふりかざし、|息《いき》をこらして|待《ま》つてゐる。|忽《たちま》ちブーブーと|法螺《ほら》の|貝《かひ》が|間近《まぢか》に|聞《きこ》えて|来《き》た。|高姫《たかひめ》は|此《この》|声《こゑ》に|身体《しんたい》|動揺《どうえう》し、|自《おのづか》ら|槍《やり》を|其《その》|場《ば》にパタリと|落《おと》した。そして|見《み》る|見《み》る|真青《まつさを》の|顔《かほ》になつて|了《しま》つた。シヤルは|高姫《たかひめ》の|槍《やり》を|拾《ひろ》ひ、|手早《てばや》く|裏口《うらぐち》へ|持出《もちだ》し、|草《くさ》の|中《なか》へ|隠《かく》して|了《しま》つた。ベルは|依然《いぜん》として|出刃《でば》をふりかざした|儘《まま》、|固《かた》まつてゐる。|此《この》|時《とき》|門口《かどぐち》をがらりと|開《あ》け、
『|御免《ごめん》|下《くだ》さい、|拙者《せつしや》は|求道居士《きうだうこじ》と|云《い》ふ|修験者《しうげんじや》で|厶《ござ》る。|四人《よにん》の|男女《なんによ》がお|世話《せわ》になつてゐると|承《うけたま》はり、|迎《むか》ひに|参《まゐ》りました』
|高姫《たかひめ》は|轟《とどろ》く|胸《むね》を|抑《おさ》へ、ワザと|素知《そし》らぬ|顔《かほ》をして|手《て》を|膝《ひざ》の|上《うへ》に|揉《も》み、
|高姫《たかひめ》『これはこれは、どこの|修験者《しうげんじや》か|知《し》りませぬが、マアよい|所《ところ》へ|来《き》て|下《くだ》さつた。|併《しか》し|乍《なが》ら|四人《よにん》の|者《もの》が|世話《せわ》になつてると、|今《いま》|仰有《おつしや》つたが、|能《よ》く|査《しら》べて|下《くだ》さいませ。どうにもかうにもならない|悪党《あくたう》が|一人《ひとり》|交《まじ》つてゐます。|彼奴《あいつ》は|泥坊《どろばう》とみえまして、|此《この》|婆《ばば》|一人《ひとり》の|館《やかた》へ|出刃《でば》をふり|翳《かざ》して|踊《をど》り|込《こ》み、|金《かね》を|出《だ》せ、|衣類《いるゐ》を|出《だ》せと|申《まを》して、|此《この》|婆《ばば》アの|命《いのち》を|取《と》らうと|致《いた》しました。それ|故《ゆゑ》、あの|通《とほ》り|魔法《まはふ》……オツトドツコイ|霊法《れいはふ》に|依《よ》つて|封《ふう》じておきました。お|前《まへ》もチツと、|修験者《しうげんじや》なれば|言《い》うて|聞《き》かしてやつて|下《くだ》さい。|神《かみ》は|人民《じんみん》を|一人《ひとり》だつて|苦《くるし》めたい|事《こと》は|厶《ござ》いませぬからな。|日出神《ひのでのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》も、こんな|没分暁漢《わからずや》に|係《かか》つては|誠《まこと》に|迷惑《めいわく》を|致《いた》します、オホホホホホ』
と|自分《じぶん》の|事《こと》を|棚《たな》に|上《あ》げ、|且《かつ》ベルを|脅喝《けふかつ》した|其《その》|非事《ひじ》をあばかれない|先《さき》に、うまく|予防線《よばうせん》を|張《は》つてゐる。|求道居士《きうだうこじ》は「|何《なに》は|兎《と》もあれ|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りませう」と|一間《ひとま》に|通《とほ》り、|見《み》れば|四人《よにん》とも|腰部《えうぶ》|以下《いか》はビクとも|動《うご》かないやうに|霊縛《れいばく》されてゐた。|求道居士《きうだうこじ》は|忽《たちま》ち、|呪文《じゆもん》を|称《とな》へ、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》し、|四人《よにん》の|霊縛《れいばく》を|解《と》いた。|高姫《たかひめ》は|目《め》を|丸《まる》くし|舌《した》を|巻《ま》いて、|家《いへ》の|小隅《こすみ》につツ|立《た》つた|儘《まま》、|慄《ふる》ふてゐる。
|求道《きうだう》『お|前《まへ》はベル、ヘル、シヤルの|三人《さんにん》ぢやないか。|北《きた》の|森《もり》でゼネラル|様《さま》から|沢山《たくさん》のお|金《かね》を|戴《いただ》き、|一時《いちじ》も|早《はや》く|国許《くにもと》へ|帰《かへ》つて|正業《せいげふ》に|就《つ》くと|言《い》つたクセに、まだ|斯様《かやう》な|所《ところ》にうろついて|泥坊《どろばう》をやつてゐたのか、|困《こま》つた|代物《しろもの》だなア』
ベル『ハイ、|申訳《まをしわけ》が|厶《ござ》いませぬ、キツト|今後《こんご》は|慎《つつし》みます、|何卒《どうぞ》|今日《けふ》は|見逃《みのが》して|下《くだ》さいませ』
ヘル『カーネル|様《さま》、|此《この》|通《とほ》りで|厶《ござ》います』
と|掌《て》を|合《あは》す。シヤルは|黙《だま》つて|頭《かしら》を|下《さ》げたなり、|稍《やや》|微笑《びせう》を|帯《お》び、|高姫《たかひめ》の|片腕《かたうで》になつたと|云《い》ふ|誇《ほこ》りを|鼻《はな》の|先《さき》にブラつかしてゐる。
|求道《きうだう》『お|前達《まへたち》|三人《さんにん》は|此処《ここ》を|何処《どこ》だと|思《おも》ふてゐるのだ』
ベル『ハイ、どことも|思《おも》ふてをりませぬ、|此処《ここ》だと|思《おも》ふて|居《を》ります』
|求道《きうだう》『|此処《ここ》は|分《わか》つてゐる。|現界《げんかい》か|幽界《いうかい》かどちらと|考《かんが》へて|居《ゐ》るか』
ベル『そんな|事《こと》が|分《わか》る|位《くらゐ》なら、こんな|所《ところ》へ|踏《ふ》ん|迷《まよ》うては|参《まゐ》りませぬ、|実際《じつさい》は|何処《どこ》で|厶《ござ》いますか』
|求道《きうだう》『|困《こま》つた|奴《やつ》だなア、ここは|冥土《めいど》の|八衢《やちまた》だ。|此《この》|高姫《たかひめ》といふ|婆《ば》アさまは、|精霊界《せいれいかい》の|兇鬼《きようき》になつてゐるのだ。サア|帰《かへ》らう、|何時《いつ》|迄《まで》もこんな|所《ところ》に|居《を》つては|約《つ》まらないぢやないか』
|三人《さんにん》は|何《ど》うしても|幽界《いうかい》と|思《おも》ふ|事《こと》が|出来《でき》なかつた。
ヘル『モシ、カーネル|様《さま》、ここが|幽界《いうかい》なれば、|貴方《あなた》もヤツパリ|肉体《にくたい》は|亡《な》くなり、|冥土《めいど》の|旅《たび》をしてゐるのですか』
|求道《きうだう》『イヤ|俺《おれ》は|現界《げんかい》にゐるのだ。お|前《まへ》こそ|幾《ほとん》ど|幽界《いうかい》へ|来《き》てゐるのだよ。マ|一度《いちど》|現界《げんかい》へ|出《で》て|心《こころ》を|取直《とりなほ》し、|誠《まこと》の|人間《にんげん》になつて、|更《あらた》めて|霊界《れいかい》へ|来《く》るのだ。|此《この》|儘《まま》|霊界《れいかい》へ|行《ゆ》かうものなら、どうで|地獄《ぢごく》へ|行《ゆ》かねばならぬから|助《たす》けに|来《き》たのだ』
『ヘーエ』と|云《い》つたきり、|三人《さんにん》は|求道《きうだう》の|顔《かほ》を|訝《いぶ》かし|気《げ》に|見守《みまも》つてゐる。|高姫《たかひめ》はソロソロと|恐怖心《きようふしん》が|除《のぞ》かれたと|見《み》え、|求道《きうだう》の|前《まへ》にドツカと|坐《すわ》り、
|高姫《たかひめ》『ホツホホホホ、お|前《まへ》もヤツパリ|気違《きちがひ》だな、|最前《さいぜん》から|聞《き》いて|居《を》れば|此処《ここ》は|幽界《いうかい》ぢやと|云《い》つたが、それがテンで|間違《まちが》つて|居《を》るぢやないか』
|求道《きうだう》『|現界《げんかい》なれば|太陽《たいやう》も|上《あが》り、|月《つき》も|輝《かがや》き、|夜《よる》になれば|星《ほし》もきらめく|筈《はず》だが、|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》もなく、こんなうす|暗《ぐら》い|世《よ》の|中《なか》を、お|前《まへ》さまは|現界《げんかい》と|思《おも》ふてゐるのか、よく|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい』
|高姫《たかひめ》『ホホホホ、|何《なん》とマア|分《わか》らぬ|盲《めくら》だこと、|余《あま》り|人民《じんみん》の|精神《せいしん》が|曇《くも》り|切《き》つて|居《ゐ》るので、|邪気《じやき》|濛々《もうもう》と|立上《たちのぼ》り、|日月星辰《じつげつせいしん》の|影《かげ》も|見《み》えない|所《とこ》まで|曇《くも》つてゐるのだよ。それだから|系統《ひつぽう》の|霊《みたま》、|義理天上《ぎりてんじやう》の|生宮《いきみや》が|底津岩根《そこついはね》の|大《おほ》ミロクさまの|神柱《かむばしら》として、|此《この》|世《よ》を|光明世界《くわうみやうせかい》に|致《いた》さうと|苦労《くらう》を|致《いた》して|居《を》るのぢやぞえ。お|前《まへ》も|修験者《しうげんじや》と|見《み》えるが、|何《なに》を|修行《しゆげふ》してゐるのだい。|一時《いつとき》も|早《はや》く|此《この》|生宮《いきみや》の|申《まを》す|事《こと》を|聞《き》いて、|神様《かみさま》の|御用《ごよう》を|勤《つと》め|上《あ》げ、|天晴《あつぱれ》|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|現《あら》はして、|死《し》しては|神《かみ》に|斎《まつ》られ、|生《い》きては|世界《せかい》の|太柱《ふとばしら》となり、|名《な》を|末代《まつだい》に|残《のこ》す|御用《ごよう》を|致《いた》したら|何《ど》うだい。|斯《か》う|見《み》えても|此《この》|高姫《たかひめ》は|天地《てんち》|一切《いつさい》の|事《こと》は|心《こころ》の|鑑《かがみ》に|映《うつ》つてゐるのだから、|申《まを》す|事《こと》にチツとも|間違《まちが》ひはありませぬぞや』
|求道《きうだう》『ああ|困《こま》つた|女《をんな》だなア、|自分《じぶん》が|冥土《めいど》へ|来《き》て|八衢《やちまた》に|彷徨《さまよ》ひ|乍《なが》ら、まだ|目《め》が|醒《さ》めぬと|見《み》えるワイ。|自愛心《じあいしん》の|強《つよ》い|女《をんな》だなア、どうかして|救《すく》ふてやる|工夫《くふう》はあるまいか、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸《ち》はひませ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸《ち》はひませ』
|高姫《たかひめ》『ホホホホ、|何《なん》とまア|没分暁漢《わからずや》|許《ばか》りが|揃《そろ》ふたものだこと、これでは|神《かみ》さまの|御心《おこころ》がおいとしいワイの。|人間《にんげん》は|神《かみ》の|分霊《わけみたま》だ。それにも|関《かかは》らず|現界《げんかい》か|幽界《いうかい》か|見当《けんたう》のつかぬ|所《とこ》|迄《まで》、|霊《みたま》を|曇《くも》らし、どうして|之《これ》が|元《もと》に|返《かへ》るであらうか、|何程《なにほど》|結構《けつこう》な|神様《かみさま》が|目《め》の|前《まへ》に|現《あら》はれて|居《を》つても、|心《こころ》の|眼《まなこ》の|晦《くら》んだ|者《もの》は|仕方《しかた》がないワイ。ああ|何処《どこ》の|修験者《しうげんじや》か|知《し》らぬが、|此奴《こいつ》も|助《たす》けてやらねばなるまい。|又《また》|一《ひと》つ|苦労《くらう》が|増《ふ》えて|来《き》た。コレ、シヤル、お|前《まへ》も|私《わし》の|弟子《でし》になつたのだから、チツと|加勢《かせい》をしておくれ、|何程《なにほど》|結構《けつこう》な|教《をしへ》をしても|器《うつは》が|小《ちひ》さいと|這入《はい》らぬとみえる、お|前《まへ》|位《ぐらゐ》な|程度《ていど》で|丁度《ちやうど》|可《い》い|所《ところ》だ。サア、|高姫《たかひめ》の|代理権《だいりけん》を、|此《この》|修験者《しうげんじや》に|対《たい》して|委任《ゐにん》する、|確《しつか》りやりなされや』
シヤル『モシ、カーネルさま、ウラナイ|教《けう》の|高姫《たかひめ》|先生《せんせい》の|仰有《おつしや》る|事《こと》を、よツく|気《き》を|落付《おちつ》けて|聞《き》いて|下《くだ》さいませ。|神様《かみさま》の|信仰《しんかう》は|理窟《りくつ》があつては|駄目《だめ》です。|総《すべ》て|無条件《むでうけん》でなくては|信仰《しんかう》は|出来《でき》るものぢや|厶《ござ》いませぬ』
|求道《きうだう》『|泥坊《どろばう》の|改心《かいしん》が|出来《でき》た|上《うへ》、|真人間《まにんげん》になつてから|何《なん》なと|教《をしへ》を|聞《き》かしてくれ、それ|迄《まで》は|何《ど》うも|聞《き》く|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬからなア。……コレ|高姫《たかひめ》さま、お|前《まへ》さまは|此《この》|求道居士《きうだうこじ》に|旗《はた》を|巻《ま》いたとみえるなア。それでは|生宮《いきみや》とは|申《まを》されますまい』
|高姫《たかひめ》は|此《この》|言葉《ことば》を|聞《き》くや|否《いな》や、|非常《ひじやう》な|侮辱《ぶじよく》を|与《あた》へられたやうに|感《かん》じ、|眉《まゆ》を|逆立《さかだ》て、|又《また》もや|求道《きうだう》が|前《まへ》に|詰《つ》めよつて|鼻息《はないき》|荒《あら》く、
|高姫《たかひめ》『コレ|修《しう》チヤン、お|前《まへ》は|物《もの》の|分《わか》らぬ|人《ひと》だな。|人間《にんげん》は|天地《てんち》の|花《はな》、ミクロコスモスノぢやぞえ。|何事《なにごと》も|宇宙一切《うちういつさい》|腹《はら》に|呑《の》み|込《こ》んで|居《を》らなくてはならぬ|筈《はず》の|人間《にんげん》が、サツパリ|精霊《みたま》を|曇《くも》らして、|癲狂《てんきやう》|痴呆《ちはう》となり、|日月《じつげつ》の|光《ひかり》も|見《み》られぬ|所《とこ》|迄《まで》|堕落《だらく》し、|憐《あはれ》な|状態《じやうたい》に|陥《おちい》つて|居《を》るのだから、せめて|神《かみ》の|道《みち》に|目醒《めざ》めた|者《もの》が、|此《この》|惨状《さんじやう》を|救《すく》はねばなりますまい。お|前《まへ》も|修験者《しうげんじや》だと|云《い》つて|法螺《ほら》を|吹《ふ》き|廻《まは》つて|厶《ござ》るが、|底津岩根《そこついはね》の|大《おほ》ミロク|様《さま》の|一厘《いちりん》の|仕組《しぐみ》が|分《わか》つて|居《を》りますかい。|人間《にんげん》は|何《ど》うしても|神《かみ》に|次《つ》いでの|者《もの》だから|天晴《あつぱれ》|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|現《あら》はして、|天下《てんか》|国家《こくか》の|為《ため》、お|道《みち》の|為《ため》に|千騎一騎《せんきいつき》の|大活動《だいくわつどう》をなし、|芳名《はうめい》を|天下《てんか》に|輝《かがや》かし、|名《な》を|末代《まつだい》に|伝《つた》へるべき|者《もの》だ。それが|出来《でき》ぬやうな|事《こと》では|人間《にんげん》とは|申《まを》しませぬぞや。チツと|胸《むね》に|手《て》を|当《あ》てて|考《かんが》へてみなさい』
|求道《きうだう》『|人間《にんげん》は|只《ただ》|神様《かみさま》の|御道具《おだうぐ》になれば|可《い》いのだ。|世間愛《せけんあい》や|自愛《じあい》の|心《こころ》を|払拭《ふつしき》し、|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》のまにまに|活動《くわつどう》するのが、|人間《にんげん》と|生《うま》れた|所以《ゆゑん》だ。お|前《まへ》さまの|云《い》ふ|事《こと》は|何処《どこ》とはなしに、ファラシーがあるやうだ』
|高姫《たかひめ》『お|前《まへ》は|義理天上《ぎりてんじやう》の|生宮《いきみや》に|対《たい》し、|自愛心《じあいしん》だの、|世間愛《せけんあい》だのと|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|屁理窟《へりくつ》をツベコベ|仰有《おつしや》るが、よく|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|人間《にんげん》は|此《この》|世《よ》に|神様《かみさま》の|御余光《ごよくわう》を|戴《いただ》いて|生存《せいぞん》する|限《かぎ》りは|自愛心《じあいしん》がなくては、|一日《いちにち》だつて|生存《せいぞん》する|事《こと》が|出来《でき》ますまい。|人《ひと》には|肉体維持《にくたいゐぢ》の|責任《せきにん》がありますよ。|一日《いちにち》でも|結構《けつこう》な|月日《つきひ》を|送《おく》らして|戴《いただ》き、|神様《かみさま》の|生宮《いきみや》として、|千騎一騎《せんきいつき》の|活動《くわつどう》をせなくては、|済《す》まぬぢやありませぬか。どうしても|人間《にんげん》は|天地経綸《てんちけいりん》の|司宰者《しさいしや》ですよ。|何故《なぜ》|自愛心《じあいしん》や|世間愛《せけんあい》が、それ|程《ほど》お|前《まへ》は、|怪悪《くわいあく》なものの|様《やう》に、|又《また》|兇鬼《きようき》の|所作《しよさ》の|様《やう》に|云《い》ふのですか。|本当《ほんたう》にお|前《まへ》の|言《い》ふ|事《こと》は|人間界《にんげんかい》には|通用《つうよう》せない。|屁理窟《へりくつ》だ』
|求道《きうだう》『|人間《にんげん》が|世《よ》に|在《あ》る|時《とき》は|自愛《じあい》に|就《つい》ては|毫《がう》も|顧慮《こりよ》する|所《ところ》がない。|只《ただ》|其《その》|外分《ぐわいぶん》に|現《あら》はれた|矜高《きんかう》の|情《じやう》、|所謂《いはゆる》|自愛《じあい》なる|者《もの》が、|何人《なにびと》と|雖《いへど》も、|之《これ》を|外面《ぐわいめん》から|明瞭《はつきり》と|伺《うかが》ひ|得《え》らるるが|故《ゆゑ》に、|只《ただ》|之《これ》を|以《もつ》て、|自愛《じあい》の|念《ねん》としてゐるものだ。そして|又《また》|自愛《じあい》の|念《ねん》が|右《みぎ》の|如《ごと》く|判然《はんぜん》と|表《おもて》に|現《あら》はれる|事《こと》がなければ、|世間《せけん》の|人間《にんげん》は|之《これ》を|生命《せいめい》の|火《ひ》と|信《しん》じ、|此《この》|念《ねん》に|駆《か》られて|種々《いろいろ》の|職業《しよくげふ》を|求《もと》め、|又《また》|諸多《しよた》の|用《よう》を|成就《じやうじゆ》するものと|信《しん》じてゐる|者《もの》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|人間《にんげん》が|若《も》し|其《その》|中《うち》に|於《おい》て、|名誉《めいよ》と|光栄《くわうえい》とを|求《もと》める|事《こと》が|出来《でき》なければ、|忽《たちま》ち|心《こころ》が|萎靡《いび》し|了《をは》るものと|思《おも》つてゐる。|故《ゆゑ》にかかる|自愛心《じあいしん》の|深《ふか》い|人間《にんげん》は|他人《たにん》に|仍《よ》つて、|又《また》は|他人《たにん》の|心《こころ》の|中《うち》にて|尊重《そんちよう》せられ、|賞讃《しやうさん》される|事《こと》がなければ、|誰人《たれ》か|能《よ》く|値《あたひ》あり|用《よう》ある|行為《かうゐ》をなし、|自《みづか》ら|衆《しう》に|秀《すぐ》れむとするものがあらうか。そして|人間《にんげん》をして|斯《かく》の|如《ごと》く|働《はたら》かしむるのは|其《その》|光栄《くわうえい》と|尊貴《そんき》とを|熱望《ねつばう》する|心《こころ》、|所謂《いはゆる》|自愛《じあい》に|仍《よ》るものではないかと|云《い》つてゐる|者《もの》|許《ばか》りだ。かくて|世間《せけん》には|専《もつぱ》ら|地獄《ぢごく》に|行《おこな》はれる|愛《あい》と、|人《ひと》をして|地獄《ぢごく》を|作《つく》らしむる|者《もの》は|愛我《あいが》の|自体《じたい》なる|事《こと》を|知《し》らない|者《もの》が|多《おほ》いのだ。お|前《まへ》さまの|仰有《おつしや》る|事《こと》は|要《えう》するに、|今《いま》|言《い》つた|様《やう》な|考《かんが》へより|一歩《いつぽ》も|外《そと》へ|出《い》づる|事《こと》が|出来《でき》ないのだから、ヤツパリお|前《まへ》さまの|仰有《おつしや》る|事《こと》は|何《ど》うしても|神《かみ》の|言葉《ことば》とは|聞《きこ》えませぬよ。|第一《だいいち》|神《かみ》の|教《をしへ》を|奉《ほう》ずる|者《もの》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|人間《にんげん》と|生《うま》れた|以上《いじやう》はどうしても|愛我《あいが》の|心《こころ》を|放擲《はうてき》しなくては|天下救済《てんかきうさい》の|神業《しんげふ》は|勤《つと》まりますまい。|自愛心《じあいしん》のある|間《うち》は、|如何《いか》に|善事《ぜんじ》を|行《おこな》ふとも、それはヤツパリ|偽善《ぎぜん》ですよ。|此《この》|求道《きうだう》も|名利《めいり》の|巷《ちまた》に|奔走《ほんそう》し、バラモン|教《けう》のカーネルとして|尊貴《そんき》と|名誉《めいよ》を|夢《ゆめ》みて|居《を》つた|者《もの》ですが、|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》を|悟《さと》ると|共《とも》に、|自愛《じあい》や|世間愛《せけんあい》に|離《はな》れ、|斯《か》うして|神《かみ》の|為《ため》に|働《はたら》かして|頂《いただ》いて|居《を》ります。|高姫《たかひめ》さまも|神《かみ》の|為《ため》に|尽《つく》して、|出世《しゆつせ》をせうとか、|或《あるひ》は|出世《しゆつせ》をさしてやらうとか、|思《おも》つたり|仰有《おつしや》る|間《うち》は|真正《しんせい》の|信仰《しんかう》とは|申《まを》せますまい。|又《また》|真《しん》の|愛《あい》と|云《い》ふ|事《こと》も|出来《でき》ますまい。|能《よ》く|胸《むね》に|手《て》を|当《あ》てて|貴女《あなた》の|心《こころ》の|鏡《かがみ》をマ|一度《いちど》|覗《のぞ》いて|御覧《ごらん》なさい』
|高姫《たかひめ》『ホホホホ、|何《なん》とまア、ツベコベと|理窟《りくつ》は|甘《うま》いものですな。|何程《なにほど》|国《くに》の|為《ため》、|世《よ》の|為《ため》だと|云《い》つても、|自分《じぶん》を|棄《す》てて|国家《こくか》のため|世人《よびと》の|為《ため》に|尽《つく》す|者《もの》は、|実際《じつさい》の|所《とこ》はありますまい、|又《また》|有《あ》り|得《う》|可《べか》らざる|事《こと》でせう。|此《この》|高姫《たかひめ》の|明《あきら》かな|心《こころ》の|鏡《かがみ》には|嘘《うそ》|偽《いつは》りは|一《ひと》つも|映《うつ》りませぬぞや。|愛我心《あいがしん》がいけないと、お|前《まへ》さんは|今《いま》|言《い》つたが、|自分《じぶん》の|体《からだ》は|決《けつ》して|自分《じぶん》の|物《もの》でない、|皆《みな》|神様《かみさま》の|御体《おからだ》ぢやありませぬか。|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》にも|神《かみ》を|愛《あい》する|如《ごと》く|人《ひと》を|愛《あい》し、|吾《わが》|身《み》を|敬愛《けいあい》すべしと|出《で》て|居《ゐ》るでせう。|吾《わが》|身《み》を|愛《あい》するのは|所謂《いはゆる》|神様《かみさま》を|愛《あい》するのだ。|此《この》|心《こころ》が|神愛《しんあい》ともなり、|自愛《じあい》ともなり|愛我心《あいがしん》ともなるのだ。それをお|前《まへ》は|只《ただ》|一口《ひとくち》に|愛我心《あいがしん》が|悪《わる》いと|仰有《おつしや》るが、|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》を|能《よ》く|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|日々《にちにち》の|往復文書《わうふくぶんしよ》にも……|気候不順《きこうふじゆん》だから|随分《ずいぶん》|御自愛《ごじあい》|専一《せんいつ》に|祈《いの》ります……と|書《か》くぢやありませぬか、|天下《てんか》|国家《こくか》のために|最善《さいぜん》を|尽《つく》し、|社会《しやくわい》の|為《ため》に|努力《どりよく》して|芳《かん》ばしき|名《な》を|万世《ばんせい》に|伝《つた》ふるのは、|人間《にんげん》としては|最上至善《さいじやうしぜん》の|行《おこな》ひで|厶《ござ》いませう。お|前《まへ》だつて、|修験者《しうげんじや》に|歩《ある》いてゐるのはヤハリ|愛我《あいが》の|為《ため》だらう。|口《くち》では|立派《りつぱ》な|事《こと》を|言《い》つても、|言心行一致《げんしんかういつち》は|中々《なかなか》|出来《でき》ませぬぞや。|体《からだ》が|資本《しほん》だと|言《い》ふ|事《こと》がある。|如何《いか》なる|善事《ぜんじ》をなすにも、|肉体《にくたい》がなくては|出来《でき》ますまい、さすれば|其《その》|肉体《にくたい》をどこ|迄《まで》も|可愛《かあい》がらねばなりますまい』
|求道《きうだう》『|私《わたし》の|愛我《あいが》と|言《い》ふのは|自分《じぶん》のみよからむ|事《こと》を|希求《ききう》する|意思《いし》を|指《さ》すのである。|愛我心《あいがしん》の|強《つよ》い|人間《にんげん》は、|他人《たにん》のよくなる|事《こと》を|願《ねが》ふのは|只《ただ》|自分《じぶん》に|利益《りえき》をもたらす|時《とき》にのみ|限《かぎ》つてゐる。|故《ゆゑ》に|自愛《じあい》を|以《もつ》て|主《しゆ》としてゐる|者《もの》は|或《あるひ》はチヤーチ|或《あるひ》は|国家《こくか》、|又《また》は|如何《いか》なる|人類《じんるゐ》の|団体《だんたい》に|対《たい》しても、|之《これ》が|為《ため》に|利福《りふく》を|願《ねが》ふ|事《こと》もなく、|又《また》|自分《じぶん》の|名誉《めいよ》、|尊貴《そんき》、|光栄《くわうえい》の|為《ため》に|非《あら》ざれば、|他《た》に|向《むか》つて|決《けつ》して|仁恵《じんけい》を|施《ほどこ》す|事《こと》をせない。|若《も》し|之《これ》|等《ら》|愛我的《あいがてき》|人間《にんげん》が|他《た》の|為《ため》に|用《よう》を|遂《と》ぐるに|当《あた》つて、|其《その》|中《なか》に|以上《いじやう》|述《の》べた|如《ごと》き|自利《じり》と|相反《あひはん》するものがあつた|時《とき》は|直《ただ》ちに|失望《しつばう》し、|自暴自棄《じばうじき》して……ああ|吾々《われわれ》は|之《これ》|丈《だけ》|努力《どりよく》しても、|果《はた》して|何《なん》の|益《えき》があるだらうか、|何《なに》が|故《ゆゑ》に|吾々《われわれ》は|此《この》|様《やう》な|事《こと》をなす|可《べ》き|義務《ぎむ》があるか。|又《また》|果《はた》して|吾《わ》が|為《ため》に|何等《なんら》の|利得《りとく》を|生《しやう》ずるであらうか……と|云《い》つて、|放棄《はうき》し、|自己利益《じこりえき》|以外《いぐわい》には|何事《なにごと》もなさない。|夫《そ》れ|故《ゆゑ》に|愛我《あいが》の|念《ねん》を|深《ふか》く|持《ぢ》する|者《もの》は|神様《かみさま》のチヤーチを|愛《あい》せず、|国家《こくか》|社会《しやくわい》を|真《しん》に|愛《あい》せず、|又《また》|御用《ごよう》を|愛《あい》する|事《こと》なく、|只《ただ》|自己《じこ》のみを|愛《あい》するものである。|例《たとへ》ば|自分《じぶん》の|主張《しゆちやう》する|教《をしへ》を|無条件《むでうけん》に|聴従《ちやうじう》する|者《もの》の|多《おほ》からむことを|願《ねが》ひ、|自分《じぶん》を|尊敬《そんけい》する|人間《にんげん》のみを|集《あつ》め、|少《すこ》しにても|反抗的《はんかうてき》|態度《たいど》を|執《と》る|者《もの》に|対《たい》し、|目《め》をつり|上《あ》げ、|顔色《がんしよく》を|変《へん》じて|憤怒《ふんぬ》の|情《じやう》を|現《あら》はす|如《ごと》きは、|自愛《じあい》の|最《もつとも》|甚《はなは》だしいもので|厶《ござ》いませう。|斯《かく》の|如《ごと》き|態度《たいど》を|執《と》る|人《ひと》は、|何《いづ》れも|生《い》き|乍《なが》ら|地獄《ぢごく》に|籍《せき》を|置《お》いてゐる|妖怪的《えうくわいてき》|人物《じんぶつ》です。|高姫《たかひめ》さまは|生宮《いきみや》と|仰有《おつしや》る|以上《いじやう》は、|決《けつ》して|自分《じぶん》を|尊貴《そんき》しない|者《もの》を|威喝《ゐかつ》したり、|自分《じぶん》の|頤使《いし》に|盲従《まうじゆう》しない|者《もの》を|憎悪《ぞうを》したり|嘲罵《てうば》するやうな|地獄的《ぢごくてき》|行為《かうゐ》はなさいますまいと|信《しん》じて|居《を》ります。|愛我心《あいがしん》の|強《つよ》い|人間《にんげん》は|其《その》|所主《しよしゆ》の|愛《あい》より|起来《きらい》する|歓喜《くわんき》|悦楽《えつらく》は、|即《すなは》ち|其《その》|人間《にんげん》の|生涯《しやうがい》をなす|所以《ゆゑん》のものだから、|斯《かく》の|如《ごと》き|者《もの》の|生涯《しやうがい》は|所謂《いはゆる》|自愛《じあい》の|生涯《しやうがい》です。|自愛《じあい》の|生涯《しやうがい》とは|即《すなは》ち|其《その》|人間《にんげん》の|我執《がしふ》の|念《ねん》から|発生《わい》てくる|生涯《しやうがい》である。|故《ゆゑ》に|其《その》|自体《じたい》から|見《み》る|時《とき》は、|我執《がしふ》、|愛我《あいが》の|念慮《ねんりよ》は|決《けつ》して|善《ぜん》と|云《い》ふ|事《こと》は|出来《でき》ぬものだ。|自分《じぶん》に|盲従《まうじゆう》し、|隷属《れいぞく》する|者《もの》のみを|愛《あい》する|者《もの》を、|又《また》|特《とく》に|自分《じぶん》の|子孫《しそん》や|朋友《ほういう》|知己《ちき》に|限《かぎ》り|愛《あい》せむとする|者《もの》は、|結局《けつきよく》|自愛《じあい》の|心《こころ》です。|自分《じぶん》と|行動《かうどう》を|一《いつ》にする|朋友《ほういう》|知己《ちき》や|意中《いちう》の|人《ひと》のみを|偏愛《へんあい》し、|自分《じぶん》と|行動《かうどう》を|共《とも》にせざる|者《もの》|及《および》|自分《じぶん》の|意志《いし》に|合《あ》はざる|者《もの》を|愛《あい》せないのも|自愛《じあい》であつて、|真《しん》の|神愛《しんあい》ではありますまい。|自分《じぶん》の|党派《たうは》を|愛《あい》し、|自分《じぶん》の|部下《ぶか》のみを|愛《あい》する|事《こと》、|殆《ほとん》ど|自己《じこ》の|如《ごと》くなし、|歓喜《くわんき》するのは、|自分《じぶん》をその|中《うち》に|包有《はういう》してゐるが|故《ゆゑ》である。|自愛心《じあいしん》の|人間《にんげん》が|所有《しよいう》と|称《しよう》する|物《もの》の|中《うち》には、|総《すべ》て|彼等《かれら》を|賞揚《しやうやう》し|尊敬《そんけい》し|阿諛《あゆ》する|者《もの》をも|含《ふく》んで|居《ゐ》るのだ。|之《これ》が|所謂《いはゆる》|地獄愛《ぢごくあい》だ。|高天原《たかあまはら》に|於《お》ける|真《しん》の|愛《あい》に|比《くら》ぶれば、|実《じつ》に|天地霄壌《てんちせうぜう》の|差異《さい》がある、|自愛《じあい》と|世間愛《せけんあい》とは|所謂《いはゆる》|地獄《ぢごく》の|愛《あい》であつて、|高天原《たかあまはら》の|愛《あい》は|天国《てんごく》の|愛《あい》である。|天国《てんごく》に|於《おい》ては|用《よう》の|為《ため》に|用《よう》を|愛《あい》し、|善《ぜん》の|為《ため》に|善《ぜん》を|愛《あい》して|聖団《せいだん》の|為《ため》、|国家《こくか》の|為《ため》、|同胞《どうはう》の|為《ため》に|其《その》|身《み》を|空《むな》しうして、|実践《じつせん》|躬行《きうかう》するものです。|之《これ》を|称《しよう》して|神《かみ》を|愛《あい》し、|隣人《りんじん》を|愛《あい》すると|云《い》ふのである。|貴女《あなた》は|決《けつ》してさう|云《い》ふ|様《やう》な|自愛心《じあいしん》をお|持《も》ちになつて|居《を》らうとは|的確《てきかく》には|信《しん》じませぬが、|世《よ》の|中《なか》に|沢山《たくさん》|現《あら》はれてゐる|神柱《かむばしら》とか、|生宮《いきみや》とか、|予言者《よげんしや》とか|称《とな》へらるる|人間《にんげん》の|中《うち》には、|随分《ずいぶん》|自愛心《じあいしん》の|強《つよ》い|偽善家《ぎぜんか》が|多《おほ》いものです。|真《しん》の|神《かみ》の|生宮《いきみや》、|五六七《みろく》の|太柱《ふとばしら》たるプロパガンデストならば、|一切《いつさい》の|御用《ごよう》も|一切《いつさい》の|善《ぜん》も|皆《みな》|神《かみ》より|来《きた》り、そして|其《その》|中《なか》に|自分《じぶん》が|所愛《しよあい》の|対象《たいしやう》たるべき|隣人《りんじん》あるが|故《ゆゑ》である。され|共《ども》|自分《じぶん》が|為《ため》の|故《ゆゑ》に、|此等《これら》の|事《こと》を|愛《あい》するは、|之《これ》をして|己《おのれ》に|服従《ふくじゆう》せしめむが|為《ため》、|即《すなは》ち|之《これ》を|僕婢《ぼくひ》とし、|或《あるひ》は|部下《ぶか》として|愛《あい》するものである。|故《ゆゑ》に|世間《せけん》に|沢山《たくさん》ある|贋神柱《にせかむばしら》は|何《いづ》れも|愛我《あいが》のみに|住《ぢゆう》するが|故《ゆゑ》に、|自分《じぶん》のエビスコーバルしてゐるチヤーチの|為《ため》とか、|国家《こくか》|同胞《どうはう》の|為《ため》に|服事《ふくじ》せむ|事《こと》を|願《ねが》ひ、そして|自分《じぶん》は|傲然《がうぜん》として|尊貴《そんき》を|誇《ほこ》り、|之《これ》に|服事《ふくじ》することを|願《ねが》はないものです。|神《かみ》の|生宮《いきみや》、|太柱《ふとばしら》などを|真向《まつかう》に|振《ふり》かざし、|教会《けうくわい》、|国家《こくか》、|同胞《どうはう》|等《など》の|上《うへ》に|卓立《たくりつ》し、|之《これ》をして|己《おの》が|脚下《きやくか》に|居《を》らしめむと|焦慮《せうりよ》するものです。それ|故《ゆゑ》|人間《にんげん》は|愛我心《あいがしん》の|除《と》れない|限《かぎ》りは、|自《おのづか》ら|高天原《たかあまはら》の|天国《てんごく》に|遠離《ゑんり》するものだ。|何故《なにゆゑ》ならば|高天原《たかあまはら》の|愛《あい》から|遠《とほ》ざかるからである』
|高姫《たかひめ》『そら、そうです|共《とも》、|世《よ》の|末《すゑ》になりますと、|贋予言者《にせよげんしや》、|贋救《にせすく》ひ|主《ぬし》、|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》のスフヰンクスが|現《あら》はれて、|世界《せかい》の|愚《おろか》な|人間《にんげん》を|魔道《まだう》に|引入《ひきい》れようと|致《いた》すものです。|盲《めくら》|聾《つんぼ》に|等《ひと》しき|人間《にんげん》は|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》なる|五六七神政《みろくしんせい》の|太柱《ふとばしら》、|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》を|認識《にんしき》する|明《めい》なく、|玉石混淆《ぎよくせきこんかう》して|正邪《せいじや》の|判別《はんべつ》を、ようつけないのだから、|実《じつ》に|此《この》|生宮《いきみや》も|迷惑《めいわく》|致《いた》します。|誠《まこと》の|者《もの》は|目薬《めぐすり》|程《ほど》もないと、|神《かみ》さまが|仰有《おつしや》いますが|能《よ》うしたものです。|此《この》|高姫《たかひめ》はお|前《まへ》の|眼力《がんりき》で|御覧《ごらん》になれば|分《わか》るでせうが、|自我《じが》のやうに|見《み》えても|決《けつ》して|自愛《じあい》や|地獄愛《ぢごくあい》を|喜《よろこ》ぶ|者《もの》ぢや|厶《ござ》いませぬ。|余《あま》り|宏遠《くわうゑん》な|教理《けうり》を|初《はじ》めから|没分暁漢《わからずや》に|諭《さと》すと、|却《かへ》つて|取違《とりちが》ひを|致《いた》すに|仍《よ》つて、|最前《さいぜん》もあの|様《やう》に|自我心《じがしん》を|主張《しゆちやう》したのだが、お|前《まへ》さまの|様《やう》に|比較的《ひかくてき》|分《わか》つた|人《ひと》なら、|先《ま》づ|上根《じやうこん》の|部《ぶ》だ、|今《いま》|迄《まで》|言《い》うたのは|小乗部《せうじやうぶ》だ。|之《これ》からお|前《まへ》の|人格《じんかく》を|認《みと》め、|紳士的《しんしてき》|態度《たいど》で|大乗部《だいじやうぶ》で|説《と》いて|上《あ》げませう。コレ、|其処《そこ》に|居《を》る|四人《よにん》の|連中《れんぢう》、|之《これ》から|第一霊国《だいいちれいごく》の|教《をしへ》を|説《と》くのだから、|下根《げこん》の|精霊《みたま》には|頭《かしら》が|痛《いた》み|胸《むね》が|苦《くる》しうなるかも|知《し》れないが、そこを|辛抱《しんばう》して|聞《き》くのだよ。そすりや|結構《けつこう》な|御神徳《おかげ》が|戴《いただ》けますぞや。|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒様《おほみろくさま》の|御用《ごよう》を|致《いた》してゐる|此《この》|高姫《たかひめ》は、|言《い》ふ|迄《まで》もなく|高天原《たかあまはら》の|愛善《あいぜん》の|徳《とく》に|居《を》るのだから、|用《よう》の|為《ため》に|用《よう》を|愛《あい》し、|善《ぜん》の|為《ため》に|善《ぜん》を|愛《あい》して、|心《こころ》の|底《そこ》から|之《これ》を|行《おこな》ふ|事《こと》を|唯一《ゆゐいつ》の|楽《たのし》みとなし、|聖団《せいだん》のため、|国家《こくか》|社会《しやくわい》|同胞《どうはう》の|為《ため》に|日夜《にちや》これを|実践《じつせん》|躬行《きうかう》してゐるのだ。それだから|五六七大神《みろくのおほかみ》が|自分《じぶん》の|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》の|行《おこな》ひを|御覧《ごらん》|遊《あそ》ばし、|神様《かみさま》の|方《はう》から、|生宮《いきみや》としてお|降《くだ》り|遊《あそ》ばしたのだ。|併《しか》し|乍《なが》ら|余《あま》り|霊《れい》の|光明《くわうみやう》が|烈《はげ》しいので、|下根《げこん》の|人間《にんげん》にはチツと|懸隔《けんかく》が|遠《とほ》すぎて、|正体《しやうたい》を|現《あらは》さうものなら、|忽《たちま》ち|栃麺棒《とちめんぼう》を|振《ふ》り、|逃《に》げて|帰《かへ》るに|仍《よ》つて、|精霊相応《みたまさうおう》に|変化《へぐれ》て、|説法《せつぱふ》をしてゐるのだよ。|神様《かみさま》は|霊相応《みたまさうおう》と|仰有《おつしや》るのだから、|豚《ぶた》に|真珠《しんじゆ》を|与《あた》へるやうな|馬鹿《ばか》な|事《こと》は|出来《でき》ませぬからなア。|高姫《たかひめ》が|所主《しよしゆ》の|愛《あい》は|即《すなは》ち|弥勒大神《みろくのおほかみ》の|所主《しよしゆ》の|愛《あい》だ。お|前等《まへたち》の|様《やう》に|吾《わ》れよしの|精神《せいしん》で、|用《よう》を|行《おこな》ひ、|善《ぜん》をした|所《ところ》が、ヤツパリ|駄目《だめ》だ。それは|或《ある》|一方《いつぱう》に|何《なに》か|条件《でうけん》を|求《もと》めてゐるのだから、|真《しん》の|愛《あい》は|無条件《むでうけん》でなくては|駄目《だめ》ですよ。|之《これ》を|自愛心《じあいしん》と|申《まを》しますぞや。|自愛心《じあいしん》の|者《もの》は|自《おのづか》ら|大神《おほかみ》の|御神格《ごしんかく》より|遠《とほ》く|離《はな》れ、|従《したが》つて|高天原《たかあまはら》の|神国《しんこく》から|離《はな》れて|了《しま》ふものだ。|自分《じぶん》の|方《はう》から|求《もと》める|所《ところ》の|愛《あい》は|我執《がしふ》の|念《ねん》に|導《みちび》かれて|居《ゐ》るのだ。|其《その》|我執《がしふ》の|念《ねん》といふのが、|所謂《いはゆる》|悪《あく》といふのだ。|悪《あく》は|又《また》|一名《いちめい》|地獄《ぢごく》といひますぞや。|三五教《あななひけう》の|変性女子《へんじやうによし》の|霊《みたま》は|世間悪《せけんあく》の|映像《えいざう》だと、|同教《どうけう》|幹部《かんぶ》のお|歴々《れきれき》が|主張《しゆちやう》してゐるだらうがな、つまり|悪《あく》といふのは|自愛《じあい》と|世間愛《せけんあい》に|失《しつ》する|者《もの》を|言《い》ふのだよ。お|前《まへ》も|之《これ》から|此《この》|修験者《しうげんじや》の|仰有《おつしや》る|事《こと》を|門口《かどぐち》として|霊《みたま》を|研《みが》き、|奥《おく》の|奥《おく》のドン|奥《おく》を|究《きは》めて|天晴《あつぱれ》|御用《ごよう》の|為《ため》の|御用《ごよう》をしなさい。|及《およ》ばず|乍《なが》ら、|此《この》|高姫《たかひめ》が|力一杯《ちからいつぱい》、|教《をし》へて|上《あ》げるから……、|併《しか》し|乍《なが》ら|教《をし》へて|貰《もら》うてからの|改心《かいしん》は|駄目《だめ》だぞえ、|心《こころ》の|底《そこ》から|此《この》|高姫《たかひめ》を|生宮《いきみや》と|尊敬《そんけい》し、|且《かつ》|深《ふか》く|信《しん》じ、|大神《おほかみ》に|接《せつ》する|態度《たいど》を|以《もつ》て|仕《つか》へなくてはお|神徳《かげ》を|取外《とりはづ》しますよ』
と|舌鋒《ぜつぽう》を|甘《うま》く|四人《よにん》の|方《はう》へ|向《む》け、|俄《にはか》に|求道《きうだう》の|深遠《しんゑん》なる|教理《けうり》を|自分《じぶん》の|物《もの》となし、|得々《とくとく》として|受売《うけうり》りをやつてゐる。|実《じつ》に|当意即妙《たういそくめう》、|酢《す》でも|蒟蒻《こんにやく》でも|行《ゆ》かぬ|妖婆《えうば》である。
ベル『オイ|高姫《たかひめ》さま、|求道居士《きうだうこじ》の……|俺《おれ》の|先生《せんせい》がお|出《い》でになつてから、|俄《にはか》に|心気一転《しんきいつてん》したぢやないか、|随分《ずいぶん》|模倣《もはう》に|妙《めう》を|得《え》てゐる|婆《ば》アさまだなア』
|高姫《たかひめ》『そら|何《なに》を|言《い》ふのだ、|頑愚《ぐわんぐ》|度《ど》し|難《がた》き|代物《しろもの》だな。|人《にん》|見《み》て|法《ほふ》を|説《と》けと|云《い》つて、お|前《まへ》の|様《やう》な【ガラクタ】には|又《また》それ|相応《さうおう》の|教《をしへ》をするのだ、|耳《みみ》が|痛《いた》からう。|此《この》|高姫《たかひめ》は|求道《きうだう》さまに|教《をし》へてゐるのだ。お|前達《まへたち》が|彼此《かれこれ》|云《い》ふ|資格《しかく》はない、スツ|込《こ》んでゐなさい』
ベル『ヘン、|馬鹿《ばか》にしてるわい、イヒヒヒヒ』
|高姫《たかひめ》『コレ|求道《きうだう》さま、お|前《まへ》は|法螺貝《ほらがひ》を|吹《ふ》く|丈《だけ》、どこ|共《とも》なしに|気《き》の|利《き》いてる|所《ところ》がある。|高姫《たかひめ》の|云《い》ふ|事《こと》も|耳《みみ》へ|入《はい》るだらう。サ、|之《これ》から|底津岩根《そこついはね》の|大弥勒様《おほみろくさま》のお|言葉《ことば》を|取次《とりつ》いで|上《あ》げるから、|疑《うたが》はずに|聞《き》きなされや。|第一《だいいち》|世《よ》の|中《なか》に|何《なに》が|悪《わる》いと|云《い》つても、|自愛心《じあいしん》|即《すなは》ち|愛我《あいが》の|念慮《ねんりよ》|位《くらゐ》|卑《いや》しいものは|厶《ござ》いませぬぞや。|己《おのれ》を|愛《あい》すること、|神《かみ》を|愛《あい》するに|勝《まさ》り、|世間《せけん》を|愛《あい》する|事《こと》|高天原《たかあまはら》を|愛《あい》するに|優《まさ》る|様《やう》な|行《や》り|方《かた》は|駄目《だめ》ですよ。|何事《なにごと》も|神第一《かみだいいち》と|致《いた》さねば、|人間《にんげん》は|神《かみ》の|生宮《いきみや》と|申《まを》す|事《こと》は|出来《でき》ませぬぞや。|人間《にんげん》が|善《ぜん》を|為《な》すに|当《あた》つて、|其《その》|中《なか》に|仮令《たとへ》|毛筋《けすぢ》の|横巾《よこはば》でも、|自愛《じあい》の|心《こころ》を|混《こん》じてゐたならば、|忽《たちま》ち|我執《がしふ》の|念《ねん》に|陥《おちい》り、|諸悪《しよあく》の|地獄《ぢごく》に|突入《とつにふ》|致《いた》しますぞや。|何故《なぜ》なれば|斯様《かやう》な|人間《にんげん》は、|此《この》|時《とき》|善《ぜん》を|離《はな》れて|自分《じぶん》に|向《むか》うて|居《を》れ|共《ども》、|自分《じぶん》を|離《はな》れて|善《ぜん》に|向《むか》ふ|事《こと》がないからだ。さういふ|人間《にんげん》が|如何《いか》なる|善《ぜん》をする|共《とも》、|其《その》|善《ぜん》の|中《なか》には|自我愛《じがあい》の|面影《おもかげ》のみを|止《とど》め、|神格《しんかく》の|面影《おもかげ》をチツとも|止《とど》めてゐないものだ。それだから|此《この》|高姫《たかひめ》が|天《てん》の|命令《めいれい》を|受《う》けて、|苦集滅道《くしふめつだう》を|説《と》き、|道法礼節《だうほふれいせつ》を|開示《かいじ》してゐるのだから、|耳《みみ》の|穴《あな》を|宜《よ》く|掃除《さうぢ》して|真面目《まじめ》に|聞《き》きなさいや。|天地《てんち》の|間《あひだ》は|皆《みな》|不思議《ふしぎ》なものだ。|到底《たうてい》|人間《にんげん》の|細工《さいく》や|知恵《ちゑ》で|解決《かいけつ》がつくものでない。|只《ただ》|神《かみ》を|能《よ》く|信《しん》じ|能《よ》く|愛《あい》しさへすれば、それで|結構《けつこう》だよ。|求道《きうだう》さま、どうです、|高姫《たかひめ》の|霊《みたま》の|因縁《いんねん》は|之《これ》でチツと|分《わか》りましたかな』
|求道《きうだう》は『アハハハハハ』と|笑《わら》つたきり、|矢庭《やには》に|法螺《ほら》を|口《くち》に|当《あて》て、ブウブウと|吹立《ふきた》てた。それと|同時《どうじ》に|高姫《たかひめ》の|館《やかた》は|次第《しだい》に|影《かげ》うすくなり、|遂《つひ》に|陽炎《かげろふ》の|如《ごと》く|消滅《せうめつ》したりける。
ベル、ヘル、ケリナの|三人《さんにん》はフツと|気《き》がつき|四辺《あたり》を|見《み》れば、エルシナ|川《がは》の|川縁《かはべり》に|一人《ひとり》の|山伏《やまぶし》に|救《すく》ひ|上《あ》げられてゐた。そしてシヤルは|何程《なにほど》|人工呼吸《じんこうこきふ》を|施《ほどこ》したり、|種々《いろいろ》と|魂返《たまがへ》しをやつてみたが|駄目《だめ》であつた。|流石《さすが》|悪党《あくたう》のベルも|此《この》|時《とき》|現界《げんかい》に|甦《よみがへ》つたのは、|兇党界《きようたうかい》の|高姫《たかひめ》に|籠絡《らうらく》されず|精神《せいしん》を|取《と》られなかつたからである。シヤルはベルに|比《くら》ぶれば|稍《やや》|善人《ぜんにん》であるが、|現界《げんかい》に|未《ま》だ|数十年《すうじふねん》の|生命《せいめい》が|残《のこ》つてゐるにも|拘《かかは》らず、|蘇生《そせい》せなかつたのは、|彼《か》れの|精霊《せいれい》が|既《すで》に|高姫《たかひめ》の|教《をしへ》に|信従《しんじゆう》し、|固着《こちやく》して|了《しま》つたからである。|又《また》|求道居士《きうだうこじ》は|只《ただ》|一人《ひとり》|法螺貝《ほらがひ》を|吹《ふ》き|乍《なが》ら、|宣伝《せんでん》の|為《ため》|此《この》|川辺《かはべり》にふと|現《あら》はれ|来《きた》り、|朝《あさ》|早《はや》くから|四人《よにん》の|死体《したい》を|認《みと》めて|身《み》を|跳《おど》らし|淵《ふち》に|飛《と》び|込《こ》み、|救《すく》ひ|上《あ》げ、|魂返《たまがへ》しの|神業《かむわざ》を|修《しう》したのである。|之《これ》より|求道居士《きうだうこじ》はベル、ヘルを|従《したが》へ、ケリナを|送《おく》つてテルモン|山《ざん》の|小国別《をくにわけ》が|館《やかた》に|進《すす》み|行《ゆ》く|事《こと》となつた。ベルは|中途《ちうと》にヘルと|争論《そうろん》を|起《おこ》し、|一時《いちじ》|姿《すがた》を|山林《さんりん》に|隠《かく》したのである。
(大正一二・三・一六 旧一・二九 於竜宮館 松村真澄録)
第九章 |我執《がしふ》〔一四三九〕
|求道居士《きうだうこじ》が|息《いき》をこめて|吹《ふ》き|立《た》てた|法螺貝《ほらがひ》の|音《ね》にベル、ヘル、ケリナの|三人《さんにん》は|此《この》|場《ば》より|煙《けぶり》の|如《ごと》く|姿《すがた》を|消《け》した。|求道居士《きうだうこじ》の|影《かげ》もいつしか|消《き》えて|幽《かす》かに|法螺《ほら》の|音《ね》が|遠《とほ》く|聞《きこ》えてゐる。|高姫《たかひめ》はシヤル、|六造《ろくざう》の|二人《ふたり》に|向《むか》ひ、
|高姫《たかひめ》『コレ、シヤル、|六造《ろくざう》の|両人《りやうにん》、|何《なん》と|高姫《たかひめ》の|神力《しんりき》は|偉《えら》いものだらうがなア。|余《あま》り|我《が》が|強《つよ》いに|仍《よ》つて、|義理天上様《ぎりてんじやうさま》が|勘忍袋《かんにんぶくろ》をお|切《き》らし|遊《あそ》ばし、ホンの|一寸《ちよつと》お|睨《にら》み|遊《あそ》ばすと|共《とも》に、あの|法螺吹《ほらふき》もベル、ヘルの|両人《りやうにん》もハイカラ|女《をんな》も、|皆《みな》|一度《いちど》に|煙散霧消《えんさんむせう》|跡型《あとかた》もなくなりにけり……といふ|悲惨《ひさん》な|有様《ありさま》だ。|之《これ》を|見《み》て|改心《かいしん》をしなされ。|六《ろく》さんは|又《また》|唖《おし》か|何《なに》かのやうに|一言《ひとこと》もいはずに、|今《いま》|迄《まで》どこに|居《を》つたのだえ』
|六造《ろくざう》『ヘー、|余《あま》り|法螺《ほら》の|貝《かひ》が|恐《おそ》ろしいので、|一寸《ちよつと》|厠《かはや》の|中《なか》へ|隠居《いんきよ》して|居《を》りました。|随分《ずいぶん》|強《つよ》い|奴《やつ》がやつて|来《き》た|者《もの》ですな。それにしてもベルの|奴《やつ》、|私《わたし》をライオン|川《がは》に|放《ほ》り|込《こ》みやがつた|天罰《てんばつ》で|煙《けぶり》の|如《ごと》く|消《き》えて|了《しま》つたのは|小気味《こぎみ》のよいこつて|厶《ござ》います。|之《これ》も|全《まつた》く|高姫《たかひめ》|様《さま》の|御神力《ごしんりき》の|致《いた》す|所《ところ》と、|有難《ありがた》く|感謝《かんしや》を|致《いた》して|居《を》ります』
|高姫《たかひめ》『それだから|神《かみ》に|凭《もた》れてさへ|居《を》りたら|神《かみ》が|仇《かたき》を|討《う》つてやらうと|仰有《おつしや》るのだ。|今《いま》|迄《まで》のヤンチヤをスツカリ|改良《かいりやう》して、|何事《なにごと》も|此《この》|生宮《いきみや》の|申《まを》す|通《とほ》りにするが|可《よ》いぞや』
|六造《ろくざう》『ハイ、|何《なん》でも|致《いた》しますが、|併《しか》し|何《なん》だか|気分《きぶん》が|悪《わる》くなつて|来《き》ました。|一杯《いつぱい》おごつて|貰《もら》いませぬと、|元気《げんき》が|付《つ》きませぬワ』
|高姫《たかひめ》『エーエ|付《つ》け|上《あが》りのした、お|前《まへ》はそれだから|可《い》かぬのだ。お|前《まへ》の|仇《かたき》をあの|通《とほ》り|消滅《せうめつ》さしてやり、|結構《けつこう》な|教《をしへ》を|聞《き》かして|居《ゐ》るのに、|一杯《いつぱい》|呑《の》ませなんて、|何《なん》と|云《い》ふ|厚《あつ》かましい|事《こと》を|云《い》ふのだいなア』
|六造《ろくざう》『イエ|私《わたし》は|酒《さけ》を|呑《の》ましてくれと|云《い》つたのぢや|厶《ござ》いませぬ。お|前《まへ》さまの|持《も》つて|居《ゐ》る|出刃《でば》を|懐《ふところ》に|呑《の》まして|欲《ほ》しいと|云《い》つたのです。どうか|一口《ひとくち》|頂《いただ》く|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬかな』
|高姫《たかひめ》『ならんならん、|出刃《でば》のやうな|兇器《きようき》を|持《も》つて、|何《ど》うする|積《つもり》だい、|又《また》|出刃亀《でばがめ》にでもなる|積《つもり》だらう』
|六造《ろくざう》『イエ、|出刃亀《でばがめ》ぢやありませぬ、|出刃六《でばろく》になる|考《かんが》へです。|之《これ》を|以《もつ》て|風呂屋《ふろや》の|障子《しやうじ》を|四角《しかく》に|切《き》り、|三助《さんすけ》やおさんの|活動《くわつどう》を|覗《のぞ》く|考《かんが》へです。|三助《さんすけ》とおさんと|寄《よ》れば|六《ろく》でせう。そこへ|六《ろく》さんが|這入《はい》ると|六六三《ろくろくさん》で|十五夜《じふごや》の|満月《まんげつ》になりませうがな。お|前《まへ》さまは|最前《さいぜん》も|小声《こごゑ》で|唄《うた》つてゐたでせう……|十五夜《じふごや》に|片割月《かたわれづき》があるものか、|雲《くも》に|隠《かく》れてここに|半分《はんぶん》……と|聞《き》きましたよ。|十五夜《じふごや》の|片割月《かたわれづき》は|余《あま》り|目出度《めでた》くありませぬから、|私《わたし》が|之《これ》から|出刃六《でばろく》となり、|三五《さんご》の|月《つき》となりて|第一霊国《だいいちれいごく》へ|上《のぼ》り、|月《つき》の|大神様《おほかみさま》に、お|前《まへ》さまの|今《いま》の|有様《ありさま》を|報告《はうこく》せうと|思《おも》つてゐるのだ。どうです、|名案《めいあん》でせう』
|高姫《たかひめ》『|明暗《めいあん》も|顕幽《けんいう》もあるものか、お|前《まへ》の|霊《みたま》は|暗《やみ》の|暗《あん》だ。それだから|暗本丹《あんぽんたん》と|人《ひと》に|云《い》はれるのだよ。|六《ろく》でなしだから、|名《な》|迄《まで》|六造《ろくざう》だ。どうで|月《つき》の|国《くに》へ|行《ゆ》けるやうな|代物《しろもの》ぢやない。|六道《ろくだう》の|辻代物《つじしろもの》だ。イヒヒヒヒ』
|六造《ろくざう》『コリヤ|高《たか》、|俺《おれ》を|何方《どなた》と|心得《こころえ》てるンでえ、エエン。|今《いま》|迄《まで》は|法螺《ほら》つ|吹《ぷき》|先生《せんせい》が|来《き》よつたので、|俺《おれ》も|聊《いささ》か|面喰《めんくら》つてすつ|込《こ》んでゐたのだが、モウ|斯《か》うなりや|〆《しめ》たものだ。|誰《たれ》|憚《はばか》る|者《もの》もなし、|婆《ばば》の|一匹《いつぴき》や|二匹《にひき》は|俺《おれ》の|自由自在《じいうじざい》だ。サア|有金《ありがね》をスツパリ|渡《わた》すか、さなくば、|衣類《いるゐ》|一切《いつさい》をここへつん|出《だ》して、あやまるか、どうだ。|汝《きさま》の|槍《やり》は|俺《おれ》が、|実《じつ》の|所《ところ》はボキボキに|折《を》つといたのだ。ゴテゴテ|申《まを》すと|命《いのち》がないぞ』
|高姫《たかひめ》『コレ、シヤル、お|前《まへ》は|私《わたし》の|家来《けらい》ぢやないか、|何《なに》をグヅグヅしてゐるのだい。サ、|此《この》|出刃《でば》を|貸《か》すから、|負《まけ》ず|劣《おと》らず、|此奴《こやつ》に|対抗《たいかう》して|取《と》つつめてやりなさい。|善《ぜん》を|助《たす》け|悪《あく》を|懲《こら》すは|神《かみ》の|道《みち》だ。こんな|者《もの》が|世《よ》の|中《なか》にウヨウヨしてゐると、|世界《せかい》にどれ|丈《だけ》|害《がい》を|流《なが》すか|分《わか》らない。サア、|之《これ》を|確《しつか》り|握《にぎ》つて|強圧的《きやうあつてき》に|出《で》るのだよ』
シヤル『|高姫《たかひめ》さま、チツト|夫《そ》れは|自愛《じあい》ぢやありませぬか、|私《わたし》は|何《なん》だか|地獄《ぢごく》の|行《や》り|方《かた》のやうに|思《おも》へてなりませぬがな、|威喝《ゐかつ》や|憤怒《ふんぬ》や|復讐《ふくしう》などは、|神《かみ》の|国《くに》には|影《かげ》さへもないぢやありませぬか』
|高姫《たかひめ》『エーエ、|気《き》の|利《き》かぬ|男《をとこ》だな、|正当防衛《せいたうばうゑい》といふ|事《こと》を|知《し》つてゐるかい。|何程《なにほど》|誠《まこと》の|道《みち》だと|云《い》つても、ジツとして|居《を》つたら、|此《この》|高姫《たかひめ》の|生宮《いきみや》がどんな|目《め》に|合《あ》はされまいものでもない。|此《この》|生宮《いきみや》は|大神様《おほかみさま》の|大切《たいせつ》なお|道具《だうぐ》だから、それを|守護《しゆご》するのはお|前《まへ》の|役目《やくめ》だ。サアお|前《まへ》の|手柄《てがら》を|現《あら》はす|時《とき》だ。かういふものの|此《この》|高姫《たかひめ》は、|六《ろく》のやうな|者《もの》が|千匹《せんびき》|万匹《まんびき》|束《たば》になつて|来《き》たとて|屁《へ》とも|思《おも》うて|居《ゐ》ないが、お|前《まへ》の|弟子入《でしい》りした|初陣《うひぢん》の|功名《こうみやう》に、|此奴《こいつ》をとつつめさしてなるのだから、|生宮様《いきみやさま》のお|馬《うま》の|前《さき》の|功名《こうみやう》だ。サア、|結構《けつこう》な|御神徳《ごしんとく》を|頂《いただ》くのは|今《いま》だぞえ。エーエ、|慄《ふる》つてゐるのかいな、|何《なん》だ|気《き》のチヨろい。そんな|事《こと》で、よう|今《いま》|迄《まで》|盗人《ぬすびと》が|出来《でき》たものだなア』
|六造《ろくざう》『ワツハハハハ、オイ、シヤル、|其《その》ザマは|何《なん》だ。|随分《ずいぶん》|体《からだ》が|微細《びさい》にワク……ワクと|動《うご》いてゐるぢやないか、エヘヘヘヘ』
シヤル『オイ|六《ろく》、|俺《おれ》は|決《けつ》してお|前《まへ》に|抵抗《ていかう》する|意志《いし》はないのだから、|俺《おれ》には|決《けつ》して|危害《きがい》を|加《くは》へないやうにしてくれ、そして|高姫《たかひめ》は|何《なに》から|何《なに》まで|見《み》えすく|生宮《いきみや》だから、|天下《てんか》の|為《ため》に|之《これ》を|傷付《きずつ》けるやうな|事《こと》があつては|大変《たいへん》な|損害《そんがい》だよつて、|何卒《どうぞ》、そんな|無理《むり》な|事《こと》を|言《い》はずに、トツトと|帰《かへ》つてくれ、|頼《たの》みだからなア』
|六造《ろくざう》『オイ|高《たか》、ツベコベと|人《ひと》の|受売《うけうり》|許《ばか》りしやがつて、|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》を|標榜《へうばう》してゐるが、|一遍《いつぺん》|其《その》|出刃《でば》を|此方《こつち》へ|渡《わた》せ、|実《じつ》の|所《ところ》はお|前《まへ》の|肚《はら》を|断《た》ち|割《わ》つて、|日出神《ひのでのかみ》の|出現《しゆつげん》を|願《ねが》ふ|積《つもり》だ。|日出神《ひのでのかみ》もこんな|肉体《にくたい》に|這入《はい》つて|厶《ござ》つてはお|気《き》の|毒《どく》だからなア』
|高姫《たかひめ》は|稍《やや》|慄《ふる》ひ|乍《なが》ら、ワザと|空元気《からげんき》を|出《だ》し、
『|此《この》|生宮《いきみや》を|何《なん》とお|前《まへ》は|心得《こころえ》てるのか、ヘグレのヘグレのヘグレ|武者《むしや》、|或《ある》|時《とき》は|天《てん》に|蟠《わだか》まる|竜《りう》ともなり、|或《ある》|時《とき》は|蠑〓《いもり》となつて|身《み》を|潜《ひそ》め、|千変万化《せんぺんばんくわ》の|活動《くわつどう》をいたして、|此《この》|世《よ》を|守護《しゆご》|致《いた》す|弥勒様《みろくさま》の|太柱《ふとばしら》だ。|左様《さやう》な|事《こと》を|申《まを》すと|神罰《しんばつ》が|当《あた》つて、|忽《たちま》ち|地獄行《ぢごくゆき》を|致《いた》さねばならぬぞや』
|六造《ろくざう》『|何《なん》だか|俺《おれ》はお|前《まへ》の|面《つら》を|見《み》るとムカついて|仕方《しかた》がないのだ。|地獄《ぢごく》へ|堕《おと》されうが、そんなこたア、|構《かま》ふものかい。|地獄《ぢごく》へ|堕《お》ちるのが|厭《いや》だと|云《い》つて、|心《こころ》にもないおベツカを|使《つか》ふのは、|自分《じぶん》の|潔《いさぎよ》しとせざる|所《ところ》だ。そんな|心《こころ》になれば、お|前《まへ》の|最前《さいぜん》|言《い》はれたやうに|自愛心《じあいしん》になるのだから、|放《ほ》つといて|呉《く》れ。それよりも|一旦《いつたん》|言《い》ひ|出《だ》したらば|後《あと》へは|引《ひ》かぬ|六造《ろくざう》だ。サア、キレーサツパリと、|何《なに》もかも|渡《わた》して|貰《もら》ひませう』
シヤルは|一生懸命《いつしやうけんめい》に、
『|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》、|一時《いつとき》も|早《はや》く|此《この》|六造《ろくざう》を|改心《かいしん》さして|下《くだ》さいませ。|生宮様《いきみやさま》の|御難儀《ごなんぎ》で|厶《ござ》います。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸《ち》はひませ』
と|小声《こごゑ》で|祈《いの》つてゐる。|高姫《たかひめ》はツト|立《た》つて|此《この》|家《や》を|逃《に》げ|出《だ》し|相《さう》な|様子《やうす》が|見《み》えた。|六《ろく》は|背後《うしろ》からグツと|首筋《くびすぢ》を|引掴《ひつつか》み、|力《ちから》に|任《まか》して|引倒《ひきたふ》した。シヤルは|之《これ》を|見《み》て、|吾《わが》|師《し》の|一大事《いちだいじ》と、|矢庭《やには》に|六《ろく》の|胸倉《むなぐら》を|取《と》り、|力《ちから》|限《かぎ》りに|締《し》めつけた。|不思議《ふしぎ》や|六《ろく》はスボツと|脱《ぬ》けて|三間《さんげん》|許《ばか》り|後《うしろ》につつ|立《た》ち、|大口《おほぐち》をあけて、
|六造《ろくざう》『アツハハハ』
と|笑《わら》つてゐる。そこへ|何処《どこ》ともなしに|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《き》た。|此《この》|声《こゑ》を|聞《き》くより|六《ろく》は、|天井《てんじやう》の|窓《まど》から|煙《けぶり》の|如《ごと》く|逃出《にげだ》して|了《しま》つた。|高姫《たかひめ》はヤツと|安心《あんしん》し、|又《また》もや|法螺《ほら》を|吹出《ふきだ》した。
|高姫《たかひめ》『オホホホホ、コレ、シヤル、|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》の|御神徳《ごしんとく》は|偉《えら》いものだらう。あの|通《とほ》り|御神徳《ごしんとく》に|恐《おそ》れて|消《き》えて|了《しま》ふのだからな』
シヤル『それでも、|貴方《あなた》、|大変《たいへん》に|体《からだ》がフラックツァールしてゐたぢやありませぬか。|此《この》シヤルは|高姫《たかひめ》さまが|恐《おそ》れて|精神動揺《せいしんどうえう》を|遊《あそ》ばしたのだと|思《おも》ひ、|随分《ずいぶん》|心配《しんぱい》|致《いた》しましたよ』
|高姫《たかひめ》『ホホホホ、|私《わたし》がフラックツァールしたのは|一厘《いちりん》のお|仕組《しぐみ》を|現《あら》はしてみたのだよ。|彼奴《あいつ》は|影《かげ》の|代物《しろもの》だから、|此方《こちら》の|言《い》ふ|通《とほ》りになるのだ。|影《かげ》は|形《かたち》に|従《したが》ふものだ。|日《ひ》の|照《て》る|所《ところ》へ|出《で》て、|体《からだ》を|動《うご》かして|見《み》なさい、キツと|影法師《かげぼふし》が|動《うご》くだらう。さうだから|高姫《たかひめ》が|動揺《どうえう》して|見《み》せたのは、|影人足《かげにんそく》の|六公《ろくこう》をゆり|散《ち》らす|神《かみ》の|御神法《ごしんぱふ》だ。|何《なん》と|御神力《ごしんりき》といふものは|結構《けつこう》なものだらうがなア』
シヤル『|成程《なるほど》|矢張《やつぱり》|貴女《あなた》は、チェンジェーブルの|術《じゆつ》に|長《た》けてゐられますな。それでヘグレのヘグレのヘグレ|武者《むしや》といふ|事《こと》が|合点《がつてん》が|参《まゐ》りました。イヤもう|大変《たいへん》な|御神徳《ごしんとく》を|戴《いただ》きました。サンキューサンキュー』
|高姫《たかひめ》『コレ、サンキューとは|何《なに》を|云《い》ふのだい。|六《ろく》が|帰《い》んだと|思《おも》へば、|又《また》|三九《さんきう》だのと、|三九《さんきう》の|数《かず》は|十二《じふに》ぢやないか、|何《なん》と|云《い》ふ|意味《いみ》だい。ハツキリと|聞《き》かして|貰《もら》ひませう。チェンジェーブルだの、|三九《さんきう》だのと、|鳥《とり》のなくやうな|声《こゑ》を|出《だ》して……|神《かみ》には|分《わか》りませぬぞや』
シヤル『|別《べつ》にお|前《まへ》さまの|御考《おかんが》へ|遊《あそ》ばすやうな|深《ふか》い|意味《いみ》があるのぢや|厶《ござ》いませぬ、【サンキュー】と|云《い》つたのは|有難《ありがた》うと|感謝《かんしや》したので|厶《ござ》います。チェンジェーブルと|云《い》つたのは、|何《なに》にもよく|変《へん》げ|遊《あそ》ばす|尊《たふと》い|神様《かみさま》だと|感心《かんしん》したので|厶《ござ》います』
|高姫《たかひめ》『ウン|成程《なるほど》、そんなら|之《これ》から|精《せい》|出《だ》して、|私《わたし》をチェンジェーブルの|大神様《おほかみさま》といふのだよ。サンキューも|許《ゆる》しますから、|精《せい》|出《だ》してサンキュー サンキューと|云《い》ひなさい』
シヤル『チェンジェーブル|大神様《おほかみさま》、サンキュー サンキュー、サンキュー サンキュー サンキュー、モ|一《ひと》つサンキューまだサンキュー、……サンキュー サンキュー サンキュー、モシモシ|之《これ》でお|気《き》に|入《い》りますかな』
|高姫《たかひめ》『エーエ、|過《す》ぎたるは|及《およ》ばざるが|如《ごと》しといふぢやないか、サンキューも|可《い》いかげんにしときなさい、|融通《ゆうづう》の|利《き》かぬ|男《をとこ》だなア』
シヤル『コルブス コルブス、サークイ サークイ』
|高姫《たかひめ》『|又《また》|分《わか》らぬことを|言《い》ふぢやないか、コルブスとは|何《なん》の|事《こと》だい』
シヤル『ハイ、コルブスといふ|事《こと》は、|死体《したい》といふ|事《こと》です、サークイといふ|事《こと》は|臭《くさ》いといふ|事《こと》です』
|高姫《たかひめ》『エー、|増長《ぞうちよう》するも|程《ほど》がある。|何程《なにほど》したいと|云《い》つても、ヘン、お|前等《まへら》に|相手《あひて》になる|生宮《いきみや》ぢやありませぬぞや。そして|臭《くさ》いとは、|何《なん》といふ|無礼《ぶれい》な|事《こと》をほざくのだい。|夫《そ》れほど|臭《くさ》ければ、そこに|居《を》つて|下《くだ》さるな』
シヤル『|実《じつ》の|所《ところ》は|死体《したい》のやうな|臭《くさ》い|匂《にほ》ひがしたといふのです。それは|高《たか》……オツトドツコイ|高《たか》い|窓《まど》から|脱《ぬ》けて|帰《い》にやがつた|六《ろく》の|事《こと》ですよ。|本当《ほんたう》に|臭《くさ》い|奴《やつ》でしたなア』
|高姫《たかひめ》『お|前《まへ》の|云《い》ふ|通《とほ》り|鼻持《はなもち》のならぬ|代物《しろもの》だつた。マアマア|悪魔《あくま》が|払《はら》へて|結構《けつこう》だ。サア|之《これ》からお|前《まへ》は|何事《なにごと》も|私《わたし》の|云《い》ふ|通《とほ》りに|致《いた》すのだよ』
シヤル『|一旦《いつたん》|貴女《あなた》に|体《からだ》を|任《まか》した|以上《いじやう》は|何《なん》でも|聞《き》きますが、|併《しか》し|乍《なが》らかうして|男女《なんによ》が|二人《ふたり》|一《ひと》つ|家《や》に|住居《すまゐ》をし|乍《なが》ら、|両方《りやうはう》がセリバシー|生活《せいくわつ》をやつてゐるのも|無駄《むだ》ぢやありませぬか。|何《なん》とかそこは|妥協《だけふ》の|余地《よち》がありさうなものですなア』
|高姫《たかひめ》『ホホホホ、チツトお|前《まへ》のスタイルと|相談《さうだん》して|御覧《ごらん》。そんな|事《こと》|云《い》へた|義理《ぎり》ぢやありますまい。|年《とし》から|云《い》つても|三十《さんじふ》|計《ばか》りも|違《ちが》ふぢやないか、せうもない|事《こと》を|云《い》つて|生宮《いきみや》をおだてるものぢやありませぬぞや』
シヤル『お|前《まへ》さまは|神様《かみさま》のアボッスルだから、|到底《たうてい》|私《わたし》のやうな|俗人《ぞくじん》の|側《そば》へおよりになつても|神格《しんかく》が|汚《よご》れるでせう。|無理《むり》とは|申《まを》しませぬ、|併《しか》し|乍《なが》ら|肉体上《にくたいじやう》から|言《い》へば、|貴女《あなた》も|私《わたし》もウルスヴルングは|皆《みな》|神《かみ》から|発《はつ》してゐるのですから、|霊《みたま》は|兎《と》も|角《かく》として、さう|軽蔑《けいべつ》するものぢやありませぬワイ』
|高姫《たかひめ》『ウルスヴルングなんて、|又《また》|怪体《けたい》な|事《こと》を|言《い》ふぢやないか、どこ|迄《まで》もうるさく|口説《くど》くといふのかなア。そんな|野心《やしん》はやめたがよからう。お|師匠様《ししやうさま》の|生宮《いきみや》に|向《むか》つて、チと|無礼《ぶれい》ぢやないか』
シヤル『|貴女《あなた》は|何処《どこ》までもセリバシー|生活《せいくわつ》を|続《つづ》けて|行《ゆ》く|考《かんが》へですか、|四十後家《しじふごけ》|立《た》つても|五十後家《ごじふごけ》|立《た》たぬといふぢやありませぬか。|何程《なにほど》|表面《おもて》で|立派《りつぱ》に|男嫌《をとこぎらひ》を|標榜《へうばう》してる|女《をんな》でも、|何時《いつ》とはなしに|其《その》インスチンクトが|現《あら》はれて、|遂《つひ》には|操《みさを》を|破《やぶ》るのが|避《さ》く|可《べか》らざる|女《をんな》の|境遇《きやうぐう》ですよ。さうだから|露骨《ろこつ》に|素直《すなほ》に|此《この》シヤルが|直接《ちよくせつ》|交渉《かうせふ》を|開《ひら》いたのです。|私《わたし》だつてハタの|友達《ともだち》が|皆《みな》お|前《まへ》さまの|説《せつ》に|反抗《はんかう》するにも|関《かかは》らず|同情《どうじやう》を|表《へう》し、お|味方《みかた》になつたのも、そこにはそれ、|一《ひと》つ|曰《いは》く|因縁《いんねん》がなくちや|叶《かな》ひますまい』
|高姫《たかひめ》『エー、|汚《きたな》い、インスだとか、チンクトだとか、|碌《ろく》なこた|言《い》はせぬのぢやないか、そんな|事《こと》を|申《まを》すと、|風俗壊乱《ふうぞくくわいらん》になりますぞや、チツとたしなみなされ』
シヤル『あああ、サツパリ サツパリだ。|男《をとこ》と|生《うま》れて|而《しか》もこんなお|婆《ばあ》さまに、エッパッパをくはされちや、どうして|男《をとこ》の|顔《かほ》が|立《た》つものか。エー|飽《あ》く|迄《まで》も|初志《しよし》を|貫徹《くわんてつ》するのが|男《をとこ》だ。コレ|高姫《たかひめ》さま、|何《なん》と|云《い》つても|駄目《だめ》ですよ。|何程《なにほど》お|前《まへ》さまが|神力《しんりき》が|強《つよ》いと|云《い》つても、|肉体《にくたい》と|肉体《にくたい》と|争《あらそ》へば、|到底《たうてい》|男《をとこ》には|叶《かな》ひますまい』
|高姫《たかひめ》は|厳然《げんぜん》として|威儀《ゐぎ》を|正《ただ》し、
『コリヤ、シヤル、|何《なん》と|心得《こころえ》てゐる。|此《この》|肉体《にくたい》は|勿体《もつたい》なくも、|時置師神《ときおかしのかみ》、|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|総務《そうむ》をして|厶《ござ》つた|杢助様《もくすけさま》の|奥方《おくがた》だぞえ、|何《なん》と|心得《こころえ》てゐるか』
シヤル『ヘー、さうで|厶《ござ》いましたか、|何《なん》でも|杢助《もくすけ》さまといふ|宣伝使《せんでんし》は|偉《えら》い|神力《しんりき》が|備《そな》はつてゐると|聞《き》いて|居《を》りましたが、その|杢助様《もくすけさま》は|今《いま》|何処《どこ》にゐられますか』
|高姫《たかひめ》『お|前《まへ》は|又《また》それを|尋《たづ》ねてどうする|考《かんが》へだ』
シヤル『|別《べつ》に|何《ど》うせうと|云《い》ふ|考《かんが》へも|厶《ござ》いませぬが、|一遍《いつぺん》お|目《め》にかかつてみたいのです』
|高姫《たかひめ》『オホホホホ、お|目《め》にかかりたければ、モツと|霊《みたま》を|研《みが》きなされ、|杢助様《もくすけさま》は|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|術《じゆつ》を|使《つか》つて、|雲《くも》に|乗《の》り、|天《てん》へ|上《のぼ》られたのだ。|天《てん》では|時置師神《ときおかしのかみ》|様《さま》が|天人《てんにん》の|霊《みたま》を|守護《しゆご》|遊《あそ》ばされ、|地《ち》では|高姫《たかひめ》が|汚《けが》れた|霊《みたま》の|洗濯《せんたく》をしてゐるのだ。|何《いづ》れ|下《くだ》つて|厶《ござ》るに|違《ちが》ひないから、|其《その》|時《とき》に|目《め》の|眩《くら》まぬやうに、|何事《なにごと》も|高姫《たかひめ》の|申《まを》す|通《とほ》り、|神妙《しんめう》に|御用《ごよう》を|致《いた》すのだ。|今後《こんご》は|一切《いつさい》|口答《くちごた》へなどしてはなりませぬぞや、そして|女《をんな》などには|心《こころ》を|寄《よ》せることは|出来《でき》ませぬぞ。お|前《まへ》も|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》になつた|以上《いじやう》は、|私《わし》が|相当《さうたう》の|女房《にようばう》を|選《えら》んで|与《あた》へてやるから、それ|迄《まで》|辛抱《しんばう》なさい』
かかる|所《ところ》へ|美妙《びめう》の|音楽《おんがく》|聞《きこ》え、|美《うる》はしき|三十《さんじふ》|前後《ぜんご》の|天人《てんにん》が|現《あら》はれ|来《きた》りぬ。|高姫《たかひめ》は|見《み》るより|仰天《ぎやうてん》し、アツと|計《ばか》りに|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れたり。シヤルは|目《め》を|閉《ふさ》ぎ、|床上《きじやう》に|喰付《くひつ》いて|慄《ふる》うてゐる。|天人《てんにん》は|言葉《ことば》|静《しづ》かに|高姫《たかひめ》の|耳許《みみもと》にて、
|天人《てんにん》『|吾《われ》こそは|中間天国《ちうかんてんごく》のエンゼル|文治別命《あやはるわけのみこと》で|厶《ござ》る。|其方《そなた》は|高姫《たかひめ》では|厶《ござ》らぬか』
|此《この》|声《こゑ》に|高姫《たかひめ》は|何《なん》となく|力《ちから》を|得《え》て、|目《め》を|開《ひら》き、|目映《まば》ゆ|相《さう》な|顔《かほ》をし|乍《なが》ら、
|高姫《たかひめ》『お|前《まへ》さまは|一寸《ちよつと》|気《き》の|利《き》いたエンゼルとみえるが、|杢助《もくすけ》さまのお|使《つかひ》で|来《き》たのかい。|底津岩根《そこついはね》の|根本《こつぽん》の|弥勒《みろく》の|生宮《いきみや》、|此《この》|高姫《たかひめ》にお|前《まへ》は|何《なに》か|御用《ごよう》があつて|来《き》たのだなア。オホホホホ、|何《なん》とまア|若《わか》い|男《をとこ》だこと、|随分《ずいぶん》|天国《てんごく》では、それ|丈《だけ》|美《うつく》しいと、|女《をんな》にもてるだらうな』
|文治《あやはる》『|高姫《たかひめ》|殿《どの》、|拙者《せつしや》をお|忘《わす》れになりましたか。|小北山《こぎたやま》の|受付《うけつけ》を|致《いた》して|居《を》つた|文助《ぶんすけ》で|厶《ござ》るぞや』
|高姫《たかひめ》『ナニ、お|前《まへ》があの|盲《めくら》の|文助《ぶんすけ》かい、ホホホホホ、そんな|嘘《うそ》を|云《い》ふものでない。そんな|立派《りつぱ》な|風《ふう》をして|化《ば》けて|来《き》ても、|此《この》|日出神《ひのでのかみ》の|二《ふた》つの|目《め》で|睨《にら》んだら、|違《ちが》ひは|致《いた》しませぬぞや。お|前《まへ》は|大方《おほかた》|中界《ちうかい》の|魔神《まがみ》だらう、|今《いま》も|今《いま》とて|此《この》シヤル|奴《め》、せうもない|事《こと》を|言《い》ひよる|也《なり》、|又《また》|中界《ちうかい》の|魔神《まがみ》|迄《まで》が|高姫《たかひめ》の|姿《すがた》にラブして|下《くだ》つて|来《き》ても、いつかな いつかな、|動《うご》きませぬぞや。|容貌《きれう》や|若《わか》い|年《とし》に|惚《ほれ》るやうな|柔弱《にうじやく》な|高姫《たかひめ》とは、ヘン、チツと|違《ちが》ひますぞや。|男《をとこ》とも|女《をんな》とも|分《わか》らぬやうな|面《つら》をして|騙《だま》しに|来《きた》つて、そんな|事《こと》に|乗《の》るやうな|生宮《いきみや》ぢや|厶《ござ》いませぬぞえ。サアサア|諦《あきら》めて、トツトと|帰《かへ》つて|下《くだ》さい』
|文治《あやはる》『|高姫《たかひめ》|殿《どの》、|文助《ぶんすけ》に|間違《まちがひ》は|厶《ござ》らぬ、|拙者《せつしや》も|暫《しばら》く|中有界《ちううかい》に|於《おい》て|修行《しゆぎやう》を|致《いた》し|漸《やうや》く|諸天人《しよてんにん》の|教《をしへ》を|聞《き》いて|心《こころ》を|研《みが》き、|今《いま》は|此《この》|通《とほ》り|第二霊国《だいにれいごく》のエンゼルとなり、|中有界《ちううかい》|地獄界《ぢごくかい》を|宣伝《せんでん》に|廻《まは》つて|居《を》ります。お|前《まへ》さまも|早《はや》く|悔《く》い|改《あらた》めて、この|中有界《ちううかい》を|脱出《だつしゆつ》し、|早《はや》く|天国《てんごく》へ|昇《のぼ》つて|下《くだ》さい。|此《この》|儘《まま》にしておけば、|貴女《あなた》は|地獄《ぢごく》へ|堕《お》ちるより|道《みち》は|厶《ござ》いませぬぞ。|生前《せいぜん》の|交誼《よしみ》に|仍《よ》つて、|一応《いちおう》|御注意《ごちうい》の|為《ため》に|現《あら》はれて|来《き》たのです』
|高姫《たかひめ》『ホホホホ、ようまア|仰有《おつしや》いますワイ。|第一霊国《だいいちれいごく》の|天人《てんにん》の|霊《みたま》の|高姫《たかひめ》の|光明《くわうみやう》がお|前《まへ》さまには|見《み》えませぬかな。|神《かみ》は|至仁《しじん》|至愛《しあい》だから|現界《げんかい》へ|現《あら》はれて|衆生済度《しゆじやうさいど》を、|糞糟《くそかす》に|身《み》をおとしてやつてゐるのだ。|文助《ぶんすけ》なぞと、そんな|詐《いつは》りを|言《い》つてもあきませぬぞや。|今《いま》に|正体《しやうたい》を|現《あら》はしてやるから、|其《その》|積《つもり》でゐなさい、オホホホホ、|油断《ゆだん》も|隙《すき》もあつたものぢやない』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|両手《りやうて》を|合《あは》せ、
|高姫《たかひめ》『|底津岩根《そこついはね》の|弥勒《みろく》の|大神様《おほかみさま》、|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》、|末代《まつだい》|日《ひ》の|王《わう》|天《てん》の|大神様《おほかみさま》』
と|祈《いの》り|出《だ》した。|文治別《あやはるわけ》のエンゼルは|高姫《たかひめ》の|余《あま》りの|脱線振《だつせんぶ》りに|取付《とりつ》く|島《しま》もなく、|傍《かたはら》に|倒《たふ》れてゐるシヤルを|揺《ゆす》り|起《おこ》し、
|文治《あやはる》『お|前《まへ》はバラモンのシヤルといふ|男《をとこ》ぢやないか。こんな|所《ところ》に|何時《いつ》|迄《まで》|居《を》つても|仕方《しかた》がない。まだ|現界《げんかい》に|生命《せいめい》が|残《のこ》つてゐるから、|今《いま》の|中《うち》に、サア|早《はや》く|帰《かへ》つたがよからう。グヅグヅしてゐると|肉体《にくたい》が|腐敗《ふはい》して|帰《かへ》ることが|出来《でき》なくなりますぞ』
シヤル『ハイ、|私《わたし》は|此《この》|通《とほ》り|肉体《にくたい》を|持《も》つてをります。|此《この》|外《ほか》にまだ|肉体《にくたい》があるとは|合点《がつてん》が|参《まゐ》りませぬ。そんな|事《こと》を|云《い》つて、|騙《だま》さうとなさつても、|高姫《たかひめ》さまの|片腕《かたうで》となつた|此《この》シヤルは、いつかな いつかな|騙《だま》されませぬ。そんな|事《こと》を|言《い》はずに、|何卒《どうぞ》|帰《かへ》つて|下《くだ》さいませ。あとで|高姫《たかひめ》|様《さま》の|御機嫌《ごきげん》が|悪《わる》いと|困《こま》りますから……』
|文治《あやはる》『お|前達《まへたち》は|何《ど》うしても|目《め》が|醒《さ》めないのかな。|又《また》|高姫《たかひめ》さまも|高姫《たかひめ》さまだ。|中有界《ちううかい》に|彷徨《さまよ》ひ|乍《なが》ら、ヤツパリここを|現界《げんかい》と|思《おも》つてゐると|見《み》えて、|私《わたし》の|姿《すがた》を|見《み》て|化物《ばけもの》と|疑《うたが》つてゐるらしい。ああ|元《もと》の|肉体《にくたい》になつてみせてやりたいが、さうすれば|忽《たちま》ち|神格《しんかく》が|下《くだ》つて、|再《ふたた》び|今《いま》の|地位《ちゐ》になるのは|容易《ようい》な|事《こと》ではなし、どうしたら|助《たす》けることが|出来《でき》やうかなア』
と|手《て》を|組《く》んで|思案《しあん》にくれてゐる。|四辺《あたり》に|芳香《はうかう》|薫《くん》じ、|嚠喨《りうりやう》たる|音楽《おんがく》の|音《ね》は|切《しき》りに|聞《きこ》え、|此《この》|伏家《ふせや》の|周囲《しうゐ》には|百《もも》の|天人《てんにん》が|隊《たい》を|成《な》して|取巻《とりま》いてゐる。|高姫《たかひめ》は|殆《ほと》んど|気《き》も|狂《くる》はむ|許《ばか》りに|悶《もだ》え|苦《くる》しみ|出《だ》した。エンゼルはいかにもして|高姫《たかひめ》を|救《すく》はむと、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|数歌《かずうた》を|歌《うた》つた。|高姫《たかひめ》は|益々《ますます》|忌《い》み|嫌《きら》ひ、|手足《てあし》をヂタバタさせ|乍《なが》ら、|裏口《うらぐち》を|開《あ》けるや|否《いな》や、エンゼルの|間《あひだ》を|潜《くぐ》つて|裏《うら》の|禿山《はげやま》を|指《さ》して、|野猪《のじし》の|如《ごと》く|四這《よつば》ひになつて|逃《に》げゆく。シヤルは|此《この》|体《てい》を|見《み》るなり、|又《また》もや|高姫《たかひめ》の|跡《あと》を|逐《お》ひ、|数多《あまた》のエンゼルの|間《あひだ》を|潜《くぐ》り|脱《ぬ》け、|駆《か》けり|行《ゆ》く。
|之《これ》より|高姫《たかひめ》は|禿山《はげやま》を|二《ふた》つ|三《み》つ|越《こ》え、|四面《しめん》|山《やま》に|包《つつ》まれた|赤濁《せきだく》の|可《か》なり|広《ひろ》い|沼《ぬま》の|畔《ほとり》に|着《つ》いた。|而《さう》して|沼《ぬま》の|水《みづ》を|手《て》に|掬《すく》うて|一生懸命《いつしやうけんめい》に|渇《かつ》をいやしてゐる。|皺枯声《しわがれごゑ》を|張《は》り|上《あ》げ、
『オーイオイ』
と|呼《よ》ばはり|乍《なが》ら、|禿山《はげやま》の|上《うへ》から、|転《ころ》げる|様《やう》にやつて|来《き》たのはシヤルであつた。
シヤル『ああ、|先生《せんせい》、|能《よ》うマア|此処《ここ》に|居《を》つて|下《くだ》さいました、|大変《たいへん》な|事《こと》で|厶《ござ》いましたなア。ありや|一体《いつたい》|何《なん》で|厶《ござ》いませう。|何万《なんまん》とも|知《し》れぬ|怖《こは》い|顔《かほ》した|鬼《おに》|奴《め》が|鉄棒《かなぼう》を|持《も》つて|家《いへ》のぐるりを|取巻《とりま》き、|厭《いや》らしい|鳴物《なりもの》を|鳴《な》らし、|鼻《はな》の|塞《ふさ》がるやうな|匂《にほ》ひをさして|攻《せ》めかけた|時《とき》の|怖《こは》さ、|辛《つら》さ、|生宮《いきみや》さまでさへもお|逃《に》げ|遊《あそ》ばす|位《くらゐ》だから、|到底《たうてい》|自分《じぶん》は|助《たす》かりつこはないと、お|後《あと》を|慕《した》うて|此処《ここ》|迄《まで》|逃《に》げて|参《まゐ》りました。モウ|追《お》つかけて|来《く》る|気遣《きづか》ひは|厶《ござ》いますまいかなア』
|高姫《たかひめ》『ホホホホ|仮令《たとへ》|幾万《いくまん》|鬼《おに》が|来《こ》ようとも、そんな|事《こと》にビクともする|高姫《たかひめ》ぢや|厶《ござ》いませぬぞや。|之《これ》は|神《かみ》の|秘密《ひみつ》の|法《はふ》に|仍《よ》つて、あの|悪魔《あくま》をここ|迄《まで》|誘《さそ》ひ|出《だ》し、|此《この》|血《ち》の|池《いけ》へ|皆《みな》|放《ほ》りこむ|算段《さんだん》で、ワザとに|逃《に》げて|来《き》たのだよ。|千《せん》や|万《まん》の|鬼《おに》に|逃《に》げ|出《だ》すやうな|高姫《たかひめ》と|思《おも》つて|貰《もら》つちや|片腹痛《かたはらいた》いわいの、オホホホホ』
と|胸《むね》の|驚《おどろ》きを|隠《かく》して、ワザと|何気《なにげ》なき|態《てい》を|装《よそほ》ひ|笑《わら》つて|居《ゐ》る。
シヤル『|高姫《たかひめ》さま、そんな|強《つよ》|相《さう》な|事《こと》を|仰有《おつしや》いますけれど、あの|時《とき》の|貴女《あなた》のスタイルには|随分《ずいぶん》|狼狽《らうばい》のサマがみえて|居《を》りました、|不減口《へらずぐち》ぢや|厶《ござ》いますまいかな』
|高姫《たかひめ》『まだお|前《まへ》|迄《まで》が|私《わたし》を|疑《うたが》うてをるのかい、|困《こま》つた|男《をとこ》だなア。|文助《ぶんすけ》の|霊《みたま》だなどと|云《い》ひやがつて、|化《ば》けて|来《き》よつたのを|看破《かんぱ》する|丈《だけ》の|御神力《ごしんりき》があるのだから、|到底《たうてい》お|前《まへ》では、|此《この》|高姫《たかひめ》の|真価《しんか》は|分《わか》りますまい、マア|黙《だま》つてゐなさい。|而《さう》して|高姫《たかひめ》のする|事《こと》を|考《かんが》へてをれば、|成程《なるほど》と、|二三日《にさんにち》の|内《うち》には|合点《がつてん》がゆくだらう。オホホホホ、あのまア|怖《こは》|相《さう》な|顔《かほ》はいの。これだから|弱虫《よわむし》を|伴《つ》れてゐると、|足手《あして》まとひになつて、|本当《ほんたう》の|神力《しんりき》を|出《だ》すことが|出来《でき》ないのだ。お|前《まへ》さへゐなかつたら、あんな|奴《やつ》ア、|一人《ひとり》も|残《のこ》さず、|最前《さいぜん》のやうに|烟《けぶり》にして|了《しま》ふのだけれど、お|前《まへ》の|曇《くも》つた|霊《みたま》が|邪魔《じやま》をするものだから、とうとう|位置《ゐち》を|転《てん》じて|第二《だいに》の|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》をせなけりやならぬ|面倒《めんだう》が|起《おこ》つたのだよ。|併《しか》し|流石《さすが》の|鬼《おに》も|此処《ここ》|迄《まで》、ヨモヤ|高姫《たかひめ》の|神力《しんりき》を|恐《おそ》れて|追掛《おひかけ》ては|来《き》ますまい。まア|些《ちつ》と|落着《おちつ》きなさい』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|又《また》もや|音楽《おんがく》の|声《こゑ》、|山《やま》の|頂《いただき》より|文治別《あやはるわけ》は|先頭《せんとう》に|立《た》ち、|数百人《すうひやくにん》の|天人《てんにん》を|従《したが》へて|降《くだ》つて|来《く》る。
シヤル『モシモシ|高姫《たかひめ》さま、やつて|来《き》ました、サア、|此処《ここ》で|見事《みんごと》、|彼奴《あいつ》を|亡《ほろ》ぼして|下《くだ》さいませ。|私《わたし》の|目《め》では|彼奴《あいつ》が|鬼《おに》に|見《み》えたり、|又《また》|綺麗《きれい》な|天人《てんにん》に|見《み》えたりして|仕方《しかた》がありませぬワ……それそれ、|大速力《だいそくりよく》で|此方《こちら》へ|下《くだ》つて|来《き》ませうがな、|早《はや》く|準備《じゆんび》をして|下《くだ》され』
|高姫《たかひめ》『エー、|準備《じゆんび》をせうと|思《おも》ふておつたのに、お|前《まへ》が|出《で》て|来《き》て、せうもない|事《こと》を|喋《しやべ》り、|肝腎《かんじん》の|時間《じかん》を|潰《つぶ》さして|了《しま》つたものだから、|悪魔《あくま》の|方《はう》が|早《はや》く|来《き》よつたのだ。ああ|此処《ここ》でも|具合《ぐあひ》が|悪《わる》い、|第三《だいさん》の|計画《けいくわく》に|移《うつ》らう』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|顔《かほ》を|真青《まつさを》になし、|又《また》もや|次《つぎ》の|山《やま》を|転《こ》けつ|輾《まろ》びつ|駆《か》け|上《のぼ》る。シヤルも|是非《ぜひ》なく|黒《くろ》い|褌《ふんどし》をたらし|乍《なが》ら、|高姫《たかひめ》の|足型《あしがた》を|尋《たづ》ねて、|息《いき》も|苦《くる》しげに|跟《つ》いて|行《ゆ》く。
(大正一二・三・一六 旧一・二九 於竜宮館 松村真澄録)
第三篇 |月照荒野《げつせうくわうや》
第一〇章 |十字《じふじ》〔一四四〇〕
エルシナ|川《がは》の|堤《どて》に|引上《ひきあ》げられ、ビクトル|山《さん》の|修験者《しうげんじや》|求道居士《きうだうこじ》に|救《すく》はれたベル、ヘル、ケリナの|三人《さんにん》はエルシナ|川《がは》の|谷川《たにがは》を|遡《さかのぼ》りパインの|木蔭《こかげ》を|縫《ぬ》ひ|乍《なが》ら、やや|広《ひろ》き|青野ケ原《あをのがはら》に|出《で》た。ここには|色々《いろいろ》の|美《うつく》しき|花《はな》が|咲《さ》き|充《み》ちてゐる。|一同《いちどう》は|路傍《ろばう》の|平岩《ひらいは》に|腰打掛《こしうちか》け|息《いき》を|休《やす》めてゐる。|求道居士《きうだうこじ》は|数珠《じゆず》を|爪繰《つまぐ》り|乍《なが》ら、
|求道《きうだう》『|天竜虎《てんりうこ》、|王命《わうみやう》、|勝〓《しようたい》、|大水日《だいすゐじつ》。|天竜虎《てんりうこ》、|王命《わうみやう》、|勝〓《しようたい》、|大水日《だいすいじつ》』
と|繰返《くりかへ》し|繰返《くりかへ》し|呪文《じゆもん》を|唱《とな》へた。
ヘル『モシ、|修験者様《しゆげんじやさま》、|吾々《われわれ》は|貴方《あなた》のお|蔭《かげ》で|命《いのち》のない|所《ところ》を|助《たす》けて|頂《いただ》きましたが、|今《いま》のお|経《きやう》は|何《なん》だか|知《し》りませぬが、|頭《あたま》に|浸《し》み|渡《わた》つて|有難《ありがた》い|様《やう》な|気分《きぶん》が|致《いた》します。|何卒《どうぞ》その|呪文《じゆもん》の|御解釈《ごかいしやく》をして|頂《いただ》けますまいか』
|求道《きうだう》『あ、よしよし、この|呪文《じゆもん》はバラモン|教《けう》の|神秘《しんぴ》となつてゐるのだ。お|前等《まへたち》が|水《みづ》に|溺《おぼ》れて|絶命《ことぎ》れて|居《を》つたのを|呼《よ》び|戻《もど》したのも|此《この》|十字《じふじ》の|秘法《ひはふ》のお|蔭《かげ》だよ。|何時《いつ》もこれさへ|唱《とな》へて|居《を》つたならば、あの|様《やう》な|災難《さいなん》に|罹《かか》る|様《やう》な|事《こと》はチツともない。|起死回生《きしくわいせい》|諸災除攘《しよさいぢよじやう》の|神秘的《しんぴてき》|呪文《じゆもん》だ。|一《ひと》つ|解釈《かいしやく》をするから|聞《き》きなさい。
|天竜虎《てんりうこ》、|王命《わうみやう》、|勝〓《しようたい》、|大水日《だいすゐじつ》。|天竜虎《てんりうこ》、|王命《わうみやう》、|勝〓《しようたい》、|大水日《だいすいじつ》
この|十字《じふじ》の|秘伝《ひでん》は|神変不可思議《しんぺんふかしぎ》の|神徳《しんとく》が|顕《あらは》れ、|如何《いか》なる|願望《ぐわんまう》も|成就《じやうじゆ》し、|又《また》|如何《いか》なる|災禍《さいくわ》も|除却《ぢよきやく》することが|出来《でき》るのだ』
ヘル『どうか|其《そ》の|字《じ》の|功徳《くどく》に|就《つい》て|御教示《ごけうじ》を|願《ねが》ひたいものですなア』
|求道《きうだう》『ヨシヨシ|由縁《ゆはれ》を|聞《き》けば|有難《ありがた》い。|重《かさ》ねて|言《い》へば|猶《なほ》|有難《ありがた》いと|云《い》ふ|神伝《しんでん》|秘法《ひはふ》の|呪文《じゆもん》だから、|能《よ》く|胸《むね》に|畳《たた》み|込《こ》んでおくが|好《よ》い。
|抑々《そもそも》、
|天《てん》 は|高貴大官《かうきたいくわん》の|前《まへ》に|出《で》る|時《とき》|之《これ》を|書《か》くのだ。|又《また》|航海渡船《かうかいとせん》の|時《とき》に|之《これ》を|書《か》いても|可《い》い、さすれば|高官《かうくわん》には|自分《じぶん》の|意志《いし》が|完全《くわんぜん》に|通《つう》じ|且《か》つ|難破船《なんぱせん》の|災《わざは》ひを|免《まぬが》れる。
|竜《りう》 は|海河《かいか》|又《また》は|船橋《せんけう》を|渡《わた》る|時《とき》に|書《か》いて|持《も》つものだ。|又《また》|大風雨《だいふうう》に|向《むか》つて|出達《しゆつたつ》する|時《とき》に|之《これ》を|書《か》けば|凡《すべ》ての|海河風雨《かいかふうう》の|難《なん》を|免《まぬが》れる。
|虎《こ》 は|広野《くわうや》|原野《げんや》|深山《しんざん》に|行《ゆ》かむと|欲《ほつ》する|時《とき》に|書《か》くのだ。|又《また》|山猟《やまれふ》の|時《とき》とか|賊《ぞく》に|出遭《であ》つた|時《とき》に|書《か》けばその|難《なん》を|免《まぬが》れる。
|王《わう》 は|悪人《あくにん》|等《など》に|対《たい》する|時《とき》|之《これ》を|書《か》きて|持《も》つものだ。|又《また》|不時《ふじ》に|応《おう》ずる|時《とき》、|裁判《さいばん》の|時《とき》に|之《これ》を|書《か》くのも|可《い》い。|屹度《きつと》|神《かみ》の|御守護《ごしゆご》がある。
|命《みやう》 は|人《ひと》の|家《いへ》にて|怪《あや》しき|茶《ちや》、|酒《さけ》、|飲食《いんしよく》を|与《あた》へられた|時《とき》に|之《これ》を|書《か》くのも|可《い》い、|又《また》|敵《てき》に|向《むか》つた|時《とき》|之《これ》を|書《か》いて|持《も》つも|可《い》い。|屹度《きつと》|災難《さいなん》を|免《まぬが》れる。
|勝《しよう》 は|軍陣《ぐんぢん》|並《ならび》に|万《よろづ》の|勝負《しようぶ》の|時《とき》に|書《か》く、|又《また》|売買《ばいばい》の|時《とき》に|書《か》くのもよい。
|〓《たい》 は|疾病《しつぺい》のある|家《いへ》に|行《ゆ》かむとする|時《とき》、|又《また》は|諸々《もろもろ》の|悪人《あくにん》の|集《あつ》まつて|居《ゐ》る|所《ところ》に|行《ゆ》かむとする|時《とき》に|書《か》くのだ。|屹度《きつと》|神徳《しんとく》が|顕《あら》はれる。
|大《だい》 は|怪《あや》しと|思《おも》ふ|場所《ばしよ》や|又《また》|淋《さび》しき|所《ところ》に|出行《いでゆ》く|時《とき》とか、|悪病《あくびやう》、|伝染病《でんせんびやう》の|人《ひと》を|見舞《みま》ふ|時《とき》に|之《これ》を|書《か》くものだ。
|水《すい》 は|案内《あんない》を|知《し》らぬ|家《いへ》に|行《ゆ》く|時《とき》|又《また》は|酒席《しゆせき》に|出《で》る|時《とき》、|身構《みがま》へ、|清浄《しやうじやう》の|時《とき》、|又《また》|水論《すいろん》のある|時《とき》に|之《これ》を|書《か》くと|可《い》い。
|日《じつ》 は|万《よろづ》の|祝言《しうげん》や|慶事喜悦《けいじきえつ》に|関《くわん》する|時《とき》、|又《また》は|病人《びやうにん》を|訪《おとづ》れる|時《とき》に|書《か》いて|持《も》つて|居《を》れば|相方《さうはう》|共《とも》に|御神徳《ごしんとく》を|頂《いただ》く|事《こと》が|出来《でき》るのだ。|是《これ》は|婆羅門教《ばらもんけう》の|秘事中《ひじちう》の|秘術《ひじゆつ》だから、|妄《みだ》りに|人《ひと》に|伝《つた》へると|濫用《らんよう》する|恐《おそ》れがあるから、|固《かた》く|人《ひと》に|伝《つた》ふることを|厳禁《げんきん》されてあるのだ。|以上《いじやう》の|十字《じふじ》を|以《もつ》て|婆羅門《ばらもん》|十字《じふじ》の|大法《たいはふ》と|称《とな》えるのだ。|之《これ》を|行《おこな》ふには|男《をとこ》は|左《ひだり》の|手《て》、|女《をんな》は|右《みぎ》の|手《て》にて|刀印《たういん》にて|空書《くうしよ》するのだ。|又《また》|刀印《たういん》を|硯《すずり》に|施《ほどこ》して|白紙《はくし》に|書《しよ》して|懐中《くわいちう》して|居《ゐ》るのも|結構《けつこう》だ。|然《しか》し、これより|尚《まだ》|尊《たふと》い|事《こと》があるのだ。|併《しか》し|乍《なが》ら、|余《あま》り|勿体《もつたい》なくて|口《くち》にすることが|出来《でき》ないから、|身魂相応《みたまさうおう》に|十字《じふじ》の|呪文《じゆもん》を|空書《くうしよ》したり、|唱《とな》へたりして|修行《しゆぎやう》に|歩《ある》いてゐるのだ』
ヘル『これよりも|有難《ありがた》い|尊《たふと》い|事《こと》とはどんな|事《こと》で|厶《ござ》いますか。|何卒《どうぞ》|序《ついで》に|聞《き》かして|下《くだ》さいませな。|私《わたし》も|貴方《あなた》に|助《たす》けられて|此《この》|御恩《ごおん》を|返《かへ》すためには、|世界《せかい》の|人間《にんげん》も|助《たす》けさして|貰《もら》ひ|度《た》う|厶《ござ》いますから』
|求道《きうだう》『お|前《まへ》が|御神徳《ごしんとく》を|私《わたくし》せず、|世界《せかい》の|人間《にんげん》を|助《たす》けさして|貰《もら》ひ|度《た》いと|云《い》ふ|誠心《まごころ》があるならば|伝授《でんじゆ》してやらう。|一番《いちばん》|尊《たふと》い|事《こと》と|云《い》ふのは|天《あま》の|数歌《かずうた》といつて「|一《ひと》、|二《ふた》、|三《み》、|四《よ》、|五《いつ》、|六《むゆ》、|七《なな》、|八《や》、|九《ここの》、|十《たり》、|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》」と|唱《とな》へるのだ。|之《これ》は|天地開闢《てんちかいびやく》の|初《はじめ》から|今日《こんにち》に|至《いた》る|迄《まで》、|無限絶対力《むげんぜつたいりよく》の|神様《かみさま》が|此《この》|天地《てんち》を|創造《さうざう》し、|神徳《しんとく》を|世界《せかい》に|充《み》たし|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|信真《しんしん》の|光明《くわうみやう》を|吾々《われわれ》|人間《にんげん》にお|授《さづ》け|下《くだ》さる|神文《しんもん》だ。そして「|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》」と|後《あと》で|唱《とな》へるのだ。|之《これ》に|越《こ》したる|尊《たふと》い|言葉《ことば》は|三千世界《さんぜんせかい》にないのだから、よく|聞《き》いておきなさい』
ヘル『いや、|如何《どう》も|有難《ありがた》う|厶《ござ》りました。お|蔭《かげ》で|結構《けつこう》な|御神徳《ごしんとく》を|頂戴《ちやうだい》しました。サンキュー サンキュー』
|求道《きうだう》『|無駄口《むだぐち》を|云《い》ふ|間《ま》があつたら|此《この》|神文《しんもん》をお|唱《とな》へするのだ。さうすればどんな|事《こと》でも|忍耐《たへしの》びがついて、|天晴《あつぱれ》|神様《かみさま》の|御用《ごよう》に|使《つか》ふて|貰《もら》ふ|事《こと》が|出来《でき》るのだ。|併《しか》し|乍《なが》ら|歌《うた》を|歌《うた》ふ|様《やう》な|気持《きもち》になつて|唱《とな》へては|駄目《だめ》だから、よく|慎《つつし》んで|唱《とな》へたが|宜《よろ》しいぞ』
ヘル『サンキュー サンキュー』
ベル『アハハハハナーンだ。|竜《りう》だの、|虎《とら》だの、|貂《てん》だの、|鼬《いたち》だのと|勿体《もつたい》らしく|仰有《おつしや》いまして、その|又《また》|後《あと》に|商人《あきんど》か|大工《だいく》の|様《やう》に|数字《すうじ》を|並《なら》べたり、|鉋《かんな》だとか、|鑿《のみ》だとか、|笑《わら》はしやがるわい。アハハハハ、これ|丈《だ》け|人文《じんもん》の|発達《はつたつ》した|世《よ》の|中《なか》に、そんな|寝言《ねごと》の|余《あま》り|言《ごと》の|様《やう》な|事《こと》を|云《い》つて|廻《まは》る|修験者《しうげんじや》の|気《き》が|知《し》れないわ。ウフフフフ』
ヘル『こりやベル、|修験者《しうげんじや》|求道居士様《きうだうこじさま》は、もとは|吾々《われわれ》のカーネル、エミシ|様《さま》だが、|結構《けつこう》な|呪文《じゆもん》を|唱《とな》へて|俺等《おれたち》を|助《たす》けて|下《くだ》さつたのに、|何《なん》と|云《い》ふ|畏《おそ》れ|多《おほ》い|事《こと》を|云《い》ふのだ。|勿体《もつたい》ないぢやないか』
ベル『ハハハハ|貴様《きさま》も|亦《また》|軟化《なんくわ》しやがつたな。|何《なん》と|云《い》つても|寿命《じゆみやう》のある|者《もの》は|死《し》ぬものかい。|八衢《やちまた》で「まだお|前《まへ》は|生命《いのち》があるから|帰《かへ》れ」と|云《い》つたぢやないか。|別《べつ》に|修験者《しうげんじや》の|力《ちから》でも|何《なん》でも|無《な》い。|此《この》|世《よ》にまだ|生存《せいぞん》の|力《ちから》を|持《も》つてゐるから|生還《いきかへ》つたのだよ。そんな|馬鹿《ばか》な|事《こと》|云《い》ふものぢやない。それよりも|商売《しやうばい》に|勉強《べんきやう》した|方《はう》が|何程《なにほど》|利益《りえき》だか|分《わか》らないわ。これからワールドを|股《また》にかけワールドウ(|悪胴《わるどう》)を|据《す》ゑて|泥坊商売《どろばうしやうばい》を|勉強《べんきやう》した|方《はう》が|忽《たちま》ちお|蔭《かげ》がある。|何《なに》|程《ほど》|十字《じふじ》の|秘法《ひはふ》を|唱《とな》へても、|一《ひ》、|二《ふ》、|三《み》、|四《よ》と|云《い》つて|数《かぞ》へて|居《を》つても、|一文《いちもん》の|金《かね》も|降《ふ》つて|来《き》はせぬぢやないか。そんな|事《こた》ア|世捨人《よすてびと》のする|仕事《しごと》だ。|俺等《おれたち》は|日々《にちにち》の|生活難《せいくわつなん》を|凌《しの》いで|行《ゆ》かむならぬから、そんな|陽気《やうき》な|事《こと》は|云《い》つて|居《を》れないわ。|肉体《にくたい》のある|限《かぎ》り|食物《しよくもつ》も|摂《と》らねばならず、|人間《にんげん》の|体《からだ》は|実在物《エイジツチング》だからヤツパリ|実在的《じつざいてき》|物質《ぶつしつ》が|何《なに》よりも|肝腎《かんじん》だ。|空々漠々《くうくうばくばく》たる|無形《むけい》の|呪文《じゆもん》が|何《なん》になるか。|馬鹿《ばか》だなア』
|求道《きうだう》『ハハハハ、ベルはどうしても|分《わか》らぬと|見《み》えるな。そしてお|前《まへ》はゼネラル|様《さま》から、あれ|丈《だ》けのお|金《かね》を|頂《いただ》いた|時《とき》に、|正業《せいげふ》に|就《つ》きますと|云《い》つたぢやないか。それにも|拘《かか》はらずまだ|泥坊《どろばう》をこれからやらうと|云《い》ふのか』
ベル『|何分《なにぶん》|人間《にんげん》はパンが|肝腎《かんじん》ですから、|私《わたし》のやうな|無資産者《むしさんしや》は、|泥坊《どろばう》なつとやらなくちや|仕方《しかた》がありませぬわい。|何程《なにほど》|神《かみ》を|祈《いの》つて|居《を》つても|一片《ひときれ》のパンも|湧《わ》いては|来《き》ませぬからな。|神様《かみさま》だつて|有《あ》るとも|無《な》いとも、そんな|事《こた》アあてになりませぬわい』
|求道《きうだう》『お|前《まへ》は、さうすると|何処《どこ》|迄《まで》もアーセーズムを|主張《しゆちやう》するのかな。|困《こま》つたものだな。|人間《にんげん》の|力《ちから》で|木《こ》の|葉《は》|一枚《いちまい》だつて|出来《でき》るものでないと|云《い》ふ|事《こと》を|知《し》つてるだらう。さうすれば|山川草木《さんせんさうもく》を|拵《こしら》へた|原動力《げんどうりよく》がなければならぬ|筈《はず》だ。|人間《にんげん》|以外《いぐわい》の|物《もの》がなければ|此《この》|天地《てんち》は|造《つく》れるものでない。よく|考《かんが》へて|見《み》るが|宜《よ》からうぞ』
ベル『それは|人間《にんげん》が|出来《でき》ない|事《こと》は|分《わか》つてゐます。|自然《しぜん》の|力《ちから》で|一切《いつさい》|万物《ばんぶつ》が|出来《でき》て|居《を》るのです。その|自然《しぜん》を|貴方等《あなたがた》は|神《かみ》と|云《い》ふのですか。|貴方等《あなたがた》はフテキズムだ。もしも|違《ちが》うたら【ナチュラル】・ワーシップだ。|私《わたし》は|神《かみ》なぞが|決《けつ》して|此《この》|世《よ》に|存在《そんざい》するとは|思《おも》はれませぬわい』
|求道《きうだう》『どうも|仕方《しかた》のない|男《をとこ》だなア。まアまア|緩《ゆつく》りと|胸《むね》に|手《て》を|当《あ》てて|考《かんが》へて|見《み》るが|宜《よ》からう』
ヘル『オイ、ベル、|人間《にんげん》は|神《かみ》を|離《はな》れて|一日《いちにち》も|此《この》|世《よ》の|中《なか》に|生《い》きて|居《を》る|事《こと》は|出来《でき》ないぞ。|皆《みな》|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》だ。そんな|勿体《もつたい》ない|事《こと》を|云《い》はずに|神様《かみさま》を|礼拝《らいはい》する|気《き》はないか。お|前《まへ》もこれから|天国《てんごく》に|救《すく》はれるか、|地獄《ぢごく》に|堕《だ》するかと|云《い》ふ|境目《さかひめ》だから、トツクリ|求道様《きうだうさま》のお|話《はなし》を|聞《き》いて|考《かんが》へて|見《み》たら|如何《どう》だ』
ベル『ウン、そんなら|一《ひと》つ|求道《きうだう》さまにお|尋《たづ》ねしますが、|一体《いつたい》|神様《かみさま》は|此《この》|天地《てんち》の|間《あひだ》にどれ|丈《だ》け|厶《ござ》るのですか』
|求道《きうだう》『|天津神《あまつかみ》|八百万《やほよろづ》、|国津神《くにつかみ》|八百万《やほよろづ》と|云《い》つて|億兆無数《おくてうむすう》の|神様《かみさま》が|厶《ござ》るのだ。それぞれお|役目《やくめ》を|分掌《ぶんしやう》|遊《あそ》ばして|此《この》|世《よ》の|中《なか》を|守《まも》つて|下《くだ》さるのだから、|人間《にんげん》は|神様《かみさま》を|信仰《しんかう》せなくてはなりませぬぞ』
ベル『それ|丈《だ》け|沢山《たくさん》の|神様《かみさま》があつたら|却《かへ》つて|世界《せかい》が|治《をさ》まらぬぢやありませぬか。|貴方《あなた》のお|説《せつ》はどうも|私《わたし》の|腑《ふ》に|落《お》ちない。その|筆法《ひつぱふ》で|云《い》へば|一切《いつさい》|神《かみ》ばかりで|此《この》|世《よ》の|中《なか》は|埋《うづ》もつて|了《しま》ひ、|人間《にんげん》の|住居《すまゐ》する|場所《ばしよ》はないぢやありませぬか。そんなボリセズムは|新教育《しんけういく》を|受《う》けた|吾々《われわれ》の|耳《みみ》には、|余《あんま》り|古臭《ふるくさ》くて|這入《はい》りませぬがな』
|求道《きうだう》『|神様《かみさま》は|元《もと》は|只《ただ》お|一柱《ひとはしら》だ。その|神様《かみさま》は|大国治立尊《おほくにはるたちのみこと》と|云《い》つて|宇宙《うちう》|一切《いつさい》をお|構《かま》ひ|遊《あそ》ばす|太元神様《たいげんしんさま》だから|此《この》|神《かみ》の|水火《いき》から|生《うま》れた|色々《いろいろ》の|天人《てんにん》が、|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》となつて|御守護《ごしゆご》|遊《あそ》ばして|厶《ござ》るのだ。それだから|之《これ》を|巻《ま》けば|一神《いつしん》となり、|之《これ》を|開《ひら》けば|多神《たしん》となる。|所謂《いはゆる》|神様《かみさま》は|一神《いつしん》にして|多神《たしん》、|多神《たしん》にして|一神《いつしん》だ。|吾々《われわれ》と|雖《いへど》もヤツパリ|神様《かみさま》の|御神体《おからだ》の|一部分《いちぶぶん》だ』
ベル『|益々《ますます》|分《わか》らなくなつて|来《き》た。お|前《まへ》さまの|言《い》ふ|事《こと》はモノゼーズムかと|思《おも》へばボリセーズムになつて|了《しま》ふ。ボリセーズムかと|思《おも》へば|一転《いつてん》してバンエンテーリズムになるぢやないか。そんな|拠《たよ》りない|神様《かみさま》を|礼拝《らいはい》するのは|真平《まつぴら》|御免《ごめん》だ。エーエーこんな|話《はなし》を|聞《き》いて|居《ゐ》ると|気分《きぶん》が|悪《わる》くなる。それよりも|現実的《げんじつてき》にお|蔭《かげ》を|頂《いただ》く|事《こと》をやり|度《た》いものだ。さア|之《これ》から|俺《おれ》の|幕《まく》だ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|捻鉢巻《ねぢはちまき》をグツと|締《し》め、|瘤《こぶ》だらけの|腕《うで》をニユツと|前《まへ》につき|出《だ》し、
ベル『おい、|修験者《しゆげんじや》、ここを|何処《どこ》と|心得《こころえ》てる。|勿体《もつたい》なくも|天下《てんか》の|大泥坊《だいどうばう》ベルさまの|繩張《なはば》り|区域《くゐき》だぞ。さアさア、キリキリチヤツと|持物《もちもの》|一切《いつさい》|投《な》げ|出《だ》して|行《ゆ》かつせい。|猪倉山《ゐのくらやま》で|随分《ずいぶん》|分配金《ぶんぱいきん》を|貰《もら》つただらうから、まだ|持《も》つて|居《ゐ》るだらう。それを|此方《こつち》へスツパリ|渡《わた》して|行《ゆ》け。お|慈悲《じひ》に|着物《きもの》|丈《だけ》は|助《たす》けてやるから』
|求道《きうだう》『アハハハハ、|困《こま》つた|奴《やつ》だな。|金《かね》は|此処《ここ》にまだ|一万両《いちまんりやう》ばかり|持《も》つて|居《ゐ》るが、|之《これ》は|世界《せかい》の|困《こま》つた|人間《にんげん》を|助《たす》けるための|物質的《ぶつしつてき》の|宝《たから》だ。お|前《まへ》の|様《やう》な|泥坊《どろばう》にやる|金《かね》は|一文《いちもん》も|持《も》たない。|将軍様《しやうぐんさま》から|大金《たいきん》を|頂《いただ》いて|改心《かいしん》するかと|思《おも》へば|益々《ますます》|悪党《あくたう》になるやうな|代物《しろもの》だから、お|前《まへ》を|助《たす》けようと|思《おも》へば|一厘《いちりん》だつて|渡《わた》す|事《こと》は|出来《でき》ぬ。それよりも|無形《むけい》の|宝《たから》を|頂《いただ》いて|誠《まこと》の|人間《にんげん》になつたら|如何《どう》だ』
ベル『アハハハハ、|何《なん》と|仰有《おつしや》つてもパンを|与《あた》へられねば|信仰《しんかう》は|出来《でき》ない。|俺《おれ》を|信仰《しんかう》の|道《みち》に|入《い》れ|度《た》いと|思《おも》ふなら|先《ま》づパンを|与《あた》へよだ。|早《はや》くその|金《かね》を|此方《こつら》へ……|皆《みな》|迄《まで》とは|云《い》はぬから、|五千両《ごせんりやう》ばかり|渡《わた》して|呉《く》んねえ。さすれば|此《この》|金《かね》のある|間《あひだ》は|信者《しんじや》になつても|可《い》い』
ヘル『|到頭《とうとう》|本音《ほんね》を|吹《ふ》きやがつたな。もし|先生《せんせい》、こんな|奴《やつ》に|与《や》る|金《かね》があつたら|乞食《こじき》におやりなさい。ますます|此奴《こいつ》を|地獄《ぢごく》の|底《そこ》へ|堕《おと》す|様《やう》なものですからな』
|求道《きうだう》『|如何《いか》にもお|前《まへ》の|云《い》ふ|通《とほ》りだ。こんな|者《もの》に|金《かね》を|持《も》たしたら|狂人《きちがひ》に|松明《たいまつ》を|持《も》たすも|同然《どうぜん》だ。まア|止《や》めて|置《お》かうかい』
ベル『こりやヘル、|貴様《きさま》の|懐《ふところ》がヘルのでもないのに|横合《よこあひ》から|何《なに》をしやベルのだ。|人《ひと》の|商売《しやうばい》の|妨害《ばうがい》をさらしやがつて、もう|量見《れうけん》ならぬ。これから|貴様《きさま》と|命《いのち》の|奪合《とりあ》ひをして、|勝《か》つた|方《はう》がケリナを|女房《にようばう》にするのだ。さア|来《こ》い、|勝負《しようぶ》だ』
と|手《て》に|唾《つばき》をつけ|挑戦《てうせん》する。
ヘル『ハハハハハ、そりや|何《なあん》さらしてるのだ。そんな|目《め》を|剥《む》いて|芝居《しばゐ》をしたつて|恐《こは》がる|奴《やつ》は|一人《ひとり》もありやせないぞ。なあケリナ、|本当《ほんたう》に|下劣《げれつ》な|男《をとこ》ぢやないか。|下劣《げれつ》ばかりならまだしもだが、|無智暗愚《むちあんぐ》|極悪無道《ごくあくぶだう》、|所在《あらゆる》|罪悪《ざいあく》を|具備《ぐび》して|居《ゐ》るモンスターだから|困《こま》つた|者《もの》ですわい。|併《しか》しケリナ、お|怪我《けが》があつてはならぬから、|先生《せんせい》のお|側《そば》を|離《はな》れないやうにして|下《くだ》さい。|之《これ》から|此《この》|悪人《あくにん》と|奮闘《ふんとう》して|懲《こら》しめてやるから』
ケリナ『ホホホホホ|何程《なにほど》ベルが|凄《すご》い|文句《もんく》を|並《なら》べて|威張《ゐば》つた|所《ところ》で|誰《たれ》も|驚《おどろ》くものはないわ。そして|妾《わたし》の|夫《をつと》|鎌彦《かまひこ》さまを|殺《ころ》したのも|此奴《こいつ》だから、|謂《ゐ》はば|夫《をつと》の|敵《かたき》、|見逃《みのが》しは|致《いた》さぬ。お|前《まへ》、そこに|待《ま》つて|居《ゐ》なさい。|妾《わたし》が|美事《みごと》ベルを|平《たひら》げてお|目《め》にかけませう。そしてお|前《まへ》も|矢張《やつぱ》り|夫《をつと》を|殺《ころ》した|仲間《なかま》だから|此《この》|次《つ》ぎはヘルだから|楽《たの》しんで|待《ま》つて|居《ゐ》なさい』
ヘル『いや、|此奴《こいつ》あチツと|都合《つがふ》が|悪《わる》いわい』
ベル『ワツハハハハ、|態《ざま》ア|見《み》ろ。ケリナに|現《うつつ》を|抜《ぬ》かしやがつて|既《すで》に|亭主《ていす》になつた|気取《きど》りで|居《を》つたが、|今《いま》の|態《ざま》は|何《なん》だい。|大馬鹿者《おほばかもの》|奴《め》、|先見《せんけん》の|明《めい》が|無《な》いと|云《い》つても|余《あんま》りぢやないか、ウツフフフフ』
ヘルは|捻鉢巻《ねぢはちまき》をし|乍《なが》ら、
ヘル『|何《なに》、|猪口才《ちよこざい》な、|俺《おれ》も|今《いま》|迄《まで》|悪人《あくにん》だつたが|最早《もはや》|神様《かみさま》の|光《ひかり》に|照《て》らされた|善人《ぜんにん》だ。|貴様《きさま》のやうな|悪事《あくじ》はせない。|一《ひと》つ|目《め》に|物《もの》|見《み》せてやるから|覚悟《かくご》をせい』
と|矢庭《やには》にベルに|跳《と》びついて|行《ゆ》く。
ベルは『|何《なに》、|猪口才《ちよこざい》な』
と|側《そば》に|落《お》ちて|居《ゐ》た|棒片《ぼうちぎれ》を|手《て》に|取《と》るより|早《はや》く|真向《まつかう》に|振《ふ》り|翳《かざ》し、|木端微塵《こつぱみぢん》になれよとばかり|打下《うちお》ろした|途端《とたん》に、ヘルの|肩《かた》を|強《したた》か|打《う》つた。ヘルは|怒《いか》り|心頭《しんとう》に|達《たつ》し、|矢庭《やには》にベルの|髻《たぶさ》を|引掴《ひつつか》み|引摺《ひきず》り|初《はじ》めた。ベルは|痛《いた》さに|堪《こら》へ|兼《か》ね、|悲鳴《ひめい》をあげて|泣《な》き|出《だ》した。ヘルは|此《この》|声《こゑ》に|憐《あは》れさを|催《もよほ》し、|手《て》を|放《はな》した。|求道居士《きうだうこじ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|呪文《じゆもん》を|唱《とな》へて|居《ゐ》る。|隙《すき》を|狙《ねら》つてベルは|一生懸命《いつしやうけんめい》に|草野ケ原《くさのがはら》に|四這《よつばひ》となり、|飛《と》び|込《こ》んだまま|姿《すがた》を|見《み》せなかつた。
ヘル『アハハハハ、|口《くち》|程《ほど》にも|無《な》い|奴《やつ》だ。|到頭《たうとう》|遁走《とんそう》しやがつたな。|併《しか》し|乍《なが》ら|陰険《いんけん》な|奴《やつ》だから|何処《どこ》に|隠《かく》れて|何《なに》をしよるか|分《わか》つたものではない。ケリナさまには|大変《たいへん》な|怨《うら》みを|受《う》けて|居《ゐ》るけれども、|私《わたし》の|罪亡《つみほろ》ぼしのために|先生《せんせい》と|前後《あとさき》になつて、ケリナさまを|親許《おやもと》まで|届《とど》けさして|貰《もら》ひませう。なア|先生《せんせい》、|許《ゆる》して|下《くだ》さるでせうな』
|求道《きうだう》『お|前《まへ》の|改心《かいしん》は|確《たしか》だから|成《な》るべくは|親許《おやもと》まで|届《とど》けて、|両親《りやうしん》にお|詫《わび》をしたが|宜《よ》からう。|然《しか》し|乍《なが》らケリナさまの|御意見《ごいけん》は|何《なん》と|仰有《おつしや》るか|分《わか》らない。ケリナさま、|如何《どう》しますか』
ケリナ『ハイ、|実《じつ》の|所《ところ》を|申《まを》せば|妾《わたし》の|兄《あに》を|殺《ころ》した|鎌彦《かまひこ》を|殺《ころ》して|呉《く》れた|方《かた》だから、|別《べつ》に|怨《うら》んでは|居《を》りませぬ。|送《おく》つて|下《くだ》さらば|結構《けつこう》で|厶《ござ》います』
ヘル『サンキューサンキュー、|何処《どこ》までも|送《おく》らして|頂《いただ》きます。もし、|思召《おぼしめし》に|叶《かな》ひましたら、どんな|御用《ごよう》でも|致《いた》しますから』
|求道《きうだう》『アハハハハ、|要《い》らぬ|事《こと》は|云《い》はないでも|宜《い》い。それよりも|十字《じふじ》の|秘法《ひはふ》を|唱《とな》へて、さア|行《ゆ》かう。テルモン|山《ざん》|迄《まで》はまだ|十里《じふり》|位《ぐらゐ》もあるからグヅグヅして|居《を》れば|日《ひ》が|暮《く》れる。|途中《とちう》で|日《ひ》が|暮《く》れると|又《また》|悪者《わるもの》が|飛《と》び|出《だ》すと|面倒《めんだう》だからな』
ヘル『|先生《せんせい》、その|時《とき》には|一《ひと》、|二《ふた》、|三《み》、|四《よ》……と|唱《とな》へるのですな。それでいかなければ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》ですわい』
|求道《きうだう》『うん、さうださうだ。それさへ|覚《おぼ》えて|居《を》れば|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。おい、ヘル、お|前《まへ》は|先《さき》に|行《ゆ》くのだ。そしてケリナさまを|真中《まんなか》にして|俺《おれ》が|殿《しんがり》を|勤《つと》めてやる』
ヘル『はい、|先《さき》へ|行《ゆ》かぬ|事《こた》あ|厶《ござ》いませぬが、そこが|何《なん》だか|一寸《ちよつと》……で|厶《ござ》いますな。|先生《せんせい》が|先《さき》へお|出《いで》になるが|順当《じゆんたう》でせう。お|伴《とも》が|先《さき》へ|行《ゆ》くと|云《い》ふ|道理《だうり》が|厶《ござ》いませぬから』
|求道《きうだう》『ハハハハハ|矢張《やつぱ》り|恐《こは》いのだな。よしそんなら|思召《おぼしめし》に|従《したが》ひ|先陣《せんぢん》を|勤《つと》めやう。さあケリナさま、|続《つづ》いておいでなさい』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|声《こゑ》も|涼《すず》しく|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ、|夏草《なつぐさ》|茂《しげ》る|青野ケ原《あをのがはら》をスタスタと|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・三・一六 旧一・二九 於竜宮館二階 北村隆光録)
第一一章 |惚泥《でれどろ》〔一四四一〕
|求道居士《きうだうこじ》はヘル、ケリナ|姫《ひめ》と|共《とも》に、テルモン|山《ざん》の|小国別《をくにわけ》が|館《やかた》をさして、|草《くさ》|茫々《ばうばう》たる|原野《げんや》を|進《すす》み|行《ゆ》く。|人通《ひとどほ》りも|少《すくな》く、|一面《いちめん》の|原野《げんや》には|身《み》を|没《ぼつ》する|許《ばか》りの|雑草《ざつさう》|生《は》え|茂《しげ》り、|所々《ところどころ》に|荊蕀《いばら》の|叢《むれ》|点在《てんざい》し、|思《おも》つたやうに|道《みち》が|捗《はかど》らない。|種々《いろいろ》の|花《はな》は|原野《げんや》|一面《いちめん》に|咲《さ》き|匂《にほ》うて|居《ゐ》る、|時々《ときどき》|足許《あしもと》に|〓蛇《ぐわんだ》|現《あら》はれ|行歩《かうほ》|甚《はなは》だ|危険《きけん》である。
|日《ひ》はずつぽりと|暮《く》れて|来《き》た。|月《つき》は|東方《とうはう》の|叢《くさむら》の|中《なか》から|覗《のぞ》き|初《はじ》めた。|北《きた》にはテルモン|山《ざん》の|高峰《かうほう》が|巍然《ぎぜん》として|控《ひか》へて|居《ゐ》る。|夕《ゆふべ》の|風《かぜ》に|送《おく》られて|晩鐘《ばんしよう》の|声《こゑ》いと|淋《さび》しげに|諸行無常《しよぎやうむじやう》と|響《ひび》き|来《く》る。|白赤斑《しろあかまんだら》の|鴉《からす》は|空《そら》を|封《ふう》じてテルモン|山《ざん》の|方面《はうめん》さしてガアガアと|鳴《な》き|乍《なが》ら|帰《かへ》り|路《ぢ》を|急《いそ》いで|居《ゐ》る。|三人《さんにん》は|月《つき》の|光《ひかり》を|便《たよ》りに|進《すす》んで|行《い》つた。|併《しか》し|乍《なが》ら|足許《あしもと》に|匍匐《ほふく》してゐる|〓蛇《ぐわんだ》の|危険《きけん》を|免《まぬが》るる|事《こと》は|到底《たうてい》|出来《でき》ない。|何程《なにほど》|月《つき》は|登《のぼ》りかけても|長細《ながほそ》き|雑草《ざつさう》に|隔《へだ》てられ、|且《か》つ|昼《ひる》の|如《ごと》くハツキリしない、|若《も》し|誤《あやま》つて|〓蛇《ぐわんだ》の|尾《を》でも|踏《ふ》まうものなら、|忽《たちま》ち|噛《か》みつかれ、|即座《そくざ》に|命《いのち》を|落《おと》さねばならぬ|危険《きけん》がある。|求道居士《きうだうこじ》は|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》を|唱《とな》へ|又《また》、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》し|乍《なが》ら|進《すす》んで|行《ゆ》く、ヘル|及《およ》びケリナ|姫《ひめ》は|未《いま》だ|神徳《しんとく》|足《た》らずとして|数歌《かずうた》を|唱《とな》ふる|事《こと》を|遠慮《ゑんりよ》し、ヘルはバラモンの|経《きやう》を|称《とな》へ|乍《なが》ら|二人《ふたり》の|後《あと》に|跟《つ》いて|行《ゆ》く。
|或遇悪羅刹《わくぐあくらせつ》 |毒竜諸鬼等《どくりうしよきとう》
|念彼観音力《ねんぴくわんのんりき》 |時悉不敢害《じしつぶかんがい》
|若悪獣囲繞《にやくあくじうゐねう》 |利牙爪可怖《りげさうかふ》
|念彼観音力《ねんぴくわんのんりき》 |疾走無辺方《しつそうむへんぱう》
|〓蛇及蝮蠍《ぐわんじやぎうぶくかつ》 |気毒焔火然《きどくえんくわねん》
|念彼観音力《ねんぴくわんのんりき》 |尋声自回去《じんじやうじゑこ》
|雲雷鼓掣電《うんらいくせいでん》 |降雹〓大雨《ごうばくじゆだいう》
|念彼観音力《ねんぴくわんのんりき》 |応時得消散《おうじとくせうさん》
と|唱《とな》へながら|進《すす》んで|行《ゆ》く。|幸《さいはひ》に|経文《きやうもん》の|力《ちから》でもあらうか、|毒蛇《どくじや》も|現《あら》はれず|稍《やや》|広《ひろ》き|草《くさ》の|短《みじか》き|所《ところ》へ|出《で》た。まだこれからはテルモン|山《ざん》の|麓《ふもと》へは|我《わが》|国《こく》の|里程《りてい》に|換算《なほ》して|二里《にり》|以上《いじやう》もある。さうして|山《やま》は|一里《いちり》|許《ばか》り|上《あが》らねばならぬ。そこが|小国別《をくにわけ》の|館《やかた》であつた。|三人《さんにん》はやつと|危険区域《きけんくゐき》を|脱《のが》れ、|白楊樹《はくやうじゆ》の|麓《ふもと》に、|折《をり》からさし|登《のぼ》る|月《つき》を|眺《なが》めながら、|腰《こし》を|卸《おろ》して|休息《きうそく》した。|此《この》|時《とき》|覆面頭巾《ふくめんづきん》の|黒装束《くろしやうぞく》をした|男《をとこ》、ノソリノソリと|遥《はるか》|向《むか》ふの|松林《まつばやし》を|通《とほ》るのが|見《み》えた。ヘルは|目敏《めざと》く|之《これ》を|見《み》て、
ヘル『もし|先生《せんせい》、|今《いま》|彼方《あちら》へ|怪《あや》しの|影《かげ》が|通《とほ》りましたが、あれは|一体《いつたい》|何《なん》でせうかな』
|求道《きうだう》『ウン、あれは|泥坊《どろばう》と|見《み》える。|何《なに》か|悪《わる》い|目的《もくてき》を|以《もつ》て|旅人《たびびと》を|掠《かす》めようとやつて|来《き》たのだらうが、|先方《せんぱう》は|一人《ひとり》、|此方《こちら》は|三人《さんにん》だから|到底《たうてい》|駄目《だめ》だと|思《おも》うて、|道《みち》を|外《そ》れたのであらう。アア|可愛《かあい》さうな|男《をとこ》だなア。|此《この》|世《よ》の|中《なか》に|為《な》すべき|事業《じげふ》は|沢山《たくさん》あるに、どうして|泥坊《どろばう》なんかするのか、どうかして|助《たす》けてやりたいものだが、もはや|何処《どこ》かへ|行《い》つて|了《しま》つた』
ヘル『もし|先生《せんせい》、もう|泥坊《どろばう》を|助《たす》けるのはお|止《や》めなさい。あのベルだつてあの|通《とほ》りですもの。ゼネラルさまから|沢山《たくさん》のお|金《かね》を|頂《いただ》き、もう|是《これ》|切《き》り|泥坊《どろばう》はやらないと|云《い》うて|置《お》き|乍《なが》ら、まだ|精神《せいしん》が|直《なほ》らないのですから、|駄目《だめ》ですよ』
|求道《きうだう》『それでもお|前《まへ》は|改心《かいしん》したぢやないか。ベルのやうな|男《をとこ》のみはあるまい。あれでも|時節《じせつ》が|来《き》たならば、きつと|改心《かいしん》するだらう』
ヘル『そりやさうです。|私《わたし》も|実《じつ》はゼネラル|様《さま》からお|金《かね》を|頂《いただ》き、これつきり|泥坊《どろばう》を|止《や》めて|正業《せいげふ》に|就《つ》かうと|思《おも》ふて|居《ゐ》ましたに、つい|悪友《あくいう》の|為《ため》に|折角《せつかく》の|決心《けつしん》が|鈍《にぶ》り、|益々《ますます》|悪事《あくじ》が|増長《ぞうちよう》して|終《しまひ》には|人《ひと》を|殺《ころ》し、|其《その》|天罰《てんばつ》であの|世《よ》の|関所《せきしよ》|迄《まで》やられて|来《き》たやうな|悪人《あくにん》が、|今《いま》|漸《やうや》く|改心《かいしん》して|貴方《あなた》のお|伴《とも》するやうになつたのですから、|泥坊《どろばう》だつて|改心《かいしん》せないには|限《かぎ》つて|居《を》りませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|今日《けふ》はケリナさまを|送《おく》つて|行《ゆ》かねばなりませぬから、|途中《とちう》で|泥坊《どろばう》に|出会《であ》つても|相手《あひて》にならないやうにして|下《くだ》さいませや』
|求道《きうだう》『ウン、|承知《しようち》した。|併《しか》し|乍《なが》らベツタリ|出会《であ》つた|時《とき》にや、|先方《むかふ》が|改心《かいしん》せうと、しまいと、|一応《いちおう》の|訓戒《くんかい》は|与《あた》へねばならぬ。|魔道《まだう》に|堕《お》ちたる|人間《にんげん》を、|修験者《しゆげんじや》として|見捨《みすて》る|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬからなア』
ヘル『それもさうですなア。|成《な》る|可《べ》くそんなものに|出会《であ》はないやうに、|神様《かみさま》に|願《ねが》つて|参《まゐ》りませうか』
ケリナ『もしお|二人様《ふたりさま》、あの|怪《あや》しい|影《かげ》は|何《ど》うも|私《わたし》はベルのやうに|思《おも》ひますが、|違《ちが》ひませうかな』
|求道《きうだう》『ケリナさまのお|察《さつ》しの|通《とほ》りだ。|間違《まちが》ひはありますまい』
ヘル『エ、あの|影《かげ》がベルぢやと|仰有《おつしや》るのですか、そいつは|怪《け》しからぬ。|吾々《われわれ》が|疲労《くたぶ》れて|野宿《のじゆく》でもせうものなら、|寝込《ねこみ》を|考《かんが》へて|先生《せんせい》のお|金《かね》を|取《と》らうと|云《い》ふ|考《かんが》へで|来《き》よつたのでせう。|仕方《しかた》の|無《な》い|奴《やつ》ですなア』
|求道《きうだう》『ウン|仕方《しかた》の|無《な》い|奴《やつ》だ。|何程《なにほど》|改心《かいしん》して|居《ゐ》ても|金《かね》の|顔《かほ》を|見《み》ると、|直《すぐ》に|又《また》|悪《あく》に|還《かへ》るのが|小人《せうじん》の|常《つね》だ。お|前《まへ》は|俺《おれ》の|懐《ふところ》に|持《も》つて|居《ゐ》る|一万両《いちまんりやう》の|金《かね》は|欲《ほ》しい|事《こと》は|無《な》いか』
ヘル『|別《べつ》に……たつて|欲《ほ》しいとは|申《まを》しませぬ。|併《しか》し|貴方《あなた》が|与《や》らうと|仰有《おつしや》れば|頂《いただ》きます。これから|修験者《しゆげんじや》になつて|世界《せかい》を|歩《ある》かうと|思《おも》へば|旅費《りよひ》も|要《い》りますからなア』
|求道《きうだう》『さうすると|矢張《やつぱ》りお|前《まへ》も|油断《ゆだん》のならない|男《をとこ》だ。トコトンの|改心《かいしん》は|中々《なかなか》|出来《でき》ぬものと|見《み》えるのう』
ヘル『|人間《にんげん》は|如何《いか》に|神様《かみさま》の|御子《みこ》ぢやと|云《い》つても、|天国《てんごく》と|地獄《ぢごく》との|間《あひだ》に|介在《かいざい》して|居《ゐ》る|以上《いじやう》は、|善《ぜん》|許《ばか》りでは|到底《たうてい》|世《よ》に|立《た》つていく|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|内的生活《ないてきせいくわつ》は|如何《いか》やうにも|出来《でき》ませうが、|衣食住《いしよくぢゆう》の|為《ため》に|苦《くる》しまねばならぬ|肉体《にくたい》は、|多少《たせう》の|自愛心《じあいしん》も|必要《ひつえう》で|厶《ござ》いますからなア』
|求道《きうだう》『|刹帝利《せつていり》や|毘舎《びしや》や、|首陀《しゆだ》なれば、|多少《たせう》|自愛《じあい》の|心《こころ》も|生存中《せいぞんちゆう》は|必要《ひつえう》だらうが、|最早《もはや》|修験者《しゆげんじや》となると|定《きま》つた|以上《いじやう》は|金《かね》などは|必要《ひつえう》はない。|神《かみ》のまにまに|野山《のやま》に|伏《ふ》し、|食《しよく》あれば|食《しよく》を|取《と》り、|食《しよく》なければ|水《みづ》を|飲《の》み、|水《みづ》も|無《な》ければ|草《くさ》でも|噛《か》んで|行《ゆ》くのが|修験者《しゆげんじや》の|務《つと》めだ。|一切《いつさい》の|物慾《ぶつよく》を|捨《す》てねば|神《かみ》の|使《つかひ》となる|事《こと》は|出来《でき》ないからのう』
ヘル『|成程《なるほど》、|仰《おほ》せ|御尤《ごもつと》もで|厶《ござ》います。|併《しか》し|乍《なが》ら|貴方《あなた》は|修験者《しゆげんじや》の|身分《みぶん》であり|乍《なが》ら、|一万両《いちまんりやう》の|金《かね》を|持《も》つて|居《を》ると|仰有《おつしや》つたぢやありませぬか、どうも|仰有《おつしや》る|事《こと》が|矛盾《ホコトン》して|居《ゐ》るやうに|思《おも》はれてなりませぬがなア』
|求道《きうだう》『ハハハハハ、|私《わたし》は|実際《じつさい》は|無一物《むいつぶつ》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|心《こころ》の|中《うち》に|一万両《いちまんりやう》|持《も》つて|居《ゐ》るのだ。どうかして|是《これ》を|投《な》げ|出《だ》したいと|思《おも》ふて|居《ゐ》るが、まだ|罪業《ざいごふ》が|充《み》たないと|見《み》えて|除去《ぢよきよ》する|事《こと》が|出来《でき》ないのだ。|俺《おれ》の|一万両《いちまんりやう》と|云《い》ふのは、|我慢《がまん》、|高慢《かうまん》、|自慢《じまん》、|忿慢《ふんまん》、|慢心《まんしん》と|云《い》ふ|悪竜《あくりう》が|一匹《いつぴき》|残《のこ》つて|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》なのだ。|此《この》|一万竜《いちまんりよう》を|何《なん》とかして|放《ほ》り|出《だ》さなくては、|比丘《びく》になつても|天地《てんち》へ|恥《はづ》かしくて|仕方《しかた》がないから、|宣伝使《せんでんし》でもなければ|俗人《ぞくじん》でも|無《な》い、|半聖半俗《はんせいはんぞく》の|境遇《きやうぐう》に|彷徨《さまよ》ひ、|修験者《しゆげんじや》となつて|居《ゐ》るのだ。どうぞして|御神徳《ごしんとく》を|頂《いただ》き、|宣伝使《せんでんし》の|候補者《こうほしや》にでもなりたいものだが、|仲々《なかなか》|容易《ようい》の|事《こと》ではない、それがために|実《じつ》は|困《こま》つて|居《ゐ》るのだ』
ヘル『|私《わたし》は|又《また》|本当《ほんたう》のお|金《かね》を|一万両《いちまんりやう》|懐中《ぽつぽ》に|持《も》つて|厶《ござ》るのかと、|固《かた》く|信《しん》じて|居《を》りました。|先生《せんせい》は|口《くち》でこそ|恬淡無慾《てんたんむよく》らしう|見《み》せて|厶《ござ》るが、|矢張《やつぱ》り|内心《ないしん》は、マンモニストだと|思《おも》つて|居《ゐ》たに、|形《かたち》の|上《うへ》の|宝《たから》は|些《ちつと》も|持《も》つて|居《ゐ》られないのですか。それで|私《わたし》の|疑団《ぎだん》も|晴《は》れました。ベルの|奴《やつ》|本当《ほんたう》に|貴方《あなた》が|現金《げんきん》を|所持《しよぢ》して|居《ゐ》ると|思《おも》ひ、こんな|所《ところ》|迄《まで》|跟《つ》いて|来《き》たかと|思《おも》へば|可憐《かあい》さうぢやありませぬか』
ケリナ『ホホホホホ、ヘルも|可憐《かあい》さうぢやありませぬか。|貴方《あなた》だつてベルと|八百長喧嘩《やほちやうげんくわ》をして、|旨《うま》く|修験者《しゆげんじや》を|誑《たぶら》かし、|一万両《いちまんりやう》の|金《かね》を|取《と》らうと|思《おも》つて|来《き》たのでせう。そんな|事《こと》はチヤンと、|私《わたくし》も|先生《せんせい》も|看破《かんぱ》してゐたのですよ。この|辺《あたり》で|諜合《しめしあ》はし、【ボツタクル】|考《かんが》へであつたのでせう』
|求道《きうだう》『アハハハハ、オイ、ヘル、もう|駄目《だめ》だ。|俺達《おれたち》の|前《まへ》にはどんな|悪《あく》も|施《ほどこ》すの|余地《よち》がないぞ。|本当《ほんたう》に|改心《かいしん》するか、どうだ』
ヘル『ヘン|馬鹿《ばか》らしい、|素寒貧《すかんぴん》の|文《もん》なしに|跟《つ》いて|来《き》たかと|思《おも》へば|業腹《ごふはら》だ。オーイ、ベル|一寸《ちよつと》|来《こ》い、|此奴《こいつ》はあんな|事《こと》を|云《い》やがつて|一万両《いちまんりやう》|持《も》つてけつかるに|違《ちが》ひない、|早《はや》う|来《こ》い、ヤーイ』
と|呶鳴《どな》り|出《だ》した。|忽《たちま》ち|駆《か》けて|来《き》たベルは|威猛高《ゐたけだか》になり、
ベル『アハハハハ、|今《いま》|迄《まで》はバラモン|軍《ぐん》の|上官《じやうくわん》で、カーネル カーネルと|尊敬《そんけい》して|来《き》たが、もうそんな|態《ざま》になつて|零落《おちぶれ》て|来《き》た|以上《いじやう》は|一個《いつこ》の|修験者《しゆげんじや》だ。サア|綺麗《きれい》|薩張《さつぱ》りと|懐《ふところ》の|金《かね》を|渡《わた》せばよし、グヅグヅ|吐《ぬか》すと|肝腎要《かんじんかなめ》の|命《いのち》が|危《あぶ》ないぞ。サアどうだ、|返答《へんたふ》|聞《き》かう』
|求道《きうだう》『ハハハハハ、|分《わか》らん|奴《やつ》だなア、|俺《おれ》の|体《からだ》を|何処《どこ》なりと|調《しら》べて|見《み》よ、|一文《いちもん》も|持《も》つて|居《ゐ》やしないわ』
ベル『そんなら|早《はや》く|裸体《はだか》になつて|見《み》せろ』
|求道《きうだう》はムクムクと|真裸体《まつぱだか》になり、|薄《うす》い|着物《きもの》をはたき|乍《なが》ら、|二人《ふたり》の|前《まへ》に|放《ほ》り|出《だ》した。
ヘル『ハハア、|矢張《やつぱ》り|駄目《だめ》だな。|併《しか》し|乍《なが》らこのナイスをどうしても|自分《じぶん》の|物《もの》にせなくては|嘘《うそ》だ。それについては|此《この》|修験者《しゆげんじや》が|居《を》ると|何彼《なにか》の|邪魔《じやま》になる。サア|序《ついで》に【バラ】さうぢやないか』
|求道《きうだう》は|頻《しき》りに|天《あま》の|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。ヘル、ベルの|両人《りやうにん》は|些《すこ》しも|頓着《とんちやく》せず、ベルの|持《も》つて|来《き》た|二本《にほん》の|棒千切《ぼうちぎれ》を|持《も》つて|双方《さうはう》より|打《う》つてかかる。ケリナは|白楊樹《はくやうじゆ》に|抱《だ》きついて|慄《ふる》うて|居《ゐ》る。|求道居士《きうだうこじ》は|真裸体《まつぱだか》のまま|一生懸命《いつしやうけんめい》|防《ふせ》ぎ|戦《たたか》うた。されど|一本《いつぽん》の|木切《きぎれ》も|持《も》つて|居《ゐ》ない|真裸体《まつぱだか》の|求道《きうだう》は、|二人《ふたり》の|為《ため》に|打《う》ち【のめ】され|其《その》|場《ば》に|絶命《ことぎれ》となつて|了《しま》つた。|両人《りやうにん》は|冷《ひや》やかに|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、
『アハハハハ、どうやらこれで|俺達《おれたち》にもハツピネスが|見舞《みまひ》うて|来《き》たらしい。サア|是《これ》からがナイスの|番《ばん》だ。|何《なん》と|云《い》つても|斯《か》うなれば|此方《こつち》の|自由《じいう》だ。オイ、ケリナとやら、|俺達《おれたち》|二人《ふたり》の|意志《いし》に|従《したが》ふかどうだ』
ケリナ『|肝腎《かんじん》の|修験者《しゆげんじや》|迄《まで》が、|此《この》|通《とほ》りなられたので|厶《ござ》いますから、|女《をんな》の|細腕《ほそうで》で|抵抗《ていかう》して|見《み》た|所《ところ》で|仕様《しやう》が|厶《ござ》いませぬ。|御意見《ごいけん》に|従《したが》ひませう、|併《しか》しラマ|教《けう》のやうに|多夫一妻主義《たふいつさいしゆぎ》はどうも|面白《おもしろ》う|厶《ござ》いませぬ。|何方《どちら》かお|一人《ひとり》に|願《ねが》ひ|度《た》いもので|厶《ござ》いますなア』
ベル『|成程《なるほど》お|前《まへ》の|云《い》ふのも|尤《もつと》もだ。まだお|前《まへ》はバージン|姿《すがた》だから|到底《たうてい》|誰《たれ》が|好《すき》だの|嫌《きら》ひだのと|云《い》ふ|事《こと》はよう|云《い》ふまいから、|一《ひと》つ|茲《ここ》で|俺達《おれたち》|二人《ふたり》が|抽籤《ちうせん》をやつて、|一《いち》の|出《で》た|方《はう》がお|前《まへ》を|女房《にようばう》にすると|云《い》ふ|事《こと》に|定《き》めようかなア』
ケリナ『|物品《ぶつぴん》か|何《なに》かのやうに|抽籤《ちうせん》とは|余《あま》りぢや|厶《ござ》いませぬか、どうか|私《わたくし》に|選《えら》まして|頂《いただ》く|訳《わけ》には|行《ゆ》きますまいかなア』
ベル『ウン、それも|一方法《いちはうはふ》だ。|善悪美醜《ぜんあくびしう》をトランセンドして、お|前《まへ》の|本守護神《ほんしゆごじん》の|得心《とくしん》した|方《はう》に|向《む》いたが|好《よ》からう。スタイルは|醜《みにく》うても|心《こころ》の|綺麗《きれい》な|男《をとこ》らしい|男《をとこ》もあり、|何程《なにほど》スタイルは|好《よ》くても、|心《こころ》の|汚《きたな》い|卑劣《ひれつ》の|男《をとこ》もあるからなア、【そこはそれ】|選択《せんたく》を|誤《あやま》らない|様《やう》にしたがよろしからうぞ』
ケリナ『そりやさうで|厶《ござ》いますな。|何《なん》と|云《い》つても|男《をとこ》らしい|男《をとこ》で、|何処《どこ》ともなしに|同情心《どうじやうしん》のある|柔《やさ》し|味《み》のある|方《かた》が|好《す》きですわ、|人《ひと》を|叩《たた》き|殺《ころ》して|埋《い》けてもやらないやうな|方《かた》は|絶対《ぜつたい》に|嫌《きら》ひです』
ベル『|成程《なるほど》|俺《おれ》も|最前《さいぜん》からヘルの|棒《ぼう》が|当《あた》つて|死《し》んだ|修験者《しゆげんじや》に|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》を|濺《そそ》いで、どうか|死骸《しがい》でも|隠《かく》して|上《あ》げ|度《た》いと|思《おも》うて|居《ゐ》た|所《ところ》だ。|余《あま》り|妻《つま》の|選択《せんたく》に|就《つ》いて|気《き》を|取《と》られて|居《を》つたものだから【ウツ】かりして|居《ゐ》た。|是《これ》もお|前《まへ》を|愛《あい》する|心《こころ》が|深《ふか》いのだから、|決《けつ》して|悪《わる》くは|思《おも》うて|下《くだ》さるな』
ケリナ『|女《をんな》の|美貌《びばう》に|現《うつつ》を|抜《ぬ》かして|仮令《たとへ》ヘルが|殺《ころ》したにもせよ、|死屍《しし》の|横《よこ》たはつて|居《ゐ》るのを|見《み》て|隠《かく》してやらうともせぬ|男《をとこ》は|嫌《きら》ひですわ、お|前《まへ》の|棒《ぼう》が|当《あた》つて|死《し》ななくても|同《おな》じ|事《こと》ですよ。|矢張《やつぱ》り|二人《ふたり》して|殺《ころ》すといふ|考《かんが》へだつたのでせう。|同《おな》じ|悪人《あくにん》に|身《み》を|任《まか》す|程《ほど》なら、スタイルの|美《うつく》しいヘルさまに|身《み》を|任《まか》しますわ』
ヘル『エヘヘヘヘ、オイ、ベルどうだ、|恋《こひ》の|凱旋将軍様《がいせんしやうぐんさま》だ。|畏《おそ》れ|入《い》つたか』
ベル『ヘン|馬鹿《ばか》にするない、「|色《いろ》は|年増《としま》が|艮《とど》め|刺《さ》す」と|云《い》つて|最後《さいご》の|勝利《しようり》は|俺《おれ》の|手《て》に|握《にぎ》つて|居《を》るのだ』
ヘル『|馬鹿《ばか》|云《い》へ、|御本人《ごほんにん》が|承諾《しようだく》しない|恋《こひ》が|何《なん》になるか、お|生憎様《あいにくさま》だ、イヒヒヒヒ』
ケリナ『ホホホホホ、|揃《そろ》ひも|揃《そろ》ふたデレ|泥《どろ》だ|事《こと》、|誰《たれ》がお|前《まへ》のやうな|馬鹿者《ばかもの》に|身《み》を|任《まか》すものがありますか、よい|加減《かげん》に|自惚《うぬぼれ》をして|置《お》きなさい』
ベル『オイ、|何程《なにほど》|美人《びじん》だと|云《い》つてもこれだけ|侮辱《ぶじよく》せられては、|女房《にようばう》にする|訳《わけ》にも|馬鹿《ばか》らしくて|出来《でき》ぬぢやないか、|序《ついで》に|此奴《こいつ》も|一緒《いつしよ》にバラしてやらうかい』
ヘル『ウンさうだ。かう|愛想尽《あいさうふ》かしを|云《い》はれては|仕《し》やうがない。|女《をんな》は|世界《せかい》に|幾人《いくら》でもある。|此《この》|女《をんな》を|生《い》かして|置《お》いては|修験者《しゆげんじや》を|殺《ころ》したのは|俺達《おれたち》だと|云《い》つて|貰《もら》うと、|些《ちつと》|許《ばか》り|剣呑《けんのん》だから、やつつけて|仕舞《しま》はうよ』
ベルは、
『よし|合点《がつてん》だ』
と|矢庭《やには》に|棒千切《ぼうちぎれ》をもつて|打《う》つてかかる。ケリナは|白楊樹《はくやうじゆ》を|盾《たて》に|取《と》つて|身《み》を|脱《のが》れようとする。ヘルは|又《また》もや|棒千切《ぼうちぎれ》をもつて|脳天《なうてん》|目蒐《めが》けて|打《う》ち|卸《おろ》した。|憐《あはれ》やケリナはキヤツと|悲鳴《ひめい》を|上《あ》げ|其《その》|場《ば》に|打《う》ち|倒《たふ》れた。|此《こ》の|時《とき》|天《てん》を|焦《こが》して|下《くだ》り|来《く》る|一大火光《いちだいくわくわう》があつた、|二人《ふたり》は|驚《おどろ》いて|雲《くも》を|霞《かすみ》と|森林《しんりん》の|中《なか》を|逃《に》げて|行《ゆ》く。|火団《くわだん》は|忽《たちま》ち|二人《ふたり》の|倒《たふ》れて|居《を》る|前《まへ》に|降下《かうか》した。|是《これ》は|第一霊国《だいいちれいごく》より|月照彦命《つきてるひこのみこと》が、|二人《ふたり》の|危難《きなん》を|救《すく》ふべく|神《かみ》の|命《めい》を|帯《お》びて|下《くだ》られたのである。|二人《ふたり》は|漸《やうや》く|火団《くわだん》の|落下《らくか》した|音《おと》に|気《き》が|付《つ》き、|四辺《あたり》を|見《み》れば、|桃色《ももいろ》の|薄絹《うすぎぬ》を|着《ちやく》した|麗《うるは》しきエンゼルが|立《た》つて|居《ゐ》る。|求道居士《きうだうこじ》は|拍手《はくしゆ》|再拝《さいはい》して|救命《きうめい》の|恩《おん》を|感謝《かんしや》した。ケリナも|亦《また》エンゼルを|拝《をが》み|一言《ひとこと》も|発《はつ》せず、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にかき|暮《く》れて|居《ゐ》る。エンゼルは|言葉《ことば》|静《しづか》に|両人《りやうにん》に|向《むか》ひ、
エンゼル『|汝等《なんぢら》|両人《りやうにん》、|神《かみ》の|大道《だいだう》を|誤《あやま》らず、|身《み》をもつて|道《みち》の|為《ため》に|殉《じゆん》じたる|其《その》|志《こころざし》は|見上《みあ》げたものだ。|其《その》|方《はう》の|志《こころざし》に|免《めん》じ、|霊国《れいごく》より|汝等《なんぢら》を|救《すく》ふべく|下《くだ》つて|来《き》た。|吾《われ》は|月照彦神《つきてるひこのかみ》なり。|随分《ずいぶん》|気《き》をつけてテルモン|山《ざん》に|帰《かへ》つたがよからう。それ|迄《まで》に、も|一度《いちど》|試《こころ》みに|遇《あ》ふ|事《こと》があるだらう。|屹度《きつと》|自分《じぶん》の|命《いのち》を|惜《をし》むやうな|事《こと》では|世《よ》を|救《すく》ふ|事《こと》は|出来《でき》ないから、|何事《なにごと》も|神《かみ》に|任《まか》して|救《すく》ひの|道《みち》を|拓《ひら》いたらよからう。さらば』
と|一言《ひとこと》を|残《のこ》し、|紫《むらさき》の|雲《くも》に|乗《の》つて|東《ひがし》の|空《そら》を|指《さ》して|帰《かへ》らせたまふた。|二人《ふたり》は|後姿《うしろすがた》を|伏拝《ふしをが》み、|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|暮《く》れつつ、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|称《とな》へながらテルモン|山《ざん》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|赤心《まごころ》を|貫《つらぬ》き|通《とほ》す|桑《くは》の|弓《ゆみ》
|届《とど》かざらめや|神《かみ》の|御国《みくに》へ。
(大正一二・三・一六 旧一・二九 於竜宮館 加藤明子録)
第一二章 |照門颪《てるもんおろし》〔一四四二〕
|求道居士《きうだうこじ》はケリナ|姫《ひめ》を|伴《ともな》ひ|乍《なが》ら、テルモン|山《ざん》の|小国別《をくにわけ》の|館《やかた》を|指《さ》して|送《おく》り|行《ゆ》く|途々《みちみち》|歌《うた》ひ|出《だ》したり。
|求道《きうだう》『|有為転変《うゐてんぺん》は|世《よ》の|習《なら》ひ とは|云《い》ふものの|人《ひと》の|身《み》の
|行末《ゆくすゑ》こそは|不思議《ふしぎ》なれ |三国一《さんごくいち》の|月《つき》の|国《くに》
ハルナの|都《みやこ》に|程近《ほどちか》き |大国彦《おほくにひこ》の|現《あ》れませる
|大雲山《だいうんざん》に|立籠《たてこも》り バラモン|教《けう》の|御教《みをしへ》を
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|信仰《しんかう》し |抜擢《ばつてき》されてバラモンの
|教司《をしへつかさ》と|任《ま》けられつ |追々《おひおひ》|功績《いさを》を|現《あら》はして
|大黒主《おほくろぬし》の|御見出《おみだ》しに あづかり|遂《つひ》にカーネルの
|尊《たふと》き|職《しよく》を|授《さづ》けられ |神素盞嗚《かむすさのを》の|現《あ》れませる
|斎苑《いそ》の|館《やかた》を|屠《ほふ》らむと |大黒主《おほくろぬし》の|命《めい》を|受《う》け
|鬼春別《おにはるわけ》や|久米彦《くめひこ》の |両将軍《りやうしやうぐん》に|扈従《こじゆう》して
|旗鼓堂々《きこだうだう》と|月《つき》の|国《くに》 |後《あと》に|眺《なが》めて|進《すす》み|行《ゆ》く
|万里《ばんり》の|山野《さんや》を|跋渉《ばつせう》し |蹄《ひづめ》の|音《おと》も|勇《いさ》ましく
|浮木《うきき》の|森《もり》|迄《まで》|進軍《しんぐん》し |片彦《かたひこ》、|久米彦《くめひこ》|将軍《しやうぐん》と
|隊伍《たいご》を|整《ととの》へ|河鹿山《かじかやま》 |進《すす》む|折《をり》しも|三五《あななひ》の
|治国別《はるくにわけ》の|言霊《ことたま》に |打破《うちやぶ》られて|敗走《はいそう》し
|浮木《うきき》の|陣屋《ぢんや》へ|引返《ひつかへ》し |又《また》もや|茲《ここ》に|全軍《ぜんぐん》を
|二《ふた》つに|分《わ》けてライオンの |広《ひろ》き|流《なが》れを|相渡《あひわた》り
ビクトル|山《さん》の|袂《たもと》にて |仮《かり》の|陣屋《ぢんや》を|造《つく》りつつ
ビクトリヤ|城《じやう》を|脅《おびや》かし |味方《みかた》の|軍勢《ぐんぜ》に|驚《おどろ》いて
ゼネラル|様《さま》と|諸共《もろとも》に |総隊《そうたい》|崩《くづ》れ|逃《に》げ|出《いだ》す
|戦《いくさ》の|庭《には》に|出《い》で|乍《なが》ら |薄《すすき》の|穂《ほ》にも|怖《お》ぢ|恐《おそ》れ
|慄《ふる》ひ|慄《ふる》ひて|広野原《ひろのはら》 |漸《やうや》く|渡《わた》りシメヂ|坂《ざか》
|壁《かべ》|立《た》つ|如《ごと》き|坂道《さかみち》を |漸《やうや》く|下《くだ》り|猪倉《ゐのくら》の
|難攻不落《なんこうふらく》の|山寨《さんさい》に |永久的《えいきうてき》の|陣営《ぢんえい》を
|構《かま》へて|時《とき》を|待《ま》つ|内《うち》に |又《また》も|聞《きこ》ゆる|宣伝歌《せんでんか》
|三五教《あななひけう》に|名《な》も|高《たか》き |神将軍《しんしやうぐん》と|聞《きこ》えたる
|治国別《はるくにわけ》の|一行《いつかう》に |又《また》も|攻《せ》められゼネラルは
|脆《もろ》くも|茲《ここ》に|兜《かぶと》|脱《ぬ》ぎ バラモン|教《けう》の|軍職《ぐんしよく》を
|捨《すて》て|忽《たちま》ち|三五《あななひ》の |教《をしへ》の|道《みち》のピユリタンと
|変《かは》らせ|玉《たま》ふ|果敢《はか》なさよ |吾等《われら》も|共《とも》に|進退《しんたい》を
|同《おな》じうせむとカーネルの |職《しよく》をば|止《や》めて|修験者《しゆげんじや》
|名《な》も|求道《きうだう》と|改《あらた》めて ビクの|御国《みくに》の|清滝《きよたき》に
|霊《みたま》を|洗《あら》ひビクトルの |下津岩根《したついはね》に|宮柱《みやばしら》
|太《ふと》しく|立《た》てて|永久《とこしへ》に |鎮《しづ》まり|居《ゐ》ます|大神《おほかみ》の
|御前《みまへ》に|日毎《ひごと》|詣《まう》でつつ |治道《ちだう》、|道貫《だうくわん》、|素道居士《そだうこじ》
|三人《みたり》の|許《ゆる》しを|受《う》け|乍《なが》ら フサの|国《くに》をば|横断《わうだん》し
|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》の|荒《すさ》ぶ|野《の》を |神《かみ》の|光《ひかり》を|杖《つゑ》となし
|夜路《よぢ》の|露《つゆ》をば|浴《あ》び|乍《なが》ら エルシナ|川《がは》の|麓《ふもと》まで
|来《きた》る|折《をり》しも|大空《おほぞら》の |月《つき》は|漸《やうや》く|薄《うす》らぎて
|忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|鳥《とり》の|声《こゑ》 |川《かは》の|水瀬《みなせ》のはやる|音《おと》
たよりに|伝《つた》ひ|下《くだ》る|折《をり》 |淵《ふち》に|浮《う》かんだ|四人《よにん》の|姿《すがた》
|見逃《みの》がしならずと|衣《きぬ》を|脱《ぬ》ぎ |法螺《ほら》を|口《くち》に|喰《くは》へつつ
ザンブと|許《ばか》り|飛込《とびこ》んで |四人《よにん》の|男女《なんによ》を|空砂《からずな》の
|上《うへ》に|救《すく》ひて|耳元《みみもと》に |大法螺貝《おほほらがひ》を|吹立《ふきた》つる
|神《かみ》の|恵《めぐみ》は|忽《たちま》ちに シヤール|一人《ひとり》を|除《のぞ》く|外《ほか》
|三人《みたり》は|息《いき》を|吹《ふ》き|返《かへ》し やつと|胸《むね》をば|撫《な》で|下《おろ》し
|三人《みたり》の|男女《なんによ》に|皇神《すめかみ》の |御教《みのり》を|完全《うまら》に|諭《さと》しつつ
|大岩谷《おほいはだに》の|麓《ふもと》まで |来《きた》りて|息《いき》を|休《やす》めつつ
|十字《じふじ》の|秘法《ひはふ》や|数歌《かずうた》の |功力《くりき》を|伝《つた》へゐたる|折《をり》
|悪逆無道《あくぎやくぶだう》のベルの|奴《やつ》 わが|懐《ふところ》に|金子《かね》ありと
|早《はや》くも|悟《さと》り|悪心《あくしん》を |起《おこ》して|奪《と》らむと|攻《せ》め|来《きた》る
ヘルとベルとは|初《はじ》めより わが|懐《ふところ》を|狙《ねら》ひつつ
|八百長喧嘩《やほちやうげんくわ》を|徐々《そろそろ》と |真面目《しんめんもく》にやり|出《いだ》し
ベルの|司《つかさ》は|逸早《いちはや》く |此《この》|場《ば》を|後《あと》に|逃《に》げて|行《ゆ》く
さはさり|乍《なが》らヘルの|奴《やつ》 |色《いろ》と|慾《よく》とに|心《こころ》をば
|曇《くも》らせ|吾等《われら》の|後《あと》を|追《お》ひ ケリナの|姫《ひめ》を|送《おく》らむと
|草野《くさの》を|別《わ》けて|進《すす》み|来《く》る |日《ひ》も|黄昏《たそがれ》になりぬれば
ポプラの|蔭《かげ》に|立寄《たちよ》りて |息《いき》を|休《やす》むる|折《をり》もあれ
|又《また》もや|来《きた》る|黒《くろ》い|影《かげ》 これぞ|正《まさ》しくベルの|奴《やつ》
ヘルと|二人《ふたり》が|言《い》ひ|合《あは》せ |吾《わ》が|懐《ふところ》を|狙《ねら》はむと
|来《きた》りしものと|悟《さと》りしゆ いろいろ|雑多《ざつた》と|真道《まさみち》を
|説《と》き|諭《さと》せども|如何《いか》にせむ |地獄《ぢごく》の|境《さかひ》に|堕《お》ち|果《は》てし
|二人《ふたり》の|霊《みたま》は|飽《あ》く|迄《まで》も |悪《あく》の|企《たく》みを|遂《と》げなむと
|忽《たちま》ち|棍棒《こんぼう》|振《ふ》り|翳《かざ》し |吾《わ》が|脳天《なうてん》を|打《うち》すゑぬ
|何《なに》かは|以《もつ》て|耐《たま》るべき |忽《たちま》ちウンと|昏倒《こんたう》し
|夢路《ゆめぢ》を|辿《たど》る|折《をり》もあれ |高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》を
|領有《うしは》ぎ|玉《たま》ふエンゼルが |鳩《はと》の|如《ごと》くに|下《くだ》りまし
|吾等《われら》|二人《ふたり》の|危難《きなん》をば |救《すく》ひ|玉《たま》ひし|有難《ありがた》さ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|恵《めぐみ》を|目《ま》の|当《あた》り
|受《う》けたる|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は |仮令《たとへ》|如何《いか》なる|悩《なや》みにも
|撓《たゆ》まず|屈《くつ》せず|道《みち》の|為《ため》 |世人《よびと》の|為《た》めに|真心《まごころ》の
|有《あ》らむ|限《かぎ》りを|尽《つく》しつつ |進《すす》まにやならぬ|両人《りやうにん》を
|守《まも》らせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》 |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る |旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |星《ほし》は|天《てん》より|落《お》つるとも
|印度《いんど》の|海《うみ》はあするとも |此《この》|大恩《だいおん》は|何時《いつ》の|世《よ》か
|報《むく》い|奉《まつ》らで|置《お》くべきぞ |思《おも》へば|思《おも》へば|有難《ありがた》き
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》の|天地《あめつち》に |充《み》ち|足《たら》ひたる|神《かみ》の|世《よ》は
|草野《くさの》の|末《すゑ》に|置《お》く|露《つゆ》も |一々《いちいち》|月《つき》の|御光《みひかり》を
|宿《やど》し|玉《たま》ひて|瑠璃光《るりくわう》の |如《ごと》く|光《ひか》らせ|玉《たま》ふなり
ああ|天国《てんごく》か|楽園《らくゑん》か |際限《さいげん》もなき|広野原《ひろのはら》
|進《すす》み|行《ゆ》く|身《み》ぞ|楽《たの》しけれ』
ケリナ『わが|足乳根《たらちね》の|父母《ちちはは》は |月《つき》の|都《みやこ》に|現《あ》れませる
バラモン|教《けう》の|太柱《ふとばしら》 |大黒主《おほくろぬし》の|部下《ぶか》となり
|仁慈無限《じんじむげん》の|御教《みをしへ》を テルモン|山《ざん》の|山腹《さんぷく》に
|大宮柱《おほみやばしら》|太知《ふとし》りて |鎮《しづ》まりゐます|皇神《すめかみ》に
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|仕《つか》へつつ |四方《よも》の|国人《くにびと》|悉《ことごと》く
|神《かみ》の|教《をしへ》に|靡《なび》かせつ |教《をしへ》を|開《ひら》き|玉《たま》ひしが
ウラルの|教《をしへ》の|神司《かむづかさ》 |数多《あまた》の|手下《てした》を|引率《ひきつ》れて
|得物《えもの》を|携《たづ》さへ|堂々《だうだう》と |勢《いきほひ》|猛《たけ》く|迫《せま》り|来《く》る
|其《その》|勢《いきほひ》に|辟易《へきえき》し |吾《わ》が|足乳根《たらちね》は|逸早《いちはや》く
|館《やかた》を|捨《す》ててテルモンの |高嶺《たかね》を|渡《わた》り|森林《しんりん》に
|暫《しば》し|難《なん》をば|避《さ》け|玉《たま》ふ |此《この》|時《とき》|信者《しんじや》と|現《あ》れませる
|鎌彦司《かまひこつかさ》が|現《あら》はれて |神変不思議《しんぺんふしぎ》の|神力《しんりき》を
|現《あら》はし|玉《たま》ひ|攻《せ》め|来《きた》る ウラルの|教《をしへ》の|司等《つかさら》を
|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|退《しりぞ》けて |難《なん》をば|救《すく》ひ|玉《たま》ひしゆ
|吾《わ》が|足乳根《たらちね》は|漸《やうや》くに |元《もと》の|館《やかた》に|帰《かへ》りまし
|神《かみ》の|教《をしへ》を|詳細《まつぶさ》に |開《ひら》かせ|玉《たま》ふ|折《をり》もあれ
|館《やかた》の|難《なん》を|救《すく》ひたる |鎌彦司《かまひこつかさ》は|妾《わらは》をば
ラブし|給《たま》ひて|朝夕《あさゆふ》に |言《い》ひよりたまひし|果敢《はかな》さよ
|妾《わらは》は|素《もと》より|鎌彦《かまひこ》に |少《すこ》しも|心《こころ》はなけれ|共《ども》
|度重《たびかさ》なれば|何時《いつ》となく |男《をとこ》の|情《なさ》けを|慕《した》ひ|出《だ》し
|遂《つひ》には|割《わり》なき|仲《なか》となり |父《ちち》と|母《はは》との|目《め》を|忍《しの》び
|月夜《つきよ》を|恨《うら》み|暗《やみ》の|夜《よ》を |指折《ゆびを》り|数《かぞ》へ|待《ま》ち|暮《くら》す
|怪《あや》しき|仲《なか》とはなりにけり さはさり|乍《なが》ら|足乳根《たらちね》の
|吾《わ》が|両親《りやうしん》は|頭《かうべ》をば |左右《さいう》にふりて|両人《りやうにん》が
|恋《こひ》を|許《ゆる》させ|玉《たま》ふ|可《べ》き |気色《けはひ》なければ|止《や》むを|得《え》ず
|夜陰《やいん》に|紛《まぎ》れて|両人《りやうにん》は |手《て》に|手《て》をとつて|逃《に》げ|出《いだ》し
エリシナ|谷《だに》の|山奥《やまおく》に |形《かたち》ばかりの|草庵《さうあん》を
|結《むす》びて|暮《くら》す|折《をり》もあれ |吾《わ》が|背《せ》の|君《きみ》の|鎌彦《かまひこ》は
|俄《にはか》に|駱駝《らくだ》を|引《ひき》つれて |妾《わらは》を|家《いへ》に|残《のこ》しつつ
|何処《いづく》ともなく|出《い》でましぬ |深山《みやま》の|奥《おく》に|只《ただ》|一人《ひとり》
|果実《このみ》を|喰《くら》ひ|芋《いも》を|掘《ほ》り |漸《やうや》く|餓《うゑ》を|凌《しの》ぎつつ
|悲《かな》しき|月日《つきひ》を|送《おく》ること |早《はや》|一年《ひととせ》に|及《およ》べども
|夫《つま》の|便《たよ》りは|泣《な》く|許《ばか》り |袖《そで》をば|濡《ぬ》らす|草《くさ》の|露《つゆ》
|衣《ころも》は|破《やぶ》れ|肉《にく》は|痩《や》せ |見《み》る|影《かげ》も|無《な》き|状《さま》となり
|淋《さび》しき|浮世《うきよ》を|果敢《はかな》みて |冥途《めいど》の|旅《たび》を|為《な》さむかと
|庵《いほり》を|後《あと》に|夜《よる》の|道《みち》 エルシナ|川《がは》の|川岸《かはぎし》に
|佇《たたず》み|胸《むね》を|押《おさ》へつつ |少時《しばし》|思案《しあん》に|暮《く》れけるが
|何処《いづく》ともなく|吾《わ》が|耳《みみ》に |死《し》ねよ|死《し》ねよと|教《をし》へ|来《く》る
|醜《しこ》の|曲津《まがつ》か|知《し》らね|共《ども》 |切迫《せつぱ》|詰《つま》つた|此《この》|場合《ばあひ》
|死《し》ぬより|外《ほか》に|途《みち》|無《な》しと |心《こころ》を|定《さだ》めて|飛《と》び|込《こ》めば
|千尋《ちひろ》の|底《そこ》の|青《あを》い|淵《ふち》 |息《いき》も|苦《くる》しくなりければ
|再《ふたた》び|娑婆《しやば》が|恋《こひ》しうなり ま|一度《いちど》|生命《いのち》を|保《たも》たむと
|焦《あせ》れど|詮《せん》なし|女《をんな》の|身《み》 |弊衣《へいい》に|水《みづ》を|含《ふく》みしゆ
|身《み》も|儘《まま》ならず|悶《もだ》え|居《ゐ》る |時《とき》しもあれや|何物《なにもの》か
|吾《わ》が|身《み》に|触《ふ》るる|物《もの》ありと |矢庭《やには》にしかと|抱《いだ》き|付《つ》き
|浮《うき》つ|沈《しづ》みつ|争《あらそ》へば |何時《いつ》しか|息《いき》は|絶《た》え|果《は》てて
|前後不覚《ぜんごふかく》となりにけり |斯《か》かる|処《ところ》へヘル|司《つかさ》
|現《あら》はれ|来《きた》り|両人《りやうにん》を |救《すく》ひ|助《たす》けて|森林《しんりん》の
|中《なか》に|伴《ともな》ひ|労《いたは》りつ |種々《いろいろ》|雑多《ざつた》の|介抱《かいはう》に
|再《ふたた》び|正気《しやうき》に|復《ふく》しける |悪逆非道《あくぎやくひだう》の|一人《いちにん》は
|妾《わらは》の|姿《すがた》|見《み》るよりも あやしき|眼《まなこ》を|光《ひか》らせて
|耳《みみ》も|汚《けが》るる|口説言《くどきごと》 |三人《みたり》の|男《をとこ》は|吾《わ》が|身《み》をば
|妻《つま》になさむと|争《あらそ》ひつ パインの|蔭《かげ》に|組《く》みついて
|組《く》んづ|転《ころ》んづ|又《また》|元《もと》の |青淵《あをぶち》|目蒐《めが》けて|落《お》ち|込《こ》みぬ
|妾《わらは》を|救《たす》けし|恩人《おんじん》の |生命《いのち》を|助《たす》けにやなるまいと
|吾《わ》が|身《み》を|忘《わす》れて|飛《と》び|込《こ》めば |又《また》もや|溺《おぼ》れて|人心《ひとごころ》
|無《な》き|身《み》とこそはなりにけり これより|一行《いつかう》|四人連《よにんづ》れ
|青野ケ原《あをのがはら》を|打渡《うちわた》り |当途《あてど》もなしに|進《すす》み|行《ゆ》く
|忽《たちま》ち|関所《せきしよ》に|突《つ》き|当《あた》り |容子《ようす》を|聞《き》けば|霊界《れいかい》の
|八衢《やちまた》|関所《せきしよ》と|聞《き》きしより |吾等《われら》が|一行《いつかう》|驚《おどろ》いて
|再《ふたた》び|元《もと》の|道《みち》をとり |帰《かへ》らむとする|折《をり》もあれ
|酒《さけ》に|酔《よ》ふたる|六造《ろくざう》が |又《また》もや|途中《とちう》に|塞《ふさ》がりて
|何《なん》ぢやかんぢやと|口説《くどき》|出《だ》す こりや|怺《たま》らんと|思《おも》ふ|折《をり》
|向《むか》ふの|方《かた》より|足早《あしばや》に |走《はし》り|来《きた》れる|婆々《ばばア》あり
|一行《いつかう》|五人《ごにん》は|怪《あや》しみて |道《みち》の|側《かた》への|草原《くさはら》に
|身《み》を|隠《かく》したる|時《とき》もあれ |婆々《ばばア》はツツと|立止《たちどま》り
|不思議《ふしぎ》な|手《て》つきで|招《まね》きつつ |日出神《ひのでのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》
|底津岩根《そこついはね》の|太柱《ふとばしら》 みろくの|神《かみ》の|生宮《いきみや》だ
これからお|前等《まへら》|一同《いちどう》に |天国《てんごく》|浄土《じやうど》の|真相《しんさう》を
|諭《さと》してやるから|跟《つ》いて|来《こ》い なぞと|言葉《ことば》も|滑《なめ》らかに
いと|熱心《ねつしん》に|説《と》きつける |何《なに》は|兎《と》もあれ|行《ゆ》き|見《み》むと
|婆々《ばばア》の|後《あと》に|従《したが》ひて |川《かは》を|隔《へだ》てて|岩山《いはやま》の
|賤《しづ》が|伏屋《ふせや》に|跟《つ》いて|行《ゆ》く ウラナイ|教《けう》の|旗頭《はたがしら》
|高姫《たかひめ》さまが|住家《すみか》ぞと |聞《き》いて|驚《おどろ》く|胸《むね》の|内《うち》
さあらぬ|顔《かほ》を|装《よそほ》ひて |様子《やうす》を|伺《うかが》ひ|居《ゐ》たりしが
|忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|法螺《ほら》の|声《こゑ》 |三五教《あななひけう》の|修験者《しゆげんじや》
|求道居士《きうだうこじ》が|現《あら》はれて |吾等《われら》|一同《いちどう》の|危難《きなん》をば
|救《すく》はせ|玉《たま》ふと|見《み》る|内《うち》に |俄《にはか》に|聞《きこ》ゆる|水《みづ》の|音《おと》
|小鳥《ことり》の|声《こゑ》も|爽《さはや》かに |耳《みみ》に|入《い》るよと|見《み》るうちに
|再《ふたた》び|息《いき》を|吹返《ふきかへ》し |又《また》もや|救《すく》ひ|上《あ》げられて
|漸《やうや》う|此処《ここ》|迄《まで》|帰《かへ》りけり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》に |守《まも》らせ|玉《たま》ひて|道《みち》の|上《うへ》
|包《つつ》む|隈《くま》なく|足乳根《たらちね》の |居《ゐ》ますわが|家《や》へ|速《すみやか》に
|帰《かへ》させ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》 |神《かみ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
と|歌《うた》ひつつ|求道居士《きうだうこじ》の|後《あと》に|従《したが》つて、|夜道《よみち》を|辿《たど》るのは、ケリナ|姫《ひめ》であつた。
|忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|猛獣《まうじう》の|唸《うな》り|声《ごゑ》、|前後左右《ぜんごさいう》より|一斉《いつせい》に|山彦《やまびこ》を|轟《とどろ》かして|聞《きこ》え|来《く》る。|求道居士《きうだうこじ》は|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|上《あ》げ、
『|真観清浄観《しんくわんしやうじやうくわん》 |広大智慧観《くわうだいちゑくわん》
|悲観及慈観《ひくわんぎうじくわん》 |常願常瞻仰《じやうぐわんじやうせんがう》
|無垢清浄光《むくしやうじやうくわう》 |慧日破諸闇《ゑにちはしよあん》
|能伏災風火《のうぶくさいふうくわ》 |普明照世間《ふみやうせうせけん》
|悲体戒雷震《ひたいかいらいしん》 |慈意妙大雲《じいめうたいうん》
|〓甘露法雨《じゆかんろほふう》 |滅除煩悩炎《めつぢよぼんなうゑん》
|諍訟経官処《じようしようきやうくわんしよ》 |怖畏軍陣中《ふゐぐんぢんちう》
|念彼観音力《ねんぴくわんのんりき》 |衆怨悉退散《しうをんしつたいさん》
|妙音観世音《めうおんくわんぜおん》 |梵音海潮音《ぼんのんかいてうおん》
|勝彼世間音《しようひせけんおん》 |是故須常念《ぜこしゆじやうねん》
|念々勿生疑《ねんねんもつしやうぎ》 |観世音浄聖《くわんぜおんじやうしやう》
|於苦悩死厄《おくなうしやく》 |能為作依怙《のうゐさえこ》
|具一切功徳《ぐいつさいくどく》 |慈眼視衆生《じがんししうじやう》
|福聚海無量《ふくじゆかいむりやう》 |是故応頂礼《ぜこおうちやうらい》』
と|念《ねん》じ|乍《なが》ら、|負《まけ》ず|劣《おと》らず、|力《ちから》|一杯《いつぱい》|法螺貝《ほらがひ》を|吹《ふ》き|立《た》てた。|法螺貝《ほらがひ》の|声《こゑ》は|山野《さんや》の|邪気《じやき》を|払《はら》ふものである。ケリナ|姫《ひめ》は|猛獣《まうじう》の|声《こゑ》に|戦慄《せんりつ》し、|求道居士《きうだうこじ》の|腰《こし》に|喰《くら》ひつき、|泣《な》き|声《ごゑ》になつて|居士《こじ》に|従《したが》ひ|経文《きやうもん》を|誦唱《じゆしやう》して|居《ゐ》る。|暫《しばら》くにしてさしも|激《はげ》しき|猛獣《まうじう》の|唸《うな》り|声《ごゑ》はピタリと|止《と》まつた。|天《てん》を|封《ふう》じて|居《ゐ》た|雲《くも》は|俄《にはか》に|散《ち》つて|夏《なつ》の|月《つき》は|洗《あら》ひ|出《だ》した|様《やう》に、|中天《ちうてん》|低《ひく》く|輝《かがや》き|始《はじ》めた。|是《これ》よりケリナ|姫《ひめ》は|何《なん》となく|求道居士《きうだうこじ》を|尊信愛慕《そんしんあいぼ》するの|念《ねん》|益々《ますます》|深《ふか》くなり、ハートに|折々《をりをり》|波《なみ》を|打《う》たせ|胸《むね》を|焦《こ》がすに|至《いた》りたり。
(大正一二・三・一六 旧一・二九 於竜宮館二階 外山豊二録)
第一三章 |不動滝《ふどうたき》〔一四四三〕
テルモン|山《ざん》の|峰続《みねつづ》き |山《やま》|一面《いちめん》に|鬱蒼《うつさう》と
|巨木《きよぼく》|茂《しげ》れるスガの|山《やま》 |天《てん》を|封《ふう》じて|谷間《たにあひ》は
|昼《ひる》さへ|暗《くら》く|濛々《もうもう》と |夏《なつ》と|冬《ふゆ》との|区別《くべつ》なく
|霧《きり》|立《た》ち|上《のぼ》る|秘密郷《ひみつきやう》 |天《てん》より|布《ぬの》を|晒《さら》したる
|如《ごと》くに|見《み》ゆる|大滝《おほたき》は アン・ブラツク|滝《だき》といひ
|物凄《ものすさま》じき|水《みづ》の|音《おと》 |百《もも》の|雷《いかづち》|一時《いちどき》に
|轟《とどろ》く|如《ごと》く|聞《きこ》え|来《く》る かかる|所《ところ》へスタスタと
|夜《よ》な|夜《よ》な|通《かよ》ふ|女《をんな》あり バラモン|教《けう》の|神司《かむづかさ》
テルモン|山《ざん》に|館《やかた》をば |築《きづ》きて|教《をしへ》を|開《ひら》き|居《ゐ》る
|小国別《をくにわけ》の|愛娘《まなむすめ》 デビスの|姫《ひめ》は|吾《わが》|父《ちち》の
|重《おも》き|病《やまひ》を|救《すく》はむと |一人《ひとり》の|妹《いもうと》に|別《わか》れたる
|其《その》|悲《かな》しさに|身《み》を|忘《わす》れ |父《ちち》の|病《やまひ》や|妹《いもうと》の
|無事《ぶじ》を|祈《いの》りて|進《すす》み|来《く》る |月《つき》は|御空《みそら》に|皎々《かうかう》と
|輝《かがや》き|亘《わた》り|下界《げかい》をば |隈《くま》なく|照《て》らし|玉《たま》へども
|此《この》|滝《たき》のみは|老木《らうぼく》の |枝《えだ》に|影《かげ》をば|遮《さへぎ》られ
|只《ただ》|滝水《たきみづ》のうす|白《じろ》く |吾《わが》|目《め》にとまる|許《ばか》りなり
デビスの|姫《ひめ》は|忽《たちま》ちに |衣《きぬ》|脱《ぬ》ぎすてて|滝壺《たきつぼ》に
ザンブと|許《ばか》り|飛込《とびこ》んで |一心不乱《いつしんふらん》にバラモンの
|呪文《じゆもん》を|称《とな》へ|祈《いの》り|居《ゐ》る |其《その》|心根《こころね》ぞ|殊勝《しゆしよう》なれ
かかる|所《ところ》へスタスタと |慌《あわ》てふためき|走《はし》り|来《く》る
|怪《あや》しの|影《かげ》は|只《ただ》|二《ふた》つ |足音《あしおと》|忍《しの》ばせ|忍《しの》び|寄《よ》り
|暗《やみ》に|浮出《うきで》た|白《しろ》い|肌《はだ》 |眺《なが》めて|互《たがひ》に|囁《ささや》きつ
デビスの|姫《ひめ》が|滝壺《たきつぼ》を あがり|来《きた》るを|待《ま》ちにける
これぞベル、ヘル|両人《りやうにん》が |月照彦《つきてるひこ》の|神霊《しんれい》の
|御稜威《みいづ》に|恐《おそ》れ|修験者《しゆげんじや》 ケリナの|姫《ひめ》を|振棄《ふりす》てて
|命《いのち》カラガラ|逃《に》げ|来《きた》る |其《その》|道《みち》すがら|何気《なにげ》なく
|谷《たに》の|水音《みなおと》たよりにて |尋《たづ》ね|来《きた》りし|物《もの》ぞかし。
スガ|山《さん》の|谷間《たにあひ》は|此《この》|界隈《かいわい》にても|目立《めだ》つて|大木《たいぼく》の|繁茂《はんも》せる、|余《あま》り|高《たか》からざる|密林《みつりん》であつて、|二十丈《にじふぢやう》|三十丈《さんじふぢやう》と|幹《みき》のまわつた|大木《たいぼく》が|天《てん》を|封《ふう》じ、|昼《ひる》さへ|暗《くら》き|凄《すご》い|様《やう》な|場所《ばしよ》である。そしてテルモン|山《ざん》の|谷水《たにみづ》を|一切《いつさい》ここに|集《あつ》めて|大瀑布《だいばくふ》をなし、|高《たか》さ|数百丈《すうひやくぢやう》に|及《およ》び、|白布《しろぬの》を|天《てん》から|吊《つ》り|下《おろ》した|様《やう》になつてゐる。|此《この》|地点《ちてん》は|殺生《せつしやう》|禁断《きんだん》の|場所《ばしよ》であり、アン・ブラツク|明王《みやうわう》が|滝《たき》の|傍《そば》に|祀《まつ》られてある。されど|国人《くにびと》は|怖《おそ》れて|此《この》|滝壺《たきつぼ》に|近《ちか》よつた|者《もの》はない。|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》の|猛獣《まうじう》や|〓蛇《ぐわんだ》などが|沢山《たくさん》に|棲息《せいそく》し、|一歩《いつぽ》たり|共《とも》、スガ|山《さん》の|森林《しんりん》へ|足《あし》を|踏《ふ》み|入《い》れたる|者《もの》は|生《い》きて|帰《かへ》つた|者《もの》は|無《な》いと|云《い》つて|怖《おそ》れられてゐた。|雨傘《あまがさ》を|拡《ひろ》げた|様《やう》な|蝙蝠《かうもり》が|滝《たき》の|近辺《きんぺん》を|真黒《まつくろ》になつてバタバタと|飛《と》び|交《か》ひ、|昼《ひる》は|大木《たいぼく》の|朽穴《くちあな》に|身《み》を|隠《かく》し、|日《ひ》の|暮頃《くれごろ》から、ソロソロ|活動《くわつどう》し|始《はじ》めるのである。
デビス|姫《ひめ》は|浄行《じやうぎやう》の|家《いへ》に|生《うま》れた|淑女《しゆくぢよ》なるにも|関《かかは》らず、|自分《じぶん》の|命《いのち》を|的《まと》に|夜《よ》な|夜《よ》な|通《かよ》ひ|来《きた》つて、|老病《らうびやう》に|苦《くるし》む|父《ちち》の|全快《ぜんくわい》を|祈《いの》り、|且《かつ》|三歳前《みとせまへ》に|姿《すがた》を|隠《かく》した|妹《いもうと》ケリナ|姫《ひめ》の|無事《ぶじ》に|帰《かへ》り|来《きた》らむことを、アン・ブラツク|明王《みやうわう》の|前《まへ》に|祈《いの》るべく、|危険《きけん》を|冒《をか》して|夜《よ》な|夜《よ》な|通《かよ》ひ|来《きた》り、|深《ふか》い|滝壺《たきつぼ》に|身《み》を|投《とう》じて|荒行《あらぎやう》をやつてゐたのである。そこへ|求道居士《きうだうこじ》、ケリナ|姫《ひめ》を|撲《なぐ》り|殺《ころ》して|姿《すがた》を|隠《かく》さうとしてゐる|矢先《やさき》、|天《てん》の|一方《いつぱう》より|大火光《だいくわくわう》となつて、|月照彦神《つきてるひこのかみ》のエンゼル|現《あら》はれ|来《きた》り、|求道居士《きうだうこじ》、ケリナ|姫《ひめ》を|甦《よみがへ》らせ|玉《たま》うた。ベル、ヘルの|両人《りやうにん》は|此《この》|火団《くわだん》の|爆発《ばくはつ》した|音《おと》に|肝《きも》を|潰《つぶ》し、スガ|山《さん》の|谷間《たにあひ》の|恐《おそ》ろしい|事《こと》は|承知《しようち》し|乍《なが》らも、|余《あま》りの|驚《おどろ》きに|逃《に》げ|場《ば》を|失《うしな》ひ、|山《やま》を|駆《か》け|登《のぼ》つて、|此《この》|滝《たき》の|麓《ふもと》に|漸《やうや》く|逃《に》げて|来《き》たのである。|滝水《たきみづ》の|音《おと》は|轟々《ぐわうぐわう》と|騒《さわ》がしく、デビス|姫《ひめ》の|祈《いの》る|声《こゑ》も|聞《き》き|取《と》る|事《こと》が|出来《でき》なかつた。
ベル、ヘルの|両人《りやうにん》は|斯《か》かる|深林《しんりん》に|夜中《やちう》、|繊弱《かよわ》き|女《をんな》が|荒行《あらぎやう》に|来《き》て|居《を》るとは|思《おも》ひもよらないので、|不審《ふしん》に|堪《た》へやらず、|若《もし》や|妖怪《えうくわい》にはあらざるかと、|歯《は》の|根《ね》をガタガタさせ|乍《なが》ら、|滝《たき》の|近《ちか》くへ|寄《よ》つたものの、|気味悪《きみわる》く|互《たがひ》に|抱《だ》きついて|慄《ふる》うてゐた。
デビス|姫《ひめ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|祈願《きぐわん》をしてゐたので、|二人《ふたり》の|男《をとこ》が|近《ちか》くに|来《き》て|居《を》る|事《こと》は|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、|濡《ぬ》れた|体《からだ》の|水気《すいき》を|拭《ふ》き|取《と》り、|立派《りつぱ》な|衣類《いるゐ》と|着替《きか》へて、|馴《なれ》た|道《みち》をスタスタと|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|怖《こは》い|物《もの》|見《み》たさの|喩《たとへ》に|洩《も》れず|両人《りやうにん》は、|跡《あと》を|慕《した》うて|十間《じつけん》|許《ばか》り|距離《きより》を|保《たも》ち|跟《つ》いて|行《い》つた。|女《をんな》は|漸《やうや》くにして|月《つき》の|照《て》り|亘《わた》る|野原《のはら》に|出《で》た。|此処《ここ》には|天拝石《てんぱいせき》と|云《い》つて、|一間四方《いつけんしはう》|許《ばか》りの|長方形《ちやうはうけい》の|削《けづ》つた|様《やう》な|天然岩《てんねんいは》がある。デビス|姫《ひめ》は|其《その》|岩《いは》の|真中《まんなか》にキチンと|坐《すわ》り、|再《ふたた》び|祈願《きぐわん》を|籠《こ》めた。ベル、ヘルの|両人《りやうにん》は|腰《こし》を|屈《かが》め、|茫々《ばうばう》たる|草原《くさはら》を|潜《くぐ》り|乍《なが》ら、ソツと|傍《かたはら》に|寄《よ》り|草《くさ》の|繁《しげ》みに|身《み》を|隠《かく》して|様子《やうす》を|考《かんが》へてゐた。
デビス|姫《ひめ》は|月光《げつくわう》に|向《むか》つて|双手《もろて》を|合《あは》せ|祈《いの》り|初《はじ》めたり。
『|南無《なむ》|大自在天《だいじざいてん》バラモン|大神様《おほかみさま》、|私《わたくし》は|丁度《ちやうど》|今日《こんにち》にて|三七廿一日《さんしちにじふいちにち》の|荒行《あらぎやう》を|無事《ぶじ》に|了《をは》りました。|何卒《なにとぞ》|々々《なにとぞ》|大黒主《おほくろぬし》の|神司《かむつかさ》より|父《ちち》が|預《あづ》かりました|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》が、|一日《いちにち》も|早《はや》く|発見《はつけん》されまして、|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|御勘気《ごかんき》が|許《ゆる》されまする|様《やう》に、|又《また》|父《ちち》は|妹《いもうと》の|行衛不明《ゆくゑふめい》となりしより|心配《しんぱい》を|致《いた》し、それが|為《た》めに|重《おも》き|病《やまひ》の|床《とこ》に|臥《ふ》し、|命《めい》|旦夕《たんせき》に|迫《せま》つて|居《を》りまする。|何卒《どうぞ》|私《わたくし》の|心《こころ》を|憐《あはれ》み|下《くだ》さいまして、|父《ちち》の|病《やまひ》を|全快《ぜんくわい》させ、|恋《こひ》しき|妹《いもうと》に|会《あ》はして|下《くだ》さいませ。そして|如意宝珠《によいほつしゆ》の|神宝《しんぱう》が|一時《いつとき》も|早《はや》く|館《やかた》へ、|何者《なにもの》かの|手《て》を|経《へ》て|還《かへ》つて|参《まゐ》ります|様《やう》に、|御恵《みめぐみ》を|垂《た》れ|玉《たま》はむことを、|偏《ひとへ》に|御願《おねがひ》|申《まをし》|奉《たてまつ》ります。|月《つき》の|大神様《おほかみさま》の|御姿《みすがた》を|拝《はい》するにつけ、|其《その》|円満《ゑんまん》なるお|姿《すがた》にも|等《ひと》しき|如意宝珠《によいほつしゆ》の|神宝《しんぽう》の|思《おも》ひ|出《だ》されて|参《まゐ》ります。あの|神宝《しんぽう》が|無《な》き|時《とき》は、テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》は|暗夜《あんや》も|同様《どうやう》で|厶《ござ》います。|何卒《なにとぞ》|々々《なにとぞ》|私《わたくし》の|命《いのち》はお|召取《めしとり》になつても|構《かま》ひませぬから、|何卒《どうぞ》|此《この》|三《みつ》つの|願《ねがひ》はお|聞《き》き|届《とど》け|下《くだ》さいます|様《やう》に……』
と|一心不乱《いつしんふらん》に|祈願《きぐわん》を|籠《こ》めてゐる。ベル、ヘルの|両人《りやうにん》は|初《はじ》めて|此《この》|女《をんな》の|素性《すじやう》を|聞知《ききし》り、|胸《むね》を|撫《な》で|下《おろ》し、|又《また》もやソロソロ|横着心《わうちやくしん》を|起《おこ》し、|女《をんな》を|赤裸《まつぱだか》にして|多少《たせう》の|財産《ざいさん》を|手《て》に|入《い》れむと|考《かんが》へ|込《こ》んだ。デビスの|頭《あたま》や|体《からだ》には|金剛石《こんごうせき》や|珊瑚珠《さんごじゆ》、|瑠璃《るり》、|瑪瑙《めなう》、|〓〓《しやこ》|等《など》の|宝玉《はうぎよく》が|飾《かざ》られ、|折柄《をりから》の|月光《げつくわう》に|映《えい》じて|花《はな》の|如《ごと》く|光《ひか》つてゐる。|之《これ》を|眺《なが》めた|両人《りやうにん》は|猫《ねこ》に|松魚節《かつをぶし》を|見《み》せたやうに、|喉《のど》をゴロゴロならし、よき|獲物《えもの》|厶《ござ》んなれと|耳《みみ》に|口《くち》を|寄《よ》せ、
ベル『オイ、ヘル、|素的滅法界《すてきめつぱふかい》なナイスぢやないか。そしてあの|頭《あたま》から|体《からだ》に|光《ひか》つてゐる|宝石《はうせき》は|随分《ずいぶん》|高価《かうか》な|物《もの》だらうよ。ここで|一《ひと》つ|悪《あく》の|仕納《しをさ》めに、|彼奴《あいつ》を|赤裸《まつぱだか》にして、|持物《もちもの》|一切《いつさい》を|奪《うば》ひ|取《と》り、それを|持《も》つて|国許《くにもと》へ|帰《かへ》り、|故郷《こきやう》へ|錦《にしき》を|飾《かざ》らうぢやないか。さうすればバラモン|軍《ぐん》が|解散《かいさん》になり、お|払《はら》ひ|箱《ばこ》になつたと|笑《わら》はれる|事《こと》もあるまい。|人間《にんげん》はどうでもよい、|成功《せいこう》さへすれば|人《ひと》が|褒《ほ》めるのだからなア。こんな|好《い》い|機会《きくわい》は|又《また》とあるまいぞ』
ヘル『どうも|何《なん》だか、|体《からだ》がビリビリと|動《うご》き|出《だ》して|来《き》た。|俺《おれ》やモウ|泥坊《どろばう》は|廃業《はいげふ》する。|何程《なにほど》|高価《かうか》な|物《もの》でも|欲《ほ》しくはないワ。|頭《あたま》の|上《うへ》から|皎々《かうかう》たる|月《つき》の|大神《おほかみ》が、|吾々《われわれ》の|行動《かうどう》を|看視《かんし》してゐられるやうに|思《おも》へて、|怖《おそ》ろしくなつて|来《き》たよ。お|前《まへ》|欲《ほ》しけら、あのナイスに|事情《じじやう》をあけて、|頼《たの》んで|貰《もら》つたら|如何《どう》だ』
ベル『エー、|腰抜《こしぬけ》だなア。さうだから|惚泥《でれどろ》と|云《い》はれるのだ。そんなら|汝《きさま》、ここで|俺《おれ》の|腕前《うでまへ》を|拝見《はいけん》してゐよ、|其《その》|代《かは》りに、|俺《おれ》が|奪《と》つたら|一《ひと》つも|汝《きさま》に|分配《ぶんぱい》せぬから、|承知《しようち》だらうな』
ヘル『ウン|承知《しようち》だ、|併《しか》しベル、|余程《よつぽど》|考《かんが》へてやらないと、どんな|目《め》に|会《あ》ふか|知《し》れぬぞ。どこともなしに|彼奴《あいつ》の|体《からだ》から|御光《ごくわう》がさして|居《ゐ》るぢやないか、|俺《おれ》やどうしても|神《かみ》さまのやうに|思《おも》はれて、|体《からだ》がすくむ|様《やう》だ』
ベル『|光《ひか》つてゐるのが|価値《ねうち》だ。|彼奴《あいつ》をスツカリ|手《て》に|入《い》れやうものなら、|何《なに》|十万両《じふまんりやう》とも|知《し》れぬ|価値《ねうち》の|物《もの》だ。|汝《きさま》は|余程《よつぽど》|可《い》い|腰抜《こしぬ》けだなア。|目《め》の|前《まへ》にブラ|下《さが》つてる|宝《たから》を|見《み》す|見《み》す|見捨《みすて》るのか。|冥加《みやうが》|知《し》らず|奴《め》、そんなら、そこに|少時《しばらく》|蝮《まむし》のやうに|蟄伏《ちつぷく》して|居《を》れ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、ツカツカとデビス|姫《ひめ》の|祈願《きぐわん》してる|前《まへ》に|立現《たちあら》はれ、
ベル『オイ、どこの|女中《ぢよちう》か|知《し》らぬが、|長《なが》の|旅《たび》を|致《いた》す|内《うち》、|盗賊《たうぞく》に|出会《であ》ひ、|有金《ありがね》をスツカリと|奪《うば》ひ|取《と》られ、|今《いま》は|是非《ぜひ》なく|乞食《こじき》の|様《やう》になつて|道中《だうちう》をしてゐるのだ。|之《これ》から|月《つき》の|国《くに》|迄《まで》|帰《かへ》らなくてはならない。どうかお|前《まへ》の|頭《あたま》に|光《ひか》つてゐる|物《もの》を|二《ふた》つ|三《み》ツつ|此方《こちら》へ|渡《わた》して|下《くだ》さるまいか』
デビスは|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて、|祈願《きぐわん》の|手《て》をやめ、|月影《つきかげ》によくよく|透《すか》して|見《み》れば、|荒《あら》くれ|男《をとこ》が|一人《ひとり》、|自分《じぶん》の|坐《すわ》つてゐる|少《すこ》し|横手《よこて》に|立塞《たちふさ》がつてゐる。
デビス『お|前《まへ》はどこの|旅人《たびびと》か|知《し》らぬが、|今《いま》|私《わたし》の|頭《あたま》の|物《もの》をくれと|云《い》つたやうだが、|之《これ》は|何《ど》うしても|上《あ》げる|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬ。|体中《からだぢう》に|宝石《はうせき》をつけてゐるのは、|悪魔《あくま》を|防《ふせ》ぐ|禁厭《まじなひ》ですから、まだ|之《これ》から|吾《わが》|家《や》へ|帰《かへ》るのには、|一寸《ちよつと》|二里《にり》|許《ばか》りも|道程《みちのり》がある。|夜《よる》の|道《みち》を|帰《かへ》るのは|危険《きけん》だから、たつて|欲《ほ》しいのなれば|更《あらた》めて|来《き》て|下《くだ》さい。|私《わたし》の|家《うち》はテルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》で|厶《ござ》います』
ベル『ナニツ、お|前《まへ》はあのテルモン|山《ざん》の|霊地《れいち》|小国別《をくにわけ》|様《さま》の|娘《むすめ》といふのか、ヤアそりや|妙《めう》な|縁《えん》だ。|拙者《せつしや》は|斯《か》う|見《み》えてもバラモン|軍《ぐん》の|征夷大将軍《せいいたいしやうぐん》|鬼春別《おにはるわけ》|将軍《しやうぐん》で|厶《ござ》るぞ』
デビス『ホホホホ|鬼春別《おにはるわけ》|将軍《しやうぐん》さまは|沢山《たくさん》の|軍隊《ぐんたい》を|伴《つ》れて|堂々《だうだう》とお|出《い》で|遊《あそ》ばすぢやありませぬか。|最前《さいぜん》|何《なん》と|云《い》ひました……|長途《ちやうと》の|旅《たび》、|泥坊《どろばう》に|出会《であ》ひ、|金《かね》をスツカリ|奪《と》られたから|頭《あたま》の|物《もの》でもくれい……と|云《い》つたでせう。|鬼春別《おにはるわけ》ともあらう|方《はう》が、|只《ただ》|一人《ひとり》|歩《ある》いたり、|賊《ぞく》に|持物《もちもの》を|奪《と》られたりする|様《やう》な|事《こと》がありませうか。お|前《まへ》は|胡麻《ごま》の|蠅《はへ》だらう。サア、|奪《と》るなら|奪《と》つて|御覧《ごらん》、|女《をんな》|乍《なが》らも|腕《うで》に|覚《おぼえ》がありますぞや』
ベル『|実《じつ》の|所《ところ》は|鬼春別《おにはるわけ》に|間違《まちが》ひは|無《な》いのだ。|三五教《あななひけう》の|軍勢《ぐんぜい》|十万騎《じふまんき》を|以《もつ》て|吾《わが》|陣屋《ぢんや》へ|押寄《おしよ》せ|来《きた》り、|味方《みかた》は|僅《わづか》に|三千余騎《さんぜんよき》、それも|大部分《だいぶぶん》は|脚気《かつけ》を|患《わづら》ひ、|殆《ほとん》ど|戦場《せんぢやう》に|立《た》つ|者《もの》は|二三百人《にさんびやくにん》|許《ばか》り、|如何《いか》に|勇猛《ゆうまう》なる|鬼春別《おにはるわけ》も|僅《わづか》に|三百《さんびやく》の|手兵《しゆへい》を|以《もつ》て|十万《じふまん》の|敵《てき》に|対《たい》するのだから、|天地《てんち》の|道理上《だうりじやう》、|已《や》むを|得《え》ず|味方《みかた》は|残《のこ》らず|討死《うちじに》し、|自分《じぶん》は|神《かみ》の|助《たす》けによつて、|漸《やうや》く|命《いのち》を|助《たす》かり、|此処《ここ》まで|落伸《おちの》びて|来《き》たのだ。|鬼春別《おにはるわけ》に|間違《まちが》ひは|厶《ござ》らぬぞや』
デビス『|鬼春別《おにはるわけ》|様《さま》に|間違《まちが》ひなければ、|何卒《どうぞ》|妾《わたし》の|館《やかた》|迄《まで》|来《き》て|下《くだ》さいませ、|自分《じぶん》の|体《からだ》につけてる|宝石《はうせき》|位《ぐらゐ》は|物《もの》の|数《かず》でも|厶《ござ》いませぬ。|諸方《しよはう》から|貢《みつ》いで|来《き》た|種々《いろいろ》の|宝物《はうもつ》は|山《やま》|程《ほど》|厶《ござ》いますから、そして|又《また》|父《ちち》も|鬼春別《おにはるわけ》|様《さま》がお|出《いで》になれば|喜《よろこ》ぶ|事《こと》でせう。|何卒《どうぞ》|私《わたし》と|一緒《いつしよ》に|来《き》て|貰《もら》ひたいものですな』
と|偽者《にせもの》とは|知《し》り|乍《なが》ら、ワザと|気《き》を|引《ひ》いて|見《み》た。そしてデビスは|自分《じぶん》の|館《やかた》|近《ちか》くに|行《い》つた|時《とき》に、|部下《ぶか》に|命《めい》じて|此《この》|泥坊《どろばう》を|捕縛《ほばく》し、|懲《こ》らしめて|改心《かいしん》させむと|刹那《せつな》に|考《かんが》へた。ベルは|館《やかた》へ|行《い》つては|直様《すぐさま》バケが|現《あら》はれると|思《おも》ひ、|焼糞《やけくそ》になり、
ベル『エー、|実《じつ》の|所《ところ》は|天下《てんか》|晴《は》れての|泥坊様《どろばうさま》だ。サアここで|何《なに》もかもお|前《まへ》の|体《からだ》に|附着《ふちやく》してゐる|物《もの》は|受取《うけと》らう。ゴテゴテ|申《まを》すと|大切《たいせつ》な|命《いのち》|迄《まで》|奪《と》つて|了《しま》ふが|何《ど》うだ』
ヘルは|思《おも》はず|知《し》らず|草《くさ》の|中《なか》から、
ヘル『オイ、ベル、そんな|無茶《むちや》な|事《こと》|云《い》ふない。それ|程《ほど》|欲《ほ》しけりや|一《ひと》つ|丈《だけ》|頂戴《ちやうだい》したらどうだ』
と|呼《よ》んでゐる。ベルはハツとし|乍《なが》ら、
『アハン アハン』
と|大《おほ》きな|咳払《せきばらひ》に|紛《まぎ》らし、ヘルの|声《こゑ》を|消《け》さうとした。デビスは|早《はや》くもまだ|外《ほか》に|一人《ひとり》の|卑怯《ひけふ》な|泥坊《どろばう》が|潜《ひそ》んでゐる|事《こと》を|悟《さと》つた。
デビス『ホツホホホホ、|腰抜泥坊《こしぬけどろばう》だこと、|一《ひと》つ|丈《だけ》|頂戴《ちやうだい》せいなどと、|何《な》した|情《なさけ》ないシミツタレた|事《こと》をいふのだらう。|命《いのち》が|欲《ほ》しけりや|命《いのち》もやらう。|宝石《はうせき》が|欲《ほ》しければ|与《や》らぬ|事《こと》もない。|併《しか》し|乍《なが》ら|此方《こちら》も|生物《いきもの》だから、チツと|許《ばか》り|動《うご》きますから、|跳飛《はねと》ばされぬやうになさいませや』
ベル『エー、モウ|駄目《だめ》だ。コラ、ヘルの|奴《やつ》、|汝《きさま》もやつて|来《き》んかい。|戦利品《せんりひん》は|山分《やまわ》けだ』
ヘル『|俺《おれ》モウそんな|殺生《せつしやう》な|事《こと》はしたくないワ、|又《また》|天《てん》から|光《ひか》つて|来《き》たら|何《ど》うする。ダイヤモンドでも|何《なん》でも、|俺《おれ》モウ|光《ひか》るものには|懲々《こりごり》だ』
デビス『ホホホホ、|腰《こし》の|弱《よわ》い|泥坊《どろばう》|許《ばか》り|集《よ》つたものだなア。|併《しか》し|乍《なが》ら|其処辺《そこら》に|慄《ふる》つてる|腰抜泥坊《こしぬけどろばう》、お|前《まへ》は|可愛想《かあいさう》な|奴《やつ》だ。こんな|奴《やつ》にやるのは|惜《をし》いが、お|前《まへ》になら|宝石《はうせき》もやらうし、|体《からだ》が|欲《ほ》しけら|体《からだ》も|任《まか》してやるから、そんな|草原《くさはら》に|螽斯《ばつた》の|如《や》うにスツ|込《こ》んでをらずに、トツトと|此処《ここ》へ|出《で》て|来《き》なさい』
ヘルは|大胆不敵《だいたんふてき》の|女《をんな》の|言葉《ことば》に|度肝《どぎも》を|抜《ぬ》かれ、|腰《こし》をぬかしてバタリと|平太《へたば》つたまま|慄《ふる》うてゐる。
ベル『エー、|腰抜《こしぬけ》|奴《め》、|気《き》の|弱《よわ》い|事《こと》|許《ばか》りぬかしやがつて、|助《たす》けになる|所《どころ》か|商売《しやうばい》の|邪魔《じやま》|許《ばか》りする|奴《やつ》だ。タカが|女《をんな》の|一人《ひとり》、|何程《なにほど》|手《て》が|利《き》いてると|云《い》つても|知《し》れたものだ。オイ|女《をんな》、|渡《わた》すのが|厭《いや》なら|俺《おれ》が|直接《ちよくせつ》に|奪《と》つてやる、|神妙《しんめう》にしろ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|猿臂《ゑんび》を|伸《の》ばして、|頭《あたま》に|光《ひか》る|宝石《はうせき》をグツと|掴《つか》みかけた。デビスは|其《その》|手《て》をグツと|握《にぎ》り、|日頃《ひごろ》|鍛《きた》えし|柔術《じうじゆつ》の|手《て》を|以《もつ》て、|三間《さんげん》|許《ばか》り|草《くさ》つ|原《ぱら》へ|投《な》げ|付《つ》けた。ベルは|死武者《しにむしや》になつて、|女《をんな》に|喰《くら》ひつき|喉《のど》を|締《し》めようとした。ベルも|少《すこ》し|許《ばか》り|手《て》は|利《き》いてゐたが、|到底《たうてい》デビスには|敵《かな》はない。|併《しか》し|乍《なが》ら|宝石《はうせき》に|眼《まなこ》|眩《くら》んで、|自分《じぶん》の|危《あやふ》い|事《こと》も|忘《わす》れ、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|放《ほ》られては|組《く》み|付《つ》き|放《ほ》られては|組《く》み|付《つ》き、|殆《ほとん》ど|十二三回《じふにさんくわい》も|投《な》げられ、グタグタになつた。それでもまだ|性懲《しやうこり》もなく、|頭《あたま》や|体《からだ》の|宝石《はうせき》の|光《ひかり》を|目当《めあて》に|喰《くら》ひつく。デビスは『エー|面倒《めんだう》』と|岩《いは》を|飛下《とびお》り、|武者振《むしやぶ》りつくベルの|胸倉《むなぐら》をグツと|取《と》り、|息《いき》を|詰《つ》めた。ベルは|手足《てあし》を|藻掻《もが》きヂタバタとやつてゐる。|流石《さすが》のヘルも|何時《いつ》|迄《まで》|戦慄《せんりつ》して|草《くさ》の|中《なか》に|伏艇《ふくてい》してる|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|傍《かたはら》に|落《お》ちてゐた|半《なかば》|朽《く》ちたる|棒杭《ぼうぐひ》が|月《つき》に|照《て》らされて|光《ひか》つてゐるのを|見《み》つけ|出《だ》し、デビスがベルの|首《くび》を|締《し》めてゐる|背後《うしろ》から、|脳天《なうてん》|目蒐《めが》けて|力一杯《ちからいつぱい》|打下《うちおろ》した。|手許《てもと》|外《はづ》れて|耳《みみ》から|横《よこ》つ|面《つら》をウンと|云《い》ふ|程《ほど》|撲《なぐ》りつけた。|愍《あはれ》やデビスはアツと|一声《ひとこゑ》|叫《さけ》んで|脆《もろ》くも|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れて|了《しま》つた。|夜嵐《よあらし》は|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》もなく|音《おと》を|立《た》てて|通《とほ》つて|行《ゆ》く。
(大正一二・三・一七 旧二・一 於竜宮館 松村真澄録)
第一四章 |方岩《はこいは》〔一四四四〕
ヘルは|月影《つきかげ》にベルの|姿《すがた》をよくよく|見《み》れば、|目《め》を|眩《まか》してゐる。|幸《さいは》ひ|傍《かたはら》に|小《ちひ》さい|水《みづ》だまりがあつてそれに|月《つき》が|光《ひか》つてるのを|認《みと》め、|口《くち》に|水《みづ》を|含《ふく》み|来《きた》り、ベルの|面《かほ》や|口《くち》などに|幾回《いくくわい》となく|含《ふく》ませた。|漸《やうや》くにして|息《いき》を|吹返《ふきかへ》し、|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》し|乍《なが》ら、
ベル『あーー、|一体《いつたい》|此処《ここ》はどこだ。エライ|所《ところ》へ|行《い》つて|来《き》た』
と|不思議《ふしぎ》|相《さう》にヘルの|面《かほ》を|覗《のぞ》き|込《こ》んでゐる。ヘルは|声《こゑ》を|励《はげ》まして、
ヘル『オイ、ベル、|確《しつか》りせぬか、|汝《きさま》|今《いま》、ナイスに|喉《のど》を|締《し》められ、|目《め》を|眩《まか》してゐやがつたのだ。|俺《おれ》が|今《いま》いろいろと|介抱《かいはう》して|助《たす》けてやつたのだ。サア、|早《はや》く|立《た》たぬか、|何時《なんどき》|追手《おつて》が|来《く》るか|知《し》れないぞ。|此処《ここ》は|夜《よる》とはいへど|通道《とほりみち》だ、サア、|確《しつか》りした|確《しつか》りした』
と|背中《せなか》をポンポン|叩《たた》いてゐる。
ベル『ああ|矢張《やつぱ》り|夢《ゆめ》だつたか、エライ|所《ところ》へ|俺《おれ》は|行《い》つて|居《を》つた。|沢山《たくさん》な|赤《あか》や|青《あを》の|鬼《おに》が|鉄棒《かなぽう》|持《も》つて|四方《しはう》|八方《はつぱう》より|俺《おれ》を|追《おつ》かけて|来《く》る|其《その》|苦《くる》しさ、まア|夢《ゆめ》でよかつた。|併《しか》しあのナイスは|何《ど》うなつたか、|取逃《とりにが》しただらうな』
ヘル『ナニ、|汝《きさま》が|喉《のど》を|締《し》められヂタバタやつてるのを|見《み》るに|見《み》かねて、|後《うしろ》から|棒千切《ぼうちぎ》れでポンとやつた|所《ところ》、|脆《もろ》くも|倒《たふ》れよつたのだ。それみよ、そこに|倒《たふ》れてるだないか』
ベルはダイヤモンドの|光《ひかり》を|見《み》るより|早《はや》く、
『ヤツ』
と|云《い》つたきり、|猿臂《ゑんび》を|伸《の》ばして|頭《あたま》の|飾《かざ》をむしり|取《と》り、|矢庭《やには》に|懐《ふところ》に|捻込《ねぢこ》むだ。ヘルは、
『エー、|毒《どく》をくはば|皿《さら》までだ。|人殺《ひとごろし》の|大罪《だいざい》を|犯《おか》したのだから|宝石《はうせき》を|盗《ぬす》んでも|矢張《やつぱ》り|同《おな》じ|事《こと》だ。|同《おな》じ|罪《つみ》になるのなら、|之《これ》でも|奪《と》つて|太《ふと》く|短《みじか》く|暮《くら》さうかい』
と|悪胴《わるどう》をすゑ、デビスのコルプスを|探《さぐ》つて、|光《ひか》つた|物《もの》は|残《のこ》らず|剥《は》ぎ|取《と》つて|了《しま》つた。
ベル『アハハハハ、|脆《もろ》いものだな、|併《しか》し|之《これ》|丈《だけ》|沢山《たくさん》な|宝石《はうせき》を|体《からだ》につけやがつて、|実《じつ》に|贅沢《ぜいたく》な|者《もの》ぢやないか、|今日《こんにち》の|貴族生活《きぞくせいくわつ》をしてる|奴《やつ》は|皆《みな》|是《これ》だからのう、|下《した》の|人間《にんげん》が|苦《くるし》むのも|無理《むり》はないワイ。|俺達《おれたち》は|此《この》|宝石《はうせき》をどつかの|町《まち》へ|持《も》つて|行《い》つて|売《うり》とばし、|罪亡《つみほろ》ぼしに|天下《てんか》の|貧民《ひんみん》を|与《あた》ふ|限《かぎ》り|助《たす》けてやらうぢやないか。そすりや|人《ひと》の|一人《ひとり》|位《ぐらゐ》|殺《ころ》したつて|万民《ばんみん》を|助《たす》けるのだから、|大罪《だいざい》|所《どころ》か|却《かへつ》て|天《てん》から|御褒美《ごほうび》を|頂《いただ》くかも|知《し》れないぞ』
ヘル『|天《てん》から|御褒美《ごほうび》を|頂《いただ》くことは|到底《たうてい》|望《のぞ》まれないとしても、せめて|罪《つみ》を|軽《かる》うしてもらふ|事《こと》は|出来《でき》るだらう。|兎《と》も|角《かく》|汝《きさま》の|持《も》つてゐる|宝石《はうせき》を|皆《みな》|俺《おれ》に|渡《わた》せ、|汝《きさま》に|持《も》たしておくと|又《また》|愛我心《あいがしん》を|起《おこ》しよつて、|貧民救済《ひんみんきうさい》に|用《もち》ゐないかも|知《し》れない。|俺《おれ》に|持《も》たしておけば|此《この》|宝《たから》を|善用《ぜんよう》して、|汝《きさま》の|罪《つみ》も|軽《かる》くなり|俺《おれ》の|罪《つみ》も|軽《かる》くなるやうにしてやるからなア』
ベル『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな、|汝《きさま》のやうな|風《かぜ》が|吹《ふ》いても|慄《ふる》うてるやうな|人間《にんげん》に|持《も》たしておくのは|険呑《けんのん》だ、|剛胆不敵《がうたんふてき》の|俺《おれ》のやうな|人間《にんげん》の|懐《ふところ》に|持《も》つてをれば、|如何《いか》なる|悪魔《あくま》も|狙《ねら》ふこた|出来《でき》ない、サア、スツパリこちらへ|渡《わた》せ』
ヘル『|馬鹿《ばか》|云《い》ふない、|俺《おれ》が|助《たす》けてやらなかつたら|汝《きさま》は|此《この》|世《よ》に|生《い》きてるこた|出来《でき》ぬのだ。そんな|執着心《しふちやくしん》はやめて、|皆《みな》|俺《おれ》に|渡《わた》すのだ』
ベル『|汝《きさま》はそんな|態《てい》のよい|事《こと》をいつて、|俺《おれ》から|宝石《はうせき》を|奪《うば》ひ|取《と》り、|一人《ひとり》で|猫婆《ねこばば》をきめこむ|積《つも》りだらう。|今日《こんにち》の|奴《やつ》は|慈善会《じぜんくわい》だとか、|或《あるひ》は|孤児院《こじゐん》だとかぬかして|金《かね》を|集《あつ》め、|皆《みな》|自分《じぶん》の|懐中《ふところ》を|肥《こや》す|奴《やつ》|許《ばか》りだ。|一旦《いつたん》|泥坊《どろばう》に|成《な》り|下《さが》つた|人足《にんそく》が、|慈善《じぜん》なんか|夢《ゆめ》にもあり|相《さう》な|事《こと》はないワイ。そんな|偽善者《きぜんしや》に|宝《たから》を|持《も》たしておくと、|天下《てんか》の|宝《たから》を|悪用《あくよう》するから、スツパリ|俺《おれ》に|渡《わた》せ』
ヘル『|何《なに》を|吐《ぬか》しやがるのだい、|汝《きさま》も|泥坊《どろばう》ぢやないか、|俺《おれ》に|渡《わた》すのが|険呑《けんのん》なら、|汝《きさま》に|渡《わた》すのも|険呑《けんのん》だ。サア、|早《はや》く|出《だ》さぬかい』
ベル『ヘン、|一旦《いつたん》|懐《ふところ》へ|捻《ね》ぢ|込《こ》んだ|以上《いじやう》はメツタに|渡《わた》さないぞ。|第一《だいいち》|黄金《こがね》や|宝石《はうせき》は|此《この》ベルのテースト|物《ぶつ》だから、|仮令《たとへ》|命《いのち》が|亡《な》くなつても|渡《わた》す|気遣《きづか》ひがないワ。グヅグヅぬかすと、|汝《きさま》の|命《いのち》も|取《と》つてやらうか、さすれば|全部《ぜんぶ》|俺《おれ》の|懐《ふところ》へ|這入《はい》るのだからなア』
ヘル『|何《なに》|猪口才《ちよこざい》な、|美事《みごと》|取《と》るなら|取《と》つてみよ、|俺《おれ》も|汝《きさま》の|命《いのち》を|取《と》つて、|此《この》|宝石《はうせき》を|全部《ぜんぶ》|私有物《しいうぶつ》となし、ハルナの|都《みやこ》へ|帰《かへ》つて、|天晴《あつぱ》れ|紳士《しんし》となる|積《つもり》だ。そして|多額納税議員《たがくなふぜいぎゐん》にでもなつて|巾《はば》を|利《き》かす|積《つもり》だ。|台泥《だいどろ》でさへも|衆議院《しうぎゐん》|議員《ぎゐん》に|当選《たうせん》した|例《ためし》があるぢやないか。|渇《かつ》しても|盗泉《たうせん》の|水《みづ》を|呑《の》まずとは、|昔《むかし》の|奴《やつ》のほざく|言葉《ことば》だ。|俺《おれ》は|之《これ》から|逐鹿場裡《ちくろくぢやうり》に|立《た》つて、|此《この》|金《かね》を|撒《ま》き|散《ち》らし、|社会《しやくわい》の|優者《いうしや》となる|考《かんが》へだから、|其《その》|第一着手《だいいちちやくしゆ》として、|汝《きさま》の|所持品《しよぢひん》をスツカリ|取《と》つてやるのだ。|汝《きさま》の|物《もの》を|奪《と》つた|所《ところ》で|別《べつ》に|罪《つみ》にもなるまい。|又《また》|命《いのち》を|取《と》つた|所《ところ》で|元々《もともと》だ。|汝《きさま》の|死《し》んでる|所《ところ》を|助《たす》けたのだから……』
ベル『コラ、|汝《きさま》は|宝《たから》をみると|俄《にはか》に|噪《はしや》ぎやがるのだ。|汝《きさま》は|已《すで》に|改心《かいしん》したと|云《い》つたぢやないか』
ヘル『きまつた|事《こと》だい、つまらぬ|時《とき》には|誰《たれ》だつて|改心《かいしん》するが、|宝《たから》を|見《み》て|改心《かいしん》する|奴《やつ》があるかい。サア|腕《うで》づくで|之《これ》から|奪《と》り|合《あひ》だ』
ベル『ヨーシ、|面白《おもしろ》い、|見事《みごと》|取《と》つてみせう』
と|両方《りやうはう》から|四股《しこ》を|踏《ふ》み、|手《て》に|唾《つばき》し|乍《なが》ら、|辻相撲《つじずまう》を|取《と》るやうな|調子《てうし》で、|四《よ》つにからみ、|組《く》んづ|組《く》まれつ|転《ころ》げ|廻《まは》る。|互《たがひ》に|固《かた》い|爪《つめ》で|目《め》をひつかく、|鼻《はな》を|削《けづ》る、|手《て》も|足《あし》も|面《つら》も|血達磨《ちだるま》の|様《やう》になつて|格闘《かくとう》を|始《はじ》め|双方《さうはう》|共《とも》、グニヤグニヤになり|半死半生《はんしはんしやう》の|態《てい》で、|其《その》|場《ば》にドツカと|倒《たふ》れて|了《しま》つた。
|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》は|夜嵐《よあらし》につれて、|千切《ちぎ》れ|千切《ちぎ》れに|遠《とほ》く|聞《きこ》えて|来《く》る、|之《これ》は|求道居士《きうだうこじ》、ケリナ|姫《ひめ》が|夜道《よみち》を|急《いそ》ぎ|此方《こなた》に|向《むか》つて|行進《かうしん》しつつ|歌《うた》ふ|声《こゑ》であつた。
|求道《きうだう》『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善神《ぜんしん》|邪神《じやしん》を|立分《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
|世《よ》の|過《あやまち》は|宣《の》り|直《なほ》せ ここは|名《な》に|負《お》ふフサの|国《くに》
|御空《みそら》は|高《たか》く|月照彦《つきてるひこ》の |神《かみ》の|命《みこと》はキラキラと
|輝《かがや》き|玉《たま》ひ|吾々《われわれ》が |淋《さび》しき|野路《のぢ》を|帰《かへ》りゆく
|行手《ゆくて》を|照《て》らさせ|玉《たま》ふなり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|三五教《あななひけう》を|守《まも》ります |高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》の
|珍《うづ》の|司《つかさ》と|現《あ》れませる |稜威《みいづ》も|殊《こと》に|大八洲彦《おほやしまひこ》
|神《かみ》の|命《みこと》の|御神徳《ごしんとく》 |忽《たちま》ち|下《くだ》り|来《きた》りまし
|吾等《われら》|二人《ふたり》の|危難《きなん》をば |救《すく》はせ|玉《たま》ひ|久方《ひさかた》の
|天《あま》つ|御空《みそら》に|輝《かがや》きつ |帰《かへ》り|玉《たま》ひし|尊《たふと》さよ
バラモン|教《けう》のカーネルと |選《えら》ばれハルナを|立出《たちい》でて
|鬼春別《おにはるわけ》や|久米彦《くめひこ》の |両将軍《りやうしやうぐん》に|従《したが》ひつ
|山野《さんや》を|渡《わた》り|河《かは》を|越《こ》え |雨《あめ》には|浴《よく》し|荒風《あらかぜ》に
|髪《かみ》|梳《くしけ》ずりやうやくに |河鹿峠《かじかたうげ》の|麓《ふもと》まで
|旗鼓堂々《きこだうだう》と|進《すす》み|行《ゆ》く |至善《しぜん》|至愛《しあい》の|大神《おほかみ》は
|善《ぜん》をば|助《たす》け|悪神《あくがみ》を |懲《こらし》め|玉《たま》ふか|吾々《われわれ》の
|率《ひき》ゆる|軍《いくさ》は|悉《ことごと》く |治国別《はるくにわけ》の|言霊《ことたま》に
|打亡《うちほろ》ぼされ|這々《はふはふ》の |態《てい》にて|脆《もろ》くも|敗走《はいそう》し
|浮木《うきき》の|森《もり》やビクトリヤ |猪倉山《ゐのくらやま》にチクチクと
|予定《よてい》の|退却《たいきやく》|始《はじ》め|出《だ》し |三千余騎《さんぜんよき》を|従《したが》へて
|堅磐常磐《かきはときは》の|岩窟《がんくつ》に |千代《ちよ》の|固《かた》めと|立籠《たてこ》もる
|又《また》もや|来《きた》る|宣伝使《せんでんし》 |治国別《はるくにわけ》の|一行《いつかう》に
|誠《まこと》の|道《みち》を|諭《さと》されて |曇《くも》りし|胸《むね》も|漸《やうや》くに
|黎明《れいめい》|告《つ》ぐる|鶏《とり》の|声《こゑ》 |旭《あさひ》の|豊栄《とよさか》|昇《のぼ》る|如《ごと》
|霊《みたま》もあかくなりにけり |鬼春別《おにはるわけ》を|初《はじめ》とし
|久米彦《くめひこ》スパール|両司《りやうつかさ》 |手《て》もなく|神《かみ》の|正道《まさみち》に
|帰順《きじゆん》されたる|不思議《ふしぎ》さに |吾《われ》も|心《こころ》を|翻《ひるがへ》し
バラモン|教《けう》の|御教《みをしへ》は げに|美《うる》はしき|道《みち》なれど
|不言実行《ふげんじつかう》と|知《し》りしより すまぬ|事《こと》とは|知《し》り|乍《なが》ら
|掌《て》の|裏《うら》|返《かへ》す|藤堂式《とうだうしき》 |忽《たちま》ち|味方《みかた》の|軍隊《ぐんたい》に
|鉾《ほこ》を|向《む》けたる|果敢《はか》なさよ さはさり|乍《なが》ら|天地《あめつち》の
|誠《まこと》に|敵《てき》する|事《こと》を|得《え》ず |大黒主《おほくろぬし》の|神様《かみさま》に
|言《い》ひ|訳《わけ》|立《た》たずと|意《い》を|決《けつ》し |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
たるを|憚《はばか》り|中間《ちうかん》の |法螺《ほら》|吹立《ふきた》てる|修験者《しゆげんじや》
|墨《すみ》の|衣《ころも》に|身《み》を|纒《まと》ひ |頭《あたま》を|円《まる》く|剃《そ》りこぼち
|百《もも》の|罪《つみ》をば|消滅《せうめつ》し |天地《てんち》の|神《かみ》に|三五《あななひ》の
|誠《まこと》を|尽《つく》し|奉《まつ》らむと |照国山《てるくにやま》の|谷間《たにあひ》に
|百日百夜《ももかももよ》の|荒行《あらぎやう》を |勤《つと》めて|遂《つひ》にビクトルの
|山《やま》にまします|大神《おほかみ》に |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|仕《つか》へつつ
ゼネラル|様《さま》の|許《ゆる》しをば |蒙《かうむ》り|茲《ここ》に|宣伝《せんでん》の
|漸《やうや》く|旅路《たびぢ》につきにけり エルシナ|川《がは》の|畔《ほとり》|迄《まで》
スタスタ|来《きた》り|谷底《たにそこ》を |見下《みおろ》す|途端《とたん》に|訝《いぶ》かしや
|渦《うづ》まく|淵《ふち》に|浮《うか》びゐる |四人《よにん》のコルブス|見《み》るよりも
|見逃《みのが》しならぬ|修験者《しゆげんじや》 |神《かみ》に|祈《いの》りて|助《たす》けむと
|危《あやふ》き|路《みち》を|谷底《たにそこ》に |降《くだ》りてやうやう|三人《さんにん》が
|命《いのち》を|助《たす》け|喜《よろこ》びて |荒野ケ原《あらのがはら》を|打《うち》わたり
ここ|迄《まで》|進《すす》み|来《きた》りけり |道《みち》の|行手《ゆくて》に|諸々《もろもろ》の
|悩《なや》みに|会《あ》ひて|玉《たま》の|緒《を》の |命《いのち》も|危《あやふ》き|所《ところ》をば
|月《つき》の|光《ひかり》に|助《たす》けられ ケリナの|姫《ひめ》と|諸共《もろとも》に
|心《こころ》|勇《いさ》みてテルモンの |山《やま》に|現《あ》れます|大神《おほかみ》の
|宮居《みやゐ》をさして|進《すす》みゆく |吾《わが》|身《み》の|上《うへ》ぞたのもしき
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|恵《めぐ》みのいや|深《ふか》く
|教《をしへ》の|露《つゆ》の|何処《どこ》までも |青人草《あをひとぐさ》の|身《み》の|上《うへ》に
|降《ふ》らさせ|玉《たま》へ|月照《つきてる》の |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|赤心《まごころ》|籠《こ》めて|願《ね》ぎまつる ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊幸《みたまさきは》ひましませよ』
ケリナ|姫《ひめ》は|優《やさ》しき|声《こゑ》を|張上《はりあ》げて|又《また》もや|歌《うた》ひつつ|進《すす》み|来《く》る。
ケリナ『|天津日《あまつひ》かげは|西山《せいざん》に |傾《かたむ》き|玉《たま》ひ|東《ひむがし》の
|草野《くさの》を|分《わ》けて|昇《のぼ》ります |月照彦《つきてるひこ》の|御光《みひかり》は
|草葉《くさば》の|露《つゆ》に|悉《ことごと》く |宿《やど》らせ|玉《たま》ひて|吾々《われわれ》が
|行手《ゆくて》の|道《みち》を|守《まも》ります |野山《のやま》の|猛《たけ》き|獣《けだもの》や
いと|恐《おそ》ろしき|毒虫《どくむし》も |神《かみ》の|恵《めぐみ》に|抱《いだ》かれし
|吾《わが》|身《み》を|害《そこな》ふ|事《こと》ならず |先《さき》を|争《あらそ》ひ|逃《に》げ|出《いだ》し
|吾等《われら》は|無事《ぶじ》にテルモンの |父《ちち》の|館《やかた》に|久々《ひさびさ》に
|帰《かへ》りゆく|身《み》となりにけり |吾《わが》|足乳根《たらちね》の|父母《ちちはは》は
|変《かは》らせ|玉《たま》ふ|事《こと》もなく |神《かみ》の|御前《みまへ》に|朝夕《あさゆふ》に
いと|忠実《まめやか》に|仕《つか》へますか |恋《こひ》しき|姉《あね》のデビス|姫《ひめ》
いかに|此《この》|世《よ》を|果敢《はかな》みて |暮《くら》させ|玉《たま》ふことならむ
|妾《わらは》が|今宵《こよひ》|帰《かへ》りなば |父《ちち》と|母《はは》とはいふも|更《さら》
|恋《こひ》しき|姉《あね》の|君《きみ》|迄《まで》も |必《かなら》ず|喜《よろこ》び|迎《むか》へ|入《い》れ
|吾《わが》|生命《せいめい》を|救《すく》ひたる エミシの|君《きみ》を|尊《たふと》みて
|厚《あつ》く|待遇《もてな》し|玉《たま》ふべし |思《おも》へば|思《おも》へば|有難《ありがた》や
|恋《こひ》の|迷《まよ》ひの|夢《ゆめ》も|醒《さ》め |心《こころ》を|月《つき》に|照《て》らしつつ
|夏《なつ》の|夜路《よみち》を|帰《かへ》りゆく |吾《わが》|身《み》の|上《うへ》ぞ|楽《たの》しけれ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊幸《みたまさきは》ひましませよ
|旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つ|共《とも》|虧《か》くる|共《とも》
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》む|共《とも》 |星《ほし》は|空《そら》より|墜《お》つる|共《とも》
|吾《わが》|身《み》を|救《すく》ひ|玉《たま》ひたる |三五教《あななひけう》の|大御神《おほみかみ》
|求道居士《きうだうこじ》が|師《し》の|君《きみ》の |恵《めぐみ》はいかで|忘《わす》るまじ
|命《いのち》の|親《おや》の|師《し》の|君《きみ》と |手《て》を|携《たづさ》へて|行《ゆ》く|野路《のぢ》は
|如何《いか》なる|曲《まが》の|現《あら》はれて |行手《ゆくて》にさやる|事《こと》あるも
いかでか|恐《おそ》れむ|惟神《かむながら》 |尊《たふと》き|神《かみ》の|御守《みまも》りに
いと|安々《やすやす》と|帰《かへ》りゆく ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊幸《みたまさきは》ひ|玉《たま》へかし』
と|歌《うた》ひつつ、|方岩《はこいは》の|間近《まぢか》に|帰《かへ》つて|来《き》た。
|求道居士《きうだうこじ》はケリナ|姫《ひめ》と|共《とも》に|漸《やうや》く|方岩《はこいは》の|傍《かたはら》に|着《つ》いた。|草《くさ》の|中《なか》にウンウンと|怪《あや》しい|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》るのでツと|立止《たちど》まり、よくよく|見《み》れば|何者《なにもの》か|半死半生《はんしはんしやう》の|態《てい》で|呻吟《うめ》いてゐる。
|求道《きうだう》『ハテナ、|二三人《にさんにん》の|人間《にんげん》が|斯様《かやう》な|所《ところ》で|倒《たふ》れてゐるやうだ。|大方《おほかた》|最前《さいぜん》のベル、ヘル|如《ごと》き|悪人《あくにん》に|金《かね》を|奪《うば》はれた|上《うへ》、|切《き》られて|苦《くるし》んでゐるのだらう、|何《なに》は|兎《と》もあれ、|此《この》|儘《まま》|見逃《みのが》して|通《とほ》る|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬ。ケリナさま、|貴女《あなた》は|此《この》|岩《いは》に|腰《こし》かけて|待《ま》つてゐて|下《くだ》さい、|一寸《ちよつと》|査《しら》べてみますから……』
ケリナ『ハイ、|妾《わたし》|何《なん》だか、|気《き》にかかつてなりませぬワ、|私《わたし》の|姉《ねえ》さまぢや|厶《ござ》いますまいかな。|先《ま》づ|第一《だいいち》|女《をんな》の|方《はう》から|査《しら》べて|下《くだ》さいませ。|此《この》|衣類《いるゐ》から|考《かんが》へますれば|女《をんな》らしう|厶《ござ》います』
|求道《きうだう》は|月《つき》にピカピカ|光《ひか》つてゐる|衣装《いしやう》を|目当《めあて》に|近《ちか》よつて|見《み》れば、|耳《みみ》から|多量《たりやう》の|血糊《ちのり》を|出《だ》し、|妙齢《めうれい》の|女《をんな》が|倒《たふ》れてゐた。
|求道《きうだう》『ああこれはどこかの|貴婦人《きふじん》だ。|一通《ひととほり》の|家《いへ》の|娘《むすめ》ではないやうだ。コレ、ケリナさま、|一寸《ちよつと》|来《き》て|御覧《ごらん》、|此《この》|衣装《いしやう》と|云《い》ひ、どうも|浄行《じやうぎやう》の|嬢《ぢやう》さまらしう|厶《ござ》いますよ』
ケリナはハツと|胸《むね》を|轟《とどろ》かし|乍《なが》ら、|側《そば》|近《ちか》く|寄添《よりそ》ひ、よくよく|顔《かほ》をみれば、|擬《まが》ふ|方《かた》なき|姉《あね》のデビスであつた。ケリナは|見《み》るよりアツと|許《ばか》りに|仰天《ぎやうてん》し、|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れて|了《しま》つた。|求道居士《きうだうこじ》は|驚《おどろ》いて、|四辺《あたり》に|光《ひか》る|水《みづ》を|掬《すく》ひ、|先《ま》づ|第一《だいいち》にケリナの|面部《めんぶ》に|注《そそ》ぎ|漸《やうや》くにして|呼生《よびい》け、ヘタヘタになつてゐる|姫《ひめ》を|方岩《はこいは》の|上《うへ》に|運《はこ》びおき、|自分《じぶん》の|蓑《みの》を|布《し》いて、|其《その》|上《うへ》に|寝《ね》させ、デビスの|介抱《かいはう》にかかつた。デビスはウンと|息《いき》|吹返《ふきかへ》し、|四辺《あたり》を|見《み》まはし|乍《なが》ら|修験者《しゆげんじや》の|姿《すがた》を、|不思議《ふしぎ》|相《さう》に|凝視《みつめ》てゐる。|求道《きうだう》はヤツと|安心《あんしん》して、
|求道《きうだう》『モシモシ、|貴女《あなた》はテルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》に|坐《ま》します|小国別《をくにわけ》|様《さま》のお|嬢《ぢやう》さまぢや|厶《ござ》いませぬか。|拙者《せつしや》は|三五教《あななひけう》の|修験者《しゆげんじや》エミシで|厶《ござ》います。|決《けつ》して|悪《わる》い|者《もの》ぢや|厶《ござ》いませぬから、|御安心《ごあんしん》なさいませ』
デビスは|此《この》|言葉《ことば》を|聞《き》いて|安心《あんしん》し、|頭部《とうぶ》の|痛《いた》みを|抑《おさ》へ|乍《なが》ら、
デビス『どうも|危《あやふ》い|所《ところ》をお|助《たす》け|下《くだ》さいまして、|此《この》|御恩《ごおん》は|海山《うみやま》にも|譬《たと》へ|難《がた》う|存《ぞん》じます。|悪者《わるもの》に|出会《でつくは》し、|頭部《とうぶ》を|擲《なぐ》りつけられ、|気《き》が|遠《とほ》くなつて|居《を》りました。|貴方様《あなたさま》がお|通《とほ》り|下《くだ》さらなかつたら、|妾《わらは》は|最早《もはや》|千秋《せんしう》の|恨《うらみ》を|呑《の》んで|此《この》|世《よ》を|去《さ》つたに|違《ちが》ひありませぬ、どうも|有難《ありがた》う|厶《ござ》いました。ああバラモン|大神様《おほかみさま》、よくマア|助《たす》けて|下《くだ》さいました。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸《ち》はひませ』
と|合掌《がつしやう》してゐる。ケリナ|姫《ひめ》は|姉《あね》のデビスと|聞《き》いて|嬉《うれ》しさに|堪《た》へず、|方岩《はこいは》から|下《くだ》り|来《きた》つて、デビスの|手《て》を|執《と》り、|涙《なみだ》の|声《こゑ》を|絞《しぼ》り|乍《なが》ら、
ケリナ『|姉上様《あねうへさま》、お|懐《なつか》しう|存《ぞん》じます、|私《わたし》は|妹《いもうと》のケリナで|厶《ござ》います。|御両親様《ごりやうしんさま》や|姉上様《あねうへさま》に|御心配《ごしんぱい》をかけまして|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》が|厶《ござ》いませぬ。|何卒《どうぞ》お|許《ゆる》し|下《くだ》さいませ。そして|御両親《ごりやうしん》は|御無事《ごぶじ》でゐられますかな』
と|畳《たた》みかけて|問《と》ひかけた。デビス|姫《ひめ》は|頭《かしら》がフラフラとしてややもすれば|気《き》が|遠《とほ》くなり|行《ゆ》くのをキツと|気《き》を|張《は》りつめて、|妹《いもうと》の|手《て》を|握《にぎ》り、
デビス『ああ|恋《こひ》しき|妹《いもうと》であつたか、|不思議《ふしぎ》な|所《ところ》で|会《あ》ひました。ようマア|無事《ぶじ》でゐて|下《くだ》さいました。モウ|之《これ》で|私《わたし》は|命《いのち》が|亡《な》くなつても、あなたの|顔《かほ》さへ|見《み》れば|得心《とくしん》で|厶《ござ》います』
ケリナ『お|姉様《あねえさま》、|気《き》を|確《たしか》に|持《も》つて|下《くだ》さいませ。そんな|心細《こころぼそ》い|事《こと》を|云《い》はない|様《やう》に|頼《たの》みます。さぞエライお|怪我《けが》でお|苦《くる》しう|厶《ござ》いませうが|之《これ》から|私《わたし》が|館《やかた》へ|帰《かへ》り、|心《こころ》|限《かぎ》りの|御介抱《ごかいはう》を|申上《まをしあ》げますから|御安心《ごあんしん》なさいませ。キツと|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》で|御全快《ごぜんくわい》なさいますからな。|貴方《あなた》は|今《いま》|此《この》|修験者《しゆげんじや》に|助《たす》けられたのですよ。|私《わたし》も|此《この》お|方《かた》に|命《いのち》を|助《たす》けられ、|今送《いまおく》つて|戴《いただ》いて、|御両親《ごりやうしん》の|館《やかた》へ|帰《かへ》る|途中《とちう》で|厶《ござ》います。どうしてマアこんな|惨酷《むごたら》しい|目《め》にお|会《あ》ひなさつたので|厶《ござ》いますか』
デビス『|実《じつ》の|所《ところ》は|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》のお|宝《たから》、|如意宝珠《によいほつしゆ》の|神宝《しんぱう》が|紛失《ふんしつ》|致《いた》しまして、それが|為《ため》に|父上《ちちうへ》は|大変《たいへん》な|御心配《ごしんぱい》を|遊《あそ》ばし、|病気《びやうき》に|取《と》りつかれ、|御老体《ごらうたい》の|事《こと》とて、|日《ひ》に|日《ひ》に|病《やまひ》は|重《おも》る|許《ばか》り、そこへあなたの|行方《ゆくへ》が|分《わか》らなくなつたものですから、|益々《ますます》|御心配《ごしんぱい》を|遊《あそ》ばし……|私《わし》はとても|命《いのち》は|長持《ながも》てはせないが、せめて|生前《せいぜん》にケリナに|一目《ひとめ》|会《あ》うて|死《し》にたいものだ……とお|歎《なげ》き|遊《あそ》ばすので、|私《わたし》は|立《た》つてもゐてもをれなくなり、|今日《けふ》で|三七廿一日《さんしちにじふいちにち》の|間《あひだ》、|国人《くにびと》が|恐《おそ》れて|昼《ひる》さへも、よう|近《ちか》づかない、|魔《ま》の|山《やま》と|称《とな》へられてるスガの|山《やま》の|森林《しんりん》に|通《かよ》ひ、アン・ブラツクの|滝《たき》にかかつて、|荒行《あらぎやう》をすませ、|今日《けふ》は|行《ぎやう》のあがりで、|此処《ここ》|迄《まで》やつと|帰《かへ》り、|方岩《はこいは》の|上《うへ》で|満願《まんぐわん》の|御礼《おれい》や|祈願《きぐわん》を|籠《こ》めてゐる|最中《さいちう》、|二人《ふたり》の|悪者《わるもの》が|現《あら》はれて、こんな|目《め》にあはしたので|厶《ござ》いますよ。ああ|修験者様《しゆげんじやさま》のお|蔭《かげ》、|妹《いもうと》が|助《たす》けられ、|私《わたし》|迄《まで》が|助《たす》けられたとは、|何《なん》たる|深《ふか》い|因縁《いんねん》で|厶《ござ》いませう。|修験者様《しゆげんじやさま》|誠《まこと》に|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|茅屋《あばらや》なれど、|吾《わが》|館《やかた》へお|越《こ》し|下《くだ》さいまして、|緩《ゆつく》り|御逗留《ごとうりう》|下《くだ》さいませ。|定《さだ》めて|両親《りやうしん》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|数多《あまた》の|役員《やくゐん》や|信者《しんじや》も|喜《よろこ》ぶことで|厶《ござ》いませう』
|求道《きうだう》『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います、|申上《まをしあ》げたい|事《こと》は|海山《うみやま》|厶《ござ》いますが、|貴女《あなた》は|大変《たいへん》な|御負傷《ごふしやう》をしてゐられますから、お|気《き》を|揉《も》ませ、|種々《いろいろ》の|事《こと》を|聞《き》かせては、|却《かへ》つてお|障《さはり》になりますから|御全快《ごぜんくわい》の|後《のち》|緩《ゆつく》りと|申上《まをしあ》げます。|何卒《どうぞ》|気《き》を|緩《ゆつく》りと|落着《おちつ》けて|下《くだ》さいませ』
デビス『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います、|何分《なにぶん》|宜《よろ》しうお|願《ねがひ》|申《まを》します』
ケリナ『お|姉《あねえ》さま、あなたを|苦《くるし》めた|奴《やつ》は|此処《ここ》に|倒《たふ》れてゐる|両人《りやうにん》では|厶《ござ》いませぬか』
|此《この》|言葉《ことば》にデビス|姫《ひめ》は|後《あと》|振返《ふりかへ》りみれば、|以前《いぜん》の|悪者《わるもの》が|二人《ふたり》|大《だい》の|字《じ》になつて|唸《うな》つてゐる。
デビス『ああ|此《この》|賊《ぞく》で|厶《ござ》います。|鬼春別《おにはるわけ》|将軍《しやうぐん》だと|法螺《ほら》を|吹《ふ》いて|居《を》りましたが、どうで|碌《ろく》な|奴《やつ》ぢや|厶《ござ》いますまい』
|此《この》|言葉《ことば》に|求道居士《きうだうこじ》はハツと|胸《むね》を|躍《をど》らせ、|真青《まつさを》な|顔《かほ》をし|乍《なが》ら、
|求道《きうだう》『ハテさて|浅《あさ》ましい|事《こと》だ、ゼネラル|様《さま》は|又《また》もや|邪道《じやだう》に|逆転《ぎやくてん》|遊《あそ》ばしたのかなア。|何《どう》した|悪魔《あくま》が|魅入《みい》れたのだらう。|何《なに》は|兎《と》もあれ、|実否《じつぴ》を|査《しら》べてみよう』
と|心《こころ》に|囁《ささや》き|乍《なが》ら、よくよく|見《み》れば、|以前《いぜん》のベル、ヘルの|両人《りやうにん》であつた。
|求道《きうだう》『ああ|此奴《こいつ》は、ケリナさま、|最前《さいぜん》|吾々《われわれ》を|殺《ころ》さうとしたベル、ヘルの|両人《りやうにん》です。テもさても|困《こま》つた|奴《やつ》ですなア』
ケリナ『|何《なん》と|呆《あき》れた|者《もの》ですなア。|併《しか》し|何程《なにほど》|悪人《あくにん》だとて、|此《この》|儘《まま》|放《ほ》つておけば|死《し》んで|了《しま》ひますから、|助《たす》けておやりなさいますでせうなア』
|求道《きうだう》『|尤《もつと》もです、|何程《なにほど》|悪人《あくにん》でも|見捨《みす》てて|行《ゆ》く|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬ。|吾々《われわれ》が|悪人《あくにん》か、|此《この》|男《をとこ》が|悪人《あくにん》か、|到底《たうてい》|人間《にんげん》では|分《わか》りませぬ。|仁慈《じんじ》の|神様《かみさま》は|吾々《われわれ》の|心《こころ》を|矯直《ためなほ》さむと、|此等《これら》|両人《りやうにん》をお|使《つか》ひ|遊《あそ》ばし、お|前《まへ》の|心《こころ》は|此《この》やうなものだとお|示《しめ》しになつてるのかも|知《し》れませぬ。|此等《これら》|両人《りやうにん》を|使《つか》つて、|吾々《われわれ》に|苦集滅道《くしふめつだう》の|真諦《しんたい》をお|示《しめ》しになつたのかも|知《し》れませぬ。さうすれば|此《この》|両人《りやうにん》は|吾々《われわれ》の|絶好《ぜつかう》|唯一《ゆゐいつ》のお|師匠様《ししやうさま》と|思《おも》はねばなりませぬ。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|水《みづ》をくくんで、|両人《りやうにん》の|介抱《かいはう》を|懇切《こんせつ》にやつてゐる。|漸《やうや》くにして|二人《ふたり》は|気《き》がついて|起《お》き|上《あが》り、|血《ち》みどろの|体《からだ》を|曝《さら》して、|求道《きうだう》の|前《まへ》に|両手《りやうて》を|突《つ》き|自分《じぶん》の|不都合《ふつがふ》を|涙《なみだ》と|共《とも》に|謝罪《しやざい》した。|求道《きうだう》は|二人《ふたり》の|心《こころ》を|憐《あは》れみ、|力《ちから》|限《かぎ》りに|祈願《きぐわん》を|籠《こ》め、|懐《ふところ》より、|照国山《てるくにやま》の|渓間《たにま》にて|採取《さいしゆ》したる|石綿《いしわた》を|取出《とりいだ》し、|血糊《ちのり》を|拭《ぬぐ》ひ|取《と》り|天《あま》の|数歌《かずうた》を|二三回《にさんくわい》|繰返《くりかへ》した。ヘルは|涙《なみだ》を|流《なが》し|乍《なが》ら、
ヘル『|貴方《あなた》は|求道様《きうだうさま》で|厶《ござ》いましたか。|命《いのち》を|助《たす》けて|頂《いただ》き|乍《なが》ら、|自我心《じがしん》の|慾《よく》にからまれ、こんな|不心得《ふこころえ》な|事《こと》を|致《いた》しました。|之《これ》は|姫様《ひめさま》の|衣装《いしやう》からぼつたくつた|宝玉《はうぎよく》で|厶《ござ》います。スツパリお|返《かへ》し|申《まを》します。|何卒《どうぞ》|之《これ》をお|受取《うけと》り|下《くだ》さいませ』
と|懐《ふところ》から|差出《さしだ》すを、ベルは|目敏《めざと》く|眺《なが》め、|横合《よこあひ》からグツと|奪《うば》ひ|取《と》り|懐《ふところ》に|捻《ね》ぢ|込《こ》み、|足《あし》をチガチガさせ、|丈余《ぢやうよ》も|伸《の》びた|草《くさ》の|中《なか》に|身《み》を|隠《かく》し、|何処《いづく》ともなく|消《き》えて|了《しま》つた。|求道居士《きうだうこじ》はヘルの|背中《せなか》にデビス|姫《ひめ》を|負《お》はせ、|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し|乍《なが》らケリナと|共《とも》に|後先《あとさき》になつて、|月夜《つきよ》の|露路《つゆみち》を|踏《ふ》み|分《わ》け、テルモン|山《ざん》の|神館《かむやかた》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く|事《こと》となつた。
(大正一二・三・一七 旧二・一 於竜宮館 松村真澄録)
第四篇 |三五開道《あななひかいだう》
第一五章 |猫背《ねこぜ》〔一四四五〕
|三千彦《みちひこ》『|厳《いづ》の|御霊《みたま》と|現《あ》れませる |高皇産霊《たかみむすび》の|大御神《おほみかみ》
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》と|現《あ》れませる |神皇産霊《かむみむすび》の|大御神《おほみかみ》
|珍《うづ》の|御水火《みいき》に|現《あ》れませる |三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》は
|埴安彦《はにやすひこ》や|埴安姫《はにやすひめ》の |神《かみ》の|命《みこと》を|世《よ》に|降《くだ》し
|天地《あめつち》|百《もも》の|神人《しんじん》の |霊《みたま》を|浄《きよ》め|天国《てんごく》の
|清《きよ》き|聖場《せいぢやう》に|救《すく》はむと |心《こころ》を|配《くば》らせ|玉《たま》ひつつ
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》に |其《その》|神業《しんげふ》を|任《ま》け|玉《たま》ひ
|茲《ここ》に|瑞《みづ》の|大神《おほかみ》は |神漏岐《かむろぎ》|神漏美《かむろみ》|二柱《ふたはしら》
|神《かみ》の|御言《みこと》を|天地《あめつち》に |麻柱《あななひ》|奉《まつ》り|常暗《とこやみ》の
|世《よ》を|平《たひら》けく|安《やす》らけく |治《をさ》めて|松《まつ》の|御世《みよ》となし
|日出《ひので》の|守護《しゆご》に|復《かへ》さむと |百《もも》の|司《つかさ》を|養成《やうせい》し
|豊葦原《とよあしはら》の|中津国《なかつくに》 |国《くに》の|八十国《やそくに》|八十《やそ》の|島《しま》
|残《のこ》る|隈《くま》なく|巡《めぐ》らせて |天国浄土《てんごくじやうど》の|福音《ふくいん》を
|拡充《かくじゆう》せしめ|玉《たま》ひけり |天足《あだる》の|彦《ひこ》や|胞場姫《えばひめ》の
|曲《まが》のすさびにつけ|入《い》りて |此《この》|世《よ》を|紊《みだ》す|曲津神《まがつかみ》
|八岐大蛇《やまたをろち》や|醜狐《しこぎつね》 |曲鬼《まがおに》|共《ども》は|天《あめ》の|下《した》
|治《をさ》むる|国《くに》の|司人《つかさびと》 |其《その》|外《ほか》|百《もも》の|人々《ひとびと》に
|憑《うつ》りて|所在《あらゆる》|曲《まが》わざを |縦横無尽《じうわうむじん》に|敢行《かんかう》し
|日《ひ》に|夜《よ》に|世界《せかい》を|汚《けが》し|行《ゆ》く |醜《しこ》のすさびぞうたてけれ
|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|宣伝使《せんでんし》 |玉国別《たまくにわけ》の|弟子《でし》となり
|神《かみ》の|教《をしへ》を|四方《よも》の|国《くに》 |伝《つた》へむものと|真心《まごころ》の
|思《おも》ひは|胸《むね》に|三千彦《みちひこ》が ライオン|河《がは》を|渡《わた》りてゆ
|広野《ひろの》の|中《なか》に|日《ひ》をくらし やむなく|眠《ねむ》る|露《つゆ》の|宿《やど》
|暗路《やみぢ》を|辿《たど》る|折柄《をりから》に バラモン|教《けう》の|落武者《おちむしや》が
|幾百人《いくひやくにん》とも|限《かぎ》りなく |手《て》に|手《て》に|兇器《きやうき》を|携《たづさ》へて
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |鏖殺《あうさつ》せむといきり|立《た》ち
|吾《わが》|一行《いつかう》の|身辺《しんぺん》を |十重《とへ》や|二十重《はたへ》に|取囲《とりかこ》み
|剣《つるぎ》をかざし|石《いし》を|投《な》げ |勢《いきほひ》|猛《たけ》く|攻《せ》め|来《きた》る
|玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》や |真純《ますみ》の|彦《ひこ》は|言霊《ことたま》を
|力《ちから》|限《かぎ》りに|打出《うちだ》して |防戦《ばうせん》したる|折《をり》もあれ
|敵《てき》の|突出《つきだ》す|槍先《やりさき》に |股《もも》をさされて|伊太彦《いたひこ》が
|其《その》|場《ば》にドツと|倒《たふ》れ|伏《ふ》す |見《み》るより|驚《おどろ》き|真純彦《ますみひこ》
|伊太彦《いたひこ》|小脇《こわき》にかい|込《こ》んで |敵《てき》の|重囲《ぢうゐ》を|切《き》りぬけつ
|何処《いづこ》ともなく|逃《に》げ|行《ゆ》きぬ |吾《わが》|師《し》の|君《きみ》も|大勢《おほぜい》に
|取囲《とりかこ》まれて|何処《どこ》となく |姿《すがた》を|隠《かく》し|玉《たま》ひける
|後《あと》に|残《のこ》りし|三千彦《みちひこ》は |俄《にはか》に|言霊《ことたま》|渋《しぶ》りきて
|詮術《せんすべ》もなき|悲《かな》しさに |命《いのち》カラガラ|囲《かこみ》をば
|突破《とつぱ》し|乍《なが》ら|漸《やうや》くに |吾《わが》|師《し》の|跡《あと》を|尋《たづ》ねつつ
|此処《ここ》|迄《まで》|進《すす》み|来《きた》りけり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御守《おんまもり》 |吾《わが》|師《し》の|上《うへ》に|顕《あ》れまして
|神《かみ》に|受《う》けたる|使命《しめい》をば |完全《うまら》に|委曲《つばら》に|果《はた》すべく
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|賜《たま》へかし |真純《ますみ》の|彦《ひこ》は|今《いま》|何処《いづこ》
|伊太彦司《いたひこつかさ》の|槍創《やりきづ》は |最早《もはや》|癒《い》えしか|或《あるひ》は|又《また》
|深手《ふかで》に|悩《なや》み|山奥《やまおく》に |隠《かく》れて|病《やまひ》を|養《やしな》ふか
|聞《き》かまほしやと|思《おも》へども |曇《くも》りし|霊《たま》の|吾々《われわれ》は
|神《かみ》に|伺《うかが》ふ|由《よし》もなく |道《みち》の|行手《ゆくて》を|気遣《きづか》ひつ
バラモン|教《けう》の|籠《こ》もりたる テルモン|山《ざん》の|近《ちか》く|迄《まで》
|知《し》らず|知《し》らずに|着《つ》きにけり |油断《ゆだん》のならぬ|敵《てき》の|前《まへ》
|企《たく》みの|穴《あな》の|陥穽《おとしあな》 |数多《あまた》|拵《こしら》へ|三五《あななひ》の
|教司《をしへつかさ》の|来《きた》るをば |手具脛《てぐすね》ひいて|待《ま》つと|聞《き》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |尊《たふと》き|神《かみ》の|御前《おんまへ》に
|吾《わが》|師《し》の|君《きみ》を|始《はじ》めとし |吾等《われら》|一行《いつかう》の|幸運《かううん》を
|謹《つつし》み|敬《うやま》ひ|願《ね》ぎまつる』
と|密々《ひそびそ》|唄《うた》ひ|乍《なが》ら、テルモン|山《ざん》より|流《なが》れ|落《お》つるアン・ブラツク|河《がは》の|川辺《かはべり》に|着《つ》いた。|頃《ころ》しも|夏《なつ》の|半《なかば》にて|半円《はんゑん》の|月《つき》は|西天《せいてん》にかかり、|利鎌《とがま》のやうな|鋭《するど》い|光《ひかり》を|投《な》げてゐる。|三千彦《みちひこ》は|日《ひ》の|暮《く》れたのを|幸《さいはひ》、|川堤《かはどて》に|腰《こし》をおろし、|小声《こごゑ》になつて|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|終《をは》つて|独《ひと》り|言《ごと》、
|三千《みち》『ああ、|水《みづ》の|流《なが》れと|人《ひと》の|行末《ゆくすゑ》、|変《かは》れば|変《かは》るものだなア。|玉国別《たまくにわけ》の|師《し》の|君《きみ》のお|伴《とも》をなし、|去年《きよねん》の|冬《ふゆ》|斎苑《いそ》の|館《やかた》を|立出《たちい》でてより、|浮《うき》つ|沈《しづ》みつ、|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》の|艱難苦労《かんなんくらう》、|其《その》|中《うち》にも|吾《わが》|師《し》の|君《きみ》は、|懐谷《ふところだに》に|於《おい》て|猿《さる》に|眼《め》を|破《やぶ》られ|玉《たま》ひ、|止《や》むを|得《え》ず|祠《ほこら》の|森《もり》に|立《た》て|籠《こも》り、|御神勅《ごしんちよく》のまにまに、|祠《ほこら》の|宮《みや》を|建設《けんせつ》|遊《あそ》ばし、|吾等《われら》|三人《さんにん》の|弟子《でし》と|共《とも》に|潔《いさぎよ》く|月《つき》の|国《くに》ハルナの|都《みやこ》へ、|神《かみ》の|依《よ》さしのメツセージを|果《は》たさむと、|勇《いさ》み|進《すす》んで|来《きた》る|折《をり》しも|俄《にはか》の|雨《あめ》にライオン|河《がは》の|大激流《だいげきりう》、|目《め》も|届《とど》かぬ|許《ばか》りの|川巾《かははば》を|水馬《すゐば》に|跨《またが》り、|命《いのち》カラガラ|此方《こちら》へ|渡《わた》り、|日《ひ》を|暮《く》らして、|広野《ひろの》の|中《なか》に|一夜《いちや》を|眠《ねむ》る|時《とき》しも、バラモン|教《けう》の|残党《ざんたう》|数多《あまた》|襲《おそ》ひ|来《きた》り、|吾《わが》|友《とも》の|伊太彦《いたひこ》は|敵《てき》の|鋭《するど》き|手槍《てやり》に|刺《さ》され、|生死《せいし》の|程《ほど》もさだかならず、|師《し》の|君《きみ》を|初《はじ》め|真純彦《ますみひこ》は|今《いま》|何処《どこ》へ|行《ゆ》かれたか、|何《なん》の|便《たよ》りも|夏《なつ》の|夜《よ》の、|月《つき》に|向《むか》つてなく|涙《なみだ》、|乾《かわ》く|由《よし》なき|袖《そで》の|露《つゆ》、|憐《あは》れみ|給《たま》へ|月照彦《つきてるひこ》の|神《かみ》』
と|述懐《じゆつくわい》を|述《の》べ、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|祈《いの》つて|居《ゐ》る。
|三千彦《みちひこ》は|漸《やうや》くにして、|川《かは》の|堤《つつみ》の|青草《あをぐさ》の|上《うへ》に|眠《ねむり》に|就《つ》いた。|沢山《たくさん》の|蚊《か》が|人間《にんげん》の|匂《にほ》ひを|嗅《か》ぎつけて、|珍《めづ》らしげに|集《あつ》まり|来《きた》り、ワンワンワンと|厭《いや》らしい|声《こゑ》を|立《た》て、|三千彦《みちひこ》の|体《からだ》|一面《いちめん》に|折重《をりかさ》なつて|喰《くら》ひついてゐる。|此《この》|時《とき》|俄《にはか》にレコード|破《やぶ》りの|川風《かはかぜ》|吹《ふ》き|来《きた》り、|堤上《ていじやう》に|眠《ねむ》つてゐた|三千彦《みちひこ》の|体《からだ》を|鞠《まり》の|如《ごと》く|転《ころ》がして、あたりの|泥田《どろた》の|中《なか》へ|吹《ふ》き|込《こ》んで|了《しま》つた。|三千彦《みちひこ》は|驚《おどろ》いて|立《た》ち|上《あが》らうとすれ|共《ども》、|泥《どろ》|深《ふか》くして|腰《こし》のあたりまで|体《からだ》がにえこみ、|何《ど》うする|事《こと》も|出来《でき》ず、チクチクと|身《み》は|泥田《どろた》に|没《ぼつ》し、|最早《もはや》|首《くび》|丈《だけ》になつて|了《しま》つた。|此《この》|儘《まま》にしておけば|全身《ぜんしん》|泥《どろ》に|没《ぼつ》し、|三千彦《みちひこ》の|生命《せいめい》は|既《すで》に|嵐《あらし》の|前《まへ》に|灯火《ともしび》の|如《ごと》き|運命《うんめい》に|陥《おちい》つて|了《しま》つた。|三千彦《みちひこ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、せめて|肉体《にくたい》は|泥田《どろた》の|中《なか》に|埋《うづ》めて|死《し》す|共《とも》、|吾《わが》|精霊《せいれい》を|天国《てんごく》に|救《すく》はせ|玉《たま》へと、|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|祈《いの》つてゐる。|斯《か》かる|所《ところ》へ|黒《くろ》い|四《よ》つ|足《あし》の|影《かげ》、|何処《いづく》ともなく|現《あら》はれ|来《きた》り、|三千彦《みちひこ》の|体《からだ》の|囲《まわり》の|泥土《どろ》をかきのけ、|泥《どろ》のついた|着物《きもの》を|喰《く》わへて、|自分《じぶん》も|亦《また》|体《からだ》を|半分《はんぶん》|以上《いじやう》|泥土《どろ》に|没《ぼつ》し|乍《なが》ら、|漸《やうや》く|堤《どて》の|上《うへ》に|救《すく》ひ|上《あ》げた。|三千彦《みちひこ》は|如何《いか》なる|獣《けもの》か|知《し》らね|共《ども》、|自分《じぶん》を|助《たす》けてくれたのは、|全《まつた》く|神様《かみさま》の|使《つかひ》に|違《ちが》ひあるまいと、|双手《もろて》を|合《あは》せて、|黒《くろ》い|獣《けもの》を|一生懸命《いつしやうけんめい》に|拝《をが》み、|泥《どろ》だらけの|着物《きもの》を|着《つ》けたまま|川《かは》の|浅瀬《あさせ》に|飛入《とびい》り、ソロソロ|洗濯《せんたく》を|始《はじ》め|出《だ》した。|黒《くろ》い|影《かげ》の|獣《けだもの》は|復《また》|川中《かはなか》にバサバサと|飛込《とびこ》み、|自分《じぶん》の|体《からだ》を|洗《あら》つてゐる。
|三千彦《みちひこ》はザツと|衣類《いるゐ》の|洗濯《せんたく》をなし、|夏《なつ》の|事《こと》とて、|白《しろ》く|焼《や》けた|河原《かはら》の|砂利《じやり》の|上《うへ》に|着物《きもの》を|干《ほ》し、|自分《じぶん》は|蚊《か》を|防《ふせ》ぐ|為《ため》に、|全身《ぜんしん》を|水《みづ》に|浸《つ》けて|夜《よ》を|明《あ》かすこととなつた。|獣《けだもの》の|影《かげ》は|何時《いつ》しか|見《み》えなくなつてゐる。|夏《なつ》の|一夜《ひとよ》を|漸《やうや》く|明《あ》かし、|能《よ》く|能《よ》く|自分《じぶん》の|衣類《いるゐ》を|見《み》れば、|着物《きもの》|一面《いちめん》に|毛《け》の|生《は》えた|如《ごと》く、|厭《いや》らしい|蛭《ひる》が|喰付《くつつ》いて|居《ゐ》る。|粘着性《ねんちやくせい》の|強《つよ》い|蛭《ひる》で|容易《ようい》におちない、|手《て》を|以《もつ》て|落《お》とさうとすれば|手《て》に|喰付《くひつ》き、どこ|迄《まで》も|離《はな》れてくれぬ。『エー|一層《いつそう》の|事《こと》、|此《この》|着物《きもの》は|川《かは》へ|棄《す》て、|裸《はだか》の|道中《だうちう》で、|行《ゆ》く|所《ところ》|迄《まで》|行《い》つてやらうか』と|思案《しあん》を|定《さだ》めてみたり、『いやいや|待《ま》て|待《ま》て、|夜分《やぶん》になれば、|又《また》|蚊《か》の|襲撃《しふげき》を|防《ふせ》ぐ|事《こと》は|出来《でき》ぬ、ぢやと|云《い》つてこれ|丈《だけ》|沢山《たくさん》の|蛭《ひる》のついた|着物《きもの》を|身《み》につけば|又《また》|血《ち》を|吸《す》はれる、ハテどうしたらよからうか』と|身《み》の|不遇《ふぐう》を|嘆《なげ》き、|再《ふたた》び|堤《どて》に|上《のぼ》つて、|涙《なみだ》にくれてゐた。
|遙《はるか》|向方《むかふ》の|方《かた》より|夜前《やぜん》|見《み》た|黒《くろ》い|獣《けもの》が|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|此方《こちら》に|向《むか》つて|走《はし》つてくる。これは|初稚姫《はつわかひめ》が|三千彦《みちひこ》の|難儀《なんぎ》を|前知《ぜんち》して、スマートに|言《い》ひ|含《ふく》め、|救援《きうゑん》に|向《むか》はしめ|玉《たま》うたのである。スマートは、|立派《りつぱ》なバラモン|教《けう》|宣伝使《せんでんし》の|服《ふく》を|喰《く》わへて|来《き》た。そして|三千彦《みちひこ》の|前《まへ》に|二声《ふたこゑ》|三声《みこゑ》、ワンワンと|吠《ほえ》|乍《なが》ら、|尾《を》を|振《ふ》つて、|之《これ》を|着《き》よとすすむる|如《ごと》き|形容《けいよう》を|示《しめ》した。|三千彦《みちひこ》は|感涙《かんるゐ》に|咽《むせ》び|乍《なが》ら、
|三千《みち》『ああお|前《まへ》は|畜生《ちくしやう》にも|似《に》ず、|賢《かしこ》い|犬《いぬ》だなア、よう|助《たす》けてくれた。キツと|神様《かみさま》のお|使《つかひ》に|違《ちが》ひなからう。ついては|此《この》|服《ふく》は|私《わたし》が|頂戴《ちやうだい》する。|併《しか》し|乍《なが》らバラモン|教《けう》の|宣伝使服《せんでんしふく》だ。|之《これ》も|何《なに》か|神様《かみさま》の|深《ふか》い|思召《おぼしめし》があるだらう。|之《これ》を|幸《さいはひ》、バラモン|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》と|化《ば》け|込《こ》んで、|此《この》テルモン|山《ざん》を|向方《むかう》へ|渉《わた》つてみようかなア』
と|独《ひとり》ごちつつ、|手早《てばや》く|服《ふく》を|身《み》に|纒《まと》うた。フツと|足許《あしもと》を|見《み》れば、|最早《もはや》|犬《いぬ》の|影《かげ》はなくなつてゐた。|遙《はるか》|向方《むかう》の|禿山《はげやま》を|駆《か》け|登《のぼ》る|犬《いぬ》の|影《かげ》、|猫《ねこ》ほどに|見《み》えてゐる。|三千彦《みちひこ》は|浅瀬《あさせ》を|渡《わた》つて|西岸《せいがん》へ|着《つ》き、ワザとバラモンの|宣伝使気取《せんでんしきどり》になつて、|経文《きやうもん》を|唱《とな》へ|乍《なが》ら|進《すす》んで|行《ゆ》く。
|六十《ろくじふ》|許《ばか》りの|白髪交《しらがまじ》りの|婆々《ばば》アが|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》を|伴《ともな》ひ、|杖《つゑ》をつき|乍《なが》ら|此方《こちら》に|向《むか》つて|進《すす》み|来《く》る。|三千彦《みちひこ》は|道《みち》の|片方《かたへ》に|立止《たちと》まり、『ハテ|不思議《ふしぎ》な|婆々《ばば》アだ。|毘舎《びしや》や|首陀《しゆだ》とは|違《ちが》つて、どこ|共《とも》なしに|気高《けだか》い|所《ところ》がある。|之《これ》は|大方《おほかた》|小国別《をくにわけ》の|奥方《おくがた》ではあるまいか』と|独《ひとり》ごちつつゐる|所《ところ》へ|早《はや》くも|三人《さんにん》は|近《ちか》づき|来《きた》り、
|婆《ばば》『お|前《まへ》さまはバラモン|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》と|見《み》えるが、|私《わたし》はテルモン|山《ざん》の|館《やかた》を|守《まも》る|小国別《をくにわけ》の|妻《つま》|小国姫《をくにひめ》で|厶《ござ》います。|何卒《どうぞ》むさ|苦《くる》しい|所《ところ》で|厶《ござ》いますが、|一寸《ちよつと》|立《たち》よつて|下《くだ》さいますまいか、そしてお|名《な》は|何《なん》と|申《まを》しますか』
と|矢《や》つぎ|早《ばや》に|尋《たづ》ねられ、|三千彦《みちひこ》は|俄《にはか》に|仮《かり》の|名《な》を|思《おも》ひ|出《だ》す|訳《わけ》には|行《ゆ》かず、
|三千《みち》『ハイ|私《わたくし》はお|察《さつ》しの|通《とほ》り、バラモン|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》で|厶《ござ》います。|此《この》|度《たび》、|鬼春別《おにはるわけ》|将軍様《しやうぐんさま》の|陣中《ぢんちう》に|交《まじ》はり、|宣伝使《せんでんし》|専門《せんもん》の|役《やく》を|勤《つと》めて|参《まゐ》りました|所《ところ》、お|聞《きき》|及《およ》びも|厶《ござ》いませうが、|鬼春別《おにはるわけ》|様《さま》は|敵《てき》の|為《ため》に|手《て》いたく|敗北《はいぼく》|遊《あそ》ばし、やむを|得《え》ず|私《わたくし》は|只《ただ》|一人《ひとり》で|此処《ここ》まで|参《まゐ》つたので|厶《ござ》います。テルモン|山《ざん》の|御旧蹟《ごきうせき》を|拝《はい》したいと|存《ぞん》じ、ヤツとのことで|夜《よ》を|日《ひ》についで、|霊地《れいち》へ|足《あし》を|踏《ふ》み|入《い》れたとこで|厶《ござ》います』
と|長《なが》い|口上《こうじやう》を|云《い》つて、|其《その》|間《あひだ》に|自分《じぶん》の|名《な》を|考《かんが》へ|出《だ》さうとしてゐる。もしもバラモン|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》や|錚々《さうさう》たる|人物《じんぶつ》の|名《な》に|匹敵《ひつてき》した|事《こと》を|喋《しやべ》つては|直《ただち》に|看破《かんぱ》さるる|虞《おそれ》があると|気遣《きづか》ひ、どう|云《い》つたら|無難《ぶなん》であらうかと|考《かんが》へた|末《すゑ》、|今《いま》|渡《わた》つて|来《き》た|川《かは》の|名《な》を|思《おも》ひ|出《だ》し、|俄《にはか》に|元気《げんき》よく、
『|私《わたくし》は|宣伝使《せんでんし》と|云《い》つても、ホンのホヤホヤで|厶《ござ》いますから、|名《な》のあるやうな|者《もの》では|厶《ござ》いませぬ、アン・ブラツクと|申《まを》すヘボ|宣伝使《せんでんし》で|厶《ござ》いますが、|何卒《どうぞ》|一度《いちど》お|館《やかた》に|参拝《さんぱい》をさして|頂《いただ》きたいもので|厶《ござ》います』
|姫《ひめ》『あ、|左様《さやう》で|厶《ござ》いますか、|貴方《あなた》のお|名《な》はアン・ブラツク|様《さま》でしたか、|何《なん》と|目出《めで》たいお|名《な》で|厶《ござ》いますなア、|此《この》アン・ブラツク|川《がは》は|昔《むかし》から|濁《にご》つた|事《こと》のない|清川《せいせん》で|厶《ござ》いますが、|其《その》|名《な》を|負《お》はせ|玉《たま》ふ|宣伝使《せんでんし》に|出会《であ》うとは、|何《なん》といふ|結構《けつこう》な|事《こと》でせう。|之《これ》でテルモン|山《ざん》の|館《やかた》も、|万世不動《ばんせいふどう》の|基礎《きそ》が|固《かた》まるでせう。|実《じつ》の|所《ところ》は|夢《ゆめ》のお|告《つげ》に「アン・ブラツク|川《がは》の|岸辺《きしべ》に|行《ゆ》け、さうすればお|前《まへ》を|助《たす》ける|真人《しんじん》が|現《あら》はれる」との|事《こと》で|厶《ござ》いましたので、|信頼《たより》ない|夢《ゆめ》を|力《ちから》として|参《まゐ》りましたが、|矢張《やつぱ》り|神様《かみさま》のお|告《つ》げと|見《み》えて、|尊《たふと》い|名《な》の|宣伝使《せんでんし》に|会《あ》ふ|事《こと》が|出来《でき》ました。ああ|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い』
と|嬉《うれ》し|涙《なみだ》をたらし|乍《なが》ら|合掌《がつしやう》する。|三千彦《みちひこ》は|真面目《まじめ》な|顔《かほ》して、
|三千《みち》『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。|然《しか》らばお|世話《せわ》に|与《あづか》りませう』
|姫《ひめ》『|早速《さつそく》の|御承知《ごしようち》、|満足《まんぞく》に|存《ぞん》じます。……コレ、ケーや、セミスや、|宣伝使《せんでんし》のお|荷物《にもつ》を|持《も》たして|頂《いただ》きなさい』
ケー『ハイ|何《なん》でも|持《も》たして|頂《いただ》きますが、|別《べつ》に|何《なに》もお|持《もち》になつてはゐないぢや|厶《ござ》いませぬか』
|姫《ひめ》『それでもお|背《せな》に|沢山《たくさん》の|荷物《にもつ》を|負《お》うてゐらつしやるぢやないか』
ケー『|奥様《おくさま》、あれは|荷物《にもつ》ぢや|厶《ござ》いませぬ、|宣伝使《せんでんし》|様《さま》が|猫《ねこ》を|負《お》うてゐらつしやるのですよ。なア、セミスさま、さうぢや|厶《ござ》いませぬか』
|三千彦《みちひこ》は|何時《いつ》の|間《ま》にやら|背中《せなか》にブクブクとした|瘤《こぶ》が|出来《でき》てゐたが、|背中《せなか》の|事《こと》とて|少《すこ》しも|気《き》がつかなかつた。
|三千《みち》『アハハハハ、|猫《ねこ》に|見《み》えますかな、どうで|犬《いぬ》に……』
と|云《い》ひかけて|俄《にはか》に|口《くち》をつぐみ、
|三千《みち》『|犬《いぬ》か|猫《ねこ》のやうな|霊《みたま》ですから、|仕方《しかた》がありませぬ。まアさう|仰有《おつしや》らずに|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さいませ』
|小国姫《をくにひめ》は『サア|参《まゐ》りませう』と|先《さき》に|立《た》つて|行《ゆ》く。|三千彦《みちひこ》は|半安半危《はんあんはんき》の|面持《おももち》にて|門内《もんない》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》り、|小国姫《をくにひめ》と|共《とも》に|直《ただ》ちに|神殿《しんでん》に|至《いた》つてバラモン|教《けう》の|経文《きやうもん》を|称《とな》へた。|三千彦《みちひこ》は|只《ただ》|聞《き》き|覚《おぼ》へに|経文《きやうもん》のそしり|走《ばし》りを|知《し》つてゐる|許《ばか》りで、|余《あま》り|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》し、|間違《まちが》つた|事《こと》を|言《い》つては、|忽《たちま》ち|看破《かんぱ》さるる|事《こと》を|恐《おそ》れ、ワザと|小声《こごゑ》になり、|教服《けうふく》に|添《そ》へてあつた|数珠《じゆず》を|爪繰《つまぐ》り|乍《なが》ら、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|念《ねん》じてゐる。|何時《いつ》の|間《ま》にやら|三千彦《みちひこ》の|猫背《ねこぜ》は|元《もと》の|通《とほ》りに|痕跡《あとかた》もなく|直《なほ》つてゐた。これはスマートの|霊《れい》が|三千彦《みちひこ》を|無事《ぶじ》に|館内《くわんない》に|送《おく》り|且《か》つ|其《その》|身辺《しんぺん》を|守《まも》らむが|為《ため》であつた。スマートは|館《やかた》の|床下《ゆかした》に|隠《かく》れて|守《まも》つてゐる。
(大正一二・三・一七 旧二・一 於竜宮館 松村真澄録)
第一六章 |不臣《ふしん》〔一四四六〕
|神殿《しんでん》の|拝礼《はいれい》が|終《をは》ると|共《とも》に|三千彦《みちひこ》は|小国姫《をくにひめ》の|居間《ゐま》に|招《せう》ぜられ、|茶菓《さくわ》の|饗応《きやうおう》を|受《う》け|朝飯《あさめし》を|頂《いただ》き|等《など》して|寛《くつろ》いでゐる。|朝飯《てうはん》が|済《す》むと|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》は|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》り|小国姫《をくにひめ》は|憂《うれ》ひ|顔《がほ》をし|乍《なが》ら|現《あら》はれ|来《きた》り、
|姫《ひめ》『アン・ブラツク|様《さま》、よくまアお|越《こ》し|下《くだ》さいました。|折入《をりい》つてお|願《ねがひ》|致《いた》し|度《た》い|事《こと》が|厶《ござ》いますが、|聞《き》いては|下《くだ》さいますまいかな』
|三千《みち》『ハイ、|私《わたし》の|力《ちから》に|及《およ》ぶ|事《こと》ならば|如何《いか》なる|御用《ごよう》も|承《うけたま》はりませう。|御遠慮《ごゑんりよ》なく|仰《おほ》せ|下《くだ》さいませ』
|姫《ひめ》『|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります。|早速《さつそく》ながらお|伺《うかが》ひ|致《いた》しますが、|当館《たうやかた》は|貴方《あなた》も|御承知《ごしようち》の|通《とほ》りバラモン|教《けう》の|大棟梁《だいとうりやう》|大黒主《おほくろぬし》の|神様《かみさま》が、まだ|鬼雲彦《おにくもひこ》と|仰《おほ》せられた|時分《じぶん》、ここを|第一《だいいち》の|聖場《せいぢやう》とお|定《さだ》め|遊《あそ》ばしたバラモン|発祥《はつしやう》の|旧跡《きうせき》で|厶《ござ》います。|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》の|名《な》は|国彦《くにひこ》、|国姫《くにひめ》と|申《まを》しましたが、|鬼雲彦《おにくもひこ》|様《さま》より|御名《おな》を|頂《いただ》いて|今《いま》は|小国彦《をくにひこ》、|小国姫《をくにひめ》と|申《まを》して|居《を》ります。|就《つ》いては|当館《たうやかた》の|重宝《ぢうはう》|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》が|紛失《ふんしつ》|致《いた》しまして|今《いま》に|行衛《ゆくゑ》は|知《し》れず、|百日《ひやくにち》の|間《あひだ》に|此《この》|玉《たま》を|発見《はつけん》せなければ|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》は|死《し》してお|詫《わび》をせなくてはならない|運命《うんめい》に|陥《おちい》つて|居《を》ります。|吾《わが》|夫《をつと》はそれを|苦《く》にして|大病《たいびやう》に|罹《かか》らせ|玉《たま》ひ、|命《めい》|旦夕《たんせき》に|迫《せま》ると|云《い》ふ|今日《こんにち》の|場合《ばあひ》で|厶《ござ》います。|悪《わる》い|事《こと》が|重《かさ》なれば|重《かさ》なるもので、|今《いま》より|三年《さんねん》|以前《いぜん》に|妹娘《いもうとむすめ》のケリナと|云《い》ふもの、|仇《あだ》し|男《をとこ》と|共《とも》に|家出《いへで》を|致《いた》し、|今《いま》に|行衛《ゆくゑ》も|分《わか》らず、|夫婦《ふうふ》の|心配《しんぱい》は|口《くち》で|申《まを》すやうの|事《こと》では|厶《ござ》いませぬ。|何卒《どうぞ》|御神徳《ごしんとく》を|以《もつ》て|如意宝珠《によいほつしゆ》の|所在《ありか》をお|知《し》らせ|下《くだ》さる|訳《わけ》には|参《まゐ》りませぬか』
|三千彦《みちひこ》は|天眼通《てんがんつう》が|些《ちつ》とも|利《き》かないので、こんな|問題《もんだい》を|提出《ていしゆつ》されても|一言《いちごん》も|答《こた》へる|事《こと》が|出来《でき》ない。|然《しか》し|乍《なが》ら、|何《なん》とかして|此《この》|場《ば》のゴミを|濁《にご》さねばならないと|一生懸命《いつしやうけんめい》に|大神《おほかみ》を|念《ねん》じ|乍《なが》ら|事《こと》もなげに|答《こた》へて|云《い》ふ。
|三千《みち》『お|話《はなし》を|承《うけたま》はれば|実《じつ》に|同情《どうじやう》に|堪《た》えませぬ。|必《かなら》ず|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|私《わたし》がここへ|参《まゐ》りました|以上《いじやう》は|必《かなら》ず|神様《かみさま》のお|綱《つな》がかかつて|引寄《ひきよ》せられたに|相違《さうゐ》|厶《ござ》いませぬ。ここ|一週間《いつしうかん》の|間《あひだ》|御祈念《ごきねん》|致《いた》し、|玉《たま》の|所在《ありか》を|伺《うかが》つてみませう』
と|其《その》|場《ば》|逃《のが》れの|覚束《おぼつか》なげの|挨拶《あいさつ》をして|居《ゐ》る。|溺《おぼ》るる|者《もの》は|藁条《わらすべ》|一本《いつぽん》にも|頼《たよ》らむとする|喩《たとへ》の|如《ごと》く、|小国姫《をくにひめ》は|三千彦《みちひこ》の|言葉《ことば》を|唯一《ゆゐいつ》の|力《ちから》とし|大《おほい》に|喜《よろこ》んで|笑《ゑみ》を|湛《たた》へ|乍《なが》ら、
|姫《ひめ》『|御親切《ごしんせつ》に|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|何分《なにぶん》に|宜《よろ》しうお|願《ねが》ひ|致《いた》します。そして|厚《あつ》かましいお|願《ねが》ひで|厶《ござ》いますが、|夫《をつと》の|病気《びやうき》は|如何《いかが》で|厶《ござ》いませうかな』
|三千《みち》『|先《ま》づ|一週間《いつしうかん》|心魂《しんこん》を|籠《こ》めて|祈《いの》る|事《こと》に|致《いた》しませう。|神様《かみさま》は|如何《どう》しても|必要《ひつえう》があると|思召《おぼしめ》したら|命《いのち》を|助《たす》けられるでせうし、|又《また》|霊界《れいかい》にどうしても|御用《ごよう》があると|思召《おぼしめ》したら|命《いのち》をお|引《ひ》き|取《と》りになるでせう。|生死問題《せいしもんだい》のみは|如何《いかん》ともする|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|之《これ》は|神様《かみさま》にお|任《まか》せなさるより|外《ほか》に|道《みち》はありますまい』
|姫《ひめ》『|仰《おほ》せの|如《ごと》く|何時《いつ》も|私《わたし》も|信者《しんじや》に|生死問題《せいしもんだい》に|就《つ》いては、|人間《にんげん》の|如何《いかん》ともする|所《ところ》でないと|説《と》いて|居《ゐ》ますが、さて|自分《じぶん》の|身《み》の|上《うへ》に|関《くわん》するとなるとツイ|愚痴《ぐち》が|出《で》たり、|迷《まよ》ふたりしてお|恥《はづか》しき|事《こと》で|厶《ござ》います。それから、も|一《ひと》つ|申兼《まをしか》ねますが|娘《むすめ》の|行衛《ゆくゑ》で|厶《ござ》います。|彼娘《あれ》はまだ|無事《ぶじ》に|此《この》|世《よ》に|残《のこ》つて|居《を》るでせうか。|或《あるひ》は|悪者《わるもの》の|為《た》めに|殺《ころ》されたやうな|事《こと》は|厶《ござ》いますまいか。それ|許《ばか》りが|心配《しんぱい》で|堪《たま》りませぬ』
|三千彦《みちひこ》は|何《ど》れも|此《こ》れも|宜《よ》い|加減《かげん》な|返事《へんじ》はして|居《を》れない。エー、ままよ、|一《いち》か|八《ばち》かと|決心《けつしん》して、
|三千《みち》『|娘《むすめ》さまの|事《こと》は|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|屹度《きつと》|神様《かみさま》のお|恵《めぐみ》で|近《ちか》い|内《うち》に|無事《ぶじ》にお|帰《かへ》りになります』
|姫《ひめ》『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります。そして|娘《むすめ》は|今頃《いまごろ》は|何処《どこ》の|国《くに》に|居《を》りますか。|一寸《ちよつと》それを|聞《き》かして|頂《いただ》き|度《た》いもので|厶《ござ》います』
|三千彦《みちひこ》はハツと|詰《つ》まり|乍《なが》ら|肝《きも》を|放《ほ》り|出《だ》して、
|三千《みち》『つい|近《ちか》い|所《ところ》に|隠《かく》れて|居《を》られます。まア|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|軈《やが》て|帰《かへ》られますから、|然《しか》し|詳《くは》しい|事《こと》は|御神殿《ごしんでん》で|伺《うかが》つて|来《こ》なくては|申上《まをしあげ》|兼《か》ねますから』
|姫《ひめ》『|成程《なるほど》、さうで|厶《ござ》いませう。|何卒《どうぞ》|御緩《ごゆつく》りなさいましたら、|一度《いちど》|御神勅《ごしんちよく》を|伺《うかが》つて|下《くだ》さいませ』
|三千《みち》『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました。これから|早速《さつそく》|伺《うかが》つて|参《まゐ》ります。|併《しか》し|乍《なが》ら|誰方《どなた》もお|出《い》でにならぬやうに|願《ねが》ひます』
と|云《い》ひ|残《のこ》し|神殿《しんでん》さして|進《すす》み|行《ゆ》く。
|三千彦《みちひこ》は|神殿《しんでん》に|進《すす》み|小声《こごゑ》になつて|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|終《をは》つて、
|三千《みち》『|私《わたくし》は|大変《たいへん》な|難問題《なんもんだい》にぶつつかりました。|併《しか》し|乍《なが》ら|苟《いやし》くも|三五《あななひ》の|宣伝使《せんでんし》、|宜《い》い|加減《かげん》な|事《こと》は|申《まを》されませぬ。もし|宜《い》い|加減《かげん》の|事《こと》を|申《まを》し、|化《ば》けが|露《あら》はれたなら、それこそ|神様《かみさま》のお|名《な》を|穢《けが》し、|師《し》の|君《きみ》に|対《たい》しても|相済《あひす》みませぬからハツキリした|事《こと》を、ここ|一週間《いつしうかん》の|間《うち》に|私《わたくし》の|耳許《みみもと》にお|聞《き》かせ|下《くだ》さいますか、|但《ただし》は|夢《ゆめ》になりと|知《し》らして|下《くだ》さいませ。そしてなる|事《こと》なら|吾《わが》|師《し》の|君《きみ》の|所在《ありか》のほどもお|示《しめ》し|願《ねが》ひます』
|斯《か》く|念《ねん》じて|暫《しば》らく|瞑目《めいもく》して|居《ゐ》ると|忽《たちま》ち|背中《せなか》がムクムクと|膨《ふく》れ|出《だ》し、|犬《いぬ》の|様《やう》なものが|負《お》ぶさつた|様《やう》な|重味《おもみ》が|感《かん》じて|姿《すがた》は|見《み》えねど、|少《すこ》し|掠《かす》つた|声《こゑ》で|耳許《みみもと》に|囁《ささや》いた|者《もの》がある。|之《これ》はスマートの|精霊《せいれい》が|三千彦《みちひこ》の|身《み》を|守《まも》るべく|諭《さと》して|呉《く》れたのである。さうして|其《その》|示言《じげん》は|左《さ》の|通《とほ》りであつた。
|精霊《せいれい》『|三千彦《みちひこ》|殿《どの》、|其方《そなた》は|大変《たいへん》に|心配《しんぱい》を|致《いた》して|居《を》るが、|玉国別《たまくにわけ》|様《さま》|一行《いつかう》は|軈《やが》て|近《ちか》い|内《うち》に|此《この》|館《やかた》でお|目《め》にかかれるであらう。そして|当館《たうやかた》の|重宝《ぢうはう》|如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》は|家令《かれい》の|悴《せがれ》ワツクスと|云《い》ふ|者《もの》が|或《ある》|目的《もくてき》のために|隠《かく》して|居《を》るのだから、|之《これ》も|只《たつた》|今《いま》|現《あら》はれるであらう。|儂《わし》は|初稚姫《はつわかひめ》の|身辺《しんぺん》を|守《まも》るスマートと|云《い》ふものだが、|小国姫《をくにひめ》に|対《たい》しては|決《けつ》してワツクスが|匿《かく》して|居《を》る|等《など》と|云《い》つてはなりませぬぞ。|然《しか》し|直様《すぐさま》、|現《あら》はれる|様《やう》に|致《いた》すから|心配《しんぱい》|致《いた》すなと|云《い》つて|置《お》きなさい。|又《また》|此《この》|家《や》の|主人《しゆじん》|小国彦《をくにひこ》はここ|暫《しば》らくの|寿命《じゆみやう》だから、それは|諦《あきら》める|様《やう》に|云《い》ふて|置《お》くが|宜《よ》い。|又《また》|娘《むすめ》のケリナ|姫《ひめ》は|三五教《あななひけう》の|修験者《しゆげんじや》に|助《たす》けられ、|近《ちか》い|中《うち》に|帰《かへ》つて|来《く》る。|之《これ》も|安心《あんしん》するやうに|知《し》らしてやりなさい。|尋《たづ》ねる|事《こと》は、もう|之《これ》でないかな』
と|小《ちひ》さい|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》る。|三千彦《みちひこ》は|初《はじ》めて|天耳通《てんじつう》が|開《ひら》けたものと|考《かんが》へ、|非常《ひじやう》に|喜《よろこ》んで|大神《おほかみ》に|感謝《かんしや》し、|莞爾《にこにこ》として|小国姫《をくにひめ》の|居間《ゐま》に|引返《ひきかへ》した。|小国姫《をくにひめ》は|三千彦《みちひこ》の|何処《どこ》ともなく|元気《げんき》に|充《み》ちた|顔色《がんしよく》を|見《み》て、
|姫《ひめ》『こりや、|些《ちつ》と|有望《いうばう》に|違《ちが》ひない』
と|早《はや》くも|合点《がつてん》し、さも|嬉《うれ》しげに、
|姫《ひめ》『これはこれはアンブラツク|様《さま》、|御苦労様《ごくらうさま》で|厶《ござ》いました。|御神徳《ごしんとく》|高《たか》き|貴方《あなた》、|定《さだ》めし|神様《かみさま》のお|告《つ》げを|直接《ちよくせつ》お|聞《き》きなさいましたでせう。|何卒《どうぞ》お|示《しめ》し|下《くだ》さいませ』
|三千《みち》『イヤ、さう|褒《ほ》められては|恐《おそ》れ|入《い》ります。|何《なに》を|云《い》つてもバラモン|教《けう》へ|這入《はい》つてから、|俄《にはか》に|抜擢《ばつてき》されて|宣伝使《せんでんし》になつたものの、|経文《きやうもん》も|碌《ろく》にあがりませぬ。|只《ただ》|信念《しんねん》|堅実《けんじつ》と|云《い》ふ|廉《かど》を|以《もつ》て|宣伝使《せんでんし》にして|貰《もら》つたのですから、バラモン|教《けう》の|教理《けうり》は|少《すこ》しも|存《ぞん》じませぬが、|信仰《しんかう》の|力《ちから》によりまして|天眼通《てんがんつう》、|天耳通《てんじつう》を|授《さづ》けて|頂《いただ》いて|居《を》ります。それで|何《ど》んな|事《こと》でも|鏡《かがみ》にかけた|如《ごと》く|知《し》らして|頂《いただ》けます』
|姫《ひめ》『イヤ、|結構《けつこう》で|厶《ござ》います。|今《いま》の|宣伝使《せんでんし》は|難《むつかし》い|小理窟《こりくつ》ばかり|云《い》つて、|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|経文《きやうもん》の|研究《けんきう》に|日《ひ》を|暮《くら》し、|肝腎《かんじん》の|信仰《しんかう》が|欠《か》けて|居《ゐ》ますから、|神様《かみさま》のお|取次《とりつぎ》であり|乍《なが》ら、|些《ちつ》とも|大神《おほかみ》の|意思《いし》が|分《わか》らないので|厶《ござ》いますよ。|何《なに》を|云《い》つても|不言実行《ふげんじつかう》が|結構《けつこう》で|厶《ござ》います。さうして|神様《かみさま》は|何《なん》と|仰《おほ》せられましたかな』
|三千《みち》『はい、|明白《はつきり》した|事《こと》は|分《わか》りませぬが|私《わたし》のインプレッションに|拠《よ》りますれば、|此《この》お|館《やかた》の|重宝《ぢうはう》は|近《ちか》い|中《うち》にお|手《て》に|這入《はい》ります。|屹度《きつと》|私《わたし》が|貴女《あなた》にお|手渡《てわた》しをしますから|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ。さうしてお|嬢《ぢやう》さまは|日《ひ》ならずお|帰《かへ》りになります。|然《しか》し|乍《なが》ら|旦那様《だんなさま》はお|気《き》の|毒《どく》ながら|天国《てんごく》へ|御用《ごよう》がおありなさるさうだから|先《ま》づお|諦《あきら》めなさるが|宜《よろ》しからう』
|姫《ひめ》『どうも|有難《ありがた》う|厶《ござ》りました。|神様《かみさま》の|御用《ごよう》で|昇天《しようてん》するとあれば|止《や》むを|得《え》ませぬが、|成《な》る|事《こと》ならば|夫《をつと》の|生存中《せいぞんちゆう》に|如意宝珠《によいほつしゆ》の|在所《ありか》が|分《わか》り、|又《また》|娘《むすめ》の|顔《かほ》を|一目《ひとめ》|見《み》せ|度《た》いもので|厶《ござ》いますが、|如何《いかが》で|厶《ござ》りませう、これは|叶《かな》ひますまいかな』
|三千《みち》『イヤ、|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|之《これ》は|屹度《きつと》|現《あら》はれて|参《まゐ》ります。そして|御主人《ごしゆじん》が|如意宝珠《によいほつしゆ》を|抱《だ》き、|片手《かたて》に|姫《ひめ》さまを|抱《だ》いて|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで|国替《くにがへ》をなさいますから、まア|一時《いちじ》も|早《はや》く|神様《かみさま》のお|繰合《くりあは》せをして|頂《いただ》くやう|御祈願《ごきぐわん》を|成《な》さいませ。|私《わたし》も|一生懸命《いつしやうけんめい》に|御祈願《ごきぐわん》|致《いた》します』
|姫《ひめ》『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います』
と|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にかき|暮《く》れる。|斯《か》かる|処《ところ》へ|家令《かれい》のオールスチンは|衣紋《えもん》を|繕《つくろ》ひ|現《あら》はれ|来《きた》り、
オールス『もし、|奥様《おくさま》、|旦那様《だんなさま》が|大変《たいへん》お|苦《くるし》みで|厶《ござ》います。そして|奥《おく》を|呼《よ》んで|来《き》て|呉《く》れと|仰有《おつしや》いますから|何卒《どうぞ》|早《はや》く|側《そば》へ|行《い》つて|下《くだ》さいませ。|私《わたくし》は|宣伝使《せんでんし》のお|側《そば》にお|相手《あひて》を|仕《つかまつ》りますから』
|姫《ひめ》『アン・ブラツク|様《さま》、|今《いま》|家令《かれい》の|申《まを》した|通《とほ》り、|主人《しゆじん》が|待《ま》つて|居《を》りますから|一寸《ちよつと》|行《い》つて|参《まゐ》りますから|何卒《どうぞ》|御緩《ごゆつく》りとお|休《やす》み|下《くだ》さいませ』
と|言《い》ひ|捨《す》てて|忙《いそが》しげに|此《この》|場《ば》を|立《た》つて|行《ゆ》く。
オールスチンは|三千彦《みちひこ》に|向《むか》ひ、
オールス『|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、どうも|御苦労様《ごくらうさま》で|厶《ござ》います。お|聞《きき》|及《およ》びの|通《とほ》り|此《この》お|館《やかた》には|大事《だいじ》が|突発《とつぱつ》|致《いた》しまして|上《うへ》を|下《した》へと|騒《さわ》ぎ|廻《まは》つて|居《を》ります。どうか|貴方《あなた》の|御神徳《ごしんとく》によりまして、|此《この》|急場《きふば》が|逃《のが》れますやうにお|願《ねが》ひ|致《いた》し|度《た》う|厶《ござ》います。そして|神様《かみさま》の|御神勅《ごしんちよく》は|如何《いかが》で|厶《ござ》いましたか』
|三千《みち》『|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》は|決《けつ》して|外《そと》へ|紛失《ふんしつ》はして|居《を》りませぬ。|此《この》お|館《やかた》に|出入《でいり》する|相当《さうたう》な|役員《やくゐん》の|息子《むすこ》が、|或《ある》|目的《もくてき》を|抱《いだ》いて|玉《たま》を|匿《かく》して|居《を》ると|云《い》ふ|事《こと》が、|神様《かみさま》のお|告《つ》げで|分《わか》りました。|軈《やが》て|出《で》て|来《く》るで|厶《ござ》いませう』
オールス『エ、|何《なん》と|仰有《おつしや》ります、あの|如意宝珠《によいほつしゆ》の|宝玉《はうぎよく》を|此《この》|身内《みうち》の|者《もの》が|匿《かく》して|居《を》ると|仰有《おつしや》るのですか。そして|此《この》|館《やかた》へ|出入《でいり》する|重《おも》なる|役員《やくゐん》の|息子《むすこ》とは|誰《たれ》で|厶《ござ》いませう。|参考《さんかう》のためにお|名《な》を|聞《き》かして|頂《いただ》き|度《た》う|厶《ござ》いますが……』
|三千《みち》『まだ|私《わたくし》も|修行《しゆぎやう》が|足《た》りませぬので、|隠《かく》した|人《ひと》の|姓名《せいめい》まで|明白《はつき》り|云《い》ふ|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|丸顔《まるがほ》の|色白《いろじろ》い|男《をとこ》だと|云《い》ふ|事《こと》だけは|確《たしか》に|分《わか》つて|居《を》ります』
オールス『はてなア、|妙《めう》な|事《こと》を|聞《き》きまする。|然《しか》し|乍《なが》ら|誰《たれ》が|匿《かく》してあるにせよ、|之《これ》を|探《さが》し|出《だ》さねば|小国彦《をくにひこ》|様《さま》の|言《い》ひ|訳《わけ》が|立《た》たず、|又《また》|此《この》|館《やかた》の|役員《やくゐん》|迄《まで》が|大黒主《おほくろぬし》から|厳《きび》しい|罰《ばつ》を|受《う》けねばなりませぬ。そしてその|玉《たま》は|近《ちか》いうちに|現《あら》はれるで|厶《ござ》いませうか』
|三千《みち》『|屹度《きつと》|現《あら》はれます。|成《な》るべく|事《こと》を|穏《おだや》かに|済《す》ませ|度《た》いと|思《おも》ひますから、|何卒《どうぞ》|秘密《ひみつ》にして|置《お》いて|下《くだ》さいませ。|互《たがひ》に|瑕《きず》がついてはなりませぬからな』
オールス『|成程《なるほど》、|仰有《おつしや》る|通《とほ》りで|厶《ござ》います。こんな|事《こと》が|外《ほか》へ|洩《も》れては|一大事《いちだいじ》、|一時《いちじ》も|早《はや》く|現《あら》はれますやう、そして|旦那様《だんなさま》に|一時《いちじ》も|早《はや》く|安心《あんしん》の|行《ゆ》くやう、|願《ねが》つて|下《くだ》さいませ』
|三千《みち》『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|小国姫《をくにひめ》は|再《ふたた》び|現《あら》はれ|来《きた》り、
|姫《ひめ》『もし、|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|主人《しゆじん》が|大変《たいへん》に|様子《やうす》が|悪《わる》うなりましたから、|何卒《どうぞ》|一《ひと》つ|御祈祷《ごきとう》をしてやつて|下《くだ》さいますまいかな』
|三千《みち》『それはお|困《こま》りです。|然《しか》らば|参《まゐ》りませう』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|家令《かれい》と|共《とも》に|主人《しゆじん》の|居間《ゐま》に|通《とほ》つた。
|小国彦《をくにひこ》は|熱《ねつ》に|浮《う》かされて|囈言《うさごと》を|云《い》つて|居《ゐ》る。そして|時々《ときどき》、ワツクス ワツクスと|呻《うめ》いて|居《ゐ》る。ワツクスとは|家令《かれい》のオールスチンが|息子《むすこ》である。オールスチンは|之《これ》を|聞《き》くよりハツと|胸《むね》を|撫《な》で、|俯向《うつむ》いて|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。|小国姫《をくにひめ》は|少《すこ》しく|声《こゑ》を|尖《とが》らし|乍《なが》ら、
|姫《ひめ》『これ、オールスチン、|今《いま》|旦那様《だんなさま》が|夢中《むちう》になつて「ワツクス ワツクス」と|仰有《おつしや》るのはお|前《まへ》の|悴《せがれ》の|名《な》に|違《ちが》ひない。|何《なに》か|旦那様《だんなさま》に|対《たい》し、|御無礼《ごぶれい》の|事《こと》をして|居《ゐ》るのではあるまいか。よく|調《しら》べて|下《くだ》さい。|此《この》|宣伝使《せんでんし》|様《さま》にお|尋《たづ》ねすれば|直《すぐ》|分《わか》るだらうけれど、|斯《こ》んな|事《こと》まで|御苦労《ごくらう》になるのは|畏《おそ》れ|多《おほ》い|事《こと》だから、お|前《まへ》、|心《こころ》に|当《あた》る|事《こと》があるなら|包《つつ》まず|隠《かく》さず、ワツクスの|事《こと》に|就《つ》いて|述《の》べて|下《くだ》さい』
オールス『ハイ、|心当《こころあた》りと|申《まを》しては|何《なに》も|厶《ござ》いませぬが、|兎《と》も|角《かく》|宅《うち》へ|帰《かへ》りまして|悴《せがれ》を|調《しら》べて|見《み》ませう。|暫《しばら》くお|待《ま》ち|下《くだ》さいませ。|然《しか》らば|奥様《おくさま》、|旦那様《だんなさま》をお|大切《たいせつ》にして|下《くだ》さいませ。アンブラツク|様《さま》、|左様《さやう》ならば|一寸《ちよつと》|宅《たく》まで|帰《かへ》つて|参《まゐ》ります。|何卒《どうぞ》|宜《よろ》しうお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
と|言葉《ことば》を|残《のこ》し|急《いそ》ぎ|吾《わが》|家《や》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
オールスチンは|館《やかた》を|出《い》でて|吾《わが》|家《や》に|帰《かへ》る|道《みち》すがら|幾度《いくたび》となく|吐息《といき》をつき、|何事《なにごと》か|心《こころ》に|当《あた》るものの|如《ごと》く|首《くび》を|傾《かたむ》け|乍《なが》ら、|杖《つゑ》を|突《つ》きトボトボとして|吾《わが》|家《や》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|田圃《たんぼ》の|稲葉《いなば》は|風《かぜ》に|煽《あふ》られてサラサラと|勇《いさ》ましく|鳴《な》つて|居《ゐ》る。|燕《つばめ》は|前後左右《ぜんごさいう》に|梭《おさ》をうつ|様《やう》に|黒《くろ》い|羽根《はね》の|間《あひ》から|白《しろ》い|羽毛《うまう》を|現《あら》はし、|或《あるひ》は|高《たか》く|或《あるひ》は|低《ひく》く|大車輪《だいしやりん》の|活動《くわつどう》を|稲田《いなだ》の|上《うへ》にやつて|居《ゐ》る。|寝《ね》むたさうに|梟《ふくろ》の|声《こゑ》はホウホウと|家《いへ》の|後《うしろ》の|森林《しんりん》から|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。オールスチンは|秘《ひそ》かに|吾《わが》|家《や》の|門口《かどぐち》に|帰《かへ》つて|見《み》ると|二三人《にさんにん》の|人声《ひとごゑ》が|盛《さかん》に|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。|心《こころ》にかかるオールスチンは|耳《みみ》をすませて|門《かど》の|戸《と》に|凭《もた》れ|話《はなし》の|様子《やうす》を|立聞《たちぎ》きし|居《ゐ》たりけり。
(大正一二・三・一七 旧二・一 於竜宮館 北村隆光録)
第一七章 |強請《がうせい》〔一四四七〕
オールスチンの|館《やかた》には|悴《せがれ》のワツクスとエキスとヘルマンの|二人《ふたり》が|胡床《あぐら》をかいて|密々話《ひそびそばなし》に|耽《ふけ》つて|居《ゐ》る。
ワツクス『お|前達《まへたち》|二人《ふたり》はさう|何遍《なんべん》も|何遍《なんべん》も|無心《むしん》に|来《き》て|呉《く》れては|困《こま》るぢやないか。|俺《おれ》もお|前《まへ》の|知《し》つて|居《ゐ》る|通《とほ》り|部屋住《へやずみ》だから、さう|金《かね》が|自由《じいう》になるものぢやない。あの|禿《はげ》チヤンがうまく|死《し》んで|呉《く》れたら|此《この》|家《や》の|財産《ざいさん》は|俺《おれ》の|自由《じいう》だからどうでもしてやるが……さう|云《い》はずに|暫《しばら》く|待《ま》つて|居《ゐ》て|呉《く》れ、さうすれば|小国別《をくにわけ》|夫婦《ふうふ》は|玉《たま》の|紛失《ふんしつ》の|咎《とが》に|依《よ》つて|職務《しよくむ》を|取《と》り|上《あ》げられ、|厳罰《げんばつ》に|処《しよ》せられて|了《しま》ふ、さうすりや|俺《おれ》がこの|玉《たま》を|発見《はつけん》したと|云《い》うて|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|届《とど》けたならば、|屹度《きつと》|小国別《をくにわけ》の|跡目相続《あとめさうぞく》をデビスにさすに|定《きま》つて|居《ゐ》る。さうすれば|俺《おれ》が|玉《たま》を|発見《はつけん》した|褒美《はうび》として|婿《むこ》になるのだ。モウ【そこ】に|出世《しゆつせ》がぶらついて|居《ゐ》るのだから、さう|八釜《やかま》しう|云《い》はずと|暫《しばら》く|待《ま》つて|居《ゐ》て|呉《く》れ、その|代《かは》り、お|前《まへ》を|重役《ぢうやく》に|守《まも》り|立《た》て、さうして|幾何《いくら》でも|金《かね》は|渡《わた》してやるからなア。|親父《おやぢ》に|悟《さと》られやうものなら、|家《いへ》を|放逐《おひだ》され、|一《いち》も|取《と》らず|二《に》も|取《と》らずになつて|仕舞《しま》ふ。さうすればお|前達《まへたち》も|困《こま》るぢやないか』
エキス、ヘルマンの|両人《りやうにん》はワツクスの|悪友《あくいう》で|常《つね》に|好《よ》からぬ|事《こと》|許《ばか》り|勧《すす》めては|親父《おやぢ》の|金《かね》を|盗《ぬす》み|出《だ》させ|飲《の》み|喰《く》ひに|費《つひや》してゐた。ワツクスは|元来《ぐわんらい》が|何処《どこ》かに|抜《ぬ》けた|所《ところ》のある|馬鹿息子《ばかむすこ》である。けれども|家令《かれい》の|息子《むすこ》と|云《い》ふ|事《こと》で|非常《ひじやう》に|若《わか》い|者《もの》の|仲間《なかま》には|持《も》て|囃《はや》され、|調子《てうし》に|乗《の》つては|親父《おやぢ》の|金《かね》を|盗《ぬす》み|出《だ》し、|悪友《あくいう》と|共《とも》に|飲食《いんしよく》に|費《つか》つて|居《ゐ》た。|父《ちち》のオールスチンは|女房《にようばう》には|先立《さきだ》たれ、|唯《ただ》|一人《ひとり》の|悴《せがれ》ワツクスを|力《ちから》とし、|目《め》の|中《なか》に|入《はい》つても|痛《いた》くない|程《ほど》|愛《あい》して|居《ゐ》た。それ|故《ゆゑ》|段々《だんだん》|増長《ぞうちよう》して|手《て》にも|足《あし》にも|合《あ》はなくなつて|仕舞《しま》つた。そしてワツクスは|小国別《をくにわけ》の|娘《むすめ》デビス|姫《ひめ》に|恋慕《れんぼ》し、|明《あ》けても|暮《く》れてもデビス デビスと|口癖《くちぐせ》のやうに|言《い》つて|居《ゐ》た。|併《しか》し|肝腎《かんじん》のデビス|姫《ひめ》は、|馬鹿息子《ばかむすこ》のワツクスを|蚰蜒《げじげじ》の|如《ごと》く|嫌《きら》ひ、|目《め》を|細《ほそ》くして|言《い》ひ|寄《よ》る|度《たび》に、|手厳《てきび》しく|肱鉄《ひぢてつ》をかませ|恥《はづ》かしてめ|居《ゐ》た。|併《しか》し|乍《なが》らワツクスは|益々《ますます》|恋《こひ》が|募《つの》つて|嫌《きら》へば|嫌《きら》ふ|程《ほど》|可愛《かはゆ》くなり、|何《なん》とかして|目的《もくてき》を|達《たつ》せむものと、エキス、ヘルマンの|二人《ふたり》に|相談《さうだん》をかけた。|狡猾《わるがしこ》いエキスは|一《いち》も|二《に》もなく|嘲笑《あざわら》つて|云《い》ふ。
エキス『デビス|姫《ひめ》を|君《きみ》の|妻《つま》にせうと|思《おも》へば|何《なん》でもない|事《こと》だ。|如意宝珠《によいほつしゆ》をそつと|盗《ぬす》み|出《だ》し|隠《かく》してやつたなら、きつと|監督不行届《かんとくふゆきとど》きの|廉《かど》によつて|小国別《をくにわけ》|夫婦《ふうふ》|及《およ》び|家族一同《かぞくいちどう》が|免職《めんしよく》を|喰《く》ひ、その|上《うへ》|刑罰《けいばつ》に|処《しよ》せらるるに|定《きま》つて|居《ゐ》る。まづ|第一《だいいち》に|其《その》|玉《たま》を|隠《かく》し|心配《しんぱい》をさせてやると、|小国別《をくにわけ》|夫婦《ふうふ》が、|終《しまひ》の|果《はて》には|百計《ひやくけい》|尽《つ》きて、「もしもあの|紛失《ふんしつ》した|如意宝珠《によいほつしゆ》を|探《さが》して|来《き》た|者《もの》があつたらデビス|姫《ひめ》を|遣《や》らう」とか、「|婿《むこ》にせう」とか|云《い》ふに|定《きま》つて|居《ゐ》る。|先《ま》づ|其《その》|玉《たま》を|隠《かく》すが|一番《いちばん》である』
とエキス、ヘルマンが|知恵《ちゑ》をつけた。そこで|薄野呂《うすのろ》のワツクスは|夜《よる》|密《ひそか》に|奥殿《おくでん》に|忍《しの》び|込《こ》み、エキス、ヘルマンと|共力《きようりよく》して|玉《たま》を|盗《ぬす》み|出《だ》し、|床下《ゆかした》を|掘《ほ》つて|人知《ひとし》れず|隠《かく》して|置《お》いた。そして|当座《たうざ》の|鼻塞《はなふさ》ぎとして|百両《ひやくりやう》|宛《づつ》|渡《わた》して|置《お》いたのである。|併《しか》しエキス、ヘルマンの|二人《ふたり》は、|忽《たちま》ち|酒食《しゆしよく》に|使用《つか》つて|仕舞《しま》ひ、|幾度《いくど》も|幾度《いくど》も|弱身《よわみ》をつけ|込《こ》んでワツクスの|所《ところ》へ|無心《むしん》にやつて|来《く》る。|其《その》|度《たび》|毎《ごと》にワツクスもいろいろ|工夫《くふう》して|渡《わた》しておいた。|併《しか》し|父親《ちちおや》の|金《かね》も、もう|無《な》い|所《ところ》|迄《まで》|盗《ぬす》み|出《だ》して|渡《わた》して|居《ゐ》たのだから、もう|幾何《いくら》|請求《せいきう》されても|渡《わた》す|金《かね》が|無《な》いのである。それ|故《ゆゑ》ワツクスは|最早《もはや》|一文《いちもん》も|無《な》いから……|暫《しばら》く|待《ま》つて|呉《く》れ、|今《いま》に|願望成就《ぐわんまうじやうじゆ》すれば、|幾何《いくら》でも|金《かね》をやるから……と|断《ことわ》つて|居《ゐ》たのである、されどエキスは……|此《この》|家令《かれい》の|家《いへ》には|金銀《きんぎん》が|目《め》を|剥《む》いてゐるに|違《ちが》ひない、|脅迫《けふはく》さへすれば、この|馬鹿息子《ばかむすこ》は|幾何《いくら》でも|出《だ》して|来《く》るに|違《ちが》ひ|無《な》い……と|悪胴《わるどう》を|据《す》ゑ|声《こゑ》を|尖《とが》らし、
エキス『オイ、ワツクス、|余《あま》り|馬鹿《ばか》にして|貰《もら》ふまいかい。|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》を|命《いのち》がけで|盗《ぬす》み|出《だ》し、もし|発覚《はつかく》したら|俺達《おれたち》の|命《いのち》がないのだ。さうして|甘《うま》い|汁《しる》を|吸《す》ふのはお|前《まへ》|許《ばか》りぢやないか。|天下一品《てんかいつぴん》のナイス、デビス|姫《ひめ》さまの|婿《むこ》となり、さうしてテルモン|山《ざん》の|神司《かむつかさ》となつて|覇張《はばり》|散《ち》らす|身分《みぶん》になれるぢやないか。|俺達《おれたち》|両人《りやうにん》は|何程《なにほど》お|前《まへ》が|出世《しゆつせ》した|所《ところ》で、デビスを|女房《にようばう》にする|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|神司《かむつかさ》にもなれないのだから|引《ひ》き|合《あ》はないのだ。それだからお|前《まへ》から|酒代《さかて》でも|貰《もら》つて|酒《さけ》でも|呑《の》まねば|不安《ふあん》で|苦《くる》しうて、|一日《いちにち》でも|斯《か》うして|居《ゐ》る|事《こと》が|出来《でき》ない。グヅグヅ|云《い》はずに|百両《ひやくりやう》|許《ばか》り|出《だ》さつしやい。|夫《それ》でなければ|自分《じぶん》|達《たち》も|罪《つみ》になるのを|覚悟《かくご》して、「|恐《おそ》れ|乍《なが》ら」と|罪状《ざいじやう》を|自白《じはく》する|積《つもり》だ、それでもよいか』
ワツクス『さう|大《おほ》きな|声《こゑ》で|云《い》ふものぢやない、|近所《きんじよ》に|聞《きこ》えたらどうするのだ。|俺達《おれたち》の|迷惑《めいわく》のみではない|親父《おやぢ》|迄《まで》が|迷惑《めいわく》するではないか』
エキス『|迷惑《めいわく》したつて|何《なん》でい。|俺《おれ》アもう|破《やぶ》れかぶれだ。のうヘルマン、|犬骨《いぬぼね》|折《を》つて|鷹《たか》に|取《と》られるやうな|荒仕事《あらしごと》をやらされて|耐《たま》つたものぢやない。|此奴《こいつ》はきつと|目的《もくてき》が|成就《じやうじゆ》したが|最後《さいご》、|自分《じぶん》の|権威《けんゐ》を|笠《かさ》に|着《き》て、|俺達《おれたち》を|反対《はんたい》に|罪《つみ》に|落《おと》すかも|知《し》れないぞ。それより|今《いま》の|中《うち》に【もぐる】|丈《だけ》は【もぐつ】て|甘《うま》い|汁《しる》でも|吸《す》ふて|置《お》かねば|算盤《そろばん》が|持《も》てないや。オイ ワツクスの|先生《せんせい》、|俺《おれ》が|今《いま》バラしたが|最後《さいご》、お|前《まへ》の|笠《かさ》の|台《だい》は|飛《と》んで|仕舞《しま》ふぞ。|百両《ひやくりやう》の|命《いのち》は|安価《やすい》ものだ、どうだ|買《か》ふ|気《き》はないか』
ワツクス『|百両《ひやくりやう》は|安価《やすい》やうなものの、さう|何遍《なんべん》も|百両《ひやくりやう》|々々《ひやくりやう》と|云《い》ふて|来《こ》られては|堪《たま》らないぢやないか。|親父《おやぢ》の|臍繰金《へそくりがね》|迄《まで》|皆《みな》|貴様《きさま》に|出《だ》してやつたし、もう|逆《さか》さに|振《ふ》つたつて|血《ち》も|出《で》ないのだ。|些《ちつと》|俺《おれ》の|心《こころ》も|察《さつ》して|呉《く》れないか。|九分九厘《くぶくりん》と|云《い》ふ|所《ところ》になつて|引《ひつ》くり|返《かへ》つては|詮《つま》らないぢやないか。|俺《おれ》の|目的《もくてき》さへ|立《た》てば、お|前《まへ》の|思《おも》ふやうにしてやるのだから』
エキス『ヘン|甘《うま》い|事《こと》|云《い》つて|乞食《こじき》の|虱《しらみ》ぢやないが、|口《くち》で|殺《ころ》さうと|思《おも》つても|其《そ》の|手《て》に|乗《の》るやうな|哥兄《あにい》ぢやないぞ。|末《すゑ》の|百両《ひやくりやう》より|今《いま》の|五十両《ごじふりやう》だ。さつぱりと|五十両《ごじふりやう》にまけて|置《お》く。サアきつぱりと|出《だ》したり|出《だ》したり』
ワツクス『|何程《なにほど》|出《だ》せと|云《い》ふても|無《な》い|袖《そで》は|振《ふ》れんぢやないか。そんな|無茶《むちや》の|事《こと》を|云《い》はずに、|今《いま》|暫《しばら》くの|所《ところ》|我慢《がまん》してくれ、|掌《て》を|合《あは》して|頼《たの》むから』
エキス『ヘン、|貴様《きさま》が|掌《て》を|合《あは》して|金《かね》の|一両《いちりやう》も|降《ふ》つて|来《く》るのなら|辛抱《しんばう》もしない|事《こと》はないが、|拝《をが》み|倒《たふ》さうと|思《おも》つても、そんな|事《こと》に|乗《の》るやうな|俺《おれ》ぢやないわい。こんな|大《おほ》きな|屋台骨《やたいぼね》をした|家《いへ》の|悴《せがれ》でありながら、|親父《おやぢ》の|金《かね》が|無《な》くなつたと|云《い》つたつて|誰《たれ》が|本当《ほんたう》にするものか、|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にするない。|出《だ》さにや|出《だ》さぬでよいわ。これから|俺《おれ》が|一伍一什《いちぶしじふ》をデビス|姫《ひめ》の|所《ところ》へ|知《し》らしに|行《ゆ》き、|二人《ふたり》が|証人《しようにん》となつて|報告《はうこく》するからさう|思《おも》へ。オイ、ヘルマン、こんな|奴《やつ》にかかつて|居《ゐ》ても|仕方《しかた》がないわ。さア|行《ゆ》かう』
と|立《た》ち|上《あが》らうとするをワツクスは|慌《あわ》てて|手《て》を|握《にぎ》り、|真青《まつさを》な|顔《かほ》をしてビリビリ|慄《ふる》ひ|乍《なが》ら、
ワツクス『オイ、エキス、さう|短気《たんき》を|出《だ》すものぢやない。|暫時《しばらく》|待《ま》つてくれと|頼《たの》むのにお|前《まへ》も|聞《き》き|訳《わけ》のない|男《をとこ》だなア。お|前《まへ》も|俺《おれ》の|心《こころ》を|知《し》つとるだらう、|有《あ》る|金《かね》を|隠《かく》して|千騎一騎《せんきいつき》の|此《この》|場合《ばあひ》、|誰《たれ》が|無《な》いと|云《い》ふものか。|些《ちつと》|考《かんが》へて|呉《く》れ』
エキス『|千騎一騎《せんきいつき》の|場合《ばあひ》になつてゴテゴテ|云《い》ふ|奴《やつ》は|駄目《だめ》だ。|考《かんが》へも【ヘチマ】も|有《あ》つたものかい、|薬罐頭《やくわんあたま》の|帰《かへ》つて|来《こ》ない|中《うち》に|早《はや》く|出《だ》さないと|陰謀《いんぼう》|露見《ろけん》の|恐《おそ》れがあるぞ。|貴様《きさま》は|親父《おやぢ》が|怖《こは》いのか。|親父《おやぢ》が|怖《こは》いやうな|事《こと》では|伊勢神楽《いせかぐら》は|見《み》られないぞ……、
|親《おや》の|財産《ざいさん》あてにすれや
|薬罐頭《やくわんあたま》が|邪魔《じやま》になる
と|云《い》ふのは|俺達《おれたち》の|爺《おやぢ》の|事《こと》だ。|貴様《きさま》らは|親《おや》|一人《ひとり》|子《こ》|一人《ひとり》、|羊羹《やうかん》よりも|甘《あま》い|奴《やつ》だから、|貴様《きさま》が|何程《なにほど》|盗《ぬす》み|出《だ》して|俺《おれ》に|呉《く》れたとて、|悴《せがれ》の|命《いのち》とつりがへだと|聞《き》いたら、|滅多《めつた》に|怒《おこ》る|気遣《きづか》ひはない、|余程《よほど》|貴様《きさま》はケチな|奴《やつ》だなア』
ワツクス『どうか|頼《たの》みだから、|今日《けふ》|丈《だけ》は|柔順《おとなし》く|帰《かへ》つて|呉《く》れ、|何《なん》とか|又《また》|考《かんが》へて|置《お》くからなア』
エキス『|俺《おれ》も|男《をとこ》だ。|一旦《いつたん》|口《くち》へ|出《だ》した|以上《いじやう》は|滅多《めつた》に|恥《はぢ》を|掻《か》いて|帰《かへ》るやうな|哥兄《にいさん》ぢやないぞ。サア、グヅグヅ|云《い》はずに|出《だ》しやがらないか、グヅグヅ|云《い》ふと|此《この》|鉄拳《てつけん》が|貴様《きさま》の|頭《あたま》にお|見舞《みまひ》|申《まを》すぞ』
と|飛《と》びつかうとする。ヘルマンは|慌《あわて》て|後《うしろ》より|抱留《だきと》め、
ヘルマン『|待《ま》つた|待《ま》つた、|短気《たんき》は|損気《そんき》だ、|大事《だいじ》の|前《まへ》の|小事《せうじ》だ、|今《いま》|短気《たんき》を|出《だ》しては|俺達《おれたち》|三人《さんにん》の|首《くび》は|無《な》くなるぢやないか。|首《くび》が|無《な》くなつては|酒《さけ》を|飲《の》むと|云《い》つたつて|飲《の》めないぢやないか。|今日《けふ》はまア|此処《ここ》の|銀瓶《ぎんびん》でも|持《も》つて|帰《かへ》らう、ナア、ワツクス、|金《かね》の|代《かは》りに|銀瓶《ぎんびん》ならお|前《まへ》も|何《なん》とも|云《い》ひはすまい』
ワツクス『|夫《それ》は|何卒《どうぞ》|耐《こら》へて|呉《く》れ、|今《いま》|親父《おやぢ》が|帰《かへ》つて|来《き》て|調《しら》べたら|大変《たいへん》だからのう』
エキス『そんなら|床《とこ》の|置物《おきもの》が|無垢《むく》らしいから、|彼品《あいつ》を|攫《さら》つて|行《ゆ》かう、これなら|千両《せんりやう》や|二千両《にせんりやう》の|価値《ねうち》はあるだらうから』
ワツクス『|何卒《どうぞ》それだけは|耐《こら》へて|呉《く》れ、|親父《おやぢ》に|見《み》つけられては|困《こま》るからなア』
エキス『ヘン、|二《ふた》つ|目《め》には|親父々々《おやぢおやぢ》と|吐《ぬか》しやがつて、|親父《おやぢ》を|煮汁《だし》に|俺達《おれたち》の|要求《えうきう》を|拒絶《きよぜつ》する|考《かんが》へであらう、|同《おな》じ|穴《あな》の|貂《むじな》だ。|親父《おやぢ》だつて|貴様《きさま》の|陰謀《いんぼう》をすつかり|知《し》つて|居《ゐ》て、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》をしてけつかるのだ。ええもう|斯《か》うなつては|構《かま》ふものか、|悪胴《わるどう》を|据《す》ゑて|百両《ひやくりやう》|渡《わた》すか、この|無垢《むく》の|置物《おきもの》を|渡《わた》すかする|迄《まで》は、|十日《とをか》でも|廿日《はつか》でも|坐《すわ》り|込《こ》んで|動《うご》かない|覚悟《かくご》を|定《き》めやうかい』
ヘルマン『ワツクスの|云《い》ふ|通《とほ》り、|今日《けふ》は|柔順《おとなし》く|帰《かへ》つて|遣《や》らうぢやないか、|俺達《おれたち》も|矢張《やはり》|疵《きず》|持《も》つ|足《あし》だからなア』
エキス『|俺《おれ》は|一旦《いつたん》|云《い》ひ|出《だ》した|事《こと》は|後《あと》へは|退《ひ》かぬのだ。|馬鹿《ばか》らしい、|男《をとこ》がこれ|丈《だけ》|金銀《きんぎん》の|目《め》を|剥《む》いて|居《ゐ》る|家《いへ》へ|来《き》て|請求《せいきう》すべきものを|請求《せいきう》せずして|帰《かへ》る|事《こと》が|出来《でき》るものか、|貴様《きさま》もよい|腰抜《こしぬ》けだなア』
ヘルマンはムツと|腹《はら》を|立《た》て、|顔《かほ》を|真《ま》つ|赤《か》にしながら、|腹立紛《はらたちまぎ》れに|何《なに》も|彼《か》も|忘《わす》れて|仕舞《しま》ひ、
ヘルマン『こりやエキス、|悪垂口《あくたれぐち》を|叩《たた》くにも|程《ほど》がある。|俺《おれ》が|腰抜《こしぬ》けなら|貴様《きさま》は|魂抜《たまぬ》けだ。|今《いま》に|目《め》に|物《もの》|見《み》せてやらう、|覚悟《かくご》せよ』
と|云《い》ふより|早《はや》く|床《とこ》にあつた|無垢《むく》の|置物《おきもの》をグツと|頭上《づじやう》にさし|上《あ》げ、エキスを|目蒐《めが》けて|投《な》げつけた。エキスは|避《よ》け|損《そこな》うて|向脛《むかうずね》にカンと|打《う》ちあてられ、
『アイタタタ』
と|云《い》つたきり|座敷《ざしき》の|中央《まんなか》に|倒《たふ》れて|仕舞《しま》つた。|折柄《をりから》|門口《かどぐち》を|慌《あわ》ただしく|押《お》し|開《あ》けて|這入《はい》つて|来《き》たのは|此《この》|家《や》の|主人《しゆじん》オールスチンである。
オールス『オイ、ワツクス、|私《わし》の|留守中《るすちう》に|何《なに》を|喧嘩《けんくわ》して|居《ゐ》るのだ。|些《ちつと》|静《しづか》にせないか』
ワツクス『ヘエ、ほんの|酒《さけ》の|上《うへ》で|訳《わけ》もない|喧嘩《けんくわ》をおつ|初《ぱじ》めまして|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》が|厶《ござ》いませぬ』
オールス『さうではあるまい。|最前《さいぜん》から|門口《かどぐち》ですつかり|立聞《たちぎき》をした。|貴様《きさま》ら|三人《さんにん》は|如意宝珠《によいほつしゆ》を|盗《ぬす》んだ|大罪人《だいざいにん》だ。|仮令《たとへ》|吾《わが》|子《こ》と|雖《いへど》も|許《ゆる》す|事《こと》は|出来《でき》ぬ。サア|三人《さんにん》とも|手《て》を|後《うしろ》へ|廻《まは》せ』
ワツクス『お|父《とう》さま、|誠《まこと》に|済《す》まぬ|事《こと》を|致《いた》しました。|併《しか》し|乍《なが》らもう|今日《こんにち》|限《かぎ》り|心《こころ》を|改《あらた》めますから、|何卒《どうぞ》|内証《ないしよう》にして|下《くだ》さい』
オールス『|馬鹿《ばか》を|云《い》ふな、|誠《まこと》の|道《みち》に|親疎《しんそ》の|区別《くべつ》はない。オールスチンの|悴《せがれ》に|貴様《きさま》のやうな|大悪人《だいあくにん》が|出来《でき》たかと|思《おも》へば、|神様《かみさま》に|対《たい》し、|先祖《せんぞ》に|対《たい》し、|申訳《まをしわけ》がない、どうして|俺《おれ》の|顔《かほ》が|立《た》つか。グヅグヅ|云《い》はずに|罪《つみ》に|伏《ふく》するが|好《よ》い。これやエキス、ヘルマンの|両人《りやうにん》、|元《もと》を|云《い》へばお|前達《まへたち》が|悴《せがれ》に|知恵《ちゑ》をかつたのだから、お|前等《まへら》の|罪《つみ》が|最《もつと》も|重《おも》い、|併《しか》し|乍《なが》ら|悴《せがれ》も|悪《わる》いのだから|免《のが》れる|訳《わけ》にはゆかぬ。|三人《さんにん》|共《とも》|覚悟《かくご》してバラモンのお|経《きやう》でも|唱《とな》へたがよからう』
と|両眼《りやうがん》に|涙《なみだ》を|湛《たた》えて|居《ゐ》る。エキスは|吃驚《びつくり》して、
エキス『もしオールスチン|様《さま》、|誠《まこと》に|済《す》まぬ|事《こと》で|厶《ござ》いましたが、|是《これ》には|貴方《あなた》の|息子《むすこ》のワツクスも|入《はい》つて|居《ゐ》るのですから、|何卒《どうぞ》|大目《おほめ》に|見《み》て|下《くだ》さい。|何卒《どうぞ》|其《その》|筋《すぢ》へ|突《つ》き|出《だ》す|事《こと》だけは|許《ゆる》して|下《くだ》さい。その|代《かは》り|玉《たま》は|直様《すぐさま》お|還《かへ》し|申《まを》しますから』
オールス『|玉《たま》を|還《かへ》す|事《こと》は|勿論《もちろん》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|一旦《いつたん》|取《と》つた|罪《つみ》はどうしても|許《ゆる》す|事《こと》は|出来《でき》ぬ。さてもさても|困《こま》つた|事《こと》をして|呉《く》れたものだなア。この|儘《まま》にして|置《お》いたら|御主人《ごしゆじん》の|家《いへ》は|断絶《だんぜつ》、|随《したが》つて|此《この》|家令《かれい》も|監督不行届《かんとくふゆきとどき》の|罪《つみ》によつて、どんな|厳罰《げんばつ》に|処《しよ》せらるるかも|知《し》れない。|貴様等《きさまら》|三人《さんにん》を|突出《つきだ》して|主家《しゆけ》と|吾《わが》|家《や》を|守《まも》らねばならぬ。|斯様《かやう》な|時《とき》に|悴《せがれ》の|愛《あい》に|引《ひ》かれて|大事《だいじ》を|誤《あやま》るやうなオールスチンではないぞ』
と|声高《こわだか》に|叱《しか》りつけて|居《ゐ》る。|三人《さんにん》は|平《へ》た|蜘蛛《ぐも》のやうになつて|畳《たたみ》に|頭《かしら》をにぢりつけ、|只々《ただただ》|詫入《わびい》る|許《ばか》りであつた。オールスチンは|直《ただち》に|神前《しんぜん》に|額《ぬか》づき『|吾《わが》|子《こ》の|罪《つみ》を|許《ゆる》させたまへ』と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|祈《いの》つて|居《ゐ》る。されど|一旦《いつたん》|大罪《だいざい》を|犯《おか》した|此《この》|三人《さんにん》はどうしても|助《たす》ける|工夫《くふう》は|無《な》い。もしも|自分《じぶん》の|子《こ》なるが|故《ゆゑ》をもつて|罪《つみ》を|許《ゆる》さば|綱紀紊乱《かうきぶんらん》の|端緒《たんしよ》を|発《はつ》し、|不公平《ふこうへい》の|譏《そしり》を|受《う》け、|誠《まこと》の|道《みち》を|潰《つぶ》して|仕舞《しま》はねばならぬ、ああ|如何《いか》にせむと|滝《たき》の|如《ごと》くに|落涙《らくるゐ》して|居《ゐ》る。|二人《ふたり》は|目《め》と|目《め》を|見合《みあは》せ、|後《うしろ》から|細繩《ほそなは》を|首《くび》に|引《ひ》つかけ|引倒《ひきたふ》し|折重《をりかさ》なつて|締《し》め|殺《ころ》さうとして|居《ゐ》る。オールスチンは|力《ちから》|限《かぎ》りに、|防《ふせ》ぎ|戦《たたか》ひ、|逃《に》げ|脱《のが》れむとすれども|力《ちから》|足《た》らず、|彼等《かれら》がなす|儘《まま》に|任《まか》すより|仕方《しかた》がなかつた。
ワツクス『オイ、エキス、ヘルマン、|俺《おれ》の|親父《おやぢ》をさう|甚《ひど》い|事《こと》をして|呉《く》れな、|死《し》んで|了《しま》ふぢやないか。|打転《うちこか》す|位《くらゐ》はよいけれど、|命《いのち》|迄《まで》|取《と》らうとするのか』
エキス『|定《きま》つた|事《こと》だい。|此奴《こいつ》の|命《いのち》を|取《と》らねば|俺達《おれたち》の|命《いのち》が|無《な》くなるのだ。|貴様《きさま》の|命《いのち》もなくなるのだぞ。|何《なに》を|呆《とぼ》けて|居《ゐ》るのだ。オイ、ヘルマン|俺《おれ》は|老耄《おいぼれ》をバラして|了《しま》うから、|貴様《きさま》はワツクスをやつつけて|了《しま》へ』
ヘルマン『よし|来《き》た』
とワツクスに|喰《くら》ひつく。|茲《ここ》に|二組《ふたくみ》の|殺《ころ》し|合《あ》ひが|初《はじ》まり、ジタン、バタンと|怪《あや》しき|物音《ものおと》が|戸外《こぐわい》まで|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。|此《この》|物音《ものおと》を|聞《き》きつけ|慌《あわ》ただしく|飛《と》び|込《こ》んで|来《き》たのは、|小国別《をくにわけ》の|僕《しもべ》エルであつた。エキス、ヘルマンはエルの|顔《かほ》を|見《み》るより|一目散《いちもくさん》に|裏口《うらぐち》から|雲《くも》を|霞《かすみ》と|山越《やまごし》に|逃《に》げて|仕舞《しま》つた。そしてエルは|最前《さいぜん》からの|喧嘩《けんくわ》の|顛末《てんまつ》や|由来《ゆらい》を|残《のこ》らず|聞《き》いて|仕舞《しま》つた。オールスチンは|漸《やうや》くにして|起《お》き|上《あが》り|首筋《くびすぢ》の|痛《いた》みを|撫《な》でて|居《ゐ》る。ワツクスは、|庫《くら》の|中《なか》へ|飛《と》び|込《こ》み、|中《なか》より|錠《ぢやう》を|卸《おろ》して|慄《ふる》つて|居《ゐ》る。エルは|一目散《いちもくさん》にこの|有様《ありさま》を|報告《はうこく》せむと、|宙《ちう》を|切《き》つて|館《やかた》へ|馳帰《はせかへ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・三・一七 旧二・一 於竜宮館階上 加藤明子録)
第一八章 |寛恕《くわんじよ》〔一四四八〕
|小国姫《をくにひめ》は|三千彦《みちひこ》と|共《とも》に|一間《ひとま》に|入《はい》つて|心配《しんぱい》らし|相《さう》に、|密々《ひそびそ》と|話《はなし》をしてゐる。
|姫《ひめ》『モシ、アンブラツク|様《さま》、|家令《かれい》の|態度《たいど》がどうも|貴方《あなた》が|御出《おいで》になつてから、|何《なん》だかソワソワしてゐるやうですから、|彼《かれ》の|悴《せがれ》でも|若《も》しや|玉《たま》を|隠《かく》したのでは|厶《ござ》いますまいか。|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》を|困《こま》らせ|窮地《きうち》に|陥《おとしい》れ、|娘《むすめ》のデビス|姫《ひめ》を|女房《にようばう》に|致《いた》し、|良《よ》からぬ|思惑《おもわく》を|立《た》てようとしてゐるのでは|厶《ござ》いますまいか。|何《ど》うも|常《つね》から|怪《あや》しいと|思《おも》つてゐますが、|何《なに》を|云《い》つても|家令《かれい》の|悴《せがれ》ではあり、|言《い》ひ|出《だ》しかねて|誠《まこと》に|困《こま》つて|居《を》ります。|貴方《あなた》の|御考《おかんが》へは|何《ど》うで|厶《ござ》いますな』
|三千《みち》『モシ|貴方《あなた》、|家令《かれい》の|悴《せがれ》が|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|隠《かく》して|居《を》つたとすれば、|何《ど》うなさる|考《かんが》へで|厶《ござ》いますか』
|姫《ひめ》『|左様《さやう》な|事《こと》が|判《わか》れば、|何程《なにほど》|家令《かれい》の|息子《むすこ》と|云《い》つても|許《ゆる》す|事《こと》は|出来《でき》ますまい』
|三千《みち》『ここは|兎《と》も|角《かく》|円満《ゑんまん》に|事《こと》を|済《す》まさなくてはなりますまい。|第一《だいいち》お|館《やかた》の|恥《はぢ》になりますから……、そして|世間《せけん》へパツとしてからは|仕方《しかた》がありませぬから、|成《な》るべくは|内証《ないしよう》で|済《す》ましてやつたら|何《ど》うで|厶《ござ》いませう』
|姫《ひめ》『|玉《たま》さへ|還《かへ》つて|参《まゐ》りますれば、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》の|不調法《ぶてうはふ》にもならず、|皆《みな》が|助《たす》かる|事《こと》ならば|余《あま》り|表《おもて》へ|出《だ》したくは|厶《ござ》いませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|之《これ》も|明瞭《はつきり》した|事《こと》は|判《わか》りませぬから|貴方様《あなたさま》に|伺《うかが》つて|頂《いただ》き|度《た》いと|思《おも》つて、|主人《しゆじん》の|病気《びやうき》の|看護《かんご》の|隙《すき》に|御居間《おゐま》|迄《まで》|参《まゐ》りました』
|三千《みち》『|貴方《あなた》が|如何《いか》なる|罪《つみ》も|内済《ないさい》にしてやると|云《い》ふ|御考《おかんが》へならば|申《まを》しませう。|実《じつ》は|御察《おさつ》しの|通《とほ》り|家令《かれい》の|悴《せがれ》ワツクス、|並《ならび》にエキス、ヘルマンと|云《い》ふ|三人《さんにん》の|若《わか》い|者《もの》が|或《ある》|目的《もくてき》の|為《ため》|宝珠《ほつしゆ》を|盗《ぬす》んで|隠《かく》してゐるのです』
|姫《ひめ》『ああ、それで|合点《がつてん》が|行《ゆ》きました。|何《ど》うもワツクスの|態度《たいど》がソワソワして|居《ゐ》ると|思《おも》ふて|居《を》りました。|家令《かれい》のオールスチンは|極《きは》めて|忠実《ちうじつ》な|正直《しやうぢき》な|者《もの》で|厶《ござ》いますから、|彼《かれ》に|限《かぎ》つてそんな|事《こと》をする|気遣《きづかひ》は|厶《ござ》いませぬが、|体《からだ》は|生《う》みつけても、|魂《たましひ》は|生《う》みつけぬとか|申《まを》しまして、|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》の|悴《せがれ》に|馬鹿《ばか》が|生《うま》れたり、|忠臣《ちうしん》|義士《ぎし》の|子《こ》に|叛逆人《はんぎやくにん》の|生《うま》れるのは|世間《せけん》に|沢山《たくさん》ある|習《なら》ひで|厶《ござ》いますから、|家令《かれい》が|貴方《あなた》の|話《はなし》を|聞《き》いて|慌《あわ》てて|帰《かへ》りましたのも、|何《なに》か|心《こころ》に|当《あた》る|事《こと》があつたので|厶《ござ》いませう。|夫《それ》に|就《つい》て|僕《しもべ》のエルをして|様子《やうす》を|考《かんが》へにやらせましたが|何《ど》うしたものか|未《ま》だ|帰《かへ》つて|来《き》ませぬ』
|三千《みち》『ヤ、|今《いま》に|帰《かへ》られます。さうすれば|真相《しんさう》が|解《わか》ります。|成《な》る|可《べ》く|之《これ》は|大業《おほげふ》にしては|成《な》りますまい』
と|話《はな》す|処《ところ》へ、|僕《しもべ》のエルは|慌《あわ》ただしく|帰《かへ》り|来《きた》り、|息《いき》を|喘《はづ》ませ|乍《なが》ら、
エル『モシ|奥様《おくさま》、タタ|大変《たいへん》で|厶《ござ》います。|殺《ころ》し|合《あ》ひが|始《はじ》まりました』
|姫《ひめ》『ナニ、|殺《ころ》し|合《あ》が|始《はじ》まつたと……どこかに|喧嘩《けんくわ》をして|居《を》つたのかい』
エル『メメ|滅相《めつさう》な、|殺《ころ》し|合《あひ》といつたら|喧嘩《けんくわ》ぢやありませぬがなア。|喧嘩《けんくわ》のモ|一《ひと》つ|毛《け》の|生《は》えた|事《こと》ですがなア。ソレ|生命《いのち》の|取合《とりあひ》の|事《こと》ですがなア。|怖《おそ》ろしや|怖《おそ》ろしや、|地異天変《ちいてんぺん》|地異天変《ちいてんぺん》、|喉《のど》を|締《し》める、|置物《おきもの》をブツつける、|喚《わめ》く、|裏口《うらぐち》から|山越《やまご》しに|逃《に》げ|出《だ》す、|庫《くら》へスツ|込《こ》む、ソレはソレは|偉《えら》い|事《こと》で|厶《ござ》いました』
|姫《ひめ》『エル、そんな|事《こと》|云《い》つて|解《わか》るかい。そら|一体《いつたい》|何処《どこ》の|事《こと》だい』
エル『ヘイ、|定《きま》つて|居《を》りますがなア。|家《いへ》の|中《なか》の|事《こと》ですがなア』
|姫《ひめ》『|誰《たれ》と|誰《たれ》とが|喧嘩《けんくわ》をしたと|云《い》ふのだ』
エル『|男《をとこ》と|男《をとこ》が|命《いのち》の|奪《と》り|合《あひ》をしたのです。エー、|解《わか》らぬ|御方《おかた》ですなア』
|姫《ひめ》『|何処《どこ》の|何兵衛《なにべゑ》だと|問《と》ふてゐるのぢや』
エル『エー|辛気臭《しんきくさ》い、|何兵衛《なにべゑ》も|彼兵衛《かんべゑ》もありますかい。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》ると|生命《いのち》が|失《な》くなりますがなア。アアもどかしい|事《こと》だワイ』
|姫《ひめ》『そんな|解《わか》らぬ|事《こと》を|何時《いつ》|迄《まで》も|云《い》つて|居《を》つても|埒《らち》があかぬぢやないか。|此方《こちら》がもどかしいワ。|家令《かれい》の|館《やかた》へ|未《ま》だ|行《ゆ》かぬのか。|大方《おほかた》|犬《いぬ》の|喧嘩《けんくわ》でも|見《み》て|居《を》つたのだらう』
エル『ハイ、その|家令《かれい》ですがなア。それはそれは|偉《えら》い|事《こと》|怒《おこ》つてましたよ。|大《おほ》きな|額口《ひたひぐち》に|青筋《あをすぢ》を|立《た》てましてね……』
|三千《みち》『アハハハハ、イヤもうエルさまとやら、|分《わか》つて|居《を》ります。お|前《まへ》さまは|随分《ずいぶん》|慌《あわ》てて|居《を》るから、|云《い》ふ|事《こと》がシドロモドロになつて|解《わか》り|憎《にく》いが、お|前《まへ》は|家令《かれい》の|宅《うち》へ|行《い》つて|四人《よにん》の|喧嘩《けんくわ》を|見《み》て|来《き》たのだらう』
エル『ハイ|其《その》|通《とほ》りで|厶《ござ》います。サア|之《これ》から|村中《むらぢう》を|布令《ふれ》て|来《き》ます。|大変《たいへん》ぢや|大変《たいへん》ぢや』
と|飛《と》び|出《だ》さうとするのを、|小国姫《をくにひめ》は|襟髪《えりがみ》|掴《つか》んでグツと|引戻《ひきもど》し、
|姫《ひめ》『コリヤ、エル、|何処《どこ》へも|行《ゆ》く|事《こと》はならぬ。そして|何《なに》も|喋《しやべ》る|事《こと》はならぬぞ』
エル『ソソそんな|事《こと》|仰有《おつしや》つても、|之《これ》が|黙《だま》つて|居《を》られませうか。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》ると|家令《かれい》の|生命《いのち》が|失《な》くなるか|知《し》れませぬぞや』
|三千《みち》『エルさま、まア|落付《おちつ》いて|下《くだ》さい。|家令《かれい》は|大丈夫《だいぢやうぶ》だから、そして|何《なに》も|云《い》つちやなりませぬよ』
エルは『ハイ』と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|縮《ちぢ》んで|了《しま》つた。
|三千《みち》『|奥《おく》さま、|何《ど》うやらワツクスが|隠《かく》してゐたところ、|家令殿《かれいどの》に|看破《かんぱ》されて|一悶着《ひともんちやく》が|起《おこ》つたと|見《み》えます。|之《これ》は|私《わたし》に|任《まか》して|下《くだ》さい。キツト|如意宝珠《によいほつしゆ》を|持《も》つて|帰《かへ》り|御目《おめ》にかけます。そして|家令《かれい》の|親子《おやこ》を|私《わたくし》に|任《まか》して|下《くだ》さいませ。|斯《か》うして|発見《はつけん》したのも|矢張《やつぱり》|神様《かみさま》の|御蔭《おかげ》で|厶《ござ》いますからなア』
|姫《ひめ》『|何事《なにごと》も|神徳《しんとく》|高《たか》き|貴方様《あなたさま》の|仰《おほ》せ、|御任《おまか》せ|申《まを》します』
と|話《はな》して|居《を》る|処《ところ》へ、|家令《かれい》のオールスチンは、|吾《わが》|子《こ》のワツクスを|引立《ひきた》て|乍《なが》ら、|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|幾重《いくへ》にも|厳重《げんぢう》に|包《つつ》み、|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、パツと|両手《りやうて》をつき、
オールス『|奥様《おくさま》、|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》の|無《な》い|事《こと》を|致《いた》しました。|悴《せがれ》の|馬鹿者《ばかもの》が|悪《わる》い|友達《ともだち》に|唆《そそのか》され、|種々《いろいろ》の|謀叛《むほん》を|企《たく》み、|隠《かく》して|居《を》りましたのを|漸《やうや》く|覚《さと》り、|悴《せがれ》に|腰繩《こしなは》をつけて、|此処迄《ここまで》お|詫《わび》に|参《まゐ》りました。|何《いづ》れ|倅《せがれ》は|生命《いのち》の|大罪人《だいざいにん》で|厶《ござ》いますから、|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》にしてやつて|下《くだ》さいませ。|私《わたし》の|倅《せがれ》に|斯様《かやう》な|者《もの》が|出来《でき》たと|思《おも》へば|旦那様《だんなさま》へも、|世間《せけん》へも|申訳《まをしわけ》が|立《た》ちませぬから……』
と|云《い》ふより|早《はや》く|懐剣《くわいけん》を|引抜《ひきぬ》き、|矢庭《やには》に|吾《わが》|腹《はら》に|突立《つきた》てようとする|一刹那《いつせつな》、|三千彦《みちひこ》は|飛《と》び|下《くだ》りて|懐剣《くわいけん》をもぎとり、|声《こゑ》を|励《はげ》まして、
|三千《みち》『オールスチン|殿《どの》、|心《こころ》を|落付《おちつ》けなされ。|何事《なにごと》も|皆《みな》|神様《かみさま》の|摂理《せつり》で|厶《ござ》いませう。|此《この》|問題《もんだい》は|奥様《おくさま》より|私《わたし》が|一任《いちにん》されて|居《を》りますから、|先《ま》づ|御急《おせ》きなさるには|及《およ》びませぬ。|今《いま》|死《し》ぬる|命《いのち》を|長《なが》らへて|御主人様《ごしゆじんさま》へ|忠義《ちうぎ》を|御尽《おつく》しなさる|方《はう》が、|何程《なにほど》|誠《まこと》が|通《とほ》るか|知《し》れませぬよ。そして|貴方《あなた》の|息子《むすこ》、ワツクス|殿《どの》も|三千彦《みちひこ》が|預《あづ》かつて|居《を》りますれば|安心《あんしん》なさるが|宜《よろ》しい。|実《じつ》の|処《ところ》|私《わたし》はアンブラツクとは|仮《かり》の|名《な》、|実《じつ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|三千彦《みちひこ》と|申《まを》す|者《もの》、|当館《たうやかた》はバラモン|教《けう》だと|知《し》つた|故《ゆゑ》に、|故意《わざ》とバラモン|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》と|化《ば》け|込《こ》んで|御救《おすく》ひに|参《まゐ》つたのです。|今《いま》|迄《まで》|吾《わが》|名《な》を|詐《いつは》つた|罪《つみ》は|奥様《おくさま》を|始《はじ》め|御一同様《ごいちどうさま》|御許《おゆる》しを|願《ねが》ひます』
|姫《ひめ》『エー|何《なん》と|仰有《おつしや》います。|貴方《あなた》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》で|厶《ござ》いましたか。|之《これ》はイカイ|御無礼《ごぶれい》を|致《いた》しました。|併《しか》し|乍《なが》らよくまア|急場《きふば》を|助《たす》けて|下《くだ》さいました。|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます。|貴方《あなた》の|御神徳《ごしんとく》に|依《よ》つて|玉《たま》の|所在《ありか》が|分《わか》り、|斯《こ》んな|嬉《うれ》しい|事《こと》は|厶《ござ》いませぬ』
|三千《みち》『|三五教《あななひけう》と|云《い》ひ、バラモン|教《けう》と|云《い》ふも|元《もと》を|正《ただ》せば|一《ひと》つの|神様《かみさま》で|厶《ござ》いますから、|教《をしへ》に|勝劣《しようれつ》は|厶《ござ》いますまい。|只《ただ》|道《みち》を|奉《ほう》ずるものの|心《こころ》に|依《よ》つて|御神徳《ごしんとく》の|現《あら》はれに|大小高下《だいせうかうげ》の|区別《くべつ》がつく|丈《だ》けのものです』
オールス『|貴方《あなた》は|初《はじ》めて|御目《おめ》にかかつた|時《とき》から、|何処《どこ》とはなしに|変《かは》つた|御方《おかた》と|思《おも》つて|居《を》りましたが、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》で|厶《ござ》いましたか。|誠《まこと》に|失礼《しつれい》|致《いた》しました。|斯様《かやう》な|乱痴気騒《らんちきさわ》ぎを|御目《おめ》に|掛《か》け、|誠《まこと》に|御恥《おはづ》かしう|厶《ござ》います。|吾々《われわれ》|親子《おやこ》はバラモンの|顔《かほ》に|泥《どろ》を|塗《ぬ》つたものですから、|何卒《どうぞ》|死《し》なして|下《くだ》さいませ。|之《これ》ばかりがお|願《ねがひ》で|厶《ござ》います。そして|私《わたし》の|自殺《じさつ》に|依《よ》つて|倅《せがれ》の|罪《つみ》を|幾分《いくぶん》|軽《かる》くして|下《くだ》さる|事《こと》ならば、それを|冥途《めいど》の|御土産《おみやげ》として、|勇《いさ》んで|死《し》に|就《つ》きます。|南無《なむ》|大自在天《だいじざいてん》|大国彦命《おほくにひこのみこと》|様《さま》……』
と|合掌《がつしやう》し、|決死《けつし》の|覚悟《かくご》を|示《しめ》して|居《ゐ》る。
|三千彦《みちひこ》は|立上《たちあが》り|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|始《はじ》めたり。
『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |吾《われ》は|三千彦神司《みちひこかむつかさ》
|神《かみ》の|御綱《みつな》に|操《あやつ》られ |不知々々《しらずしらず》にテルモンの
|山《やま》の|麓《ふもと》に|現《あら》はれて |清《きよ》き|流《なが》れを|打《う》ち|渡《わた》り
|此方《こなた》に|向《むか》つて|進《すす》む|折《をり》 |小国姫《をくにひめ》の|神司《かむづかさ》
|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》を|伴《ともな》ひて いと|懇《ねもごろ》に|吾《わ》が|身《み》をば
|館《やかた》に|誘《いざな》ひ|帰《かへ》りまし |種々《いろいろ》|雑多《ざつた》の|御悩《おんなや》み
|包《つつ》まず|隠《かく》さず|宣《の》り|玉《たま》ひ はからせ|玉《たま》ふを|聞《き》くよりも
|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》に|堪《た》えかねて |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|真心《まごころ》|籠《こ》めて|祈《いの》る|折《をり》 |神《かみ》の|化身《けしん》のスマートが
|吾《わ》が|耳《みみ》|近《ちか》く|声《こゑ》をかけ |如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》の|行衛《ゆくゑ》をば
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|相示《あひしめ》し ケリナの|姫《ひめ》や|其《その》|外《ほか》の
|数多《あまた》の|託宣《たくせん》|下《くだ》しつつ |雲路《くもぢ》を|分《わ》けて|帰《かへ》ります
|吾《わ》れは|心《こころ》も|勇《いさ》み|立《た》ち |小国姫《をくにひめ》に|打《う》ち|向《むか》ひ
|天地《てんち》の|道理《だうり》を|説《と》き|諭《さと》し |唯《ただ》|何事《なにごと》も|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》 |見直《みなほ》しませと|勧《すす》めつつ
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|平伏《ひれふ》して |此《この》|難局《なんきよく》をいと|安《やす》く
|結《むす》ばむために|村肝《むらきも》の |心《こころ》を|千々《ちぢ》に|配《くば》りけり
|時《とき》しもあれやエルさまは |慌《あわ》ただしくも|入《い》り|来《きた》り
|家令《かれい》の|館《やかた》に|人殺《ひとごろし》 |大騒動《だいさうどう》が|突発《とつぱつ》し
|居《ゐ》たりと|報告《ほうこく》|聞《き》くよりも |外《ほか》へ|洩《も》れては|一大事《いちだいじ》
|如何《いかが》はせむと|思《おも》ふ|折《をり》 オールスチンの|御入来《ごじうらい》
|珍《うづ》の|宝《たから》を|芽出度《めでたく》も |此処《ここ》に|運《はこ》ばせ|玉《たま》ひたる
|此《この》|瑞祥《ずゐしやう》はテルモンの |館《やかた》の|万代不易《ばんだいふえき》なる
|瑞祥《ずゐしやう》なりと|祝《いは》ひつつ |凡《すべ》ての|曲《まが》を|宣《の》り|直《なほ》し
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|大神《おほかみ》の さばきに|任《まか》せ|奉《まつ》るべし
|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》 |元《もと》より|悪《あ》しきものならず
|八岐大蛇《やまたをろち》や|醜神《しこがみ》の |曲津霊《まがつみたま》に|曇《くも》らされ
|不知々々《しらずしらず》に|悪魔道《あくまだう》へ |堕《お》ち|行《ゆ》きたりしものなれば
|皇大神《すめおほかみ》に|賜《たま》ひたる |厳《いづ》の|言霊《ことたま》|宣《の》り|上《あ》げて
いろいろ|雑多《ざつた》の|罪科《つみとが》を |科戸《しなど》の|風《かぜ》に|吹払《ふきはら》ひ
|払《はら》ひ|清《きよ》めて|速川《はやかは》の |流《なが》れの|如《ごと》く|身体《からたま》や
|霊《みたま》に|塵《ちり》も|止《と》めざれと |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|三千彦《みちひこ》|祈《いの》り|奉《たてまつ》る |小国姫《をくにひめ》よオールスチンよ
ワツクス|司《つかさ》よ|心安《うらやす》く |思召《おぼしめ》されよ|三千彦《みちひこ》が
ここに|現《あら》はれ|来《き》し|上《うへ》は |如何《いか》でか|罪人《つみびと》|造《つく》らむや
|心《こころ》|安《やす》かれ|惟神《かむながら》 |神《かみ》に|誓《ちか》ひて|宣《の》り|伝《つた》ふ
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の
|教《をしへ》に|身《み》をば|任《まか》しなば |如何《いか》なる|曲《まが》の|猛《たけ》びをも
|決《けつ》して|怖《おそ》るる|事《こと》は|無《な》し |尊《たふと》み|敬《ゐやま》へ|三五《あななひ》の
|皇大神《すめおほかみ》の|御神徳《ごしんとく》 バラモン|教《けう》を|守《まも》ります
|大国彦《おほくにひこ》の|御稜威《おんみいづ》 ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
|三千彦《みちひこ》の|歌《うた》にて|家令《かれい》のオールスチン|及《および》ワツクスはヤツと|安心《あんしん》し、|涙《なみだ》を|流《なが》して|神恩《しんおん》を|感謝《かんしや》し、|如意宝珠《によいほつしゆ》を|奉持《ほうぢ》して|小国別《をくにわけ》の|病室《びやうしつ》に|罪《つみ》を|陳謝《ちんしや》すべく、|小国姫《をくにひめ》、|三千彦《みちひこ》と|共《とも》にシトシトと|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・三・一七 旧二・一 於竜宮館 外山豊二録)
第一九章 |痴漢《ちかん》〔一四四九〕
|館《やかた》の|主人《あるじ》、|小国別《をくにわけ》はソフアーの|上《うへ》に|横《よこた》はり|息《いき》も|絶《た》え|絶《だ》えに|苦《くる》しんでゐる。|二人《ふたり》の|看護手《かんごしゆ》は|寝食《しんしよく》を|忘《わす》れて|介抱《かいはう》に|余念《よねん》なかつた。|小国姫《をくにひめ》はオールスチン、|三千彦《みちひこ》、ワツクスを|伴《ともな》ひ|入《い》り|来《きた》り、
|姫《ひめ》『|旦那様《だんなさま》、|喜《よろこ》んで|下《くだ》さいませ。|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|三千彦《みちひこ》|様《さま》のお|蔭《かげ》によりまして|如意宝珠《によいほつしゆ》の|神宝《しんぱう》が|帰《かへ》りまして|厶《ござ》います。|之《これ》を|御覧《ごらん》なさいませ』
と|包《つつ》みを|解《と》いて|目《め》の|前《まへ》につきつけた。|小国別《をくにわけ》は|病《や》み|疲《つか》れ、|衰《おとろ》へたる|目《め》の|光《ひか》りに|玉《たま》を|眺《なが》めてニヤリと|笑《わら》ひ|双手《もろて》を|合《あは》せて|感涙《かんるゐ》に|咽《むせ》んでゐる。そして|只《ただ》「|有難《ありがた》う」と|一言《ひとくち》|云《い》つたきり|後《あと》の|語《ご》を|次《つ》ぐ|事《こと》は|出来《でき》なかつた。これは|衰弱《すゐじやく》の|甚《はなは》だしき|上《うへ》に、|余《あま》りの|喜《よろこ》びに|打《う》たれたからである。|三千彦《みちひこ》は|病人《びやうにん》の|側《そば》|近《ちか》く|寄《よ》り、
|三千《みち》『この|通《とほ》り|御神宝《ごしんぱう》が|帰《かへ》りました|上《うへ》は、|又《また》もや|神様《かみさま》の|御恵《みめぐみ》によりまして、|屹度《きつと》ケリナ|姫様《ひめさま》も|近《ちか》い|中《うち》にお|帰《かへ》りになるでせう。|御安心《ごあんしん》なさいませ』
と|詞《ことば》|優《やさ》しく|慰《なぐさ》むれば|小国別《をくにわけ》は|掌《て》を|合《あは》せ、|娘《むすめ》の|近《ちか》い|中《うち》に|帰《かへ》ると|云《い》ふ|証言《しようげん》を|聞《き》くより、|稍《やや》|元気《げんき》づき、
|小国《をくに》『|娘《むすめ》が|帰《かへ》りますか。それは|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|到底《たうてい》|私《わたし》は|今度《こんど》は、もう|旅立《たびだち》をせなくてはなりませぬ。せめてそれ|迄《まで》に|紛失《ふんしつ》した|如意宝珠《によいほつしゆ》を、もとに|還《かへ》し、|娘《むすめ》の|顔《かほ》を|生前《せいぜん》に|一目《ひとめ》なりと|見《み》て|此《この》|世《よ》を|去《さ》り|度《た》いと|思《おも》うて|居《を》りましたが、|斯《か》う|弱《よわ》りきつては、もう|三日《みつか》も|命《いのち》が|続《つづ》きますまい。|成《な》る|事《こと》ならば|一時《ひととき》も|早《はや》う|引寄《ひきよ》せて|頂《いただ》き|度《た》う|厶《ござ》います』
|三千《みち》『もう|間《ま》もなくお|帰《かへ》りになりませう。|私《わたし》の|耳《みみ》の|側《そば》で|神様《かみさま》がさう|仰《おほ》せになりました。|併《しか》し|乍《なが》ら|御病気《ごびやうき》に|障《さは》るとなりませぬから、|吾々《われわれ》は|控《ひか》へさして|頂《いただ》きませう』
|小国《をくに》『|何卒《どうぞ》|御自由《ごじいう》にお|休《やす》み|下《くだ》さいませ』
と|微《かすか》の|声《こゑ》で|挨拶《あいさつ》する。|家令《かれい》のオールスチンは|病人《びやうにん》の|側《そば》|近《ちか》くより、
オールス『|旦那様《だんなさま》、|何卒《どうぞ》|気《き》を|確《しつか》りして|下《くだ》さいませ。そして|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|盗《ぬす》んで|匿《かく》して|居《を》つたのは|私《わたくし》の|悴《せがれ》ワツクスで|厶《ござ》りました。|誠《まこと》に|偉《えら》い|御心配《ごしんぱい》をかけまして|申訳《まをしわけ》が|厶《ござ》いませぬ。|此《この》|皺腹《しわばら》を|切《き》つて|申訳《まをしわけ》を|致《いた》さむと|覚悟《かくご》を|定《き》めた|所《ところ》を|奥様《おくさま》に|止《とど》められ、|惜《をし》からぬ|命《いのち》を|少時《しばし》|延《の》ばしましたが、|何卒《どうぞ》|貴方《あなた》が|命数《めいすう》|尽《つ》きてお|国替《くにがへ》|遊《あそ》ばすやうの|事《こと》あれば|屹度《きつと》|私《わたくし》もお|伴《とも》|致《いた》します。|何卒《どうぞ》|何処《どこ》|迄《まで》も|主従《しゆじゆう》の|縁《えん》を|断《き》らぬやうにして|下《くだ》さいませ』
|小国別《をくにわけ》は|微《かすか》に|首肯《うなづ》いた。|三千彦《みちひこ》はワツクスの|手《て》を|曳《ひ》いて|自分《じぶん》の|居間《ゐま》へと|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|二人《ふたり》の|看護人《かんごにん》とオールスチンに|小国別《をくにわけ》の|介抱《かいはう》を|頼《たの》み|置《お》き、|小国姫《をくにひめ》は|又《また》もや|三千彦《みちひこ》の|居間《ゐま》に|来《きた》り|心配《しんぱい》さうな|顔《かほ》をして、
|姫《ひめ》『|三千彦《みちひこ》|様《さま》、|誠《まこと》に|御心配《ごしんぱい》|許《ばか》りかけまして|申訳《まをしわけ》が|厶《ござ》いませぬが、|主人《しゆじん》は|到底《たうてい》あきますまいかな』
|三千《みち》『お|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら|到底《たうてい》|駄目《だめ》で|厶《ござ》いませう。|併《しか》し|乍《なが》ら|仮令《たとへ》|肉体《にくたい》はなくなつても|精霊《せいれい》は|活々《いきいき》として|若《わか》やぎ、|霊界《れいかい》に|於《おい》て|神様《かみさま》の|為《ため》に|大活動《だいくわつどう》を|成《な》されますから、|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|人《ひと》は|諦《あきら》めが|肝腎《かんじん》で|厶《ござ》いますからな』
|姫《ひめ》『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|最早《もはや》|覚悟《かくご》は|致《いた》して|居《を》ります。|然《しか》し|乍《なが》ら、も|一《ひと》つ|心配《しんぱい》な|事《こと》が|厶《ござ》いますが|一寸《ちよつと》|伺《うかが》つて|貰《もら》ふ|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬか』
|三千《みち》『|何事《なにごと》か|存《ぞん》じませぬが|一寸《ちよつと》|云《い》つて|御覧《ごらん》なさいませ』
|姫《ひめ》『|実《じつ》の|所《ところ》は|私《わたし》の|娘《むすめ》デビス|姫《ひめ》と|申《まを》すのが、|今日《けふ》で|三七二十一日《さんしちにじふいちにち》の|間《あひだ》、|昼《ひる》さへ|人《ひと》のよう|行《ゆ》かぬアンブラツクの|滝《たき》へ、|玉《たま》の|所在《ありか》を|知《し》らして|下《くだ》さるやう、|父《ちち》の|病気《びやうき》が|癒《なほ》るやう、も|一《ひと》つは|妹《いもうと》の|所在《ありか》が|判《わか》るやうと、|繊弱《かよわ》き|女《をんな》の|身《み》を|以《もつ》て|毎晩《まいばん》|二里《にり》の|道《みち》を|往復《わうふく》|致《いた》し、|何時《いつ》も|夜明《よあ》け|方《がた》に|帰《かへ》つて|参《まゐ》りますが、|今日《けふ》は|如何《どう》したものかまだ|帰《かへ》つて|参《まゐ》りませぬ。|大方《おほかた》|滝壺《たきつぼ》に|落《お》ちて|命《いのち》を|捨《す》てたのでは|厶《ござ》いますまいか。|但《ただ》しは|猛獣《まうじう》に|殺《ころ》されたのではありますまいか。|俄《にはか》に|胸騒《むなさわ》ぎがして|気《き》が|気《き》ぢやありませぬ』
|三千《みち》『|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|半時《はんとき》|経《た》たない|間《うち》に|御姉妹《ごきやうだい》|打揃《うちそろ》ふて、|一人《ひとり》の|修験者《しうげんじや》に|送《おく》られて|無事《ぶじ》に|帰《かへ》られます。|間違《まちが》ひは|厶《ござ》いませぬからな』
|姫《ひめ》『|左様《さやう》で|厶《ござ》いますかな。|娘《むすめ》|二人《ふたり》が|帰《かへ》つて|呉《く》れたならば、|最早《もはや》|心配事《しんぱいごと》は|厶《ござ》いませぬ。ああ|南無《なむ》|大慈《だいじ》|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》、|何卒々々《なにとぞなにとぞ》|一時《いちじ》も|早《はや》く|娘《むすめ》|二人《ふたり》の|顔《かほ》を|夫《をつと》の|命《いのち》のある|間《うち》に|見《み》せて|下《くだ》さいますやうお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
と|涙《なみだ》を|流《なが》して|祈《いの》り|入《い》る。
|三千《みち》『これ、ワツクスさま、お|前《まへ》は|大《だい》それた|悪《わる》い|事《こと》を|成《な》さつたが、これと|云《い》ふのもお|前《まへ》の|副守護神《ふくしゆごじん》がやつたのだから、|茲《ここ》に|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》して|頂《いただ》き、|内分《ないぶん》で|済《す》ます|事《こと》になつてゐますから、|之《これ》から|心得《こころえ》て|貰《もら》はねばなりませぬぞ』
ワツクス『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります。|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》のない|不調法《ぶてうはふ》を|致《いた》しました。|今度《こんど》|私《わたし》の|罪《つみ》をお|助《たす》け|下《くだ》さいますならば、|無《な》い|命《いのち》と|心得《こころえ》て|如何《いか》|様《やう》なる|働《はたら》きも|致《いた》し、|屹度《きつと》|御恩返《ごおんがへ》しを|致《いた》します。モシ|奥様《おくさま》、|屹度《きつと》お|赦《ゆる》し|下《くだ》さいますか』
|姫《ひめ》『|赦《ゆる》し|難《がた》い|罪人《ざいにん》なれど|三千彦《みちひこ》|様《さま》のお|計《はか》らひにより|内証《ないしやう》で|済《す》ます|事《こと》にして|上《あ》げよう。|之《これ》からキツと|心得《こころえ》たがよいぞや。|年寄《としよ》つた|一人《ひとり》の|親《おや》に|心配《しんぱい》をかけ、|本当《ほんたう》にお|前《まへ》は|不孝《ふかう》な|者《もの》だ。|親《おや》ばかりか、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》や|娘《むすめ》に|迄《まで》も|心配《しんぱい》|苦労《くらう》をかけて|困《こま》らしたのだから、|今後《こんご》は|屹度《きつと》|慎《つつし》んで|貰《もら》はねばならぬぞや』
ワツクス『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。これから|貴方様《あなたさま》を|親様《おやさま》として|真心《まごころ》を|尽《つく》しお|仕《つか》へ|申《まを》します』
|姫《ひめ》『これ、ワツクス、お|前《まへ》は|親《おや》があるぢやないか、|妾《わし》を|主人《しゆじん》として|仕《つか》へるべきものだ。|親《おや》として|仕《つか》へる|等《など》とはチツと|可笑《をか》しいぢやないか』
ワツクス『|義《ぎ》に|於《おい》ては|御主人《ごしゆじん》で|厶《ござ》ります。|然《しか》し|情《じやう》に|於《おい》ては|親様《おやさま》と|存《ぞん》じてツヒ|不都合《ふつがふ》な|事《こと》を|申《まを》しました。|然《しか》しお|赦《ゆる》し|下《くだ》さつた|以上《いじやう》は|私《わたくし》を|子《こ》として|下《くだ》さいませうな。|実《じつ》の|所《ところ》はエキス、ヘルマンの|両人《りやうにん》が|盗《ぬす》み|出《だ》したので|厶《ござ》いますが、|私《わたくし》が|種々《いろいろ》と|苦心《くしん》をして|玉《たま》の|所在《ありか》を|白状《はくじやう》させ、お|家《いへ》の|為《ため》に|働《はたら》いたので|厶《ござ》います。|二人《ふたり》の|者《もの》を|助《たす》けたさに|私《わたくし》が|盗《と》つたと|父《ちち》に|申《まを》しましたが、その|実《じつ》はヘルマン、エキスの|両人《りやうにん》が|盗《ぬす》み|出《だ》したので|厶《ござ》います。それをば|父《ちち》に|匿《かく》して|金《かね》をやり、|酒《さけ》を|飲《の》まして|白状《はくじやう》させ、ヤツとの|事《こと》で|如意宝珠《によいほつしゆ》を|手《て》に|入《い》れたので|厶《ござ》います。|貴女《あなた》はお|忘《わす》れでも|厶《ござ》いますまいが|家中《かちう》|一般《いつぱん》に|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》の|所在《ありか》を|探《さが》し、|持《も》つて|来《き》たものはデビス|姫《ひめ》の|養子《やうし》にすると|仰有《おつしや》つたぢや|厶《ござ》いませぬか、さすれば|仰《おほ》せの|通《とほ》り|私《わたくし》は|御養子《ごやうし》にして|頂《いただ》くべき|資格《しかく》があらうと|存《ぞん》じます』
|姫《ひめ》『そりや、お|前《まへ》の|云《い》ふ|通《とほ》り、|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|探《さが》し、|持《も》つて|来《き》たものは|養子《やうし》にすると|云《い》ふて|置《お》いた。|然《しか》しお|前《まへ》は|親《おや》|一人《ひとり》、|子《こ》|一人《ひとり》、|家令《かれい》の|家《いへ》を|継《つ》がねばならぬ|身《み》の|上《うへ》だから、それは|出来《でき》ますまい。|先祖《せんぞ》の|家《いへ》を|忽《おろそ》かにする|訳《わけ》には|行《ゆ》くまいからな』
ワツクス『いえ、そんな|心配《しんぱい》は|要《い》りませぬ。|私《わたくし》が|養子《やうし》になり、デビスさまとの|間《あひだ》に|三人《さんにん》や|五人《ごにん》は|子《こ》が|出来《でき》ませうから、|其《その》|中《うち》の|一人《ひとり》を|頂《いただ》いて、|私《わたくし》の|家《いへ》を|継《つ》がせば|宜《よろ》しいぢやありませぬか』
|姫《ひめ》『もし|三千彦《みちひこ》|様《さま》、あんな|事《こと》を|申《まを》しますが|如何《いかが》したら|宜《よろ》しう|厶《ござ》いませうかな』
|三千彦《みちひこ》はワツクスの|顔《かほ》をギユツと|睨《にら》みつけ|口《くち》をヘの|字《じ》に|結《むす》んでゐる。ワツクスは|怖《こは》|相《さう》に|少《すこ》しばかり|声《ごゑ》を|慄《ふる》はし|乍《なが》ら、
ワツクス『モシ、|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|何卒《どうぞ》|私《わたくし》を|約束通《やくそくどほ》り、|玉《たま》の|発見人《はつけんにん》ですから|養子《やうし》にして|下《くだ》さるやう|御《お》とり|成《な》しを|願《ねが》ひます』
|三千《みち》『これ、ワツクス、お|前《まへ》は|吾々《われわれ》を|盲《めくら》にするのか、|否《いや》|御夫婦《ごふうふ》を|騙《たばか》る|積《つも》りか。|今《いま》|云《い》つた|言葉《ことば》は|皆《みな》|詐《いつは》りだらうがな。お|前《まへ》はお|家《いへ》の|重宝《ぢうほう》を|匿《かく》し、|御夫婦《ごふうふ》を|困《こま》らし、|往生《わうじやう》づくめでデビス|姫様《ひめさま》の|夫《をつと》にならうとの|計略《けいりやく》をやつたのであらう。そんな|事《こと》に|誤魔化《ごまくわ》される|三千彦《みちひこ》ぢやありませぬぞ』
ワツクス『メメメ|滅相《めつさう》な。さう|誤解《ごかい》をされては|困《こま》ります。あれ|丈《だけ》|苦心《くしん》してお|家《いへ》の|為《た》めになる|宝《たから》を|手《て》に|入《い》れた|此《この》|忠臣《ちうしん》を、|悪人扱《あくにんあつか》ひにされては|根《ね》つから|勘定《かんぢやう》が|合《あ》ひませぬ。|何卒《どうぞ》も|一度《いちど》お|考《かんが》へ|直《なほ》しを|願《ねが》ひます』
|三千《みち》『お|黙《だま》りなさい。|左様《さやう》の|事《こと》を|仰有《おつしや》ると|最早《もはや》|容赦《ようしや》はしませぬぞ。|高手小手《たかてこて》に|縛《いまし》め|唐丸籠《たうまるかご》に|乗《の》せてハルナの|都《みやこ》へ|送《おく》り|届《とど》けませうか。|又《また》|何程《なにほど》お|前《まへ》がデビス|姫様《ひめさま》に|恋慕《れんぼ》して|居《を》つても、|肝腎《かんじん》の|姫様《ひめさま》がお|嫌《きら》ひ|遊《あそ》ばしたら|如何《どう》する|積《つも》りだ。|愛《あい》なき|結婚《けつこん》でもお|前《まへ》は|快《こころよ》う|思《おも》ふのか。|家令《かれい》の|悴《せがれ》にも|似《に》ず、|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》を|仰有《おつしや》るぢやないか』
ワツクス『|吾々《われわれ》を|威喝《ゐかつ》して|二人《ふたり》の|恋仲《こひなか》を|遮《さへぎ》り|後《あと》にヌツケリコとお|前《まへ》さまが|養子《やうし》に|這入《はい》りこむ|考《かんが》へだらう。そんな|事《こた》あチヤーンと|此《こ》のワツクスは|腹《はら》の|底《そこ》まで|読《よ》んで|居《を》りますぞ』
|三千《みち》『これはしたり、|迷惑千万《めいわくせんばん》、|何《なん》と|云《い》ふ|失礼《しつれい》な|事《こと》を|仰《おほ》せられるか。|吾々《われわれ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|大切《たいせつ》なるメツセージを|受《う》けて|或《ある》|所《ところ》まで|進《すす》まねばならぬ|身《み》の|上《うへ》、|女《をんな》を|連《つ》れるなどとは|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|事《こと》。お|前《まへ》の|心《こころ》を|以《もつ》て|吾々《われわれ》の|心《こころ》を|測量《そくりやう》するとは|些《ちつ》と|失礼《しつれい》では|厶《ござ》らぬか』
ワツクス『|宣伝使《せんでんし》と|云《い》ふものは、そんな|事《こと》をよく|云《い》ふものです。|口《くち》でこそ|立派《りつぱ》に|女嫌《をんなぎら》ひの|様《やう》な|事《こと》を|云《い》つて|居《ゐ》ますが|蔭《かげ》に|廻《まは》ると、もとが|人間《にんげん》ですから|駄目《だめ》ですわい。デビス|姫様《ひめさま》が|欲《ほ》しけりや|欲《ほ》しいとハツキリ|云《い》ひなさい』
|姫《ひめ》『これ、ワツクス、|何《なん》と|云《い》ふ|失礼《しつれい》な|事《こと》を|申《まを》すのだ。|玉盗人《たまぬすびと》はお|前《まへ》に|違《ちが》ひない。|現在《げんざい》お|前《まへ》の|親《おや》が|証明《しようめい》して|居《ゐ》るのぢやないか』
ワツクスは|自棄糞《やけくそ》になり、|尻《しり》をクレツと|捲《まく》つて|此《この》|場《ば》を|後《あと》に、|一目散《いちもくさん》に|表門《おもてもん》を|潜《くぐ》つて|駆《か》け|出《だ》した。|小国姫《をくにひめ》は|手《て》を|拍《う》つてエルを|招《まね》きワツクスの|後《あと》を|追跡《つゐせき》せよと|命《めい》じた。|狼狽者《あわてもの》のエルは|皆《みな》まで|聞《き》かず、『ハイ、|承知《しようち》しました』と|又《また》もや|此処《ここ》を|飛《と》び|出《だ》し|地響《ぢひび》きさせ|乍《なが》らドンドンドンと|門外《もんぐわい》へ|駆《か》け|出《だ》し、|道《みち》の|鍵《かぎ》の|手《て》になつた|所《とこ》を、|頭《あたま》を|先《さき》につき|出《だ》し|体《からだ》を|横《よこ》にして|走《はし》る|途端《とたん》に、あまり|広《ひろ》くもない|道端《みちばた》の|柿《かき》の|木《き》に|大牛《おほうし》が|繋《つな》いであつた。|其《その》|牛《うし》の|尻《しり》にドンと、|頭突《づつき》をかました。|牛《うし》は|驚《おどろ》いてポンと|蹴《け》つた|拍子《ひやうし》にエルはウンと|許《ばか》り|倒《たふ》れた。|牛《うし》は|二《ふた》つ|三《み》つ|尻《しり》を|振《ふ》つて|再《ふたた》びエルの|睾丸《きんたま》の|端《はし》をグツと|踏《ふ》み、|力《ちから》を|入《い》れてグーツと|捻《ねぢ》た。エルはキヤツキヤツと|悲鳴《ひめい》を|挙《あ》げてゐる。|通《とほ》りかかつた|旅人《たびびと》や|近所《きんじよ》の|家《いへ》からドヤドヤと|集《あつ》まつて|来《き》てエルを|助《たす》け、|傍《かたはら》の|或《ある》|家《いへ》に|担《かつ》ぎ|込《こ》み、|様子《やうす》を|聞《き》けばエルは|顔《かほ》を|顰《しか》め|乍《なが》ら、
エル『|皆《みな》さま、|如意宝珠《によいほつしゆ》のお|宝《たから》が|手《て》に|入《い》りました。そして|様子《やうす》を|聞《き》けばワツクスが|玉《たま》の|所在《ありか》を|探《さが》した|御褒美《ごほうび》に、デビス|姫《ひめ》さまの|婿《むこ》になると|云《い》ふ|事《こと》ですよ。それから|小国別《をくにわけ》|様《さま》は|御危篤《ごきとく》で|何時《なんどき》|息《いき》を|引《ひ》きとられるか|分《わか》りませぬ。|大方《おほかた》|今頃《いまごろ》は|絶命《ことぎ》れたかも|知《し》れませぬ、|大変《たいへん》で|厶《ござ》います。|何《どうぞ》|皆《みな》さま、|一時《いつとき》も|早《はや》う|各自《てんで》に|町内《ちやうない》を|触《ふ》れまはり|城内《じやうない》に|悔《くや》みに|行《い》つて|下《くだ》さい』
とまだ|死《し》んでも|居《ゐ》ないのに、|手《て》まはしよく|死《し》んだものと|仮定《かてい》して|吹聴《ふゐちやう》した。|之《これ》を|聞《き》いた|老若男女《らうにやくなんによ》は|次《つぎ》から|次《つぎ》へと、|尻《しり》はし|折《を》り|駄賃《だちん》とらずの|郵便配達《ゆうびんはいたつ》となつて、
『|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》が|手《て》に|入《い》つた。そして|小国別《をくにわけ》が|国替《くにが》へをなさつて、ワツクスがデビス|姫様《ひめさま》の|婿《むこ》にきまつた』
と|一軒《いつけん》も|残《のこ》らず、|御丁寧《ごていねい》に|布令《ふれ》まはつた。
テルモン|山《ざん》の|麓《ふもと》の|町《まち》は|俄《にはか》にガヤガヤと|騒《さわ》ぎ|出《だ》し、|衣裳《いしやう》を|着替《きか》へて|館《やかた》へ|悔《くや》みに|行《ゆ》くもの|引《ひ》きもきらず、|俄《にはか》に|大騒動《おほさうどう》が|起《おこ》つた|様《やう》になつて|来《き》た。エルは|睾丸《きんたま》の|端《はし》を|牛《うし》の|爪《つめ》に【むしり】とられ、|益々《ますます》|体中《からだぢう》に|熱《ねつ》が|高《たか》まつて『|死《し》んだ|死《し》んだ』と|囈言《うさごと》ばかり|囀《さへづ》つて|居《ゐ》る。
|俄《にはか》に|小国別《をくにわけ》の|訃《ふ》を|聞《き》いて|泣《な》く|老若男女《らうにやくなんによ》もあれば、|馬鹿息子《ばかむすこ》のワツクスがデビス|姫《ひめ》の|婿《むこ》になるげなと|驚《おどろ》いて|触《ふ》れる|奴《やつ》もあり、|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》が|帰《かへ》つたと|喜《よろこ》ぶものもあり、テルモン|山《ざん》の|麓《ふもと》の|宮町《みやまち》は|此《この》|噂《うはさ》で|持《も》ちきりとなつた。|気《き》の|早《はや》い|男《をとこ》は|早《はや》くも|幟《のぼり》を|立《た》て「|神司《かむつかさ》|小国別《をくにわけ》の|御他界《ごたかい》を|弔《とむら》ふ」とか、「|如意宝珠《によいほつしゆ》|再出現《さいしゆつげん》」とか、「デビス|姫《ひめ》ワツクスとの|御結婚《ごけつこん》を|祝《しゆく》す」とか|云《い》ふ|長《なが》い|幟《のぼり》を|立《た》てて、ワツシヨ ワツシヨと|辻々《つじつじ》を|廻《まは》り|初《はじ》めた。
かかる|所《ところ》へ|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》|涼《すず》しく|町外《まちはづ》れの|方《はう》から|聞《きこ》えて|来《き》た。|此《この》|声《こゑ》は|求道居士《きうだうこじ》がデビス|姫《ひめ》、ケリナ|姫《ひめ》を|助《たす》けて|帰《かへ》り|来《く》るにぞありける。
(大正一二・三・一七 旧二・一 於竜宮館 北村隆光録)
第二〇章 |犬嘘《けんきよ》〔一四五〇〕
テルモン|山《ざん》の|館《やかた》をエルが|飛《と》び|出《だ》してから|半時《はんとき》|許《ばか》り|経《た》つと|各宮町《かくみやまち》の|住民《ぢゆうみん》が、|礼服《れいふく》を|整《とととの》へ|扇《あふぎ》をきちんと|手《て》に|握《にぎ》り|玄関口《げんくわんぐち》にチクチクと|集《あつ》まり|来《きた》り、
『|頼《たの》もう|頼《たの》もう』
と|呶鳴《どな》り|立《た》てて|居《ゐ》る。|小国姫《をくにひめ》は|何事《なにごと》の|突発《とつぱつ》せしならむかと|玄関口《げんくわんぐち》へ|出《で》て|見《み》れば|町総代《まちさうだい》のパインと|云《い》ふ|男《をとこ》、|叮嚀《ていねい》に|辞儀《じぎ》をしながら、
パイン『これはこれは|奥様《おくさま》で|厶《ござ》いますか。|旦那様《だんなさま》は|誠《まこと》にお|気毒《きのどく》で|厶《ござ》いました。|嘸《さぞ》お|力《ちから》|落《おと》しで|厶《ござ》いませう。|此《こ》の|通《とほ》り|沢山《たくさん》の|町民《ちやうみん》がお|悔《くやみ》に|参《まゐ》りましたが、|一々《いちいち》|御挨拶《ごあいさつ》を|致《いた》すのも|御迷惑《ごめいわく》と|存《ぞん》じ|私《わたくし》が|総代《そうだい》に|出《で》ました。|承《うけたま》はれば|旦那様《だんなさま》は|御昇天《ごしようてん》との|事《こと》で|御歎《おなげ》きの|所《ところ》へ|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》が|還《かへ》り、ワツクス|様《さま》とお|嬢様《ぢやうさま》の|御婚礼《ごこんれい》が|調《ととの》ひましたさうで、お|喜《よろこ》び|申《まをし》てよいやら、お|悔《くや》み|申《まをし》てよいやら、|盆《ぼん》と|正月《しやうぐわつ》が|一緒《いつしよ》に|来《き》たやうに、|喜《よろこ》びと|悲《かな》しみに|打《う》たれて|居《ゐ》ます。|何卒《どうぞ》|御用《ごよう》があつたら|仰《おほせ》つけ|下《くだ》さいませ』
|姫《ひめ》『|貴方《あなた》は|町総代《まちそうだい》のパイン|様《さま》、ようお|出《いで》|下《くだ》さいました。|併《しか》し|誰《たれ》がそんな|事《こと》を|申《まを》したか|知《し》りませぬが、|旦那様《だんなさま》はまだお|国替《くにがへ》になつて|居《ゐ》ませぬから|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
パインは|驚《おどろ》いて|顔《かほ》を|赤《あか》らめ|乍《なが》ら、
『エエ|何《なん》と|仰有《おつしや》いますか、|旦那様《だんなさま》はまだお|達者《たつしや》で|居《ゐ》らつしやいますか、それは|何《なに》より|結構《けつこう》で|厶《ござ》います。|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》のない|事《こと》を|申《まを》して|失礼《しつれい》で|厶《ござ》いました。|何卒《どうぞ》お|許《ゆる》し|下《くだ》さいませ。|併《しか》し|如意宝珠《によいほつしゆ》が|再《ふたた》びお|手《て》に|入《はい》つたと|云《い》ふ|事《こと》は|事実《じじつ》で|厶《ござ》いますか』
|姫《ひめ》『ハイ|有難《ありがた》う、それは|事実《じじつ》で|厶《ござ》います。まあまあこれでこの|館《やかた》も|一安心《ひとあんしん》で|厶《ござ》います』
パイン『それは|何《なに》よりもお|目出度《めでた》い|事《こと》で|厶《ござ》います。|吾々《われわれ》|町民《ちやうみん》|一同《いちどう》もこんな|喜《よろこ》ばしい|事《こと》は|厶《ござ》いませぬ。|就《つい》ては|御家令《ごかれい》の|御子息様《ごしそくさま》がお|嬢様《ぢやうさま》の|御養子《ごやうし》になられると|云《い》ふ|事《こと》を|承《うけたま》はりましたが、それは|事実《じじつ》で|厶《ござ》いますか』
|姫《ひめ》『そんな|事《こと》を|誰《たれ》にお|聞《き》きになりましたか、|此方《こちら》にはそんな|噂《うはさ》もして|居《を》りませぬが』
パイン『ヤ、それを|聞《き》いて|町内《ちやうない》の|者《もの》も|安心《あんしん》を|致《いた》すで|厶《ござ》いませう。|斯《か》う|申《まを》すと|何《なん》で|厶《ござ》いますが、|御家令様《ごかれいさま》の|御子息《ごしそく》は|町内中《ちやうないぢう》での|憎《にく》まれもの、|根性《こんじやう》が|悪《わる》くて、|馬鹿《ばか》で、|極道《ごくだう》で、|悪《わる》い|奴《やつ》を|友達《ともだち》にして、|町民《ちやうみん》を|困《こま》らせて|居《ゐ》る|仕方《しかた》のないお|方《かた》ですから、|若《も》しもそんなお|方《かた》を|御養子《ごやうし》にでもお|貰《もら》ひにならうものなら、お|家《いへ》は|忽《たちま》ち|潰《つぶ》れて|仕舞《しま》ひ、|宮町《みやまち》の|氏子《うぢこ》は|皆《みんな》、|小国別家《をくにわけけ》に|背《そむ》くで|厶《ござ》いませう。|併《しか》し|乍《なが》ら|今《いま》|承《うけたま》はつてお|家《いへ》のため、|実《じつ》に|安心《あんしん》を|致《いた》しました。|如何《いか》なる|事情《じじやう》が|厶《ござ》いましても、|御如才《ごじよさい》は|厶《ござ》いますまいが、|義理《ぎり》|人情《にんじやう》に|搦《から》まれて、あのやうな|男《をとこ》を|御養子《ごやうし》になさる|事《こと》は|止《や》めて|頂《いただ》きたう|厶《ござ》います。|是《これ》はパイン|一人《ひとり》の|意見《いけん》ではなく、|町内《ちやうない》|一般《いつぱん》の|意見《いけん》で|厶《ござ》いますから』
|姫《ひめ》『ハイ|御親切《ごしんせつ》|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|何卒《どうぞ》|町内《ちやうない》の|御一同様《ごいちどうさま》にも|宜敷《よろし》く|言《い》つて|下《くだ》さいませ。|又《また》|夫《をつと》|小国別《をくにわけ》は|何分《なにぶん》|老齢《としより》の|事《こと》で|厶《ござ》いますから、|何時《いつ》|変《へん》が|来《こ》ないとも|分《わか》りませぬ。|其《その》|時《とき》には|何卒《どうぞ》|宜敷《よろし》く|皆様《みなさま》にお|頼《たの》み|申《まを》すと、|妾《わたし》が|言《い》ふたと|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ』
パイン『これはこれは|失礼《しつれい》|致《いた》しました。|左様《さやう》ならば|是《これ》で|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》ります。|町内《ちやうない》のものが|旦那様《だんなさま》がお|国替《くにがへ》になつたと|云《い》つて|各自《めいめい》に|仕事《しごと》を|休《やす》み、|又《また》|立花《たてばな》、|生花《いけばな》などの|用意《ようい》にかかつて|居《を》りますから、|早《はや》くこの|事《こと》を|知《し》らしてやらねばなりませぬから』
|姫《ひめ》『もしパイン|様《さま》、|誰《たれ》がそんな|事《こと》を|申《まを》したので|厶《ござ》いませうねえ、|怪《け》しからん|奴《やつ》があるでは|厶《ござ》いませぬか』
パイン『|現《げん》にお|家《うち》の|受付《うけつけ》をやつてゐるエルさまが|大勢《おほぜい》の|前《まへ》でそんな|事《こと》を|云《い》つたものですから、|忽《たちま》ち|町中《まちぢう》に|拡《ひろ》がつたので|厶《ござ》います』
|姫《ひめ》『|何《なん》といふまア、チヨカ|助《すけ》だらう。さうして|何処《どこ》に|居《を》りますかなア』
パイン『ハイ、|今《いま》エルさまは|牛《うし》に|睾丸《きんたま》を|蹴《け》られて|綿打屋《わたうちや》の|座敷《ざしき》に|担《かつ》ぎ|込《こ》まれ、|大熱《だいねつ》を|出《だ》して|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》|許《ばか》り|云《い》つて|居《を》られます。|併《しか》し|乍《なが》ら|隣《となり》に|藪井竹庵《やぶゐちくあん》が|厶《ござ》つたものだから|診察《しんさつ》して|貰《もら》つた|所《ところ》、|二三日《にさんにち》|静養《せいやう》さして|置《お》けば|癒《なほ》るだらう、|仮令《たとへ》|間《ひま》が|要《い》つても|生命《いのち》に|別条《べつでう》は|無《な》いからと|仰有《おつしや》いました。エルさまの|事《こと》は|吾々《われわれ》がお|世話《せわ》を|致《いた》しますから|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな。それよりも|旦那様《だんなさま》に|気《き》をつけて|下《くだ》さいませ』
|斯《か》く|話《はな》す|所《ところ》へ、|黒山《くろやま》の|如《ごと》く|弔《とむら》ひ|客《きやく》や|祝《いは》ひ|客《きやく》が|門《もん》を|潜《くぐ》つて|押《お》し|寄《よ》せて|来《く》る。|小国姫《をくにひめ》はパインに|後《あと》を|頼《たの》み|置《お》き、|夫《をつと》の|傍《そば》に|走《はし》り|行《ゆ》く。
パインは|町民《ちやうみん》|一同《いちどう》に|向《むか》ひ|大《おほ》きな|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げて、
パイン『|皆様《みなさま》|御親切《ごしんせつ》によくも|来《き》て|下《くだ》さいました。|館《やかた》の|奥様《おくさま》のお|頼《たの》みによつて|私《わたし》が|代理《だいり》となり|御挨拶《ごあいさつ》を|致《いた》します。|旦那様《だんなさま》はまだ|御昇天《ごしようてん》|遊《あそ》ばしたのぢや|厶《ござ》いませぬ。|番頭《ばんとう》のエルが|御存《ごぞん》じの|通《とほ》りの|慌者《あわてもの》で|厶《ござ》いますから、|慌《あわて》て|左様《さやう》な|事《こと》を|喋《しやべ》つたので|厶《ござ》いませう。|何卒《どうぞ》|皆《みな》|様《さま》|安心《あんしん》して|下《くだ》さいませ。さうして|一《ひと》つ|喜《よろこ》んで|貰《もら》ふ|事《こと》は|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》が|再《ふたた》びお|館《やかた》へ|還《かへ》つた|事《こと》で|厶《ござ》います。|皆様《みなさま》の|御親切《ごしんせつ》を|当《たう》お|館《やかた》の|奥様《おくさま》に|代《かは》つてパインが|有難《ありがた》く|感謝《かんしや》を|致《いた》します』
と|述《の》べ|終《をは》り、
『|小国別館《をくにわけやかた》|万歳《ばんざい》ー』
を|三唱《さんしやう》した。|数多《あまた》の|群集《ぐんしふ》は|声《こゑ》を|揃《そろ》へて|万歳《ばんざい》を|三唱《さんしやう》し、|各《おのおの》|呆気《あつけ》に|取《と》られ、ブツブツ|小言《こごと》を|云《い》ひながら|拍子《ひやうし》の|抜《ぬ》けた|顔《かほ》をして|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
ワツクスは|宮町《みやまち》の|四辻《よつつじ》に|立《た》つて|盛《さかん》に|演説《えんぜつ》をやり|始《はじ》めた。|大勢《おほぜい》の|者《もの》は|館《やかた》からの|帰《かへ》りがけ|馬鹿息子《ばかむすこ》が|又《また》もや|何《なん》だか|喋《しやべ》り|出《だ》したと、|面白半分《おもしろはんぶん》やつて|来《き》た。ワツクスは|手《て》を|振《ふ》り|乍《なが》ら、
ワツクス『|皆《みな》さま、テルモン|山《ざん》の|館《やかた》には|大変事《だいへんじ》が|突発《とつぱつ》|致《いた》しましたが|御存《ごぞん》じですか、よもやお|分《わか》りでは|厶《ござ》いますまい。|噂《うはさ》にもお|聞《き》きで|厶《ござ》いませうが|三五教《あななひけう》の|三千彦《みちひこ》と|云《い》ふ|悪神《あくがみ》が|飛《と》んで|参《まゐ》り、|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》を|夜《よる》|密《ひそか》に|盗《ぬす》み|出《だ》し、|小国別《をくにわけ》|夫婦《ふうふ》を|初《はじ》め|一族郎党《いちぞくらうたう》に|不調法《ぶてうはふ》をさせ、|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|命令《めいれい》をもつて|館《やかた》は|云《い》ふに|及《およ》ばず、|宮町《みやまち》|一般《いつぱん》の|人民《じんみん》を|小国別《をくにわけ》の|同類《どうるゐ》と|見做《みな》し、|片端《かたつぱし》から|首《くび》をチヨン|切《ぎ》らすと|云《い》ふ|悪《わる》い|計劃《けいくわく》を|致《いた》して|居《を》りますぞ。そしてその|三千彦《みちひこ》と|云《い》ふ|悪者《わるもの》は、|今《いま》お|館《やかた》に|大《おほ》きな|面《つら》をして|居据《ゐすは》り、|魔法《まはふ》をもつて|小国姫《をくにひめ》をチヨロまかし|小国別《をくにわけ》|様《さま》を|病気《びやうき》に|致《いた》し、ジリジリ|弱《よわ》りに|弱《よわ》らせて|命《いのち》を|取《と》り、デビス|姫《ひめ》の|婿《むこ》にならうとして|悪《わる》い|企《たく》みを|致《いた》して|居《を》りますぞ。|皆《みな》さま、テルモン|山《ざん》のお|館《やかた》を|思《おも》ひ、|又《また》|貴方方《あなたがた》|自身《じしん》のお|家《いへ》や、|体《からだ》や|子孫《しそん》をお|思《おも》ひなさるなら、これから|一同《いちどう》|力《ちから》を|合《あは》せ、お|館《やかた》に|押《お》し|寄《よ》せ、|三千彦《みちひこ》と|云《い》ふ|悪人《あくにん》を|懲《こら》しめて|下《くだ》さい、|否《いな》|殺《ころ》して|下《くだ》さい。|一日《いちにち》も|猶予《いうよ》はして|居《を》れませぬぞ。グヅグヅして|居《ゐ》ると|貴方方《あなたがた》の|難儀《なんぎ》になりますぞや。|幸《さいは》ひ|拙者《せつしや》はその|三千彦《みちひこ》と|云《い》ふ|奴《やつ》の|顔《かほ》を|存《ぞん》じて|居《を》りますから、|是《これ》から|御案内《ごあんない》を|致《いた》します、|皆《みな》さま|私《わたくし》の|云《い》ふ|事《こと》が|御承知《ごしようち》が|出来《でき》ますなら、|何卒《どうぞ》|従《つ》いて|来《き》て|下《くだ》さい』
と|呶鳴《どな》つた。|群集《ぐんしふ》の|中《なか》には|全部《ぜんぶ》|真実《まこと》と|信《しん》ずるものもあり、|又《また》|半信半疑《はんしんはんぎ》の|者《もの》もあつた。|併《しか》し|乍《なが》ら、バラモン|教《けう》の|館《やかた》の|中《なか》に|三五教《あななひけう》の|者《もの》が|来《き》て|居《を》ると|云《い》ふ|事《こと》が|分《わか》り、|俄《にはか》に|皆《みな》が|怒《おこ》り|出《だ》し|老爺《ぢぢ》も|老婆《ばば》も|子供《こども》も、|脛腰《すねこし》の|立《た》つ|奴《やつ》は|群衆心理《ぐんしうしんり》とやらで|再《ふたた》び|館《やかた》に|取《と》つて|返《かへ》し、|潮《うしほ》の|押《お》し|寄《よ》するが|如《ごと》く|館《やかた》の|表門《おもてもん》にヒシヒシと|詰《つ》めかけた。
ワツクスの|口《くち》から|出任《でまか》せの|虚構演説《きよこうえんぜつ》によつて|忽《たちま》ち|一同《いちどう》|憤慨《ふんがい》し、|館《やかた》に|押寄《おしよ》せ|三千彦《みちひこ》を|袋叩《ふくろだたき》にした|事《こと》や、|其《その》|外《ほか》いろいろの|面白《おもしろ》き|物語《ものがたり》は|之《これ》にて|尽《つ》きませぬが、|紙面《しめん》の|都合《つがふ》によりて|後巻《こうくわん》に|譲《ゆづ》ります。
(大正一二・三・一七 旧二・一 於竜宮館階上 加藤明子録)
(昭和一〇・六・一四 王仁校正)
|本日《ほんじつ》は|故《こ》|井上《いのうへ》|明澄《はるすみ》|君《くん》の|五十日祭《ごじふにちさい》に|就《つ》き|口述者《こうじつしや》|参列《さんれつ》す。|明澄《はるすみ》|氏《し》|神霊《しんれい》の|請求《せいきう》に|依《よ》り|白扇《はくせん》|一本《いつぽん》を|霊前《れいぜん》に|贈《おく》る、|氏《し》の|神霊《しんれい》は|第一霊国《だいいちれいごく》の|天使《てんし》として|教祖《けうそ》の|傍《そば》|近《ちか》く|奉仕《ほうし》し|給《たま》へり。
大正十二年三月十七日旧二月一日
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霊界物語 第五六巻 真善美愛 未の巻
終り