霊界物語 第五一巻 真善美愛 寅の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
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●底本
『霊界物語 第五一巻』愛善世界社
2005(平成17)年04月03日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年10月09日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|総説《そうせつ》
第一篇 |霊光照魔《れいくわうせうま》
第一章 |春《はる》の|菊《きく》〔一三一六〕
第二章 |怪獣策《くわいじうさく》〔一三一七〕
第三章 |犬馬《けんば》の|労《らう》〔一三一八〕
第四章 |乞食劇《こじきげき》〔一三一九〕
第五章 |教唆《けうさ》〔一三二〇〕
第六章 |舞踏怪《ぶたふくわい》〔一三二一〕
第二篇 |夢幻楼閣《むげんろうかく》
第七章 |曲輪玉《まがわのたま》〔一三二二〕
第八章 |曲輪城《まがわじやう》〔一三二三〕
第九章 |鷹宮《たかみや》|殿《どの》〔一三二四〕
第一〇章 |女異呆醜《によいほつしゆ》〔一三二五〕
第三篇 |鷹魅艶態《ようみえんたい》
第一一章 |乙女《をとめ》の|遊《あそび》〔一三二六〕
第一二章 |初花姫《はつはなひめ》〔一三二七〕
第一三章 |槍襖《やりぶすま》〔一三二八〕
第一四章 |自惚鏡《うぬぼれかがみ》〔一三二九〕
第一五章 |餅《もち》の|皮《かは》〔一三三〇〕
第四篇 |夢狸野狸《むりやり》
第一六章 |暗闘《あんとう》〔一三三一〕
第一七章 |狸相撲《たぬきずまう》〔一三三二〕
第一八章 |糞奴使《ふんどし》〔一三三三〕
第一九章 |偽強心《ぎきやうしん》〔一三三四〕
第二〇章 |狸姫《たぬきひめ》〔一三三五〕
第二一章 |夢物語《ゆめものがたり》〔一三三六〕
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|序文《じよぶん》
この|物語《ものがたり》は、|凡《すべ》て|心理描写的《しんりべうしやてき》に|口述《こうじゆつ》してありますから、|読者《どくしや》の|中《うち》には、|普通一般的《ふつういつぱんてき》の|著書《ちよしよ》と|比《くら》べて|非常《ひじやう》に|露骨《ろこつ》だとか、|左様《さやう》なことがあらう|筈《はず》がないとか|云《い》つて|批評《ひひやう》する|人士《じんし》が|出《で》て|来《く》るであらうと|思《おも》ひます。|然《しか》し|霊的《れいてき》|即《すなは》ち|内的意志《ないてきいし》を|基《もとゐ》として|述《の》べたものですから、|一片《いつぺん》の|虚偽《きよぎ》も|虚飾《きよしよく》もなく、|人心《じんしん》の|奥底《おくそこ》に|入《い》つてその|真相《しんさう》を|究《きは》め|尽《つく》し、|之《これ》を|神助《しんじよ》の|下《もと》に|編纂《へんさん》したものです。|上手《じやうず》も|追従《つゐしよう》も|何《なに》もありませぬ。|書中《しよちう》|高姫《たかひめ》の|物語《ものがたり》に|就《つい》ても、|実《じつ》に|非常識《ひじやうしき》|極《きは》まる|如《ごと》く|見《み》ゆる|箇所《かしよ》が|沢山《たくさん》にあるでせう。|併《しか》し|是《これ》も|亦《また》その|心底《しんてい》|深《ふか》く|別《わ》け|入《い》つて、|憑依《ひようい》せる|精霊《せいれい》や|本人《ほんにん》の|至誠心《しせいしん》の|状態《じやうたい》や|時々《ときどき》|変転《へんてん》の|有様《ありさま》を|描《ゑが》き|出《だ》したものです。|総《すべ》ての|人《ひと》の|心理状態《しんりじやうたい》も|亦《また》|高姫《たかひめ》の|如《ごと》きものあることを|思考《しかう》して|自《みづか》ら|戒《いまし》め|自《みづか》ら|省《かへり》み、|愛善《あいぜん》の|徳《とく》を|養《やしな》ひ、|信真《しんしん》の|光明《くわうみやう》を|照《て》らし、|地獄的《ぢごくてき》|境域《きやうゐき》を|脱出《だつしゆつ》し|天国《てんごく》の|住民《ぢゆうみん》として|永遠無窮《ゑいゑんむきう》に|人生《じんせい》の|本分《ほんぶん》を|守《まも》り、|神明《しんめい》の|御心《みこころ》に|和合《わがふ》し|以《もつ》て|神政成就《しんせいじやうじゆ》の|太柱《ふとばしら》となり、|現幽神《げんいうしん》|三界《さんかい》の|為《ため》に|十分《じふぶん》の|努力《どりよく》を|励《はげ》まれむことを|希望《きばう》|致《いた》します。|口述者《こうじゆつしや》も|目下《もくか》の|処《ところ》にては、|或《あ》る|事情《じじやう》に|制《せい》せられ、|実《じつ》に|悲境《ひきやう》に|陥《おちい》りたる|身《み》ながらも、|一分《いつぷん》の|時間《じかん》も|空費《くうひ》せず、|心骨《しんこつ》を|苦《くる》しめつつ、|三界《さんかい》|一般《いつぱん》の|万霊《ばんれい》|救済《きうさい》のために|奉仕《ほうし》の|誠《まこと》を|尽《つく》し、|此《この》|物語《ものがたり》の|編纂《へんさん》に|努力《どりよく》しつつある|次第《しだい》であります。|読者《どくしや》|宜《よろ》しく|瑞月《ずゐげつ》の|至誠《しせい》を|御諒承《ごりやうしよう》はあつて、|御研究《ごけんきう》あらむ|事《こと》を|願《ねが》ひます。
大正十二年一月二十七日(旧十一年十二月十一日)
天城山麓湯ケ島に於て 王仁識
|総説《そうせつ》
|人間《にんげん》はその|内分《ないぶん》に|於《おい》て|至聖《しせい》|至美《しび》|至善《しぜん》の|天界《てんかい》|即《すなは》ち|高天原《たかあまはら》に|向《むか》ひ、その|外分《ぐわいぶん》に|於《おい》ては|地獄界《ぢごくかい》に|向《むか》つて|居《ゐ》るものである|事《こと》は|既《すで》に|已《すで》に|述《の》べた|処《ところ》であります。|故《ゆゑ》に|人間《にんげん》は|常《つね》に|神《かみ》の|光《ひか》りに|背《そむ》いては|決《けつ》してその|人格《じんかく》を|保《たも》つ|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|本巻物語《ほんくわんものがたり》の|主人公《しゆじんこう》たる|高姫《たかひめ》が|小北山《こぎたやま》の|聖場《せいぢやう》に|到《いた》りて、|自己《じこ》に|憑依《ひようい》せる|兇霊《きようれい》のために|誤《あやま》られ、|又《また》|兇霊界《きようれいかい》の|妖魅《えうみ》なる|妖幻坊《えうげんばう》に|慾《よく》のために|誑《たぶら》かされて|熱狂的《ねつきやうてき》|暴動《ばうどう》を|敢行《かんかう》し、|神威《しんゐ》に|当《あ》てられ|身《み》を|以《もつ》て|免《まぬが》れ、|妖幻坊《えうげんばう》と|共《とも》に|怪志《あやし》の|森《もり》に|落《お》ち|延《の》び、|妖幻坊《えうげんばう》が|遺失《ゐしつ》したる|曲輪《まがわ》の|玉《たま》を、|反逆者《はんぎやくしや》なる|小北山《こぎたやま》の|役員《やくゐん》、|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》に|命《めい》じ、|文助《ぶんすけ》の|手《て》より|奪還《だつくわん》せしむる|場面《ばめん》より、|浮木《うきき》の|森《もり》に|於《おい》て|妖幻坊《えうげんばう》の|魔法《まはふ》に|欺《あざむ》かれ|種々《しゆじゆ》の|狂態《きやうたい》を|演《えん》ずる|処《ところ》より、|一旦《いつたん》|三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》したるバラモン|軍《ぐん》のランチ、|片彦将軍《かたひこしやうぐん》が、|高姫《たかひめ》の|化相《けさう》せる|初花姫《はつはなひめ》に|誘惑《いうわく》されて|苦悶《くもん》の|淵《ふち》に|沈《しづ》むところより、ケース、|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》が|狸《たぬき》のために|裸体《らたい》となつて|角力《すまう》を|取《と》らせらるる|悪夢《あくむ》|等《とう》、|波瀾重畳《はらんちようでふ》の|面白《おもしろ》き|物語《ものがたり》であります。|読者《どくしや》は|一片《いつぺん》の|滑稽的《こつけいてき》|小説《せうせつ》と|見《み》ることなく、|意《い》を|潜《ひそ》めて|通読《つうどく》あらむことを|願《ねが》ひます。
大正十二年一月廿七日 於天城山麓 王仁識
第一篇 |霊光照魔《れいくわうせうま》
第一章 |春《はる》の|菊《きく》〔一三一六〕
|足曳《あしびき》の|四方《よも》の|山々《やまやま》|春《はる》めきて |冬枯《ふゆが》れしたる|梢《こずゑ》まで
|芽含《めぐ》みそめたる|春景色《はるげしき》 |瞬《またた》き|初《そ》めし|陽炎《かげろふ》の
|彼方此方《あなたこなた》にキラキラと |閃《ひら》めき|渡《わた》り|天国《てんごく》の
|御苑《みその》も|今《いま》や|開《ひら》けむと |思《おも》ふべらなる|小北山《こぎたやま》
|小鳥《ことり》は|歌《うた》ひ|胡蝶《こてう》|舞《ま》ひ |吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》も|何《なん》となく
ボヤボヤボヤと|肌《はだ》ざはり |長閑《のどか》な|庭《には》に|立出《たちい》でて
お|菊《きく》、お|千代《ちよ》の|両人《りやうにん》は |咲《さ》き|誇《ほこ》りたる|白桃《しらもも》の
|木蔭《こかげ》に|戯《たはむ》れヒラヒラと |袖《そで》|翻《ひるがへ》す|胡蝶《こてふ》の|遊《あそ》び
|同《おな》じ|腹《はら》から|生《うま》れたる |姉妹《おとどい》の|如《ごと》|睦《むつま》じく
|互《たがひ》に|愛《あい》し|敬《うやま》ひて |他所《よそ》の|見《み》る|目《め》もいと|清《きよ》く
|羨《うらや》ましくぞ|思《おも》はれぬ かかる|所《ところ》へ|急坂《きふはん》を
スタスタ|登《のぼ》り|来《く》る|男女《だんぢよ》 |雲《くも》|突《つ》く|許《ばか》りの|荒男《あらをとこ》
|年増女《としま》を|引連《ひきつ》れ|大門《おほもん》の |広庭《ひろには》|指《さ》して|現《あら》はれぬ。
|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》|両人《りやうにん》は、お|菊《きく》、お|千代《ちよ》の|桃《もも》の|木《き》の|下《もと》に|胡蝶《こてふ》を|追《お》ひ、|睦《むつま》じげに|遊《あそ》び|戯《たはむ》るるを|見《み》て、
|高姫《たかひめ》『コレ、お|前《まへ》さま|達《たち》|二人《ふたり》は|此《この》お|館《やかた》に|参拝《さんぱい》して|厶《ござ》るのかい』
お|菊《きく》『どこの|小母《をば》さまだか|知《し》らぬが、ようお|参《まゐ》りやしたなア。サ|案内《あんない》して|上《あ》げませう』
『|案内《あんない》はして|貰《もら》はなくても、|盲《めくら》ぢやありませぬ。|受付《うけつけ》|位《ぐらゐ》はよく|分《わか》つて|居《を》るのだから……|併《しか》し|私《わたし》の|尋《たづ》ねたのは、お|前《まへ》は|此処《ここ》の|信者《しんじや》か、|但《ただし》は|誰《たれ》か|役員《やくゐん》の|娘《むすめ》か、それが|聞《き》きたいのだ』
『それでも|小母《をば》さま、|其《その》|大《おほ》きな|男《をとこ》の|人《ひと》、|頭《あたま》を|括《くく》つてゐるぢやないか。|私《わたし》は|又《また》|目《め》でも|悪《わる》いのかと|思《おも》つたのよ。さう|偉《えら》さうに、|年老《としよ》りだてら、|娘《むすめ》を|掴《つか》まへて|理窟《りくつ》を|言《い》ふものぢやありませぬぞえ。ここへ|詣《まゐ》つて|来《く》る|人《ひと》は|皆《みな》おとなしい|人《ひと》ばかりだよ。お|前《まへ》さまのやうに、いきなり|口《くち》を|尖《とが》らして、|理窟《りくつ》がましい|事《こと》を|云《い》ふ|人《ひと》は|今《いま》が|始《はじ》めてだ。ホンにまア|好《す》かぬたらしい|小母《をば》さまだこと。アタ|阿呆《あはう》らしい、お|千代《ちよ》さま、|放《ほ》つといてやりませうかな』
|千代《ちよ》『それでもお|菊《きく》さま、ここへお|出《いで》になるお|方《かた》はどんな|方《かた》でも、|鄭重《ていちよう》に|取扱《とりあつか》はねばならないと、|魔我彦《まがひこ》さまが|仰有《おつしや》つたぢやありませぬか』
『ナニツ|魔我彦《まがひこ》が、ヤツパリ|此処《ここ》にくすぼつてゐよつたのだな。ドレドレ|調《しら》べて|来《こ》う。どうせ|碌《ろく》な|奴《やつ》ア|居《を》らしようまい。ここは|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》に|神様《かみさま》からお|与《あた》へなさつたお|館《やかた》だ。サ|杢助《もくすけ》さま、|私《わたし》に|跟《つ》いてお|出《い》でなさい』
と|受付《うけつけ》に|立現《たちあら》はれ、|高姫《たかひめ》は|横柄《わうへい》な|顔《かほ》しながら、|稍《やや》|軽蔑気味《けいべつぎみ》な|声《こゑ》を|出《だ》して、
『ヘー、|御免《ごめん》なさい、|一寸《ちよつと》|物《もの》を|尋《たづ》ねます。|一体《いつたい》|此処《ここ》には|何《なん》といふ|方《かた》が|大将《たいしやう》をしてゐられますかな』
|受付《うけつけ》で|切《しき》りに|日《ひ》の|出《で》に|松《まつ》を|描《か》いてをつた|文助《ぶんすけ》は、|絵筆《ゑふで》の|手《て》を|止《や》めて、|朧《おぼろ》げな|目《め》で|少《すこ》しく|首《くび》をかたげ|顔《かほ》を|覗《のぞ》く|様《やう》にして、
『お|前《まへ》さまは、どつかに|聞覚《ききおぼ》えがあるやうなお|声《こゑ》だが、|何方《どなた》で|厶《ござ》いましたかな』
『|何方《どなた》も|此方《こなた》もあるものか、|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》の|高姫《たかひめ》ぢやぞえ。お|前《まへ》は|文助《ぶんすけ》ぢやないか。マアマア|御壮健《ごさうけん》でお|目出度《めでた》う』
『ヤ、|高姫《たかひめ》|様《さま》で|厶《ござ》いましたか。これはこれは|久振《ひさしぶり》でお|目《め》にかかります。|貴女《あなた》は|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|此《この》|頃《ごろ》は|御越《おこ》しと|承《うけたま》はり、|大変《たいへん》な|御出世《ごしゆつせ》を|遊《あそ》ばしたといふ|事《こと》で|厶《ござ》います。ヤ、お|目出度《めでた》う|厶《ござ》います。ようマア|立寄《たちよ》つて|下《くだ》さいました。そして|何処《どこ》へお|出《いで》になります?』
『|立《た》ち|寄《よ》つたのぢやない、|義理天上《ぎりてんじやう》の|命令《めいれい》によつて、|小北山《こぎたやま》の|教祖《けうそ》として|来《き》たのだ。サアサア|是《これ》から|何《なに》もかも、|私《わたし》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》くのだよ』
『ハテ、|妙《めう》な|事《こと》を|承《うけたま》はります。|此《この》お|館《やかた》は|一切《いつさい》|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|八島主命《やしまぬしのみこと》|様《さま》の|御管掌《ごくわんしやう》なれば、|貴女様《あなたさま》が|此処《ここ》へお|越《こ》しになるのなれば、|前《まへ》|以《もつ》て|御通知《ごつうち》があるべき|筈《はず》になつて|居《を》ります。|又《また》|此《この》|館《やかた》の|教主《けうしゆ》として|御出《おい》で|下《くだ》さるのなれば、|此方《こちら》にもそれ|相当《さうたう》の|歓迎準備《くわんげいじゆんび》もせなくてはなりませぬが、|何《なん》と|又《また》|火急《くわきふ》な|事《こと》で|厶《ござ》いますなア。|教主様《けうしゆさま》の|松姫《まつひめ》|様《さま》もヨモヤ|御存《ごぞん》じは|厶《ござ》いますまい。それでは|私《わたし》もかうしては|居《ゐ》られない。|御報告《ごはうこく》を|申《まを》し|上《あ》げねばなるまい。|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい。|教主様《けうしゆさま》に|此《この》|由《よし》を|申上《まをしあ》げて|来《き》ますから……』
『ナニ、|松姫《まつひめ》が|教主《けうしゆ》となア。あれは|私《わたし》の|家来《けらい》で、お|前《まへ》も|知《し》つてゐる|通《とほ》り、|高城山《たかしろやま》をかまはして|居《を》つたのだが、|彼奴《あいつ》は|腰《こし》の|弱《よわ》い|奴《やつ》だから、お|節《せつ》の|玉能姫《たまのひめ》に|誤魔《ごま》かされ、ウラナイ|教《けう》を|捨《す》てて|三五教《あななひけう》に|降参《かうさん》した|奴《やつ》だ』
『モシ|高姫《たかひめ》さま、|貴女《あなた》だつて、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》ぢやありませぬか。|貴女《あなた》が|率先《そつせん》して|黒姫《くろひめ》さまと|一緒《いつしよ》に、|三五教《あななひけう》へ|改心《かいしん》|帰順《きじゆん》なさつたでせう。それだから|松姫《まつひめ》さまだつて、|帰順《きじゆん》|遊《あそ》ばすのが|当然《たうぜん》ぢやありませぬか』
『ホホホホ、そりやさうだ。|併《しか》しこれは、|一寸《ちよつと》|副守護神《ふくしゆごじん》が、あんな|事《こと》を|云《い》つたのだよ。|此《この》|高姫《たかひめ》は|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》の、いよいよ|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》が|分《わか》つて|来《き》ました。|高天原《たかあまはら》の|最奥霊国《さいあうれいごく》の|天人様《てんにんさま》だ。そして|此《この》|高姫《たかひめ》は|稚桜姫命《わかざくらひめのみこと》の|御系統《ごひつぽう》、|常世姫《とこよひめ》の|肉宮《にくみや》だぞえ』
『ヤ、そんな|事《こと》は、|耳《みみ》がタコになる|程《ほど》|承《うけたま》はつて|居《を》ります。サ、|何卒《どうぞ》|教主館《けうしゆやかた》があいて|居《を》りますから、そこで|一服《いつぷく》して|下《くだ》さいませ。|其《その》|間《あひだ》にいろいろの|準備《じゆんび》をせなくちやなりませぬから……エー、そして、|高姫《たかひめ》|様《さま》、|貴女《あなた》の|後《うしろ》に|立《た》つて|厶《ござ》るのは、|影法師《かげぼふし》か、|但《ただし》はお|連《つ》れの|方《かた》か、|私《わたし》には|目《め》が|悪《わる》くつて|分《わか》りませぬが、|人間《にんげん》なら|人間《にんげん》と|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ』
『ヘン、|馬鹿《ばか》にしなさるな、お|前《まへ》さまのやうな|人間《にんげん》とはチツと|違《ちが》ふのだよ。|畏《おそれおほ》くも|斎苑館《いそやかた》の|総務《そうむ》、|時置師神《ときおかしのかみ》|又《また》の|名《な》は|杢助様《もくすけさま》で|厶《ござ》るぞや。サ、|早《はや》くお|出迎《でむか》へをなされ、|粗忽《そこつ》があつては|貴方《あなた》のお|為《ため》になりませぬぞえ』
『それはそれは、|存《ぞん》ぜぬ|事《こと》とて、|誠《まこと》に|御無礼《ごぶれい》を|致《いた》しました。|此《この》|頃《ごろ》は|相当《さうたう》に|参拝者《さんぱいしや》も|厶《ござ》いますので、|斯様《かやう》な|所《ところ》で|御話《おはなし》して|居《を》つてもつまりませぬ。サ、|教主館《けうしゆやかた》へ|御案内《ごあんない》を|致《いた》しませう』
|妖幻《えうげん》『|拙者《せつしや》は|噂《うはさ》に|高《たか》き|三五教《あななひけう》の|三羽烏《さんばがらす》、|杢助《もくすけ》で|厶《ござ》います。|以後《いご》|御見知《おみし》りおかれまして、|宜《よろ》しく|御交際《ごかうさい》を|願《ねが》ひませう』
『ハイ、それはそれは、|自己広告《じこくわうこく》を|承《うけたま》はりまして、|尊《たふと》き|杢助様《もくすけさま》を|拝《をが》まして|戴《いただ》きました。|併《しか》し|杢助様《もくすけさま》は|三五教《あななひけう》|切《き》つての|言霊《ことたま》の|清《きよ》らかな|御方《おかた》と|承《うけたま》はりましたのに、|大変《たいへん》なダミ|声《ごゑ》ぢや|厶《ござ》りませぬか。どうも|私《わたし》には、|失礼《しつれい》ながら、イー|心《こころ》の|底《そこ》から|尊敬《そんけい》の|心《こころ》が|起《おこ》つて|参《まゐ》りませぬ。|守護神《しゆごじん》が|腹《はら》の|中《なか》から、|違《ちが》ふ|違《ちが》ふ、と|申《まを》します。もし|間違《まちが》ひましたら|御免《ごめん》|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》『コレ、|文助《ぶんすけ》、|何《なん》といふ|失礼千万《しつれいせんばん》な|事《こと》を|云《い》ふのだい、|杢助様《もくすけさま》は、|此《この》|頃《ごろ》|一寸《ちよつと》お|風邪《かぜ》をめしてお|声《こゑ》が|変《かは》つてゐるのだよ。お|前《まへ》だつて|風邪《かぜ》ひいた|時《とき》にや、|満足《まんぞく》に|祝詞《のりと》もあがらぬぢやないか』
『イヤ、どうも|恐《おそ》れ|入《い》りました。それなら、|之《これ》から|教主館《けうしゆやかた》へ|御案内《ごあんない》|致《いた》します。|何卒《どうぞ》|御神殿《ごしんでん》で|御拝礼《ごはいれい》をなさつて|下《くだ》さいませ。|其《その》|間《あひだ》にチヤンと|座敷《ざしき》を|片付《かたづ》けて|用意《ようい》を|致《いた》しますから』
|高姫《たかひめ》は|神殿《しんでん》に|行《ゆ》くのが、どこともなしに|恐《おそ》ろしいやうな、|内兜《うちかぶと》を|見《み》すかされるやうな|気分《きぶん》がして|気《き》が|進《すす》まなかつた。そこで|又《また》|例《れい》の|詭弁《きべん》を|弄《ろう》し|始《はじ》めた。
『コレ、|文助《ぶんすけ》さま、|最前《さいぜん》も|云《い》つた|通《とほ》り、|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》は|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》ぢやぞえ、|祭典《さいてん》をしたり|拝礼《はいれい》をしたりするのは|天国《てんごく》の|天人《てんにん》のする|事《こと》だ。それから|又《また》お|前《まへ》たちのやうな|八衢人間《やちまたにんげん》が、|助《たす》け|給《たま》へ|救《すく》ひ|給《たま》へと、|祈《いの》る|為《ため》に|拝礼《はいれい》をしたり、お|祀《まつ》りをするのだよ。|吾々《われわれ》は|教《をしへ》を|伝《つた》へるのがお|役《やく》だ。それぞれ|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》|性来《しやうらい》によつて|御用《ごよう》が|違《ちが》ふのだからな』
『それでも|貴女《あなた》、|今《いま》|迄《まで》は|一生懸命《いつしやうけんめい》にお|祀《まつ》りもなさつたり、|朝《あさ》も|早《はや》うから|御祈願《ごきぐわん》を|遊《あそ》ばしたぢやありませぬか』
『それはきまつた|事《こと》だよ。よく|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|蛙《かへる》の|子《こ》のお|玉杓子《たまじやくし》だつて、|鯰《なまづ》の|子《こ》だつて、|小《ちひ》さい|時《とき》にはヤツパリ|同《おな》じ|姿《すがた》をして|居《を》りませうが。|此《この》|高姫《たかひめ》もお|玉杓子《たまじやくし》の|時《とき》は、|蛙《かへる》の|子《こ》と|同《おな》じやうに、|人並《ひとなみ》に|拝礼《はいれい》をしなくちやならぬぢやないか。けれども|日日《ひにち》が|経《た》つと、|同《おん》なじ|形《かたち》のお|玉杓子《たまじやくし》でも、|霊《みたま》の|性来《しやうらい》によつて、|手《て》が|生《は》え|足《あし》が|生《は》え、|糞蛙《くそがへる》になる|霊《みたま》と、|大《おほ》きな|鯰《なまづ》になる|霊《みたま》と|立《た》て|別《わか》れるぢやないか。|例《たと》へて|言《い》へば、お|前《まへ》はお|玉杓子《たまじやくし》の|出世《しゆつせ》した|蛙《かへる》だ。|此《この》|高姫《たかひめ》は|鯰《なまづ》ぢやぞえ。|鯰《なまづ》は|地《ち》の|底《そこ》に|居《を》つて、|尻尾《しつぽ》をプイと|掉《ふ》つても、|此《この》|大地《だいち》がガタガタと|動《うご》くのだ。|其《その》|因縁《いんねん》がハツキリと|分《わか》つたのだから、|今《いま》|迄《まで》の|高姫《たかひめ》と|同《おな》じ|様《やう》に|思《おも》うて|貰《もら》ふと、チツと|了簡《れうけん》が|違《ちが》ひますぞや、なア|杢助《もくすけ》さま、|三五教《あななひけう》にはかふ|言《い》ふ|分《わか》らぬ|受付《うけつけ》が|居《ゐ》るのですからな、|困《こま》つたものですよ』
|妖幻《えうげん》『さうだなア、ロクな|男《をとこ》は|一人《ひとり》も|居《ゐ》ない。これでは|三五教《あななひけう》も|駄目《だめ》だ。|一《ひと》つお|前《まへ》が|此処《ここ》で|奮発《ふんぱつ》して|一働《ひとはたら》きせなくちや|駄目《だめ》だ。オイ|文助《ぶんすけ》|殿《どの》、これから|杢助《もくすけ》がここに|暫《しば》らく|出張《しゆつちやう》して、|事務《じむ》を|調査《てうさ》し|監督《かんとく》|致《いた》す、そして|高姫《たかひめ》は|筆先《ふでさき》の|御用《ごよう》を|致《いた》すによつて、|何事《なにごと》も|其《その》|命令《めいれい》に|服従《ふくじゆう》するのだぞや』
『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|併《しか》しながら|此《この》|館《やかた》は|変性男子様《へんじやうなんしさま》のお|筆先《ふでさき》を|以《もつ》てお|神徳《かげ》を|頂《いただ》くやうになつて|居《を》りますから、もう|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》のお|筆先《ふでさき》は|必要《ひつえう》がないかと|心得《こころえ》ます』
|高姫《たかひめ》『オツホホホホ、|訳《わけ》の|分《わか》らぬガラクタばかりぢやなア。|変性男子《へんじやうなんし》のお|筆先《ふでさき》は|余《あま》りアラごなしで、お|前達《まへたち》を|始《はじ》め、|人民《じんみん》の|腹《はら》へは|入《はい》りにくいによつて、|此《この》|度《たび》|誠生粋《まこときつすゐ》の|水晶霊《すゐしやうみたま》の|根本《こつぽん》の|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》が、お|筆先《ふでさき》を|書《か》いて、|細《こま》かう|御知《おし》らせなさる|世《よ》が|参《まゐ》りたのだぞえ、|此《この》|筆先《ふでさき》を|読《よ》まなくては、|誠《まこと》の|五六七神政《みろくしんせい》は|成就《じやうじゆ》|致《いた》しませぬぞや』
『さうかも|存《ぞん》じませぬが、|私《わたし》は|松姫《まつひめ》|様《さま》の|御意見《ごいけん》に|従《したが》はねばならぬ|事《こと》になつて|居《を》りますから、|何卒《どうぞ》|松姫《まつひめ》さまにお|会《あ》ひになつたら、|貴女《あなた》より|詳《くは》しく|其《その》|由《よし》を|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ』
『|成程《なるほど》お|前《まへ》としては|無理《むり》もない。さうすれば|之《これ》から|松姫《まつひめ》にトツクリと|言《い》ひ|聞《き》かしてやりませう、サ、|兎《と》も|角《かく》|館《やかた》へ|案内《あんない》して|下《くだ》さい』
『|承知《しようち》|致《いた》しました。サ、かう|御出《おい》でなさいませ』
と|早《はや》くも|足駄《あしだ》をはいて、|杖《つゑ》をつきながら、|五六間《ごろくけん》より|隔《へだ》つてゐない|庭《には》を|跨《また》げ、|蠑〓別《いもりわけ》、お|寅《とら》の|住《す》まつてゐた|教主館《けうしゆやかた》へ|案内《あんない》した。
お|菊《きく》は|三人《さんにん》の|姿《すがた》を|見《み》て、
『コレ|文助《ぶんすけ》さま、そんな|喧《やかま》しい|小母《をば》さまを、こんな|所《ところ》へ|連《つ》れて|来《く》るのはイヤよ、|大広間《おほひろま》へ|連《つ》れて|行《い》つて|鎮魂《ちんこん》をして、|四足《よつあし》の|霊《みたま》をのけて|上《あ》げて|下《くだ》さい。|何《なん》だか|知《し》らぬが、エライ|物《もの》が|憑《つ》いてゐますよ』
『ハハハハ、どうも|仕方《しかた》のない|娘《むすめ》さまだな。モシモシ|高姫《たかひめ》さま、|何卒《どうぞ》|気《き》にして|下《くだ》さいますな。|此《この》|方《かた》は|一人娘《ひとりむすめ》で|気儘《きまま》に|育《そだ》つて|厶《ござ》るから、|人《ひと》さまにあんな|事《こと》を|仰有《おつしや》るのです。|何卒《どうぞ》|若《わか》い|人《ひと》の|云《い》つた|事《こと》だから、お|咎《とが》めなく|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
『|許《ゆる》していらぬよ。|此処《ここ》は|私《わたし》の|留守《るす》を|預《あづか》つて|居《ゐ》る|所《ところ》だ。お|母《かあ》さまや|魔我彦《まがひこ》さまがお|帰《かへ》りになるまで、|誰《たれ》も|入《い》れることはならぬのだから、|帰《かへ》つて|下《くだ》さい』
『そりやさうで|厶《ござ》いますが、|此《この》|方《かた》は|又《また》|特別《とくべつ》のお|方《かた》だ。お|前《まへ》さまがいつも、それ、|憧憬《どうけい》して|居《を》つた、ウラナイ|教《けう》の|教主様《けうしゆさま》の|高姫《たかひめ》さまだぞえ。サアサア、|叮嚀《ていねい》にお|辞儀《じぎ》をして、|御無礼《ごぶれい》のお|詫《わび》をするのだよ』
『|聞《き》くと|見《み》るとは|大違《おほちが》ひだネー。|蠑〓別《いもりわけ》さまも、こんな|品格《ひんかく》のない、ヤンチヤ|婆《ば》アさまを|可愛《かあい》がつてゐたのかと|思《おも》ふと、|可笑《をか》しいワ、ホツホホホホ。モシ|蠑〓別《いもりわけ》さまのレコさま、|生憎《あいにく》、|来《き》て|下《くだ》さつたけれど、|蠑〓別《いもりわけ》さまは|不在《ふざい》なのよ。|会《あ》ひたけりや|浮木《うきき》の|森《もり》へ|御出《おいで》なさい。|万緑叢中《ばんりよくそうちう》|紅一点《こういつてん》のお|民《たみ》さまといふ、あたえのやうな|別嬪《べつぴん》と、|手《て》に|手《て》を|取《と》つて|駆落《かけおち》しましたよ。そして、|何時《いつ》も|高姫《たかひめ》|々々《たかひめ》と|寝言《ねごと》をいつたり、お|酒《さけ》を|呑《の》んで|朝顔《あさがほ》のチヨクを|口《くち》へあて、これが|高《たか》ちやまの|口《くち》によく|似《に》てると|云《い》つてはキツスをしたり、うちのお|母《かあ》さまと|掴《つか》み|合《あひ》の|喧嘩《けんくわ》をしたり、|鼻《はな》を|捻《ねぢ》られたり、それはそれは|面白《おもしろ》い|事《こと》だつたよ』
|高姫《たかひめ》『ナニ、|蠑〓別《いもりわけ》がお|民《たみ》といふ|女《をんな》と|駆落《かけおち》した? ヤ、|其奴《そいつ》は|大変《たいへん》……』
といひかけて、|杢助《もくすけ》の|側《そば》に|居《ゐ》るのに|気《き》がつき、
『ホホホホ、|何《なん》とマア|面白《おもしろ》い|話《はなし》を|聞《き》かして|貰《もら》うたものだ。|高姫《たかひめ》といふ|名《な》は|私《わたし》ばかりぢやない。|広《ひろ》い|世間《せけん》には|沢山《たくさん》あるからな、ソリヤ|人違《ひとちが》ひだ。|此《この》|高姫《たかひめ》とは|違《ちが》ひますぞや』
『それなら、お|前《まへ》は|蠑〓別《いもりわけ》のお|師匠《ししやう》さまではないのだなア。ウラナイ|教《けう》の|元《もと》を|開《ひら》いた|高姫《たかひめ》さまとは|違《ちが》ひますね。|此《この》|小北山《こぎたやま》は|今《いま》では|三五教《あななひけう》だけれど、それまではウラナイ|教《けう》の|神様《かみさま》ばかり|祀《まつ》つてあつたのよ。|其《その》ウラナイ|教《けう》の|根本《こつぽん》の|教祖《けうそ》は|高姫《たかひめ》さまだと|云《い》つて、|私達《わたしたち》も|朝《あさ》から|晩《ばん》まで、|御神体《ごしんたい》を|拵《こしら》へてお|給仕《きふじ》をしてゐたのよ。|其《その》|高姫《たかひめ》さまと|違《ちが》ふのなら、こんな|所《ところ》へ|来《く》る|資格《しかく》はない。サアサア トツトと|出《で》て|下《くだ》さい』
|妖幻《えうげん》『ハハハハ|高姫《たかひめ》も|随分《ずいぶん》|色女《いろをんな》だなア、|蠑〓別《いもりわけ》の|男《をとこ》つ|振《ぷ》りを、|此《この》|杢助《もくすけ》に|見《み》せびらかさうと|思《おも》つて、|此処《ここ》|迄《まで》つれて|来《き》たのだなア。イヤもう|其《その》|凄《すご》い|腕前《うでまへ》には|感心《かんしん》|致《いた》した。ヤこれで、お|前《まへ》の|心《こころ》もスツカリ|分《わか》つた、|高姫《たかひめ》、これまでの|縁《えん》だと|諦《あきら》めてくれ、|左様《さやう》なら……』
と|踵《きびす》を|返《かへ》し|帰《かへ》り|行《ゆ》かむとする|気色《けしき》を|見《み》せた。|高姫《たかひめ》は|慌《あわ》てて|袖《そで》を|控《ひか》へ、|涙《なみだ》を|流《なが》して、
『コーレ、|杢助《もくすけ》さま、|短気《たんき》は|損気《そんき》だ、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい。|之《これ》には|言《い》ふにいはれぬ|訳《わけ》があるのだから……』
『イヤ、|訳《わけ》を|聞《き》くには|及《およ》ばぬ、|何《なに》もかもスツクリと|判明《はんめい》|致《いた》した。イヤ|杢助《もくすけ》は|馬鹿《ばか》だつた。よくマア|今《いま》まで|嬲《なぶ》つて|下《くだ》さつた。|眉毛《まゆげ》をよまれ、|尻《しり》の|毛《け》の|一本《いつぽん》もないとこまで、|金毛九尾《きんまうきうび》さまにぬかれて|了《しま》つたかと|思《おも》へば|残念《ざんねん》だ。|千言万語《せんげんばんご》を|費《つひや》しての|弁解《べんかい》も、|俺《おれ》には|何《なん》の|効能《かうのう》もない。|高姫《たかひめ》、|左様《さやう》ならば……』
と|袖《そで》ふり|切《き》つて|行《ゆ》かうとする。
|高姫《たかひめ》は|妖幻坊《えうげんばう》の|足《あし》に|確《しつ》かとしがみつき、|一生懸命《いつしやうけんめい》の|泣《な》き|声《ごゑ》を|出《だ》して、
『コレ|杢助《もくすけ》さま、|短気《たんき》は|損気《そんき》ぢや、|一通《ひととほ》り|私《わたし》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて|下《くだ》さい。|今《いま》となつてお|前《まへ》さまに|捨《す》てられて、どうして|五六七神政《みろくしんせい》の|御用《ごよう》が|出来《でき》ませうか、|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》がお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
お|菊《きく》は|手《て》を|拍《う》つて、
『ホツホツホ、|雪隠《せつちん》の|水《みづ》つき、|婆《ばば》|浮《う》きぢや、イヤイヤ|婆《ばば》|泣《な》きぢや。|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、こんな|所《ところ》をお|千代《ちよ》さまに|見《み》せて|上《あ》げたいのだけれどなア。お|千代《ちよ》さま、|又《また》|何処《どこ》へ|行《い》つたの、まるで|蠑〓別《いもりわけ》さまとお|母《かあ》さまとの|喧嘩《けんくわ》のやうだワ、ホツホツホー』
|妖幻坊《えうげんばう》はお|菊《きく》の|声《こゑ》に、|何《なん》と|思《おも》うたか、|後《あと》ふり|返《かへ》り、|二歩《ふたあし》|三歩《みあし》|近寄《ちかよ》つて、
『ハハハハ、|子供《こども》は|正直《しやうぢき》だ、|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い。コレお|菊《きく》さまとやら、|蠑〓別《いもりわけ》の|素性《すじやう》から|高姫《たかひめ》の|関係《くわんけい》、お|前《まへ》は|知《し》つとるだらうな、どうか|緩《ゆつく》りと|聞《き》かして|貰《もら》ひたいものだ』
『|詳《くは》しい|事《こと》は|知《し》らないよ。|何時《いつ》も|蠑〓別《いもりわけ》さまとお|母《かあ》さまとが|酒《さけ》を|呑《の》んで、|喧嘩《けんくわ》ばかりしてゐたのよ、|其《その》|時《とき》の|話《はなし》を|聞《き》いたばかりだ。|高姫《たかひめ》さまの|顔《かほ》を、まだ|見《み》た|事《こと》がないのだから|分《わか》らないワ。|其《その》|高姫《たかひめ》さまはお|人《ひと》が|違《ちが》ふと|仰有《おつしや》つたが、|口許《くちもと》が|朝顔《あさがほ》の|盃《さかづき》によく|似《に》て、|唇《くちびる》が|妙《めう》に|反《そ》り|返《かへ》り、|曲線美《きよくせんび》をうまく|発揮《はつき》してゐるワ。ホホホ|可笑《をか》しい|顔《かほ》だネー、コレ|小父《をぢ》さま、お|前《まへ》、そんな|婆《ば》アさまが|好《す》きなの、イツヒヒヒヒ、エエ|物好《ものずき》だねえ。ドレ|是《これ》から|松姫《まつひめ》|様《さま》に|面白《おもしろ》い|門立芸者《かどだちげいしや》が|出《で》て|来《き》て、いま|一幕《ひとまく》|活劇《くわつげき》を|演《えん》じてゐる、|之《これ》からが|正念場《しやうねんば》だから……と|云《い》つて|知《し》らして|来《こ》う、お|千代《ちよ》さまもキツと|喜《よろこ》ぶだらう』
と|云《い》ひながら、|逃《に》げるやうにして|二百《にひやく》の|階段《かいだん》を|登《のぼ》つて|行《ゆ》く。
|文助《ぶんすけ》『|皆《みな》さま、|何卒《どうぞ》|気《き》にさへて|下《くだ》さいますな。あの|子《こ》はお|寅《とら》さまの|娘《むすめ》で、どうにもかうにも|仕方《しかた》のない、|侠客娘《けふかくむすめ》と|綽名《あだな》を|取《と》つてるオキヤンですから、あんな|子《こ》の|云《い》ふ|事《こと》を|耳《みみ》に|入《い》れて|居《を》らうものなら、|腹《はら》が|立《た》つて|仕方《しかた》がありませぬ。|何時《いつ》も|受付《うけつけ》へ|出《で》て|来《き》て、|私《わたし》の|目《め》が|悪《わる》いのをつけ|込《こ》み、|首《くび》に|手拭《てぬぐひ》を|引掛《ひつか》けたり、ソツと|出《で》て|来《き》て|耳《みみ》を|引張《ひつぱ》つたり、|鼻《はな》を|摘《つま》んだり、|熱《あつ》い|茶《ちや》と|水《みづ》とをすり|替《か》へたりして、|手《て》を|叩《たた》いて|喜《よろこ》んで|居《ゐ》る|悪戯盛《いたづらざか》りだから、|何卒《どうぞ》|貴方《あなた》|等《がた》も、|広《ひろ》き|心《こころ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し、|許《ゆる》してやつて|下《くだ》さいませ』
|妖幻《えうげん》『ハハハハ、|何《なん》と|面白《おもしろ》い|子《こ》だなア。そんな|子《こ》なら、|甘《うま》く|仕込《しこ》んだら、すぐに|改悪《かいあく》するだらう』
|高姫《たかひめ》『コレ|杢助《もくすけ》さま、|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》を|仰有《おつしや》る、|改悪《かいあく》するだらう……なんて、チツと|心得《こころえ》なさらぬか、なぜ|改善《かいぜん》するだらうと|仰有《おつしや》らぬのだい』
『|改悪《かいあく》といふことは|悪《あく》を|改《あらた》むる|事《こと》だ。|悪《あく》を|改《あらた》むれば|善《ぜん》になるぢやないか。|改善《かいぜん》といふことは|善《ぜん》を|改《あらた》むる|事《こと》だ。|善《ぜん》を|改《あらた》むれば|悪《あく》になるぢやないか』
『|成程《なるほど》、さうすると、|今《いま》|迄《まで》|三五教《あななひけう》で|言《い》つてゐたのは|逆様《さかさま》だつたなア。ハハー、アアそれで|分《わか》つた、|義理天上《ぎりてんじやう》さまが|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|行《や》り|方《かた》は|駄目《だめ》だと|仰有《おつしや》つたのは……|其《その》|事《こと》だ、|流石《さすが》は|杢助《もくすけ》さまは|偉《えら》いわい、|改悪《かいあく》と|云《い》つたら|無上《むじやう》の|善《ぜん》だ。|之《これ》から|一《ひと》つ|言霊《ことたま》を|改《あらた》めねばなるまい。|流石《さすが》は|高姫《たかひめ》の|夫《をつと》だけあつて、|仰有《おつしや》る|事《こと》が|違《ちが》ふワイ。ホホホホ、|時置師《ときおかし》の|大神様《おほかみさま》、イヤもう、|流石《さすが》の|義理天上《ぎりてんじやう》も|感服《かんぷく》|仕《つかまつ》りました。コレコレ|文助《ぶんすけ》|殿《どの》、お|前《まへ》は|結構《けつこう》なおかげを|頂《いただ》きましたなア。|改悪《かいあく》の|因縁《いんねん》が|分《わか》つたかい』
『ハイ、|貴女《あなた》|等《がた》の|仰有《おつしや》る|事《こと》は|余《あま》り|六《む》つかしうて、|文盲《もんまう》な|吾々《われわれ》には、どうも|解釈《かいしやく》が|出来《でき》ませぬ。|何《なん》と|云《い》つても、|逆様《さかさま》の|世《よ》の|中《なか》で、|悪《あく》が|善《ぜん》に|見《み》えたり、|善《ぜん》が|悪《あく》に|見《み》えたりする|世《よ》の|中《なか》ですからなア、|改悪《かいあく》……|否《いな》|皆目《かいもく》|分《わか》りませぬ』
『さうだろ さうだろ、お|前《まへ》は|眼目《がんもく》からして|分《わか》らぬのだから、|皆目《かいもく》|分《わか》らぬといふのは|無理《むり》はない、|今《いま》までは|改心《かいしん》といふは|善《よ》い|事《こと》、|慢心《まんしん》と|云《い》ふは|悪《わる》い|事《こと》と|思《おも》うて|居《を》つたが、ヤツパリ|之《これ》も|逆様《さかさま》だつた。なア|杢助《もくすけ》さま、さうぢやありませぬか』
『ウンさうだ、お|前《まへ》の|云《い》ふ|通《とほ》りだ』
『|何《なん》と|義理天上《ぎりてんじやう》さまも|偉《えら》いワイ。ヤ、|此《この》|筆法《ひつぱふ》でゆけば|凡《すべ》ての|解決《かいけつ》がつく。|三五教《あななひけう》は|善《ぜん》に|見《み》せてヤツパリ|悪《あく》の|教《をしへ》だつた。|何《なに》もかもスカタンばかり|言《い》つて、|吾々《われわれ》を|誤魔化《ごまくわ》して|居《を》つたのだな……|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。……コラ|金毛九尾《きんまうきうび》、|貴様《きさま》も|其《その》|積《つも》りで、これから|活動《くわつどう》するのだぞ』
と|小声《こごゑ》に|囁《ささや》いてゐる。
かかる|所《ところ》へ|最前《さいぜん》のお|菊《きく》は|慌《あわただ》しく|帰《かへ》り|来《きた》り、
『|高姫《たかひめ》さま、|松姫《まつひめ》|様《さま》に|申上《まをしあ》げましたら、|大変《たいへん》にお|喜《よろこ》びやして、どうか|鄭重《ていちよう》に、お|酒《さけ》でも|出《だ》してもてなして|上《あ》げて|下《くだ》さい。|今《いま》|一寸《ちよつと》|御用《ごよう》の|最中《さいちう》だから、|御用《ごよう》|済《す》み|次第《しだい》|御挨拶《ごあいさつ》に|行《ゆ》きますと|云《い》つてましたよ。コレ|文助《ぶんすけ》さま、|徳《とく》さまと|初《はつ》さまとを|呼《よ》んで|来《き》て、お|酒《さけ》の|用意《ようい》をさすのだよ』
|文助《ぶんすけ》『それなら、これから|徳《とく》と|初《はつ》とに|御飯《ごはん》やお|酒《さけ》の|準備《じゆんび》をさせますから、|一寸《ちよつと》|待《ま》つてゐて|下《くだ》さい』
とまたヨボヨボと|受付《うけつけ》さして|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
『コレ|杢助《もくすけ》さま、|松姫《まつひめ》といふのは|私《わたし》の|弟子《でし》だから、|一寸《ちよつと》も|遠慮《ゑんりよ》はいりませぬよ。マ、ゆつくりと|寛《くつろ》いでお|酒《さけ》でもあがつて|下《くだ》さい。お|気《き》に|入《い》りますまいが、|此《この》|義理天上《ぎりてんじやう》がお|酌《しやく》をさして|頂《いただ》きますから、ホホホホホ|余《あま》り|憎《にく》うもありますまい』
|妖幻坊《えうげんばう》は|俄《にはか》に|機嫌《きげん》を|直《なほ》し、|赤《あか》い|尖《とが》つた|口《くち》をあけて、
『オツホホホホ』
『|何《なん》とマア。|俄《にはか》に|尖《とが》つた|口《くち》をして、アタ|厭《いや》らしい。そして、|赤《あか》い|口《くち》だこと』
『ウツフフフフ』
(大正一二・一・二五 旧一一・一二・九 松村真澄録)
第二章 |怪獣策《くわいじうさく》〔一三一七〕
|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》は|種々《いろいろ》と|馳走《ちそう》を|拵《こしら》へ、|酒《さけ》を|沢山《たくさん》に|燗《かん》して|二人《ふたり》の|前《まへ》に|恭《うやうや》しく|並《なら》べた。
|初《はつ》『|私《わたし》は|此《この》お|館《やかた》の|新役員《しんやくゐん》で|厶《ござ》います。|魔我彦《まがひこ》|様《さま》にお|引立《ひきたて》に|預《あづか》りまして、つい|此《この》|間《あひだ》から|幹部《かんぶ》に|選定《せんてい》されました。|今《いま》|迄《まで》はウラル|教《けう》の|信徒《しんと》で|厶《ござ》いましたが、|余《あま》り|此《この》お|館《やかた》にお|祀《まつ》りしてある|神様《かみさま》の|御威勢《ごゐせい》が|高《たか》いので、ついお|参《まゐ》りする|気《き》になり、|信者《しんじや》として|四五日《しごにち》|籠《こも》つてる|中《うち》、|抜擢《ばつてき》されまして、|今《いま》では|魔我彦《まがひこ》|様《さま》の|御用《ごよう》を|聞《き》いて|居《を》ります。|炊事《すゐじ》なんかするやうな|地位《ちゐ》では|厶《ござ》いませぬが、|今日《けふ》は|特別《とくべつ》を|以《もつ》て、|文助様《ぶんすけさま》の|御命令《ごめいれい》により、|料理法《れうりはふ》の|粋《すゐ》を|尽《つく》して|拵《こしら》へて|参《まゐ》りました。どうでお|口《くち》には|合《あ》ひますまいが、|何卒《どうぞ》|一《ひと》つ|召上《めしあが》つて|下《くだ》さいますやう|御願《おねが》ひ|致《いた》します。たまたまのお|越《こ》し|故《ゆゑ》、|可成《なるべく》|山海《さんかい》の|珍味《ちんみ》を|以《もつ》て|献立《こんだて》がしたいので|厶《ござ》いますが、|余《あま》り|俄《には》かのお|出《いで》で|材料《ざいれう》が|欠乏《けつぼう》|致《いた》し|不都合《ふつがふ》で|厶《ござ》います』
|高姫《たかひめ》『ヤ、お|前《まへ》は|魔我彦《まがひこ》の|家来《けらい》かな、|成程《なるほど》、|下《さが》り|眉毛《まゆげ》の、|一寸《ちよつと》|面白《おもしろ》い|顔《かほ》だな。|之《これ》から|此《この》|高姫《たかひめ》が|此処《ここ》の|教主《けうしゆ》だから、|其《その》|積《つも》りで|居《を》つて|下《くだ》さい。そしてここの|信者《しんじや》は|幾《いく》ら|程《ほど》あるかな』
『ヘーお|初《はつ》にお|目《め》にかかつて、|顔《かほ》の|批評《ひひやう》までして|頂《いただ》きまして、イヤもう|感服《かんぷく》|致《いた》しました。まだ|新任《しんにん》|早々《さうさう》の|事《こと》で、ハツキリは|分《わか》りませぬが、トツ|百《ぴやく》ばかり、あるとか、ないとか|言《い》ふことで|厶《ござ》います。|魔我彦《まがひこ》さまも、この|調子《てうし》なら、|今《いま》にパツ|百人《ぴやくにん》ほど|殖《ふ》えるだらうと|申《まを》して|居《を》りました。|貴女《あなた》は|噂《うはさ》に……イ……|高《たか》き、ダカ|姫《ひめ》さまで|厶《ござ》いますかな。どうもよくお|出《い》で|下《くだ》さいました。そして|立派《りつぱ》な|男様《をとこさま》は|貴女様《あなたさま》の|御主人《ごしゆじん》でゐらせられますか、どうも|御夫婦《ごふうふ》|打揃《うちそろ》ひ、|御出張《ごしゆつちやう》|下《くだ》さいました|段《だん》、やつがれ|身《み》にとりまして、|恐悦《きようえつ》|至極《しごく》に|存《ぞん》じ|奉《たてまつ》りまする』
『|何《なん》と|面白《おもしろ》い|男《をとこ》だなア、ヤ|御馳走《ごちそう》さま、これからお|腹《なか》もすいたなり、|一寸《ちよつと》くたぶれたからゆつくりと|頂《いただ》きませう』
『|私《わたし》で|宜《よろ》しう|厶《ござ》いますれば、|一寸《ちよつと》お|酌《しやく》をさして|頂《いただ》きませうかな。|私《わたし》も|余《あま》り、|飲《の》めぬ|口《くち》でも|厶《ござ》いませぬから……』
『ヤ、|結構《けつこう》で|厶《ござ》います、|何《いづ》れ|用《よう》があつたら、|此《この》|鈴《すず》をふりますから|来《き》て|下《くだ》さい』
『|承知《しようち》|致《いた》しました、それぢやお|菊《きく》さまにお|給仕《きふじ》をして|貰《もら》ひませう』
お|菊《きく》『コレ|初《はつ》さま、|厭《いや》だよ、|誰《たれ》がこんな|小父《をぢ》さまや|小母《をば》さまのお|給仕《きふじ》するものかい。|私《わたし》がお|給仕《きふじ》するのは|万《まん》さまだよ。イヒヒヒ、すみませぬなア、お|構《かま》ひさま』
|妖幻《えうげん》『オイお|菊《きく》とやら、|此《この》|杢助《もくすけ》に|一《ひと》つ|注《つ》いではくれまいか。お|前《まへ》の|若《わか》い|手《て》で|注《つ》いで|貰《もら》ふのは、|余《あま》り|気持《きもち》が|悪《わる》うはない。|高姫《たかひめ》さまといふ|天下一《てんかいち》の|別嬪《べつぴん》さまがついて|厶《ござ》るのだから|可《い》いやうなものの、|又《また》|変《かは》つたのも、|此方《こちら》の|気《き》が|変《かは》つていいかも|知《し》れない』
『いやですよ、|之《これ》からお|千代《ちよ》さまと|遊《あそ》んで|来《こ》なならぬワ、|待合《まちあひ》の|酌婦《しやくふ》ぢやあるまいし……|御夫婦《ごふうふ》さま|仲《なか》よう、シンネコでお|楽《たの》しみ……|御免《ごめん》よ』
と|逃《に》げるやうにして、|腮《あご》を|三《み》つ|四《よ》つしやくりながら、|肩《かた》をあげ|首《くび》をすくめ、|両手《りやうて》を|前《まへ》へパツと|開《ひら》き|揃《そろ》へ、
『イツヒヒヒ』
と|胴《どう》までしやくつて、|飛出《とびだ》して|了《しま》つた。|後《あと》に|二人《ふたり》はイチヤイチヤ|言《い》ひながら、|酒《さけ》を|汲《く》みかはし|始《はじ》めた。
|高姫《たかひめ》『コレ|杢助《もくすけ》さま、|松姫《まつひめ》だつて、|文助《ぶんすけ》だつて、|中々《なかなか》さう|易々《やすやす》と|服従《ふくじゆう》するものぢやありませぬよ。|口先《くちさき》では|立派《りつぱ》な|事《こと》|言《い》つて|居《を》つても、|心《こころ》の|底《そこ》は|容易《ようい》に|帰順《きじゆん》|致《いた》しませぬよ。あのお|菊《きく》だつて、|中々《なかなか》|手《て》に|合《あ》はぬぢやありませぬか、|此奴《こいつ》は|一《ひと》つ、|何《なん》とか|工夫《くふう》をせなくちやなりませぬよ』
『|兎《と》も|角《かく》、あの|初《はつ》と|徳《とく》とを|此処《ここ》へ|呼《よ》んで、|酒《さけ》でも|飲《の》ませ、|腸《はらわた》までよく|調《しら》べて、|其《その》|上《うへ》でこちらの|味方《みかた》を|拵《こしら》へておかねば、|駄目《だめ》だと|思《おも》ふ。|何程《なにほど》お|前《まへ》が|義理天上《ぎりてんじやう》だと|云《い》つても、|杢助《もくすけ》だと|云《い》つても、|松姫《まつひめ》の|外《ほか》、|俺《おれ》の|顔《かほ》を|知《し》つた|者《もの》はないのだからな』
『ソリヤさうですな、それなら|一《ひと》つ、|初《はつ》と|徳《とく》を|呼《よ》んで|酒《さけ》を|飲《の》ましてやりませうかい』
『ウン、それが|可《い》い、|就《つ》いては、あのお|菊《きく》も|此処《ここ》へよせて、|酌《しやく》をさせるがよからう。さうでなくちや、|彼奴《あいつ》、|一《ひと》すぢ|繩《なは》ではいかぬ|奴《やつ》だから、|甘《うま》く|手《て》の|中《うち》へ|丸《まる》めておく|必要《ひつえう》があらうぞ』
『|貴方《あなた》は|又《また》、お|菊《きく》に|秋波《しうは》を|送《おく》つてゐるのですか、エーエ|油断《ゆだん》のならぬ|男《をとこ》だなア、それだから|義理天上《ぎりてんじやう》さまが、お|前《まへ》を|目放《めはな》しするなと|仰有《おつしや》るのだ。|本当《ほんたう》に|気《き》のもめる|男《をとこ》だな。|私《わし》の|好《す》く|人《ひと》、|又《また》|人《ひと》が|好《す》く……といふ|事《こと》がある。こんないい|男《をとこ》を|夫《をつと》に|持《も》つと、|此《この》|高姫《たかひめ》も|気《き》のもめる|事《こと》だワイ』
『まるで|監視付《かんしつき》だなア、|高等要視察人《かうとうえうしさつにん》みたいなものだ。あああ、こんな|事《こと》なら、|今《いま》までの|通《とほ》り、|独身生活《どくしんせいくわつ》をして|居《を》つたらよかつたに、|娘《むすめ》の|初稚姫《はつわかひめ》にだつて、|何《なん》だか|恥《はづか》しくつて、|顔《かほ》さへ|合《あは》されもせないワ。|娘《むすめ》どころか|犬《いぬ》にさへ|恥《はづか》しいやうだ。それだから、|俺《おれ》はあの|犬《いぬ》は|嫌《いや》といふのだ』
『お|前《まへ》さまは、|二《ふた》つ|目《め》には【いぬ】いぬと|仰有《おつしや》るが、|何程《なにほど》【いぬ】と|云《い》つても、|綱《つな》をかけたら|帰《い》なしはせぬぞや。いぬなら|帰《い》んでみなさい。|仮令《たとへ》|十万億土《じふまんおくど》の|底《そこ》までも|探《さが》し|求《もと》めて、お|前《まへ》さまの|胸倉《むなぐら》をグツと|取《と》り、|恨《うらみ》をはらしますぞや』
『あああ、|怖《こは》い|事《こと》だなア。それなら|今後《こんご》はおとなしう|御用《ごよう》を|承《うけたま》はりませう。|義理天上様《ぎりてんじやうさま》、|金毛九尾様《きんまうきうびさま》、|今日《こんにち》|限《かぎ》り|改悪《かいあく》|致《いた》しますから、お|許《ゆる》しを|願《ねが》ひます、エヘヘヘヘ』
『|何《なん》なつと、いつてゐらつしやい、どうでこんな|婆《ばば》アはお|菊《きく》には|比《くら》べものになりませぬから』
『それなら、|女王様《ぢよわうさま》の|御命令《ごめいれい》を|遵奉《じゆんぽう》し、ドツと|改悪《かいあく》|致《いた》して、お|菊《きく》は|入《い》れない|事《こと》にし、|初公《はつこう》と|徳公《とくこう》を、ここへ|呼《よ》んで、ドツサリ|酒《さけ》を|飲《の》まさうぢやないか』
|次《つぎ》の|間《ま》から、
『ヘー、|初《はつ》も|徳《とく》もここに|居《を》ります。お|相手《あひて》を|致《いた》しませう』
とまだ|呼《よ》びもせぬ|先《さき》から、|喉《のど》がグーグーいつて|仕方《しかた》がないので、|襖《ふすま》をあけて、ヌツと|顔《かほ》を|出《だ》した。
|高姫《たかひめ》『コレ、|初《はつ》さま、|徳《とく》さま、お|前《まへ》は|最前《さいぜん》から|私達《わたしたち》の|話《はなし》を|聞《き》いて|居《を》つたのだなア』
|初《はつ》『ヘー、|大命一下《たいめいいつか》、|時刻《じこく》を|移《うつ》さず、|御用《ごよう》に|立《た》たむと、|次《つぎ》の|間《ま》に|手具脛《てぐすね》|引《ひ》いて|控《ひか》へて|居《を》りました。イヤもうドツサリと|結構《けつこう》なお|二人様《ふたりさま》の|情話《じやうわ》を|聞《き》かして|頂《いただ》き、|有難《ありがた》いこつて|厶《ござ》りました。あれだけ|結構《けつこう》な|話《はなし》を|聞《き》かして|頂《いただ》いた|以上《いじやう》は、|一杯《いつぱい》や|二杯《にはい》|奢《おご》つて|下《くだ》さつても|損《そん》はいきますまい。のう|徳公《とくこう》、|本当《ほんたう》に|羨《うらや》ましいぢやないか』
|妖幻《えうげん》『ハハハハ、どうも|気《き》の|利《き》いた|男《をとこ》だ、お|前達《まへたち》|二人《ふたり》は|小北山《こぎたやま》に|似合《にあ》はぬ|立派《りつぱ》な|者《もの》だ。こんな|立派《りつぱ》な|役員《やくゐん》が、|吾々《われわれ》の|来《く》るに|先立《さきだ》ち、おいてあるとは、|全《まつた》く|神様《かみさま》のお|仕組《しぐみ》だ。オイ、|初公《はつこう》さま、|徳公《とくこう》さま、|俺《わし》の|盃《さかづき》を|一杯《いつぱい》うけてくれ』
|初《はつ》『イヤ、これはこれは|御勿体《ごもつたい》ない、お|手《て》づから|頂《いただ》きまして、|実《じつ》に|光栄《くわうえい》です、なア|徳《とく》よ』
|徳《とく》『ウン|有難《ありがた》いなア、こんな|事《こと》が|毎日《まいにち》あると|尚《なほ》|結構《けつこう》だがなア』
|妖幻《えうげん》『|朝顔形《あさがほがた》の|盃《さかづき》はないかなア』
|徳《とく》『ヘー、|朝顔形《あさがほがた》の|盃《さかづき》も|沢山《たくさん》|厶《ござ》いましたが、|前《まへ》の|教主様《けうしゆさま》が、|高姫《たかひめ》さまの|唇《くちびる》に|似《に》てると|仰有《おつしや》つたので、お|寅《とら》さまと|云《い》ふ|内証《ないしよう》のレコが、|悋気《りんき》して|皆《みな》|破《わ》つて|了《しま》はれたさうで、|今《いま》では|一《ひと》つも|厶《ござ》いませぬ』
『フフフフフ、さうすると、|此《この》|盃《さかづき》は|敗残《はいざん》の|兵《へい》ばかりだな。|打《う》ちもらされし|郎党《らうたう》ばかりか、ヤヤ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、サ、|徳公《とくこう》、|一杯《いつぱい》|行《ゆ》かう』
『ヤ、これはこれは|誠《まこと》に|以《もつ》て|有難《ありがた》く|頂戴《ちやうだい》いたします。|酒《さけ》といふものは|百薬《ひやくやく》の|長《ちやう》とかいつて、いいものですな、かう|青々《あをあを》とした|春《はる》の|野《の》を|眺《なが》めて、|一杯《いつぱい》やる|心持《こころもち》と|云《い》つたら|本当《ほんたう》に|譬《たと》へやうがありませぬワ、どうぞ|之《これ》から|貴方《あなた》|等《がた》|御両人《ごりやうにん》の|指揮《しき》|命令《めいれい》を|遵奉《じゆんぽう》|致《いた》しますから、|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さいや』
『ウン、よしよし、|併《しか》し|蠑〓別《いもりわけ》と|此《この》|杢助《もくすけ》とは、どちらがお|前《まへ》は|偉大《ゐだい》なと|思《おも》ふ』
|初《はつ》『ソリヤきまつて|居《を》ります。|背《せ》い|恰好《かつかう》と|云《い》ひ|男振《をとこぶり》と|云《い》ひ、|天地《てんち》の|違《ちが》ひで|厶《ござ》りますワ』
『どちらが|天《てん》で、どちらが|地《ち》だ』
『そこがサ、テーンと、イー|私《わたし》には|分《わか》らぬ|所《ところ》です。|併《しか》し、チーとばかり|劣《おと》つて|居《を》りますなア』
『どちらが|劣《おと》つて|居《ゐ》るのだ』
『|杢助様《もくすけさま》、|言《い》はいでも|分《わか》つてるぢやありませぬか。|劣《おと》つた|方《はう》が|劣《おと》つてるのですもの、|高姫《たかひめ》さまの|前《まへ》だから、|何方《どちら》へ|団扇《うちわ》をあげて|可《い》いだやら、マア|言《い》はぬが|花《はな》ですなア、|夫婦喧嘩《ふうふげんくわ》をたきつけるやうな|事《こと》があつては|誠《まこと》にすみませぬから……』
『ハハハハ、|其奴《そいつ》ア|面白《おもしろ》い、マア|言《い》はぬが|宜《よ》からう』
|高姫《たかひめ》『コレ|初《はつ》、|構《かま》はないから|言《い》つておくれ、|私《わたし》だつて|何時《いつ》までも、|蠑〓別《いもりわけ》さまの|事《こと》など|思《おも》つてはゐやしないよ。あの|方《かた》は|大広木正宗《おほひろきまさむね》さまの|生宮《いきみや》だつたが、|今《いま》はサツパリ|三五教《あななひけう》へ|沈没《ちんぼつ》したのだから、|最早《もはや》|普通《ふつう》の|人格者《じんかくしや》としても|認《みと》めてゐないよ。|何卒《どうぞ》|蠑〓別《いもりわけ》さまのこた、|言《い》はぬよにして|下《くだ》さい』
|初《はつ》『モシ、|高姫《たかひめ》さま、ここはウラナイ|教《けう》ぢやありませぬよ、|松彦《まつひこ》さまがお|出《い》でになつてから、ユラリ|彦《ひこ》さまや|義理天上《ぎりてんじやう》さま、ヘグレ|神社《じんじや》|其《その》|外《ほか》、サーパリ、ガラクタ|神《がみ》をおつ|放《ぽ》り|出《だ》し、|残《のこ》らず|三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》と|祀《まつ》り|替《か》へてあるのですから、|蠑〓別《いもりわけ》さまが|三五教《あななひけう》へお|入《はい》りになつたのが|悪《わる》い|筈《はず》はないぢやありませぬか、さうすると|今《いま》は|貴女《あなた》は|三五教《あななひけう》ぢやないのですか』
『コレ|初《はつ》さま、お|前《まへ》も|野暮《やぼ》な|事《こと》をいふものぢやない、|神《かみ》の|奥《おく》には|奥《おく》があり、|表《おもて》には|裏《うら》があるのだ。|此《この》|高姫《たかひめ》だつて、|表面《へうめん》は|三五教《あななひけう》になつてるけれど、|矢張《やつぱ》りウラナイ|教《けう》だよ。|世《よ》の|中《なか》は|一通《ひととほ》りや|二通《ふたとほ》りでいくものでないから、お|前《まへ》も|其《その》|精神《せいしん》で|居《を》つて|下《くだ》さい。これからお|前等《まへら》|二人《ふたり》を|杢助《もくすけ》さまの|両腕《りやううで》として|出世《しゆつせ》をさして|上《あ》げるから、さうすりや|文助《ぶんすけ》さまを|頤《あご》でつかふやうになるよ、|今《いま》に|受付《うけつけ》の|命令《めいれい》をハイハイと|聞《き》いてるやうぢや|詮《つま》らぬぢやないか』
『イヤ、|分《わか》りました。のう|徳公《とくこう》、|貴様《きさま》も|賛成《さんせい》だらう』
|徳《とく》『ウーン、お|前《まへ》が|賛成《さんせい》すりや、|賛成《さんせい》しない|訳《わけ》にも|行《ゆ》かぬワ、|併《しか》しながら|松姫《まつひめ》さまは|何《ど》うだろ、こんな|事《こと》を|御承知《ごしようち》なさるだらうかなア』
|初《はつ》『ソリヤ|高姫《たかひめ》さまの|腕《うで》にあるのだ、|俺達《おれたち》や、|只《ただ》|御両人《ごりやうにん》の|頤使《いし》に|従《したが》つて|居《を》れば|可《い》いぢやないか』
お|菊《きく》は|外《そと》から、|窓《まど》へ|顔《かほ》をあて、|四人《よにん》の|酒《さけ》を|飲《の》んでゐるのを|見《み》て、あどけない|声《こゑ》でうたつてゐる。
『|天《てん》に|口《くち》あり|壁《かべ》に|耳《みみ》 |企《たく》んだ|企《たく》んだ|陰謀《いんぼう》を
お|菊《きく》はソツと|両人《りやうにん》の |腹《はら》の|中《なか》まで|推知《すゐち》して
|一寸《ちよつと》|其処《そこ》まで|出《で》て|来《く》ると |甘《うま》くゴマかし|戸《と》の|外《そと》で
スツカリ|様子《やうす》を|窺《うかが》へば |耳《みみ》をペロペロ|動《うご》かして
|尖《とが》つた|口《くち》をしながらも |高姫《たかひめ》さまと|意茶《いちや》ついた
|揚句《あげく》のはてが|小北山《こぎたやま》 |此《この》|神殿《しんでん》をウマウマと
|占領《せんりやう》せむとの|企《たく》みごと |初公《はつこう》、|徳公《とくこう》|両人《りやうにん》を
うまく|抱込《だきこ》み|酒《さけ》|飲《の》まし さうして|之《これ》から|松姫《まつひめ》の
|目《め》を|晦《くら》まして|義理天上《ぎりてんじやう》 |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》と
|居据《ゐすわ》り|泥棒《どろばう》をする|積《つも》り |何程《なにほど》|高姫《たかひめ》|偉《えら》いとて
どうしてどうして|松姫《まつひめ》の |鏡《かがみ》のやうな|魂《たましひ》を
|曇《くも》らすことが|出来《でき》ようか そんな|悪事《あくじ》を|企《たく》むより
|早《はや》く|改悪《かいあく》するがよい |改心《かいしん》するにも|程《ほど》がある
オツトドツコイこりや|違《ちが》うた さはさりながら|高姫《たかひめ》は
|善《ぜん》をば|悪《あく》と|取違《とりちが》へ |悪《あく》をば|善《ぜん》と|確信《かくしん》し
|改心《かいしん》|慢心《まんしん》ゴチヤまぜに なさつて|厶《ござ》るお|方《かた》|故《ゆゑ》
|私《わたし》も|一寸《ちよつと》|其《その》|流儀《りうぎ》 |臨時《りんじ》に|使用《しよう》しましたよ
コレコレもうし|杢《もく》さまえ |蠑〓別《いもりわけ》の|思《おも》ひ|者《もの》
|朝顔《あさがほ》|猪口《ちよく》の|高《たか》さまえ |何程《なにほど》お|前等《まへら》|両人《りやうにん》が
|初《はつ》と|徳《とく》とを|抱込《だきこ》んで うまい|事《こと》をばしようとしても
|忽《たちま》ち|陰謀《いんぼう》|露顕《ろけん》して |逃《に》げていなねばならぬぞや
|松姫《まつひめ》さまがお|前等《まへら》の |詐《いつは》り|言《ごと》を|真《ま》に|受《う》けて
|聞《き》かれたとこが|此《この》お|菊《きく》 |中々《なかなか》|承知《しようち》は|致《いた》さない
|侠客娘《けふかくむすめ》と|名《な》を|取《と》つた |浮木《うきき》の|森《もり》のチヤキチヤキだ
オホホホホホホオホホホホ |窓《まど》から|中《なか》を|眺《なが》むれば
あのマア|詮《つま》らぬ|顔《かほ》ワイナ イヒヒヒヒヒヒイヒヒヒヒ
|杢《もく》ちやま、|高《たか》ちやま|左様《さやう》なら ゆつくり|陰謀《いんぼう》お|企《たく》みよ
あとからあとから|此《この》お|菊《きく》 |叩《たた》きつぶしてゆく|程《ほど》に
|何《なん》だか|知《し》らぬが|杢《もく》さまの |姿《すがた》が|時々《ときどき》|変《かは》り|出《だ》し
|耳《みみ》の|動《うご》くはまだおろか |口《くち》までチヨイチヨイ|尖《とが》り|出《だ》し
|鼻《はな》より|高《たか》うなつてゐる |私《わたし》が|一寸《ちよつと》|首《くび》ひねり
|考《かんが》へました|結末《けつまつ》は |虎《とら》と|獅子《しし》との|混血児《こんけつじ》
|金毛九尾《きんまうきうび》と|御夫婦《ごふうふ》に なつてここまで|小北山《こぎたやま》
|貴《うづ》の|聖場《せいぢやう》を|占領《せんりやう》し |朝《あさ》から|晩《ばん》まで|酒《さけ》のんで
|威張《ゐば》り|散《ち》らさむ|計劃《けいくわく》か |但《ただし》はここに|網《あみ》を|張《は》り
|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|往来《ゆきき》する |数多《あまた》の|信者《しんじや》を|引捉《ひつとら》へ
|堕落《だらく》さした|上《うへ》ウラナイの |醜《しこ》の|教《をしへ》に|引込《ひきこ》んで
|此《この》|世《よ》の|中《なか》を|泥海《どろうみ》に |濁《にご》らし|汚《けが》すつもりだろ
|何程《なにほど》|弁解《べんかい》したとても お|菊《きく》がここにある|限《かぎ》り
お|前《まへ》の|企《たく》みは|駄目《だめ》だぞえ ああ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い
|面白《おもしろ》うなつて|来《き》ましたよ |妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》や
|金毛九尾《きんまうきうび》の|義理天上《ぎりてんじやう》 |鼻高姫《はなたかひめ》の|運《うん》の|尽《つき》
|松姫《まつひめ》さまの|神力《しんりき》と お|千代《ちよ》の|方《かた》の|神懸《かむがかり》
さとき|眼《まなこ》に|睨《にら》まれて |尻尾《しつぽ》を|出《いだ》しスタスタと
|忽《たちま》ち|此《この》|場《ば》を|駆出《かけだ》すは |鏡《かがみ》にかけて|見《み》るやうだ
|悪魔《あくま》がそんな|扮装《なり》をして |大日《おほひ》の|照《て》るのに|吾々《われわれ》を
|化《ば》かそとしても|反対《あべこべ》に |化《ば》けが|現《あら》はれ|舌《した》かんで
|旭《あさひ》に|打《う》たれて|消《き》えるだろ それ|故《ゆゑ》お|前《まへ》|杢助《もくすけ》は
|祠《ほこら》の|森《もり》にゐた|時《とき》ゆ |日輪様《にちりんさま》の|照《て》る|所《とこ》へ
|一度《いちど》も|出《で》たこたないぢやないか たまたま|外《そと》へ|出《で》た|時《とき》は
|日蔭《ひかげ》の|深《ふか》き|森《もり》の|中《なか》 |初稚姫《はつわかひめ》の|伴《ともな》ひし
スマートさまにやらはれて ビリビリ|慄《ふる》うてゐただらう
お|菊《きく》はチツとも|知《し》らないが |何《なん》だか|知《し》らぬが|腹《はら》の|中《なか》
グルグルグルと|玉《たま》ころが |喉元《のどもと》|迄《まで》もつきつめて
|妙《めう》な|事《こと》をば|云《い》ひますぞ これこれ|高姫《たかひめ》、|杢《もく》さまよ
|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》|両人《りやうにん》よ |胸《むね》に|手《て》をあて|思案《しあん》して
|臍《ほぞ》をかむよな|事《こと》をすな |誠《まこと》の|日《ひ》の|出《で》の|義理天上《ぎりてんじやう》
お|菊《きく》の|体《たい》をかりまして |四人《よにん》の|獣《けもの》に|気《き》をつける
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |目玉《めだま》|飛《と》び|出《だ》しましませよ
アハハハハハハアハハハハ オホホホホホホオホホホホ』
と|歌《うた》ひ|了《をは》り、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|青葉《あをば》の|芽《め》ぐむ|森林《しんりん》の|中《なか》へ|脱兎《だつと》の|如《ごと》く|身《み》を|隠《かく》して|了《しま》つた。
|妖幻《えうげん》『オイ|高姫《たかひめ》、ありや|気違《きちが》ひぢやないか。|困《こま》つた、|此処《ここ》には【モノ】が|居《を》るぢやないか。あんな|事《こと》を|言《い》はしておきや、|数多《あまた》の|信者《しんじや》を|迷《まよ》はすかも|知《し》れない。|何《なん》とかして、|窘《たしな》めてやらねばなるまいぞ』
|高姫《たかひめ》『|本当《ほんたう》に、|仕方《しかた》のない|奴《やつ》ですワ、|松姫《まつひめ》さまも、なぜあんな|気違《きちが》ひを|置《お》いとくのだらうなア。コレ|初公《はつこう》さま、いつも、あのお|菊《きく》はあんな|事《こと》を|言《い》ふのかい』
|初《はつ》『ヘー、|随分《ずいぶん》|誰《たれ》にでもヅケヅケといふ|女《をんな》ですよ。|併《しか》しながら|今日《けふ》みたいな|悪口《わるくち》|云《い》つたこた、まだ|聞《き》きませぬな、あの|女《をんな》の|云《い》ふ|事《こと》は、|比較的《ひかくてき》|正確《せいかく》だとの|定評《ていひやう》があります』
『|定評《ていひやう》があると|云《い》ふからには、お|前達《まへたち》は|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》を|怪《あや》しいものと|観察《くわんさつ》してゐるのかい』
『ヘー、|別《べつ》に……|怪《あや》しいとは|思《おも》ひませぬ。|只《ただ》|貴方《あなた》|等《がた》|両人《りやうにん》の|仲《なか》は、ヘヘヘヘ、チと|怪《あや》しくないかと|直覚《ちよくかく》|致《いた》しました、|違《ちが》ひますかな』
『|杢助《もくすけ》さまと|夫婦《ふうふ》になつたのが、|何《なに》が|怪《あや》しいのだ。|神《かみ》と|神《かみ》との|許《ゆる》し|給《たま》うた|結構《けつこう》な|生宮《いきみや》だぞえ。|神《かみ》だとて|夫婦《ふうふ》がなければ、|陰陽《いんやう》の|水火《いき》が|合《あ》はないから、|天地造化《てんちざうくわ》の|神業《しんげふ》が|成功《せいこう》せないぢやないか』
『ヤ、さうキツパリと|承《うけたま》はりますれば、|今後《こんご》は|其《その》|考《かんが》へでお|仕《つか》へ|致《いた》します。さうすると|杢助様《もくすけさま》は|貴女《あなた》の|旦那《だんな》で|厶《ござ》いますか。よくお|似合《にあ》ひました|夫婦《ふうふ》で|厶《ござ》います。ヘヘヘヘ、イヤもうお|目出度《めでた》う、それでは|今日《けふ》は|御婚礼《ごこんれい》の|御披露《ごひろう》の|酒《さけ》とも|申《まを》すべきものですな、ドツサリ|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しませう。|誠《まこと》に|御馳走《ごちそう》さまで』
|徳《とく》『オイ、|初《はつ》ウ、さう|御礼《おれい》を|言《い》ふに|及《およ》ばぬぢやないか、お|酒《さけ》も|御馳走《ごちそう》の|材料《ざいれう》も、|皆《みな》|小北山《こぎたやま》の|物《もの》でしたのなり、|料理《れうり》も|俺達《おれたち》|二人《ふたり》がしたのだ。そして|新夫婦《しんふうふ》に、こちらから|振舞《ふるま》つてゐるのだから、|御馳走《ごちそう》さまも|何《なに》もあつたものかい、|先方《むかふ》の|方《はう》から|礼《れい》を|云《い》つたら|可《い》いのだ』
|高姫《たかひめ》『コレ、|徳《とく》とやら、お|前《まへ》の|云《い》ふ|事《こと》は|一応《いちおう》|理窟《りくつ》があるやうだが、それは|神界《しんかい》の|事《こと》の|解《わか》らぬ|八衢人間《やちまたにんげん》の|云《い》ふ|理窟《りくつ》だぞえ。|現界《げんかい》の|理窟《りくつ》は|霊界《れいかい》には|通《つう》じませぬぞや。かうして|御馳走《ごちそう》が|出来《でき》るやうになつたのも、|皆《みな》|天上《てんじやう》から|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》が|御光《みひかり》を|投《な》げ|与《あた》へ、|雨露《あめつゆ》を|降《ふ》らして|下《くだ》さるお|蔭《かげ》で、|五穀《ごこく》、さわもの、|菜園物《しやゑんもの》|一切《いつさい》が|出来《でき》てるぢやないか、|其《その》|生神様《いきがみさま》にお|給仕《きふじ》さして|頂《いただ》くお|前《まへ》は|誠《まこと》に|結構《けつこう》だ。|神《かみ》の|方《はう》から|御礼《おれい》|申《まを》すといふ|理窟《りくつ》がどこにあるものかい。チツとお|前《まへ》も|神界《しんかい》の|勉強《べんきやう》をしなさい、さうすりや、そんな|小言《こごと》は|云《い》はないやうになつて|了《しま》ひますよ』
|徳《とく》『ヘー、|何《なん》とマア|都合《つがふ》の|好《い》い|教理《けうり》で|厶《ござ》いますこと』
『コレ、お|前《まへ》は|義理天上《ぎりてんじやう》の|云《い》ふ|事《こと》が、どうしても|腹《はら》へ|入《はい》らぬのかなア』
『ヘー、さう|俄《には》かに|入《はい》りにくう|厶《ござ》います。|何分《なにぶん》お|酒《さけ》や|御飯《ごはん》で|格納庫《かくなふこ》が|充実《じうじつ》してゐますから、|今《いま》の|所《ところ》では|余地《よち》が|厶《ござ》いませぬ』
『|何《なん》とマア|盲《めくら》ばかりだなア、そら|其《その》|筈《はず》だ、|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》の|霊《みたま》と、|八衢人間《やちまたにんげん》の|霊《みたま》とだから|無理《むり》もない、お|前《まへ》さまもチツと|之《これ》から|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》の|筆先《ふでさき》を|読《よ》みなさい。さうすれば|三千世界《さんぜんせかい》の|事《こと》が|見《み》えすくやうになるだらう、コレ|初《はつ》さまえ、お|前《まへ》はチツと|賢《かしこ》さうな|顔《かほ》してるが、|高姫《たかひめ》のいふ|事《こと》が|分《わか》つたかなア』
|初《はつ》『ハイ、|仰《おほ》せの|通《とほ》り、|此《この》お|土《つち》の|上《うへ》に|出来《でき》たものは|皆《みな》|神様《かみさま》のお|力《ちから》で|厶《ござ》います。|何程《なにほど》|立派《りつぱ》な|人間《にんげん》でも、|菜《な》の|葉《は》|一枚《いちまい》|生《う》み|出《だ》すことは|出来《でき》ませぬ、|仰《おほ》せ|御尤《ごもつと》もだと|考《かんが》へます』
『|成程《なるほど》、お|前《まへ》は|偉《えら》いわい、|之《これ》から|杢助様《もくすけさま》の|片腕《かたうで》にして|上《あ》げるから、どうだ|嬉《うれ》しうないか、|結構《けつこう》だらうがな。|何《なん》といつても|三五教《あななひけう》の|三羽烏《さんばがらす》の|一人《いちにん》、|時置師神《ときおかしのかみ》|様《さま》だぞえ』
『ハイ、|身《み》に|余《あま》る|光栄《くわうえい》で|厶《ござ》います。オイ、|徳《とく》、|貴様《きさま》も|改心《かいしん》して、|結構《けつこう》だといはぬかい……|否《いな》|改悪《かいあく》して、|貴女《あなた》の|仰有《おつしや》る|通《とほ》りだ、と、|心《こころ》はどうでもいい、いつておかぬかい。|社交《しやかう》の|下手《へた》な|奴《やつ》だなア』
|徳《とく》『それなら|高姫《たかひめ》さまの|御説《おせつ》に、ドツと|改悪《かいあく》して|賛成《さんせい》|致《いた》します。|何卒《どうぞ》|宜《よろ》しう|御願《おねが》ひ|申《まを》します』
『|心《こころ》からの|改心《かいしん》でなければ|駄目《だめ》だぞえ。ウツフフフフ、コレ|杢助《もくすけ》さま、|人民《じんみん》を|改心《かいしん》さすのは|高姫《たかひめ》に|限《かぎ》りませうがな』
|妖幻坊《えうげんばう》は|俄《にはか》に|体《からだ》が|震《ふる》ひ|出《だ》した。|窓《まど》の|外《そと》を|一寸《ちよつと》|覗《のぞ》いて|見《み》ると、|猛犬《まうけん》が|矢《や》の|如《ごと》く|階段《かいだん》を|登《のぼ》つて、|松姫館《まつひめやかた》の|方《はう》へ|姿《すがた》を|隠《かく》した。|高姫《たかひめ》はアツと|一声《ひとこゑ》、ドスンと|腰《こし》を|下《おろ》し、|目《め》を|白黒《しろくろ》してゐる。|妖幻坊《えうげんばう》も|亦《また》|冷汗《ひやあせ》をズツポリかき、ガタガタと|震《ふる》ひ|戦《をのの》くこと|益々《ますます》|甚《はなはだ》しい。
(窓外白雪皚々たり 大正一二・一・二五 旧一一・一二・九 松村真澄録)
第三章 |犬馬《けんば》の|労《らう》〔一三一八〕
|松姫《まつひめ》は|各神社《かくじんしや》の|拝礼《はいれい》を|終《をは》り、|吾《わが》|居間《ゐま》に|入《い》つて|神書《しんしよ》を|調《しら》べてゐた。そこへお|千代《ちよ》は|慌《あわただ》しく|帰《かへ》り|来《きた》り、|門口《かどぐち》の|戸《と》をピシヤツと|閉《し》め、|中《なか》からツツパリをかうた。|松姫《まつひめ》は|之《これ》を|見《み》て|怪《あや》しみ、
『これ、お|千代《ちよ》、|夜分《やぶん》か|何《なん》ぞの|様《やう》に、|何故《なぜ》|戸《と》にツツパリをしたり|等《など》なさるのだい』
|千代《ちよ》『ハイ、|今《いま》|怪体《けたい》なド|倒《たふ》しものが|来《き》たのですよ。|何《いづ》れ|此処《ここ》にも|来《く》るか|知《し》れませぬから、|来《き》たら|入《い》れない|様《やう》にしてゐるのですよ』
『|昼《ひる》の|最中《もなか》に|戸《と》を|閉《し》めてツツパリかふ|等《など》とは|可笑《をか》しいぢやありませぬか。|大方《おほかた》|昼泥棒《ひるどろぼう》の|連中《れんちう》が|隊《たい》を|組《く》んで|来《き》たのかい。|構《かま》はぬぢやないか。ここは|神様《かみさま》が|厶《ござ》るから、|何《なに》が|来《き》たつて|大丈夫《だいぢやうぶ》だよ』
『|何《なに》、お|母《かあ》さま、|泥棒《どろばう》|位《くらゐ》なら|一寸《ちよつと》も|構《かま》やしないが|大化物《おほばけもの》が|来《き》たのだよ。|今《いま》お|菊《きく》さまと|桃《もも》の|木《き》の|下《した》で|遊《あそ》んでゐたら、|一人《ひとり》は|高姫《たかひめ》だと|云《い》つて|嫌《いや》らしい|顔《かほ》した|女《をんな》、|又《また》|一人《ひとり》は|大《おほ》きな|男《をとこ》で|耳《みみ》がペロペロ|動《うご》いてゐるのよ。|屹度《きつと》あれは|化物《ばけもの》に|違《ちが》ひありませぬ。お|母《かあ》さまをちよろまかさうと|思《おも》つて|来《き》たのだらうから、|屹度《きつと》|会《あ》つちやいけませぬよ。それで|私《わたし》が|急《いそ》いで|帰《かへ》つて|戸《と》を|閉《し》めたのです』
『|高姫《たかひめ》さまと|云《い》へば|蠑〓別《いもりわけ》さまのお|師匠様《ししやうさま》だ。そして|今《いま》は|三五教《あななひけう》の|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》、|何《なに》しに|又《また》|案内《あんない》もなしに|突然《とつぜん》お|越《こ》しになつたのだらうか。ハテ、|如何《どう》も|不思議《ふしぎ》だ。|昨夜《ゆうべ》も|昨夜《ゆうべ》で|妙《めう》な|夢《ゆめ》を|見《み》たのだが、ヒヨツとしたら|化物《ばけもの》ぢやなからうか。いやいや|昼間《ひるま》に|此《この》|神聖《しんせい》な|場所《ばしよ》へ|化物《ばけもの》がやつて|来《く》る|筈《はず》がない。いや|高姫《たかひめ》さまなら|会《あ》はずばなるまい。ハテ、|不思議《ふしぎ》だな』
と|云《い》つて|首《くび》をかたげている。
|千代《ちよ》『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|高姫《たかひめ》さまなら、もちと|品格《ひんかく》がありさうなものですよ。それはそれは|下品《げひん》な……|何《なん》とも|云《い》へぬ|賤《さも》しい|姿《すがた》で、|一目《ひとめ》|見《み》てもゾゾ|毛《げ》が|立《た》つ|様《やう》な|女《をんな》でしたよ。そして|連《つら》つてゐる|男《をとこ》は|半鐘泥棒《はんしようどろぼう》の|様《やう》な|不恰好《ぶかつかう》な、|怪体《けたい》な|面《つら》した|奴《やつ》ですよ。|如何《どう》しても|私《わたし》の|目《め》には|人間《にんげん》とは|見《み》えませぬわ。|全《まつた》く|妖怪《えうくわい》ですよ』
|松姫《まつひめ》『ハテ、|妙《めう》な|事《こと》を|云《い》ふぢやないか。そして|受付《うけつけ》の|文助《ぶんすけ》さまは|何《なん》とか|云《い》つてゐただらうな』
『|文助《ぶんすけ》さまは|何《なん》だか、|高姫《たかひめ》と|云《い》ふ|怪体《けたい》な|女《をんな》と|話《はなし》をして|居《を》りましたが、|一度《いちど》|松姫《まつひめ》|様《さま》に|申《まを》し|上《あ》げて|来《く》ると|申《まを》して|居《を》りましたよ。それを|聞《き》いたものだから、|文助《ぶんすけ》の|様《やう》な|盲《めくら》が、|何《なに》も|分《わか》らずにお|母《かあ》さまに、せうもない|事《こと》を|云《い》つて|告《つ》げようものなら|大変《たいへん》だと|思《おも》つて、|一歩先《ひとあしさき》に|知《し》らしに|帰《かへ》つて|来《き》ましたの。お|母《かあ》さま、|屹度《きつと》あの|二人《ふたり》に|会《あ》つちやいけませぬぜ』
『それだと|云《い》つて、|神様《かみさま》のお|道《みち》では|何《ど》んな|方《かた》にでも|会《あ》はなけりやいかぬぢやないか。|仮令《たとへ》|化物《ばけもの》でも|曲津《まがつ》でも、|神様《かみさま》の|教《をしへ》を|説《と》き|聞《き》かして|改心《かいしん》さしてやりさへすれば|宜《い》いぢやありませぬか』
『だつてあんな|奴《やつ》、|何《なに》を|企《たく》むか|知《し》れやしないわ。お|母《かあ》さまが|何《なん》と|云《い》つても、お|千代《ちよ》はあんな|化物《ばけもの》は|入《い》れませぬよ』
『マア|何事《なにごと》も|私《わたし》に|任《まか》しておきなさい。お|前《まへ》さまは|未《ま》だ|子供《こども》だから、さう|一《ひと》つ|一《ひと》つ|嘴《くちばし》を|容《い》れるものぢやありませぬぞや』
|斯《か》く|親子《おやこ》が|話《はな》してゐる|処《ところ》へ、|門口《かどぐち》の|戸《と》をポンポンと|叩《たた》く|音《おと》がする。|之《これ》は|受付《うけつけ》の|文助《ぶんすけ》が|高姫《たかひめ》の|来《き》た|事《こと》を|松姫《まつひめ》に|報告《はうこく》のためであつた。
|文助《ぶんすけ》は|戸《と》の|外《そと》から、
『もしもし、|松姫《まつひめ》|様《さま》、|文助《ぶんすけ》で|厶《ござ》ります。|一寸《ちよつと》|門口《かどぐち》を|開《あ》けて|下《くだ》さいませぬか。|急用《きふよう》が|厶《ござ》りまして|御相談《ごさうだん》に|参《まゐ》りました』
『ハイ、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さいませ。|子供《こども》が|悪戯《いたづら》|致《いた》しまして……|今《いま》|直《すぐ》に|開《あ》けますから……これお|千代《ちよ》、|早《はや》く|門《かど》を|開《あ》けぬかいな』
『お|母《かあ》さま、|門《かど》を|開《あ》けたら|文助《ぶんすけ》が|這入《はい》つて|来《き》ますよ』
『|這入《はい》つて|厶《ござ》る|様《やう》に|開《あ》けるのぢやないか』
『だつてお|母《かあ》さま、|文助《ぶんすけ》の|云《い》ふ|事《こと》に|巻込《まきこ》まれちやいけませぬよ。あの|爺《ぢい》は|化物《ばけもの》にひどう|感心《かんしん》してゐた|様《やう》ですから……』
と|云《い》ひながらツツパリを|取外《とりはづ》しガラリと|開《あ》けた。|文助《ぶんすけ》はヨボヨボとしながら|閾《しきゐ》を|跨《また》げ、|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》してゐる。されど|松姫《まつひめ》の|姿《すがた》はハツキリ|見《み》えなかつた。|只《ただ》|目《め》が|悪《わる》いので、|声《こゑ》をしるべに|話《はなし》するより|仕方《しかた》がないのである。|松姫《まつひめ》は、
『さア|何卒《どうぞ》お|上《あが》りなさいませ』
と|座蒲団《ざぶとん》を|出《だ》し|文助《ぶんすけ》の|手《て》を|取《と》つて|坐《すわ》らせた。
|文助《ぶんすけ》『アーア、|年《とし》が|寄《よ》つて|目《め》が|不自由《ふじゆう》なのも|厄介《やくかい》なものですわい』
『それだつて|貴方《あなた》は|心眼《しんがん》が|開《ひら》けてゐるのですもの、|結構《けつこう》ですわ。|目《め》が|見《み》えないと|云《い》つても、あれ|位《くらゐ》な|綿密《めんみつ》な|絵《ゑ》が|書《か》けるから|結構《けつこう》ぢやありませぬか。|時《とき》に|文助《ぶんすけ》さま、|何《なに》か|急用《きふよう》でも|出来《でき》たので|厶《ござ》りますのか』
『ハイ、|折入《をりい》つて|貴女《あなた》と|御相談《ごさうだん》を|申《まを》し|上《あ》げたい|事《こと》が|突発《とつぱつ》|致《いた》しました。|実《じつ》にお|気《き》の|毒《どく》で……|何《なに》から|云《い》つてよいやら、|地異天変《ちゐてんぺん》、|言葉《ことば》の|出《だ》しやうも|厶《ござ》りませぬ』
お|千代《ちよ》は|側《そば》から、
『これ|文助《ぶんすけ》さま、|駄目《だめ》よ。|彼奴《あいつ》ア|化物《ばけもの》だから、お|前《まへ》が|騙《だま》されて|居《ゐ》るのだ。お|母《かあ》さまに|何《なに》も|言《い》ふぢやありませぬよ。さアさア トツトとお|帰《かへ》り。|足許《あしもと》が|危《あぶ》なけりや、お|千代《ちよ》が|手《て》を|曳《ひ》いて|上《あ》げませう』
|松姫《まつひめ》『これお|千代《ちよ》、|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》を|仰有《おつしや》るのだい。お|前《まへ》は|子供《こども》だから|黙《だま》つて|居《を》りなさい。|文助《ぶんすけ》さま、こらへて|下《くだ》さいや。|如何《どう》も|此《こ》の|子《こ》は|教育《けういく》が|出来《でき》て|居《ゐ》ないから|困《こま》つたものです。お|菊《きく》さまと|好一対《かういつつゐ》です。|遊《あそ》ぶ|友達《ともだち》が|悪《わる》いとサツパリ|感化《かんくわ》されて|了《しま》ひます。|本当《ほんたう》に|親《おや》も|迷惑《めいわく》してゐますのよ。|時《とき》に|文助《ぶんすけ》さま、お|気《き》の|毒《どく》だとは|何事《なにごと》ですか』
『ハイ、|実《じつ》は|高姫《たかひめ》さまが|見《み》えまして|厶《ござ》ります。そして|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|総務《そうむ》|杢助様《もくすけさま》までがおいでになり、|何者《なにもの》か|貴女《あなた》の|悪口《あくこう》を|申《まを》したものと|見《み》えて、|貴女《あなた》は|今日《けふ》|限《かぎ》り|教主《けうしゆ》の|役《やく》を|解《と》き、|高姫《たかひめ》|様《さま》が|教主《けうしゆ》となり、|杢助様《もくすけさま》が|出張《しゆつちやう》して|監督《かんとく》をなさる|事《こと》になつたのだと|云《い》つて、|今《いま》|下《した》に|見《み》えて|居《を》ります。|誠《まこと》に|長《なが》らくお|世話《せわ》になりましたが、|貴女様《あなたさま》とはお|別《わか》れせなくちやならぬかと|思《おも》へば|実《じつ》にお|名残《なごり》|惜《を》しう|厶《ござ》ります』
|松姫《まつひめ》は|平然《へいぜん》として、
『ホホホホホ、|何《なに》か|大変事《だいへんじ》が|起《おこ》つたかと|思《おも》へば、そんな|事《こと》ですかな。そりや|結構《けつこう》です。|妾《わたし》も|実《じつ》は|此処《ここ》を|立退《たちの》いて、|夫《をつと》と|共《とも》に|大活動《だいくわつどう》をして|見《み》たかつたのです、|併《しか》しながら|已《や》むを|得《え》ず|今日《けふ》まで|勤《つと》めて|居《を》りました。そりや|本当《ほんたう》に|結構《けつこう》ですわ』
『それを|聞《き》いて|私《わたし》も|一寸《ちよつと》|安心《あんしん》|致《いた》しました。いや|如何《どう》も|上《うへ》のお|方《かた》の|心《こころ》と|云《い》ふものは|分《わか》らぬものですな。さうなくちやかなひますまい。|桜《さくら》は|夜《よる》の|嵐《あらし》にうたれて|一《ひと》つも|残《のこ》らず|潔《いさぎよ》く|散《ち》るのが|誉《ほまれ》だと|聞《き》きました。イヤ|天晴《あつぱれ》|々々《あつぱれ》、|見上《みあ》げたお|志《こころざし》、|実《じつ》に|感《かん》じ|入《い》りました』
と|袖《そで》に|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》うてゐる。お|千代《ちよ》は|側《そば》から、
『これ、|文助《ぶんすけ》さま、お|前《まへ》は|盲《めくら》だから|化物《ばけもの》に|騙《だま》されてゐるのだよ。お|母《かあ》さままでが、|何《なん》ですか、あんな|奴《やつ》が|来《き》たと|云《い》つて|此処《ここ》を|飛《と》び|出《だ》す|積《つも》りですか。|未《ま》だ|斎苑《いそ》の|館《やかた》から|何《なん》とも|御沙汰《ごさた》がないぢやありませぬか。|仮令《たとへ》|何《ど》んな|方《かた》が|見《み》えても|相手《あひて》になつちやいけませぬよ。|此《この》|間《あひだ》もお|寅《とら》さまが|魔我彦《まがひこ》を|連《つ》れて|行《ゆ》かれてから、もう|四五十日《しごじふにち》になるのに、|何《なん》の|沙汰《さた》もないぢやありませぬか。|同《おな》じ|斎苑《いそ》の|館《やかた》から|見《み》えるのだから、|八島主《やしまぬし》の|神様《かみさま》から|御内報《ごないほう》がある|筈《はず》、|又《また》|魔我彦《まがひこ》さまからも|何《なん》とか|知《し》らせがある|筈《はず》です。|先《ま》づトツクリと|調《しら》べた|上《うへ》でないと、えらい|目《め》に|遭《あ》はされますよ』
|松姫《まつひめ》『いかにもさうだな。お|前《まへ》の|云《い》ふのも|一理《いちり》がある。いや|文助《ぶんすけ》さま、|何《なに》か|其《その》|高姫《たかひめ》さまは|斎苑《いそ》の|館《やかた》から|辞令《じれい》でも|持《も》つて|来《き》て|厶《ござ》るか。それとも|教主様《けうしゆさま》か|魔我彦《まがひこ》さまの|手紙《てがみ》でも|御所持《ごしよぢ》か、それを|聞《き》いて|来《き》て|下《くだ》さいな』
『ハイ、|聞《き》いて|参《まゐ》りませうが、|何《なに》を|云《い》つても|三羽烏《さんばがらす》の|一人《いちにん》|時置師《ときおかし》の|神様《かみさま》が|御出張《ごしゆつちやう》になつてゐるのだから、|尋《たづ》ねるにも|及《およ》びますまい。|外《ほか》の|方《かた》なら|兎《と》に|角《かく》、|何《なん》と|云《い》つても|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|総務《そうむ》さまだから、|尋《たづ》ねない|方《はう》が|宜《よ》いでせう』
|千代《ちよ》『これ|文助《ぶんすけ》さま、お|前《まへ》がよう|尋《たづ》ねにや|私《わたし》が|之《これ》から|行《い》つて、|本真物《ほんまもの》か、|偽物《にせもの》か、|検査《けんさ》をして|来《き》ますわ。お|母《かあ》さま、それで|宜《い》いでせう』
『これこれお|千代《ちよ》、|何《なに》を|云《い》ふのだ。お|前《まへ》は|今日《けふ》は|何《なん》にも|云《い》つちやなりませぬぞや。|母《はは》が|箝口令《かんこうれい》を|布《し》きますぞや』
『だつて|千騎一騎《せんきいつき》の|此《この》|場合《ばあひ》、お|母《かあ》さまの|箝口令《かんこうれい》|位《くらゐ》で|閉口《へいこう》|出来《でき》ますか』
『ああ|困《こま》つた|娘《むすめ》だな』
『ああ|困《こま》つたお|母《かあ》さまだな』
|文助《ぶんすけ》『|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》たものだな』
|千代《ちよ》『ハツハハハハ』
と|笑《わら》ふ|声《こゑ》を|外《そと》から|聞《き》きつけて|這入《はい》つて|来《き》たのはお|菊《きく》であつた。
『お|千代《ちよ》さま、|何《なに》が|可笑《をか》しいの、よく|笑《わら》つてゐますね』
『お|菊《きく》さまか、よう|来《き》て|下《くだ》さいました。|今《いま》ね、|文助《ぶんすけ》さまが|出《で》て|来《き》て、あの|化物《ばけもの》を|杢助《もくすけ》さまだ、|高姫《たかひめ》さまだと|云《い》つてゐますのよ。それをお|母《かあ》さまが|本当《ほんたう》にしてるのだもの、|可笑《をか》しうて|堪《たま》らないわ』
『|本当《ほんたう》にね。|怪体《けたい》な|奴《やつ》が|来《き》たものですわ。|私《あた》い|高姫《たかひめ》と|云《い》つたら、もつと|立派《りつぱ》な|小母《をば》さまと|思《おも》つてゐたのに、まるで|化物《ばけもの》だわ。|杢助《もくすけ》さまだと|云《い》つてるが|獣《けだもの》の|様《やう》に|耳《みみ》がペロペロ|時々《ときどき》|動《うご》くのだもの。|何《なん》でも|彼奴《あいつ》ア|可笑《をか》しい|化《ばけ》さまですよ。|然《しか》しあの|婆《ばば》が「|私《わたし》は|高姫《たかひめ》だ、|松姫《まつひめ》さまの|師匠《ししやう》だから|早《はや》く|呼《よ》んで|来《こ》い」と|云《い》つたので|仕方《しかた》なしに|来《き》たのよ。もし|松姫《まつひめ》さま、あんな|奴《やつ》に|会《あ》つちやいけませぬよ。|然《しか》し|何《なん》とか|返事《へんじ》をせなくちやなりませぬから、|一寸《ちよつと》|御報告《ごほうこく》|旁《かたがた》やつて|来《き》ましたの』
|松姫《まつひめ》『それは、まアよう|来《き》て|下《くだ》さつた。お|菊《きく》さま、お|前《まへ》|怪《あや》しいと|思《おも》つたのかい』
『|如何《どう》も|可笑《をか》しい|奴《やつ》ですわ。キツト、ありや|贋《にせ》ですよ』
『お|菊《きく》さま、それなら|貴女《あなた》|御苦労《ごくらう》だが、その|高姫《たかひめ》さまとやらに|斯《か》う|云《い》つて|下《くだ》さいね、「|今《いま》|松姫《まつひめ》は|神様《かみさま》の|御用《ごよう》の|最中《さいちう》だから、|済《す》み|次第《しだい》お|目《め》にかかります。それまで|教主館《けうしゆやかた》で、お|酒《さけ》なつと|飲《あが》つて|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さい」と|私《わたし》が|云《い》つたと|伝《つた》へて|下《くだ》さいね。|文助《ぶんすけ》さまも|一緒《いつしよ》に|帰《かへ》つて|下《くだ》さい。そして|粗忽《そそう》のない|様《やう》にもてなしを|頼《たの》みますよ』
|文助《ぶんすけ》『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました。サアお|菊《きく》さま、|帰《かへ》りませう』
とお|菊《きく》に|手《て》を|曳《ひ》かれコチコチと|階段《かいだん》を|下《くだ》つて|行《ゆ》く。|後《あと》にお|千代《ちよ》は|声《こゑ》を|潜《ひそ》めて、
『お|母《かあ》さま、|高姫《たかひめ》は|本当《ほんたう》のよ。けれど|後《あと》からついて|来《き》た|杢助《もくすけ》と|云《い》ふのは|屹度《きつと》|化物《ばけもの》よ。その|積《つも》りでつき|合《あ》はなくちやいけませぬよ』
『そんな|事《こと》、どうしてお|前《まへ》に|分《わか》つたのかい』
『それでも、|私《わたし》の|耳許《みみもと》でエンゼルが|囁《ささや》いて|下《くだ》さいましたもの。お|母《かあ》さまによく|気《き》をつける|様《やう》にと|云《い》はれましたよ』
『お|前《まへ》は|時々《ときどき》エンゼルの|御降臨《ごかうりん》があるのですから|本当《ほんたう》に|重宝《ちようほう》な|体《からだ》ね。そして|其《その》|化物《ばけもの》は|何物《なにもの》だと|仰有《おつしや》つたかい』
『あれは|妖幻坊《えうげんばう》と|云《い》ふ|兇党界《きようたうかい》の|相当《さうたう》の|位地《ゐち》を|占《し》めてる|大悪魔《だいあくま》ださうです。|然《しか》し|日輪様《にちりんさま》を|恐《おそ》れる|事《こと》が|非常《ひじやう》なもので、|昼《ひる》|歩《ある》く|時《とき》は|深編笠《ふかあみがさ》を|被《かぶ》り、|中々《なかなか》|外《そと》へは|出《で》ないさうですよ。|昼間《ひるま》は|何時《いつ》も|森《もり》の|中《なか》で|寝《ね》てると|云《い》ふ|事《こと》ですわ。その|妖幻坊《えうげんばう》に|高姫《たかひめ》さまが|化《ば》かされて、|又《また》|義理天上《ぎりてんじやう》をふり|廻《まは》してゐるのだから|尚々《なほなほ》|始末《しまつ》が|悪《わる》いのよ』
『ハテ、|困《こま》つた|事《こと》だな。|何《なん》とか|工夫《くふう》があるまいかな』
『お|母《かあ》さま、|屹度《きつと》|会《あ》つちやいけませぬよ。そして|高姫《たかひめ》は|自分《じぶん》|勝手《かつて》に、|此処《ここ》の|教主《けうしゆ》だと|云《い》つてるのですよ。|斎苑《いそ》の|館《やかた》からお|沙汰《さた》のあるまで|動《うご》いちやいけませぬぞえ。お|母《かあ》さまは|小北山《こぎたやま》の|神司《かむづかさ》だから、|誰《たれ》に|指一本《ゆびいつぽん》さへられる|体《からだ》ぢやありませぬからね。|屹度《きつと》|調《しら》べて|見《み》たら、|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|書付《かきつけ》は|持《も》つてゐない|事《こと》はきまつてゐますわ。それで|面白《おもしろ》いから、|一遍《いつぺん》|調《しら》べてやらうと|思《おも》つたのよ』
『そんな|要《い》らぬ|事《こと》をせなくてもいいぢやないか。|高姫《たかひめ》さまに|恥《はぢ》をかかさない|様《やう》にして、なるべく|御改心《ごかいしん》を|遊《あそ》ばす|様《やう》に|真心《まごころ》を|尽《つく》して|御意見《ごいけん》を|申上《まをしあ》げるのだな。お|前《まへ》も|出過《です》ぎた|事《こと》は|云《い》はない|様《やう》にして|下《くだ》さいや』
『それでも|余《あま》り|馬鹿《ばか》にしてゐるのだもの、ちつとは|言《い》ひたくなつて|来《く》るのよ。|一遍《いつぺん》|神様《かみさま》を|拝《をが》ましてやつたら|吃驚《びつくり》するだらうね。それを|見《み》るのが|楽《たの》しみだわ』
『|何《なん》とまア|口《くち》の|悪《わる》い|子《こ》だな。|人《ひと》がビツクリするのが、お|前《まへ》はそれ|程《ほど》|面白《おもしろ》いのかい。|困《こま》つたお|転婆《てんば》だな』
『それでも|世《よ》の|中《なか》を|誑《たぶら》かし|人《ひと》を|苦《くる》しめ、|大神様《おほかみさま》の|道《みち》を|妨害《ばうがい》する|悪魔《あくま》だから、チツとは|懲《こら》しめてやらなくちや、|神様《かみさま》にお|仕《つか》へしてゐるお|母《かあ》さまの|役《やく》も|済《す》みますまい。|私《わたし》だつて|化物《ばけもの》を|看過《かんくわ》しちや|職務不忠実《しよくむふちうじつ》と|云《い》ふものですわ。こんな|時《とき》こそは|審神《さには》を|充分《じうぶん》しなくちやなりませぬわ』
『|併《しか》し|高姫《たかひめ》さまは|本物《ほんもの》だとあれば、|私《わたし》の|大恩《だいおん》ある|御師匠様《おししやうさま》、お|目《め》にかかつて|御挨拶《ごあいさつ》を|申上《まをしあ》げねばなるまい。そして|其《その》|様《やう》な|悪魔《あくま》に|騙《だま》されて|居《を》りなさるなら、|気《き》をつけて|上《あ》げなくちや|師弟《してい》の|役《やく》が|済《す》むまい。ああ|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》たものだ』
|斯《か》く|話《はな》す|所《ところ》へ|尾《を》をふつて|潔《いさぎよ》く|這入《はい》つて|来《き》たのは|巨大《きよだい》なる|猛犬《まうけん》であつた。|見《み》れば|首《くび》たまに|何《なに》か|手紙《てがみ》の|様《やう》なものが|下《さが》つて|居《ゐ》る。
|松姫《まつひめ》『ア、これは|何処《どこ》からか|手紙《てがみ》を|持《も》つてお|使《つか》ひに|来《き》たのだな。これこれお|犬《いぬ》さま、|何処《どこ》からか|知《し》らぬが|御苦労《ごくらう》だつたな。どれどれ、お|手紙《てがみ》を|見《み》せて|頂《いただ》きませう』
とやさしく|云《い》ひながら|二《ふた》つ|三《みつ》つ|首《くび》の|辺《あた》りを|撫《な》でて|可愛《かあい》がり、|括《くく》りつけた|手紙《てがみ》を|取《と》り、|上書《うはがき》を|見《み》れば、「|小北山《こぎたやま》の|神司《かむづかさ》|松姫《まつひめ》|様《さま》へ、|祠《ほこら》の|森《もり》に|於《おい》て、|初稚姫《はつわかひめ》より」と|記《しる》してある。
『ああ|之《これ》は|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》の|御手紙《おてがみ》だ。|何《なに》か|変《かは》つた|事《こと》が|出来《でき》たのかな。これお|千代《ちよ》や、|一寸《ちよつと》|門口《かどぐち》を|閉《し》めて|下《くだ》さい。|秘密《ひみつ》の|御用《ごよう》かも|知《し》れないから』
お|千代《ちよ》は|外《そと》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》し、|誰《たれ》も|出《で》て|来《こ》ないので|安心《あんしん》の|胸《むね》を|撫《な》で|下《おろ》し、ソツと|戸《と》をしめて|堅《かた》くツツパリをかうた。|此《この》|猛犬《まうけん》は|云《い》はずと|知《し》れた|初稚姫《はつわかひめ》の|愛犬《あいけん》スマートなる|事《こと》は|云《い》ふまでもない。
(大正一二・一・二五 旧一一・一二・九 北村隆光録)
第四章 |乞食劇《こじきげき》〔一三一九〕
|松姫《まつひめ》は|静《しづか》に|封《ふう》を|押切《おしき》り|押戴《おしいただ》いて|読《よ》み|行《ゆ》く。おひおひと|顔色《かほいろ》|変《かは》り|両手《りやうて》は|慄《ふる》ひ、|容易《ようい》ならざる|文面《ぶんめん》の|如《ごと》く|思《おも》はれた。そして|松姫《まつひめ》は|手紙《てがみ》を|読《よ》み|了《をは》りホツと|溜息《ためいき》をついた。
|千代《ちよ》『お|母《かあ》さま、|私《わたし》の|云《い》つた|事《こと》|違《ちが》やしますまいがな。|高姫《たかひめ》は|斎苑《いそ》の|館《やかた》からの|命令《めいれい》ぢやありますまい。そしてあの|杢助《もくすけ》と|云《い》つてるのは|化物《ばけもの》でせうがな。|此《この》|犬《いぬ》は|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》の|愛犬《あいけん》でスマートと|書《か》いてありませう』
『あああ、|油断《ゆだん》のならぬ|魔《ま》の|世界《せかい》だな。こりや|斯《か》うしては|居《を》られますまい。|併《しか》しながら|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》の|仰《おほ》せ、|何処《どこ》までも|善《ぜん》|一《ひと》つで|高姫《たかひめ》|様《さま》を|改心《かいしん》させにやならぬ。|然《しか》し|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|言葉《ことば》に……お|前《まへ》は|小北山《こぎたやま》の|神司《かむつかさ》だから、|何処《どこ》までも|此処《ここ》を|動《うご》いてはいかぬ……と|書《か》いてある。もしも|高姫《たかひめ》さまが|何処《どこ》までも|此処《ここ》の|教主《けうしゆ》と|頑張《ぐわんば》つたら、|何《ど》うしようかな。せめて|魔我彦《まがひこ》さまでも|居《を》つてくれたら、|何《なん》とかいい|相談《さうだん》が|出来《でき》るだらうに、|困《こま》つた|事《こと》だ』
『お|母《かあ》さま、|決《けつ》して|心配《しんぱい》|要《い》りませぬ。どうせ|一度《いちど》はお|宮《みや》さまを|巡拝《じゆんぱい》するでせうから、|上《うへ》のお|宮《みや》のお|扉《とびら》を|開《ひら》いたら、|屹度《きつと》ビツクリして|逃《に》げるでせうよ。エンゼルさまが|私《わたし》にさう|仰有《おつしや》いました』
『ああさうかな。|何卒《どうぞ》まア|都合《つがふ》よくやりたいものだ。|然《しか》しお|前《まへ》も|此《この》スマートさまを|連《つ》れて|高姫《たかひめ》さまの|目《め》にかからぬ|処《ところ》へ|暫《しばら》く|遊《あそ》びに|行《い》つて|来《き》て|下《くだ》さい。お|前《まへ》が|居《を》ると|都合《つがふ》が|悪《わる》いからな』
『それならお|母《かあ》さま、|確《しつか》りなさいませや。|何卒《どうぞ》|巻《ま》き|込《こ》まれぬ|様《やう》になさいませ。これ、スマートさま、お|前《まへ》は|可愛《かあい》い|犬《いぬ》ね』
と|云《い》ひながら|首《くび》たまに|抱付《だきつ》いた。スマートは|薄《うす》い|平《ひら》たい|舌《した》でお|千代《ちよ》の|頬《ほほ》をペラツと|舐《な》めた。お|千代《ちよ》はビツクリしてスマートを|庭《には》に|押《お》し|倒《こか》した。スマートは|仰向《あふむけ》に|転《こ》けたまま|呑気《のんき》な|風《ふう》で|足《あし》で|空《くう》をかいて|居《ゐ》る。
『ア、|此《この》|犬《いぬ》は|牝《めす》だわ。さアおスマちやま、お|千代《ちよ》と|春先《はるさき》でもあり、|陽気《やうき》がいいから、|林《はやし》の|中《なか》へ|行《い》つて|遊《あそ》んで|来《き》ませう。|兎《うさぎ》でも|居《を》つたら|脅《おど》してやりませうね』
と|云《い》ひながら|頭《あたま》を|撫《な》でる。スマートはムツクと|起《お》き|上《あが》り、お|千代《ちよ》の|後《あと》について|山林《さんりん》の|中《なか》へ|遊《あそ》びに|行《ゆ》く。|後《あと》に|松姫《まつひめ》は|只《ただ》|一人《ひとり》|手《て》を|組《く》んで|思案《しあん》にくれてゐた。
『あああ、|高姫《たかひめ》さまは|困《こま》つた|方《かた》だな。どうしたら|本当《ほんたう》の|御改心《ごかいしん》が|出来《でき》るのだらう。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》の|御手紙《おてがみ》によれば、|此《この》|頃《ごろ》はスツカリ|精神《せいしん》|乱《みだ》れ、|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》や|蟇《がま》や|蛇《へび》や|狸《たぬき》、|鼬《いたち》などの|無料合宿所《むれうがつしゆくしよ》になつてゐられるとの|事《こと》、それに|又《また》|杢助《もくすけ》と|名告《なの》つてるのは、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|父《とう》さまでなくて|大雲山《たいうんざん》の|妖幻坊《えうげんばう》だとか、ほんとにいやらしい|化物《ばけもの》をつれて、|夫婦気取《ふうふきど》りで、こんな|処《ところ》に|出《で》て|来《き》て|松姫《まつひめ》を|追《お》ひ|出《だ》し、|自分《じぶん》が|教主《けうしゆ》にならうとは、どうした|事《こと》だらう。|私《わたし》は|別《べつ》に|此処《ここ》の|神司《かむつかさ》に|執着心《しふちやくしん》はないのだけれど、|悪神《あくがみ》にみすみす|此処《ここ》を|開《あ》け|渡《わた》して|出《で》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かない。そんな|事《こと》しては|神様《かみさま》にも|済《す》まない。ここは|何処《どこ》までも|孤軍奮闘《こぐんふんとう》の|覚悟《かくご》でなければならない。ああ|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》|様《さま》、|豊国姫大神《とよくにひめのおほかみ》|様《さま》、|木花姫大神《このはなひめのおほかみ》|様《さま》、|金勝要大神《きんかつかねのおほかみ》|様《さま》、|守《まも》り|給《たま》へ|幸《さきは》へ|給《たま》へ、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|祈《いの》つてゐる。
そこへバラバラとやつて|来《き》たのは|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》であつた。|足許《あしもと》もヨロヨロしながら|両人《りやうにん》は、
『|松姫《まつひめ》さま、エー、|一寸《ちよつと》|御報告《ごほうこく》に|来《き》ましたが、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、ウラナイ|教《けう》の|元《もと》の|教祖《けうそ》|高姫《たかひめ》さまがお|越《こ》しになつて|居《を》ります。そして|松姫《まつひめ》は|何故《なぜ》|私《わたし》が|来《き》てゐるのが|分《わか》つてゐるのに|挨拶《あいさつ》に|来《こ》ないのか。|御用《ごよう》が|済《す》んだら|出《で》て|来《く》ると|云《い》つておきながら、まだ|出《で》て|来《こ》ないと|云《い》つて、|大変《たいへん》な|立腹《りつぷく》で|厶《ござ》ります。そして|此《この》|館《やかた》は|今日《けふ》から|高姫《たかひめ》が|教主《けうしゆ》だ。|杢助様《もくすけさま》が|監督《かんとく》に|来《き》たのだと、それはそれはえらい|御権幕《ごけんまく》で|厶《ござ》りますよ。|早《はや》く|御挨拶《ごあいさつ》においで|下《くだ》さいませぬと、|貴女《あなた》のお|身《み》の|上《うへ》に|関《くわん》した|一大事《いちだいじ》が|出来《しゆつたい》|致《いた》しますから、ソツと|御注意《ごちゆうい》に|参《まゐ》りました』
『|仮令《たとへ》|高姫《たかひめ》さまが|此処《ここ》の|教主《けうしゆ》になられようが、|事務《じむ》を|引継《ひきつ》がぬ|間《うち》は|此処《ここ》は|松姫《まつひめ》の|管轄権内《くわんかつけんない》にあるのだから、|折角《せつかく》|伺《うかが》ふと|云《い》つたけど、|私《わたし》の|方《はう》からよう|伺《うかが》はないから、|高姫《たかひめ》さまと|杢助《もくすけ》さまに、|此方《こちら》へ|出《で》て|来《き》て|貰《もら》つて|下《くだ》さい。それが|至当《したう》だからな』
|初《はつ》『|松姫《まつひめ》さま、|何《なん》とえらい|勢《いきほひ》ですな。|泣《な》く|子《こ》と|地頭《ぢとう》とには|勝《か》たれないと|云《い》つて、そこは|貴女《あなた》の|方《はう》から|折《を》れてかかりなさるがお|得《とく》かも|知《し》れませぬよ。きつと|悪《わる》い|事《こと》は|申《まを》しませぬ。|貴女《あなた》も|足掛《あしか》け|首掛《くびか》け|四年振《よねんぶり》|此処《ここ》に|厶《ござ》つたのだから、|今日《けふ》|俄《にはか》に|立退《たちの》き|命令《めいれい》を|下《くだ》されては|面白《おもしろ》う|厶《ござ》りますまい。それは|私《わたし》もお|察《さつ》し|申《まを》して|居《を》ります。|併《しか》しながら、これも|因縁《いんねん》だと|諦《あきら》めて、|素直《すなほ》に|高姫《たかひめ》さまや|杢助《もくすけ》さまに|御面会《ごめんくわい》をなさるが|宜《よろ》しい。そしたら|又《また》|何《なん》とか|貴女《あなた》の|都合《つがふ》のいいやう|取計《とりはか》らつて|下《くだ》さるでせうからな』
『|何《なん》と|云《い》つても、そんな|理由《りいう》はありませぬから、|高姫《たかひめ》さまに|私交上《しかうじやう》としては|私《わたし》の|師匠《ししやう》だから|済《す》まないが、|公《おほやけ》の|道《みち》から|行《い》けば|私《わたし》は|此処《ここ》の|神司《かむつかさ》、|何《なん》の|遠慮《ゑんりよ》もありませぬから、|何卒《どうぞ》|私《わたし》の|職務《しよくむ》として|調《しら》べたい|事《こと》がある、よつて|直様《すぐさま》|御両人《ごりやうにん》に|此方《こちら》へ|来《き》て|下《くだ》さる|様《やう》に|伝達《でんたつ》して|下《くだ》さい』
『それでも|大変《たいへん》な|権幕《けんまく》で、|動《うご》きさうにや|厶《ござ》りませぬ。そんな|事《こと》をお|伝《つた》へしようものなら、|私《わたし》は|折角《せつかく》|杢助《もくすけ》さまの|片腕《かたうで》になつた|職務《しよくむ》まで|剥奪《はくだつ》されて|了《しま》ひます。のう|徳《とく》よ、さうぢやないか』
|徳《とく》『ウン』
|松姫《まつひめ》『これ、|初《はつ》さま、お|前《まへ》さまは|杢助《もくすけ》さまの|片腕《かたうで》になつたと|今《いま》|云《い》ひましたね』
|初《はつ》『ハイ、|確《たしか》に|申《まを》しました。|新教主《しんけうしゆ》|高姫《たかひめ》|殿《どの》の|夫《をつと》|杢助《もくすけ》、|又《また》の|御名《みな》は|時置師《ときおかし》の|神《かみ》、|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|総務《そうむ》を|遊《あそ》ばす|杢助様《もくすけさま》の|両腕《りやううで》と|両人《りやうにん》がなつたのだから、|凡《すべ》ての|宣伝使《せんでんし》を|頤《あご》で|使《つか》ふ|初《はつ》さま、|徳《とく》さまですよ。|如何《いか》に|松姫《まつひめ》さまだつて、もう|斯《か》うなつた|上《うへ》は|此《この》|初《はつ》さま、|徳《とく》さまの|命令《めいれい》を|聞《き》かずには|居《を》られますまい。|如何《いかが》で|厶《ござ》る。|返答《へんたふ》|承《うけたま》はりませう』
『ホホホホホ|愈《いよいよ》|三助人形《さんすけにんぎやう》か|痩《やせ》バツタの|様《やう》なスタイルをして、よくも|威張《ゐば》つたものだね。お|前《まへ》さまは|杢助《もくすけ》さまの|両腕《りやううで》になつたか|知《し》らないが、|此処《ここ》に|居《を》る|間《あひだ》は|此《この》|松姫《まつひめ》の|命令《めいれい》を|聞《き》かなくちやなりますまい。|魔我彦《まがひこ》からお|役目《やくめ》|解除《かいぢよ》の|辞令《じれい》でも|受《う》けた|上《うへ》、|杢助《もくすけ》さまの|推薦《すいせん》によつて、|八島主《やしまぬし》さまから|立派《りつぱ》な|辞令《じれい》を|頂《いただ》いて|来《こ》なくちや|駄目《だめ》ですよ。そんな|夢《ゆめ》なんか、いい|加減《かげん》にお|覚《さ》ましなさるが|宜《よ》からうぞや』
『|何《なん》と|云《い》つても|駄目《だめ》ですよ。|現《げん》に|杢助様《もくすけさま》の|口《くち》から|仰有《おつしや》つたのですもの。そして|高姫《たかひめ》さまが|証拠人《しようこにん》ですもの。ヘン、|之《これ》が|違《ちが》ひつこはありませぬわい、のう|徳公《とくこう》』
と|初公《はつこう》は、
『ウン ウン ウン』
と|拳《こぶし》を|握《にぎ》り|反身《そりみ》となり、|稍《やや》|酒気《しゆき》を|帯《お》びし|事《こと》とて、|高慢面《かうまんづら》をして|得意気《とくいげ》に|雄猛《をたけ》びして|見《み》せた。|松姫《まつひめ》はあまりの|可笑《をか》しさに|吹《ふ》き|出《だ》し、
『ホホホホホ』
と|笑《わら》ひ|転《こ》けた。|初公《はつこう》は|大《おほ》いに|怒《いか》り、
『こりや、|松姫《まつひめ》、|無礼千万《ぶれいせんばん》な、|勿体《もつたい》なくも|総務《そうむ》の|片腕《かたうで》と|聞《きこ》えたる、|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|二《に》の|番頭《ばんとう》さまだ。|某《それがし》の|面体《めんてい》を|見《み》て|笑《わら》ふと|云《い》ふ|事《こと》があるものか、いや|軽蔑《けいべつ》|致《いた》すと|云《い》ふ|事《こと》があるか。|公私本末《こうしほんまつ》、|自他《じた》の|区別《くべつ》を|知《し》らねば|決《けつ》して|神司《かむつかさ》たる|事《こと》は|出来《でき》ませぬぞ。|実《じつ》の|所《ところ》は|杢助《もくすけ》さまが、お|酒《さけ》の|上《うへ》ではあるが、|私等《わしら》に|全権《ぜんけん》を|任《まか》すから|松姫《まつひめ》をボツ|払《ぱら》へとの|仰《おほ》せ、さア|初公《はつこう》の|言葉《ことば》は|杢助《もくすけ》の|言葉《ことば》だ。さア|尻《しり》を|紮《から》げてトツトと|出《で》て|行《ゆ》け。|猶予《いうよ》に|及《およ》ばば|了簡《れうけん》|致《いた》さぬぞや』
『ウツフフフフあのまア、|乞食芝居《こじきしばゐ》が|上手《じやうず》なこと。さア|一文《いちもん》あげるから|帰《い》んで|下《くだ》さい。もう|沢山《たくさん》|拝見《はいけん》|致《いた》しました』
『|愈《いよいよ》|以《もつ》て|怪《け》しからぬ|事《こと》を|申《まを》す。|松姫《まつひめ》の|阿女奴《あまつちよ》、さア|只今《ただいま》|限《かぎ》り|事務《じむ》を|引渡《ひきわた》しトツトと|出《で》て|失《う》せう。|最早《もはや》|其《その》|方《はう》は|小北山《こぎたやま》には|何一《なにひと》つ|用《よう》もなければ|権利《けんり》もない。おい|徳公《とくこう》、|貴様《きさま》は|高姫《たかひめ》さまの|代理《だいり》ぢやないか。|何故《なぜ》|黙《だま》つてゐるか』
|徳公《とくこう》は|高姫気分《たかひめきぶん》になり、|肩《かた》を|揺《ゆす》り|首《くび》をふり|婆声《ばばごゑ》を|出《だ》して、
『これ|松姫《まつひめ》さま、|私《わたし》は|高姫《たかひめ》の|代理《だいり》ぢやぞえ。|長《なが》らく|御苦労《ごくらう》で|厶《ござ》りました。|併《しか》しながら|今日《けふ》|迄《まで》お|前《まへ》さまは|神様《かみさま》の|御都合《ごつがふ》で|御用《ごよう》をさせてあつたのだ。|然《しか》し|上義姫《じやうぎひめ》はもう|此処《ここ》に|用事《ようじ》はない。|之《これ》から|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|此処《ここ》を|構《かま》ふによつて、お|前《まへ》はトツトと|出《で》て|行《い》つて|下《くだ》さい。それとも|十分《じふぶん》|改悪《かいあく》して、|杢助《もくすけ》や|高姫《たかひめ》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》くなら、|炊事場《すゐじば》のおサンどんに|使《つか》つて|上《あ》げぬ|事《こと》もない。|然《しか》しお|前《まへ》も|此処《ここ》に|住《す》み|慣《な》れて|来《き》たのだから、|此処《ここ》を|追《お》ひ|出《だ》されるのは|残念《ざんねん》だらう。それは|高姫《たかひめ》もよく|分《わか》つてる。それでお|前《まへ》さまは、どんと、かばちを|下《さ》げて|炊事《すゐじ》の|御用《ごよう》か|雪隠《せつちん》の|掃除《さうぢ》をなさいませ。そこまで|苦労《くらう》をなさらぬと、|今《いま》から|偉《えら》さうに|教主《けうしゆ》だなんて|威張《ゐば》つて|居《を》ると、|猿《さる》も|木《き》からバツサリ|落《お》ちる|例《れい》もありますぞや。サアサア、|返答《へんたふ》|々々《へんたふ》、|如何《いかが》で|厶《ござ》る。|高姫《たかひめ》の|代理《だいり》が|此処《ここ》でキツパリと|承《うけたまは》りませう。さてもさても|残念《ざんねん》さうなお|顔《かほ》だな。|他人《たにん》の|俺《わし》でさへ|涙《なみだ》が|零《こぼ》れませぬわい。アーン、アーンアーンアーンアーン アハハハハハ、|泣《な》くのか|笑《わら》ふのか、いやもう|訳《わけ》がわかりませぬ。|松姫《まつひめ》さまの|事《こと》を|思《おも》へば|泣《な》きたくなり、|高姫《たかひめ》さまの|事《こと》は|思《おも》へば|笑《わら》ひたくなる。|悲《かな》しい|事《こと》と|嬉《うれ》しい|事《こと》と|一度《いちど》になつて|来《き》た。|親《おや》の|死《し》んだ|処《ところ》へ|花嫁《はなよめ》が|出《で》て|来《き》た|様《やう》な|心持《こころもち》だ。|悲喜《ひき》|交々《こもごも》|相混《あひまじ》り|苦楽《くらく》|一度《いちど》に|到来《たうらい》す。|上《のぼ》る|人《ひと》と|下《くだ》る|人《ひと》、ほんに|浮世《うきよ》は|儘《まま》ならぬものだな。アツハハハハ「アーンアーンアーンオーンオーンオーン|如何《どう》しようぞいなー|如何《どう》しようぞいなー。|此《この》|行先《ゆくさき》はお|千代《ちよ》を|連《つ》れて|袖乞《そでご》ひ、|物貰《ものもら》ひに|歩《ある》かにやならぬと|思《おも》や、|俺《わし》は|胸《むね》が|引裂《ひきさ》けるやうに|思《おも》ふワイのー……(義太夫)|之《これ》と|云《い》ふのも|前《さき》の|世《よ》で、|如何《いか》なる|事《こと》の|罪《つみ》せしか、|悲《かな》しさ|辛《つら》さ、|身《み》も|世《よ》もあられぬ|憂《う》き|思《おも》ひ、エエヘヘヘヘンエーーーー、|如何《どう》しようぞいなー」エーエ、|到頭《たうとう》|俺《わし》の|体《からだ》に|松姫《まつひめ》さまの|副守護神《ふくしゆごじん》がのり|憑《うつ》りやがつて、|泣《な》いたり|笑《わら》つたり、いやもううつり|易《やす》い|水晶魂《すいしやうみたま》は|斯《こ》んなに|苦《くる》しいものかなア。のう|初公《はつこう》、|俺等《おれたち》もヤツパリ|春《はる》が|来《き》たぢやないか。|此《この》|好機《かうき》を|逸《いつ》して、|何時《いつ》の|日《ひ》か、|出世《しゆつせ》の|時《とき》を|得《え》むやだ。おい、|有力《いうりよく》なる|後援者《こうゑんしや》が|出来《でき》たのだから、チツとは|無理《むり》でも|気《き》の|毒《どく》でも、|奴隷的《どれいてき》|道徳《だうとく》は|廃《や》めにして|権利《けんり》|義務《ぎむ》を|主張《しゆちやう》し、|自分《じぶん》の|位地《ゐち》を|高《たか》めるのが|一等《いつとう》だぞ。のう|初公《はつこう》、|確《しつか》りやつてくれ。|俺《おれ》も|今度《こんど》は|大車輪《だいしやりん》だから、イツヒヒヒヒヒ』
『ホホホホホ、あのまアお|二人《ふたり》さま、|揃《そろ》ひも|揃《そろ》うて、|何時《いつ》の|間《ま》に、そんな|芝居《しばゐ》を|覚《おぼ》えて|来《き》たの。|犬《いぬ》が|笑《わら》ひますよ』
|初《はつ》『こりや、|松姫《まつひめ》、|何処《どこ》までも|教主面《けうしゆづら》をさげやがつて、|俺達《おれたち》|二人《ふたり》を|何《なん》と|心得《こころえ》てる。|無礼《ぶれい》ぢやないか。|左様《さやう》な|失礼《しつれい》なことを|申《まを》すと、|此《この》|儘《まま》には|差許《さしゆる》さぬぞ』
|徳《とく》『こーりや|松姫《まつひめ》、|何《なん》と|心得《こころえ》てる。|今《いま》|迄《まで》の|徳《とく》さまや|初《はつ》さまとはチツと|値段《ねだん》が|違《ちが》ふのだ。エー、|俄《にはか》|仕入《しい》れのバチ|者《もの》とは|違《ちが》つて|上等舶来品《じやうとうはくらいひん》だ。あまり|見違《みちが》へを|致《いた》して|貰《もら》はうまいかい』
『ホホホホホ、|虎《とら》の|威《ゐ》をかる|糞喰《くそく》ひ|狐《ぎつね》とはお|前達《まへたち》の|事《こと》だよ。もう|斯《か》うなつちや|松姫《まつひめ》も|了簡《れうけん》なりませぬ。さア|今日《けふ》|只今《ただいま》から|暇《ひま》をつかはすによつてお|帰《かへ》りなさい。|一分間《いつぷんかん》も|此《この》|聖場《せいぢやう》にはお|前《まへ》の|様《やう》な|薄情者《はくじやうもの》|置《お》く|事《こと》は|出来《でき》ませぬ』
|初《はつ》『ヘン、|馬鹿《ばか》にすない。もう|此《この》|小北山《こぎたやま》は|貴様《きさま》の|権利《けんり》ぢやないぞ。|勿体《もつたい》なくも|杢助《もくすけ》さまの|御監督《ごかんとく》の|許《もと》に|高姫《たかひめ》さまの|御管轄《ごくわんかつ》|区域《くゐき》だ。お|前《まへ》の|方《はう》から|暇《ひま》を|貰《もら》ふよりも、こつちの|方《はう》から|暇《ひま》をくれてやるのだ。|有難《ありがた》く|思《おも》へ。さアさア|出《で》て|行《ゆ》かう|出《で》て|行《ゆ》かう。グヅグヅして|居《ゐ》ると|邪魔《じやま》になるわい』
|徳《とく》『おい、こんな|分《わか》らぬ|女《をんな》に|何時《いつ》まで|掛合《かけあ》つた|所《ところ》が|駄目《だめ》だ。|杢助《もくすけ》さまがやつつけて|了《しま》へと|仰有《おつしや》つたぢやないか。おい、やつつけろ やつつけろ』
『よし|来《き》た』
と|二人《ふたり》は|仁王立《にわうだち》となり、|松姫《まつひめ》を|中《なか》に|置《お》いて、|今《いま》や|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》く|飛《と》びかからむとしてゐる。|松姫《まつひめ》は|泰然自若《たいぜんじじやく》として|少《すこ》しも|騒《さわ》がず、|二人《ふたり》の|目《め》を|見《み》つめてゐる。|両人《りやうにん》は|打掛《うちかか》らうとすれども、|何故《なにゆゑ》か、|松姫《まつひめ》の|身体《からだ》から|光《ひかり》が|出《で》る|様《やう》に|思《おも》はれて、|目《め》が|眩《くら》み|飛《と》びつく|事《こと》が|出来《でき》ない。|松姫《まつひめ》は|心《こころ》|静《しづ》かに|歌《うた》を|歌《うた》つてゐる。
『|虎《とら》の|威《ゐ》をかる|古狐《ふるぎつね》 |小北《こぎた》の|山《やま》に|現《あら》はれて
|松姫館《まつひめやかた》に|侵入《しんにふ》し |無道《ぶだう》の|難題《なんだい》|吹《ふ》きかけて
|卑怯未練《ひけふみれん》に|両人《りやうにん》が |嚇《おど》し|文句《もんく》を|並《なら》べ|立《た》て
|木偶坊《でくばう》の|様《やう》なその|姿《なり》で |握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》めつつ
|慄《ふる》ひゐるこそ|可笑《をか》しけれ |初公《はつこう》、|徳公《とくこう》よく|聞《き》けよ
|杢助司《もくすけつかさ》と|名告《なの》りゐる |彼《かれ》は|誠《まこと》の|人《ひと》でない
|大雲山《たいうんざん》に|蟠《わだか》まる |八岐大蛇《やまたをろち》の|片腕《かたうで》と
|兇党界《きようたうかい》にて|幅《はば》|利《き》かす |妖幻坊《えうげんばう》の|曲津《まがつ》ぞや
|高姫司《たかひめつかさ》は|恋淵《こひぶち》に |知《し》らず|知《し》らずに|陥《おちい》りて
|妖怪変化《えうくわいへんげ》と|知《し》らずして |杢助司《もくすけつかさ》と|思《おも》ひつめ
|得意《とくい》になつて|今《いま》|此処《ここ》に |夫婦気取《ふうふきど》りで|来《き》たなれど
|決《けつ》して|誠《まこと》の|三五《あななひ》の |八島《やしま》の|主《ぬし》のお|言葉《ことば》に
|従《したが》ひ|来《きた》りしものでない これの|館《やかた》を|奪《うば》はむと
|曲津《まがつ》の|神《かみ》に|唆《そそ》られて |悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|企《たく》みをば
|敢行《かんかう》せむとするものぞ |汝等《なんぢら》|二人《ふたり》は|曲神《まがかみ》に
|魂《たま》をぬかれて|目《め》が|眩《くら》み |名利《めいり》の|慾《よく》に|迷《まよ》ひつつ
|見《み》るに|堪《た》へざる|狂態《きやうたい》を |演《えん》ずるものぞ、いと|惜《を》しや
|早《はや》く|心《こころ》を|改《あらた》めて |此《この》|松姫《まつひめ》が|言《こと》の|葉《は》を
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|聞《き》くがよい |早《はや》|目《め》を|覚《さ》ませ|目《め》を|覚《さ》ませ
|神《かみ》は|汝《なんぢ》と|倶《とも》にあり |汝《なんぢ》も|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|恵《めぐ》みの|光《ひかり》に|照《てら》されて |正《ただ》しき|神《かみ》の|御子《みこ》となり
|吾《われ》に|犯《おか》せし|罪科《つみとが》を |此《この》|場《ば》で|直《すぐ》に|悔悟《くわいご》せば
|許《ゆる》してやらむ|惟神《かむながら》 |神《かみ》に|誓《ちか》ひて|両人《りやうにん》に
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|宣《の》り|伝《つた》ふ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》るや、|両人《りやうにん》は|両眼《りやうがん》より|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》した。そして|少《すこ》しく|首《くび》を|動《うご》かし|改心《かいしん》の|意《い》を|表《へう》した。|松姫《まつひめ》は|忽《たちま》ち|霊縛《れいばく》を|解《と》いた。|二人《ふたり》は|身体《しんたい》もとの|如《ごと》くになり、パタパタと|表《おもて》へ|駆《か》け|出《だ》した。|果《はた》して|彼等《かれら》|両人《りやうにん》は|改心《かいしん》したであらうか。|但《ただし》は|再《ふたた》び|悪意《あくい》を|起《おこ》して、|松姫《まつひめ》に|対《たい》し|如何《いか》なる|危害《きがい》を|与《あた》へむとするであらうか。|後節《こうせつ》に|於《おい》て|審《つまび》らかになるであらう。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・一・二五 旧一一・一二・九 北村隆光録)
第五章 |教唆《けうさ》〔一三二〇〕
|妖幻坊《えうげんばう》、|高姫《たかひめ》は、イチヤイチヤ|云《い》ひながら|酒《さけ》を|汲《く》み|交《か》はし、ヘベレケになつた|妖幻坊《えうげんばう》の|無理《むり》をなだめながら、|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》の|両人《りやうにん》が|返答《へんたふ》|如何《いか》にと|心待《こころま》ちに|待《ま》つて|居《ゐ》た。そこへスタスタと|青《あを》い|顔《かほ》して|帰《かへ》つて|来《き》たのは、|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》の|両人《りやうにん》であつた。|高姫《たかひめ》は|目敏《めざと》く|之《これ》を|見《み》て、
『オイ|両人《りやうにん》、えらい|暇《ひま》が|要《い》つたぢやないか、どうだつたな。|松姫《まつひめ》はウンと|云《い》つただらう』
|初《はつ》『へい、イヤもう|何《なん》で|厶《ござ》いました。それはそれは|偉《えら》いものですなア、|本当《ほんたう》に|一寸《ちよつと》|手《て》に|合《あ》ひませぬわ』
『|手《て》に|合《あ》はぬとは、|松姫《まつひめ》が|義理天上《ぎりてんじやう》の|申《まを》す|事《こと》を|聞《き》かないと|云《い》ふのかえ』
『オイ|徳《とく》、|貴様《きさま》は|高姫《たかひめ》さまの|代理《だいり》ぢやないか、お|前《まへ》|代《かは》つて|報告《はうこく》して|呉《く》れ』
|徳《とく》『エエ|高姫《たかひめ》さま、|貴女《あなた》の|御命令《ごめいれい》によつて|種々《いろいろ》と|申《まを》しました|所《ところ》、|松姫《まつひめ》の|奴《やつ》、|金毛九尾《きんまうきうび》がのり|憑《うつ》つて|居《ゐ》るのか、それはそれは|偉《えら》い|勢《いきほひ》で、|到底《たうてい》|吾々《われわれ》の|云《い》つた|位《くらゐ》では【かて】つけませぬがな』
『かてつかぬとはどうしたと|云《い》ふのだえ。つまり|高姫《たかひめ》の|云《い》ふ|事《こと》は|聞《き》かないと|云《い》ふのかえ』
『ハイ、|聞《き》かないとも|申《まを》しませぬが、お|前《まへ》さまにはいろいろのものが|雑居《ざつきよ》してゐるさうですよ。さうして|杢助《もくすけ》さまは|大雲山《たいうんざん》の|妖幻坊《えうげんばう》と|云《い》ふ|妖怪《えうくわい》だといつて|居《ゐ》ましたよ。|何《なん》とかして|追《お》つぽり|出《だ》す|積《つも》りだと|意気込《いきご》んで|居《を》りましたよ』
『|何《なん》と、|杢助《もくすけ》さまを|妖幻坊《えうげんばう》だと、いよいよもつて|怪《け》しからぬ。|松姫《まつひめ》の|奴《やつ》、グヅグヅして|居《ゐ》るとどんな|事《こと》を|申《まを》すか|分《わか》つたものぢやない。これ|杢助《もくすけ》さま、|起《お》きなさらぬかいな。お|前《まへ》さまを|本当《ほんたう》の|杢助《もくすけ》ぢやない、|化州《ばけしう》だと|云《い》つて|居《ゐ》るさうですよ』
|妖幻《えうげん》『ハハハハハ、|化物《ばけもの》と|云《い》つたか、さうであらう。|変性女子《へんじやうによし》の|瑞《みづ》の|御霊《みたま》でさへも|大化物《おほばけもの》と|云《い》はれて|居《ゐ》るのだから、|俺《おれ》も|化物《ばけもの》と|云《い》はれるやうになれば|光栄《くわうえい》だ。|高姫《たかひめ》|喜《よろこ》べ、これでもつて|俺《おれ》の|人物《じんぶつ》の|偉大《ゐだい》|崇高《すうかう》なる|事《こと》が|分《わか》るだらう、アハハハハ』
|初《はつ》『それでも|化物《ばけもの》と|松姫《まつひめ》の|云《い》つたのは、そんな|意味《いみ》ではありますまいぜ、|貴方《あなた》は|何《なん》でも|大雲山《たいうんざん》の|妖幻坊《えうげんばう》だとか|云《い》つて|居《ゐ》ましたよ』
『|怪《け》しからぬ|奴《やつ》だ、さう|云《い》ふ|事《こと》を|云《い》はして|置《お》いては、|吾々《われわれ》の|目的《もくてき》の|邪魔《じやま》になる。こりや|何《なん》とか|致《いた》さねばなるまい。|俺《おれ》が|行《い》つて|取《と》り|挫《ひし》いでやるのは|容易《たやす》い|事《こと》だが、それでは|余《あま》り|大人気《おとなげ》ない。オイ|初《はつ》、|徳《とく》、|俺《おれ》の|最前《さいぜん》|言《い》つたやうに|思《おも》ひ|切《き》つてやつつけろ。お|前達《まへたち》も|俺《おれ》の|両腕《りやううで》となつた|以上《いじやう》は、|今《いま》が|手柄《てがら》の|仕所《しどころ》だ』
|初《はつ》『ヘエ、エエやつつけますが、それがそれ|中々《なかなか》の|強《したた》かものでげして、|実《じつ》はその、エー|何《なん》でげす』
と|頭《あたま》をガシガシ|掻《か》いて|居《ゐ》る。
|高姫《たかひめ》『コレみつともない。|松姫《まつひめ》にやられて|来《き》たのだな。|時《とき》に|杢助《もくすけ》さま、やつつけろと|仰有《おつしや》つたが、|滅多《めつた》に|手荒《てあら》い|事《こと》をなさるのぢやありますまいな。|松姫《まつひめ》は|私《わたし》の|弟子《でし》ですよ。|何程《なにほど》|反対《はんたい》|致《いた》しても、|私《わたし》は|彼奴《あいつ》を|構《かま》うてやらねばなりませぬ』
|妖幻《えうげん》『|何《なん》と|高姫《たかひめ》さま、|貴女《あなた》は|慈善家《じぜんか》ぢやなア。ヤ、|感心《かんしん》|々々《かんしん》、それなら|何故《なぜ》、|珍彦《うづひこ》に|毒酸《どくさん》を|盛《も》つたり、|〓《みづち》の|血《ち》を|盛《も》つた|盃《さかづき》を|与《あた》へたのだ。やつぱり|奥《おく》には|奥《おく》があるのかなア、アハハハハ』
『これ|初《はつ》さま、|徳《とく》さま、きつと|手荒《てあら》い|事《こと》をしてはなりませぬよ。|併《しか》し|正当防衛《せいたうばうゑい》は|此《この》|限《かぎ》りにあらずだから、どうか|杢助《もくすけ》さまのお|言葉《ことば》に|従《したが》つて|一働《ひとはたら》きして|下《くだ》さいな』
『ヘエ|私《わたし》は|何《なん》でも|致《いた》しますが、この|徳《とく》の|奴《やつ》が|臆病《おくびやう》ですから、|気《き》を|取《と》られて|思《おも》ふやうに|働《はたら》けませぬわ』
|妖幻《えうげん》『それならお|前《まへ》|一人《ひとり》|行《い》つてやつて|来《き》たらどうだ。|多寡《たくわ》が|女《をんな》の|一匹《いつぴき》ぢやないか。それ|位《くらゐ》の|事《こと》が|出来《でき》なくて、|大望《たいまう》な|御用《ごよう》が|出来《でき》るか』
『|私《わたし》|一人《ひとり》では、どうも|都合《つがふ》が|悪《わる》いぢやありませぬか、よう|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|貴方《あなた》の|両腕《りやううで》ぢやありませぬか、|片腕《かたうで》では|飯《めし》|喰《く》ふ|事《こと》も、|針仕事《はりしごと》|一《ひと》つする|事《こと》も|出来《でき》ませぬだらう。それだから、どうしても|徳《とく》を|邪魔《じやま》になつても|連《つ》れて|行《ゆ》かなくちや|都合《つがふ》が|悪《わる》いですな』
|徳《とく》『|馬鹿《ばか》を|云《い》ふな、|貴様《きさま》が|一番《いちばん》がけに|霊縛《れいばく》にかかつてふん|伸《の》びたぢやないか』
『ふん|伸《の》びたのは|貴様《きさま》も|同然《どうぜん》だ、|偉《えら》さうに|云《い》ふない』
『それでも|第一着《だいいつちやく》に|貴様《きさま》がふん|伸《の》びたのだ。|俺《おれ》はおつき|合《あひ》にふん|伸《の》びて|居《ゐ》たのだ。|余程《よつぽど》|松姫《まつひめ》が|怖《おそ》ろしいと|見《み》えるのう。そんな|事《こと》で|俺《おれ》の|上役《うはやく》にはなれぬぞ。サアどうだ、|茲《ここ》で|彼奴《あいつ》を|倒《たふ》した|方《はう》が|上役《うはやく》にして|頂《いただ》くと|云《い》ふ|事《こと》を|御両人様《ごりやうにんさま》の|前《まへ》で|願《ねが》はうぢやないか』
|妖幻《えうげん》『アハハハハ、そりやさうだ、|手柄《てがら》があつた|方《はう》が|上役《うはやく》になるのは|当然《あたりまへ》だよ、ちやんと|草鞋《わらぢ》でもはいて|足装束《あししやうぞく》をし、|身動《みうご》きのし|易《やす》いやうにして|行《ゆ》くのだ』
『ハイ|畏《かしこ》まりました』
と|両人《りやうにん》は、|慌《あわただ》しく|納屋《なや》に|入《い》り、|喧嘩装束《けんくわしやうぞく》に|身《み》を|固《かた》め、|樫《かし》の|棍棒《こんぼう》を|携《たづさ》へて|松姫館《まつひめやかた》に|進《すす》むべく|準備《じゆんび》に|取《と》り|掛《かか》つた。|妖幻坊《えうげんばう》、|高姫《たかひめ》は|以前《いぜん》の|如《ごと》く、ひそひそ|何事《なにごと》か|囁《ささや》きながら|飲酒《いんしゆ》に|耽《ふけ》つて|居《ゐ》る。
お|千代《ちよ》はスマートと|共《とも》に|躑躅《つつじ》の|花《はな》などをちぎり|戯《たはむ》れながら、|向《むか》ふの|谷《たに》の|森林《しんりん》に|何時《いつ》とはなしに|進《すす》み|入《い》つた。スマートは|何《なん》とはなしに|俄《にはか》に|体《からだ》を|慄《ふる》はせ、|遂《つひ》にはお|千代《ちよ》の|袖《そで》を|銜《くは》へて|引《ひ》つ|張《ぱ》り|出《だ》した。お|千代《ちよ》は|驚《おどろ》いて、
『これスマートや、|何《なに》をするのだい。ちつと|温順《おとな》しうおしんか』
とぴしやつと|横面《よこつら》をはる。|其処《そこ》へ|慌《あわただ》しく|走《はし》つて|来《き》たのはお|菊《きく》であつた。お|菊《きく》はハアハアと|息《いき》を|喘《はづ》ませ、お|千代《ちよ》の|此処《ここ》に|居《ゐ》るのを|見《み》てやつと|安心《あんしん》したらしく、
『お|千代《ちよ》さま、|貴女《あなた》|此処《ここ》に|居《ゐ》たの、|私《わたし》|此処《ここ》まで|逃《に》げて|来《き》たのよ。あの|杢助《もくすけ》と|云《い》ふ|奴《やつ》|化物《ばけもの》だわ。さうして|此《この》|館《やかた》を|横領《わうりやう》しようと|考《かんが》へて|居《ゐ》る|太《ふと》い|奴《やつ》だから、すつかり|素破抜《すつぱぬ》いてやつて、|此処《ここ》まで|逃《に》げて|来《き》たの。きつと|怒《おこ》つて|追駆《おつか》けて|来《く》るに|違《ちが》ひないと|思《おも》つたからねえ、|本当《ほんたう》に|困《こま》つた|奴《やつ》が|来《き》たものだわ。そしてその|犬《いぬ》は|何処《どこ》から|来《き》たの』
『これはスマートと|云《い》つて、|初稚姫《はつわかひめ》さまの|愛犬《あいけん》だと|云《い》ふ|事《こと》よ。どこともなしに|賢《かしこ》い|犬《いぬ》よ』
『こりやスマートさま、よう|来《き》て|下《くだ》さつたねえ。|何《なに》さうお|前《まへ》は|騒《さわ》ぐの、|些《ちつ》と|静《しづか》にしなさらぬか』
と|頭《あたま》を|撫《な》でる。スマートは|益々《ますます》|落付《おちつ》かぬ|風情《ふぜい》をする。
|千代《ちよ》『どうも|不思議《ふしぎ》だわ、|大方《おほかた》お|母《かあ》さまの|身《み》の|上《うへ》に|何《なに》か|変《かは》つた|事《こと》が|出来《でき》たのぢやあるまいか。|俄《にはか》に|胸騒《むなさわ》ぎがして|来《き》ましたわよ』
お|菊《きく》『あの|化物《ばけもの》|奴《め》、お|母《かあ》さまを|噛《く》ひに|行《ゆ》きよつたのか|知《し》れませぬ。それでスマートが、こんなに|騒《さわ》ぐのでせう、お|千代《ちよ》さま、|其《その》|綱《つな》を|解《ほど》いておやり』
お|千代《ちよ》は、
『さうねえ』
と|云《い》ひながら|松《まつ》の|株《かぶ》に|繋《つな》いだ|綱《つな》を|解《と》いた。スマートは|一目散《いちもくさん》に、|細《ほそ》くなつて|谷《たに》を|越《こ》え|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|千代《ちよ》『|何《なん》とまア|早《はや》い|犬《いぬ》だ|事《こと》、もう|姿《すがた》が|見《み》えなくなつて|仕舞《しま》つたわ。お|菊《きく》さま、|私《わたし》|気《き》に|掛《かか》るから|一寸《ちよつと》|帰《かへ》つて|見《み》ますわ。お|前《まへ》さまもそこまで|来《き》て|下《くだ》さいな』
『ハイお|供《とも》|致《いた》しませう。|若《も》しも|化物《ばけもの》が|暴《あば》れて|居《を》つたら|何《ど》うしませうかねえ』
『サア、|神様《かみさま》をお|願《ねが》ひして|助《たす》けて|貰《もら》ふより|仕方《しかた》がありませぬわ』
とこんな|事《こと》を|話《はな》し|合《あ》ひながら、|覚束《おぼつか》ない|足許《あしもと》で|小柴《こしば》を|分《わ》け、|松姫館《まつひめやかた》をさして|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
さて|松姫《まつひめ》は|唯《ただ》|一人《ひとり》|戸《と》を|閉《し》め|切《き》つて|神殿《しんでん》に|向《むか》ひ、いろいろと|取《と》るべき|目下《もくか》の|方針《はうしん》について|神示《しんじ》を|伺《うかが》つて|居《ゐ》た。|其処《そこ》へ|裏《うら》と|表《おもて》の|戸《と》を|一度《いちど》に|押《お》し|破《やぶ》り|入《はい》つて|来《き》たのは|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》であつた。|松姫《まつひめ》は|驚《おどろ》いて、
『ヤアお|前《まへ》は|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》、|血相《けつさう》|変《か》へて|何《なに》しに|来《き》たのだ』
|初《はつ》『そんな|事《こと》|問《と》ふだけ|野暮《やぼ》だ。|吾々《われわれ》は|杢助《もくすけ》さまの|命令《めいれい》によつて、|頑固《ぐわんこ》なお|前《まへ》をやつつけに|来《き》たのだ。|最前《さいぜん》は|馬鹿《ばか》な|事《こと》をしやがつて|大《おほ》きに|憚《はばか》りさま。|今度《こんど》は|杢助《もくすけ》さまから|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|魔法《まはふ》を|授《さづ》かり|出直《でなほ》して|来《き》たのだから、ジタバタしても|駄目《だめ》だ、|覚悟《かくご》せい』
と|両人《りやうにん》は|樫《かし》の|棍棒《こんぼう》をもつて|打《う》つてかかる。|松姫《まつひめ》は|已《や》むを|得《え》ず、|其処《そこ》にあつた|机《つくゑ》を|取《と》るより|早《はや》く|二人《ふたり》の|打《う》ち|込《こ》む|棒《ぼう》を|右《みぎ》へ|左《ひだり》へうけ|流《なが》し、|暫《しばら》く|防戦《ばうせん》につとめて|居《ゐ》た。そして|心《こころ》の|中《うち》に|厳《いづ》の|御霊大神《みたまのおほかみ》、|瑞《みづ》の|御霊大神《みたまのおほかみ》、|守《まも》らせ|給《たま》へ、|救《すく》はせ|給《たま》へと|念《ねん》じつつ、|命《いのち》|限《かぎ》りに|二人《ふたり》の|荒男《あらをとこ》の|激《はげ》しき|棒先《ぼうさき》を|受《う》けて|居《ゐ》る。
|松姫《まつひめ》は|数十合《すうじふがふ》|戦《たたか》つて|見《み》たが、|最早《もはや》|体力《たいりよく》|尽《つ》き、|二人《ふたり》の|鋭《するど》き|棒《ぼう》に|打《う》ち|殺《ころ》されむとする|一刹那《いつせつな》、|宙《ちう》を|飛《と》んで|駆《か》け|来《きた》りたる|猛犬《まうけん》スマートは、|矢庭《やには》に|初公《はつこう》の|足《あし》を|銜《くは》へて|引《ひ》き|倒《たふ》した。|続《つづ》いて|徳公《とくこう》の|足《あし》を|又《また》もや|銜《くは》へて|其《その》|場《ば》に|引《ひ》き|倒《たふ》し、ウウーウウーと|眼《まなこ》を|怒《いか》らし|睨《にら》みつけて|居《ゐ》る。されど|霊犬《れいけん》スマートは|二人《ふたり》の|体《からだ》に|些《すこ》しも|傷《きず》を|負《お》はせなかつた。|二人《ふたり》は|起《お》き|上《あが》り|這々《はふはふ》の|体《てい》にて|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》の|酒宴《しゆえん》の|席《せき》へ、バラバラツと|命《いのち》|辛々《からがら》かけ|込《こ》んだ。|二人《ふたり》の|逃《に》げ|行《ゆ》く|姿《すがた》をお|千代《ちよ》、お|菊《きく》の|両人《りやうにん》は、|十間《じつけん》|許《ばか》り|間隔《かんかく》をおいた|地点《ちてん》より|打《う》ち|眺《なが》め、|手《て》を|拍《う》つてワアワアと|心地《ここち》よげに|嘲笑《あざわら》ひして|居《ゐ》る。|妖幻坊《えうげんばう》、|高姫《たかひめ》は|二人《ふたり》の|様子《やうす》に|不審《ふしん》を|起《おこ》し、
|妖幻《えうげん》『こりや|両人《りやうにん》、|其《その》|態《ざま》は|何《なん》だ、|些《ちつ》と|確《しつか》りせぬかい』
|初《はつ》『イヤもう|大変《たいへん》で|厶《ござ》います。|命《いのち》|辛々《からがら》|逃《に》げて|参《まゐ》りました』
『|何《なに》が|出《で》たと|云《い》ふのだ。|松姫《まつひめ》にとつて|放《はふ》られたのか。エー、|何《なん》と|弱味噌《よわみそ》だな』
『ヘエ|松姫《まつひめ》も|中々《なかなか》の|豪傑《がうけつ》ですが、|松姫《まつひめ》|所《どころ》か、どてらい|奴《やつ》が|出《で》て|来《き》て、イヤもう|散々《さんざん》の|目《め》に|遇《あ》つて|来《き》ました』
|高姫《たかひめ》『エエ|間《ま》に|合《あ》はぬ|奴《やつ》だな、これ|徳《とく》、|一体《いつたい》|何《なに》が|出《で》たと|云《い》ふのだえ』
|徳《とく》は|慄《ふる》へながら、
『ハイ、|松姫《まつひめ》と|渡《わた》り|合《あ》つて|居《を》りました|所《ところ》へ、|俄《にはか》に|小北山《こぎたやま》の|狼《おほかみ》が|飛《と》び|出《だ》し、|吾等《われら》|二人《ふたり》を|銜《くは》へて|倒《たふ》しました。それ|故《ゆゑ》|俄《にはか》に|怖《おそ》ろしくて、|髪《かみ》の|毛《け》が|縮《ちぢ》み|上《あが》り|手足《てあし》が|慄《ふる》ひ|戦《をのの》き、たうとう|此処《ここ》まで|命《いのち》|辛々《からがら》|逃《に》げ|延《の》びました。|何程《なんぼ》|出世《しゆつせ》さして|貰《もら》つても、こんな|怖《こは》い|事《こと》は|孫子《まごこ》に|伝《つた》へてお|断《ことわ》りです。|出世《しゆつせ》などはもうしたくはありませぬ』
|妖幻《えうげん》『|何《なん》とまア|弱虫《よわむし》だな、|狼《おほかみ》|位《ぐらゐ》が|何《なに》|怖《おそ》ろしいのだ。|狼《おほかみ》なんかは|友人《いうじん》だ……おつとどつこい、|友人《いうじん》も|同様《どうやう》だ、アハハハハハ』
|初《はつ》『もし|杢助《もくすけ》さま、|貴方《あなた》は|狼《おほかみ》が|怖《こは》くないのですか』
『|狼《おほかみ》が|怖《こは》くて|此《この》|世《よ》の|中《なか》に|居《を》られるか。|今《いま》の|人間《にんげん》は、|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|美《うつく》しい|顔《かほ》をして|人間《にんげん》の|仮面《かめん》を|被《かぶ》つて|居《ゐ》るが|皆《みな》|狼《おほかみ》だ。ちつと|下《さが》れば|狐《きつね》、|狸《たぬき》、|蛇《へび》、|鼬《いたち》、|蟇《がま》のやうな|代物《しろもの》だ。|貴様《きさま》も|矢張《やつぱり》|四《よ》つ|足《あし》の|霊《みたま》と|見《み》えて、たうとう|尻尾《しつぽ》を|出《だ》しやがつたな。|口《くち》|程《ほど》にもない|代物《しろもの》だ、アハハハハ』
|高姫《たかひめ》『どうも|口《くち》ばかりで、|間《ま》に|合《あ》ふ|霊《みたま》はないものだ。これ|杢助《もくすけ》さま、|中途半《ちうとはん》にして|置《お》く|訳《わけ》には|参《まゐ》りますまい。お|前《まへ》さまがこれから|行《い》つて|始末《かた》をつけて|下《くだ》さい。|若《も》し|松姫《まつひめ》が|此処《ここ》を|逃《に》げ|出《だ》し|斎苑《いそ》の|館《やかた》にでも|行《い》かうものなら、|忽《たちま》ち|露顕《ろけん》して|困《こま》るぢやありませぬか。|何《いづ》れは|分《わか》る|事《こと》ですが、|仕組《しぐみ》をするまでは、やつぱり|三五教《あななひけう》に|化《ば》けて|居《ゐ》なくちや、|完全《くわんぜん》に|目的《もくてき》が|達《たつ》せられないぢやありませぬか。ウラナイ|教《けう》の|再興《さいこう》を|企《くはだ》てるのだから、|今《いま》が|肝腎要《かんじんかなめ》の|時《とき》ですよ』
『|俺《わし》が|行《ゆ》けば|何《なん》でもないのだが、|併《しか》し|茲《ここ》は|一《ひと》つ|工夫《くふう》をして、|下《した》から|出《で》て|松姫《まつひめ》を|懐柔《くわいじう》し、|樽爼折衝《そんそせつしよう》の|間《あひだ》に|都合《つがふ》よく|談判《だんぱん》を|済《す》ませる|方《はう》が|無難《ぶなん》でよからう。|其《その》|代《かは》りに|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》は|乱暴《らんばう》を|働《はたら》いた|奴《やつ》だから、|松姫《まつひめ》の|前《まへ》に|連《つ》れて|行《い》つて|尻《しり》を|引《ひ》きめくり、|三百《さんびやく》の|笞《むち》を|加《くは》へてやれば、それで|松姫《まつひめ》も|安心《あんしん》して|此方《こつち》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》くだらう』
『|成程《なるほど》、|刃《やいば》に|血《ち》|塗《ぬ》らずして|敵《てき》を|降《くだ》すと|云《い》ふ|御方針《ごはうしん》、|遉《さすが》は|杢助《もくすけ》さまだワイ。|私《わたし》もそれなら|賛成《さんせい》|致《いた》します』
|初《はつ》『アアもしもし|杢助《もくすけ》さま、|高姫《たかひめ》さま、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は|貴方《あなた》の|御命令《ごめいれい》で|荒仕事《あらしごと》に|行《い》つたのです。それに|何《なん》ぞや、|松姫《まつひめ》さまの|前《まへ》で|尻《しり》を|捲《まく》つて、|三百《さんびやく》も|笞《むち》|打《う》たれて|耐《たま》りますか、なア|徳《とく》、|本当《ほんたう》につまらぬぢやないか』
|徳《とく》『こんな|事《こと》なら、|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》くぢやなかつたになア。|杢助《もくすけ》さまは、さうすりや|矢張《やつぱり》|悪神《あくがみ》かも|知《し》れぬぞ』
|妖幻《えうげん》『もう|斯《か》うなつた|以上《いじやう》は、|貴様等《きさまら》|両人《りやうにん》、|逃《に》げようと|思《おも》つたつて|逃《に》がすものか。|曲輪《まがわ》の|魔法《まはふ》によつて|其方等《そのはうら》|両人《りやうにん》を|巻《ま》いてあるから|逃《に》げられるものか、カナリヤが|鳥籠《とりかご》に|入《い》れられたやうなものだ』
|初《はつ》『のう|徳《とく》、|余《あま》りぢやないか、|命《いのち》がけの|仕事《しごと》をさされて、|其《その》|上《うへ》|尻《しり》の|三百《さんびやく》も|叩《たた》かれて|耐《たま》るものかなア』
|徳《とく》『アンアンアン、えらい|事《こと》になつて|来《き》たわい、これと|云《い》ふのも|余《あま》り|慾《よく》に|呆《はう》けたから|罰《ばち》が|当《あた》つたのだ。アンアンアン、|三五《あななひ》の|大神様《おほかみさま》、えらい|取違《とりちが》ひを|致《いた》しました。|何卒《どうぞ》お|許《ゆる》し|下《くだ》さいませ、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|涙《なみだ》ながらに|手《て》を|合《あは》す。
|高姫《たかひめ》『ホホホホ、|正直《しやうぢき》の|男《をとこ》だな、|態《わざ》と|芝居《しばゐ》をするのだから、お|前《まへ》の|尻《しり》を|叩《たた》くやうに|見《み》せて|地《ち》べたを|叩《たた》くのだから、|些《ちつ》とも|痛《いた》い|事《こと》はない。そして|甘《うま》く|松姫《まつひめ》を|得心《とくしん》させ、|無事《ぶじ》|事務《じむ》の|引継《ひきつぎ》をさして|了《しま》ふのだ。さうすればお|前《まへ》も|立派《りつぱ》なお|役人《やくにん》になれるのだからなア』
『ヤアそれでやつと|安心《あんしん》しました。オイ|初《はつ》、|矢張《やつぱり》|高姫《たかひめ》さまや|杢助《もくすけ》さまの|智慧《ちゑ》は|偉《えら》いものだ。もう|安心《あんしん》だ、|尻《しり》を|叩《たた》いて|貰《もら》はうか』
『ウン、そんな|尻《しり》の|叩《たた》きやうなら、|百《ひやく》でも|千《せん》でも、ビクとも|致《いた》さぬ|豪傑《がうけつ》だ。|何卒《どうぞ》、|高姫《たかひめ》さま、|杢助様《もくすけさま》、|尻《しり》の|千切《ちぎ》れる|所《とこ》までお|叩《たた》き|下《くだ》さりませ。|之《これ》|位《くらゐ》の|御用《ごよう》は|屁《へ》のお|茶《ちや》で|厶《ござ》います』
|妖幻《えうげん》『アハハハハ、それなら|是《これ》から|愈《いよいよ》|第二《だいに》の|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》にかからうかなア』
|高姫《たかひめ》『オホホホホ、|何《なん》とまア、|腰抜《こしぬけ》の|英雄《えいゆう》、|有名無実《いうめいむじつ》の|豪傑《がうけつ》だこと』
|両人《りやうにん》『ウエエエエー、ウエーハハハハハ』
(大正一二・一・二五 旧一一・一二・九 加藤明子録)
第六章 |舞踏怪《ぶたふくわい》〔一三二一〕
|松姫《まつひめ》の|館《やかた》には、お|千代《ちよ》、お|菊《きく》と|女《をんな》|三人《さんにん》|首《くび》を|鳩《あつ》め、ひそびそと|何事《なにごと》か|囁《ささや》いて|居《ゐ》る。|勇敢《ゆうかん》なスマートが、|松姫《まつひめ》の|危難《きなん》を|助《たす》けて|呉《く》れた|事《こと》などが|無論《むろん》|話頭《わとう》に|上《のぼ》つた。スマートは|俄《にはか》に|魔《ま》の|如《ごと》く|姿《すがた》を|消《け》して|仕舞《しま》つた。
|千代《ちよ》『あれまア、|可愛《かあい》いスマートが|何処《どこ》へやら|行《い》つて|仕舞《しま》つたわ、|私《わたし》どうしませう』
|松姫《まつひめ》『スマートは|神様《かみさま》のお|使《つかひ》で|吾々《われわれ》の|危難《きなん》を|助《たす》けに|来《き》て|下《くだ》さつたのだから、もうお|帰《かへ》りになつたかも|知《し》れないよ』
『それだつて|私《わたし》、あのスマートが|好《す》きで|耐《たま》らないのよ。お|母《かあ》さまの|危難《きなん》を|谷《たに》の|向《むか》ふからよく|探知《たんち》して|助《たす》けに|来《き》て|呉《く》れたのだもの。そして|賢《かしこ》い|犬《いぬ》で|私《わたし》とお|友達《ともだち》にならうと|云《い》うて|約束《やくそく》して|置《お》いたのだもの』
『|茲《ここ》|暫《しばら》くスマートさまの|事《こと》は|云《い》うてはいけませぬよ、どんなお|仕組《しぐみ》があるか|知《し》れないからねえ』
『だつてスマートは|恋《こひ》しい|犬《いぬ》だわ。なア、お|菊《きく》さま、ほんたうに|貴女《あなた》だつて|好《す》きでせう』
お|菊《きく》『|私《わたし》、|貴女《あなた》の|次《つぎ》にスマートが|好《す》きのよ』
と|斯《こ》んな|話《はなし》をして|居《ゐ》ると、|表《おもて》にどやどやと|人《ひと》の|足音《あしおと》が|聞《きこ》えて|来《き》た。
|妖幻《えうげん》『こりや|初《はつ》、|徳《とく》、エエ|貴様《きさま》は|不届《ふとど》きの|奴《やつ》だ。サア|尻《しり》を|捲《まく》れ、なぜ|松姫《まつひめ》|様《さま》に|御無礼《ごぶれい》を|働《はたら》いたか。|是《これ》から|此《この》|杢助《もくすけ》が|其《その》|方《はう》の|尻《しり》|引《ひ》つ|叩《たた》いて|懲《こら》しめて|呉《く》れる。|悪《あく》の|報《むく》いだと|思《おも》うて|観念《くわんねん》せい』
|初《はつ》『ハイ|誠《まこと》に|誠《まこと》に|済《す》まぬ|事《こと》で|厶《ござ》いました。|貴方《あなた》のお|名《な》を|借《か》りまして、|松姫《まつひめ》さまを|嚇《おど》かしましたのは|重々《ぢゆうぢゆう》|悪《わる》う|厶《ござ》いました。|決《けつ》して|殺《ころ》さうなぞと|思《おも》うては|居《ゐ》ませぬ。つい|酒《さけ》の|興《きよう》に|乗《の》つて|狂言《きやうげん》をかいたのですから、|何卒《どうぞ》|耐《こら》へて|下《くだ》さいませ』
『|馬鹿《ばか》|申《まを》せ、そんな|事《こと》|申《まを》しても|松姫《まつひめ》|様《さま》に|御無礼《ごぶれい》を|加《くは》へ、|此《この》|方《はう》の|名《な》を|騙《かた》つたのだから|了簡《れうけん》はならぬ、|尻《しり》を|捲《まく》れ』
|高姫《たかひめ》『これ|初《はつ》、|徳《とく》|両人《りやうにん》、お|前《まへ》は|杢助《もくすけ》さまや|私《わたし》の|名《な》を|騙《かた》つて|松姫《まつひめ》さまに|御無礼《ごぶれい》をしたぢやないか、|何《なん》と|云《い》つても|松姫《まつひめ》さまに|済《す》まないから、お|前《まへ》の|尻《しり》を、|千切《ちぎ》れても|構《かま》はぬから|三百《さんびやく》ばかり|叩《たた》いて|上《あ》げよう、|徳公《とくこう》さまは|私《わたし》の|名《な》を|騙《かた》つたのだから|私《わたし》が|叩《たた》いてあげる。|初公《はつこう》は|杢助《もくすけ》さまの|名《な》を|騙《かた》つたのだから|杢助《もくすけ》さまに|叩《たた》いて|貰《もら》ひなさい。サア|早《はや》く|尻《しり》をまくりなされ』
|徳《とく》『ハイ|仕方《しかた》が|厶《ござ》いませぬ。どうぞソツと|叩《たた》いて|下《くだ》さい。|三百《さんびやく》もそんな|太《ふと》い|杖《つゑ》でやられては|命《いのち》がなくなりますから』
『|命《いのち》がなくなつたつて|仕方《しかた》がないぢやないか、お|前《まへ》は|松姫《まつひめ》|様《さま》の|命《いのち》を|取《と》らうとしたのだから。サア|杢助《もくすけ》さま、|貴方《あなた》は|初公《はつこう》をお|叩《たた》きなさい、オイ|徳《とく》、もうかうなつては|駄目《だめ》だ、|早《はや》く|尻《しり》を|出《だ》さぬか』
と|館《やかた》の|中《なか》に|聞《きこ》えるやうな|声《こゑ》で|四人《よにん》は|八百長芝居《やほちやうしばゐ》を|始《はじ》めかけた。
|両人《りやうにん》は|笞《むち》を|振《ふ》り|上《あ》げながら、|二人《ふたり》の|尻《しり》を|叩《たた》くやうな|顔《かほ》をして|大地《だいち》を|叩《たた》く。
|妖幻《えうげん》『|一《ひと》つ、|二《ふた》つ』
『キヤツ、キヤツ』
|高姫《たかひめ》『|一《ひと》つ、|二《ふた》つ』
『アイタタタ、アイタタタ』
『|四《よ》ツ、|五《いつ》ツ、|六《むつ》ツ、|七《なな》ツ、|八《やつ》ツ、|九《ここの》ツ、|十《とを》』
『キヤツ、キヤツ、キヤツ、アイタタタタ、アンアンアン』
|手許《てもと》が|狂《くる》うて、|妖幻坊《えうげんばう》が|力《ちから》|一《いつ》ぱい|打《う》ち|下《おろ》した|棒《ぼう》が|初公《はつこう》の|尻《しり》にビウと|当《あた》つた。|初公《はつこう》はキヤツと|云《い》つて|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れた。|妖幻坊《えうげんばう》、|高姫《たかひめ》の|両人《りやうにん》は、|持場《もちば》を|定《さだ》めて、|尚《なほ》も|続《つづ》け|打《う》ちに|数《かず》をかぞへながら|打《う》つて|居《ゐ》る。
|初《はつ》『これ|杢助《もくすけ》さま、|約束《やくそく》が|違《ちが》ふぢやありませぬか、|本当《ほんたう》に|叩《たた》かれるのなら、もう|止《や》めですわ、アア|痛《いた》いワ』
|高姫《たかひめ》『これ|初《はつ》さま、|黙《だま》つて|居《ゐ》なさらぬか、あいさには|二《ふた》つや|三《みつ》つ|手《て》が|狂《くる》うたつて|仕方《しかた》がないぢやないか』
『それだと|云《い》つて|痛《いた》いわな』
『|二十《にじふ》、|二十一《にじふいち》、|二十二《にじふに》、|二十三《にじふさん》、|二十四《にじふし》』
『アイタタタアイタ、キヤア、キヤツキヤツ』
|高姫《たかひめ》『|痛《いた》かろ|痛《いた》かろ、|痛《いた》いやうに|撲《なぐ》るのだ。かうせねばお|前《まへ》の|罪《つみ》も|亡《ほろ》びず、|私《わたし》の|疑《うたがひ》も|晴《は》れぬから、|弁慶《べんけい》でさへも|御主人《ごしゆじん》の|頭《あたま》を|撲《なぐ》つた|事《こと》を|思《おも》へば|辛抱《しんばう》をしなさい』
|徳《とく》『|本当《ほんたう》に|高姫《たかひめ》さま、|撲《なぐ》つちや|耐《たま》りませぬわ、|約束《やくそく》が|違《ちが》ふぢやありませぬか。|何《なん》ぼお|前《まへ》さまの|弁慶《べんけい》の(|弁解《べんかい》の)ためだと|云《い》つてもやりきれませぬわ』
|何《なん》だか|屋外《をくぐわい》にザワザワ|音《おと》がするので、お|菊《きく》、お|千代《ちよ》の|両人《りやうにん》は|立《た》ち|出《い》でて|見《み》れば|右《みぎ》の|体裁《ていさい》である。|両人《りやうにん》は|一度《いちど》に|手《て》を|叩《たた》いて、
『ああ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、|芝居《しばゐ》ぢや|芝居《しばゐ》ぢや、|痛《いた》くもないのに|猿《さる》のやうに|初公《はつこう》と|徳公《とくこう》が|泣《な》いて|居《ゐ》るわ。ありや|八百長《やほちやう》だよ。お|母《かあ》さま、|一寸《ちよつと》|来《き》て|御覧《ごらん》、|面白《おもしろ》い|芝居《しばゐ》が|始《はじ》まつて|居《ゐ》ますよ』
|松姫《まつひめ》も|気掛《きがか》りでならぬので、お|千代《ちよ》の|言葉《ことば》に|引《ひ》かれて|外《そと》に|出《で》て|見《み》た。|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》の|両人《りやうにん》は|八百長《やほちやう》と|見《み》られちや|大変《たいへん》だと|思《おも》ひ、|真剣《しんけん》に|力《ちから》をこめてビウビウと|撲《なぐ》り|出《だ》したから|耐《たま》らない、|忽《たちま》ち|臀部《でんぶ》は|紫色《むらさきいろ》に|腫上《はれあが》り|血《ち》が|滲《にじ》み|出《だ》した。|二人《ふたり》は|動《うご》きもならず、|目《め》を|眩《ま》かして|仕舞《しま》つた。|松姫《まつひめ》は|驚《おどろ》いて|其《その》|場《ば》に|走《はし》り|寄《よ》り|両手《りやうて》を|拡《ひろ》げて、
『ヤア|高姫《たかひめ》|様《さま》、|杢助様《もくすけさま》、|如何《いか》なる|事《こと》か|存《ぞん》じませぬが、どうぞ|暫《しばら》くお|待《ま》ち|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》『イヤ、お|前《まへ》さまは|松姫《まつひめ》さま、|長《なが》らくお|目《め》に|掛《かか》りませぬ、|此《この》|両人《りやうにん》が|吾々《われわれ》の|名《な》を|騙《かた》つてお|前《まへ》さまを|苦《くる》しめたさうですから、|今《いま》|折檻《せつかん》を|加《くは》へて|居《ゐ》る|所《ところ》です。|何卒《どうぞ》お|止《と》め|下《くだ》さいますな。これ|杢助《もくすけ》さま、もつと|打《う》つてやりなさい。こんな|奴《やつ》は|死《し》んだつて|構《かま》ふものか』
『|杢助《もくすけ》さま、|高姫《たかひめ》さま、お|腹《はら》が|立《た》ちませうが、これら|両人《りやうにん》は|小北山《こぎたやま》の|役員《やくゐん》、|如何《いか》なる|事《こと》が|厶《ござ》いませうとも、|私《わたし》に|云《い》つて|下《くだ》されば|何《なん》とか|致《いた》しますから、まアまア|待《ま》つて|下《くだ》さいませ』
|妖幻《えうげん》『イヤ|初《はじ》めてお|目《め》に|掛《かか》ります。|貴女《あなた》が|松姫《まつひめ》さまで|厶《ござ》いましたか、えらいお|気《き》を|揉《も》ませまして|恐《おそ》れ|入《い》ります。|許《ゆる》し|難《がた》い|奴《やつ》なれども、|貴女《あなた》のお|言葉《ことば》に|免《めん》じ|許《ゆる》してやりませう。これ|高姫《たかひめ》、お|前《まへ》も|許《ゆる》してやりなさい』
|高姫《たかひめ》『エエ|私《わたし》はどうしても|許《ゆる》しませぬ。|三百《さんびやく》の|笞《むち》を|加《くは》へなくてはなりませぬ。|私《わたし》や|貴方《あなた》の|名《な》を|騙《かた》つて|悪事《あくじ》をなした|代物《しろもの》だから、|以後《いご》のみせしめ、|息《いき》の|止《と》まる|所《ところ》まで|撲《なぐ》つてやりませう』
とピシヤピシヤと|撲《なぐ》りつけた。|徳公《とくこう》は|息《いき》が|切《き》れむばかりになつてヒーヒーとひしつて|居《ゐ》る。|漸《やうや》くにして|松姫《まつひめ》の|仲裁《ちうさい》によつて|鞭《むち》を|加《くは》へることだけはやめて|了《しま》つた。|松姫《まつひめ》は、お|千代《ちよ》、お|菊《きく》に|命《めい》じ|水《みづ》を|運《はこ》ばせ、|両人《りやうにん》に|呑《の》ませ|且《か》つ|尻《しり》に|水《みづ》をかけてやつた。|二人《ふたり》は|無我夢中《むがむちう》になつて|起《お》き|上《あが》り、|尻《しり》の|痛《いた》さに|肱《ひぢ》をついて|庭《には》に|横《よこ》たはつて|居《ゐ》る。
|松姫《まつひめ》『まア|可愛《かあい》さうに、|酷《ひど》いことなされますなア、|貴方《あなた》|等《がた》の|気《き》の|強《つよ》いのには|私《わたし》も|感心《かんしん》|致《いた》しました』
|高姫《たかひめ》『|私《わたし》だつて|斯様《かやう》な|事《こと》はしたくはありませぬが、|杢助《もくすけ》さまと|私《わたし》が|貴女《あなた》を|殺《ころ》して|来《こ》いといつたやうに|申《まを》して|乱暴《らんばう》を|働《はたら》いた|悪者《わるもの》ですから、|以後《いご》のみせしめに|笞《むち》を|加《くは》へたのです。|松姫《まつひめ》さま、|何卒《どうぞ》|疑《うたが》はないやうにして|下《くだ》さい、こんな|獣《けだもの》は|何《なに》を|申《まを》すか|知《し》れませぬからなア』
『ハイ|何卒《どうぞ》お|気遣《きづか》ひ|下《くだ》さいますな。|善悪《ぜんあく》は|神様《かみさま》が|御存《ごぞん》じですから、|私等《わたしら》は|善悪《ぜんあく》を|審《さば》く|力《ちから》はありませぬ。サア|何卒《どうぞ》|此処《ここ》は|門先《かどさき》……|中《うち》へ|入《はい》つて|下《くだ》さいませ。これお|千代《ちよ》や、お|菊《きく》さまと|二人《ふたり》、|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》の|側《そば》に|筵《むしろ》をもつて|行《い》つて|其《その》|上《うへ》に|寝《ね》かせ、お|前等《まへたち》が|世話《せわ》をして|上《あ》げて|下《くだ》さい。お|母《かあ》さまは|一寸《ちよつと》お|二人《ふたり》さまとお|話《はなし》があるから』
と|二人《ふたり》の|介抱《かいほう》を|二人《ふたり》の|少女《せうぢよ》に|命《めい》じ|置《お》き、|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》を|居間《ゐま》に|引《ひ》き|入《い》れた。
|松姫《まつひめ》『|高姫《たかひめ》|様《さま》、お|久《ひさ》しう|厶《ござ》います。|貴女《あなた》は|生田《いくた》の|森《もり》の|神司《かむつかさ》として、|琉《りう》の|玉《たま》を|御守護《ごしゆご》|遊《あそ》ばすとか|承《うけたま》はり、お|羨《うらや》ましい|事《こと》だと|存《ぞん》じて|居《を》りました。|此《この》|頃《ごろ》は|又《また》|斎苑《いそ》の|館《やかた》へお|越《こ》しになつて|居《ゐ》たさうで|厶《ござ》いますねえ』
『ハイ、|一寸《ちよつと》|都合《つがふ》があつて|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|参《まゐ》りましたが、|神様《かみさま》の|命令《めいれい》に|依《よ》つて、|此《この》|小北山《こぎたやま》は|高姫《たかひめ》の|系統《ひつぽう》|蠑〓別《いもりわけ》が|開《ひら》いたのだから、|其《その》|方《はう》が|行《い》つて|教主《けうしゆ》となり、|松姫《まつひめ》さまは|生田《いくた》の|森《もり》へ|行《い》つて|貰《もら》へとの|事《こと》で|厶《ござ》います。つまり|云《い》へば|更迭《かうてつ》ですな、|自転倒島《おのころじま》は|又《また》|景色《けしき》のよい|所《ところ》ですな、|高城山《たかしろやま》からは|僅《わづ》か|三十里《さんじふり》|許《ばか》りの|所《ところ》で|厶《ござ》いますからな』
『それは|神界《しんかい》の|御都合《ごつがふ》とあれば|是非《ぜひ》に|及《およ》びませぬが、|併《しか》し|貴女《あなた》は|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|八島主《やしまぬし》の|命様《みことさま》から|御命令《ごめいれい》を|受《う》けてお|出《い》でになりましたか、|神様《かみさま》の|命令《めいれい》と|云《い》つても、|現界《げんかい》の|仕事《しごと》は|矢張《やつぱり》|現界《げんかい》の|法則《はふそく》を|守《まも》らねばなりませぬ。ついては|御辞令《ごじれい》が|厶《ござ》いませう。|一寸《ちよつと》|拝見《はいけん》さして|頂《いただ》きませう』
『|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|仰有《おつしや》るな、|松姫《まつひめ》さまにも|似合《にあ》はぬ|愚問《ぐもん》を|発《はつ》するぢやありませぬか。|三五教《あななひけう》は|人民《じんみん》の|教《をしへ》を|立《た》てる|所《ところ》ぢやありますまい。|神様《かみさま》の|御命令《ごめいれい》で|働《はたら》く|所《ところ》でせう。|私《わたし》も|誠《まこと》の|義理天上様《ぎりてんじやうさま》の|御命令《ごめいれい》で|忙《いそが》しくして|仕方《しかた》がない|身《み》を、|小北山《こぎたやま》の|神司《かむつかさ》となつて|来《き》たのですよ。お|前《まへ》さまは|神様《かみさま》の|御命令《ごめいれい》を|聞《き》いて|生田《いくた》の|森《もり》へ|行《い》つて|貰《もら》ひたい、|元《もと》はお|前《まへ》さまの|師匠《ししやう》ですから、|私《わたし》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》くでせうね、そして|杢助《もくすけ》さまは|生田《いくた》の|森《もり》に|厶《ござ》つたけれど、|今《いま》は|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|総務《そうむ》、|此《この》お|方《かた》が|厶《ござ》つた|以上《いじやう》は|辞令《じれい》も|何《なに》も|要《い》りますまい。つまり|八島主《やしまぬし》さまの|意見《いけん》は|杢助《もくすけ》さまの|意見《いけん》、|杢助《もくすけ》さまの|意見《いけん》は|八島主《やしまぬし》さまの|意見《いけん》、|又《また》|八島主《やしまぬし》さまの|意見《いけん》は|義理天上《ぎりてんじやう》の|意見《いけん》、|義理天上《ぎりてんじやう》の|意見《いけん》は|高姫《たかひめ》の|意見《いけん》ぢやぞえ』
『いや|分《わか》りました、それなら|仰《おほせ》に|従《したが》ひ|貴女《あなた》に|事務《じむ》の|引継《ひきつぎ》を|致《いた》しませう。それについては|私《わたし》は|解職《かいしよく》の|奉告祭《ほうこくさい》、|貴方《あなた》|等《がた》は|新任《しんにん》の|奉告祭《ほうこくさい》をなさらなくてはなりますまい。それでなくては|神様《かみさま》の|御用《ごよう》の|引継《ひきつ》ぎは|出来《でき》ませぬからなア』
『イヤ|尤《もつと》もで|厶《ござ》います。お|前《まへ》さま|立派《りつぱ》に|引渡《ひきわた》して|下《くだ》さるか、|偉《えら》いものだなア。|其《その》|代《かは》り|生田《いくた》の|森《もり》へ|行《い》つて|下《くだ》さい、|又《また》|生田《いくた》の|森《もり》へ|転任《てんにん》の|辞令《じれい》がないと|仰有《おつしや》るだらうが、|現在《げんざい》|此処《ここ》に|杢助《もくすけ》さまが|厶《ござ》るから、|生証文《いきしようもん》だ。どうか|安心《あんしん》して|行《い》つて|下《くだ》さいや』
『|左様《さやう》ならば|事務《じむ》の|引継《ひきつ》ぎを|致《いた》しませう、|善《ぜん》は|急《いそ》げと|申《まを》しますから、|一時《いちじ》も|早《はや》くお|空《そら》の|大神様《おほかみさま》へ|参拝《さんぱい》|致《いた》し、|奉告祭《ほうこくさい》を|行《おこな》はうぢやありませぬか』
『それは|真《まこと》に|結構《けつこう》で|厶《ござ》います。|杢助《もくすけ》さま、お|前《まへ》さまも、|何程《なにほど》|霊界《れいかい》の|天人《てんにん》だからといつて、|今日《けふ》は|新任《しんにん》の|奉告祭《ほうこくさい》だから|参《まゐ》らねばなりませぬぞや』
『ウン|仕方《しかた》が……ウンない、イヤ|結構《けつこう》だ、|私《わたし》も|奉告祭《ほうこくさい》に|参列《さんれつ》させて|貰《もら》ひませう』
|松姫《まつひめ》『それでは|貴方《あなた》|等《がた》にお|装束《しやうぞく》をつけて|頂《いただ》きたう|厶《ござ》ります。|又《また》それ|迄《まで》に|神饌《しんせん》の|用意《ようい》や|祓戸《はらひど》の|式《しき》をせなくてはなりませぬから、|役員《やくゐん》にその|準備《じゆんび》を|致《いた》させませう。|肝腎《かんじん》の|初《はつ》や|徳《とく》は|貴方《あなた》|等《がた》に|笞《むち》を|当《あ》てられ、|八百長芝居《やほちやうしばゐ》が|利《き》き|過《す》ぎて、あの|通《とほ》り|平太《へた》つて|居《ゐ》ますから、|他《ほか》の|役員《やくゐん》に|命《めい》じませう。これ、お|千代《ちよ》や、お|前《まへ》はお|菊《きく》さまに|二人《ふたり》の|介抱《かいほう》を|頼《たの》み、|文助《ぶんすけ》さまに|祭典《さいてん》の|用意《ようい》を|命《めい》じて|下《くだ》さい』
お|千代《ちよ》は、
『ハイ』
と|一言《ひとこと》|後《あと》に|残《のこ》して、|文助《ぶんすけ》に|松姫《まつひめ》の|命令《めいれい》を|下《くだ》すべく|階段《かいだん》を|下《くだ》り|行《ゆ》く。|文助《ぶんすけ》は|早速《さつそく》|四五《しご》の|役員《やくゐん》に|命《めい》じ、|祭典《さいてん》の|準備《じゆんび》を|整《ととの》へしめた。|彌《いよいよ》|祓戸《はらひど》も|済《す》み|神饌《しんせん》も|済《す》んだ。|松姫《まつひめ》、|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》は|新《あたら》しき|衣装《いしやう》を|着替《きか》へ、|悠然《いうぜん》として|上段《じやうだん》の|石《いし》の|宮《みや》の|前《まへ》に|現《あら》はれた。
|忽《たちま》ち|神饌《しんせん》は|踊《をど》り|出《だ》し、|供《そな》へた|木《こ》の|果《み》などは|空中《くうちう》に|蚋《ぶと》の|舞《ま》ふ|如《ごと》く|舞《ま》ひ|狂《くる》うて|居《ゐ》る、さうして|人参《にんじん》も|大根《だいこん》も|山《やま》の|薯《いも》も|蜜柑《みかん》も|川魚《かはうを》もピンピン|跳《は》ね|出《だ》し|踊《をど》り|出《だ》した。|高姫《たかひめ》は|首《くび》を|傾《かたむ》けて|非常《ひじやう》に|感心《かんしん》をして|居《ゐ》る。
『|何《なん》とまア|神徳《しんとく》の|高《たか》い|者《もの》が|御用《ごよう》をする|事《こと》になると|偉《えら》いものだなア、|神様《かみさま》が|大変《たいへん》にお|勇《いさ》みだと|見《み》えて、お|供《そな》へ|物《もの》が|中天《ちうてん》に|舞《ま》ひ|上《あが》り、|皆《みな》|踊《をど》つて|居《ゐ》る。これ|松姫《まつひめ》さま、|偉《えら》いもので|厶《ござ》いませうがな。あれ|御覧《ごらん》なさいませ。|神様《かみさま》が|四辺《あたり》の|木《き》の|上《うへ》に|鈴《すず》なりになつて|居《ゐ》られませうがな、エエ|見《み》えませぬか、|修業《しゆげふ》の|足《た》らぬものは|仕方《しかた》が|厶《ござ》いませぬな。|義理天上《ぎりてんじやう》さまが、|松姫《まつひめ》をおつぽり|出《だ》せ……いや|生田《いくた》の|森《もり》に|遣《つか》はせと|仰有《おつしや》つたのも、|斯《こ》んな|仕組《しぐみ》があつたからだらう。ああ|宙空《ちうくう》に|八百万《やほよろづ》の|神様《かみさま》が|勇《いさ》んでお|出《い》でになることわいなア。ネーブルなどは、あの|通《とほ》り|目《め》の|届《とど》かぬ|所《ところ》まで|上《あが》つて|舞踏《ぶたふ》をやつて|居《ゐ》ます。|何《なん》と|神徳《しんとく》と|云《い》ふものは|争《あらそ》はれぬものだなア』
|杢助《もくすけ》は|何《なん》とも|云《い》へぬ|渋《しぶ》い|顔《かほ》をして|頭《あたま》の|痛《いた》いのを|耐《こら》へて|居《ゐ》る。|高姫《たかひめ》は|益々《ますます》|調子《てうし》に|乗《の》つて|法螺《ほら》を|吹《ふ》いて|居《ゐ》る。
|松姫《まつひめ》『これ|高姫《たかひめ》さま、これ|程《ほど》|神様《かみさま》がお|勇《いさ》みになつて|居《ゐ》るのですから、|一遍《いつぺん》、ユラリ|彦《ひこ》や|月《つき》の|大神《おほかみ》、|日《ひ》の|大神様《おほかみさま》のお|扉《とびら》を|開《あ》けさせて|頂《いただ》きませうか』
『ああそれが|肝腎《かんじん》だ。お|前《まへ》さま、|開《あ》けて|下《くだ》さい、|私《わたし》が|神様《かみさま》に|直接《ちよくせつ》にお|話《はな》し|致《いた》しますから。|嘸《さぞ》|神様《かみさま》も|高姫《たかひめ》にお|給仕《きふじ》をして|貰《もら》ひ、|杢助《もくすけ》さまに|構《かま》うて|貰《もら》へば|御満足《ごまんぞく》なさるだらう。|大神様《おほかみさま》、|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|杢助《もくすけ》と|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》が、|今日《けふ》から|御世話《おせわ》をさして|頂《いただ》きますぞや』
|松姫《まつひめ》はスツと|神前《しんぜん》に|進《すす》み、|中《なか》の|社《やしろ》の|扉《とびら》をパツと|開《ひら》いた。|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》の|二人《ふたり》はアツと|叫《さけ》んで|其《その》|霊光《れいくわう》に|打《う》たれ、ヨロ ヨロ ヨロと|七歩《ななあし》|八歩《やあし》|後《あと》すざりをした|途端《とたん》に、|断岩絶壁《だんがんぜつぺき》から|逆《さか》とんぼりに、キザキザの|岩《いは》の|上《うへ》に|顛落《てんらく》し「ウン、キヤツ」と|怪《あや》しき|声《こゑ》を|立《た》てながら、|痛《いた》さを|耐《こら》へ、
『|高姫《たかひめ》|来《きた》れ』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》|坂道《さかみち》を|逃《に》げ|出《だ》した。|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》|両人《りやうにん》は|之《これ》を|見《み》るより|尻《しり》の|痛《いた》さも|忘《わす》れ、トントントンと|二人《ふたり》の|後《あと》に|従《したが》ひ|一生懸命《いつしやうけんめい》に|逃《に》げ|出《だ》す。|折《をり》からヨボヨボと|階段《かいだん》を|上《あが》つて|来《く》る|文助《ぶんすけ》に|突《つ》きあたり、|妖幻坊《えうげんばう》は|文助《ぶんすけ》の|顔《かほ》を|引《ひ》つかき|坂《さか》の|下《した》に|投《な》げつけながら、|飛《と》ぶが|如《ごと》くに|雲《くも》を|霞《かすみ》と|駆《か》け|出《いだ》す。|高姫《たかひめ》は|金切声《かなきりごゑ》を|振《ふ》り|立《た》てながら|髪《かみ》|振《ふ》り|乱《みだ》し、【でつかい】|尻《しり》を|振《ふ》りながら|可愛《かあい》い|男《をとこ》を|逃《に》がしちや|大変《たいへん》だと、|一町《いつちやう》|許《ばか》り|間隔《かんかく》を|保《たも》ち、|一本橋《いつぽんばし》を|渡《わた》り|怪志《あやし》の|森《もり》を|指《さ》して|逃《に》げて|行《ゆ》く。|又《また》|一町《いつちやう》|許《ばか》り|後《おく》れて、|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》が、
『オイオイ』
と|叫《さけ》びながら、|青草《あをくさ》の|芽含《めぐ》んだ|野路《のぢ》を|追《お》つ|駆《か》けて|行《ゆ》く。|小北山《こぎたやま》の|頂《いただき》から、
『ウーウーワウ ワウ ワウ』
とスマートの|声《こゑ》、|雷《らい》の|如《ごと》くに|杢助《もくすけ》の|妖幻坊《えうげんばう》の|耳《みみ》に|入《い》る。
|是《これ》より、スマートは|松姫《まつひめ》の|返書《へんしよ》を|首《くび》に|括《くく》りつけられ、|初稚姫《はつわかひめ》に|報告《はうこく》すべく|祠《ほこら》の|森《もり》をさして|帰《かへ》り|往《ゆ》く。
(大正一二・一・二五 旧一一・一二・九 加藤明子録)
第二篇 |夢幻楼閣《むげんろうかく》
第七章 |曲輪玉《まがわのたま》〔一三二二〕
|階段《かいだん》を|十二三階《じふにさんかい》|上《あ》がつた|所《ところ》で、|文助《ぶんすけ》は|妖幻坊《えうげんばう》に|顔《かほ》をひつかかれ、|突倒《つきたふ》され、ウンと|呻《うめ》いて、|暫《しばら》くは|気《き》が|遠《とほ》くなつてゐた。それ|故《ゆゑ》、|後《あと》から|走《はし》つた|高姫《たかひめ》や|初《はつ》、|徳《とく》の|事《こと》はチツとも|知《し》らなかつた。|依然《いぜん》として、|彼等《かれら》|一同《いちどう》は|教主館《けうしゆやかた》に|休息《きうそく》し|居《ゐ》るものとのみ|考《かんが》へてゐた。ヤツと|気《き》が|付《つ》き|見《み》れば、|懐《ふところ》に|何物《なにもの》か|蜂《はち》の|巣《す》のやうな|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》る。|文助《ぶんすけ》は、
『ハテ|此奴《こいつ》ア|不思議《ふしぎ》だ。|杢助《もくすけ》さまに|衝突《しようとつ》して|気《き》が|遠《とほ》くなり|逆上《のぼ》せて|居《ゐ》るのかなア』
と|思《おも》ひながら、|懐《ふところ》へ|手《て》を|入《い》れると、|余《あま》り|重《おも》くない、|丸《まる》い|塊《かたまり》の|物《もの》が|懐《ふところ》に|残《のこ》つてゐた、|周囲《まはり》は|石綿《いしわた》のやうに|軟《やはら》かく、そして|耳《みみ》へあてて|見《み》ると「ウーン、ウン」と|呻《うな》つてゐる。|文助《ぶんすけ》は|少時《しばらく》|掌《てのひら》に|載《の》せたり、|耳《みみ》に|当《あ》てたりして|考《かんが》へてゐた。そしてハタと|片手《かたて》に|膝《ひざ》を|打《う》ち、
『ヤ、|此奴《こいつ》ア、|蜂《はち》の|巣《す》だ。うつかり|破《やぶ》らうものなら、|此《この》|悪《わる》い|目《め》を|此《この》|上《うへ》に|刺《さ》されちやたまらぬ。|杢助《もくすけ》さまも|随分《ずいぶん》|悪戯好《いたづらず》きだな、|人《ひと》が|目《め》が|見《み》えぬかと|思《おも》うて、|懐《ふところ》へつつ|込《こ》んで|行《い》つたのだな。|余《あま》りエライ|勢《いきほひ》でおりて|来《き》たものだから、|私《わたし》と|衝突《しようとつ》して、それでつき|倒《たふ》されたのだ。|何《なん》だか|顔《かほ》がピリピリする。|石《いし》で|顔《かほ》をすり|剥《む》いたと|見《み》える』
と|独《ひと》り|判断《はんだん》してゐる。
『そして|握《にぎ》りつぶしちや|蜂《はち》が|可愛相《かあいさう》だ、|併《しか》しながら、そこらに|放《ほ》つておけば|人《ひと》がいたづらすると|困《こま》る、|此奴《こいつ》ア|一《ひと》つ、|御玉筥《みたまばこ》の|中《なか》へでも|入《い》れておかうかなア。ウン、|幸《さいは》ひ、ここに|鞠《まり》の|空箱《あきばこ》がある。|丁度《ちやうど》|具合《ぐあひ》がよささうだ』
と|云《い》ひながら、あつい|板箱《いたばこ》に|玉《たま》を|入《い》れ、|荒白苧《あらさを》で|固《かた》く|結《むす》び、|自分《じぶん》の|座右《ざう》において、|又《また》もや|松《まつ》に|日《ひ》の|出《で》の|絵《ゑ》の|書《か》きさしを、せつせと|彩色《ゑど》つてゐた。|箱《はこ》はカタカタと|自然《しぜん》に|飛上《とびあが》るのを|別《べつ》に|怪《あや》しとも|思《おも》はず、|蜂《はち》が|非常《ひじやう》にあばれてをるのだと|早合点《はやがてん》し、|其《その》|上《うへ》に|珍石《ちんせき》の|風鎮《ふうちん》を|載《の》せておいた。|唸《うな》りはますます|烈《はげ》しくなつて|来《き》た。
『ハハア、|蜂《はち》がたうとう|巣《す》を|破《やぶ》つて|出《で》よつたとみえる、エーエー|蜂《はち》の|巣《す》を|破《やぶ》つたやうだといふが、いかにも|喧《やかま》しいものだなア』
と|独語《ひとりご》ちつつ、|又《また》もや|絵筆《ゑふで》をせつせと|走《はし》らしてゐる。
|話《はなし》|変《かは》つて|妖幻坊《えうげんばう》は|逃《に》げしなに、|自分《じぶん》の|変相術《へんさうじゆつ》に|必要《ひつえう》|欠《か》く|可《べか》らざる|曲輪《まがわ》の|玉《たま》を、どつかにおとし、|俄《にはか》に|体《からだ》の|具合《ぐあひ》が|悪《わる》くなつて|来《き》た。|此《この》|曲輪《まがわ》は|肌《はだ》を|離《はな》れてから|一昼夜《いつちうや》|経《た》てば、|変相《へんさう》が|現《あら》はれるのである。そして|山《やま》の|上《うへ》からスマートが|雷《らい》の|如《ごと》き|声《こゑ》で|唸《うな》つたので、ペタリと|路傍《ろばう》の|芝生《しばふ》の|上《うへ》に|倒《たふ》れて|了《しま》つた。そこへ|高姫《たかひめ》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|追《お》つ|付《つ》き、
『コレ|杢助《もくすけ》さま、お|前《まへ》さまはこんな|所《ところ》に|倒《たふ》れてゐるのかいな、サアサア|起《お》きなさい|起《お》きなさい、どつこも|怪我《けが》はありませぬかなア』
|妖幻坊《えうげんばう》は、|懐《ふところ》を|探《さぐ》り、|曲輪《まがわ》のない|事《こと》に|気《き》がつき、|蒼白《まつさを》な|顔《かほ》をし、
『ヤ、|失敗《しま》つた、|肝腎《かんじん》の|宝《たから》を|失《うしな》つて|了《しま》つた。これがなければ|忽《たちま》ち|正体《しやうたい》が|現《あら》はれるがなア、ああ|如何《どう》したらよからうかなア』
『コレ|杢助《もくすけ》さま、|正体《しやうたい》が|現《あら》はれると|今《いま》|仰有《おつしや》つたが、ソラ|一体《いつたい》|何《なん》の|事《こと》ですか。そして|曲輪《まがわ》とか、|今《いま》|云《い》はれたやうだが、|其《その》|曲輪《まがわ》は|何《なに》をするものですか』
『ウン、これは|一名《いちめい》|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》と|云《い》つて、あれさへあれば、|世《よ》の|中《なか》は|自由自在《じいうじざい》になるのだ。それをたうとう|落《おと》して|了《しま》つたのだ、ああ|困《こま》つた|事《こと》をしたわい』
『|何《なに》、|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》? それはお|前《まへ》さま、|何処《どこ》から|手《て》に|入《い》れたのだい。|私《わたし》も|其《その》|宝珠《ほつしゆ》については|随分《ずいぶん》|苦労《くらう》したものだよ。|一旦《いつたん》|私《わたし》の|腹《はら》に|呑込《のみこ》んだ|事《こと》があるのだからな、それをお|前《まへ》さまが|持《も》つてゐたとは、|因縁《いんねん》といふものは|怖《こは》いものだな。|如何《どう》して、|杢助《もくすけ》さま、|貴方《あなた》のお|手《て》に|入《い》りましたか』
『|私《わし》が|総務《そうむ》をやつてゐたものだから、|始終《しじう》|斎苑《いそ》の|館《やかた》のお|宝物《たからもの》として|監督《かんとく》してゐたのだ。それをば|此方《こちら》へ|来《き》がけに、ソツと|物《もの》して|来《き》たのだよ』
『それを|何《ど》うしたと|云《い》ふのだい』
『どうも|小北山《こぎたやま》でおとして|来《き》たやうだ。|確《たしか》に|階段《かいだん》を|下《くだ》る|時《とき》には|懐《ふところ》にあつたやうに|思《おも》ふが、あの|文助《ぶんすけ》に|行当《ゆきあた》つた|時《とき》に、|彼奴《あいつ》に|取《と》られたかも|知《し》れない。ああ|向《むか》ふの|手《て》に|入《い》るからは|最早《もはや》|取返《とりかへ》す|事《こと》も|出来《でき》まい。|反対《あべこべ》に、あちらからあれを|使《つか》はれようものなら、|何《ど》うする|事《こと》も|出来《でき》ぬからのう』
『|杢助《もくすけ》さま、そんな|気楽《きらく》な|事《こと》|言《い》うてをれますか。|仮令《たとへ》|火《ひ》の|中《なか》へ|飛込《とびこ》まうが、|水《みづ》の|中《なか》へ|入《はい》らうが、|取返《とりかへ》さなくちや、|思惑《おもわく》が|立《た》たぬぢやありませぬか。|其《その》|玉《たま》さへあれば|三五教《あななひけう》を|崩壊《ほうくわい》させ、ウラナイ|教《けう》の|天下《てんか》にするのは|朝飯前《あさめしまへ》の|仕事《しごと》ぢやないか、|何程《なにほど》|吾々《われわれ》があせるよりも、|其《その》|玉《たま》|一《ひと》つがどれだけ|働《はたら》きをするか|分《わか》りますまい。|之《これ》から|私《わたし》が|調《しら》べて|来《き》ます。もしも|文助《ぶんすけ》が|持《も》つて|居《を》つたら、ひつたくつて|来《き》ますから』
『イヤ、あの|玉《たま》はお|前《まへ》なんぞが、いらふものぢやない、|人《ひと》がいらふと|消《き》えて|了《しま》ふからな』
『|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|言《い》ひなさるな、|私《わたし》だつて|一度《いちど》は|手《て》に|持《も》つた|事《こと》もあり、|口《くち》に|呑《の》んだ|事《こと》もあるのだ。|滅多《めつた》に|消《き》える|気遣《きづか》ひはありませぬぞや。サ、これから|私《わたし》が|取返《とりかへ》して|来《き》ませう』
『|何《なん》と|云《い》つても、お|前《まへ》は|此処《ここ》を|動《うご》いちや|可《い》かない、|此処《ここ》に|居《を》つてくれ。|何時《いつ》スマートがやつて|来《く》るか、|分《わか》つたものぢやないから』
『ヘン、スマートスマートて、|何《なん》ですか、ありや|四足《よつあし》ぢやありませぬか』
『|俺《おれ》はあの|犬《いぬ》に|限《かぎ》つて、|頭《あたま》が|痛《いた》くつて|仕方《しかた》がないのだ』
と|話《はなし》してゐる。そこへハアハアと|息《いき》を|喘《はづ》ませながら、|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》が|漸《やうや》く|追付《おつつ》いた。
|妖幻《えうげん》『ヤ、|初《はつ》、|徳《とく》、お|前《まへ》はついて|来《き》たのか、ああ|偉《えら》いものだ。ヤツパリ|俺《おれ》たちの|味方《みかた》だ』
|初《はつ》『ハイ、もうあなた、かうなつちや、|私《わたし》だつて|小北山《こぎたやま》には|居《ゐ》られませぬ。|貴方《あなた》|等《がた》のお|世話《せわ》になるより|仕方《しかた》がないと|思《おも》つて、|後《あと》|追《お》つかけて|参《まゐ》りました』
|高姫《たかひめ》『ああ|徳《とく》も|来《き》て|居《ゐ》るぢやないか』
『ハイ、|何卒《どうぞ》|宜《よろ》しう|願《ねが》ひます。|到底《たうてい》|小北山《こぎたやま》へは|帰《かへ》る|顔《かほ》が|厶《ござ》いませぬからな。|貴方《あなた》|等《がた》の|御世話《おせわ》になるより、|最早《もはや》|活路《くわつろ》は|厶《ござ》いませぬ』
『お|前《まへ》、|御苦労《ごくらう》だが、|一寸《ちよつと》マ|一度《いちど》、|小北山《こぎたやま》まで|行《い》つて|来《き》て|貰《もら》へまいかな』
|初《はつ》『ヘー、|行《い》かぬこた|厶《ござ》いませぬが、|何《なに》かお|忘《わす》れにでもなつたのですか』
『|杢助様《もくすけさま》が|一寸《ちよつと》した、|丸《まる》いものを|落《おと》して|厶《ござ》つたのだ。|大方《おほかた》、あの|文助《ぶんすけ》が|拾《ひろ》うて|居《ゐ》るに|違《ちが》ひないから、お|前《まへ》うまくチヨロまかして、|文助《ぶんすけ》の|手《て》から|受取《うけと》つて|来《き》て|下《くだ》さい。いい|子《こ》だからな』
『ヘー、|行《い》かぬこた|厶《ござ》いませぬが、|又《また》|尻《しり》の|三百《さんびやく》も|叩《たた》かれちや|堪《たま》りませぬから、|小北山《こぎたやま》ばかりはこらへて|貰《もら》ひたいものですな。|約束《やくそく》を|破《やぶ》つて、|貴女《あなた》は|本当《ほんたう》に|叩《たた》いたものですから、|足《あし》が|痛《いた》くつて、ここまで|走《はし》つて|来《く》るのが|並大抵《なみたいてい》のこつちやなかつたですよ。|此《この》|痛《いた》い|足《あし》で、あのきつい|坂《さか》を|再《ふたた》び|登《のぼ》れとは、チツと|酷《ひど》いですな。|徳《とく》、お|前《まへ》|何《ど》うだ。おれとは|余程《よほど》|疵《きず》が|軽《かる》いやうだから、|一寸《ちよつと》|使《つかひ》に|行《い》つて|来《き》てくれまいかなア』
|徳《とく》『|俺《おれ》だつて、|貴様《きさま》より|余程《よつぽど》きついぞ。どうも|痛《いた》くつて、【いのこ】がさして、|碌《ろく》に|歩《ある》かれやしないワ。|足《あし》が|丸切《まるき》り|棒《ぼう》のやうになつて|了《しま》つたよ』
『それなら|二人《ふたり》|行《い》つて|来《き》て|下《くだ》さいな。|少々《せうせう》ばかり|遅《おそ》くなつても|構《かま》はないから、|私《わたし》は|向《むか》ふの|怪志《あやし》の|森《もり》で、|杢助《もくすけ》さまと、|神様《かみさま》に|祈《いの》つて|待《ま》つてゐるから……』
|二人《ふたり》は|不承々々《ふしようぶしよう》に|踵《きびす》を|返《かへ》し、|足《あし》をチガチガさせながら|竹切《たけぎ》れを|拾《ひろ》つて|杖《つゑ》となし、|一本橋《いつぽんばし》を|危《あやふ》く|渡《わた》り、|小北山《こぎたやま》の|急坂《きふはん》を|登《のぼ》つて、|漸《やうや》く|受付《うけつけ》の|前《まへ》に|行《い》つた。|見《み》れば|文助《ぶんすけ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|絵《ゑ》を|描《か》いてゐる。
|初《はつ》『もし|文助《ぶんすけ》さま、お|前《まへ》さま、|最前《さいぜん》はひどうこけましたなア、どつこもお|怪我《けが》はありませなんだかなア』
『ハイ|有難《ありがた》う、|杢助《もくすけ》さまが、|余《あま》り|勢《いきほひ》よく|坂《さか》を|下《くだ》つて|厶《ござ》るのに、|私《わたし》は|目《め》が|悪《わる》いものだからヨボヨボして|上《あが》るのと、|細《ほそ》い|階段《かいだん》だから、|衝突《しようとつ》し、はね|飛《と》ばされて、チツとばかり、こんな|疵《きず》をしました。ピリピリして|仕方《しかた》がないのだ。それでも|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》で、|御神水《ごしんすい》をつけたら|余程《よつぽど》|痛《いた》みが|止《と》まりましたよ。|今晩《こんばん》はお|土《つち》をドツサリ|頂《いただ》いて|休《やす》まして|貰《もら》はうと|思《おも》つてゐるのだ』
『ヤア、|何《なん》とえらい|疵《きず》だな、|爪形《つめがた》が|入《はい》つて|居《ゐ》るぢやないか』
『|尖《とが》つた|石《いし》が|沢山《たくさん》に|敷《し》いてあるものだから、こんなに|傷《きずつ》いたのだよ。|杢助《もくすけ》さまは|教主館《けうしゆやかた》にゐられるだらうな。そして|高姫《たかひめ》さまも|機嫌《きげん》がよいかなア』
|初公《はつこう》は|文助《ぶんすけ》が、まだ|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》|等《など》が|逃出《にげだ》した|事《こと》を|知《し》らぬものと|悟《さと》り、|稍《やや》|安心《あんしん》の|胸《むね》をなで、
『ハイ、|今《いま》|奥《おく》に|休《やす》んでゐられますよ。そして、エー、|文助《ぶんすけ》さまに|衝突《しようとつ》してすまなかつたから、|断《ことわ》りを|云《い》つて|来《き》てくれと|仰有《おつしや》るのですよ。|杢助《もくすけ》さまも|目《め》がまはるとか|云《い》つて|休《やす》んでゐられます、|高姫《たかひめ》さまも|介抱《かいほう》して|厶《ござ》るものだから、|貴方《あなた》にお|伺《うかが》ひにも|行《ゆ》かれないからと|云《い》つてくれと|云《い》はれました』
『それはマア|御親切《ごしんせつ》に|有難《ありがた》いことだ。|何卒《どうぞ》|宜《よろ》しう、|文助《ぶんすけ》が|云《い》つて|居《を》つたと|伝《つた》へて|下《くだ》さい。ああ|神様《かみさま》のお|道《みち》の|方《かた》は、|何《なに》から|何《なに》までよく|気《き》の|付《つ》くものだなア』
『|時《とき》に|文助《ぶんすけ》さま、お|前《まへ》さま|何《なに》か|不思議《ふしぎ》なものを|拾《ひろ》はなかつたかな』
『|別《べつ》に|何《なん》にも|拾《ひろ》つた|覚《おぼえ》はないが、|杢助《もくすけ》さまと|衝突《しようとつ》した|時《とき》、|私《わたし》の|懐《ふところ》に|妙《めう》な|声《こゑ》がするので|探《さぐ》つて|見《み》れば、|蜂《はち》の|巣《す》のやうなものが|出《で》て|来《き》たのだ。そしてそれを|耳《みみ》にあてて|見《み》ると、ブンブンブンと|唸《うな》つてゐる。|此奴《こいつ》ア|杢助《もくすけ》さまが|土窩蜂《どかばち》の|巣《す》を|握《にぎ》つて|来《き》て、|私《わたし》を|吃驚《びつくり》ささうと|思《おも》つて、|私《わたし》の|懐《ふところ》へ|捻込《ねぢこ》んだのだな。エエ|年《とし》してテンゴする|人《ひと》だと|思《おも》つてゐる。|併《しか》し|何程《なにほど》|年寄《としよ》つても、|神様《かみさま》のお|道《みち》へ|入《はい》ると|子供《こども》のやうになるから、つい|誰《たれ》しも|悪戯《いたづら》のしたくなるものだ』
『|其《その》|蜂《はち》の|巣《す》とやらを|一寸《ちよつと》|見《み》せて|下《くだ》さらぬか』
『イヤイヤそんな|物《もの》いらつて、|何《ど》うなるものか。|私《わたし》はそこらへ|蜂《はち》に|出《で》られちや|大変《たいへん》だと|思《おも》つて、|箱《はこ》の|中《なか》へ|入《い》れて|了《しま》つたのだ。どうやら|蜂《はち》が|巣《す》を|破《やぶ》つたとみえて、|喧《やかま》しい|事《こと》いの。こんなものをいぢつたら、それこそ|一遍《いつぺん》に|目《め》を|刺《さ》されて|了《しま》ひますよ』
|徳《とく》『|其《その》|蜂《はち》の|巣《す》を|是非《ぜひ》とも|見《み》せて|頂《いただ》きたいものだな、|刺《さ》されたつて|構《かま》やしないぢやないか』
『イヤ、おきなさい おきなさい、お|前《まへ》さまばかりの|難儀《なんぎ》ぢやない、こんな|所《ところ》であばれられようものなら、|誰《たれ》もかれも|大変《たいへん》な|目《め》に|遇《あ》はねばならぬ。それだから|私《わし》がチヤンと|箱《はこ》に|入《い》れてしまつておいたのだ』
|初《はつ》『|何卒《どうぞ》|一遍《いつぺん》、|其《その》|箱《はこ》なつと|見《み》せて|下《くだ》さいな。|中《なか》まで|開《あ》けようとは|言《い》ひませぬから……』
『イヤイヤ、お|前達《まへたち》に|渡《わた》してたまらうか、|之《これ》は|直接《ちよくせつ》に|杢助様《もくすけさま》にお|渡《わた》しするのだ。お|寝《やす》みになつて|居《を》れば、|何《いづ》れお|目《め》が|醒《さ》めるだらう。|其《その》|時私《わたし》が|手《て》づから|御渡《おわた》しする|積《つも》りだ。これは|蜂《はち》の|巣《す》のやうだが、よくよく|考《かんが》へると、|何《なに》かの|宝《たから》らしいから、お|前《まへ》さまに|渡《わた》すこたア|出来《でき》ませぬワイ。たつて|渡《わた》せと|云《い》ふなら、|杢助様《もくすけさま》から|何《なに》か|印《しるし》をもつて|来《き》て|下《くだ》さい、さうすりや|其《その》|印《しるし》と|引替《ひきかへ》に|渡《わた》しませう。|後《あと》から|面倒《めんだう》が|起《おこ》ると|文助《ぶんすけ》も|困《こま》るからなア』
『ああ|困《こま》つた|事《こと》だなア、|何《なん》とかして|持《も》つて|帰《い》ななくちや|駄目《だめ》だぞ』
『コレ、お|前《まへ》は|何《なん》といふ|事《こと》を|仰有《おつしや》る。どこへ|持《も》つて|帰《い》ぬのだい』
『|杢助《もくすけ》さまのお|居間《ゐま》まで|持《も》つて|帰《かへ》つて、|其《その》ブンブン|玉《だま》をお|慰《なぐさ》みにするのだ。さうすればお|気《き》の|慰《なぐさ》めになつて、|早《はや》くお|治《なほ》りになるだらうからな』
『それ|程《ほど》|必要《ひつえう》なら、|之《これ》から|私《わたし》が、つい|五間《ごけん》|許《ばか》りだから、|杢助《もくすけ》さまのお|居間《ゐま》へお|訪《たづ》ね|申《まを》して、|直接《ちよくせつ》お|手《て》に|渡《わた》しませう。|遠《とほ》い|所《ところ》ではなし、|面倒《めんだう》な|手続《てつづ》きもいらないから……』
『オイ、|初公《はつこう》、|此奴《こいつ》ア|迚《とて》も|駄目《だめ》だぞ。|直接《ちよくせつ》|行動《かうどう》だ。|此《この》|文助《ぶんすけ》を|押倒《おしこか》しといて|持《も》つて|行《ゆ》かうぢやないか』
『ヘン、|偉《えら》さうに|云《い》ふない、|私《わたし》が|隠《かく》してあるのだから、|口《くち》から|外《そと》へ|出《だ》さぬ|限《かぎ》り、お|前《まへ》たちが|二年《にねん》|三年《さんねん》かかつて|探《さが》した|所《ところ》で、|其《その》|所在《ありか》が|分《わか》つてたまるものか。|何《なん》でも、あれは|結構《けつこう》な|神力《しんりき》を|持《も》つてゐる|宝《たから》に|違《ちが》ひない、|私《わたし》の|身《み》に|添《そ》うてゐるのかも|知《し》れない。|何《なん》だか|俄《にはか》に|惜《を》しくなつて|来《き》た。|杢助《もくすけ》さまが|私《わたし》を|突《つ》き|倒《たふ》してまで、|懐《ふところ》に|入《い》れてくれたのだから、|今《いま》になつて|返《かへ》せと|云《い》つたつて、|権利《けんり》が|此方《こちら》へ|移《うつ》れば|最早《もはや》|文助《ぶんすけ》の|物《もの》だ。|滅多《めつた》に|返《かへ》しませぬぞや』
|此《この》|時《とき》|側《そば》において|風呂敷《ふろしき》で|隠《かく》してあつた|玉箱《たまばこ》が、ウーンウーンと|一層《いつそう》|高《たか》く|唸《うな》り|出《だ》した。|二人《ふたり》は、
『ヤ、|何《なん》でも|此《この》|近《ちか》くにあるらしいぞ。オイ、|此《この》|盲爺《めくらぢい》を|貴様《きさま》、|突倒《つつこか》して|抑《おさ》へてをれ、|其《その》|間《ま》に|俺《おれ》が|捜索《そうさく》するから……』
『コリヤ、|目《め》がみえなくても、まさかの|時《とき》になればコレ|此《この》|通《とほ》り、|細《こま》かい|絵《ゑ》を|描《か》く|俺《おれ》だぞ。|俺《おれ》はワザとに|盲《めくら》と|云《い》つて、|貴様《きさま》たちの|様子《やうす》を|考《かんが》へて|居《ゐ》るのだ。|盲《めくら》でない|証拠《しようこ》は|此《この》|絵《ゑ》をみい、これでも|分《わか》るだろ。そして|柔道《じうだう》は|百段《ひやくだん》の|免状取《めんじやうと》りだ。お|前達《まへたち》が|十人《じふにん》や|百人《ひやくにん》|束《たば》になつて|来《き》たとて、こたへるやうな|文助《ぶんすけ》ぢやないぞ。|此《この》|玉《たま》はブンブンいふから|文助《ぶんすけ》に|授《さづ》かつた|文助玉《ぶんすけだま》だぞ。|貴様《きさま》|達《たち》に|渡《わた》すべき|物《もの》ぢやない、|秋口《あきぐち》の|蚊《か》のやうにブンブンぬかさずに、すつ|込《こ》んでゐなさい。それよりも|早《はや》く|炊事場《すゐじば》へ|行《い》つて、|御飯《ごはん》の|用意《ようい》でもしたがよからうぞや。ゴテゴテ|申《まを》すと、|松姫《まつひめ》さまに|申上《まをしあ》げるぞえ』
|初《はつ》『ヤア、|此奴《こいつ》ア、|一寸《ちよつと》グツが|悪《わる》いワイ。|柔道《じうだう》|百段《ひやくだん》と|聞《き》いちやア、|滅多《めつた》に|手出《てだ》しは|出来《でき》ぬぞ。|俺《おれ》も|尻《しり》さへ|痛《いた》くなけりや、こんな|爺《ぢい》さまの|一人《ひとり》や|二人《ふたり》|何《なん》でもないが、だんだん|腫《は》れて|来《き》て|歩《ある》けないからな』
|徳《とく》『それでも|杢助《もくすけ》さまや|高姫《たかひめ》さまが|怪志《あやし》の|森《もり》に|待《ま》つて|厶《ござ》るぢやないか』
『ナニ、|怪志《あやし》の|森《もり》に|待《ま》つて|厶《ござ》ると。ハハア、さうすると、|松姫《まつひめ》|様《さま》に|叱《しか》られて、|逃《に》げよつたのだなア、フーン、それで|何《なん》だか|犬《いぬ》がワンワン|吠《な》いて|居《を》つたて』
『オイ|初公《はつこう》、|此奴《こいつ》、|目《め》が|見《み》えるなんて|嘘《うそ》だよ。|何《なん》でも|此《この》|間中《まぢう》|捜《さが》せばあるのだ。|貴様《きさま》、|此《この》|爺《ぢい》と|一《ひと》つ|格闘《かくとう》してをれ、|其《その》|間《ま》に|俺《おれ》が|捜《さが》すから』
『|俺《おれ》は|体《からだ》が|自由《じいう》にならぬから、ヤツパリ|貴様《きさま》、|文助《ぶんすけ》と|格闘《かくとう》してをれ、|其《その》|間《ま》にマンマと|玉《たま》を|捜《さが》し|出《だ》して|持《も》つて|行《ゆ》くから……』
『ヨーシ』
と|徳《とく》は|文助《ぶんすけ》の|足《あし》をさらへ、|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》した。|文助《ぶんすけ》は|実際《じつさい》|目《め》が|見《み》えぬのである。|一生懸命《いつしやうけんめい》に|文助《ぶんすけ》は|呶鳴《どな》りながら、|徳《とく》と|格闘《かくとう》をしてゐる。|徳《とく》も|尻《しり》がはれ、|足《あし》が|自由《じいう》に|動《うご》かぬので、|盲《めくら》の|文助《ぶんすけ》に|捻《ね》ぢ|抑《おさ》へられ、フーフーいつて|居《ゐ》る。|初公《はつこう》は|音《おと》のするのを|耳《みみ》をすまして|考《かんが》へてゐたが、|前《まへ》にするかと|思《おも》へば|後《うしろ》に|聞《きこ》える、|右《みぎ》に|聞《きこ》えたり|左《ひだり》に|聞《きこ》えたり、|頭《あたま》の|上《うへ》に|聞《きこ》えたり|又《また》|床下《ゆかした》のやうでもあり、チツとも|見当《けんたう》がつかなかつた。そこへ|二人《ふたり》がドタン、バタンと|騒《さわ》ぐ|音《おと》、|喚《わめ》く|声《こゑ》がゴツチヤになつて、|如何《どう》しても|処在《ありか》が|分《わか》らない。フト|風呂敷《ふろしき》に|躓《つまづ》いた|拍子《ひやうし》に、|古《ふる》い|四角《しかく》い|箱《はこ》が|出《で》て|来《き》た。|手早《てばや》く|手《て》に|取《と》つて|耳《みみ》にあてると、ウンウンウンと|唸《うな》つてゐる。|初公《はつこう》は、
『ヤ、これに|間違《まちが》ひない』
と|懐《ふところ》に|捻込《ねぢこ》み、|文助《ぶんすけ》の|頭《あたま》を|三《み》つ|四《よ》つこついた。|文助《ぶんすけ》はビツクリして|手《て》を|放《はな》した、トタンに|徳公《とくこう》は|漸《やうや》く|遁《のが》れ、|初公《はつこう》と|共《とも》に|足《あし》をチガチガさせながら、|坂路《さかみち》を|這《は》ふやうにして|下《くだ》つて|行《ゆ》く。|漸《やうや》くにして|命《いのち》カラガラ|怪志《あやし》の|森《もり》へ|帰《かへ》つて|来《き》た。そして|手柄《てがら》さうに|妖幻坊《えうげんばう》の|前《まへ》に|現《あら》はれ、
|両人《りやうにん》『ヘー、やつとの|事《こと》で、|只今《ただいま》|帰《かへ》りました』
|妖幻《えうげん》『ヤ、それは|御苦労《ごくらう》だつた、|分《わか》つたかなア』
|初《はつ》『ヘー、|中々《なかなか》|分《わか》りませぬ。|文助《ぶんすけ》の|奴《やつ》、どつかへ|隠《かく》して|了《しま》ひ、すつたもんだと、|小理窟《こりくつ》ばかり|吐《ぬか》して、そんな|物《もの》は|知《し》らぬといふのです。そこで|私《わたし》と|徳公《とくこう》が、|何《なに》|知《し》らぬ|筈《はず》があるものか、|其《その》ブンブン|玉《だま》を|渡《わた》せと|左右《さいう》よりつめよりますと、あの|文助《ぶんすけ》、|柔道《じうだう》|百段《ひやくだん》の|免状取《めんじやうとり》ですから、はしかいの、はしこないのつて、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》を|右《みぎ》へ|投《な》げ|左《ひだり》へ|投《な》げ、|手玉《てだま》に|取《と》つて|翻弄《ほんろう》|致《いた》します。|私《わたし》も|常《つね》なら、あんな|爺《ぢぢ》|位《くらゐ》|指一本《ゆびいつぽん》で|押《おさ》へてやるのですが、|何《なに》しろお|前《まへ》さまらに|打《う》たれて|此《この》|通《とほ》り|腫《は》れ|上《あが》つたものだから、|其《その》|上《うへ》|又《また》|痛《いた》い|尻《しり》を|叩《たた》かれ、イヤハヤ|苦《くる》しい|目《め》を|致《いた》しました』
『それはさうと、|玉《たま》は|手《て》に|入《い》つたのか。どうだ、|早《はや》くいはぬか』
『ヘー、|此《この》ブンブン|玉《だま》は、ブンブンいふから|文助《ぶんすけ》に|因縁《いんねん》がある、これは|杢助《もくすけ》さまが|私《わたし》にくれたのだ。|私《わたし》を|突飛《つきと》ばしてまで|懐《ふところ》へ|捻込《ねぢこ》んで|下《くだ》さつたのだから、|返《かへ》せというても、|何処《どこ》までも|返《かへ》さないと|頑張《ぐわんば》ります。そして|此《この》|玉《たま》は|始《はじ》めは|蜂《はち》の|巣《す》かと|思《おも》つてゐたが、|決《けつ》してさうではない、|結構《けつこう》な|宝《たから》だと|云《い》つて、あの|爺《ぢい》、|執着心《しふちやくしん》が|強《つよ》く、|何《なん》と|云《い》うても|返《かへ》さないのです』
|高姫《たかひめ》『エーエ、|雉子《きぎす》の|直使《ひたづかひ》とはお|前《まへ》の|事《こと》だ。|何《なに》をさしても|役《やく》にたたぬ|男《をとこ》だな、お|前《まへ》さまは|睾丸《きんたま》を|何処《どこ》へ|落《おと》したのだ』
|初《はつ》『ヘー、|余《あま》り|尻《しり》を|叩《たた》かれたものですから、ビツクリしてどつかへ|転宅《てんたく》して|了《しま》ひました』
|徳《とく》『|併《しか》し|両人《りやうにん》が|奮戦《ふんせん》|激闘《げきとう》|火花《ひばな》を|散《ち》らし、|戦《たたか》ひの|結果《けつくわ》、|戦利品《せんりひん》として、|其《その》ブンブン|玉《だま》をここへ|持《も》つて|帰《かへ》りました。イザ、|改《あらた》めて、お|受取《うけと》り|下《くだ》さいませう』
『|何《なん》だ、|本当《ほんたう》に|腹《はら》の|悪《わる》い、|肝《きも》をつぶしたぢやないか。|早《はや》く|此処《ここ》へお|出《だ》し、コレ|杢助《もくすけ》さま、|喜《よろこ》びなさい。|此奴等《こいつら》|二人《ふたり》、|碌《ろく》でなしだと|思《おも》つて|居《を》つたが、みんごと|役《やく》に|立《た》つたやうです』
|妖幻《えうげん》『オイ|両人《りやうにん》、|本当《ほんたう》に|其《その》|玉《たま》を|取返《とりかへ》して|来《き》たのか』
『ヘーヘ、それは|流石《さすが》|初《はつ》さまですワイ』
『|某《それがし》が|文助爺《ぶんすけぢい》と|大格闘《だいかくとう》を|演《えん》じてゐる、|其《その》|隙《すき》に|初公《はつこう》に|命《めい》じてぼつたくらしたのですよ』
『それは|御苦労《ごくらう》だつた、どうぞ、サ、|早《はや》く|俺《おれ》の|懐《ふところ》へソツと|入《い》れてくれ』
|高姫《たかひめ》『|一寸《ちよつと》|私《わたし》に|見《み》せて|下《くだ》さい、|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》なれば|私《わたし》も|因縁《いんねん》があるのだ、|真《しん》か|偽《ぎ》か|一遍《いつぺん》|調《しら》べておく|必要《ひつえう》があるから、サ、チヤツと|見《み》せなさい』
『イヤ|決《けつ》して|見《み》せちやならないぞ、|直様《すぐさま》|私《わし》に|渡《わた》すのだ、|高姫《たかひめ》に|渡《わた》すと、|一寸《ちよつと》|都合《つがふ》の|悪《わる》い|事《こと》がある、|之《これ》は|誰《たれ》にも|渡《わた》さないといふ|玉《たま》だから』
『ヘン、よう|仰有《おつしや》いますワイ。|初公《はつこう》が|今《いま》|現《げん》に|持《も》つて|帰《かへ》つたぢやありませぬか。|女房《にようばう》の|私《わたし》が|何故《なぜ》|一寸《ちよつと》|位《くらゐ》|見《み》られぬのです。お|前《まへ》さまに|返《かへ》さぬといふぢやなし、そんな|水臭《みづくさ》い|事《こと》|云《い》ふものぢやありませぬぞや』
『それでもお|前《まへ》は、|大変《たいへん》に|如意宝珠《によいほつしゆ》に|執着心《しふちやくしん》を|持《も》つてゐるから、|渡《わた》せないと|言《い》ふのだ。|此《この》|宝珠《ほつしゆ》はチツとも|慾《よく》のない|者《もの》が|持《も》たなくちや|汚《けが》れるからな』
『ヘン、|汚《けが》れますかな。それなら、よう|私《わたし》のやうな|汚《けが》れた|女《をんな》と|酒《さけ》を|飲《の》んだり、|一緒《いつしよ》に|寝《やす》んだりなさいますな。|何《なん》とマア|口《くち》といふものは|調法《てうはふ》なものだ。それ|程《ほど》|私《わたし》が|憎《にく》いのですか。ヘン、|宜《よろ》しい、|私《わたし》も|私《わたし》で、|考《かんが》へがありますから』
『さう|怒《おこ》つて|貰《もら》つちや|困《こま》るぢやないか。|今《いま》|見《み》せなくても、かうして|立派《りつぱ》に|箱《はこ》へ|入《はい》つてるのだから、トツクリと|又《また》|見《み》せてやるぢやないか。オイ|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》、|中《なか》を|開《あ》けて|見《み》たか、|何《ど》うだ』
|初《はつ》『エエ|滅相《めつさう》な、かうブンブン|唸《うな》つてるのだから、うつかり|開《あ》けて|蜂《はち》にでも|刺《さ》されたら|大変《たいへん》ですからな、コハゴハ|持《も》つて|来《き》たのですよ』
『ヤア、そりや|出《で》かした、それで|結構《けつこう》だ。オイ|高姫《たかひめ》さま、|又《また》|今晩《こんばん》ゆつくりと、お|前《まへ》だけに|見《み》せるから、それまで|待《ま》つてゐてくれ。ここで|開《あ》けると、|此《この》|両人《りやうにん》が|見《み》るからなア。さうすりや、それだけ|神力《しんりき》がおちるのだから』
『|成程《なるほど》、それなら|分《わか》りました。キツト|見《み》せて|下《くだ》さるでせうなア』
『ウン、|男《をとこ》が|一旦《いつたん》|見《み》せると|云《い》つたら|見《み》せるよ』
『キツトですなア』
『ウン、キツトだ。もし|間違《まちが》つたら、|俺《おれ》の|一《ひと》つよりない|首《くび》を、|幾《いく》つでもお|前《まへ》に|進上《しんじやう》する。|何《なん》と|云《い》つても、|親《した》しい|夫婦《ふうふ》の|仲《なか》ぢやないか、さう|俺《おれ》の|心《こころ》を|疑《うたが》ふものぢやないワ』
『|誠《まこと》に|済《す》みませぬ。サ、|杢《もく》ちやま、モウちつと|許《ばか》り|先方《むかふ》まで|行《ゆ》きませうか』
|初《はつ》『もし|杢助《もくすけ》さま、|高姫《たかひめ》さま、|私《わたし》は|足《あし》が|痛《いた》くつて、モ|一歩《いつぽ》も|歩《ある》けぬやうになりました。どうぞ|此処《ここ》で|今晩《こんばん》は|露宿《ろしゆく》して|下《くだ》さいな』
|徳《とく》『|私《わたし》も|歩《ある》けませぬ。|余《あま》り|尻《しり》を|叩《たた》かれたものですから、どうぞ|明日《あす》の|朝《あさ》まで、ここでとまる|事《こと》にして|下《くだ》さい、さうすれば|明日《あす》になつたら、キツト|歩《ある》けるやうになるでせうから』
|高姫《たかひめ》『エーエ、|仕方《しかた》のない|男《をとこ》だなア。コレ|杢助《もくすけ》さま、ここに、|今晩《こんばん》は|泊《とま》つてやりませうか。|二人《ふたり》が|余《あま》り|可愛相《かあいさう》ぢやありませぬか』
|妖幻《えうげん》『ああ|仕方《しかた》がないなア。せめてモウ|一里《いちり》|許《ばか》り、|何《ど》うとかして|歩《ある》くことが|出来《でき》ぬのか。オイ|両人《りやうにん》、チツと|気《き》をはりつめて、モウ|一里《いちり》|許《ばか》り|従《つ》いて|来《き》たら|何《ど》うだ』
|初《はつ》『|何《なん》と|云《い》つて|貰《もら》つても、とても|体《からだ》が|動《うご》きませぬワ』
『ウーン、そいつア|困《こま》つたのう。|徳《とく》は|何《ど》うだ、チツと|位《くらゐ》|歩《ある》けるだろ』
『|私《わたし》だつて、|同《おな》じ|事《こと》ですわ、|初《はつ》の|疵《きず》よりも|余程《よつぽど》ひどいのですからなア。|本当《ほんたう》に|貴方《あなた》|等《がた》は|甚《ひど》い|目《め》に|遇《あ》はしましたねえ。|八百長《やほちやう》の|芝居《しばゐ》がこんなにならうとは|思《おも》ひませなんだ。|今《いま》こそ|気《き》が|張《は》つて|居《を》りますが、|実《じつ》の|所《ところ》は|痛《いた》くつて|痛《いた》くつて|仕方《しかた》がありませぬワ』
|高姫《たかひめ》『あああ、これも|係《かか》り|合《あは》せだ。|仕方《しかた》がない、それなら|此《この》|森《もり》で、|今晩《こんばん》は|一夜《いちや》|明《あ》かす|事《こと》にしませう。なア|杢助《もくすけ》さま、|貴方《あなた》もさうして|下《くだ》さいな』
『ウーン、それなら、さうしてもよい。|併《しか》し、|高姫《たかひめ》、お|前《まへ》はスマートが|来《こ》ないやうに|気《き》をつけてゐてくれよ。|俺《おれ》は|何《なん》だか|知《し》らぬが、あれ|位《くらゐ》|気《き》にくはぬ|奴《やつ》はないのだから』
『|私《わたし》だつて、|彼奴《あいつ》の|声《こゑ》を|聞《き》くと、|腹《はら》の|中《なか》がデングリ|返《かへ》るやうに|苦《くる》しいのですよ』
|初《はつ》『もし、お|二人《ふたり》さま、|私《わたし》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて|下《くだ》さつて、ここでお|泊《とま》りになるのなれば、|私《わたし》は|犬《いぬ》の|番《ばん》を|致《いた》します。|犬《いぬ》なら、|仮令《たとへ》|五十匹《ごじつぴき》や|百匹《ひやくぴき》やつて|来《き》たつて、ビクとも|致《いた》しませぬ。|若《わか》い|時《とき》から|犬博労《いぬばくらう》と|綽名《あだな》を|取《と》つた|男《をとこ》です。|随分《ずいぶん》|犬《いぬ》の|咬《か》み|合《あは》せに、そこら|中《ぢう》へ|行《い》つたものですから、|犬《いぬ》に|対《たい》する|呼吸《こきふ》は|充分《じうぶん》|呑込《のみこ》んで|居《を》りますからなア』
|高姫《たかひめ》『ヤ、それは|重宝《ちようほう》な|男《をとこ》だ。さうすると、お|前《まへ》は|今晩《こんばん》は|犬番《けんばん》を|勤《つと》めて|貰《もら》はうかな。|狐《きつね》|狸《たぬき》の|集《あつ》まつてゐる|芸者屋《げいしやや》でも、ヤツパリ、ケン|番《ばん》がおいてあるからな』
|初《はつ》『それなら、|徳《とく》と|両人《りやうにん》が|神妙《しんめう》に|御用《ごよう》|致《いた》しませう、ああ|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い、いよいよ|星《ほし》の|蒲団《ふとん》に|草《くさ》の|褥《しとね》、といふ|段取《だんどり》だ。|桃《もも》の|花《はな》の|香《かを》りが、|何《なん》とはなしに、|身《み》に|沁《し》みるやうだ。あああ|早《はや》いものだ、たうとう|日《ひ》が|暮《く》れたとみえるワイ。ここは|怪志《あやし》の|森《もり》と|云《い》つて、|化物《ばけもの》が|出《で》るといふ|事《こと》だが、|何《なん》と|云《い》つても、|時置師神《ときおかしのかみ》|様《さま》のお|供《とも》だから|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。そこへ、あのブンブン|玉《だま》があるのだから、|何《なに》が|来《き》たつて、チツとも|恐《おそ》るる|事《こと》はない、なア|徳《とく》』
『ウン、さうださうだ、それなら|高姫《たかひめ》|様《さま》、|杢助様《もくすけさま》、お|休《やす》みなさいませ』
|高姫《たかひめ》『コレコレ、お|前達《まへたち》、お|祝詞《のりと》をあげて|寝《やす》まぬかいな。|私《わたし》は|霊《みたま》が|違《ちが》ふから、|杢助《もくすけ》さまと|二人《ふたり》は|神様《かみさま》を|拝《をが》む|訳《わけ》には|行《ゆ》かない。|何《なん》と|云《い》つても|高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》の|霊《みたま》、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》だから、お|前達《まへたち》は|八衢《やちまた》にまだうろついてをる、|言《い》はば|娑婆亡者《しやばまうじや》だから……|天国《てんごく》へやつて|下《くだ》さるやうに、|起《お》きた|時《とき》と|寝《ね》る|時《とき》には、|必《かなら》ず|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》するのだよ』
|妖幻《えうげん》『イヤ、|両人《りやうにん》、|今晩《こんばん》は|天津祝詞《あまつのりと》は|免除《めんぢよ》しておく。|沢山《たくさん》の|天人様《てんにんさま》がお|出《い》でになると、|一寸《ちよつと》|御挨拶《ごあいさつ》に|困《こま》るからなア、ハツハハハ』
『コレ、|今日《けふ》は|杢助《もくすけ》さまの|御挨拶《ごあいさつ》で、|許《ゆる》して|上《あ》げるけれど、|明日《あす》からはキツト|天津祝詞《あまつのりと》を|上《あ》げるのだよ』
|両人《りやうにん》は、
『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|言《い》ひも|了《をは》らず、|疲労《くたび》れはてて|横《よこ》になつた|儘《まま》、|白河夜船《しらかはよぶね》を|漕《こ》いでゐる。|其《その》|間《ま》に|高姫《たかひめ》は|杢助《もくすけ》を|促《うなが》し、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|森《もり》を|脱《ぬ》け|出《だ》し、|浮木《うきき》の|里《さと》を|指《さ》して、|暗《やみ》の|道《みち》を|韋駄天走《ゐだてんばし》りに|駆出《かけだ》した。|高姫《たかひめ》|及《およ》び|妖幻坊《えうげんばう》は、|今後《こんご》|如何《いか》なる|活動《くわつどう》をするであらうか。
(大正一二・一・二五 旧一一・一二・九 松村真澄録)
第八章 |曲輪城《まがわじやう》〔一三二三〕
|常世《とこよ》の|国《くに》に|生《うま》れたる |常世《とこよ》の|姫《ひめ》の|再来《さいらい》と
|自《みづか》ら|名乗《なの》る|高姫《たかひめ》は |地獄《ぢごく》|中有《ちうう》|娑婆世界《しやばせかい》
ならぬ|第二《だいに》の|地獄道《ぢごくだう》 |兇党界《きようたうかい》に|蟠《わだか》まる
|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪霊《あくれい》や |其《その》|外《ほか》|百《もも》の|曲神《まがかみ》に
|魅《みい》られ|茲《ここ》に|両親《りやうしん》の |隙《すき》を|窺《うかが》ひアーメニヤ
ソツとぬけ|出《い》でエルサレム |都《みやこ》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く
|高宮姫《たかみやひめ》の|若盛《わかざか》り |東野別《あづまのわけ》とゆくりなく
|怪《あや》しき|仲《なか》となり|果《は》てて |子《こ》まで|成《な》したる|恋仲《こひなか》を
|北光神《きたてるがみ》に|遮《さへぎ》られ ここに|生木《なまき》のさき|別《わか》れ
|高宮姫《たかみやひめ》は|止《や》むを|得《え》ず |彼方此方《あなたこなた》と|漂浪《さすらひ》の
|其《その》|成果《なりはて》はバラモンの |神《かみ》の|教《をしへ》やウラル|教《けう》
|三五教《あななひけう》を|聞《き》きかじり |小才《こさい》の|利《き》きし|所《ところ》より
|肉体界《にくたいかい》の|精霊《せいれい》に |其《その》|全身《ぜんしん》を|左右《さいう》され
|流《なが》れ|流《なが》れてフサの|国《くに》 |北山村《きたやまむら》にウラナイの
|教《をしへ》の|射場《いば》を|建設《けんせつ》し |股肱《ここう》と|頼《たの》む|黒姫《くろひめ》や
|魔我彦《まがひこ》|其《その》|他《た》の|弟子《でし》|達《たち》を |呼《よ》び|集《つど》へつつ|日《ひ》に|月《つき》に
|変性男子《へんじやうなんし》の|系統《ひつぽう》ぞ |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》と
|名乗《なの》りて|世人《よびと》を|欺《あざむ》きつ |遂《つひ》に|進《すす》んで|自転倒《おのころ》の
|島《しま》に|渡《わた》りていろいろと |艱難辛苦《かんなんしんく》の|其《その》|結果《けつくわ》
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の |仁慈無限《じんじむげん》の|御心《みこころ》に
|感喜《かんき》の|涙《なみだ》|絞《しぼ》りつつ |茲《ここ》に|心《こころ》を|翻《ひるがへ》し
|三五教《あななひけう》に|救《すく》はれて |神《かみ》の|司《つかさ》と|成《な》りけるが
|又《また》もや|兇霊《きようれい》に|欺《あざむ》かれ |金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》
|黄金《こがね》の|玉《たま》を|握《にぎ》らむと |心猿意馬《しんえんいば》の|止《と》め|度《ど》なく
|狂《くる》ひ|出《だ》したる|果敢《はか》なさよ |高砂島《たかさごじま》や|竜宮島《りうぐうじま》
|島《しま》の|八十島《やそしま》|八十《やそ》の|国《くに》 |廻《めぐ》り|廻《めぐ》りて|末《すゑ》|遂《つひ》に
|我情《がじやう》|我慢《がまん》を|後悔《こうくわい》し |又《また》もや|猫《ねこ》の|如《ごと》くなり
|綾《あや》の|聖地《せいち》に|奉職《ほうしよく》し |暫《しばら》く|道《みち》を|布《し》きけるが
|淡路《あはぢ》の|酋長《しうちやう》|東助《とうすけ》が |幼馴染《おさななじみ》の|恋人《こひびと》と
|分《わか》りし|後《のち》は|高姫《たかひめ》の |心《こころ》は|暗《やみ》に|彷徨《さまよ》ひて
|吾《わが》|子《こ》も|玉《たま》も|念頭《ねんとう》を |悉皆《しつかい》|離《はな》れ|恋人《こひびと》の
|後《あと》を|慕《した》ひてはるばると |山海河野《やまうみかはの》|打渡《うちわた》り
|夜《よ》を|日《ひ》についでウブスナの |大高原《だいかうげん》の|斎苑館《いそやかた》
|神素盞嗚《かむすさのを》の|隠《かく》れます |高天原《たかあまはら》に|参上《まゐのぼ》り
|東野別《あづまのわけ》に|懇々《こんこん》と |天地《てんち》の|道理《だうり》を|諭《さと》されて
|一度《いちど》は|悔悟《くわいご》せしものの |又《また》もや|意馬《いば》は|狂《くる》ひ|出《だ》し
|此《この》|失恋《しつれん》を|如何《いか》にして |回復《くわいふく》せむかといらちつつ
|恋《こひ》の|涙《なみだ》にくれながら |五十《ごじふ》を|越《こ》えた|身《み》を|以《もつ》て
|執念深《しふねんぶか》き|婆々《ばば》|勇《いさ》み |風《かぜ》|吹《ふ》きすさび|獅子《しし》|熊《くま》や
|虎《とら》|狼《おほかみ》の|吠《ほ》えたける |河鹿峠《かじかたうげ》をドンドンと
|登《のぼ》りつ|下《くだ》りつ|漸《やうや》くに |祠《ほこら》の|森《もり》に|来《き》て|見《み》れば
こはそも|如何《いか》に|此《こ》は|如何《いか》に |下《した》つ|磐根《いはね》に|宮柱《みやばしら》
|太《ふと》しき|建《た》てて|千木《ちぎ》|高《たか》く |鎮《しづ》まりゐます|皇神《すめかみ》の
|瑞《みづ》の|御舎《みあらか》|拝観《はいくわん》し ひそかに、うなづくほくそ|笑《ゑみ》
|此処《ここ》は|名《な》に|負《お》ふ|河鹿山《かじかやま》 |斎苑《いそ》の|館《やかた》の|喉首《のどくび》よ
われは|此所《ここ》にて|一旗《ひとはた》を |吹《ふ》く|神風《かみかぜ》に|靡《なび》かせて
|数多《あまた》の|役員《やくゐん》|信徒《しんと》|等《ら》を |将棋倒《しやうぎだふ》しに|説《と》き|伏《ふ》せつ
|高姫王国《たかひめわうごく》|建設《けんせつ》し |三五教《あななひけう》の|向《むか》ふ|張《は》り
|名《な》を|挙《あ》げくれむと|思《おも》ひ|立《た》ち |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》
|変性男子《へんじやうなんし》の|系統《ひつぽう》と |現《あら》はれ|出《い》でし|高姫《たかひめ》よ
|天地《てんち》|開《ひら》けし|始《はじ》めより |幾万劫《いくまんごふ》の|末《すゑ》までも
|元《もと》を|掴《つか》んだ|因縁《いんねん》の |身魂《みたま》はわれよと|頑張《ぐわんば》つて
|祠《ほこら》の|森《もり》の|珍彦《うづひこ》や |其《その》|外《ほか》|百《もも》の|司等《つかさら》を
|言葉《ことば》|巧《たくみ》に|説《と》き|伏《ふ》せて |暴威《ばうゐ》を|揮《ふる》ふ|憎《にく》らしさ
|斯《か》かる|所《ところ》へ|兇党界《きようたうかい》 |八岐大蛇《やまたをろち》の|片腕《かたうで》と
|現《あら》はれ|出《い》でし|妖幻坊《えうげんぼう》 |高姫司《たかひめつかさ》の|悪心《あくしん》を
|目敏《めざと》く|探《さぐ》り|身《み》を|変《へん》じ |斎苑《いそ》の|館《やかた》の|杢助《もくすけ》と
|現《あら》はれ|来《きた》りウマウマと |高姫司《たかひめつかさ》を|誑惑《きやうわく》し
|茲《ここ》に|夫婦《ふうふ》の|約《やく》|結《むす》び |祠《ほこら》の|森《もり》に|居《ゐ》すわりて
|五六七神政《みろくしんせい》の|妨害《ばうがい》を |力《ちから》|限《かぎ》りに|遂行《すゐかう》し
|大黒主《おほくろぬし》の|大望《たいまう》を |助《たす》けむものと|全力《ぜんりよく》を
|尽《つく》してゐたる|折《をり》もあれ |思《おも》ひに|任《まか》せぬ|珍彦《うづひこ》を
|妻《つま》|諸共《もろとも》に|毒殺《どくさつ》し |誰《たれ》|憚《はばか》らぬ|身《み》となりて
|初心《しよしん》を|貫徹《くわんてつ》せむものと |企《たく》む|折《をり》しも|三五《あななひ》の
|教《をしへ》の|道《みち》の|宣伝使《せんでんし》 |初稚姫《はつわかひめ》が|現《あら》はれて
|曲《まが》の|企《たく》みを|洞察《どうさつ》し |身《み》を|謙《へりくだ》り|両兇《りやうきよう》の
|非望《ひばう》を|妨《さまた》げ|善心《ぜんしん》に |復《かへ》して|救《すく》ひ|助《たす》けむと
|真心《まごころ》|尽《つく》し|給《たま》へども いかがはしけむ|曲津見《まがつみ》の
|垢《あか》に|汚《よご》れし|醜魂《しこだま》は |其《その》|正体《しやうたい》の|暴露《ばくろ》をば
|恐《おそ》れて|犬《いぬ》に|逐《お》はれつつ |河鹿峠《かじかたうげ》をトントンと
|力《ちから》|限《かぎ》りに|逃《に》げ|出《いだ》す |又《また》もや|曲津《まがつ》|妖幻坊《えうげんばう》
|高姫司《たかひめつかさ》を|誑《たぶら》かし |小北《こぎた》の|山《やま》の|聖場《せいぢやう》に
|登《のぼ》りてここに|一仕組《ひとしぐみ》 なさむと|思《おも》ひいろいろと
よからぬ|事《こと》を|企《たく》らみつ |月大神《つきおほかみ》の|霊光《れいくわう》に
|照《て》らされ|忽《たちま》ち|仰天《ぎやうてん》し |崎嶇《きく》たる|岩上《がんじやう》に|顛落《てんらく》し
|負傷《ふしやう》をなしてスゴスゴと |此処《ここ》を|逃出《にげだ》す|其《その》|途端《とたん》
|曲輪《まがわ》の|宝《たから》を|紛失《ふんしつ》し |小北《こぎた》の|山《やま》を|後《あと》にして
|春草《はるくさ》|萌《も》ゆる|野路《のぢ》を|越《こ》え |怪志《あやし》の|森《もり》の|此方《こなた》|迄《まで》
|来《きた》る|折《をり》しも|道《みち》の|辺《べ》の |石《いし》に|躓《つまづ》きバツタリと
|倒《たふ》れて|懐《ふところ》|査《しら》ぶれば |妖幻坊《えうげんばう》が|変身《へんしん》の
|魔法《まはふ》に|使《つか》ふ|品玉《しなだま》は いつしか|藻脱《もぬけ》の|殻《から》となり
|姿《すがた》も|知《し》れぬ|悲《かな》しさに |大地《だいち》にドツカと|胡床《あぐら》かき
|腕《うで》くみ|思案《しあん》にくれゐたる かかる|所《ところ》へ|後《あと》|逐《お》うて
|追《お》つつき|来《きた》る|高姫《たかひめ》や |初公《はつこう》、|徳公《とくこう》|両人《りやうにん》と
しばし|息《いき》をば|休《やす》めつつ |肝腎要《かんじんかなめ》の|宝《たから》をば
|小北《こぎた》の|山《やま》に|落《おと》せしと |妖幻坊《えうげんばう》のかこち|言《ごと》
|聞《き》くより|高姫《たかひめ》いらだちて |初《はつ》、|徳《とく》|二人《ふたり》に|命令《めいれい》し
|曲輪《まがわ》の|宝《たから》を|取返《とりかへ》し |来《きた》れと|厳《きび》しく|下知《げち》すれば
|主命《しゆめい》|拒《こば》むに|由《よし》もなく |再《ふたた》び|小北《こぎた》の|聖場《せいぢやう》に
|忍《しの》び|帰《かへ》りて|受付《うけつけ》の |様子《やうす》いかにと|眺《なが》むれば
|盲爺《めくらぢ》さまの|文助《ぶんすけ》が |絵《ゑ》をかきながら|物語《ものがた》る
ブンブン|玉《だま》の|因縁《いんねん》を |聞《き》くより|二人《ふたり》はいろいろと
|言葉《ことば》|巧《たくみ》に|言《い》ひなして |取返《とりかへ》さむと|思《おも》へども
|流石《さすが》の|文助《ぶんすけ》|頑張《ぐわんば》りて |容易《ようい》に|渡《わた》さぬもどかしさ
|二人《ふたり》は|茲《ここ》に|意《い》を|決《けつ》し |忽《たちま》ち|爺《ぢ》さまを|突倒《つきたふ》し
|其《その》|間《ま》に|玉《たま》をふんだくり |雲《くも》を|霞《かすみ》と|痛《いた》い|足《あし》
|無理《むり》に|引《ひき》ずりドスドスと |怪志《あやし》の|森《もり》に|到着《たうちやく》し
|妖幻坊《えうげんばう》や|高姫《たかひめ》に お|褒《ほ》めの|言葉《ことば》を|頂《いただ》いて
|笑壺《ゑつぼ》に|入《い》りし|時《とき》もあれ |俄《にはか》に|疵《きず》は|痛《いた》み|出《だ》し
モウ|一歩《ひとあし》も|進《すす》まねば ここに|一夜《いちや》を|明《あ》かさむと
|四人《よにん》は|評議《ひやうぎ》|一決《いつけつ》し |初《はつ》、|徳《とく》|二人《ふたり》は|忽《たちま》ちに
|白河夜船《しらかはよぶね》の|夢《ゆめ》うつつ |四辺《あたり》に|聞《きこ》ゆる|高《たか》いびき
|聞《き》きすましたる|高姫《たかひめ》は |妖幻坊《えうげんばう》を|促《うなが》して
|暗《やみ》を|幸《さいは》ひドシドシと |浮木《うきき》の|里《さと》を|指《さ》して|行《ゆ》く
|浮木《うきき》の|里《さと》の|入口《いりぐち》に |水音《みなおと》|高《たか》き|玉滝《たまたき》の
|落《お》つるを|目当《めあて》に|立寄《たちよ》つて |曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|洗滌《せんでき》し
|見《み》れば|曲輪《まがわ》は|皎々《かうかう》と |輝《かがや》き|初《そ》めて|高姫《たかひめ》は
|眼《まなこ》を|射《い》られ|眩暈《げんうん》し |其《その》|場《ば》にドツと|倒《たふ》れける
|妖幻坊《えうげんばう》は|逸早《いちはや》く |失心《しつしん》したる|高姫《たかひめ》の
|隙《すき》を|伺《うかが》ひ|妖術《えうじゆつ》を |使《つか》つて|此処《ここ》に|楼閣《ろうかく》を
|忽《たちま》ち|現《あら》はす|蜃気楼《しんきろう》 |珍《うづ》の|都《みやこ》のエルサレム
|其《その》|壮観《さうくわん》に|比《くら》ぶれば |幾十倍《いくじふばい》とも|知《し》れぬよな
|驚《おどろ》く|許《ばか》りの|建築《けんちく》を |数多《あまた》の|魔神《まがみ》を|使役《しえき》して
|現出《げんしゆつ》せしぞ|不思議《ふしぎ》なれ |妖幻坊《えうげんばう》は|打笑《うちわら》ひ
これにて|吾《われ》の|計画《けいくわく》は いよいよ|其《その》|緒《ちよ》につきにけり
いかに|魔法《まはふ》を|使《つか》ふとも |神《かみ》の|形《かたち》に|造《つく》られし
|心《こころ》の|強《つよ》き|人間《にんげん》を |使《つか》はにや|出来《でき》ぬ|醜《しこ》の|業《わざ》
ここにウマウマ|高姫《たかひめ》を |擒《とりこ》にしたる|曲神《まがかみ》の
|得意《とくい》や|思《おも》ひ|知《し》らるべし |妖幻坊《えうげんばう》は|高姫《たかひめ》に
|滝《たき》の|清水《しみづ》を|掬《すく》ひ|上《あ》げ |口《くち》にふくませオイオイと
|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|呼《よ》ばはれば |息《いき》|吹返《ふきかへ》し|正気《しやうき》づき
|四辺《あたり》キヨロキヨロ|打眺《うちなが》め |昼《ひる》より|明《あ》かき|怪光《くわいくわう》に
|目《め》を|見《み》はりつつ|舌《した》をまき あああ|不思議《ふしぎ》、ああ|不思議《ふしぎ》
|最早《もはや》|俄《にはか》に|天津日《あまつひ》の |日《ひ》の|出神《でのかみ》のお|出《で》ましか
|合点《がてん》いかぬと|俯《うつむ》いて |思案《しあん》にくれる|可笑《をか》しさよ
|妖幻坊《えうげんばう》は|打笑《うちわら》ひ アハハハハツハ|高姫《たかひめ》よ
われは|杢助神司《もくすけかむつかさ》 |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御宝《おんたから》
|手《て》に|入《い》る|上《うへ》は|此《この》|通《とほ》り |暗《やみ》を|変《へん》じて|昼《ひる》となし
|神《かみ》の|力《ちから》を|現《あら》はして |春風《はるかぜ》|渡《わた》る|此《この》|野辺《のべ》を
|忽《たちま》ち|変《へん》じて|城廓《じやうくわく》を ゑがき|出《だ》したる|勇《いさ》ましさ
|喜《よろこ》び|祝《いは》へ|高姫《たかひめ》と |背《せな》なでさすり|呼《よ》ばはれば
|高姫《たかひめ》|頓《とみ》に|感激《かんげき》し |仮令《たとへ》|杢助神司《もくすけかむつかさ》
|善《ぜん》であらうが|悪《あく》だろが モウ|此《この》|上《うへ》は|構《かま》はない
|細工《さいく》は|流々《りうりう》|仕上《しあげ》をば みて|下《くだ》されよ|天地《あめつち》の
|皇大神《すめおほかみ》を|始《はじ》めとし |其《その》|他《ほか》|百《もも》の|神様《かみさま》よ
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》 いよいよ|之《これ》から|杢助《もくすけ》と
|力《ちから》を|併《あは》せ|神《かみ》の|為《ため》 |世人《よびと》の|為《ため》に|活動《くわつどう》し
|五六七《みろく》の|御代《みよ》を|目《ま》のあたり |築《きづ》きまつりて|天《あめ》の|下《した》
|四方《よも》の|民草《たみぐさ》|喜《よろこ》ばせ |三五教《あななひけう》の|神司《かむつかさ》
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》を|初《はじめ》とし |東野別《あづまのわけ》や|其《その》|他《ほか》の
|百《もも》の|司《つかさ》を|驚《おどろ》かせ アフンとさしてやらむずと
|俄《にはか》に|元気《げんき》を|盛返《もりかへ》し |妖幻坊《えうげんばう》と|手《て》をひいて
|今《いま》|現《あら》はれし|楼閣《ろうかく》の |表門《おもてもん》をばくぐりつつ
|奥殿《おくでん》|指《さ》して|進《すす》み|入《い》る |曲津身魂《まがつみたま》ぞ|忌々《ゆゆ》しけれ。
(大正一二・一・二六 旧一一・一二・一〇 松村真澄録)
第九章 |鷹宮《たかみや》|殿《どの》〔一三二四〕
|高姫《たかひめ》は|妖幻坊《えうげんばう》を|何処《どこ》までも|杢助《もくすけ》と|固《かた》く|信《しん》じてゐた。|而《しか》して|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》の|力《ちから》に|依《よ》つて、かかる|広大《くわうだい》なる|楼閣《ろうかく》が|出来《でき》たのだと|思《おも》つてゐる。
『ああ、|私《わたし》が|秋山彦《あきやまひこ》の|館《やかた》で|腹《はら》へ|呑《の》んだ|時《とき》には、これだけ|威力《ゐりよく》のあるものとは|思《おも》はなかつた。ヤツパリ|私《わたし》は|神力《しんりき》が|足《た》らなかつたのだなア。|小人《せうじん》|玉《たま》を|抱《いだ》いて|罪《つみ》ありといふ|事《こと》は|私《わたし》の|事《こと》か、|同《おな》じ|玉《たま》でも|杢助《もくすけ》さまがお|使《つか》ひになると、こんなに|立派《りつぱ》に|其《その》|神力《しんりき》が|現《あら》はれるのだ。|阿呆《あはう》と|鋏《はさみ》は|使《つか》ひやうで|切《き》れるといふ|事《こと》がある。|使手《つかひて》がよければ|阿呆《あはう》も|間《ま》に|合《あ》ふ、|竹光《たけみつ》の|刀《かたな》でも|正宗《まさむね》に|優《まさ》るものだ。ヤア|私《わたし》もこれから|改心《かいしん》をしませう……イヤ|改悪《かいあく》をしませう。|杢助《もくすけ》さまに|使《つか》はれる|如意宝珠《によいほつしゆ》は|仕合《しあは》せだなア。|併《しか》しながら、|是《これ》だけ|自由自在《じいうじざい》に|神力《しんりき》を|持《も》つてゐる|男《をとこ》だから、|天下《てんか》の|美人《びじん》は|此《この》|神力《しんりき》を|見《み》たならば、キツと|惚《ほ》れるであらう。さうなつた|時《とき》は|年《とし》の|寄《よ》つた|此《この》|高姫《たかひめ》は、|折角《せつかく》|結構《けつこう》な|楼閣《ろうかく》に|住《す》みながら、お|払《はら》ひ|箱《ばこ》になつてはつまらない。どうかして|如意宝珠《によいほつしゆ》を|杢助《もくすけ》さまの|隙《すき》を|伺《うかが》つて|吾《わが》|懐《ふところ》に|入《い》れるか、|但《ただし》は|呑込《のみこ》んで|了《しま》つて、まさかの|時《とき》の|権利《けんり》を|握《にぎ》り、|杢助《もくすけ》さまの|喉首《のどくび》を|押《おさ》へ、|睾丸《きんたま》を|握《にぎ》つておかねば、|此《この》|高姫《たかひめ》は|安全《あんぜん》な|生涯《しやうがい》を|送《おく》る|事《こと》は|出来《でき》ぬ。オオさうだ さうだ、それが|上分別《じやうふんべつ》だ。|鎌《かま》の|柄《え》を|向《むか》ふに|握《にぎ》られて、こつちが|切《き》れる|方《はう》を|握《にぎ》つてるやうな|事《こと》では、|到底《たうてい》|生存競争《せいぞんきやうそう》の|激甚《げんじん》なる|世《よ》に|立《た》つことは|出来《でき》ない。|杢助《もくすけ》さまも|偉《えら》い|人《ひと》だ、|併《しか》し|又《また》|女《をんな》にかけてはズルイ|男《をとこ》だから、これからあらむ|限《かぎ》りの|身《み》だしなみをして、|充分《じうぶん》に|蘯《とろ》かしてやらねばならうまい』
と|堅《かた》く|決心《けつしん》しながら、|杢助《もくすけ》の|後《うしろ》に|従《つ》いて|行《ゆ》く。|奥殿《おくでん》|深《ふか》く|進《すす》んで|見《み》れば、|金《きん》、|銀《ぎん》、|瑠璃《るり》、|玻璃《はり》、|〓〓《しやこ》、|珊瑚珠《さんごじゆ》|等《など》にてちりばめられたる|立派《りつぱ》な|宝座《ほうざ》がある。|妖幻坊《えうげんばう》は|高姫《たかひめ》を|顧《かへり》みて、
『オイ|高《たか》さま、|杢助《もくすけ》の|腕前《うでまへ》は|分《わか》つたかなア。サア、|之《これ》からお|前《まへ》と|俺《おれ》とが|此《この》|宝座《ほうざ》に、|日々《にちにち》|上《のぼ》つて、|万民《ばんみん》の|政治《せいぢ》をするのだ、どうだ、|嬉《うれ》しうはないか』
『ハイ、|余《あま》りの|事《こと》で、あいた|口《くち》がすぼまりませぬ』
と|云《い》ひながら|半信半疑《はんしんはんぎ》の|念《ねん》に|打《う》たれ、|宝座《ほうざ》を|押《おさ》へて|見《み》たり、|柱《はしら》を|押《お》して|見《み》たり、|足元《あしもと》が|若《も》しや|草《くさ》【ぼうぼう】たる|田圃《たんぼ》ではあるまいかと、|探《さぐ》つてみたり、いろいろ|雑多《ざつた》と|調《しら》べてゐる。けれども|何《ど》うしても|疑《うたが》ふ|余地《よち》がない。|高姫《たかひめ》はますます|笑壺《ゑつぼ》に|入《い》り、
『|俄《にはか》に|私《わたし》も|出世《しゆつせ》したものだ、|三千世界《さんぜんせかい》に|高姫《たかひめ》|位《くらゐ》|仕合《しあは》せな|者《もの》があらうか、ヤツパリ|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》のお|蔭《かげ》だなア』
と|小声《こごゑ》に|言《い》つてゐる。|妖幻坊《えうげんばう》は|高姫《たかひめ》の|背《せな》を|二《ふた》つ|三《みつ》つ|叩《たた》きながら、
『オイ|高姫《たかひめ》、どうだ、|違《ちが》ひますかなア。|蜃気楼的《しんきろうてき》|城廓《じやうくわく》か、|或《あるひ》は|現実的《げんじつてき》|城廓《じやうくわく》か、よくお|調《しら》べなさい。|之《これ》でも|杢助《もくすけ》の|云《い》ふ|事《こと》に|反《そむ》きますか』
『イヤ、モウモウ|感心《かんしん》|致《いた》しました。|何処《どこ》までも|絶対服従《ぜつたいふくじゆう》を|致《いた》しませう』
『|高姫《たかひめ》、お|前《まへ》の|姿《すがた》を|一寸《ちよつと》|見《み》てみよ、それそこに|玻璃鏡《はりかがみ》が|懸《かか》つてゐる。|其《その》|前《まへ》に|立《た》つてみなさい』
と|指示《ゆびさ》す。|高姫《たかひめ》は|玻璃鏡《はりかがみ》の|前《まへ》に|現《あら》はれると、|鏡面《きやうめん》には|十七八才《じふしちはつさい》の|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》、|金襴綾錦《きんらんあやにしき》の|立派《りつぱ》な|衣服《いふく》を|着流《きなが》し、|色《いろ》あくまで|白《しろ》く、|頭《かしら》に|七宝《しつぱう》の|纓絡《えいらく》の|垂《た》らした|冠《かむり》を|戴《いただ》き、|裾《すそ》を|一丈《いちぢやう》|許《ばか》り|後《うしろ》に|垂《た》らした|美人《びじん》が|立《た》つてゐる。|高姫《たかひめ》はハツと|驚《おどろ》き、|心《こころ》の|中《うち》に|思《おも》ふ|様《やう》……ハハー、|杢助《もくすけ》さまは|腹《はら》の|悪《わる》い|男《をとこ》だなア。こんな|結構《けつこう》な|館《やかた》を|持《も》ち、こんな|美人《びじん》をかくまうておき、|私《わたし》のやうな|婆《ばば》を、|此処《ここ》へ|連《つ》れて|来《き》て、|恥《はぢ》をかかし、|悋気《りんき》をささうと|企《たく》んでゐるのだらう。エエ|悔《くや》しい……と|鏡《かがみ》に|映《うつ》つた|天女《てんによ》のやうな|美人《びじん》に|打《う》つてかかる。|妖幻坊《えうげんばう》は|高姫《たかひめ》の|手《て》をグツと|握《にぎ》り、
『アハハハハ、オイ|高《たか》ちやま、あれはお|前《まへ》の|姿《すがた》だよ。|如意宝珠《によいほつしゆ》の|神力《しんりき》によつて、|三十三年《さんじふさんねん》|許《ばか》り|元《もと》へ|戻《もど》したのだ。お|前《まへ》が|十八《じふはち》の|時《とき》の|姿《すがた》は|即《すなは》ちこれだ。まだ|十八《じふはち》の|時《とき》は、こんな|立派《りつぱ》な|装束《しやうぞく》を|着《き》てゐなかつたから|別人《べつじん》のやうに|見《み》えるが、これが|正真《しやうまつ》の|高宮姫《たかみやひめ》|時代《じだい》だ。|此《この》|杢助《もくすけ》はお|前《まへ》の|皺《しわ》のよつた|現界的《げんかいてき》|肉体《にくたい》に|惚《ほ》れたのぢやない、|霊界《れいかい》で|見《み》たお|前《まへ》に|惚《ほ》れたのだ。|随分《ずいぶん》|綺麗《きれい》なものだらう。それだから、|高《たか》ちやまに|杢助《もくすけ》が|現《うつつ》をぬかすも|無理《むり》ではあるまいがなア。もしも|疑《うたが》はしいと|思《おも》ふなら、お|前《まへ》が|目《め》を|剥《む》けば|目《め》を|剥《む》く、|口《くち》を|開《あ》くれば|口《くち》を|開《あ》く、お|前《まへ》の|姿《すがた》|其《その》|儘《まま》だから、|一《ひと》つ|調《しら》べてみたら|何《ど》うだ』
『イヤもう|疑《うたがひ》の|余地《よち》はありませぬ。|何《なん》と|立派《りつぱ》な|美《い》い|女《をんな》だこと、われながら|見《み》とれますワ。|之《これ》では|高姫《たかひめ》といはずに|高宮姫《たかみやひめ》と|旧《もと》の|名《な》に|帰《かへ》りませうか』
『ウンさうだ、|高宮姫《たかみやひめ》の|方《はう》が、|余程《よほど》|優雅《みやび》で|崇高《すうかう》で、|何《なん》となく|雲上《うんじやう》の|人《ひと》のやうに|聞《きこ》えて|床《ゆか》しいやうだ』
『それなら、これから|高宮姫《たかみやひめ》と|改《あらた》めます。|何卒《どうぞ》|杢助《もくすけ》さま、|旧《もと》の|名《な》を|呼《よ》んで|下《くだ》さいや』
『ウンよしよし、|就《つ》いては|俺《おれ》も|杢助《もくすけ》|々々《もくすけ》と|言《い》はれるのは、|何《なん》だか|毘舎《びしや》か|首陀《しゆだ》の|様《やう》だ。|刹帝利《せつていり》に|斉《ひと》しき|名《な》をつけねばならうまい……ウン、お|前《まへ》の|高宮姫《たかみやひめ》の|夫《をつと》だから、|今日《けふ》から|高宮彦《たかみやひこ》と|改名《かいめい》しよう』
『それなら|高宮彦《たかみやひこ》|様《さま》、|何卒《なにとぞ》|天地《てんち》に|誓《ちか》つて、どこどこまでも|夫婦《ふうふ》だといふ|事《こと》を|守《まも》つて|下《くだ》さいますなア』
『|天《てん》に|在《あ》つては|比翼《ひよく》の|鳥《とり》、|地《ち》にあつては|連理《れんり》の|枝《えだ》、|梅《うめ》に|鶯《うぐひす》、|仮令《たとへ》|幾万劫《いくまんがふ》の|末《すゑ》までも、|忘《わす》れてくれな、|忘《わす》れはせぬぞや。サアサア|之《これ》から|其方《そなた》の|居間《ゐま》を|案内《あんない》|致《いた》さう』
『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います』
と|妖幻坊《えうげんばう》に|跟《つ》いて、ピカピカ|光《ひか》る|瑪瑙《めなう》の|板《いた》を|以《もつ》て|造《つく》られたる|長《なが》い|廊下《らうか》を|渡《わた》り、|金銀《きんぎん》の|色《いろ》をなせる|庭園《ていゑん》の|樹木《じゆもく》を|眺《なが》めながら、えも|言《い》はれぬ|美《うる》はしき|居間《ゐま》に|案内《あんない》された。|高姫《たかひめ》は|既《すで》に|十八才《じふはつさい》の|娘気分《むすめきぶん》になつて|居《ゐ》た。
『サ、これが|奥様《おくさま》のお|居間《ゐま》、|随分《ずいぶん》|整頓《せいとん》して|居《を》りませうがなア』
『|成程《なるほど》|鏡台《きやうだい》から|化粧道具《けしやうだうぐ》、|絹夜具《きぬやぐ》から|絹座布団《きぬざぶとん》、|金銀《きんぎん》|瑪瑙《めなう》の|火鉢《ひばち》、|〓〓《しやこ》の|脇息《けふそく》、|紫檀《したん》の|机《つくゑ》、|黒檀《こくたん》の|障子《しやうじ》の|骨《ほね》、|玻璃《はり》の|瓶《びん》、|白檀《たがやさん》の|水屋《みづや》、|何《なに》から|何《なに》まで|立派《りつぱ》な|物《もの》で|厶《ござ》いますなア』
『お|前《まへ》は|此《この》|城廓《じやうくわく》の|城主《じやうしゆ》の|奥様《おくさま》だ、|随分《ずいぶん》|出世《しゆつせ》をしたものだらう。|之《これ》から|高宮彦《たかみやひこ》は|自分《じぶん》の|居間《ゐま》に|行《い》つて|休息《きうそく》するから、|其方《そなた》は|此処《ここ》で、|今日《けふ》|一日《いちじつ》はゆつくりと|寛《くつろ》いだがよからう』
『|私《わたし》と|一緒《いつしよ》に、なぜ|居《を》つて|下《くだ》さりませぬ。|何程《なにほど》|立派《りつぱ》でも|只《たつた》|一人《ひとり》こんな|所《ところ》におかれては、たまらぬぢやありませぬか』
『お|前《まへ》は|義理天上《ぎりてんじやう》さまで|厶《ござ》るなり、|金毛九尾様《きんまうきうびさま》も|狸《たぬき》、|狼《おほかみ》、|大蛇《をろち》、|蟇《がま》|其《その》|他《ほか》いろいろのお|客《きやく》さまも|厶《ござ》るのだから、|別《べつ》に|淋《さび》しい|事《こと》はなからうに……』
『ソリヤ|居《を》ります。けれども、|声《こゑ》がするばかりで、チツトも|形《かたち》を|現《あら》はしませぬから、つまりませぬワ』
『それなら、|二人《ふたり》|程《ほど》|腰元《こしもと》を、|後《あと》からつけるやうに|取計《とりはか》らつてやる。こんな|立派《りつぱ》な|城内《じやうない》に|主人《あるじ》となつた|者《もの》は、|普通《ふつう》の|毘舎《びしや》や|首陀《しゆだ》のやうに、|一間《ひとま》に|同棲《どうせい》することは|体面上《たいめんじやう》|出来《でき》るものでない。いざ|高宮姫《たかみやひめ》、ゆつくりなされ、|高宮彦《たかみやひこ》は|吾《わが》|居間《ゐま》に|入《はい》つて、|暫《しばら》く|休息《きうそく》を|致《いた》す』
と|言《い》ひすてて、ドアを|開《ひら》き、|悠々《いういう》として、|奥《おく》へ|奥《おく》へと|進《すす》み|入《い》る。
|高宮姫《たかみやひめ》は|声《こゑ》を|限《かぎ》りに、
『モシ|杢助《もくすけ》さま、モウ|一言《ひとこと》お|尋《たづ》ね|致《いた》したい|事《こと》が|厶《ござ》います。|此《この》お|城《しろ》は|何《なん》と|云《い》ひますか』
|妖幻坊《えうげんばう》は|後《あと》ふり|向《む》いて、
『ここは|今《いま》まで|鶏頭城《けいとうじやう》と|申《まを》したが、|今日《けふ》より|改《あらた》めて|高宮城《たかみやじやう》と|命名《めいめい》|致《いた》す』
『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》いました。|高宮城《たかみやじやう》に|高宮彦《たかみやひこ》、|高宮姫《たかみやひめ》、|何《なん》とゆかしい|名《な》で|厶《ござ》いますな、ホホホホ』
|妖幻坊《えうげんばう》は、
『|左様《さやう》なら』
と|云《い》ひすて、ドンドンと|奥《おく》に|入《はい》つた。
すべて|妖魅《えうみ》は|変相《へんさう》する|時《とき》は|非常《ひじやう》に|苦《くる》しいものである。それ|故《ゆゑ》|時々《ときどき》|人《ひと》に|見《み》られない|所《ところ》で|体《からだ》を|休《やす》める|必要《ひつえう》がある。|高姫《たかひめ》の|今《いま》|入《はい》つて|居《を》つた|一間《ひとま》は、|其《その》|実《じつ》|浮木《うきき》の|森《もり》の|可《か》なり|大《おほ》きな|狸穴《まみあな》であつた。|妖幻坊《えうげんばう》はモ|一《ひと》つ|奥《おく》の|楠《くす》の|根元《ねもと》の|大洞穴《おほほらあな》の|中《なか》に|身《み》を|隠《かく》し、|他愛《たあい》もなく|寝《ね》て|了《しま》つたのである。
|妖幻坊《えうげんばう》には|幻相坊《げんさうばう》、|幻魔坊《げんまばう》といふ|二人《ふたり》の|眷属《けんぞく》があつた。|而《しか》して|幻相坊《げんさうばう》は|火《ひ》の|術《じゆつ》をよく|使《つか》ひ、|幻魔坊《げんまばう》は|水《みづ》の|術《じゆつ》を|使《つか》ふに|長《ちやう》じてゐた。|又《また》|妖幻坊《えうげんばう》は|幻術《げんじゆつ》を|以《もつ》て、|一時《いちじ》に|数百《すうひやく》|数千《すうせん》の|軍人《ぐんじん》を|現《あら》はしたり、|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》を|現《あら》はしたり、|或《ある》|時《とき》は|老翁《らうをう》、|或《ある》|時《とき》は|老婆《らうば》を|忽《たちま》ち|現《あら》はして、|世人《せじん》を|騙《たばか》る|事《こと》を|楽《たの》しみとしてゐた。|而《しか》して|妖幻坊《えうげんばう》は|日々《にちにち》|獣《けだもの》の|肉《にく》を|喰《く》はなくては、|体《からだ》がもえて|仕方《しかた》がなかつた。|又《また》|時々《ときどき》|人肉《じんにく》をも、|殊更《ことさら》|喜《よろこ》んで|喰《く》ふのである。
|高姫《たかひめ》は|一人《ひとり》|美《うる》はしき|座敷《ざしき》を|与《あた》へられた|事《こと》を|非常《ひじやう》に|喜《よろこ》び、|知《し》らず|知《し》らずに|鼻唄《はなうた》さへ|歌《うた》つてゐた。そこへドアを|開《ひら》ひて、|淑《しと》やかに|十四五才《じふしごさい》の|女《をんな》が|二人《ふたり》、|白綸子《しろりんず》の|着物《きもの》に|紫縮緬《むらさきちりめん》の|袴《はかま》を|穿《うが》ち、|美《うる》はしき|漆《うるし》のやうな|下《さ》げ|髪《がみ》を|紫《むらさき》の|紐《ひも》にてしばり、|上《うへ》に|桃色《ももいろ》の|〓衣《かくい》を|着《き》て、
『|御免《ごめん》なさいませ、|奥様《おくさま》のお|居間《ゐま》はここで|厶《ござ》いますか。|私《わたし》は|高子《たかこ》と|申《まを》します、|妹《いもうと》は|宮子《みやこ》と|申《まを》します。|今日《けふ》から|高宮彦《たかみやひこ》|様《さま》のお|指図《さしづ》によりまして、|姫様《ひめさま》のお|小間使《こまづかひ》を|仰《おほ》せ|付《つ》けられました。|何分《なにぶん》|不束《ふつつか》な|者《もの》で|厶《ござ》いますれば、|何卒《どうぞ》|叱《しか》つてお|使《つか》ひ|下《くだ》さいませ』
と|優《やさ》しい|手《て》をついて、|頭《あたま》を|下《さ》げ|挨拶《あいさつ》をする。|高姫《たかひめ》は|二人《ふたり》の|姿《すがた》を|見《み》て、
『ああ|何《なん》と、|揃《そろ》ひも|揃《そろ》つて|美《うつく》しい|娘《むすめ》だなア。|併《しか》しながら|今《いま》はまだ|年《とし》が|若《わか》くて|大丈夫《だいぢやうぶ》だが、|此《この》|女《をんな》が|二三年《にさんねん》もたつたら、|丁度《ちやうど》|私《わたし》のやうな|姿《すがた》になるだらう。そした|時《とき》は、|又《また》|杢助《もくすけ》さまが|変《へん》な|心《こころ》を|起《おこ》しはすまいか』
と|思《おも》ふと、|俄《にはか》に|此《この》|二人《ふたり》が、|何処《どこ》ともなく|憎《にく》らしいやうな|気《き》になつて|了《しま》つた。|高姫《たかひめ》は|舌長《したなが》に、
『ハイ、お|前《まへ》は|高宮彦《たかみやひこ》さまの|身内《みうち》の|者《もの》か、|但《ただし》は、どつからか|頼《たの》まれて|御奉公《ごほうこう》にあがつてゐるのか、それが|聞《き》かして|欲《ほ》しい、|其《その》|上《うへ》でお|世話《せわ》になりませう』
|高子《たかこ》『ハイ、|妾《わらは》は|父《ちち》もなければ|母《はは》も|厶《ござ》いませぬ』
『|父母《ふぼ》もない|子《こ》が|何処《どこ》にあるものか、ハハー、さうすると、お|前《まへ》は|捨児《すてご》だなア。そして|宮子《みやこ》、お|前《まへ》の|父母《ふぼ》は|何《なん》と|云《い》ふかな』
『ハイ、|妾《わらは》も|両親《りやうしん》が|厶《ござ》いませぬ』
『|両親《りやうしん》の|分《わか》らぬやうな|子供《こども》は|要《い》りませぬ。|何処《どこ》の|馬《うま》の|骨《ほね》か|牛《うし》の|骨《ほね》か|分《わか》らぬ、|女《あま》つちよを、ヘン、|此《この》|素性《すじやう》の|高《たか》き|高宮姫《たかみやひめ》の、お|小間使《こまづかひ》なんて、|高宮彦《たかみやひこ》さまも|余《あま》りだ。コレ|両人《りやうにん》、こちらに|用《よう》はないから、トツトと|帰《かへ》つて|下《くだ》さい。そして|此《この》|城内《じやうない》には、|高宮姫《たかみやひめ》が|今日《けふ》|限《かぎ》りおきませぬぞや』
|高子《たかこ》『|左様《さやう》なれば、|姫様《ひめさま》、|是非《ぜひ》が|厶《ござ》いませぬ。|妾《わらは》と|妹《いもうと》が|両親《りやうしん》がないと|云《い》つたのは|外《ほか》でも|厶《ござ》いませぬ、|実《じつ》は|如意宝珠《によいほつしゆ》から|生《うま》れた|者《もの》で|厶《ござ》います。|妾《わらは》は|火《ひ》を|守護《しゆご》し、|妹《いもうと》は|水《みづ》を|守護《しゆご》する|霊《みたま》で|厶《ござ》います。|貴女《あなた》は|火《ひ》と|水《みづ》がいらないとみえますな。|左様《さやう》なれば|仰《おほせ》に|従《したが》ひ|帰《かへ》ります』
と|足早《あしばや》に|室外《しつぐわい》へ|出《で》ようとする。|高姫《たかひめ》は|驚《おどろ》いて、
『マママ|待《ま》つて|下《くだ》さい、ヤ、|小母《をば》さまが|悪《わる》かつた。つい|何《ど》う|仰有《おつしや》るかと|思《おも》うて、お|前《まへ》さまの|気《き》をひいてみたのだ。|潮干《しほひる》|潮満《しほみつ》の、お|前《まへ》は|玉《たま》だつたな。どうもそれに|違《ちが》ひないと|思《おも》つたけれど、それとはなしに|小母《をば》さまが|探《さぐ》つて|見《み》たのだから、|何卒《どうぞ》|悪《わる》く|思《おも》つて|下《くだ》さるな』
|高子《たかこ》『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います、|併《しか》しながら|姫様《ひめさま》から|一遍《いつぺん》|追《お》つ|立《た》てをくつたので|御座《ござ》いますから、|私《わたし》は|火《ひ》で|厶《ござ》います。|何卒《どうぞ》お|暇《ひま》を|下《くだ》さいませ。なア|宮《みや》ちやま、お|前《まへ》さまだつて、さうでせうね』
|宮子《みやこ》『|私《わたし》|小母《をば》さまには|追《お》ひ|出《だ》され、|小父《をぢ》さまの|所《ところ》へ|行《い》つては|叱《しか》られちや、|立《た》つ|瀬《せ》がありませぬワ。|私《わたし》は|水《みづ》の|精《せい》だから、|川《かは》の|瀬《せ》へでも|行《い》つて|流《なが》れませうよ』
『コレコレ、|高《たか》さま、|宮《みや》さま、|何卒《どうぞ》、さう|言《い》はずに、|私《わたし》の|所《ところ》に|居《を》つて|下《くだ》さい。|余《あま》り|気儘《きまま》な|事《こと》を|云《い》つたと|云《い》つて、|高宮彦《たかみやひこ》さまに|此《この》|小母《をば》さまも|叱《しか》られる。|又《また》お|前《まへ》たちも|叱《しか》られちや|大変《たいへん》だぜ。サアサア、|小母《をば》さまが|大切《たいせつ》にして|上《あ》げるから、|機嫌《きげん》を|直《なほ》してくるのだよ』
|二人《ふたり》は、
『アーイ』
と|細《ほそ》い|涼《すず》しい|声《こゑ》を|揃《そろ》へて|云《い》ふかと|思《おも》へば、|光線《くわうせん》の|如《ごと》くパツと|室内《しつない》に|入《い》り|来《きた》り、|右《みぎ》と|左《ひだり》から|高姫《たかひめ》に|飛《と》び|付《つ》いて、
『|小母《をば》さま、|姫《ひめ》さま』
と|嬉《うれ》しさうに|叫《さけ》んだ。|高子《たかこ》は|火《ひ》の|如《ごと》く|熱《あつ》く、|宮子《みやこ》は|水《みづ》の|如《ごと》く|冷《つめ》たい。|高姫《たかひめ》は|火《ひ》と|水《みづ》に|責《せ》められ、|寒熱《かんねつ》に|苦《くる》しんで、|忽《たちま》ち|其《その》|場《ば》に|目《め》をマハして|了《しま》つた。
(大正一二・一・二六 旧一一・一二・一〇 松村真澄録)
第一〇章 |女異呆醜《によいほつしゆ》〔一三二五〕
|妖幻坊《えうげんばう》の|曲神《まがかみ》が |曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|使用《しよう》して
|夢幻《むげん》の|楼閣《ろうかく》|映出《えいしゆつ》し |名利《めいり》と|恋《こひ》に|心魂《しんこん》を
|蘯《とろ》かし|狂《くる》ふ|高姫《たかひめ》を うまく|誤魔化《ごまくわ》し|萱草《かやくさ》の
|茫々《ばうばう》|茂《しげ》る|森林《しんりん》に |誘《いざな》ひ|来《きた》りいろいろと
|塵《ちり》や|芥《あくた》や|糞尿《ふんねう》を |至善《しぜん》|至美《しび》なる|宮殿《きうでん》や
|其《その》|他《ほか》|百《もも》の|珍品《ちんぴん》と |眼《まなこ》くらませ|狸穴《まみあな》に
|引《ひ》き|入《い》れ|茲《ここ》に|曲神《まがかみ》は |天地《てんち》を|救《すく》ふ|生神《いきがみ》の
|誠《まこと》の|道《みち》を|攪乱《かくらん》し |天《あめ》の|下《した》をば|悉《ことごと》く
|暗《やみ》と|泥《どろ》との|魔界《まかい》とし |暴威《ばうゐ》を|振《ふる》ひ|永久《とこしへ》に
|楽《たの》しまむとて|心力《しんりき》の あらむ|限《かぎ》りを|尽《つく》すこそ
|実《げ》にも|忌々《ゆゆ》しき|次第《しだい》なり |高宮姫《たかみやひめ》に|仕《つか》へたる
|高子《たかこ》の|素性《すじやう》は|幻相坊《げんさうばう》 |宮子《みやこ》の|素性《すじやう》は|幻魔坊《げんまばう》
|妖幻坊《えうげんばう》の|両腕《りやううで》と |頼《たの》みきつたる|妖怪《えうくわい》ぞ
|高姫《たかひめ》|心《こころ》の|誇《ほこ》りより |曲《まが》の|手管《てくだ》に|乗《の》せられて
|浮《うか》び|方《がた》なき|魔《ま》の|中《なか》に |陥《おちい》りながら|欣然《きんぜん》と
|天下《てんか》に|無比《むひ》の|出世《しゆつせ》を なせしものぞと|勇《いさ》み|立《た》ち
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》 |金毛九尾《きんまうきうび》|醜神《しこがみ》も
|亦《また》|高姫《たかひめ》と|同様《どうやう》に |妖幻坊《えうげんばう》に|欺《あざむ》かれ
|悪魔《あくま》の|機関《きくわん》と|使《つか》はれて |喜《よろこ》び|居《ゐ》るこそ|憐《あは》れなれ
|寒《かん》と|熱《ねつ》とに|冒《をか》されて |一度《いちど》は|失神《しつしん》したれども
|暫《しばら》くありて|甦《よみがへ》り |四辺《あたり》を|見《み》れば|高《たか》、|宮《みや》の
|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》はイソイソと |高姫司《たかひめつかさ》の|介抱《かいほう》して
|薬《くすり》を|煎《せん》じ|湯《ゆ》を|沸《わか》し |一心不乱《いつしんふらん》に|真心《まごころ》を
|尽《つく》して|仕《つか》へ|居《ゐ》たりけり |之《これ》を|眺《なが》めて|高姫《たかひめ》は
|怒《おこ》りもならず|顔色《がんしよく》を |和《やは》らげ|二人《ふたり》に|打向《うちむか》ひ
『ほんにお|前《まへ》は|如意宝珠《によいほつしゆ》 |潮満玉《しほみつだま》や|潮干《しほひる》の
|尊《たふと》き|玉《たま》の|御化身《ごけしん》か |真《まこと》に|畏《おそ》れ|入《い》りました
|貴女《あなた》の|様《やう》なお|身魂《みたま》を |何程《なにほど》|日《ひ》の|出神《でのかみ》ぢやとて
お|使《つか》ひ|申《まを》すは|何《なん》となく |勿体《もつたい》ない|様《やう》な|気《き》が|致《いた》す
|何卒《なにとぞ》|貴女《あなた》は|高姫《たかひめ》に |構《かま》はず|宝座《はうざ》に|現《あら》はれて
|金剛不壊《こんがうふゑ》の|神力《しんりき》を |完全《うまら》に|委曲《つばら》に|現《あら》はして
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》を |世《よ》に|輝《かがや》かしウラナイの
|道《みち》を|照《て》らさせ|給《たま》へかし お|願《ねが》ひ|申《まを》す』と|手《て》を|合《あは》し
|頼《たの》めば|二人《ふたり》は|首《くび》を|振《ふ》り 『いえいえ|私《わたし》は|本城《ほんじやう》の
|高宮彦《たかみやひこ》の|御命令《ごめいれい》 |天《てん》にも|地《ち》にも|代《か》へ|難《がた》き
|高宮姫《たかみやひめ》の|側《そば》|近《ちか》く |仕《つか》へ|侍《はべ》れと|厳《おごそ》かな
|命令《めいれい》|受《う》けて|居《を》りまする |不束《ふつつか》なれど|吾々《われわれ》を
|何卒《なにとぞ》お|使《つか》ひ|下《くだ》されて |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|神業《しんげふ》の
|万分一《まんぶんいち》に|御使《おんつか》ひ |遊《あそ》ばし|給《たま》へ』と|手《て》を|合《あは》し
|願《ねが》ふ|姿《すがた》ぞ|殊勝《しゆしよう》なれ |高姫《たかひめ》ますます|図《づ》に|乗《の》つて
『|高子《たかこ》よ、|宮子《みやこ》よ、|汝《なれ》は|又《また》 |如何《どう》した|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》か
|変性男子《へんじやうなんし》の|御系統《ごひつぽう》 |常世《とこよ》の|姫《ひめ》の|御再来《ごさいらい》
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》 かからせ|給《たま》ふ|生宮《いきみや》の
|高宮姫《たかみやひめ》の|側《そば》|近《ちか》く |仕《つか》へ|奉《まつ》ると|云《い》ふ|事《こと》は
|之《これ》に|越《こ》したる|幸福《しあはせ》は |又《また》と|世界《せかい》にあるまいぞ
|之《これ》から|先《さき》は|神妙《しんめう》に |高宮姫《たかみやひめ》の|云《い》ふ|事《こと》を
|一《ひと》つも|背《そむ》かず|聞《き》くがよい |高宮彦《たかみやひこ》は|如意宝珠《によいほつしゆ》
|持《も》たせまへば|神力《しんりき》が |斯《か》くも|立派《りつぱ》に|現《あら》はれて
|清《きよ》く|輝《かがや》きましませど あの|宝玉《はうぎよく》を|手放《てばな》せば
|人民界《じんみんかい》に|籍《せき》を|置《お》き |普通《ふつう》の|人《ひと》より|勝《すぐ》れたる
|智勇《ちゆう》|兼備《けんび》の|勇将《ゆうしやう》だ さはさりながら|人間《にんげん》は
|到底《たうてい》|神《かみ》には|叶《かな》ふまい |此《この》|高姫《たかひめ》は|人間《にんげん》と
|姿《すがた》を|現《げん》じ|居《を》るなれど |高天原《たかあまはら》の|最奥《さいあう》の
も|一《ひと》つ|奥《おく》のまだ|奥《おく》の |天極紫微宮《てんごくしびきう》の|其《その》|奥《おく》の
|御殿《ごてん》にまします|月《つき》の|神《かみ》 |日《ひ》の|大神《おほかみ》の|御子《みこ》とます
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》 もう|此《この》|上《うへ》はないと|云《い》ふ
|尊《たふと》き|身魂《みたま》の|肉《にく》の|宮《みや》 |神人感合《しんじんかんがふ》した|上《うへ》は
|高宮姫《たかみやひめ》は|義理天上《ぎりてんじやう》 |日《ひ》の|出神《でのかみ》は|私《わし》ぢやぞえ
|曇《くも》り|果《は》てたる|暗《やみ》の|世《よ》を |日《ひ》の|出《で》の|守護《しゆご》にしよと|思《おも》や
ヤツパリ|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》が |御用《ごよう》を|致《いた》さにやなるまいぞ
|五六七《みろく》の|神世《かみよ》と|云《い》ふ|事《こと》は |日《ひ》の|出《で》の|御代《みよ》と|云《い》ふ|事《こと》だ
|厳《いづ》の|御霊《みたま》や|瑞御霊《みづみたま》 ミロクの|神《かみ》と|云《い》つたとて
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|又《また》の|名《な》だ お|前《まへ》は|年《とし》が|若《わか》い|故《ゆゑ》
こんな|事《こと》をば|云《い》つたとて |分《わか》らないのは|無理《むり》はない
さはさりながら|如意宝珠《によいほつしゆ》 |金剛不壊《こんがうふゑ》の|身魂《みたま》なら
|一旦《いつたん》|私《わし》の|腹中《ふくちう》に |這入《はい》つて|生《うま》れた|生魂《いくたま》よ
さすればお|前《まへ》は|吾《わが》|娘《むすめ》 |変化《へんげ》の|法《はふ》で|世《よ》に|出《い》でて
ここに|母子《おやこ》の|廻《めぐ》り|会《あ》ひ ほんに|嬉《うれ》しい|事《こと》だなア
ほんにお|前《まへ》も|嬉《うれ》しかろ |之《これ》から|三人《みたり》|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|協《あは》せ|手《て》を|曳《ひ》いて |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|三女神《さんによしん》
|高宮彦《たかみやひこ》の|神業《しんげふ》を |助《たす》けまつりて|芳名《はうめい》を
|幾万劫《いくまんごふ》の|末《すゑ》までも |輝《かがや》き|渡《わた》す|吾《わが》|心《こころ》
|諾《うべな》ひませよ|高《たか》、|宮《みや》の |二人《ふたり》の|御子《みこ》よ|惟神《かむながら》
|神《かみ》に|誓《ちか》ひて|常世姫《とこよひめ》 |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》が
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|教《をし》へおく ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|高宮彦《たかみやひこ》や|高宮《たかみや》の |姫《ひめ》の|命《みこと》のある|限《かぎ》り
|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》 |握《にぎ》つた|上《うへ》は|天地《あめつち》を
|一《ひと》つに|丸《まる》めて|義理天上《ぎりてんじやう》 |日《ひ》の|出《で》の|御代《みよ》と|立直《たてなほ》し
|五六七神政《みろくしんせい》の|太柱《ふとばしら》 |常磐堅磐《ときはかきは》に|立並《たてなら》べ
|世《よ》の|大本《おほもと》の|生神《いきがみ》と |称《たた》へらるるは|目《ま》のあたり
ああ|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し この|世《よ》を|造《つく》り|給《たま》ひたる
|厳《いづ》の|霊《みたま》の|大御神《おほみかみ》 |梵天帝釈《ぼんてんたいしやく》|自在天《じざいてん》
|大国彦《おほくにひこ》の|大御神《おほみかみ》 |盤古神王《ばんこしんわう》|塩長《しほなが》の
|彦《ひこ》の|命《みこと》や|常世彦《とこよひこ》 ウラルの|彦《ひこ》の|御前《おんまへ》に
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|狸穴《まみあな》の|中《なか》に|寝言《ねごと》の|様《やう》に|歌《うた》つてゐる。|高子《たかこ》は|高宮姫《たかみやひめ》の|歌《うた》に|答《こた》へて、|綾《あや》の|袖《そで》を|胡蝶《こてふ》の|如《ごと》く、しなやかに|振《ふ》りながら、|自《みづか》ら|歌《うた》ひ|自《みづか》ら|舞《ま》うて|高姫《たかひめ》の|心《こころ》を|慰《なぐさ》めた。
『|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》 |其《その》|半分《はんぶん》の|分霊《わけみたま》
|世界《せかい》の|火熱《くわねつ》を|守護《しゆご》する |高皇産霊《たかみむすび》の|大神《おほかみ》の
|其《その》|分身《ぶんしん》が|現《あら》はれて ここに|高子《たかこ》の|姫《ひめ》となり
|三千世界《さんぜんせかい》を|救《すく》う|為《ため》 |心《こころ》を|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し
|獅子奮迅《ししふんじん》の|活動《くわつどう》を |遊《あそ》ばし|給《たま》ふ|常世姫《とこよひめ》
|其《その》|肉宮《にくみや》の|御為《おんため》に |近《ちか》く|仕《つか》へて|神業《しんげふ》を
|完成《くわんせい》せむと|勇《いさ》み|立《た》ち |高宮彦《たかみやひこ》の|父神《ちちがみ》と
|御身《おんみ》を|守護《しゆご》し|奉《たてまつ》る |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》
かからせ|給《たま》ふ|生宮《いきみや》よ |何卒《なにとぞ》|々々《なにとぞ》|吾々《われわれ》を
|生《う》みの|御子《おんこ》とみそなはし |弥《いや》|永久《とこしへ》に|何時《いつ》までも
|御目《おんめ》をかけさせ|給《たま》へかし |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》 |勢《いきほひ》|猛《たけ》く|攻《せ》め|来《く》とも
|吾《わが》|身《み》の|汝《なれ》に|従《したが》ひて |守《まも》らむ|限《かぎ》り|百千《ひやくせん》の
|猛《たけ》き|獣《けもの》も|曲津見《まがつみ》も |又《また》|三五《あななひ》の|強敵《きやうてき》も
|何《なに》か|恐《おそ》れむ|敷島《しきしま》の |大和魂《やまとみたま》の|如意宝珠《によいほつしゆ》
|心《こころ》|平《たひら》に|安《やす》らかに |思召《おぼしめ》されよ|母《はは》の|君《きみ》
|勇《いさ》み|喜《よろこ》び|御前《おんまへ》に |真心《まごころ》こめて|永久《とこしへ》の
|誓《ちか》ひを|結《むす》び|奉《たてまつ》る ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|舞《ま》ひ|終《をは》る。|高姫《たかひめ》は|笑壺《ゑつぼ》に|入《い》り、|顔《かほ》の|紐《ひも》をほどいて|前途《ぜんと》の|光明《くわうみやう》を|夢《ゆめ》みつつあつた。|宮子《みやこ》は|又《また》|歌《うた》ふ。
『|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》と |現《あら》はれませる|神司《かむつかさ》
|愈《いよいよ》|一陽来復《いちやうらいふく》の |花《はな》|咲《さ》く|春《はる》の|廻《めぐ》り|来《き》て
|高宮城《たかみやじやう》の|司神《つかさがみ》 |高宮彦《たかみやひこ》の|妃《ひ》となりて
|三千世界《さんぜんせかい》の|万霊《ばんれい》を |救《すく》はせ|給《たま》ふ|母《はは》となり
|現《あら》はれますぞ|尊《たふと》けれ |吾《われ》は|水《みづ》をば|守護《しゆご》する
|如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》の|片割《かたわ》れぞ |宮子《みやこ》の|姫《ひめ》と|現《あら》はれて
|高宮姫《たかみやひめ》の|側《そば》|近《ちか》く |仕《つか》へまつりし|嬉《うれ》しさよ
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|元《もと》の|霊《たま》 |神皇産霊《かむみむすび》の|大神《おほかみ》の
|玉《たま》の|雫《しづく》になり|出《い》でし |此《この》|世《よ》を|洗《あら》ふ|瑞霊《みづみたま》
|厳《いづ》と|瑞《みづ》とが|相並《あひなら》び |高宮城《たかみやじやう》に|現《あら》はれて
|二人《ふたり》の|御身《おんみ》を|守護《しゆご》せば |三千世界《さんぜんせかい》は|永久《とこしへ》に
|無事泰平《ぶじたいへい》に|治《をさ》まりて |枝《えだ》もならさぬ|神《かみ》の|御代《みよ》
|五六七《みろく》の|神世《みよ》は|忽《たちま》ちに |此《この》|地《ち》の|上《うへ》に|顕現《けんげん》し
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|神徳《しんとく》が |輝《かがや》き|渡《わた》るは|目《ま》のあたり
|喜《よろこ》び|仰《あふ》ぎ|奉《たてまつ》る ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|水《みづ》の|霊《みたま》の|宮子姫《みやこひめ》 |真心《まごころ》こめて|母君《ははぎみ》の
|御前《みまへ》に|誓《ちか》ひ|奉《たてまつ》る』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|淑《しとや》かに|座《ざ》に|着《つ》いた。|高姫《たかひめ》は、
『|何《なん》とまア|結構《けつこう》な|事《こと》が|重《かさ》なれば|重《かさ》なるものだな。もしや|夢《ゆめ》ではあるまいか』
と|頬《ほほ》を|抓《つめ》つて|見《み》たり、|眉毛《まゆげ》に|唾《つばき》をつけて|見《み》たり、|臍《へそ》の|辺《あた》りを|突《つ》いたり|押《お》したりしながら、|腹中《ふくちう》のお|客《きやく》さまに|向《むか》ひ、
『おい、|義理天上殿《ぎりてんじやうどの》、|金毛九尾殿《きんまうきうびどの》、|其《その》|他《ほか》の|眷属《けんぞく》|共《ども》、|此《この》|高姫《たかひめ》の|出世《しゆつせ》を|知《し》つて|居《ゐ》るか。お|前達《まへたち》は|如何《どう》|考《かんが》へる。もしも|高姫《たかひめ》が|夢《ゆめ》を|見《み》てゐるのなら、|夢《ゆめ》とハツキリと|云《い》うて|呉《く》れ。あまり|結構《けつこう》|過《す》ぎて|本当《ほんたう》にならないから』
|腹《はら》の|中《なか》から|大声《おほごゑ》で、
『|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》、|今日《けふ》のお|喜《よろこ》び|謹《つつし》んでお|祝《いは》ひ|申《まを》す。|高宮姫《たかみやひめ》の|肉体《にくたい》、|御苦労《ごくらう》で|厶《ござ》る。オツホホホホ、|先《ま》づは|目出度《めでた》い、お|目出度《めでた》い。のう|金毛九尾《きんまうきうび》、|結構《けつこう》ではないか』
『|成程《なるほど》|々々《なるほど》、|之《これ》にて|願望成就《ぐわんまうじやうじゆ》|致《いた》すであらう。いや|大蛇殿《をろちどの》、|蟇殿《がまどの》、|其《その》|他《ほか》の|連中《れんちう》、お|喜《よろこ》び|召《め》され、アツハハハハ』
|腹中《ふくちう》より、
『アツハハハハ、イツヒヒヒヒ、クツハハハハ、クツハハハハ、チツヒヒヒヒ』
とガラクタ|霊《れい》が|勝手《かつて》に|喜《よろこ》び|笑《わら》ふ|声《こゑ》が|一《ひと》つになつて|井堰《ゐせき》を|切《き》つた|様《やう》な|勢《いきほひ》で|高姫《たかひめ》の|口《くち》へ|流《なが》れ|出《い》づるのであつた。
|高子《たかこ》『お|母《かあ》さま、|何《なに》、|心配《しんぱい》してゐられますの。|何《なん》だか、|云《い》つて|居《ゐ》らつしやつたぢやありませぬか』
『あ、お|前《まへ》は|子供《こども》だからまだ|分《わか》るまいが、|私《わたし》は|今《いま》|義理天上《ぎりてんじやう》さまや|上義姫《じやうぎひめ》|様《さま》、|旭《あさひ》の|豊栄昇姫《とよさかのぼりひめ》さま、リントウビテン|大臣《だいじん》さま|等《など》と|御相談《ごさうだん》を|申《まを》して|居《ゐ》たのだよ』
『|何《なん》とまア、お|母《かあ》さまは|八人芸《はちにんげい》の|様《やう》な|重宝《ちようはう》なお|方《かた》ですね。なア|宮子《みやこ》さま、|私《わたし》も|貴女《あなた》も、こんなお|母《かあ》さまを|持《も》ち、|高宮彦《たかみやひこ》のお|父《とう》さまを|持《も》つて|居《ゐ》るのだから、|三千世界《さんぜんせかい》に|恐《こは》いものはありませぬわネ』
|宮子《みやこ》『さうですとも、それに|違《ちが》ひありませぬわ』
『オツホホホホ、|何《なん》とまア|優《やさ》しい|子《こ》だな、|肉体《にくたい》の|人間《にんげん》から|生《うま》れた|子《こ》だと、|私《わたし》もチツとばかり|悋気《りんき》が|起《おこ》ろまいものでもないが、|何《なん》といつても、|私《わたし》の|腹《はら》にあつた|如意宝珠《によいほつしゆ》から|化《ば》けて|出《で》た|子《こ》だから|安心《あんしん》なものだ。なア|高《たか》さま、|宮《みや》さま、お|前《まへ》|二人《ふたり》の|名《な》をよせるとお|父《とう》さまの|名《な》にもなり、お|母《かあ》さまの|名《な》にもなるね』
|高子《たかこ》『ホホホホホ、|嬉《うれ》しいわ』
|宮子《みやこ》『エヘヘヘヘヘ、|本当《ほんたう》に|有難《ありがた》いね』
|斯《か》く|三人《さんにん》は|打解《うちと》けて|立派《りつぱ》な|居間《ゐま》の|中《なか》で、|歌《うた》つたり|舞《ま》うたり、|美《うる》はしき|果実《このみ》を|味《あぢ》はひながら|一日《いちにち》を|暮《くら》した。|其《その》|実《じつ》、|萱野原《かやのはら》の|狸穴《まみあな》である|事《こと》は|前述《ぜんじゆつ》の|通《とほ》りである。
(大正一二・一・二六 旧一一・一二・一〇 北村隆光録)
第三篇 |鷹魅艶態《ようみえんたい》
第一一章 |乙女《をとめ》の|遊《あそび》〔一三二六〕
|高姫《たかひめ》は|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》と|共《とも》に|満面《まんめん》|笑《ゑみ》を|湛《たた》へ、|蓬莱山《ほうらいざん》に|行《い》つて|無上《むじやう》の|歓楽《くわんらく》に|酔《よ》ひし|如《ごと》く、|恍惚《くわうこつ》として|脇息《けふそく》に|凭《もた》れ、わが|運《うん》の|開《ひら》け|口《ぐち》、|宇宙《うちう》|一切《いつさい》を|手《て》に|握《にぎ》るも|斯《か》く|楽《たの》しくはあるまいと|満悦《まんえつ》の|折柄《をりから》、ドアをパツと|開《ひら》いて|足音《あしおと》|高《たか》く|入《い》り|来《きた》るは、|六角《ろくかく》の|金色燦爛《きんしよくさんらん》たる|冠《かむり》を|戴《いただ》いた|高宮彦命《たかみやひこのみこと》が、さも|愉快気《ゆくわいげ》にやつて|来《き》た。|忽《たちま》ち|床《とこ》を|背《せ》にして、ムクムクとした|厚《あつ》い|絹座布団《きぬざぶとん》の|上《うへ》に|膝《ひざ》を|埋《う》める|様《やう》にして|坐《すわ》り|込《こ》んだ。|高姫《たかひめ》はさも|嬉《うれ》しげに|媚《こ》びを|呈《てい》しながら、
『これはこれは|吾《わが》|夫《つま》、|高宮彦《たかみやひこ》|様《さま》、よく|吾《わが》|居間《ゐま》を|訪《と》はせられました。|一時《いちじ》|千秋《せんしう》の|思《おも》ひで、|君《きみ》のお|出《い》でを|待《ま》ち|焦《こが》れて|居《を》りました。|嬉《うれ》しう|厶《ござ》ります』
と|涙含《なみだぐ》む。|妖幻坊《えうげんばう》は、
『いや|高宮姫《たかみやひめ》|殿《どの》、|長《なが》らく|顔《かほ》も|見《み》せず|失礼《しつれい》を|致《いた》した。さぞ|淋《さび》しかつたであらうな』
『はい、|幸《さいはひ》に|二人《ふたり》の|娘《むすめ》が|近侍《きんじ》してくれて|居《を》りますので、あまり|淋《さび》しいとは|存《ぞん》じませぬが、|君《きみ》のお|姿《すがた》が|見《み》えませぬと、|何処《どこ》とはなしに、ヤツパリ|淋《さび》しう|厶《ござ》ります』
『アツハハハハハハ、さうするとヤツパリ|此《この》|高宮彦《たかみやひこ》が|恋《こひ》しいと|見《み》えるのう。や、さうなくては|叶《かな》はぬ|事《こと》だ。|斯《か》うして|夫《をつと》となり|妻《つま》となるも、|昔《むかし》の|神代《かみよ》から|絶《き》るにきられぬ|因縁《いんねん》であらう』
『|尊《たふと》き|神様《かみさま》の|御恵《みめぐみ》によりまして、かかる|尊《たふと》き|御殿《ごてん》の|内《うち》に|於《おい》て|親子《おやこ》|夫婦《ふうふ》の|邂逅《めぐりあ》ひ、|実《じつ》にこんな|嬉《うれ》しい|事《こと》は|厶《ござ》りませぬ。|貴方《あなた》の|御雄姿《ごゆうし》と|云《い》ひ、|高宮姫《たかみやひめ》の|若返《わかがへ》りと|云《い》ひ、|此《この》|金殿玉楼《きんでんぎよくろう》と|云《い》ひ、|更《さら》に|錦上《きんじやう》|花《はな》を|添《そ》へたる|如《ごと》き|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》の|分霊《ぶんれい》、|高子姫《たかこひめ》、|宮子姫《みやこひめ》|二人《ふたり》の|美女《びぢよ》、|天極紫微宮《てんごくしびきう》の|壮観《さうくわん》も|竜宮城《りうぐうじやう》の|光景《くわうけい》も、よもやこれ|程《ほど》までには|厶《ござ》りますまい』
『それは、その|筈《はず》だ。|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》の|不思議《ふしぎ》の|神力《しんりき》にて、|天極紫微宮《てんきよくしびきう》の|御殿《ごてん》を|地上《ちじやう》に|引移《ひきうつ》し、|又《また》|竜宮《りうぐう》の|最《もつと》も|美《うつく》しき|処《ところ》を、|海底《かいてい》より|此処《ここ》に|引上《ひきあ》げ|建《た》て|並《なら》べたる|大城廓《だいじやうくわく》、|其《その》|中心《ちうしん》の|金殿玉楼《きんでんぎよくろう》、|曲輪城《まがわじやう》の|高宮殿《たかみやでん》、|綺麗《きれい》なのは|尤《もつと》もだ、アハハハハハ』
『あの|杢《もく》……いやいや|高宮彦《たかみやひこ》|様《さま》、|此《この》|城廓《じやうくわく》の|広袤《くわうぼう》は|何程《なにほど》|厶《ござ》りますか』
『うん、さうだ、|東西《とうざい》が|百町《ひやくちやう》、|南北《なんぼく》が|百町《ひやくちやう》、|中々《なかなか》|以《もつ》て|広《ひろ》いものだぞや。|其《その》|中心《ちうしん》なる|此《この》|御殿《ごてん》に|於《おい》て、|汝《なんぢ》と|両人《りやうにん》、|天下《てんか》を|握《にぎ》る|愉快《ゆくわい》さは|又《また》|格別《かくべつ》だ。|併《しか》しながら|高宮姫《たかみやひめ》、よつく|聞《き》け、|昨日《きのふ》まではバラモン|軍《ぐん》の|先鋒隊《せんぽうたい》ランチ、|片彦《かたひこ》|両将軍《りやうしやうぐん》が|屯《たむろ》せる|陣営《ぢんえい》の|跡《あと》、|彼方《かなた》|此方《こなた》に|散在《さんざい》し、|見《み》る|影《かげ》もなき|荒野《あらの》なりしが、|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|魔法《まはふ》によつて、|田園《でんゑん》|山林《さんりん》|陋屋《ろうをく》は|忽《たちま》ち|化《くわ》して|花《はな》の|都《みやこ》となり、かく|城廓《じやうくわく》を|天《てん》より|海底《かいてい》より|引寄《ひきよ》せ、|天地《てんち》の|粋《すゐ》を|尽《つく》したる|建物《たてもの》は|漸《やうや》く|建《た》つたれど、|之《これ》より|汝《なんぢ》は|吾《われ》と|力《ちから》を|協《あは》せ、|第一《だいいち》|吾々《われわれ》が|行動《かうどう》を|妨《さまた》ぐる|三五教《あななひけう》|及《およ》びウラナイ|教《けう》の|奴輩《やつばら》を、|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|此《この》|城中《じやうちう》へ|手段《てだて》を|以《もつ》て|引込《ひきこ》み、|霊肉《れいにく》|共《とも》に|亡《ほろ》ぼさねば、|万劫末代《まんごふまつだい》|此《この》|栄華《えいぐわ》を|保《たも》つ|事《こと》は|難《むつ》かしい。|最《もつと》も|恐《おそ》るべきは|三五教《あななひけう》を|主管《しゆくわん》|致《いた》す|素盞嗚尊《すさのをのみこと》だ。それに|従《したが》ふ|東野別命《あづまのわけのみこと》、|八島主命《やしまぬしのみこと》、|日《ひ》の|出別命《でわけのみこと》、|言依別命《ことよりわけのみこと》、|天之目一箇命《あめのまひとつのみこと》、|初稚姫命《はつわかひめのみこと》、|其《その》|他《た》|沢山《たくさん》あれども、|先《ま》づ|吾々《われわれ》が|敵《てき》とするは|以上《いじやう》の|人物《じんぶつ》だ。それに|従《したが》ふ|奴輩《やつばら》も|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|打亡《うちほろ》ぼさねば、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》の|大望《たいまう》は|成就《じやうじゆ》|致《いた》さぬぞや。|高宮姫《たかみやひめ》、そなたが|今後《こんご》|採《と》るべき|手段《しゆだん》は|如何《いかが》で|厶《ござ》るか。それを|承《うけたま》はりたいものだ、アツハハハハハ』
『もし|吾《わが》|夫様《つまさま》、|否《いな》|吾《わが》|君様《きみさま》、|今《いま》となつて|左様《さやう》の|事《こと》、お|尋《たづ》ねまでも|厶《ござ》りませぬ。|妾《わらは》は|之《これ》より|日々《ひび》|此《この》|城門《じやうもん》を|潜《くぐ》り|出《い》で、|二人《ふたり》の|娘《むすめ》を|引連《ひきつ》れ、|火《ひ》の|見《み》|櫓《やぐら》の|近辺《きんぺん》にて|往来《ゆきき》の|人《ひと》を|待《ま》ち|伏《ふ》せ、|此《この》|美貌《びばう》と|弁舌《べんぜつ》にまかせ、|残《のこ》らず|此《この》|城内《じやうない》に|引《ひ》き|入《い》れ|帰順《きじゆん》させてやりませう。|必《かなら》ずやお|気遣《きづか》ひなさいますな』
『ヤ、|出来《でか》した|出来《でか》した。|流石《さすが》は|高宮姫《たかみやひめ》|殿《どの》、|然《しか》らば|吾《われ》は|奥殿《おくでん》にて|休息《きうそく》|致《いた》し、|日々《ひび》の|神務《しんむ》を|見《み》るべければ、|汝《なんぢ》は|高子《たかこ》、|宮子《みやこ》を|伴《ともな》ひ、|火《ひ》の|見《み》|櫓《やぐら》の|前《まへ》にて|往来《ゆきき》のものは|云《い》ふに|及《およ》ばず、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|及《およ》び|三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》して|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|参拝《さんぱい》する|奴輩《やつばら》を|残《のこ》らず|引捕《ひつとら》へ、|吾《わが》|城内《じやうない》へつれ|帰《かへ》られよ』
『|仰《おほ》せにや|及《およ》びませう。|高姫《たかひめ》もかく|若《わか》やいだ|上《うへ》は、いろいろと|力《ちから》を|尽《つく》し|手段《てだて》を|以《もつ》て|引《ひ》き|寄《よ》せませう、|必《かなら》ずともに|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
『いやそれを|聞《き》いて|安心《あんしん》|致《いた》した。|兎角《とかく》|浮世《うきよ》は|色《いろ》と|酒《さけ》、も|一《ひと》つ|大切《たいせつ》なものは|権勢《けんせい》だ。|何程《なにほど》|智者《ちしや》|学者《がくしや》と|雖《いへど》も、|聖人君子《せいじんくんし》と|雖《いへど》も、|権勢《けんせい》なければ|世《よ》に|時《とき》めき|渡《わた》る|事《こと》は|出来《でき》ない。まづ|三五教《あななひけう》を|崩壊《ほうくわい》し、|大黒主《おほくろぬし》の|神様《かみさま》に|安心《あんしん》を|与《あた》へ|奉《たてまつ》らずば、|七千余国《ななせんよこく》の|月《つき》の|国《くに》は|云《い》ふに|及《およ》ばず、|三千世界《さんぜんせかい》は|乱麻《らんま》の|如《ごと》く|乱《みだ》れ、|且《かつ》|吾々《われわれ》の|悪霊世界《あくれいせかい》へ……|否《いな》|悪霊世界《あくれいせかい》が|吾々《われわれ》を|滅亡《めつぼう》せむと|致《いた》すは|火《ひ》を|睹《み》るよりも|明《あきら》かだ。|吾《われ》より|先《さき》に|進《すす》んで|館《やかた》を|亡《ほろ》ぼさなくては、|吾等《われら》は|彼《かれ》に|亡《ほろ》ぼさるるに|至《いた》らむ。|如何《いか》に|如意宝珠《によいほつしゆ》の|妙力《めうりき》ありとも、|敵《てき》にも|亦《また》|一《ひと》つの|神宝《しんぱう》あり。|必《かなら》ず|油断《ゆだん》なく……いざ|之《これ》より|初陣《うひぢん》の|功名《こうみやう》を|現《あら》はすべく|出門《しゆつもん》|召《め》されよ』
と|常《つね》に|変《かは》り|言葉《ことば》も|荘重《さうちよう》に|儼然《げんぜん》として|宣《の》り|伝《つた》へた。|高姫《たかひめ》は、
『はい、|承知《しようち》|致《いた》しました。|必《かなら》ず|手柄《てがら》をしてお|目《め》にかけませう。さア|高子《たかこ》、|宮子《みやこ》、|母《はは》についておぢや』
と|錦《にしき》の|袖《そで》を|間風《まかぜ》にひるがへし、シヨナ シヨナと|身振《みぶ》りしながら|裾《すそ》を|持《も》ち、|高宮彦《たかみやひこ》に|別《わか》れて|長廊下《ながらうか》を|伝《つた》ひ、|玄関口《げんくわんぐち》より|黄金《こがね》の|足駄《あしだ》を|穿《うが》ち、|浮木《うきき》の|森《もり》の|火《ひ》の|見《み》|櫓《やぐら》の|麓《ふもと》をさして、シヨナリ シヨナリと|太夫《たいふ》の|行列《ぎやうれつ》よろしくにじり|行《ゆ》く。
|高姫《たかひめ》は|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》と|共《とも》に|襠衣《うちかけ》を|脱《ぬ》ぎ、|火《ひ》の|見《み》|櫓《やぐら》の|下《した》の|間《ま》に|蔵《しま》ひ|置《お》き、|長柄《ながえ》の|籠《かご》を|各《おのおの》|携《たづさ》へて、|菫《すみれ》や|蒲公英《たんぽぽ》を|余念《よねん》なき|態《てい》を|粧《よそほ》ひつつ|摘《つ》んでゐた。さうして|其処《そこ》に|咲《さ》き|誇《ほこ》つてる|寒椿《かんつばき》の|花《はな》の|自然《しぜん》に|落《お》つるのを|眺《なが》めて、|昔《むかし》のアーメニヤ|時代《じだい》を|思《おも》ひ|浮《う》かべ、
『おだやかな
|初春《はつはる》の
|小庭《こには》にしよんぼりと
|乙女《をとめ》の|唇《くちびる》の|様《やう》な
|小《ちひ》さき|寒椿《かんつばき》
|滴《したた》るばかりの|緑葉《りよくえう》は
|昨晩《ゆうべ》から|雨《あめ》にぬれた
|病人《びやうにん》の|如《ごと》く
|椿《つばき》の|花《はな》は|幽《かす》かに|慄《ふる》ふ
|妾《わらは》は|今《いま》
|彼《か》の|恋男《こひをとこ》の
|痛々《いたいた》しい|姿《すがた》に
|悩《なや》まされつつ
|昔《むかし》を|今《いま》に|写《うつ》して
|喘《あへ》いで|居《ゐ》るのだ
|涙《なみだ》ぐましい|気分《きぶん》が
|四辺《あたり》に|漂《ただよ》ひ
わが|小《ちひ》さき|胸《むね》に|襲《おそ》ひ|来《く》る
これの|椿《つばき》の|花《はな》よ
|吾《われ》の|姿《すがた》に
わが|恋《こひ》の|思《おも》ひに|似《に》て』
と|斯《こ》んな|事《こと》を|云《い》つてスツカリ|十八気分《じふはちきぶん》になり、ありし|昔《むかし》を|追懐《つゐくわい》して|其《その》ローマンスを|夢《ゆめ》の|如《ごと》く|浮《うか》べて|椿《つばき》の|花《はな》に|思《おも》ひを|寄《よ》せてゐた。|世《よ》の|風波《ふうは》にもまれ、あらゆる|権謀《けんぼう》を|弄《ろう》し、|鬼《おに》の|如《ごと》き|荒男《あらをとこ》を|凹《へこ》ませ、|神人《しんじん》をなやませたる|高姫《たかひめ》の|言葉《ことば》とは、|何《ど》う|考《かんが》へても|思《おも》はれない|程《ほど》の、あどけなき|姿《すがた》になりきつて|居《ゐ》た。されど|潜竜《せんりう》|淵《ふち》に|沈《しづ》むと|雖《いへど》も、|一度《ひとたび》|風雲《ふううん》に|際会《さいくわい》すれば、|天地《てんち》を|震撼《しんかん》し、|黒雲《こくうん》を|巻《ま》き|起《おこ》し、|億兆無数《おくてうむすう》の|星晨《せいしん》を|黒雲《こくうん》の|下《もと》に|舐《な》め|尽《つく》す|如《ごと》き|執着心《しふちやくしん》と|焔《ほのほ》の|如《ごと》き|弁舌《べんぜつ》は、|遺憾《ゐかん》なく|高姫《たかひめ》の|老躯《らうく》より|迸《ほとばし》るのが|不思議《ふしぎ》である。|高姫《たかひめ》があどけなき|姿《すがた》になり、|白《しろ》い|手《て》を|出《だ》して|怖《こは》さうに|蒲公英《たんぽぽ》を|摘《つ》んでゐると、そこへ|蓑笠《みのかさ》を|着《つ》け|草鞋脚絆《わらぢきやはん》の|旅装束《たびしやうぞく》、|金剛杖《こんがうづゑ》を|左手《ゆんで》に|握《にぎ》り、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら|進《すす》み|来《く》る|二人《ふたり》の|男《をとこ》があつた。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善神《ぜんしん》|邪神《じやしん》を|立別《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》り|給《たま》ひたる |国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》は
|天地《あめつち》|百《もも》の|神人《しんじん》の |醜《しこ》の|罪科《つみとが》|一身《いつしん》に
|引受《ひきう》け|給《たま》ひ|天界《てんかい》の |天極紫微宮《てんごくしびきう》|後《あと》にして
|根底《ねそこ》の|国《くに》に|落《お》ちましぬ ああさりながら|大神《おほかみ》は
|仁慈無限《じんじむげん》の|御心《みこころ》に |此《この》|世《よ》を|救《すく》ひ|助《たす》けむと
|千々《ちぢ》に|心《こころ》を|悩《なや》ませつ |御身《おんみ》を|変《へん》じ|遠近《をちこち》と
|彷徨《さまよ》ひ|世人《よびと》を|守《まも》りつつ |百《もも》の|難《なや》みを|苦《く》にもせず
|守《まも》らせ|給《たま》ふ|有難《ありがた》さ バラモン|教《けう》に|仕《つか》へたる
|吾《われ》はランチの|将軍《しやうぐん》ぞ |吾《われ》は|片彦将軍《かたひこしやうぐん》ぞ
|大黒主《おほくろぬし》の|命《めい》を|受《う》け |斎苑《いそ》の|館《やかた》に|現《あ》れませる
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》を |打亡《うちほろ》ぼして|世《よ》の|中《なか》の
|曲《まが》をば|払《はら》ひ|清《きよ》めむと |数多《あまた》の|軍勢《ぐんぜい》|引率《ひきつ》れて
|隊伍《たいご》を|整《ととの》へ|堂々《だうだう》と |浮木《うきき》の|森《もり》や|河鹿山《かじかやま》
|進《すす》み|来《きた》りし|折《をり》もあれ |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|神力無双《しんりきむさう》の|神人《しんじん》に |説《と》きつけられて|三五《あななひ》の
|誠《まこと》の|道《みち》を|相悟《あひさと》り |武装《ぶさう》を|棄《す》てて|治国《はるくに》の
|別《わけ》の|命《みこと》の|弟子《でし》となり クルスの|森《もり》やテームスの
|峠《たうげ》に|長《なが》らく|足《あし》を|止《と》め |天国《てんごく》|浄土《じやうど》の|御教《みをしへ》を
|聴聞《ちやうもん》なして|人生《じんせい》の |其《その》|本分《ほんぶん》を|悟《さと》りしゆ
|吾《わが》|信仰《しんかう》はいや|固《かた》く |仮令《たとへ》|巨万《きよまん》の|黄金《わうごん》も
|天女《てんによ》を|欺《あざむ》く|美人《びじん》にも |汚《きたな》き|心《こころ》を|起《おこ》さざる
|勇猛心《ゆうまうしん》となりにけり これぞ|全《まつた》く|皇神《すめかみ》の
|吾等《われら》を|救《すく》ひ|給《たま》はむと |降《くだ》し|給《たま》へる|仁愛《じんあい》の
|恵《めぐ》みの|雨《あめ》の|賜物《たまもの》ぞ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ |向《むか》ふの|森《もり》を|眺《なが》むれば
|印象《いんしやう》|深《ふか》き|浮木原《うききはら》 |数多《あまた》の|軍勢《ぐんぜい》|引率《ひきつ》れて
|滞陣《たいぢん》したる|馴染《なじみ》の|地《ち》 |暫《しばら》く|月日《つきひ》を|経《ふ》るままに
うつて|変《かは》りしあの|様子《やうす》 |如何《いか》なる|偉人《ゐじん》の|現《あら》はれて
かくも|立派《りつぱ》な|都会《とくわい》をば |造《つく》りしものか、あら|不思議《ふしぎ》
|雲表《うんぺう》|高《たか》くきらめくは |大廈高楼《たいかかうらう》|金銀《きんぎん》の
|甍《いらか》に|輝《かがや》く|日《ひ》の|光《ひかり》 |合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|此《この》|始末《しまつ》
|汝《なんぢ》|片彦《かたひこ》|宣伝使《せんでんし》 |彼《か》の|光景《くわうけい》を|何《なん》と|見《み》る
|訝《いぶ》かしさよ』と|尋《たづ》ぬれば |片彦《かたひこ》|首《くび》をかたげつつ
|口許《くちもと》|重《おも》く|答《こた》へらく 『|君《きみ》の|宣《の》らする|其《その》|如《ごと》く
|実《げ》にも|不思議《ふしぎ》の|光景《くわうけい》ぞ いざ|之《これ》よりは|逸早《いちはや》く
|足《あし》を|早《はや》めて|実否《じつぴ》をば |調《しら》べて|見《み》むか、|如何《いか》にぞや』
|反問《はんもん》すればまたランチ 『|如何《いか》にも|尤《もつと》も|探険《たんけん》』と
|道《みち》を|行《ゆ》きつつ|語《かた》り|合《あ》ひ |火《ひ》の|見《み》|櫓《やぐら》の|麓《ふもと》まで
|二本《にほん》の|杖《つゑ》に|地《ち》を|叩《たた》き しづしづ|此処《ここ》に|着《つ》きにけり。
ランチ、|片彦《かたひこ》|両人《りやうにん》は|自分《じぶん》が|四ケ月《しかげつ》|以前《いぜん》に|駐屯《ちゆうとん》してゐた|時《とき》の|俤《おもかげ》は|烟《けむり》の|如《ごと》く|消《き》え、|得《え》も|云《い》はれぬ|立派《りつぱ》な|城廓《じやうくわく》や|市街《しがい》が|立並《たちなら》び、|火《ひ》の|見《み》|櫓《やぐら》は|金色燦然《きんしよくさんぜん》として|四辺《しへん》を|輝《かがや》かして|居《ゐ》る。|二人《ふたり》は|不思議《ふしぎ》さうに|立止《たちど》まり、|目《め》を|丸《まる》くしながら|無言《むごん》の|儘《まま》、|四辺《あたり》キヨロキヨロみつめて|居《ゐ》る。ランチは|漸《やうや》く|口《くち》を|開《ひら》き、
『いや|片彦《かたひこ》|殿《どの》、|何《なん》と|不思議《ふしぎ》では|厶《ござ》らぬか。|拙者《せつしや》が|将軍《しやうぐん》として|貴殿《きでん》と|共《とも》に|陣屋《ぢんや》を|構《かま》へし|俤《おもかげ》はなく、|殆《ほとん》ど|千年《せんねん》の|都《みやこ》の|如《ごと》き|此《この》|壮大《さうだい》なる|構《かま》へ、|繁華《はんくわ》なる|市街《しがい》の|櫛比《しつぴ》する|有様《ありさま》、|夢《ゆめ》の|様《やう》には|厶《ござ》らぬか』
『|成程《なるほど》、|貴殿《きでん》の|申《まを》さるる|通《とほ》り|実《じつ》に|不思議千万《ふしぎせんばん》で|厶《ござ》る。もしか|悪神等《あくがみら》の|悪企《わるだく》みでは|厶《ござ》るまいかな。|如何《いか》なる|神人《しんじん》と|雖《いへど》も、かくの|如《ごと》き|事業《じげふ》を|短日月《たんじつげつ》に|完成《くわんせい》すべしとは|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ。さてもさても|不思議《ふしぎ》の|事《こと》よ。いや、|向《むか》ふの|椿《つばき》の|木《き》の|根元《ねもと》に|妙齢《めうれい》の|女《をんな》が|三人《さんにん》、|花《はな》を|摘《つ》んでゐる|様《やう》です。|彼《か》の|女《をんな》を|捕《とら》へ、|此《この》|城内《じやうない》の|様子《やうす》を|伺《うかが》つて|見《み》ようではありませぬか』
『|成程《なるほど》、それも|宜《よろ》しからう』
と|云《い》ひながら|三人《さんにん》の|乙女《をとめ》の|方《はう》へと|歩《ほ》を|進《すす》めた。
|四辺《あたり》は|春《はる》めきて、|去年《きよねん》のかたみの|枯草《かれくさ》の|間《あひだ》から、|青草《あをくさ》の|芽霧《めぎり》が|細《ほそ》く|柔《やはら》かく|伸《の》びて|居《ゐ》る。|小鳥《ことり》の|声《こゑ》は|音楽《おんがく》の|様《やう》に|四辺《あたり》に|響《ひび》いて|来《き》た。
(大正一二・一・二六 旧一一・一二・一〇 北村隆光録)
第一二章 |初花姫《はつはなひめ》〔一三二七〕
|片彦《かたひこ》は|三人《さんにん》の|乙女《をとめ》に|向《むか》つて|言葉《ことば》|優《やさ》しく、
『もし、それなる|嬢様《ぢやうさま》|達《たち》、|一寸《ちよつと》お|尋《たづ》ね|致《いた》しますが、|向《むか》ふに|見《み》えるあの|立派《りつぱ》な|城廓《じやうくわく》は、|何時《いつ》|頃《ごろ》に|出来上《できあが》つたのですか』
|三人《さんにん》の|女《をんな》は|些《すこ》しも|聞《きこ》えぬやうなふりをして、|頻《しき》りに|花《はな》を|摘《つ》んで|居《ゐ》る。|片彦《かたひこ》は|益々《ますます》|傍《そば》に|寄《よ》つて、|一層《いつそう》|声《こゑ》|高《たか》く、
『お|嬢《ぢやう》さま、|一寸《ちよつと》|物《もの》を|伺《うかが》ひます』
|此《この》|声《こゑ》に|三人《さんにん》は|驚《おどろ》いたやうな|顔《かほ》で、|片彦《かたひこ》、ランチ|両人《りやうにん》の|顔《かほ》を|打《う》ち|守《まも》つた。さうして|高姫《たかひめ》は、
『アヽ|吃驚《びつくり》したよ。|貴方《あなた》どこのお|方《かた》ですか』
|片彦《かたひこ》『|拙者《せつしや》は|四ケ月《しかげつ》|以前《いぜん》に|此《この》|浮木《うきき》の|森《もり》にバラモン|軍《ぐん》を|引率《いんそつ》し、|滞陣《たいじん》して|居《ゐ》た|片彦将軍《かたひこしやうぐん》の|成《な》れの|果《はて》で|厶《ござ》る。|此処《ここ》に|居《ゐ》られるのは|吾々《われわれ》の|上官《じやうくわん》ランチ|将軍《しやうぐん》で|厶《ござ》る。|此《この》|方《かた》も|拙者《せつしや》と|同《おな》じく|軍服《ぐんぷく》を|脱《ぬ》ぎ|捨《す》て、|今《いま》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》で|厶《ござ》る』
|高姫《たかひめ》は、|花《はな》の|唇《くちびる》をパツと|開《ひら》き、|媚《こ》びを|呈《てい》し|艶《なまめ》かしい|声《こゑ》で、
『アヽ、|左様《さやう》で|厶《ござ》いますか、それは|尊《たふと》い|貴方《あなた》はお|役柄《やくがら》、|妾《わらは》は|如意王《によいわう》の|娘《むすめ》、|初花姫《はつはなひめ》と|申《まを》します』
|片彦《かたひこ》『ハテ|不思議《ふしぎ》な|事《こと》も|厶《ござ》るものだ。|如意王様《によいわうさま》とは|月《つき》の|国《くに》コーラン|国《ごく》の|刹帝利様《せつていりさま》では|厶《ござ》りませぬか』
『ハイ、|左様《さやう》で|厶《ござ》います。|此《この》|頃《ごろ》は|父《ちち》と|共《とも》に|数多《あまた》の|家来《けらい》を|引連《ひきつ》れ、|此方《こなた》に|国替《くにがへ》を|致《いた》しまして、|昼夜兼行《ちうやけんかう》で|漸《やうや》く|城廓《じやうくわく》が|建《た》ち|上《あが》つた|所《ところ》で|厶《ござ》ります』
『ハテ、|何《なん》と|不思議《ふしぎ》な|事《こと》だなア。|何程《なにほど》|富貴《ふうき》なお|方《かた》でも、|斯様《かやう》な|短日月間《たんじつげつかん》にかかる|城廓《じやうくわく》が|建《た》ち|上《あが》るとは、ランチ|殿《どの》、|何《なん》と|不思議《ふしぎ》では|厶《ござ》らぬか』
ランチ『|如何《いか》にも|不思議千万《ふしぎせんばん》で|厶《ござ》る』
『オホホホホホ、あのまア、あのお|二人様《ふたりさま》の|不思議《ふしぎ》さうなお|顔《かほ》……|吾《わが》|父《ちち》|如意王《によいわう》はコーラン|国《ごく》より|四ケ月《しかげつ》|以前《いぜん》に|参《まゐ》りまして、|数万《すうまん》の|部下《ぶか》に|命《めい》じ、|漸《やうや》くこの|通《とほ》り|完成《くわんせい》|致《いた》した|処《ところ》で|厶《ござ》ります。|吾《わが》|父《ちち》は|如意宝珠《によいほつしゆ》を|所持《しよぢ》して|居《を》りますれば、|如何《いか》なる|事《こと》でも|出来《でき》ます。さうして|貴方《あなた》は|今《いま》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》と|仰《おほ》せになりましたが、|私《わたし》の|父《ちち》も|俄《にはか》に|三五教《あななひけう》に|入信《にふしん》|致《いた》しまして、|斎苑《いそ》の|館《やかた》からお|出《い》での|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》を|御招待《ごせうたい》|申《まを》し、|今《いま》|奥《おく》に|御逗留《ごとうりう》で|厶《ござ》います。|何《ど》うかお|立寄《たちより》を|願《ねが》ひますれば|父《ちち》も|喜《よろこ》ぶ|事《こと》で|厶《ござ》いませう』
|片彦《かたひこ》『|何《なん》と|仰《おほ》せられますか、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|此《この》|御城内《ごじやうない》に|御逗留《ごとうりう》とは、そりや|何時《いつ》からの|事《こと》で|厶《ござ》います』
『ハイ、|二三日《にさんにち》|以前《いぜん》|斎苑《いそ》の|館《やかた》から|祠《ほこら》の|森《もり》とやらに|御出張《ごしゆつちやう》になり、それから|此《この》|曲輪城《まがわじやう》をお|訪《たづ》ねになり、|吾《わが》|両親《りやうしん》は|尊《たふと》きお|話《はなし》を|承《うけたま》はり、|今《いま》は|全《まつた》く|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》になりました。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|言葉《ことば》には、やがて|片彦《かたひこ》、ランチと|云《い》ふ|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》がお|通《とほ》りになるであらうとのお|言葉《ことば》に、かうして|二人《ふたり》の|侍女《こしもと》をつれ、|花《はな》を|摘《つ》みながら、もしお|二人様《ふたりさま》がお|出《い》でになれば、お|迎《むか》へ|申《まを》したいと|最前《さいぜん》から|此処《ここ》に|待《ま》つて|居《ゐ》ました。|何卒《どうぞ》|一寸《ちよつと》お|立寄《たちより》をお|願《ねが》ひ|申《まを》す|訳《わけ》には|参《まゐ》りますまいかなア』
|片彦《かたひこ》は|少《すこ》しく|首《くび》を|傾《かた》げながら、ランチに|向《むか》ひ、
『ランチ|殿《どの》、|貴殿《きでん》のお|考《かんが》へは|如何《いかが》で|厶《ござ》りますか。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|御逗留《ごとうりう》と|云《い》ひ、|斯《か》かる|麗《うるは》しき|乙女《をとめ》と|云《い》ひ、いやもう|吾々《われわれ》は|一向《いつかう》|合点《がてん》が|参《まゐ》りませぬ』
『|成程《なるほど》、|拙者《せつしや》も|何《ど》うも|不思議《ふしぎ》で|厶《ござ》る。|斯《か》くも|立派《りつぱ》な|普請《ふしん》が|出来《でき》る|以上《いじやう》は、|少《すこ》しは|噂《うはさ》|位《ぐらゐ》はありさうなもので|厶《ござ》るのに、|忽然《こつぜん》としてかかる|蜃気楼的《しんきろうてき》|城廓《じやうくわく》が|出来《でき》るとは、|察《さつ》する|所《ところ》|魔神《まがみ》の|仕様《しわざ》では|厶《ござ》いますまいかな』
|高子《たかこ》はランチの|傍《そば》に|寄《よ》り、
『モシ|小父《をぢ》さま、|魔神《まがみ》とは|如何《いか》なるもので|厶《ござ》りますか、どうぞ|教《をし》へて|下《くだ》さいな』
『ハハハハハ、|教《をし》へて|上《あ》げませう、|魔神《まがみ》と|申《まを》せば|悪魔《あくま》の|事《こと》です』
『|貴方《あなた》は|此《この》|立派《りつぱ》なお|屋敷《やしき》を、さうすると|悪魔《あくま》の|住家《すみか》と|思《おも》うておいでになりますか。それなら|妾《わらは》は|悪魔《あくま》の|虜《とりこ》になつて、|斯様《かやう》な|所《ところ》へ|連《つ》れて|来《こ》られたのでせうかなア』
|宮子《みやこ》『|姉《ねえ》さま、それなら|私《わたし》も|魔神《まがみ》とやらに|矢張《やつぱり》|使《つか》はれて|居《ゐ》るのだわ。もし|初花姫《はつはなひめ》|様《さま》、|吾等《われら》|姉妹《きやうだい》に|何卒《どうぞ》お|暇《ひま》を|下《くだ》さいませ』
と|怖《こは》さうな|風《ふう》をして|慄《ふる》へながら|泣《な》く。
|高姫《たかひめ》『これこれ|高子《たかこ》、|宮子《みやこ》、|畏《おそ》れ|多《おほ》くも|如意王様《によいわうさま》の|妾《わらは》は|娘《むすめ》、|左様《さやう》な|事《こと》を|申《まを》すと|承知《しようち》|致《いた》しませぬぞや。コーラン|国《ごく》の|刹帝利様《せつていりさま》のお|館《やかた》をさして、|魔神《まがみ》の|城《しろ》とは|以《もつ》ての|外《ほか》の|事《こと》、も|一度《いちど》そんな|事《こと》を|云《い》うて|御覧《ごらん》、|決《けつ》して|許《ゆる》しはしませぬぞや』
|高子《たかこ》『それでも|嬢様《ぢやうさま》、あの|小父《をぢ》さまが|魔神《まがみ》の|仕業《しわざ》と|仰有《おつしや》いました。|妾《わらは》|姉妹《きやうだい》はそれを|聞《き》くと、|何《なん》だか|怖《おそ》ろしくなりました。|何卒《どうぞ》|此処《ここ》でお|暇《ひま》を|下《くだ》さいませ。さうして|妾《わらは》のお|友達《ともだち》がまだ|十人《じふにん》ばかり|御厄介《ごやくかい》になつて|居《ゐ》ますが、|皆《みんな》|許《ゆる》してやつて|下《くだ》さい、お|願《ねが》ひ|致《いた》します』
|宮子《みやこ》は|又《また》|涙《なみだ》を|袖《そで》にぬぐひながら、
『もしお|嬢様《ぢやうさま》、お|願《ねが》ひで|厶《ござ》います、|妾《わらは》は|仮令《たとへ》|殺《ころ》されても|厭《いと》ひませぬが、|十人《じふにん》の|友達《ともだち》を|何卒《どうぞ》|助《たす》けて|下《くだ》さいませ。|其《その》|代《かは》り|妾《わらは》は|此処《ここ》で|喉《のど》をついて|死《し》にます。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|懐《ふところ》の|懐剣《くわいけん》を|抜《ぬ》いて|喉《のど》に|突《つ》き|立《た》てむとす。|高姫《たかひめ》は|慌《あわ》てて|飛《と》びつき|懐剣《くわいけん》をもぎ|取《と》り、|腹立《はらだ》たしげに、
『これ|宮子《みやこ》、|何《なん》と|云《い》ふ|不心得《ふこころえ》の|事《こと》をなさるのだ。もし|旅《たび》の|方《かた》、|貴方等《あなたがた》が|何《なん》でもない|事《こと》を|仰有《おつしや》るものですから、|初花姫《はつはなひめ》の|迷惑《めいわく》、どうか|二人《ふたり》の|侍女《こしもと》を|諭《さと》して|下《くだ》さいませ』
ランチ『イヤ、お|子供衆《こどもしう》の|前《まへ》で|不謹慎《ふきんしん》な|事《こと》を|申《まを》しまして、|実《じつ》に|申訳《まをしわけ》が|厶《ござ》いませぬ。これこれ|侍女殿《こしもとどの》、|決《けつ》して|私《わたし》の|云《い》うた|事《こと》を|真《ま》に|受《う》けて|貰《もら》つては|困《こま》ります。あまり|立派《りつぱ》なから、|曲神《まがかみ》の|仕業《しわざ》ぢやあるまいかと|云《い》つただけです。|決《けつ》して|曲神《まがかみ》の|仕業《しわざ》であるとは|申《まを》しませぬ、さう|早合点《はやがてん》しては|困《こま》ります』
|宮子《みやこ》『いやいや|何《なん》と|仰有《おつしや》つても|貴方《あなた》の|仰有《おつしや》つた|事《こと》は|真実《ほんと》で|厶《ござ》います。そんな|気休《きやす》めを|云《い》はずと、|何卒《どうぞ》|死《し》なして|下《くだ》さいませ。|繊弱《かよわ》き|女《をんな》の|身《み》をもつて|曲神《まがかみ》の|擒《とりこ》で|居《を》らうより、|死《し》んだ|方《はう》が|増《まし》で|厶《ござ》ります』
と|泣《な》き|倒《たふ》れる。|片彦《かたひこ》は|気《き》の|毒《どく》で|堪《たま》らず、|傍《そば》へ|寄《よ》つて|宮子《みやこ》をなだめるやうに、
『もしお|嬢《ぢやう》さま、どうも|済《す》みませなんだ。|皆《みな》|嘘《うそ》ですから、|何卒《どうぞ》|気《き》にかけて|下《くだ》さいますな』
『イエイエ|何《なん》と|仰有《おつしや》つても|貴方《あなた》の|気休《きやす》めと|思《おも》ひます。よう|云《い》うて|下《くだ》さつた、|曲神《まがかみ》の|業《わざ》に|違《ちが》ひありませぬ、サア|高子《たかこ》さま、|早《はや》く|逃《に》げませう』
と|早《はや》|駆《か》け|出《だ》しさうにする。
|高姫《たかひめ》『これ|高子《たかこ》、|宮子《みやこ》、なんぼ|逃《に》げてもお|父《とう》さまが|馬《うま》で|追《お》つかけさせるから、|駄目《だめ》ですよ。そんな|小父《をぢ》さまの|云《い》ふ|事《こと》など|聞《き》かずに、|妾《わらは》と|一緒《いつしよ》に|帰《かへ》りませう。お|前《まへ》は|主人《しゆじん》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》きませぬか』
と|極《き》めつける。|高子《たかこ》は|涙《なみだ》を|袖《そで》に|拭《ぬぐ》ひながら、
『|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|言葉《ことば》に……|宣伝使《せんでんし》は|決《けつ》して|嘘《うそ》や|偽《いつは》りは|云《い》はぬものだ……と|仰有《おつしや》いました。このお|方《かた》は|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、どうして|嘘《うそ》など|仰有《おつしや》りませう、|妾《わらは》はどうしても|初《はじめ》のお|言葉《ことば》を|信《しん》じます』
|片彦《かたひこ》『ああ|困《こま》つたことだなア、どうしたらよからうか』
『|何卒《どうぞ》|小父《をぢ》さま、|一遍《いつぺん》|来《き》て|下《くだ》さい。そして|果《はた》して|魔神《まがみ》の|館《やかた》なら、|何卒《どうぞ》|妾《わらは》を|連《つ》れて|逃《に》げて|下《くだ》さい。|妾《わらは》のお|友達《ともだち》も|十人《じふにん》|許《ばか》り|来《き》て|居《ゐ》ますから』
|高姫《たかひめ》『|貴方《あなた》は|元《もと》は|将軍《しやうぐん》で、|今《いま》は|立派《りつぱ》な|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》と|仰有《おつしや》つたぢやありませぬか。それに|妾《わらは》の|迷惑《めいわく》になるやうな|事《こと》を|仰有《おつしや》つて、それで|貴方《あなた》の|勤《つと》めがすみますか』
|片彦《かたひこ》、ランチ|両人《りやうにん》は|芝生《しばふ》の|上《うへ》に|手《て》をついて、
『イヤ|姫様《ひめさま》、|誠《まこと》に|失礼《しつれい》を|致《いた》しました。|何卒《どうぞ》|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》しを|願《ねが》ひます』
『|妾《わらは》は|初花姫《はつはなひめ》と|申《まを》すもの、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》とよく|似《に》た|名《な》で|厶《ござ》ります。|承《うけたま》はれば|霊《みたま》の|姉妹《きやうだい》だと|仰有《おつしや》いました。サア|何卒《どうぞ》|城内《じやうない》に|一度《いちど》|宣伝《せんでん》の|為《ため》お|出《い》で|下《くだ》さいますまいかなア』
|片彦《かたひこ》『ランチ|殿《どの》、|如何《いかが》|致《いた》しませうか、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|御逗留《ごとうりう》とあれば、お|目《め》にかかつて|置《お》くも|結構《けつこう》ぢやありませぬか』
『|何《なん》と|云《い》うても、|治国別《はるくにわけ》|様《さま》が|道寄《みちより》をしてはならぬと|仰有《おつしや》つた|以上《いじやう》、|何事《なにごと》があつても|道寄《みちより》はなりますまい』
|高姫《たかひめ》『モシ、ランチ|様《さま》とやら、|侍女《こしもと》|二人《ふたり》がこの|通《とほ》り|逃《に》げると|云《い》ひます。|妾《わらは》は|何《ど》うして|一人《ひとり》で|城内《じやうない》に|帰《かへ》れませう。|何卒《どうぞ》お|二人《ふたり》で|送《おく》つて|下《くだ》さいますまいか。これと|申《まを》すも、|皆《みな》|貴方等《あなたがた》から|起《おこ》つた|事《こと》、|宣伝使《せんでんし》の|職責《しよくせき》を|重《おも》んじて、|邪《じや》が|非《ひ》でもお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
『ランチ|殿《どの》、|年《とし》にも|似合《にあ》はぬ|偉《えら》い|理窟《りくつ》をかますぢやないか、|驚《おどろ》いたなア』
『|驚《おどろ》いたなア、こりやうつかりしては|居《ゐ》られますまい。|併《しか》し|本当《ほんたう》の|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、|如意王《によいわう》か、|但《ただし》は|曲《まが》か、|調査《てうさ》するのも|強《あなが》ち|無駄《むだ》ではありますまい。|一層《いつそう》|此《この》|初花姫《はつはなひめ》の|言葉《ことば》に|従《したが》ひ、|城内《じやうない》を|探《さぐ》つて|見《み》ませうか』
『サア、さう|致《いた》しませう』
と|二人《ふたり》は|茲《ここ》に|決心《けつしん》し、|口《くち》を|揃《そろ》へて|両人《りやうにん》は、
『イヤお|供《とも》|致《いた》しませう、お|世話《せわ》に|預《あづか》りませう』
『それは|早速《さつそく》のお|聞《き》きずみ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|初稚姫《はつわかひめ》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|父母《ふぼ》も|嘸《さぞ》|喜《よろこ》びますで|厶《ござ》いませう。サア|高子《たかこ》、|宮子《みやこ》、もう|心配《しんぱい》には|及《およ》びませぬ。|宣伝使《せんでんし》|様《さま》が|来《き》て|下《くだ》さいますから』
|高子《たかこ》、|宮子《みやこ》はやつと|機嫌《きげん》を|直《なほ》し、|二男三女《になんさんぢよ》は|連《つ》れ|立《だ》つて、|金銀珠玉《きんぎんしゆぎよく》を|鏤《ちりば》めたる|楼門《ろうもん》を|潜《くぐ》り|奥《おく》へ|奥《おく》へと|進《すす》み|入《い》る。|高姫《たかひめ》は|道々《みちみち》|歌《うた》ふ。
『|七千余国《しちせんよこく》の|月《つき》の|国《くに》 |中《なか》にも|別《わ》けてコーランの
|国《くに》の|王《こきし》とあれませる |妾《わらは》は|如意王《によいわう》の|子《こ》と|生《うま》れ
|恋《こひ》しき|国《くに》を|立出《たちい》でて はるばる|此処《ここ》に|引《ひ》き|移《うつ》り
|十二《じふに》の|侍女《じぢよ》を|従《したが》へて |何《なん》の|不自由《ふじゆう》もなけれども
|山河風土《さんかふうど》の|変《かは》りたる これの|都《みやこ》は|何《なん》となく
|物淋《ものさび》しくぞ|思《おも》はれぬ ウラルの|教《をしへ》を|守《まも》りたる
|父《ちち》と|母《はは》とはバラモンの |神《かみ》の|軍《いくさ》に|降服《かうふく》し
コーラン|国《ごく》を|打《う》ち|捨《す》てて |漸《やうや》く|此処《ここ》に|逃《のが》れまし
|安全地帯《あんぜんちたい》に|都《みやこ》をば |造《つく》りて|永久《とは》の|住処《すみか》ぞと
|定《さだ》め|玉《たま》ひし|尊《たふと》さよ |城《しろ》の|普請《ふしん》も|漸《やうや》くに
|夜《よ》に|日《ひ》をついで|竣工《しゆんこう》し いづれの|神《かみ》を|祀《まつ》らむと
|考《かんが》へ|居《ゐ》ます|折《をり》もあれ |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御教《みをしへ》を
|四方《よも》に|伝《つた》ふる|宣伝使《せんでんし》 |初稚姫《はつわかひめ》が|現《あら》はれて
|父《ちち》と|母《はは》とを|初《はじ》めとし |吾等《われら》|一同《いちどう》を|神国《かみくに》の
|花《はな》|咲《さ》く|園《その》に|誘《いざな》ひて |天国《てんごく》|浄土《じやうど》の|楽《たのし》みを
|諭《さと》したまひし|有難《ありがた》さ |父《ちち》と|母《はは》とは|勇《いさ》み|立《た》ち
|名《な》さへ|目出度《めでた》き|三五《あななひ》の |教《をしへ》の|道《みち》に|帰順《きじゆん》して
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|太祝詞《ふとのりと》 |上《あ》げさせ|給《たま》ふ|健気《けなげ》さよ
|妾《わらは》は|未《いま》だ|十八《じふはち》の |蕾《つぼみ》の|花《はな》の|初心娘《うぶむすめ》
|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》を|引《ひ》き|連《つ》れて |春野《はるの》の|蝶《てふ》に|憧憬《あこが》れつ
|菫《すみれ》タンポポ|摘《つ》まむとて いつとはなしに|門外《もんぐわい》に
|歩《あゆ》みを|運《はこ》び|湯津蔓《ゆづかづら》 |椿《つばき》の|下《もと》に|遊《あそ》ぶ|折《をり》
|遥《はるか》に|聞《きこ》ゆる|宣伝歌《せんでんか》 よくよく|耳《みみ》を|澄《す》ますうち
|初稚姫《はつわかひめ》の|宣《の》りたまふ |御歌《みうた》の|心《こころ》によく|似《に》たり
これぞ|全《まつた》く|三五《あななひ》の |教司《をしへつかさ》にますならむ
なぞと|心《こころ》を|動《うご》かしつ |花《はな》を|頻《しきり》に|摘《つ》み|居《を》れば
|忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|太《ふと》い|声《こゑ》 |頭《かしら》を|上《あ》げて|眺《なが》むれば
|見《み》るも|凛々《りり》しき|宣伝使《せんでんし》 |妾《わらは》が|乞《こ》ひを|容《い》れたまひ
|父《ちち》の|命《みこと》に|面会《めんくわい》し |初稚姫《はつわかひめ》の|御前《おんまへ》を
|訪《たず》ねやらむと|宣《の》りたまふ |其《その》|御言葉《おことば》を|聞《き》くにつけ
|天《てん》にも|昇《のぼ》る|心地《ここち》して |手《て》は|舞《ま》ひ|足《あし》は|自《おのづか》ら
|踊《をど》るが|如《ごと》く|進《すす》むなり |春野《はるの》に|遊《あそ》ぶ|蝶《てふ》の|舞《まひ》
|花《はな》に|寄《よ》りくる|蜜蜂《みつばち》の |剣《けん》を|捨《す》てたる|宣伝使《せんでんし》
|吾等《われら》|三人《みたり》を|慇懃《いんぎん》に |送《おく》らせ|給《たま》ふ|嬉《うれ》しさよ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |尊《たふと》き|神《かみ》の|御恵《おんめぐみ》
|謹《つつし》み|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|三五教《あななひけう》は|世《よ》を|救《すく》ふ |救《すく》ひの|神《かみ》と|現《あ》れませる
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大御神《おほみかみ》 |従《したが》ひませる|神司《かむつかさ》
わけて|初稚姫司《はつわかひめつかさ》 ランチ、|片彦《かたひこ》|宣伝使《せんでんし》
|揃《そろ》ひも|揃《そろ》うて|吾《わが》|館《やかた》 |訪《おとづ》れ|給《たま》ふ|嬉《うれ》しさよ
|嘸《さぞ》や|父上《ちちうへ》、|母君《ははぎみ》も |喜《よろこ》び|迎《むか》へ|給《たま》ふらむ
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎまつる』
と|歌《うた》ひながら、|麗《うるは》しき|門《もん》を|幾《いく》つとなく|潜《くぐ》り|玄関口《げんくわんぐち》に|辿《たど》りついた。
(大正一二・一・二六 旧一一・一二・一〇 加藤明子録)
第一三章 |槍襖《やりぶすま》〔一三二八〕
|高姫《たかひめ》は|玄関口《げんくわんぐち》につき、
『もし|御両人様《ごりやうにんさま》、|何卒《どうぞ》お|上《あが》り|下《くだ》さいませ。これが|父《ちち》の|本宅《ほんたく》で|厶《ござ》います』
ランチ『イヤ|有難《ありがた》う|厶《ござ》る。|何《なん》とまア、|四辺《あたり》|眩《まばゆ》きばかり|七宝《しつぱう》をもつて|飾《かざ》られ、|恰《あだか》も|天国《てんごく》|浄土《じやうど》の|荘厳《さうごん》を|見《み》るやうで|厶《ござ》る』
|片彦《かたひこ》『いかにも|左様《さやう》、|某《それがし》|生《うま》れてからまだ、|斯様《かやう》の|館《やかた》を|拝見《はいけん》した|事《こと》がない。ハルナの|都《みやこ》の|霊照殿《れいせうでん》でも、このお|館《やかた》に|比《くら》ぶれば|非常《ひじやう》な|劣《おと》りを|感《かん》じまする』
『お|二人様《ふたりさま》、お|恥《はづ》かしい|破家《あばらや》で|厶《ござ》います、|何卒《どうぞ》|奥《おく》へお|通《とほ》り|下《くだ》さいませ。これ|高子《たかこ》、|宮子《みやこ》、|早《はや》く|奥《おく》へ|往《い》つてお|父《とう》さまやお|母《かあ》さまにお|客様《きやくさま》がみえたと|云《い》つて|来《く》るのだよ』
『ハイ』
と|答《こた》へて|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》は|衝立《ついたて》の|影《かげ》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。|七宝《しつばう》をもつて|描《ゑが》かれたる|衝立《ついたて》の|絵《ゑ》は|月夜《つきよ》の|海面《かいめん》であつた。|如何《いか》なる|画伯《ぐわはく》の|手《て》になりしものか、|一目《ひとめ》|見《み》るより|幽玄壮大《いうげんさうだい》の|気分《きぶん》に|漂《ただよ》はさるるのであつた。|二人《ふたり》はオヅオヅ|高姫《たかひめ》の|後《あと》について|長《なが》い|廊下《らうか》を|面恥《おもはづ》かしげに|進《すす》みながら、ランチは|片彦《かたひこ》に|向《むか》ひ、
『|片彦《かたひこ》|殿《どの》、|実《じつ》に|瑠璃宮《るりきう》のやうで|厶《ござ》るなア』
『|成程《なるほど》、|形容《けいよう》の|辞《ことば》が|厶《ござ》らぬ。これは これはとばかり|花《はな》の|吉野山《よしのやま》、とでも|言《い》つて|置《お》きませうかな。|嬋妍窈窕《せんけんえうてう》たる|美人《びじん》に|導《みちび》かれ、|金《きん》、|銀《ぎん》、|瑠璃《るり》、|珊瑚《さんご》、|瑪瑙《めなう》、|〓〓《しやこ》、|玻璃《はり》の|七宝《しつぱう》をもつて|飾《かざ》られたる|珍《うづ》の|御殿《ごてん》を|進《すす》み|行《ゆ》く|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は、|夢《ゆめ》でも|見《み》て|居《を》るので|厶《ござ》るまいかなア』
と、こんな|事《こと》を|囁《ささや》きながら、|奥《おく》へ|奥《おく》へと|進《すす》み|入《い》つた。パツと|突《つ》き|当《あた》つた|所《ところ》に|観音開《くわんおんびら》きの|庫《くら》のやうなものが|立《た》つて|居《ゐ》る。|其処《そこ》から|花《はな》を|欺《あざむ》く|許《ばか》りの|十二三《じふにさん》の|乙女《をとめ》が|七八人《しちはちにん》、バラバラと|現《あら》はれ、|中《なか》の|最《もつと》も|年《とし》かさらしき|乙女《をとめ》は|叮嚀《ていねい》に|手《て》を|仕《つか》へ、
『お|嬢様《ぢやうさま》、どこへ|行《い》つていらしたので|厶《ござ》います。|御両親様《ごりやうしんさま》が|大変《たいへん》|御心配《ごしんぱい》で|厶《ござ》いました。そこで|妾《わらは》がお|探《たづ》ねに|往《ゆ》かうと|思《おも》つて|居《ゐ》た|所《ところ》、そこへ|高子《たかこ》、|宮子様《みやこさま》が、お|嬢様《ぢやうさま》は|今《いま》お|客《きやく》さまを|連《つ》れてお|帰《かへ》りとの|事《こと》に、お|迎《むか》へに|参《まゐ》りました。ようまア|帰《かへ》つて|下《くだ》さいました』
と|叮嚀《ていねい》に|云《い》ふ。
|高姫《たかひめ》『|其方《そなた》は|五月《さつき》ぢやないか、|御苦労《ごくらう》だつたねえ。このお|方《かた》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》だよ。サア|奥《おく》へ|御案内《ごあんない》して|下《くだ》さい。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|居間《ゐま》へねえ』
|五月《さつき》『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。サアお|客様《きやくさま》、|妾《わらは》が|案内《あんない》|致《いた》しませう』
ランチ『ヤア、これは|誠《まこと》に|畏《おそ》れ|入《い》ります』
|片彦《かたひこ》『|左様《さやう》なれば|遠慮《ゑんりよ》なく|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りませう』
と|観音開《くわんのんびら》きを|潜《くぐ》らうとする|時《とき》、
|高姫《たかひめ》『もしお|客様《きやくさま》、|妾《わらは》は|一寸《ちよつと》|父母《ふぼ》に|会《あ》つて|参《まゐ》りますから、|何卒《どうぞ》|応接《おうせつ》の|間《ま》に|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さい。これ|五月《さつき》や、お|客様《きやくさま》を|鄭重《ていちよう》に|御待遇《もてなし》なされや』
『ハイ|畏《かしこ》まりました』
|片彦《かたひこ》『どうぞ|初花姫《はつはなひめ》|様《さま》、お|構《かま》ひ|下《くだ》さいますな』
ランチ『|左様《さやう》ならばお|待《ま》ち|申《まを》して|居《を》ります、どうぞ|直《すぐ》にお|顔《かほ》を|見《み》せて|下《くだ》さい』
『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。|一寸《ちよつと》|失礼《しつれい》|致《いた》します』
と、|扉《とびら》を|開《あ》けてパツと|姿《すがた》を|隠《かく》した。これは|高姫《たかひめ》の|与《あた》へられた|狸穴《まみあな》の|立派《りつぱ》な|部屋《へや》である。|片彦《かたひこ》、ランチは|八人《はちにん》の|少女《おとめ》に|導《みちび》かれ、|観音開《くわんのんびら》きを|潜《くぐ》つて|中《なか》に|入《はい》つた。|室内《しつない》の|諸道具《しよだうぐ》は|行儀《ぎやうぎ》よく|整理《せいり》され、|五脚《ごきやく》の|椅子《いす》が、|円《まる》いテーブルを|中央《まんなか》にして|並《なら》べられてある。|二人《ふたり》は|五月《さつき》に|勧《すす》めらるる|儘《まま》に|腰《こし》を|下《おろ》した。|何《なん》とも|云《い》へぬよい|気分《きぶん》である。ドアは|何時《いつ》の|間《ま》にか|固《かた》く|鎖《とざ》された。|二人《ふたり》はコクリコクリと|夢路《ゆめぢ》に|入《い》つた。
|暫《しばら》くすると、
『もしもし』
と|肩《かた》を|叩《たた》くものがある。|二人《ふたり》はフツと|目《め》を|醒《さ》ませば、|机《つくゑ》の|上《うへ》に|見《み》た|事《こと》もない|綺麗《きれい》な|器《うつは》に、|酒《さけ》や|寿司《すし》や|果物《くだもの》が|盛《も》られて|居《ゐ》た。そして|何《なん》とも|云《い》へない|妙齢《めうれい》の|婦人《ふじん》が|衣服《いふく》|一面《いちめん》に|宝玉《はうぎよく》を|鏤《ちりば》め、|其《その》|光《ひかり》は|灯火《とうくわ》に|反射《はんしや》して|一層《いつそう》|麗《うるは》しく|輝《かがや》いて|居《ゐ》る。|赤《あか》、|紫《むらさき》、|青《あを》、|紅《くれなゐ》、|黄《き》、|白《しろ》、|橄欖色《かんらんしよく》、|紫紺色《しこんしよく》などの|光《ひかり》が|全身《ぜんしん》から|溢《あふ》れて|居《ゐ》る。|二人《ふたり》は|夢《ゆめ》かとばかり|驚《おどろ》いた。さうして|室内《しつない》に|灯火《ともしび》のついて|居《ゐ》るのを|見《み》て、|余程《よほど》|長《なが》く|眠《ねむ》つて|居《ゐ》たものだと|思《おも》つた。
ランチ『ヤア、どうも|失礼《しつれい》|致《いた》しました。|結構《けつこう》なお|館《やかた》へ|引《ひ》き|入《い》れられまして、|失礼千万《しつれいせんばん》にも|眠《ねむ》つて|仕舞《しま》ひました。|何卒《どうぞ》|吾々《われわれ》が|無作法《ぶさはふ》をお|咎《とが》めなく、お|許《ゆる》しを|願《ねが》ひます』
|三人《さんにん》の|女《をんな》は|何《いづ》れも|玉子《たまご》に|目鼻《めはな》のやうな、|揃《そろ》ひも|揃《そろ》うた|容貌《ようばう》をして|居《ゐ》る。|併《しか》し|中央《ちうあう》に|腰《こし》をかけて|居《ゐ》る|女《をんな》は、どこともなしに|気品《きひん》|高《たか》く、|且《か》つ|二《ふた》つばかり|年《とし》かさのやうに|見《み》えた、|十八才《じふはちさい》に|十六才《じふろくさい》|位《ぐらゐ》な|姿《すがた》である。|中《なか》なる|美人《びじん》は|両人《りやうにん》に|向《むか》ひ、
『|私《わたし》は|初稚姫《はつわかひめ》で|厶《ござ》います。|承《うけたま》はれば|貴方等《あなたがた》はランチ|将軍《しやうぐん》、|片彦《かたひこ》|将軍様《しやうぐんさま》ださうですなア、よくまア|三五《あななひ》の|道《みち》に|御入信《ごにふしん》なさいました。|妾《わらは》は|大神《おほかみ》の|命《めい》を|受《う》けハルナの|都《みやこ》を|指《さ》して|宣伝《せんでん》の|旅《たび》に|上《のぼ》る|途中《とちう》、|如意王様《によいわうさま》に|見出《みいだ》され、|暫《しばら》く|此処《ここ》に|足《あし》を|止《とど》むる|事《こと》となりました。さうして|此《この》|右《みぎ》に|居《を》られる|方《かた》は|秋子姫《あきこひめ》、|左《ひだり》の|方《かた》は|豊子姫《とよこひめ》と|申《まを》すお|方《かた》で|厶《ござ》います。まだお|年《とし》は|若《わか》う|厶《ござ》いますが、|王様《わうさま》がコーラン|国《ごく》から|侍女《じぢよ》としてお|連《つ》れ|遊《あそ》ばした|淑女《しゆくぢよ》で|厶《ござ》います。|何卒《どうぞ》|以後《いご》|相共《あひとも》に|宜敷《よろし》く|御提携《ごていけい》を|願《ねが》ひます』
ランチ『|貴女《あなた》が、|名《な》に|高《たか》き|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》で|厶《ござ》いましたか。これは|又《また》|不思議《ふしぎ》な|所《ところ》でお|目《め》に|懸《かか》りました。|私《わたし》は|仰《おほ》せの|通《とほ》りランチで|厶《ござ》いまする。|一度《ひとたび》は|鬼春別《おにはるわけ》|将軍《しやうぐん》の|部下《ぶか》となり、|大黒主《おほくろぬし》の|命《めい》を|奉《ほう》じ、|勿体《もつたい》なくも|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|攻《せ》め|寄《よ》せむとした|罪人《つみびと》で|厶《ござ》います。|然《しか》るに、|大神様《おほかみさま》のお|恵《めぐみ》によつてスツカリ|改心《かいしん》を|致《いた》し、|治国別《はるくにわけ》|様《さま》の|長《なが》らくの|御教訓《ごけうくん》をうけ、|御添書《ごてんしよ》を|頂《いただ》いて|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|修業《しゆげふ》に|参《まゐ》る|途中《とちう》、|王女《わうぢよ》|初花姫《はつはなひめ》|様《さま》にお|目《め》にかかり、|導《みちび》かれて|此処《ここ》まで|参上《さんじやう》|致《いた》しました。|何卒《どうぞ》|至《いた》らぬ|吾々《われわれ》、|万事《ばんじ》|御指導《ごしだう》を|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》ります』
『|拙者《せつしや》は|片彦《かたひこ》で|厶《ござ》います。ランチ|殿《どの》と|同様《どうやう》の|径路《けいろ》を|辿《たど》つて、|今《いま》は|治国別《はるくにわけ》|様《さま》のお|弟子《でし》となり、|此《この》|門前《もんぜん》に|於《おい》て|王女様《わうぢよさま》に|導《みちび》かれ、|只今《ただいま》これへ|参《まゐ》つた|所《ところ》で|厶《ござ》います。|何分《なにぶん》|宜敷《よろし》く|御指導《ごしだう》を|願《ねが》ひます』
これより|初稚姫《はつわかひめ》は、|秋子《あきこ》、|豊子《とよこ》に|命《めい》じ|盛《さかん》に|両人《りやうにん》に|酒《さけ》を|勧《すす》めさせた。|両人《りやうにん》は|恍惚《くわうこつ》として|酒《さけ》と|二人《ふたり》の|美貌《びばう》に|酔《よ》ひ、|吾《わが》|身《み》の|天《てん》にあるか、|地《ち》にあるか、|海中《かいちう》にあるか、|野《の》か|山《やま》か、|殿中《でんちう》か、|殆《ほとん》ど|見当《けんたう》のつかぬ|所《ところ》まで|酔《よ》ひつぶれて|了《しま》つた。さうして|三五教《あななひけう》の|教理《けうり》も、|治国別《はるくにわけ》の|教訓《けうくん》も、|残《のこ》らず|念頭《ねんとう》より|遺失《ゐしつ》し、|今《いま》は|只《ただ》ランチには|豊子《とよこ》の|顔《かほ》、|片彦《かたひこ》には|秋子《あきこ》の|顔《かほ》が、|浮《う》いたやうに|目《め》にボツと|映《うつ》るのみである。ランチ、|片彦《かたひこ》|両人《りやうにん》は|二人《ふたり》の|女《をんな》に|手《て》を|引《ひ》かれ、ヒヨロリヒヨロリと|廊下《らうか》を|渡《わた》つて、|麗《うるは》しき|一間《ひとま》に|導《みちび》かれ、|二男《になん》|二女《にぢよ》は|枕《まくら》を|並《なら》べて|寝《しん》についた。
|暫《しばら》くあつて|二人《ふたり》は|気《き》がつき|四辺《あたり》を|見《み》れば、|石《いし》と|石《いし》とに|畳《たた》まれた|一室内《いつしつない》の|石畳《いしだたみ》の|上《うへ》に|横《よこ》たはつて|居《ゐ》た。さうして|何処《どこ》にも|出口《でぐち》がない。|一枚板《いちまいいた》を|立《た》てたやうな|滑《なめ》らかな|大理石《だいりせき》で|四方《よも》が|包《つつ》んである。|二人《ふたり》は|俄《にはか》に|顔色《がんしよく》を|変《か》へ、
ランチ『ヤア、こりや|大変《たいへん》だ。|片彦《かたひこ》さま、どうだらう、|美人《びじん》に|手《て》を|曳《ひ》かれ|眠《ねむ》つたと|思《おも》へば、|斯様《かやう》な|石牢《いしらう》の|中《なか》へ|放《ほ》り|込《こ》まれたぢやないか』
|片彦《かたひこ》『|成程《なるほど》、こいつは|困《こま》つた。どうしたらよからうかなア』
『どうしようと|云《い》つても|手《て》のかかる|所《ところ》もなければ、|押《お》しても|突《つ》いても|出口《でぐち》も|入口《いりぐち》もないのだから、|仕方《しかた》がないぢやないか。|斯《か》ふ|云《い》ふ|時《とき》にこそ、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》するのだな』
『|如何《いか》にも|左様《さやう》』
と|二人《ふたり》は|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》せむと|焦《あせ》れども、どう|云《い》ふものか、|一口《ひとくち》も|出《で》て|来《こ》ない。|外《ほか》の|言葉《ことば》なら|何《なん》でも|出《で》るが、|天津祝詞《あまつのりと》に|限《かぎ》つて|一言《ひとこと》も|出《で》ないのは、|不思議中《ふしぎちう》の|不思議《ふしぎ》であつた。
ランチ『ヤア|駄目《だめ》だ、|片彦《かたひこ》、|御身《おんみ》も|駄目《だめ》と|見《み》えるのう』
|片彦《かたひこ》『|誠《まこと》に|残念《ざんねん》|至極《しごく》で|厶《ござ》る。|一《ひと》つ|力《ちから》|限《かぎ》り|呶鳴《どな》つて|見《み》ようでは|厶《ござ》らぬか。さうすれば|誰《たれ》かが|声《こゑ》を|聞《き》きつけて|救《すく》ひ|出《だ》して|呉《く》れるだらう』
『|宜敷《よろし》からう』
と|二人《ふたり》はアオウエイを|連発的《れんぱつてき》に|幾度《いくど》も|重《かさ》ねて|唸《うな》り|出《だ》した。|併《しか》し|石畳《いしだたみ》に|少《すこ》しの|隙《すき》もなく|囲《かこ》まれた|十坪《とつぼ》|許《ばか》りの|此《この》|室《しつ》は、|声《こゑ》の|外《そと》に|漏《も》れる|筈《はず》もなく、|声《こゑ》は|残《のこ》らず|反響《はんきやう》して、|遂《つひ》には|両人《りやうにん》とも|喉《のど》を|破《やぶ》り、カスリ|声《ごゑ》しか|出《で》なくなつて|仕舞《しま》つた。
ランチ『ああ|駄目《だめ》だ、もう|此処《ここ》でミイラになるより|仕方《しかた》がないワイ』
|片彦《かたひこ》『これも|吾々《われわれ》の|罪劫《ざいごふ》が|報《むく》うて|来《き》たのだと|諦《あきら》めて、|男同士《をとこどうし》の|心中《しんちゆう》でもしようぢやないか』
『どうも|仕方《しかた》がない』
とこれもひつついたやうな|声《こゑ》で|呟《つぶや》いて|居《ゐ》る。|忽《たちま》ち|足許《あしもと》から、カツカツカツと|鋭利《えいり》な|鑿《のみ》で|岩《いは》を|打《う》ち|砕《くだ》くやうな|音《おと》がしたかと|思《おも》へば、|筍《たけのこ》のやうに|鋭利《えいり》な|槍《やり》が|石畳《いしだたみ》を|通《とほ》してヌツと|現《あら》はれた。
『ヤアこれは|険難《けんのん》だ』
と|後《うしろ》へすざると、|又《また》もやカツと|音《おと》がして|槍《やり》の|穂先《ほさき》が|湧《わ》いて|出《で》る。|瞬《またた》く|中《うち》に|三本《さんぼん》|四本《しほん》|五本《ごほん》|十本《じつぽん》と|石畳《いしだたみ》を|通《とほ》して|隙間《すきま》もなく|鋭利《えいり》な|槍《やり》が|立《た》ち|並《なら》んで|来《き》た。|横壁《よこかべ》になつて|居《ゐ》る|石畳《いしだたみ》からも|槍《やり》の|穂先《ほさき》が|三尺《さんじやく》|許《ばか》り、カツカツと|云《い》ひながら|四方《しはう》から|頭《あたま》を|出《だ》した。|最早《もはや》|両人《りやうにん》は|真直《まつすぐ》に|立《た》つて|居《ゐ》るより、|横《よこ》になることも|何《ど》うする|事《こと》も|出来《でき》ないやうに|槍《やり》に|包《つつ》まれて|了《しま》つた。|槍《やり》の|穂先《ほさき》は|忽《たちま》ち|蛇《へび》と|変《へん》じ、ペロペロと|両人《りやうにん》の|身体《からだ》を|舐《な》めむと|一斉《いつせい》に|首《くび》を|擡《もた》げて|舌端《ぜつたん》|火《ひ》を|吐《は》く|奴《やつ》、|中《なか》には|水《みづ》を|吐《は》く|奴《やつ》、|黒煙《こくえん》を|吐《は》く|奴《やつ》、|次第々々《しだいしだい》に|延長《えんちやう》して|両人《りやうにん》の|身体《からだ》を|雁字搦《がんじがら》みにして|了《しま》つた。|二人《ふたり》は|声《こゑ》も|得上《えあ》げず、|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあは》せた。|俄《にはか》に|顔《かほ》はやつれ、|恨《うらみ》の|顔色《がんしよく》|物凄《ものすご》く、|忽《たちま》ち|地獄《ぢごく》の|餓鬼《がき》のやうな|面相《めんさう》になつて|了《しま》つた。
|此《この》|時《とき》、|何処《いづく》ともなく|太鼓《たいこ》のやうな|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《き》た。|二人《ふたり》は|耳《みみ》を|澄《す》ましてよく|聞《き》けば、
『アアア|悪魔《あくま》|外道《げだう》の|教《をしへ》をもつて|世《よ》を|誑《たぶ》らかす|三五教《あななひけう》に|迷信《めいしん》|致《いた》し、
イイイ|印度《いんど》の|都《みやこ》ハルナに|坐《ま》します|大黒主《おほくろぬし》の|命令《めいれい》に|背《そむ》き|軍務《ぐんむ》を|捨《す》てて、
ウウウ|迂濶千万《うくわつせんばん》にも|三五教《あななひけう》に|寝返《ねがへ》りを|打《う》ち|迷信《めいしん》|致《いた》した|罪《つみ》によつて、
エエエ|閻魔《えんま》の|庁《ちやう》より|許《ゆる》しを|受《う》け、|汝《なんぢ》|両人《りやうにん》を|剣《つるぎ》の|山《やま》、|蛇《へび》の|室《むろ》、|焔《ほのほ》の|牢獄《らうごく》につつ|込《こ》み、
オオオ|臆病者《おくびやうもの》の|汝等《なんぢら》の|霊肉《れいにく》を|亡《ほろ》ぼし、|地獄《ぢごく》のどん|底《ぞこ》へ|落《おと》して|呉《く》れむ。
カカカ|改悪《かいあく》|致《いた》して|片時《かたとき》も|早《はや》く|神《かみ》にお|詫《わび》を|致《いた》せばよし、|何時迄《いつまで》も|頑張《ぐわんば》りて|居《を》るならば、
キキキ|錐《きり》の|地獄《ぢごく》へつき|落《おと》し、|鋸《のこぎり》の|刃《は》をもつて|汝《なんぢ》が|首《くび》を|引《ひ》き|破《やぶ》り、
ククク|苦《くる》しみの|極度《きよくど》に|達《たつ》せしめ、|糞《くそ》を|食料《しよくれう》に|与《あた》へてやるがどうだ。
ケケケ|怪《け》しからぬ|其《その》|方《はう》。
コココ|是《これ》より|此処《ここ》で|改心《かいしん》|致《いた》すと|申《まを》せば、この|苦痛《くつう》を|許《ゆる》してやらうが、|何処《どこ》までも|三五教《あななひけう》を|奉《ほう》ずるとあらば、|最早《もはや》|許《ゆる》さぬ|百年目《ひやくねんめ》、|返答《へんたふ》はどうだ』
と|雷《らい》の|如《ごと》き|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》る。
ランチ『|拙者《せつしや》は|苟《いやし》くも|三軍《さんぐん》を|指揮《しき》したる|武士《ぶし》で|厶《ござ》る。|一《いつ》たん|三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》したる|上《うへ》は、|決《けつ》して|所信《しよしん》はまげぬ|此《この》|方《はう》、サア|早《はや》く|某《それがし》を|如何《いか》やうとも|致《いた》したがよからう。|仮令《たとへ》|肉体《にくたい》は|亡《ほろ》ぼさるとも、|如何《いか》なる|責苦《せめく》に|遇《あ》ふとも、|拙者《せつしや》の|霊《みたま》は|肉《にく》を|離《はな》れ、|大神《おほかみ》の|天国《てんごく》に|上《のぼ》り、|神軍《しんぐん》を|引率《いんそつ》して|汝等《なんぢら》の|魔軍《まぐん》を|木端微塵《こつぱみじん》に|粉砕《ふんさい》して|呉《く》れむ。|如何《いか》|様《やう》なりとも|致《いた》したらよからう』
|何処《いづこ》ともなく|又《また》もや|大《おほ》きな|声《こゑ》、
『さてもさても|合点《がてん》の|悪《わる》い|代物《しろもの》だなア。
シシシ|強太《しぶと》う|致《いた》して|我《が》を|張《は》りよると、|汝《なんぢ》が|霊肉《れいにく》を|粉砕《ふんさい》し、|高天原《たかあまはら》へ|上《のぼ》る|所《どころ》か、|第三天国《だいさんてんごく》の|軍勢《ぐんぜい》をもつて、|汝《なんぢ》が|悪業《あくごふ》を|数《かぞ》へ|立《た》て、|槍《やり》の|穂先《ほさき》に|亡《ほろ》ぼし|呉《く》れむ。
ススス|素直《すなほ》に|改悪《かいあく》|致《いた》して、|此《この》|方《はう》の|云《い》ひ|分《ぶん》についたが|汝《なんぢ》の|身《み》の|為《ため》であらう。
セセセ|背中《せなか》に|腹《はら》はかへられまい。
ソソソ|傍《そば》に|立《た》ち|上《のぼ》るその|剣先《けんさき》、|今《いま》に|焔《ほのほ》を|吐《は》いて|汝《なんぢ》を|焼《や》き|尽《つく》すだらう。|片彦《かたひこ》も|同様《どうやう》だぞ。|一同《いちどう》|思案《しあん》を|定《さだ》めて|返答《へんたふ》を|致《いた》すがよからう』
|片彦《かたひこ》『タタタ|叩《たた》くな|叩《たた》くな、|悪魔《あくま》の|計略《けいりやく》に|乗《じやう》ぜられて、|仮令《たとへ》|此《この》|肉体《にくたい》は|亡《ほろ》ぶとも、
チチチ|些《ちつ》とも|怖《おそ》れは|致《いた》さぬ。
ツツツ|突《つ》くなと|斬《き》るなと|勝手《かつて》に|致《いた》せ。
テテテテンゴを|致《いた》すと、やがて|三五《あななひ》の|大神《おほかみ》|現《あら》はれたまひ、|汝《なんぢ》を|罰《ばつ》したまふべし。
トトトとほうに|暮《く》れて、|如何《いか》に|栃麺棒《とちめんぼう》を|振《ふ》るとも、|決《けつ》して|其《その》|方《はう》は|許《ゆる》されまいぞ』
|頭《あたま》の|上《うへ》から|又《また》|怪《あや》しの|声《こゑ》、
『ナナナ|何《なに》をゴテゴテと|世迷言《よまひごと》を|吐《ぬか》すか。
ニニニ|二人《ににん》とも|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|叛旗《はんき》を|翻《ひるがへ》し、
ヌヌヌヌツケリコと|士節《しせつ》を|破《やぶ》り|三五教《あななひけう》の|道《みち》に、
ネネネ|寝返《ねがへ》り|打《う》つた|横着物《わうちやくもの》、
ノノノ|望《のぞ》みとあらば、|此《この》|槍《やり》の|穂先《ほさき》を|廻転《くわいてん》させ、|喉《のど》と|云《い》はず、|頭《あたま》と|云《い》はず、|腹《はら》と|云《い》はず、|突《つ》いて|突《つ》いて|突《つ》き|捲《まく》つてやらうか』
ランチ『ハハハ|腹《はら》なりと|喉《のど》なりと、
ヒヒヒ|肱《ひぢ》なりと|背《せな》なりと|勝手《かつて》に、
フフフ|不足《ふそく》のないやうに、サア|突《つ》けい、ガツプリ|突《つ》けい。
ヘヘヘ|下手《へた》な|事《こと》を|致《いた》して|地獄《ぢごく》の|苦《くる》しみを|受《う》けな。
ホホホ|呆《はう》け|野郎《やらう》|奴《め》、このランチは、|汝《なんぢ》|如《ごと》き|悪神《あくがみ》に|屁古垂《へこた》れるやうな|弱虫《よわむし》ではない|程《ほど》に、|鯉《こひ》は|爼《まないた》の|上《うへ》に|載《の》せらるれば|決《けつ》して|跳《は》ねも|動《うご》きも|致《いた》さぬ。|武士《ぶし》の|花《はな》と|謡《うた》はれたるこのランチ、|片彦《かたひこ》|両人《りやうにん》は|一寸《ちよつと》も|動《うご》かばこそ、|大磐石心《だいばんじやくしん》だ、|勝手《かつて》に|致《いた》したがよからう』
と、かすれた、ひつついた|声《こゑ》を|出《だ》して|抵抗《ていかう》して|居《ゐ》た。
|不思議《ふしぎ》の|事《こと》には|槍《やり》は|林《はやし》の|如《ごと》く|突立《つつた》ち、|火《ひ》は|炎々《えんえん》として|燃《も》えて|来《く》る。|蛇《へび》、|蜈蚣《むかで》は|体《からだ》|一面《いちめん》に|集《たか》つて|来《く》るが、|併《しか》し|痛《いた》くも|痒《かゆ》くもない。|両人《りやうにん》はこれぞ|全《まつた》く|神様《かみさま》の|御守護《ごしゆご》と|大神《おほかみ》を|念《ねん》じ、|且《かつ》|一時《いちじ》も|早《はや》く|天国《てんごく》に|上《のぼ》らむ|事《こと》をのみ|念《ねん》じつつあつた。
ああ|此《この》|両人《りやうにん》は|如何《いか》にして|救《すく》はるるであらうか。
(大正一二・一・二六 旧一一・一二・一〇 加藤明子録)
第一四章 |自惚鏡《うぬぼれかがみ》〔一三二九〕
|妖幻坊《えうげんばう》の|高宮彦《たかみやひこ》は|侍女《じぢよ》の|五月《さつき》を|高宮姫《たかみやひめ》の|居間《ゐま》に|遣《つか》はし、|一度《いちど》|吾《わが》|室《しつ》へ|来《きた》れと|命令《めいれい》した。|此《この》|五月《さつき》といふ|美人《びじん》は|実《じつ》は|竹藪《たけやぶ》の|中《なか》に|棲《す》んでゐる|豆狸《まめだぬき》さまである。
『|御免《ごめん》なさいませ。|高宮姫《たかみやひめ》|様《さま》、|御城主様《ごじやうしゆさま》が|御招《おまね》きで|厶《ござ》いますよ』
|高姫《たかひめ》は|脇息《けふそく》にもたれて、うつら うつら|居眠《ゐねむ》つてゐたが、パツと|目《め》を|開《ひら》き、
『ああ|其方《そなた》は|五月《さつき》であつたか、|吾《わが》|君様《きみさま》が、|妾《わらは》に|御用《ごよう》があると|仰有《おつしや》るのかい』
『ハイ、|直様《すぐさま》お|出《い》でを|願《ねが》ひたいとの|事《こと》で|厶《ござ》います』
『すぐに|参《まゐ》りますから、|一寸《ちよつと》|御待《おま》ち|下《くだ》さいませと、|云《い》つておいておくれ』
|五月《さつき》は、
『ハイ』
と|答《こた》へて、ここを|足早《あしばや》に|立去《たちさ》つた。|高姫《たかひめ》は|鏡台《きやうだい》の|前《まへ》にキチンと|坐《すわ》り、|髪《かみ》のほつれをかき|上《あ》げ、|衣紋《えもん》を|整《ととの》へ、|口《くち》をあけたり、すぼめたり、|種々《いろいろ》と|美顔術《びがんじゆつ》の|限《かぎ》りを|尽《つく》し、
『ホホホホ、|何《なん》とマア、|人魚《にんぎよ》でも|食《く》つたのかいな。|五十《ごじふ》の|尻《しり》を|作《つく》つてをる|此《この》|高姫《たかひめ》も、|自分《じぶん》ながらに|吃驚《びつくり》を|致《いた》す|程《ほど》|若《わか》くなつたものだなア。まるきり、|十七《じふしち》か|六《ろく》|位《ぐらゐ》な、うひうひしい|姿《すがた》だ。|初稚姫《はつわかひめ》が|何程《なにほど》|綺麗《きれい》だと|云《い》つても、|此《この》|高宮姫《たかみやひめ》には、ヘン、|叶《かな》ひますまい、ホホホホホ。|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》といふものは、|本当《ほんたう》に|偉《えら》いものだワイ。|杢助《もくすけ》さまも|今《いま》は|高宮彦《たかみやひこ》と、|真面目《まじめ》な|顔《かほ》して|名乗《なの》つて|厶《ござ》るが、ヤーパリ、|偉《えら》いものだ。ようマア、|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|宝物《ほうもつ》を|甘《うま》くチヨロまかされたものだなア。|之《これ》だから|人《ひと》に|気《き》は|許《ゆる》されぬといふのだなア。|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|盲神《めくらがみ》や、|言依別《ことよりわけ》のドハイカラ、|八島主《やしまぬし》の|青瓢箪《あをびやうたん》、それに|東野別《あづまのわけ》のウスノロ、ガラクタばかりが|居《を》りやがつて、|奇略縦横《きりやくじうわう》の|杢助様《もくすけさま》を、|真正直《ましやうぢき》な|人間《にんげん》だと|思《おも》ひつめ、ヘヘヘヘヘ、|蛸《たこ》の|揚壺《あげつぼ》を|喰《くら》つて、|今《いま》では|斎苑《いそ》の|館《やかた》は|梟鳥《ふくろどり》の|夜食《やしよく》に|外《はづ》れたやうな、|小難《こむつか》しい|顔《かほ》をして|居《を》るだらう。あああ、|心地《ここち》よや、|気味《きみ》がよや、ドレドレ|此《この》|綺麗《きれい》な|姿《すがた》を|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》にお|目《め》にかけ、|一《ひと》つ|喜《よろこ》ばして|上《あ》げませうかな。|見《み》れば|見《み》る|程《ほど》|御綺麗《おきれい》な、|何《なん》とした|良《い》い|女《をんな》だらう。|何程《なにほど》|杢助《もくすけ》さまに|気《き》が|多《おほ》いと|云《い》つても、どこに|一《ひと》つ|点《てん》のうち|所《どころ》もない、|髪《かみ》の|毛《け》の|先《さき》まで、|愛嬌《あいけう》がたつぷり|溢《あふ》れてゐる|此《この》|高《たか》ちやまを、どうして|捨《す》てられるものか。|何程《なにほど》|世界《せかい》に|美人《びじん》があると|云《い》つても、|之《これ》は|又《また》|格別《かくべつ》だなア。|本当《ほんたう》に|此《この》|鏡《かがみ》の|側《そば》を|離《はな》れたくないやうだ。|杢助《もくすけ》さまも|此《この》|鏡《かがみ》を|見《み》たら、さぞ|嬉《うれ》しからう、|併《しか》し|自分《じぶん》が|自分《じぶん》に|惚《ほ》れる|位《くらゐ》な|美人《びじん》だからなア。|私《わたし》だつて、|私《わたし》の|姿《すがた》にゾツコン|惚込《ほれこ》んで|了《しま》つた。|併《しか》し|自分《じぶん》の|姿《すがた》を|見《み》る|訳《わけ》にゆかず、|此《この》|鏡《かがみ》の|前《まへ》に|立《た》つた|時《とき》ばかりだ。ああ|離《はな》れともない、|鏡《かがみ》の|君《きみ》、お|名残《なごり》|惜《を》しいけれど、|暫《しばら》く|杢助《もくすけ》さまの|御機嫌《ごきげん》を|伺《うかが》つて|来《く》る|程《ほど》に、|鏡《かがみ》さま、|又《また》|帰《かへ》つて|来《き》て|此《この》|綺麗《きれい》な|姿《すがた》を|写《うつ》して|上《あ》げるから、|楽《たの》しんで|待《ま》つてゐなさいや』
|高子《たかこ》『ウフフフフ』
|宮子《みやこ》『ホホホホ』
『エーエ、お|前《まへ》は|此処《ここ》に|居《を》つたのかいな。|居《を》るなら|居《を》るとなぜ|言《い》はぬのだい、|皆《みな》|私《わたし》の|独言《ひとりごと》を|聞《き》いたのだらう』
|高子《たかこ》『ホホホホ』
|宮子《みやこ》『フツフフフ』
『エーエ、|余《あま》り|自分《じぶん》の|姿《すがた》に|見《み》とれて、|二人《ふたり》の|侍女《こしもと》が|横《よこ》に|居《を》るのも|気《き》が|付《つ》かなかつた。ホンにさう|思《おも》へば、|向《むか》ふの|方《はう》に|人間《にんげん》の|姿《すがた》がうつつてるやうだつたが、|気《き》がつかなかつた。コレ|二人《ふたり》の|娘《むすめ》|兼《けん》|侍女《こしもと》、こんな|事《こと》、|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》を|始《はじ》め、|誰《たれ》にも|言《い》つちやなりませぬよ。サアサア|参《まゐ》りませう』
『アイ』
と|答《こた》へて|二人《ふたり》は|高姫《たかひめ》の|前後《ぜんご》につき|添《そ》ひ、|妖幻坊《えうげんばう》の|居間《ゐま》へ|進《すす》んで|行《ゆ》く。ソツとドアを|開《ひら》いて|中《なか》を|伺《うかが》ひ|見《み》れば、|目《め》もくらむ|許《ばか》り、|金色燦爛《きんしよくさんらん》と|輝《かがや》いてゐる。そして|四方《しはう》の|壁《かべ》は|残《のこ》らず|鏡《かがみ》のやうに|光《ひか》り、|高姫《たかひめ》の|妖艶《えうえん》な|姿《すがた》は、|鏡面《きやうめん》を|互《たがひ》に|反射《はんしや》して、|幾十人《いくじふにん》とも|知《し》れぬ|程《ほど》|映《うつ》つてゐる。|高姫《たかひめ》は|自分《じぶん》のやうな|美人《びじん》は|恐《おそ》らく|天地《てんち》の|間《あひだ》に、|自分《じぶん》|一人《ひとり》よりないと|誇《ほこ》り|顔《がほ》に|思《おも》つて、|盛装《せいさう》を|凝《こ》らし、|顔《かほ》の|造作《ざうさ》まで|修繕《しうぜん》してやつて|来《き》たのに、|自分《じぶん》と|同様《どうやう》の|美人《びじん》が、|幾十人《いくじふにん》ともなく|妖幻坊《えうげんばう》を|中心《ちうしん》に|取巻《とりま》いてゐるので、|俄《にはか》にクワツと|悋気《りんき》の|角《つの》を|生《は》やし、
『これはこれは、|高宮彦《たかみやひこ》|様《さま》、お|楽《たの》しみの|所《ところ》を、お|多福《たふく》がお|邪魔《じやま》を|致《いた》しまして、さぞ|御迷惑《ごめいわく》で|厶《ござ》いませう。これだけ|沢山《たくさん》に|美人《びじん》をお|抱《かか》へになつてゐる|以上《いじやう》は、|私《わたし》のやうなお|多福《たふく》には|到底《たうてい》|手《て》がまはりますまい。|成程《なるほど》|私《わたし》と|同棲《どうせい》しないと|仰有《おつしや》るのは|分《わか》りました。|私《わたし》はどうせ|数《かず》にも|入《い》らぬ|馬鹿者《ばかもの》、これだけ|沢山《たくさん》の|美人《びじん》を|側《そば》に|侍《はべ》らし、|私《わたし》だけは|只《ただ》|一人《ひとり》、こんな|少女《あまつちよ》を|側《そば》において|監視《かんし》させ、|自分《じぶん》は|栄耀栄華《えいえうえいぐわ》に、|蝶《てふ》の|如《ごと》き|花《はな》の|如《ごと》き|美人《びじん》に|戯《たはむ》れ、ホンにマア|偉《えら》いお|腕前《うでまへ》、|恐《おそ》れ|入《い》りまして|厶《ござ》います』
『ハハハハ、コレ|高宮姫《たかみやひめ》、そりや|何《なに》を|云《い》ふのだ、|誰《たれ》もゐないぢやないか。|此《この》|高宮彦《たかみやひこ》は|只《ただ》|一人《ひとり》、|孤塁《こるい》を|守《まも》つてゐるのだ。|大方《おほかた》お|前《まへ》の|姿《すがた》が|玻璃壁《はりへき》に|映《うつ》つて、それが|互《たがひ》に|反射《はんしや》してゐるのだ。それ|故《ゆゑ》|沢山《たくさん》の|美人《びじん》がゐるやうに|見《み》えるのだが、|皆《みな》お|前《まへ》の|姿《すがた》だよ』
『エー、うまいこと|仰有《おつしや》いませ。|鏡《かがみ》に|一《ひと》つの|姿《すがた》がうつる|事《こと》は、それは|厶《ござ》いませう、これ|程《ほど》|四方《しはう》|八方《はつぱう》に|映《うつ》る|道理《だうり》はありませぬ。あれを|御覧《ごらん》なさい、|右《みぎ》を|向《む》いたり、|左《ひだり》を|向《む》いたり、|前《まへ》へ|向《む》いたり、|背《せ》を|向《む》けたりしてるのぢやありませぬか。|私《わたし》は|妬《や》くのぢや|厶《ござ》りませぬが、なぜ|貴方《あなた》は|水臭《みづくさ》い、|女《をんな》があるなら、これだけあると|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませぬのか。|私《わたし》に|悋気《りんき》させ、|怒《おこ》らせて|楽《たの》しまうとの|企《たく》みで|厶《ござ》いませう。そしてこれだけの|女《をんな》に|高宮姫《たかみやひめ》の|狂乱振《きやうらんぶり》を|見《み》せて、|笑《わら》はしてやらうとの|御考《おかんが》へ、ヘン、|誰《たれ》が|其《その》|手《て》に|乗《の》るものですか。|決《けつ》して|怒《おこ》りませぬよ。|併《しか》しながら|皆《みな》さま、お|気《き》の|毒《どく》ながら、|此《この》|高宮彦《たかみやひこ》は|私《わたし》の|夫《をつと》、ここで|意茶《いちや》ついて|御覧《ごらん》に|入《い》れるから、|指《ゆび》をくはへて|御覧《ごらん》なさい。ヘン、すみまへんな。コレコレもうしこちの|人《ひと》、|否々《いないな》|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》|様《さま》、どうで|厶《ござ》います、|御機嫌《ごきげん》は……』
『イヤ、|高宮姫《たかみやひめ》、よくマア|来《き》て|下《くだ》さつた、これだけ|沢山《たくさん》|女《をんな》は|居《を》れども、|気《き》に|入《い》つたものは|一人《ひとり》もない、|何《なん》と|云《い》つてもお|前《まへ》の|肌《はだ》は|細《こま》かい、そして|柔《やはら》かい。|背《せな》の|先《さき》まで|尻《しり》の|穴《あな》まで、|何《なん》とも|云《い》へぬ|香《かん》ばしい|匂《にほ》ひがする、|又《また》【ワイガ】は|特別《とくべつ》|香《かう》ばしい』
と|云《い》ひながら、|高姫《たかひめ》の|頬《ほほ》に|吸《す》ひ|付《つ》いてみせた。|高姫《たかひめ》はグニヤグニヤになり、|目《め》を|細《ほそ》うして|鏡《かがみ》の|映像《えいざう》に|向《むか》ひ、
『オイ、そこな|立《たち》ん|坊《ばう》、ヘン、すみまへんな。|高宮姫《たかみやひめ》さまは|高宮彦《たかみやひこ》の|愛《あい》を|独占《どくせん》して|居《を》りますよ。ここで|夫婦《ふうふ》の|親愛振《しんあいぶり》を|見《み》せて|上《あ》げませう』
と|云《い》ひながら、|四方《しはう》|八方《はつぱう》を|見《み》まはし、|舌《した》をペロツと|出《だ》して|見《み》せた。どの|姿《すがた》も|此《この》|姿《すがた》も|同様《どうやう》に|舌《した》をペロリと|出《だ》す。
『エー|馬鹿《ばか》ツ』
と|腮《あご》を|前《まへ》へ|突《つ》き|出《だ》して|呶鳴《どな》ると、|又《また》|一時《いちじ》に|腮《あご》を|突《つ》き|出《だ》し、|口《くち》をあける。|高姫《たかひめ》は、
『コラ、|失敬《しつけい》な、|真似《まね》をしやがるか、|此《この》|高宮姫《たかみやひめ》は|正妻《せいさい》だ、ガラクタ|奴《め》』
と|云《い》ひながら、|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》めて|突貫《とつくわん》し、|壁《かべ》に|鼻《はな》を|打《う》つてウンと|一声《ひとこゑ》|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れた。|妖幻坊《えうげんばう》は|此奴《こいつ》ア|大変《たいへん》と|打驚《うちおどろ》き、|豆狸《まめだぬき》に|渭《ゐぢ》の|水《みづ》を|汲《く》ませにやり、|高姫《たかひめ》の|頭部《とうぶ》|面部《めんぶ》の|嫌《きら》ひなく|吹《ふ》きかけた。|漸《やうや》くにして|高姫《たかひめ》は|正気《しやうき》に|返《かへ》つた。|四辺《あたり》を|見《み》れば|使《つか》ひに|行《い》つた|豆狸《まめだぬき》が、まだ|高姫《たかひめ》は|中々《なかなか》|気《き》がつかうまいと|安心《あんしん》してゐたものだから、|変相《へんさう》もせず、|其《その》|儘《まま》にチヨコンと|坐《すわ》つてゐた。|流石《さすが》の|妖幻坊《えうげんばう》は|高姫《たかひめ》が|失神《しつしん》した|間《ま》も、|何時《なんどき》|気《き》が|付《つ》くか|知《し》れぬと|思《おも》ひ、|其《その》|体《からだ》を|崩《くづ》さなかつた。|高姫《たかひめ》は、
『|此《この》|豆狸《まめだぬき》』
と|云《い》ひながら、ポンと|頭《あたま》を|叩《たた》いた。|当《あた》り|所《どころ》が|悪《わる》うて、|一匹《いつぴき》の|狸《たぬき》は|其《その》|場《ば》に|悶絶《もんぜつ》した。|他《た》の|一匹《いつぴき》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|窓《まど》の|穴《あな》から|飛出《とびだ》して|了《しま》つた。
『ああ、あの|憎《にく》い|女《をんな》に|鼻《はな》をこつかれて、ふん|伸《の》びました。|高宮彦《たかみやひこ》|様《さま》、|何卒《どうぞ》お|願《ねが》ひだから、|彼奴《あいつ》を|皆《みな》|帰《い》なして|下《くだ》さいな。|私《わたし》は|何《なん》だか|気分《きぶん》が|悪《わる》くてたまりませぬワ』
『あれは|其《その》|方《はう》の|姿《すがた》が|鏡《かがみ》に|映《うつ》つてゐるのだが、それ|程《ほど》|分《わか》らねば、|此《この》|光《ひか》つた|壁《かべ》に|泥《どろ》を|塗《ぬ》つて|上《あ》げよう、さうすれば|映《うつ》らなくなつて|疑《うたがひ》が|晴《は》れるだらう』
と|云《い》ひながら、|裏《うら》の|背戸口《せとぐち》に|使《つか》ひ|余《あま》りの|壁土《かべつち》があるのを、|妖幻坊《えうげんばう》は|大《おほ》きな|盥《たらひ》に|一杯《いつぱい》|盛《も》り、|片手《かたて》にささげ、|片手《かたて》に|泥《どろ》を|握《にぎ》つて、|一面《いちめん》に|室内《しつない》を|塗《ぬ》つて|了《しま》つた。そして|盥《たらひ》を|外《そと》へ|出《だ》し、|手《て》を|洗《あら》つて|再《ふたた》び|入《い》り|来《きた》り、
『|高姫《たかひめ》、これで|疑《うたがひ》が|晴《は》れただらうな』
『なる|程《ほど》、|貴方《あなた》はヤツパリ|私《わたし》が|可愛《かあい》いのですな、あれだけ|沢山《たくさん》の|女《をんな》を、|繩虫《はへむし》かなんぞのやうに、|皆《みな》|泥《どろ》で|魔法《まはふ》を|使《つか》つて|平《たひら》げて|了《しま》つた|其《その》|手並《てなみ》は、|実《じつ》に|天晴《あつぱれ》なものですよ』
『|天地《てんち》の|間《あひだ》の|幸福《かうふく》を|一身《いつしん》に|集《あつ》めたのは|其女《そなた》と|某《それがし》だ。|併《しか》し|高姫《たかひめ》、|御苦労《ごくらう》で|厶《ござ》つたなア。ランチ、|片彦《かたひこ》|両人《りやうにん》は、|甘《うま》く|其方《そなた》の|計略《けいりやく》にかかり、|今《いま》は|殆《ほとん》ど|嚢中《なうちう》の|鼠《ねづみ》、|活殺《くわつさつ》の|権利《けんり》は|此《この》|高宮彦《たかみやひこ》の|掌中《しやうちう》にあるも|同然《どうぜん》だ。ホホー|頼《たの》もしい|頼《たの》もしい。かふいふ|仕事《しごと》は|其女《そなた》に|限《かぎ》るよ。|此《この》|高宮彦《たかみやひこ》も|其女《そなた》より|外《ほか》に|何程《なにほど》|美人《びじん》があつても|心《こころ》を|迷《まよ》はさないから、|安心《あんしん》して|高子《たかこ》、|宮子《みやこ》を|伴《ともな》ひ、|何卒《どうぞ》|日《ひ》に|一遍《いつぺん》は、|椿《つばき》の|下《もと》まで|人曳《ひとひ》きに|行《い》つてくれ。これがお|前《まへ》の|勤《つと》めだ。お|前《まへ》も|春野《はるの》の|花《はな》を|摘《つ》みながら、|郊外《かうぐわい》|散歩《さんぽ》は|余《あま》り|悪《わる》くはあるまいから……』
『ハイ、さう|致《いた》しませう。|本当《ほんたう》に|昨日《きのふ》のやうに|甘《うま》く|行《ゆ》きますと、|心持《こころもち》がよう|厶《ござ》います。そうしてあの|両人《りやうにん》は|如何《いかが》なさいました。|其《その》|後《ご》|根《ね》つから|私《わたし》に|顔《かほ》を|見《み》せませぬがな』
『|彼奴《あいつ》は|何程《なにほど》|云《い》ひ|聞《き》かしても、|到底《たうてい》ウラナイの|道《みち》に|帰順《きじゆん》する|見込《みこみ》がないによつて、|生《い》かしておけば|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》となり、|吾々《われわれ》|兇党界《きようたうかい》……|否《いな》|善《ぜん》のお|道《みち》の|邪魔《じやま》を|致《いた》すによつて、|石牢《いしらう》の|中《なか》にブチ|込《こ》んでおいた。かうしておけば|自然《しぜん》に|寂滅為楽《じやくめつゐらく》、モウ|此方《こつち》のものだ。|別《べつ》に|骨《ほね》を|折《を》らなくとも、|刃物《はもの》|持《も》たずの|人殺《ひとごろし》、|丁度《ちやうど》お|前《まへ》と|同《おな》じやり|方《かた》だ、アハツハハハ』
『コレ、もし|吾《わが》|夫様《つまさま》、|私《わたし》が|人殺《ひとごろし》とは、ソラ|余《あま》りぢや|厶《ござ》いませぬか。|何時《いつ》|人《ひと》を|殺《ころ》しました』
『アハハハハ、|其方《そなた》の|美貌《びばう》で|一寸《ちよつと》|睨《にら》まれたが|最後《さいご》、|恋《こひ》の|病《やまひ》に|取《と》りつかれ、|寝《ね》ても|醒《さ》めても|煩悩《ぼんなう》の|犬《いぬ》に|追《お》はれて|忘《わす》れられず、|遂《つひ》には|気病《きびやう》を|起《おこ》して|不断《ふだん》の|床《とこ》につき、|身体《しんたい》|骨立《こつりふ》してこがれ|死《し》ぬやうになつて|了《しま》ふのだ。|此《この》|高宮彦《たかみやひこ》も|其方《そなた》の|事《こと》を|思《おも》へば、|骨《ほね》までザクザクとするやうだ。|此《この》|高宮彦《たかみやひこ》を|殺《ころ》すのには、チツとも|刃物《はもの》はいらぬ。お|前《まへ》が|一《ひと》つ|尻《しり》をふつたが|最後《さいご》、|忽《たちま》ち|寂滅為楽《じやくめつゐらく》の|道《みち》を|辿《たど》るのだ。アハハハハハ、てもさても|罪《つみ》な|男殺《をとこごろし》のナイスだなア。それさへあるに、|毒酸《どくさん》を|以《もつ》て|珍彦《うづひこ》|夫婦《ふうふ》を|殺《ころ》さうとなさるのだから、イヤハヤ|恐《おそ》ろしい、|安心《あんしん》して|夜《よる》も|昼《ひる》も|眠《ねむ》られない|代物《しろもの》だ、アハハハハハ』
『コレ、|杢《もく》ちやま、ソラ|何《なに》をいふのだい、お|前《まへ》さまが|発頭人《ほつとうにん》ぢやないか。|私《わたし》は|教《をし》へて|貰《もら》つてやつたのぢやないか。|口《くち》に|番所《ばんしよ》がないかと|思《おも》うて|余《あま》りな|事《こと》を|云《い》うて|下《くだ》さるな』
とソロソロ|生地《きぢ》を|現《あら》はし、|野卑《やひ》な|言葉《ことば》になりかけたが、フツと|気《き》がつき、|俄《にはか》に|言葉《ことば》を|改《あらた》めて、
『|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》|様《さま》、|揶揄《からか》ひなさるも、いい|加減《かげん》に|遊《あそ》ばせ。|妾《わらは》は|悲《かな》しう|厶《ござ》います、オンオンオンオン』
『アハハハハ、|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、|人間《にんげん》といふものはいろいろの|芸《げい》を|持《も》つてゐるものだなア』
『ヘン、|人間《にんげん》なんて、チツと|違《ちが》ひませう。ソリヤ|私《わたし》は|人間《にんげん》でせう。|併《しか》し|霊《みたま》は|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》ですよ、|何卒《どうぞ》|見損《みそこな》ひをして|下《くだ》さいますな』
『ハハハハ、イヤもう|恐《おそ》れ|入《い》りました。|義理天上様《ぎりてんじやうさま》、|今後《こんご》はキツと|慎《つつ》しみませう』
『コレ|高《たか》さま、|宮《みや》さま、|何《なに》をクツクツ|笑《わら》つてゐるのだい、それ|程《ほど》|可笑《をか》しいのか。|子供《こども》といふものは、|仕方《しかた》のないものだなア』
|高子《たかこ》『それでもお|母《かあ》さま、|可笑《をか》しいぢやありませぬか。チンチン|喧嘩《げんくわ》をなさるのだもの、ねえ|宮《みや》さま、|可笑《をか》しいてたまらないぢやないか』
|妖幻《えうげん》『ハハハハ、オイ、|高宮姫《たかみやひめ》さま、|子供《こども》が|笑《わら》つてゐるよ』
『|貴方《あなた》が、【しよう】もない|事《こと》|仰有《おつしや》るから、|二人《ふたり》が|笑《わら》ふのですよ』
|高子《たかこ》『それでもお|母《かあ》さま、|貴女《あなた》のお|居間《ゐま》で|可笑《をか》しかつたぢやありませぬか。あの|時《とき》はお|父《とう》さまはゐませぬでしたね。お|母《かあ》さま|一人《ひとり》で|私等《わたしら》|二人《ふたり》が|堪《た》へきれない|程《ほど》、|可笑《をか》しい|身振《みぶり》をなさいましたワ』
|妖幻《えうげん》『アハハハハ、|大方《おほかた》おやつしの|所《ところ》を|見《み》たのだらう』
|宮子《みやこ》『ハア、さうですよ。お|尻《いど》をふつたり|口《くち》を|歪《ゆが》めてみたり、|独言《ひとりごと》をいつたり、|自分《じぶん》の|姿《すがた》に|惚《ほ》れたり、そして|此《この》|姿《すがた》を|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》に|見《み》せたら、さぞお|喜《よろこ》びだろツて|言《い》つてゐらつしやいましたよ。ねえ|高《たか》さま、|違《ちが》ひありませぬだらう』
|高子《たかこ》『|本当《ほんたう》に|其《その》|通《とほ》りでしたね、お|母《かあ》さまも|余程《よつぽど》|面白《おもしろ》いお|方《かた》だよ』
|妖幻《えうげん》『アハハハハ』
|高姫《たかひめ》『あああ、|夫《をつと》や|吾《わが》|子《こ》に、ぞめかれ、ひやかされ、|別嬪《べつぴん》に|生《うま》れて|来《く》ると|辛《つら》いものだ。ホホホホホ、アハハハハハ、フフフフフ』
と|四人《よにん》は|一度《いちど》に|笑《わら》ふ。|高姫《たかひめ》に|頭《あたま》をくらはされて|死《し》んでゐた|豆狸《まめだぬき》は、|此《この》|笑《わら》ひ|声《ごゑ》にフツと|気《き》がつきムクムクと|起上《おきあが》り、|室内《しつない》を|二三遍《にさんぺん》|駆《か》けまはり、|窓《まど》の|口《くち》から、|手早《てばや》く|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|高姫《たかひめ》『|何《なん》とマア、これ|程《ほど》|立派《りつぱ》な|御殿《ごてん》に|狸《たぬき》が|棲《す》んでゐるとは|不思議《ふしぎ》ぢやありませぬか。|犬《いぬ》でもおいたら、|皆《みな》|逃《に》げて|行《ゆ》くでせうにねえ』
|妖幻《えうげん》『イヤ|俺《おれ》は|何時《いつ》も|申《まを》す|通《とほ》り、|申《さる》の|年《とし》の|生《うま》れだから、|犬《いぬ》は|大嫌《だいきら》ひだ。それだから|諺《ことわざ》にも、|仲《なか》の|悪《わる》い|間柄《あひだがら》を|犬《いぬ》と|猿《さる》みたやうだといふではないか』
『|申《さる》といふのは、|男《をとこ》の|方《はう》からヒマをくれる|事《こと》、|犬《いぬ》といふのは|女房《にようばう》の|方《はう》から|夫《をつと》にヒマを|呉《く》れて|帰《かへ》ることで|厶《ござ》いませう。モウ|之《これ》から、|犬《いぬ》だの|申《さる》だの、|縁起《えんぎ》の|悪《わる》い|事《こと》はいはぬやうに、|互《たがひ》に|慎《つつ》しみませうね』
『こつちは|慎《つつ》しんでゐるが、お|前《まへ》の|方《はう》から、|何時《いつ》も|約束《やくそく》を|破《やぶ》るのだから|困《こま》つたものだよ、アハハハハ』
『|左様《さやう》ならば、|又《また》|夜《よる》の|拵《こしら》へも|厶《ござ》いますから、|妾《わらは》は|居間《ゐま》に|引取《ひきと》りませう』
『コレ|高宮姫《たかみやひめ》|殿《どの》、|二人《ふたり》の|侍女《こしもと》を……|否《いな》|子供《こども》をお|前《まへ》が|独占《どくせん》しようとは|余《あま》りぢやないか。どうか|一人《ひとり》ここにおいてゐてくれまいかなア』
『|如何《いか》にも、|貴方《あなた》は|一人《ひとり》、|男《をとこ》が|一人《ひとり》|居《ゐ》ると、|何時《いつ》|魔《ま》がさすか|分《わか》つたものぢやありませぬ。コレ|高子《たかこ》ちやま、お|前《まへ》|御苦労《ごくらう》だが、お|父《とう》さまのお|側《そば》に|御用《ごよう》を|聞《き》いてゐて|下《くだ》さい。そして、もしも|外《ほか》の|女《をんな》がここへ|入《はい》つて|来《き》たら、いい|子《こ》だから、ソツと|私《わたし》に|知《し》らすのだよ』
|高子《たかこ》はワザと|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
『ハイお|父《とう》さまの|居間《ゐま》へ、どんな|女《をんな》にもせよ、|入《はい》つて|来《き》たものがあつたら、キツと|内証《ないしよう》で|知《し》らしてあげますワ』
『コレ|高子《たかこ》さま、そんな|内証《ないしよう》がありますか。エーエ|気《き》の|利《き》かぬ|子《こ》ぢやなア』
|妖幻《えうげん》『ハハハハ、|何処《どこ》までも|御注意深《ごちゆういぶか》いこと、イヤハヤ|恐《おそ》れ|入《い》りました。|高子《たかこ》は|要《えう》するに、|私《わたし》の|監視役《かんしやく》だなア。ヤアこはい こはい。コレ|高子《たかこ》さま、お|手柔《てやはら》かく|願《ねが》ひますよ。|何事《なにごと》があつても|決《けつ》して|高宮姫《たかみやひめ》に|内通《ないつう》しちや|可《い》けませぬぞ、アハハハハ』
|高姫《たかひめ》『エー、なんぼなと|仰有《おつしや》いませ、さようなれば』
と|宮子《みやこ》の|手《て》をひき、|吾《わが》|居間《ゐま》に|肩《かた》をゆすり、|袖《そで》の|羽《は》ばたき|勇《いさ》ましく、|長《なが》い|襠衣《うちかけ》を|引《ひ》きずつて、シヨナリシヨナリと|太夫《たいふ》の|道中《だうちう》|宜《よろ》しく|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・一・二六 旧一一・一二・一〇 松村真澄録)
第一五章 |餅《もち》の|皮《かは》〔一三三〇〕
|高姫《たかひめ》は|宮子《みやこ》と|共《とも》に|吾《わが》|居間《ゐま》へ|帰《かへ》り、|直《すぐ》に|襠衣《うちかけ》をぬぐ|筈《はず》だが、マ|一度《いちど》|自分《じぶん》の|盛装《せいさう》した|姿《すがた》をトツクリと|見《み》てからでなくては|惜《を》しいと|思《おも》つたか、|鏡《かがみ》の|前《まへ》にスツクと|立《た》ち「ウーン」と|云《い》つたきり、わが|姿《すがた》に|見《み》とれてゐる。|宮子《みやこ》は|高姫《たかひめ》の|後《うしろ》に|行儀《ぎやうぎ》よく|坐《すわ》つてゐた。|高姫《たかひめ》は|益々《ますます》|感心《かんしん》して「ウーン ウーン」と|息《いき》を|詰《つ》め、|余《あま》り|気張《きば》つて|感心《かんしん》したので、|上《うへ》へ|出《で》る|息《いき》が|裏門《うらもん》へ|破裂《はれつ》し「ブブブブーツ」と|法螺貝《ほらがひ》を|吹《ふ》いた。|宮子《みやこ》はビツクリして「クスクス」と|鼻《はな》を|鳴《な》らせながら、|二歩《ふたあし》|三歩《みあし》|後《あと》しざりした。|此《この》|宮子《みやこ》に|化《ば》けた|化物《くわいぶつ》は|妖幻坊《えうげんばう》の|片腕《かたうで》で、|数千年《すうせんねん》|劫《ごふ》を|経《へ》た|獅子《しし》のやうな|古狸《ふるだぬき》であつた。|忽《たちま》ち|鼻《はな》が|歪《ゆが》むやうな|奴《やつ》を|吹《ふ》きかけられ、|思《おも》はず|知《し》らず|正体《しやうたい》の|一部《いちぶ》を|現《あら》はして、クスクスと|云《い》つたのである。|高姫《たかひめ》は|四辺《あたり》を|見廻《みまは》し、
『アレマア、|宮《みや》ちやまとした|事《こと》が、|行儀《ぎやうぎ》の|悪《わる》い、こんな|所《ところ》でオナラを|弾《だん》じたり、ホホホホホ』
『アレマア、お|母《かあ》さまとした|事《こと》が、|自分《じぶん》がオナラをひりながら、|殺生《せつしやう》だワ』
『コレコレ|宮子《みやこ》さま、お|前《まへ》は|侍女《じじよ》ぢやないか。|侍女《こしもと》といふものは、|主人《しゆじん》がオナラを|弾《だん》じた|時《とき》に、|不調法《ぶてうはふ》を|致《いた》しましたと|自分《じぶん》が|引受《ひきう》けるのだよ、それが|侍女《こしもと》の|第一《だいいち》の|務《つと》めだからな。これから|日《ひ》に|七回《しちくわい》や|八回《はちくわい》は|出《で》るかも|知《し》れないから、|其《その》|時《とき》はキツトお|前《まへ》さまがあやまるのだよ』
『それでも|私《わたし》、|閉口《へいこう》だワ』
『|狸《たぬき》のやうに、クスクスなんて、これから|笑《わら》つちや|可《い》けませぬぞや』
『それでも、お|母《かあ》さま、|余《あま》り|臭《くさ》かつたので、|狸《たぬき》の|屁《へ》かと|思《おも》つたのよ』
『コレ|宮《みや》さま、|一寸《ちよつと》|外《そと》へ|遊《あそ》びにいつて|来《き》ておくれ、お|母《かあ》さまはチツトばかり、|内証《ないしよう》の|用《よう》があるから』
『ヘヘヘヘ|甘《うま》い|事《こと》|仰有《おつしや》いますワイ。|私《わたし》を|外《そと》へ|出《だ》しておいて、|又《また》|自惚鏡《うぬぼれかがみ》の|前《まへ》で、|独言《ひとりごと》を|云《い》つて|喜《よろこ》ぶのでせう』
『どうでも|宜《よろ》しい、お|前《まへ》さまは|子供《こども》だから、やつさなくても|美《うつく》しいのだ。|女《をんな》は|身嗜《みだしな》みが|肝腎《かんじん》だからなア。|黒《くろ》い|顔《かほ》や|乱《みだ》れた|髪《かみ》を、|夫《をつと》や|人《ひと》に|見《み》せるのは|失礼《しつれい》だ。|女《をんな》として|慎《つつ》しむべきことは|第一《だいいち》|身嗜《みだしな》みだから、お|前《まへ》さまが|居《ゐ》ると、|気《き》がひけて、|十分《じふぶん》に|化粧《けしやう》が|出来《でき》ないから、|半時《はんとき》ばかり、|田圃《たんぼ》へいつて|遊《あそ》んで|来《き》なさい。|田圃《たんぼ》が|遠《とほ》ければ、|一遍《いつぺん》|城内《じやうない》の|庭園《ていゑん》をみまはつて|来《き》て|下《くだ》さい』
『それなら|行《い》つて|参《まゐ》ります、|十分《じふぶん》おやつしなさいませ』
『エー、いらぬ|事《こと》を|云《い》ひなさるな、トツトとお|行《い》きんか』
『ハーイ』
とワザと|怖《こは》さうに|腰《こし》を|屈《かが》め、|這《は》ふやうにしてドアの|外《そと》に|飛出《とびだ》し、|三《み》つ|四《よ》つポンポンポンと|足踏《あしぶ》みをして|床板《ゆかいた》を|鳴《な》らし、それから|同《おな》じ|所《ところ》をドスドスドスと|一歩《いつぽ》|々々《いつぽ》|低《ひく》くし、|遠《とほ》くへ|行《い》つたやうなふりを|装《よそほ》うた。|高姫《たかひめ》は|足音《あしおと》がだんだん|低《ひく》くなるので、|廊下《らうか》を|伝《つた》つて|遊《あそ》びに|行《い》つたものと|思《おも》ひ、やつと|安心《あんしん》して|自惚鏡《うぬぼれかがみ》に|立向《たちむか》うた。そして|余《あま》り|一心《いつしん》になつてゐたので、ドアの|開《あ》いてあるのに|気《き》がつかなかつた。|宮子《みやこ》は|観音開《くわんおんびらき》のドアの|三角型《さんかくがた》に|開《ひら》いた|一寸《いつすん》ばかりの|隙《すき》から、|丸《まる》い|目《め》を|剥《む》いて|中《なか》の|様子《やうす》を|窺《うかが》つてゐた。
『あああ、|何《なん》とマア、|見《み》れば|見《み》る|程《ほど》、フツクリとした|頬《ほほ》べた、それに|紅《べに》うつりのよい|唇《くちびる》、|天教山《てんけうざん》の|木花姫《このはなひめ》のやうな|鼻《はな》の|形《かたち》、|鈴《すず》をはつたよな|目許《めもと》に、|新月《しんげつ》の|眉《まゆ》、|雪《ゆき》の|肌《はだ》、|耳朶《みみたぶ》のフツサリとした、|髪《かみ》の|毛《け》の|艶《つや》のよさ、なぜマア|造化《ざうくわ》の|神《かみ》は、|私《わたし》|許《ばか》りにこんな|美貌《びばう》を|与《あた》へて、|世間《せけん》の|女《をんな》には、|可愛相《かあいさう》に、あんな|不器量《ぶきりやう》な|顔《かほ》を|与《あた》へたのだらう。どう|考《かんが》へてみても、|背恰好《せかつかう》といひ、|高《たか》からず、|低《ひく》からず、|太《ふと》からず、|細《こま》からず、|肉《にく》は|柔《やはら》かにしてシマリあり、|此《この》|指《ゆび》だつて、|一節々々《ひとふしひとふし》、|梅《うめ》の|莟《つぼみ》の|開《ひら》きかけのやうだワ。|爪《つめ》の|色《いろ》は|瑪瑙《めなう》のやうだし、ああ|神様《かみさま》、|私《わたし》はなぜにこれ|程《ほど》|美《うつく》しいのでせう、イヤイヤさうではあるまい、|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》だから、ヤツパリ|人間《にんげん》ではないのだ。|杢助《もくすけ》さまが、お|前《まへ》は|高天原《たかあまはら》の|最奥霊国《さいあうれいごく》の|天人《てんにん》だと|仰有《おつしや》つた。|成程《なるほど》、それで|人間《にんげん》とはすべての|点《てん》が|違《ちが》ふのだ。あああ、|顔《かほ》や|手《て》ばかり|見《み》て|居《を》つた|所《ところ》で、|自分《じぶん》の|姿《すがた》も|全部《ぜんぶ》|査《しら》べてみなくちや|分《わか》るものぢやない。ドレドレ|侍女《こしもと》のをらぬのを|幸《さいはひ》に、|赤裸《まつぱだか》となつて、|肉体《にくたい》の|曲線美《きよくせんび》を|査《しら》べてみようかな』
と|独語《ひとりご》ちつつ、|着物《きもの》を|全部《ぜんぶ》|脱《ぬ》ぎ、|鏡《かがみ》に|打向《うちむか》ひ、
『ヤア、どこからどこまで|完全無欠《くわんぜんむけつ》なものだ。|乳房《ちぶさ》のフツクリとした、そしてツンモリとしてゐる|所《ところ》、|何《なん》としたいい|恰好《かつかう》だらう。|胸《むね》は|扇形《あふぎがた》になり、|腰《こし》のあたりは|蜂《はち》のやうだワ。そして|尻《しり》はポツクリと|丸《まる》う|丸《まる》う|太《ふと》り、|肌《はだ》のツヤは|瑠璃光《るりくわう》のやうだし、|膝頭《ひざがしら》の|位置《ゐち》から|踵《きびす》との|距離《きより》、|大腿骨《だいたいこつ》の|太《ふと》さ、|長《なが》さ、どつから|見《み》ても、これ|位《くらゐ》|理想的《りさうてき》に|出来《でき》た|身体《からだ》は、マアあるまい。ドレドレ|肝腎《かんじん》の|如意《によい》のお|玉《たま》も、|一《ひと》つ|鏡《かがみ》に|映《うつ》してみませうかなア』
とパサパーナをやる|時《とき》のやうなスタイルで、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|御玉《みたま》をうつしてゐる。
『ああ|恰好《かつかう》のいい|事《こと》、ホホホホ、こんな|所《ところ》を|人《ひと》にみられちや、|大変《たいへん》だがな、|併《しか》し|此《この》|御殿《ごてん》は|中《なか》から|開《ひら》かなくちや、|外《そと》から|開《ひら》かぬのだから|都合《つがふ》|好《よ》くしてあるワイ』
と|夢中《むちう》になつて|鏡《かがみ》に|映《うつ》してゐる。|八人《はちにん》の|少女《せうぢよ》に|化《ば》けてゐた|豆狸《まめだぬき》は、|妙《めう》な|匂《のほ》ひがするので、|戸《と》のあいた|所《ところ》からスツと|侵入《しんにふ》し、ドブ|貝《がひ》の|食《く》ひ|頃《ごろ》に|腐《くさ》つたのが|落《お》ちてゐると|思《おも》つて、|矢庭《やには》に|飛《と》び|付《つ》いた。|高姫《たかひめ》はキヤツと|驚《おどろ》き、|赤裸《まつぱだか》の|儘《まま》ひつくり|返《かへ》つた。|豆狸《まめだぬき》は|驚《おどろ》いて、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|出《だ》して|了《しま》つた。
『|此《この》|座敷《ざしき》には、|劫《ごふ》|経《へ》た|鼠《ねづみ》がゐると|見《み》える、うつかり|裸《はだか》にはなつては|居《を》れまい。どつかで|猫《ねこ》の|子《こ》でも|貰《もら》つて|来《き》て|飼《か》つておかねば、|夜分《やぶん》も|碌《ろく》に|寝《ね》られたものぢやない、アイタタタタ、|杢助殿《もくすけどの》の|貴重品《きちようひん》を|台《だい》なしにして|了《しま》つた』
と|慌《あわただ》しく|着物《きもの》を|着《き》かへ、チヤンと|振《ふり》を|直《なほ》して、|尚《なほ》も|自惚《うぬぼ》れながら、ソツと|入口《いりぐち》を|見《み》れば、|観音開《くわんのんびらき》の|戸《と》は|三角型《さんかくがた》に|外《そと》へ|開《ひら》き、|二寸《にすん》ばかりのスキから、|宮子《みやこ》が|半《なかば》|正体《しやうたい》を|現《あら》はし、|団栗《どんぐり》のやうな|目《め》で|睨《にら》んでゐる。|高姫《たかひめ》は|思《おも》はず、
『コラツ』
と|叫《さけ》んだ。|宮子《みやこ》はビツクリして、|其《その》|場《ば》を|立去《たちさ》つた。
『まるでここは|化物屋敷《ばけものやしき》みたやうな|所《ところ》だ。あのドアを|確《たしか》に|締《し》めてある|筈《はず》だのに、|音《おと》もせずにあいて|田螺《たにし》が|睨《にら》んでゐた。|諺《ことわざ》にも|美人《びじん》には|魔《ま》がさすといふ|事《こと》がある。|私《わたし》が|余《あま》り|美《うつく》しいものだから、|鼠《ねづみ》や|田螺《たにし》までが|秋波《しうは》を|送《おく》るのかなア。それ|程《ほど》|恋慕《こひした》うて|来《く》るのに、|私《わたし》も|何《なん》とか|挨拶《あいさつ》をしてやりたいけれど、こればつかりは、|博愛主義《はくあいしゆぎ》は|実行《じつかう》する|事《こと》は|出来《でき》ぬ。|愛《あい》といふものは|普遍的《ふへんてき》、|公的《こうてき》のものだが、|恋愛《れんあい》となると|一人愛《いちにんあい》に|限《かぎ》る|遍狭《へんけふ》な|愛《あい》だから、|何程《なにほど》|森羅万象《しんらばんしやう》が|私《わたし》に|惚《ほ》れた|所《ところ》で、こればかりは|仕方《しかた》がない。|天地《てんち》の|万物《ばんぶつ》、|必《かなら》ず|必《かなら》ず|高姫《たかひめ》を|愛《あい》するのはよいが、|恋愛《れんあい》などはしてくれな。|今《いま》|高姫《たかひめ》が|天地万有《てんちばんいう》に|向《むか》つて|宣示《せんじ》しておく|程《ほど》に、ホツホホホ、|余《あま》り|自惚《うぬぼ》れすぎて、エライ|事《こと》を|云《い》つたものだ。|併《しか》しながら|事実《じじつ》は|事実《じじつ》だから|仕方《しかた》がない。あんな|年《とし》のよつた|姿《すがた》の|時《とき》でも、|秋波《しうは》を|送《おく》つてくれた|蠑〓別《いもりわけ》さまに、|一度《いちど》|此《この》|姿《すがた》を|見《み》せて|上《あ》げたいものだなア。ああ、ママならぬは|浮世《うきよ》だ。かかる|金殿玉楼《きんでんぎよくろう》に、|尊貴《そんき》を|極《きは》め|栄耀《えいえう》を|極《きは》めて、|而《しか》も|義理天上《ぎりてんじやう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》、|霊国《れいごく》|第一《だいいち》の|天人《てんにん》と|現《あら》はれた|身《み》でさへも、|世《よ》の|中《なか》に|儘《まま》にならぬ|事《こと》があるものだなア。|双六《すごろく》の|賽《さい》と|河鹿川《かじかがは》の|流《なが》れと|蠑〓別《いもりわけ》さまとの|密会《みつくわい》は、|此《この》|高姫《たかひめ》の|儘《まま》にならぬ|所《ところ》だ、モウ|一《ひと》つ|困《こま》るのは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|共《ども》だ。|併《しか》しながら|上《うへ》|見《み》れば|限《かぎ》りなし、|下《した》みれば|程《ほど》なし、マアここらで|満足《まんぞく》せなくちやなりますまい。てもさても|幸福《かうふく》な|身《み》の|上《うへ》ぢやなア。|此《この》|上《うへ》|杢助《もくすけ》さまがコレラでも|煩《わづら》つてコロツと|亡《い》てくれた|其《その》|後《あと》へ、|蠑〓別《いもりわけ》さまがヌツケリとお|越《こ》しにならば、それこそ|何《なに》も|云《い》ふ|事《こと》がないけれどなア。|北山村《きたやまむら》でスキ|焼《やき》|鍋《なべ》を|真中《まんなか》に、ハモや|鯛《たひ》や|玉子《たまご》のあばれ|食《ぐ》ひ、|香《かう》ばしい|酒《さけ》に|酔《よ》うて、|狐《きつね》のやうに|釣上《つりあが》つた|蠑〓別《いもりわけ》さまの|目元《めもと》をみた|時《とき》は|愉快《ゆくわい》であつた。せめて|死《し》ぬまでに、モ|一度《いちど》、|蠑〓別《いもりわけ》さまに、|此《この》|立派《りつぱ》な|御殿《ごてん》で|会《あ》うて|見《み》たいものだなア』
と|何時《いつ》の|間《ま》にか|声《こゑ》が|高《たか》くなり、|喋《しやべ》り|立《た》ててゐる。|外《そと》からポンポンと|叩《たた》く|礫《つぶて》の|音《おと》。
『|誰《たれ》だなア、|何用《なによう》だい』
『ハイ、|私《わたし》は|宮子《みやこ》で|厶《ござ》います、|何卒《どうぞ》|開《あ》けて|下《くだ》さいな』
『ササお|入《はい》りなさい、いい|子《こ》だつたな』
と|云《い》ひながら、ドアを|開《ひら》いて、|宮子《みやこ》を|引入《ひきい》れ、|厳《きび》しく|戸《と》をとぢて|錠《ぢやう》を|卸《おろ》した。|高姫《たかひめ》は|今《いま》の|独言《ひとりごと》を、もしや|宮子《みやこ》が|聞《き》いてゐなかつただらうか、|聞《き》かれたら|大変《たいへん》だと、|稍《やや》|不安《ふあん》の|念《ねん》にかられながら、
『コレ|宮《みや》さま、お|前《まへ》どこへ|行《い》つてゐたの、|余《あま》り|早《はや》いぢやないか』
『ハイ、お|母《かあ》さまが|庭園《ていゑん》をまはつて|来《こ》いと|仰有《おつしや》いましたから、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|這《は》うて|廻《まは》りましたの。そした|所《ところ》が、|犬《いぬ》の|遠吠《とほぼゑ》が|聞《きこ》えたので、ビツクリして|逃《に》げて|帰《かへ》つて|来《き》たのよ』
『|這《は》うて|帰《かへ》つたの、|犬《いぬ》の|声《こゑ》にビツクリしたのと、まるで|狸《たぬき》か|何《なん》ぞのやうな|事《こと》を|云《い》ふぢやないか』
|宮子《みやこ》はウツカリ|喋《しやべ》つてしまつたと|思《おも》つたが、|稍《やや》|落着《おちつ》かぬ|体《てい》で、
『イーエ、どつかの|人《ひと》が|四這《よつばひ》に|這《は》つてゐたのよ。そして|犬《いぬ》か|鼠《ねづみ》か|知《し》らないが、お|尻《いど》のあたりを|咬《か》まれて|走《はし》つてゐたのを|見《み》ましたの』
と|高姫《たかひめ》の|事《こと》は|知《し》らねども、うまく|其《その》|場《ば》をつくらうてみた。|高姫《たかひめ》は|自分《じぶん》が|鏡《かがみ》の|前《まへ》で|赤裸《まつぱだか》となつて|身体《からだ》を|映《うつ》してゐた|事《こと》を、|外《ほか》の|事《こと》に【よそへ】て|言《い》つたのだと|思《おも》ひ、|稍《やや》|不機嫌《ふきげん》な|顔《かほ》しながら、
『コレ|宮《みや》ちやま、お|前《まへ》は|私《わたし》が|裸《はだか》になつてゐた|所《ところ》を|覗《のぞ》いてゐたのだな』
『イーエ、|知《し》りませぬワ』
『それでも、ドアの|外《そと》に|立《た》つてゐただろ』
『チツとばかり|立《た》つてゐましたが、|田螺《たにし》のやうな|目《め》を|剥《む》いたものが|向《むか》ふから|来《き》ましたので、ビツクリして|逃《に》げました。そして|庭園《ていゑん》を|一廻《ひとまは》りして|来《き》ましたよ』
『お|前《まへ》もあの|田螺《たにし》のやうな|目《め》を|見《み》たのかい』
『ハイ|見《み》ました。あれは|大方《おほかた》|浮木《うきき》の|森《もり》に|居《を》つた|猿《さる》の|妄念《まうねん》でせう。さうでなければ|犬《いぬ》かも|知《し》れませぬワ』
『コレ、|宮《みや》さま、|猿《さる》だの|犬《いぬ》だのと、ここでは|云《い》つちや|可《い》けませぬよ。お|父《とう》さまが|大変《たいへん》にお|嫌《きら》ひだから』
『【さる】の|嫌《いや》なのはお|母《かあ》さまぢやありませぬか、お|父《とう》さまは|犬《いぬ》が|嫌《きら》ひなのよ』
『オホホホホ、|何《なん》とマア|口《くち》の|達者《たつしや》な|子《こ》だこと』
『|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》の|片割《かたわ》れだもの、チツとは|口《くち》が|達者《たつしや》のよ。お|母《かあ》さまの|口《くち》から|入《はい》つて|口《くち》から|出《で》たのだから、|其《その》|口《くち》がうつつて、|此《この》|様《やう》によくはしやぐのだよ。|姉《ねえ》さまの|高《たか》ちやまは|懸河《けんが》の|弁《べん》、|私《わたし》は|富楼那《ふるな》の|弁《べん》ですよ』
|高姫《たかひめ》はキチンと|坐《すわ》り、パンをパクつき、|宮子《みやこ》にも|割《わ》つて|与《あた》へ、|葡萄酒《ぶだうしゆ》を|二三杯《にさんばい》、グツと|引《ひつ》かけ、ホロ|酔《よ》ひ|機嫌《きげん》になつて、|思《おも》ひを|遠《とほ》く|海《うみ》の|彼方《かなた》に|走《は》せ、|蠑〓別《いもりわけ》の|身《み》の|上《うへ》を|案《あん》じ|煩《わづら》ひながら、|宮子《みやこ》の|耳《みみ》を|憚《はばか》つて、|思《おも》ひも|深《ふか》き|恋《こひ》の|海《うみ》の|歌《うた》を|唄《うた》つた。
『|沖《おき》を|遥《はるか》に|見渡《みわた》せば
|淋《さび》しく|聞《きこ》ゆる|潮《うしほ》の|音《ね》
|空《そら》すみ|渡《わた》る|青白《あをじろ》き
|月《つき》の|御蔭《みかげ》に|飛《と》ぶ|海鳥《うみどり》
|星《ほし》は|深《ふか》し|冷《つめ》たき|魚《うを》の|血《ち》の|如《ごと》き
|真青《まつさを》に|慄《ふる》ふ|海《うみ》
|胸《むね》の|轟《とどろ》き|恋《こひ》の|波《なみ》
|悲《かな》しげに|歌《うた》ひ|続《つづ》ける
|白《しろ》い|波《なみ》
|風《かぜ》は|物凄《ものすご》く|吹《ふ》き|渡《わた》り
|冷《つめ》たい|月《つき》は|雲間《くもま》に|慄《ふる》ふ
|逃《のが》れゆく|海鳥《うみどり》の
|憐《あは》れげな|叫《さけ》び|声《ごゑ》
|衰弱《すゐじやく》せる|海《うみ》の|歎《なげ》き
ああ|神秘《しんぴ》の|海《うみ》は
|悲《かな》しき|歌《うた》を|永久《とこしへ》に
|弥《いや》|永久《とこしへ》に|歌《うた》ひつづくる』
と|恋《こひ》の|述懐《じゆつくわい》をもらしてゐる。|今《いま》まで|杢助《もくすけ》に|現《うつつ》をぬかし、|斯《か》かる|美《うる》はしき|金殿玉楼《きんでんぎよくろう》に|栄華《えいぐわ》を|極《きは》むる|身《み》となつては、またもや|萌《きざ》す|恋《こひ》の|暗《やみ》、|烈《はげ》しき|焔《ほのほ》に|包《つつ》まれて、|今《いま》は|悲《かな》しき|涙《なみだ》にかきくれてゐる。|宮子《みやこ》は|不思議《ふしぎ》さうに|高姫《たかひめ》の|顔《かほ》を|見《み》て、
『アレまアお|母《かあ》さま、|泣《な》いてゐらつしやるの、お|父《とう》さまが|気《き》にくはないのですか』
『コレ|宮《みや》さま、|何《なん》といふ|事《こと》を|仰有《おつしや》る、|天《てん》にも|地《ち》にも|高宮彦《たかみやひこ》さまのやうな|偉《えら》い|人《ひと》がありますか、どこに|一《ひと》つ|欠点《けつてん》のない|男《をとこ》らしい、|勇壮活溌《ゆうさうくわつぱつ》な、そして|気品《きひん》の|高《たか》い、|筋骨《きんこつ》の|逞《たくま》しい、|摩利支天様《まりしてんさま》の|御霊《おみたま》、|勿体《もつたい》ない、|嫌《きら》ふなんて、そんな|事《こと》がありますものか』
『それでもお|母《かあ》さま、いま|泣《な》いてゐたぢやないか』
『そらさうよ、よう|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。お|父《とう》さまは|同《おな》じ|館《やかた》に|住《す》みながら、|女房《にようばう》の|側《そば》にやすんで|下《くだ》さらぬのだもの。|私《わたし》だつてチツとは|淋《さび》しくもなり|悲《かな》しくもなりますワ』
『それでも|蠑〓別《いもりわけ》とか、|何《なん》とか|言《い》つてゐらつしやつたぢやありませぬか』
『|其《その》|蠑〓別《いもりわけ》といふ|奴《やつ》、|私《わたし》の|敵《かたき》だよ。お|父《とう》さまを|常《つね》につけ|狙《ねら》ふ|悪《わる》い|奴《やつ》だ。そして|今《いま》は|三五教《あななひけう》にトボけてゐるのだから、|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|術《じゆつ》を|習《なら》つて、|何時《いつ》|私《わたし》を|攻《せ》めに|来《く》るか|分《わか》らないワ。けれども、モウ|斯《か》うなつた|以上《いじやう》は、お|父《とう》さまの|御神力《ごしんりき》と|如意宝珠《によいほつしゆ》の|神力《しんりき》で|蠑〓別《いもりわけ》を|往生《わうじやう》させ、|此《この》|結構《けつこう》な|所《ところ》を|見《み》せびらかしてやりたい。エー、それが|出来《でき》ぬが|残念《ざんねん》だと|思《おも》つて|泣《な》いてゐたのよ。こんな|事《こと》をお|父《とう》さまに|言《い》つちやなりませぬぞや』
『|決《けつ》して、|左様《さやう》な|詰《つま》らない|事《こと》は|申上《まをしあ》げるやうな|馬鹿《ばか》ぢやありませぬワ。そしてお|母《かあ》さまのお|側《そば》に|可愛《かあい》がつて|貰《もら》つてゐるのだもの、チツト|位《くらゐ》お|母《かあ》さまに|不都合《ふつがふ》があつても、|隠《かく》しますワ。それが|母子《おやこ》の|情《じやう》ですからなア』
『|成程《なるほど》、お|前《まへ》はヤツパリ|私《わたし》の|子《こ》だ。どんな|事《こと》があつても、|善悪《ぜんあく》に|拘《かか》はらず、|喋《しやべ》つてはなりませぬぞや。|女《をんな》の|子《こ》は|口《くち》を|慎《つつ》しむのが|一番《いちばん》|大切《たいせつ》だからなア』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|又《また》もやドアの|外《そと》から、|五月《さつき》の|声《こゑ》として、
『モシモシ|奥様《おくさま》、|宮子様《みやこさま》、|旦那様《だんなさま》がお|出《い》でになりますから、|此処《ここ》をあけておいて|下《くだ》さい』
|高姫《たかひめ》は|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》き、|俄《にはか》に|涙《なみだ》を|拭《ふ》き、そこらを|片付《かたづ》けて、|宮子《みやこ》に|命《めい》じて|錠《ぢやう》を|外《はづ》させ、|高宮彦《たかみやひこ》の|入《い》り|来《きた》るを|今《いま》や|遅《おそ》しと|待《ま》つてゐる。
(大正一二・一・二六 旧一一・一二・一〇 松村真澄録)
第四篇 |夢狸野狸《むりやり》
第一六章 |暗闘《あんとう》〔一三三一〕
|春風《はるかぜ》かをる|小北山《こぎたやま》 |木々《きぎ》の|梢《こずゑ》も|緑《みどり》して
|梅《うめ》|散《ち》り|桃《もも》は|紫《むらさき》の |花《はな》を|梢《こずゑ》に|飾《かざ》りつつ
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》も|灼然《いやちこ》に |老若男女《らうにやくなんによ》の|朝夕《あさゆふ》に
|足跡《そくせき》たえぬ|神《かみ》の|庭《には》 |訪《たづ》ね|来《きた》りし|高姫《たかひめ》や
|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》は |神《かみ》の|御稜威《みいづ》に|照《て》らされて
|醜《しこ》の|企《たく》みは|忽《たちま》ちに |露顕《ろけん》し|岩下《がんか》に|投《な》げられて
コリヤたまらぬと|尻《しり》からげ |痛《いた》さをこらへてスタスタと
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|下《くだ》る |折柄《をりから》ヨボヨボ|登《のぼ》り|来《く》る
|盲爺《めくらおやぢ》の|文助《ぶんすけ》と |衝突《しようとつ》したる|其《その》はづみ
|曲輪《まがわ》の|玉《たま》を|遺失《ゐしつ》して コハさに|慄《ふる》ひ|戦《をのの》きつ
|一目散《いちもくさん》に|逃《に》げて|行《ゆ》く |後《あと》|追《お》つかけて|出《い》で|来《きた》る
|初《はつ》、|徳《とく》|二人《ふたり》に|命令《めいれい》し |小北《こぎた》の|山《やま》へ|引返《ひつかへ》し
|曲輪《まがわ》の|宝《たから》を|取返《とりかへ》し |文助爺《ぶんすけおやぢ》を|突倒《つきたふ》し
|又《また》もスタスタ|逃《に》げて|行《ゆ》く |所《ところ》|構《かま》はず|打撲《だぼく》され
|苦《くるし》み|悶《もだ》え|文助《ぶんすけ》は |力《ちから》|限《かぎ》りに|人殺《ひとごろ》し
|誰《たれ》か|出《で》て|来《き》て|助《たす》けよと |叫《さけ》びし|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて
|忽《たちま》ちかけ|来《く》る|数十人《すうじふにん》 |老若男女《ろうにやくなんによ》の|信徒《まめひと》は
|右往左往《うわうさわう》に|彷徨《さまよ》ひつ こは|何者《なにもの》の|仕業《しわざ》ぞと
|皆《みな》とりどりに|話《はな》しゐる かかる|所《ところ》へ|階段《かいだん》を
|下《くだ》り|来《きた》れる|二人《ふたり》の|女《をんな》 お|千代《ちよ》お|菊《きく》は|立寄《たちよ》つて
いろいろ|雑多《ざつた》と|介抱《かいはう》し |文助《ぶんすけ》|爺《ぢ》さまに|其《その》|由《わけ》を
|承《うけたま》はれば|初《はつ》、|徳《とく》の |二人《ふたり》がわれを|突《つ》き|倒《たふ》し
ブンブン|玉《だま》の|神宝《しんぽう》を |奪《うば》つて|直様《すぐさま》|逃《に》げ|行《ゆ》きし
|其《その》|物語《ものがたり》|聞《き》くよりも |侠客育《けふかくそだ》ちの|両人《りやうにん》は
|何条《なにでう》|以《もつ》て|許《ゆる》すべき お|千代《ちよ》を|後《あと》に|残《のこ》しおき
|文助爺《ぶんすけおやぢ》の|身《み》の|上《うへ》を |依頼《いらい》しおきてお|菊嬢《きくぢやう》
|二人《ふたり》の|後《あと》を|追《お》ひかけて |雲《くも》を|霞《かすみ》と|走《はし》り|行《ゆ》く
|怪志《あやし》の|森《もり》に|来《き》て|見《み》れば |永《なが》き|春日《はるひ》も|暮《く》れはてて
あたりは|暗《やみ》に|包《つつ》まれぬ お|菊《きく》は|森《もり》の|入口《いりぐち》に
|佇《たたず》み|思案《しあん》にくるる|折《をり》 |程《ほど》|遠《とほ》からぬ|暗《くら》がりに
ウンウンウンと|呻《うめ》き|声《ごゑ》 ハテ|訝《いぶ》かしと|耳《みみ》すませ
|腕《うで》をば|組《く》みて|聞《き》きゐたり。
|初《はつ》『あああ、|余《あま》り|草臥《くたび》れて、|何時《いつ》とはなしに|夢路《ゆめぢ》に|入《い》つて|了《しま》つた。|併《しか》しあまり|時間《じかん》も|経《た》つてゐないやうだ。|其《その》|証拠《しようこ》には|走《はし》つて|来《き》た|時《とき》の|動悸《どうき》はまだ|止《や》まず、|痛《いた》みはチツとも|軽減《けいげん》してゐないし、|汗《あせ》も|乾《かわ》いてをらぬ。なア|徳《とく》、|暗《くら》いと|云《い》つても、これだけ|暗《くら》い|夜《よ》さはないぢやないか。ヤツパリ|怪志《あやし》の|森《もり》だな』
|徳《とく》『ウーン、|俺《おれ》もまだ|半眠半醒状態《はんみんはんせいじやうたい》で、トツクリ|寝《ね》られないワ。|何《なん》だか|胸《むね》がドキドキして|仕方《しかた》がない。モシ|高姫《たかひめ》さま、|杢助《もくすけ》さま、チツと|起《お》きて|下《くだ》さいな、ああ|首筋元《くびすぢもと》がゾクゾクとして|来《き》ました。あああ、|返辞《へんじ》をして|下《くだ》さらぬぞ、ヤツパリ|御両人《ごりやうにん》さまも|草臥《くたび》れて|寝《ね》て|厶《ござ》ると|見《み》えるな、|夜逃同様《よにげどうやう》に|撤兵《てつぺい》して|来《き》たのだから、|草臥《くたび》れるのも|無理《むり》はないワイ。|何《なん》せよ|高姫《たかひめ》さまの|外交《ぐわいかう》がなつてゐないものだから、こんなヘマを|見《み》るのだよ。グヅグヅしてると、ここらあたりにバルチザンが|襲来《しゆうらい》するかも|知《し》れないよ。|其《その》|日《ひ》|暮《ぐら》しの|日傭《ひやと》ひ|外交《ぐわいかう》だからなア。|吾々《われわれ》|国民《こくみん》は|枕《まくら》を|高《たか》うして|寝《ね》られないワ。どう|考《かんが》へても|真《しん》から|寝《ね》つかれないからなア』
『どうやら、|高姫《たかひめ》さまは|杢助《もくすけ》と、|吾々《われわれ》|雑兵《ざふひやう》を|放《ほ》つたらかして、|満鉄《まんてつ》で|逸早《いちはや》く|逃帰《にげかへ》つたらしいぞ。|併《しか》し|幽霊内閣《いうれいないかく》の|立去《たちさ》つた|後《あと》は、|何《なに》が|出《で》るか|知《し》れたものぢやないワ。どうしてもコリヤ|吾々《われわれ》|国民《こくみん》が|腹帯《はらおび》を|締《し》め、|国民外交《こくみんぐわいかう》をやる|気《き》でないと、|当局者《たうきよくしや》に|任《まか》しておいても、|肝腎《かんじん》の|時《とき》になつたら|逃《に》げられて|了《しま》ふからなア』
『さうだなア、|一体《いつたい》|何処《どこ》まで|逃《に》げたのだらう』
『|逃《に》げるのに、|定《きま》つた|場所《ばしよ》があるかい。|其《その》|時《とき》の|御都合主義《ごつがふしゆぎ》だ。|敵《てき》が|遠《とほ》く|追《お》つかければ|遠《とほ》く|逃《に》げるだけのものだ。|今日《こんにち》の|国際的《こくさいてき》|外交《ぐわいかう》は、|朝《あした》に|一城《いちじやう》を|譲《ゆづ》り|夕《ゆふべ》に|一塁《いちるゐ》を|与《あた》へて、|十万億土《じふまんおくど》のドン|底《ぞこ》まで|譲歩《じやうほ》するのだからなア。それが|所謂《いはゆる》|宋襄仁者《そうじやうじんしや》の|唯一《ゆゐいつ》の|武器《ぶき》だ、|最善《さいぜん》の|方法《はうはふ》だ。|弱《よわ》い|者《もの》には|何処《どこ》までも|追《お》つかけて|行《ゆ》く|程《ほど》|利益《りえき》だが、|強《つよ》い|奴《やつ》には|逃《に》げるのが|最《もつと》も|賢明《けんめい》な|行方《やりかた》だ。|併《しか》し|斯《か》う|淋《さび》しくつては|仕方《しかた》がないぢやないか。オイ、|一《ひと》つ|歌《うた》でも|歌《うた》つて|気《き》をまぎらさうぢやないか。……|折角《せつかく》|文助《ぶんすけ》のドタマを|擲《なぐ》り|倒《たふ》して、ウマウマとブンブン|玉《だま》をひつたくり、|此処《ここ》まで|持《も》つて|来《き》て|杢助《もくすけ》さまに|渡《わた》し、|喜《よろこ》んでは|貰《もら》つたが、|余《あま》り|八百長芝居《やほちやうしばゐ》がすぎて、|足腰《あしこし》が|立《た》たぬ|程《ほど》|打《う》ちのめされ、|動《うご》きのとれぬ|所《ところ》を|見《み》すまして、|此《この》|暗《くら》がりに|置去《おきざ》りするとは、|誠《まこと》に|残酷《ざんこく》ぢやないか。これでは|吾々《われわれ》|下《しも》|人民《じんみん》は、やりきれない。どうしたらよからうかなア』
『|小鳥《ことり》つきて|鷹《たか》|喰《くら》はれ、|兎《うさぎ》つきて|良狗《りやうく》|煮《に》らるとは|俺《おれ》たちの|事《こと》だ。あれだけ|吾々《われわれ》が|血《ち》を|流《なが》してやつと|奪《と》つた|曲輪《まがわ》の|玉《たま》を、|又《また》|強者《きやうしや》に|掠奪《りやくだつ》されて|了《しま》ふと|云《い》ふのは、ヤツパリ|未来《みらい》の|何処《どこ》かの|外交手腕《ぐわいかうしゆわん》が|映《うつ》つてゐるのだよ。|手腕《しゆわん》のワンは|犬《いぬ》の|鳴《な》き|声《ごゑ》だが、|本当《ほんたう》に|尾《を》を|股《また》へはさんで、シヨゲ シヨゲと|逃《に》げ|帰《かへ》る|喪家《さうか》の|犬《いぬ》のやうな|手腕《しゆわん》だからな。しまひには、|只《ただ》|一《ひと》つよりない|大椀《たいはん》(|台湾《たいわん》)まで|逃出《にげだ》すかも|知《し》れぬぞ。|何程《なにほど》|琉球《りうきう》そに|言《い》うても、|骨《ほね》のない|蒟蒻腰《こんにやくごし》では|駄目《だめ》だ。|貴様《きさま》だつて|俺《おれ》だつて、|半身不随《はんしんふずい》だから、|腹中《ふくちう》の|副守《ふくしゆ》、ガラクタ|連中《れんちう》には、うまく|誤魔化《ごまくわ》しておいて、|兎《と》も|角《かく》、|自分《じぶん》の|身体《しんたい》|回復《くわいふく》を|待《ま》たねばなるまいぞ。|何程《なにほど》|人《ひと》の|為《ため》だの、|刻下《こくか》の|急務《きふむ》だのといつた|所《ところ》で、ドドのつまりは、|自分《じぶん》が|大切《たいせつ》だからな、ハハハハハ』
お|菊《きく》は|二人《ふたり》の|話《はなし》をスツカリ|聞《き》いて|了《しま》つた。そして|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》の|両人《りやうにん》は|曲輪《まがわ》の|玉《たま》を、|此奴等《こいつら》|両人《りやうにん》の|手《て》から|引《ひ》つたくり、|逃《に》げて|了《しま》つた|事《こと》を|悟《さと》つた。……|此奴《こいつ》ア|一《ひと》つ、|文助《ぶんすけ》の|声色《こわいろ》を|使《つか》つておどかしてやらうか……と|横着《わうちやく》なお|菊《きく》は|暗《くら》がりを|幸《さいはひ》に、
『ヒヤー、|恨《うら》めしやなア、|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》の|両人《りやうにん》に|頭《あたま》をコツかれ、ブンブン|玉《だま》をボツたくられ、|其《その》|上《うへ》|命《いのち》までも|取《と》られたわいのう、ヤイ、|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》、|冥途《めいど》の|道伴《みちづ》れ、|其《その》|方《はう》の|生首《なまくび》を|貰《もら》うて|帰《かへ》るぞよ』
|初《はつ》『コリヤ|徳《とく》、|此《この》|厭《いや》らしい|森《もり》の|中《なか》で、|馬鹿《ばか》な|真似《まね》をするない。|何《なん》だ、|爺《おやぢ》の|声《こゑ》を|出《だ》しやがつて……』
|徳《とく》『ヘン、|貴様《きさま》が|真似《まね》をしたぢやないか、|怪体《けたい》な|奴《やつ》だなア』
『|何《なに》、|貴様《きさま》が|妙《めう》な|声《こゑ》を|出《だ》したのだらう』
『|俺《おれ》は|決《けつ》してそんなこた、|言《い》うた|覚《おぼえ》がない。|貴様《きさま》も|言《い》はないとすれば、どつか|他《ほか》に|人間《にんげん》が|一匹《いつぴき》|来《き》てゐるに|違《ちが》ひない。|暗《くら》がりを|幸《さいはひ》に、ヤツパリ|杢助《もくすけ》さまが|隠《かく》れた|真似《まね》をして、|俺達《おれたち》の|話《はなし》を|聞《き》いてゐたのかも|知《し》れぬぞ。ハテ|困《こま》つたのう』
『モシ、|杢助《もくすけ》さま、|此《この》|厭《いや》らしい|夜《よ》さに、そんな|悪戯《いたづら》はやめて|下《くだ》さいな。|困《こま》るぢやありませぬか』
お|菊《きく》『ホホホホホ』
|徳《とく》『|高姫《たかひめ》さま、|腹《はら》の|悪《わる》い、そんな|厭《いや》らしい|声《こゑ》を|出《だ》したつて、|吾々《われわれ》はビクともしませぬぞや』
『|尻《しり》を|叩《たた》かれ、|骨《ほね》まで|腫上《はれあが》り、ビクとも|出来《でき》ぬだらう。|実《じつ》に|憐《あは》れなものだのう、オホホホホホ』
『コリヤ|高姫《たかひめ》、|馬鹿《ばか》にすない、|人《ひと》をよい|程《ほど》|使《つか》うておいて、こんな|苦《くる》しい|目《め》に|遇《あ》はして、|其《その》|上《うへ》|可笑《をか》しさうに|笑《わら》ふなんて、チツとは|人情《にんじやう》を|弁《わきま》へたらどうだ』
『|此《この》|高姫《たかひめ》は|人情《にんじやう》なんか、|嫌《いや》だツ、よく|考《かんが》へて|見《み》よ。|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》に|人情《にんじやう》を|知《し》つた|奴《やつ》が|一人《ひとり》でもあるか。ニンジヨウといへば|松《まつ》の|廊下《らうか》で|塩谷判官《えんやはんぐわん》が|師直《もろなほ》に|斬《き》りかけた|位《くらゐ》なものだ。|人情《にんじやう》なんか|守《まも》つて|居《を》らうものなら、お|家《いへ》は|断絶《だんぜつ》、|其《その》|身《み》は|切腹《せつぷく》、|家来《けらい》は|浪人《らうにん》、しまひの|果《はて》には|泉岳寺《せんがくじ》で|腹《はら》を|切《き》らねばならぬぞや。そんな|馬鹿《ばか》が|今日《こんにち》の|開《ひら》けた|世《よ》の|中《なか》にあるものかい。|時代遅《じだいおく》れの|馬鹿《ばか》だなア、オツホホホホ、いい|気味《きみ》だこと、|杢助《もくすけ》さまと|実《じつ》の|所《ところ》は、|小北山《こぎたやま》を|占領《せんりやう》し、|貴様等《きさまら》|両人《りやうにん》をウマウマ チヨロまかして|使《つか》つてやらうと|思《おも》うたなれど、|樫《かし》の|棒《ぼう》で|二十《にじふ》や|三十《さんじふ》|撲《なぐ》られて、|悲鳴《ひめい》をあげ、|歩《ある》けないのなぞと|弱音《よわね》を|吹《ふ》くやうな|奴《やつ》は、|高姫《たかひめ》も|愛想《あいさう》がつきた。そんな|事《こと》で、どうして|悪《あく》の|企《たく》みが|成就《じやうじゆ》すると|思《おも》ふか、|馬鹿《ばか》だなア、オホホホホ』
|初《はつ》『エー、|胸《むね》クソの|悪《わる》い、もう|斯《か》うなれば|馬鹿《ばか》らして|小北山《こぎたやま》へ|帰《かへ》る|訳《わけ》にゆかず、|又《また》そんな|悪人《あくにん》の|後《あと》へついて|行《い》つたつて|駄目《だめ》だし、|進退《しんたい》|惟《これ》|谷《きは》まつたなア、のう|徳《とく》、これから|一《ひと》つ|善後策《ぜんごさく》を|考《かんが》へなくちやなるまいぞ』
|徳《とく》『さうだなア、マア|此処《ここ》で|足《あし》の|直《なほ》るまで、ゆつくり|養生《やうじやう》して、トクと|考《かんが》へようかい。コリヤ|杢助《もくすけ》、|覚《おぼ》えてけつかれ、|貴様《きさま》の|企《たく》みは|何処《どこ》までも|邪魔《じやま》してやるから、|一寸《いつすん》の|虫《むし》も|五分《ごぶ》の|魂《たましひ》だぞ』
『|此《この》|杢助《もくすけ》は|貴様《きさま》のやうな|小童武者《こつぱむしや》の|百匹《ひやつぴき》|千匹《せんびき》、|束《そく》に|結《ゆ》うて|来《き》てもビクとも|致《いた》さぬ|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》だ。ましてや|尻《しり》をひつぱたかれ、|骨《ほね》を|挫《くじ》き、|体《からだ》の|自由《じいう》にならぬ|奴《やつ》が、|仮令《たとへ》|万人《まんにん》|攻《せ》め|来《きた》るとも、|決《けつ》して|驚《おどろ》く|者《もの》でない。|又《また》|仮令《たとへ》|体《からだ》の|自由《じいう》が|利《き》く|代物《しろもの》でも、|今《いま》の|人間《にんげん》は|金輪《かなわ》の|魔術《まじゆつ》を|以《もつ》て|口《くち》にはましたならば、どれもこれも|皆《みな》|往生《わうじやう》|致《いた》す|代物《しろもの》ばかりだ、アハハハハ』
『コリヤ|杢助《もくすけ》、|俺《おれ》は|斯《か》うして、|腰《こし》が|立《た》たぬと|云《い》つて、|貴様《きさま》の|様子《やうす》を|考《かんが》へてゐたのだ。|本当《ほんたう》の|事《こと》は|此処《ここ》まで|走《はし》つて|来《き》た|位《くらゐ》だから、|自由自在《じいうじざい》に|立《た》つのだ、サア|来《こ》い|勝負《しようぶ》だ。|貴様《きさま》のやうな|冷酷《れいこく》な|餓鬼《がき》の|後《あと》を|追《お》つて|行《い》た|所《とこ》で|仕方《しかた》がない。それよりも|貴様《きさま》の|生首《なまくび》を|引抜《ひきぬ》いて|持《も》ち|帰《かへ》り、|松姫《まつひめ》|様《さま》にお|詫《わび》の|印《しるし》にするのだ。オイ|初《はつ》、|貴様《きさま》もいい|加減《かげん》に|起《お》きぬかい』
『ウン、モウそろそろ|活動《くわつどう》しても|可《い》い|時分《じぶん》だ。|俺《おれ》も|何《なん》だか、|此《この》|先《さき》の|浮木《うきき》の|里《さと》が|気《き》にくはぬので、|一寸《ちよつと》|作病《さくびやう》を|起《おこ》してみたのだが、つひグツと|寝《ね》て|了《しま》ひ、|其《その》|間《あひだ》に|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》に|逃《に》げられたと|思《おも》つて|残念《ざんねん》でたまらず、|副守《ふくしゆ》の|奴《やつ》と|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》をやつてゐた|所《ところ》、|神《かみ》の|神力《しんりき》に|照《て》らされて、|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》の|奴《やつ》、|後《うしろ》へ|引寄《ひきよ》せられよつたのだなア。|何《なん》と|神力《しんりき》は|偉《えら》いものだ。サア|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》、|汝《なんぢ》が|如《ごと》き|老《おい》ぼれの|五匹《ごひき》や|十匹《じつぴき》、|束《そく》に|結《ゆ》うて|掛《かか》らうとも|食《く》ひ|足《た》らぬ|某《それがし》だ、サア|来《こ》い』
『オツホホホホ、|此《この》|暗《くら》がりに|目《め》が|見《み》えるのか、|喧《やかま》し|吐《ぬか》すと、|声《こゑ》をしるべに|撲《なぐ》りつけてやらうか。|暗《やみ》の|晩《ばん》に|囀《さへづ》る|奴《やつ》|位《くらゐ》|馬鹿《ばか》はないぞ』
『オイ|徳《とく》、|確《しつか》りせぬかい、|益々《ますます》|怪《け》しからぬ|事《こと》を|吐《ぬか》すぢやないか』
お|菊《きく》は|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ、|声《こゑ》をしるべに、ついて|来《き》た|杖《つゑ》で|暗《やみ》をポンと|打《う》つた。|都合《つがふ》よく|二人《ふたり》の|頭《あたま》に|橋《はし》をかけたやうに、カツンと|当《あた》つた。|二人《ふたり》は|一度《いちど》に、
『アイタタタ、コラ|初《はつ》、|馬鹿《ばか》にすない』
『ナアニ|徳《とく》の|奴《やつ》、|人《ひと》の|頭《あたま》をなぐりやがつて、|馬鹿《ばか》も|糞《くそ》もあるかい』
『それでも|貴様《きさま》、|俺《おれ》を|撲《なぐ》つたぢやないか』
『ナアニ、|俺《おれ》やチツとも|撲《なぐ》つた|覚《おぼえ》がない』
『ホホホホホ、|同士打喧嘩《どうしうちげんくわ》は|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、|向《むか》ふ|見《み》ずの|途中《とちう》の|鼻高《はなだか》が、|暗雲《やみくも》で、|慾《よく》ばかり|考《かんが》へ、|吾《われ》|程《ほど》|偉《えら》い|者《もの》はないと|思《おも》うて|慢心《まんしん》|致《いた》すと、|何時《いつ》の|間《ま》にやら|鼻《はな》が|高《たか》うなり、|鼻《はな》と|鼻《はな》とがつき|合《あ》うて、しまひには|一《いち》も|取《と》らず|二《に》も|取《と》らず、|大騒動《おほさうどう》を|起《おこ》すぞよ。|可哀相《かあいさう》な|者《もの》であるぞよ。|何《なん》と|云《い》うても|暗《くら》がりの|人民《じんみん》を|助《たす》けるのであるから、|頭《あたま》の|一《ひと》つや|二《ふた》つは|叩《たた》いてやらねば|目《め》がさめぬぞよ。|神《かみ》も|中々《なかなか》|骨《ほね》が|折《を》れるぞよ、|早《はや》く|改心《かいしん》|致《いた》されよ。|神《かみ》の|申《まを》す|事《こと》を|素直《すなほ》に|聞《き》く|人民《じんみん》は|結構《けつこう》なれど、|今《いま》の|世《よ》はサツパリ|鬼《おに》と|賊《ぞく》と|悪魔《あくま》との|世《よ》の|中《なか》であるから、|神《かみ》の|教《をしへ》を|聞《き》く|奴《やつ》はチツともないぞよ。|余《あま》り|改心《かいしん》が|出来《でき》ぬと、スコタンくらふぞよ』
と|云《い》ひながら、|又《また》カツンとやつた。
|初公《はつこう》は|前額部《ぜんがくぶ》をシタタカ|打《う》たれ、
『アイタア』
と|云《い》つたきり、すくんで|了《しま》つた。|徳《とく》は、
『|何《なん》でも|近《ちか》くに|声《こゑ》がした、|高姫《たかひめ》の|奴《やつ》、ここらに|居《ゐ》やがるに|違《ちが》ひない……』
と|四這《よつばひ》になり、|手《て》をふりまはして|探《さぐ》つてゐる。もし|足《あし》にでもさはつた|位《くらゐ》なら、ひつくり|返《かへ》してやらうと|思《おも》つたからである。お|菊《きく》は|何《なん》だか|自分《じぶん》の|足許《あしもと》に|這《は》ふものがあるやうな|気《き》がしたので、|杖《つゑ》を|以《もつ》て|力《ちから》|限《かぎ》り、|足許《あしもと》を|払《はら》うた。|途端《とたん》にただれた|尻《しり》のあたりをピシヤツと|打《う》つた。
|徳《とく》『アイタタ、コリヤ、|尻叩《しりたた》きはモウすんだ|筈《はず》だ。まだこんなとこまで|来《き》て|叩《たた》くといふ|事《こと》があるかい』
お|菊《きく》『|約束《やくそく》の|三百《さんびやく》がまだ|二百《にひやく》|許《ばか》り|残《のこ》つてゐるから、これから|叩《たた》いてやるのだ』
|徳《とく》『オイ|初《はつ》、|気《き》をつけよ、|馬鹿《ばか》にするぢやないか……コラ|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》、サア|来《こ》い』
と|暗《くら》がりに、どつちに|敵《てき》が|居《を》るか|分《わか》りもせぬのに、|空元気《からげんき》を|出《だ》して|気張《きば》つてゐる。お|菊《きく》は|杖《つゑ》を|縦横無尽《じうわうむじん》に|打《う》ちふり、|二人《ふたり》の|頭《あたま》といはず|尻《しり》といはず、|手当《てあた》り|次第《しだい》にポンポンポンと|撲《なぐ》り|倒《たふ》し、
『ホツホホホホ』
と|厭《いや》らしい|笑《わら》ひを|残《のこ》し、|森《もり》を|立出《たちい》で、|息《いき》を|殺《ころ》して|二人《ふたり》の|様子《やうす》を|考《かんが》へてゐた。
(大正一二・一・二七 旧一一・一二・一一 松村真澄録)
第一七章 |狸相撲《たぬきずまう》〔一三三二〕
お|菊《きく》は|夜明《よあ》け|間近《まぢか》くなつたので、|余《あま》り|遠《とほ》くもない|小北山《こぎたやま》へ、|一度《いちど》|帰《かへ》つて|見《み》ようと|思《おも》ひ、|暗《くら》がりに|落《お》ちてゐる|石《いし》を|二三十《にさんじふ》|拾《ひろ》うて、ここらあたりと|思《おも》ふ|所《ところ》へ、|一《ひと》つ|二《ふた》つ|三《みつ》つと|数《かぞ》へながら|投付《なげつ》けて、
『ああこれで|文助《ぶんすけ》さまの|仕返《しかへ》しもしてやつた。|何《いづ》れ|暗《やみ》に|鉄砲《てつぱう》のやうな|石玉《いしだま》だけれど、|一《ひと》つでも|当《あた》れば|尚《なほ》|面白《おもしろ》いがなア』
と|独言《ひとりごと》を|云《い》ひながら、スバシこく|帰《かへ》つて|了《しま》つた。|二人《ふたり》は|怪志《あやし》の|森《もり》でお|菊《きく》の|放《ほ》つた|礫《つぶて》に|鼻《はな》を|打《う》たれ、|額《ひたひ》を|打《う》たれて、|三日《みつか》|許《ばか》りウンウン|唸《うな》りつづけ、|懐《ふところ》からパン|片《きれ》を|出《だ》して|飢《うゑ》を|凌《しの》ぎ、|漸《やうや》く|手足《てあし》が|動《うご》くやうになつたので、|何処《どこ》までも|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》の|在処《ありか》を|探《たづ》ね、|敵《かたき》を|打《う》たねばおかぬと、|杖《つゑ》を|力《ちから》に|進《すす》み|行《ゆ》く。
|浮木《うきき》の|森《もり》の|槻《つき》や|樅《もみ》、|松《まつ》の|大木《たいぼく》がコンモリとして|広《ひろ》く|展開《てんかい》してゐるのが|目《め》につき|出《だ》した。|此《この》|辺《へん》|一面《いちめん》は|森《もり》の|中《なか》も|外《そと》も|身《み》を|没《ぼつ》する|許《ばか》りの|萱《かや》がつまつてゐる。|又《また》|篠竹《しのだけ》や|小竹《こだけ》の|藪《やぶ》が|彼方此方《あなたこなた》に|散在《さんざい》してゐる。|併《しか》しながらランチ|将軍《しやうぐん》の|軍隊《ぐんたい》が|駐屯《ちゆうとん》してゐただけあつて、|可《か》なり|広《ひろ》い|道《みち》だけはあいて|居《ゐ》た。|二人《ふたり》はチガチガ|足《あし》をさせながらやつて|来《く》ると、|椿《つばき》の|根元《ねもと》に|高姫《たかひめ》が|泥《どろ》まぶれになり、|羽織《はおり》を|裏向《うらむ》けに|着《き》て、|大《おほ》きな|狸《たぬき》が|二匹《にひき》つき|添《そ》ひ、|椿《つばき》の|花《はな》をおとしては、|甘《うま》さうに|吸《す》うてゐる。|高姫《たかひめ》は、|竹切《たけぎ》れの|腐《くさ》つたやうな|穴《あな》のあいたのへ、|草《くさ》をむしつては|入《い》れ、|馬糞《ばふん》をつかんでは|捻《ね》ぢ|込《こ》み、|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて、わき|目《め》もふらず、|何《なに》かブツブツ|言《い》ひながら|竹筒《たけづつ》につめてゐる。
|初《はつ》『オイ、|高姫《たかひめ》が|誑《だま》されてゐるぢやないか。あれみよ、|大《おほ》きな|狸《たぬき》が|二匹《にひき》、|椿《つばき》の|木《き》をゆすつては|花《はな》を|吸《す》うてゐるぢやないか。そこへ|高姫《たかひめ》の|奴《やつ》、|着物《きもの》を|逆様《さかさま》に|着《き》やがつて、ありや|大方《おほかた》|騙《だま》されてゐるのかも|知《し》れぬぞ』
|徳《とく》『ホンニ ホンニ|大《おほ》きな|狸《たぬき》だなア。|暗《くら》がりに|俺達《おれたち》の|頭《あたま》をはつて|逃《に》げやがつた|罰《ばち》で、|古狸《ふるだぬき》にやられてるのだ。|放《ほ》つとけ|放《ほ》つとけ、いい|見物《みもの》だからなア』
|二人《ふたり》は|萱《かや》ン|坊《ばう》の|中《なか》に|身《み》を|隠《かく》し、|高姫《たかひめ》が、どんな|事《こと》をするか、あの|狸《たぬき》|奴《め》、どこへ|行《ゆ》きやがるかと、|目《め》を|放《はな》たず|見《み》てゐると、|狸《たぬき》は|椿《つばき》の|葉《は》を|口《くち》にくはへ、|花《はな》を|頭《あたま》に|被《かぶ》り、|三《み》つ|四《よ》つ|体《からだ》を|揺《ゆす》ると、|十四五《じふしご》の|何《なん》ともいへぬ|美《うつく》しい|乙女《をとめ》になつて|了《しま》つた。さうして|高姫《たかひめ》は|二人《ふたり》の|乙女《をとめ》に|手《て》を|曳《ひ》かれ、|目《め》をつぶつた|儘《まま》、|首《くび》を|切《しき》りにふつて、|或《ある》|立派《りつぱ》な|火《ひ》の|見《み》|櫓《やぐら》の|中《なか》に|引張《ひつぱ》られて|行《ゆ》くのであつた。|之《これ》を|見《み》た|両人《りやうにん》は、|狸《たぬき》の|化《ば》けるのに|上手《じやうず》なのを|非常《ひじやう》に|感心《かんしん》して、
|初《はつ》『オイ|徳《とく》、|高姫《たかひめ》の|奴《やつ》、あの|立派《りつぱ》な|火《ひ》の|見《み》|櫓《やぐら》の|中《なか》へ|引張《ひつぱ》られて|行《ゆ》きよつたぢやないか』
|徳《とく》『ウン、|確《たしか》に|行《ゆ》きよつた。|併《しか》し|狸《たぬき》の|奴《やつ》、|甘《うま》く|化《ば》けるものだな。|大方《おほかた》|高姫《たかひめ》は|一人《ひとり》は|杢助《もくすけ》、|一人《ひとり》は|蠑〓別《いもりわけ》|位《くらゐ》に|思《おも》つてるか|知《し》れぬぞ。|一《ひと》つ|後《あと》をつけて、|高姫《たかひめ》がどんな|事《こと》をしられよるか、|見《み》てやらうぢやないか』
『そら|面白《おもしろ》い、サア|行《ゆ》かう』
『そつと、|足音《あしおと》のせぬやうにして|行《ゆ》かぬと、|狸《たぬき》がカンづいたら|駄目《だめ》だぞ、|静《しづか》に|静《しづか》に』
と|二人《ふたり》は|差足《さしあし》|抜足《ぬきあし》しながら、|火《ひ》の|見《み》|櫓《やぐら》の|側《そば》に|立寄《たちよ》つて、|戸《と》の|節穴《ふしあな》から|覗《のぞ》いてみた。|見《み》れば|今《いま》まで|美人《びじん》に|化《ば》けてゐた|狸《たぬき》は、|又《また》もや|正体《しやうたい》を|現《あら》はし、|高姫《たかひめ》に|泥《どろ》を|掴《つか》んでかけたり、|木《き》の|葉《は》を|引付《ひつつ》けたり、いろいろとしてゐる。しまひには|萱《かや》の|刈《か》つた|奴《やつ》をドツサリ|抱《かか》へて|来《き》て、|高姫《たかひめ》の|身体《からだ》を|包《つつ》んで、|一度《いちど》にドツと|火《ひ》をつけた。|高姫《たかひめ》は|火焔《くわえん》の|中《なか》に|包《つつ》まれて、|苦《くる》しさうな|声《こゑ》を|出《だ》し、
『|助《たす》けてくれい、|助《たす》けてくれい』
と|呶鳴《どな》つてゐる。かうなつて|来《く》ると、|何程《なにほど》|憎《にく》い|高姫《たかひめ》でも、|人情《にんじやう》として|助《たす》けねばならぬ。|高姫《たかひめ》を|救《すく》ひ|出《だ》し、|二匹《にひき》のド|狸《たぬき》を|捕《いけど》りくれむと、|戸《と》を|蹴破《けやぶ》り、|矢庭《やには》に|飛込《とびこ》んだと|思《おも》へば、|二人《ふたり》は|糞壺《くそつぼ》の|中《なか》におち|込《こ》み、|頭《あたま》から|黄金《わうごん》を|浴《あ》びて、|山吹色《やまぶきいろ》の|活仏《いきぼとけ》となつて|了《しま》つた。
|初《はつ》『エー、クソいまいましい、|狸《たぬき》の|奴《やつ》、こんな|所《とこ》へ|落《おと》しやがつたぢやないか。オイ|徳《とく》、ここらで|清水《しみづ》が|湧《わ》いてをつたら、トツクリと|洗《あら》うて、|眉毛《まゆげ》に|唾《つば》をつけ、|此《この》|憎《につ》くき|狸《たぬき》を|平《たひら》げようぢやないか』
|徳《とく》『さうだ、|馬鹿《ばか》にしてけつかる、これでは|何《ど》うも|臭《くさ》くて|仕方《しかた》がない。いい|水《みづ》が|湧《わ》いとらぬものかなア。マア|兎《と》も|角《かく》、あの|椿《つばき》の|木《き》の|下《した》あたり、|行《い》つて|見《み》ようぢやないか。キツと|椿《つばき》の|木《き》のある|所《ところ》にや|溜池《ためいけ》のあるものだ。
|井底《ゐそこ》より|上《うへ》におち|来《く》る|椿《つばき》かな
と|云《い》つてな、|椿《つばき》の|花《はな》が|上《うへ》から|落《お》ちるのが、|水《みづ》に|映《うつ》つて、|池《いけ》の|底《そこ》から|上《うへ》へ|落《お》ちて|来《く》るやうに|見《み》えるものだ。|俺《おれ》も|一《ひと》つ|井戸《ゐど》をみつけて、|下《した》か|上《うへ》へ、|椿《つばき》ぢやないが、ドブンと|落《お》ちこみ、|肉体《にくたい》の|洗濯《せんたく》をして、それから|出《で》かけよう。|赤裸《まつぱだか》では|困《こま》るから、|暫《しばら》く、|乾《かわ》くまで、|此《この》|馬場《ばば》で|相撲《すまう》でも|取《と》つて|居《を》らなくちや、|寒《さむ》くて|辛抱《しんぼう》が|出来《でき》ぬぢやないか、ヤ、|案《あん》の|条《でう》|泉水《せんすい》があるぞ』
と、|今度《こんど》は|小便壺《せうべんつぼ》へ|糞《くそ》まぶれの|着物《きもの》ぐち|飛込《とびこ》み、バサバサと|振《ふ》り|落《おと》し、|漸《やうや》く|這《は》ひ|上《あが》り、|両人《りやうにん》はクルクルと|赤裸《まつぱだか》となつて、|石《いし》の|上《うへ》に|着物《きもの》をおいて、|捻《ね》ぢたり、|踏《ふ》んだり、|圧搾《あつさく》したりして、|漸《やうや》く|水気《すいき》を|落《おと》し、|傍《かたはら》の|木《き》の|枝《えだ》に|引懸《ひつか》け、それから|四股《しこ》をふんで、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|萱《かや》の|中《なか》で|相撲《すまう》を|取《と》つてゐる。|妖幻坊《えうげんばう》の|眷族《けんぞく》、|幻相坊《げんさうばう》、|幻魔坊《げんまばう》を|始《はじ》めとし、|沢山《たくさん》の|古狸《ふるだぬき》や|豆狸《まめだぬき》が|幾百千《いくひやくせん》とも|分《わか》らぬ|程《ほど》、|四辺《あたり》を|取巻《とりま》いて、|二人《ふたり》の|相撲見物《すまうけんぶつ》をやつてゐる。そこへ|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながらやつて|来《き》たのは、ランチ|将軍《しやうぐん》に|仕《つか》へてゐたケースであつた。ケースは……|大変《たいへん》な|大相撲《おほずまう》が|広《ひろ》い|馬場《ばば》に|始《はじ》まつてるなア、なんと|沢山《たくさん》の|見物《けんぶつ》だ、|俺《おれ》も|余《あま》り|急《いそ》ぐ|旅《たび》ぢやないから、|一《ひと》つ|見物《けんぶつ》して|行《ゆ》かうか、ロハの|相撲《すまう》なら|安《やす》いものだ……と|蓑笠《みのかさ》を|脱《ぬ》ぎすて、|金剛杖《こんがうづゑ》にもたれて、|沢山《たくさん》な|見物《けんぶつ》の|後《うしろ》の|方《はう》から|伸《の》び|上《あが》つて、|口《くち》をあけ「ワハハハワハハハ」と|笑《わら》ひ|興《きよう》じてゐた。|立変《たちかは》り|入変《いりかは》り、|古狸《ふるだぬき》が|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》を|相手《あひて》に|相撲《すまう》を|取《と》つてゐる。けれども|初《はつ》、|徳《とく》は|言《い》ふに|及《およ》ばず、ケースの|目《め》にも|人間《にんげん》とより|見《み》えなかつた。ケースは|俄《にはか》にどの|力士《りきし》も|取口《とりくち》が|下手《へた》なのに、|劫《ごふ》が|湧《わ》いて|堪《たま》らず……|俺《おれ》も|一《ひと》つ|飛入《とびい》りでやつてやらう……と|早《はや》くも|着物《きもの》をそこに|脱《ぬ》ぎ|棄《す》て、|褌《まはし》をしめ|直《なほ》し、|土俵《どへう》の|側《そば》に|飛出《とびだ》し、ドンドンと|四股《しこ》を|踏《ふ》み|鳴《な》らしてゐる。|数多《あまた》の|見物《けんぶつ》は|手《て》を|叩《たた》いて「ワアワア」とぞめいてゐる。ケースは|俺《おれ》が|今《いま》|出《で》たので、|何《なん》といふ|立派《りつぱ》な|体格《たいかく》だ、|彼奴《あいつ》が|出《で》たら、|此《この》|相撲《すまう》も|活気《くわつき》がつくだらうと|思《おも》うて、|田舎者《ゐなかもの》の|見物《けんぶつ》が|騒《さわ》いでゐやがるのだな、ヨーシ、|日《ひ》の|下《した》|開山《かいざん》|横綱《よこづな》のケースが|力量《りきりやう》をみせてやらう。|東《ひがし》から|出《で》ようか、|西《にし》から|出《で》ようか……|待《ま》てよ、|東《ひがし》は|智慧証覚《ちゑしようかく》の|優《すぐ》れた|者《もの》の|居《を》る|所《ところ》だ。さうすると、ヤツパリ|俺《おれ》は|東《ひがし》の|大関《おほぜき》と|惟神的《かむながらてき》にきまつてゐる……と|独言《ひとりごと》|云《い》ひながら、|東《ひがし》の|土俵《どへう》にドスンと|腰《こし》をおろし、|横綱気取《よこづなきどり》で|狸《たぬき》の|相撲《すまう》を「アハハハアハハハ」と|笑《わら》ひながら|見《み》てゐる。|春《はる》とはいふものの、まだ|何処《どこ》ともなしに|寒《さむ》くて|仕方《しかた》がない。|一《ひと》つ|相撲《すまう》でも|取組《とりく》まなくては|体温《たいをん》を|保《たも》つ|事《こと》が|出来《でき》ぬ。ぢやと|云《い》つて、|何《ど》うやら|三番勝負《さんばんしようぶ》になつたらしい。さうすると|此《この》|大関《おほぜき》も|順《じゆん》が|廻《まは》つて|来《く》るのは|日《ひ》の|暮《くれ》だらう。|三役《さんやく》が|今頃《いまごろ》から|裸《はだか》になつて|居《を》つても|詰《つま》らない。|今《いま》の|内《うち》に|着物《きもの》を|着《き》て、|俺《おれ》の|番《ばん》が|来《く》るまで|待《ま》たうかな、|併《しか》しながら|一旦《いつたん》|大勢《おほぜい》の|中《なか》で|赤裸《まつぱだか》になつたのだから、|後《あと》へ|引返《ひつかへ》して|着物《きもの》を|着《き》て|来《く》るのも、|力士《りきし》の|体面《たいめん》を|恥《はづか》しめるやうなものだ。ナアニ|構《かま》ふものか、ここが|辛抱《しんぼう》だ……と|我慢《がまん》してみたが、|体《からだ》|一面《いちめん》に|寒疣《さむいぼ》が|出《で》てガタガタ|慄《ふる》うて|来《く》る。「|此奴《こいつ》ア|四股《しこ》をふみ、|体中《からだぢう》に|力《ちから》を|入《い》れるに|限《かぎ》る」と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|腕《うで》を|固《かた》めドンドンと|四股《しこ》ばかり|踏《ふ》んでゐる。|漸《やうや》く|汗《あせ》がタラタラ|流《なが》れ|出《だ》した。|併《しか》し|今《いま》の|中《うち》にこれだけ|力《ちから》を|出《だ》して|了《しま》つたら、|肝腎《かんじん》の|俺《おれ》の|番《ばん》になつた|時《とき》は、モウ|力《ちから》の|品切《しなぎ》れになるかも|知《し》れぬぞ。マア|暫《しばら》く|休養《きうやう》しようかなア……とドスンと|東《ひがし》の|力士《りきし》の|席《せき》に|坐《すわ》り|込《こ》んだ。さうすると|行司《ぎやうじ》が|唐団扇《たううちは》を|持《も》つてやつて|来《き》た。
『モシ|貴方《あなた》は|飛《と》び|入《い》りで|厶《ござ》いますか』
『ウン、|飛込《とびこみ》だ』
『|何《なん》と|云《い》ふお|力士《すまう》さまで|厶《ござ》います』
『|俺《おれ》は|日《ひ》の|下《した》|開山《かいざん》、|野見《のみ》の|宿禰《すくね》の|再来《さいらい》、|摩利支天《まりしてん》の|兄弟分《きやうだいぶん》、|谷風《たにかぜ》、|小野川《をのがは》、|稲川《いながは》、|雷電為右衛門《らいでんためゑもん》、|出羽《では》の|海《うみ》|事《こと》|梅ケ谷《うめがたに》、|大錦《おほにしき》の|丈《ぢやう》|常陸山勝右衛門《ひたちやまかつゑもん》だ。|体量《たいりやう》はウソ|八百八十貫《はつぴやくはちじふはちくわん》|八百八十匁《はつぴやくはちじふめ》、|如何《いか》なる|者《もの》なりとも、|此《この》|方《はう》の|褌《まはし》に|手《て》をかけた|者《もの》は、ルーブル|紙幣《しへい》|百円《ひやくゑん》を|褒美《はうび》として|遣《つか》はす』
『ヤア、それは|随分《ずいぶん》|偉《えら》い|力士《りきし》が|来《き》て|下《くだ》さつたものです。|勧進元《くわんじんもと》もさぞ|満足《まんぞく》|致《いた》しませう。|併《しか》しながら、それ|程《ほど》お|強《つよ》いお|方《かた》にはお|相手《あひて》が|厶《ござ》いますまい。|誰《たれ》とお|相撲《すまう》をお|取《と》りなさいますか』
『ハハハ|誰《たれ》でもよい。|山門《さんもん》の|仁王《にわう》を|呼出《よびだ》し、それに|霊《れい》を|吹《ふ》きかけて、|活躍《くわつやく》させても|苦《くる》しうない。それでゆかねば、ゴライヤス、|五大力《ごだいりき》、まだ|足《た》らねば、|当麻蹴速《たいまのけはや》、それで|行《ゆ》かねば、|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》に|金毛九尾《きんまうきうび》、|妖幻坊《えうげんばう》、|誰《たれ》でもよいから、|強《つよ》いと|名《な》のついた|奴《やつ》には|相手《あひて》になつて|遣《つか》はす』
『|前《まへ》|以《もつ》て|貴方《あなた》のやうな|力士《りきし》がお|出《い》でになるといふ|事《こと》が|分《わか》れば、|相手方《あひてがた》を|願《ねが》つておくのでしたが、|余《あま》り|俄《にはか》の|事《こと》で、|一寸《ちよつと》|困《こま》ります。エー|此《この》|相撲《すまう》は|晴天《せいてん》|十日《とをか》|続《つづ》くの|厶《ござ》いますから、|今日《けふ》はお|控《ひか》へを|願《ねが》つて、|明日《あす》か|明後日《あさつて》あたり、|堂々《だうだう》と|土俵《どへう》に|上《あが》つて|貰《もら》ふ|訳《わけ》には|参《まゐ》りますまいかな』
『|折角《せつかく》|裸《はだか》になつたのだ。|武士《ぶし》が|刀《かたな》を|抜《ぬ》いたら、キツト|血《ち》を|見《み》なくちやをさまらぬと|同様《どうやう》に、|力士《りきし》が|裸《はだか》になつた|以上《いじやう》は、せめて|一番《いちばん》なりと|組合《くみあ》はなくては、|此《この》|儘《まま》に|下《さが》る|訳《わけ》には|参《まゐ》り|申《まを》さぬ。|孫悟空《そんごくう》でも|金角坊《きんかくばう》でも|銀角坊《ぎんかくばう》でもよいから、|一寸《ちよつと》|臨時《りんじ》|傭《やと》うて|来《き》てくれないか』
『ハイ、それなら|直様《すぐさま》、|飛行機《ひかうき》を|以《もつ》て、|金角坊《きんかくばう》さまを|願《ねが》つて|参《まゐ》りませう』
『エー、|凡《およ》そ|時間《じかん》は|幾《いく》ら|程《ほど》かかるかな。|余《あま》り|遅《おそ》くなると、こつちも|困《こま》るのだが』
『ハイ|半時《はんとき》|許《ばか》りお|待《ま》ちを|願《ねが》ひます。さうすれば|仮令《たとへ》|一万里《いちまんり》あらうとも、|魔法《まはふ》を|以《もつ》て|呼寄《よびよ》せます』
『ソリヤどうも|有難《ありがた》い、|早《はや》く|頼《たの》むぞ。イヤア、|腕《うで》がなる、|此《この》|腕《うで》の|持《も》つて|行《ゆ》きどころがないと|思《おも》うて|居《を》つたに、マアこれで|俺《おれ》の|男《をとこ》が|立《た》つといふものだ。|如何《いか》に|金角坊《きんかくばう》|魔術《まじゆつ》を|使《つか》ふとも|神力《しんりき》があるとも、|此《この》ケース|横綱《よこづな》の|腕《うで》つ|節《ぷし》を|以《もつ》て、|只《ただ》|一突《ひとつき》に|土俵《どへう》の|外《そと》へ、|蛙《かへる》をブツけたやうに|投出《なげだ》し、|忽《たちま》ち|大《だい》の|字《じ》を|地上《ちじやう》に|描《ゑが》く|大曲芸《だいきよくげい》、|此《この》|中《なか》には|随分《ずいぶん》|美人《びじん》も|沢山《たくさん》|居《を》る。キツト|俺《おれ》の|力量《りきりやう》を|見《み》たならば|惚《ほ》れるだらう……|相撲取《すもうとり》を|男《をとこ》にもち、|江戸《えど》|長崎《ながさき》|国々《くにぐに》へ|行《ゆ》かんしやんした|其《その》|後《あと》で、|夫《をつと》に|怪我《けが》のないやうと、|妙見様《めうけんさま》へ|精進《しやうじん》を……なんて、ぬかすナイスが|一《いち》ダースや|二《に》ダース|飛《と》び|出《だ》すに|違《ちが》ひない。さうすりや|俺《おれ》もチツと|困《こま》らぬでもないが、|其《その》|中《うち》から|互選《ごせん》をさして、|最高点者《さいかうてんしや》を|女房《にようばう》にするのだなア。|其《その》|上《うへ》|堂々《だうだう》と|祠《ほこら》の|森《もり》を|越《こ》え、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ、|日《ひ》の|下《した》|開山《かいざん》の|御参拝《ごさんぱい》だ。まだ|斎苑《いそ》の|館《やかた》へは、|沢山《たくさん》|人《ひと》は|参詣《さんけい》するけれど、|日《ひ》の|下《した》|開山《かいざん》|横綱《よこづな》の|力士《りきし》が|参《まゐ》るのは|初《はじ》めてだらう、エヘヘヘヘ、|面白《おもしろ》うなつて|来《き》たぞよ、オホホホホ』
とシクシク|原《ばら》に|尻《しり》を|下《おろ》し、|得意《とくい》になつて、|一人《ひとり》|笑壺《ゑつぼ》に|入《い》つてゐる。|立《た》ちかはり|入《い》りかはり、|幾十組《いくじつくみ》ともなく、|痩《や》せた|力士《りきし》や|腹《はら》ばかり|大《おほ》きな|不恰好《ぶかつかう》な|奴《やつ》が|土俵《どへう》に|現《あら》はれては、|脆《もろ》くも|倒《たふ》れる|可笑《をか》しさ。|初《はつ》、|徳《とく》の|二人《ふたり》は|尻《しり》を|紫色《むらさきいろ》に|腫《は》らかした|儘《まま》、かはるがはる|土俵《どへう》へ|上《あが》つては|取組《とりく》んでゐる。ケースは……
『あの|尻《しり》の|黒《くろ》い|男《をとこ》、|消《け》しでもないのに、|何遍《なんべん》でも|出《で》やがる。|其《その》|癖《くせ》|余《あま》り|強《つよ》い|力士《りきし》ではない。|此奴《こいつ》ア|怪《け》しからぬ、|一《ひと》つ|行司《ぎやうじ》に|掛合《かけあ》つて|見《み》ようかなア……オイオイ|行司《ぎやうじ》、|一寸《ちよつと》|尋《たづ》ねたい|事《こと》がある。あの|尻《しり》の|紫《むらさき》とも|墨《すみ》とも|分《わか》らぬやうな|力士《りきし》、|二人《ふたり》に|限《かぎ》つて|何遍《なんべん》でも|取《と》つ|組《く》み|合《あは》せをするぢやないか、あら|何《ど》うしたものだい。|俺《おれ》だとて|彼奴《あいつ》が|出《で》られるならば、|出《で》られない|筈《はず》がないぢやないか』
『ハイ、あの|方《かた》は|相撲気違《すまうきちがひ》ですから、|特別《とくべつ》に|許《ゆる》してあるのですよ。|年寄《としより》|連中《れんちう》も、|彼奴《あいつ》は|此《この》|土地《とち》|切《き》つての|顔役《かほやく》でもあり、|力強《ちからづよ》でもあるから、|言《い》ふ|通《とほ》りしておかねば、|後《あと》が|面倒《めんど》いといふので、|相撲道《すまうだう》の|規則《きそく》には|反《そむ》きますが、これも|地方《ちはう》の|状況《じやうきやう》によつて、|止《や》むを|得《え》ず|取《と》らして|居《を》ります。|随分《ずいぶん》|強《つよ》い|男《をとこ》でせうがな』
『ウン、|相当《さうたう》に|強《つよ》いな、|併《しか》し|外《ほか》の|奴《やつ》が|弱《よわ》いから|強《つよ》く|見《み》えるのだ』
『|貴方《あなた》とはどんなものでせうな』
『さうだ、|到底《たうてい》|相撲《すまう》にならぬワイ。|併《しか》しながら、|俺《おれ》も|斯《か》うチヨコナンと、|見役《みやく》ばかりしてゐるのも|手持無沙汰《てもちぶさた》だから、|頼《たの》みとあれば、|彼奴《あいつ》|二人《ふたり》を|向《むか》ふへ|廻《まは》し、|取《と》つてみてもいい』
『ああ|左様《さやう》で|厶《ござ》いますか。それなら、|一《ひと》つ|年寄《としより》と|相談《さうだん》を|致《いた》します。|一寸《ちよつと》|待《ま》つてゐて|下《くだ》さいませ』
と|行司《ぎやうじ》は|頭取《とうどり》の|席《せき》に|走《はし》り|行《ゆ》き、|何《なん》だかブシヤ ブシヤと|話《はなし》をし、|又《また》|東《ひがし》の|席《せき》へ|飛《と》んで|来《き》て、|頭取《とうどり》や|年寄《としより》と|囁《ささや》き、ケースの|前《まへ》に|現《あら》はれ、
『ヤ、エー、|頭取《とうどり》や|年寄衆《としよりしう》が|賛成《さんせい》です。|何卒《どうぞ》|一《ひと》つ|取組《とりく》んでみて|下《くだ》さい。そして|貴方《あなた》のお|名乗《なのり》は|余《あま》りお|長《なが》いやうですが、|何《なん》とか|簡単《かんたん》なお|名《な》をつけて|頂《いただ》きませぬかな』
『|摩利支天《まりしてん》でも|仁王ケ岳《にわうがたけ》、ゴライアスでもいいぢやないか』
『それなら|貴方《あなた》は|浮木《うきき》の|森《もり》と|云《い》ふ|名《な》を|付《つ》けたらどうでせう』
『ウン、そら|結構《けつこう》だ、どうぞ|頼《たの》むよ』
『ハイ』
と|行司《ぎやうじ》は|答《こた》へて、|土俵《どへう》に|上《あが》り、|唐団扇《たううちは》をふつて、
『|東《ひがし》イ|浮木《うきき》の|森《もり》、|西《にし》イ|負田山《まけたやま》|並《ならび》に|転田山《こけたやま》ツ、|二人《ふたり》|一度《いちど》に|日《ひ》の|下《した》|開山《かいざん》、|浮木《うきき》の|森《もり》に|消《け》しがかり』
|見物《けんぶつ》は|雨霰《あめあられ》の|如《ごと》くピシヤ ピシヤ ピシヤと|手《て》を|拍《う》ち、|各自《かくじ》に|狸《たぬき》の|腹鼓《はらつづみ》をうつて、ワアワアと|喚《わめ》き|立《た》てた。|初《はつ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》は、
『ヤア|面白《おもしろ》い、|新手《あらて》が|来《き》よつた、|俺達《おれたち》|両人《りやうにん》は|彼奴《あいつ》を|十六俵《じふろくぺう》の|土俵《どへう》の|外《そと》へ|投出《なげだ》し、|大喝采《だいかつさい》を|受《う》けねばなるまい。|馬鹿《ばか》らしい、|二人《ふたり》も|一緒《いつしよ》にかかるのは、|一人《ひとり》に|限《かぎ》るよ』
と|囁《ささや》きながら、|土俵《どへう》に|上《のぼ》る。|先《ま》づ|初公《はつこう》は|西方《にしがた》に|現《あら》はれ、|四股《しこ》|踏《ふ》みならし、|砂《すな》を|手《て》に|掬《すく》うて|体《からだ》にぬりつけ、|両方《りやうはう》から|猫《ねこ》の|狙《ねら》ふやうな|調子《てうし》で|呼吸《こきふ》をはかつてゐる。|行司《ぎやうじ》は「ヤツ」と|団扇《うちは》をひいた。ペタペタペタと|四《よつ》つに|組《く》んだが、|何《なん》だか|負田山《まけたやま》の|体《からだ》がヌルヌルしてゐて|臭《くさ》くて|堪《たま》らない。されど|大法螺《おほぼら》を|吹《ふ》いた|手前《てまへ》、|此奴《こいつ》を|倒《たふ》さねば|男《をとこ》が|立《た》たぬと、ケースは|一生懸命《いつしやうけんめい》に|押《お》して|行《ゆ》く。|糞《くそ》まぶれの|一方《いつぱう》の|体《からだ》はヌルヌルと|鰌《どぜう》の|如《ごと》く|鰻《うなぎ》のやうに|辷《すべ》る|所《ところ》へ、スカシをくつて、|土俵《どへう》の|中央《まんなか》へ、うつ|向《む》けに|倒《たふ》れ、|口《くち》に|砂《すな》を|一杯《いつぱい》|頬張《ほほば》り、|歯《は》から|血《ち》が|滲《にじ》み|出《だ》した。|行司《ぎやうじ》は|団扇《うちは》を|西《にし》の|方《はう》へ|上《あ》げた。|見物《けんぶつ》は|一度《いちど》にワアイ ワアイと|喚《わめ》く。ケースはむかついて|堪《たま》らず、|死物狂《しにものぐるひ》となつて、|四本柱《しほんばしら》を|引抜《ひきぬ》き、|縦横無尽《じうわうむじん》に|負田山《まけたやま》、|転田山《こけたやま》の|二人《ふたり》に|向《むか》つて|打《う》ちかかる。|二人《ふたり》も|亦《また》|同《おな》じく|柱《はしら》を|引抜《ひきぬ》き、|前後左右《ぜんごさいう》に|荒《あ》れ|狂《くる》ひ、|遂《つひ》には|力《ちから》|尽《つ》きて|三人《さんにん》|其《その》|場《ば》にドツと|倒《たふ》れて|了《しま》つた。|彼方《あちら》にも|此方《こちら》にもポンポンポンと|鼓《つづみ》の|声《こゑ》、これは|沢山《たくさん》の|豆狸《まめだぬき》が|腹鼓《はらつづみ》を|打《う》つて|笑《わら》ひながら、|各《おのおの》|古巣《ふるす》へ|帰《かへ》り|行《ゆ》く|声《こゑ》であつた。
(大正一二・一・二七 旧一一・一二・一一 松村真澄録)
第一八章 |糞奴使《ふんどし》〔一三三三〕
『|文明花発三千国《ぶんめいのはなひらくさんぜんこく》
|道術元通九万天《どうじゆつもとつうずきうまんのてん》。
|時節花明三月雨《じせつはなあきらかなりさんぐわつのあめ》
|風流酒洗百年塵《ふうりうのさけはあらふひやくねんのちり》。
|黙然坐通古今《もくぜんざしてつうじここんに》
|天地人共進退《てんちじんともにしんたいす》。
|片々霊碁一局《へんぺんのれいごいつきよく》
|家々灯天下花《いへいへのあかりてんかのはな》。
|北玄武従亥去《きたのげんぶよりゐさり》
|東青竜自子来《ひがしのせいりうよりねきたる》。
|去者去来者来《さるものはさりきたるものはきたる》
|有限時万邦春《いうげんのときばんぽうのはる》』
と|救世教主《きうせいけうしゆ》の|詠《よ》んだ|詩《し》を|吟《ぎん》じながら|朧月夜《おぼろづきよ》の|光《ひかり》を|浴《あ》びて、|草鞋脚絆《わらぢきやはん》に|身《み》を|固《かた》め、|蓑笠《みのかさ》|金剛杖《こんがうづゑ》の|扮装《いでたち》にてやつて|来《き》たのは、ランチ|将軍《しやうぐん》の|副官《ふくくわん》たりしガリヤであつた。|道《みち》の|傍《かたはら》に|新《あたら》しき|墓《はか》が|沢山《たくさん》に|並《なら》んでゐる。ガリヤは|陣中《ぢんちう》に|於《おい》て|浮木《うきき》の|森《もり》のマリーと|云《い》ふ|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》に|慕《した》はれ、|滞陣中《たいぢんちう》は|間《ま》がな|隙《すき》がな|密会《みつくわい》を|続《つづ》けて|居《ゐ》た。マリーとの|関係《くわんけい》がついたのは、ランチ|将軍《しやうぐん》が|命令《めいれい》を|下《くだ》して、|四辺《あたり》の|女《をんな》は|老幼《らうえう》の|区別《くべつ》なく|残《のこ》らず|引捕《ひつとら》へて|陣中《ぢんちう》に|連《つ》れ|行《ゆ》き、|炊事《すゐじ》|其《その》|外《ほか》の|軍務《ぐんむ》に|就《つ》かしめむためであつた。|此《この》|時《とき》ガリヤは|其《その》|役目《やくめ》に|当《あた》つて、マリーの|家《いへ》にふみ|込《こ》み|来《きた》り|老人《らうじん》|夫婦《ふうふ》に、
『|此《この》|村《むら》の|女《をんな》は|残《のこ》らず|軍務《ぐんむ》に|徴集《ちようしふ》さるべし。|就《つ》いては|炊事《すゐじ》のみならず、|数多《あまた》の|猛悪《まうあく》なる|兵士《へいし》に|凌辱《りようじよく》を|受《う》くる|惧《おそれ》あれば、|今宵《こよひ》の|中《うち》に|女《をんな》は|残《のこ》らず|逃《に》げ|去《さ》れ』
と|親切《しんせつ》に|云《い》つて|呉《く》れた。マリーの|父《ちち》は|此《この》|村《むら》の|里庄《りしやう》であつた。|直《ただ》ちに|村《むら》に|其《その》|由《よし》を|内通《ないつう》し、|勝手《かつて》|覚《おぼ》えし|山道《やまみち》を|辿《たど》り、|或《あるひ》は|小北山《こぎたやま》|又《また》は|思《おも》ひ|思《おも》ひにパンを|負《お》うて|山林《さんりん》に|身《み》を|隠《かく》したのである。マリーは、ガリヤの|親切《しんせつ》な|計《はか》らひによつて、|村中《むらぢう》の|女《をんな》は|危難《きなん》を|救《すく》はれたのだ、|自分《じぶん》は、
『|村中《むらぢう》の|女《をんな》を|代表《だいへう》し|人身御供《ひとみごく》に|上《のぼ》つても|構《かま》はぬ。|況《いは》んやバラモンの|軍人《ぐんじん》とは|云《い》へ、|之《これ》|位《くらゐ》やさしき|武士《ぶし》が|何処《どこ》にあらうか。|自分《じぶん》も|夫《をつと》を|持《も》つならば|斯様《かやう》な|武士《ぶし》と|添《そ》ひ|度《た》いものだ……』
と|妙《めう》な|処《ところ》へ|同情《どうじやう》を|起《おこ》し、|早《はや》くバラモン|軍《ぐん》が|自分《じぶん》を|捕縛《ほぼく》に|来《き》てくれまいかと、|両親《りやうしん》の|止《と》めるのも|諾《き》かず|只《ただ》|一人《ひとり》|家《いへ》に|待《ま》つてゐたのである。そして|幸《さいは》ひに|此《この》マリーの|家《いへ》はガリヤの|宿所《しゆくしよ》と|定《さだ》められたのである。ガリヤは|他《た》の|同僚《どうれう》が|一人《ひとり》も|女《をんな》を|連《つ》れてゐないのに、|自分《じぶん》のみ|女《をんな》を|侍《はべ》らして|居《を》つては|将軍《しやうぐん》の|手前《てまへ》は|如何《いかが》と|気遣《きづか》ひ、|倉《くら》の|中《なか》に|忍《しの》ばせて|隙《すき》ある|毎《ごと》に|密会《みつくわい》を|続《つづ》けてゐたのである。|然《しか》るにマリーは|身体《しんたい》|日《ひ》に|日《ひ》に|痩衰《やせおとろ》へ、|遂《つひ》には|鬼籍《きせき》に|入《い》つた。そこでガリヤは|夜《よる》|密《ひそ》かにマリーの|死骸《しがい》を|此《この》|墓所《はかしよ》に|葬《はうむ》り、|目標《もくへう》を|建《た》てて|置《お》いたのである。|俄《にはか》に|適当《てきたう》な|目標《もくへう》もないので|外《ほか》の|墓《はか》の|石《いし》を|逆様《さかさま》に|立《た》て、|何時《いつ》か|時《とき》を|見《み》て|立派《りつぱ》に|祀《まつ》つてやらうと|思《おも》つてゐる|矢先《やさき》、|治国別《はるくにわけ》に|帰順《きじゆん》したのである。ガリヤはクルスの|森《もり》で|百日《ひやくにち》の|薫陶《くんたう》を|受《う》け、それよりテームス|峠《たうげ》に|於《おい》て、|又《また》もや|第二回《だいにくわい》の|薫陶《くんたう》を|授《さづ》かり、|治国別《はるくにわけ》の|添書《てんしよ》を|得《え》て、ケースと|共《とも》に|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|修業《しゆげふ》に|行《ゆ》く|途中《とちう》であつた。|彼《かれ》は|一度《いちど》マリーの|墓《はか》に|詣《まゐ》り|弔《とむら》つてやらねばならぬ、それにはケースと|同道《どうだう》しては|都合《つがふ》が|悪《わる》いと|思《おも》つたので、
『|一寸《ちよつと》|其《その》|辺《へん》まで|芋《いも》を|埋《い》けに|行《い》つて|来《く》る、|君《きみ》は|一足先《ひとあしさき》へ|行《い》つてくれ、|何《いづ》れ|浮木《うきき》の|森《もり》で|追付《おつつ》くから……』
とうまくケースをまいて|自分《じぶん》は|谷川《たにがは》に|入《い》り、|水《みづ》をいぢり|或《あるひ》は|蟹《かに》を|追《お》ひかけ|等《など》して|日《ひ》を|暮《くら》し、|東《ひがし》の|空《そら》からボンヤリとした|月《つき》の|出《で》たのを|幸《さいは》ひ、|此処《ここ》までやつて|来《き》たのである。ガリヤはマリーの|墓《はか》に|近《ちか》づき、|涙《なみだ》ながら|述懐《じゆつくわい》して|云《い》ふ。
『|水色《みづいろ》の|月光《げつくわう》は|流《なが》れ
|真青《まつさを》に|墓《はか》は|並《なら》び|立《た》つ
ああされどマリーの|君《きみ》よ
|君《きみ》は|情焔《じやうえん》の|人魚《にんぎよ》に|非《あら》ず
|死《し》を|願《ねが》ひつつ|墓《はか》を|抱《いだ》き
|吾《われ》を|見捨《みす》てて|遠《とほ》く|行《ゆ》きましぬ
|後《あと》に|残《のこ》りし|吾《わが》|身《み》は
|潛々《さめざめ》と|涙《なみだ》を|濺《そそ》ぐ
|君《きみ》の|心《こころ》の|紅絹《こうけん》は
ガリヤの|心《こころ》を|巡《めぐ》り
やがて|桃色《ももいろ》の|雰囲気《ふんゐき》は
あたりを|包《つつ》む
されど|青《あを》き|墓《はか》は
|地《ち》に|影《かげ》さへも|動《うご》かさず
|君《きみ》の|姿《すがた》のみ|幻《まぼろし》の|如《ごと》く|月《つき》にふるひぬ
ああ|花《はな》は|半開《はんかい》にして|散《ち》りぬ
|惜《を》しむべきかな|桃色《ももいろ》の|頬《ほほ》
|月《つき》の|眉《まゆ》、|雪《ゆき》の|肌《はだ》
|一度《いちど》|見《み》まく|欲《ほ》りすれど
|一度《いちど》|君《きみ》に|会《あ》はまく|欲《ほ》りすれど
|今《いま》は|詮《せん》なし|諸行無常《しよぎやうむじやう》
|是生滅法《ぜしやうめつぼう》|生滅々已《しやうめつめつち》
|寂滅為楽《じやくめつゐらく》|頓生菩提《とんしようぼだい》と
|弔《とむら》ふ|吾《われ》を
|仇《あだ》には|棄《す》てな|桃色《ももいろ》の|君《きみ》よ』
と|慨歎《がいたん》|久《ひさ》しうし、|形《かたち》ばかりの|墓場《はかば》に|涙《なみだ》を|濺《そそ》ぎ、|残《のこ》り|惜《を》しげに|墓場《はかば》を|辞《じ》し、|又《また》もや|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら、|風《かぜ》|薫《かを》る|朧夜《おぼろよ》の|月《つき》を|浴《あ》びて|進《すす》み|行《ゆ》く。
『|四方《よも》の|山々《やまやま》|春《はる》めきて |吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》も|暖《あたた》かく
|今《いま》を|盛《さか》りと|咲《さ》き|匂《にほ》ふ マリーに|似《に》たる|桃《もも》の|花《はな》
|三月三日《さんぐわつみつか》の|今日《けふ》の|宵《よひ》 |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御教《みをしへ》を
|頸《うなじ》に|受《う》けてトボトボと |天津御空《あまつみそら》に|照《て》りもせず
|曇《くも》りもやらぬ|春《はる》の|夜《よ》の |朧月夜《おぼろづきよ》の|風光《ふうくわう》に
|如《し》くものなしと|誰《た》が|言《い》うた |吾《われ》は|心《こころ》もかき|曇《くも》り
|朧《おぼろ》の|月《つき》を|眺《なが》むれば |千々《ちぢ》に|物《もの》こそ|思《おも》はるれ
|嘆《かこ》ち|顔《がほ》なる|吾《わが》|涙《なみだ》 |乾《かわ》く|暇《ひま》なき|夜《よる》の|旅《たび》
|定《さだ》めなき|世《よ》と|云《い》ひながら |花《はな》を|欺《あざむ》くマリー|嬢《ぢやう》
|吾《われ》を|見捨《みす》てて|墓《はか》を|越《こ》え |幽冥界《いうめいかい》に|旅立《たびだ》ちぬ
|悔《くや》めど|帰《かへ》らぬ|恋《こひ》の|仲《なか》 |神《かみ》や|仏《ほとけ》は|坐《ま》さぬかと
|思《おも》はず|知《し》らず|愚痴《ぐち》が|出《で》る |汝《なれ》をば|慕《した》ふ|吾《わが》|心《こころ》
|仇《あだ》に|聞《き》くなよマリー|嬢《ぢやう》 |向《むか》ふに|見《み》ゆるは|浮木《うきき》の|里《さと》か
|印象《いんしやう》|益々《ますます》|深《ふか》くして |恋《こひ》に|逍《さまよ》ふ|益良夫《ますらを》の
|心《こころ》の|空《そら》は|烏羽玉《うばたま》の |暗夜《やみよ》とこそはなりにけり
ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|惑《まど》ひ|来《きた》りし|恋雲《こひぐも》を |晴《は》らさせ|給《たま》へ|三五《あななひ》の
|皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に |謹《つつし》み|敬《うやま》ひ|祈《ね》ぎまつる
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|大地《だいち》は|仮令《たとへ》|沈《しづ》むとも |星《ほし》は|空《そら》より|落《お》つるとも
|神《かみ》に|任《まか》せし|此《この》|体《からだ》 |三五教《あななひけう》の|御為《おんため》に
|尽《つく》さにや|置《お》かぬ|益良夫《ますらを》の ひきて|返《かへ》らぬ|桑《くは》の|弓《ゆみ》
|弥猛心《やたけごころ》を|何処《どこ》までも |貫《つらぬ》き|通《とほ》す|神《かみ》の|道《みち》
|進《すす》ませ|給《たま》へ|惟神《かむながら》 |神《かみ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎまつる』
と|歌《うた》ひながら|椿《つばき》の|花《はな》|咲《さ》く|木蔭《こかげ》までスタスタやつて|来《き》た。
ガリヤは|椿《つばき》の|下《もと》の|天然《てんねん》の|石《いし》のベンチに|腰《こし》を|打掛《うちか》け、|火打《ひうち》を|取出《とりだ》し|煙草《たばこ》を|燻《くす》べながら、|浮木《うきき》の|森《もり》の|彼方《あなた》を|眺《なが》め|感慨無量《かんがいむりやう》の|息《いき》を|洩《も》らしてゐる。
『|有為転変《うゐてんぺん》は|世《よ》の|習《なら》ひ、|変《かは》れば|変《かは》るものだな。|僅《わづ》か|四ケ月《しかげつ》|以前《いぜん》にはバラツク|式《しき》の|陣営《ぢんえい》が|沢山《たくさん》に|建《た》て|並《なら》べられてあつたが、|何時《いつ》の|間《ま》にやら、|大《だい》なる|城廓《じやうくわく》が|建《た》つてゐるやうだ。はて、|何人《なんぴと》の|住宅《すまゐ》であらうか。|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|事《こと》だな』
と|独語《ひとりご》ちつつ|目《め》をつぶつて|考《かんが》へ|込《こ》んでゐる。|何《なん》だか|間近《まぢか》の|方《はう》から|人声《ひとごゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》る。ガリヤはツと|立《た》つて|人声《ひとごゑ》を|当《あて》に|月《つき》に|透《す》かしながら|探《さぐ》り|寄《よ》つた。|見《み》れば|三人《さんにん》の|男《をとこ》が|萱《かや》の|茂《しげ》つた|中《なか》に|真裸《まつぱだか》となつて|四這《よつばひ》となり、|思《おも》ひ|思《おも》ひの|事《こと》を|囀《さへづ》つてゐる。
『はて|不思議《ふしぎ》だ。|春《はる》とは|云《い》へど|夜分《やぶん》はまだ|寒《さむ》い。それに|何《なん》ぞや、|斯様《かやう》な|萱草《かやくさ》の|中《なか》に|荒男《あらをとこ》が|而《しか》も|三人《さんにん》、|何《なに》をして|居《ゐ》るのだらう。ハハア|大方《おほかた》、|浮木《うきき》の|森《もり》の|豆狸《まめだぬき》につままれよつたのだらう。|一《ひと》つ|気《き》をつけてやらねばなるまい』
と|思《おも》つたが、|又《また》|思《おも》ひ|直《なほ》して、
『|待《ま》て|待《ま》て|彼等《かれら》|三人《さんにん》の|言《い》ひ|草《ぐさ》を|聞《き》いてから、|何者《なにもの》だと|云《い》ふ|事《こと》の、|凡《およ》その|見当《けんたう》をつけてからでなくては、|如何《いか》なる|災難《さいなん》に|遇《あ》ふかも|知《し》れない。まづ|凡《すべ》ての|掛合《かけあひ》は|相手《あひて》を|知《し》るが|第一《だいいち》だ』
と|思《おも》ひ|直《なほ》して|杖《つゑ》にもたれて|覗《のぞ》く|様《やう》にして|考《かんが》へ|込《こ》んでゐた。
|裸《はだか》の|一《いち》『おい、|転田山《こけたやま》、あの|摩利支天《まりしてん》と|云《い》ふ|奴《やつ》、|口《くち》ほどにない|弱味噌《よわみそ》だな。|俺《おれ》の|反《そり》にかかりやがつて、|土俵《どへう》のド|中央《まんなか》にふん|伸《の》びた|時《とき》の|態《ざま》と|云《い》つたらなかつたぢやないか』
|裸《はだか》の|二《に》『|貴様《きさま》は|負田山《まけたやま》だと|名乗《なの》つてゐるが|妙《めう》に|強《つよ》かつたぢやないか。|大方《おほかた》|向《むか》ふが|力負《ちからまけ》したのかも|知《し》れないのう』
『|馬鹿《ばか》|云《い》へ。|俺《おれ》が|強《つよ》うて|向《むか》ふが|弱《よわ》かつたのだ。|弱《よわ》いものが|負《ま》けると|云《い》ふのは|何万年《なんまんねん》|経《た》つたつてきまつた|規則《きそく》だ。|然《しか》し、|彼奴《あいつ》は|吃驚《びつくり》しやがつて|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げたぢやないか』
『ナーニ、そこに|居《ゐ》るぢやないか。アー、|臭《くさ》い|臭《くさ》い|貴様《きさま》、|屁《へ》を|垂《た》れやがつたな。|俄《にはか》に|臭《くさ》くなりやがつたぞ』
『|馬鹿《ばか》|云《い》へ、|貴様《きさま》も|臭《くさ》いわ。|最前《さいぜん》から|何《なん》だか|臭《くさ》いと|思《おも》つたが、よう|考《かんが》へりや|相撲《すまう》に|呆《はう》けて|忘《わす》れて|居《ゐ》たが、|古狸《ふるだぬき》に|撮《つま》まれて|糞壺《くそつぼ》へ|貴様《きさま》と|俺《おれ》とが|落《お》ち|込《こ》み、|椿《つばき》の|下《した》の|泉《いづみ》で|衣服《きもの》を|洗《あら》ひ、|木《き》に|掛《か》けて|乾《かわ》かす|間《ま》に、|寒《さむ》さ|凌《しの》ぎに|相撲《すまう》を|始《はじ》めたぢやなかつたかね』
『ウン、さう|云《い》ふと、そんな|気《き》も……する|様《やう》だ。|此《この》|体《からだ》が|臭《くさ》いのは|洗《あら》ひが|足《た》らなかつたのに|違《ちが》ひないぞ。|何程《なにほど》|雑兵《ざふひやう》だと|云《い》つても、こんなに|臭《くさ》い|筈《はず》はないからな』
|裸《はだか》の|三《さん》『こりや、|二人《ふたり》の|奴《やつ》、|貴様《きさま》は|狸《たぬき》に|騙《だま》されよつたのだな。|馬鹿《ばか》だな』
|裸《はだか》の|一《いち》『アハハハハハ、あれ|程《ほど》|沢山《たくさん》の|相撲取《すもうとり》や|見物《けんぶつ》が|来《き》て|居《を》つたのは|皆《みな》|狸《たぬき》だ。オイ|何処《どこ》の|奴《やつ》か|知《し》らぬが、|弱相撲《よわずまう》、|貴様《きさま》だつてヤツパリ|騙《だま》されて|居《を》つたのだよ』
|裸《はだか》の|三《さん》『|馬鹿《ばか》|云《い》へ。|俺《おれ》は|貴様《きさま》と|相撲《すまう》とつたのだ。|貴様《きさま》こそ|狸《たぬき》を|相手《あひて》に|挑《いど》み|合《あ》つてゐたのだよ。あれほど|沢山《たくさん》|居《を》つたが、|人間《にんげん》はただの|三人《さんにん》より|居《ゐ》なかつたと|見《み》える。|本当《ほんたう》に|馬鹿《ばか》の|寄合《よりあ》ひだな。オイ、|貴様《きさま》の|本名《ほんみやう》は|何《なん》と|云《い》ふのか。|負田山《まけたやま》、|転田山《こけたやま》では、テーンと|分《わか》らぬぢやないか』
『|俺《おれ》の|本名《ほんみやう》が|聞《き》きたくば、|貴様《きさま》から|名告《なの》れ、そしたら|云《い》ひ|聞《き》かしてやらう』
『|俺《おれ》の|名《な》を|聞《き》いて|驚《おどろ》くな。バラモン|軍《ぐん》のランチ|将軍《しやうぐん》が|副官《ふくくわん》ケースの|君《きみ》だぞ』
『|何《なん》だ、そんな|肩書《かたがき》をふり|廻《まは》したつて|今時《いまどき》|通用《つうよう》しないぞ。|某《それがし》こそは|三五教《あななひけう》の|未来《みらい》の|宣伝使《せんでんし》|初公別命《はつこうわけのみこと》だ。もう|一人《ひとり》は|徳公別命《とくこうわけのみこと》だぞ』
ケース『お|名《な》を|承《うけたま》はりまして|初《はじ》めて|呆《あき》れ|返《かへ》りました。|如何《いか》にも|下賤《げせん》|愚劣《ぐれつ》のお|方《かた》で|厶《ござ》るな』
|初《はつ》『きまつたことだ。|神変不思議《しんぺんふしぎ》の|力《ちから》を|有《いう》する、|何《ど》うしても|解《げ》せぬ|男《をとこ》だらう。|酒《さけ》を|飲《の》めば【グレツ】く|事《こと》は|天下《てんか》の|名人《めいじん》だ。|小北山《こぎたやま》の|初公《はつこう》と|云《い》ふより|下賤《げせん》|愚劣《ぐれつ》と|云《い》つた|方《はう》が、よく|通《とほ》つてるからな、アハハハハ』
ガリヤは、
『ハハア、ケースの|奴《やつ》、|狸《たぬき》にチヨロまかされ|相撲《すまう》とりよつたのだな。そして|糞壺《くそつぼ》へはまつた|奴《やつ》と|取組《とりく》みよつたと|見《み》える。|何《なん》だか|臭《くさ》くなつて|来《き》たぞ。|一《ひと》つ|大声《おほごゑ》を|出《だ》して|呶鳴《どな》り、|眼《め》を|醒《さま》してやらなくちや|駄目《だめ》だ』
と|云《い》ひながら|臍下丹田《せいかたんでん》に|息《いき》をつめ(|大声《おほごゑ》)『ウー』と|発声《はつせい》した。|三人《さんにん》は|猛獣《まうじう》の|襲来《しふらい》かと|早合点《はやがてん》し、|赤裸《まつぱだか》の|儘《まま》ノタノタと|這《は》ひ|出《だ》し、|何《いづ》れも|云《い》ひ|合《あは》した|様《やう》に|椿《つばき》の|根元《ねもと》に|集《あつま》つて|了《しま》つた。
ガリヤ『オイ、お|前《まへ》はケースぢやないか。|拙者《せつしや》はガリヤだ。|何《なん》だ、こんな|処《ところ》へ|赤裸《まつぱだか》になりよつて……』
ケース『ウン、|兄貴《あにき》か、もう|一足《ひとあし》|早《はや》く|来《く》ればよかつたにな。|大変《たいへん》|狸相撲《たぬきずまう》がはづんでゐたよ、アハハハハ』
|初《はつ》『エヘヘヘヘ』
|徳《とく》『|臭《くさ》い|臭《くさ》い|臭《くさ》い、ウツフフフフ、|糞面白《くそおもしろ》うもない。|糞《ばば》にされて|了《しま》つた』
ケース『|揃《そろ》ひも|揃《そろ》つて|臭《くさ》い|野郎《やらう》だな』
ガリヤ『アハハハハ、ああもう|夜《よ》が|明《あ》けた』
|三人《さんにん》は|泥《どろ》まぶれの|顔《かほ》をして|其処等《そこら》を|見《み》まはした。|糞《くそ》まぶれの|着物《きもの》は|異様《いやう》の|臭気《しうき》を|放《はな》ち、|傍《かたはら》の|青木《あをき》の|枝《えだ》に|烏《からす》の|死《し》んだのを|水《みづ》に|漬《つ》けた|様《やう》な|形《かたち》になつてブラ|下《さが》つて|居《ゐ》る。|椿《つばき》の|下《もと》の|清泉《せいせん》は……と|覗《のぞ》いて|見《み》れば|臭気《しうき》|紛々《ふんぷん》たる|肥壺《こえつぼ》であつた。|金色《こんじき》の|蠅《はい》がブンブンと|四人《よにん》の|顔《かほ》を|目標《めあて》に|襲撃《しふげき》し、|目《め》をせせつたり|鼻《はな》の|穴《あな》へ|潜伏《せんぷく》したり、|口《くち》の|角《かど》などを|頻《しき》りにいぢり|出《だ》した。
『|此奴《こいつ》ア|堪《たま》らぬ』
とガリヤ|及《およ》び|三人《さんにん》の|裸《はだか》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|北《きた》へ|北《きた》へと|逃《に》げて|行《ゆ》く。
(大正一二・一・二七 旧一一・一二・一一 北村隆光録)
第一九章 |偽強心《ぎきやうしん》〔一三三四〕
ガリヤはケースに、
『どこで|着物《きもの》を|脱《ぬ》いだか』
と|尋《たづ》ねて|見《み》た。ケースは、
『あまり|相撲《すまう》に|呆《はう》けてゐたので、|脱《ぬ》ぎ|場所《ばしよ》を|忘《わす》れた。|大方《おほかた》|狸《たぬき》の|野郎《やらう》くはへて|去《い》んだのだらう』
と|答《こた》へた。
『それでも|何処《どこ》かにあるだらう』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》|探《さが》して|見《み》たが、|杖《つゑ》が|一本《いつぽん》あるばかりで|着物《きもの》らしいものはない。
ケース『|此奴《こいつ》|狸《たぬき》の|奴《やつ》、|敷物《しきもの》にしようと|思《おも》つて、|狸穴《まみあな》へくはへて|行《い》きよつたのだなア。えー|残念《ざんねん》だ』
と|歯《は》ぎしりしながら|北《きた》へ|北《きた》へと|進《すす》んで|行《い》つた。|丁度《ちやうど》|一間巾《いつけんはば》ばかりの|青藻《あをも》を|被《かぶ》つた|川流《かはなが》れがある。そして|深《ふか》さは|四寸《しすん》|位《ぐらゐ》|平均《へいきん》になつてゐる。|三人《さんにん》は|交代《かたみ》に|川《かは》に|横《よこ》たはり、|水《みづ》を|淀《よど》めて|川端《かはばた》の|草《くさ》を|千切《ちぎ》り、|手拭《てぬぐひ》に|代用《だいよう》して|体中《からだぢう》を|擦《こす》り、|臭気《しうき》を|漸《やうや》くにして|洗《あら》ひ|落《おと》した。
ケース『さア、|之《これ》で|裸百貫《はだかひやくくわん》だ。|人間《にんげん》はここ|迄《まで》|落《お》ちぶれなくちや|力《ちから》が|分《わか》らない。|之《これ》から|一日々々《いちにちいちにち》|暖《あたた》かくなるのだから|裸《はだか》でも|結構《けつこう》だ。おい|初公別《はつこうわけ》、|徳公別《とくこうわけ》、|急《いそ》いで|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|参《まゐ》る|事《こと》にしよう』
|初《はつ》『おい|徳《とく》、|小北山《こぎたやま》へ|寄《よ》れば、|古着《ふるぎ》の|一枚《いちまい》|位《ぐらゐ》は|何《なん》とか|云《い》つて|貰《もら》へるだらうけれど、|一寸《ちよつと》|義理《ぎり》の|悪《わる》い|事《こと》がしてあるので、こんな|時《とき》には|立寄《たちよ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かぬわ。ああ|困《こま》つたな』
と|手《て》を|組《く》んで|思案《しあん》をしてゐる。|何処《どこ》ともなくフワリフワリと|笠《かさ》に|蓑《みの》、|衣類《いるゐ》などが|三人前《さんにんまへ》|降《ふ》つて|来《き》た。|三人《さんにん》は|手早《てばや》く|拾《ひろ》ひとり、よくよく|見《み》れば|自分《じぶん》の|着物《きもの》だ。そして|何時《いつ》の|間《ま》にか、カラカラに|乾《かわ》き、|何程《なにほど》|嗅《か》いで|見《み》ても|臭気《しうき》は|除《の》いてゐる。そして|強《きつ》い|糊《のり》をしたものかパチパチに|固《かた》くなつてゐる。
|初《はつ》『ハハア、|狸《たぬき》の|奴《やつ》、|神様《かみさま》に|叱《しか》られよつて|到頭《たうとう》|洗濯《せんたく》をやりよつたのだな。のう|徳《とく》、これだから|信仰《しんかう》はやめられぬのだ』
|徳《とく》は|嬉《うれ》し|涙《なみだ》を|零《こぼ》し|両手《りやうて》を|合《あは》せて、
『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|感謝《かんしや》してゐる。|然《しか》し|其《その》|実《じつ》は|菰《こも》の|半《なかば》|腐《くさ》つたのが|立派《りつぱ》な|衣服《いふく》に|見《み》えてゐたのである。|三人《さんにん》は|嬉《うれ》しさうにチヤンと|着替《きか》へ、
『さア、|之《これ》で|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。|愈《いよいよ》|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|行《ゆ》かう』
|初《はつ》、|徳《とく》|両人《りやうにん》は|慌《あわ》てて|引《ひ》き|留《と》め、
|初《はつ》『もしもし、|貴方《あなた》、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい。|三五教《あななひけう》の|強敵《きやうてき》がこの|近辺《きんぺん》に|隠《かく》れてゐるに|違《ちが》ひありませぬから、|一遍《いつぺん》|其奴《そいつ》を|平《たひら》げておいでになつたら|如何《どう》です。|貴方等《あなたら》もよい|土産《みやげ》になりますよ』
ガリヤ『|三五教《あななひけう》の|強敵《きやうてき》とは|誰《たれ》の|事《こと》ですか』
『|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|総務《そうむ》をやつて|居《を》つた|時置師神《ときおかしのかみ》の|杢助《もくすけ》と|宣伝使《せんでんし》の|高姫《たかひめ》と|云《い》ふ|奴《やつ》です。|彼奴《あいつ》、|此《この》|頃《ごろ》|大変《たいへん》な|謀叛《むほん》を|起《おこ》して|居《を》りますよ』
『|治国別《はるくにわけ》の|先生《せんせい》から|承《うけたま》はれば、|高姫《たかひめ》さまは|何《ど》うも|怪《あや》しいが、|杢助《もくすけ》さまは|三五教《あななひけう》の|柱石《ちうせき》だと|聞《き》いてゐたのに、それは|又《また》|妙《めう》な|事《こと》を|承《うけたま》はるものだな』
『それが|猫《ねこ》を|被《かぶ》つてるのですよ。|祠《ほこら》の|森《もり》の|聖場《せいぢやう》を|占領《せんりやう》せむとして|尻尾《しつぽ》を|出《だ》し、|高姫《たかひめ》と|夫婦《ふうふ》となつて|小北山《こぎたやま》へ|逃《に》げ|来《きた》り、|小北山《こぎたやま》の|聖場《せいぢやう》で|又《また》もや|謀叛《むほん》を|企《たく》み、|神力《しんりき》にうたれて|逃《に》げ|出《だ》し|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|御宝物《ごはうもつ》、|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》を|奪《うば》ひ|取《と》つて|逃《に》げて|来《き》よつたのです。|何《ど》うしてもあの|宝《たから》を|取返《とりかへ》さなくては、|三五教《あななひけう》も|玉《たま》ぬけですからな』
ケース『|何《なに》、そんな|事《こと》があつたのか。|何《ど》うも|人間《にんげん》と|云《い》ふものは|分《わか》らぬものだな。ガリヤさま、こいつは|一《ひと》つ|聞《き》き|棄《ず》てにはなりませぬぞ。|此《この》|両人《りやうにん》を|案内者《あんないしや》として、|何処《どこ》に|居《を》らうとも|彼奴《きやつ》の|在処《ありか》を|索《もと》め、その|宝《たから》を|奪《うば》ひ|返《かへ》して|行《ゆ》かなくては|吾々《われわれ》の|役《やく》が|済《す》みますまい』
ガリヤ『そりや、さうです。おい|御両君《ごりやうくん》、その|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》は|何方《どちら》へ|行《い》つたかな』
|徳《とく》『|怪志《あやし》の|森《もり》から|此方《こちつ》へスタスタと|二三日前《にさんにちまへ》に|走《はし》つて|来《き》よつたのです。|此処《ここ》は|一筋街道《ひとすぢみち》だから、|貴方《あなた》|怪《あや》しいものに|出会《であ》ひませぬか。|五十《ごじふ》|位《くらゐ》な|女《をんな》と|同年輩《どうねんぱい》の|大男《おほをとこ》と|二人《ふたり》ですよ』
ケース『ガリヤさま、|根《ね》つから、そんなものに|出会《であ》ひませぬな。さうすると|此《この》|浮木《うきき》の|森《もり》の|奥《おく》の|方《はう》の|小山《こやま》にでも|隠《かく》れてゐるのかも|知《し》れませぬぜ。|兎《と》も|角《かく》|吾々《われわれ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|探《さが》さうぢやありませぬか』
ガリヤ『|承知《しようち》しました。|初《はつ》さま、|徳《とく》さま、さア|之《これ》から|此《この》|萱野ケ原《かやのがはら》を|探《さが》して|見《み》ませう。|吾々《われわれ》の|声《こゑ》を|聞《き》いて|恐《おそ》れをなし、|潜伏《せんぷく》してるかも|知《し》れませぬよ。|然《しか》し|之《これ》だけ|広《ひろ》い|原野《げんや》なり、|萱《かや》も|伸《の》びてゐるから、|互《たがひ》に|連絡《れんらく》を|図《はか》つて、|五間《ごけん》|以上《いじやう》|離《はな》れない|様《やう》にして|探《さが》しませう』
『ハイ、|宜《よろ》しからう』
と|評議《ひやうぎ》|一決《いつけつ》し、|萱草《かやくさ》の|生《は》え|茂《しげ》つたのを|小口《こぐち》おしに|探《さが》しつつ、|奥《おく》へ|奥《おく》へと|進《すす》み|入《い》つた。
|後《うしろ》の|方《はう》から、
『オーイ オーイ』
と|甲声《かんごゑ》を|出《だ》して|招《まね》くものがある。|四人《よにん》は|後《あと》|振返《ふりかへ》り|見《み》れば、|一人《ひとり》は|十二三《じふにさん》、|一人《ひとり》は|十六七《じふろくしち》の|綺麗《きれい》な|娘《むすめ》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|道傍《みちばた》の|高《たか》い|石《いし》の|上《うへ》から|差招《さしまね》いてゐる。|初公《はつこう》は|耳《みみ》を|傾《かたむ》け、
『やアあの|声《こゑ》はお|千代《ちよ》さまにお|菊《きく》さまだ。こりや|何《なに》か|変《かは》つた|事《こと》が|出来《でき》たに|違《ちが》ひない。おい|徳《とく》、|一先《ひとま》づ|後《あと》へ|帰《かへ》らう。もし|御両人《ごりやうにん》、|御苦労《ごくらう》だが|暫《しばら》く|後《あと》へ|引返《ひきかへ》して|下《くだ》さるまいか』
『|何《なに》は|兎《と》もあれ|引返《ひきかへ》しませう』
とケース、ガリヤは|二人《ふたり》の|後《あと》について、|少女《せうぢよ》の|立《た》つてる|岩《いは》の|前《まへ》まで|漸《やうや》く|帰《かへ》つて|来《き》た。
|初《はつ》『お|前《まへ》はお|千代《ちよ》さまに、お|菊《きく》さまぢやないか。|俺《おれ》を|呼《よ》び|止《と》めたのは|何《なに》か|急用《きふよう》でも|出来《でき》たのか』
|千代《ちよ》『|別《べつ》に|急用《きふよう》でもありませぬが、|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》の|両人《りやうにん》が|此《この》|浮木《うきき》の|森《もり》にあの|通《とほ》り|立派《りつぱ》な|陣屋《ぢんや》を|構《かま》へ、|魔法《まはふ》を|使《つか》うて|俄《にはか》に|城廓《じやうくわく》を|造《つく》り、|町《まち》まで|拵《こしら》へて|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》を|小口《こぐち》から|引張《ひつぱ》り|込《こ》みますので、|松姫《まつひめ》さまが|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》を|説《と》き|諭《さと》さうと|云《い》つてお|出《いで》になりました。|私《わたし》も|跟《つ》いて|行《い》つたのだが、|忽《たちま》ち|松姫《まつひめ》|様《さま》を|牢《らう》の|中《なか》へぶち|込《こ》んで|了《しま》ひました。|私《わたし》は|裏口《うらぐち》から|脱《ぬ》け|出《だ》して|此処《ここ》まで|逃《に》げて|来《き》たのですよ。|初《はつ》さま、|徳《とく》さま、|何卒《どうぞ》|松姫《まつひめ》さまを|助《たす》けに|行《い》つて|貰《もら》ふ|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬだらうかな』
『オイ、|徳《とく》、|如何《どう》しよう』
『さうだなア、|松姫《まつひめ》がさうなれば、|一層《いつそう》の|事《こと》|俺達《おれたち》は|後《あと》へ|帰《かへ》つて|小北山《こぎたやま》で|頑張《ぐわんば》らうぢやないか』
『そんな|無茶《むちや》な|事《こと》が|出来《でき》るかい。|何《なん》とかして|松姫《まつひめ》さまをお|助《たす》け|申《まを》し、|今《いま》までの|御無礼《ごぶれい》をお|詫《わび》して、もとの|通《とほ》り|使《つか》つて|貰《もら》はうぢやないか。これがお|詫《わび》のよい|仕時《しどき》だ』
ガリヤ『これこれ|娘《むすめ》さま、|松姫《まつひめ》さまと|云《い》ふのはお|前《まへ》の|先生《せんせい》かな』
お|菊《きく》『ハイ、|小北山《こぎたやま》の|教主《けうしゆ》で|松彦《まつひこ》さまと|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|夫《をつと》があるのよ』
『ヤア、そりや|如何《どう》してもお|助《たす》け|申《まを》さなくちやなるまい。|松彦《まつひこ》さまには|大変《たいへん》なお|世話《せわ》になつたのだからな。さア|行《ゆ》かう、ケース』
『やア|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、|浮木《うきき》の|森《もり》は|私《わたし》は|勝手《かつて》を|知《し》つてるのだ。|牢《らう》の|在処《ありか》も|何《なに》も|彼《か》も|手《て》にとる|如《ごと》くだから、さア|一働《ひとはたら》きやらう』
|千代《ちよ》『|何卒《どうぞ》お|母《かあ》さまを|助《たす》けて|下《くだ》さいませ。|妾《わたし》が|案内《あんない》を|致《いた》します』
ケース『ハ、|宜《よろ》しい|宜《よろ》しい、|心配《しんぱい》しなさるな。お|前《まへ》は|泣《な》いてゐるぢやないか。ヤ、|無理《むり》もない、お|母《かあ》さまがそんな|目《め》に|遇《あ》つたのだからな。|然《しか》し|吾々《われわれ》が|駆《か》け|込《こ》む|上《うへ》は|大丈夫《だいぢやうぶ》だから、|心配《しんぱい》なさるな。さア|初《はつ》さま、|徳《とく》さま、|行《ゆ》かうぢやないか』
『|賛成《さんせい》|々々《さんせい》』
とここに|四人《よにん》の|男《をとこ》と|二人《ふたり》の|女《をんな》は、|浮木《うきき》の|森《もり》の|曲輪城《まがわじやう》の|表門《おもてもん》をさして|足《あし》を|早《はや》めて|進《すす》み|行《ゆ》く。|大門口《おほもんぐち》に|進《すす》めば、|向《むか》ふより|綾錦《あやにしき》を|纒《まと》うた|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》が|七八人《しちはちにん》、|手《て》に|籠《かご》を|持《も》ちながら、|菫《すみれ》を|摘《つ》み|蒲公英《たんぽぽ》をむしりつつ、|何事《なにごと》か|嬉《うれ》しげに|囁《ささや》きながらやつて|来《き》た。|其《その》|華《はな》やかさ、|淑《しと》やかさに|四人《よにん》の|男《をとこ》は|魂《たましひ》を|宙《ちう》に|飛《と》ばして|見惚《みと》れて|居《ゐ》る。
(大正一二・一・二七 旧一一・一二・一一 北村隆光録)
第二〇章 |狸姫《たぬきひめ》〔一三三五〕
ガリヤ、ケース|他《ほか》|四人《よにん》は|大門《おほもん》を|潜《くぐ》つた。さうして|天女《てんによ》のやうな|八人《はちにん》の|美人《びじん》の|姿《すがた》に|見惚《みと》れて|居《ゐ》た。その|中《なか》で|一番《いちばん》|年《とし》かさと|思《おぼ》しき|女《をんな》、|揉《も》み|手《て》をしながら|言葉《ことば》|優《やさ》しく、
『これはこれは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、ようこそお|出《い》で|下《くだ》さいました。|妾《わらは》は|如意王《によいわう》の|娘《むすめ》|初花姫《はつはなひめ》と|申《まを》します』
ガリヤ『イヤ|吾々《われわれ》は|宣伝使《せんでんし》では|厶《ござ》いませぬ。これより|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|修業《しゆげふ》に|参《まゐ》り、|旨《うま》く|合格《がふかく》すれば|初《はじ》めて|宣伝使《せんでんし》になるので|厶《ござ》います。さうして|私《わたし》が|三五教《あななひけう》だと|云《い》ふ|事《こと》は、どうしてお|分《わか》りになりましたか』
『ハイ、|四ケ月《しかげつ》|以前《いぜん》より|月《つき》の|国《くに》コーラン|国《ごく》から|此処《ここ》まで|国替《くにがへ》を|致《いた》しまして、|俄造《にはかづく》りの|城廓《じやうくわく》を|拵《こしら》へ|住《す》まつて|居《を》ります。|今《いま》まではウラル|教《けう》で|厶《ござ》いましたが、バラモン|教《けう》に|追立《おひた》てられ|此方《こちら》に|参《まゐ》りました|所《ところ》、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》がお|出《いで》になり、いろいろと|御教訓《ごけうくん》|下《くだ》さいましたので、|両親《りやうしん》は|直《ただ》ちに|三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》し、|今《いま》は|熱心《ねつしん》な|信者《しんじや》で|厶《ござ》います。さうして|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|奥殿《おくでん》にお|留《とど》まりになり、|結構《けつこう》なお|話《はなし》を|聞《き》かして|下《くだ》さるのだから、|城内《じやうない》|一般《いつぱん》の|喜《よろこ》びは|譬《たとへ》がたない|程《ほど》で|厶《ござ》います。さうして|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|言葉《ことば》には、|三五教《あななひけう》の|方《かた》が|三四人《さんよにん》|見《み》えると|云《い》ふ|事《こと》で|厶《ござ》いましたから、|侍女《じぢよ》を|連《つ》れ、|此処《ここ》までお|迎《むか》へ|旁《かたがた》|遊《あそ》びながら|参《まゐ》りました。サア|御遠慮《ごゑんりよ》はいりませぬ、|何卒《どうぞ》お|通《とほ》り|下《くだ》さいませ』
『ヤアそれは|願《ねが》うてもない|事《こと》で|厶《ござ》る。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は|既《すで》に|宣伝《せんでん》の|途《と》に|上《のぼ》られ、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|参《まゐ》つても|到底《たうてい》|御面会《ごめんくわい》は|叶《かな》ふまいと|覚悟《かくご》をして|居《ゐ》ました。|此処《ここ》で|御目《おめ》に|懸《かか》れるとは|全《まつた》く|神様《かみさま》の|御引《おひ》き|合《あは》せ、イヤ|是非《ぜひ》ともお|世話《せわ》に|預《あづ》かりませう』
ケース『|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は|四ケ月前《しかげつぜん》まで、バラモン|軍《ぐん》の|棟梁《とうりやう》ランチ|将軍《しやうぐん》の|副官《ふくくわん》を|致《いた》して|居《を》りましたガリヤ、ケースで|厶《ござ》ります。|何時《いつ》の|間《ま》にか|立派《りつぱ》な|建築《けんちく》が|出来《でき》たぢやありませぬか』
『|昼夜兼行《ちうやけんかう》で|数万《すうまん》の|人夫《にんぷ》を|使役《しえき》し、やつと|此《この》|頃《ごろ》|出来上《できあが》つた|所《ところ》です。|御覧《ごらん》の|通《とほ》りまだ|壁《かべ》も|乾《かわ》いて|居《を》りませぬ』
『|成程《なるほど》さう|承《うけたま》はれば、どこともなしに|生々《なまなま》しいやうな|気分《きぶん》がする。|併《しか》しながら|昨冬《さくとう》|此処《ここ》に|陣取《ぢんど》つて|居《ゐ》た|事《こと》を|思《おも》へば、|木《き》の|芽《め》はめぐみ、|草《くさ》は|萌《も》え、まるで|地獄《ぢごく》から|天国《てんごく》へ|行《い》つたやうな|気《き》が|致《いた》します』
『サア|皆《みな》さま、|私《わたし》が|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう』
|初《はつ》『もし|姫様《ひめさま》、|折角《せつかく》|機嫌《きげん》よくお|遊《あそ》びの|途中《とちう》になつては|済《す》みませぬ。|放《ほ》つて|置《お》いて|下《くだ》さいませ。|併《しか》し|一寸《ちよつと》|物《もの》をお|尋《たづ》ね|致《いた》しますが、このお|館《やかた》には|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》と|云《い》ふ|両人《りやうにん》が|大将《たいしやう》となつて|頑張《ぐわんば》つて|居《ゐ》ると|聞《き》きましたが、|如何《いかが》で|厶《ござ》いませうか』
『ハイ、|杢助様《もくすけさま》と|高姫《たかひめ》|様《さま》がお|越《こ》しになり、ウラナイ|教《けう》とやらを|非常《ひじやう》にお|説《と》きになつて|居《ゐ》ます。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|話《はなし》を|聞《き》いて、|次《つぎ》に|御両人《ごりやうにん》のお|話《はなし》を|聞《き》きますと、それはそれは|詳《くは》しう|分《わか》ります。つまり|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は、ほんの|概略《あらまし》を|仰有《おつしや》るなり、|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》|様《さま》は|噛《か》んで|含《ふく》めるやうに|細《こま》かう|説《と》いて|聞《き》かして|下《くだ》さるので、どちらの|方《かた》にもお|世話《せわ》になつて|居《を》ります』
|徳《とく》『エエ|一寸《ちよつと》|承《うけたま》はりたいですが、|此《この》お|館《やかた》に|小北山《こぎたやま》の|教主《けうしゆ》|松姫《まつひめ》|様《さま》が、|牢獄《らうごく》に|打《う》ち|込《こ》まれお|苦《くる》しみとの|事《こと》、それは|事実《じじつ》で|厶《ござ》いますか。|今《いま》ここに|松姫《まつひめ》の|娘《むすめ》、お|千代《ちよ》さまと|云《い》ふのが、|泣《な》いて|吾々《われわれ》に|頼《たの》まれましたから、|実否《じつぴ》を|探《さぐ》らむと|参《まゐ》つたのです。|何卒《どうぞ》|包《つつ》み|匿《かく》さず|事実《じじつ》を|仰有《おつしや》つて|貰《もら》ひたいものですな』
『ハイ、|何《なん》でも|松姫《まつひめ》さまとかが|見《み》えまして、|大変《たいへん》な、|高姫《たかひめ》|様《さま》、|杢助様《もくすけさま》との|間《あひだ》に|争論《さうろん》が|起《おこ》つて|居《ゐ》たやうです。|其《その》|後《ご》は、どうなつたか|妾《わらは》は|存《ぞん》じませぬ。|大方《おほかた》|仲直《なかなほ》りが|出来《でき》たかと|存《ぞん》じます』
|千代《ちよ》『イエ|皆《みな》さま、お|母《かあ》さまは|牢《らう》の|中《なか》へ|打《ぶ》ち|込《こ》まれたのよ。さうして|此《この》|初花姫《はつはなひめ》さまに|化《ば》けて|居《ゐ》るのは、|妖幻坊《えうげんばう》の|眷族《けんぞく》ですから|用心《ようじん》なさいませ。|私《わたし》だつてこんなものよ』
と|云《い》ふより|早《はや》く|獅子《しし》のやうな|古狸《ふるだぬき》となつて、ノソリノソリと|奥《おく》を|目蒐《めが》けて|這《は》ひ|込《こ》んで|了《しま》つた。お|菊《きく》は|又《また》もや、
『をぢさま|左様《さやう》なら、|私《わたし》の|正体《しやうたい》はこれだわ』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|以前《いぜん》のやうな|大狸《おほだぬき》となつて|又《また》もや|駆《か》け|込《こ》んで|了《しま》ふ。
|四人《よにん》の|男《をとこ》は|不審《ふしん》に|堪《た》へず、|初花姫《はつはなひめ》の|正体《しやうたい》を|見届《みとど》け|呉《く》れむと、|眼《まなこ》を|怒《いか》らして|目《め》ばなしもせず|睨《にら》んで|居《ゐ》た。
『ホホホホ、まア|皆《みな》さまの|六《む》つかしいお|顔《かほ》、サウ|睨《にら》んで|頂《いただ》くと|私《わたし》の|顔《かほ》に|穴《あな》があきますよ。この|浮木《うきき》の|森《もり》には|古狸《ふるだぬき》が|居《ゐ》まして、チヨイチヨイ ワザを|致《いた》しますので、それを|防《ふせ》ぐために|三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》をお|祀《まつ》りして|居《を》るので|厶《ござ》いますよ。|貴方等《あなたがた》の|御神力《ごしんりき》によつてあの|可愛《かあい》らしい|女《をんな》の|正体《しやうたい》が|現《あら》はれたのですよ。|何《なに》が|化《ば》けて|居《ゐ》るのか|分《わか》つたものぢやありませぬ。ほんに|化物《ばけもの》の|世《よ》の|中《なか》ですからな。|妾《わらは》も|何《なに》かの|変化《へんげ》ぢやないか、よく|調《しら》べて|下《くだ》さい』
ガリヤ『イヤ|決《けつ》して|決《けつ》して|貴女《あなた》は|疑《うたが》ひませぬ。|併《しか》し|浮木《うきき》の|森《もり》は|妖怪《えうくわい》の|巣窟《さうくつ》ですから、|斯様《かやう》な|所《ところ》へお|館《やかた》をお|建《た》てになれば、|随分《ずいぶん》|狸《たぬき》の|巣《す》がなくなるから、ワザを|致《いた》しませう』
『ハイ|父《ちち》も|困《こま》つて|居《ゐ》ますの、|自分《じぶん》の|小間使《こまづかひ》だと|思《おも》つて|居《を》れば、|毛《け》だらけの|手《て》を|出《だ》したりして|仕方《しかた》がありませぬ。|何卒《どうぞ》|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|居《ゐ》られますから、あの|方《かた》と|力《ちから》を|合《あは》せて|妖怪退治《えうくわいたいぢ》をして|下《くだ》さい。|高姫《たかひめ》さま、|杢助《もくすけ》さまも|何《なん》だか|怪《あや》しいやうな|気《き》がします。|中《なか》にも|杢助《もくすけ》さまなぞは|耳《みみ》がペロペロ|動《うご》くのですもの』
ケース『|成程《なるほど》、|吾々《われわれ》も|実《じつ》は|狸《たぬき》に|化《ば》かされ、|真裸《まつぱだか》になつて|相撲《すまう》を|取《と》らされて|来《き》ましたよ、なア|初《はつ》さま、|徳《とく》さま、アハハハハハ』
『ホホホホ、|本当《ほんたう》に|悪《わる》い|狸《たぬき》が|沢山《たくさん》|居《ゐ》ますので、|何《なん》とかして|退治《たいぢ》せねばならないと|申《まを》して|沢山《たくさん》の|家来《けらい》を|四方《よも》に|遣《つか》はし|狩立《かりた》てましたけれど、|到底《たうてい》|人間《にんげん》の|力《ちから》ではいけませぬ。|神力《しんりき》|高《たか》き|御方《おかた》の|法力《ほふりき》に|依《よ》らねば|駄目《だめ》だと|申《まを》し、|俄《にはか》に|信仰《しんかう》を|致《いた》したので|厶《ござ》います。サア|斯様《かやう》な|所《ところ》で|立話《たちばなし》をして|居《ゐ》ては|詮《つま》りませぬ。|何卒《どうぞ》|奥《おく》へ|行《い》つて|休息《きうそく》して|下《くだ》さいませ』
ガリヤ『|然《しか》らば|遠慮《ゑんりよ》なく|御厄介《ごやつかい》になりませう』
と|幾《いく》つかの|門《もん》を|潜《くぐ》つて|玄関口《げんくわんぐち》についた。
『サア|何卒《どうぞ》お|入《はい》り|下《くだ》さいませ。|俄作《にはかづく》りで|準備《じゆんび》も|整《ととの》はず、|不都合《ふつがふ》の|家《いへ》で|厶《ござ》います』
ケース『いやどうも|有難《ありがた》う、|実《じつ》に|立派《りつぱ》な|御殿《ごてん》で|厶《ござ》います。|以前《いぜん》とは|面目《めんぼく》を|一新《いつしん》し、|吾々《われわれ》が|駐屯《ちゆうとん》して|居《ゐ》た|時《とき》の|面影《おもかげ》は|少《すこ》しも|厶《ござ》いませぬ。まるで|別世界《べつせかい》へ|行《い》つたやうで|厶《ござ》います』
ガリヤ『サア|皆《みな》さま、|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》つて|通《とほ》らして|頂《いただ》きませう』
『ハイ』
と|一同《いちどう》は|初花姫《はつはなひめ》|他《ほか》|七人《しちにん》の|美女《びぢよ》に|後先《あとさき》を|守《まも》られて、|奥《おく》へ|奥《おく》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。|観音開《くわんのんびら》きの|庫《くら》のやうな|一室《いつしつ》に|請《しやう》ぜられた。|以前《いぜん》にランチ、|片彦《かたひこ》|両人《りやうにん》が|請《しやう》ぜられた|居間《ゐま》である。|五脚《ごきやく》の|椅子《いす》が|丸《まる》いテーブルを|中《なか》にして|行儀《ぎやうぎ》よく|並《なら》べてある。さうして|随分《ずいぶん》|広《ひろ》い|居間《ゐま》であつた。|初花姫《はつはなひめ》は|四人《よにん》を|案内《あんない》し|各《おのおの》|椅子《いす》に|着《つ》かしめた。|四人《よにん》は|何《なん》とはなしに|気分《きぶん》のよい|居間《ゐま》だと、|満足《まんぞく》の|体《てい》で|安全椅子《あんぜんいす》に|凭《もた》れかかり、|欄間《らんま》の|彫刻《てうこく》などを|眺《なが》めて|頻《しき》りに|褒《ほ》めちぎつて|居《ゐ》る。|初花姫《はつはなひめ》は、
『|一寸《ちよつと》|父《ちち》に|報告《はうこく》を|致《いた》して|来《き》ますから、|皆《みな》さま|此処《ここ》で|御休息《ごきうそく》を|願《ねが》ひます。|左様《さやう》なら』
と|軽《かる》く|挨拶《あいさつ》して|七人《しちにん》の|侍女《こしもと》を|伴《ともな》ひ|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》つた。|四人《よにん》は|八人《はちにん》の|女《をんな》の|綺麗《きれい》な|事《こと》や、|何《なん》ともなしに|淑《しと》やかな|事《こと》、どれもこれも|優劣《いうれつ》のない|美人《びじん》なる|事《こと》などを|涎《よだれ》を|垂《た》らして|語《かた》り|合《あ》つて|居《ゐ》る。|初公《はつこう》は|思《おも》ひだしたやうに、
『|皆《みな》さま、|吾々《われわれ》はかうして|結構《けつこう》な|座敷《ざしき》に|休《やす》んで|居《ゐ》るのもよいが、|此処《ここ》へ|来《き》た|目的《もくてき》は|松姫《まつひめ》さまを|救《すく》ひ|出《だ》す|為《ため》ではなかつたかなア』
ガリヤ『そりやさうだつた。|併《しか》しお|千代《ちよ》、お|菊《きく》と|云《い》ふ|奴《やつ》、|劫《ごふ》|経《へ》た|狸《たぬき》の|正体《しやうたい》を|現《あら》はしよつたぢやないか。あれから|見《み》ると|吾々《われわれ》は|一寸《ちよつと》|狸《たぬき》に|騙《だま》されよつたのだ。さうすると、あいつの|云《い》ふ|事《こと》は|当《あて》にならぬ。|松姫《まつひめ》|様《さま》の|此処《ここ》に|囚《とら》はれて|居《ゐ》るのは|全《まつた》く|嘘《うそ》だと|思《おも》ふが、|君《きみ》|達《たち》はどう|思《おも》ふ』
『サア』
と|三人《さんにん》は|首《くび》を|捻《ひね》つて|居《ゐ》る。そこへ|光《ひか》つたものを|衣服《いふく》|一面《いちめん》に|鏤《ちりば》めた|妙麗《めうれい》の|美人《びじん》が、ドアを|開《ひら》いてニコニコしながらやつて|来《き》た。|最前《さいぜん》|見《み》た|初花姫《はつはなひめ》|以下《いか》も|美《うつく》しかつたが、これは|又《また》|素的滅法界《すてきめつぽふかい》のナイスである。そして|背《せ》は|少《すこ》し|高《たか》く、どこともなしに|犯《おか》すべからざる|威厳《ゐげん》が|備《そな》はつてゐる。|四人《よにん》は|思《おも》はずハツと|頭《かしら》を|下《さ》げ|敬意《けいい》を|表《へう》した。|美人《びじん》は|一脚《いつきやく》の|空椅子《からいす》に|腰《こし》を|下《おろ》し|淑《しと》やかに、
『|妾《わらは》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|初稚姫《はつわかひめ》で|厶《ござ》います。よくまアお|越《こ》し|下《くだ》さいましたなア』
『|拙者《せつしや》は|治国別《はるくにわけ》|様《さま》の|弟子《でし》でガリヤと|申《まを》します。|何卒《どうぞ》お|見知《みし》りおかれまして|御指導《ごしだう》を|願《ねが》ひます』
『|拙者《せつしや》はケースと|申《まを》します、|何分《なにぶん》|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
『|某《それがし》は|初公別《はつこうわけ》と|申《まを》します』
『|拙者《せつしや》は|徳公別《とくこうわけ》と|申《まを》す、|未来《みらい》の|宣伝使《せんでんし》で|厶《ござ》います。|何分《なにぶん》|宜敷《よろし》く、|万事《ばんじ》お|引《ひ》き|立《た》てを|願上《ねがひあ》げ|奉《たてまつ》ります』
と、【ド】|拍子《びやうし》のぬけた|声《こゑ》で|挨拶《あいさつ》をする。
『|早速《さつそく》ながら|貴方等《あなたがた》にお|願《ねが》ひ|致《いた》したい|事《こと》が|厶《ござ》います。それは|外《ほか》の|事《こと》では|厶《ござ》いませぬ。|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》と|云《い》ふ|三五教《あななひけう》に|於《お》ける【ユダ】がこのお|館《やかた》へ|旨《うま》く|入《い》り|込《こ》みまして、|妾《わらは》の|説《せつ》を|極力《きよくりよく》|攻撃《こうげき》|致《いた》し、|又《また》ランチ、|片彦《かたひこ》の|両人《りやうにん》を|石牢《いしらう》に|打《ぶ》ち|込《こ》み、その|上《うへ》|松姫《まつひめ》|様《さま》まで|何処《どこ》かへ|匿《かく》して|仕舞《しま》つたので|厶《ござ》います。|彼《かれ》|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》は|狸《たぬき》を|使《つか》ひまして|人《ひと》の|目《め》をくらまし、|変幻出没自在《へんげんしゆつぼつじざい》の|魔力《まりよく》を|発揮《はつき》|致《いた》しますれば、|妾《わらは》|一人《ひとり》のみにては|如何《いかん》ともする|事《こと》が|出来《でき》ませぬ。|誰《たれ》かのお|助《たす》けを|借《か》りたいと|大神様《おほかみさま》を|念《ねん》じて|居《ゐ》ました。|所《ところ》が|明日《あす》は|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》を|四人《よにん》ばかり|寄《よ》こしてやらうと|仰有《おつしや》つたので、|首《くび》を|長《なが》くして|待《ま》つて|居《ゐ》ました。|城主《じやうしゆ》|如意王様《によいわうさま》も|初花姫《はつはなひめ》|様《さま》も|大変《たいへん》な|御心配《ごしんぱい》で|厶《ござ》います。どうかお|力《ちから》をお|貸《か》し|下《くだ》さいますまいか』
ガリヤ『ハイ、お|頼《たの》みまでもなく|吾々《われわれ》は|一旦《いつたん》|主人《しゆじん》と|仰《あふ》いだランチ、|片彦《かたひこ》|様《さま》の|御遭難《ごさうなん》を|聞《き》いて、これが|黙《だま》つて|居《を》られませうか。|最早《もはや》|義《ぎ》のためには|命《いのち》を|捨《す》てます。なあケース、|一《ひと》つ|獅子奮迅《ししふんじん》の|活動《くわつどう》をやらうではないか』
ケース『イヤやりませう、|姫様《ひめさま》、|御心配《ごしんぱい》なさいますな。きつと|悪魔《あくま》を|退治《たいぢ》してお|目《め》にかけませう。|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》、|如何《いか》に|妖術《えうじゆつ》を|使《つか》ひましても、|此方《こちら》には|正義《せいぎ》の|刃《やいば》がありますから、|大神《おほかみ》の|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|信真《しんしん》の|光《ひかり》によつて、|見事《みんごと》|化《ばけ》を|現《あら》はしてお|目《め》にかけませう』
『|何卒《なにとぞ》|宜《よろ》しくお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
|初《はつ》『|吾々《われわれ》と|雖《いへど》もお|師匠様《ししやうさま》の|松姫《まつひめ》|様《さま》を、どうしても|取返《とりかへ》さなくてはなりませぬ。|徳公《とくこう》と|両人《りやうにん》|力《ちから》を|協《あは》せて|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》の|魔法《まはふ》を|破《やぶ》つて|御覧《ごらん》に|入《い》れませう』
『|館《やかた》の|様子《やうす》はほぼ|呑《の》み|込《こ》んで|居《を》りますれば、ランチ、|片彦《かたひこ》|様《さま》|初《はじ》め|松姫《まつひめ》|様《さま》の|在処《ありか》を|力《ちから》を|協《あは》せて|探《さが》し|出《だ》し|救《すく》ひ|出《だ》して|頂《いただ》きませう。|唯《ただ》|些《すこ》し|心配《しんぱい》なのは|松姫《まつひめ》|様《さま》の|事《こと》で|厶《ござ》います。|何《なん》でも|水牢《すゐらう》に|放《はふ》り|込《こ》んだのではあるまいかと|存《ぞん》じます』
|初《はつ》『|猪口才《ちよこざい》な|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》、|今《いま》に|見《み》よ、|思《おも》ひ|知《し》らして|呉《く》れるぞ』
と|思《おも》はず|知《し》らず|大音声《だいおんじやう》に|呼《よ》ばはつた。|慌《あわただ》しくドアを|押開《おしあ》けて|入《はい》つて|来《き》たのは|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》の|両人《りやうにん》であつた。|両人《りやうにん》は|棒千切《ぼうちぎれ》を|振《ふ》り|上《あ》げ、|初稚姫《はつわかひめ》の|左右《さいう》より|目《め》を|怒《いか》らせながら、
|杢助《もくすけ》『ヤア|初稚姫《はつわかひめ》、よくも|吾々《われわれ》が|計略《けいりやく》の|穴《あな》に|陥《おちい》つたなア、|覚悟《かくご》|致《いた》せ』
と|打《う》つてかかる。|初稚姫《はつわかひめ》は|椅子《いす》を|取《と》つて|受《う》け|留《と》める、|高姫《たかひめ》は|又《また》|棍棒《こんぼう》にて|空気《くうき》を|切《き》りブンブン|唸《うな》らせながら、
『ヤア|初稚姫《はつわかひめ》、|覚悟《かくご》を|致《いた》せ、|観念《くわんねん》せい』
と|一人《ひとり》の|女《をんな》に|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》が|渡《わた》り|合《あ》ひ、|互《たがひ》に|秘術《ひじゆつ》を|尽《つく》して|戦《たたか》ふ。|四人《よにん》は|黙視《もくし》するに|忍《しの》びず、|各《おのおの》|椅子《いす》を|取《と》つて、|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》に|打《う》つてかかる。|七人《しちにん》は|渦《うづ》をまいて|室内《しつない》を|荒《あ》れ|狂《くる》ひ、|漸《やうや》くにして|高姫《たかひめ》、|杢助《もくすけ》は|隙《すき》を|窺《うかが》ひ|棍棒《こんぼう》をなげつけ、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|此《この》|場《ば》を|逃《に》げ|出《だ》した。
|初稚姫《はつわかひめ》は|涙《なみだ》ながらに|四人《よにん》に|向《むか》ひ、|急場《きふば》を|救《すく》はれし|事《こと》を|感謝《かんしや》した。
(大正一二・一・二七 旧一一・一二・一一 加藤明子録)
第二一章 |夢物語《ゆめものがたり》〔一三三六〕
|四人《よにん》の|坐《すわ》つて|居《を》つた|椅子《いす》は、|何時《いつ》の|間《ま》にやら|膨張《ばうちやう》して|角《つの》を|生《は》やし、|次《つい》で|毛《け》が|生《は》え、|牛《うし》の|如《ごと》き|動物《どうぶつ》と|化《くわ》し、|四人《よにん》|共《とも》|其《その》|背《せな》に|跨《またが》つて|居《ゐ》た。
ガリヤ『ヤア|此《この》|椅子《いす》、|化《ば》けやがつたな。ヤ|此奴《こいつ》は|牛《うし》とも|馬《うま》とも|分《わか》らぬ|奴《やつ》だ。オイ|三人《さんにん》、|確《しつか》りせないと|揺《ゆす》り|落《おと》されるぞ。カアアアンナナガラララアアアさつぱり|駄目《だめ》だ。こりや|怪物《くわいぶつ》、ぢつと|致《いた》さぬか』
|怪獣《くわいじう》は|四匹《しひき》とも|声《こゑ》をそろへて、|空砲《くうはう》のやうな|調子《てうし》で、
『ホホホホホ、ホホホホホ』
と|笑《わら》ひ|出《だ》した。それから|一生懸命《いつしやうけんめい》|四人《よにん》を|背中《せなか》に|乗《の》せ、|廊下《らうか》をドスドスドスと|威喝《ゐかつ》させ|広場《ひろば》に|駆《か》け|出《だ》した。|初稚姫《はつわかひめ》も|同《おな》じく|怪獣《くわいじう》に|跨《またが》り、
『オーイ オーイ』
と|呼《よ》ばはりながら|追《お》つかけ|来《きた》る。|怪獣《くわいじう》は|益々《ますます》|狂《くる》ひ|出《だ》し、|初《はじ》めは|一二間《いちにけん》の|所《ところ》を|上下《じやうげ》してゐたが、|終《しま》ひには|人間《にんげん》が|燕《つばめ》のやうに|見《み》える|所《ところ》まで|上《のぼ》り、|空《そら》の|上《うへ》で|前後左右《ぜんごさいう》に|荒《あ》れ|狂《くる》ふ。|四人《よにん》は|背中《せなか》にくらひつき、
『エエ|怪物《くわいぶつ》|奴《め》、|落《おと》すなら|落《おと》して|見《み》よ。|貴様《きさま》に|噛《か》ぶりついて|離《はな》れはせぬぞ。オイ、|徳《とく》、|初《はつ》、ケース、|確《しつか》り|掴《つか》まへて|居《ゐ》よ。|落《お》ちるのなら|此奴《こいつ》と|一緒《いつしよ》だ。あれ|見《み》よ、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》も|空中《くうちう》に|跳《は》ね|上《あが》つて|居《ゐ》られるではないか。|天馬《てんば》|空《くう》を|行《ゆ》くと|云《い》ふ|事《こと》があるが、これは|馬《うま》でなくて|牛《うし》だ、これ|畜生《ちくしやう》、もうよい|加減《かげん》に|往生《わうじやう》|致《いた》さぬか』
『こりや、|唐変木《とうへんぼく》、|俺《おれ》は|天《てん》の|魔《ま》だ。|椅子《いす》になつて|化《ば》けて|居《を》れば、|腰《こし》を|掛《か》けやがつて、もう|了簡《れうけん》せぬのだ。マダマダマダ|空《そら》に|上《あが》つて、そこで|貴様《きさま》を|揺《ゆす》り|落《おと》してやるのだ。|楽《たの》しんで|居《を》れ。ウホホホホ、ウフフフフ』
と|五匹《ごひき》の|牛《うし》は|一斉《いつせい》に|笑《わら》ふ。|初稚姫《はつわかひめ》は|怪獣《くわいじう》の|尻《しり》を|鞭《むち》をもつて|打《う》ち|叩《たた》き、|空中《くうちう》を|滑走《くわつそう》するやうに|浮木《うきき》の|森《もり》をさして|下《くだ》り|行《ゆ》く。|四人《よにん》は|益々《ますます》|高《たか》く、|雲《くも》を|押《お》し|分《わ》けて|怪獣《くわいじう》に|跨《またが》り|上《のぼ》り|行《ゆ》く。
ケース『オイ、ガリヤ、|初公《はつこう》、|徳公《とくこう》、もう【やけ】だ、|飛《と》び|下《お》りようぢやないか。|何処《どこ》まで|行《ゆ》くか|分《わか》りやしないぞ。サア|一《ひ》イ|二《ふ》ウ|三《み》ツだ』
|三人《さんにん》は、
『ようし、|一《ひ》イ|二《ふ》ウ|三《み》ツ』
ぽいと|飛《と》んだ……と|思《おも》へば|元《もと》の|所《ところ》にテーブルの|脚《あし》をつかまいて、|汗《あせ》をズクズクにかいて|気張《きば》つて|居《ゐ》た。
『ホホホ|皆《みな》さま、|机《つくゑ》の|脚《あし》を|握《にぎ》つて|何《なに》をしていらつしやいますの』
|四人《よにん》は|初《はじ》めて|気《き》がつき、ポカンとして|恨《うら》めし|気《げ》にテーブルを|眺《なが》めて|居《ゐ》る。さうして|椅子《いす》は|依然《いぜん》として|四脚《しきやく》あいてゐる。|初稚姫《はつわかひめ》は|以前《いぜん》の|儘《まま》|椅子《いす》に|腰《こし》|打《う》ちかけニタニタ|笑《わら》つてゐる。
ガリヤ『イヤどうも|怖《おそ》ろしい|夢《ゆめ》を|見《み》たものだ、|殆《ほとん》ど|天上《てんじやう》する|所《ところ》だつた。やつぱり|此処《ここ》は|化物屋敷《ばけものやしき》だな』
ケース『|如何《いか》にも|合点《がてん》の|往《ゆ》かぬ|魔窟《まくつ》だ。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、|貴女《あなた》は|如何《いかが》で|厶《ござ》いましたか、|私達《わたしたち》は|天上《てんじやう》まで|上《あ》げられ、|地上《ちじやう》に|顛落《てんらく》したと|思《おも》へば、|幻覚《げんかく》を|感《かん》じて|居《ゐ》ました』
|初《はつ》『イヤもう|話《はなし》にならぬわい、|徳《とく》、|貴様《きさま》は|随分《ずいぶん》|怖《こは》さうな|顔《かほ》をして|居《を》つたな』
|徳《とく》『|生《うま》れてからこれだけ|肝《きも》を|潰《つぶ》した|事《こと》はないわ。ヤツパリ|狸《たぬき》の|奴《やつ》、|魅《つま》みやがつたと|見《み》えるな。こりやうつかりしては|居《を》られないぞ。もし|初稚姫《はつわかひめ》さま、こんな|怖《おそ》ろしい|所《ところ》によう|貴女《あなた》は|居《ゐ》ますな』
『ホホホ、|義理天上《ぎりてんじやう》さまが|見《み》えて|居《ゐ》ますから、|魔法《まはふ》を|使《つか》ひ|遊《あそ》ばして|貴方等《あなたがた》を|天上《てんじやう》にお|上《あ》げ|遊《あそ》ばしたのでせうよ。|時々《ときどき》|怪物《くわいぶつ》が|出《で》ますので、|妾《わらは》も|些《ちつ》とも|安心《あんしん》がなりませぬの』
|徳《とく》『さうですな、|実《じつ》に|奇怪千万《きつくわいせんばん》な|事《こと》です』
|斯《か》く|話《はな》して|居《ゐ》ると、|円《まる》いテーブルがヌツと|狸《たぬき》のやうな|顔《かほ》を|出《だ》し、みるみる|中《うち》に|荒《あら》い|毛《け》を|生《は》やし、|長《なが》い|足《あし》をノタノタとドアの|外《そと》へ|這《は》うて|行《ゆ》く。
|初《はつ》『ヤア|益々《ますます》もつて|奇怪千万《きつくわいせんばん》、はて、|訝《いぶ》かしやなア』
と|芝居《しばゐ》がかりになる。|初稚姫《はつわかひめ》は、みるみる|中《うち》に|厭《いや》らしき|鬼女《きぢよ》と|変《へん》じ、|耳《みみ》まで|裂《さ》けた|口《くち》を|無雑作《むざふさ》に|開《ひら》き、|牛《うし》のやうな|舌《した》を|出《だ》し|四人《よにん》に|向《むか》つて|噛《か》みつきに|来《く》る。|四人《よにん》は|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|駆《か》け|出《だ》すと、|向《むか》ふより|初花姫《はつはなひめ》が|七人《しちにん》の|美女《びぢよ》を|連《つ》れてやつて|来《く》る。|何《なん》でも|彼処《あすこ》まで|行《ゆ》かねばならぬと|焦慮《あせ》れど|藻掻《もが》けど|追付《おつつ》かず、|四人《よにん》は|同《おな》じ|処《ところ》に|足《あし》をバタバタとやつて|居《ゐ》る。|初稚姫《はつわかひめ》の|妖怪《えうくわい》は|後《うしろ》より|熱《あつ》い|火《ひ》のやうな|息《いき》を|吹《ふ》きかくる。
『アアアアツアツアツ』
と|云《い》ひながら、|一足《ひとあし》にても|逃《のが》れむと|藻掻《もが》いて|居《ゐ》る。|初花姫《はつはなひめ》|他《ほか》|七人《しちにん》の|美女《びぢよ》は|又《また》もや|怪《あや》しき|化物《ばけもの》と|変《へん》じ|噛《か》みつきに|来《きた》る。|四人《よにん》は|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|呼《よ》べど|叫《さけ》べど、|少《すこ》しも|声《こゑ》は|人《ひと》の|耳《みみ》に|達《たつ》しなかつた。
|忽《たちま》ち|家《いへ》は|前後左右《ぜんごさいう》に|廻転《くわいてん》し、|上《うへ》になつたり|下《した》になつたり、|自分《じぶん》の|身体《からだ》が|転回《てんくわい》したり、|苦《くる》しくて|息《いき》もつげなかつた。|見《み》れば|傍《そば》に|蒼味《あをみ》だつた|泉水《せんすい》がある。|四人《よにん》は|一《ひ》イ|二《ふ》ウ|三《み》ツで|曲玉型《まがたまがた》の|泉水《せんすい》に|身《み》を|躍《をど》らせて|飛《と》び|込《こ》んだ。|石《いし》をなげ|込《こ》んだ|如《ごと》く、|四人《よにん》の|身体《からだ》はズボ ズボ ズボと|幾百間《いくひやくけん》ともなき|深《ふか》き|底《そこ》に|陥《おちい》り、|漸《やうや》くにして|岩窟《がんくつ》についた。|此処《ここ》へ|来《く》ると|蒼味立《あをみだ》つた|水《みづ》はもはやなくなつてゐた。|四人《よにん》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|悲鳴《ひめい》を|上《あ》げて、
『オーイ|助《たす》けて|呉《く》れい|助《たす》けて|呉《く》れい』
と|喚《わめ》き|立《た》てて|居《ゐ》る。どこともなしに|桃《もも》の|花《はな》の|二片《ふたひら》|三片《みひら》、|四人《よにん》の|顔《かほ》に|落《お》ちかかるのであつた。
よくよく|見《み》れば、|四人《よにん》は|浮木《うきき》の|森《もり》の|火《ひ》の|見《み》|櫓《やぐら》の|傍《そば》にある|曲玉型《まがたまがた》の|泉水《せんすい》の|傍《そば》に|咲満《さきみ》ちて|居《ゐ》る|桃《もも》の|木《き》の|根下《ねもと》に、|阿呆《あはう》のやうな|顔《かほ》をして|眠《ねむ》つて|居《ゐ》たのである。|東《ひがし》の|空《そら》は|漸《やうや》く|茜《あかね》さし、|古狸《ふるだぬき》が|茶色《ちやいろ》の|尾《を》を|垂《た》らして|唯《ただ》|一匹《いつぴき》、|頭《あたま》に|桃《もも》の|花片《はなびら》を|附着《ふちやく》させながら、ノソリ ノソリと|這《は》うてゐる。|四人《よにん》|一度《いちど》に、
『アア|畜生《ちくしやう》、|誑《だま》しやがつたな』
|浮木《うきき》の|森《もり》の|烏《からす》が、|阿呆《あはう》|々々《あはう》と|四人《よにん》を|見下《みおろ》して|鳴《な》いて|居《ゐ》る|声《こゑ》が、|呆《とぼ》け|顔《がほ》を|嘲《あざけ》つて|居《ゐ》るやうに|聞《きこ》えて|来《き》た。
ガリヤ『アア|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》、|油断《ゆだん》と|慢心《まんしん》の|罪《つみ》、|何卒《なにとぞ》|許《ゆる》させたまへ』
ケース、|初《はつ》、|徳《とく》、
『アアしようもない、|第五十一巻《だいごじふいつくわん》の|瑞月《ずいげつ》|霊界物語《れいかいものがたり》、|狸《たぬき》に|誑《だま》された|奇妙奇天烈《きめうきてれつ》な|八畳敷《はちでふじき》の|大風呂敷《おほぶろしき》に|読者《どくしや》を|包《つつ》んだ|夢物語《ゆめものがたり》は、|安閑坊《あんかんばう》|喜楽《きらく》の|嘘八百万《うそはつぴやくまん》の|大神《おほかみ》の|神示《しんじ》』
(大正一二・一・二七 旧一一・一二・一一 加藤明子録)
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霊界物語 第五一巻 真善美愛 寅の巻
終り