霊界物語 第五〇巻 真善美愛 丑の巻
出口王仁三郎
--------------------
●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第五〇巻』愛善世界社
2005(平成17)年02月03日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2006年10月09日作成
2008年06月23日修正
-------------------------
●目次
|序文《じよぶん》
|総説《そうせつ》
第一篇 |和光同塵《わくわうどうぢん》
第一章 |至善《しぜん》|至悪《しあく》〔一二九五〕
第二章 |照魔灯《せうまとう》〔一二九六〕
第三章 |高魔腹《たかまはら》〔一二九七〕
第四章 |御意犬《ごいけん》〔一二九八〕
第二篇 |兇党擡頭《きようたうたいとう》
第五章 |霊肉問答《れいにくもんだふ》〔一二九九〕
第六章 |玉茸《たまたけ》〔一三〇〇〕
第七章 |負傷負傷《ふしやうぶしやう》〔一三〇一〕
第八章 |常世闇《とこよやみ》〔一三〇二〕
第九章 |真理方便《しんりはうべん》〔一三〇三〕
第三篇 |神意《しんい》と|人情《にんじやう》
第一〇章 |据置貯金《すゑおきちよきん》〔一三〇四〕
第一一章 |鸚鵡返《あうむがへし》〔一三〇五〕
第一二章 |敵愾心《てきがいしん》〔一三〇六〕
第一三章 |盲嫌《まうけん》〔一三〇七〕
第一四章 |〓《みづち》の|盃《さかづき》〔一三〇八〕
第四篇 |神犬《しんけん》の|言霊《ことたま》
第一五章 |妖幻坊《えうげんばう》〔一三〇九〕
第一六章 |鷹鷲掴《たかわしづかみ》〔一三一〇〕
第一七章 |偽筆《ぎひつ》〔一三一一〕
第一八章 |安国使《あんこくし》〔一三一二〕
第一九章 |逆語《ぎやくご》〔一三一三〕
第二〇章 |悪魔払《あくまばらひ》〔一三一四〕
第二一章 |犬嘩《けんくわ》〔一三一五〕
------------------------------
|序文《じよぶん》
|顧《かへり》みれば、|大正《たいしやう》|十年《じふねん》|十月《じふぐわつ》|十八日《じふはちにち》、|松雲閣《しよううんかく》に|於《おい》て|霊界物語《れいかいものがたり》と|題《だい》し|口述《こうじゆつ》|筆記《ひつき》を|始《はじ》めしより、|十六ケ月目《じふろくかげつめ》、|漸《やうや》く|五十巻《ごじつくわん》を|編纂《へんさん》せり。|此《この》|間《あひだ》|種々《しゆじゆ》の|故障《こしやう》の|為《ため》、|着手日数《ちやくしゆにつすう》は|二百日《にひやくにち》|内外《ないぐわい》の|口述《こうじゆつ》にて|本巻《ほんくわん》に|到達《たうたつ》せり。|而《しか》して|本日《ほんじつ》は、|大正《たいしやう》|十二年《じふにねん》|一月《いちぐわつ》|二十三日《にじふさんにち》、|此《この》|数字《すうじ》を|合算《がつさん》すれば|三十六《さんじふろく》となり、みろくに|因《ちな》む。|又《また》|旧暦《きうれき》にては|大正《たいしやう》|十一年《じふいちねん》|十二月《じふにぐわつ》|七日《なぬか》、|此《この》|数字《すうじ》を|合算《がつさん》すれば|三十《さんじふ》となり、|三《み》ツの|御魂《みたま》に|因《ちな》みたる|吉日《きちじつ》なり、|又《また》|以《もつ》て|一奇《いつき》と|謂《ゐ》ふべし。|霊界物語《れいかいものがたり》|第一巻《だいいつくわん》より|第十二巻《だいじふにくわん》までを|第一輯《だいいつしふ》とし|改《あらた》めて「|霊主体従《れいしゆたいじう》」と|題《だい》し、|第十三巻《だいじふさんくわん》より|第廿四巻《だいにじふよんくわん》|迄《まで》を「|如意宝珠《によいほつしゆ》」と|題《だい》し、|第廿五巻《だいにじふごくわん》より|第卅六巻《だいさんじふろくくわん》までを|第三輯《だいさんしふ》とし「|海洋万里《かいやうばんり》」と|題《だい》し、|第卅七巻《だいさんじふしちくわん》より|第四十八巻《だいしじふはちくわん》|迄《まで》を|第四輯《だいよんしふ》とし「|舎身活躍《しやしんくわつやく》」と|題《だい》し、|第五輯《だいごしふ》に|当《あた》る「|真善美愛《しんぜんびあい》」と|題《だい》せる|物語《ものがたり》を|漸《やうや》く|茲《ここ》に|第二巻《だいにくわん》|迄《まで》|口述《こうじゆつ》|編纂《へんさん》を|了《をは》りたり。|何《いづ》れも|一題目《いちだいもく》|毎《ごと》に|三百六十頁《さんひやくろくじつページ》|十二冊《じふにさつ》、|計《けい》|四千三百二十頁《よんせんさんびやくにじつページ》と|相成《あひな》る|次第《しだい》なり。アア|瑞月《ずゐげつ》は|精神上《せいしんじやう》|及《およ》び|肉体上《にくたいじやう》の|大《だい》なる|束縛《そくばく》を|受《う》けたる|身《み》ながらも、|大神《おほかみ》の|恩寵《おんちよう》と|筆録者《ひつろくしや》|諸弟《しよてい》の|熱烈《ねつれつ》なる|努力《どりよく》とによつて、|茲《ここ》に|五十巻《ごじつくわん》の|大峠《おほたうげ》を|越《こ》えたるは|実《じつ》に|人間事《にんげんごと》とはどうしても|思《おも》はれないのであります。|希《こひねが》はくば|大本《おほもと》の|信者《しんじや》はいふも|更《さら》なり、|大方《おほかた》|具眼《ぐがん》の|士《し》はこの|熱血《ねつけつ》より|迸《ほとばし》り|出《い》でたる|作物《さくぶつ》を|愛読《あいどく》あつて、|宇宙《うちう》の|大精神《だいせいしん》を|了知《れうち》し、|人《ひと》として|世《よ》に|処《しよ》すべき|指針《ししん》となし|給《たま》はむことを。 |謹言《きんげん》。
大正十二年一月廿三日 旧大正十一年十二月七日
於伊豆湯ケ島仮教主館 王仁識
|総説《そうせつ》
|本巻《ほんくわん》は|祠《ほこら》の|森《もり》の|聖場《せいぢやう》に|妖幻坊《えうげんばう》なる|妖怪《えうくわい》|現《あら》はれ|来《きた》り、|三五教《あななひけう》の|杢助《もくすけ》|時置師神《ときおかしのかみ》と|名乗《なの》り、|恋《こひ》と|慾《よく》とに|余念《よねん》なき|高姫《たかひめ》の|義理天上《ぎりてんじやう》|自称《じしよう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》が、|両々《りやうりやう》|相対《あひたい》して|聖場《せいぢやう》を|占有《せんいう》し、|館主《くわんしゆ》|珍彦《うづひこ》その|他《た》の|真人《しんじん》を|排除《はいじよ》し、|且《かつ》|大神《おほかみ》の|大神業《だいしんげふ》を|破壊《はくわい》せむと、|獅子奮迅《ししふんじん》の|暴逆的《ばうぎやくてき》|活動《くわつどう》を|開始《かいし》し、|初稚姫《はつわかひめ》の|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|信真《しんしん》の|光《ひかり》に|照《て》らされ、|又《また》|猛犬《まうけん》スマートに|脅嚇《けふかつ》され|聖場《せいぢやう》を|遁走《とんそう》し、|河鹿峠《かじかたうげ》の|谷道《たにみち》にて、イク、サールの|追手《おつて》に|会《くわい》し、|妖幻坊《えうげんばう》、|高姫《たかひめ》|対《たい》イク、サールの|活劇《くわつげき》の|真最中《まつさいちう》、|又《また》もやスマートが|猛虎《まうこ》の|勢《いきほひ》にて|現《あら》はれ|来《きた》り、イクとサールの|危難《きなん》を|救《すく》ひ、|敵《てき》は|自《みづか》ら|躓《つまづ》いて|途上《とじやう》に|顛倒《てんたう》し、|悲鳴《ひめい》をあぐる|場面《ばめん》まで|口述《こうじゆつ》してあります。|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|信真《しんしん》の|光《ひかり》に|充《みた》されたる|天国《てんごく》の|天人界《てんにんかい》に|籍《せき》を|有《いう》したる|初稚姫《はつわかひめ》と、|狂妄《きやうまう》|熱烈《ねつれつ》なる|高姫《たかひめ》と、|肉体的《にくたいてき》|精霊《せいれい》|妖幻坊《えうげんばう》との|三巴《みつどもえ》となつての|活躍《くわつやく》は、|憑霊現象《ひようれいげんしやう》の|如何《いか》なるものなるかを|知《し》るに|最《もつと》も|便利《べんり》なるものと|信《しん》じます。|読者《どくしや》|意《い》を|潜《ひそ》めて|充分《じうぶん》|御研究《ごけんきう》あらむことを|希望《きばう》|致《いた》します。|口述者《こうじゆつしや》の|瑞月《ずゐげつ》も、また|或《あ》る|精霊《せいれい》の|神格《しんかく》を|充《みた》されたるものの|媒介的《ばいかいてき》|活動《くわつどう》によつて、この|大部《たいぶ》の|書籍《しよせき》を|編《へん》する|事《こと》を|得《え》たのであります。|今後《こんご》|益々《ますます》|御神助《ごしんじよ》を|以《もつ》て|完結《くわんけつ》の|域《ゐき》に|達《たつ》せむことを|天地《てんち》の|神明《しんめい》に|願求《ぐわんぐう》する|次第《しだい》であります。
大正十二年一月廿三日 旧十一年十二月七日 於豆州湯ケ島湯本館
王仁識
第一篇 |和光同塵《わくわうどうぢん》
第一章 |至善《しぜん》|至悪《しあく》〔一二九五〕
|本巻物語《ほんくわんものがたり》の|主人公《しゆじんこう》たる|初稚姫《はつわかひめ》|及《およ》び|高姫《たかひめ》の|霊魂上《れいこんじやう》の|位置《ゐち》|及《およ》び|其《その》|情態《じやうたい》を|略舒《りやくじよ》して|参考《さんかう》に|供《きよう》することとする。
|初稚姫《はつわかひめ》は|清浄無垢《せいじやうむく》の|若《わか》き|妙齢《めうれい》の|娘《むすめ》である。|而《しか》して|別《べつ》に|現代《げんだい》の|如《ごと》く|学校教育《がくかうけういく》を|受《う》けたのではない。|只《ただ》|幼少《えうせう》より|母《はは》を|失《うしな》ひ、|父《ちち》と|共《とも》に|各地《かくち》の|霊山《れいざん》|霊場《れいぢやう》に|参拝《さんぱい》し、|或《あるひ》は|神霊《しんれい》に|感《かん》じて、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》と|共《とも》に|種々雑多《しゆじゆざつた》の|神的苦行《しんてきくぎやう》を|経《へ》たるため、|純粋無垢《じゆんすゐむく》なる|霊魂《みたま》の|光《ひかり》は|益々《ますます》|其《その》|光輝《くわうき》を|増《ま》し、|玲瓏《れいろう》|玉《たま》の|如《ごと》く、|黒鉄時代《こくてつじだい》に|生《うま》れながら、|其《その》|本体《ほんたい》|即《すなは》ち|内分的《ないぶんてき》|生涯《しやうがい》は、|黄金時代《わうごんじだい》の|天的天人《てんてきてんにん》と|向上《かうじやう》して|居《ゐ》た。|故《ゆゑ》に|宣伝使《せんでんし》としても|又《また》|地上《ちじやう》の|天人《てんにん》としても、|実《じつ》に|優秀《いうしう》な|神格者《しんかくしや》であつた。|大神《おほかみ》の|神善《しんぜん》と|神真《しんしん》とを|能《よ》く|体得《たいとく》し、|無限《むげん》の|力《ちから》を|与《あた》へられ、|神《かみ》の|直接内流《ちよくせつないりう》を|其《その》|精霊《せいれい》|及《およ》び|肉身《にくしん》に|充《みた》せ、|其《その》|容貌《ようばう》|並《ならび》に|皮膚《ひふ》の|光沢《くわうたく》、|柔軟《じうなん》さなどは|殆《ほとん》どエンゼルの|如《ごと》くであつた。|故《ゆゑ》に|初稚姫《はつわかひめ》は|大神《おほかみ》の|許《ゆる》しある|時《とき》は、|一声《いつせい》|天地《てんち》を|震撼《しんかん》し、|一音《いちおん》|風雨雷霆《ふううらいてい》を|叱咤《しつた》し、|地震《ぢしん》|雷《かみなり》|海嘯《つなみ》その|外《ほか》|風水火《ふうすいくわ》の|災《わざはひ》をも|自由《じいう》に|鎮定《ちんてい》し|得《う》る|神力《しんりき》を|備《そな》へてゐた。されど|初稚姫《はつわかひめ》は|愛善《あいぜん》の|徳《とく》|全《まつた》く|身《み》に|備《そな》はり、|謙譲《けんじやう》なるを|以《もつ》て|処世上《しよせいじやう》の|第一《だいいち》となしゐたれば、|容易《ようい》に|神力《しんりき》を|現《あら》はす|事《こと》を|好《この》まなかつた。|而《しか》して|姫《ひめ》の|精霊《せいれい》は|大神《おほかみ》の|直接《ちよくせつ》|神格《しんかく》の|内流《ないりう》に|充《みた》され、|霊肉《れいにく》|共《とも》に|一見《いつけん》して|凡人《ぼんじん》ならざるを|悟《さと》り|得《え》らるるのであつた。|姫《ひめ》は|能《よ》く|天人《てんにん》と|語《かた》り、|或《あるひ》は|大神《おほかみ》の|御声《みこゑ》を|聞《き》き、|真《しん》の|善《ぜん》よりする|智慧証覚《ちゑしようかく》を|具備《ぐび》したる|点《てん》は、|三五教《あななひけう》きつての|出藍《しゆつらん》のほまれを|恣《ほしいまま》にしてゐた。それ|故《ゆゑ》|八岐大蛇《やまたをろち》の|跋扈《ばつこ》する|月《つき》の|御国《みくに》へ|神軍《しんぐん》として|出征《しゆつせい》するにも、|只《ただ》|一人《ひとり》の|従者《ともびと》もつれず、|真《しん》に|神《かみ》を|親《おや》とし|主人《あるじ》とし、|師匠《ししやう》とし、|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|信真《しんしん》の|徳《とく》を|杖《つゑ》となし|或《あるひ》は|糧《かて》となし、|天上天下《てんじやうてんか》に|恐《おそ》るるものなく、|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》の|荒《あ》れ|狂《くる》ふ|深山《しんざん》|幽谷《いうこく》|曠野《くわうや》をも、|天国《てんごく》の|花園《はなぞの》を|過《す》ぐるが|如《ごと》き|心地《ここち》し、|目《め》に|触《ふ》るるもの、|身《み》に|接近《せつきん》するもの、|悉《ことごと》く|之《これ》を|親《した》しき|友《とも》となし、|且《かつ》|此等《これら》の|同士《どうし》となつて|和合《わがふ》|帰順《きじゆん》|悦服《えつぷく》|等《とう》の|神力《しんりき》を|発揮《はつき》しつつ|進《すす》むことを|得《え》たのである。|故《ゆゑ》に|如何《いか》なる|現界的《げんかいてき》|智者《ちしや》|学者《がくしや》に|会《あ》ひて|談話《だんわ》を|交《まじ》ふる|時《とき》も、|一度《いちど》として|相手方《あひてがた》に|嫌悪《けんを》の|情《じやう》を|起《おこ》さしめたる|事《こと》なく、|其《その》|説《と》く|所《ところ》は|何《いづ》れも|霊的《れいてき》|神的《しんてき》にして、|愛《あい》と|信《しん》とに|充《みた》されざるはなく、|草野《さうや》を|風《かぜ》の|行過《ゆきす》ぎるが|如《ごと》く|風靡《ふうび》し、|帰順《きじゆん》し、|和合《わがふ》せしめねばおかなかつた。|天稟《てんりん》の|美貌《びばう》と|智慧証覚《ちゑしようかく》は|何《いづ》れも|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|真善《しんぜん》の|光《ひかり》なる|大神《おほかみ》より|来《きた》るが|故《ゆゑ》に、|姫《ひめ》が|面前《めんぜん》に|来《きた》る|者《もの》は、|何《いづ》れも|歓喜《くわんき》|悦服《えつぷく》せざるはなかつたのである。|且《かつ》|又《また》|理性的《りせいてき》にしてものに|偏《へん》せず、|中庸《ちうよう》、|中和《ちうわ》、|大中《だいちう》などの|真理《しんり》を|超越《てうゑつ》してゐた。
|抑《そもそ》も|此《この》|理性《りせい》は|神愛《しんあい》と|神真《しんしん》の|和合《わがふ》より|来《きた》る|所《ところ》の|円満《ゑんまん》なる|情動《じやうどう》によつて|獲得《くわくとく》し、|此《この》|情動《じやうどう》よりして|真理《しんり》に|透徹《とうてつ》するものである。さて|真理《しんり》には|三《みつ》つの|階級《かいきふ》がある。|而《しか》して|人間《にんげん》は|此《この》|三階級《さんかいきふ》の|真理《しんり》にをらなければ、|到底《たうてい》|神人合一《しんじんがふいつ》の|境《きやう》に|入《い》る|事《こと》は|不可能《ふかのう》である。|法律《はふりつ》、|政治《せいぢ》の|大本《たいほん》を|過《あやま》たず|能《よ》く|現界《げんかい》に|処《しよ》し、|最善《さいぜん》を|尽《つく》し|得《う》るを|称《しよう》して、|低級《ていきふ》の|真理《しんり》に|居《を》るものと|言《い》ひ、|又《また》|君臣《くんしん》|夫婦《ふうふ》|父子《ふし》|兄弟《けいてい》|朋友《ほういう》|並《ならび》に|社会《しやくわい》に|対《たい》し、|五倫五常《ごりんごじやう》の|完全《くわんぜん》なる|実《じつ》を|挙《あ》げ|得《う》る|時《とき》は、これを|中《なか》|程《ほど》の|真理《しんり》に|居《を》る|者《もの》といふのである。|併《しか》しながら|如何《いか》に|法律《はふりつ》を|解《かい》し|政治《せいぢ》を|説《と》き、|或《あるひ》は|五倫五常《ごりんごじやう》を|詳細《しやうさい》に|説示《せつじ》し|了得《れうとく》すると|雖《いへど》も、|之《これ》を|実践躬行《じつせんきうかう》し|得《え》ざる|者《もの》は|所謂《いはゆる》|偽善者《きぜんしや》にして、|無智《むち》の|賤人《せんじん》にも|劣《おと》るものと|霊界《れいかい》に|於《おい》て|定《さだ》めらるるのである。|又《また》|愛《あい》の|善《ぜん》と|信《しん》の|真《しん》に|居《を》り、|大神《おほかみ》の|直接内流《ちよくせつないりう》を|受《う》け、|神《かみ》と|和合《わがふ》し、|外的観念《ぐわいてきくわんねん》を|去《さ》り、|万事《ばんじ》|内的《ないてき》に|住《ぢゆう》し|得《う》るものを|称《しよう》して|最高《さいかう》の|真理《しんり》に|居《を》る|者《もの》と|云《い》ふのである。|故《ゆゑ》に|現代《げんだい》に|於《おい》て|聖人君子《せいじんくんし》と|称《とな》へられ|或《あるひ》は|智者《ちしや》|識者《しきしや》と|称《しよう》せられ、|高位《かうい》|高官《かうくわん》と|崇《あが》めらるる|人物《じんぶつ》と|雖《いへど》も、|最高《さいかう》の|真理《しんり》に|居《を》らざる|者《もの》は、|霊界《れいかい》に|於《おい》ては|実《じつ》に|賤《いや》しく|醜《みにく》く、|且《かつ》|中有界《ちううかい》|又《また》は|地獄界《ぢごくかい》に|群居《ぐんきよ》せざるを|得《え》ざる|者《もの》である。|霊界《れいかい》に|行《い》つて|現界《げんかい》に|時《とき》めく|智者《ちしや》|学者《がくしや》|又《また》は|有力者《いうりよくしや》といはるる|者《もの》の|精霊《せいれい》に|出会《でつくは》し、|其《その》|情況《じやうきやう》を|見《み》れば、|何《いづ》れも|魯鈍痴呆《ろどんちはう》の|相《さう》を|現《あら》はし、|身体《しんたい》の|動作《どうさ》|全《まつた》く|不正《ふせい》にして|四肢《しし》|戦《をのの》き|慄《ふる》ひ、|少《すこ》しの|風《かぜ》にも|吹《ふ》き|散《ち》りさうになつてゐるものである。|是《これ》|凡《すべ》てが|理性的《りせいてき》ならざるが|故《ゆゑ》である。|現代《げんだい》の|人間《にんげん》が|理性的《りせいてき》とか|理智的《りちてき》とか、|物知《ものし》り|顔《がほ》に|云《い》つてゐる|其《その》|言説《げんせつ》や|又《また》は|博士《はかせ》|学士《がくし》|等《など》の|著書《ちよしよ》を|見《み》るも、|一《いつ》として|理性的《りせいてき》なるものはない。|何《いづ》れも|自然界《しぜんかい》を|基礎《きそ》とせる|不完全《ふくわんぜん》なる|先賢《せんけん》|先哲《せんてつ》と|言《い》はれたる|学者《がくしや》の|所説《しよせつ》や|教義《けうぎ》を|基礎《きそ》とし、|古今東西《ここんとうざい》の|書籍《しよせき》をあさり、|之《これ》を|記憶《きおく》に|存《そん》し、|其《その》|記憶《きおく》を|基《もと》として|種々《しゆじゆ》の|自然的《しぜんてき》|知識《ちしき》を|発育《はついく》せしめたるものである。|故《ゆゑ》に|只《ただ》|記憶《きおく》のみにして、|決《けつ》して|理性的《りせいてき》|知識《ちしき》ではない。|現代《げんだい》の|総《すべ》ての|学者《がくしや》は|主神大神《すしんおほかみ》の|直接《ちよくせつ》|又《また》は|間接《かんせつ》の|内流《ないりう》を|受入《うけい》るる|事《こと》|能《あた》はず、|何《いづ》れも|地獄界《ぢごくかい》より|来《きた》る|自愛《じあい》|及《およ》び|世間愛《せけんあい》に|基《もとづ》く|詐《いつは》りの|知識《ちしき》に|依《よ》つて|薫陶《くんたう》されたるものなれば、|彼等《かれら》は|霊体分離《れいたいぶんり》の|関門《くわんもん》を|経《へ》て|精霊界《せいれいかい》に|至《いた》る|時《とき》は、|生前《せいぜん》に|於《おけ》る|虚偽的《きよぎてき》|知識《ちしき》や|学問《がくもん》の|記憶《きおく》は|全部《ぜんぶ》|剥奪《はくだつ》され、|残《のこ》るは|只《ただ》|恐怖《きようふ》と|悲哀《ひあい》と|暗黒《あんこく》とのみである。|凡《すべ》て|自愛《じあい》より|出《い》づる|学識《がくしき》|智能《ちのう》は|何《いづ》れも|暗黒面《あんこくめん》に|向《むか》つてゐるが|故《ゆゑ》に、|神《かみ》のまします|天界《てんかい》の|光明《くわうみやう》に|日《ひ》に|夜《よ》に|遠《とほ》ざかりゐたれば、|精霊界《せいれいかい》に|入《い》りし|時《とき》は|霊的《れいてき》|及《およ》び|神的《しんてき》|生涯《しやうがい》の|準備《じゆんび》|一《ひとつ》もなく、|否《いな》|却《かへ》つて|魯鈍無智《ろどんむち》の|人間《にんげん》に|劣《おと》ること|数等《すうとう》である。|魯鈍無智《ろどんむち》なる|者《もの》は、|常《つね》に|朧気《おぼろげ》ながらも|霊界《れいかい》を|信《しん》じ|且《か》つ|恐《おそ》るるが|故《ゆゑ》に、|驕慢《けうまん》の|心《こころ》なく、|心中《しんちう》|常《つね》に|従順《じゆうじゆん》の|徳《とく》に|居《を》りしが|故《ゆゑ》に、|霊界《れいかい》に|入《い》りし|後《のち》は|神《かみ》の|光明《くわうみやう》に|浴《よく》し、|神《かみ》の|愛《あい》を|受《う》くるものである。
|又《また》|現界《げんかい》に|在《あ》りては、|到底《たうてい》|人間《にんげん》の|其《その》|真相《しんさう》は|分《わか》らないものである。されど|初稚姫《はつわかひめ》の|如《ごと》く|肉体《にくたい》|其《その》|儘《まま》にて|天人《てんにん》の|列《れつ》に|加《くは》はりたる|神人《しんじん》は、よく|其《その》|人《ひと》の|面貌《めんばう》|及《およ》び|言語《げんご》|動作《どうさ》に|一度《ひとたび》|触《ふ》るれば、|其《その》|生涯《しやうがい》を|知《し》り、|其《その》|人格《じんかく》の|如何《いかん》をも|洞破《どうは》し|得《う》るのである。|如何《いか》に|現代人《げんだいじん》が|法律《はふりつ》をよく|守《まも》り、|或《あるひ》は|大政治家《だいせいぢか》と|賞《ほ》められ、|智者《ちしや》|仁者《じんしや》と|云《い》はるる|事《こと》あるとも、|肉体《にくたい》の|表衣《へうい》に|包《つつ》まれ|居《を》るを|以《もつ》て、|暗冥《あんめい》なる|人間《にんげん》はこれが|真相《しんさう》を|悟《さと》り|得《う》ることは|出来《でき》ない。|肉体人《にくたいじん》は|其《その》|交際《かうさい》に|際《さい》し、|心《こころ》に|思《おも》はざる|所《ところ》を|言《い》ふことあり、|或《あるひ》は|思《おも》はざる|所《ところ》、|欲《ほつ》せざる|所《ところ》を|為《な》さねばならぬことがある。|怒《いか》るべき|時《とき》に|怒《いか》らず、|或《あるひ》は|少々《せうせう》|無理《むり》なことでも、|何《なん》とかして|表面《へうめん》を|装《よそほ》ひ、|世人《せじん》をして|却《かへ》つて|之《これ》を|聖者《せいじや》|仁者《じんしや》と|思《おも》はしめてゐる|事《こと》が|多《おほ》い。|又《また》|肉体人《にくたいじん》は|如何《いか》なる|偽善者《きぜんしや》も|虚飾《きよしよく》も|判別《はんべつ》するの|力《ちから》なければ、|賢者《けんじや》と|看做《みな》し、|聖人《せいじん》と|看做《みな》して、|大《おほ》いに|賞揚《しやうやう》することは|沢山《たくさん》な|例《れい》がある。|故《ゆゑ》に|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|神諭《しんゆ》にも……|人《ひと》の|見《み》て|善《ぜん》となす|所《ところ》、|必《かなら》ずしも|善《ぜん》ならず、|人《ひと》の|見《み》て|悪《あく》となす|所《ところ》、|必《かなら》ずしも|悪《あく》ならず、|善人《ぜんにん》と|云《い》ひ|悪人《あくにん》と|云《い》ふも、|只《ただ》|頑迷無智《ぐわんめいむち》なる|盲目《まうもく》|世間《せけん》の|目《め》に|映《えい》じたる|幻像《げんざう》に|外《ほか》ならない……と|示《しめ》してあるのは|此《この》|理由《りいう》である。|瑞月《ずゐげつ》|嘗《か》つて|高熊山《たかくまやま》に|修業《しゆげふ》の|折《をり》、|神《かみ》の|許《ゆる》しを|受《う》けて|霊界《れいかい》を|見聞《けんぶん》したる|時《とき》、わが|記憶《きおく》に|残《のこ》れる|古人《こじん》|又《また》は|現代《げんだい》に|肉体《にくたい》を|有《いう》せる|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》、|智者《ちしや》|賢者《けんじや》といはるる|人々《ひとびと》の|精霊《せいれい》に|会《あ》ひ、|其《その》|状態《じやうたい》を|見聞《けんぶん》して|意外《いぐわい》の|感《かん》にうたれたことが|屡々《しばしば》あつた。|彼等《かれら》の|総《すべ》ては|自愛《じあい》と|世間愛《せけんあい》に|在世中《ざいせいちう》|惑溺《わくでき》し、|自尊心《じそんしん》|強《つよ》く|且《かつ》|神《かみ》の|存在《そんざい》を|認《みと》めざりし|者《もの》のみなれば、|霊界《れいかい》に|在《あ》りては|実《じつ》に|弱《よわ》き|者《もの》、|貧《まづ》しき|者《もの》、|賤《いや》しき|者《もの》として|遇《ぐう》せられつつあつたのである。|之《これ》を|思《おも》へば|現代《げんだい》に|於《お》ける|政治家《せいぢか》|又《また》は|智者《ちしや》|学者《がくしや》などの|身《み》の|上《うへ》を|思《おも》ふにつけ、|実《じつ》に|憐愍《れんびん》の|情《じやう》に|堪《た》へない|思《おも》ひがするのである。|如何《いか》にもして|大神《おほかみ》の|愛善《あいぜん》の|徳《とく》と|信真《しんしん》の|光《ひかり》に、|彼等《かれら》|迷《まよ》へる|憐《あは》れな|地獄《ぢごく》の|住人《ぢゆうにん》を、せめて|精霊界《せいれいかい》にまで|救《すく》ひ|上《あ》げ、|無限《むげん》の|永苦《えいく》を|免《まぬが》れしめむと|焦慮《せうりよ》すれども、|彼等《かれら》の|霊性《れいせい》は|其《その》|内分《ないぶん》に|於《おい》て|神《かみ》に|向《むか》つて|閉《とざ》され、|脚底《きやくてい》の|地獄《ぢごく》に|向《むか》つて|開《ひら》かれあれば、|之《これ》を|光明《くわうみやう》に|導《みちび》くは|容易《ようい》の|業《わざ》でない。|又《また》|如何《いか》なる|神人《しんじん》の|愛《あい》と|智《ち》に|充《み》てる|大声叱呼《たいせいしつこ》の|福音《ふくいん》も、|霊的盲目者《れいてきまうもくしや》、|聾者《ろうしや》となり|果《は》てたるを|以《もつ》て、|如何《いか》なる|雷鳴《らいめい》の|轟《とどろ》きも|警鐘乱打《けいしようらんだ》の|響《ひびき》も、|恬《てん》として|鼓膜《こまく》に|感《かん》じないのである。|吁《ああ》|憐《あは》れむべき|哉《かな》、|虚偽《きよぎ》と|罪悪《ざいあく》に|充《み》てる|地獄道《ぢごくだう》の|蒼生《さうせい》よ。ここに|初稚姫《はつわかひめ》の|神霊《しんれい》は|再《ふたた》び|大神《おほかみ》の|意思《いし》を|奉戴《ほうたい》し、|地上《ちじやう》に|降臨《かうりん》し、|大予言者《だいよげんしや》となつて|綾《あや》の|聖地《せいち》に|現《あら》はれ、|其《その》|純朴無垢《じゆんぼくむく》なる|記憶《きおく》と|想念《さうねん》を|通《つう》じて、|天来《てんらい》の|福音《ふくいん》を|或《あるひ》は|筆《ふで》に|或《あるひ》は|口《くち》に|伝達《でんたつ》し、|地上《ちじやう》の|地獄《ぢごく》を|化《くわ》して|五六七《みろく》の|天国《てんごく》に|順化《じゆんくわ》せしめむと|計《はか》らせ|給《たま》ふこと、|殆《ほとん》ど|三十年《さんじふねん》に|及《およ》んだ。されど|頑迷不霊《ぐわんめいふれい》の|有苗的《いうべうてき》|人間《にんげん》は|之《これ》を|恐《おそ》れ|忌《い》むこと|甚《はなは》だしく、|恰《あだか》も|仇敵《きうてき》の|如《ごと》くに|嫉視《しつし》し、|憎悪《ぞうを》するに|至《いた》つたのである。ああ|斯《か》くも|尊《たふと》き|大神《おほかみ》の|遣《つか》はし|給《たま》ふ|聖霊《せいれい》|又《また》は|予言者《よげんしや》の|言《げん》を|無視《むし》し、|軽侮《けいぶ》し、|益々《ますます》|虚偽《きよぎ》|罪悪《ざいあく》を|改《あらた》めざるに|於《おい》ては、|百《もも》の|天人《てんにん》は|大神《おほかみ》の|命《めい》を|奉《ほう》じ、|如何《いか》なる|快挙《くわいきよ》に|出《い》で|給《たま》ふやも|計《はか》り|難《がた》いのである。
|次《つぎ》に|高姫《たかひめ》の|霊界上《れいかいぢやう》の|地位《ちゐ》に|就《つ》いて|少《すこ》しく|述《の》ぶる|必要《ひつえう》がある。|宇宙《うちう》には|天界《てんかい》、|精霊界《せいれいかい》、|地獄界《ぢごくかい》の|三界《さんかい》あることは|屡々《しばしば》|述《の》べた|所《ところ》である。|而《しか》して|精霊界《せいれいかい》は|霊界《れいかい》|現界《げんかい》の|又《また》|中間《ちうかん》に|介在《かいざい》せりと|云《い》つてもいい|位《くらゐ》なものである。|故《ゆゑ》に|精霊界《せいれいかい》には|自然的《しぜんてき》|即《すなは》ち|肉体的《にくたいてき》|精霊《せいれい》なるものが|団体《だんたい》を|作《つく》つて、|現界人《げんかいじん》を|邪道《じやだう》に|導《みちび》かむとするものある|事《こと》を|知《し》らねばならぬ。|肉体的《にくたいてき》|精霊《せいれい》とは、|色々《いろいろ》の|種類《しゆるゐ》あれども、|其《その》|形《かたち》は|人間《にんげん》に|似《に》て|人間《にんげん》にあらざるあり、|或《あるひ》は|天狗《てんぐ》あり、|狐狸《こり》あり、|大蛇《をろち》あり、|一種《いつしゆ》の|妖魅《えうみ》ありて、|暗黒《あんこく》なる|現界《げんかい》に|跋扈跳梁《ばつこてうりやう》しつつあり。|此等《これら》は|地獄界《ぢごくかい》にも|非《あら》ず、|一種《いつしゆ》の|妖魅界《えうみかい》|又《また》は|兇党界《きようたうかい》と|称《しよう》し、|人間《にんげん》に|譬《たと》ふれば、|所謂《いはゆる》|不浪《ふらう》の|徒《と》である。|彼等《かれら》は|人間《にんげん》の|山窩《さんくわ》の|群《むれ》の|如《ごと》く、|山《やま》の|入口《いりぐち》や|川《かは》の|堤《つつみ》や|池《いけ》の|畔《きし》、|墓場《はかば》の|附近《ふきん》|等《など》に|群居《ぐんきよ》し、|暗冥《あんめい》にして|頑固《ぐわんこ》なる|妄想家《もうさうか》の|虚《きよ》を|窺《うかが》ひ、|其《その》|人間《にんげん》が|抱持《はうぢ》せる|慾望《よくばう》に|附《つ》け|入《い》つて|虚隙《きよげき》を|索《もと》めて|入《い》り|来《きた》るものである。|此《この》|肉体的《にくたいてき》|精霊《せいれい》も|亦《また》|人間《にんげん》の|想念《さうねん》と|和合《わがふ》せずして|其《その》|体中《たいちう》に|侵入《しんにふ》し|来《きた》り、|其《その》|諸感官《しよかんくわん》を|占有《せんいう》し、|其《その》|口舌《こうぜつ》を|用《もち》ひて|語《かた》り、|其《その》|手足《てあし》を|以《もつ》て|動作《どうさ》するものである。|而《しか》して|此等《これら》の|精霊《せいれい》は|其《その》|憑依《ひようい》せる|人間《にんげん》の|物《もの》を|以《もつ》てすべて|吾《わが》|物《もの》とのみ|思《おも》ふてゐる。|或《ある》|時《とき》は|人間《にんげん》の|記憶《きおく》と|想念《さうねん》に|入《い》つて|大神《おほかみ》と|自称《じしよう》し、|或《あるひ》は|予言者《よげんしや》をまね、|遂《つひ》に|自《みづか》ら|真《しん》の|予言者《よげんしや》と|信《しん》ずるに|至《いた》るものである。されど|此等《これら》の|精霊《せいれい》は|少《すこ》しも|先見《せんけん》の|明《めい》なく、|一息先《ひといきさき》の|事《こと》は|探知《たんち》し|得《え》ないものである。|何故《なにゆゑ》なれば|其《その》|心性《しんせい》は|無明暗黒《むみやうあんこく》の|境域《きやうゐき》に|居《を》るが|故《ゆゑ》である。|憑依《ひようい》された|人間《にんげん》が、|例《たと》へば|開祖《かいそ》の|神諭《しんゆ》を|読《よ》み|耽《ふけ》り、|之《これ》を|記憶《きおく》に|止《とど》め|想念中《さうねんちう》に|蓄《たくは》へおく|時《とき》は、|侵入《しんにふ》し|来《きた》りし|悪霊《あくれい》|即《すなは》ち|妖魅《えうみ》は、|之《これ》を|基礎《きそ》として|種々《しゆじゆ》の|予言的《よげんてき》|言辞《げんじ》を|弄《ろう》し、|且《かつ》|又《また》|筆先《ふでさき》などと|称《しよう》して、|似《に》たり|八合《はちがふ》なことを|書《か》き|示《しめ》し、|頑迷無智《ぐわんめいむち》なる|世人《せじん》を|籠絡《ろうらく》し、|遂《つひ》に|邪道《じやだう》に|引《ひ》き|入《い》れむとするものである。|開祖《かいそ》の|神諭《しんゆ》に……|先《さき》の|見《み》えぬ|神《かみ》は|誠《まこと》の|神《かみ》でないぞよ……と|示《しめ》されたるは|此《この》|間《かん》の|消息《せうそく》を|洩《も》らされたものである。|又《また》|熱狂《ねつきやう》なる|人間《にんげん》は|吾《わが》|記憶《きおく》を|基礎《きそ》として、|其《その》|想念《さうねん》を|働《はたら》かせて|入《い》り|来《きた》りし|精霊《せいれい》の|吾《わが》|記憶《きおく》に|反《そむ》けることを|口走《くちばし》り、|或《あるひ》は|書《か》き|示《しめ》す|時《とき》は、|忽《たちま》ち|審神的《さにはてき》|態度《たいど》となり……|汝《なんぢ》は|大神《おほかみ》の|真似《まね》を|致《いた》す|邪神《じやしん》にはあらざるか、サ|早《はや》く|吾《わが》|肉体《にくたい》を|去《さ》れ……などと|反抗的《はんかうてき》|態度《たいど》に|出《い》づるものもある。|併《しか》し|乍《なが》ら|遂《つひ》には|其《その》|悪霊《あくれい》の|為《ため》に|説伏《せつぷく》せられ、|或《あるひ》はいろいろの|肉体上《にくたいじやう》に|苦痛《くつう》を|与《あた》へられ、|遂《つひ》にその|妖魅《えうみ》の|言《げん》に|感服《かんぷく》するに|至《いた》るものである。サア|斯《か》うなつた|時《とき》は、|最早《もはや》|上《あ》げも|下《おろ》しも|出来《でき》なくなつて、|如何《いか》なる|神《かみ》の|光明《くわうみやう》も|説示《せつじ》も|承認《しようにん》するの|力《ちから》なく、|只《ただ》|単《たん》に……われは|天下唯一《てんかゆゐいつ》の|予言者《よげんしや》なり、|無上《むじやう》の|神人《しんじん》なり、|吾《われ》なくば|此《この》|蒼生《さうせい》は|如何《いかん》せむ……と|狂的《きやうてき》|態度《たいど》に|出《い》づるものである。|此《この》|物語《ものがたり》の|主人公《しゆじんこう》たる|高姫《たかひめ》は|即《すなは》ち|此《この》|好適例《かうてきれい》である。|故《ゆゑ》に|彼《か》れ|高姫《たかひめ》は|自己《じこ》の|記憶《きおく》と|想念《さうねん》と、|憑霊《ひようれい》の|言葉《ことば》の|外《ほか》には|一切《いつさい》を|否定《ひてい》し、|且《かつ》|熱狂的《ねつきやうてき》に|数多《あまた》の|人間《にんげん》を|吾《わが》|説《せつ》に|悦服《えつぷく》せしめむと|焦慮《せうりよ》するのである。|其《その》|熱誠《ねつせい》は|火《ひ》の|如《ごと》く|暴風《ばうふう》の|如《ごと》く|又《また》|洪水《こうずゐ》の|如《ごと》し。|如何《いか》なる|神人《しんじん》も|有徳者《うとくしや》も|之《これ》を|説得《せつとく》し|帰順《きじゆん》せしめ、|善霊《ぜんれい》に|帰正《きせい》せしむることは|天下《てんか》の|難事《なんじ》である。|故《ゆゑ》に|高姫《たかひめ》は|一旦《いつたん》|改心《かいしん》の|境《きやう》に|入《い》りし|如《ごと》く|見《み》えたれども、|再《ふたた》びつきまとへる|兇霊《きようれい》は|彼《かれ》が|肉体《にくたい》の|虚隙《きよげき》を|見《み》すまし、|又《また》もや|潮《うしほ》の|如《ごと》く|体内《たいない》に|侵入《しんにふ》し|来《きた》り、|大狂態《だいきやうたい》を|演《えん》ずるに|至《いた》つたのである。
|斯《か》かる|狂的《きやうてき》|憑霊者《ひようれいしや》の|弁舌《べんぜつ》と|行為《かうゐ》は|最《もつと》も|執拗《しつえう》にして、|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なくつき|纏《まと》ひ、|吾《わが》|所説《しよせつ》に|帰服《きふく》せしめねば|止《や》まない|底《てい》の|勇猛心《ゆうまうしん》を|抱持《はうぢ》してゐる。|斯《か》かる|兇霊《きようれい》の|憑依《ひようい》せる|偽予言者《にせよげんしや》に|魅入《みい》られたる|人間《にんげん》は、|如何《いか》なる|善人《ぜんにん》と|雖《いへど》も、|稍《やや》|常識《じやうしき》ありと|称《とな》へられてゐる|紳士《しんし》でも、|又《また》|奸智《かんち》に|長《た》けたる|人間《にんげん》でも、|思索力《しさくりよく》を|相当《さうたう》に|有《いう》する|人物《じんぶつ》でも、|遂《つひ》には|其《その》|術中《じゆつちう》に|巻込《まきこ》まれて|了《しま》ふものである。かかる|例《ためし》は|三十五万年前《さんじふごまんねんぜん》の|神代《かみよ》のみではない、|現《げん》に|大本《おほもと》の|中《なか》に|於《おい》ても|斯《か》かる|標本《へうほん》が|示《しめ》されてある。これも|大本《おほもと》の|神示《しんじ》に|依《よ》れば、|神《かみ》の|御心《みこころ》にして、|善《ぜん》と|悪《あく》との|立別《たてわ》けを|示《しめ》し、|信仰《しんかう》の|試金石《しきんせき》と|現《あら》はし|給《たま》ふものたることを|感謝《かんしや》せなくてはならぬ。|一旦《いつたん》|迷《まよ》はされたる|精霊《せいれい》や|人間《にんげん》は、|容易《ようい》に|目《め》の|醒《さ》めるものでない。|併《しか》しながら|斯《かく》の|如《ごと》き|渦中《くわちう》に|陥《おちい》る|人間《にんげん》は、|霊相応《みたまさうおう》の|理《り》によつて、|已《や》むを|得《え》ずここに|没入《ぼつにふ》するのである。されど|神《かみ》は|飽《あ》くまでも|至仁《しじん》|至愛《しあい》にましますが|故《ゆゑ》に、|弥勒胎蔵《みろくたいざう》の|神鍵《しんけん》を|以《もつ》て|宝庫《はうこ》を|開《ひら》き、|天国《てんごく》の|光明《くわうみやう》なる|智慧証覚《ちゑしようかく》を|授《さづ》け、|愛善《あいぜん》の|徳《とく》に|包《つつ》んで、|之《これ》をせめて|中有界《ちううかい》までなりと|救《すく》ひ|上《あ》げ、ここに|霊的《れいてき》|教育《けういく》を|施《ほどこ》し、|一人《いちにん》にても|多《おほ》く|天国《てんごく》の|生涯《しやうがい》を|送《おく》らしめむとなし|給《たま》ひ、|仁愛《じんあい》に|富《と》める|聖霊《せいれい》を|充《みた》して、|予言者《よげんしや》に|来《きた》り、|口舌《こうぜつ》を|以《もつ》て|天国《てんごく》の|福音《ふくいん》を|宣《の》り|伝《つた》へ|給《たま》ふこととなつたのである。|吁《ああ》されど|頑迷不霊《ぐわんめいふれい》の|妖怪《えうくわい》、|人獣合一《にんじうがふいつ》の|境域《きやうゐき》に|墜落《つゐらく》せる|精霊《せいれい》|及《およ》び|人間《にんげん》は、|天国《てんごく》に|救《すく》ふこと|恰《あだか》も|針《はり》の|穴《あな》へ|駱駝《らくだ》を|通《とほ》すよりも|難《かた》きを|熟々《つくづく》|感《かん》ずる|次第《しだい》である。|大本《おほもと》の|神諭《しんゆ》にも……|神《かみ》と|人民《じんみん》とに|気《き》をつけるぞよ……とあるは|即《すなは》ち|精霊《せいれい》と|肉体人《にくたいじん》とに|対《たい》しての|御言葉《おことば》である。|吁《ああ》|如何《いか》にせむ、|迷《まよ》へる|精霊《せいれい》よ、|人間《にんげん》よ、|殊《こと》に|肉体的《にくたいてき》|兇霊《きようれい》に|其《その》|身魂《しんこん》を|占領《せんりやう》されたる|妖怪的《えうくわいてき》|偽予言者《にせよげんしや》の|身魂《みたま》をや。
|序《ついで》に|祠《ほこら》の|森《もり》に|於《おい》て|杢助《もくすけ》と|現《あら》はれたる|妖怪《えうくわい》は、|兇悪《きようあく》なる|自然的《しぜんてき》|精霊《せいれい》|即《すなは》ち|形体的《けいたいてき》|兇霊《きようれい》にして|高姫《たかひめ》の|心性《しんせい》に|相似《さうじ》し、|接近《せつきん》しやすき|便宜《べんぎ》ありしを|以《もつ》て、|互《たがひ》に|相慕《あひした》ひ|相求《あひもと》め、|風車《かざぐるま》の|如《ごと》く、|廻《まは》り|灯籠《どうろう》の|如《ごと》く、|終生《しうせい》|逐《お》ひまはりなどして|狂態《きやうたい》を|演出《えんしゆつ》し、|現界《げんかい》は|云《い》ふに|及《およ》ばず|霊界《れいかい》の|悪魔《あくま》となりて|神業《しんげふ》の|妨害《ばうがい》をなし、|遂《つひ》には|神律《しんりつ》に|照《てら》され、|神怒《しんど》に|触《ふ》れ、|根底《ねそこ》の|国《くに》の|最底《さいてい》に|投下《なげおろ》さるるまで|其《その》|狂的《きやうてき》|暴動《ばうどう》を|止《や》めないものである。|吁《ああ》|憐《あは》れむべきかな、|肉体的《にくたいてき》|兇霊《きようれい》よ、|其《その》|機関《きくわん》となりし|人間《にんげん》の|肉体《にくたい》よ、|精霊《せいれい》よ。|思《おも》うても|肌《はだへ》に|粟《あは》を|生《しやう》ずるやうである。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・一・二〇 旧一一・一二・四 松村真澄録)
第二章 |照魔灯《せうまとう》〔一二九六〕
|高天原《たかあまはら》の|最奥《さいあう》に|於《お》ける|霊国《れいごく》|及《およ》び|天国《てんごく》の|天人《てんにん》は、すべて|愛《あい》の|善徳《ぜんとく》を|完備《くわんび》し、|信《しん》の|真善《しんぜん》を|成就《じやうじゆ》し、|智慧証覚《ちゑしようかく》に|充《み》ち|居《を》るを|以《もつ》て、|中間天国《ちうかんてんごく》|以下《いか》の|天人《てんにん》の|如《ごと》く、|決《けつ》して|信《しん》を|説《と》かず、|又《また》|信《しん》の|何《なん》たるかも|知《し》らないのである。|又《また》|神《かみ》の|真《しん》に|就《つ》いて|論究《ろんきう》せないのである。|何故《なにゆゑ》ならば、|斯《か》かる|霊的《れいてき》|及《およ》び|天的《てんてき》|最高天人《さいかうてんにん》は、|大神《おほかみ》の|神格《しんかく》に|充《み》たされ、|愛善信真《あいぜんしんしん》これ|天人《てんにん》の|本体《ほんたい》なるが|故《ゆゑ》である。|故《ゆゑ》に|他界《たかい》の|天人《てんにん》の|如《ごと》く、これは|果《はた》して|善《ぜん》なりや、|悪《あく》なりや、などと|言《い》つて|真理《しんり》を|争《あらそ》はない。|只《ただ》|争《あらそ》ふものは|中間《ちうかん》|及《およ》び|下層天界《かそうてんかい》の|天人《てんにん》の|内分《ないぶん》の|度《ど》の|低《ひく》いものの|所為《しよゐ》である。|又《また》|最奥《さいあう》の|天人《てんにん》は|視覚《しかく》によらず、|必《かなら》ず|其《その》|聴覚《ちやうかく》によつて、|即《すなは》ち|宇宙《うちう》に|瀰漫《びまん》せるアオウエイの|五大父音《ごだいふおん》の|音響《おんきやう》|如何《いかん》によつて、|其《その》|証覚《しようかく》をして|益々《ますます》|円満《ゑんまん》ならしむるものである。|大本神諭《おほもとしんゆ》に『|生《うま》れ|赤子《あかご》の|心《こころ》にならねば、|神《かみ》の|真《まこと》は|分《わか》りは|致《いた》さぬぞよ……』とお|示《しめ》しになつてゐるが、すべて|赤子《あかご》の|心《こころ》は|清浄無垢《せいじやうむく》にして|水晶《すゐしやう》の|如《ごと》きものであるから、|仮令《たとへ》|智慧証覚《ちゑしようかく》は|劣《おと》ると|雖《いへど》も、|直《ただ》ちに|其《その》|清浄《せいじやう》と|無垢《むく》とは、|最奥天界《さいあうてんかい》に|和合《わがふ》し|得《う》るからである。|又《また》|社会的《しやくわいてき》|覊絆《きはん》を|脱《だつ》し、すべての|物慾《ぶつよく》を|棄《す》て、|悠々《いういう》として|老後《らうご》を|楽《たの》しみ、|罪悪《ざいあく》に|遠《とほ》ざかり、|天命《てんめい》を|楽《たの》しむ|所《ところ》の|老人《らうじん》を|以《もつ》て、|証覚《しようかく》ありて|無垢《むく》なる|者《もの》たることを|現《あら》はし|給《たま》ふのである。|大本開祖《おほもとかいそ》が|世間的《せけんてき》|生涯《しやうがい》を|終《をは》り、|夫《をつと》を|見送《みおく》り、|無垢《むく》の|生涯《しやうがい》に|入《い》り|給《たま》うた|時《とき》、|始《はじ》めて|神《かみ》は|予言者《よげんしや》として、これに|神格《しんかく》の|充《みた》されたる|精霊《せいれい》を|降《くだ》し|給《たま》ひ、|天国《てんごく》の|福音《ふくいん》を|普《あまね》く|地上《ちじやう》に|宣伝《せんでん》し|給《たま》うたのは、|実《じつ》に|清浄無垢《せいじやうむく》の|身魂《みたま》に|復活《ふくくわつ》し、|精霊《せいれい》をして|天国《てんごく》の|籍《せき》におかせ|給《たま》うたからである。|故《ゆゑ》に|開祖《かいそ》の|如《ごと》きは、|生前《せいぜん》に|於《おい》て|已《すで》に|霊的《れいてき》|復活《ふくくわつ》をせられたのである。|此《この》|復活《ふくくわつ》を|称《しよう》して|霊的人格《れいてきじんかく》の|再生《さいせい》といふのである。|大神《おほかみ》は|人間《にんげん》をして|其《その》|齢《よはひ》|進《すす》むに|従《したが》ひ、|之《これ》に|対《たい》して|善《ぜん》と|真《しん》とを|流入《りうにふ》し|給《たま》ふものである。|先《ま》づ|人間《にんげん》を|導《みちび》いて|善《ぜん》と|真《しん》との|知識《ちしき》に|入《い》らしめ、これより|進《すす》んで|不動《ふどう》|不滅《ふめつ》の|智慧《ちゑ》に|入《い》り、|最後《さいご》に|其《その》|智慧《ちゑ》より|仏者《ぶつしや》の|所謂《いはゆる》|阿羅耶識《あらやしき》(|八識《はつしき》)|即《すなは》ち|証覚《しようかく》に|進《すす》ませ|給《たま》ふものである。|之《これ》を|仏教《ぶつけう》にては、|阿耨多羅《あのくたら》、|三藐三菩提心《さんみやくさんぼだいしん》(|無上証覚《むじやうしようかく》)といふのである。|併《しか》しながら|現代《げんだい》の|人間《にんげん》は、|其《その》|齢《よはひ》|進《すす》むに|従《したが》つて、|益々《ますます》|奸智《かんち》に|長《た》け、|表面《へうめん》は|楽隠居《らくいんきよ》の|如《ごと》く|世捨人《よすてびと》の|如《ごと》く、|或《あるひ》は|聖人君子《せいじんくんし》の|如《ごと》く|装《よそほ》ふと|雖《いへど》も、その|実《じつ》|益々《ますます》|不良老年《ふりやうらうねん》の|域《ゐき》に|進《すす》むものが|大多数《だいたすう》である。|優勝劣敗《いうしようれつぱい》、|弱肉強食《じやくにくきやうしよく》を|以《もつ》て|社会《しやくわい》の|真理《しんり》と|看做《みな》してゐる|現代《げんだい》に|立《た》ち、|多数《たすう》の|党与《たうよ》を|率《ひき》ゐて|政治界《せいぢかい》|又《また》は|実業界《じつげふかい》に|跋扈跳梁《ばつこてうりやう》し、|益々《ますます》|権謀術数《けんぼうじゆつすう》を|逞《たくま》しうし、|僅《わづか》に|其《その》|地位《ちゐ》を|保《たも》ち、|世間的《せけんてき》|権勢《けんせい》を|掌握《しやうあく》して|無上《むじやう》の|功名《こうみやう》と|看做《みな》してゐる|人物《じんぶつ》の|如《ごと》きは、|実《じつ》に|霊界《れいかい》より|之《これ》を|見《み》る|時《とき》は|憐《あは》れむべき|盲者《まうじや》である。|斯《かく》の|如《ごと》き|現界《げんかい》に|於《お》ける|権力者《けんりよくしや》よりも、|無智《むち》にして|其《その》|日《ひ》の|労働《らうどう》に|勤《いそ》しみ、|現代人《げんだいじん》の|無道《むだう》の|権力《けんりよく》に|圧倒《あつたう》され、|孜々《しし》として|之《これ》に|盲従《まうじゆう》し、|不遇《ふぐう》の|生活《せいくわつ》を|生涯《しやうがい》|送《おく》りし|人間《にんげん》が、|霊界《れいかい》に|至《いた》つて|神《かみ》の|恩寵《おんちやう》に|浴《よく》し、|其《その》|霊魂《れいこん》は|智慧相応《ちゑさうおう》の|光《ひかり》を|放《はな》ち、|善《ぜん》と|真《しん》との|徳《とく》に|包《つつ》まれて、|生前《せいぜん》の|位地《ゐち》を|転倒《てんたう》してゐる|者《もの》が|沢山《たくさん》にあるのである。|故《ゆゑ》に|霊的観察《れいてきくわんさつ》よりすれば、|権勢《けんせい》ある|者《もの》、|富《と》める|者《もの》、|智者《ちしや》|学者《がくしや》といはるる|者《もの》よりも、|貧《まづ》しき|者《もの》、|卑《いや》しき|者《もの》、|力《ちから》|弱《よわ》き|者《もの》、|現界《げんかい》に|於《おい》ていと|小《ちひ》さき|者《もの》として、|世人《せじん》の|脚下《きやくか》に|踏《ふ》み|躙《にじ》られたる|人間《にんげん》が、|却《かへ》つて|愛善《あいぜん》の|徳《とく》に|住《ぢゆう》し、|信真《しんしん》の|光《ひかり》に|輝《かがや》いて、|天国《てんごく》の|団体《だんたい》に|円満《ゑんまん》なる|生涯《しやうがい》を|送《おく》るものである。|故《ゆゑ》に|神《かみ》には|一片《いつぺん》の|依怙《えこ》もなく|偏頗《へんぱ》もない|事《こと》を|信《しん》じ、|只管《ひたすら》|神《かみ》を|愛《あい》し|神《かみ》に|従《したが》ひ、|正《ただ》しき|予言者《よげんしや》の|教《をしへ》に|信従《しんじゆう》せば、|生前《せいぜん》に|於《おい》ても、|仮令《たとへ》|物質上《ぶつしつじやう》の|満足《まんぞく》は|得《え》られずとも、|其《その》|内分《ないぶん》に|受《う》くる|歓喜《くわんき》と|悦楽《えつらく》とは、|到底《たうてい》|現界《げんかい》の|富者《ふうじや》や|権力者《けんりよくしや》や|智者《ちしや》|学者《がくしや》の|窺知《きち》し|得《う》る|所《ところ》ではないのである。|此《この》|物語《ものがたり》の|主人公《しゆじんこう》たる|初稚姫《はつわかひめ》は|再《ふたた》び|天《てん》の|命《めい》を|受《う》け、|地上《ちじやう》に|降誕《かうたん》して|大本開祖《おほもとかいそ》となり、|世間的《せけんてき》|務《つと》めを|完成《くわんせい》し、|八人《はちにん》の|子女《しぢよ》を|生《う》み|夫々《それぞれ》|神界《しんかい》の|内的事業《ないてきじげふ》に|奉仕《ほうし》せしむべく、|知《し》らず|知《し》らずの|間《あひだ》に|其《その》|任《にん》を|果《はた》し、|微賤《びせん》に|下《くだ》りて、|溢《あふ》るる|許《ばか》りの|仁愛《じんあい》と|透徹《とうてつ》したる|信《しん》の|智《ち》を|発揮《はつき》して、|暗黒無道《あんこくむだう》の|地獄界《ぢごくかい》を|照破《せうは》する|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》し、|其《その》|任務《にんむ》を|了《を》へて、|後事《こうじ》を|瑞霊《ずゐれい》に|充《みた》されたる|予言者《よげんしや》に|托《たく》し、|茲《ここ》に|目出度《めでた》く|昇天《しようてん》|復活《ふくくわつ》されたのである。|故《ゆゑ》に|開祖《かいそ》は|生前《せいぜん》より|其《その》|容貌《ようばう》|恰《あだか》も|少女《せうぢよ》の|如《ごと》く、|其《その》|声音《せいおん》は|優雅美妙《いうがびめう》にして、|又《また》|少女《せうぢよ》の|如《ごと》く、|玲瓏《れいろう》|玉《たま》の|如《ごと》き|顔容《かんばせ》を|抱持《はうぢ》し|給《たま》ひ、|開祖《かいそ》に|接近《せつきん》する|者《もの》は、|何時《いつ》とはなしに|其《その》|円満《ゑんまん》なる|霊容《れいよう》に|感化《かんくわ》され、|霊光《れいくわう》に|照《てら》され、|善人《ぜんにん》は|之《これ》を|信従《しんじゆう》し|尊敬《そんけい》し、|悪人《あくにん》は|之《これ》を|嫌忌《けんき》し|恐怖《きようふ》したのである。|開祖《かいそ》の|前身《ぜんしん》たる|初稚姫《はつわかひめ》も|亦《また》|神代《かみよ》に|於《お》ける|神格者《しんかくしや》にして、|大予言者《だいよげんしや》であつた。その|容貌《ようばう》|及《およ》び|全身《ぜんしん》より|金色《こんじき》の|光明《くわうみやう》を|放射《はうしや》し、|悪魔《あくま》をして|容易《ようい》に|近《ちか》づき|得《え》ざらしめたのである。されど|初稚姫《はつわかひめ》は、|其《その》|霊徳《れいとく》と|霊光《れいくわう》を|深《ふか》く|秘《ひ》し|給《たま》ひ、|和光同塵《わくわうどうぢん》の|態度《たいど》を|以《もつ》て|普《あまね》く|万民《ばんみん》を|教化《けうくわ》し|天国《てんごく》に|救《すく》はむため、ワザと|其《その》|神相《しんさう》を|隠《かく》し|給《たま》ひて、|霊的《れいてき》|及《およ》び|自然的《しぜんてき》|活動《くわつどう》を|続《つづ》け|給《たま》うたのである。|開祖《かいそ》は|常《つね》に|云《い》はれた……|出口《でぐち》|直《なほ》が|正体《しやうたい》を|現《あら》はしたなれば、|人民《じんみん》は|眼《まなこ》くらみ、|到底《たうてい》|側《そば》へは|寄《よ》りつくことは|出来《でき》ない、|故《ゆゑ》にワザとに|世《よ》におちぶらし、|今《いま》まで|衆生済度《しゆじやうさいど》の|為《ため》に|化《ばか》してあつたのだ……と|物語《ものがた》られた|事《こと》は|屡々《しばしば》である。|此《この》|時《とき》|側《そば》に|親《した》しく|侍《じ》してゐた|役員《やくゐん》|共《ども》は、|開祖《かいそ》の|平素《へいそ》の|人格《じんかく》には|敬服《けいふく》してゐたが、|併《しか》し|其《その》お|言葉《ことば》の|余《あま》りに|高調的《かうてうてき》なるに|対《たい》し、|開祖《かいそ》が|慢心《まんしん》をされたものとのみ|思《おも》うてゐた|者《もの》も|沢山《たくさん》にあつたのである。|神《かみ》は|必《かなら》ず|順序《じゆんじよ》を|守《まも》らせ|給《たま》ひ、|相応《さうおう》の|理《り》に|依《よ》りて|和合《わがふ》の|徳《とく》を|表《あら》はし|給《たま》ふが|故《ゆゑ》に、|其《その》|対者《たいしや》に|向《むか》つて|余《あま》り|懸隔《けんかく》なき|様《やう》に|現《あら》はれ|給《たま》ふのである。|故《ゆゑ》に|対者《たいしや》の|徳《とく》と|智慧《ちゑ》の|如何《いかん》によつて、|神《かみ》|又《また》は|開祖《かいそ》を|見《み》る|所《ところ》の|目《め》に|非常《ひじやう》の|差等《さとう》があるのは、|已《や》むを|得《え》ないのである。|神《かみ》は|瑞月《ずゐげつ》を|呼《よ》んで|大化物《おほばけもの》と|予言者《よげんしや》を|通《つう》じて|宣《の》らせ|給《たま》うた。|現代人《げんだいじん》は|大化物《おほばけもの》の|名《な》を|聞《き》いて、|大悪人《だいあくにん》の|代名詞《だいめいし》の|如《ごと》く|或《あるひ》は|権謀術数家《けんぼうじゆつすうか》の|別称《べつしよう》の|如《ごと》く、|又《また》|巧言令色《かうげんれいしよく》、|表《おもて》に|善《ぜん》を|飾《かざ》り|虚偽《きよぎ》を|行《おこな》ひ、|世人《せじん》を|誑惑《きやうわく》する|悪人《あくにん》と|認《みと》むる|者《もの》も|少《すくな》くないのである。|併《しか》し|神格《しんかく》に|充《みた》されたる|者《もの》を、|頑迷不霊《ぐわんめいふれい》の|地獄界《ぢごくかい》に|籍《せき》を|於《お》ける|人間《にんげん》の|目《め》より|見《み》るときは、|忽《たちま》ち|眼《まなこ》|眩《くら》み|頭《かしら》|痛《いた》み、|息《いき》|苦《くる》しくなり、|癲狂痴呆《てんきやうちはう》と|忽《たちま》ち|変《へん》じて、|恐怖心《きようふしん》に|駆《か》られ、その|真相《しんさう》を|看取《かんしゆ》することは|出来《でき》ないものである。|故《ゆゑ》にかかる|人間《にんげん》の|地位《ちゐ》に|立《た》ちて|予言者《よげんしや》を|仰《あふ》ぎ|見《み》る|時《とき》は、|大怪物《だいくわいぶつ》とより|見《み》ることが|出来《でき》ないのである。|吁《ああ》|斯《かく》の|如《ごと》き|頑迷《ぐわんめい》の|徒《と》をして、|神《かみ》の|光明《くわうみやう》に|浴《よく》せしめ、|愛善《あいぜん》の|徳《とく》に|住《ぢゆう》せしめて、|永遠無窮《えいゑんむきう》の|天国《てんごく》の|生涯《しやうがい》を|生《い》きながらに|送《おく》らしめむとするは、|実《じつ》に|最大難事《さいだいなんじ》である。|大正《たいしやう》|五年《ごねん》の|事《こと》であつた。|口述者《こうじゆつしや》は|役員室《やくゐんしつ》に|在《あ》つて|神諭《しんゆ》を|繙《ひもと》く|折《をり》しも、|慌《あわただ》しく|入《い》り|来《きた》りしは|開祖《かいそ》の|娘《むすめ》なる|高島《たかしま》|久子《ひさこ》であつた。|彼《かれ》は|前節《ぜんせつ》に|述《の》べたる|如《ごと》き|肉体的《にくたいてき》|兇霊《きようれい》に|心身《しんしん》を|占領《せんりやう》されて、|吾《わが》|居間《ゐま》に|走《はし》り|入《い》りて、|恭敬礼拝《きようけいらいはい》し|言《い》ふ。『|瑞《みづ》の|御霊様《みたまさま》、|一大事《いちだいじ》が|突発《とつぱつ》|致《いた》しました。|一厘《いちりん》の|秘密《ひみつ》をお|知《し》らせ|申《まを》します』と|言《い》ふより|早《はや》く、|吾《わが》|耳《みみ》の|側《そば》に|口《くち》をよせ、|歯《は》のぬけた|口《くち》から、|臭《くさ》い|息《いき》と|唾《つば》を、|吾《わが》|顔面《がんめん》にふきかけながら、|下《くだ》らぬ|不合理《ふがふり》に|充《み》ちたことを|喋々《てふてふ》と|弁《べん》じ|立《た》てた。そこで|瑞月《ずゐげつ》は|儼然《げんぜん》として、『|誠《まこと》の|道《みち》に|秘密《ひみつ》のあるべき|道理《だうり》なし、|秘密《ひみつ》の|秘《ひ》は|必《かなら》ず|示《しめ》すといふことである。|決《けつ》して|隠蔽《いんぺい》すべきものでない。|耳《みみ》もとに|囁《ささや》く|如《ごと》きは|神人《しんじん》のなすべき|所《ところ》でない。これは|体主霊従的《たいしゆれいじうてき》|人獣《にんじう》の|敢《あ》へてする|行為《かうゐ》である』と|云《い》ふや|否《いな》や、|高島《たかしま》|久子《ひさこ》の|精霊《せいれい》は|大《おほ》いに|怒《いか》つて、わが|耳《みみ》たぶを|左《ひだり》の|手《て》にて|引張《ひつぱ》り、|右《みぎ》の|手《て》を|以《もつ》てわが|頬《ほほ》をピシヤピシヤと|叩《たた》きつけ『|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|秘密《ひみつ》の|忠告《ちうこく》を|聞《き》かねば、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》は|大騒動《だいさうどう》が|起《おこ》りますぞ。|何《ど》うなつても|日出神《ひのでのかみ》は|知《し》らぬぞよ』とわめき|立《た》て、|狂《くる》ひまはつた。そこで|瑞月《ずゐげつ》は|兇霊《きようれい》の|憑依《ひようい》せるものなることを|本人《ほんにん》に|懇々《こんこん》と|諭《さと》してみたが、もはや|兇霊《きようれい》に|霊肉《れいにく》|全《まつた》く|占領《せんりやう》された|彼女《かれ》には|何《なん》の|効能《かうのう》もなかつた、のみならず|大《おほ》いに|怒《いか》つて、|吾《わが》|喉元《のどもと》に|飛《と》びかかり、|咬《か》みつかむとした。そこで|瑞月《ずゐげつ》は|已《や》むを|得《え》ず、|右《みぎ》の|人指《ひとさし》を|前《まへ》に|向《む》けて『ウン』と|一声《ひとこゑ》、|神《かみ》に|祈《いの》つて、|其《その》|面体《めんてい》を|霊光《れいくわう》に|照《てら》すや|否《いな》や、|忽《たちま》ちパタリと|倒《たふ》れて|了《しま》つた。そこで|瑞月《ずゐげつ》は|直《ただち》に|神《かみ》に|彼《かれ》が|為《ため》に|謝罪《しやざい》をなし、お|許《ゆる》しを|請《こ》うた。|彼女《かれ》はムクムクと|立上《たちあが》り、|口《くち》を|極《きは》めて『|変性女子《へんじやうによし》の|糞奴《くそやつこ》、|糞先生《くそせんせい》の|奴先生《どせんせい》、|小松林《こまつばやし》の|悪魔《あくま》|奴《め》』と|喚《わめ》き|立《た》てながら、|長《なが》い|廊下《らうか》を|韋駄天走《ゐだてんばし》りに|開祖《かいそ》の|居間《ゐま》に|侵入《しんにふ》した。
|忽《たちま》ち|久子《ひさこ》に|憑依《ひようい》せる|兇霊《きようれい》は、|開祖《かいそ》の|容貌《ようばう》を|拝《はい》するや、アツと|仰向《あふむ》けに|倒《たふ》れ、キヤアキヤアと|喚《わめ》きながら、|長廊下《ながらうか》を|毬《まり》の|如《ごと》くころげて、|再《ふたた》びわが|居間《ゐま》に|逃《に》げ|帰《かへ》り|来《きた》り『|奴開祖《どかいそ》の|糞開祖《くそかいそ》|奴《め》、これから|俺《おれ》が|誠《まこと》の|艮《うしとら》の|金神《こんじん》ぢや、|変性男子《へんじやうなんし》も|女子《によし》も|此処《ここ》を|出《で》て|行《ゆ》け、これから|地《ち》の|高天原《たかあまはら》は、|高島《たかしま》|久子《ひさこ》が|艮《うしとら》の|金神《こんじん》|変性男子《へんじやうなんし》と|現《あら》はれて、|日出神《ひのでのかみ》を|地《ぢ》に|致《いた》し、|大広木正宗殿《おほひろきまさむねどの》の|霊《みたま》を|御用《ごよう》に|使《つか》うて、|神政成就《しんせいじやうじゆ》の|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》するから、|此《この》|方《はう》の|申《まを》す|事《こと》が|耳《みみ》に|入《はい》らぬ|奴《やつ》は、|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|出《で》てゆけ。|金勝要神《きんかつかねのかみ》の|身魂《みたま》は|我《が》が|強《つよ》いぞよ。|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》の|生宮《いきみや》も|訳《わけ》が|分《わか》らぬぞよ。これから|此《この》|高島《たかしま》|久子《ひさこ》の|体《たい》を|借《か》つて、|誠《まこと》の|事《こと》を|知《し》らすぞよ』などと|狂態《きやうたい》を|演《えん》じ、|身体《からだ》を|頻《しき》りに|震動《しんどう》させて、|猛悪《まうあく》の|相《さう》を|現《あら》はし、|座敷《ざしき》の|中央《まんなか》に|仁王立《にわうだ》ちとなつて|睨《ね》めつけてゐた。そこへ|開祖《かいそ》は|梅《うめ》の|杖《つゑ》をつきながら、|障子《しやうじ》をあけて|一寸《ちよつと》|覗《のぞ》かれると、|又《また》もやキヤツと|叫《さけ》んで|其《その》|場《ば》に|顛倒《てんたう》し、|毬《まり》のやうになつて|表《おもて》へ|駆《か》け|出《だ》して|了《しま》つた。|後《あと》に|至《いた》つて|高島《たかしま》|久子《ひさこ》に|聞《き》けば、|彼《かれ》は|云《い》ふ……|開祖《かいそ》の|居間《ゐま》の|障子《しやうじ》を|開《ひら》くや|否《いな》や、|開祖《かいそ》の|全肉体《ぜんにくたい》は|金色燦爛《きんしよくさんらん》たる|光明《くわうみやう》にみち、そのお|姿《すがた》を|熟視《じゆくし》する|能《あた》はず、|忽《たちま》ち|恐《おそ》ろしくなつて、|妾《わたし》の|守護神《しゆごじん》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|駆《か》け|出《だ》しました……と|答《こた》へたのである。|又《また》|彼女《かれ》が|自筆《じひつ》の|筆先《ふでさき》にも|此《この》|事《こと》を|明記《めいき》してゐる。それから|久子《ひさこ》は|表《おもて》へまはり、|金竜殿《きんりうでん》に|侵入《しんにふ》した。そこには|数多《あまた》の|役員《やくゐん》や|修業者《しゆげふしや》が|幽斎《いうさい》の|最中《さいちう》であつた。|久子《ひさこ》は|矢庭《やには》に|暴《あば》れ|出《だ》していふ……|汝等《なんぢら》|盲役員《めくらやくゐん》、|幽斎《いうさい》の|修業《しうげふ》などとは|以《もつ》ての|外《ほか》だ、この|生宮《いきみや》の|申《まを》す|事《こと》を|聞《き》け……と|呶鳴《どな》りながら、|修業《しうげふ》に|来《き》てゐた|河井《かはゐ》|芳男《よしを》といふ|青年《せいねん》を|引捉《ひつとら》へ、|殿中《でんちう》に|於《おい》て|馬乗《うまのり》となり、|其《その》|青年《せいねん》の|首《くび》にジヤウ ジヤウ ジヤウとぬくい|小便《せうべん》をたれかけ……|汝《なんぢ》の|如《ごと》き|者《もの》は|之《これ》にて|結構《けつこう》だ……と|喚《わめ》き|立《た》て、|狂態《きやうたい》を|演《えん》じてゐた。この|事《こと》も|高島《たかしま》|久子《ひさこ》の|精霊《せいれい》が|書《か》いた|筆先《ふでさき》に|自慢《じまん》さうに|記《しる》してある。すべて|兇党界《きようたうかい》の|悪霊《あくれい》は|順序《じゆんじよ》を|弁《わきま》へず|又《また》|善悪美醜《ぜんあくびしう》の|区別《くべつ》がつかないから、|神聖《しんせい》なる|金竜殿内《きんりうでんない》に|於《おい》て、|人《ひと》の|首《くび》に|小便《せうべん》をかけ、|得意《とくい》となつてゐるのである。|而《しか》して|彼女《かれ》はいふ……わが|守護神《しゆごじん》は|実《じつ》に|偉大《ゐだい》なものだ、あの|様《やう》な|聖《きよ》き|御殿《ごてん》に|於《おい》て、|外《ほか》の|者《もの》が|小便《せうべん》を【こかう】ものなら、|忽《たちま》ち|守護神《しゆごじん》も|肉体《にくたい》も|神罰《しんばつ》が|当《あた》るのであるが、|何《なに》をいつても|神格《しんかく》が|高《たか》いから、あの|通《とほ》りチツとも|罰《ばち》が|当《あた》らなかつたのだ……と|誇《ほこ》つてゐるのは|実《じつ》に|済度《さいど》し|難《がた》き|難物《なんぶつ》である。|丁度《ちやうど》|猫《ねこ》や|鼠《ねずみ》が|大神《おほかみ》の|鎮座《ちんざ》まします|神聖《しんせい》なる|扉《とびら》の|中《なか》に|巣《す》をくみ、|或《あるひ》は|糞尿《ふんねう》をたれても、|神《かみ》は|畜生《ちくしやう》として|看過《かんくわ》し|給《たま》ひ、|之《これ》を|懲《きた》め|給《たま》はざると|同様《どうやう》の|理《り》である|事《こと》を|知《し》らない|癲狂痴呆者《てんきやうちはうしや》である。|自愛心《じあいしん》|強《つよ》く|世間愛《せけんあい》のみを|以《もつ》て|唯一《ゆゐいつ》の|善事《ぜんじ》と|思惟《しゐ》しゐたる|人間《にんげん》は、|却《かへ》つて|斯《か》かる|奇矯《きけう》なる|行為《かうゐ》を|以《もつ》て、|神秘《しんぴ》の|行為《かうゐ》となし、|之《これ》を|随喜《ずゐき》|渇仰《かつかう》していふ……|全《まつた》くあの|行《おこな》ひは|人間《にんげん》ではない、|人間心《にんげんごころ》で、|何《ど》うして|殿内《でんない》に|於《おい》て、|而《しか》も|人間《にんげん》の|首《くび》に|跨《また》がり、|小便《せうべん》がかけられようか、|全《まつた》く|神様《かみさま》の|証拠《しようこ》である……と、|斯《か》う|云《い》つて|感心《かんしん》するのである。|彼等《かれら》の|云《い》ふ|如《ごと》く|決《けつ》して|人間《にんげん》ではない。|併《しか》しながら|神《かみ》だと|思《おも》つたら|大変《たいへん》な|間違《まちがひ》である。スツカリ|肉体的《にくたいてき》|兇霊《きようれい》、|悪魔《あくま》が|彼女《かれ》の|全身《ぜんしん》を|支配《しはい》して|行《おこな》うた|所《ところ》の|狂態《きやうたい》であるのである。
|其《その》|後《ご》かれ|悪霊《あくれい》は|久子《ひさこ》の|肉体《にくたい》に|対《たい》し、いろいろと|幻覚《げんかく》を|示《しめ》し、|益々《ますます》|誑惑《きやうわく》の|淵《ふち》に|陥《おとしい》れ、|或《あるひ》は|一ケ月間《いつかげつかん》の|断食《だんじき》を|与《あた》へ、|地獄《ぢごく》の|有様《ありさま》を|眼前《がんぜん》に|髣髴《はうふつ》せしめ……|汝《なんぢ》わが|言《げん》を|用《もち》ゐざる|時《とき》は、|斯《かく》の|如《ごと》き|無間地獄《むげんぢごく》に|陥落《かんらく》すべし。|又《また》わが|言《げん》を|信従《しんじゆう》し、わが|頤使《いし》に|従《したが》つて|活動《くわつどう》する|時《とき》は、|汝《なんぢ》をして|将来《しやうらい》|斯《かく》の|如《ごと》き|結構《けつこう》なる|位地《ゐち》につかしむべし……と、|或《あるひ》はたらし|或《あるひ》は|威《おど》し、|漸《やうや》くにして|開祖《かいそ》の|身内《みうち》たる|肉体《にくたい》を、わが|自由《じいう》に|駆使《くし》する|事《こと》を|得《え》たのである。|彼等《かれら》が|悪業《あくごふ》を|遂行《すゐかう》せむとすれば、|現界人《げんかいじん》の|浅薄《せんぱく》なる|識見《しきけん》より|見《み》て、|開祖《かいそ》の|血統《けつとう》と|生《うま》れし|人間《にんげん》なれば、|大丈夫《だいぢやうぶ》、|決《けつ》して|悪神《あくがみ》の|憑依《ひようい》すべきものでないと|信用《しんよう》させ|得《う》るの|便宜《べんぎ》があるからである。かれ|兇霊《きようれい》は|無智《むち》なる|久子《ひさこ》の|霊肉《れいにく》を|完全《くわんぜん》に|占領《せんりやう》した|上《うへ》、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|霊光《れいくわう》にゐたたまらず、|二三《にさん》の|迷《まよ》へる|信者《しんじや》を|引連《ひきつ》れ、|一目散《いちもくさん》に|八木《やぎ》へさして|逃《に》げ|帰《かへ》り、ここに|久子《ひさこ》の|記憶《きおく》と|信仰《しんかう》を|基礎《きそ》として、|其《その》|想念中《さうねんちう》に|深《ふか》く|入《い》り|込《こ》み、|兇党界《きようたうかい》の|団体《だんたい》をして|益々《ますます》|大《だい》ならしめ、|大神《おほかみ》の|神業《しんげふ》を|極力《きよくりよく》|妨害《ばうがい》せむと|企《たく》みつつあるのである。さりながら|久子《ひさこ》|其《その》|人《ひと》は|元来《ぐわんらい》|開祖《かいそ》を|思《おも》ふ|事《こと》|最《もつと》も|深《ふか》く|且《かつ》|無智《むち》にして|比較的《ひかくてき》|其《その》|心《こころ》も|清《きよ》ければ、|遉《さすが》の|兇霊《きようれい》も|開祖《かいそ》の|神諭《しんゆ》を|非難《ひなん》することを|得《え》ず、|且《かつ》|又《また》|厳《いづ》の|御霊《みたま》、|瑞《みづ》の|御霊《みたま》を|極力《きよくりよく》|排斥《はいせき》し、|誹謗《ひばう》しては|其《その》|目的《もくてき》を|完成《くわんせい》し|得《え》ざるを|知《し》るが|故《ゆゑ》に、|表面《へうめん》に|厳瑞《げんずゐ》|二霊《にれい》を|尊敬《そんけい》し|信従《しんじゆう》する|如《ごと》く|装《よそほ》ひ、|先《ま》づ|久子《ひさこ》を|誑惑《きやうわく》し|其《その》|口《くち》と|手《て》を|以《もつ》て|世人《せじん》を|魔道《まだう》に|引入《ひきい》れむと|企《たく》みつつあるのである。|之《これ》は|決《けつ》して|瑞月《ずゐげつ》が|卑《いや》しき|心《こころ》より|述《の》ぶるのではない。|大神《おほかみ》の|御子《みこ》たる|可憐《かれん》なる|精霊《せいれい》や|人間《にんげん》をして、|一人《ひとり》なりとも|邪道《じやだう》に|陥《おちい》らざらしめむが|為《ため》の|慈愛心《じあいしん》に|外《ほか》ならぬのである。かれ|精霊《せいれい》は|久子《ひさこ》の|肉体《にくたい》を|綾部《あやべ》の|停車場《ていしやぢやう》に|仰向《あふむ》けに|倒《たふ》し、|陰部《いんぶ》を|曝《さら》して|大呼《たいこ》して|云《い》ふ……われは|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|変性男子《へんじやうなんし》|出口《でぐち》|直《なほ》の|肉体《にくたい》をかりて|生《うま》れた|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》であるぞよ。|皆《みな》の|者《もの》、これを|見《み》て、|大本《おほもと》の|教《をしへ》を|悟《さと》れよ……と|呶鳴《どな》り|立《た》てた。|精霊《せいれい》が|久子《ひさこ》に|斯《か》かる|衆人環視《しうじんくわんし》の|前《まへ》にて|狂態《きやうたい》を|演《えん》ぜしめた|其《その》|底意《そこい》は、|要《えう》するに|神《かみ》の|名《な》を|冒涜《ぼうとく》し、|世人《せじん》をして|大本《おほもと》を|信用《しんよう》せしめざらむが|為《ため》の|悪計《あくけい》であつた。されど|暗愚《あんぐ》なる|信者《しんじや》は、そんな|所《ところ》に|少《すこ》しも|注意《ちゆうい》せずしていふ……ああ|吾々《われわれ》が|改心《かいしん》が|足《た》らぬ|故《ゆゑ》に|神様《かみさま》が|変性男子《へんじやうなんし》の|系統《けいとう》の|肉宮《にくみや》をかつて、お|戒《いまし》め|下《くだ》さつたのであらう、お|前達《まへたち》の|心《こころ》は|此《この》|通《とほ》り|醜《みにく》いのだ、お|前達《まへたち》が|神界《しんかい》より|罰《ばつ》せられ、|地獄《ぢごく》の|釜《かま》のドン|底《ぞこ》へ|落《おと》されるのだが、|高島《たかしま》|久子《ひさこ》に|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》はして|助《たす》けてやつて|居《ゐ》るぞよ、との|深《ふか》き|思召《おぼしめし》であらう……などと|妙《めう》な|所《ところ》へ|曲解《きよくかい》して|益々《ますます》|随喜《ずゐき》|渇仰《かつかう》し、|精霊《せいれい》の|誑惑《きやうわく》に|乗《の》せられて、|遠近《ゑんきん》の|神社《じんじや》を|調査《てうさ》するといつて、|或《あるひ》は|其《その》|費用《ひよう》を|献《けん》じ、|或《あるひ》は|随伴《ずゐはん》してゐる|者《もの》も|沢山《たくさん》|現《あら》はれて|来《き》たのは、|実《じつ》に|神界《しんかい》の|為《ため》|悲《かな》しむべきことである。されど|神《かみ》は|決《けつ》して|斯《かく》の|如《ごと》き|兇霊《きようれい》に|汚《けが》され|給《たま》ふものでもなく、|又《また》|如何《いか》に|妨害《ばうがい》せむとするも|聊《いささ》かの|痛痒《つうやう》も|感《かん》じ|給《たま》はないのである。|只々《ただただ》|可憐《かれん》なる|神《かみ》の|御子《みこ》が|彼等《かれら》|兇霊《きようれい》に|心身《しんしん》を|誑惑《きやうわく》され|邪神界《じやしんかい》に|引入《ひきい》れられ、|無間地獄《むげんぢごく》に|陥落《かんらく》しゆくを|悲《かな》しみ|給《たま》ふのみである。かかる|仁慈無限《じんじむげん》の|大神《おほかみ》の|御心《みこころ》も|知《し》らず、|男子《なんし》が|何《ど》うだとか、|女子《によし》の|言行《げんかう》がなんだとか|云《い》つて、その|光明《くわうみやう》に|反《そむ》き、|醜穢《しうわい》|極《きは》まる|地獄《ぢごく》に|転移《てんい》するは、|実《じつ》に|仁慈《じんじ》の|目《め》より|見《み》て|忍《しの》び|難《がた》き|所《ところ》である。かれ|精霊《せいれい》は|久子《ひさこ》を|又《また》もや|八木《やぎ》の|停車場《ていしやぢやう》に|連《つ》れ|行《ゆ》き、|大声叱呼《たいせいしつこ》して|云《い》ふ……|此《この》|女《をんな》は|元《もと》を|糺《ただ》せば、|丹波国《たんばのくに》|何鹿《いかるが》の|郡《こほり》|綾部町《あやべちやう》、|本宮《ほんぐう》|新宮《しんぐう》|坪《つぼ》の|内《うち》、|変性男子《へんじやうなんし》の|身魂《みたま》|出口《でぐち》|直《なほ》の|体《たい》をかり、|出口《でぐち》|政五郎《まさごらう》といふ|父《ちち》を|持《も》ち、|若《わか》い|時《とき》から|男女《をとこをんな》と|呼《よ》ばれたる、ヤンチヤ|娘《むすめ》の|出口《でぐち》|久子《ひさこ》、|今《いま》は|神《かみ》の|因縁《いんねん》に|依《よ》つて、|八木《やぎ》の|高島《たかしま》|寅之助《とらのすけ》が|妻《つま》となり、あの|山《やま》の、|山《やま》のほでらのあばらや|住居《ずまゐ》、|今《いま》はおちぶれて|居《を》れども、|結構《けつこう》な|身魂《みたま》が|世《よ》におとしてあるぞよ。|侮《あなど》りて|居《を》りたものは、アフンと|致《いた》してあいた|口《くち》がすぼまらぬぞよ。|今《いま》に|天地《てんち》がかへるぞよ。|慾《よく》を|致《いた》して|沢山《たくさん》の|金《かね》をためて|居《を》りても、|其《その》|宝《たから》は|持切《もちきり》には|出来《でき》ぬ|宝《たから》であるぞよ。|此《この》|神《かみ》の|申《まを》した|事《こと》には|一分一厘《いちぶいちりん》|間違《まちが》ひはないぞよ。|先《さき》をみてゐて|下《くだ》されよ、と|前《まへ》をまくつて|大音声《だいおんぜう》……と|自《みづか》ら|呼《よ》ばはり、|停車場《ていしやぢやう》に|集《あつ》まる|人々《ひとびと》を|驚《おどろ》かせ、|之《これ》を|鎮定《ちんてい》せむと|入《い》り|来《きた》りし|長左《ちやうざ》といふ|男《をとこ》の|腕《うで》にかぶりつき、|狂態《きやうたい》を|演《えん》じ、|大本《おほもと》の|教《をしへ》を|破壊《はくわい》せむと|企《たく》んだ|事《こと》もあつたのである。|兇霊《きようれい》は|此《この》|筆法《ひつぱふ》を|以《もつ》て、|或《ある》|時《とき》は|変性男子《へんじやうなんし》を|極力《きよくりよく》|賞讃《しやうさん》し、また|対者《たいしや》の|心《こころ》の|中《うち》に|男子《なんし》|女子《によし》を|否《いな》むと|認《みと》むる|時《とき》は、|声《こゑ》を|秘《ひ》そめて|切《しき》りに|誹謗《ひばう》し、|吾《わが》|薬籠中《やくろうちう》のものとなさむと|企《たく》むものである。
さて、|初稚姫《はつわかひめ》と|高姫《たかひめ》との|今後《こんご》の|活動《くわつどう》は|之《これ》に|類《るゐ》するもの|多《おほ》ければ、|巻頭《くわんとう》に|引証《いんしよう》することとしたのである。
|追伸《つゐしん》|霊界物語《れいかいものがたり》の|読者《どくしや》の|中《なか》には|凡《すべ》て、|斯様《かやう》であります……とか、|斯《か》う|考《かんが》へます……とかいふ|謙譲《けんじやう》の|言葉《ことば》がなく、かうである……どうである……などと|断定的《だんていてき》に、|且《かつ》|高圧的《かうあつてき》に|口述《こうじゆつ》してあるのは、|所謂《いはゆる》|口述者《こうじゆつしや》が|慢心《まんしん》した|結果《けつくわ》、かかる|不遜《ふそん》の|言辞《げんじ》を|弄《ろう》するのだと|非難《ひなん》する|人《ひと》が|間々《まま》あるさうです。|併《しか》しながら『あります』と|云《い》へば|活字《くわつじ》を|四字《よじ》|用《もち》ひなくてはなりませぬ。『ある』といへば|二字《にじ》で|事《こと》がすみます。それ|故《ゆゑ》にかかる|洪瀚《かうかん》な|物語《ものがたり》には|一字《いちじ》なりとも|冗言《じようげん》を|省《はぶ》き、|可成《なるべく》|数多《あまた》の|意味《いみ》を|読者《どくしや》に|知《し》らさむが|為《ため》の|忠実《ちうじつ》なる|意思《いし》より|出《い》でたのであります。|而《しか》して|口述者《こうじゆつしや》|自身《じしん》は|只《ただ》|神格《しんかく》にみたされたる|聖霊《せいれい》に|霊《れい》と|体《たい》を|任《まか》せきつてゐるのでありますから、|口述者《こうじゆつしや》が|之《これ》を|改《あらた》めようと|致《いた》しましても、|肝腎《かんじん》の|局《きよく》に|当《あた》る|聖霊《せいれい》が|聞《き》かなければ|是非《ぜひ》ない|事《こと》であります。|一寸《ちよつと》|茲《ここ》に|一言《いちごん》|断《ことわ》つておく|次第《しだい》であります。
(大正一二・一・二〇 旧一一・一二・四 松村真澄録)
第三章 |高魔腹《たかまはら》〔一二九七〕
|初稚姫《はつわかひめ》は|祠《ほこら》の|森《もり》の|神殿《しんでん》に|参拝《さんぱい》し、|長途《ちやうと》の|遠征《ゑんせい》を|守《まも》らせ|給《たま》へと|祈願《きぐわん》をこらし、|再《ふたた》び|高姫《たかひめ》の|居間《ゐま》へ|引返《ひきかへ》した。|高姫《たかひめ》は|遠《とほ》く|従《したが》うて|神殿《しんでん》|近《ちか》く|進《すす》み、|初稚姫《はつわかひめ》の|後姿《うしろすがた》を|打眺《うちなが》め、|何処《どこ》ともなしに|其《その》|神格《しんかく》の|完備《くわんび》せるに|打驚《うちおどろ》き|舌《した》をまいた。そして|高姫《たかひめ》は|其《その》|神格《しんかく》に|感《かん》じ、|心《こころ》の|底《そこ》より|初稚姫《はつわかひめ》を|神《かみ》の|如《ごと》く|尊敬《そんけい》した。|併《しか》し|乍《なが》ら|何処《どこ》ともなく|恐怖心《きようふしん》に|駆《か》られ、|且《かつ》|其《その》|神格《しんかく》の|偉大《ゐだい》なるに|稍《やや》|嫉妬《しつと》の|念《ねん》を|兆《きざ》したのである。|今《いま》まで|初稚姫《はつわかひめ》の|大神格《だいしんかく》に|圧倒《あつたう》され、|暫《しば》し|高姫《たかひめ》の|身体内《しんたいない》に|潜《ひそ》みて|沈黙《ちんもく》を|守《まも》つて|居《ゐ》た|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》は、|高姫《たかひめ》が|少《すこ》しく|嫉妬心《しつとしん》の|兆《きざ》したのを|幸《さいは》ひ、|其《その》|虚《きよ》に|入《い》り|忽《たちま》ち|囁《ささや》いて|云《い》ふ。
『|吾《われ》は|汝《なんぢ》の|略《ほぼ》|知《し》る|如《ごと》く、|神代《かみよ》に|於《おい》て|常世姫命《とこよひめのみこと》に|憑依《ひようい》し|罪悪《ざいあく》の|限《かぎ》りを|尽《つく》した|金毛九尾白面《きんまうきうびはくめん》の|悪狐《あくこ》である。|併《しか》しながら|時節《じせつ》|来《きた》りてミクロの|大神《おほかみ》、|地上《ちじやう》に|降臨《かうりん》し|給《たま》ひし|上《うへ》は、|吾等《われら》は|何時《いつ》|迄《まで》も|悪《あく》を|続《つづ》ける|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬ。|吾《われ》は|悪《あく》の|張本人《ちやうほんにん》なれば|世《よ》の|中《なか》|一切《いつさい》の|悪神《あくがみ》の|企《たく》みは|皆《みな》|知《し》つてゐる。|悪《あく》に|強《つよ》ければ|善《ぜん》にも|強《つよ》い。|吾《われ》は|金毛九尾白面《きんまうきうびはくめん》の|悪狐《あくこ》だ。そして|汝《なんぢ》は|常世姫命《とこよひめのみこと》の|身魂《みたま》の|再来《さいらい》だ。もう|斯《か》うなる|上《うへ》は|一切万事《いつさいばんじ》を|打《う》ち|明《あ》けて、|悪《あく》の|企《たく》みを|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|大神《おほかみ》にお|知《し》らせ|申《まを》さねばならぬ。|就《つ》いてはあの|初稚姫《はつわかひめ》は|稚桜姫命《わかざくらひめのみこと》の|再来《さいらい》なれば、|到底《たうてい》|汝等《なんぢら》の|匹敵《ひつてき》すべき|神人《しんじん》ではない。|寧《むし》ろ|吾《われ》よりトコトン|改心《かいしん》を|致《いた》すべければ、|汝《なんぢ》も|彼《か》の|初稚姫《はつわかひめ》を|師《し》と|仰《あふ》ぎ、|共《とも》に|神業《しんげふ》に|参加《さんか》すべし』
と|甘《うま》く|高姫《たかひめ》を|誑惑《きやうわく》してしまつた。|高姫《たかひめ》は|兇霊《きようれい》の|言《げん》を|深《ふか》く|信《しん》じて|初稚姫《はつわかひめ》に|対《たい》する|態度《たいど》を|一変《いつぺん》した。|初稚姫《はつわかひめ》は|神殿《しんでん》の|拝礼《はいれい》を|終《をは》り、|階段《かいだん》を|下《くだ》りながら|心《こころ》|私《ひそ》かに|思《おも》ふやう、
『|彼《かれ》|高姫《たかひめ》には|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》の|霊《れい》|憑依《ひようい》せり。|而《しか》して|彼《かれ》|悪霊《あくれい》は|形体《けいたい》を|有《いう》するものなれば、|吾《わが》|真相《しんさう》を|現《あら》はさば|忽《たちま》ち|彼《かれ》が|肉体《にくたい》を|亡《ほろ》ぼすか、|但《ただし》は|遁走《とんそう》して|又《また》もや|相応《さうおう》の|肉体《にくたい》に|住居《ぢゆうきよ》を|構《かま》へ|世《よ》を|惑乱《わくらん》するに|至《いた》らむ。|如《し》かず|吾《われ》は|和光同塵《わくわうどうぢん》の|態度《たいど》を|極力《きよくりよく》|維持《ゐぢ》し、|彼《か》の|悪霊《あくれい》を|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》に|長《なが》く|残留《ざんりう》せしめ、|彼《かれ》が|根本《こんぽん》より|改心《かいしん》すれば|重畳《ちようでふ》なれども、|万一《まんいち》|改心《かいしん》せずとも|高姫《たかひめ》の|肉体中《にくたいちう》に|秘《ひ》め|置《お》かば、|彼《かれ》|精霊《せいれい》は|外《ほか》に|出《い》づる|虞《おそれ》なし。|要《えう》するに|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》は|天下《てんか》を|乱《みだ》す|悪霊《あくれい》をつなぐ|処《ところ》の|牢獄《らうごく》と|見《み》ればいい。もとより|徹底的《てつていてき》|兇霊《きようれい》なれば、|神《かみ》の|光明《くわうみやう》に|照《てら》されなば、|兇霊《きようれい》は|忽《たちま》ち|自暴自棄《じばうじき》となり、|益々《ますます》|神業《しんげふ》の|妨害《ばうがい》をなすべし。|如《し》かず、|神慮《しんりよ》に|背《そむ》くかは|知《し》らざれども、|暫《しばら》く|吾《われ》は|猫《ねこ》を|被《かぶ》つて|彼《かれ》と|交際《かうさい》し、|何時《いつ》とはなしに|高姫《たかひめ》と|精霊《せいれい》とを|天国《てんごく》に|救《すく》ひやらむ』
と|決心《けつしん》し、|大神《おほかみ》に|念《ねん》じながら|素知《そし》らぬ|顔《かほ》にて|高姫《たかひめ》の|居間《ゐま》に|帰《かへ》つて|来《き》た。|精霊《せいれい》は|高姫《たかひめ》の|口舌《こうぜつ》を|使用《しよう》して、いとやさしげに|言葉《ことば》を|飾《かざ》つて|云《い》ふやう、
『|変性男子《へんじやうなんし》の|御身魂《おんみたま》|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、よくも|御降臨《ごかうりん》|下《くだ》さいました。|私《わたくし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|御存《ごぞん》じの|高姫《たかひめ》で|厶《ござ》ります。|大神様《おほかみさま》の|御都合《ごつがふ》により|悪神《あくがみ》の|張本《ちやうほん》|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》が|私《わたし》の|肉体《にくたい》に|潜《ひそ》み|入《い》り、|私《わたくし》の|真心《まごころ》に|感化《かんくわ》されて|漸《やうや》く|改心《かいしん》を|致《いた》しまして、|今《いま》|迄《まで》の|悪《あく》をスツクリ|白状《はくじやう》|致《いた》しました。|就《つ》いては|凡《すべ》ての|悪神《あくがみ》の|企《たく》みは|何《なに》も|彼《か》も|存《ぞん》じて|居《ゐ》ると|申《まを》して|居《を》りますから、|私《わたくし》が|守護神《しゆごじん》と|共《とも》に|此《この》|祠《ほこら》の|森《もり》に|大門《おほもん》を|造《つく》り、|凡《すべ》ての|人民《じんみん》の|因縁《いんねん》をよく|調《しら》べ|改心《かいしん》をさせた|上《うへ》、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|送《おく》る|考《かんが》へで|厶《ござ》ります。|何卒《なにとぞ》|此《この》|事《こと》をお|許《ゆる》し|下《くだ》さいます|様《やう》に、|変性男子《へんじやうなんし》の|御霊様《みたまさま》、お|願《ねが》ひ|申《まを》します。そして|一方《いつぱう》には|変性男子《へんじやうなんし》の|系統《ひつぽう》なる|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》が、|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|御命令《ごめいれい》によりまして|世界中《せかいぢう》を|調《しら》べに|歩《ある》き、|世《よ》の|初《はじ》まりの|根本《こつぽん》の|根本《こつぽん》の|成《な》り|立《た》ちから、|人民《じんみん》の|大先祖《おほせんぞ》の|因縁《いんねん》、|大黒主《おほくろぬし》の|身魂《みたま》は|如何《いか》なる|因縁《いんねん》があるか、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》のお|働《はたら》きは|如何《いか》なるものかと|云《い》ふ|事《こと》を|知《し》らしたいので|厶《ござ》ります。|今《いま》の|三五教《あななひけう》には|宣伝使《せんでんし》は|沢山《たくさん》|厶《ござ》りますが、|皆《みな》|智慧《ちゑ》、|学《がく》で|神界《しんかい》の|事《こと》を|考《かんが》へようと|致《いた》すので|厶《ござ》りますから|何《なに》も|分《わか》りませぬ。|貴女《あなた》は|変性男子《へんじやうなんし》の|生粋《きつすゐ》の|大和魂《やまとだましひ》の|善《ぜん》の|神様《かみさま》で|厶《ござ》りますから、|何《なに》も|彼《か》も|三千世界《さんぜんせかい》の|事《こと》は|御存《ごぞん》じで|厶《ござ》りますが、|外《ほか》の|守護神《しゆごじん》や|宣伝使《せんでんし》や|信者《しんじや》はサツパリ|駄目《だめ》で|厶《ござ》ります。それ|故《ゆゑ》|此処《ここ》に|大門《おほもん》を|拵《こしら》へ、|私《わたし》が|一々《いちいち》|因縁《いんねん》をあらため、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|参拝《さんぱい》さす|御役《おんやく》にして|下《くだ》さいませぬか』
と|兇霊《きようれい》はうまく|高姫《たかひめ》に|化《ば》けて|虫《むし》のよい|事《こと》を|頼《たの》みかけた。|初稚姫《はつわかひめ》は|彼《かれ》が|奸計《かんけい》を|残《のこ》らず|看破《かんぱ》した。されど|前述《ぜんじゆつ》の|如《ごと》く|初稚姫《はつわかひめ》は|此《この》|悪霊《あくれい》を|審判《さには》する|事《こと》を|避《さ》けられたのである。
『|貴女《あなた》は|信心《しんじん》|堅固《けんご》にして|霊界《れいかい》によくお|通《つう》じ|遊《あそ》ばした|方《かた》と|見《み》えますな。|妾《わらは》は|賤《いや》しき|杢助《もくすけ》の|娘《むすめ》と|生《うま》れ、まだ|年《とし》も|若《わか》く、|社会的《しやくわいてき》の|経験《けいけん》さへも|積《つ》んでゐない|愚者《おろかもの》で|厶《ござ》りますから、|到底《たうてい》|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》|等《など》は|分《わか》りませぬ。|就《つ》いては|貴女《あなた》に|対《たい》し|左様《さやう》の|事《こと》をお|許《ゆる》し|申《まを》すなどとは|以《もつ》ての|外《ほか》の|事《こと》で|厶《ござ》ります。|何《いづ》れ|神様《かみさま》が|貴女《あなた》の|御神力《ごしんりき》をお|認《みと》め|遊《あそ》ばしたならば、|屹度《きつと》|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|大神様《おほかみさま》からお|許《ゆる》しが|厶《ござ》りませう。|妾《わらは》には|左様《さやう》な|権限《けんげん》は|少《すこ》しも|厶《ござ》りませぬから、|左様《さやう》な|事《こと》を|仰有《おつしや》らない|様《やう》にお|願《ねが》ひ|致《いた》します。|何卒《なにとぞ》|至《いた》らぬ|妾《わらは》、|神徳《しんとく》|高《たか》き|貴女様《あなたさま》より|御教授《ごけうじゆ》を|御願《おねが》ひ|致《いた》したいもので|厶《ござ》ります』
と|一切《いつさい》の|光明《くわうみやう》を|包《つつ》み、|普通人《ふつうじん》の|如《ごと》くなつて|了《しま》つた。|高姫《たかひめ》はニタリと|打笑《うちわら》ひ、
『アー、さうだらうさうだらう、それが|正直《しやうぢき》の|処《ところ》だ。まだ|年《とし》も|若《わか》い|癖《くせ》に|宣伝使《せんでんし》に|歩《ある》かすとは、|瑞《みづ》の|御霊様《みたまさま》も|余程《よつぽど》|物好《ものず》きな|珍《めづ》らし|物《もの》|喰《ぐ》ひだな。どれどれ|此《この》|高姫《たかひめ》がここで|根本《こつぽん》の|根本《こつぽん》の|因縁《いんねん》を|説《と》いて|聞《き》かしますから|十分《じふぶん》|修行《しゆぎやう》をなさいませ。それでなければ、|訳《わけ》も|分《わか》らずに|宣伝《せんでん》に|歩《ある》いたり、|大黒主《おほくろぬし》を|言向和《ことむけやは》すなどとは、|以《もつ》ての|外《ほか》の|無謀《むぼう》のやり|方《かた》で|厶《ござ》りますからな』
『|何分《なにぶん》、|至《いた》らぬ|妾《わらは》、|老練《らうれん》な|貴女様《あなたさま》の|御薫陶《ごくんたう》をお|願《ねが》ひしたいもので|厶《ござ》ります』
『ハイ、よしよし、お|前《まへ》は|水晶魂《すいしやうだま》だ。|本当《ほんたう》に|素直《すなほ》な|可愛《かあい》い|娘《こ》だな。これから|此《この》|小母《をば》さまの|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》くのだよ。|否《いな》|小母《をば》さまではない、|絶《き》つてもきれぬ|母子《おやこ》だから、そのつもりでつき|合《あ》つて|下《くだ》さいねー』
|初稚姫《はつわかひめ》は|心《こころ》に|打笑《うちわら》ひながら|故意《わざ》と|空惚《そらとぼ》けて、
『|小母様《をばさま》、|今《いま》|貴女《あなた》は|妾《わらは》ときつてもきれぬ|母子《おやこ》だと|仰有《おつしや》いましたが、それは|身魂《みたま》の|母子《おやこ》で|厶《ござ》りますか。チツとも|愚鈍《ぐどん》の|妾《わらは》には|合点《がてん》が|参《まゐ》りませぬワ』
『|身魂《みたま》の|母子《おやこ》は|申《まを》すに|及《およ》ばぬ、お|前《まへ》さまは|杢助《もくすけ》さまの|大切《たいせつ》の|娘《むすめ》だらう。|其《その》|杢助《もくすけ》さまは|此《この》|度《たび》|神様《かみさま》の|因縁《いんねん》によつて|常世姫命《とこよひめのみこと》の|改心《かいしん》した|善《ぜん》の|折《をり》の|生粋《きつすゐ》の|肉宮《にくみや》の|此《この》|高姫《たかひめ》の|夫《をつと》とおなり|遊《あそ》ばしたのだよ。|杢助様《もくすけさま》だつて、|此《この》|高姫《たかひめ》だつて、よい|年《とし》をしてから|若《わか》いものか|何《なん》ぞの|様《やう》に|夫婦《ふうふ》になつたり、そんな|見《み》つともない|事《こと》はしたくはない。|胸《むね》に|焼鉄《やきがね》をあてる|様《やう》に|思《おも》うてゐるのだが、これも|神様《かみさま》のため、|万民《ばんみん》を|救《すく》ふため、|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》うて|御神業《ごしんげふ》に|参加《さんか》してるのだよ。|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|人民《じんみん》がいろいろと|申《まを》すであらうなれど、|人民《じんみん》の|申《まを》す|事《こと》に|心《こころ》を|悩《なや》まして|居《を》りたらミロク|神政《しんせい》の|御用《ごよう》が|勤《つと》まりませぬ。|訳《わけ》|知《し》らぬ|人民《じんみん》は、|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》の|結婚《けつこん》を|何《なん》となつと|申《まを》して|笑《わら》へば|笑《わら》へ、|誹《そし》らば|誹《そし》れ、|神《かみ》のお|仕組《しぐみ》|一厘《いちりん》の|秘密《ひみつ》が|如何《どう》して|一寸先《いつすんさき》も|見《み》えない|人民《じんみん》に|分《わか》るものか、と|云《い》ふ|磐石《ばんじやく》の|如《ごと》き|決心《けつしん》を|以《もつ》てここに|夫婦《ふうふ》の|約束《やくそく》を|結《むす》んだのだから、|初稚《はつわか》さま、|貴女《あなた》もそのお|積《つも》りで、|私《わたし》を|母《はは》と|思《おも》つて|下《くだ》さいや。|私《わたし》も|貴女《あなた》を|大切《たいせつ》の|大切《たいせつ》の|御子《おんこ》と|致《いた》して|敬《うやま》ひますから、|母《おや》となり|子《こ》となるのも|昔《むかし》の|昔《むかし》のさる|昔《むかし》、も|一《ひと》つ|昔《むかし》のまだ|昔《むかし》の|天地開闢《てんちかいびやく》の|初《はじ》めから|大神様《おほかみさま》より|定《さだ》められた|因縁《いんねん》ぢやによつて、|何卒《どうぞ》その|覚悟《かくご》でゐて|下《くだ》され。|何事《なにごと》にも|素直《すなほ》なお|賢《かしこ》いお|前《まへ》さまだから、|此《この》|高姫《たかひめ》の|生宮《いきみや》の|申《まを》す|事《こと》、よく|呑込《のみこ》めたでせうなア』
|初稚姫《はつわかひめ》は|杢助《もくすけ》の|本物《ほんもの》でなく、|獅子《しし》と|虎《とら》との|中間動物《ちうかんどうぶつ》なる|兇霊《きようれい》に|騙《だま》されてゐる|事《こと》はよく|看破《かんぱ》して|居《ゐ》た。されど|故意《わざ》と|空惚《そらとぼ》けて、
『|高姫《たかひめ》さま、|私《わたし》の|父《ちち》が|何時《いつ》そんな|事《こと》を|貴女《あなた》と|約束《やくそく》|致《いた》しましたのですか、|私《わたし》|今《いま》が|初耳《はつみみ》ですわ。まアまアまア|不思議《ふしぎ》な|御縁《ごえん》で|厶《ござ》りますこと。さうしてお|父《とう》さまは|何処《どこ》へ|行《ゆ》かれましたの』
『|一寸《ちよつと》|此《この》|森《もり》の|中《なか》へ|散歩《さんぽ》にお|出《い》でになつたと|見《み》えます。|杢助様《もくすけさま》は|森《もり》の|散歩《さんぽ》が|大変《たいへん》にお|好《す》きだと|見《み》えましてね。お|前《まへ》さまが|此処《ここ》へ|訪《たづ》ねて|来《こ》られた|事《こと》をお|聞《き》きになつたら、|嘸《さぞ》|喜《よろこ》ばれるでせう』
『はて、|妙《めう》な|事《こと》だわ。|妾《わらは》のお|父《とう》さまは|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|総務《そうむ》を|勤《つと》めて|居《ゐ》らつしやるのだから、ここへお|越《こ》し|遊《あそ》ばす|道理《だうり》はありませぬがな』
『これ|初《はつ》ちやま、お|前《まへ》の、さう|疑《うたが》ふのも|尤《もつと》もだ。|実《じつ》の|処《ところ》は|杢助《もくすけ》さまは、あの|我《が》の|強《つよ》い|東野別《あづまのわけ》の|東助《とうすけ》さまと|云《い》ふ|副教主《ふくけうしゆ》との|間《あひだ》に|事務上《じむじやう》の|衝突《しようとつ》が|起《おこ》り、それがために|斎苑《いそ》の|館《やかた》を|追《お》ひ|出《だ》されなさつたのですよ。|東助《とうすけ》の|野郎《やらう》、|正直一途《しやうぢきいちづ》の|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》、|三羽烏《さんばがらす》の|御一人《ごいちにん》なる|杢助《もくすけ》さまを|追《お》ひ|出《だ》すとは|以《もつ》ての|外《ほか》の|悪人《あくにん》ぢやありませぬか。あの|東助《とうすけ》はやがて|今《いま》|迄《まで》|目《め》の|上《うへ》の|瘤《こぶ》の|様《やう》に|困《こま》つてゐた|杢助《もくすけ》さまを|首尾《しゆび》よく|追《お》ひ|出《だ》し、|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|全権《ぜんけん》を|掌握《しやうあく》し、|終《つひ》には|八島主《やしまぬし》の|教主《けうしゆ》さまをおつ|放《ぽ》り|出《だ》し、|自分《じぶん》が|其《その》|後釜《あとがま》にすわると|云《い》ふ|野心《やしん》を|抱《いだ》いてをるのですよ。それでお|前《まへ》と|私《わし》が|此処《ここ》で|一肌《ひとはだ》|脱《ぬ》いで、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|参《まゐ》る|信者《しんじや》を|小口《こぐち》から|虱殺《しらみごろ》しに|調《しら》べ、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へやらぬ|様《やう》にせねばなりませぬ。|私《わし》がここで|杢助《もくすけ》さまと|大門開《おほもんびら》きをしたのは、|杢助《もくすけ》さまや|八島主《やしまぬし》の|教主《けうしゆ》がお|困《こま》りになつた|時《とき》、お|助《たす》け|申《まを》すやうにチヤンと|仕組《しぐみ》をしてゐるのだから、お|前《まへ》さまも|何処《どこ》へも|行《ゆ》かず、|此処《ここ》に|居《を》つて|親子《おやこ》|三人《さんにん》|御用《ごよう》を|致《いた》さうぢやありませぬか』
『それは|又《また》|不思議《ふしぎ》な|事《こと》を|承《うけたま》はります。|東助様《とうすけさま》はそんなお|方《かた》ぢやない|様《やう》に|思《おも》ひますがな』
『それが|善《ぜん》の|仮面《かめん》を|被《かぶ》つてゐる|悪魔《あくま》ですよ。|屹度《きつと》|悪人《あくにん》は|悪相《あくさう》を|以《もつ》て|現《あら》はれるものぢやありませぬ。|所在《あらゆる》|虚偽《きよぎ》と|偽善《ぎぜん》を|以《もつ》て|人民《じんみん》を|詐《いつは》り、|虚栄的《きよえいてき》|権威《けんゐ》に|甘《あま》んじてゐるものですよ。これ|初稚《はつわか》さま、|油断《ゆだん》してはなりませぬぞや。|此《この》|高姫《たかひめ》は|海千《うみせん》|川千《かはせん》|山千《やません》の|修業《しゆげふ》をした|善《ぜん》にも|強《つよ》い、|悪《あく》にも|強《つよ》い、そして|悪《あく》の|企《たく》みは|何《なに》も|彼《か》も|看破《かんぱ》してゐるのだから、|一分一厘《いちぶいちりん》|間違《まちが》ひはありませぬよ』
『あの|東助《とうすけ》さまは|小母《をば》さまの|若《わか》い|時《とき》のお|馴染《なじみ》だつたさうですな。そんなに|悪口《わるくち》を|云《い》ふものぢやありませぬよ。|父《ちち》の|杢助《もくすけ》に|比《くら》ぶれば、|幾層倍《いくそうばい》|人格《じんかく》が|上《うへ》だか|知《し》れぬぢやありませぬか』
『ヤツパリ|子供《こども》だな。|然《しか》し|子供《こども》は|正直《しやうぢき》ぢや。|何《なん》と|云《い》つても|水晶魂《すいしやうだま》だから|心《こころ》に|罪《つみ》がないので、|表面《うはべ》から|良《よ》く|見《み》える|人《ひと》を|信用《しんよう》なさるのだ。そこが|本当《ほんたう》に|尊《たふと》い|処《ところ》だよ。|然《しか》し|高姫《たかひめ》の|云《い》ふ|事《こと》はチツとも|違《ちが》ひませぬぞや』
『さうで|厶《ござ》りますかな。|一遍《いつぺん》|父《ちち》に|会《あ》つてみたいものですがな。もし|小母《をば》さま、|長上《ちやうじやう》をお|使《つか》ひ|申《まを》して|真《まこと》に|済《す》みませぬが、|一度《いちど》お|父《とう》さまに|会《あ》ひたう|厶《ござ》りますから、|探《さが》して|来《き》て|下《くだ》さいませ』
『アアさうだろさうだろ、|無理《むり》もない。|親子《おやこ》の|情《じやう》と|云《い》ふものは|本当《ほんたう》に|尊《たふと》いものだな。|吾《わが》|身《み》を|捨《す》てる|藪《やぶ》はあつても|吾《わが》|子《こ》を|捨《す》てる|藪《やぶ》はないと|云《い》ふ|事《こと》だが、|杢助《もくすけ》さまも|何《なに》も|彼《か》も|天眼通《てんがんつう》で|知《し》つて|居《を》りながら、こんな|可愛《かあい》い|娘《むすめ》が|来《き》て|居《ゐ》るのに、そしらぬ|顔《かほ》して|森《もり》に|散歩《さんぽ》してゐなさるとは|本当《ほんたう》に|水臭《みづくさ》い|方《かた》だな。|子《こ》の|心《こころ》、|親《おや》|知《し》らずだ。|然《しか》し|初稚《はつわか》さま、|此《この》|高姫《たかひめ》は|斯《か》う|見《み》えても|本当《ほんたう》にやさしいものですよ。|杢助《もくすけ》さまに|比《くら》べて|幾百倍《いくひやくばい》も|可愛《かあい》がつてやりますから、|何卒《どうぞ》|私《わたし》を|本当《ほんたう》の|母《おや》だと|思《おも》つて|下《くだ》さいや』
『ハイ、|御親切《ごしんせつ》|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります』
と|俯向《うつむ》いて|見《み》せた。
『これ|初稚《はつわか》さま、|一寸《ちよつと》|待《ま》つてゐて|下《くだ》さい。お|父《とう》さまのあとを|探《さが》して|今《いま》|直《すぐ》に|屹度《きつと》|連《つ》れて|参《まゐ》りますから』
と|云《い》ひながら|羽《は》ばたきしつつ|欣々《いそいそ》として|森林《しんりん》の|方《はう》に|行《ゆ》く。|高姫《たかひめ》は|森《もり》の|茂《しげ》みに|隠《かく》れて|後《あと》ふり|返《かへ》り|舌《した》をニユツと|出《だ》し、いやらしい|笑《ゑ》みを|漏《もら》しながら|独言《ひとりごと》、
『|何《なん》と|云《い》つてもヤツパリ|子供《こども》だな。|然《しか》しながらあの|娘《こ》は|何処《どこ》ともなしに|気高《けだか》い|処《ところ》もあり、|中々《なかなか》シヤンとした|事《こと》を|云《い》ふ。あれをうまくチヨロまかし|自分《じぶん》の|子《こ》として|置《お》けば、|三五教《あななひけう》は|吾《わが》|手《て》に|握《にぎ》つた|様《やう》なものだ。|何《なん》と|都合《つがふ》のいい|事《こと》になつたものだな。これから|一《ひと》つでも、うまい|物《もの》があつたら、あの|娘《こ》に|呉《く》れてやり、そして|十分《じふぶん》|懐《なつ》かして|置《お》かねばならぬ。|然《しか》し|都合《つがふ》のいい|事《こと》には|杢助《もくすけ》さまが|私《わたし》の|夫《をつと》だから、|切《き》つても|切《き》れぬ|仲《なか》だ。ああ|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります、|八岐《やまた》の|大蛇様《をろちさま》、|金毛九尾《きんまうきうび》の|大神様《おほかみさま》』
と|口《くち》の|中《なか》から|囁《ささや》いた。|高姫《たかひめ》は|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて|目《め》を|怒《いか》らし、|臍《へそ》の|辺《あたり》を|握《にぎ》り|拳《こぶし》でトントンと|打《う》ちながら、
『こりや、|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》|奴《め》、|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》を|申《まを》すのだ。|左様《さやう》な|事《こと》を|申《まを》すと、もう|此《この》|高姫《たかひめ》は|肉体《にくたい》を|借《か》さぬぞや。|杢助《もくすけ》さまや|初稚姫《はつわかひめ》の|傍《そば》で、そんな|事《こと》でも|云《い》うて|見《み》よれ。|此《この》|高姫《たかひめ》は|立場《たちば》がないぢやないか。|改心《かいしん》|致《いた》したと|云《い》うたぢやないか』
|腹《はら》の|中《なか》から、
『ここは|誰《たれ》も|居《ゐ》ないから|一寸《ちよつと》|云《い》つて|見《み》たのだから、さう|怒《おこ》るものぢやない。メツタに|人《ひと》の|居《を》る|処《ところ》で|正体《しやうたい》は|現《あら》はさぬから|安心《あんしん》しておくれ』
『よし、|屹度《きつと》|守《まも》るか、うつかりした|事《こと》を|申《まを》すと|常世姫《とこよひめ》の|生宮《いきみや》が|承知《しようち》しませぬぞや。これから|八岐大蛇《やまたをろち》や|金毛九尾《きんまうきうび》はスツカリ|改心《かいしん》|致《いた》して、あとへ|日出神《ひのでのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》が|這入《はい》つてゐると|何処《どこ》までも|主張《しゆちやう》するのだよ。よいか、|分《わか》つたか。|馬鹿《ばか》な|守護神《しゆごじん》だな』
|腹《はら》の|中《なか》から、
『|何《なん》とまア、|我《が》の|強《つよ》い、|向《むか》ふ|息《いき》のきつい|肉体《にくたい》だな、アハハハハ』
(大正一二・一・二〇 旧一一・一二・四 北村隆光録)
第四章 |御意犬《ごいけん》〔一二九八〕
|初稚姫《はつわかひめ》は|高姫《たかひめ》の|往《い》つた|後《あと》で、|小《ちひ》さい|声《こゑ》で、ホホホホホと|吹《ふ》き|出《だ》さずには|居《ゐ》られなかつた。さうして|自分《じぶん》の|笑《わら》ひ|声《ごゑ》に|驚《おどろ》いて|小声《こごゑ》で|独言《ひとりごと》、
『|高姫《たかひめ》さまも|気《き》の|毒《どく》なものだなア。さうして|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》|奴《め》、|又《また》もや|祠《ほこら》の|森《もり》に|頑張《ぐわんば》り、|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|御神業《ごしんげふ》を|妨害《ばうがい》し、|数多《あまた》の|精霊《せいれい》や|人民《じんみん》を|迷《まよ》はさうと|思《おも》つてゐる。|其《その》|遣方《やりかた》の|奸黠《かんきつ》さ、|憎《にく》らしさよ。|高姫《たかひめ》さまは|熱心《ねつしん》な|人《ひと》だけれど、|常識《じやうしき》が|足《た》らないから、いつも|狂妄《きやうまう》に|陥《おちい》り|易《やす》く、あの|通《とほ》り|悪魔《あくま》の|擒《とりこ》となつて|了《しま》つたのだなア、どうぞして|助《たす》けて|上《あ》げたいけれど、|一《ひと》つ|目《め》を|醒《さ》まさなければ、|到底《たうてい》|復活《ふくくわつ》の|見込《みこみ》はない。|肉体《にくたい》をもつて|居《ゐ》る|獅子《しし》、|虎《とら》|両性《りやうせい》の|妖魅《えうみ》に|誑惑《きやうわく》され、|父《ちち》の|杢助《もくすけ》と|思《おも》つて|居《ゐ》るのはほんに|気《き》の|毒《どく》なものだ。|高姫《たかひめ》さまに|憑依《ひようい》して|居《ゐ》る|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》は、|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》を|通《とほ》してでなければ|現界《げんかい》を|見《み》る|事《こと》が|出来《でき》ないのだから、あのやうな|怪物《くわいぶつ》にだまされて|居《ゐ》るのだ。|憑霊《ひようれい》|自身《じしん》も|高姫《たかひめ》も、|其《その》|怪物《くわいぶつ》たる|事《こと》を|知《し》らない。|高姫《たかひめ》|自身《じしん》は|兇霊《きようれい》は|認《みと》めて|居《ゐ》るが、あの|怪物《くわいぶつ》の|方《はう》からは、|高姫《たかひめ》に|憑依《ひようい》して|居《ゐ》る|金毛九尾《きんまうきうび》の|正体《しやうたい》は|見《み》る|事《こと》は|得《え》ないのだ。つまり|妖怪《えうくわい》と|妖怪《えうくわい》とが|高姫《たかひめ》さまの|肉体《にくたい》を|隔《へだ》てて|暗中模索的《あんちうもさくてき》|妄動《まうどう》をやつて|居《ゐ》るのだ。|併《しか》しこれが|大神様《おほかみさま》の|水《みづ》も|漏《も》らさぬ|御注意《ごちゆうい》の|点《てん》である。|杢助《もくすけ》さまに|化《ば》けた|怪物《くわいぶつ》と|高姫《たかひめ》|身内《みうち》の|悪狐《あくこ》とが|互《たがひ》に|素性《すじやう》を|知《し》り|合《あ》ひ、|又《また》|其《その》|姿《すがた》を|認《みと》め|得《え》たならば、|内外《ないぐわい》|相応《あひおう》じて|高姫《たかひめ》を|愈《いよいよ》|悪化《あくくわ》せしめ、|如何《いか》なる|害毒《がいどく》を|天下《てんか》に|流《なが》すか|知《し》れたものぢやない。ああ|有難《ありがた》い|神様《かみさま》の|思召《おぼしめ》し』
と|感涙《かんるゐ》に|咽《むせ》んで|居《ゐ》る。スマートは|初稚姫《はつわかひめ》の|膝《ひざ》に|頭《かしら》を|横《よこ》たへ、|初稚姫《はつわかひめ》の|独言《ひとりごと》を|了解《れうかい》するものの|如《ごと》くであつた。
『これスマートや、お|前《まへ》は|行儀《ぎやうぎ》の|悪《わる》い、なぜきちんとお|坐《すわ》りなさらぬのだい』
スマートは|耳《みみ》をペロペロと|動《うご》かしながら、まだ|起《お》きようともしない。
『ああさうさう、スマートや|耐《こら》へてお|呉《く》れ。お|前《まへ》さまは|足《あし》を|怪我《けが》したのだな、|坐《すわ》りなさいと|云《い》つたつて|坐《すわ》れないのは|無理《むり》はない。これは|私《わたし》が|悪《わる》かつた、|許《ゆる》してお|呉《く》れ』
とやさしく|頭《かしら》を|撫《な》でてやる。スマートは|嬉《うれ》しさうに|尾《を》をふつて|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《へう》するものの|如《ごと》くであつた。
スマートは【ムツク】と|起《お》き、|体《からだ》をプリプリと|振《ふ》りながら、|形相《ぎやうさう》|凄《すさま》じく|前《まへ》の|足《あし》を|立《た》てて|何物《なにもの》にか|飛《と》びつくやうな|勢《いきほひ》を|示《しめ》した。さうしてウーウーウと|小声《こごゑ》で|唸《うな》つて|居《ゐ》る。|初稚姫《はつわかひめ》はスマートを|撫《な》でながら|声《こゑ》も|優《やさ》しく、
『これスマートや、|何《なに》が|来《き》たのか|知《し》らないが、お|前《まへ》は|必《かなら》ず【イキリ】|立《た》つてはいけませぬよ。|私《わたし》が|命令《めいれい》をするまで、どんなものが|来《き》ても、|決《けつ》して|唸《うな》つたり|飛《と》びついたりする|事《こと》はなりませぬぞや。|私《わたし》だつて|何《なに》も|彼《か》もよく|知《し》つてゐるのだけれど、これには|少《すこ》し|訳《わけ》があるのだから、|何卒《どうぞ》おとなしうして|居《ゐ》てお|呉《く》れや』
と|諭《さと》せば、スマートは|首《くび》を|垂《た》れ|尾《を》をふつて|承諾《しようだく》の|旨《むね》を|表示《へうじ》した。
『ほんに|畜生《ちくしやう》ながら|賢《かしこ》いものだなア。お|前《まへ》は|私《わたし》の|家来《けらい》だよ。|私《わたし》と|何処《どこ》までも|一緒《いつしよ》について|来《く》るのだ。さうして|立派《りつぱ》な|御神業《ごしんげふ》を|完成《くわんせい》した|上《うへ》は、|再《ふたた》び|人間《にんげん》と|生《うま》れ|変《かは》り、|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》となつて|世界《せかい》|万民《ばんみん》を|導《みちび》き、|天国《てんごく》に|安楽《あんらく》な|生活《せいくわつ》を|送《おく》らして|頂《いただ》くやうに|忠実《ちうじつ》に|務《つと》めるのだよ。ほんにお|前《まへ》は|何処《どこ》ともなしに|変《かは》つた|犬《いぬ》だ。|勇猛《ゆうまう》にして|且《かつ》|柔順《じうじゆん》な|理想的《りさうてき》なお|前《まへ》は|犬《いぬ》だ』
と|頻《しきり》に|頭《あたま》や|首《くび》を|撫《な》で|可愛《かあい》がつて|居《ゐ》る。スマートは|漸《やうや》くにして|足《あし》をかがめ、|畳《たたみ》に|顋《あご》をすりつけ、|目《め》を|塞《ふさ》いで|柔順《じうじゆん》な|態度《たいど》を|示《しめ》して|居《ゐ》る。
『あの|杢助《もくすけ》と|化相《けさう》した|怪物《くわいぶつ》を、スマートがよく|看破《かんぱ》し、|最前《さいぜん》も|追《お》つ|駆《か》けていつて|格闘《かくとう》の|末《すゑ》、こんな|傷《きず》を|負《まけ》つて|来《き》たのだな、ほんに|勇敢《ゆうかん》なスマートだ』
と|激賞《げきしやう》して|居《ゐ》る|折《をり》もあれ、|例《れい》の|高姫《たかひめ》は|静々《しづしづ》と|帰《かへ》つて|来《き》た。
『アアお|母《かあ》さま、|御苦労様《ごくらうさま》で|厶《ござ》いました。|父《ちち》は|居《を》られましたかな』
『ハア、やつとの|事《こと》でお|目《め》にかかつて|来《き》ましたよ。|杢助《もくすけ》さまは|森林《しんりん》を|逍遥《せうえう》なさる|際《さい》、|藤葛《ふじかづら》に|足《あし》を|引掛《ひつか》け、|岩石《がんせき》に|眉間《みけん》を|打《う》ちつけ、|大変《たいへん》な|傷《きず》をなさつて、|谷川《たにがは》で|傷《きず》を|洗《あら》つて|居《を》られました』
|之《これ》を|聞《き》くよりスマートは|又《また》もや【ムツク】と|頭《かしら》を|上《あ》げ、ウーウと|唸《うな》りかけた。|初稚姫《はつわかひめ》は|慌《あわ》てて|頭《かしら》を|撫《な》でながら、
『これスマート、おとなしくするのだよ。|主人《しゆじん》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》きなさいや』
と|静《しづか》になだめながら、
『はてな、|怪物《くわいぶつ》はこのスマートに|眉間《みけん》を|噛《か》まれたのだな』
と|鋭敏《えいびん》の|頭脳《づなう》に|直覚《ちよくかく》した。されど|素知《そし》らぬ|体《てい》を|装《よそほ》ひ、|言葉《ことば》|柔《やさ》しく|満面《まんめん》に|笑《ゑみ》を|湛《たた》へながら、
『あのお|母《かあ》さま、お|父《とう》さまは|本当《ほんたう》にお|危《あぶ》ない|事《こと》をなさいましたなア。|大《たい》した|事《こと》は|厶《ござ》いませぬか。|私《わたくし》、|心配《しんぱい》でなりませぬわ。そして|直《ぢき》に|帰《かへ》つて|下《くだ》さるのですか』
『|別《べつ》に|大《たい》したお|怪我《けが》でもありませぬが、|中々《なかなか》|我《が》の|強《つよ》いお|方《かた》で、お|前《まへ》さまがお|出《い》でだと|云《い》つても、|容易《ようい》にお|動《うご》き|遊《あそ》ばさぬのですよ』
『|父《ちち》は|私《わたくし》の|事《こと》を|何《なん》と|云《い》つて|居《ゐ》ましたか、|定《さだ》めて|怒《おこ》つたでせうなア』
『|何《なに》、|初《はつ》さま、|自分《じぶん》の|娘《むすめ》が|来《き》て|居《ゐ》るのに|怒《おこ》る|人《ひと》がありますか。そんな|事《こと》|怒《おこ》るやうな|方《かた》だつたら|人間《にんげん》ぢやありませぬわ』
『それでも|私《わたくし》の|父《ちち》はハルナの|都《みやこ》の|御用《ごよう》が|済《す》むまで、どんな|事《こと》があつても|面会《めんくわい》は|致《いた》さぬと、それはそれは|厳《きび》しう|申《まを》して|居《ゐ》ましたよ』
『そこが|杢助《もくすけ》の|杢助《もくすけ》さまたる|所《ところ》だ。ほんとにお|偉《えら》い|方《かた》ですよ。|母《はは》の|愛《あい》は|舐犢《しとく》の|愛《あい》、|父《ちち》の|愛《あい》は|秋霜《しうさう》の|愛《あい》と|云《い》つて、|云《い》ふに|云《い》はれぬ|所《ところ》があるのです。|何程《なにほど》|厳《きび》しく|仰有《おつしや》つても、|本当《ほんたう》の|心《こころ》の|中《うち》は|母親《ははおや》の|愛《あい》に|優《まさ》る|千万無量《せんまんむりやう》の|涙《なみだ》を|湛《たた》へて|厶《ござ》るのだからな、|併《しか》しこの|高姫《たかひめ》は|切《き》つても|切《き》れぬ|身霊《みたま》の|親子《おやこ》でもあり、|肉体上《にくたいじやう》の|義理《ぎり》の|親子《おやこ》でもありますから、|其《その》|愛《あい》の|分量《ぶんりやう》は、|到底《たうてい》|生《う》みの|母《はは》の|及《およ》ぶ|所《ところ》ではありませぬ。どうぞ|打《う》ちとけて|此《この》|母《はは》の|云《い》ふ|事《こと》を|守《まも》つて|下《くだ》されや』
『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。|何分《なにぶん》にも|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
『|早速《さつそく》ながら|初稚《はつわか》さま、|私《わたし》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて|貰《もら》へますまいかなア』
『これは|又《また》|改《あらた》まつてのお|言葉《ことば》、|私《わたし》のやうなものにお|頼《たの》みとは、どんな|事《こと》で|厶《ござ》いますか』
『|実《じつ》の|所《ところ》は、お|前《まへ》の|折角《せつかく》|可愛《かあい》がつて|厶《ござ》るこの|犬《いぬ》を、いなして|貰《もら》ひたいのだ。|杢助《もくすけ》さまは|犬《いぬ》が|大変《たいへん》お|嫌《きら》ひだから、「この|神聖《しんせい》の|館《やかた》にそんな|四《よ》つ|足《あし》を|入《い》れることはならぬ。|聖場《せいぢやう》が|汚《けが》れるから、いなして|呉《く》れ、さうでなければ|私《わし》は|此処《ここ》には|居《ゐ》ない」と、それはそれは|堅《かた》う|堅《かた》う|仰有《おつしや》るのだよ』
|初稚姫《はつわかひめ》はそれと|感《かん》づきながら、|態《わざ》と|空惚《そらとぼ》けて、
『|何《なん》と|不思議《ふしぎ》な|事《こと》で|厶《ござ》いますなア、|私《わたくし》の|父《ちち》は|特別《とくべつ》|犬《いぬ》が|好《す》きなので|厶《ござ》いますが、|斎苑《いそ》の|館《やかた》でも、|往《ゆ》き|復《かへ》り、|犬《いぬ》を|離《はな》した|事《こと》はないので|厶《ござ》いますよ。それに|心機一転《しんきいつてん》|遊《あそ》ばすとは|不思議《ふしぎ》ぢや|厶《ござ》いませぬか。それ|程《ほど》この|犬《いぬ》が|怖《こは》い、イヤ|嫌《きら》ひなので|厶《ござ》いませうかなア』
『|何《なん》と|云《い》つても|此処《ここ》は|神聖《しんせい》なお|仕組《しぐみ》の|場所《ばしよ》、|汚《よご》れた|四足《よつあし》を|置《お》いておくと|大神様《おほかみさま》のお|気障《きざは》りになるから、|杢助《もくすけ》が|神様《かみさま》に|対《たい》し|謹慎《きんしん》の|意《い》を|表《へう》し、|犬《いぬ》をいなせと|仰有《おつしや》つたのですよ』
『それでも|産土山《うぶすなやま》の|聖場《せいぢやう》には|沢山《たくさん》に|犬《いぬ》が|飼《か》つて|厶《ござ》います。|御本山《ごほんざん》でさへもあれだけ|沢山《たくさん》の|犬《いぬ》が|居《ゐ》るのに、|何故《なぜ》|此処《ここ》には|一匹《いつぴき》も|置《お》く|事《こと》が|出来《でき》ないのでせう。|私《わたし》この|犬《いぬ》が|唯一《ゆゐいつ》のお|友達《ともだち》でもあり|力《ちから》でもあるのですからなア』
『|初稚《はつわか》さま、お|前《まへ》さまはこの|犬《いぬ》を|離《はな》すのが|嫌《いや》と|仰有《おつしや》るのですか。|産土山《うぶすなやま》に|沢山《たくさん》の|犬《いぬ》が|居《ゐ》るのは、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》や|八島主《やしまぬし》さまや|東助《とうすけ》や|役員《やくゐん》の|方《かた》の|御霊《みたま》が|曇《くも》つて|居《ゐ》るのだから、|結構《けつこう》な|聖地《せいち》に|四《よ》つ|足《あし》がうろついて|居《ゐ》るのだ。|又《また》|狐《きつね》の|霊《みたま》や|豆狸《まめだぬき》が|入《い》り|込《こ》まないやうに|犬《いぬ》が|置《お》いてあるのだ。|御神徳《ごしんとく》さへあれば|犬《いぬ》の|力《ちから》を|借《か》らなくても、|狐《きつね》や|狸《たぬき》や|大蛇《をろち》や|蟇《がま》の|霊《みたま》が|出《で》て|来《く》るものぢやありませぬ。|産土山《うぶすなやま》に|犬《いぬ》が|置《お》いてあるのを|見《み》ても、|御神徳《ごしんとく》がないのが|分《わか》るぢやありませぬか』
|初稚姫《はつわかひめ》は、|高姫《たかひめ》の|暴言《ばうげん》に|呆《あき》れながら、さあらぬ|態《てい》にて|柔《やさ》しく|空惚《そらとぼ》けて、
『|左様《さやう》で|厶《ござ》いますかなア、|御神徳《ごしんとく》と|云《い》ふものは|尊《たふと》いもので|厶《ござ》いますなア』
と|相槌《あひづち》を|打《う》つて|居《ゐ》る。
『|遉《さすが》は|杢助《もくすけ》さまの|娘《むすめ》だけあつて、|何《なに》につけても|悟《さと》りがよいわい。ほんに|水晶《すいしやう》の|御霊《みたま》だ。さう|早《はや》く【もの】が|分《わか》つた|以上《いじやう》は、|此《この》|犬《いぬ》を|斎苑《いそ》の|館《やかた》へおつ|帰《かへ》して|下《くだ》さるだらうねえ』
スマートは|二人《ふたり》の|問答《もんだふ》を|聞《き》いて|不安《ふあん》に|堪《た》へ|兼《か》ねたやうな|形相《ぎやうさう》をしながら、|又《また》ウーウウーウと|小《ちひ》さく|唸《うな》り|出《だ》した。|初稚姫《はつわかひめ》はスマートの|頭《かしら》を|撫《な》でながら、|耳許《みみもと》に|口《くち》を|寄《よ》せ|何事《なにごと》か|小声《こごゑ》に|囁《ささや》いた。スマートは|柔順《じうじゆん》に|頭《かしら》を|下《さ》げ|目《め》を|塞《ふさ》いで|仕舞《しま》つた。
『サア、お|父《とう》さまの|云《い》ひつけだから、どうぞ|早《はや》くいなして|下《くだ》さい。それが|親《おや》に|対《たい》する|一番《いちばん》の|孝行《かうかう》だ。そして|神様《かみさま》に|対《たい》する|麻柱《あななひ》の|大道《おほみち》だから、きつと|柔順《じうじゆん》にかへして|下《くだ》さるだらうねえ』
|初稚姫《はつわかひめ》は|打《う》ち|首肯《うなづ》き、
『お|母《かあ》さまやお|父《とう》さまのお|言葉《ことば》、|背《そむ》いてなりませうか。|大事《だいじ》の|大事《だいじ》のスマートで|厶《ござ》いますけれど、|御両親《ごりやうしん》の|仰《おほせ》とあれば、|背《そむ》く|訳《わけ》には|往《ゆ》きませぬ。アア|残念《ざんねん》ながらスマートに|別《わか》れませう』
『|何《なん》とまア|柔順《じうじゆん》なよい|娘《こ》だこと。ほんたうに|杢助《もくすけ》さまは、どうしてこんな|立派《りつぱ》な|娘《こ》をお|持《も》ちなさつたのだらう。|八島主《やしまぬし》さまが|宣伝使《せんでんし》になさつたのも|無理《むり》はないわい』
と|初稚姫《はつわかひめ》を|無性矢鱈《むしやうやたら》に|褒《ほ》めちぎつて|居《ゐ》る。
『お|母《かあ》さま、|犬《いぬ》|位《くらゐ》いなしたつて、さう|褒《ほ》めて|貰《もら》ふやうな|事《こと》が|厶《ござ》いませうか。どうぞお|気遣《きづか》ひ|下《くだ》さいますな。|併《しか》し|畜生《ちくしやう》とはいへ|折角《せつかく》|此処《ここ》まで|連《つ》れて|来《き》たのですから、|門口《かどぐち》か|又《また》は|一二町《いちにちやう》|許《ばか》り|送《おく》つてやりまして、そこで|篤《とつく》り|云《い》ひ|聞《き》かせ、|再《ふたた》びここへ|帰《かへ》つて|来《こ》ないやうに|申《まを》し|聞《き》かせます』
『オホホホ、|何《なん》とまア|御叮嚀《ごていねい》な|御子《おこ》だこと、|門口《かどぐち》から|追《お》ひ|出《だ》せばよいものを、|御主人《ごしゆじん》か|何《なん》ぞのやうに、お|前《まへ》さまが|送《おく》つてやるとは、|些《ちつ》と|分《ぶん》に|過《す》ぎはしませぬか、オイ|畜生《ちくしやう》、お|前《まへ》は|冥加《みやうが》に|尽《つ》きるぞや、|私《わたし》の|娘《むすめ》に|送《おく》つて|貰《もら》ふなぞとは|果報者《くわはうもの》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|高姫《たかひめ》も|何《なん》だか|此《この》|犬《いぬ》が|怖《おそ》ろしい、イヤイヤ|怖《こは》い|嫌《きら》ひなやうな|気《き》がして|居《ゐ》たのよ、アアこれでやつと|安心《あんしん》した。|金毛九尾《きんまうきうび》も……』
と|口《くち》から|云《い》ひかけてグツと|口《くち》をつまへ、|自分《じぶん》の|腹《はら》をギユーギユーと|揉《も》みながら、
『こりや、|気《き》をつけぬか』
と|吾《われ》と|吾《わが》|身《み》をきめつけて|居《ゐ》る。|初稚姫《はつわかひめ》は|又《また》|空惚《そらとぼ》けて、
『お|母《かあ》さま、「|気《き》をつけぬか」と|仰有《おつしや》いましたが、|何《なに》か|不都合《ふつがふ》が|厶《ござ》いますか。|何卒《どうぞ》|至《いた》らぬもので|厶《ござ》いますから、|御注意《ごちゆうい》を|下《くだ》さいませ』
『エエ、イヤ|何《なん》でもありませぬ、つひ|一寸《ちよつと》|何《なん》です……|此《この》|聖地《せいち》は|何彼《なにか》につけて|神聖《しんせい》な|所《ところ》だから、|万事《ばんじ》|気《き》をつけねばならぬと|云《い》つたのですよ』
『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|一寸《ちよつと》|其処《そこ》まで|犬《いぬ》を|送《おく》つて|参《まゐ》ります。お|母《かあ》さま、|此処《ここ》に|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さい。やがてお|父《とう》さまも|帰《かへ》つて|下《くだ》さるでせう』
と|言葉《ことば》を|残《のこ》し、スマートを|伴《ともな》ひ|一二町《いちにちやう》ばかり|坂《さか》の|彼方《かなた》に|進《すす》み、|山《やま》の|裾《すそ》に|隠《かく》れて|館《やかた》の|見《み》えない|地点《ちてん》までスマートを|伴《ともな》ひ|往《ゆ》き、|頭《かしら》や|首背《くびせな》を|撫《な》でながら、
『これスマートや、お|前《まへ》は|偉《えら》いものだなア、|杢助《もくすけ》に|化《ば》けて|居《ゐ》る|怪物《くわいぶつ》や、|高姫《たかひめ》の|身内《みうち》に|潜《ひそ》んで|居《ゐ》る|悪《わる》い|狐《きつね》がお|前《まへ》を|大変《たいへん》|怖《こは》がつて|居《ゐ》る。それだからあのやうに|二人《ふたり》が|私《わたし》に「お|前《まへ》をいなして|呉《く》れ」と|迫《せま》るのだよ。|併《しか》し|私《わたし》はお|前《まへ》と|主従《しゆじゆう》の|約束《やくそく》を|結《むす》んだ|以上《いじやう》は、|仮令《たとへ》|半時《はんとき》の|間《ま》だつて|離《はな》れるのは|嫌《いや》だよ。お|前《まへ》だつてさうだらう。|併《しか》し|今《いま》の|場合《ばあひ》どうする|訳《わけ》にも|往《ゆ》かないから、|一旦《いつたん》お|前《まへ》は|帰《い》んだ|事《こと》にして、|日《ひ》が|暮《く》れたらそつと|私《わたし》の|居間《ゐま》の|床下《ゆかした》に|隠《かく》れて|居《ゐ》て|下《くだ》さい。|御飯《ごはん》をソツとお|前《まへ》の|腹《はら》の|減《へ》らないやうに|上《あ》げるから』
と|懇々《こんこん》と|諭《さと》せば、スマートは|尾《を》をふり|首《くび》を|数回《すうくわい》も|縦《たて》にゆりながら「|万事《ばんじ》|承知《しようち》|致《いた》しました」と|云《い》ふ|心意気《こころいき》を|表情《へうじやう》に|示《しめ》して|居《ゐ》る。
『|分《わか》つたかな、アアそれで|私《わたし》も|安心《あんしん》した。きつと|私《わたし》が|此処《ここ》に|居《ゐ》る|間《あひだ》は|姿《すがた》を|見《み》せないやうにして|下《くだ》さい。|併《しか》し|又《また》、|夜分《やぶん》には|恋《こひ》しいお|前《まへ》さまと|抱合《だきあ》つて|遊《あそ》びませう。お|前《まへ》さまは|雌犬《めんいぬ》だから、|私《わたし》と|抱擁《はうよう》したつてキツスをしたつて、|構《かま》ひはしないわネー、ホホホ』
と|笑《わら》ひながら|別《わか》れて|館《やかた》に|帰《かへ》つて|来《き》た。スマートは|日《ひ》の|暮《く》るるを|待《ま》ち|兼《か》ね、ソツと|初稚姫《はつわかひめ》の|居間《ゐま》の|床下《ゆかした》に|身《み》を|忍《しの》ばせ、|主人《しゆじん》の|言《い》ひつけをよく|守《まも》り、|且《かつ》|初稚姫《はつわかひめ》の|保護《ほご》の|任《にん》に|当《あた》る|事《こと》となつた。
(大正一二・一・二〇 旧一一・一二・四 加藤明子録)
第二篇 |兇党擡頭《きようたうたいとう》
第五章 |霊肉問答《れいにくもんだふ》〔一二九九〕
|高姫《たかひめ》は|初稚姫《はつわかひめ》のスマートを|送《おく》つて|出《で》た|後《あと》に|只《ただ》|一人《ひとり》、|腹中《ふくちう》の|兇霊《きようれい》に|打向《うちむか》ひ、|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》めながら、|懐《ふところ》をパツと|開《ひら》き、|布袋《ほて》つ|腹《ぱら》を|現《あら》はし、|両方《りやうはう》の|手《て》で|臍《へそ》のあたりを|掴《つか》んだり|擲《なぐ》つたりしながら、|稍《やや》|声低《こゑびく》になつて、
『コリヤ、|其《その》|方《はう》はあれ|丈《だけ》|注意《ちゆうい》を|与《あた》へておくのに、なぜ|初稚姫《はつわかひめ》の|前《まへ》で、あんな|不用意《ふようい》な|事《こと》をいふのだ。サア、|高姫《たかひめ》が|承知《しようち》|致《いた》さぬ。|一時《いちじ》も|早《はや》く、トツトと|出《で》てくれ。エー|何《なん》と|云《い》つてもモウ|許《ゆる》さぬのだ。|汚《けが》らはしい、コリヤ、|痰唾《たんつば》をはつかけてやらうか』
と|云《い》ひながら、|自分《じぶん》の|臍《へそ》のあたりに|向《むか》つて、|青洟《あをばな》をツンとかんでこれをかけ、|又々《またまた》|唾《つば》をピユーピユーと|頻《しき》りに|吐《は》きかけてゐる。
『アハハハハ、どれだけお|前《まへ》が|痰唾《たんつば》を|吐《は》きかけようが、|腹《はら》を|捻《ね》ぢようが、チツともおれは|痛《いた》くはない。つまりお|前《まへ》の|腹《はら》をお|前《まへ》が|痛《いた》め、お|前《まへ》の|唾《つば》をお|前《まへ》の|腹《はら》にかけるだけのものだ。そんな|他愛《たあい》もない|馬鹿《ばか》を|尽《つく》すよりも、|日出神義理天上《ひのでのかみぎりてんじやう》の|申《まを》すことを|神妙《しんめう》に|服従《ふくじゆう》するがお|前《まへ》の|身《み》の|為《ため》だぞ。グヅグヅ|申《まを》すと|腹《はら》の|中《なか》で|暴《あば》れさがし、|盲腸《まうちやう》を|破《やぶ》つてやらうか、コラどうぢや』
『アイタタタタ、コリヤコリヤそんな|無茶《むちや》な|事《こと》を|致《いた》すものでないぞ。|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|常世姫《とこよひめの》の|御肉体《おにくたい》だ。|左様《さやう》な|不都合《ふつがふ》を|致《いた》すと、|大神様《おほかみさま》に|御届《おとど》け|致《いた》すが、それでも|苦《くる》しうないか』
『や、そいつア|一寸《ちよつと》|困《こま》る、|何《なに》を|云《い》うても|我《が》の|強《つよ》い|肉体《にくたい》だから、|思《おも》ふやうに|使《つか》へないので|神《かみ》も|聊《いささ》か|迷惑《めいわく》を|致《いた》して|居《を》るぞよ。チツと|柔順《おとなし》くなつて|御用《ごよう》を|聞《き》いて|下《くだ》されよ』
『|何《なに》を|吐《ぬか》しやがるのだ。|又《また》しても|又《また》してもしようもない|事《こと》を|吐《ぬか》して、|人《ひと》に|悟《さと》られたら|何《なん》とするのだ。|本当《ほんたう》に|馬鹿《ばか》だな。これから|此《この》|方《はう》が|厳《きび》しく|審神《さには》を|致《いた》すから、|一言《ひとこと》でも|変《へん》なことを|申《まを》したら、|此《この》|生宮《いきみや》が|承知《しようち》|致《いた》さぬぞや』
『イヤ、|肉体《にくたい》の|言《い》ふのも|尤《もつと》もだ、キツト|心得《こころえ》るから、どうぞ|仲《なか》ようしてくれ。|何《なん》と|云《い》つても|密着不離《みつちやくふり》の|関係《くわんけい》になつてゐるのだから、お|前《まへ》の|肉体《にくたい》のある|間《うち》は、|離《はな》れようといつたつて|離《はな》れる|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、お|前《まへ》も|亦《また》|俺《おれ》を|追《お》ひ|出《だ》さうとすれば、|命《いのち》をすてる|覚悟《かくご》でなくちや|駄目《だめ》だぞ。すぐに|盲腸《まうちやう》でも|十二指腸《じふにしちやう》でも、|空腸《くうちやう》、|回腸《くわいちやう》、|直腸《ちよくちやう》、|結腸《けつちやう》の|嫌《きら》ひなく、|捻《ね》ぢて|捻《ね》ぢて|捩《ね》ぢ|廻《まは》し、|肉体《にくたい》の|命《いのち》を|取《と》るのだから、つまりお|前《まへ》は|俺《おれ》を|大事《だいじ》にし、|俺《おれ》はお|前《まへ》の|肉体《にくたい》を|唯一《ゆゐいつ》の|機関《きくわん》とせなくちや、|悪《あく》の|目的《もくてき》が|成就《じやうじゆ》せぬのだからなア』
『コリヤ、|又《また》|左様《さやう》なことを|申《まを》す。この|高姫《たかひめ》は|稚桜姫命《わかざくらひめのみこと》の|身魂《みたま》の|系統《ひつぽう》、|常世姫命《とこよひめのみこと》の|再来《さいらい》だ。|悪《あく》といふ|事《こと》は|微塵《みぢん》でもしたくない、|大嫌《だいきら》ひなのだ。|其《その》|方《はう》は|悪《あく》を|改《あらた》めて|善《ぜん》に|立復《たちかへ》つたと|申《まを》したでないか。どうしても|此《この》|方《はう》の|肉体《にくたい》を|使《つか》うて|悪《あく》を|致《いた》し、|変性男子様《へんじやうなんしさま》の|御神業《ごしんげふ》を|妨《さまた》げ|致《いた》すのなれば、|此《この》|高姫《たかひめ》は|仮令《たとへ》|其《その》|方《はう》に|腸《はらわた》をむしられて|国替《くにがへ》をしても、チツとも|構《かま》はぬのだ。サアどうだ、|返答《へんたふ》|致《いた》せ』
と|審神者気分《さにはきぶん》になつて|呶鳴《どな》つてゐる。
『ヤア|高姫《たかひめ》|様《さま》、|真《まこと》に|申《まを》し|違《ちが》ひを|致《いた》しました。つひ|悪《あく》を|憎《にく》むの|余《あま》り|善《ぜん》と|悪《あく》とを|取違《とりちが》へまして、あんな|不都合《ふつがふ》なことを|申《まを》しました。|今後《こんご》はキツと|心得《こころえ》ますから、どうぞ|霊肉和合《れいにくわがふ》して|下《くだ》さいませ』
『ウンよしツ、それに|間違《まちが》ひなくば|許《ゆる》してやらう。|此《この》|上《うへ》|一言《ひとこと》でも|金毛九尾《きんまうきうび》だの|大蛇《をろち》だのと|申《まを》したら|了簡《れうけん》|致《いた》さぬぞや』
『それなら、|何《なん》といひませうかな、|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》と|名乗《なの》りませうか』
『|畏《おそれおほ》い|事《こと》を|申《まを》すな。|義理天上様《ぎりてんじやうさま》は|変性男子様《へんじやうなんしさま》の|系統《ひつぽう》の|御身魂《おみたま》ぢや。|其《その》|方《はう》はヤツパリ、ユラリ|彦命《ひこのみこと》と|申《まを》したがよからうぞ』
『コレ|高姫《たかひめ》さま、さうイロイロと|沢山《たくさん》の|名《な》を|言《い》つちや、|娑婆《しやば》の|亡者《まうじや》が|本当《ほんたう》に|致《いた》しませぬぞや』
『コリヤ、|何《なん》と|云《い》ふことを|申《まを》す。|人間《にんげん》は|結構《けつこう》な|神《かみ》の|生宮《いきみや》だ。|天《あめ》が|下《した》に|神様《かみさま》のお|守《まも》りを|受《う》けないものは|一人《ひとり》もないぞや。|言《い》はば|結構《けつこう》な|天《てん》の|神様《かみさま》の|直々《ぢきぢき》の、|人間《にんげん》は|御子《みこ》だ。|何《なに》を|以《もつ》て|娑婆亡者《しやばまうじや》などと|申《まを》すのか、なぜ|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》を|使《つか》はぬ。ヤツパリ|其《その》|方《はう》はまだ|本当《ほんたう》の|改心《かいしん》が|出来《でき》て|居《を》らぬと|見《み》えるなア。|改心《かいしん》|致《いた》さな|致《いた》すやうにして|改心《かいしん》を|致《いた》さして|見《み》せうぞや』
『|高姫《たかひめ》さま、|一旦《いつたん》|入《にふ》の|入《い》つた|瀬戸物《せともの》は|何程《なにほど》|甘《うま》く|焼《やき》つぎをしても、|其《その》|疵《きず》は|元《もと》の|通《とほ》りになほらないと|同様《どうやう》に、|元来《ぐわんらい》が|身魂《みたま》にヒビが|入《い》つてゐるのだから、|本当《ほんたう》の|善《ぜん》に|還《かへ》る|事《こと》は|辛《つら》うて|出来《でき》ませぬぞや。お|前《まへ》さまの|肉体《にくたい》だつて、ヤツパリさうぢやないか。|入《にふ》が|入《い》つて|居《を》ればこそ、|此《この》|方《はう》が|這入《はい》れたのだ。お|前《まへ》さまは|立派《りつぱ》な|大和魂《やまとだましひ》の|生粋《きつすゐ》だと|思《おも》つてゐるだらうが、|此《この》|金毛九尾《きんまうきうび》から|見《み》れば、|大和魂《やまとだましひ》どころか|山子《やまこ》だましの|身魂《みたま》だよ。|相応《さうおう》の|理《り》によつて、|破鍋《われなべ》にトヂ|蓋式《ぶたしき》に|自然《しぜん》に|結《むす》ばれた|因縁《いんねん》だから、|何程《なにほど》もがいても|何《ど》うしても、|此《この》|悪縁《あくえん》は|切《き》ることは|出来《でき》ませぬぞや、お|前《まへ》さまも|是非《ぜひ》なき|事《こと》と|断念《だんねん》して、|吾《わが》|身《み》の|因縁《いんねん》を|怨《うら》めるより|仕方《しかた》がないぢやありませぬか。|霊肉不二《れいにくふじ》の|関係《くわんけい》を|持《も》つてゐる|肉体《にくたい》と|此《この》|方《はう》とが、|何時《いつ》もこれだけ|衝突《しようとつ》をして|居《を》つては|互《たがひ》の|迷惑《めいわく》……|否《いな》|大損害《だいそんがい》ですよ。チツとはお|前《まへ》さまも|大目《おほめ》に|見《み》て|貰《もら》はなくちや、わしだつて、さう|苛《いぢ》められてばかり|居《を》つても、|立《た》つ|瀬《せ》がないぢやないか』
『|今《いま》|迄《まで》なれば|少々《せうせう》のことは|大目《おほめ》にみておくが、お|前《まへ》も|知《し》つて|居《を》るだらう、|斎苑館《いそやかた》に|厶《ござ》つた|三五教《あななひけう》の|三羽烏《さんばがらす》|杢助様《もくすけさま》がお|出《い》でになり、|此《この》|肉体《にくたい》の|夫《をつと》となられ、|又《また》|立派《りつぱ》な|娘《むすめ》の|初稚姫《はつわかひめ》が|此処《ここ》へ|私《わし》の|子《こ》となつて|来《き》たのだから、|余程《よほど》|心得《こころえ》て|貰《もら》はなくては、|今《いま》|迄《まで》とは|違《ちが》ひますぞや。|今《いま》|迄《まで》は|此《この》|高姫《たかひめ》も|殆《ほとん》ど|独身《どくしん》|同様《どうやう》であつた。|大将軍様《だいしやうぐんさま》の|肉宮《にくみや》はあの|通《とほ》りお|人《ひと》よしだから、どうでもよい|様《やう》なものだつたが、|今度《こんど》は|摩利支天様《まりしてんさま》の|肉宮《にくみや》が、|此《この》|肉体《にくたい》の|夫《をつと》とお|成《な》り|遊《あそ》ばしたのだから、お|前《まへ》さまの|自由《じいう》ばかりになつてゐる|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬから、|其《その》|積《つも》りで|居《を》つて|下《くだ》されや』
『それは|肉体《にくたい》のすることだから|敢《あ》へて|干渉《かんせふ》はしないが、|併《しか》しながら、|初稚姫《はつわかひめ》といふ|女《をんな》は|何《なん》だか|虫《むし》の|好《す》かぬ|女《をんな》だ。お|前《まへ》も|物好《ものずき》な、|他人《ひと》の|子《こ》を|吾《わが》|子《こ》にせなくてもよいぢやないか』
『|馬鹿《ばか》だなア、あの|初稚姫《はつわかひめ》は|本当《ほんたう》に|掘出《ほりだ》し|物《もの》だよ。|柔順《じうじゆん》で|賢明《けんめい》で|而《しか》して|人《ひと》には|信用《しんよう》があるなり、あんな|娘《むすめ》を|使《つか》はずに、どうして|神業《しんげふ》が|完全《くわんぜん》に|出来《でき》るのだ。お|前《まへ》も|改心《かいしん》して|五六七神政成就《みろくしんせいじやうじゆ》の|為《ため》に|活動《くわつどう》するならば、これ|程《ほど》|大慶《たいけい》の|事《こと》はないぢやないか。|変性男子様《へんじやうなんしさま》が|永《なが》らくの|間《あひだ》|御苦労《ごくらう》|御艱難《ごかんなん》|遊《あそ》ばして、|此処《ここ》まで|麻柱《あななひ》の|道《みち》をお|開《ひら》き|遊《あそ》ばし、|又《また》|都合《つがふ》によつてウラナイ|教《けう》も|御開《おひら》き|遊《あそ》ばしたのだから、|悪《あく》が|微塵《みじん》でもあつたら、|此《この》|事《こと》は|成就《じやうじゆ》|致《いた》しませぬぞや』
『それでも、お|前《まへ》、|三五教《あななひけう》をやめてウラナイ|教《けう》を|立《た》てようと、|昨日《きのふ》もいつたぢやないか。どちらを|立《た》てて|行《ゆ》くのだ。それからきめて|貰《もら》はなくちや、|此方《こつち》も|困《こま》るぢやないか』
『|変性男子《へんじやうなんし》のお|筆《ふで》には……|三五教《あななひけう》ばかりでないぞよ。|此《この》|神《かみ》はまだ|外《ほか》にも|仕組《しぐみ》が|致《いた》してあるぞよ。ウツカリ|致《いた》して|居《を》ると、|結構《けつこう》な|神徳《しんとく》を|外《そと》へ|取《と》られて|了《しま》ふぞよ……とお|示《しめ》しになつて|居《ゐ》るだろ、|此《この》|頃《ごろ》の|斎苑館《いそやかた》の|役員《やくゐん》|共《ども》の|行《や》り|方《かた》と|云《い》つたら、サツパリ|変性女子《へんじやうによし》の|教《をしへ》ばかり|致《いた》して、|男子様《なんしさま》の|御苦労《ごくらう》を|水《みづ》の|泡《あわ》に|致《いた》さうとするによつて、お|筆《ふで》に|書《か》いてある|通《とほ》り、|系統《ひつぽう》の|身魂《みたま》の|此《この》|方《はう》が、|已《や》むを|得《え》ずしてウラナイ|教《けう》を|立《た》てるのだ、|併《しか》しながら|秘密《ひみつ》は|何処《どこ》までも|秘密《ひみつ》だから、|表《おもて》はヤツパリ|三五教《あななひけう》を|標榜《へうばう》し、|其《その》|内実《ないじつ》はウラナイ|教《けう》を|立《た》てるのだよ。よいか、|合点《がてん》がいただらうなア』
『コレ|肉体《にくたい》さま、ソリヤ|二股膏薬《ふたまたかうやく》といふものではないかなア。いつも|悪《あく》は|嫌《いや》だ|嫌《いや》だと|云《い》ふ|癖《くせ》に、なぜ|其《その》|様《やう》な|謀反《むほん》を|起《おこ》すのだい。|善《ぜん》|一《ひと》つを|立《た》てぬくのなれば、お|前《まへ》が|舎身的《しやしんてき》|活動《くわつどう》をして|三五教《あななひけう》の|過《あやま》つてゐる|行方《やりかた》を|改良《かいりやう》さして、|一《ひと》つの|道《みち》でやつて|行《い》つたらいいぢやないか。さうするとヤツパリ|肉体《にくたい》も|善《ぜん》を|表《おもて》に|標榜《へうばう》し、|自我《じが》を|立《た》て|通《とほ》す|為《ため》に|結局《けつきよく》|悪《あく》を|企《たく》んでゐるのだなア。サウすりや|何《なに》も、わしのすることや|言《い》ふことをゴテゴテいふには|及《およ》ばぬぢやないか。|同《おな》じ|穴《あな》の|狼《おほかみ》だ。|怪狼同狐《くわいらうどうけつ》の|間柄《あひだがら》ぢやないか。お|前《まへ》が|善《ぜん》か、|俺《おれ》が|悪《あく》か、|衡《はかり》にかけたら|何方《どちら》が|上《あが》るやら、|僅《わづ》かに|五十歩《ごじつぽ》と|五十一歩《ごじふいつぽ》との|違《ちが》ひだらう。どうぢや|肉体《にくたい》、これでも|返答《へんたふ》が|厶《ござ》るかな、ウツフツフ』
『コリヤ、|喧《やかま》しいワイ。そこは、それ、|神《かみ》の|奥《おく》には|奥《おく》があり、|其《その》|又《また》|奥《おく》には|奥《おく》があるのだ。|切《き》れてバラバラ|扇《あふぎ》の|要《かなめ》……といふ|謎《なぞ》を、お|前《まへ》は|知《し》らぬのか……|十五夜《じふごや》に|片《かた》われ|月《づき》があるものか、|雲《くも》にかくれてここに|半分《はんぶん》……だ』
『ハツハハ、イヤ、チツとばかり|了解《れうかい》した。……|此《この》|腹《はら》の|黒《くろ》き|尉殿《じやうどの》が|一旦《いつたん》|改心《かいしん》の|坂《さか》を|通《とほ》り|越《こ》し、|又《また》もや|慢心《まんしん》と|申《まを》す|元《もと》の|屋敷《やしき》にお|直《なほ》り|候《さふらふ》……だな、イツヒツヒ。それならさうと、なぜ|初《はじ》めから|云《い》つてくれないのだ。コツチにも|方針《はうしん》があるのだから……|俺《おれ》も|昔《むかし》から|金毛九尾《きんまうきうび》といつて、|随分《ずいぶん》|悪《あく》は|尽《つく》して|来《き》たのだが、|腹《はら》の|黒《くろ》い|人間《にんげん》の|腹中《ふくちう》は、|自分《じぶん》が|現在《げんざい》|這入《はい》つて|居《を》りながら、|分《わか》らぬものだ。いかにも|人間《にんげん》といふものは|重宝《ちようほう》なものだなア。|偽善《ぎぜん》を|徹底的《てつていてき》に|遂行《すゐかう》するには、|本当《ほんたう》に|重宝《ちようはう》な|唯一無二《ゆゐいつむに》のカラクリだ、イツヒヒヒ。それを|聞《き》いて|此《この》|金毛九尾《きんまうきうび》もスツカリと|安心《あんしん》を|致《いた》したぞや。サア|始《はじ》めてお|前《まへ》が|打《う》ち|解《と》けてくれたのだから、|今日《けふ》|位《くらゐ》|心地《ここち》よいことはないワ、のう|大蛇《をろち》よ、|猿《さる》よ、|狸《くろ》よ、|蟇《がま》よ、|豆《まめ》よ、|本当《ほんたう》に|岩戸《いはと》が|開《ひら》けたやうな|気分《きぶん》がするぢやないか』
|腹《はら》の|中《なか》から|違《ちが》うた|声《こゑ》で、
『ウン ウン ウン ウン、さうさう、これでこそ、|私《わし》たちも|安心《あんしん》だ。|流石《さすが》は|金毛九尾《きんまうきうび》さまだけあつて、よくマア|肉体《にくたい》と、|其処《そこ》まで|談判《だんぱん》して|下《くだ》さつた。ああ|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い』
|腹中《ふくちう》より|又《また》もや|以前《いぜん》の|声《こゑ》で、
『さうだから、|此《この》|金毛九尾《きんまうきうび》さまに|従《したが》へと|云《い》ふのだ。これから|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》をかつて、|三千世界《さんぜんせかい》を|自由自在《じいうじざい》に|致《いた》すのだ。それに|就《つ》いては|先《ま》づ|第一《だいいち》に|三五教《あななひけう》を|崩壊《ほうくわい》し、ウラナイ|教《けう》を|立《た》てて|善《ぜん》の|仮面《かめん》を|被《かぶ》り、|現界《げんかい》の|人間《にんげん》を|片《かた》つ|端《ぱし》から|兇党界《きようたうかい》に|引張《ひつぱ》り|込《こ》んで|了《しま》ふのだ。|最早《もはや》|肉体《にくたい》が|心《こころ》を|打《う》ち|開《あ》けた|以上《いじやう》は、|何《なん》と|云《い》つても|宣《の》り|直《なほ》しはささない。|若《も》しも|最前《さいぜん》の|言葉《ことば》に|肉体《にくたい》が|反《そむ》きよつたら、お|前《まへ》たちはおれの|命令一下《めいれいいつか》と|共《とも》に、そこら|中《ぢう》を|引張《ひつぱ》りまはし|苦《くるし》めてやるのだよ』
『コラ、そんな|無茶《むちや》な|相談《さうだん》を|致《いた》すといふことがあるか、|表《おもて》は|表《おもて》、|裏《うら》は|裏《うら》だ。さうお|前《まへ》のやうに|露骨《ろこつ》に|云《い》つちや、|肝腎《かんじん》の|大望《たいまう》が|成就《じやうじゆ》せぬぢやないか』
『|何《なに》、お|前《まへ》の|耳《みみ》に|内部《ないぶ》から|伝《つた》はるだけのもので、|決《けつ》して|外部《ぐわいぶ》へは|洩《も》れる|気遣《きづか》ひはない。お|前《まへ》さへ|喋《しやべ》らなかつたら、それでいいのだ』
『ソリヤさうだな、それならマア、|十分《じふぶん》にお|前《まへ》も|千騎一騎《せんきいつき》の|活動《くわつどう》を|致《いた》すがよいぞや。この|高姫《たかひめ》も|乗《の》りかけた|舟《ふね》だ、|何処《どこ》までも|初心《しよしん》を|貫徹《くわんてつ》せなくちやおかないのだからな。ドレドレ、モウ|初稚《はつわか》が|帰《かへ》つて|来《く》る|時分《じぶん》だ。|思《おも》はず|守護神《しゆごじん》と|談判《だんぱん》をして|居《を》つたものだから、つひ|時《とき》の|経《た》つのも|忘《わす》れてゐた。|併《しか》し|初稚姫《はつわかひめ》が|聞《き》いてゐやせなんだか|知《し》らぬて、|何《なん》だか|気掛《きがが》りでならないワ』
といひながら、サツと|障子《しやうじ》をあけて|長廊下《ながらうか》を|眺《なが》めた。|初稚姫《はつわかひめ》は|芒《すすき》の|枯《か》れた|穂《ほ》を|一《ひと》つかみ|握《にぎ》りながら、|他愛《たあい》もなく|遊《あそ》び|戯《たはむ》れ、|廊下《らうか》に|一本《いつぽん》|一本《いつぽん》さして|遊《あそ》んでゐる。その|無邪気《むじやき》な|光景《くわうけい》を|眺《なが》めて、|高姫《たかひめ》はホツと|一息《ひといき》し、
『|何《なん》とマア|無邪気《むじやき》な|娘《こ》だこと、|枯尾花《かれをばな》を|板《いた》の|間《ま》の|隙間《すきあひ》に|立《た》て|並《なら》べて|遊《あそ》んでゐるのだもの。|大《おほ》きな|図体《づうたい》をしながら、そして|十七《じふしち》にもなりながら、|未通《おぼ》こい|娘《むすめ》だなア。|本当《ほんたう》に|水晶魂《すいしやうだま》だ。この|高姫《たかひめ》がうまく|仕込《しこ》んでやれば、|完全《くわんぜん》に|改悪《かいあく》して|立派《りつぱ》なウラナイ|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》になるだらう。|何《なん》と|云《い》つても|杢助《もくすけ》さまと|云《い》ふ|父親《てておや》を|掌中《しやうちう》に|握《にぎ》つてゐるのだから|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。|東助《とうすけ》さまに|肱鉄《ひぢてつ》をかまされ、|大勢《おほぜい》の|前《まへ》で|恥《はぢ》をかかされて、|悔《くや》し|残念《ざんねん》さをこばつて、|此処《ここ》まで|来《き》て|見《み》れば、こんな|都合《つがふ》の|好《い》いことが|出来《でき》て|来《き》た。あああ、|人間万事塞翁《にんげんばんじさいをう》の|馬《うま》の|糞《くそ》とやら、|苦《くる》しい|後《あと》には|楽《たの》しみがあり、|楽《たの》しみの|後《あと》には|苦《くる》しみが|来《く》るぞよ、|改心《かいしん》なされよ……と|男子様《なんしさま》のお|筆先《ふでさき》にチヤンと|出《で》て|居《ゐ》る。|高姫《たかひめ》もまだ|天運《てんうん》が|尽《つ》きないと……あ……|見《み》えるワイ、エツヘヘヘ、|変性男子様《へんじやうなんしさま》、|大国治立命《おほくにはるたちのみこと》|様《さま》、|守《まも》り|給《たま》へ|幸《さきは》へ|給《たま》へ』
『オツホツホホホ、オイ|肉体《にくたい》、|大変《たいへん》な|元気《げんき》だなア、|甘《うま》く|行《ゆ》きさうだのう。|吾々《われわれ》|一団体《いちだんたい》の|兇霊連中《きようれいれんちう》も|満足《まんぞく》してゐる。どうだ、チツと|歌《うた》でもうたつたら|面白《おもしろ》からうに……のう』
『コリヤ、|何《なん》と|云《い》ふ|不心得《ふこころえ》なことをいふか。|世界《せかい》は|暗雲《やみくも》になり、|殆《ほとん》ど|泥海《どろうみ》のやうになつてゐるのに、そんな|陽気《やうき》なことで、どうして|誠《まこと》が|貫《つらぬ》けるか。|変性男子様《へんじやうなんしさま》のお|筆先《ふでさき》を|何《なん》と|心得《こころえ》てゐる、チツと|改心《かいしん》したがよからうぞ』
『アハハハハ、|善悪不二《ぜんあくふじ》、|正邪一如《せいじやいちによ》といふ|甘《うま》い|筆法《ひつぱふ》だなア。|一枚《いちまい》の|紙《かみ》にも|裏表《うらおもて》のあるものだから……』
『シーツ、|今《いま》そこへ|初稚姫《はつわかひめ》が|出《で》て|来《く》るぢやないか、チツと|心得《こころえ》ないか』
『|声《こゑ》がせないと、チツとも|姿《すがた》が|見《み》えぬものだから、これはエライ|不調法《ぶてうはふ》を|致《いた》しました。オオ|怖《こ》はオオ|怖《こ》は、|肉体《にくたい》の|権幕《けんまく》には|俺《おれ》も|往生《わうじやう》|致《いた》したワイ』
|初稚姫《はつわかひめ》は|何気《なにげ》なき|態《てい》を|装《よそほ》ひ、ニコニコしながら|出《い》で|来《きた》り、
『お|母《か》アさま、とうとうスマートをぼつ|帰《かへ》して|来《き》ましたよ。|妙《めう》な|犬《いぬ》でしてね、|何程《なにほど》|追《お》つかけても|後《あと》へ|帰《かへ》つて|来《き》て|仕方《しかた》がありませぬので、|私《わたし》も|困《こま》りましたよ』
『ああさうだろさうだろ、あれ|丈《だけ》お|前《まへ》につき|纒《まと》うて|居《を》つたのだから、|離《はな》れともなかつただらう。|何《なん》と|云《い》つても|畜生《ちくしやう》だから|人間《にんげん》の|云《い》ふこた|分《わか》らず、|嘸《さぞ》お|骨折《ほねをり》だつたろ。|併《しか》しマアよう|帰《い》にましたなア』
『ハイ、|仕方《しかた》がないので、|石《いし》を|拾《ひろ》つて|五《いつ》つ|六《むつ》つ|頭《あたま》にかちつけてやりましたの。そしたら|頭《あたま》が|二《ふた》つにポカンと|割《わ》れて|大変《たいへん》な|血《ち》を|出《だ》し、|厭《いや》らしい|声《こゑ》を|出《だ》して|逃《に》げて|帰《かへ》りましたの』
『それは|本当《ほんたう》に、|気味《きみ》のよいこと……ウン、オツトドツコイ、|気味《きみ》の|悪《わる》いことだつたね。|大変《たいへん》にお|前《まへ》を|恨《うら》んで|居《を》つただらうなア』
『|何程《なにほど》ウラナイ|教《けう》だとて、|怨《うら》みも|致《いた》しますまい、ホホホ』
『や、|初稚《はつわか》さま、お|前《まへ》は|今《いま》ウラナイ|教《けう》と|言《い》ひましたね、|誰《たれ》にそんなことをお|聞《き》きになつたのだえ』
『お|母《か》アさま、|表《おもて》はね、|三五教《あななひけう》で、|其《その》|内実《ないじつ》は、お|母《か》アさまのお|開《ひら》き|遊《あそ》ばしたウラナイ|教《けう》の|方《はう》が|良《い》いぢやありませぬか。|私《わたし》、ウラナイ|教《けう》が|大好《だいす》きのよ』
『オホホホホ、ヤツパリお|前《まへ》は|私《わし》の|大事《だいじ》の|子《こ》だ、|何《なん》と|賢《かしこ》い|者《もの》だなア。これでこそ|三五教《あななひけう》|崩壊《ほうくわい》の……ウン……トコドツコイ、|法界《ほふかい》の|危急《ききふ》を|完全《くわんぜん》に|救済《きうさい》することが|出来《でき》ませうぞや』
『さうですなア。|誠《まこと》さへ|立《た》てば、|名《な》は|何《ど》うでもいいぢやありませぬか』
|高姫《たかひめ》は|首《くび》を|頻《しき》りにシヤクリながら、|笑《ゑみ》を|満面《まんめん》に|湛《たた》へて、
『コレ|初稚《はつわか》さま、お|母《か》アさまは、これからお|父《とう》さまをお|迎《むか》へ|申《まを》してくるから、お|前《まへ》さまは|暫《しばら》く|事務所《じむしよ》へでも|行《い》つて|遊《あそ》んで|来《き》て|下《くだ》さい。こんな|所《ところ》に|一人《ひとり》|置《お》いとくのも|気《き》の|毒《どく》だからなア』
『お|母《か》アさま、そんなに|永《なが》く|時間《じかん》がかかるのですか』
『さう|永《なが》くもかからない|積《つもり》だが、|何《なん》と|云《い》つてもあの|通《とほ》り、|云《い》ひかけたら|後《あと》へ|引《ひ》かぬ|杢助《もくすけ》さまだから、|犬《いぬ》を|帰《い》なしたことから、|其《その》|外《ほか》お|前《まへ》さまの|腹《はら》の|底《そこ》を、トツクリと|御得心《ごとくしん》なさるやうに|申上《まをしあ》げねばならぬから、チツとばかり|暇《ひま》が|要《い》るかも|知《し》れませぬからなア』
『お|母《か》アさま、|私《わたし》もお|供《とも》|致《いた》しませうか』
『イヤイヤそれには|及《およ》びませぬ。|又《また》|杢助様《もくすけさま》に、どんな|御意見《ごいけん》があるか|知《し》れませぬから、|却《かへ》つてお|前《まへ》さまが|側《そば》にゐない|方《はう》が、|双方《さうはう》の|為《ため》に|都合《つがふ》がいいかも|知《し》れませぬ。|一寸《ちよつと》|其処《そこ》まで|行《い》つて|参《まゐ》ります』
とイソイソとして|出《い》でて|行《ゆ》く。|後《あと》|見送《みおく》つて|初稚姫《はつわかひめ》はニツコと|笑《わら》ひ、イソイソとして|珍彦《うづひこ》の|居間《ゐま》を|訪《たづ》ね、|同年輩《どうねんぱい》の|楓姫《かへでひめ》とあどけなき|話《はなし》を|交換《かうくわん》しながら|時《とき》を|移《うつ》してゐる。
(大正一二・一・二〇 旧一一・一二・四 松村真澄録)
第六章 |玉茸《たまたけ》〔一三〇〇〕
|高姫《たかひめ》は|祠《ほこら》の|森《もり》を|隈《くま》なく|探《たづ》ね|廻《まは》つた。|漸《やうや》く|草《くさ》むらの|中《なか》にウンウンと|呻《うめ》きながら|眠《ねむ》つてゐる|杢助《もくすけ》の|姿《すがた》を|眺《なが》め、
『これ、|杢助《もくすけ》さま、サア|帰《かへ》りませう。こんな|処《ところ》に|横《よこ》たはつてゐてお|風邪《かぜ》を|召《め》したら|大変《たいへん》ですよ。サア|私《わたし》と|一緒《いつしよ》に|帰《かへ》らうぢやありませぬか』
『さう|八釜《やかま》しう|云《い》つてくれな。|俺《おれ》はチツとばかり|頭《あたま》が|痛《いた》いのだから、|自然《しぜん》のお|土《つち》に|親《した》しんで|暫《しば》らく|此処《ここ》で|休《やす》んで|帰《かへ》るから、お|前《まへ》は|彼方《あちら》へ|行《い》つて|休《やす》んだが|宜《よ》からうぞ』
『これ|杢助《もくすけ》さま、|何《なん》と|云《い》ふ|水臭《みづくさ》い|事《こと》を|仰有《おつしや》るのだい。|二世《にせ》を|契《ちぎ》つた|夫婦《ふうふ》の|仲《なか》ぢやありませぬか。|夫《をつと》の|難儀《なんぎ》は|妻《つま》の|難儀《なんぎ》、|妻《つま》の|喜《よろこ》びは|夫《をつと》の|喜《よろこ》び、|何処《どこ》までも|苦楽《くらく》を|共《とも》にしようと|契《ちぎ》つた|仲《なか》ぢやありませぬか。そんな|遠慮《ゑんりよ》はチツとも|要《い》りませぬ。さア|何卒《どうぞ》、|私《わたし》が|介抱《かいほう》して|上《あ》げませう』
『いや|何卒《どうぞ》|構《かま》うてくれな、|私《わし》の|体《からだ》に|何卒《どうぞ》|触《さは》らない|様《やう》にして|呉《く》れ、|頼《たの》みだから……』
『これ|此方《こち》の|人《ひと》、お|前《まへ》さまは|私《わたし》が|嫌《いや》になつたのだな。|女房《にようばう》が|夫《をつと》の|体《からだ》に|触《さは》れない|道理《だうり》が|何処《どこ》にありますか。|夫《をつと》の|病気《びやうき》を|素知《そし》らぬ|顔《かほ》して、|女房《にようばう》の|身《み》として|之《これ》が|放任《はうにん》して|居《を》れますか。|此《この》|高姫《たかひめ》は|一旦《いつたん》お|前《まへ》さまと|夫婦《ふうふ》の|約束《やくそく》をした|上《うへ》は、|仮令《たとへ》|此《この》|肉体《にくたい》が|粉《こな》にならうと、|何処《どこ》までも|貞節《ていせつ》を|尽《つく》さねばなりませぬ。そんな|水臭《みづくさ》い|事《こと》を|仰有《おつしや》るものぢや|厶《ござ》りませぬぞや』
『ヤー、|決《けつ》して|俺《おれ》が|斯《か》う|云《い》つたとて、|気《き》を|悪《わる》うしておくれな。|又《また》お|前《まへ》が|決《けつ》して|嫌《いや》だと|云《い》ふのでも|何《なん》でもない。さア|何卒《どうぞ》|早《はや》く|館《やかた》へ|帰《かへ》つて、|万事万端《ばんじばんたん》|気《き》を|付《つ》けてくれ』
『それだと|云《い》つて、|之《これ》を|見捨《みす》てて|何《なん》ぼ|気強《きづよ》い|私《わたし》でも|帰《かへ》られませうか。|何《なん》なら|罹重身倒《ラジオシンター》でも|探《さが》して|来《き》ませうか』
『いや、|何《なん》にも|要《い》らない。そんな|結構《けつこう》な|物《もの》を|頂《いただ》くと、|却《かへ》つて|神罰《しんばつ》が|当《あた》るかも|知《し》れない。|私《わし》がかうして|怪我《けが》をしたのも、|全《まつた》く|神様《かみさま》の|見《み》せしめだ。|神様《かみさま》がお|許《ゆる》し|下《くだ》さらば、|屹度《きつと》|直《なほ》して|下《くだ》さるだらう。|何程《なにほど》|人間《にんげん》が|藻掻《もが》いた|処《ところ》で|仕方《しかた》がないからのう』
『それなら|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》して|上《あ》げませうか』
『いや、それには|及《およ》ばぬ。|斯《か》うなり|行《ゆ》くのも|神様《かみさま》の|御都合《ごつがふ》だ。|祝詞《のりと》なんか|奏上《あげ》ては、|却《かへ》つて|畏《おそ》れ|多《おほ》い。|何卒《どうぞ》|頼《たの》みだから、|館《やかた》へ|帰《かへ》つてお|前《まへ》は|御用《ごよう》をしてくれ。それが|何《なに》よりの|功徳《くどく》だ。さうすれば、|私《わし》の|怪我《けが》もすぐ|癒《なほ》るだらう』
『それなら、|鎮魂《ちんこん》をして|上《あ》げませうか。……|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》……』
と|云《い》ひかけると、|杢助《もくすけ》は|慌《あわ》てて|押止《おしとど》め、|苦《くる》しさうな|声《こゑ》を|出《だ》して、
『|高姫《たかひめ》、それに|及《およ》ばぬ。そんな|勿体《もつたい》ない|事《こと》は|云《い》はぬやうにして|呉《く》れ。|却《かへ》つて|私《わし》は|苦《くる》しいから』
『それなら、|初稚姫《はつわかひめ》さまを|呼《よ》んで|来《き》ませうか。そして|介抱《かいほう》をさせたら|貴方《あなた》の|気《き》に|入《い》るでせう。|到底《たうてい》|私《わたし》の|様《やう》な|婆《ばば》アの|介抱《かいほう》では、|病気《びやうき》がますます|重《おも》くなりませうからな』
と|稍《やや》|嫉《そね》み|気味《ぎみ》になつて|言葉《ことば》を|尖《とが》らし|始《はじ》めた。
|此《この》|杢助《もくすけ》は、その|実《じつ》ハルナの|都《みやこ》の|大雲山《たいうんざん》に|蟠居《ばんきよ》せる|八岐大蛇《やまたをろち》の|片腕《かたうで》と|聞《きこ》えたる|肉体《にくたい》を|有《いう》する|兇霊《きようれい》で、|獅子《しし》|虎《とら》|両性《りやうせい》の|妖怪《えうくわい》であり、|其《その》|名《な》を|妖幻坊《えうげんばう》と|云《い》ふ|大怪物《だいくわいぶつ》である。|妖幻坊《えうげんばう》はスマートに|眉間《みけん》を|噛《か》みつかれ、ここに|大苦悶《だいくもん》を|続《つづ》けてゐたのである。されど|高姫《たかひめ》に|其《その》|正体《しやうたい》を|看破《みやぶ》られむことを|恐《おそ》れて、|一時《いちじ》も|早《はや》く|高姫《たかひめ》の|此処《ここ》を|立去《たちさ》らむ|事《こと》をのみ|望《のぞ》んでゐた。されど|高姫《たかひめ》は|何処《どこ》までも|大切《たいせつ》の|夫《をつと》の|介抱《かいほう》をせなくてはならぬと|思《おも》ひつめ、|少《すこ》しも|其処《そこ》を|動《うご》かうとはせない。|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》は、|人間《にんげん》の|形体《けいたい》を|負傷《ふしやう》の|身《み》を|以《もつ》て|保持《ほぢ》してゐるのは|非常《ひじやう》な|苦痛《くつう》である。ウツカリすると|其《その》|正体《しやうたい》が|現《あら》はれさうになつて|来《き》たので、|声《こゑ》を|励《はげ》まし|稍《やや》|尖《とが》り|声《ごゑ》で、
『これ、|高姫《たかひめ》、|何故《なぜ》そなたは|夫《をつと》の|申《まを》す|事《こと》を|聞《き》いてくれないのか。お|前《まへ》も|高姫《たかひめ》と|云《い》つて|随分《ずいぶん》|剛《がう》の|者《もの》ぢやないか。|夫《をつと》の|病気《びやうき》に|心《こころ》をひかれて、|肝腎《かんじん》の|神様《かみさま》の|御用《ごよう》を|次《つ》ぎに|致《いた》さうとするのか。そんな|不心得《ふこころえ》のお|前《まへ》なら、もう|是非《ぜひ》がない。|縁《えん》を|切《き》るから、|其方《そちら》へ|行《い》つてくれ』
『|杢助《もくすけ》さま、お|前《まへ》さまは|頭《あたま》を|打《う》つてチツと|逆上《のぼ》せてゐるのだらう。さうでなければ、そんな|水臭《みづくさ》いことを|仰有《おつしや》る|筈《はず》がない。ああ|気《き》の|毒《どく》な|事《こと》だな。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
『こりや|高姫《たかひめ》、|私《わし》は|最前《さいぜん》も|云《い》うた|通《とほ》り|神様《かみさま》の|戒《いまし》めにあつて|居《ゐ》るのだから、そんな|事《こと》は|何卒《どうぞ》|云《い》つてくれなと|云《い》つたぢやないか。|何故《なぜ》|夫《をつと》の|言葉《ことば》をお|前《まへ》は|用《もち》ひないのか』
『よう、そんな|事《こと》を|仰有《おつしや》いますな。|初稚姫《はつわかひめ》があれだけ|大切《たいせつ》にしてゐたスマートを|私《わたし》がお|父《とう》さまの|命令《めいれい》だからと|云《い》つて|千言万語《せんげんばんご》を|費《つひや》し|説《と》きつけた|処《ところ》、|初稚《はつわか》は|到頭《たうとう》|私《わたし》の|言《い》ひ|条《でう》についてスマートに|大《おほ》きな|石《いし》を|五《いつ》つもかちつけ、|頭蓋骨《づがいこつ》を|割《わ》り、|大変《たいへん》な|血《ち》を|出《だ》したので、スマートは、あた|気味《きみ》のよい、キヤンキヤンと|悲鳴《ひめい》をあげて|逃《に》げて|了《しま》ひましたよ。|大方《おほかた》|今頃《いまごろ》は|河鹿峠《かじかたうげ》の|懐谷《ふところだに》|近辺《きんぺん》で|倒《たふ》れて|死《し》んで|了《しま》つてゐるに|違《ちが》ひありませぬ』
『|何《なに》、スマートに|石《いし》をかちつけて|初稚姫《はつわかひめ》が|帰《い》なしたと|云《い》ふのか。ヤー、それは|結構《けつこう》だ。|持《も》つべきものは|子《こ》なりけりだな』
『そら、さうでせう。お|前《まへ》さまの|目《め》の|中《なか》へ|這入《はい》つても|痛《いた》くないお|嬢《ぢやう》さまですからな。|持《も》つべからざるは|女房《にようばう》なりけりと|云《い》ふお|前《まへ》さまは|水臭《みづくさ》い|了簡《れうけん》でせうがな』
『もう|頭《あたま》の|痛《いた》いのにクドクドとそんな|事《こと》は|云《い》つてくれな。|又《また》|痛《いた》みが|止《と》まつてから|不足《ふそく》なり、|何《なん》なりと|承《うけたま》はらう。それよりも|早《はや》く|宅《うち》へ|帰《かへ》つて|初稚姫《はつわかひめ》を|呼《よ》んで|来《き》てくれ。そしてお|前《まへ》は|人《ひと》|知《し》れず|受付《うけつけ》の|前《まへ》にある|大杉《おほすぎ》の|木《き》へ|上《あが》つて|玉茸《たまたけ》と|云《い》ふ|茸《きのこ》があるから、それを【むし】つて|来《き》てくれないか。それさへあれば|私《わし》の|病気《びやうき》は|一遍《いつぺん》に|治《なほ》るのだ』
『それなら、ハルかイルに|梯子《はしご》でもかけて|取《と》らせませうかな』
『いやいや、これは|秘密《ひみつ》にせなくては|効能《かうのう》が|現《あら》はれぬのだ。|仮令《たとへ》|娘《むすめ》の|初稚姫《はつわかひめ》にだつて|覚《さと》られちや|無効《むかう》だぞ。|兎《と》に|角《かく》、|初稚姫《はつわかひめ》を|呼《よ》んで|来《く》るよりも、お|前《まへ》が|早《はや》く|其《その》|玉茸《たまたけ》をソツと|取《と》つて|来《き》てくれないか。|夫《をつと》が|女房《にようばう》に|手《て》を|合《あは》して|頼《たの》むのだから……』
と|涙《なみだ》を|両眼《りやうがん》に|垂《た》らして|高姫《たかひめ》を|拝《をが》み|倒《たふ》した。|高姫《たかひめ》はオロオロしながら|両眼《りやうがん》に|涙《なみだ》を|浮《うか》べ、
『これ、|杢助《もくすけ》さま、|夫《をつと》が|女房《にようばう》に|手《て》を|合《あは》して|頼《たの》む|人《ひと》が|何処《どこ》の|世界《せかい》にありますかいな。それなら|之《これ》から|玉茸《たまたけ》をとつて|参《まゐ》ります。|何卒《どうぞ》|暫《しばら》く|此処《ここ》に|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さい。|苦《くる》しいでせうけれどな』
『それは|御苦労《ごくらう》だ。|何卒《どうぞ》|怪我《けが》をせない|様《やう》に、そして|人《ひと》に|見付《みつ》からぬ|様《やう》に|採《と》つて|来《き》て|下《くだ》さい。それ|迄《まで》は|初稚姫《はつわかひめ》にも|何人《たれ》にも|云《い》つてはいけませぬぞ』
『ハイ、|何《なに》も|彼《か》も|呑込《のみこ》んで|居《を》ります。それなら|之《これ》から|取《と》つて|来《き》て|上《あ》げませう。|暫《しばら》く|此処《ここ》に……ネー|杢助《もくすけ》さま、|貴方《あなた》も|摩利支天様《まりしてんさま》の|御身魂《おみたま》だから、|之《これ》|位《くらゐ》の|傷《きず》にはメツタに|往生《わうじやう》なさる|事《こと》はありますまいからな』
『うん、さうだ、|大丈夫《だいぢやうぶ》だよ。お|前《まへ》も|夫《をつと》に|対《たい》する|初《はじ》めての|貞節《ていせつ》だから、|何卒《どうぞ》|怪我《けが》をせない|様《やう》にして|玉茸《たまたけ》の|採取《さいしゆ》を|頼《たの》むよ』
『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|大《おほ》きな|尻《しり》をプリンプリンと|振《ふ》りながら、|杢助《もくすけ》の|倒《たふ》れて|居《ゐ》る|姿《すがた》を|見返《みかへ》り|見返《みかへ》り、チヨコチヨコ|走《ばし》りに|受付《うけつけ》の|前《まへ》の|大杉《おほすぎ》の|木《き》の|蔭《かげ》にソツと|身《み》を|寄《よ》せた。|杢助《もくすけ》に|変化《へんげ》してゐた|妖幻坊《えうげんばう》はヤツと|一安心《ひとあんしん》して|元《もと》の|怪物《くわいぶつ》と|還元《くわんげん》し、|一先《ひとま》づ|此処《ここ》を|立去《たちさ》らねば、|又《また》も|人《ひと》に|見付《みつ》けられては|堪《た》へ|難《がた》き|苦痛《くつう》だと、|谷《たに》の|流《なが》れを|伝《つた》うてガサリガサリと|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》を|渡《わた》り、|向《むか》ふ|側《がは》の|日当《ひあた》りのよき|窪《くぼ》んだ|処《ところ》に|横《よこ》たはり、|四辺《あたり》に|人《ひと》なきを|幸《さいは》ひ、ウーンウーンと|呻《うめ》き|苦《くる》しんでゐたのである。
|扨《さ》て|一方《いつぱう》の|高姫《たかひめ》は、|森《もり》の|木蔭《こかげ》に|身《み》を|忍《しの》び、|受付《うけつけ》の|様子《やうす》を|考《かんが》へてゐると、イルとハルとが|火鉢《ひばち》を|真中《まんなか》に|囲《かこ》み、|何事《なにごと》か「アツハツハハハハアツハツハハハハ」と|笑《わら》ひながら|雪駄直《せつたなほ》しが|大仕事《おほしごと》を|受取《うけと》つた|様《やう》な|態度《たいど》で、|何時《いつ》|動《うご》かうともしない。|高姫《たかひめ》は|気《き》が|気《き》でならず、
『|早《はや》く|両人《りやうにん》|何処《どこ》かへ|行《い》つてくれたらよいがな。|気《き》の|利《き》かぬ|奴《やつ》ばつかりだ。|早《はや》く|玉茸《たまたけ》を|取《と》つて|杢助《もくすけ》さまに|上《あ》げなくちや、あの|塩梅《あんばい》では|大変《たいへん》|傷《きず》が|深《ふか》いから|本復《ほんぷく》せぬかも|知《し》れない。でも|彼奴等《あいつら》に|見《み》られちや|薬《くすり》が|利《き》かぬのだし、エーぢれつたいことだなア』
と|森蔭《もりかげ》に|地団駄《ぢだんだ》を|踏《ふ》んでゐる。ハル、イルはそんな|事《こと》も|知《し》らず|何事《なにごと》か|笑《わら》ひ|興《きよう》じてゐる。|高姫《たかひめ》も|耳《みみ》をすまして|此《この》|話《はなし》を|聞《き》くより|外《ほか》に|取《と》る|術《すべ》はなかつた。|大杉《おほすぎ》の|一方《いつぱう》に|姿《すがた》の|見《み》えない|様《やう》に|身《み》をかくして|聞《き》いて|見《み》れば、イルは、
『|如何《どう》も|怪《あや》しいものぢやないか。エー、|杢助《もくすけ》さまだつて|耳《みみ》がペラペラと|動《うご》くなり、|又《また》|今度《こんど》|来《き》た|初稚姫《はつわかひめ》さまは|何《ど》うも|一通《ひととほ》りの|人《ひと》ぢやない|様《やう》だし、|楓姫《かへでひめ》さまが|素敵《すてき》な|美人《びじん》だと|思《おも》つてゐたのに、これは|又《また》|幾層倍《いくそうばい》とも|知《し》れないナイスぢやないか』
ハルは、
『ウン、さうだな、|俺達《おれたち》も|男《をとこ》と|生《うま》れた|以上《いじやう》は、あんなナイスと|仮令《たとへ》|一夜《いちや》でもいいから|添《そ》うて|見《み》たいものだな。|然《しか》し|初稚姫《はつわかひめ》さまだつて|楓姫《かへでひめ》さまだつて、|何《いづ》れ|養子《やうし》を|貰《もら》はねばならぬのだから、|満更《まんざら》|目的《もくてき》の|外《はづ》れる|事《こと》もあるまい。あんな|人《ひと》になると|却《かへ》つて|器量《きりやう》を|好《この》まぬものだ。|口許《くちもと》のしまつた|色《いろ》の|浅黒《あさぐろ》い|男《をとこ》らしい|男《をとこ》を|好《この》むものだよ。|貴様《きさま》だつて、|俺《おれ》だつて|軍人教育《ぐんじんけういく》を|受《う》けとるのだから、|何処《どこ》ともなしに|軍人気質《ぐんじんきしつ》が|残《のこ》つて|凛々《りり》しい|処《ところ》があるなり、|一《ひと》つ|体《からだ》を|動《うご》かすにも|廻《まは》れ|右《みぎ》、|一二三式《おちにさんしき》なり、|本当《ほんたう》に|女《をんな》の|好《す》きさうな|男《をとこ》だからな』
『うん、そらさうだ。|貴様《きさま》だつてあまり|捨《す》てた|男前《をとこまへ》でもなし、|俺《おれ》だつてさう|掃溜《はきだめ》に|捨《す》てた|様《やう》な|男前《をとこまへ》でもなし、|婿《むこ》の|候補者《こうほしや》には|最《もつと》も|適当《てきたう》だ。さうして|宗教《しうけう》の|変《かは》つたものと|結婚《けつこん》すれば|互《たがひ》に|其《その》|信仰《しんかう》を|異《こと》にするが|故《ゆゑ》に、|如何《どう》しても|家庭《かてい》の|円満《ゑんまん》を|欠《か》くと|云《い》ふ|点《てん》から、|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》は|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》と|結婚《けつこん》する|事《こと》になつてゐる。|死《し》んでからでも|同《おな》じ|団体《だんたい》の|天国《てんごく》へ|行《ゆ》かうと|思《おも》へば、|同《おな》じ|思想《しさう》、|信仰《しんかう》を|持《も》つて|居《ゐ》なくちや|駄目《だめ》だからな。それ|位《くらゐ》の|事《こと》はあんな|人《ひと》になればよく|承知《しようち》してゐるよ』
『エツヘヘヘヘヘ|中々《なかなか》|以《もつ》て|前途有望《ぜんというばう》だ。これだから|三五教《あななひけう》は|結構《けつこう》だと|云《い》ふのだ。|何《なん》と|云《い》つても|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|素盞嗚尊《すさのをのみこと》はイドムの|神《かみ》といつて|縁結《えんむす》びの|神様《かみさま》だからな。そして|金勝要神《きんかつかねのかみ》と|云《い》ふ|頗《すこぶ》る|融通《ゆうづう》の|利《き》く|粋《すゐ》な|神様《かみさま》があつて「|添《そ》ひたい|縁《えん》なら|添《そ》はしてやらう、|切《き》りたい|縁《えん》なら|切《き》つてもやるぞよ」と、それはそれは|中々《なかなか》|話《はな》せる|神《かみ》さまだから、|俺等《おれたち》には|持《も》つて|来《こ》いだよ』
『それはさうと、イク、サール、テル|等《など》が|競争場裡《きやうさうぢやうり》に|立《た》つて|中原《ちうげん》の|鹿《しか》を|追《お》ふ|様《やう》な|事《こと》はあるまいかな』
『そりや|大丈夫《だいぢやうぶ》だよ。あんなシヤツ|面《つら》した|気《き》の|利《き》かない|頓馬《とんま》が、|如何《どう》して|二人《ふたり》のナイスのお|気《き》に|入《い》るものかね。そんな|事《こと》ア|到底《たうてい》|駄目《だめ》だよ。マア|安心《あんしん》したがよからう』
『さうお|前《まへ》の|様《やう》に|楽観《らくくわん》して|自惚《うぬぼ》れてゐる|訳《わけ》にも|行《ゆ》くまいぞ』
『|何《なに》さ、そんな|心配《しんぱい》は|要《い》らぬ。チヤーンと|運命《うんめい》が|決《きま》つてゐるのだ。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》があの|凛々《りり》しい|犬《いぬ》をつれて|厶《ござ》つた|時《とき》、|僕《ぼく》の|面《つら》をチラツと|見《み》てニタツと|笑《わら》つて|居《を》られた。その|時《とき》は|情味津々《じやうみしんしん》として|溢《あふ》るる|許《ばか》りだつたよ。そしてあの|涼《すず》しい|目《め》からピカピカツと|電波《でんぱ》を|送《おく》られた|時《とき》の|美《うつく》しさと|云《い》つたら、まるでエンゼルの|様《やう》だつたよ。あの|目付《めつき》から|考《かんが》へても、|屹度《きつと》|俺《おれ》に|思召《おぼしめし》があると|云《い》ふ|事《こと》は|動《うご》かぬ|事実《じじつ》だ。アーア、|併《しか》しながら|気《き》の|揉《も》める|事《こと》だわい』
『こりや、|貴様《きさま》、そんな|甘《うま》い|事《こと》があるかい。|俺《おれ》は|初稚姫《はつわかひめ》さまぢやなけりや、どんな|女房《にようばう》だつて|持《も》たないのだ。|貴様《きさま》は|楓姫《かへでひめ》さまが|合《あ》うたり|叶《かな》うたりだ。|楓姫《かへでひめ》さまは|何時《いつ》もお|前《まへ》の|事《こと》を「|何《なん》と|男《をとこ》らしい|方《かた》だね」と|云《い》つて|厶《ござ》つたぞ。それに|決《き》めておけ』
『|馬鹿《ばか》を|云《い》ふない。|先取権《せんしゆけん》は|俺《おれ》にあるのだ。そんな|虫《むし》のいい|事《こと》は|云《い》つてくれなよ』
『|馬鹿《ばか》にするない。|屹度《きつと》|俺《おれ》が|初稚姫《はつわかひめ》さまを|此方《こつち》へ|靡《なび》かして|見《み》せようぞ』
『|何《なに》、|俺《おれ》が|見《み》ん|事《ごと》、|靡《なび》かしてお|目《め》にかけよう』
などと|何時迄《いつまで》も|限《き》りなしに、こんな|空想談《くうさうだん》に|耽《ふけ》つてゐる。|高姫《たかひめ》は|気《き》も|狂乱《きやうらん》せむばかり|苛《いら》だてども、|何時迄《いつまで》|待《ま》つても|動《うご》く|気遣《きづか》ひはなし、|二人《ふたり》の|話《はなし》は|益々《ますます》|佳境《かきやう》に|入《い》り、|日《ひ》が|暮《く》れても|夜通《よどほ》ししても|容易《ようい》に|動《うご》かぬ|様子《やうす》である。|高姫《たかひめ》は|是非《ぜひ》なく|裏口《うらぐち》にまはり、|普請《ふしん》に|使《つか》つた|梯子《はしご》を|引張《ひつぱ》り|出《だ》し|来《きた》り、|大杉《おほすぎ》の|受付《うけつけ》から|見《み》えない|方面《はうめん》に|立《た》てかけ、|太《ふと》い|体《からだ》をシワシワと|梯子《はしご》を|弓《ゆみ》の|如《ごと》くしわませながら|漸《やうや》く|一《いち》の|枝《えだ》へとりつき、|蜘蛛《くも》の|巣《す》にひつかかりながら、|杢助《もくすけ》の|云《い》つた|玉茸《たまたけ》は|何処《どこ》にあるかと|探《さが》しまはつた。されど|茸《きのこ》らしいものは|少《すこ》しも|見当《みあた》らない。|杢助《もくすけ》さまが|確《たしか》に|此《この》|杉《すぎ》だと|云《い》つたのだから、|何処《どこ》かにあるだらうと|可成《なるべ》く|音《おと》のせぬやう、|枝《えだ》から|枝《えだ》へ|伝《つた》ひ|上《のぼ》つて|行《ゆ》くと、|昼目《ひるめ》の|見《み》えない|梟鳥《ふくろどり》が|丸《まる》い|目《め》を|剥《む》いてとまつてゐた。|高姫《たかひめ》は|余《あま》り|慌《あわ》ててゐるので、|視覚《しかく》に|変調《へんてう》を|来《きた》して|居《ゐ》たと|見《み》え、|梟《ふくろ》の|両眼《りやうがん》を|見《み》て、
『ほんに|玉《たま》の|様《やう》に|丸《まる》い|茸《きのこ》だ。|成程《なるほど》|玉茸《たまたけ》とはよく|云《い》つたものだ』
と|小《ちひ》さい|声《こゑ》で|囁《ささや》き|乍《なが》ら|梟《ふくろ》の|目《め》を|一寸《ちよつと》|撫《な》でた。|梟《ふくろ》は|驚《おどろ》いて|無性矢鱈《むしやうやたら》に|高姫《たかひめ》の|光《ひか》つた|目《め》を|敵《てき》と|見做《みな》し、|尖《とが》つた|嘴《くちばし》でこついたから|堪《たま》らない、|高姫《たかひめ》はズズズズドスン、「キヤツ、イイイイ|痛《いた》い」と|小声《こごゑ》に|叫《さけ》んだ。されどイル、ハルの|両人《りやうにん》は|勝手《かつて》な|話《はなし》に|現《うつつ》を|抜《ぬ》かし、|女房《にようばう》の|選択談《せんたくだん》に|火花《ひばな》を|散《ち》らしてゐたから、|杉《すぎ》の|大木《たいぼく》の|根元《ねもと》に|落《お》ちて|苦《くる》しんでゐる|高姫《たかひめ》の|体《からだ》が|目《め》につかなかつたのである。|祠《ほこら》の|森《もり》の|群烏《むらがらす》は|俄《にはか》に|何物《なにもの》に|驚《おどろ》いたか、ガアガアと|縁起《えんぎ》の|悪《わる》さうな|声《こゑ》をして|中空《ちうくう》を|鳴《な》きながら|〓翔《こうしやう》してゐる。
(大正一二・一・二〇 旧一一・一二・四 北村隆光録)
第七章 |負傷負傷《ふしやうぶしやう》〔一三〇一〕
|初稚姫《はつわかひめ》は|静《しづか》に|歩《ほ》を|運《はこ》びながら|珍彦《うづひこ》の|館《やかた》を|訪《と》ひ、|門口《かどぐち》の|戸《と》をそつと|開《ひら》き、
『|御免《ごめん》なさいまし、|私《わたくし》は|初稚姫《はつわかひめ》で|厶《ござ》います。ハルナの|都《みやこ》へ|宣伝使《せんでんし》として|参《まゐ》ります|途中《とちう》、|大神様《おほかみさま》に|参拝《さんぱい》を|致《いた》し、|高姫《たかひめ》|様《さま》のお|世話《せわ》になりまして、|此処《ここ》に|暫《しばら》く|足《あし》を|留《とど》めて|居《を》るもので|厶《ござ》いますれば、|何卒《どうぞ》|御入魂《ごじつこん》に|願《ねが》ひます』
と|云《い》つた。|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて|楓姫《かへでひめ》は|襖《ふすま》をそつと|開《ひら》いて|現《あら》はれ|来《きた》り、|叮嚀《ていねい》に|辞儀《じぎ》をしながら|桐《きり》の|火鉢《ひばち》を|据《す》ゑ、|座蒲団《ざぶとん》を|敷《し》いて、
『|貴女様《あなたさま》が|驍名《げうめい》|高《たか》き|初稚姫《はつわかひめ》の|宣伝使《せんでんし》さまで|厶《ござ》いましたか。それはそれはようまアお|訪《たづ》ね|下《くだ》さいました。|実《じつ》の|所《ところ》は|貴女様《あなたさま》がお|越《こ》し|遊《あそ》ばしたと|云《い》ふ|事《こと》を、|承《うけたま》はりまして、|一度《いちど》|拝顔《はいがん》を|得《え》たいと|願《ねが》つて|居《を》りましたが、|私《わたし》の|両親《りやうしん》が|申《まを》しますには「お|前《まへ》のやうな|教育《けういく》のない|不作法者《ぶさはふもの》が、エンゼルのやうな|方《かた》の|前《まへ》に|出《で》るものぢやない、|御無礼《ごぶれい》になるから|控《ひか》へて|居《を》れ」と|申《まを》しますので、つひ|失礼《しつれい》を|致《いた》して|居《を》りました。ようまア|尊《たふと》き|御身《おんみ》をもつてお|訪《たづ》ね|下《くだ》さいましたねえ。サアどうぞ、|此処《ここ》へお|上《あが》り|下《くだ》さいませ。お|茶《ちや》なりと|汲《く》まして|頂《いただ》きます』
『ハイ、|御親切《ごしんせつ》に|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります。|何彼《なにか》とお|世話《せわ》に|預《あづ》かりましてなア。|時《とき》に|珍彦《うづひこ》|様《さま》、|静子様《しづこさま》はどちらにお|出《い》でになりましたか、お|顔《かほ》が|見《み》えないやうで|厶《ござ》いますなア』
『ハイ、|一寸《ちよつと》|両親《りやうしん》は|神様《かみさま》へお|礼参《れいまゐ》りと|云《い》つて|出《で》て|往《ゆ》きました。|大方《おほかた》|御神前《ごしんぜん》に|参《まゐ》つて|居《を》られませう』
『|神丹《しんたん》のお|礼《れい》を|申《まを》しにお|出《い》でになつたのでせう』
|楓姫《かへでひめ》は|此《この》|言葉《ことば》に|吃驚《びつくり》して、|初稚姫《はつわかひめ》の|顔《かほ》を|見上《みあ》げながら、|少《すこ》しく|手《て》を|慄《ふる》はせ、
『|貴女《あなた》はまア、どうしてそんな|詳《くは》しい|事《こと》を|御存《ごぞん》じで|厶《ござ》いますか』
『ハイ、|御夫婦《ごふうふ》の|危難《きなん》を|見《み》るに|見兼《みか》ねて、|妾《わらは》が|言霊別命《ことたまわけのみこと》|様《さま》のお|告《つげ》により、|神丹《しんたん》と|云《い》ふ|霊薬《れいやく》を|造《つく》り、スマートに|持《も》たせて|貴女《あなた》のお|手《て》に|渡《わた》した|筈《はず》で|厶《ござ》いますから』
『ああ|左様《さやう》で|厶《ござ》いましたか。さうすると|貴女様《あなたさま》は、|文珠菩薩様《もんじゆぼさつさま》で|厶《ござ》いますか、ああ|尊《たふと》や|有難《ありがた》やなア』
と|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|咽《むせ》ぶ。いつの|間《ま》にやらスマートは|床《ゆか》の|下《した》を|潜《くぐ》り、|尾《を》をふりながら|此処《ここ》に|現《あら》はれて|来《き》た。
『これスマートや、うつかり|出歩《である》いちやいけませぬよ。|何《ど》うして|此処《ここ》へお|出《い》でたの。お|前《まへ》は|本当《ほんたう》に|霊獣《れいじう》だねえ、|私《わたし》の|云《い》ふ|事《こと》をよく|聞《き》いて、|御夫婦《ごふうふ》の|危難《きなん》をよく|救《すく》うて|下《くだ》さつた。ほんとにスマートの|名《な》に|背《そむ》かぬ|敏捷《びんせふ》なものだねえ』
と|讃美《ほめたた》へて|居《ゐ》る。スマートは|嬉《うれ》しさうに|体《からだ》や|尾《を》をふつて|居《ゐ》る。|楓《かへで》は|漸《やうや》うに|顔《かほ》を|上《あ》げ、スマートの|姿《すがた》を|見《み》て|二度《にど》|吃驚《びつくり》し、
『アー、|昨夜《さくや》|文珠菩薩様《もんじゆぼさつさま》がお|連《つ》れ|遊《あそ》ばした|犬《いぬ》は、これで|厶《ござ》いますわ、この|犬《いぬ》の|口《くち》から|私《わたくし》の|手《て》へ|神丹《しんたん》を|三粒《みつぶ》|渡《わた》して|呉《く》れました。さうして|文珠菩薩様《もんじゆぼさつさま》は|私《わたくし》に|神丹《しんたん》を|授《さづ》けて|直様《すぐさま》|犬《いぬ》を|引《ひ》き|連《つ》れ、どこかへお|帰《かへ》りになつたと|思《おも》へば|夢《ゆめ》は|醒《さ》め、|堅《かた》く|握《にぎ》つて|居《ゐ》た|手《て》を|開《ひら》いて|見《み》れば、あの|神丹《しんたん》が|厶《ござ》いました。|貴女《あなた》は|全《まつた》く|生神様《いきがみさま》、|私《わたくし》がかうしてお|側《そば》へおいて|頂《いただ》くのも|恐《おそ》れ|多《おほ》い|事《こと》で|厶《ござ》います。さうして|私《わたくし》が|何《ど》うしても|合点《がてん》が|参《まゐ》りませぬ|事《こと》が|一《ひと》つ|厶《ござ》います、|貴女《あなた》は|何故《なぜ》|高姫《たかひめ》さまのやうな|余《あま》りよくないお|方《かた》のお|子《こ》さまになられましたのか』
|初稚姫《はつわかひめ》はニツコと|笑《わら》ひ、
『ハイ、いづれお|分《わか》りになる|事《こと》が|厶《ござ》いませう』
と|云《い》つたきり|答《こた》へなかつた。|楓《かへで》は|畳《たた》みかけて|又《また》|問《と》うた。
『|貴女様《あなたさま》は|承《うけたま》はれば、|杢助様《もくすけさま》のお|娘子様《むすめごさま》で|厶《ござ》いますさうですねえ』
『ハイ|左様《さやう》で|厶《ござ》います。|併《しか》し|此処《ここ》の|杢助《もくすけ》さまは……』
と|云《い》つたきり、|口《くち》をつぐんで|仕舞《しま》つた。|楓《かへで》は|鋭敏《えいびん》の|頭脳《づなう》の|持主《もちぬし》であるから、|早《はや》くも|意中《いちう》を|悟《さと》つた。さうして|小声《こごゑ》になり、
『|本当《ほんたう》に|何《なん》ですねえ、|何《なに》も|云《い》はない|方《はう》が|無難《ぶなん》でよろしいわね』
と|以心伝心的《いしんでんしんてき》に、|目《め》と|目《め》で|話《はなし》の|交換《かうくわん》を|簡単《かんたん》に|済《す》まして|了《しま》つた。
かかる|所《ところ》へ|珍彦《うづひこ》|夫婦《ふうふ》は|藜《あかざ》の|杖《つゑ》をつきながら|拝礼《はいれい》を|終《をは》り、|裏口《うらぐち》から|帰《かへ》つて|来《き》た。|其《その》|足音《あしおと》を|早《はや》くも|悟《さと》つて|楓《かへで》は|裏口《うらぐち》の|戸《と》をあけ、|嬉《うれ》しさうな|声《こゑ》で、
『お|父《とう》さま、お|母《かあ》さま、お|帰《かへ》りなさいませ。|夜前《やぜん》の|神様《かみさま》がお|越《こ》し|遊《あそ》ばしたのよ。あの|神丹《しんたん》を|下《くだ》さつた|文珠菩薩様《もんじゆぼさつさま》が』
と|小声《こごゑ》に|囁《ささや》いた。
|珍彦《うづひこ》『|何《なに》、|文珠菩薩様《もんじゆぼさつさま》が|此処《ここ》へお|出《い》で|遊《あそ》ばしたの。それは|直様《すぐさま》お|礼《れい》を|申上《まをしあ》げねばなるまい』
|静子《しづこ》『|余《あま》り|悪魔《あくま》が|蔓《はびこ》るので、この|聖場《せいぢやう》に|居《ゐ》ながらも、|夜《よ》の|目《め》も|碌《ろく》に|眠《ねむ》られなかつた。ああ|有難《ありがた》い、|文珠菩薩様《もんじゆぼさつさま》がお|越《こ》し|下《くだ》さつたか』
と|早《はや》くも|涙声《なみだごゑ》になつて|居《ゐ》る。|楓《かへで》の|後《あと》に|従《つ》いて|夫婦《ふうふ》は|座敷《ざしき》に|上《あが》り、|初稚姫《はつわかひめ》の|前《まへ》に|頭《かしら》を|下《さ》げ、|歔欷泣《しやくりな》きしながら、|一言《いちごん》も|発《はつ》し|得《え》ず|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。
『もし|珍彦《うづひこ》|様《さま》、|静子様《しづこさま》、|日々《にちにち》|御神務《ごしんむ》|御苦労《ごくらう》さまで|厶《ござ》いますなア。|妾《わらは》は|初稚姫《はつわかひめ》の|宣伝使《せんでんし》で|厶《ござ》います。|突然《とつぜん》|参《まゐ》りましてお|邪魔《じやま》を|致《いた》して|居《を》ります。|楓様《かへでさま》が|親切《しんせつ》に|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さるので、つひ|長居《ながゐ》を|致《いた》しました』
と、|鈴《すず》のやうな|柔《やさ》しい|声《こゑ》で|挨拶《あいさつ》をした。|珍彦《うづひこ》はハツと|頭《かしら》を|上《あ》げ、|初稚姫《はつわかひめ》の|霊気《れいき》に|満《み》てる|其《その》|容貌《ようばう》に|感《かん》じ|入《い》り、
『|貴女《あなた》は|文珠菩薩《もんじゆぼさつ》の|御化身様《ごけしんさま》、よくまアお|助《たす》けに|来《き》て|下《くだ》さいました。これ|静子《しづこ》、|早《はや》く|御礼《おれい》を|申《まを》さないか』
『|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、|文珠菩薩様《もんじゆぼさつさま》の|御化身様《ごけしんさま》、よくまアお|助《たす》け|下《くだ》さいました。この|御恩《ごおん》は|決《けつ》して|忘《わす》れは|致《いた》しませぬ』
とハンケチに|霑《うる》んだ|目《め》を|拭《ぬぐ》ふ。
|初稚姫《はつわかひめ》は|迷惑《めいわく》な|顔《かほ》をして|細《ほそ》い|手《て》を|左右《さいう》に|振《ふ》りながら、
『イエイエお|礼《れい》を|云《い》はれては|済《す》みませぬ。|妾《わらは》の|立場《たちば》が|厶《ござ》いませぬ。|実《じつ》は|言霊別《ことたまわけ》の|神様《かみさま》が|妾《わらは》に|御命令《ごめいれい》|遊《あそ》ばしたので|厶《ござ》いますよ。どうぞ|大神様《おほかみさま》にお|礼《れい》を|申《まを》して|下《くだ》さい。|妾《わらは》は|決《けつ》して|貴方等《あなたがた》をお|助《たす》けするやうな|力《ちから》は|厶《ござ》いませぬ』
『なんと|御謙遜《ごけんそん》な|貴女様《あなたさま》、|実《じつ》に|感《かん》じ|入《い》りました。|時《とき》に|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》は、|昨日《さくじつ》|見《み》えました|杢助様《もくすけさま》の|御令嬢《ごれいぢやう》と|承《うけたま》はりましたが、|左様《さやう》で|厶《ござ》いますかなア』
『イエ……ハイ』
と|煮《に》え|切《き》らぬ|返事《へんじ》をして|居《ゐ》る。
|楓《かへで》は|両親《りやうしん》に|向《むか》ひ、
『お|父《とう》さま、お|母《かあ》さま、そんな|失礼《しつれい》な|事《こと》を|仰有《おつしや》つてはいけませぬよ。|何《なに》、あんな|方《かた》が|姫様《ひめさま》のお|父《とう》さまであつて|耐《たま》りませう。これには|深《ふか》い|訳《わけ》がおありなさるので|厶《ござ》いますよ。|併《しか》しながら、これきりで|何《なに》も|仰有《おつしや》らないやうにして|下《くだ》さい。|姫様《ひめさま》の|御迷惑《ごめいわく》になつては|済《す》みませぬからなア』
|珍彦《うづひこ》|夫婦《ふうふ》は|楓《かへで》の|言葉《ことば》に|打《う》ち|首肯《うなづ》き、
『ウンウン、|成程々々《なるほどなるほど》、いや|解《わか》りました。|御苦労《ごくらう》さまで|厶《ござ》います。どうぞ|貴女《あなた》の|御神力《ごしんりき》で|悪魔《あくま》をお|取《と》り|払《はら》ひ|下《くだ》さるやうにお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
と|夫婦《ふうふ》は|手《て》を|合《あは》せ、|又《また》もや|伏《ふ》し|拝《をが》むのであつた。
|楓《かへで》『|余《あま》り|斯様《かやう》なお|話《はなし》は、|誰《たれ》が|聞《き》くか|分《わか》りませぬから、ちつとハンナリと|歌《うた》でも|歌《うた》ひませうかねえ』
『さうですね、|楓《かへで》さま、|一《ひと》つ|歌《うた》つて|下《くだ》さいな』
|楓《かへで》は|初稚姫《はつわかひめ》の|言葉《ことば》をいなみ|兼《か》ね……お|恥《はづ》かしながら……と|前置《まへお》きして、
『|人《ひと》の|心《こころ》の|底《そこ》|深《ふか》く
|千尋《ちひろ》の|浪《なみ》を|分《わ》け|往《ゆ》けば
|見《み》る|目《め》たなびく|岩蔭《いはかげ》に
|醜《みにく》き|鰐《わに》の|住《す》めるかな』
|初稚姫《はつわかひめ》は|幾度《いくたび》も|諾《うなづ》きながら、にやりと|笑《わら》ひ、
『|成程《なるほど》ねえ。よく|出来《でき》ましたよ。|妾《わらは》も|腰折《こしをれ》を|読《よ》まして|頂《いただ》きませうかねえ。ホホホ』
と|笑《わら》ひながら、
『|木《こ》の|花《はな》|一度《いちど》に|咲《さ》き|満《み》つる
|天津御国《あまつみくに》へ|誘《いざな》ひて
|常住不断《じやうぢうふだん》の|法楽《ほふらく》を
|与《あた》へた|廻《まは》る|瑞御霊《みづみたま》
|誠《まこと》にお|恥《はづ》かしい|事《こと》で|厶《ござ》います。ホホホホ』
と|梅花《ばいくわ》の|露《つゆ》に|綻《ほころ》ぶ|如《ごと》き|小《ちひ》さい|唇《くちびる》から|笑《ゑみ》を|漏《も》らして|居《ゐ》る。
|此《この》|時《とき》、|門口《かどぐち》に|男《をとこ》の|声《こゑ》として、
『○○|恋《こひ》しや|春《はる》の|夜《よ》の
|闇《やみ》に|立《た》ちたる|面影《おもかげ》は
|消《き》えてあとなく|吾《わが》|声《こゑ》の
|只《ただ》|木霊《こだま》する|淋《さび》しさよ』
と|歌《うた》つて|通《とほ》るものがあつた。|又《また》かはつた|男《をとこ》の|声《こゑ》で、
『|楽《たの》しからずや|恋《こひ》の|夢《ゆめ》
|唯《ただ》|力《ちから》なく|君《きみ》が|手《て》に
|抱《いだ》かるる|時《とき》|吾《わが》|涙《なみだ》
ほほ|笑《ゑ》む|眼《まなこ》をぬらすかな
○
|神《かみ》の|光《ひかり》に|包《つつ》まるる
|尊《たふと》き|君《きみ》を|偲《しの》びつつ
|吾等《われら》の|恋《こひ》に|幸《さち》あれと
|涙《なみだ》|流《なが》して|祈《いの》るかな
○
|悲《かな》しき|夢《ゆめ》のさめし|時《とき》
|涙《なみだ》にしめる|目《め》をあげて
|独《ひと》り|寝《ぬ》る|夜《よる》の|淋《さび》しさを
|神《かみ》の|御前《みまへ》にかきくどく』
と|歌《うた》ひながら|珍彦館《うづひこやかた》の|門口《かどぐち》を|通《とほ》り、|神殿《しんでん》の|方《はう》へ|足音《あしおと》が|消《き》えて|往《ゆ》く。|楓《かへで》は、
『|何《なん》とまア|誰《たれ》か|知《し》りませぬが、|調《てう》のよい|歌《うた》ですこと、ねえ、|初稚姫《はつわかひめ》さま』
『ほんにさうですねえ。|私《わたし》なんかの|歌《うた》から|見《み》れば、|比《くら》べものになりませぬわ。このお|館《やかた》には|風雅人《ふうがじん》が|沢山《たくさん》|居《を》られるとみえますなア』
と|斯《か》く|話《はな》す|時《とき》、|又《また》もや|聞《きこ》ゆる|歌《うた》の|声《こゑ》、
『|桜《さくら》の|花《はな》|咲《さ》く|春《はる》の|野《の》に
|君《きみ》とまみゆる|嬉《うれ》しさよ
○
|祠《ほこら》の|森《もり》にます|神《かみ》の
|守《まも》らせ|給《たま》ふ|恋《こひ》の|幸《さち》
○
|恋《こひ》しき|人《ひと》を|待《ま》ち|暮《く》らす
|男心《をとこごころ》の|淋《さび》しさを
|知《し》るや|知《し》らずや|東雲《しののめ》の
|光《ひかり》はさしぬほのぼのと』
|初稚《はつわか》『|何《なん》とまア|情緒《じやうしよ》の|深《ふか》い|風流《ふうりう》な|歌《うた》ですなア』
|珍彦《うづひこ》『|姫様《ひめさま》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|楓《かへで》|其方《そなた》も|気《き》をつけなくてはなりますまい。きつと|貴女方《あなたがた》|二人《ふたり》に|心《こころ》を|寄《よ》せて|居《ゐ》る|男《をとこ》があるのでせうよ。|何《なん》と|云《い》つても|花《はな》の|莟《つぼみ》の|姫様《ひめさま》|又《また》|楓姫《かへでひめ》、|美《うつく》しい|花《はな》には|害虫《がいちう》のつき|纒《まと》ふものですからなア』
『|仰《おほせ》の|通《とほ》りで|厶《ござ》います。|妾《わらは》もあの|歌《うた》によつて、|吾《わが》|身辺《しんぺん》に|容易《ようい》ならざる|恋《こひ》の|魔《ま》の|付纏《つきまと》うて|居《ゐ》る|事《こと》を|悟《さと》りました。|併《しか》しながら|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな。|左様《さやう》な|事《こと》に|心《こころ》を|動《うご》かすやうな|私《わたし》では|厶《ござ》いませぬ。|楓《かへで》さま、|貴女《あなた》も|大丈夫《だいぢやうぶ》でせう』
『|姫様《ひめさま》のお|言葉《ことば》の|通《とほ》り、|妾《わたし》は|何処《どこ》までも|注意《ちゆうい》を|致《いた》して|居《を》ります。|何分《なにぶん》お|父《とう》さまやお|母《かあ》さまが、|若《わか》い|娘《むすめ》をもつて|居《ゐ》ると|云《い》うて|非常《ひじやう》に|心配《しんぱい》をして|下《くだ》さるのですもの、|有難迷惑《ありがためいわく》を|感《かん》じます、ホホホホホ』
|珍彦《うづひこ》『それはさうだらうが、あの|高姫《たかひめ》さまだつて、あれだけ|歳《とし》が|寄《よ》つてから、コテコテと|白粉《おしろい》をつけたり|白髪《しらが》を|染《そ》めたり、|日《ひ》に|何度《なんど》も|着物《きもの》を|着《き》かへた|揚句《あげく》、|杢助《もくすけ》さまとやらを|喰《くわ》へこんで、|夫婦気取《ふうふきどり》で|浮《う》かれてゐらつしやるのですもの。|若《わか》い|娘《むすめ》をもつた|親《おや》はどれだけ|気《き》が|揉《も》めるか|知《し》れたものぢやありませぬ。これ|楓《かへで》、|姫様《ひめさま》の|様《やう》なお|方《かた》なれば|大磐石《だいばんじやく》だが、お|前《まへ》はまだ|神様《かみさま》の|事《こと》がよく|分《わか》らないのだから、|両親《りやうしん》が|心配《しんぱい》するのも|無理《むり》ではありませぬよ、アハハハハハ』
『あのまアお|父《とう》さまとしたことわいのう。それ|程《ほど》|私《わたし》に|信用《しんよう》が|置《お》けませぬか。|私《わたし》だつて|道晴別《みちはるわけ》の|妹《いもうと》、|祠《ほこら》の|森《もり》の|神司《かむつかさ》|珍彦《うづひこ》の|娘《むすめ》で|厶《ござ》います。|必《かなら》ず|必《かなら》ずお|心《こころ》を|悩《なや》ませ|下《くだ》さいますな。きつと|神様《かみさま》のお|名《な》を|汚《けが》したり、|親兄弟《おやきやうだい》の|御面《おかほ》を|汚《よご》すやうなことは|致《いた》しませぬ。ねえ|姫様《ひめさま》、|貴女《あなた》|私《わたし》の|心《こころ》をよく|御存《ごぞん》じでせう』
『|御夫婦様《ごふうふさま》、|必《かなら》ず|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|楓様《かへでさま》は、|本当《ほんたう》に|見上《みあ》げたお|方《かた》で|厶《ござ》いますよ。きつと|妾《わらは》が|保証《ほしよう》|致《いた》します。|如何《いか》なる|魔《ま》がさしましても|神様《かみさま》がお|守《まも》り|下《くだ》さる|上《うへ》は、|楓様《かへでさま》のお|心《こころ》が|極《きは》めて|堅実《けんじつ》に|居《を》られますから、|何程《なにほど》|仇《あだ》し|男《をとこ》が|云《い》ひ|寄《よ》りましても、|楓《かへで》さまに|取《と》つては|鎧袖一触《がいしういつしよく》の|感《かん》もありませぬ。どうぞお|心《こころ》を|悩《なや》めないやうにして|御神務《ごしんむ》にお|尽《つく》し|下《くだ》さいませ』
|珍彦《うづひこ》『ハイ|有難《ありがた》う、ようまア|云《い》つて|下《くだ》さいました』
|静子《しづこ》『そのお|言葉《ことば》を|承《うけたま》はり、|私《わたし》も|安心《あんしん》を|致《いた》しました。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|合掌《がつしやう》する。
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも、|又《また》もや|門口《かどぐち》に|恋《こひ》の|擒《とりこ》となりし|人《ひと》の|歌《うた》ふ|声《こゑ》、|隔《へだ》ての|戸《と》をすかして|聞《きこ》え|来《きた》る。
『ひそびそと|銀《ぎん》の|雨《あめ》
|絶間《たえま》もなしに|降《ふ》りそそぐ
うらぶれし|叢《くさむら》のなげかひ
ああかかる|日《ひ》は
|一入《ひとしほ》|痛《いた》みも|出《い》づれ
|毒《どく》の|爪《つめ》をもて
|永久《とこしへ》に|癒《い》え|難《がた》く
|刻《ほ》りつけられし
|胸《むね》の|痛手《いたで》よ』
と|哀《あは》れな|声調《せいてう》で|聞《きこ》えて|来《く》る。|又《また》|続《つづ》いて、
『|静《しづか》に|静《しづか》に|瞳《ひとみ》をつぶつて
|目《め》にも|見《み》えない|或物《あるもの》を
|見《み》るとき|吾《われ》は|銀色《ぎんいろ》の
|夢《ゆめ》の|中《うち》にぞ|浸《ひた》り|入《い》る
|素裸体《すはだか》の|人間《にんげん》は
|温《あたた》かい|暖《あたた》かい
|桃色《ももいろ》の|雰囲気《ふんゐき》に|包《つつ》まれながら
|歌《うた》ひつつ|踊《をど》る
|心《こころ》を|蕩《とろ》かすやうな
メロデイーが|流《なが》れ
|総《すべ》てのものが
やすらかに|息《いき》づく
|吾《われ》は|夢《ゆめ》の|為《ため》に|働《はたら》き
|夢《ゆめ》によつて|働《はたら》く
そして|又《また》
|夢《ゆめ》によつて、はぐくまれてゆく』
|斯《かか》る|所《ところ》へ|慌《あわただ》しくやつて|来《き》たのは、|受付《うけつけ》のイル、ハルの|両人《りやうにん》であつた。|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》もなく|門口《かどぐち》の|戸《と》を|押《お》し|開《ひら》き、
イル『もし|珍彦《うづひこ》|様《さま》、|大変《たいへん》な|事《こと》が|出来《でき》ました。どうぞ|来《き》て|下《くだ》さい、タタ|大変《たいへん》で|厶《ござ》います』
『|慌《あわただ》しき|其《その》|言葉《ことば》、|大変《たいへん》とは|何《なん》で|厶《ござ》るかな』
ハル『ハイ、タタタ|高姫《たかひめ》|様《さま》が|大変《たいへん》な|事《こと》で|厶《ござ》います。どうぞ|来《き》て|下《くだ》さい。|到底《たうてい》|私等《わたくしら》の|挺《てこ》には|合《あ》ひませぬから』
|静子《しづこ》『|何《なに》か|高姫《たかひめ》|様《さま》が|御機嫌《ごきげん》でも|損《そこ》ねて|御立腹《ごりつぷく》して|厶《ござ》るのかな』
|初稚姫《はつわかひめ》は、
『イエイエさうぢや|厶《ござ》いませぬ。|玉茸《たまたけ》を|取《と》らむとして|梟鳥《ふくろどり》に|目《め》をこつかれ、|大杉《おほすぎ》の|梢《こずゑ》から|顛落《てんらく》|遊《あそ》ばし、|腰《こし》の|骨《ほね》を|些《すこ》し|挫《くじ》かれたのでせう。|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》なさいますな、|直《すぐ》に|癒《なほ》りませうから』
イル『もしもし|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、|貴女《あなた》そんな|平気《へいき》な|顔《かほ》してよう|居《ゐ》られますなあ。|義理《ぎり》あるお|母《かあ》さまぢやありませぬか、サア|早《はや》くお|出《い》でなさいませ。お|父《とう》さまはお|怪我《けが》をなさるなり、お|母《かあ》さまは|木《き》から|落《お》ちて|苦《くる》しんで|厶《ござ》るなり、|何《なに》どころぢやありますまい』
『ハイ|直《すぐ》に|参《まゐ》りますから、お|母《かあ》さまにさう|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さい。これスマートや、|早《はや》く|何処《どこ》かへお|隠《かく》れ』
と|云《い》ひながら、|初稚姫《はつわかひめ》は|倉皇《さうくわう》として|高姫《たかひめ》の|危難《きなん》を|救《すく》ふべく|館《やかた》を|立《た》ち|出《い》で、|大杉《おほすぎ》の|許《もと》へと|歩《ほ》を|急《いそ》いだ。|高姫《たかひめ》は|苦《くる》しげな|息《いき》をつきながら、
『アア、|其方《そなた》は|初稚《はつわか》だつたか、よう|来《き》て|下《くだ》さつた。お|母《かあ》さまは、つひお|父《とう》さまの|病気《びやうき》を|直《なほ》したいばかりに|玉茸《たまたけ》を|取《と》りに|登《のぼ》つてこんな|目《め》に|遇《あ》つたのだよ。お|父《とう》さまは|誰《たれ》にも|知《し》れないやうにして|取《と》つて|呉《く》れと|仰有《おつしや》つたのだが、こんな|不調法《ぶてうはふ》をして|人《ひと》に|見《み》つけられたから、もう|利《き》かう|筈《はず》がない。どうぞ|私《わたし》には|構《かま》はず、あの|森《もり》の|木《き》の|下《もと》にゐらつしやるのだから、|早《はや》く|行《い》つて|介抱《かいほう》して|上《あ》げて|下《くだ》さい。|私《わたし》は|日出神《ひのでのかみ》の|御守護《ごしゆご》があるから|心配《しんぱい》は|要《い》りませぬ。サア|早《はや》く|往《い》つて|上《あ》げて|下《くだ》さい、|気《き》が|気《き》ぢやありませぬから』
『さうだと|云《い》つてお|母《かあ》さまの|危難《きなん》を|見捨《みす》てて、これがどうして|往《ゆ》けませうか。|一旦《いつたん》|親子《おやこ》の|縁《えん》を|結《むす》んだ|上《うへ》からは、そんな|水臭《みづくさ》い|事《こと》を|仰有《おつしや》らずに、どうぞ|介抱《かいほう》さして|下《くだ》さい、これが|貴女《あなた》に|対《たい》する|孝行《かうかう》のし|初《はじ》めですから』
と、|高姫《たかひめ》が|妖幻坊《えうげんばう》に|云《い》つた|言葉《ことば》|其《その》|儘《まま》を|応用《おうよう》して|居《ゐ》る。
『エイ、お|前《まへ》は|親《おや》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》かないのかい、さうであらう。お|腹《なか》を|痛《いた》めた|子《こ》でないから|恩《おん》も|義理《ぎり》もありませぬわい。|聞《き》いて|下《くだ》さらないのも|仕方《しかた》がありませぬ。もう|諦《あきら》めます』
『お|母《かあ》さま、それでは|済《す》みませぬが、お|父《とう》さまの|介抱《かいほう》に|参《まゐ》ります。|不孝《ふかう》の|奴《やつ》とお|卑《さげす》みなきやうにお|願《ねが》ひ|申《まを》します。これ、ハルさま、イルさま、どうぞお|母《かあ》さまの|介抱《かいほう》を|頼《たの》みますよ。お|母《かあ》さま|左様《さやう》なら』
と|云《い》ひながら|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》つた。|高姫《たかひめ》は|相変《あひかは》らず|苦悶《くもん》の|息《いき》を|漏《も》らして|居《ゐ》る。
(大正一二・一・二〇 旧一一・一二・四 加藤明子録)
第八章 |常世闇《とこよやみ》〔一三〇二〕
|大抵《たいてい》の|人間《にんげん》は、|高天原《たかあまはら》に|向《むか》つて|其《その》|内分《ないぶん》が|完全《くわんぜん》に|開《ひら》けてゐない。それ|故《ゆゑ》に|大神《おほかみ》は|精霊《せいれい》を|経《へ》て|人間《にんげん》を|統制《とうせい》し|給《たま》ふのが|普通《ふつう》である。|何《なん》となれば、|人間《にんげん》は|自然愛《しぜんあい》と|地獄愛《ぢごくあい》とより|生《う》み|出《だ》す|所《ところ》の|地獄界《ぢごくかい》の|諸々《もろもろ》の|罪悪《ざいあく》の|間《あひだ》に|生《うま》れ|出《い》でて、|惟神《かむながら》|即《すなは》ち|神的順序《しんてきじゆんじよ》に|背反《はいはん》せる|情態《じやうたい》に|居《を》るが|故《ゆゑ》である。されど|一旦《いつたん》|人間《にんげん》と|生《うま》れた|者《もの》は、|何《ど》うしても|惟神《かむながら》の|順序《じゆんじよ》の|内《うち》に|復活《ふくくわつ》|帰正《きせい》すべき|必要《ひつえう》がある。|而《しか》して|此《この》|復活《ふくくわつ》|帰正《きせい》の|道《みち》は、|間接《かんせつ》に|精霊《せいれい》を|通《とほ》さなくては|到底《たうてい》|成就《じやうじゆ》し|難《がた》いものである。|併《しか》しながら|此《この》|物語《ものがたり》の|主人公《しゆじんこう》たる|初稚姫《はつわかひめ》の|如《ごと》き|神人《しんじん》ならば、|最初《さいしよ》より|高天原《たかあまはら》の|神的順序《しんてきじゆんじよ》に|依《よ》る|所《ところ》の|諸々《もろもろ》の|善徳《ぜんとく》の|中《うち》に|生《うま》れ|出《い》でたるが|故《ゆゑ》に、|決《けつ》して|精霊《せいれい》を|経《へ》て|復活《ふくくわつ》|帰正《きせい》するの|必要《ひつえう》はない。|神人和合《しんじんわがふ》の|妙境《めうきやう》に|達《たつ》したる|場合《ばあひ》の|人間《にんげん》は、|精霊《せいれい》なるものを|経《へ》て|大神《おほかみ》の|統制《とうせい》し|給《たま》ふ|所《ところ》とならず、|順序《じゆんじよ》|即《すなは》ち|惟神《かむながら》の|摂理《せつり》により、|大神《おほかみ》の|直接内流《ちよくせつないりう》に|統制《とうせい》さるるのである。
|大神《おほかみ》より|来《きた》る|直接内流《ちよくせつないりう》は、|神《かみ》の|神的人格《しんてきじんかく》より|発《はつ》して|人間《にんげん》の|意性中《いせいちう》に|入《い》り、|之《これ》より|其《その》|智性《ちせい》に|入《い》り、|斯《か》くて|其《その》|善《ぜん》に|入《い》り|又《また》|其《その》|善《ぜん》を|経《へ》て|真《しん》に|入《い》る。|真《しん》に|入《い》るとは|要《えう》するに|愛《あい》に|入《い》るといふ|事《こと》である。|此《この》|愛《あい》を|経《へ》て|後《のち》|聖《きよ》き|信《しん》に|入《い》る。|故《ゆゑ》にこの|内流《ないりう》の|愛《あい》なき|信《しん》に|入《い》り、|又《また》|善《ぜん》のなき|真《しん》に|入《い》り、|又《また》|意思《いし》よりせざる|所《ところ》の|智性《ちせい》に|入《い》ることはないものである。|故《ゆゑ》に|初稚姫《はつわかひめ》の|如《ごと》きは|清浄無垢《せいじやうむく》の|神的人格者《しんてきじんかくしや》とも|云《い》ふべき|者《もの》なれば、その|思《おも》ふ|所《ところ》、|云《い》ふ|所《ところ》、|行《おこな》ふ|所《ところ》は、|一《いつ》として|神《かみ》の|大御心《おほみこころ》に|合一《がふいつ》せないものはないのである。|斯《か》かる|神人《しんじん》を|称《しよう》して|真《しん》の|生神《いきがみ》と|云《い》ふのである。
|天人《てんにん》|及《およ》び|精霊《せいれい》は|何故《なにゆゑ》に|人間《にんげん》と|和合《わがふ》する|事《こと》|斯《かく》の|如《ごと》く|密接《みつせつ》にして、|人間《にんげん》に|所属《しよぞく》せる|一切《いつさい》のものを、|彼等《かれら》|自身《じしん》の|物《もの》の|如《ごと》く|思《おも》ふ|理由《りいう》は、|人間《にんげん》なるものは|霊界《れいかい》と|現界《げんかい》との|和合機関《わがふきくわん》にして|頗《すこぶ》る|密着《みつちやく》の|間《かん》に|居《を》り、|殆《ほとん》ど|両者《りやうしや》を|一《ひと》つの|物《もの》と|看做《みな》し|得《う》べきが|故《ゆゑ》である。されど|現代《げんだい》の|人間《にんげん》は|高天原《たかあまはら》より|物慾《ぶつよく》の|為《ため》に|自然《しぜん》に|其《その》|内分《ないぶん》を|閉《とざ》し、|大神《おほかみ》のまします|高天原《たかあまはら》と|遠《とほ》く|離《はな》るるに|至《いた》つたが|故《ゆゑ》に、|大神《おほかみ》は|茲《ここ》に|一《ひと》つの|経綸《けいりん》を|行《おこな》はせ|給《たま》ひ、|天人《てんにん》と|精霊《せいれい》とをして|各個《かくこ》の|人間《にんげん》と|共《とも》に|居《を》らしめ|給《たま》ひ、|天人《てんにん》|即《すなは》ち|本守護神《ほんしゆごじん》|及《およ》び|精霊《せいれい》|正守護神《せいしゆごじん》を|経《へ》て|人間《にんげん》を|統制《とうせい》する|方法《はうはふ》を|執《と》らせ|給《たま》ふ|事《こと》となつたのである。
|高姫《たかひめ》の|身体《からだ》に|侵入《しんにふ》したる|精霊《せいれい》、|中《なか》にも|最《もつと》も|兇悪《きようあく》なる|彼《かれ》|兇霊《きようれい》は、|常《つね》に|高姫《たかひめ》と|言語《げんご》を|交換《かうくわん》してゐるものの、その|実《じつ》|高姫《たかひめ》が|人間《にんげん》なる|事《こと》を|実際《じつさい》に|信《しん》じてゐないのである。|高姫《たかひめ》の|身体《からだ》は|即《すなは》ち|自分《じぶん》の|肉体《にくたい》と|固《かた》く|信《しん》じてゐるのである。|故《ゆゑ》に|高姫《たかひめ》が|精霊《せいれい》に|対《たい》して|色々《いろいろ》と|談判《だんぱん》をすると|雖《いへど》も、|其《その》|実《じつ》|精霊《せいれい》の|意思《いし》では|他《た》に|目《め》には|見《み》えないけれども、|高姫《たかひめ》なる|精霊《せいれい》があつて、|外部《ぐわいぶ》より|自分《じぶん》に|向《むか》つて|談話《だんわ》の|交換《かうくわん》をしてゐる|様《やう》に|思《おも》つて|居《ゐ》るのである。|又《また》|精霊《せいれい》の|方《はう》に|於《おい》ては、|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》は|決《けつ》して|何《なに》も|知《し》つて|居《ゐ》ない、|知《し》つてゐるのは|只《ただ》|精霊《せいれい》|自身《じしん》の|知識《ちしき》によるものと|思《おも》ひ、|従《したが》つて|高姫《たかひめ》が|知《し》つてゐる|所《ところ》の|一切《いつさい》の|事物《じぶつ》は、|皆《みな》|自分《じぶん》の|所為《しよゐ》と|信《しん》じ|居《を》るものである。|併《しか》しながら|高姫《たかひめ》が|余《あま》りに……|俺《わし》の|肉体《にくたい》にお|前《まへ》は|巣喰《すく》つて|居《ゐ》るのだ……と、|精霊《せいれい》に|向《むか》つて|屡《しばしば》|告《つ》ぐるによつて、|彼《かれ》に|憑依《ひようい》せる|精霊《せいれい》|即《すなは》ち|兇霊《きようれい》は、うすうすながら|自分《じぶん》|以外《いぐわい》に|高姫《たかひめ》といふ|一種《いつしゆ》|異様《いやう》の|動物《どうぶつ》の|肉体《にくたい》に|這入《はい》つて|居《ゐ》るのではあるまいか……|位《ぐらゐ》に|感《かん》じだしたのである。|高姫《たかひめ》は|又《また》|精霊《せいれい》の|言《い》ふ|所《ところ》、|知《し》る|所《ところ》を、|自分《じぶん》の|言《い》ふ|所《ところ》、|知《し》る|所《ところ》と|思惟《しゐ》し、|而《しか》して|精霊《せいれい》が、|自分《じぶん》の|肉体《にくたい》は|神界経綸《しんかいけいりん》の|因縁《いんねん》のある|機関《きくわん》として|特別《とくべつ》に|造《つく》られたのだから、|正守護神《せいしゆごじん》や|副守護神《ふくしゆごじん》が|宿《やど》を|借《か》りに|来《き》て|居《を》るものと|信《しん》じて|居《ゐ》るのである。|而《しか》して|面白《おもしろ》い|事《こと》には、|高姫《たかひめ》の|体内《たいない》に|居《を》る|精霊《せいれい》は、|高姫《たかひめ》の|記憶《きおく》と|想念《さうねん》を|基《もとゐ》としていろいろと|支離滅裂《しりめつれつ》な|予言《よげん》をしたり、|筆先《ふでさき》を|書《か》いたりしながら、|其《その》|不合理《ふがふり》にして|虚偽《きよぎ》に|充《み》てる|事《こと》を|自覚《じかく》せず、|凡《すべ》てを|善《ぜん》と|信《しん》じ、|真理《しんり》と|固《かた》く|信《しん》じてゐるのだから、|自分《じぶん》が|悪神《あくがみ》だと|云《い》つたり、|或《あるひ》は|悪《あく》を|企《たく》まうなどと|言《い》つてゐながらも、|決《けつ》して|真《しん》の|悪《あく》ではない、|実《じつ》は|自分《じぶん》が|或《ある》|自己《じこ》|以外《いぐわい》の|何物《なにもの》かと|揶揄《からか》つて|居《ゐ》るやうな|気《き》でゐるのだから|不思議《ふしぎ》である。|又《また》|高姫《たかひめ》|自身《じしん》も、|少《すこ》し|許《ばか》り|悪《あく》の|行《や》り|方《かた》ではあるまいかと|思《おも》うて|見《み》たり、|或《ある》|時《とき》は……イヤイヤ|決《けつ》して|自分《じぶん》の|思《おも》ふ|事《こと》、|行《おこな》ふ|所《ところ》は|微塵《みぢん》も|悪《あく》がない、|只《ただ》|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|人間《にんげん》の|目《め》から、|神格《しんかく》に|充《みた》されたる|吾々《われわれ》の|言行《げんかう》を|観察《くわんさつ》するのだから|悪《あく》に|見《み》えるだらう。|真《しん》の|神《かみ》は|必《かなら》ず|自分《じぶん》が|神《かみ》の|為《ため》|道《みち》の|為《ため》に|千騎一騎《せんきいつき》の|活動《くわつどう》してゐる|事《こと》をキツトお|褒《ほ》め|遊《あそ》ばすだらう。|神《かみ》に|叶《かな》へるものとして、|神柱《かむばしら》とお|使《つか》ひ|遊《あそ》ばしてゐられるのであらう。|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|現界《げんかい》の|人間《にんげん》が、|仮令《たとへ》|悪魔《あくま》と|言《い》はうとも、そんな|事《こと》は|構《かま》つてゐられない、|吾《わ》がなす|業《わざ》は|神《かみ》のみぞ|知《し》り|給《たま》ふ……といふ|様《やう》な|冷静《れいせい》な|態度《たいど》を|構《かま》へ、|如何《いか》なる|真《まこと》の|教示《けうじ》も、|真理《しんり》も、|自己《じこ》|以外《いぐわい》に|説《と》くものはない、|又《また》|行《おこな》ふ|真《まこと》の|人間《にんげん》もないのだから、|至善《しぜん》|至愛《しあい》の|標本《へうほん》を|天下《てんか》に|示《しめ》し、|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》うて|万民《ばんみん》の|罪悪《ざいあく》を|救《すく》うてやらねばならぬ。|自分《じぶん》は|神《かみ》の|遣《つか》はし|給《たま》ふ|犠牲者《ぎせいしや》、|救世主《きうせいしゆ》だと|信《しん》じて|居《ゐ》るのだから|始末《しまつ》に|了《を》へぬのである。|高姫《たかひめ》のみならず、|世《よ》の|中《なか》に|雨後《うご》の|筍《たけのこ》の|如《ごと》く、ムクムクと|簇生《ぞくせい》する|自称《じしよう》|予言者《よげんしや》、|自称《じしよう》|救世主《きうせいしゆ》なども、すべては|高姫《たかひめ》に|類《るゐ》したものなることは|言《い》ふ|迄《まで》もない|事《こと》である。
|又《また》|動物《どうぶつ》は、|精霊界《せいれいかい》よりする|所《ところ》の|一般《いつぱん》の|内流《ないりう》の|統制《とうせい》する|所《ところ》となるものである、|蓋《けだ》し|彼等《かれら》|動物《どうぶつ》の|生涯《しやうがい》は|宇宙《うちう》|本来《ほんらい》の|順序中《じゆんじよちう》に|住《ぢゆう》する|者《もの》なるが|故《ゆゑ》に、|動物《どうぶつ》はすべて|理性《りせい》を|有《いう》せないものである。|理性《りせい》なきが|故《ゆゑ》に|神的順序《しんてきじゆんじよ》に|背戻《はいれい》し、|又《また》|之《これ》を|破壊《はくわい》することをなし|得《え》ないのである。|人間《にんげん》と|動物《どうぶつ》の|異《こと》なる|処《ところ》は|此処《ここ》にあるのである。|併《しか》しスマートの|如《ごと》き|鋭敏《えいびん》なる|霊獣《れいじう》は|其《その》|精霊《せいれい》が|殆《ほとん》ど|人間《にんげん》の|如《ごと》く、|且《かつ》|本来《ほんらい》の|純朴《じゆんぼく》なる|精神《せいしん》に|人間《にんげん》と|同様《どうやう》に|理性《りせい》をも|有《いう》するが|故《ゆゑ》に、よく|神人《しんじん》の|意思《いし》を|洞察《どうさつ》し、|忠僕《ちうぼく》の|如《ごと》くに|仕《つか》ふる|事《こと》を|得《え》たのである。|動物《どうぶつ》はすべて|人間《にんげん》の|有《いう》する|精霊《せいれい》の|内流《ないりう》を|受《う》けて|活動《くわつどう》することがある。されども|普通《ふつう》の|動物《どうぶつ》は|其《その》|霊魂《れいこん》に|理性《りせい》を|欠《か》くが|故《ゆゑ》に、|初稚姫《はつわかひめ》の|如《ごと》き|地上《ちじやう》の|天人《てんにん》の|内流《ないりう》を|受《う》くることは|出来得《できえ》ないものである。|併《しか》し|此《この》スマートは|肉体《にくたい》は|動物《どうぶつ》なれども、|神《かみ》より|特別《とくべつ》の|方法《はうはふ》に|依《よ》つて、|即《すなは》ち|化相《けさう》の|法《はふ》によつて、|初稚姫《はつわかひめ》の|身辺《しんぺん》を|守《まも》るに|必要《ひつえう》なるべく|現《げん》じ|給《たま》うたからである。|初稚姫《はつわかひめ》も|此《この》|消息《せうそく》をよく|感知《かんち》してゐるから、|決《けつ》して|普通《ふつう》の|犬《いぬ》として|遇《ぐう》せないのである。|只《ただ》|神《かみ》が|化相《けさう》に|仍《よ》つて、|其《その》|神格《しんかく》の|一部《いちぶ》を|現《あら》はし|給《たま》ひしものなることを|知《し》るが|故《ゆゑ》に、|姉妹《きやうだい》の|如《ごと》く|下僕《げぼく》の|如《ごと》く、|或《ある》|時《とき》は|朋友《ほういう》の|如《ごと》くに|和睦《わぼく》|親愛《しんあい》し|得《う》るのである。|普通《ふつう》の|人間《にんげん》が|動物《どうぶつ》と|和合《わがふ》した|時《とき》は、|全《まつた》く|畜生道《ちくしやうだう》に|堕落《だらく》した|場合《ばあひ》である。|又《また》|人間《にんげん》が|霊肉脱離《れいにくだつり》の|後《のち》、|地獄界《ぢごくかい》|及《およ》び|精霊界《せいれいかい》に|在《あ》る|時《とき》、|現世《げんせ》に|在《あ》る|吾《わが》|敵人《てきじん》に|対《たい》し、|危害《きがい》を|加《くは》へむとするの|念慮《ねんりよ》|強《つよ》き|時《とき》は、|動物《どうぶつ》の|精霊《せいれい》に|和合《わがふ》して|其《その》|怨恨《えんこん》を|晴《はら》さむとするものである。|故《ゆゑ》に|生霊《いきりやう》|又《また》は|死霊《しりやう》に|憑依《ひようい》された|人間《にんげん》には、|必《かなら》ず|動物《どうぶつ》の|霊《れい》が|相伴《あひともな》うてゐるものである。|是《これ》は|或《ある》|大病《たいびやう》に|苦《くる》しんでゐる|人間《にんげん》を|鎮魂《ちんこん》し、|又《また》は|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》して|之《これ》を|調《しら》べる|時《とき》、|必《かなら》ず|人間《にんげん》の|生霊《いきりやう》|又《また》は|死霊《しりやう》の|姓名《せいめい》を|名乗《なの》るものである。|而《しか》して|熟練《じゆくれん》したる|審神者《さには》が|之《これ》を|厳《きび》しく|責立《せめた》つる|時《とき》は、|遂《つひ》に|人霊《じんれい》と|動物霊《どうぶつれい》と|和合《わがふ》して|其《その》|人霊《じんれい》の|先駆者《せんくしや》となつたことを|自白《じはく》するものである。|狐狸《こり》や|蛇《へび》、|蟇《がま》、|犬《いぬ》、|猫《ねこ》|其《その》|他《た》の|動物《どうぶつ》の|霊《れい》が|人間《にんげん》に|来《きた》る|時《とき》は、|人間《にんげん》の|記憶《きおく》|及《およ》び|想念中《さうねんちう》に|入《い》つて|其《その》|肉体《にくたい》の|口舌《こうぜつ》を|使用《しよう》し、|或《あるひ》は|自分《じぶん》が|駆使《くし》され|合一《がふいつ》されてゐる|人霊《じんれい》の|想念《さうねん》をかつて、|人間《にんげん》の|如《ごと》く|言語《げんご》を|発《はつ》するに|至《いた》るものである。|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》に|暗《くら》き|学者《がくしや》は、|狐狸《こり》|其《その》|他《た》の|動物《どうぶつ》が|人間《にんげん》に|憑《うつ》つて、|人語《じんご》を|用《もち》ふるなどはあり|得《う》べからざる|事《こと》である、|斯《かく》の|如《ごと》き|事《こと》を|信《しん》ずる|者《もの》は|太古未開《たいこみかい》の|野蛮人《やばんじん》である、|斯《かく》の|如《ごと》く|人文《じんぶん》の|発達《はつたつ》したる|現代《げんだい》に|於《おい》て|尚《なほ》|動物《どうぶつ》が|人間《にんげん》に|憑依《ひようい》して|人語《じんご》を|発《はつ》するなどの|不合理《ふがふり》を|信《しん》ずるは|実《じつ》に|癲狂《てんきやう》|痴呆《ちはう》の|極《きは》みであると|嘲笑《てうせう》するは、|現代《げんだい》の|半可通的《はんかつうてき》|学者《がくしや》の|言説《げんせつ》である。|何《なん》ぞ|知《し》らむ、|彼等《かれら》こそ|霊界《れいかい》より|見《み》て|実《じつ》に|憐《あは》れむべき|頑愚者《ぐわんぐしや》にして、|且《かつ》|癲狂者《てんきやうしや》となつてゐるのである。|自分《じぶん》の|眼《まなこ》が|自分《じぶん》で|見《み》られ|又《また》|自分《じぶん》の|頭部《とうぶ》や|頸部《けいぶ》、|背部《はいぶ》などが|自身《じしん》に|於《おい》て|見《み》ることを|得《え》ない|人間《にんげん》が、|何《ど》うして|霊界《れいかい》の|幽玄微妙《いうげんびめう》なる|真理《しんり》|真相《しんさう》が|分《わか》るべき|道理《だうり》があらう。|須《すべか》らく|人間《にんげん》は|神《かみ》の|前《まへ》に|拝跪《はいき》し、|其《その》|迂愚《うぐ》と|不明《ふめい》と|驕慢《けうまん》とを|鳴謝《めいしや》すべきものである。
○
|動物《どうぶつ》|例《たと》へば|犬《いぬ》、|猫《ねこ》、|鹿《しか》、|牛《うし》、|馬《うま》などは、|惟神《かむながら》|即《すなは》ち|神的順序《しんてきじゆんじよ》に|従《したが》つて|交尾期《かうびき》なども|一定《いつてい》し、|決《けつ》して|人間《にんげん》の|如《ごと》く、|何時《なんどき》なしに|発情《はつじやう》をするなどの|自堕落《じだらく》な|事《こと》はないものである。|又《また》|植物《しよくぶつ》なども|霊界《れいかい》と|自然界《しぜんかい》の|順序《じゆんじよ》に|順応《じゆんおう》して、|惟神的《かむながらてき》に|時《とき》を|定《さだ》めて|花《はな》|開《ひら》き|実《み》を|結《むす》び、|嫩芽《どんが》を|生《しやう》じ|落葉《らくえう》するものであつて、|実《じつ》に|其《その》|順序《じゆんじよ》を|誤《あやま》らない|事《こと》は|吾々《われわれ》|人間《にんげん》の|到底《たうてい》|足許《あしもと》へもよれない|程《ほど》、|秩序《ちつじよ》|整然《せいぜん》たるものである。|而《しか》して|犬《いぬ》は|犬《いぬ》、|猫《ねこ》は|猫《ねこ》、|馬《うま》は|馬《うま》と|各《かく》|天稟《てんぴん》の|特性《とくせい》を|発揮《はつき》し、よく|其《その》|境遇《きやうぐう》に|適応《てきおう》せる|本性《ほんしやう》を|発揮《はつき》するものである。|又《また》|植物《しよくぶつ》などは|各《かく》|其《その》|特性《とくせい》を|備《そな》へ、|自己《じこ》|特有《とくいう》の|甘《あま》さ、|辛《から》さ、|酸《すい》さ、|苦《にが》さ|等《とう》の|本能《ほんのう》を|発揮《はつき》し、|幾万年《いくまんねん》の|昔《むかし》より|其《その》|味《あぢ》を|変《か》へないのである。|要《えう》するに|芋《いも》は|茄子《なす》の|味《あぢ》に|代《かは》る|事《こと》を|得《え》ない、|又《また》|唐辛《たうがらし》は|蜜柑《みかん》の|味《あぢ》に|決《けつ》してなるものでない。|又《また》|同《おな》じ|畑《はたけ》に|植付《うゑつ》けられ、|同《おな》じ|地味《ちみ》を|吸収《きふしう》しながらも、|依然《いぜん》として|西瓜《すいくわ》は|西瓜《すいくわ》の|味《あぢ》、|唐辛《たうがらし》は|唐辛《たうがらし》の|味《あぢ》、|栗《くり》は|栗《くり》、|柿《かき》は|柿《かき》の|特有《とくいう》の|形体《けいたい》|及《およ》び|味《あぢ》を|有《も》つて|居《ゐ》るものである。|而《しか》して、|此《この》|特有性《とくいうせい》はすべて|霊的《れいてき》より|来《きた》り、|其《その》|成長《せいちやう》|繁茂《はんも》の|度合《どあひ》は|自然界《しぜんかい》の|光熱《くわうねつ》や|土地《とち》の|肥痩《ひそう》|等《とう》に|依《よ》るものである。|然《しか》るに|人間《にんげん》は|理性《りせい》なるものを|有《いう》するが|故《ゆゑ》に|少々《せうせう》|土地《とち》が|変《かは》つた|時《とき》|又《また》は|気候《きこう》の|激変《げきへん》したる|土地《とち》に|移住《いぢゆう》する|時《とき》は、|忽《たちま》ち|其《その》|意思《いし》を|変移《へんい》し、|十年《じふねん》も|外国《ぐわいこく》へ|行《い》つて|来《き》た|者《もの》は、|其《その》|思想《しさう》|全《まつた》く|外人《ぐわいじん》と|同様《どうやう》になつて|了《しま》ふものである。これが|人間《にんげん》と|動物《どうぶつ》|又《また》は|植物《しよくぶつ》と|異《こと》なる|点《てん》である。|斯《かく》の|如《ごと》く|人間《にんげん》は|理性《りせい》によつて|自由《じいう》に|思想《しさう》|並《ならび》に|身体《しんたい》の|色《いろ》|迄《まで》も|多少《たせう》|変《へん》ずる|便宜《べんぎ》あると|共《とも》に、|又《また》|悪《あく》に|移《うつ》り|易《やす》く|堕落《だらく》し|易《やす》きものである。|故《ゆゑ》に|動物《どうぶつ》|植物《しよくぶつ》に|対《たい》しては|大神《おほかみ》は|決《けつ》して|教《をしへ》を|垂《た》れ|給《たま》ふ|面倒《めんだう》もなく、|極《きは》めて|安心《あんしん》|遊《あそ》ばし|給《たま》へども、|人間《にんげん》は|到底《たうてい》|動植物《どうしよくぶつ》の|如《ごと》く|神的順序《しんてきじゆんじよ》を|守《まも》らない|悪《あく》の|性《せい》を|帯《お》びてゐるが|故《ゆゑ》に、|特《とく》に|予言者《よげんしや》を|下《くだ》し、|天的順序《てんてきじゆんじよ》に|従《したが》ふ|事《こと》を|教《をし》へ|給《たま》うたのである。|併《しか》しながら|人間《にんげん》に|善悪《ぜんあく》|両方面《りやうはうめん》の|世界《せかい》が|開《ひら》かれてあるが|故《ゆゑ》に、|又《また》|一方《いつぱう》から|言《い》へば|神《かみ》の|機関《きくわん》たる|事《こと》を|得《う》るのである。|願《ねが》はくは|吾々《われわれ》|人間《にんげん》は|神《かみ》を|愛《あい》し|神《かみ》を|信《しん》じ、|而《しか》して|神《かみ》に|愛《あい》せられ、|神《かみ》の|生宮《いきみや》として|大神《おほかみ》の|天地創造《てんちさうざう》の|御用《ごよう》に|立《た》ちたいものである。
|却説《さて》|高姫《たかひめ》が|玉茸《たまたけ》を|採《と》らむとしてソツと|大杉《おほすぎ》の|枝《えだ》に|登《のぼ》り、|梟《ふくろ》にクワンクワンと|鋭《するど》き|嘴《くちばし》にて|両眼《りやうがん》をコツかれ、アツと|叫《さけ》んで|地上《ちじやう》に|盲猿《めくらざる》の|如《ごと》く|顛落《てんらく》し、|腰骨《こしぼね》を|打《う》つて|堪《た》へ|難《がた》き|苦痛《くつう》に|呻吟《しんぎん》しながら、イル、イク、サールなどに|介抱《かいほう》され、|漸《やうや》くにして|其《その》|居間《ゐま》に|運《はこ》ばれた。されど|高姫《たかひめ》は|元来《ぐわんらい》|剛《がう》の|者《もの》なれば|少々《せうせう》|腰骨《こしぼね》の|歪《ゆが》んだ|位《くらゐ》は|苦《く》にする|様《やう》な|女《をんな》ではなかつた。そして|容易《ようい》に|痛《いた》いとか|苦《くる》しいとか|云《い》ふ|様《やう》な|事《こと》は、|其《その》|性質上《せいしつじやう》|絶対《ぜつたい》に|口外《こうぐわい》せない。|併《しか》しながら|両眼《りやうがん》をこつかれ、|眼瞼《がんけん》|忽《たちま》ち|充血《じうけつ》して|腫《は》れ|塞《ふさ》がり、|光明《くわうみやう》を|見《み》る|事《こと》を|得《え》ざるに|至《いた》りしには、|流石《さすが》の|高姫《たかひめ》も|余程《よほど》|迷惑《めいわく》をしたのである。
イルは、
『サア、|高姫《たかひめ》さま、|此処《ここ》が|貴女《あなた》のお|居間《ゐま》ですよ。マアゆつくり|本復《ほんぷく》するまでお|休《やす》みなさいませ。イル、イク、サール、ハル、テルのやうな|屈強《くつきやう》な|男《をとこ》も|居《を》りますから、どこ|迄《まで》もお|世話《せわ》を|致《いた》します、どうぞ|安心《あんしん》して|使《つか》つて|下《くだ》さいや』
『お|前《まへ》はイルかな、イヤ|御親切《ごしんせつ》に|有難《ありがた》う。モウ|斯《か》うなつては|目《め》が|腫上《はれあが》つて、|一寸《ちよつと》も|見《み》えないのだから、お|前達《まへたち》のお|世話《せわ》になるより|仕方《しかた》がない。やがて|此《この》|腫《はれ》が|引《ひ》いたら|目《め》も|見《み》えるだらうから、どうぞすまないが|二三日《にさんにち》|介抱《かいはう》して|下《くだ》さい。あああ|何《なん》とした|不仕合《ふしあは》せな|事《こと》だらうなア。|折《をり》も|折《をり》とて|杢助《もくすけ》さまは|躓《つまづ》いて|倒《たふ》れ、|眉間《みけん》を|破《やぶ》つて|苦《くる》しむで|厶《ござ》るなり、|其《その》|痛《いた》みを|直《なほ》したさに、|玉茸《たまたけ》を|採《と》りに|上《あが》つて、|又《また》もや|私《わし》は|大杉《おほすぎ》に|棲《す》んで|居《を》つた|天狗《てんぐ》の|奴《やつ》に|両眼《りやうがん》をコツかれ、|木《き》からおちた|猿《さる》のやうなみじめな|目《め》に|遇《あ》ふとは……ああ|神様《かみさま》も|何《ど》うして|厶《ござ》つたのだらうかな、|義理天上《ぎりてんじやう》さまも|余《あんま》りだ……』
と|慨然《がいぜん》として|悲痛《ひつう》の|涙《なみだ》をこぼしてゐる。
サール『|高姫《たかひめ》さま、|本当《ほんたう》に|不思議《ふしぎ》な|事《こと》ですな。|玉国別《たまくにわけ》さまも|此《この》|河鹿峠《かじかたうげ》で|猿《さる》の|奴《やつ》に|両眼《りやうがん》を|破《やぶ》られて、|永《なが》らく|御難儀《ごなんぎ》を|遊《あそ》ばしましたが、|到頭《たうとう》|御神徳《ごしんとく》を|頂《いただ》いて|全快《ぜんくわい》|遊《あそ》ばし、|機嫌《きげん》よく|宣伝《せんでん》の|旅《たび》に|出《で》られた|後《あと》へ|貴女《あなた》がお|出《い》でになり、|又《また》もや|天狗《てんぐ》に|目《め》をこつかれて|同《おな》じ|眼病《がんびやう》に|悩《なや》むとは、|何《なん》といふ|不思議《ふしぎ》な|事《こと》で|厶《ござ》いませう。|何《なに》か|神様《かみさま》にお|気障《きざはり》でもあるのぢや|厶《ござ》いますまいかな』
『ああさうだなア。|玉国別《たまくにわけ》さまと|云《い》ひ、|高姫《たかひめ》と|云《い》ひ、|頭《あたま》にタの|字《じ》のつく|者《もの》は|能《よ》く|目《め》に|祟《たた》られるとみえる。これから|神様《かみさま》にお|詫《わび》を|申《まを》して、|一日《いちにち》も|早《はや》く|此《この》|目《め》を|直《なほ》して|頂《いただ》かぬ|事《こと》には、かう|世《よ》の|中《なか》が|真暗闇《まつくらやみ》では|仕方《しかた》がない。|一時《いちじ》も|早《はや》く|天《あま》の|岩戸開《いはとびら》きをして、|元《もと》の|如《ごと》く|明《あか》るい|光明世界《くわうみやうせかい》に|捻《ね》ぢ|直《なほ》したいものだなア、ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸《ち》はへませ』
イクは、
『|高姫《たかひめ》さま、あなた|今《いま》、|暗《くら》い|世界《せかい》と|云《い》ひましたね、ソラ|貴女《あなた》の|目《め》が|塞《ふさ》がつてるからですよ。|日天様《にちてんさま》が|嚇々《くわくくわく》として|輝《かがや》いてゐらつしやるのですから、|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》にや|及《およ》びませぬ。のうハルよ、さうぢやないか』
『ホホホホ、お|前《まへ》も|分《わか》らぬ|男《をとこ》だなア。|此《この》|世《よ》の|中《なか》が|暗《くら》がりだと|言《い》つたのは|人間《にんげん》の|心《こころ》が|真暗《まつくら》がりだと|云《い》つたのだよ。|決《けつ》して|肉体《にくたい》で|見《み》る|世界《せかい》が|暗《くら》くなつたと|云《い》ふのぢやない』
『それでも、|何《なん》ですよ、|肉体《にくたい》で|見《み》る|世界《せかい》でも、|時々《ときどき》|真暗《まつくら》になりますからなア』
『きまつた|事《こと》だよ。|夜《よる》になれば|真暗《まつくら》になるのは|当前《あたりまへ》だ、お|前《まへ》も|割《わり》とは|馬鹿《ばか》だなア』
『|何《なん》とマア|目《め》も|見《み》えぬ|態《ざま》をして|居《を》つて、|剛情《がうじやう》な|婆《ば》アさまだな。まだ|悪口《あくこう》をついてゐる。コレ|高姫《たかひめ》さま、|私《わたし》は|夜《よる》もある|代《かは》り、|又《また》|新《あたら》しい|日天様《につてんさま》を|毎日《まいにち》|拝《をが》んで|光明世界《くわうみやうせかい》もありますよ。お|前《まへ》さまはモウ|斯《か》うなつちや、|常夜《とこよ》|行《ゆ》く|暗《やみ》の|世界《せかい》に|彷徨《さまよ》うてゐるやうなものだ。|夜《よる》ばかりだなア』
サールはしたり|顔《がほ》に、
『ソラさうだとも、ヨルの|受付《うけつけ》を|邪魔物扱《じやまものあつか》ひにして|厶《ござ》つたのぢやもの、|其《その》|報《むく》いが|忽《たちま》ち|到来《たうらい》して、|自分《じぶん》が、ヨルの|世界《せかい》へお|這入《はい》りなさつたのだ。どうも|自業自得《じごうじとく》だから|仕方《しかた》がないワ。|何程《なにほど》お|気《き》の|毒《どく》でも、|吾々《われわれ》が|如何《いかん》ともする|訳《わけ》には|行《い》かないワ』
テルは、
『|高姫《たかひめ》さま、|貴女《あなた》は|日出神《ひのでのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》さまが|御守護《ごしゆご》して|厶《ござ》るのだから、|夜《よる》でも|決《けつ》して|暗《くら》いこたアありますまい。|何《なん》と|云《い》つても|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》の|生宮《いきみや》だ、つまりいへば|日出神《ひのでのかみ》|御自身《ごじしん》だから、|見《み》えるでせうなア。|今日《けふ》は|殊更《ことさら》に、トコ【ギリ】、|天上《てんじやう》の|日出神《ひのでのかみ》さまは|御機嫌《ごきげん》よく|嚇々《くわくくわく》の|光明《くわうみやう》を|輝《かがや》かしてゐられますからなア』
『ソラさうだとも、|肉《にく》の|目《め》が|何程《なにほど》|塞《ふさ》がつて|居《を》つたとて、|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》だもの……なん……にもかもよく|見《み》えすいてゐるのだ。|本当《ほんたう》に|神様《かみさま》の|御神力《ごしんりき》といふものは|偉《えら》いものだらう』
テルは、
『|高姫《たかひめ》さま、そんなら|吾々《われわれ》は|心配《しんぱい》する|必要《ひつえう》はありませぬな。|私《わたし》は|又《また》お|目《め》が|見《み》えないと|思《おも》つて、|何《なに》くれとお|世話《せわ》をして|上《あ》げねばなるまいと|思《おも》うてゐたが、お|目《め》が|見《み》えるとあらば|殊更《ことさら》に|気《き》をつけて、お|世話《せわ》をして|上《あ》げる|心要《ひつえう》も|厶《ござ》いますまい。おい、イク、イル、ハル、サール、お|前等《まへたち》も|安心《あんしん》せい。|流石《さすが》は|高姫《たかひめ》さまだ、|目《め》をふさいで|居《を》つても、よく|見《み》えるといのう、イツヒヒヒヒヒ』
と|小《ちひ》さく|笑《わら》ひ、|腮《あご》をしやくり、|肩《かた》をゆすつて|見《み》せる。|四人《よにん》は|一度《いちど》にふき|出《だ》し、
『プツプツプツク ワツハハハハハ』
『これ、お|前等《まへたち》は|私《わし》がこれ|程《ほど》|負傷《ふしやう》をして|困《こま》つてゐるのに、それ|程《ほど》|面白《おもしろ》いのかなア。|不人情者《ふにんじやうもの》|奴《め》が。|待《ま》つてゐなさい、|今《いま》に|初稚姫《はつわかひめ》が|帰《かへ》つて|来《き》たら、|告《つ》げて|上《あ》げるから……』
テル『オイ、|形勢《けいせい》|不穏《ふおん》になつて|来《き》たぞ。|地震《ぢしん》|雷《かみなり》|火《ひ》の|雨《あめ》の|勃発《ぼつぱつ》せない|間《うち》に|退却《たいきやく》|々々《たいきやく》、|全体《ぜんたい》|進《すす》め、|一《いち》|二《に》|三《さん》』
と|云《い》ひながら、ドヤドヤと|長廊下《ながらうか》を|伝《つた》ひ、|受付《うけつけ》の|方面《はうめん》を|指《さ》して|走《はし》り|行《ゆ》く。
イルは|只《ただ》|一人《ひとり》|次《つぎ》の|間《ま》に|身《み》をかくし、|高姫《たかひめ》の|容子《ようす》を|考《かんが》へて|居《ゐ》た。これは|決《けつ》して|悪意《あくい》ではない。もしも|高姫《たかひめ》が|一人《ひとり》で|困《こま》つた|時《とき》には|助《たす》けてやらうといふ|親切《しんせつ》な|考《かんが》へからであつた。|忽《たちま》ちウーといふ|唸《うな》り|声《ごゑ》が|聞《きこ》えて|来《き》た。イルは|何物《なにもの》ならむとソツと|襖《ふすま》を|開《あ》けて|高姫《たかひめ》の|居間《ゐま》を|覗《のぞ》き|込《こ》んだ。どこから|来《き》たか|締《し》め|切《き》つてある|座敷《ざしき》へ、スマートがヌツと|現《あら》はれ、|高姫《たかひめ》の|前《まへ》|三尺《さんじやく》|許《ばか》り|隔《へだ》てて、チヨコナンと|坐《すわ》つてゐる。カラコロと|下駄《げた》の|足音《あしおと》が|近《ちか》づいて|来《く》る。これは|云《い》ふ|迄《まで》もなく|初稚姫《はつわかひめ》が|森林内《しんりんない》を|暫《しばら》く|逍遥《せうえう》して|帰《かへ》つて|来《き》たのである。|初稚姫《はつわかひめ》は|元《もと》より|杢助《もくすけ》の|妖幻坊《えうげんばう》なることを|知《し》つてゐたから、|高姫《たかひめ》の|依頼《いらい》によつて、|正直《しやうぢき》に|杢助《もくすけ》を|探《さが》しに|行《ゆ》くやうな|馬鹿《ばか》ではない。されど|高姫《たかひめ》の|気休《きやす》めの|為《ため》に|暫《しばら》くの|間《あひだ》、|森林内《しんりんない》を|逍遥《せうえう》して|帰《かへ》つて|来《き》たのである。
(大正一二・一・二一 旧一一・一二・五 松村真澄録)
第九章 |真理方便《しんりはうべん》〔一三〇三〕
|高姫《たかひめ》は|初稚姫《はつわかひめ》の|帰《かへ》り|来《く》る|足音《あしおと》を|聞《き》き|付《つ》け、|待《ま》ち|遠《どほ》しげに、
『|初稚《はつわか》さま……ではないかな』
|初稚姫《はつわかひめ》は、
『ハイ』
と|答《こた》へ、スツと|障子《しやうじ》をあけ、|見《み》れば|高姫《たかひめ》は|顔面《がんめん》|全部《ぜんぶ》、|干瓢《かんぴやう》の|様《やう》にふくれ|上《あが》り、どこが|目《め》だか|鼻《はな》だか|判別《はんべつ》し|難《がた》き|迄《まで》に|相好《さうがう》|変《へん》じ、|丸《まる》つきり|妖怪《えうくわい》の|如《ごと》くであつた。|而《しか》して|腫《は》れた|目《め》は|額《ひたひ》の|方《はう》に|転宅《てんたく》し、|鼻《はな》は|無遠慮《ぶゑんりよ》に|霊衣《れいい》の|外《そと》に|突出《とつしゆつ》し、|恰《あだか》も|雲《くも》を|帯《おび》にした|山容《さんよう》の|正《ただ》しからざる|高山《たかやま》のやうに|見《み》えてゐる。|唇《くちびる》は|夜着《よぎ》の|裾《すそ》のやうに|厚《あつ》くふくれ|上《あが》り、|半《なか》ば|爛熟《らんじゆく》した|熟柿《じゆくし》の|様《やう》に|薄《うす》つぺらい|皮膚《ひふ》が|厭《いや》らしう、|赤《あか》く|且《かつ》|紫《むらさき》を|帯《お》びて|幽《かす》かに|光《ひか》つてゐる。|初稚姫《はつわかひめ》はハツと|驚《おどろ》き、|早速《さつそく》に|言葉《ことば》も|出《で》なかつた。|而《しか》して|心《こころ》に|思《おも》ふ|様《やう》……ああ|何《なん》とした|恐《おそ》ろしい|顔《かほ》だらう、|丸《まる》で|地獄《ぢごく》に|棲《す》んでゐる|怪物《くわいぶつ》の|様《やう》だ。|高姫《たかひめ》さまの|内的生涯《ないてきしやうがい》の|発露《はつろ》かも|分《わか》らない。|否々《いないな》これが|事実《じじつ》だ、ホンに|不愍《ふびん》なものだなア。|何《なん》とかして|早《はや》く|助《たす》けて|上《あ》げねばならないが、|何《なん》と|云《い》つても|罪業《ざいごふ》の|深《ふか》い|方《かた》だから……と|心《こころ》に|囁《ささや》きながら、キチンと|足駄《あしだ》を|上《あが》り|口《ぐち》に|向《むか》ふむけに|揃《そろ》へて、ハンケチにてポンポンと|塵《ちり》うち|払《はら》ひ、|静《しづか》に|高姫《たかひめ》の|側《そば》に|寄《よ》り|添《そ》ひながら、さも|同情《どうじやう》ある|声《こゑ》にて、
『お|母《かあ》さま、|大変《たいへん》なお|怪我《けが》をなさいましたね。|私《わたし》が|力《ちから》|一杯《いつぱい》|介抱《かいほう》をさして|頂《いただ》きますから、|何卒《どうぞ》|御安心《ごあんしん》して|下《くだ》さいませ』
と|云《い》ひつつ、|何時《いつ》の|間《ま》に|来《き》たのかと|訝《いぶ》かりながら、スマートの|頭《あたま》を|撫《な》でてゐる。スマートは|嬉《うれ》しげに、|尾《を》を|打振《うちふ》り、|座敷《ざしき》をキリキリと|廻《まは》り|始《はじ》めた。
|高姫《たかひめ》は|歪《ゆが》んだ|口《くち》の|横《よこ》の|方《はう》から、|半《なか》ば|破損《はそん》した|鞴《ふいご》のやうな|鼻声《はなごゑ》|交《まじ》りの|声《こゑ》で、
『ハイ|御親切《ごしんせつ》に|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。そして|杢助《もくすけ》さまはまだ|帰《かへ》つて|厶《ござ》らぬかな。|御病気《ごびやうき》の|具合《ぐあひ》はチツと|宜《よろ》しいかな。|折《をり》も|折《をり》とて|二人《ふたり》の|親《おや》が、|一時《いちじ》に|此《この》|通《とほ》り|大怪我《おほけが》をしたのだから、お|前《まへ》もさぞ|心配《しんぱい》だらう。|偉《えら》いお|骨《ほね》を|折《を》らします』
|初稚姫《はつわかひめ》は、|杢助《もくすけ》が|居《ゐ》なかつたと|言《い》へば、|高姫《たかひめ》が|大変《たいへん》に|失望《しつばう》|落胆《らくたん》するだらう、|目《め》が|見《み》えないのを|幸《さいは》ひ、ここは|何《なん》とか|気休《きやす》めを|言《い》つておかねばなるまいと|決心《けつしん》し、
『ハイ、お|父《とう》さまは|谷川《たにがは》の|側《そば》に|休《やす》んでゐられましたが、|私《わたし》がそこへ|参《まゐ》りまして……お|父《とう》さまお|父《とう》さま……と|声《こゑ》をかけようとすれば、ムツクと|起上《おきあが》り、さも|愉快相《ゆくわいさう》な|顔《かほ》をして、……ああお|前《まへ》は|初稚姫《はつわかひめ》か、ようマア|来《き》てくれた。わしは|思《おも》はぬ|怪我《けが》をして、こんな|不細工《ぶさいく》な|顔《かほ》をお|前《まへ》に|見《み》らるるのは、|親《おや》として|本当《ほんたう》に|恥《はづ》かしい。|顔《かほ》は|瓢《ふくべ》のやうにふくれ|上《あが》り、|目《め》|鼻《はな》|口《くち》の|位置《ゐち》も、|俄《にはか》の|地異転変《ちいてんぺん》で|生《うま》れてから|行《い》つた|事《こと》もない|地方《ちはう》へ|転宅《てんたく》し、|口《くち》も|鼻《はな》も|殆《ほとん》ど|塞《ふさ》がつてかやうな|鼻声《はなごゑ》より|出《で》はせぬが、|併《しか》しながらようマア|来《き》て|下《くだ》さつた……と|親《おや》が|子《こ》に|手《て》を|合《あは》して|拝《をが》むのですよ』
『ああさうだつたかな、それは|何《なに》よりも|結構《けつこう》なことだ。|杢助《もくすけ》さまも|余《あま》り|我《が》が|強《つよ》いので、|見《み》せしめの|為《ため》に|神界《しんかい》から|怪我《けが》をさせなさつたのだろ。これでチツとは|優《やさ》しうお|成《な》りなさるだらうから、|夫婦《ふうふ》が|病気《びやうき》|全快《ぜんくわい》の|上《うへ》は|層一層《そういつそう》|御神業《ごしんげふ》に、|家内和合《かないわがふ》して|尽《つく》すことが|出来《でき》るでせう、ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
『お|母《かあ》さま、お|塩梅《あんばい》はどうで|厶《ござ》いますか、|御気分《ごきぶん》に|障《さは》るでせうな』
『ナアニこれしきの|怪我《けが》に|気分《きぶん》が|悪《わる》いの、|何《ど》うのと|云《い》ふやうなことではないが、チツと|許《ばか》り|目《め》が|見《み》えにくいので、|不便《ふべん》を|感《かん》ずること|一通《ひととほ》りで|厶《ござ》いませぬ。|併《しか》しながら|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》でホンノリとそこらが|見《み》えるやうだ。|此《この》|塩梅《あんばい》なれば、やがて|全快《ぜんくわい》するでせう』
『どうぞ、|何《なん》でも|早《はや》く|癒《なほ》つて|頂《いただ》きたいもので|厶《ござ》いますな、|何《なん》といふ|私《わたし》は|運《かた》の|悪《わる》いものでせう。お|父《とう》さまといひ、|折角《せつかく》|仁慈《じんじ》|深《ふか》きお|母《かあ》さまが|出来《でき》て、ヤレ|嬉《うれ》しやと|喜《よろこ》ぶ|間《ま》もなく、かやうなキツイお|怪我《けが》を|遊《あそ》ばし、これが|何《ど》うして|忍《しの》ばれませうか。|身《み》も|世《よ》もあられぬ|思《おも》ひが|致《いた》します』
『どうもお|前《まへ》さまの|御親切《ごしんせつ》、|仮令《たとへ》|死《し》んでも|忘《わす》れませぬぞや。|併《しか》しながら|私《わたし》はかうして|結構《けつこう》な|畳《たたみ》の|上《うへ》に|坐《すわ》り、|暖《あたた》かい|火鉢《ひばち》の|前《まへ》に|手《て》をあぶりもつて|養生《やうじやう》をさして|戴《いただ》いてゐるが、|杢助《もくすけ》さまは|草《くさ》の|上《うへ》に|横《よこ》たはつて|厶《ござ》るのだから、|何《ど》うしても|私《わたし》の|心《こころ》が|治《をさ》まりませぬ。|何卒《どうぞ》|初稚《はつわか》さま、|珍彦《うづひこ》さまに|言《い》ひつけて|杢助《もくすけ》さまをここへ|担《かつ》いで|来《き》て|下《くだ》さいな』
『|左様《さやう》で|厶《ござ》いますな。|私《わたし》が|何程《なにほど》お|勧《すす》め|致《いた》しましても、|中々《なかなか》|容易《ようい》に|帰《かへ》らうとは|致《いた》しませぬ。ヤツパリ、スマートが|怖《こは》いとみえます』
『|杢助《もくすけ》さまは|決《けつ》して|犬《いぬ》が|怖《こは》いのではない、|犬《いぬ》がお|嫌《きら》ひなのだよ』
『|怖《こは》いものは、つひ|嫌《きら》ひになるものですからなア、|併《しか》しお|母《かあ》さまの|仰《おほ》せに|従《したが》ひ、これから|珍彦《うづひこ》さまに|頼《たの》んで|来《き》ませう』
『ああ|何卒《どうぞ》さうして|下《くだ》さい。|夫婦《ふうふ》|枕《まくら》を|並《なら》べて|養生《やうじやう》をさして|頂《いただ》けば、こんな|結構《けつこう》な|事《こと》はありませぬわ』
『それなら、|頑固《ぐわんこ》な|父《ちち》で|厶《ござ》いますけれど、|娘《むすめ》の|私《わたし》が|行《い》つても|聞《き》きませぬから、|珍彦《うづひこ》さまに|御願《おねがひ》|申《まを》して、|此処《ここ》へ|帰《かへ》つて|来《く》るやうにして|貰《もら》ひませう。さうすれば|私《わたし》が|御両親《ごりやうしん》の|真中《まんなか》にすわつて、|御介抱《ごかいはう》を|申上《まをしあ》げますわねえ。|夜分《やぶん》に|寝《ね》る|時《とき》は、お|二人《ふたり》さまの|中《なか》に|挟《はさ》まつて|川《かは》と|云《い》ふ|字《じ》に|寝《ね》ませうね。|併《しか》しお|母《かあ》アさま、|私《わたし》が|此処《ここ》を|出《で》て|行《ゆ》きますとお|一人《ひとり》になりますが、どう|致《いた》しませうか』
『さうだなア、|誰《たれ》か|呼《よ》んで|貰《もら》ひたいものだ』
『ヘー、|何《なん》ぞ|御用《ごよう》で|厶《ござ》いますか』
とイルは|初稚姫《はつわかひめ》の|顔《かほ》がみたさに、|呼《よ》びもせぬ|先《さき》に、|慌《あわ》てて|襖《ふすま》をスツと|開《ひら》き、|次《つぎ》の|間《ま》からニユツと|首《くび》をつき|出《だ》した。
『アレまア、イルさま、|私《わたし》、|余《あま》り|突然《とつぜん》なので、ビツクリしたのよ』
『ハイ、|別《べつ》にビツクリ|遊《あそ》ばすには|及《およ》ばぬぢや|厶《ござ》いませぬか。|目元《めもと》|涼《すず》しく|鼻筋《はなすぢ》|通《とほ》り、|口元《くちもと》の|締《しま》つた|軍人上《ぐんじんあが》りの|此《この》イルですもの。|高姫《たかひめ》さまのやうな、そんなボテ|南瓜《かぼちや》みたやうな、|化物《ばけもの》じみたお|顔《かほ》を|御覧《ごらん》になるよりも、イルの|顔《かほ》を|御覧《ごらん》になつた|方《はう》が|余程《よほど》|御愉快《ごゆくわい》でせう、エヘヘヘヘヘ』
『|陀羅尼助《だらにすけ》を|嘗《な》めた|後《あと》で|三盆白《さんぼんしろ》をなめると、いいかげんに|調和《てうわ》の|取《と》れるものですからね』
『コレ、お|前《まへ》はイルぢやないか。わしの|顔《かほ》を|化物《ばけもの》と|言《い》うたな、そして|大事《だいじ》の|大事《だいじ》の|娘《むすめ》に、|此《この》|親《おや》の|許《ゆる》しも|受《う》けずに、|若《わか》い|者《もの》が|言葉《ことば》をかはすといふ|事《こと》があるものかいなア。|未来《みらい》の|聖人《せいじん》が|言《い》はしやつただろ……|男女《だんぢよ》|七歳《しちさい》にして|席《せき》を|同《おな》じうせず……とかや、|然《しか》るに|何《なん》ぞや、|呼《よ》びもせないのに、ヌツケリと|若《わか》い|者《もの》の|居間《ゐま》へやつて|来《く》るとは、|何《なに》か|之《これ》には|訳《わけ》がなくてはならぬ。お|前《まへ》は|大方《おほかた》|初稚《はつわか》にスヰートハートしてゐるのだろ。|杢助《もくすけ》さまや|私《わたし》が|病気《びやうき》だと|思《おも》つて、|娘《むすめ》に|無体《むたい》な|事《こと》でも|言《い》はうものなら、|承知《しようち》しませぬぞや』
『メツソーな、|誰《たれ》が|左様《さやう》な|事《こと》|考《かんが》へて|居《を》りますものか。そんな|下劣《げれつ》な|人格者《じんかくしや》だと|思《おも》つて|貰《もら》ひましては、エヘヘヘヘ|聊《いささ》か|此《この》イルも|迷惑千万《めいわくせんばん》で|厶《ござ》いますよ。|実《じつ》の|所《ところ》は、イク、サール、ハル、テルの|奴《やつ》、|余《あま》り|剛情《がうじやう》な|婆《ば》アさまだから|構《かま》うてやるな、|放《ほ》つとけ|放《ほ》つとけと|云《い》つて、|廊下《らうか》を|走《はし》つて|表《おもて》へ|行《い》つて|了《しま》ひました。それにも|拘《かかは》らず、|拙者《せつしや》は|貴女《あなた》のお|目《め》が|不自由《ふじゆう》なと|存《ぞん》じ|次《つぎ》の|間《ま》に|控《ひか》へて、|御用《ごよう》があらば|早速《さつそく》の|間《ま》に|合《あ》ふやうと、|此処《ここ》に|行儀《ぎやうぎ》よく|控《ひか》へて|居《を》つたのです。お|目《め》が|見《み》えぬのでお|疑《うたが》ひも|無理《むり》とは|申《まを》しませぬが、さう|安《やす》い|人間《にんげん》と|見《み》られちや、イルの|男前《をとこまへ》が|下《さが》りますからなア』
『どないでも|理屈《りくつ》はつくものだ。|口《くち》といふものは|調法《てうはふ》なものだから、|鷺《さぎ》を|烏《からす》と、|烏《からす》を|鷺《さぎ》と|言《い》ひくるめるのは|現代人《げんだいじん》の|特色《とくしよく》だ。お|前《まへ》さまのいふ|事《こと》を|強《あなが》ち|否定《ひてい》するのではないけれど、マア|十分《じふぶん》の|一《いち》|位《くらゐ》|認《みと》めておきませうかな』
『|認《みと》めると|仰有《おつしや》つても、そんな|目《め》で|分《わか》りますかな』
『イルさま、お|母《かあ》アさまは|御病気《ごびやうき》なのだから、|何卒《どうぞ》|揶揄《からか》つて、お|気《き》を|揉《も》ませないやうにして|下《くだ》さいねえ』
『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました。|外《ほか》ならぬ|貴女《あなた》のお|言葉《ことば》でございますから、|一《いち》も|二《に》もなく|服従《ふくじゆう》|致《いた》します。|併《しか》しながら|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、|貴女《あなた》|本当《ほんたう》に|此《この》|高姫《たかひめ》さまを、お|母《かあ》アさまと|思《おも》つて|厶《ござ》るのですか』
『さうですとも、|父《ちち》の|世話《せわ》をして|下《くだ》さる|高姫《たかひめ》さまだもの、お|母《かあ》アさまに|間違《まちが》ひありませぬワ』
『ヘーエツ、|何《なん》とマア|気《き》のよいお|方《かた》ですな。ヤツパリ、|姿《すがた》のいい|人《ひと》は|心《こころ》まで|美《うつく》しいかな。ヤもう|実《じつ》に|感心《かんしん》|致《いた》しました。|私《わたくし》もこれから|貴女《あなた》の|真心《まごころ》に|倣《なら》ひまして、どつかで|親《おや》を|捜《さが》して、|孝行《かうかう》してみたいものでございます。そして|天下一《てんかいち》の|孝行者《かうかうもの》と|名《な》を|揚《あ》げたいものでございます』
『|貴方《あなた》は|孝行《かうかう》を|世間《せけん》に|知《し》られたいと|思《おも》ひますか、それでは|真《まこと》の|孝《かう》ぢやありますまい。|自己《じこ》を|広告《くわうこく》するための|手段《しゆだん》でせう。|要《えう》するに|自己愛《じこあい》で、|偽善者《きぜんしや》の|好《この》んで|行《おこな》ふべき|手段《しゆだん》で|厶《ござ》いますよ。|真《まこと》の|孝行《かうかう》は|決《けつ》して|人《ひと》に|知《し》らるる|事《こと》を|望《のぞ》むものぢやありませぬ。|本当《ほんたう》に|心《こころ》の|底《そこ》からこもつた|情愛《じやうあい》でなければ、|到底《たうてい》|行《おこな》へるものぢや|厶《ござ》いませぬ』
『|成程《なるほど》、イヤもうズンと|合点《がつてん》が|参《まゐ》りました。|併《しか》し|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、|貴女《あなた》は|杢助様《もくすけさま》に|対《たい》する|場合《ばあひ》と、|高姫《たかひめ》|様《さま》に|対《たい》する|場合《ばあひ》とは、|愛《あい》の|情動《じやうどう》に|於《おい》て|幾分《いくぶん》かの|相違《さうゐ》があるでせうなア』
『さうで|厶《ござ》います。|何程《なにほど》|高姫《たかひめ》|様《さま》を|本当《ほんたう》のお|母《かあ》ア|様《さま》だと|思《おも》つても、ヤツパリ|肉身《にくしん》の|父《ちち》に|対《たい》する|時《とき》の|方《はう》が、|何《なん》とはなしに|愛情《あいじやう》が|深《ふか》い|様《やう》な|心持《こころもち》が|致《いた》します』
『|成程《なるほど》、|貴女《あなた》は|正直《しやうぢき》なお|方《かた》だ。|世間《せけん》の|奴《やつ》は|自分《じぶん》の|親《おや》より|義理《ぎり》の|親《おや》が|大切《たいせつ》だと、|心《こころ》にもない|詐《いつは》りをいひ、|又《また》|世間《せけん》の|継母《ままはは》は、|義理《ぎり》の|子《こ》だから|吾《わが》|子《こ》よりも|大切《たいせつ》にしなくてはならぬ、|何《なん》だか|知《し》らぬが|此《この》|子《こ》は|自分《じぶん》の|生《う》んだ|子《こ》よりも|可愛《かあい》て|仕方《しかた》がないなどと、|人前《ひとまへ》で|言《い》ひながら、|蔭《かげ》へまはつて、|抓《つね》つたり|叩《たた》いたり|虐待《ぎやくたい》するものですが、|貴女《あなた》は|実《じつ》に|天真爛漫《てんしんらんまん》|虚偽《きよぎ》もなく|一点《いつてん》の|陰影《いんえい》もなき|水晶玉《すゐしやうだま》の|大聖人《だいせいじん》で|厶《ござ》います。|私《わたくし》も|今日《こんにち》まで|随分《ずいぶん》|沢山《たくさん》の|人《ひと》につき|合《あ》つて|来《き》ましたが、|貴女《あなた》のやうな|方《かた》は、|未《いま》だ|一度《いちど》も|会《あ》つたことは|厶《ござ》いませぬ。|本当《ほんたう》に|神様《かみさま》で|厶《ござ》いますなア』
と|切《しき》りに|感歎《かんたん》の|声《こゑ》を|漏《も》らしてゐる。
『イルさま、お|母《かあ》さまが|大変《たいへん》お|急《せ》きになつてゐるのだから、|御心《おこころ》の|休《やす》まるやうに、|早《はや》くお|父《とう》さまを|呼《よ》んで|来《き》て|下《くだ》さいませ。|珍彦《うづひこ》さまにお|頼《たの》み|申《まを》せば、キツと|其《その》|様《やう》に|取計《とりはか》らつて|下《くだ》さるでせう』
イルは、
『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|表《おもて》へ|駆《か》け|出《だ》した。
『コレ|初稚《はつわか》さまや、|何《なん》だかガサガサと|騒《さわ》がしい|音《おと》がするぢやありませぬか、|誰《たれ》か|又《また》|貴女《あなた》の|美貌《びばう》に|心《こころ》をとろかし、|悪性男《あくしやうをとこ》がガサガサと、|昼這《ひるばひ》にでも|来《き》てゐるのぢやあるまいかな。|偉《えら》う|不思議《ふしぎ》な|音《おと》が|致《いた》しますぞや』
『|別《べつ》に|何《なに》も|居《を》りませぬが、|大方《おほかた》お|母《かあ》さまのお|頭《つむ》が|痛《いた》むので、さうお|感《かん》じ|遊《あそ》ばすのでせう』
『ああさう|聞《き》けばさうかも|知《し》れませぬ。|何分《なにぶん》|頭《あたま》を|金槌《かなづち》でこつかれる|程《ほど》|痛《いた》く|感《かん》ずるのだからなア』
『お|母《かあ》さま、|少《すこ》し|按摩《あんま》をさして|戴《いただ》きませうか』
『イヤどうぞお|構《かま》ひ|下《くだ》さいますな。|何《なん》と|云《い》つても、|血肉《ちにく》を|分《わ》けた|親《おや》の|方《はう》が、|愛情《あいじやう》の|程度《ていど》が|違《ちが》ふさうですからなア』
と|意地悪《いぢわる》いことを|姑流《しうとめりう》にほざき|出《だ》した。
『|余《あま》り|正直《しやうぢき》な|事《こと》を|申《まを》しまして、お|気《き》を|揉《も》ませましたねえ。|併《しか》し|此《この》|初稚《はつわか》は、|決《けつ》して|薄情《はくじやう》な|女《をんな》で|厶《ござ》いませぬから、さう|仰有《おつしや》らずに|按摩《あんま》をさして|下《くだ》さいませな』
|高姫《たかひめ》は|一寸《ちよつと》すねたやうな|口吻《こうふん》で、|体《からだ》の|自由《じいう》も|利《き》かぬ|癖《くせ》に、【ろく】に|舌《した》もまはらない|口《くち》から、
『ハイ、|有難《ありがた》う、|何《いづ》れ|又《また》お|頼《たの》み|申《まを》します。まだお|前《まへ》さまに|撫《な》でて|貰《もら》ふ|所《ところ》まで|耄碌《まうろく》はしてゐないのだから、|御縁《ごえん》があつたら|頼《たの》みますワ。イ、ヒ、ヒ、ヒ』
『お|母《か》アさま、どうぞ|立腹《りつぷく》して|下《くだ》さいますなや。|何分《なにぶん》|年《とし》が|行《ゆ》かないものですから、お|気《き》にさはる|事《こと》を|申《まを》しまして……どうぞ|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|下《くだ》さいませ』
『かくしても|隠《かく》されぬのは|心《こころ》の|色《いろ》、|言霊《ことたま》にチヤンと|現《あら》はれて|居《を》りますぞや。ああああ、ヤツパリ|自分《じぶん》の|腹《はら》を|痛《いた》めた|子《こ》でなうては|気《き》が|術《じゆつ》|無《な》うて、お|世話《せわ》になる|訳《わけ》には|行《ゆ》かないワ、|虚偽《きよぎ》と|阿諛諂侫《あゆてんねい》の|流行《りうかう》する|世《よ》の|中《なか》だから、|何程《なにほど》キレイなシヤツ|面《つら》をして|居《を》つても、|心《こころ》は|豺狼《さいらう》に|等《ひと》しき|人物《じんぶつ》ばかりだ』
と|妙《めう》に|当《あ》てこすり、|焼糞《やけくそ》になり、|悪垂口《あくたれぐち》を|叩《たた》き|始《はじ》めた。|初稚姫《はつわかひめ》は|真心《まごころ》より|高姫《たかひめ》の|境遇《きやうぐう》を|憐《あは》れみ、|何《なん》とかして|霊肉《れいにく》|共《とも》に|完全《くわんぜん》に|助《たす》けてやりたいものと|思《おも》ふより|外《ほか》に|何《なに》もなかつたのである。そして|病気中《びやうきちう》は|成《な》るべく|気《き》を|揉《も》ませないやう、|腹《はら》を|立《た》てさせないやう、|能《あた》ふ|限《かぎ》りの|慰安《ゐあん》を|与《あた》へたいものと|真心《まごころ》に|念《ねん》じてゐたのである。されど|根性《こんじやう》のひがみ|切《き》つた|高姫《たかひめ》は、|初稚姫《はつわかひめ》の|親切《しんせつ》を|汲《く》み|取《と》る|事《こと》は|出来《でき》なかつた。|初稚姫《はつわかひめ》はイルに|質問《しつもん》された|時《とき》、|高姫《たかひめ》の|喜《よろこ》ぶ|様《やう》に|言葉《ことば》を|飾《かざ》つて、|一時《いちじ》なりとも、|安心《あんしん》させたいと、|瞬間《しゆんかん》に|心《こころ》に|閃《ひらめ》いたけれども、|見《み》えすいた|嘘《うそ》を|云《い》ふことは|到底《たうてい》|初稚姫《はつわかひめ》には|出来《でき》なかつた。|苟《いやし》くも|宣伝使《せんでんし》たるものが、|心《こころ》にもなき|飾《かざ》り|言葉《ことば》を|用《もち》ふる|事《こと》は|出来《でき》ない。それ|故《ゆゑ》|正直《しやうぢき》に|愛《あい》の|程度《ていど》に|関《くわん》し、|少《すこ》しばかり|差等《さとう》のある|事《こと》を|言《い》つて|聞《き》かしたのが、|無理解《むりかい》な|高姫《たかひめ》に|恨《うら》まるる|種《たね》となつたのは|是非《ぜひ》もない|事《こと》である。それだと|云《い》つて、|初稚姫《はつわかひめ》も|高姫《たかひめ》を|改心《かいしん》させる|為《ため》には|其《その》|時相応《ときさうおう》の|方便《はうべん》を|使《つか》つて|居《ゐ》たことは|前記《ぜんき》の|物語《ものがたり》によつても|散見《さんけん》する|所《ところ》である。|併《しか》し|教義《けうぎ》を|説《と》く|時《とき》に|於《おい》ては、|初稚姫《はつわかひめ》は|儼然《げんぜん》として|一歩《いつぽ》も|仮借《かしやく》せないのである。すべて|真理《しんり》といふものは|磐石《ばんじやく》の|如《ごと》く|鉄棒《てつぼう》の|如《ごと》く、|屈曲自在《くつきよくじざい》ならしむるを|得《え》ざるが|故《ゆゑ》である。もし|宣伝使《せんでんし》にして|真理《しんり》|迄《まで》も|曲《ま》げて|方便《はうべん》を|乱用《らんよう》せむか、|忽《たちま》ち|霊界《れいかい》|及《およ》び|現界《げんかい》の|秩序《ちつじよ》は|茲《ここ》に|紊乱《ぶんらん》し、|神《かみ》の|神格《しんかく》を|破壊《はくわい》する|事《こと》を|恐《おそ》るるが|故《ゆゑ》である。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一二・一・二一 旧一一・一二・五 松村真澄録)
第三篇 |神意《しんい》と|人情《にんじやう》
第一〇章 |据置貯金《すゑおきちよきん》〔一三〇四〕
|祠《ほこら》の|森《もり》には|誰《たれ》|云《い》ふとなく|獅子《しし》、|虎《とら》|両性《りやうせい》の|怪物《くわいぶつ》が|現《あら》はれ、|人間《にんげん》に|化《ば》けてゐる。その|人間《にんげん》が|祠《ほこら》の|森《もり》の|主管者《しゆくわんしや》だから、ウツカリ|詣《まゐ》らうものなら|喰《く》はれて|了《しま》ふと|云《い》ふ|評判《ひやうばん》がパツと|立《た》つた。それ|故《ゆゑ》|気《き》の|弱《よわ》い|連中《れんちう》は|忽《たちま》ち|恐怖心《きようふしん》にかられて、ここ|二三日《にさんにち》は|誰《たれ》も|寄《よ》りつかなかつた。|受付《うけつけ》も|事務室《じむしつ》も|極《きは》めて|閑散《かんさん》である。|只《ただ》|相変《あひかは》らず|忙《いそが》しいのは|珍彦《うづひこ》の|神司《かむつかさ》のみである。|珍彦《うづひこ》は|至誠《しせい》|神《かみ》に|仕《つか》へ、|参拝者《さんぱいしや》の|有無《うむ》に|拘《かか》はらず、|朝《あさ》と|晩《ばん》とのお|給仕《きふじ》を|忠実《ちうじつ》に|行《や》つてゐる。イル、イク、サール、ハル、テルの|五人《ごにん》は、|受付《うけつけ》も|事務室《じむしつ》もほつたらかしにして、|瓢《ひさご》と|鯣《するめ》などを|携《たづさ》へ、|祠《ほこら》の|森《もり》の|最《もつと》も|風景《ふうけい》|佳《よ》き|日当《ひあた》りのよい|場所《ばしよ》を|選《えら》んで、|頻《しき》りに|酒《さけ》を|飲《の》み|始《はじ》めた。
イク『オイ、|御連中《ごれんちう》、|何《なん》とまア|祠《ほこら》の|森《もり》も|淋《さび》しくなつたぢやないか。エー、|杢助《もくすけ》さまが|怪我《けが》をしたとか|云《い》つて|踪跡《そうせき》をくらまし、あの|悪《あく》たれ|婆《ばあ》さまの|義理天上《ぎりてんじやう》さまは|杉《すぎ》の|木《き》へ|天上《てんじやう》して|顛倒《てんたう》し、|腰骨《こしぼね》をしたたか|打《う》ち、|梟鳥《ふくろどり》の|奴《やつ》に|両眼《りやうがん》をこつかれて|顔面《がんめん》|膨《ふく》れ|上《あが》り、|丸《まる》でお|化《ばけ》の|様《やう》になつて|了《しま》つたぢやないか。あんまり|嫌《いや》らしくなつて|此《この》|神聖《しんせい》なお|館《やかた》も|妖怪窟《えうくわいくつ》の|様《やう》な|心持《こころもち》になつて|来《き》て、ジツクリとして|居《を》られないぢやないか。|酒《さけ》でも|飲《の》んで|元気《げんき》をつけなくちやアやりきれないからな。おいイル、|貴様《きさま》は|義理天上《ぎりてんじやう》さまのお|世話《せわ》をして|居《ゐ》たぢやないか。|随分《ずいぶん》|気分《きぶん》が|悪《わる》かつただらうな』
『|何《なに》、そんな|事《こと》に|屁古垂《へこた》れるイルさまぢやないわ。|世《よ》の|中《なか》は|善悪《ぜんあく》|相混《あひこん》じ|美醜《びしう》|互《たがひ》に|相交《あひまじ》はると|云《い》ふからな。|一方《いつぱう》には|醜《しう》の|醜《しう》、|悪《あく》の|悪《あく》なる|義理天上《ぎりてんじやう》さまの|生宮《いきみや》の|顔《かほ》を|見《み》ながら、|又《また》|一方《いつぱう》には|善《ぜん》の|善《ぜん》、|美《び》の|美《び》なる|天女《てんによ》のやうな|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》の|紅顔麗容《こうがんれいよう》を|拝《はい》してゐるのだから、|相当《さうたう》に|調和《てうわ》がとれるよ。|美《うつく》しいものばかり|見《み》てゐると、|何時《いつ》の|間《ま》にか|瞳孔《どうこう》の|奴《やつ》、|増長《ぞうちよう》しやがつて|美《うつく》しいものも|美《うつく》しうない|様《やう》になるものだが、|何《なん》と|云《い》つても|極端《きよくたん》な|妖怪的《えうくわいてき》|醜面《しこづら》と|又《また》|極端《きよくたん》な|芙蓉《ふよう》の|顔《かんばせ》|月《つき》の|眉《まゆ》、|雪《ゆき》の|肌《はだへ》、|日月《じつげつ》の|眼《まなこ》、|花《はな》の|姿《すがた》の|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》を|見返《みかへ》つた|時《とき》には|其《その》|反動力《はんどうりよく》とでも|云《い》はうか、|其《その》|美《び》は|益々《ますます》|美《び》に|見《み》え|善《ぜん》は|益々《ますます》|善《ぜん》と|映《えい》ずるのだ。それだから|辛抱《しんぼう》が|出来《でき》たものだよ。いや|結句《けつく》、|辛抱《しんばう》どころか、|得《え》も|云《い》はれぬ|歓喜悦楽《くわんきえつらく》の|気分《きぶん》が|漂《ただよ》ふのだ。イツヒヒヒヒヒ』
サール『おい、イル、それ|程《ほど》|高姫《たかひめ》さまの|側《そば》が|結構《けつこう》なら、|何故《なぜ》|朝《あさ》から|晩《ばん》までくつついてゐないのだ。|俺等《おれたち》の|様《やう》な|醜面《しこづら》の|処《ところ》へ|来《き》て、|口賤《くちいや》しい|酒《さけ》を|喰《くら》はなくても、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》の|顔《かほ》を|見《み》て|恍惚《くわうこつ》として|心魂《しんこん》を|蕩《とろ》かし、|酔《よ》うてゐたら|宜《い》いぢやないか』
『それもさうぢやが、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が「あたえ、|一人《ひとり》でお|世話《せわ》を|致《いた》しますから、イルさまは|何卒《どうぞ》|休《やす》んで|頂戴《ちやうだい》ね、|又《また》|御用《ごよう》が|厶《ござ》りましたらお|願《ねが》ひ|致《いた》しますから」と、それはそれは|同情《どうじやう》のこもつた|此《この》イルさまに……ヘヘヘヘヘ、|一寸《ちよつと》|細《ほそ》い|目《め》を|向《む》けて|優《やさ》しい|声《こゑ》で|仰有《おつしや》るのだもの、なんぼ|頑固《ぐわんこ》の|俺《おれ》だとて、|君命《くんめい》もだし|難《がた》く|退却《たいきやく》|仕《つかまつ》ると|云《い》ふことになつて、|暫《しばら》く|差控《さしひか》へてゐるのだ』
テル『ハハハハハ、|馬鹿《ばか》だな。|本当《ほんたう》に|貴様《きさま》はお|目出度《めでた》い|奴《やつ》だよ。|態《てい》よい|辞令《じれい》で|肱鉄《ひぢてつ》をかまされよつたのだ。|貴様《きさま》の|面《つら》を|水鏡《みづかがみ》で|一寸《ちよつと》|見《み》て|見《み》よ、|薩張《さつぱり》|顔《かほ》の|詰《つめ》がぬけて|了《しま》つてるぢやないか』
『ナーニ|吐《ぬか》しやがるのだい。|唐変木《たうへんぼく》の|貴様等《きさまら》に|分《わか》つて|堪《たま》るものかい。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》と|俺《おれ》との|関係《くわんけい》を|貴様《きさま》|知《し》つてるのか。|以心伝心《いしんでんしん》、|不言不語《ふげんふご》の|間《うち》に|於《おい》て|万世不易《ばんせいふえき》の|愛的連鎖《あいてきれんさ》が|結《むす》ばれてあるのだ。|誠《まこと》に|済《す》みませぬな、エツヘヘヘヘヘ。エー、|涎《よだれ》の|奴《やつ》、イルさまの|許可《きよか》も|無《な》くして|勝手《かつて》|気儘《きまま》に|出《で》ると|云《い》ふ|事《こと》があるかい。|何程《なにほど》|俺《おれ》がデレルと|云《い》うても、|貴様《きさま》までが|勝手《かつて》にデレルとはチツト|越権《ゑつけん》だぞ。ウツフフフフフ』
と|云《い》ひながら|牛《うし》の|様《やう》な|粘液性《ねんえきせい》に|富《と》んだ|細《ほそ》い|涎《よだれ》を|手繰《たぐ》つてゐる。
テル『ハハハハハ、|夢《ゆめ》でも|見《み》てゐやがつたな。|貴様《きさま》と|姫様《ひめさま》との|関係《くわんけい》と|云《い》ふのは、|只《ただ》|主《しゆ》と|僕《ぼく》との|関係《くわんけい》だ。|到底《たうてい》|夫婦《ふうふ》なんぞと、そんな|事《こと》は|柄《がら》にないわ』
イル『|実《じつ》の|所《ところ》は、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》の|美貌《びばう》を|幻《うつつ》になつて|眺《なが》めてゐたものだから、|義理天上《ぎりてんじやう》さまの|命令《めいれい》も|耳《みみ》に|這入《はい》らず、ポカンとして|居《を》つた|所《ところ》を、|高姫《たかひめ》の|奴《やつ》|目《め》も|見《み》えない|癖《くせ》に、ポカンとやりやがつたのだ』
『|愈《いよいよ》|三段目《さんだんめ》になつて|来《き》たな。さア|一杯《いつぱい》グツと|飲《の》んで、|正念場《しやうねんば》を|聞《き》かして|貰《もら》はうかい』
『|酒《さけ》の|一杯《いつぱい》や|二杯《にはい》では、|神秘《しんぴ》の|鍵《かぎ》は|渡《わた》す|事《こと》は|出来《でき》ないわ。|此《この》|上《うへ》|話《はな》して|聞《き》かした|処《ところ》で、|下根《げこん》のお|前等《まへら》、|所謂《いはゆる》|八衢人間《やちまたにんげん》には|到底《たうてい》|解《かい》し|得《え》ないから、まア|云《い》はぬが|花《はな》として|筐底《きやうてい》|深《ふか》く|秘《ひ》めて|置《お》かう。|開《あ》けて|口惜《くや》しき|玉手箱《たまてばこ》でなくて、ぶちあけて|嬉《うれ》しい|玉手箱《たまてばこ》、|折角《せつかく》|握《にぎ》つた|運命《うんめい》の|鍵《かぎ》を|貴様等《きさまら》に|占領《せんりやう》されちやア、|折角《せつかく》の|苦心《くしん》が|水泡《すいはう》に|帰《き》するからな』
『おい、そんな|出《だ》し|惜《を》しみをするものぢやない。|其《その》|先《さき》の|一寸《ちよつと》|小意気《こいき》な|所《ところ》を|窺《のぞ》かしてくれないかい。|刀《かたな》の|鑑定人《めきき》は、チツト|許《ばか》り|砥石《といし》でといで|窓《まど》をあけ、|柄元《つかもと》の|匂《にほ》ひを|見《み》れば、|直《すぐ》に|其《その》|名刀《めいたう》たり|或《あるひ》は|鈍刀《どんたう》たる|事《こと》を|知《し》る|如《ごと》く、|此《この》テルさまは|名《な》の|如《ごと》く、|心《こころ》の|底《そこ》までよくテルさまだからな』
『|実《じつ》の|所《ところ》は、|其《その》|先《さき》は|余《あま》りで|云《い》ふに|忍《しの》びないのだ』
『|忍《しの》びないとは|何《なん》だ、ヤツパリやり|損《そこ》ねたのだな。|玉茸《たまたけ》を|採《と》り|損《ぞこ》なつて|梟《ふくろ》の|宵企《よひだく》みに|目玉《めだま》をこつかれた|口《くち》だらう。ウフフフフフ』
『|秘密《ひみつ》にして|呉《く》れたら|言《い》つてやるが、お|前等《まへら》|四人《よにん》は|一生涯《いつしやうがい》|他言《たごん》はせぬと|云《い》ふ|誓《ちか》ひをするか。さうすれば|一部分《いちぶぶん》|位《くらゐ》はお|祝《いはひ》に|表示《へうじ》してやらぬ|事《こと》もない』
|四人《よにん》|声《こゑ》を|揃《そろ》へて、
『よし|誓《ちか》つた。|誓《ちか》つた|以上《いじやう》は|大丈夫《だいぢやうぶ》だからね』
『それなら|云《い》つてやらう。|初稚姫《はつわかひめ》さまが、それはそれは|何《なん》とも|知《し》れぬ|情緒《じやうちよ》のこもつたお|声《こゑ》で、|柔《やはら》かい|細《ほそ》いお|手々《てて》を|出《だ》して、「これイルさまえ、お|前《まへ》もお|母《かあ》さまのお|世話《せわ》をして|下《くだ》さるので、さぞお|疲《つか》れでせう。|何卒《どうぞ》コーヒーなつと|一杯《いつぱい》お|飲《あが》り|下《くだ》さいませ」……ヘヘヘヘヘなーんて|仰有《おつしや》つて、それはそれは|情《じやう》のこもつた|笑《ゑみ》を|湛《たた》へて|注《つ》いで|下《くだ》さるのだ。それから|頭脳《づなう》|鋭敏《えいびん》の|某《それがし》、チヤーンと|相手方《あひてがた》の|心《こころ》の|底《そこ》まで|見《み》てとり、|例《れい》の|軍隊式《ぐんたいしき》で|身体《からだ》をキチンと|整理《せいり》し、コーヒーを|左手《ゆんで》に|一寸《ちよつと》|持《も》ち、|貴様等《きさまら》が|酒《さけ》を|飲《の》む|様《やう》なしだらない|事《こと》はなさらないな。|第一《だいいち》|姿勢《しせい》を|正《ただ》しうし、|気《き》を|付《つ》け「|一《オイチ》、|二《ニ》、|三《サン》」と、|斯《か》う|空中《くうちう》に|角度《かくど》を|描《ゑが》いて、わが|口中《こうちう》へ|徐《おもむろ》に|注入《ちゆうにふ》した。さア、さうすると|流石《さすが》の|初稚姫《はつわかひめ》さまも|堪《た》へきれない|様《やう》な|笑《ゑみ》を|洩《もら》して、「ホホホホホ」と|鶯《うぐひす》のさね|渡《わた》りの|様《やう》な|美声《びせい》|妙音《めうおん》を|放《はな》つて|笑《わら》ひ|遊《あそ》ばしたのだ。さうすると|一方《いつぱう》に|控《ひか》へて|居《ゐ》る|義理天上《ぎりてんじやう》の|怪物《くわいぶつ》|奴《め》、|目《め》が|見《み》えないものだから|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》に|喰《く》つてかかり「これ|初稚《はつわか》、お|前《まへ》は|之《これ》|程《ほど》|親《おや》が|苦《くる》しんでゐるのに、|何《なに》|面白《おもしろ》さうに|笑《わら》ふのだい。|小気味《こぎみ》がよいのかい」|等《など》と|意地苦根《いぢくね》の|悪《わる》い、あの|優《やさ》しいお|姫《ひめ》さまに|毒《どく》ついてゐるのだ。|憎《にく》いの|何《なん》のと、|此《この》|時《とき》こそは|愛人《あいじん》の|為《ため》に|敵《かたき》を|討《う》つてお|目《め》にかけむと|奮然《ふんぜん》として|立上《たちあが》り、|高姫《たかひめ》の|横《よこ》つ|面《つら》|目《め》がけて|骨《ほね》も|挫《くじ》けよと|許《ばか》り「ウーン」と|叩《たた》いたと|思《おも》へば|火鉢《ひばち》の|角《かど》だつた、アハハハハ。よくよく|見《み》れば|指《ゆび》から|血《ち》が|滲《にじ》んでゐる。そこで「|痛《いた》い」と|云《い》はむとせしが|待《ま》て|暫《しば》しだ。それはそれ、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|監視《かんし》して|厶《ござ》るだらう。|千軍万馬《せんぐんばんば》の|中《なか》を|命《いのち》を|的《まと》に|勇往邁進《ゆうわうまいしん》し、|砲煙弾雨《はうえんだんう》を|物《もの》ともしない|軍人《ぐんじん》の|某《それがし》、マサカ|弱音《よわね》を|吹《ふ》く|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|痛《いた》さうな|顔《かほ》も|出来《でき》ないのだから|随分《ずいぶん》|我慢《がまん》したね。さうすると、|又《また》もや|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|梅花《ばいくわ》の|唇《くちびる》を|開《ひら》いて、|鶯《うぐひす》でも|囀《さへづ》つてゐるやうに「ホホホホホ」と|笑《わら》ひ|声《ごゑ》をお|洩《もら》し|遊《あそ》ばしたのだ。そこで|此《この》イルさまが「これはしたり、|初稚姫《はつわかひめ》|殿《どの》」とやつたね』
テル『うーん|面白《おもしろ》いね。|談《だん》|益々《ますます》|佳境《かきやう》に|入《い》りけりだ。|謹聴々々《きんちやうきんちやう》』
『さうすると|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|仰有《おつしや》るのに「あのまあイルさまの|勇壮《ゆうさう》なお|顔《かほ》、|口《くち》を【へ】の|字《じ》に|結《むす》び|眉間《みけん》に|迄《まで》|皺《しわ》を|寄《よ》せて|厶《ござ》るお|姿《すがた》は、ビリケンの|化相《けさう》した|山門《さんもん》の|仁王《にわう》さま|見《み》た|様《やう》だわ」と|仰有《おつしや》るのだ、エヘヘヘヘヘ。ここに|初《はじ》めて|某《それがし》のヒーロー|豪傑《がうけつ》たる|真相《しんさう》を|認《みと》められたと|思《おも》つた|時《とき》の|嬉《うれ》しさ、|勇《いさ》ましさ、イヤ|早《はや》|形容《けいよう》すべき|言語《げんご》もない|位《くらゐ》だつた』
サール『|馬鹿《ばか》、|貴様《きさま》、|馬鹿《ばか》にしられ|居《を》つてそれが|嬉《うれ》しいのか。|恋《こひ》に|恍《とぼ》けた|奴《やつ》の|目《め》には、|何《なん》でもかんでも|愛《あい》に|映《えい》ずるのだから|堪《たま》らぬのだ。|本当《ほんたう》に|此奴《こいつ》は|睾玉《きんたま》を|落《おと》して|来《き》よつたのだよ』
『こりや、サール、|黙《だま》つて|聞《き》かう。|聴講者《ちやうかうしや》の|妨害《ばうがい》となるのを|知《し》らぬか。あまり|騒擾《さうぜう》|致《いた》すと|会堂外《くわいだうぐわい》へ|退去《たいきよ》を|命《めい》ずるぞ』
『ヘヘヘヘヘ、あーあ、あーあ、|化物屋敷《ばけものやしき》ぢやないが、【アークビ】が|出《で》るわい』
テル『おい、イル|公《こう》、サールなどに|構《かま》はずドシドシと|長口舌《ちやうこうぜつ》を|運転《うんてん》さしてくれ。|機関《きくわん》の|油《あぶら》がきれたら|又《また》このアルコールをグツと|注《さ》してやるからな』
『|竹林《ちくりん》の|七賢人《しちけんじん》でなくて、|森林《しんりん》の|四賢一愚人《しけんいちぐじん》がここに|集《あつ》まつて|林間酒《りんかんさけ》を|暖《あたた》めながら、|田原峠《たぱるたうげ》の|実戦《じつせん》の|状況《じやうきやう》を|実地《じつち》に|臨《のぞ》んだ|其《その》|勇士《ゆうし》から|聞《き》くのだから、|随分《ずいぶん》|勇壮《ゆうさう》なものだぞ。|謹《つつし》んで|聞《き》かないと、|再《ふたた》び|斯様《かやう》な|面白《おもしろ》き|趣味津々《しゆみしんしん》たるローマンスは|一生涯《いつしやうがい》|聞《き》く|事《こと》は|出来《でき》ないぞ』
『うん、さうだろ さうだろ。|之《これ》からが|正念場《しやうねんば》だ』
と|捻鉢巻《ねぢはちまき》をしながら|肱《ひぢ》を|張《は》り、|自分《じぶん》がやつた|様《やう》な|気《き》で|二足三足《ふたあしみあし》|前《まへ》へニジリ|寄《よ》り、|咬《か》み|犬《いぬ》の|様《やう》な|顔《かほ》をしてイルの|顔《かほ》をグツと|見上《みあ》げてゐる。イルは|演説《えんぜつ》|口調《くてう》になつて、|四辺《あたり》の|木《き》の|幹《みき》に|片手《かたて》を|支《ささ》へ、|右《みぎ》の|手《て》を|腰《こし》の|辺《あた》りに|置《お》き、|稍《やや》|反身《そりみ》になつて|喋々《てふてふ》と|虚実交々《きよじつこもごも》|取《と》りまぜて、|講談師《かうだんし》|気分《きぶん》で|喋《しやべ》り|始《はじ》めた。
『|扨《さ》て、|前席《ぜんせき》に|引続《ひきつづ》きまして|御静聴《ごせいちやう》を|煩《わづら》はしまする。|愈《いよいよ》|祠《ほこら》の|森《もり》、|高姫《たかひめ》の|段《だん》、|三五教《あななひけう》に|其《その》|人《ひと》ありと|聞《きこ》えたるイルの|勇将《ゆうしやう》に、|一方《いつぱう》は|古今無双《ここんむさう》のナイス、|初稚姫《はつわかひめ》との|面白《おもしろ》き|物語《ものがたり》で|厶《ござ》ります。そこへ|勇猛《ゆうまう》なる|義犬《ぎけん》スマートをあしらつた|物語《ものがたり》で|厶《ござ》りますれば、|益々《ますます》|佳境《かきやう》に|入《い》り、お|臍《へそ》の|宿替《やどがへ》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|睾玉《きんたま》の|洋行《やうかう》|致《いた》さない|様《やう》、|十二分《じふにぶん》の|御注意《ごちゆうい》を|払《はら》はれむ|事《こと》を|希望《きばう》する|次第《しだい》であります』
ハル『おい、そんな|長口上《ながこうじやう》は|如何《どう》でもいいわ。|早《はや》く|本問題《ほんもんだい》に|移《うつ》らないか』
『お|客様《きやくさま》の|仰《おほ》せ、|御尤《ごもつと》もには|候《さふら》へど、|今《いま》|申《まを》したのは|今夕《こんせき》の|添物《そへもの》と|致《いた》しまして、|愈《いよいよ》|本問題《ほんもんだい》に|差《さ》しかかりまする』
テル『おい、|最前《さいぜん》の|様《やう》に|坐《すわ》つて|酒《さけ》を|飲《の》みながらやつてくれないか。|何《なん》だか|学術講演会《がくじゆつかうえんくわい》へ|出席《しゆつせき》してる|様《やう》な|気《き》がして、|酒《さけ》を|飲《の》んでる|気分《きぶん》がせないわ』
『|御註文《ごちゆうもん》とあれば|仰《おほ》せに|従《したが》ひ、それでは|一寸《ちよつと》|天降《あまくだ》りを|致《いた》し、|光《ひかり》を|和《やは》らげ|塵《ちり》に|同《まじ》はつて、|下賤《げせん》の|人物《じんぶつ》と|共《とも》に|兄弟《きやうだい》の|如《ごと》く、|朋友《ほういう》の|如《ごと》く、|打解《うちと》けて|御相談《ごさうだん》を|致《いた》しませう。ハハハハハ』
と|云《い》ひながらドスンと|腰《こし》を|卸《おろ》した|拍子《ひやうし》に、|細《ほそ》い|木《き》の|角杭《かくくひ》の|削《そ》ぎ|口《くち》が|槍《やり》の|様《やう》に|劣《とが》つて|居《ゐ》る|其《その》|上《うへ》に|尻《しり》を|下《お》ろしたのだから|堪《たま》らない。|忽《たちま》ちブスツと|肛門《こうもん》に|突入《とつにふ》し、|恰《あだか》も|粉《こな》ひき|臼《うす》の|上臼《うはうす》の|様《やう》になつて|了《しま》つた。
『アイタタタ、|然《しか》し|丸《まる》いものと|云《い》ふものは|誰《たれ》でも|狙《ねら》ふものと|見《み》えるわい。|木《き》の|株《かぶ》|迄《まで》が|俺《おれ》の|尻《しり》を|狙《ねら》つて|居《ゐ》やがる。|何程《なにほど》|株《かぶ》が|流行《はや》る|世《よ》の|中《なか》でも、|此《この》|株《かぶ》ばつかりは|御免《ごめん》だ。|然《しか》し|節季《せつき》になつて|尻拭《しりぬぐ》ひが|出来《でき》ぬと|困《こま》るから、|今《いま》の|内《うち》に|倹約《けんやく》して|此処《ここ》にチヤンと|据置貯金《すゑおきちよきん》だ。イヒヒヒヒヒ』
と|少《すこ》し|許《ばか》り|肛門《こうもん》を|破《やぶ》り|血《ち》をたらしながら、ズブ|六《ろく》に|酔《よ》うて|居《ゐ》るので、そんな|事《こと》に|頓着《とんちやく》なく|滔々《たうたう》として|弁《べん》じ|始《はじ》めた。
『さて、|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》のお|顔《かほ》が|目《め》にちらつき、|日《ひ》が|暮《く》れても、|寝《ね》ても|起《お》きても、|雪隠《せつちん》の|中《なか》にでも|俺《おれ》の|目《め》の|前《まへ》に|現《あら》はれるのだ。|何《なん》とまアよく|初稚姫《はつわかひめ》さまも|惚《ほ》れたものだな。|何処《どこ》に|行《い》つてもついて|来《き》てゐる。|据膳《すゑぜん》|喰《く》はぬは|男《をとこ》でないと|思《おも》ひ、|轟《とどろ》く|胸《むね》をグツと|抑《おさ》へ、|勇気《ゆうき》を|鼓《こ》してその|優《やさ》しい|手《て》をグツと|握《にぎ》つた|途端《とたん》に、「ウー、ワンワン」と|云《い》つて|俺《おれ》の|耳《みみ》たぼに|噛《か》|振《ぶ》りつき、これ、|此《この》|通《とほ》り|傷《きず》をさせよつたのだ』
テル『|何《なん》と|顔《かほ》にも|似合《にあ》はぬ|恐《おそ》ろしい|女《をんな》だな』
『|何《なに》、|姫様《ひめさま》だと|思《おも》つたら|猛犬《まうけん》の|手《て》を|力《ちから》|一杯《いつぱい》|握《にぎ》つたものだから、|畜生《ちくしやう》|吃驚《びつくり》して|喰《く》ひつきよつたのだ、アハハハハハ』
サール『|何《なん》だ。|大方《おほかた》、そこらが|落《お》ちだと|思《おも》つてゐたのだ。|貴様《きさま》は|一霊四魂《いちれいしこん》の|活動《くわつどう》が|不完全《ふくわんぜん》だから、そんな|頓馬《とんま》な|事《こと》ばかりやりよるのだ。チツと|霊学《れいがく》の|研究《けんきう》でもしたら|如何《どう》だい、|男爵様《だんしやくさま》が|気《き》をつけるぞや』
『ヘン、|男爵《だんしやく》、|馬鹿《ばか》にするない。|貴様《きさま》は|首陀《しゆだ》の|生《うま》れぢやないか』
『|男《をとこ》が|酌《しやく》をして|飲《の》むのが|男爵《だんしやく》だ。|私《わし》が|勝手《かつて》に|酌《しやく》をして|飲《の》むのが|私爵《ししやく》だ。|小酌《こしやく》な|事《こと》を|申《まを》すと|承知《しようち》|致《いた》さぬぞ』
『|俺《おれ》は|酒《さけ》を|飲《の》んで|口《くち》から|嘔吐《へど》と|一緒《いつしよ》に|吐《は》いたから|吐《は》く|酌《しやく》|様《さま》だ。|吐《は》く|酌《しやく》として|余裕《よゆう》ある|一丈七尺《いちぢやうしちしやく》の|男子《だんし》だからな』
『ヘン、|一丈七尺《いちぢやうしちしやく》なんて|七尺《しちしやく》にも|足《た》らぬ|小男《こをとこ》|奴《め》、|偉《えら》さうに|云《い》ふない』
『|八尺《はつしやく》と|九尺《くしやく》とよせて|八九尺《はつくしやく》だ。|一丈七尺《いちぢやうしちしやく》と|云《い》つたのが|何処《どこ》が|算盤《そろばん》が|違《ちが》ふのだ。|何《なん》と|粗雑《そざつ》な|頭脳《づなう》の|持主《もちぬし》だな。|一霊四魂《いちれいしこん》が|如何《どう》だのかうだのと、|偉《えら》さうに|云《い》ふない。それ|程《ほど》|偉《えら》さうに|云《い》ふのなら、|一《ひと》つ|解釈《かいしやく》して|見《み》よ』
『|貴様《きさま》の|様《やう》な|木耳耳《きくらげみみ》には|聞《き》かしてやるのは|惜《を》しけれど、|俺《おれ》が|無学者《むがくしや》と|思《おも》はれちや|片腹《かたはら》|痛《いた》い。|云《い》ひがかり|上《じやう》、|男子《だんし》として|説明《せつめい》の|労《らう》を|与《あた》へないのも、|学者《がくしや》の|估券《こけん》を|傷付《きずつ》くる|事《こと》になるから、|一《ひと》つはりこんで|教訓《けうくん》してやらう。エヘン、|抑々《そもそも》|一霊四魂《いちれいしこん》と|云《い》ふのは、|直霊《ちよくれい》、|荒魂《あらみたま》、|奇魂《くしみたま》、|幸魂《さちみたま》、|和魂《にぎみたま》を|云《い》ふのだ。さうして|荒魂《あらみたま》は|勇《ゆう》なり、|幸魂《さちみたま》は|愛《あい》なり、|奇魂《くしみたま》は|智《ち》なり、|和魂《にぎみたま》は|親《しん》なり、|分《わか》つたか、|随分《ずいぶん》よく|学理《がくり》に|明《あか》るいものだらう』
『|勇《ゆう》とは|何《なん》だ。|勇《ゆう》の|説明《せつめい》をせぬかい』
『マ|男《をとこ》を|即《すなは》ち|勇者《ゆうしや》と|云《い》ふのだ。どうだ、|分《わか》つたか。それから|親《しん》の|講釈《かうしやく》だ。|親《しん》と|云《い》ふ|事《こと》は|親《おや》と|云《い》ふ|字《じ》だ。|辛《つら》い|目《め》を|八度《はちど》|見《み》せるのを|親《おや》と|云《い》ふのだ。それから|愛《あい》だ。どんな|事《こと》でも|有利《いうり》なものであつたならば|喉《のど》を|鳴《な》らして|受《う》ける|心《こころ》、|之《これ》を|愛《あい》と|云《い》ふ。ヘン、|又《また》|日々《にちにち》|貴様《きさま》のやうに|口《くち》で|失策《しつさく》する|奴《やつ》を|智《ち》と|云《い》ふのだ。|十目一様《じふもくいちやう》に|見《み》るのを|直霊《ちよくれい》の|直《ちよく》といふのだ。|何《なん》といつてもサールさまだらう。|俺《おれ》の|知識《ちしき》には、|誰一人《たれひとり》|天下《てんか》に|手《て》をサールものがないのだから、サールさまと|申《まを》すのだ、エヘン』
テル『|成程《なるほど》、|妙々《めうめう》、|如何《いか》にもよく|徹底《てつてい》した。|文字《もんじ》と|云《い》ふものは|感心《かんしん》な|意味《いみ》を|含《ふく》んだものだね』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも|楓《かへで》は|森《もり》の|彼方《あなた》より、
『イルさま、|皆《みな》さま、|早《はや》う|帰《かへ》つて|下《くだ》さい』
とありきりの|声《こゑ》を|出《だ》して|呼《よ》ばはつた。
|五人《ごにん》は|取《と》る|物《もの》も|取《と》り|敢《あ》へず、バタバタと|事務所《じむしよ》をさして|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・一・二一 旧一一・一二・五 北村隆光録)
第一一章 |鸚鵡返《あうむがへし》〔一三〇五〕
|祠《ほこら》の|森《もり》の|神館《みやかた》に |現《あら》はれ|来《きた》りし|杢助《もくすけ》の
|其《その》|正体《しやうたい》は|月《つき》の|国《くに》 |大雲山《たいうんざん》に|蟠《わだか》まる
|八岐大蛇《やまたをろち》の|片腕《かたうで》と |妖魅《えうみ》の|世界《せかい》に|名《な》も|高《たか》き
|獅子《しし》と|虎《とら》との|中性《ちうせい》を |備《そな》へし|怪《あや》しの|動物《どうぶつ》ぞ
|妖幻坊《えうげんばう》と|謳《うた》はれて |彼方此方《あなたこなた》に|出没《しゆつぼつ》し
|神出鬼没《しんしゆつきぼつ》の|妖術《えうじゆつ》を |使《つか》ひて|世人《よびと》をなやませつ
|地上《ちじやう》の|世界《せかい》を|魔界《まかい》とし |所在《あらゆる》|善《ぜん》を|亡《ほろ》ぼして
|邪悪《じやあく》と|虚偽《きよぎ》の|世《よ》にせむと |狂《くる》ひ|廻《まは》るぞ|由々《ゆゆ》しけれ
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |玉国別《たまくにわけ》が|丹精《たんせい》を
|凝《こ》らして|仕《つか》へまつりたる |厳《いづ》の|御霊《みたま》や|瑞御霊《みづみたま》
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御社《みやしろ》を |蹂躙《じうりん》せむと|出《い》で|来《きた》る
|悪魔《あくま》に|御魂《みたま》を|奪《うば》はれし |高姫司《たかひめつかさ》を|誑《たぶら》かし
|茲《ここ》に|夫婦《ふうふ》となりすまし |生地《きぢ》を|隠《かく》して|居《ゐ》たる|折《をり》
|忽《たちま》ち|来《きた》る|三五《あななひ》の |道《みち》に|名高《なだか》き|宣伝使《せんでんし》
|初稚姫《はつわかひめ》の|霊光《れいくわう》と |伴《ともな》ひ|来《きた》る|猛犬《まうけん》に
|恐《おそ》れて|逃《に》げ|出《だ》すその|途端《とたん》 |神《かみ》に|仕《つか》ふるスマートが
|其《その》|正体《しやうたい》を|看破《みやぶ》りて |忽《たちま》ち|勇気《ゆうき》を|振《ふ》り|起《おこ》し
|幾層倍《いくそうばい》の|巨体《きよたい》をば |有《いう》する|曲津《まがつ》に|取《と》りついて
|眉間《みけん》のあたりを|一噛《ひとか》ぶり |森《もり》を|流《なが》るる|谷水《たにみづ》の
|傍《かた》へに|鎬《しのぎ》を|削《けづ》りつつ |妖魅《えうみ》は|忽《たちま》ち|驚愕《きやうがく》し
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|山《やま》の|尾《を》を |指《さ》して|一先《ひとま》づ|逃《に》げて|行《ゆ》く
スマートは|足《あし》を|傷《きず》つけて チガチガしながら|立帰《たちかへ》り
|初稚姫《はつわかひめ》の|居間《ゐま》に|入《い》り |暫《しば》し|痛手《いたで》を|舐《な》めながら
|自分療治《じぶんれうぢ》の|巧妙《かうめう》さ |高姫司《たかひめつかさ》は|杢助《もくすけ》を
|兇暴不敵《きようばうふてき》の|曲神《まががみ》と |知《し》らぬ|悲《かな》しさ|吾《わが》|夫《つま》と
|恋《こ》ひ|慕《した》ひつつひそびそと よからぬ|事《こと》を|計画《けいくわく》し
まづ|第一《だいいち》に|目上《めうへ》の|瘤《こぶ》と |心《こころ》にかかる|珍彦《うづひこ》や
|静子《しづこ》の|方《かた》を|毒殺《どくさつ》し |楓《かへで》の|姫《ひめ》を|吾《わが》|子《こ》ぞと
|偽《いつは》りすまして|聖場《せいぢやう》に いや|永久《とこしへ》に|陣《ぢん》を|取《と》り
|斎苑《いそ》の|館《やかた》にましませる |神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の
|世界救治《せかいきうぢ》の|神策《しんさく》を |妨害《ばうがい》せむと|首《かうべ》をば
|鳩《あつ》めて|囁《ささや》く|恐《おそ》ろしさ。
○
|楓《かへで》の|姫《ひめ》の|枕辺《まくらべ》に |現《あら》はれ|給《たま》ひしエンゼルは
|言霊別《ことたまわけ》の|化身《けしん》なる |文珠菩薩《もんじゆぼさつ》と|厳《いか》めしく
さしも|雄々《をを》しきスマートを |伴《ともな》ひ|来《きた》り|両親《ふたおや》の
|危難《きなん》を|救《すく》ひ|与《あた》へよと |百毒解散《ひやくどくげさん》の|神丹《しんたん》を
|与《あた》へて|雲《くも》に|身《み》を|隠《かく》し |何処《いづく》ともなく|出《い》でましぬ
|楓《かへで》はハツと|目《め》を|醒《さ》まし |吾《わが》|手《て》の|拳《こぶし》を|調《しら》ぶれば
|夢《ゆめ》に|受《う》けたる|霊薬《れいやく》を |握《にぎ》り|居《ゐ》たるぞ|不思議《ふしぎ》なれ
|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》が |意思《いし》に|従《したが》ひスマートを
|一先《ひとま》づここを|追《お》ひ|出《いだ》し やつと|安心《あんしん》する|間《ま》なく
|杢助司《もくすけつかさ》の|瘡傷《さうしやう》を |癒《いや》さむために|大杉《おほすぎ》の
|梢《こずゑ》に|生《は》えし|玉茸《たまたけ》を |密《ひそか》に|取《と》らむと|高姫《たかひめ》は
|人目《ひとめ》をしのび|梯子《はしのこ》を |大木《おほき》の|幹《みき》に|立《た》てかけて
|重《おも》い|体《からだ》をたわたわと さしもに|高《たか》き|一《いち》の|枝《えだ》
やつと|手《て》をかけ|蜘蛛《くも》の|巣《す》に |引《ひ》つかかりつつ|右左《みぎひだり》
|梢《こずゑ》を|探《さが》し|居《ゐ》たりしが |忽《たちま》ち|梟《ふくろ》の|両眼《りやうがん》を
|認《みと》めてこれぞ|玉茸《たまたけ》と |喜《よろこ》び|勇《いさ》み|手《て》を|出《だ》せば
|梟《ふくろ》は|驚《おどろ》き|高姫《たかひめ》が |二《ふた》つの|眼《まなこ》を|容赦《ようしや》なく
|鈎《かぎ》のやうなる|嘴《くちばし》で |力《ちから》|限《かぎ》りについばめば
|不意《ふい》を|打《う》たれて|高姫《たかひめ》は スツテンドウと|高所《かうしよ》より
|忽《たちま》ち|地上《ちじやう》に|顛落《てんらく》し |眼《まなこ》は|眩《くら》み|腰《こし》|痛《いた》み
|息《いき》|絶《た》えだえとなりにける |受付役《うけつけやく》に|仕《つか》へたる
イルは|見《み》るより|仰天《ぎやうてん》し |忽《たちま》ち|館《やかた》にふれ|廻《まは》る
|珍彦《うづひこ》、|静子《しづこ》を|初《はじ》めとし イル、イク、サール、ハル、テルの
|若《わか》き|男《をとこ》は|高姫《たかひめ》を |担《かつ》いで|居間《ゐま》に|運《はこ》び|入《い》れ
|初稚姫《はつわかひめ》の|熱心《ねつしん》な |其《その》|介抱《かいはう》に|高姫《たかひめ》は
|暫《しば》し|息《いき》をばつきながら |杢助《もくすけ》さまを|逸早《いちはや》く
|招《まね》き|来《きた》れとせきたつる |其《その》|心根《こころね》ぞ|不愍《ふびん》なれ
|顔面《がんめん》|忽《たちま》ち|腫《は》れ|上《あが》り |二目《ふため》と|見《み》られぬ|醜面《しこづら》と
|変《かは》り|果《は》てたる|恐《おそ》ろしさ |祠《ほこら》の|森《もり》の|妖怪《えうくわい》と
|怖《おそ》れて|近《ちか》づくものもなし さはさりながら|三五《あななひ》の
|教《をしへ》を|守《まも》る|宣伝使《せんでんし》 |初稚姫《はつわかひめ》は|懇切《こんせつ》に
|高姫司《たかひめつかさ》をいたはりて |介抱《かいはう》なせば|七八日《ななやうか》
|月日《つきひ》を|重《かさ》ねて|両眼《りやうがん》は |忽《たちま》ちパツと|元《もと》の|如《ごと》
|開《ひら》けて|痛《いた》みも|頓《とみ》にやみ |顔《かほ》の|腫《はれ》まで|減退《げんたい》し
|悦《よろこ》ぶ|間《ま》もなく|高姫《たかひめ》は |初稚姫《はつわかひめ》の|神力《しんりき》を
|怖《おそ》れて|再《ふたた》び|奸策《かんさく》を |企《たく》み|初《そ》めしぞうたてけれ。
|高姫《たかひめ》は|懇切《こんせつ》なる|初稚姫《はつわかひめ》の|介抱《かいはう》に|漸《やうや》く|腰《こし》の|痛《いた》みも|全快《ぜんくわい》し、|顔《かほ》の|腫《はれ》も|引《ひ》き|両眼《りやうがん》は|元《もと》の|如《ごと》く|隼《はやぶさ》の|如《ごと》く|光《ひか》り|出《だ》した。|喉元《のどもと》|過《す》ぎて|熱《あつ》さ|忘《わす》るるは|小人《せうじん》の|常《つね》とかや、|兇霊《きようれい》に|憑依《ひようい》されたる|高姫《たかひめ》は、|前《まへ》に|倍《ばい》して|悪垂《あくた》れ|口《ぐち》をつき|始《はじ》め、|遉《さすが》の|初稚姫《はつわかひめ》、|珍彦《うづひこ》を|手《て》こずらすこと|一通《ひととほ》りではなかつた。
|高姫《たかひめ》は|病気《びやうき》が|癒《なほ》つたのを|幸《さいは》ひ、いそいそとして|珍彦《うづひこ》の|館《やかた》を|訪《と》うた。
『ハイ|御免《ごめん》なさいませ。|珍彦《うづひこ》さまは|御機嫌《ごきげん》|宜敷《よろし》う|厶《ござ》いますかな。|静子《しづこ》さまも|御無事《ごぶじ》ですかな。|私《わたし》も|長《なが》らく|怪我《けが》を|致《いた》しまして|困《こま》つて|居《を》りましたが、|御親切《ごしんせつ》の|貴方様《あなたさま》、あれ|程《ほど》|私《わたし》が|苦《くる》しんで|居《ゐ》るのに、|只《ただ》の|一度《いちど》もお|訪《たづ》ね|下《くだ》さいませず、|真《まこと》に|御親切《ごしんせつ》な|程《ほど》、|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます。|遉《さすが》は|大神様《おほかみさま》に|直々《ぢきぢき》お|仕《つか》へ|遊《あそ》ばす|御夫婦《ごふうふ》の|事《こと》とて、|何《なに》から|何《なに》|迄《まで》お|気《き》のつく|事《こと》で|厶《ござ》いますわい。この|御親切《ごしんせつ》をお|報《むく》い|申《まを》さねば|済《す》みませぬから、|御迷惑《ごめいわく》ながらちつとばかり、いな【やつと】ばかりお|邪魔《じやま》になるかも|知《し》れませぬよ』
と|門口《かどぐち》から|喋《しやべ》りながら「お|上《あが》りなさいませ」とも|云《い》はぬに|早《はや》くも|座敷《ざしき》に|上《あが》り|込《こ》み、|火鉢《ひばち》の|前《まへ》にどつかと|坐《すわ》り、|柱《はしら》を|背《せ》に、|煙草《たばこ》を|燻《くゆ》らしながら、|傲然《がうぜん》と|構《かま》へて|居《ゐ》るその|憎《にく》らしさ。|楓姫《かへでひめ》は|淑《しと》やかに|襖《ふすま》を|開《あ》けて|高姫《たかひめ》の|前《まへ》に|現《あら》はれ、
『ヤ、お|前《まへ》さまは|義理天上《ぎりてんじやう》さまぢやな。|此《この》|間《あひだ》は|真《まこと》にお|気《き》の|毒《どく》さま、イヒヒヒヒヒ、|貴女《あなた》もあれでよい|修業《しゆげふ》をなさつたでせうね。お|父《とう》さまやお|母《かあ》さまに|大切《たいせつ》な|毒散《どくさん》を|振《ふ》れ|舞《まひ》つて|下《くだ》さいまして、|真《まこと》にお|気《き》の【|毒《どく》さま】で|厶《ござ》いましたなア。ホホホホホ』
|高姫《たかひめ》は、ぎよつとしながら|左《さ》あらぬ|体《てい》にて、
『これ|楓《かへで》さま、なんぼ|年《とし》が|若《わか》いと|云《い》つても、その|悪言《あくげん》は|聞《き》き|捨《ず》てなりませぬぞや。お|前《まへ》さまは|此《この》|義理天上《ぎりてんじやう》が、|御両親《ごりやうしん》に|毒《どく》を|盛《も》つたと|云《い》ひましたな。|何《なに》を|証拠《しようこ》にそんな|事《こと》を|仰有《おつしや》る。この|義理天上《ぎりてんじやう》に、あらぬ|悪名《あくめい》をつけ、|無実《むじつ》の|咎《とが》を|負《お》はせて|追《お》ひ|出《だ》さうとの|企《たく》みであらうがな。|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|悪人《あくにん》ばかりで、|挺《てこ》にも|棒《ぼう》にもおへた|代物《しろもの》ぢやないわい。これ|程《ほど》|此《この》お|館《やかた》に|悪魔《あくま》が|蔓《はびこ》る|以上《いじやう》は、いつかな いつかな|此《この》|高姫《たかひめ》は、お|前達《まへたち》が|追《お》ひ|出《だ》さうと|云《い》つたつて【びく】とも|動《うご》きはしませぬぞえ。そして|珍彦《うづひこ》さま、|静子《しづこ》さまは|何《なに》をして|厶《ござ》るのだ。「|毒《どく》を|呑《の》ました」と、こんな|失礼《しつれい》な|事《こと》を|現在《げんざい》|自分《じぶん》の|娘《むすめ》が|云《い》つて|居《ゐ》るのに|断《ことわ》りにも|来《こ》ず、|揃《そろ》ひも|揃《そろ》つた|四《よ》つ|足《あし》|身魂《みたま》ぢやな。これだからこの|義理天上《ぎりてんじやう》が|骨《ほね》が|折《を》れるのだ。こんな|分《わか》らずやの|悪人《あくにん》が|結構《けつこう》な|結構《けつこう》なお|館《やかた》を|汚《けが》して|居《ゐ》るものだから、|神力無双《しんりきむさう》の|杢助《もくすけ》さま|迄《まで》、お|前達《まへたち》の|犠牲《ぎせい》となつてあんな|深傷《ふかで》を|負《お》ひ、|今《いま》ではお|姿《すがた》も|見《み》えない。|大方《おほかた》お|前達《まへたち》が|汚《よご》れて|居《を》るので、|清浄無垢《せいじやうむく》の|杢助様《もくすけさま》はお|嫌《きら》ひ|遊《あそ》ばし、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へお|帰《かへ》りなさつたのだらう。エエ|仕方《しかた》のない|曲津《まがつ》が|寄《よ》つたものだなア。|変性女子《へんじやうによし》のしようもない|教《をしへ》にとぼけて|居《ゐ》る|八島主《やしまぬし》を|初《はじ》め、|玉国別《たまくにわけ》、|五十子姫《いそこひめ》などと|云《い》ふ|阿婆摺女《あばずれをんな》が|肝腎《かんじん》の|義理天上様《ぎりてんじやうさま》に|相談《さうだん》も|致《いた》さず、|許《ゆる》しもうけず、|勝手《かつて》|気儘《きまま》に|大神様《おほかみさま》のお|鎮《しづ》まり|遊《あそ》ばす|御聖場《ごせいぢやう》に、|鷹《たか》か|鳶《とんび》か|狸《たぬき》か|鼬《いたち》か|分《わか》りもしない|御霊《みたま》の|宿《やど》つた|珍彦《うづひこ》|夫婦《ふうふ》を、|大《だい》それた|神司《かむつかさ》に|任《にん》じ、|其《その》|上《うへ》バラモン|教《けう》の|落武者《おちむしや》、|箸《はし》にも|棒《ぼう》にもかからないガラクタ|人足《にんそく》を|半《はん》ダースも|引張《ひつぱ》り|込《こ》み、|聖場《せいぢやう》を|日《ひ》に|月《つき》に|汚《けが》すものだから、|杢助様《もくすけさま》の|犠牲《ぎせい》ではまだ|足《た》らぬと|見《み》え、|女房《にようばう》の|義理天上《ぎりてんじやう》|迄《まで》が|長《なが》らくの|苦《くる》しみ、|是《これ》もやつぱりお|前達《まへたち》|親子《おやこ》の|為《ため》に|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》うたのだ。あの|病気中《びやうきちう》にせめて|一度《いちど》|位《くらゐ》、「|義理天上様《ぎりてんじやうさま》、|御気分《おきぶん》はどうですか、お|薬《くすり》は|如何《どう》か」と|義理一遍《ぎりいつぺん》の|挨拶《あいさつ》にでも|来《き》たらよささうなものだなア。|本当《ほんたう》に|恩《おん》|知《し》らずと|云《い》つても、|犬畜生《いぬちくしやう》にも|劣《おと》つた【どたほし】|者《もの》だ。|珍彦《うづひこ》、|静子《しづこ》|夫婦《ふうふ》は、|私《わたし》の|神徳《しんとく》に|怖《おそ》れて|何処《どこ》へ|潜伏《せんぷく》したのだ。サア|楓《かへで》さま、|一遍《いつぺん》|御意見《ごいけん》をして|上《あ》げねばならぬから、ここへ|連《つ》れて|来《き》なさい』
『イヤですよ。お|前《まへ》さまは|杢助《もくすけ》の|妖幻坊《えうげんばう》と|腹《はら》を|合《あは》せて、|毒散《どくさん》と|云《い》ふ|悪《わる》い|薬《くすり》をお|父《とう》さまやお|母《かあ》さまに|呑《の》ました|怖《おそ》ろしい|大悪魔《だいあくま》だから、|何程《なにほど》お|前《まへ》さまが|苦《くる》しんで|居《ゐ》ても、よい|罰《ばち》だと|思《おも》つて|誰《たれ》も|訪《たづ》ねに|往《ゆ》くものがないのよ。|気《き》の|毒《どく》ですねえ。ホホホホホ』
『これ|阿魔《あま》つちよ。|何《なん》だ|小《こ》ちつぺの|態《ざま》をして、|毒散《どくさん》を|呑《の》ましたなぞと、|何《なに》を|証拠《しようこ》にそんな|事《こと》を|云《い》ふのだ。|毒《どく》でない|証拠《しようこ》には、お|前《まへ》の|両親達《りやうしんたち》は|何《なん》の|事《こと》もないぢやないか。|熱《ねつ》が|一《ひと》つ|出《で》たと|云《い》ふのぢやなし、|咳《せき》を|一《ひと》つしたと|云《い》ふのぢやなし、そんな|無体《むたい》の|事《こと》を|云《い》ふと、|此《この》お|館《やかた》には|居《を》つて|貰《もら》ひませぬぞや』
『|大《おほ》きに|憚《はばか》りさま。お|前《まへ》さまのやうな|怖《おそ》ろしい|人《ひと》は|顔《かほ》を|見《み》るのもいやだと|云《い》つて、お|父《とう》さまやお|母《かあ》さまは、|昨夜《さくや》の|中《うち》に|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ、そつとお|参《まゐ》りになりましたよ。ここは|珍彦《うづひこ》の|監督権内《かんとくけんない》、お|前《まへ》さまが|義理天上《ぎりてんじやう》か|不義理《ふぎり》の|天上《てんじやう》か|知《し》らぬけれど、まア|二三日《にさんにち》|待《ま》つて|居《ゐ》なされ、きつと|立退《たちの》き|命令《めいれい》が、|斎苑《いそ》の|館《やかた》から|下《さが》つて|来《く》るのに|違《ちが》ひありませぬわ、エヘヘヘヘ、お|気《き》の|毒《どく》さまねえ』
『ほんにほんに|年歯《としは》も|往《ゆ》かぬ|阿魔《あま》つちよの|癖《くせ》に、|何《なん》とした|謀叛《むほん》を|企《たく》らむのだらう。|毒害《どくがい》を|致《いた》したなぞと、|此《この》|生宮《いきみや》を|大《だい》それた|斎苑《いそ》の|館《やかた》|迄《まで》|讒言《ざんげん》しに|往《ゆ》きよつたのだな。エー、アタ|小面《こづら》の|憎《にく》い、|今《いま》に|思《おも》ひ|知《し》らしてやる|程《ほど》に、|仮令《たとへ》|立退《たちの》き|命令《めいれい》が|来《き》たとて、いつかないつかな|日出神《ひのでのかみ》の|御命令《ごめいれい》の|下《くだ》らぬ|以上《いじやう》は|動《うご》きは|致《いた》さぬぞや』
『オホホホホ、|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》、|嘘《うそ》だよ|嘘《うそ》だよ、あんまりお|前《まへ》さまが|悪《わる》い|事《こと》を|企《たく》むから、お|父《とう》さまとお|母《かあ》さまがとてもやり|切《き》れないから、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|注進《ちゆうしん》に|往《ゆ》かうかと|云《い》つて|居《ゐ》たのだよ。まだ|行《い》つて|居《ゐ》ないから、お|社《やしろ》へでも|御祈念《ごきねん》にいらしたのだらう。|今《いま》の|間《うち》に|改心《かいしん》して、お|父《とう》さまやお|母《かあ》さまに|毒《どく》を|呑《の》ましたお|詫《わび》をなされば、|私《わたし》が|取《と》り|持《も》つて|斎苑《いそ》の|館《やかた》|往《ゆ》きを|留《と》めて|上《あ》げませう。|天上《てんじやう》さま、どうですな。この|事《こと》を|注進《ちゆうしん》されたら、|何程《なにほど》|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》でもちつとは|困《こま》るでせう』
『|無実《むじつ》の|罪《つみ》を|着《き》せられて|困《こま》る|者《もの》が|何処《どこ》にあるか。|無実《むじつ》の|咎《とが》でおめおめと|親子《おやこ》が|四方《しはう》に|流《なが》され、|泣《な》いて|一生《いつしやう》を|暮《くら》した|未来《みらい》の|菅公《くわんこう》|見《み》たやうな|人間《にんげん》とは、ヘンちつと|違《ちが》ひますぞや。|誣告《ぶこく》の|罪《つみ》で、|此方《こつち》の|方《はう》から|訴《うつた》へてやるのだ。|何《なん》と|云《い》つても|承知《しようち》はせないぞや。さあ|早《はや》く|両親《りやうしん》をここへ|引《ひ》きずり|出《だ》して、|義理天上様《ぎりてんじやうさま》に、|頭《かしら》を|地《ち》に|摺《す》りつけ、|尻《しり》を|花瓶《なはたて》にしてあやまりなさい。さうしたら|都合《つがふ》によつたら、|虫《むし》を|押《おさ》へこらへてやらぬものでもない』
『オホホホホ、オイ|馬鹿《ばか》の|天上《てんじやう》さま、|悪《あく》の|天上《てんじやう》さま、どつこい|不義理《ふぎり》の|天上《てんじやう》さま、さうは|往《ゆ》きませぬぞや。お|前《まへ》さまが|妖幻坊《えうげんばう》と|相談《さうだん》をして、|印度《ツキ》の|国《くに》から|持《も》つて|来《き》た|毒散《どくさん》をお|酒《さけ》の|中《なか》や|御飯《ごはん》の|中《なか》にまぜて|喰《く》はしたのだ。けれど、|家《うち》のお|母《かあ》さまやお|父《とう》さまは|言霊別命《ことたまわけのみこと》|様《さま》の|御化身《ごけしん》、いやお|使《つか》ひ、|文珠菩薩《もんじゆぼさつ》さまから、|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|神丹《しんたん》と|云《い》ふ|霊薬《れいやく》を|頂《いただ》いてゐらつしやつたのだから、|其《その》|毒散《どくさん》が|利《き》かなかつたのよ。サアどうですか。|若《も》し|楓《かへで》の|云《い》ふ|事《こと》が|違《ちが》ふなら、|今《いま》|文珠菩薩様《もんじゆぼさつさま》を|念《ねん》じて|此処《ここ》に|現《あら》はれて|貰《もら》ふから、さうしたらお|前《まへ》さまも|往生《わうじやう》しなくちやなりますまい』
『そんな|事《こと》は|知《し》らぬわい。|子供《こども》だてらツベコベ|言《い》ふものぢやない。|苟《いやし》くも|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》たる|善一条《ぜんひとすぢ》の|高姫《たかひめ》が、|夢《ゆめ》にもそんな|事《こと》を|致《いた》すものか。それはお|前達《まへたち》の|僻《ひが》みから、そんな|夢《ゆめ》を|見《み》たのだ。そして|許《ゆる》し|難《がた》い|事《こと》は、|吾《わが》|夫《をつと》|杢助様《もくすけさま》を|捉《つか》まへて|妖幻坊《えうげんばう》だと|云《い》つたらう。サア|何《なに》を|証拠《しようこ》にそんな|事《こと》を|云《い》ふのか、|誹謗《ひばう》の|罪《つみ》で|訴《うつた》へますぞや』
『ホホホホホ、|未丁年者《みていねんしや》や|少女《せうぢよ》の|言葉《ことば》は|法律《はふりつ》にはかかりませぬぞや。|真《まこと》にお|気《き》の|毒《どく》さま、|毒散《どくさん》の|効能《かうのう》も、|神力《しんりき》の|前《まへ》にはサツパリ|駄目《だめ》ですなア。サアサア|早《はや》く|帰《かへ》つて|頂戴《ちやうだい》』
|高姫《たかひめ》は|大《おほ》いに|怒《いか》り、|楓《かへで》の|胸倉《むなぐら》をグツと|取《と》り、|拳《こぶし》を|固《かた》めて、
『エエ、ツベコベとよく|囀《さへづ》る|燕《つばくろ》め、この|栄螺《さざえ》の|壺焼《つぼやき》をお|見舞《みま》ひ|申《まを》すぞ』
と|云《い》ひながら、|可憐《かれん》なる|少女《せうぢよ》の|頭《かしら》を|三《み》つ|四《よ》つ|続《つづ》け|打《う》ちに|打《う》つた。
『アレー、|人殺《ひとごろし》ー』
と|楓《かへで》が|叫《さけ》ぶ|声《こゑ》を|耳《みみ》にし、バラバラと|駆《か》けつけて|来《き》たのはイル、イク、サール、ハル、テルの|五人《ごにん》であつた。
(大正一二・一・二一 旧一一・一二・五 加藤明子録)
第一二章 |敵愾心《てきがいしん》〔一三〇六〕
|楓《かへで》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》に|取《と》る|物《もの》も|取《と》り|敢《あ》へず、ヅブ|六《ろく》|連中《れんちう》は|此《この》|場《ば》へバラバラツとやつて|来《き》た。|高姫《たかひめ》は|五人《ごにん》の|酔《よひ》どれをグツと|睨《にら》み、|声《こゑ》を|荒《あら》らげて、
『コリヤ、|老耄《もうろく》|奴《め》、|騒《さわ》がしい、ドヤドヤと、|何《なに》しにうせたのだ。|不都合《ふつがふ》な|事《こと》を|申《まを》すによつて、|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》が|折檻《せつかん》を|致《いた》してをるのだ。いらざるチヨツカイを|出《だ》し、|構《かま》ひ|立《だ》てを|致《いた》すと|了簡《れうけん》ならぬぞや』
『コレ、イルさま、イクさま、|早《はや》う|天上《てんじやう》さまを|放《はな》して|下《くだ》さいなア』
イル『ハイ|宜《よろ》しい、お|前《まへ》さまを|助《たす》けに|来《き》たのだ』
と|座敷《ざしき》へかけ|上《あが》る。|高姫《たかひめ》は、
『イーイ、|小癪《こしやく》な|老耄《もうろく》|奴《め》』
と|胸倉《むなぐら》をドンと|突《つ》いた。イルはヨロヨロとヨロめき、|縁側《えんがは》から|前《まへ》へ|仰向《あふむ》けにひつくり|返《かへ》つた。|此《この》|態《てい》を|見《み》て、イク、サール、ハル、テルの|四人《よにん》はヒヨロヒヨロしながらも、|気《き》ばかりは|勝《か》つてゐるので、|高姫《たかひめ》|目《め》がけて|武者振《むしやぶ》りつかうとする。|高姫《たかひめ》は|楓《かへで》を|放《はな》しおき、|両手《りやうて》を|拡《ひろ》げて、|出《で》て|来《く》る|奴《やつ》を|力《ちから》に|任《まか》せ、ウンとつく。|何《いづ》れもヘベレケに|酔《よ》うてゐるのだからたまらない、|高姫《たかひめ》が|非力《ひりき》にも|敵《てき》し|難《がた》く、|将棋倒《しやうぎだふ》しに|放《ほ》り|出《だ》されて|了《しま》つた。そして|五人《ごにん》は|目《め》がマクマクとしたと|見《み》え、|泡《あわ》をふいて|苦《くる》しんでゐる。|高姫《たかひめ》は|座敷《ざしき》の|中央《まんなか》に|大《だい》の|字形《じがた》に|立《た》ちはだかり、|大音声《だいおんじやう》、
『|日出神《ひのでのかみ》、|義理天上《ぎりてんじやう》の|生宮《いきみや》の|神力《しんりき》は、マヅ|此《この》|通《とほ》りだ。|仮令《たとへ》|百人《ひやくにん》|千人《せんにん》|一万匹《いちまんびき》たりとも、|来《きた》らば|来《きた》れ、|御神徳《ごしんとく》の|今《いま》や|現《あら》はれ|時《どき》』
と|図《づ》にのつてホラを|吹立《ふきた》てる。そして|楓《かへで》が|後《うしろ》にゐることは、|前《まへ》に|気《き》を|取《と》られて、スツカリ|忘《わす》れてゐた。|楓《かへで》はソツと|後《うしろ》から|高姫《たかひめ》の|両足《りやうあし》を|掬《すく》つた。アツと|叫《さけ》んで、スツテンドウとひつくり|返《かへ》り、|勢《いきほひ》|余《あま》つて|再《ふたた》び|転回《てんくわい》し、|五人《ごにん》の|上《うへ》にドスンと|倒《たふ》れた。|其《その》|間《あひだ》に|楓《かへで》は|急《きふ》を|両親《りやうしん》に|報《ほう》ずべく、|真跣足《まつぱだし》となつて|裏口《うらぐち》から|神殿《しんでん》へとかけて|行《ゆ》く。|高姫《たかひめ》は|膝頭《ひざがしら》と|向脛《むかふずね》を|縁板《えんいた》に|打《う》ちつけ、|顔《かほ》をしかめて、|声《こゑ》さへえ|上《あ》げず「ウーンウーン」と|深《ふか》き|息《いき》をついてうめいてゐる。|五人《ごにん》の|酔《よひ》どれは|漸《やうや》くにして|起上《おきあが》り、|高姫《たかひめ》のそこに|倒《たふ》れたのを|見《み》て、
イル『コココリヤ、|高姫《たかひめ》、|俺《おれ》をどなたぢやと|心得《こころえ》てる、イルさまだぞ。|貴様《きさま》は|神罰《しんばつ》が|当《あた》つて、|梟鳥《ふくろどり》の|奴《やつ》に|目《め》をコツかれ、|木《き》からバツサリと|落《お》ちて、|難儀《なんぎ》をさらしてゐたぢやないか。|其《その》|時《とき》に|此《この》イルさまが|介抱《かいほう》してやつたことを|覚《おぼ》えてゐるか。|余《あんま》り|悪《あく》がすぎると、|此《この》|通《とほ》りだ。エエー、オオ|俺《おれ》の|意中《いちう》の|愛人《あいじん》たる|楓《かへで》さまを、|何科《なにとが》があつて、ぶんなぐりやがつたのだ。ササ|貴様《きさま》、そこに|倒《たふ》れてゐやがるのを|幸《さいは》ひ、|愛人《あいじん》の|敵《かたき》をうつてやるのだ。エエー、コレ|楓《かへで》さま、|今《いま》お|前《まへ》の|敵《かたき》をうつから|見《み》とりなさいや』
イク『おい、イル、|楓《かへで》さまは|逃《に》げて|行《い》つたぢやないか』
『ウーン、|肝腎《かんじん》の|御本人《ごほんにん》がゐないと、|何《なん》だか|変哲《へんてつ》がないワイ。お|馬《うま》の|前《さき》の|功名《こうみやう》でないと、|縁《えん》の|下《した》の|力持《ちからもち》ではつまらぬからのう』
サール『|此《この》|婆《ばば》は、|又《また》しても|又《また》しても、|乱暴《らんばう》な|事《こと》ばかりしやがる|奴《やつ》だなア。|木《き》からブチヤだれやがつて、|大変《たいへん》に|苦《くる》しみ、|俺《おれ》たちに|厄介《やくかい》をかけておきながら、チツと|病気《びやうき》が|癒《なほ》つたと|思《おも》へば、|又《また》もや|発動《はつどう》しやがつて、あんな|可愛《かあい》い|娘《むすめ》を|打擲《ちやうちやく》するとは|怪《け》しからぬ|奴《やつ》だ。|大《おほ》いに|楓《かへで》さまの|肩《かた》をもつて、|此《この》|婆《ばば》をイヤといふ|程《ほど》|擲《なぐ》りつけてやりたいものだな。コリヤ、|高姫《たかひめ》、|貴様《きさま》、それ|程《ほど》、キリキリ|上《あが》つたり、おりたり、|魔法《まはふ》を|使《つか》ひよると、|俺《おれ》だとて|一寸《ちよつと》つかまへにくいわ。チツと|静《しづか》にせぬかい。こりや、おい、イク、ハル、イル、テルの|奴《やつ》まで、|上《うへ》になつたり|下《した》になつたり、まいまいこんこしてゐよる、オヤ|家《いへ》までまはり|出《だ》したぞ。コリヤ|大地震《おほぢしん》だ。|小《ちひ》さい|喧嘩《けんくわ》をやめて、|皆《みな》|非常組《ひじやうぐみ》と|出《で》かけななるまい、コリヤ|皆《みな》の|奴《やつ》、そんな|所《ところ》にキリキリ|舞《まひ》しとる|時《とき》ぢやないぞよ』
|高姫《たかひめ》は|打創《うちきず》の|大痛《おほいたみ》も|余程《よほど》|軽減《けいげん》したので、ムクムクと|起上《おきあが》り、
『コリヤ、|五人《ごにん》の|老耄《もうろく》、|貴様《きさま》は|此《この》|高姫《たかひめ》の|義理天上様《ぎりてんじやうさま》を|何《なん》と|心得《こころえ》とる。|許《ゆる》しもなしに|酒《さけ》に|喰《くら》ひ|酔《よ》うて、|其《その》|上《うへ》に|生宮様《いきみやさま》に|刃向《はむ》かふとは|何《なん》の|事《こと》だ、|不心得《ふこころえ》にも|程《ほど》があるぞや』
テル『ナナナ|何《なに》を|吐《ぬか》しよるのだい、|悪《あく》の|張本人《ちやうほんにん》|奴《め》が。|爺《おやぢ》の|行方《ゆくへ》が|知《し》れぬので、|発狂《はつきやう》しよつたのだな。オイ、コラ、|皆《みな》の|奴《やつ》、こんな|気違《きちがひ》に|相手《あひて》になるな』
『コーリヤ、モウ|了簡《れうけん》せぬぞ、みせしめの|為《ため》だ。|日出神《ひのでのかみ》の|鉄拳《てつけん》をくらへ』
と|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》めて、|小口《こぐち》から|打《う》つて|行《ゆ》かうとする。|此《この》|時《とき》|後《うしろ》の|方《はう》から、
『ウーツ ウーツ』
と|唸《うな》つてやつて|来《き》たのは|例《れい》のスマートであつた。そしてスマートは|高姫《たかひめ》の|怪我《けが》せないやうに|裾《すそ》を|食《く》はへて|怪力《くわいりき》に|任《まか》せ、ドンドンドンと|後向《うしろむ》けに|引《ひ》きずつて|行《ゆ》く。|高姫《たかひめ》は|腰《こし》から|下《した》を|丸出《まるだ》しにして、
『オーイ、イル、イク、サール、|助《たす》けに|来《こ》ぬか、オーイオーイ』
と|云《い》ひながら、ドンドンドンと|森《もり》の|中《なか》へと|引《ひ》かれて|行《ゆ》く。|五人《ごにん》は|此《この》|恐《おそ》ろしきスマートの|働《はたら》きに|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|酒《さけ》の|酔《よ》ひもさめ、ポカンと|口《くち》を|開《あ》けて、|高姫《たかひめ》の|叫《さけ》びながら|引張《ひつぱ》られて|行《ゆ》く|森《もり》の|方《はう》を|背伸《せの》びをしながら、|心地《ここち》よげに|見送《みおく》つて|居《ゐ》た。
|楓《かへで》は|慌《あわただ》しく|走《はし》り|帰《かへ》り、
『ア、|皆《みな》さま、よう|助《たす》けて|下《くだ》さいました。お|蔭《かげ》で|高姫《たかひめ》の|毒牙《どくが》を|逃《のが》れました。|一番《いちばん》がけに|駆《か》けつけて|下《くだ》さいましたのは|何方《どなた》で|厶《ござ》いましたいなア』
イル『ヘーエ、|拙者《せつしや》で|厶《ござ》います。|吾々《われわれ》|五人《ごにん》は|受付《うけつけ》に|於《おい》て|酒《さけ》の|酔《よひ》をさます|折《をり》しも、(|芝居《しばゐ》|口調《くてう》)|忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|怪《あや》しの|声《こゑ》、しかも|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》……と|聞《き》くより、|気《き》も|狂乱《きやうらん》、|救《すく》ひ……|出《だ》さねばなるまいと、|後《うしろ》|鉢巻《はちまき》リンとしめ、|襷十字《たすきじふじ》にあや|取《ど》り、|袴《はかま》の|股立《ももだち》ヂンと|上《あ》げ、|此方《こなた》を|指《さ》して、|一目散《いちもくさん》に、タツタツタツと|一散走《いつさんばし》り、|来《き》て|見《み》れば|虎狼《こらう》にも|等《ひと》しき、|馬鹿《ばか》の|天上《てんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》、おのれ、|最愛《さいあい》の|楓姫《かへでひめ》|様《さま》を|打擲《ちやうちやく》いたすとは|不埒千万《ふらちせんばん》、|切《き》つてすてむとかけよる|折《をり》しも、|敵《てき》の|力《ちから》やまさりけむ、グツと|胸《むね》をつかれ、ヨーロヨロヨロヨロと|三間《さんげん》ばかり、たあちまち、|縁側《えんがは》より|仰向《あふむけ》にスツテンドウと|顛落《てんらく》し、|頭蓋骨《づがいこつ》をシタタカ|砕《くだ》き、|腰《こし》の|骨《ほね》を|幾《いく》らか|痛《いた》めたれど、|何《なに》を|云《い》つても|最愛《さいあい》の|楓姫《かへでひめ》の|身代《みがは》りと|思《おも》へば、|死《し》しても|冥《めい》すべし……と|覚悟《かくご》をきはめました。|実《げ》に|勇《いさ》ましき|勇士《ゆうし》でげせうがなア』
『ホホホあのマア|御元気《おげんき》なこと、|男《をとこ》さまはお|酒《さけ》に|酔《よ》ふと、それだから|厭《いや》なのよ』
サール『アハハハハ、コリヤ、イル、どこに|捻鉢巻《ねぢはちまき》をしてるのだい。|襷十文字《たすきじふもんじ》も、|袴《はかま》の|股立《ももだち》も、どこにあるのだ。あまり|馬鹿《ばか》にするない。そんな|事《こと》を|云《い》ふから、|楓《かへで》さまに|笑《わら》はれるのだ』
イル『ナアニ、|一寸《ちよつと》|芝居《しばゐ》をして|見《み》たのだよ。アツハハハハ』
『|時《とき》に|皆《みな》さま、|高姫《たかひめ》さまは|何処《どこ》へ|行《ゆ》かれましたの』
イル『ナアニ|心配《しんぱい》なさいますな。|今頃《いまごろ》にや|猛犬《まうけん》に|喰《く》はれて|居《ゐ》るに|違《ちが》ひありませぬワ。あの|犬《いぬ》だつて、あんな|大《おほ》きな|体《からだ》をスツカリ|食《く》うて|了《しま》ふ|筈《はず》もありますまいから、|腕《うで》の|一本《いつぽん》でも|残《のこ》つて|居《を》れば、|其奴《そいつ》を|葬《はうむ》つてやればいいのだ。マア|貴女《あなた》の|強敵《きやうてき》が|亡《ほろ》びまして|結構《けつこう》ですよ、|御安心《ごあんしん》なさいませ。かくの|如《ごと》き|万夫不当《ばんぷふたう》の|大丈夫《ますらを》が|此《この》|館《やかた》に|立籠《たてこも》る|以上《いじやう》は、|如何《いか》なる|敵《てき》が|押《お》しよせ|来《きた》るとも、|何条《なんでう》ひるむべき、|忽《たちま》ち|木端微塵《こつぱみぢん》と|踏《ふ》み|砕《くだ》き、|蹴倒《けたふ》し|薙《な》ぎ|倒《たふ》し、|天晴《あつぱれ》|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|現《あら》はし、|勝鬨《かちどき》あぐるは|瞬《またた》く|間《うち》、|姫君様《ひめぎみさま》、|必《かなら》ず|必《かなら》ず|御煩慮《ごはんりよ》なされますなや』
と|芝居《しばゐ》がかりになつてゐる。
『そんな|気楽《きらく》な|事《こと》|云《い》つて|居《を》らず、|早《はや》く|高姫《たかひめ》さまを|助《たす》けて|上《あ》げて|下《くだ》さいな』
イル『ハイ、|私《わたし》にお|頼《たの》みですか。|但《ただし》はイクにですか。|又《また》はサール、ハル、テル、|何《いづ》れに|御指定《ごしてい》|下《くだ》さいますかなア』
『エーエ、お|酒《さけ》に|酔《よ》うて、|困《こま》つた|人《ひと》だなア。|皆《みな》さま、|早《はや》う|行《い》つて|助《たす》けて|下《くだ》さいな。マゴマゴしてゐちや、|高姫《たかひめ》さまの|命《いのち》がなくなりますよ』
イル『ヘヘヘ、|何《なに》|仰有《おつしや》います。あんな|奴《やつ》ア、|犬《いぬ》に|食《く》はれた|方《はう》が、|余程《よつぽど》|都合《つがふ》が|宜《よろ》しいよ。のう|皆《みな》の|連中《れんちう》』
サール『それでも|女王様《ぢよわうさま》の|御命令《ごめいれい》だから、ともかく、|見《み》るだけでもいいから|往《い》つて|来《こ》うぢやないか』
と|下《くだ》らぬクダを|巻《ま》いてゐる。そこへ|初稚姫《はつわかひめ》は|珍彦《うづひこ》|夫婦《ふうふ》を|伴《ともな》ひ、|現《あら》はれ|来《きた》り、
『あ、|貴女《あなた》は|楓《かへで》さま、お|怪我《けが》は|厶《ござ》いませなんだか、|危《あぶ》ない|事《こと》だつたさうですね』
『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。チツとばかり|頭《あたま》が|痛《いた》みますけれど、|大《たい》した|事《こと》も|厶《ござ》いますまい』
|珍彦《うづひこ》『|余《あま》り|楓《かへで》は|口《くち》がいいものですから、|義理天上《ぎりてんじやう》さまのお|怒《いか》りに|触《ふ》れたのでせうよ』
『それだつてお|父《とう》さま、|毒殺《どくさつ》を|企《たく》んでおいて、あべこべに|私《わたし》をとつちめるのですもの、|私《わたし》だつて、|余《あんま》りで|言《い》はぬと|居《を》る|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬワ』
|静子《しづこ》『あの|通《とほ》りのお|転婆《てんば》で|厶《ござ》いますから、|本当《ほんたう》に|親《おや》が|困《こま》ります。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、|親《おや》の|教育《けういく》が|悪《わる》いものですから、こんな|時《とき》にアラが|見《み》えまして、お|恥《はづか》しう|厶《ござ》います』
イル『ナーニ、|高姫婆《たかひめばば》|奴《め》、|毒害《どくがい》をしようと|企《たく》みよつたのか、|其奴《そいつ》ア|聞《き》き|捨《ず》てならぬ。オイ|家来《けらい》|共《ども》、|悪人《あくにん》の|征伐《せいばつ》だ、サア|来《こ》いツ。|腕《うで》をねぢ|切《き》り|股《また》を|引《ひ》きさき、|首《くび》をチヨン|切《ぎ》つてこらしめてやらう。いざ|来《こ》い、|来《きた》れ』
と|尻《しり》ひつからげ|早《はや》くも|駆《か》け|出《だ》さうとする。|四人《よにん》も、
『ヨーシ、|合点《がつてん》だ、|突貫々々《とつくわんとつくわん》』
と|云《い》ひながら、|尻《しり》ひつからげ、かけ|出《だ》さうとするのを|初稚姫《はつわかひめ》は|声《こゑ》を|励《はげ》まし、
『|皆《みな》さま、お|待《ま》ちなさい』
と|制止《せいし》した。
イル『それぢやと|申《まを》して、|斯《かく》の|如《ごと》き|悪人《あくにん》を、どうノメノメと|見《み》のがす|事《こと》が|出来《でき》ませう。どうぞ|私《わたし》に|天上《てんじやう》の|命《いのち》をとらして|下《くだ》さい。|日頃《ひごろ》|鍛《きた》へた|武術《ぶじゆつ》の|手前《てまへ》、|二尺八寸《にしやくはつすん》|伊達《だて》にはささぬ』
と|又《また》もや|駆《か》け|出《だ》さうとする。|初稚姫《はつわかひめ》は|両手《りやうて》を|拡《ひろ》げて|五人《ごにん》の|前《まへ》に|立塞《たちふさ》がり、
『|待《ま》つた|待《ま》つた、お|待《ま》ちなさいませ。|楓《かへで》さまが|夢《ゆめ》を|御覧《ごらん》になつたのですよ。サツパリ|嘘《うそ》ですからな、メツタな|事《こと》をしては|可《い》けませぬ』
と|初稚姫《はつわかひめ》の|早速《さつそく》の|頓智《とんち》に|五人《ごにん》は|張切《はりき》つた|勢《いきほひ》も|抜《ぬ》け、|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあは》せ、
『ナーンダ、|馬鹿《ばか》らしい、|夢《ゆめ》だつたか』
と|手持無沙汰《てもちぶさた》に、|又《また》もやしやがんで|了《しま》つた。
『それだつて、|私《わたし》、チツトも|嘘《うそ》は|云《い》はないワ』
『|楓《かへで》さま、|夢《ゆめ》の|浮世《うきよ》といふ|事《こと》がありますよ。お|前《まへ》さまは|夢《ゆめ》をみてゐたのですよ。|夢《ゆめ》と|思《おも》ひさへすりやすむ|事《こと》ですからね』
『だつて|頭《あたま》が|痛《いた》みますもの、|夢《ゆめ》になぐられても|矢張《やつぱり》こんなに|痛《いた》いでせうかな』
と|頭《あたま》を|抱《かか》へて、|恨《うら》めしさうにしやがんで|了《しま》つた。
|珍彦《うづひこ》『|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、|仕方《しかた》のない|娘《むすめ》でせうがな。|時々《ときどき》|大《だい》それた、あんな|嘘《うそ》を|申《まを》しましてな、|両親《りやうしん》も|困《こま》りますの』
『お|父《とう》さま、わたえ、|嘘《うそ》は|嫌《きら》ひといふのに……そんな|事《こと》|云《い》つて|貰《もら》つちや、|私《わたし》の|立瀬《たつせ》がないワ。アンアンアンアン』
|静子《しづこ》『|何《なん》でもいいぢやないか。おとなしくしてゐなさい』
『それでも|痛《いた》くてたまらないワ』
|初稚《はつわか》『サ、イルさま、イクさま、|外《ほか》|三人《さんにん》さま、|早《はや》く|高姫《たかひめ》さまを|救《すく》ひ|出《だ》しに|行《い》つて|下《くだ》さいな』
イル『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました。サ、|四人《よにん》の|者《もの》|共《ども》、|天下無双《てんかむさう》の|勇士《ゆうし》、イルに|続《つづ》けツ、|前《まへ》へ|進《すす》めツ、|一《いち》|二《に》|三《さん》ツ』
と|軍隊式《ぐんたいしき》にチヨクチヨクと|地上《ちじやう》を|刻《きざ》みながら、|高姫《たかひめ》の|引《ひ》きずられて|行《い》つた|木《き》の|茂《しげ》みを|探《たづ》ねて|走《はし》り|行《ゆ》く。|後見送《あとみおく》つて|初稚姫《はつわかひめ》は|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|神界《しんかい》に|高姫《たかひめ》の|無事《ぶじ》ならむ|事《こと》を|祈《いの》つた。
|楓《かへで》『|姫様《ひめさま》、|本当《ほんたう》に|義理天上《ぎりてんじやう》といふあの|婆《ば》アさまは、|無茶《むちや》な|人《ひと》ですよ。|思《おも》ひ|出《だ》すと、|余《あんま》りの|業託《ごふたく》をいふので、|腹《はら》が|立《た》つてたまりませぬワ。|貴女様《あなたさま》がお|助《たす》け|下《くだ》さらなかつたならば、モウ|今頃《いまごろ》はお|父《とう》さまもお|母《かあ》さまも|亡《な》くなつてゐるのですもの。|私《わたし》は|子《こ》として、|何《ど》うしてこれが|黙《だま》つてゐられませうかねえ。チツと|戒《いまし》めておいてやらなければ、|何時《なんどき》、お|父《とう》さまやお|母《かあ》さまを|毒害《どくがい》するか|分《わか》つたものぢやありませぬ。|私《わたし》、ここ|一週間《いつしうかん》|程《ほど》といふものは、|夜分《やぶん》もロクに|寝《ね》た|事《こと》はありませぬのよ。|両親《りやうしん》の|身《み》の|上《うへ》が|気《き》にかかつて|仕方《しかた》がないのですもの』
『ああそれは|御尤《ごもつと》もで|厶《ござ》います。|併《しか》しながら|何事《なにごと》も|神様《かみさま》に|御任《おまか》せなさいませ。|三五教《あななひけう》の|宣伝歌《せんでんか》にも|厶《ござ》いませうがな……|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて、|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける……とお|示《しめ》しになつてゐますから、キツと|悪人《あくにん》は|神様《かみさま》が|仇《かたき》を|討《う》つて|下《くだ》さいますよ。|人間《にんげん》は|何事《なにごと》も|神様《かみさま》にお|任《まか》せする|方《はう》が|安全《あんぜん》ですからね』
『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います』
|珍彦《うづひこ》『|姫様《ひめさま》、よう|言《い》うて|聞《き》かして|下《くだ》さいました。|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》もこれでヤツと|安心《あんしん》|致《いた》しました。|実《じつ》の|所《ところ》、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》も|此《この》|間《あひだ》から|一目《ひとめ》も|能《よ》う|寝《ね》なかつたのです。|何時《なんどき》|此《この》|楓《かへで》が|懐剣《くわいけん》を|持《も》つて、|親《おや》の|敵《かたき》だと|云《い》つて、|高姫《たかひめ》|様《さま》に|切《き》りかけるやら|分《わか》らない|形勢《けいせい》で|厶《ござ》いましたので、|茲《ここ》|七八日《ななやうか》といふものは、|夫婦《ふうふ》の|者《もの》が|夜分《やぶん》になれば|一睡《いつすゐ》もせなかつたのです。どうぞ|不調法《ぶてうはふ》がないやうと|大神様《おほかみさま》に|祈《いの》つてゐました。|先《ま》づ|先《ま》づそのお|蔭《かげ》で|無事《ぶじ》に|今日《けふ》|迄《まで》|暮《く》れました。|誠《まこと》に|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|高姫《たかひめ》|様《さま》の|御大病中《ごたいびやうちう》にも|夫婦《ふうふ》の|者《もの》がお|尋《たづ》ねせなくちやなりませぬのだが、|娘《むすめ》が|聞《き》きませぬので、|心《こころ》ならずも、いかい|失礼《しつれい》を|致《いた》しました。|又《また》|娘《むすめ》は|娘《むすめ》として、|高姫《たかひめ》さまにお|見舞《みまひ》にやつてくれと|申《まを》しましたが、どうも|懐剣《くわいけん》を|放《はな》さないので、|剣呑《けんのん》でたまりませず、|娘《むすめ》も|見舞《みまひ》にやらず、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》もお|見舞《みまひ》にゆかず、|高姫《たかひめ》|様《さま》がお|不足《ふそく》|仰有《おつしや》るのも|無理《むり》も|厶《ござ》いませぬ。|何《なん》と|云《い》つても|親《おや》の|敵《かたき》を|討《う》つと|云《い》つて、あのイヤらしい|山口《やまぐち》の|森《もり》へ|丑《うし》の|時《とき》|参《まゐ》りをするといふ|娘《むすめ》で|厶《ござ》いますからな。|本当《ほんたう》に|敵愾心《てきがいしん》の|強《つよ》い、|女子《をなご》だてら|仕方《しかた》のない|難物《なんぶつ》で|厶《ござ》います。どうぞ|貴女様《あなたさま》のお|力《ちから》で、トツクリと|言《い》ひ|聞《き》かしてやつて|下《くだ》さいませ』
『|楓《かへで》さま、お|腹《はら》が|立《た》ちませうが、どうぞ|私《わたし》の|居間《ゐま》|迄《まで》|御遊《おあそ》びに|来《き》て|下《くだ》さいませ。|又《また》|面白《おもしろ》い|歌《うた》でも|歌《うた》つて|遊《あそ》びませう。サ、お|出《い》でなさいませ』
と|優《やさ》しく|楓《かへで》の|手《て》を|曳《ひ》いて、|十七才《じふしちさい》の|女《をんな》|同士《どうし》が|初稚姫《はつわかひめ》の|居間《ゐま》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一二・一・二一 旧一一・一二・五 松村真澄録)
第一三章 |盲嫌《まうけん》〔一三〇七〕
|初稚姫《はつわかひめ》の|居間《ゐま》には|初稚姫《はつわかひめ》、|楓姫《かへでひめ》の|二人《ふたり》が|丸火鉢《まるひばち》を|中《なか》に|置《お》いて、やさしい|声《こゑ》で|談話《だんわ》が|始《はじ》まつてゐる。
『|楓《かへで》さま、お|腹《はら》が|立《た》つでせうけど、そこを|忍《しの》ぶのが|勇者《ゆうしや》と|云《い》ふものですよ。なる|勘忍《かんにん》は|誰《たれ》もする、ならぬ|勘忍《かんにん》するが|勘忍《かんにん》と|申《まを》しまして、|忍耐《にんたい》|位《くらゐ》|善徳《ぜんとく》はありませぬ。|世《よ》の|中《なか》の|一切《いつさい》の|事《こと》は|忍耐《にんたい》によつて|平和《へいわ》に|治《をさ》まり、|又《また》|忍耐《にんたい》せざるによつて|騒動《さうだう》が|起《おこ》るのです。|忍《しの》ぶと|云《い》ふ|字《じ》は|刃《やいば》の|下《した》に|心《こころ》と|云《い》ふ|字《じ》を|書《か》きませうがな。|胸《むね》に|刃《やいば》を|呑《の》む|様《やう》な|苦《くる》しさ|残念《ざんねん》さも、|之《これ》に|耐《た》へ|得《う》るのが|之《これ》が|忍《しの》ぶです。|国祖大神《こくそおほかみ》|様《さま》は|此《この》|広大《くわうだい》な|世界《せかい》をお|造《つく》り|遊《あそ》ばし|数多《あまた》の|神人《しんじん》を|安住《あんぢゆう》させ、サアこれで|一息《ひといき》と|云《い》ふ|処《ところ》で、|金毛九尾《きんまうきうび》|其《その》|他《た》の|悪神《あくがみ》の|為《ため》に、|反対《はんたい》に|国治立尊《くにはるたちのみこと》は|悪神《あくがみ》だ、|祟《たた》り|神《がみ》だと|八百万《やほよろづ》の|神様《かみさま》にまで|罵《ののし》られ、|又《また》|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》はされて、あるにあられぬ|苦労《くらう》を|遊《あそ》ばし、|口惜《くや》し|残念《ざんねん》を|耐《こば》りつめて|只《ただ》の|一言《ひとこと》も|御不足《ごふそく》らしい|事《こと》は|仰有《おつしや》らなかつたのですよ。|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|生神様《いきがみさま》、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》も、あるにあられぬ|無実《むじつ》の|罪《つみ》をきせられ、|頭《あたま》の|毛《け》を|一本《いつぽん》|一本《いつぽん》|抜《ぬ》きとられ、|手足《てあし》の|爪《つめ》を|剥《は》がれ、|髭《ひげ》を|切《き》り、|其《その》|上《うへ》に|尊《たふと》き|御身《おんみ》を|漂浪人《さすらひびと》として|高天原《たかあまはら》より|放逐《はうちく》され|給《たま》ひながら、|少《すこ》しもお|恨《うら》み|遊《あそ》ばさず、|天下万民《てんかばんみん》の|罪《つみ》を|一身《いつしん》に|引受《ひきう》けて、|瑞《みづ》の|御霊《みたま》と|顕現《けんげん》し|給《たま》ひ、|今《いま》や|不心得千万《ふこころえせんばん》な|人間《にんげん》を|善道《ぜんだう》に|導《みちび》き、|天国《てんごく》の|生涯《しやうがい》をいや|永久《とこしへ》に|嬉《うれ》しく|楽《たの》しく、|一人《ひとり》もツツボに|落《おと》さず|助《たす》けてやらうとの|思召《おぼしめし》で、|三五教《あななひけう》を|天下《てんか》にお|開《ひら》き|遊《あそ》ばし、|妾《わらは》も|其《その》|手足《てあし》となつて|天下《てんか》に|其《その》|宣伝《せんでん》をしてゐるので|厶《ござ》ります。|貴女《あなた》も|亦《また》|此《この》|尊《たふと》き|大神様《おほかみさま》にお|仕《つか》へ|遊《あそ》ばす|珍彦《うづひこ》|様《さま》のお|娘子《むすめご》、そして|貴女《あなた》は|三五教《あななひけう》の|清《きよ》き|尊《たふと》き|信者《しんじや》なれば、|何程《なにほど》|高姫《たかひめ》さまが|無理難題《むりなんだい》を|仰有《おつしや》つても、|一言《ひとこと》も|怨《うら》んではなりませぬぞえ。|人間《にんげん》はチツとでも|腹《はら》を|立《た》てたり|致《いた》しますと、|悪魔《あくま》が|其《その》|虚《きよ》に|乗《じやう》じて|其《その》|霊《みたま》を|亡《ほろ》ぼし、|遂《つひ》には|肉体《にくたい》|迄《まで》も|亡《ほろ》ぼしますから、|腹《はら》を|立《た》てる|位《くらゐ》|恐《おそ》ろしいものの、|損《そん》なものは|厶《ござ》りませぬよ』
『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります。|妾《わたし》も|父《ちち》から|忍耐《にんたい》の|最《もつと》も|必要《ひつえう》なること|及《およ》び|忍耐《にんたい》は|万事《ばんじ》|成功《せいこう》の|基《もとゐ》であり、|人格《じんかく》の|基礎《きそ》であると|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》かされて|居《を》りますが、|何分《なにぶん》はしたない|女《をんな》ですから、つひ|心《こころ》の|海《うみ》に|荒波《あらなみ》が|立《た》ちまして、|柔順《じうじゆん》なるべき|女《をんな》の|身《み》として|高姫《たかひめ》|様《さま》に|対《たい》し|暴言《ばうげん》を|吐《は》きました。|今《いま》になつて|思《おも》へば|本当《ほんたう》に|恥《はづ》かしう|厶《ござ》ります。|神様《かみさま》は|妾《わたし》の|我情《がじやう》|我慢《がまん》をさぞお|憎《にく》しみ|遊《あそ》ばすで|厶《ござ》んせうな』
『いえいえ、|決《けつ》してお|案《あん》じなさいますな。|貴女《あなた》に|其《その》お|気《き》がついて|今後《こんご》|忍耐《にんたい》の|徳《とく》をお|養《やしな》ひなさいますれば、|決《けつ》して|神様《かみさま》はお|咎《とが》め|遊《あそ》ばす|所《どころ》か、|大変《たいへん》にお|喜《よろこ》び|遊《あそ》ばし、|貴女《あなた》の|霊《みたま》にも|肉《にく》にも|愛《あい》の|光明《くわうみやう》を|投《な》げ|与《あた》へ|給《たま》ひ、|此《この》|世《よ》に|於《おい》て|最《もつと》も|清《きよ》き|美《うる》はしき|大《おほ》いなるものと|成《な》さしめ|給《たま》ふもので|厶《ござ》ります』
『いろいろの|御教訓《ごけうくん》、|身《み》に|沁《し》み|渡《わた》つて|嬉《うれ》し|涙《なみだ》が|思《おも》はず|零《こぼ》れて|参《まゐ》ります。|扨《さ》て|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、|高姫《たかひめ》|様《さま》は|今《いま》の|悪心《あくしん》を|改良《かいりやう》して|下《くだ》さいますでせうか。さうでなくては|吾々《われわれ》は|父母《ふぼ》|両親《りやうしん》の|身《み》の|上《うへ》|案《あん》じられてなりませぬがな』
『|御尤《ごもつと》もで|厶《ござ》ります。|貴女《あなた》が|子《こ》として|御両親《ごりやうしん》をそこ|迄《まで》お|思《おも》ひ|遊《あそ》ばすのは|実《じつ》に|感《かん》じ|入《い》つた|御心掛《おこころが》けで|厶《ござ》ります。|然《しか》しながら|高姫《たかひめ》|様《さま》には|御気《おき》の|毒《どく》ながら、いろいろの|悪霊《あくれい》が|体内《たいない》に|群居《ぐんきよ》して|居《を》りますから、|到底《たうてい》|吾々《われわれ》の|力《ちから》では|及《およ》びませぬ。それだと|申《まを》して|高姫《たかひめ》|様《さま》を|魔道《まだう》へ|落《おと》したくはありませぬ。|飽《あく》まで|仁慈《じんじ》と|忍耐《にんたい》とを|以《もつ》て|立派《りつぱ》なお|方《かた》にして|上《あ》げなくては、|吾々《われわれ》|三五教《あななひけう》に|仕《つか》ふるものの|神様《かみさま》に|対《たい》する|役《やく》が|勤《つと》まりませぬからな』
『|如何《どう》|致《いた》しましたら、|高姫《たかひめ》|様《さま》を|救《すく》ふ|事《こと》が|出来《でき》ませうかな』
『この|上《うへ》は|神様《かみさま》の|御神力《おちから》を|借《か》るより|外《ほか》に|道《みち》は|厶《ござ》りませぬ。そして|何《なん》と|仰有《おつしや》つても、|此方《こちら》は|誠《まこと》と|親切《しんせつ》と|実意《じつい》と|忍耐《にんたい》とを|以《もつ》て|相対《あひたい》する|時《とき》は、|神様《かみさま》のお|恵《めぐみ》によりまして|屹度《きつと》よいお|方《かた》になつて|下《くだ》さるでせう。|吾々《われわれ》は|神様《かみさま》から|試験問題《しけんもんだい》を|与《あた》へられた|様《やう》なものですからな。|高姫《たかひめ》|様《さま》を|改心《かいしん》させる|事《こと》が|出来《でき》ない|様《やう》だつたら、|妾《わらは》は|宣伝使《せんでんし》|等《など》と|云《い》つて|歩《ある》く|事《こと》は|出来《でき》ませぬ』
『|本当《ほんたう》に|御苦労様《ごくらうさま》で|厶《ござ》りますな。|妾《わたし》もこれから|忍耐《にんたい》を|第一《だいいち》とし、|高姫《たかひめ》|様《さま》をわが|父母《ちちはは》|同様《どうやう》に|敬《うやま》ひ|愛《あい》する|事《こと》に|致《いた》しませう』
『ああよう|云《い》うて|下《くだ》さいました。|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります。サア|楓《かへで》さま、お|父《とう》さまやお|母《かあ》さまがお|待《ま》ち|兼《か》ねで|厶《ござ》りませうから、|追《お》ひ|立《た》てた|様《やう》で|済《す》みませぬが|一先《ひとま》づお|帰《かへ》り|下《くだ》さつて、|又《また》|改《あらた》めて|遊《あそ》びにおいで|下《くだ》さいませ。|高姫《たかひめ》さまが|今《いま》スマートに|引《ひ》きずられ、|大変《たいへん》に|逆上《ぎやくじやう》して|居《を》られますから、|貴女《あなた》のお|顔《かほ》を|見《み》られたら、|何時《いつ》もの|病気《びやうき》が|又《また》|再発《さいはつ》するかも|知《し》れませぬからな』
『|左様《さやう》なれば|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》ります。|貴女《あなた》と|妾《わたし》と|心《こころ》を|合《あは》せて|高姫《たかひめ》|様《さま》を、ねー、……』
と|言葉《ことば》|終《をは》らぬに、|高姫《たかひめ》は|襖《ふすま》を|蹴破《けやぶ》り|夜叉《やしや》の|如《ごと》き|勢《いきほひ》にて、|闖入《ちんにふ》し|来《きた》り、|怒《いか》りの|面色《めんしよく》|物凄《ものすご》く、|二人《ふたり》をハツタと|睨《ね》めつけ、|声《こゑ》を|震《ふる》はせながら、
『|隠《かく》れたるより|現《あら》はるるはなしとかや。お|前等《まへたち》|両人《りやうにん》は|何《なに》を|相談《さうだん》して|厶《ござ》つた。|貴女《あなた》と|妾《わたし》と|心《こころ》を|協《あは》して|高姫《たかひめ》を、ねー……とか|狙《ねら》ふとか|現《げん》に|今《いま》|云《い》つて|居《ゐ》ただらう。|其《その》|様《やう》な|悪《わる》い|企《たく》みを|致《いた》して|居《を》ると、|天罰《てんばつ》で|忽《たちま》ち|現《あら》はれませうがな。|誰《たれ》|知《し》らぬかと|思《おも》うても|天《てん》|知《し》る、|地《ち》|知《し》る、|人《ひと》も|知《し》る、|吾《われ》も|知《し》る、サア|二人《ふたり》の|方《かた》、もう、|了簡《れうけん》がなりませぬ。|何《なに》を|企《たく》んで|厶《ござ》つた、サア、キツパリと|白状《はくじやう》なさいませ。これ|楓《かへで》、お|前《まへ》は|大《だい》それた|義理天上《ぎりてんじやう》の|生宮《いきみや》を|騙討《だましうち》に|致《いた》して、|後《うしろ》から|小股《こまた》を|攫《さら》へ、|私《わし》を|前栽《ぜんさい》へおつ|放《ぽ》り|出《だ》し、これ|此《この》|通《とほ》り|向脛《むかふずね》を|擦《す》り|剥《む》かせ、|膝頭《ひざがしら》から|血《ち》を|出《だ》さしたぢやないか。サア|如何《どう》して|下《くだ》さる。もう|了簡《れうけん》はしませぬぞや』
『|真《まこと》に|済《す》まない|事《こと》を|致《いた》しました。|何卒《どうぞ》|御了簡《ごれうけん》して|下《くだ》さいませ。|妾《わたし》が|悪《わる》う|厶《ござ》りました』
『ヘン、よう|仰有《おつしや》いますわい。「|妾《わたし》が|悪《わる》う|厶《ござ》いました」とは、それは|何《なん》の|事《こと》だい。|悪《わる》いと|云《い》つて|謝《あやま》つて|事《こと》が|済《す》むのなら|世《よ》の|中《なか》は|悪《あく》の|仕放題《しはうだい》だ。|売言葉《うりことば》に|買言葉《かひことば》、|貰《もら》つたものは|必《かなら》ず|返礼《へんれい》せなくちやならない。お|前《まへ》さまも、|蟻《あり》|一匹《いつぴき》とまつてもならぬと|云《い》ふ|大切《たいせつ》な|向脛《むかふずね》を|擦《す》り|剥《む》かして|下《くだ》さつたのだから、|私《わし》も|此《この》|儘《まま》で|措《お》いちや|真《まこと》に|義理《ぎり》が|済《す》みませぬ。|之《これ》から|返礼《へんれい》に|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》こついて|上《あ》げるから|向脛《むかふずね》を|出《だ》しなさい。|世《よ》の|中《なか》は|義理《ぎり》が|大切《たいせつ》だ。|此《この》|義理天上《ぎりてんじやう》が|充分《じうぶん》にお|礼《れい》を|申《まを》しますぞや』
と|震《ふる》ひ|声《ごゑ》に|怒《いか》りを|帯《お》び、|涙交《なみだまじ》りに|喚《わめ》き|立《た》てる。
『もし、お|母様《かあさま》、|何卒《どうぞ》|許《ゆる》してあげて|下《くだ》さいませ。まだお|年《とし》も|行《ゆ》かぬなり、|何卒《どうぞ》|神直日《かむなほひ》、|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し、|以後《いご》お|慎《つつし》みなさるやうに|妾《わたし》からも|御注意《ごちゆうい》を|申上《まをしあ》げますから』
『ヘン、これ|初稚《はつわか》、ようまあツベコベとそんな|白々《しらじら》しい|事《こと》が|云《い》はれますな。お|前《まへ》さまは|今《いま》|楓《かへで》と|二人《ふたり》で、|現《げん》に|此《この》|高姫《たかひめ》を|二人《ふたり》が|心《こころ》を|協《あは》して|狙《ねら》うてやらうと|云《い》つて|居《を》つたぢやありませぬか。そんな|事《こと》に|誤魔化《ごまくわ》される|義理天上《ぎりてんじやう》ぢやありませぬぞや。お|前《まへ》は|杢助《もくすけ》さまの|命令《めいれい》を|聞《き》くと|云《い》つて、あの|悪《わる》い|犬《いぬ》を|追《お》ひ|返《かへ》したと|云《い》うたのぢやないか。それに|何処《どこ》かへ|隠《かく》して|置《お》いて、|私《わし》をあんな|非道《ひど》い|目《め》に|遇《あ》はし、|森《もり》の|奥《おく》まで|引張《ひつぱ》つてやらしたのも、お|前《まへ》さまの|企《たく》みだらう。イル、イク、サールやハル、テルが|来《き》て|呉《く》れなかつたら|私《わし》は|殺《ころ》されて|居《ゐ》る|所《ところ》だ。|大悪人《だいあくにん》|奴《め》が、|美《うつく》しい|顔《かほ》して、|心《こころ》に|針《はり》を|包《つつ》んでをるお|前《まへ》は|悪魔《あくま》だ。もう|今日《けふ》から|暇《ひま》をやります。アタ|穢《けが》らはしい、お|母《かあ》さま|等《など》と|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいますな。|人殺《ひとごろし》の|張本人《ちやうほんにん》|奴《め》が、|鬼娘《おにむすめ》|奴《め》が、|此《この》|義理天上《ぎりてんじやう》はもう|承知《しようち》しませぬぞや』
『お|母《かあ》さま、さう|無息《むいき》に|怒《おこ》つて|下《くだ》さいますな。|何卒《どうぞ》|一通《ひととほ》り|聞《き》いて|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》はニユツと|舌《した》を|出《だ》し、|赤《あか》ベイをしながら|腮《あご》を|三《み》つ|四《よ》つシヤくつて|見《み》せ、|冷笑《れいせう》を|浮《うか》べて、|嘲《あざけ》るやうな|口吻《くちぶり》で、
『ヘン、|仰有《おつしや》りますわい。|中々《なかなか》|劫《ごふ》|経《へ》た|狸《たぬき》だな。ここへ|来《き》た|時《とき》から|只《ただ》の|狸《たぬき》ぢやないと|思《おも》うてゐたのだ。けれど、|恋《こひ》しい|恋《こひ》しい|杢助《もくすけ》さまの|娘《むすめ》だと|思《おも》つて、|今《いま》まで|可愛《かあい》がつてやれば|増長《ぞうちよう》しよつて、|大《だい》それた|事《こと》を|企《たく》むとは、|言語道断《ごんごだうだん》な|大悪党《だいあくたう》ではないか。それ|程《ほど》お|前《まへ》さまが|親切《しんせつ》さうに|云《い》ふのなら、|何故《なぜ》|私《わし》があの|犬畜生《いぬちくしやう》に|引張《ひつぱ》られてゐた|時《とき》に|助《たす》けに|来《こ》なかつたのだ。お|前《まへ》は|仮令《たとへ》|名義上《めいぎじやう》から|云《い》つても|私《わし》の|娘《むすめ》ぢやないか。チツと|位《くらゐ》|誠《まこと》があれば|義理人情《ぎりにんじやう》も|弁《わきま》へて|居《ゐ》る|筈《はず》だ。イル、イク、サールのやうな|訳《わけ》の|分《わか》らぬヤンチヤでさへも、マサカの|時《とき》は|私《わし》を|助《たす》けに|来《き》たぢやないか。それに|何事《なにごと》ぢやい。ヌツケリコと、|現在《げんざい》|母《はは》の|私《わし》を|大怪我《おほけが》さした|楓《かへで》の|阿魔《あま》を|自分《じぶん》の|部屋《へや》に|引張《ひつぱ》り|込《こ》み、|気楽《きらく》さうに|私《わし》を○○しよう|等《など》と、|大《だい》それた|陰謀《いんぼう》を|企《くはだ》てて|居《を》つたぢやないか。エー、グヅグヅしておればお|前達《まへたち》にしてやられるかも|知《し》れぬ、|先《さき》んずれば|人《ひと》を|制《せい》すだ。|覚悟《かくご》なされ』
と|言《い》ひながら|棍棒《こんぼう》を|打振《うちふ》り、|初稚姫《はつわかひめ》を|打伸《うちの》めさうとする|一刹那《いつせつな》、|俄《にはか》に|駆《か》け|込《こ》んで|来《き》たスマートは「ワン」と|一声《ひとこゑ》、|高姫《たかひめ》の|裾《すそ》を|喰《く》はへて|又《また》もや|後《うしろ》へ|引倒《ひきたふ》した。|初稚姫《はつわかひめ》はスマートに|向《むか》ひ、
『これ、お|前《まへ》、|何《なん》と|云《い》ふ|乱暴《らんばう》の|事《こと》をなさるのだい。|早《はや》くお|放《はな》しなさらぬか』
とたしなめた。スマートはビリビリと|腹立《はらだ》たしさうに|震《ふる》うてゐた。けれども|主人《しゆじん》の|命令《めいれい》には|背《そむ》き|難《がた》く、|素直《すなほ》にパツと|裾《すそ》を|放《はな》した。|高姫《たかひめ》はツと|立上《たちあが》り、|棕櫚箒《しゆろばうき》を|以《もつ》てスマートの|頭《あたま》をガンと|殴《なぐ》つた。スマートは|怒《いか》つて|飛《と》びつかうとするのを|初稚姫《はつわかひめ》は「これ」と|一声《ひとこゑ》かくれば、スマートは|残念《ざんねん》さうにして|俯向《うつむ》いて|了《しま》つた。
『これ、スマートや、|決《けつ》してお|母《かあ》さまに|対《たい》し、|嚇《おど》かしちやなりませぬよ。|然《しか》しお|前《まへ》は|賢《かしこ》い|犬《いぬ》だから、お|母《かあ》さまを|引《ひ》きずつて|行《い》つても、|何処《どこ》も|咬《か》まなかつた|事《こと》だけは|偉《えら》かつたね』
と|頭《あたま》や|首《くび》を|撫《な》でスマートの|心《こころ》を|和《なご》めて|居《ゐ》る。|高姫《たかひめ》は|声《こゑ》|荒《あら》らげて、
『エー、|汚《けが》らわしい|初《はつ》、|楓《かへで》の|阿魔《あま》、ド|畜生《ちくしやう》をつれて、|其方《そつち》|行《い》つてくれ。グヅグヅしてゐると|義理天上《ぎりてんじやう》は|死物狂《しにものぐるひ》だ。どんな|事《こと》を|致《いた》すか|知《し》りませぬぞや』
と|殆《ほとん》ど|発狂《はつきやう》の|態《てい》である。|初稚姫《はつわかひめ》は|余《あま》り|怒《おこ》らしては|却《かへ》つて|気《き》の|毒《どく》と|思《おも》ひ|言葉《ことば》|優《やさ》しく|両手《りやうて》をついて、
『お|母《かあ》さま、えらい|済《す》まない|事《こと》で|厶《ござ》りました。|左様《さやう》なれば|仰《おほ》せに|従《したが》ひ、|彼方《あちら》に|控《ひか》へてゐますから、|御用《ごよう》が|厶《ござ》りますれば|何卒《どうぞ》お|手《て》をお|打《う》ち|下《くだ》さいませ』
『ヘン、そんな、|諂《へつら》ひ|言葉《ことば》を|喰《く》ふやうな|私《わし》ぢや|厶《ござ》りませぬわいの。さアさア|早《はや》く|珍彦《うづひこ》さまの|処《ところ》へでも|行《い》つて、シツポリと|高姫征伐《たかひめせいばつ》の|相談会《さうだんくわい》でも|開《ひら》いたがよいわいのう。シーツ シーツ シーツこん|畜生《ちくしやう》』
と|云《い》ひながら|歯《は》の|脱《ぬ》けた|口《くち》から|啖唾《たんつば》を|吐《は》きかけ、|箒《はうき》を|振《ふ》り|廻《まは》し、|掃出《はきだ》さうとした。
|初稚姫《はつわかひめ》、|楓《かへで》はスマートと|共《とも》に、
『|御免《ごめん》なさいませ』
と|云《い》ひ|捨《す》て、|匆々《さうさう》に|此《この》|場《ば》を|辞《じ》し|珍彦《うづひこ》の|館《やかた》をさして|出《い》でて|行《ゆ》く。
|後《あと》に|高姫《たかひめ》は|無念《むねん》の|歯《は》をかみしめ、|虎狼《こらう》の|如《ごと》き|蛮声《ばんせい》を|張上《はりあ》げて、
『エー、ザ|残念《ざんねん》や、|口惜《くちを》しやな。|悪神《あくがみ》|共《ども》の|計略《けいりやく》にかかり、|肝腎《かんじん》の|杢助様《もくすけさま》は|怪我《けが》を|遊《あそ》ばし|何処《どこ》かへお|出《い》でになり、|此《この》|義理天上《ぎりてんじやう》は|神《かみ》の|生宮《いきみや》と|云《い》ひながら、|珍彦《うづひこ》の|魔法使《まはふづかひ》のために|目《め》をこつかれ、|腰《こし》を|挫《くじ》かれ、|其《その》|上《うへ》あんな|楓《かへで》の|様《やう》な|阿魔《あま》ツチヨに|投《な》げつけられ、ドン|畜生《ちくしやう》には|引《ひ》きずられ、|実《ほん》に|之《これ》が|黙《だま》つて|辛抱《しんばう》が|出来《でき》ようか』
と|云《い》ひながら|火鉢《ひばち》を|投《な》げつけ、|戸棚《とだな》の|膳《ぜん》|椀《わん》|鉢《はち》|等《など》を|引《ひ》つ|張《ぱ》り|出《だ》しては|戸外《こぐわい》へ|投《な》げつけ、「ガタンビシヤン、ガチヤガチヤ」と|神楽舞《かぐらまひ》を|遺憾《ゐかん》なく|演《えん》じ|終《をは》り、|再《ふたた》び|座敷《ざしき》の|中央《まんなか》にドツカと|坐《すわ》り、|首《くび》を|上下左右《じやうげさいう》に|振《ふ》り、|泣《な》きしやくつてゐる。|忽《たちま》ち|高姫《たかひめ》の|腹中《ふくちう》より、
『ワツハハハハハ、|俺《おれ》は|初稚姫《はつわかひめ》の|守護神《しゆごじん》だ。|初稚姫《はつわかひめ》に|頼《たの》まれて|此《この》|肉体《にくたい》を|亡《ほろ》ぼすべく|入《い》り|込《こ》んだのだぞよ。もう|一人《ひとり》は|楓《かへで》の|守護神《しゆごじん》だ。|何《なん》と|小気味《こぎみ》のよいことだわいのう、ウフフフフフ』
と【ひとり】でに|笑《わら》ひ|出《だ》した。|然《しか》し|此《この》|声《こゑ》は|決《けつ》して|初稚姫《はつわかひめ》に|頼《たの》まれて|這入《はい》つた|守護神《しゆごじん》でもない、|又《また》|楓《かへで》の|守護神《しゆごじん》でもなかつた。|依然《いぜん》として|高姫《たかひめ》の|体内《たいない》に|潜居《せんきよ》してゐる|悪狐《あくこ》の|声《こゑ》である。されど|高姫《たかひめ》は|全《まつた》く|両人《りやうにん》が|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》を|亡《ほろ》ぼすべく、|吾《わが》|肉体《にくたい》に|隙《すき》を|窺《うかが》うて|侵入《しんにふ》して|来《き》たものと|思《おも》うてゐるから|堪《たま》らない。これから|両人《りやうにん》を|憎《にく》む|事《こと》|蛇蝎《だかつ》の|如《ごと》く、|隙《すき》さへあれば|両人《りやうにん》を|懲《こら》してやらねばおかぬと|決心《けつしん》したのである。|凡《すべ》て|悪霊《あくれい》が|人《ひと》を|傷《きず》つけ|又《また》|人《ひと》を|苦《くる》しましめむとする|時《とき》は、|右《みぎ》の|如《ごと》き|手段《しゆだん》を|採《と》るものである。|例《たと》へば|大本教《おほもとけう》を|破壊《はくわい》せむとする|悪霊《あくれい》は、|或《ある》|社会的《しやくわいてき》|勢力《せいりよく》を|有《いう》する|人間《にんげん》の|体内《たいない》にソツと|入《い》り、|内部《ないぶ》より|大本教《おほもとけう》に|対《たい》する|悪口《あくこう》を|囁《ささや》き、|之等《これら》の|手《て》によつて|破壊《はくわい》せむとするものも|魔《ま》の|中《なか》には|沢山《たくさん》あるのである。|又《また》|稍《やや》|小《せう》なる|魔《ま》に|至《いた》つては|病人《びやうにん》の|体《たい》に|入《い》り|込《こ》み「|此《この》|方《はう》は|大本《おほもと》から|頼《たの》まれて|其《その》|方《はう》の|命《いのち》を|取《と》りに|来《き》たものだ」|等《など》と|口走《くちばし》り、|名《な》を|悪《わる》くせむと|企《たく》むものである。|斯《かく》の|如《ごと》き|悪魔《あくま》は|何時《いつ》の|世《よ》にも|頻々《ひんぴん》として|現《あら》はれ|来《きた》るものである。|故《ゆゑ》に|役員《やくゐん》たり|信者《しんじや》たりするものは、|充分《じうぶん》に|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》に|通《つう》じ、|彼等《かれら》の|詐言《さげん》に|迷《まよ》はされてはならぬのである。
|扨《さ》て|高姫《たかひめ》は|自分《じぶん》の|腹《はら》を|例《れい》の|如《ごと》く|握《にぎ》り|拳《こぶし》で|三《み》つ|四《よ》つ|打叩《うちたた》きながら、|狂乱《きやうらん》の|如《ごと》く|怒《いか》りの|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げて、
『こりや、|悪神《あくがみ》の|張本《ちやうほん》、|初稚姫《はつわかひめ》、|楓姫《かへでひめ》の|生霊《いきりやう》|奴《め》、|何《なん》と|心得《こころえ》てる。そんな|事《こと》に|往生《わうじやう》|致《いた》す|常世姫《とこよひめの》の|身魂《みたま》、|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》ではないぞよ。サア|其《その》|方《はう》は|企《たく》みの|次第《しだい》を|逐一《ちくいち》|白状《はくじやう》|致《いた》せばよし、|致《いた》さぬに|於《おい》ては|此《この》|方《はう》にも|了簡《れうけん》があるぞよ。どうだ、|返答《へんたふ》|致《いた》せ』
と|喚《わめ》き|立《た》てる。|腹中《ふくちう》より、
『はい、|真《まこと》に|済《す》まない|事《こと》を|致《いた》しました。|私《わたし》は|初稚姫《はつわかひめ》の|生霊《いきりやう》で|厶《ござ》ります。そしても|一人《ひとり》は|楓姫《かへでひめ》の|生霊《いきりやう》で|厶《ござ》ります。どうかして|吾々《われわれ》|二人《ふたり》が|力《ちから》を|協《あは》せ、|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》を|亡《ほろ》ぼしてやらうと|企《たく》んで|這入《はい》りました。|併《しか》しながら|貴女《あなた》の|御神徳《ごしんとく》があまり|強《つよ》いので、|如何《どう》する|事《こと》も|出来《でき》ませぬ。ああ|苦《くる》しい|苦《くる》しい|許《ゆる》して|下《くだ》さいませな|許《ゆる》して|下《くだ》さいませな』
と|初稚姫《はつわかひめ》、|楓姫《かへでひめ》の|声色《こわいろ》を|使《つか》つて|腹《はら》の|中《なか》から|詫《わ》び|出《だ》した。|然《しか》し|其《その》|実《じつ》は|依然《いぜん》として、もとの|兇霊《きようれい》の|言葉《ことば》であり、|其《その》|兇霊《きようれい》が|初稚姫《はつわかひめ》の|威光《ゐくわう》に|畏《おそ》れ、|何《なん》とかして|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》と|喧嘩《けんくわ》をさせ、ここを|両人《りやうにん》とも|追《お》ひ|出《だ》し、|悠々閑々《いういうかんかん》として|高姫《たかひめ》の|体内《たいない》に|棲《す》み、わが|目的《もくてき》を|達《たつ》せむと|企《たく》んだのである。|高姫《たかひめ》は|之《これ》を|聞《き》くより、
『うん、よし、|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|四足身魂《よつあしみたま》、|了簡《れうけん》ならぬ』
と|喚《わめ》きながら|棍棒《こんぼう》を|小脇《こわき》に|掻《か》い|込《こ》み、|珍彦《うづひこ》の|館《やかた》をさして|阿修羅王《あしゆらわう》の|荒《あ》れたる|如《ごと》き|勢《いきほひ》|凄《すさま》じく、|火焔《くわえん》の|熱《ねつ》を|吐《は》きながら|頭髪《とうはつ》を|逆立《さかだ》て|進《すす》み|行《ゆ》く。|初稚姫《はつわかひめ》、|楓《かへで》の|二人《ふたり》はヒソビソと|話《はなし》をしてゐた。そこへ|高姫《たかひめ》は|現《あら》はれ|来《きた》り、
『|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|四足《よつあし》、|思《おも》ひ|知《し》れ』
と|樫《かし》の|棍棒《こんぼう》を|真向《まつかう》にふり|翳《かざ》し、|今《いま》や|打下《うちおろ》さむとする|一刹那《いつせつな》、|何処《どこ》ともなくスマートは|宙《ちう》を|駆《かけ》りて|飛《と》んで|来《きた》り、|強力《がうりき》に|任《まか》せて|高姫《たかひめ》をトンと|其《その》|場《ば》に|押倒《おしたふ》した。|高姫《たかひめ》はこの|猛犬《まうけん》を|見《み》て|怖気《おぢけ》づき、|細《ほそ》くなつて|再《ふたた》びわが|居間《ゐま》に|逃《に》げ|帰《かへ》り、|中《なか》から|戸障子《としやうじ》に|突張《つつぱ》りをして、|夜具《やぐ》をひつ|被《かぶ》つて|震《ふる》へてゐた。スマートは|高姫《たかひめ》の|後《あと》を|追《お》つ|駆《か》け|来《きた》り、|戸《と》の|外《そと》に|足掻《あが》きをしながら、
『ウーウ ウーウ、ワウワウワウ』
と|頻《しき》りに|呻《うな》り|立《た》ててゐる。|高姫《たかひめ》も|体内《たいない》の|悪霊《あくれい》も|此《この》|声《こゑ》に|縮《ちぢ》み|上《あが》り、|小《ちひ》さくなつて|梢《こずゑ》に|残《のこ》つた|柴栗《しばぐり》の|様《やう》に|固《かた》まつて|震《ふる》うてゐる。
(大正一二・一・二一 旧一一・一二・五 北村隆光録)
第一四章 |〓《みづち》の|盃《さかづき》〔一三〇八〕
|高姫《たかひめ》は、それより|初稚姫《はつわかひめ》、|楓姫《かへでひめ》、|珍彦《うづひこ》、|静子《しづこ》を|憎《にく》むこと|甚《はなは》だしく、|如何《いかん》ともして|彼等《かれら》を|亡《ほろ》ぼさむと|夜着《よぎ》を|被《かぶ》つて|怖《おそ》ろしき|鬼心《おにごころ》を|辿《たど》つて|居《ゐ》る。されど|何《ど》う|考《かんが》へても|普通《ふつう》ではいかない。|又《また》まさかの|時《とき》になれば、|怖《おそ》ろしいスマートが|飛《と》び|出《だ》して|来《く》る。これが|高姫《たかひめ》の|第一《だいいち》の|頭痛《づつう》である。もうかうなつたら、|如何《いか》|程《ほど》スマートを|帰《かへ》せと|云《い》つても|初稚姫《はつわかひめ》は|帰《かへ》すまい。|又《また》|母《はは》としての|権利《けんり》を|振《ふる》ひ、|彼女《かのぢよ》を|強圧《きやうあつ》し|吾《わが》|意《い》に|従《したが》はしむる|事《こと》も|到底《たうてい》|駄目《だめ》だと|考《かんが》へた。そこで|高姫《たかひめ》は|一計《いつけい》を|腹中《ふくちう》の|悪狐《あくこ》と|相談《さうだん》の|上《うへ》ねり|出《だ》した。|外《ほか》でもない、それは|一種《いつしゆ》の|妖術《えうじゆつ》である。|〓《みづち》の|血《ち》を|絞《しぼ》つて|百虫《ひやくちう》を|壺《つぼ》に|封《ふう》じ|込《こ》み、|当《たう》の|四人《よにん》を|調伏《てうふく》の|為《ため》に|血染《ちぞめ》の|絹《きぬ》を|拵《こしら》へ、|護摩《ごま》の|火《ひ》にかけてこれを|焼《や》き|尽《つく》し、|壺《つぼ》の|中《なか》に|秘《ひ》めて|置《お》き、|和合《わがふ》の|酒宴《しゆえん》と|称《しよう》し、ソツと|四人《よにん》の|盃《さかづき》に|人《ひと》|知《し》れず|塗《ぬ》りつけて|置《お》き、|甘《うま》く|其《その》|酒《さけ》を|飲《の》ます|時《とき》は、|之《これ》を|飲《の》んだものは|自《おのづか》ら|神徳《しんとく》を|失《うしな》ひ、|又《また》|人《ひと》の|心《こころ》に|逆《さか》らうて|恨《うら》みを|受《う》け、|遂《つひ》には|其《その》|身《み》を|亡《ほろ》ぼすに|至《いた》るものだ……と|云《い》ふ|事《こと》を|教《をし》へられた。それより|高姫《たかひめ》は|森《もり》の|中《なか》に|表面《へうめん》|散歩《さんぽ》の|如《ごと》く|見《み》せかけ、|〓《みづち》を|探《さが》し|百虫《ひやくちう》を|漁《あさ》つてこの|怖《おそ》ろしい|計画《けいくわく》に|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》した。さうして|漸《やうや》く|註文通《ちゆうもんどほ》りの|品《しな》が|揃《そろ》うたので|自分《じぶん》の|床下《ゆかした》に|隠《かく》し|置《お》き、|時《とき》の|到《いた》るを|待《ま》ちつつあつた。
|高姫《たかひめ》は|斯《か》くして、|何時《いつ》とはなしに|四人《よにん》を|亡《ほろ》ぼさむと|思《おも》ひ、【ほくそ】|笑《ゑ》みつつ、|表面《へうめん》|柔順《じうじゆん》と|親切《しんせつ》を|装《よそほ》ひ、あまり|小言《こごと》も|云《い》はず、|憎《にく》まれ|口《ぐち》もたたかず、|可成《かなり》|四人《よにん》が|自分《じぶん》を|信任《しんにん》し|且《かつ》|心《こころ》を|許《ゆる》すやうにと|勤《つと》めて|居《ゐ》たのである。|実《じつ》に|女《をんな》の|悪霊《あくれい》に|迷《まよ》はされ、|狂熱《きやうねつ》の|極点《きよくてん》に|達《たつ》した|時《とき》|位《くらゐ》|怖《おそ》るべきものはない。|女《をんな》は|最《もつと》も|心《こころ》|弱《よわ》きものの|又《また》|最《もつと》も|強《つよ》きものである。|一旦《いつたん》|決心《けつしん》した|上《うへ》は、|俗《ぞく》にいふ|女《をんな》の|一心《いつしん》|岩《いは》でも|突《つ》き|貫《ぬ》くと|云《い》つて|中々《なかなか》|容易《ようい》に|動《うご》くものではない。|高姫《たかひめ》はかくも|怖《おそ》ろしき|悪計《あくけい》を|敢行《かんかう》すべく|決心《けつしん》の|臍《ほぞ》を|固《かた》めてしまつた。
|斯《かか》る|企《たく》みのありと|云《い》ふ|事《こと》は、|初稚姫《はつわかひめ》を|除《のぞ》く|外《ほか》は|誰一人《たれひとり》として|悟《さと》り|得《う》るものはなかつたのである。
|一切《いつさい》の|計略《けいりやく》の|準備《じゆんび》が|調《ととの》うたので、|高姫《たかひめ》は|自《みづか》ら|珍彦館《うづひこやかた》に|立《た》ち|出《い》で、|叮嚀《ていねい》に|笑顔《ゑがほ》を|作《つく》り|辞儀《じぎ》をしながら、|態《わざ》とに|優《やさ》しき|声《こゑ》を|絞《しぼ》り、
『ハイ|御免《ごめん》なさいませ。|此《この》|間《あひだ》は|病気上《びやうきあが》りの|事《こと》とて|頭《あたま》が|変《へん》な|工合《ぐあひ》になりまして、つひ|皆《みな》さまに|御無礼《ごぶれい》の|事《こと》を|申《まを》し|上《あ》げましたさうで|厶《ござ》います。|何分《なにぶん》|逆上《ぎやくじやう》|致《いた》して|居《を》りましたので、|如何《いか》なる|不都合《ふつがふ》の|事《こと》を|致《いた》しましたやら|皆目《かいもく》|存《ぞん》じませぬ。|今日《けふ》|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》が、こんこんと|夢中《むちう》でした|事《こと》をお|話《はな》し|下《くだ》さいましたので|私《わたくし》も|吃驚《びつくり》|致《いた》しまして、|真《まこと》に|済《す》まない|事《こと》を|致《いた》したと|悔《く》やんで|見《み》ても|後《あと》の|祭《まつ》り、|初稚《はつわか》さまにも|楓《かへで》さまにも|御夫婦様《ごふうふさま》にもえらい|失礼《しつれい》を|致《いた》したさうで|厶《ござ》います。|私《わたし》はそれを|天上様《てんじやうさま》から|承《うけたま》はり、|立《た》つても|居《ゐ》ても|居《ゐ》られなくなりましたので、お|詫《わび》のため|恥《はぢ》を|忍《しの》んで|参《まゐ》りました。|何卒《どうぞ》|私《わたくし》の|罪《つみ》をお|許《ゆる》し|下《くだ》さるやうお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
と|泣《な》き|声《ごゑ》になつて|空涙《そらなみだ》をこぼして|詫《わ》び|入《い》るのであつた。|初稚姫《はつわかひめ》は|高姫《たかひめ》の|腹《はら》のどん|底《ぞこ》までよく|知《し》つて|居《ゐ》た。さうしてその|魔術《まじゆつ》は|唯《ただ》|兇霊《きようれい》の|妄言《まうげん》にして|何《なん》の|寸効《すんかう》なき|事《こと》を|看破《かんぱ》して|居《ゐ》たのである。|故《ゆゑ》に|高姫《たかひめ》の|悪計《あくけい》を|自分《じぶん》|一人《ひとり》の|心《こころ》の|中《なか》に|包《つつ》んで|置《お》きさへすれば、|天下泰平《てんかたいへい》である。|併《しか》し|高姫《たかひめ》さまが|悪魔《あくま》に|嗾《そそのか》されて|斯様《かやう》な|心《こころ》を|起《おこ》されるのは|真《まこと》に|御気《おき》の|毒《どく》だ。|何《なん》とかして|此《この》|際《さい》に|改心《かいしん》して|貰《もら》はねばならないと、|堅《かた》く|決心《けつしん》して|居《ゐ》たのである。
|珍彦《うづひこ》『これはこれは|高姫《たかひめ》|様《さま》とした|事《こと》が、|何《なん》と|仰有《おつしや》います。|貴女《あなた》にお|詫《わび》を|云《い》はれて|何《ど》うして|私《わたし》が|耐《たま》りませう。|尻《しり》こそばゆくてなりませぬ。|何事《なにごと》も|吾々《われわれ》がいたらぬから|起《おこ》つた|事《こと》で|厶《ござ》います。|何卒《なにとぞ》|今後《こんご》はよろしくお|叱《しか》り|下《くだ》さいますやうに』
『イエイエ|私《わたし》が|悪《わる》いので|厶《ござ》います。つひ|私《わたし》には|神経病《しんけいびやう》が|厶《ござ》いまして、|時々《ときどき》|脱線《だつせん》を|致《いた》しますので、|何時《いつ》も|人様《ひとさま》に|御迷惑《ごめいわく》をかけますので、|神様《かみさま》に|対《たい》しても|貴方《あなた》|等《がた》に|対《たい》しても|済《す》みませぬ。のめのめ|来《こ》られる|筋《すぢ》では|厶《ござ》いませぬが、|面《めん》を|被《かぶ》つて|怖《おそ》る|怖《おそ》る|参《まゐ》りました。それに|就《つ》いては|詫《わ》びの|印《しるし》|及《およ》び|貴方《あなた》|等《がた》と|入魂《じつこん》に|願《ねが》ふ|喜《よろこ》びとして、|手製《てせい》の|御飯《ごはん》とお|酒《さけ》を|上《あ》げたいので|厶《ござ》いますが、どうぞ|余《あま》り|遠《とほ》い|所《ところ》では|厶《ござ》いませぬから、|来《き》ては|下《くだ》さいませぬかなア。|何《なに》を|申《まを》しても|貴方《あなた》|等《がた》は|御親切《ごしんせつ》なお|方《かた》ですから、|私《わたし》の|居間《ゐま》まで|位《くらゐ》は|来《き》て|下《くだ》さることと|固《かた》く|信《しん》じて|参《まゐ》りました』
『ヘイどう|致《いた》しまして、|貴女《あなた》に|御馳走《ごちそう》|頂《いただ》いては|済《す》みませぬ。|私《わたし》の|方《はう》から|実《じつ》は|差上《さしあ》げたいので|厶《ござ》います。』
『さう|仰有《おつしや》らずに|私《わたし》の|願《ねがひ》を|聞《き》いて|下《くだ》さいませねえ。|私《わたし》がどうしてもお|気《き》に|召《め》さないので|厶《ござ》いますか、さうすれば|是非《ぜひ》は|厶《ござ》いませぬ。|私《わたし》は|喉《のど》でも|突《つ》いて|死《し》なうより|道《みち》は|厶《ござ》いませぬ』
と|又《また》もや|巧妙《かうめう》に|空涙《そらなみだ》を|絞《しぼ》る。
|静子《しづこ》『これ|珍彦《うづひこ》さま、あれだけ|親切《しんせつ》に|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さるのだもの、お|世話《せわ》になつたらどうでせう』
『ウンさうだな。|折角《せつかく》の|思召《おぼしめし》、|無《む》にするのも|却《かへつ》て|畏《おそ》れ|多《おほ》いから、お|言葉《ことば》に|甘《あま》へて|伺《うかが》ひませうかなア』
『お|父《とう》さま、お|母《かあ》さま、|貴方《あなた》|高姫《たかひめ》さまの|所《ところ》へいつてお|酒《さけ》や|御飯《ごはん》を|頂《いただ》くのなら、|神丹《しんたん》をもつてお|出《い》でなさいませよ。|又《また》|此《この》|間《あひだ》|二度目《にどめ》に|文珠菩薩様《もんじゆぼさつさま》が|下《くだ》さいましたのねえ。あれさへ|頂《いただ》けば、どんな|毒《どく》が|入《はい》つて|居《ゐ》てもすつかり|消《き》えますからねえ。|高姫《たかひめ》さま、|毒散《どくさん》などは|今度《こんど》は|入《い》れてはありますまいな、|仮令《たとへ》|入《い》れてあつても、|私《わたし》|等《たち》は|神丹《しんたん》を|持《も》つて|居《を》るから|些《ちつと》も|構《かま》ひませぬけれどねえ』
と|態《わざ》とにあどけなき|小児《こども》の|態《てい》を|装《よそほ》ひ、|高姫《たかひめ》の|荒肝《あらぎも》を|挫《ひし》がうとした。
|珍彦《うづひこ》『これ、お|前《まへ》は|何《なん》と|云《い》ふ|失礼《しつれい》な|事《こと》を|云《い》ふのだい。|高姫《たかひめ》さまが|何《なに》そんな|事《こと》をなさる|理由《りいう》があらうか、お|前《まへ》は|夢《ゆめ》を|見《み》たのだよ』
『|何《なん》でも|夢《ゆめ》にして|置《お》けばよいのですなア、|初稚姫《はつわかひめ》さま、|貴女《あなた》もさう|仰有《おつしや》つたで|厶《ござ》いませう。|併《しか》し|私《わたし》は|義理天上《ぎりてんじやう》さまの|所《ところ》へ|往《い》つて、お|茶《ちや》|一杯《いつぱい》でもよばれるのは|否《いや》ですわ』
|静子《しづこ》『これ|楓《かへで》、お|前《まへ》はそれだから|困《こま》ると|云《い》ふのだ。ほんにほんに|仕方《しかた》がないなア、ちつと|初稚姫《はつわかひめ》さまの|爪《つめ》の|垢《あか》でも|煎《せん》じて|頂《いただ》かして|貰《もら》ひなさい』
|高姫《たかひめ》は|態《わざ》とニコニコしながら、|何気《なにげ》なき|態《てい》にて|心《こころ》の|驚《おどろ》きを|隠《かく》しながら|俄《には》かに|作《つく》り|笑《わら》ひ、
『ホホホホホ、やつぱりお|若《わか》い|方《かた》は|夢《ゆめ》を|御覧《ごらん》になつても|現実《げんじつ》だと|思《おも》つてゐらつしやるのですねえ。ほんとに|可愛《かあい》い|正直《しやうぢき》な|楓《かへで》さまだこと、これ|楓《かへで》さま、|何卒《どうぞ》|皆《みな》さまと|一緒《いつしよ》に|来《き》て|下《くだ》さいな』
『それなら|叔母《をば》さま、|往《ゆ》きませう。|初稚姫《はつわかひめ》の|姉《ねえ》さまも|御一緒《ごいつしよ》でせうねえ』
『お|前《まへ》さまの|好《す》きな|初稚《はつわか》さまも|一緒《いつしよ》だから、|何卒《どうぞ》|一緒《いつしよ》にお|膳《ぜん》を|並《なら》べて、|仲《なか》ようこの|婆《ばば》が|心《こころ》を|召《め》し|上《あが》つて|下《くだ》さい。そして|私《わたし》も|一緒《いつしよ》に|頂《いただ》きますから』
『|皆《みな》さま、お|母《かあ》さまがあすこ|迄《まで》|親切《しんせつ》に|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さるのだから、サア|参《まゐ》りませう』
と|勧《すす》める。|親子《おやこ》|三人《さんにん》は|初稚姫《はつわかひめ》の|言葉《ことば》に|確証《かくしよう》を|与《あた》へられたる|如《ごと》く、|安心《あんしん》して|高姫《たかひめ》の|居間《ゐま》に|列《れつ》する|事《こと》となつた。
|高姫《たかひめ》は|追従《つゐしよう》たらだら、あらゆる|媚《こび》を|呈《てい》しながら、|心《こころ》の|裡《うち》に、
『いよいよ|願望成就《ぐわんまうじやうじゆ》の|時《とき》が|来《き》た、この|時《とき》を|逸《いつ》しては、またとよい|機会《きくわい》はあるまい』
と|思《おも》ひながら|他人《たにん》に|膳部《ぜんぶ》を|扱《あつか》はせず、|今日《けふ》は|高姫《たかひめ》の|赤心《まごころ》を|現《あら》はすのだからと|云《い》つて、いそいそと|唯《ただ》|一人《ひとり》|台所《だいどころ》を|立《た》ち|廻《まは》つて|居《ゐ》るのが|怪《あや》しい。
|高姫《たかひめ》は|漸《やうや》く|膳部《ぜんぶ》を|五人前《ごにんまへ》|揃《そろ》へ、|酒《さけ》の|燗《かん》|迄《まで》ちやんとして|〓《みづち》の|血《ち》を|塗《ぬ》つた|盃《さかづき》を|四人《よにん》の|膳《ぜん》に|一《ひと》つづつ|配《くば》り|置《お》き、
『サア|皆《みな》さま、お|待《ま》たせ|致《いた》しました。どうぞ|何《なに》も|厶《ござ》いませぬけれど、どつさりお|食《あが》り|下《くだ》さいませや、|今日《けふ》は|初稚《はつわか》、お|前《まへ》もお|客《きやく》さまだよ』
『お|母《かあ》さま、|本当《ほんたう》に|済《す》みませぬねえ。|子《こ》が|親《おや》にお|給仕《きふじ》をして|貰《もら》つたり、|御飯《ごはん》をたいて|頂《いただ》いたりするとは、ほんに|世《よ》が|転倒《さかさま》ですわ。|勿体《もつたい》なくて|冥加《みやうが》に|尽《つ》きるかも|知《し》れませぬが、お|母《かあ》さまのお|言葉《ことば》に|従《したが》ひ、|今日《けふ》だけはお|客《きやく》さまにならして|頂《いただ》きます』
『アアさうさう、さう|打解《うちと》けて|下《くだ》されば、この|母《はは》もどれだけ|嬉《うれ》しいぢや|分《わか》りませぬ』
|珍彦《うづひこ》『どうもお|手間《てま》の|入《い》りました|御馳走《ごちそう》をして|下《くだ》さいまして、|実《じつ》に|有難《ありがた》う|厶《ござ》います』
|静子《しづこ》『|大勢《おほぜい》が|及《およ》ばれに|参《まゐ》りまして、|真《まこと》に|済《す》みませぬ』
『サア|初稚姫《はつわかひめ》さま、お|前《まへ》さまから|毒試《どくみ》をするのだよ』
と|燗徳利《かんどくり》を|差出《さしだ》した。|初稚姫《はつわかひめ》は、
『|皆《みな》さま、お|先《さき》に|失礼《しつれい》|致《いた》します』
と|会釈《ゑしやく》し、|盃《さかづき》を|両手《りやうて》の|掌《てのひら》にきちんとのせ、
『お|母《かあ》さま、|〓《みづち》の|血《ち》の|色《いろ》のしたお|盃《さかづき》は、ほんに|気分《きぶん》が|宜《よろ》しう|厶《ござ》いますね。|百虫《ひやくちう》を|壺《つぼ》に|封《ふう》じたやうなお|酒《さけ》の|味《あぢ》がするでせう』
と|云《い》ひながら|高姫《たかひめ》の|顔《かほ》を|一寸《ちよつと》|覗《のぞ》いた。|高姫《たかひめ》は|初稚姫《はつわかひめ》の|言葉《ことば》に|驚《おどろ》いて|燗徳利《かんどくり》をパタリと|其《その》|場《ば》に|落《おと》した。|瀬戸物《せともの》の|燗徳利《かんどくり》は|忽《たちま》ち|切腹《せつぷく》の|刑《けい》を|仰《おほ》せつけられ、|腹《はら》|一杯《いつぱい》|呑《の》んでゐた|酒《さけ》を|残《のこ》らず|吐《は》き|出《だ》して|了《しま》つた。
『お|母《かあ》さまとした|事《こと》が、えらい|事《こと》をして|見《み》せて|下《くだ》さいますなア。これは|何《なん》の|法式《はふしき》で|厶《ござ》いますか』
『これはなア、|高姫《たかひめ》の|腹《はら》には|何《なに》もない、この|通《とほ》り|清《きよ》い|清《きよ》い|混《まじ》りのないお|酒《さけ》のやうなものだと|云《い》ふ|赤心《まごころ》を|示《しめ》すための、|昔《むかし》から|伝《つた》はつた|一《ひと》つの|法式《はふしき》ですよ』
|初稚姫《はつわかひめ》は|態《わざ》と|空惚《そらとぼ》けて、|感心《かんしん》さうな|顔《かほ》をしながら、
『|何《なん》とお|母《かあ》さまは|故実《こじつ》に|通達《つうたつ》したお|方《かた》ですねえ。|何卒《どうぞ》、このお|盃《さかづき》に|一杯《いつぱい》|注《つ》いで|下《くだ》さいませ』
とわざとに|突《つ》き|出《だ》す。|高姫《たかひめ》はヤツと|初稚姫《はつわかひめ》の|何気《なにげ》なき|言葉《ことば》に|安心《あんしん》の|胸《むね》を|撫《な》で|下《おろ》し、|笑顔《ゑがほ》を|作《つく》つて、
『アアよしよし、|初《はつ》ちやまから|注《つ》いで|上《あ》げませう。サア|盃《さかづき》をお|出《だ》しよ』
|初稚姫《はつわかひめ》は|嬉《うれ》しさうに|盃《さかづき》に|酒《さけ》を|注《つ》いで|貰《もら》ひ、グウグウと|飲《の》んで|見《み》せた。それから|来客《らいきやく》|一同《いちどう》に|盃《さかづき》を|廻《まは》し、|又《また》|毒《どく》の|禁厭《まじなひ》のしてある|御馳走《ごちそう》を|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》もなく、|心地《ここち》よく|平《たひら》げてしまつた。さうして|珍彦《うづひこ》は|妻子《つまこ》を|引《ひ》き|連《つ》れ、|厚《あつ》く|礼《れい》を|述《の》べて|館《やかた》へ|帰《かへ》つた。|初稚姫《はつわかひめ》も|高姫《たかひめ》が「ゆつくり|楓《かへで》さまと|遊《あそ》んで|来《こ》い」と|云《い》ふので、これ|幸《さいはひ》と|珍彦館《うづひこやかた》に|至《いた》り、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》をしていろいろのお|道《みち》の|話《はなし》をして|居《ゐ》た。
|高姫《たかひめ》は、|四人《よにん》の|出《で》て|往《い》つた|後《あと》を|篤《とつく》りと|見送《みおく》り、|再《ふたた》び|障子襖《しやうじふすま》をたて|切《き》り|独《ひと》り|言《ごと》、
『ああ、たうとう|願望成就《ぐわんまうじやうじゆ》の|曙光《しよくわう》を|認《みと》めた。やつぱり|常世姫《とこよひめ》の|御魂《みたま》は|偉《えら》いものだなア、ああしておけば|自然《しぜん》|弱《よわ》りに|智慧《ちゑ》は|鈍《にぶ》り|体《からだ》は|潰《つひ》え、|人望《じんばう》は|落《お》ちるのは|目《ま》のあたりだ。ああ|気味《きみ》のよい|事《こと》だなア。ああ|今日《けふ》より|此《この》|常世姫《とこよひめ》は|枕《まくら》を|高《たか》うして|寝《ね》る|事《こと》が|出来《でき》る。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。|神様《かみさま》、あなたの|御神力《ごしんりき》によつて|邪魔者《じやまもの》が|亡《ほろ》びますれば、|此《この》|高姫《たかひめ》は|千騎一騎《せんきいつき》の|活動《くわつどう》を|致《いた》しまして、|天晴《あつぱれ》|手柄《てがら》を|致《いた》して|御目《おめ》にかけませう。ああ|何《なん》だか|今日《けふ》|位《くらゐ》|心地《ここち》のよい|日《ひ》は|厶《ござ》いませぬわい』
とほくほく|喜《よろこ》び、|嫌《いや》らしき|笑《ゑみ》を|漏《も》らして|居《ゐ》る。|腹中《ふくちう》より、
『オイ|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》、どうだ。|此《この》|方《はう》の|智略縦横《ちりやくじうわう》のやり|方《かた》には|降参《かうさん》しただらうなア』
『シツ、|又《また》しても|出《で》しやばるのか。|秘密《ひみつ》は|何処《どこ》|迄《まで》も|秘密《ひみつ》ぢやないか。|肝腎《かんじん》の|時《とき》になつて|仕様《しやう》もない|事《こと》を|口走《くちばし》つて|見《み》よ、この|肉体《にくたい》が|承知《しようち》を|致《いた》さぬから』
『イヒヒヒヒヒ、オイ|黒《くろ》、|八《はち》、テク、|蟇《がま》、|大蛇《をろち》、|猿《さる》の|連中《れんちう》、どうだ、この|金毛九尾《きんまうきうび》のやり|方《かた》は|実《じつ》に|偉《えら》いものだらう。|水《みづ》も|漏《も》らさぬ|此《この》|方《はう》の|仕組《しぐみ》、サアこれから|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|教《をしへ》を|片端《かたつぱし》から|打《う》ち|砕《くだ》き、|俺達《おれたち》の|世界《せかい》にするのだ。|何《なん》と|心地《ここち》よき|事《こと》ではあるまいかなア、エヘヘヘヘヘ』
|又《また》|腹中《ふくちう》より|種々《いろいろ》の|声《こゑ》が|出《で》て、
『|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます、|金毛九尾様《きんまうきうびさま》、|畏《おそ》れ|入《い》つて|厶《ござ》ります。これから|何事《なにごと》も|九尾様《きうびさま》の|御命令《ごめいれい》に|従《したが》ひます。|此《この》|蟇公《がまこう》も|一切万事《いつさいばんじ》|今後《こんご》は|御指揮《おさしづ》に|従《したが》ひまアす』
と|一句々々《いつくいつく》|声《こゑ》のいろが|変《かは》つて|聞《きこ》えて|来《く》る。
『こりや、|腹《はら》の|中《なか》の|我羅苦多《がらくた》|共《ども》、|何《なに》をつべこべと|大事《だいじ》の|事《こと》を|吐《ほざ》くのか。|沈黙《ちんもく》|致《いた》さぬか』
『アハハハハハ、どうもはや|常世姫《とこよひめ》の|肉体《にくたい》には、|此《この》|方《はう》も|畏《おそ》れ|入《い》つたぞや。ほんに|確《しつか》りした|肉体《にくたい》ぢや。この|肉体《にくたい》さへあれば|五六七神政《みろくしんせい》を|妨害《ばうがい》し、|忽《たちま》ち|悪魔《あくま》の|世《よ》と|立替《たてか》へるのは|火《ひ》を|睹《み》るよりも|明《あきら》かな|事実《じじつ》だ。|思《おも》へば|思《おも》へば|心地《ここち》よやなア、エヘヘヘヘヘ』
『こりや、|皆《みな》の|守護神《しゆごじん》|共《ども》、|静《しづか》にせいと|申《まを》せばなぜ|静《しづか》に|致《いた》さぬのか。|困《こま》つた|奴《やつ》だなア。さうして|其《その》|方《はう》は|今《いま》の|五六七《みろく》の|世《よ》を|妨害《ばうがい》して|闇《やみ》の|世界《せかい》にすると|申《まを》したな、|何《なん》と|云《い》ふ|不心得《ふこころえ》の|事《こと》を|申《まを》す……サアもう|常世姫《とこよひめ》の|肉体《にくたい》は|貴様《きさま》|等《たち》には|借《か》さぬから、エー|出《で》て|呉《く》れ、シツシツシツ』
『イヒヒヒヒヒ、|何《なん》と|云《い》つても|此《この》|肉宮《にくみや》を|帰《い》ぬ|事《こと》は|嫌《いや》だよ』
『それなら|早《はや》く|改心《かいしん》を|致《いた》して、|五六七神政《みろくしんせい》の|御神業《ごしんげふ》に|参加《さんか》|致《いた》すと|申《まを》すか。サア|早《はや》く|返答《へんたふ》を|聞《き》かせ』
|腹《はら》の|中《なか》より、|七八種《ななやいろ》の|声《こゑ》、|一時《いちじ》に|起《おこ》り、
『アハハハ、イヒヒヒ、ウフフフ、エヘヘヘ、オホホホ、カカカカ、キキキキ、クククク、ケケケケ、ココココ、パパパパ、チチチチ、キヒヒヒヒヒ』
|戸《と》の|外《そと》にはウウーウーウーワウワウワウと、|怖《おそ》ろしきスマートの|吠《ほ》える|声《こゑ》、|高姫《たかひめ》は|頭《かしら》をかかへて|慄《ふる》ひ|上《あが》る。|腹《はら》の|中《なか》の|沢山《たくさん》の|声《こゑ》は|水《みづ》を|打《う》つた|様《やう》に|一時《いちじ》にピタリと|止《と》まつてしまつた。スマートは|益々《ますます》|戸外《こぐわい》にウウウーと|唸《うな》り|立《た》てて|居《ゐ》る。
(大正一二・一・二一 旧一一・一二・五 加藤明子録)
第四篇 |神犬《しんけん》の|言霊《ことたま》
第一五章 |妖幻坊《えうげんばう》〔一三〇九〕
|春雨《はるさめ》の|降《ふ》りしきるシンミリとした|窓《まど》の|中《うち》、|四辺《あたり》の|空気《くうき》も|和《やは》らいで、|物《もの》に|熱《ねつ》し|易《やす》い|高姫《たかひめ》の|頭《あたま》はどことはなしにポカポカと|助炭《じよたん》の|上《うへ》に|坐《すわ》つた|様《やう》な|心持《こころもち》がする。|高姫《たかひめ》は|腹中《ふくちう》に|潜《ひそ》める|沢山《たくさん》のお|客《きやく》さまと、|徒然《つれづれ》の|余《あま》り、|斎苑《いそ》の|館《やかた》を|占領《せんりやう》すべき|空想《くうさう》を|描《ゑが》いて、|独《ひと》り|笑壺《ゑつぼ》に|入《い》つてゐる。|腹《はら》の|中《なか》から|義理天上《ぎりてんじやう》と|称《しよう》する|兇霊《きようれい》は、|何《なん》とはなしに|此《この》|頃《ごろ》は|元気《げんき》がよい。それは|初稚姫《はつわかひめ》が|高姫《たかひめ》の|命令《めいれい》によつて、|珍彦館《うづひこやかた》に|籠居《ろうきよ》し、|暫《しばら》く|神殿《しんでん》|又《また》は|大広前《おほひろまへ》に|姿《すがた》を|現《あら》はす|事《こと》を|禁《きん》じられ、|且《かつ》スマートを|追《お》ひ|返《かへ》したと|云《い》ふ|喜《よろこ》びからである。|併《しか》しながらスマートは|変現出没《へんげんしゆつぼつ》|自由自在《じいうじざい》の|霊獣《れいじう》なれば、|決《けつ》して|何処《どこ》へも|行《い》つては|居《ゐ》ない。|只《ただ》|初稚姫《はつわかひめ》の|身辺《しんぺん》|近《ちか》く|侍《じ》し、|人《ひと》の|足音《あしおと》が|聞《きこ》えた|時《とき》は、|早《はや》くも|悟《さと》つて|床下《ゆかした》に|身《み》を|隠《かく》すことを|努《つと》めてゐたのである。|高姫《たかひめ》は|一絃琴《いちげんきん》を|取出《とりだ》して|歌《うた》ひ|始《はじ》めた。|無論《むろん》|高姫《たかひめ》は|琴《こと》などを|弾《ひ》く|様《やう》な|芸《げい》は|持《も》つてゐない。|憑依《ひようい》してゐる|蟇先生《がませんせい》が|肉体《にくたい》を|自由自在《じいうじざい》に|使《つか》つて、|琴《こと》を|弾《だん》ずるのであつた。
『チンチンシヤン、シヤツチンシヤツチン、シヤツチン、チンチン
|春雨《はるさめ》にしつぽり|濡《ぬ》るる|露《つゆ》の|袖《そで》
こつちが|恋《こ》ふれば|杢助《もくすけ》さまも
|同《おな》じ|思《おも》ひの|恋心《こひごころ》
チンチンチン、シヤン……シヤンシヤン、シヤツチン、チンチリチン、チンーチンー
すれつ、もつれつ、|袖《そで》と|袖《そで》
|会《あ》うて|嬉《うれ》しき|此《この》|館《やかた》
|玉国別《たまくにわけ》の|身魂《みたま》をば
|此《この》|高姫《たかひめ》を|守護《しゆご》する
|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》
|深《ふか》い|仕組《しぐみ》に|操《あやつ》られ
やうやう|此処《ここ》に|宮柱《みやばしら》
|太《ふと》しき|建《た》てて|神々《かみがみ》を
|斎《いつ》きまつりて|珍彦《うづひこ》や
|静子《しづこ》の|方《かた》を|後《あと》におき
|宮《みや》の|司《つかさ》と|相定《あひさだ》め
|後白浪《あとしらなみ》と|道晴別《みちはるわけ》
|其《その》|他《た》の|家来《けらい》を|引連《ひきつ》れて
|何処《どこ》をあてとも|永《なが》の|旅《たび》
|出《い》で|行《ゆ》く|後《あと》に|入《い》り|来《きた》る
|神力無双《しんりきむさう》の|杢助《もくすけ》さま
|身魂《みたま》の|合《あ》うた|高姫《たかひめ》が
|昔《むかし》の|昔《むかし》の|大昔《おほむかし》
|神《かみ》の|結《むす》びし|縁《えにし》にて
やうやう|此処《ここ》に|巡《めぐ》り|会《あ》ひ
|其《その》|神徳《しんとく》を|世《よ》の|人《ひと》に
|鼻高姫《はなたかひめ》とホコラの|森《もり》
|二世《にせ》も|三世《さんせ》も|先《さき》の|世《よ》かけて
|自由自在《じいうじざい》の|麻邇宝珠《まにほつしゆ》
|厳《いづ》の|身魂《みたま》の|玉椿《たまつばき》
|八千代《やちよ》の|春《はる》を|楽《たの》しみに
|二人《ふたり》の|仲《なか》は|岩《いは》と|岩《いは》
|堅《かた》き|契《ちぎり》を|結《むす》び|昆布《こぶ》
|神楽舞《かぐらまひ》をば|鯣《するめ》の|夫婦《ふうふ》
|実《げ》にも|楽《たの》しき|吾《わが》|身《み》の|上《うへ》
|杢助《もくすけ》さまも|嘸《さぞ》や|嘸《さぞ》
|嬉《うれ》しい|事《こと》で……あらう|程《ほど》に
|思《おも》へば|思《おも》へば|惟神《かむながら》
|日出神《ひのでのかみ》の|引合《ひきあは》せ
|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|御守《おんまも》り
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|悪神《わるがみ》が
|千々《ちぢ》に|心《こころ》を|配《くば》りつつ
|妨《さまた》げなせど|神力《しんりき》の
|充《み》ちたらひたる|夫婦《ふうふ》が|企《たく》み
とても|破《やぶ》れぬ|悲《かな》しさに
|今《いま》は|火《ひ》となり|蛇《じや》となりて
|心《こころ》をいらち|胸《むね》こがし
|騒《さわ》ぎまはるぞ……いぢらしき。
シヤツチン シヤツチン、シヤツチンチン シヤツチンチン、チーンリンチン、チンリン チンリン チンツ、シヤーン シヤーン』
と|弾《ひ》き|終《をは》り、|一絃琴《いちげんきん》を|傍《かたはら》に|直《なほ》し、|膝《ひざ》の|上《うへ》に|両手《りやうて》をキチンとついて、|床《とこ》の|間《ま》の|自筆《じひつ》の|掛軸《かけぢく》を|眺《なが》めながら、
『ホホホホ』
と|嬉《うれ》しげに|笑《わら》ひ|興《きよう》ずる。|妖幻坊《えうげんばう》は|廁《かはや》から|廊下《らうか》をドシンドシンと、きつい|足音《あしおと》させながら|襖《ふすま》をあけて|入《い》り|来《きた》り、
『|高姫《たかひめ》、お|前《まへ》は|不思議《ふしぎ》な|隠《かく》し|芸《げい》を|持《も》つてゐるのだな。|俺《おれ》は|又《また》そんな|陽気《やうき》な|事《こと》はチツとも|知《し》らない、|信仰《しんかう》|一途《いちづ》の|熱狂女《ねつきやうぢよ》だと|思《おも》うてゐたよ。イヤもう|感心《かんしん》した』
『ホホホホ、|能《のう》ある|鷹《たか》は|爪《つめ》かくすと|云《い》ひましてな。|今《いま》|迄《まで》|此《この》|高《たか》ちやまも、|爪《つめ》をかくして|居《を》つたのだが、|今日《けふ》は|此《この》|通《とほ》り|春雨《はるさめ》で、|何《なん》とはなしに|心《こころ》が|淋《さび》しいやうでもあり、|花《はな》やかなやうでもあり、お|琴《こと》をひくには|大変《たいへん》に|天地《てんち》と|調和《てうわ》が|取《と》れるやうな|気分《きぶん》になつたものですから、|久《ひさ》し|振《ぶり》で|一寸《ちよつと》|爪弾《つまび》きをやつてみましたのよ』
『|情趣《じやうしゆ》こまやかに|四辺《あたり》の|空気《くうき》を|動揺《どうえう》させ、|次《つ》いで|此《この》|杢助《もくすけ》の|心臓《しんざう》|迄《まで》が|非常《ひじやう》に|動揺《どうえう》したよ。|俺《おれ》も|今《いま》|迄《まで》|永《なが》らくの|間《あひだ》、|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|御用《ごよう》をして|居《を》つたが、|二絃琴《にげんきん》の|音《おと》はいつも|聞《き》いて|居《を》るけれど、|一絃琴《いちげんきん》はまだ|聞《き》き|始《はじ》めだ。|一筋《ひとすぢ》の|糸《いと》の|方《はう》が|余程《よほど》|雅味《がみ》があるねえ。|一筋繩《ひとすぢなは》ではいかぬお|前《まへ》だと|思《おも》つてゐたが、|到頭《たうとう》|正体《しやうたい》が|現《あら》はれよつたなア。アツハハハハ』
『コレ|杢助《もくすけ》さま、|余《あんま》り|揶揄《からか》つて|下《くだ》さるなや』
『カラが|勝《か》たうが|日本《にほん》が|勝《か》たうが、そんなこたチツとも|頓着《とんちやく》ないのだ。|兎角《とかく》|浮世《うきよ》は|色《いろ》と|酒《さけ》だからなア。オイ|高《たか》ちやま、|一杯《いつぱい》|注《つ》いでくれないか』
『|杢助《もくすけ》さま、|貴郎《あなた》は|酒《さけ》ばかり|呑《の》んで|居《を》つて、|一度《いちど》も|神様《かみさま》に|拝礼《はいれい》をなさつた|事《こと》はないぢやありませぬか。|神様《かみさま》にお|仕《つか》へする|者《もの》が、それ|程《ほど》|無性《ぶしやう》では、|皆《みな》の|者《もの》の|信仰《しんかう》をつなぐ|事《こと》が|出来《でき》ぬぢやありませぬか。|貴郎《あなた》が|模範《もはん》を|示《しめ》さなくちや、|役員《やくゐん》や|信者《しんじや》|迄《まで》が|神様《かみさま》の|御拝礼《ごはいれい》をおろそかにして|困《こま》るぢやありませぬか』
『|俺《おれ》は|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|居《を》つても|総務《そうむ》をやつて|居《を》つたのだ。|総務《そうむ》といふものは|一切《いつさい》の|事務《じむ》を|総理《そうり》するものだ。|祭典《さいてん》や|拝礼《はいれい》などは、|又《また》それ|相当《さうたう》の|役員《やくゐん》にさせばいいのだ。ここには|珍彦《うづひこ》といふ|神司《かむつかさ》が|置《お》いてあるのだから、|俺《おれ》はマア|遠慮《ゑんりよ》しておこかい。|何《なん》だか|神様《かみさま》の|前《まへ》へ|行《ゆ》くと|恐《おそ》ろしい……イヤイヤ|恐《おそ》ろしく|霊《れい》がかかるので、|又《また》|大《おほ》きな|声《こゑ》でも|出《だ》しちや|皆《みな》の|者《もの》がビツクリするからなア。それで|実《じつ》は|拝《をが》みたくつて|仕方《しかた》がないのだが、|辛抱《しんばう》して|御遠慮《ごゑんりよ》して|居《ゐ》るのだ。|吾々《われわれ》の|身魂《みたま》は|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》だから、|神教宣伝《しんけうせんでん》の|天職《てんしよく》が|備《そな》はつてをるのだ。|祭典《さいてん》や|拝礼《はいれい》は|天国天人《てんごくてんにん》の|身魂《みたま》の|御用《ごよう》だ。|神界《しんかい》には、お|前《まへ》も|知《し》つてゐるだらうが、|互《たがひ》に|其《その》|範囲《はんゐ》を|犯《おか》す|事《こと》は|出来《でき》ない|厳《きび》しい|規則《きそく》が|惟神的《かむながらてき》に|定《さだ》められてあるからな』
『|成程《なるほど》、それでお|前《まへ》さまは|拝礼《はいれい》をなさらぬのだな。さうすると|私《わたし》は|霊国天人《れいごくてんにん》ですか、|天国天人《てんごくてんにん》ですか、|何方《どちら》だと|思《おも》ひますか』
『|勿論《もちろん》お|前《まへ》だつて、ヤツパリ|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》だよ。それならばこそ|義理天上《ぎりてんじやう》さまが、|毎日《まいにち》|守護神《しゆごじん》|人民《じんみん》に|教《をし》ふる|為《ため》に、|神諭《しんゆ》をお|書《か》きなさるぢやないか。|其《その》|生宮《いきみや》たるお|前《まへ》はヤツパリ|相応《さうおう》の|理《り》によつて、|肉体的《にくたいてき》|霊国天人《れいごくてんにん》だからなア』
『|流石《さすが》は|杢助《もくすけ》さま、|偉《えら》いものだなア。|何《なん》だか|私《わたし》も|此《この》|間《あひだ》から|拝礼《はいれい》が|厭《いや》になつて|仕方《しかた》がないのよ。|又《また》|曲津《まがつ》が|腹《はら》の|中《なか》へ|這入《はい》つて|来《き》やがつて、|大神様《おほかみさま》を|恐《おそ》れるので、こんな|気《き》になつたのかと|心配《しんぱい》して|居《を》りました。|併《しか》し、|貴郎《あなた》の|説明《せつめい》に|依《よ》つて|何《なに》も|彼《か》も|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》がハツキリと|分《わか》りました。ヤツパリさうすると、|此《この》|高姫《たかひめ》は|偉《えら》いものだなア』
『そりやさうとも、|杢助《もくすけ》さまの|女房《にようばう》になる|位《くらゐ》な|神格者《しんかくしや》だからなア、お|前《まへ》も|亦《また》これでチツと|筆先《ふでさき》の|材料《ざいれう》が|出来《でき》ただらう』
『ヘン、|馬鹿《ばか》にして|下《くだ》さいますなや。|人《ひと》に|教《をし》へて|貰《もら》うて、|筆先《ふでさき》なんか|書《か》きますものか』
『それでも|見《み》てゐよ。キツとお|前《まへ》の|筆先《ふでさき》に|現《あら》はれて|来《く》るよ。|俺《おれ》がこれだけお|前《まへ》に|聞《き》かしておくと、|義理天上《ぎりてんじやう》さまが|成程《なるほど》と|合点《がつてん》して、キツと|明日《あす》あたりから、|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》といふお|筆先《ふでさき》を|御書《おか》きなさるに|違《ちがひ》ないワ。|何《なに》せよ、|模倣《もはう》するのに|長《ちやう》じてゐる|肉宮《にくみや》だからなア』
『お|前《まへ》さまが|今《いま》|言《い》つた|言葉《ことば》は、|決《けつ》してお|前《まへ》さまの|力《ちから》ぢやありませぬぞや。|義理天上《ぎりてんじやう》さまがお|前《まへ》さまの|身魂《みたま》を|使《つか》うて|此《この》|高姫《たかひめ》に|気《き》をつけなさつたのだよ。これ|位《くらゐ》な|道理《だうり》が|分《わか》らぬ|様《やう》な|杢助《もくすけ》さまぢやありますまい。お|前《まへ》さまが、こんな|事《こと》を|仰有《おつしや》るやうになつたのもヤツパリ|時節《じせつ》だ。|高姫《たかひめ》に|筆先《ふでさき》を|書《か》かす|為《ため》に、|義理天上様《ぎりてんじやうさま》が、お|前《まへ》さまの|口《くち》を|借《か》つて|一寸《ちよつと》|言《い》はせなさつたのだから、これからの|筆先《ふでさき》はよつぽど|奇抜《きばつ》なものが|現《あら》はれますで、マア|見《み》てゐなさい。お|前《まへ》さまだけにはソツと|見《み》せて|上《あ》げますワ』
『ハツハハハ、また|出来上《できあが》りましたら|拝読《はいどく》を|願《ねが》ひませうかい』
『|杢助《もくすけ》さま、|一寸《ちよつと》|俄《にはか》に|神界《しんかい》の|御用《ごよう》が|忙《いそ》がしうなつたから、|貴郎《あなた》はお|居間《ゐま》へ|行《い》つて、お|酒《さけ》でもあがつて|休《やす》んでゐて|下《くだ》さい。お|前《まへ》さまが|側《そば》にゐられると、|思《おも》はし|筆先《ふでさき》が|書《か》けませぬからなア』
『ハツハハハ、お|筆先《ふでさき》の|偽作《ぎさく》を|遊《あそ》ばすのに、|私《わたし》が|居《を》るとお|邪魔《じやま》になりますかな。それなら|謹《つつし》んで|罷《まか》りさがりませう。|御用《ごよう》が|厶《ござ》いましたら、|御遠慮《ごゑんりよ》なくお|召《め》し|出《だ》し|下《くだ》さいますれば、|鶴《つる》の|一声《ひとこゑ》、|宙《ちう》を|飛《と》んで|御前《ごぜん》に|伺候《しこう》|致《いた》しまする。ハハハハ、|高《たか》ちやま、アバヨ』
と|腮《あご》をしやくり|腰《こし》を|振《ふ》り、ピシヤツと|襖《ふすま》を|締《し》めて、|吾《わが》|居間《ゐま》へ|帰《かへ》りゆく。そして|中《なか》から|突張《つつぱ》りをかへ、|怪物《くわいぶつ》の|正体《しやうたい》を|現《あら》はしてグウグウと|鼾《いびき》をかいて|寝《ね》て|了《しま》つた。
|高姫《たかひめ》は|俄《にはか》に|墨《すみ》をすり、|先《さき》のちびれた|筆《ふで》をキシヤ キシヤとしがみ、|墨《すみ》をダブツとつけて|一生懸命《いつしやうけんめい》に|書《か》き|始《はじ》めた。|一時《ひととき》ばかりかかつて|書《か》き|終《をは》り、キチンと|机《つくゑ》の|上《うへ》に|載《の》せ|独言《ひとりごと》、
『|義理天上《ぎりてんじやう》さまも|追々《おひおひ》|御出世《ごしゆつせ》を|遊《あそ》ばし、お|書《か》きなさる|事《こと》が|大変《たいへん》に|変《かは》つて|来《き》た。こんな|結構《けつこう》な|教《をしへ》は|人《ひと》に|見《み》せるのも|惜《を》しいやうだ。|併《しか》し|之《これ》をイル、イク、サール、ハル、テルの|幹部《かんぶ》に|読《よ》ましておかぬと、|高姫《たかひめ》の|肉宮《にくみや》を|安《やす》く|思《おも》つて|仕方《しかた》がない。|又《また》|肝腎《かんじん》の|事《こと》が|分《わか》らいではお|仕組《しぐみ》の|成就《じやうじゆ》が|遅《おそ》くなつて、どもならぬから、|惜《を》しいけれど、|一《ひと》つ|此処《ここ》へ|呼《よ》んで|来《き》て|拝読《はいどく》させてやらうかな。|初稚姫《はつわかひめ》にも|聞《き》かしてやれば|改心《かいしん》するであらうか……イヤイヤ|待《ま》て|待《ま》てモウ|暫《しばら》く|隠《かく》しておかう、|発根《ほつごん》と|改心《かいしん》が|出来《でき》たら|読《よ》むやうになるだらう。|何《なん》だか|初稚姫《はつわかひめ》は、|私《わたし》の|筆先《ふでさき》を|心《こころ》の|底《そこ》から|信用《しんよう》してゐない|様《やう》な|心持《こころもち》がするから、|読《よ》めと|云《い》つたら|読《よ》むではあらうが、|身魂《みたま》の|性来《しやうらい》が|悪《わる》いから、|充分《じうぶん》に|腹《はら》へは|這入《はい》るまい。|杢助《もくすけ》さまの|教《をしへ》だと|云《い》へば、|聞《き》くかも|知《し》れぬが、さうすると|日出神《ひのでのかみ》の|神力《しんりき》がないやうにあつて、|都合《つがふ》が|悪《わる》いなり……|困《こま》つた|事《こと》だなア。|待《ま》て|待《ま》て、|一《ひと》つこれは|考《かんが》へねばなろまい。ウーン|成程《なるほど》|々々《なるほど》、イルに|大《おほ》きな|声《こゑ》で|拝読《はいどく》さしてやらう。そして|珍彦《うづひこ》の|館《やかた》へ、あの|受付《うけつけ》からならば|突《つ》き|抜《ぬ》けるやうに|聞《きこ》えるのだから、|此《この》|結構《けつこう》なお|筆《ふで》を|耳《みみ》に|入《い》れたならば、イツカな|分《わか》らぬ|初稚姫《はつわかひめ》も、|成程《なるほど》と|耳《みみ》をすませ|改心《かいしん》するに|違《ちが》ひない、|此《この》|筆先《ふでさき》で|押《おさ》へつけるに|限《かぎ》る』
とニコニコしながら、|書《か》いた|筆先《ふでさき》|二十枚綴《にじふまいとぢ》を|三冊《さんさつ》ばかり、|三宝《さんぱう》に|載《の》せ、|目八分《めはちぶ》に|捧《ささ》げ、|襖《ふすま》をスツと|開《あ》け、ソロリソロリと|勿体《もつたい》らしく|受付《うけつけ》|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。|受付《うけつけ》では|担当者《たんたうしや》のイルを|始《はじ》め、ハル、テル、|其《その》|他《た》の|連中《れんちう》が|胡坐《あぐら》をかいて|自慢話《じまんばなし》に|耽《ふけ》つてゐる。
ハル『オイ、イルさま、お|前《まへ》|一体《いつたい》|此《この》|受付《うけつけ》で|偉《えら》さうにシヤチ|張《ば》つて|居《ゐ》るが、|月給《げつきふ》は|幾《いく》ら|貰《もら》つて|居《ゐ》るのだい』
『まだ|珍彦《うづひこ》さまが、|定《き》めて|下《くだ》さらぬのだ。ナアニ|別《べつ》に|神様《かみさま》の|御用《ごよう》するのだから、|何《なん》なつとヒダルないやうにして|貰《もら》へさへすりや、|月給《げつきふ》なんかいらないよ。|結構《けつこう》な|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をするならば、|献労《けんらう》の|積《つもり》で、|無報酬《むほうしう》で|御用《ごよう》さして|頂《いただ》きたい。|併《しか》しながら|高姫《たかひめ》なんかの|指図《さしづ》を|受《う》けねばならぬとすれば、|相当《さうたう》の|給料《きふれう》を|貰《もら》はないと|厭《いや》だなア』
『それなら|幾《いく》ら|欲《ほ》しいと|云《い》ふのだい』
『マア|一ケ月《いつかげつ》|十円《じふゑん》|位《くらゐ》で|結構《けつこう》だ』
『|貴様《きさま》、バラモン|教《けう》ではモチと|沢山《たくさん》に|貰《もら》うてゐたぢやないか』
『さうだ、|五十円《ごじふゑん》に|一円《いちゑん》|足《た》らずで、|四十九円《しじふくゑん》の|月給《げつきふ》だ。アハハハハ、ハル……|併《しか》しお|前《まへ》は|幾《いく》ら|頂戴《ちやうだい》して|居《を》つた』
『|俺《おれ》かい、|俺《おれ》はザツと|十八円《じふはちゑん》だ』
『|成程《なるほど》、それでは|毎日《まいにち》|九円々々《くゑんくゑん》の|泣暮《なきぐら》しだな、エヘヘヘヘ』
と|他愛《たあい》もなく|話《はなし》に|耽《ふけ》つてゐる。そこへ|高姫《たかひめ》は|三宝《さんぱう》に|今《いま》|書《か》いたばかりの、まだ|墨《すみ》も|乾《かわ》いてゐないボトボトした|筆先《ふでさき》を|目八分《めはちぶ》に|捧《ささ》げて|入《い》り|来《きた》り、
『コレ、|皆《みな》さま、|何《なに》を|云《い》つて|居《ゐ》るのだい。お|前《まへ》さま|達《たち》は、|神様《かみさま》の|御精神《ごせいしん》がチツとも|分《わか》らぬ|八衢人間《やちまたにんげん》だから|困《こま》つて|了《しま》ふ。|受付《うけつけ》といふものは、|一番《いちばん》|大切《たいせつ》なお|役《やく》ぢやぞえ。|奥《おく》に|居《ゐ》る|大将《たいしやう》は|仮令《たとへ》|少々《せうせう》|位《ぐらゐ》|天保銭《てんぱうせん》でも、|受付《うけつけ》さへシツカリしてさへ|居《を》れば、|立派《りつぱ》な|御神徳《ごしんとく》が|現《あら》はれるのだ。ここへ|立寄《たちよ》る|人民《じんみん》が、|受付《うけつけ》の|立派《りつぱ》なのを|見《み》て……あああ、|受付《うけつけ》でさへもこんな|立派《りつぱ》な|人間《にんげん》が|居《を》るのだから、ここの|教主《けうしゆ》は|偉《えら》い|者《もの》だらう……と|直覚《ちよくかく》する|様《やう》になるのだ。をかしげな、|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|人間《にんげん》が|受付《うけつけ》に|居《を》らうものなら、|何程《なにほど》|教主《けうしゆ》が|立派《りつぱ》な|神徳《しんとく》があつてもサツパリ|駄目《だめ》だからな。|今《いま》|義理天上様《ぎりてんじやうさま》から、|結構《けつこう》な|結構《けつこう》なお|筆先《ふでさき》が|出《で》たによつて、ここで|之《これ》を|拝読《いただ》いて、ギユツと|腹《はら》に|締《し》め|込《こ》みておきなされ。そして|立寄《たちよ》る|人民《じんみん》に|此《この》お|筆先《ふでさき》を|読《よ》んで|聞《き》かすのだよ。|併《しか》しお|直筆《ぢきひつ》は|勿体《もつたい》ないから、お|前《まへ》さまがここで|写《うつ》して|控《ひかへ》をとり、お|直筆《ぢきひつ》をすぐ|返《かへ》して|下《くだ》され。|結構《けつこう》な|事《こと》が|書《か》いてあるぞや』
イル『ハイ、それは|何《なに》より|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります。|早速《さつそく》|写《うつ》さして|頂《いただ》きまして、|拝読《はいどく》さして|貰《もら》ひます』
『ヨシヨシ、|併《しか》しながら|読《よ》む|時《とき》には、|珍彦《うづひこ》さまの|館《やかた》へ|透《す》き|通《とほ》るやうな|声《こゑ》で、|読《よ》んで|下《くだ》されや』
『|此《この》お|筆先《ふでさき》はまだズクズクに|濡《ぬ》れて|居《を》りますな、|只今《ただいま》お|書《か》きになつたのですか』
『ああさうだよ。|今《いま》|書《か》いたとこだ。|結構《けつこう》なお|蔭《かげ》を、ぢきぢきにお|前《まへ》に|授《さづ》けるのだから、|神様《かみさま》に|御礼《おれい》を|申《まを》しなさいや』
『エエ|一寸《ちよつと》|高姫《たかひめ》さまにお|伺《うかが》ひしておきますが、|此《この》お|筆先《ふでさき》は|今《いま》|書《か》いたと|仰有《おつしや》いましたね。それに|日附《ひづけ》は|去年《きよねん》の|八月《はちぐわつ》ぢやありませぬか。|貴女《あなた》は|八月頃《はちぐわつごろ》には|此処《ここ》に|居《を》られたやうに|思《おも》ひませぬがなア』
『そこは|神界《しんかい》のお|仕組《しぐみ》があつて、|日日《ひにち》が|去年《きよねん》にしてあるのだよ』
『さうすると、|貴女《あなた》は|杢助《もくすけ》さまに|教《をし》へて|貰《もら》つたのですな。それを|教《をし》へて|貰《もら》うてから|書《か》いたと|云《い》はれちや、|義理天上様《ぎりてんじやうさま》の|御神徳《ごしんとく》が|落《お》ちると|思《おも》うて、|杢助《もくすけ》さまに|聞《き》くより|先《さき》に|知《し》つて|居《を》つたといふお|仕組《しぐみ》ですな。|成程《なるほど》|流石《さすが》は|抜目《ぬけめ》のない|高姫《たかひめ》さまだワイ』
『コレ、|訳《わけ》も|知《し》らずに|何《なに》を|言《い》ふのだい。|義理天上様《ぎりてんじやうさま》が、|去年《きよねん》からチヤンと|神界《しんかい》で|書《か》いて|置《お》かれたのだ。|肉体《にくたい》が|忙《いそが》しいものだから、|肉体《にくたい》の|方《はう》が|遅《おく》れて|居《を》つたのだよ。お|前達《まへたち》は|霊界《れいかい》の|事《こと》が|分《わか》らぬからそんな|理窟《りくつ》を|言《い》ふのだよ。|何事《なにごと》も|素直《すなほ》にいたすが|結構《けつこう》だぞえ。それが|改心《かいしん》と|申《まを》すのだからな』
『エツヘヘヘヘ、さうでがすかなア、イヤもう|恐《おそ》れ|入《い》りました、|感心《かんしん》|致《いた》しました、|驚《おどろ》きました、|呆《あき》れました、|愛想《あいさう》が……|尽《つ》きませぬでした。|有難《ありがた》う|厶《ござ》いました』
『コレ、イルさま、ました ましたと、そら|何《なに》を|云《い》つてるのだい』
『エーン、あの、|何《なん》で|厶《ござ》います、ましだ……と|云《い》うたのです。つまり|要《えう》するに、|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》のお|筆先《ふでさき》は、|厳《いづ》の|御霊《みたま》のお|筆先《ふでさき》よりも|幾層倍《いくそうばい》マシだと|思《おも》ひまして、ヘヘヘヘ|一寸《ちよつと》|口《くち》が|辷《すべ》りまして|厶《ござ》ります。|余《あま》り|立派《りつぱ》な|事《こと》が|書《か》いてあるので、|呆《あき》れたので|厶《ござ》います』
『コレ、まだ|読《よ》みもせない|癖《くせ》に、どんな|事《こと》が|書《か》いてある……|分《わか》るかなア』
『ヘ、エ、そこがそれ、|天眼通《てんがんつう》が|利《き》くものですから、|眼光《がんくわう》|紙背《しはい》に|徹《てつ》すと|申《まを》しまして、チヤンと|分《わか》つて|居《を》ります』
『さう|慢心《まんしん》するものぢやありませぬぞや。サ、|早《はや》く|写《うつ》していただきなさい』
と|少《すこ》しく|顔面《がんめん》に|誇《ほこ》りを|見《み》せて、|反身《そりみ》になつてゾロリゾロリと|天下《てんか》を|握《にぎ》つた|様《やう》な|態度《たいど》で、おのが|居間《ゐま》へと|帰《かへ》り|行《ゆ》くのであつた。
(大正一二・一・二三 旧一一・一二・七 松村真澄録)
第一六章 |鷹鷲掴《たかわしづかみ》〔一三一〇〕
イルは|冷笑《れいせう》を|泛《うか》べながら、|高姫《たかひめ》の|御機嫌取《ごきげんと》りの|為《ため》に、|一間《ひとま》に|入《はい》つて|大速力《だいそくりよく》にて|書《か》き|写《うつ》し、|直様《すぐさま》に|直筆《ぢきひつ》を|右《みぎ》の|手《て》にひん|握《にぎ》り、|左《ひだり》の|手《て》に|三宝《さんぱう》を|掴《つか》んで|高姫《たかひめ》の|居間《ゐま》の|前《まへ》まで|到《いた》り、|元《もと》の|通《とほ》りキチンと|叮嚀《ていねい》にのせ、|目八分《めはちぶ》に|捧《ささ》げ、|襖《ふすま》の|外《そと》から|言葉《ことば》もいと|荘重《さうちよう》に、
『|日出神《ひのでのかみ》の|義理天上《ぎりてんじやう》、|只今《ただいま》|御入来《ごじゆらい》、アイヤ、|高姫《たかひめ》|殿《どの》、|此《この》|襖《ふすま》をあけめされよ』
と|呼《よ》ばはつた。|高姫《たかひめ》は|余《あま》り|荘重《さうちよう》な|言葉《ことば》に、ハテ|不思議《ふしぎ》と|襖《ふすま》をサツとあけ|見《み》れば、イルは|筆先《ふでさき》を|載《の》せた|三宝《さんぱう》を|恭《うやうや》しく|捧《ささ》げ|立《た》つてゐる。
『|何《なん》だ、お|前《まへ》はイルぢやないか。|腹《はら》の|悪《わる》い、|私《わたし》を|吃驚《びつくり》さしたがなア。ヘン|日出神《ひのでのかみ》なんて、|偉《えら》さうに|云《い》ふものぢやないワ。|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》は|此《この》|高姫《たかひめ》の|体内《たいない》にお|鎮《しづ》まり|遊《あそ》ばすぞや。お|前《まへ》さまのやうなお|方《かた》に、|何《ど》うしてお|鎮《しづ》まり|遊《あそ》ばすものか』
イルは|立《た》ちはだかつたまま、
『アイヤ、|高姫《たかひめ》、よつく|承《うけたま》はれ。|日出神《ひのでのかみ》は|汝《なんぢ》が|体内《たいない》に|宿《やど》ることもあり、|又《また》|筆先《ふでさき》に|宿《やど》る|事《こと》もあるぞよ。このイルに|持《も》たせた|筆先《ふでさき》は|即《すなは》ち|日出神《ひのでのかみ》の|御神体《ごしんたい》であるぞよ。|或《ある》|時《とき》は|高姫《たかひめ》の|体内《たいない》に|宿《やど》り、|或《ある》|時《とき》は|筆先《ふでさき》に|宿《やど》り、イルの|肉体《にくたい》を|以《もつ》て|之《これ》を|守《まも》らせあれば、|只今《ただいま》のイルは|即《すなは》ち|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》であるぞよ。|粗末《そまつ》に|致《いた》すと|罰《ばち》が|当《あた》るぞよ。|取違《とりちが》ひを|致《いた》すでないぞよ。アフンと|致《いた》して|目眩《めまひ》が|来《く》るぞよ。|日出神《ひのでのかみ》に|間違《まちが》ひはないぞよ。おちぶれ|者《もの》を|侮《あなど》ることはならぬぞよ。|何《ど》んな|御方《おかた》に|御用《ごよう》がさしてあるか|分《わか》らぬぞよ』
『あああ、とうと、|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》の|御神徳《ごしんとく》に|打《う》たれて|半気違《はんきちが》ひになりよつた。これだから|猫《ねこ》に|小判《こばん》、|豚《ぶた》に|真珠《しんじゆ》といふのだ。サ|早《はや》く|此方《こちら》へかしなされ、|日出神《ひのでのかみ》が|二人《ふたり》も|出来《でき》たら|治《をさ》まらぬからな』
と|矢庭《やには》にパツと|引《ひつ》たくらうとする。イルはワザとに|三宝《さんぱう》を|握《にぎ》り|締《し》めた。|高姫《たかひめ》は|力《ちから》をこめて、グツと|引《ひ》いた|拍子《ひやうし》に、|三宝《さんぱう》の|表《おもて》と|脚《あし》とがメキメキと|音《おと》を|立《た》てて|二《ふた》つになつた。|其《その》|勢《いきほひ》に|筆先《ふでさき》は|宙《ちう》を|掠《かす》めて、ゴンゴンといこつてゐた|炭火《すみび》の|中《なか》へパツと|落《お》ちた。|忽《たちま》ち|三冊《さんさつ》のお|筆先《ふでさき》は|黒《くろ》き|煙《けむり》りの|竜《りう》となつて|天《てん》に|昇《のぼ》つて|了《しま》つた。
『あああ、|何《なん》の|事《こと》ぢや、これ、イル、|何《ど》うして|下《くだ》さる。|折角《せつかく》|神様《かみさま》がお|書《か》き|遊《あそ》ばしたお|直筆《ぢきひつ》を、サツパリ|煙《けむり》りにして|了《しま》つたぢやないか』
『|何《なん》と|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》はえらいものですな。たうとう|結構《けつこう》な|御神体《ごしんたい》が|現《あら》はれました。|貴女《あなた》も|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、|火鉢《ひばち》から|火《ひ》が|出《で》て|日出神《ひのでのかみ》となり、あの|通《とほ》り|黒《くろ》い|竜《りう》となり、|煙《けむり》りに|包《つつ》まれて|天上《てんじやう》なされました。イヤ|煙《けむり》ではなからう、|朝霧《あさぎり》|夕霧《ゆふぎり》といふギリでせう。それだから|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》が|御竜体《ごりうたい》を|現《あら》はして|天上《てんじやう》なされました。|何《なん》とマア|貴女《あなた》は|御神徳《ごしんとく》が|高姫《たかひめ》さまで|厶《ござ》いますな。エヘヘヘヘ、イヤもう|感《かん》じ|入《い》りまして|厶《ござ》います』
と|口《くち》から|出任《でまか》せに|高姫《たかひめ》を|揶揄《からかひ》|半分《はんぶん》に|褒《ほ》めそやした。|高姫《たかひめ》は|怒《おこ》らうと|思《おも》つて|居《を》つたが、イルの|頓智《とんち》に|巻《ま》き|込《こ》まれ、|嬉《うれ》しいやうな|腹立《はらだ》たしいやうな、|妙《めう》な|気分《きぶん》になつて、|胸《むね》を|撫《な》でおろし、
『お|直筆《ぢきひつ》は|天上《てんじやう》なさつたが、|併《しか》しマアマア|結構《けつこう》だ。お|前《まへ》が|写《うつ》しておいてくれたから、マ|一度《いちど》|書《か》き|直《なほ》さして|頂《いただ》かうかな。|滅多《めつた》にあんな|結構《けつこう》なお|筆先《ふでさき》は|出《で》るものぢやないからな。コレ、イルや、|早《はや》くあのお|筆先《ふでさき》の|写《うつ》しを、ここへ|持《も》つて|来《き》てくれ』
『ヘーエ、|写《うつ》さして|頂《いただ》かうと|思《おも》ひましたが、|何分《なにぶん》|御神徳《ごしんとく》が|高《たか》いお|筆先《ふでさき》だものですから、|後光《ごくわう》がさしまして、サツパリ|目《め》がくらみ、|一字々々《いちじいちじ》|其《その》|文字《もじ》が|鎌首《かまくび》を|立《た》てて、|竜神《りうじん》さまになつて|動《うご》くやうに|見《み》えるものですもの、|到底《たうてい》|吾々《われわれ》の|如《ごと》き|神徳《しんとく》のない|者《もの》では、|写《うつ》すことは|愚《おろ》か|拝読《いただ》くでさへも|目《め》がマクマク|致《いた》します。それでお|前《まへ》さまに|写《うつ》して|頂《いただ》かうと|思《おも》つて、|此《この》|通《とほ》り|御神体《ごしんたい》をここ|迄《まで》|送《おく》つて|来《き》たので|厶《ござ》います』
と|揶揄好《からかひずき》のイルは、|其《その》|実《じつ》スツクリ|写《うつ》し|取《と》つて|居《ゐ》ながら、ワザとこんな|事《こと》を|云《い》ふ。
『エーエ、|気《き》の|利《き》かぬことだなア、お|前《まへ》が|能《よ》う|写《うつ》さな、なぜ|他《ほか》の|者《もの》に|写《うつ》ささなかつたのだい』
『それでもイルに|写《うつ》せよと、|貴女《あなた》が|御命令《ごめいれい》をお|下《くだ》しになつたものですから、|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》のお|言葉《ことば》には|背《そむ》かれないと|思《おも》うて、|他《ほか》の|者《もの》には|見《み》せもしませなんだのですよ』
『エーエ、|気《き》の|利《き》かぬ|男《をとこ》だな。あああ、どうしたらいいかしらぬて……お|前《まへ》さまは|暫《しばら》く|謹慎《きんしん》の|為《ため》、|彼方《あちら》へ|控《ひか》へて|居《を》りなさい。そして|受付《うけつけ》はハルに|申付《まをしつ》ける。こんな|不調法《ぶてうはふ》を|致《いた》して、よい|気《き》で|居《を》るといふ|事《こと》があるものかいな』
『ハイ、|仕方《しかた》が|厶《ござ》いませぬ。|併《しか》しながら|私《わたし》の|守護神《しゆごじん》が|霊界《れいかい》で|写《うつ》したかも|知《し》れませぬから、もし|出《で》て|来《き》ましたら、|勘忍《かんにん》して|下《くだ》さるでせうなア』
『|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|言《い》ひなさるな。お|前等《まへら》の|守護神《しゆごじん》がそんな|事《こと》が|書《か》けてたまりますか。|此《この》|高姫《たかひめ》でさへも|守護神《しゆごじん》が|書《か》くといふ|事《こと》は|出来《でき》ぬ|故《ゆゑ》に、|此《この》|生宮《いきみや》の|手《て》を|通《とほ》してお|書《か》きなさるのだ。エエ|気色《きしよく》の|悪《わる》い、|彼方《あつちや》へ|行《い》つて|下《くだ》され。お|前《まへ》さまの|面《つら》を|見《み》るのも|胸《むね》クソが|悪《わる》い。|結構《けつこう》な|結構《けつこう》なお|筆先《ふでさき》を|三冊《さんさつ》まで|燃《も》やして|了《しま》うて、どうしてこれが|神様《かみさま》に|申訳《まをしわけ》が|立《た》ちますか』
『|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》に|会《あ》はうと|思《おも》うて、|義理天上《ぎりてんじやう》さまが|化相《けさう》の|術《じゆつ》を|以《もつ》て、|天上《てんじやう》なさつたのかも|知《し》れませぬよ。さう|気投《けな》げしたものぢや|厶《ござ》いませぬワイ』
『エー|喧《やかま》しい、|彼方《あつちや》へ|行《ゆ》きなされ。グヅグヅ|致《いた》して|居《を》ると、|此《この》|箒《はうき》が|御見舞《おみま》ひ|申《まを》すぞや』
と|顔《かほ》を|真赤《まつか》にし、|捨鉢気味《すてばちぎみ》になり、|半狂乱《はんきやうらん》になつて|呶鳴《どな》り|散《ち》らすのであつた。イルは、
『ハイ』
と|一言《ひとこと》|残《のこ》し、|匆々《さうさう》に|襖《ふすま》を|開《あ》け|閉《し》めし、|首《くび》をすくめ、|舌《した》を|出《だ》し、|腮《あご》をしやくりながら|受付《うけつけ》へ|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ|帰《かへ》つて|来《き》た。|受付《うけつけ》にはハル、テル、イク、サールの|四人《よにん》が|筆先《ふでさき》の|写《うつ》しをゲラゲラ|笑《わら》ひながら|読《よ》んでゐる。
『オイ、そんな|大《おほ》きな|声《こゑ》で|笑《わら》つてくれな、|今《いま》|義理天上《ぎりてんじやう》が|大変《たいへん》に|怒《おこ》つてゐるからな』
ハル『ナアニ、|怒《おこ》る|事《こと》があらうかい。|早《はや》く|写《うつ》して|腹《はら》へ|締《し》め|込《こ》みておいて|下《くだ》されよ……と|云《い》つて|帰《かへ》つたぢやないか。|今《いま》|一生懸命《いつしやうけんめい》に|他人《たにん》の|褌《ふんどし》を|締《し》めこみてゐる|所《ところ》だ。アハハハハ』
サール『これ|程《ほど》|分《わか》りにくい|文字《もじ》を|写《うつ》させておいて、|何《なん》の|為《ため》に|高姫《たかひめ》さまが、それ|程《ほど》|怒《おこ》るのだい。|怒《おこ》る|位《くらゐ》ならなぜ|写《うつ》せと|云《い》つたのだ。|本当《ほんたう》に|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》をぬかすじやないか』
『ナアニ、そりやそれでいいのだが、|高姫《たかひめ》の|奴《やつ》、とうと、|過《あやま》つて|三冊《さんさつ》の|筆先《ふでさき》を|火《ひ》の|中《なか》へおとし、|焼《や》いて|了《しま》ひよつたのだ。それで|大変《たいへん》に|御機嫌《ごきげん》が|悪《わる》いのだよ』
『イヒヒヒヒ、そりやいい|気味《きみ》だねえ、|随分《ずいぶん》|妙《めう》な|面《つら》をしただらう』
『|丸《まる》きり、|竈《かまど》の|上《うへ》の|不動《ふどう》さまを|焼杭《やけぐひ》でくらはした|時《とき》のやうな|面《つら》をしよつて、きつく|睨《にら》みよつた。そして|其《その》|写《うつ》しがあるだらうから、すぐ|持《も》つて|来《こ》いと|云《い》ひよつたので、|俺《おれ》は|余《あんま》り|劫腹《ごふはら》だから、あのお|筆先《ふでさき》は|御威勢《ごゐせい》が|高《たか》うて|後光《ごくわう》がさし、|一字々々《いちじいちじ》|文字《もじ》が|活躍《くわつやく》して、|鎌首《かまくび》を|立《た》て|竜神《りうじん》になつて|這《は》ひ|廻《まは》るやうに|見《み》えたから、|能《よ》う|写《うつ》しませなんだ……とやつた|所《ところ》、|流石《さすが》の|高姫《たかひめ》も|真青《まつさを》の|面《つら》して、|其《その》|失望《しつばう》、|落胆《らくたん》さ|加減《かげん》、|実《じつ》に|痛快《つうくわい》だつたよ。それだから|大《おほ》きな|声《こゑ》で|読《よ》むなと|云《い》ふのだ』
『アハハハハ、|成程《なるほど》、|其奴《そいつ》ア|面白《おもしろ》い。オイ|皆《みな》の|奴《やつ》、|此処《ここ》で|一《ひと》つ|大声《おほごゑ》を|張上《はりあ》げて|読《よ》んだろかい』
『そんな|事《こと》したら、|高姫《たかひめ》がガンづくぢやないか』
『なアに、|俺《おれ》が|廊下《らうか》に|見張《みはり》をしてゐるから、|向《むか》ふへ|聞《きこ》えるやうに|読《よ》むのだ。そして|高姫《たかひめ》が|来《き》よつたら、|筆先《ふでさき》を|尻《しり》の|下《した》へかくし、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》してるのだ。|今《いま》|読《よ》んで|居《を》つたぢやないかと|云《い》ひよつたら、イルの|腹《はら》の|中《なか》へ|義理天上《ぎりてんじやう》さまがお|這入《はい》りになつて、あんな|大《おほ》きな|声《こゑ》でお|筆先《ふでさき》を|読《よ》まれた……とかませばいいぢやないか』
『なアる|程《ほど》、|妙案《めうあん》だ、それでは|俺《おれ》が|一《ひと》つ|読《よ》んでやらうかなア』
とサールを|廊下《らうか》に|立番《たちばん》させ、ハル、テル、イクを|前《まへ》に|坐《すわ》らせ、イルはワザとに|大声《おほごゑ》を|出《だ》して|読《よ》み|始《はじ》めた。
『|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|誠《まこと》|正《しやう》まつの、|生粋《きつすゐ》の|五六七神政《みろくしんせい》の|筆先《ふでさき》であるぞよ。|高姫《たかひめ》の|肉宮《にくみや》は、|昔《むかし》の|昔《むかし》の|根本《こつぽん》の|神代《かみよ》から、|因縁《いんねん》ありて、|神《かみ》が|御用《ごよう》に|使《つか》うて|居《を》りたぞよ。この|肉体《にくたい》は|高天原《たかあまはら》の|第一《だいいち》の|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》の|身魂《みたま》であるぞよ。|高姫《たかひめ》の|身魂《みたま》と|引添《ひつそ》うて、|三千世界《さんぜんせかい》の|守護《しゆご》がさしてありたぞよ。それについては|杢助殿《もくすけどの》の|身魂《みたま》もヤツパリ|霊国天人《れいごくてんにん》の|生粋《きつすゐ》の|身魂《みたま》であるぞよ。|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》の|霊《みたま》は|結構《けつこう》な|神《かみ》の|教《をしへ》を|致《いた》す|御役《おんやく》であるぞよ。|祭典《さいてん》や|拝礼《はいれい》などを|致《いた》す|霊《みたま》は、|天国天人《てんごくてんにん》の|御用《ごよう》であるぞよ。|併《しか》し|乍《なが》ら|世《よ》が|曇《くも》りて、|天人《てんにん》の|霊《みたま》は|一人《ひとり》もなくなり、|八衢人間《やちまたにんげん》が|神《かみ》の|御用《ごよう》を|致《いた》して|居《を》るぞよ。|世界《せかい》の|人民《じんみん》は|皆《みな》|地獄《ぢごく》の|餓鬼《がき》の|霊《みたま》や|畜生道《ちくしやうだう》の|霊《みたま》ばかりであるから、|此《この》|世《よ》がサツパリ|曇《くも》りて|了《しま》うたぞよ。|夜《よる》の|守護《しゆご》であるぞよ。|此《この》|暗《やみ》くもの|世《よ》を|日《ひ》の|出《で》の|守護《しゆご》といたす|為《ため》に、|義理天上《ぎりてんじやう》が|因縁《いんねん》のある|高姫《たかひめ》の|身魂《みたま》を|生宮《いきみや》と|致《いた》して、|三千世界《さんぜんせかい》を|構《かま》ふ|時節《じせつ》が|参《まゐ》りたぞよ。|変性男子《へんじやうなんし》の|霊《みたま》は|日出神《ひのでのかみ》が|現《あら》はれるについて、|神《かみ》から|先走《さきばし》りに|出《だ》してありたぞよ。そして|変性女子《へんじやうによし》の|霊《みたま》は|此《この》|世《よ》を|曇《くも》らす|霊《みたま》であるぞよ。|此《この》|儘《まま》にしておいたなれば、|此《この》|世《よ》は|泥海《どろうみ》になるより|仕様《しやう》がないぞよ。|三千世界《さんぜんせかい》の|救世主《きうせいしゆ》は|此《この》|高姫《たかひめ》より|外《ほか》にないぞよ。それについては|杢助殿《もくすけどの》の|霊《みたま》は|夫婦《ふうふ》の|霊《みたま》であるから、|高姫《たかひめ》と|引添《ひつそ》うて|御用《ごよう》させるやうに|天《てん》の|大神《おほかみ》からの|御仕組《おしぐみ》であるぞよ。|初稚姫《はつわかひめ》は|杢助《もくすけ》の|御子《おんこ》であるけれども、|霊《みたま》の|親子《おやこ》ではないぞよ。|高姫《たかひめ》も|肉体上《にくたいじやう》|母子《おやこ》となりて|居《を》るなれど、|霊《みたま》から|申《まを》せば|天地《てんち》の|相違《さうゐ》があるぞよ。|高姫《たかひめ》は|一番《いちばん》|高《たか》い|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》の|霊《みたま》であるなれど、|初稚姫《はつわかひめ》は|八衢《やちまた》の|霊《みたま》であるから、|到底《たうてい》、|一通《ひととお》りでは|側《そば》へも|寄《よ》りつけぬなれども、|肉体《にくたい》が|何《なに》を|云《い》うても、|憐《あは》れみ|深《ぶか》い|結構《けつこう》な|人間《にんげん》ぢやによつて、|初稚姫《はつわかひめ》を|吾《わが》|子《こ》と|致《いた》して|居《を》るぞよ。|初稚姫《はつわかひめ》|殿《どの》も|改心《かいしん》を|致《いた》されよ。|杢助《もくすけ》の|子《こ》ぢやと|申《まを》して|慢心《まんしん》|致《いた》すでないぞよ。それについてはイル、イク、サール、ハル、テル|殿《どの》に|結構《けつこう》な|御用《ごよう》を|致《いた》さすぞよ。|此《この》|筆先《ふでさき》は|火《ひ》にも|焼《や》けず|水《みづ》にも|溺《おぼ》れぬ|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》であるから、|粗末《そまつ》に|致《いた》したら|目眩《めまひ》が|来《く》るぞよ。|珍彦《うづひこ》の|霊《みたま》も|静子《しづこ》の|霊《みたま》も|誠《まこと》に|因縁《いんねん》の|悪《わる》い|霊《みたま》であるぞよ。|其《その》|中《なか》から|生《うま》れた|楓《かへで》は、|誠《まこと》に|了簡《れうけん》の|悪《わる》い|豆狸《まめだぬき》の|守護神《しゆごじん》であるから、|三人《さんにん》|共《とも》に|神《かみ》が|国替《くにがへ》を|致《いた》さして、|神界《しんかい》でそれぞれの|御用《ごよう》を|仰《おほ》せつけるぞよ。|此《この》|筆先《ふでさき》に|書《か》いた|事《こと》は|間違《まちがひ》はないぞよ。|初稚姫《はつわかひめ》も|改心《かいしん》を|致《いた》して|下《くだ》さらぬと、|何時《いつ》|舟《ふね》が|覆《かへ》るか|分《わか》らぬぞよ。|可哀相《かあいさう》な|者《もの》なれど、|霊《みたま》で|御用《ごよう》さすより|仕様《しやう》がないぞよ。|〓《みづち》の|霊《みたま》であるから、|今《いま》|迄《まで》はばりてをりたなれど、|善悪《ぜんあく》の|立別《たてわ》かる|時節《じせつ》が|参《まゐ》りて、|高姫《たかひめ》が|此処《ここ》へ|現《あら》はれた|以上《いじやう》は、|到底《たうてい》|叶《かな》はぬぞよ。|皆《みな》の|者《もの》よ、|此《この》|筆先《ふでさき》をよく|腹《はら》へ|締《し》め|込《こ》みておいて|下《くだ》されよ。|杢助殿《もくすけどの》と|高姫《たかひめ》と|夫婦《ふうふ》になりたと|申《まを》して、チヨコチヨコとせせら|笑《わら》ひを|致《いた》して|居《を》るなれど、|人民《じんみん》の|知《し》りた|事《こと》でないぞよ。|神《かみ》は|何処《どこ》|迄《まで》も|気《き》を|引《ひ》くから、|取違《とりちがひ》を|致《いた》さぬやうに|御用心《ごようじん》なされよ。|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|筆先《ふでさき》は|一分一厘《いちぶいちりん》|間違《まちが》ひはないぞよ。|高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》の|一番《いちばん》|天上《てんじやう》の|身魂《みたま》であるぞよ。|又《また》|杢助殿《もくすけどの》には|大広木正宗殿《おほひろきまさむねどの》の|霊《みたま》が|授《さづ》けてあるぞよ。|今《いま》|迄《まで》は|摩利支天《まりしてん》の|霊《みたま》が|憑《かか》りて|居《を》りたなれど、|神界《しんかい》の|都合《つがふ》により、|義理天上《ぎりてんじやう》の|命令《めいれい》により、|大広木正宗《おほひろきまさむね》の|御用《ごよう》をさして、|常世姫《とこよひめ》の|肉宮《にくみや》と、|末代《まつだい》の|結構《けつこう》な|御用《ごよう》を|致《いた》させるから、|杢助殿《もくすけどの》が|何事《なにごと》を|致《いた》しても|申《まを》してもゴテゴテ|申《まを》すでないぞよ。|又《また》|初稚姫《はつわかひめ》は|我《が》の|強《つよ》き|霊《みたま》なれども、|日出神《ひのでのかみ》の|神力《しんりき》に、トウトウ|往生《わうじやう》|致《いた》して、|四《よ》つ|足《あし》のスマートを|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|追《お》ひ|返《かへ》したのは、まだしも|結構《けつこう》であるぞよ。これからスマートを|一息《ひといき》でも、|此《この》|祠《ほこら》の|森《もり》の|大門《おほもん》へよこしてみよれ、|初稚姫《はつわかひめ》の|体《からだ》はビクとも|動《うご》かぬやうに|致《いた》してみせるぞよ。|杢助殿《もくすけどの》は|霊《みたま》が|水晶《すいしやう》であるから、|四《よ》つ|足《あし》が|来《く》るのは|大変《たいへん》|御嫌《おきら》ひ|遊《あそ》ばすぞよ。|初稚姫《はつわかひめ》が|四《よ》つ|足《あし》を|連《つ》れて|参《まゐ》りたトガメに|依《よ》つて|神罰《しんばつ》を|蒙《かうむ》り、|命《いのち》がなくなる|所《ところ》でありたなれど、|神《かみ》の|慈悲《じひ》によりて、|杢助殿《もくすけどの》を|身代《みがは》りに|立《た》て、チツと|許《ばか》り|疵《きず》を|致《いた》させ|許《ゆる》してやりたぞよ。これをみて|初稚姫《はつわかひめ》|殿《どの》|改心《かいしん》|致《いた》されよ。|神《かみ》の|御恩《ごおん》と|親《おや》の|御恩《ごおん》とが|分《わか》らぬやうな|事《こと》では、|誠《まこと》の|神《かみ》の|側《そば》へは|寄《よ》りつけぬぞよ。|余《あま》り|慢心《まんしん》が|強《つよ》いので|親《おや》の|側《そば》へ|寄《よ》れぬぞよ。|其方《そなた》の|改心《かいしん》が|出来《でき》たなれば、|義理天上《ぎりてんじやう》が|取持《とりもち》|致《いた》して、|杢助殿《もくすけどの》に|会《あ》はしてやるぞよ。|早《はや》く|霊《みたま》を|研《みが》いて|下《くだ》されよ、|神《かみ》が|前《まへ》つ|前《まへ》つに|気《き》をつけるぞよ。|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|申《まを》す|事《こと》に|間違《まちが》ひはないぞよ。|此《この》|筆先《ふでさき》は|義理天上《ぎりてんじやう》の|生神《いきがみ》が|高姫《たかひめ》の|生宮《いきみや》に|這入《はい》りて|書《か》いたのであるから、|日出神《ひのでのかみ》の|御神体《ごしんたい》|其《その》|儘《まま》であるから、|粗末《そまつ》には|致《いた》されぬぞよ。もし|疑《うたが》ふなら、|火鉢《ひばち》にくべてみよれ、|焼《や》けは|致《いた》さぬぞよ。それで|誠《まこと》の|生神《いきがみ》といふ|事《こと》が|分《わか》るぞよ。ぢやと|申《まを》して、|汚《けが》れた|人民《じんみん》の|手《て》で、いらうたら、|焼《や》けぬとも|限《かぎ》らぬから、|余程《よほど》|大切《たいせつ》に|清《きよ》らかにして|下《くだ》されよ』
と|読《よ》み|了《をは》り、
『ハツハハハ、|甘《うま》い|事《こと》|仰有《おつしや》るワイ、|火《ひ》にも|焼《や》けぬ|水《みづ》にも|溺《おぼ》れぬと|仰有《おつしや》つた|筆先《ふでさき》が、パツと|焼《や》けたのだからたまらぬワイ。イヒヒヒヒ、これでは|日出神《ひのでのかみ》も、サツパリ|駄目《だめ》だなア』
サール『それでも……|汚《けが》れた|人民《じんみん》が|触《さは》りたら、|焼《や》けるかも|知《し》れぬぞよ……と|書《か》いてあつたぢやないか』
『ハハハ、そこが|高姫《たかひめ》の|予防線《よばうせん》だ。|引掛戻《ひつかけもど》しの|所謂《いはゆる》|仕組《しぐみ》をやつてゐよるのだ。|兎《と》も|角《かく》|小気味《こぎみ》のよい|事《こと》だなア』
サールは、いつの|間《ま》にやら|廊下《らうか》の|見張《みはり》を|忘《わす》れて、イルの|前《まへ》に|頭《かしら》を|鳩《あつ》め|聞《き》いて|居《ゐ》た。そこへ|高姫《たかひめ》が|筆先《ふでさき》の|声《こゑ》を|聞付《ききつ》けて、|足音《あしおと》|忍《しの》ばせ、|半分《はんぶん》|余《あま》り|末《すゑ》の|方《はう》を|障子《しやうじ》の|外《そと》から|聞《き》き|終《をは》り、
『コレ、お|前達《まへたち》、|今《いま》|何《なに》を|言《い》うてゐたのだい』
この|声《こゑ》に、イルは|驚《おどろ》いて|尻《しり》の|下《した》に|隠《かく》し、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》して|其《その》|上《うへ》に|坐《すわ》つてゐる。
『コレ、|此《この》|障子《しやうじ》|一寸《ちよつと》あけておくれ、|今《いま》|何《なに》を|云《い》つてゐたのだい。お|筆先《ふでさき》を|拝読《いただ》いて|居《を》つたのだらう。そして|大変《たいへん》に|義理天上《ぎりてんじやう》さまの|悪口《わるくち》を|云《い》つて|居《を》つたぢやないか』
イルは|小声《こごゑ》で、
『オイ、サール、|貴様《きさま》|番《ばん》をすると|吐《ぬか》しよつて、こんな|所《ところ》へ|這入《はい》つてけつかるものだから、これ|見《み》ろ、とうと|見付《みつ》けられたでないか』
『ウン、マア|仕方《しかた》がないサ、……ヤア|高姫《たかひめ》|様《さま》、ようこそお|出《い》で|下《くだ》されました。サ、お|這入《はい》り|下《くだ》さいませ』
と|突張《つつぱり》のかうてあつた|障子《しやうじ》をサツと|開《ひら》いた。|高姫《たかひめ》は|受付《うけつけ》の|間《ま》へヌツと|這入《はい》つて|来《き》た。
『コレ、イルさま、お|前《まへ》、|筆先《ふでさき》を|写《うつ》さぬと|云《い》つたぢないか。|今《いま》|読《よ》んで|居《を》つたのは|何《なん》だいなア』
『ハイ、|日出神《ひのでのかみ》|様《さま》が、お|前《まへ》の|体内《たいない》にイルと|仰有《おつしや》いまして、|暫《しばら》くすると、あんな|事《こと》を|私《わたし》の|口《くち》から|仰有《おつしや》つたので|厶《ござ》います。|誠《まこと》に|結構《けつこう》な|御神勅《ごしんちよく》で|厶《ござ》いましたよ。そして|又《また》|蟇《がま》の|守護神《しゆごじん》が|私《わたし》の|肉体《にくたい》に|這入《はい》り、|高姫《たかひめ》|様《さま》や|天上様《てんじやうさま》の|悪《わる》い|事《こと》を|申《まを》しますので、イヤもう|困《こま》りました。|何卒《どうぞ》|一《ひと》つ|鎮魂《ちんこん》をして|下《くだ》さいな』
『|日出神《ひのでのかみ》さまなどと、|悪神《あくがみ》がお|前《まへ》を|騙《だま》して|真似《まね》を|致《いた》すのだらう。それだからシツカリ|致《いた》さぬと|悪魔《あくま》に|狙《ねら》はれると、|何時《いつ》も|申《まを》してあらうがな。エーエ|困《こま》つた|事《こと》だ、サ、そこを|一寸《ちよつと》お|立《た》ちなされ。|日出神《ひのでのかみ》が|鎮魂《ちんこん》をして|上《あ》げるから……』
『イー、ウーン、|一寸《ちよつと》ここは|退《の》く|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬ、|尻《しり》に|白根《しらね》が|下《お》りましたので、|痺《しびれ》が|切《き》れて|何《ど》うする|事《こと》も|出来《でき》ませぬ。|何卒《どうぞ》|又《また》|後《あと》から|鎮魂《ちんこん》して|下《くだ》さいな。ああ|高姫《たかひめ》さま、あの|外《そと》を|御覧《ごらん》なさいませ、|大《おほ》きな|鷲《わし》が|子供《こども》をくはへて、それそれ|通《とほ》ります』
と|高姫《たかひめ》の|視線《しせん》を|外《そと》へ|向《む》け、|手早《てばや》く|尻《しり》に|敷《し》いた|写《うつ》しの|筆先《ふでさき》を|懐《ふところ》へ|捻《ね》ぢ|込《こ》み、|席《せき》を|替《か》へようとした。されど|余《あま》り|慌《あわ》てて、|二冊《にさつ》は|甘《うま》く|懐《ふところ》へ|這入《はい》つたが、まだ|一冊《いつさつ》|尻《しり》の|下《した》に|残《のこ》つて|居《ゐ》る。
『コレ、イル、そんな|事《こと》を|申《まを》して、|此《この》|高姫《たかひめ》を|外《そと》を|向《む》かせておき、|其《その》|間《ま》に|何《なん》だか|懐《ふところ》へ|隠《かく》したぢやらう、サ、|其《その》|懐《ふところ》を|見《み》せて|御覧《ごらん》』
『ヘー、|此《こ》の|懐《ふところ》は|私《わたし》の|懐《ふところ》で|厶《ござ》います。|何程《なにほど》|一軒《いつけん》の|内《うち》に|住居《ぢゆうきよ》して|居《を》つても、|懐《ふところ》は|別《べつ》ですからな。|珍彦《うづひこ》|様《さま》が|会計《くわいけい》して|下《くだ》さるので、|私《わたし》の|懐《ふところ》まで|御詮議《ごせんぎ》は|要《い》りますまい』
『|一寸《ちよつと》、お|前《まへ》さま、|妙《めう》なものが|憑《うつ》つてゐるから、|鎮魂《ちんこん》して|上《あ》げよう。|私《わたし》が|坐《すわ》らにやならぬから、|一寸《ちよつと》|退《の》いて|下《くだ》さい。お|前《まへ》さまが|一番《いちばん》|正座《しやうざ》へ|坐《すわ》ると|云《い》ふ|事《こと》は|道《みち》が|違《ちが》ひますぞや』
『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました。ああ|杢助《もくすけ》さまが|門《かど》を|通《とほ》らつしやるわいな』
と|云《い》ひながら、|尻《しり》の|下《した》の|残《のこ》りの|筆先《ふでさき》をグツと|取《と》り、|懐《ふところ》へ|入《い》れようとした。|高姫《たかひめ》は|今度《こんど》は|其《その》|手《て》に|乗《の》らず、イルの|態度《たいど》を|熟視《じゆくし》して|居《を》つたから、たまらぬ。|矢庭《やには》にイルの|懐《ふところ》へ|手《て》を|入《い》れ、|三冊《さんさつ》の|写《うつ》しの|筆先《ふでさき》を|掴《つか》み|出《だ》し、キリキリと|丸《まる》めて、イルの|鼻《はな》といはず、|目《め》と|云《い》はず、|滅多打《めつたうち》に|打据《うちす》ゑ、
『オホホホホ、|悪《あく》の|企《たく》みの|現《あら》はれ|口《ぐち》、|日出神《ひのでのかみ》には|叶《かな》ひますまいがな。|頓《やが》て|沙汰《さた》を|致《いた》すから、|其処《そこ》に|待《ま》つて|居《ゐ》るがよからうぞ。イク、ハル、テル、サールも|同類《どうるゐ》だ。|今《いま》に|杢助《もくすけ》さまと|相談《さうだん》して、|沙汰《さた》を|致《いた》すから|待《ま》つてゐなさい』
と|憎々《にくにく》しげに|睨《にら》みつけ、|懐《ふところ》に|捻《ね》ぢ|込《こ》んで、サツサと|吾《わが》|居間《ゐま》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|後《あと》|見送《みおく》つて|五人《ごにん》は|頭《あたま》を|掻《か》き、|冷汗《ひやあせ》を|拭《ふ》きながら、
『あああ、サーツパリ|源助《げんすけ》だ、ウンウン、イヒヒヒヒ』
(大正一二・一・二三 旧一一・一二・七 松村真澄録)
第一七章 |偽筆《ぎひつ》〔一三一一〕
|高姫《たかひめ》の|形勢《けいせい》|意外《いぐわい》にも|不穏《ふおん》の|景況《けいきやう》を|呈《てい》し、|何時《いつ》|低気圧《ていきあつ》の|襲来《しふらい》するやも|図《はか》り|難《がた》き|殺風景《さつぷうけい》の|場面《ばめん》となつて|来《き》た。イル|以下《いか》|四人《よにん》は|自棄糞《やけくそ》になり、グイグイと|又《また》もや|酒《さけ》を|飲《の》み|始《はじ》めた。そしてイルは|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
『|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》であるぞよ。|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|筆先《ふでさき》を|生宮《いきみや》に|書《か》かすによつて、|筆《ふで》と|墨《すみ》と|紙《かみ》との|用意《ようい》を|致《いた》されよ』
と|呶鳴《どな》り|出《だ》した。サールは|矢庭《やには》に|墨《すみ》をすり、|紙《かみ》を|綴《と》ぢ|筆《ふで》を|洗《あら》つて|恭《うやうや》しくイルに|渡《わた》した。イルは|故意《わざ》と|横柄面《わうへいづら》をしながら|其《その》|筆《ふで》をひつたくり、|木机《きづくゑ》を|前《まへ》に|置《お》き、|何事《なにごと》か|首《くび》をふりながら|一生懸命《いつしやうけんめい》に|書《か》きつけた。イルは|高姫《たかひめ》の|作《つく》り|声《ごゑ》をして、
『これ|皆《みな》の|者《もの》|共《ども》、|否《いな》|八衢人足《やちまたにんそく》や、|今《いま》|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》がお|筆先《ふでさき》を|書《か》いたによつて、|有難《ありがた》く|拝読《はいどく》を|致《いた》すがよいぞや。|斯《こ》んな|結構《けつこう》な|筆先《ふでさき》は|又《また》と|見《み》ることは|出来《でき》ぬぞや。|此《この》|筆先《ふでさき》さへ|腹《はら》へ|入《い》れこめて|居《を》れば、|万劫末代《まんごふまつだい》|人《ひと》が|叩《たた》き|落《おと》しても|落《お》ちぬお|神徳《かげ》が|頂《いただ》けるぞや。イヒヒヒヒヒ、|此《この》|筆先《ふでさき》は|誰《たれ》にも|読《よ》ます|筆先《ふでさき》ではないぞや。|後《のち》の|証拠《しようこ》に|書《か》かして|置《お》いたなれど、|受付《うけつけ》に|居《を》る|役員《やくゐん》が|肝腎《かんじん》の|事《こと》を|知《し》らぬと|話《はなし》がないから、|一寸《ちよつと》|読《よ》ましてやるぞよ』
サール『アハハハハハ、|何《なに》を|吐《ぬか》しやがるのだい。|管《くだ》を|巻《ま》きやがつて、|然《しか》し|何《ど》んな|事《こと》を|書《か》きよつたか。|一寸《ちよつと》|読《よ》んでやらうかい。おい、ハル、テル、イク、|謹聴《きんちやう》するのだぞ』
と|云《い》ひながら|恭《うやうや》しく|押戴《おしいただ》き、|故意《わざ》と|剋面《こくめん》な|顔《かほ》をして|大《おほ》きな|声《こゑ》で|読《よ》み|始《はじ》めた。
『|伊豆《いづ》の|霊《みたま》|変性男子《へんじやうなんし》がイルの|肉体《にくたい》を|借《か》りて|三千世界《さんぜんせかい》の|事《こと》を|書《か》きおくぞよ。しつかりと|聞《き》いて|置《お》かぬと|後《あと》で|後悔《こうくわい》|致《いた》す|事《こと》が|出来《でき》るぞよ。|此《この》イルは|伊豆《いづ》の|霊《みたま》と|申《まを》して|湯本館《ゆもとくわん》の|安藤唯夫殿《あんどうただをどの》の|身魂《みたま》が|憑《うつ》りて|居《を》るぞよ。サールの|身魂《みたま》は|杉山当一殿《すぎやまたういちどの》のラマ|教《けう》の|時《とき》の|身魂《みたま》であるぞよ。|今《いま》はバラモン|教《けう》をやめて|三五教《あななひけう》に|這入《はい》りて|居《を》るなれど、|何《なに》を|申《まを》しても|変性女子《へんじやうによし》のヤンチヤ|身魂《みたま》が|憑《うつ》りて|居《を》るから、|過激《くわげき》な|事《こと》を|申《まを》して|仕様《しやう》がないぞよ。|此《この》|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|伊豆《いづ》の|身魂《みたま》が|申《まを》した|位《くらゐ》では|中々《なかなか》|聞《き》きは|致《いた》さぬぞよ。ラジオシンターでも|飲《の》まして|目《め》を|覚《さま》してやらぬ|事《こと》には|駄目《だめ》だぞよ。それでも|治《なほ》らねば|谷口清水《たにぐちしみづ》と|申《まを》すドクトル・オブ・メヂチーネの|御厄介《ごやつかい》になるが|良《よ》いぞよ。|伊豆《いづ》の|湯ケ島《ゆがしま》には|因縁《いんねん》があるぞよ。|湯本館《ゆもとくわん》と|云《い》ふ|因縁《いんねん》の|分《わか》りたものは|此《この》|高姫《たかひめ》、オツト、ドツコイ|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》のイルでないと|分《わか》りは|致《いた》さぬぞよ。それぢやによつて|沢山《たくさん》の|人民《じんみん》が|水晶《すいしやう》の|温泉《をんせん》にイルの|身魂《みたま》と|申《まを》すぞよ。|今《いま》の|内《うち》に|改心《かいしん》を|致《いた》さぬとサールもハルもテルもイクも、|皆《みな》アオ|彦《ひこ》の|身魂《みたま》の|憑《うつ》りて|居《を》る|北村《きたむら》|隆光《たかてる》に|書《か》きとめさして|置《お》いて、|末代《まつだい》|名《な》を|残《のこ》さして|置《お》くぞよ。それでも|改心《かいしん》を|致《いた》さねば|摩利支天《まりしてん》の|身魂《みたま》の|憑《うつ》りて|居《を》る|松村《まつむら》|真澄《まさずみ》に|細《こま》かう|書《か》き|残《のこ》さすぞよ。それで|足《た》らねば|夕日《ゆふひ》の|御影《みかげ》、|加藤竿竹姫《かとうさをだけひめ》の|身魂《みたま》の|手《て》を|借《か》りて|書《か》き|残《のこ》さすぞよ。|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》は|蟇《がま》の|身魂《みたま》の|憑《うつ》りた|黒姫《くろひめ》と|因縁《いんねん》ありて、|伊豆《いづ》の|御魂《みたま》の|御屋敷《おやしき》へ|暫《しば》らく|逗留《とうりう》|致《いた》し、|昔《むかし》からの|因縁《いんねん》を|調《しら》べておいたぞよ。|開《あ》いた|口《くち》がすぼまらぬ、|牛糞《うしくそ》が|天下《てんか》をとると|云《い》ふ|事《こと》が|出来《でき》るぞよ。あんまり|聞《き》かぬと|浅田《あさだ》の|様《やう》に|首《くび》もまはらぬ|様《やう》に|致《いた》すぞよ。|浅田殿《あさだどの》は|御苦労《ごくらう》な|御役《おんやく》であるぞよ。そして|其《その》|身魂《みたま》はテルの|身魂《みたま》であるから、ラジオシンターをつけ|過《す》ぎて|困《こま》りてをるぞよ。それでも|此《この》イルが|申《まを》す|様《やう》に|致《いた》したならば、|直《すぐ》に|癒《なほ》してやるかも|知《し》れぬぞよ。ハルの|身魂《みたま》は|福井《ふくゐ》の|身魂《みたま》であるぞよ。|何時《いつ》も|辛《から》い|辛《から》い|山葵《わさび》ばかりを|作《つく》りて|居《ゐ》るから、|顔《かほ》までが|辛《から》さうにしがんで|居《ゐ》るぞよ。チツと|改心《かいしん》|致《いた》さぬと|鼻《はな》が|高《たか》いぞよ。イクの|身魂《みたま》は|誠《まこと》に|結構《けつこう》な|身魂《みたま》でありたなれど、あまり|慢心《まんしん》を|致《いた》したによつて|守護神《しゆごじん》は|現《あら》はしてやらぬぞよ。|此《この》|方《はう》の|申《まを》す|事《こと》を|誠《まこと》に|致《いた》せばよし、|聞《き》かぬにおいては|杉原《すぎはら》の|身魂《みたま》をひきぬいて|来《き》て、|佐久《さけ》に|酔《よ》はして|何《なに》も|彼《か》も|白状《はくじやう》|致《いた》さすぞよ。|人民《じんみん》が|何程《なにほど》シヤチになりても|神《かみ》には|叶《かな》はぬぞよ。|早《はや》く|此《この》|方《はう》の|申《まを》す|様《やう》に|致《いた》して|下《くだ》されよ。|改心《かいしん》|致《いた》さぬと『|霊界物語《れいかいものがたり》』の|種《たね》と|致《いた》すぞよ。そこになりたら|何程《なにほど》|地団駄《ぢだんだ》|踏《ふ》みて|口惜《くや》しがりても、|神《かみ》は|許《ゆる》しは|致《いた》さぬぞよ。|之《これ》は|大神《おほかみ》が|申《まを》すのではないぞよ。|妖幻坊《えうげんばう》の|身魂《みたま》|獅子虎《ししとら》の|身魂《みたま》イルの|肉体《にくたい》を|一寸《ちよつと》|借用《しやくよう》|致《いた》して|皆《みな》の|八衢人間《やちまたにんげん》に|気《き》をつけたのであるぞよ。|今《いま》に|高姫《たかひめ》の|様《やう》に|斎苑《いそ》の|館《やかた》から|立退《たちの》き|命令《めいれい》を|蒙《かうむ》らねばならぬぞよ。|改心《かいしん》なされよ。|足《あし》もとから|鳥《とり》が|立《た》つぞよ。アハハハハ』
と|笑《わら》ひ|興《きよう》じてゐる。そこへ|斎苑《いそ》の|館《やかた》より|神勅《しんちよく》を|帯《お》びて|出張《しゆつちやう》した|二人《ふたり》の|役員《やくゐん》があつた。|一人《ひとり》は|安彦《やすひこ》、|一人《ひとり》は|国彦《くにひこ》であつた。
|安彦《やすひこ》『|祠《ほこら》の|森《もり》の|受付《うけつけ》の|主任《しゆにん》は|誰方《どなた》で|厶《ござ》るかな。|拙者《せつしや》は|斎苑《いそ》の|館《やかた》より|教主《けうしゆ》|八島主命《やしまぬしのみこと》の|命《めい》により|出張《しゆつちやう》|致《いた》したもので|厶《ござ》る。|何卒《なにとぞ》|一刻《いつこく》も|早《はや》く|当館《たうやかた》の|神司《かむつかさ》|珍彦《うづひこ》に|面会《めんくわい》が|致《いた》したい』
イル『ヤー、これはこれは|直使《ちよくし》のおいで、|先《ま》づ|先《ま》づ|之《これ》にて|御休息《ごきうそく》|願上《ねがひあ》げ|奉《たてまつ》りまする。とり|乱《みだ》したる|処《ところ》を|御覧《ごらん》に|入《い》れ、|真《まこと》に|赤面《せきめん》の|至《いた》りで|厶《ござ》りまする。おい、ハル、テル、サール、イク、|早《はや》くお|二人様《ふたりさま》のお|足《あし》の|湯《ゆ》を|湧《わ》かして|持《も》つて|来《こ》ぬか』
『いや、|決《けつ》してお|構《かま》ひなさるな。|珍彦《うづひこ》の|司《つかさ》にお|目《め》にかかりたければ、|直様《すぐさま》|御案内《ごあんない》を|願《ねが》ひたい。|沢山《たくさん》に|徳利《とくり》が|並《なら》んでゐられますな。|桜《さくら》の|花《はな》の|如《ごと》き|盃《さかづき》が|彼方《あちら》|此方《こちら》に|散《ち》つて|居《ゐ》る|風情《ふぜい》は|何《なん》とも|云《い》へぬ|風流《ふうりう》で|厶《ござ》る。|国彦《くにひこ》|殿《どの》、|実《じつ》に|羨望《せんばう》の|至《いた》りでは|厶《ござ》らぬか』
『|如何《いか》にも、|落花狼藉《らくくわらうぜき》、|夜半《よは》の|嵐《あらし》に|散《ち》らされて、|打落《うちおと》された|桜木《さくらぎ》の|麓《ふもと》の|様《やう》で|厶《ござ》る』
イル『いや、もう|此《この》|頃《ごろ》はチツとシーズンは|早《はや》う|厶《ござ》りますれど、ここは|日当《ひあた》りがよいので、|早《はや》くも|桜《さくら》が|散《ち》りかけまして|厶《ござ》ります。さア|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう』
|安彦《やすひこ》『それは|恐《おそ》れ|入《い》ります』
とイルの|後《うしろ》に|従《したが》ひ|珍彦《うづひこ》の|舘《やかた》に|進《すす》み|行《ゆ》く。|後《あと》|四人《よにん》は|顔《かほ》|見合《みあは》せ、|頭《あたま》を|掻《か》きながら、
テル『おい、|如何《どう》だ。サツパリぢやないか。エー、こりや|一通《ひととほ》りの|事《こと》ぢやないぞ。|屹度《きつと》|俺達《おれたち》にキツーイお|目玉《めだま》を|頂戴《ちやうだい》するのかも|知《し》れないぞ』
サール『|何《なに》、|俺達《おれたち》にはチツとも|関係《くわんけい》はないわ』
『|貴様《きさま》はラマ|教《けう》だから|放逐《はうちく》の|命令《めいれい》に|接《せつ》したかも|知《し》れないぞ。あの|御直使《おちよくし》がお|前《まへ》の|顔《かほ》を|非常《ひじやう》に|覗《のぞ》いて|厶《ござ》つたぢやないか』
『|何《なに》、そんな|事《こと》があるものかい。|祠《ほこら》の|森《もり》の|受付《うけつけ》にサール|者《もの》ありと|聞《きこ》えたる|敏腕家《びんわんか》は|此《この》|男《をとこ》だなアと、|感嘆《かんたん》の|眼《まなこ》を|以《もつ》て|御覧《ごらん》になつて|居《を》つたのだよ』
『さう|楽観《らくくわん》も|出来《でき》ないぞ』
『|俺《おれ》の|考《かんが》へでは、|如何《どう》も|高姫《たかひめ》の|身《み》の|上《うへ》に|関《くわん》してぢやなからうかと|愚考《ぐかう》するのだ』
イク『そら、さうだ。それに|決《き》まつてるわ。|兎《と》に|角《かく》、|誰《たれ》の|事《こと》でもよい。|高姫《たかひめ》の|事《こと》としておけば|安心《あんしん》ぢやないか。|俺等《おれたち》には、よく|勤《つと》めたによつて|賞状《しやうじやう》を|遣《つか》はすと|云《い》ふ|恩命《おんめい》に|預《あづ》かるのかも|知《し》れないぞ、|何《なん》と|云《い》つても、あれだけ|八釜《やかま》し|家《や》の|高姫《たかひめ》に、おとなしく|仕《つか》へてゐるのだからな』
|斯《か》く|話《はな》す|所《ところ》へ、イルはニコニコしながら|帰《かへ》つて|来《き》た。
サール『おい、イル、|何《なん》ぞよい|事《こと》があるのか。|大変《たいへん》|嬉《うれ》しさうな|顔《かほ》ぢやないか』
『ウツフフフフ(|声色《こわいろ》)|某《それがし》は|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|教主《けうしゆ》|八島主命《やしまぬしのみこと》の|直命《ちよくめい》により、|祠《ほこら》の|森《もり》を|主管《しゆくわん》する|珍彦《うづひこ》の|館《やかた》に|神命《しんめい》を|伝達《でんたつ》するものなり。|確《たしか》に|承《うけたま》はれ。
一、|此《この》|度《たび》、イル|事《こと》、|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》と|現《あら》はれし|上《うへ》は、|汝《なんぢ》をして|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|総監督《そうかんとく》に|任《にん》ずべし。|水晶魂《すいしやうだま》の|生粋《きつすゐ》の|其《その》|方《はう》なれば、|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》として、|決《けつ》して|恥《はづ》かしくなき|人格者《じんかくしや》|也《なり》。|神命《しんめい》ならば|謹《つつし》んでお|受《う》け|致《いた》されよ。(笑声)ウエーヘエツヘヘヘヘヘ。
一、サールなる|者《もの》、|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|事務《じむ》を|忽《おろそ》かに|致《いた》し|酒《さけ》を|呷《あふ》り|管《くだ》を|巻《ま》き、イルの|命令《めいれい》を|奉《ほう》ぜず、|同僚《どうれう》が|事務《じむ》の|妨害《ばうがい》をなすこと、|以《もつ》ての|外《ほか》の|悪者《しれもの》|也《なり》。|故《ゆゑ》に|逸早《いちはや》く|鞭《むち》を|加《くは》へて|放逐《はうちく》|致《いた》す|可《べ》きもの|也《なり》。イツヒヒヒヒヒ。
一、イク|事《こと》、サールに|次《つ》ぐ|不届者《ふとどきもの》にしてバラモン|教《けう》を|失敗《しくじ》り、|行《ゆ》く|所《ところ》なくして|已《や》むを|得《え》ず|祠《ほこら》の|森《もり》に|座敷乞食《ざしきこじき》を|勤《つと》むる|段《だん》、|中々《なかなか》|以《もつ》て|許《ゆる》し|難《がた》き|不届者《ふとどきもの》なれば、|之《これ》|亦《また》|鞭《むち》を|加《くは》へて|放逐《はうちく》す|可《べ》きもの|也《なり》。
一、ハル|事《こと》、|大胆不敵《だいたんふてき》の|曲者《くせもの》にして、|頭《あたま》をハル|事《こと》|此《この》|上《うへ》なき|名人《めいじん》なり。|否《いな》|侫人《ねいじん》|也《なり》。|斯《か》くの|如《ごと》きもの|聖場《せいぢやう》にあつては|神《かみ》の|名《な》を|汚《けが》し、|教《をしへ》を|傷《きず》つくる|事《こと》|最《もつと》も|大《だい》|也《なり》、|且《かつ》|酒癖《さけくせ》|悪《わる》く、|上《あ》げも|下《おろ》しもならぬ|動物《どうぶつ》なれば、これには|箒《はうき》を|以《もつ》て|頭《かしら》を|百《ひやく》|打叩《うちたた》き、|一時《いちじ》も|早《はや》く|放逐《はうちく》す|可《べ》きもの|也《なり》。キユツツツツツ、ウツフフフフフ。
一、テル|事《こと》、|比較的《ひかくてき》|好々爺《かうかうや》にして、よくイルの|申《まを》す|事《こと》を|服従《ふくじゆう》するにより、|之《これ》は|少《すこ》しく|教《をしへ》を|説《と》き|聞《き》かした|上《うへ》、|汝《なんぢ》が|僕《しもべ》に|使用《しよう》すべきもの|也《なり》。ウエヘツヘヘヘヘヘ、ホホホホホ、エヘヘヘヘヘ』
テル『こりや、イル、|馬鹿《ばか》にするない』
『あいや、|決《けつ》して|馬鹿《ばか》には|致《いた》さぬ。|八島主命《やしまぬしのみこと》の|御直命《ごちよくめい》なれば、|襟《えり》を|正《ただ》して|行儀《ぎやうぎ》よく|承《うけたま》はりなされ』
サール『おい、イル、|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》は|如何《どう》だ』
『やア|者《もの》|共《ども》、|騒《さわ》ぐな|騒《さわ》ぐな、|静《しづ》かに|致《いた》せ。|杢助《もくすけ》は|誠《まこと》に|以《もつ》て|完全無欠《くわんぜんむけつ》なる|悪魔《あくま》なれば、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|放逐《はうちく》すべし。|又《また》|高姫《たかひめ》は|自転倒島《おのころじま》の|生田《いくた》の|森《もり》に|追返《おひかへ》すべし。|珍彦《うづひこ》は|一切《いつさい》の|事務《じむ》をイルに|引継《ひきつ》ぎ、|逸早《いちはや》く|此《この》|場《ば》を|退却《たいきやく》す|可《べ》きもの|也《なり》。
|右《みぎ》の|条々《でうでう》|決《けつ》して|相違《さうゐ》これあるもの|也《なり》。オツホホホホホ』
サール『ナーンダ、|馬鹿《ばか》にしてゐやがる。|俺《おれ》の|胸《むね》が|雨蛙《あまがへる》の|様《やう》になりよつた。のうイク、ハル、テル。イルの|奴《やつ》、あまり|馬鹿《ばか》にするぢやないか。|一《ひと》つここらで|袋叩《ふくろだた》きにやつてやらうぢやないか』
イク『そりや|面白《おもしろ》い、|併《しか》しながらお|直使《ちよくし》の|御入来《ごじゆらい》だから、まアまア|今日《けふ》は|見逃《みのが》しておけ。おい、イルの|奴《やつ》、|貴様《きさま》は|仕合《しあは》せものだ。|今日《けふ》から、【しよう】もない|芸当《げいたう》をやると|叩《たた》きのばすぞ』
『|叩《たた》き|伸《の》ばして|太《ふと》るのは|鍛冶屋《かぢや》さまだ。|然《しか》しながら|貴様《きさま》|等《たち》も|本当《ほんたう》に|形勢《けいせい》|不穏《ふおん》だぞ。|確《しつか》り|致《いた》さぬと、どんな|御沙汰《ごさた》が|下《さが》るやら|分《わか》らぬから|気《き》をつけたが|宜《よ》からうぞ。|本当《ほんたう》の|事《こと》は|俺等《おれたち》には|分《わか》らぬのだ。|初稚姫《はつわかひめ》と|珍彦《うづひこ》さまが|奥《おく》の|間《ま》でソツと|御用《ごよう》を|承《うけたま》はつて|厶《ござ》るのだ』
イク『|成程《なるほど》、|大方《おほかた》【タ】|印《じるし》の|事《こと》だらうよ。|何卒《どうぞ》うまく|行《ゆ》くといいがな』
イル『あんな|奴《やつ》がけつかると|参詣者《さんけいしや》も|碌《ろく》に|詣《まゐ》つて|来《こ》ないからな。|然《しか》し|小《ちひ》さい|声《こゑ》で|襖《ふすま》の|間《あひだ》から|初稚姫《はつわかひめ》の|声《こゑ》で、イルさまイルさまと|仰有《おつしや》るのが|聞《きこ》えたよ。イヒヒヒヒヒ|何《なに》か|此奴《こいつ》ア、|宜《よ》い|事《こと》があるに|違《ちが》ひない。|何《なに》せよ|昨夜《ゆうべ》の|夢《ゆめ》が|乙《おつ》だからな。その|声《こゑ》を|聞《き》くと|忽《たちま》ち|俺《おれ》の|胸《むね》は|躍《をど》る、|腕《うで》は|鳴《な》る、|俺《おれ》の|精神《せいしん》は|生《うま》れ|変《かは》つた|様《やう》になつて|来《き》た。|人間《にんげん》は|一代《いちだい》に|一度《いちど》や|二度《にど》は|運命《うんめい》の|神《かみ》が|見舞《みま》ふものだから、|此《この》|風雲《ふううん》に|乗《じやう》ぜなくちや|人生《じんせい》は|嘘《うそ》だ。|之《これ》からこのイルさまは|立派《りつぱ》な|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》になつて|驍名《げうめい》を|天下《てんか》に|輝《かがや》かし、|月《つき》の|国《くに》へでも|行《い》つて|大国《たいこく》の|刹帝利《せつていり》になるのかも|知《し》れぬぞ。さうすれば|貴様《きさま》らを|右守《うもり》、|左守《さもり》の|司《かみ》に|任命《にんめい》してやるからな』
サール『ヘン、|梟鳥《ふくろどり》の|又《また》|宵企《よひだく》みだらう。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》が|何程《なにほど》イルさまと|仰有《おつしや》つたつて、あの|男《をとこ》は|受付《うけつけ》にイルか、|要《い》らないものか、|或《あるひ》は|道楽者《だうらくもの》だから|此処《ここ》にイル|事《こと》はイルさまと|仰有《おつしや》つたかも|分《わか》らないぞ。|兎《と》も|角《かく》|貴様《きさま》も|用心《ようじん》せないと|駄目《だめ》だ。|気《き》をつけよ』
『ヘン、|何《なん》と|云《い》つても|一富士《いちふじ》、|二鷹《にたか》、|三茄子《さんなすび》と|云《い》ふ|結構《けつこう》な|夢《ゆめ》を|見《み》たのだからな。こんな|夢《ゆめ》は|出世《しゆつせ》する|運《うん》のいいものでなければ、メツタに|見《み》られぬからのう』
『そんな|夢《ゆめ》が|何《なに》いいのだ。よく|考《かんが》へて|見《み》ろ。|富士《ふじ》の|山《やま》|程《ほど》|借金《しやくきん》があつて、|如何《どう》にも|斯《か》うにも|首《くび》が|廻《まは》らず、|鷹《たか》い|息《いき》もようせず、|高姫《たかひめ》には|喚《わめ》かれ、|箒《はうき》で|叩《たた》かれ、|又《また》その|借金《しやくきん》は|茄子《なす》(|済《な》す)|事《こと》も|出来《でき》ず、|高姫《たかひめ》の|圧迫《あつぱく》に|対《たい》しても|如何《いかん》とも|茄子《なす》ことが|出来《でき》ない|貴様《きさま》は|腰抜《こしぬ》けだよと|天教山《てんけうざん》の|木花姫《このはなひめ》さまが|夢《ゆめ》のお|告《つ》げだよ。アツハハハハハ、お|気《き》の|毒様《どくさま》、のうイク、ハル、テル、|俺《おれ》の|判断《はんだん》は|当《あた》つとるだらう』
テル『そりや|貴様《きさま》、|当《あた》るに|定《きま》つてらア。|当一《たういち》と|云《い》ふぢやないか。ウヘツエエエエエ』
|斯《か》く|話《はな》す|所《ところ》へ|足音《あしおと》|高《たか》くやつて|来《き》たのは|高姫《たかひめ》であつた。
『これ、イルさま、お|前《まへ》|一寸《ちよつと》|此方《こちら》へ|来《き》てお|呉《く》れ。|御用《ごよう》が|出来《でき》たから』
『はい、|行《ゆ》かぬ|事《こと》は|厶《ござ》いませぬが、|一体《いつたい》|何《なん》の|用《よう》で|厶《ござ》りますかな。|御用《ごよう》の|筋《すぢ》を|承《うけたま》はらねばさう|軽々《かるがる》しく|行《ゆ》く|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬ。|此《この》イルさまに|畏《おそ》れ|多《おほ》くも|今日《けふ》|只今《ただいま》より、|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|八島主《やしまぬし》さまより|祠《ほこら》の|森《もり》の|神司《かむづかさ》と|任命《にんめい》されたかも|知《し》れませぬぞや。それぢやによつて、|今《いま》|迄《まで》のイルとはチツと|位《くらゐ》が|違《ちが》ひますから、|御用《ごよう》があればお|前《まへ》さまの|方《はう》から、|言葉《ことば》を|低《ひく》う|頭《かしら》を|下《さ》げて|尾《を》をふつて|賄賂《わいろ》でも|喰《く》はへて|御出《おい》でなさらぬと、|貴女《あなた》の|地位《ちゐ》は|殆《ほとん》ど|砂上《さじやう》の|楼閣《ろうかく》も|同様《どうやう》で|厶《ござ》りますぞや』
『エーエ、|辛気《しんき》なこと。|早《はや》く|来《き》なさらぬかいな。|誰《たれ》も|斎苑館《いそやかた》から|来《き》てゐないぢやないか』
『|高姫《たかひめ》さま、|貴女《あなた》「エー|辛気《しんき》」と|仰有《おつしや》いましたね。そら、さうでせう。|蜃気楼的《しんきろうてき》|空想《くうさう》を|描《ゑが》いて、|此《この》|館《やかた》を|独占《どくせん》せむとする|泡沫《はうまつ》の|如《ごと》き|企《たく》みだから、|蜃気楼《しんきろう》が|立《た》つのも|無理《むり》はありませぬわい。イツヒヒヒヒ』
『エーエ、|仕方《しかた》のない|男《をとこ》だな。|又《また》|酒《さけ》に|酔《よ》うてゐるのだな。それならイルは|今日《けふ》|限《かぎ》り|此処《ここ》を|帰《かへ》つて|貰《もら》ひませう。|其《その》|代《かは》りにハルや、|一寸《ちよつと》|私《わし》の|傍《そば》へ|来《き》ておくれ。|御用《ごよう》を|云《い》ひ|聞《き》かしたい|事《こと》があるから。お|前《まへ》は|一寸《ちよつと》|見《み》ても|賢《かしこ》かりさうな、よう|間《ま》に|合《あ》ひさうな|顔付《かほつき》きだ』
『はい、|参《まゐ》る|事《こと》は|参《まゐ》りますが、|何卒《どうぞ》|箒《はうき》で|叩《たた》かぬやうに|願《ねが》ひますよ。|私《わたし》も|国《くに》には|妻子《つまこ》が|残《のこ》してあり……ませぬから、|箒《はうき》なんかで|叩《たた》かれちや、まだ|持《も》たぬ|妻子《つまこ》がホーキに|迷惑《めいわく》|致《いた》し、|宅《うち》の|大切《だいじ》の|夫《をつと》やお|父《とう》さまを|虐待《ぎやくたい》したと|云《い》つて|悔《くや》みますからな』
『エーエ、|文句《もんく》を|仰有《おつしや》らずに|出《で》て|来《く》るのだよ』
『おい、|俺《おれ》が|行《い》つたら|屹度《きつと》|貴様《きさま》|等《たち》ア、|首《くび》だからな。|其《その》|用意《ようい》をして|居《を》れよ。|然《しか》し|大抵《たいてい》の|事《こと》なら、|俺《おれ》の|高姫《たかひめ》|様《さま》が|信認《しんにん》の|力《ちから》によつて、|千言万語《せんげんばんご》を|費《つひや》し、|弁護《べんご》の|結果《けつくわ》|助《たす》けてやるかも|知《し》れないから、|俺《おれ》の|後姿《うしろすがた》を|義理天上《ぎりてんじやう》さまだと|思《おも》うて、|恭敬礼拝《きようけいらいはい》してゐるがよからうぞ。エヘン』
と|肩肱《かたひぢ》|怒《いか》らし、|高姫《たかひめ》の|後《うしろ》から|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》めて|空《くう》を|打《う》ちながら、|一寸《ちよつと》|後《うしろ》を|振《ふ》り|返《かへ》り、|長《なが》い|舌《した》をニユツと|出《だ》して|四人《よにん》に|見《み》せ、|腮《あご》をしやくり|尻《しり》を|振《ふ》り|従《つ》いて|行《ゆ》く。
(大正一二・一・二三 旧一一・一二・七 北村隆光録)
第一八章 |安国使《あんこくし》〔一三一二〕
|珍彦館《うづひこやかた》には、|珍彦《うづひこ》、|静子《しづこ》、|楓《かへで》、|初稚姫《はつわかひめ》|及《およ》び|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|直使《ちよくし》なる|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》の|六人《ろくにん》がヒソビソと|首《かうべ》を|鳩《あつ》めて|懇談《こんだん》に|耽《ふけ》つて|居《ゐ》る。
|珍彦《うづひこ》『|遥々《はるばる》と|大神様《おほかみさま》よりの|御使《おんつかひ》、|御苦労《ごくらう》に|存《ぞん》じます。|何分《なにぶん》|至《いた》らぬ|吾々《われわれ》、|大役《たいやく》を|仰《おほ》せつけられ、|力《ちから》にあまり、|勤《つと》めも|碌《ろく》に|出来《でき》ませぬので、|定《さだ》めし|八島主命《やしまぬしのみこと》|様《さま》にも|御迷惑《ごめいわく》の|事《こと》で|厶《ござ》いませう。|定《さだ》めて|吾々《われわれ》の|不都合《ふつがふ》をお|叱《しか》りのためのお|使《つかひ》で|厶《ござ》いませうなア』
|安彦《やすひこ》『イヤイヤ|決《けつ》して|左様《さやう》では|厶《ござ》らぬ。|貴方《あなた》の|赤心《まごころ》は|誰《たれ》|知《し》らぬ|者《もの》も|厶《ござ》いませぬ。|教主様《けうしゆさま》も|大変《たいへん》にお|喜《よろこ》びになつて|居《ゐ》ますから、|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
『|左様《さやう》で|厶《ござ》いますか、|不都合《ふつがふ》な|吾々《われわれ》を、|広《ひろ》き|心《こころ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|下《くだ》さいまして|誠《まこと》に|畏《おそ》れ|多《おほ》い|事《こと》で|厶《ござ》います』
|静子《しづこ》『|何分《なにぶん》とも|宜《よろ》しく|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
『ハイ、よきに|取計《とりはか》らひませう。|先《ま》づ|先《ま》づ|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
|初稚《はつわか》『|安彦《やすひこ》|様《さま》、|今度《こんど》お|出《い》でになりましたのは、あの|高姫《たかひめ》さまの|一件《いつけん》で|厶《ござ》いませうな』
『お|察《さつ》しの|通《とほ》り、|彼《かれ》|高姫《たかひめ》は|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|於《おい》て、|副教主《ふくけうしゆ》|東野別《あづまのわけ》に|対《たい》して|無礼《ぶれい》を|加《くは》へ、|其《その》|上《うへ》|所在《あるゆる》|狂態《きやうたい》を|演《えん》じ、|夜陰《やいん》に|紛《まぎ》れて|館《やかた》を|抜《ぬ》け|出《だ》し、|直様《すぐさま》|此《この》|館《やかた》に|逃《に》げ|来《きた》り、|又《また》もや|悪霊《あくれい》に|左右《さいう》されて、|神業《しんげふ》の|妨害《ばうがい》を|致《いた》すこと|最《もつと》も|甚《はなは》だしければ、|一時《いちじ》も|早《はや》く|此《この》|館《やかた》を|放逐《はうちく》し、|自転倒島《おのころじま》へ|追《お》つ|帰《かへ》せとの|御命令《ごめいれい》で|厶《ござ》る』
『それは|嘸《さぞ》|高姫《たかひめ》|様《さま》がお|驚《おどろ》き|遊《あそ》ばす|事《こと》で|厶《ござ》いませう。|何《なん》とか|穏便《をんびん》に|高姫《たかひめ》|様《さま》に|改心《かいしん》して|貰《もら》ひ、|此処《ここ》に|暫《しばら》く|御用《ごよう》をさしてあげる|事《こと》は|出来《でき》ますまいかなア』
『|貴女《あなた》のお|言葉《ことば》ならば、|決《けつ》して|違背《ゐはい》は|厶《ござ》いますまい。|併《しか》しながら|吾々《われわれ》は|教主《けうしゆ》のお|使《つかひ》にて|参《まゐ》りしものなれば、|独断《どくだん》にて|如何《いかん》ともする|事《こと》は|出来《でき》ませぬ』
『|成程《なるほど》それは|御尤《ごもつと》もで|厶《ござ》います。|教主様《けうしゆさま》の|御命令《ごめいれい》とあらば|致《いた》し|方《かた》|厶《ござ》りませぬ。|併《しか》しながら|茲《ここ》|暫《しばら》くの|間《あひだ》|私《わたし》にお|任《まか》せ|下《くだ》さるまいか。|何《なん》とか|致《いた》して|高姫《たかひめ》さまの|身魂《みたま》を|救《すく》ひたいもので|厶《ござ》います。|今《いま》|放逐《はうちく》すれば|益々《ますます》|心《こころ》|荒《すさ》み、|上《あ》げも|下《おろ》しもする|事《こと》が|出来《でき》ないやうになるかも|知《し》れませぬ。|何卒《どうぞ》|八島主様《やしまぬしさま》にお|会《あ》ひでしたら、|茲《ここ》|暫《しばら》く|初稚姫《はつわかひめ》にお|任《まか》せ|下《くだ》さるやうお|願《ねが》ひ|下《くだ》さいませぬか』
『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。|直様《すぐさま》|立《た》ち|帰《かへ》り|御猶予《ごいうよ》を|願《ねが》つて|見《み》ませう』
『|早速《さつそく》の|御承知《ごしようち》、|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます』
|国彦《くにひこ》『イヤ|珍彦《うづひこ》|殿《どの》、|高姫《たかひめ》|殿《どの》は|何《なん》だか|怪《あや》しき|男《をとこ》を|引《ひ》き|入《い》れて|居《ゐ》られるとか|聞《き》きましたが、それは|何者《なにもの》で|厶《ござ》いますか』
『ハイ、|真偽《しんぎ》の|程《ほど》は|吾々《われわれ》には|分《わか》りませぬが、どうも|怪《あや》しいもので|厶《ござ》います。|斎苑《いそ》の|館《やかた》から|参《まゐ》つた、|杢助《もくすけ》だと|云《い》つて|居《を》られますが、どうしても|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》にお|会《あ》ひなさらぬので|厶《ござ》います。それが|第一《だいいち》|私《わたし》の|不思議《ふしぎ》とする|所《ところ》、|一度《いちど》|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》にお|尋《たづ》ねして|見《み》たいと|思《おも》うて|居《ゐ》ますが、|余《あま》り|失礼《しつれい》だと|思《おも》ひ、お|尋《たづ》ねも|致《いた》さず|控《ひか》へて|居《を》りました』
『ハテナ、|杢助《もくすけ》|総務《そうむ》は|日々《にちにち》|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|御出勤《ごしゆつきん》になつてゐます。|弥《いよいよ》もつて|不思議《ふしぎ》の|至《いた》りで|厶《ござ》る。|何《なに》か|怪《あや》しい|点《てん》はお|認《みと》めになりませぬかな』
『ハイ、|何《なん》だか|存《ぞん》じませぬが、|大変《たいへん》に|犬《いぬ》がお|嫌《きら》ひださうで|厶《ござ》います。|此《この》|間《あひだ》も|森《もり》を|散歩《さんぽ》して|躓《つまづ》き|眉間《みけん》を|石《いし》で|打《う》つたと|仰《おほ》せられましたが、|一寸《ちよつと》|私《わたし》が|窺《うかが》ひますのに、|顛倒《こけ》て|打《う》つた|傷《きず》ではなく、|犬《いぬ》に|噛《か》まれたやうな|深《ふか》い|歯形《はがた》が|附《つ》いて|居《を》りました』
『|成程《なるほど》、そいつは|益々《ますます》|怪《あや》しう|厶《ござ》る。|安彦《やすひこ》|殿《どの》、|如何《いかが》|思召《おぼしめ》されますか。こりや|聞《き》き|捨《ず》てにはなりますまい。|一《ひと》つ|正体《しやうたい》を|調《しら》べたいものですなア』
『サア、|吾々《われわれ》はお|使《つかひ》に|参《まゐ》つたのは、|何《なに》も|彼《か》も|一切《いつさい》を|調《しら》べて|来《こ》いとの|事《こと》なれば、|高姫《たかひめ》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|杢助《もくすけ》と|名乗《なの》る|人物《じんぶつ》を|能《よ》く|調《しら》べて|報告《はうこく》を|致《いた》さねばなりますまい』
|国彦《くにひこ》『|左様《さやう》で|厶《ござ》る、|直様《すぐさま》|着手《ちやくしゆ》|致《いた》しませう』
|珍彦《うづひこ》『|一寸《ちよつと》お|待《ま》ち|下《くだ》さいませ。|余程《よほど》|考《かんが》へなくては、|先方《せんぱう》に|悟《さと》られては|又《また》|逃《に》げ|出《だ》すかも|知《し》れませぬから、|一寸《ちよつと》|私《わたし》が|様子《やうす》を|伺《うかが》つて|参《まゐ》りませう』
|楓《かへで》『あのお|直使様《ちよくしさま》、|高姫《たかひめ》さまと|夫婦《ふうふ》だと|云《い》つて、それはそれは|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》、|酒《さけ》ばかり|呑《の》んで|一寸《ちよつと》も|事務《じむ》は|見《み》ないのですよ。そしてお|父《とう》さまやお|母《かあ》さまを|毒散《どくさん》と|云《い》ふ|薬《くすり》で|殺《ころ》さうとしたのですよ。けれども|文珠菩薩様《もんじゆぼさつさま》が|夢《ゆめ》に|現《あら》はれて|神丹《しんたん》を|下《くだ》さいましたので、お|蔭《かげ》で|毒《どく》が|利《き》かなかつたのです。さうでなければ、|私《わたし》の|両親《りやうしん》はとうの|昔《むかし》になくなつて|居《を》るのです。|彼《あ》んな|奴《やつ》は|早《はや》くどうかして|貰《もら》はなくては、|本当《ほんたう》の|事《こと》、|一目《ひとめ》も|寝《ね》られないのです。|初稚姫《はつわかひめ》のお|父《とう》さまだなんて|云《い》ひながら、|正体《しやうたい》が|現《あら》はれるのが|怖《おそ》ろしさに|一度《いちど》も|姫様《ひめさま》に|会《あ》はず、|此《この》|頃《ごろ》は|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》を|此《この》|館《やかた》に|閉《と》ぢ|込《こ》めて|了《しま》ひ、|自分《じぶん》の|居間《ゐま》には|高姫《たかひめ》と|二人《ふたり》で|誰《たれ》も|通《とほ》さないのです。きつとあいつは|妖怪《ばけもの》に|違《ちが》ひありませぬ。そして|高姫《たかひめ》さまは、|妖怪《ばけもの》を|杢助《もくすけ》さまと|思《おも》つて|居《ゐ》るのです。|斎苑《いそ》の|館《やかた》の|杢助《もくすけ》さまが|彼方《あちら》にもあり、|此方《こちら》にもある|道理《だうり》がないぢやありませぬか』
|安彦《やすひこ》『ハテ、|聞《き》けば|聞《き》く|程《ほど》|不思議千万《ふしぎせんばん》で|厶《ござ》る。これはテツキリ|妖怪《ばけもの》に|間違《まちが》ひ|厶《ござ》いますまい。|初稚姫《はつわかひめ》|殿《どの》、|貴女《あなた》のお|考《かんが》へは|如何《いかが》で|厶《ござ》います』
『|私《わたし》の|考《かんが》へでは|杢助《もくすけ》と|名乗《なの》る|怪物《くわいぶつ》は、|大雲山《たいうんざん》に|居《を》る|妖幻坊《えうげんばう》と|云《い》ふ|悪魔《あくま》に|違《ちが》ひないと|考《かんが》へます。|何《なん》と|云《い》つても|妾《わたし》の|愛犬《あいけん》スマートが|怖《こは》くて|仕様《しやう》がないので|厶《ござ》いますもの』
|安彦《やすひこ》は|二歩《ふたあし》|三歩《みあし》ニジリ|寄《よ》り、|目《め》を|見張《みは》り、|口《くち》を|尖《とが》らしながら、
『|姫様《ひめさま》、それがお|分《わか》りになつて|居《を》るのに、|何故《なぜ》|今《いま》まで|放任《はうにん》しておかれたのですか。|早《はや》くスマートを|使嗾《けし》かけて|亡《ほろ》ぼしてやつたらどうですか。さうしたら|高姫《たかひめ》も|目《め》が|醒《さ》めるでは|厶《ござ》いませぬか』
『さうして|見《み》ようかとも|思《おも》ひましたが、|俄《にはか》に|左様《さやう》な|事《こと》を|致《いた》せば、|高姫《たかひめ》|様《さま》が|大変《たいへん》な|恥《はぢ》をお|掻《か》き|遊《あそ》ばすなり、|又《また》|失望《しつばう》|落胆《らくたん》の|程《ほど》が|計《はか》り|知《し》られないと|思《おも》ひまして、ボツボツと|気《き》のつくやうと、|忙《いそ》がしい|体《からだ》をここに|留《とど》めて、|時機《じき》を|待《ま》つて|居《を》るので|厶《ござ》います』
『|姫様《ひめさま》、そんな、グヅグヅして|居《ゐ》る|場合《ばあひ》では|厶《ござ》いませぬぞ。|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》が|承《うけたま》はりました|以上《いじやう》、|此《この》|儘《まま》|帰《かへ》る|訳《わけ》には|参《まゐ》りませぬ、サア|是《これ》から|妖怪征伐《えうくわいせいばつ》に|着手《ちやくしゆ》|致《いた》しますから、|何卒《どうぞ》|拙者等《せつしやら》|両人《りやうにん》にお|任《まか》せを|願《ねが》ひます』
『あれしきの|妖怪《ばけもの》を|倒《たふ》す|位《くらゐ》は|朝飯前《あさめしまへ》の|仕事《しごと》で|厶《ござ》います。スマートだけでも|立派《りつぱ》に|追《お》ひ|散《ち》らすでせう。|併《しか》しながら|彼《かれ》を|追《お》ひ|散《ち》らしてみた|所《ところ》で、|又《また》|他《た》の|地方《ちはう》へ|往《い》つて|悪事《あくじ》をなすに|違《ちが》ひありませぬ。それ|故《ゆゑ》に|暫《しばら》く|此処《ここ》に|留《と》め|置《お》き、|心《こころ》の|底《そこ》から|彼《か》の|妖怪《えうくわい》を|改心《かいしん》させようと|存《ぞん》じ、|光《ひかり》を|和《やは》らげて|時機《じき》を|待《ま》つて|居《ゐ》るのですよ』
|国彦《くにひこ》『どうも|腕《うで》が|鳴《な》つて|仕方《しかた》がないぢやないか。もし|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》、そんな|気《き》の|永《なが》い|事《こと》を|云《い》はずに、|私《わたし》にお|任《まか》せ|下《くだ》さいませ。きつと|私《わたし》が|退治《たいぢ》てお|目《め》にかけませう』
『|短気《たんき》は|損気《そんき》、まア|待《ま》つて|下《くだ》さいませ。お|直使様《ちよくしさま》のお|言葉《ことば》を|背《そむ》いては|済《す》みませぬが、|何《なん》と|云《い》つても|妾《わたし》の|父《ちち》と|云《い》つて|現《あら》はれたので|厶《ござ》いますから、|仮令《たとへ》|怪物《くわいぶつ》と|雖《いへど》も|吾《わが》|父《ちち》と|名《な》のついたものを、さう|無闇《むやみ》に|苦《くる》しめる|事《こと》は|情《じやう》に|於《おい》てすみませぬ。|仮令《たとへ》|贋者《にせもの》にもせよ、|父《ちち》の|名《な》に|於《おい》てどうして|敵対《てきた》へませうか。|仮令《たとへ》|貴方《あなた》が|退治《たいぢ》なさつても、この|初稚《はつわか》の|耳《みみ》に|入《い》つた|以上《いじやう》は|何処《どこ》|迄《まで》もお|止《と》め|致《いた》します。|妾《わらは》が|知《し》らぬ|間《ま》に|退治《たいぢ》|遊《あそ》ばすのなら|已《や》むを|得《え》ませぬが、もう|只今《ただいま》となつては、|貴方《あなた》も|妾《わらは》に|対《たい》し|左様《さやう》な|惨酷《ざんこく》な|事《こと》は|出来《でき》ますまい』
|安彦《やすひこ》『|何《なん》と|親《おや》と|云《い》ふものは|偉《えら》いものだな。|仮令《たとへ》|如何《いか》なる|悪魔《あくま》でも|親《おや》の|名《な》を|名乗《なの》つて|居《を》るものを|苦《くる》しめる|事《こと》は|出来《でき》ないとは、|実《じつ》に|人情《にんじやう》の|深《ふか》いお|方《かた》だ。いや|孝行《かうかう》の|御精神《ごせいしん》だ。いやもう|感《かん》じ|入《い》りました』
『それ|故《ゆえ》|何処《どこ》|迄《まで》も|赤心《まごころ》を|尽《つく》して|其《その》|妖怪《ばけもの》を|改心《かいしん》させ、|救《すく》うてやりたいものです。|妾《わらは》もあの|妖怪《ばけもの》から|吾《わが》|娘《むすめ》と|云《い》はれたのですから、|娘《むすめ》としての|赤心《まごころ》を|尽《つく》したいと|存《ぞん》じます。|斯様《かやう》な|妖怪《ばけもの》に、|仮令《たとへ》|言葉《ことば》の|上《うへ》でも|娘《むすめ》と|云《い》はれるのは|何《なに》か|因縁《いんねん》があるのでせう。|何《ど》うか|愛善《あいぜん》の|徳《とく》を|以《もつ》て|彼《かれ》を|救《すく》ふべく、|試験問題《しけんもんだい》をお|与《あた》へ|下《くだ》さつたのだらうと|存《ぞん》じます』
『|然《しか》らば|是非《ぜひ》に|及《およ》びませぬ。イヤ|国彦《くにひこ》|殿《どの》、これにてお|別《わか》れ|致《いた》さうぢやないか』
『|何《ど》うも|遠方《ゑんぱう》を|御苦労様《ごくらうさま》で|厶《ござ》いました。|高姫《たかひめ》さまの|件《けん》については|今《いま》|一応《いちおう》|妾《わらは》の|意見《いけん》を|申上《まをしあ》げ、|御詮議《ごせんぎ》の|上《うへ》|暫《しば》しの|御猶予《ごいうよ》あらむ|事《こと》をお|願《ねが》ひ|申《まを》します。そして|否《いな》やの|御返事《ごへんじ》は、|無線霊話《むせんれいわ》をもつて|妾《わらは》の|耳《みみ》|迄《まで》お|達《たつ》し|下《くだ》さいますれば、|結構《けつこう》で|厶《ござ》います』
『イヤ|委細《ゐさい》|承知《しようち》|致《いた》しました。|珍彦《うづひこ》|殿《どの》、|然《しか》らばこれにて|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りませう。|随分《ずいぶん》|貴方《あなた》も|御苦労《ごくらう》で|厶《ござ》います。|初稚姫《はつわかひめ》|様《さま》に|御返事《ごへんじ》のあり|次第《しだい》、|貴方《あなた》は|祠《ほこら》の|森《もり》の|神司《かむづかさ》の|職権《しよくけん》を|以《もつ》て|高姫《たかひめ》に|申渡《まをしわた》しをなさるやうに、|呉《く》れ|呉《ぐ》れも|申渡《まをしわた》しますぞや。|決《けつ》して|遠慮《ゑんりよ》はいりませぬから、どしどしおやりなさいませ』
『ハイ|委細《ゐさい》|承知《しようち》|致《いた》しました。それを|承《うけたま》はらば、|拙者《せつしや》も|職権《しよくけん》を|以《もつ》て|御命令《ごめいれい》|通《どほ》り、|何《なん》の|憚《はばか》る|所《ところ》なく|断行《だんかう》|致《いた》しますから、|何卒《どうぞ》|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ。|此《この》|珍彦《うづひこ》も|何分《なにぶん》|神様《かみさま》のお|道《みち》が|充分《じうぶん》に|分《わか》つてゐないものですから、つひ|高姫《たかひめ》さまの|口先《くちさき》に|操《あやつ》られ、いつも|屁古《へこ》まされ|通《どほ》しですが、お|直使《ちよくし》を|通《とほ》しての|教主様《けうしゆさま》のお|言葉《ことば》、|決《けつ》して|背《そむ》きは|致《いた》しませぬ』
『イヤそれ|聞《き》いて|安心《あんしん》|致《いた》しました』
|国彦《くにひこ》『イヤ|安彦《やすひこ》|殿《どの》、|折角《せつかく》|出張《しゆつちやう》|致《いた》したのだから、|御本殿《ごほんでん》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|此《この》|館《やかた》は|一間《ひとま》も|残《のこ》らず|見分《けんぶん》|致《いた》し、|境内《けいだい》を|一巡《いちじゆん》|致《いた》して|帰《かへ》らうでは|厶《ござ》らぬか』
|珍彦《うづひこ》『|然《しか》らば|幹部《かんぶ》の|役員《やくゐん》に|申付《まをしつ》けて|御案内《ごあんない》を|致《いた》させませう』
|安彦《やすひこ》『イヤそれは|有難《ありがた》い。|然《しか》らば|二人《ふたり》|許《ばか》り|案内《あんない》を|願《ねが》ひませうかなア』
『|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|云《い》ひながら、|磬板《けいばん》をカンカンと|打《う》つた。イル、サールの|両人《りやうにん》は|暫《しばら》くして|装束《しやうぞく》をつけ|珍彦《うづひこ》が|館《やかた》に|入《い》り|来《きた》り、
『|今《いま》「|二人《ふたり》|来《こ》い」と|云《い》ふお|報《しら》せで|厶《ござ》いましたので、|直様《すぐさま》|装束《しやうぞく》を|調《ととの》へ|罷《まか》り|出《で》ました。お|直使様《ちよくしさま》に|対《たい》し|何《なに》か|御用《ごよう》が|厶《ござ》いますれば、|承《うけたま》はりませう』
|珍彦《うづひこ》『いや、イル、サール|両人様《りやうにんさま》、|御苦労《ごくらう》で|厶《ござ》いました。|外《ほか》でもありませぬが、お|直使様《ちよくしさま》お|二人《ふたり》を|一度《いちど》|御本殿《ごほんでん》に|御案内《ごあんない》|申上《まをしあ》げて|下《くだ》さい。そして|境内《けいだい》を|叮嚀《ていねい》に|御案内《ごあんない》|申上《まをしあ》げ、|最後《さいご》に|杢助様《もくすけさま》の|御居間《おゐま》や、|高姫《たかひめ》|様《さま》のお|居間《ゐま》へ|御案内《ごあんない》なさるが|宜《よろ》しいぞや』
イル『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。サア|御直使様《おちよくしさま》、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》が|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう』
|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》|両人《りやうにん》は|軽《かる》く|目礼《もくれい》しながら、イル、サールの|後《あと》に|従《したが》ひ|御本殿《ごほんでん》に|案内《あんない》された。
|茲《ここ》に|両人《りやうにん》は|恭《うやうや》しく|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、|終《をは》つて|宣伝歌《せんでんか》を|手向《たむ》けた。|安彦《やすひこ》は|歌《うた》ふ。
『|厳《いづ》の|御霊《みたま》や|瑞御霊《みづみたま》 |清《きよ》き|尊《たふと》き|大御稜威《おほみいづ》
|現《あら》はれまして|今《いま》|此処《ここ》に |河鹿峠《かじかたうげ》に|名《な》も|高《たか》き
|祠《ほこら》の|森《もり》の|真秀良場《まほらば》に |千木《ちぎ》|高《たか》|知《し》りて|現《あ》れませる
|国治立《くにはるたち》の|大御神《おほみかみ》 |月《つき》の|大神《おほかみ》|日《ひ》の|御神《みかみ》
バラモン|教《けう》の|司神《つかさがみ》 |大国彦《おほくにひこ》を|初《はじ》めとし
|盤古神王《ばんこしんわう》|塩長《しほなが》の |彦《ひこ》の|命《みこと》や|其《その》|外《ほか》の
|百《もも》の|神《かみ》|等《たち》|斎《いつ》かひて |常世《とこよ》の|暗《やみ》を|晴《は》らさむと
|顕《あ》れませるこそ|尊《たふと》けれ |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|曲津《まがつ》は|如何《いか》に|荒《すさ》ぶとも |皇大神《すめおほかみ》の|御稜威《みいづ》もて
|此《この》|世《よ》の|曲《まが》を|悉《ことごと》く |伊吹《いぶき》|払《はら》ひに|払《はら》ひのけ
|浦安国《うらやすくに》の|浦安《うらやす》く |守《まも》らせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|詔《みこと》を|畏《かしこ》みて |産土山《うぶすなやま》の|聖場《せいぢやう》より
|参《まゐ》り|来《き》ませる|安彦《やすひこ》や |国彦司《くにひこつかさ》と|諸共《もろとも》に
|御前《みまへ》に|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
|国彦《くにひこ》は|又《また》|歌《うた》ふ。
『|吾《われ》は|国彦《くにひこ》|宣伝使《せんでんし》 |高取村《たかとりむら》の|与太彦《よたひこ》と
|名《な》を|知《し》られたる|与太男《よたをとこ》 |弥次彦《やじひこ》さまと|諸共《もろとも》に
コーカス|参《まゐ》りの|其《その》|途中《とちう》 お|竹《たけ》の|宿《やど》に|泊《とま》る|折《をり》
|日出《ひので》の|別《わけ》の|宣伝使《せんでんし》 |部下《ぶか》に|仕《つか》へる|神司《かむづかさ》
|此処《ここ》に|現《あら》はれましまして |駒《こま》に|跨《また》がりいそいそと
|小鹿峠《こじかたうげ》の|麓《ふもと》まで |来《きた》る|折《をり》しも|音彦《おとひこ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》と|諸共《もろとも》に |吾等《われら》|二人《ふたり》は|残《のこ》されて
ウラルの|道《みち》の|目付等《めつけら》に |取囲《とりかこ》まれて|逃《に》ぐる|折《をり》
|小鹿峠《こじかたうげ》の|峻坂《しゆんぱん》に |前後《ぜんご》に|敵《てき》を|受《う》けしより
|千尋《ちひろ》の|谷間《たにま》に|落《お》ち|込《こ》んで |忽《たちま》ち|幽冥《いうめい》の|人《ひと》となり
|三途《せうづ》の|川《かは》まで|到着《たうちやく》し |脱衣婆《だついば》さまにいろいろと
|小言八百《こごとはつぴやく》|並《なら》べられ |河《かは》を|渡《わた》りて|銅木像《どうもくざう》
|其《その》|外《ほか》|怪《あや》しき|者《もの》|共《ども》に |二度《ふたたび》|三度《みたび》|出会《しゆつくわい》し
|茲《ここ》に|漸《やうや》く|身魂《みたま》をば |研《みが》きすまして|宣伝使《せんでんし》
|仕《つか》へまつりし|国彦《くにひこ》ぞ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》を|身《み》に|浴《あ》びて |今《いま》は|尊《たふと》き|斎苑館《いそやかた》
|司《つかさ》の|群《むれ》に|加《くは》はりて |教《をしへ》の|道《みち》を|宣伝《せんでん》し
|帰《かへ》りて|見《み》れば|此《この》|度《たび》の |祠《ほこら》の|森《もり》の|直使《ちよくし》をば
|云《い》ひつけられし|尊《たふと》さよ |此《この》|御社《みやしろ》に|現《あ》れませる
|皇大神《すめおほかみ》よ|百神《ももがみ》よ |何卒《なにとぞ》|吾《わが》|身《み》の|使命《しめい》をば
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|復《かへ》り|命《ごと》 |申《まを》させたまへ|惟神《かむながら》
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御前《おんまへ》に |安彦《やすひこ》|国彦《くにひこ》|両人《りやうにん》が
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》のみたまの|幸《さち》はひて これの|館《やかた》に|住《す》まひたる
|妖幻坊《えうげんばう》の|醜霊《しこたま》や |金毛九尾《きんまうきうび》の|醜狐《しこぎつね》
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|大神《おほかみ》の |誠《まこと》の|道《みち》に|目《め》を|醒《さ》まし
|悪逆無道《あくぎやくぶだう》をひるがへし |世界《せかい》に|曲《まが》を|行《おこな》はず
|世人《よびと》を|救《すく》ふ|御柱《みはしら》と ならさせたまへ|惟神《かむながら》
|神《かみ》かけ|念《ねん》じ|奉《たてまつ》る』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|恭《うやうや》しく|拝礼《はいれい》をして|階段《かいだん》を|下《くだ》り、|又《また》もやイル、サールの|案内《あんない》に|連《つ》れて|広《ひろ》き|森林内《しんりんない》を|隈《くま》なく|巡視《じゆんし》し、|妖幻坊《えうげんばう》が|遭難場《さうなんば》をも|詳《くは》しく|実見《じつけん》し、|落《お》ちこぼれたる|血糊《ちのり》の、|人間《にんげん》の|血《ち》にあらざる|事《こと》|迄《まで》よく|確《たしか》め、|終《をは》つて|八尋殿《やひろどの》に|上《あが》り、|暫《しば》し|休憩《きうけい》の|後《のち》、|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》の|居間《ゐま》を|臨検《りんけん》せむと|相談《さうだん》しながら|茶《ちや》を|啜《すす》つて|居《ゐ》た。
|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》は|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》が|今《いま》や|吾《わが》|居間《ゐま》に|臨検《りんけん》に|来《きた》るとは、|神《かみ》ならぬ|身《み》の|知《し》る|由《よし》もなく、ハルを|相手《あひて》にいろいろと|訊問《じんもん》を|始《はじ》めて|居《ゐ》た。
(大正一二・一・二三 旧一一・一二・七 加藤明子録)
第一九章 |逆語《ぎやくご》〔一三一三〕
|高姫《たかひめ》の|居間《ゐま》には|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》、|高姫《たかひめ》|両人《りやうにん》、|六ケ《むつか》しい|顔《かほ》をして|上座《じやうざ》に|坐《すわ》り、ハルをつかまへて|油《あぶら》をとつてゐる。
|妖幻《えうげん》『オイ、ハル、|今《いま》|表口《おもてぐち》に|参《まゐ》つて|何《なに》かゴテゴテ|申《まを》して|居《を》つたのは|何者《なにもの》だなア』
『ハイ、|何《なん》でも|厶《ござ》いませぬ。|只《ただ》|道通《みちどほり》が|一寸《ちよつと》|受付《うけつけ》へ|立寄《たちよ》つたので|厶《ござ》います』
『|馬鹿《ばか》を|申《まを》せ。|其《その》|方《はう》は|吾々《われわれ》に|隠《かく》し|立《だ》てをするのだなア。|斎苑《いそ》の|館《やかた》から|直使《ちよくし》が|来《き》たのであらうがな』
『ハイ、エエ、それは、みえました。|併《しか》しながら|決《けつ》して|吾々《われわれ》に|対《たい》して、|御用《ごよう》もなければ|何《なん》とも|仰《おほ》せられませぬ』
『|珍彦館《うづひこやかた》へ|其《その》|方《はう》は|案内《あんない》をしたであらうがなア。|様子《やうす》は|大抵《たいてい》|知《し》つて|居《を》るだらう』
『ヘーエ、イルに……イン、|承《うけたま》はりますれば、|此《この》|館《やかた》の|総取締《そうとりしまり》にイルを|致《いた》す………とか|云《い》ふお|使《つかひ》ださうで|厶《ござ》います』
『|高姫《たかひめ》や|此《この》|杢助《もくすけ》を|放逐《はうちく》すると|申《まを》して|居《を》らうがな』
『エー、そんなこた、|一寸《ちよつと》も|存《ぞん》じませぬ。|併《しか》しながら|朝晩《あさばん》の|御給仕《おきふじ》もせず、|酒《さけ》ばかり|呑《の》んでる|人物《じんぶつ》に|対《たい》しては、どういう|御沙汰《ごさた》が|下《さが》つたやら|分《わか》りませぬな。|直接《ちよくせつ》|私《わたし》は|何《なん》にも|聞《き》かないものですから、かう|申《まを》したと|云《い》つて、|決《けつ》して|之《これ》が|事実《じじつ》だか|事実《じじつ》でないか、|保証《ほしよう》の|限《かぎ》りで|厶《ござ》いませぬ。|併《しか》し|何《なん》だか|妙《めう》な|空気《くうき》が|漂《ただよ》うてゐますで。|何《なん》と|云《い》つても|杢助《もくすけ》さまともあらうものが、スマート|如《ごと》きが|怖《こは》いと|仰有《おつしや》るものだから、ヘヘヘヘヘ、|皆《みな》の|連中《れんちう》がチヨコチヨコと|噂《うはさ》を|致《いた》して|居《を》ります。それより|外《ほか》は|何《なに》も|厶《ござ》いませぬ。これは|一文生中《いちもんきなか》の|掛値《かけね》もない、ハルの|真心《まごころ》を|吐露《とろ》したので|厶《ござ》いますから、|此《この》|上《うへ》の|秘密《ひみつ》は|何《なに》も|存《ぞん》じませぬ』
『|馬鹿《ばか》を|申《まを》せ。まだ|外《ほか》に|何《なに》か|秘密《ひみつ》があるだらう。|今《いま》の|言葉《ことば》から|考《かんが》へてみれば、|貴様等《きさまら》は|申合《まをしあは》せ、|此《この》|方《はう》や|高姫《たかひめ》の|悪口《あくこう》を|申《まを》して、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|手紙《てがみ》をやつたのであらうがなア。それでなければ|直使《ちよくし》が|出《で》て|来《く》る|筈《はず》がないぢやないか。なに|頭《あたま》を|掻《か》いて|居《ゐ》るのだ、ヤツパリ|都合《つがふ》が|悪《わる》いとみえるな。コリヤ|白状《はくじやう》|致《いた》さぬか』
とハルの|襟首《えりくび》をグツと|取《と》り、|剛力《がうりき》に|任《まか》せて、|座敷《ざしき》の|中央《まんなか》に|突《つ》き|倒《たふ》し、|一方《いつぱう》の|手《て》でグツと|押《おさ》へ、|一方《いつぱう》の|荒《あら》い|毛《け》だらけの|手《て》に|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて|振上《ふりあ》げながら、
『コリヤ、|白状《はくじやう》|致《いた》せばよし、|隠《かく》し|立《だ》てを|致《いた》すと、|此《この》|鉄拳《てつけん》が|其《その》|方《はう》の|眉間《みけん》へ|触《さは》るや|否《いな》や、|其《その》|方《はう》の|脳天《なうてん》は|木端微塵《こつぱみぢん》になるが、それでも|白状《はくじやう》|致《いた》さぬか』
『イイ|痛《いた》い|痛《いた》い、アア|誰《たれ》か|来《き》てくれぬかいな、お|直使様《ちよくしさま》、|早《はや》く、|来《き》て|下《くだ》さるといいにな、イイ|痛《いた》い|痛《いた》い』
『サ、|痛《いた》くば|早《はや》く|申《まを》せ。|白状《はくじやう》さへすれば|許《ゆる》してやらう』
『ハハ|白状《はくじやう》せと|云《い》つたつて、|種《たね》のない|事《こと》が|白状《はくじやう》|出来《でき》ますか』
|高姫《たかひめ》『コレ、ハルさま、お|前《まへ》は|五人《ごにん》の|中《なか》でも|一番《いちばん》|利巧《りかう》な|男《をとこ》だ。それだから|私《わたし》がお|前《まへ》をイルの|野郎《やらう》の|代《かは》りに|受付頭《うけつけがしら》にして|上《あ》げたぢやないか。これ|程《ほど》|私《わたし》がお|前《まへ》をヒイキにして|居《ゐ》るのに、なぜ|隠《かく》し|立《だ》てをなさるのだい。サ、|早《はや》く|言《い》つてみなさい。|決《けつ》してお|前《まへ》さまの|為《ため》に|悪《わる》いやうにはせないからな』
『|高姫《たかひめ》さま、そんな|無茶《むちや》な|事《こと》、あなた|迄《まで》が|言《い》つて|貰《もら》つちや、|此《この》ハルが|何《ど》うして|立《た》ちますか。よい|加減《かげん》に|疑《うたがひ》を|晴《は》らして|下《くだ》さいな』
|妖幻《えうげん》『|此奴《こいつ》は|何処《どこ》までもドシぶとい、まてツ、|今《いま》に|思《おも》ひ|知《し》らしてやらう、サどうぢや』
と|又《また》もや|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて、|力《ちから》|限《かぎ》りに|打下《うちおろ》さうとする|一刹那《いつせつな》『ウーウー、ワツウ ワツウ ワツウ』とスマートの|声《こゑ》、|妖幻坊《えうげんばう》は|体《からだ》がすくみ、|色《いろ》|青《あを》ざめ、|其《その》|儘《まま》ツイと|立《た》つて|自分《じぶん》の|居間《ゐま》に|逃《に》げ|帰《かへ》り、|蒲団《ふとん》を|被《かぶ》つて|慄《ふる》うてゐる。スマートの|声《こゑ》は|益々《ますます》|烈《はげ》しくなつて|来《き》た。
|高姫《たかひめ》は|少々《せうせう》|慄《ふる》ひながら、
『コレ、ハルさま、お|前《まへ》はいい|子《こ》だ。|本当《ほんたう》に|様子《やうす》を|知《し》つて|居《ゐ》るだらう。サ、チヤツと|言《い》うてくれ、|其《その》|代《かは》り、お|前《まへ》をここの|神司《かむづかさ》にして|上《あ》げるからなア』
『ハイ、お|前《まへ》さま、|用心《ようじん》しなされ。どうやら|立退《たちの》き|命令《めいれい》が|来《き》たやうな|按配《あんばい》ですよ』
『ナアニ、|立退《たちの》き|命令《めいれい》が、そりや|誰《たれ》に、|大方《おほかた》|珍彦《うづひこ》にだらう』
『|冗談《じようだん》|云《い》つちやいけませぬよ。|珍彦《うづひこ》さまはここの|御主人《ごしゆじん》です。お|前《まへ》さまは|勝手《かつて》に|義理天上《ぎりてんじやう》だとか|云《い》つて|坐《すわ》り|込《こ》み、|自分免許《じぶんめんきよ》で|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》と|威張《ゐば》つてゐるのでせう。それだからお|前《まへ》さまに|立退《たちの》き|命令《めいれい》が|来《く》るのは|当然《あたりまへ》ですワ』
『エーエ、まさかの|時《とき》になつて、|杢助《もくすけ》さまも|杢助《もくすけ》さまだ。スマート|位《くらゐ》な|畜生《ちくしやう》が、|何程《なにほど》|厭《いや》だと|云《い》つても、こんな|正念場《しやうねんば》になつてから、|自分《じぶん》の|居間《ゐま》へ|這入《はい》つて|寝《ね》て|了《しま》ふといふ|事《こと》があるものかいなア』
『ヘン、|誠《まこと》にお|気《き》の|毒《どく》|様《さま》、すんまへんな。|何《いづ》れ、|悪《あく》は|永《なが》うは|続《つづ》きませぬぞや』
『エーエ、お|前《まへ》|迄《まで》が、【しよう】もない|事《こと》を|云《い》ふぢやないか。サ、とつとと|出《で》ていつて|下《くだ》さい。この|館《やかた》は|仮令《たとへ》|直使《ちよくし》が|来《こ》うが|何《なに》が|来《こ》うが、|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》が|守護《しゆご》して|居《を》れば、|誰一人《たれひとり》|居《を》らいでもよいのだから、|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|放《ほ》イ|出《だ》して【こまそ】。グヅグヅしてると|先方《むかふ》の|方《はう》から|立退《たちの》き|命令《めいれい》なんて|吐《ぬか》しやがるから、|先《さき》んずれば|人《ひと》を|制《せい》すだから|此方《こつち》の|方《はう》から|立退《たちの》かしてくれるツ』
と|珍彦館《うづひこやかた》をさして|行《ゆ》かむと|立《た》ち|上《あが》る。そこへ|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》はイル、サールに|案内《あんない》され、|襖《ふすま》をサツと|開《ひら》いて|這入《はい》つて|来《き》た。
イル『エ、もし|直使様《ちよくしさま》、ここが|所謂《いはゆる》|義理天上《ぎりてんじやう》の|居間《ゐま》で|厶《ござ》います。|何卒《どうぞ》|早《はや》く|立退《たちの》き|命令《めいれい》を|申《まを》し|渡《わた》して|下《くだ》さい。コリヤ|高姫《たかひめ》、ザマア|見《み》やがれ、イヒヒヒヒ、|誠《まこと》に|以《もつ》てお|気《き》の|毒《どく》|千万《せんばん》なれど、|今日《けふ》|限《かぎ》りだと|思《おも》うて、|諦《あきら》めて|帰《い》んだがよいぞや。|油揚《あぶらげ》の|一枚《いちまい》も|餞別《せんべつ》にやりたいけれど、|生憎《あひにく》|今日《けふ》は|油揚《あぶらげ》も|小豆《あづき》もないワ。サツパリ、コーンと|諦《あきら》めて、ササ、|帰《かへ》つたり|帰《かへ》つたり』
『エー|喧《やかま》しい、スツ|込《こ》んでゐなさい。ここは|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|神界《しんかい》から|命令《めいれい》を|受《う》けて|守護《しゆご》|致《いた》す|大門《おほもん》ぢやぞえ。そして|直使《ちよくし》といふのは|誰《たれ》だなア』
|安彦《やすひこ》『ヤア|高姫《たかひめ》|殿《どの》、|久《ひさ》しう|厶《ござ》る』
『|拙者《せつしや》は|国彦《くにひこ》で|厶《ござ》る。|此《この》|度《たび》、|斎苑《いそ》の|館《やかた》より|一寸《ちよつと》|様子《やうす》あつて|参拝《さんぱい》|致《いた》した|者《もの》で|厶《ござ》る。|境内《けいだい》の|様子《やうす》を|見《み》む|為《ため》、|此処《ここ》まで|調査《てうさ》に|来《き》たのですよ。そして|直使《ちよくし》の|趣《おもむき》は|珍彦《うづひこ》に|申渡《まをしわた》しあれば、やがて|其《その》|方《はう》に|対《たい》し、|何《なん》とか|沙汰《さた》があるであらう』
『ヘン、|阿呆《あはう》らしい、|人民《じんみん》の|命令《めいれい》|位《くらゐ》、|聞《き》くやうな|生神《いきがみ》ぢやありませぬぞや。|勿体《もつたい》なくも|高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》、|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》ぢやぞえ。|此《この》|肉体《にくたい》は|常世姫命《とこよひめのみこと》の|再来《さいらい》で、|変性男子《へんじやうなんし》の|御系統《ごひつぱう》だ。|何《なん》と|心得《こころえ》てござる。……ヤアお|前《まへ》は|北山村《きたやまむら》の|本山《ほんざん》へやつて|来《き》て、トロロの|丼鉢《どんぶりばち》を|座敷中《ざしきちう》にブツつけた、|国公《くにこう》ぢやないか。そしてお|前《まへ》は|安《やす》だらう。ヘン、|阿呆《あはう》らしい、|直使《ちよくし》なんて、|笑《わら》はせやがるワイ、イツヒヒヒヒ、|大《おほ》きに|憚《はばか》りさま。これなつと、お|喰《くら》へ』
と|焼糞《やけくそ》になつて、|大《おほ》きなだん|尻《じり》を|引《ひ》きまくり、ポンポンと|二《ふた》つ|三《み》つ|叩《たた》き、|体《からだ》を|三《み》つ|四《よ》つゆすり、|腮《あご》をしやくり、|舌《した》をニユツと|出《だ》し、|両手《りやうて》を|鳶《とび》が|羽《は》ばたきしたやうにしてみせた。
|安彦《やすひこ》『|仮令《たとへ》、|拙者《せつしや》は|神力《しんりき》|足《た》らぬ|者《もの》にもせよ。|天晴《あつぱれ》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|今日《こんにち》は|又《また》|八島主命《やしまぬしのみこと》|様《さま》より|直使《ちよくし》として|参《まゐ》つた|者《もの》で|厶《ござ》る。|粗略《そりやく》な|扱《あつかひ》をなさると、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|一伍一什《いちぶしじふ》を|申《まを》し|上《あ》げますぞ』
『ヘン、|仰有《おつしや》いますわい。|八島主《やしまぬし》の|教主《けうしゆ》が|何《なん》だ。|青《あを》い|青《あを》い|痩《や》せた|顔《かほ》しやがつて、まるで|肺病《はいびやう》の|親方《おやかた》みたやうな|面《つら》をして、|此《この》|方《はう》に|立退《たちの》き|命令《めいれい》、ヘン、|尻《けつ》が|呆《あき》れて|雪隠《せつちん》が|躍《をど》りますワイ。お|茶《ちや》の|一杯《いつぱい》も|上《あ》げたいは|山々《やまやま》なれど、|左様《さやう》な|分《わか》らぬ|事《こと》を|云《い》ふ|奴《やつこ》さまには、|番茶《ばんちや》|一《ひと》つ|汲《く》む|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬワ。サア、トツトとお|帰《かへ》りなさい。|高姫《たかひめ》は|斯《か》う|見《み》えても、|斎苑館《いそやかた》の|総務《そうむ》|杢助《もくすけ》の|妻《つま》で|厶《ござ》るぞや。|何程《なにほど》|安《やす》や|国《くに》が|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》だと|云《い》つても、|吾《わが》|夫《をつと》|杢助《もくすけ》の|家来《けらい》ぢやないか。|今《いま》こそ|杢助様《もくすけさま》は|様子《やうす》あつて|役《やく》を|引《ひ》いて|厶《ござ》るが、ヤツパリ|御神徳《ごしんとく》は|三五教《あななひけう》|切《き》つての|偉者《えらもの》だ。どうだ|両人《りやうにん》、|義理天上《ぎりてんじやう》の|申《まを》す|事《こと》を|聞《き》いて|改心《かいしん》を|致《いた》し、|此《この》|方《はう》の|部下《ぶか》となつて、|此処《ここ》で|御用《ごよう》を|致《いた》す|気《き》はないかな』
|国彦《くにひこ》『|安彦《やすひこ》|殿《どの》、|困《こま》つた|者《もの》で|厶《ござ》るな。|論《ろん》にも|杭《くひ》にもかからぬでは|厶《ござ》らぬか』
『コリヤ|与太《よた》、ソリヤ|何《なに》を|云《い》ふのだ。|勿体《もつたい》なくも|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》を|目下《めした》に|見下《みおろ》し、|直使面《ちよくしづら》をさげて、|馬鹿《ばか》らしい、|何《なに》を|云《い》ふのだい。|弥次彦《やじひこ》、|与太彦《よたひこ》の|両人《りやうにん》|奴《め》、|又《また》|一途《いちづ》の|川《かは》の|出刃庖丁《でばばうちやう》を、|土手《どて》つ|腹《ぱら》へつつ|込《こ》んでやらうかな。あの|時《とき》は|黒姫《くろひめ》と|二人《ふたり》だつたが、モウ、|今日《こんにち》は|神力無双《しんりきむさう》の|勇士《ゆうし》、|杢助《もくすけ》さまの|女房《にようばう》ぢやぞ。|何《なん》だ、|糊《のり》つけもののやうに、しやちこ|張《ば》つて、|其《その》|面《つら》は、マアそこに|坐《すわ》つたが|宜《よ》からう』
|隣《となり》の|間《ま》にウンウンと|唸《うな》る|妖幻坊《えうげんばう》の|声《こゑ》、|耳《みみ》をさす|如《ごと》くに|聞《きこ》えて|来《く》る。
イル『モシお|直使様《ちよくしさま》、こんな|気違《きちが》ひは|後《あと》まはしと|致《いた》しまして、|杢助《もくすけ》の|居間《ゐま》を|取調《とりしら》べませう、|何《なん》だか|唸《うな》つて|居《ゐ》るやうですよ』
|安彦《やすひこ》『ヤ、|国彦《くにひこ》|殿《どの》、エー、サール|殿《どの》とハル|殿《どの》と|三人《さんにん》、|此《この》|発狂者《はつきやうしや》を|監督《かんとく》してゐて|下《くだ》さい。|拙者《せつしや》は|杢助《もくすけ》と|称《しよう》する|人物《じんぶつ》の|正体《しやうたい》を|見届《みとど》けて|参《まゐ》りますから』
と|行《ゆ》かうとする。|高姫《たかひめ》は|両手《りやうて》を|拡《ひろ》げて、
『コリヤコリヤ|安《やす》、イヤ|弥次彦《やじひこ》、イル、メツタに|義理天上《ぎりてんじやう》さまの|許《ゆる》しもなしに、|行《ゆ》くことはならぬぞや。さやうな|事《こと》を|致《いた》すと、|忽《たちま》ち|手足《てあし》も|動《うご》かぬやうに|致《いた》すから、それでもよけら、|行《い》つたが|宜《よ》からう』
イル『モシ|直使様《ちよくしさま》、|行《ゆ》きませう。|此《この》|婆《ばば》は|何時《いつ》もあんなこと|言《い》つて|嚇《おど》しが|上手《じやうづ》ですからなア』
|安彦《やすひこ》『なる|程《ほど》、|参《まゐ》りませう』
と|次《つぎ》の|間《ま》の|杢助《もくすけ》の|居間《ゐま》をパツとあけた。|杢助《もくすけ》は|樫《かし》の|棒《ぼう》を|頭上《づじやう》|高《たか》くふりかざし、|力《ちから》をこめてウンと|一打《ひとうち》、|今《いま》や|安彦《やすひこ》の|頭《あたま》は|二《ふた》つに|割《わ》れたと|思《おも》ふ|一刹那《いつせつな》、|床下《ゆかした》より|響《ひび》き|来《きた》るスマートの|声《こゑ》、
『ウーツ、ワアウ ワアウ ワアウ』
|杢助《もくすけ》は|忽《たちま》ち|手《て》|痺《しび》れ、|棍棒《こんぼう》をふり|上《あ》げた|儘《まま》、|一目散《いちもくさん》に|裏《うら》の|森林《しんりん》|指《さ》して、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げて|行《ゆ》く。|高姫《たかひめ》は|矢庭《やには》に|杢助《もくすけ》の|居間《ゐま》に|入《はい》つて|見《み》れば|藻抜《もぬ》けの|殻《から》。
『コレ|杢助《もくすけ》さま、|何処《どこ》へ|行《い》つたのだい。|卑怯未練《ひけふみれん》にも|程《ほど》があるぢやないか、サ|早《はや》く|帰《かへ》つて|下《くだ》さいな。エーエ、|何《なん》と|云《い》ふ|気《き》の|弱《よわ》い|人《ひと》だらう、|本当《ほんたう》に|優《やさ》しい|人《ひと》は、こんな|時《とき》になると|仕方《しかた》がないワ。|併《しか》し|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》の|三五教《あななひけう》だから、|相手《あひて》になつてはならない。こんな|奴《やつ》に|掛《かか》り|合《あ》うて|居《を》つたら、カツタイと|棒打《ぼうう》ちするやうなものだと|思《おも》つて、|逃《に》げなさつたのかな。|兵法三十六計《へいはふさんじふろくけい》の|奥《おく》の|手《て》は、|逃《に》げるが|一番《いちばん》ぢやといふ|事《こと》だ。ヤツパリ|杢助《もくすけ》さまは、どこともなしに|賢明《けんめい》な|方《かた》だなア。|到底《たうてい》ここらに|居《を》るガラクタには|比《くら》べものにはなりませぬワイ。|日出神《ひのでのかみ》も|杢助《もくすけ》さまには|感心《かんしん》|致《いた》したぞや。コレ|弥次彦《やじひこ》、|与太彦《よたひこ》、どうだい。|感心《かんしん》したかい。チツトお|筆先《ふでさき》を|頂《いただ》いたらどうだい。|結構《けつこう》なお|筆先《ふでさき》が|出《で》てるぞや。|此《この》イルも|知《し》つて|居《ゐ》る|通《とほ》り、|一字々々《いちじいちじ》|文字《もじ》が|動《うご》くのだから、そして|正体《しやうたい》を|現《あら》はして|竜《りう》となり、|天上《てんじやう》をするといふ|生《い》きたお|筆先《ふでさき》ぢやぞえ。どうだ、|折角《せつかく》|此処《ここ》まで|来《き》たのだから、|頂《いただ》いて|帰《かへ》る|気《き》はないか。|頂《いただ》くというても|筆先《ふでさき》は|直筆《ぢきひつ》でも|写《うつ》しでもやりませぬぞや。お|前《まへ》の|耳《みみ》の|中《なか》へ|容《い》れて|帰《かへ》ればいいのだから……』
|安彦《やすひこ》『ああ|困《こま》つたものだなア、|上《あ》げも|下《おろ》しもならぬ|奴《やつ》だ。|阿呆《あはう》と|気違《きちが》ひにかかつたら、どうも|手《て》のつけやうのないものだ』
『ヘン、お|前《まへ》もお|筆先《ふでさき》をチツとは|頂《いただ》いてをるだらう。|変性男子様《へんじやうなんしさま》が……|阿呆《あはう》になりてをりて|下《くだ》されよ。|此《この》|方《はう》は|三千世界《さんぜんせかい》の|大気違《おほきちが》ひであるぞよ。|気違《きちが》ひになりて|居《を》らねば|此《この》|大望《たいまう》は|成就《じやうじゆ》|致《いた》さぬぞよ。|此《この》|方《はう》は|誰《たれ》の|手《て》にも|合《あ》はぬ|身魂《みたま》であるぞよ。|鬼門《きもん》の|金神《こんじん》でさへも|往生《わうじやう》|致《いた》すぞよ。|中《なか》にも|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|神力《しんりき》は|艮《うしとら》の|金神《こんじん》も|側《そば》へもよれぬぞよ。|結構《けつこう》の|身魂《みたま》が|世《よ》におとしてありたぞよ。|余《あま》り|神《かみ》を|侮《あなど》りて|居《を》りたら、|赤恥《あかはぢ》をかいて、|大《おほ》きな|声《こゑ》で|物《もの》も|言《い》へぬぞよ。|日出神《ひのでのかみ》を|地《ぢ》に|致《いた》して|三千世界《さんぜんせかい》の|御用《ごよう》をさしてあるぞよ。|何《なに》も|知《し》らぬ|人民《じんみん》が、ゴテゴテ|申《まを》せど、|何《なに》も|心配《しんぱい》|致《いた》さいでもよいぞよ。|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|人民《じんみん》からいろいろと|申《まを》されるぞよ。それを|構《かま》うて|居《を》つたら|御用《ごよう》が|勤《つと》まらぬぞよ。|神《かみ》はいろいろと|気《き》をひくぞよ。トコトン|気《き》を|引《ひ》いて、これなら|動《うご》かぬ|身魂《みたま》と|知《し》りぬいた|上《うへ》、|誠《まこと》の|御用《ごよう》に|使《つか》ふぞよ……といふ|事《こと》をお|前達《まへたち》は|知《し》つて|居《ゐ》るかい。|知《し》らな|言《い》うてやろ、そこに|坐《すわ》りなさい。あああ|一人《ひとり》の|霊《みたま》を|改心《かいしん》ささうと|思《おも》へば、|随分《ずいぶん》|骨《ほね》の|折《を》れた|事《こと》だわい。|誠《まこと》を|聞《き》かしてやれば|面《つら》をふくらすなり、ぢやと|申《まを》してお|気《き》に|合《あ》ふやうなことを|申《まを》せば、すぐに|慢心《まんしん》を|致《いた》すなり、|今《いま》の|人民《じんみん》は|手《て》のつけやうがないぞよ。|神《かみ》も|誠《まこと》に|声《こゑ》をあげて|苦《くる》しみて|居《を》るぞよ。|中《なか》にも|与太彦《よたひこ》、|弥次彦《やじひこ》のやうな|八衢人間《やちまたにんげん》が、|善《ぜん》の|面《めん》をかぶりて、|宣伝使《せんでんし》などと|申《まを》して|歩《ある》く|世《よ》の|中《なか》だから、|困《こま》つたものであるぞよ。|八島主命《やしまぬしのみこと》も|言依別命《ことよりわけのみこと》も、|学《がく》で|智慧《ちゑ》の|出来《でき》た|途中《とちう》の|鼻高《はなだか》であるから、|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》の|霊《みたま》の|申《まを》すことはチツとも|耳《みみ》へ|入《はい》らず、|誠《まこと》に|神《かみ》も|迷惑《めいわく》|致《いた》すぞよ。これから|義理天上《ぎりてんじやう》の|肉宮《にくみや》が、|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|参《まゐ》りて、|何《なに》も|彼《か》も|根本《こつぽん》から|立替《たてかへ》を|致《いた》してやるぞよ。そこになりたら、|今《いま》まで|偉《えら》さうに|申《まを》してをりた|御方《おんかた》、|首尾《しゆび》|悪《わる》き|事《こと》が|出来《でき》るぞよ。|神《かみ》の|申《まを》す|中《うち》に|聞《き》かねば、|後《あと》になりて|何程《なにほど》|苦《くる》しみ|悶《もだ》えたとて|神《かみ》は|聞《き》き|済《ず》みはないぞよ。|改心《かいしん》が|一等《いつとう》ぞよ。|神《かみ》は|人民《じんみん》が|助《たす》けたさに|夜《よ》の|目《め》もロクによう|寝《ね》ずに、|苦労艱難《くらうかんなん》を|致《いた》して|居《を》るぞよ。|神《かみ》の|事《こと》は|人民《じんみん》|等《など》の|分《わか》ることでないぞよ。|早《はや》く|帰《かへ》つて|下《くだ》されよ。|四《よ》つ|足《あし》|霊《みたま》がウロウロ|致《いた》すと、|神《かみ》の|気障《きざわり》が|出来《でき》るぞよ。|早《はや》く|帰《かへ》つて|下《くだ》されよ』
とのべつ|幕《まく》なしに|大声《おほごゑ》で|呶鳴《どな》り|立《た》て、|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》の|直使《ちよくし》を|烟《けむり》にまいて|了《しま》つた。
(大正一二・一・二三 旧一一・一二・七 松村真澄録)
第二〇章 |悪魔払《あくまばらひ》〔一三一四〕
|初稚姫《はつわかひめ》、|珍彦《うづひこ》は|楓《かへで》とともに|高姫《たかひめ》の|居間《ゐま》の|騒々《さうざう》しきに、|何事《なにごと》かと|走《はし》り|来《きた》り|見《み》れば、|右《みぎ》の|体裁《ていさい》である。
|初稚《はつわか》『もし、お|母《かあ》さま、お|直使様《ちよくしさま》に|対《たい》して、あまり|御無礼《ごぶれい》ぢや|厶《ござ》りませぬか。も|少《すこ》し|御叮嚀《ごていねい》に|優《やさ》しく|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいましな』
『エーエ、お|前《まへ》の|飛《と》び|出《だ》す|所《ところ》ぢやない|程《ほど》にすつ|込《こ》みなさい。|何度《なんど》|云《い》うても|云《い》うてもスマートを|俺《わし》の|目《め》を|忍《しの》んで|簀《す》の|子《こ》の|下《した》に|隠《かく》して|置《お》くものだから、|到頭《たうとう》|杢助《もくすけ》さまは|何処《どこ》かへ|行《い》つてしまつたぢやないか。|本当《ほんたう》に|不孝《ふかう》な|阿魔《あま》ツちよだな。|今《いま》に|神罰《しんばつ》が|当《あた》つて|国替《くにがへ》をせにやならぬぞや。|義理天上《ぎりてんじやう》さまのお|筆先《ふでさき》を|拝読《いただ》いて|見《み》なされ。|珍彦《うづひこ》さまも|静子《しづこ》さまも|楓《かへで》もお|前《まへ》も、|都合《つがふ》によつたら|御神罰《ごしんばつ》が|当《あた》つて|命《いのち》がなくなるぞや。チヤンと|御筆《おふで》に|出《で》て|居《を》るぞえ』
『そらさうでせう。|何《いづ》れ|〓《みづち》の|血《ち》を|塗《ぬ》つた|盃《さかづき》を|頂《いただ》いたものばかりですから。|併《しか》しながらお|母《かあ》さま、|安心《あんしん》して|下《くだ》さいませ。お|蔭《かげ》で|吾々《われわれ》は|御神徳《ごしんとく》を|頂《いただ》いて|居《を》りますから、|何程《なにほど》|悪神《あくがみ》や|蟇《がま》が|毒《どく》を|盛《も》りましても、チツとも|利《き》きは|致《いた》しませぬから|大丈夫《だいぢやうぶ》で|厶《ござ》います』
『エーエ、こましやくれた、|何《なに》も|知《し》らずに……すつ|込《こ》んで|居《ゐ》なさい。|此《この》|義理天上《ぎりてんじやう》さまは|何《ど》んな|事《こと》でも|皆《みな》|御存《ごぞん》じだぞえ。|無形《むけい》の|神界《しんかい》の|現象《げんしやう》にも|明《あきら》かなれば、|形体的《けいたいてき》の|原理《げんり》にも|達《たつ》してゐる。|宗教《しうけう》、|宗派《しうは》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|秩序《ちつじよ》|標準《へうじゆん》の|大本《たいほん》から|改心《かいしん》の|道《みち》、|春夏秋冬《しゆんかしうとう》|四季《しき》|運行《うんかう》の|道《みち》、|神国《しんこく》の|大道《たいだう》、|善悪正邪《ぜんあくせいじや》の|道《みち》から|守護神《しゆごじん》の|因縁《いんねん》、|無量長寿《むりやうちやうじゆ》の|神法《しんぱふ》から|五倫五常《ごりんごじやう》のお|道《みち》、|向上《かうじやう》|発展《はつてん》の|基《もとゐ》、|誠《まこと》の|大本《たいほん》、|言霊《ことたま》の|原理《げんり》、|日月《じつげつ》の|御因縁《ごいんねん》、|火《ひ》と|水《みづ》とお|土《つち》の|御神力《ごしんりき》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|弥勒《みろく》の|教《をしへ》の|大本《たいほん》に|一霊四魂《いちれいしこん》の|原理《げんり》、|宇宙《うちう》の|真理《しんり》、|文字《もじ》の|起源《きげん》から|忠孝《ちうかう》の|道《みち》、|平和《へいわ》の|大本《たいほん》、|四海兄弟《しかいきやうだい》の|教《をしへ》から|因縁《いんねん》|因果《いんぐわ》の|有様《ありさま》、|何《なに》から|何《なに》まで|知《し》らぬ|事《こと》はないぞえ。|況《ま》して|大先祖《おほせんぞ》の|因縁《いんねん》から|此《この》|世《よ》の|泥海《どろうみ》を|固《かた》めしめた|神《かみ》の|因縁《いんねん》、|身魂《みたま》の|性来《しやうらい》|並《ならび》に|斎苑館《いそやかた》の|上《うへ》から|下《した》までの|役員《やくゐん》の|悪《あく》の|身魂《みたま》の|性来《しやうらい》、|何《なに》から|何《なに》まで|鏡《かがみ》にかけた|如《ごと》く|知《し》つてるのぢやぞえ。|何程《なにほど》|泣《な》く|子《こ》と|地頭《ぢとう》には|勝《か》てぬと|云《い》つても、|弥次彦《やじひこ》、|与太彦《よたひこ》|等《など》の|直使《ちよくし》に|屁古《へこ》まされて「はい、|左様《さやう》で|厶《ござ》いますか。へい、それなら|仕方《しかた》がありませぬ。|直《すぐ》に|立退《たちの》き|申《まを》します」と|云《い》ふ|様《やう》なヘドロイ|身魂《みたま》ではありませぬぞや。|貴女《あなた》も|何時《いつ》まで|居《を》つても|詰《つま》りませぬから|早《はや》く|帰《かへ》つて|下《くだ》さい。|此処《ここ》は|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》が|一力《いちりき》で|立《た》てる|仕組《しぐみ》ぢやぞえ。さア|皆《みな》さま、|早《はや》く|帰《かへ》つて|下《くだ》さい。|構《かま》ひ|立《だ》てには|来《き》て|下《くだ》さるなや。もしも|素盞嗚尊《すさのをのみこと》がゴテゴテ|申《まを》したら、|霊国《れいごく》の|天人《てんにん》、|変性男子《へんじやうなんし》の|系統《ひつぽう》、|義理天上《ぎりてんじやう》の|身魂《みたま》が|事《こと》の|道理《だうり》を|説《と》き|聞《き》かして|改心《かいしん》させてやるから、お|前等《まへたち》はよい|加減《かげん》に|帰《い》んだがよいぞや。ここは|金毛九尾《きんまうきうび》さまや、オツトドツコイ………|金勝要神《きんかつかねのかみ》の|教《をしへ》と|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》の|守護《しゆご》とで|変性男子《へんじやうなんし》の|御教《みをしへ》を|立《た》てて|行《ゆ》く|義理天上《ぎりてんじやう》の|射場《いば》ぢやぞえ。さアさア|帰《い》んだり|帰《い》んだり。あああ、こんな|没分暁漢《わからずや》に|相手《あひて》になつて|居《を》つては|日《ひ》が|暮《く》れますわい。|一寸《ちよつと》|失礼《しつれい》ながら|便所《べんじよ》へ|行《い》つて|来《き》ます。そしてユツクリとお|話《はなし》をして|上《あ》げませうから、そこらで|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さい。あああ|困《こま》つた|代物《しろもの》ばかりだな。|神様《かみさま》も|大抵《たいてい》ぢやないわい。こんな|盲《めくら》|聾《つんぼ》を|誠《まこと》の|道《みち》にひき|入《い》れてやらうとすれば|骨《ほね》の|折《を》れる|事《こと》だ。|此《この》|肉体《にくたい》もホーツと|疲《つか》れた。|肩《かた》も|腕《かいな》も|腰《こし》もメキメキし|出《だ》したワ。アーア』
と|云《い》ひながら|便所《べんじよ》に|一人《ひとり》|立《た》つて|行《い》つた。
|向《むか》ふの|林《はやし》を|見渡《みわた》せば|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》が、|早《はや》く|来《きた》れと|一生懸命《いつしやうけんめい》|手招《てまね》きしながらトントン|走《はし》り|出《だ》す。|高姫《たかひめ》も|杢助《もくすけ》に|手招《てまね》きされては|最早《もはや》|堪《たま》らない。そこにあつた|上草履《うはざうり》を|足《あし》にかけるや|否《いな》や、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|杢助《もくすけ》の|後《あと》を|追《お》ひ|駆《か》け|出《だ》して|了《しま》つた。そして、それつきり|祠《ほこら》の|森《もり》へは|姿《すがた》を|見《み》せなかつたのである。
スマートは|二人《ふたり》の|逃《に》げ|行《ゆ》く|後《あと》を|眺《なが》めて|追《お》ひ|駆《か》けようともせず『ワウツ ワウツ ワウツ』となき|立《た》ててゐる。
|初稚姫《はつわかひめ》、|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|一同《いちどう》は|高姫《たかひめ》の|逃走《たうそう》したのを|目送《もくそう》しながら、|追《お》ひ|駆《か》けようともしなかつた。|何《いづ》れも|悪魔払《あくまばら》ひをしたやうの|心持《こころもち》になつたからである。|高姫《たかひめ》が|祠《ほこら》の|森《もり》に|腰《こし》を|据《す》ゑようものなら、|到底《たうてい》|普通《ふつう》の|手段《しゆだん》ではビクとも|動《うご》く|気配《けはい》はない。されど|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》に|心魂《しんこん》を|蕩《とろ》かし、|其《その》|引力《いんりよく》によつて、|頑張《ぐわんば》つてゐたこの|館《やかた》を|逃《に》げ|出《だ》したのは、|実《じつ》に|珍彦《うづひこ》にとつては|無上《むじやう》の|幸福《しあはせ》であつた。スマートが|後《あと》を|追《お》はなかつたのも|初稚姫《はつわかひめ》が|直使《ちよくし》に|対《たい》し|暫《しばら》く|待《ま》つて|貰《もら》ひたいと|云《い》つたのも|皆《みな》、かかる|出来事《できごと》を|予期《よき》しての|事《こと》であつた。|妖幻坊《えうげんばう》もこんな|時《とき》には、|実《じつ》に|三五教《あななひけう》のためによい|御用《ごよう》をしてくれた|様《やう》なものである。
|妖幻坊《えうげんばう》と|高姫《たかひめ》はトントントンと|坂《さか》を|下《くだ》つて|行《ゆ》く。|其《その》|距離《きより》は|殆《ほとん》ど|二三丁《にさんちやう》ばかり|隔《へだ》たつてゐた。されど|高姫《たかひめ》は|執念深《しふねんぶか》くも|後《あと》を|追《お》つ|駆《か》け、|漸《やうや》くに|山口《やまぐち》の|森《もり》にて|追《お》ひ|付《つ》き、|二人《ふたり》はここに|一夜《いちや》を|明《あ》かすこととなつた。
|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》は|珍彦《うづひこ》に|別《わか》れを|告《つ》げ、|委細《ゐさい》の|様子《やうす》を|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|復命《ふくめい》すべく|河鹿峠《かじかたうげ》を|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|慌《あわ》て|者《もの》のイク、サール|両人《りやうにん》は、|何時《いつ》の|間《ま》にか|高姫《たかひめ》の|後《あと》を|追《お》つ|駆《か》けて|館《やかた》を|飛《と》び|出《だ》して|了《しま》つた。|初稚姫《はつわかひめ》は|懇々《こんこん》と|後《あと》の|行方《やりかた》を|珍彦《うづひこ》に|教《をし》へ|置《お》き、ハル、テル、イルの|三人《さんにん》に|別《わか》れを|告《つ》げ、|神殿《しんでん》に|拝礼《はいれい》を|終《をは》り、|高姫《たかひめ》の|一日《いちにち》も|早《はや》く|改心《かいしん》|致《いた》しますやうと|祈願《きぐわん》を|籠《こ》め、それより|二三日《にさんにち》をここに|暮《くら》して|又《また》もや|征途《せいと》につく|事《こと》となつた。|勿論《もちろん》スマートは|影《かげ》の|如《ごと》く|姫《ひめ》に|従《したが》つてゐる。
イル、ハル、テルの|三人《さんにん》は|悪神《あくがみ》の|逃《に》げ|去《さ》つたのを|感謝《かんしや》すべく|神殿《しんでん》に|参拝《さんぱい》し、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|歌《うた》を|歌《うた》つて|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《へう》した。
イル『|祠《ほこら》の|森《もり》の|受付《うけつけ》に |仕《つか》へまつれるイル|司《つかさ》
|皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に |慎《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|高姫《たかひめ》や
|妖幻坊《えうげんばう》の|曲津《まがつ》|奴《め》が |神《かみ》の|威徳《ゐとく》に|怖《お》ぢ|畏《おそ》れ
|一目散《いちもくさん》に|逃《に》げ|出《いだ》し |此《この》|聖場《せいぢやう》はもとの|如《ごと》
|塵《ちり》もとどめず|清《きよ》らけく いと|穏《おだや》かに|治《をさ》まりし
|其《その》|御恵《みめぐみ》を|御前《おんまへ》に |慎《つつし》み|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る
|杢助司《もくすけつかさ》と|名乗《なの》りたる |妖幻坊《えうげんばう》の|悪神《あくがみ》は
|其《その》|正体《しやうたい》は|吾々《われわれ》の |眼《まなこ》に|確《しか》と|見《み》えねども
|並大抵《なみたいてい》の|奴《やつ》ならず |虎《とら》、|狼《おほかみ》か|獅子《しし》、|熊《くま》か
|但《ただし》は|鬼《おに》の|化物《ばけもの》か |得体《えたい》の|知《し》れぬ|枉津神《まがつかみ》
これの|館《やかた》にノコノコと |現《あら》はれ|来《きた》り|朝夕《あさゆふ》に
|酒《さけ》|飲《の》み|喰《くら》ひ|管《くだ》を|巻《ま》き |只《ただ》|一言《ひとこと》も|神言《かみごと》を
|唱《とな》へた|事《こと》もあらばこそ |金毛九尾《きんまうきうび》の|憑《うつ》るてふ
|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》の |高姫司《たかひめつかさ》と|意茶《いちや》ついて
|此《この》|聖場《せいぢやう》を|乱《みだ》したる |実《げ》にも|憎《に》つくき|曲者《くせもの》よ
|如何《いか》にもなして|災《わざはひ》を |払《はら》はむものと|朝夕《あさゆふ》に
|心《こころ》ひそかに|祈《いの》りしが |皇大神《すめおほかみ》はわが|祈願《いのり》
いと|平《たひ》らけく|聞《きこ》し|召《め》し |教《をしへ》を|乱《みだ》す|曲神《まがかみ》を
|払《はら》ひ|給《たま》ひし|嬉《うれ》しさよ いざ|之《これ》よりは|吾々《われわれ》は
|珍彦《うづひこ》さまの|命令《めいれい》を |神《かみ》の|言葉《ことば》と|慎《つつし》みて
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|真心《まごころ》を |尽《つく》して|仕《つか》へ|奉《まつ》らなむ
かくも|曲津《まがつ》の|心地《ここち》よく |逃《に》げたる|上《うへ》は|信徒《まめひと》も
|喜《よろこ》び|勇《いさ》みもとの|如《ごと》 |参来《まゐき》|集《つど》ひて|神徳《しんとく》を
|再《ふたた》び|受《う》くる|事《こと》ならむ ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》も|灼然《いやちこ》に |守《まも》らせ|給《たま》へ|此《この》|館《やかた》
|偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|皇大神《すめおほかみ》の|御教《おんをしへ》 |如何《いか》でか|違《たが》ひ|奉《まつ》らむや
|吾等《われら》|三人《みたり》は|村肝《むらきも》の |心《こころ》を|合《あは》せ|奉《たてまつ》り
|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|現《あ》れませる |神素盞嗚《かむすさのを》の|大御神《おほみかみ》
|守《まも》らせ|給《たま》ふ|三五《あななひ》の |清《きよ》き|大道《おほぢ》に|仕《つか》へつつ
|埴安彦《はにやすひこ》や|埴安《はにやす》の |姫《ひめ》の|尊《みこと》の|御守《みまも》りを
|頸《うなじ》に|受《う》けて|四方《よも》の|国《くに》 |百八十島《ももやそしま》の|果《はて》までも
|開《ひら》きて|行《ゆ》かむ|惟神《かむながら》 |尊《たふと》き|神《かみ》の|御守《みまも》りを
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる』
ハルは|又《また》|歌《うた》ふ。
『バラモン|教《けう》の|軍人《いくさびと》 |其《その》|門番《もんばん》と|仕《つか》へたる
|吾《われ》は|卑《いや》しきハル|司《つかさ》 |三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》の
|尊《たふと》き|恵《めぐみ》を|蒙《かうむ》りて |心機《しんき》|俄《にはか》に|一転《いつてん》し
|浮木《うきき》の|森《もり》の|陣営《ぢんえい》を ヨル、テル|二人《ふたり》と|諸共《もろとも》に
|脱営《だつえい》なして|斎苑館《いそやかた》 |詣《まう》でむものと|来《き》て|見《み》れば
|祠《ほこら》の|森《もり》に|三五《あななひ》の |玉国別《たまくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|留《とど》まりいますと|聞《き》きしより |其《その》|御教《みをしへ》を|仰《あふ》ぎつつ
|珍《うづ》の|御舎《みあらか》|仕《つか》へます |其《その》|神業《しんげふ》に|参加《さんか》して
|漸《やうや》く|宮《みや》は|建《た》て|上《あが》り |遷宮式《せんぐうしき》も|相済《あひす》みて
|喜《よろこ》ぶ|間《ま》もなく|玉国《たまくに》の |別《わけ》の|命《みこと》は|吾々《われわれ》に
|重《おも》き|使命《しめい》を|授《さづ》けつつ |悪魔《あくま》の|征途《せいと》に|上《のぼ》りまし
|其《その》|妻神《つまがみ》と|現《あ》れませる |五十子《いそこ》の|姫《ひめ》を|初《はじ》めとし
|今子《いまこ》の|姫《ひめ》は|潔《いさぎよ》く |斎苑《いそ》の|館《やかた》に|帰《かへ》りまし
|珍彦《うづひこ》|親子《おやこ》を|止《とど》めおき |宮《みや》の|司《つかさ》と|任《ま》け|給《たま》ひ
|吾等《われら》は|館《やかた》の|諸々《もろもろ》の |事務《じむ》をそれぞれ|命《めい》ぜられ
|心《こころ》を|清《きよ》め|身《み》を|浄《きよ》め |仕《つか》へ|奉《まつ》れる|折《をり》もあれ
|金毛九尾《きんまうきうび》の|宿《やど》りたる |心《こころ》|拗《ねぢ》けた|高姫《たかひめ》が
|突然《とつぜん》ここに|現《あら》はれて |吾《われ》は|日出神柱《ひのでのかむばしら》
|義理天上《ぎりてんじやう》の|生宮《いきみや》と |其《その》|鼻息《はないき》もいと|荒《あら》く
|大《おほ》きな|尻《しり》をすゑ|長《なが》く |祠《ほこら》の|森《もり》を|占領《せんりやう》し
|醜《しこ》の|教《をしへ》を|伝播《でんぱん》し |斎苑《いそ》の|館《やかた》の|神業《しんげふ》を
|妨害《ばうがい》せむと|企《たく》むこそ |困《こま》り|果《は》てたる|奴《やつ》なりと
|心《こころ》|秘《ひそか》に|案《あん》じつつ |皇大神《すめおほかみ》に|祈《いの》る|折《をり》
|又《また》もや|来《きた》る|妖幻坊《えうげんばう》 |杢助司《もくすけつかさ》と|名乗《なの》りつつ
|高姫司《たかひめつかさ》と|諸共《もろとも》に |館《やかた》の|奥《おく》に|頑張《ぐわんば》りて
さしも|尊《たふと》き|聖場《せいぢやう》を |攪乱《かくらん》せむと|企《たく》むこそ
|実《げ》にも|忌々《ゆゆ》しき|次第《しだい》なり |如何《いかが》はせむと|思《おも》ふ|間《うち》
|初稚姫《はつわかひめ》の|神司《かむづかさ》 |猛犬《まうけん》スマート|引《ひ》きつれて
ここに|現《あら》はれ|来《きた》りまし |神変不思議《しんぺんふしぎ》の|神力《しんりき》を
|隠《かく》し|給《たま》ひて|高姫《たかひめ》や |妖幻坊《えうげんばう》が|自《おのづか》ら
|逃《に》げ|行《ゆ》く|時《とき》を|待《ま》ち|給《たま》ふ |其《その》|沈着《ちんちやく》な|行《おこな》ひに
|今更《いまさら》|吾等《われら》も|驚《おどろ》きて |感《かん》じ|入《い》りたる|次第《しだい》なり
ああ|皇神《すめかみ》よ|皇神《すめかみ》よ |吾等《われら》は|愚《おろか》なものなれど
|心《こころ》を|清《きよ》め|身《み》を|浄《きよ》め |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|大前《おほまへ》に
|誠《まこと》|一《ひと》つに|仕《つか》へなば |何卒《なにとぞ》|吾等《われら》を|憐《あは》れみて
|初稚姫《はつわかひめ》の|神力《しんりき》の |万分一《まんぶんいち》をも|授《さづ》けませ
|偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|神《かみ》に|誓《ちか》ひしわが|言葉《ことば》 |如何《いか》で|違《たが》へむ|神《かみ》の|前《まへ》
|珍彦司《うづひこつかさ》に|従《したが》ひて |皇大神《すめおほかみ》の|御教《みをしへ》を
|参来《まゐき》|集《つど》へる|人々《ひとびと》に |完全《うまら》に|委曲《つばら》に|宣《の》り|伝《つた》へ
|大御恵《おほみめぐ》みの|万分一《まんぶいち》 |報《むく》はせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》
|御前《みまへ》に|謹《つつし》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|階段《かいだん》を|下《くだ》つて、もとの|受付《うけつけ》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一二・一・二三 旧一一・一二・七 北村隆光録)
第二一章 |犬嘩《けんくわ》〔一三一五〕
イク、サールの|両人《りやうにん》は、|高姫《たかひめ》の|逃《に》ぐるを|追《お》うて、|河鹿峠《かじかたうげ》の|急坂《きふはん》を|下《くだ》りながら|歌《うた》ひゆく。
イク『|大雲山《たいうんざん》に|蟠《わだか》まる |八岐大蛇《やまたをろち》のドツコイシヨ
|其《その》|眷属《けんぞく》と|現《あら》はれし |妖幻坊《えうげんばう》の|曲津神《まがつかみ》
ウントコドツコイきつい|坂《さか》 オイオイ サール|気《き》をつけよ
|義理天上《ぎりてんじやう》の|肉宮《にくみや》と |佯《いつは》る|高姫婆《たかひめばば》の|奴《やつ》
|彼方《あちら》|此方《こちら》の|木《き》の|株《かぶ》に |蔓《つる》を|引《ひ》つかけ|吾々《われわれ》を
すつてんころりとドツコイシヨ ひつくりかへそと|企《たく》らみて
ウントコドツコイ|往《ゆ》きやがつた アイタタタツタ、アイタタタ
|矢張《やつぱり》|此奴《こいつ》は|石《いし》だつた |何程《なにほど》|高姫司《たかひめつかさ》でも
そんな|事《こと》する|間《ま》がなかろ さうぢやと|云《い》つてドツコイシヨ
サールの|司《つかさ》|油断《ゆだん》すな |敵《てき》は|名《な》に|負《お》ふ|妖幻坊《えうげんばう》
|金毛九尾《きんまうきうび》の|肉《にく》の|宮《みや》 |一《ひと》すぢ|繩《なは》ではゆかぬ|奴《やつ》
|又《また》もや|此処《ここ》を|飛《と》び|出《だ》して どつかの|聖場《せいぢやう》に|巣《す》を|構《かま》へ
|鉄面皮《てつめんぴ》にも しやあ しやあと |日出神《ひのでのかみ》を|振《ふ》りまはし
|納《をさ》まりかへつて|居《を》るだらう かうなる|上《うへ》は|何処《どこ》|迄《まで》も
|後《あと》|追《お》つかけて|彼奴等《きやつら》をば |面《つら》ひん|剥《む》いてやらなけりや
|世界《せかい》の|害《がい》は|何《ど》れ|程《ほど》か |分《わか》つたものぢやない|程《ほど》に
アイタタタツタ|躓《つまづ》いた |余《あんま》り|先《さき》に|気《き》を|取《と》られ
|足許《あしもと》お|留守《るす》になつたのか |尊《たふと》い|神《かみ》の|祀《まつ》りたる
|祠《ほこら》の|森《もり》へぬつけりと |神《かみ》さま|面《づら》を|提《さ》げよつて
やつて|来《く》るとは|太《ふと》い|奴《やつ》 |挺《てこ》でも|棒《ぼう》でも|動《うご》かない
|強《したた》か|者《もの》をスマートが |厳《いづ》の|雄健《をたけ》び|踏《ふ》み|健《たけ》び
ウウウウワンと|吠《ほ》え|猛《たけ》る |其《その》|猛声《まうせい》に|肝《きも》つぶし
|駆《か》け|出《だ》すやうな|弱《よわ》い|奴《やつ》 |何程《なにほど》|口《くち》が|達者《たつしや》でも
|直接《ちよくせつ》|行動《かうどう》にや|叶《かな》ふまい サアサア|急《いそ》げ|早《はや》|急《いそ》げ
グヅグヅしとると|日《ひ》が|暮《く》れる もしも|夜分《やぶん》になつたなら
|彼奴等《きやつら》|二人《ふたり》を|見失《みうしな》ひ |残念至極《ざんねんしごく》|口惜《くちを》しと
|臍《ほぞ》を|噛《か》むとも|及《およ》ぶまい |急《いそ》げよ|急《いそ》げ、いざ|急《いそ》げ
|神《かみ》の|御為《おんため》|道《みち》のため |仮令《たとへ》|吾等《われら》は|曲神《まがかみ》に
|命《いのち》を|取《と》らるる|事《こと》あるも |何《なに》かは|惜《を》しまむドツコイシヨ
ウントコドツコイアイタタツタ ほんとに|危《あぶ》ない|坂道《さかみち》だ
|女《をんな》の|癖《くせ》に|高姫《たかひめ》は |大《おほ》きな|尻《しり》を|振《ふ》りながら
|中々《なかなか》|足《あし》の|早《はや》い|奴《やつ》 これも|矢張《やつぱ》り|杢助《もくすけ》を
|思《おも》ひつめたる|一心《いつしん》が |恋《こひ》の|矢玉《やだま》となり|果《は》てて
|宙《ちう》をば|飛《と》んで|往《ゆ》くのだろ |何程《なにほど》|俺《おれ》が|走《はし》つても
|向《むか》ふも|矢張《やつぱ》り|走《はし》る|故《ゆゑ》 ドツコイドツコイ コンパスに
よつぽど|撚《より》をかけなくちや |追《お》ひつく|事《こと》は|難《むつか》しい
こりやこりやサール|何《なに》しとる もちつと|早《はや》う|走《はし》らぬか
ウントコドツコイドツコイシヨ |谷《たに》の|流《なが》れが|囂々《がうがう》と
|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|其《その》|音《おと》に |紛《まぎ》れて|俺《おれ》の|云《い》ふ|事《こと》が
お|前《まへ》の|耳《みみ》に|入《い》らぬのか |思《おも》へば|思《おも》へばジレツたい
いざいざ|来《きた》れ いざ|来《きた》れ |敵《てき》は|早《はや》くも|逃《に》げ|失《う》せた
こいつ|遁《のが》しちや|一大事《いちだいじ》 |又《また》もや|小北《こぎた》の|神殿《しんでん》で
|主人面《しゆじんづら》をば|晒《さら》しつつ |何《なに》を|致《いた》すか|分《わか》らない
|俺等《おれら》は|早《はや》く|追《お》つ|付《つ》いて |途中《とちう》で|二人《ふたり》を|引掴《ひつつか》み
|河鹿《かじか》の|流《なが》れに|打《ぶ》ち|込《こ》んで |三五教《あななひけう》の|妨害《ばうがい》を
|根絶《こんぜつ》しなくちや|済《す》むまいぞ お|前《まへ》も|俺《おれ》もバラモンの
|神《かみ》の|教《をしへ》に|仕《つか》へつつ |悪《わる》い|事《こと》をば|遺憾《ゐかん》なく
|今《いま》|迄《まで》やつて|来《き》たものだ ウントコドツコイ|其《その》|深《ふか》き
|罪《つみ》を|贖《あがな》ひ|天国《てんごく》の |死後《しご》の|生涯《しやうがい》|送《おく》るべく
|改心《かいしん》したる|其《その》|上《うへ》は |何《なに》か|一《ひと》つの|功名《こうみやう》を
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|立《た》てなくちや |斎苑《いそ》の|館《やかた》の|神様《かみさま》に
|一《ひと》つも|土産《みやげ》がなからうぞ |後《あと》ふり|返《かへ》り|眺《なが》むれば
サールの|奴《やつ》は|何《ど》うしてる |来《く》れば|来《く》る|程《ほど》|後《おく》れよる
ほんにお|前《まへ》はヤツトコシヨ ドツコイドツコイ|辛気臭《しんきくさ》い
なぜ|又《また》|足《あし》が|遅《おそ》いのか アイタタタツタ パツタリコ
とうとう|向脛《むかふづね》|打《う》ちました これを|思《おも》へば|神様《かみさま》が
|後《あと》を|追《お》ふなと|云《い》ふ|事《こと》か いやいやさうではあるまいぞ
|一旦《いつたん》|思《おも》ひ|立《た》つた|上《うへ》は どこどこ|迄《まで》も|後《あと》を|追《お》ひ
|彼《かれ》が|先途《せんど》を|見届《みとど》けて |喉首《のどくび》グツとひん|握《にぎ》り
もう|是《これ》からは|高姫《たかひめ》は |改心《かいしん》|致《いた》して|自転倒《おのころ》の
|生田《いくた》の|森《もり》に|帰《かへ》りますと |云《い》はさにやおかぬ|俺《おれ》の|胸《むね》
|心《こころ》は|千々《ちぢ》にはやれども |肝腎要《かんじんかなめ》の|向脛《むかふづね》
|強《したた》か|打《う》つた|其《その》|為《ため》に |心《こころ》ばかりは|急《いそ》げども
|何《なん》だか|体《からだ》が|動《うご》かない アイタタタツタ アイタタツタ
サールの|奴《やつ》は|何《なに》してる もうそろそろと|追付《おひつ》いて
|現《あら》はれ|来《き》さうなものぢやなア ああ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|肝腎要《かんじんかなめ》の|正念場《しやうねんば》 |何卒《なにとぞ》|足《あし》の|痛《いた》みをば
|止《と》めさせ|給《たま》へ|逸早《いちはや》く |両手《りやうて》を|合《あは》せ|此《この》イクが
|偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る』
|斯《か》く|坂道《さかみち》に|倒《たふ》れながら、|尚《なほ》も|歌《うた》を|続《つづ》けて|居《ゐ》る。|此処《ここ》へトントントンと|足許《あしもと》|覚束《おぼつか》なげにやつて|来《き》たのはサールであつた。サールはイクの|足《あし》から|血《ち》を|出《だ》して|倒《たふ》れて|居《を》るのに|吃驚《びつくり》し、|頓狂《とんきやう》な|声《こゑ》を|出《だ》して、
『ヤア、お|前《まへ》はイクぢやないか。どうした どうした』
『|何《ど》うも|斯《か》うもあつたものかい。あまり|貴様《きさま》がグヅグヅして|居《ゐ》るものだから、|早《はや》う|来《こ》ぬか|早《はや》う|来《こ》ぬかと、|後《あと》を|見《み》もつて|走《はし》つたものだから、|大《おほ》きな|石《いし》に|躓《つまづ》いて|倒《たふ》れたのだ。オイ、サール、|俺《おれ》には|構《かま》はずに|早《はや》く|走《はし》つて|呉《く》れ。グヅグヅして|居《ゐ》ると|二人《ふたり》の|奴《やつ》、|日《ひ》が|暮《く》れたら|分《わか》らぬやうになつて|仕舞《しま》ふぞ。|俺《おれ》は|後《あと》から|足《あし》が|直《なほ》り|次第《しだい》|追駆《おひか》けて|往《ゆ》くからなア』
『さうだといつて、お|前《まへ》がこんな|怪我《けが》をして|居《を》るのに、これが|何《ど》うして|見捨《みす》てて|行《ゆ》かりようか。|此処《ここ》は|狼《おほかみ》が|沢山《たくさん》|出《で》る|所《ところ》だから、|日《ひ》が|暮《く》れるのに|間《ま》がないから、|剣呑《けんのん》で|耐《たま》らないわ。そんな|事《こと》|云《い》はずに|俺《おれ》に|介抱《かいほう》さして|呉《く》れ。|何《なん》とまアえらい|怪我《けが》だのう』
『|俺《おれ》は|何《ど》うでもよいから、|早《はや》く|往《ゆ》かないと|取《と》り|逃《にが》すぢやないか。|俺《おれ》が|大事《だいじ》か、お|道《みち》が|大事《だいじ》か、よく|考《かんが》へて|見《み》よ。|俺《おれ》の|足《あし》が|一本《いつぽん》|位《くらゐ》なくなつたつて|構《かま》ふものか、なくなつたら|義足《ぎそく》でもつけたらいいぢやないか。さア|早《はや》く|往《い》つて|呉《く》れ|往《い》つて|呉《く》れ』
『|何《なん》ぼなんでも|友人《いうじん》として|俺《おれ》は|此処《ここ》を|見捨《みす》てて|去《さ》るには|忍《しの》びない。どうも|貴様《きさま》の|顔色《かほいろ》が|悪《わる》いぞ』
『ああ|貴様《きさま》も|臆病《おくびやう》だなア。そんな|事《こと》|云《い》つて|彼奴等《あいつら》|両人《りやうにん》が|怖《おそ》ろしいのぢやないか』
『そりやさうだ。|貴様《きさま》と|二人《ふたり》|行《ゆ》くのなら|力強《ちからづよ》いが、あんな|化物《ばけもの》や|婆《ばば》アの|後《あと》を|追《お》つ|駆《か》けて|行《い》つても、|一人《ひとり》ぢや|反対《あべこべ》にやられて|仕舞《しま》ふからな。|実《じつ》の|所《ところ》は|貴様《きさま》を|先《さき》へやつて|俺《おれ》が|応援《おうゑん》にいく|積《つもり》だつた。|肝心《かんじん》のイクが|倒《たふ》れて|俺《おれ》だけ|行《い》つてみても、|完全《くわんぜん》なイクサールは|出来《でき》ぬからのう。|負《ま》けるのは|定《きま》つて|居《を》るから、そんな|敗戦《まけいくさ》なら、|行《い》かない|方《はう》が|余程《よつぽど》|利口《りこう》だぞ』
『|貴様《きさま》は|人《ひと》を|当《あて》にするからいかぬのだ。|人間《にんげん》の|五人《ごにん》や|十人《じふにん》|居《を》つたつて|何《なに》にならう。|神力無辺《しんりきむへん》の|神様《かみさま》に|頼《たの》んで|行《ゆ》けば、きつと|彼奴等《きやつら》の|鼻柱《はなばしら》を|挫《くじ》き、きつと|御用《ごよう》が|出来《でき》るのだ。さア、|行《い》つて|呉《く》れ|行《い》つて|呉《く》れ。アイタタタタ、どうも|俺《おれ》は|息《いき》が|切《き》れさうだ。|到底《たうてい》|回復《くわいふく》は|覚束《おぼつか》ないかも|知《し》れないぞ』
『|気《き》の|弱《よわ》い|奴《やつ》だなア、|貴様《きさま》こそ、なぜ|神様《かみさま》を|祈《いの》らぬのだ』
イクは|細《ほそ》い|声《こゑ》で、
『ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。|誠《まこと》に|無調法《ぶてうはふ》|致《いた》しました。|併《しか》し|私《わたし》はどんなになつても|構《かま》ひませぬ。|何卒《どうぞ》サールに|神力《しんりき》を|与《あた》へて|下《くだ》さいまして、|臆病風《おくびやうかぜ》を|追《お》ひ|払《はら》ひ、|勇気《ゆうき》を|出《だ》して|猪突猛進《ちよとつまうしん》するやうにお|願《ねが》ひ|致《いた》します。ああ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》 |惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|祈《いの》る|折《をり》しも、|間近《まぢか》の|木《き》の|茂《しげ》みから|破鐘《われがね》のやうな|声《こゑ》で、
『アハハハハ、|態《ざま》を|見《み》よ。|杢助《もくすけ》の|計略《けいりやく》にかかり|其《その》|有様《ありさま》は|何《なん》の|事《こと》、ても|扨《さ》ても|心地《ここち》よやなア、アハハハハ』
『ヤ、|居《ゐ》よつた|居《ゐ》よつた。オイ、サール、|取掴《とつつか》まへて|呉《く》れ、|俺《おれ》は|此《この》|通《とほ》り|足《あし》が|痛《いた》いのだから|動《うご》けないわ』
『|俺《おれ》も|何《なん》だか|体《からだ》が|鯱《しやち》こ|張《ば》つて|動《うご》けないのだ。アアアアどうしようかなア、アイタタタタタ|何《なん》だか|腰《こし》までが|変《へん》になつて|来《き》たぞ』
|林《はやし》の|中《なか》から、
『ウアハハハハ、こりやイク、サールの|両人《りやうにん》、|今《いま》|杢助《もくすけ》が|其《その》|方《はう》|両人《りやうにん》を|荒料理《あられうり》して|喰《く》つてやらう。てもさても|不愍《ふびん》なものだなア。オイ|高姫《たかひめ》、|彼奴等《きやつら》|両人《りやうにん》を|此《この》|樫《かし》の|棒《ぼう》をもつて、|頭《あたま》をまつ|二《ぷた》つに|割《わ》つて|参《まゐ》れ』
この|声《こゑ》の|下《した》よりヌツと|現《あら》はれた|高姫《たかひめ》は|二人《ふたり》の|前《まへ》に|立《た》ち|現《あら》はれ、|樫《かし》の|棒《ぼう》を|打《う》ち|振《ふ》りながら、
『こりや|両人《りやうにん》、|此《この》|高姫《たかひめ》は|其《その》|方《はう》を|決《けつ》して|打《う》ち|叩《たた》きたくも、|殺《ころ》したくもなけれども、わが|夫《をつと》|杢助殿《もくすけどの》のお|言葉《ことば》には|背《そむ》かれぬから、これまでの|命《いのち》と|諦《あきら》めて|観念《くわんねん》|致《いた》したがよからうぞ。ても|扨《さ》ても|飛《と》んで|火《ひ》に|入《い》る|夏《なつ》の|虫《むし》、いらざる|殺生《せつしやう》をしなくてはならないやうになつたわいなア』
『こりや|高姫《たかひめ》、|俺《おれ》が|足《あし》を|傷付《きずつ》いたのを|付《つ》け|込《こ》んで|殺《ころ》さうと|致《いた》すのか。ようし、|面白《おもしろ》い。|殺《ころ》されてやらう。オイ、サール、|貴様《きさま》も|一《ひと》つ|殺《ころ》して|貰《もら》へ、|吾々《われわれ》は|尊《たふと》き|大神様《おほかみさま》の|御守護《ごしゆご》があるから、|滅多《めつた》に|悪魔《あくま》のために|命《いのち》を|捨《す》てるやうな|馬鹿《ばか》ではないぞよ。さア|高姫《たかひめ》、イヤ|妖幻坊《えうげんばう》、どうなつと|致《いた》せ』
『それ|程《ほど》|殺《ころ》して|欲《ほ》しければ|殺《ころ》してやらう。|併《しか》し、イク、サールの|両人《りやうにん》、|一《ひと》つ|改心《かいしん》|致《いた》して|此《この》|方《はう》の|御供《おとも》|致《いた》す|気《き》はないか。|魚心《うをごころ》あれば|水心《みづごころ》ありだ。|別《べつ》に|義理天上《ぎりてんじやう》|日出神《ひのでのかみ》の|生宮《いきみや》は、|貴様《きさま》たちの|様《やう》な|蠅虫《はひむし》を|二人《ふたり》|位《ぐらゐ》|殺《ころ》したつて|仕方《しかた》がないのだから、|何《ど》うだ、|改心《かいしん》してお|供《とも》|致《いた》す|気《き》はないか。|此《この》|神《かみ》は|敵《てき》でも|助《たす》ける|神《かみ》だぞや』
『ゴテゴテ|云《い》はずに|早《はや》く|殺《ころ》さぬかい。オイ、サール、|貴様《きさま》は|卑怯者《ひけふもの》だから、|妖幻坊《えうげんばう》や|金毛九尾《きんまうきうび》に|降参《かうさん》して|命《いのち》だけ|助《たす》けて|貰《もら》へ、|困《こま》つた|奴《やつ》だなア』
『イヤ|俺《おれ》も|男《をとこ》だ。こりや|高姫《たかひめ》、|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》、どうなりと|致《いた》せ。|貴様《きさま》の|喉首《のどくび》にでも|齧《かじ》りついて|反対《あべこべ》に|命《いのち》を|取《と》つてやらう。|覚悟《かくご》を|致《いた》せ』
『どうも、|阿呆《あはう》になつたら|仕方《しかた》がないものぢや。さう|殺《ころ》して|欲《ほ》しけりや、|無益《むえき》の|殺生《せつしやう》だが|仕方《しかた》がない。どうだ、|覚悟《かくご》はよいかな』
と|樫《かし》の|棒《ぼう》を|振《ふ》り|上《あ》げる。
イク『そりや|何《なに》さらしてけつかるのぢや。|蟷螂《かまきり》が|藁《わら》すべを|担《かつ》いだやうなスタイルをしよつて、さア|早《はや》くすつぽりとやつて|見《み》い』
|斯《か》かる|所《ところ》へガサガサガサと|大《おほ》きな|音《おと》をさせながら、|妖幻坊《えうげんばう》の|杢助《もくすけ》は|巨岩《きよがん》を|両手《りやうて》に|頭上《づじやう》|高《たか》く|差《さ》し|上《あ》げ、|今《いま》や|二人《ふたり》に|向《むか》つて|投《な》げつけむとする|勢《いきほひ》である。|如何《いか》に|勇猛《ゆうまう》な|二人《ふたり》も、この|岩石《がんせき》をくらつては、|忽《たちま》ち|身体《しんたい》は|木端微塵《こつぱみぢん》になるより|仕方《しかた》がなかつた。|二人《ふたり》は|進退《しんたい》これ|谷《きは》まり、|観念《くわんねん》の|眼《まなこ》をつぶつて、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|大神《おほかみ》を|念《ねん》じて|居《ゐ》た。|忽《たちま》ち|足許《あしもと》から『ウウーウウー、ウーウー、ワウワウワウ』とスマートの|声《こゑ》、|妖幻坊《えうげんばう》|並《ならび》に|高姫《たかひめ》は|石《いし》を|振《ふ》り|上《あ》げたまま、|棒《ぼう》を|振《ふ》り|翳《かざ》したまま、|強直《きやうちよく》して|一生懸命《いつしやうけんめい》に|駆《か》け|出《いだ》し、|岩石《がんせき》に|躓《つまづ》いて|妖幻坊《えうげんばう》はバタリと|転《こ》けた。|高姫《たかひめ》は|又《また》もや|躓《つまづ》いて|棍棒《こんぼう》を|振《ふ》り|上《あ》げた|儘《まま》、ウンと|転《ころ》げた|拍子《ひやうし》に、|棍棒《こんぼう》で|妖幻坊《えうげんばう》の|後頭部《こうとうぶ》をパチンと|打《う》つた。|妖幻坊《えうげんばう》は『キヤンキヤン』と|怪《あや》しき|声《こゑ》を|立《た》てて|二声《ふたこゑ》ないた。|何《ど》うしても|人間《にんげん》の|声《こゑ》とは|聞《きこ》えなかつた。|四辺《あたり》に|暗《やみ》の|幕《とばり》はおりて|咫尺暗澹《しせきあんたん》、|唯《ただ》|谷川《たにがは》の|水《みづ》の|音《おと》のみ|淙々《そうそう》と|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。
|因《ちなみ》にイクの|瘡傷《さうしやう》はスマートの|声《こゑ》と|共《とも》に|一時《いちじ》に|全快《ぜんくわい》した。
(大正一二・一・二三 旧一一・一二・七 加藤明子録)
-----------------------------------
霊界物語 第五〇巻 真善美愛 丑の巻
終り