霊界物語 第五二巻 真善美愛 卯の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第五二巻』愛善世界社
2005(平成17)年08月16日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年10月09日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|総説《そうせつ》|代用《だいよう》
第一篇 |鶴首専念《かくしゆせんねん》
第一章 |真《しん》と|偽《ぎ》〔一三三七〕
第二章 |哀別《あいべつ》の|歌《うた》〔一三三八〕
第三章 |楽屋内《がくやうち》〔一三三九〕
第四章 |俄狂言《にはかきやうげん》〔一三四〇〕
第五章 |森《もり》の|怪《くわい》〔一三四一〕
第六章 |梟《ふくろ》の|笑《わらひ》〔一三四二〕
第二篇 |文明盲者《ぶんめいまうじや》
第七章 |玉返志《たまかへし》〔一三四三〕
第八章 |巡拝《じゆんぱい》〔一三四四〕
第九章 |黄泉帰《よみがへり》〔一三四五〕
第一〇章 |霊界土産《れいかいみやげ》〔一三四六〕
第一一章 |千代《ちよ》の|菊《きく》〔一三四七〕
第三篇 |衡平無死《かうへいむし》
第一二章 |盲縞《めくらじま》〔一三四八〕
第一三章 |黒長姫《くろながひめ》〔一三四九〕
第一四章 |天賊《てんぞく》〔一三五〇〕
第一五章 |千引岩《ちびきいは》〔一三五一〕
第一六章 |水車《みづぐるま》〔一三五二〕
第一七章 |飴屋《あめや》〔一三五三〕
第四篇 |怪妖蟠離《くわいえうばんり》
第一八章 |臭風《しうふう》〔一三五四〕
第一九章 |屁口垂《へこたれ》〔一三五五〕
第二〇章 |険学《けんがく》〔一三五六〕
第二一章 |狸妻《りさい》〔一三五七〕
第二二章 |空走《くうそう》〔一三五八〕
第五篇 |洗判無料《せんぱんむれう》
第二三章 |盲動《まうどう》〔一三五九〕
第二四章 |応対盗《おうたいぬすみ》〔一三六〇〕
第二五章 |恋愛観《れんあいくわん》〔一三六一〕
第二六章 |姑根性《しうとめこんじやう》〔一三六二〕
第二七章 |胎蔵《たいざう》〔一三六三〕
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|序文《じよぶん》
|霊界物語《れいかいものがたり》|口述《こうじゆつ》|開始《かいし》|以来《いらい》、|種々雑多《しゆじゆざつた》の|学者《がくしや》やパリサイ|人《じん》の|妨害《ばうがい》を|突破《とつぱ》し、|漸《やうや》くにして|累計《るゐけい》|五十二巻《ごじふにくわん》の|完結《くわんけつ》を|告《つ》げました。|瑞月《ずゐげつ》に|来《きた》れる|精霊《せいれい》は、|一種《いつしゆ》|特別《とくべつ》の|記憶力《きおくりよく》に|富《と》んで|居《ゐ》ると|見《み》えまして、|肉体《にくたい》が|一度《いちど》|見聞《けんぶん》し|読《よ》み|上《あ》げた|書物《しよもつ》の|文意《ぶんい》は|其《その》|儘《まま》に|記憶《きおく》し|居《を》り、|肉体《にくたい》の|既《すで》に|已《すで》に|記憶《きおく》を|全然《ぜんぜん》|離《はな》れて|居《ゐ》る|文章《ぶんしやう》でも、|時々《ときどき》|知《し》らず|知《し》らずに|口述《こうじゆつ》し|筆記《ひつき》することがあります。|故《ゆゑ》に|肉体人《にくたいじん》の|瑞月《ずゐげつ》が|著《あら》はした|文章《ぶんしやう》の|中《なか》にも、|古今《ここん》の|学者《がくしや》が|著《あら》はした|文章《ぶんしやう》を|其《その》|儘《まま》|平気《へいき》に|書《か》くことがあります。|又《また》|精霊《せいれい》|自身《じしん》も|自己《じこ》の|作物《さくぶつ》と|信《しん》じて|居《を》るのは、|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》に|達《たつ》したる|哲人《てつじん》の|能《よ》く|知悉《ちしつ》する|所《ところ》であります。|不用意《ふようい》の|中《うち》に|物《もの》した|瑞月《ずゐげつ》の|文章《ぶんしやう》には、|今日《こんにち》|迄《まで》|三十年《さんじふねん》の|間《あひだ》に|於《おい》て|二三回《にさんくわい》も|右様《みぎやう》の|事《こと》があり、それが|為《ため》に|他人《たにん》の|文章《ぶんしやう》を|盗《ぬす》んだ|様《やう》に|非難《ひなん》された|事《こと》があつて|大《おほい》に|迷惑《めいわく》を|感《かん》じました。|又《また》|自分《じぶん》の|口述《こうじゆつ》や|文章《ぶんしやう》を|他人《たにん》の|名義《めいぎ》を|以《もつ》て|新聞《しんぶん》|雑誌《ざつし》|単行本《たんかうぼん》|等《など》に|掲載《けいさい》し、|後《のち》に|至《いた》つて|自分《じぶん》の|名《な》に|復《ふく》して|発表《はつぺう》した|事《こと》があるため、|其《その》|間《かん》の|消息《せうそく》を|知《し》らない|人《ひと》は|異様《いやう》に|感《かん》じられた|事《こと》もありました。|其《その》|後《ご》は|成《な》るべく|他人《たにん》の|著書《ちよしよ》を|読《よ》まない|事《こと》にして|注意《ちゆうい》を|加《くは》へて|居《を》りますが、|併《しか》しながら|此《この》|長《なが》い|物語《ものがたり》の|中《なか》には、|或《あるひ》は|種々《いろいろ》の|人《ひと》の|文作《ぶんさく》が|混入《こんにふ》して|居《を》るかも|解《わか》りませぬから、|一寸《ちよつと》お|断《ことわ》り|申《まを》しておきます。|併《しか》し|今日《こんにち》の|学者《がくしや》の|物《もの》した|書物《しよもつ》は、|何《いづ》れも|古今《ここん》|聖哲《せいてつ》の|涎《よだれ》を|集《あつ》めたものたるは、|賢明《けんめい》なる|読者《どくしや》の|熟知《じゆくち》さるる|所《ところ》と|考《かんが》へます。|凡《すべ》ての|明文《めいぶん》は|意志《いし》や|想念《さうねん》の|中《うち》に|吸収《きふしう》され、それが|時々《ときどき》|自発的《じはつてき》に|現《あら》はれ|来《きた》るものなる|事《こと》を|考《かんが》へて|貰《もら》ひたいものです。
大正十二年二月十日
王仁識
|総説《そうせつ》|代用《だいよう》
|桃園天皇《ももぞのてんわう》の|御宇《ぎよう》、|伏見《ふしみ》|竹田《たけだ》の|郷《さと》|北《きた》の|入口《いりぐち》に、|薬師院《やくしゐん》と|銘《めい》|打《う》つた|修験者《しうげんじや》が|現《あら》はれた。この|者《もの》の|奇怪《きくわい》なる|行《おこな》ひは|端《はし》なくも|人心《じんしん》を|驚《おどろ》かし、|遠近《ゑんきん》|聞《き》き|伝《つた》へ、|老若男女《らうにやくなんによ》の|日々《にちにち》|門前《もんぜん》に|群集《ぐんしふ》するもの|踵《きびす》を|接《せつ》して|常《つね》に|市《いち》をなし、|恰《あだか》も|角力場《すまふば》のやうに|雑沓《ざつたふ》することとなつた。その|行術《ぎやうじゆつ》といふは|七仏薬師《しちぶつやくし》の|法《はふ》と|称《とな》へ、|祈祷者《きたうしや》の|身《み》の|上《うへ》を|語《かた》ること|一々《いちいち》|符節《ふせつ》を|合《がつ》する|如《ごと》くに|適中《てきちう》するので、|医薬《いやく》の|整《ととの》はない|当時《たうじ》のこととて、|人々《ひとびと》は|奇異《きい》の|思《おも》ひをなして、|只々《ただただ》|有難《ありがた》し|有難《ありがた》しと|訳《わけ》もなく|信《しん》じ、その|噂《うはさ》がそれからそれへと|拡《ひろ》まり|行《ゆ》き、|京都《きやうと》からも|三里《さんり》の|間《あひだ》を|遠《とほ》しとせず、|徒歩々々《とぼとぼ》と|竹田《たけだ》に|向《むか》ふもの|引《ひ》きも|切《き》らず|繁昌《はんじやう》した。その|頃《ころ》、|近江国《あふみのくに》|志賀郡《しがぐん》|石田村《いしだむら》の|百姓《ひやくしやう》|直兵衛《なほべゑ》と|云《い》ふ|男《をとこ》が、|年来《ねんらい》の|眼病《がんびやう》で|左眼《さがん》が|飛《と》び|出《い》で、|光明《くわうみやう》の|世界《せかい》から|見放《みはな》されたかの|様《やう》に、|唯《ただ》|一人《ひとり》|暗室《あんしつ》に|閉《と》じ|籠《こも》り、|療養《れうやう》に|手《て》を|尽《つく》して|居《ゐ》たが、|人《ひと》の|勧《すす》めで|美濃国《みののくに》|間島《まじま》で|名高《なだか》い|眼科医《がんくわい》の|治療《ちれう》を|受《う》けたけれど|更《さら》に|効験《かうけん》なく、|家内《かない》の|愁嘆《しうたん》のみか、|親戚《しんせき》の|者《もの》も|気《き》の|毒《どく》に|思《おも》ひ、|各地《かくち》の|神社《じんじや》|仏閣《ぶつかく》に|祈祷《きたう》などしたが|一向《いつかう》に|効《かう》が|見《み》えない。この|時《とき》|或《ある》|者《もの》から|伏見《ふしみ》|薬師院《やくしゐん》の|事《こと》を|語《かた》り|聞《き》かされた。|直兵衛《なほべゑ》は|心《こころ》に|喜《よろこ》びつつ、わが|多年《たねん》|眼病《がんびやう》に|悩《なや》まされ、|日《ひ》に|月《つき》に|痛《いた》み|加《くは》はり、|闇《やみ》から|闇《やみ》へと|長《なが》の|年月《としつき》を|暮《くら》して|来《き》たので、|所詮《しよせん》|助《たす》かるまいとは|思《おも》へど、|先《ま》づ|其《その》|薬師院《やくしゐん》とやらへ|参《まゐ》り、|若《も》し|治《なほ》らぬとあらば|愈《いよいよ》それ|迄《まで》と|諦《あきら》め、|死《し》して|罪障《ざいしやう》の|消滅《せうめつ》を|図《はか》らむと、|涙《なみだ》を|流《なが》し|哀《あは》れげに|語《かた》らひながら|妻子《さいし》と|共《とも》に|旅《たび》の|用意《ようい》を|整《ととの》へた。|庭《には》はまだ|薄暗《うすぐら》い|暁《あかつき》の|光《ひかり》を|浴《あ》びて|村《むら》を|立出《たちい》で、|途中《とちう》|輿《こし》を|傭《やと》ひ、|露《つゆ》|深《ふか》き|草路《くさみち》を|踏《ふ》み|別《わ》け、|叢《くさむら》にすだく|虫《むし》の|音《ね》を|聞《き》きながら、|急《いそ》ぎに|急《いそ》いで|伏見《ふしみ》の|薬師院《やくしゐん》に|着《つ》き、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|院主《ゐんしゆ》に|面会《めんくわい》せむとしたが、|引《ひ》き|切《き》れない|程《ほど》の|群集《ぐんしふ》に|妨《さまた》げられて、|暫《しばら》く|台所《だいどころ》へ|差控《さしひか》へてゐた。|其《その》|日《ひ》も|早《はや》|夕映《ゆふばえ》して|山《やま》の|彼方《あなた》を|彩《いろど》り|初《そ》めた|頃《ころ》、|遉《さすが》は|忙《せは》しかつた|参詣人《さんけいにん》も|次第《しだい》に|散《さん》じたので、|直兵衛《なほべゑ》は|左眼《さがん》を|押《おさ》へて|怖《おそ》る|怖《おそ》る|院主《ゐんしゆ》の|前《まへ》に|進《すす》み、
『|私《わたし》は|近江国《あふみのくに》|石田《いしだ》|在《ざい》の|百姓《ひやくしやう》|直兵衛《なほべゑ》といふもので、|当年《たうねん》|三十七歳《さんじふしちさい》になるのですが、|今《いま》から|六年前《ろくねんぜん》、|不図《ふと》したことより|左眼《さがん》を|病《や》み、|朝夕《あさゆふ》に|痛《いた》みは|激《はげ》しくなり|増《ま》し、|此《この》|頃《ごろ》は|此《この》|様《やう》に|眼球《めだま》が|飛《と》び|出《だ》し、|風《かぜ》に|当《あた》る|事《こと》もなりませぬ。|何卒《どうぞ》|奇《く》しき|御祈祷《ごきたう》が|御願《おねが》ひ|申《まを》したい。|併《しか》しこの|眼《め》が|元《もと》のものになるやうとは|願《ねが》ひませぬ。せめて|痛《いた》みだけなりと|止《と》まる|様《やう》にお|願《ねが》ひ|致《いた》したく、|罷《まか》り|出《い》でました』
と|潜々《さめざめ》と|涙《なみだ》を|流《なが》して|頼《たの》み|込《こ》んだ。|院主《ゐんしゆ》は|始終《しじう》を|聞《き》きながら、
『|如何《いか》さまそれは|難儀《なんぎ》なことであろう。|今宵《こよひ》は|此処《ここ》に|籠《こも》らつしやい。|吾《われ》に|不思議《ふしぎ》の|行術《ぎやうじゆつ》がある。|汝《なんぢ》が|星《ほし》を|見《み》て、その|病《やまひ》が|治《なほ》るか|治《なほ》らぬかを|答《こた》へて|上《あ》げよう』
と|言《い》はれて、|直兵衛《なほべゑ》|夫婦《ふうふ》はその|儘《まま》|院内《いんない》に|一泊《いつぱく》することとなつた。その|夜《よ》の|八《や》つ|時《どき》と|思《おぼ》しき|時《とき》、|院主《ゐんしゆ》は|白衣姿《びやくえすがた》で|井戸側《ゐどばた》に|立《た》つて|幾度《いくたび》か|水《みづ》を|浴《あ》びて|後《のち》、|仏前《ぶつぜん》に|灯明《とうみやう》を|点《とも》しつつ、|夫婦《ふうふ》の|者《もの》を|縁側《えんがは》に|跪坐《きざ》させ|置《お》き、|呪文《じゆもん》|高《たか》らかに|念珠《ねんじゆ》を|爪繰《つまぐ》り、|天《てん》の|一方《いつぱう》を|仰《あふ》いで|頻《しき》りに|祈《いの》り|出《だ》した。やがて|今《いま》|迄《まで》|雲脚《くもあし》|急《せ》はしく|曇《くも》り|勝《が》ちの|空《そら》が|拭《ぬぐ》ふが|如《ごと》く|晴《は》れ|渡《わた》り、|煌々《かうかう》たる|星《ほし》の|光《ひか》り|眩《まぶ》しく、|一陣《いちぢん》の|風《かぜ》が|襟元《えりもと》を|襲《おそ》うたかと|思《おも》ふ|折《をり》しも、|北《きた》の|方《はう》から|一団《いちだん》の|火光《くわくわう》|飛来《ひらい》して|地上《ちじやう》に|墜落《つゐらく》し、その|音《おと》|恰《あだか》も|雷霆《らいてい》のそれの|如《ごと》くであつた。|夫婦《ふうふ》は|胆《きも》を|潰《つぶ》し|這《こ》はそも|如何《いか》に、さても|不可思議《ふかしぎ》なる|現象《げんしやう》よと|戦慄《をのの》きつつ|縁板《えんいた》の|上《うへ》に|平伏《へいふく》して|居《ゐ》る。|院主《ゐんしゆ》はその|時《とき》|彼《か》の|火団《くわだん》に|向《むか》ひ、|何事《なにごと》か|暫《しばら》く|呪文《じゆもん》を|唱《とな》へ、|念珠《ねんじゆ》を|揚《あ》げて|発矢《はつし》と|撲《なぐ》ると、|其《その》|火団《くわだん》は|音《おと》もなく|散乱《さんらん》して|消《き》え|失《う》せ、|中《なか》から|一羽《いちは》の|白鳩《しろはと》が|鼓翼《はばた》きして|飛《と》び|去《さ》つた。|院主《ゐんしゆ》はやがて|威儀《ゐぎ》を|正《ただ》し|直兵衛《なほべゑ》に|向《むか》ひ、
『|汝《なんぢ》は|最前《さいぜん》より|一箇《いつこ》の|火光団《くわくわうだん》を|見《み》たであらう、あれこそ|汝《なんぢ》の|属星《ぞくせい》ぢや。|今《いま》わが|法力《ほふりき》に|依《よ》つて、|汝《なんぢ》の|属星《ぞくせい》を|降《くだ》して|病《やまひ》の|根元《こんげん》を|調《しら》べしに、|如何《いか》にも|其《その》|星《ほし》には|怪《あや》しき|光《ひかり》があつたから、その|光《ひかり》を|祓《はら》ひ|除《と》つてやつたのだ。|日《ひ》ならずして|汝《なんぢ》の|眼病《がんびやう》も|全快《ぜんくわい》するであらう。|是《これ》ぞ|即《すなは》ち|七仏薬師《しちぶつやくし》の|加持《かぢ》の|奇瑞《きずゐ》ぢや。|但《ただ》しここに|薬師夢想《やくしむさう》の|霊薬《れいやく》がある。|之《これ》を|一二服《いちにふく》|与《あた》へるから、この|薬《くすり》を|一日《いちにち》に|二回《にくわい》づつ|左眼《さがん》に|塗《ぬ》れば、|七日《なぬか》の|間《あひだ》には|大方《おほかた》|不思議《ふしぎ》のことがあるだらう』
と|右《みぎ》の|薬《くすり》を|取《と》つて|与《あた》へた。|直兵衛《なほべゑ》の|悦《よろこ》びは|一方《ひとかた》ならず、|幾度《いくたび》か|押戴《おしいただ》いて|納《をさ》め、|翌朝《よくてう》|慇懃《いんぎん》に|礼《れい》を|述《の》べて|帰国《きこく》した。|然《しか》しその|眼病《がんびやう》は|依然《いぜん》として|治《なほ》らなかつたけれども、|院主《ゐんしゆ》の|不可思議《ふかしぎ》なる|法術《はふじゆつ》が|呼《よ》びものとなつて|薬師院《やくしゐん》は|非常《ひじやう》に|繁昌《はんじやう》した。|何《いづ》れもバラモン|教《けう》を|守護《しゆご》せる|魔神《まがみ》の|所為《しよゐ》なることは|言《い》ふまでもないことである。この|院主《ゐんしゆ》は|幼名《えうめい》|佐吉《さきち》といふ|小賢《こざか》しい|腕白小僧《わんぱくこぞう》であつたが、バラモンの|魔神《まがみ》に|憑依《ひようい》され、|巧《たくみ》に|妖術《えうじゆつ》を|弄《もてあそ》びて|一角《いつかど》の|祈祷師《きたうし》となり|了《おほ》せた|後《のち》、|伏見《ふしみ》|竹田《たけだ》の|郷《さと》に|本陣《ほんぢん》を|構《かま》へて、|薬師院《やくしゐん》|快実《くわいじつ》と|名乗《なの》り、|表面《へうめん》には|慈悲忍辱《じひにんにく》の|衣《ころも》を|装《よそほ》ひ、その|内心《ないしん》は|豺狼《さいらう》の|如《ごと》き|野心《やしん》を|蔵《ざう》し、|世《よ》の|善男善女《ぜんなんぜんによ》を|欺《あざむ》きしのみか、|畏《かしこ》くも|禁裡《きんり》にまで|侵入《しんにふ》して|天下《てんか》の|大事《だいじ》を|惹《ひ》き|起《おこ》さむとし、|辛《から》うじて|九条《くでう》|関白《くわんばく》|直実公《なほざねこう》のために|看破《かんぱ》せられ、|終《つひ》にその|身《み》を|滅《ほろぼ》したるは|隠《かく》れたる|史実《しじつ》である。|邪神《じやしん》は|常住不断《じやうぢゆうふだん》に|妖術《えうじゆつ》|又《また》は|種々《いろいろ》の|方法《はうはふ》|手段《しゆだん》を|講《かう》じて、|天下《てんか》を|乱《みだ》し|世《よ》を|暗黒界《あんこくかい》に|堕《おと》さむと|企《たく》みつつあるものである。|読者《どくしや》は|此《この》|霊界物語《れいかいものがたり》を|充分《じうぶん》に|心《こころ》を|潜《ひそ》めて|熟読《じゆくどく》せらるれば、|今日《こんにち》|迄《まで》|口述《こうじゆつ》せし|五十二巻《ごじふにくわん》の|物語中《ものがたりちう》に|於《おい》て、|邪神《じやしん》の|悪計奸策《あくけいかんさく》の|如何《いか》なるものかを|了知《れうち》さるる|事《こと》でありませう。|五十二巻《ごじふにくわん》の|口述《こうじゆつ》|終了《しうれう》に|際《さい》し、|一例《いちれい》を|挙《あ》げて|読者《どくしや》の|参考《さんかう》に|資《し》する|事《こと》と|致《いた》しました。
大正十二年二月十日 旧十一年十二月廿五日
於教主殿 王仁識
第一篇 |鶴首専念《かくしゆせんねん》
第一章 |真《しん》と|偽《ぎ》〔一三三七〕
|人間《にんげん》の|内底《ないてい》に|潜在《せんざい》せる|霊魂《れいこん》を、|本守護神《ほんしゆごじん》|又《また》は|正副守護神《せいふくしゆごじん》と|云《い》ふ。そして|本守護神《ほんしゆごじん》とは、|神《かみ》の|神格《しんかく》の|内流《ないりう》を|直接《ちよくせつ》に|受《う》けたる|精霊《せいれい》の|謂《いひ》であり、|正守護神《せいしゆごじん》とは|一方《いつぱう》は|内底《ないてい》|神《かみ》の|善《ぜん》に|向《むか》ひ、|真《しん》に|対《たい》し、|外部《ぐわいぶ》は|自愛《じあい》|及《およ》び|世間愛《せけんあい》に|対《たい》し、|之《これ》をよく|按配《あんばい》|調和《てうわ》して|広《ひろ》く|人類愛《じんるゐあい》に|及《およ》ぶ|所《ところ》の|精霊《せいれい》である。|又《また》|副守護神《ふくしゆごじん》とは|其《その》|内底《ないてい》|神《かみ》に|反《そむ》き、|只《ただ》|物質的《ぶつしつてき》|躯殻《くかく》|即《すなは》ち|肉体《にくたい》に|関《くわん》する|慾望《よくばう》のみに|向《むか》つて|蠢動《しゆんどう》する|精霊《せいれい》である。|優勝劣敗《いうしようれつぱい》、|弱肉強食《じやくにくきやうしよく》を|以《もつ》て|最大《さいだい》の|真理《しんり》となし、|人生《じんせい》の|避《さ》く|可《べ》からざる|径路《けいろ》とし、|生存競争《せいぞんきやうそう》を|以《もつ》て|唯一《ゆゐいつ》の|真理《しんり》と|看做《みな》す|精霊《せいれい》である。|而《しか》して|人間《にんげん》の|霊魂《れいこん》には、|我《わが》|神典《しんてん》の|示《しめ》す|所《ところ》に|依《よ》れば|荒魂《あらみたま》、|和魂《にぎみたま》、|奇魂《くしみたま》、|幸魂《さちみたま》の|四性《しせい》に|区分《くぶん》されてゐる。|四魂《しこん》の|解説《かいせつ》は|已《すで》に|既《すで》に|述《の》べたれば|茲《ここ》には|省略《しやうりやく》する。|荒魂《あらみたま》は|勇《ゆう》、|奇魂《くしみたま》は|智《ち》、|幸魂《さちみたま》は|愛《あい》、|和魂《にぎみたま》は|親《しん》であり、|而《しか》して|此《この》|勇智愛親《ゆうちあいしん》を|完全《くわんぜん》に|活躍《くわつやく》せしむるものは|神《かみ》の|真愛《しんあい》と|真智《しんち》とである。|今《いま》|述《の》べた|幸魂《さちみたま》の|愛《あい》なるものは|人類愛《じんるゐあい》にして、|自愛《じあい》|及《およ》び|世間愛《せけんあい》|等《とう》に|住《ぢゆう》する|普通愛《ふつうあい》である。|神《かみ》の|愛《あい》は|万物《ばんぶつ》|発生《はつせい》の|根源力《こんげんりよく》であつて、|又《また》|人生《じんせい》に|於《お》ける|最大《さいだい》|深刻《しんこく》の|活気力《くわつきりよく》となるものである。|此《この》|神愛《しんあい》は|大神《おほかみ》と|天人《てんにん》とを|和合《わがふ》せしめ、|又《また》|天人《てんにん》|各自《かくじ》の|間《あひだ》をも|親和《しんわ》せしむる|神力《しんりき》である。|斯《かく》の|如《ごと》き|最高《さいかう》なる|神愛《しんあい》は、|如何《いか》なる|人間《にんげん》も|其《その》|真《しん》の|生命《せいめい》をなせる|所《ところ》の|実在《じつざい》である。|此《この》|神愛《しんあい》あるが|故《ゆゑ》に、|天人《てんにん》も|人間《にんげん》も|皆《みな》|能《よ》く|其《その》|生命《せいめい》を|保持《ほぢ》する|事《こと》を|得《う》るのである。|又《また》|大神《おほかみ》より|出《い》で|来《きた》る|所《ところ》の|御神格《ごしんかく》そのものを|神真《まこと》と|云《い》ふ。|此《この》|神真《まこと》は|大神《おほかみ》の|神愛《しんあい》に|依《よ》つて、|高天原《たかあまはら》へ|流《なが》れ|入《い》る|所《ところ》の|神機《しんき》である。|神《かみ》の|愛《あい》と|之《これ》より|来《きた》る|神真《まこと》とは、|現実世界《げんじつせかい》に|於《お》ける|太陽《たいやう》の|熱《ねつ》と|其《その》|熱《ねつ》より|出《い》づる|所《ところ》の|光《ひかり》とに|譬《たと》ふべきものである。|而《しか》して|神愛《しんあい》なるものは|太陽《たいやう》の|熱《ねつ》に|相似《さうじ》し、|神真《しんしん》は|太陽《たいやう》の|光《ひかり》に|相似《さうじ》してゐる。|又《また》|火《ひ》は|神愛《しんあい》そのものを|表《あらは》し、|光《ひかり》は|神愛《しんあい》より|来《きた》る|神真《しんしん》を|表《あら》はしてゐる。|大神《おほかみ》の|神愛《しんあい》より|出《い》で|来《きた》る|神真《しんしん》とは、|其《その》|実性《じつせい》に|於《おい》て|神善《しんぜん》の|神真《しんしん》と|相和合《あひわがふ》したものである。|斯《かく》の|如《ごと》き|和合《わがふ》あるが|故《ゆゑ》に、|高天原《たかあまはら》に|於《お》ける|一切《いつさい》の|万物《ばんぶつ》を|通《つう》じて|生命《せいめい》あらしむるのである。
|愛《あい》には|二種《にしゆ》の|区別《くべつ》があつて、|其一《そのいち》は|神《かみ》に|対《たい》する|愛《あい》であり、|一《いち》は|隣人《りんじん》に|対《たい》する|愛《あい》である。|又《また》|最高《さいかう》|第一《だいいち》の|天国《てんごく》には|大神《おほかみ》に|対《たい》する|愛《あい》あり、|第二《だいに》|即《すなは》ち|中間天国《ちうかんてんごく》には|隣人《りんじん》に|対《たい》する|愛《あい》がある。|隣人《りんじん》に|対《たい》する|愛《あい》とは|仁《じん》そのものである。|此《この》|愛《あい》と|仁《じん》とは、|何《いづ》れも|大神《おほかみ》の|神格《しんかく》より|出《い》で|来《きた》つて|天国《てんごく》の|全体《ぜんたい》を|成就《じやうじゆ》するものである。|高天原《たかあまはら》に|在《あ》つて|大神《おほかみ》を|愛《あい》し|奉《たてまつ》るといふ|事《こと》は、|人格《じんかく》の|上《うへ》から|見《み》て|大神《おほかみ》を|愛《あい》するの|謂《いひ》ではない、|大神《おほかみ》より|来《きた》る|所《ところ》の|善《ぜん》そのものを|愛《あい》するの|意義《いぎ》である。|又《また》|善《ぜん》を|愛《あい》するといふ|事《こと》は、|其《その》|善《ぜん》に|志《こころざ》し、|其《その》|善《ぜん》を|行《おこな》ふや、|皆《みな》|愛《あい》に|依《よ》つてなすの|意味《いみ》である。|故《ゆゑ》に|愛《あい》を|離《はな》れたる|善《ぜん》は、|決《けつ》して|如何《いか》なる|美事《びじ》と|雖《いへど》も、|善行《ぜんかう》と|雖《いへど》も、|皆《みな》|地獄《ぢごく》の|善《ぜん》にして|所謂《いはゆる》|悪《あく》である。|地獄界《ぢごくかい》に|於《おい》て|善《ぜん》となす|所《ところ》のものは、|高天原《たかあまはら》に|於《おい》ては|大抵《たいてい》|悪《あく》となる。|高天原《たかあまはら》に|於《おい》て|悪《あく》となす|所《ところ》のものは、すべて|地獄界《ぢごくかい》には|之《これ》を|善《ぜん》とさるるのである。それ|故《ゆゑ》に|神《かみ》の|直接内流《ちよくせつないりう》によつて、|天国《てんごく》の|福音《ふくいん》を|現界《げんかい》の|人類《じんるゐ》に|伝達《でんたつ》するとも、|地獄界《ぢごくかい》に|籍《せき》をおける|人間《にんげん》の|心《こころ》には、|最《もつと》も|悪《あ》しく|映《えい》じ|且《かつ》|感《かん》ずるものである。|故《ゆゑ》に|何《いづ》れの|世《よ》にも、|至善《しぜん》|至愛《しあい》の|教《をしへ》を|伝《つた》へ、|至真《ししん》|至智《しち》の|道《みち》を|唱《とな》ふる|者《もの》は、|必《かなら》ず|之《これ》を|異端邪説《いたんじやせつ》となし、|或《あるひ》は|敵視《てきし》され、|所在《あらゆる》|迫害《はくがい》を|蒙《かうむ》るものである。|併《しか》し|斯《かく》の|如《ごと》き|神人《しんじん》にして、|地獄界《ぢごくかい》の|如何《いか》なる|迫害《はくがい》を|受《う》け、|或《あるひ》は|身肉《しんにく》を|亡《ほろ》ぼさるる|事《こと》ありとも、|其《その》|人格《じんかく》は|依然《いぜん》として|死後《しご》の|生涯《しやうがい》に|入《い》りし|時《とき》、|最《もつと》も|聖《きよ》きもの、|尊《たふと》きものとして、|天国《てんごく》に|尊敬《そんけい》され|且《かつ》|愛《あい》さるるものである。|次《つぎ》に|隣人《りんじん》を|愛《あい》する|仁《じん》そのものは、|人格《じんかく》より|見《み》て|其《その》|朋友知己《ほういうちき》|等《とう》を|愛《あい》するの|謂《いひ》ではない。|要《えう》するに|大神《おほかみ》の|聖言《せいげん》|即《すなは》ち|神諭《しんゆ》より|来《きた》る|所《ところ》の|神真《しんしん》を|愛《あい》するの|意義《いぎ》である。|又《また》|神真《しんしん》を|愛《あい》するといふ|事《こと》は、|其《その》|真《しん》に|志《こころざ》し、|真《しん》を|行《おこな》ふの|意義《いぎ》である。|以上《いじやう》|両種《りやうしゆ》の|愛《あい》は|善《ぜん》と|真《しん》との|如《ごと》くに|分立《ぶんりつ》し、|善《ぜん》と|真《しん》との|如《ごと》くに|和合《わがふ》する。
|此《この》|物語《ものがたり》の|主人公《しゆじんこう》なる|初稚姫《はつわかひめ》は、|即《すなは》ち|二種《にしゆ》の|愛《あい》、|善《ぜん》と|真《しん》との|完全《くわんぜん》に|具足《ぐそく》したる|天人《てんにん》にして、|言《い》はば|大神《おほかみ》の|化身《けしん》でもあり|又《また》|分身《ぶんしん》でもあり、|或《ある》|時《とき》は|代表者《だいへうしや》として|其《その》|神格《しんかく》を|肉体《にくたい》を|通《とほ》して|発揮《はつき》し|給《たま》ふが|故《ゆゑ》に、|能《よ》く|善《ぜん》に|処《しよ》し、|真《しん》に|居《を》り、|如何《いか》なる|妖魅《えうみ》に|出会《しゆつくわい》するとも、|少《すこ》しも|汚《けが》されず|犯《おか》されずして、|己《おの》が|天職《てんしよく》を|自由自在《じいうじざい》に|発揮《はつき》し|得《え》らるるのである。|之《これ》に|反《はん》して|高姫《たかひめ》は|総《すぺ》て|愛善《あいぜん》と|信真《しんしん》とを|口《くち》にすれども、|其《その》|内底《ないてい》は|神《かみ》に|向《むか》つて|閉塞《へいそく》され、|地獄《ぢごく》に|向《むか》つて|開放《かいはう》されてゐるが|故《ゆゑ》に、|其《その》|称《とな》ふる|所《ところ》の|善《ぜん》は|残《のこ》らず|偽善《ぎぜん》である。|偽善《ぎぜん》とは|表面《へうめん》より|見《み》て、|即《すなは》ち|神《かみ》を|知《し》らざる|人《ひと》の|目《め》に|至善《しぜん》|至徳《しとく》のものと|見《み》ゆる|事《こと》がある。|又《また》|至真《ししん》|至誠《しせい》の|言語《げんご》と|見《み》ゆるも、それは|総《すべ》て|地獄界《ぢごくかい》に|向《むか》つてゐる|精霊《せいれい》の|迷《まよ》ひより|来《きた》るものなるが|故《ゆゑ》に、|一切《いつさい》|虚偽《きよぎ》であり|狂妄《きやうまう》である。|例《たと》へば|雪隠《せつちん》の|虫《むし》は|糞尿《ふんねう》の|中《なか》を|至上《しじやう》の|天国《てんごく》となし、|楽園《らくゑん》となし、|吾《わが》|肉体《にくたい》の|安住所《あんぢうしよ》とし、|且《かつ》|此《この》|上《うへ》なき|清《きよ》きもの|美《うる》はしきものとなすが|如《ごと》く、|地獄界《ぢごくかい》に|向《むか》つて|内底《ないてい》の|開《ひら》けたる|者《もの》は、|至醜《ししう》|至穢《しゑ》なる|泥濘塵芥《でいねいぢんかい》|及《およ》び|屍《かばね》の|累々《るゐるゐ》たる|所《ところ》、|臭気《しうき》|紛々《ふんぷん》たる|所《ところ》を|以《もつ》て、|此《この》|上《うへ》なき|結構《けつこう》な|所《ところ》と|看做《みな》すものである。|併《しか》しながら|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》としては、|矢張《やはり》|肉《にく》の|目《め》を|以《もつ》て|善悪美醜《ぜんあくびしう》を|判別《はんべつ》する|能力《のうりよく》は|欠《か》いでゐない。それ|故《ゆゑ》に|或《ある》|時《とき》は|殆《ほとん》ど|善《ぜん》に|近《ちか》き|行《おこな》ひをなし、|又《また》|真《しん》に|相似《さうじ》せる|言語《げんご》を|用《もち》ふることがある。けれども|肝心《かんじん》の|内底《ないてい》が|地獄界《ぢごくかい》に|向《むか》つてゐるのと、|外部《ぐわいぶ》より|来《きた》る|自愛心《じあいしん》と|肉体的《にくたいてき》|兇霊界《きようれいかい》の|襲来《しふらい》とによつて、|常《つね》に|其《その》|良心《りやうしん》を|誑惑《きやうわく》さるるを|以《もつ》て|一定《いつてい》の|善《ぜん》と|真《しん》とに|居《を》る|事《こと》は|出来《でき》ない。|又《また》|純然《じゆんぜん》たる|悪《あく》に|居《を》る|事《こと》も|出来得《できえ》ないのである。|併《しか》し|高姫《たかひめ》の|善《ぜん》と|信《しん》ずる|所《ところ》、|真《しん》と|思《おも》ふ|所《ところ》は、|以上《いじやう》|述《の》べた|如《ごと》く、|皆《みな》|偽善《ぎぜん》なる|事《こと》は|言《い》ふまでもない。
|初稚姫《はつわかひめ》は、|愛《あい》より|来《きた》る|所《ところ》の|大神《おほかみ》の|神格《しんかく》より|帰来《きらい》する|天人《てんにん》の|薫陶《くんたう》を、|其《その》|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》なる|霊性《れいせい》に|摂受《せつじゆ》してゐたのである。|総《すべ》て|高天原《たかあまはら》を|成就《じやうじゆ》する|者《もの》は、|何《いづ》れも|愛《あい》と|仁《じん》とによらぬ|者《もの》はない。|故《ゆゑ》に|初稚姫《はつわかひめ》の|人格《じんかく》そのものは|所謂《いはゆる》|高天原《たかあまはら》の|移写《いしや》であり、|大神《おほかみ》の|縮図《しゆくづ》である。|故《ゆゑ》に|其《その》|美《うる》はしき|事《こと》は|到底《たうてい》|言語《げんご》に|絶《ぜつ》し、|形容《けいよう》す|可《べ》からざる|底《てい》のものである。|其《その》|面貌《めんばう》|言語《げんご》|乃至《ないし》|一挙手《いつきよしゆ》|一投足《いつとうそく》の|中《うち》にも、|悉《ことごと》く|愛善《あいぜん》の|徳《とく》を|表《あら》はし、|信真《しんしん》の|光《ひかり》を|現《げん》じ|給《たま》ふのである。|故《ゆゑ》に|初稚姫《はつわかひめ》の|如《ごと》き|地上《ちじやう》の|天人《てんにん》より|溢《あふ》れ|出《い》づる|円満具足《ゑんまんぐそく》の|相《さう》は、|愛《あい》そのものによつて|充《みた》されてあるが|故《ゆゑ》に、|何人《なんびと》と|雖《いへど》も、|姫《ひめ》の|前《まへ》に|来《きた》り、|姫《ひめ》の|教《をしへ》を|受《う》け、|其《その》|善言美詞《ぜんげんびし》に|接《せつ》し、|席《せき》を|交《まじ》へ|交際《かうさい》する|時《とき》は、|衷心《ちうしん》よりして|自然《しぜん》に|動《うご》かさるるに|至《いた》るのである。されども|悲《かな》しいかな、|高姫《たかひめ》は|普通《ふつう》の|人間《にんげん》と|異《こと》なり、|天国《てんごく》、|地獄《ぢごく》の|両界《りやうかい》の|中《うち》に|介在《かいざい》する|所《ところ》の|中有界《ちううかい》に|身《み》をおきながら、|尚《なほ》も|肉体的《にくたいてき》|精霊《せいれい》|即《すなは》ち|兇党界《きようたうかい》、|妖魅界《えうみかい》に|和合《わがふ》せるが|為《ため》に、|初稚姫《はつわかひめ》の|前《まへ》に|出《い》づる|時《とき》は、|忽《たちま》ち|癲狂《てんきやう》となり|痴呆《ちはう》となり、|其《その》|美貌《びばう》を|見《み》る|時《とき》は、|何処《どこ》ともなく|直《ただち》に|恐怖心《きようふしん》を|起《おこ》し、|且《かつ》|嫉妬《しつと》し、|善言美詞《ぜんげんびし》に|接《せつ》すれば、|忽《たちま》ち|頭《かしら》|痛《いた》み、|胸《むね》つかへ、|嫌忌《けんき》の|情《じやう》を|起《おこ》すに|至《いた》るを|以《もつ》て、|如何《いか》に|初稚姫《はつわかひめ》が|神力《しんりき》を|尽《つく》し、|愛《あい》と|善《ぜん》と|真《しん》を|以《もつ》て|是《これ》に|対《たい》し、あく|迄《まで》も|和合《わがふ》せむとすれども、|之《これ》を|畏《おそ》れて|受入《うけい》れないのみならず、|陰《いん》に|陽《やう》に|排斥《はいせき》し、|且《かつ》|滅尽《めつじん》せしめむことを|望《のぞ》むのである。|而《しか》して|或《ある》|時《とき》は|初稚姫《はつわかひめ》を|非常《ひじやう》に|尊敬《そんけい》する|時《とき》もあるのである。|実《じつ》に|名状《めいじやう》す|可《べ》からざる|不可思議《ふかしぎ》なる|状態《じやうたい》に|身《み》を|置《お》いてゐるものといふべきである。
|斯《か》くの|如《ごと》く|時々刻々《じじこくこく》に|其《その》|思想《しさう》|感情《かんじやう》の、|姫《ひめ》に|対《たい》してのみならず、|一般《いつぱん》の|人《ひと》に|対《たい》して|変転《へんてん》するは、|彼《か》れが|自《みづか》ら|称《とな》ふるヘグレのヘグレのヘグレ|武者《むしや》たる|珍思怪想《ちんしくわいさう》を|遺憾《ゐかん》なく|暴露《ばくろ》してゐるのである。|而《しか》して|高姫《たかひめ》はヘグレのヘグレのヘグレ|武者《むしや》を|以《もつ》て|唯一《ゆゐいつ》の|善《ぜん》となし、|徳《とく》となし、|愛《あい》の|極致《きよくち》となし、|信《しん》の|真《しん》と|確信《かくしん》してゐるのである。|高姫《たかひめ》の|思想《しさう》は|神出鬼没《しんしゆつきぼつ》、|動揺《どうえう》|常《つね》なく、|機《き》に|臨《のぞ》み|変《へん》に|応《おう》じて|神業《しんげふ》に|参加《さんか》する|事《こと》を|以《もつ》て、|最第一《さいだいいち》の|良法《りやうはふ》と|確信《かくしん》してゐるのだから、|如何《いか》なる|愛《あい》を|以《もつ》てするも、|信《しん》を|以《もつ》て|説《と》くも、|之《これ》を|感化《かんくわ》する|事《こと》が|出来《でき》ない、|精神的《せいしんてき》の|不治《ふち》の|難病者《なんびやうしや》である。
|総《すべ》て|人間《にんげん》|各自《かくじ》の|生命《せいめい》に|属《ぞく》する|所《ところ》の|霊的円相《れいてきゑんさう》なるものがあつて、|此《この》|円相《ゑんさう》は|一切《いつさい》の|天人《てんにん》や|一切《いつさい》の|精霊《せいれい》より|発《はつ》し|来《きた》り、|人間《にんげん》|各自《かくじ》の|身体《しんたい》を|囲繞《ゐねう》してゐるものである。|各人《かくじん》の|情動的《じやうだうてき》|生涯《しやうがい》、|従《したが》つて|思索的《しさくてき》|生涯《しやうがい》の|中《うち》より|溢《あふ》れ|出《い》づるものである。|情動的《じやうだうてき》|生涯《しやうがい》とは|愛的《あいてき》|生涯《しやうがい》の|事《こと》であり、|思索的《しさくてき》|生涯《しやうがい》とは|信仰的《しんかうてき》|生涯《しやうがい》の|事《こと》である。|総《すべ》て|天人《てんにん》なるものは|愛《あい》によつて|其《その》|生命《せいめい》を|保《たも》つが|故《ゆゑ》に、|愛《あい》そのものは|天人《てんにん》の|全体《ぜんたい》であり、|且《かつ》|天人《てんにん》は|善徳《ぜんとく》の|全部《ぜんぶ》であると|云《い》つても|可《い》いのである。|愛《あい》の|善《ぜん》と|信《しん》の|真《しん》との|権化《ごんげ》たるべき|初稚姫《はつわかひめ》は、|其《その》|霊的円相《れいてきゑんさう》は|益々《ますます》|円満具足《ゑんまんぐそく》して、|智慧証覚《ちゑしようかく》の|目《め》より|見《み》る|時《とき》は、|其《その》|全身《ぜんしん》の|周囲《しうゐ》より|五色《ごしき》の|霊光《れいくわう》が|常住不断《じやうぢゆうふだん》に|放射《はうしや》しつつあるのである。|之《これ》に|反《はん》して、|高姫《たかひめ》はすべて|虚偽《きよぎ》と|世間愛的悪《せけんあいてきあく》に|居《を》るを|以《もつ》て、|霊的円相《れいてきゑんさう》|即《すなは》ち|霊衣《れいい》は|殆《ほとん》ど|絶滅《ぜつめつ》し、|灰色《はひいろ》の|雲《くも》の|如《ごと》き|三角形《さんかくけい》の|霊衣《れいい》が|僅《わづ》かに|其《その》|肉身《にくしん》を|囲繞《ゐねう》してゐるに|過《す》ぎない。|之《これ》を|神界《しんかい》にては|霊的死者《れいてきししや》と|名付《なづ》けてゐる。|霊的円相《れいてきゑんさう》の|具足《ぐそく》せる|神人《しんじん》には、|如何《いか》なる|兇霊《きようれい》も|罪悪《ざいあく》も|近寄《ちかよ》ることは|出来《でき》ない。|若《も》し|強《し》ひて|接近《せつきん》せむとすれば、|其《その》|光《ひかり》に|打《う》たれ|眼《まなこ》|眩《くら》み、|四肢五体《ししごたい》|戦慄《せんりつ》し、|殆《ほとん》ど|瀕死《ひんし》の|状態《じやうたい》に|陥《おちい》るものである。|之《これ》に|反《はん》して|円相《ゑんさう》の|欠除《けつぢよ》せる|高姫《たかひめ》の|身辺《しんぺん》には、|一切《いつさい》の|兇霊《きようれい》が|臭《くさ》きものに|蠅《はへ》が|群《むら》がる|如《ごと》く、|容易《ようい》に|且《かつ》|喜《よろこ》んで|集合《しふがふ》するものである。|現界《げんかい》の|愚眛《ぐまい》なる|人間《にんげん》は、|斯《かく》の|如《ごと》き|悪霊《あくれい》の|旅宿《りよしゆく》|否《いな》|駐屯所《ちうとんしよ》たる|人間《にんげん》を|見《み》て、|信仰《しんかう》|強《つよ》き|真人《しんじん》と|看做《みな》し、|或《あるひ》は|其《その》|妖言《えうげん》に|誑惑《きやうわく》されて、|虚偽《きよぎ》を|真《しん》となし、|悪《あく》を|善《ぜん》と|認《みと》め、|随喜《ずゐき》|渇仰《かつかう》しておかざるものである。|実《じつ》にかかる|人間《にんげん》は、|神《かみ》の|目《め》より|見《み》ては|精神上《せいしんじやう》の|不具者《ふぐしや》であり、|且《かつ》|地獄《ぢごく》の|門戸《もんこ》を|競《きそ》うて|開《ひら》かむとする|妖怪変化《えうくわいへんげ》と|見得《みう》るものである。
|人間《にんげん》は|其《その》|愛《あい》の|善悪《ぜんあく》の|如何《いかん》によつて、|其《その》|面《おもて》を|向《む》ける|所《ところ》を|各《おのおの》|異《こと》にしてゐる。|初稚姫《はつわかひめ》の|如《ごと》き|天人《てんにん》は、|大神《おほかみ》|及《および》|隣人《りんじん》に|対《たい》して、|真《しん》の|愛《あい》を|持《も》つてゐるが|故《ゆゑ》に|常《つね》に|其《その》|面《おもて》は|大神《おほかみ》に|向《むか》つてゐる。|故《ゆゑ》に|何《なん》となく|威厳《ゐげん》|備《そな》はり、|且《かつ》|形容《けいよう》し|難《がた》き|美貌《びばう》を|保《たも》つ|事《こと》を|得《え》たのである。|又《また》|高姫《たかひめ》は|自愛《じあい》の|心《こころ》|即《すなは》ち|愛《あい》の|悪《あく》|強《つよ》きが|故《ゆゑ》に、|其《その》|面《おもて》を|常《つね》に|神《かみ》に|背《そむ》け、|暗黒《あんこく》の|中《うち》に|呻吟《しんぎん》しながら|思《おも》ふやう……かくの|如《ごと》き|暗黒無明《あんこくむみやう》の|世界《せかい》を、|吾々《われわれ》は|看過《かんくわ》するに|忍《しの》びない。|故《ゆゑ》に|自分《じぶん》は|此《この》|暗黒時代《あんこくじだい》に|処《しよ》し、|天下万民《てんかばんみん》|救済《きうさい》の|為《ため》に、いろいろ|雑多《ざつた》に|身《み》を|変《へん》じ、ヘグレ|武者《むしや》となつて、|天《あま》の|岩戸《いはと》を|開《ひら》き、|真《しん》の|光明《くわうみやう》に|世界《せかい》を|照《て》らし、|万民《ばんみん》を|助《たす》けねばならない。|天国《てんごく》も|浄土《じやうど》もなく、すべて|三界《さんかい》は|暗黒界《あんこくかい》と|化《くわ》し|去《さ》れり。|故《ゆゑ》に|吾《われ》は|神《かみ》の|命《めい》を|受《う》けて、|常暗《とこやみ》の|世《よ》を|日《ひ》の|出《で》の|御代《みよ》に|捻《ね》ぢ|戻《もど》さねばおかないと、|兇霊《きようれい》の|言《げん》に|誤《あやま》られて|蠢動《しゆんどう》してゐるのである。それ|故《ゆゑ》|常《つね》に|心中《しんちう》に|安心《あんしん》する|事《こと》なく、|如何《いか》にして|自己《じこ》の|向上《かうじやう》をなさむか、|三界《さんがい》の|万霊《ばんれい》を|救《すく》はむかと、|狂熱的《きやうねつてき》に|蠢動《しゆんどう》するのである。|何《なん》ぞ|知《し》らむ、|開闢《かいびやく》の|始《はじ》めより|天界《てんかい》の|光明《くわうみやう》は|赫灼《かくしやく》として|輝《かがや》き|給《たま》ひ、|数多《あまた》の|天人《てんにん》は|各団体《かくだんたい》に|住《ぢゆう》して、|其《その》|光輝《くわうき》ある|生涯《しやうがい》を|送《おく》りつつある|事《こと》を。|併《しか》し|茲《ここ》に|一言《いちごん》|注意《ちゆうい》すべき|事《こと》は、|大本開祖《おほもとかいそ》の|神諭《しんゆ》に……|此《この》|世《よ》は|暗雲《やみくも》になつてゐるから、|日《ひ》の|出《で》の|守護《しゆご》に|致《いた》すが|為《ため》に|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》が|表《あら》はれて、|五六七成就《みろくじやうじゆ》の|御用《ごよう》に|尽《つく》す……とあるのは、これは|決《けつ》して|高姫《たかひめ》の|言《い》ふ|如《ごと》く|三界《さんかい》|皆《みな》|暗《くら》しといふ|意義《いぎ》ではない。|大神《おほかみ》より|地獄道《ぢごくだう》に|陥《おちい》れる|此《この》|現界《げんかい》をして、|天国《てんごく》|浄土《じやうど》の|楽土《らくど》となし、|一人《ひとり》も|地獄界《ぢごくかい》に|堕《おと》さざらしめむが|為《ため》である。|要《えう》するに|霊界《れいかい》|現界《げんかい》を|問《と》はず、|地獄《ぢごく》なるものを|一切《いつさい》|亡《ほろ》ぼし、その|痕跡《こんせき》をも|留《とど》めざらしめむと|計《はか》らせ|給《たま》ふ|仁慈《じんじ》の|大御心《おほみこころ》より|出《い》でさせ|給《たま》うたのである。|然《しか》らば|人《ひと》|或《あるひ》は|云《い》はむ、|三千世界《さんぜんせかい》|一度《いちど》に|開《ひら》く|梅《うめ》の|花《はな》、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|世《よ》になりたぞよ……とあるではないか、|三千世界《さんぜんせかい》とは|天界《てんかい》、|現界《げんかい》、|地獄界《ぢごくかい》のことである。|天界《てんかい》は|已《すで》に|光明赫々《くわうみやうかくかく》として|無限《むげん》に|開《ひら》け|居《を》るにも|拘《かかは》らず、|何《なに》をもつて|三千世界《さんぜんせかい》と|言《い》はるるか、|果《はた》してこの|言《げん》を|信《しん》ずるならば、|天界《てんかい》もまた|暗黒界《あんこくかい》と|堕落《だらく》せるものなりと|断定《だんてい》せざるを|得《え》ないではないかといはねばならぬ……と。かくの|如《ごと》きは|其一《そのいち》を|知《し》つて|其二《そのに》を|知《し》らざる|迂愚者《うぐしや》の|論旨《ろんし》である。|三千世界《さんぜんせかい》|一度《いちど》に|開《ひら》くといふは、|現界《げんかい》も|地獄界《ぢごくかい》も|天界《てんかい》も|一度《いちど》に……|即《すなは》ち|同様《どうやう》に|光明《くわうみやう》|赫々《かくかく》たる|至喜《しき》|至楽《しらく》の|楽園《らくゑん》となし、|中有界《ちううかい》だの、|地獄界《ぢごくかい》だの、|天界《てんかい》だの、|或《あるひ》は|兇霊界《きようれいかい》だのいふ、いまはしき|区別《くべつ》を|取除《とりのぞ》き、|打《う》つて|一丸《いちぐわん》となし、|一個《いつこ》の|人体《じんたい》に|於《お》けるが|如《ごと》く、|単元《たんげん》として|統治《とうち》し|給《たま》はむが|為《ため》の|御神策《ごしんさく》を|示《しめ》されたるものたることを|悟《さと》るべきである。|一度《いちど》に|開《ひら》く|梅《うめ》の|花《はな》とか、|須弥仙山《しゆみせんざん》に|腰《こし》をかけとか|云《い》ふ|聖言《せいげん》は、|要《えう》するに|神《かみ》に|向《むか》はしむるといふ|意義《いぎ》である。|如何《いか》なる|無風流《ぶふうりう》な|人間《にんげん》でも、|梅《うめ》の|花《はな》の|咲《さ》きみち、|馥郁《ふくいく》たる|香気《かうき》を|放《はな》つを|見《み》れば、|喜《よろこ》んで|之《これ》に|接吻《せつぶん》せむとするは、|人間《にんげん》に|特有《とくいう》の|情《じやう》である。また|須弥仙山《しゆみせんざん》とは|宇宙《うちう》|唯一《ゆゐいつ》の|至聖《しせい》|至美《しび》にして|崇高《すうかう》|雄大《ゆうだい》なる|山《やま》の|意味《いみ》である。|何人《なんぴと》と|雖《いへど》も、|雲表《うんぺう》に|屹立《きつりつ》せる|富士《ふじ》の|姿《すがた》を|見《み》る|時《とき》は、|其《その》|雄姿《ゆうし》にうたれ、|荘厳《さうごん》に|憧《あこ》がれ、|之《これ》を|仰《あふ》がないものはない。|又《また》|俯《うつむ》いては|決《けつ》して|富士《ふじ》を|見《み》る|事《こと》は|出来《でき》ない。|故《ゆゑ》に|神《かみ》は|所在《あらゆる》|人間《にんげん》|及《および》|精霊《せいれい》をして|其《その》|雄大《ゆうだい》|崇高《すうかう》なる|姿《すがた》を|仰《あふ》がしめ、|以《もつ》て|神格《しんかく》に|向上《かうじやう》せしめ、|神《かみ》の|善《ぜん》に|向《むか》はしめむが|為《ため》である。|併《しか》し|神《かみ》に|向《むか》ひ、|或《あるひ》は|須弥仙山《しゆみせんざん》を|仰《あふ》ぐといふは、|現界《げんかい》に|於《お》ける|富士山《ふじさん》そのものを|望《のぞ》む|時《とき》の|如《ごと》く、|身体《しんたい》の|動作《どうさ》によつて|向背《かうはい》をなすものでない。|何《なん》となれば|空間《くうかん》の|位地《ゐち》は|其《その》|人間《にんげん》の|内分《ないぶん》の|情態《じやうたい》|如何《いかん》によつて|定《さだ》まるが|故《ゆゑ》に、|方位《ほうゐ》の|如《ごと》きも|現界《げんかい》とは|相違《さうゐ》してゐるのは|勿論《もちろん》である。|人間《にんげん》の|内底《ないてい》の|現《あら》はれなる|面貌《めんばう》の|如何《いかん》によつて|其《その》|方位《はうゐ》が|定《さだ》まるのである。|故《ゆゑ》に|霊界《れいかい》にては|吾《わが》|面《めん》の|向《むか》ふ|所《ところ》|即《すなは》ち|太陽《たいやう》の|現《あら》はるる|所《ところ》である。|現界《げんかい》にては|太陽《たいやう》は|東《ひがし》に|昇《のぼ》りつつある|時《とき》と|雖《いへど》も、|西《にし》を|向《む》けば|其《その》|太陽《たいやう》は|背《せ》に|負《お》うてゐるが、|霊界《れいかい》にては|総《すべ》て|想念《さうねん》の|世界《せかい》なるが|故《ゆゑ》に、|身体《しんたい》の|動作《どうさ》|如何《いかん》に|関《くわん》せず、|神《かみ》に|向《むか》つて|内底《ないてい》の|開《ひら》けた|者《もの》は、いつも|太陽《たいやう》に|向《むか》つてゐるのである。|併《しか》しながら|斯《か》くの|如《ごと》き|天人《てんにん》の|境遇《きやうぐう》にある|人格者《じんかくしや》は|霊界《れいかい》に|在《あ》つて、|自分《じぶん》より|大神《おほかみ》|即《すなは》ち|太陽《たいやう》と|現《げん》じ|給《たま》ふ|光熱《くわうねつ》に|向《むか》ふにあらず、|大神《おほかみ》より|来《きた》る|所《ところ》の|一切《いつさい》の|事物《じぶつ》を|喜《よろこ》んで|実践《じつせん》|躬行《きうかう》するが|故《ゆゑ》に、|神《かみ》より|自《おのづか》ら|向《むか》はしめ|給《たま》ふ|事《こと》となるのである。|平和《へいわ》と|智慧《ちゑ》と|証覚《しようかく》と|幸福《かうふく》とを|容《い》るるものは|高天原《たかあまはら》の|器《うつは》である。|之《これ》を|称《しよう》して|新宮《しんぐう》|壺《つぼ》の|内《うち》といふ。|此《この》|壺《つぼ》は|愛《あい》であつて、|大小《だいせう》となく|神《かみ》と|相和《あひわ》する|所《ところ》のものを|容《い》るる|器《うつは》である。|現界《げんかい》に|於《おい》て、|智慧証覚《ちゑしようかく》の|劣《おと》りし|者《もの》、|又《また》は|愛善《あいぜん》の|徳《とく》|薄《うす》く、|信真《しんしん》の|光《ひかり》|暗《くら》かりし|者《もの》が、|天界《てんかい》の|天人《てんにん》|又《また》は|地上《ちじやう》の|天人《てんにん》やエンゼルと|相伍《あひご》して|遂《つひ》に|聖《きよ》き|信仰《しんかう》に|入《い》り、|愛善《あいぜん》の|徳《とく》を|養《やしな》ひ、|信真《しんしん》の|光《ひかり》を|現《あら》はし、|遂《つひ》に|智慧証覚《ちゑしようかく》を|得《え》、|高天原《たかあまはら》の|景福《けいふく》を|得《う》るに|至《いた》らしむべく、ここに|神《かみ》は|精霊《せいれい》に|其《その》|神格《しんかく》を|充《みた》して|預言者《よげんしや》に|来《きた》らしめ、|地上《ちじやう》の|高天原《たかあまはら》|即《すなは》ちエルサレムの|宮屋敷《みややしき》に|於《おい》て、|天国《てんごく》の|福音《ふくいん》を|宣《の》べ|伝《つた》へさせ|給《たま》うたのは、|実《じつ》に|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|大御心《おほみこころ》に|出《い》でさせ|給《たま》うたからである。|善《ぜん》の|為《ため》に|善《ぜん》を|愛《あい》し、|真《しん》の|為《ため》に|真《しん》を|愛《あい》し、|之《これ》を|一生涯《いつしやうがい》|深《ふか》く|心《こころ》に|植《う》ゑ|付《つ》け、|実践《じつせん》|躬行《きうかう》したるにより、|終《つひ》に|罪悪《ざいあく》に|充《み》ちたる|人間《にんげん》も|天国《てんごく》に|救《すく》はれて、|其《その》|不可説《ふかせつ》なる|微妙《びめう》の|想《さう》を|悉《ことごと》く|摂受《せつじゆ》し|得《う》べき|聖場《せいぢやう》を|開《ひら》かせ|給《たま》うた。|之《これ》を|神界《しんかい》にては|地《ち》の|高天原《たかあまはら》と|称《とな》へられたのである。
かくも|尊《たふと》き|神界《しんかい》の|御経綸《ごけいりん》をも|弁《わきま》へず、|且《か》つ|信《しん》ずること|能《あた》はずして、|自己《じこ》と|世間《せけん》とのみを|愛《あい》する|者《もの》は、|仮令《たとへ》|膝元《ひざもと》に|居《を》つても|之《これ》を|摂受《せつじゆ》することは|到底《たうてい》|出来《でき》ない。|自己《じこ》を|愛《あい》し、|世間《せけん》のみを|愛《あい》する|者《もの》は、|却《かへつ》て|此等《これら》の|御経綸地《ごけいりんち》を|否定《ひてい》し、|或《あるひ》は|之《これ》を|避《さ》け、|之《これ》を|拒《こば》み、|甚《はなはだ》しきは|神界《しんかい》の|経綸場《けいりんぢやう》を|破壊《はくわい》せむとするに|至《いた》るものである。されども|神《かみ》は|飽《あ》く|迄《まで》も|天人《てんにん》の|養成器《やうせいき》たる|人間《にんげん》を|愛《あい》し|給《たま》ふが|故《ゆゑ》に、|可成《なるべ》く|彼等《かれら》に|接近《せつきん》し、|彼等《かれら》の|心《こころ》の|中《うち》に|流入《りうにふ》せむとし|給《たま》へども、|彼等《かれら》は|却《かへつ》て|之《これ》を|恐《おそ》れ、|雲霞《くもかすみ》と|逃去《にげさ》つて、|忽《たちま》ち|地獄界《ぢごくかい》に|飛《と》び|入《い》り、|又《また》|彼等《かれら》と|相似《あひに》たる|自愛《じあい》を|有《いう》する|者《もの》と|相交《あひまじ》はらむとするものである。……|灯台《とうだい》|下暗《もとくら》し、|足許《あしもと》から|鳥《とり》が|立《た》つても|分《わか》らぬ|盲《めくら》|聾《つんぼ》ばかりであるぞよ。|神《かみ》は|一人《ひとり》なりとも|助《たす》けたさに、いろいろと|諭《さと》せども、こはがりて|皆《みな》|逃《に》げて|帰《い》ぬ|者《もの》ばかりで、|助《たす》けやうはないぞよ。|神《かみ》は|可哀相《かあいさう》なれども、|余《あま》り|人民《じんみん》が|慾《よく》に|呆《はう》けて、|霊《みたま》を|悪神《あくがみ》に|曇《くも》らされてゐるから、|真《まこと》の|事《こと》が|耳《みみ》へ|入《はい》らぬぞよ。|神《かみ》も|助《たす》けやうがないぞよ……と|歎声《たんせい》をもらされてあるは、かかる|人間《にんげん》に|対《たい》して|愛憐《あいれん》の|涙《なみだ》を|注《そそ》ぎ|給《たま》うた|聖言《せいげん》である。
|初稚姫《はつわかひめ》の|御再誕《ごさいたん》なる|大本開祖《おほもとかいそ》は、|神命《しんめい》を|奉《ほう》じて|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|降《くだ》り、|万民《ばんみん》を|救《すく》はむと|焦慮《せうりよ》し|給《たま》ふに|引替《ひきか》へ、|其《その》|肉身《にくしん》より|生《うま》れ|出《い》でたる|肉体《にくたい》に|正反対《せいはんたい》のものあるは、|実《じつ》に|不可説《ふかせつ》の|深遠《しんゑん》|微妙《びめう》なる|御神策《ごしんさく》のおはします|事《こと》であつて、|大本神諭《おほもとしんゆ》に……|吾《わが》|児《こ》に|約《つ》まらぬ|御用《ごよう》がさして|善悪《ぜんあく》の|鏡《かがみ》が|見《み》せてあるぞよ|云々《うんぬん》と。|信者《しんじや》たる|者《もの》は|此《この》|善悪《ぜんあく》|両方面《りやうはうめん》の|実地《じつち》を|観察《くわんさつ》して、|其《その》|信仰《しんかう》を|誤《あやま》らない|様《やう》にせなくてはならぬのである。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・一・二九 旧一一・一二・一三 松村真澄録)
第二章 |哀別《あいべつ》の|歌《うた》〔一三三八〕
|人間《にんげん》は|天《てん》の|高天原《たかあまはら》と|地《ち》の|高天原《たかあまはら》とを|問《と》はず、その|霊域《れいゐき》に|昇《のぼ》るに|際《さい》し、|愈《いよいよ》|内《うち》に|入《い》るに|従《したが》ひ、(|即《すなは》ち|愈《いよいよ》|高《たか》きに|昇《のぼ》るに|従《したが》ひ)|証覚《しようかく》と|智慧《ちゑ》とは|愈《いよいよ》|増《ま》し|来《きた》りて、|其《その》|霊魂《れいこん》に|光明《くわうみやう》を|放《はな》ち、|真理《しんり》に|住《ぢゆう》し、|嘗《かつ》て|難解《なんかい》の|問題《もんだい》と|思惟《しゐ》した|事《こと》も、|追々《おひおひ》と|感得《かんとく》するに|至《いた》り|得《う》るものである。|何《いづ》れも|皆《みな》|斯《かく》の|如《ごと》き|情態《じやうたい》に|進《すす》むは、|大神《おほかみ》より|来《きた》る|愛《あい》の|力《ちから》に|依《よ》るものである。|此《この》|愛《あい》なるものは|高天原《たかあまはら》の|一切《いつさい》のものを|容《い》るべき|器《うつは》なるが|故《ゆゑ》である。|大神《おほかみ》の|御神格《ごしんかく》を|其《その》|内分《ないぶん》に|受《う》くること|多《おほ》き|所《ところ》の|人間《にんげん》を|称《しよう》して|天的天人《てんてきてんにん》といふ。|又《また》|内的天人《ないてきてんにん》、|高処天人《かうしよてんにん》とも|別称《べつしよう》するのである。|高天原《たかあまはら》にも|亦《また》|内的《ないてき》、|外的《ぐわいてき》の|区別《くべつ》があり、|内的《ないてき》の|天界《てんかい》を|高処天界《かうしよてんかい》といひ、|外的《ぐわいてき》の|天界《てんかい》を|低処天界《ていしよてんかい》と|称《とな》へられてゐる。|而《しか》して|天国《てんごく》に|在《あ》る|天人《てんにん》が|居《ゐ》る|所《ところ》の|愛《あい》を|天愛《てんあい》といひ、|在霊国《ざいれいごく》の|天人《てんにん》が|居《ゐ》る|所《ところ》の|愛《あい》を|霊愛《れいあい》といふ。|而《しか》して|天国《てんごく》には|大神《おほかみ》は|太陽《たいやう》と|現《あら》はれ|給《たま》ひ、|霊国《れいごく》に|在《あ》つては|月《つき》と|現《あら》はれ|給《たま》ふ。|初稚姫《はつわかひめ》の|如《ごと》きは、どちらかと|云《い》へば|天国天人《てんごくてんにん》の|部類《ぶるい》に|属《ぞく》し、|厳《いづ》の|御霊《みたま》にして|太陽《たいやう》の|熱《ねつ》|即《すなは》ち|愛《あい》の|全部《ぜんぶ》とも|云《い》つても|可《い》いのである。|又《また》|言依別命《ことよりわけのみこと》は|霊国《れいごく》に|在《あ》る|天人《てんにん》にして、|信《しん》の|真《しん》に|居《を》り、|月《つき》の|光《ひかり》を|以《もつ》て|其《その》|全部《ぜんぶ》となし|給《たま》ふものである。|故《ゆゑ》に|初稚姫《はつわかひめ》は|能《よ》く|神《かみ》を|祭《まつ》り、|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|而《しか》して|宣伝使《せんでんし》や|信者《しんじや》の|模範《もはん》となり|給《たま》ひ、|言依別命《ことよりわけのみこと》は|智的方面《ちてきはうめん》に|主《しゆ》として|住《ぢゆう》し|給《たま》ふが|故《ゆゑ》に、|宇宙《うちう》の|真理《しんり》を|説《と》き|諭《さと》し、|現幽神《げんいうしん》|三界《さんかい》の|真相《しんさう》を|明《あきら》かにし、すべての|原動力《げんどうりよく》とならせ|給《たま》ふ|霊的天人《れいてきてんにん》である。|木花姫命《このはなひめのみこと》の|如《ごと》きは|霊的天人《れいてきてんにん》の|部《ぶ》に|属《ぞく》し|給《たま》ひ、|日《ひ》の|出神《でのかみ》は|天的天人《てんてきてんにん》の|部類《ぶるい》に|属《ぞく》し|給《たま》ふ|神人《しんじん》である。されども|何《いづ》れの|神《かみ》も、|霊的天人《れいてきてんにん》にして|天的天人《てんてきてんにん》たり、|天的天人《てんてきてんにん》にして|霊的天人《れいてきてんにん》たることは、|其《その》|平素《へいそ》の|御活動《ごくわつどう》の|状態《じやうたい》に|依《よ》つて|悟《さと》り|得《う》るのである。
|天国《てんごく》はすべて|大神《おほかみ》の|祭司的《さいしてき》|国土《こくど》にして|大神《おほかみ》の|御住所《ごぢゆうしよ》である。|霊国《れいごく》は|大神《おほかみ》の|王土《わうど》にして|之《これ》を|王座《わうざ》|又《また》は|瑞《みづ》の|宝座《はうざ》とも|云《い》ふ。|而《しか》して|天国《てんごく》と|霊国《れいごく》との|交通《かうつう》の|機関《きくわん》は、|何《いづ》れも|媒介的《ばいかいてき》|天人団体《てんにんだんたい》の|手《て》によつて|行《おこな》はれてゐる。これも|皆《みな》|大神《おほかみ》の|思召《おぼしめし》に|依《よ》つておかせ|給《たま》うた|所《ところ》の|交通機関《かうつうきくわん》である。|初稚姫《はつわかひめ》は|又《また》|此《この》|媒介的《ばいかいてき》|天人《てんにん》の|手《て》によつて、|或《ある》|時《とき》は|天国《てんごく》と|交通《かうつう》し、|或《ある》|時《とき》は|霊国《れいごく》と|交通《かうつう》し、|又《また》は|天国《てんごく》|霊国《れいごく》|一度《いちど》に|交通《かうつう》し|給《たま》ふ|事《こと》があつた。|初稚姫《はつわかひめ》の|如《ごと》き|地上《ちじやう》の|天人《てんにん》は、|媒介的《ばいかいてき》|団体《だんたい》の|手《て》に|依《よ》らなくても、|直《すぐ》に|交通《かうつう》し|得《う》べきものと|考《かんが》へらるるなれども、|一旦《いつたん》|地上《ちじやう》に|降《くだ》りて|肉体人《にくたいじん》の|境遇《きやうぐう》に|居《を》らるる|間《あひだ》は、|何《ど》うしても|媒介者《ばいかいしや》を|通《つう》ずる|必要《ひつえう》があるのである。|如何《いかん》とならば、|内的《ないてき》|外的《ぐわいてき》の|両方面《りやうはうめん》の|中《うち》に|介在《かいざい》し|給《たま》ふ|天人《てんにん》なるが|故《ゆゑ》である。
|初稚姫《はつわかひめ》は|祠《ほこら》の|森《もり》を|立出《たちい》でて、|愈《いよいよ》|遠征《ゑんせい》の|途《と》に|就《つ》かむとした。|此《この》|時《とき》|珍彦《うづひこ》|夫婦《ふうふ》を|始《はじ》め|楓《かへで》|及《およ》び|幹部《かんぶ》|役員《やくゐん》を|始《はじ》め、|正《ただ》しき|信徒《しんと》は、|親《おや》の|如《ごと》く|神《かみ》の|如《ごと》く|慕《した》うてゐた|此《この》|神人《しんじん》に|別《わか》るる|事《こと》を|非常《ひじやう》に|歎《なげ》き|悲《かな》しみ、せめてモウ|一日《いちにち》なりとも|足《あし》を|留《とど》められむことをと|赤心《まごころ》より|懇願《こんぐわん》して|止《や》まなかつた。されど|初稚姫《はつわかひめ》は、|如何《いか》に|愛《あい》らしき|信仰《しんかう》に|充《み》てる|人々《ひとびと》が|熱涙《ねつるゐ》を|流《なが》しての|哀願《あいぐわん》も、|之《これ》を|受入《うけい》るる|余地《よち》がなかつた。|何故《なにゆゑ》ならば、|自分《じぶん》は|大神《おほかみ》より|任《まか》されたる|大神務《だいしんむ》を|果《はた》さねばならぬ|身《み》の|上《うへ》である。そして|一日《いちにち》も|早《はや》く|神業《しんげふ》を|完成《くわんせい》し|天下《てんか》の|害《がい》を|除《のぞ》き|大神《おほかみ》の|前《まへ》に|復命《ふくめい》せなくてはならぬからであつた。|初稚姫《はつわかひめ》も|哀別離苦《あいべつりく》の|情《じやう》に|絆《ほだ》されて、|其《その》|内心《ないしん》は、|此処《ここ》を|立去《たちさ》る|事《こと》を|非常《ひじやう》に|惜《を》しんだのである。|万一《まんいち》|吾《われ》|此処《ここ》を|去《さ》らば、|未《いま》だ|徳《とく》|全《まつた》からず|智慧証覚《ちゑしようかく》の|薄《うす》き|珍彦《うづひこ》を|始《はじ》め|其《その》|他《た》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》は、|又《また》もや|強烈《きやうれつ》なる|曲神《まがかみ》の|為《ため》に|誑惑《きやうわく》され、|折角《せつかく》の|信仰《しんかう》を|失墜《しつつゐ》せざらむやとの|案《あん》じが|残《のこ》つてゐたからである。|併《しか》し|乍《なが》ら|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|余《あま》り|遠《とほ》からざる|地点《ちてん》なれば、|正勝《まさか》の|時《とき》には|綺羅星《きらぼし》の|如《ごと》く|立並《たちなら》ぶ|宣伝使《せんでんし》が、|何《なん》とか|事務《じむ》を|繰合《くりあは》して|応援《おうゑん》に|来《き》て|呉《く》れるであらう。さうすれば、|自分《じぶん》はここを|去《さ》つても、さまで|憂《うれ》ふべき|失態《しつたい》は|来《きた》さないであらうと|一縷《いちる》の|望《のぞ》みを|残《のこ》して、いよいよ|心《こころ》を|励《はげ》まし、|人情《にんじやう》の|外《そと》に|立《た》つて、|神《かみ》の|為《ため》に|活動《くわつどう》せむことを|決意《けつい》した。|初稚姫《はつわかひめ》は|神殿《しんでん》に|向《むか》つて|訣別《けつべつ》の|辞《じ》を|述《の》べられた。|其《その》|詞《ことば》、
『|高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》を |地上《ちじやう》に|移《うつ》しまつりたる
|祠《ほこら》の|森《もり》の|聖場《せいぢやう》を |珍《うづ》の|宮居《みやゐ》と|定《さだ》めまし
|下《した》つ|巌根《いはね》に|宮柱《みやばしら》 |太《ふと》しく|立《た》てて|永久《とこしへ》に
しづまりいます|三五《あななひ》の |皇大神《すめおほかみ》を|始《はじ》めとし
|左右《さいう》の|脇《わき》にあれまする |百《もも》の|神《かみ》|等《たち》|御霊《みたま》|等《たち》
|珍《うづ》の|御前《みまへ》に|謹《つつし》みて |初稚姫《はつわかひめ》が|真心《まごころ》を
|披陳《ひちん》し|仕《つか》へ|奉《たてまつ》る |三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》
|一度《いちど》に|開《ひら》く|御神業《ごしんげふ》 |精霊界《せいれいかい》や|地獄界《ぢごくかい》
|其《その》|外《ほか》|怪《け》しき|邪神界《じやしんかい》 |暗《やみ》に|彷徨《さまよ》ふ|霊《みたま》|等《たち》
|残《のこ》る|隈《くま》なく|大神《おほかみ》の |至善《しぜん》|至愛《しあい》の|高徳《かうとく》に
なびかせまつり|愚《おろ》かなる おのもおのもの|霊《みたま》をば
|研《みが》き|清《きよ》めて|心身《しんしん》の |光《ひかり》を|与《あた》へ|天界《てんかい》の
|神《かみ》の|光《ひかり》に|向《むか》はしめ |宇宙《うちう》|一切《いつさい》|万有《ばんいう》を
|高天原《たかあまはら》の|楽園《らくゑん》に |救《すく》はむ|為《た》めの|鹿島立《かしまだ》ち
|妾《わらは》は|若《わか》き|身《み》を|以《もつ》て |魔神《まがみ》のたけぶ|荒野原《あらのはら》
|分《わ》けゆき|進《すす》む|身《み》にしあれば |醜《しこ》の|曲津《まがつ》は|隙間《すきま》なく
|妾《わらは》を|亡《ほろ》ぼしなやめむと |隙《すき》を|窺《うかが》ひ|待《ま》つならむ
ああ|大神《おほかみ》よ|大神《おほかみ》よ |如何《いか》なる|曲《まが》の|襲《おそ》ふとも
|醜《しこ》の|魔風《まかぜ》のすさぶとも |聖《きよ》き|尊《たふと》き|御光《みひかり》と
|愛《あい》の|熱《ねつ》とに|吾《わが》|身魂《みたま》 |守《まも》らせ|給《たま》へ|皇神《すめかみ》の
|依《よ》さし|給《たま》ひし|神業《しんげふ》を いと|平《たひら》けく|安《やす》らけく
|事《こと》|終《を》へしめて|大前《おほまへ》に |一日《ひとひ》も|早《はや》く|復命《かへりごと》
|申《まを》させ|給《たま》へ|惟神《かむながら》 |御前《みまへ》に|慎《つつし》み|願《ね》ぎまつる
|旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|天変地妖《てんべんちえう》は|襲《おそ》ふとも |神《かみ》に|任《まか》せし|此《この》|身体《からだ》
|生死《せいし》の|外《ほか》に|超越《てうゑつ》し |愛《あい》の|善徳《ぜんとく》|経《たて》となし
|信《しん》の|真徳《しんとく》|緯《ぬき》として |撓《たゆ》まず|屈《くつ》せず|何処《どこ》までも
|吾《わが》|天職《てんしよく》を|守《まも》るべく |誓《ちか》ひまつりし|上《うへ》からは
|仮令《たとへ》|吾《わが》|身《み》は|亡《ほろ》ぶとも |神《かみ》に|受《う》けたる|霊身《れいしん》は
|千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|永久《とこしへ》に |朽《く》ちず|亡《ほろ》びず|活動《くわつどう》し
|幾万年《いくまんねん》の|後《のち》までも |顕幽《けんいう》|二界《にかい》に|出没《しゆつぼつ》し
|此《この》|目的《もくてき》を|達《たつ》せずば いかでか|止《や》まむ|大和魂《やまとだま》
|吾《わが》|身《み》の|内《うち》に|天国《てんごく》を |開《ひら》きて|進《すす》む|勇《いさ》ましさ
|忽《たちま》ち|地獄《ぢごく》は|天国《てんごく》と |神《かみ》のまにまに|立直《たてなほ》し
|吾《わが》|霊魂《れいこん》の|天分《てんぶん》を |完全《うまら》に|委曲《つばら》に|尽《つく》すべし
|守《まも》らせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》 |皇大神《すめおほかみ》の|大前《おほまへ》に
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる』
と|念《ねん》じ|終《をは》り、|且《かつ》|珍彦《うづひこ》|以下《いか》の|神《かみ》の|下僕《げぼく》が|悪魔《あくま》に|誑惑《きやうわく》さるることなく、|惟神《かむながら》の|大道《だいだう》を|遵奉《じゆんぽう》し、|其《その》|使命《しめい》を|全《まつた》うせむことを|懇願《こんぐわん》して|大前《おほまへ》を|退《しりぞ》き、|珍彦《うづひこ》の|館《やかた》に|入《い》りて|送別《そうべつ》の|宴《えん》に|臨《のぞ》み、いよいよ|此処《ここ》を|離《はな》るることとなつた。
|珍彦《うづひこ》は|別《わか》れに|臨《のぞ》んで|歌《うた》をよむ。
『|久方《ひさかた》の|天津空《あまつそら》より|降《くだ》りましし
|君《きみ》に|別《わか》るる|今日《けふ》の|悲《かな》しさ。
|願《ねが》はくばせめて|一日《ひとひ》を|此《この》|森《もり》に
|過《すご》させ|給《たま》へ|厳《いづ》の|生宮《いきみや》』
|初稚姫《はつわかひめ》『|珍彦《うづひこ》の|神《かみ》の|御言《みこと》を|如何《いか》にして
|背《そむ》くべきかは、ああされどされど。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|言葉《ことば》は|背《そむ》かれず
|惜《を》しき|別《わか》れを|告《つ》ぐる|苦《くる》しさ。
|身《み》は|遠《とほ》くハルナの|都《みやこ》に|進《すす》むとも
|吾《わが》|魂《たましひ》は|汝《なれ》に|添《そ》ひなむ』
|珍彦《うづひこ》『|有難《ありがた》し|其《その》|御言葉《みことば》を|力《ちから》とし
|柱《はしら》となして|神《かみ》に|仕《つか》へむ。
|野《の》も|山《やま》も|荒《あ》れに|荒《あ》れたる|醜草《しこぐさ》を
|別《わ》けて|進《すす》ます|君《きみ》ぞ|尊《たふと》き。
|何事《なにごと》も|幸《さち》あれかしと|大前《おほまへ》に
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|願《ねが》ひまつらむ』
|静子《しづこ》『|貴《うづ》の|君《きみ》これの|館《やかた》へ|出《い》でまして
|聖《きよ》き|宝《たから》を|与《あた》へ|給《たま》ひぬ。
|目《め》に|見《み》えぬ|百《もも》の|宝《たから》を|与《あた》へられぬ
|研《みが》きすまして|神《かみ》に|捧《ささ》げむ』
|初稚姫《はつわかひめ》『|目《め》に|見《み》えぬ|宝《たから》は|朽《く》ちず|虫《むし》|喰《く》はず
いや|永久《とこしへ》に|汝《な》が|物《もの》となるも。
|信仰《しんかう》の|徳《とく》|充《み》ちぬれば|曲津見《まがつみ》も
|如何《いか》なる|仇《あだ》も|襲《おそ》ふべしやは』
|静子《しづこ》『|妖幻坊《えうげんばう》|高姫《たかひめ》の|如《ごと》き|曲津見《まがつみ》が
|来《きた》りし|時《とき》は|如何《いか》になさむか。
これのみが|心《こころ》にかかり|日《ひ》も|夜《よる》も
|眠《ねむ》られぬ|身《み》を|救《すく》はれにけり。
さりながら|又《また》|思《おも》ふかな|曲津見《まがつみ》の
|襲《おそ》ひ|来《きた》らむ|例《ため》しなきやと』
|初稚姫《はつわかひめ》『|珍彦《うづひこ》よ|静子《しづこ》の|君《きみ》よ|楓姫《かへでひめ》よ
|心《こころ》|安《やす》かれ|珍《うづ》の|聖地《せいち》ぞ。
|汝《なれ》が|身《み》に|高天原《たかあまはら》の|開《ひら》けなば
|大蛇《をろち》も|鬼《おに》も|襲《おそ》ひ|来《く》べきや。
|恐《おそ》るべき|吾《わが》|身《み》の|仇《あだ》は|心《こころ》より
|神《かみ》に|背《そむ》きし|罪《つみ》とこそ|知《し》れ』
|珍彦《うづひこ》『|有難《ありがた》し|聖《きよ》き|教《をしへ》を|蒙《かうむ》りて
|甦《よみがへ》りたる|心地《ここち》しにけり』
|楓姫《かへでひめ》『|初稚姫《はつわかひめ》|神《かみ》の|命《みこと》の|帰《かへ》りまさば
|誰《たれ》をたよりに|日《ひ》をや|過《すご》さむ。
この|君《きみ》を|命《いのち》の|親《おや》と|崇《あが》めつつ
|仕《つか》へ|来《きた》りしわれぞ|悲《かな》しき。
|別《わか》れても|又《また》|会《あ》ふ|事《こと》のあるものと
|神《かみ》の|教《をしへ》をたよりに|待《ま》つも』
|初稚姫《はつわかひめ》『|楓姫《かへでひめ》|名残《なごり》は|尽《つ》きず|吾《わが》|涙《なみだ》
|神《かみ》の|光《ひかり》に|干《ほ》して|行《ゆ》くべし』
|楓姫《かへでひめ》『|今《いま》|流《なが》す|涙《なみだ》の|雨《あめ》もやがて|又《また》
|晴《は》れて|嬉《うれ》しき|神国《かみくに》の|園《その》』
イル『いかにして|此《この》|出《い》でましを|止《とど》めむと
|祈《いの》りし|甲斐《かひ》なく|別《わか》れむとぞする』
イク『どうしても|御供《みとも》に|仕《つか》へまつらむと
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|願《ねが》ひてしかも』
サール『|何処《どこ》までも|君《きみ》の|御後《みあと》に|従《したが》ひて
|吾《われ》は|行《ゆ》くなり|神《かみ》のまにまに』
|初稚姫《はつわかひめ》『ますらをの|心《こころ》は|嬉《うれ》しさりながら
|神《かみ》の|仰《おほ》せに|背《そむ》くよしなし』
サール『さりとても|是《これ》が|此《この》|儘《まま》|何《なん》として
|別《わか》れらりようか|胸《むね》の|苦《くる》しさ』
ハル『はるばると|荒野《あらの》を|越《こ》えて|月《つき》の|国《くに》に
|出《い》でます|君《きみ》ぞ|雄々《をを》しかりけり。
われも|亦《また》|御供《みとも》に|仕《つか》へまつらむと
|願《ねが》ひしことも|夢《ゆめ》となりぬる』
テル『|如何《いか》にして|君《きみ》が|首途《かどで》をとどめむと
|思《おも》ひし|甲斐《かひ》も|泣《な》く|泣《な》くわかるる』
|初稚姫《はつわかひめ》『いざさらば|珍彦《うづひこ》|其《その》|他《た》の|司《つかさ》|等《たち》
|神《かみ》の|守《まも》りに|安《やす》くましませ』
|珍彦《うづひこ》『|君《きみ》|行《ゆ》かば|祠《ほこら》の|森《もり》は|凩《こがらし》に
|木《こ》の|葉《は》の|散《ち》りし|如《ごと》くなるらむ』
|初稚姫《はつわかひめ》『|木《こ》の|葉《は》|散《ち》るも|春《はる》の|陽気《やうき》の|生《うま》れ|来《き》て
|恵《めぐみ》の|花《はな》の|匂《にほ》ふ|聖場《せいぢやう》。
いつまでも|此処《ここ》にあるとも|如何《いか》にせむ
|神《かみ》の|心《こころ》に|叶《かな》はざりせば。
|皇神《すめかみ》の|大御心《おほみこころ》に|逸早《いちはや》く
ハルナに|行《ゆ》けと|宣《の》らせ|給《たま》へば』
|斯《か》く|互《たがひ》に|訣別《けつべつ》の|歌《うた》を|交換《かうくわん》し、|哀別《あいべつ》の|涙《なみだ》を|流《なが》しながら、|愛犬《あいけん》スマートを|従《したが》へ、|宣伝歌《せんでんか》を|唄《うた》ひつつ、|初稚姫《はつわかひめ》は|崎嶇《きく》たる|山路《やまぢ》を、|宣伝使服《せんでんしふく》に|身《み》をかため、|杖《つゑ》を|力《ちから》に|降《くだ》り|行《ゆ》く。スマートも|祠《ほこら》の|森《もり》の|人々《ひとびと》に|別《わか》れを|惜《を》しむものの|如《ごと》く、|二声《ふたこゑ》|三声《みこゑ》|悲《かな》しげな|声《こゑ》を|残《のこ》し、|初稚姫《はつわかひめ》の|後《あと》になり|先《さき》になり、|又《また》もや|嬉《うれ》しげに|頭《かしら》をふり、|尾《を》を|掉《ふ》り|従《したが》ひ|行《ゆ》く。
(大正一二・一・二九 旧一一・一二・一三 松村真澄録)
第三章 |楽屋内《がくやうち》〔一三三九〕
イク、サールの|両人《りやうにん》は、|裏口《うらぐち》より|森《もり》の|中《なか》に|道《みち》をとり、|二三町《にさんちやう》ばかり|水《みづ》|浅《あさ》き|谷底《たにそこ》を|潜《くぐ》つて|本街道《ほんかいだう》に|出《い》で、それより|山口《やまぐち》の|森《もり》に|駆《か》けつけ、|初稚姫《はつわかひめ》に、|如何《いか》なる|手段《てだて》を|以《もつ》てしても|随行《ずゐかう》を|許《ゆる》されむ|事《こと》をと|一生懸命《いつしやうけんめい》に|歌《うた》を|歌《うた》ひながら|急坂《きふはん》を|下《くだ》り|行《ゆ》く。
イク『バラモン|軍《ぐん》に|従《したが》ひて |清春山《きよはるやま》の|岩窟《がんくつ》に
|留守居《るすゐ》を|勤《つと》めゐたる|折《をり》 |松彦《まつひこ》、|竜公《たつこう》|現《あら》はれて
|伊太公司《いたこうつかさ》を|迎《むか》へとり |三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》した
|其《その》|赤誠《せきせい》にほだされて |吾等《われら》も|全《まつた》く|大神《おほかみ》の
|教《をしへ》に|帰順《きじゆん》し|奉《たてまつ》り |祠《ほこら》の|森《もり》に|奉仕《ほうし》して
|今《いま》|迄《まで》|勤《つと》め|来《きた》りしが |天《あめ》の|八重雲《やへくも》かき|分《わ》けて
|降《くだ》り|給《たま》ひし|宣伝使《せんでんし》 |初稚姫《はつわかひめ》の|神徳《しんとく》に
|心《こころ》も|魂《たま》も|奪《うば》はれて |今《いま》は|全《まつた》く|三五教《あななひけう》の
|正《ただ》しき|信者《しんじや》となりにけり さはさりながら|斎苑館《いそやかた》
|神《かみ》の|司《つかさ》は|綺羅星《きらぼし》の |如《ごと》くに|数多《あまた》ましませど
|愛《あい》と|善《ぜん》との|権化《ごんげ》とも |云《い》ふべき|司《つかさ》は|稀《まれ》ならむ
|初稚姫《はつわかひめ》の|神人《しんじん》を おいて|吾等《われら》を|救《すく》ふべき
|誠《まこと》の|神《かみ》はあらざらめ |吾等《われら》は|之《これ》より|御後《みあと》をば
|何処々々《どこどこ》までも|慕《した》ひ|行《ゆ》き |其《その》|神徳《しんとく》に|照《て》らされて
|誠《まこと》の|道《みち》の|御使《みつかひ》と |選《えら》まれ|生《い》きては|地《ち》の|世界《せかい》
|死《し》しては|霊国《れいごく》、|天国《てんごく》の |教司《をしへつかさ》と|任《ま》けられて
|人生《じんせい》|最後《さいご》の|目的《もくてき》を |完全《うまら》に|委曲《つばら》に|遂行《すゐかう》し
|天地《てんち》に|代《かは》る|功績《いさをし》を |立《た》てねばおかぬ|二人連《ふたりづ》れ
|進《すす》めよ|進《すす》め、いざ|進《すす》め |山口《やまぐち》さして|逸早《いちはや》く
|岩石起伏《がんせききふく》の|谷道《たにみち》も |何《なん》のものかは|高姫《たかひめ》や
|妖幻坊《えうげんばう》が|途中《とちう》にて あらゆる|魔法《まはふ》を|使《つか》ひつつ
|吾等《われら》を|艱《なや》め|攻《せ》むるとも |何《なに》かは|恐《おそ》れむ|敷島《しきしま》の
|大和《やまと》|男《を》の|子《こ》の|益良夫《ますらを》が |神《かみ》の|光《ひかり》に|照《て》らされて
|悪魔《あくま》の|猛《たけ》る|山道《やまみち》を |最急行《さいきふかう》で|突破《とつぱ》する
|此《この》|首途《かどいで》ぞ|勇《いさ》ましき 「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」
そろそろ|坂《さか》がきつなつた サールの|司《つかさ》、|気《き》をつけよ
|即《すなは》ち|此処《ここ》が|妖幻坊《えうげんばう》や |醜《しこ》の|司《つかさ》の|高姫《たかひめ》が
|出現《しゆつげん》したる|場所《ばしよ》ぞかし 「ウントコドツコイ」やつて|来《こ》い
|今度《こんど》は|俺《おれ》は|大丈夫《だいぢやうぶ》 |百万人《ひやくまんにん》の|力《ちから》をば
|一《ひと》つにかためた|宣伝使《せんでんし》 |初稚姫《はつわかひめ》を|始《はじ》めとし
スマートさまが|出《で》て|厶《ござ》る |妖幻坊《えうげんばう》の|百匹《ひやつぴき》や
|高姫《たかひめ》|万匹《まんびき》|来《きた》るとも もう|斯《か》うなれば|磐石《ばんじやく》よ
ああ|面白《おもしろ》し|面白《おもしろ》し |神《かみ》に|任《まか》せし|此《この》|身体《からだ》
|神《かみ》の|御《おん》|為《た》め|世《よ》の|為《た》めに |一心不乱《いつしんふらん》に|走《はし》り|行《ゆ》く
「ウントコドツコイ、ヤツトコシヨ」 サールの|司《つかさ》|何《なに》してる
|何程《なにほど》お|前《まへ》のコンパスが |俺《おれ》に|比《くら》べて|短《みじか》いと
|云《い》つても|之《これ》|又《また》あんまりだ |滅相《めつさう》|足《あし》の|遅《おそ》い|奴《やつ》
|愚図々々《ぐづぐづ》してると|姫様《ひめさま》が |後姿《うしろすがた》を|御覧《ごらう》じて
こらこら|待《ま》てよ|両人《りやうにん》と |呼止《よびと》められたら|何《なん》とする
|折角《せつかく》|智慧《ちゑ》を|搾《しぼ》り|出《だ》し ここまで|企《たく》んだ|狂言《きやうげん》が
|水泡《すゐほう》に|帰《き》して|了《しま》ふぞや ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましまして |初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむづかさ》が
|吾等《われら》|二人《ふたり》を|快《こころよ》く |長途《ちやうと》の|旅《たび》の|御供《おんとも》を
|許《ゆる》させ|給《たま》ふ|計《はか》らひを |廻《めぐ》らせ|吾等《われら》が|一念《いちねん》を
|遂《と》げさせ|給《たま》へ|大御神《おほみかみ》 |珍《うづ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|大地《だいち》は|泥《どろ》に|浸《ひた》るとも |思《おも》ひ|立《た》つたる|此《この》|首途《かどで》
ひきて|帰《かへ》らぬ|桑《くは》の|弓《ゆみ》 |何処々々《どこどこ》までも|従《したが》ひて
|初稚姫《はつわかひめ》の|神格《しんかく》に |照《て》らされ|吾等《われら》が|本分《ほんぶん》を
|尽《つく》さにやおかぬ|大和魂《やまとだま》 ああ|勇《いさ》ましし|勇《いさ》ましし
|之《これ》につけてもハル、テルや イルの|奴等《やつら》は|馬鹿者《ばかもの》だ
|気転《きてん》を|利《き》かして|何故《なぜ》|早《はや》く お|先《さき》へ|失敬《しつけい》せなんだか
ヤツパリ|智慧《ちゑ》のない|奴《やつ》の する|事《こと》ア|何処《どこ》かに|間《ま》がぬけて
まさかの|時《とき》には|空気《くうき》ぬけ |思《おも》へば|思《おも》へば|面白《おもしろ》い
|守《まも》らせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》 |神《かみ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎまつる』
サールは|又《また》|歌《うた》ふ。
『「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」 |何時《いつ》|来《き》て|見《み》ても|此《この》|坂《さか》は
|行歩《かうほ》に|苦《くる》しむ|難所《なんしよ》だな これ|待《ま》て|暫《しば》しイクの|奴《やつ》
それ|程《ほど》|慌《あわ》てて|何《なん》にする |初稚姫《はつわかひめ》の|御司《みつかさ》は
|後《あと》から|厶《ござ》るに|違《ちが》ひない まアボツボツと|行《ゆ》くがよい
もし|過《あやま》つて|転《こ》けたなら |弱味《よわみ》を|見《み》すまし|高姫《たかひめ》や
|妖幻坊《えうげんばう》が|現《あら》はれて |先度《せんど》の|様《やう》にえらい|目《め》に
|遇《あ》はしよつたら|何《なん》とする さきにはスマートに|助《たす》けられ
|又《また》も|今度《こんど》はスマートに |九死一生《きうしいつしやう》の|所《ところ》をば
|助《たす》けて|貰《もら》ふ|目算《もくさん》か それはあんまり|虫《むし》がよい
|柳《やなぎ》の|下《した》に|二度《にど》|三度《さんど》 |鰌《どぜう》は|居《を》らぬと|云《い》ふ|事《こと》を
お|前《まへ》は|合点《がつてん》してゐるか |前車《ぜんしや》の|顛覆《てんぶく》するを|見《み》て
|後車《こうしや》の|必《かなら》ず|戒《いまし》めと なせとの|教《をしへ》を|忘《わす》れたか
|猪武者《ゐのししむしや》にも|程《ほど》がある |三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》に
|退却《たいきやく》なしと|云《い》つたとて |猪突猛進《ちよとつまうしん》することは
チツとは|考《かんが》へ|物《もの》ぢやぞよ あああ|足《あし》の|早《はや》い|奴《やつ》
|姿《すがた》が|見《み》えなくなりよつた |此《この》|坂道《さかみち》を|矢《や》の|様《やう》に
|走《はし》つて|行《い》つたが|目《め》がくらみ |又《また》もや|石《いし》に|躓《つまづ》いて
スツテンドウと|顛覆《てんぶく》し |向脛《むこづね》|打《う》つてウンウンと
|苦《くる》しみながら|笑《わら》ひ|泣《な》き |屹度《きつと》してるに|違《ちが》ひない
|急《いそ》げば|廻《まは》れと|云《い》ふ|事《こと》だ |一足々々《ひとあしひとあし》|気《き》をつけて
|俺《おれ》はボツボツ|進《すす》みませう 「オツト、ドツコイ」きつい|坂《さか》
|足《あし》を|踏《ふ》み|込《こ》む|所《とこ》はない もし|過《あやま》つて|辷《すべ》つたら
それこそ|命《いのち》の|捨《す》て|所《どころ》 |何程《なにほど》|下賤《げせん》の|身《み》なりとも
ヤツパリ|神《かみ》の|生身魂《いくみたま》 かからせ|給《たま》ふ|生宮《いきみや》だ
|人《ひと》は|持身《ぢしん》の|責任《せきにん》を |忘《わす》れて|此《この》|世《よ》にたてよまい
|何程《なにほど》|身魂《みたま》が|偉《えら》くとも |現実界《げんじつかい》に|働《はたら》くは
|如何《どう》しても|体《たい》が|必要《ひつえう》だ |霊肉《れいにく》ともに|完全《くわんぜん》に
|保全《ほぜん》しまつり|大神《おほかみ》の |大神業《だいしんげふ》に|仕《つか》ふるは
|人《ひと》の|人《ひと》たる|務《つと》めなり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》はひて |吾等《われら》|二人《ふたり》は|恙《つつが》なく
|此《この》|急坂《きふはん》を|駆《か》け|下《くだ》り |初稚姫《はつわかひめ》のおでましを
|行手《ゆくて》の|森《もり》で|待《ま》ち|迎《むか》へ |千言万語《せんげんばんご》を|費《つひや》して
|御供《みとも》に|供《つか》へまつるべく あらゆるベストを|尽《つく》すべし
それでも|聞《き》き|入《い》れ|給《たま》はずば |皇大神《すめおほかみ》の|御守護《おんしゆご》で
|初稚姫《はつわかひめ》の|体《たい》をかり |其《その》|言霊《ことたま》を|使用《しよう》して
|御供《みとも》を|許《ゆる》させ|給《たま》ふべし |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |此《この》|目的《もくてき》を|達《たつ》せねば
|吾等《われら》|二人《ふたり》は|死《し》すとても |祠《ほこら》の|森《もり》へは|帰《かへ》らない
|吾《わが》|誠心《まごころ》を|憐《あは》れみて |許《ゆる》させ|給《たま》へ|大御神《おほみかみ》
|珍《うづ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎまつる 「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」
そろそろ|道《みち》が|緩《ゆる》うなつた |大方《おほかた》|此処等《ここら》でイク|公《こう》が
|息《いき》を|休《やす》めて|居《ゐ》るだらう |大難関《だいなんくわん》も|恙《つつが》なく
|突破《とつぱ》したるに|違《ちが》ひない |之《これ》も|全《まつた》く|神様《かみさま》の
|清《きよ》き|尊《たふと》き|御守護《おんまもり》 |嬉《うれ》しく|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る』
と|歌《うた》ひながら、|細《ほそ》い|谷道《たにみち》をトントントンとイクと|二三町《にさんちやう》の|間隔《かんかく》を|保《たも》つて、|木《こ》の|間《ま》に|見《み》えつ|隠《かく》れつ、|漸《やうや》くにして|山口《やまぐち》の|樫《かし》の|大木《たいぼく》の|麓《ふもと》に|着《つ》いた。
『おいサール、|何《ど》うだ。|随分《ずいぶん》|足《あし》が|遅《おそ》いぢやないか。|鉄《かね》の|草鞋《わらじ》を|穿《は》いても、もちと|早《はや》く|来《こ》れさうなものだ。|俺《おれ》が|此処《ここ》に|着《つ》いて|冷《つめ》たうなつてるのに、まだ|貴様《きさま》の|姿《すがた》が|見《み》えぬので、|又《また》も|途中《とちう》で|妖幻坊《えうげんばう》に|出会《でつくは》し、やられてゐるのぢやなからうか、もしさうだつたら|貴様《きさま》の|骨《ほね》なつと|拾《ひろ》つてやらうと、|聊《いささ》か|御心配《ごしんぱい》をして|厶《ござ》つた|所《ところ》だ。まアまア|無事《ぶじ》に|此処《ここ》|迄《まで》やつて|来《き》たのは|聊《いささ》か|褒《ほ》めてやる。|併《しか》しながら|貴様《きさま》の|顔《かほ》は|何《なん》だ。|真黒気《まつくろけ》ぢやないか』
『|俺《わし》は|館《やかた》の|裏《うら》から|抜《ぬ》け|出《だ》す|時《とき》に、|見《み》つかつては|大変《たいへん》だと|思《おも》ひ、|貴様《きさま》の|後《あと》から|炭俵《すみだはら》を|被《かぶ》つて|跟《つ》いて|来《き》たものだから、ヒヨツとしたら|炭《すみ》の|粉《こな》が|着《つ》いたのかも|知《し》れぬわ。|何《なん》だか|其処辺中《そこらぢう》が|鬱陶《うつたう》しくなつて|来《き》た|様《やう》な|気《き》がするわい』
『ハハハハ、|炭俵《すみだはら》を|被《かぶ》つて|汗《あせ》をかいたものだから、うまく|炭汁《すみじる》の|調和《てうわ》が|出来《でき》て、|貴様《きさま》の|顔《かほ》は|草紙《さうし》のやうだ。|然《しか》し|其《その》|炭俵《すみだはら》は|何《ど》うしたのだ』
『|何処《どこ》で|落《おと》したか、|捨《す》てたか、そんな|事《こと》を|考《かんが》へてる|余裕《よゆう》があるかい。|貴様《きさま》が|俺《おれ》を|捨《す》てて|一生懸命《いつしやうけんめい》|駆《か》けだすものだから、|先《さき》も|見《み》にやならず、|足許《あしもと》も|気《き》をつけにやならず、|本当《ほんたう》に|辛《つら》い|目《め》をして、|神様《かみさま》を|念《ねん》じつつ|漸《やうや》く|此処《ここ》に|着《つ》いたのだ。|幸《さいは》ひ|此処《ここ》に|谷川《たにがは》が|流《なが》れてゐるから、|顔《かほ》や|手《て》を|洗《あら》つて|来《く》るから|貴様《きさま》|待《ま》つて|居《ゐ》て|呉《く》れ。まだ|姫様《ひめさま》がおいでになるのは|余程《よほど》|間《ま》があるだらうからな』
『|待《ま》て|待《ま》て、|其《その》|黒《くろ》いのが|大変《たいへん》|都合《つがふ》のよい|事《こと》がある。|貴様《きさま》の|顔《かほ》はどつち|向《む》いてゐるか|分《わか》らぬ|位《くらゐ》|黒《くろ》いぞ。|之《これ》で|一《ひと》つ|狂言《きやうげん》をやつて|姫様《ひめさま》の|心《こころ》を|動《うご》かし、うまく|御供《おとも》をさして|頂《いただ》くのだな。|俺《おれ》も|一《ひと》つ|何《なに》か|顔《かほ》に|塗《ぬ》りたいものだが、|何《なん》ぞ|都合《つがふ》の|好《よ》いものはあるまいかな』
『|実《じつ》は|楓《かへで》さまが|使《つか》つてゐる|白粉《おしろい》を、|何気《なにげ》なしに|懐《ふところ》へ|捻込《ねぢこ》んでやつて|来《き》た。|之《これ》を|貴様《きさま》にやるから、|貴様《きさま》は|顔《かほ》|一面《いちめん》に|塗《ぬ》つて、|色《いろ》の|白《しろ》き|尉殿《じやうどの》となり、|俺《おれ》は|幸《さいは》ひ|此《この》|黒《くろ》い|顔《かほ》で|黒《くろ》い|尉殿《じやうどの》となり、|元《もと》の|屋敷《やしき》へお|直《なほ》り|候《さふらふ》……とかますのだ。さうすると|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が、もとの|祠《ほこら》の|森《もり》へ|帰《かへ》つて|下《くだ》さるかも|知《し》れぬ。もし|帰《かへ》つて|下《くだ》さらなかつたら、|直様《すぐさま》|帯《おび》を|解《と》いて|此《この》|樫《かし》の|木《き》にフイと|引懸《ひつか》つて、|腮《あご》を|吊《つ》つてプリンプリンとやるのだな』
『やあ、それは|面白《おもしろ》い』
とサールの|懐《ふところ》にあつた|白粉《おしろい》をとり、|顔《かほ》にベタベタと|塗《ぬ》りつけると、|顔《かほ》の|頬《ほほ》|一面《いちめん》に|生《は》えてゐる|髯《ひげ》に|白《しろ》い|粉《こな》がひつついて、まるで|白狐《びやくこ》の|様《やう》になつて|了《しま》つた。|二人《ふたり》は|恰好《かつかう》な|木《き》の|枝《えだ》を|折《を》り、|片手《かたて》に|扇《あふぎ》を|持《も》ち、|片手《かたて》に|其《その》|梢《こずゑ》を|鈴《すず》と|看做《みな》して、|樫《かし》の|元《もと》に|初稚姫《はつわかひめ》の|進《すす》み|来《きた》るを|待《ま》ち|構《かま》へ、|姿《すがた》が|見《み》えたら|一斉《いつせい》に|三番叟《さんばそう》の|舞《まひ》を|初《はじ》めむものと、いろいろと|工夫《くふう》を|凝《こ》らして|待《ま》つてゐる。
(大正一二・一・二九 旧一一・一二・一三 北村隆光録)
第四章 |俄狂言《にはかきやうげん》〔一三四〇〕
イク、サールの|両人《りやうにん》は、|三番叟《さんばそう》の|準備《じゆんび》を|整《ととの》へて、|初稚姫《はつわかひめ》の|来《きた》るを|今《いま》やおそしと|待《ま》ち|構《かま》へて|居《ゐ》た。|半時《はんとき》|許《ばか》り|経《た》つて、|初稚姫《はつわかひめ》はスマートを|伴《ともな》ひ、|声《こゑ》|爽《さはや》かに|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら|降《くだ》り|来《く》る|姿《すがた》が、|木《こ》の|間《ま》をもれてちらりちらりと|見《み》え|出《だ》した。|二人《ふたり》は「サアこれからが|性念場《しやうねんば》だ、ぬかつてはならぬ」と|互《たがひ》に|注意《ちゆうい》しながら、|身振《みぶり》|足振《あしぶり》などして|三番叟《さんばさう》の|下稽古《したげいこ》をやつて|居《ゐ》る。
|初稚姫《はつわかひめ》は|声《こゑ》|淑《しとや》かに|歌《うた》ふ。
『|産土山《うぶすなやま》の|聖場《せいぢやう》を |後《あと》に|眺《なが》めて|大神《おほかみ》の
|任《ま》けのまにまに|進《すす》み|往《ゆ》く |吾《われ》は|初稚姫《はつわかひめ》の|司《つかさ》
|祠《ほこら》の|森《もり》に|立寄《たちよ》りて |醜《しこ》の|魔神《まがみ》につかれたる
|高姫司《たかひめつかさ》を|初《はじ》めとし |妖幻坊《えうげんばう》の|曲津神《まがつかみ》は
|父《ちち》の|命《みこと》と|偽《いつは》りて あらゆる|曲《まが》を|遂行《すゐかう》し
|珍《うづ》の|聖場《せいぢやう》を|蹂躙《じうりん》し |曲津《まがつ》の|棲家《すみか》を|作《つく》らむと
|企《たく》み|居《ゐ》たりし|忌々《ゆゆ》しさよ |神《かみ》の|恵《めぐみ》に|守《まも》られて
|妾《わらは》は|祠《ほこら》の|森《もり》に|入《い》り |神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《かむわざ》に
|心《こころ》を|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し |曲《まが》の|身霊《みたま》を|言向《ことむ》けて
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》に|救《すく》はむと |思《おも》ひし|事《こと》も|水《みづ》の|泡《あわ》
|今《いま》はあへなくなりにけり |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|前途《ぜんと》の|幸《さち》を|祈《いの》りつつ |珍彦《うづひこ》|夫婦《ふうふ》や|楓姫《かへでひめ》
|百《もも》の|司《つかさ》や|信徒《まめひと》に |惜《を》しき|袂《たもと》をわかちつつ
|神《かみ》のたまひしスマートを |長途《ちやうと》の|旅《たび》の|力《ちから》とし
|神《かみ》の|恵《めぐみ》を|杖《つゑ》として |漸《やうや》く|此処《ここ》に|進《すす》み|来《き》ぬ
|谷《たに》の|流《なが》れは|淙々《そうそう》と |自然《しぜん》の|音楽《おんがく》|奏《そう》しつつ
|木々《きぎ》の|若芽《わかめ》は|春風《はるかぜ》に そよぎて|自然《しぜん》の|舞踏《ぶたふ》なし
|人跡《じんせき》|稀《まれ》なる|谷間《たにあひ》も さも|賑《にぎは》しき|鳥《とり》の|声《こゑ》
|緑《みどり》|紅《くれなゐ》|青《あを》|黄色《きいろ》 |其《その》|外《ほか》|百《もも》の|花《はな》の|香《か》は
|妾《わらは》が|眼《まなこ》を|慰《なぐさ》めつ |実《げ》にも|長閑《のどか》な|春《はる》の|空《そら》
ホーホケキヨーの|鶯《うぐひす》の |其《その》|鳴《な》き|声《ごゑ》に|何《なん》となく
|神《かみ》の|救《すく》ひの|御声《みこゑ》あり |妾《わらは》は|素《もと》より|一人旅《ひとりたび》
|教《をしへ》の|司《つかさ》を|伴《ともな》ひて |長途《ちやうと》の|旅《たび》は|許《ゆる》されず
|又《また》|吾《われ》とても|神《かみ》の|道《みち》 |進《すす》み|行《ゆ》く|身《み》に|供人《ともびと》を
|携《たづさ》へ|行《ゆ》かむすべもなし |如何《いか》なる|曲《まが》の|来《きた》るとも
|絶対《ぜつたい》|無限《むげん》の|大神《おほかみ》の |御稜威《みいづ》に|守《まも》られ|行《ゆ》く|上《うへ》は
|怖《おそ》るるものは|世《よ》にあらじ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|有難《ありがた》さ |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |醜《しこ》の|曲津《まがつ》は|猛《たけ》ぶとも
|思《おも》ひ|定《さだ》めし|一人旅《ひとりたび》 |如何《いか》でか|供《とも》を|許《ゆる》さむや
さはさりながら|山口《やまぐち》の |樫《かし》の|根元《ねもと》にイク、サール
|目《め》も|白黒《しろくろ》と|顔《かほ》を|塗《ぬ》り |吾《われ》に|従《したが》ひ|進《すす》まむと
|手具脛《てぐすね》ひいて|待《ま》ち|居《ゐ》たる |其《その》|赤心《まごころ》は|嘉《よみ》すれど
|神《かみ》の|許《ゆる》さぬ|道連《みちづ》れを |如何《いか》でか|妾《わらは》が|許《ゆる》し|得《え》む
ああ、イク、サール|両人《りやうにん》よ |妾《わらは》が|心《こころ》を|推《お》し|量《はか》り
|斯《か》かる|望《のぞ》みを|打《う》ち|捨《す》てて |一時《いちじ》も|早《はや》く|聖場《せいぢやう》に
|帰《かへ》りて|神《かみ》に|仕《つか》へませ |神《かみ》は|汝《なんぢ》と|倶《とも》にあり
たとへ|吾等《われら》に|従《したが》ひて いづくの|果《はて》に|来《きた》るとも
|神《かみ》の|許《ゆる》しのなき|上《うへ》は |如何《いか》でか|望《のぞ》みの|達《たつ》すべき
|諦《あきら》めたまへ|二柱《ふたはしら》 |初稚姫《はつわかひめ》が|慎《つつし》みて
|心《こころ》の|丈《たけ》を|隈《くま》もなく |汝《な》が|身《み》の|前《まへ》に|打《う》ち|明《あか》し
その|赤心《まごころ》の|厚《あつ》きをば |謹《つつし》み|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
と|歌《うた》ひながら|急坂《きふはん》を|下《くだ》り、|一歩々々《ひとあしひとあし》|近《ちか》づき|来《きた》る。|二人《ふたり》は|此《この》|歌《うた》を|聞《き》いて|失望《しつばう》|落胆《らくたん》の|色《いろ》を|現《あら》はしながら、
イク『オイ、|色《いろ》の|黒《くろ》き|尉殿《じやうどの》、あの|歌《うた》を|聞《き》いたか、|遉《さすが》は|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》だ、ちやんと|俺達《おれたち》が|顔《かほ》に|白《しろ》いものや|黒《くろ》いものまで|附《つ》けて、|此処《ここ》に|待《ま》つて|居《ゐ》る|事《こと》まで|御存《ごぞん》じと|見《み》えて、「|目《め》を|白黒《しろくろ》、|顔《かほ》を|塗《ぬ》り|立《た》てて」と|仰有《おつしや》つたぢやないか。こいつは|駄目《だめ》かも|知《し》れぬぞ』
サール『イヤ、|色《いろ》の|白《しろ》き|尉殿《じやうどの》、|必《かなら》ず|必《かなら》ず|御心配《ごしんぱい》|召《め》さるな』
と|云《い》ひながら|片手《かたて》に|扇《あふぎ》を|持《も》ち、|片手《かたて》に|梢《こずゑ》を|携《たづさ》へ、|妙《めう》な|腰付《こしつき》をして|足拍子《あしびやうし》を|揃《そろ》へ、サールは、
『トートータラリ、トータラリ、タラリーリ、トータラリヤー、タラリ、トータラリ、|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも、オンハ、カッタカタ、エンヤハ、オイ、カッタカタ』
と|口拍子《くちびやうし》を|取《と》りながら|歌《うた》ひだした。イクも|亦《また》|引《ひ》き|出《だ》されて|真白《まつしろ》の|顔《かほ》をさらしながら、
イク『|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも、|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも』
サール『|初稚姫《はつわかひめ》の|御供《おんとも》に
エンヤ、カッタカタ
オンハ、カッタカタ
|仕《つか》へまつらで|置《お》くべきか
|抑々《そもそも》|三五《あななひ》の|神《かみ》の|教《をしへ》は
|敵《てき》でも|餓鬼《がき》でも|虫族《むしけら》でも
|助《たす》くるー|道《みち》なりー|助《たす》くるー|道《みち》なり』
イク『かるが|故《ゆゑ》に
|如何《いか》に|初稚姫《はつわかひめ》の|神《かみ》なりとて
|此《この》|色《いろ》の|白《しろ》き|尉殿《じやうどの》や
まつた この|色《いろ》の|黒《くろ》き|尉殿《じやうどの》が
|赤心《まごころ》こめて|願《ね》ぎまつる
ハルナの|都《みやこ》の|御供《おんとも》を
|許《ゆる》させたまはぬ
|事《こと》やあるべき。
|如何《いか》に|色《いろ》の|黒《くろ》き|尉殿《じやうどの》、ここは|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》、|天津乙女《あまつをとめ》の|舞《まひ》を|奏《かな》でて|初稚姫《はつわかひめ》の|御心《みこころ》を|和《やは》らげ、|許《ゆる》され|難《がた》き|御供《おんとも》に、たつて|仕《つか》へまつらうでは|厶《ござ》らぬか』
サール『されば|候《さふらふ》、|天津乙女《あまつをとめ》の|舞《まひ》、|速《すみやか》に|御舞《おんま》ひ|候《さふら》へ、かく|舞《ま》ふ|時《とき》は|天女《てんによ》に|等《ひと》しき|初稚姫《はつわかひめ》、|祠《ほこら》の|森《もり》の|元《もと》の|屋敷《やしき》に|御直《おんなほ》り|候《さふら》ふべし。オンハ、カッタカタ、エンハ、カッタカタ、カッタリコ カッタリコ、カッタ カッタ カッタリコ、エンヤ、オンハ、|此《この》|世《よ》を|造《つく》り|給《たま》ひし|神直日《かむなほひ》の|神《かみ》、|御心《みこころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》の|神《かみ》、|唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は、|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し、|如何《いか》なる|事《こと》も|宣《の》り|直《なほ》し|給《たま》ふ、|尊《たふと》き|神《かみ》の|御使《みつかひ》と、|現《あら》はれ|給《たま》ふ|初稚姫《はつわかひめ》、|世人《よびと》を|救《すく》ふ|宣伝使《せんでんし》と、|現《あら》はれ|給《たま》ふ|御身《おんみ》なれば、|如何《いか》でか|吾等《われら》が|熱心《ねつしん》なる|願《ねがひ》を|許《ゆる》し|給《たま》はざる|事《こと》のあるべき。|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも、|四辺《あたり》に|響《ひび》く|滝《たき》の|水《みづ》、|抑《そもそも》これの|滝水《たきみづ》は、|産土山《うぶすなやま》の|山麓《さんろく》より|落《お》ち|来《きた》る|恵《めぐみ》の|露《つゆ》の|暫《しば》し|木《こ》の|葉《は》の|下潜《したくぐ》りつつ、|河鹿《かじか》の|河《かは》に|流《なが》れ|来《き》て、|此処《ここ》に|滝《たき》とぞなりにける。|抑《そもそも》これの|流《なが》れは、|産土山《うぶすなやま》に|湧《わ》き|出《い》でし|時《とき》は、|僅《わづ》かの|露《つゆ》にてありしもの、|流《なが》れ|流《なが》れて|谷々《たにだに》の、|小川《をがは》の|水《みづ》を|一《ひと》つになし、|斯《か》くも|目出度《めでた》く|麗《うるは》しき|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|滝《たき》とぞなりにける』
イク『|初稚姫《はつわかひめ》もその|如《ごと》く、|産土山《うぶすなやま》を|出《い》で|給《たま》ひし|時《とき》こそ、|木《こ》の|葉《は》の|露《つゆ》に|等《ひと》しき|御出立《おんいでた》ち、|繊弱《かよわ》き|乙女《をとめ》の|旅衣《たびごろも》、|語《かた》らふ|友《とも》もなかりしに、|神《かみ》の|恵《めぐみ》のあら|尊《たふと》、|畜生《ちくしやう》の|身《み》をもつて、|其《その》|御供《おんとも》に|仕《つか》へまつりたる、スマートを|添《そ》へ|茲《ここ》に|征途《せいと》に|上《のぼ》らせ|給《たま》ふ、|其《その》|有様《ありさま》を|譬《たと》ふれば、この|滝水《たきみづ》の|次第々々《しだいしだい》に、|行《ゆ》くに|随《したが》ひ|水量《みづかさ》|増《まさ》り、|小川《をがは》を|合《あは》せて|太《ふと》り|行《ゆ》く|如《ごと》く、|御供《みとも》の|神《かみ》を|数多《あまた》|従《したが》へ、|出《い》でますべきは|天地《てんち》の|道理《だうり》ならめ、あら|有難《ありがた》や|尊《たふと》しやな、|今《いま》や|吾《わが》|目《め》の|前《まへ》に|御姿《みすがた》を|現《あら》はし|給《たま》ひし|初稚姫《はつわかひめ》、|御供《みとも》に|仕《つか》へさしてたび|給《たま》へ、|色《いろ》の|白《しろ》き|尉殿《じやうどの》と|黒《くろ》き|尉殿《じやうどの》が、|黒白《あやめ》も|分《わか》ぬ|闇《やみ》の|世《よ》の|救《すく》ひのために、|天地《あめつち》の|神《かみ》に|誓《ちか》ひまつりて、|姫《ひめ》が|御前《みまへ》に|願《ね》ぎまつる。オンハ、カッタカタ、エンハ、カッタカタ、カッタ カッタ カッタリコ、カッタリ カッタリ カッタリコ、エンヤ、オンハ』
と|両人《りやうにん》は|谷道《たにみち》を|塞《ふさ》ぎ、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|踊《をど》り|狂《くる》ふ。|遉《さすが》の|初稚姫《はつわかひめ》も|二人《ふたり》の|理詰《りづめ》に|答《こた》ふる|言葉《ことば》もなく、|少時《しばし》|茫然《ばうぜん》として|二人《ふたり》の|舞《まひ》を|眺《なが》め|居《ゐ》たりき。スマートは|二人《ふたり》の|顔《かほ》の|変《かは》つたのに|不審《ふしん》を|抱《いだ》き、|首《くび》を|傾《かた》げて|考《かんが》へて|居《ゐ》たが、やつとの|事《こと》でイク、サールの|両人《りやうにん》の|戯《たはむ》れなる|事《こと》を|知《し》り、|二人《ふたり》の|中《なか》に|分《わ》け|行《い》つて、|尾《を》を|掉《ふ》りながら、ワンワンワンと|二声《ふたこゑ》|三声《みこゑ》|吠《ほ》え|猛《たけ》るや、イク、サールの|両人《りやうにん》は、やつとの|事《こと》で|三番叟《さんばそう》を|舞《ま》ひ|納《をさ》めた。|一生懸命《いつしやうけんめい》に|茲《ここ》を|先途《せんど》と|踊《をど》り|狂《くる》うたのだから、ビツシヨリ|汗《あせ》に|濡《ぬ》れ、|何《なん》とも|形容《けいよう》の|出来《でき》ぬ|化物面《ばけものづら》になつて|仕舞《しま》つた。
『ホホホホホ、|貴方《あなた》はイク、サールの|司《つかさ》ぢやありませぬか。|何時《いつ》の|間《ま》に|斯様《かやう》な|所《ところ》にお|出《いで》になつたのです。|珍彦《うづひこ》さまが|嘸《さぞ》|心配《しんぱい》をしてゐらつしやるでせう。サア|早《はや》く|帰《かへ》つて|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をして|下《くだ》さい。さうして|又《また》|其《その》|顔《かほ》はどうなさつたのですか。|本当《ほんたう》にみつともない、お|化《ばけ》のやうですわ。|三番叟《さんばさう》が|済《す》みましたら、|早《はや》く|此《この》|谷川《たにがは》でお|顔《かほ》をお|洗《あら》ひなさいませ。どこの|方《かた》が|通《とほ》られるか|知《し》れませぬよ。|旅《たび》のお|方《かた》が|貴方等《あなたがた》のお|顔《かほ》を|見《み》たら、キツト|吃驚《びつくり》せられますからなア』
イク『イヤモウ|大変《たいへん》な|目出度《めでた》い|事《こと》で|厶《ござ》いました。|貴女《あなた》の|御旅行《ごりよかう》について、|天《てん》の|大神様《おほかみさま》が|吾々《われわれ》にお|供《とも》をせいと|仰有《おつしや》つての|事《こと》か、|思《おも》はず|知《し》らず|此処《ここ》まで|体《からだ》が|宙《ちう》に|飛《と》んで|参《まゐ》りまして、|生《うま》れてから|初《はじ》めての|三番叟《さんばさう》を|踏《ふ》まされました。|何卒《なにとぞ》|惟神《かむながら》と|思召《おぼしめ》して、|何処《どこ》までもお|供《とも》にお|連《つ》れ|下《くだ》さいますやう、|偏《ひとへ》にお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
サール『どうぞ、|私《わたし》もイクの|申《まを》した|通《とほ》り、|是非《ぜひ》ともお|供《とも》をさして|頂《いただ》きたう|存《ぞん》じます』
『|折角《せつかく》の|思召《おぼしめし》を|無《む》にするのも|苦《くる》しう|厶《ござ》いますが、|最前《さいぜん》|申《まを》した|通《とほ》り、|妾《わらは》は|供《とも》は|許《ゆる》されないのですから、どうぞそれだけは|堪《こら》へて|頂《いただ》きたう|存《ぞん》じます』
イク『そこを、たつてお|願《ねが》ひ|申《まを》したいと|存《ぞん》じ、|合《あは》す|顔《かほ》が|厶《ござ》いませぬので、|此《この》|通《とほ》り|白《しろ》く|黒《くろ》く|塗《ぬ》りまして、お|願《ねが》ひ|申《まを》したので|厶《ござ》います。|何《なん》と|仰有《おつしや》つても|私《わたくし》はお|供《とも》を|致《いた》します。|珍彦《うづひこ》|様《さま》に|許《ゆる》しも|受《う》けず、|勝手《かつて》に|飛《と》び|出《だ》して|来《き》たので|厶《ござ》いますから、|此《この》|儘《まま》|帰《かへ》る|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|吾々《われわれ》を|助《たす》けると|思《おも》うて|何卒《どうぞ》お|許《ゆる》しを|願《ねが》ひます。|何程《なにほど》|神様《かみさま》のお|道《みち》だと|申《まを》しても、|特別《とくべつ》のお|取扱《とりあつか》ひ|破格《はかく》の|思召《おぼしめし》と|云《い》ふ|事《こと》が|厶《ござ》いませう。|其処《そこ》は|神直日《かむなほひ》、|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》しまして、お|許《ゆる》し|下《くだ》さるが|人《ひと》を|助《たす》ける|宣伝使《せんでんし》の|役《やく》ぢや|厶《ござ》いませぬか』
『|本当《ほんたう》に|困《こま》りましたなア。|併《しか》しながら、|貴方《あなた》は|祠《ほこら》の|森《もり》の|神司《かむつかさ》|珍彦《うづひこ》|様《さま》の|支配《しはい》を|受《う》けねばならぬお|方《かた》|故《ゆゑ》、|私《わたし》が|勝手《かつて》につれて|参《まゐ》る|訳《わけ》には|参《まゐ》りませぬ。そんな|無理《むり》を|仰有《おつしや》らずに、|早《はや》く|帰《かへ》つて|下《くだ》さい。それが|神様《かみさま》に|対《たい》する|第一《だいいち》の|務《つと》めで|厶《ござ》いますからなア』
イク『アヽ|是《これ》|程《ほど》|頼《たの》んでも|聞《き》いて|下《くだ》さらねば、|最早《もはや》|是非《ぜひ》がない。オイ、サール、|愈《いよいよ》|決死隊《けつしたい》だ』
と|目配《めくば》せする。|茲《ここ》に|両人《りやうにん》は|懐《ふところ》に|用意《ようい》して|置《お》いた|腰帯《こしおび》を|樫《かし》の|木《き》の|梢《こずゑ》にパツと|手早《てばや》く|引《ひ》つかけ、|顎《あご》を|吊《つ》つてプリンプリンと|三番叟《さんばさう》の|舞《まひ》は、|忽《たちま》ち|住吉踊《すみよしをど》りの|人形《にんぎやう》とヘグレて|仕舞《しま》つた。スマートは|此《この》|体《てい》を|見《み》て|驚《おどろ》き、ワンワンと|吠立《ほえた》て、|初稚姫《はつわかひめ》の|身《み》の|廻《まは》りをウロウロしながら|袖《そで》をくはへて「|早《はや》く|両人《りやうにん》を|助《たす》けて|下《くだ》さい」と、|口《くち》には|云《い》はねど|其《その》|形容《けいよう》に|現《あら》はし、|悲《かな》しき|声《こゑ》を|絞《しぼ》つて|啼《な》く。|初稚姫《はつわかひめ》は|手早《てばや》くブラ|下《さが》つた|体《からだ》をグツと|抱《かか》へ、|五寸《ごすん》ばかり|持《も》ちあげて|二人《ふたり》とも|救《すく》ひ|下《おろ》した。|二人《ふたり》は|気《き》が|遠《とほ》くなつて|呆然《ばうぜん》として|居《ゐ》る。|初稚姫《はつわかひめ》は|二人《ふたり》の|熱烈《ねつれつ》なる|願《ねが》ひを|聞《き》く|訳《わけ》にもゆかず、|断《ことわ》る|訳《わけ》にもゆかず、|暫《しば》し|涙《なみだ》に|暮《く》れて|考《かんが》へて|居《ゐ》たが、やや|両人《りやうにん》が|正気《しやうき》になつたのを|幸《さいは》ひ、|忽《たちま》ち|神《かみ》に|祈《いの》り、|身《み》を|変《へん》じて|大熊《おほくま》となり、スマートは|唐獅子《からじし》となり、|目《め》を|怒《いか》らし|足掻《あがき》をしながら、ウーウーと|二人《ふたり》に|唸《うな》つて|見《み》せた。|二人《ふたり》は|吃驚《びつくり》して|両手《りやうて》を|合《あは》せ|一言《ひとこと》も|発《はつ》し|得《え》ず、|其《その》|場《ば》に|俯向《うつむ》いて|慄《ふる》うて|居《ゐ》る。|初稚姫《はつわかひめ》は|再《ふたた》び|元《もと》の|姿《すがた》となり、スマートは|巨大《きよだい》なる|獅子《しし》と|化《くわ》し、|初稚姫《はつわかひめ》を|背《せ》に|乗《の》せて|荒野ケ原《あらのがはら》を|一目散《いちもくさん》に|進《すす》み|往《ゆ》く。
(大正一二・一・二九 旧一一・一二・一三 加藤明子録)
第五章 |森《もり》の|怪《くわい》〔一三四一〕
|二人《ふたり》は|初稚姫《はつわかひめ》が|変装《へんさう》の|術《じゆつ》を|使《つか》つて|熊《くま》となり、スマートを|獅子《しし》と|変《へん》じて、|二人《ふたり》を|睨《にら》みおき、|此《この》|場《ば》を|逸早《いちはや》く|立去《たちさ》つて|了《しま》つた|後姿《うしろすがた》を|眺《なが》めて、|頻《しき》りに|首《くび》を|傾《かたむ》け|両手《りやうて》を|合《あは》せ|舌《した》を|巻《ま》いて|感《かん》じ|入《い》つて|了《しま》つた。
『おい、サール、|大《たい》したものだらう。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は|正勝《まさか》の|時《とき》になつたら、あれだけの|御神力《ごしんりき》があるのだから、|俺《おれ》が|貴様《きさま》を|勧《すす》めて|追駆《おつか》けて|来《き》たのも|無理《むり》はあるまい。|如何《どう》だ、|俺《おれ》の|先見《せんけん》は、|之《これ》から|余《あま》り|馬鹿《ばか》にして|呉《く》れまいぞ』
『ヘン、|偉《えら》さうに|吐《ぬか》すない。|貴様《きさま》だつて|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》にあれだけの|隠《かく》し|芸《げい》がある|事《こと》は|初《はじ》めてだらう。|何処《どこ》ともなし|優《やさ》しい|慕《した》はしい、そして|御神徳《ごしんとく》が|備《そな》はつてるものだから、|何処《どこ》がどうと|云《い》ふ|事《こと》なしにお|慕《した》ひ|申《まを》してやつて|来《き》たのだらう。|先見《せんけん》の|明《めい》も|糞《くそ》もあつたものかい。|然《しか》し|大熊《おほくま》となつて|目《め》を|怒《いか》らし「ウー」とやられた|時《とき》にや、あまり|気分《きぶん》のよいものぢやなかつたのう。|貴様《きさま》もビリビリ|慄《ふる》つて|居《ゐ》たぢやないか。|怖《こは》さうに|地《ぢ》【べた】に|喰《くら》ひつきよつて、|其《その》|周章狼狽《しうしやうらうばい》さと|云《い》つたらお|話《はな》しにならなかつたワ』
『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。|俺《おれ》は|屹度《きつと》|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は|熊《くま》にお|化《ば》け|遊《あそ》ばすに|違《ちが》ひないと|予期《よき》してゐたのだ。それが|俺《おれ》の|鋭敏《えいびん》な|頭脳《づなう》に|感《かん》じた|通《とほ》り|現出《げんしゆつ》したのだから、|余《あま》り|有難《ありがた》くて|勿体《もつたい》なくて|慄《ふる》うてゐたのだ。|云《い》はば|歓喜《くわんき》の|慄《ふる》ひだ。|貴様《きさま》の|様《やう》な|蒟蒻慄《こんにやくぷる》ひとは|聊《いささ》か|選《せん》を|異《こと》にしてるのだからね、エヘン』
『へ、|仰有《おつしや》りますわい。そして|今後《こんご》の|計画《けいくわく》は|何《ど》うなさいますか。もう|之《これ》で|祠《ほこら》の|森《もり》へ|御退却《ごたいきやく》でせうね』
『|馬鹿《ばか》を|云《い》へ。|貴様《きさま》は|臆病者《おくびやうもの》だから|退却《たいきやく》したがよからう。|俺《おれ》はあの|御神力《ごしんりき》を|見届《みとど》けた|上《うへ》は|弥《いや》|益々《ますます》|熱心《ねつしん》にお|後《あと》を|慕《した》ひ、|仮令《たとへ》|噛《か》み|殺《ころ》されても|構《かま》はないのだ。|神様《かみさま》のためには|命《いのち》を|捨《す》てる|命《いのち》を|捨《す》てると|口癖《くちぐせ》のやうに|云《い》ふ|奴《やつ》は、こんな|時《とき》にビツクリして、ビクビクもので|逃《に》げ|失《う》せるものだ。|此《この》イクは|之《これ》から|大熊《おほくま》さまや|唐獅子《ライオン》さまに|喰《く》はれにイクの|司《つかさ》だ。さアここで|貴様《きさま》と|別《わか》れて、|英雄《えいゆう》と|卑怯者《ひけふもの》とが|顔《かほ》を|洗《あら》ひ|水盃《みづさかづき》でもしようぢやないか。もう|之《これ》が|貴様《きさま》と|長《なが》の|別《わか》れとならうかも|知《し》れぬ。|御縁《ごえん》があらば|又《また》|地獄《ぢごく》の|八丁目《はつちやうめ》でお|目《め》にかかりませうよ』
『|何《なに》、|馬鹿《ばか》のこと|云《い》ひくサールのだ。|俺《おれ》だつて|本当《ほんたう》の|獅子《しし》や|熊《くま》になら、チツとは|驚《おどろ》くか|知《し》らぬが、|何《なん》と|云《い》つても|化獅子《ばけじし》や|化熊《ばけぐま》だから|生命《いのち》に|別条《べつでう》はない。そんな|事《こと》の|分《わか》らないサールさまとは|違《ちが》ふのだ。|何《なに》は|兎《と》もあれ、|斯《こ》んな|顔《かほ》してゐては|化物《ばけもの》と|見違《みちが》へられる。|一遍《いつぺん》|裸《はだか》となつて|体中《からだぢう》を|清《きよ》め、そして|野馬《やば》でも|居《を》つたら、|取捉《とつつか》まへて、|其奴《そいつ》に|跨《またが》り|御後《みあと》を|追《お》ふ|事《こと》にしよう。|愚図々々《ぐづぐづ》してゐると、|日《ひ》が|暮《く》れて|行衛《ゆくゑ》を|見失《みうしな》ふかも|知《し》れないぞ。さア|早《はや》く|早《はや》く』
と|二人《ふたり》は|体《からだ》を|清《きよ》め、|顔《かほ》の|白黒《しろくろ》をスツカリ|落《おと》し、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら|荒野ケ原《あらのがはら》を|渉《わた》つて|行《ゆ》く。
イク『|初稚姫《はつわかひめ》の|御供《おんとも》に |仕《つか》へて|神業《しんげふ》を|全《まつた》うし
|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|復命《かへりごと》 |白《まを》さむ|為《た》めと|両人《りやうにん》が
|祠《ほこら》の|森《もり》を|抜《ぬ》け|出《だ》して |河鹿峠《かじかたうげ》の|急坂《きふはん》を
|先《さき》に|下《くだ》つて|山口《やまぐち》の |樫《かし》の|根元《ねもと》に|立《た》ち|居《を》れば
|初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむつかさ》 |谷間《たにま》をピカピカ|照《て》らしつつ
|木《こ》の|間《ま》を|縫《ぬ》うて|下《くだ》り|来《く》る |其《その》|神姿《みすがた》の|崇高《けだか》さよ
スマートさまは|後前《あとさき》に なつて|御身《おんみ》を|守《まも》りつつ
|主従《しゆじゆう》ここに|現《あら》はれて |白黒《しろくろ》|二人《ふたり》の|三番叟《さんばそう》
|眺《なが》め|給《たま》ひし|床《ゆか》しさよ |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
エンヤナ、オンハ、カッタカタ |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|身魂《みたま》を|洗《あら》ふは|滝《たき》の|水《みづ》 |瑞《みづ》の|身魂《みたま》の|流《なが》れぞと
|二人《ふたり》の|口《くち》から|出放題《ではうだい》 |俄作《にはかづく》りの|歌《うた》|唄《うた》ひ
|漸《やうや》く|仕組《しぐ》んだ|三番叟《さんばそう》 |其《その》|甲斐《かひ》もなく|一言《ひとくち》に
はね|飛《と》ばされて|両人《りやうにん》は |予《かね》て|企《たく》みし|決死隊《けつしたい》
|用意《ようい》の|細帯《ほそおび》|取《と》り|出《だ》して |堅木《かたぎ》の|枝《えだ》にパツとかけ
プリンプリンとブラ|下《さが》る |其《その》|苦《くる》しさは|言《こと》の|葉《は》の
|尽《つく》し|得《え》らるる|事《こと》でない |本当《ほんと》に|今度《こんど》は|死《し》ぬのかと
|観念《くわんねん》したる|折柄《をりから》に |初稚姫《はつわかひめ》に|助《たす》けられ
ヤツト|気《き》がつきや、あら|不思議《ふしぎ》 |思《おも》ひがけなき|熊《くま》となり
|獅子《しし》と|変《へん》じて|両人《りやうにん》を |眼《まなこ》|瞋《いか》らし|睨《にら》みたる
|其《その》|時《とき》こそは|吾々《われわれ》も |本当《ほんと》の|事《こと》を|白状《はくじやう》すりや
あまり|良《よ》い|気《き》はせなかつた さはさりながら|荒野原《あらのはら》
|獅子《しし》|狼《おほかみ》の|吼《ほ》え|猛《たけ》る |醜葦原《しこあしはら》を|進《すす》む|身《み》は
どうであの|様《やう》な|隠《かく》し|芸《げい》が |無《な》くて|一人《ひとり》で|進《すす》まりよか
|之《これ》を|思《おも》へば|吾々《われわれ》は |何程《なにほど》|排斥《はいせき》せられても
|仮令《たとへ》|脅喝《けふかつ》せられても |之《これ》を|見捨《みす》てて|帰《かへ》れない
|何処々々《どこどこ》|迄《まで》も|追《お》ひついて |命《いのち》を|的《まと》に|進《すす》み|行《ゆ》く
|之《これ》が|誠《まこと》の|大和魂《やまとだま》 |肝《きも》を|試《ため》すは|此《この》|時《とき》だ
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|曲津《まがつ》に|喰《く》はるとも |思《おも》ひ|立《た》つたる|此《この》|首途《かどで》
|中途《ちうと》に|帰《かへ》つて|堪《たま》らうか ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして |初稚姫《はつわかひめ》の|進《すす》みます
ハルナの|都《みやこ》へ|吾々《われわれ》を |尊《たふと》き|恵《めぐ》みの|其《その》|下《もと》に
|進《すす》ませ|給《たま》へと|願《ね》ぎ|奉《まつ》る |四方《よも》の|山々《やまやま》|芽《め》を|吹《ふ》いて
|躑躅《つつじ》の|花《はな》も|此処《ここ》|彼処《かしこ》 |艶《えん》を|競《きそ》へる|春《はる》の|野《の》は
|又《また》|格別《かくべつ》の|愉快《ゆくわい》さぞ |紫雲英《げんげ》の|花《はな》は|遠近《をちこち》に
|処《ところ》まんだら|咲《さ》き|初《はじ》め |松《まつ》の|緑《みどり》も|樫《かし》の|葉《は》の
|新芽《しんめ》も|漸《やうや》う|伸《の》び|立《た》ちて |吾等《われら》|二人《ふたり》の|荒武者《あらむしや》に
|活動《くわつどう》せよと|勧《すす》めてる |烏《からす》や|鳶《とび》や|雲雀《ひばり》まで
|御後《みあと》を|慕《した》うて|走《はし》れよと |応援《おうゑん》してゐる|心地《ここち》する
こんな|処《ところ》で|屁古垂《へこた》れて ノメノメ|後《あと》へ|帰《かへ》りなば
|烏《からす》の|奴《やつ》にも|笑《わら》はれる |三五教《あななひけう》に|退却《たいきやく》の
|二字《にじ》は|決《けつ》してない|程《ほど》に |善《ぜん》と|思《おも》うたら|何処《どこ》|迄《まで》も
|命《いのち》|限《かぎ》りに|進《すす》むのが |男《をとこ》の|中《なか》の|男《をとこ》だらう
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|行《ゆ》くのはイクであつた。
|山口《やまぐち》の|此《この》|樫《かし》の|木《き》の|麓《ふもと》から|山口《やまぐち》の|森《もり》は、|近《ちか》く|見《み》えて|居《ゐ》ても|殆《ほとん》ど|五十町《ごじつちやう》ばかりの|距離《きより》があつた。
『|兎《と》も|角《かく》|山口《やまぐち》の|森《もり》まで|進《すす》まにやなるまい』
とコンパスに|撚《より》をかけ、|春風《しゆんぶう》を|肩《かた》で|斜《ななめ》に|切《き》りながら、|蟹《かに》の|如《ごと》く|横飛《よこと》びして、|特急列車的《とくきふれつしやてき》に|脇目《わきめ》をふらず、|路傍《ろばう》に|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|花《はな》にも|目《め》もくれず、トントントンと|駆《か》けついた。|空《そら》はドンヨリと|曇《くも》つて|来《き》た。|星《ほし》の|影《かげ》さへ|見《み》えなくなつてゐる。|最早《もはや》|咫尺暗澹《しせきあんたん》、|一歩《いつぽ》も|進《すす》めなくなつて|了《しま》つた。|俄《にはか》に|山口《やまぐち》の|森《もり》の|或《ある》|局部《きよくぶ》が|火《ひ》の|如《ごと》く|明《あか》くなつた。|夏《なつ》の|虫《むし》が|灯火《とうくわ》をたづねて|飛《と》び|込《こ》む|様《やう》な|勢《いきほひ》で、|火光《くわくわう》を|目当《めあて》に|二人《ふたり》は|進《すす》み|行《ゆ》くと、|山《やま》の|神《かみ》の|祠《ほこら》の|跡《あと》の|台石《だいいし》の|上《うへ》に、|暗《やみ》を|照《て》らして|輝《かがや》いてゐる|二人《ふたり》の|怪物《くわいぶつ》があつた。|之《これ》は|妖幻坊《えうげんばう》の|眷属《けんぞく》|幻相坊《げんさうばう》、|幻魔坊《げんまばう》と|云《い》ふ|古狸《ふるだぬき》が|鬼《おに》の|姿《すがた》と|化《ば》けて、|暗《やみ》を|照《て》らしながら|両人《りやうにん》を|艱《なや》まさむと|待《ま》ち|構《かま》へてゐたのである。|両人《りやうにん》は|十間《じつけん》ばかり|近寄《ちかよ》つてツと|立止《たちど》まり、
『おい、サール、|妙《めう》ぢやないか。あれだから|俺《おれ》が|好《す》きといふのだ。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は|鬼《おに》となり、スマート|迄《まで》が|小鬼《こおに》に|化《ば》けて|俺達《おれたち》を|嚇《おど》かし|逃《に》がしてやらうとして、ああ|云《い》ふ|芸当《げいたう》をやつて|厶《ござ》るのだぞ。|何《なん》と|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は|偉《えら》いものぢやないか、エー』
『|成程《なるほど》、こいつア|感心《かんしん》だ。|益々《ますます》|以《もつ》て|其《その》|本能《ほんのう》を|発揮《はつき》し|給《たま》ふと|云《い》ふものだ。|俺《おれ》も|一《ひと》つ|何《なに》かの|方法《はうはふ》で、|何処《どこ》までも|追跡《つゐせき》して|教《をし》へて|貰《もら》はなくちや、|祠《ほこら》の|森《もり》へも|帰《かへ》れぬからのう。|一《ひと》つ|側《そば》へ|寄《よ》つて|談判《だんぱん》しようぢやないか』
『ウン、そいつは|面白《おもしろ》い。|何程《なにほど》|恐《こは》い|顔《かほ》したつて、|素性《すじやう》が|分《わか》つてるのだから|屁《へ》でもないわ』
と|云《い》ひながら|嬉《うれ》しさうにツカツカと|側《そば》へ|寄《よ》つた。|何程《なにほど》|妖怪《えうくわい》が|怖《こは》い|顔《かほ》して|嚇《おど》さうと|思《おも》つても、|相手方《あひてがた》が|驚《おどろ》かねば|張合《はりあひ》がぬけたものである。そして|其《その》|妖術《えうじゆつ》は|次第々々《しだいしだい》に|消《き》え|失《う》せるものである。|幻相坊《げんさうばう》、|幻魔坊《げんまばう》はいやらしき|鬼《おに》となり、|四辺《あたり》を|輝《かがや》かしながら|真赤《まつか》な|顔《かほ》をして、|牛《うし》の|様《やう》な|角《つの》を|額《ひたひ》に|二本《にほん》づつ|一尺《いつしやく》ばかり|生《は》やし、|耳《みみ》まで|裂《さ》けた|口《くち》に|青《あを》い|舌《した》を|出《だ》し、|体《からだ》は|餓鬼《がき》の|如《ごと》く|痩《や》せ|衰《おとろ》へて|壁下地《かべしたぢ》を|現《あら》はしてゐる。イクはツカツカと|側《そば》に|寄《よ》り、
『よう、|天晴々々《あつぱれあつぱれ》、|実《じつ》に|感《かん》じ|入《い》りました。おい|畜生《ちくしやう》、|貴様《きさま》も|中々《なかなか》|乙《おつ》な|事《こと》をやり|居《を》るのう。エヘヘヘヘ、そんな|怖《こは》い|顔《かほ》したつて|驚《おどろ》くものか。|素性《すじやう》の|分《わか》らぬ|化物《ばけもの》なら、|此方《こつち》も|面喰《めんくら》ふか|知《し》らぬが、スツカリ|分《わか》つてるのだから|面白《おもしろ》いわ。アツハハハハ、|感心《かんしん》|々々《かんしん》、のうサール、うまいものだね』
『ウン、|之《これ》だから|旅《たび》はやめられぬと|云《い》ふのだ。|何《なに》せよ、ハルナの|都《みやこ》まで|悪魔《あくま》|退治《たいぢ》に|行《ゆ》くのだから……こんな|事《こと》が|怖《こは》い|位《くらゐ》では|駄目《だめ》だから……|畜生《ちくしやう》までが|一人前《いちにんまへ》に|化《ば》けて|居《ゐ》やがらア、エヘヘヘヘ、|実《じつ》に|巧妙《かうめう》なものだなア』
|折角《せつかく》|化《ば》けた|幻相坊《げんさうばう》、|幻魔坊《げんまばう》も|相手《あひて》が|平然《へいぜん》として、「|畜生《ちくしやう》よく|化《ば》けよつた」|等《など》と|云《い》ふものだから、
『|此《この》|両人《りやうにん》は|自分《じぶん》の|正体《しやうたい》を|知《し》つてゐやがるのだな。こんな|肝《きも》の|太《ふと》い|奴《やつ》に|悪戯《いたづら》をして|威《おど》かさうとしても|駄目《だめ》だ。|却《かへつ》てひどい|目《め》に|遇《あ》はされるに|違《ちが》ひない』
と|妖怪《えうくわい》の|方《はう》で|慄《ふる》ひ|出《だ》し、|俄《にはか》に|還元《くわんげん》する|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|涙《なみだ》をポロポロと|落《おと》し|出《だ》した。
『ハハア、コン|畜生《ちくしやう》、|涙《なみだ》を|流《なが》してゐやがる。おい、サール、こりやチツと|可怪《をか》しいぞ。|初稚姫《はつわかひめ》さまなら|泣《な》かつしやる|筈《はず》がない。|何《なん》でもこいつア、|妖幻坊《えうげんばう》の|眷属《けんぞく》が|化《ば》けてゐやがるのだ。|一《ひと》つ|問答《もんだふ》してやらうかい』
『そりや|面白《おもしろ》い。こりや|化州《ばけしう》、|貴様《きさま》、こんな|所《とこ》で|俺《おれ》に|火《ひ》をつけて|首振《くびふ》り|芝居《しばゐ》を|見《み》せて|呉《く》れたつて、|何《なに》が|何《なん》だか|訳《わけ》が|分《わか》らぬぢやないか。|物《もの》を|言《い》はぬかい。|人形芝居《にんぎやうしばゐ》なら|太夫《たいふ》が|語《かた》つてくれるから|意味《いみ》も|分《わか》るが、|六斎念仏《ろくさいねんぶつ》の|様《やう》に|黙《だま》つて|慄《ふる》つてゐた|所《ところ》が、それ|位《くらゐ》の|表情《へうじやう》では|意味《いみ》が|分《わか》らぬぞ。おい|一《ひと》つ|貴様《きさま》と|俺《おれ》と|合併《がつぺい》して|芝居《しばゐ》をやらうぢやないか』
『こらこら、サール、こんな|鬼《おに》と|芝居《しばゐ》したつて、はずまぬぢやないか。|物好《ものず》きもいい|加減《かげん》にしたら|如何《どう》だい。ヤ、だんだん|小《ちひ》さくなりやがつたぞ』
と|云《い》つてる|間《ま》に、|青《あを》い|火柱《くわちう》となつて|二人《ふたり》ともスポツと|消《き》えて|了《しま》つたので、|四辺《あたり》は|何処《どこ》ともなしに|真闇《まつくら》がりになつた。
イク『ハハア、|到頭《たうとう》|夜立店《よだちみせ》も|流行《はや》らぬと|見《み》えて、カンテラを|消《け》して|帰《い》んで|了《しま》ひよつたな。|併《しか》しそこらに|魔誤《まご》ついてゐるかも|知《し》れぬから、よく|気《き》をつけよ』
サール『さうだな。|彼奴《あいつ》はヤツパリ|初稚姫《はつわかひめ》さまぢやなかつたわい。|馬鹿《ばか》にしやがる、|之《これ》から|俺等《おれたち》も|十分《じふぶん》|注意《ちゆうい》をしなくちや、かう|暗《くら》くなつちや、|何《なに》がうせるか|分《わか》らぬからのう』
『かふいふ|晩《ばん》には|化物《ばけもの》が|自分《じぶん》の|前《まへ》へ|出《で》て|来《き》て|睾丸《きんたま》を|狙《ねら》ふといふことだよ。そしてよく|人《ひと》に|化《ば》けるから|気《き》をつけにやいくまいぞ。|今《いま》|消《き》えた|鬼《おに》は|屹度《きつと》|方法《はうはふ》を|変《か》へて、|俺達《おれたち》の|睾丸《きんたま》を|狙《ねら》ひに|来《く》るのだから……サール、チツト|気《き》をつけ|給《たま》へ』
『ウン、|十分《じふぶん》|注意《ちゆうい》する。なるべく|両人《りやうにん》が|接近《せつきん》して|敵《てき》の|襲来《しふらい》に|備《そな》へようぢやないか』
『そら、さうだ。|併《しか》し|貴様《きさま》の|前《まへ》の|方《はう》に、|暗《くら》くてシツカリ|分《わか》らぬが、|何《なん》だか|化物《ばけもの》が|頭《あたま》をつき|出《だ》してる|様《やう》だぞ』
『ナーニ、|今《いま》|手《て》を|伸《の》ばして|探《さぐ》つて|見《み》たけど、|何《なに》も|居《ゐ》やせないわ』
『それでも|俺《おれ》の|目《め》には、|貴様《きさま》の|前《まへ》に|何《なん》だか|黒《くろ》いものがある|様《やう》だ。|一寸《ちよつと》|撫《な》でて|見《み》ようか』
と|云《い》ひながら|暗《くら》がりを|幸《さいは》ひ、イクはサールの|前《まへ》に|頭《あたま》をつき|出《だ》した。サールはイクがこんな|悪戯《いたづら》をしてるとは|知《し》らず、|一寸《ちよつと》|手《て》を|伸《の》ばすと|毛《け》の|生《は》えた|頭《あたま》がつかへたので、|驚《おどろ》きながら|自棄糞《やけくそ》になつて|左手《ひだりて》に|髻《たぶさ》をグツと|握《にぎ》り、|滅多《めつた》|矢鱈《やたら》に|処《ところ》|構《かま》はず|殴《なぐ》りつけた。そして|漸《やうや》くに|手《て》を|放《はな》した。イクは|自業自得《じごうじとく》だと|諦《あきら》めながら、ソツと|元《もと》の|座《ざ》へ|直《なほ》り、
『おい、サール、|貴様《きさま》は|今《いま》、|何《なん》だかバサバサやつてゐたぢやないか』
『ウン、|到頭《たうとう》|化物《ばけもの》の|奴《やつ》、|俺《おれ》の|睾丸《きんたま》を|狙《ねら》ひに|来《き》よつたので、|髻《たぶさ》をグツと|握《にぎ》り|殴《なぐ》つてやつたのだよ』
『ウン、さうか。|油断《ゆだん》のならぬ|所《ところ》だな』
と|云《い》ひながら、サールの|声《こゑ》の|出《で》る|所《ところ》を|目当《めあて》に、|最前《さいぜん》の|仕返《しかへ》しをポカポカとやつた。
『アイタツタ、おい、イク、|来《き》て|呉《く》れ。|何《なん》だか|俺《おれ》の|周囲《ぐるり》に|化州《ばけしう》の|奴《やつ》、ひつついてゐるやうだ。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
『よう、|何《なん》だ|何《なん》だ。|何処《どこ》に|何処《どこ》に』
と|云《い》ひながら、|今度《こんど》は|喉《のど》の|下《した》をコソばかさうとしてヌツと|手《て》をつき|出《だ》した。サールも|何気《なにげ》なく|手《て》をつき|出《だ》す|途端《とたん》に、|妙《めう》な|物《もの》があると|思《おも》ひグツと|握《にぎ》つた。
『アイタタタ、|俺《おれ》だ|俺《おれ》だ、イクだイクだイクだ』
『こりや、イクの|奴《やつ》、|俺《おれ》の|頭《あたま》を|殴《くら》はせよつたのは|貴様《きさま》だな。|悪戯《ふざけ》た|真似《まね》をさらすと|了簡《れうけん》せぬぞ』
『ヘン、|貴様《きさま》だつて|俺《おれ》の|髻《たぶさ》を|一生懸命《いつしやうけんめい》|握《にぎ》りよつて、|力《ちから》|一杯《いつぱい》|殴《なぐ》つたぢやないか』
『ハハハハハ、|罰《ばち》は|目《め》の|前《まへ》だな』
|斯《か》く|話《はなし》してゐる|所《ところ》へ、|森《もり》の|木《こ》の|間《ま》を|照《て》らして|現《あら》はれて|来《き》たのは、|直径《ちよくけい》|二尺《にしやく》|位《くらゐ》ある|光《ひかり》の|玉《たま》である。そしてその|玉《たま》の|中《なか》から、|目《め》、|鼻《はな》、|口《くち》、|眉毛《まゆげ》まで|現《あら》はれ「エヘヘヘヘ」と|可笑《をか》しさうに|笑《わら》つてゐる。そのために|足許《あしもと》はパツと|明《あか》くなつた。よくよく|見《み》れば、|二人《ふたり》の|足許《あしもと》に|幻相坊《げんさうばう》、|幻魔坊《げんまばう》の|二疋《にひき》の|古狸《ふるだぬき》が|一尺《いつしやく》もあらうと|云《い》ふ|大蜈蚣《おほむかで》を|山《やま》|程《ほど》|積《つ》んで、|二人《ふたり》の|体《からだ》を|刺《さ》し|殺《ころ》さうと|企《たく》んでゐたのである。|二匹《にひき》の|古狸《ふるだぬき》は|此《この》|光《ひかり》に|照《て》らされて|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》り、|大蜈蚣《おほむかで》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|走《はし》つて|森《もり》の|中《なか》の|暗《やみ》に|隠《かく》れて|了《しま》つた。そして|此《この》|光《ひかり》はおひおひと|容積《ようせき》を|減《げん》じ、|小《ちひ》さき|玉《たま》となつて|二人《ふたり》の|側《そば》に|転《ころ》げて|来《き》た。|二人《ふたり》は|別《べつ》に|驚《おどろ》きもせず、
『|之《これ》は|自分《じぶん》を|助《たす》けてくれた|神《かみ》の|化身《けしん》だらう。|此《この》|暗《くら》がりに|此《この》|光玉《ひかりだま》がなかつたら、|俺等《おれたち》はどんな|目《め》に|遇《あ》つたかも|知《し》れぬ。|南無光大明神様《なむひかりだいみやうじんさま》』
と|両方《りやうはう》から|手《て》を|合《あは》せて|感謝《かんしや》した。|二人《ふたり》は|何時《いつ》の|間《ま》にかウトウトと|眠《ねむ》つて|了《しま》つた。|山口《やまぐち》の|森《もり》の|烏《からす》はカアカアと|暁《あかつき》を|告《つ》げた。|其《その》|声《こゑ》に|驚《おどろ》き、|目《め》を|醒《さ》まし|四辺《あたり》を|見《み》れば、|自分《じぶん》の|傍《かたはら》に|直径《ちよくけい》|一寸《いつすん》ばかりの|水晶玉《すいしやうだま》が|転《ころ》がつてゐた。|之《これ》は|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|二人《ふたり》の|危難《きなん》を|救《すく》ふべく|神宝《しんぱう》を|授《さづ》け|給《たま》うたのである。|之《これ》より|両人《りやうにん》は|夜《よ》の|明《あ》けたを|幸《さいは》ひ、|玉《たま》を|懐中《ふところ》にしパンを|噛《か》ぢりながら、|初稚姫《はつわかひめ》の|後《あと》を|慕《した》うて|駆《か》けて|行《ゆ》く。
(大正一二・一・二九 旧一一・一二・一三 北村隆光録)
第六章 |梟《ふくろ》の|笑《わらひ》〔一三四二〕
サール『|初稚姫《はつわかひめ》に|従《したが》ひて ハルナの|都《みやこ》に|進《すす》まむと
イクと|二人《ふたり》が|云《い》ひ|合《あは》せ |一足先《ひとあしさき》に|失敬《しつけい》して
|河鹿峠《かじかたうげ》の|上《のぼ》り|口《くち》 |樫《かし》の|大木《おほき》の|麓《ふもと》にて
|神算鬼謀《しんさんきぼう》を|廻《めぐ》らしつ |否応《いやおう》|云《い》はさず|御供《おんとも》の
|許《ゆる》しを|受《う》けむと|三番叟《さんばそう》 |折角《せつかく》|企《たく》んだ|芸当《げいたう》も
|忽《たちま》ち|画餅《ぐわへい》となりぬれば |最後《さいご》の|手段《しゆだん》と|首《くび》を|吊《つ》り
|初稚姫《はつわかひめ》を|驚《おどろ》かし |有無《うむ》を|云《い》はせず|御供《おんとも》に
|仕《つか》へむものと|思《おも》ひしが これも|矢張《やつぱり》|当《あて》はづれ
|忽《たちま》ち|熊《くま》と|変化《へんげ》して |睨《にら》み|給《たま》ひし|怖《おそ》ろしさ
|魂《たましひ》|奪《うば》はれ|魄《はく》|消《き》えて |絶《た》え|入《い》るばかり|戦《をのの》けど
|弱味《よわみ》をみせては|叶《かな》はじと |吾《われ》と|心《こころ》を|励《はげ》まして
|御後《みあと》を|慕《した》ひすたすたと |曲神《まがみ》の|集《つど》ふ|山口《やまぐち》の
|森《もり》の|手前《てまへ》にかかる|折《をり》 |夜《よ》はずつぽりと|暮《く》れ|果《は》てて
|黒白《あやめ》も|分《わ》かずなりにけり |忽《たちま》ち|見《み》ゆる|大火光《だいくわくわう》
これぞ|全《まつた》く|大神《おほかみ》の |吾等《われら》を|守《まも》りたまへるかと
|喜《よろこ》び|勇《いさ》み|近《ちか》づけば |形相《ぎやうさう》|実《げ》にも|凄《すさま》じき
|二《ふた》つの|鬼《おに》が|立《た》つて|居《ゐ》る これぞ|全《まつた》く|姫様《ひめさま》が
|吾等《われら》を|嚇《おど》して|帰《かへ》さむと |企《たく》み|給《たま》ひし|業《わざ》ならむ
|素性《すじやう》の|分《わか》つた|化物《ばけもの》に |如何《いか》でか|怖《おそ》れ|縮《ちぢ》まむや
|二人《ふたり》は|傍《そば》にかけよつて |平気《へいき》の|平左《へいざ》でかけあへば
|初稚姫《はつわかひめ》に|非《あら》ずして |正体《えたい》の|知《し》れぬ|妖魅界《えうみかい》
|意想外《いさうぐわい》なる|古狸《ふるだぬき》 |蜈蚣《むかで》の|奴《やつ》がやつて|来《き》て
|吾等《われら》|二人《ふたり》を|刺《さ》し|殺《ころ》し |悩《なや》めむとして|待《ま》ち|居《ゐ》たる
|危《あやふ》き|所《ところ》をあら|尊《たふと》 |天《てん》を|照《て》らして|降《くだ》りくる
|光《ひかり》|眩《まばゆ》き|大火光《だいくわくわう》 |吾等《われら》が|前《まへ》に|現《あら》はれて
|四辺《あたり》|隈《くま》なく|伊照《いて》らせば |遉《さすが》の|魔神《まがみ》も|戦慄《せんりつ》し
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げて|行《ゆ》く |火団《くわだん》は|忽《たちま》ち|縮小《しゆくせう》し
|一寸《いつすん》ばかりの|玉《たま》となり |清《きよ》き|光《ひかり》を|現《あら》はして
|吾等《われら》を|守《まも》りたまひけり ああ|有難《ありがた》や|尊《たふと》やと
|感謝《かんしや》の|言葉《ことば》|捧《ささ》げつつ |知《し》らず|知《し》らずに|眠《ねむ》りけり
|烏《からす》の|声《こゑ》に|驚《おどろ》きて |眼《まなこ》をさまし|眺《なが》むれば
|水晶玉《すいしやうだま》が|唯《ただ》|一個《ひとつ》 |二人《ふたり》の|間《あひだ》に|置《お》いてある
これぞ|全《まつた》く|皇神《すめかみ》の |闇夜《やみよ》を|照《て》らす|御宝《おんたから》
|吾等《われら》|二人《ふたり》が|赤心《まごころ》に |感《かん》じて|天《てん》より|宝玉《はうぎよく》を
|下《くだ》させ|給《たま》ひしものなりと |押《お》し|戴《いただ》いて|懐《ふところ》に
いと|叮嚀《ていねい》に|納《をさ》めつつ |勇気《ゆうき》は|頓《とみ》に|加《くは》はりて
|百草《ももくさ》|萠《も》ゆる|春《はる》の|野《の》を |心《こころ》いそいそ|進《すす》み|往《ゆ》く
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |斯《か》くも|尊《たふと》き|御守《おんまも》り
|吾等《われら》に|下《くだ》らせ|給《たま》ふ|上《うへ》は |如何《いか》でか|曲《まが》を|怖《おそ》るべき
|闇夜《やみよ》を|照《て》らす|宝玉《はうぎよく》の |光《ひかり》と|共《とも》に|何処《どこ》までも
|初稚姫《はつわかひめ》の|後《あと》|追《お》うて |御供《みとも》に|仕《つか》へ|奉《まつ》らねば
|男《をとこ》の|顔《かほ》が|立《た》つまいぞ イクの|司《つかさ》よ|気《き》をつけて
サールの|後《あと》について|来《こ》い |野中《のなか》の|森《もり》も|近《ちか》づいた
それから|先《さき》は|小北山《こぎたやま》 |珍《うづ》の|聖場《せいぢやう》がありと|聞《き》く
もしや|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は |其《その》|聖場《せいぢやう》に|道寄《みちよ》りを
なさつて|厶《ござ》るぢやあるまいか |吾々《われわれ》|二人《ふたり》は|兎《と》も|角《かく》も
|小北《こぎた》の|山《やま》に|参詣《まゐまう》で |神《かみ》に|願《ねがひ》をかけまくも
|畏《かしこ》き|所在《ありか》を|探《たづ》ねだし |初心《しよしん》を|貫徹《くわんてつ》せにやならぬ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |三五教《あななひけう》の|大御神《おほみかみ》
|何卒《なにとぞ》|吾等《われら》|両人《りやうにん》が |此《この》|願望《ぐわんまう》を|逸早《いちはや》く
|許《ゆる》させたまへと|願《ね》ぎまつる』
と|歌《うた》ひつつ|行《ゆ》く。
イク『|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|落《お》つるとも
|海《うみ》はあせなむ|世《よ》ありとも |大和男子《やまとをのこ》の|益良夫《ますらを》が
|一旦《いつたん》|思《おも》ひ|立《た》ちし|事《こと》 |通《とほ》さにやおかぬ|弓張《ゆみはり》の
|月《つき》に|誓《ちか》ひて|突《つ》き|貫《ぬ》かむ |初稚姫《はつわかひめ》はスマートを
|伴《ともな》ひ|一人《ひとり》|出《い》でませど |妖幻坊《えうげんばう》の|曲津見《まがつみ》や
|高姫司《たかひめつかさ》がいろいろと |姿《すがた》を|変《へん》じ|待《ま》ち|構《かま》へ
もしも|艱《なや》ませまつりなば |大神業《だいしんげふ》は|如何《いか》にして
|完成《くわんせい》すべき|道《みち》やある |神《かみ》の|司《つかさ》は|綺羅星《きらぼし》の
|如《ごと》くに|数多《あまた》ましませど |此《この》|姫君《ひめぎみ》に|勝《まさ》りたる
|神《かみ》の|司《つかさ》は|稀《まれ》なれば |吾等《われら》はたとへ|死《し》すとても
|初稚姫《はつわかひめ》の|御前《おんまへ》を |助《たす》け|守《まも》らにや|居《を》らうまい
|身《み》も|魂《たましひ》も|打《う》ち|捨《す》てて |神《かみ》に|仕《つか》ふる|吾々《われわれ》は
|如何《いか》なる|敵《てき》も|怖《おそ》れむや |野《の》は|青々《あをあを》と|生《お》ひ|茂《しげ》り
|風《かぜ》|暖《あたた》かく|薫《かを》りつつ |蝶《てふ》|舞《ま》ひ|遊《あそ》ぶ|野辺《のべ》の|花《はな》
|菫《すみれ》、|蒲公英《たんぽぽ》、|紫雲英《げんげばな》 |咲《さ》き|誇《ほこ》りたる|道《みち》の|上《うへ》
|其《その》|中心《ちうしん》を|進《すす》み|往《ゆ》く |吾等《われら》は|天国《てんごく》|浄土《じやうど》をば
|旅行《りよかう》なしつる|心地《ここち》なり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|初稚姫《はつわかひめ》の|御上《おんうへ》を |守《まも》らせたまへ|大御神《おほみかみ》
|珍《うづ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎまつる』
と|歌《うた》ひつつ|道《みち》を|急《いそ》ぎ|行《ゆ》く。
|道《みち》の|片方《かたへ》の|榛《はり》の|木《き》の|下《もと》に、|一人《ひとり》の|美人《びじん》が|黒《くろ》い|犬《いぬ》をつれて|首《くび》をうなだれ、|真青《まつさを》な|顔《かほ》をして|何《なに》か|思案《しあん》に|沈《しづ》む|風情《ふぜい》であつた。イク、サールの|両人《りやうにん》は|十間《じつけん》ばかり|道《みち》を|隔《へだ》てた|田《た》の|向《むか》ふに|女《をんな》の|立《た》つて|居《ゐ》るのを|眺《なが》め、つと|立留《たちど》まり、
『オイ、サール、あの|女《をんな》は|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》によく|似《に》て|居《ゐ》るぢやないか。そしてスマートによく|似《に》た|犬《いぬ》まで|傍《そば》について|居《ゐ》る。|一《ひと》つお|尋《たづ》ねして|見《み》ようぢやないか』
『ウン、|一寸《ちよつと》|見《み》た|所《ところ》ではよく|似《に》て|厶《ござ》るやうだが、|些《すこ》し|顔《かほ》が|長《なが》いなり、|背《せ》が|高過《たかす》ぎるぢやないか。そしてあの|犬《いぬ》もスマートから|見《み》れば、どこともなしに|容積《かさ》がないやうだ。|又《また》|昨夜《ゆうべ》の|曲神《まがかみ》|奴《め》が|第二《だいに》の|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》を|立《た》てよつて、|吾等《われら》を|艱《なや》めようとして|居《ゐ》るのかも|知《し》れないぞ。うつかり|相手《あひて》になつては|不利益《ふりえき》だから、|見《み》ぬ|顔《かほ》して|行《ゆ》かうぢやないか』
『それもさうだが、|何《なん》だか|心配《しんぱい》さうな|顔《かほ》をして|居《ゐ》るぞ。|彼処《あすこ》は|川側《かはぶち》だから、|身投《みな》げでもする|積《つも》りぢやなからうかな』
『サア、あの|様子《やうす》では|何《なん》とも|判別《はんべつ》がつかないよ。まア|暫《しばら》く|此処《ここ》で|様子《やうす》を|考《かんが》へようぢやないか』
『ウン、よからう』
と、|二人《ふたり》は|暫《しば》し|女《をんな》の|挙動《きよどう》を|看守《みまも》つて|居《ゐ》た。|忽《たちま》ち|女《をんな》は|榛《はり》の|木《き》に|細帯《ほそおび》を|投《な》げかけ、プリンプリンとぶら|下《さが》つた。|傍《そば》に|居《ゐ》た|黒犬《くろいぬ》は|悲鳴《ひめい》をあげ、|二人《ふたり》の|方《はう》に|向《むか》ひ、|前足《まへあし》で|空《くう》をかきながら|救《すく》ひを|求《もと》むるものの|如《ごと》くであつた。
『オイ、サール、|俺達《おれたち》の|後継《あとつぎ》が|出来《でき》たぢやないか、|随分《ずいぶん》|苦《くる》しさうにやつてけつかる。|何《なん》と|無細工《ぶさいく》なものだなア、あれを|見《み》い、|洟《はな》を|垂《た》らしよつて、あの|態《ざま》つたら|見《み》られたものぢやない。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|吾等《われら》のブリブリして|洟《はな》をたらした|姿《すがた》を|眺《なが》められた|時《とき》にや、|何《なん》とした|馬鹿《ばか》な|奴《やつ》だ、|情《なさけ》ない|男《をとこ》だとキツト|思《おも》はれたに|違《ちが》ひないぞ。|人《ひと》の|姿《ふり》|見《み》て|吾《わが》|姿《ふり》|直《なほ》せと|云《い》ふ|事《こと》があるからなア』
『オイ、イク、そんな|気楽《きらく》な|事《こと》を|云《い》うて|居《ゐ》る|所《ところ》ぢやないよ。|人《ひと》の|危難《きなん》を|見《み》て|批評《ひひやう》|所《どころ》ぢやない。グヅグヅして|居《ゐ》ると|絶命《ことき》れて|了《しま》ふから、サア|貴様《きさま》と|二人《ふたり》で|助《たす》けてやらうぢやないか』
『|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は、|女《をんな》の|身《み》として|荒男《あらをとこ》の|首吊《くびつ》り|二人《ふたり》まで|御助《おたす》けなさつたのだ、|高《たか》が|女《をんな》の|首吊《くびつ》り|一人《ひとり》に|男《をとこ》が|二人《ふたり》まで|行《ゆ》かなくても|貴様《きさま》|一人《ひとり》で|結構《けつこう》ぢや。|俺《おれ》は|此処《ここ》で|水晶玉《すいしやうだま》の|御守護《ごしゆご》をして|居《ゐ》るから……|汚《けが》れたものに|触《さは》ると|玉《たま》が|汚《けが》れるからのう、|貴様《きさま》|往《い》つて|助《たす》けて|来《こ》い』
『|何《なん》だか|気分《きぶん》が|悪《わる》くて|仕方《しかた》がない、イクよ、せめて|傍《そば》までついて|来《き》て|呉《く》れないか。さうしたら|俺《おれ》が|一人《ひとり》で|助《たす》けてやるから』
『エエ|意気地《いくぢ》のない|男《をとこ》だなア、サア|行《ゆ》かう』
とサールを|促《うなが》し|榛《はり》の|木《き》の|下《もと》に|歩《あし》を|急《いそ》いだ。|女《をんな》は|真青《まつさを》になつて、|最早《もはや》|手足《てあし》も|動《うご》かず、ブラリと|吊柿《つるし》のやうに|垂《さが》つて|居《ゐ》る。サールは、|手早《てばや》く|女《をんな》を|抱《いだ》き、
『アヽ|何《なん》と|柄《がら》にも|似合《にあ》はぬ|重《おも》い|女《をんな》だなア、|此奴《こいつ》ア|化州《ばけしう》かも|知《し》れぬぞ』
と|云《い》ひながら|助《たす》け|下《おろ》した。|女《をんな》は|漸《やうや》くにして|気《き》がついたらしく、キヨロキヨロ|其処辺《そこら》を|見廻《みまは》し、
『ああお|前《まへ》さまは|何処《どこ》のお|方《かた》か|知《し》らぬが、|私《わし》が|折角《せつかく》|天国《てんごく》の|旅《たび》をしかけて|居《ゐ》る|所《ところ》を、|殺生《せつしやう》な、なぜ|邪魔《じやま》をするのだい。よい|加減《かげん》に|人《ひと》を|助《たす》ける|宣伝使《せんでんし》が|悪戯《いたづら》をして|置《お》きなさいよ』
と|礼《れい》を|云《い》ふかと|思《おも》へば、|反対《はんたい》に|女《をんな》は|仏頂面《ぶつちやうづら》をして|怒《おこ》り|出《だ》した。
『オイ、|何処《どこ》の|女《をんな》か|知《し》らぬが、|命《いのち》を|助《たす》けて|貰《もら》うて|不足《ふそく》を|云《い》ふものが|何処《どこ》にあるかい、のうイク、こんな|事《こと》なら|助《たす》けてやるぢやなかつたに、チエー|馬鹿《ばか》にしてけつかる。ハハ|此奴《こいつ》はキ|印《じるし》だな』
『キ|印《じるし》でも|構《かま》うて|下《くだ》さるな。|朋友《ともだち》でもなければ|親類《しんるゐ》でもなし、お|前《まへ》さまに|助《たす》けられる|理由《りいう》が|無《な》いぢやないか』
サール『それだつて|此《この》|犬《いぬ》|奴《め》、|一生懸命《いつしやうけんめい》|俺《おれ》の|方《はう》に|向《む》いて|救《すく》ひを|求《もと》めたものだから、|忙《いそが》しい|道中《だうちう》を|繰合《くりあは》せて|助《たす》けに|来《き》てやつたのだ』
『ヘン|阿呆《あはう》らしい、|犬《いぬ》が|物《もの》|言《い》ひますか。お|前《まへ》さまも|見《み》た|割《わ》りとは|馬鹿《ばか》だな。|人《ひと》の|目的《もくてき》の|邪魔《じやま》をして|置《お》きながら、|礼《れい》を|云《い》へなどとは|以《もつ》ての|外《ほか》だ。これ|位《ぐらゐ》|分《わか》らぬ|馬鹿野郎《ばかやらう》が|又《また》と|世界《せかい》にあるだらうかなア、|私《わたし》は|死《し》ぬのが|目的《もくてき》だ。その|目的《もくてき》を|妨害《ばうがい》して|置《お》いて|何《なん》だ、お|礼《れい》を|云《い》ふの|云《い》はぬのと……|謝罪《あやま》りなさい、|怪《け》しからぬ|人足《にんそく》だ』
イク『こりや|女《をんな》、|俺達《おれたち》を|馬鹿《ばか》だとは|何《なん》だ。|余《あま》り|口《くち》が|過《す》ぎるぢやないか。|貴様《きさま》は|死《し》ぬのが|目的《もくてき》だと|申《まを》したが、|死《し》んでどうする|積《つも》りだ。エーン、|何《なん》ぞいい|目的《もくてき》があるのか』
『ヘン|馬鹿《ばか》だなア、お|前達《まへたち》に|霊界《れいかい》の|事《こと》が|分《わか》つて|耐《たま》らうかい。|馬鹿《ばか》と|云《い》うたのは|外《ほか》でもないが、|今《いま》の|世《よ》の|中《なか》は|命《いのち》がけの|事《こと》をして|人《ひと》を|助《たす》け、さうして|世界《せかい》の|人間《にんげん》から|褒《ほ》めて|貰《もら》はうと|考《かんが》へたり、|一口《ひとくち》の|礼《れい》でも|云《い》つて|貰《もら》はうと|考《かんが》へる|奴《やつ》ばかりだ。それだから|馬鹿《ばか》と|云《い》ふのだよ。|命《いのち》を|助《たす》けてやつた|女《をんな》に、|眉毛《まゆげ》を|読《よ》まれ、|尻《しり》の|毛《け》をぬかれ、|現《うつつ》をぬかし、|涎《よだれ》を|繰《く》り、|終《しまひ》には|先祖譲《せんぞゆづ》りの|財産《ざいさん》|迄《まで》すつかり|取《と》られる|馬鹿《ばか》の|多《おほ》い|世《よ》の|中《なか》だよ。|貴様《きさま》|達《たち》も|俺《おれ》が|女《をんな》だと|思《おも》うて|助《たす》けに|来《き》たのだらう。どうだ、これから|骨《ほね》を|抜《ぬ》き|取《と》り、|章魚《たこ》のやうにグニヤグニヤに|蕩《とろ》かしてやらうか。|俺《おれ》の|目《め》は|千両目《せんりやうめ》と|云《い》うて、|一瞥《いちべつ》よく|城《しろ》を|傾《かたむ》け、|山林《さんりん》を|吹《ふ》き|飛《と》ばす|威力《ゐりよく》を|持《も》つて|居《ゐ》るのだぞ。|俺《おれ》のやうな|者《もの》が|娑婆《しやば》を|離《はな》れて|霊界《れいかい》に|行《い》つたならば、|娑婆《しやば》の|邪魔者《じやまもの》がなくなつて、|人民《じんみん》がどれ|位《くらゐ》|喜《よろこ》ぶか|知《し》れないのだ。また|生《い》かしやがるものだから、この|涼《すず》しい|目《め》をもつて|腰抜野郎《こしぬけやらう》を|片《かた》つ|端《ぱし》から|骨《ほね》を|抜《ぬ》き、|足腰《あしこし》の|立《た》たぬやうに|殺生《せつしやう》をしなくてはならぬワイ。|貴様《きさま》は|一人《ひとり》を|助《たす》けて|大《おほ》きな|害《がい》を|世《よ》の|中《なか》に|拡《ひろ》げようとする|頓馬《とんま》だから|馬鹿《ばか》と|云《い》つたのだ。これ|二人《ふたり》の|馬鹿野郎《ばかやらう》、|分《わか》つたか。|分《わか》つたら|犬蹲《いぬつくばひ》となつてお|断《ことわ》りを|申《まを》せ』
『|何《なん》とまア、|理窟《りくつ》と|云《い》ふものは、どんなにでもつくものだなア。まるで|高姫《たかひめ》や|黒姫《くろひめ》のやうな|事《こと》を|吐《ぬか》すぢやないか、のうイク』
イクは、
『フン』
と|呆《あき》れ|果《は》て、|女《をんな》の|顔《かほ》を|打《う》ち|眺《なが》め、
『こんな|優《やさ》しい|顔《かほ》をしながら、どこを|押《おさ》へたら、あんな|悪垂口《あくたれぐち》が|出《で》るのだらうか』
と|頻《しき》りにみつめて|居《ゐ》ると、|女《をんな》は、
『|馬鹿《ばか》』
と|一声《いつせい》イクの|横面《よこづら》を|張《は》り|倒《たふ》した。イクはヨロヨロとよろめいて|田圃《たんぼ》の|中《なか》に|倒《たふ》れた。|犬《いぬ》はイクの|懐《ふところ》の|水晶玉《すいしやうだま》をくはへるや|否《いな》や、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|駆出《かけだ》した。サールは、
『こりや|畜生《ちくしやう》|待《ま》て』
と|叫《さけ》ぶのを|見《み》て、|女《をんな》は|手《て》を|拍《う》つて|笑《わら》ひ、
『ホホホホホ、|馬鹿《ばか》だな、|俺《おれ》は|昨夜《さくや》|山口《やまぐち》の|森《もり》で|貴様《きさま》を|嚇《おど》さうとした|怪物《くわいぶつ》だ。|貴様《きさま》に|水晶玉《すいしやうだま》を|持《も》たせて|置《お》くと|俺達《おれたち》の|邪魔《じやま》になるから、|計略《けいりやく》を|以《もつ》て|取《と》つてやつたのだ。アバヨ、イヒヒヒヒ』
と|白《しろ》い|歯《は》を|出《だ》し、|腮《あご》をしやくりながら|大狸《おほだぬき》の|正体《しやうたい》を|現《あら》はし、|南《みなみ》をさして|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|出《だ》した。サールはイクを|抱起《だきおこ》し、ブツブツ|小言《こごと》を|言《い》ひながら、|兎《と》も|角《かく》も|小北山《こぎたやま》の|聖場《せいぢやう》に|参拝《さんぱい》せむと、|間抜《まぬ》けた|面《つら》をして|力《ちから》なげにトボトボと|進《すす》み|行《ゆ》く。|傍《かたはら》の|密樹《みつじゆ》の|枝《えだ》に|梟《ふくろ》がとまつて、
『ホー、ホー、ホー|助《すけ》、ホー|助《すけ》、ころりと|取《と》られたなア、ホー、ホー、ホー|助《すけ》、アツポー アツポー』
と|啼《な》いて|居《ゐ》る。
(大正一二・一・二九 旧一一・一二・一三 加藤明子録)
第二篇 |文明盲者《ぶんめいまうじや》
第七章 |玉返志《たまかへし》〔一三四三〕
|小北山《こぎたやま》の|受付《うけつけ》には、|文助爺《ぶんすけぢい》さまが|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》にしたたか|頭《あたま》をかち|割《わ》られ、それから|発熱《はつねつ》して|床《とこ》につき、|時々《ときどき》|囈言《うはごと》を|云《い》ひ、|大勢《おほぜい》の|信者《しんじや》や|役員《やくゐん》が|頭《あたま》を|悩《なや》ましてゐる。そして|魔我彦《まがひこ》は|不在《ふざい》なり、|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》は|遁走《とんそう》し、|俄《にはか》に|運用機関《うんようきくわん》は|殆《ほとん》ど|停止《ていし》の|厄《やく》に|遭《あ》うた。お|菊《きく》は|勝気《かちき》な|女《をんな》とて、|受付《うけつけ》|兼《けん》|神殿係《しんでんがかり》を|兼務《けんむ》し、|参詣《さんけい》して|来《く》る|病人《びやうにん》の|祈願《きぐわん》をなし、|或《あるひ》は|説教《せつけう》を|聞《き》かせ、|又《また》|受付《うけつけ》に|現《あら》はれて、|目《め》も|廻《まは》るばかりの|多忙《たばう》を|極《きは》めて|居《を》つた。お|菊《きく》はホツと|持《も》て|余《あま》し、|体《からだ》は|繩《なは》のやうになつて、チツとばかり|愚痴《ぐち》り|出《だ》した。
『あああ、|受付《うけつけ》と|云《い》ふ|役《やく》は|何《なん》でもないものだ、|遊《あそ》び|半分《はんぶん》に|何時《いつ》も|文助《ぶんすけ》さまが|絵《ゑ》を|描《か》いてゐる。|之《これ》も|用《よう》がなくて|暇《ひま》|潰《つぶ》しにやつてゐるのだらうと|思《おも》うて|居《を》つたが、|中々《なかなか》|自分《じぶん》がやつて|見《み》ると|忙《いそが》しいものだ。|鎮魂《ちんこん》もしてやらねばならず、|御祈願《ごきぐわん》もせなならず、ホンにホンに|文助《ぶんすけ》さまも|御苦労《ごくらう》だつたなア。|何卒《どうぞ》|早《はや》く|治《なほ》つてくれれば|可《い》いに、これ|丈《だけ》そこら|中《ぢう》に|美《うつく》しい|花《はな》が|咲《さ》いてるのに、|花《はな》|摘《つま》みに|行《ゆ》く|事《こと》も|出来《でき》やしない。そこへ|又《また》|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|御越《おこ》しになつたものだから、|松姫《まつひめ》さまは|忙《いそが》しいのでチツとも|手伝《てつだ》うては|下《くだ》さらず、お|千代《ちよ》さまもお|宮《みや》のお|給仕《きふじ》やなんかで|忙《いそが》しいさうだし、|本当《ほんたう》に|厭《いや》になつちまつた。せめて|魔我《まが》さまなつと|帰《かへ》つてくればよいのに、|気《き》の|利《き》かぬ|奴《やつ》だな。|万公《まんこう》さまも|万公《まんこう》さまだ、|何処《どこ》を|一体《いつたい》|彷徨《うろつ》いてるのだらう。|帰《かへ》つて|来《く》りや|可《い》いに、そしたら|又《また》|惚《ほ》れたやうな|顔《かほ》をして、|退屈《たいくつ》ざましに|嬲《なぶ》つてやるのだけれどなア。あああ|仕方《しかた》がないワ、|何程《なにほど》きばつた|所《ところ》で、|先繰《せんぐ》り|先繰《せんぐ》り|婆《ばば》、|嬶《かか》がやつて|来《く》るのだから、お|菊《きく》さまもやり|切《き》れない。|一《ひと》つここらで|昼寝《ひるね》でもやつたらうかなア。|此《この》|夜《よ》の|短《みじか》い|日《ひ》の|永《なが》いのに、|睡《ね》ぶつたくて|仕様《しやう》がないワ。|椿《つばき》の|花《はな》でさへも|居睡《ゐねむ》つて、ボトリボトリと|首《くび》を|抜《ぬ》かして|溜池《ためいけ》の|鮒《ふな》を|脅《おびや》かし、|水面《すいめん》を|真赤《まつか》に|染《そ》めてゐる。|私《わし》だつて|生物《いきもの》だから、チツとは|休養《きうやう》もせなくちや|叶《かな》ふまい』
と|独言《ひとりごと》を|言《い》ひながら、グツと|眠《ねむ》つて|了《しま》つた。そこへ、|六十《ろくじふ》|許《ばか》りの|爺《おやぢ》が|十二三《じふにさん》の|娘《むすめ》を|背中《せなか》に|負《お》ひ、トボトボとやつて|来《き》た。
『ハイ、|御免《ごめん》なさいませ、|私《わたし》はつひ|近在《きんざい》の|首陀《しゆだ》で|厶《ござ》いますが、|娘《むすめ》が|喉《のど》に|鯛《たひ》の|骨《ほね》か|何《なに》かを|立《た》てまして、|苦《くる》しみ|悶《もだ》え、|息《いき》が|切《き》れさうになつて|居《を》ります。|何卒《どうぞ》|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》で|除《と》つて|頂《いただ》くことは|出来《でき》ますまいかなア』
|居眠《ゐねむ》つてゐたお|菊《きく》はフツと|目《め》をさまし、
『ウニヤ ウニヤ ウニヤ ウニヤ、ようお|出《い》でなさいませ、|随分《ずいぶん》|日《ひ》の|永《なが》いこつて|厶《ござ》いますな。モウ|何時《なんどき》ですか』
『まだ|四《よ》つ|時《どき》で|厶《ござ》います。|至急《しきふ》に|御願《おねが》ひ|致《いた》したい|事《こと》が|厶《ござ》いますので、お|世話《せわ》に|預《あづ》かりたいと|思《おも》ひ|参《まゐ》りました。|之《これ》は|私《わたくし》の|孫《まご》で|厶《ござ》いますが、|喉《のど》に|何《なん》だか|立《た》ちまして、|困《こま》りますので|鎮魂《ちんこん》とやらをして|貰《もら》ふ|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬだらうかな』
『ヘー、|宜《よろ》しい、|併《しか》し|住所《ぢゆうしよ》|姓名《せいめい》を|伺《うかが》ひます』
『ハイ、|住所《ぢゆうしよ》|姓名《せいめい》は|後《あと》から|申上《まをしあ》げます。|此《この》|通《とほ》り|孫娘《まごむすめ》が|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|場合《ばあひ》で|厶《ござ》いますから、|早《はや》く|御祈願《ごきぐわん》をして|頂《いただ》きたいもので|厶《ござ》います』
『それなら|特別《とくべつ》を|以《もつ》て、|先《さき》にする|手続《てつづき》を|後《あと》にし、お|願《ねが》ひ|致《いた》しませう。|併《しか》しながら|此《この》|子《こ》の|名《な》を|聞《き》きませぬと、|願《ねが》ふ|訳《わけ》には|参《まゐ》りませぬワ』
『それは|御尤《ごもつと》もで|厶《ござ》います。|娘《むすめ》の|名《な》は|滝野《たきの》と|申《まを》します』
『ハイ|宜《よろ》しい、サア|此方《こちら》へ|連《つ》れて|来《き》なさい。|大神様《おほかみさま》に|願《ねが》へば|直様《すぐさま》|助《たす》けて|下《くだ》さいます。サ、お|爺《ぢい》さま、お|上《あが》りなさい』
『|甚《はなは》だ|申《まを》し|兼《か》ねますが、|此《この》|通《とほ》り|草鞋《わらぢ》をはいて|居《を》りますから、|足《あし》が|汚《よご》れて|居《を》ります。|何卒《どうぞ》|娘《むすめ》だけ|上《あ》げて|下《くだ》さいませ』
と|背中《せなか》から|下《おろ》した。|娘《むすめ》は|転《ころ》げるやうにして、お|菊《きく》が|願《ねが》ふ|祭壇《さいだん》の|前《まへ》に|行《い》つた。お|菊《きく》は|紫《むらさき》の|袴《はかま》を|着《つ》け、|白《しろ》い|着物《きもの》の|上《うへ》に|格衣《かくい》を|羽織《はおり》つて|中啓《ちうけい》を|持《も》ち、|恭《うやうや》しく|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らした。お|菊《きく》が|熱湯《ねつたう》の|汗《あせ》を|流《なが》しての|一生懸命《いつしやうけんめい》の|祈願《きぐわん》も|容易《ようい》に|効《かう》|顕《あら》はれず、|娘《むすめ》は|益々《ますます》|苦《くる》しみ|悶《もだ》えるばかりである。お|千代《ちよ》は|用《よう》のすきまに|階段《かいだん》を|下《くだ》つて|受付《うけつけ》へ|来《き》て|見《み》ると、|怪《あや》しい|爺《ぢい》が|庭《には》の|隈《すみ》に|青《あを》い|顔《かほ》してしやがんでゐる。|神殿《しんでん》を|見《み》れば、お|菊《きく》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らしてゐた。お|千代《ちよ》は|之《これ》を|見《み》て、
『|受付《うけつけ》はサツパリ|空屋《あきや》だ。どれ|暫《しばら》く|私《わたし》が|代理《だいり》を|勤《つと》めておかうか』
と|云《い》ひながら、|受付《うけつけ》にチヨコナンと|坐《すわ》つてみた。そこへ|坂路《さかみち》を|登《のぼ》つて、|息《いき》をスースー|喘《はづ》ませながら|二人《ふたり》の|男《をとこ》がやつて|来《き》た。これはイク、サールの|両人《りやうにん》である。
イク『|御免《ごめん》なさい、|私《わたくし》は|祠《ほこら》の|森《もり》のイク、サールといふ|者《もの》で|厶《ござ》います。もしや|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》はスマートといふ|犬《いぬ》を|連《つ》れてお|立寄《たちより》になつては|居《を》りませぬか』
『それはようお|出《い》でなさいました。マア|御一服《ごいつぷく》なさいませ。|夜前《やぜん》からお|見《み》えになつて|居《を》りますが、お|母《かあ》さまと|何《なん》だか|御話《おはなし》がはづんで|居《を》ります。|何《いづ》れ|手《て》があきましたら|御知《おし》らせ|致《いた》しますから、|此《この》|境内《けいだい》のお|宮様《みやさま》を|一遍《いつぺん》、|御巡拝《ごじゆんぱい》なさいませ』
『イヤ|有難《ありがた》う、|兎《と》も|角《かく》|参拝《さんぱい》さして|頂《いただ》きませう。オイ、サール、まだ|十二三《じふにさん》らしいが|随分《ずいぶん》しつかりしたものだね。|小北山《こぎたやま》はこんな|小《ちひ》さい|子供《こども》で|受付《うけつけ》が|出来《でき》るのだから、|大《たい》したものだよ。イルやハルの|奴《やつ》、|偉《えら》さうに|受付面《うけつけづら》を|晒《さら》しよつて|酒《さけ》ばかり|喰《くら》ひ、|筆先《ふでさき》だとかいつて|紙《かみ》ばかり|使《つか》ひよつて、|日《ひ》の|暮《く》れるのばかりを|待《ま》つてゐるサボ|先生《せんせい》とはえらい|違《ちがひ》だなア』
『|本当《ほんたう》に|感心《かんしん》だ。コレ|受付《うけつけ》さま、お|前《まへ》さまの|名《な》は|何《なん》と|云《い》ひますか』
『|私《わたし》の|名《な》を|尋《たづ》ねて|何《なん》となさるのですか。|別《べつ》に|用《よう》がないぢやありませぬか』
『イヤもう|恐《おそ》れ|入《い》りました、それならモウお|伺《うかが》ひ|致《いた》しませぬワ』
『ハハハハ、サール、とうと、やられよつたな。|恥《はぢ》を|知《し》れよ』
『|貴様《きさま》なんだ、|肝腎《かんじん》の|水晶玉《すいしやうだま》を|犬《いぬ》にとられたぢやないか。|犬《いぬ》かと|思《おも》へばド|狸《たぬき》につままれよつて、スコタンを|喰《く》はされ、おまけに|悪口雑言《あくこうざふごん》を|浴《あ》びせかけられ、よい|恥《はぢ》をさらしたぢやないか、|偉《えら》さうに|言《い》ふまいぞ』
『そりやお|互《たがひ》さまだ、こんな|所《ところ》へ|来《き》て、そんな|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|云《い》ふ|奴《やつ》があるかい』
『|何《なん》とマアお|前《まへ》さま|達《たち》は、どこともなしに|空気《くうき》のぬけた|面《つら》をしてますね。|今《いま》|聞《き》きますれば|玉《たま》を|取《と》られたとか|仰有《おつしや》いましたが、|本当《ほんたう》にラムネの|玉落《たまおち》みたいなお|方《かた》ですねえ、ホホホ』
イク『ヤ、|此奴《こいつ》ア|恐《おそ》れ|入《い》ります、お|面《めん》、お|小手《こて》、お|胴《どう》といかれてけつかる。ヤアこはいこはい、サ、サール|行《い》かう』
『オイ|一寸《ちよつと》|待《ま》て、|此《この》|爺《ぢい》さまは、|怪《あや》しいぢやないか。|俺達《おれたち》の|顔《かほ》を|見《み》るとビリビリ|慄《ふる》うてゐるぞ』
『ホンにけつ|体《たい》な|爺《ぢい》さまだなア。オイ|爺《ぢい》さま、お|前《まへ》|一体《いつたい》|何処《どこ》から|参《まゐ》つたのだい』
『|何卒《どうぞ》、そんな|事《こと》|云《い》つて|下《くだ》さるな。|孫《まご》が|大変《たいへん》な|病気《びやうき》にかかつて|苦《くる》しんで|居《ゐ》るので、|今《いま》ここへ|願《ねが》つて|貰《もら》ひに|来《き》たのだよ。|病気《びやうき》にさはるから、お|前《まへ》さまは|早《はや》くお|宮《みや》さまへ|参《まゐ》つて|来《き》なさい』
『オイ、サール、|兎《と》も|角《かく》|神様《かみさま》へ|御挨拶《ごあいさつ》が|肝腎《かんじん》だ、サ|参《まゐ》らう』
と|云《い》ひながら、|受付《うけつけ》を|立《た》つて|沢山《たくさん》の|宮《みや》を|一々《いちいち》|巡拝《じゆんぱい》し|始《はじ》めた。お|菊《きく》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|頼《たの》んでゐる。|娘《むすめ》は|次第《しだい》に|苦《くる》しみ|悶《もだ》えだし、|喉《のど》につまつた|鯛《たひ》の|骨《ほね》はますます|深《ふか》くおち|込《こ》んだものか、|息《いき》が|殆《ほとん》どつまり、|無我夢中《むがむちう》になつて|空《くう》を|掴《つか》み|出《だ》した。お|千代《ちよ》は|吃驚《びつくり》して、|側《そば》へよつて|見《み》れば、|大《おほ》きな|狸《たぬき》の|尾《を》が|娘《むすめ》の|尻《しり》からみえてゐる。|此奴《こいつ》は|化物《ばけもの》に|相違《さうゐ》ないと、|早速《さつそく》|外《そと》へ|飛出《とびだ》し、イク、サールの|両人《りやうにん》を「|早《はや》く|早《はや》く」と|手招《てまね》きした。|両人《りやうにん》は|何事《なにごと》か|急用《きふよう》が|出来《でき》たらしいと、|巡拝《じゆんぱい》を|半《なかば》にして|打切《うちき》り、|後《あと》から|拝《をが》む|事《こと》とし、スタスタと|帰《かへ》つて|来《き》た。|今《いま》まで|受付《うけつけ》の|横《よこ》に|慄《ふる》うてゐた|爺《おやじ》の|姿《すがた》は|何時《いつ》しか|消《き》えて、|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》が|坐《すわ》つてゐる。|二人《ふたり》はどつかで|見《み》た|事《こと》のある|女《をんな》だと|思《おも》ひながら、お|千代《ちよ》に|跟《つ》いて|神殿《しんでん》に|進《すす》み、|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》した。|娘《むすめ》は|益々《ますます》|苦《くる》しみ|出《だ》した。お|千代《ちよ》は|娘《むすめ》の|背中《せなか》を、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》うてポンポンと|二《ふた》つ|叩《たた》いた|拍子《ひやうし》に、クワツと|音《おと》がして|飛出《とびだ》したのは|鯛《たひ》の|骨《ほね》でもなく、|直径《ちよくけい》|一寸《いつすん》|許《ばか》りの|水晶玉《すいしやうだま》であつた。|一同《いちどう》はアツと|驚《おどろ》く|間《ま》もなく、|娘《むすめ》は|忽《たちま》ち|古狸《ふるだぬき》となり、|受付《うけつけ》に|居《を》つた|女《をんな》も|亦《また》|同《おな》じく|大狸《おほだぬき》となつて、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|山越《やまご》しに|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つた。
イク『ヤア|畜生《ちくしやう》、ザマを|見《み》い、ウマク|俺《おれ》をチヨロまかして、|水晶玉《すいしやうだま》を|盗《ぬす》みよつて、|神罰《しんばつ》が|当《あた》つて|喉《のど》につまり、|仕方《しかた》がないものだから、こんな|所《ところ》へ|化《ば》けて|助《たす》けて|貰《もら》ひに|来《き》よつたのだな。ヤア|今度《こんど》は|確《しつ》かり|気《き》を|付《つ》けなくちやならないぞ。ヤア|娘《むすめ》さま、|貴女《あなた》のお|蔭《かげ》で|宝《たから》が|元《もと》へ|帰《かへ》りました、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。イク|重《へ》にも|御礼《おれい》|申《まを》します』
|千代《ちよ》『|貴方《あなた》、|狸《たぬき》と|御親類《ごしんるゐ》で|厶《ござ》いますか、どうして|又《また》あの|玉《たま》を|取《と》られたのです?』
『イヤ、お|話《はな》し|申《まを》せば|恥《はづ》かしう|厶《ござ》いますが、|此《この》|玉《たま》の|手《て》に|入《い》つた|由来《ゆらい》から、|取《と》られた|因縁《いんねん》を|申《まを》し|上《あ》げねばお|疑《うたが》ひが|晴《は》れますまい。それでは|逐一《ちくいち》|申上《まをしあ》げます』
と|狸《たぬき》に|騙《だま》されて|水晶玉《すいしやうだま》を|取《と》られた|顛末《てんまつ》を|詳細《しやうさい》に|物語《ものがた》つた。お|千代《ちよ》とお|菊《きく》は|転《こ》けて|笑《わら》つた。
『アレマア、|馬鹿《ばか》らしい、|狸《たぬき》に|御祈祷《ごきたう》を|頼《たの》まれたのだワ。|何《なん》だか|耳《みみ》が|動《うご》くと|思《おも》うて|居《を》つたのよ。お|千代《ちよ》さまのお|蔭《かげ》で、|狸《たぬき》も|助《たす》かり、|私《わたし》も|助《たす》かりましたワ。モウ|此《この》|上《うへ》お|祈《いの》りをしようものなら、|息《いき》が|切《き》れる|所《ところ》でしたワ』
『オイ、イク、|貴様《きさま》に|持《も》たしておくと、どうも|剣呑《けんのん》だ、|今度《こんど》は|俺《おれ》が|持《も》つて|行《ゆ》くから|此方《こちら》へ|渡《わた》せ』
『メメ|滅相《めつさう》な、|俺《おれ》が|持《も》つて|居《を》つたら|可《い》いぢやないか。|貴様《きさま》の|様《やう》な|慌《あわ》て|者《もの》に|持《も》たしておくと|気《き》が|気《き》でならぬワ。マア|子供《こども》は|大人《おとな》に|一任《いちにん》した|方《はう》が|安全《あんぜん》だよ』
『ヘン、|仰有《おつしや》いますワイ。|何卒《どうぞ》|狸《たぬき》に|取《と》られぬ|様《やう》に|確《しつ》かり|御監督《ごかんとく》を|願《ねが》ひますよ。|何《なに》は|兎《と》もあれ、|神前《しんぜん》に|御礼《おれい》を|申《まを》しませう』
と|四人《よにん》は|横縦陣《わうじうぢん》を|作《つく》り、|赤心《まごころ》を|籠《こ》めて|一生懸命《いつしやうけんめい》に|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|詞《じ》を|奏上《そうじやう》した。
イク『|妖怪《えうくわい》に|騙《だま》し|取《と》られた|宝玉《はうぎよく》も
|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|吾《わが》|手《て》に|還《かへ》れり』
サール『イクの|奴《やつ》まぬけた|面《つら》をしてる|故《ゆゑ》
|狸《たぬき》の|奴《やつ》に|眉毛《まゆげ》よまれし』
イク『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな|貴様《きさま》が|曲津《まがつ》につままれて
|首《くび》つり|女《をんな》と|見違《みちが》へた|故《ゆゑ》よ』
サール『|横面《よこづら》を|狸《たぬき》の|奴《やつ》に|擲《なぐ》られて
|田圃《たんぼ》に|落《お》ちし|可笑《をか》しき|奴《やつ》かな』
イク『イクらでも|人《ひと》の|悪口《わるくち》つくがよい
|善言美詞《ぜんげんびし》の|道《みち》を|忘《わす》れて』
サール『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな|俺《おれ》の|睾丸《きんたま》|握《にぎ》らうと
|思《おも》うて|頭《あたま》|擲《なぐ》られた|癖《くせ》に』
イク『|擲《なぐ》りたる|男《をとこ》に|又《また》も|擲《なぐ》られて
サールの|馬鹿《ばか》がベソをかくなり』
サール『|其《その》|様《やう》な|減《へ》らず|口《ぐち》をば|叩《たた》くなら
|水晶玉《すいしやうだま》をこつちへ|渡《わた》せよ』
イク『|水晶《すいしやう》の|霊《みたま》なればこそ|水晶《すいしやう》の
|玉《たま》の|守護《しゆご》をさせられてゐる』
サール『|玉脱《たまぬ》けの|間抜男《まぬけをとこ》が|水晶《すいしやう》の
|玉《たま》を|抱《いだ》いて|罪《つみ》を|作《つく》るな』
イク『この|玉《たま》は|小北《こぎた》の|山《やま》の|皇神《すめかみ》の
|守《まも》りと|二人《ふたり》の|恵《めぐみ》にかへれり。
さりながらサール|心《こころ》を|持《も》ち|直《なほ》せ
お|前《まへ》の|罪《つみ》が|玉《たま》を|汚《けが》せば。
|汚《よご》れなば|又《また》この|玉《たま》は|逃《に》げて|行《ゆ》かむ
サールの|玉《たま》をまたも|嫌《きら》ひて』
お|千代《ちよ》『|水晶《すいしやう》の|瑞《みづ》の|御霊《みたま》は|何神《なにがみ》に
|頂《いただ》きましたか|聞《き》かまほしさよ』
イク『この|玉《たま》は|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|賜《たまもの》ぞ
いや|永久《とこしへ》に|離《はな》されぬ|玉《たま》』
お|千代《ちよ》『|放《はな》せとは|誰《たれ》も|言《い》はねど|油断《ゆだん》から
|狸《たぬき》の|奴《やつ》に|取《と》られ|玉《たま》ふな』
イク『これは|又《また》|思《おも》ひもよらぬお|言葉《ことば》よ
|万劫末代《まんごふまつだい》|放《はな》しは|致《いた》さぬ』
お|菊《きく》『|玉脱《たまぬ》けのやうな|面《つら》した|二人男《ふたりをとこ》の
この|行先《ゆくさき》が|案《あん》じられける。
|初稚姫《はつわかひめ》|神《かみ》の|命《みこと》は|此《この》|二人《ふたり》を
|嫌《きら》ひ|玉《たま》ふも|宜《うべ》よとぞ|思《おも》ふ。
どことなく|虫《むし》の|好《す》かないスタイルだ
バラモン|軍《ぐん》に|居《を》つた|人《ひと》だらう』
イク『|女《をんな》にも|似合《にあ》はずよくもベラベラと
|大人《おとな》なぶりの|骨嬲《ほねなぶ》りするよ』
サール『|吾《われ》とても|男《をとこ》と|生《うま》れた|上《うへ》からは
|女《をんな》に|負《ま》けて|居《を》れるものかい。
|乙女子《をとめご》よがんぜなしとて|余《あま》りだよ
|荒男《あらをとこ》をば|嘲弄《てうろう》するとは』
お|菊《きく》『|嘲弄《てうろう》する|心《こころ》は|微塵《みぢん》もなけれども
|何《なん》とはなしに|可笑《をか》しくぞなる』
お|千代《ちよ》『お|菊《きく》さま|私《わたし》も|二人《ふたり》の|顔《かほ》をみて
|空気《くうき》ぬけ|野郎《やらう》と|思《おも》ひましたよ。
ド|狸《たぬき》に|玉《たま》を|取《と》られてメソメソと
|吠面《ほえづら》かわく|男《をとこ》なりせば』
サール『これ|程《ほど》に|口《くち》の|達者《たつしや》な|乙女子《をとめご》が
|居《を》るとは|知《し》らず|訪《たづ》ね|来《き》しよな』
イク『この|乙女《をとめ》|一筋繩《ひとすぢなは》では|行《ゆ》かぬらし
|侠客育《けふかくそだ》ちの|生地《きぢ》が|見《み》えてる』
お|千代《ちよ》『|松彦《まつひこ》や|松姫《まつひめ》さまを|親《おや》に|持《も》つ
お|千代《ちよ》の|方《かた》を|知《し》らぬ|馬鹿者《ばかもの》』
イク『これはしたり|松彦《まつひこ》さまの|嬢様《ぢやうさま》か
|知《し》らぬ|事《こと》とて|御無礼《ごぶれい》しました』
お|千代《ちよ》『あやまれば|別《べつ》に|咎《とが》めはせぬ|程《ほど》に
これからキツト|謹《つつ》しむがよい』
イク『|狸《たぬき》には|大馬鹿《おほばか》にされ|梟《ふくろ》には
|笑《わら》はれ|又《また》も|馬鹿《ばか》をみるかな』
サール『アハハハハ|呆《あき》れて|物《もの》が|言《い》はれない
|彼方此方《あなたこなた》に|化物《ばけもの》が|出《で》る。
この|女《をんな》|眉毛《まゆげ》に|唾《つば》をつけてみよ
キツト|尻尾《しつぽ》がついて|居《を》らうぞ』
お|千代《ちよ》『|面白《おもしろ》い|狸《たぬき》のやうな|面《つら》をして
つままれるのは|当然《あたりまへ》ぞや』
サール『どこまでも|二人《ふたり》の|乙女《をとめ》に|馬鹿《ばか》にされ
どこで|男《をとこ》の|顔《かほ》が|立《た》たうか』
イク『|何《なに》よりも|水晶玉《すいしやうだま》が|手《て》に|入《い》らば
|何《なん》と|云《い》はれても|辛抱《しんぼう》せうかい。
|此《この》|様《やう》なお|転婆娘《てんばむすめ》があればこそ
|尻尾《しつぽ》を|出《だ》した|化狸野郎《ばけたぬきやらう》。
お|千代《ちよ》さまお|前《まへ》のお|蔭《かげ》で|宝玉《はうぎよく》が
|返《かへ》つたのだから|拝《をが》みますぞや』
お|千代《ちよ》『お|菊《きく》さまこんな|腰抜男等《こしぬけをとこら》に
|玉《たま》を|与《あた》へた|神《かみ》は|何神《なにがみ》』
お|菊《きく》『|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|格《かく》だらう
|魂《たま》も|調《しら》べず|渡《わた》す|神《かみ》なら。
|真正《しんせい》の|日《ひ》の|出神《でのかみ》は|此《この》|様《やう》な
|頓馬男《とんまをとこ》に|渡《わた》す|筈《はず》なし』
と|互《たがひ》に|揶揄《からか》ひながら、|受付《うけつけ》に|集《あつ》まつて|白湯《さゆ》に|喉《のど》を|潤《うる》ほし、それより|二人《ふたり》は|各神社《かくじんじや》を|参拝《さんぱい》し|始《はじ》めた。
(大正一二・一・二九 旧一一・一二・一三 松村真澄録)
第八章 |巡拝《じゆんぱい》〔一三四四〕
イク、サールの|二人《ふたり》は、|大広前《おほひろまへ》の|神殿《しんでん》を|拝礼《はいれい》しをはり、|蠑〓別《いもりわけ》が|籠《こも》りしと|云《い》ふ|館《やかた》の|前《まへ》に|立《た》つて、
サール『|蠑〓別《いもりわけ》お|寅婆《とらば》さまの|古戦場《こせんぢやう》
|見《み》るにつけても|可笑《をか》しくなりぬ』
イク『この|館《やかた》|土瓶《どびん》が|踊《をど》り|徳利《とくり》|舞《ま》ひ
|盃《さかづき》われし|古戦場《こせんぢやう》なり』
サール『|魔我彦《まがひこ》やお|寅婆《とらば》さまが|改心《かいしん》を
なしたる|場所《ばしよ》も|此《この》|館《やかた》なり』
イク『|酔《よ》ひドレの|熊公《くまこう》さまが|飛込《とびこ》んで
|脅《おど》し|文句《もんく》で|金《かね》を|千両《せんりやう》(|占領《せんりやう》)。
|一段《いちだん》と|高《たか》く|築《きづ》ける|段梯子《だんばしご》
|登《のぼ》りて|行《ゆ》くも|姫《ひめ》を|訪《たづ》ねて』
|二人《ふたり》は|木花姫《このはなひめ》を|祀《まつ》りたる|小《ちひ》さき|祠《ほこら》に|参拝《さんぱい》し|拝礼《はいれい》を|了《をは》り、
イク『|木花姫《このはなひめ》|神《かみ》の|恵《めぐみ》は|目《ま》のあたり
|開《ひら》き|初《そ》めにき|木々《きぎ》の|梢《こずゑ》に』
サール『|木《こ》の|花《はな》の|姫《ひめ》の|命《みこと》の|御前《おんまへ》に
その|鼻高《はなたか》をさらすイクなり。
|天教《てんけう》の|山《やま》より|下《くだ》りし|皇神《すめかみ》は
わが|馬鹿面《ばかづら》を|笑《わら》ひますらむ。
イクの|奴《やつ》|狸《たぬき》の|曲《まが》に|魅《つま》まれて
|恥《はぢ》も|知《し》らずに|大前《おほまへ》に|来《き》つ』
|斯《か》く|歌《うた》ひ、|今度《こんど》は|金勝要神《きんかつかねのかみ》の|祠《ほこら》の|前《まへ》に|進《すす》み|拝礼《はいれい》を|了《をは》り、
イク『|縁《えん》|結《むす》ぶ|畏《かしこ》き|神《かみ》と|聞《き》きしより
ゐたたまらずして|詣《まう》で|来《き》にけり』
サール『|其《その》|面《つら》で|何程《なにほど》|神《かみ》を|拝《をが》むとも
|妻《つま》となるべき|人《ひと》のあるべき』
イク『|吾輩《わがはい》の|顔《かほ》を|眺《なが》めて|笑《わら》ふより
|一寸《ちよつと》|見《み》て|来《こ》い|水鏡《みづかがみ》をば』
サール『|顔容《かほかたち》|姿《すがた》で|妻《つま》が|出来《でき》ようか
|魂《たま》|麗《うるは》しき|人《ひと》でなくては。
|此《この》|様《やう》に|見《み》えても|俺《おれ》はをちこちの
|女《をんな》にチヤホヤされる|曲者《くせもの》』
イク『|其《その》|様《やう》に|慢心《まんしん》ばかりするでないよ
|乙女《をとめ》に|馬鹿《ばか》にされた|身《み》ながら。
|要《かね》の|神《かみ》|貴《うづ》の|御前《みまへ》にこんな|事《こと》
|囀《さへづ》る|奴《やつ》は|鰥鳥《やもめどり》かも。
さア|行《ゆ》かう|大神様《おほかみさま》に|恥《はづ》かしい
|女《をんな》なんぞと|言《い》ふ|面《つら》でなし
アハハハハハ』
と|笑《わら》ひながら|玉依姫《たまよりひめ》(|竜宮《りうぐう》の|乙女《おとひめ》)|様《さま》を|祭《まつ》つたる|祠《ほこら》の|前《まへ》に|進《すす》みよつた。
イク『いろいろの|宝《たから》をためて|海《うみ》の|底《そこ》に
|隠《かく》し|給《たま》ひし|慾《よく》な|神様《かみさま》』
サール『|馬鹿《ばか》|言《い》ふな|乙姫《おとひめ》|様《さま》は|今《いま》は|早《はや》
|物質慾《ぶつしつよく》に|離《はな》れた|神《かみ》よ』
イク『これはしたり|失礼《しつれい》な|事《こと》を|言《い》ひました
|聞直《ききなほ》しませ|乙姫《おとひめ》の|神《かみ》』
サール『|神様《かみさま》は|宝《たから》を|以《もつ》て|人々《ひとびと》に
|与《あた》へ|給《たま》へどお|前《まへ》には|列外《れつぐわい》』
イク『|列外《れつぐわい》か|又《また》|案外《あんぐわい》か|知《し》らねども
|宝《たから》なくては|世《よ》に|立《た》つを|得《え》ず』
サール『|物質《ぶつしつ》の|宝《たから》|求《もと》めて|何《なん》になる
|朽《く》ちぬ|宝《たから》を|霊《みたま》につめよ』
イク『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな|水晶玉《すいしやうだま》も|物質《ぶつしつ》よ
されど|暗夜《やみよ》を|照《て》らしましける。
|金《かね》なくて|何《なん》のおのれが|人間《にんげん》かと
|世《よ》の|人々《ひとびと》は|相手《あひて》にもせず。
それ|故《ゆゑ》に|俺《おれ》は|金銀《きんぎん》|財宝《ざいほう》を
むげには|捨《す》てぬ|冥加者《みやうがもの》ぞや』
サール『イクの|奴《やつ》イク|地《ぢ》の|足《た》らぬ|証拠《しようこ》には
|宝々《たからたから》と|憧《あこが》れゐるも。
|神様《かみさま》は|何程《なにほど》|宝《たから》あるとても
|貧乏面《びんぼふづら》にくれるものかは。
サア|行《ゆ》かう|目《め》の|正月《しやうぐわつ》をするよりも
|宝《たから》|忘《わす》れて|宝《たから》|拾《ひろ》ひに。
|俺《おれ》の|云《い》ふ|宝《たから》といふは|金銀《きんぎん》や
|水晶《すいしやう》でない|教《をしへ》の|宝《たから》よ』
かく|歌《うた》ひ|終《をは》つて、|今度《こんど》は|中段《ちうだん》の|宮《みや》の|前《まへ》に|進《すす》んだ。|此処《ここ》には|日《ひ》の|大神《おほかみ》の|祠《ほこら》が|建《た》つてゐる。
イク『|伊弉諾《いざなぎ》の|皇大神《すめおほかみ》を|斎《まつ》りたる
この|御舎《みあらか》は|殊《こと》に|麗《うるは》し』
サール『|其《その》|筈《はず》だつくしの|日向《ひむか》の|立花《たちばな》で
|禊《みそ》ぎ|給《たま》ひし|神《かみ》に|坐《ま》しませば』
イク『|許々多久《ここたく》の|罪《つみ》や|汚《けが》れに|溺《おぼ》れたる
|霊《みたま》を|洗《あら》へ|神《かみ》の|御前《みまへ》に』
サール『|曲神《まがかみ》に|騙《たばか》られたる|愚《おろか》さを
|許《ゆる》し|給《たま》へと|詫《わ》びよイク|公《こう》』
イク『かもてなや|頭《あたま》|打《う》たりよが|打《う》たりよまいが
お|前《まへ》の|知《し》つた|事《こと》でなければ』
サール『|道伴《みちづ》れの|一人《ひとり》が|狸《たぬき》に|叩《たた》かれて
|吠面《ほえづら》かわくを|見《み》るつらさかな。
|天教《てんけう》の|山《やま》に|天降《あも》りし|日《ひ》の|神《かみ》の
|宮《みや》は|殊更《ことさら》|高《たか》くおはせり』
|又《また》|此処《ここ》を|去《さ》つて、|今度《こんど》は|月《つき》の|大神《おほかみ》を|斎《まつ》りたる|祠《ほこら》の|前《まへ》に|進《すす》んだ。
イク『|素盞嗚《すさのを》の|神《かみ》の|御霊《みたま》を|祀《まつ》りたる
|社《やしろ》の|前《まへ》に|月《つき》の|大神《おほかみ》』
サール『|古狸《ふるだぬき》|梟《ふくろ》の|奴《やつ》に|馬鹿《ばか》にされ
|乙女《をとめ》にまでも|笑《わら》はれにけり。
さながらに|愛想《あいさう》も|月《つき》の|大神《おほかみ》が
|貴様《きさま》の|面《つら》を|笑《わら》ひ|給《たま》はむ』
イク『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな|善言美詞《ぜんげんびし》の|神様《かみさま》だ
|必《かなら》ずよきに|見直《みなほ》しまさむを』
サール『|此《この》|男《をとこ》|世界《せかい》に|稀《まれ》な|馬鹿《ばか》なれば
|守《まも》らせ|給《たま》へ|月《つき》の|大神《おほかみ》』
イク『サールこそ|馬鹿《ばか》の|証拠《しようこ》にや|水晶《すいしやう》の
|玉《たま》をばイクにせしめられける』
サール『イクの|奴《やつ》イク|地《ぢ》がないと|知《し》つた|故《ゆゑ》
|玉《たま》を|持《も》たせておいたばかりよ』
イク『サア|行《ゆ》かう|月《つき》の|光《ひかり》に|照《て》らされて
|何《なん》とはなしに|恥《はづ》かしき|宵《よひ》』
|今度《こんど》は|最上段《さいじやうだん》の|国常立尊《くにとこたちのみこと》の|祠《ほこら》の|前《まへ》に|参拝《さんぱい》した。
イク『|掛巻《かけまく》も|畏《かしこ》き|神《かみ》の|御前《おんまへ》に
|詣《まう》で|来《きた》りし|吾《われ》は|罪人《つみびと》。
さりながら|悔《く》い|改《あらた》めて|大神《おほかみ》の
|道《みち》に|仕《つか》へしイク|身魂《みたま》なり』
サール『われこそは|皇大神《すめおほかみ》の|御恵《みめぐみ》に
|与《あづか》りました|未《ひつじ》サールの|神《かみ》』
イク『|罰当《ばちあた》りサールのやうな|面《つら》をして
|坤《ひつじさる》とはよくもいはれた。
お|前《まへ》こそ|世人《よびと》がサールの|人真似《ひとまね》と
|嘲《あざけ》るとても|仕方《しかた》あるまい』
サール『|三五《あななひ》の|道《みち》にサール|者《もの》ありと|云《い》ふ
|此《この》|神司《かむづかさ》|知《し》らぬ|馬鹿者《ばかもの》』
イク『|国所《くにどころ》|立《たち》のき|彦《ひこ》の|狼《おほかみ》と
|人《ひと》に|言《い》はれた|馬鹿者《ばかもの》は|誰《たれ》』
|斯《か》く|二人《ふたり》は|拝礼《はいれい》を|終《をは》り、|次《つ》いで|互《たがひ》に|揶揄《からか》ひ|合《あ》ひながら、|枝振《えだぶ》りのよい|松《まつ》の|七八本《しちはちほん》かたまつた|下《した》に、|余《あま》り|広《ひろ》からず|狭《せま》からざる|瀟洒《せうしや》たる|一棟《ひとむね》が|建《た》つてゐる。それが|所謂《いはゆる》|松姫《まつひめ》の|館《やかた》であつた。
イク『|常磐木《ときはぎ》の|松《まつ》の|木蔭《こかげ》に|建《た》てられし
|松姫館《まつひめやかた》をなつかしみ|思《おも》ふ』
サール『|吾《わが》|慕《した》ふ|初稚姫《はつわかひめ》のいます|上《うへ》は
|一《ひと》しほ|恋《こひ》しき|館《やかた》なりけり』
イク『|小北山《こぎたやま》|要《かなめ》となりし|此《この》|館《たち》は
|扇《あふぎ》の|如《ごと》くに|建《た》てられにける』
サール『|常磐木《ときはぎ》の|松《まつ》の|緑《みどり》は|青々《あをあを》と
とめどもなしに|伸《の》び|立《た》てるかも』
イク『|初稚姫《はつわかひめ》|神《かみ》の|司《つかさ》がますと|聞《き》けば
|胸《むね》|轟《とどろ》きて|進《すす》みかねつつ』
サール『|臆病風《おくびやうかぜ》|又《また》|吹《ふ》き|荒《すさ》みイクの|奴《やつ》
イク|地《ぢ》のなきを|暴露《ばくろ》せりけり』
イク『そんな|事《こと》|言《い》ふなら|俺《おれ》が|先《さき》に|立《た》ち
|一《ひと》つ|肝《きも》をば|見《み》せてやらうかい』
サール『|面白《おもしろ》い|初稚姫《はつわかひめ》の|前《まへ》に|出《で》て
|叱《しか》り|飛《と》ばされベソをかくだろ』
イク『|水晶《すいしやう》の|玉《たま》を|抱《いだ》きしわれなれば
|初稚姫《はつわかひめ》も|褒《ほ》め|給《たま》ふべし。
その|時《とき》は|指《ゆび》をくはへてサールの|奴《やつ》は
|恨《うら》めしさうに|見《み》てゐるがよい』
サール『|姫様《ひめさま》に|会《あ》うたら|皆《みんな》|素破《すつぱ》ぬき
|一伍一什《いちぶしじふ》を|申《まを》し|上《あ》ぐべし。
その|時《とき》は|赤《あか》い|顔《かほ》をばせぬがよい
|梟鳥《ふくろどり》にもなぶられる|奴《やつ》よ』
イク『イクらでも|人《ひと》の|悪口《わるくち》|言《い》ふがよい
|首吊《くびつ》りそこねし|死損《しにぞこ》ね|奴《め》が』
サール『|貴様《きさま》とて|矢張《やはり》|首吊《くびつ》り|仲間《なかま》ぞや
|何《ど》うして|姫《ひめ》に|顔《かほ》があはせよう』
|二人《ふたり》は|流石《さすが》に|恥《はづ》かしさに|堪《た》へかね、|松姫《まつひめ》の|館《やかた》の|四五間《しごけん》ばかり|側《そば》までやつて|来《き》て、|互《たがひ》に「お|前《まへ》から|先《さき》へ|行《ゆ》け」「イヤ|貴様《きさま》から|先《さき》へ」と、|押合《おしあ》ひをやつてゐる。スマートは|二人《ふたり》の|影《かげ》を|見《み》るより、|喜《よろこ》んで|走《はし》り|来《きた》り、|胸《むね》に|飛《と》びついたり、|背中《せなか》に|抱《だ》きついたり、|頬《ほほ》をなめたり、|勇《いさ》み|出《だ》した。
イク『ヤア、スーちやんか、|先《ま》づ|先《ま》づ|御無事《ごぶじ》でお|目出度《めでた》う。|漸《やうや》く|此処《ここ》までお|後《あと》を|慕《した》つて|参《まゐ》りました。|何卒《どうぞ》|姫様《ひめさま》に|宜《よろ》しうお|取《と》りなしを|願《ねが》ひますよ』
サール『ハハハハハ|馬鹿《ばか》だなア。|此《この》|頃《ごろ》の|衆議院《しうぎゐん》の|候補者《こうほしや》のやうに、|犬《いぬ》にまで|追従《つゐしよう》してゐやがる、|犬《いぬ》がもの|言《い》ふかい』
『|主人《しゆじん》に|威勢《ゐせい》があると、|何《なん》だか|犬《いぬ》に|迄《まで》|頭《あたま》が|下《さ》がるやうな|気《き》になるものだ。そこが|人情《にんじやう》の|然《しか》らしむる|所《ところ》だよ。|娘《むすめ》を|嫁《よめ》にやつてある|在所《ざいしよ》へ|入《はい》ると、|其《その》|親《おや》は|野良犬《のらいぬ》にでも|辞儀《じぎ》をするといふぢやないか。|貴様《きさま》も|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|奴《やつ》だなア。そんな|事《こと》で|今日《こんにち》の|虚偽万能《きよぎばんのう》の|世《よ》の|中《なか》に、どうして|生存《せいぞん》が|続《つづ》けられると|思《おも》うてるか、|時代遅《じだいおく》れの|骨董品《こつとうひん》だなア』
『ほつといてくれ、|何程《なにほど》|偉《えら》さうに|云《い》つても、|姫様《ひめさま》に|叱《しか》られるかと|思《おも》つて、ビリビリしとるやうな|腰抜《こしぬけ》の|言葉《ことば》に、|何《ど》うして|権威《けんゐ》があるものか、マア、|俺《おれ》のすることを|見《み》てをれ、エヘン』
と|云《い》ひながら、|思《おも》ひ|切《き》つて|門口《かどぐち》に|立寄《たちよ》り、|怖《こは》さうに|中《なか》を|眺《なが》めた。|初稚姫《はつわかひめ》と|松姫《まつひめ》は|何事《なにごと》か|一生懸命《いつしやうけんめい》に、ニコニコしながら|話《はなし》の|最中《さいちう》であつた。サールがガラリと|戸《と》を|開《あ》け、
『へーご|免《めん》なさいませ。|松姫《まつひめ》|様《さま》、|始《はじ》めてお|目《め》にかかります。|私《わたし》は|祠《ほこら》の|森《もり》のサールと|申《まを》す|者《もの》、モ|一人《ひとり》の|従者《じゆうしや》はイクと|申《まを》します。イヤもう|意気地《いくぢ》のない|野郎《やらう》で|厶《ござ》いますから、|何卒《どうぞ》|可愛《かあい》がつてやつて|下《くだ》さいませ』
|松姫《まつひめ》『それは それは よくマアいらせられました。サ、どうぞお|上《あが》り|下《くだ》さいませ』
サール『スマートさまも|御壮健《ごさうけん》で、|大慶至極《たいけいしごく》に|存《ぞん》じます』
と|初稚姫《はつわかひめ》に|御機嫌《ごきげん》を|取《と》らうといふ|考《かんが》へか、|切《しき》りに|犬《いぬ》に|追従《つゐしよう》してゐる。イクは|不在《ふざい》の|家《うち》へ|盗人《ぬすびと》が|這入《はい》るやうな|調子《てうし》で、ビリビリもので、|足音《あしおと》もさせず|這入《はい》つて|来《き》た。
|初稚姫《はつわかひめ》は|二人《ふたり》を|見《み》て、|言葉《ことば》|静《しづか》に、
『|貴方《あなた》はイクさま、サールさま、|神様《かみさま》へお|参《まゐ》りで|厶《ござ》いますか』
|二人《ふたり》は、
『へー、あの、|何《なん》です』
と|頭《あたま》をかき、モヂモヂとして|土間《どま》に|踞《しやが》んで|了《しま》つた。
|初稚《はつわか》『|妾《わらは》に|何《なん》ぞ|御用《ごよう》が|厶《ござ》いましたのか、|何卒《どうぞ》|早《はや》く|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいな』
イクは|思《おも》ひ|切《き》つて、
『イヤ|実《じつ》の|所《ところ》は|姫様《ひめさま》の、|何処《どこ》までもお|供《とも》をさして|頂《いただ》かうと|思《おも》ひまして、お|後《あと》を|慕《した》ひ|参《まゐ》つたので|厶《ござ》います。|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》の|真心《まごころ》をお|汲《く》み|取《と》り|下《くだ》さいまして、|是非《ぜひ》にお|供《とも》をさして|頂《いただ》きたう|厶《ござ》います』
『|貴方《あなた》、|山口《やまぐち》の|森《もり》で|何《なに》か|変《かは》つたことは|厶《ござ》いませぬでしたか』
『ハイ、イヤもう|面白《おもしろ》いこつて|厶《ござ》いましたよ。|結構《けつこう》な|御神力《ごしんりき》を|戴《いただ》いて|鬼《おに》の|奴《やつ》、|二匹《にひき》|迄《まで》|遁走《とんそう》させました。それはそれは|随分《ずいぶん》|愉快《ゆくわい》なもので|厶《ござ》いましたよ』
『それはお|手柄《てがら》で|厶《ござ》いましたな。そして|貴方《あなた》、|何《なん》だか|神様《かみさま》から|頂《いただ》いたでせう』
『ハイ、|頂《いただ》きました』
『|無事《ぶじ》に|此処《ここ》まで、|貴方《あなた》は|守護《しゆご》して|来《き》ましたか。|途中《とちう》に|他《ほか》の|者《もの》の|手《て》に|入《い》るやうなことはありませなんだかな』
『へ、|此《この》|通《とほ》り、|此処《ここ》に|所持《しよぢ》して|居《を》ります。|実《じつ》に|立派《りつぱ》な|水晶玉《すいしやうだま》で|厶《ござ》います』
『それは|夜光《やくわう》の|玉《たま》と|云《い》つて、|水晶《すいしやう》ではありませぬ。|筑紫《つくし》の|島《しま》から|現《あら》はれた|結構《けつこう》なダイヤモンドですよ』
『へーエ、さうで|厶《ござ》いましたか、|誠《まこと》に|有難《ありがた》いこつて|厶《ござ》いました』
『|貴方《あなた》、|途中《とちう》で|妖怪《えうくわい》につままれ、|一旦《いつたん》ふんだくられるやうな、|不都合《ふつがふ》な|事《こと》はなさいますまいな』
サール『イヤもう|恐《おそ》れ|入《い》りました。|実《じつ》の|所《ところ》は、|古狸《ふるだぬき》に|騙《たぶら》かされ、|取《と》られて|了《しま》つたのですが、お|千代《ちよ》さまのお|蔭《かげ》で|再《ふたた》び|元《もと》へ|返《かへ》つたのです』
『|其《その》|玉《たま》は|一旦《いつたん》|曲神《まがかみ》の|手《て》に|入《い》つた|上《うへ》は、|大変《たいへん》に|汚《けが》れて|居《を》りますよ。これは|今《いま》のうちに|禊《みそぎ》をなさらぬと、|役《やく》に|立《た》たなくなりますからねえ』
イク『|塩水《しほみづ》を|貰《もら》つて|清《きよ》めませうかなア』
『|貴方《あなた》の|無形《むけい》の|魂《たましひ》をお|清《きよ》めになれば|自然《しぜん》に|玉《たま》は|浄《きよ》まります。そしてお|前《まへ》さまは|其《その》|玉《たま》に|執着心《しふちやくしん》を|持《も》つてゐるでせう。なぜサールさまに|渡《わた》さなかつたのですか。|一旦《いつたん》|貴方《あなた》の|手《て》に|入《い》り、|妖魅《えうみ》に|取《と》られたのだから、|貴方《あなた》は|玉《たま》に|対《たい》して、|監督権《かんとくけん》を|自然《しぜん》に|放棄《はうき》したやうなものです。|今度《こんど》はサールさまに|持《も》たせておくが|宜《よろ》しい。|実《じつ》の|所《ところ》は|妾《わらは》より|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》にお|願《ねが》ひ|申《まを》し、|貴方等《あなたがた》の|熱心《ねつしん》に|感《かん》じて、お|二人様《ふたりさま》の|中《なか》へ|一個《いつこ》をお|与《あた》へ|申《まを》したのですから、|此《この》|玉《たま》は|二人《ふたり》の|身魂《みたま》が|一《ひと》つになつた|証拠《しようこ》です。|決《けつ》して|一人《ひとり》が|独占《どくせん》すべき|物《もの》ではありませぬ。|即《すなは》ちイクさまの|心《こころ》はサールさまの|心《こころ》、サールさまの|心《こころ》はイクさまの|心《こころ》、|二人一体《ににんいつたい》となり、|神界《しんかい》の|為《ため》に|活動《くわつどう》なさるやうに|仕組《しぐ》まれてあるのです』
サール『オイ、イク|州《しう》、どうだ。ヤツパリ|宝《たから》の|独占《どくせん》は|許《ゆる》されまいがな。|貴様《きさま》が|自分《じぶん》の|物《もの》のやうにして、|俺《おれ》にも|碌《ろく》に|見《み》せず、|懐《ふところ》へ|捻《ね》ぢ|込《こ》んで|来《き》よつたものだから、|神罰《しんばつ》が|当《あた》つて、|狸《たぬき》の|野郎《やらう》に|一旦《いつたん》|取《と》られて|了《しま》つたのだよ』
『モシ|姫様《ひめさま》、さうすると|此《この》|玉《たま》は、これからサールに|渡《わた》すべき|物《もの》で|厶《ござ》いますか』
『|誰《たれ》の|物《もの》といふ|訳《わけ》には|参《まゐ》りませぬ。お|二人《ふたり》さまが|交代《かたみ》に|保護《ほご》なさるれば|宜《よろ》しい。そして|此《この》|宝《たから》は|世界救済《せかいきうさい》の|為《ため》の|御神宝《ごしんぱう》で、|人間《にんげん》の|私《わたくし》すべき|物《もの》ではありませぬ。|暫《しばら》く|拝借《はいしやく》してゐる|考《かんが》へになつて、|大切《たいせつ》に|保存《ほぞん》なさいませ。そして|其《その》|玉《たま》が|手《て》に|入《い》つた|以上《いじやう》は、|妾《わらは》について|来《く》る|必要《ひつえう》はありませぬ。|一時《いちじ》も|早《はや》く|祠《ほこら》の|森《もり》に|帰《かへ》つて|下《くだ》さい。|貴方《あなた》の|御親切《ごしんせつ》は|有難《ありがた》う|厶《ござ》いますが、|妾《わらは》は|神様《かみさま》が|沢山《たくさん》に|守《まも》つて|下《くだ》さいますから、|決《けつ》して|淋《さび》しい|事《こと》は|厶《ござ》いませぬからな』
サール『それなら、|此《この》|玉《たま》を|貴方《あなた》に|御返《おかへ》し|致《いた》します。|何卒《どうぞ》、どんな|御用《ごよう》でも|致《いた》しますから、そんな|事《こと》|仰有《おつしや》らずに、サール|一人《ひとり》でも、ハルナの|都《みやこ》までお|供《とも》を|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ。モシ|此《この》|通《とほ》りで|厶《ござ》います』
と|熱誠《ねつせい》を|面《おもて》にあらはして、|涙《なみだ》を|流《なが》しながら|頼《たの》み|込《こ》むのであつた。
|初稚姫《はつわかひめ》『|夜《よる》|光《ひか》る|宝《たから》を|神《かみ》に|得《え》し|君《きみ》は
|祠《ほこら》の|森《もり》に|帰《かへ》り|行《ゆ》きませ。
この|玉《たま》は|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|賜《たま》ひてし
|暗夜《やみよ》を|照《て》らす|珍《うづ》の|御宝《みたから》。
|曲神《まがかみ》のたけり|狂《くる》へる|月《つき》の|国《くに》へ
かかる|宝《たから》を|持《も》ち|行《ゆ》くべしやは。
|汝《なれ》こそは|此《この》|御宝《みたから》を|守《まも》るべく
|計《はか》り|給《たま》ひし|神《かみ》の|御心《みこころ》
ハルナへは|供《とも》を|連《つ》れ|行《ゆ》く|事《こと》ならず
|神《かみ》の|厳《きび》しき|仰《おほ》せなりせば』
イク『|姫様《ひめさま》のその|御言葉《おことば》には|背《そむ》かれず
さりとて|此《この》|儘《まま》|帰《かへ》るべきやは』
サール『いかならむ|仰《おほ》せ|受《う》けさせ|給《たま》ふとも
|許《ゆる》させ|給《たま》へ|見直《みなほ》しまして』
|初稚姫《はつわかひめ》『|益良夫《ますらを》の|心《こころ》の|花《はな》は|匂《にほ》へども
|手折《たを》らむ|由《よし》もなきぞうたてき』
イク『さりとても|此《この》|儘《まま》これが|帰《かへ》らりよか
|仮令《たとへ》|死《し》すとも|姫《ひめ》に|仕《つか》へむ』
サール『どうしても|許《ゆる》し|給《たま》はぬ|事《こと》ならば
われは|此処《ここ》にて|腹《はら》を|切《き》るなり』
|松姫《まつひめ》『|姫君《ひめぎみ》の|厳《いづ》の|言葉《ことば》を|聞《き》かずして
|迷《まよ》へる|人《ひと》ぞ|憐《あは》れなりけり。
|赤心《まごころ》の|溢《あふ》れ|出《い》でたる|益良夫《ますらを》が
|心《こころ》はかりて|涙《なみだ》こぼるる。
さりながら|皇大神《すめおほかみ》の|御心《みこころ》に
|背《そむ》くべしやは|宣伝使《せんでんし》のわれ』
|初稚姫《はつわかひめ》『イク、サール|二人《ふたり》の|司《つかさ》よ|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|鎮《しづ》めてかへりみませよ』
イク『|今《いま》|暫《しば》し|思案《しあん》|定《さだ》めていらへせむ
|何《なに》は|兎《と》もあれ|頼《たの》み|参《まゐ》らす』
サール『|姫君《ひめぎみ》の|言葉《ことば》を|背《そむ》くにあらねども
|弥猛心《やたけごころ》を|抑《おさ》ゆるすべなし
さりながら|暫《しば》し|彼方《かなた》に|休《やす》らひて
|身《み》の|振方《ふりかた》を|胸《むね》に|問《と》ひみむ』
|斯《か》く|歌《うた》を|以《もつ》て|姫《ひめ》に|答《こた》へ、|蠑〓別《いもりわけ》、お|寅《とら》の|住居《ぢゆうきよ》せし|元《もと》の|教主館《けうしゆやかた》に|退《しりぞ》きて、|二人《ふたり》は|茶《ちや》を|啜《すす》りながら、|腕《うで》を|組《く》み、|吐息《といき》をもらし、|進退《しんたい》|谷《きは》まつて、|涙《なみだ》に|暮《く》れてゐた。これより|初稚姫《はつわかひめ》は|松姫《まつひめ》に|別《わか》れを|告《つ》げ、|二人《ふたり》の|隙《すき》を|窺《うかが》ひ、スマートを|伴《ともな》ひ、|逸早《いちはや》く|聖場《せいぢやう》を|立《た》ち|出《い》で、|征途《せいと》に|上《のぼ》ることとなつた。イク、サールの|両人《りやうにん》は、|依然《いぜん》として|初稚姫《はつわかひめ》は|松姫館《まつひめやかた》にいます|事《こと》と|確信《かくしん》し、お|菊《きく》に|酒《さけ》を|勧《すす》められ|一夜《いちや》を|明《あ》かした。そして|文助《ぶんすけ》の|危篤《きとく》を|聞《き》いて、|夜中頃《よなかごろ》|館《やかた》を|飛出《とびだ》し、|河鹿川《かじかがは》に|降《くだ》つて|水垢離《みづごり》を|取《と》り、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|其《その》|恢復《くわいふく》を|祈《いの》つた。
(大正一二・一・二九 旧一一・一二・一三 松村真澄録)
第九章 |黄泉帰《よみがへり》〔一三四五〕
|侠客育《けふかくそだ》ちのお|菊《きく》は|年《とし》にも|似合《にあ》はず|人馴《ひとな》れがして、|二人《ふたり》の|男《をとこ》をよくもてなし、|夜中頃《よなかごろ》まで|酒《さけ》を|勧《すす》め|互《たがひ》に|歌《うた》などを|詠《よ》み|交《かは》してゐた。イク、サールは|初稚姫《はつわかひめ》にお|供《とも》を|願《ねが》つた|処《ところ》、あの|様子《やうす》では|到底《たうてい》|許《ゆる》されさうにもない。|夜光《やくわう》の|玉《たま》は|戴《いただ》いて|嬉《うれ》しいが、|其《その》|為《ため》に|自分《じぶん》の|目的《もくてき》を|遮《さへぎ》られるのは、|又《また》|格別《かくべつ》に|苦《くる》しい。|初稚姫《はつわかひめ》さまも|宝《たから》を|与《あた》へて、|吾々《われわれ》の|進路《しんろ》を|壅塞《ようそく》せむとし|給《たま》ふ、|其《その》やり|口《くち》、|随分《ずいぶん》お|人《ひと》が|悪《わる》い……と|時々《ときどき》|愚痴《ぐち》りながら、お|菊《きく》の|酌《しやく》でチビリチビリと|飲《の》んでゐた。されど|神経《しんけい》|興奮《こうふん》して、|或《あるひ》は|悲《かな》しく|或《あるひ》は|淋《さび》しくなり、ま|一度《いちど》|夜《よ》が|明《あ》けたら、|所在《あらゆる》|方法《はうはふ》を|以《もつ》て|姫《ひめ》に|願《ねが》ひ|出《い》で、どうしても|聞《き》かれなければ、|自分等《じぶんら》|二人《ふたり》は|自由行動《じいうかうどう》をとり、|後《あと》になり|先《さき》になりしてハルナの|都《みやこ》まで|行《ゆ》かねばおかぬ。|神様《かみさま》が|吾々《われわれ》の|決心《けつしん》を|試《ため》して|厶《ござ》るのかも|知《し》れぬなどと、|積《つ》んだり|崩《くづ》したり、ひそびそ|話《ばなし》に|時《とき》を|移《うつ》した。お|菊《きく》は|既《すで》に|既《すで》に|初稚姫《はつわかひめ》が|此《この》|聖場《せいぢやう》を|出立《しゆつたつ》された|事《こと》はよく|知《し》つてゐた。|併《しか》し|二人《ふたり》に|余《あま》り|気《き》の|毒《どく》と|思《おも》つて、|其《その》|実《じつ》を|明《あか》さなかつたのである。
イク『|黙然《もくねん》と|手《て》を|組《く》みし|儘《まま》|寝《ね》もやらず
|息《いき》の|白《しろ》きに|見入《みい》りけるかも』
サール『|悲《かな》しみは|冥想《めいさう》となり|歌《うた》となり
|涙《なみだ》となりて|吾《われ》をめぐるも』
お|菊《きく》『|益良夫《ますらを》が|固《かた》き|心《こころ》をひるがへし
|帰《かへ》り|行《ゆ》きます|事《こと》のあはれさ』
イク『|何事《なにごと》の|都合《つがふ》のますか|知《し》らねども
|強《し》ひて|行《ゆ》かましハルナの|都《みやこ》へ』
サール『|益良夫《ますらを》が|若《わか》き|女《をんな》に|弾《はじ》かれて
|恥《はぢ》の|上塗《うはぬり》するぞ|悲《かな》しき』
お|菊《きく》『|皇神《すめかみ》は|何処《いづく》の|地《ち》にも|坐《まし》ませば
いまし|二人《ふたり》は|此処《ここ》に|居《ゐ》たまへ』
イク『イク|度《たび》か|思《おも》ひ|返《かへ》してみたれども
|思《おも》ひ|切《き》られぬ|初一念《しよいちねん》なり』
サール『|玉《たま》の|緒《を》の|命《いのち》|惜《を》しまず|道《みち》の|為《ため》に
|進《すす》む|吾《わが》|身《み》を|許《ゆる》させ|給《たま》へ。
|神国《かみくに》に|生《うま》れあひたる|吾々《われわれ》は
|神《かみ》より|外《ほか》に|仕《つか》ふるものなし』
イク『いかにして|此《この》|難関《なんくわん》を|切抜《きりぬ》けむ
ああ|只《ただ》|心々《こころごころ》なりけり』
お|菊《きく》『|汝《な》が|心《こころ》|深《ふか》くも|思《おも》ひやるにつけ
われも|涙《なみだ》に|濡《ぬ》れ|果《は》てにける。
|魔我彦《まがひこ》の|司《つかさ》なりともましまさば
かくも|心《こころ》を|痛《いた》めざるらむ』
イク『|兎《と》も|角《かく》も|初稚姫《はつわかひめ》に|今一度《いまいちど》
|命《いのち》を|的《まと》に|願《ねが》ひみむかな』
サール『|千引岩《ちびきいは》|押《お》せども|引《ひ》けども|動《うご》きなき
|固《かた》き|心《こころ》をいかにとやせむ』
お|菊《きく》『|夜《よる》の|間《ま》にもしも|嵐《あらし》の|吹《ふ》くならば
|汝等《なれら》|二人《ふたり》はいかに|散《ち》るらむ』
イク『イク|度《たび》か|嵐《あらし》に|吹《ふ》かれ|叩《たた》かれて
|実《み》を|結《むす》ぶなり|白梅《しらうめ》の|花《はな》は』
サール『|敷島《しきしま》の|大和心《やまとごころ》は|白梅《しらうめ》の
|旭《あさひ》に|匂《にほ》ふ|如《ごと》くなりけり。
|大和魂《やまとだま》|振《ふる》ひ|起《おこ》して|進《すす》み|行《ゆ》かむ
|千里万里《せんりばんり》の|荒野《あらの》わたりて』
イク『|岩根《いはね》|木根《きね》ふみさくみつつ|月《つき》の|国《くに》に
|進《すす》まにやおかぬ|大和魂《やまとだましひ》』
|斯《か》く|三人《さんにん》は|夜更《よふ》けまで|眠《ね》もやらず、|淋《さび》しげに|歌《うた》を|詠《よ》んで、|初稚姫《はつわかひめ》の|拒否《きよひ》の|如何《いかん》を|気遣《きづか》ひつつあつた。|俄《にはか》に|騒《さわ》がしき|人《ひと》の|声《こゑ》、|足駄《あしだ》の|音《おと》、|何事《なにごと》ならむと|耳《みみ》をすます|処《ところ》へ、お|千代《ちよ》は|慌《あわただ》しく|入《い》り|来《きた》り、
『お|菊《きく》さま、|文助《ぶんすけ》さまの|様子《やうす》が|変《へん》になりました。|何卒《どうぞ》|来《き》て|下《くだ》さいな』
お|菊《きく》『そら|大変《たいへん》です、もしお|二人《ふたり》さま、|此処《ここ》に|待《ま》つてゐて|下《くだ》さい。|一寸《ちよつと》|文助《ぶんすけ》さまの|居間《ゐま》まで|行《い》つて|来《き》ます』
と|早《はや》くも|立出《たちい》でむとする。|二人《ふたり》は|驚《おどろ》いて、
『|私《わたし》もお|供《とも》しませう』
とお|菊《きく》の|後《あと》に|従《したが》ひ、|文助《ぶんすけ》の|病室《びやうしつ》へ|駆《か》け|込《こ》んだ。|見《み》れば|松姫《まつひめ》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|魂返《たまがへ》しの|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》してゐる|最中《さいちう》であつた。|数多《あまた》の|役員《やくゐん》|信徒《しんと》は|室《しつ》の|内外《ないぐわい》に|狼狽《うろた》へ|騒《さわ》いで、|殆《ほとん》どなす|所《ところ》を|知《し》らざる|有様《ありさま》である。イク|公《こう》は、
『|御免《ごめん》』
と|云《い》ひながら、|文助《ぶんすけ》の|側《そば》に|寄《よ》り、|松姫《まつひめ》に|向《むか》ひ、
『|御苦労《ごくらう》さまで|厶《ござ》います』
と|軽《かる》く|挨拶《あいさつ》し、|懐中《くわいちう》から|夜光《やくわう》の|玉《たま》を|取出《とりだ》して、|文助《ぶんすけ》の|前額部《ぜんがくぶ》に|当《あ》て、|赤心《まごころ》を|捧《ささ》げて|十分間《じつぷんかん》ばかり|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らした。|此《この》|時《とき》|既《すで》に|文助《ぶんすけ》は|冷《つめ》たくなつてゐた。|只《ただ》|心臓部《しんざうぶ》の|鼓動《こどう》が|幽《かす》かにあるのみ。
『ヤア|此奴《こいつ》ア|駄目《だめ》かも|知《し》れませぬな、|実《じつ》に|困《こま》つた|事《こと》です。|松姫《まつひめ》|様《さま》、|此《この》|玉《たま》を|貴女《あなた》にお|預《あづ》け|致《いた》します。|何卒《どうぞ》|之《これ》を|前額部《ぜんがくぶ》に|離《はな》さぬやうに|当《あ》てておいて|下《くだ》さい。|私《わたし》はこれから|河鹿川《かじかがは》で|禊《みそぎ》をして|参《まゐ》ります』
とイクはサール、お|菊《きく》を|伴《ともな》ひ、|河辺《かはべ》に|向《むか》つた。そして|神政松《しんせいまつ》の|根元《ねもと》に|衣類《いるゐ》を|脱《ぬ》ぎすて、ザンブとばかり|飛込《とびこ》んで、|鼻《はな》から|上《うへ》を|出《だ》し、|三人《さんにん》|声《こゑ》を|揃《そろ》へて、|文助《ぶんすけ》の|再《ふたた》び|蘇生《そせい》せむ|事《こと》を|祈《いの》つた。
お|菊《きく》『|赤心《まごころ》を|神《かみ》に|捧《ささ》げて|仕《つか》へたる
|司《つかさ》の|命《いのち》|救《すく》ひ|給《たま》へよ。
|惟神《かむながら》|神《かみ》のまにまに|行《ゆ》く|人《ひと》を
|止《とど》めむとするわれは|悲《かな》しも』
イク『|何事《なにごと》も|速川《はやかは》の|瀬《せ》に|流《なが》しすてて
|清《きよ》き|身魂《みたま》を|甦《よみがへ》らせよ』
サール『|死《し》して|行《ゆ》く|人《ひと》の|命《いのち》をとどめむと
|願《ねが》ふも|人《ひと》の|誠《まこと》なりけり。
|今一度《いまいちど》|息《いき》|吹返《ふきかへ》し|道《みち》の|為《ため》に
|尽《つく》す|真人《まびと》とならしめ|給《たま》へ』
お|菊《きく》『|日頃《ひごろ》より|誠《まこと》|一《ひと》つの|此《この》|翁《おきな》を
|神《かみ》も|憐《あは》れみ|救《すく》ひますらむ。
|道《みち》のために|世《よ》のため|尽《つく》す|此《この》|翁《おきな》を
|救《すく》はせ|給《たま》へ|神《かみ》の|力《ちから》に。
|無理《むり》ばかり|神《かみ》の|御前《みまへ》に|宣《の》る|心《こころ》を
あはれと|思《おも》へ|天地《あめつち》の|神《かみ》』
と|心《こころ》|急《せ》くまま、|口《くち》から|出任《でまか》せの|歌《うた》を|歌《うた》ひ、|激流《げきりう》に|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ、|危険《きけん》を|冒《をか》して|祈《いの》り|出《だ》した。|大神《おほかみ》もこの|三人《さんにん》が|赤心《まごころ》を|必《かなら》ず|許《ゆる》し|給《たま》ふであらう。|平素《へいそ》は|悪戯好《いたづらずき》の|茶目男《ちやめをとこ》、|余《あま》り|親切《しんせつ》らしく|見《み》えぬイク、サールの|口《くち》の|悪《わる》い|連中《れんちう》も、お|転婆娘《てんばむすめ》のお|菊《きく》も、|人《ひと》の|危難《きなん》に|際《さい》しては|其《その》|赤心《まごころ》|現《あら》はれ、|吾《わが》|身《み》の|危険《きけん》を|忘《わす》れて|神《かみ》に|祈《いの》る。これぞ|全《まつた》く|美《うる》はしき|人情《にんじやう》の|発露《はつろ》にして、|常《つね》に|神《かみ》に|従《したが》ひ、|神《かみ》を|信《しん》じ、|誠《まこと》の|道《みち》を|悟《さと》り|得《う》るものでなくては|出来《でき》ぬ|所為《しよゐ》である。
|三人《さんにん》は|文助《ぶんすけ》の|身《み》を|気遣《きづか》ひながら|帰《かへ》つて|来《き》た。|忽《たちま》ちお|菊《きく》は|神懸状態《かむがかりじやうたい》となつて|病床《びやうしやう》に|駆《か》け|入《い》り、|松姫《まつひめ》が|手《て》より|夜光《やくわう》の|玉《たま》を|取《と》り、|左右《さいう》の|耳《みみ》の|穴《あな》に|代《かは》る|代《がは》る|当《あ》て、|何事《なにごと》か|小声《こごゑ》に|称《とな》へながら、|汗《あせ》を|流《なが》して|祈《いの》つてゐる。イク、サールの|両人《りやうにん》は|赤裸《まつばだか》のまま|文助《ぶんすけ》の|足《あし》を|揉《も》んだり、|息《いき》を|吹《ふ》いたり、あらゆる|手段《しゆだん》を|尽《つく》した。「ウン」と|一声《ひとこゑ》|叫《さけ》んで|目《め》をパチリとあけ、|起上《おきあが》つた|文助《ぶんすけ》、|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》しながら、|大勢《おほぜい》の|集《あつ》まりゐるを|知《し》つて、
『|皆《みな》さま、|何《なん》ぞ|変《かは》つた|事《こと》が|出来《でき》ましたか、|大勢《おほぜい》さまがお|集《あつ》まりになつて|居《を》りますが』
お|菊《きく》『|気《き》がつきましたか、それはマア|嬉《うれ》しいこつて|厶《ござ》います。|本当《ほんたう》にお|菊《きく》も|心配《しんぱい》いたしましたよ』
『|私《わたし》は|或《ある》|美《うる》はしき|山《やま》へ|遊《あそ》びに|行《い》つて|居《を》りました。|何《なん》だか|急《きふ》に|目《め》が|見《み》え|出《だ》して、そこら|中《ぢう》の|青々《あをあを》とした|景色《けしき》や|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|花《はな》の|色香《いろか》、|久《ひさ》し|振《ぶ》りで|自分《じぶん》の|目《め》が|見《み》え、|世《よ》の|中《なか》の|明《あか》りに|接《せつ》した|時《とき》の|愉快《ゆくわい》さ、|口《くち》で|云《い》ふ|様《やう》な|事《こと》ぢやありませぬ。ああ|又《また》|目《め》が|見《み》えなくなつた』
と|力《ちから》なげに|云《い》ふ。
|松姫《まつひめ》『|文助《ぶんすけ》さま、|貴方《あなた》は|此《この》|間《あひだ》から|人事不省《じんじふせい》で、|皆《みな》の|者《もの》が|大変《たいへん》に|心配《しんぱい》をして|居《を》りました。|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》が|貴方《あなた》を|打擲《ちやうちやく》したきり|姿《すがた》を|晦《くら》まし、|貴方《あなた》はその|時《とき》からチツとも|性念《しやうねん》がなかつたのですよ。|毎日日日《まひにちひにち》|囈言《うはごと》ばかり|云《い》うてゐられました。マアマア|正気《しやうき》になられて|結構《けつこう》で|厶《ござ》いますワ。|松姫《まつひめ》も|蘇生《そせい》の|思《おも》ひが|致《いた》します』
|文助《ぶんすけ》『|成程《なるほど》、さう|聞《き》けば、そんな|事《こと》もあつたやうに|仄《ほのか》に|覚《おぼ》えて|居《を》ります。つひ|最前《さいぜん》も|小《ちひ》さい|村《むら》の|四辻《よつつじ》で|二人《ふたり》に|会《あ》ひましたが、|大変《たいへん》|親切《しんせつ》にしてくれました』
お|菊《きく》『|文助《ぶんすけ》さま、|貴方《あなた》は|此処《ここ》に|寝《ね》たきり、そんな|男《をとこ》は|来《き》ませぬよ。|大方《おほかた》|夢《ゆめ》でも|見《み》たのでせう。チツと|確《しつか》りなさいませ。|一旦《いつたん》|貴方《あなた》は|死《し》んで|居《ゐ》たのですからなア』
『イエイエ、|私《わたし》は|決《けつ》して|死《し》んだ|覚《おぼえ》はありませぬ。どこの|方《かた》か|知《し》らぬが、|美《うつく》しい|娘《むすめ》さまが|私《わたし》の|手《て》を|曳《ひ》いて、いろいろの|所《ところ》へ|連《つ》れて|行《い》つて|下《くだ》さいました。そして|目《め》を|直《なほ》して|下《くだ》さつたお|蔭《かげ》で、|永《なが》らく|見《み》なんだ|現界《げんかい》の|風光《ふうくわう》に|接《せつ》し、|本当《ほんたう》に|楽《たの》しい|旅《たび》を|続《つづ》けました。そした|処《ところ》に、|自分《じぶん》の|顔《かほ》の|二三間《にさんげん》ばかり|前《まへ》に、|大変《たいへん》な|光物《ひかりもの》が|現《あら》はれ、|眩《まぶ》しくてたまらず、|暫《しばら》く|目《め》を|塞《ふさ》いで|居《を》つた|所《ところ》、|今度《こんど》は|祝詞《のりと》の|声《こゑ》が|聞《きこ》え|出《だ》したので、よくよく|耳《みみ》をすませて|考《かんが》へてゐると、|松姫《まつひめ》さまやお|菊《きく》さま|其《その》|他《ほか》の|方々《かたがた》の|声《こゑ》であつた。ハツと|思《おも》うたら|又《また》|目《め》が|見《み》えなくなりました』
と|惜《を》しさうにいふ。
|文助《ぶんすけ》は|初《はつ》、|徳《とく》の|二人《ふたり》の|若者《わかもの》と|格闘《かくとう》した|際《さい》、|頭蓋骨《づがいこつ》を|打《う》たれて|昏倒《こんたう》し、|一旦《いつたん》|仮死状態《かしじやうたい》になつてゐたのである。|此《この》|時《とき》|若《も》しもイク、サールの|両人《りやうにん》が|夜光《やくわう》の|玉《たま》を|持《も》つて|居《を》らなかつたなれば、|或《あるひ》は|蘇生《そせい》しなかつたかも|知《し》れぬ。|文助《ぶんすけ》が|幽冥界《いうめいかい》に|入《い》つて|彷徨《さまよ》うたのは、|第三天国《だいさんてんごく》の|広大《くわうだい》なる|原野《げんや》であつた。そして|或《ある》|村《むら》の|十字街頭《じふじがいとう》で|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》に|出会《であ》つたのは、|何《いづ》れも|其《その》|精霊《せいれい》であつた。|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》は|元《もと》より|文助《ぶんすけ》を|尊敬《そんけい》してゐた。|併《しか》しながら|一時《いちじ》の|慾《よく》に|駆《か》られて、|高姫《たかひめ》や|妖幻坊《えうげんばう》に|誤《あやま》られ、|文助《ぶんすけ》の|拾《ひろ》うておいた|妖幻坊《えうげんばう》の|玉《たま》を|受取《うけと》つて|帰《かへ》らうとしたのを|文助《ぶんすけ》が|拒《こば》んだので、|止《や》むを|得《え》ず、こんな|騒動《さうだう》が|突発《とつぱつ》したのである。|併《しか》しながら|二人《ふたり》の|精霊《せいれい》は|肉体《にくたい》の|意思《いし》と|反対《はんたい》で、|文助《ぶんすけ》を|虐待《ぎやくたい》したことを|非常《ひじやう》に|怒《いか》り、|暫《しばら》く|両人《りやうにん》の|体《たい》を|脱出《だつしゆつ》して、|文助《ぶんすけ》を|現界《げんかい》に|今一度《いまいちど》|呼戻《よびもど》さむと|此処《ここ》までやつて|来《き》たのである。そこへ|熱心《ねつしん》なるイク、サール、お|菊《きく》、|松姫《まつひめ》|等《など》の|祈祷《きたう》の|力《ちから》に|依《よ》つて、|再《ふたた》び|現世《げんせ》の|残務《ざんむ》を|果《はた》すべく|蘇生《そせい》せしめられたのである。|文助《ぶんすけ》は|肉体《にくたい》の|眼《まなこ》は|既《すで》に|盲《まう》し、|非常《ひじやう》な|不愍《ふびん》な|者《もの》であつたが、|霊界《れいかい》に|到《いた》るや、|忽《たちま》ち|外部的《ぐわいぶてき》|状態《じやうたい》を|脱出《だつしゆつ》し、|第二《だいに》の|中間状態《ちうかんじやうたい》を|越《こ》えて、|第三《だいさん》の|内分的《ないぶんてき》|状態《じやうたい》にまで|急速度《きふそくど》を|以《もつ》て|進《すす》んだ。|其《その》|為《ため》、|神《かみ》に|親《した》しみ|神《かみ》に|仕《つか》へたる|赤心《まごころ》のみ|残存《ざんぞん》し、|心《こころ》の|眼《まなこ》|開《ひら》け|居《を》りし|為《ため》に、|天界《てんかい》を|見《み》ることを|得《え》たのである。
すべて|現界《げんかい》に|在《あ》つて|耳《みみ》の|遠《とほ》き|者《もの》、|或《あるひ》は|手足《てあし》の|自由《じいう》の|利《き》かぬ|者《もの》、|其《その》|他《た》|種々《いろいろ》の|難病《なんびやう》に|苦《くるし》んでゐた|者《もの》も、|霊肉脱離《れいにくだつり》の|関門《くわんもん》を|経《へ》て|霊界《れいかい》に|入《い》る|時《とき》は、|肉体《にくたい》の|時《とき》の|如《ごと》き|不具者《ふぐしや》ではない。すべての|官能《くわんのう》は|益々《ますます》|正確《せいかく》に|明瞭《めいれう》に|活動《くわつどう》するものである。|併《しか》しながら|仮令《たとへ》|円満具足《ゑんまんぐそく》せる|肉体人《にくたいじん》と|雖《いへど》も、|其《その》|心《こころ》に|欠陥《けつかん》ありし|者《もの》は、|霊肉脱離《れいにくだつり》の|後《のち》に|聾者《ろうしや》となり|盲目《まうもく》となり、|或《あるひ》は|痴呆者《ちはうしや》となり|不具者《かたは》となり、|其《その》|容貌《ようばう》は|忽《たちま》ち|変化《へんくわ》して|妖怪《えうくわい》の|如《ごと》くなるものである。|総《すべ》て|人間《にんげん》の|面貌《めんばう》は|心《こころ》の|索引《さくいん》ともいふべきものなるが|故《ゆゑ》に、|其《その》|心性《しんせい》の|如何《いかん》は|直《ただち》に|霊界《れいかい》に|於《おい》ては|暴露《ばくろ》さるるものである。|現界《げんかい》に|於《おい》ても|悪《あく》の|最《もつと》も|濃厚《のうこう》なる|者《もの》は、|何程《なにほど》|立派《りつぱ》な|容貌《ようばう》と|雖《いへど》も、|之《これ》を|熟視《じゆくし》する|時《とき》は、どこかに|其《その》|妖怪的《えうくわいてき》|面相《めんさう》を|認《みと》め|得《う》るものである。|形体《けいたい》は|申分《まをしぶん》なき|美人《びじん》にして、|凄《すご》く|或《あるひ》は|厭《いや》らしく|見《み》える|者《もの》もあり、|又《また》どことなくお|化《ばけ》の|様《やう》な|気持《きもち》ちのする|人間《にんげん》は、|其《その》|精霊《せいれい》の|悪《あく》に|向《むか》ふ|事《こと》|最《もつと》も|甚《はなは》だしきを|証《しよう》するものである。
|文助《ぶんすけ》は|先《ま》づ|天《あめ》の|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》に|突然《とつぜん》|着《つ》いてゐた。されど|本人《ほんにん》は|自分《じぶん》の|嘗《かつ》て|死去《しきよ》した|事《こと》や、|如何《いか》なる|手続《てつづ》きによつて、こんな|見《み》ず|知《し》らずの|所《ところ》へ|来《き》たかなどと|云《い》ふ|事《こと》は|一向《いつかう》|考《かんが》へなかつた。そして|現界《げんかい》に|残《のこ》してある|妻子《さいし》のことや、|知己朋友《ちきほういう》の|事《こと》などもスツカリ|忘《わす》れてゐた。|只《ただ》|神《かみ》に|関《くわん》する|知識《ちしき》のみ|益々《ますます》|明瞭《めいれう》になつてゐた。|彼《かれ》は|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》の|門《もん》を|何《なん》の|気《き》もなく|潜《くぐ》つて|行《い》つた。|後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》つて|見《み》れば、|白面《はくめん》|赤面《せきめん》の|守衛《しゆゑい》が|二人《ふたり》、|門《もん》の|左右《さいう》に|立《た》つてゐる。
『ハテ|不思議《ふしぎ》な|所《ところ》だ、|地名《ちめい》は|何《なん》といふだらうか、あの|守衛《しゆゑい》に|尋《たづ》ねて|見《み》たいものだ』
と|再《ふたた》び|踵《きびす》を|返《かへ》して|側《そば》に|寄《よ》り、|文助《ぶんすけ》は、
『|此処《ここ》は|何《なん》と|云《い》ふ|所《ところ》ですか』
と|尋《たづ》ねてみた。|二人《ふたり》の|守衛《しゆゑい》は、
『|何《いづ》れ|後《あと》になつたら|分《わか》るでせう。お|尋《たづ》ねには|及《およ》びませぬ。|又《また》|吾々《われわれ》も|申《まを》し|上《あ》げる|事《こと》は|出来《でき》ない』
とキツパリ|答《こた》へた。これはまだ|現界《げんかい》へ|帰《かへ》るべき|因縁《いんねん》がある|事《こと》を|守衛《しゆゑい》が|知《し》つてゐたからである。もし|此処《ここ》は|霊界《れいかい》の|八衢《やちまた》であるといふ|事《こと》を|知《し》らしたならば、|或《あるひ》は|文助《ぶんすけ》が|吃驚《びつくり》して、|現界《げんかい》に|於《お》ける|妻子《さいし》のことを|思《おも》ひ|浮《う》かべ、|美《うる》はしき|天国《てんごく》の|関門《くわんもん》を|覗《のぞ》く|事《こと》も|出来《でき》ず、|又《また》|其《その》|魂《たましひ》が|中有界《ちううかい》に|彷徨《さまよ》うて、|容易《ようい》に|肉体《にくたい》に|還《かへ》り|得《え》ない|事《こと》を|知《し》つたからである。|文助《ぶんすけ》は|何《なん》とはなしに|愉快《ゆくわい》な|気分《きぶん》に|充《み》たされ、|小北山《こぎたやま》の|事《こと》も|念頭《ねんとう》になく、|只《ただ》|自分《じぶん》の|行先《ゆくさき》に|結構《けつこう》な|処《ところ》、|美《うる》はしき|所《ところ》があるやうな|思《おも》ひで、|足《あし》も|軽々《かるがる》と|進《すす》むのであつた。そして|俄《にはか》に|目《め》の|開《あ》いたのに|心《こころ》|勇《いさ》み、フラフラフラと|花《はな》に|憧憬《あこが》れた|蝶《てふ》の|如《ごと》く、|次《つぎ》へ|次《つぎ》へと|進《すす》んだのである。|途中《とちう》に|現界《げんかい》に|在《あ》る|友人《いうじん》や|知己《ちき》|並《ならび》に|自分等《じぶんら》の|知己《ちき》にして、|既《すで》に|帰幽《きいう》せし|人間《にんげん》にも|屡《しばしば》|出会《であ》うた。されど|其《その》|時《とき》の|彼《かれ》の|心《こころ》は|帰幽《きいう》せし|者《もの》と|帰幽《きいう》せざる|者《もの》とを|判別《はんべつ》する|考《かんが》へもなく、|何《いづ》れも|自分《じぶん》と|同様《どうやう》に|肉身《にくしん》を|以《もつ》て|生《い》きて|働《はたら》いてゐることとのみ|思《おも》うてゐたのである。
|斯《かく》の|如《ごと》く、|人間《にんげん》は|仮死状態《かしじやうたい》の|時《とき》も、|又《また》|全《まつた》く|死《し》の|状態《じやうたい》に|入《い》つた|後《のち》も、|決《けつ》して|自分《じぶん》は|霊肉脱離《れいにくだつり》して、|霊界《れいかい》に|来《き》てゐるといふ|事《こと》を|知《し》らないものである。|何故《なにゆゑ》ならば、|意思《いし》|想念《さうねん》|其《その》|他《た》の|総《すべ》ての|情動《じやうどう》に|何等《なんら》の|変移《へんい》なく、|且《かつ》|現界《げんかい》に|於《お》けるが|如《ごと》き|種々《しゆじゆ》|煩雑《はんざつ》なる|羈絆《きはん》なく、|恰《あだか》も|小児《せうに》の|如《ごと》き|情態《じやうたい》に|身《み》を|置《お》くが|故《ゆゑ》である。|之《これ》を|思《おも》へば|人間《にんげん》は|現世《げんせ》に|於《おい》て|神《かみ》に|背《そむ》き、|真理《しんり》を|無視《なみ》し、|社会《しやくわい》に|大害《たいがい》を|与《あた》へざる|限《かぎ》り、|死後《しご》は|肉体上《にくたいじやう》に|於《お》ける|慾望《よくばう》や|感念《かんねん》|即《すなは》ち|自愛《じあい》の|悪念《あくねん》は|払拭《ふつしき》され、|其《その》|内分《ないぶん》に|属《ぞく》する|善《ぜん》のみ|自由《じいう》に|活躍《くわつやく》することを|得《う》るが|故《ゆゑ》に、|死後《しご》の|安逸《あんいつ》なる|生涯《しやうがい》を|楽《たの》しむ|事《こと》が|出来《でき》るのである。
|天国《てんごく》は|上《のぼ》り|難《がた》く|地獄《ぢごく》は|落《お》ち|易《やす》しと|或《ある》|聖人《せいじん》が|云《い》つた。|併《しか》しながら|人間《にんげん》は|肉体《にくたい》のある|限《かぎ》り、どうしても|外的生涯《ぐわいてきしやうがい》と|内的生涯《ないてきしやうがい》との|中間的《ちうかんてき》|境域《きやうゐき》に|居《を》らねばならぬ。|故《ゆゑ》に|肉体《にくたい》のある|中《うち》には、どうしても|天国《てんごく》に|在《あ》る|天人《てんにん》の|如《ごと》き|円満《ゑんまん》なる|善《ぜん》を|行《おこな》ふ|事《こと》は|出来《でき》ない。どうしても|善悪混淆《ぜんあくこんこう》、|美醜《びしう》|相交《あひまじ》はる|底《てい》の|中有的《ちううてき》|生涯《しやうがい》に|甘《あま》んぜねばならぬ。|人《ひと》の|死後《しご》に|於《お》けるや、|神《かみ》は|直《ただち》に|生前《せいぜん》の|悪《あく》と|善《ぜん》とを|調《しら》べ、|悪《あく》の|分子《ぶんし》を|取《と》り|去《さ》つて、|可成《なるべ》く|天国《てんごく》へ|救《すく》はむとなし|給《たま》ふものである。|故《ゆゑ》に|吾々《われわれ》は|天国《てんごく》は|上《のぼ》り|易《やす》く、|地獄《ぢごく》は|落《お》ち|難《がた》しと|言《い》ひたくなるのである。|併《しか》しながら|之《これ》は|普通《ふつう》の|人間《にんげん》としての|見解《けんかい》であつて、|今日《こんにち》の|如《ごと》く|虚偽《きよぎ》と|罪悪《ざいあく》に|充《み》ちたる|地獄界《ぢごくかい》に|籍《せき》をおける|人間《にんげん》は、|既《すで》に|已《すで》に|地獄《ぢごく》の|住民《ぢゆうみん》であるから、|生前《せいぜん》に|於《おい》て|此《この》|地獄《ぢごく》を|脱却《だつきやく》し、せめて|中有界《ちううかい》なりと|救《すく》はれておかねば、|死後《しご》の|生涯《しやうがい》を|安楽《あんらく》ならしむることは|不可能《ふかのう》である。されど|神《かみ》は|至仁《しじん》|至愛《しあい》にましますが|故《ゆゑ》に、|如何《いか》なる|者《もの》と|雖《いへど》も、あらゆる|方法《はうはふ》|手段《しゆだん》を|尽《つく》して、|之《これ》を|天国《てんごく》に|導《みちび》き、|天国《てんごく》の|住民《ぢゆうみん》として|霊界《れいかい》の|為《ため》に|働《はたら》かしめ|且《かつ》|楽《たの》しき|生涯《しやうがい》を|送《おく》らしめむと|念《ねん》じ|給《たま》ふのである。
|前《まへ》にも|述《の》べたる|如《ごと》く、|神《かみ》は|宇宙《うちう》を|一個《いつこ》の|人格者《じんかくしや》と|看做《みな》して|之《これ》を|統制《とうせい》し|給《たま》ふが|故《ゆゑ》に、|如何《いか》なる|悪人《あくにん》と|雖《いへど》も、|一個人《いつこじん》の|身体《しんたい》の|一部《いちぶ》である。|何程《なにほど》|汚穢《むさくる》しい|所《ところ》でも、そこに|痛《いた》みを|生《しやう》じ|或《あるひ》は|腫物《はれもの》などが|出来《でき》た|時《とき》は、|其《その》|一個人《いつこじん》たる|人間《にんげん》は|種々《しゆじゆ》の|方法《はうはふ》を|尽《つく》して|之《これ》を|癒《いや》さむ|事《こと》を|願《ねが》ふやうに、|神《かみ》は|地獄界《ぢごくかい》に|落《お》ち|行《ゆ》く……|即《すなは》ち|吾《わが》|肉体《にくたい》の|一部分《いちぶぶん》に|発生《はつせい》する|腫物《はれもの》や|痛《いた》み|所《どころ》を|治《なほ》さむと|焦慮《せうりよ》し|給《たま》ふは|当然《たうぜん》である。|之《これ》を|以《もつ》ても|神《かみ》が|如何《いか》に|人間《にんげん》を|始《はじ》め|宇宙《うちう》|一切《いつさい》を|吾《わが》|身《み》の|如《ごと》くにして|愛《あい》し|給《たま》ふかが|判明《はんめい》するであらう。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・一・三〇 旧一一・一二・一四 松村真澄録)
第一〇章 |霊界土産《れいかいみやげ》〔一三四六〕
|小北山《こぎたやま》の|神殿《しんでん》にては、|文助《ぶんすけ》が|蘇生《そせい》したる|其《その》|祝意《しゆくい》を|表《へう》する|為《ため》に、|盛大《せいだい》なる|祭典《さいてん》を|行《おこな》ひ、|且《かつ》|直会《なほらひ》の|宴《えん》を|張《は》つた。|松姫《まつひめ》を|始《はじ》め|其《その》|他《た》|一般《いつぱん》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》は|大広前《おほひろまへ》に|集《あつ》まつて、|文助《ぶんすけ》が|神《かみ》より|与《あた》へられたる|広大無辺《くわうだいむへん》の|神徳《しんとく》にあやからむと|参籠《さんろう》せる|信者《しんじや》は|各《かく》|宿舎《しゆくしや》より|来《きた》つて|歓喜《くわんき》の|神酒《みき》に|酔《よ》うた。|文助《ぶんすけ》はソロソロ|歌《うた》ひ|出《だ》した。
『|無限絶対《むげんぜつたい》|無始無終《むしむしう》 |生死《せいし》の|上《うへ》に|超越《てうゑつ》し
|此《この》|世《よ》を|造《つく》り|給《たま》ひたる |皇大神《すめおほかみ》の|神徳《しんとく》に
|生《うま》れ|出《い》でたる|人草《ひとぐさ》は |何《いづ》れも|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|永遠無窮《ゑいゑんむきう》の|生命《せいめい》を |保《たも》ちて|顕幽《けんいう》|両界《りやうかい》に
|生《い》き|通《とほ》し|行《ゆ》く|尊《たふと》さよ われは|一度《ひとたび》|大神《おほかみ》の
|恵《めぐみ》の|綱《つな》にあやつられ ふとした|事《こと》より|霊界《れいかい》に
|知《し》らず|知《し》らずに|突入《とつにふ》し |山河草木《さんかさうもく》|悉《ことごと》く
|現実界《げんじつかい》に|変《かは》りなく |大地《だいち》の|上《うへ》を|歩《あゆ》みつつ
|吾《わが》|身《み》の|嘗《かつ》て|死去《しきよ》したる |事《こと》は|一《ひと》つも|知《し》らざりき
|之《これ》を|思《おも》へば|人《ひと》の|身《み》は |神《かみ》の|教《をしへ》にある|如《ごと》く
|不老不死《ふらうふし》にて|永遠《ゑいゑん》に |神《かみ》の|御国《みくに》に|栄《さか》え|行《ゆ》く
|霊物《みたまもの》ぞと|知《し》られける ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|一度《ひとたび》|神《かみ》の|御国《おんくに》へ |旅立《たびだち》したる|愉快《ゆくわい》さは
|醒《さ》めて|此《この》|世《よ》にありとても |容易《ようい》に|忘《わす》るることを|得《え》ず
|実《げ》にも|楽《たの》しき|霊界《れいかい》の |光《ひかり》は|今《いま》に|現然《げんぜん》し
|宛然《さながら》|高天《たかま》の|神界《しんかい》に |身《み》をおく|如《ごと》き|心地《ここち》なり
|松姫司《まつひめつかさ》や|其《その》|他《ほか》の |百《もも》の|司《つかさ》の|介抱《かいほう》に
|再《ふたた》び|現世《げんせ》に|立帰《たちかへ》り |四方《よも》の|有様《ありさま》|伺《うかが》へば
|実《げ》にも|此《この》|世《よ》は|娑婆世界《しやばせかい》 |罪《つみ》に|汚《けが》れし|状態《じやうたい》に
|彷徨《さまよ》ふものとの|感《かん》|深《ふか》し |神霊界《しんれいかい》に|至《いた》りては
|目《め》かひの|見《み》えぬ|吾々《われわれ》も すべての|物《もの》をありありと
|残《のこ》る|隈《くま》なく|目撃《もくげき》し |殊更《ことさら》|気分《きぶん》も|麗《うるは》しく
|身《み》も|軽々《かるがる》と|道《みち》を|行《ゆ》く |地上《ちじやう》の|世界《せかい》を|行《ゆ》く|如《ごと》き
|苦痛《くつう》は|少《すこ》しも|知《し》らざりき |現界人《げんかいじん》は|気《き》を|急《いそ》ぎ
|足《あし》を|早《はや》めて|道《みち》|行《ゆ》けば |必《かなら》ず|呼吸《こきふ》|切迫《せつぱく》し
|心臓《しんざう》の|鼓動《こどう》|忽《たちま》ちに |烈《はげ》しくなりて|息《いき》|塞《つま》り
|喉《のんど》は|渇《かわ》き|汗《あせ》は|出《い》で |足《あし》は|疲《つか》れて|苦《くる》しさを
|覚《おぼ》ゆるなれど|神界《しんかい》の |旅行《りよかう》は|之《これ》に|相反《あひはん》し
|何《なん》の|苦《く》もなく|易々《やすやす》と |思《おも》ひの|儘《まま》に|進《すす》みけり
|実《げ》にも|此《この》|世《よ》は|苦《く》の|世界《せかい》 |厭離穢土《えんりゑど》ぞと|言《い》ふことは
|只《ただ》|聖人《せいじん》の|方便《はうべん》と |思《おも》ひそめしは|誤謬《あやまり》と
|深《ふか》くも|感得《かんとく》したりけり |抑《そもそ》も|神《かみ》の|坐《ま》す|国《くに》は
|恨《うら》み|嫉《ねた》みも|醜業《しこわざ》も |塵《ちり》ほどもなきパラダイス
|愛《あい》と|善《ぜん》との|徳《とく》に|充《み》ち |信《しん》と|真《しん》との|光明《くわうみやう》に
|輝《かがや》き|渡《わた》り|日限《にちげん》も |土地《とち》さへ|知《し》らぬ|長閑《のどか》なる
|常世《とこよ》の|春《はる》の|如《ごと》くなり |之《これ》を|思《おも》へば|大神《おほかみ》の
|仁慈無限《じんじむげん》の|御経綸《ごけいりん》 ゆめゆめ|疑《うたが》ふ|余地《よち》もなし
|此《この》|大前《おほまへ》に|参集《まゐつど》ふ |信徒《まめひと》|等《たち》よ|司《つかさ》|等《たち》
|人《ひと》の|此《この》|世《よ》にある|時《とき》は |時世時節《ときよじせつ》に|従《したが》ひて
|国《くに》の|掟《おきて》をよく|守《まも》り |五倫五常《ごりんごじやう》の|大道《たいだう》を
|明《あきら》め|悟《さと》り|実行《じつかう》し |最第一《さいだいいち》の|神《かみ》の|国《くに》
|開《ひら》き|給《たま》ひし|大神《おほかみ》の |其《その》|神格《しんかく》を|理解《りかい》して
|善《ぜん》と|真《しん》との|徳《とく》を|積《つ》み |神《かみ》より|来《きた》る|美《うる》はしき
|智慧証覚《ちゑしようかく》に|充《み》たされて |仮《かり》の|浮世《うきよ》の|生涯《しやうがい》を
|完全無欠《くわんぜんむけつ》に|相送《あひおく》り |凡《すべ》ての|罪《つみ》を|大神《おほかみ》の
|御前《みまへ》にひれ|伏《ふ》し|悉《ことごと》く |悔《く》い|改《あらた》めて|天国《てんごく》の
|門戸《もんこ》を|開《ひら》く|準備《じゆんび》をば |此《この》|文助《ぶんすけ》は|云《い》ふも|更《さら》
|皆《みな》さま|心《こころ》を|一《ひと》つにし |身《み》の|行《おこな》ひを|慎《つつし》みて
|神《かみ》の|御国《みくに》の|御為《おんため》に |吾《わが》|三五《あななひ》の|大道《おほみち》を
|尽《つく》しまつらむ|神力《しんりき》を |具備《ぐび》させ|給《たま》へと|大前《おほまへ》に
|祈《いの》れよ|祈《いの》れ|百《もも》の|人《ひと》 これ|文助《ぶんすけ》が|霊界《れいかい》に
|至《いた》りて|親《した》しく|見聞《けんぶん》し |実験《じつけん》したる|物語《ものがたり》
|黄泉路帰《よみぢがへ》りの|礼祭《れいさい》に |集《つど》ひ|給《たま》ひし|人々《ひとびと》に
|土産話《みやげばなし》と|述《の》べておく ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|少《すこ》しも|動《うご》かぬ|神《かみ》の|国《くに》 |常住不断《じやうぢゆうふだん》の|信楽《しんらく》に
|身《み》をおくならば|何事《なにごと》も |恐《おそ》るることやあらざらむ
|省《かへり》み|給《たま》へ|百《もも》の|人《ひと》 われ|人《ひと》ともに|慎《つつし》みて
|此《この》|神国《しんこく》に|生《うま》れたる |恵《めぐみ》に|報《むく》いまつるべく
|心《こころ》の|限《かぎ》り|身《み》のきはみ |誠《まこと》を|捧《ささ》げまつるべし
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|御前《みまへ》に|文助《ぶんすけ》が
|見聞《けんぶん》したる|一端《いつたん》を |此処《ここ》に|謹《つつし》み|述《の》べ|終《をは》る
ああ|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し |限《かぎ》りも|知《し》らぬ|神《かみ》の|恩《おん》
|果《は》てしも|知《し》らぬ|御稜威《おんみいづ》』
と|歌《うた》ひ|了《をは》り、|一同《いちどう》に|向《むか》つて|自分《じぶん》が|仮死中《かしちう》|種々《しゆじゆ》|親切《しんせつ》な|介抱《かいほう》に|預《あづ》かつたことを|感謝《かんしや》し、|且《かつ》|将来《しやうらい》の|自分《じぶん》の|神《かみ》に|仕《つか》ふる|方針《はうしん》に|就《つ》いて|略叙《りやくじよ》し|自席《じせき》に|着《つ》いた。|次《つぎ》に|松姫《まつひめ》は|歌《うた》ふ。
『|高姫司《たかひめつかさ》の|開《ひら》きたる ウラナイ|教《けう》によく|仕《つか》へ
|支離滅裂《しりめつれつ》の|教義《けうぎ》をば |至善《しぜん》|至美《しび》なる|大道《だいだう》と
|渇仰《かつかう》したる|受付《うけつけ》の |文助《ぶんすけ》さまも|漸《やうや》くに
|三五教《あななひけう》の|御光《みひかり》に |照《て》らされ|給《たま》ひ|大神《おほかみ》の
|誠《まこと》の|心《こころ》を|理解《りかい》して |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|神殿《しんでん》に
いと|忠実《まめやか》に|仕《つか》へたる |誠《まこと》の|信者《しんじや》となり|給《たま》ふ
かかる|尊《たふと》き|真人《しんじん》を |惜《を》しみ|給《たま》ひて|神々《かみがみ》は
|再《ふたた》び|此《この》|世《よ》に|追《お》ひ|返《かへ》し |現実界《げんじつかい》に|残《のこ》したる
|其《その》|神業《しんげふ》を|完成《くわんせい》し |神《かみ》の|御前《みまへ》に|復命《かへりごと》
|申《まを》させ|給《たま》はむ|御心《おんこころ》 |仰《あふ》ぐも|畏《かしこ》き|次第《しだい》なり
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》りかへと |善言美詞《ぜんげんびし》の|詔《みことのり》
|深遠《しんゑん》|微妙《びめう》の|真理《しんり》をば |含《ふく》ませ|給《たま》ふ|有難《ありがた》さ
|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》|両人《りやうにん》は |妖幻坊《えうげんばう》や|高姫《たかひめ》の
|醜《しこ》の|曲津《まがつ》に|欺《あざむ》かれ |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|大神《おほかみ》に
いと|忠実《まめやか》に|仕《つか》へたる |此《この》|真人《しんじん》を|打擲《ちやうちやく》し
|仮死状態《かしじやうたい》に|至《いた》るまで |悩《なや》めしかども|翻《ひるがへ》り
|其《その》|真相《しんさう》を|思惟《しゐ》すれば |之《これ》も|全《まつた》く|神界《しんかい》の
|不可知的《ふかちてき》なる|御経綸《ごけいりん》 |文助《ぶんすけ》さまは|其《その》|為《ため》に
|願《ねが》うてもなき|霊界《れいかい》の |真相《しんさう》までも|探険《たんけん》し
|再《ふたた》び|此《この》|世《よ》に|帰《かへ》り|来《き》て |世人《よびと》を|導《みちび》き|給《たま》ふべく
|計《はか》らひ|給《たま》ひし|事《こと》ならむ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|神様《かみさま》に |任《まか》しておけば|怪我《けが》はない
|何程《なにほど》|人《ひと》が|利口《りこう》でも |物質界《ぶつしつかい》に|住《す》む|上《うへ》は
|幽玄微妙《いうげんびめう》の|神界《しんかい》の |深《ふか》き|真理《しんり》は|分《わか》らない
|卑《いや》しき|弱《よわ》き|人《ひと》の|身《み》で |何程《なにほど》|真理《しんり》を|究《きは》めむと
|焦慮《せうりよ》するとも|無益《むえき》なり |文助《ぶんすけ》さまの|物語《ものがたり》
|聞《き》くにつけてもヒシヒシと |胸《むね》にこたえて|吾《わが》|魂《たま》は
|俄《にはか》に|向上《かうじやう》せし|如《ごと》く |神《かみ》の|御国《みくに》の|有様《ありさま》を
いと|明《あきら》かに|悟《さと》り|得《え》し |歓喜《くわんき》の|心《こころ》に|充《み》たされぬ
いざ|之《これ》よりは|松姫《まつひめ》は |文助《ぶんすけ》さまを|師父《しふ》となし
すべての|執着《しふちやく》|排除《はいじよ》して いと|忠実《まめやか》に|仕《つか》ふべし
|許《ゆる》させ|給《たま》へ|真人《まさびと》よ |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |少《すこ》しも|動《うご》かぬ|神《かみ》の|国《くに》
|現実界《げんじつかい》の|人々《ひとびと》の |計《はか》り|知《し》らるる|事《こと》ならず
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》のまにまに|進《すす》むより
|吾等《われら》は|手段《しゆだん》なきものぞ |初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむづかさ》
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》や|地獄道《ぢごくだう》 |中有界《ちううかい》の|状態《じやうたい》を
いと|懇《ねんごろ》に|説《と》き|給《たま》ひ |帰《かへ》りましたる|其《その》|後《あと》へ
|文助《ぶんすけ》さまの|甦《よみがへ》り |右《みぎ》と|左《ひだり》に|真人《しんじん》が
|現《あら》はれまして|霊界《れいかい》の |其《その》|真相《しんさう》を|詳細《まつぶさ》に
|教《をし》へ|給《たま》ひし|有難《ありがた》さ ああ|諸人《もろびと》よ|諸人《もろびと》よ
|此《この》|世《よ》に|命《いのち》のある|限《かぎ》り |神《かみ》に|親《した》しみ|神《かみ》を|愛《あい》し
|善《ぜん》と|真《しん》との|徳《とく》を|積《つ》み |生《い》きて|此《この》|世《よ》の|範《はん》となり
|死《し》しては|神《かみ》の|御使《みつかひ》と |仕《つか》へまつらふ|其《その》|為《ため》に
|三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》を |心《こころ》ひそめて|拝聴《はいちやう》し
|処世《しよせい》を|誤《あやま》ること|勿《なか》れ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|此《この》|度《たび》の |恵《めぐみ》を|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る』
イクは|立上《たちあが》つて|歌《うた》ひ|出《だ》した。
『ああ|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し |思《おも》ひ|掛《がけ》なき|神界《しんかい》の
|深遠《しんゑん》|微妙《びめう》の|経綸《けいりん》を |今《いま》|目《ま》のあたり|明《あきら》かに
|説《と》き|示《しめ》されし|吾々《われわれ》は |此《この》|世《よ》の|中《なか》の|人《ひと》として
いと|幸福《かうふく》の|者《もの》ぞかし |文助《ぶんすけ》さまの|物語《ものがたり》
|松姫《まつひめ》さまの|御教訓《ごけうくん》 |聞《き》くにつけても|何《なん》となく
|心《こころ》は|勇《いさ》み|腕《うで》は|鳴《な》り |只《ただ》|一刻《いつこく》もグヅグヅと
して|居《を》れないよな|心持《こころもち》 |俄《にはか》に|湧《わ》き|出《だ》し|全身《ぜんしん》の
|血《ち》は|漲《みなぎ》りて|歓楽《くわんらく》の |涙《なみだ》は|胸《むね》に|溢《あふ》れけり
さはさりながら|命《いのち》とも |柱杖《はしらつゑ》とも|頼《たの》みてし
|初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむづかさ》 |夜前《やぜん》の|騒《さわ》ぎを|他所《よそ》にして
|出《い》で|行《ゆ》きますとは|何事《なにごと》ぞ かかる|優《やさ》しき|神人《しんじん》も
|文助《ぶんすけ》さまの|危難《きなん》をば |他所《よそ》に|見《み》すてて|帰《かへ》るとは
|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|節《ふし》がある とは|言《い》ふものの|吾々《われわれ》は
|向《むか》ふの|見《み》えぬ|愚《おろ》か|者《もの》 |智慧証覚《ちゑしようかく》に|秀《すぐ》れたる
|愛《あい》と|信《しん》との|善徳《ぜんとく》を |身《み》に|帯《お》び|給《たま》ひし|姫君《ひめぎみ》の
|心《こころ》は|如何《いか》で|吾々《われわれ》の |小才浅智《せうさいせんち》の|知悉《ちしつ》する
|限《かぎ》りにあらずと|諦《あきら》めて |此《この》|上《うへ》|何《なん》にも|言《い》ひませぬ
さは|言《い》へ|吾《われ》はどこ|迄《まで》も |初心《しよしん》を|貫徹《くわんてつ》せにやならぬ
|初稚姫《はつわかひめ》に|相反《あひそむ》き |仮令《たとへ》|地獄《ぢごく》に|堕《お》つるとも
|神《かみ》の|御《おん》|為《ため》|世《よ》の|為《ため》に |尽《つく》す|誠《まこと》の|益良夫《ますらを》を
|神《かみ》は|必《かなら》ず|救《すく》ふべし |松姫《まつひめ》|様《さま》よお|菊《きく》さま
|其《その》|外《ほか》|百《もも》の|司《つかさ》たち いかいお|世話《せわ》になりました
|之《これ》より|私《わたし》は|小北山《こぎたやま》 |神《かみ》の|御前《みまへ》に|拝礼《はいれい》し
|膝《ひざ》の|栗毛《くりげ》に|鞭《むち》うつて |特急列車《とくきふれつしや》に|身《み》を|任《まか》せ
|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|御後《おんあと》を つけて|行《ゆ》かねばおきませぬ
|我慢《がまん》の|強《つよ》い|男《をとこ》だと |必《かなら》ず|笑《わら》うて|下《くだ》さるな
バラモン|軍《ぐん》の|猪突武者《ちよとつむしや》 |首《くび》もまはらぬ|男《をとこ》だと
|今《いま》|迄《まで》|言《い》はれて|来《き》たけれど |夜光《やくわう》の|玉《たま》を|保護《ほご》しつつ
|常世《とこよ》の|暗《やみ》を|踏《ふ》み|分《わ》けて |浮《う》き|瀬《せ》に|悩《なや》む|人々《ひとびと》を
|神《かみ》の|光《ひかり》に|照《て》らしつつ |舎身《しやしん》の|活動《くわつどう》|継続《けいぞく》し
|首尾《しゆび》よくハルナに|立向《たちむか》ひ |大神業《だいしんげふ》に|参加《さんか》して
|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|復命《かへりごと》 |申《まを》さむ|折《をり》は|小北山《こぎたやま》
|大神殿《だいしんでん》に|参詣《まゐまう》で |山《やま》と|積《つも》れる|御話《おはなし》を
|皆々《みなみな》さまの|御前《おんまへ》に |申上《まをしあ》ぐべき|時《とき》こそは
|今《いま》より|楽《たの》しみ|待《ま》たれける ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|了《をは》り、サールを|促《うなが》して|早《はや》くも|此《この》|場《ば》を|立出《たちい》で、|初稚姫《はつわかひめ》の|後《あと》を|追《お》はむとした。|松姫《まつひめ》は|百方《ひやつばう》|言葉《ことば》を|尽《つく》して、イク、サールの|出立《しゆつたつ》を|止《とど》むべく、|初稚姫《はつわかひめ》の|意《い》を|体《たい》して|説《と》き|諭《さと》した。されど【はやり】|男《を》の|猪武者《ゐのししむしや》、いかでか|其《その》|言葉《ことば》に|耳《みみ》を|傾《かたむ》くべき。サールと|共《とも》に|小北山《こぎたやま》を|拝礼《はいれい》し、|善一筋《ぜんひとすぢ》の|心《こころ》を|渡《わた》す|一本橋《いつぽんばし》、|二人《ふたり》の|身《み》なりも|怪《あや》シの|森《もり》、|運《はこ》ぶ|歩《あゆ》みも|浮木ケ原《うききがはら》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・一・三〇 旧一一・一二・一四 松村真澄録)
第一一章 |千代《ちよ》の|菊《きく》〔一三四七〕
お|菊《きく》は|歌《うた》ふ。
『|三月三日《さんぐわつみつか》の|桃《もも》の|花《はな》 |散《ち》り|敷《し》く|庭《には》の|小北山《こぎたやま》
|春《はる》めき|渡《わた》り|何《なん》となく |小鳥《ことり》の|歌《うた》ふ|声《こゑ》さへも
いとど|長閑《のどか》に|聞《きこ》えくる |四四十六《ししじふろく》の|菊《きく》の|花《はな》
|一《ひと》つ|越《こ》えたる|此《この》お|菊《きく》 |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|大前《おほまへ》に
|清《きよ》く|仕《つか》へし|文助《ぶんすけ》の |翁《おきな》の|祝《いはひ》に|加《くは》はりて
|此《この》|聖場《せいぢやう》に|並《なら》びます |多士済々《たしせいせい》の|役員《やくゐん》が
|前《まへ》をも|怖《お》ぢず|一言《ひとこと》の |言霊《ことたま》|奏《かな》で|奉《たてまつ》る
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|地異天変《ちいてんぺん》は|起《おこ》るとも |只《ただ》|一身《いつしん》を|神様《かみさま》に
|任《まか》して|仕《つか》へまつりなば |世《よ》に|恐《おそ》ろしきものはない
|文助《ぶんすけ》さまの|甦《よみがへ》り |霊界土産《れいかいみやげ》の|物語《ものがたり》
|聞《き》くにつけても|神様《かみさま》の |広大無辺《くわうだいむへん》の|御神徳《ごしんとく》
|実《げ》に|有難《ありがた》く|拝《はい》します |百《もも》の|司《つかさ》よ|信徒《まめひと》よ
|此《この》|世《よ》の|泥《どろ》を|雪《すす》がむと |地上《ちじやう》に|降《くだ》りて|三五《あななひ》の
|教《をしへ》を|開《ひら》き|給《たま》ひたる |国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》や
|豊国姫《とよくにひめ》の|大神《おほかみ》の |化身《けしん》とあれます|厳御魂《いづみたま》
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御教《みをしへ》を |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|畏《かしこ》みて
|心《こころ》に|悟《さと》り|味《あぢ》はひつ |其《その》|行《おこな》ひを|忠実《まめやか》に
|尽《つく》して|神《かみ》の|御心《みこころ》に |酬《むく》いまつるは|吾々《われわれ》の
|最第一《さいだいいち》の|務《つと》めぞや |高姫司《たかひめつかさ》の|開《ひら》きたる
ウラナイ|教《けう》の|神々《かみがみ》は |世《よ》に|恐《おそ》ろしき|兇党界《きようたうかい》
|醜《しこ》の|身魂《みたま》の|憑依《ひようい》して |書《か》きあらはせる|醜道《しこみち》を
|此上《こよ》なく|尊《たふと》み|敬《うやま》いて |世《よ》の|人々《ひとびと》を|迷《まよ》はせし
|蠑〓別《いもりわけ》や|魔我彦《まがひこ》や |母《はは》のお|寅《とら》に|至《いた》るまで
|日《ひ》に|夜《よ》に|深《ふか》き|罪《つみ》|重《かさ》ね |此《この》|世《よ》を|曇《くも》らせまつれども
|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|神様《かみさま》は |広《ひろ》き|心《こころ》に|見直《みなほ》して
|許《ゆる》し|給《たま》はむ|惟神《かむながら》 |神《かみ》の|心《こころ》はありありと
|手《て》にとる|如《ごと》く|知《し》られけり |文助《ぶんすけ》さまがよい|手本《てほん》
ウラナイ|教《けう》に|惑溺《わくでき》し |千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ひまして
|汚《けが》れし|此《この》|世《よ》を|清《きよ》めます |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》を
|悪鬼《あくき》|邪神《じやしん》と|貶《けな》しつつ |教《をしへ》を|伝《つた》へ|来《きた》りしゆ
もし|文助《ぶんすけ》が|世《よ》を|去《さ》らば |忽《たちま》ち|無限《むげん》の|地獄道《ぢごくだう》
|神《かみ》に|背《そむ》きし|罪科《つみとが》を |冥官《めいくわん》|共《ども》に|数《かぞ》へられ
|無残《むざん》の|運命《うんめい》に|陥《おちい》らむ |由々《ゆゆ》しき|事《こと》よと|恐《おそ》れみて
|蠑〓別《いもりわけ》や|魔我彦《まがひこ》や |母《はは》の|罪《つみ》をば|救《すく》はむと
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|祈《いの》りけり さはさりながら|大神《おほかみ》の
|心《こころ》は|吾等《われら》|人々《ひとびと》の |如何《いか》でか|図《はか》り|知《し》られむや
|悔《く》い|改《あらた》めて|大道《おほみち》に |甦《よみがへ》りなば|大神《おほかみ》は
|必《かなら》ず|許《ゆる》し|給《たま》ふべく |無限《むげん》の|楽土《らくど》に|導《みちび》きて
|円満具足《ゑんまんぐそく》の|生涯《しやうがい》を |送《おく》らせ|給《たま》ふ|事《こと》の|由《よし》
|実《げ》に|有難《ありがた》く|悟《さと》りけり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御《おん》|為《ため》|世《よ》の|為《ため》に |之《これ》より|腹帯《はらおび》|締《し》め|直《なほ》し
|災《わざはひ》|多《おほ》き|世《よ》の|中《なか》の |小《ちひ》さき|慾《よく》を|打忘《うちわす》れ
|水《みづ》に|溺《おぼ》れず|火《ひ》に|焼《や》けず |錆《さ》び|朽《く》ち|腐《くさ》らぬ|宝《たから》をば
|高天原《たかあまはら》の|天国《てんごく》に |貯《たくは》へ|置《お》きて|永遠《ゑいゑん》の
|死後《しご》の|生涯《しやうがい》|送《おく》るべく |決心《けつしん》したる|此《この》お|菊《きく》
|心《こころ》の|空《そら》も|晴《は》れ|渡《わた》り |月日《つきひ》は|輝《かがや》き|綺羅星《きらぼし》は
|我《わが》|霊身《れいしん》に|閃《ひらめ》きて |愉絶快絶《ゆぜつくわいぜつ》|譬《たと》ふるに
|物《もの》なき|身《み》とはなりにけり ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|吾々《われわれ》が |犯《おか》し|来《きた》りし|罪科《つみとが》を
|慎《つつし》み|敬《うやま》ひ|悔《く》いまつる』
お|千代《ちよ》は|又《また》|歌《うた》ふ。
『|常世《とこよ》の|春《はる》の|気《け》はひして |四方《よも》の|山々《やまやま》|青々《あをあを》と
|甦《よみがへ》りたる|現世界《げんせかい》 |花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ひ|蝶《てふ》は|舞《ま》ひ
|小鳥《ことり》は|歌《うた》ふ|楽《たの》しさよ |小北《こぎた》の|山《やま》の|霊場《れいぢやう》も
|一度《いちど》は|冬《ふゆ》の|凩《こがらし》に |吹《ふ》かれて|法灯《ほふとう》|滅尽《めつじん》し
|已《すで》に|危《あやふ》くなりけるが |松姫司《まつひめつかさ》が|現《あら》はれて
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|誠心《まごころ》を |籠《こ》めさせ|給《たま》ひ|神《かみ》の|道《みち》
|仕《つか》へまつりし|折柄《をりから》に |蠑〓別《いもりわけ》や|魔我彦《まがひこ》の
|踏《ふ》み|荒《あら》したる|聖域《せいゐき》も |漸《やうや》くここに|返《かへ》り|咲《ざ》き
やや|賑《にぎ》はしくなりにける |此《この》|時《とき》|松彦神司《まつひこかむつかさ》
|五三公《いそこう》さまを|始《はじ》めとし アク、タク、テクや|万公司《まんこうつかさ》
|引連《ひきつ》れ|来《きた》り|三五《あななひ》の |教《をしへ》の|道《みち》に|立直《たてなほ》し
|世《よ》に|恐《おそ》ろしき|兇党界《きようたうかい》 |醜《しこ》の|魔神《まがみ》を|追《お》ひ|出《いだ》し
|誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の |正《ただ》しき|神《かみ》を|奉斎《ほうさい》し
|正《ただ》しき|清《きよ》きいと|赤《あか》き |誠心《まことごころ》を|捧《ささ》げつつ
|仕《つか》へまつりし|甲斐《かひ》ありて |今《いま》は|漸《やうや》く|立春《たつはる》の
|梅《うめ》|咲《さ》く|季節《きせつ》も|打過《うちす》ぎて |百《もも》の|花《はな》|咲《さ》く|弥生空《やよひぞら》
|草《くさ》|青々《あをあを》と|生茂《おひしげ》る |常世《とこよ》の|春《はる》となりにけり
|蕪《かぶら》|大根《だいこん》|黒蛇《くろへび》や |其《その》|外《ほか》|百《もも》の|絵姿《ゑすがた》を
|描《ゑが》きて|四方《よも》の|信徒《まめひと》に |配《くば》り|与《あた》へし|文助《ぶんすけ》も
|漸《やうや》くここに|目《め》をさまし |厳《いづ》の|御霊《みたま》と|瑞御霊《みづみたま》
|経《たて》と|緯《よこ》との|経綸《けいりん》を |悟《さと》らせ|給《たま》ひ|今《いま》|迄《まで》の
|偏狭心《へんけふしん》を|立直《たてなほ》し |四辺《あたり》|輝《かがや》く|朝日子《あさひこ》の
|日《ひ》の|出神《でのかみ》や|木花姫《このはなひめ》の |神《かみ》の|教《をしへ》を|真解《しんかい》し
|義理天上《ぎりてんじやう》と|自称《じしよう》せる |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|贋神《にせがみ》を
|放逐《はうちく》したる|雄々《をを》しさよ ウラナイ|教《けう》の|発起人《ほつきにん》
|高姫司《たかひめつかさ》が|現《あら》はれて |妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》と
|此処《ここ》に|本拠《ほんきよ》を|構《かま》へつつ |一旗《ひとはた》|挙《あ》げむと|企《たく》らみて
|言葉《ことば》|巧《たくみ》に|司等《つかさら》を |言向《ことむ》けせむとする|時《とき》に
|皇大神《すめおほかみ》の|御光《みひかり》に |曲《まが》の|心《こころ》を|照破《せうは》され
アツと|驚《おどろ》く|其《その》|途端《とたん》 |断岩上《だんがんじやう》より|墜落《つゐらく》し
|二人《ふたり》は|傷《きず》を|負《お》ひながら |魔法使《まはふづかひ》の|宝物《たからもの》
|曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|文助《ぶんすけ》の |内懐《うちぶところ》に|捻《ね》ぢ|込《こ》んで
|後白浪《あとしらなみ》と|逃《に》げて|行《ゆ》く |小《ちひ》さき|慾《よく》に|捉《とら》はれて
|神《かみ》に|背《そむ》きし|初《はつ》、|徳《とく》の |二人《ふたり》は|後《あと》を|慕《した》ひつつ
|八百長芝居《やほちやうしばゐ》がききすぎて |尻《しり》を|破《やぶ》られ|血《ち》を|出《いだ》し
|足《あし》の|痛《いた》みを|堪《こら》へつつ テクテク|後《あと》を|追《お》つて|行《ゆ》く
|後《あと》に|残《のこ》りし|文助《ぶんすけ》は |吾《わが》|懐《ふところ》に|残《のこ》りたる
|曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|打眺《うちなが》め ブンブン|玉《だま》よと|恐《おそ》れつつ
|小箱《こばこ》に|固《かた》く|封《ふう》じ|込《こ》み |守《まも》り|居《ゐ》たりし|折《をり》もあれ
|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》|帰《かへ》り|来《き》て |曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|奪《うば》はむと
|文助《ぶんすけ》さまを|殴《なぐ》りつけ |倒《たふ》れた|隙《すき》を|見《み》すまして
スタスタ|逃《に》げ|行《ゆ》く|憎《にく》らしさ |文助《ぶんすけ》さまは|其《その》|日《ひ》より
|人事不省《じんじふせい》に|陥《おちい》りて |訳《わけ》の|分《わか》らぬ|囈言《うはごと》を
|喋《しやべ》り|出《だ》せしぞ|悲《かな》しけれ かかる|所《ところ》へ|三五《あななひ》の
|教《をしへ》の|司《つかさ》イク、サール |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|賜《たま》ひてし
|夜光《やくわう》の|玉《たま》の|神力《しんりき》を |現《あら》はしまして|文助《ぶんすけ》を
|全《まつた》く|生《い》かし|給《たま》ひけり |文助《ぶんすけ》さまは|霊界《れいかい》に
|彷徨《さまよ》ひ|給《たま》ひ|種々《いろいろ》と |現界人《げんかいじん》の|夢《ゆめ》にだも
|悟《さと》り|得《え》ざりし|秘密《ひみつ》をば |詳細《うまら》に|委曲《つばら》に|目撃《もくげき》し
|吾等《われら》が|前《まへ》に|概略《がいりやく》を |伝《つた》へ|給《たま》ひし|尊《たふと》さよ
|斯《か》く|明《あきら》かに|霊界《れいかい》の |様子《やうす》を|悟《さと》る|上《うへ》からは
|尚《なほ》|吾々《われわれ》は|心《こころ》をば |洗《あら》ひ|清《きよ》めて|日々《にちにち》の
その|行《おこな》ひを|改良《かいりやう》し |神《かみ》の|心《こころ》にかなふべく
|仕《つか》へまつらであるべきや |思《おも》へば|思《おも》へば|人《ひと》の|世《よ》は
|実《げ》に|浅間《あさま》しきものなれど |必《かなら》ず|死後《しご》の|生涯《しやうがい》は
|栄《さか》えに|満《み》てるパラダイス |円満具足《ゑんまんぐそく》の|天国《てんごく》に
|救《すく》ひ|上《あ》げられ|永遠《ゑいゑん》の |清《きよ》き|正《ただ》しき|生涯《しやうがい》を
|送《おく》られ|得《う》べきものぞかし |神《かみ》を|敬《うやま》ひ|且《か》つ|愛《あい》し
|神《かみ》の|心《こころ》に|逆《さか》らはず |世人《よびと》の|為《た》めに|善業《ぜんげふ》を
|勤《つと》め|励《はげ》みて|神界《しんかい》の |人《ひと》を|此《この》|世《よ》に|下《くだ》したる
|其《その》|目的《もくてき》に|叶《かな》ふべく |仕《つか》へまつれよ|百《もも》の|人《ひと》
|吾等《われら》と|共《とも》に|大前《おほまへ》に |誓《ちか》ひを|立《た》てて|懇《ねもご》ろに
|身《み》の|幸《さちは》ひを|祈《いの》るべし ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|恩頼《みたまのふゆ》を|賜《たま》へかし |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |地異天変《ちいてんぺん》は|起《おこ》るとも
|神《かみ》の|此《この》|世《よ》にます|限《かぎ》り |誠《まこと》|一《ひと》つを|通《とほ》しなば
|必《かなら》ず|救《すく》ひ|給《たま》ふべし |吾等《われら》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|世《よ》の|万物《ばんぶつ》に|勝《すぐ》れたる |奇《くし》き|尊《たふと》きものなれば
|神《かみ》の|順序《じゆんじよ》を|克《よ》く|守《まも》り |愛《あい》と|信《しん》との|全徳《ぜんとく》に
|浸《ひた》りて|此《この》|世《よ》の|花《はな》となり |光《ひかり》ともなり|塩《しほ》となり
|穢《けが》れを|洗《あら》ひ|魔《ま》を|払《はら》ひ |天地《てんち》の|花《はな》と|謳《うた》はれて
|人《ひと》の|人《ひと》たる|本分《ほんぶん》を |尽《つく》すも|嬉《うれ》し|神国《かみくに》に
|生《お》ひ|立《た》ち|出《い》でし|吾々《われわれ》は |実《げ》にも|至幸《しかう》のものぞかし
|仰《あふ》ぎ|敬《うやま》へ|神《かみ》の|子《こ》よ |勇《いさ》み|行《おこな》へ|善《ぜん》の|道《みち》
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
|此《この》|外《ほか》|神《かみ》の|司《つかさ》|等《たち》|並《ならび》に|信徒《まめひと》の|祝歌《しゆくか》は|数《かず》|限《かぎ》りなくあれども|此処《ここ》には|省略《しやうりやく》する。|扨《さ》て|文助《ぶんすけ》は|数多《あまた》の|人々《ひとびと》に|盃《さかづき》をさされ、|折角《せつかく》の|志《こころざし》を|受《う》けぬ|訳《わけ》にも|行《ゆ》かぬので|少《すこ》しく|頭《あたま》の|痛《いた》む|身《み》に、|元来《ぐわんらい》|下戸《げこ》の|事《こと》とて|忽《たちま》ち|酩酊《めいてい》し|階段《かいだん》を|踏《ふ》み|外《はづ》して|地上《ちじやう》に|顛落《てんらく》し、|又《また》もや|人事不省《じんじふせい》に|陥《おちい》つた。ここに|松姫《まつひめ》|外《ほか》|一同《いちどう》は|忽《たちま》ち|祝酒《いはひざけ》の|酔《よひ》も|醒《さ》め、|河鹿川《かじかがは》に|禊《みそぎ》して|文助《ぶんすけ》の|病気《びやうき》|平癒《へいゆ》を|祈《いの》る|事《こと》となつた。|数多《あまた》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》の|熱心《ねつしん》なる|祈願《きぐわん》の|声《こゑ》は|九天《きうてん》に|響《ひび》き|山岳《さんがく》も|揺《ゆる》ぐばかりに|思《おも》はれた。
(大正一二・一・三〇 旧一一・一二・一四 北村隆光録)
第三篇 |衡平無死《かうへいむし》
第一二章 |盲縞《めくらじま》〔一三四八〕
|灰白《くわいはく》の|暮色《ぼしよく》に|包《つつ》まれた|野《の》も|山《やま》も|凡《すべ》ては|静《しづ》かで|淋《さび》しい。|山《やま》と|山《やま》とに|挟《はさ》まれた|枯草《かれくさ》のぼうぼうと|生《は》え|茂《しげ》る|細《ほそ》い|谷路《たにみち》を、|杖《つゑ》を|力《ちから》にトボトボと|爪先上《つまさきあ》がりに|登《のぼ》り|行《ゆ》く|一人《ひとり》の|盲者《まうじや》がある。これは|小北山《こぎたやま》の|受付《うけつけ》にゐた|文助《ぶんすけ》の|精霊《せいれい》であることはいふまでもない。|文助《ぶんすけ》は|微酔《ほろよ》ひ|機嫌《きげん》で|鼻歌《はなうた》を|唄《うた》ひながら、ボンヤリとした|目《め》の|光《ひかり》を|頼《たよ》りに、どこを|当《あて》ともなく|歩《ある》いてゐたのである。|傍《かたはら》の|叢《くさむら》にガサガサと|音《おと》がしたので、ハテ|何者《なにもの》が|飛出《とびだ》すのかと|立止《たちど》まつて|考《かんが》へてゐた。|疎《うと》い|目《め》からよくよくすかして|見《み》れば、|労働服《らうどうふく》を|着《つ》けた|十七八歳《じふしちはつさい》の|色《いろ》の|黒《くろ》い|青年《せいねん》であつた。
|文助《ぶんすけ》『コレお|若《わか》い|衆《しう》、どうやら|日《ひ》も|暮《く》れかかつたさうだが、お|前《まへ》さま|一人《ひとり》こんな|処《ところ》で|何《なに》をして|厶《ござ》るのだい』
|青年《せいねん》『|俺《おれ》は|泥棒《どろばう》をやつてゐるのだ。|此《この》|街道《かいだう》は|目《め》の|悪《わる》い|奴《やつ》ばかりが|通過《つうくわ》する|処《ところ》だから、|俺《おれ》の|様《やう》な|甲斐性《かひしやう》のない|泥棒《どろばう》は、|盲《めくら》でないと|性《しやう》に|合《あ》はぬから、|待《ま》つてゐたのだ』
『ハハハハ、|私《わし》のやうなスカンピンの|盲《めくら》に|相手《あひて》になつた|所《ところ》で、|何《なに》があるものか。それよりも|巨万《きよまん》の|金《かね》を|有《もつ》て|居《ゐ》る|盲《めくら》は|世界《せかい》に|何程《なにほど》あるか|知《し》れぬぢやないか。|総理大臣《そうりだいじん》でも、|博士《はかせ》でも、|富豪《ふうがう》でも、|大寺《おほでら》の|和尚《おせう》でも|皆《みな》|盲《めくら》だ。お|前《まへ》は|黒《くろ》い|着物《きもの》を|着《き》て|居《ゐ》ると|思《おも》へば、|盲縞《めくらじま》の|被衣《はつぴ》を|着《き》たりパツチをはいてるぢやないか、さうすると|矢張《やつぱ》りお|前《まへ》も|盲《めくら》だな』
『|盲《めくら》にも|色々《いろいろ》あつて、|其《その》|盲《めくら》が|又《また》|盲《めくら》を|騙《だま》す|力《ちから》のある|奴《やつ》だから、|俺《おれ》たちの|盲《めくら》には|手《て》に|合《あ》はぬのぢや。お|前《まへ》も|随分《ずいぶん》|世界《せかい》の|人間《にんげん》を|盲《めくら》にして|来《き》た|男《をとこ》だが、|世間《せけん》の|盲《めくら》に|比《くら》べて|見《み》ると|余程《よほど》【くみ】し|易《やす》いとみたから、ここに|待《ま》ち|構《かま》へてゐたのだ。サ、|持物《もちもの》|一切《いつさい》を|渡《わた》して|貰《もら》はうかい』
『ハハハハ、|盲滅法界《めつぽふかい》な|事《こと》を|言《い》ふ|奴《やつ》だなア。|斯《か》うみえても、|此《この》|文助《ぶんすけ》は|心《こころ》の|眼《め》が|光《ひか》つてゐるぞ。|世間《せけん》の|盲《めくら》は|肉眼《にくがん》は|開《あ》いて|居《を》つても|心《こころ》の|眼《め》は|咫尺暗澹《しせきあんたん》だが、|此《この》|文助《ぶんすけ》は|貴様《きさま》の|腹《はら》の|底《そこ》まで|鏡《かがみ》に|照《て》らした|如《ごと》く|分《わか》つてゐるのだ。|無理無体《むりむたい》に|虚勢《きよせい》を|張《は》つて|恐喝《きようかつ》しようとしても、お|前《まへ》の|心《こころ》は|既《すで》に|非常《ひじやう》なる|脅威《けふゐ》を|感《かん》じ、|戦慄《せんりつ》してるぢやないか、そんなことで|盲《めくら》を|脅《おびや》かさうなんて、チツと|過分《くわぶん》ぢやないか』
『|何《なん》だか、お|前《まへ》に|会《あ》うてから、|俺《おれ》も|泥棒《どろばう》が|厭《いや》になつた。|何卒《どうぞ》、|何処《どこ》へ|行《ゆ》くのか|知《し》らぬが|連《つ》れて|行《い》て|貰《もら》へまいかな』
『|貴様《きさま》の|様《やう》な|奴《やつ》を|道連《みちづ》れにしようものなら、チツとも|安心《あんしん》するこたア|出来《でき》やしない。|送《おく》り|狼《おほかみ》と|道連《みちづ》れのやうなものだ、|何時《いつ》スキがあつたら|咬《か》み|殺《ころ》すか|分《わか》つたものぢやない、マア|御免《ごめん》|蒙《かうむ》つとこうかい。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
『オイ|盲爺《めくらぢい》さま、お|前《まへ》は|世間《せけん》の|人間《にんげん》を|盲《めくら》にして、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|地獄界《ぢごくかい》へ|案内《あんない》してゐた|癖《くせ》に、|俺《おれ》|一人《ひとり》の|盲《めくら》を|捨《す》てると|云《い》ふ|事《こと》があるか』
『|馬鹿《ばか》を|申《まを》せ、|俺《おれ》は|皆《みな》|人間《にんげん》の|霊《れい》を|高天原《たかあまはら》へ|導《みちび》いてゐたのだ。それだから|此《この》|間《あひだ》も|一寸《ちよつと》|気絶《きぜつ》した|時《とき》に|天国《てんごく》を|覗《のぞ》いて|来《き》たのだ。|俺《おれ》の|導《みちび》いた|連中《れんちう》は|皆《みな》|高天原《たかあまはら》に|安住《あんぢゆう》してゐるのだぞ』
『お|前《まへ》、|高天原《たかあまはら》へ|行《い》つた|時《とき》に|其《その》|弟子《でし》に、|一人《ひとり》でも|出会《であ》つたか、|滅多《めつた》に|出会《であ》はせまい、|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|地獄《ぢごく》へ|墜《お》ちてるのだからな。|神《かみ》の|取次《とりつぎ》|皆《みな》|盲《めくら》ばかり、その|又《また》|盲《めくら》が|暗雲《やみくも》で、|世界《せかい》の|盲《めくら》の|手《て》を|引《ひ》いて、インフエルノ(|地獄界《ぢごくかい》)の|底《そこ》へと|連《つ》れまゐる……といふのはお|前《まへ》の|事《こと》だよ』
『エ、そんなこたア|聞《き》く|耳《みみ》|持《も》たぬワイ。|何《なん》なと|勝手《かつて》にほざいておけ、ゴマの|蠅《はへ》|奴《め》が』
『ヨーシ|俺《おれ》も|天下《てんか》の|青年《せいねん》だ。|青年《せいねん》|重《かさ》ねて|来《きた》らず、|一日《いちじつ》|再《ふたたび》|晨《あした》なり|難《がた》しといふ|事《こと》を|知《し》つてゐるか、|俺《おれ》は|斯《か》う|労働服《らうどうふく》を|着《き》てゐるやうに|見《み》えても|赤裸《まつぱだか》だぞ。それだから|青年《せいねん》|重《かさ》ねて|着足《きた》らずといふのだ。|貴様《きさま》の|上着《うはぎ》を|一枚《いちまい》|所望《しよまう》するから、キツパリと|俺《おれ》に|渡《わた》せ、|裸《はだか》で|道中《だうちう》はならぬからのう』
『|丸《まる》で|三途《せうづ》の|川《かは》の|脱衣婆《だついばば》のやうな|事《こと》をぬかす|奴《やつ》だな。エエ|仕方《しかた》がない、そんなら|一枚《いちまい》|恵《めぐ》んでやろ。どうせ|此《この》|先《さき》で|婆《ばば》アに|取《と》られるのだから……』
『オイ|爺《おやじ》、お|前《まへ》は|今《いま》|幽界旅行《いうかいりよかう》をしてゐるといふ|事《こと》を|知《し》つてゐるのか』
『きまつた|事《こと》だ。|一度《いちど》|経験《けいけん》がある。|何時《いつ》の|間《ま》にやら|体《からだ》がこんな|所《ところ》へ|来《き》てるのだから、|夢《ゆめ》でなければ|幽界旅行《いうかいりよかう》だ。|夢《ゆめ》であらうが、|幽界旅行《いうかいりよかう》であらうが、どちらもユーメ|旅行《りよかう》だ。|貴様《きさま》は|此処《ここ》を|現界《げんかい》と|思《おも》つてるのか、オイ|黒助《くろすけ》』
『コリヤ|黒助《くろすけ》とは|何《なん》だ。これでも|中《なか》には|赤《あか》い|血《ち》が|通《かよ》つてるぞ』
『エー、|邪魔《じやま》|臭《くさ》い、|羽織《はおり》を|一枚《いちまい》やつたら、エエカゲンに|帰《かへ》つたらどうだ。これから|長旅《ながたび》をせにやならぬのに、|貴様《きさま》の|様《やう》な|奴《やつ》がついてゐるとザマが|悪《わる》いワ』
『ハハア、ヤツパリ|貴様《きさま》は|偽善者《きぜんしや》だな。|餓鬼《がき》|虫《むし》ケラまで|助《たす》けるのが|神《かみ》の|道《みち》だと、|小北山《こぎたやま》で|吐《ほざ》いて|居《を》つたが、とうと、|正体《しやうたい》を|現《あら》はしよつたな。|気《き》の|毒《どく》ながら、|何《ど》うしてもインフエルノ|行《ゆ》きの|代物《しろもの》だ、エツヘヘヘヘ、|実《じつ》は|地獄界《ぢごくかい》から|貴様《きさま》を|迎《むか》へに|来《き》たのだぞ』
『ヘン、|何《なに》を|吐《ぬか》しよるのだ、そんな|事《こと》に|驚《おどろ》く|俺《おれ》かい。|俺《おれ》は|前回《ぜんくわい》に|於《おい》て、|正《まさ》に|天国《てんごく》に|籍《せき》のある|事《こと》をチヤンとつきとめておいたのだ。そんな|事《こと》を|云《い》つて|強迫《きやうはく》しても、ゴマの|蠅《はへ》の|如《ごと》き|者《もの》の|慣用手段《くわんようしゆだん》に|乗《の》るやうなチヤーチヤーぢやないぞ。|勿体《もつたい》なくも|大国治立尊《おほくにはるたちのみこと》|様《さま》の|教《をしへ》を|伝達《でんたつ》するグレーテスト(|最《もつと》も|偉大《ゐだい》な)プロバガンディストだ。|燕雀《えんじやく》|何《なん》ぞ|大鵬《たいほう》の|志《こころざし》を|知《し》らむや、そこのけツ』
と|杖《つゑ》を|以《もつ》て|四辺《あたり》の|芝草《しばくさ》をメツタ|矢鱈《やたら》にしばき|倒《たふ》しながら、トントンと|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|青年《せいねん》は|後姿《うしろすがた》を|見送《みおく》つて、
『アハハハハハ|阿呆《あはう》|阿呆《あはう》、イヒヒヒヒヒインフエルノ|行《ゆ》きの|文助爺《ぶんすけおやぢ》、ウフフフフフうろたへ|者《もの》の|盲爺《めくらおやぢ》、エヘヘヘヘヘエクスタシーを|知《し》らぬ|盲爺《めくらおやぢ》、オホホホホホお|気《き》の|毒《どく》さま、|今度《こんど》は|地獄《ぢごく》の|定紋付《ぢやうもんつき》だ。お|前《まへ》の|背中《せなか》を|見《み》い、オツホホホホホ』
と|大声《おほごゑ》に|笑《わら》ふ。|文助《ぶんすけ》は|後《あと》|振返《ふりかへ》つて|其《その》|青年《せいねん》を|見《み》ると、|赤《あか》ら|顔《がほ》に|耳《みみ》までさけた|大《おほ》きな|口《くち》をあけ、|舌《した》を|五寸《ごすん》ばかりはみ|出《だ》して、|厭《いや》らしい|面《つら》して|腮《あご》をしやくつてゐる。|文助《ぶんすけ》は|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》と|幾回《いくくわい》となく|繰返《くりかへ》しながら、|山《やま》と|山《やま》との|谷道《たにみち》を|一目散《いちもくさん》に|進《すす》んで|行《ゆ》く。
(大正一二・二・九 旧一一・一二・二四 松村真澄録)
第一三章 |黒長姫《くろながひめ》〔一三四九〕
|天引峠《あまびきたうげ》の|頂上《ちやうじやう》に|四五人《しごにん》の|男《をとこ》|車座《くるまざ》となつて、|青《あを》い|火《ひ》をチヨロチヨロ|焚《た》きながら、|暖《だん》を|取《と》つてゐる。|何《いづ》れもパルチザンのやうな|面構《つらがまへ》、|髯《ひげ》をモシヤモシヤと|生《は》やし、|何《なん》だか|人《ひと》の|腕《かひな》のやうな|物《もの》を、|火《ひ》の|中《なか》へくべては、|横笛《よこぶえ》を|吹《ふ》くやうな|調子《てうし》で|口《くち》に|当《あ》ててしがんでゐる。|此《この》|時《とき》|文助《ぶんすけ》の|目《め》は|余程《よほど》|内分的《ないぶんてき》になつて、|明《あきら》かになつて|来《き》た。|文助《ぶんすけ》は……|厭《いや》な|奴《やつ》が|居《ゐ》やがる、|此奴《こいつ》ア|又《また》|一《ひと》つ|悶錯《もんさく》だワイ。|併《しか》しながら|一度《いちど》|死《し》んだ|者《もの》が|命《いのち》を|取《と》られるやうなこともあるまい。エエ|惟神《かむながら》に|任《まか》すより|仕方《しかた》がない……と|決心《けつしん》の|臍《ほぞ》を|固《かた》め、|幽《かす》かな|声《こゑ》で|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら|近《ちか》よつて|行《ゆ》く。|其《その》|中《うち》の|一人《ひとり》は|目《め》ざとく|文助《ぶんすけ》を|見《み》て、
|甲《かふ》『オイ|旅人《たびびと》、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|貰《もら》はうかい』
|文助《ぶんすけ》は|悪胴《わるどう》をきめて、ワザと|平気《へいき》を|装《よそほ》ひ、
『|待《ま》つて|貰《もら》はうと|言《い》はいでも、|一《ひと》あたりさして|貰《もら》ひたいのだ、|大分《だいぶん》|寒《さむ》うなつたからな。そしてお|前等《まへたち》は|泥棒《どろばう》|商売《しやうばい》と|見《み》えるが、チツと|儲《まう》かりますかな』
『ヤアもう|不景気風《ふけいきかぜ》が|八衢街道《やちまたかいだう》まで|吹《ふ》きまくつて|来《き》たものだから、|一向《いつかう》|此《この》|頃《ごろ》は|駄目《だめ》だ。お|前《まへ》は|俺《おれ》から|見《み》れば|随分《ずいぶん》|偉《えら》い|奴《やつ》だ。ウマく|善《ぜん》の|仮面《かめん》を|被《かぶ》つて、|神様《かみさま》のお|取次《とりつぎ》と|化《ば》け|込《こ》み、|鼻紙《はながみ》の|端《はし》に|松《まつ》の|木《き》や|黒蛇《くろへび》、|蕪大根《かぶらだいこん》を|描《か》きよつて、|苦労《くらう》なしに|礼《れい》|言《い》はして|金《かね》をとる|剛《がう》の|者《もの》だから、|一《ひと》つ|俺達《おれたち》にも|教《をし》へて|貰《もら》ひたいものだ。ここで|泥棒講習会《どろばうかうしふくわい》を|開《ひら》かうかと|云《い》つて、|最前《さいぜん》から|相談《さうだん》して|居《を》つたのだが、|根《ね》つから|適当《てきたう》な|先生《せんせい》がないので、|実《じつ》の|所《ところ》は|当惑《たうわく》してゐる|所《ところ》だ。うまく|法律《はふりつ》にふれない|様《やう》に、|喜《よろこ》ばれて|泥棒《どろばう》する|方法《はうはふ》を|研究《けんきう》するのが、|最《もつと》も|賢明《けんめい》な|処世法《しよせいほふ》だから、|一《ひと》つ|小北山《こぎたやま》の|先生《せんせい》、|吾々《われわれ》の|教導者《けうだうしや》になつて|下《くだ》さるまいかなア』
『|馬鹿《ばか》なことを|言《い》ふな、|俺《おれ》は|正当《せいたう》の|理由《りいう》に|仍《よ》つて|正当《せいたう》の|報酬《ほうしう》を|頂《いただ》いて|居《を》つたのだ。|貴様等《きさまら》は|泥棒根性《どろばうこんじやう》があるから、|世界《せかい》|一切《いつさい》の|事《こと》が|皆《みな》|泥棒的《どろばうてき》に|解釈《かいしやく》が|出来《でき》るのだ。ピユリタンとしてのプロパガンディストの|心事《しんじ》が|泥棒先生《どろばうせんせい》に|分《わか》るものかい。こんなことが|教《をし》へて|欲《ほ》しければ、やがて|現界《げんかい》に|羽振《はぶり》を|利《き》かして|居《を》つた、|大原《おほはら》さんがやつて|来《く》るだらう。そしたら|十分《じふぶん》に|敬礼《けいれい》を|表《へう》し、|敬《うやま》して|近付《ちかづ》けるのだ。|現界《げんかい》に|於《おい》ても、|大多数盗《だいたすうたう》を|擁《よう》してゐた|豪傑《がうけつ》だからのう。|俺《おれ》は|畑《はたけ》が|違《ちが》ふから、こればかりは|御免《ごめん》だ、|天国行《てんごくゆき》の|邪魔《じやま》になると、|一生《いつしやう》の|不利益《ふりえき》だからのう』
『ヤツパリお|前《まへ》は|利己主義《りこしゆぎ》だな。|幽界《いうかい》へ|来《き》ても|自愛《じあい》と|世間愛《せけんあい》に|執着《しふちやく》してゐるから|駄目《だめ》だよ。そんなこと|言《い》はずに、|男《をとこ》らしく|秘密《ひみつ》を|教《をし》へて|呉《く》れたらどうだい』
『お|前達《まへたち》はピユリタンの|精神《せいしん》が|分《わか》らないから|泥棒《どろばう》に|見《み》えるのだが、|人《ひと》が|喜《よろこ》んで|献《たてまつ》つたものを|戴《いただ》くのは、つまり|神様《かみさま》から|下《くだ》さる|様《やう》なものだ。|神《かみ》の|宝《たから》を|間接拝受《かんせつはいじゆ》するのだから、|盗人《ぬすびと》ではないよ。お|前達《まへたち》は|往来《わうらい》の|人《ひと》を|掠《かす》めて|無理往生《むりわうじやう》に|取《と》らうとする|小盗人《こぬすびと》だよ。|一層《いつそう》のこと、|今《いま》|此処《ここ》で|改心《かいしん》をして|俺《おれ》のお|供《とも》をしたら|何《ど》うだい、キツと|天国《てんごく》へつれて|行《い》つてやるがなア』
|乙《おつ》『オイ|甲州《かふしう》、こんな|屁古垂爺《へこたれおやぢ》を|相手《あひて》にしても|駄目《だめ》だぞ。すべて|泥棒団体《どろばうだんたい》といふものは、こんなヒヨロヒヨロなレストレントの|力《ちから》のないやうな|者《もの》では、|頭《かしら》に|戴《いただ》いた|所《ところ》で、|統一《とういつ》が|出来《でき》ない、ヤツパリ|大原《おほはら》さまのやうな、|大悪盗《だいあくたう》でないと、コントロールの|力《ちから》がないからな』
|文助《ぶんすけ》『さうださうだ、|畑《はたけ》が|違《ちが》ふのだから、|私《わし》には|駄目《だめ》だ。|元《もと》から|屁《へ》こいたやうな|男《をとこ》だから、|平兵衛《へいべゑ》ともいひ|文助《ぶんすけ》ともいふのだから』
|甲《かふ》『|何《なん》と|四方《しかた》のない|盲《めくら》だなア。それなら|免除《めんぢよ》してやるから、キリキリと|此《こ》の|場《ば》を|立《た》つたがよからうぞ。|併《しか》し|此《この》|関所《せきしよ》は|天引峠《あまびきたうげ》の|二度《にど》ビツクリといふのだから、|一《ひと》つ|吃驚《びつくり》せなくちや|通過《つうくわ》は|出来《でき》ない。ビツクリ|箱《ばこ》の|蓋《ふた》があくぞよと、いつも|現界《げんかい》で|云《い》うて|居《を》つただらう。それの|実現《じつげん》だから、これから|一《ひと》つ|実行《じつかう》にかかるよつて、|自由自在《じいうじざい》に|吃驚《びつくり》するがよからう、|煩悶《はんもん》|苦悩《くなう》|驚愕《きやうがく》の|権利《けんり》は、お|前《まへ》が|惟神的《かむながらてき》に|保有《ほいう》してるのだから、お|手《て》のものだ。イヒヒヒヒ』
『|大和魂《やまとだましひ》の|生粋《きつすゐ》の|水晶魂《すいしやうみたま》のビクとも|致《いた》さぬ|文助《ぶんすけ》だ。|幾《いく》らなりと|吃驚《びつくり》さして|御覧《ごらん》。|如何《いか》なる|悪魔《あくま》も、|恐怖《きようふ》も、|醜事《しうじ》も、|忽《たちま》ち|惟神《かむながら》の|妙法《めうはふ》に|仍《よ》つて、|所謂《いはゆる》ザブリメーシヨンに|仍《よ》つて|一掃《いつさう》する|神力《しんりき》が|備《そな》はつてゐるエンゼル|様《さま》だ。サア、|吃驚《びつくり》さしたり|吃驚《びつくり》さしたり』
『|余《あま》り|向《むか》ふ|意気《いき》の|強《つよ》い|盲滅法界《めくらめつぽふかい》の|馬鹿者《ばかもの》だから、|話《はなし》にならぬワイ。こつちが|吃驚《びつくり》して|了《しま》ふワイ。サア、キリキリ|此処《ここ》を|通《とほ》れ』
『|貴様《きさま》が|通《とほ》れと|云《い》はなくても、|自由《じいう》の|権利《けんり》で|通《とほ》るのだ。|桃季《たうり》|物《もの》|言《い》はず|自《おのづか》ら|小径《こみち》をなすというて、チヤンと|道《みち》がついてるのだ。ヘンお|構《かま》ひ|御無用《ごむよう》、お|先《さき》へ|失礼《しつれい》|致《いた》します。|此《この》|文助《ぶんすけ》は|斯《か》う|見《み》えても、|神様《かみさま》から、|重大《ぢうだい》なるメツセージを|受《う》けてゐるのだから、|汝等《なんぢら》|如《ごと》き|泥棒《どろばう》の|容喙《ようかい》は|許《ゆる》さないのだ。エツヘツヘヘヘ』
と|細《ほそ》い|目《め》に|皺《しわ》をよせ、|笑《わら》ひながらコツリコツリと|杖《つゑ》を|突《つ》いて|峠《たうげ》を|下《くだ》つて|行《ゆ》く。|文助《ぶんすけ》は|四五町《しごちやう》ばかり|降《くだ》つて|行《ゆ》くと、|其処《そこ》に|形《かたち》ばかりの|屋根《やね》があつて、|石《いし》の|六地蔵《ろくぢざう》が|並《なら》んでゐる。ツと|立寄《たちよ》つて、|傍《かたはら》の|虫《むし》の|喰《く》ひさがした|足《あし》の|半《なかば》|腐《くさ》つた|鞍掛《くらかけ》に|腰《こし》を|打《うち》かけ、よくよく|見《み》れば|古《ふる》ぼけた|柱《はしら》に|墨《すみ》|黒々《くろぐろ》と|楽書《らくがき》がやつてある。|見《み》るともなしに|目《め》についたのは……|盲《めくら》の|宣伝使《せんでんし》|文助《ぶんすけ》がやがてここを|通過《つうくわ》するだらう、さうすれば|一《ひと》つ|談判《だんぱん》がある。|黒蛇《くろくちなは》の|一族《いちぞく》は|此処《ここ》へ|集《あつ》まれ……と|記《しる》されてあつた。|文助《ぶんすけ》は|之《これ》を|見《み》て|独言《ひとりごと》、
『ハハア、おれが|朝《あさ》から|晩《ばん》まで、|竜人《りうじん》さまだと|云《い》つて、|黒蛇《くろくちなは》を|書《か》いては|信者《しんじや》に|渡《わた》し、|掛字《かけじ》や|額《がく》に|仕立《した》てて|祭《まつ》らしてやつたお|蔭《かげ》で、|結構《けつこう》な|飲食《おんじき》を|供《そな》へて|貰《もら》ひ、|黒蛇《くろくちなは》の|奴《やつ》、|俺《おれ》の|行方《やりかた》を|大《おほい》に|徳《とく》となし、|歓迎会《くわんげいくわい》でも|開《ひら》きよる|積《つもり》だなア。そらさうだらう。|誰一人《たれひとり》お|給仕《きふじ》をしてくれる|者《もの》がないのに、|虫《むし》の|分際《ぶんざい》として|大神《おほかみ》さま|格《かく》に|祀《まつ》つて|貰《もら》ふのだから、|喜《よろこ》ぶのも|無理《むり》はないワイ。あああ|人《ひと》はヤツパリ|禽獣《きんじう》に|至《いた》る|迄《まで》|助《たす》けておかねばならぬものかいな。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。|三五教《あななひけう》の|松彦《まつひこ》さまがやつて|来《き》てゴテゴテ|言《い》ふものだから、|黒蛇《くろくちなは》の|画《ゑ》かきも|中止《ちゆうし》して|了《しま》ひ、|松《まつ》に|日輪様《にちりんさま》ばかりを|描《か》いて|居《を》つたが、あれから|引続《ひきつづ》いてやつてゐたなら、まだまだ|沢山《たくさん》に|喜《よろこ》ばれただらうに……|何程《なにほど》|日輪様《にちりんさま》を|描《ゑが》いた|所《ところ》で、|日輪様《にちりんさま》が|喜《よろこ》んで|下《くだ》さる|筈《はず》もなし、ヤツパリ|性《しやう》に|合《あ》うた|竜神《りうじん》さまを|描《か》いてをつたがよかつたのだ。|霊不相応《みたまふさうおう》なことをすると、|却《かへつ》て|何《なん》にもなりやしないワ』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》が|三人連《さんにんづ》れで|忽焉《こつえん》と|現《あら》はれて|来《き》た。
『モシ、|貴方《あなた》は|文助《ぶんすけ》さまぢやありませぬか、|私《わたし》は|黒長姫《くろながひめ》と|申《まを》します、|随分《ずいぶん》|苦《くる》しめて|下《くだ》さいましたね。|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》、|松《まつ》の|木《き》にまき|付《つ》いたなりで、|身動《みうご》きも|出来《でき》ぬやうな|目《め》に|遇《あ》はし、|殺生《せつしやう》なお|方《かた》ですワ。サア|是《これ》から|御礼《おれい》を|申《まを》しませう』
『お|前《まへ》は|黒竜神《くろりうじん》の|精霊《せいれい》と|見《み》えるが、あれだけ|立派《りつぱ》に|祀《まつ》らして|上《あ》げたのに、|何《なに》が|不足《ふそく》なのだ。|畜生《ちくしやう》の|分際《ぶんざい》として、|神様《かみさま》として|貰《もら》つて、|喜《よろこ》ぶことを|措《を》いて、こんな|処《ところ》で|不足《ふそく》を|聞《き》く|耳《みみ》は|持《も》ちませぬワイ』
『|吾々《われわれ》は|畜生道《ちくしやうだう》に|堕《お》ちたもの、|霊相応《みたまさうおう》ですから、さやうな|神様《かみさま》の|席《せき》へ|上《あ》げられ|祀《まつ》られては、|目《め》が|眩《くら》み、|頭《あたま》が|痛《いた》み、|苦《くる》しくてなりませぬ。それだから|吾々《われわれ》の|怨《うら》みが|塊《かた》まつて、お|前《まへ》さまの|目《め》が|見《み》えなくなつたのだ。|分《ぶん》に|過《す》ぎた|待遇《たいぐう》をせられては|本当《ほんたう》に|迷惑《めいわく》だ。お|前《まへ》さまのお|蔭《かげ》で、|私達《わたしたち》の|眷族《けんぞく》が|幾千人《いくせんにん》|苦《くる》しんだか|知《し》れやしない。そしてお|前《まへ》さまは|之《これ》を|祀《まつ》つておけば、|悪事《あくじ》|災難《さいなん》が|逃《のが》れるとか|云《い》つて、|神様《かみさま》の|真似《まね》をしたでないか。|吾々《われわれ》の|眷族《けんぞく》を|竜神《りうじん》さまだなどと|大《だい》それた|名《な》をつけ、そして|大変《たいへん》に|神力《しんりき》のある|神《かみ》のやうに|言《い》ひふらし、|世界《せかい》の|亡者《まうじや》に|拝《をが》ませて、|栃麺棒《とちめんぼう》をふらさした|張本人《ちやうほんにん》だ。|神様《かみさま》の|側《そば》に|祀《まつ》られて|苦《くる》しくてたまらなかつたと、|皆《みな》が|云《い》つてゐる』
『そんな|不足《ふそく》を|聞《き》かうと|思《おも》うて|描《か》いたのぢやない。|一人《ひとり》でも|世《よ》に|堕《お》ちた|霊《れい》を|世《よ》に|上《あ》げてやらうと|思《おも》つて|善意《ぜんい》を|以《もつ》てしたのだ。チツと|其《その》|精神《せいしん》も|買《か》つて|貰《もら》はなくちや|困《こま》るぢやないか』
『よう|仰有《おつしや》いますワイ。|世《よ》に|堕《お》ちた|者《もの》を|世《よ》にあげる|様《やう》な|力《ちから》が、|人間《にんげん》の|分際《ぶんざい》としてどこにありますか。それは|皆《みな》|神様《かみさま》の|御権限《ごけんげん》にあるのだ。|神様《かみさま》の|神徳《しんとく》を|横領《わうりやう》せむとするお|前《まへ》さまは|天《てん》の|賊《ぞく》だよ。それだから、こんな|天引峠《あまびきたうげ》の|二度《にど》|吃驚《びつくり》を|通《とほ》らなくちやならぬ|様《やう》になつたのだ。エエ|恨《うら》めしい。これから|五体《ごたい》をグタグタに|咬《か》み|砕《くだ》いて|恨《うらみ》を|晴《は》らすから、|其《その》|積《つも》りでゐなさい。そしてお|前《まへ》の|身体《からだ》は|黒蛇《くろへび》となり、|私達《わたしたち》の|仲間《なかま》に|入《い》り、|奴《やつこ》となつて|働《はたら》くのだ。あのお|前《まへ》の|描《か》いた|黒蛇《くろくちなは》には、スツカリお|前《まへ》の|霊魂《みたま》の|一部《いちぶ》が|憑依《ひようい》してゐるから、|自然《しぜん》の|道理《だうり》でお|前《まへ》の|霊身《れいしん》は|蛇《じや》となるのは|当然《あたりまへ》だ。お|前《まへ》は|口《くち》の|先《さき》で、|神様《かみさま》の|為《ため》|世人《よびと》の|為《ため》と|云《い》つてゐるが、|私達《わたしたち》の|仲間《なかま》の|姿《すがた》をかいて|祀《まつ》らすのは、|所謂《いはゆる》ゼルブスト・ツエツクを|達《たつ》せむとする|野心《やしん》に|外《ほか》ならなかつたのだ』
『|馬鹿《ばか》を|云《い》ふな。|神《かみ》の|道《みち》に|仕《つか》へる|者《もの》が、どうしてそんな|心《こころ》になれるか、|何《いづ》れも|神《かみ》の|大御心《おほみこころ》に|倣《なら》うて、|虫《むし》ケラまで|助《たす》けようと|云《い》ふ|真心《まごころ》からやつたのだ。|何程《なにほど》|大蛇《だいじや》のお|前《まへ》だとて|蛇推《じやすゐ》するにも|程《ほど》がある。チツとは|善意《ぜんい》に|解《かい》して|貰《もら》ひたいものだな』
『|何《なん》と|云《い》つても、セルフ・プリサベーシヨンの|為《ため》にしてゐたことは、|瞭然《れうぜん》たるものだ。お|前《まへ》は|神《かみ》を|松魚節《かつをぶし》にする|偽善者《きぜんしや》だ。なぜ|自分《じぶん》は|謙遜《けんそん》して、|人《ひと》に|頼《たの》まれても|断《ことわ》りを|云《い》はないのだ。|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|筆先《ふでさき》には、|御神号《ごしんがう》や|神姿《おすがた》は|書《か》く|人《ひと》がきまつてるぢやないか。きまつた|方《かた》に|書《か》いて|貰《もら》ふのなれば、|所謂《いはゆる》|神様《かみさま》の|霊《みたま》がこもつてゐるから、|蛇《へび》だつて|解脱《げだつ》することが|出来《でき》るが、|権威《けんゐ》なき|者《もの》に|描《ゑが》かれては|益々《ますます》|苦《くる》しみを|増《ま》し、|罪《つみ》を|重《かさ》ぬるのみだよ』
『それだと|云《い》つて、|俺《おれ》もヤツパリ|天国《てんごく》の|天人団体《てんにんだんたい》に|籍《せき》をおいてる|者《もの》だ。|蛇《へび》なんぞを|勿体《もつたい》ない、|変性男子《へんじやうなんし》の|御手《おて》で|描《か》いて|貰《もら》ふといふことがあるか。|俺《おれ》の|絵《ゑ》で|満足《まんぞく》すべきものだ、|余《あま》り|増長《ぞうちよう》するない』
『ホホホホホ、どちらが|増長《ぞうちよう》してゐるのか、よく|考《かんが》へてみなさい。それだから|盲《めくら》|聾《つんぼ》と|神様《かみさま》が|仰有《おつしや》るのだ。|今《いま》に|口笛《くちぶえ》を|吹《ふ》いたが|最後《さいご》、お|前《まへ》に|苦《くる》しめられた|眷属《けんぞく》が|此処《ここ》へやつて|来《く》るから|覚悟《かくご》をなさい』
と|云《い》ふより|早《はや》く、ピユーピユーと|口笛《くちぶえ》をふいた。|俄《にはか》に|四辺《あたり》の|草《くさ》も|木《き》の|片《きれ》も|木《こ》の|葉《は》も|真黒《まつくろ》けの|蛇《へび》となり、|一本《いつぽん》の|角《つの》を|生《は》やし、|波《なみ》の|打《う》ち|寄《よ》する|如《ごと》く、|文助《ぶんすけ》の|四辺《あたり》を|力《ちから》|一杯《いつぱい》|口《くち》をあけて|襲撃《しふげき》して|来《き》た。|文助《ぶんすけ》は|杖《つゑ》を|打振《うちふ》り|打振《うちふ》り、キヤアキヤアと|断末魔《だんまつま》のやうな|声《こゑ》を|出《だ》し、|蛇《へび》の|群《むれ》を|踏《ふ》み|越《こ》えて、|命《いのち》カラガラ|西北《せいほく》さして|逃《に》げて|行《ゆ》く。|忽《たちま》ち|強烈《きやうれつ》なる|山颪《やまおろし》となり、|数多《あまた》の|蛇《へび》は|中空《ちうくう》|高《たか》く|舞《ま》ひ|上《あが》り、|空《そら》を|真黒《まつくろ》に|染《そ》めて、|文助《ぶんすけ》の|走《はし》つて|行《ゆ》く|数百間《すうひやくけん》の|前《まへ》まで|飛散《ひさん》してゐる。|文助《ぶんすけ》は|心《こころ》も|心《こころ》ならず、|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》しながら、|倒《こ》けつ|転《まろ》びつ|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・二・九 旧一一・一二・二四 松村真澄録)
第一四章 |天賊《てんぞく》〔一三五〇〕
|文助《ぶんすけ》は|悄然《せうぜん》として|黒蛇《くろへび》に|天地《てんち》|四方《しはう》を|包《つつ》まれながら、|何事《なにごと》も|神《かみ》に|任《まか》して|驀地《まつしぐら》に|進《すす》み|行《ゆ》く。ピタリと|玉子草《たまこ》の|生《は》えた|沼《ぬま》に|行当《ゆきあた》つた、|何《ど》うしてもここを|跋渉《ばつせふ》せなくては|前進《ぜんしん》することは|出来《でき》ぬ。|黒蛇《くろへび》は|此《この》|沼《ぬま》の|畔《ほとり》まで|追《お》つかけて|来《き》たが、|何《ど》うしたものか|水中《すいちう》へは|襲《おそ》うて|来《こ》なかつた。|文助《ぶんすけ》はヤツと|蛇《へび》の|難《なん》を|遁《のが》れ|一息《ひといき》したと|思《おも》へば、|此《この》|沼《ぬま》を|渡《わた》らねばならぬ、どこ|迄《まで》|広《ひろ》いか|遠《とほ》いか|見当《けんたう》のつかぬシクシク|原《ばら》である。そして|怪《あや》しの|虫《むし》が|足《あし》にたかつて|来《き》て|登《のぼ》りつき、|尺取虫《しやくとりむし》の|様《やう》な|恰好《かつかう》で|顔《かほ》の|方《はう》まで|這《は》うてくる|其《その》|気持《きもち》の|悪《わる》さ、|消《き》え|入《い》るばかりに|思《おも》はれて|来《き》た。|力《ちから》|限《かぎ》りに|之《これ》を|薙払《なぎはら》ひ、むしつては|落《おと》し、|漸《やうや》く|顔《かほ》だけは|中立地帯《ちうりつちたい》の|安全《あんぜん》を|得《え》て|進《すす》んで|行《ゆ》くと、|沢山《たくさん》な|人間《にんげん》の|頭《あたま》が|水面《すいめん》に|浮《うか》んでゐる。よくよく|見《み》れば、|自分《じぶん》が|今《いま》|迄《まで》|霊祭《みたままつ》りをしてやつた|知己《ちき》や|朋友《ほういう》の|霊界《れいかい》に|行《い》つた|者《もの》|及《およ》びまだ|現世《げんせ》に|居《を》る|筈《はず》の|人間《にんげん》の|顔《かほ》である。|文助《ぶんすけ》は|此《この》|時《とき》は|既《すで》に|目《め》が|余程《よほど》|明《あか》くなつてゐた。そして|其《その》|声《こゑ》の|色《いろ》によつて、|現界《げんかい》で|知己《ちき》となつた|信者《しんじや》は|皆《みな》|悟《さと》ることを|得《え》た。|真先《まつさき》に|現《あら》はれた|人間《にんげん》の|頭《あたま》は、|小北山《こぎたやま》に|永《なが》らく|参詣《さんけい》し、ヘグレ|神社《じんしや》の|信者《しんじや》であつた|久助《きうすけ》といふ|男《をとこ》である。
『オイ、お|前《まへ》は|久助《きうすけ》さまぢやないか、|何《なに》しにこんな|所《ところ》に|迷《まよ》うてゐるのだい、|結構《けつこう》な|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|霊祭《みたままつり》までしてやつてあるのに、なぜこんな|所《ところ》にうろついてゐるのか』
『お|前《まへ》が|神様《かみさま》の|職権《しよくけん》を|横領《わうりやう》して|猪口才《ちよこざい》な|霊祭《みたままつり》をしてやらうの、|天国《てんごく》へ|上《あ》げてやらうのと|慢心《まんしん》を|致《いた》したものぢやから、|天国《てんごく》へ|行《ゆ》くべき|俺《おれ》の|先祖《せんぞ》までが、これ|此《この》|通《とほ》り、こんな|所《ところ》に|堕《おと》されてゐるのだ。|祝詞《のりと》のお|蔭《かげ》で、|地獄《ぢごく》へまでは|行《ゆ》かないが、|地獄《ぢごく》に|等《ひと》しいこんな|沼《ぬま》の|中《なか》で|苦《くる》しんでゐるのは、|皆《みな》|貴様《きさま》が|神《かみ》さま|気取《きどり》になつて、|神様《かみさま》から|貰《もら》うた|俺《おれ》たちの|霊《みたま》を|左右《さいう》|致《いた》したからだ。ササ|何《ど》うしてくれる、|大先祖《おほせんぞ》が|地獄《ぢごく》に|堕《お》ちてるから、|霊祭《みたままつり》をして|高天原《たかあまはら》へ|上《あ》げてやらうなどと|吐《ほざ》きやがつて、こんな|所《ところ》へ|押込《おしこ》めておいたぢやないか』
『ソリヤ|貴様《きさま》が|悪《わる》いのだよ。おれが|霊祭《みたままつり》をした|時《とき》にや、|貴様《きさま》|霊媒《れいばい》に|憑《かか》つて……お|蔭《かげ》で|天国《てんごく》へ|救《すく》はれた、|地獄《ぢごく》の|苦《く》を|遁《のが》れました……と|喜《よろこ》びよつたぢやないか、|一旦《いつたん》|天国《てんごく》へ|上《のぼ》つて|又《また》|悪《あく》を|致《いた》し、こんな|所《ところ》へ|落《おと》されたのだらう、そんな|不足《ふそく》は|聞《き》きませぬぞや』
『|今《いま》の|宣伝使《せんでんし》といふ|奴《やつ》は、|皆《みな》|自分《じぶん》が|神様《かみさま》の|気取《きどり》になり、|神様《かみさま》の|神徳《しんとく》を|横領《わうりやう》して、|平然《へいぜん》と|構《かま》へてゐる|天賊《てんぞく》だから、そんな|奴《やつ》の|言霊《ことたま》が|何《ど》うして|大神様《おほかみさま》の|耳《みみ》に|達《たつ》するか、|皆《みな》|兇党界《きようたうかい》の|悪霊《あくれい》が、|貴様《きさま》の|声《こゑ》を|聞《き》いて|集《あつ》まり|来《きた》り、|俺《おれ》|達《たち》の|先祖《せんぞ》の|名《な》を|騙《かた》り、|天国《てんごく》へ|助《たす》けてくれたの|何《なん》のと、|嘘《うそ》を|言《い》つてゐるのだ。|霊《みたま》を|天国《てんごく》へ|上《あ》げるものは|大神様《おほかみさま》よりないのだ、|又《また》|大神様《おほかみさま》の|聖霊《せいれい》に|充《みた》された|予言者《よげんしや》のみ、|之《これ》をよくするのだ。|其《その》|外《ほか》の|宣伝使《せんでんし》の|分際《ぶんざい》として、|何《ど》うして|結構《けつこう》な|神様《かみさま》の|分霊《ぶんれい》が|左右《さいう》されるか、|不心得《ふこころえ》にも|程《ほど》があるぞ。|俺《おれ》の|子孫《しそん》は|貴様等《きさまら》|盲審神者《めくらさには》に|騙《だま》されて、|自分《じぶん》の|先祖《せんぞ》は|天国《てんごく》へ|行《い》つて|居《を》ると|云《い》つて|喜《よろこ》んでゐるが、|子孫《しそん》の|供物《くもつ》は|皆《みな》|兇党界《きようたうかい》にしてやられ、|可愛《かあい》い|子孫《しそん》の|側《そば》へも|近《ちか》づくことが|出来《でき》ない|様《やう》にしてしまつたのだ。お|前《まへ》に|限《かぎ》らずすべての|宣伝使《せんでんし》は|自我心《じがしん》が|強《つよ》く|癲狂《てんきやう》|痴呆《ちはう》の|輩《やから》だから、|大《だい》それた|神様《かみさま》の|権利《けんり》を|代理《だいり》するやうな|考《かんが》へでゐるのだから|困《こま》つたものだ。|地獄界《ぢごくかい》の|案内者《あんないしや》といふのは、|貴様等《きさまら》|如《ごと》き|天賊的《てんぞくてき》プロパガンディストの|仕業《しわざ》だ。サア|是《これ》から|俺《おれ》たちの|先祖《せんぞ》や|知己《ちき》を|迷《まよ》はしてくれたお|礼《れい》だ、チツタ|苦《くる》しうても|辛抱《しんばう》せい。これから|暫《しばら》く|此《この》|沼《ぬま》の|中《なか》へ|沈《しづ》めてブルブルをさしてやらう。さうなとせなくちや、|俺《おれ》たちの|虫《むし》がいえないワ、のう|熊八《くまはち》、テル、ヨク、|七《しち》、ヨツ、|賢太郎《けんたらう》、|権州《ごんしう》、さうぢやないか。お|富《とみ》、お|竹《たけ》、お|夏《なつ》|貴様《きさま》もチツと|来《こ》い、|此奴《こいつ》の|為《ため》には|被害者《ひがいしや》だ』
といふや|否《いな》や、「ワーツ」と|蜂《はち》の|巣《す》を|破《やぶ》つたやうな|声《こゑ》を|出《だ》して、|水面《すいめん》に|各《おのおの》|首《くび》をつき|出《だ》した。|数百千《すうひやくせん》のゴム|毬《まり》を|水中《すいちう》に|投《な》げたやうに、|円《まる》い|頭《あたま》が|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|数《かず》|限《かぎ》りもなく|浮上《うきあが》つて|来《き》た。
『|今《いま》|文助《ぶんすけ》が|言霊《ことたま》を|奏上《そうじやう》して|助《たす》けてやらう。|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せと|云《い》ふことがある。|知《し》らず|知《し》らずの|御無礼《ごぶれい》|御気障《おきざは》りだ。|神様《かみさま》も|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》して|下《くだ》さるだらう。これから|貴様《きさま》たちも、|俺《おれ》が|宣《の》り|直《なほ》しをするから|浮《うか》べるだらう、マアさう|一時《いつとき》に|喧《やかま》しくいふない。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
『コリヤ、|久助《きうすけ》は|一同《いちどう》の|代表者《だいへうしや》だが、そんな|濁《にご》つた|言霊《ことたま》は|益々《ますます》|俺《おれ》たちを|苦《くる》しむるものだ。そして|言霊《ことたま》を|奏上《そうじやう》して|救《すく》うてやらうとは|何《なん》だ。まだ|貴様《きさま》は|我《が》が|折《を》れぬのか、ここでお|詫《わび》を|致《いた》せばよし、まだ|我《が》をはるのなら、|此方《こちら》にも|考《かんが》へがあるぞ』
『|俺《おれ》は|何《なん》と|云《い》つても、|貴様《きさま》|達《たち》を|悪《あく》に|導《みちび》かうとしてやつたことぢやない、どうぞよくしてやらうと|思《おも》ふから、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|霊祭《みたままつり》をしたり、|貴様《きさま》|達《たち》の|子孫《しそん》に|言《い》ひ|付《つ》けて|鄭重《ていちよう》なお|給仕《きふじ》をさしてるのだ。そんな|不足《ふそく》は|聞《き》きたくはないワイ』
『|此奴《こいつ》ア|何《なん》と|云《い》つても|駄目《だめ》だ。オーイ、|皆《みな》の|連中《れんぢう》、|餓鬼《がき》も|人数《にんず》だ、かかれ かかれ』
と|下知《げち》するや、バサバサと|水《みづ》をもぐつて|幾千万《いくせんまん》とも|限《かぎ》りなく|大小《だいせう》|無数《むすう》の|頭《あたま》が|浮《う》き|上《あが》り、|口《くち》から|各《おのおの》|真黒《まつくろ》のエグイともにがいとも|知《し》れぬ、|煙草《たばこ》の|脂《ず》を|溶《と》いたやうな|水《みづ》を|吹《ふ》き、|四方《しはう》|八方《はつぱう》より|襲撃《しふげき》する。|文助《ぶんすけ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に、|早《はや》く|岸《きし》に|泳《およ》ぎつきたいものだと、|頭《あたま》に|躓《つまづ》き|乍《なが》ら|目《め》も|眩《くら》むばかりになつて、|殆《ほとん》ど|二時《ふたとき》ばかりを|無性矢鱈《むしやうやたら》にシクシク|原《ばら》の|膝《ひざ》を|没《ぼつ》する|許《ばか》りの|沼《ぬま》を|漸《やうや》く|向岸《むかふぎし》に|着《つ》いた。
|後《あと》|振返《ふりかへ》り|見《み》れば、|沢山《たくさん》の|首《くび》は|水際《みづぎは》まで|追《お》つかけ|来《きた》り、|恨《うら》めしさうな|顔《かほ》をして|眺《なが》めてゐる。|久助《きうすけ》の|頭《あたま》は|真先《まつさき》に|進《すす》んで、|目《め》を|怒《いか》らし、
『|俺達《おれたち》は|貴様《きさま》の|為《ため》に、|斯様《かやう》な|所《ところ》へ|押《お》し|込《こ》められてゐるが、|素《もと》より|案内者《あんないしや》の|貴様《きさま》が|悪《わる》かつた|為《ため》に|苦《くる》しんでゐるのだ。|決《けつ》して|元《もと》よりの|悪人《あくにん》ぢやない、|天国《てんごく》へ|進《すす》むだけの|資格《しかく》は|持《も》つてゐるのだ。|其《その》|証拠《しようこ》は|常《つね》から|神様《かみさま》を|信仰《しんかう》して|来《き》たのだ。|今《いま》に|瑞《みづ》の|御霊《みたま》が|現《あら》はれて、|水《みづ》の|中《なか》から|救《すく》つて|下《くだ》さるといふ|御沙汰《ごさた》が|今《いま》|下《くだ》つた|所《ところ》だから、|最早《もはや》お|前《まへ》を|恨《うら》んだ|所《ところ》で|仕方《しかた》がない。|綺麗《きれい》|薩張《さつぱり》と|大神様《おほかみさま》の|徳《とく》に|対《たい》して|忘《わす》れてやるから、これから|先《さき》、|気《き》をつけたがよからうぞ。キツと|自分《じぶん》の|神力《しんりき》で|祖先《そせん》の|霊《みたま》や|人《ひと》の|病気《びやうき》が|助《たす》かるなぞと|思《おも》うたら|当《あて》が|違《ちが》ふぞ。|皆《みな》|人《ひと》をかやうな|苦《くる》しい|所《ところ》へおとすばかりだから、|別《わか》れに|臨《のぞ》んで|一言《いちごん》|注意《ちゆうい》を|与《あた》へておく。|何《いづ》れ|八衢《やちまた》において|会《あ》ふかも|知《し》れない、それまでにチツと|心《こころ》を|直《なほ》しておくがよからう』
と|言《い》ふより|早《はや》く、|無数《むすう》の|頭《あたま》は|俄《にはか》に|白煙《はくえん》となつて、|沼《ぬま》の|二三間《にさんげん》|許《ばか》り|上《うへ》に|渦《うづ》をまき、|遂《つひ》にはそれが|紫色《むらさきいろ》に|変《へん》じ、|月《つき》の|如《ごと》き|玉《たま》となり、|沢山《たくさん》の|星《ほし》の|様《やう》なものが|其《その》|周囲《しうゐ》に|集《あつ》まり、|次第々々《しだいしだい》に|昇騰《しようとう》して|南《みなみ》の|天《てん》を|指《さ》して|昇《のぼ》つて|行《ゆ》く。|其《その》|中《うち》の|最《もつと》も|大《だい》なる|月《つき》の|如《ごと》き|玉《たま》は|久助《きうすけ》の|精霊《せいれい》であつた。|其《その》|他《た》の|小《ちひ》さき|星《ほし》の|如《ごと》き|光《ひかり》は、|何《いづ》れも|神《かみ》の|道《みち》に|在《あ》つて|忠実《ちうじつ》なる|信者《しんじや》なりし|者《もの》が、|宣伝使《せんでんし》に|誤《あやま》られて、|一時《いちじ》ここに|苦悶《くもん》を|続《つづ》けてゐたのである。|文助《ぶんすけ》は|此《この》|態《てい》を|見《み》て、|初《はじ》めて|悟《さと》り………
『ああ|自分《じぶん》は|実《じつ》に|慢心《まんしん》をして|居《を》つた、いかにも|久助《きうすけ》の|言《い》つた|通《とほり》だ。|厳《いづ》の|御霊《みたま》、|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|大神様《おほかみさま》、|貴神《あなた》の|御神徳《ごしんとく》を、|知《し》らず|知《し》らずに|慢心《まんしん》を|致《いた》して|自分《じぶん》の|物《もの》と|致《いた》して|居《を》りました。|重々《ぢゆうぢゆう》の|罪悪《ざいあく》をお|許《ゆる》し|下《くだ》さいませ。|御神諭《ごしんゆ》にある|天《てん》の|賊《ぞく》とは|全《まつた》く|吾々《われわれ》の|事《こと》で|厶《ござ》いました。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|詫《わ》びながら、|荒風《あらかぜ》たける|萱野ケ原《かやのがはら》を|当途《あてど》もなく|進《すす》んで|行《ゆ》く。|後《あと》へ|帰《かへ》らうとすれども、|何者《なにもの》か|後《うしろ》より|押《お》すやうに|思《おも》へて、|一歩《いつぽ》も|退《しりぞ》くことは|出来《でき》ぬ。|只《ただ》|機械的《きかいてき》に|馬車馬的《ばしやうまてき》に、|何者《なにもの》にか|制縛《せいばく》されつつあるやうな|心地《ここち》で、|心《こころ》ならずも|進《すす》み|行《ゆ》くのであつた。ここには|草原《くさはら》の|中《なか》に|可《か》なり|大《おほ》きな|平《ひら》たい|石《いし》があつて、ムクムクと|其《その》|石《いし》が|動《うご》いてゐる。ハテ|訝《いぶ》かしやと、|文助《ぶんすけ》は|立止《たちど》まつて|目《め》も|放《はな》たず|眺《なが》めてゐた。
(大正一二・二・九 旧一一・一二・二四 松村真澄録)
第一五章 |千引岩《ちびきいは》〔一三五一〕
|文助《ぶんすけ》は|重《おも》た|相《さう》な|石《いし》が、|土鼠《もぐら》が|持《も》つ|様《やう》に、ムクムクと|動《うご》くので、|此奴《こいつ》ア|不思議《ふしぎ》と|立止《たちどま》り|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》してゐると、|一人《ひとり》は|二十歳《にじつさい》|位《くらゐ》な|娘《むすめ》、|一人《ひとり》は|十八歳《じふはちさい》|位《くらゐ》な|男《をとこ》が|岩《いは》の|下《した》から|現《あら》はれて|来《き》た。|文助《ぶんすけ》は|何者《なにもの》ならむと|身構《みがま》へしてゐると、|男女《だんぢよ》|二人《ふたり》は|文助《ぶんすけ》の|側《そば》へ|馴々《なれなれ》しくよつて|来《き》て、
『お|父《とう》さま、|能《よ》う|来《き》て|下《くだ》さいました。|私《わたくし》は|年子《としこ》で|厶《ござ》います……|私《わたくし》は|平吉《へいきち》で|厶《ござ》います』
『|私《わたし》には、|成程《なるほど》お|年《とし》、|平吉《へいきち》といふ|二人《ふたり》の|子《こ》はあつた。|併《しか》しながら|其《その》|子《こ》は、|姉《あね》は|三《みつ》つの|年《とし》に、|弟《おとうと》は|二《ふた》つの|年《とし》に|死《し》んだ|筈《はず》だ。お|前《まへ》のやうな|大《おほ》きな|子《こ》を|持《も》つた|筈《はず》はない、ソラ|大方《おほかた》|人違《ひとちがひ》だらう』
|年子《としこ》『|私《わたし》は|三《みつ》つの|年《とし》に|現界《げんかい》を|去《さ》つて、あなたの|側《そば》を|離《はな》れ、|霊界《れいかい》へ|出《で》て|来《き》ました。さうすると|沢山《たくさん》な、お|父《とう》さまに|騙《だま》された|人《ひと》がやつて|来《き》て、|彼奴《あいつ》は|文助《ぶんすけ》の|娘《むすめ》だと|睨《にら》みますので、|居《を》るにも|居《を》られず、|行《ゆ》く|所《ところ》へも|行《ゆ》けず、|今日《けふ》で|十六年《じふろくねん》の|間《あひだ》、|此《この》|萱野ケ原《かやのがはら》で|暮《くら》して|来《き》ました。そして|毎日《まいにち》ここに|隠《かく》れて、|姉弟《きやうだい》が|住居《すまゐ》をして|居《を》ります。|霊界《れいかい》へ|来《き》てから、ここまで|成人《せいじん》したのです』
『|成程《なるほど》、さう|聞《き》けばどこともなしに|女房《にようばう》に|似《に》た|所《ところ》もあり、|私《わし》の|記憶《きおく》に|残《のこ》つてゐるやうだ。そしてお|前等《まへら》|二人《ふたり》は|永《なが》い|間《あひだ》|此処《ここ》ばかりに|居《を》つたのか』
|平吉《へいきち》『ハイ、|姉《ねえ》さまと|二人《ふたり》が|木《こ》の|実《み》を|取《と》つたり、|芋《いも》を|掘《ほ》つたり、いろいろとして、|今日《けふ》|迄《まで》|暮《くら》して|来《き》ました。|人《ひと》に|見《み》つけられようものなら、すぐに、お|前《まへ》の|親《おや》は|俺《おれ》をチヨロまかして、こんな|所《ところ》へ|落《おと》しよつたと|云《い》つて|責《せ》めますから、それが|苦《くる》しさに、|永《なが》い|間《あひだ》|穴住居《あなずまゐ》をして|居《ゐ》ました』
と|涙《なみだ》を|滝《たき》の|如《ごと》くに|流《なが》し、|其《その》|場《ば》で|姉弟《きやうだい》は|泣《な》き|伏《ふ》して|了《しま》つた。|文助《ぶんすけ》は|手《て》を|組《く》み、|涙《なみだ》を|流《なが》しながら|思案《しあん》にくれてゐると、|後《うしろ》から|文助《ぶんすけ》の|背《せ》を|叩《たた》いて、
『オイ|文助《ぶんすけ》』
といふ|者《もの》がある。よくよく|見《み》れば、|生前《せいぜん》に|見覚《みおぼえ》のある|竜助《りうすけ》であつた。|文助《ぶんすけ》は|驚《おどろ》いて、
『イヤ、お|前《まへ》は|竜助《りうすけ》か、|根《ね》つから|年《とし》がよらぬぢやないか』
『|折角《せつかく》お|前《まへ》が|生前《せいぜん》に|於《おい》ていろいろと|結構《けつこう》な|話《はなし》をしてくれたが、|併《しか》しながら|其《その》|話《はなし》はスツカリ|霊界《れいかい》へ|来《き》て|見《み》ると、|間違《まちが》ひだらけで、サツパリ|方角《はうがく》が|分《わか》らぬやうになり、|今日《けふ》で|十年《じふねん》の|間《あひだ》、|此《この》|原野《げんや》に|彷徨《さまよ》うてゐるのだ、これから|先《さき》へ|行《ゆ》くと、|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》があるが、そこから|追《お》ひかへされて、かやうな|所《ところ》で|面白《おもしろ》からぬ|生活《せいくわつ》をやつてゐるのだ。お|前《まへ》の|為《ため》にどれだけ|苦《くる》しんでゐる|者《もの》があるか|分《わか》つたものでないワ』
『|誰《たれ》もかれも、|会《あ》ふ|人《ひと》|毎《ごと》に|不足《ふそく》を|聞《き》かされ、たまつたものぢやない。ヤツパリ|私《わたし》の|言《い》ふ|事《こと》は|違《ちが》うて|居《を》つたのかなア』
『お|前《まへ》はウラナイ|教《けう》を|俺《おれ》に|教《をし》へてくれた|先生《せんせい》だが、あの|教《をしへ》は|皆《みな》|兇党界《きようたうかい》の|神《かみ》の|言葉《ことば》だつた。それ|故《ゆゑ》|妙《めう》な|所《ところ》へ|落《おと》される|所《ところ》だつたが、|産土《うぶすな》の|神様《かみさま》の|御《お》かげによつて、|霊界《れいかい》の|方《はう》へやつて|貰《もら》うたのだ。|併《しか》しながら|生前《せいぜん》に|於《おい》て|誠《まこと》の|神様《かみさま》に|反《そむ》き、|兇党界《きようたうかい》ばかりを|拝《をが》んだ|罪《つみ》が|酬《むく》うて|来《き》て、|智慧《ちゑ》は|眩《くら》み、|力《ちから》はおち、かやうな|所《ところ》に|修業《しうげふ》を|致《いた》して|居《を》るのだ。お|前《まへ》の|娘《むすめ》、|息子《むすこ》だつてヤツパリお|前《まへ》の|脱線《だつせん》した|教《をしへ》を|聞《き》いてゐたものだから、|俺達《おれたち》と|同《おな》じやうに、こんな|荒野ケ原《あらのがはら》に|惨《みぢ》めな|生活《せいくわつ》をしてゐるのだ。そして|大勢《おほぜい》の|者《もの》にお|前《まへ》の|子《こ》だからと|云《い》つて、|憎《にく》まれてゐるのだ、|俺《おれ》はいつも|二人《ふたり》が|可愛相《かあいさう》なので、|大勢《おほぜい》に|隠《かく》れて、チヨコ チヨコ|喰物《くひもの》を|持《も》つて|来《き》たり、|又《また》|淋《さび》しからうと|思《おも》つて|訪問《はうもん》してやるのだよ』
『あ、|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》たものだなア、|今《いま》は|改心《かいしん》して|三五教《あななひけう》に|入《はい》つてゐるのだ。マ、|其《その》|時《とき》は|悪気《わるぎ》でしたのでないから、マ、|許《ゆる》して|貰《もら》はな|仕方《しかた》がない、どうぞ|皆《みな》さまに|会《あ》つてお|詫《わび》をしたいものだ』
『|三五教《あななひけう》だつて、お|前《まへ》の|慢心《まんしん》が|強《つよ》いから、|肝腎《かんじん》の|神様《かみさま》の|教《をしへ》は|伝《つた》はらず、ヤツパリお|前《まへ》の|我《が》ばかりで、|人《ひと》を|導《みちび》いて|来《き》たのだから、|地獄道《ぢごくだう》へ|堕《お》ちたのもあり、ここに|迷《まよ》うて|居《ゐ》るのも|沢山《たくさん》ある。なにほど|尊《たふと》い|神《かみ》の|教《をしへ》でも、|取次《とりつぎ》が|間違《まちが》つたならば、|信者《しんじや》は|迷《まよ》はざるを|得《え》ないのだよ』
『|何《なん》と|難《むつ》かしいものだなア。|吾々《われわれ》|宣伝使《せんでんし》は|一体《いつたい》|何《ど》うしたらいいのだらうか、|訳《わけ》が|分《わか》らぬやうになつて|了《しま》つた』
『|何《なん》でもない|事《こと》だよ、|何事《なにごと》も|皆《みな》|神様《かみさま》の|御蔭《おかげ》、|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》に|仍《よ》つて|人《ひと》が|助《たす》かり、|自分《じぶん》も|生《い》き|働《はたら》き、|人《ひと》の|上《かみ》に|立《た》つて|教《をし》へる|事《こと》が|出来《でき》るのだ。|自分《じぶん》の|力《ちから》は|一《ひと》つも|之《これ》に|加《くは》はるのでないといふ|事《こと》が|合点《がつてん》が|行《ゆ》けば、それでお|前《まへ》は|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》だ。|余《あま》り|自分《じぶん》の|力《ちから》を|頼《たよ》つて|慢心《まんしん》を|致《いた》すと、|助《たす》かるべき|者《もの》も|助《たす》からぬやうな|事《こと》が|出来《しゆつたい》するのだよ。|是《これ》から|先《さき》には|沢山《たくさん》のお|前《まへ》に|導《みちび》かれた|連中《れんぢう》が|苦《くる》しんでゐるから、|其《その》|積《つも》りで|行《い》つたがよい。|二人《ふたり》の|娘《むすめ》、|息子《むすこ》だつてお|前《まへ》の|為《ため》に|可愛相《かあいさう》なものだ。|筆先《ふでさき》に「|子《こ》に|毒《どく》をのます」と|書《か》いてあるのは|此《この》|事《こと》だ。|合点《がつてん》がいつたか』
と、どこともなしに|竜助《りうすけ》の|言葉《ことば》は|荘重《さうちよう》になつて|来《き》た。|文助《ぶんすけ》は|思《おも》はず|神《かみ》の|言葉《ことば》のやうに|思《おも》はれてハツと|首《くび》を|下《さ》げ、|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》にくれてゐる。|忽《たちま》ちあたりがクワツと|明《あか》るくなつたと|思《おも》へば、|竜助《りうすけ》は|大火団《だいくわだん》となつて|中空《ちうくう》に|舞《ま》ひのぼり、|東《ひがし》の|方面《はうめん》|指《さ》して|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|之《これ》は|文助《ぶんすけ》の|産土《うぶすな》の|神《かみ》であつた。
|産土《うぶすな》の|神《かみ》はお|年《とし》、|平吉《へいきち》の|二人《ふたり》を|憐《あは》れみ、|神務《しんむ》の|余暇《よか》に|此処《ここ》へ|現《あら》はれて、|二人《ふたり》を|助《たす》け|給《たま》ひつつあつたのである。|文助《ぶんすけ》は|始《はじ》めて|産土《うぶすな》の|神《かみ》の|御仁慈《ごじんじ》を|悟《さと》り、|地《ち》にひれ|伏《ふ》して|涕泣《ていきふ》|感謝《かんしや》を|稍《やや》|久《ひさ》しうした。
|文助《ぶんすけ》は|二人《ふたり》に|向《むか》い、
『お|前《まへ》たち|二人《ふたり》は、|子供《こども》でもあり、まだ|罪《つみ》も|作《つく》つてゐないから、ウラナイ|教《けう》の|御神徳《ごしんとく》で|天国《てんごく》へ|行《い》つて|居《ゐ》る|者《もの》だとのみ|思《おも》つてゐたのに、|斯様《かやう》な|所《ところ》で|苦労《くらう》してゐたとは|気《き》がつかなかつた。|之《これ》も|全《まつた》く|私《わたし》の|罪《つみ》だ。どうぞ|許《ゆる》してくれ、さぞさぞ|苦労《くらう》をしたであらうな』
お|年《とし》『お|父《とう》さま、あなたの|吾々《われわれ》を|思《おも》うて|下《くだ》さる|御志《おこころざし》は|本当《ほんたう》に|有難《ありがた》う|厶《ござ》いますが、|何《なん》と|云《い》つても、|誠《まこと》の|神様《かみさま》の|道《みち》に|反《そむ》き、|兇党界《きようたうかい》の|神《かみ》に|媚《こ》び|諂《へつら》ひ、|日々《にちにち》|罪《つみ》を|重《かさ》ねてゐられるものですから、|私《わたし》たちの|耳《みみ》にも、|現界《げんかい》の|消息《せうそく》がチヨコ チヨコ|聞《きこ》えて、|其《その》|度《たび》|毎《ごと》に|剣《つるぎ》を|呑《の》むやうな|心持《こころもち》で|厶《ござ》いました。|今日《けふ》も|亦《また》|文助《ぶんすけ》の|導《みちび》きで|兇党界行《きようたうかいゆき》があつたが、|産土様《うぶすなさま》のお|蔭《かげ》で|霊界《れいかい》へ|救《すく》はれたといふ|噂《うはさ》を|幾《いく》ら|聞《き》いたか|分《わか》りませぬ。|弟《おとうと》も|余《あま》り|恥《はづ》かしいと|云《い》つて|外《そと》へ|出《で》ず、|又《また》|外《そと》へ|出《で》ても|大勢《おほぜい》の|者《もの》に|睨《にら》まれるのが|辛《つら》さに|狐《きつね》のやうに、|穴《あな》を|掘《ほ》つて、|此《この》|岩《いは》の|下《した》に|生活《せいくわつ》を|続《つづ》けて|来《き》ました。これだけ|広《ひろ》い|野原《のはら》で、|石《いし》なとなければ|印《しるし》がないので、|産土様《うぶすなさま》のお|蔭《かげ》で、|此《この》|石《いし》を|一《ひと》つ|運《はこ》んで|貰《もら》ひ、これを|目当《めあて》に|暮《くら》してゐます。|石《いし》といふものは、さやります|黄泉大神《よもつおほかみ》と|云《い》つて、これさへあれば|敵《てき》は|襲来《しふらい》しませぬ。|此《この》|岩《いは》のお|蔭《かげ》で、|姉弟《きやうだい》がやうやうとここまで|成人《せいじん》したので|厶《ござ》います。お|父《とう》さまも、|一時《いちじ》も|早《はや》く|御改心《ごかいしん》を|遊《あそ》ばして、|吾々《われわれ》を|天国《てんごく》へ|行《ゆ》くやうにして|下《くだ》さい』
『|今《いま》までは、|吾々《われわれ》が|祝詞《のりと》の|力《ちから》に|仍《よ》つて|天国《てんごく》へ|救《すく》へるもの、|又《また》は|導《みちび》けるものと|思《おも》うてゐたが|大変《たいへん》な|間違《まちがひ》だつた。これは|神様《かみさま》の|御力《おちから》に|仍《よ》つて|救《すく》はれるのだつた、|今《いま》|迄《まで》は|自分《じぶん》の|力《ちから》で|人《ひと》を|救《すく》うと|思《おも》ひ、|又《また》|人《ひと》の|病《やまひ》を|自分《じぶん》の|力《ちから》で|直《なほ》すと|思《おも》うたのが|慢心《まんしん》だつたのだ。もう|此《この》|上《うへ》は|神様《かみさま》に|何事《なにごと》も|任《まか》して、|御指図《おさしづ》を|受《う》ける|外《ほか》はない。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|親子《おやこ》|三人《さんにん》は|荒野ケ原《あらのがはら》に|端坐《たんざ》して、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らした。
|因《ちなみ》に|石《いし》といふものは、|真《しん》を|現《あら》はすものである。そして、|所在《あらゆる》|虚偽《きよぎ》と|罪悪《ざいあく》と|醜穢《しうゑ》を|裁断《さいだん》する|所《ところ》の|神力《しんりき》の|備《そな》はつたものである。|神典《しんてん》|古事記《こじき》にも、|黄泉平坂《よもつひらさか》の|上《うへ》に|千引《ちびき》の|岩《いは》をおかれたのは、|黄泉国《よもつくに》の|曲《まが》を|裁断《さいだん》する|為《ため》であつた。|人間《にんげん》の|屋敷《やしき》の|入口《いりぐち》に|大《おほ》きな|岩《いは》を|立《た》てて、|門《もん》に|代用《だいよう》するのも|外来《ぐわいらい》の|悪魔《あくま》を|防《ふせ》ぐ|為《ため》である。|又《また》|家屋《かをく》の|周囲《しうゐ》に|延石《のべいし》を|引《ひ》きまはすのも、|千引《ちびき》の|岩《いは》の|古事《こじ》にならひ|悪魔《あくま》の|襲来《しふらい》を|防《ふせ》ぐ|為《ため》である。|築山《つきやま》を|石《いし》を|以《もつ》て|飾《かざ》るのも|神《かみ》の|真《しん》を|現《あら》はす|為《ため》であり、|又《また》|悪魔《あくま》の|襲来《しふらい》を|防《ふせ》ぐ|為《ため》である。そして|所在《あらゆる》|植物《しよくぶつ》を|庭園《ていゑん》に|栽培《さいばい》するのは|愛《あい》を|表徴《へうちよう》したのである。|人間《にんげん》の|庭園《ていゑん》は|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|信真《しんしん》の|光《ひかり》を|惟神的《かむながらてき》に|現《あら》はした|至聖所《しせいじよ》である。|故《ゆゑ》に|之《これ》を|坪《つぼ》の|内《うち》とも|花園《はなぞの》とも|称《しよう》するのである。|天国《てんごく》の|諸団体《しよだんたい》の|有様《ありさま》は、すべて|美《うる》はしき|石《いし》を|配置《はいち》し、|所在《あらゆる》|植物《しよくぶつ》を|植《う》ゑつけられた|庭園《ていゑん》に|類似《るゐじ》したものである。それから|石《いし》は|砿物《くわうぶつ》であり|玉留魂《たまつめむすび》である。|故《ゆゑ》に|神様《かみさま》の|御霊《みたま》を|斎《まつ》るのは|所謂《いはゆる》|霊国《れいごく》の|真相《しんさう》を|現《あら》はすもので、|月《つき》の|大神《おほかみ》の|御神徳《ごしんとく》に|相応《さうおう》するが|故《ゆゑ》に、|石《いし》の|玉《たま》を|以《もつ》て|御神体《ごしんたい》とするのである。これ|故《ゆゑ》に|霊国《れいごく》の|神《かみ》の|御舎《みあらか》は|皆《みな》|石《いし》を|以《もつ》て|造《つく》られ、|天国《てんごく》は|木《き》を|以《もつ》て、|其《その》|宮《みや》を|造《つく》られてある。|木《き》は|愛《あい》に|相応《さうおう》し、|太陽《たいやう》の|熱《ねつ》に|和合《わがふ》するが|故《ゆゑ》である。|大本《おほもと》の|御神体《ごしんたい》が|石《いし》であつたから、|何《なん》でも|無《な》い|神《かみ》だと|嘲笑《てうせう》してゐるそこらあたりの|新聞記事《しんぶんきじ》などは、|実《じつ》に|霊界《れいかい》の|真理《しんり》に|到達《たうたつ》せざる|癲狂《てんきやう》|痴呆《ちはう》であつて、|新聞記者《しんぶんきしや》|自《みづか》らの|不明《ふめい》を|表白《へうはく》してゐるものである。
ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・二・九 旧一一・一二・二四 松村真澄録)
第一六章 |水車《みづぐるま》〔一三五二〕
|文助《ぶんすけ》は|久《ひさ》し|振《ぶり》に|会《あ》うた|二人《ふたり》の|子供《こども》を|引連《ひきつ》れて、|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》に|進《すす》まむとしたが、|何《ど》うしても|二人《ふたり》の|子供《こども》は|其《その》|時《とき》に|限《かぎ》つて|体《からだ》が|磐石《ばんじやく》の|如《ごと》くになり、|動《うご》く|事《こと》が|出来《でき》なかつた。|之《これ》は|産土《うぶすな》の|神《かみ》の|取計《とりはか》らひによつて、かくなつたのである。|文助《ぶんすけ》が|一念《いちねん》|悔悟《くわいご》の|上《うへ》は|大神《おほかみ》より|直接《ちよくせつ》に|産土神《うぶすながみ》に|伝《つた》へられ、それより|各《おのおの》|霊《みたま》の|安住所《あんぢうしよ》に|導《みちび》かるる|事《こと》になつてゐるが|故《ゆゑ》である。|文助《ぶんすけ》も|吾《わが》|子《こ》の|側《そば》に|暫《しばら》くなりと|居《を》りたかつた。されど|何者《なにもの》にか|後《うしろ》より|押《お》さるる|様《やう》にあつて、|次第々々《しだいしだい》に|遠《とほ》ざかり|行《ゆ》く。|僅《わづか》に|後《あと》ふりかへつて|茲《ここ》に|親子《おやこ》|三人《さんにん》は|悲《かな》しき|別《わか》れを|告《つ》げた。
|文助《ぶんすけ》は|只《ただ》|一人《ひとり》、トボトボ|薄《すすき》の|穂《ほ》にも|怖《お》ぢ|恐《おそ》れながら、|西北《せいほく》をさして|機械的《きかいてき》に|進《すす》み|行《ゆ》くと、ドンと|行当《ゆきあた》つたのは|水車小屋《すいしやごや》であつた。|俄《にはか》に|空腹《くうふく》を|感《かん》じたので、|水車小屋《すいしやごや》に|立寄《たちよ》つて|食物《しよくもつ》を|乞《こ》はむと|門口《かどぐち》に|訪《おとな》へば|豈《あに》|図《はか》らむや、|自分《じぶん》の|生前《せいぜん》に|仕《つか》へて|居《ゐ》た|実父母《じつふぼ》が、|粉《こな》まぶれになつて|働《はたら》いてゐた。|文助《ぶんすけ》は|驚《おどろ》いてよくよく|其《その》|顔《かほ》をすかし|見《み》た。|老夫婦《らうふうふ》も|亦《また》|文助《ぶんすけ》の|顔《かほ》を|穴《あな》のあく|程《ほど》|睨《にら》んでゐる。やや|暫《しば》し|互《たがひ》に|首《くび》をかたげ|沈黙《ちんもく》の|幕《まく》がおりた。|此《この》|二人《ふたり》は|冬助《とうすけ》、おくみと|云《い》ふ|文助《ぶんすけ》の|両親《りやうしん》である。|十年《じふねん》|許《ばか》り|前《まへ》に|現界《げんかい》を|去《さ》つてここに|第二《だいに》の|新生涯《しんしやうがい》に|入《い》り、|水車小屋《すいしやごや》の|主《あるじ》となつてゐたのである。
|冬助《とうすけ》『お|前《まへ》は|伜《せがれ》の|文助《ぶんすけ》ぢやないか』
『はい、|左様《さやう》で|厶《ござ》ります。|貴方《あなた》はお|父《とう》さま、お|母《かあ》さま、どうしてマア、こんな|処《ところ》で|斯様《かやう》な|事《こと》をして|居《を》られますのか。チツとも|合点《がつてん》が|行《ゆ》きませぬ』
『ここはお|前《まへ》の|目《め》では|何《ど》う|見《み》えるか|知《し》らぬが、|大変《たいへん》な|処《ところ》だよ。お|前《まへ》の|為《ため》に|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》は|天国《てんごく》の|団体《だんたい》から|下《おろ》されて、|賠償的《ばいしやうてき》|労働《らうどう》に|従事《じゆうじ》してるのだよ』
『ここは|水車小屋《すいしやごや》では|厶《ござ》りませぬか。ヤツパリ|霊界《れいかい》に|於《おい》ても|現界《げんかい》|同様《どうやう》に|水車小屋《すいしやごや》があるのですかな』
おくみ『お|前《まへ》は|若《わか》い|時《とき》から|随分《ずいぶん》|我《が》の|強《つよ》いヤンチヤ|男《をとこ》で|神様《かみさま》の|事《こと》は|少《すこ》しも|耳《みみ》に|這入《はい》らず、|其《その》|天罰《てんばつ》で|到頭《たうとう》|目《め》を|病《や》み、|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|手《て》を|尽《つく》した|揚句《あげく》、しよう|事《こと》なしに|神様《かみさま》の|道《みち》を|信仰《しんかう》する|様《やう》になつたのだ。|併《しか》しながら|三《み》つ|児《ご》のくせは|百《ひやく》|迄《まで》と|云《い》つて、|持《も》つて|生《うま》れた|我情《がじやう》|我慢《がまん》は|容易《ようい》に|直《なほ》らず、ウラナイ|教《けう》や|三五教《あななひけう》の|取次《とりつぎ》をして|受付《うけつけ》に|頑張《ぐわんば》り、いろいろと|脱線的《だつせんてき》|教理《けうり》を|伝《つた》へたものだから、お|前《まへ》の|為《ため》に|地獄《ぢごく》へ|迷《まよ》うて|来《く》るものは|何程《いくら》あるか|知《し》れぬ。そして|不思議《ふしぎ》な|事《こと》には、お|前《まへ》の|導《みちび》いた|連中《れんぢう》は|皆《みな》|此《この》|道《みち》を|通《とほ》るのだ。お|前《まへ》は|沢山《たくさん》の|人間《にんげん》を|地獄《ぢごく》に|導《みちび》いた|科《とが》によつて、|地獄《ぢごく》の|苦《くる》しみを|受《う》けねばならぬ|処《ところ》だ。それを|親《おや》として|如何《どう》して|黙《だま》つて|見《み》て|居《ゐ》る|事《こと》が|出来《でき》ようか。|親《おや》となり|子《こ》と|生《うま》れるのも|皆《みな》|深《ふか》い|因縁《いんねん》があつての|事《こと》だ。それ|故《ゆゑ》|自分《じぶん》は|下層天国《かそうてんごく》の|天人《てんにん》の|団体《だんたい》に|加《くは》へられ|夫婦《ふうふ》が|楽《たの》しい|生活《せいくわつ》を|送《おく》つて|居《を》つたが、お|前《まへ》が|現界《げんかい》に|於《おい》て|神様《かみさま》のお|道《みち》の|邪魔《じやま》を|致《いた》して|居《を》るがために、|大勢《おほぜい》の|者《もの》が|地獄《ぢごく》に|堕《お》ち|行《ゆ》き、|子《こ》や|孫《まご》に|至《いた》るまで|中有界《ちううかい》に|迷《まよ》うと|云《い》ふ|事《こと》を、エンゼルから|聞《き》いたによつて、せめては|子《こ》の|罪《つみ》を|軽《かる》くしてやりたい、|又《また》|世間《せけん》の|人間《にんげん》を|一人《ひとり》でも|助《たす》けて|吾《わが》|子孫《しそん》の|罪《つみ》を|軽《かる》くしたいと|思《おも》うて、|神様《かみさま》にお|願《ねが》ひ|致《いた》し、|此《この》|荒野ケ原《あらのがはら》の|中央《まんなか》に|水車小屋《すいしやごや》を|建《た》てて|此《この》|通《とほ》り|艱難《かんなん》|苦労《くらう》をしてるのだ。ここを|通《とほ》る|旅人《たびびと》は|大抵《たいてい》|偽宣伝使《にせせんでんし》の|教《をしへ》によつて|迷《まよ》うて|来《く》るものが|多《おほ》い。|自分《じぶん》の|息子《むすこ》も|其《その》|一人《ひとり》だから、|何卒《どうぞ》|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》が|犠牲《ぎせい》になつて、|皆様《みなさま》の|罪《つみ》を|洗《あら》ひ|清《きよ》め、|天国《てんごく》へ|上《のぼ》らし|度《た》いと|思《おも》ひ|神様《かみさま》にお|願《ねが》ひすれば、|沢山《たくさん》の|亡者《まうじや》の|罪《つみ》|穢《けが》れ|垢《あか》|等《など》が|吾等《われら》|夫婦《ふうふ》の|体《からだ》に|堆高《うづたか》く|集《あつ》まり|来《きた》り、どうしても|落《お》ちないので、|夫婦《ふうふ》が|互《たがひ》に|搗臼《つきうす》の|中《なか》に|体《からだ》を|沈《しづ》め、|地獄《ぢごく》|以上《いじやう》の|苦《くるし》みをして|皆様《みなさま》のために|霊《みたま》を|研《みが》いて|居《を》るのだ』
とばかりワツと|泣《な》き|伏《ふ》す。|文助《ぶんすけ》は|父母《ふぼ》の|恩《おん》の|何処《どこ》|迄《まで》も|限《かぎ》りなきを|感謝《かんしや》し、|只《ただ》|両手《りやうて》を|合《あは》して|泣《な》きじやくりするのみであつた。
|文助《ぶんすけ》は|水車小屋《すいしやごや》の|中《なか》へ|這《はい》つて|見《み》れば|大《おほ》きな|二《ふた》つの【つぼ】があつて、そこには|縦柱《たてばしら》の|杵《きね》が|二本《にほん》|互《たがひ》に|臼《うす》を|搗《つ》いてゐる。ここは|両親《りやうしん》が|替《か》はる|替《が》はる|臼《うす》の|中《なか》へ|這入《はい》つて|此《この》|柱杵《はしらぎね》に|体《からだ》の|垢《あか》を|摺《す》り|落《おと》される|修行場《しうぎやうば》である。|米《こめ》や|麦《むぎ》を|搗《つ》く|水車《すゐしや》とは|余程《よほど》|趣《おもむき》が|変《かは》つてゐる。|併《しか》しながら、トントンと|臼搗《うすつ》きする|毎《ごと》に|何処《どこ》ともなしに|白《しろ》い|粉《こな》が|立《た》つて|二人《ふたり》の|体《からだ》は|灰《はひ》を|被《かぶ》つた|様《やう》になつて|居《ゐ》た。|文助《ぶんすけ》は|両親《りやうしん》の|手《て》を|曳《ひ》き|形《かたち》ばかりの|小《ちひ》さい|居間《ゐま》に|座《ざ》を|占《し》め、|両親《りやうしん》に|向《むか》つて|心《こころ》の|底《そこ》から|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|神《かみ》に|謝罪《しやざい》した。そして、
『|自分《じぶん》が|両親《りやうしん》に|代《かは》り|水車《すゐしや》の|苦業《くげふ》を|致《いた》しますから、|両親《りやうしん》や|吾《わが》|子《こ》を|助《たす》けて|頂《いただ》きたい』
と|熱涙《ねつるゐ》を|流《なが》して|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らした。|両親《りやうしん》は|又《また》|一生懸命《いつしやうけんめい》に、
『|吾々《われわれ》は|仮令《たとへ》|如何《いか》なる|苦労《くらう》を|致《いた》しましても、|少《すこ》しも|厭《いと》ひませぬ。|何卒《なにとぞ》|吾《わが》|子《こ》の|文助《ぶんすけ》や|孫《まご》が|天国《てんごく》に|救《すく》はれます|様《やう》に……』
と|一心不乱《いつしんふらん》に|涙《なみだ》と|共《とも》に|祈《いの》つてゐる。そこへ|宙空《ちうくう》を|照《てら》して|此《この》|場《ば》に|下《くだ》り|来《きた》る|大火団《だいくわだん》があつた。|火団《くわだん》は|忽《たちま》ち|五色《ごしき》の|色《いろ》と|変《へん》じ、|其《その》|中《なか》より|容色《ようしよく》|端麗《たんれい》なる|美人《びじん》が|現《あら》はれた。|之《これ》は|初稚姫《はつわかひめ》の|聖霊《せいれい》である。|親子《おやこ》はハツと|頭《かうべ》を|下《さ》げ、
『|何《いづ》れのエンゼルか|存《ぞん》じませぬが、|此《この》|穢《むさく》るしい|冬助《とうすけ》の|処《ところ》へ|御降臨《ごかうりん》|下《くだ》さいまして|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります。|就《つ》いては|如何《いか》なる|御用《ごよう》で|厶《ござ》りますか、|承《うけたま》はり|度《た》う|厶《ござ》ります』
『|妾《わらは》は|高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》よりの|命《めい》によつて、|只今《ただいま》|此処《ここ》に|現《あら》はれたエンゼルで|厶《ござ》ります。|冬助《とうすけ》、おくみの|両人《りやうにん》が|世人《よびと》を|思《おも》ひ|吾《わが》|子孫《しそん》を|思《おも》ふ|真心《まごころ》が|天《てん》に|通《つう》じ、|子孫《しそん》の|罪《つみ》を|許《ゆる》され|愈《いよいよ》もとの|天国《てんごく》へ|帰《かへ》らるる|事《こと》となりました。さア|御夫婦《ごふうふ》|殿《どの》、|妾《わらは》に|跟《つ》いてお|出《い》でなさいませ、|妾《わらは》は|三五教《あななひけう》の|初稚姫《はつわかひめ》で|厶《ござ》りますよ』
おくみ『|何《なん》とも|申《まを》し|上《あ》げやうのない|有難《ありがた》い|事《こと》で|厶《ござ》ります。|併《しか》しながら|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》は|如何《いか》なる|苦労《くらう》を|致《いた》しましても|少《すこ》しも|厭《いと》ひませぬ。|何卒《なにとぞ》|伜《せがれ》の|文助《ぶんすけ》を|天国《てんごく》に|救《すく》うて|下《くだ》されば、|吾々《われわれ》が|救《すく》はれたよりも|何程《なにほど》|有難《ありがた》いか|知《し》りませぬ。|何卒《なにとぞ》|其《その》お|取計《とりはか》らひを|願《ねが》ひ|度《た》う|存《ぞん》じます』
『|其《その》|願《ねがひ》は|尤《もつと》もなれども、|神界《しんかい》の|規則《きそく》は|動《うご》かす|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|此《この》|文助《ぶんすけ》|殿《どの》はまだ|現界《げんかい》に|於《おい》て|尽《つく》すべき|仕事《しごと》も|残《のこ》つて|居《を》りますれば、|再《ふたた》び|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》まで|送《おく》り、それより|現界《げんかい》に|返《かへ》さねばならぬ|事《こと》となつてゐます。|貴方等《あなたがた》は|先《さき》に|行《い》つて|天国《てんごく》の|生涯《しやうがい》を|送《おく》り、|子孫《しそん》の|上《のぼ》り|来《きた》るをお|待《ま》ちなさるが|宜《よろ》しい』
|冬助《とうすけ》『|然《しか》らば|仰《おほ》せに|従《したが》ひ、|冬助《とうすけ》お|供《とも》に|仕《つか》へませう』
|文助《ぶんすけ》『|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります。|何分《なにぶん》|両親《りやうしん》を|宜《よろ》しくお|願《ねが》ひします。|私《わたし》は|両親《りやうしん》に|倣《なら》ひ|此《この》|水車小屋《すいしやごや》で|修行《しうぎやう》をさして|頂《いただ》きませう』
『|神《かみ》の|言葉《ことば》に|二言《にごん》は|厶《ござ》らぬ。|貴方《あなた》は|八衢《やちまた》に|向《むか》つてお|進《すす》みなさい。|冬助《とうすけ》|殿《どの》、おくみ|殿《どの》、さア|参《まゐ》りませう』
と|云《い》ふより|早《はや》く|紫《むらさき》の|雲《くも》に|包《つつ》み、|三個《さんこ》の|火団《くわだん》となつて|東南方《とうなんぱう》をさして、|宙空《ちうくう》を|掠《かす》めて|立去《たちさ》り|給《たま》うた。|文助《ぶんすけ》は|此《この》|姿《すがた》を|見送《みおく》つて|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》にうたれてゐる。
(大正一二・二・九 旧一一・一二・二四 北村隆光録)
第一七章 |飴屋《あめや》〔一三五三〕
|霊主体従《れいしゆたいじゆう》とは、|人間《にんげん》の|内分《ないぶん》が|神《かみ》に|向《むか》つて|開《ひら》け、|唯《ただ》|神《かみ》を|愛《あい》し、|神《かみ》を|理解《りかい》し、|善徳《ぜんとく》を|積《つ》み、|真《しん》の|智慧《ちゑ》を|輝《かがや》かし、|信《しん》の|真徳《しんとく》に|居《を》り、|外的《ぐわいてき》の|事物《じぶつ》に|些《すこ》しも|拘泥《こうでい》せざる|状態《じやうたい》を|云《い》ふのである。|斯《かく》の|如《ごと》き|人《ひと》は|所謂《いはゆる》|地上《ちじやう》の|天人《てんにん》にして、|生《い》きながら|天国《てんごく》に|籍《せき》を|置《お》いて|居《ゐ》る|者《もの》で、この|精霊《せいれい》を|称《しよう》して|本守護神《ほんしゆごじん》と|云《い》ふのである。|至粋《しすゐ》、|至純《しじゆん》、|至美《しび》、|至善《しぜん》、|至愛《しあい》、|至真《ししん》の|徳《とく》に|居《を》るものでなくては、|此《この》|境遇《きやうぐう》に|居《を》る|事《こと》は|出来《でき》ぬ。
|又《また》|体主霊従《たいしゆれいじゆう》とは、|人間《にんげん》はどうしても|霊界《れいかい》と|現界《げんかい》との|中間《ちうかん》に|介在《かいざい》するものである|以上《いじやう》は、|一方《いつぱう》に|天国《てんごく》を|開《ひら》き|一方《いつぱう》に|地獄《ぢごく》を|開《ひら》いて|居《ゐ》るものだ。|故《ゆゑ》に|人間《にんげん》はどうしても|善悪混交《ぜんあくこんかう》|美醜《びしう》|互《たがひ》に|交《まじ》はつて|世《よ》の|中《なか》の|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》せなくてはならない。|併《しか》しこれは、|普通《ふつう》|一般《いつぱん》の|善《ぜん》にも|非《あら》ず|悪《あく》にも|非《あら》ざる|人間《にんげん》の|事《こと》である。|人間《にんげん》は|肉体《にくたい》を|基礎《きそ》とし、|又《また》|終極点《しうきよくてん》とするが|故《ゆゑ》に、|外的《ぐわいてき》|方面《はうめん》より|見《み》て|体主霊従《たいしゆれいじゆう》と|云《い》ふのであるが、|併《しか》しながら、|之《これ》を|主観的《しゆくわんてき》に|云《い》へば|霊的五分《れいてきごぶ》、|体的五分《たいてきごぶ》、|即《すなは》ち、|霊五体五《れいごたいご》たるべきものである。|若《も》し|霊《れい》を|軽《かろ》んじ|体《たい》を|重《おも》んずるに|至《いた》らば、|茲《ここ》に、|体五霊五《たいごれいご》となるのである。|同《おな》じ|体五分霊五分《たいごぶれいごぶ》と|雖《いへど》も、|其《その》|所主《しよしゆ》の|愛《あい》が|外的《ぐわいてき》なると、|内的《ないてき》なるとに|依《よ》つて、|霊五体五《れいごたいご》となり、|又《また》|体五霊五《たいごれいご》となるのである。|故《ゆゑ》に|霊五体五《れいごたいご》の|人間《にんげん》は、|天国《てんごく》に|向《むか》つて|内分《ないぶん》が|開《ひら》け、|体五霊五《たいごれいご》の|人間《にんげん》は、|地獄《ぢごく》に|向《むか》つて|其《その》|内分《ないぶん》が|開《ひら》けて|居《ゐ》るものである。
|一般《いつぱん》に|体主霊従《たいしゆれいじゆう》と|云《い》へば、|霊学《れいがく》の|説明上《せつめいじやう》|悪《あく》となつて|居《ゐ》るが、|併《しか》し|体主霊従《たいしゆれいじゆう》とは、|生《いき》ながら|中有界《ちううかい》に|迷《まよ》つて|居《ゐ》る|人間《にんげん》の|境遇《きやうぐう》を|云《い》ふのである。|人間《にんげん》は|最善《さいぜん》を|尽《つく》し、|唯《ただ》|一《ひと》つの|悪《あく》をなさなくても|其《その》|心性《しんせい》|情動《じやうどう》の|如何《いかん》に|依《よ》りて、|或《あるひ》は|善《ぜん》となり|或《あるひ》は|悪《あく》となるものである。|故《ゆゑ》に|人間《にんげん》は、どうしても|霊五体五《れいごたいご》より|下《くだ》る|事《こと》は|出来《でき》ない。これを|下《くだ》れば|忽《たちま》ち|地獄界《ぢごくかい》に|堕《お》ちねばならぬのである。|何程《なにほど》|善《ぜん》を|尽《つく》したと|思《おも》つて|居《ゐ》ても、|其《その》|愛《あい》が|神的《しんてき》なると|自然的《しぜんてき》なるとに|依《よ》つて、|天国《てんごく》|地獄《ぢごく》が|分《わか》るるのであるから、|体主霊従的《たいしゆれいじゆうてき》|人間《にんげん》が、|現世《げんせ》に|於《おい》て|一《ひと》つでも|悪事《あくじ》をなしたならば、どうしても|是《これ》は|体五霊五《たいごれいご》|所《どころ》か|体六霊四《たいろくれいし》、|体七霊三《たいしちれいさん》となりて、|忽《たちま》ち|地獄道《ぢごくだう》へ|落《お》ちねばならぬのである。
|信者《しんじや》の|中《なか》には|善悪不二《ぜんあくふじ》とか、|正邪一如《せいじやいちによ》とか|云《い》ふ|聖言《せいげん》を|楯《たて》に|取《と》つて、|自分《じぶん》の|勝手《かつて》のよいやうに|解釈《かいしやく》して|居《ゐ》る|人《ひと》もあるやうだが、|是《これ》は|神《かみ》が|善悪不二《ぜんあくふじ》と|云《い》はるるのは|中有界《ちううかい》に|迷《まよ》へる|人間《にんげん》に|対《たい》して|云《い》はれるのであり、|且《かつ》|神《かみ》は|善悪《ぜんあく》に|拘《かか》はらず|慈愛《じあい》の|心《こころ》をもつて|臨《のぞ》ませらるる|見地《けんち》から|仰《おほ》せらるる|言葉《ことば》である。|決《けつ》して|人間《にんげん》の|云為《うんゐ》すべき|言葉《ことば》ではない。どうしても|人間《にんげん》が|肉体《にくたい》を|保《たも》つて|現世《げんせ》にある|間《あひだ》は、|絶対的《ぜつたいてき》の|善《ぜん》を|為《な》す|事《こと》は|出来《でき》ない。|併《しか》しながら|其《その》|内的《ないてき》|生涯《しやうがい》に|於《おい》て|天国《てんごく》に|籍《せき》を|置《お》く|事《こと》を|得《う》るならば、|最早《もはや》これを|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|人《ひと》と|云《い》ふ|事《こと》が|出来《でき》るのである。
|中有界《ちううかい》の|八衢《やちまた》は|善悪正邪《ぜんあくせいじや》の|審判所《しんぱんしよ》であつて、|今日《こんにち》の|人間《にんげん》の|大部分《だいぶぶん》はこの|中有界《ちううかい》と|地獄界《ぢごくかい》に|籍《せき》を|置《お》いて|居《ゐ》るものである。されども|人間《にんげん》が|霊肉脱離《れいにくだつり》の|関門《くわんもん》を|越《こ》えて|霊界《れいかい》に|行《い》つた|時《とき》は、|其《その》|外分《ぐわいぶん》の|情態《じやうたい》は|時《とき》を|経《ふ》るに|従《したが》つて|除却《ぢよきやく》さるるが|故《ゆゑ》に、|其《その》|内分《ないぶん》のみ|存在《そんざい》し、|茲《ここ》に|霊的《れいてき》|生涯《しやうがい》を|営《いとな》む|事《こと》となる。|此《この》|時《とき》は|肉体《にくたい》に|附《つ》ける|総《すべ》ての|悪《あく》は|払拭《ふつしき》され、|其《その》|純潔《じゆんけつ》なる|霊《みたま》は|天国《てんごく》の|団体《だんたい》に、|霊相応《みたまさうおう》に|和合《わがふ》し|得《う》るものである。|併《しか》しながら|余《あま》り|利己心《りこしん》の|強《つよ》い|精霊《せいれい》は、|死後《しご》に|至《いた》るまで|其《その》|執着《しふちやく》を|残《のこ》し、|容易《ようい》に|駆除《くぢよ》されないが|故《ゆゑ》に、|外分《ぐわいぶん》のみ|開《ひら》け、|且《かつ》|又《また》|外分《ぐわいぶん》が|時《とき》を|追《お》うて|脱離《だつり》すると|共《とも》に|其《その》|内底《ないてい》の|悪《あく》は|忽《たちま》ち|暴露《ばくろ》され、|妖怪変化《えうくわいへんげ》の|如《ごと》き|浅《あさ》ましき|面貌《めんばう》となつて|地獄界《ぢごくかい》に|堕《お》ち|往《ゆ》くものである。
|文助《ぶんすけ》は|漸《やうや》くにして|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》に|着《つ》いた。|白《しろ》、|赤《あか》|二人《ふたり》の|守衛《しゆゑい》に|比較的《ひかくてき》|叮嚀《ていねい》に|導《みちび》かれ、|門《もん》の|傍《かたはら》のロハ|台《だい》の|上《うへ》に|腰打《こしうち》かけ、|息《いき》を|休《やす》めて|居《ゐ》た。|半町《はんちやう》ばかり|手前《てまへ》に|当《あた》つて|騒《さわ》がしい|音《おと》が|聞《きこ》えて|来《き》た。
『トンチントントン チンチントントン
チントン、チントン、チンチントン
|夕日《ゆふひ》が|赤《あか》い|横町《よこちやう》に
|飴屋《あめや》のお|爺《ぢい》さん|鉦《かね》ならす
|大《おほ》きい|子供《こども》に|小《ちひ》さな|子供《こども》
|一銭《いつせん》|出《だ》しては|飴《あめ》お|呉《く》れ
|二銭《にせん》|出《だ》しては|飴《あめ》お|呉《く》れ
お|爺《ぢい》サン|両手《りやうて》が|巧《たくみ》に|動《うご》く
|金魚《きんぎよ》が|一《ひと》つ|兎《うさぎ》が|一《ひと》つ
も|一《ひと》つ|目《め》には|日《ひ》がくれた
|飴屋《あめや》のお|爺《ぢい》さん|鉦《かね》ならす』
と|子供《こども》が|沢山《たくさん》に|群《むら》がつて|飴屋《あめや》の|後《うしろ》から|跟《つ》いて|来《く》る。|飴屋《あめや》は|妙《めう》な|身振《みぶり》をしながら、
『トンチントントン、チンチントントン
チントン チントン、チンチントン』
と|囃《はや》し|立《た》て、|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》の|前《まへ》にやつて|来《き》た。さうして|其処《そこ》に|荷《に》を|下《お》ろし、おもちやの|喇叭《らつぱ》を|頻《しき》りに|吹《ふ》き|立《た》てて|沢山《たくさん》の|子供《こども》を|集《あつ》め|出《だ》した。|子供《こども》は|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|集《あつ》まつて|来《き》て、お|酒《さけ》に|酔《よ》つた|赤《あか》い|銭《ぜに》や、|白粉《おしろい》をつけた|白《しろ》い|銀貨《ぎんくわ》を|出《だ》して、|先《さき》を|争《あらそ》うて『|飴《あめ》|呉《く》れ|飴《あめ》|呉《く》れ』と|押《お》しかける。|飴屋《あめや》は|指《ゆび》の|先《さき》を|巧《たくみ》に|動《うご》かして、|兎《うさぎ》や、|鶏《にはとり》、|達磨《だるま》なぞを|瞬《またた》く|間《うち》に|捻《ひね》つては|拵《こしら》へ、|麦藁《むぎわら》でぷつと|吹《ふ》いて|量《かさ》を|高《たか》うし、|寄《よ》つて|来《く》る|子供《こども》に|金《かね》と|引《ひ》きかへに|渡《わた》して|居《ゐ》る。さうして|子供《こども》の|所望《しよまう》によつて|又《また》もや|歌《うた》ひだした。
『トンチントントン チンチントントン
チントン チントン チンチントン
|飴《あめ》の|中《なか》からお|多《た》やんエ、お|多《た》やんが|嫌《いや》なら|金時《きんとき》だ
|金時《きんとき》|嫌《いや》なら|達磨《だるま》さま
|兎《うさぎ》でも|餅《もち》つく、お|猿《さる》でも
|十五《じふご》のお|月《つき》さんの|餅《もち》つきに
よう|似《に》た|飴屋《あめや》のお|爺《ぢい》さんよ
こりやこりや|其処《そこ》らの|子供《こども》|達《たち》
|飴《あめ》が|欲《ほ》しけりや|幾何《いくら》でもやらう
しかしお|金《かね》と|引《ひ》きかへぢや
|地獄《ぢごく》の|沙汰《さた》でも|金次第《かねしだい》
お|金《かね》が|無《な》ければ|甘《うま》い|汁《しる》
どうしてもかうしても|吸《す》はりやせぬ
お|母《かん》の|乳《ちち》よりお|砂糖《さと》より
もつと|甘《あま》いのは|此《この》|飴《あめ》ぢや
あめが|下《した》には|他人《たにん》と|云《い》ふ|事《こと》は
|無《な》いものぞやと|三五教《あななひけう》の
|神様《かみさま》が|云《い》はしやつたけれど
|何程《なにほど》【あめ】の|下《した》ぢやとて
|金《かね》が|無《な》ければ|他人《たにん》ぢやぞ
|金《かね》が|敵《かたき》の|世《よ》の|中《なか》だ
このお|爺《ぢい》さんが|今《いま》|打《う》つ|鉦《かね》は
ミロク|三会《さんゑ》の|明《あ》けの|鐘《かね》
|金《かね》の|無《な》い|奴《やつ》ア|近寄《ちかよ》るな
トンチントントン、チンチントントン
チントン、チントン、チンチントン』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|子供《こども》を|相手《あひて》に|暴儲《ぼろまう》けをやつて|居《ゐ》る。
|白《しろ》、|赤《あか》の|守衛《しゆゑい》は|通行人《つうかうにん》の|身許調《みもとしら》べに|忙殺《ぼうさつ》されて|居《ゐ》る|所《ところ》へ、|沢山《たくさん》の|子供《こども》を|集《あつ》め、|鉦《かね》や|太鼓《たいこ》で|騒《さわ》ぎ|出《だ》したので|大《おほい》に|面喰《めんくら》ひ、|白《しろ》の|守衛《しゆゑい》は|傍《そば》に|寄《よ》つて、
『これこれお|爺《ぢい》さん、|場所《ばしよ》を|考《かんが》へないか。こんな|関所《せきしよ》の|前《まへ》で、さうやかましく|云《い》つて|呉《く》れては、|俺達《おれたち》の|邪魔《じやま》になるぢやないか。ちと|気《き》を|利《き》かして、|彼方《あつち》の|方《はう》へ|行《い》つてやつたらどうだ』
『|構《かま》うて|下《くだ》さるな。|私《わたし》は|行商《ぎやうしやう》と|云《い》つて|道路《だうろ》を|歩《ある》いて|商《あきな》ひをするものだ。これでも|政府《せいふ》へ|税金《ぜいきん》を|納《をさ》めて|居《ゐ》るものだ。|何処《どこ》で|商売《しやうばい》をしようと|構《かま》うて|下《くだ》さるな。|子供《こども》の|沢山《たくさん》よつて|居《ゐ》る|所《ところ》で、|子供《こども》|相手《あひて》の|商売《しやうばい》をやつて|居《を》るのだ。|私《わたし》の|商売《しやうばい》の|邪魔《じやま》をするのなら、|損害賠償《そんがいばいしやう》で|訴《うつた》へませうか』
『|現界《げんかい》でなればお|前《まへ》の|勝手《かつて》だらうが、|此処《ここ》は|冥途《めいど》の|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》だから、お|前《まへ》もやがて|調《しら》べてやる|時《とき》が|来《く》るのだ。まア|暫《しばら》く|彼方《あちら》の|方《はう》へ|往《い》つて|居《ゐ》て|呉《く》れ』
『|何《なん》と|云《い》つても|此処《ここ》は|動《うご》かないのだ。ヘン|冥途《めいど》の|八衢《やちまた》なんぞと|馬鹿《ばか》にしなさんな。|最前《さいぜん》から|声《こゑ》が|枯《か》れる|程《ほど》|歌《うた》つて|子供《こども》を|集《あつ》め、|商売繁昌《しやうばいはんじやう》の|真最中《まつさいちう》だ。お|前《まへ》の|勝手《かつて》がよければ|此方《こつち》の|勝手《かつて》が|悪《わる》い、|私《わたし》の|商売《しやうばい》が|邪魔《じやま》になるのなら、なぜ|高《たか》い|税金《ぜいきん》を|取《と》るのだ』
と|呶鳴《どな》りつけ、|尚《なほ》トンチントントン、チンチントントンと|鉦《かね》を|叩《たた》き|歌《うた》を|歌《うた》つて、|子供《こども》の|機嫌《きげん》を|取《と》つて|居《ゐ》る。
|赤《あか》の|守衛《しゆゑい》は、|余《あま》り|頑強《ぐわんきやう》の|飴屋《あめや》の|態度《たいど》にグツト|目《め》を|剥《む》き、
『これ|飴屋《あめや》、これ|程《ほど》|事《こと》を|分《わ》けて|申《まを》すのに、|其《その》|方《はう》は|聞《き》かぬのか』
『そんな|日《ひ》の|丸《まる》のやうな|赤《あか》い|顔《かほ》をして|睨《にら》んだ|所《ところ》が、|此《この》|亜米利加屋《アメリカや》さまはビクとも|致《いた》しませぬわいな、ヤンキイモンキイ|云《い》はずに、|黙言《だま》つて|引込《ひつこ》んで|居《ゐ》なさい。
トンチントントン、チンチントントン
|飴《あめ》の|中《なか》からお|多《た》やんと|金太《きんた》さんが|飛《と》んで|出《で》たよ』
と|又《また》もや|踊《をど》り|狂《くる》ふ。|赤《あか》は|白《しろ》の|守衛《しゆゑい》に|向《むか》ひ、
『|困《こま》つたものですな、どうしませうかなア』
『|暫《しばら》くほつといてやりませうかい、|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|爺《おやぢ》をつかまへて|叱《しか》つて|見《み》た|所《ところ》で|何《なん》にもなりますまい。やがて|商売《あきなひ》が|無《な》くなつたら|帰《かへ》るでせうし、|子供《こども》だつて|有《あ》るだけの|金《かね》をつかへば|飴屋《あめや》に|用《よう》はありませぬからなア』
|赤《あか》『デモ、かう|喧《やかま》しくては|仕方《しかた》がないぢやありませぬか、どうしてもこいつは|追払《おつぱら》はにやなりますまい。こりやこりや|飴屋《あめや》、|此処《ここ》に|居《を》る|事《こと》は|許《ゆる》さないから、どこかへ|行《い》つて|商売《あきない》をして|来《く》るがよからう、|喧《やかま》しくて|事務《じむ》の|邪魔《じやま》になるからな』
『ヘン|甘《うま》い|事《こと》|仰有《おつしや》りますワイ。|飴屋《あめや》の|太鼓《たいこ》|位《ぐらゐ》が|何《なに》|喧《やかま》しいのだ。|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》は|労働争議《らうどうさうぎ》とか|普選問題《ふせんもんだい》とか、|小作争議《こさくさうぎ》だとか|外交問題《ぐわいかうもんだい》だとか|云《い》つて、あれだけ|喧《やかま》しう|騒《さわ》ぎ|立《た》てて|居《ゐ》るのに、|其《その》|声《こゑ》が|聞《きこ》えないのか。|飴屋《あめや》|位《ぐらゐ》が|喧《やかま》しいとはチと|聞《きこ》えないぢやないか。これ|位《くらゐ》の|事《こと》が|耳《みみ》に|障《さは》るやうで、どうして|役人《やくにん》がつとまるか。|役人《やくにん》の|耳《みみ》は|何億《なんおく》と|云《い》ふ|人民《じんみん》の|号泣《がうきふ》の|声《こゑ》がちつとも|聞《きこ》えないやうに|塞《ふさ》がつて|居《ゐ》るのだ。それでなくては|今日《こんにち》の|世《よ》に|処《しよ》して、|大人物《だいじんぶつ》とは|云《い》はれないぞ。|仮令《たとへ》|木端役員《こつぱやくゐん》と|雖《いへど》も|勤《つと》まるものぢやない。|庚申《かうしん》さまの|眷族《けんぞく》になつて、|見《み》ざる、|聞《き》かざる、|言《い》はざるを|守《まも》つて|居《ゐ》るのが|一番《いちばん》|賢《かしこ》いやりかただ。|喧《やかま》しう|云《い》ふと|何時《いつ》までも|門番《もんばん》をさされて|苦《くる》しんで|居《を》らねばならぬぞ、ほんとに|仕方《しかた》のない|奴《やつ》だ。
トンチントントン チントントン
チンチントン
|八衢街道《やちまたかいだう》のまん|中《なか》で
|白《しろ》と|赤《あか》との|守衛《しゆゑい》に|出会《であ》うた
|飴《あめ》の|味《あぢ》をば|知《し》らないと|見《み》えて
|苦《にが》い|顔《かほ》して|睨《ねら》みよる
ほんに|因果《いんぐわ》な|生《うま》れつき
チンチントントン チントントン』
と|又《また》もや|喧《やかま》しく|囃立《はやした》て|踊《をど》り|狂《くる》ふ。|赤《あか》は|大《おほい》に|怒《いか》り、|矢庭《やには》に|飴屋《あめや》の|腕《うで》を|後《うしろ》に|廻《まは》し、|手早《てばや》く|引《ひ》つ|括《くく》つて|門内《もんない》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|文助《ぶんすけ》は|五里霧中《ごりむちゆう》に|彷徨《はうくわう》した|心地《ここち》で、|今《いま》|渉《わた》つて|来《き》た|山路《やまみち》や|沼《ぬま》、|萱野ケ原《かやのがはら》の|事《こと》や、|両親《りやうしん》に|会《あ》うた|事《こと》など|思《おも》ひ|出《だ》し、|夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|将《は》た|現界《げんかい》か|幽界《いうかい》かと、|頻《しき》りに|首《くび》を|捻《ひね》つて|居《ゐ》た。
(大正一二・二・九 旧一一・一二・二四 加藤明子録)
第四篇 |怪妖蟠離《くわいえうばんり》
第一八章 |臭風《しうふう》〔一三五四〕
|浮木《うきき》の|森《もり》の|火《ひ》の|見《み》|櫓《やぐら》の|前《まへ》の|庭園《ていゑん》に、|悪狸《わるだぬき》に|騙《だま》されて|一夜《いちや》を|明《あか》したガリヤ、ケース、|初《はつ》、|徳《とく》の|四人《よにん》は、|瘧《おこり》のおちた|様《やう》な|顔《かほ》をして、|四辺《あたり》をキヨロ キヨロ|見廻《みまは》しながら、|互《たがひ》に|面《おもて》を|見合《みあは》せ|苦笑《くせう》してゐた。そこへ|何《なん》とも|知《し》れぬ|美《うつく》しい|女《をんな》が|一人《ひとり》、|何処《どこ》からともなく|現《あら》はれ|来《きた》り、|四人《よにん》の|前後左右《ぜんごさいう》を|○《まる》に|十《じふ》を|描《ゑが》いて|足跡《あしあと》を|印《いん》し、|一歩々々《ひとあしひとあし》|尻《しり》から|欠伸《あくび》をしながら、|臭《くさ》い|匂《にほ》ひを|遠慮《ゑんりよ》なく|放出《はうしゆつ》し、どこともなく|足早《あしばや》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。|四人《よにん》は|鼻《はな》を|撮《つま》んで、|息《いき》も|塞《ふさ》ぐばかりに|苦《くるし》んでゐた。サツと|吹来《ふきく》る|一陣《いちぢん》の|風《かぜ》に、|四辺《あたり》の|臭気《しうき》はスツカリ|払拭《ふつしき》された。
ガリヤ『あああ、エライ|目《め》に|遇《あ》うた。|狸《たぬき》にはつままれ、|鼬《いたち》のお|化《ばけ》には|屁《へ》を|嗅《か》がされ、|本当《ほんたう》に|踏《ふ》んだり|蹴《け》つたりな|目《め》に|遇《あ》うた。オイ|皆《みな》の|連中《れんぢう》、|長居《ながゐ》は|恐《おそ》れだ、|一時《いちじ》も|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|退却《たいきやく》しようぢやないか』
ケース『|何《なん》と|云《い》つても|日《ひ》の|下《した》|開山《かいざん》の|天下《てんか》の|力士《りきし》だ。|退却《たいきやく》は|断《だん》じてやらない。|退却《たいきやく》の|後《あと》にはキツト|追撃《つゐげき》が|伴《ともな》ふものだ。|宣教師《せんけうし》の|後《うしろ》には|必《かなら》ず|大砲《たいはう》ありだ。|俺達《おれたち》も|一《ひと》つ|宣教師《せんけうし》となつた|以上《いじやう》は、|大砲《たいはう》でも|放射《はうしや》して、|鼬《いたち》のお|化《ばけ》に|応戦《おうせん》せなくちや、|此《この》|儘《まま》|予定《よてい》の|退却《たいきやく》は|出来《でき》ぬぢやないか。|幸《さいは》ひここに|物見櫓《ものみやぐら》がある。|此《この》|櫓《やぐら》に|陣取《ぢんど》つて、|大《おほい》に|騙《だま》サレ|組《ぐ》の|気焔《きえん》を|上《あ》げようぢやないか』
『さうだな、|何《なん》とかせなくちや|馬鹿《ばか》らしくて|此《この》|儘《まま》|帰《かへ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かない。マア|一《ひと》つ|上《うへ》へ|上《あが》つて|悪魔《あくま》を|平定《へいてい》するか、|或《あるひ》は|屁輪快議《へいわくわいぎ》でも|開《ひら》かうかな』
『|何《なん》と|云《い》つても、|吾々《われわれ》に|因縁《いんねん》のある|此《この》|物見櫓《ものみやぐら》だ。|百日《ひやくにち》|以前《いぜん》は|俺達《おれたち》がここで|羽振《はぶり》を|利《き》かして|居《を》つた|所《ところ》だから、|誰《たれ》に|遠慮《ゑんりよ》はいらぬ。|又《また》ランチ|将軍様《しやうぐんさま》から|払下《はらひさげ》になつたのでもなし、|其《その》|儘《まま》においてあるのだから、|特定《とくてい》の|持主《もちぬし》がある|筈《はず》もない。サア|上《あが》つたり|上《あが》つたり』
と|茲《ここ》に|四人《よにん》は、ランチ、|片彦《かたひこ》が|恋《こひ》の|伊達引《だてひき》をやつて、|幽界旅行《いうかいりよかう》をしたと|云《い》ふ|新《あたら》しい|歴史《れきし》の|残《のこ》つた|最高《さいかう》の|座敷《ざしき》に|陣取《ぢんど》つた。|上《のぼ》つて|見《み》るとコトコトと|押入《おしいれ》のスミから|音《おと》がするので、ケースはコハゴハ|戸《と》を|開《あ》けると、|以前《いぜん》の|屁《へ》こき|女《をんな》が|小《ちひ》さくなつて|慄《ふる》うてゐる。ケースは|矢庭《やには》に|胸倉《むなぐら》をグツと|取《と》り、|押入《おしいれ》から|引張《ひつぱ》り|出《だ》して、
『コラあまつちよ、|失敬《しつけい》|千万《せんばん》な、|武士《ぶし》の|前《まへ》に|屁《へ》を|嗅《か》がすといふ|事《こと》があるか。|何《なに》か|之《これ》には|理由《りいう》があらう、サ、|一々《いちいち》|白状《はくじやう》|致《いた》せ』
『ハイ、|私《わたし》はおならと|申《まを》します。ここら|界隈《かいわい》|切《き》つての|屁《へ》こき|女《をんな》で、それが|為《ため》に|村《むら》にもおいて|貰《もら》へず、|此《この》|物見櫓《ものみやぐら》が|空《あ》いてゐるのを|幸《さいは》ひ、|村《むら》の|衆《しう》に|送《おく》られて、ここへ|放《はふ》り|込《こ》まれたのですよ。そして|余《あま》り|物《もの》を|食《く》はすと、|屁《へ》をたれるからと|云《い》つて、|食《く》ふものもロクにくれず、|腹《はら》がへつてたまらないの。そこへ|又《また》オナラが|止《と》め|度《ど》もなく|出《で》るものですから、すいた|腹《はら》が|猶《なほ》すいてたまりませぬ』
『ハハハハア、|此奴《こいつ》アさうすると|鼬《いたち》の|生《うま》れ|変《かは》りだな。オイおならとやら、|貴様《きさま》|随分《ずいぶん》|綺麗《きれい》な|面《つら》をしてゐるが、どこに|欠点《けつてん》はないけれど、|屁《へ》たれるだけが|尻点《けつてん》とみえるのう。|何《なん》とかして|此《この》|病気《びやうき》を|直《なほ》してやりたいものだ、|否《いな》ヘーユさして|見《み》たいものだ。オイ|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》、|何《なに》かいい|考《かんが》へはあるまいかの。こんな|奴《やつ》が|側《そば》に|居《ゐ》ると、|何時《いつ》|屁《へ》をひられるか|分《わか》つたものぢやない。|本当《ほんたう》に|最前《さいぜん》に|懲《こ》りてるからなア』
|初《はつ》『これが|所謂《いはゆる》|屁和《へーわ》の|女神《めがみ》といふのだらうかい。|屁《へ》といふものは|随分《ずいぶん》|笑顔《ゑがほ》のいいものだからなア』
ケース『コリヤおならとやら、お|前《まへ》はそれだけ|屁《へ》が|出《で》るといふと、|到底《たうてい》|完全《くわんぜん》な|夫《をつと》を|持《も》つ|訳《わけ》には|行《ゆ》くまいのう』
『ハイ、|私《わたし》も|一度《いちど》は|嫁入《よめいり》を|致《いた》しましたが、|屁《へ》の|為《ため》に|失敗《しくじ》つて|帰《かへ》つて|来《き》たのですよ』
|一同《いちどう》は、
『アハハハハハ』
と|倒《こ》けて|笑《わら》ふ。
ケース『ヤア|面白《おもしろ》い、|屁《へ》をこいて|離縁《りえん》されたとは|初耳《はつみみ》だ。オイおならさま、|一寸《ちよつと》|其《その》|顛末《てんまつ》を|聞《き》かして|貰《もら》へまいかなア』
『へーへー、|今更《いまさら》|隠《かく》した|所《ところ》で|仕方《しかた》がありませぬ、|随分《ずいぶん》|名高《なだか》い|話《はなし》ですよ。ヘコキのおならと|云《い》つたら、|此《この》|界隈《かいわい》に|知《し》らぬ|者《もの》はありませぬ。|私《わたし》のお|父《とう》さまは|文助《ぶんすけ》、お|母《かあ》さまはお|久《きう》と|云《い》ひまして、|私《わたし》がおならと|申《まを》します。|私《わたし》も|今年《ことし》は|十八《じふはち》になつたものだから、|一寸《ちよつと》|渋皮《しぶかは》の|剥《む》けた|所《ところ》から、|屁《へ》こき|娘《むすめ》でも、|随分《ずいぶん》|矢入《やい》れが|沢山《たくさん》あつて|困《こま》りましたのよ。|何《なん》と|云《い》つても、|女《をんな》にスタリ|者《もの》はありませぬ。……さて、ピラトの|村《むら》の|平助《へいすけ》さまの|家《うち》へ|嫁入《よめい》ることにきまりました|所《ところ》、|家《うち》のお|母《かあ》さまが|今《いま》までは、|自分《じぶん》の|家《うち》だから、|何程《なにほど》|屁《へ》をひつても|差支《さしつかへ》ないが、|他家《よそ》へ|行《い》つて|花嫁《はなよめ》が|屁《へ》を【こく】と|外聞《ぐわいぶん》が|悪《わる》い。それが|不縁《ふえん》の|元《もと》になつちやならないから、|辛抱《しんばう》して|居《を》れと|仰有《おつしや》いました。それで|私《わたし》も|正直《しやうぢき》に|親《おや》の|言葉《ことば》を|守《まも》り、|平助《へいすけ》さまの|嫁《よめ》になつても、|屁《へ》の|出《で》ないやう|屁《へ》の|出《で》ないやうと|尻《しり》に|詰《つめ》をしてきばつて|居《を》りましたが、|屁《へ》が|逆流《ぎやくりう》して|欠伸《あくび》となり、|臭《くさ》い|臭《くさ》い|息《いき》が|出《で》ますのよ。それでもヤツパリ|屁《へ》ではないと|思《おも》うて、ゴミを|濁《にご》して|居《を》りましたが、|体《からだ》はブウブウと|膨《ふく》れて|来《く》る、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|顔《かほ》は|青《あを》うなる、どうにもかうにもこらへ|切《き》れなくなつたので、|一遍《いつぺん》|親《おや》の|家《うち》へ|帰《かへ》つて、|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》|屁《へ》をひつて|来《こ》ようと|思《おも》ひ、お|福《ふく》といふ|姑《しうと》さまに、|何卒《どうぞ》|一寸《ちよつと》|帰《かへ》して|下《くだ》さいと|願《ねが》つた|所《ところ》、お|福《ふく》さまの|仰有《おつしや》るには……コレおなら、お|前《まへ》は|私《わたし》の|家《うち》へ|来《き》てから、|私《わたし》に|親切《しんせつ》に|仕《つか》へて|下《くだ》さるなり、|平助《へいすけ》を|大事《だいじ》にしてくれるさうだから、|大変《たいへん》に|喜《よろこ》んでゐるのに、|家《うち》へ|帰《かへ》りたいといふのは、|何《なに》が|気《き》にいらぬのだ……と|問《と》はれましたので|私《わたし》も|包《つつ》み|隠《かく》さず……|実《じつ》の|所《ところ》は、|屁《へ》の|出《で》る|病《やまひ》があつて、【こき】たくて【こき】たくて|仕方《しかた》がありませぬけれど、|家《うち》のお|母《かあ》さまが、|嫁《よめ》にいつたら、|決《けつ》して|屁《へ》は|一《ひと》つも【こい】ちやならぬ。もしそんな|事《こと》があつたら、|一遍《いつぺん》に|不縁《ふえん》になるぞと|仰有《おつしや》いましたから、それでよう【こか】ずに|辛抱《しんばう》して|居《を》りましたら、この|通《とほ》り|膨《ふく》れたので|厶《ござ》います……と、コハゴハ|申上《まをしあ》げた|所《ところ》、|姑《しうと》のお|福《ふく》さまも|開《ひら》けた|人《ひと》で……ナアニおなら、そんな|心配《しんぱい》はいるものか。お|前《まへ》の|名《な》からしておならぢやないか。|屁《へ》といふものは|笑《わら》ひの|神《かみ》さまだから、あいさに|屁《へ》の|一《ひと》つも【こい】て|貰《もら》はなくちや|家庭《かてい》が|面白《おもしろ》くない。サアサア|遠慮《ゑんりよ》はいらぬ。|鳴物入《なりものい》りで|嫁《よめ》を|貰《もら》つたと|思《おも》へば|結構《けつこう》だ。サアサア【こい】たり【こい】たり……と|気《き》よう|言《い》うて|下《くだ》さりました。それを|聞《き》くと|矢《や》も|楯《たて》もたまらず、|私《わたし》の|命令《めいれい》を|下《くだ》さぬ|先《さき》に、|屁《へ》の|奴《やつ》|勝手《かつて》に|連発銃《れんぱつじう》の|様《やう》に、ポンポンポンと|際限《さいげん》なく|放出《はうしゆつ》し、|屁風《へかぜ》の|勢《いきほひ》で、とうとう|姑婆《しうとばあ》さまを|天井《てんじやう》まで|吹《ふ》き|上《あ》げて|了《しま》ひ、|姑《しうと》さまは|天井裏《てんじやううら》にヘバリついて|両手《りやうて》を|合《あは》せ……コレコレおなら、モウ|沢山《たくさん》だ、|一時《いちじ》も|早《はや》く|屁口《へぐち》をとめてたも……と|仰有《おつしや》つたので、|俄《にはか》に|止《と》めようと|思《おも》つても|止《と》まらず、|仕方《しかた》なしに|平助《へいすけ》さまの|着物《きもの》を|尻《しり》につめて、ヤツトの|事《こと》で|屁口《へぐち》をとめました。そした|所《ところ》が、|俄《にはか》に|屁風《へかぜ》がやんだので、|吹上《ふきあ》げられてゐたお|婆《ばあ》さまが、|風《かぜ》の|抵抗力《ていかうりよく》が|取《と》れたとみえ、パタツと|鼠《ねづみ》がおちたやうに、|座敷《ざしき》の|真《ま》ん|中《なか》にふん|伸《の》びて|目《め》をまかして|了《しま》つた。それから|又《また》もや|屁《へ》が|切《しき》りに|催《もよほ》して|来《き》た。エエ|焼《や》け|糞《くそ》だと、|雪隠《せつちん》へ|飛込《とびこ》み、|尻《しり》ひんまくつて|放射《はうしや》した|所《ところ》、|出《で》るワ|出《で》るワ、まるで|火事《くわじ》の|太鼓《たいこ》のやうな|音《おと》がして|来《き》ましたよ。ホホホホ、|余《あま》りのことで、|吾《われ》ながらケツが|呆《あき》れて|雪隠《せつちん》は|踊《をど》る、|音《おと》はポンポンとするので、|近所《きんじよ》|合壁《がつぺき》から|火事《くわじ》だと|思《おも》ひ、|杢平《もくへい》、|田吾作《たごさく》、|八助《はちすけ》どんや、|其《その》|他《ほか》|沢山《たくさん》の|連中《れんぢう》が|寄《よ》つて|来《き》て、|火元《ひもと》はどこぢやどこぢやと|駆《か》けまはる|可笑《をか》しさ。|仕方《しかた》がないので、|屁元《へもと》はここだと|尻《しり》を|捲《まく》つて|飛《と》んで|出《で》ました。それつきり|平助《へいすけ》さまに|愛想《あいさう》をつかされ、|忽《たちま》ち|不縁《ふえん》となり、|平和《へいわ》の|家庭《かてい》は|破《やぶ》れて、|親《おや》の|家《うち》へつき|戻《もど》された|時《とき》の|残念《ざんねん》さ、|御推量《ごすゐりやう》して|下《くだ》さりませ、アンアンアン ホホホホ』
と|泣《な》いたり、|笑《わら》うたりやつてゐる。
ケース『|成程《なるほど》、|随分《ずいぶん》|豪《がう》ケツだな。|俺《おれ》も|豪傑《がうけつ》だと|思《おも》うてゐたが、お|前《まへ》のケツは|又《また》|格別《かくべつ》だ、|古今無双《ここんむさう》のケツ|物《ぶつ》だ。|俺《おれ》ならそんな|屁《へ》こきさまなら、|喜《よろこ》んで|妻君《さいくん》に|貰《もら》ふのだけれどなア』
『お|前《まへ》さまは|駄目《だめ》ですよ。あの|位《くらゐ》な|屁《へ》を|嗅《か》がされて、|鼻《はな》が|曲《まが》るのどうのと|云《い》つて|悔《くや》むやうなこつては、|私《わたし》の|夫《をつと》になる|資格《しかく》はありませぬよ。|世《よ》の|中《なか》には|物好《ものずき》があつて、|平助《へいすけ》さまの|家《うち》を|屁《へ》で|失敗《しくじ》つた|私《わたし》を|貰《もら》はうと|云《い》ふ|方《かた》があつて、|同《おな》じ|在所《ざいしよ》のベコ|助《すけ》さまの|所《ところ》へ|貰《もら》はれてゆ|来《き》ました。|所《ところ》がそこの|姑婆《しうとばあ》さまがおキツというて、|本当《ほんたう》にキツくて、|悋気《りんき》がひどくて、|流石《さすが》のおならもやり|切《き》れない。|怪我《けが》の|拍子《ひやうし》に|屁《へ》でもひらうものなら、スツたもんだと|云《い》つて|苦《くる》しめるので、|私《わたし》も|腹《はら》が|立《た》つてたまらず、|飯《めし》を|焚《た》きよつた|所《ところ》へ、|婆《ばあ》さまがやつて|来《き》て、しつこ しつこ|小言《こごと》をいふものだから、|正勝《まさか》|姑《しうと》さまを|叩《たた》く|訳《わけ》にも|行《ゆ》かぬので、|傍《そば》に|居《を》つた|羊《ひつじ》を|婆《ばあ》さまに|当《あ》てつけて、もえ|杭《ぐひ》でコン|畜生《ちくしやう》と|云《い》つてくらはした|所《ところ》、|羊《ひつじ》の|毛《け》に|火《ひ》がつき、|羊《ひつじ》は|驚《おどろ》いて|藁小屋《わらごや》の|中《うち》に|飛《と》び|込《こ》み、|其《その》|藁小屋《わらごや》に|火《ひ》がついて、とうとうベコ|助《すけ》さまの|家《いへ》が|焼《や》けてしまひ、|又《また》も|放《はふ》り|出《だ》され、こんな|所《ところ》へ|押込《おしこ》められて|居《を》るのだ。|本当《ほんたう》に|困《こま》つたものですよ、ヘヘヘヘ』
|初《はつ》『プツプツプツプツ』
ガリヤ『イヤもう、お|前《まへ》さまの|経歴《けいれき》は、ガリヤもスツカリ|承《うけたま》はりました。|其処《そこ》まで|徹底《てつてい》すれば|偉《えら》いものだ』
『ねえ|貴方《あなた》、さうでせう、|貴方《あなた》だつて、へーたれさまと|云《い》つて、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》プツプツプツと|口《くち》からラツパを|吹《ふ》いてゐたでせう。|男《をとこ》は|口《くち》から|屁《へ》を|吹《ふ》き、|女《をんな》は|尻《しり》からラツパを|吹《ふ》くのは|当然《あたりまへ》ですわねえ』
|徳《とく》『オイおならさま、お|前《まへ》の|耳《みみ》が|動《うご》くぢやないか、チツと|徳《とく》さまには|可笑《をか》しいぞ』
『ホホホホ、|耳《みみ》が|動《うご》くのが|可笑《をか》しいのかいな。|今《いま》|耳《みみ》から|屁《へ》を|殺《ころ》して|出《だ》してるから、|耳《みみ》たぶが|屁風《へかぜ》に|揺《ゆ》れて|動《うご》いとるのだよ』
『まるで|化物《ばけもの》みたやうな|女《をんな》だなア』
ガリヤ『|徳公《とくこう》、|化物《ばけもの》は|始《はじ》めから|定《きま》つてるぢやないか。|此奴《こいつ》ア|古鼬《ふるいたち》の|化《ば》けたのだ。マア|兎《と》も|角《かく》、|俺《おれ》も|狸《たぬき》に|騙《だま》された|腹《はら》いせに、|此《この》|化鼬《ばけいたち》を、|騙《だま》されたやうな|顔《かほ》して、ガリヤが|反対《あべこべ》に|騙《だま》してやつたのだよ……コリヤ|鼬《いたち》、どうだ、|間違《まちが》ひはあらうまいがな』
『|間違《まちがひ》ありませぬよ、|最後屁《さいごぺ》をひつて|上《あ》げませうか。さうすりや、お|前《まへ》さま|等《ら》の|息《いき》がとまつて|了《しま》ふがな、ホホホホ』
と|云《い》ひながら、ブスツと|臭《くさ》い|奴《やつ》をひつた。そこら|一面《いちめん》|黄色《きいろ》になつて、|鼻《はな》ふさがり|息《いき》つまり、|四人《よにん》は、|此奴《こいつ》はたまらぬと|階段《かいだん》を|下《くだ》るうち、|雪崩《なだれ》の|如《ごと》くなつて|階下《かいか》に|顛落《てんらく》し、|腕《うで》や|向脛《むかふずね》をうち、|四人《よにん》|共《とも》ウンウンと|唸《うな》つてゐる。|春風《はるかぜ》はかむばしき|花《はな》の|香《か》を|送《おく》つて、あけつ|放《ぱな》しの|居間《ゐま》を|通《とほ》つて|行《ゆ》く。
(大正一二・二・九 旧一一・一二・二四 松村真澄録)
第一九章 |屁口垂《へこたれ》〔一三五五〕
|浮木《うきき》の|森《もり》の|物見櫓《ものみやぐら》の|上《うへ》から、おならと|名告《なの》る|妖怪《えうくわい》の|屁《へ》に|吹《ふ》き|飛《と》ばされて|階段《かいだん》から|転《ころ》げ|落《お》ち、|頭《あたま》や|脛《すね》|等《など》をしたたか|負傷《ふしやう》したガリヤ、ケース、|初《はつ》、|徳《とく》の|四人《よにん》はヤケ|糞《くそ》になり、|互《たがひ》に|川柳《せんりう》を|口《くち》ずさみ、|身体《からだ》の|痛《いた》みを|笑《わら》ひに|紛《まぎ》らさむと|力《つと》めてゐた。
ガリヤ『どうも|俺達《おれたち》は|神様《かみさま》に|戒《いまし》めを|食《く》つたと|見《み》えて、|散々《さんざん》の|目《め》に|遇《あ》つたぢやないか。|実《じつ》に|閉口頓首《へいこうとんしゆ》だ。|一《ひと》つ|川柳会《せんりうくわい》でも|催《もよほ》して|笑《わら》はなくちや、やりきれぬぢやないか。|凡《すべ》て|人間《にんげん》が|他愛《たあい》もなく|笑《わら》ふ|時《とき》は、|凡《すべ》ての|苦痛《くつう》の|去《さ》る|時《とき》だからな』
ケース『|狸《たぬき》につままれ|屁《へ》に|吹《ふ》き|飛《と》ばされたのだから、|屁《へ》と|云《い》ふ|題《だい》を|出《だ》して、|一《ひと》つ|駄句《だく》らうぢやないか』
ガリヤ、|初《はつ》、|徳《とく》の|三人《さんにん》は|手《て》を|拍《う》つて|賛成《さんせい》した。
ガリヤ『|狸《たぬき》には|騙《だま》されおならには|臭《くさ》い|屁《へ》を
|嗅《か》がされ|何処《どこ》で|男《をとこ》が|立《た》たう』
ケース『|臭《くさ》い|屁《へ》に|屁古垂《へこた》れよつて|四人連《よにんづ》れ
|物見櫓《ものみやぐら》で|又《また》も|閉口《へいこう》』
|初《はつ》『おならとは|名《な》を|聞《き》いてさへ|臭《くさ》い|奴《やつ》』
|徳《とく》『|尻《しり》の|毛《け》を|臭《くさ》い|曲津《まがつ》に|引《ひ》き|抜《ぬ》かれ
|屁《へ》つ|放《ぴ》り|腰《ごし》の|態《ざま》の|悪《わる》さよ』
ケース『グルグルと|腹《はら》の|中《なか》にて|模様《もやう》なし。
おとなしう|見《み》せて|踵《かがと》で|屁《へ》を|殺《ころ》し』
|初《はつ》『|屁《へ》を|放《ひ》りに|屋根《やね》から|下《お》りる|宮大工《みやだいく》。
|貴様等《きさまら》は|何《なに》を|笑《わら》ふと|隠居《いんきよ》の|屁《へ》』
|徳《とく》『|屁《へ》の|論《ろん》に|泣《な》くも|流石《さすが》は|女《をんな》なり。
|屁《へ》を|放《ひ》つて|嫁《よめ》は|雪隠《せつちん》|出《で》にくがり。
|屁《へ》を|放《ひ》つたより|臭《くさ》いのはおならなり』
ガリヤ『|風呂中《ふろなか》の|屁《へ》は|偶然《ぐうぜん》の|軽気球《けいききう》。
|念仏《ねんぶつ》も|唱《とな》へ|屁《へ》も|放《ひ》る|炬燵《こたつ》かな』
ケース『|屁《へ》を|放《ひ》つて|裾《すそ》あふぎたる|団扇《うちは》かな。
|俺《おれ》よりも|遙《はる》か|上手《じやうず》な|屁放《へひ》り|虫《むし》』
|初《はつ》『|長《なが》き|日《ひ》や|沈香《ちんかう》も|焚《た》かず|屁《へ》も|放《ひ》らず。
|馬《うま》が|屁《へ》を|放《ひ》りながら|行《ゆ》く|春野《はるの》かな。
|賑《にぎや》かさ|浮木《うきき》の|森《もり》に|屁《へ》が|絶《た》えず』
|徳《とく》『|屁《へ》を|放《ひ》つた|長太郎《ちやうたらう》|探《さが》すお|師匠《ししやう》さん。
|大笑《おほわら》ひ|下女《げぢよ》の|寝言《ねごと》に|屁《へ》が|交《まじ》り。
|幇間《たいこもち》|金《かね》になる|屁《へ》を|三《みつ》つ|放《ひ》り』
ガリヤ『|姑《しうとめ》が|屁《へ》を|放《ひ》つたので|気《き》がほどけ。
|屁《へ》を|放《ひ》つて|可笑《をか》しくもない|独身者《ひとりもの》。
|姑《しうとめ》の|屁《へ》を|喜《よろこ》ぶも|家《いへ》|大切《だいじ》』
ケース『|女礼式《ぢよれいしき》|虫《むし》も|殺《ころ》さず|屁《へ》を|殺《ころ》し。
|屁《へ》を|殺《ころ》し|四辺《あたり》|四五人《しごにん》かかり|合《あ》ひ』
|初《はつ》『|己《おの》が|屁《へ》をオヤオヤオヤと|子《こ》にかづけ。
|外《そと》で|屁《へ》を|放《ひ》る|雪隠《せつちん》の|居催促《ゐざいそく》』
|徳《とく》『|風呂《ふろ》の|屁《へ》で|発明《はつめい》したか|水雷火《すゐらいくわ》。
|紙張《かみばり》の|放屁風船《はうひふうせん》に|入《い》る|空気《くうき》かな。
|屁《へ》を|放《ひ》つてもう|十二時《じふにじ》とシヤレて|居《ゐ》る。
|屁《へ》の|様《やう》な|理窟《りくつ》に|俺《おれ》も|鼻《はな》|抓《つま》み』
ガリヤ『|炬燵《こたつ》から|猫《ねこ》も|呆《あき》れて|飛《と》んで|出《で》る。
|蝋燭《らふそく》の|火《ひ》を|屁《へ》で|消《け》した|自慢振《じまんぶ》り。
よい|機嫌《きげん》|便所《べんじよ》で|謡《うた》ひ|屁《へ》を|放《ひ》りつ。
|花嫁《はなよめ》の|屁《へ》は|自動車《じどうしや》に|弁護《べんご》され。
|屁《へ》の|種子《たね》も|最早《もはや》|之《これ》にてきれにけり』
『アハハハハ』
ガリヤ『|鉄道《てつだう》の|議事《ぎじ》|速《すみや》かに|進行《しんかう》し。
|手《て》にあまる|子《こ》は|両親《ふたおや》の|脛《すね》かじり。
|身代《しんだい》が|痩《や》せて|壁《かべ》まで|骨《ほね》を|出《だ》し。
|転《ころ》ぶ|筈《はず》|銀杏返《いてふがへ》しに|結《ゆ》うた|髪《かみ》』
ケース『|忍《しの》ぶ|仲《なか》|竹藪《たけやぶ》だけが|知《し》つて|居《を》り。
|辻堂《つじだう》の|地蔵《ぢざう》は|横目《よこめ》で|涎《よだれ》くり。
|脱線《だつせん》の|一座《いちざ》に|下戸《げこ》は|折《をり》を|下《さ》げ。
|貴方《あなた》だと|屁《へ》を|譲《ゆづ》り|合《あ》ふ|睦《むつま》じさ。
|痩《や》せた|蚊《か》は|戸棚《とだな》の|隅《すみ》に|愚痴《ぐち》を|云《い》ひ。
|夕立《ゆふだち》や|座敷《ざしき》の|中《なか》の|大盥《おほだらひ》。
|芸《げい》なしは|末座《まつざ》で|茶碗《ちやわん》|叩《たた》くなり』
|初《はつ》『|馴《な》れ|初《そ》めを|話《はな》せば|女房《にようぼう》|目《め》で|叱《しか》り。
|暢気者《のんきもの》|欠伸《あくび》に|節《ふし》をつけてゐる。
|酒機嫌《さけきげん》|等《など》とごまかす|翌《あ》くる|朝《あさ》』
|徳《とく》『|高島田《たかしまだ》|又《また》|蚊《か》を|蚊帳《かや》の|中《なか》へ|入《い》れ。
|一方《いつぱう》の|足《あし》が|長《なが》いと|跛足《びつこ》|云《い》ひ。
|小説《せうせつ》は|謀反人《むほんにん》かと|下女《げぢよ》が|由井《ゆゐ》』
ガリヤ『|昼花火《ひるはなび》|物干竿《ものほしざを》が|追駆《おつか》ける。
|脱線《だつせん》の|汽車《きしや》が|寝転《ねころ》ぶ|春《はる》の|土手《どて》』
|初《はつ》『|戸棚《とだな》から|猫《ねこ》が|真面目《まじめ》な|顔《かほ》を|出《だ》し。
|戸棚《とだな》から|臭《くさ》いおならが|顔《かほ》を|出《だ》し』
|徳《とく》『その|芸《げい》に|惚《ほ》れたと|息子《むすこ》|負惜《まけをし》み』
ガリヤ『アカンベエをさせて|眼医者《めいしや》は|金貰《かねもら》ひ』
ケース『|釣竿《つりざを》や|暢気《のんき》な|顔《かほ》で|話《はな》し|合《あ》ひ。
|洋服《やうふく》で|職工《しよくこう》|下駄《げた》を|穿《は》いて|来《く》る。
|芸者論《げいしやろん》|浮世《うきよ》の|馬鹿《ばか》が|喧嘩腰《けんくわごし》』
ガリヤ『|家柄《いへがら》と|目方《めかた》にかける|持参金《ぢさんきん》。
|新聞《しんぶん》で|見《み》た|事《こと》にする|遠《とほ》い|火事《くわじ》』
ケース『|強情《がうじやう》を|線香《せんかう》と|灸《きう》がおつかける。
|死顔《しにがほ》へ|碁石《ごいし》|握《にぎ》つてかけつける』
|初《はつ》『|食卓《しよくたく》で|又《また》もめて|居《ゐ》る|子沢山《こだくさん》。
お|話中《はなしちう》|受話器《じゆわき》をヤケにひきかける。
|欠伸《あくび》から|欠伸《あくび》へ|移《うつ》る|夜《よ》の|長《なが》さ。
|似《に》た|顔《かほ》へキマリの|悪《わる》い|挨拶《あいさつ》し』
|徳《とく》『|牛肉屋《ぎうにくや》|下駄《げた》を|並《なら》べて|客《きやく》を|引《ひ》き。
|三味太鼓《しやみたいこ》|故《ゆゑ》に|浮世《うきよ》は|捨《す》てられぬ』
ガリヤ『|失敗《しつぱい》が|虫《むし》を|殺《ころ》して|持参金《ぢさんきん》。
|物干《ものほし》と|屋根《やね》と|話《はな》すは|遠《とほ》い|火事《くわじ》』
ケース『|強情《がうじやう》を|直《なほ》すに|乳母《うば》の|智慧《ちゑ》を|借《か》り。
|食《く》ひ|足《た》らぬ|団子《だんご》に|子供《こども》|串《くし》をなめ。
|食卓《しよくたく》が|机《つくゑ》に|代《かは》る|二階借《にかいがり》』
|初《はつ》『|立聞《たちぎき》の|話《はなし》がすむと|咳払《せきばら》ひ。
|夜長《よなが》さや|盗人《ぬすびと》|飯《めし》を|食《く》つて|逃《に》げ。
|顔《かほ》だけは|見《み》ぬいても|写真《しやしん》|物《もの》|云《い》はず』
|徳《とく》『|茶柱《ちやばしら》にすねて|居《ゐ》る|程《ほど》よい|女《をんな》。
|湯《ゆ》に|行《ゆ》くと|出《で》た|儘《まま》|亭主《ていしゆ》|帰《かへ》り|来《こ》ず。
|炬燵《こたつ》から|手《て》を|出《だ》してゐる|年賀状《ねんがじやう》。
|初夢《はつゆめ》に|追駆《おつか》けられて|汗《あせ》をかき』
ガリヤ『|蚤《のみ》が|飛《と》ぶ|後《あと》から|後《あと》へ|指《ゆび》が|飛《と》び。
|乞食《こじき》にはデモクラシーでくれぬなり。
|意気地《いくぢ》なし|屁《へ》に|散《ち》らされて|顛落《てんらく》し』
ケース『|一笑《ひとわら》ひさせて|弁士《べんし》は|暗《やみ》に|消《き》え。
|湯豆腐《ゆどうふ》も|粉々《こなごな》になつて|酔《よ》ひつぶれ。
|茶柱《ちやばしら》に|無線電話《むせんでんわ》の|装置《さうち》あり』
|初《はつ》『|湯《ゆ》の|礼《れい》に|背中《せなか》を|流《なが》す|賑《にぎ》やかさ。
|諦《あきら》めの|悪《わる》い|男《をとこ》の|年賀状《ねんがじやう》』
|徳《とく》『|勝手《かつて》から|八百屋《やほや》が|汗《あせ》の|首《くび》を|出《だ》し。
|蚤《のみ》が|出《で》て|話《はなし》も|他所《よそ》へ|飛《と》んで|了《しま》ひ。
|終《しま》ひ|風呂《ぶろ》デモクラシー|風邪《かぜ》を|引《ひ》き』
|初《はつ》『|地団駄《ぢだんだ》を|他人《たにん》にふます|意気地《いくぢ》なし。
|悲劇物《ひげきもの》|泣《な》く|程《ほど》|弁士《べんし》|褒《ほ》められる』
|徳《とく》『|湯豆腐《ゆどうふ》の|皿《さら》へ|盲《めくら》の|箸《はし》が|外《そ》れ。
|居催促《ゐざいそく》どつちも|飽《あ》きたやうな|顔《かほ》。
|四股《しこ》|踏《ふ》んで|嬶《かかあ》が|塵紙《ちりがみ》|倹約《けんやく》し。
|前垂《まへだれ》が|塵紙《ちりがみ》さんの|代理《だいり》をし。
|居催促《ゐざいそく》|煙管《きせる》をむごい|目《め》に|遇《あ》はし』
|斯《か》く|出放題《ではうだい》の|句《く》を|捻《ひね》り|出《だ》し|笑《わら》ひ|興《きよう》じてゐる。そこへドシン ドシンと|大《おほ》きな|足音《あしおと》をさせてやつて|来《き》たのは|曲輪城《まがわじやう》の|城主《じやうしゆ》|高宮彦《たかみやひこ》であつた。|高宮彦《たかみやひこ》は|四人《よにん》の|姿《すがた》を|見《み》て、|口《くち》をモヂモヂさせながら|無言《むごん》の|儘《まま》|睨《にら》みつけてゐた。|四人《よにん》はあまり|巨大《きよだい》な|男《をとこ》の|姿《すがた》に|稍《やや》|驚《おどろ》きを|感《かん》じ、|内心《ないしん》|私《ひそ》かに|打慄《うちふる》うてゐる。
(大正一二・二・九 旧一一・一二・二四 北村隆光録)
第二〇章 |険学《けんがく》〔一三五六〕
|四人《よにん》は|妖幻坊《えうげんばう》の|変化《へんげ》なる|高宮彦《たかみやひこ》の|巨大《きよだい》な|姿《すがた》に|内心《ないしん》|打驚《うちおどろ》きながら、|心《こころ》に|深《ふか》く|神《かみ》を|念《ねん》じ、|吾《わが》|身《み》に|危害《きがい》の|加《くは》へらるる|事《こと》あらば、|速《すみやか》に|助《たす》け|給《たま》へと|祈《いの》つてゐた。|妖幻坊《えうげんばう》はカラカラと|打笑《うちわら》ひ、
『|其《その》|方《はう》はハルナの|都《みやこ》の|大黒主《おほくろぬし》が|部下《ぶか》、ランチ、|片彦将軍《かたひこしやうぐん》の|側《そば》|近《ちか》く|仕《つか》へて|居《を》つたガリヤ、ケースであらうがな。そして|二人《ふたり》は|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》の|両人《りやうにん》、|随分《ずいぶん》|貴様《きさま》も|悪事《あくじ》にかけては|抜目《ぬけめ》のない|代物《しろもの》だ。|今《いま》は|殊勝《しゆしよう》らしく|三五《あななひ》の|教《をしへ》に|帰順《きじゆん》してゐるが、|一《ひと》つ|風《かぜ》が|吹《ふ》けば、|又《また》もや|悪道《あくだう》へ|逆転《ぎやくてん》|致《いた》す|代物《しろもの》だらう。ても|扨《さ》ても|意気地《いくぢ》のないヘゲタレ|男《をとこ》だなあ、アハハハハ』
と|嘲弄《てうろう》されてガリヤは|躍起《やくき》となり、|両手《りやうて》の|拳《こぶし》を|握《にぎ》り、|歯《は》ぎしりをしながら、
『|拙者《せつしや》は|如何《いか》にもバラモン|軍《ぐん》に|仕《つか》へて|居《を》つたガリヤである。|併《しか》しながら|決《けつ》して|変心《へんしん》|致《いた》す|様《やう》な|意気地《いくぢ》なしでは|厶《ござ》らぬぞ。|誠《まこと》の|道《みち》を|悟《さと》つた|上《うへ》は、|将軍《しやうぐん》よりも|城主《じやうしゆ》よりも|尊《たふと》いのは|宣伝使《せんでんし》だ。|堂々《だうだう》たる|大黒主《おほくろぬし》が|三軍《さんぐん》を|叱咤《しつた》し、|生殺与奪《せいさつよだつ》の|権《けん》を|握《にぎ》つて|世界《せかい》を|睥睨《へいげい》し、ハルナの|都《みやこ》に|金殿玉楼《きんでんぎよくろう》を|構《かま》へ、|城寨《じやうさい》を|築《きづ》いて、|堅牢無比《けんらうむひ》の|鉄壁《てつぺき》と|構《かま》へてゐるなれども、|拙者《せつしや》は|左様《さやう》なものが|何《なん》になるか。|天《てん》に|聳《そび》ゆる|天主閣《てんしゆかく》や|隅櫓《すみやぐら》、まつた、|大理石《だいりせき》を|以《もつ》て|畳《たた》み|上《あ》げられた|王宮《わうきう》、|左様《さやう》なものは|今《いま》にメチヤ メチヤになつて|了《しま》ふであらう。そして|其《その》|跡《あと》は|満目荒涼《まんもくくわうりやう》たる|雑草《ざつさう》の|野辺《のべ》と|変《へん》じ、|八重葎《やへむぐら》の|軒《のき》に|茂《しげ》るに|任《まか》すのみ、|果敢《はか》なき|運命《うんめい》に|陥《おちい》るは|目《ま》のあたりだ。|其《その》|如《ごと》く|此《この》|高宮城《たかみやじやう》も、やがては|凋落《てうらく》の|運命《うんめい》に|陥《おちい》るであらう。|高宮彦《たかみやひこ》が|何《なん》だ。|曲輪城《まがわじやう》の|城主《じやうしゆ》が|何《なに》|偉《えら》い。|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|信真《しんしん》の|光《ひかり》によつて、|永久不滅《えいきうふめつ》の|生命力《せいめいりよく》を|有《いう》する|信仰《しんかう》|其《その》ものより|外《ほか》には、|世《よ》の|中《なか》に|決《けつ》して|尊《たふと》きものはない|筈《はず》だ。|世《よ》の|中《なか》の|利巧《りかう》な|愚物《ぐぶつ》や|俗漢《ぞくかん》が、|畢生《ひつせい》の|事業《じげふ》とか、|政権《せいけん》とか、|利益《りえき》とか、|株式《かぶしき》だとか|云《い》つてゐるやうな、|十年《じふねん》もたたずに|亡《ほろ》びて|了《しま》ふやうなものが|何《なん》になるか。|吾々《われわれ》は|此《この》|真理《しんり》を|悟《さと》つたが|故《ゆゑ》に、バラモンの|軍籍《ぐんせき》をすてて、|永久不滅《えいきうふめつ》の|生命《せいめい》に|入《い》るべく|信仰《しんかう》の|道《みち》を|辿《たど》つたのだ。|何《なん》だ|高宮彦《たかみやひこ》、|吾々《われわれ》|元《もと》バラモン|軍《ぐん》の|営所《えいしよ》を|何時《いつ》の|間《ま》にか|修繕《しうぜん》|致《いた》し、|黙《だま》つて|占領《せんりやう》|致《いた》すとは|不都合《ふつがふ》ぢやないか。サア、|誰《たれ》にこたへて、|斯様《かやう》な|立派《りつぱ》な|城廓《じやうくわく》を|造《つく》つたのだ。|返答《へんたふ》|聞《き》かして|貰《もら》はうかい』
と|何時《いつ》の|間《ま》にやら|恐怖心《きようふしん》は|何処《どこ》へか|行《い》つて、|腕《うで》を|打《う》ち|振《ふ》り、|勇気《ゆうき》|百倍《ひやくばい》して|無性矢鱈《むしやうやたら》に|喋《しやべ》り|出《だ》した。|妖幻坊《えうげんばう》は|大口《おほぐち》をあけて|高笑《たかわら》ひ、
『アツハハハハ、|叩《たた》くな|叩《たた》くな、へらず|口《ぐち》を|叩《たた》いてそれが|何《なん》になる。|末《すゑ》の|百《ひやく》より|今《いま》の|五十《ごじふ》、|人間《にんげん》は|太《ふと》く|短《みじか》く|暮《くら》せば|可《い》いのだ。コリヤ|其《その》|方《はう》|共《ども》、|吾《わが》|城内《じやうない》に|来《きた》つて|其《その》|荘厳《さうごん》に|打《う》たれ、|且《かつ》|物質的《ぶつしつてき》|方面《はうめん》の|如何《いか》に|荘厳優美《さうごんいうび》にして|且《かつ》|華美《くわび》なるかを、チツとは|研究《けんきう》したがよからうぞ。|何事《なにごと》も|見学《けんがく》の|為《ため》だ。どうだ、|城主《じやうしゆ》が|直接《ちよくせつ》に|許《ゆる》すといふのだから|大丈夫《だいぢやうぶ》だらう』
ガリヤ『ヤア、|高宮彦《たかみやひこ》とやら、|僅《わづ》か|三四ケ月《さんしかげつ》の|間《あひだ》に、|斯様《かやう》な|立派《りつぱ》な|普請《ふしん》をなさるとは、ガリヤに|取《と》つては|不審《ふしん》|千万《せんばん》、|合点《がてん》が|参《まゐ》らぬで|厶《ござ》る。そして|此《この》|浮木《うきき》の|森《もり》は|妖怪変化《えうくわいへんげ》|出没《しゆつぼつ》し、|行人《かうじん》を|苦《くる》しむるや|実《じつ》に|名状《めいじやう》す|可《べか》らざる|魔窟《まくつ》である。|斯様《かやう》な|処《ところ》に|城廓《じやうくわく》を|構《かま》へるやうな|奴《やつ》は、|只《ただ》の|狸《たぬき》ぢやあるまい、|気《き》の|利《き》いた|化物《ばけもの》はすつ|込《こ》む|時分《じぶん》だ、サ、どいたりどいたり』
『アハハハハ、お|疑《うたがひ》は|御尤《ごもつと》も|千万《せんばん》、|拙者《せつしや》は|決《けつ》して|怪《あや》しき|者《もの》では|厶《ござ》らぬ。|元《もと》は|拙者《せつしや》も|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》なりしが、|思《おも》ふ|仔細《しさい》あつて、|斎苑《いそ》の|館《やかた》を|脱退《だつたい》し、|吾《わが》|名《な》を|高宮彦《たかみやひこ》と|改《あらた》めて、ここに|君臨《くんりん》|致《いた》したものだ。|其《その》|方《はう》も|三五《あななひ》の|道《みち》に|帰順《きじゆん》した|以上《いじやう》は、|一度《いちど》ここへ|参拝《さんぱい》|致《いた》さねばなるまい。|実《じつ》の|所《ところ》は、|某《それがし》は|初稚姫《はつわかひめ》の|父親《てておや》なる|時置師《ときおかし》の|杢助《もくすけ》だ。どうぢや、|一度《いちど》|休息《きうそく》して|行《ゆ》く|気《き》はないか』
『どうも|合点《がつてん》の|行《ゆ》かぬ|事《こと》になつて|来《き》た。ああ|併《しか》しながら|此《この》|浮木《うきき》の|森《もり》は|吾々《われわれ》が|稍《やや》|暫《しば》し|住《す》みなれて、|地理《ちり》もよく|知《し》り|居《を》れば、|有為天変《うゐてんぺん》の|世《よ》の|有様《ありさま》を|目撃《もくげき》するも|亦《また》|一興《いつきよう》、|然《しか》らば|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》つて|拝見《はいけん》さして|頂《いただ》かうかな。|各方《おのおのがた》|如何《いかが》で|厶《ござ》るかな』
とガリヤは|三人《さんにん》に|問《と》ひかけた。|三人《さんにん》は|無言《むごん》のまま|首《くび》を|下《さ》げて|賛成《さんせい》の|意《い》を|表《へう》した。
『|然《しか》らば|高宮彦《たかみやひこ》|殿《どの》、ガリヤ|以下《いか》|一同《いちどう》、|御世話《おせわ》になりませう』
と|口《くち》ではキツパリ|言《い》ひ|放《はな》つたものの、|心《こころ》の|中《うち》で|思《おも》ふやう、|此奴《こいつ》アどうしても|妖怪《ばけもの》の|親玉《おやだま》に|相違《さうゐ》ない。|此方《こちら》の|方《はう》から|甘《うま》く|騙《だま》されたやうな|風《ふう》を|装《よそほ》ひ、スツカリ|様子《やうす》を|考《かんが》へた|上《うへ》、|三五教《あななひけう》の|神力《しんりき》に|帰順《きじゆん》させるか、|但《ただし》は|根底《こんてい》から|打《う》ち|亡《ほろ》ぼしてやるか|二《ふた》つに|一《ひと》つの|思案《しあん》だ。これも|何《なに》かの|神様《かみさま》のお|仕組《しぐみ》だらう……と|心《こころ》にうなづきながら、さあらぬ|体《てい》にて|妖幻坊《えうげんばう》の|言葉《ことば》に|従《したが》ふ|事《こと》となつた。|妖幻坊《えうげんばう》は|俄《にはか》に|顔色《かほいろ》を|和《やは》らげ、|言葉《ことば》も|叮嚀《ていねい》に、
『イヤ|各方《おのおのがた》、それでこそ|三五《あななひ》のピユリタンで|厶《ござ》る。|拙者《せつしや》の|娘《むすめ》|初稚姫《はつわかひめ》も|奥《おく》に|控《ひか》へ|居《を》れば、|一度《いちど》は|会《あ》つてやつて|下《くだ》さい。|親《おや》の|口《くち》から|褒《ほ》めるぢやないが、|実《じつ》に|天稟《てんりん》の|美貌《びばう》だ。こんな|武骨《ぶこつ》な|男《をとこ》に、なぜあんな|娘《むすめ》が|出来《でき》たかと|思《おも》へば|実《じつ》に|不思議《ふしぎ》だ。|之《これ》も|要《えう》するに|天《てん》の|配剤《はいざい》でせう、アハハハハ』
『|何《なん》と|仰有《おつしや》います、|有名《いうめい》な|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》がお|出《いで》になつて|居《を》りますか。ソリヤ|一度《いちど》ガリヤも|是非《ぜひ》お|目《め》にかかりたいもので|厶《ござ》います』
ケースは、
『まだ|独身《どくしん》でゐられますかな』
『ハイ、|独身者《どくしんしや》で|厶《ござ》いますよ。どうか|適当《てきたう》な|夫《をつと》があれば、|持《も》たせたきものと、|親心《おやごころ》で|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|祈《いの》つて|居《を》りました。どうやらここに|初稚姫《はつわかひめ》の|夫《をつと》として|恥《はづ》かしからぬ|御方《おかた》が、たつた|一人《ひとり》|交《まじ》つて|厶《ござ》るやうだ。イヤ|是《これ》も|天《てん》の|時節《じせつ》が|来《き》たので|厶《ござ》らう、アハハハハ』
ガリヤは|何《なに》、|此《この》|妖怪《ばけもの》|奴《め》、|其《その》|手《て》は|喰《く》はぬぞ……と|腹《はら》の|中《なか》できめてゐたが、ケース|他《ほか》|二人《ふたり》はスツカリ|降参《まゐ》つて|了《しま》ひ、そして|此《この》|中《なか》に|初稚姫《はつわかひめ》の|婿《むこ》となるべき|者《もの》があると|云《い》つたのは|誰《たれ》であらうか、ヒヨツトしたら|俺《おれ》であるまいかなどと、|互《たがひ》にニコニコしながら|跟《つ》いて|行《ゆ》く。
ケース『エーもし|城主様《じやうしゆさま》、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》の|夫《をつと》になるやうな|男《をとこ》は、ケースの|眼《め》からは、|生憎《あいにく》|此処《ここ》には|居《を》らないぢやありませぬか。|何《いづ》れもへボクチヤ|男《をとこ》ばかりですからな。|此《この》|中《なか》に|一人《ひとり》は、それでも|可成《かな》り|及第《きふだい》する|奴《やつ》があるかも|知《し》れませぬな』
『どうか|其《その》|方《かた》を|養子《やうし》となし、ここの|城主《じやうしゆ》になつて|貰《もら》ひたいものだ』
『|成程《なるほど》、|実《じつ》に|立派《りつぱ》なお|屋敷《やしき》で|厶《ござ》いますな。|私《わたし》が|将軍《しやうぐん》の|副官《ふくくわん》をして|居《を》つた|時《とき》にや、|半永久的《はんえいきうてき》の|建物《たてもの》で、|見《み》る|影《かげ》もなき|粗末《そまつ》|至極《しごく》な|陣営《ぢんえい》でしたが、|貴方《あなた》の|御神力《ごしんりき》は|偉《えら》いものです。|少時《しばし》の|間《ま》に|斯様《かやう》な|事《こと》にならうとは、|此《この》ケース、|実《じつ》に|夢《ゆめ》にも|思《おも》ひませぬでした。|実《じつ》に|立派《りつぱ》なもので|厶《ござ》いますワ。|私《わたし》|此《この》|様《やう》な|親《おや》が|持《も》ちたいもので|厶《ござ》います、オホホホホ』
『サ、|私《わたし》のやうな|男《をとこ》にでも、|子《こ》になつてくれる|人《ひと》がありませうかな。|初稚姫《はつわかひめ》が|見《み》たら、さぞ|此《この》|四人《よにん》の|中《うち》の|一人《ひとり》に|目《め》をつけて|喜《よろこ》ぶ|事《こと》でせうよ』
『そして|貴方《あなた》のお|目《め》に|止《と》まつた|男《をとこ》といふのは|誰《たれ》で|厶《ござ》いますか。ガ|印《じるし》ですか、|但《ただし》はハかトかケか、どちらで|厶《ござ》いませうな』
『ケのつくお|方《かた》でせう』
ガリヤは、
『ハハハハ、ケのつく、|獣先生《けものせんせい》にはよい|対象《たいしやう》だ、ハハハハ、ヤツパリ|霊相応《みたまさうおう》かな』
と|呟《つぶや》いた。されど|妖幻坊《えうげんばう》も|他《た》の|連中《れんぢう》も、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|話《はなし》に|実《み》が|入《い》つて、ガリヤの|囁《ささや》きに|気《き》が|付《つ》かなんだ。
|漸《やうや》くにして|菫《すみれ》、|蒲公英《たんぽぽ》、|紫雲英《げんげ》などの|美《うつく》しく|咲《さ》きみちた|城内《じやうない》の|広庭《ひろには》をよぎりながら、|金色燦爛《きんしよくさんらん》たる|隔《へだ》ての|門《もん》を|幾《いく》つともなく|潜《くぐ》つて|玄関口《げんくわんぐち》についた。ここには|七宝《しつぱう》をもつて|飾《かざ》られたる|卓子《テーブル》や|椅子《いす》が|並《なら》べられ、|大《おほ》きな|瓶《かめ》に|芳香《はうかう》|馥郁《ふくいく》として|咲《さ》きみちたる|白梅《しらうめ》の|花《はな》が|活《い》けられてあつた。|妖幻坊《えうげんばう》の|高宮彦《たかみやひこ》は|先《さき》に|立《た》つて、|玄関《げんくわん》を|上《のぼ》り|行《ゆ》く。|八人《はちにん》の|美《うつく》しい|美女《びぢよ》は|満面《まんめん》に|笑《ゑみ》を|湛《たた》へて、|四人《よにん》の|手《て》を|一本《いつぽん》づつ|取《と》り、|各《おのおの》|居間《ゐま》へ|導《みちび》いて|行《ゆ》く。
(大正一二・二・九 旧一一・一二・二四 松村真澄録)
第二一章 |狸妻《りさい》〔一三五七〕
ガリヤ、ケース、|初《はつ》、|徳《とく》の|四人《よにん》は、|八人《はちにん》の|美女《びぢよ》に|導《みちび》かれ、|美《うる》はしき|広《ひろ》き|奥《おく》の|一間《ひとま》に|請《しやう》ぜられた。ケースは|何《なん》となく、|女《をんな》の|美《うる》はしさと|殿内《でんない》の|荘厳《そうごん》さに|打《う》たれて|呆気《あつけ》に|取《と》られてゐる。ガリヤは|始終《しじう》|注意《ちゆうい》の|眼《まなこ》を|放《はな》つて、|四辺《あたり》の|不可解《ふかかい》な|光景《くわうけい》を|凝視《ぎようし》してゐた。|初《はつ》、|徳《とく》|両人《りやうにん》は|曲輪城《まがわじやう》の|城主《じやうしゆ》|高宮彦《たかみやひこ》|及《およ》び|高宮姫《たかみやひめ》の|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれたのを|見《み》て、|余程《よほど》|容貌《ようばう》は|変《かは》つて|居《を》れども、どこともなく、|高宮姫《たかみやひめ》は|小北山《こぎたやま》で|見《み》た|高姫《たかひめ》に|似《に》てゐるので、しきりに|首《くび》を|傾《かたむ》けてゐた。|高宮姫《たかみやひめ》は|初《はつ》、|徳《とく》を|見《み》て|打笑《うちわら》ひ、
『ホホホホホ、|初《はつ》さま、|徳《とく》さま、これには|恐《おそ》れ|入《い》りましただらう。|高宮彦《たかみやひこ》といふのは|杢助《もくすけ》さまだよ。そして|高宮姫《たかみやひめ》はかう|若《わか》く|見《み》えてもヤツパリ|高姫《たかひめ》だよ。お|前《まへ》が|取《と》つて|来《き》てくれた|曲輪《まがわ》の|神力《しんりき》に|依《よ》つて、|斯《かく》の|如《ごと》き|荘厳美麗《さうごんびれい》なる|城廓《じやうくわく》が|瞬《またた》く|間《うち》に|出来上《できあが》がり、|又《また》|妾《わたし》の|容貌《ようばう》が|元《もと》の|十八《じふはち》に|返《かへ》り、|斯《かく》の|如《ごと》き|容色《ようしよく》|端麗《たんれい》なる|美人《びじん》となつたのも|曲輪《まがわ》の|神力《しんりき》だよ。お|前《まへ》はよいことをしてくれましたねえ』
|初《はつ》『|貴女等《あなたがた》は|私《わたし》たちに|骨《ほね》を|折《を》らせておきながら、|怪志《あやし》の|森《もり》からドロンと|消《き》えて|了《しま》ひ、|足《あし》の|立《た》たない|両人《りやうにん》を|置去《おきざ》りにした|上《うへ》、|石《いし》をぶつかけて|逃《に》げるとは、チツとひどいですな。|初《はつ》は|恨《うら》んで|居《ゐ》ましたよ』
『ホホホホホ、お|前《まへ》の|度胸《どきよう》を|試《ため》してみたのだよ。サ、|之《これ》からお|前《まへ》は|此《この》|城《しろ》の|大番頭《おほばんとう》だ。|忠実《ちうじつ》に|御用《ごよう》をしなさい。|初《はつ》は|左守《さもり》、|徳《とく》は|右守《うもり》だ、ねえ|高宮彦《たかみやひこ》さま、それでよいでせう』
|妖幻《えうげん》『|何事《なにごと》も|女王《ぢよわう》の|御意見《ごいけん》に|任《まか》しませう。|女帝《によてい》|崇拝《すうはい》の|現代《げんだい》だから、|仕方《しかた》がないワイ、アハハハハ』
|初《はつ》『|思《おも》ひ|掛《がけ》なき|抜擢《ばつてき》に|預《あづ》かりまして、まるで|初公《はつこう》は|狸《たぬき》につままれたやうな|気分《きぶん》が|致《いた》します』
『コレ|初公《はつこう》、|否《いな》|初司《はつつかさ》、|狸《たぬき》につままれたやうだとは、|何《なん》といふ|不謹慎《ふきんしん》なことを|仰有《おつしや》る。ここは|地《ち》の|高天原《たかあまはら》で|厶《ござ》るぞや。|決《けつ》して|曲津《まがつ》などは|近寄《ちかよ》る|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|今後《こんご》は|心得《こころえ》なされ』
|徳《とく》『|私《わたし》は|異数《いすう》の|抜擢《ばつてき》に|与《あづか》りまして、|右守《うもり》と|任《にん》ぜられ、|身《み》にあまる|光栄《くわうえい》で|厶《ござ》ります。これと|申《まを》すも、|全《まつた》く|吾々《われわれ》が|命《いのち》がけの|大活動《だいくわつどう》を|致《いた》し、|曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|取返《とりかへ》して|来《き》た|其《その》|酬《むく》いで|厶《ござ》いますれば、|徳《とく》が|右守《うもり》となつたとて、|余《あま》り|出世《しゆつせ》のし|過《す》ぎでも|厶《ござ》いませぬ。|当然《たうぜん》の|所得《しよとく》として|謹《つつし》んでお|受《う》けを|致《いた》します』
|妖幻《えうげん》『アハハハハ、|喜《よろこ》んで|居《ゐ》るのか|不足《ふそく》を|云《い》つてるのか、チツとも|訳《わけ》が|分《わか》らぬぢやないか。|怪体《けつたい》な|挨拶《あいさつ》だなア』
『|何分《なにぶん》|狸《たぬき》と|相撲《すまふ》とり、|鼬《いたち》に|屁《へ》はかがされ、|精神《せいしん》に|異状《いじやう》を|来《きた》したと|見《み》えまして、|申《まを》し|上《あ》ぐることが|前後《ぜんご》|矛盾《むじゆん》、|自家撞着《じかどうちやく》の|傾《かたむ》きが|厶《ござ》いませう。|何《なん》と|云《い》つても|曲輪城《まがわじやう》ですから、|本気《ほんき》で|徳公《とくこう》もお|受《う》けは|出来《でき》ませぬ、アハハハハ』
|高姫《たかひめ》は|柳眉《りうび》を|逆立《さかだ》て、
『コレ|徳《とく》、お|前《まへ》は|右守《うもり》に|任《にん》じて|貰《もら》ひながら、|左様《さやう》な|挨拶《あいさつ》を|致《いた》すのは、|吾々《われわれ》を|侮辱《ぶじよく》してるのぢやないかい。|決《けつ》してお|前《まへ》でなければ|右守《うもり》が|勤《つと》まらぬといふのではない。それなら|今《いま》から|取消《とりけ》します。|其《その》|代《かは》りとして、ケースに|願《ねが》ひませう』
ケース『ハイ、|右守《うもり》でも|結構《けつこう》です。|何《なん》なら|左守《さもり》も|兼《か》ねても|宜《よろ》しう|厶《ござ》います』
『|両方《りやうはう》といふ|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬ。ヤツパリ|貴方《あなた》は|右守《うもり》を|勤《つと》めて|下《くだ》さい。|就《つ》いては|右守《うもり》、|左守《さもり》とも|夫婦《ふうふ》|相並《あひなら》んで|御用《ごよう》を|致《いた》さねばならぬ。|左守《さもり》の|妻《つま》には|初稚姫《はつわかひめ》、|右守《うもり》の|妻《つま》には|宮野姫《みやのひめ》ときまつて|居《を》りますれば、やがて|盛大《せいだい》なる|結婚式《けつこんしき》を|取行《とりおこな》ふことに|致《いた》しませう』
|初《はつ》『エヘヘヘヘ、まるで|夢《ゆめ》のやうだ。オイ、ケース、|初公《はつこう》に|失礼《しつれい》、すみまへんな』
ケース『ウーン、もし|高宮姫《たかみやひめ》さま、|左守《さもり》、|右守《うもり》といふことは|之《これ》は|職名《しよくめい》でせう。|人間《にんげん》を|又《また》|人間《にんげん》として|各自《かくじ》に|夫婦《ふうふ》を|選《えら》むのが|至当《したう》ぢやありませぬか。|女《をんな》を|左守《さもり》、|右守《うもり》の|職名《しよくめい》の|附属物《ふぞくぶつ》にするとは、チツと|変《へん》なものですな。これだけは|自由結婚《じいうけつこん》にして|頂《いただ》きたいものです。もしそれが|出来《でき》ねば、ケースを|左守《さもり》にして|貰《もら》ひたいものです』
『|然《しか》らば|宮野姫《みやのひめ》、|初稚姫《はつわかひめ》|両人《りやうにん》を|次《つぎ》の|間《ま》に|控《ひか》へさしておきますから、ケースに|初公《はつこう》は|自由《じいう》に|妻《つま》をお|選《えら》びなさいませ。|又《また》|女《をんな》の|方《はう》にも|考《かんが》へがありませうから、|両方《りやうはう》から|水火《いき》の|合《あ》うたものが|夫婦《ふうふ》になれば、|極《きは》めて|円満《ゑんまん》に|暮《くら》されるでせうよ』
『イヤ、よく|分《わか》りました。オイ|初公《はつこう》、サア|之《これ》から|選挙《せんきよ》|競争《きやうそう》だ。|中原《ちうげん》の|鹿《しか》は|誰《たれ》の|手《て》におちるか、ここが|一《ひと》つ|獅子奮迅《ししふんじん》の|活動舞台《くわつどうぶたい》だ。ケースの|俺《おれ》は|上杉《うへすぎ》|謙信《けんしん》だ。|貴様《きさま》は|武田《たけだ》|信玄《しんげん》だ。|川中島《かはなかじま》を|隔《へだ》てて、いよいよ|女房《にようばう》の|争奪戦《さうだつせん》だ、イヒヒヒヒ』
|徳《とく》『オイ|初公《はつこう》、ケース、|徳《とく》と|考《かんが》へりやチツとここは|怪《あや》しいぞ。|又《また》|狸《たぬき》につままれて、ドブへはめられなよ。なア ガリヤ、|此《この》|立派《りつぱ》な|宮殿《きうでん》のやうに|見《み》えてるが、どうやらすると|草《くさ》つ|原《ぱら》が|見《み》えるやうですな。かう|見《み》えて|居《を》つても、ヤツパリ|狸《たぬき》の|巣窟《さうくつ》かも|知《し》れませぬで』
ガリヤ『ナアニ、そんなことがあらうか、|結構《けつこう》な|曲輪城《まがわじやう》の|御殿《ごてん》だ。|杢助《もくすけ》さまに|高姫《たかひめ》さま、|初稚姫《はつわかひめ》さままでが|厶《ござ》るのだもの、そんな|心配《しんぱい》はするものでないワ』
『ヘエー、|妙《めう》ですな』
かく|言《い》つてゐる|所《ところ》へ|四五人《しごにん》の|美人《びじん》、|盛装《せいさう》を|凝《こ》らして|現《あら》はれ|来《きた》り、|一人《ひとり》の|女《をんな》は|徳公《とくこう》の|首玉《くびたま》に|喰《くら》ひつき、|柔《やはら》かい|頬《ほほ》を|顔《かほ》ににじりつけて、
『あのマア|徳《とく》さまの|良《よ》い|男《をとこ》、あたえ、こんな|気《き》の|利《き》いた|気骨《きこつ》のある|人《ひと》は、まだ|見《み》たことがないワ、ねえ|四人《よにん》のお|方《かた》』
|四人《よにん》は|一時《いちじ》にうなづく。|徳公《とくこう》に|喰《くら》ひついた|女《をんな》は|名《な》をサベル|姫《ひめ》といふ。
『|徳《とく》さま、そんな|六《む》つかしい|小理窟《こりくつ》をいはずに|私《わたし》の|居間《ゐま》へ|来《き》て|頂戴《ちやうだい》ね。お|前《まへ》は|狸《たぬき》と|相撲《すまふ》とつたでせう。|其《その》|時《とき》の|妄念《まうねん》が|残《のこ》つてゐて、|何《なに》もかも|狸《たぬき》に|見《み》えるのですよ。あたえかて、そんな|恐《おそ》ろしい|狸《たぬき》の|巣窟《さうくつ》にはよう|居《を》りませぬワ。あたえが|居《ゐ》ること|思《おも》へば、|狸《たぬき》の|巣《す》ぢやありますまい。|浮木《うきき》の|森《もり》のランチ|将軍様《しやうぐんさま》の|陣営《ぢんえい》の|跡《あと》ですもの、サ|参《まゐ》りませう、サベルと|一緒《いつしよ》に』
|徳《とく》は|半信半疑《はんしんはんぎ》の|雲《くも》に|包《つつ》まれて、|暫《しばら》く|思案《しあん》をしてゐたが、サベル|姫《ひめ》の|容貌《ようばう》は|何《ど》うしても|捨《す》て|難《がた》く|思《おも》はれ、たうとう|恋《こひ》の|曲者《くせもの》に|捉《とら》はれて、|目尻《めじり》を|下《さ》げ、サベル|姫《ひめ》の|居間《ゐま》に|導《みちび》かれて|行《ゆ》く。|徳《とく》は|立派《りつぱ》な|一間《ひとま》に|請《しやう》ぜられ、サベル|姫《ひめ》と|共《とも》に、|喋々喃々《てふてふなんなん》として|甘《あま》き|囁《ささや》きを|続《つづ》けてゐた。そこへ|以前《いぜん》の|四人《よにん》の|美人《びじん》、ドアを|開《あ》けて|入《い》り|来《きた》り、
『アレマア|姉《ねえ》さま、|色男《いろをとこ》の|独占《どくせん》はチツと|残酷《ざんこく》ですワ。|私《わたし》も|徳《とく》さまの|女房《にようばう》になります……あたえも……わらはも……』
と|四方《しはう》より|徳《とく》|一人《いちにん》の|体《からだ》に|喰《くら》ひ|付《つ》き、|耳《みみ》を|舐《な》めたり、|手《て》を|舐《な》めたりして|恋《こひ》しがる。|徳公《とくこう》は|魂《たましひ》が|有頂天《うちやうてん》となつて、|耳《みみ》を|咬《か》み|取《と》られ、|指《ゆび》を|噛《かじ》られて|居《ゐ》るのも、|少《すこ》しも|痛痒《つうよう》を|感《かん》ぜず、|口《くち》を|立方形《りつぽうけい》にあけて|涎《よだれ》をくつてゐる。|耳《みみ》や|爪先《つまさき》から|血《ち》をチウチウと|吸《す》はれて|段々《だんだん》|青《あを》くなり、よい|気分《きぶん》になつて、ぐつたりと|寝《ね》て|了《しま》つた。ガリヤは|何処《どこ》までも|此《この》|正体《しやうたい》を|見届《みとど》けねばおかぬと、|一分《いつぷん》の|間《ま》も|心《こころ》の|中《うち》にて|神言《かみごと》をきらさず|称《とな》へながら、|呆《はう》けたやうな|面《つら》をして|様子《やうす》を|考《かんが》へてゐた。|高宮姫《たかみやひめ》は……このガリヤは|容易《ようい》に|喰《く》へぬ|奴《やつ》だ、|此奴《こいつ》をうまく|説《と》き|付《つ》けねばなるまい……と|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》してゐる。
『ガリヤさま、|貴方《あなた》はバラモン|教《けう》でも|智勇《ちゆう》|兼備《けんび》の|勇士《ゆうし》と|承《うけたま》はりましたが、|何《なん》とはなしに|威風《ゐふう》|凛々《りんりん》として|四辺《あたり》を|払《はら》ふ|御人格者《ごじんかくしや》で|厶《ござ》いますねえ。|実《じつ》の|所《ところ》は|吾《わが》|夫《をつと》|高宮彦《たかみやひこ》さまも、お|前《まへ》を|自分《じぶん》の|代理《だいり》にしたいものだと、それはそれは|懇望《こんまう》うして|居《を》られますよ。どうか|副城主《ふくじやうしゆ》になつて|下《くだ》さる|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬだらうか』
ガリヤは|詐《いつは》つて|承諾《しようだく》し、|一切《いつさい》の|様子《やうす》を|突《つ》きとめむと|思《おも》ひ、ワザと|嬉《うれ》しさうな|声《こゑ》で、
『|私《わたし》の|様《やう》な|不調法《ぶてうはふ》な|者《もの》が、|何《ど》うしてそんな|尊《たふと》いお|役《やく》が|勤《つと》まりませうか。|身分不相応《みぶんふさうおう》なことを|致《いた》して|後《あと》で|失敗《しくじ》るよりも、|一兵卒《いつぺいそつ》として|低《ひく》う|仕《つか》へるのが、|私《わたし》の|身《み》の|為《ため》に|最《もつと》も|安全《あんぜん》で|厶《ござ》います。|何卒《どうぞ》そればかりは|平《ひら》に|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りませう』
『そんな|廻《まは》りくどい|辞令《じれい》を|用《もち》ゐるよりも、|本当《ほんたう》のことを|言《い》つて|下《くだ》さい。お|前《まへ》は|何《なん》と|云《い》つてもヤツパリ|副城主《ふくじやうしゆ》の|方《はう》がお|望《のぞ》みでせう。|此《この》|忙《いそが》しい|時節《じせつ》に、そんな|探《さぐ》るやうなことをいはずに、|素直《すなほ》に|承諾《しようだく》なさるが|宜《よろ》しからう』
『|私《わたし》のやうな|者《もの》が、そんな|役《やく》になれば、|世間《せけん》の|人間《にんげん》は|狸《たぬき》が|化《ば》けたと|言《い》ふでせう。|〓猴《もくこう》が|冠《かむり》したと|笑《わら》ふでせう。|併《しか》しながら|人《ひと》は|何《なん》とも|云《い》はば|云《い》へ、|吾《わが》|心根《しんこん》は|神《かみ》のみぞ|知《し》る……と|云《い》ふ|譬《たとへ》も|厶《ござ》いますれば、|喜《よろこ》んでお|受《う》けを|致《いた》しませう』
『|結構《けつこう》|々々《けつこう》、それでこそお|前《まへ》も|男《をとこ》があがる。|高宮彦《たかみやひこ》さまも|嘸《さぞ》お|喜《よろこ》びでせうねえ』
と|後《あと》|振向《ふりむ》けば、|高宮彦《たかみやひこ》は|最早《もはや》|其《その》|場《ば》に|姿《すがた》は|見《み》えなかつた。|高宮姫《たかみやひめ》は、
『アレまあ』
と|驚《おどろ》きの|声《こゑ》を|放《はな》ち、ガリヤを|後《あと》に|残《のこ》し、|慌《あわただ》しく|夫《をつと》の|後《あと》を|追《お》うて|奥《おく》に|入《い》る。
あとにガリヤは|只《ただ》|一人《ひとり》|両手《りやうて》を|組《く》み|吐息《といき》を|漏《も》らして、どうしても|此処《ここ》は|魔窟《まくつ》に|違《ちが》ひない。|何《なん》とかして|暴露《ばくろ》させてくれむものと|考《かんが》へ|込《こ》んでゐた。そこへドアを|押開《おしあ》け|入《い》り|来《きた》る|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》があつた。これはサベル|姫《ひめ》である。ガリヤは、
『ああ|貴女《あなた》はサベル|姫《ひめ》さま、こんな|所《ところ》へお|越《こ》しになると、|徳公《とくこう》さまが|気《き》を|揉《も》みますよ、ハハハハハ』
『ホホホホホ、あたえ、|徳公《とくこう》さまが|嫌《きら》ひで|嫌《きら》ひでたまらなくつて、|逃《に》げて|来《き》ましたのよ。あたえのラブしてゐるのは、ガの|字《じ》のつくお|方《かた》ですワ、ホホホホホ』
と|赤《あか》い|顔《かほ》に|袖《そで》をあてて|俯《うつむ》く。
(大正一二・二・一〇 旧一一・一二・二五 松村真澄録)
第二二章 |空走《くうそう》〔一三五八〕
ガリヤはサベル|姫《ひめ》の|口許《くちもと》に|赤《あか》い|生血《いきち》がついてゐるのを|見《み》て、いよいよ|此奴《こいつ》ア|不思議《ふしぎ》な|奴《やつ》と|目《め》を|注《そそ》いだ。サベルはガリヤに|睨《にら》みつけられ、ビリビリと|身慄《みぶる》ひしながら、|俄《にはか》に|笑《わら》ひ|声《ごゑ》、
『ホホホホホ、あのマア|男《をとこ》らしいお|顔《かほ》わいの、なぜ|其《その》|様《やう》に|私《わたし》を|睨《にら》ましやんすのですか』
『お|前《まへ》の|口許《くちもと》に|赤《あか》い|血《ち》がついてるので、|不思議《ふしぎ》だと|思《おも》つて|覗《のぞ》いたのだ』
サベルは|驚《おどろ》いて、|小袖《こそで》の|袂《たもと》で|唇《くちびる》を|拭《ふ》き、
『これは|紅《べに》をつけましたの、|余《あま》り|慌《あわ》てたものですから、つひ|流《なが》れまして、|無細工《ぶさいく》な|所《ところ》を、|貴方《あなた》に|見付《みつ》けられたのですよ。どうです、|貴方《あなた》はお|厭《いや》ですか』
『|厭《いや》でも|何《なん》でもありませぬが、|私《わたし》は|人《ひと》の|耳《みみ》にかぶりついたり、○|玉《だま》にキツスするやうな|化女《ばけをんな》は|嫌《いや》ですよ。|徳《とく》は|何《ど》うなりましたか、|随分《ずいぶん》|満足《まんぞく》して|居《ゐ》るでせうな』
『ハイ、|徳《とく》さまは|四人《よにん》のお|方《かた》に|一任《いちにん》しておきました。|私《わたし》、|本当《ほんたう》にガの|字《じ》のついた|人《ひと》が|好《す》きでたまらないのですよ。ねえ、|貴方《あなた》、|余《あま》り|憎《にく》うはありますまい』
と|云《い》ひながら、ガリヤの|耳《みみ》に|喰《く》ひつかうとした。ガリヤはサベルの|腕《うで》をグツと|握《にぎ》つてみれば、|象牙細工《ざうげざいく》のやうな|光《ひか》つた|腕《うで》と|見《み》えてゐたのは、|毛《け》だらけの|古狸《ふるだぬき》の|手《て》であつた。ガリヤは|全身《ぜんしん》の|力《ちから》を|籠《こ》めてグツと|握《にぎ》り、チツとも|放《はな》さぬ。サベルは|忽《たちま》ち|正体《しやうたい》を|現《あら》はし、|古狸《ふるだぬき》となつてヂタバタ|体《からだ》をもがいてゐる。ガリヤは|直《ただち》に|懐《ふところ》より|細紐《ほそひも》を|取出《とりだ》し、|四《よ》つ|足《あし》を|固《かた》く|括《くく》つて、|天井裏《てんじやううら》に|吊《つ》り|下《さ》げて|了《しま》つた。そしてケース、|初《はつ》の|両人《りやうにん》を|此処《ここ》へ|引寄《ひきよ》せて、|目《め》を|醒《さ》ましてやらうとの|考《かんが》へであつた。|狸《たぬき》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|悲鳴《ひめい》をあげて|泣《な》き|叫《さけ》ぶ。|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いてやつて|来《き》たのは、|妖幻坊《えうげんばう》と|高姫《たかひめ》の|二人《ふたり》であつた。
|妖幻《えうげん》『ヤア、ガリヤさま、コリヤ|何《なん》ですか、えらいものが|手《て》に|入《い》りましたな』
『ハイ、|狸汁《たぬきじる》でも|拵《こしら》へて|一杯《いつぱい》やつたら、|随分《ずいぶん》|甘《うま》いことでせう。サベル|姫《ひめ》なんて、うまく|化《ば》けよつて、|吾々《われわれ》の|耳《みみ》を|咬《か》み|取《と》らうと|致《いた》した|曲者《くせもの》ですよ。ここに|沢山《たくさん》ゐる|美人《びじん》は|皆《みな》|狸《たぬき》ばかりでせう。どの|女《をんな》もどの|女《をんな》も、|一斉《いつせい》に|耳《みみ》が|動《うご》いてるぢやありませぬか。ヤ、お|前《まへ》さまも|耳《みみ》が|動《うご》きますね』
『アハハハハ、|何分《なにぶん》|空気《くうき》の|動揺《どうえう》が|烈《はげ》しい|所《ところ》ですから、|身体《しんたい》の|末端《まつたん》が|風《かぜ》に|揺《ゆ》られて|動《うご》くのでせう。|併《しか》しながら|此《この》|狸《たぬき》は|私《わたし》が|手料理《てれうり》|致《いた》しますから、お|任《まか》せ|下《くだ》さい』
と|云《い》ひながら|狸《たぬき》を|下《さ》げて|次《つぎ》の|間《ま》に|行《ゆ》かうとする。|高宮姫《たかみやひめ》は|吃驚《びつくり》して、|一言《ひとこと》も|言《い》はず……あのサベル|姫《ひめ》が|狸《たぬき》であつたか、|何《なん》とマア|油断《ゆだん》のならぬものだなア……と|秘《ひそ》かに|舌《した》を|巻《ま》いてゐた。|高宮彦《たかみやひこ》は|無理無体《むりむたい》に|古狸《ふるだぬき》を|引抱《ひつかか》へ|自分《じぶん》の|居間《ゐま》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。これは|綱《つな》を|解《ほど》いてやつて|自分《じぶん》の|家来《けらい》を|助《たす》ける|為《ため》である。サベルに|化《ば》けてゐたのは|幻相坊《げんさうばう》であつた。それからガリヤはケース、|初公《はつこう》の|密談《みつだん》の|居間《ゐま》へ|行《い》つて|様子《やうす》を|探《さぐ》らうと、|跫蛩音《あしおと》を|忍《しの》ばせ|壁《かべ》に|耳《みみ》を|当《あ》てて|聞《き》いてゐると、|四人《よにん》の|男女《だんぢよ》が|金切声《かなきりごゑ》を|出《だ》して、|甘《あま》つたるい|言葉《ことば》つきで|何《なに》か|意茶《いちや》ついてゐるやうである。|室内《しつない》の|四人《よにん》はガリヤが|外《そと》に|立《た》つて|様子《やうす》を|聞《き》いてることは|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、|現《うつつ》をぬかして、|女《をんな》の|取合《とりあひ》、|男《をとこ》の|取合《とりあひ》に|火花《ひばな》を|散《ち》らして|正《まさ》に|戦《たたか》ひ|酣《たけなは》なる|時《とき》であつた。|天下《てんか》|分目《わけめ》の|関ケ原《せきがはら》、|天王山《てんのうざん》の|晴戦《はれいくさ》は|今《いま》や|瞬間《しゆんかん》に|迫《せま》れりといふ|調子《てうし》で、あらゆるベストを|尽《つく》し、|夢中《むちう》になつてゐる。
『|初稚姫《はつわかひめ》のあたえは、|何《なん》と|云《い》つてもケースさまが|好《す》きです。そして|初《はつ》さまもヤツパリ|好《す》きですワ』
『エヘヘヘヘ、オイ|初公《はつこう》、どうだ、ヤツパリ、ケースのものだらう。|貴様《きさま》は|宮野姫《みやのひめ》で|辛抱《しんばう》せい』
『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな、|俺《おれ》は|初《はつ》から|初稚姫《はつわかひめ》さまにきめてあるのだ。|宮野姫《みやのひめ》さまはお|前《まへ》のものだよ』
『|何《なん》と|云《い》つてもケースの|妻《つま》は|初稚姫《はつわかひめ》さまだよ』
『|私《わたし》は|誰《たれ》が|何《なん》と|云《い》つても、ケースさまが|好《す》きですよ。そして|初《はつ》さまも、ヤツパリ|好《す》きですワ、|宮野《みやの》は|二人《ふたり》を|夫《をつと》に|持《も》ちますワ』
『|初稚《はつわか》も|二人《ふたり》とも|夫《をつと》に|持《も》ちますワ』
『|何《なん》と、|色男《いろをとこ》に|生《うま》れて|来《く》ると|苦《くる》しいものだなア。|何《なん》でこんな|良《よ》い|男《をとこ》に、|親《おや》の|奴《やつ》、|生《う》みやがつたのだらう。チツと|子《こ》の|迷惑《めいわく》も|考《かんが》へて|製造《せいざう》すると|可《い》いのだけれどなア。|有難迷惑《ありがためいわく》だ』
と|調子《てうし》に|乗《の》りケースは|自惚《うぬぼ》れてゐる。ガリヤはたまらなくなつて、|無理《むり》にドアを|押《お》しあけ、|飛込《とびこ》んで|見《み》ると、ケース、|初《はつ》の|両人《りやうにん》は、|古狸《ふるだぬき》に|耳《みみ》たぶをスツカリむしり|取《と》られ、|血《ち》みどろになつて|倒《たふ》れてゐる。|古狸《ふるだぬき》は|逃《に》げ|場《ば》を|失《うしな》ひ、|鼠《ねづみ》のやうに|室《へや》の|隅《すみ》をクルクルと|駆《か》け|廻《まは》る。ガリヤは|漸《やうや》くにして|一匹《いつぴき》の|狸《たぬき》を|押《おさ》へた|一刹那《いつせつな》、|二《に》の|腕《うで》にかぶり|付《つ》かれ……「アイタタ」と|云《い》つて|放《はな》した|途端《とたん》に、|二匹《にひき》の|古狸《ふるだぬき》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つた。|暫《しばら》くすると|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》が|涼《すず》しく|聞《きこ》えて|来《き》た。
『ウー ワンワン』
と|猛犬《まうけん》の|声《こゑ》。|四辺《あたり》を|見《み》れば、ガリヤは|草《くさ》|奔々《ばうばう》たる|萱野《かやの》の|真中《まんなか》に|立《た》つてゐた。そして、ケース、|初《はつ》の|両人《りやうにん》は|顔《かほ》|一面《いちめん》|泥《どろ》まぶれとなり、|耳《みみ》たぶを|半分《はんぶん》ばかり|咬《か》み|取《と》られ、|血《ち》みどろになつて|呻《うめ》いてゐる。|宣伝歌《せんでんか》の|主《ぬし》は|真《しん》の|初稚姫《はつわかひめ》であつた。そして|愛犬《あいけん》スマートは|前後左右《ぜんごさいう》に|駆《か》け|廻《まは》り、|古狸《ふるだぬき》を|追《お》ひ|駆《か》け、|咬《か》み|殺《ころ》す|其《その》|勢《いきほ》ひに、|流石《さすが》の|妖幻坊《えうげんばう》も|幻魔坊《げんまばう》、|幻相坊《げんさうばう》もゐたたまらず、|曲輪《まがわ》の|術《じゆつ》を|以《もつ》て、|高宮姫《たかみやひめ》を|雲《くも》に|乗《の》せ、|空中《くうちう》に|赤茶色《あかちやいろ》の|太《ふと》い|尾《を》をチラチラ|見《み》せながら、|東南《とうなん》の|天《てん》を|指《さ》して|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|竹藪《たけやぶ》の|中《なか》には|蜘蛛《くも》の|巣《す》だらけになつて、ランチ、|片彦将軍《かたひこしやうぐん》は|青《あを》い|面《つら》して|慄《ふる》うてゐた。|徳公《とくこう》は|耳《みみ》たぶを【むし】られ、|大《だい》の|字《じ》になつて、シクシク|原《ばら》にふん|伸《の》びて|居《ゐ》た。
|初稚姫《はつわかひめ》はガリヤに|向《むか》ひ、
『|貴方《あなた》は|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》ぢやありませぬか』
『ヤ、もう|面目《めんぼく》|次第《しだい》も|厶《ござ》いませぬ。|狸《たぬき》の|巣窟《さうくつ》と|知《し》りながら、|一《ひと》つ|査《しら》べてやらうと|思《おも》ひ、ここまでやつて|参《まゐ》り、|反対《あべこべ》にしてやられました。|貴女《あなた》は|真《しん》の|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》で|厶《ござ》いますか。|貴女《あなた》の|御神力《ごしんりき》に|依《よ》りまして、|吾々《われわれ》|一同《いちどう》の|目《め》が|醒《さ》めました。|有難《ありがた》う|厶《ござ》います』
と|感謝《かんしや》してゐる。そこへランチ、|片彦《かたひこ》|両将軍《りやうしやうぐん》は|徳公《とくこう》を|助《たす》けて|入《い》り|来《きた》り、|初稚姫《はつわかひめ》の|前《まへ》に|危難《きなん》を|救《すく》はれしことを|涙《なみだ》と|共《とも》に|感謝《かんしや》し、これより|心《こころ》を|取直《とりなほ》し、|祠《ほこら》の|森《もり》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》くこととなつた。|初稚姫《はつわかひめ》は|六人《ろくにん》の|者《もの》によくよく|真理《しんり》を|説《と》き|諭《さと》し、スマートを|従《したが》へて、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら|西南《せいなん》を|指《さ》して|別《わか》れ|行《ゆ》く。
(大正一二・二・一〇 旧一一・一二・二五 松村真澄録)
第五篇 |洗判無料《せんぱんむれう》
第二三章 |盲動《まうどう》〔一三五九〕
|一《ひと》しきり|雨《あめ》が|降《ふ》るかと|思《おも》へば、|又《また》|一《ひと》しきり|晴《は》れわたる|秋《あき》の|時雨《しぐれ》の|季節《きせつ》を|現《あら》はした|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》に、|文助《ぶんすけ》はロハ|台《だい》に|腰《こし》|打《う》ちかけて、|此《この》|関門《くわんもん》を|通《とほ》る|数多《あまた》の|精霊《せいれい》の|審判《しんぱん》を、|胸《むね》を|轟《とどろ》かせながら|聞《き》いてゐた。そこへやつて|来《き》たのは、|顔《かほ》に|白粉《おしろい》をベツタリとつけた、|高慢《かうまん》さうな|面付《つらつき》をした|婆《ばば》アである。|文助《ぶんすけ》は|不思議《ふしぎ》な|奴《やつ》が|出《で》て|来《き》たものだなア、さぞ|彼奴《あいつ》の|審判《しんぱん》は|面白《おもしろ》いだらうと、|稍《やや》|興味《きようみ》を|以《もつ》て|待《ま》つてゐた。これは|肉体《にくたい》のある|精霊《せいれい》とみえて、|稍《やや》|俯《うつむ》いてヒヨロリ ヒヨロリとやつて|来《く》る。|関所《せきしよ》の|門《もん》にトンと|突《つ》き|当《あた》り、|額《ひたひ》を|打《う》ち、
『アイタタ、こんな|所《ところ》に、|断《ことわ》りもなく|赤門《あかもん》を|拵《こしら》へ、|通行人《つうかうにん》の|頭《あたま》を|打《う》たすとは|以《もつ》ての|外《ほか》だ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》さまがお|通《とほ》り|遊《あそ》ばすのに、|何《なん》と|云《い》ふ|不都合《ふつがふ》だ……ヤアお|前《まへ》はここの|門番《もんばん》と|見《み》えるが、なぜ|職務《しよくむ》を|大事《だいじ》に|致《いた》さぬのかい。こんな|怠惰《たいだ》な|事《こと》をして|居《ゐ》ると、|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|承知《しようち》|致《いた》しませぬぞや』
とエライ|権幕《けんまく》である。|文助《ぶんすけ》は|日《ひ》の|出神《でのかみ》といふ|声《こゑ》を|聞《き》いて、よくよく|透《すか》しみれば|高姫《たかひめ》であつた。|高姫《たかひめ》は|妖幻坊《えうげんばう》にかつ|攫《さら》はれ、|空中《くうちう》を|翔《かけ》り|行《ゆ》く|途中《とちう》に|於《おい》て、デカタン|高原《かうげん》の|或《ある》|地点《ちてん》で|妖幻坊《えうげんばう》に|取放《とりはな》され、|空中《くうちう》より|砂《すな》つ|原《ぱら》に|顛落《てんらく》して|気絶《きぜつ》してゐた。|其《その》|間《あひだ》に|精霊《せいれい》が|此処《ここ》へ|迷《まよ》うて|来《き》たのである。されど|高姫《たかひめ》は|自分《じぶん》が|正気《しやうき》を|失《うしな》つた|事《こと》も、|霊界《れいかい》へ|来《き》てゐることも|少《すこ》しも|気《き》がつかず、|依然《いぜん》として|現界《げんかい》を|歩《ある》いてゐるやうな|心持《こころもち》であつた。|赤色《あかいろ》の|守衛《しゆゑい》は|大喝《たいかつ》|一声《いつせい》、
『|高姫《たかひめ》、|暫《しばら》く|待《ま》て、|取調《とりしら》べることがある』
と|呶鳴《どな》りつけた。
『ヘン|門番《もんばん》の|分際《ぶんざい》として、|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》を|取調《とりしら》べるとは|片腹痛《かたはらいた》いワ。それよりも|此方《こちら》から|取調《とりしら》べにやならぬ|事《こと》がある。|三五教《あななひけう》の|三羽烏《さんばがらす》の|一人《いちにん》、|時置師《ときおかし》の|神様《かみさま》を|何処《どこ》へ|隠《かく》したか。サ、キツパリと|白状《はくじやう》しなさい。グヅグヅ|致《いた》すと、|天《あめ》の|八衢《やちまた》はまだおろか、|地獄《ぢごく》の|釜《かま》のドン|底《ぞこ》へ|堕《おと》しますぞや』
『|其《その》|方《はう》はデカタン|高原《かうげん》に|於《おい》て、|妖幻坊《えうげんばう》といふ|悪魔《あくま》のために|空中《くうちう》から|取落《とりおと》され、|気絶《きぜつ》を|致《いた》して|此処《ここ》へやつて|来《き》た|亡者《まうじや》であるぞ。|最早《もはや》|此処《ここ》へ|来《く》れば|冥土《めいど》の|規則《きそく》に|従《したが》はねばならぬ。これから|其《その》|方《はう》の|罪状《ざいじやう》を|調《しら》べるに|依《よ》つて、|包《つつ》まず|隠《かく》さず|申開《まをしひら》きを|致《いた》したがよからうぞ』
『オホホホホ、あのマア|鹿爪《しかつめ》らしい|顔《かほ》わいの、|一石《いつこく》の|米《こめ》が|百両《ひやくりやう》するやうな、|其《その》しやつ|面《つら》は|何《なん》だい、お|前《まへ》も|余程《よほど》|此《この》|頃《ごろ》は|生活難《せいくわつなん》に|襲《おそ》はれて、|会計《くわいけい》が|辛《つら》いと|見《み》える。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》さまに|従《したが》うて|来《く》れば、|此《この》|世《よ》の|中《なか》に|不景気《ふけいき》もなければ|心配《しんぱい》もいりませぬ。|三千世界《さんぜんせかい》の|救《すく》ひ|主《ぬし》、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》|高姫《たかひめ》さまで|厶《ござ》るぞや。さてもさても、|世《よ》の|中《なか》に|可哀相《かあいさう》な|人民《じんみん》が|沢山《たくさん》あるものだなア。これだから|一時《いつとき》も|早《はや》く|現界《げんかい》、|幽界《いうかい》、|神界《しんかい》の|立直《たてなほ》しを|致《いた》さねば、|五六七神政成就《みろくしんせいじやうじゆ》は|致《いた》さぬと|仰有《おつしや》るのだ。あああ、|世界中《せかいぢう》の|人民《じんみん》を|助《たす》けねばならぬ|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》も、|此《この》|高姫《たかひめ》の|肉宮《にくみや》も、|並大抵《なみたいてい》ぢやありませぬワイな、ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
|赤《あか》の|守衛《しゆゑい》は、|余《あま》りきつい|高姫《たかひめ》の|脱線振《だつせんぶり》に、|取調《とりしら》べる|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|又《また》|生死簿《せいしぼ》には|死《し》んでゐない、|近《ちか》き|中《うち》に|現界《げんかい》へ|帰《かへ》る|奴《やつ》だから、|本真剣《ほんしんけん》に|調《しら》べる|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、いい|加減《かげん》にあしらつて|追《お》ひ|帰《かへ》さむものと|思《おも》ひながら、
『オイ、|高姫《たかひめ》、お|前《まへ》はここを|何《なん》と|心得《こころえ》てるか』
『ヘン、|釈迦《しやか》に|経《きやう》を|説《と》くやうな|事《こと》を|云《い》ふものぢやありませぬぞや。|馬鹿《ばか》にするにも|程《ほど》がある。|此処《ここ》は|大門神社《おほもんじんしや》の|一里《いちり》|許《ばか》り|手前《てまへ》ぢやないか。お|前達《まへたち》は|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|厄雑神《やくざがみ》の|眷属《けんぞく》だらう。こんな|所《ところ》にしやちこ|張《ば》つて|居《を》るよりも、|此《この》|義理天上《ぎりてんじやう》の|肉宮《にくみや》の|教《をしへ》を|聞《き》いて、|一度《いちど》|大門開《おほもんびら》きの|御用《ごよう》に|立《た》つたら|何《ど》うだ。|結構《けつこう》な|事《こと》を|聞《き》かしてやるぞや』
|文助《ぶんすけ》は|高姫《たかひめ》の|袖《そで》を|引《ひ》いて、
『モシモシ|高姫《たかひめ》さま、|珍《めづら》しい|所《ところ》でお|目《め》にかかりました。|私《わたし》は|三五教《あななひけう》の|文助《ぶんすけ》で|厶《ござ》いますよ』
『ヤア、|最前《さいぜん》から|怪体《けつたい》な|男《をとこ》が|居《ゐ》ると|思《おも》うたら|文助《ぶんすけ》だな。ても|扨《さ》ても|淋《さび》しさうな|面《つら》をして、こんな|所《ところ》に|何《なに》をしてゐるのだい。サ、|文助《ぶんすけ》どん、|高姫《たかひめ》に|跟《つ》いて|厶《ござ》れ。ウラナイ|教《けう》の|誠生粋《まこときつすゐ》を|聞《き》かして|上《あ》げよう。こんな|赤面《あかづら》や|青瓢箪面《あをべうたんづら》が、|何《なに》を|知《し》つてゐるものか。|世《よ》の|元《もと》の|根本《こつぽん》の|根本《こつぽん》の|元《もと》を|掴《つか》んだ、|此《この》|高姫《たかひめ》ぢやぞえ。|途中《とちう》から|湧《わ》いた|神《かみ》や、|学《がく》で|知恵《ちゑ》ので|来《き》た|鼻高《はなだか》が、|何《ど》うして|誠《まこと》の|事《こと》が|分《わか》るものか。……|聞《き》きたくば|訪《たづ》ねて|厶《ござ》れ。|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて、|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》、|高宮姫命《たかみやひめのみこと》となつて、|世界《せかい》の|事《こと》を|何《なに》もかも|説《と》いて|聞《き》かすぞや。……こんな|門番《もんばん》を|致《いた》して|居《を》るやうな、|途中《とちう》の|鼻高《はなだか》に、ヘン、|神界《しんかい》の|誠《まこと》が|分《わか》つてたまりますかい。サアサア|文助《ぶんすけ》どん、|私《わたし》に|跟《つ》いて|厶《ござ》れ』
|赤《あか》『|高姫《たかひめ》、まだ|其《その》|方《はう》がここへ|来《く》るのはチツと|早《はや》い。これから|現界《げんかい》へ|帰《かへ》り、|充分《じうぶん》に|狂態振《きやうたいぶ》りを|発揮《はつき》し、|手《て》も|足《あし》も|出《で》なくなつてから|始《はじ》めて|気《き》がつくだらう。さうすれば|三五教《あななひけう》の|尊《たふと》い|事《こと》や、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》の|御心《みこころ》が|分《わか》るであらう。|事務《じむ》の|妨《さまた》げとなるから、トツトと|此処《ここ》を|立《た》ち|去《さ》れ』
『ヘン、|赤《あか》さまは、|私《わし》が|居《を》ると|都合《つがふ》が|悪《わる》いでせう。ハハア、ここは|案《あん》に|違《たが》はず、ヤツパリ|三五教《あななひけう》の|門口《もんぐち》だな。|時置師《ときおかし》の|神様《かみさま》を、うまく|引張《ひつぱ》り|込《こ》みやがつたに|違《ちがひ》ない。|挺《てこ》でも|棒《ぼう》でも|動《うご》きは|致《いた》さぬぞや。ササ|早《はや》く|時置師《ときおかし》の|神様《かみさま》を、|此処《ここ》へ|出《だ》して|下《くだ》され』
『|時置師《ときおかし》の|神様《かみさま》は、|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|総務《そうむ》をして|厶《ござ》るのだ。まだ|現界《げんかい》にゐらつしやるから、|此処《ここ》へお|越《こ》しになる|筈《はず》がない。さてもさても|分《わか》らぬ|代物《しろもの》だなア』
『ヘン、うまい|事《こと》|仰有《おつしや》いますワイ、ホホホホホ、|流石《さすが》は|変性女子《へんじやうによし》の|悪《あく》の|教《をしへ》を|腹《はら》へ|締《し》め|込《こ》みて|居《を》るとみえて、|上手《じやうず》に|嘘《うそ》をつきますな。そんな|事《こと》にチヨロまかされるやうな|義理天上《ぎりてんじやう》ぢや|厶《ござ》りませぬワイな、|赤《あか》さま』
と|目《め》を|細《ほそ》うして|頤《あご》をしやくつて|嘲弄《てうろう》する。
|文助《ぶんすけ》『モシ|高姫《たかひめ》さま、|此処《ここ》は|冥土《めいど》の|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》ですよ。|決《けつ》して|現界《げんかい》ぢやありませぬから、そんな|事《こと》を|言《い》ふものぢやありませぬ。ササ、トツトと|帰《かへ》りなさい。そして|三五教《あななひけう》にお|詫《わび》をして|誠《まこと》の|魂《たましひ》に|立帰《たちかへ》り、|改《あらた》めて|天国《てんごく》に|昇《のぼ》れるやうに|御願《おねが》ひなさりませ』
『ようマア、|文助《ぶんすけ》どん、【しらばくれ】ますね。お|前《まへ》も|余程《よほど》|変性女子《へんじやうによし》の|霊《みたま》が|憑《うつ》つたとみえますワイ。|嘘《うそ》は|一《ひと》つも|言《い》はれぬお|道《みち》ですよ。|嘘《うそ》で|固《かた》めた|三五《あななひ》の|道《みち》、オホホホホ、|高姫《たかひめ》|誠《まこと》に|感心《かんしん》|致《いた》しました。お|前《まへ》は|目《め》が|悪《わる》いから、|夢《ゆめ》でも|見《み》て|居《ゐ》るのだらう。チツと|確《しつか》りしなさらぬかいな』
と|横面《よこづら》をピシヤピシヤと|撲《なぐ》りつけた。|文助《ぶんすけ》は|少《すこ》しばかりムツとして、
『コリヤ|高姫《たかひめ》、これだけ|事《こと》を|分《わ》けて|知《し》らしてやるのに、まだお|前《まへ》は|分《わか》らぬのか。なぜお|役人《やくにん》さまの|言葉《ことば》を|守《まも》つて|帰《かへ》りなさらぬのだ。|皺《しわ》だらけの|面《つら》に|白《しろ》い|物《もの》を|塗《ぬ》つて、|何《なん》だ。まるきり|気違《きちが》ひの|所作《しよさ》ぢやないか』
『ヘン、お|構《かま》ひ|御無用《ごむよう》。これでも、トさまが|可《い》いと|仰有《おつしや》るのだから、|別《べつ》にお|前《まへ》の|様《やう》な|盲《めくら》|共《ども》に|見《み》て|貰《もら》はなくても|宜《よろ》しい。サ、|之《これ》から|奥《おく》へ|踏《ふ》み|込《こ》んで、トさまにお|目《め》にかかり、|厭《いや》でも|応《おう》でもウラナイ|教《けう》へ|連《つ》れて|帰《かへ》らなおきませぬぞや。かう|見《み》えても、|此《この》|高姫《たかひめ》は|今《いま》|迄《まで》とは|違《ちが》ひますぞや。|曲輪城《まがわじやう》の|城主《じやうしゆ》|高宮彦《たかみやひこ》の|妻《つま》、|高宮姫《たかみやひめ》とは|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》の|事《こと》だ。そんな|事《こと》を|言《い》はずに、|一遍《いつぺん》|浮木《うきき》の|森《もり》の|曲輪城《まがわじやう》まで|私《わたし》に|従《つ》いて|来《き》てみなさい。いかなお|前《まへ》でも、あの|御殿《ごてん》を|見《み》たら|吃驚《びつくり》|致《いた》すぞえ。|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|曲輪《まがわ》の|法《はふ》によつて、|中天《ちうてん》|高《たか》く|飛行《ひかう》の|術《じゆつ》を|習《なら》ひ|覚《おぼ》えた|此《この》|高姫《たかひめ》、|最早《もはや》|天下《てんか》に|恐《おそ》るる|者《もの》はチツともありませぬ。どうか|其《その》|積《つも》りで|交際《つきあ》つて|下《くだ》さいや』
と|高姫《たかひめ》は|浮木《うきき》の|森《もり》の|妖怪《えうくわい》の【ばれ】た|事《こと》はまだ|気《き》がついて|居《を》らぬらしい。|斯《か》かる|処《ところ》へ|大《おほ》きな|獅子《しし》に|乗《の》つて|驀地《まつしぐら》に|天《てん》の|一方《いつぱう》から|降《くだ》つて|来《き》たのは、まがふ|方《かた》なき|杢助《もくすけ》であつた。
|高姫《たかひめ》は|此《この》|姿《すがた》を|見《み》て|大《おほい》に|喜《よろこ》び、
『ホホホホホ、お|手柄《てがら》お|手柄《てがら》、|杢助《もくすけ》さま、お|前《まへ》は|何《ど》うしてマア、それ|程《ほど》|偉《えら》いお|方《かた》になつたのだ。これほど|猛悪《まうあく》な|唐獅子《からじし》を|自由自在《じいうじざい》に|使《つか》ふとは、ヤツパリ|私《わたし》の|夫《をつと》だな。コレ|文助《ぶんすけ》どん、アレ|御覧《ごらん》、|曲輪《まがわ》の|法力《ほふりき》によつて、あんな|離《はな》れ|業《わざ》が|出来《でき》るのだもの、ウラナイ|教《けう》は|偉《えら》いものでせう。|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》に|一人《ひとり》だつて、こんな|事《こと》が|出来《でき》ますか。|初稚姫《はつわかひめ》や|治国別《はるくにわけ》、|言依別《ことよりわけ》や|東助《とうすけ》に、|杢助《もくすけ》さまの、|天晴《あつぱれ》|武者振《むしやぶり》を|見《み》せてやりたいものだなア。エヘヘヘヘ、|南無杢助大明神様《なむもくすけだいみやうじんさま》』
と|手《て》を|合《あ》はして|拝《をが》む|可笑《をか》しさ。|杢助《もくすけ》は|獅子《しし》の|背《せな》からヒラリと|飛《と》びおり、|高姫《たかひめ》には|目《め》もくれず、|赤《あか》の|守衛《しゆゑい》に|向《むか》ひ、
『|御役目《おやくめ》|御苦労《ごくらう》です。|一寸《ちよつと》|伊吹戸主神《いぶきどぬしのかみ》|様《さま》にお|目《め》にかかりたいと、|三五教《あななひけう》の|杢助《もくすけ》が|申《まを》し|入《い》れたと|伝《つた》へて|下《くだ》さい』
|赤《あか》の|守衛《しゆゑい》は|幾度《いくたび》も|腰《こし》を|屈《かが》め、|敬礼《けいれい》を|表《へう》しながら|走早《あしばや》に|門内《もんない》に|入《い》る。|高姫《たかひめ》は|杢助《もくすけ》の|言葉《ことば》に|少《すこ》し|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|節《ふし》があるとは|思《おも》へども、ワザとあんな|事《こと》を|言《い》つて|居《ゐ》るのであらう、|杢助《もくすけ》さまは|洒落《しやれ》が|上手《じやうず》だから……と|心《こころ》の|中《うち》にきめて|了《しま》ひ、
『コレ|杢助《もくすけ》さま、ええ|加減《かげん》に|洒落《しやれ》ておきなさい。|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|東助《とうすけ》に|放《ほ》り|出《だ》され、アタ|汚《けが》らはしい、|三五教《あななひけう》の|杢助《もくすけ》なんて、|言《い》ふものぢや|厶《ござ》りませぬぞや。サア、|一緒《いつしよ》に|帰《かへ》りませう』
『|高姫《たかひめ》|殿《どの》、お|前《まへ》さまは|妖幻坊《えうげんばう》にチヨロまかされ、|其《その》|悪魔《あくま》を|杢助《もくすけ》だと|思《おも》ひ|詰《つ》め、|随分《ずいぶん》|狂態《きやうたい》を|演《えん》じてるやうだが、|此《この》|杢助《もくすけ》にはお|前《まへ》さまに|会《あ》つて、ウラナイ|教《けう》の|話《はなし》をした|事《こと》もなし、|又《また》|祠《ほこら》の|森《もり》で|面会《めんくわい》した|事《こと》もない。まして|曲輪城《まがわじやう》などには|足踏《あしぶ》みも|致《いた》して|居《を》らぬから、よく|胸《むね》に|手《て》をおいて、|真偽《しんぎ》の|判別《はんべつ》を|願《ねが》ひたいものだ』
『ホホホホホ、|白々《しらじら》しい、|杢《もく》さまの|言《い》ひ|様《やう》、|人《ひと》の|前《まへ》だと|思《おも》つて、そんな|体裁《ていさい》を|作《つく》るものぢやありませぬぞや。コレ|高宮彦《たかみやひこ》さま、そんな|六ケ《むつか》しい|顔《かほ》せずに、ササ|早《はや》く|曲輪城《まがわじやう》へ|帰《かへ》りませう。コレ|文助《ぶんすけ》どん、|何《ど》うだえ、|高姫《たかひめ》の|三国一《さんごくいち》の|婿《むこ》といふのは、|此《この》|杢助《もくすけ》さまだぞえ。|三羽烏《さんばがらす》の|一人《いちにん》と|聞《きこ》えたる|時置師神《ときおかしのかみ》|様《さま》、|今《いま》はウラナイ|教《けう》の|大教主《だいけうしゆ》、|曲輪城《まがわじやう》の|城主様《じやうしゆさま》だ。サ、|私《わし》に|従《つ》いて|厶《ござ》れ。|昔《むかし》の|厚誼《よしみ》で、キツと|立派《りつぱ》な|役《やく》にして|上《あ》げよう。|小北山《こぎたやま》の|受付《うけつけ》|位《くらゐ》して|居《を》つてもはづみませぬぞや』
|文助《ぶんすけ》『あああ、|困《こま》つた|人《ひと》だな、|盲《めくら》と|気違《きちがひ》と|馬鹿《ばか》|位《ぐらゐ》|始末《しまつ》に|了《を》へぬものはないワ。|私《わたし》も、モツと|高姫《たかひめ》さまは|偉《えら》い|人《ひと》だと|思《おも》うて|居《を》つたに……|現在《げんざい》|八衢《やちまた》へ|来《き》てゐながら、|執着心《しふちやくしん》が|深《ふか》い|為《ため》、ヤツパリ|娑婆《しやば》だと|思《おも》うてるらしい。ああ|気《き》の|毒《どく》なものだなア』
と|呟《つぶや》く。|高姫《たかひめ》は|耳敏《みみざと》く|之《これ》を|聞《き》き|取《と》つて、
『ヘン、|気違《きちがひ》だの、|馬鹿《ばか》だのとよう|仰有《おつしや》いますワイ。オホホホホ、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|心《こころ》の|鏡《かがみ》にお|前《まへ》の|迷妄暗愚《めいまうあんぐ》な|魂《みたま》が|写《うつ》つたのだよ。……|人《ひと》の|事《こと》だと|思《おも》うてゐると|皆《みな》|吾《わが》|事《こと》であるぞよ。|今《いま》の|人民《じんみん》は|皆《みな》|盲《めくら》|聾《つんぼ》ばかりであるぞよ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|現《あら》はれて、|夜《よる》の|守護《しゆご》の|世《よ》の|中《なか》を|日《ひ》の|出《で》の|守護《しゆご》に|致《いた》し、|五六七《みろく》の|世《よ》が|参《まゐ》りたならば、|盲《めくら》も|目《め》があき、|聾《つんぼ》も|耳《みみ》が|聞《きこ》えるやうになるぞよ……と|変性男子《へんじやうなんし》の|筆先《ふでさき》にも|現《あら》はれてゐませうがな。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|真似《まね》の|筆先《ふでさき》にもチヤンと|出《で》てますよ。……コレ|杢助《もくすけ》さま、エエ|加減《かげん》に【とぼ】けておかんせいな』
かかる|所《ところ》へ|赤《あか》の|守衛《しゆゑい》は|恭《うやうや》しく|杢助《もくすけ》の|前《まへ》に|現《あら》はれ、
『|三五教《あななひけう》の|杢助様《もくすけさま》、|伊吹戸主神《いぶきどぬしのかみ》|様《さま》が、|早速《さつそく》お|目《め》にかからうと|仰有《おつしや》います。サ、|私《わたし》に|従《つ》いてお|越《こ》し|下《くだ》さいませ』
『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|此《この》ライオンは|暫《しばら》く|御預《おあづか》りを|願《ねが》ひます』
『ハイ|宜《よろ》しう|厶《ござ》います。|叮嚀《ていねい》に|保護《ほご》|致《いた》します。コレ|白《しろ》さま、お|前《まへ》さま|此処《ここ》に|守《まも》つてゐて|下《くだ》さい。……サア|杢助様《もくすけさま》、かうお|出《い》でなさいませ』
と|先《さき》に|立《た》つて|行《ゆ》かうとする。|杢助《もくすけ》も|後《あと》に|従《したが》ひ|門《もん》を|潜《くぐ》りかけた。|高姫《たかひめ》は|袖《そで》にすがり、|金切声《かなきりごゑ》を|出《だ》して、|涙交《なみだまじ》りに、
『コレ|杢助《もくすけ》さま、|余《あま》りぢや|厶《ござ》んせぬか。ここは|三五教《あななひけう》の|奴等《やつら》の|集《あつ》まる|場所《ばしよ》、なぜあれ|程《ほど》|固《かた》い|約束《やくそく》をしながら、|今《いま》となつて|変心《へんしん》をなさるのだえ。|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》は|恐《おそ》れませぬか』
『|高姫《たかひめ》さま、|拙者《せつしや》は|拙者《せつしや》の|権利《けんり》を|以《もつ》て、|伊吹戸主様《いぶきどぬしさま》にお|目《め》にかかるのだ。|貴女《あなた》は|之《これ》からお|帰《かへ》りなさい』
と|行《ゆ》かうとする。|高姫《たかひめ》は|袖《そで》に|喰《くら》ひついて|放《はな》さず、
『イエイエ|何《なん》と|仰有《おつしや》つても、|此《この》|高姫《たかひめ》の|目《め》の|黒《くろ》い|中《うち》は、|一足《ひとあし》たりとも、|三五教《あななひけう》の|門《もん》は|潜《くぐ》らせませぬぞや。アンアンアンアンアン、|男《をとこ》の|心《こころ》と|秋《あき》の|空《そら》、|変《かは》ると|言《い》うても|余《あま》りだ。エーエ|残念《ざんねん》や|残念《ざんねん》や、クク|口惜《くちを》しい』
『アハハハ、|何《なん》と、|面白《おもしろ》い|芝居《しばゐ》を|見《み》せて|貰《もら》うたものだ。ああ|文助《ぶんすけ》|殿《どの》、|拙者《せつしや》の|後《あと》へついて|厶《ござ》れ』
と|言《い》ひながら、ポンと|蹴《け》れば、|高姫《たかひめ》は|思《おも》はず|裾《すそ》を|放《はな》し、|二《ふた》つ|三《み》つコロコロコロと|街道《かいだう》に|毬《まり》の|如《ごと》く|転《ころ》げて、|其《その》|終点《しうてん》でパツと|大《だい》の|字《じ》に|拡《ひろ》がり|倒《たふ》れて|了《しま》つた。
|杢助《もくすけ》、|文助《ぶんすけ》は|門《もん》をガタリと|締《し》めて、|奥庭《おくには》へ|姿《すがた》を|隠《かく》した。|高姫《たかひめ》は|大《だい》の|字《じ》になつて、|手足《てあし》を|動《うご》かせながら、
『|此《この》|女《をんな》は、|元《もと》を|糺《ただ》せば、|変性男子《へんじやうなんし》の|体《たい》をかつて、|生《うま》れ|出《い》でたる|常世姫命《とこよひめのみこと》の|再来《さいらい》、|高宮姫《たかみやひめ》。|若《わか》い|時《とき》から、|男女《をとこをんな》と|綽名《あだな》を|取《と》つたヤンチヤ|娘《むすめ》、|一度《いちど》は|東助《とうすけ》さまと|夫婦《ふうふ》になり、|子《こ》までなしたる|仲《なか》なれど、|余《あま》り|東助《とうすけ》の|心《こころ》が|無情《むじやう》|冷酷《れいこく》なるが|故《ゆゑ》、|斎苑《いそ》の|館《やかた》でキツパリ|暇《ひま》をくれて、|祠《ほこら》の|森《もり》に|立帰《たちかへ》り、|杢助《もくすけ》さまと|夫婦《ふうふ》となり、|今《いま》は|浮木《うきき》の|森《もり》に|曲輪城《まがわじやう》を|築《きづ》き、|高宮姫《たかみやひめ》と|名《な》を|改《あらた》めてウラナイ|教《けう》の|神柱《かむばしら》、|先《さき》をみてゐて|下《くだ》されよ』
と|大音声《だいおんじやう》に|呼《よ》ばはつてゐる。|八衢《やちまた》へ|来《く》る|精霊《せいれい》は|此《この》|声《こゑ》を|聞《き》きつけ、|各《おのおの》|歩《ほ》を|急《いそ》ぎバラバラと|駆《か》けつけた。
(大正一二・二・一〇 旧一一・一二・二五 松村真澄録)
第二四章 |応対盗《おうたいぬすみ》〔一三六〇〕
|十五六人《じふごろくにん》の|精霊《せいれい》は|忽《たちま》ち|高姫《たかひめ》の|周囲《まはり》に|集《あつ》まり|来《きた》つて、ワイワイと|喚《わめ》いてゐる。|高姫《たかひめ》は|漸《やうや》くにして|立上《たちあが》り、|道端《みちばた》の|方形《はうけい》の|石《いし》に|腰《こし》|打《う》ち|掛《か》け、|十数人《じふすうにん》の|人《ひと》を|前《まへ》におきながら、|脱線《だつせん》だらけの|宣伝《せんでん》を|始《はじ》めかけた。
『コレコレ|皆《みな》さま、|高姫《たかひめ》が|大道演説《だいだうえんぜつ》を|致《いた》しますから、よつくお|聞《き》きなされ。|此《この》|世《よ》の|中《なか》は|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|悪神《あくがみ》の|為《ため》に、|天《あま》の|岩戸《いはと》はピツタリとしまつて、|悪魔《あくま》は|天下《てんか》に|横行《わうかう》し、|魑魅魍魎《ちみまうりやう》|充満《じうまん》する|暗黒世界《あんこくせかい》ではありませぬか。|此《この》|世《よ》を|此《この》|儘《まま》にしておいたならば、|結構《けつこう》な|此《この》お|土《つち》の|上《うへ》は、|忽《たちま》ち|餓鬼道《がきだう》、|畜生道《ちくしやうだう》、|修羅道《しゆらだう》、|地獄道《ぢごくだう》に|陥《おちい》りますぞや。お|前《まへ》さま|等《ら》は、|営々兀々《えいえいこつこつ》として、|私利私慾《しりしよく》のために|日夜《にちや》|奔走《ほんそう》し、|慾《よく》にからまれ、|疲《つか》れ|切《き》つて|顔色《がんしよく》|憔悴《せうすゐ》し、|殆《ほとん》ど|餓鬼《がき》のやうで|厶《ござ》いますぞ。|此《この》|世《よ》からなる|地獄道《ぢごくだう》の|苦《くる》しみを|致《いた》しながら、こんな|結構《けつこう》な|世《よ》はないと|申《まを》して|喜《よろこ》んで|厶《ござ》る|其《その》|憐《あは》れさ。|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|大神様《おほかみさま》は|此《この》|惨状《さんじやう》をみるに|忍《しの》びず、|時節《じせつ》|参《まゐ》りて、|永《なが》らく|艮《うしとら》の|隅《すみ》に|押《お》し|込《こ》められて|厶《ござ》つた|艮《うしとら》の|金神《こんじん》|大国常立尊《おほくにとこたちのみこと》|様《さま》が|稚姫君命《わかひめぎみのみこと》の|霊《みたま》の|憑《うつ》りた|変性男子《へんじやうなんし》の|肉宮《にくみや》をかつて、|三千世界《さんぜんせかい》の|立替立直《たてかへたてなほ》しを|遊《あそ》ばすやうになりましたぞや。それに|就《つ》いては、|世《よ》に|落《お》ちて|厶《ござ》つた|八百万《やほよろづ》の|神様《かみさま》を|世《よ》にあげて、それぞれお|名《な》をつけ、|祭《まつ》つて|上《あ》げねば|神国《しんこく》にはなりませぬ。|今度《こんど》のお|役《やく》にお|立《た》ち|遊《あそ》ばすのは、|永《なが》らく|竜宮《りうぐう》の|海《うみ》の|底《そこ》にお|住《すま》ひなされた|乙姫《おとひめ》|殿《どの》が|第一番《だいいちばん》に|改心《かいしん》を|遊《あそ》ばして、|義理天上《ぎりてんじやう》の|日《ひ》の|出神《でのかみ》と|引添《ひきそ》うて、|外国《ぐわいこく》での|御用《ごよう》を|遊《あそ》ばすなり、|金勝要神《きんかつかねのかみ》は|大地《だいち》の|金神様《こんじんさま》で、|余《あま》り|我《が》が|強《つよ》うて、|汚《きたな》い|所《ところ》へ|押《お》し|込《こ》まれ、|雪隠《かはや》の|神《かみ》とまで|成《な》り|下《さが》り、|今度《こんど》|世《よ》に|上《あ》げて|貰《もら》うても、ヤツパリ|我《が》が|強《つよ》いので、|御大望《ごたいまう》の|邪魔《じやま》になるばかりで、どうにもかうにも|仕方《しかた》がないので、|系統《ひつぽう》の|霊《みたま》を|世《よ》に|落《おと》して|義理天上《ぎりてんじやう》の|生宮《いきみや》となし、|大将軍様《だいしやうぐんさま》の|憑《うつ》つた|肉体《にくたい》を|夫《をつと》と|遊《あそ》ばして、|三千世界《さんぜんせかい》の|御用《ごよう》にお|使《つか》ひなされたなれど、|此《この》|大将軍様《だいしやうぐんさま》の|肉宮《にくみや》はチツとも|間《ま》に|合《あ》はぬによつて、|三五教《あななひけう》の|三羽烏《さんばがらす》と|聞《きこ》えたる|時置師神《ときおかしのかみ》|様《さま》を、|此《この》|肉宮《にくみや》の|夫《をつと》と|致《いた》し、|立替立直《たてかへたてなほ》しの|御用《ごよう》を|遊《あそ》ばす|仕組《しぐみ》で|厶《ござ》るぞや。それに|就《つ》いては|大広木正宗殿《おほひろきまさむねどの》の|霊《みたま》も|御用《ごよう》に|使《つか》うて、|結構《けつこう》な|五六七《みろく》の|世《よ》をお|立《た》て|遊《あそ》ばすのだから、|此《この》|高姫《たかひめ》は|三千世界《さんぜんせかい》の|救主《すくひぬし》、|皆《みな》さま|耳《みみ》をさらへて、よつく|聞《き》きなされ。|八岐大蛇《やまたをろち》も|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪神《あくがみ》も、グツと|肚《はら》へ|締《し》め|込《こ》んで|改心《かいしん》をさせるのが、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》だ。|世界《せかい》の|人民《じんみん》は|皆《みな》|盲《めくら》だから、|此《この》|結構《けつこう》な|肉宮《にくみや》の|申《まを》すことが|耳《みみ》には|入《はい》らうまいがな。|改心《かいしん》するなら、|今《いま》の|中《うち》ぢやぞえ。|後《あと》の|改心《かいしん》は|間《ま》に|合《あ》はぬぞや。|此《この》|中《なか》で|誠《まこと》の|分《わか》りた|人民《じんみん》があるなれば、|手《て》を|挙《あ》げてごらんなさい。|喜《よろこ》んで|此《この》|方《はう》の|眷属《けんぞく》と|致《いた》して|結構《けつこう》な|御用《ごよう》に|使《つか》ふぞや』
|群集《ぐんしふ》の|中《なか》よりヌツと|顔《かほ》を|出《だ》したのは、お|年《とし》であつた。お|年《とし》は|高姫《たかひめ》の|前《まへ》に|進《すす》み|寄《よ》り、|其《その》|手《て》をグツと|握《にぎ》り、
『モシ|高姫《たかひめ》|様《さま》、|父《ちち》が|生前《せいぜん》に|御世話《おせわ》になりまして|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります』
『お|前《まへ》は|誰《たれ》だか|知《し》らぬが、これだけ|沢山《たくさん》|居《ゐ》る|中《うち》に、|此《この》|生宮《いきみや》の|言《い》ふことが|分《わか》らぬ|盲《めくら》ばかりだとみえて、|手《て》を|挙《あ》げと|言《い》うても、|一人《ひとり》も|手《て》を|挙《あ》げる|餓鬼《がき》やありませぬワイ。それに|又《また》お|前《まへ》は|奇篤《きとく》なことだ。|一体《いつたい》|誰《たれ》の|娘《こ》だい』
『ハイ、|文助《ぶんすけ》の|娘《むすめ》で|厶《ござ》います』
『ナニ、|文助《ぶんすけ》の|娘《むすめ》に……そんな|大《おほ》きな|女《をんな》があるものか、|此奴《こいつ》ア|不思議《ふしぎ》だなア……ハハア、|分《わか》つた、あの|爺《ぢい》、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》をして|居《を》つて、|秘密《ないしよ》で|女《をんな》を|拵《こしら》へ、こんな|子《こ》を|生《う》んどきよつたのだな。|何《なん》とマア|油断《ゆだん》のならぬ|男《をとこ》だわい、オホホホホ』
『イエイエ、|私《わたし》は|三《みつ》つの|年《とし》に|現界《げんかい》を|離《はな》れて、|此処《ここ》へ|来《き》た|者《もの》で|厶《ござ》います。お|蔭《かげ》で|此《この》|様《やう》に|立派《りつぱ》に|成人《せいじん》|致《いた》しました』
『ハハア、|妙《めう》な|事《こと》を|云《い》ふ|女《をんな》だな。お|前《まへ》キ|印《じるし》ぢやないかい。どこともなしに|文助《ぶんすけ》によく|似《に》てゐるやうだが、おとし|子《ご》なれば、こんな|子《こ》があるだらうが、|三《みつ》つの|時《とき》に|死《し》んだものが、|此《この》|世《よ》に|生《い》きてる|筈《はず》がない……ハテナア』
『|高姫《たかひめ》|様《さま》、|此処《ここ》は|冥土《めいど》の|八衢《やちまた》で|厶《ござ》いますよ。|決《けつ》して|現界《げんかい》ぢや|厶《ござ》いませぬ。かうして|沢山《たくさん》の|人《ひと》が|此処《ここ》に|集《あつ》まつてゐるのも、|皆《みな》|現界《げんかい》と|幽界《いうかい》の|精霊《せいれい》ばかりですワ』
『|一寸《ちよつと》|待《ま》つておくれ、|一《ひと》つ|考《かんが》へ|直《なほ》さねばなるまい。さう|聞《き》くと|何《なん》だか、そこらの|様子《やうす》が|違《ちが》ふやうだ。お|前《まへ》が|三《みつ》つの|年《とし》に|霊界《れいかい》へ|来《き》て、こんなに|成人《せいじん》したとは、テモ|偖《さて》も|不思議《ふしぎ》なことだ、ウーン』
と|舌《した》をかみ、|首《くび》を|傾《かたむ》けて|思案《しあん》にくれてゐる。|白《しろ》い|色《いろ》の|守衛《しゆゑい》は、|大勢《おほぜい》の|者《もの》を|一々《いちいち》|手招《てまね》きした。|先《ま》づ|第一《だいいち》に|招《まね》かれて|近寄《ちかよ》つたのは、|八十《はちじふ》ばかりの|杖《つゑ》をついた|老爺《ろうや》である。
『|其《その》|方《はう》は|何《なん》と|云《い》ふ|名《な》だ』
『ハイ|私《わたし》は|敬助《けいすけ》と|申《まを》します』
『どつか|具合《ぐあひ》が|悪《わる》いか、チツと|顔色《かほいろ》が|悪《わる》いぢやないか』
『|何《なん》だか、|停車場《ステイシヨン》のやうな|所《ところ》へ|行《い》つて|居《を》つたと|思《おも》へば、|私《わたし》の|胸《むね》に|行当《ゆきあた》つたものがある。|其《その》|際《さい》に、ハツと|思《おも》つたと|思《おも》へば、いつの|間《ま》にか|斯様《かやう》な|所《ところ》へやつて|来《き》ました』
『|年齢《ねんれい》は|幾《いく》つだ』
『ハイ|六十歳《ろくじつさい》で|厶《ござ》います』
『|余《あま》り|頭《あたま》が|白《しろ》いので、|八十《はちじふ》ばかりに|見《み》えた。お|前《まへ》は|余程《よほど》ハラの|悪《わる》い|男《をとこ》だなア、ヱルサレムの|宮《みや》を|部下《ぶか》の|奴《やつ》に|命《めい》じて|叩《たた》き|潰《つぶ》したのは|其《その》|方《はう》だらう』
『イエ|滅相《めつさう》な、|決《けつ》して|私《わたし》ぢやありませぬ。|片山君《かたやまくん》が|命令《めいれい》を|致《いた》しましたので、|其《その》|命令《めいれい》を|聞《き》かねば、|到底《たうてい》、|泥棒《どろばう》|会社《くわいしや》の|社長《しやちやう》が|勤《つと》まりませぬので、|止《や》むを|得《え》ず|部下《ぶか》に|命令《めいれい》を|致《いた》しました。|決《けつ》して|主犯《しゆはん》では|厶《ござ》いませぬ』
『さうするとお|前《まへ》は|従犯《じうはん》だな。ヨシヨシ、|此奴《こいつ》ア|容易《ようい》に|俺《おれ》の|手《て》には|合《あ》はぬ。|伊吹戸主神《いぶきどぬしのかみ》|様《さま》に、|厳格《げんかく》なる|審判《しんぱん》を|御願《おねが》ひするであらう、サ、|此《この》|門《もん》を|通《とほ》れ』
と|白《しろ》の|守衛《しゆゑい》は|門内《もんない》へつき|入《い》れて|了《しま》つた。|白髪《しらが》の|爺《おやじ》はヒヨロ ヒヨロしながら、|屠所《としよ》の|羊《ひつじ》の|様《やう》に|歩《あゆ》み|行《ゆ》く。|後《あと》には|細長《ほそなが》い|六十《ろくじふ》|位《くらゐ》な|男《をとこ》が|白《しろ》に|審判《しんぱん》を|受《う》けてゐる。
『|其《その》|方《はう》は|何者《なにもの》だ、ネームを|名乗《なの》れ』
『ハイ|私《わたし》は|片山狂介《かたやまきやうすけ》と|申《まを》します』
『|成程《なるほど》、|随分《ずいぶん》|軍閥《ぐんばつ》でバリついたものだな。お|前《まへ》の|為《ため》に|幾万《いくまん》の|精霊《せいれい》を|幽界《いうかい》へ|送《おく》つたか|分《わか》らぬ、|幽界《いうかい》にては|大変《たいへん》に|名高《なだか》い|男《をとこ》だ。これも|此処《ここ》で|審判《さば》く|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬ。サア、|奥《おく》へ|行《ゆ》けツ』
と|又《また》もや|門内《もんない》へ|押込《おしこ》んだ。|次《つぎ》にやつて|来《き》た|爺《おやじ》は|鉄《てつ》の|杖《つゑ》をついてゐる。
『|其《その》|方《はう》は|高田悪次郎《たかだあくじらう》ではないか』
『ハイ、|私《わたし》は|表善裏悪《へうぜんりあく》の|張本人《ちやうほんにん》、|世界一《せかいいち》の|富豪《ふうがう》にならうと|思《おも》うて、|随分《ずいぶん》|活動《くわつどう》|致《いた》しました。|併《しか》しながら|不慮《ふりよ》の|災難《さいなん》によつて、かやうな|所《ところ》へ|迷《まよ》ひ|込《こ》み、|誠《まこと》に|面目《めんぼく》|次第《しだい》も|厶《ござ》いませぬ』
『|其《その》|杖《つゑ》は|鉄《てつ》ぢやないか、|左様《さやう》な|物《もの》を、なぜこんな|所《ところ》まで|持《も》つて|来《く》るか』
『これは|鬼《おに》に|鉄棒《かなぼう》と|申《まを》しまして、|現界《げんかい》に|居《を》る|時《とき》から、|鬼《おに》の|役《やく》を|勤《つと》めて|居《を》りました。|此《この》|鉄棒《かなぼう》を|以《もつ》て、|凡《すべ》ての|銀行《ぎんかう》|会社《くわいしや》を|叩《たた》き|壊《こは》し、|皆《みな》|一《ひと》つに|集《あつ》めて|巨万《きよまん》の|富《とみ》を|積《つ》んだ|唯一《ゆゐいつ》の|武器《ぶき》で|厶《ござ》いますから、こればかりはどこ|迄《まで》も|放《はな》すことは|出来《でき》ませぬ』
『|此《この》|鉄棒《かなぼう》はこちらに|預《あづ》かる。サア、キリキリ|渡《わた》して|行《ゆ》け』
『|滅相《めつさう》もない、|命《いのち》より|大切《だいじ》な|鉄棒《かなぼう》、どうしてこれが|渡《わた》されませうかい』
『お|前《まへ》が|之《これ》を|持《も》つてゐると、|伊吹戸主《いぶきどぬし》の|審判《しんぱん》に|会《あ》うた|時《とき》は、キツと|地獄《ぢごく》の|底《そこ》へ|堕《お》ちるぞよ。それで|此処《ここ》で|渡《わた》して|行《ゆ》けと|云《い》ふのだ。さうすると|八衢《やちまた》の|世界《せかい》へおいて|貰《もら》ふやうになるかも|知《し》れぬから』
『|滅相《めつさう》もないこと|仰有《おつしや》いませ。そんな|甘《うま》いことを|云《い》つて、|泥棒《どろばう》しようと|思《おも》うても|其《その》|手《て》には|乗《の》りませぬぞ。|此《この》|鉄棒《かなぼう》は|斯《か》うみえても|二億円《におくゑん》の|価値《かち》があるのです。|此《この》|鉄《てつ》の|棒《ぼう》から|生《う》み|出《だ》した|二億円《におくゑん》、|言《い》はば|此《この》|棒《ぼう》は|二億円《におくゑん》の|手形《てがた》のやうなものだ。|何時《なんどき》|地獄《ぢごく》へやられても、これさへあれば|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。|地獄《ぢごく》の|沙汰《さた》も|金《かね》|次第《しだい》、|如何《いか》なる|鬼《おに》も|閻魔《えんま》も|之《これ》にて|忽《たちま》ちやつつけて|了《しま》ひ、|地獄界《ぢごくかい》の|王者《わうじや》となる|重宝《ちようほう》な|宝《たから》だ。|何《なん》と|云《い》つても|之《これ》ばかりは|渡《わた》しませぬから|諦《あきら》めて|下《くだ》さい』
かかる|所《ところ》へ、|赤面《あかづら》の|守衛《しゆゑい》がやつて|来《き》た。
『ヤア、お|前《まへ》は|高田《たかだ》|悪次郎《あくじらう》ぢやな。よい|所《ところ》へ|出《で》てうせた。サア、|奥《おく》へ|来《こ》い、|其《その》|鉄棒《かなぼう》は|門内《もんない》へ|一歩《いつぽ》も|持込《もちこ》むことは|罷《まか》りならぬぞ』
『ハハハハハ、|冥土《めいど》の|八衢《やちまた》か|何《なに》か|知《し》らぬが、|体《てい》のよい|泥棒《どろばう》が|徘徊《はいくわい》するとこだワイ。|之《これ》は|高田《たかだ》が|唯一《ゆゐいつ》の|武器《ぶき》だ。|誰《たれ》が|何《なん》と|申《まを》しても|放《はな》しは|致《いた》さぬ、|放《はな》せるなら|放《はな》してみい。|如何《いか》なる|権力《けんりよく》も|神力《しんりき》も|金《かね》の|前《まへ》には|屈服《くつぷく》|致《いた》さねばなるまいぞ』
『|馬鹿者《ばかもの》だなア。|霊界《れいかい》に|於《おい》て、|物質上《ぶつしつじやう》の|宝《たから》がいるものか。|金《かね》が|覇《は》を|利《き》かすのは、|暗黒《あんこく》なる|現界《げんかい》に|於《おい》てのみだ』
『それでも、|地獄《ぢごく》の|沙汰《さた》も|金《かね》|次第《しだい》といふぢやありませぬか』
『|金《かね》を|以《もつ》て|左右《さいう》|致《いた》すのは、|所謂《いはゆる》|地獄《ぢごく》の|行《や》り|方《かた》だ』
『それ|御覧《ごらん》、|何《いづ》れ|私《わたし》のやうな|者《もの》は|天国《てんごく》へ|行《ゆ》ける|気遣《きづか》ひはない。|生前《せいぜん》より|地獄行《ぢごくゆき》と|覚悟《かくご》はしてゐたのだ。それだから、|地獄《ぢごく》へ|行《ゆ》けば|金《かね》の|必要《ひつえう》がある、|何《なん》と|云《い》つても|之《これ》は|放《はな》しませぬワイ』
『さうすると、|貴様《きさま》は|天国《てんごく》よりも|地獄《ぢごく》が|可《い》いのだな』
『さうですとも、|地獄《ぢごく》の|方《はう》が|人間《にんげん》も|沢山《たくさん》|居《を》るだらうし、|金《かね》さへあれば|覇《は》が|利《き》くのだから、どうか|地獄《ぢごく》へやつて|貰《もら》ひたいものです。|何程《なにほど》|地獄《ぢごく》だつて、|二億円《におくゑん》の|金《かね》さへあれば|何《なん》でも|出来《でき》ますからな』
『さう|云《い》ふ|不心得《ふこころえ》な|奴《やつ》に、|金《かね》を|持《も》たして|地獄《ぢごく》へやる|事《こと》は|罷《まか》り|成《な》らぬ。ここにおいて|行《ゆ》け』
『|何《なん》と|云《い》つても、|此奴《こいつ》ばかりは|放《はな》しませぬよ』
『|然《しか》らば、|此《この》|方《はう》の|力《ちから》で|放《はな》してみせう』
「ウン」と|一声《いつせい》|霊縛《れいばく》をかけるや|否《いな》や、|高田《たかだ》の|手《て》は|痺《しび》れて、|鉄《てつ》の|棒《ぼう》はガラリと|地上《ちじやう》に|落《お》ちた。|忽《たちま》ち|高田《たかだ》の|手《て》を|後《うしろ》へ|廻《まは》し、
『|此《この》|応対盗人《おうたいぬすびと》|奴《め》』
と|言《い》ひながら、サル|括《ぐく》りにし、ポンと|尻《けつ》をけつて|門内《もんない》へ|投《な》げ|込《こ》んだ。|高姫《たかひめ》は|群衆《ぐんしう》の|中《なか》から|伸《の》び|上《あが》つて、ニコニコしながら|此《この》|光景《くわうけい》を|眺《なが》めてゐた。
(大正一二・二・一〇 旧一一・一二・二五 松村真澄録)
第二五章 |恋愛観《れんあいくわん》〔一三六一〕
|高姫《たかひめ》は|敬介《けいすけ》、|狂介《きやうすけ》、|悪次郎《あくじらう》の|三人《さんにん》が|手厳《てきび》しくコミ|割《わ》られたのを|見《み》て|痛快《つうくわい》|措《お》く|能《あた》はず、|益々《ますます》|調子《てうし》にのつてロハ|台《だい》の|上《うへ》に|登《のぼ》り、|又《また》もや|大道演説《だいだうえんぜつ》を|始《はじ》め|出《だ》した。
『|皆《みな》さま、あれをお|聞《き》きになりましたか。|泡沫《はうまつ》に|等《ひと》しき|権勢《けんせい》や、|地位《ちゐ》や、|財産《ざいさん》を|振《ふ》りまはし、|社会《しやくわい》に|於《おい》て|乱暴狼藉《らんばうろうぜき》を|働《はたら》いた|偽善者《きぜんしや》の|末路《まつろ》は、|此《この》|通《とほ》りで|厶《ござ》りませうがな。|皆《みな》さまはここを|現界《げんかい》と|思《おも》うてゐますか。ここは|霊界《れいかい》の|八衢《やちまた》、|善悪《ぜんあく》を|調《しら》べる|所《ところ》ですよ。お|前《まへ》さま|等《たち》も|常平生《つねへいぜい》から|結構《けつこう》な|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|現《あら》はれてウラナイの|道《みち》を|開《ひら》き、|万民《ばんみん》を|救《すく》ふべく|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|口《くち》を|酸《す》うしてお|導《みちび》き|遊《あそ》ばしたのに……ヘン、あの|気違《きちが》ひが|何《なに》を|吐《ぬか》す、|冥土《めいど》があつて|堪《たま》らうか、|地獄《ぢごく》|極楽《ごくらく》は|此《この》|世《よ》に|厶《ござ》る……|等《など》と|高《たか》を|括《くく》つて|厶《ござ》つたが、|今《いま》|三人《さんにん》|行《い》つた|奴《やつ》の|様《やう》に、ここで|十分《じふぶん》に|膏《あぶら》を|搾《しぼ》られ、|吠面《ほえづら》をかわかねばなりませぬぞや。それだから|現界《げんかい》に|於《おい》て|神様《かみさま》のお|話《はなし》をよく|聞《き》きなされと|云《い》つたのだ。|如何《どう》です、|之《これ》でもお|前《まへ》さま|等《たち》は|此《この》|高姫《たかひめ》の|演説《えんぜつ》を|聞《き》く|気《き》はありませぬか。|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》は|現界《げんかい》、|幽界《いうかい》、|神界《しんかい》の|救主《すくひぬし》で|厶《ござ》るぞや。|何程《なにほど》|深《ふか》い|罪《つみ》があらうとも、|此《この》|方《はう》の|云《い》ふ|事《こと》さへ|聞《き》けば、|神直日《かむなほひ》、|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》して|助《たす》けて|上《あ》げるぞや』
|赤《あか》の|守衛《しゆゑい》は|高姫《たかひめ》の|手《て》をグツと|握《にぎ》り、
『こりや|高姫《たかひめ》、|帰《かへ》れといつたら|帰《かへ》らぬか。|大変《たいへん》|邪魔《じやま》になる。どうしても|聞《き》かねば、|其《その》|方《はう》を|此《この》|儘《まま》|地獄《ぢごく》に|堕《お》とすが|宜《い》いか』
『ヘン、よう|仰有《おつしや》いますワイ。|何《なん》と|云《い》つても|神界《しんかい》、|現界《げんかい》、|幽界《いうかい》の|救主《すくひぬし》なる|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》で|厶《ござ》りますぞや。|余《あま》り|見違《みちが》ひをして|貰《もら》ひますまいカイ。これこれ|皆《みな》さま、|何程《なにほど》|怖《こは》い|顔《かほ》して|此《この》|守衛《しゆゑい》が|睨《にら》んだ|処《ところ》で、チツとも|驚《おどろ》くに|及《およ》びませぬよ。|然《しか》し|此《この》|高姫《たかひめ》の|申《まを》す|事《こと》が|分《わか》らねば|駄目《だめ》ですよ。おい|赤《あか》さま、チツとお|前《まへ》も|高姫《たかひめ》の|云《い》ふ|事《こと》を|真面目《まじめ》に|聞《き》いたら|如何《どう》だい』
|赤《あか》の|守衛《しゆゑい》は|煩《うる》さくなつたと|見《み》え、|高姫《たかひめ》の|手《て》をグツと|後《うしろ》へまはし、|傍《かたはら》の|梧桐《あをぎり》の|木《き》に|縛《しば》りつけて|了《しま》つた。|高姫《たかひめ》は|尚《なほ》も|屈《くつ》せず、|稍《やや》|怒気《どき》を|含《ふく》んだ|声《こゑ》で、
『こりや、|罰当《ばちあた》り|奴《め》、|三界《さんかい》の|救主《すくひぬし》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》を|何《なん》と|致《いた》すか。|物《もの》が|分《わか》らぬにも|程《ほど》があるぞよ。もう|斯《か》うなつて|貴様《きさま》の|様《やう》な|蠅虫《はへむし》に|話《はなし》をした|処《ところ》が|仕方《しかた》がない。|伊吹戸主《いぶきどぬし》を|呼《よ》んで|来《こ》い。|此《この》|高姫《たかひめ》が|噛《か》んで|啣《くく》める|様《やう》に|誠《まこと》の|道理《だうり》を|聞《き》かしてやらう。さうすればお|前《まへ》も|初《はじ》めて|此《この》|生宮《いきみや》の|御神力《ごしんりき》が|分《わか》り|目《め》が|覚《さ》めるだらう』
『エー、|仕方《しかた》がない。|白《しろ》さま、どうか|暫《しばら》く|門内《もんない》へ|突《つ》つこんでおいて|下《くだ》さい。|事務《じむ》の|邪魔《じやま》になつて|仕方《しかた》がありませぬから』
『オホホホホホ、|出来《でか》した|出来《でか》した、|到頭《たうとう》|往生《わうじやう》|致《いた》したと|見《み》え、|杢助《もくすけ》さまの|厶《ござ》る|門内《もんない》へ|入《はい》れと|云《い》ひよつたな。ヤツパリ|高姫《たかひめ》さまには|敵《かな》ふまいがな、オホホホホホ』
|白《しろ》『さア|高姫《たかひめ》、|縛《いましめ》をほどいてやるから|門内《もんない》へ|這入《はい》れ』
『ハイ、|有難《ありがた》う。|順風《じゆんぷう》に|帆《ほ》をかけた|様《やう》なものだ。|之《これ》を|思《おも》へば|熱心《ねつしん》と|云《い》ふものは|偉《えら》いものだな』
|赤《あか》『エー、グヅグヅ|申《まを》さずとトツトと|這入《はい》れ』
『ホホホホ、|這入《はい》りますわいな。|其《その》|代《かは》り|赤《あか》のお|前《まへ》さま|等《たち》の|都合《つがふ》の|悪《わる》い|事《こと》が|出《で》て|来《く》るかも|知《し》れませぬぞや。|勿体《もつたい》なくも|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》を|梧桐《あをぎり》に|縛《しば》りつけた|大悪《だいあく》は、|伊吹戸主《いぶきどぬし》に|会《あ》うたら|屹度《きつと》|告《つ》げてやるから、|地獄行《ぢごくゆき》は|覚悟《かくご》の|前《まへ》だらう。まア|喜《よろこ》んで|待《ま》つて|居《ゐ》なさい。あの、まア|心配《しんぱい》さうな|顔《かほ》ワイノー』
|白《しろ》は|優《やさ》しい|顔《かほ》に|少《すこ》しく|怒《いか》りを|帯《お》び|声《こゑ》を|尖《とが》らして、
『こりや|高姫《たかひめ》、|云《い》ふ|事《こと》があれば|後《あと》で|云《い》へ。さア|早《はや》く|這入《はい》らないか』
『ホホホホホ、|青瓢箪《あをぺうたん》に|屁《へ》を|嗅《か》がしたやうな|栄養不良《えいやうふりやう》な|顔《かほ》をして、|此《この》|生宮様《いきみやさま》を「|高姫《たかひめ》|云《い》ひたい|事《こと》があるなら|後《あと》から|云《い》へ」……|何《なに》|吐《ぬか》すのだ。チツと|身分《みぶん》を|考《かんが》へたら|如何《どう》だい、オツホン』
と|女《をんな》に|似合《にあ》はず|大手《おほて》を|振《ふ》り、|大股《おほまた》に|歩《ある》いて|門内《もんない》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|赤《あか》は|男女連《だんぢよづ》れの|精霊《せいれい》を|手招《てまね》きし|住所《ぢゆうしよ》|姓名《せいめい》を|尋《たづ》ねかけた。
『|其《その》|方《はう》は|何《なん》と|申《まを》す|姓名《せいめい》か』
『ハイ、|私《わたし》はおつやと|申《まを》します』
『|其《その》|方《はう》は|何《なん》と|申《まを》すか』
『ハイ、|私《わたし》は|呆助《はうすけ》と|申《まを》します』
『おつや、|其《その》|方《はう》は|夫《をつと》のある|身《み》を|以《もつ》て、|此《この》|呆助《はうすけ》と|私《ひそ》かに|情《じやう》を|通《つう》じ、|斯様《かやう》な|処《ところ》へやつて|来《き》たのだな』
『ハイ、|理想《りさう》の|夫《をつと》がないものですから、|已《や》むを|得《え》ずこんな|破目《はめ》になつたのですよ。|今日《こんにち》の|結婚問題《けつこんもんだい》は|愛《あい》の|結婚《けつこん》でなくて|財産結婚《ざいさんけつこん》、|門閥結婚《もんばつけつこん》、|強迫結婚《きやうはくけつこん》、|強姦結婚《がうかんけつこん》、|往生《わうじやう》づくめの|無理無体《むりむたい》の|結婚《けつこん》を|強《し》ひる|世《よ》の|中《なか》ですから、|離婚沙汰《りこんざた》が|頻々《ひんぴん》として|起《おこ》つてゐます。|恋愛《れんあい》を|無視《むし》した|因襲的《いんしふてき》|結婚法《けつこんはふ》は、|斯様《かやう》な|問題《もんだい》を|惹起《じやくき》する|最《もつと》も|重大《ぢうだい》なる|原因《げんいん》の|一《ひと》つとなるのです。|自分《じぶん》が|好《す》いて|自分《じぶん》が|選《えら》んだ|結婚関係《けつこんくわんけい》ならば、それが|仮令《たとへ》うまく|行《ゆ》かなくても|自分《じぶん》|自身《じしん》に|其《その》|全責任《ぜんせきにん》があります。|出来得《できう》るだけの|努力《どりよく》をして|現在《げんざい》の|結婚生活《けつこんせいくわつ》をもつともつと|良《よ》きものにしなければなりませぬ。|最初《さいしよ》から|自分《じぶん》|以外《いぐわい》の|者《もの》が|取計《とりはか》らつた|結婚《けつこん》と|云《い》ふものは、|少《すこ》しも|恋愛味《れんあいみ》が|存在《そんざい》しませぬ。|何《いづ》れ|合《あは》せものは|離《はな》れものだと|云《い》ふ|流儀《りうぎ》ですから、|離婚《りこん》の|不祥事《ふしやうじ》や、|他《た》に|情夫《じやうふ》を|拵《こしら》へて|三角生活《さんかくせいくわつ》を|送《おく》る|様《やう》になるのは|已《や》むを|得《え》ませぬ。|皆《みな》|社会《しやくわい》の|制度《せいど》が|悪《わる》いのだから、|自分《じぶん》の|意思《いし》の|合《あ》うたもの|同志《どうし》が|結婚《けつこん》を|自由《じいう》にしたと|云《い》つて、お|前《まへ》さま|等《ら》にゴテゴテ|言《い》はれて|堪《たま》りますか。|女《をんな》は|決《けつ》して|男《をとこ》の|玩弄物《おもちや》ぢやありませぬ。ヤツパリ|一人前《いちにんまへ》の|人格者《じんかくしや》である|以上《いじやう》は|男子《だんし》の|圧迫《あつぱく》や|強圧《きやうあつ》は|許《ゆる》しませぬ。それだから|無理結婚《むりけつこん》の|夫《をつと》を|捨《す》てて|最愛《さいあい》の|呆助《はうすけ》さまと|隠《かく》れ|忍《しの》んで、|耽美生活《たんびせいくわつ》を|味《あぢ》はつてゐたのです。|之《これ》|程《ほど》|分《わか》り|切《き》つた|道理《だうり》を|社会《しやくわい》の|奴《やつ》は|皆《みな》|盲目《めくら》だから、|嫉妬《やきもち》|半分《はんぶん》に、あのおつやは|不貞腐《ふてくさ》れだの、ホームの|破壊者《はくわいしや》だの、|阿婆摺女《あばずれをんな》の|張本《ちやうほん》|等《など》と|下《くだ》らぬ|事《こと》を|吐《ほざ》きやがるので|煩《うる》さくて|堪《たま》らず、|呆助《はうすけ》さまと|相談《さうだん》の|上《うへ》、|手《て》に|手《て》を|取《と》つてライオン|川《がは》に|投身《とうしん》し、|霊界《れいかい》に|於《おい》て|完全《くわんぜん》なるホームを|作《つく》り|恋愛味《れんあいみ》を|味《あぢ》ははうと|思《おも》つてやつて|来《き》た|賢明《けんめい》な|新《あたら》しい|女《をんな》ですよ。コンモンセンスを|欠《か》いた|社会《しやくわい》の|馬鹿《ばか》|人間《にんげん》は、トランセンデンタルな|恋愛《れんあい》の|権利《けんり》を|解《かい》せない|馬鹿者《ばかもの》ばかりですから、サツパリ|社会《しやくわい》が|嫌《いや》になつて|了《しま》つたのです。|想思《さうし》の|男女《だんぢよ》をして|自由《じいう》に|結婚《けつこん》せしむるのがワイズ・ペアレントフツドでせう。|今日《こんにち》の|親《おや》と|云《い》ふものは|吾《わが》|子《こ》の|恋愛《れんあい》までも|抹殺《まつさつ》しようとするのだから|堪《たま》らないですよ。|吾々《われわれ》はチヤスティティなラブを|以《もつ》て|人生《じんせい》の|最大要件《さいだいえうけん》と|認《みと》めてゐるのです。イケ|好《す》かない|男子《だんし》と|結婚《けつこん》する|位《くらゐ》なら、|寧《むし》ろセリバシイ|生活《せいくわつ》を|送《おく》る|方《はう》が|何程《なにほど》ましだか|知《し》れませぬわ。お|前《まへ》さまも、|未《ま》だ|年《とし》がお|若《わか》いが|屹度《きつと》|妻君《さいくん》があるでせう。|気《き》に|入《い》つた|妻君《さいくん》と|添《そ》うてゐらつしやいますかな』
『こりやこりや|女《をんな》、こんな|処《ところ》で|変愛論《れんあいろん》をふりかざす|処《ところ》ぢやないぞ。|之《これ》から|其《その》|方《はう》の|罪悪《ざいあく》を|調《しら》べるのだ』
『|高竹寺女学校《かうちくじぢよがくかう》の|卒業生《そつげふせい》で、|天才《てんさい》の|誉《ほまれ》をとつたおつやで|厶《ござ》ります。|天才《てんさい》と|秀才《しうさい》を|兼《か》ねた|新《あたら》しい|女《をんな》だから、|到底《たうてい》お|前《まへ》さまの|頭《あたま》へは|入《はい》りますまい。ホーム・ウエーゼリ・ゼヤリーベの|分《わか》らない、|世《よ》に|遅《おく》れた|人間《にんげん》にはテンで|話《はなし》にはなりませぬワ。ラブ・イズ・ベストを|以《もつ》て|吾々《われわれ》|目覚《めざ》めた|婦人《ふじん》は|大理想《だいりさう》としてゐるのですよ。|何《なん》とまア|気《き》の|利《き》かない|顔《かほ》して|居《を》りますね、ホホホホホ』
『|此《この》|頃《ごろ》の|女性《ぢよせい》には|冥官《めいくわん》も|実《じつ》に|往生《わうじやう》だ。|何《なに》は|兎《と》もあれ、|其《その》|方《はう》のメモアルを|調《しら》べてやるから|此方《こちら》へ|来《こ》い。|高等女学校《かうとうぢよがくかう》を|高竹寺女学校《かうちくじぢよがうかう》とは|何《なに》を|云《い》ふか』
『|妾《わたし》の|行状《ぎやうじやう》を|調《しら》べるとは、そいつは|面白《おもしろ》い。|純潔《じゆんけつ》な|婦人《ふじん》ですよ。サンナム・ボーナムの|行《おこな》ひを|尽《つく》して|来《き》た|才媛《さいえん》ですから、|旧道徳《きうだうとく》の|古《ふる》い|頭《あたま》で|御覧《ごらん》になれば|罪悪《ざいあく》かは|知《し》りませぬが、|恋《こひ》に|目覚《めざ》めたニユー・スピリツトを|有《いう》する|妾《わたし》の|主義《しゆぎ》は、|世《よ》に|遅《おく》れた、|失敬《しつけい》ながらお|前《まへ》さまでは|分《わか》りますまい。|何《なん》と|云《い》つても|人間《にんげん》の|世界《せかい》ではラ・ヴイ・セクシユエルと|云《い》つて|性的《せいてき》|生活《せいくわつ》を|以《もつ》て|第一《だいいち》とするのですから、|此《この》|位《くらゐ》|最善《さいぜん》の|方法《はうはふ》はありますまい。|無理解《むりかい》な|親《おや》に|虐《しひた》げられて、|良心《りやうしん》を|枉《ま》げ|結婚《けつこん》した|夫婦《ふうふ》は、|云《い》はば|罪悪《ざいあく》の|最《さい》なるものと|思《おも》ひます。|愛《あい》なき|結婚《けつこん》を|強《し》ひられて、|朝《あさ》から|晩《ばん》まで、|夫婦《ふうふ》がアンタゴーニズムの|悲劇《ひげき》を|演《えん》じて|居《ゐ》るよりも、|想思《さうし》の|男女《だんぢよ》が|互《たがひ》にホーリ・グレールを|傾《かたむ》けて|天国《てんごく》の|法悦《ほふえつ》に|酔《よ》ふのが|最《もつと》も|賢明《けんめい》な|覚《さ》めた|婦人《ふじん》のやり|方《かた》です。お|前《まへ》さまは|到底《たうてい》|吾々《われわれ》を|審判《しんぱん》するだけの|権能《けんのう》はありませぬよ。|何卒《どうぞ》もう|此《この》|問題《もんだい》には|此《この》|上《うへ》クエーストして|下《くだ》さるな』
|赤《あか》はあまりの|事《こと》に|呆《あき》れ|果《は》て、|呆助《はうすけ》の|方《はう》に|言葉《ことば》を|向《む》けた。
『おい|呆助《はうすけ》、お|前《まへ》は|此《この》おつやを|真《しん》から|愛《あい》してゐるのか』
『ハイ、|私《わたくし》はおつやの|意見《いけん》に|共鳴《きようめい》して|居《を》ります。よく|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|恋愛《れんあい》と|云《い》ふものは|至高《しかう》|至上《しじやう》のものでせう。|恋愛《れんあい》|至上《しじやう》の|思想《しさう》があつて|茲《ここ》に|初《はじ》めて|一夫一婦《いつぷいつぷ》の|制度《せいど》に|的確《てきかく》なる|精神的《せいしんてき》、|道徳的《だうとくてき》、|合理的《がふりてき》|基礎《きそ》を|与《あた》ふる|事《こと》が|出来《でき》るのです。それ|以外《いぐわい》の|一夫一婦論《いつぷいつぷろん》は、|所謂《いはゆる》|偽善説《ぎぜんせつ》に|非《あら》ざれば、|単《たん》なる|便宜的《べんぎてき》、|因襲的《いんしふてき》、|実理的《じつりてき》の|御都合主義《ごつがふしゆぎ》か、|又《また》は|形式主義《けいしきしゆぎ》たるものに|過《す》ぎませぬ。|斯《かく》の|如《ごと》きは|少《すくな》くとも|人間《にんげん》として|第二義的《だいにぎてき》の|考察《かうさつ》として|取扱《とりあつか》はるべき|問題《もんだい》となると|思《おも》ひます。|至上《しじやう》|至高《しかう》の|性的《せいてき》|道徳《だうとく》としての|恋愛《れんあい》は|二《ふた》つの|人格《じんかく》の|全的《ぜんてき》|結合《けつがふ》なるが|故《ゆゑ》に、そこに|一夫一婦《いつぷいつぷ》の|原則《げんそく》が|確認《かくにん》されたとすれば、|必然的《ひつぜんてき》に|之《これ》と|相即不離《さうそくふり》の|関係《くわんけい》をなして|生《しやう》ずるものは|所謂《いはゆる》|貞操観念《ていさうくわんねん》でせう。|男女《だんぢよ》が|互《たがひ》に|貞操《ていさう》を|厳守《げんしゆ》し|格守《かくしゆ》する|事《こと》によつてのみ、|此《この》|一夫一婦《いつぷいつぷ》が|完全《くわんぜん》に|実現《じつげん》せられ|得《う》るものです。|故《ゆゑ》に|貞操《ていさう》は|恋愛《れんあい》の|神聖《しんせい》なる|擁護者《ようごしや》たると|共《とも》に、|又《また》|真《しん》の|恋愛《れんあい》は|必《かなら》ず|貞操《ていさう》が|伴《ともな》ふものです』
『|随分《ずいぶん》|猛烈《まうれつ》な|恋愛関係《れんあいくわんけい》だのう。|嫉妬《やきもち》や|悋気《りんき》が|随分《ずいぶん》|花《はな》を|咲《さ》かしただらうのう』
『|世間的《せけんてき》|物質的《ぶつしつてき》の|慾望《よくばう》に|煩《わづら》はされてゐない|純真《じゆんしん》の|恋愛《れんあい》の|場合《ばあひ》に|於《おい》ては、|嫉妬《しつと》なるものは|必《かなら》ずしも|悪徳《あくとく》として|非難《ひなん》せらるべきものでなく、|寧《むし》ろ|双方《さうはう》の|純潔《じゆんけつ》を|保《たも》たむとする|貞操観念《ていさうくわんねん》の|副作用《ふくさよう》とも|見《み》られるのです。|悋気《りんき》をせない|女《をんな》は|明《あきら》かに|不貞《ふてい》の|女《をんな》である|場合《ばあひ》が|最《もつと》も|多《おほ》いものです。それ|故《ゆゑ》|吾々《われわれ》は|悋気《りんき》もしたり、イチヤついてもみたり、|低気圧《ていきあつ》が|両人《りやうにん》の|間《あひだ》に|起《おこ》つたりする|事《こと》は、|幾度《いくたび》か|出現《しゆつげん》しますが、|之《これ》が|所謂《いはゆる》|貞操観念《ていさうくわんねん》の|濃厚《のうこう》なる|証拠《しようこ》であらうと|思《おも》ひます、エヘヘヘヘヘ』
『アーア、サツパリ|煙《けむり》に|捲《ま》かれて|了《しま》つた。|御両人《ごりやうにん》、お|目出度《めでた》う。|此《この》|先《さき》はどうなるか|知《し》りませぬが、|先《ま》づ|伊吹戸主神《いぶきどぬしのかみ》|様《さま》の|前《まへ》で|諄々《じゆんじゆん》と|恋愛神聖論《れんあいしんせいろん》でもまくし|立《た》てなさるが|宜《よろ》しからう。|併《しか》しおつやの|夫《をつと》は|昨日《さくじつ》ここを|通過《つうくわ》したから、|嘸《さぞ》|今頃《いまごろ》は|伊吹戸主神《いぶきどぬしのかみ》の|前《まへ》でお|前等《まへら》|両人《りやうにん》の|現界《げんかい》に|於《お》ける|一切《いつさい》の|行動《かうどう》を|陳述《ちんじゆつ》したであらう。さア|早《はや》く|通《とほ》りなさい』
『ハイ、|下《くだ》らぬ|事《こと》を|申《まを》しまして|誠《まこと》に|済《す》みませぬ。|併《しか》しながら|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》の|結合力《けつがふりよく》は|極《きは》めて|硬固《かうこ》なもので|厶《ござ》りますから、|仮令《たとへ》|地獄《ぢごく》の|底《そこ》へ|落《おと》されても|滅多《めつた》に|分離《ぶんり》などは|致《いた》しませぬワ』
『エー、|八釜《やかま》しい。そんな|問題《もんだい》は|審判廷《しんぱんてい》で|喋々《てふてふ》とまくし|立《た》てたが|宜《よ》からう。|早《はや》く|通《とほ》れ』
と|一喝《いつかつ》した。|二人《ふたり》は|睦《むつま》じさうに|手《て》を|曳《ひ》きながら、いそいそとして|門《もん》を|潜《くぐ》り|入《い》る。
『|何《なん》とまア|脱線《だつせん》した|女《をんな》が|来《き》たものだなア。|赤《あか》さま、|之《これ》からチツと|方針《はうしん》を|変《か》へなくちやなりますまいぞや』
『|如何《いか》にも|白《しろ》さま、|非常《ひじやう》に|現界《げんかい》には|魔風《まかぜ》|恋風《こひかぜ》が|吹《ふ》き|荒《すさ》んでゐると|見《み》えますな。|之《これ》では|到底《たうてい》|社会《しやくわい》の|秩序《ちつじよ》は|保《たも》たれますまい。ああ|困《こま》つた|事《こと》だなア』
(大正一二・二・一〇 旧一一・一二・二五 北村隆光録)
第二六章 |姑根性《しうとめこんじやう》〔一三六二〕
|次《つぎ》に|呼《よ》び|出《だ》されたのはお|年《とし》であつた。
|赤《あか》『お|前《まへ》は|文助《ぶんすけ》の|娘《むすめ》お|年《とし》であつたなア』
『ハイ、|左様《さやう》で|厶《ござ》います』
『いつ|霊界《れいかい》へ|来《き》たのか』
『ハイ、|三《みつ》つの|年《とし》に|現界《げんかい》を|去《さ》り、|八衢《やちまた》の|世界《せかい》に|於《おい》て|今日《けふ》まで|成長《せいちやう》して|参《まゐ》りました』
『|其処《そこ》に|居《を》るのはお|前《まへ》の|弟《おとうと》か』
『|左様《さやう》で|厶《ござ》います。|両人《りやうにん》とも|萱野ケ原《かやのがはら》で|淋《さび》しい|生活《せいくわつ》を|続《つづ》けて|居《を》りました』
『お|前等《まへら》|姉弟《きやうだい》は|親《おや》の|罪《つみ》によつて、|天国《てんごく》に|往《ゆ》くべき|所《ところ》を|長《なが》らく|修業《しゆげふ》を|致《いた》したのだから、これから|直《すぐ》に|天国《てんごく》にやつてやらう。|最早《もはや》|審判廷《しんぱんてい》に|往《ゆ》く|必要《ひつえう》もない。|暫《しばら》く|待《ま》つて|居《ゐ》るがよい』
と|云《い》ひ|放《はな》ち|白《しろ》に|目配《めくば》せした。|白《しろ》は|直《ただち》に|門内《もんない》に|駆《か》け|込《こ》んだ。|暫《しばら》くして|得《え》も|云《い》はれぬ|麗《うるは》しい|天男《てんなん》|天女《てんによ》が、|琵琶《びは》や|胡弓《こきう》や|縦笛《たてぶえ》|等《など》をもつて、どこからともなく|現《あら》はれ|来《きた》り、|両人《りやうにん》に|麗《うるは》しき|衣類《いるゐ》を|与《あた》へ、|不思議《ふしぎ》なる|霊光《れいくわう》に|二人《ふたり》をパツと|包《つつ》み、|微妙《びめう》の|音楽《おんがく》を|奏《そう》しながら|東《ひがし》をさして|雲《くも》に|乗《の》り、|光《ひかり》となつて|立《た》ち|去《さ》つて|仕舞《しま》つた。|二人《ふたり》の|守衛《しゆゑい》は|其《その》|姿《すがた》を|見送《みおく》つて|合掌《がつしやう》し、|喜《よろこ》びの|色《いろ》を|顔《かほ》に|浮《うか》べて|居《ゐ》る。
|赤《あか》『いつもかふいふ|精霊《せいれい》ばかりがやつて|来《く》ると|気分《きぶん》がよいのだがなア。|高姫《たかひめ》のやうな|死損《しにぞこな》ひの|阿婆摺《あばず》れ|女《をんな》がやつて|来《き》ては、サツパリ|関所守《せきしよもり》も|手古摺《てこず》らざるを|得《え》ないワ。それに|又《また》お|艶《つや》に|呆助《はうすけ》、|極端《きよくたん》のデレ|助《すけ》だから|恋《こひ》の|奴《やつこ》となり|果《は》て、|正邪理非《せいじやりひ》の|弁別《べんべつ》も|殆《ほとん》どつかない|迄《まで》に|恋愛《れんあい》に|心酔《しんすゐ》して|居《ゐ》るのだから、|伊吹戸主神《いぶきどぬしのかみ》|様《さま》もさぞお|困《こま》りなさる|事《こと》だらうなア』
『|本当《ほんたう》に|困《こま》つたものですなア。サアこれから|又《また》、ボツボツ|調《しら》べねばなりますまい』
と|云《い》ひながら、|白《しろ》は|一番《いちばん》|近《ちか》くに|居《を》つた|婆《ばば》の|手《て》を|引《ひ》いて|赤《あか》の|前《まへ》に|立《た》たせた。
『お|前《まへ》は|柊村《ひひらぎむら》のお|照《てる》ぢやないか、どうして|此処《ここ》へ|来《き》たのだ』
『ハイよう|聞《き》いて|下《くだ》さいませ。|私《わたし》には|天《てん》にも|地《ち》にも|只《ただ》|一人《ひとり》の|息子《むすこ》が|厶《ござ》います。その|息子《むすこ》は|孝助《かうすけ》と|云《い》うて、ほんとうに|孝行《かうかう》して|呉《く》れました。|若《わか》い|時《とき》|夫《をつと》に|離《はな》れ、|長《なが》い|間《あひだ》|後家《ごけ》を|立《た》て|通《とほ》し、|這《は》へば|立《た》て、|立《た》てば|歩《あゆ》めと|親心《おやごころ》、|寝《ね》ても|起《お》きても|忘《わす》れた|暇《ひま》はなく、|一《ひと》つ|咳《せき》をしても|肺病《はいびやう》になつたのぢやないかと|思《おも》ひ、|寝息《ねいき》が|荒《あら》くても|心臓病《しんざうびやう》ぢやないかと、それはそれはえらい|心配《しんぱい》して|漸《やうや》く|成人《せいじん》させ、|優《やさ》しい|女房《にようばう》をもたせて|老後《らうご》を|楽《たの》しまうと|思《おも》うて|居《ゐ》ました。|処《ところ》が、|私《わたし》の|姪《めい》にあたるものにお|清《きよ》と|云《い》ふ|娘《むすめ》がありましたので、それと|娶《めあ》はせました|所《ところ》、|二三日《にさんにち》の|間《あひだ》は|夫婦《ふうふ》|共《とも》|大切《たいせつ》にして|呉《く》れましたが、それから|後《のち》と|云《い》ふものは|孝助《かうすけ》の|心《こころ》がすつかり|変《かは》り、|一《いち》にもお|清《きよ》、|二《に》にもお|清《きよ》と|申《まを》して、お|母《かあ》さま|其処《そこ》に|居《を》るかとも|云《い》うて|呉《く》れませぬ。そして|夜《よる》になるとこの|老人《らうじん》を|別《べつ》に|寝《ね》かせ、|自分等《じぶんら》|二人《ふたり》が|抱《だ》き|合《あ》つてグツスリ|寝《ね》て|居《ゐ》るぢやありませぬか。|自分《じぶん》の|大事《だいじ》の|息子《むすこ》をお|清《きよ》に|取《と》られる|位《くらゐ》なら、|女房《にようばう》に|貰《もら》ふぢやなかつたにと|悔《くや》んでも|最早《もはや》|追付《おつつ》きませぬ。そこで|息子《むすこ》の|孝助《かうすけ》に、|親《おや》の|気《き》に|入《い》らぬ|女房《にようばう》はトツトと|追《お》ひ|出《だ》せと|申《まを》した|所《ところ》、|孝助《かうすけ》の|云《い》ひますのには「|今《いま》|迄《まで》は|親《おや》の|云《い》ふ|事《こと》は|何《なん》でも|聞《き》きましたが、お|清《きよ》は|私《わたし》の|女房《にようばう》でお|前《まへ》さまの|女房《にようばう》ぢやないから|構《かま》はいでもよろしい。|老《お》いては|子《こ》に|従《したが》へと|云《い》ふ|事《こと》がある。お|前《まへ》はおとなしうして|遊《あそ》んで|居《を》れば、|私等《わたしら》|夫婦《ふうふ》が|働《はたら》いてお|前《まへ》さまを|養《やしな》ひます」と|云《い》うて|憎《にく》い|憎《にく》い|嫁《よめ》を|追《お》ひ|出《だ》さうとも|申《まを》しませぬ。|私《わたし》が|懐《ふところ》に|抱《だ》いて|育《そだ》てた|孝助《かうすけ》をお|清《きよ》に|自由《じいう》にされて、どうして|私《わたし》の|顔《かほ》が|立《た》ちますか。|御推量《ごすゐりやう》なさつて|下《くだ》さいませ、アンアンアン』
『ハテ、|困《こま》つたものだなア』
『|本当《ほんたう》に|困《こま》つたもので|厶《ござ》いませう。|併《しか》しながら|私《わたし》の|息子《むすこ》に|限《かぎ》つて、あんな|不孝《ふかう》な|者《もの》ぢや|厶《ござ》いませなんだが、|何分《なにぶん》|嫁《よめ》が|悪《わる》い|奴《やつ》で|厶《ござ》いますから、|何彼《なにか》と|悪《わる》い|知恵《ちゑ》をつけますので、|一人《ひとり》しかないこの|親《おや》に|不孝《ふかう》を|致《いた》します。それが|残念《ざんねん》さに|裏《うら》の|柿《かき》の|木《き》で|首《くび》を|吊《つ》つてやりました。さうした|所《ところ》、|死《し》にまんが|悪《わる》いと|見《み》えて、|矢張《やつぱ》りこんな|所《ところ》へ|迷《まよ》うて|参《まゐ》りました。|死《し》にたうても|死《し》なれもせず、|本当《ほんたう》に|因果《いんぐわ》な|婆《ばば》で|厶《ござ》います、オンオンオン』
『お|前《まへ》の|息子《むすこ》|夫婦《ふうふ》が|不孝《ふかう》したと|云《い》ふのは、|一体《いつたい》|何《ど》ういふ|事《こと》をしたのだ』
『ハイ、|親《おや》の|気《き》に|入《い》らぬ|事《こと》ばかり|致《いた》します。お|清《きよ》が|来《き》てからと|云《い》ふものは、|些《ちつと》も|私《わたし》と|寝《ね》て|呉《く》れませぬ。それが|腹《はら》が|立《た》つて|耐《たま》りませぬ。|親《おや》の|気《き》に|入《い》らぬ|事《こと》をするのは|不孝《ふかう》ぢや|厶《ござ》いませぬか』
『そりや|夫婦同衾《ふうふどうきん》するのは|当然《あたりまへ》ぢやないか。|何《なん》でそれが|不孝《ふかう》に|当《あた》るのぢや。お|前《まへ》は|姑根性《しうとめこんじやう》を|起《おこ》して|法界悋気《ほふかいりんき》をして|居《ゐ》るのだらう』
『|滅相《めつさう》な、なんでそんな|事《こと》を|致《いた》しませう。|私《わたし》は|孝助《かうすけ》の|身《み》の|上《うへ》を|案《あん》じ、|夜分《やぶん》も|寝《ね》ずに|孝助《かうすけ》|夫婦《ふうふ》の|身《み》の|上《うへ》を|考《かんが》へて|居《を》りますれば、お|清《きよ》の|奴《やつ》、|大事《だいじ》の|大事《だいじ》の|息子《むすこ》をハアハア|云《い》ふ|目《め》に|遇《あ》はせ、|虐待《いぢ》めて|泣《な》かしますので|腹《はら》が|立《た》つて|耐《たま》りませぬ。どうしてあんな|事《こと》を|親《おや》が|見《み》て|居《を》られませうか、|御推量《ごすゐりやう》|下《くだ》さいませ。|私《わたし》のやうな|不仕合《ふしあは》せなものはありませぬ。|夫《をつと》には|早《はや》く|別《わか》れ、|一人《ひとり》の|子《こ》に|粗末《そまつ》にされ、|嫁《よめ》には|情《つれ》なく|当《あた》られ、どうして|生《い》きて|居《ゐ》られませうかいなア、アンアンアン』
|赤《あか》の|守衛《しゆゑい》は|口《くち》をへの|字《じ》に|結《むす》んだきり、|横《よこ》に|長《なが》い|帳面《ちやうめん》を|開《ひら》いて|見《み》てニタリと|笑《わら》ひ、
『これこれお|照《てる》、お|前《まへ》は|随分《ずいぶん》|嫁《よめ》をイヂつたなア』
『ハイ、イヂりました。|向《むか》ふの|出《で》やうが|出《で》やうで|厶《ござ》いますもの、|姑婆《しうとめばば》の|針《はり》いぢりと|申《まを》して、あまり|腹《はら》が|立《た》つと、|木綿針《もめんばり》で|嫁《よめ》の|尻《しり》をチヨイチヨイと|突《つ》いてやりました。|併《しか》し、これは|姑《しうとめ》の|針《はり》いぢりと|昔《むかし》から|諺《ことわざ》にも|残《のこ》つて|居《ゐ》る|所《ところ》で|厶《ござ》います。|些《ちつ》と|痛《いた》い|目《め》に|遇《あ》はして|躾《しつけ》をせねば|家《いへ》のためになりませぬから』
『その|方《はう》は|随分《ずいぶん》|悪党《あくたう》な|婆《ばば》だ。|息子《むすこ》が|女房《にようばう》と|親密《しんみつ》に|暮《くら》して|居《ゐ》るのが|腹《はら》が|立《た》つと|見《み》えるな』
『|些《ちつ》とは|腹《はら》も|立《た》ちませうかい。お|前《まへ》さまだつて|姑《しうと》の|身分《みぶん》になつて|御覧《ごらん》なさい。お|前《まへ》さまは|役人《やくにん》とみえるが、チツとは|老人《らうじん》の|贔屓《ひいき》もして、|嫁《よめ》を|叱《しか》つて|下《くだ》さつたら|好《よ》かりさうなものだがなア』
『|嫁《よめ》には|些《ちつと》も|悪《わる》い|事《こと》はない、お|前《まへ》と|息子《むすこ》が|悪《わる》い、これから|一《ひと》つ|成敗《せいばい》をしてやらう』
『|滅相《めつさう》な、|私《わたし》の|息子《むすこ》に|限《かぎ》つて|悪《わる》いことは|塵《ちり》|程《ほど》も|致《いた》した|覚《おぼ》えは|厶《ござ》りませぬ。|又《また》このお|照《てる》も、|若《わか》い|時《とき》から|貞節《ていせつ》を|守《まも》り、|夫《をつと》の|目《め》を|盗《ぬす》んで|男《をとこ》を|拵《こしら》へたやうな|事《こと》もなし、よく|調《しら》べて|下《くだ》さいませ』
『お|前《まへ》はお|清《きよ》が|朝寝《あさね》をしたと|申《まを》して、お|清《きよ》を|庭《には》の|土間《どま》に|坐《すわ》らせ、|戸棚《とだな》からありたけの|瀬戸物《せともの》を|出《だ》し、|一口《ひとくち》|小言《こごと》を|云《い》つては|庭《には》に|打《う》ちつけ、|又《また》|一言《ひとこと》|云《い》つては|打《う》ちつけ、|終《つひ》には|土瓶《どびん》、|燗徳利《かんどくり》、|火鉢《ひばち》|迄《まで》なげつけてメチヤ メチヤに|毀《こは》したぢやないか。お|清《きよ》が|土間《どま》に|頭《あたま》を|下《さ》げて|謝《あやま》つて|居《ゐ》るのに、なぜ|左様《さやう》な|乱暴《らんばう》を|致《いた》したか』
『ハイ、|何《なん》と|云《い》つても|自分《じぶん》の|家《いへ》の|宝《たから》ですから|割《わ》りたくはありませぬ。|初《はじ》めの|間《あひだ》は|欠《か》けた|茶碗《ちやわん》や、【ニウ】の|入《い》つた|手塩皿《てしほざら》を|投《な》げつけたのです。その|時《とき》|気《き》の|利《き》いた|嫁《よめ》なら|私《わたし》の|手《て》に|取《と》りついて「お|母《かあ》さま|待《ま》つて|下《くだ》さい」と|泣《な》いて|留《と》める|所《ところ》ですのに、あのお|清《きよ》は|家《うち》を|思《おも》はぬ|馬鹿《ばか》な|女《をんな》ですから|一《ひと》つも|留《と》めはせず、|謝《あやま》つてばかり|居《ゐ》るので、|惜《を》しいて|叶《かな》はぬあの|瀬戸物《せともの》を、つひ|行《ゆ》きがかり|上《じやう》、|壊《こは》して|仕舞《しま》つたのです。|本当《ほんたう》に|惜《を》しい|事《こと》で|厶《ござ》いました。|決《けつ》してこの|婆《ばば》が|壊《こは》したのぢやありませぬ、お|清《きよ》の|奴《やつ》がむかつかしたのが|原動力《げんどうりよく》となつて、つひあんな|事《こと》が|出来《でき》たので|厶《ござ》います。|本当《ほんたう》に|心得《こころえ》の|悪《わる》い|女《をんな》で|厶《ござ》います。|私《わたし》を|諫《いさ》める|事《こと》はしないで、おしまひには、|錦手《にしきで》の|立派《りつぱ》な|鉢《はち》まで|持《も》つて|来《き》て、お|母《かあ》さま、|序《ついで》にこれも|割《わ》つて|呉《く》れと|申《まを》しますので、エ、|割《わ》つてやらうかと|思《おも》ひましたが、|余《あま》り|惜《を》しいので|上等品《じやうとうひん》だけは|残《のこ》して|置《お》きました。そして|首《くび》を|吊《つ》る|時《とき》に|考《かんが》へたのは、こんな|瀬戸物《せともの》やお|金《かね》まで|残《のこ》して|死《し》んでも、|皆《みな》あんな|憎《にく》らしい|嫁《よめ》のものになるのが|惜《を》しいから、|紙幣《しへい》は|皆《みな》|燃《も》やして|仕舞《しま》ひ、|瀬戸物《せともの》は|皆《みな》|割《わ》つて|了《しま》つてやらうと|思《おも》ひましたが、|何《なん》としても|可愛《かあい》い|孝助《かうすけ》が、|困《こま》るだらうと|思《おも》うて、|割《わ》らずと|置《お》きました。お|金《かね》も|臍繰《へそくり》が|五百両《ごひやくりやう》ばかりありましたが、この|金《かね》には|書《か》き|残《のこ》して|置《お》きました。「このお|金《かね》は|孝助《かうすけ》が|使《つか》ふべきもの、お|清《きよ》は|手《て》を|触《ふ》れる|事《こと》も|出来《でき》ない、これをお|清《きよ》が|使《つか》ふと|化《ば》けて|出《で》る」と|書《か》いておきましたから、|何《なん》ぼ|悪党《あくたう》な|嫁《よめ》でも、こればかりはよう|使《つか》ひきりますまい、オンオンオン』
『|何《なん》とまア、|業《ごふ》の|深《ふか》い|婆《ばば》だなア。|貴様《きさま》のやうな|悪垂《あくた》れ|婆《ばば》はキツと|地獄行《ぢごくゆ》きだらう。さア、キリキリとこの|門《もん》を|潜《くぐ》れ』
『お|前《まへ》さまの|様《やう》な|没分暁漢《わからずや》に|云《い》つた|所《ところ》で、|老人《らうじん》の|精神《せいしん》は|分《わか》りますまい。さア、これから|出《で》る|所《ところ》へ|出《で》て、|嫁《よめ》の|悪事《あくじ》を|訴《うつた》へ|仇《あだ》を|討《う》たねば|置《お》きませぬわいなア、|南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》|南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、ああ|腰《こし》の|痛《いた》い|事《こと》だ。ここは|何《なん》と|云《い》ふお|役所《やくしよ》だか|知《し》らないが、こんな|若《わか》いお|役人《やくにん》が|何《なに》を|知《し》るものか、|一日《いちにち》でも|先《さき》に|生《うま》れたら|世《よ》の|中《なか》のお|師匠《ししやう》さまだ。どれどれ ちと|分《わか》る|人《ひと》に|会《あ》うて、この|訳《わけ》を|聞《き》いて|貰《もら》はう。これ|赤白《あかしろ》の|若《わか》い|衆《しう》、|偉《えら》いお|邪魔《じやま》を|致《いた》しました。|皆《みな》さま、お|先《さき》イ、|左様《さやう》なら』
と|藜《あかざ》の|杖《つゑ》をついて|海老《えび》のやうに|腰《こし》を|曲《ま》げ、|禿《は》げた|頭《あたま》にお|定目《ぢやうもく》ばかりの|髪《かみ》を|後《うしろ》に|束《たば》ね、エチエチと|門内《もんない》さして|進《すす》み|入《い》る。
|次《つぎ》に|引《ひ》き|出《だ》されたのは、|腕《うで》に|入墨《いれずみ》をした|荒《あら》くれ|男《をとこ》であつた。
『|其《その》|方《はう》のネームは|何《なん》と|申《まを》すか』
『ハイ|俺《わつちや》ア、|鳶《とび》の|弁造《べんざう》と|云《い》つて|世《よ》の|中《なか》に|些《ちつと》は|男《をとこ》を|売《う》つたものでござんす。|如何《いか》なる|揉《も》め|事《ごと》が|起《おこ》つても、|此《この》|弁造《べんざう》さまが|真裸《まつぱだか》となり、|捻鉢巻《ねじはちまき》をグツと|締《し》め「まつたまつた」とやつたが|最後《さいご》、|鶴《つる》の|一声《ひとこゑ》、|何《なん》でも|彼《か》でも|水《みづ》をうつた|如《ごと》く、|一度《いちど》に|納《をさ》まると|云《い》ふ|男達《をとこだて》でござんす。|一体《いつたい》|此処《ここ》は|何《なん》と|云《い》ふ|所《ところ》で|厶《ござ》んすか。ヘン、お|前《まへ》さま|等《ら》にメモアルを|調《しら》べらるると|云《い》ふのは|根《ね》つから|葉《は》つから|腑《ふ》に|落《お》ちませぬワイ』
『|此処《ここ》は|八衢《やちまた》の|関所《せきしよ》だ。|随分《ずいぶん》お|前《まへ》も|現世《げんせ》に|於《おい》て|乱暴《らんばう》な|事《こと》をやつて|来《き》た|奴《やつ》だから、この|衡《はかり》にかかれ。さうして|地獄行《ぢごくゆ》きの|方《はう》が|下《さが》れば|地獄行《ぢごくゆ》き、|天国行《てんごくゆ》きの|方《はう》が|下《さが》れば|天国《てんごく》にやつてやらう』
『ヤア、|有難《ありが》テエ、|地獄《ぢごく》の|釜《かま》のどん|底《ぞこ》でもビクとも|致《いた》さぬ|某《それがし》、|根《ね》が|侠客渡世《けふかくとせい》|兼《けん》|鳶《とび》の|親分《おやぶん》だから、|地獄行《ぢごくゆ》きが|俺《わつち》の|性《しやう》に|合《あ》つて|居《ゐ》るでせう。どうか|衡《はかり》なんか|面倒《めんだう》くせえ|事《こと》をせずに、すぐ|地獄《ぢごく》にやつて|下《くだ》せえな、|天国《てんごく》なんか|性《しやう》に|合《あ》はない、|地獄《ぢごく》には|定《さだ》めし|喧嘩《けんくわ》もあるであらう、|又《また》|火事《くわじ》もあるであらう。|其《その》|時《とき》は|鳶《とび》の|弁造《べんざう》が|真裸《まつぱだか》となつて|飛《と》び|込《こ》み|仲裁《ちうさい》をし、|甘《うま》い|酒《さけ》でも|飲《の》むに|便利《べんり》がいい。|喧嘩鳶《けんくわとび》の、グヅ|鳶《とび》の、グレン|鳶《とび》と|云《い》はれて|来《き》た、チヤキ チヤキの|兄《あに》イだ』
と|胡坐《あぐら》をかき、|侠客気分《けふかくきぶん》を|極端《きよくたん》に|発揮《はつき》して|居《ゐ》る。
『|兎《と》も|角《かく》|霊界《れいかい》の|規則《きそく》だから、この|衡《はかり》に|乗《の》つて|呉《く》れ、サア|早《はや》く』
とせき|立《た》てる。
『よし、|幡随院《ばんずゐゐん》|長兵衛《ちやうべゑ》は|柳《やなぎ》の|爼《まないた》の|上《うへ》に|坐《すわ》つて、|白鞘組《しらさやぐみ》から|生《い》きながら|料理《れうり》をされた|例《ためし》もある。|俺達《おれたち》は|其《その》|幡随院《ばんずいゐん》を|理想《りさう》とするものだ。|何《なん》でも|構《かま》はぬ|乗《の》つてやらう。|些《ちつ》と|位《ぐらゐ》|好《よ》い|事《こと》があつても、|決《けつ》して|天国《てんごく》へやつてはいけないぞ』
と|業託《ごふたく》を|云《い》ひながら|衡《はかり》にかかつた。|衡《はかり》は|両方《りやうはう》、|水平《すいへい》になつて、|地獄《ぢごく》の|方《はう》も|指《さ》さず、|天国《てんごく》の|方《はう》も|指《さ》さず、じつとして|居《ゐ》る。
『ハハこいつは|比較的《ひかくてき》|善人《ぜんにん》だ。|口《くち》で|悪垂《あくた》れを|吐《ほざ》くが、|善《ぜん》が|半分《はんぶん》、|悪《あく》が|半分《はんぶん》、マアマアこれなら|今日《こんにち》の|娑婆《しやば》では|上等《じやうとう》の|部《ぶ》だ。オイ|弁造《べんざう》、|気《き》の|毒《どく》ながら|其《その》|方《はう》の|望《のぞ》む|地獄《ぢごく》にやる|事《こと》は|出来《でき》ぬ。さりとて|天国《てんごく》にもやられず|八衢《やちまた》|人足《にんそく》だ。まづ|暫《しば》し|中有界《ちううかい》で|修業《しゆげふ》を|致《いた》したがよからう。|決《けつ》して|地獄行《ぢごくゆ》きなどを|望《のぞ》むぢやないぞ。|其《その》|方《はう》は|審判《しんぱん》の|必要《ひつえう》がない。これから|西北《せいほく》の|方《はう》をさして|勝手《かつて》に|行《ゆ》け。|又《また》|其《その》|方《はう》|相当《さうたう》の|相棒《あいぼう》が|待《ま》つて|居《を》るであらう』
|弁造《べんざう》は|梟鳥《ふくろどり》が|夜食《やしよく》に|外《はづ》れたやうな|詰《つま》らぬ|顔《かほ》をして、
『エエ|中有界《ちううかい》なんて|気《き》がきかない、なぜ|俺《おれ》を|地獄《ぢごく》にやらないのかなア』
と|呟《つぶや》きながらノソリノソリと|両腕《りやううで》を|振《ふ》り|荒野《あらの》をさして|進《すす》み|行《ゆ》く。
それから|沢山《たくさん》の|精霊《せいれい》は|一々《いちいち》ネームを|訊《たづ》ねられ、メモアルを|繰《く》られ、|或《あるひ》は|天国《てんごく》へ、|或《あるひ》は|中有界《ちううかい》へ、|又《また》は|地獄《ぢごく》へと|各《おのおの》|其《その》|所主《しよしゆ》の|愛《あい》に|依《よ》つて|審《さば》かれて|行《ゆ》く。
(大正一二・二・一〇 旧一一・一二・二五 加藤明子録)
第二七章 |胎蔵《たいざう》〔一三六三〕
|時置師神《ときおかしのかみ》|杢助《もくすけ》は、ライオンを|守衛《しゆゑい》に|預《あづ》けおき、|八衢《やちまた》の|審判神伊吹戸主《しんぱんしんいぶきどぬし》の|館《やかた》へ|進《すす》み|入《い》り、|奥《おく》の|一間《ひとま》に|於《おい》て|伊吹戸主《いぶきどぬし》と|二人《ふたり》|対談《たいだん》をやつてゐる。
『ああ|時置師神《ときおかしのかみ》|様《さま》、|随分《ずいぶん》|宣伝《せんでん》はお|骨《ほね》の|折《を》れる|事《こと》でせうなア、|御苦心《ごくしん》お|察《さつ》し|申《まを》します』
『ドーモ|曇《くも》り|切《き》つた|世《よ》の|中《なか》で、|吾々《われわれ》の|如《ごと》き|人間《にんげん》は|神様《かみさま》の|御思召《おぼしめし》の|万分一《まんぶいち》も|働《はたら》く|事《こと》が|出来《でき》ませぬので、|実《じつ》に|慙愧《ざんき》の|至《いた》りで|厶《ござ》います。つきましては|今度《こんど》お|訪《たづ》ね|致《いた》しましたのは、|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》|様《さま》の|御命令《ごめいれい》に|依《よ》つてで|厶《ござ》います。|三五教《あななひけう》に|居《を》りました|高姫《たかひめ》と|云《い》ふ|女《をんな》、|彼《かれ》の|行状《ぎやうじやう》に|就《つい》ては|実《じつ》に|困《こま》つたもので|厶《ござ》います。|兇党界《きようたうかい》の|精霊《せいれい》、|妖幻坊《えうげんばう》なる|妖怪《えうくわい》に|誑惑《きやうわく》され、それをば|私《わたし》と|思《おも》ひ|込《こ》み、|彼方《あちら》|此方《こちら》で|時置師《ときおかし》や|杢助《もくすけ》をふり|廻《まは》すので|世《よ》の|中《なか》の|人間《にんげん》が|非常《ひじやう》に|迷《まよ》ひます。それ|故《ゆゑ》|今度《こんど》|霊界《れいかい》へ|参《まゐ》つたのを|幸《さいは》ひ、|暫《しばら》くの|間《あひだ》|現界《げんかい》へ|帰《かへ》さないやうに|取計《とりはか》らつて|貰《もら》ひたいものです』
『|成程《なるほど》、|大神様《おほかみさま》の|御言葉《おことば》、|何《なん》とか|致《いた》さねばなりますまい。|併《しか》しながら|彼《かれ》|高姫《たかひめ》は、|未《ま》だ|生死簿《せいしぼ》を|見《み》れば|二十八年《にじふはちねん》が|間《あひだ》|寿命《じゆみやう》が|残《のこ》つて|居《を》ります。|霊界《れいかい》に|止《と》め|置《お》くのは|御易《おやす》い|事《こと》で|厶《ござ》いますが、どうしても|彼《かれ》は|現界《げんかい》へ|還《かへ》さねばならぬもの、|余《あま》り|長《なが》く|止《と》め|置《お》けば、|其《その》|肉体《にくたい》が|役《やく》に|立《た》たないやうになつて|了《しま》ひます。|其《その》|肉体《にくたい》を|換《か》へても|差支《さしつかへ》なくば、|何《なん》とか|取計《とりはか》らひませう』
『どうか|二三年《にさんねん》の|間《あひだ》|此処《ここ》に|御止《おと》めを|願《ねが》ひ、|三年《さんねん》|先《さき》になつて|霊界《れいかい》へ|来《きた》るべき|女《をんな》の|肉体《にくたい》に|高姫《たかひめ》の|精霊《せいれい》を|宿《やど》し|下《くだ》さいますれば、|大変《たいへん》|都合《つがふ》が|好《い》いでせう』
|伊吹戸主神《いぶきどぬしのかみ》は|暫《しばら》く|目《め》を|閉《と》ぢ、|思案《しあん》をしてゐたが、やがて|打肯《うちうなづ》いて、
『イヤ|宜《よろ》しう|厶《ござ》います。|適当《てきたう》な|肉体《にくたい》が|三年後《さんねんご》に|霊界《れいかい》へ|来《く》るのが|厶《ござ》いますから、その|肉体《にくたい》に|高姫《たかひめ》の|精霊《せいれい》を|宿《やど》し、|二十八年間《にじふはちねんかん》|現界《げんかい》へ|生《い》かす|事《こと》に|取計《とりはか》らひませう』
『イヤ、それは|実《じつ》に|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|左様《さやう》なれば|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りませう』
『|時置師神《ときおかしのかみ》|様《さま》、エー|今《いま》|此処《ここ》へ|大原敬助《おほはらけいすけ》と|片山狂助《かたやまきやうすけ》、|高田悪次郎《たかだあくじらう》などの|大悪党《だいあくたう》が|出《で》て|参《まゐ》りましたが、|今《いま》|審判《しんぱん》が|開《ひら》けますから、|一寸《ちよつと》|傍聴《ばうちやう》なさつては|如何《いかが》ですか。|高姫《たかひめ》も|是《これ》から|審判《しんぱん》が|始《はじ》まります』
『イヤもう、|高姫《たかひめ》が|居《を》るとすれば|折角《せつかく》ながら|止《や》めませう、ハハハハハ』
『たつて|御勧《おすす》めはいたしませぬ。|左様《さやう》ならば|大神様《おほかみさま》へ|宜敷《よろし》く|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ。|私《わたし》はこれより|審判《しんぱん》に|参《まゐ》ります』
とツイと|立《た》つて|廊下《らうか》を|伝《つた》ひ|審判廷《しんぱんてい》に|行《ゆ》く。|杢助《もくすけ》は|守衛《しゆゑい》を|呼《よ》んでライオンを|曳《ひ》き|来《きた》らしめ、ヒラリと|背《せな》に|跨《またが》り、ウーツとライオンの|一声《いつせい》|辺《あた》りを|轟《とどろ》かせながら、|一目散《いちもくさん》にウブスナ|山《やま》の|方面《はうめん》|指《さ》して|中空《ちうくう》を|駆《かけ》り|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
|中有界《ちううかい》の|八衢《やちまた》に |伊吹戸主《いぶきどぬし》が|永久《とこしへ》に
|鎮《しづ》まりまして|迷《まよ》ひ|来《く》る |数多《あまた》の|精霊《せいれい》|一々《いちいち》に
|衡《はかり》にかけて|取調《とりしら》べ |清浄無垢《せいじやうむく》の|霊魂《たましひ》は
|各《おのおの》|所主《しよしゆ》の|愛《あい》に|依《よ》り |高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》や
|三階段《さんかいだん》の|天国《てんごく》へ |霊相応《みたまさうおう》に|送《おく》りやり
|極悪無道《ごくあくぶだう》の|精霊《せいれい》は |直《ただ》ちに|地獄《ぢごく》に|追《お》ひ|下《くだ》し
|善《ぜん》ともつかず|又《また》|悪《あく》に |強《つよ》からざりし|精霊《せいれい》は
|一定《いつてい》の|期間《きかん》|中有《ちうう》の |世界《せかい》に|広《ひろ》く|放《はな》ちやり
いよいよ|霊《みたま》|清《きよ》まりて |高天原《たかあまはら》に|上《のぼ》るべく
|愛《あい》と|善《ぜん》との|徳《とく》を|積《つ》み |信《しん》と|真《しん》との|智《ち》を|研《みが》き
|覚《さと》り|得《え》たりし|精霊《せいれい》を |皆《みな》|天国《てんごく》に|上《のぼ》しやり
|悔《く》い|改《あらた》めず|何時《いつ》|迄《まで》も |悪心《あくしん》|強《つよ》き|精霊《せいれい》は
|涙《なみだ》を|払《はら》ひ|暗黒《あんこく》の |地獄《ぢごく》へ|落《おと》し|給《たま》ふなり
|今《いま》|現《あら》はれし|敬助《けいすけ》や |片山狂介《かたやまきやうすけ》、|悪次郎《あくじらう》
|右《みぎ》|三人《さんにん》の|兇悪《きようあく》は いと|厳格《げんかく》な|審判《しんぱん》を
|下《くだ》され|直《ただ》ちに|暗黒《あんこく》の |地獄《ぢごく》の|底《そこ》へ|落《おと》されて
|無限《むげん》の|永苦《えいく》を|嘗《な》むるべく |両手《りやうて》を|前《まへ》にぶら|下《さ》げて
|意気消沈《いきせうちん》の|為体《ていたらく》 |顔《かほ》|青《あを》ざめてブルブルと
|慄《ふる》ひ|戦《をのの》く|相好《さうがう》は |忽《たちま》ち|変《かは》る|妖怪《えうくわい》の
|見《み》るも|浅《あさ》まし|姿《すがた》なり |後《あと》に|来《きた》りし|呆助《はうすけ》や
おつやの|二人《ふたり》は|姦通《かんつう》の |大罪悪《だいざいあく》を|審《さば》かれて
|色慾界《しきよくかい》の|地獄道《ぢごくだう》 |右《みぎ》と|左《ひだり》に|立別《たちわか》れ
さも|悲《かな》しげに|進《すす》み|行《ゆ》く |続《つづ》いて|高姫神司《たかひめかむつかさ》
|伊吹戸主《いぶきどぬし》にさばかれて |此処《ここ》|三年《さんねん》の|其《その》|間《あひだ》
|中有界《ちううかい》に|放《ほ》り|出《だ》され |荒野《あらの》を|彷徨《さまよ》ひいろいろと
|艱難辛苦《かんなんしんく》を|味《あぢ》はひつ |我情《がじやう》|我慢《がまん》の|雲《くも》も|晴《は》れ
|漸《やうや》く|誠《まこと》の|人《ひと》となり |又《また》|現界《げんかい》に|現《あら》はれて
|三五教《あななひけう》の|御為《おんため》に |誠《まこと》を|尽《つく》し|居《ゐ》たりしが
|再《ふたた》び|情念《じやうねん》|勃発《ぼつぱつ》し |妖幻坊《えうげんばう》に|欺《だま》されて
|印度《いんど》の|国《くに》のカルマタの とある|丘陵《きうりよう》に|身《み》を|潜《ひそ》め
|妖幻坊《えうげんばう》と|諸共《もろとも》に |悪事《あくじ》の|限《かぎ》りを|尽《つく》すこそ
|実《げ》にもうたてき|次第《しだい》なり |斯《か》く|述《の》べ|来《きた》る|霊界《れいかい》の
|誠《まこと》を|写《うつ》す|物語《ものがたり》 |五十二年《ごじふにねん》の|時津風《ときつかぜ》
【みろく】|胎蔵《たいざう》の|鍵《かぎ》を|持《も》ち |苦集滅道《くしふめつだう》|明《あきら》かに
|説《と》き|諭《さと》し|行《ゆ》く【みろく】|神《しん》 |小松林《こまつばやし》の|精霊《せいれい》に
|清《きよ》き【みたま】を|満《み》たせつつ |此《この》|世《よ》を|導《みちび》く|予言者《よげんしや》に
|来《きた》りて|道《みち》を|伝達《でんたつ》し |世人《よびと》を|普《あまね》く|天国《てんごく》に
|導《みちび》き|給《たま》ふ|御厚恩《ごこうおん》 |無下《むげ》には|捨《す》てな|諸人《もろびと》よ
|三五教《あななひけう》の|大本《おほもと》に |参来《まゐき》|集《つど》へる|信徒《まめひと》や
|百《もも》の|司《つかさ》は|村肝《むらきも》の |心《こころ》を|鎮《しづ》め|胸《むね》に|手《て》を
|当《あ》ててよくよく|悟《さと》るべし ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ |旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|海《うみ》はあせなむ|世《よ》ありとも |神《かみ》のよさしの|言霊《ことたま》は
|幾万劫《いくまんごふ》の|末《すゑ》|迄《まで》も |尽《つ》きせぬものと|覚悟《かくご》して
これの|教《をしへ》をよく|信《しん》じ |愛《あい》と|善《ぜん》との|徳《とく》に|居《を》り
|信《しん》と|真《しん》との|光《ひかり》をば |世《よ》に|輝《かがや》かし|惟神《かむながら》
|智慧証覚《ちゑしようかく》を|摂受《せつじゆ》して |此《この》|身《み》|此《この》|儘《まま》|天人《てんにん》の
|列《れつ》に|加《くは》はり|人生《じんせい》の |清《きよ》き|本務《ほんむ》を|尽《つく》すべし
|神《かみ》は|吾等《われら》と|倶《とも》にあり |神《かみ》は|汝《なんぢ》と|倶《とも》にます
|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》 |神《かみ》より|外《ほか》に|杖《つゑ》となり
|柱《はしら》となりて|身《み》を|救《すく》ふ |尊《たふと》きものはあらざらめ
|仰《あふ》ぎ|敬《ゐやま》へ|諸人《もろびと》よ |神《かみ》の|御水火《みいき》に|生《うま》れ|来《き》て
|神《かみ》の|造《つく》りし|国《くに》に|住《す》み |神《かみ》の|与《あた》へし|粟《あは》を|食《は》み
|神《かみ》の|誠《まこと》の|教《をしへ》をば |心《こころ》に|深《ふか》く|植込《うゑこ》みて
|束《つか》の|間《あひだ》も|忘《わす》るなよ |人《ひと》の|人《ひと》たる|其《その》|故《ゆゑ》は
|皇大神《すめおほかみ》の|神格《しんかく》を |其《その》|身《み》にうけて|神界《しんかい》の
|御用《ごよう》に|仕《つか》ふる|為《ため》ぞかし ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|赤心《まごころ》を |捧《ささ》げて|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|五十二巻《いそふたまき》を|述《の》べ|終《をは》りける。
|教《をし》へ|子《ご》に|筆《ふで》とらせつつ|床《とこ》の|上《へ》の
|寝物語《ねものがたり》に|物《もの》せし|此《この》|書《ふみ》。
いろいろと|醜《しこ》の|妨《さまた》げありけれど
|神《かみ》の|守《まも》りに|編《あ》み|終《をは》りけり。
(大正一二・二・一〇 旧一一・一二・二五 外山豊二録)
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霊界物語 第五二巻 真善美愛 卯の巻
終り