霊界物語 第四一巻 舎身活躍 辰の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第四一巻』愛善世界社
2002(平成14)年02月03日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2005年07月17日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|総説《そうせつ》
第一篇 |天空地平《てんくうちへい》
第一章 |入那《いるな》の|野辺《のべ》〔一一〇五〕
第二章 |入那城《いるなじやう》〔一一〇六〕
第三章 |偽恋《にせこひ》〔一一〇七〕
第四章 |右守館《うもりやかた》〔一一〇八〕
第五章 |急告《きふこく》〔一一〇九〕
第六章 |誤解《ごかい》〔一一一〇〕
第七章 |忍術使《にんじゆつし》〔一一一一〕
第二篇 |神機赫灼《しんきかくしやく》
第八章 |無理往生《むりわうじやう》〔一一一二〕
第九章 |蓮《はちす》の|川辺《かはべ》〔一一一三〕
第一〇章 |狼《おほかみ》の|岩窟《いはや》〔一一一四〕
第一一章 |麓《ふもと》の|邂逅《かいこう》〔一一一五〕
第一二章 |都入《みやこい》り〔一一一六〕
第三篇 |北光神助《きたてるしんぢよ》
第一三章 |夜《よる》の|駒《こま》〔一一一七〕
第一四章 |慈訓《じくん》〔一一一八〕
第一五章 |難問題《なんもんだい》〔一一一九〕
第一六章 |三番叟《さんばそう》〔一一二〇〕
第四篇 |神出鬼没《しんしゆつきぼつ》
第一七章 |宵企《よひだく》み〔一一二一〕
第一八章 |替《か》へ|玉《だま》〔一一二二〕
第一九章 |当《あ》て|飲《の》み〔一一二三〕
第二〇章 |誘惑《いうわく》〔一一二四〕
第二一章 |長舌《ちやうぜつ》〔一一二五〕
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|序文《じよぶん》
|抑《そもそ》も|我《わが》|国《くに》に|伝《つた》はる|古典《こてん》は、|凡《すべ》て|豊葦原瑞穂国《とよあしはらのみづほのくに》(|地球《ちきう》|全体《ぜんたい》の|国土《こくど》を|謂《い》ふ)の|有史《いうし》|以前《いぜん》の|伝説《でんせつ》や|考量《かうりやう》を|以《もつ》て|編纂《へんさん》されたものもあり、|有史《いうし》|以後《いご》の|事実《じじつ》を|古文書《こぶんしよ》や|古伝説《こでんせつ》なぞを|綴《つづ》り|合《あは》せて|作《つく》られたものもあつて、|我《わが》|国《くに》に|伝《つた》はる|古事記《こじき》、|日本書紀《にほんしよき》、|旧事紀《くじき》、|古語拾遺《こごしふゐ》、|風土記《ふどき》、|姓氏録《せいしろく》、|神社縁起《じんじやえんぎ》|等《とう》の|如《ごと》きは、その|確不確《かくふかく》を|判定《はんてい》するに|苦《くる》しむ|点《てん》も|沢山《たくさん》にあります。|彼《かれ》と|此《これ》と|矛盾《むじゆん》することもあれば、|又《また》|甚《はなは》だしきは|同《おな》じ|書籍《しよせき》の|中《うち》に|撞着《どうちやく》して|居《ゐ》る|箇所《かしよ》も|決《けつ》して|尠《すくな》くはないのであります。|殊《こと》に|歴史《れきし》としての|連絡《れんらく》を|欠《か》いて|折《を》り、|一《いち》として|其《その》|正確《せいかく》を|保証《ほしよう》する|光明線《くわうみやうせん》を|見出《みいだ》だすことが|出来《でき》ないのであります。|故《ゆゑ》に|古往今来《こわうこんらい》、|賢哲《けんてつ》の|説《せつ》に|幾多《いくた》の|相違《さうゐ》があり、|矛盾《むじゆん》があり、|撞着《どうちやく》があつて|終始一貫《しうしいつくわん》|以《もつ》て|採《と》るべきものは|見出《みいだ》だすことが|出来《でき》ないのであります。|然《しか》し|此等《これら》の|矛盾《むじゆん》や|撞着《どうちやく》の|中《なか》にも|亦《また》おのづから|一条《いちでう》の|脈絡《みやくらく》があつて、|只《ただ》|之《これ》を|見《み》る|人《ひと》の|位置《ゐち》と|研究《けんきう》の|方法《はうはふ》|若《も》しくは|信念《しんねん》の|厚薄《こうはく》|等《とう》に|依《よ》つて|大《おほい》に|其《その》|趣《おもむき》を|異《こと》にして|居《を》ります。
|本居《もとをり》|宣長《のりなが》、|平田《ひらた》|篤胤《あつたね》の|如《ごと》きは|其《そ》の|立場《たちば》から|信仰的《しんかうてき》|神秘的《しんぴてき》|解釈《かいしやく》を|下《くだ》し、|歴史的《れきしてき》|哲学的《てつがくてき》の|解釈《かいしやく》は|殆《ほとん》ど|副物《そへもの》として|居《ゐ》る。|又《また》|仏教家《ぶつけうか》や|儒者《じゆしや》の|如《ごと》きは|各《おのおの》その|立場《たちば》に|応《おう》じて、|或《あるひ》は|哲学的《てつがくてき》に、|或《あるひ》は|歴史的《れきしてき》に、|或《あるひ》は|世評的《せひやうてき》に|見解《けんかい》を|加《くは》へて|居《ゐ》る。|彼《か》の|新井白石《あらゐはくせき》を|始《はじ》め|近時《きんじ》の|歴史家《れきしか》の|如《ごと》きは、|我《わが》|古典《こてん》を|純然《じゆんぜん》たる|歴史《れきし》として|解釈《かいしやく》を|試《こころ》みむとして|居《を》るのであります。|我《わが》|国《くに》に|伝《つた》はる|古典《こてん》を|解釈《かいしやく》せむとし、|歴史的《れきしてき》、|神話的《しんわてき》、|哲学的《てつがくてき》、|宗教的《しうけうてき》|等《とう》の|見解《けんかい》|及《およ》び|是等《これら》の|二者《にしや》|又《また》は|三者《さんしや》を|合操《がふさう》して|解釈《かいしやく》せむとする|数種《すうしゆ》があつて、|而《しか》して|又《また》|其《その》|一種《いつしゆ》の|中《うち》にも|幾多《いくた》の|解釈法《かいしやくはふ》や|異説《いせつ》があり|頗《すこぶ》る|混雑《こんざつ》して|居《を》る|様《やう》でありますが、|熟慮《じゆくりよ》すれば|何《いづ》れの|解釈《かいしやく》にても|条理《でうり》は|整然《せいぜん》として|存《そん》し、|以《もつ》て|建国《けんこく》の|根底《こんてい》と|民族《みんぞく》の|特質《とくしつ》とに|及《およ》ぼす|点《てん》は|略《ほぼ》|同一《どういつ》に|帰《き》すものとも|言《い》ひ|得《う》べく、|換言《くわんげん》すれば|建国《けんこく》の|根本義《こんぽんぎ》と|民族《みんぞく》の|特性《とくせい》とは|神代書《じんだいしよ》の|解釈《かいしやく》|如何《いかん》に|関《くわん》せず、|確固不動《かくこふどう》、|牢《らう》として|抜《ぬ》くべからざるものありと|断言《だんげん》し|得《う》べきも、|余《あま》り|古典《こてん》の|解釈《かいしやく》をして|小部分的《せうぶぶんてき》なる|極東《きよくとう》の|一孤島《いちこたう》にのみ|局限《きよくげん》して|居《を》るのは、|貴重《きちよう》なる|我《わが》|国《くに》|伝来《でんらい》の|古典《こてん》をして|愧《はづ》かしむるものと|謂《い》ふべきであります。|地球上《ちきうじやう》の|各国家《かくこくか》の|建設《けんせつ》は、|古来《こらい》に|於《お》ける|或《ある》|優秀《いうしう》なる|人種《じんしゆ》の|首長《しゆちやう》たるものが、|高天原《たかあまはら》|即《すなは》ち|天教山《てんけうざん》や|地教山《ちけうざん》、アーメニヤ、|埃及《エヂプト》、メソポタミヤ、エルサレム、オノコロ|島《じま》|若《もし》くは|其《そ》の|首都《しゆと》|等《など》に|於《おい》て、その|子孫《しそん》|並《ならび》に|従属者《じゆうぞくしや》の|中《なか》より|特《とく》に|俊逸《しゆんいつ》なるものを|選抜《せんばつ》して|完全《くわんぜん》なる|遠征的《ゑんせいてき》の|冒険隊《ばうけんたい》を|組織《そしき》し、|以《もつ》てその|国土《こくど》|万物《ばんぶつ》を|開発《かいはつ》|経営《けいえい》したものなることは、|神示《しんじ》の『|霊界物語《れいかいものがたり》』に|由《よ》つて|見《み》るも|明白《めいはく》なる|事実《じじつ》であります。|古典《こてん》に|所謂《いはゆる》|国津神《くにつかみ》なる|民族《みんぞく》にも、|北種《ほくしゆ》もあり|南種《なんしゆ》もあつて|其《その》|数《すう》|六七種《ろくしちしゆ》に|及《およ》んで|居《を》ります。
|結局《けつきよく》|高天原人種《たかあまはらじんしゆ》|即《すなは》ち|天津神族《あまつかみぞく》に|全《まつた》く|吸収《きふしう》せられ|血化《けつくわ》せられて|高加索民族《コーカサスみんぞく》なるものが|現《あら》はれたり、|又《また》|大和民族《やまとみんぞく》なる|君民同祖《くんみんどうそ》の|一血族《いちけつぞく》|一家的《いつかてき》の|団体《だんたい》に|成《な》つたのもあります。|併《しか》し|乍《なが》ら、|真《しん》の|太古《たいこ》の|神人族《しんじんぞく》その|他《た》の|関係《くわんけい》を|知悉《ちしつ》するには、|到底《たうてい》|三種《さんしゆ》や|五種《ごしゆ》の|古伝記《こでんき》にては|九牛《きうぎう》の|一毛《いちまう》だも|判然《はんぜん》するものではない。この|物語《ものがたり》も|亦《また》|其《そ》の|通《とほ》りであつて、|何程《なにほど》|現代《げんだい》の|著書《ちよしよ》より|見《み》れば|浩瀚《かうかん》なものだと|謂《い》つても、その|大要《たいえう》さへ|表示《へうじ》することは|困難《こんなん》であります。|天地《てんち》|混沌《こんとん》|陰陽《いんやう》|未分際《みぶんざい》より|現代《げんだい》に|至《いた》るまでの|宇宙《うちう》の|現《げん》|幽《いう》|神《しん》|三界《さんかい》の|出来事《できごと》や|神《かみ》の|御経綸《ごけいりん》を|大体《だいたい》に|於《おい》て|明《あきら》かにするには、|本書《ほんしよ》|三十六巻《さんじふろくくわん》(|四百頁《しひやくページ》|一巻《いつくわん》)をその|一輯《いつしふ》として|四十八輯《しじふはちしふ》を|口述《こうじゆつ》せなくては、|詳細《しやうさい》に|説示《せつじ》することは|出来《でき》ないのであります。|四十八輯《しじふはちしふ》|全部《ぜんぶ》|完成《くわんせい》する|時《とき》は|冊数《さつすう》|一千七百二十八《いつせんしちひやくにじふはち》となり、|瑞月《ずゐげつ》が|今後《こんご》|身《み》を|終《をは》るまで|口述《こうじゆつ》を|続《つづ》けても|到底《たうてい》|不可能的《ふかのうてき》|事業《じげふ》であります。|故《ゆゑ》にその|大要《たいえう》のみを|摘《つま》み、|細微《さいび》の|点《てん》は|略《りやく》して|成《な》るべく|小数《せうすう》の|冊子《さつし》に|於《おい》て|可能的《かのうてき》|明瞭《めいれう》に|述《の》ぶる|覚悟《かくご》であります。|読者《どくしや》は|何卒《なにとぞ》|気《き》|長《なが》く|子孫《しそん》に|伝《つた》へて|研究《けんきう》あらむことを|希望《きばう》|致《いた》します。|斯《か》く|述《の》ぶる|時《とき》は、この|物語《ものがたり》|全部《ぜんぶ》を|読了《どくれう》せなくては|安心立命《あんしんりつめい》の|域《ゐき》に|到達《たうたつ》せないならば、|始《はじ》めより|読《よ》まない|方《はう》が|気《き》が|利《き》いて|居《を》ると|思《おも》はるる|方《かた》もありませうが、|決《けつ》してそんなものではありませぬ。|只《ただ》|一巻《いつくわん》の|物語《ものがたり》の|中《なか》にも|宇宙《うちう》の|真理《しんり》や|神《かみ》の|大意志《だいいし》や|修身斉家《しうしんせいか》の|活《い》きた|教訓《けうくん》もあり、|過去《くわこ》に|於《お》ける|歴史《れきし》もあり、|種々雑多《しゆじゆざつた》の|警句《けいく》もあり、|金言玉辞《きんげんぎよくじ》もありますから、|一冊《いつさつ》でも|心読《しんどく》せられむことを|希望《きばう》いたします。|要《えう》するにこの『|霊界物語《れいかいものがたり》』は|東西《とうざい》|両洋《りやうやう》に|於《お》ける|古典《こてん》や|神話《しんわ》に|漏《も》れたる|点《てん》のみを|補《おぎな》ふべく|神様《かみさま》の|命《めい》のまにまに|口述《こうじゆつ》|編纂《へんさん》したものであります。
大正十一年十一月七日
|総説《そうせつ》
|神《かみ》の|道《みち》にては|高天原《たかあまはら》の|天国《てんごく》なれども、|仏《ぶつ》の|道《みち》にては|清浄国土《せうじやうこくど》|又《また》は|略《りやく》して|浄土《じやうど》といふ。|又《また》|神道《しんだう》にては|唯一《ゆゐいつ》の|主宰者《しゆさいしや》を|天之御中主大神《あめのみなかぬしのおほかみ》と|称《しよう》し、|無始無終《むしむしう》の|霊力体《れいりよくたい》|三大《さんだい》の|原霊神《げんれいしん》と|云《い》ひ、|仏教《ぶつけう》にては|無量寿仏《むりやうじゆぶつ》|又《また》は|阿弥陀仏《あみだぶつ》と|唱《とな》へて|居《ゐ》る。|無量寿仏《むりやうじゆぶつ》に|種々《いろいろ》の|別名《べつめい》があります。|即《すなは》ち、
|無量光仏《むりやうくわうぶつ》
|無辺光仏《むへんくわうぶつ》
|無礙光仏《むげくわうぶつ》
|無対光仏《むたいくわうぶつ》
|炎王光仏《ゑんわうくわうぶつ》
|清浄光仏《せうじやうくわうぶつ》
|歓喜光仏《くわんきくわうぶつ》
|智慧光仏《ちゑくわうぶつ》
|不断光仏《ふだんくわうぶつ》
|難思光仏《なんしくわうぶつ》
|無称光仏《むしようくわうぶつ》
|超日月光仏《てうにちぐわつくわうぶつ》
と|号《ごう》されて|居《ゐ》る。|一切《いつさい》の|衆生《しゆじやう》あつて|斯《こ》の|光《ひかり》に|遇《あ》はむものは、|三垢《さんく》|消滅《せうめつ》し|身意柔軟《しんいにうなん》に|歓喜踴躍《くわんきゆうやく》して|善心《ぜんしん》|生《しやう》ずべし。|若《も》し|三塗勤苦《さんづごんく》の|処《ところ》にあつて|此《こ》の|光明《くわうみやう》を|見《み》たてまつらば、|皆《みな》|休息《ぐそく》を|得《え》てまた|苦悩《くなう》なく|寿終《じゆしう》の|後《のち》みな|解脱《げだつ》を|蒙《かうむ》らむ。|無量寿仏《むりやうじゆぶつ》の|光明《くわうみやう》|顕赫《けんかく》にして|十方《じつぱう》を|照耀《せうえう》す|云々《うんぬん》とあるのは、|神道《しんだう》に|謂《い》ふ|独一真神《どくいつしんしん》の|御洪徳《ごこうとく》を|説《と》いたものであります。
|又《また》|浄土《じやうど》の|有様《ありさま》を|左《さ》の|如《ごと》く|説《と》いて|居《ゐ》る。|今《いま》|私《わたくし》は|仏典《ぶつてん》に|依《よ》つて|浄土《じやうど》|即《すなは》ち|高天原《たかあまはら》の|真相《しんさう》を|示《しめ》すのも、|余《あま》り|読者《どくしや》に|対《たい》して|徒労《とらう》でもないと|思《おも》ひまして、|本巻《ほんくわん》の|総説欄《そうせつらん》に|附記《ふき》することと|致《いた》しました。|曰《いは》く、
『その|国土《こくど》には|七宝《しつぽう》の|諸樹《しよじゆ》|世界《せかい》に|周満《しうまん》せり。|金樹《こんじゆ》、|銀樹《ごんじゆ》、|瑠璃樹《るりじゆ》、|玻璃樹《はりじゆ》、|珊瑚樹《さんごじゆ》、|瑪瑙樹《めなうじゆ》、【しやこ】|樹《じゆ》あり。(|以下《いか》|何《いづ》れもその|荘厳《さうごん》|優美《いうび》の|比喩辞《ひゆじ》|也《なり》)
|或《あるひ》は|二宝《にほう》|乃至《ないし》|三宝《さんぽう》|乃至《ないし》|七宝《しつぽう》うたた|共《とも》に|合成《がふじやう》せるあり。
|或《あるひ》は|金樹《こんじゆ》の|銀葉華果《ごんえうけくわ》なるあり。
|或《あるひ》は|銀樹《ごんじゆ》の|金葉華果《こんえうけくわ》なるあり。
|或《あるひ》は|瑠璃樹《るりじゆ》あり|玻璃《はり》を|葉《は》とす|華果《けくわ》また|然《しか》なり。
|或《あるひ》は|水精樹《すゐしやうじゆ》あり|瑠璃《るり》を|葉《は》とす|華果《けくわ》また|然《しか》なり。
|或《あるひ》は|珊瑚樹《さんごじゆ》あり|瑪瑙《めなう》を|葉《は》とす|華果《けくわ》また|然《しか》なり。
|或《あるひ》は|瑪瑙樹《めなうじゆ》あり|瑠璃《るり》を|葉《は》とす|華果《けくわ》また|然《しか》なり。
|或《あるひ》は【しやこ】|樹《じゆ》あり|衆宝《しゆほう》を|葉《は》とす|華果《けくわ》また|然《しか》なり。
|或《あるひ》は|宝樹《ほうじゆ》あり、|紫金《しこん》を|本《もと》とし|白銀《びやくごん》を|茎《くき》とし|瑠璃《るり》を|枝《えだ》とし|水精《すゐしやう》を|条《こえだ》とし|珊瑚《さんご》を|葉《は》とし|瑪瑙《めなう》を|華《はな》とし【しやこ】を|実《このみ》とす。
|或《あるひ》は|宝樹《ほうじゆ》あり、|白銀《びやくごん》を|本《もと》とし|瑠璃《るり》を|茎《くき》とし|水精《すゐしやう》を|枝《えだ》とし|珊瑚《さんご》を|条《こえだ》とし|瑪瑙《めなう》を|葉《は》とし【しやこ】を|華《はな》とし|紫金《しこん》を|実《このみ》とす。
|或《あるひ》は|宝樹《ほうじゆ》あり、|瑠璃《るり》を|本《もと》とし|水精《すゐしやう》を|茎《くき》とし|珊瑚《さんご》を|枝《えだ》とし|瑪瑙《めなう》を|条《こえだ》とし【しやこ】を|葉《は》とし|紫金《しこん》を|華《はな》とし|白銀《びやくごん》を|実《このみ》とす。
|或《あるひ》は|宝樹《ほうじゆ》あり、|水精《すゐしやう》を|本《もと》とし|珊瑚《さんご》を|茎《くき》とし|瑪瑙《めなう》を|枝《えだ》とし【しやこ】を|条《こえだ》とし|紫金《しこん》を|葉《は》とし|白銀《びやくごん》を|華《はな》とし|瑠璃《るり》を|実《このみ》とす。
|或《あるひ》は|宝樹《ほうじゆ》あり、|珊瑚《さんご》を|本《もと》とし|瑪瑙《めなう》を|茎《くき》とし【しやこ】を|枝《えだ》とし|紫金《しこん》を|条《こえだ》とし|白銀《びやくごん》を|葉《は》とし|瑠璃《るり》を|華《はな》とし|水精《すゐしやう》を|実《このみ》とす。
|或《あるひ》は|宝樹《ほうじゆ》あり、|瑪瑙《めなう》を|本《もと》とし【しやこ】を|茎《くき》とし|紫金《しこん》を|枝《えだ》とし|白銀《びやくごん》を|条《こえだ》とし|瑠璃《るり》を|葉《は》とし|水精《すゐしやう》を|華《はな》とし|珊瑚《さんご》を|実《このみ》とす。
|或《あるひ》は|宝樹《ほうじゆ》あり、【しやこ】を|本《もと》とし|紫金《しこん》を|茎《くき》とし|白銀《びやくごん》を|枝《えだ》とし|瑠璃《るり》を|条《こえだ》とし|水精《すゐしやう》を|葉《は》とし|珊瑚《さんご》を|華《はな》とし|瑪瑙《めなう》を|実《このみ》とす。
|此《こ》の|諸々《もろもろ》の|宝樹《ほうじゆ》|行々《ぎやうぎやう》あひ|値《あ》ひ、|茎々《きやうきやう》あひ|望《のぞ》み、|枝々《しし》あひ|準《なぞら》へ、|葉々《えうえう》あひ|向《むか》ひ、|華々《けけ》あひ|順《したが》ひ、|実々《じつじつ》あひ|当《あた》り、|栄色光耀《えいしよくくわうえう》として|視《み》るにたふべからず。|清風《せいふう》|時《とき》に|発《おこ》りて|五音《ごおん》の|声《こゑ》を|出《いだ》す。|微妙《びめう》の|宮商《くしやう》|自然《しぜん》に|相和《あひわ》せり』
と|示《しめ》してある。|是《これ》ぞ|全《まつた》く|瑞《みづ》の|御魂《みたま》|豊国主神《とよくにぬしのかみ》の|分霊《ぶんれい》なる|和魂《にぎみたま》の|神《かみ》|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》が|一旦《いつたん》|月照彦神《つきてるひこのかみ》と|現《げん》じ|再生《さいせい》して|釈迦《しやか》となり、|天極紫微宮《てんきよくしびきう》より|降《くだ》り|来《きた》りて|天国《てんごく》|浄土《じやうど》のその|一部《いちぶ》の|真相《しんさう》を|抽象的《ちうしやうてき》|比喩的《ひゆてき》に|説示《せつじ》されたものであります。|読者《どくしや》は|右《みぎ》の|仏説《ぶつせつ》に|由《よ》りて|神道《しんだう》に|謂《い》ふ|高天原《たかあまはら》|又《また》はキリストの|天国《てんごく》、|仏教《ぶつけう》の|兜率天《とそつてん》、|清浄国土《せうじやうこくど》は|皆《みな》|同一《どういつ》にして、|且《か》つ|至微《しび》|至清《しせい》|荘厳《さうごん》の|神境霊域《しんきやうれいゐき》たることを|覚《さと》らるる|事《こと》と|思《おも》ひます。
|瑞月《ずゐげつ》は|印度《いんど》|地方《ちはう》の|太古《たいこ》の|物語《ものがたり》を|説《と》くに|当《あた》り、|天国《てんごく》の|真相《しんさう》を|仏《ぶつ》の|教《をしへ》を|藉《か》りて|示《しめ》すことの|近道《ちかみち》なるを|思《おも》ひ、『|舎身活躍《しやしんくわつやく》』(|辰《たつ》の|巻《まき》)の|総説《そうせつ》に|代《か》へ|茲《ここ》に|引用《いんよう》した|次第《しだい》であります。
|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》
大正十一年十一月七日  王仁識
第一篇 |天空地平《てんくうちへい》
第一章 |入那《いるな》の|野辺《のべ》〔一一〇五〕
|木枯《こがらし》すさぶ|秋《あき》の|空《そら》  |野辺《のべ》の|木草《きぐき》も|黄金姫《わうごんひめ》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|神司《かむづかさ》  |四方《よも》に|清照姫命《きよてるひめみこと》
レーブやカルを|従《したが》へて  |天津日《あまつひ》の|神《かみ》|西山《せいざん》に
|入那《いるな》の|国《くに》の|小都会《せうとくわい》  ヨルの|都《みやこ》へ|進《すす》み|行《ゆ》く
|暗《やみ》の|張《とばり》はおろされて  |森《もり》の|小烏《こがらす》がやがやと
|鳴《な》く|音《ね》も|寂《さび》しき|田圃路《たんぼみち》  |脚下《あしもと》みたり|四人《よつたり》が
こころいそいそ|進《すす》み|行《ゆ》く  |忽《たちま》ち|森《もり》の|木蔭《こかげ》より
|現《あら》はれ|出《い》でし|黒《くろ》い|影《かげ》  |母娘《おやこ》|二人《ふたり》を|引抱《ひつかか》へ
|暗《やみ》に|紛《まぎ》れて|何処《どこ》となく  |足音《あしおと》|忍《しの》ばせ|矢《や》の|如《ごと》く
|忽《たちま》ち|姿《すがた》を|隠《かく》しけり  レーブとカルの|両人《りやうにん》は
|母娘《おやこ》の|姿《すがた》の|消《き》えしより  |打驚《うちおどろ》きて|忍《しの》び|足《あし》
|声《こゑ》もひそかに|彼方此方《あちこち》と  |宵暗《よひやみ》の|空《そら》すかしつつ
|力《ちから》|泣《な》く|泣《な》く|探《さが》しゆく。
レーブ『オイ、カル、|困《こま》つたなア、こんな|処《ところ》でお|二人様《ふたりさま》を|見失《みうしな》ひ、どうしてハルナの|都《みやこ》の|鬼熊別《おにくまわけ》|様《さま》に|申訳《まをしわけ》が|立《た》つものか。われわれ|両人《りやうにん》は|草《くさ》を|分《わ》けてもお|後《あと》を|慕《した》ひ、その|御在処《おんありか》を|尋《たづ》ねて、|御主人様《ごしゆじんさま》にお|渡《わた》し|申上《まをしあ》げねばならぬぢやないか』
カル『そりや|貴様《きさま》の|言《い》ふ|通《とほ》りだ。|吾々《われわれ》も|斯《か》うして|依然《じつ》として|手《て》を|束《つか》ね|惟神《かむながら》に|任《まか》すと|云《い》ふ|訳《わけ》には|行《ゆ》かないなア。|神界《しんかい》|旅行《りよかう》の|際《さい》にも|生魂姫命《いくむすびひめのみこと》|様《さま》から|惟神中毒《かむながらちうどく》をしてはならないといふことを|大変《たいへん》に|戒《いまし》められたのだからなア』
『オイ、カルよ、|熟々《つらつら》|考《かんが》へて|見《み》ると|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》、|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》は|吾々《われわれ》から|見《み》れば|幾十段《いくじふだん》とも|知《し》れない|神格者《しんかくしや》でもあり、|神様《かみさま》の|直接《ちよくせつ》の|御神力《ごしんりき》を|戴《いただ》いて|居《を》られるのだから、|余《あま》り|心配《しんぱい》は|要《い》るまいと|思《おも》ふよ。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《こ》の|儘《まま》|放任《はうにん》して|置《お》く|訳《わけ》には|行《ゆ》かないから、|吾々《われわれ》としてのベストを|竭《つく》して|見《み》ようぢやないか。あの|黒《くろ》い|影《かげ》は、どうやら|狼《おほかみ》か|獅子《しし》の|群《むれ》のやうだつたが、それならば|吾々《われわれ》は、|決《けつ》して|心配《しんぱい》は|要《い》らない。|御両人様《ごりやうにんさま》には|狼《おほかみ》が|守護《しゆご》して|居《ゐ》るのだから|大丈夫《だいぢやうぶ》だよ』(|狼《おほかみ》、|獅子《しし》は|皆《みな》|比喩《ひゆ》なり。|蔭武者《かげむしや》|又《また》は|強者《きやうしや》の|意《い》)
『|何《なに》は|兎《と》もあれ、|神様《かみさま》に|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》して、|御両人様《ごりやうにんさま》の|御無事《ごぶじ》を|祈《いの》ることに|致《いた》さうぢやないか』
『アヽそれが|善《よ》からう』
と|茲《ここ》に|両人《りやうにん》は|森蔭《もりかげ》の|暗《やみ》に|跪坐《きざ》して|天地《てんち》の|神明《しんめい》に|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らし、|夜《よ》の|明《あ》くるを|待《ま》つこととせり。|何処《どこ》ともなく|空中《くうちう》に|声《こゑ》あり、
『レーブ、カルの|両人《りやうにん》、|必《かなら》ず|心配《しんぱい》|致《いた》すに|及《およ》ばぬ。|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》は|神《かみ》の|都合《つがふ》に|依《よ》つて|二三日《にさんにち》の|間《あひだ》|神界《しんかい》から|御用《ごよう》に|使《つか》うて|居《ゐ》るから、|汝《なんぢ》は|明朝《みやうてう》|未明《みめい》にここを|出立《しゆつたつ》いたして|入那《いるな》の|都《みやこ》へ|一足先《ひとあしさき》へ|参《まゐ》れ。|母娘《おやこ》|両人《りやうにん》は|後《あと》より|追付《おひつ》くべければ、|両人《りやうにん》に|心配《しんぱい》なく|今夜《こんや》は|此処《ここ》で|夜《よ》を|明《あ》かしたが|宜《よ》からうぞよ』
と|雷《らい》の|如《ごと》き|声《こゑ》|聞《きこ》え|来《きた》る。|両人《りやうにん》はこの|声《こゑ》こそは|全《まつた》く|天声《てんせい》なり、|神《かみ》の|御示《おんしめ》しなりと、|喜《よろこ》び|勇《いさ》み|森《もり》の|大木《おほき》の|根《ね》に|腰《こし》|打《う》ちかけて、|四方山《よもやま》の|話《はなし》に|夜《よ》を|更《ふ》かし、|取留《とりとめ》もなき|雑談《ざつだん》の|花《はな》を|咲《さ》かしつつありけるが、レーブはそろそろカルに|向《むか》ひ|揶揄《からか》ひ|始《はじ》めたり。
『オイ、カル、|貴様《きさま》は|大切《たいせつ》な|女房《にようばう》に|肱鉄《ひぢてつ》の|乱射《らんしや》を|浴《あび》せかけられた|挙句《あげく》の|果《はて》は、|近所《きんじよ》のセムの|背虫男《せむしをとこ》に|横奪《よこど》りされたといふ|評判《ひやうばん》を|薄々《うすうす》|聞《き》かぬでもないが、|其《その》|後《ご》どうしたのだい。あの|儘《まま》に|泣《な》き|寝入《ねい》りらしいが、それではカルの|男振《をとこぶり》も|駄目《だめ》ぢやないか。|何故《なにゆゑ》|貞操《ていさう》|蹂躙《じうりん》の|訴訟《そしよう》を|提起《ていき》せないのか』
『ソンナ|事《こと》が|何《なん》ぼ|何《なん》でも|男《をとこ》として|出来《でき》るものかい。|貞操《ていさう》|蹂躙《じうりん》の|訴訟《そしよう》は|女《をんな》からするものぢやないか』
『|女《をんな》に|限《かぎ》つて|貞操《ていさう》|蹂躙《じうりん》の|訴《うつた》へを|起《おこ》すことを|得《え》た|時代《じだい》は、|今後《こんご》|三十余万年後《さんじふよまんねんご》の|廿世紀《にじつせいき》の|体主霊従《たいしゆれいじう》の|時代《じだい》の|事《こと》だ。|今日《こんにち》は|最早《もはや》|廿世紀《にじつせいき》より|三十余万年《さんじふよまんねん》の|過去《くわこ》の|神代《かみよ》だ。|男子《だんし》だつて|貞操《ていさう》|蹂躙《じうりん》の|訴訟《そしよう》が|提起《ていき》|出来《でき》ない|道理《だうり》があるかい。|貴様《きさま》は|未来《みらい》の|法律《はふりつ》のみに|迷従《めいじゆう》して、|現代《げんだい》の|法律《はふりつ》を|忘《わす》れて|居《ゐ》るのか、アーン』
『それでも|婆羅門教《ばらもんけう》では|女子《ぢよし》の|貞操《ていさう》といふことはあるが、|男子《だんし》の|貞操《ていさう》といふ|事《こと》は|聞《き》かないからのう』
『|婆羅門教《ばらもんけう》では|教主《けうしゆ》の|大黒主《おほくろぬし》さまから|一夫多妻《いつぷたさい》|主義《しゆぎ》ぢやから、|婦人《ふじん》は|丸切《まるき》り|機械《きかい》|扱《あつか》ひにされて|居《ゐ》るやうなものだよ。|婦人《ふじん》の|立場《たちば》として|貞操《ていさう》|蹂躙《じうりん》の|訴《うつた》へでもする|権利《けんり》がなくては|堪《たま》らないからだよ。|然《しか》し|一夫一婦《いつぷいつぷ》の|道《みち》を|奉《ほう》ずる|三五教《あななひけう》では|妻《つま》の|方《はう》から|貴様《きさま》の|女房《にようばう》のやうに|夫《をつと》を|捨《す》て|他《た》の|男《をとこ》と|情《じやう》を|通《つう》じたり、|夫《をつと》を|盲目《まうもく》にしよつた|時《とき》は、|男《をとこ》だつて|矢張《やつぱり》|貞操《ていさう》を|蹂躙《じうりん》された|事《こと》になるのだ。|男《をとこ》の|方《はう》からその|不貞腐《ふてくさ》れの|女房《にようばう》に|対《たい》して、|貞操《ていさう》|蹂躙《じうりん》の|訴訟《そしよう》を|提起《ていき》するのは|当然《たうぜん》だ。|女《をんな》ばかりに|貞操《ていさう》|蹂躙《じうりん》の|訴訟権《そしようけん》があるのは|未来《みらい》の|廿世紀《にじつせいき》といふ|世《よ》の|中《なか》にて|行《おこな》はれる|制度《せいど》だ。|併《しか》し|婆羅門教《ばらもんけう》は|文明的《ぶんめいてき》|進歩的《しんぽてき》|宗教《しうけう》だと|見《み》えて、|三十五万年《さんじふごまんねん》も|凡《すべ》ての|規則《きそく》や|行《や》り|方《かた》が|進歩《しんぽ》して|居《ゐ》るわい。アハヽヽヽヽ』
『さうすると、|鬼雲姫《おにくもひめ》|様《さま》は|永《なが》らく|夫《をつと》の|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》と|苦労《くらう》|艱難《かんなん》して、|彼処《あこ》までバラモンの|基礎《きそ》を|築《きづ》き|上《あ》げ、ヤレもう|楽《らく》ぢやといふ|間際《まぎは》になつて、|大黒主《おほくろぬし》さまから|追出《おひだ》され、|其《その》|後《あと》へ|立派《りつぱ》な|若《わか》い|石生能姫《いそのひめ》さまを|女房《にようばう》に|入《い》れられて、|自分《じぶん》は|年《とし》を|老《と》つてから、アンナ|残酷《ざんこく》な|目《め》に|合《あは》されて|居《ゐ》ながら、|何故《なぜ》|貞操《ていさう》|蹂躙《じうりん》の|訴訟《そしよう》を|提起《ていき》なさらないのだらうかなア』
『そこが|強食弱肉《きやうしよくじやくにく》の|世《よ》の|中《なか》だよ。|大黒主《おほくろぬし》さまより|上《うへ》のお|役《やく》もなし、|之《これ》を|制御《せいぎよ》する|法律《はふりつ》もないのだから、|是《これ》|計《ばか》りは|致《いた》し|方《かた》がない。|司法《しはふ》、|行政《げうせい》、|立法《りつぱふ》の|三大《さんだい》|権力《けんりよく》を|握《にぎ》つて|居《ゐ》るのが|大黒主《おほくろぬし》だから、これを|制御《せいぎよ》し|懲戒《ちようかい》する|権利《けんり》ある|者《もの》は|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》より|外《ほか》にはないのだ。|思《おも》へば|下《した》の|者《もの》はつまらぬものだよ。|鬼雲姫《おにくもひめ》|様《さま》は|随分《ずゐぶん》お|道《みち》の|為《ため》には|沐雨櫛風《もくうしつぷう》、|東奔西走《とうほんせいそう》して、|漸《やうや》くあれだけの|土台《どだい》を|築《きづ》き|上《あ》げ、|今《いま》|一息《ひといき》といふ|所《ところ》で|放逐《はうちく》とは|余《あま》り|残酷《ざんこく》ぢやないか。それだから|婆羅門教《ばらもんけう》は|無道《ぶだう》の|教団《けうだん》だといふのだ。|是《これ》が○○|教《けう》であつたら|大変《たいへん》ぢやないか。|部下《ぶか》の|宣伝使《せんでんし》や|信徒《しんと》が|承知《しようち》せないからなア』
『それでも|三五教《あななひけう》の|神柱《かむばしら》|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》|様《さま》は|一夫多妻《いつぷたさい》ぢやないか。|八人《はちにん》|同《おな》じやうな|年配《ねんぱい》の|女《をんな》の|子《こ》があつたぢやないか』
『|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》|様《さま》は|月《つき》の|大神様《おほかみさま》ぢや。|元《もと》より|女房《にようばう》はない。|八人乙女《やたりをとめ》の|出来《でき》たのは|肉体《にくたい》の|御子《みこ》ではない。|霊魂《みたま》の|美《うる》はしき|乙女《をとめ》を|八人《はちにん》も|方々《はうばう》から|拾《ひろ》ひ|集《あつ》めて、その|乙女《をとめ》の|霊魂《みたま》に|対《たい》し|自《みづか》ら|厳《いづ》の|御息《みいき》を|吹《ふ》きかけて|我《わが》|子《こ》と|為《な》したまうたのだ。|吾々《われわれ》のやうに|暗《くら》がりで|夫婦《ふうふ》が|拵《こしら》へたのとは|違《ちが》ふのだ』
『それならあの|八人乙女《やたりをとめ》を|生《う》んだ|肉体《にくたい》の|親《おや》はあるだらうな』
『ソリアあるとも、|併《しか》し|乍《なが》ら|八人乙女《やたりをとめ》とも|皆《みな》|捨児《すてご》を|拾《ひろ》つて|自分《じぶん》の|子《こ》に|遊《あそ》ばしたのだから、|両親《りやうしん》は|尊様《みことさま》には|御分《おわか》りになつて|居《ゐ》ても、|八人乙女《やたりをとめ》の|方《はう》では|矢張《やつぱり》|真《しん》の|父上《ちちうへ》と|思《おも》つて|居《を》られるやうだ。|肝腎要《かんじんかなめ》の|御精霊《ごせいれい》を|分与《ぶんよ》されて|居《ゐ》るのだから、|仮令《たとへ》|肉体《にくたい》の|児《こ》でなくとも|肉体《にくたい》|以上《いじやう》の|近《ちか》い|親《した》しい|御児《みこ》になるのだ。おれ|達《たち》も|矢張《やつぱり》|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》|様《さま》の|孫《まご》|位《くらゐ》なものだ。|今迄《いままで》は|大黒主《おほくろぬし》の|孫《まご》だつたが|俺《おれ》も|今度《こんど》いよいよ|尊様《みことさま》の|孫《まご》になつたのだ。|貴様《きさま》も|昨日《きのふ》あたりから|尊様《みことさま》の|曾孫《ひまご》|位《ぐらゐ》になつて|居《ゐ》るかも|知《し》れないよ』
『さうか、|有難《ありがた》いなア、アヽ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
レーブ、カルの|両人《りやうにん》は|森林《しんりん》に|囀《さへづ》り|始《はじ》めた|諸鳥《ももとり》の|声《こゑ》に|目《め》を|覚《さ》まし、あたりの|明《あか》くなつたのに|打驚《うちおどろ》いて、
『オヽ、カル、もう|夜明《よあ》けだ。よく|草臥《くたび》れてグツと|一寝入《ひとねい》りやつてしまつた。サア|是《これ》から|両人《りやうにん》が|力《ちから》を|合《あ》はして|奥様《おくさま》|等《たち》の|所在《ありか》の|捜索《そうさく》しようぢやないか』
『さう|慌《あわて》るには|及《およ》ばぬぢやないか。たつた|今《いま》|主人《しゆじん》になつた|所《ところ》だ。|言《い》はば|二日月《ふつかづき》さまのやうなものだよ………。|現《あら》はれて|間《ま》もなく|隠《かく》るる|二日月《ふつかづき》………そんな|水臭《みづくさ》い|主人《しゆじん》を|捜《さが》した|所《ところ》で|仕方《しかた》がないぢやないか。|来《きた》るものは|拒《こば》まず、|去《さ》る|者《もの》は|追《お》はず|式《しき》で|此《この》|世《よ》を|渡《わた》つて|行《ゆ》かねば、|何程《なにほど》|石《いし》に|根《ね》つぎをするやうな|案《あん》じ|方《かた》をしたつて、|会《あ》ふ|時《とき》が|来《こ》な|会《あ》はれるものぢやないワ。マアマア|気《き》を|落付《おちつ》けて|惟神《かむながら》に………オツト ドツコイ、|此奴《こいつ》は|言《い》はれぬワイ………お|目《め》にかかる|時《とき》を|待《ま》つことにしようかい』
『|貴様《きさま》|最早《もはや》|変心《へんしん》しかけよつたな。|怪《け》しからぬ|奴《やつ》だ。さういふ|冷《ひや》やかな|根性《こんじやう》で|居《を》ると、|又《また》|今度《こんど》は|八万地獄《はちまんぢごく》へ|真逆様《まつさかさま》に|落《お》ちるぞ』
『|冷《ひや》やかなといふが、|晩秋《ばんしう》|初冬《しよとう》の|境目《さかひめ》だ。|冷《ひや》やかなのは|当然《あたりまへ》だ。|人《ひと》は|天地《てんち》に|習《なら》ふのが|惟神《かむながら》ぢやないか。|男心《をとこごころ》と|秋《あき》の|空《そら》、|曇《くも》るかと|思《おも》へば|直《すぐ》に|照《て》る、|照《て》るかと|思《おも》へば|曇《くも》る、|天地《てんち》を|以《もつ》て|教《をしへ》となし、|日月《じつげつ》を|以《もつ》て|経《きやう》とするのだから、|貴様《きさま》のやうな|偽善者《きぜんしや》とは|此《この》カルさまはチツと|違《ちが》ふのだ』
『|貴様《きさま》は|森《もり》で|転寝《うたたね》をして|居《ゐ》る|間《うち》に、|又《また》もや|大黒主《おほくろぬし》の|眷族《けんぞく》|共《ども》に|憑依《ひようい》されたのだな。|何程《なにほど》|秋《あき》の|空《そら》だと|云《い》つても、|余《あま》りキツイ|変《かは》り|様《やう》ぢやないか』
『|代《よ》と|云《い》ふ|字《じ》は【かはる】と|書《か》くから、|刻々《こくこく》に|変《かは》るのが|世《よ》の|中《なか》だ。|道端《みちばた》の|岩《いは》のやうに|常磐《ときは》に|堅磐《かきは》に|動《うご》かなくては、|世界《せかい》の|進歩《しんぽ》も|天地《てんち》の|経綸《けいりん》も|出来《でき》るものぢやない。|世《よ》の|中《なか》は|三日《みつか》|見《み》ぬ|間《ま》に|桜《さくら》|哉《かな》………と|云《い》ふだらう。それが|天地《てんち》の|真理《しんり》だ』
『さうするとカル、|貴様《きさま》は|大黒主《おほくろぬし》の|孫《まご》に|逆転《ぎやくてん》したのだな』
『|別《べつ》に|逆転《ぎやくてん》したのでも|何《なん》でもないよ。|鞘《さや》を|抜《ぬ》き|出《で》た|刀《かたな》がキチンと|元《もと》の|鞘《さや》へ|納《をさ》まつただけのものだ。|矢張《やつぱり》|俺《おれ》はかうなつて|来《く》ると|大黒主《おほくろぬし》の|方《はう》が|偉《えら》いやうな|気《き》がするワイ』
『ハハア、さうすると|貴様《きさま》は|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》、|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》が|側《そば》にゐられる|間《あひだ》だけは、|野良犬《のらいぬ》のやうに|尾《を》を|振《ふ》つて|居《ゐ》よつて、|表面《へうめん》|帰順《きじゆん》を|装《よそほ》ひ、お|二人《ふたり》が|何者《なにもの》かに|攫《さら》はれて|見《み》えなくなつたので、|又《また》もやそんなズルイ|考《かんが》へを|起《おこ》しよつたのだなア』
『|面従腹背《めんじうふくはい》、|長《なが》いものにまかれるのが|当世《たうせい》だよ。ウツフヽヽヽ』
『ハハー、|此奴《こいつ》ア、ヤツパリ|大黒主《おほくろぬし》の|眷族《けんぞく》が|憑依《ひようい》しよつたと|見《み》えるワイ。どうやら|俺《おれ》も|大黒主《おほくろぬし》|気分《きぶん》になつて|来《き》よつたぞ。|吾《われ》ながら|吾《われ》の|心《こころ》がテンと|善《ぜん》か|悪《あく》か|分《わか》らなくなつて|来《き》たワイ。それなら|俺《おれ》もこれから|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|服従《ふくじゆう》し、|黄金姫《わうごんひめ》|母娘《おやこ》の|所在《ありか》を|注進《ちゆうしん》して、|入那《いるな》の|国《くに》のセーラン|王様《わうさま》の|御前《みまへ》に|手柄《てがら》を|立《た》てようかなア』
と|両人《りやうにん》は|目《め》と|目《め》を|見合《みあ》はしながらワザと|大声《おほごゑ》に|呶鳴《どな》つてゐる。|道端《みちばた》の|草《くさ》の|中《なか》からムクムクと|近《ちか》よつて|来《き》た|七八人《しちはちにん》の|男《をとこ》、|其《その》|中《なか》の|頭《かしら》と|覚《おぼ》しき|目《め》のクルツと|光《ひか》つた、どこともなしに|威厳《ゐげん》のある|男《をとこ》は、セーラン|王《わう》の|左守《さもり》の|司《かみ》と|仕《つか》へてゐるクーリンスの|家来《けらい》で、テームスといふ|男《をとこ》である。
『|今《いま》ここに|於《おい》て|様子《やうす》を|聞《き》けば、|其《その》|方《はう》|等《ら》|両人《りやうにん》はバラモン|教《けう》の|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|御家来《ごけらい》と|見《み》えるが、|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》の|所在《ありか》を|知《し》つてゐるさうだが、|吾々《われわれ》に|言《い》つてくれまいかなア。|左守《さもり》の|司《かみ》クーリンス|様《さま》の|命令《めいれい》に|依《よ》つて、|吾々《われわれ》は|数多《あまた》の|家来《けらい》を|引連《ひきつ》れ、|黄金姫《わうごんひめ》|母娘《おやこ》がここを|通過《つうくわ》するとの|或者《あるもの》の|注進《ちゆうしん》に|依《よ》つて、|土中《どちう》の|関所《せきしよ》に|待《ま》つてゐたのだ』
レーブ『ハイ、|実《じつ》の|処《ところ》は|其《その》|黄金姫《わうごんひめ》|母娘《おやこ》に|甘《うま》く|取入《とりい》り、|入那《いるな》の|森《もり》まで|何《なん》とか|彼《か》とか|云《い》つて|連《つ》れて|参《まゐ》り、セーラン|王様《わうさま》に|御手渡《おてわた》しして、|王様《わうさま》の|御手柄《おてがら》にしたいと|存《ぞん》じ、イヤ|王様《わうさま》の|力《ちから》を|借《か》り、|共々《ともども》に|手柄《てがら》をさして|頂《いただ》かうと|思《おも》ひまして|参《まゐ》りました|処《ところ》、|狼《おほかみ》の|群《むれ》が|沢山《たくさん》やつて|来《き》て、|二人《ふたり》を|喰《くは》へてどつかへ|参《まゐ》りました。|併《しか》しながらこれには|深《ふか》い|秘密《ひみつ》があります。|只今《ただいま》|此処《ここ》で|申上《まをしあ》げる|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬ。クーリンス|様《さま》の|御前《おんまへ》に|於《おい》てハツキリと|申上《まをしあ》げますから、どうぞ|案内《あんない》して|下《くだ》さい』
『|秘密《ひみつ》とあらば|強《た》つて|聞《き》かうとは|申《まを》さぬ。それなら|入那《いるな》の|都《みやこ》まで|案内《あんない》するから|従《つ》いて|来《き》て|下《くだ》さい』
『オイ、レーブ、|甘《うま》くやつたなア』
と|言《い》ひかけて、|俄《にはか》に|自分《じぶん》の|口《くち》を|押《おさ》へ、
『イヤ、レーブ、|甘《うま》いことになつて|来《き》たなア。|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》の|手柄《てがら》の|現《あら》はれ|時《どき》、アヽ|勇《いさ》ましし|勇《いさ》ましし、|宝《たから》の|山《やま》は|眼前《がんぜん》に|横《よこた》はつて|来《き》た|様《やう》なものだ。モシ、テームスさま、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》を|大切《たいせつ》にせなくちや、|黄金姫《わうごんひめ》|母娘《おやこ》の|所在《ありか》は|口《くち》を|噤《つぐ》んで|申《まを》しませぬぞや。|吾々《われわれ》の|口《くち》を|開《あ》くか|開《あ》かぬかに|依《よ》つて、お|前《まへ》さま|達《たち》や|左守《さもり》の|司様《かみさま》の|成功《せいこう》|不成功《ふせいこう》が|分《わか》るるのだから、|御機嫌《ごきげん》を|損《そこ》ねない|様《やう》に|特別《とくべつ》|待遇《たいぐう》を|願《ねが》ひますよ』
『よくマア|恩《おん》にきせる|男《をとこ》だなア。エヽ|仕方《しかた》がない、|余《あま》り|威張《ゐば》られてもチツとは|迷惑《めいわく》だけれど、クーリンス|様《さま》の|命令《めいれい》には|代《か》へられない』
レーブ『|今《いま》は|兎《と》も|角《かく》、|何《なん》とでも|云《い》つて|此奴等《こいつら》|両人《りやうにん》をたらかし、|館《やかた》へつれて|帰《かへ》るが|最後《さいご》、|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|槍襖《やりぶすま》の|垣《かき》を|造《つく》り、|両人《りやうにん》を|否応《いやおう》なしに|白状《はくじやう》さしてやろといふお|前《まへ》さまの|下心《したごころ》だらうがな。アハヽヽヽ』
『|何《なん》と|悪気《わるぎ》のまはる|男《をとこ》だなア。マアどうでも|良《い》い。|来《く》る|所《ところ》まで|来《き》てみなくては|分《わか》らぬぢやないか』
カル『|何《なん》せよ、|騙《だま》し|合《あ》ひの|狸《たぬき》ばかりの|世《よ》の|中《なか》だから、このレーブだつてカルだつて、|何《なに》を|吐《ぬか》してるか|分《わか》りませぬぞや。ウツフヽヽヽ|本当《ほんたう》のこと|言《い》へば、レーブ、カルの|両人《りやうにん》は、お|前《まへ》さま|等《ら》の|為《ため》にドテライ|目《め》に|会《あ》はされるのが|怖《こは》さに、|三五教《あななひけう》で|居《ゐ》ながら|俄《にはか》にワザと|聞《きこ》えよがしに、お|前《まへ》さまが|岩窟《がんくつ》にゐるのを|前知《ぜんち》して|喋《しやべ》つたのだから|当《あて》にはなりませぬぞや。イツヒヽヽヽ』
テームスは|声《こゑ》を|尖《とが》らし、
『コリヤ コリヤ|両人《りやうにん》、|今《いま》からそんなことを|申《まを》しても|駄目《だめ》だぞ。|偽《いつは》りを|申《まを》すな、|三五教《あななひけう》だと|云《い》へば|此《この》テームスが|驚《おどろ》くかと|思《おも》うて、|左様《さやう》なことを|申《まを》すのだろ。そんなことに|一杯《いつぱい》|喰《く》はされるやうな|此《この》|方《はう》ぢやないワイ。|自分《じぶん》の|心《こころ》の|秘密《ひみつ》を|吾々《われわれ》に|喋《しやべ》る|奴《やつ》があらう|道理《だうり》がない。|貴様《きさま》はヤツパリ、バラモン|教《けう》の|生粋《きつすゐ》だ。|左様《さやう》なことを|申《まを》して|此《この》テームスやクーリンスに|揚壺《あげつぼ》を|喰《く》はせ、|直接《ちよくせつ》セーラン|王様《わうさま》の|前《まへ》に|出《で》て、|自分等《じぶんら》|二人《ふたり》の|手柄《てがら》にしようと|思《おも》ふのだろ。|其《その》|手《て》は|喰《く》はぬぞ』
と|目《め》を|剥《む》き|出《だ》し|呶鳴《どな》りつける。
『ハヽヽヽヽ、|何《なに》が|何《なん》だか、レーブもサツパリ|混線《こんせん》してしまつた。それならマア|黄金姫《わうごんひめ》|母娘《おやこ》の|行方《ゆくへ》を|知《し》つてゐることにしておかうかい』
『ナマクラなことを|申《まを》すな、|正直《しやうぢき》に|申上《まをしあ》げるのだぞ。クーリンス|様《さま》の|前《まへ》で|今《いま》の|様《やう》な|訳《わけ》の|分《わか》らぬことを|申《まを》すと、お|赦《ゆる》しはないぞ』
『お|赦《ゆる》しがなければなくていいワ。|肝腎要《かんじんかなめ》の|三五教《あななひけう》の|秘密《ひみつ》や|黄金姫《わうごんひめ》の|所在《ありか》を|申《まを》し|上《あ》げぬまでのことだ。アハヽヽヽ、それよりも|俺達《おれたち》が|直接《ちよくせつ》に|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》へ|注進《ちゆうしん》|致《いた》したら、すぐに|一国《いつこく》の|王《わう》|位《くらゐ》にはして|貰《もら》へるのだからなア、イツヒヽヽヽ、ボロイボロイ、|甘《うま》い|物《もの》は|小人数《こにんず》で|食《く》へだから、こんな|所《ところ》で|博愛《はくあい》|慈善《じぜん》|主義《しゆぎ》を|振《ふ》りまいて|居《を》つても、あまり|引《ひ》き|合《あは》ないワ、のう、カル|公《こう》』
『オイ、レーブ、いい|加減《かげん》に|意茶《いちや》つかしておかぬか、テームス|様《さま》は|吾々《われわれ》とは|違《ちが》つて|左守《さもり》の|司様《かみさま》の|秘書役《ひしよやく》だから、|御機嫌《ごきげん》をとつておきさへすれば、どんな|出世《しゆつせ》をさして|下《くだ》さるかも|知《し》れないぞ。【ねえ】テームスさま、さうでげせう』
『カルの|申《まを》す|通《とほ》り、|魚心《うをごころ》あれば|水心《みづごころ》あり、|水心《みづごころ》あれば|魚心《うをごころ》ありだ。|決《けつ》して|悪《わる》くは|取計《とりはか》らはないから、|安心《あんしん》して|来《き》てくれ』
『それなら|一《ひと》つ、どつと|安心《あんしん》して、|来《き》て|呉《く》れてやらうかな。イヤ、テームスさま、|何分《なにぶん》|宜《よろ》しく|御頼《おたの》み|致《いた》しやす』
『それなら、|左守《さもり》の|司様《かみさま》も|大変《たいへん》にお|急《せ》きだから、サア|急《いそ》いで|都《みやこ》へ|帰《かへ》らう』
かく|話《はなし》してゐる|所《ところ》へ、テク、アルマ、テムの|三人《さんにん》|捻鉢巻《ねぢはちまき》をしめ、|足腰《あしこし》の|痛《いた》みも|直《なほ》つたと|見《み》え、|大変《たいへん》な|勢《いきほひ》で、
『エーサツサ エーサツサ エーサツサ エーサツサ』
と|掛声《かけごゑ》しながら|通《とほ》り|過《す》ぎようとする。テームスは|之《これ》を|見《み》て、
『オイオイ、|三人《さんにん》の|奴《やつ》|共《ども》、|暫《しばら》く|待《ま》てえ』
|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて|三人《さんにん》は|立《た》ち|止《ど》まり、
テク『あゝテームス|様《さま》で|厶《ござ》いましたか。|余《あま》り|急《いそ》いだので、ここのお|関所《せきしよ》も|気《き》がつかず|通《とほ》り|越《こ》さうと|致《いた》しました。あゝ|余《あま》り|走《はし》つたので|息苦《いきぐる》しい、|目《め》がまはるのか|天地《てんち》が|廻転《くわいてん》するのか|知《し》らないが、|貴方《あなた》のお|声《こゑ》を|聞《き》くにつけ、ガタリと|気《き》が|弛《ゆる》んで|参《まゐ》りました。どうぞ|一《ひと》つ|背中《せなか》を|打《う》つて|下《くだ》さいな。ハア ハア ハア』
と|三人《さんにん》はグタリとなつて|深傷《ふかで》を|負《お》うた|軍人《ぐんじん》のやうに|道《みち》の|上《うへ》にベタリと|平太《へた》つてしまつた。
テームス『|大声《おほごゑ》で|呶鳴《どな》りつけ、|叱《しか》りつけてやらねば|気《き》が|弛《ゆる》んでは|駄目《だめ》だ。ヤア|家来《けらい》の|者《もの》|共《ども》、|三人《さんにん》の|気《き》をつけてやれ』
|七八人《しちはちにん》の|捕手《とりて》はバラバラと|三人《さんにん》の|側《そば》に|寄《よ》り、|背中《せなか》を|打《う》つやら、|頭《あたま》から|水《みづ》をぶつかけるやら、|大変《たいへん》な|大騒動《おほさうどう》をやつてゐる。|漸《やうや》くにして|次々《つぎつぎ》に|正気《しやうき》づき、テクは|息《いき》も|苦《くる》しげに|物語《ものがた》る。
『テームス|様《さま》の|仰《あふ》せにより、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》は|猛獣《まうじう》|荒《すさ》ぶ|荒野原《あらのはら》を|入那《いるな》の|森《もり》まで|進《すす》み|行《ゆ》く|折《をり》しも、|祠《ほこら》の|中《なか》に|怪《あや》しの|物音《ものおと》、ハテ|不思議《ふしぎ》と|立寄《たちよ》り、|様子《やうす》を|窺《うかが》ひ|見《み》れば、|当《たう》の|目的物《もくてきぶつ》たる|恐《おそ》ろしき|武勇《ぶゆう》の|聞《きこ》えある|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》、それに|従《したが》ふレーブ、カルの|両人《りやうにん》、|吾等《われら》|一行《いつかう》に|打向《うちむか》ひ|言霊戦《ことたません》を|開始《かいし》し、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》は|息《いき》ふさがり、|足《あし》はなえ、|腰《こし》を|抜《ぬ》かして|大地《だいち》にドツと|倒《たふ》れ|伏《ふ》す、|進退《しんたい》|維《こ》れ|谷《きは》まり|居《を》る|折《をり》しも、|雲《くも》|押分《おしわ》けて|現《あら》はれ|来《きた》る|大空《おほぞら》の|月《つき》の|影《かげ》、|大自在天《だいじざいてん》|大国彦命《おほくにひこのみこと》、|天馬《てんば》に|跨《また》がり、|悠々《いういう》として|入那《いるな》の|森《もり》|近《ちか》く|下《くだ》り|給《たま》へば、|流石《さすが》の|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》は|其《その》|神徳《しんとく》に|辟易《へきえき》し、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|南方《なんぱう》|指《さ》して|逃《に》げゆく|可笑《をか》しさ。レーブ、カルの|両人《りやうにん》は、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》が|神徳《しんとく》に|怖《お》ぢ|恐《おそ》れ、ウンと|一声《ひとこゑ》|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れ、|敢《あへ》なき|最後《さいご》を|遂《と》げにけり。かかる|小童武者《こわつぱむしや》には|目《め》もかけず、|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》の|後《あと》を|追《お》ひかけ、ここまで|来《きた》り|候《さふらふ》。|母娘《おやこ》|二人《ふたり》は|既《すで》に|既《すで》に|此《この》|一筋道《ひとすぢみち》を|通《とほ》りしならむ、テームス|様《さま》、キツと|掴《つか》まへ|遊《あそ》ばしたで|厶《ござ》いませうなア。それさへ|承《うけたま》はらば|吾々《われわれ》|三人《さんにん》は|仮令《たとへ》|此《この》|場《ば》で|相果《あひは》つるとも、|決《けつ》して|恨《うらみ》とは|存《ぞん》じませぬ』
と|息《いき》もせきせき|述《の》べ|立《た》つる。
レーブ『オイ、テク、|随分《ずゐぶん》|駄法螺《だぼら》を|吹《ふ》きよるなア。レーブさまもカルさまも|貴様《きさま》より|一足《ひとあし》お|先《さき》に|此処《ここ》へ|来《き》て|居《を》るのだ。テームス|様《さま》と|万事《ばんじ》|交渉《かうせふ》を|遂《と》げ、|目出度《めでた》く|締盟《ていめい》の|済《す》んだ|所《ところ》だ、|確《しつ》かり|致《いた》さぬか。|其《その》|方《はう》は|驚《おどろ》きの|余《あま》り|狂気《きやうき》|致《いた》したなア』
『ヤア、|貴様《きさま》はレーブ、カルの|両人《りやうにん》か。|何時《いつ》の|間《ま》に|生返《いきかへ》りよつたのだ』
カル『オイ、テク、|何《なに》を|言《い》つてるのだ。ソリヤ|俺《おれ》の|方《はう》から|言《い》ふべきことだよ。|貴様《きさま》こそ|何時《いつ》の|間《ま》に|生返《いきかへ》つたのだ』
『あゝカルか、さうすると|貴様《きさま》はヤツパリ|此方《こちら》の|味方《みかた》だつたのかなア』
レーブ『|見方《みかた》に|依《よ》つては|味方《みかた》でもあり、|敵《てき》でもあるワイ。|敵《てき》の|中《なか》に|味方《みかた》あり、|味方《みかた》の|中《なか》に|敵《てき》のある|世《よ》の|中《なか》だ。|自分《じぶん》の|心《こころ》の|中《なか》でさへも|敵味方《てきみかた》の|衝突《しようとつ》が|絶《た》えず|起《おこ》つてゐるのだからなア。アハヽヽヽ』
テームスは|立《た》ち|上《あが》り、
『|何《なに》は|兎《と》もあれ、|左守《さもり》の|司様《かみさま》の|館《やかた》まで|急《いそ》ぐことに|致《いた》さう』
|茲《ここ》に|一行《いつかう》|十三人《じふさんにん》|膝栗毛《ひざくりげ》に|鞭《むちう》ちながら|入那《いるな》の|都《みやこ》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・一一・一〇 旧九・二二 松村真澄録)
第二章 |入那城《いるなじやう》〔一一〇六〕
|入那《いるな》の|国《くに》のセーラン|王《わう》の|館《やかた》は|東西南《とうざいなん》に|広《ひろ》き|沼《ぬま》を|囲《めぐ》らし、|北《きた》の|一方《いつぱう》のみ|原野《げんや》につづいて|居《ゐ》る。|此《この》|国《くに》では|最《もつと》も|風景《ふうけい》|好《よ》く|且《かつ》|要害《えうがい》よき|地点《ちてん》を|選《えら》み|王《わう》の|館《やかた》が|築《きづ》かれてある。セーラン|王《わう》は|早朝《さうてう》より|梵自在天《ぼんじざいてん》の|祀《まつ》りたる|神殿《しんでん》に|昇《のぼ》りて|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らし、|終《をは》つて|吾《わが》|居間《ゐま》に|帰《かへ》り、ドツカと|坐《ざ》して|双手《もろて》を|組《く》み|思案《しあん》にくれながら|独言《ひとりごと》、
『あゝ|世《よ》の|中《なか》は|思《おも》ふ|様《やう》に|行《ゆ》かないものだなア。|忠誠《ちうせい》|無比《むひ》の|左守《さもり》の|司《かみ》クーリンスの|娘《むすめ》ヤスダラ|姫《ひめ》を|幼少《えうせう》の|頃《ころ》から|父王《ちちわう》の|命《めい》に|依《よ》り|許嫁《いひなづけ》と|定《きま》つて|居《ゐ》たものを、|大黒主《おほくろぬし》の|神様《かみさま》に|媚《こ》び|諂《へつら》ふ|右守《うもり》の|司《かみ》カールチンの|勢力《せいりよく》|日《ひ》に|月《つき》に|増大《ぞうだい》し、|殆《ほとん》ど|吾《われ》をなきものの|如《ごと》くに|扱《あつか》ひ、ヤスダラ|姫《ひめ》をテルマン|国《こく》の|毘舎《びしや》シヤールの|女房《にようばう》に|追《お》ひやり、わが|最《もつと》も|嫌《きら》ふ|所《ところ》の|右守《うもり》の|司《かみ》が|娘《むすめ》サマリー|姫《ひめ》を|后《きさき》に|致《いた》したとは、|実《じつ》に|下《しも》、|上《かみ》を|犯《をか》すとは|言《い》ひながら|無暴《むばう》の|極《きは》まりだ。あゝヤスダラ|姫《ひめ》は|今頃《いまごろ》は|如何《どう》してゐるだろう。|一度《いちど》|姫《ひめ》に|会《あ》つて|幼少《えうせう》からの|吾《わが》|心《こころ》の|底《そこ》を|打明《うちあ》かし、ユツクリと|物語《ものがた》つて|見《み》たいものだが、|吾《われ》は|刹帝利《せつていり》の|王族《わうぞく》、ヤスダラ|姫《ひめ》は|最早《もはや》|毘舎《びしや》の|女房《にようばう》と|迄《まで》なり|下《さが》つた|以上《いじやう》は|到底《たうてい》|此《この》|世《よ》では|面会《めんくわい》も|叶《かな》ふまい。|一国《いつこく》の|王者《わうじや》の|身《み》でありながら、|一生《いつしやう》の|大事《だいじ》たる|許嫁《いひなづけ》の|最愛《さいあい》の|妻《つま》に|生《い》き|別《わか》れ、|斯様《かやう》な|苦《くる》しき|月日《つきひ》を|送《おく》らねばならぬとは|如何《いか》なる|宿世《すぐせ》の|因縁《いんねん》か、あゝヤスダラ|姫《ひめ》よ、|余《よ》が|心《こころ》を|汲《く》み|取《と》つてくれ』
と|追恋《つゐれん》の|情《じやう》に|堪《た》へかねて|思《おも》はず|知《し》らず|落涙《らくるい》に|咽《むせ》んで|居《ゐ》る。かかる|所《ところ》へ|襖《ふすま》をサラリと|引《ひ》き|開《あ》け、|少《すこ》しく|顔色《かほいろ》を|変《か》へて|絹《きぬ》ずれの|音《おと》サラサラと|入《い》り|来《きた》りしはサマリー|姫《ひめ》なりき。
『|王様《わうさま》、|貴方《あなた》の|此《この》|頃《ごろ》の|御機嫌《ごきげん》の|悪《わる》いこと、|一通《ひととほ》りや|二通《ふたとほり》りでは|厶《ござ》いませぬ。|妾《わらは》も|日夜《にちや》|貴方《あなた》|様《さま》の|不機嫌《ふきげん》なお|顔《かほ》を|拝《をが》みましては|到底《たうてい》やりきれませぬから、|本日《ほんじつ》|限《かぎ》りお|暇《ひま》を|賜《たまは》りたう|存《ぞん》じます』
と|意味《いみ》ありげに|声《こゑ》を|震《ふる》はせて|詰《なじ》る|様《やう》に|云《い》ふ。|王《わう》は|驚《おどろ》いてサマリー|姫《ひめ》の|顔《かほ》をツクヅクと|見守《みまも》りながら、
『|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|其方《そなた》の|言葉《ことば》、|何《なに》かお|気《き》に|障《さは》つたかなア』
『いえいえ、|決《けつ》して|決《けつ》して|気《き》に|障《さは》る|様《やう》な|事《こと》は|厶《ござ》りませぬ。|何《なん》と|申《まを》しても|誠忠《せいちう》|無比《むひ》の|左守《さもり》の|司様《かみさま》のお|娘《むすめ》、|許嫁《いひなづけ》のおありなすつたヤスダラ|姫様《ひめさま》を|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|吾《わが》|父《ちち》カールチンが|放逐《はうちく》して、|貴方《あなた》のお|気《き》に|入《い》らない|妾《わたし》を|后《きさき》に|納《い》れられたのですから、|貴方《あなた》の|日夜《にちや》の|御不快《ごふくわい》は|無理《むり》も|厶《ござ》りませぬ。|最早《もはや》|今日《けふ》となつては|妾《わらは》もやりきれませぬ。|互《たがひ》に|愛《あい》のない、|諒解《りやうかい》のない|夫婦《ふうふ》|位《くらゐ》|不幸《ふかう》なものは|厶《ござ》りませぬから、|妾《わらは》は|何《なん》と|仰有《おつしや》いましても、|今日《けふ》|限《かぎ》りお|暇《ひま》を|頂《いただ》き|父《ちち》の|館《やかた》へ|下《さが》ります』
『これサマリー|姫《ひめ》、|今更《いまさら》|左様《さやう》な|事《こと》を|云《い》つてくれては|困《こま》るぢやないか。|少《すこ》しは|私《わたし》の|身《み》にもなつて|呉《く》れたら|如何《どう》だ』
『はい、|貴方《あなた》のお|嫌《きら》ひな|妾《わらは》がお|側《そば》に|仕《つか》へて|居《ゐ》ましては、|却《かへつ》て|貴方《あなた》のお|気《き》を|揉《も》ませ|苦《くる》しめます|道理《だうり》、|妾《わらは》の|如《ごと》き|卑《いや》しき|身分《みぶん》の|者《もの》がヤスダラ|姫様《ひめさま》の|地位《ちゐ》を|奪《うば》ひ、|斯様《かやう》な|地位《ちゐ》に|置《お》かれるのは|実《じつ》に|心苦《こころぐる》しう|厶《ござ》ります。|提灯《ちやうちん》に|釣鐘《つりがね》、|月《つき》に|鼈《すつぽん》の|配偶《はいぐう》も|同様《どうやう》、|互《たがひ》に|苦情《くじやう》の|出《で》ない|間《うち》に|別《わか》れさして|下《くだ》さいましたならば、|妾《わらは》は|何程《なにほど》|幸福《かうふく》だか|知《し》れませぬ。|今《いま》|貴方《あなた》の|独言《ひとりごと》を|聞《き》くとはなくに|承《うけたま》はれば、|誠忠《せいちう》|無比《むひ》の|左守《さもり》の|司《かみ》の|娘《むすめ》ヤスダラ|姫《ひめ》を|吾《わが》|父《ちち》のカールチンが|放逐《はうちく》し、|気《き》に|入《い》らぬサマリー|姫《ひめ》を|后《きさき》に|納《い》れたのは|残念《ざんねん》だと|仰有《おつしや》つたでは|厶《ござ》いませぬか。|何《なん》と|云《い》つてもお|隠《かく》しなされても、もう|駄目《だめ》で|厶《ござ》ります。|妾《わらは》はこれから|父《ちち》の|家《いへ》に|帰《かへ》り、|父《ちち》より|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》へ|伺《うかが》ひを|立《た》て、|其《その》|上《うへ》で|妾《わらは》の|身《み》の|振《ふ》り|方《かた》を|定《き》めて|頂《いただ》きますから、|何卒《なにとぞ》これまでの|縁《えん》と|思《おも》つて|下《くだ》さいませ』
と|早《はや》|立上《たちあが》らうとするを|王《わう》は|狼狽《あは》てて|姫《ひめ》の|袖《そで》を|引掴《ひつつか》み、
『さう|短気《たんき》を|起《おこ》すものではない。|其方《そなた》は|私《わし》を|困《こま》らさうと|致《いた》すのだな』
『いえいえ、お|困《こま》らし|申《まを》す|所《どころ》か、|貴方《あなた》がお|気楽《きらく》におなり|遊《あそ》ばす|様《やう》にと|気《き》をもんで|居《ゐ》るので|厶《ござ》ります。|左様《さやう》なら、|御免《ごめん》|下《くだ》さいませ』
と|王《わう》の|手《て》を|振《ふ》り|放《はな》し、|怒《いか》りの|血相《けつさう》|物凄《ものすご》く|父《ちち》の|館《やかた》へ|指《さ》して|一目散《いちもくさん》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
セーラン|王《わう》は|姫《ひめ》の|狂気《きやうき》の|如《ごと》く|駆《か》け|出《だ》した|後《あと》に|只《ただ》|一人《ひとり》|黙然《もくねん》として|頭《かうべ》を|傾《かたむ》け、|吾《わが》|身《み》の|運命《うんめい》は|如何《いか》になり|行《ゆ》くかと、トツ、オイツ|思案《しあん》に|暮《く》れ|居《ゐ》たる。|其処《そこ》へシヅシヅと|入《い》り|来《きた》るは|左守《さもり》の|司《かみ》のクーリンスなりける。クーリンスはセーラン|王《わう》の|父《ちち》バダラ|王《わう》の|弟《おとうと》であつて、|言《い》はば|王《わう》の|叔父《をぢ》に|当《あた》る|刹帝利族《せつていりぞく》である。
『|王様《わうさま》、|今日《けふ》はお|早《はや》う|厶《ござ》います。|只今《ただいま》|登城《とじやう》の|際《さい》、|館《やかた》の|者《もの》の|噂《うはさ》を|聞《き》けば、サマリー|姫様《ひめさま》は|何《なに》か|王様《わうさま》と|争《いさか》ひでもなさつたと|見《み》え、|血相《けつさう》|変《か》へて|数多《あまた》の|家来《けらい》|共《ども》の|御引留《おひきとめ》|申《まを》すのも|聞《き》かず、|蹴倒《けたふ》し|薙払《なぎはら》ひ|一目散《いちもくさん》にカールチンの|館《やかた》へ|帰《かへ》られたさうで|厶《ござ》います。|兎《と》も|角《かく》|七八人《しちはちにん》の|家来《けらい》をカールチンの|館《やかた》へ|差向《さしむ》け、|姫《ひめ》を|迎《むか》へ|帰《かへ》るべく|取扱《とりあつか》つておきましたが、|一体《いつたい》|如何《どん》な|事《こと》を|仰有《おつしや》つたので|厶《ござ》りますか。|右守《うもり》の|司《かみ》カールチンは|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|大変《たいへん》なお|気《き》に|入《い》り、|王様《わうさま》も|左守《さもり》の|司《かみ》も|殆《ほとん》ど|眼中《がんちう》にないと|云《い》ふ|旭日昇天《きよくじつしようてん》の|勢《いきほひ》で|御座《ござ》りますれば、|今《いま》サマリー|姫《ひめ》の|機嫌《きげん》を|損《そん》じ、カールチンの|立腹《りつぷく》を|招《まね》かうものなら、|忽《たちま》ち|貴方《あなた》の|御身辺《ごしんぺん》も|危《あやふ》う|厶《ござ》りませう。|誠《まこと》に|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》ました』
『|何事《なにごと》も|天命《てんめい》と|諦《あきら》めるより|仕方《しかた》がない。|吾《われ》は|決《けつ》して|顕要《けんえう》の|地位《ちゐ》を|望《のぞ》まない。|仮令《たとへ》|首陀《しゆだ》でも|何《なん》でも|構《かま》はぬ。|夫婦《ふうふ》が|意気《いき》|投合《とうがふ》して|此《この》|世《よ》を|渡《わた》ることが|出来《でき》たならば、|此《この》|上《うへ》ない|余《よ》としての|喜《よろこ》びはないのだ』
『|王様《わうさま》、|何《なん》とした、つまらぬ|事《こと》を|仰有《おつしや》るのですか。|貴方《あなた》が|左様《さやう》なお|心《こころ》で|如何《どう》して|此《この》|入那《いるな》の|国《くに》が|治《をさ》まりませうぞ。|少《すこ》しは|気《き》を|強《つよ》くもつて|下《くだ》さらないと|吾々《われわれ》|左守《さもり》の|司《かみ》の|働《はたら》きが|出来《でき》ないぢやありませぬか。|王様《わうさま》あつての|左守《さもり》の|司《かみ》では|厶《ござ》りませぬか』
『もう|斯《か》うなる|以上《いじやう》は|何《なん》と|云《い》つても|仕方《しかた》がない。サマリー|姫《ひめ》が|帰《かへ》つた|以上《いじやう》は、|屹度《きつと》カールチンは|日頃《ひごろ》の|陰謀《いんぼう》を|遂《と》ぐるは|今《いま》|此《この》|時《とき》と、|大黒主《おほくろぬし》の|力《ちから》を|借《か》つて|遂《つひ》には|吾《わが》|地位《ちゐ》を|奪《うば》ひ、|入那《いるな》の|国《くに》を|掌握《しやうあく》する|事《こと》になるだろう。|如何《どう》なりゆくも|運命《うんめい》だと|余《よ》は|諦《あきら》めて|居《ゐ》る』
『|右守《うもり》の|司《かみ》のカールチンが|此《この》|頃《ごろ》の|傍若無人《ばうじやくぶじん》の|振舞《ふるまひ》は|怪《け》しからぬ、とは|云《い》ひながら、もとを|糺《ただ》せば|王様《わうさま》が|鬼雲姫《おにくもひめ》|様《さま》の|御退隠《ごたいいん》の|件《けん》に|就《つ》いて|御意見《ごいけん》を|遊《あそ》ばしたのが|原因《げんいん》となり、|王様《わうさま》は|鬼熊別《おにくまわけ》の|腹心《ふくしん》の|者《もの》と|睨《にら》まれ|給《たま》うたのが|起《おこ》りで|厶《ござ》います。|悪人《あくにん》の|覇張《はば》る|世《よ》の|中《なか》、|阿諛諂侫《あゆてんねい》の|徒《と》は|日《ひ》に|月《つき》に|勢力《せいりよく》を|張《は》り|天下《てんか》に|横行《わうかう》|闊歩《くわつぽ》し、|至誠《しせい》|忠直《ちうちよく》の|士《し》は|圧迫《あつぱく》される|世《よ》の|中《なか》ですから、|少《すこ》しは|王様《わうさま》も|其《その》|間《かん》の|消息《せうそく》をお|考《かんが》へ|遊《あそ》ばし、|社交的《しやかうてき》の|頭脳《づなう》になつて|頂《いただ》かねばなりますまい。クーリンスは|心《こころ》に|染《そ》まぬ|事《こと》とは|知《し》りながら、お|家《いへ》の|為《た》めを|思《おも》ひ|剛直《がうちよく》|一途《いちづ》の|貴方《あなた》|様《さま》に|対《たい》し|涙《なみだ》を|呑《の》んで|御忠告《ごちうこく》を|申上《まをしあ》げます』
『|仮令《たとへ》|大黒主《おほくろぬし》に|睨《にら》まれ、|国《くに》は|奪《と》らるるとも|王位《わうゐ》を|剥《は》がるるとも、|仮令《たとへ》|吾《わが》|生命《いのち》は|奪《うば》はるるとも、|吾《われ》は|断《だん》じて|邪悪《じやあく》に|与《くみ》する|事《こと》は|出来《でき》ぬ。|放埒不羈《ほうらつふき》にして|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|限《かぎ》りを|尽《つく》す|大黒主《おほくろぬし》の|頤使《いし》に|甘《あま》んずるよりも、|鬼熊別《おにくまわけ》|様《さま》の|趣旨《しゆし》に|賛《さん》し、|亡《ほろ》ぼさるるが|本望《ほんまう》だ。あゝもう|此《この》|上《うへ》そんな|事《こと》は|云《い》つて|呉《く》れるな』
『だと|申《まを》して|此《この》|儘《まま》に|打《う》ちやり|置《お》けば|大変《たいへん》な|事《こと》になります』
『|余《よ》は|昨夜《さくや》の|夢《ゆめ》に、|北光彦《きたてるひこ》の|神《かみ》と|云《い》ふ|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|神人《しんじん》|顕《あら》はれ|来《きた》り|諭《さと》し|給《たま》ふやう「|汝《なんぢ》の|一身《いつしん》を|始《はじ》め|入那《いるな》の|国家《こくか》は|実《じつ》に|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|秋《とき》に|瀕《ひん》せり、|之《これ》を|救《すく》ふに|一《ひと》つの|道《みち》がある。それは|外《ほか》でもない、|鬼熊別《おにくまわけ》の|神司《かむづかさ》の|妻子《さいし》なる|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》は、|今《いま》や|三五教《あななひけう》の|神力無双《しんりきむさう》の|宣伝使《せんでんし》となつて|居《ゐ》る。|彼《かれ》はハルナの|都《みやこ》へ|言霊戦《ことたません》を|開始《かいし》すべく|出陣《しゆつぢん》の|途中《とちう》、|此《この》|入那《いるな》の|国《くに》を|通過《つうくわ》すべければ、|彼《かれ》をカールチンの|部下《ぶか》の|捕《とら》へぬ|間《うち》に|汝《なんぢ》が|部下《ぶか》に|捜索《そうさく》せしめ、|密《ひそか》に|此《この》|館《やかた》に|誘《いざな》ひ|帰《かへ》りなば、カールチンやサマリー|姫《ひめ》の|勢力《せいりよく》|如何《いか》に|強《つよ》くとも、|到底《たうてい》|敵《てき》すべからず。|今《いま》や|大黒主《おほくろぬし》は|鬼春別《おにはるわけ》、|大足別《おほだるわけ》の|両将《りやうしやう》をして|大部隊《だいぶたい》の|軍卒《ぐんそつ》を|引率《いんそつ》せしめ|出陣《しゆつぢん》したる|後《あと》なれば、|今日《こんにち》の|大黒主《おほくろぬし》の|勢力《せいりよく》は|前日《ぜんじつ》の|如《ごと》くならず、|早《はや》く|部下《ぶか》の|忠誠《ちうせい》なる|人物《じんぶつ》を|選《えら》み、|母娘《おやこ》|両人《りやうにん》の|行手《ゆくて》を|擁《よう》し、|此《この》|王城《わうじやう》にお|立寄《たちよ》りを|願《ねが》ふべし」との|事《こと》であつた。クーリンス、|夢《ゆめ》であつたか|現《うつつ》であつたか、|余《よ》には|判然《はんぜん》と|分《わか》らないが、|屹度《きつと》これは|真実《しんじつ》であらうと|思《おも》ふ。|其方《そなた》は|如何《どう》|思《おも》はるるか』
『|王様《わうさま》も|其《その》|夢《ゆめ》を|御覧《ごらん》になりましたか、へー、|何《なん》と|妙《めう》な|事《こと》があるものですな。|私《わたし》も|昨夜《さくや》その|夢《ゆめ》を|歴然《ありあり》と|見《み》ましたので、|実《じつ》は|夢《ゆめ》の|由《よし》を|申上《まをしあ》げむと|参《まゐ》つたので|厶《ござ》ります。こりや|屹度《きつと》|正《ただ》しき|神様《かみさま》のお|告《つ》げで|厶《ござ》りませう。|左様《さやう》ならば|時《とき》を|移《うつ》さず|忠実《ちうじつ》なる|部下《ぶか》を|選《えら》んで|表面《へうめん》は|母娘《おやこ》を|生捕《いけど》ると|称《しよう》し、|迎《むか》へて|参《まゐ》る|事《こと》に|致《いた》しませう』
『|然《しか》らばクーリンス|殿《どの》、|一時《いちじ》も|早《はや》く|其《その》|用意《ようい》を|頼《たの》む』
『はい』
と|答《こた》へてクーリンスは|恭《うやうや》しく|暇《いとま》を|告《つ》げ|一目散《いちもくさん》に|吾《わが》|家《や》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|王《わう》は|又《また》|独《ひと》り|黙然《もくねん》として|両手《りやうて》を|組《く》み、|少《すこ》しく|光明《くわうみやう》にふれたやうな|気分《きぶん》にもなつて|居《ゐ》た。
『|昨夜《さくや》の|夢《ゆめ》が|実現《じつげん》したならば|自分《じぶん》も|亦《また》|此《この》|苦《く》が|逃《のが》れられるであらう。うまく|行《ゆ》けば|再《ふたた》びヤスダラ|姫《ひめ》と|添《そ》ふことが|出来《でき》るかも|知《し》れない』
などと、|頼《たよ》りない|事《こと》を|思《おも》ひ|浮《う》かべながら|色々《いろいろ》と|考《かんが》へ|込《こ》んで|居《ゐ》る。そこへ|足音《あしおと》|高《たか》くカールチンの|一《いち》の|家来《けらい》と|聞《きこ》えたるユーフテスは、|虎《とら》の|威《ゐ》をかる|狐《きつね》の|勢《いきほひ》、|王者《わうじや》も|殆《ほとん》ど|眼中《がんちう》になき|有様《ありさま》にて、|案内《あんない》もなく|襖《ふすま》をサラリと|引《ひ》き|開《あ》け、
『|王様《わうさま》、|只今《ただいま》カールチン|様《さま》のお|使《つかひ》で|参《まゐ》りましたが、|貴方《あなた》|様《さま》はサマリー|姫様《ひめさま》を|虐待《ぎやくたい》|遊《あそ》ばし、|王者《わうじや》の|身《み》としてあるまじき|乱暴《らんばう》をお|働《はたら》きなさつたさうで|厶《ござ》りますな。|吾《わが》|主人《しゆじん》カールチン|様《さま》は|表向《おもてむ》き|貴方様《あなたさま》の|御家来《ごけらい》なり、|又《また》サマリー|姫様《ひめさま》の|父親《ちちおや》なれば、|王様《わうさま》にとつてはお|父様《とうさま》も|同然《どうぜん》で|厶《ござ》りませう。|親《おや》として|子《こ》の|不埒《ふらち》を、|何程《なにほど》|王者《わうじや》なりとて|戒《いまし》められずには|居《を》れないと|云《い》つて、ハルナの|都《みやこ》の|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|御許《おんもと》に|早馬使《はやうまづかひ》をお|立《た》てになりました。|何分《なにぶん》のお|沙汰《さた》あるまで|別館《べつくわん》に|行《い》つて|御謹慎《ごきんしん》をなさりませ』
と|横柄面《わうへいづら》に|打《う》ちつけるやうに|云《い》ふ。その|無礼《ぶれい》さ|加減《かげん》、|言語《ごんご》に|絶《ぜつ》した|振舞《ふるまひ》である。|王《わう》はカツと|怒《いか》り、
『|汝《なんぢ》、|臣下《しんか》の|分際《ぶんざい》として|余《よ》に|向《むか》つて|無礼千万《ぶれいせんばん》な、|左様《さやう》な|事《こと》は|聞《き》く|耳《みみ》もたぬ。ユーフテス、|汝《なんぢ》が|主人《しゆじん》カールチンに|対《たい》して|余《よ》は|今日《けふ》|限《かぎ》りサマリー|姫《ひめ》と|共《とも》に|暇《いとま》を|遣《つか》はす、|一時《いちじ》も|早《はや》く|右守《うもり》の|司《かみ》の|館《やかた》を|立出《たちい》で、|何処《どこ》へなりと|勝手《かつて》に|行《ゆ》けと|申伝《まをしつた》へよ』
と|声《こゑ》|荒《あ》らげてグツと|睨《ね》めつけ|叱《しか》りつくれば、ユーフテスは|案《あん》に|相違《さうゐ》の|王《わう》の|権幕《けんまく》に|縮《ちぢ》み|上《あが》り、|頭《あたま》をガシガシ|掻《か》きつつ、|狼《おほかみ》に|出会《であ》うた|痩犬《やせいぬ》の|様《やう》に|尾《を》を|垂《た》れ、|影《かげ》まで|薄《うす》くなつてシヨビ シヨビとして|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
『アハヽヽヽヽ、|右守《うもり》の|司《かみ》の|悪人《あくにん》に|仕《つか》ふるユーフテス|奴《め》、|余《よ》が|一喝《いつかつ》に|遇《あ》うて|悄気返《せうげかへ》り、|初《はじ》めの|勢《いきほひ》|何処《どこ》へやら、スゴスゴ|帰《かへ》り|行《ゆ》く|其《その》|有様《ありさま》、ほんに|悪《あく》といふものはマサカの|時《とき》になれば|弱《よわ》いものだな、アハヽヽヽヽ』
と|思《おも》はず|知《し》らず|高笑《たかわら》ひして|居《ゐ》る。そこへスタスタと|足早《あしばや》に|這入《はい》つて|来《き》たのはヤスダラ|姫《ひめ》の|妹《いもうと》セーリス|姫《ひめ》なり。
『|王様《わうさま》、|今日《けふ》は|御壮健《ごさうけん》なお|顔《かほ》を|拝《はい》し、セーリス|姫《ひめ》|誠《まこと》に|恐悦《きようえつ》に|存《ぞん》じます。|就《つ》きましては|早速《さつそく》ながら、|父《ちち》クーリンスの|命《めい》により|女《をんな》の|身《み》をも|顧《かへり》みず|罷《まか》り|出《い》でました。カールチンは|年来《ねんらい》の|野心《やしん》を|成就《じやうじゆ》するは|今《いま》|此《この》|時《とき》と、ハルナの|都《みやこ》へ|早馬使《はやうまづかひ》を|立《た》て|王様《わうさま》の|廃立《はいりつ》を|図《はか》つて|居《を》りまする。|就《つ》いては|吾《わが》|父《ちち》クーリンスはそれに|対《たい》する|準備《じゆんび》も|致《いた》さねばなりませず、|家老《からう》のテームスに|命《めい》じ|黄金姫《わうごんひめ》|母娘《おやこ》の|所在《ありか》を|探《さが》すべく|準備《じゆんび》の|最中《さいちう》なれば、|父《ちち》が|参《まゐ》る|暇《ひま》が|厶《ござ》りませぬので|不束《ふつつか》なる|女《をんな》の|妾《わらは》が|参《まゐ》つたので|厶《ござ》ります。|又《また》|父《ちち》が|幾度《いくど》も|登城《とじやう》|致《いた》しますれば|右守《うもり》の|身内《みうち》の|奴等《やつら》に|益々《ますます》|疑《うたが》はれ|事面倒《ことめんだう》となりますれば、|向後《かうご》を|慮《おもんぱか》り|妾《わらは》を|代理《だいり》として|参《まゐ》らせたので|厶《ござ》ります』
『あゝさうか。|事《こと》さへ|分《わか》れば|女《をんな》でも|結構《けつこう》だ。|時《とき》にセーリス|姫《ひめ》、|其方《そなた》はユーフテスに|今《いま》|会《あ》はなかつたか』
『ハイ、|只今《ただいま》お|廊下《らうか》で|会《あ》ひました。|大変《たいへん》な|悄気方《せうげかた》で|帰《かへ》つて|参《まゐ》りました。あの|男《をとこ》は|実《じつ》に|好《す》かない|人物《じんぶつ》で|厶《ござ》ります。|毎日日々《まいにちひにち》|妾《わらは》の|許《もと》へ|艶書《えんしよ》を|送《おく》り、それはそれは|嫌《いや》らしい|事《こと》を|云《い》つて|参《まゐ》ります。|本当《ほんたう》に|困《こま》つた|事《こと》で|厶《ござ》ります』
『ホー、そりや|都合《つがふ》のいい|事《こと》だ。これセーリス|姫《ひめ》、|近《ちか》う|近《ちか》う』
と|手招《てまね》きすれば、セーリス|姫《ひめ》は「はい」と|答《こた》へて|王《わう》の|側近《そばちか》くににじり|寄《よ》る。|王《わう》は|姫《ひめ》の|耳《みみ》に|口寄《くちよ》せ|何事《なにごと》か|囁《ささや》けば、セーリス|姫《ひめ》はニツコと|笑《わら》つて|打頷《うちうなづ》き|此《この》|場《ば》を|立《た》つて|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・一一・一〇 旧九・二二 北村隆光録)
第三章 |偽恋《にせこひ》〔一一〇七〕
セーラン|王《わう》の|一喝《いつかつ》にあひ、|悄然《せうぜん》として|早々《さうさう》|城内《じやうない》を|逃《に》げ|帰《かへ》り、|自宅《じたく》の|奥《おく》の|間《ま》に|手《て》を|組《く》んで|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《ゐ》るのは、|当時《たうじ》|城内《じやうない》にては|飛《と》ぶ|鳥《とり》も|落《おと》すやうな|勢力《せいりよく》|盛《さかん》なる|右守《うもり》の|司《かみ》カールチンの|家老職《からうしよく》ユーフテスである。そこへ|番頭《ばんとう》のコールが、|慌《あわただ》しく|馳《は》せ|来《きた》り、
『もしもし|旦那様《だんなさま》、|門前《もんぜん》に|素敵滅法界《すてきめつぱふかい》な|美人《びじん》が|現《あら》はれまして、|此《この》|手紙《てがみ》を|旦那様《だんなさま》に|渡《わた》して|呉《く》れと|申《まを》しました。さうして|直様《すぐさま》|御返事《ごへんじ》が|頂《いただ》きたいとの|事《こと》で|厶《ござ》います。|随分《ずゐぶん》|旦那様《だんなさま》も|固《かた》くるしいお|方《かた》のやうで|厶《ござ》いますが、○○の|道《みち》は|又《また》|格別《かくべつ》と|見《み》えますなア。|本当《ほんたう》に|油断《ゆだん》がなりませぬわい』
とニヤリと|笑《わら》ひ、|一通《いつつう》の|手紙《てがみ》をユーフテスに|渡《わた》す。ユーフテスは、
『コール、|何《なん》と|云《い》ふ|失礼《しつれい》な|事《こと》を|申《まを》すか、ちと|心得《こころえ》たがよからうぞよ』
『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました。【コール】からキツト|心得《こころえ》ます、イヒヽヽヽ』
と|小《ちひ》さく|笑《わら》ひながら、|踞《うづくま》つて|控《ひか》へて|居《ゐ》る。ユーフテスは|手早《てばや》く|其《その》|信書《しんしよ》を|押《お》し|展《ひら》き|検《あらた》め|見《み》れば、
|私《わたし》は|貴方様《あなたさま》に|幾度《いくたび》も|御親切《ごしんせつ》なお|手紙《てがみ》を|頂《いただ》きましたセーリス|姫《ひめ》で|厶《ござ》ります。|早速《さつそく》お|返事《へんじ》を|申上《まをしあ》げたいのは|山々《やまやま》で|厶《ござ》いましたが、|何《なに》を|云《い》うても|人目《ひとめ》の|関《せき》に|隔《へだ》てられ、|燃《も》ゆる|思《おも》ひを|押《お》し|隠《かく》し、|今日《こんにち》|迄《まで》|耐《こら》へ|忍《しの》んで|参《まゐ》りましたが、もはや|恋《こひ》の|炎《ほのほ》に|身《み》を|焼《や》かれ|立《た》つても|居《ゐ》てもゐられなくなつて|来《き》ました。それ|故《ゆゑ》|女《をんな》の|身《み》をもつて|御迷惑《ごめいわく》とは|存《ぞん》じながら|人目《ひとめ》を|忍《しの》びお|慕《した》ひ|申《まを》して|参《まゐ》つたので|厶《ござ》います。|何卒《なにとぞ》|御迷惑《ごめいわく》で|厶《ござ》いませうが、|一目《ひとめ》|逢《あ》はして|下《くだ》さいませぬか。|妾《わらは》はお|返事《へんじ》のある|迄《まで》|表門《おもてもん》にお|待《ま》ち|申《まを》して|居《を》ります。|一時《いちじ》も|早《はや》く|色《いろ》よきお|返事《へんじ》をお|待《ま》ち|申《まを》します。|穴賢《あなかしこ》
セーリスより
ユーフテス様へ
と|記《しる》しあるを|見《み》るより、ユーフテスは|俄《にはか》に|苦《にが》り|切《き》つた|顔《かほ》の|紐《ひも》を|無雑作《むざふさ》に|緩《ゆる》め、|牡丹餅《ぼたもち》を|砂原《すなはら》に|打《う》ちつけたやうな|崩《くづ》れた|相好《さうがう》で、|右手《みぎて》の|甲《かふ》で|流《なが》れ|落《お》つる|口辺《くちばた》の|唾涎《よだれ》の|始末《しまつ》をつけながら、|目《め》|迄《まで》|細《ほそ》くして|猫撫声《ねこなでごゑ》となり、
『オー、コール、よう|使《つかひ》に|来《き》て|呉《く》れた。|旦那様《だんなさま》が、|御多用中《ごたようちう》なれども|万障《ばんしやう》|繰合《くりあは》せ、|暫《しばら》くの|間《あひだ》|面会《めんくわい》すると|仰有《おつしや》るから|早《はや》くお|出《い》でなさいと|案内《あんない》をして|来《く》るのだぞ』
コールは|少《すこ》し|耳《みみ》が|遠《とほ》いので、|右《みぎ》の|手《て》で|耳《みみ》を|拘《かか》へながら、ユーフテスの|言葉《ことば》を|聞《き》き|噛《かぢ》り|怪訝《けげん》な|顔《かほ》して、
『エヽ|何《なん》と|仰有《おつしや》います。|多忙中《たばうちう》だから|面会《めんくわい》が|出来《でき》ない、|又《また》|出直《でなほ》して|来《き》て|下《くだ》さいと|申上《まをしあ》げるのですか。|折角《せつかく》あんな|天女《てんによ》が|天降《あまくだ》つて|来《き》たのに|素気《すげ》なう|追《お》ひ|帰《かへ》すと|云《い》ふ|事《こと》がありますかい。|三五教《あななひけう》ぢやないが、|些《ちつ》と|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|宣《の》り|直《なほ》しをなさつて、|一目《ひとめ》|逢《あ》つておやりなさつたらどうでせう』
『エヽ|聾《つんぼ》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|仕方《しかた》のないものだなア。|又《また》|聞《き》き|損《ぞこな》ひをして|折角《せつかく》|来《き》た|恋人《こひびと》を|追《お》ひ|出《だ》してしまはれては|大変《たいへん》だ。|手紙《てがみ》を|書《か》いてやるが|一番《いちばん》|間違《まちが》ひがなくて|宜《よ》からう』
とユーフテスは、|文箱《ふばこ》より|料紙《れうし》を|取《と》り|出《だ》し|筆《ふで》に|墨《すみ》を|滲《にじ》ませ、|筆《ふで》の|穂《ほ》を|一寸《ちよつと》かんでプツプと|黒《くろ》い|唾《つば》を|二《ふた》つ|三《み》つ|吐《は》きながら、すらすらと|何事《なにごと》か|書《か》き|流《なが》し|厳封《げんぷう》した|上《うへ》、
『オイ、コール、|貴様《きさま》は|耳《みみ》が|遠《とほ》いから|間違《まちが》ひがあつては|困《こま》るによつて、|其《その》|女《をんな》に|此《この》|手紙《てがみ》を|渡《わた》すのだ。サア|早《はや》くこれをもつて|往《ゆ》けや』
と|声《こゑ》を|高《たか》め|耳《みみ》のはた|近《ちか》く|寄《よ》つて|云《い》ひつける。コールは|忽《たちま》ち|呑《の》み|込《こ》み|顔《がほ》、
『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|肩《かた》を|怒《いか》らし|一足々々《ひとあしひとあし》|四股踏《しこふ》みながら|表門《おもてもん》さして|走《はし》り|出《い》で、
『コレ、ナイス、お|前《まへ》も|余《あま》り|気《き》が|利《き》かねえぢやないか。こんな|白昼《はくちう》に、そんな|白首《しらくび》がのそのそとやつて|来《く》るものだから、|旦那様《だんなさま》が|大変《たいへん》な|嫌《いや》な|顔《かほ》をなさつて|御迷惑《ごめいわく》をして|居《ゐ》なさる。サア|早《はや》く|帰《かへ》つたがよからうぞ。|多忙《たばう》で|万障《ばんしやう》|繰《く》り|合《あ》つて|居《を》るから、|断《ことわ》り|状《じやう》をお|書《か》き|遊《あそ》ばしたから|之《これ》を|読《よ》んで|諦《あきら》めて|帰《かへ》つたがよからう。|本当《ほんたう》に|気《き》が|利《き》かねえ|女《をんな》だなア。そんな|不味《まづ》いやり|方《かた》で、ユーフテス|様《さま》を|擒《とりこ》にしようと|思《おも》つたつて、|手管《てくだ》に|乗《の》せようと|思《おも》つたつて|駄目《だめ》だぞ、アハヽヽヽ』
『|何《なに》、ユーフテス|様《さま》が|帰《かへ》つてくれと|仰有《おつしや》つたのかい。そんな|筈《はづ》はありますまいが』
『さてさて|強太《しぶと》い|女《をんな》だなア。|何《なに》よりも|其《その》|断《ことわ》り|状《じやう》が|証拠《しようこ》だ。|早《はや》く|封《ふう》|押《お》し|切《き》つて|読《よ》んで|見《み》なさい。さうしたら【こなさん】の|仰有《おつしや》る|事《こと》が|嘘《うそ》でないと|云《い》ふ|事《こと》が|一目《いちもく》|瞭然《れうぜん》となるであらう。あゝ|惜《を》しいものだなア。|旦那様《だんなさま》も|逢《あ》ひたい|事《こと》であらうが、|矢張《やつぱり》|俺達《おれたち》に|昼《ひる》だと|思《おも》つて|気兼《きがね》をしてゐらつしやると|見《み》える。ヤイ|女《をんな》、|今晩《こんばん》|裏口《うらぐち》からやつて|来《こ》い。|此《この》コールが|気《き》を|利《き》かしてソツと|逢《あ》はしてやるから、イヒヽヽヽ』
セーリス|姫《ひめ》は|慌《あわただ》しく|封《ふう》じ|目《め》を|切《き》り、ソツと|読《よ》み|下《くだ》せば|美事《みごと》な|筆跡《ひつせき》で|艶《なま》めかしい|文字《もんじ》が|列《つら》ねてある。|姫《ひめ》はニツコリと|打《う》ち|笑《わら》ひながら|静々《しづしづ》と|門《もん》の|閾《しきゐ》を|跨《また》げて|奥《おく》に|入《い》らうとする。コールは|頻《しき》りに|首《くび》を|傾《かたむ》け、
『|何《なん》とまア、|押尻《おしけつ》の|強《つよ》い|女《をんな》だなア。それだから|今時《いまどき》の|女《をんな》は|奴転婆《どてんば》と|云《い》ふのだよ。|百鬼昼行《ひやくきちうこう》とは|此《この》|事《こと》だ。こんな|厳粛《げんしゆく》なお|館《やかた》へ|昼《ひる》の|日中《ひなか》に|白首《しらくび》が|往来《わうらい》するやうになつては、|最早《もはや》|世《よ》も|末《すゑ》だ』
と|云《い》ひながら、セーリス|姫《ひめ》の|袖《そで》をグツと|握《にぎ》り、
『これこれ、|何処《どこ》のナイスか|知《し》らぬが|厚顔《あつかま》しい、|断《ことわ》り|言《い》はれた|家《うち》へ|入《はい》ると|云《い》ふ|事《こと》があるか。|早《はや》く|帰《かへ》つたり|早《はや》く|帰《かへ》つたり』
とグツと|力《ちから》にまかして|引《ひ》き|戻《もど》さうとするのをセーリス|姫《ひめ》は、
『エヽ|面倒《めんだう》』
と|一《ひと》つ|肱《ひぢ》を|振《ふ》つた|途端《とたん》に、コールは|二三間《にさんげん》ばかり|跳飛《はねと》ばされドスンと|大地《だいち》に|尻餅《しりもち》をつき、アイタヽヽと|面《つら》を|顰《しか》めて|姫《ひめ》の|姿《すがた》を|見送《みおく》つて|居《ゐ》る。|姫《ひめ》はコールに|頓着《とんちやく》なく、|奥庭《おくには》さして|進《すす》み|入《い》る。
ユーフテスは、セーリス|姫《ひめ》の|入《い》り|来《きた》るを|今《いま》や|遅《おそ》しと|待《ま》つ|間《ま》の|長《なが》き|鶴《つる》の|首《くび》、|石亀《いしがめ》のやうに|手足《てあし》を|急《せは》しく|動《うご》かしながら、|座敷中《ざしきちう》を|願望《ぐわんばう》|成就《じやうじゆ》の|時節《じせつ》|到来《たうらい》とステテコ|踊《をど》りをやつて|居《ゐ》る、そこへサラサラと|衣摺《きぬず》れの|音《おと》|聞《きこ》えて|入《い》り|来《く》る|人《ひと》の|跫音《あしおと》は、どうやらセーリス|姫《ひめ》らしいので、|俄《にはか》に|眉毛《まゆげ》を|撫《な》でたり|目脂《めやに》が|溜《たま》つて|居《ゐ》ないかといぢつてみたり、|鼻糞《はなくそ》を|掃除《さうぢ》したり|唾涎《よだれ》を|拭《ぬぐ》つたり|襟《えり》を|直《なほ》したり、|態《わざ》とに|躍《をど》る|胸《むね》を|撫《な》でながら|控《ひか》へて|居《ゐ》る。どことはなしに|顔《かほ》はパツと|紅葉《もみぢ》を|散《ち》らし|心《こころ》|落《お》ちつかぬ|様子《やうす》である。|其処《そこ》へ|襖《ふすま》をソツと|押《お》し|開《あ》けて|一瞥《いちべつ》、|城《しろ》を|覆《くつが》へすやうな|絶世《ぜつせい》の|美人《びじん》、イルナ|城《じやう》の|花《はな》と|謳《うた》はれたセーリス|姫《ひめ》が|立居《たちゐ》もいと|淑《しと》やかに|満面《まんめん》に|笑《ゑみ》を|湛《たた》へ|入《い》り|来《きた》る|姿《すがた》は、|牡丹《ぼたん》か|芍薬《しやくやく》か|百合《ゆり》の|花《はな》か、|又《また》も|違《ちが》うたら|白蓮華《しろれんげ》、|桔梗《ききやう》の|花《はな》の|雨露《あめつゆ》に|霑《うるほ》ふ|優姿《やさすがた》、|淑《しと》やかに|白《しろ》き|細《ほそ》き|柔《やはら》かき|鼈甲《べつかふ》のやうな|皮膚《きめ》の|細《こま》かい|手《て》をつきながら、|態《わざ》とに|声《こゑ》を|震《ふる》はせ|恥《はづ》かし|気《げ》に、
『ユーフテス|様《さま》、お|懐《なつ》かしう|厶《ござ》います』
と|云《い》つたきり|畳《たたみ》に|首《くび》を|打《う》ちつけて|態《わざ》とに|肩《かた》で|息《いき》をして|見《み》せる。ユーフテスはニコニコしながら|嬉《うれ》しさうな|顔《かほ》をして、|女《をんな》に|馬鹿《ばか》にしられてはならぬ、|此処《ここ》が|一《ひと》つ|男《をとこ》の|売《う》り|所《どころ》だと|云《い》はむばかりに|儼然《げんぜん》として、
『セーリス|姫《ひめ》|殿《どの》、|此《この》|白昼《はくちう》に|女《をんな》の|身《み》として|人目《ひとめ》も|繁《しげ》きに|拘《かかは》らず、お|訪《たづ》ね|下《くだ》さるとは|些《ちつ》と|不注意《ふちうい》では|厶《ござ》らぬか。|左様《さやう》な|気《き》の|利《き》かない|貴女《あなた》とは|思《おも》はなかつた。|今迄《いままで》|吾々《われわれ》も|姫《ひめ》の|容色《ようしよく》に|迷《まよ》ひ、|幾度《いくたび》となく|艶書《えんしよ》を|差上《さしあ》げたなれど、|決《けつ》して|自分《じぶん》の|本心《ほんしん》では|厶《ござ》らぬ|事《こと》はない。|何用《なによう》あつて|今頃《いまごろ》|吾《わが》|宅《たく》をお|訪《たづ》ねなさつたか、|女《をんな》の|分際《ぶんざい》として|些《ち》と|不届《ふとど》きでは|厶《ござ》らぬかナ』
と|空威張《からゐば》りして|見《み》せて|居《ゐ》る。
『ホヽヽヽヽお|情《なさけ》ないそのお|言葉《ことば》、それ|程《ほど》|妾《わたし》がお|気《き》に|入《い》りませぬなら|只今《ただいま》|限《かぎ》りお|暇《いとま》を|致《いた》します。|不束《ふつか》な|女《をんな》が|参《まゐ》りましてお|腹《はら》を|立《た》てさせまして|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》が|厶《ござ》いませぬ。|妾《わたし》も|女《をんな》のはしくれ、|今迄《いままで》|貴方《あなた》に|操《あやつ》られて|居《ゐ》たかと|思《おも》へば|腹《はら》が|立《た》ちます』
と|立《た》ち|上《あが》り、クルリと|後《うしろ》を|向《む》け|帰《かへ》らうとするのをユーフテスはあわてて|引《ひ》き|止《と》め、
『マヽヽマお|待《ま》ちなさいませ。|短気《たんき》は|損気《そんき》、|姫様《ひめさま》のやうにさう|早取《はやど》りをしられては|困《こま》ります。|貴女《あなた》は|貴《たふと》い|刹帝利《せつていり》の|家筋《いへすぢ》、|私《わたし》は|卑《いや》しい|首陀《しゆだ》の|成《な》り|上《あが》りもの、|到底《たうてい》|階級《かいきふ》が|違《ちが》ひますから、|貴女《あなた》のお|傍《そば》へも|寄《よ》れない|身分《みぶん》で|厶《ござ》いますが、|恋《こひ》には|上下《じやうげ》の|隔《へだ》てなしとか、つい|失礼《しつれい》な|事《こと》を|申上《まをしあ》げました。どうぞ|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
『ホヽヽヽそりや|何《なに》を|仰有《おつしや》いますか。|若《わか》き|血潮《ちしほ》の|湧《わ》き|満《み》ちた|佳人《かじん》と|佳人《かじん》、|誰《たれ》に|遠慮《ゑんりよ》が|厶《ござ》いませう。|現界《げんかい》の|階級《かいきふ》は|階級《かいきふ》と|致《いた》しましても、|恋愛《れんあい》と|云《い》ふ|神聖《しんせい》な|道《みち》には|上下《じやうげ》の|区別《くべつ》は|厶《ござ》いますまい。|妾《わたし》は|左様《さやう》な|階級的《かいきふてき》|制度《せいど》は|気《き》に|入《い》りませぬ。|何《なん》とかして|時代《じだい》に|目醒《めざ》めたる|婦人《ふじん》を|集《あつ》め|恋愛神聖論《れんあいしんせいろん》を|天下《てんか》に|高調《かうてう》したいと|内々《ないない》|活動中《くわつどうちう》で|厶《ござ》いますよ、ホヽヽヽ』
『|思《おも》ひの|外《ほか》|開《ひら》けた|姫様《ひめさま》だナア。それだから|此《この》ユーフテスが|好《す》きで|耐《たま》らないと|申《まを》しまするのだ。いやもうズツと|気《き》に|入《い》りました。|斯《か》うして|姫様《ひめさま》の|御心中《ごしんちう》を|承《うけたま》はつた|以上《いじやう》は|何《なに》も|彼《か》も|打《う》ち|明《あ》けて、|一《ひと》つ|天下《てんか》の|為《た》めに|大活動《だいくわつどう》を|致《いた》さうぢやありませぬか』
『|左様《さやう》で|厶《ござ》います。|恋愛《れんあい》は|恋愛《れんあい》として|置《お》きまして、|一《ひと》つ|此《この》|世《よ》に|生《うま》れて|来《き》た|以上《いじやう》は、|貴方《あなた》と|妾《わたし》と|夫婦《ふうふ》となり、|息《いき》を|合《あは》して|纒《まと》まつた|大事業《だいじげふ》を|起《おこ》したらどうでせうかなア』
『ホー、そいつは|面白《おもしろ》い。それだからどうしてもお|前《まへ》さまの|事《こと》が|思《おも》ひ|切《き》れないと|云《い》ふのだ。エヘヽヽヽ』
『オホヽヽヽ、|貴方《あなた》も|仲々《なかなか》|隅《すみ》に|置《お》けない|悪人《あくにん》ですなア』
『そりやさうでせうかい、|右守《うもり》さまのお|気《き》に|入《い》りになつて|居《を》る|位《くらゐ》だから。エヽ|併《しか》し|姫様《ひめさま》は|左守《さもり》さまの|御息女《おんむすめ》、|表面《へうめん》は|左守《さもり》|右守《うもり》として|日々《にちにち》お|勤《つと》めになつて|親密《しんみつ》さうにして|厶《ござ》るが、|心《こころ》の|中《なか》は|犬《いぬ》と|猿《さる》、|丁度《ちやうど》|仇《かたき》|同士《どうし》のやうなもので|厶《ござ》いますなア。こいつを|何《なん》とかして|都合《つがふ》よく|纒《まと》めたいものです。さうでなければ、|私《わたし》と|貴女《あなた》との|恋《こひ》はいつ|迄《まで》も|完全《くわんぜん》に|維持《ゐぢ》することは|出来《でき》ますまい』
『|何《なん》と|不思議《ふしぎ》の|事《こと》を|承《うけたま》はります。|左守《さもり》、|右守《うもり》の|両役《りやうやく》はセーラン|王様《わうさま》の|両腕《りやううで》、|鳥《とり》で|云《い》はば|左右《さいう》の|翼《つばさ》、どうしてそんな|暗闘《あんとう》が|厶《ござ》いませうぞ。それは|何《なに》かのお|考《かんが》へ|違《ちが》ひでは|厶《ござ》いますまいかなア』
ユーフテスは|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、
『イエイエどうしてどうして、|大変《たいへん》な|暗闘《あんとう》で|厶《ござ》いますよ。|暗闘《あんとう》の|中《うち》はまだ|宜《よろ》しいが、|今日《こんにち》の|所《ところ》は|既《すで》に|表向《おもてむき》の|戦《たたか》ひになりかけて|居《を》りますよ』
セーリス|姫《ひめ》は|態《わざ》と|驚《おどろ》いたやうな|顔付《かほつき》きで、|一寸《ちよつと》|口《くち》を|尖《とが》らし|目《め》を|丸《まる》くし、ユーフテスの|顔《かほ》を|打《う》ち|眺《なが》めながら、
『それは|大変《たいへん》な|事《こと》を|承《うけたま》はりました。|果《はた》してそんな|事《こと》があつたら|妾《わたし》はどう|致《いた》しませうか。|貴方《あなた》との|恋《こひ》も|従《したが》つて|駄目《だめ》になりませう。それが|残念《ざんねん》で|厶《ござ》います』
と|空涙《そらなみだ》を|零《こぼ》して|俯向《うつむ》く。
『|訳《わけ》を|申《まを》さねば|分《わか》りますまいが、|貴女《あなた》のお|姉様《ねえさま》のヤスダラ|姫様《ひめさま》が、セーラン|王様《わうさま》の|御許婚《いひなづけ》であつた|事《こと》は|御存《ごぞん》じの|通《とほ》りです。さうした|処《ところ》が、セーラン|王様《わうさま》は|余《あま》り|剛直《がうちよく》|一方《いつぱう》のお|方《かた》で、|世上《せじやう》の|交際《かうさい》がまづいため、|当時《たうじ》|勢《いきほひ》|並《なら》ぶものなき|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|御意見《ごいけん》を|申上《まをしあ》げたり、|又《また》|鬼熊別《おにくまわけ》|様《さま》に|同情《どうじやう》をしたり|遊《あそ》ばすものだから、|大棟梁様《だいとうりやうさま》の|御気勘《ごきかん》に|触《さは》り、|既《すで》にイルナの|国王《こくわう》を|召《め》し|上《あ》げらるる|所《ところ》であつたのを、|右守《うもり》のカールチン|様《さま》が|種々《いろいろ》と|弁解《べんかい》を|遊《あそ》ばし、|一時《いちじ》は|無事《ぶじ》に|治《をさ》まつたので|厶《ござ》います。|其《その》|代《かは》りにヤスダラ|姫様《ひめさま》をテルマン|国《ごく》のシヤールといふ|毘舎《びしや》の|家《いへ》に|降《くだ》し、カールチン|様《さま》のお|息女《むすめ》サマリー|姫様《ひめさま》を|妃《きさき》に|入《い》れて|漸《やうや》う|其《その》|場《ば》のゴミを|濁《にご》し、イルナの|国《くに》を|今日《こんにち》|迄《まで》|維持《ゐぢ》してお|出《い》でになつたのは、|隠《かく》れたる|忠臣《ちうしん》カールチン|様《さま》で|厶《ござ》います。|貴女《あなた》の|父上《ちちうへ》クーリンス|様《さま》は|左守《さもり》の|職《しよく》にありながら、|社交術《しやかうじゆつ》が|不味《まづ》いためにイルナの|国《くに》を|既《すで》に|棒《ぼう》に|振《ふ》らうとなさいました。|此《この》|間《かん》の|消息《せうそく》を|知《し》つて|居《ゐ》るものは、|此《この》ユーフテスしかありませぬよ。|定《さだ》めてセーラン|王様《わうさま》もカールチンは|不忠《ふちう》な|奴《やつ》、|自分《じぶん》の|娘《むすめ》を|妃《きさき》となし、ヤスダラ|姫《ひめ》を|退《の》け、|遂《つひ》にはイルナの|国《くに》を|占領《せんりやう》しようとするものと|早合点《はやがつてん》してゐらつしやるさうですが、|如何《いか》に|隠《かく》れたる|忠臣《ちうしん》たるカールチン|様《さま》だとて、サマリー|姫様《ひめさま》を|王様《わうさま》が|虐待《ぎやくたい》なされ、それがため|御離縁《ごりえん》になるやうな|事《こと》があればそれこそ|大変《たいへん》です。|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|対《たい》してでも、カールチン|様《さま》は|反旗《はんき》を|翻《ひるがへ》し、|涙《なみだ》を|呑《の》んでセーラン|王《わう》を|国家《こくか》のために|放逐《はうちく》せなければならぬやうになつて|居《を》ります』
『|何《なん》とマア|右守様《うもりさま》は、そのやうな|立派《りつぱ》なお|方《かた》で|厶《ござ》いますかなア。|最前《さいぜん》|貴方《あなた》は|大悪人《だいあくにん》の|右守《うもり》の|部下《ぶか》だからと|仰有《おつしや》つたでは|厶《ござ》いませぬか』
『そりや|悪人《あくにん》と|云《い》へば|悪人《あくにん》でせう。|一《ひと》つ|虫《むし》の|居所《ゐどころ》が|悪《わる》くなつたら、どんな|事《こと》をなさるか|計《はか》り|難《がた》い|権幕《けんまく》ですから「|君《きみ》|君《きみ》たらずんば|臣《しん》|臣《しん》たるべからず」と|常々《つねづね》|仰有《おつしや》つて|居《ゐ》ましたから、|今度《こんど》サマリー|姫様《ひめさま》が|王様《わうさま》と|争《いさかひ》をしてお|帰《かへ》りになつたを|機《しほ》に、ハルナの|都《みやこ》に|早馬使《はやうまづかひ》を|立《た》てられましたから、キツト|王様《わうさま》の|為《ため》に|好《よ》い|事《こと》はありますまい。|併《しか》しながらこのユーフテスは、カールチン|様《さま》の|秘密《ひみつ》の|鍵《かぎ》を|握《にぎ》つた|男《をとこ》、|私《わたし》の|首《くび》の|振《ふ》りやう|一《ひと》つで|大抵《たいてい》の|事《こと》は|結末《けつまつ》がつきますから、|貴女《あなた》と|斯《か》うなつた|以上《いじやう》は、|秘密《ひみつ》さへ|守《まも》つて|下《くだ》さるなら、|何《なに》も|彼《か》も|相談《さうだん》し|合《あ》つて、|貴女《あなた》のお|願《ねが》ひとならばセーラン|王様《わうさま》をお|助《たす》けしないものでもありませぬ。|又《また》クーリンス|様《さま》をお|助《たす》けするもしないも、|皆《みな》|此《この》ユーフテスの|手《て》に|握《にぎ》つて|居《を》る|絶対《ぜつたい》|権利《けんり》でありますからなア』
と|稍《やや》|傲慢気《がうまんげ》に|述《の》べ|立《た》てるを、セーリス|姫《ひめ》は|態《わざ》と|心配気《しんぱいげ》な|顔《かほ》をして、
『|実《じつ》を|申《まを》せば、|妾《わたし》だつて|王様《わうさま》に|対《たい》しあまり|深《ふか》い|恩顧《おんこ》を|受《う》けたと|云《い》ふでもなし、|貴方《あなた》とかうして|気楽《きらく》に|暮《くら》さるれば、これに|越《こ》したる|喜《よろこ》びは|厶《ござ》いませぬワ』
『|姫《ひめ》がさういふお|心《こころ》なら、|私《わたし》は|何《なに》も|彼《か》も|包《つつ》まずに|云《い》ひませう。|実《じつ》は|大黒主《おほくろぬし》の|大棟梁《だいとうりやう》より、|幾度《いくたび》も|密使《みつし》が|参《まゐ》り、カールチン|様《さま》に|入那《いるな》の|国《くに》の|国王《こくわう》となれとの|御命令《ごめいれい》、それについては|鬼熊別《おにくまわけ》の|妻子《さいし》が|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》となり、バラモン|教《けう》の|根底《こんてい》を|攪乱《かくらん》すべく|斎苑館《いそやかた》の|本拠《ほんきよ》を|立《た》ち|出《い》でて|此方《こなた》に|来《く》るとの|事《こと》で、|彼《かれ》を|一日《いちにち》も|早《はや》く|引《ひ》き|捕《とら》へよとの|御厳命《ごげんめい》、それさへ|早《はや》く|手《て》に|入《い》れば、カールチン|様《さま》は|忽《たちま》ちイルナの|国王《こくわう》とおなり|遊《あそ》ばし、ユーフテスは|直《ただち》に|左守《さもり》に|抜擢《ばつてき》される|事《こと》に|極《きま》つて|居《を》ります。これは|大《だい》の|秘密《ひみつ》ですから|誰《だれ》にも|言《い》つてはなりませぬぞや』
『それは|嬉《うれ》しい|事《こと》で|厶《ござ》います。|仮令《たとへ》どうならうと|貴方《あなた》の|御出世《ごしゆつせ》さへ|出来《でき》れば、|妾《わたし》は|貴方《あなた》の|女房《にようばう》、|麻《あさ》につれ|添《そ》う|蓬《よもぎ》とやら、|一緒《いつしよ》に|権力《けんりよく》がのび|行《ゆ》くのですから、どうぞ|御成功《ごせいこう》を|望《のぞ》みます』
『イヤ、それ|聞《き》いて|私《わたし》も|安心《あんしん》を|致《いた》しました。それならセーリス|姫《ひめ》|殿《どの》、キツト|私《わたし》の|妻《つま》ですなア。|必《かなら》ず|変心《へんしん》して|下《くだ》さるなや』
『|女《をんな》の|一心《いつしん》|岩《いは》でも|射貫《いぬ》く、|妾《わたし》は|決《けつ》して|変《かは》りませぬ。|貴方《あなた》こそ|左守《さもり》とおなり|遊《あそ》ばしたら|妾《わたし》をお|捨《す》てなさるのでせう。それが|心配《しんぱい》でなりませぬわ』
『|決《けつ》して|決《けつ》して、|左様《さやう》な|心配《しんぱい》はして|下《くだ》さるな。|二世三世《にせさんせ》は|愚《おろ》か|五百世《いほせ》まで|誠《まこと》の|夫婦《ふうふ》で|厶《ござ》る』
『それを|承《うけたま》はつてヤツと|安心《あんしん》を|致《いた》しました。|併《しか》しながら|人目《ひとめ》の|関《せき》も|厶《ござ》りますれば、|今日《けふ》はこれでお|暇《いとま》を|致《いた》します。どうぞ|女《をんな》が|度々《たびたび》|参《まゐ》りましては|目的《もくてき》の|妨《さまた》げになりますから、|城内《じやうない》でお|目《め》にかかりませう』
『あゝ|惜《を》しい|別《わか》れだが|二人《ふたり》の|将来《しやうらい》の|為《た》めだ。それならここで|別《わか》れませう』
『|明日《あす》|御登城《ごとじやう》になりましたら、どうぞ|妾《わたし》の|居間《ゐま》をお|訪《たづ》ね|下《くだ》さいませ。|併《しか》し|人目《ひとめ》もありますから、|態《わざ》とに|素気《すげ》なう|致《いた》して|居《を》りますから、|必《かなら》ずお|気《き》に|触《さ》へて|下《くだ》さいますなや』
『|口《くち》で|悪《わる》|云《い》うて|心《こころ》でほめて|蔭《かげ》の|惚気《のろけ》が|聞《き》かしたい……と|云《い》ふ|筆法《ひつぱふ》ですな、アハヽヽヽ』
『オホヽヽヽ|左様《さやう》ならばお|暇《いとま》|致《いた》します』
と|両人《りやうにん》は|立《た》ち|上《あが》り|堅《かた》く|手《て》を|握《にぎ》り|合《あ》ひ、|目《め》と|目《め》を|見合《みあ》はし、|残《のこ》り|惜《を》しげに|左右《さいう》に|袂《たもと》を|分《わか》てり。
(大正一一・一一・一〇 旧九・二二 加藤明子録)
第四章 |右守館《うもりやかた》〔一一〇八〕
|右守《うもり》の|司《かみ》カールチンは|妻《つま》のテーナと|共《とも》に|酒《さけ》|汲《く》み|交《かは》しながら、|夜《よ》の|更《ふ》くる|迄《まで》、ホロ|酔《よひ》|機嫌《きげん》になつて、セーラン|王《わう》|追放《つゐはう》の|奸策《かんさく》を|謀《はか》つてゐる。
『|旦那様《だんなさま》、|今度《こんど》こそは|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》も|御承知《ごしようち》|下《くだ》さるでせうなア。セーラン|王様《わうさま》は、|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|最《もつと》も|御嫌《おいや》な|鬼熊別《おにくまわけ》の|一派《いつぱ》だと|云《い》ふ|事《こと》を、あれ|丈《だけ》|何回《なんくわい》も|虚実《きよじつ》|交々《こもごも》|取交《とりま》ぜて|内通《ないつう》しておいたのですから』
『|今度《こんど》こそは|本望《ほんまう》|成就《じやうじゆ》の|時《とき》が|来《き》たのだ。いよいよ|願望《ぐわんばう》|成就《じやうじゆ》する|上《うへ》は、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》は|入那《いるな》の|刹帝利《せつていり》となるのだから、|長生《ながい》きはせにやならないものだ。|今《いま》までサマリー|姫《ひめ》を|犠牲《ぎせい》にして|后《きさき》に|上《あ》げてゐたが、どうやら|王《わう》は|俺達《おれたち》の|企《たく》みを|悟《さと》つたらしく、サマリー|姫《ひめ》に|対《たい》して、|大変《たいへん》にキツく|当《あた》るので、|姫《ひめ》は|泣《な》きもつて|逃《に》げて|帰《かへ》つて|来《き》よつた。グヅグヅしてゐると|悪《あく》の|企《たく》みの|現《あら》はれ|口《ぐち》だ。|先《さき》んずれば|人《ひと》を|制《せい》すと|云《い》ふから、|姫《ひめ》が|帰《かへ》つたのをキツカケに|早馬使《はやうまづかひ》をハルナの|都《みやこ》へ|遣《つか》はしたのだから、キツトこちらの|使《つかひ》が、|先《さき》に|到着《たうちやく》してるに|違《ちが》ひない。セーラン|王《わう》が|使《つかひ》をやつた|所《ところ》で、|最早《もはや》あとのまつり、|何《なん》と|俺《おれ》のやり|方《かた》は|敏捷《びんせう》なものだらう。アハヽヽヽ』
『|旦那様《だんなさま》は|何時《いつ》とても|機《き》をみるに|敏《びん》なる|方《かた》ですから、|私《わたし》も|貴郎《あなた》のやうな|夫《をつと》に|添《そ》うたのは|何程《なにほど》|幸福《かうふく》だか|知《し》れませぬワ。|時《とき》に|可哀相《かあいさう》なのはサマリー|姫《ひめ》ぢや|厶《ござ》いませぬか。|娘《むすめ》にトツクリと|言《い》ひ|含《ふく》めて、セーラン|王《わう》の|后《きさき》に|上《あ》げたのだけれど、|今《いま》ではどうやら|親《おや》の|意思《いし》は|忘却《ばうきやく》し、|王様《わうさま》に|恋着心《れんちやくしん》を|持《も》つてゐるやうな|塩梅《あんばい》だ。|実《ほん》に|罪《つみ》な|事《こと》をしたものですなア。あゝして|帰《かへ》つては|来《き》て|居《ゐ》るものの、|私《わたし》が|考《かんが》へて|居《を》れば、|寝言《ねごと》に|迄《まで》|王《わう》を|慕《した》うてゐるのだから|困《こま》つたものです。さうだから|如何《いか》に|吾《わが》|生《う》んだ|娘《むすめ》だと|云《い》つて、|此《この》|計略《けいりやく》を、|今日《けふ》となつては|娘《むすめ》の|前《まへ》では|云《い》ふ|訳《わけ》には|行《ゆ》かず、|万一《まんいち》|娘《むすめ》が|聞《き》かうものなら、|王《わう》に|内通《ないつう》をするかも|知《し》れませぬからなア』
『そんな|不心得《ふこころえ》な|事《こと》を|致《いた》し、|親《おや》に|反《そむ》くやうな|奴《やつ》は、|埒《らち》よく|手討《てう》ちに|致《いた》せばいいぢやないか。こんな|大望《たいまう》を|抱《いだ》いてる|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》が、|子《こ》の|一人《ひとり》|二人《ふたり》|犠牲《ぎせい》にするのは|前《まへ》|以《もつ》て|覚悟《かくご》して|居《ゐ》なくてはならぬではないか』
『それは|又《また》、|余《あま》り|胴慾《どうよく》ぢや|厶《ござ》りませぬか。|何程《なにほど》|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》が|出世《しゆつせ》をしたとて、|肝腎《かんじん》の|後《あと》を|継《つ》ぐ|子《こ》がなくては、|何《なん》にもなりますまい。|千年《せんねん》も|万年《まんねん》も|生《い》きられるものではなし、|子《こ》が|可愛《かあい》いばかりに、こんな|心配《しんぱい》をして|居《ゐ》るのぢやありませぬか』
『さう|云《い》へばさうだが、|諺《ことわざ》にも|言《い》ふぢやないか、|子《こ》を|捨《す》てる|藪《やぶ》はあつても|吾《わが》|身《み》を|捨《す》てる|藪《やぶ》はないと。まさかになつたら|子《こ》をすてて|自分《じぶん》の|命《いのち》を|全《まつた》うするのが|当世《たうせい》だ…………イヤ|人情《にんじやう》だ。|俺《おれ》だつて|立派《りつぱ》に|目的《もくてき》を|達《たつ》し、|吾《わが》|子《こ》に|後《あと》を|継《つ》がしたいのは|山々《やまやま》だが、その|子《こ》のために|陰謀《いんぼう》|露顕《ろけん》して、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》の|命《いのち》をとられるやうなことが|出来《しゆつたい》|致《いた》したら、それこそ|大変《たいへん》ぢやないか』
『あなたは|吾《わが》|子《こ》に|対《たい》し、|左様《さやう》な|水臭《みづくさ》い|御考《おかんが》へですか。|私《わたし》は|自分《じぶん》の|命《いのち》は|如何《どう》ならうとも、|吾《わが》|子《こ》さへ|立派《りつぱ》になつてくれれば、それで|満足《まんぞく》を|致《いた》します』
『|馬鹿《ばか》だなア、それだから|母親《ははおや》は|甘《あま》いと|云《い》ふのだ。|吾《わが》|子《こ》だと|云《い》つても、|体《からだ》を|分《わ》けた|以上《いじやう》は|他人《たにん》ぢやないか。|其《その》|証拠《しようこ》には|吾《わが》|子《こ》が|何程《なにほど》|大病《たいびやう》で|苦《くる》しんで|居《を》つても、|親《おや》の|体《からだ》にチツとも|痛痒《つうやう》を|感《かん》じないではないか』
『|何《なん》とマアあなたはどこ|迄《まで》も|無慈悲《むじひ》な|方《かた》ですなア。|私《わたし》は|娘《むすめ》が|大病《たいびやう》になつた|時《とき》、|自分《じぶん》の|体《からだ》が|苦《くる》しくなつて|寝《ね》られず、|出来《でき》る|事《こと》なら、|娘《むすめ》に|代《かは》つて|患《わづら》うてやりたいと|迄《まで》|思《おも》ひましたよ』
『|俺《おれ》だつてチツとばかりは|娘《むすめ》の|苦《くる》しんでるのを|見《み》た|時《とき》は|体《からだ》にこたへたが、|併《しか》し|娘《むすめ》の|苦痛《くつう》に|比《くら》ぶれば、|二十分《にじふぶん》の|一《いち》|位《くらゐ》な|苦《くる》しさだつた。ヤツパリ|自分《じぶん》が|苦《くる》しむのは|辛《つら》いから、|如何《どう》しても|秘密《ひみつ》が【ばれ】るとあれば、|娘《むすめ》を|手討《てうち》にしてでも、|夫婦《ふうふ》の|命《いのち》を|助《たす》からねばならない。|親《おや》の|云《い》ふ|事《こと》をきかぬ|奴《やつ》は|不孝者《ふかうもの》だから、|親《おや》が|手討《てうち》にするのが、|何《なに》それが|悪《わる》い。アカの|他人《たにん》でさへも|吾々《われわれ》の|秘密《ひみつ》をもらし、|規則《きそく》を|破《やぶ》つたならば、|大根《だいこん》を|切《き》るやうにヅボリヅボリと|首《くび》を|切《き》り|捨《す》てるぢやないか。|切《き》られた|奴《やつ》だつて、ヤツパリ|親《おや》も|兄弟《きやうだい》も|子《こ》もあるのだから、|苦《くる》しいのは|同《おな》じ|事《こと》だ。そんな|事《こと》を|言《い》つてゐたら、|到底《たうてい》|此《この》|世《よ》に|立派《りつぱ》に|暮《くら》して|行《ゆ》くことは|出来《でき》ない。|自己《じこ》を|守《まも》るのが|第一《だいいち》だよ』
『|其《その》|筆法《ひつぱふ》で|参《まゐ》りますと、あなたは|自分《じぶん》の|命《いのち》を|助《たす》ける|為《ため》に、|私《わたし》の|命《いのち》を|取《と》らねばならぬ|時《とき》が|来《き》たら、|私《わたし》を|殺《ころ》しますか』
『きまつた|事《こと》だ。|夫《をつと》の|為《ため》に|女房《にようばう》が|代理《だいり》となつて|殺《ころ》され、|夫《をつと》の|命《いのち》を|救《すく》ふのは、|名誉《めいよ》ぢやないか。|後世《こうせい》|迄《まで》|貞女《ていぢよ》の|鑑《かがみ》として|謳《うた》はれるのだから、|殺《ころ》された|女房《にようばう》の|方《はう》が|何程《なにほど》|光栄《くわうえい》だか|知《し》れないぞ』
『|貴郎《あなた》はハルナの|都《みやこ》へお|参《まゐ》りになつてから、|大変《たいへん》に|冷酷《れいこく》になられましたなア。|大方《おほかた》|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》が|憑依《ひようい》してるのではありますまいか』
『|上《かみ》のなす|所《ところ》|下《しも》|之《これ》に|倣《なら》ふと|云《い》ふ、|川上《かはかみ》の|水《みづ》はキツと|川下《かはしも》へ|流《なが》れて|来《く》るものだ。|俺《おれ》も|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》のお|気《き》に|入《い》るやうになつた|位《くらゐ》だから、|大功《たいこう》は|細瑾《さいきん》を|顧《かへり》みず、チツとばかりの|犠牲《ぎせい》|位《くらゐ》は|春風《はるかぜ》が|面《おもて》を|吹《ふ》く|位《くらゐ》にも|思《おも》つてゐないのだ』
『さうすると、|貴郎《あなた》は|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》が|鬼雲姫《おにくもひめ》|様《さま》を|追出《おひだ》し|遊《あそ》ばした|様《やう》に、|外《ほか》に|立派《りつぱ》な|女《をんな》があつたら、|追《お》ひ|出《だ》すのでせうなア』
『オイ、そこ|迄《まで》|追窮《つゐきう》するな、|水臭《みづくさ》くなるからなア』
『ヘン、よう|仰有《おつしや》いますワイ。|親子《おやこ》は|一世《いつせい》、|夫婦《ふうふ》は|二世《にせ》と|云《い》つて、|切《き》つても|切《き》れぬ|親子《おやこ》をば、|自己《じこ》|保全《ほぜん》の|為《ため》には|殺《ころ》しても|差支《さしつかへ》ないと|云《い》ふ|主義《しゆぎ》の|貴郎《あなた》が、|何時《いつ》でも|取替《とりか》へこの|出来《でき》る|女房《にようばう》に|対《たい》し、|離縁《りえん》する|位《くらゐ》は|朝飯前《あさめしまへ》のことでせう。|本当《ほんたう》にここ|迄《まで》|思想《しさう》も|悪化《あくくわ》すれば|申分《まをしぶん》はありますまい』
『コリヤ、|人《ひと》のことだと|思《おも》ふと、|吾《わが》|事《こと》だぞ。|貴様《きさま》もセーラン|王《わう》を|廃《はい》する|事《こと》に|就《つ》いて、|俺《おれ》と|始終《しじう》|相談《さうだん》をした|悪人《あくにん》ぢやないか。|其《その》|発頭人《ほつとうにん》は|貴様《きさま》だらうがな。|貴様《きさま》が|何時《いつ》も|右守《うもり》となつてクーリンスの|下役《したやく》になつてゐるのは|腑甲斐《ふがひ》ない|男《をとこ》だと、|口癖《くちぐせ》のやうに|悔《くや》んだものだから、|元《もと》から|善人《ぜんにん》でもない|俺《おれ》が、つい|貴様《きさま》に|感染《かんせん》してこんな|善《よ》くもない、|自分《じぶん》としては|悪《わる》くもない|企《たく》みを|始《はじ》めたのぢやないか』
『オホヽヽヽようマアそんな|白々《しらじら》しいことを|仰有《おつしや》りますワイ、|流石《さすが》は|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》のお|気《き》に|入《い》り|丈《だけ》あつて、エライ|事《こと》を|仰有《おつしや》りますなア』
『|夫婦喧嘩《ふうふげんくわ》はいい|加減《かげん》に|切上《きりあ》げようぢやないか。サマリー|姫《ひめ》の|耳《みみ》へ|這入《はい》つたら|大変《たいへん》だからのう』
『ナアニ、|這入《はい》つたつて|構《かま》ひますものか。|貴郎《あなた》はマサカ|違《ちが》へば|一人《ひとり》よりない|娘《むすめ》を|殺《ころ》し、|私《わたし》を|鬼雲姫《おにくもひめ》|様《さま》の|二《に》の|舞《まひ》にするといふ|残酷《ざんこく》な|御精神《ごせいしん》だから、そんなこと|思《おも》ふと|阿呆《あはう》らしくて、こんな|危《あぶ》ない|芸当《げいたう》は|出来《でき》ませぬワ。サマリー|姫《ひめ》だつて|貴郎《あなた》|一人《ひとり》の|子《こ》ではなし、|私《わたし》の|腹《はら》を|痛《いた》めて|出来《でき》た|娘《むすめ》、そんな|水臭《みづくさ》いことを|仰有《おつしや》ると、|私《わたし》が|承知《しようち》しませぬぞや』
と|話《はな》す|所《ところ》へサマリー|姫《ひめ》は|目《め》を|腫《はら》しながら、|恐《こは》さうに|現《あら》はれ|来《きた》り、
『お|父《とう》さま、お|母《か》アさま、モウお|寝《やす》みになつたら|如何《いかが》で|厶《ござ》いますか』
カールチンは|打驚《うちおどろ》き、
『お|前《まへ》はサマリー|姫《ひめ》、|何故《なぜ》|今頃《いまごろ》にこんな|所《ところ》へ|出《で》て|来《く》るのだ。いい|加減《かげん》に|寝間《ねま》へ|行《い》つて|寝《やす》まないか。|大方《おほかた》|二人《ふたり》の|話《はなし》を|立聞《たちぎき》したのだらう』
『ハイ、|委細《ゐさい》の|様子《やうす》|残《のこ》らず|承《うけたま》はりました。どうぞ|私《わたし》を|御存分《ごぞんぶん》に|遊《あそ》ばして|下《くだ》さいませ。|鬼《おに》の|親《おや》を|持《も》つたと|思《おも》うて|諦《あきら》めますから………』
『コリヤ|娘《むすめ》、|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》を|申《まを》すか、|鬼《おに》の|親《おや》とは|何《なん》だ』
『オホヽヽヽ|此《この》サマリー|姫《ひめ》は|王様《わうさま》と|争論《いさかひ》をしてカールチンの|館《やかた》へ|帰《かへ》つて|来《き》ては|居《ゐ》るものの、|実際《じつさい》を|言《い》へば|王《わう》の|后《きさき》、サマリー|姫《ひめ》だよ。|親《おや》とは|云《い》ひながら、|汝《なんぢ》は|臣下《しんか》の|身分《みぶん》だ。|不届《ふとどき》な|事《こと》を|申《まを》すと|了簡《れうけん》は|致《いた》さぬぞや。サア|存分《ぞんぶん》にして|貰《もら》ひませう』
と|身《み》をすりよせ、カールチンの|前《まへ》に|投出《なげだ》す。
『ヨシ、|最早《もはや》|陰謀《いんぼう》|露《あら》はれた|上《うへ》は、|到底《たうてい》|許《ゆる》しておくべき|汝《なんぢ》でない。|主従《しゆじゆう》もクソもあつたものかい。サア|覚悟《かくご》を|致《いた》せ』
と|立上《たちあが》り、|刀《かたな》を|掴《つか》み|引抜《ひきぬ》かむとするを、テーナはグツと|其《その》|手《て》を|握《にぎ》り、
『コレ、カールチン|殿《どの》、|滅多《めつた》な|事《こと》をしてはなりませぬぞや』
『|今《いま》となつてはサマリー|姫《ひめ》を|殺《ころ》し、|陰謀《いんぼう》の|露顕《ろけん》を|防《ふせ》ぐよりほかに|途《みち》はない。サア|覚悟《かくご》を|致《いた》せ』
と|又《また》もや|柄《つか》に|手《て》をかけるを、テーナは|後《うしろ》より|力限《ちからかぎ》りに|抱《いだ》き|止《と》め、|声《こゑ》を|限《かぎ》りに、
『サマリー|姫《ひめ》|殿《どの》、|早《はや》く|逃《に》げさせられよ』
と|促《うなが》すを、サマリー|姫《ひめ》は|平然《へいぜん》としてビクとも|動《うご》かず、
『ホツホヽヽ、カールチン|殿《どの》も|随分《ずゐぶん》|耄碌《まうろく》しましたねえ。|妾《わらは》|一人《ひとり》の|命《いのち》を|取《と》つて、それで|此《この》|陰謀《いんぼう》が|現《あら》はれないと|思《おも》つてゐますか。|最早《もはや》|王様《わうさま》のお|耳《みみ》に|入《い》つた|以上《いじやう》は|駄目《だめ》ですよ。|何程《なにほど》|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|御威勢《ごゐせい》が|強《つよ》くても、|数百里《すうひやくり》を|隔《へだ》てたハルナの|都《みやこ》から、さう|早速《さつそく》に|御加勢《ごかせい》は|出来《でき》ますまい。|又《また》|王様《わうさま》には|忠誠《ちうせい》|無比《むひ》の|家来《けらい》も|沢山《たくさん》に|従《つ》いて|居《を》りますれば、|貴郎《あなた》が|何程《なにほど》あせつても|駄目《だめ》でせう。|妾《わらは》はこれよりカールチンの|首《くび》を|取《と》り、|王様《わうさま》にお|土産《みやげ》となし、|疑《うたがひ》を|晴《はら》し、|元《もと》の|如《ごと》く|可愛《かあい》がつて|頂《いただ》きますから、|夫婦《ふうふ》|共《とも》、|其処《そこ》に、|姫《ひめ》の|命令《めいれい》だ、お|坐《すわ》り|召《め》され。|入那《いるな》の|国王《こくわう》の|后《きさき》サマリー|姫《ひめ》、キツと|申付《まをしつ》ける』
テーナ『コレコレ|姫様《ひめさま》、そんな|没義道《もぎだう》なことがありますか。|海山《うみやま》の|恩《おん》を|受《う》けたる|両親《りやうしん》を|刃《やいば》にかくるとは、|人間《にんげん》にあるまじき|仕業《しわざ》では|厶《ござ》らぬか』
『|親《おや》の|教育《けういく》が|祟《たた》つたのだから、|仕方《しかた》がありますまい。|吾《わが》|身《み》の|為《ため》には|子《こ》の|命《いのち》でも|取《と》ると、|只今《ただいま》|仰有《おつしや》つたでせう。|骨肉《こつにく》|相食《あひは》む、|無道《ぶだう》の|教《をしへ》をなさつた|貴方《あなた》、|已《や》むを|得《え》ますまい。サア|覚悟《かくご》をなされ』
カールチン『イヤ|姫様《ひめさま》、|暫《しばら》くお|待《ま》ち|下《くだ》さいませ。つい|酒《さけ》の|上《うへ》で|女房《にようばう》を|揶揄《からか》つてゐたまでで|厶《ござ》います。|決《けつ》して|決《けつ》して|勿体《もつたい》ない。|仮令《たとへ》|吾《わが》|子《こ》といひながら、|王《わう》の|后《きさき》とおなり|遊《あそ》ばした|貴方《あなた》に|対《たい》し|如何《どう》して|不義《ふぎ》の|刃《やいば》が|当《あ》てられませうか』
『|貴方《あなた》は|既《すで》に|王様《わうさま》に|対《たい》し、|無形《むけい》の|刃《やいば》を|当《あ》てがつて|居《ゐ》るではありませぬか。|大《だい》それた|野心《やしん》を|起《おこ》し、|自分《じぶん》が|王位《わうゐ》に|取《と》つて|代《かは》らうとは、|人道《じんだう》にあるまじき|悪業《あくげふ》、|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》に|畏《おそ》れは|厶《ござ》いませぬか。|貴方《あなた》は、|妾《わらは》を|陰謀《いんぼう》の|犠牲《ぎせい》になさつたのでせう。これ|位《くらゐ》|残酷《ざんこく》なことは|厶《ござ》いますまい。|妾《わらは》の|朝夕《てうせき》の|心遣《こころづか》ひと|云《い》ふものは|一通《ひととほ》り|二通《ふたとほり》りでは|厶《ござ》いませぬぞ。|王様《わうさま》に|対《たい》し、お|気《き》の|毒《どく》でなりませぬから、|何時《いつ》とはなしに|王様《わうさま》に|同情《どうじやう》をする|様《やう》になり、|今《いま》では|恋《こ》ひしくなつて|参《まゐ》りました。|然《しか》るに|王様《わうさま》は|左守様《さもりさま》のお|娘《むすめ》ヤスダラ|姫様《ひめさま》に、|寝《ね》ても|起《お》きても|心《こころ》を|寄《よ》せ|給《たま》ひ、|妾《わらは》に|対《たい》しては|極《きは》めて|冷淡《れいたん》な|御扱《おあつか》ひ、これといふのも|両親《りやうしん》の|心《こころ》が|善《よ》くないから、|何《なん》とはなしに|王様《わうさま》の|心《こころ》に|叶《かな》はないのでせう。どうか|一日《いちにち》も|早《はや》く|御改心《ごかいしん》を|願《ねが》ひます。さうでなければサマリー|姫《ひめ》、|改《あらた》めて|両人《りやうにん》を|手討《てうち》に|致《いた》す、|覚悟《かくご》めされ』
と|懐剣《くわいけん》をスラリと|引抜《ひきぬ》けば、カールチンは|自棄糞《やけくそ》になり、
『ナアニ、|猪口才《ちよこざい》|千万《せんばん》な、|不孝娘《ふかうむすめ》』
と|云《い》ひながら、|手早《てばや》く|懐剣《くわいけん》を|奪《うば》ひ|取《と》り、グツと|後手《うしろで》に|縛《しば》り|上《あ》げ、|地下室《ちかしつ》へ|姫《ひめ》を|閉《と》ぢ|込《こ》めて|了《しま》つた。
|姫《ひめ》は|無念《むねん》の|歯《は》を|喰《く》ひしばり、|声《こゑ》を|限《かぎ》りにカールチンの|無道《ぶだう》を|罵《ののし》りながら|大自在天《だいじざいてん》|大国彦命《おほくにひこのみこと》|守《まも》り|給《たま》へ|幸《さち》はひ|給《たま》へ……と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らして|居《ゐ》る。
カールチンはヤツと|胸《むね》を|撫《な》でおろし、
『あゝコレで|一安心《ひとあんしん》だ。|世《よ》の|中《なか》は|思《おも》ふ|様《やう》に|行《ゆ》かぬものだなア。|体《からだ》は|生《う》みつけても、|魂《たましひ》は|生《う》みつけられぬとは|此処《ここ》の|事《こと》だ。オイ、テーナ、お|前《まへ》の|腹《はら》から|出《で》た|娘《むすめ》ながら、|随分《ずゐぶん》|義《ぎ》の|固《かた》い|立派《りつぱ》な|者《もの》だなア。|彼奴《あいつ》の|言《い》ふ|事《こと》は|真《しん》に|道理《だうり》に|叶《かな》つてゐる。|併《しか》しながら|今《いま》となつては|如何《どう》する|事《こと》も|出来《でき》ない。|可哀相《かあいさう》ながら|暫《しばら》く|牢獄《ひとや》に|放《はふ》り|込《こ》んで|置《お》くより|途《みち》はない。|陰謀《いんぼう》|露顕《ろけん》の|虞《おそれ》があるからのう……』
『|今《いま》サマリー|姫《ひめ》の|言葉《ことば》に|依《よ》れば、|吾々《われわれ》の|陰謀《いんぼう》は|最早《もはや》|王様《わうさま》や|其《その》|他《た》の|人々《ひとびと》に|分《わか》つてゐるやうですから、サマリー|姫《ひめ》|只《ただ》|一人《ひとり》|位《ぐらゐ》|暗室《あんしつ》へ|放《はふ》り|込《こ》んだ|所《ところ》で、|何《なん》の|効《かう》もありますまい。|吾《わが》|耳《みみ》を|抑《おさ》へて|鈴《すず》を|盗《ぬす》むやうな|話《はなし》ぢやありませぬか』
『アハヽヽヽ、|女童《をんなわらべ》の|分際《ぶんざい》として|英雄《えいゆう》の|心事《しんじ》や|智謀《ちぼう》が|分《わか》るものかい。|女《をんな》は|女《をんな》らしく|神妙《しんめう》に|夫《をつと》の|命令《めいれい》に|服従《ふくじゆう》すれば|良《よ》いのだ。|四《し》の|五《ご》の|申《まを》すと、|貴様《きさま》も|姫《ひめ》の|如《ごと》くに|牢獄《ひとや》にブチ|込《こ》んで|了《しま》ふぞ』
と|稍《やや》|声《こゑ》を|高《たか》めて|睨《ね》めつけ|叱《しか》り|付《つ》くる。
『オホヽヽヽ|怖《こは》い|事《こと》|怖《こは》い|事《こと》、モウこれきり、|何《なに》も|申《まを》しますまい』
『|女《をんな》は|沈黙《ちんもく》が|第一《だいいち》だ。|牝鶏《めんどり》|暁《あかつき》を|告《つ》げる|家《いへ》には|凶事《きようじ》|多《おほ》しといふ。|今後《こんご》は|俺《おれ》のする|事《こと》に|就《つ》いて|一口《ひとくち》でも|容喙《ようかい》しようものなら、|了簡《れうけん》は|致《いた》さぬぞ。|合点《がつてん》|致《いた》したか』
と|駄目《だめ》を|押《お》してゐる。テーナは|顔色《かほいろ》|青《あを》ざめて|稍《やや》|怒《いか》りを|帯《お》び、|夫《をつと》の|顔《かほ》を|恨《うら》めしげに|眺《なが》めてゐる。そこへ|慌《あわただ》しくやつて|来《き》たのは、カールチンが|股肱《ここう》と|頼《たの》むマンモスである。カールチン、テーナは|素知《そし》らぬ|風《ふう》を|装《よそほ》ひ、
『イヤ、マンモス、|何《なに》か|急用《きふよう》でも|起《おこ》つたのかな』
『ハイ、|少《すこ》しく|申上《まをしあ》げ|度《た》き|事《こと》が|厶《ござ》いまして……』
(大正一一・一一・一〇 旧九・二二 松村真澄録)
第五章 |急告《きふこく》〔一一〇九〕
セーラン|王《わう》の|館《やかた》の|玄関口《げんくわんぐち》にて|出会《であ》つたのは|右守《うもり》のカールチンが|右《みぎ》の|腕《うで》と|頼《たの》むマンモスとサモア|姫《ひめ》である。
『オー、マンモス|様《さま》、|今日《けふ》は|大変《たいへん》にお|早《はや》い|御登城《ごとじやう》で|厶《ござ》りますな。|貴方《あなた》の|御出世《ごしゆつせ》の|妨《さまた》げになると|何時《いつ》も|仰有《おつしや》るユーフテスの|事《こと》に|就《つ》いて、|私《わたし》が|一《ひと》つ|確《たしか》な|証拠《しようこ》を|握《にぎ》りましたから、|何卒《どうぞ》ソツと|一寸《ちよつと》|私《わたし》の|居間《ゐま》まで|来《き》て|下《くだ》さいませぬか。ここでは|人目《ひとめ》がはげしう|厶《ござ》りますから、|聞《き》かれちや|大変《たいへん》ですワ』
マンモスは|声《こゑ》を|潜《ひそ》めて、
『|何《なに》、ユーフテスの|何《なに》か|欠点《けつてん》を|見出《みい》だしたと|云《い》ふのか。よしよしそれなら|行《ゆ》きませう』
『|何卒《どうぞ》|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせて|妾《わたし》の|室《しつ》まで|来《き》て|下《くだ》さいませ』
と|四五間《しごけん》|離《はな》れて|先《さき》に|立《た》つて|行《ゆ》く。
マンモスは|姫《ひめ》の|後《うしろ》から|何喰《なにく》はぬ|顔《かほ》して|従《したが》ひつつ|後姿《うしろすがた》を|眺《なが》めて、
『|何《なん》と|好《い》い|女《をんな》だなア。|何処《どこ》ともなしに|気《き》が|利《き》いてる|奴《やつ》だ。|器量《きりやう》と|云《い》ひ、あの|足《あし》の|運《はこ》び|様《やう》と|云《い》ひ、|何処《どこ》に|欠点《けつてん》のない|女《をんな》だ。|俺《おれ》も|早《はや》く|思惑《おもわく》を|立《た》ててサモア|姫《ひめ》の|歓心《くわんしん》を|買《か》ひ、|一日《いちにち》も|早《はや》く|結婚《けつこん》の|式《しき》を|挙《あ》げたいものだ。|姫《ひめ》も|姫《ひめ》で|俺《おれ》には|特別《とくべつ》の|秘密《ひみつ》を|明《あか》して|呉《く》れるのだから|占《し》めたものだ。|俺《おれ》|位《ぐらゐ》|幸福《かうふく》な|者《もの》は|此《この》イルナの|国《くに》には、も|一人《ひとり》とあるまい。|先方《むかふ》も|俺《おれ》にはチヨイ|惚《ぼ》れなり|俺《おれ》の|方《はう》からは|大惚《おほぼ》れと|来《き》て|居《を》るのだから|堪《たま》らないわ、エヘヽヽヽ』
と|独《ひと》り|笑《わら》ひ|独《ひと》り|囁《ささや》き、サモア|姫《ひめ》の|室《しつ》に|忍《しの》び|入《い》る。サモア|姫《ひめ》は|長煙管《ながぎせる》で|煙草《たばこ》をつぎ|一服《いつぷく》|吸《す》ひつけて、|吸口《すひぐち》を|着物《きもの》の|袖《そで》で|拭《ふ》きながら|柳《やなぎ》の|葉《は》の|様《やう》な|細《ほそ》い|目《め》をして、
『さあマンモスさま、|一服《いつぷく》お|上《あが》り』
と|差出《さしだ》す。マンモスも|亦《また》|団栗眼《どんぐりまなこ》を|無理《むり》に|細《ほそ》くし、|猫《ねこ》の|様《やう》に|喉《のど》をゴロゴロならせ、|色男《いろをとこ》|気取《きど》りですまし|込《こ》んで、サモア|姫《ひめ》の|差出《さしだ》す|煙管《きせる》をソツと|受取《うけと》り、|体《たい》を|斜《しや》に|構《かま》へスパスパと|煙《けむり》を|輪《わ》に|吹《ふ》いて|居《ゐ》る。サモア|姫《ひめ》は|小声《こごゑ》になつて、
『これ、マンモスさま、|大変《たいへん》な|事《こと》が|見付《みつ》かりましたよ。|屹度《きつと》|貴方《あなた》の|御出世《ごしゆつせ》の|種《たね》ですわ』
マンモス|亦《また》|小声《こごゑ》になり、
『サモアさま、|何《なん》ですか、|早《はや》く|云《い》つて|下《くだ》さいな』
サモア|姫《ひめ》はツと|立上《たちあが》り|戸口《とぐち》を|少《すこ》しく|開《ひら》き、|顔《かほ》を|外《そと》へつき|出《だ》して|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》し、|幸《さいは》ひ|人《ひと》|無《な》きにヤツと|安心《あんしん》したものの|如《ごと》く、ピシヤリと|戸《と》を|締《し》め、|中《なか》から|固《かた》く|錠《ぢやう》を|下《おろ》し、マンモスの|前《まへ》に|静《しづか》に|坐《ざ》し、マンモスの|左《ひだり》の|手《て》をグツと|握《にぎ》り、|二《ふた》つ|三《み》つ|左右《さいう》に|振《ふ》り|立《た》て、
『これマンモスさま、|確《しつ》かりなさいませ。ここが|貴方《あなた》の|登竜門《とうりうもん》だ。ユーフテスさまが|内証《ないしよう》でクーリンスの|娘《むすめ》セーリス|姫《ひめ》のお|居間《ゐま》へ|忍《しの》び|入《い》り、カールチン|様《さま》の|凡《すべ》ての|計略《けいりやく》を|密々《ひそびそ》と|洩《も》らしてゐましたよ。|屹度《きつと》|二人《ふたり》は|情約《じやうやく》|締結《ていけつ》が|私《わたし》と|貴方《あなた》の|様《やう》に|済《す》んでゐると|見《み》えますワ。そしてセーラン|王様《わうさま》に|一切《いつさい》の|秘密《ひみつ》を|打明《うちあ》ける|考《かんが》へらしう|厶《ござ》りましたよ』
『そりや|本当《ほんたう》の|事《こと》ですか。|本当《ほんたう》ならば|私《わたし》と|貴女《あなた》にとつては|大変《たいへん》な|幸運《かううん》が|向《む》いて|来《き》たやうなものです』
『もしマンモスさま』
と|耳《みみ》に|口《くち》をよせ|何事《なにごと》か|暫《しばら》くの|間《あひだ》|囁《ささや》いて|居《ゐ》る。マンモスは|幾度《いくたび》も|打頷《うちうなづ》きながら、
『サモア|姫《ひめ》|殿《どの》、|随分《ずゐぶん》|気《き》をおつけなさい。|私《わたし》はこれからカールチン|様《さま》の|館《やかた》に|参《まゐ》つて|注進《ちゆうしん》を|致《いた》し、ユーフテスの|反逆《はんぎやく》を|逐一《ちくいち》|申上《まをしあ》げ、|彼《かれ》を|制敗《せいばい》|致《いた》して|貰《もら》ひませう。さうすれば、|吾々《われわれ》はカールチン|様《さま》の|一《いち》の|家来《けらい》となり、お|前《まへ》さまと|安楽《あんらく》に|立派《りつぱ》に|楽《たの》しい|月日《つきひ》が|送《おく》れますからな。|何程《なにほど》セーラン|王様《わうさま》が|御威勢《ごゐせい》が|高《たか》いと|云《い》つても、|鬼熊別《おにくまわけ》|様《さま》の|御系統《ごひつぱう》だから|決《けつ》して|恐《おそ》るるには|足《た》りますまい。カールチン|様《さま》は|右守《うもり》でも|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》のお|気《き》に|入《い》りだから|大《たい》したものですよ。|何《なん》と|云《い》つても|旗色《はたいろ》のよい|方《はう》へつくが|利口《りこう》の|人間《にんげん》のやり|方《かた》ですからな』
と|悪《あく》に|抜目《ぬけめ》のないマンモスは|一生懸命《いつしやうけんめい》に|城内《じやうない》を|立《た》ち|出《い》で、カールチンの|館《やかた》へ|慌《あわただ》しく|駆《か》け|込《こ》む。マンモスはカールチンの|館《やかた》の|裏口《うらぐち》から|忍《しの》び|入《い》り、|其《その》|儘《まま》|奥《おく》に|進《すす》み、カールチン、テーナ|姫《ひめ》|夫婦《ふうふ》の|前《まへ》に|両手《りやうて》をつき、
『|旦那様《だんなさま》、|奥様《おくさま》、|大変《たいへん》な|事《こと》が|起《おこ》りました。|御用心《ごようじん》なされませ』
カールチンは|此《この》|言葉《ことば》に|驚《おどろ》き|立膝《たてひざ》になつて、
『|何《なに》、|大変《たいへん》とは|何事《なにごと》ぞ。|早《はや》く|委細《ゐさい》を|物語《ものがた》れ』
とせき|立《た》てる。マンモスは|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》ひ、
『はい、|貴方《あなた》の|御信任《ごしんにん》|遊《あそ》ばすユーフテスの|事《こと》で|厶《ござ》ります。|貴方《あなた》は|彼《かれ》を|此上《こよ》なき|者《もの》と|御信用《ごしんよう》|遊《あそ》ばして|居《を》られますが、|彼《かれ》はセーラン|王《わう》の|間者《かんじや》で|厶《ござ》りますから|用心《ようじん》なさいませ。|人《ひと》もあらうにクーリンスの|娘《むすめ》セーリス|姫《ひめ》と|情《じやう》を|通《つう》じ、|一切《いつさい》の|秘密《ひみつ》をセーラン|王《わう》やクーリンスの|許《もと》へ|報告《はうこく》|致《いた》して|居《を》りまする。|今《いま》の|間《うち》に|彼《かれ》を|御制敗《ごせいばい》|遊《あそ》ばされねば、|貴方《あなた》の|御生命《おいのち》にも|関《かか》はる|一大事《いちだいじ》が|何時《いつ》|起《おこ》るかも|知《し》れませぬ。|私《わたし》はサモア|姫《ひめ》に|云《い》ひ|含《ふく》めて|様子《やうす》を|考《かんが》へさして|居《を》りました|所《ところ》、|確《たしか》な|証拠《しようこ》を|握《にぎ》りましたから、|今《いま》にも|彼《かれ》を|呼《よ》び|出《だ》して|御制敗《ごせいばい》なさるのがお|家《いへ》のため、お|身《み》のためと|恐《おそ》れながら|考《かんが》へます』
『|何《なに》、ユーフテスが|左様《さやう》な|裏返《うらがへ》り|的《てき》な|行動《かうどう》を|採《と》つて|居《を》るか。そりや|怪《け》しからぬ。|此《この》|儘《まま》に|捨《す》ておく|訳《わけ》には|行《ゆ》くまい』
『もし|旦那様《だんなさま》、ユーフテスは|実《じつ》に|吾々《われわれ》に|対《たい》し|忠実《ちうじつ》な|男《をとこ》で|厶《ござ》りますから、よもや、そんな|事《こと》は|致《いた》しますまい。|人《ひと》の|云《い》ふ|事《こと》は|直《すぐ》に|信《しん》じてはなりませぬ。|一応《いちおう》|取調《とりしら》べた|上《うへ》でなくては|是非《ぜひ》の|判断《はんだん》はつきますまい。これマンモス、お|前《まへ》は|大変《たいへん》|慌《あわ》てて|居《ゐ》る|様子《やうす》だが、トツクリ|調《しら》べた|上《うへ》の|事《こと》か。|或《あるひ》は|人《ひと》の|噂《うはさ》を|聞《き》いたのか』
『テーナ|姫様《ひめさま》、|私《わたし》も|旦那様《だんなさま》の|御恩顧《ごおんこ》を|受《う》けて|居《を》る|者《もの》で|厶《ござ》ります。|何《なに》しに|証拠《しようこ》なき|事《こと》を|申上《まをしあ》げて|御夫婦《ごふうふ》のお|気《き》を|揉《も》ませませうか。|正真正銘《しやうしんしやうめい》の|生中《きなか》の|掛値《かけね》もない|証拠《しようこ》が|厶《ござ》ります。|何卒《どうぞ》|時《とき》を|移《うつ》さずユーフテスを|召捕《めしと》り|遊《あそ》ばしてお|家《いへ》の|禍根《くわこん》をお|除《のぞ》き|下《くだ》さいませ。|何程《なにほど》|事務《じむ》が|執《と》れると|云《い》つても、あの|男《をとこ》のする|位《ぐらゐ》の|事《こと》は|私《わたし》でも|致《いた》します。|時《とき》おくれては|一大事《いちだいじ》、さあ|早《はや》く|御決心《ごけつしん》を|願《ねが》ひます』
カールチンはマンモスの|言葉《ことば》を|半《なかば》|信《しん》じ|半《なかば》|疑《うたが》つて|居《ゐ》る。|其《その》|理由《わけ》はユーフテスは|自分《じぶん》の|最《もつと》も|信任《しんにん》する|男《をとこ》であり、|二人《ふたり》の|中《なか》に|地位《ちゐ》の|争《あらそ》ひが|暗《あん》に|起《おこ》つてゐる|事《こと》をよく|承知《しようち》して|居《ゐ》たから、マンモスが|斯《こ》んな|事《こと》を|捏造《ねつざう》してユーフテスを|陥《おとしい》れる|考《かんが》へではあるまいかとも|思《おも》つてゐたのである。
『マンモス、|其方《そち》の|云《い》ふ|事《こと》は|一分一厘《いちぶいちりん》|間違《まちが》ひはないか』
『|決《けつ》して|決《けつ》して|嘘《うそ》|偽《いつは》りは|申《まを》しませぬ。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》ればお|館《やかた》の|一大事《いちだいじ》ですから、|取《と》る|物《もの》も|取《と》り|敢《あ》へず|城内《じやうない》を|駆《か》け|出《だ》し|内報《ないはう》に|参《まゐ》りました』
カールチン、テーナの|二人《ふたり》は|双手《もろて》を|組《く》みマンモスの|報告《はうこく》の|虚実《きよじつ》を|判《わか》じかね、|暫《しば》し|黙然《もくねん》として|考《かんが》へこんで|居《ゐ》る。そこへ|何気《なにげ》なうやつて|来《き》たのはユーフテスである。ユーフテスは|此《この》|場《ば》の|様子《やうす》の|啻《ただ》ならざると、マンモスの|其《その》|場《ば》に|居《を》るに|少《すこ》しく|不審《ふしん》を|起《おこ》し、
『|旦那様《だんなさま》、|奥様《おくさま》、|御機嫌《ごきげん》|宜《よろ》しう|厶《ござ》りますか。ヤア|其方《そなた》はマンモス、|吾々《われわれ》の|許《ゆる》しもなく|直接《ちよくせつ》に|旦那様《だんなさま》に|面会《めんくわい》を|願《ねが》ふとは|合点《がてん》が|参《まゐ》らぬ。|何《なに》か|急用《きふよう》な|事《こと》でも|起《おこ》つたのか』
と|少《すこ》しく|声《こゑ》に|力《ちから》を|入《い》れて|詰《なじ》る|様《やう》に|問《と》ひつめる。マンモスは|不意《ふい》を|打《う》たれて|俄《にはか》の|返答《へんたふ》に|困《こま》り、
『ハイ、いやもう|貴方《あなた》も|御壮健《ごさうけん》で|恐悦《きようえつ》|至極《しごく》に|存《ぞん》じます。|旦那様《だんなさま》もお|達者《たつしや》で、まあまあ|目出度《めでた》い|目出度《めでた》い』
と|上下《じやうげ》の|言葉《ことば》|使《づか》ひを|取違《とりちが》へ、マゴついてゐる。
『|何《なん》とも|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬマンモスの|挙動《きよどう》、|何《なに》か|拙者《せつしや》の|行動《かうどう》について|旦那様《だんなさま》に|内通《ないつう》をしに|来《き》たのだらう。|汝等《なんぢら》|下役《したやく》の|来《く》るべき|所《ところ》でない、お|下《さが》り|召《め》され』
『|何《なに》は|兎《と》もあれ、ユーフテスに|尋《たづ》ね|問《と》ふべき|仔細《しさい》あれば、マンモス、|其方《そなた》は|暫《しば》し|居間《ゐま》へ|下《さが》つて、|此方《こちら》の|命令《めいれい》を|待《ま》つがよかろうぞ』
と|厳《きび》しき|鶴《つる》の|一声《ひとこゑ》にマンモスは|返《かへ》す|言葉《ことば》もなく、|手持無沙汰《てもちぶさた》に|後《あと》に|心《こころ》を|残《のこ》し、|吾《わが》|居間《ゐま》さして|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
カールチンは|半信半疑《はんしんはんぎ》の|雲《くも》に|包《つつ》まれながら|言葉《ことば》|厳《おごそ》かに、
『ユーフテス、お|前《まへ》に|一《ひと》つ|尋《たづ》ねたい|事《こと》があるが、セーリス|姫《ひめ》の|居間《ゐま》へ|行《い》つたのは|何用《なによう》あつてか、その|理由《わけ》を|包《つつ》まず|隠《かく》さず|吾《わが》|前《まへ》に|陳述《ちんじゆつ》せよ』
と|語気《ごき》を|荒《あ》らげ|問《と》ひかけた。ユーフテスは|平然《へいぜん》として、
『|実《じつ》は|其《その》|事《こと》に|就《つ》いて|旦那様《だんなさま》に|一伍一什《いちぶしじふ》を|申上《まをしあ》げむと、|登城《とじやう》を|済《す》ませ、|急《いそ》いで|御前《ごぜん》へ|罷《まか》り|出《い》でました|所《ところ》で|厶《ござ》ります。マンモスの|奴《やつ》、|何《なに》か|申上《まをしあ》げたのでは|厶《ござ》りませぬか』
『うん』
『|其方《そなた》はセーリス|姫《ひめ》と|何《なに》か|企《たく》んで|居《ゐ》るのではありませぬか。セーリス|姫《ひめ》は|誰《たれ》の|娘《むすめ》だと|思《おも》つて|居《ゐ》ますか。お|前《まへ》さまの|行動《かうどう》が|怪《あや》しいと|云《い》ふので、|今《いま》マンモスが|注進《ちゆうしん》に|来《き》た|所《ところ》だよ。|旦那様《だんなさま》の|疑《うたがひ》を|晴《は》らすために、|何事《なにごと》も|包《つつ》まず|隠《かく》さず|云《い》つたが|宜《よ》かろうぞや』
『お|尋《たづ》ねまでもない|一切万事《いつさいばんじ》の|様子《やうす》を|申上《まをしあ》げむと|参上《さんじやう》|致《いた》しましたので|厶《ござ》ります。|実《じつ》はセーリス|姫《ひめ》、|私《わたし》の|男《をとこ》らしい|処《ところ》に|属根《ぞつこん》|惚《ほ》れ|込《こ》み、|幾度《いくたび》となく|艶書《えんしよ》を|送《おく》り|来《く》る|可笑《をか》しさ。こいつはテツキリ、クーリンスの|内命《ないめい》で|自分《じぶん》の|腹《はら》を|探《さぐ》らして|居《を》るに|違《ちが》ひないと|存《ぞん》じ、|固造《かたざう》と|仇名《あだな》をとつた|此《この》ユーフテスは|幾度《いくたび》となく|肱鉄《ひぢてつ》をかまし、|昨日《きのふ》まで|暮《く》れて|来《き》ました|所《ところ》、|女《をんな》の|一心《いつしん》と|云《い》ふものは|偉《えら》いもので、セーリス|姫《ひめ》が|態々《わざわざ》|吾《わが》|家《や》に|訪《たづ》ねて|参《まゐ》り、|埒《らち》もない|事《こと》を|申《まを》して、|恋《こひ》しいの|何《なん》のと|口説《くど》き|立《た》て、いやもう|手《て》も|足《あし》もつけやうなく、|此《この》|上《うへ》|情《つれ》なく|致《いた》せば|自害《じがい》も|致《いた》しかねまじき|権幕《けんまく》、そこで|私《わたし》が|思《おも》ふやうには、こりや|決《けつ》して|廻《まは》し|者《もの》ではない。|恋《こひ》に|上下《じやうげ》の|隔《へだ》てはないと|考《かんが》へ、|態《わざ》と|軟《やはら》かく|出《で》て|見《み》れば、|姫《ひめ》は|益々《ますます》|本性《ほんしやう》を|現《あら》はし、ぞつこん|私《わたくし》に|惚《ほれ》きつて|居《ゐ》ると|云《い》ふことが|明白《めいはく》になりました。さうなれば|彼《かれ》を|利用《りよう》してセーラン|王《わう》の|動静《どうせい》を|探《さぐ》り、|且《かつ》|先方《むかふ》に|計略《けいりやく》あらば|其《その》|裏《うら》を|掻《か》くには|持《も》つて|来《こ》いと|存《ぞん》じまして、|旦那様《だんなさま》には|内証《ないしよう》なれど、|一寸《ちよつと》|此《この》ユーフテスが|気《き》を|利《き》かしたので|厶《ござ》ります』
『あゝさうだつたか、お|前《まへ》の|事《こと》だから|如才《じよさい》はあるまいと|思《おも》つてゐた。|持《も》つべきものは|家来《けらい》なりけりだ。そりや|良《よ》いことをして|呉《く》れた。よい|探偵《たんてい》の|手蔓《てづる》が|出来《でき》たものだな。|大自在天様《だいじさいてんさま》も、まだ|此《この》カールチンを|捨《す》て|給《たま》はぬと|見《み》えるわい。アハヽヽヽ、いやテーナ、|安心《あんしん》|致《いた》せよ』
『それ|聞《き》いてチツとばかり|安心《あんしん》|致《いた》しましたが、まだ|十分《じふぶん》|気《き》を|許《ゆる》す|所《ところ》へは|参《まゐ》りますまい。そしてユーフテス、|何《なに》かよい|事《こと》を|探《さぐ》つて|来《き》たであらうな』
『ハイ、|王様《わうさま》の|信任《しんにん》を|受《う》けて|居《を》るセーリス|姫《ひめ》の|事《こと》ですから、|何《なん》でもよく|知《し》つてゐます。|女《をんな》と|云《い》ふものは|賢《かしこ》い|様《やう》でも【あだ】といものですワ。|一伍一什《いちぶしじふ》|私《わたし》の|口車《くちぐるま》にのつて|皆《みな》|喋《しやべ》つて|了《しま》ひました』
『どんなことを|言《い》つて|居《ゐ》たのかな』
『|私《わたし》もまだ|一度《いちど》|会《あ》つたきりで|十分《じふぶん》のことは|聞《き》きませなんだ。そして|又《また》あまり|追究《つゐきふ》|致《いた》しますと|怪《あや》しく|思《おも》はれてはならぬと|存《ぞん》じ、|少《すこ》しばかり、それとはなしに|探《さぐ》つて|見《み》ました|所《ところ》が、|王様《わうさま》は|非常《ひじやう》にサマリー|姫様《ひめさま》をお|慕《した》ひ|遊《あそ》ばし、|姫《ひめ》と|添《そ》ふのならば|王位《わうゐ》を|棄《す》てて、|姫《ひめ》の|父親《てておや》カールチン|様《さま》に|後《あと》を|継《つ》がせても|宜《よ》いとのお|考《かんが》へで|厶《ござ》ります。あまり|御夫婦《ごふうふ》の|仲《なか》がいいものですから|意茶《いちや》づき|喧嘩《げんくわ》を|遊《あそ》ばし、|到頭《とうとう》サマリー|姫様《ひめさま》は|吾《わが》|家《や》へお|帰《かへ》りになつたので|王様《わうさま》の|御心配《ごしんぱい》、|口《くち》で|申《まを》す|様《やう》のことでは|厶《ござ》りませぬ』
『|何《なに》、|王様《わうさま》はサマリー|姫《ひめ》をそれだけ|愛《あい》して|居《を》られるのか、そらさうだらう。|夫婦《ふうふ》の|情愛《じやうあい》は|又《また》|格別《かくべつ》のものだからな』
と|嬉《うれ》しげにテーナはうなづく。
『|姫様《ひめさま》と|旧《もと》の|如《ごと》く|添《そ》はれるのならば、|刹帝利《せつていり》の|王位《わうゐ》を|棄《す》てて|右守《うもり》の|司様《かみさま》に|後《あと》を|継《つ》いで|貰《もら》つても|差支《さしつかへ》ないと|時々《ときどき》お|洩《も》らしぢやさうです。もはや|王様《わうさま》に|於《おい》て|其《その》お|心《こころ》ある|上《うへ》は、|一日《いちにち》も|早《はや》くサマリー|姫《ひめ》を|王様《わうさま》の|御許《みもと》に|返《かへ》し、|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|応援《おうゑん》を|断《ことわ》つて、|円満《ゑんまん》|解決《かいけつ》の|道《みち》を|講《かう》じられる|方《はう》が|将来《しやうらい》の|為《た》め、|大変《たいへん》|結構《けつこう》で|厶《ござ》りませう。|国民《こくみん》に|対《たい》しても|信用上《しんようじやう》|大変《たいへん》に|都合《つがふ》が|宜《よろ》しいだらうと|存《ぞん》じます』
『そりや|果《はた》して|真実《しんじつ》か、それが|真実《しんじつ》とすれば|此方《こちら》も|一《ひと》つ|考《かんが》へねばなるまい。|平地《へいち》に|波《なみ》を|起《おこ》す|必要《ひつえう》もないからのう』
『そら、さうで|厶《ござ》いますとも。|吾々《われわれ》だつて|旦那様《だんなさま》が|刹帝利《せつていり》の|位《くらゐ》におつき|遊《あそ》ばす|以上《いじやう》は|左守《さもり》の|司《かみ》に|任《にん》じて|頂《いただ》けるのですから、|一生懸命《いつしやうけんめい》に、ここ|迄《まで》|探《さぐ》つたので|厶《ござ》ります。これ|以上《いじやう》は|又《また》|明日《あす》|登城《とじやう》|致《いた》しましてセーリス|姫《ひめ》に|篤《とく》と|申《まを》し|聞《き》かせ、|王《わう》の|信任《しんにん》ある|彼《かれ》の|口《くち》より、|一日《いちにち》も|早《はや》く|王様《わうさま》の|自決《じけつ》される|様《やう》|勧《すす》めませう』
と|早《はや》くもユーフテスはセーリス|姫《ひめ》の|罠《わな》にかかり、カールチン|夫婦《ふうふ》をうまくチヨロまかして|了《しま》つた。さうしてサマリー|姫《ひめ》を|獄舎《ひとや》より|引《ひ》き|出《だ》し|両親《りやうしん》にお|詫《わび》をさせ、|盛装《せいさう》を|整《ととの》へ|輿《こし》に|打乗《うちの》せて|入那城《いるなじやう》へ|送《おく》り|届《とど》ける|事《こと》となつた。マンモスはユーフテスの|計《はか》らひにて|忽《たちま》ち|牢獄《らうごく》に|投《な》げ|込《こ》まれて|了《しま》つた。
(大正一一・一一・一〇 旧九・二二 北村隆光録)
第六章 |誤解《ごかい》〔一一一〇〕
セーラン|王《わう》の|左守《さもり》の|司《かみ》と|仕《つか》へたるクーリンスの|家老職《からうしよく》テームスの|奥座敷《おくざしき》にはレーブ、カルの|両人《りやうにん》と|妻《つま》のベリス|姫《ひめ》|四人《よにん》が|車座《くるまざ》となつて|私々話《ひそびそばなし》を|始《はじ》めて|居《ゐ》る。テームスはベリス|姫《ひめ》を|遠《とほ》ざけ、いよいよ|熟談《じゆくだん》に|取《と》りかかつた。|注意深《ちういぶか》きテームスは|最《もつと》も|信用《しんよう》するわが|女房《にようばう》でさへも|秘密《ひみつ》の|他《た》に|洩《も》れむ|事《こと》を|恐《おそ》れて|態《わざ》とに|遠《とほ》ざけたのである。ベリス|姫《ひめ》は|夫《をつと》の|言葉《ことば》に|是非《ぜひ》もなく|立《た》つてわが|居間《ゐま》に|行《ゆ》く。|後《あと》に|三人《さんにん》は|首《くび》を|鳩《あつ》め|密々話《ひそびそばなし》に|耽《ふけ》り|出《だ》した。
『|実《じつ》の|所《ところ》はセーラン|王様《わうさま》のお|館《やかた》には|悪人《あくにん》はびこり、|右守《うもり》の|司《かみ》のカールチンは|大棟梁《だいとうりやう》|大黒主《おほくろぬし》に|甘《うま》く|取《と》り|入《い》り、|吾々《われわれ》が|主人《しゆじん》|左守《さもり》の|司《かみ》なるクーリンス|様《さま》を|初《はじ》め、|王様《わうさま》|迄《まで》も|排斥《はいせき》せむと|企《たく》んで|居《ゐ》るのだ。さうなつちや|大変《たいへん》だから、|何《なん》とかしてこの|難関《なんくわん》を|切《き》り|抜《ぬ》け、|悪人《あくにん》を|懲《こ》らしめてやらむと|考《かんが》へて|見《み》た|処《ところ》が、|別《べつ》に|之《これ》と|云《い》ふ|好《よ》い|方法《はうはふ》も|考案《かうあん》も|出《で》て|来《こ》ない。それからこれは|到底《たうてい》|吾々《われわれ》の|考《かんが》へでは|往《い》かない、|神様《かみさま》にお|願《ねが》ひするより|途《みち》はないとクーリンス|様《さま》が|三七日《さんしちにち》の|間《あひだ》|梵天王様《ぼんてんわうさま》の|祠《ほこら》に|立籠《たてこも》り|御神勅《ごしんちよく》を|乞《こ》はれた|処《ところ》、|豈《あに》|計《はか》らむや「|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》がやがてイルナの|都《みやこ》をお|通《とほ》りになるから、|甘《うま》く|両人《りやうにん》に|頼《たの》み|込《こ》んで|此《この》|解決《かいけつ》をつけて|貰《もら》へよ」とのお|諭《さと》し、|左守《さもり》の|司《かみ》も|合点《がてん》|行《ゆ》かずと|幾度《いくど》もお|伺《うかが》ひになつたところ、|依然《いぜん》として|神様《かみさま》のお|告《つげ》は|変《かは》らない。そこで|左守《さもり》の|司様《かみさま》はこのテームスを|私《ひそ》かに|招《まね》き、お|二人様《ふたりさま》のお|出《いで》を|途《みち》にお|待《ま》ち|受《う》け|申《まを》し|城内《じやうない》に|連《つ》れ|帰《かへ》り、この|解決《かいけつ》を|付《つ》けて|貰《もら》はうと|七八人《しちはちにん》の|部下《ぶか》をつれ|関所《せきしよ》|迄《まで》|立《た》ち|出《い》で、|土中《どちう》の|洞《ほら》に|身《み》をひそめ|窺《うかが》ひ|居《を》れば、|貴方等《あなたがた》お|二人《ふたり》の|道々《みちみち》の|話《はなし》、|時《とき》こそ|来《きた》れと、|洞穴《ほらあな》を|這《は》ひ|出《だ》し、お|二人《ふたり》の|様子《やうす》を|聞《き》かむとした|処《ところ》、|貴方等《あなたがた》は、|王様《わうさま》の|前《まへ》で|話《はな》すと|云《い》はれたが、さうしては|却《かへつ》て|敵《てき》に|悟《さと》られてはならないから、どうぞ|吾々《われわれ》に|其《その》|所在《ありか》を|知《し》らして|頂《いただ》く|事《こと》は|出来《でき》まいかなア』
カル『ハイ、|実《じつ》はイルナの|森《もり》|迄《まで》お|供《とも》をして|来《き》たのだが、|俄《にはか》に|狼《おほかみ》の|群《むれ》がやつて|来《き》て、お|二人様《ふたりさま》を|何処《どこ》かへ、くはへて|往《い》つて|了《しま》つたのだから、ほんとの|詳《くは》しい|事《こと》は、|吾々《われわれ》は|分《わか》りませぬわい』
『そりや|困《こま》りましたなア。そんな|事《こと》なら|態々《わざわざ》こんな|処《ところ》|迄《まで》|来《き》て|貰《もら》ふのぢやなかつたに』
レーブ『いや|御心配《ごしんぱい》なさいますな。カルは|新米《しんまい》で|何《なに》も|知《し》らぬのです。|私《わたし》は|一伍一什《いちぶしじふ》を|知《し》つて|居《ゐ》ます。|実《じつ》の|所《ところ》はお|二人《ふたり》は|狼《おほかみ》を|眷族《けんぞく》にお|使《つか》ひになつて|居《ゐ》ます。|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|時《とき》には、いつも|二人《ふたり》をお|助《たす》けする|事《こと》になつて|居《ゐ》ますから、|御両人様《ごりやうにんさま》が|眷族《けんぞく》に|殺《ころ》されるやうな|事《こと》は|決《けつ》してありませぬ。|神様《かみさま》は|貴方等《あなたがた》が|七八人《しちはちにん》の|部下《ぶか》を|連《つ》れて|洞穴《ほらあな》に|待《ま》つて|居《を》られる|事《こと》を|前知《ぜんち》せられ、|狼《おほかみ》を|出《だ》して|外《ほか》の|方面《はうめん》へお|隠《かく》しなさつたのです』
『さうすると、このテームスはお|二人様《ふたりさま》の|敵《てき》と|見《み》られたのでせうか。さうなると|仮令《たとへ》お|二人様《ふたりさま》の|所在《ありか》が|分《わか》つても、|容易《ようい》に|吾々《われわれ》の|願《ねが》ひはお|聞《き》き|下《くだ》さいますまい。はて、|困《こま》つた|事《こと》ぢやな』
レーブ『イエイエ|決《けつ》して|決《けつ》して|左様《さやう》な|道理《だうり》はありませぬ。|貴方《あなた》のお|引《ひ》き|連《つ》れになつた|八人《はちにん》の|中《うち》には|半分《はんぶん》|以上《いじやう》カールチンの|部下《ぶか》が|混《まじ》つて|居《ゐ》ますから、|態《わざ》とにお|外《はづ》しなさつたのですよ。|此《この》レーブも|其《その》|事《こと》を|感付《かんづ》いたので、あのやうな|不得要領《ふとくえうりやう》な|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》を|態《わざ》とに|申《まを》し|上《あ》げたのです。きつと|一両日《いちりやうじつ》の|中《うち》には|数多《あまた》の|狼《おほかみ》を|引《ひ》きつれ|悪人《あくにん》を|調伏《てうふく》せむとお|越《こ》しになるでせう。あの|方《かた》は|神通力《じんつうりき》を|持《も》つて|居《を》られますから、レーブ、カルの|両人《りやうにん》が|何処《どこ》に|居《を》ると|云《い》ふ|事《こと》を|御存《ごぞん》じですから、キツと|見《み》えます。|此《この》|大事《だいじ》な|臣《けらい》を|振《ふ》りまいて|勝手《かつて》に|往《ゆ》くと|云《い》ふやうな|水臭《みづくさ》い|御主人《ごしゆじん》では|厶《ござ》いませぬからなア』
カルは、
『さうかなア』
とやや|首《くび》を|傾《かたむ》けて|不安《ふあん》の|色《いろ》を|浮《うか》べてゐる。
|表門《おもてもん》には|二人《ふたり》の|門番《もんばん》、|大欠伸《おほあくび》をしながら|睡《ねむ》た|目《め》を|擦《こす》つて、|下《くだ》らぬ|話《はなし》に|耽《ふけ》つて|居《ゐ》る。
『オイ、ピー|州《しう》、もう|何時《なんどき》だらうなア、イイ|加減《かげん》に|就寝《しうしん》の|振鈴《しんれい》が|聞《きこ》えさうなものぢやないか』
『さうだなア、もう|二十三時《にじふさんじ》、|百十五分《ひやくじふごふん》|位《くらゐ》なものだよ。もう|五分間《ごふんかん》|待《ま》て……さうすれば|就寝《しうしん》の|振鈴《しんれい》が|鳴《な》るだらう。|監督《かんとく》が|廻《まは》つて|来《く》ると|面倒《めんだう》だから、もチツと|目《め》を|擦《こす》つて|辛抱《しんばう》するのだなア』
『モウいい|加減《かげん》に|監督《かんとく》が|廻《まは》つて|来《き》て|呉《く》れぬと|俺達《おれたち》も|睡《ねむ》たくなつて|仕方《しかた》がないわ。|併《しか》し|家《うち》の|大将《たいしやう》が|妙《めう》な|男《をとこ》を|二人《ふたり》|連《つ》れて|帰《かへ》つたぢやないか。あれは|大方《おほかた》|右守《うもり》の|司《かみ》の|諜者《まはしもの》か|知《し》れやしないがなア。|家《うち》の|大将《たいしやう》は|人《ひと》が|好《よ》いから|又《また》|騙《だま》されやしないかと|思《おも》うてそれが|心配《しんぱい》で|耐《たま》らないわ』
『こりやシヤール、|何《なに》をおつシヤールのだ。|門番《もんばん》|位《くらゐ》がピーピー|云《い》つたとて|何《なん》になるかい。|何事《なにごと》も|御主人様《ごしゆじんさま》の|胸《むね》にあるのだから、|俺達《おれたち》は|神妙《しんめう》に|門番《もんばん》さへして|居《を》ればよいのだ。こんな|事《こと》を|喋《しやべ》つて|右守《うもり》の|司《かみ》の|親類《しんるゐ》にでも|聞《き》かれようものなら|大変《たいへん》だぞ』
|斯《か》く|話《はな》す|所《ところ》へ|館《やかた》の|監督《かんとく》エムが|足音《あしおと》|高《たか》く|現《あら》はれ|来《きた》り、
『コリヤ コリヤ、ピー、シヤールの|両人《りやうにん》、|今《いま》|何《なに》を|云《い》つて|居《を》つたか』
ピー『ハイ|此《この》|頃《ごろ》はよう|日和《ひより》の|続《つづ》くことだ。お|月様《つきさま》は|下弦《かげん》になりなさつたけれど、|冬《ふゆ》の|初《はじめ》の|月《つき》は|又《また》|格別《かくべつ》なものだとピーから|切《き》りまで|賞《ほ》めて|居《を》りました』
『|貴様《きさま》、|家《いへ》の|中《なか》から|月《つき》が|拝《をが》めるか、|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|申《まを》せ、エーム』
『|今《いま》|此《この》|武者窓《むしやまど》から|覗《のぞ》いて|見《み》た|所《ところ》で|厶《ござ》います、なあシヤール、|好《よ》い|月《つき》だつたなア』
『|馬鹿《ばか》を|申《まを》せ、まだ|月《つき》は|昇《のぼ》つてゐないぢやないか。|貴様《きさま》|大方《おほかた》|門番《もんばん》を|怠《をこた》り、|夢《ゆめ》でも|見《み》て|居《ゐ》たのだらう。|何故《なぜ》|振鈴《しんれい》の|鳴《な》る|迄《まで》|起《お》きて|居《ゐ》ないのか。|貴様《きさま》はいつもサボる|癖《くせ》があるから|駄目《だめ》だ。|明日《みやうにち》|限《かぎ》り|御主人《ごしゆじん》に|申上《まをしあ》げて|暇《ひま》を|遣《つか》はすぞ』
『イエ|昨日《きのふ》の|月《つき》の|話《はなし》をして|居《ゐ》たので|厶《ござ》います。|何卒《どうぞ》|今晩《こんばん》はお|見逃《みのが》し|下《くだ》さいませ』
『それなら|今日《けふ》は|旦那様《だんなさま》に|報告《はうこく》をするのを|止《や》めてやらう。よく|気《き》をつけよ。|未《ま》だ|半時《はんとき》ばかり|振鈴《しんれい》が|鳴《な》るには|間《ま》があるから、それ|迄《まで》はキツト|勤《つと》めるのだぞ。|睡《ねむ》たければ|目《め》を|出《だ》せ。|唐辛子《たうがらし》の|粉《こ》でも|塗《ぬ》つてやらう』
『メヽ|滅相《めつさう》な、そんな|事《こと》をしられて|耐《たま》りますか。|目《め》が|腫《は》れ|上《あが》つて|了《しま》ひます』
『オイ、シヤール、|其《その》|方《はう》は|唐辛子《たうがらし》のお|見舞《みまひ》はどうぢや。|大分《だいぶ》|睡《ねむ》たさうな|顔《かほ》をして|居《を》るぢやないか』
『イヤ|別《べつ》に|睡《ねむ》たいことはありませぬ。|私《わたし》の|目《め》はピーのやうな|柔《やはら》かい|目《め》とは|違《ちが》ひます。かたいかたい|目《め》で|厶《ござ》います。|只《ただ》|時々《ときどき》|上瞼《うはまぶた》と|下瞼《したまぶた》とが|集会《しふくわい》をしたり、|結婚《けつこん》をするだけのもので|厶《ござ》います』
『サア|其《その》|集会《しふくわい》が|不可《いか》ぬのぢや、|目《め》【はぢき】でもかけて|団栗眼《どんぐりめ》をむいて|居《ゐ》ろよ。|好《よ》いか、アーン』
『それでも、この|間《あひだ》も|目《め》つけ|役《やく》と|目《め》つけ|役《やく》が|集会《しふくわい》をして|居《を》られましたぜ。どうぞ|大目《おほめ》に|見《み》て|下《くだ》さいな。|旦那様《だんなさま》に|何時《いつ》もサボつて|居《を》るなどと|報告《はうこく》をせられては、|私《わたし》のみか|女房子《にようぼうこ》までが【めい】|惑《わく》を|致《いた》しますから』
エムは「ウン」と|横柄《わうへい》な|返事《へんじ》をしながら|棒千切《ぼうちぎれ》を|打《う》ちふり|打《う》ちふり|暗《やみ》に|姿《すがた》をかくした。|暫《しばら》くすると|東《ひがし》の|空《そら》を|分《わ》けて|下弦《かげん》の|月《つき》、|利鎌《とがま》のやうな|影《かげ》を|地上《ちじやう》に|投《な》げて|昇《のぼ》り|始《はじ》めた。|門口《もんぐち》に|女《をんな》の|声《こゑ》、
『モシモシ|門番《もんばん》さまえ、|余《あま》り|遅《おそ》くて|済《す》みませぬが、|一寸《ちよつと》|様子《やうす》あつてテームス|殿《どの》にお|目《め》に|懸《かか》りに|参《まゐ》つたもの、どうぞ|通《とほ》して|下《くだ》さい』
『オイオイ シヤール、|今頃《いまごろ》に|女《をんな》がやつて|来《き》たぞ。|此奴《こいつ》は|迂濶《うつかり》|相手《あひて》になれないぞ。|狐《きつね》か|狸《たぬき》が|化《ば》けて|居《ゐ》やがるのだ。|日《ひ》の|暮《くれ》の|十八時《じふはちじ》|過《す》ぎたら|女《をんな》は|歩《ある》くものぢやない。それに|今頃《いまごろ》あんな|優《やさ》しい|声《こゑ》を|出《だ》しやがつて、|此《この》|門戸《もんこ》を|叩《たた》くものはキツト【ば】の|字《じ》に【け】の|字《じ》だ。|知《し》らぬ|顔《かほ》をして|居《を》るが|一番《いちばん》よい』
|門外《もんぐわい》から、
『もしもし|門番《もんばん》さま、|早《はや》く|開《あ》けて|下《くだ》さい』
とトントンと|小《ちひ》さく|叩《たた》く。
『オイオイ|来《き》たぞ|来《き》たぞ。あの|門《もん》の|叩《たた》きやうを|見《み》い。|狐《きつね》が|化《ば》けやがつて|尻尾《しつぽ》で|門《もん》の|戸《と》を|叩《たた》いて|居《ゐ》やがるのだよ、のうシヤール』
『それでもありやきつと|人間《にんげん》だぞ。どんな|秘密《ひみつ》の|御用《ごよう》でどんな|方《かた》がお|出《いで》になつたのか|知《し》れやしないぞ。|開《あ》けて|見《み》たらどうだ。もし|怪《あや》しいものと|見《み》たら|此《この》|棒《ぼう》で|撲《なぐ》り|付《つ》けて|正体《しやうたい》を|現《あら》はしさへすりやよいぢやないか。もし|狐《きつね》ででもあつて|見《み》い。その|肉《にく》を|剥焼《すきやき》にして|酒《さけ》の|肴《さかな》にすりや|大変《たいへん》|美味《うま》いぞ』
『それなら|開《あ》けてやらうか。シヤール、|貴様《きさま》も|棍棒《こんぼう》を|放《はな》すな。|俺《おれ》も|怪《あや》しいと|見《み》たら|撲《なぐ》りつけてやるのだから』
と|片手《かたて》に|棒《ぼう》を|握《にぎ》り|片手《かたて》で|門《もん》を|開《ひら》いた。|女《をんな》は|待《ま》ち|兼《か》ねたやうに|細《ほそ》く|開《ひら》いた|所《ところ》から|転《こ》けるが|如《ごと》く|飛《と》び|込《こ》んだ。|女《をんな》の|白《しろ》い|顔《かほ》、|美《うつく》しき|衣《きぬ》の|色《いろ》は、|折《をり》から|昇《のぼ》る|月《つき》に|輝《かがや》いて|恰《あだか》も|天女《てんによ》の|如《ごと》く|見《み》えて|来《き》た。|二人《ふたり》は|此奴《こいつ》テツキリ|化物《ばけもの》と、|双方《さうはう》より|棍棒《こんぼう》をもつて|打《う》つてかかるを、|女《をんな》も【しれもの】|引《ひ》き|外《はづ》し、|小股《こまた》を|掬《すく》つて|大地《だいち》にドツと|二人《ふたり》を|投《な》げつけ、|平然《へいぜん》として|後《あと》|振《ふ》り|向《む》き、
『ホヽヽヽヽ|危険《あぶな》い|事《こと》』
と|云《い》ひながら、スタスタと|奥《おく》を|目蒐《めが》けて|進《すす》み|往《ゆ》く。|二人《ふたり》は|女《をんな》の|強力《がうりき》に|投《な》げつけられ|胆《きも》を|潰《つぶ》して|声《こゑ》を|震《ふる》はせ、
『オイ、シヤールよ』
『オイ、ピー………よ』
『|薩張《さつぱり》だなア、シヤール』
『ウン|薩張《さつぱり》だ。これだから|門番《もんばん》は|気《き》に|喰《く》はぬと|云《い》ふのだ。キツト|明日《あす》は|免職《めんしよく》だよ。|門番《もんばん》もかうなつては|面色《めんしよく》|無《な》しだから|免職《めんしよく》されても|仕方《しかた》がないわ。アヽ|大変《たいへん》に|大腿骨《だいたいこつ》を|打《う》つたと|見《み》えて、チヨツくらチヨツとには|動《うご》けないわ。ピー、|貴様《きさま》はどうだい』
『|俺《おれ》だつて|矢張《やつぱり》|大地《だいち》に|投《な》げ|付《つ》けられたのだもの、|大抵《たいてい》|定《きま》つたものだよ』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも|四辺《あたり》に|響《ひび》く|振鈴《しんれい》の|声《こゑ》、
『ヤアヤア|有難《ありがた》い、これから|暫《しばら》く|俺《おれ》の|天下《てんか》だ』
と|二人《ふたり》は|四這《よつばひ》になつて|門番部屋《もんばんべや》に|這込《はひこ》み、|足腰《あしこし》の|痛《いた》さを|耐《こら》へながら|寝《しん》につくのであつた。
ベリス|姫《ひめ》は|夫《をつと》に|相談《さうだん》の|場所《ばしよ》から|退去《たいきよ》を|命《めい》ぜられ、|心《こころ》の|中《うち》で「|水臭《みづくさ》い|夫《をつと》だ、|秘密《ひみつ》が|洩《も》れると|云《い》つたつて|一生《いつしやう》|連《つ》れ|添《そ》ふ|女房《にようばう》に|云《い》はれぬ|秘密《ひみつ》がどこにあるものか。キツト|自分《じぶん》に|隠《かく》して|綺麗《きれい》な|女《をんな》をどこかに|囲《かこ》つて|居《を》るのだらう。それでなくては|女房《にようばう》が|傍《そば》に|居《を》られぬ|筈《はず》がない。レーブ、カルの|両人《りやうにん》はきつとナイスを|取《と》りもち、|終《しまひ》の|果《はて》には|此《この》ベリスを|追《お》ひ|出《だ》し|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|二《に》の|舞《まひ》をさするのかも|知《し》れない。エヽ|気分《きぶん》の|悪《わる》い。|男《をとこ》と|云《い》ふものは|油断《ゆだん》のならぬものだ。|斯《か》うなつて|来《く》ると|世《よ》の|中《なか》が|厭《いや》になつて|来《き》た」と|呟《つぶや》きながら|睡《ねむ》りもならず|玄関口《げんくわんぐち》にヒヨロリ ヒヨロリとやつて|来《き》た。|玄関口《げんくわんぐち》には|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》が|月《つき》に|照《て》らされて|細《ほそ》き|涼《すず》しき|声《ごゑ》にて、
『もしもし、テームス|様《さま》に|至急《しきふ》の|用事《ようじ》が|厶《ござ》いますから、|一寸《ちよつと》|取《と》り|次《つ》いで|下《くだ》さいませ』
と|云《い》つて|居《ゐ》る。ベリス|姫《ひめ》は【むつ】として、
『どこの|魔性《ましやう》の|女《をんな》か|知《し》りませぬが、|夜夜中《よるよなか》に|大《だい》それた|男《をとこ》の|名《な》を|呼《よ》んで【かい】|出《だ》しに|来《く》るものが|何処《どこ》にあるかえ。テームスにはベリスと|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|家内《かない》が|厶《ござ》りますぞや。お|前達《まへたち》に|夫《をつと》の|名《な》を|呼《よ》んで|貰《もら》ふ|必要《ひつえう》はありませぬ、【とつと】と|帰《かへ》つて|下《くだ》さい』
『|貴女《あなた》が、ベリス|姫様《ひめさま》で|厶《ござ》いましたか。|御壮健《ごさうけん》でお|目出度《めでた》う|厶《ござ》います。テームス|様《さま》は|御在宅《ございたく》で|厶《ござ》いますか』
『ハイ、|居《を》るか|居《を》らぬか|早速《さつそく》お|答《こた》へは|出来《でき》ませぬわい。|貴女《あなた》もテームスと|永《なが》らくの|御関係《ごくわんけい》、|私《わたし》の|死《し》ぬのを|待《ま》つて|居《ゐ》られましたらうが、|憎《にく》まれ|子《ご》|世《よ》に|覇張《はば》るとか……これこの|通《とほ》りピチピチと|千年《せんねん》も|万年《まんねん》も|生《い》きるやうな|此《この》|体《からだ》、あまり|御壮健《ごさうけん》で|貴女《あなた》の|身《み》に|取《と》つて|余《あま》りお|目出度《めでた》うは|厶《ござ》いますまい』
『|一寸《ちよつと》|急《きふ》に|申《まを》しあげ|度《た》い|事《こと》が|厶《ござ》いまして|参《まゐ》つたので|厶《ござ》いますから、お|疑《うたが》ひ|遊《あそ》ばさずに、どうぞ|奥《おく》へお|取《と》り|次《つぎ》を|願《ねが》ひます』
『オホヽヽヽ、|何《なん》とまあ|家《うち》の|旦那《だんな》をチヨロまかすだけの|腕前《うでまへ》をもつて|居《を》られると|見《み》え、|甘《うま》い|事《こと》を|仰有《おつしや》いますわい。|此《この》ベリス|姫《ひめ》はそんな|馬鹿《ばか》ではありませぬ。|用《よう》があるなら|昼《ひる》|来《き》て|下《くだ》さい。|今頃《いまごろ》|出《で》て|来《く》るものにどうで|碌《ろく》なものはない。|断《だん》じて|取次《とりつぎ》は|致《いた》しませぬ。いつ|迄《まで》なと|其処《そこ》に|待《ま》つて|居《ゐ》らつしやい。お|気《き》の|毒《どく》|様《さま》、アバよ』
と|頤《あご》を|二《ふた》つ|三《み》つしやくつて|奥《おく》|深《ふか》く|姿《すがた》をかくした。|此《この》|女《をんな》は|左守《さもり》の|司《かみ》クーリンスの|娘《むすめ》セーリス|姫《ひめ》である。ユーフテスの|口《くち》より|聞《き》いた|一切《いつさい》の|秘密《ひみつ》を|今夜《こんや》の|中《うち》にテームスに|知《し》らせ、|其《その》|準備《じゆんび》に|取《と》りかからせむ|為《ため》に|人目《ひとめ》を|忍《しの》んでソツとやつて|来《き》たのである。ベリス|姫《ひめ》は|面《つら》を|膨《ふく》らし|畳触《たたみざは》り|荒々《あらあら》しくテームスの|部屋《へや》に|駆《か》け|込《こ》み、レーブ、カルの|両人《りやうにん》をカツと|睨《ね》め|付《つ》け、|声《こゑ》を|震《ふる》はせ|地団駄《ぢだんだ》を|踏《ふ》みながら、
『こりや、レーブ、カルの|悪人《あくにん》|共《ども》、ようまア|旦那様《だんなさま》を|煽《おだ》てあげ|魔性《ましやう》の|女《をんな》を|世話《せわ》|致《いた》したな。|家《いへ》を|乱《みだ》す|大悪人《だいあくにん》、|了簡《れうけん》|致《いた》さぬぞや。これ|旦那様《だんなさま》、|私《わたし》を|今迄《いままで》よくお|騙《だま》しなさいました。|貴方《あなた》のお|腕前《うでまへ》には|此《この》ベリスも|感心《かんしん》|致《いた》しました。|何《なに》も|男《をとこ》の|御器量《ごきりやう》でなさる|事《こと》だもの、|私《わたし》に|包《つつ》み|隠《かく》しをせずに、|何故《なぜ》|公然《こうぜん》と|女《をんな》を|引《ひ》き|入《い》れ|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》のやうに|私《わたし》を|放逐《はうちく》なさらぬのか、|余《あま》り|遣方《やりかた》が|姑息《こそく》ぢやありませぬか。エヽ|残念《ざんねん》や|口惜《くや》しやなア』
と|其《その》|辺《へん》にあつた|小道具《こだうぐ》を|狂気《きやうき》の|如《ごと》く|投《な》げつけ|狂《くる》ひ|廻《まは》る。レーブ、カルの|両人《りやうにん》は|合点《がてん》|往《ゆ》かず、|唖然《あぜん》としてベリス|姫《ひめ》の|乱暴《らんばう》を|打《う》ち|見守《みまも》つて|居《ゐ》る。テームスは|声《こゑ》を|尖《とが》らし、
『こりやベリス|姫《ひめ》、|其《その》|方《はう》は|狂気《きやうき》|致《いた》したか。このテームスに|女《をんな》があるとは|以《もつ》ての|外《ほか》の|事《こと》、|何《なに》を|証拠《しようこ》に|左様《さやう》なことを|申《まを》すか。|証拠《しようこ》なくして|大切《たいせつ》なお|客様《きやくさま》の|前《まへ》で|左様《さやう》な|事《こと》を|申《まを》すと、|第一《だいいち》|夫《をつと》の|名折《なを》れ、|教《をしへ》の|道《みち》に|傷《きず》がつく。サア|返答《へんたふ》を|致《いた》せ』
ベリス|姫《ひめ》は|恨《うら》めし|気《げ》に|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》ひながら、
『オホヽヽヽ|何《なん》とまア|白々《しらじら》しい|事《こと》を|仰有《おつしや》いますわい。|証拠《しようこ》がなくて|何《なに》そんな|事《こと》を|申《まを》しませうぞ。|貴方《あなた》の|名誉《めいよ》を|思《おも》ひ、|教《をしへ》を|大切《たいせつ》だと|思《おも》へばこそ|私《わたし》が|気《き》を|揉《も》むのぢや|厶《ござ》いませぬか。よう|此処《ここ》の|所《ところ》を|聞分《ききわ》けて|下《くだ》さい。|貴方《あなた》の|改心《かいしん》が|出来《でき》ねば、|私《わたし》は|此《この》|場《ば》で|自殺《じさつ》|致《いた》します。|何卒《どうぞ》それを|見《み》て|御改心《ごかいしん》を|願《ねが》ひます』
と|早《はや》くも|懐剣《くわいけん》|抜《ぬ》き|放《はな》ち|喉《のど》に|突《つ》き|立《た》てむとするを、レーブは|慌《あわ》てて|其《その》|手《て》を|握《にぎ》り|短刀《たんたう》を|引《ひ》つたくり、
『コレコレ|奥様《おくさま》、|誤解《ごかい》なさつては|困《こま》りますよ。|此方《こなた》の|旦那様《だんなさま》に|限《かぎ》つてそんな|事《こと》をなさる|気遣《きづか》ひはありませぬ。そりや|何《なに》かの|間違《まちが》ひでせう。キツト|私《わたし》が|保証《ほしよう》|致《いた》しますから|御安心《ごあんしん》なさいませ』
ベリスは|冷笑《れいせう》を|浮《うか》べながら、
『オホヽヽヽ|措《お》いて|下《くだ》さいませ。そんな|巧妙《かうめう》な|辞令《じれい》を|百万遍《ひやくまんべん》お|並《なら》べなさつても、そんな|事《こと》に|胡麻化《ごまか》されるやうなベリスではありませぬ。よい|加減《かげん》に|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にしておきなさい。レーブとカルが、|家《うち》のテームスと|腹《はら》を|合《あは》せたる|同《おな》じ|穴《あな》の|貉《むじな》でせう。どこを|押《おさ》へたら、そんな|素々《しらじら》しい|事《こと》がよく|言《い》はれるものですかなア。オホヽヽヽ』
テームス、レーブ、カルの|三人《さんにん》は|一向《いつかう》|合点《がてん》|往《ゆ》かず、|両手《りやうて》を|組《く》んで|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。|其処《そこ》へ|監督《かんとく》のエムが、セーリス|姫《ひめ》を|伴《ともな》ひ|現《あら》はれ|来《きた》り|恭《うやうや》しく|両手《りやうて》をついて、
『|旦那様《だんなさま》、|只今《ただいま》、|左守《さもり》の|司様《かみさま》の|御息女《おんそくぢよ》、セーリス|姫様《ひめさま》が、|至急《しきふ》の|御用《ごよう》があつて、|夜中《やちう》にも|拘《かかは》らず|何《なに》か|御用《ごよう》が|出来《でき》たと|見《み》えてお|越《こ》しになりましたから、|此処迄《ここまで》|御案内《ごあんない》を|致《いた》しました』
テームスはセーリス|姫《ひめ》の|来訪《らいほう》と|聞《き》き、ハツと|驚《おどろ》き|叮嚀《ていねい》に|首《くび》を|畳《たたみ》に|擦《す》り|付《つ》けながら、
『これはこれはセーリス|姫様《ひめさま》、よくまア|夜中《やちう》にも|拘《かかは》らず|此《この》|破家《あばらや》をお|訪《たづ》ね|下《くだ》さいました。|何《なに》か|変《かは》つた|御用《ごよう》で|厶《ござ》いますか』
『ハイ、|今晩《こんばん》|是非《ぜひ》|申《まを》し|上《あ》げねばならぬ|事《こと》が|出来《でき》ましたので、|夜中《やちう》お|驚《おどろ》かせ|申《まを》しまして|誠《まこと》にすみませぬ』
ベリス|姫《ひめ》は、セーリス|姫《ひめ》と|聞《き》きて|今更《いまさら》の|如《ごと》く|打《う》ち|驚《おどろ》き、|鯱鉾立《しやちほこだち》になつて|頭《あたま》をペコペコ|打《う》ちつけながら、
『これはこれは|尊《たふと》き|尊《たふと》きセーリス|姫様《ひめさま》で|御座《ござ》いましたか。|存《ぞん》ぜぬ|事《こと》とて|重々《ぢゆうぢゆう》の|御無礼《ごぶれい》、どうぞお|赦《ゆる》し|下《くだ》さいませ』
セーリス|姫《ひめ》は|何気《なにげ》なき|体《てい》にて、
『オホヽヽヽ、|誠《まこと》に|夜中《やちう》に|参《まゐ》りまして|強《きつ》い|誤解《ごかい》をさせました。|定《さだ》めしテームス|様《さま》の|情婦《いろ》が|出《で》て|来《き》たと|誤解《ごかい》をおさせしたと|思《おも》うて|居《ゐ》ました。あの|時《とき》お|名乗《なのり》をすればよかつたのですが、|天《てん》に|口《くち》、|壁《かべ》に|耳《みみ》と|言《い》ふ|事《こと》がありますから|申上《まをしあ》げませぬでした。どうぞテームス|様《さま》に|対《たい》して、|怪《あや》しき|関係《くわんけい》を|持《も》つて|居《を》る|女《をんな》ぢや|厶《ござ》いませぬから、|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
ベリス|姫《ひめ》は、
『ハイハイ』
と|恐《おそ》れ|入《い》り|頭《あたま》も|得上《えあ》げず、|顔《かほ》を|真紅《まつか》にして|畏縮《ゐしゆく》してゐる。
テームス『ベリス|姫《ひめ》、|毎度《まいど》|云《い》つてお|前《まへ》の|気《き》を|揉《も》ますか|知《し》らぬが、|一寸《ちよつと》|秘密《ひみつ》の|御用《ごよう》があるさうだから|席《せき》を|外《はづ》して|居《ゐ》て|呉《く》れ』
ベリスは、
『ヘー』
と|長返事《ながへんじ》しながら、|少《すこ》しく|不安心《ふあんしん》の|面持《おももち》にて、|不承々々《ふしようぶしよう》に|挨拶《あいさつ》もせず|次《つぎ》の|間《ま》に|立《た》つて|行《ゆ》く。テームスはセーリス|姫《ひめ》に|対《たい》して|気《き》の|毒《どく》でならず|心《こころ》を|痛《いた》めながら、
『セーリス|姫様《ひめさま》、|御存《ごぞん》じの|通《とほ》りの|困《こま》つた|女房《にようばう》ですから、どうぞお|気《き》に|触《さ》へられないやうに|願《ねが》ひます』
『そんなお|心遣《こころづか》ひは|御無用《ごむよう》にして|下《くだ》さいませ。|夫《をつと》のある|方《かた》に|対《たい》し、|若《わか》い|女《をんな》が|尋《たづ》ねて|来《く》るのが|元来《ぐわんらい》|間違《まちが》つて|居《ゐ》ます。|併《しか》しながら、そんなことを|言《い》つて|居《を》られないのでお|訪《たづ》ね|致《いた》しました。|時《とき》にこのお|二人《ふたり》の|方《かた》は|此処《ここ》に|居《を》られても|差支《さしつか》へ|厶《ござ》いますまいかなア。|何《なん》だか|申上《まをしあ》げ|悪《にく》うて|困《こま》ります』
レーブ『イヤ、|私《わたし》も|長《なが》らく|座談《ざだん》に|時《とき》を|費《つひ》やし|尻《しり》も|痛《いた》くなりましたから|一寸《ちよつと》|外《そと》へ|出《で》て|月《つき》でも|賞《ほ》めて|来《き》ませう。サア、カルさま、|暫《しばら》く|屋外《をくぐわい》の|空気《くうき》を|吸《す》うて|来《こ》ようぢやありませぬか』
と|云《い》ひながら|早《はや》くも|立《た》つて|外《そと》に|出《い》でて|往《ゆ》く。カルも|従《したが》つて|屋外《をくぐわい》に|姿《すがた》を|現《あら》はした。|無心《むしん》の|月《つき》は、|皎々《かうかう》として|遺憾《ゐかん》なく|万物《ばんぶつ》を|照臨《せうりん》してゐる。|奥《おく》の|一間《ひとま》にはテームスとセーリス|姫《ひめ》との|間《あひだ》に|重要《ぢうえう》なる|問答《もんだふ》が|交換《かうくわん》された|様子《やうす》である。
(大正一一・一一・一〇 旧九・二二 加藤明子録)
第七章 |忍術使《にんじゆつし》〔一一一一〕
|大正《たいしやう》|壬戌《みづのえいぬ》の|年《とし》  |月日《つきひ》の|駒《こま》もスクスクと
|十一年《じふいちねん》の|晩秋《ばんしう》の  |十一月《しもつき》|十一日《かみのいちにち》に
|奇《く》しき|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》  |一千一百十一《いつせんいつぴやくじふいち》の
|節面白《ふしおもしろ》く|述《の》べ|立《た》つる  |時刻《じこく》も|恰度《ちやうど》|十一時《じふいちじ》
|治《をさ》まる|神代《みよ》を|松村《まつむら》が  |昨日《きのふ》に|変《かは》る|真澄空《ますみぞら》
|百年千年《ももとせちとせ》の|礎《いしずゑ》と  |万年筆《まんねんひつ》を|走《はし》らせて
|原稿用紙《げんかうようし》に|打向《うちむか》ひ  |身《み》もたなしらに|記《しる》しゆく
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|天《あま》つたひ|行《ゆ》く|星《ほし》の|影《かげ》  きらめき|渡《わた》り|秋《あき》|高《たか》く
|馬《うま》の|嘶《いなな》き|勇《いさ》ましき  |御空《みそら》に|澄《す》める|瑞月《ずゐげつ》が
|安全椅子《あんぜんいす》に|横《よこ》たはり  |神《かみ》の|教《をしへ》を|四方《よも》の|国《くに》
|百八十島《ももやそしま》の|果《はて》までも  |隈《くま》なく|開《ひら》き|敷島《しきしま》の
|煙草《たばこ》の|煙《けむり》を|吹《ふ》かせつつ  |現幽神《げんいうしん》の|三界《さんかい》を
|超越《てうゑつ》したる|物語《ものがたり》  |教《をしへ》の|御子《みこ》や|世《よ》の|中《なか》の
|青人草《あをひとぐさ》の|魂柱《たまはしら》  |太《ふと》しく|立《た》てむと|述《の》べ|立《た》つる
|此《この》|物語《ものがたり》|永久《とこしへ》に  |天地《てんち》と|共《とも》に|極《きは》みなく
|神《かみ》の|御苑《みその》の|花《はな》となり  |果実《このみ》となりて|五六七神《みろくしん》
|胎蔵《たいざう》したる|五種《いついろ》の  |味《あぢ》はひうまく|調合《てうがふ》し
|霊魂《みたま》の|餌《ゑさ》とならしめよ。
|盤古神王《ばんこしんわう》|奉戴《ほうたい》し  ウラルの|道《みち》を|開《ひら》きたる
ウラルの|彦《ひこ》やウラル|姫《ひめ》  |三五教《あななひけう》の|神人《かみびと》に
|醜《しこ》の|砦《とりで》をやらはれて  |千代《ちよ》の|住家《すみか》と|構《かま》へたる
|世《よ》にも|名高《なだか》きアーメニヤ  |館《やかた》をすてて|常世国《とこよくに》
ロツキー|山《ざん》や|常世城《とこよじやう》  |現《あら》はれ|出《い》でて|自在天《じざいてん》
|大国彦《おほくにひこ》を|奉戴《ほうたい》し  バラモン|教《けう》を|建設《けんせつ》し
|盤古神王《ばんこしんわう》はどこへやら  |押込《おしこ》めおきてバラモンの
|教《をしへ》を|常世《とこよ》の|国内《くにうち》に  |開《ひら》き|居《ゐ》たりし|折《をり》もあれ
|又《また》もや|神《かみ》の|戒《いまし》めに  |常世《とこよ》の|国《くに》を|逃《に》げ|出《いだ》し
|埃及国《エヂプトこく》に|打渡《うちわた》り  |豊葦原《とよあしはら》の|中津国《なかつくに》
メソポタミヤの|自凝《おのころ》の  |島《しま》に|渡《わた》りて|自在天《じざいてん》
|教《をしへ》を|開《ひら》く|折《をり》もあれ  ウラルの|道《みち》に|仕《つか》へたる
|音彦《おとひこ》、|亀彦《かめひこ》|両人《りやうにん》が  |三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》して
|神《かみ》の|司《つかさ》となりすまし  |大江《おほえ》の|山《やま》や|三岳山《みたけやま》
|鬼ケ城《おにがじやう》へとかけ|向《むか》ひ  |言霊戦《ことたません》を|開始《かいし》して
|勢《いきほひ》|強《つよ》く|攻《せ》め|来《きた》る  |其《その》|神力《しんりき》に|辟易《へきえき》し
|大国別《おほくにわけ》に|仕《つか》へたる  |鬼雲彦《おにくもひこ》の|大棟梁《だいとうりやう》
|鬼熊別《おにくまわけ》と|諸共《もろとも》に  |空《そら》に|塞《ふさ》がる|黒雲《くろくも》に
|隠《かく》れて|逃《に》げゆく|月《つき》の|国《くに》  ハルナの|都《みやこ》に|居《きよ》を|構《かま》へ
|再《ふたた》びここにバラモンの  |教《をしへ》を|開《ひら》きゐたりしが
カルマタ|国《こく》にウラル|彦《ひこ》  ウラルの|姫《ひめ》の|初発《しよつぱつ》に
|盤古神王《ばんこしんわう》を|奉戴《ほうたい》し  |道《みち》を|開《ひら》きしウラル|教《けう》
ウラルの|彦《ひこ》の|系統《けいとう》と  |名乗《なの》る|常暗彦《とこやみひこ》の|司《かみ》
ウラルの|残党《ざんたう》|呼《よ》び|集《あつ》め  |其《その》|勢《いきほひ》は|日《ひ》に|月《つき》に
|盛《さか》りとなりてバラモンの  |教《をしへ》の|根底《こんてい》を|覆《くつが》へし
|今《いま》は|危《あやふ》くなりにける  ウラルの|彦《ひこ》やウラル|姫《ひめ》
|初《はじ》めに|開《ひら》きしウラル|教《けう》  |常世《とこよ》の|国《くに》に|逃《に》げ|行《ゆ》きて
|新《あら》たに|開《ひら》きしバラモン|教《けう》  |其《その》|源《みなもと》は|一株《ひとかぶ》の
|教主《けうしゆ》の|教《をしへ》も|主斎神《しゆさいしん》  |盤古神王《ばんこしんわう》|自在天《じざいてん》
|二《ふた》つに|分《わか》れし|其《その》|結果《けつくわ》  |互《たがひ》に|鎬《しのぎ》を|削《けづ》りつつ
|憎《にく》み|争《あらそ》ふぞ|是非《ぜひ》もなき。
|小亜細亜《せうアジア》の|神都《しんと》エルサレムの|都《みやこ》に|近《ちか》き|黄金山下《わうごんさんか》に|埴安彦《はにやすひこ》、|埴安姫《はにやすひめ》の|神《かみ》|顕現《けんげん》して、|三五教《あななひけう》を|開《ひら》き|給《たま》ひしより、|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》や|醜狐《しこぎつね》の|邪神《じやしん》は、|正神界《せいしんかい》の|経綸《けいりん》に|極力《きよくりよく》|対抗《たいかう》せむと、|常世彦《とこよひこ》、|常世姫《とこよひめ》の|子《こ》なるウラル|彦《ひこ》、ウラル|姫《ひめ》に|憑依《ひようい》し、|三五教《あななひけう》の|神柱《かむばしら》|国治立命《くにはるたちのみこと》に|対抗《たいかう》せむと|盤古神王《ばんこしんわう》|塩長彦《しほながひこ》を|担《かつ》ぎ|上《あ》げ、|茲《ここ》にウラル|教《けう》を|開設《かいせつ》し、|天下《てんか》を|攪乱《かくらん》しつつありしが、|三五教《あななひけう》の|宣伝神《せんでんしん》の|常住不断《じやうぢゆうふだん》の|舎身的《しやしんてき》|活動《かつどう》に|敵《てき》し|得《え》ず、ウラル|山《さん》、コーカス|山《ざん》、アーメニヤを|棄《す》てて|常世《とこよ》の|国《くに》に|渡《わた》り、ロツキー|山《ざん》、|常世城《とこよじやう》|等《とう》にて|今度《こんど》は|大自在天《だいじさいてん》|大国彦命《おほくにひこのみこと》|及《およ》び|大国別命《おほくにわけのみこと》を|神柱《かむばしら》とし、|再《ふたた》びバラモン|教《けう》を|開設《かいせつ》して、|三五教《あななひけう》を|殲滅《せんめつ》せむと|計画《けいくわく》し、エヂプトに|渡《わた》り、イホの|都《みやこ》に|於《おい》て、バラモン|教《けう》の|基礎《きそ》を|漸《やうや》く|固《かた》むる|折《をり》しも、|又《また》もや|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》に|追《お》つ|立《た》てられ、メソポタミヤに|逃《に》げ|行《ゆ》きて、ここに|再《ふたた》び|基礎《きそ》を|確立《かくりつ》し、|勢《いきほひ》|漸《やうや》く|盛《さかん》ならむとする|時《とき》、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|遣《つか》はし|給《たま》ふ|宣伝使《せんでんし》|太玉命《ふとたまのみこと》に|神退《かむやら》ひに|退《やら》はれ、|当時《たうじ》の|大教主《だいけうしゆ》|兼《けん》|大棟梁《だいとうりやう》たる|鬼雲彦《おにくもひこ》は|黒雲《こくうん》に|乗《じやう》じて|自転倒島《おのころじま》の|中心地《ちうしんち》|大江山《おほえやま》に|本拠《ほんきよ》を|構《かま》へ、|鬼熊別《おにくまわけ》と|共《とも》に|大飛躍《だいひやく》を|試《こころ》みむとする|時《とき》、|又《また》もや|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|言霊《ことたま》に|畏縮《ゐしゆく》して、フサの|国《くに》を|越《こ》え、やうやく|月《つき》の|国《くに》のハルナの|都《みやこ》にバラモンの|基礎《きそ》を|固《かた》め、|鬼雲彦《おにくもひこ》は|大黒主《おほくろぬし》と|改名《かいめい》して|印度《いんど》|七千余ケ国《しちせんよかこく》の|刹帝利《せつていり》を|大部分《だいぶぶん》|味方《みかた》につけ、その|威勢《ゐせい》は|日月《じつげつ》の|如《ごと》く|輝《かがや》き|渡《わた》りつつあつた。|然《しか》るにウラル|彦《ひこ》、ウラル|姫《ひめ》の|初発《しよつぱつ》に|開《ひら》きたる|盤古神王《ばんこしんわう》を|主斎神《しゆさいしん》とするウラル|教《けう》の|教徒《けうと》は、|四方《しはう》|八方《はつぱう》より|何時《いつ》となく|集《あつ》まり|来《きた》りて、ウラル|彦《ひこ》の|落胤《らくいん》なる|常暗彦《とこやみひこ》を|推戴《すゐたい》し、デカタン|高原《かうげん》の|東北方《とうほくぱう》にあたるカルマタ|国《こく》に、ウラル|教《けう》の|本城《ほんじやう》を|構《かま》へ、|本家《ほんけ》|分家《ぶんけ》の|説《せつ》を|主張《しゆちやう》し、ウラル|教《けう》は|常暗彦《とこやみひこ》の|父《ちち》ウラル|彦《ひこ》の|最初《さいしよ》に|開《ひら》き|給《たま》ひし|教《をしへ》であり、バラモン|教《けう》は|常世国《とこよのくに》に|於《おい》て、|第二回目《だいにくわいめ》に|開《ひら》かれし|教《をしへ》なれば、|教祖《けうそ》は|同神《どうしん》である。|只《ただ》|主斎神《しゆさいしん》が|違《ちが》つてゐるのみだ。ウラル|教《けう》は|如何《どう》してもバラモン|教《けう》を|従《したが》へねば|神慮《しんりよ》に|叶《かな》はない。|先《ま》づバラモン|教《けう》を|帰順《きじゆん》せしめ、|一団《いちだん》となつて|神力《しんりき》を|四方《しはう》に|発揮《はつき》し、|次《つ》いで|三五教《あななひけう》を|殲滅《せんめつ》せむものと、ウラル|教《けう》の|幹部《かんぶ》は|息《いき》まきつつあつたのである。
|茲《ここ》にバラモン|教《けう》の|大黒主《おほくろぬし》は|此《この》|消息《せうそく》を|耳《みみ》にし、スワ|一大事《いちだいじ》と|鬼春別《おにはるわけ》、|大足別《おほだるわけ》をして|一方《いつぱう》はウラル|教《けう》へ、|一方《いつぱう》は|三五教《あななひけう》へ|短兵急《たんぺいきふ》に|攻《せ》め|寄《よ》せしめ、バラモン|教《けう》の|障害《しやうがい》を|除《のぞ》き、|天下《てんか》を|統一《とういつ》せむと|計画《けいくわく》をめぐらし、|既《すで》にウラル|教《けう》の|本城《ほんじやう》へは|大足別《おほだるわけ》の|部隊《ぶたい》を|差向《さしむ》け、|三五教《あななひけう》の|中心地《ちうしんち》と|聞《きこ》えるたる|斎苑《いそ》の|館《やかた》へは|鬼春別《おにはるわけ》をして、|数多《あまた》の|勇卒《ゆうそつ》を|率《ひき》ゐ、|進撃《しんげき》せしめたるは、|前巻《ぜんくわん》|既《すで》に|述《の》ぶる|通《とほ》りである。
|秋《あき》の|夜嵐《よあらし》|吹《ふ》き|荒《すさ》び、|雨《あめ》さへ|交《まじ》り、|木《こ》の|葉《は》はバラバラと|音《おと》して|散《ち》り|布《し》く。|左守《さもり》の|司《かみ》クーリンスの|高塀《たかへい》を|越《こ》して|忍《しの》び|入《い》る|覆面《ふくめん》|頭巾《づきん》の|曲者《くせもの》があつた。これは|右守《うもり》の|司《かみ》に|仕《つか》ふるマンモスといふ|忍術《にんじゆつ》の|達人《たつじん》である。|茲《ここ》に|忍術《にんじゆつ》に|就《つい》て|一言《ひとこと》|述《の》べておく|必要《ひつえう》があると|思《おも》ふ。
|忍術《にんじゆつ》とは|変幻出没《へんげんしゆつぼつ》、|肉身《にくしん》を|自由自在《じいうじざい》に|相手《あひて》の|前《まへ》に|煙《けむり》の|如《ごと》く|消滅《せうめつ》し、|巧《たくみ》に|其《その》|踪跡《そうせき》をくらます|魔術《まじゆつ》の|様《やう》に|考《かんが》へてゐる|人《ひと》もある|様《やう》だが、|忍術《にんじゆつ》なるものは|決《けつ》してそんな|不可思議《ふかしぎ》なものではない。|忍術《にんじゆつ》とは|忍耐術《にんたいじゆつ》の|意味《いみ》であつて、|敵情《てきじやう》を|窺《うかが》ふに|際《さい》し、|屋根裏《やねうら》に|一週間《いつしうかん》でも|十日《とをか》でも|飲《の》まず|食《く》はずに、|咳《せき》もせず、|息《いき》を|潜《ひそ》めて|様子《やうす》を|考《かんが》へたり、|或《あるひ》は|寒暑《かんしよ》を|問《と》はず、|目的《もくてき》の|達《たつ》するまで、|仮令《たとへ》|十日《とをか》でも|二十日《はつか》でも|水中《すゐちう》に|身《み》を|没《ぼつ》し、|鼻《はな》と|目《め》だけを|水面《すゐめん》に|出《だ》して|空気《くうき》を|吸《す》ひ、|顔《かほ》の|上《うへ》に|藻《も》などを|被《かぶ》つて、|敵情《てきじやう》を|視察《しさつ》したり、|或《あるひ》は|広《ひろ》き|泉水《せんすゐ》などを|渡《わた》るにも|波《なみ》を|立《た》てないやうに、|水音《みづおと》のせない|様《やう》に|活動《くわつどう》し|得《う》る|迄《まで》には、|余程《よほど》の|習練《しふれん》を|要《えう》するのである。|又《また》|一夜《いちや》の|中《うち》に|百里《ひやくり》|以上《いじやう》も|高飛《たかとび》を|徒歩《とほ》でせなくてはならぬのである。|其《その》|歩《ある》き|方《かた》は|左《ひだり》の|肩《かた》を|先《さき》にし、|成《な》るべく|空気《くうき》の|当《あた》らない|様《やう》にして|道《みち》を|突破《とつぱ》し、|蟹《かに》の|如《ごと》くに|横《よこ》に|歩《あゆ》む|時《とき》は、|足音《あしおと》もせず、|三四倍《さんしばい》の|道《みち》が|歩《あゆ》めるのである。|甲地《かふち》にて|宵《よひ》の|口《くち》に|或《ある》|目的《もくてき》を|達《たつ》し、|其《その》|夜《よる》の|中《うち》に|百里《ひやくり》も|離《はな》れた|乙地《おつち》へ|到着《たうちやく》して|納《をさ》まり|返《かへ》つてゐるのが|忍術《にんじゆつ》の|目的《もくてき》である。|又《また》|忍術《にんじゆつ》を|使《つか》ふ|者《もの》は、|黒白青赤《くろしろあをあか》|其《その》|他《た》いろいろの|布巾《ふきん》を|懐《ふところ》にかくしおき、|白壁《しらかべ》の|前《まへ》に|立《た》つ|時《とき》は|白布《はくふ》を|出《だ》して|其《その》|身《み》を|隠《かく》し、|黒《くろ》き|物《もの》の|側《そば》に|立寄《たちよ》る|時《とき》は|黒《くろ》の|布《ぬの》を|以《もつ》て|身《み》を|蔽《おほ》ひ、|青《あを》き|所《ところ》では|青《あを》き|布《ぬの》を|出《だ》して|身《み》を|蔽《おほ》ひ、|人《ひと》の|目《め》を|誤魔化《ごまくわ》す|事《こと》を|以《もつ》て|忍術《にんじゆつ》の|奥義《おくぎ》としてゐるのである。つまりカメレオンがあたりの|草木《さうもく》の|色《いろ》によつて|変《へん》ずる|如《ごと》き|活動《くわつどう》をするのである。|又《また》|上《うへ》から|下《した》まで|黒装束《くろしやうぞく》を|着《ちやく》し、|四五尺《しごしやく》ばかりもある|手拭《てぬぐひ》を|一筋《ひとすぢ》|持《も》ち、|之《これ》を|頬被《ほほかぶ》りにしたり、|或《あるひ》は|高《たか》い|所《ところ》から|吊《つ》り|降《お》りる|綱《つな》にも|応用《おうよう》するのである。|又《また》|一本《いつぽん》の|鎧透《よろひどう》しといふ|極《きは》めて|丈夫《ぢやうぶ》な|一尺《いつしやく》ばかりの|短刀《たんたう》を|所持《しよぢ》し、|其《その》|短刀《たんたう》は|無銘《むめい》である。|万一《まんいち》|過《あやま》つて|遺失《ゐしつ》した|時《とき》に、|其《その》|主《ぬし》の|分《わか》らない|様《やう》との|注意《ちゆうい》から|無銘《むめい》の|刀《かたな》を|用《もち》ひ、|又《また》|一切《いつさい》|印《しるし》の|入《い》つた|持物《もちもの》は|身《み》につけないのである。そして|其《その》|短刀《たんたう》には|三間《さんげん》も|四間《しけん》もある|長《なが》い|丈夫《ぢやうぶ》な|下《さ》げ|緒《を》をくくりつけ、|塀《へい》などを|越《こ》す|時《とき》は、|下《さ》げ|緒《を》の|端《はし》に|手頃《てごろ》の|石《いし》|又《また》は|分銅《ふんどう》を|括《くく》りつけ、|庭木《にはき》の|枝《えだ》などに、|外《そと》からパツとふりかけ、|綱《つな》を|結《むす》びつけ、|短刀《たんたう》を|大地《だいち》に|立《た》て、|其《その》|上《うへ》に|片足《かたあし》をのせ、|下《さ》げ|緒《を》を|力《ちから》として|身《み》を|跳《をど》らし|塀《へい》に|飛上《とびあが》り、|下《さ》げ|緒《を》をたぐつて|短刀《たんたう》を|手《て》に|入《い》れ、|又《また》スルスルとほどける|様《やう》にして|木《き》の|枝《えだ》から|吊《つ》りおり、|座敷《ざしき》に|忍《しの》び|入《い》るのである。そして|皮袋《かはぶくろ》に|二三合《にさんがふ》ばかりの|水《みづ》を|入《い》れておき、ソツと|敷居《しきゐ》に|流《なが》し、|戸《と》をあける|時《とき》、|音《おと》をさせぬ|様《やう》にして|暗夜《あんや》に|忍《しの》び|込《こ》み、|敵情《てきじやう》を|視察《しさつ》するのが|忍術使《にんじゆつし》の|職務《しよくむ》であつた。そして|敵《てき》の|寝所《しんじよ》に|忍《しの》び|入《い》つた|時《とき》は、|頭《あたま》の|方《はう》から|進《すす》みよるのである。|万一《まんいち》|足《あし》の|方《はう》から|進《すす》む|際《さい》、|敵《てき》が|目《め》をさまし、|起上《おきあが》る|途端《とたん》に|其《その》|姿《すがた》を|認《みと》めらるる|事《こと》を|恐《おそ》るるからである。|頭《あたま》の|方《はう》から|進《すす》む|時《とき》は、|敵《てき》が|驚《おどろ》いて|起上《おきあが》るを、|後《うしろ》から|短刀《たんたう》にて|切《き》りつくるのに|最《もつと》も|便宜《べんぎ》なからである。|又《また》|室内《しつない》の|様子《やうす》をよく|考《かんが》へ、|屏風《びやうぶ》の|蔭《かげ》とか、|行灯《あんどん》の|蔭《かげ》とかに|身《み》を|潜《ひそ》める|事《こと》を|努《つと》めるものである。そして|其《その》|室《へや》に|入《い》る|前《まへ》に|敵《てき》の|熟睡《じゆくすい》せるや|否《いな》やを|瀬《せ》ぶみする|為《ため》に、|平常《ふだん》から|飼《か》ひならしておいた|二匹《にひき》の|鼠《ねづみ》を|懐《ふところ》にかくし|置《お》き、|先《ま》づ|一匹《いつぴき》を|室内《しつない》に|放《はな》つて|見《み》る。|鼠《ねづみ》は|変《かは》つた|家《いへ》に|行《い》つた|時《とき》は、うろたへて|座敷中《ざしきちう》をガタガタと|騒《さわ》ぎまはるものである。|其《その》|鼠《ねづみ》の|音《おと》で|目《め》をさますやうではまだ|熟睡《じゆくすい》してゐないのである。|寝《ね》まぐれにシーツ シーツと|相手《あひて》が|鼠《ねづみ》を|叱《しか》り、|其《その》|儘《まま》グツと|寝《ね》て|了《しま》ふ。ソツと|障子《しやうじ》の|穴《あな》から|忍術使《にんじゆつし》が|覗《のぞ》くと、|鼠《ねづみ》は|其《その》|顔《かほ》を|見《み》て|再《ふたた》び|懐《ふところ》へ|帰《かへ》つて|来《く》る。|今度《こんど》は|又《また》|念《ねん》の|為《ため》|次《つぎ》の|鼠《ねづみ》を|一間《ひとま》に|投入《なげい》れると、|又《また》もや|鼠《ねづみ》はうろたへて|騒《さわ》いで、ガサガサとかけ|廻《まは》る。それでも|気《き》がつかずに|眠《ねむ》つてゐたならば、|最早《もはや》|忍術使《にんじゆつし》は|安心《あんしん》して|其《その》|目的《もくてき》を|達《たつ》するのである。
クーリンスはセーラン|王《わう》に|面会《めんくわい》し、|種々《いろいろ》と|右守《うもり》の|司《かみ》のカールチンが|陰謀《いんぼう》に|備《そな》ふべく、|密議《みつぎ》を|凝《こ》らし、|初夜《しよや》|頃《ごろ》|漸《やうや》く|吾《わが》|家《や》に|帰《かへ》り、|草疲《くたび》れ|果《は》てて、グツと|寝《しん》に|就《つ》いてゐた。そこへ|塀《へい》を|乗《の》り|越《こ》え|黒装束《くろしやうぞく》となつてやつて|来《き》たのがマンモスであつた。|彼《かれ》は|型《かた》の|如《ごと》くクーリンスの|寝室《しんしつ》に|忍《しの》び|入《い》り、|鼠《ねづみ》を|放《はな》つて|見《み》た。|第二回目《だいにくわいめ》に|放《はな》つた|鼠《ねづみ》はうろたへて|襖《ふすま》の|破《やぶ》れ|穴《あな》から|隣《となり》の|宿直役《とのゐやく》のウヰルスの|間《ま》へ|飛込《とびこ》んだ。ウヰルスはウツラ ウツラ|眠《ねむ》つてゐたが、|飛込《とびこ》んだ|鼠《ねづみ》が|自分《じぶん》の|顔《かほ》を|走《はし》つたので、フツと|目《め》をさまし、|起出《おきい》でて|見《み》れば|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|鼠《ねづみ》の|行動《かうどう》、こりやキツト|何者《なにもの》かが|忍《しの》び|入《い》つたに|相違《さうゐ》ない……と、|左守《さもり》の|司《かみ》の|寝室《しんしつ》に|耳《みみ》をすまして|窺《うかが》つてゐた。そこへノツソリと|黒装束《くろしやうぞく》で|現《あら》はれた|男《をとこ》、「ヤア」と|一声《ひとこゑ》、|左守《さもり》の|司《かみ》を|頭《あたま》の|方《はう》から|切《き》りつけむとする。この|声《こゑ》に|驚《おどろ》き、|矢庭《やには》に|襖《ふすま》を|押開《おしあ》け、|夜具《やぐ》を|抱《だ》いた|儘《まま》、|曲者《くせもの》を|捩伏《ねぢふ》せ、|短刀《たんたう》を|奪《うば》ひ|取《と》り、|直《ただち》に|後手《うしろで》に|縛《しば》り|上《あ》げて|了《しま》つた。
|左守《さもり》の|司《かみ》は|此《この》|物音《ものおと》に|起上《おきあが》り、
『ウヰルス、|夜中《やちう》にあわただしく|何者《なにもの》であつたか』
と|尋《たづ》ぬれば、ウヰルスは|声《こゑ》を|震《ふる》はせ|息《いき》を|喘《はづ》ませながら、
『|何物《なにもの》か、あなたの|寝室《しんしつ》に|忍《しの》び|入《い》り、|危害《きがい》を|加《くは》へむと|致《いた》しました|故《ゆゑ》、|飛《と》びかかつて|短刀《たんたう》をもぎ|取《と》り、|後手《うしろで》に|縛《しば》り|上《あ》げました。サア|是《これ》からよく|調《しら》べて|見《み》ませう』
『ヤア|険呑《けんのん》な|所《ところ》だつた。よくマア|助《たす》けてくれた』
と|言《い》ひながら、カンテラの|火《ひ》を|掻《か》き|立《た》て、|曲者《くせもの》の|顔《かほ》をよくよくすかし|見《み》れば、|右守《うもり》の|司《かみ》の|近侍《きんじ》を|勤《つと》めるマンモスである。
ウヰルス『オヽ|其《その》|方《はう》はマンモスではないか、|大方《おほかた》カールチンに|頼《たの》まれたのだらう。|之《これ》には|深《ふか》き|企《たく》みのある|事《こと》ならむ、|様子《やうす》を|逐一《ちくいち》|白状《はくじやう》|致《いた》せ』
マンモスは|恨《うら》めしげに|歯《は》を|喰《く》ひしばり、|丸《まる》き|目《め》をギヨロリと|剥《む》いて、ウヰルスを|睨《にら》みつけ、|首《くび》を|左右《さいう》にふつて|一言《ひとこと》も|答《こた》へない。ウヰルスは|声《こゑ》を|励《はげ》まし、
『|委細《ゐさい》を|白状《はくじやう》すれば|此《この》|儘《まま》|助《たす》けてつかはす。さもなくば|汝《なんぢ》が|命《いのち》を|取《と》つて、イルナ|城《じやう》の|災《わざわひ》を|除《のぞ》かねばならぬ。これでも|返答《へんたふ》いたさぬか、|其《その》|方《はう》はカールチンに|頼《たの》まれて、|左守《さもり》の|司《かみ》|様《さま》を|暗殺《あんさつ》に|来《き》たのだらう』
『|決《けつ》して|決《けつ》してカールチンに|頼《たの》まれたのではない。つい|妙《めう》な|夢《ゆめ》を|見《み》て|知《し》らず|知《し》らずにここへ|飛込《とびこ》んで|来《き》たのだ。|別《べつ》に|何等《なんら》の|考《かんが》へもないのだから、|御無礼《ごぶれい》したのは|許《ゆる》してくれ』
『|馬鹿《ばか》を|申《まを》すな、|其《その》|方《はう》は|斯《かく》の|如《ごと》く|忍術《にんじゆつ》の|装束《しやうぞく》を|着《つ》け、|一切万事《いつさいばんじ》の|準備《じゆんび》を|致《いた》して|来《き》てゐる|以上《いじやう》は、|最早《もはや》かくしても|駄目《だめ》だ。|白状《はくじやう》|致《いた》さぬか』
といひながらマンモスの|短刀《たんたう》を|以《もつ》て、|胸《むね》のあたりを|切《しき》りに|擽《くすぐ》つてみた。マンモスは|可笑《をか》しさ|痛《いた》さに|笑《わら》ひ|泣《な》きしながら、
『アハヽヽヽ、イヒヽヽヽ、|痛《いた》い|痛《いた》い|言《い》ひます|言《い》ひますキツト|言《い》ひます、どうぞこらへて|下《くだ》さい』
『|最早《もはや》|白状《はくじやう》するに|及《およ》ばぬ、|証拠《しようこ》は|歴然《れきぜん》たるものだ。それよりもチツと|擽《こそ》ばかして、|笑《わら》はしてやらうかい』
と|又《また》もや|胸《むね》のあたりをクルリクルリとさいなむ。
『アハヽヽヽ、イヒヽヽヽ|痛《いた》い|痛《いた》いどうぞこらへて|下《くだ》さいませ。|実《じつ》に|所《ところ》は|右守《うもり》の|司《かみ》カールチンさまから|頼《たの》まれました。|左守《さもり》の|司《かみ》は|吾《わが》|大望《たいまう》の|邪魔《じやま》を|致《いた》す|目《め》の|上《うへ》の|瘤《こぶ》だから、|汝《なんぢ》が|得意《とくい》の|忍術《にんじゆつ》にて|甘《うま》く|仕留《しと》め|帰《かへ》りなば、|余《よ》がイルナの|国王《こくわう》となつた|時《とき》、|其《その》|方《はう》を|右守《うもり》の|司《かみ》にしてやらうと|仰有《おつしや》いましたので、つい|慾《よく》にかられて|悪《わる》い|事《こと》とは|知《し》りながら、|出世《しゆつせ》の|元《もと》だと|思《おも》ひ、|忍《しの》び|込《こ》みました。モウ|今度《こんど》はキツと|心得《こころえ》ますから、どうぞお|赦《ゆる》しを|願《ねが》ひます』
『|旦那様《だんなさま》、|如何《いかが》|取計《とりはか》らひませうか』
|左守《さもり》『ウン、|俺《おれ》に|任《まか》せ』
と|云《い》ひながらマンモスの|顔《かほ》をグツと|睨《にら》みつけ、
『|許《ゆる》し|難《がた》き|悪人《あくにん》なれども、|今日《けふ》は|見《み》のがしてくれる。|一時《いちじ》も|早《はや》く|右守《うもり》の|司《かみ》の|館《やかた》へ|立帰《たちかへ》り、クーリンスはビチビチ|致《いた》して|居《ゐ》る。|其方《そなた》も|早《はや》く|改心《かいしん》なさらぬと|御身《おんみ》の|災《わざわひ》、|目《ま》のあたりに|迫《せま》つてゐますぞ。|今《いま》の|中《うち》に|御改心《ごかいしん》をなされと、よつく|伝《つた》へよ』
といひながら|縛《いまし》めの|繩《なは》を|解《と》き|放《はな》ちやれば、マンモスは|九死一生《きうしいつしやう》の|難関《なんくわん》を|遁《のが》れ、|喜《よろこ》び|勇《いさ》み、|足早《あしばや》に|暗《やみ》に|紛《まぎ》れて、|館《やかた》の|裏口《うらぐち》より|一目散《いちもくさん》に|逃《に》げてゆく。
(大正一一・一一・一一 旧九・二三 松村真澄録)
第二篇 |神機赫灼《しんきかくしやく》
第八章 |無理往生《むりわうじやう》〔一一一二〕
|中央印度《ちうあういんど》のデカタン|高原《かうげん》の|南方《なんぱう》に|当《あた》るテルマン|国《ごく》と|云《い》ふ、|住民《ぢうみん》|殆《ほとん》ど|十万《じふまん》に|近《ちか》き、|印度《いんど》では|相当《さうたう》な|大国《たいこく》があつた。テルマンの|都《みやこ》に|富豪《ふうがう》の|聞《きこ》え|高《たか》き|毘舎族《びしやぞく》にシヤールと|云《い》ふ|男《をとこ》があつた。|其《その》|邸宅《ていたく》は|都《みやこ》の|東方《とうはう》|最《もつと》も|風景《ふうけい》|佳《よ》き|地《ち》を|選《えら》み、|邸《やしき》の|周囲《しうゐ》|一里《いちり》|四方《しはう》にあまり、|深《ふか》き|広《ひろ》き|濠《ほり》を|囲《めぐ》らし、|其《その》|勢《いきほ》ひ|王者《わうじや》を|凌《しの》ぐばかりの|豪奢《がうしや》|振《ぶ》りを|発揮《はつき》してゐる。|富力《ふりよく》に|任《まか》せて|数多《あまた》の|美人《びじん》を|買《か》ひ|求《もと》め|来《きた》り|之《これ》を|妾《てかけ》となし、|本妻《ほんさい》のヤスダラ|姫《ひめ》に|対《たい》しては|極《きは》めて|冷酷《れいこく》な|取扱《とりあつかひ》をしてゐた。ヤスダラ|姫《ひめ》は|入那《いるな》の|国《くに》のセーラン|王《わう》が|従妹《いとこ》に|当《あた》る|刹帝利《せつていり》の|生《うま》れで、セーラン|王《わう》の|許嫁《いひなづけ》であつた|事《こと》は|前節《ぜんせつ》|已《すで》に|述《の》べた|通《とほ》りである。ヤスダラ|姫《ひめ》はシヤールの|広《ひろ》き|邸《やしき》の|中《なか》に|可《か》なり|美《うる》はしき|家宅《かたく》を|与《あた》へられ、|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》と|共《とも》に|面白《おもしろ》からぬ|月日《つきひ》を|送《おく》りつつあつた。ヤスダラ|姫館《ひめやかた》の|取締《とりしまり》にリーダーと|云《い》ふ|年若《としわか》き|綺麗《きれい》な|万事《ばんじ》|抜目《ぬけめ》なく|立廻《たちまは》る|利口《りこう》な|男《をとこ》があつた。ヤスダラ|姫《ひめ》は|此《この》リーダーを|此上《こよ》なきものと|愛《あい》し|時々《ときどき》|琴《こと》|等《など》を|弾《だん》じさせ|其《その》|日《ひ》の|鬱《うつ》を|慰《なぐさ》めてゐた。|或《ある》|時《とき》ヤスダラ|姫《ひめ》は|一間《ひとま》に|閉《と》ぢ|籠《こも》り、|一絃琴《いちげんきん》を|弾《だん》じながら|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》うてゐる。
『|水《みづ》の|流《なが》れと|人《ひと》の|行末《ゆくすゑ》  |定《さだ》めなき|世《よ》と|云《い》ひながら
|夢《ゆめ》の|浮世《うきよ》に|生《うま》れ|来《き》て  |妾《わらは》は|尊《たふと》き|刹帝利《せつていり》
セーラン|王《わう》の|従妹《いとこ》と|生《うま》れ  |年端《としは》も|行《ゆ》かぬ|幼《をさな》き|頃《ころ》より
|親《おや》と|親《おや》との|許嫁《いひなづけ》  |吾《わが》|行末《ゆくすゑ》はイルナの|国《くに》
|治統《うしは》ぎ|給《たま》ふセーラン|王《わう》の  |后《きさき》と|仕《つか》へまつる|身《み》の
|今《いま》は|果敢《はか》なきヤスダラ|姫《ひめ》  |遠《とほ》き|山野《さんや》を|隔《へだ》てたる
テルマン|国《ごく》の|毘舎《びしや》と|在《ま》す  シヤールの|妻《つま》と|下《おろ》されて
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|現世《うつしよ》を  はかなみ|暮《くら》す|悲《かな》しさよ
|空《そら》ゆく|雲《くも》を|眺《なが》むれば  |西《にし》へ|西《にし》へと|流《なが》れ|行《ゆ》く
|御空《みそら》をかける|鳥《とり》|見《み》れば  |之《これ》また|西《にし》へ|進《すす》み|行《ゆ》く
|空《そら》|行《ゆ》く|雲《くも》や|飛《た》つ|鳥《とり》の  |人《ひと》の|哀《あは》れを|知《し》るならば
イルナの|国《くに》に|在《あ》れませる  セーラン|王《わう》の|御許《おんもと》へ
|切《せつ》なき|妾《わらは》が|思《おも》ひねを  |完全《うまら》に|詳細《つばら》に|訪《おとづ》れよ
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|吾《わが》|恋《こ》ふる  |聖《ひじり》の|王《きみ》の|身《み》の|上《うへ》を
|案《あん》じ|過《すご》して|夜《よ》も|昼《ひる》も  |心《こころ》|痛《いた》むるヤスダラ|姫《ひめ》
|思《おも》ひ|廻《まは》せば|吾《わが》|身《み》ほど  |因果《いんぐわ》なものが|世《よ》にあらうか
|月《つき》の|国《くに》にて|刹帝利《せつていり》の  |尊《たふと》き|家《いへ》に|生《うま》れあひ
|貴勝《きしよう》の|地位《ちゐ》にありながら  |今《いま》は|卑《いや》しき|毘舎《びしや》の|妻《つま》
|神《かみ》も|仏《ほとけ》も|世《よ》の|中《なか》に  お|在《は》しまさずや、あゝ|悲《かな》し
|情《つれ》なの|娑婆《しやば》に|永《なが》らへて  |胸《むね》の|炎《ほのほ》を|焦《こが》しつつ
|消《け》す|術《すべ》もなき|苦《くる》しさよ  シヤールの|夫《をつと》は|朝夕《あさゆふ》に
|富《とみ》の|力《ちから》に|任《まか》せつつ  |毘舎《びしや》の|娘《むすめ》や|首陀《しゆだ》の|子《こ》を
|彼方《あちら》|此方《こちら》と|狩《か》り|集《あつ》め  |吾物顔《わがものがほ》に|女子《をみなご》を
|弄《もてあそ》びつつ|妹《いも》と|背《せ》の  |尊《たふと》き|道《みち》を|打《う》ち|忘《わす》れ
|妾《わらは》に|対《たい》して|一度《ひとたび》も  |情《なさけ》をかけし|事《こと》もなし
バラモン|教《けう》を|守《まも》ります  |梵天《ぼんてん》|帝釈《たいしやく》|自在天《じさいてん》
|大国彦《おほくにひこ》の|神様《かみさま》よ  ヤスダラ|姫《ひめ》の|境遇《きやうぐう》を
|憐《あは》れみ|給《たま》ひて|一時《ひととき》も  |早《はや》く|恋《こひ》しきセーラン|王《わう》に
|一目《ひとめ》なりとも|会《あ》はせかし  |仮令《たとへ》|吾《わが》|身《み》は|朽《く》つるとも
|神《かみ》より|受《う》けし|吾《わが》|魂《たま》は  |王《きみ》の|御側《みそば》に|通《かよ》ひつつ
|朝夕《あさゆふ》|御身《おんみ》を|守《まも》るべし  テルマン|国《ごく》は|広《ひろ》くとも
シヤールの|家《いへ》の|瑞垣《みづがき》は  |山《やま》より|高《たか》く|築《きづ》くとも
|邸《やしき》を|囲《めぐ》る|濠水《ほりみづ》は  |何程《なにほど》|深《ふか》く|広《ひろ》くとも
|王《きみ》を|慕《した》へる|吾《わが》|心《こころ》  |如何《いか》でか|通《かよ》はぬ|事《こと》やあらむ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|御魂《みたま》の|清《きよ》き|人《ひと》の|来《き》て  |吾《わが》|身《み》を|救《すく》ひ|夜《よ》に|紛《まぎ》れ
|父《ちち》のまします|入那《いるな》の|国《くに》に  |送《おく》らせ|給《たま》へ|自在天《じさいてん》
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御前《おんまへ》に  |心《こころ》も|常《つね》に|安《やす》からぬ
ヤスダラ|姫《ひめ》が|真心《まごころ》を  |籠《こ》めてぞ|祈《いの》り|奉《たてまつ》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |此《この》|世《よ》を|造《つく》り|給《たま》ひたる
|皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に  |慎《つつし》み|敬《いやま》ひ|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
と|淑《しとや》かに|歌《うた》つてゐる。かかる|所《ところ》へ|邸《やしき》の|内外《ないぐわい》の|掃除《さうぢ》を|済《す》ませ|身禊《みそぎ》をなし、|正服《せいふく》と|着換《きか》へて|姫《ひめ》の|室《しつ》を|訪《たづ》ねて|来《き》たのは|忠僕《ちうぼく》のリーダーである。|姫《ひめ》は|琴《こと》の|手《て》をやめてニツコと|笑《わら》ひ、
『あゝ|其方《そなた》はリーダー|殿《どの》、|大変《たいへん》|早《はや》いぢやありませぬか。|大層《たいそう》お|掃除《さうぢ》が……|今日《けふ》は|又《また》|特別《とくべつ》によく|出来《でき》たやうですな』
『ハイ、|今日《けふ》は|旦那様《だんなさま》から|御命令《ごめいれい》が|厶《ござ》りましたので、|早朝《さうてう》より|室内《しつない》の|掃除《さうぢ》を|致《いた》し、|門《もん》の|隅々《すみずみ》まで|竹箒《たけばうき》がバイタになる|所《ところ》まで|掃《は》きちぎつて|置《お》きました。|大変《たいへん》|美《うつく》しくなつたでせう。|破《やぶ》れ|草鞋《わらぢ》の|様《やう》に|隅《すみ》から|隅《すみ》まで【はき】ちぎつて|置《お》きました。アハヽヽヽ』
『ホヽヽヽヽ、|掃《は》きちぎつて|置《お》いたのは|結構《けつこう》だが、|今日《けふ》に|限《かぎ》つて|特別《とくべつ》の|御命令《ごめいれい》を|遊《あそ》ばすとは、|何《なに》かの【はき】|違《ちが》ひでも|出来《でき》たのぢやありませぬか』
『ハイハイ|何分《なにぶん》|僕《しもべ》のことで|姫様《ひめさま》が|御存《ごぞん》じない|位《くらゐ》ですから、|吾々《われわれ》にはハキハキと|何御用《なにごよう》か|分《わか》りませぬ。|兎《と》も|角《かく》|履物《はきもの》の|位置《ゐち》をキチンと|揃《そろ》へて|置《お》きました。これで|旦那様《だんなさま》がお|見《み》えになつても、|家内《かない》しめて|四名《よめい》と|云《い》ふ|事《こと》が|分《わか》りますやうに、|履物《はきもの》が|玄関口《げんくわんぐち》にお|迎《むか》へを|致《いた》して|居《を》りますわ』
ヤスダラ|姫《ひめ》は|少《すこ》しく|頭《かうべ》を|傾《かたむ》け、
『ハテナ、いつもお|見《み》えになつた|事《こと》のない|旦那様《だんなさま》が|御入《おい》りなのか|知《し》らぬ。どうせ|碌《ろく》なことではあるまい』
と|独語《ひとりご》ちつつ|心配《しんぱい》さうに|考《かんが》へ|込《こ》んでゐる。そこへ|二三人《にさんにん》の|供人《ともびと》を|従《したが》へ|足音《あしおと》|高《たか》くやつて|来《き》たのはシヤールである。ヤスダラ|姫《ひめ》は|一絃琴《いちげんきん》を|手早《てばや》くとつて|床《とこ》の|間《ま》にキチンと|直《なほ》し、|襟《えり》を|正《ただ》し|満面《まんめん》に|愛嬌《あいけう》を|湛《たた》へながら、|言葉《ことば》|優《やさ》しく、
『あゝ|貴方《あなた》は|旦那様《だんなさま》、よくまあ|入《い》らして|下《くだ》さいました。|今日《けふ》は|何《なに》か|変《かは》つた|御用向《ごようむき》でも|出来《でき》ましたか』
と|慇懃《いんぎん》に|尋《たづ》ぬればシヤールは|木訥《ぼくとつ》な|声《こゑ》で、
『|何《なに》、|別《べつ》にこれと|云《い》ふ|用《よう》はないのだが、|今日《けふ》はお|前《まへ》に|一《ひと》つ|聞《き》き|訊《ただ》さねばならぬ|事《こと》が|出来《でき》たのだから、|其《その》|積《つも》りで|包《つつ》まず|隠《かく》さずハツキリと|返答《へんたふ》をしてもらはねばならぬよ』
と|面《つら》|膨《ふく》らし|不機嫌《ふきげん》の|体《てい》である。ヤスダラ|姫《ひめ》は|胸《むね》を|轟《とどろ》かせながら、
『それは|又《また》|変《かは》つた|御用向《ごようむき》、|何《なに》か|妾《わらは》の|一身上《いつしんじやう》に|就《つ》いて|嫌疑《けんぎ》がおありなさるのですか』
『あればこそ、|忙《いそが》しい|中《なか》を|一日《いちにち》の|暇《ひま》を|割《さ》いてお|前《まへ》の|館《やかた》へ|出《で》て|来《き》たのだ。|暫《しばら》く|待《ま》つて|居《ゐ》ろ。|入那《いるな》の|都《みやこ》からカールチンの|奥様《おくさま》テーナ|姫様《ひめさま》がお|前《まへ》の|身《み》の|上《うへ》に|就《つ》いてお|越《こ》しになつたのだ。お|前《まへ》は|夫《をつと》の|目《め》を|忍《しの》び、|入那《いるな》の|国《くに》のセーラン|王《わう》の|御許《みもと》へ|艶書《えんしよ》を|送《おく》つたではないか』
ヤスダラ|姫《ひめ》は|打驚《うちおどろ》き|顔色《がんしよく》を|変《か》へて、
『な……|何《なん》と|仰《あふ》せられます。まるで|寝耳《ねみみ》に|水《みづ》のやうなお|話《はなし》ぢや|厶《ござ》りませぬか』
シヤールはあげ|面《づら》をしながら|嫌《いや》らしく|笑《わら》ひ、
『エヘヽヽヽ|寝耳《ねみみ》に|水《みづ》とは|俺《おれ》の|事《こと》だ。お|前《まへ》は|幼少《えうせう》より|左守《さもり》の|司《かみ》の|娘《むすめ》として|深窓《しんそう》に|育《そだ》てられ、|純粋《じゆんすゐ》な|淑女《しゆくぢよ》だと|思《おも》つてゐたのに、|夫《をつと》の|目《め》を|忍《しの》んで|艶書《えんしよ》を|送《おく》るとは|何《なん》と|云《い》ふ|不貞腐《ふてくさ》れ|女《をんな》だ、|見下《みさ》げ|果《は》てたる|莫蓮者《ばくれんもの》|奴《め》、|今《いま》に|面《つら》の|皮《かは》をヒン|剥《む》いてやるから|楽《たの》しんで|待《ま》つてゐるが|宜《よ》からうぞ』
ヤスダラ|姫《ひめ》は|悲《かな》しさ|身《み》に|迫《せま》り、|声《こゑ》を|立《た》ててワツと|其《そ》の|場《ば》に|泣《な》き|伏《ふ》した。シヤールは|此《この》|体《てい》を|見《み》て|冷《ひや》やかに|笑《わら》ひながら、
『アハヽヽヽ、|何《なん》とまあ、|劫《がふ》を|経《へ》た|古狸《ふるだぬき》だな。|女《をんな》の|涙《なみだ》は|城《しろ》を|傾《かたむ》け|五尺《ごしやく》の|男子《だんし》を|手鞠《てまり》の|如《ごと》くに|翻弄《ほんろう》すると|聞《き》く。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》シヤールは|幾百人《いくひやくにん》とも|知《し》れぬ|女性《ぢよせい》に|接《せつ》し|居《を》れば、|女《をんな》の|慣用《くわんよう》|手段《しゆだん》たる|泣《な》き|声《ごゑ》や|涙《なみだ》には|決《けつ》して|驚《おどろ》かないぞ。|此《この》|道《みち》にかけては|天下無双《てんかむさう》の|勇士《ゆうし》、シヤールに|向《むか》つてはバベルの|塔《たふ》を|蝶《てふ》が|襲撃《しふげき》する|程《ほど》にも|感《かん》じないのだから、そんな|古手《ふるて》な|事《こと》は|止《や》めて|貰《もら》はうかい。【あた】|八釜《やかま》しい』
『|旦那様《だんなさま》、|貴方《あなた》はどこ|迄《まで》も|妾《わらは》をお|疑《うたが》ひ|遊《あそ》ばすのですか。|此《この》|頃《ごろ》|入那《いるな》の|国《くに》には|悪人《あくにん》|蔓《はびこ》り|王様《わうさま》を|廃立《はいりつ》せむと|企《たく》らむ|一派《いつぱ》と、これを|助《たす》けむとする|一派《いつぱ》とが|始終《しじう》|暗闘《あんとう》を|続《つづ》けてゐるさうですから、|大方《おほかた》|反対党《はんたいたう》の|方《はう》から|何《なに》かの|策略《さくりやく》で|妾《わらは》を|犠牲《ぎせい》にすべく|中傷讒誣《ちうしやうざんぶ》の|声《こゑ》を|放《はな》つたのでせう。|何卒《どうぞ》|冷静《れいせい》に|御熟考《ごじゆくかう》を|願《ねが》ひます』
『|何処《どこ》までも|渋太《しぶと》い|阿女《あまつちよ》|奴《め》、|汝《なんぢ》の|弁解《べんかい》は|聞《き》く|耳《みみ》|持《も》たぬ。|今《いま》テーナ|姫《ひめ》を|此処《ここ》へお|迎《むか》へ|申《まを》し|黒白《こくびやく》を|分《わ》けて|見《み》せてやるから、|赤恥《あかはぢ》をかかない|様《やう》に|致《いた》したが|宜《よ》からう』
ヤスダラ|姫《ひめ》はシヤールの|暴言《ばうげん》に|呆《あき》れ|果《は》て、|心《こころ》|弱《よわ》くては|叶《かな》はじと|気《き》をとり|直《なほ》し、|眼《まなこ》を|据《す》ゑ|坐《すわ》り|直《なほ》して|襟《えり》を|正《ただ》し、|儼然《げんぜん》として、
『|妾《わらは》はいやしくも|入那《いるな》の|国《くに》の|刹帝利《せつていり》|左守《さもり》の|司《かみ》のクーリンスが|娘《むすめ》、|左様《さやう》な|穢《けがら》はしき|事《こと》が|如何《どう》して|出来《でき》ようぞ。テーナ|姫《ひめ》とやら、|証拠《しようこ》に|立《た》つと|申《まを》すなら、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|此処《ここ》へお|招《まね》きなさいませ。|屹度《きつと》|妾《わらは》が|悪者《わるもの》|共《ども》の|謀計《ぼうけい》を|暴露《ばくろ》し|懲《こら》しめてくれませう』
と|形相《ぎやうさう》|物凄《ものすご》く|稍《やや》|声《こゑ》を|尖《とが》らせて|言《い》ひきつた。シヤールも|名代《なだい》の|富豪《ふうがう》、テルマン|国《ごく》の|有力者《いうりよくしや》の|中《うち》に|数《かぞ》へらるる|身《み》なれども、|生《うま》れは|卑《いや》しき|毘舎《びしや》の|種《たね》、ヤスダラ|姫《ひめ》の|此《この》|言葉《ことば》に|何《なん》となく|恐《おそ》れを|抱《いだ》き、|次第々々《しだいしだい》に|尻込《しりご》みなして|引下《ひきさが》る。かかる|所《ところ》へ|二三《にさん》の|供《とも》に|送《おく》られて|肩《かた》で|風《かぜ》を|切《き》りながら、|絹《きぬ》ずれの|音《おと》サヤサヤと|上使《じやうし》|気取《きど》りでやつて|来《き》たのは|右守《うもり》の|司《かみ》カールチンの|妻《つま》のテーナ|姫《ひめ》である。
テーナ|姫《ひめ》は|鷹揚《おうやう》に|玄関口《げんくわんぐち》を|上《あが》り、|少《すこ》しくフン|反《ぞ》り|返《かへ》つて|裾《すそ》を|長《なが》く|引《ひ》きずりながら、|身体《からだ》|一面《いちめん》に|瑠璃《るり》、【しやこ】、|珊瑚《さんご》、|金《きん》、|銀《ぎん》、|瑪瑙《めなう》|等《など》で|飾《かざ》り|立《た》て、|棚機姫《たなばたひめ》の|降臨《かうりん》か、|松代姫《まつよひめ》の|再来《さいらい》かと|言《い》ふやうな|満艦飾《まんかんしよく》で|奥《おく》の|間《ま》に|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》もなく|進《すす》み|入《い》り、シヤールに|打《う》ち|向《むか》ひ、
『シヤール|殿《どの》、|其方《そなた》の|第一《だいいち》|夫人《ふじん》ヤスダラ|姫《ひめ》は|此方《こなた》で|厶《ござ》るかな』
と|鷹揚《おうよう》にヤスダラ|姫《ひめ》を|睨《ね》めつけながら|故意《わざ》とに|問《と》ひかける。シヤールは|頭《かうべ》を|下《さ》げ、
『ハイ、|問題《もんだい》のヤスダラ|姫《ひめ》はこれで|厶《ござ》ります。|何卒《どうぞ》|十分《じふぶん》にお|取調《とりしらべ》を|願《ねが》ひます。|貴女《あなた》の|御言葉《おことば》の|通《とほ》りならば|如何《どう》しても|此《この》|儘《まま》にして|置《お》く|訳《わけ》には|参《まゐ》りませぬ』
テーナ|姫《ひめ》は|皺枯《しわが》れた|声《こゑ》を|出《だ》して、さも|憎々《にくにく》しげに、
『|此方《こなた》が|問題《もんだい》のヤスダラ|姫《ひめ》で|厶《ござ》るかな。|如何《いか》にも|虫《むし》も|殺《ころ》さぬやうな|淑女面《しゆくぢよづら》をさらし、|大《だい》それた|事《こと》を|致《いた》さるるものだな。|外面如菩薩《げめんによぼさつ》|内心如夜叉《ないしんによやしや》、|善《ぜん》の|仮面《かめん》を|被《かぶ》つてシヤールの|家庭《かてい》を|紊乱《ぶんらん》し、|次《つ》いでイルナの|国《くに》を|攪乱《かくらん》|致《いた》す|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》の|再来《さいらい》、|一日《いちにち》も|早《はや》く|妾《わたし》の|申《まを》す|通《とほ》り|堅牢《けんらう》なる|座敷牢《ざしきろう》を|造《つく》り、|外間《ぐわいかん》の|交通《かうつう》を|絶《た》ち|幽閉《いうへい》なさらねば、カールチンの|右守様《うもりさま》に|対《たい》し|申訳《まをしわけ》が|立《た》ちますまいぞ。|此《この》テルマン|国《ごく》はイルナの|国《くに》の|属邦《ぞくほう》なれば、|当時《たうじ》|大黒主《おほくろぬし》の|信任《しんにん》|厚《あつ》き|右守《うもり》の|司《かみ》の|命令《めいれい》に|背《そむ》かむか、シヤールの|家《いへ》は|忽《たちま》ち|闕所《けつしよ》の|憂目《うきめ》に|遇《あ》ひますぞ。|早《はや》く|決行《けつかう》なさるが|宜《よ》からう』
と|目《め》に|角《かど》を|立《た》て|厳《おごそ》かに|宣示《せんじ》するを、シヤールは|縮《ちぢ》み|上《あが》り「ハツ」と|畳《たたみ》に|頭《かしら》をすりつけながら、
『|仰《あふ》せに|従《したが》ひ|其《その》|準備《じゆんび》に|取《と》りかかるで|厶《ござ》いませう』
ヤスダラ|姫《ひめ》は|夫《をつと》シヤールの|不甲斐《ふがひ》なき|態度《たいど》にグツと|腹《はら》を|立《た》て、|声《こゑ》を|震《ふる》はせながらテーナ|姫《ひめ》に|向《むか》ひ、
『|其方《そなた》は|右守《うもり》の|司《かみ》の|妻《つま》テーナ|姫《ひめ》ではないか。|汝《なんぢ》が|夫《をつと》カールチンは|卑《いや》しき|首陀《しゆだ》の|生《うま》れ、|吾《わが》|父《ちち》クーリンス|殿《どの》より|引《ひ》き|立《た》てられ、|今《いま》は|右守《うもり》の|司《かみ》の|地位《ちゐ》に|迄《まで》|進《すす》み、|漸《やうや》く|世《よ》に|認《みと》めらるる|様《やう》になつたのは|誰《たれ》のお|蔭《かげ》だと|思《おも》うて|居《を》るか。|汝《なんぢ》は|吾《わが》|幼少《えうせう》の|時《とき》の|子守役《こもりやく》を|勤《つと》めて|居《を》つた|卑《いや》しき|婢女《はしため》、|今《いま》は|右守《うもり》の|司《かみ》の|妻《つま》となりたればとて、|妾《わらは》に|対《たい》し|無礼《ぶれい》の|雑言《ざふごん》、|最早《もはや》|聞棄《ききす》てはなりませぬぞ』
と|睨《ね》めつくればテーナ|姫《ひめ》は|平然《へいぜん》として|打笑《うちわら》ひ、
『オホヽヽヽ、|愈《いよいよ》|以《もつ》てヤスダラ|姫《ひめ》は|狂気《きやうき》|致《いた》したと|見《み》ゆる。|妾《わたし》の|夫《をつと》はイルナの|国《くに》にて|其《その》|名《な》も|高《たか》き|刹帝利《せつていり》の|生《うま》れ、|妾《わたし》は|又《また》|貴勝族《きしようぞく》の|生《うま》れで|厶《ござ》る。ヤスダラ|姫《ひめ》が|父《ちち》クーリンスこそ|卑《いや》しき|首陀《しゆだ》の|生《うま》れ、|吾《わが》|夫《をつと》カールチンの|引立《ひきたて》によりて|今日《こんにち》の|地位《ちゐ》を|得《え》ながら、|其《その》|大恩《だいおん》を|忘《わす》れ、|反対《はんたい》に|妾《わたし》の|夫《をつと》を|卑《いや》しき|首陀族《しゆだぞく》と|申《まを》すは|何《なん》たる|暴言《ばうげん》、こりや|屹度《きつと》|正気《しやうき》ではあるまい。|早《はや》く|牢獄《らうごく》に|打《う》ち|込《こ》めよ』
と|勢《いきほひ》に|任《まか》して|反対的《はんたいてき》の|捏論《ねつろん》をまくしたて、|無理《むり》|往生《わうじやう》にヤスダラ|姫《ひめ》を|幽閉《いうへい》せしめむと|焦慮《あせ》つてゐる。カールチンがテーナ|姫《ひめ》をシヤールの|館《やかた》に、ヤスダラ|姫《ひめ》に|難癖《なんくせ》をつけて|幽閉《いうへい》せしむべく、|使者《ししや》に|遣《つか》はしたのは|深《ふか》き|考《かんが》へがあつての|事《こと》である。カールチンは|大黒主《おほくろぬし》の|後援《こうゑん》の|下《もと》にセーラン|王《わう》、クーリンスを|放逐《ほうちく》し|其《その》|野心《やしん》を|達《たつ》せむとする|折《をり》、ヤスダラ|姫《ひめ》のありては|後日《ごじつ》の|大妨害《だいばうがい》となる|事《こと》を|慮《おもんぱか》り、|難癖《なんくせ》をつけて|姫《ひめ》を|幽閉《いうへい》し|置《お》かむとの|策略《さくりやく》である。|又《また》|一《ひと》つには|娘《むすめ》のサマリー|姫《ひめ》とセーラン|王《わう》との|交情《かうじやう》あまり|面白《おもしろ》からざるは、ヤスダラ|姫《ひめ》|此《この》|世《よ》に|生存《せいぞん》して|何時《いつ》とはなしにセーラン|王《わう》に|思《おも》ひを|通《つう》じるを|以《もつ》て、セーラン|王《わう》の|斯《か》くも|吾《わが》|娘《むすめ》を|冷遇《れいぐう》するならむとの|僻《ひが》みより、|犬糞的《けんぷんてき》にシヤールの|館《やかた》へ|頭抑《あたまおさ》へにテーナ|姫《ひめ》が|夫《をつと》の|使者《ししや》として|遥々《はるばる》やつて|来《き》たのである。ヤスダラ|姫《ひめ》は|心《こころ》|汚《きたな》きカールチン、テーナの|計略《けいりやく》によつて、シヤールの|邸内《ていない》に|堅牢《けんらう》なる|牢獄《らうごく》を|造《つく》り|其《その》|中《なか》に|不愍《ふびん》にも|残酷《ざんこく》にも|幽閉《いうへい》さるる|身《み》となつて|了《しま》つた。
|風雨雷電《ふううらいでん》の|烈《はげ》しき|夜《よ》、ヤスダラ|姫《ひめ》によく|仕《つか》へたるリーダーは|堅牢《けんらう》なる|牢獄《らうごく》を|打《う》ち|破《やぶ》り、ヤスダラ|姫《ひめ》を|救《すく》ひ|出《だ》し|暗《やみ》に|紛《まぎ》れてシヤールの|館《やかた》を|脱出《だつしゆつ》し、|夜《よ》を|日《ひ》についで|入那《いるな》の|国《くに》、|父《ちち》の|館《やかた》をさして|逃《に》げ|帰《かへ》る|準備《じゆんび》にかかれり。
(大正一一・一一・一一 旧九・二三 北村隆光録)
第九章 |蓮《はちす》の|川辺《かはべ》〔一一一三〕
|空《そら》|照《て》り|渡《わた》る|月《つき》の|国《くに》  |朝日《あさひ》も|清《きよ》くテルマンの
|国《くに》の|都《みやこ》に|名《な》も|高《たか》き  |毘舎族《びしやぞく》シヤールの|富豪《ふうがう》の
|妻《つま》と|降《くだ》りし|刹帝利《せつていり》  セーラン|王《わう》の|従妹《いとこ》なる
ヤスダラ|姫《ひめ》は|朝夕《あさゆふ》に  |其《その》|身《み》の|不運《ふうん》をなげきつつ
|悲《かな》しき|月日《つきひ》を|送《おく》る|折《をり》  |思《おも》ひもかけぬイルナ|国《こく》
|右守《うもり》の|司《かみ》と|仕《つか》へたる  |醜《しこ》の|司《つかさ》のカールチンが
|女房《にようばう》のテーナは|遥々《はるばる》と  シヤールの|館《やかた》に|立《た》ち|向《むか》ひ
|右守《うもり》の|司《かみ》の|使者《ししや》となり  |四辺《あたり》を|払《はら》ひ|堂々《だうだう》と
|進《すす》み|来《きた》るぞ|忌々《ゆゆ》しけれ  シヤールは|使者《ししや》と|聞《き》くよりも
|打《う》ち|驚《おどろ》きて|吾《わが》|居間《ゐま》に  |茶菓《さくわ》の|饗応《きやうおう》|慇懃《いんぎん》に
テーナの|姫《ひめ》をあしらひつ  ヤスダラ|姫《ひめ》の|館守《やかたもり》
リーダー|其《その》|他《た》に|命令《めいれい》し  |館《やかた》の|内外《うちと》を|清《きよ》めしめ
|時分《じぶん》はよしとテーナ|姫《ひめ》  |導《みちび》きながら|入《い》り|来《きた》り
ヤスダラ|姫《ひめ》に|打《う》ち|向《むか》ひ  |無理無体《むりむたい》の|暴言《ばうげん》を
|吐《は》きかけながらテーナ|姫《ひめ》の  |心《こころ》を|損《そこ》ねちやならないと
|諂侫阿諛《てんねいあゆ》のありたけを  |尽《つく》して|尾《を》をふる|卑怯者《ひけふもの》
|二世《にせ》の|妻《つま》なるヤスダラ|姫《ひめ》の  |妻《つま》の|命《みこと》を|哀《あは》れにも
|堅牢《けんらう》|無比《むひ》の|牢獄《らうごく》に  |投《な》げ|込《こ》み|置《お》きて|胸《むね》を|撫《な》で
やつと|急場《きふば》をのがれたる  |姑息《こそく》の|仕打《しうち》ぞ|憎《にく》らしき
ヤスダラ|姫《ひめ》に|心《こころ》より  |至誠《しせい》を|捧《ささ》げて|尽《つく》したる
|下僕《しもべ》のリーダーは|雨風《あめかぜ》の  はげしき|夜《よる》を|幸《さいは》ひに
|鋭《するど》き|鉞《まさかり》うちふるひ  |獄屋《ひとや》を|苦《く》もなく|打《う》ち|破《やぶ》り
|姫《ひめ》をば|背《せな》に|負《お》ひながら  |警戒《けいかい》|厳《きび》しき|邸内《ていない》を
|闇《やみ》に|紛《まぎ》れてすたすたと  |荒野《あらの》を|渡《わた》る|夜《よる》の|道《みち》
|北《きた》へ|北《きた》へと|進《すす》みつつ  ヤスダラ|姫《ひめ》の|恋慕《こひした》ふ
|故国《ここく》にイルナの|国境《くにざかひ》  |蓮《はちす》の|川《かは》の|畔《ほとり》まで
|逃《に》げ|帰《かへ》り|往《ゆ》く|折《をり》もあれ  カールチン|等《ら》が|部下《ぶか》の|者《もの》
|幾十人《いくじふにん》とも|限《かぎ》りなく  |蓮《はちす》の|川《かは》の|両岸《りやうがん》に
|手具脛《てぐすね》|引《ひ》いて|両人《りやうにん》が  |逃《のが》れ|来《きた》るを|待《ま》ち|居《ゐ》たり
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》はひて
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|本国《ほんごく》へ  |二人《ふたり》の|男女《なんによ》を|恙《つつが》なく
|帰《かへ》らせ|給《たま》へと|瑞月《ずゐげつ》が  |心《こころ》の|空《そら》にかけまくも
バラモン|神《がみ》の|御前《おんまへ》に  |代《かは》りて|謹《つつし》み|願《ね》ぎまつる
|旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |曲津《まがつ》の|神《かみ》は|猛《たけ》ぶとも
|忠義《ちうぎ》|一途《いちづ》の|下僕等《しもべら》が  |主人《あるじ》の|君《きみ》を|守《まも》りつつ
|往《ゆ》く|手《て》の|道《みち》を|隈《くま》もなく  |開《ひら》かせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|心《こころ》になり|代《かは》り  |往《ゆ》く|手《て》の|道《みち》を|案《あん》じつつ
|茲《ここ》にそろそろ|述《の》べ|立《た》つる  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
ヤスダラ|姫《ひめ》、リーダーの|両人《りやうにん》は|千辛万苦《せんしんばんく》の|結果《けつくわ》、やつと|虎口《ここう》を|逃《のが》れ|蓮川《はちすがは》の|袂《たもと》|迄《まで》|逃《に》げ|来《きた》る。|頃《ころ》しも|秋《あき》の|末《すゑ》つ|頃《ごろ》、|少《すこ》し|虧《か》けたる|清朗《せいらう》の|月《つき》は、|主従《しゆじゆう》|二人《ふたり》の|頭《かうべ》を|遺憾《ゐかん》なく|照《て》らし|給《たま》ひ、|二人《ふたり》の|行路《ゆくみち》をあつく|守《まも》らせ|給《たま》ふ。|二人《ふたり》は|川辺《かはべ》に|安着《あんちやく》し、|漸《やうや》く|西《にし》に|傾《かたむ》いた|月影《つきかげ》を|眺《なが》めながら、ヤスダラ|姫《ひめ》は、
『|天伝《あまつた》ふ|月《つき》の|光《ひかり》に|照《て》らされて
|蓮《はちす》の|川辺《かはべ》に|着《つ》きにけらしな』
リーダー『|月《つき》もよし|御空《みそら》も|清《きよ》き|月《つき》の|国《くに》
ヤスダラ|姫《ひめ》につき|従《したが》ひし|吾《われ》。
|村肝《むらきも》の|心《こころ》もやうやく|晴《は》れ|渡《わた》り
イルナの|国《くに》の|月《つき》はかがやく』
ヤスダラ『やすやすと|下僕《しもべ》の|神《かみ》に|守《まも》られて
|故国《ここく》にイルナの|吾《われ》ぞ|嬉《うれ》しき。
セーラン|王《わう》|神《かみ》の|命《みこと》は|如何《いか》にして
|今宵《こよひ》の|月《つき》を|眺《なが》めますらむ。
さゆる|夜《よ》に|君《きみ》の|面影《おもかげ》|偲《しの》ばれぬ
|昔《むかし》イルナに|見《み》し|月《つき》を|思《おも》へば。
|附添《つきそ》ひしリーダーの|身《み》をば|照《て》らしつつ
|吾等《われら》を|守《まも》る|月夜見《つきよみ》|尊《たふと》し』
リーダー『|仰《あふ》ぎ|見《み》る|御空《みそら》の|月《つき》は|清《きよ》けれど
テーナの|住《す》める|館《やかた》ぞ|濁《にご》れる。
|大空《おほぞら》に|輝《かがや》き|渡《わた》る|月影《つきかげ》も
|醜《しこ》の|村雲《むらくも》|覆《おほ》ふぞ|忌々《ゆゆ》しき。
この|旅路《たびぢ》いとやすやすと|守《まも》れかし
|大国彦《おほくにひこ》の|神《かみ》の|恵《めぐみ》に』
ヤスダラ『テルマンの|夫《つま》の|館《やかた》を|忍《しの》び|出《で》て
やうやくここに|月《つき》の|影《かげ》さゆ。
|胸《むね》の|闇《やみ》|一度《いちど》に|開《ひら》くハチス|川《がは》
|渡《わた》る|浮世《うきよ》にさやる|鬼《おに》なし。
さりながら|天《てん》に|風雨《ふうう》の|障《さはり》あり
|人《ひと》に|禍《わざはひ》なしとも|限《かぎ》らず。
|心《こころ》せよリーダーの|下僕《しもべ》この|川《かは》は
イルナの|国《くに》の|関所《せきしよ》なりせば』
リーダー『|謹《つつし》みて|前《まへ》や|後《うしろ》に|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|注《そそ》ぎ|守《まも》り|仕《つか》へむ』
ヤスダラ『|朝夕《あさゆふ》に|慕《した》ひまつりし|吾《わが》|君《きみ》と
|父《ちち》のまします|国《くに》|近《ちか》づきぬ。
|心《こころ》のみ|先《さき》に|立《た》ちつつ|吾《わが》|足《あし》の
|進《すす》み|兼《か》ねたるもどかしさかな』
リーダー『|大空《おほぞら》の|月《つき》|照《て》り|渡《わた》る|夜《よる》の|道《みち》
|如何《いか》でか|曲《まが》の|襲《おそ》ひ|来《く》べきや。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|心《こころ》に|任《まか》しつつ
|誠《まこと》を|力《ちから》に|進《すす》み|往《ゆ》くべし。
|今《いま》しばしヤスダラ|姫《ひめ》の|神司《かむつかさ》
|忍《しの》ばせたまへ|二日三日路《ふつかみつかぢ》』
かく|歌《うた》ひながら|空《そら》を|仰《あふ》いで|主従《しゆじゆう》は|息《いき》を|休《やす》めて|居《ゐ》る。|忽《たちま》ち|川辺《かはべ》の|草叢《くさむら》より、|現《あら》はれ|出《い》でたる|数十人《すうじふにん》の|黒《くろ》い|影《かげ》、|見《み》る|間《ま》に|両人《りやうにん》が|前後左右《ぜんごさいう》を|取《と》り|囲《かこ》み、|四五間《しごけん》の|距離《きより》を|保《たも》つて|近《ちか》よりもせず、|人垣《ひとがき》を|造《つく》り|睨《ね》めつけて|居《ゐ》る。リーダーは|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げ、
『|吾《われ》こそは|左守《さもり》の|司《かみ》、クーリンス|様《さま》の|御息女《おむすめ》ヤスダラ|姫様《ひめさま》のお|供《とも》を|致《いた》す|武術《ぶじゆつ》の|達人《たつじん》リーダーなるぞ。|何者《なにもの》の|指揮《さしづ》か|知《し》らねども、|吾々《われわれ》が|往手《ゆくて》にさやるは|不都合《ふつがふ》|千万《せんばん》、|一刻《いつこく》も|早《はや》く、|道《みち》を|開《ひら》き|土下座《どげざ》をなして|姫様《ひめさま》に|謝罪《しやざい》を|致《いた》せ。|猶予《いうよ》に|及《およ》ばば、|目《め》に|物《もの》|見《み》せて|呉《く》れる、サア|早《はや》く、|命《いのち》の|惜《を》しい|奴《やつ》は|此《この》|方《はう》の|申《まを》す|様《やう》に|致《いた》すが|好《よ》からうぞ』
|大勢《おほぜい》の|中《なか》より、|小頭《こがしら》らしき|大《だい》の|男《をとこ》、|忽《たちま》ちリーダーの|前《まへ》に|立《た》ち|塞《ふさ》がり|大口《おほぐち》あけて|高笑《たかわら》ひ、
『アハヽヽヽヽ、|只今《ただいま》の|汝《なんぢ》が|広言《くわうげん》|片腹《かたはら》|痛《いた》し。|吾《われ》こそはイルナの|国《くに》にて|武術《ぶじゆつ》の|達者《たつしや》と|聞《きこ》えたる|強力《がうりき》|無双《むさう》のハルマンなるぞ。カールチン|様《さま》の|命令《めいれい》に|依《よ》り、|汝等《なんぢら》|両人《りやうにん》を|生擒《いけどり》にせむため、この|関所《せきしよ》に|人数《にんず》を|集《あつ》め、|今《いま》や|遅《おそ》しと|待《ま》ち|疲《つか》れて|居《ゐ》た|所《ところ》だ。|愚図々々《ぐづぐづ》|致《いた》さず、|速《すみやか》に|縛《ばく》につけ』
『アハヽヽヽヽ|吐《ぬか》したりな、ハルマンの|空《う》つけ|者《もの》め、このリーダーが、|苦《にが》き|目《め》|見《み》せて|呉《く》れむ』
と|云《い》ふより|早《はや》く|鉄拳《てつけん》を|打《う》ち|振《ふ》りながら、ハルマンに|向《むか》つて|攻《せ》め|寄《よ》つた。ハルマンは|一歩二歩《ひとあしふたあし》|後《あと》へすざり、キツト|身構《みがま》へしながら、
『ヤアヤア|家来《けらい》の|者共《ものども》、|吾《われ》はリーダー|一人《ひとり》にかかつて|居《ゐ》るから、|其《その》|間《ま》にヤスダラ|姫《ひめ》を|捕縛《ほばく》|致《いた》せよ』
と|下知《げち》すれば、オーと|答《こた》へて|数十人《すうじふにん》は|唯《ただ》|一人《ひとり》のヤスダラ|姫《ひめ》に|向《むか》ひ|遮二無二《しやにむに》|飛《と》びつき|来《きた》る。ヤスダラ|姫《ひめ》は|忽《たちま》ち|下紐《したひも》を|解《と》き、|襷十文字《たすきじふもんじ》に|綾取《あやど》り、|後鉢巻《うしろはちまき》リンと|締《し》めたる|女武者《をんなむしや》の|勇《いさ》ましさ。|寄《よ》り|来《きた》る|木端武者《こつぱむしや》を|片端《かたつぱし》からスツテンドウと|或《あるひ》は|草中《くさなか》へ|或《あるひ》は|川底《かはぞこ》へ|投《な》げ|込《こ》み|防《ふせ》ぎ|戦《たたか》へど、|立《た》ち|代《かは》り|入《い》り|代《かは》り|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》に|疲《つか》れ|果《は》て、ドウと|其《その》|場《ば》に|打《う》ち|倒《たふ》れて|仕舞《しま》つた。|其《その》|機《き》を|逸《いつ》せず|数人《すうにん》の|大男《おほをとこ》は、|重《かさ》なり|合《あ》うて|姫《ひめ》を|力限《ちからかぎ》りに|押《おさ》へつけ、|腕《うで》を|捻《ね》ぢ|今《いま》や|繩《なは》をかけむとする|時《とき》しもあれ、|後《うしろ》の|方《はう》より|四方《あたり》を|響《ひび》かす|宣伝歌《せんでんか》|聞《きこ》え|来《きた》る。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |正邪《せいじや》と|理非《りひ》を|立《た》て|別《わ》ける
ウラルの|神《かみ》に|仕《つか》へたる  |吾《われ》は|尊《たふと》き|宣伝使《せんでんし》
セイロン|島《たう》に|打《う》ち|渡《わた》り  バラモン|教《けう》の|神司《かむつかさ》
サガレン|王《わう》を|放逐《はうちく》し  ケーリス|姫《ひめ》を|手《て》に|入《い》れて
|意気《いき》|揚々《やうやう》と|神地城《かうぢじやう》  |神《かみ》の|司《つかさ》となりし|折《をり》
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |天《あめ》の|目一《まひと》つ|神司《かむつかさ》
|現《あら》はれ|来《きた》りていと|清《きよ》き  |尊《たふと》き|言霊《ことたま》|打《う》ち|出《いだ》し
|神地《かうぢ》の|城《しろ》は|忽《たちま》ちに  |紅蓮《ぐれん》の|舌《した》に|舐《な》められぬ
|吾《わが》|身《み》に|永《なが》く|憑依《ひようい》せし  |八岐《やまた》の|大蛇《をろち》は|驚《おどろ》きて
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|出《だ》せば  |今迄《いままで》|迷《まよ》ひし|夢《ゆめ》もさめ
|誠《まこと》の|心《こころ》に|立《た》ち|帰《かへ》り  |勇《いさ》み|進《すす》みて|三五《あななひ》の
|貴《うづ》の|信徒《しんと》となりにけり  |三五教《あななひけう》の|司《つかさ》|等《ら》が
|仁慈《じんじ》|無限《むげん》のやり|方《かた》に  |心《こころ》の|底《そこ》より|感歎《かんたん》し
|神地《かうぢ》の|都《みやこ》を|後《あと》にして  |月《つき》の|国《くに》へと|打《う》ち|渡《わた》り
|七千余国《しちせんよこく》を|隈《くま》もなく  |三五教《あななひけう》の|宣伝歌《せんでんか》
|歌《うた》ひて|進《すす》む|吾《われ》なるぞ  バラモン|教《けう》やウラル|教《けう》
|三五教《あななひけう》といろいろに  |教《をしへ》の|区別《くべつ》はありとても
|此《この》|世《よ》を|造《つく》り|固《かた》めたる  |元《もと》つ|御祖《みおや》は|一柱《ひとはしら》
|吾等《われら》の|父《ちち》といます|神《かみ》  |天《あめ》が|下《した》なる|人草《ひとぐさ》は
|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|皇神《すめかみ》の  |御息《みいき》に|現《あ》れし|貴《うづ》の|御子《みこ》
|互《たがひ》に|憎《にく》み|争《あらそ》ひて  |神慮《しんりよ》を|悩《なや》ませまつるなよ
|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》  |尊《たふと》き|身魂《みたま》と|生《あ》れながら
|虎《とら》|狼《おほかみ》に|劣《おと》るべき  |醜《しこ》の|行《おこな》ひつづけつつ
|自《みづか》ら|吾《わが》|身《み》の|品格《ひんかく》を  |傷《きず》つけ|破《やぶ》り|根《ね》の|国《くに》や
|底《そこ》の|国《くに》なる|苦《くる》しみを  |決《けつ》して|受《う》くる|事《こと》なかれ
|悪《あく》の|身魂《みたま》の|善心《ぜんしん》に  |立《た》ち|帰《かへ》りたる|竜雲《りううん》が
|四海同胞《しかいどうはう》の|好誼《よしみ》にて  |茲《ここ》に|忠告《ちうこく》|仕《つかまつ》る
バラモン|教《けう》の|人々《ひとびと》よ  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞《き》き|直《なほ》せ
|互《たがひ》に|吾《わが》|身《み》の|過《あやま》ちを  |顧《かへり》みなして|皇神《すめかみ》の
|心《こころ》を|安《やす》んじ|奉《たてまつ》り  |黄金《わうごん》|花《はな》|咲《さ》く|天国《てんごく》の
|救《すく》ひの|門《もん》を|開《ひら》くべし  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
|此《この》|宣伝歌《せんでんか》に|打《う》たれてや、ハルマンを|初《はじ》め|数十人《すうじふにん》の|人影《ひとかげ》は|雲《くも》の|風《かぜ》に|散《ち》る|如《ごと》く、|一目散《いちもくさん》に|北《きた》へ|北《きた》へと|蓮川《はちすがは》を|横《よこ》ぎり|先《さき》を|争《あらそ》ひ|逃《に》げて|往《ゆ》く。ヤスダラ|姫《ひめ》は|宣伝歌《せんでんか》の|主《ぬし》に|向《むか》ひ、いと|叮嚀《ていねい》に|会釈《ゑしやく》しながら、
『いづくの|方《かた》か|存《ぞん》じませぬが、|剣呑《けんのん》|千万《せんばん》の|所《ところ》へお|越《こ》し|下《くだ》さいまして、|尊《たふと》き|宣伝歌《せんでんか》をお|歌《うた》ひ|下《くだ》され、|吾々《われわれ》|主従《しゆじゆう》は|其《その》|御神力《ごしんりき》に|依《よ》つて|救《すく》はれまして|厶《ござ》ります。あゝ|私《わたし》もかういふ|場合《ばあひ》に|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ、|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》を|言向和《ことむけやは》せばよかつたのですが、あまり|俄《にはか》の|敵《てき》の|襲来《しふらい》に|挙措《きよそ》|其《その》|度《ど》を|失《しつ》し、|恥《はづか》しながら|女《をんな》の|分際《ぶんざい》としてあられもない|腕立《うでだて》を|致《いた》しました。そして|貴方《あなた》は|何処《どこ》の|何人《なにびと》で|厶《ござ》いますか』
『ハイ、|私《わたし》は|卑《いや》しき|首陀《しゆだ》の|家《いへ》に|生《うま》れたもので|厶《ござ》います。お|聞《き》き|及《およ》びでも|厶《ござ》いませうが、セイロン|島《たう》の|神地《かうぢ》の|都《みやこ》に|於《おい》て|曲津神《まがつかみ》に|誑惑《きやうわく》され、|大国別命《おほくにわけのみこと》|様《さま》の|御実子《ごじつし》|国別彦《くにわけひこ》|様《さま》が、サガレン|王《わう》となつてバラモンの|教《をしへ》を|神地《しんち》の|城《しろ》に|於《おい》てお|開《ひら》き|遊《あそ》ばす|処《ところ》へ|参《まゐ》り、|姫様《ひめさま》を【チヨロ】まかし、|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|振舞《ふるまひ》を|致《いた》しました|竜雲《りううん》で|厶《ござ》います。|只今《ただいま》|歌《うた》で|申《まを》し|上《あ》げました|通《とほ》り|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|天《あめ》の|目一《まひと》つの|神《かみ》の|御訓誡《ごくんかい》やサガレン|王様《わうさま》の|御仁慈《ごじんじ》に|依《よ》つて、|曇《くも》りきつたる|身魂《みたま》を|救《すく》はれ、|今《いま》は|果敢《はか》なき|放浪《はうらう》の|身《み》となり、|月《つき》の|国《くに》|七千余《しちせんよ》の|国々《くにぐに》を|廻《まは》り|廻《まは》りて|今《いま》|此処《ここ》へ|参《まゐ》ります|途中《とちう》|怪《あや》しき|人声《ひとごゑ》に|何事《なにごと》ならむと|駆《か》けつけ|見《み》れば、|御両人様《ごりやうにんさま》が|大勢《おほぜい》に|取囲《とりかこ》まれ|御困難《ごこんなん》の|最中《さいちう》、それ|故《ゆゑ》、|及《およ》ばずながら|三五《あななひ》の|道《みち》の|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|敵《てき》を|追《お》ひ|散《ち》らしたので|厶《ござ》います』
と、|包《つつ》まず|隠《かく》さず|己《おの》が|素性《すじやう》を|打《う》ち|明《あ》け、|落涙《らくるい》しながら|其《その》|事実《じじつ》を|物語《ものがた》る|殊勝《しゆしよう》さに、ヤスダラ|姫《ひめ》は|感《かん》に|打《う》たれ、
『|貴方《あなた》が|音《おと》に|名高《なだか》き|竜雲様《りううんさま》で|厶《ござ》いましたか。ようまあ|其処迄《そこまで》|御改心《ごかいしん》が|出来《でき》ました。|実《じつ》に|御立派《ごりつぱ》な|御人格《ごじんかく》とおなり|遊《あそ》ばしましたなア』
『お|褒《ほ》めに|預《あづ》かつては|畏《おそ》れ|入《い》ります。|私《わたし》も|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》によつていろいろと|苦労《くらう》を|与《あた》へられ、|身魂《みたま》を|研《みが》いて|頂《いただ》きました。これも|全《まつた》く|三五教《あななひけう》のお|蔭《かげ》で|厶《ござ》います』
『|三五教《あななひけう》はそれだけ|感化力《かんくわりよく》が|厶《ござ》りますか、|実《じつ》に|結構《けつこう》な|教《をしへ》で|厶《ござ》いますなア。|私《わたくし》も|一度《いちど》|其《その》|教《をしへ》が|聞《き》かして|頂《いただ》きたいもので|厶《ござ》います』
『|貴女《あなた》さへ|聞《き》きたいお|心《こころ》におなりなさつたならば、|神様《かみさま》はキツト|聞《き》かして|下《くだ》さるでせう。|先日《せんじつ》も|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|照国別《てるくにわけ》|様《さま》が|数多《あまた》の|人《ひと》の|前《まへ》で、|結構《けつこう》な|話《はなし》をして|居《を》られた。|其《その》|教《をしへ》を|聞《き》いた|人間《にんげん》は|貴賤《きせん》|老幼《らうえう》の|嫌《きら》ひなく|残《のこ》らず|帰順《きじゆん》して|仕舞《しま》ひました。|誠《まこと》|一《ひと》つを|立《た》て|抜《ぬ》く|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》の|三五《あななひ》の|教《をし》へは、|其《その》|伝播力《でんぱりよく》も|強《つよ》く、|恰《あだか》も|燎原《れうげん》の|火《ひ》の|如《ごと》き|勢《いきほひ》で|厶《ござ》います』
ヤスダラ|姫《ひめ》は、
『あゝ|左様《さやう》で|厶《ござ》いますか』
と|云《い》つたきり、さし|俯《うつむ》いて|両手《りやうて》を|合《あは》せ「|国治立《くにはるたち》の|神《かみ》、|吾《わが》|身《み》の|将来《ゆくゑ》を|守《まも》らせたまへ」と|小声《こごゑ》になつて|祈《いの》つて|居《ゐ》る。リーダーは|膝頭《ひざがしら》の|負傷《ふしやう》を|撫《な》で|擦《さす》りながら|漸《やうや》くにして|立《た》ち|上《あが》り、|竜雲《りううん》に|向《むか》ひ|叮嚀《ていねい》に|頭《かしら》を|下《さ》げ、
『|今《いま》|承《うけたま》はれば|貴方《あなた》は|有名《いうめい》な|竜雲様《りううんさま》で|厶《ござ》いましたか、|思《おも》はぬ|所《ところ》でお|目《め》に|懸《かか》りました。これも|何彼《なにか》の|因縁《いんねん》で|厶《ござ》いませう。よくまあ|姫様《ひめさま》の|御危難《ごきなん》をお|救《すく》ひ|下《くだ》さいました。|私《わたし》は|下僕《しもべ》のリーダーで|厶《ござ》います。|何分《なにぶん》|宜敷《よろしく》|此《この》|後《ご》の|御指導《ごしだう》を|願《ねが》ひます』
|竜雲《りううん》も|頭《かしら》を|下《さ》げ|叮嚀《ていねい》な|言葉《ことば》つきで、
『ハイ、お|言葉《ことば》|恐《おそ》れ|入《い》ります。|袖《そで》|振《ふ》り|合《あ》はすも|他生《たしやう》の|縁《えん》とやら、|罪《つみ》|深《ふか》き|竜雲《りううん》、|何卒《なにとぞ》お|互様《たがひさま》に|助《たす》け|合《あ》ひを|願《ねが》ひたいもので|厶《ござ》います。そして|貴方等《あなたがた》はどちらへお|越《こ》し|遊《あそ》ばすので|厶《ござ》いますか』
『ハイ、テルマン|国《ごく》のシヤールの|館《やかた》からイルナの|都《みやこ》、クーリンス|様《さま》のお|宅《たく》へ|指《さ》して|姫様《ひめさま》がお|帰《かへ》り|遊《あそ》ばすので、|私《わたし》はお|供《とも》に|参《まゐ》つたので|厶《ござ》います。|然《しか》るに|此《この》|川辺《かはべ》に|於《おい》て、|右守《うもり》の|司《かみ》のカールチンが|部下《ぶか》|共《ども》、|姫様《ひめさま》を|此処《ここ》にて|捕《とら》へむと|致《いた》しましたについては、|何《なに》か|都《みやこ》に|大変事《だいへんじ》が|起《おこ》つて|居《ゐ》るので|厶《ござ》まいせうと|実《じつ》に|心配《しんぱい》でなりませぬ』
『|左守《さもり》、|右守《うもり》お|二方《ふたかた》の|間《あひだ》に|大変《たいへん》な|暗闘《あんとう》が|出来《でき》て|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》は、|此《この》|竜雲《りううん》も|薄々《うすうす》|聞《き》き|及《およ》んで|居《を》ります。カールチンと|云《い》ふ|男《をとこ》は|実《じつ》に|奸侫《かんねい》|邪智《じやち》の|痴者《しれもの》で、|国人《くにびと》の|受《う》けの|悪《わる》い|神司《かむつかさ》、それに|引《ひ》きかへ|左守《さもり》の|人気《にんき》のよい|事《こと》、|羨《うらや》ましい|位《くらゐ》で|厶《ござ》います。そんな|事《こと》から|右守《うもり》が|嫉妬心《しつとしん》を|起《おこ》し、|悶着《もんちやく》が|起《おこ》つて|居《ゐ》るのでせう。これから|及《およ》ばずながら|竜雲《りううん》が|姫様《ひめさま》をイルナの|都《みやこ》|迄《まで》お|送《おく》り|致《いた》しますから|御安心《ごあんしん》なさいませ』
『ハイ|有難《ありがた》う、|地獄《ぢごく》で|仏《ほとけ》に|会《あ》うたと|申《まを》さうか、|根底《ねそこ》の|国《くに》で|救《すく》ひの|神《かみ》に|会《あ》うたと|申《まを》さうか、こんな|嬉《うれ》しい|事《こと》は|厶《ござ》りませぬ。|何分《なにぶん》かよわき|女《をんな》の|旅《たび》、|宜敷《よろしく》お|願《ねが》ひ|致《いた》します』
『|然《しか》らば|私《わたし》が|後《あと》になり|前《さき》になり|御身辺《ごしんぺん》を|保護《ほご》して|参《まゐ》ります、サア|往《ゆ》きませう』
と|云《い》ふかと|見《み》れば、|竜雲《りううん》の|姿《すがた》は|忽《たちま》ち|草《くさ》の|茂《しげ》みに|隠《かく》れて|仕舞《しま》つた。|主従《しゆじゆう》|二人《ふたり》は|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら|蓮《はちす》の|川《かは》を|横《よこ》ぎり、|何《なん》となく|勇気《ゆうき》|加《くは》はり、|足許《あしもと》もいと|軽《かる》げに|北《きた》へ|北《きた》へと|進《すす》み|往《ゆ》く。
(大正一一・一一・一一 旧九・二三 加藤明子録)
第一〇章 |狼《おほかみ》の|岩窟《いはや》〔一一一四〕
|入那《いるな》の|都《みやこ》より|四五里《しごり》を|隔《へだ》てたる|所《ところ》に|高照山《たかてるやま》といふ|高山脈《かうさんみやく》が|横《よこた》はつてゐる。イルナの|都《みやこ》へ|行《ゆ》くには|如何《どう》しても|此《この》|山《やま》を|越《こ》さねばならぬ。|昔《むかし》|大洪水《だいこうずゐ》のあつた|時《とき》、|高照姫命《たかてるひめのみこと》が|天降《あまくだ》り|給《たま》ひて、|国人《くにびと》を|此《この》|高山《かうざん》の|頂《いただき》に|救《すく》はれた|因縁《いんねん》に|依《よ》つて|今《いま》|尚《なほ》|高照山《たかてるやま》と|称《とな》へられてゐるのである。|此《この》|峠《たうげ》を|照山峠《てるやまたうげ》と|称《とな》へられてゐる。|今《いま》より|十万年《じふまんねん》|以前《いぜん》に|世界的《せかいてき》|大地震《だいぢしん》があつて、|今《いま》の|印度《いんど》は|非常《ひじやう》な|高原地《かうげんち》であつたのが、|大《おほい》に|降下《かうか》して|了《しま》つたものである。ハルナの|都《みやこ》も|今《いま》は|孟買《ボンベイ》となつてゐるが、|今《いま》の|孟買《ボンベイ》は|丁度《ちやうど》|其《その》|時代《じだい》の|大雲山《たいうんざん》の|頂《いただき》に|当《あた》つてゐる。ハルナの|都《みやこ》は|海底《かいてい》|深《ふか》く|沈没《ちんぼつ》して|了《しま》つた。|故《ゆゑ》に|今日《こんにち》の|地理学《ちりがく》、|地質学《ちしつがく》より|見《み》れば、|大変《たいへん》に|此《この》|物語《ものがたり》は|相違《さうゐ》する|点《てん》の|多々《たた》あるは|言《げん》を|俟《ま》たない|次第《しだい》である。
|照山峠《てるやまたうげ》の|二三里《にさんり》|右手《みぎて》に|当《あた》つて、|狼《おほかみ》の|岩窟《いはや》といふのがある。ここには|実《じつ》に|恐《おそ》ろしき|狼《おほかみ》の|群《むれ》が|天地《てんち》を|我物顔《わがものがほ》に|横行《わうかう》|闊歩《くわつぽ》して、|人間《にんげん》の|一歩《いつぽ》も|其《その》|地点《ちてん》に|踏《ふ》み|入《い》る|事《こと》を|許《ゆる》さない|狼窟《らうくつ》であつた。|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》はイルナの|森《もり》の|少《すこ》しく|手前《てまへ》から|狼《おほかみ》の|群《むれ》に|誘《さそ》はれて、|此《この》|狼《おほかみ》の|岩窟《いはや》に|進《すす》み|入《い》る|事《こと》となつた。(|狼《おほかみ》とは|食人種《しよくじんしゆ》の|別称《べつしよう》)
|噂《うはさ》に|聞《き》く|恐《おそ》ろしき|狼《おほかみ》の|棲処《すみか》とは|言《い》ふものの、|母娘《おやこ》|両人《りやうにん》が|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら、|狼《おほかみ》につれられて|山《やま》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》ると、|幾千万《いくせんまん》とも|限《かぎ》りなく、|狼軍《らうぐん》は|細谷路《ほそたにみち》の|傍《かたはら》に|列《れつ》を|作《つく》り、ウーウーと|歓呼《くわんこ》の|声《こゑ》を|放《はな》ち、|二人《ふたり》の|入《い》り|来《きた》るをば|嬉《うれ》しげに|待《ま》ち|迎《むか》へてゐる。|母娘《おやこ》はあたりに|心《こころ》を|配《くば》りながら、|漸《やうや》くにして|狼王《らうわう》の|棲息《せいそく》せる|大岩窟《だいがんくつ》に|進《すす》み|入《い》つた。
|岩窟《いわや》の|中《なか》は|大変《たいへん》に|広《ひろ》く|且《か》つ|美《うつく》しく、|所々《しよしよ》に|金《きん》、|銀《ぎん》、|瑪瑙《めなう》、【しやこ】、|瑠璃《るり》などが|光《ひか》つてゐる。|其《その》|美《うる》はしさ、|恰《あだか》も|天国《てんごく》の|宮殿《きうでん》に|進《すす》み|入《い》つた|如《ごと》き|感《かん》じがした。|母娘《おやこ》は|案《あん》に|相違《さうゐ》しながら|狼《おほかみ》に|導《みちび》かれて|奥《おく》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》ると、そこに|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|老人《らうじん》が|美《うる》はしき|姫神《ひめがみ》と|共《とも》に|端坐《たんざ》し、|何事《なにごと》か|狼《おほかみ》に|囁《ささや》いてゐる。|狼《おほかみ》はよく|人語《じんご》を|解《かい》するものの|如《ごと》くであつた。|母娘《おやこ》は|怪《あや》しみながら|老人《らうじん》の|側《そば》|近《ちか》く|寄《よ》り|見《み》れば、|豈《あに》|図《はか》らむや|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|天《あめ》の|目一《まひと》つ|神《かみ》|夫婦《ふうふ》である。
|黄金姫《わうごんひめ》は|打驚《うちおどろ》き、|頓狂《とんきやう》な|声《こゑ》を|出《だ》して、
『ヨウ、|貴方《あなた》は|北光《きたてる》の|神様《かみさま》では|厶《ござ》いませぬか。|珍《めづら》しい|所《ところ》でお|目《め》にかかりました。どうしてマア|斯様《かやう》な|狼窟《らうくつ》へ|御夫婦《ごふうふ》とも|御立籠《おたてこもり》になつてゐられますか』
『|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》より、|汝《なんぢ》は|神変《しんぺん》|不思議《ふしぎ》の|神力《しんりき》を|得《え》たれば、|最早《もはや》|人間界《にんげんかい》を|済度《さいど》するには|及《およ》ばぬ。|人間界《にんげんかい》は|他《た》の|宣伝使《せんでんし》にて|事足《ことた》れば、|汝《なんぢ》は|之《これ》より|猛獣《まうじう》の|棲処《すみか》に|進《すす》み|入《い》り、|彼等《かれら》|憐《あは》れなる|獣類《じうるゐ》の|霊《れい》を|済度《さいど》し、|向上《かうじやう》せしめ、|生《しやう》を|変《か》へて|人間《にんげん》と|生《うま》れしむべく、|恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|施《ほどこ》せよとの|御命令《ごめいれい》、|謹《つつし》んで|承《うけたま》はり、とうとう|今《いま》は|鷹依姫《たかよりひめ》、|竜国別《たつくにわけ》さまのやうに、|猛獣《まうじう》の|王《わう》となりましたよ。アハヽヽヽ』
『|何《なん》とマア|大神様《おほかみさま》の|御仁慈《ごじんじ》は、|禽獣《きんじう》まで|及《およ》ぼすとはここの|事《こと》で|厶《ござ》いますア。|私《わたし》|等《たち》|母娘《おやこ》、|入那《いるな》の|森《もり》を|越《こ》えて|都《みやこ》へ|進《すす》まむとする|折《をり》しも、|数十頭《すうじつとう》の|狼《おほかみ》|現《あら》はれ|来《きた》り、|吾等《われら》|母娘《おやこ》の|袖《そで》を|喰《くは》へ|無理《むり》に|引張《ひつぱ》りますので、|何事《なにごと》か|神様《かみさま》の|思召《おぼしめし》ならむと、ここ|迄《まで》|狼《おほかみ》にひかれて|岩窟参《いわやまゐ》りをやつて|来《き》ました。オホヽヽヽ』
|竹野《たけの》『|貴女《あなた》は|三五教《あななひけう》にて|御名《おんな》の|高《たか》き|黄金姫《わうごんひめ》の|神司《かむつかさ》で|厶《ござ》いましたか、お|若《わか》いのは|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》で|厶《ござ》いますか。|世《よ》の|為《ため》|道《みち》の|為《ため》、|御苦労《ごくらう》さまで|厶《ござ》いますなア』
『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。|貴女《あなた》は|黄泉比良坂《よもつひらさか》に|於《おい》て|桃《もも》の|実《み》と|仕《つか》へ|給《たま》うた|竹野姫《たけのひめ》|様《さま》で|厶《ござ》いましたか。|御高名《ごかうめい》は|承《うけたま》はり、|一度《いちど》|拝顔《はいがん》を|得《え》たしと|明暮《あけく》れ|祈《いの》つてゐましたが、これは|又《また》|思《おも》はぬ|所《ところ》で|拝顔《はいがん》を|得《え》ました。|何分《なにぶん》|身魂《みたま》の|曇《くも》つた|吾々《われわれ》|母娘《おやこ》、どうぞお|叱《しか》りを|願《ねが》ひます』
『|御鄭重《ごていちよう》な|御挨拶《ごあいさつ》、|痛《いた》み|入《い》ります。どうぞ|何分《なにぶん》にも|宜《よろ》しく|御交際《ごかうさい》を|願《ねが》ひます』
|北光《きたてる》『|貴女《あなた》は|玉山峠《たまやまたうげ》に|於《おい》て、|狼《おほかみ》に|救《すく》はれたでせう』
|黄金《わうごん》『ハイ|左様《さやう》で|厶《ござ》います、|貴方《あなた》それを|御存《ごぞん》じで|厶《ござ》いますか』
『|狼《おほかみ》|共《ども》の|注進《ちゆうしん》により、|貴女《あなた》の|危急《ききふ》を|救《すく》ふべく、|一小隊《いちせうたい》ばかり|繰出《くりだ》しました、アハヽヽヽヽ』
『それは|御親切《ごしんせつ》に|能《よ》う|救《すく》うて|下《くだ》さいました。|吾々《われわれ》は|未《ま》だ|人間心《にんげんごころ》がぬけませぬので、|猛獣《まうじう》|迄《まで》もなづけることは|出来《でき》ませぬ。|又《また》|獣《けだもの》の|言《ことば》を|解《かい》する|事《こと》も|出来《でき》ない|困《こま》つた|女《をんな》で|厶《ござ》います。かやうな|身魂《みたま》を|以《もつ》て|宣伝使《せんでんし》とは|実《じつ》にお|恥《はづか》しう|厶《ござ》います』
『|貴女《あなた》をここへお|招《まね》きしたのは|外《ほか》では|厶《ござ》いませぬ。|実《じつ》は|貴女《あなた》はハルナの|都《みやこ》へお|越《こ》し|遊《あそ》ばす|事《こと》になつて|居《を》りますれども、それ|以前《いぜん》に|一《ひと》つ、|不思議《ふしぎ》な|働《はたら》きをして|頂《いただ》かねばなりませぬから、|狼《おほかみ》を|遣《つか》はして、|右《みぎ》の|手続《てつづ》きを|取《と》つたので|御座《ござ》います。|実《じつ》はイルナの|国《くに》にバラモン|教《けう》の|神司《かむつかさ》|兼《けん》|刹帝利《せつていり》なるセーラン|王《わう》の|部下《ぶか》にカールチンといふ|心《こころ》|汚《きたな》き|右守《うもり》があつて、ハルナの|都《みやこ》の|大黒主《おほくろぬし》と|諜《しめ》し|合《あは》せ、セーラン|王《わう》を|打亡《うちほろ》ぼし、|自《みづか》ら|刹帝利《せつていり》の|位地《ゐち》に|進《すす》まむと|致《いた》して|居《を》ります。|就《つ》いてはハルナの|都《みやこ》より|数千騎《すうせんき》を|以《もつ》て、|近々《ちかぢか》にセーラン|王《わう》の|館《やかた》へ|攻《せ》めよせ|来《きた》る|筈《はず》なれば、|貴女《あなた》は|之《これ》よりイルナ|城《じやう》に|進《すす》み|入《い》り、セーラン|王《わう》|其《その》|他《た》|一族《いちぞく》を|誘《さそ》ひ|出《だ》し、|此《この》|狼《おほかみ》の|岩窟《いわや》へ|迎《むか》へとり、|徐《おもむろ》に|右守《うもり》の|陰謀《いんぼう》を|打破《うちやぶ》つて|貰《もら》ひたい。|其《その》|為《ため》に|貴女《あなた》を|御苦労《ごくらう》になつたのです』
と|始《はじ》めて|狼《おほかみ》の|迎《むか》へに|来《き》た|理由《りいう》を|物語《ものがた》る。
『|委細《ゐさい》|承知《しようち》|致《いた》しました。|左様《さやう》ならば|母娘《おやこ》|両人《りやうにん》が|之《これ》よりイルナ|城《じやう》へ|進《すす》みませう。|何卒《なにとぞ》|御保護《ごほご》を|願《ねが》ひます』
『|眷族《けんぞく》|共《ども》を|数多《あまた》|従《したが》へさせますれば|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ。|併《しか》しながら|狼《おほかみ》といふ|奴《やつ》は|屋外《をくぐわい》の|守護《しゆご》にはなりますが、|屋内《をくない》へ|這入《はい》れば|少《すこ》しも|働《はたら》きの|出来《でき》ない|奴《やつ》ですから、どうぞ|気《き》をつけて|行《い》つて|下《くだ》さい。|貴女《あなた》は|途中《とちう》に|於《おい》て、|竜雲《りううん》を|始《はじ》め、ヤスダラ|姫《ひめ》にキツト|会《あ》ふでせう。|北光《きたてる》の|神《かみ》が|待《ま》つてゐたと|言《い》つて|下《くだ》さい』
|黄金姫《わうごんひめ》は|目《め》を|丸《まる》くし、
『ナニ|竜雲《りううん》と|仰有《おつしや》るのは、セイロン|島《たう》に|於《おい》て|謀叛《むほん》を|企《たく》んだ|妖僧《えうそう》では|厶《ござ》いませぬか』
|北光《きたてる》の|神《かみ》ニツコと|笑《わら》ひ、
『|左様《さやう》で|厶《ござ》る。|如何《いか》に|悪人《あくにん》なればとて|改心《かいしん》した|上《うへ》は|尊《たふと》き|神様《かみさま》の|御子《みこ》。|今《いま》は|修行《しゆぎやう》の|為《ため》、|月《つき》の|国《くに》|七千余国《しちせんよこく》を|巡礼《じゆんれい》させてありますが、|時々《ときどき》|狼《おほかみ》の|眷族《けんぞく》をさし|遣《つか》はし、|竜雲《りううん》を|守《まも》らせ、|又《また》|竜雲《りううん》より|絶《た》えず|手紙《てがみ》を|眷族《けんぞく》に|持《も》たせて|送《おく》つて|来《き》ます。|実《じつ》に|狼《おほかみ》と|雖《いへど》も、なづいたら|重宝《ちようほう》なものですよ。アハヽヽヽ』
『|丁度《ちやうど》|吾々《われわれ》|母娘《おやこ》のやうなものですなア。|私《わたし》も|蜈蚣姫《むかでひめ》といつた|頃《ころ》は、|随分《ずゐぶん》|大神様《おほかみさま》の|教《をしへ》に|敵対《てきた》ひ、|黄金《わうごん》の|玉《たま》を|盗《ぬす》みなどして、|悪《あく》の|限《かぎ》りを|尽《つく》して|来《き》ましたが、|改心《かいしん》の|結果《けつくわ》、かやうな|尊《たふと》き|宣伝使《せんでんし》に|採用《さいよう》されましたのですから、|実《じつ》に|神様《かみさま》の|御仁慈《ごじんじ》は、|言葉《ことば》に|尽《つく》すことが|出来《でき》ませぬ』
と|声《こゑ》まで|曇《くも》らせてホロリと|涙《なみだ》を|落《おと》し、さし|俯《うつ》むく。
『|北光《きたてる》の|神様《かみさま》、どうぞ|清照《きよてる》も|御守護《ごしゆご》をして|下《くだ》さいませや。キツト|御使命《ごしめい》は|果《はた》しますから。|竹野姫《たけのひめ》|様《さま》、|宜《よろ》しく|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
『|何《なん》と|凛々《りり》しい|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》の|御姿《おすがた》、どうぞ|男《をとこ》の|難《なん》に|会《あ》はないやうに|気《き》をつけて|下《くだ》さいませ。|貴女《あなた》も|一度《いちど》|御経験《ごけいけん》が|御有《おあ》りなさるのですからなア』
|清照姫《きよてるひめ》は|少《すこ》しく|頬《ほほ》を|赤《あか》らめて|差俯《さしうつ》むくしほらしさ。|北光《きたてる》の|神《かみ》は|母娘《おやこ》の|首途《かどで》を|祝《しゆく》すべく、|音吐朗々《おんとらうらう》として|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|始《はじ》むる。
『|神《かみ》の|御稜威《みいづ》も|高照《たかてる》の  |山奥《やまおく》|深《ふか》く|築《きづ》かれし
|狼《おほかみ》|達《たち》の|岩窟《いはやど》に  |教《をしへ》を|開《ひら》く|宣伝使《せんでんし》
|北光彦《きたてるひこ》や|竹野姫《たけのひめ》  |黄金姫《わうごんひめ》や|清照姫《きよてるひめ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》の|首途《かどいで》を  |祝《しゆく》して|清《きよ》き|宣伝歌《せんでんか》
|謹《つつし》み|敬《いやま》ひ|宣《の》べ|立《た》つる  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして  イルナの|都《みやこ》に|立向《たちむか》ふ
|秋《あき》の|草野《くさの》の|色《いろ》|深《ふか》き  |黄金姫《わうごんひめ》や|清照姫《きよてるひめ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》の|御使《みつかひ》に  |仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|大神《おほかみ》の
|大御力《おほみちから》を|授《さづ》けまし  |眷族《けんぞく》|共《ども》に|守《まも》らせて
セーラン|王《わう》の|館《やかた》へと  |遣《つか》はし|奉《まつ》る|勇《いさ》ましさ
|皇大神《すめおほかみ》の|御言《みこと》もて  |天《あめ》の|目一《まひと》つ|神司《かむつかさ》
|竹野《たけの》の|姫《ひめ》と|諸共《もろとも》に  |汝《なれ》が|命《みこと》に|打向《うちむか》ひ
イルナの|都《みやこ》の|曲神《まがかみ》を  |言向和《ことむけやは》す|出陣《しゆつぢん》を
|神《かみ》に|代《かは》りて|宣《の》べ|伝《つた》ふ  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|魔神《まがみ》はいかに|荒《すさ》ぶとも  |皇大神《すめおほかみ》の|守《まも》ります
|三五教《あななひけう》の|神司《かむつかさ》  |恐《おそ》るることは|更《さら》になし
|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|神司《かむつかさ》  |右守司《うもりつかさ》のカールチン
それに|従《したが》ふ|曲神《まがかみ》は  いかに|沢山《さはやま》あるとても
|生言霊《いくことたま》の|神力《しんりき》に  |言向和《ことむけやは》し|三五《あななひ》の
|教《をしへ》にまつろへ|和《やは》すこと  |火《ひ》を|睹《み》るよりも|明《あきら》けし
さはさりながらバラモンの  |大黒主《おほくろぬし》は|名《な》にし|負《お》ふ
|八岐大蛇《やまたをろち》の|生宮《いきみや》と  |下《くだ》り|果《は》てたる|霊《たま》なれば
いかに|尊《たふと》き|神力《しんりき》も  |容易《ようい》に|亡《ほろ》ぼす|術《すべ》もなし
|心《こころ》ひそめて|時《とき》を|待《ま》ち  |彼等《かれら》が|自《みづか》ら|弱《よわ》りはて
|悔悟《くわいご》の|念《ねん》の|起《おこ》るまで  ひそかに|事《こと》を|計《はか》るべし
|先《ま》づ|第一《だいいち》にセーランの  |王《わう》をば|救《すく》ひ|一族《いちぞく》を
|助《たす》けてこれの|岩窟《いはやど》に  |深《ふか》くかくした|其《その》|上《うへ》で
|大黒主《おほくろぬし》の|軍勢《ぐんぜい》を  |生言霊《いくことたま》に|悉《ことごと》く
|言向和《ことむけやは》し、さもなくば  |海《うみ》の|彼方《あなた》に|追《お》ひちらし
|三五教《あななひけう》の|神力《しんりき》を  |時節《じせつ》をまつて|照《て》らすべし
|時《とき》の|力《ちから》は|天地《あめつち》を  |造《つく》り|給《たま》ひし|大神《おほかみ》も
|左右《さいう》し|給《たま》ふ|事《こと》ならず  ここの|道理《だうり》を|聞《き》き|分《わ》けて
|慌《あわ》てず|騒《さわ》がず|悠々《いういう》と  |時節《じせつ》を|待《ま》つて|曲神《まがかみ》を
|言向《ことむ》け|給《たま》へ|惟神《かむながら》  |神《かみ》に|代《かは》りて|北光《きたてる》の
|神《かみ》の|司《つかさ》が|宣《の》べ|伝《つた》ふ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
|竹野姫《たけのひめ》は|又《また》|黄金姫《わうごんひめ》|母娘《おやこ》の|首途《かどで》を|祝《しゆく》し、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ふ。
『|鬼熊別《おにくまわけ》が|妻司《つまがみ》と  |現《あら》はれ|給《たま》ひし|蜈蚣姫《むかでひめ》
|心《こころ》の|暗《やみ》の|戸《と》|押《お》し|開《ひら》き  |真如《しんによ》の|月《つき》の|御光《みひかり》に
|照《て》らされ|給《たま》ひ|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|司《つかさ》と|進《すす》みまし
|名《な》さへ|目出度《めでた》き|黄金姫《わうごんひめ》の  |貴《うづ》の|命《みこと》と|言《こと》あげし
|黄竜姫《わうりようひめ》と|現《あら》はれて  |竜宮島《りうぐうじま》に|時《とき》めきし
|小糸《こいと》の|姫《ひめ》も|今《いま》は|早《はや》  |三五教《あななひけう》の|神司《かむつかさ》
|清照姫《きよてるひめ》となり|給《たま》ふ  |神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》はひて
|曲《まが》は|忽《たちま》ち|善《ぜん》となり  |曇《くもり》は|晴《は》れて|大空《おほぞら》の
|青《あを》きが|如《ごと》く すくすくと  |心《こころ》|勇《いさ》ませ|給《たま》ひつつ
|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の  |御言《みこと》|畏《かしこ》み|秋《あき》の|空《そら》
|草鞋脚絆《わらぢきやはん》に|身《み》をかため  |心《こころ》も|軽《かる》き|蓑笠《みのかさ》の
そのいでたちの|勇《いさ》ましさ  |思《おも》へば|思《おも》へば|三五《あななひ》の
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》に  |魔司《まがみ》は|忽《たちま》ち|善《ぜん》となり
|鬼《おに》は|仏《ほとけ》となり|変《かは》り  |狼《おほかみ》さへも|斯《か》くの|如《ごと》
いと|従順《じうじゆん》になりをへぬ  |黄金姫《わうごんひめ》よ|清照姫《きよてるひめ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》よ|汝《なれ》は|今《いま》  イルナの|都《みやこ》に|到《いた》りなば
|我情我慢《がじやうがまん》の|雲《くも》を|去《さ》り  |仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|大神《おほかみ》の
|清《きよ》き|心《こころ》に|神《かむ》ならひ  あくまで|争《あらそ》ひ|競《きそ》ふなく
|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》を|発揮《はつき》して  |四方《よも》にさやれる|曲司《まがかみ》を
|善《ぜん》に|導《みちび》き|救《すく》ひませ  |何程《なにほど》|知識《ちしき》はさとくとも
|意念《いねん》はいかに|強《つよ》くとも  |禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》を|助《たす》くるは
|慈悲《じひ》の|心《こころ》に|及《およ》ぶまじ  |慈悲《じひ》|博愛《はくあい》を|禽獣《きんじう》に
|及《およ》ぼし|救《すく》ふ|神心《かみごころ》  |必《かなら》ず|忘《わす》れ|給《たま》ふまじ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》に|祈《いの》りて|竹野姫《たけのひめ》
|汝《なれ》が|命《みこと》の|出陣《しゆつぢん》に  |際《さい》して|忠告《ちうこく》|仕《つかまつ》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |守《まも》らせ|給《たま》へ|天津神《あまつかみ》
|国津神《くにつかみ》たち|八百万《やほよろづ》  |母娘《おやこ》|二人《ふたり》の|成功《せいこう》を
|指折《ゆびを》り|数《かぞ》へ|待《ま》ち|暮《く》らす  |竹野《たけの》の|姫《ひめ》の|志《こころざし》
|心《こころ》に|深《ふか》く|刻《きざ》みつつ  とく|出《い》でませよ|神司《かむつかさ》
|成功《せいこう》|祈《いの》り|奉《たてまつ》る』
と|歌《うた》ひ|了《をは》り、|神殿《しんでん》の|神酒《みき》を|下《さ》げ|来《きた》りて、|母娘《おやこ》に|戴《いただ》かせ、|首途《かどで》を|送《おく》る。|黄金姫《わうごんひめ》は|簡単《かんたん》に|三十一文字《みそひともじ》を|以《もつ》て|答礼《たふれい》に|代《かは》ふ。
『|北光《きたてる》の|神《かみ》の|命《みこと》や|竹野姫《たけのひめ》
その|宣言《のりごと》を|固《かた》く|守《まも》らむ。
|世《よ》を|救《すく》ふ|心《こころ》のたけの|清《きよ》ければ
|世《よ》に|恐《おそ》るべき|曲《まが》はあるらめ。
いざさらばこれより|進《すす》み|入那国《いるなくに》
セーラン|王《わう》を|守《まも》り|助《たす》けむ』
|清照《きよてる》『|二柱《ふたはしら》|神《かみ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|母娘《おやこ》は|心《こころ》|勇《いさ》みて|行《ゆ》かむ。
|狼《おほかみ》の|御供《みとも》の|司《かみ》に|守《まも》られて
|入那《いるな》の|国《くに》に|進《すす》む|嬉《うれ》しさ。
|北光《きたてる》の|神《かみ》の|命《みこと》よいざさらば
|待《ま》たせ|給《たま》へよ|帰《かへ》り|来《く》る|日《ひ》を。
|竹野姫《たけのひめ》|神《かみ》の|命《みこと》に|物《もの》|申《まを》す
|汝《な》が|背《せ》の|君《きみ》をよく|守《まも》りませ』
|竹野姫《たけのひめ》は|之《これ》に|答《こた》へて、
『|大神《おほかみ》の|御稜威《みいづ》も|空《そら》に|高照《たかてる》の
イルナに|進《すす》む|人《ひと》ぞ|尊《たふと》き。
|北光《きたてる》の|神《かみ》の|司《つかさ》は|生神《いきがみ》よ
|今日《けふ》は|岩窟《いはや》に|明日《あす》は|入那《いるな》に』
|黄金《わうごん》『いと|清《きよ》き|神《かみ》の|司《つかさ》の|御教《みをしへ》に
われは|進《すす》みて|都《みやこ》に|上《のぼ》らむ。
いざさらば|二柱《ふたはしら》ともまめやかに
|神《かみ》の|大道《おほぢ》に|仕《つか》へ|給《たま》はれ』
かく|歌《うた》ひ、|別《わか》れを|告《つ》げて|再《ふたた》び|身《み》づくろひをなし、|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》は|狼《おほかみ》に|送《おく》られ、|急坂《きふはん》を|勇《いさ》み|進《すす》んで|下《くだ》り、|山口《やまぐち》に|出《い》で、|再《ふたた》び|元来《もとき》し|道《みち》に|引返《ひつかへ》し、|照山峠《てるやまたうげ》を|越《こ》えて|入那《いるな》の|都《みやこ》に|進《すす》むこととはなりぬ。
(大正一一・一一・一一 旧九・二三 松村真澄録)
第一一章 |麓《ふもと》の|邂逅《かいこう》〔一一一五〕
|竜雲《りううん》『|高照山《たかてるやま》の|岩窟《がんくつ》に  |狼《おほかみ》どもに|誘《いざな》はれ
|思《おも》はぬ|人《ひと》に|巡《めぐ》り|会《あ》ひ  |思《おも》はぬ|使命《しめい》を|受《う》けながら
|秋野《あきの》を|飾《かざ》る|黄金姫《わうごんひめ》の  |貴《うづ》の|命《みこと》の|宣伝使《せんでんし》
|心《こころ》も|清照姫命《きよてるひめみこと》  |母娘《おやこ》は|勇《いさ》み|雀躍《こをどり》し
|細《ほそ》き|谷間《たにま》を|辿《たど》りつつ  |秋風《あきかぜ》|荒《すさ》ぶ|大野原《おほのはら》
|神《かみ》の|御歌《みうた》を|歌《うた》ひ|合《あ》ひ  |勇《いさ》み|進《すす》んで|照山《てるやま》の
|峠《たうげ》をさして|来《き》て|見《み》れば  |道《みち》の|傍《かたへ》の|岩《いは》の|上《へ》に
|男女《なんによ》|三人《みたり》の|人《ひと》の|影《かげ》  |何《なに》かヒソヒソ|囁《ささや》きつ
|母娘《おやこ》の|姿《すがた》を|打《う》ちまもり  |驚異《きやうい》の|眼《まなこ》を|光《ひか》らせて
|黄金姫《わうごんひめ》に|打向《うちむか》ひ  もしもし|旅《たび》のお|方様《かたさま》
|何《いづ》れへお|出《い》でなされます  |私《わたし》はイルナの|都《みやこ》まで
|帰《かへ》り|行《ゆ》く|身《み》の|三人連《みたりづ》れ  |何卒《なにとぞ》お|供《とも》を|願《ねが》ひます
つらつら|眺《なが》め|参《まゐ》らせば  |貴女《あなた》は|尊《たふと》き|宣伝使《せんでんし》
|三五教《あななひけう》の|人《ひと》ならむ  |私《わたし》も|同《おな》じ|三五《あななひ》の
|道《みち》を|奉《ほう》ずる|神《かみ》の|御子《みこ》  |心《こころ》|汚《きたな》き|竜雲《りううん》の
おちぶれ|果《は》てた|此《この》|姿《すがた》  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し
お|供《とも》に|仕《つか》へさせ|給《たま》へ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|救《すく》ひにあづかりて  |清《きよ》き|神世《かみよ》も|北光《きたてる》の
|目一《まひと》つ|神《がみ》に|助《たす》けられ  |七千余国《しちせんよこく》の|月《つき》の|国《くに》
|経巡《へめぐ》り|終《を》へし|修験者《しゆげんじや》  |決《けつ》して|怪《あや》しき|者《もの》ならず
お|供《とも》に|仕《つか》へさせ|給《たま》へ  これにまします|姫司《ひめがみ》は
イルナの|都《みやこ》に|隠《かく》れなき  |左守《さもり》の|司《かみ》の|姉《あね》の|御子《みこ》
ヤスダラ|姫《ひめ》の|神司《かむつかさ》  |一人《ひとり》の|男《をとこ》はテルマンの
|姫《ひめ》の|国《くに》より|従《したが》ひて  |此処《ここ》まで|送《おく》り|来《きた》りたる
|忠誠《ちうせい》|無比《むひ》の|僕《しもべ》ぞや  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みの|幸《さち》はひて  イルナの|都《みやこ》に|起《おこ》りゐる
|騒《さわ》ぎを|清《きよ》く|打《う》ち|鎮《しづ》め  セーラン|王《わう》の|身《み》の|上《うへ》を
|救《すく》ひまつらむと|思《おも》へども  |神力《しんりき》|足《た》らぬ|竜雲《りううん》や
ヤスダラ|姫《ひめ》が|如何《いか》にして  |此《この》|大任《たいにん》を|果《はた》し|得《え》む
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |吾等《われら》が|微衷《びちう》を|憐《あは》れみて
|救《すく》はせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》  |神《かみ》の|御前《みまへ》に|真心《まごころ》を
|捧《ささ》げて|祈《いの》り|奉《たてまつ》る』
と|竜雲《りううん》は|歌《うた》を|以《もつ》て|黄金姫《わうごんひめ》|一行《いつかう》に|掛合《かけあ》つて|見《み》た。|黄金姫《わうごんひめ》は|直《ただち》に|歌《うた》を|以《もつ》てこれに|答《こた》へた。
『|天《あめ》と|地《つち》とを|造《つく》らしし  |国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》や
|豊国姫《とよくにひめ》の|守《まも》ります  |三五教《あななひけう》の|神司《かむつかさ》
|妾《わらは》は|黄金姫命《わうごんひめみこと》  |一人《ひとり》の|女《をんな》は|吾《わが》|娘《むすめ》
|清照姫《きよてるひめ》の|宣伝使《せんでんし》  |高照山《たかてるやま》の|岩窟《がんくつ》に
|狼《おほかみ》|等《たち》に|伴《ともな》はれ  |登《のぼ》りて|見《み》ればこは|如何《いか》に
|三五教《あななひけう》の|神柱《かむばしら》  |北光神《きたてるがみ》を|始《はじ》めとし
|竹野《たけの》の|姫《ひめ》は|悠然《いうぜん》と  |数多《あまた》の|狼《おほかみ》|使《つか》ひつつ
|岩窟《いはや》の|主人《あるじ》となりすまし  |禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》に|至《いた》るまで
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》の  |露《つゆ》を|施《ほどこ》し|給《たま》ひつつ
|鎮《しづ》まりいます|尊《たふと》さよ  |北光神《きたてるがみ》の|御言葉《みことば》に
|汝《なれ》|黄金姫命《わうごんひめみこと》  |必《かなら》ず|途中《とちう》に|竜雲《りううん》が
ヤスダラ|姫《ひめ》を|伴《ともな》ひて  イルナの|都《みやこ》に|進《すす》み|入《い》る
それの|途中《とちう》に|会《あ》ふならむ  |汝《なんぢ》は|吾《われ》の|言《こと》の|葉《は》を
ヤスダラ|姫《ひめ》の|一行《いつかう》に  |完全《うまら》に|詳細《つばら》に|物語《ものがた》り
|高照山《たかてるやま》の|岩窟《がんくつ》に  |直様《すぐさま》|進《すす》み|来《きた》るべく
|諭《さと》せと|厳《きび》しく|宣《の》べ|給《たま》ふ  |汝《なれ》は|正《まさ》しく|竜雲《りううん》か
ヤスダラ|姫《ひめ》の|神司《かむづかさ》  テツキリそれと|覚《おぼ》えたり
さあ|今《いま》よりは|道《みち》を|変《か》へ  |狼《おほかみ》|群《むら》がる|高照《たかてる》の
|深山《みやま》をさして|進《すす》むべし  |吾等《われら》|母娘《おやこ》は|逸早《いちはや》く
|照山峠《てるやまたうげ》を|乗《の》り|越《こ》えて  |入那《いるな》の|都《みやこ》へ|進《すす》み|入《い》り
セーラン|王《わう》の|一族《いちぞく》を  |救《すく》ひ|助《たす》けて|高照山《たかてるやま》の
|狼岩窟《おほかみいわや》に|導《みちび》きつ  |御身《おんみ》を|厚《あつ》く|守《まも》るべし
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|御言《みこと》を|蒙《かうむ》りし
|黄金姫《わうごんひめ》の|言《こと》の|葉《は》を  |夢々《ゆめゆめ》|疑《うたが》ふこと|勿《なか》れ
|人《ひと》は|正《ただ》しき|神《かみ》の|御子《みこ》  |水晶魂《すゐしやうだま》を|与《あた》へられ
|神《かみ》の|柱《はしら》と|敬《うやま》はれ  |尊《たふと》き|道《みち》の|宣伝使《せんでんし》と
|神《かみ》のまにまに|任《ま》けられし  |清《きよ》き|魂《みたま》を|持《も》ちながら
|嘘《うそ》|偽《いつは》りを|言《い》ふべきや  |早《はや》く|座《ざ》を|起《た》ち|進《すす》みませ
|北光神《きたてるがみ》の|御言《みこと》もて  |汝等《なれら》|三人《みたり》に|打向《うちむか》ひ
|委曲《つばら》に|勧《すす》め|奉《たてまつ》る  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》れば、ヤスダラ|姫《ひめ》はこれに|答《こた》へて|歌《うた》ふ。
『あゝ|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し  |声名《せいめい》|高《たか》き|三五《あななひ》の
|教《をしへ》を|伝《つた》ふる|宣伝使《せんでんし》  |黄金姫《わうごんひめ》にましますか
|若《わか》き|女《をんな》の|神司《かむづかさ》  |音《おと》に|名高《なだか》き|清照姫《きよてるひめ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》にいませしか  |存《ぞん》ぜぬ|事《こと》とは|云《い》ひながら
|誠《まこと》に|御無礼《ごぶれい》|仕《つかまつ》り  |謝罪《しやざい》の|辞《ことば》もありませぬ
|只今《ただいま》|貴女《あなた》のお|言葉《ことば》に  |妾《わらは》|一行《いつかう》|三人《さんにん》は
イルナの|都《みやこ》へ|行《ゆ》かずして  |一時《いちじ》も|早《はや》く|高照《たかてる》の
|深山《みやま》の|奥《おく》の|岩窟《がんくつ》へ  |進《すす》み|行《ゆ》けよと|宣《の》り|給《たま》ふ
|北光神《きたてるがみ》の|御言《みこと》もて  |宣《の》らせ|給《たま》へる|御親切《ごしんせつ》
いつの|世《よ》にかは|忘《わす》れまじ  |不運《ふうん》の|重《かさ》なるヤスダラ|姫《ひめ》の
|吾《われ》はかなしき|神《かみ》の|御子《みこ》  |大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|御心《みこころ》に
|救《すく》はせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》  |黄金姫《わうごんひめ》や|清照姫《きよてるひめ》の
|道《みち》の|司《つかさ》の|御前《おんまへ》に  |真心《まごころ》こめて|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》つて|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《へう》したり。|黄金姫《わうごんひめ》は|声《こゑ》も|涼《すず》しく|歌《うた》ひ|始《はじ》むる。
『|御空《みそら》に|月《つき》は|清照姫《きよてるひめ》  きらめく|星《ほし》の|数《かず》の|如《ごと》
|劫河《がふが》の|真砂《まさご》の|数多《かずおほ》き  |青人草《あをひとぐさ》の|艱《なや》めるを
|救《すく》ひ|助《たす》けて|天国《てんごく》の  |御園《みその》に|導《みちび》く|宣伝使《せんでんし》
|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》の  |御言《みこと》|畏《かしこ》み|遥々《はるばる》と
|月《つき》の|御国《みくに》を|横断《わうだん》し  ハルナの|都《みやこ》に|立向《たちむか》ふ
|尊《たふと》き|使命《しめい》を|身《み》に|帯《お》びし  |母娘《おやこ》|二人《ふたり》の|神司《かむづかさ》
イルナの|都《みやこ》の|刹帝利《せつていり》  セーラン|王《わう》の|御危難《ごきなん》を
|救《すく》はむものと|北光《きたてる》の  |神《かみ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて
イソイソ|進《すす》む|道《みち》すがら  ヤスダラ|姫《ひめ》の|一行《いつかう》に
|此《この》|場《ば》で|巡《めぐ》り|会《あ》うたるも  |全《まつた》く|神《かみ》の|引合《ひきあは》せ
|一時《いちじ》も|早《はや》く|吾《わが》|母《はは》の  |言葉《ことば》に|従《したが》ひ|高照《たかてる》の
|山《やま》に|進《すす》ませ|給《たま》へかし  |妾《わらは》は|後《あと》よりセーラン|王《わう》の
|国主《こきし》の|命《みこと》を|守《まも》りつつ  やがて|再《ふたた》び|巡《めぐ》り|合《あ》ひ
|無事《ぶじ》を|祝《しゆく》することあらむ  |魔神《まがみ》の|荒《すさ》ぶ|荒野原《あらのはら》
|躊躇《ためら》ひ|給《たま》ふ|其《その》|中《うち》に  |右守《うもり》の|司《かみ》に|仕《つか》へたる
|醜《しこ》の|捕手《とりて》の|来《きた》りなば  |又《また》もや|一汗《ひとあせ》|心《こころ》にも
あらぬ|荒《あら》びをせにやならぬ  |事《こと》なき|中《うち》に|一刻《いつこく》も
|早《はや》く|進《すす》ませ|給《たま》へかし  |尊《たふと》き|神《かみ》の|御前《おんまへ》に
|真心《まごころ》|誓《ちか》ひて|宣《の》りまつる  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》はれば、|竜雲《りううん》は|二人《ふたり》の|歌《うた》に|答《こた》へて|又《また》|歌《うた》ふ。
『あゝ|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し  |尊《たふと》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》に
|従《したが》ひまつる|吾々《われわれ》は  |三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》
|汝《なれ》が|命《みこと》の|宣《の》り|言《ごと》を  |如何《いか》でか|否《いな》みまつらむや
|仰《あふ》せに|従《したが》ひ|今《いま》よりは  |心《こころ》の|駒《こま》に|鞭《むち》をうち
|虎《とら》|狼《おほかみ》の|吠《ほ》え|猛《たけ》る  |山路《やまぢ》を|分《わ》けていそいそと
|高照山《たかてるやま》の|岩窟《がんくつ》に  |吾等《われら》|一行《いつこう》|三人《みたり》づれ
|勇《いさ》み|進《すす》んで|登《のぼ》るべし  |黄金姫《わうごんひめ》よ|清照姫《きよてるひめ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》よ|吾々《われわれ》が  |行手《ゆくて》を|守《まも》り|給《たま》ひつつ
|喪《も》なく|事《こと》なく|高照山《たかてるやま》の  |岩窟《いはや》に|進《すす》ませ|給《たま》へかし
|如何《いか》なる|枉津《まがつ》の|現《あら》はれて  |姫《ひめ》を|悩《なや》ますことあるも
|三五教《あななひけう》にて|鍛《きた》えたる  |生言霊《いくことたま》を|打《う》ち|出《だ》して
|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》を|悉《ことごと》く  |言向和《ことむけやは》し|北光《きたてる》の
|神《かみ》のまします|御舎《みあらか》に  |送《おく》りて|行《ゆ》かむ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|心《こころ》に|見直《みなほ》して  |心《こころ》を|安《やす》くましませよ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて
|母娘《おやこ》|二人《ふたり》の|神司《かむづかさ》  イルナの|都《みやこ》に|上《のぼ》りまし
|枉《まが》の|身魂《みたま》を|悉《ことごと》く  |生言霊《いくことたま》に|言向《ことむ》けて
セーラン|王《わう》の|身《み》の|上《うへ》を  |守《まも》らせ|給《たま》へ|大神《おほかみ》の
|御前《みまへ》に|清《きよ》き|真心《まごころ》を  |捧《ささ》げて|慎《つつし》み|願《ね》ぎまつる
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
リーダーは|又《また》|歌《うた》ふ。
『|黄金姫《わうごんひめ》の|神司《かむづかさ》  |清照姫《きよてるひめ》の|宣伝使《せんでんし》
|雪《ゆき》か|花《はな》かと|云《い》ふ|様《やう》な  |容色《みめ》も|形貌《かたち》も|美《うる》はしき
|清《きよ》き|心《こころ》の|汝《な》が|命《みこと》  |北光神《きたてるがみ》の|御宣言《みことのり》
|吾等《われら》|三人《みたり》に|隈《くま》もなく  |宣《の》らせ|給《たま》ひし|尊《たふと》さよ
|吾等《われら》|一行《いつかう》|三人《さんにん》は  |汝《なれ》が|命《みこと》の|御教《みをしへ》を
|力《ちから》と|頼《たの》み|勇《いさ》ましく  |高照山《たかてるやま》の|岩窟《がんくつ》に
|進《すす》みて|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》を  |蒙《かかぶ》りまつりヤスダラ|姫《ひめ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》の|身《み》の|上《うへ》を  |保護《ほご》しまつらむ|吾《わが》|心《こころ》
|仮令《たとへ》|天地《てんち》は|変《かは》るとも  リーダーの|僕《しもべ》のある|限《かぎ》り
ヤスダラ|姫《ひめ》の|身《み》の|上《うへ》は  |必《かなら》ず|案《あん》じ|給《たま》ふまじ
|二人《ふたり》の|司《つかさ》よ、いざさらば  |吾《われ》はこれより|両人《りやうにん》の
お|供《とも》に|仕《つか》へまつりつつ  |高照山《たかてるやま》に|向《むか》ふべし
|汝《なれ》が|命《みこと》は|潔《いさぎよ》く  |照山峠《てるやまたうげ》を|踏《ふ》み|越《こ》えて
イルナの|都《みやこ》に|至《いた》りまし  |厳《いづ》の|言霊《ことたま》|打鳴《うちな》して
|王《きみ》の|身辺《しんぺん》|守《まも》りませ  |天地《てんち》の|神《かみ》の|御前《おんまへ》に
|慎《つつし》み|敬《うやま》ひ|二柱《ふたはしら》  |神《かみ》の|司《つかさ》の|成功《せいこう》を
|慎《つつし》みかしこみ|願《ね》ぎ|奉《まつ》る  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして  |再《ふたた》び|汝《なれ》の|御前《おんまへ》に
リーダーの|姿《すがた》を|現《あら》はして  |大成功《だいせいこう》を|祝《いは》ふ|日《ひ》を
|松《まつ》、|竹《たけ》、|梅《うめ》の|潔《いさざよ》く  |堅磐常磐《かきはときは》に|願《ね》ぎ|奉《まつ》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
ここに|五人《ごにん》は|各《おのおの》|述懐《じゆつくわい》を|歌《うた》ひ、|別《わか》れを|惜《を》しみながら|三人《さんにん》は|高照山《たかてるやま》へ、|二人《ふたり》は|照山峠《てるやまたうげ》を|野嵐《のあらし》に|吹《ふ》かれながらエチエチと|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・一一・一一 旧九・二三 北村隆光録)
第一二章 |都入《みやこい》り〔一一一六〕
|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》は、|三人《さんにん》の|一行《いつかう》を|高照山《たかてるやま》に|遣《つか》はし、|肩《かた》の|重荷《おもに》を|卸《おろ》すやうな|心持《こころもち》になつて、さしもに|嶮《けは》しき|急坂《きふはん》をエチエチと|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|漸《やうや》くにして|頂上《ちやうじやう》に|辿《たど》りついた。|此処《ここ》にはユーフテスと|云《い》ふ|右守司《うもりつかさ》の|家老《からう》を|勤《つと》めて|居《ゐ》る|不誠忠《ふせいちう》|無比《むひ》の|男《をとこ》が、|二三人《にさんにん》の|家《いへ》の|子《こ》を|引《ひ》きつれ、|神《かみ》の|告《つげ》によつて|黄金姫《わうごんひめ》|母娘《おやこ》の|来《く》ることを|知《し》り、|案内《あんない》と|迎《むか》へを|兼《か》ねて|登《のぼ》つて|来《き》た。ユーフテスは、|二人《ふたり》の|峠《たうげ》の|頂上《ちやうじやう》に|佇《たたず》み、|四方《よも》の|景色《けしき》を|眺《なが》め|息《いき》をやすめて|居《ゐ》るその|側《そば》に、|恭《うやうや》しく|頭《かしら》を|下《さ》げながら|進《すす》み|寄《よ》り、
『|一寸《ちよつと》ものをお|尋《たづ》ね|申《まを》しますが、|私《わたし》はイルナの|都《みやこ》の|右守司《うもりつかさ》の|館《やかた》に|家老職《からうしよく》を|勤《つと》めて|居《を》りますユーフテスと|申《まを》すもので|厶《ござ》いますが、|若《も》しや|貴女様《あなたさま》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》、|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》の|御一行《ごいつかう》では|御座《ござ》いませぬか。イルナの|都《みやこ》はバラモン|教《けう》の|教《をしへ》を|以《もつ》て|民《たみ》を|治《をさ》むる|国《くに》で|御座《ござ》いますれば、|三五教《あななひけう》の|貴女様《あなたさま》をお|迎《むか》へ|申《まを》すと|申上《まをしあ》げては、|怪《あや》しく|思召《おぼしめ》さるるで|御座《ござ》いませうが、|決《けつ》して|汚《きたな》き|心《こころ》で、お|迎《むか》へに|参《まゐ》つたのでは|御座《ござ》いませぬ。|何卒《どうぞ》お|名乗《なの》り|下《くだ》さいませぬか』
|黄金《わうごん》『ホー、|其方《そなた》はイルナの|国《くに》の|右守司《うもりつかさ》の|館《やかた》に|仕《つか》ふるユーフテス|殿《どの》か、それは|御苦労《ごくらう》。お|察《さつ》しの|通《とほ》り、|私《わたし》は|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》の|母娘《おやこ》で|御座《ござ》います。|王様《わうさま》の|御身辺《ごしんぺん》は、どうで|御座《ござ》いますかな』
『ハイ、|有難《ありがた》う、|唯今《ただいま》の|処《ところ》では|先《ま》づ|御無事《ごぶじ》で|御座《ござ》いますが、|何時《いつ》|大風一過《たいふういつくわ》、|有名《いうめい》なるイルナ|城《じやう》も|破壊《はくわい》するかも|分《わか》らない|危機《きき》に|瀕《ひん》して|居《を》ります。|実《じつ》にイルナの|都《みやこ》は|暗雲《あんうん》|低迷《ていめい》、|豪雨《がうう》|臻《いた》らむとして、|先《ま》づ|其《その》|窓《まど》を|鎖《とざ》すべき|真人《しんじん》が|御座《ござ》いませぬので、|王様《わうさま》は|申《まを》すも|更《さら》なり、|忠義《ちうぎ》にはやる|真人《まさびと》|等《たち》は|夜《よ》も|碌々《ろくろく》に|寝《ね》られず、|心《こころ》を|痛《いた》めて|居《を》ります。|右守司《うもりつかさ》の|放《はな》つた|探偵《たんてい》は|縦横無尽《じうわうむじん》に|横行《わうかう》|闊歩《くわつぽ》し、|大《おほ》きな|声《こゑ》で|物《もの》も|碌《ろく》に|云《い》へないと|云《い》ふ|有様《ありさま》で|御座《ござ》います。|何卒《どうぞ》|御推量《ごすゐりやう》|下《くだ》さいまして、|貴女《あなた》の|神力《しんりき》によつてイルナの|国《くに》の|危難《きなん》をお|救《すく》ひ|下《くだ》さいませ』
『|反間苦肉《はんかんくにく》の|策《さく》を|弄《ろう》し、|大《だい》それた|野望《やばう》を|遂《と》げむとする|悪人輩《あくにんばら》の|巣窟《さうくつ》なれば、うつかり|高《たか》い|声《こゑ》で|物《もの》を|言《い》ふ|訳《わけ》にも|往《ゆ》きませぬ。|此処《ここ》は|山《やま》の|頂《いただき》なれども、|矢張《やつぱり》|悪神《あくがみ》の|霊《れい》は|吾等《われら》|一行《いつかう》を|遠《とほ》く|巻《ま》いて|居《を》りますれば、|込《こ》み|入《い》つた|事《こと》は|申《まを》されませぬ。|何事《なにごと》も|私《わたし》の|胸《むね》にあれば|御安心《ごあんしん》なさいませ』
|清照姫《きよてるひめ》はしとやかに、
『|貴方《あなた》がユーフテスさまで|厶《ござ》いましたか。|御苦労《ごくらう》でしたなア、これから|都《みやこ》まではまだ|余程《よほど》の|道程《みちのり》がありますか』
『ハイ、もはや|十里《じふり》|足《た》らずで|御座《ござ》りますれば、|些《すこ》しく|急《いそ》ぎますれば、|今晩《こんばん》の|四《よ》つ|時《どき》までには|到着《たうちやく》|出来《でき》るでせう。|丁度《ちやうど》|夜中《やちう》に|御入城《ごにふじやう》|下《くだ》さる|方《はう》が|安全《あんぜん》で|厶《ござ》いませう』
|斯《か》く|話《はな》す|処《ところ》へ「オーイ オーイ」と|坂《さか》の|下《した》から|呼《よ》ばはりながら|登《のぼ》り|来《く》る|五人《ごにん》の|騎馬隊《きばたい》がある。|三人《さんにん》は|何事《なにごと》ならむと|訝《いぶか》りながら、|峠《たうげ》の|傍《かたはら》の|石《いし》に|腰《こし》|打《う》ちかけ、くだらぬ|世間話《せけんばなし》を|態《わざ》と|交換《かうくわん》して|居《ゐ》た。ユーフテスは|節《ふし》|面白《おもしろ》く|唄《うた》ひながら|踊《をど》つて|居《ゐ》る。
『|高《たか》い|山《やま》から|谷《たに》の|底《そこ》|見《み》れば  【かぼちや】や|茄子《なす》の|花盛《はなざか》り
とは|云《い》ふもののこりや|嘘《うそ》ぢや  |今《いま》は|紅葉《もみぢ》の|秋《あき》の|末《すゑ》
|冬《ふゆ》の|境《さかひ》となり|果《は》てて  |木々《きぎ》の|梢《こずゑ》はバラバラと
|散《ち》り|敷《し》く|木《こ》の|葉《は》は|雨《あめ》のごと  |高照山《たかてるやま》の|紅葉《もみぢば》も
|衣《ころも》を|脱《ぬ》ぎて|丸裸体《まるはだか》  |老木《おいき》も|若木《わかぎ》もぶるぶると
|慄《ふる》ひ|戦《をのの》く|哀《あは》れさよ  |照山峠《てるやまたうげ》と|云《い》ふけれど
|木《こ》の|葉《は》は|雨《あめ》に|叩《たた》かれて  |一《ひと》つも|残《のこ》らず|真裸体《まつぱだか》
|照山峠《てるやまたうげ》は|忽《たちま》ちに  なきやま|峠《たうげ》となりました
ドツコイドツコイドツコイシヨ』
と|唄《うた》つて|居《ゐ》る。|其処《そこ》へ|五人《ごにん》の|騎馬隊《きばたい》が|登《のぼ》つて|来《き》て|三人《さんにん》を|眼下《がんか》に|見下《みおろ》しながら、
『|其《その》|方《はう》は|何者《なにもの》なるか』
と|大喝《たいかつ》すると、ユーフテスは|態《わざ》と|空呆惚《そらとぼ》けて|手《て》を|耳《みみ》にあてがひ|首《くび》を|傾《かたむ》け、
『ヘイ|何《なん》と|仰《あふ》せられますか。|此《この》|下《くだ》り|坂《ざか》は|酷《きつ》いかとお|尋《たづ》ねですか。それはそれは|随分《ずゐぶん》きつい|坂《さか》で|厶《ござ》いますよ』
|騎士《きし》『その|方《はう》は|察《さつ》する|所《ところ》|聾《つんぼ》と|見《み》える。エヽ|仕方《しかた》がない。それなる|女《をんな》に|尋《たづ》ねるが、|今《いま》|此処《ここ》へ|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》と|一人《ひとり》の|下男《げなん》が|通《とほ》らなかつたか』
|黄金姫《わうごんひめ》は|態《わざ》と|阿呆《あはう》げた|顔《かほ》をして、
『ハイ、|此《この》|峠《たうげ》の|少《すこ》し|手前《てまへ》で|何《なん》とも|云《い》へぬ|美《うつく》しい|女《をんな》が|三人《さんにん》、|男《をとこ》が|一人《ひとり》に|出会《であ》ひましたが、|私《わたし》を|見《み》るなり、あゝ|汚《きたな》い|乞食《こじき》だと|罵《ののし》りながら|此《この》|坂《さか》を|一目散《いちもくさん》に|登《のぼ》つて|往《ゆ》きました。|何程《なにほど》|落魄《おちぶ》れた|乞食《こじき》だつて|矢張《やつぱり》|同《おな》じ|人間《にんげん》ですもの、そんなに|軽蔑《けいべつ》したものぢやありませぬなア』
『ナニ|女《をんな》が|三人《さんにん》、|男《をとこ》が|一人《ひとり》とは|合点《がてん》が|行《ゆ》かぬ。|確《たしか》に|女《をんな》|一人《ひとり》、|男《をとこ》|一人《ひとり》|通《とほ》つた|筈《はず》だ。|嘘《うそ》を|申《まを》して|居《を》るのではないか』
『|嘘《うそ》と|思《おも》ふなら|勝手《かつて》に|思《おも》はつしやい。|此《この》|婆《ばば》の|目《め》には|確《たしか》に|女《をんな》が|三人《さんにん》、|男《をとこ》が|一人《ひとり》だ。|併《しか》も|素敵《すてき》な|別嬪《べつぴん》だつた。|一体《いつたい》お|前《まへ》は|何処《どこ》から|何処《どこ》に|行《ゆ》かしやるのだ。|大変《たいへん》|景気《けいき》のよい|駒《こま》に|乗《の》つて、あのまあ|強《つよ》さうな|事《こと》わいのう』
『あのお|母《かあ》さま、|今《いま》|往《い》つた|綺麗《きれい》な|女《をんな》の|方《かた》は、ヤスだとかダラだとか|云《い》つていらつしやつたやうですな』
『|何《なに》、ヤスと|云《い》つて|居《ゐ》たか、そりや|確《たしか》にヤスダラ|姫《ひめ》に|相違《さうゐ》あるまい。|踪跡《そうせき》を|暗《くら》ますために、|何処《どこ》かで|乞食女《こじきをんな》でも|雇《やと》つて|来《き》よつたのだなア。ヤア|女《をんな》|共《ども》、よう|云《い》つて|呉《く》れた。サア|皆《みな》の|者《もの》、|一鞭《ひとむち》あてて|下《くだ》らうではないか、シヤール|様《さま》に、これで|申訳《まをしわけ》が|立《た》つと|云《い》ふものだ』
と|下《くだ》り|坂《ざか》を|馬《うま》に|跨《またが》つたまま|進《すす》まうとする。ユーフテスは、
『あゝもしもし、こんな|下《くだ》り|坂《ざか》を|馬《うま》に|乗《の》つて|通《とほ》らうものなら、それこそ|忽《たちま》ちですぞ。|命《いのち》の|惜《を》しくないものは|乗《の》つて|往《ゆ》かつしやい』
『|何《なに》これしきの|急坂《きふはん》が|苦《く》になるか、|騎馬《きば》の|達人《たつじん》の|顔揃《かほぞろ》ひだ。|下《くだ》り|坂《ざか》になつて|馬《うま》を|下《お》りるやうで、どうして|此《この》|使命《しめい》が|果《はた》されるか、サア|往《ゆ》かう』
と|云《い》ひながら|手綱《たづな》を|引《ひ》き|締《し》め、ハイ ハイ ハイと|矢声《やごゑ》をあびせながら|下《くだ》り|往《ゆ》く。
『お|母《かあ》さま、|神様《かみさま》は|都合《つがふ》よくして|下《くだ》さいますなア、もう|少《すこ》しの|事《こと》でヤスダラ|姫様《ひめさま》は|彼等《かれら》|一行《いつかう》に|捕《とら》へられなさる|処《ところ》で|厶《ござ》いました。マアお|仕合《しあは》せのお|方《かた》ですこと』
『アヽさうだなア、これだから|神様《かみさま》の|御神力《ごしんりき》は|尊《たふと》くて|忘《わす》れられぬのだよ』
ユーフテス『ヤスダラ|姫様《ひめさま》にお|会《あ》ひになりましたか、どうして|姫様《ひめさま》がこんな|処《ところ》へお|出《いで》になつたのでせう。テルマン|国《ごく》のシヤールと|云《い》ふ|富豪《ふうがう》の|家《いへ》に|嫁《とつ》いで|居《ゐ》られますのだから、お|帰《かへ》りになるなら|沢山《たくさん》のお|供《とも》がついて|居《ゐ》なければならぬ|筈《はず》、|何《なに》か|変事《へんじ》でも|起《おこ》つたのでは|厶《ござ》りますまいか』
|黄金《わうごん》『|何《いづ》れこれには|訳《わけ》のあることです。|併《しか》し|乍《なが》ら|高照山《たかてるやま》の|岩窟《がんくつ》に|御案内《ごあんない》をして|置《お》きましたから、|狼《おほかみ》が|守《まも》つて|居《ゐ》ます|故《ゆゑ》、|御心配《ごしんぱい》は|要《い》りますまい』
『|何《なん》と|仰有《おつしや》います。|人々《ひとびと》の|恐《おそ》れて|寄《よ》りつかない|高照山《たかてるやま》の|狼《おほかみ》の|巣窟《さうくつ》にヤスダラ|姫様《ひめさま》を|御案内《ごあんない》なさるとは|約《つま》り|殺《ころ》しにおやりなさつたのですか』
『オホヽヽヽ、|苟《いやし》くも|人《ひと》を|助《たす》くる|宣伝使《せんでんし》の|身《み》として、そんな|事《こと》があつて|堪《たま》りますか。|狼《おほかみ》だつて|誠《まこと》をもつて|向《むか》へば|至極《しごく》|柔順《じうじゆん》なもの、|私《わたし》にも、かうして|居《ゐ》るものの、|一《ひと》つ|手《て》を|叩《たた》けば|五十《ごじふ》や|百《ひやく》の|狼《おほかみ》はすぐ|此処《ここ》へ|現《あら》はれて|来《き》ますからなア。オホヽヽヽ』
ユーフテスは|顔色《かほいろ》をサツと|変《か》へ、|足《あし》をワナワナさせながら、
『ナヽヽヽ|何《なん》と|仰有《おつしや》います、|貴女《あなた》は|狼《おほかみ》をお|使《つか》ひ|遊《あそ》ばすのですか』
『オホヽヽヽ、|大層《たいそう》|慄《ふる》うて|居《を》りますな。|私《わたし》は|狼婆《おほかみばば》と|狼娘《おほかみむすめ》の|一行《いつかう》だから、お|前《まへ》も|此《この》|世《よ》が|厭《いや》になつて|死《し》にたいと|思《おも》はしやつたら、ちつとも|心配《しんぱい》はない、|狼《おほかみ》に|喰《く》はして|上《あ》げる|程《ほど》に|喜《よろこ》びなさいよ』
と|態《わざ》と|作《つく》り|声《ごゑ》をして|憎《にく》さげに|云《い》つて|見《み》せる。
『オホヽヽヽ、お|母《かあ》さまとした|事《こと》が、これ|程《ほど》|臆病《おくびやう》な|人《ひと》をつかまへて|威嚇《おどか》すものぢやありませぬよ、|貴女《あなた》も|余程《よほど》|腹《はら》が|悪《わる》うなりましたなア』
『|実《じつ》は|今《いま》|通《とほ》つた|騎士《きし》|共《ども》が|此《この》|谷口《たにぐち》で|吾々《われわれ》|三人《さんにん》の|行路《かうろ》を|要《えう》してキツト|待《ま》つて|居《ゐ》るから、|其《その》|時《とき》|手《て》を|打《う》つて|百匹《ひやつぴき》|許《ばか》り|狼《おほかみ》を|呼《よ》びあつめ|追《お》つ|払《ぱら》つてやる|積《つも》りだ。|其《その》|時《とき》このユーフテスさまが、|腰《こし》でも|抜《ぬ》かしては|大変《たいへん》だから、|今《いま》の|中《うち》にビツクリの|修業《しうげふ》をさして|居《を》るのだ。これこれユーフテス|様《さま》、|何《なに》がそれ|程《ほど》|恐《こは》いのぢや、お|前様《まへさま》は|王様《わうさま》のためには|不惜身命《ふじやくしんみやう》の|活動《くわつどう》をすると|何時《いつ》も|云《い》つて|居《ゐ》るだらう。|命《いのち》の|惜《を》しくないものが|何故《なぜ》そんなに|慄《ふる》ふのだろう。|不惜身命《ふしやくしんみやう》もあまり|当《あて》にはなりませぬぞや。|口《くち》ではどんな|甘《うま》い|事《こと》も|云《い》へますが、イザ|鎌倉《かまくら》となると|皆《みな》|逃腰《にげごし》になるのだから|困《こま》つたものだよ』
『|君《きみ》のため、|世《よ》のために|命《いのち》を|捨《す》つるのなら|捨《す》て|甲斐《がひ》がありますが、|狼《おほかみ》などに、バリバリやられては、それこそ|犬死《いぬじに》、いや|狼死《おほかみじに》ですからたまりませぬわ。|同《おな》じ|事《こと》なら|君《きみ》のため、|世《よ》のため、|人間《にんげん》の|手《て》にかかつて|死《し》ぬ|方《はう》が|何程《なにほど》|幸福《かうふく》だか|分《わか》りませぬからなア』
『|私《わたし》も|人間《にんげん》だから、それなら|御注文通《ごちゆうもんどほ》り、|一《ひと》つ|殺《ころ》して|見《み》て|上《あ》げませうかな。それならお|前《まへ》も|得心《とくしん》だらう。オホヽヽヽ』
『アヽア、イルナの|都《みやこ》の|助《たす》け|神《がみ》さまかと|思《おも》へば、|何《なん》だ|狼婆《おほかみば》アさまだつたのか。エヽ|曲津《まがつ》の|神《かみ》に|騙《だま》されたか、|残念《ざんねん》だ。もう|此《この》|上《うへ》は|破《やぶ》れかぶれ、|窮鼠《きうそ》|却《かへつ》て|猫《ねこ》を|食《は》むの|譬《たとへ》の|通《とほ》り、|此《この》ユーフテスがいまはの|際《きは》の|死物狂《しにものぐる》ひの|手並《てなみ》を|見《み》て|置《お》けよ』
と|短剣《たんけん》をスラリと|引《ひ》き|抜《ぬ》き|黄金姫《わうごんひめ》に|向《むか》つて|突《つ》いてかかる。|忽《たちま》ち|後《うしろ》の|叢《くさむら》よりオーン、オーンと|狼《おほかみ》の|唸《うな》る|声《こゑ》しきりに|聞《きこ》え|来《く》る。ユーフテスは|短刀《たんたう》をパタリと|地《ち》に|落《おと》し、|慄《ふる》ひ|戦《をのの》き|其《その》|場《ば》にバタリと|倒《たふ》れて|了《しま》つた。
|黄金《わうごん》『|君《きみ》のため|道《みち》のためなら|命《いのち》まで
|捨《す》つると|云《い》ひし|人《ひと》ぞをかしき。
|狼《おほかみ》の|嘯《うそぶ》く|声《こゑ》に|驚《おどろ》きて
|腰《こし》を|抜《ぬ》かせしやさ|男《をとこ》もあり。
|口《くち》ばかりめでたき|事《こと》を|云《い》ひながら
まさかの|時《とき》に|肝《きも》をつぶしつ。
|照山《てるやま》の|峠《たうげ》に|会《あ》ひし|二人連《ふたりづ》れを
|狼使《おほかみづか》ひと|聞《き》き|驚《おどろ》くも。
ユーフテスの|神《かみ》の|司《つかさ》よ|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|強《つよ》め|起《お》き|上《あが》りませ』
|清照姫《きよてるひめ》は、
『|吾《わが》|母《はは》はユーフテス|司《つかさ》に|打《う》ち|向《むか》ひ
|醜《しこ》の|言霊《ことたま》|放《はな》ちたまひぬ。
さらながらユーフテス|司《つかさ》|聞《きこ》し|召《め》せ
|汝《なれ》が|身魂《みたま》の|御試《みため》しなれば。
この|先《さき》に|醜《しこ》の|司《つかさ》がかくれ|居《ゐ》て
|吾等《われら》|三人《みたり》を|捕《とら》へむと|待《ま》つも。
|其《その》|時《とき》に|汝《なれ》が|命《みこと》は|驚《おどろ》きて
|迷《まよ》はせまじと|母《はは》の|計《はか》らひ。
|必《かなら》ずも|悪《あ》しくな|思《おも》ひたまふまじ
|汝《なれ》が|身魂《みたま》|鍛《きた》えむと|思《おも》へばこそ。
|惟神《かむながら》|神《かみ》に|仕《つか》へし|吾《われ》なれば
いかでか|人《ひと》の|命《いのち》とるべき。
|世《よ》の|人《ひと》を|普《あまね》く|救《すく》ふ|宣伝使《せんでんし》
|汝《なれ》に|限《かぎ》りて|救《すく》はであるべき』
ユーフテスは|二人《ふたり》の|歌《うた》を|聞《き》いてやつと|安心《あんしん》し、フナフナ|腰《ごし》にウンと|力《ちから》を|入《い》れ|杖《つゑ》を|力《ちから》に|立《た》ち|上《あが》り、
『|肝玉《きもだま》がどつかの|国《くに》へ|宿替《やどがへ》し
|今《いま》は|藻抜《もぬけ》の|殻《から》となりぬる。
|腰《こし》|抜《ぬ》かし|肝玉《きもだま》とられユーフテスは
どうして|道《みち》を|歩《あゆ》み|往《ゆ》かむか。
これ|程《ほど》に|恐《こは》いお|方《かた》と|知《し》つたなら
|遥々《はるばる》|迎《むか》ひに|来《く》るぢやなかつたに。
|逃《に》げようとあせれど|脛腰《すねこし》|立《た》たぬ|身《み》の
|詮術《せんすべ》さへもなき|涙《なみだ》かな』
|黄金姫《わうごんひめ》はユーフテスの|腰《こし》を|二三回《にさんくわい》|撫《な》で|擦《さす》り、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|二三回《にさんくわい》|唱《とな》へ|上《あ》げた。|不思議《ふしぎ》やユーフテスの|腰《こし》は|俄《にはか》に|強《つよ》くなり、|足《あし》の|慄《ふる》ひもとまり、|今《いま》は|神霊《しんれい》の|感応《かんのう》によつて、|百万《ひやくまん》の|敵《てき》も|恐《おそ》れざる|程《ほど》の|勇猛心《ゆうまうしん》が|臍下丹田《せいかたんでん》からむらむらと|湧《わ》いて|来《き》た。ユーフテスは|初《はじ》めて|黄金姫《わうごんひめ》の|心《こころ》を|悟《さと》り、|幾回《いくくわい》となく|頭《かしら》を|下《さ》げ|両手《りやうて》を|合《あは》せ|其《その》|親切《しんせつ》を|感謝《かんしや》し、|元気《げんき》|百倍《ひやくばい》し|二人《ふたり》の|後《あと》に|従《したが》ひ、|急坂《きふはん》を|下《くだ》りながら|一足々々《ひとあしひとあし》|拍子《ひやうし》を|取《と》り|歌《うた》ひ|出《だ》す。
『|右守《うもり》の|司《かみ》のカールチン  テーナの|姫《ひめ》の|喉元《のどもと》へ
|甘《うま》く|喰《く》ひ|込《こ》み|一家老《いちからう》と  |鰻登《うなぎのぼ》りに|登《のぼ》つたる
カールチン|司《つかさ》の|家《いへ》の|子《こ》と  |仕《つか》へまつりしユーフテス
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|身《み》を|尽《つく》し  |心《こころ》を|尽《つく》し|主《しう》のため
|勤《つと》むる|折《をり》しも|朝夕《あさゆふ》に  |慕《した》ひまつりしセーリス|姫《ひめ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》の|来訪《らいほう》に  |心《こころ》は|忽《たちま》ち|一変《いつぺん》し
|右守《うもり》の|司《かみ》に|表向《おもてむ》き  |忠実《ちうじつ》らしく|仕《つか》へつつ
|心《こころ》はやつぱり|裏表《うらおもて》  セーリス|姫《ひめ》の|父上《ちちうへ》と
|現《あら》はれ|給《たま》ふ|神司《かむづかさ》  |左守《さもり》の|司《かみ》のクーリンス
|助《たす》けにやならぬと|内々《ないない》に  |右守《うもり》の|司《かみ》を|佯《いつは》つて
|恋《こひ》の|犠牲《ぎせい》と|知《し》りながら  やつて|来《き》たのは「ウントコシヨ」
「ヤツトコドツコイ」|恥《はづ》かしい  これこれ|右守《うもり》の|司《かみ》どの
うつかり|油断《ゆだん》をなさるなよ  |此《この》|坂路《さかみち》を|下《くだ》るよに
どこに|悪魔《あくま》が|潜《ひそ》むやら  |何時《いつ》クレリツと|変《かは》るやら
|人《ひと》の|心《こころ》は|分《わか》らない  これを|思《おも》へば|世《よ》の|中《なか》に
|恐《おそ》ろしものは|女《をんな》ぞや  |女《をんな》の|魂《たましひ》|一《ひと》つにて
|古今無双《ここんむさう》の|豪傑《がうけつ》も  |智者《ちしや》と|聞《きこ》えしユーフテスも
|忽《たちま》ち「ドツコイ」|落城《らくじやう》した  ほんに|恐《おそ》ろし|恋《こひ》の|道《みち》
とは|云《い》ふものの「ドツコイシヨ」  |今《いま》となつては|及《およ》ばない
|改心《かいしん》するのが「ドツコイシヨ」  |善《よ》いか|悪《わる》いか「ウントコシヨ」
|見当《けんたう》が|取《と》れなくなつて|来《き》た  つらつら|思《おも》ひ|廻《めぐ》らせば
|国《くに》の|柱《はしら》と|現《あ》れませる  セーラン|王《わう》に|刃向《はむか》ふは
|矢張《やつぱ》り|悪《あく》に|違《ちが》ひない  さうすりや|右守《うもり》の|神司《かむづかさ》
|背《そむ》いた|処《ところ》で「ドツコイシヨ」  バラモン|神《がみ》の|神罰《しんばつ》が
|俺等《おいら》に|当《あた》る|筈《はず》がない  さう|考《かんが》へりや|安心《あんしん》だ
これこれもうし|二人様《ふたりさま》  |足許《あしもと》|気《き》をつけなさいませ
|照山峠《てるやまたうげ》は|国中《くにぢう》で  |最《もつと》も|嶮《けは》しい|坂道《さかみち》だ
|獅子《しし》さへ|越《こ》さぬ|難所《なんしよ》ぞと  |世《よ》に|聞《きこ》えたる「ドツコイシヨ」
|行《ゆ》くに|行《ゆ》かれぬ|困《こま》り|場所《ばしよ》  |道《みち》の|案内《あんない》|知《し》らずして
|偉《えら》そに|馬腹《ばふく》に|鞭《むち》をうち  テルマン|国《ごく》よりやつて|来《き》た
|五人《ごにん》の|騎士《きし》は|今頃《いまごろ》は  |馬《うま》|諸共《もろとも》に|千仭《せんじん》の
|谷間《たにま》に「ドツコイ」|転落《てんらく》し  |頭《あたま》を|摧《くじ》き|肱《ひぢ》を|折《を》り
ウンウンうめいて|居《ゐ》るだらう  |思《おも》へば|思《おも》へば|気《き》の|毒《どく》ぢや
バラモン|教《けう》の|神様《かみさま》よ  |彼等《かれら》に|罪《つみ》はありませぬ
|此《この》|先《さき》|吾等《われら》に「ドツコイシヨ」  |敵対《てきた》ひ|来《きた》る|其《その》|時《とき》は
|助《たす》けてやつて|下《くだ》さるな  |私《わたし》が|些《ち》つと|困《こま》るから
「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  |今《いま》|行《い》つた|騎士《きし》の|五人連《ごにんづ》れ
|黄金姫《わうごんひめ》のお|言葉《ことば》に  |此《この》|山口《やまぐち》に|身《み》をかくし
|吾等《われら》を|待《ま》つてゐると|聞《き》く  「ウントコドツコイ」|猪口才《ちよこざい》な
そのよな|事《こと》を|致《いた》したら  |神力《しんりき》|受《う》けたユーフテス
|生言霊《いくことたま》を|発射《はつしや》して  |一人《ひとり》も|残《のこ》らず|打《う》ちきため
|根底《ねそこ》の|国《くに》の|旅立《たびだち》を  「ウントコドツコイ」さしてやる
もしも|敵対《てきたい》せぬならば  |助《たす》けてやつて|下《くだ》しやんせ
|梵天帝釈自在天《ぼんてんたいしやくじざいてん》  オツトドツコイ|国治立《くにはるたち》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|御前《おんまへ》に  |慎《つつし》み|敬《いやま》ひ|願《ね》ぎまつる
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひながら|母娘《おやこ》の|後《あと》に|従《したが》ひ、|漸《やうや》くにして|照山峠《てるやまたうげ》を|南《みなみ》に|下《くだ》りついた。|五人《ごにん》の|騎士《きし》は|黄金姫《わうごんひめ》の|予言《よげん》の|如《ごと》く|馬《うま》の|頭《かしら》を|立《た》て|直《なほ》し、やや|広《ひろ》き|谷間《たにあひ》に|三人《さんにん》を|待《ま》ち|伏《ぶ》せ、|弓《ゆみ》を|満月《まんげつ》の|如《ごと》く|絞《しぼ》り、|矢《や》を|番《つが》へ、|今《いま》や|遅《おそ》しと|待《ま》つて|居《ゐ》る。|黄金姫《わうごんひめ》は|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら、つかつかと|騎士《きし》の|傍《そば》|近《ちか》く|進《すす》み|寄《よ》つた|刹那《せつな》、|忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|狼群《らうぐん》の|唸《うな》り|声《ごゑ》、|如何《いかが》はしけむ|五人《ごにん》の|騎士《きし》は|弓《ゆみ》を|満月《まんげつ》の|如《ごと》く|引《ひ》き|絞《しぼ》つたまま、|身体《しんたい》|強直《きやうちよく》しデクの|棒《ぼう》の|如《ごと》くなつて|居《ゐ》る。|斯《か》かる|処《ところ》へ、テームスやレーブ、カルの|三人《さんにん》は|駒《こま》に|跨《またが》り、|三頭《さんとう》の|副馬《そへうま》を|従《したが》へて|蹄《ひづめ》の|音《おと》|戞々《かつかつ》と|進《すす》み|来《く》る|勇《いさ》ましさ。|黄金姫《わうごんひめ》は、|三人《さんにん》の|引《ひ》き|連《つ》れ|来《きた》りし|駒《こま》に|跨《またが》り、|清照姫《きよてるひめ》と|共《とも》に|五人《ごにん》|轡《くつわ》を|並《なら》べ、|勢《いきほひ》|込《こ》んでイルナの|都《みやこ》のセーラン|王《わう》が|館《やかた》をさして|駆《かけ》り|往《ゆ》く。|闇《やみ》の|帳《とばり》はおろされ、|入城《にふじやう》には|最《もつと》も|適当《てきたう》の|刻限《こくげん》である。あゝ|黄金姫《わうごんひめ》|一行《いつかう》の|今後《こんご》の|活動《くわつどう》は|如何《いか》に|開展《かいてん》するだらうか。
|因《ちなみ》に|取《と》り|残《のこ》されたユーフテスは|黄金姫《わうごんひめ》の|囁《ささや》きによつて|五人《ごにん》の|騎士《きし》に|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》し、|元《もと》の|如《ごと》く|身体《しんたい》|自由《じいう》を|得《え》せしめ、|表面《へうめん》|右守司《うもりつかさ》の|従臣《じゆうしん》なるを|幸《さいは》ひ、|五人《ごにん》の|騎士《きし》と|共《とも》に|右守《うもり》の|館《やかた》をさして|一目散《いちもくさん》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。ユーフテスの|今後《こんご》の|活動《くわつどう》も|亦《また》|一《ひと》つの|見物《みもの》であらう。
(大正一一・一一・一一 旧九・二三 加藤明子録)
第三篇 |北光神助《きたてるしんぢよ》
第一三章 |夜《よる》の|駒《こま》〔一一一七〕
イルナの|都《みやこ》、セーラン|王《わう》の|館《やかた》の|奥《おく》の|間《ま》には、|王《わう》を|始《はじ》め|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》、テームス、レーブ、カルの|六人《ろくにん》、|上下《じやうげ》の|列《れつ》を|正《ただ》し、|対坐《たいざ》しながら、ひそびそ|話《ばなし》が|始《はじ》まつてゐる。
|王《わう》『|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》、|遠方《ゑんぱう》の|所《ところ》|夜中《やちう》にも|拘《かかは》らず、よくお|越《こ》し|下《くだ》さいました。これで|私《わたし》も|一安心《ひとあんしん》|致《いた》します。|貴女《あなた》は|鬼熊別《おにくまわけ》|様《さま》の|奥様《おくさま》|蜈蚣姫《むかでひめ》|様《さま》、|小糸姫《こいとひめ》|様《さま》で|厶《ござ》いますなア』
『ハイ、|恥《はづか》しながら|運命《うんめい》の|綱《つな》にひかれて、とうとう|夫《をつと》と|別《わか》れ、|神様《かみさま》の|為《ため》に|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》になりました。|世《よ》の|中《なか》は|思《おも》ふ|様《やう》にゆかないもので|厶《ござ》います』
『|左様《さやう》で|厶《ござ》いますなア、|私《わたし》も|夫婦《ふうふ》の|道《みち》に|就《つ》いて、|非常《ひじやう》に|悲惨《ひさん》な|境遇《きやうぐう》に|陥《おちい》つて|居《を》ります。これでも|何時《いつ》か|又《また》|神様《かみさま》の|御恵《みめぐみ》に|依《よ》つて、|思《おも》ふ|様《やう》に|身魂《みたま》の|会《あ》うたもの|同士《どうし》|添《そ》ふ|事《こと》が|出来《でき》ませうかなア。|貴女様《あなたさま》は|最早《もはや》|鬼熊別《おにくまわけ》|様《さま》と|仲《なか》よく|元《もと》の|夫婦《ふうふ》となつて、|神界《しんかい》にお|仕《つか》へ|遊《あそ》ばすことが|出来《でき》ませう。|私《わたし》は|到底《たうてい》|望《のぞ》みがありますまい』
『|親子《おやこ》|夫婦《ふうふ》が|一緒《いつしよ》に|神界《しんかい》に|仕《つか》へる|位《くらゐ》、|結構《けつこう》な|事《こと》はありませぬが、|私《わたし》の|夫《をつと》は|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、バラモン|教《けう》の|柱石《ちうせき》、|私《わたし》|始《はじ》め|娘《むすめ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|何程《なにほど》|神様《かみさま》は|一《ひと》つだと|申《まを》しても、むつかしい|仲《なか》で|厶《ござ》います』
『|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|鬼熊別《おにくまわけ》|様《さま》は、キツト|貴女《あなた》のお|説《せつ》に|御賛成《ごさんせい》|遊《あそ》ばすで|厶《ござ》いませう。|私《わたし》の|今日《こんにち》の|身《み》の|上《うへ》は|実《じつ》に|言《い》ふに|言《い》はれぬ|境遇《きやうぐう》に|陥《おちい》つて|居《を》ります。|許嫁《いひなづけ》のヤスダラ|姫《ひめ》は|奸臣《かんしん》の|為《ため》に|郤《しりぞ》けられ、|心《こころ》に|合《あ》はぬ|妻《つま》を|押付《おしつ》けられ、|一日《いちにち》として|楽《たの》しく|暮《くら》した|事《こと》はありませぬ。|其《その》|上《うへ》|奸者侫人《かんじやねいじん》|跋扈《ばつこ》し、|私《わたし》の|身辺《しんぺん》は|実《じつ》に|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|場合《ばあひ》に|陥《おちい》つて|居《を》ります。|就《つ》いては|貴女様《あなたさま》をお|迎《むか》へ|申上《まをしあ》げ、|此《この》|危急《ききふ》を|救《すく》うて|頂《いただ》きたいと|存《ぞん》じまして、|北光《きたてる》の|神様《かみさま》の|夢《ゆめ》のお|告《つ》げに|依《よ》つて、|数日前《すうじつぜん》より|貴女様《あなたさま》の|此方《こちら》へお|出《で》ましになるのをばお|捜《さが》し|申《まを》して|居《を》りました。よくマア|来《き》て|下《くだ》さいました。|今後《こんご》は|貴女《あなた》のお|指図《さしづ》に|従《したが》ひ|身《み》を|処《しよ》する|考《かんが》へですから、|何分《なにぶん》|宜《よろ》しく|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
『|貴方《あなた》は|三五《あななひ》の|教《をしへ》を|信《しん》じますか』
『ハイ、|別《べつ》に|信《しん》ずるといふ|訳《わけ》では|厶《ござ》いませぬが、|大自在天様《だいじさいてんさま》も|世界《せかい》の|創造主《さうざうしゆ》、|国治立尊《くにはるたちのみこと》|様《さま》も|矢張《やは》り|世界《せかい》の|創造主《さうざうしゆ》、|名《な》は|変《かは》れども|元《もと》は|同《おな》じ|神様《かみさま》だと|信《しん》じて|居《を》ります』
『|国治立尊《くにはるたちのみこと》|様《さま》は|本当《ほんたう》の|此《この》|世《よ》の|御先祖様《ごせんぞさま》、|盤古神王《ばんこしんわう》や|自在天様《じざいてんさま》は|人類《じんるゐ》の|祖先《そせん》|天足彦《あだるひこ》、|胞場姫《えばひめ》の|身魂《みたま》から|発生《はつせい》した|大蛇《をろち》や|悪狐《あくこ》|悪鬼《あくき》の|邪霊《じやれい》の|憑依《ひようい》した|神様《かみさま》で、|言《い》はば|其《その》|祖先《そせん》を|人間《にんげん》に|出《だ》して|居《ゐ》る|方《かた》ですから、|非常《ひじやう》な|相違《さうゐ》があります。|神《かみ》から|現《あら》はれた|神《かみ》と、|人《ひと》から|現《あら》はれた|神《かみ》とは、そこに|区別《くべつ》がなければなりませぬよ』
『あゝさうで|厶《ござ》いますかなア。|私《わたし》は|三五教《あななひけう》の|奉斎主神《ほうさいしゆしん》たる|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》|様《さま》も、|盤古神王様《ばんこしんわうさま》も、|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》も|同《おな》じ|神様《かみさま》で、|名称《めいしよう》が|違《ちが》ふだけだと|聞《き》いて|居《を》ります。|私《わたし》も|固《かた》くそれを|信《しん》じて|居《を》りましたが、さう|承《うけたま》はれば|一《ひと》つ|考《かんが》へねばなりますまい。チヨツト|貴女様《あなたさま》|母娘《おやこ》に|見《み》て|頂《いただ》きたいものが|厶《ござ》りますから、どうぞ|私《わたし》の|籠《こも》り|場所《ばしよ》へお|越《こ》し|下《くだ》さいませ。|妻《つま》でも|左守《さもり》の|司《かみ》でも|誰一人《たれひとり》|入《い》れたことのない|神聖《しんせい》な|居間《ゐま》で|厶《ござ》います。テームスよ、レーブ、カルと|共《とも》にここに|暫《しばら》く|待《ま》つてゐてくれ』
テームスは、
『ハイ|畏《かしこ》まりました』
とさし|俯《うつ》むく。|王《わう》は|母娘《おやこ》を|伴《とも》なひ、|籠《こも》りの|室《しつ》へ|進《すす》み|行《ゆ》く。|行《い》つて|見《み》れば、|可《か》なり|広《ひろ》い|室《しつ》が|二間《ふたま》|並《なら》んでゐる。そこには|立派《りつぱ》に|斎壇《さいだん》が|設《まう》けられ、いろいろの|面白《おもしろ》き|骨董品《こつとうひん》などが、|陳列《ちんれつ》されてあつた。|床《とこ》の|間《ま》の|簾《みす》を|王《わう》はクリクリと|捲上《まきあ》げ、|手《て》を|拍《う》ち、|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。|母娘《おやこ》も|同《おな》じく|頭《かしら》を|下《さ》げ、|小声《こごゑ》に|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|終《をは》つて|斎壇《さいだん》をよくよく|見《み》れば、|一幅《いつぷく》の|掛軸《かけぢく》が|床《とこ》の|間《ま》の|正面《しやうめん》にかけられ、|神酒《みき》、|御饌《みけ》、|御水《みもひ》|等《など》がキチンと|供《そな》へられてある。これは|常《つね》に|王《わう》が|潔斎《けつさい》して|神慮《しんりよ》を|伺《うかが》ふ|秘密室《ひみつしつ》であつた。
|掛物《かけもの》の|神号《しんがう》をよく|見《み》れば、|天一神王《てんいちしんわう》|国治立尊《くにはるたちのみこと》……と|正面《しやうめん》に|大字《だいじ》にて|記《しる》し、|其《その》|真下《ました》に|教主《けうしゆ》|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》と|記《しる》し、|中央《ちうあう》の|両側《りやうがは》に|盤古神王《ばんこしんわう》|塩長彦命《しほながひこのみこと》、|常世神王《とこよしんわう》|大国彦命《おほくにひこのみこと》と|王《わう》の|直筆《ぢきひつ》で|記《しる》されてあつた。|黄金姫《わうごんひめ》|母娘《おやこ》は|此《この》|幅《ふく》に|目《め》をとめ、|何《なん》とも|言《い》へぬ|爽快《さうくわい》さと|驚《おどろ》きの|念《ねん》にうたれ、|呆然《ばうぜん》として|其《その》|神号《しんがう》を|眺《なが》めてゐる。
『|私《わたし》の|信仰《しんかう》は|此《この》|通《とほ》りで|厶《ござ》います。お|分《わか》りになりましたか』
『|思《おも》ひもよらぬ|御神徳《ごしんとく》を|頂《いただ》きました。これではイルナの|城《しろ》も|大丈夫《だいぢやうぶ》、|御安心《ごあんしん》なさいませ。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|世《よ》の|御先祖様《ごせんぞさま》でも|時世時節《ときよじせつ》には|対抗《たいかう》し|難《がた》く、|一度《いちど》は|常世彦《とこよひこ》、|常世姫《とこよひめ》|一派《いつぱ》の|為《ため》に、|根底《ねそこ》の|国《くに》までお|出《い》でなさつた|位《くらゐ》だから、|決《けつ》して|油断《ゆだん》は|出来《でき》ませぬ。|貴方《あなた》の|信仰《しんかう》が|大黒主《おほくろぬし》の|方《はう》へでも|分《わか》らうものなら|大変《たいへん》だから、|今《いま》|暫《しばら》くは|発表《はつぺう》せないが|宜《よろ》しいぞや』
『ハイ、|左守《さもり》の|司《かみ》にさへも|此《この》|室《しつ》は|覗《のぞ》かせた|事《こと》はありませぬ。|誰《たれ》も|知《し》る|者《もの》はないのですから、|大丈夫《だいぢやうぶ》で|厶《ござ》います』
『|仮令《たとへ》|此《この》|室《へや》を|覗《のぞ》かぬとも、|貴方《あなた》の|信仰《しんかう》が|斯《か》うだとすば、|何時《いつ》とはなしに、|貴方《あなた》の|声音《せいおん》に|現《あら》はれ、|皮膚《ひふ》に|現《あら》はれ、|遂《つひ》には【かん】|付《づ》かれるものです。|如何《どう》しても|心《こころ》の|色《いろ》は|包《つつ》む|事《こと》は|出来《でき》ませぬから』
『|貴女《あなた》|様《さま》が|此処《ここ》へお|越《こ》し|下《くだ》さつた|以上《いじやう》は、|余《あま》り|心配《しんぱい》する|事《こと》も|要《い》りますまい。|一寸《ちよつと》これを|御覧《ごらん》|下《くだ》さいませ』
と|次《つぎ》の|間《ま》に|二人《ふたり》を|導《みちび》く。|見《み》ればここにも|一寸《ちよつと》した|床《とこ》の|間《ま》があつて、|二幅《にふく》の|絵像《ゑざう》が|掲《かか》げられてあつた。|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》はアツとばかり|驚《おどろ》かざるを|得《え》なかつた。それは|日頃《ひごろ》|心《こころ》にかけてゐる|夫《をつと》|鬼熊別《おにくまわけ》の|肖像《せうざう》と|一幅《いつぷく》は|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|御肖像《ごせうざう》であつた。|清照姫《きよてるひめ》は|思《おも》はず、
『あゝこれはお|父様《とうさま》、|大神様《おほかみさま》』
と|言《い》はうとするを、|黄金姫《わうごんひめ》は|口《くち》に|手《て》を|当《あ》て、
『コレコレ|清照姫《きよてるひめ》|殿《どの》、|何《なに》を|仰有《おつしや》る。これはキツト|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》と|自在天様《じさいてんさま》の|絵姿《ゑすがた》だ。そんな|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》すと、|悪魔《あくま》の|耳《みみ》に|這入《はい》つては|大変《たいへん》ですよ』
『|父上《ちちうへ》によう|似《に》た|御肖像《ごせうざう》で|厶《ござ》いますなア。ホヽヽ』
『|私《わたし》は|今《いま》までバラモン|神《しん》を|信仰《しんかう》して|此《この》|国《くに》を|治《をさ》めて|居《を》りましたが、|或《ある》|夜《よ》の|夢《ゆめ》に|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》|様《さま》、|鬼熊別命《おにくまわけのみこと》|様《さま》と|二柱《ふたはしら》|現《あら》はれ|給《たま》ひ、いろいろ|雑多《ざつた》の|有難《ありがた》き|教訓《けうくん》を|垂《た》れさせ|下《くだ》さいまして、それより|神命《しんめい》に|従《したが》ひ、|私《わたし》|一人《ひとり》|信仰《しんかう》を|励《はげ》み、|時《とき》の|到《いた》るを|待《ま》つて|居《を》りました。|私《わたし》の|夢《ゆめ》に|現《あら》はれたお|姿《すがた》を|思《おも》ひ|出《だ》して、|自《みづか》ら|筆《ふで》を|執《と》り、ソツとお|給仕《きふじ》を|致《いた》して|居《を》ります。|鬼熊別《おにくまわけ》|様《さま》は|神界《しんかい》にては|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》|様《さま》のお|脇立《わきだち》になつてゐられます。キツト|其《その》|肉体《にくたい》も|三五《あななひ》のお|道《みち》へお|入《はい》り|遊《あそ》ばすでせう。|只《ただ》|時間《じかん》の|問題《もんだい》のみが|残《のこ》つてゐるのだと|感《かん》じて|居《を》ります』
|黄金姫《わうごんひめ》|母娘《おやこ》は|物《もの》をも|言《い》はず|感《かん》に|打《う》たれ、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にかきくれてゐる。セーラン|王《わう》は、
『|天地《あめつち》の|神《かみ》の|恵《めぐみ》を|目《ま》のあたり
|拝《をが》みし|今日《けふ》ぞ|尊《たふと》かりけり。
|素盞嗚神《すさのをのかみ》の|尊《みこと》に|服《まつろ》ひて
|教《をしへ》を|守《まも》る|鬼熊別《おにくまわけ》の|神司《かみ》よ。
|鬼熊別《おにくまわけ》|神《かみ》の|命《みこと》は|今《いま》|暫《しば》し
ハルナの|都《みやこ》に|忍《しの》びますらむ。
|時機《じき》|来《く》ればやがて|表《おもて》に|現《あら》はれて
|三五教《あななひけう》の|司《つかさ》となりまさむ。
あゝ|嬉《うれ》し|黄金姫《わうごんひめ》や|清照姫《きよてるひめ》
|神《かみ》の|司《つかさ》に|会《あ》ひし|今宵《こよひ》は』
|黄金《わうごん》『|来《き》て|見《み》れば|思《おも》ひもよらぬ|王《きみ》の|居間《ゐま》に
わが|背《せ》の|君《きみ》の|姿《すがた》|拝《をが》みし。
バラモンの|教《をしへ》の|御子《みこ》と|思《おも》ひしに
|摩訶不思議《まかふしぎ》なる|今宵《こよひ》なりけり』
|清照《きよてる》『|千早振《ちはやぶ》る|神《かみ》の|光《ひかり》の|強《つよ》ければ
|父《ちち》の|命《みこと》の|心《こころ》|照《て》りつつ
|吾《わが》|父《ちち》は|最早《もはや》|国治立神《くにはるたちのかみ》の
|教《をしへ》の|御子《みこ》となりましにけむ。
セーランの|王《きみ》の|命《みこと》よ|今《いま》|暫《しば》し
|時《とき》を|待《ま》ちませ|神《かみ》のまにまに。
|清照姫《きよてるひめ》|教《をしへ》の|司《つかさ》も|今宵《こよひ》こそ
|積《つも》る|思《おも》ひの|晴《は》れ|渡《わた》りける』
|黄金《わうごん》『|北光《きたてる》の|神《かみ》の|命《みこと》のかくれます
|高照山《たかてるやま》にとく|進《すす》みませ。
|高照《たかてる》の|山《やま》は|世人《よびと》の|恐《おそ》ろしく
|噂《うはさ》すれども|貴《うづ》の|真秀良場《まほらば》。
|百千々《ももちぢ》の|狼《おほかみ》の|群《むれ》|従《したが》へて
|北光《きたてる》の|神《かみ》は|王《きみ》を|待《ま》ちつつ。
いざさらばテームス、レーブ、カル|三人《みたり》
|後《あと》に|従《したが》へとく|出《い》でませよ』
|王《わう》『|黄金姫《わうごんひめ》|神《かみ》の|御言《みこと》に|従《したが》ひて
とく|立出《たちい》でむ|高照山《たかてるやま》へ。
|吾《わが》|行《ゆ》きし|後《のち》の|館《やかた》は|汝命《ながみこと》
|暫《しば》し|止《とど》まり|守《まも》り|給《たま》はれ』
|清照《きよてる》『|大神《おほかみ》の|稜威《いづ》の|光《ひかり》に|照《て》らされて
|道《みち》も|隈《くま》なく|安《やす》く|行《ゆ》きませ。
|母《おや》と|娘《こ》が|心《こころ》を|協《あは》せ|身《み》を|尽《つく》し
|入那《いるな》の|城《しろ》を|暫《しば》し|守《まも》らむ』
|王《わう》『|鬼熊別《おにくまわけ》|神《かみ》の|命《みこと》の|賜《たま》ひてし
|生玉章《いくたまづさ》を|汝《なれ》に|奉《まつ》らむ。
|心《こころ》して|披《ひら》き|見給《みたま》へ|鬼熊別《おにくまわけ》
|神《かみ》の|命《みこと》の|真心《まごころ》の|色《いろ》を』
と|言《い》ひながら、|鬼熊別《おにくまわけ》より|王《わう》に|遣《つか》はしたる|密書《みつしよ》を|黄金姫《わうごんひめ》に|恭《うやうや》しく|手渡《てわた》した。|黄金姫《わうごんひめ》は|手早《てばや》く|封《ふう》じ|目《め》を|切《き》り、|押披《おしひら》いて|読《よ》み|下《くだ》せば、|左《さ》の|文面《ぶんめん》であつた。
『|鬼熊別《おにくまわけ》よりセーラン|王《わう》に|密書《みつしよ》を|送《おく》る。
一、これの|天地《あめつち》は|天一神王《てんいちしんわう》|大国治立尊《おほくにはるたちのみこと》の|造《つく》り|給《たま》ひし|神国《しんこく》にして、|決《けつ》して|大国彦《おほくにひこ》、|塩長彦《しほながひこ》の|神《かみ》|等《たち》の|創造《さうざう》せし|天地《てんち》にあらず。|又《また》|大黒主《おほくろぬし》はバラモン|教《けう》の|大棟梁《だいとうりやう》として|兵馬《へいば》の|権《けん》を|握《にぎ》り、|大教主《だいけうしゆ》の|仮面《かめん》を|被《かぶ》り|居《を》らるれども、|天《てん》は|何時迄《いつまで》も|斯《か》かる|虚偽《きよぎ》を|許《ゆる》し|給《たま》はず、|必《かなら》ずや|本然《ほんぜん》の|誠《まこと》に|立《た》ち|返《かへ》り、|三五教《あななひけう》を|信従《しんじゆう》する|時《とき》あるべし。それに|付《つ》いては|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の|御摂理《ごせつり》に|依《よ》り、|吾《わが》|妻子《さいし》|近々《きんきん》の|中《うち》に|王《わう》が|館《やかた》に|訪問《はうもん》すべければ、|一切万事《いつさいばんじ》を|打明《うちあ》け、|国家《こくか》の|為《ため》に|最善《さいぜん》の|努力《どりよく》をなさるべし。ハルナの|都《みやこ》は|今《いま》や|軍隊《ぐんたい》の|大部分《だいぶぶん》は|遠征《ゑんせい》の|途《と》に|上《のぼ》り、|守《まも》り|最《もつと》も|少《すく》なくなり|居《を》れり。|然《しか》るに|王《わう》に|仕《つか》ふる|右守《うもり》より|王《わう》を|廃立《はいりつ》せむとの|願書《ぐわんしよ》、|大黒主《おほくろぬし》の|許《もと》に|来《きた》り、|大黒主《おほくろぬし》は|数千《すうせん》の|騎士《きし》を|近々《きんきん》|差向《さしむ》くる|事《こと》となりをれば、イルナ|城《じやう》は|実《じつ》に|風前《ふうぜん》の|灯火《ともしび》なるを|以《もつ》て、|貴王《きわう》は|吾《わが》|妻子《さいし》と|共《とも》に|善後策《ぜんごさく》を|講《かう》じ、|一時《いちじ》|何《いづ》れへか|避難《ひなん》さるべし。|鬼熊別《おにくまわけ》はハルナの|都《みやこ》に|止《とど》まつて、|大黒主《おほくろぬし》を|悔《く》ひ|改《あらた》めしめ、|其《その》|身魂《みたま》をして|天国《てんごく》|浄土《じやうど》に|救《すく》はむと|朝夕《てうせき》|努《つと》めつつあり。|吾《わが》|妻子《さいし》に|面会《めんくわい》の|日《ひ》を|期《き》し、|一刻《いつこく》の|猶予《いうよ》もなく、|安全《あんぜん》|地帯《ちたい》へ|一時《いちじ》|身《み》をかくさるべく|呉々《くれぐれ》も|注意《ちゆうい》|致《いた》します。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|記《しる》されてあつた。|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》は|久《ひさ》しぶりに|鬼熊別《おにくまわけ》の|肉筆《にくひつ》の|手紙《てがみ》を|見《み》て、|夫《をつと》に|直接《ちよくせつ》|会《あ》ひし|如《ごと》く、|父《ちち》に|面会《めんくわい》せし|如《ごと》く、|心《こころ》|勇《いさ》み、|感涙《かんるゐ》を|落《おと》しながら、
|黄金《わうごん》『あゝ|之《これ》にて|何《なに》もかも|分《わか》りました。|北光《きたてる》の|神様《かみさま》が|一時《いちじ》も|早《はや》く|貴方《あなた》を|狼《おほかみ》の|岩窟《いはや》へ|誘《いざな》ひ|来《きた》れとの|御命令《ごめいれい》も、|此《この》|手紙《てがみ》の|文面《ぶんめん》にて|氷解《ひようかい》しました。あゝ、|何《なん》と|神様《かみさま》はどこまでも|注意《ちうい》|周到《しうたう》なお|方《かた》だなア』
|清照《きよてる》『お|父様《とうさま》に|直接《ちよくせつ》お|目《め》にかかつた|様《やう》な|心持《こころもち》が|致《いた》します。|神様《かみさま》、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います』
と|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|聖像《せいざう》に|向《むか》つて、|感謝《かんしや》の|詞《ことば》を|捧《ささ》げた。
|黄金《わうごん》『サアかうなる|上《うへ》は、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|高照山《たかてるやま》へ|夜《よる》の|明《あ》けない|中《うち》にお|越《こ》し|遊《あそ》ばせ。|申上《まをしあ》げたき|事《こと》は|山々《やまやま》あれど、|今《いま》はさういふ|余裕《よゆう》も|厶《ござ》いませぬ。サア|早《はや》く|早《はや》く』
とせき|立《た》つれば|王《わう》は、
『|左様《さやう》ならば、|万事《ばんじ》|宜《よろ》しく|願《ねが》ひます』
と|先《さき》に|立《た》ち、テームス|等《ら》が|控《ひか》へてゐる|居間《ゐま》に|姿《すがた》を|現《あら》はした。|王《わう》は|母娘《おやこ》と|共《とも》に|表《おもて》の|居間《ゐま》に|立現《たちあら》はれ、テームスに|打《う》ち|向《むか》ひ、
『テームス、|御苦労《ごくらう》だが、|早《はや》く|駒《こま》の|用意《ようい》をしてくれ。これから|高照山《たかてるやま》へレーブ、カルを|伴《ともな》ひ、|出発《しゆつぱつ》|致《いた》すから』
『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。|併《しか》し|乍《なが》ら|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》の|御命令《ごめいれい》に|依《よ》り、|馬《うま》の|用意《ようい》はチヤンと|整《ととの》へておきました。|何時《いつ》なりともお|供《とも》を|致《いた》しませう』
『あゝそれは|有難《ありがた》い。それなら、|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》、|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》、あとを|宜《よろ》しく|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
|黄金《わうごん》『|君《きみ》ゆきて|如何《いか》にけながくなるとても
われは|館《やかた》を|守《まも》りて|待《ま》たむ。
うら|安《やす》く|進《すす》み|出《い》でませ|高照《たかてる》の
|山《やま》の|岩窟《いはや》に|神《かみ》は|待《ま》たせり。
|三五《あななひ》の|教司《をしへつかさ》の|北光《きたてる》の|神《かみ》は
|君《きみ》のいでまし|待《ま》たせ|給《たま》はむ』
|王《わう》『いざさらば|黄金姫《わうごんひめ》や|清照姫《きよてるひめ》
|神《かみ》の|命《みこと》よ|惜《を》しく|別《わか》れむ』
と|歌《うた》ひながら、|慌《あわただ》しく|表《おもて》に|出《い》で、|裏門口《うらもんぐち》より|駒《こま》|引《ひ》き|出《だ》し、|暗《やみ》の|道《みち》を|辿《たど》りて、|高照山《たかてるやま》の|岩窟《がんくつ》|指《さ》して|一行《いつかう》|四人《よにん》は|雲《くも》を|霞《かすみ》と|駆《かけ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・一一・一二 旧九・二四 松村真澄録)
第一四章 |慈訓《じくん》〔一一一八〕
|狼《おほかみ》|守《まも》る|高照山《たかてるやま》の|岩窟《がんくつ》には|主客《しゆきやく》|五人《ごにん》|膝《ひざ》を|交《まじ》へて|何事《なにごと》か|話《はなし》に|耽《ふけ》つてゐる。|北光《きたてる》の|神《かみ》は|宣伝使《せんでんし》の|傍《かたはら》|鍛冶《かぢ》の|名人《めいじん》なれば、|数多《あまた》の|精巧《せいかう》なる|機械《きかい》を|閑暇《かんか》ある|毎《ごと》に|製造《せいざう》し、|鑿《のみ》、|槌《つち》、|鶴嘴《つるはし》、|鍬《くは》|等《など》を|造《つく》つて|岩窟《がんくつ》を|穿《うが》ち、|今《いま》や|八咫《やた》の|大広間《おほひろま》は|幾《いく》つとなく|穿《うが》たれ、|難攻不落《なんこうふらく》の|金城鉄壁《きんじやうてつぺき》となつたのである。それに|数百千《すうひやくせん》の|狼《おほかみ》は|北光《きたてる》の|神《かみ》の|恩威《おんゐ》に|服《ふく》し、|恰《あだか》も|飼犬《かひいぬ》の|如《ごと》くよく|其《その》|命《めい》を|守《まも》り、|且《か》つ|人語《じんご》を|解《かい》する|様《やう》になつてゐた。|岩窟《がんくつ》の|一間《ひとま》には|天《あめ》の|目一《まひと》つの|神《かみ》を|上座《じやうざ》に、|其《その》|右側《みぎがは》には|竹野姫《たけのひめ》、|少《すこ》し|下《さ》がつてヤスダラ|姫《ひめ》、|竜雲《りううん》、リーダーの|順《じゆん》に|湯《ゆ》をすすりながら|神話《しんわ》に|耽《ふけ》る。
|竜雲《りううん》『|北光《きたてる》の|神様《かみさま》、|私《わたくし》も|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|悪魔《あくま》に|憑依《ひようい》され、サガレン|王《わう》に|対《たい》し|不臣《ふしん》の|罪《つみ》を|重《かさ》ね、|已《すで》に|霊魂《みたま》は|根底《ねそこ》の|国《くに》へ|投《な》げ|込《こ》まるる|所《ところ》で|御座《ござ》りましたが、|貴神《あなた》の|御親切《ごしんせつ》なる|御教訓《ごけうくん》によつて、|貪瞋痴《どんしんち》の|夢《ゆめ》も|覚《さ》め、|漸《やうや》く|真人間《まにんげん》にして|頂《いただ》きました。|一時《いちじ》|勢《いきほひ》に|乗《じやう》じ、サガレン|王《わう》の|後《あと》を|襲《おそ》うて|権利《けんり》を|揮《ふる》うた|時《とき》の|苦《くる》しさに|比《くら》ぶれば、|今日《こんにち》の|気楽《きらく》さ|楽《たの》しさは、|天地《てんち》の|相違《さうゐ》で|御座《ござ》ります。|体主霊従《たいしゆれいじう》の|慾望《よくばう》にかられ、|知《し》らず|知《し》らずに|身魂《みたま》を|地獄《ぢごく》に|落《おと》してゐるものは、|決《けつ》して|竜雲《りううん》ばかりでは|御座《ござ》りますまい。|何《なん》とかして|其《その》|迷《まよ》ひを|醒《さ》まさせ、|身魂《みたま》を|安楽《あんらく》にさせてやりたいもので|御座《ござ》りますワ』
|北光《きたてる》『|其方《そなた》は|月《つき》の|国《くに》を|巡回《じゆんくわい》して|来《き》たのだから、|最早《もはや》|天下《てんか》の|人情《にんじやう》はよく|分《わか》つただらう。|随分《ずゐぶん》|世《よ》の|中《なか》は|憐《あは》れむべきものが|多《おほ》いだらうな』
『ハイ、|仰《あふ》せの|通《とほ》り|何処《どこ》の|国《くに》へ|参《まゐ》りましても|宗教《しうけう》|争《あらそ》ひや|名利《めいり》の|慾《よく》に|搦《から》まれて、|互《たがひ》に|鎬《しのぎ》を|削《けづ》る|惨状《さんじやう》は、まるで|地獄《ぢごく》|餓鬼《がき》|畜生道《ちくしやうだう》|其《その》|儘《まま》の|出現《しゆつげん》で|御座《ござ》ります。|丁度《ちやうど》|以前《いぜん》のセイロン|島《たう》に|於《お》ける|竜雲《りううん》の|雛形《ひながた》は|到《いた》る|所《ところ》に|散見《さんけん》せられます。|併《しか》し|乍《なが》ら|不思議《ふしぎ》な|事《こと》には|三五教《あななひけう》の|少《すこ》しでも|息《いき》のかかつた|地方《ちはう》は、|極《きは》めて|人心《じんしん》|平穏《へいおん》、|寡慾恬淡《くわよくてんたん》にして、|上下相親《しやうかあひした》しみ、|小天国《せうてんごく》が|築《きづ》かれてゐるのを|目撃《もくげき》|致《いた》しまして、|最《もつと》も|愉快《ゆくわい》に|感《かん》じた|事《こと》も|御座《ござ》ります』
『|其方《そなた》が|七千余ケ国《しちせんよかこく》を|巡《めぐ》つた|中《うち》、|比較的《ひかくてき》|治《をさ》まり|難《にく》い|処《ところ》は|何処々々《どこどこ》だと|思《おも》ひましたか』
『ハイ、|随分《ずゐぶん》|沢山《たくさん》で|一々《いちいち》|申上《まをしあ》げる|訳《わけ》には|参《まゐ》りませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|第一《だいいち》にカルマタ|国《こく》、|第二《だいに》にイルナの|国《くに》などは|今《いま》や|大騒乱《だいさうらん》の|勃発《ぼつぱつ》せむとする|間際《まぎは》になつてゐる|様《やう》で|御座《ござ》ります。カルマタ|国《こく》は|東北《とうほく》に|地教山《ちけうざん》を|控《ひか》へ、|地教山《ちけうざん》には|三五教《あななひけう》の|神柱《かむばしら》が|誠《まこと》の|道《みち》を|守《まも》つて|附近《ふきん》の|人民《じんみん》を|教養《けうやう》して|居《を》られる。そこへウラル|教《けう》の|常暗彦《とこやみひこ》が|現《あら》はれて|本拠《ほんきよ》を|構《かま》へ、|間隙《かんげき》あれば|地教山《ちけうざん》を|併呑《へいどん》せむと|企《たく》んでゐる。|此《この》|頃《ごろ》は|又《また》ウラル|教《けう》の|勢《いきほ》ひがあまり|盛《さかん》なと|云《い》うて、ハルナの|都《みやこ》の|大黒主《おほくろぬし》が、|大足別《おほだるわけ》|将軍《しやうぐん》に|数多《あまた》の|軍隊《ぐんたい》を|引率《いんそつ》せしめ|攻《せ》め|来《きた》るとの|飛報《ひはう》|頻《しき》りに|来《きた》り、|人心《じんしん》|恟々《きようきよう》たる|有様《ありさま》で|御座《ござ》ります。|次《つぎ》にはイルナの|国《くに》のセーラン|王《わう》に|対《たい》する|嫉視反目《しつしはんもく》|日《ひ》に|月《つき》に|加《くは》はり、|正義派《せいぎは》と|不正義派《ふせいぎは》とが|断《た》えず|暗闘《あんとう》をつづけ、|今《いま》にも|右守《うもり》の|司《かみ》は|大黒主《おほくろぬし》の|威勢《ゐせい》を|頼《たの》みイルナの|王《わう》を|放逐《はうちく》し、|自《みづか》らとつて|代《かは》らむとの|計画中《けいくわくちう》だとの|城下《じやうか》の|人々《ひとびと》のとりどりの|噂《うはさ》、|何時《いつ》イルナの|都《みやこ》は|戦塵《せんぢん》の|巷《ちまた》と|変《かは》るやも|知《し》れぬとの|事《こと》で|御座《ござ》ります。|何《なん》とかして|此《この》|惨状《さんじやう》を|未発《みはつ》に|防《ふせ》ぎたいと|存《ぞん》じ、|竜雲《りううん》も|都下《とか》を|徘徊《はいくわい》|致《いた》して|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|廻《まは》りました|所《ところ》、|右守《うもり》のカールチンが|部下《ぶか》に|圧迫《あつぱく》され、|已《すで》に|生命《いのち》までとられむとせし|所《ところ》、|不思議《ふしぎ》にも|何処《どこ》ともなく|狼《おほかみ》の|群《むれ》、|白昼《はくちう》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|咆哮怒号《はうかうどごう》して|敵《てき》を|追散《おひち》らし、|煙《けむり》の|如《ごと》く|姿《すがた》を|隠《かく》しました。その|機《き》を|窺《うかが》ひ|一目散《いちもくさん》に|都《みやこ》を|逃《に》げ|出《だ》し、|照山峠《てるやまたうげ》を|越《こ》えてスタスタ|帰《かへ》り|来《く》る|途中《とちう》、|蓮川《はちすがは》の|辺《ほとり》に|於《おい》てヤスダラ|姫様《ひめさま》|主従《しゆじゆう》に|出会《であ》ひ、お|二人様《ふたりさま》の|危難《きなん》を|救《すく》ひ、|後《あと》になり|前《さき》になり、|見《み》えつ|隠《かく》れつ|照山峠《てるやまたうげ》の|麓《ふもと》まで|送《おく》つて|来《き》ました|所《ところ》、|三五教《あななひけう》の|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》|母娘《おやこ》に|出会《であ》ひ、|一時《いちじ》も|早《はや》く|北光彦《きたてるひこ》の|神様《かみさま》の|御命令《ごめいれい》だから|高照山《たかてるやま》へ|参《まゐ》れとのお|言葉《ことば》、|取《と》るものも|取《と》りあへず|姫様《ひめさま》のお|供《とも》をして|此処《ここ》|迄《まで》|参《まゐ》つたもので|御座《ござ》ります。|実《じつ》に|危険《きけん》|至極《しごく》の|世《よ》の|中《なか》となつて|参《まゐ》りました』
『|成《な》る|程《ほど》、それは|御苦労《ごくらう》。|此《この》|館《やかた》は|猛獣《まうじう》の|眷族《けんぞく》|数多《あまた》|守《まも》り|居《を》れば、|天下《てんか》|第一《だいいち》の|安全《あんぜん》|地帯《ちたい》だ。ヤスダラ|姫《ひめ》|殿《どの》も|御安心《ごあんしん》なされませ』
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》ります。|女《をんな》の|道《みち》を|踏《ふ》み|外《はづ》した|妾《わたし》をお|咎《とが》めもなくお|助《たす》け|下《くだ》さいまして|何《なん》とも|恐《おそ》れ|多《おほ》くて|申上《まをしあ》げやうも|御座《ござ》りませぬ。|何卒《なにとぞ》|宜《よろ》しく|今後《こんご》の|御教養《ごけうやう》を、|偏《ひとへ》にお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
『|随分《ずゐぶん》ヤスダラ|姫様《ひめさま》、|貴女《あなた》も|悪人《あくにん》|共《ども》の|慾望《よくばう》の|犠牲《ぎせい》となつて|苦《くる》しみましたな。|身魂《みたま》の|合《あ》はぬ|夫《をつと》を|持《も》たされ、|嘸《さぞ》|日々《にちにち》|不愉快《ふゆくわい》をお|感《かん》じになつたでせう。|御心中《ごしんちう》お|察《さつ》し|申《まを》します』
と|情《なさけ》ある|言葉《ことば》に、ヤスダラ|姫《ひめ》はヤツと|安心《あんしん》し、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》を|袖《そで》に|拭《ぬぐ》ひながら、
『|思《おも》ひもよらぬ|御親切《ごしんせつ》な|御言葉《おことば》、|有難《ありがた》う|御座《ござ》ります。|何《なに》を|隠《かく》しませう、|妾《わたし》はイルナの|都《みやこ》の|左守《さもり》クーリンスの|長女《ちやうぢよ》と|生《うま》れ、セーラン|王様《わうさま》の|許嫁《いひなづけ》で|御座《ござ》りました|所《ところ》が、ハルナの|都《みやこ》の|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|諂《こ》び|諛《へつら》ふ|右守《うもり》カールチンの|為《た》めに|遮《さへぎ》られ、|種々《いろいろ》と|難癖《なんくせ》をつけられた|挙句《あげく》、テルマン|国《ごく》の|毘舎《びしや》が|妻《つま》とせられ、|今日《こんにち》まで|面白《おもしろ》からぬ|月日《つきひ》を|送《おく》つて|来《き》ました。|今《いま》|貴神《あなた》のお|言葉《ことば》の|通《とほ》り|身魂《みたま》が|合《あ》はないのか|存《ぞん》じませぬが、|夫《をつと》のシヤールに|対《たい》して|少《すこ》しも|愛《あい》の|念《ねん》が|起《おこ》らず、|夫《をつと》も|亦《また》|妾《わたし》に|対《たい》して|至極《しごく》|冷淡《れいたん》、|路傍相会《ろばうあひあ》ふ|人《ひと》の|如《ごと》く、|夫婦《ふうふ》としての|暖味《あたたかみ》は|夢《ゆめ》にも|味《あぢ》はつた|事《こと》は|御座《ござ》りませぬ。|妻《つま》として|夫《をつと》に|対《たい》して|愛《あい》を|捧《ささ》げるが|道《みち》なれども、|如何《どう》したものか|其《その》|心《こころ》が|湧《わ》いて|来《き》ませぬ。|勿体《もつたい》ない|事《こと》ながら、|明《あ》けても|暮《く》れても|親《おや》の|許嫁《いひなづけ》の|夫《をつと》セーラン|王様《わうさま》の|事《こと》が|目《め》にちらつき、お|声《こゑ》が|耳《みみ》に|響《ひび》き、|王様《わうさま》の|事《こと》のみ|夢現《ゆめうつつ》に|恋《こ》ひ|慕《した》ひ|心《こころ》に|罪《つみ》を|重《かさ》ねて|居《を》りました。|所《ところ》へ|右守《うもり》の|妻《つま》テーナ|姫《ひめ》が|夫《をつと》の|館《やかた》に|右守《うもり》の|使者《ししや》として|現《あら》はれ|来《きた》り、|妾《わたし》に|対《たい》し|無理難題《むりなんだい》を|吹《ふ》きかけ、|夫《をつと》のシヤールを|威喝《ゐかつ》して|遂《つひ》に|獄舎《ひとや》を|造《つく》り|妾《わたし》を|投《な》げ|込《こ》み、|非常《ひじやう》な|虐待《ぎやくたい》を|致《いた》すので|御座《ござ》ります。|妾《わたし》は|最早《もはや》|運命《うんめい》つきたりと|覚悟《かくご》を|極《き》め、|涙《なみだ》にくるる|折《をり》しも、|雨風《あめかぜ》|烈《はげ》しき|夜半《よは》、これなる|忠僕《ちうぼく》リーダーが|獄舎《ひとや》を|打破《うちやぶ》り、|妾《わたし》を|背負《せお》ひ|暗《やみ》に|紛《まぎ》れて|此処《ここ》まで|漸《やうや》う|連《つ》れて|来《き》てくれました。|之《これ》も|全《まつた》く|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》と|竜雲殿《りううんどの》の|御保護《ごほご》で|御座《ござ》ります。|最早《もはや》|此《この》|世《よ》に|望《のぞ》みは|御座《ござ》りませぬが、せめて|一度《いちど》|父《ちち》のクーリンスや|妹《いもうと》のセーリス|姫《ひめ》に|面会《めんくわい》したう|御座《ござ》ります。|又《また》|成《な》る|事《こと》ならば|一目《ひとめ》なりとも|王様《わうさま》のお|姿《すがた》を|拝《をが》みたく|存《ぞん》じます。それさへ|出来《でき》れば|最早《もはや》|死《し》んでも|怨《うら》みは|御座《ござ》りませぬ』
と|身《み》の|上《うへ》|話《ばなし》にホロリと|涙《なみだ》を|落《おと》し|差俯《さしうつ》むく。
『それでスツカリ|事情《じじやう》は|分《わか》りました。やがて|親兄妹《おやきやうだい》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、セーラン|王様《わうさま》に|会《あ》はせませう。さうして|屹度《きつと》|身魂《みたま》|同士《どうし》の|夫婦《ふうふ》だから|肉体《にくたい》の|上《うへ》でも|夫婦《ふうふ》となつて、イルナの|都《みやこ》の|花《はな》と|謳《うた》はれ|遊《あそ》ばす|様《やう》に|守《まも》つてあげませう。|此《この》|手筈《てはず》は|已《すで》に|此方《こちら》に|於《おい》て|神示《しんじ》の|下《もと》に|行《おこな》はれつつありますから|御安心《ごあんしん》なさいませ』
『|左様《さやう》な|有難《ありがた》い|事《こと》になりませうかな。そんな|事《こと》が|出来《でき》ますならば、|妾《わたし》を|初《はじ》め|親兄妹《おやきやうだい》はどれほど|喜《よろこ》ぶか|知《し》れませぬ。|王様《わうさま》も|嘸《さぞ》|御満足《ごまんぞく》を|遊《あそ》ばすで|御座《ござ》りませう』
|竹野《たけの》『ヤスダラ|姫様《ひめさま》、|貴女《あなた》もこれから|神様《かみさま》のために|余程《よほど》|御苦労《ごくらう》を|遊《あそ》ばさねばなりませぬぞや。|妾《わたし》も|随分《ずゐぶん》|若《わか》い|時《とき》は|両親《りやうしん》に|別《わか》れ、|淋《さび》しい|月日《つきひ》を|送《おく》りましたが、|風《かぜ》の|便《たよ》りに|父《ちち》の|命《みこと》は|高砂島《たかさごじま》に|在《ま》しますと|聞《き》き、|姉妹《きやうだい》|三人《さんにん》が|色々《いろいろ》と|艱難《かんなん》|苦労《くらう》を|致《いた》しまして、|珍《うづ》の|都《みやこ》を|立《た》ち|出《い》でてエデンの|川辺《かはべ》へ|進《すす》み|行《ゆ》く|折《をり》しも、|悪者《わるもの》|共《ども》に|取巻《とりま》かれ、|困《こま》りきつて|居《ゐ》る|所《ところ》へ、|月照彦《つきてるひこ》|様《さま》の|御化身《ごけしん》|照彦《てるひこ》と|云《い》ふ|館《やかた》の|僕《しもべ》が|追《お》つ|掛《か》け|来《きた》り|危難《きなん》を|救《すく》ひ|呉《く》れられました。それより|父《ちち》の|在《ま》します|珍《うづ》の|都《みやこ》へ、|主従《しゆじゆう》|四人《よにん》|訪《たづ》ねて|参《まゐ》り、ヤレ|嬉《うれ》しやと|思《おも》うたのも|束《つか》の|間《ま》、|木花姫命《このはなひめのみこと》|様《さま》の|化身《けしん》なる|珍山彦《うづやまひこ》の|神《かみ》に|導《みちび》かれ|恋《こ》ひしき|父《ちち》の|都《みやこ》を|後《あと》に、テルの|国《くに》にて|照彦《てるひこ》に|別《わか》れ、それより|船《ふね》に|乗《の》つてアタルの|港《みなと》へ|上陸《じやうりく》し、ヒル、カルの|国々《くにぐに》を|姉妹《きやうだい》|三人《さんにん》|離《はな》れ|離《ばな》れに|宣伝《せんでん》を|致《いた》し、ウラル|教《けう》の|魔神《まがみ》|鷹依別《たかよりわけ》の|目付《めつけ》に|追《お》ひ|捲《まく》られ、|情《なさけ》ある|春山彦《はるやまひこ》の|館《やかた》に|隠《かく》され|漸《やうや》く|危難《きなん》を|免《まぬが》れ、|黄泉比良坂《よもつひらさか》の|戦《たたか》ひに|参加《さんか》|致《いた》しましたが、|随分《ずゐぶん》|種々《いろいろ》の|神様《かみさま》のお|試《ため》しに|会《あ》ひました。それより|又《また》アジヤに|渡《わた》り|所々《しよしよ》|方々《はうばう》と|宣伝《せんでん》に|廻《まは》るうち、|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》|様《さま》のお|媒酌《なかだち》によつてコーカス|山《ざん》に|於《おい》て|北光《きたてる》の|神様《かみさま》と|結婚式《けつこんしき》を|挙《あ》げましたが、それから|長《なが》い|間《あひだ》|夫婦《ふうふ》|同居《どうきよ》した|事《こと》もなく、お|道《みち》の|為《た》め|活動《くわつどう》をつづけ、|此《この》|頃《ごろ》|漸《やうや》く|夫婦《ふうふ》が|一緒《いつしよ》に|斯《か》うして|御用《ごよう》を|勤《つと》める|様《やう》になりました。|最早《もはや》|夫《をつと》も|年《とし》が|寄《よ》り、|妾《わたし》もこんな|婆《ばば》になつて|了《しま》ひました。オホヽヽヽ』
と|涙《なみだ》をかくして|笑《わら》ひに|紛《まぎ》らす。
ヤスダラ|姫《ひめ》は|竹野姫《たけのひめ》の|話《はなし》に|感《かん》じ、|且《か》つ|自分《じぶん》の|苦労《くらう》の|足《た》らぬのを|恥《はづ》かしく|顔《かほ》|赤《あか》らめてオゾオゾしながら、
『|左様《さやう》で|厶《ござ》りましたか、|人間《にんげん》と|云《い》ふものは|中々《なかなか》|容易《ようい》な|事《こと》で|一生《いつしやう》を|送《おく》る|事《こと》は|出来《でき》ませぬな。|妾《わたし》|等《たち》は|貴女《あなた》の|事《こと》を|思《おも》へばお|話《はなし》になりませぬ。|少《すこ》しの|忍耐《にんたい》もなく|夫《をつと》の|牢獄《らうごく》を|脱《ぬ》け|出《だ》し、ノメノメと|親兄妹《おやきやうだい》や|思《おも》ふ|夫《をつと》を|慕《した》うて|帰《かへ》つて|来《き》た|心《こころ》のきたなさ、|恥《はづ》かしさ、|実《じつ》に|汗顔《かんがん》の|至《いた》りで|厶《ござ》ります』
『ヤスダラ|姫様《ひめさま》、|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|貴女《あなた》はこれから|神界《しんかい》のため|御活動《ごくわつどう》|遊《あそ》ばすのだ。|人《ひと》の|一生《いつしやう》は|重荷《おもに》を|負《お》うて|険《けは》しい|山坂《やまさか》を|登《のぼ》るやうなものです。|何時《いつ》|険呑《けんのん》な|目《め》に|遭《あ》ふやら、|倒《たふ》れるやら|分《わか》りませぬ。そこを|神様《かみさま》の|御神力《ごしんりき》で|助《たす》けられ、|波風《なみかぜ》|荒《あら》き|世《よ》の|中《なか》を|安々《やすやす》と|渡《わた》るのですよ。さうして|自分《じぶん》の|身《み》を|守《まも》りながら|神様《かみさま》の|貴《うづ》の|御子《みこ》たる|天下《てんか》の|万民《ばんみん》に|誠《まこと》の|道《みち》を|教《をし》へ|諭《さと》して、|天国《てんごく》に|救《すく》ひ、|霊肉《れいにく》ともに|安心立命《あんしんりつめい》を|与《あた》へるのが|神《かみ》より|選《えら》まれたる|貴女《あなた》|等《がた》の|任務《にんむ》だから、|如何《いか》なる|艱難辛苦《かんなんしんく》に|遭《あ》ふとも|決《けつ》して|落胆《らくたん》したり|怨《うら》んだりしてはなりませぬ。|何事《なにごと》も|此《この》|世《よ》の|中《なか》は|人間《にんげん》の|自由《じいう》には|木《こ》の|葉《は》|一枚《いちまい》だつてなるものではない。みんな|神《かみ》の|御心《みこころ》のまにまに|操縦《さうじう》されて|居《ゐ》るのだから、|如何《いか》なる|事《こと》が|出《で》て|来《こ》ようとも|惟神《かむながら》に|任《まか》し、|人間《にんげん》は|人間《にんげん》としての|最善《さいぜん》の|努力《どりよく》を|捧《ささ》ぐれば|宜《よ》いのです。|此《この》|竜雲《りううん》さまだつて|始《はじ》めは|随分《ずゐぶん》|虫《むし》のよい|考《かんが》へを|起《おこ》し|得意《とくい》の|時代《じだい》もあつたが、|忽《たちま》ち|夢《ゆめ》は|覚《さ》めて|千仭《せんじん》の|谷間《たにま》へ|身《み》を|落《おと》した|様《やう》に|見《み》すぼらしい|乞食《こじき》とまでなり|果《は》て、|此処《ここ》に|翻然《ほんぜん》として|天地《てんち》の|誠《まこと》を|覚《さと》り、|諸国《しよこく》|行脚《あんぎや》をなし、|今《いま》は|完全《くわんぜん》な|神司《かむつかさ》となり、|御神力《ごしんりき》を|身《み》に|備《そな》ふるやうにおなりなさつたのですから、|人《ひと》は|如何《どう》しても|苦労《くらう》を|致《いた》さねば|誠《まこと》の|神柱《かむばしら》にはなる|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|此《この》|北光《きたてる》の|神《かみ》が|都矣刈《つむがり》の|太刀《たち》を|鍛《きた》ふるにも、|鉄《てつ》や|鋼《はがね》を|烈火《れつくわ》の|中《なか》へ|投《な》げ|入《い》れ、|金床《かなどこ》の|上《うへ》に|置《お》いて、|金槌《かなづち》を|以《もつ》て|幾度《いくたび》となく|錬《ね》り|鍛《きた》へ|叩《たた》き|伸《のば》し、|遂《つひ》には|光芒陸離《くわうばうりくり》たる|名刀《めいたう》と|鍛《きた》へる|様《やう》なもので、|人間《にんげん》も|神様《かみさま》の|鍛錬《たんれん》を|経《へ》なくては|駄目《だめ》です。|一《ひと》つでも|多《おほ》く|叩《たた》かれた|剣《つるぎ》は|切《き》れ|味《あぢ》もよく|匂《にほひ》も|美《うる》はしき|様《やう》なもので、|人間《にんげん》も|十分《じふぶん》に|叩《たた》かれ|苦《くる》しめられ、|水火《すゐくわ》の|中《なか》を|潜《くぐ》つて|来《こ》ねば|駄目《だめ》です。これから|此《この》|北光《きたてる》の|神《かみ》が|貴女《あなた》の|恋《こ》ふるセーラン|王《わう》に|面会《めんくわい》させますが、|決《けつ》して|安心《あんしん》をしてはなりませぬぞ。|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》の|如《ごと》く|互《たがひ》に|手配《てくば》りをして|誠《まこと》の|道《みち》に|尽《つく》さねばなりませぬ。いつ|迄《まで》も|若《わか》い|身《み》を|以《もつ》て|天下擾乱《てんかぜうらん》の|此《この》|場合《ばあひ》、|夫婦《ふうふ》が|安楽《あんらく》に|情味《じやうみ》を|楽《たの》しむと|云《い》ふ|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|生者必滅《しやうじやひつめつ》|会者定離《ゑしやぢやうり》、|別離《べつり》の|苦《くる》しみは|人間《にんげん》は|愚《おろ》か、|万物《ばんぶつ》に|至《いた》るまで|免《のが》れ|難《がた》き|所《ところ》、|此《この》|点《てん》を|十分《じふぶん》に|御承知《ごしようち》を|願《ねが》つておかねばなりませぬ。やがてセーラン|王《わう》は|二三《にさん》の|忠誠《ちうせい》なる|僕《しもべ》に|守《まも》られ、|此処《ここ》にお|出《い》でになりませう』
『ハイ、|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります。|何《なに》から|何《なに》まで|御親切《ごしんせつ》の|御教訓《ごけうくん》、|屹度《きつと》|肝《きも》に|銘《めい》じて|忘却《ばうきやく》|致《いた》しませぬ。|否《いな》|何事《なにごと》も|神様《かみさま》の|仰《あふ》せを|遵奉《じゆんぽう》|致《いた》しまして、|天晴《あつぱ》れ|神柱《かむばしら》と|鍛《きた》へて|頂《いただ》く|覚悟《かくご》で|厶《ござ》ります』
|竹野《たけの》『ヤスダラ|姫《ひめ》|貴《うづ》の|命《みこと》の|言《こと》の|葉《は》を
|聞《き》くにつけても|涙《なみだ》ぐまるる。
|勇《いさ》ましき|汝《なれ》が|御言《みこと》を|聞《き》きしより
|竹野《たけの》の|姫《ひめ》の|胸《むね》も|輝《かがや》く』
ヤスダラ『|有難《ありがた》し|北光神《きたてるがみ》や|竹野姫《たけのひめ》
|御言《みこと》のままに|道《みち》に|仕《つか》へむ。
セーラン|王《わう》|貴《うづ》の|命《みこと》の|今《いま》|此処《ここ》に
|来《き》ますと|聞《き》きて|胸《むね》|轟《とどろ》きぬ。
|相見《あひみ》ての|後《のち》の|心《こころ》に|比《くら》ぶれば
|今《いま》の|吾《われ》こそ|楽《たの》しかるらむ』
|北光《きたてる》『セーラン|王《わう》|貴《うづ》の|命《みこと》は|今《いま》|此処《ここ》に
|北光神《きたてるがみ》の|住家《すみか》|訪《たづ》ねて。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|御手《おんて》に|導《みちび》かれ
|妹背《いもせ》の|山《やま》の|谷間《たにま》を|行《ゆ》きませ』
|竜雲《りううん》『|打仰《うちあふ》ぎ|空《そら》|行《ゆ》く|雲《くも》を|眺《なが》むれば
|人《ひと》の|行末《ゆくすゑ》|思《おも》ひやられつ。
|高照《たかてる》の|山《やま》に|棲《す》まへる|狼《おほかみ》も
|夫婦《めをと》の|道《みち》は|忘《わす》れざるらむ。
|妻《つま》となり|夫《をつと》となるも|天地《あめつち》の
|神《かみ》の|結《むす》びし|縁《えにし》なるらむ』
リーダー『はるばるとテルマン|国《ごく》を|立出《たちい》でて
|姫《ひめ》を|守《まも》りつ|今《いま》|此処《ここ》にあり。
テルマンのシヤールの|館《やかた》を|出《い》でし|時《とき》
|行末《ゆくすゑ》|如何《いか》にと|思《おも》ひなやみしよ。
かくばかり|尊《たふと》き|神《かみ》に|会《あ》ひし|上《うへ》は
|世《よ》に|恐《おそ》るべきものあらじとぞ|思《おも》ふ。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|世人《よびと》の|為《た》めに|身《み》をや|尽《つく》さむ』
|斯《か》く|歌《うた》ひ|終《をは》る|時《とき》しも、|俄《にはか》に|聞《きこ》ゆる|蹄《ひづめ》の|音《おと》カツカツと|岩窟内《がんくつない》まで|響《ひび》き|来《きた》る。
|北光《きたてる》『ヤア、あの|足音《あしおと》はセーラン|王《わう》の|一行《いつかう》ならむ。|竜雲殿《りううんどの》、お|出迎《でむか》へ|頼《たの》み|入《い》る』
ヤスダラ『えツ!』
|竜雲《りううん》『|畏《かしこ》まりました』
と|身《み》を|起《おこ》し|岩窟《がんくつ》の|入口《いりぐち》|指《さ》して|一目散《いちもくさん》にかけり|行《ゆ》く。
(大正一一・一一・一二 旧九・二四 北村隆光録)
第一五章 |難問題《なんもんだい》〔一一一九〕
セーラン|王《わう》は、テームス、レーブ、カルの|三人《さんにん》を|従《したが》へ|蹄《ひづめ》の|音《おと》も|勇《いさ》ましく、|漸《やうや》くにして|北光《きたてる》の|神《かみ》の|岩窟《がんくつ》の|館《やかた》に|着《つ》いた。|竜雲《りううん》は|岩窟《がんくつ》の|口《くち》まで|出《い》で|迎《むか》へ、
『|貴方《あなた》はセーラン|王様《わうさま》で|厶《ござ》いますか、お|待《ま》ち|受《う》け|致《いた》して|居《を》りました。|一寸《ちよつと》|暫《しばら》くお|待《ま》ち|下《くだ》さいませ、|主人《しゆじん》に|申上《まをしあ》げて|来《き》ますから』
『|何分《なにぶん》|宜《よろ》しく|頼《たの》み|入《い》る、|吾々《われわれ》は|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》の|指揮《さしづ》に|従《したが》ひ、|暗夜《あんや》を|幸《さいは》ひ、イルナの|城《しろ》より|忍《しの》んで|参《まゐ》つたもので|厶《ござ》る。どうぞ|北光彦《きたてるひこ》の|神様《かみさま》に|宜敷《よろし》くお|取《と》りなしを|願《ねが》ひます』
『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。|暫《しばら》くお|待《ま》ちを|願《ねが》ひます』
と|其《その》|儘《まま》|踵《きびす》をかへし|奥《おく》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》り、|北光《きたてる》の|神《かみ》の|前《まへ》に|手《て》を|支《つか》へ、
『|正《まさ》しくセーラン|王様《わうさま》のお|出《いで》で|御座《ござ》いました。どちらへお|通《とほ》し|申《まを》しませうか』
ヤスダラ|姫《ひめ》の|顔色《かほいろ》は|嬉《うれ》しさと|恥《はづ》かしさと|驚《おどろ》きとにサツと|変《かは》つた。|北光《きたてる》の|神《かみ》は|欣然《きんぜん》として、
『|只今《ただいま》|御面会《ごめんくわい》|致《いた》すから、|第三号室《だいさんがうしつ》に|御案内《ごあんない》|申《まを》して|置《お》け。さうしてお|湯《ゆ》でも|差上《さしあ》げて、|暫《しばら》くお|待《ま》ちを|願《ねが》つて|置《お》いて|呉《く》れ。|吾《われ》は|是《これ》より|神殿《しんでん》に|参《まゐ》り、|神様《かみさま》にお|礼《れい》を|申上《まをしあ》げて|来《く》る。サア|竹野姫《たけのひめ》、ヤスダラ|姫《ひめ》|殿《どの》、|奥《おく》へ|参《まゐ》りませう』
と|先《さき》に|立《た》ち|神前《しんぜん》の|間《ま》に|進《すす》み|行《ゆ》く。|竜雲《りううん》は|表《おもて》へさしてセーラン|王《わう》を|迎《むか》ふべく|駆《か》け|出《だ》す。リーダーは|後《あと》に|両手《りやうて》を|組《く》んで|独《ひと》り|言《ごと》、
『|何《なん》と|怪《け》つ|体《たい》な|事《こと》があるものだなア。|狼《おほかみ》の|山《やま》へ|怖々《こはごは》やつて|来《き》て|見《み》れば、|沢山《たくさん》の|狼《おほかみ》は|犬《いぬ》のやうに|柔順《おとな》しい。そこへ|北光《きたてる》の|神様《かみさま》のやうな、|一《ひと》つ|目《め》のお|爺《ぢい》さまと、|花《はな》を|欺《あざむ》くやうな|奥様《おくさま》、|妙《めう》なコントラストだ。ヤスダラ|姫様《ひめさま》のお|供《とも》をして|此処《ここ》へやつて|来《き》たと|思《おも》へば、セーラン|王様《わうさま》がお|出《い》でなさるとは|何《なん》とした|不思議《ふしぎ》の|事《こと》だらう。|定《さだ》めし|姫様《ひめさま》も|王様《わうさま》のお|顔《かほ》を|御覧《ごらん》になつたら、ビツクリと|喜《よろこ》びとで|妙《めう》な|顔《かほ》をなさるだらう………(|浄瑠璃《じやうるり》|口調《くてう》)|生者必滅《しやうじやひつめつ》|会者定離《ゑしやぢやうり》、|浮世《うきよ》の|常《つね》とは|云《い》ひながら、|親《おや》と|親《おや》との|許嫁《いひなづけ》、|怪《あや》しき|雲《くも》に|隔《へだ》てられ、|国《くに》と|都《みやこ》に|引《ひ》き|分《わか》れ、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|君《きみ》の|御身《おんみ》の|上《うへ》、|案《あん》じ|暮《くら》して|居《を》りました。|今日《けふ》は|如何《いか》なる|吉日《きちにち》ぞ。|焦《こが》れ|焦《こが》れた|其《その》|人《ひと》に、|所《ところ》もあらうに|狼《おほかみ》の|住《す》む|高照山《たかてるやま》の|岩窟《がんくつ》でお|目《め》に|懸《かか》らうとは、|神《かみ》ならぬ|身《み》の|知《し》るよしもなく、|泣《な》いてばかり|居《を》りました。|思《おも》へば|思《おも》へば|有難《ありがた》や、|尊《たふと》き|神《かみ》の|引《ひ》き|合《あは》せ、|天《あま》の|岩戸《いはと》も|開《ひら》けたやうな、|私《わたし》や|心《こころ》になりました。|嬉《うれ》しいわいな、なつかしいわいな………と|人目《ひとめ》も|恥《は》ぢず|縋《すが》りつき、|互《たがひ》に|手《て》に|手《て》を|取《と》り|交《かは》し、|泣《な》き|叫《さけ》ぶこそ|可憐《いぢ》らしき。チヤン、チヤン、チヤン………と|云《い》ふ|場合《ばあひ》だ。|俺《おれ》も|一度《いちど》こんなローマンスを|味《あぢ》はつて|見《み》たいものだ。|青春《せいしゆん》の|血《ち》に|燃《も》ゆる|壮者《そうしや》と|美人《びじん》、どんなに|嬉《うれ》しからうぞ。|互《たがひ》に|焦《こが》れ|慕《した》うた|男《をとこ》と|女《をんな》が|思《おも》はぬ|処《ところ》で|遇《あ》ふのだもの、これが|嬉《うれ》しうなうて|何《なん》とせうぞいのう………。アハヽヽヽ、|目出度《めでた》い|目出度《めでた》い、お|目出度《めでた》い。|北光《きたてる》の|神様《かみさま》も|苦労人《くらうにん》|丈《だけ》あつて、|中々《なかなか》|粋《すゐ》が|利《き》いて|居《を》るわい。こんな|事《こと》の|分《わか》つた|宣伝使《せんでんし》にお|仕《つか》へするのなら、|俺《おれ》だつてどんな|苦労《くらう》だつて|厭《いと》ひはしない。|岩《いは》より|固《かた》い|千代《ちよ》の|固《かた》めを、|千引《ちびき》の|岩《いは》の|岩窟《いはや》の|中《なか》で、|北光《きたてる》の|神様《かみさま》の|目《め》ぢやないが、|確《しつか》り【カタメ】と|云《い》ふ|洒落《しやれ》だな、ウフヽヽヽ』
|斯《か》かる|所《ところ》へセーラン|王《わう》|一行《いつかう》を|三号室《さんがうしつ》に|導《みちび》き|置《お》き、|北光《きたてる》の|神《かみ》に|報告《はうこく》すべく|走《はし》つて|来《き》た|竜雲《りううん》は、リーダーの|唯《ただ》|一人《ひとり》|面白《おもしろ》さうに|笑《わら》うて|居《ゐ》るのを|見《み》て、
『おいリーダー、|何《なに》を|笑《わら》つて|居《ゐ》るのだ。お|客《きやく》さまが|見《み》えたのだよ。|此《この》|館《やかた》は|御夫婦《ごふうふ》|二人《ふたり》きりでお|手《て》が|足《た》らぬのだから、|早《はや》くお|客《きやく》さまのお|湯《ゆ》でも|汲《く》んでお|世話《せわ》をしないか、|気《き》の|利《き》かぬ|男《をとこ》だなア』
『|私《わたし》だつて|今《いま》|来《き》たばつかし、お|客《きやく》さまぢやありませぬか。|客《きやく》の|分際《ぶんざい》として、そんな|勝手《かつて》な|事《こと》が|出来《でき》ますか。|北光《きたてる》の|神様《かみさま》のお|許《ゆる》しさへあれば、お|湯《ゆ》も|汲《く》みませう、どんな|御用《ごよう》も|致《いた》します』
『エヽ|何《なん》と|気《き》の|利《き》かぬ|男《をとこ》だなア』
『|余《あま》り|気《き》が|利《き》いたり|融通《ゆうづう》が|利《き》くと、【シロ】の|島《しま》の|神地《かうぢ》の|都《みやこ》で|失敗《しつぱい》なさつたやうな|事《こと》が|出来《でき》ますからなア。まあヂツクリと|落着《おちつ》きなさい。「|大鳥《おほとり》は|翼《つばさ》を|急《いそ》がぬ」と|云《い》ひまして、|度量《どりやう》の|大《おほ》きいものは、さう|小《ちひ》さい|事《こと》に【コセ】つきませぬからなア。エヘヽヽヽ』
『|大男《おほをとこ》|総身《そうみ》に|智慧《ちゑ》が|廻《まは》り|兼《か》ねとか|云《い》つて、|胴柄《どうがら》ばかり|大《おほ》きくつて、|間《ま》に|合《あ》はぬ|男《をとこ》だなア。お|前《まへ》のやうなものは|仁王《にわう》さまにでもなつて|門《もん》の|入口《いりぐち》に【シヤチコ】|張《ば》つて|居《ゐ》るのが|適当《てきたう》だ』
『モシ|竜雲《りううん》さま、|貴方《あなた》に|誠《まこと》があるなら、|不言実行《ふげんじつかう》ですよ。|師匠《ししやう》を|杖《つゑ》にするな、|人《ひと》を|力《ちから》にするな、とは|三五教《あななひけう》の|教理《けうり》だと、|道々《みちみち》お|説教《せつけう》をなさいましたなア。|私《わたし》はよく|覚《おぼ》えて|居《を》りますよ』
『エヽ|仕方《しかた》がない、それなら|是《これ》から|不言実行《ふげんじつかう》だ』
と|第三号室《だいさんがうしつ》に|向《むか》つて|走《はし》り|行《ゆ》かうとするのを、リーダーは|裾《すそ》をグツと|握《にぎ》り、
『モシモシ|竜雲《りううん》さま、|不言実行《ふげんじつかう》だと|今《いま》|仰有《おつしや》つたが、それがもはや|不言実行《ふげんじつかう》の|原則《げんそく》を|破《やぶ》つて|居《を》られるでは|厶《ござ》いませぬか』
『エヽ|八釜《やかま》しい、|俺《おれ》のは|特別製《とくべつせい》の|准不言実行《じゆんふげんじつかう》だ』
と|云《い》ひながら|袖《そで》|振《ふ》りきつてセーラン|王《わう》の|室《しつ》に|走《はし》り|出《い》で、|恭《うやうや》しく|両手《りやうて》を|支《つか》へて、
『セーラン|王様《わうさま》、|折角《せつかく》のお|越《こ》し【えらう】お|待《ま》たせ|申《まを》しまして|不都合《ふつがふ》で|厶《ござ》いました。|併《しか》し|乍《なが》ら、|私《わたし》もたつた|今《いま》|初《はじ》めて|参《まゐ》つたもの、まだ|席《せき》も|温《あたた》かくならない|位《くらゐ》で|厶《ござ》います。と|云《い》つても|最早《もはや》|二三日《にさんにち》は|暮《く》れましたが、|此処《ここ》の|召使《めしつかひ》と|云《い》ふ|訳《わけ》でもなし、|貴方《あなた》に|一足《ひとあし》お|先《さき》に|参《まゐ》つた|珍客《ちんきやく》で|厶《ござ》いますから、どうぞ|悪《あ》しからず|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|下《くだ》さいませ』
『イヤ|有難《ありがた》う、|北光《きたてる》の|神様《かみさま》はまだお|越《こ》しになりませぬか』
『|今《いま》お|見《み》えになるでせう。|暫《しばら》くお|待《ま》ちを|願《ねが》ひます』
|王《わう》『|高照《たかてる》の|嶮《けは》しき|山《やま》を|登《のぼ》り|来《き》て
|岩窟《いはや》の|中《なか》に|身《み》をやすめぬる。
|北光《きたてる》の|神《かみ》の|命《みこと》に|会《あ》はむとて
|神《かみ》の|随々《まにまに》|訪《たづ》ね|来《こ》しはや』
|竜雲《りううん》『|今《いま》しばし|待《ま》たせたまはれ|神司《かむづかさ》
やがては|此処《ここ》に|北光《きたてる》の|神《かみ》。
|生身魂《いくみたま》|清《きよ》く|直《すぐ》なる|竹野姫《たけのひめ》
|妻《つま》の|命《みこと》も|共《とも》にいませり。
|汝《な》が|命《みこと》|慕《した》ひたまひし|姫神《ひめがみ》に
|会《あ》はせたまはむ|時《とき》は|迫《せま》れり。
ヤスダラ|姫《ひめ》|貴《うづ》の|命《みこと》は|君《きみ》を|慕《した》ひ
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|祈《いの》りたまへる』
|王《わう》『|摩訶不思議《まかふしぎ》ヤスダラ|姫《ひめ》が|如何《いか》にして
これの|岩窟《いはや》に|潜《ひそ》み|居《を》るにや』
|竜雲《りううん》『|何事《なにごと》も|神《かみ》のまにまに|人《ひと》の|身《み》は
まもられて|行《ゆ》く|夢《ゆめ》の|世《よ》なるよ』
かく|語《かた》り|合《あ》ふ|所《ところ》へ、|北光《きたてる》の|神《かみ》は|衣服《いふく》を|着替《きか》へ|威儀《ゐぎ》を|正《ただ》して|入《い》り|来《きた》り、|王《わう》に|向《むか》ひ、
『|私《わたし》は|北光彦《きたてるひこ》で|厶《ござ》る。|能《よ》くまア|此《この》|岩窟《いはや》に|入《い》らせられました。|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》|殿《どの》は|機嫌《きげん》よくして|居《を》られますかなア』
『|初《はじ》めてお|目《め》にかかりました。|貴方《あなた》は|三五教《あななひけう》にて|御名《おんな》も|高《たか》き|北光《きたてる》の|神様《かみさま》、|一目《ひとめ》|其《その》お|姿《すがた》を|拝《はい》しまして、|誠《まこと》の|生神様《いきがみさま》にお|目《め》にかかつたやうな|心《こころ》に|力《ちから》づきました。|何卒《なにとぞ》|今後《こんご》の|御教導《ごけうだう》をお|願《ねが》ひ|致《いた》します。|御存《ごぞん》じの|通《とほ》りイルナの|城《しろ》は|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|場合《ばあひ》で|厶《ござ》りますれば、|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》の|御指図《おさしづ》に|従《したが》ひ、|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》とは|承知《しようち》しながら|神命《しんめい》を|奉《ほう》じて|微行《びかう》|致《いた》して|参《まゐ》りました』
とやや|涙《なみだ》ぐみける。
『アハヽヽヽ、|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》|遊《あそ》ばすな。|何事《なにごと》も|神様《かみさま》の|御経綸《ごけいりん》に|任《まか》すより|道《みち》はありませぬ。これから|吾々《われわれ》は|神策《しんさく》を|施《ほどこ》しますから、|気《き》を|落着《おちつ》けてゆつくりとなさつたがよろしからう。|此処《ここ》は|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|狼《おほかみ》の|巣窟《さうくつ》、|如何《いか》なる|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》も、|此《この》|岩窟《がんくつ》ばかりは|窺《うかが》ふ|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|御安心《ごあんしん》なさいませ。|併《しか》し|乍《なが》ら、|貴方《あなた》に|一《ひと》つお|尋《たづ》ねして|置《お》かなければならぬ|事《こと》が|厶《ござ》ります。それは|余《よ》の|儀《ぎ》では|厶《ござ》らぬ、|貴方《あなた》にはサマリー|姫《ひめ》と|云《い》ふお|妃《きさき》があるでせう、|其《その》|妃《きさき》は|今後《こんご》どうなさるお|積《つも》りですか』
|王《わう》は|此《この》|言葉《ことば》にハタとつまり、|如何《いかが》|答《こた》へむと|心《こころ》を|悩《なや》ませ、|黙然《もくねん》として|暫《しば》しが|間《あひだ》さし|俯《うつ》むいて|居《ゐ》る。
『|一旦《いつたん》|妻《つま》と|定《きま》つたサマリー|姫《ひめ》を|何処迄《どこまで》も|連《つ》れて、|共々《ともども》に|苦労《くらう》をなさるお|考《かんが》へでせうなア。|万一《まんいち》|貴方《あなた》の|恋《こ》ひ|慕《した》ふ|立派《りつぱ》な|女《をんな》が|此処《ここ》に|現《あら》はれたとすれば、|貴方《あなた》は|自分《じぶん》の|意志《いし》に|従《したが》つて|其《その》|女《をんな》を|妻《つま》に|致《いた》しますか。|但《ただし》は|気《き》に|入《い》らぬサマリー|姫《ひめ》をどこ|迄《まで》も|愛《あい》して|行《ゆ》きますか。それを|聞《き》かして|頂《いただ》きたい。|北光《きたてる》の|神《かみ》にも|少《すこ》し|考《かんが》へが|厶《ござ》るから』
|王《わう》は|如何《いかが》は|答《こた》へむかと、【とつおいつ】|思案《しあん》に|暮《く》れながら、|漸《やうや》くにして、
『ハイ|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》に|任《まか》しませう。|心《こころ》の|曇《くも》つた|吾々《われわれ》、どうしてよいか|判断《はんだん》がつきませぬ。どうぞ|貴方《あなた》のお|考《かんが》へを|承《うけたま》はりたう|御座《ござ》います』
と|甘《うま》く|言葉《ことば》をそらし、|北光《きたてる》の|神《かみ》に|其《その》|解決《かいけつ》をおつつけてしまつた。
『オツホヽヽヽ、|隅《すみ》にもおけぬ|王様《わうさま》だなア、かう|北光《きたてる》が|申《まを》せば|御返答《ごへんたふ》にお|困《こま》りだらうと|思《おも》つたが、|反対《はんたい》にこちらへ|大問題《だいもんだい》をおつかぶせられ、|北光彦《きたてるひこ》も|聊《いささ》か|迷惑《めいわく》を|致《いた》しました』
『|何《なに》も|彼《か》も|御存《ごぞん》じの|貴方《あなた》の|前《まへ》で|包《つつ》み|隠《かく》すも|無駄《むだ》で|厶《ござ》います。|又《また》|私《わたし》も|心《こころ》にもなき|事《こと》を|申上《まをしあ》げたくはありませぬ。お|叱《しか》りかは|存《ぞん》じませぬが、|実《じつ》はサマリー|姫《ひめ》はどう|考《かんが》へても|厭《いや》で|厭《いや》で|仕方《しかた》がありませぬ。|何《なに》かの|策略《さくりやく》があつて、|右守《うもり》の|司《かみ》が|私《わたし》の|許嫁《いひなづけ》を|追《お》ひ|出《だ》し、|娘《むすめ》を|無理《むり》に|押《お》しつけたので|厶《ござ》いますから、|要《えう》するに|愛《あい》のなき|縁談《えんだん》で|厶《ござ》います。かかる|虚偽的《きよぎてき》|愛《あい》の|夫婦《ふうふ》は|却《かへつ》て|神様《かみさま》に|対《たい》し|済《す》まないやうな|気《き》も|致《いた》します。|又《また》|一方《いつぱう》より|考《かんが》へて|見《み》れば、|今日《こんにち》の|処《ところ》サマリー|姫《ひめ》は|心《こころ》の|底《そこ》から|私《わたし》に|対《たい》して|愛慕《あいぼ》の|念《ねん》を|起《おこ》して|居《ゐ》るやうで|厶《ござ》います。それ|故《ゆゑ》に|日夜《にちや》|心《こころ》を|痛《いた》め、どうしたらよいかと|迷《まよ》うて|居《ゐ》る|次第《しだい》で|厶《ござ》います。サマリー|姫《ひめ》|一人《ひとり》のためにイルナの|城《しろ》の|興亡《こうばう》に|関《くわん》する|問題《もんだい》ですから、|私《わたし》も|決《けつ》し|兼《か》ねて|居《を》ります』
『|何《なん》と|気《き》の|弱《よわ》いお|方《かた》だなア。なぜ|男《をとこ》らしく、|初《はじ》めにポンと|断《ことわ》りを|云《い》はなかつたのですか。|貴方《あなた》はセーラン|王《わう》の|位地《ゐち》に|恋々《れんれん》として、|心《こころ》にもなき|結婚《けつこん》を|承諾《しようだく》したのでせう。|貴方《あなた》には|親《おや》の|許《ゆる》した|許嫁《いひなづけ》があつた|筈《はず》、なぜ|先約《せんやく》を|履行《りかう》なさらなかつたか。それから|第一《だいいち》|間違《まちが》つて|居《ゐ》る。|両親《りやうしん》の|許《ゆる》した|許嫁《いひなづけ》を|無視《むし》して|途中《とちう》から|変更《へんかう》するといふ|事《こと》は|第一《だいいち》|孝《かう》の|道《みち》に|欠《か》けて|居《ゐ》る。|仮令《たとへ》|如何《いか》なる|事情《じじやう》があらうとも|父王様《ちちわうさま》の|命令《めいれい》を|遵守《じゆんしゆ》し、|一身《いつしん》を|賭《と》してなぜ|争《あらそ》はなかつたのですか』
『そのお|言葉《ことば》を|聞《き》いて|今更《いまさら》の|如《ごと》く|自分《じぶん》の|薄志弱行《はくしじやくかう》を|悔《くや》みます。|私《わたし》も|何《なん》とかして|天則違反《てんそくゐはん》か|知《し》らねどもヤスダラ|姫《ひめ》と|夫婦《ふうふ》となる|事《こと》を|得《え》ば、たとへ|王位《わうゐ》を|捨《す》てても|悔《く》ゆる|処《ところ》は|厶《ござ》いませぬ』
『ウフヽヽヽ、とうとう|本音《ほんね》を|吹《ふ》きましたな。それが|偽《いつは》りのなき|貴方《あなた》の|真心《まごころ》だ。|併《しか》しながら、|其《その》ヤスダラ|姫様《ひめさま》が、|夫《をつと》に|一回《いつくわい》なりとも|交《まじ》はりを|結《むす》んで|居《を》られたならどうなされますか。それでも|貴方《あなた》は|喜《よろこ》んで|夫婦《ふうふ》になるお|考《かんが》へですか。もしヤスダラ|姫《ひめ》に|対《たい》し|貞節《ていせつ》を|守《まも》り、|一回《いつくわい》の|交《まじ》はりもして|居《ゐ》なかつたとすれば|兎《と》も|角《かく》、どうでもかまはぬ、|添《そ》ひさへすればよいと|云《い》ふお|考《かんが》へなれば、|貴方《あなた》はもはや|人間《にんげん》ではない、|恋《こひ》の|奴隷《どれい》と|云《い》ふものですよ』
『ハイ、|仰《あふ》せの|如《ごと》くヤスダラ|姫《ひめ》にして|左様《さやう》な|事《こと》がありとすれば|私《わたし》は|断念《だんねん》|致《いた》します。|併《しか》し|彼《かれ》に|限《かぎ》つて|左様《さやう》な|事《こと》はあるまいと|思《おも》ひます』
『|今《いま》|貴方《あなた》に|会《あ》はせたいものがある。|驚《おどろ》かないやうにして|下《くだ》さい』
『それはヤスダラ|姫《ひめ》で|厶《ござ》いますか。|何《なん》とはなしにそのやうな|気分《きぶん》が|浮《うか》んで|参《まゐ》りました』
『アハヽヽヽ、|矢張《やつぱ》り|蛇《じや》の|道《みち》は|蛇《へび》だなア』
(大正一一・一一・一二 旧九・二四 加藤明子録)
第一六章 |三番叟《さんばそう》〔一一二〇〕
|北光《きたてる》の|神《かみ》は|竹野姫《たけのひめ》、|竜雲《りううん》、テームス、リーダー|等《たち》を|引《ひ》きつれ、|気《き》を|利《き》かして|一間《ひとま》に|引上《ひきあ》げて|了《しま》つた。|後《あと》にセーラン|王《わう》、ヤスダラ|姫《ひめ》は|暫《しば》し|沈黙《ちんもく》の|幕《まく》をつづけてゐた。ヤスダラ|姫《ひめ》は|心臓《しんざう》の|鼓動《こどう》を|金剛力《こんがうりき》を|出《だ》して|鎮静《ちんせい》しながら、|顔《かほ》にパツと|紅葉《もみぢ》を|散《ち》らし、|覚束《おぼつか》な|口調《くてう》にて、
『セーラン|王様《わうさま》、お|久《ひさ》しう|厶《ござ》いました。|御壮健《ごさうけん》なお|顔《かほ》を|拝《はい》し|嬉《うれ》しう|存《ぞん》じます』
と|纔《わづか》に|言《い》つたきり、|恥《はづか》しさうに|俯《うつ》むいて|顔《かほ》をかくす。セーラン|王《わう》は|目《め》をしばたたきながら、
『|貴女《あなた》も|随分《ずゐぶん》|辛《つら》い|思《おも》ひをしたでせうなア。|私《わたし》もテルマンの|国《くに》の|空《そら》を|眺《なが》めて、|渡《わた》り|行《ゆ》く|雁《かり》に|思《おも》ひを|送《おく》つたことは|幾度《いくたび》か|知《し》れませぬ。|私《わたし》の|真心《まごころ》は|貴女《あなた》の|精霊《せいれい》に|通《つう》じたでせうなア』
『ハイ、|一夜《ひとよ》さも|王様《わうさま》の|御夢《おゆめ》を|見《み》ないことはありませぬ。|今日《けふ》ここで|貴方《あなた》にお|目《め》にかかるのは|夢《ゆめ》の|様《やう》に|厶《ござ》います。|夢《ゆめ》を|両人《ふたり》が|見《み》て|居《を》るのではありますまいか。|夢《ゆめ》なら|夢《ゆめ》で、どこまでも|醒《さ》めない|様《やう》にあつて|欲《ほ》しいものですワ』
『|決《けつ》して|夢《ゆめ》ではありますまい、|現実《げんじつ》でせう、|併《しか》し|乍《なが》ら|二人《ふたり》の|間《あひだ》は|夢《ゆめ》より|果敢《はか》ないもので|厶《ござ》いました。|今《いま》|北光《きたてる》の|神様《かみさま》からいろいろと|御理解《ごりかい》を|承《うけたま》はり、|今後《こんご》どうしたらよからうかと|思案《しあん》にくれてゐる|所《ところ》です』
『|仮令《たとへ》|天律《てんりつ》を|破《やぶ》つてもかまはぬぢやありませぬか。|一分間《いつぷんかん》でも|自分《じぶん》の|本能《ほんのう》を|満足《まんぞく》させることが|出来《でき》れば、|死《し》んでも|朽《く》ちても|構《かま》ひませぬ。|二人《ふたり》が|根《ね》の|国《くに》|底《そこ》の|国《くに》へおとされようとも、|貴方《あなた》と|手《て》を|引《ひ》き|合《あ》うてゆくのならば、|構《かま》はぬぢやありませぬか』
とマサカの|時《とき》になれば、|大胆《だいたん》なは|女《をんな》である。ヤスダラ|姫《ひめ》は|最早《もはや》|神《かみ》の|教《をしへ》も|何《なに》も|忘《わす》れて|了《しま》ひ、|捨鉢《すてばち》|気味《ぎみ》になつて、|王《わう》の|決心《けつしん》を|煽動《せんどう》したり|促《うなが》したりしてゐる。
『|成程《なるほど》、|貴女《あなた》の|心《こころ》としてはさう|思《おも》はれるのも|尤《もつと》もです。|私《わたし》だつて|貴女《あなた》を|思《おも》ふ|心《こころ》は|決《けつ》して|劣《おと》りませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら、そこを|耐《こら》へ|忍《しの》ぶのが|人間《にんげん》の|務《つと》めだ。|月《つき》に|村雲《むらくも》|花《はな》に|嵐《あらし》、|思《おも》ふやうにゆかぬは|浮世《うきよ》の|常《つね》、|如何《どう》なりゆくも|神様《かみさま》の|御摂理《ごせつり》、かうして|半時《はんとき》の|間《ま》でも、|一生《いつしやう》|会《あ》はれないと|思《おも》つてゐた|相思《さうし》の|男女《だんぢよ》が|会《あ》うて、|心《こころ》のたけを|語《かた》り|合《あ》うのも、|神様《かみさま》の|深《ふか》きお|情《なさけ》、|私《わたし》はこれで|最早《もはや》|一生《いつしやう》|会《あ》ふことが|出来《でき》なくても、|決《けつ》して|神様《かみさま》を|恨《うら》んだり、|世《よ》を|歎《なげ》いたりは|致《いた》しますまい』
『|貴方《あなた》の|恋《こひ》は|実《じつ》に|淡白《たんぱく》なものですなア。それで|貴方《あなた》は|最早《もはや》|満足《まんぞく》なされましたか。エヽ|情《なさけ》ない、そんな|御心《おこころ》とは|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、|何《なん》とかして|貴方《あなた》に|巡《めぐ》り|会《あ》ひ、|海山《うみやま》の|話《はなし》を|互《たがひ》に|打明《うちあ》け、|凡《あら》ゆる|艱難《かんなん》や|妨害《ばうがい》に|堪《た》へ、|仮令《たとへ》|虎《とら》|狼《おほかみ》の|吼《ほ》え|猛《たけ》る|深山《みやま》の|奥《おく》でも、|夫婦《ふうふ》となつて|恋《こひ》の|本望《ほんまう》を|遂《と》げねばおかぬと、|矢竹心《やたけごころ》に|励《はげ》まされ、|剣呑《けんのん》な|荒野原《あらのはら》をわたり、イルナの|都《みやこ》に|逃《に》げ|帰《かへ》る|途中《とちう》、|神様《かみさま》の|御引合《おひきあは》せにてここに|助《たす》けられたので|厶《ござ》います。どうぞそんな|気《き》の|弱《よわ》いことを|仰有《おつしや》らずに|金剛不壊的《こんごうふゑてき》の|大度胸《だいどきよう》を|出《だ》して、|両人《りやうにん》が|目的《もくてき》の|貫徹《くわんてつ》を|計《はか》つて|下《くだ》さいませ。|貴方《あなた》にはサマリー|姫様《ひめさま》といふ|最愛《さいあい》の|奥様《おくさま》がお|控《ひか》へ|遊《あそ》ばして|厶《ござ》るのですから、|無理《むり》も|厶《ござ》いますまい。イヤ|妾《わたし》も|迷《まよ》うて|居《を》りました。|最早《もはや》|貴方《あなた》の|心《こころ》は|昔日《せきじつ》の|心《こころ》では|厶《ござ》いますまい。|誠《まこと》にすまないことを|申上《まをしあ》げました。どうぞサマリー|姫様《ひめさま》と|幾久《いくひさ》しく|偕老同穴《かいらうどうけつ》をお|契《ちぎ》りなさいませ。|妾《わたし》は|幽界《あのよ》とやらへ|参《まゐ》つて、|御夫婦《ごふうふ》のお|身《み》の|上《うへ》を|守《まも》りませう』
と|言《い》ひ|放《はな》ち、ワツとばかりに|王《わう》の|膝《ひざ》に|泣《な》き|崩《くづ》れる。|王《わう》はハタと|当惑《たうわく》し、|今《いま》の|泣声《なきごゑ》がもしや|北光《きたてる》の|神様《かみさま》のお|耳《みみ》に|入《い》つては|居《ゐ》ないであらうかと、ツと|立《た》つて|隔《へだ》ての|戸《と》を|押開《おしひら》き、あたりに|人《ひと》のあるか、なきかを|査《しら》べむとするを、ヤスダラ|姫《ひめ》は|王《わう》の|吾《われ》を|見捨《みす》てて|逃《に》げ|出《だ》し|給《たま》ふならむと|早合点《はやがつてん》し、|力《ちから》に|任《まか》せて|王《わう》の|手《て》をグツと|後《うしろ》へ|引《ひ》いた。|王《わう》は|不意《ふい》に|姫《ひめ》に|手《て》をひかれた|途端《とたん》に、タヂタヂと|二足三足《ふたあしみあし》|後《あと》しざりし、|姫《ひめ》の|膝《ひざ》に|躓《つまづ》き、パタリと|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れ、|岩壁《がんぺき》に|頭《あたま》を|打《う》ち、ウンと|一声《ひとこゑ》、|人事不省《じんじふせい》に|陥《おちい》つて|了《しま》つた。ヤスダラ|姫《ひめ》は|此《この》|態《さま》を|見《み》るより、
『あゝ|如何《どう》しよう |如何《どう》しよう』
と|狂気《きやうき》の|如《ごと》く|室内《しつない》を|駆《か》け|巡《めぐ》り、|王《わう》の|頭《かしら》に|手《て》を|当《あ》て、
『モシ、|王様《わうさま》、|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ。|決《けつ》して|貴方《あなた》をこかさうと|思《おも》つたのぢや|厶《ござ》いませぬ。|怪我《けが》で|厶《ござ》います。|貴方《あなた》ばかり|決《けつ》して|殺《ころ》しは|致《いた》しませぬ。|妾《わたし》もキツトお|後《あと》を|慕《した》ひます』
と|言《い》ひながら、スラリと|懐剣《くわいけん》の|鞘《さや》を|払《はら》ひ、つくづくと|打眺《うちなが》め、
『|果敢《はか》なきは|夢《ゆめ》の|浮世《うきよ》と|知《し》りながら
かかるなげきは|思《おも》はざりけり。
|恋慕《こひした》ふ|君《きみ》に|会《あ》ひしと|思《おも》ふ|間《ま》も
|泣《な》く|泣《な》く|此《この》|世《よ》の|別《わか》れとなるか。
|悲《かな》しさは|小《ちひ》さき|胸《むね》に|充《み》ちあふれ
|泣《な》く|涙《なみだ》さへ|出《い》でぬ|吾《われ》なり。
ゆるしませセーラン|王《わう》の|神司《かむづかさ》
やがてはわれも|御供《みとも》に|仕《つか》へむ。
|北光《きたてる》の|神《かみ》の|命《みこと》よヤスダラ|姫《ひめ》の
|心《こころ》|卑《いや》しとさげすみ|給《たま》ふな』
と|云《い》ひながら、アワヤ|吾《わが》|喉《のど》につき|立《た》てむとするを、|此《この》|時《とき》|戸外《こがい》に|立《た》つて|様子《やうす》を|伺《うかが》ひゐたるリーダーは|慌《あわただ》しく|飛込《とびこ》み|来《きた》り、|矢庭《やには》に|姫《ひめ》の|懐剣《くわいけん》を|奪《うば》ひ|取《と》り、|声《こゑ》を|励《はげ》まし、
『ヤスダラ|姫《ひめ》|殿《どの》、|狂気《きやうき》|召《め》されたか、かかる|神聖《しんせい》なる|霊場《れいぢやう》に|於《おい》て、|無理心中《むりしんぢう》とは|何《なん》のこと、|天則違反《てんそくゐはん》の|大罪《だいざい》となる|事《こと》をお|弁《わきま》へなさらぬか。そんな|御心《おこころ》とは|知《し》らず、|貴女《あなた》の|御身《おんみ》を|保護《ほご》し、テルマン|国《ごく》を|命《いのち》カラガラ|逃出《にげだ》し、|猛獣《まうじう》の|猛《たけ》び|狂《くる》ふ|荒野原《あらのはら》をやうやう|越《こ》えて|此処《ここ》|迄《まで》お|供《とも》をしながら、|勿体《もつたい》なや|王様《わうさま》を|殺《ころ》し、|貴女《あなた》も|亦《また》ここで|御自害《ごじがい》をなさるとは|何《なん》と|云《い》ふ|情《なさけ》ないお|心《こころ》で|厶《ござ》いますか。|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》か|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》に|憑依《ひようい》され、そんな|悪心《あくしん》をお|出《だ》しなさつたのでせう。モウかうなる|上《うへ》は|此《この》リーダーが|承知《しようち》|致《いた》しませぬ。|王様《わうさま》の|仇《かたき》を|討《う》たねばおきませぬ』
と|声《こゑ》を|震《ふる》はせ、|叱《しか》りつける|様《やう》に|言《い》ふ。|王《わう》は「ウンウン」と|呻《うめ》きながら、|頭《あたま》をかかへて|起上《おきあが》り、
『あゝヤスダラ|姫《ひめ》、そこに|居《ゐ》たか、|何《なに》を|泣《な》いてゐる。ヤア|汝《なんぢ》は|何者《なにもの》だ、|凶器《きやうき》を|以《もつ》て|姫《ひめ》を|脅迫《けうはく》せむとするか。|不届《ふとど》き|至極《しごく》な|痴者《しれもの》、|許《ゆる》しは|致《いた》さぬぞ。そこ|動《うご》くな』
と|声《こゑ》を|尖《とが》らせ|睨《ね》めつければ、リーダーは|王《わう》の|蘇生《そせい》の|嬉《うれ》しさと|誤解《ごかい》の|恐《おそ》ろしさに、|狼狽《うろた》へながら、
『メヽ|滅相《めつさう》な、ここ|迄《まで》お|供《とも》して|来《き》た|姫様《ひめさま》を|何《なに》しに|殺《ころ》しませう。そんな|誤解《ごかい》をして|貰《もら》つちや、|此《この》リーダーの|立場《たちば》が|厶《ござ》いませぬ。|姫様《ひめさま》が|狂気《きやうき》|遊《あそ》ばして|貴方様《あなたさま》を|殺《ころ》し、|自分《じぶん》も|自害《じがい》なさる|覚悟《かくご》だと|思《おも》ひ|飛込《とびこ》んで、たつた|今《いま》|姫様《ひめさま》の|短刀《たんたう》を|奪《うば》ひ、お|意見《いけん》を|申上《まをしあ》げてゐた|所《ところ》で|厶《ござ》います』
『|王様《わうさま》、|嬉《うれ》しや|気《き》がつきましたか、|此《この》リーダーは|決《けつ》して|悪人《あくにん》では|厶《ござ》いませぬ。どうぞ|許《ゆる》してやつて|下《くだ》さいませ』
『あゝさうであつたか、|真《まこと》にすまなかつた。リーダーとやら|全《まつた》く|誤解《ごかい》だから|許《ゆる》してくれ』
『ハイ|有難《ありがた》う|厶《ござ》います、お|分《わか》りになればこんな|結構《けつこう》なことは|厶《ござ》いませぬ』
『こんな|騒《さわ》ぎは|北光《きたてる》の|神様《かみさま》に|知《し》れたら|大変《たいへん》だが、もしやお|分《わか》りになつては|居《ゐ》なからうかなア』
『ヘーヘー、スツカリと|分《わか》つて|居《を》ります。|北光《きたてる》の|神様《かみさま》も|竹野姫《たけのひめ》さまも|竜雲《りううん》さまも、|次《つぎ》の|間《ま》で|貴方《あなた》|等《がた》|二人《ふたり》のお|話《はなし》を|耳《みみ》をすましてお|聞《き》きになつてゐる……とは|申《まを》しませぬ……だらうと|考《かんが》へます』
『|立聞《たちぎ》きは|不道徳《ふだうとく》の|極《きは》みだ。あれ|位《くらゐ》の|神人《しんじん》がどうしてそんなことを|遊《あそ》ばすものか。ヤスダラ|姫《ひめ》、|安心《あんしん》をしたがよからうよ』
『|北光《きたてる》の|神様《かみさま》は|天眼通力《てんがんつうりき》を|得《え》たる|生神様《いきがみさま》、|何程《なにほど》|遠《とほ》く|隔《へだ》たつて|居《を》りましても、|手《て》に|取《と》る|如《ごと》くに|御覧《ごらん》になつて|居《を》ります。|又《また》|吾々《われわれ》の|言《げん》も|得意《とくい》の|天耳通《てんじつう》で|一言《ひとこと》も|洩《も》らさず、お|聞《き》きになつてをるでせう。あゝ|恥《はづか》しいことになつて|来《き》ました』
『|北光《きたてる》の|神様《かみさま》の|天耳通《てんじつう》、|天眼通《てんがんつう》が|分《わか》つてゐるのなら、なぜ|其方《そなた》はあの|様《やう》な|大胆《だいたん》なことを|言《い》つたのだ』
『|妾《わたし》が|言《い》はなくても、|北光《きたてる》の|神様《かみさま》は|心《こころ》のドン|底《ぞこ》まで|見《み》すかしてゐられますから、|言《い》つても|云《い》はいでも|同《おな》じことですワ』
『|恥《はづか》しいことだなア。イルナの|国王《こくわう》も|北光《きたてる》の|神様《かみさま》の|前《まへ》へ|出《で》ては|象《ざう》に|対《たい》する|鼠《ねづみ》のやうなものだ。いかにもこんなことでは、あの|小《ちひ》さい|国《くに》でさへも|治《をさ》まりさうなことがない。|国王《こくわう》だと|云《い》つても|僅《わづ》かに|五万《ごまん》や|六万《ろくまん》の|人間《にんげん》の|頭《かしら》だから|小《ちひ》さいものだ。|北光《きたてる》の|神様《かみさま》は|諸王《しよわう》に|超越《てうゑつ》し、|天地《てんち》の|意志《いし》を|代表《だいへう》なさる|生神様《いきがみさま》だから|大《たい》したものだ。モウ|此《この》|上《うへ》は|恥《はぢ》も|外聞《ぐわいぶん》もいつたものでない、|何事《なにごと》も|北光《きたてる》の|神様《かみさま》の|御指図《おさしづ》に|任《まか》さうではないか』
『ハイ、さう|致《いた》しませう、|併《しか》し|乍《なが》ら|吾々《われわれ》|二人《ふたり》を|都合《つがふ》よく|添《そ》はして|下《くだ》さるでせうか』
『|又《また》そんな|事《こと》を|言《い》つてはいけませぬ。リーダーが|聞《き》いてゐるぢやありませぬか』
『|王様《わうさま》、|此《この》リーダーは|血《ち》もあれば|涙《なみだ》もあり、|情《なさけ》も|知《し》つて|居《ゐ》る|円満《ゑんまん》|具足《ぐそく》な|下僕《しもべ》で|厶《ござ》います。ヤスダラ|姫様《ひめさま》の|事《こと》ならどんな|事《こと》でも|厭《いと》ひませぬ。|何《なん》なと|仰有《おつしや》いませ、|只《ただ》|一言《ひとこと》だつて|御両人《ごりやうにん》の|秘密《ひみつ》を|洩《も》らすやうな|野呂馬《のろま》では|厶《ござ》いませぬ。シヤールの|主人《しゆじん》に|背《そむ》き、|姫様《ひめさま》の|御意志《ごいし》に|賛成《さんせい》して、|命《いのち》がけの|仕事《しごと》をやつて|来《き》た|位《くらゐ》で|厶《ござ》いますから、|大丈夫《だいぢやうぶ》です。なア|姫様《ひめさま》、|貴女《あなた》は|私《わたし》の|心《こころ》をよく|御存《ごぞん》じで|厶《ござ》いませう』
『ハア、|能《よ》く|分《わか》つてゐる。|北光《きたてる》の|神様《かみさま》の、お|前《まへ》は|一《ひと》つ|都合《つがふ》を|伺《うかが》つて|来《き》てくれないか、|之《これ》から|御面会《ごめんくわい》がしたいから……』
『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました』
とニタリと|笑《わら》ひ、|此《この》|間《ま》を|立出《たちい》で、|二三間《にさんげん》ばかり|行《い》つた|所《ところ》で、|一寸《ちよつと》|立《た》ち|止《ど》まり、
『|何《なん》と|甘《うま》くおまき|遊《あそ》ばしますワイ。|久《ひさ》しぶりにお|二人《ふたり》が|対面《たいめん》|遊《あそ》ばし、|余《あま》り|仲《なか》がよすぎて|死《し》ぬの|走《はし》るの|暇《ひま》をくれのと、|恋仲《こひなか》にはありがちの|痴話喧嘩《ちわげんくわ》を、|面白《おもしろ》|半分《はんぶん》にやつて|厶《ござ》つた|真最中《まつさいちう》に、|俺《おれ》が|気《き》が|利《き》かないものだから、|本当《ほんたう》の|喧嘩《けんくわ》だと|思《おも》つて|飛込《とびこ》んだのが|間違《まちが》ひだ。|甘《うま》く|俺《おれ》をまいて、|意茶《いちや》つきをやらうといふのだなア。ヨシ|合点《がつてん》だ。そんなことの|気《き》の|利《き》かぬリーダーぢやない。そんな|頭《あたま》の|悪《わる》い|呑込《のみこ》みの|悪《わる》い|粗製《そせい》|濫造《らんざう》の|頭脳《づなう》とは|違《ちが》ひますワイ。イヒヽヽヽ、さぞ|別《わか》れて|久《ひさ》しき|二人《ふたり》の|逢瀬《あふせ》、|泣《な》いつ|口説《くど》いつ、|抱《いだ》いたり、|跳《は》ねたり、つめつたり、|叩《たた》いたり、|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》|久《ひさ》しぶりでイチヤつかして|上《あ》げようかい。|早《はや》く|北光《きたてる》の|神様《かみさま》に|御都合《ごつがふ》|伺《うかが》つて|来《こ》いなんて、|甘《うま》い|辞令《じれい》で|遠《とほ》ざけようといふ|賢明《けんめい》な|行方《やりかた》だ。コリヤあわてて|正直《しやうぢき》に|行《ゆ》くと|却《かへ》つて|御迷惑《ごめいわく》になるかも|知《し》れぬ、|三足《みあし》|往《い》つては|二足《ふたあし》|戻《もど》り、|二足《ふたあし》|往《い》つては|三足《みあし》|戻《もど》り、オツトヽヽそんな|事《こと》して|居《ゐ》ては、|何時《いつ》|迄《まで》も|同《おな》じ|所《ところ》に|居《を》らねばなるまい。|併《しか》し|乍《なが》ら、そこが|粋《すゐ》といふものだ。さぞ|楽《たの》しい|嬉《うれ》しいことだらうなア。|俺《おれ》も|何《なん》だか|嬉《うれ》しうなつて|来《き》た。ウツフヽヽヽ』
と|隧道《すゐだう》に|停立《ていりつ》して、|独《ひと》り|囁《ささや》いてゐる。ヤスダラ|姫《ひめ》は|気《き》が|咎《とが》めたか、リーダーが|立聞《たちぎき》して|居《を》つては|恥《はづか》しいと|気《き》をまはし、|戸《と》をガラリとあけて|外《そと》を|覗《のぞ》けば、リーダーは|二三間《にさんげん》|離《はな》れた|所《ところ》に|停立《ていりつ》して、|頻《しき》りに|首《くび》を|縦《たて》にふり、|横《よこ》にふり、|舌《した》を|出《だ》したり、|眉毛《まゆげ》を|撫《な》でたりやつてゐる。ヤスダラ|姫《ひめ》は|細《ほそ》い|声《こゑ》で、
『コレコレ、リーダー、|何《なに》をしてゐるのだい。|早《はや》くお|使《つか》ひに|行《い》つて|来《き》て|下《くだ》さらぬか。|困《こま》るぢやありませぬか、|王様《わうさま》がお|待兼《まちかね》ぢやのに』
『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました。|急《せ》いては|事《こと》を|仕損《しそん》ずる。|急《せ》かねば|事《こと》が|間《ま》に|合《あ》はぬ。あちら|立《た》てればこちらが|立《た》たぬ。|両方《りやうはう》|立《た》てれば|身《み》が|立《た》たぬといふ、|誠《まこと》と|情《なさけ》との|締木《しめぎ》にかかり、|稍《やや》|思案《しあん》にくれにけり……といふ|為体《ていたらく》で|厶《ござ》います。|本当《ほんたう》に|急《いそ》いで|行《い》つてもいいのですか、|姫様《ひめさま》、|御迷惑《ごめいわく》になりは|致《いた》しませぬか。|正直《しやうぢき》も|結構《けつこう》ですが、|余《あま》り|融通《ゆうづう》の|利《き》かぬ|正直《しやうぢき》は|却《かへつ》て|迷惑《めいわく》をするものですからなア』
『コレ、リーダー、そんな|御親切《ごしんせつ》はやめて|下《くだ》さい。お|前等《まへら》の|下司《げす》の|恋《こひ》とは|行方《やりかた》が|違《ちが》ひますぞや。|阿呆《あはう》らしい、|仕方《しかた》のない|男《をとこ》だなア』
『ヘン|仰有《おつしや》いますワイ。|下司《げす》の|恋《こひ》だと……【コヒ】が|聞《き》いて|呆《あき》れますワイ。|恋《こひ》|所《どころ》か|腰《こし》まで|鮒々《ふなふな》になつてゐるくせに、|恋《こひ》に|上下《じやうげ》の|隔《へだ》てなしといふぢやないか。|上司《じやうす》の|恋《こひ》も|下司《げす》の|恋《こひ》もあつたものか、|恋《こひ》はヤツパリ|恋《こひ》だ。リーダーはヤツパリ、リーダーだ』
『コレコレ、|早《はや》う|行《い》つて|来《き》て|下《くだ》さらぬか、|何《なに》をブツブツ|言《い》つて|居《ゐ》るのだい』
『ハイ、|何分《なにぶん》|岩窟《がんくつ》の|中《なか》で|水《みづ》が|切《き》れて|居《ゐ》るものですから、|鯉《こひ》も|鮒《ふな》も|泳《およ》ぎにくうて|早速《さつそく》|游泳《いうえい》が|出来《でき》ませぬワイ。|恋《こひ》の|海《うみ》に|游泳術《いうえいじゆつ》の|上手《じやうづ》な|貴女《あなた》ならば|知《し》らぬこと、|何《なん》だか|妙《めう》な|怪体《けつたい》な|気《き》になつて、|私《わたし》の|腰《こし》|迄《まで》が……ドツ【コイ】……シヨのドツコイシヨ、フナフナになつて、|思《おも》ふ|様《やう》に|歩《ある》けませぬがなア』
『エヽ|勝手《かつて》にしなさい、モウ|宜《よろ》しい、|大方《おほかた》|法界悋気《ほふかいりんき》でもしてゐるのであらう』
とピシヤツと|岩戸《いはと》を|閉《し》めて|了《しま》つた。
『アハヽヽヽ、|今頃《いまごろ》は|色《いろ》の|黒《くろ》き|尉《じやう》どのと|白《しろ》き|姥《うば》どのが、|日《ひ》は|照《て》るとも、|曇《くも》るとも、|鳴《な》アるは|滝《たき》の|水《みづ》|滝《たき》の|水《みづ》、たアきを|上《のぼ》りゆく|恋《こひ》のみち、|恋《こひ》に|上下《じやうげ》の|隔《へだ》てなし、|法界悋気《ほふかいりんき》をするぢやないが、お|前《まへ》と|私《わたし》と|二人《ふたり》の|喜《よろこ》びは、ほうかいへはやらじ、おんはカタカタ、エンはカタカタと|三番叟《さんばそう》の|最中《さいちう》だらう。エヘヽヽヽ、イヒヽヽヽ、ウフヽヽヽ』
と|妙《めう》に|腰《こし》をブカつかせながら、|北光《きたてる》の|神《かみ》の|居間《ゐま》をさして、チヨコチヨコ|走《ばし》りに|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・一一・一二 旧九・二四 松村真澄録)
第四篇 |神出鬼没《しんしゆつきぼつ》
第一七章 |宵企《よひだく》み〔一一二一〕
イルナの|都《みやこ》の|右守《うもり》の|館《やかた》にはカールチン、テーナ|姫《ひめ》、ユーフテスの|三人《さんにん》が、|何事《なにごと》か|首《くび》を|鳩《あつ》めて|話《はな》し|合《あ》つて|居《ゐ》る。
カールチン『ユーフテス、テルマン|国《ごく》のシヤールの|妻《つま》ヤスダラ|姫《ひめ》は、まだ|行方《ゆくへ》が|分《わか》らないか、エーン』
ユーフテス『ハイ、|未《いま》だハツキリ|分《わか》りませぬ。セーリス|姫《ひめ》をして|様子《やうす》を|窺《うかが》はしめし|所《ところ》、テーナ|姫様《ひめさま》がテルマン|国《ごく》へお|出《いで》になり、|毘舎《びしや》のシヤールをしてヤスダラ|姫様《ひめさま》を|監禁《かんきん》せしめられた|後《のち》、|十日《とをか》ほどした|所《ところ》で|暴風雨《ばうふうう》の|暗夜《あんや》を|窺《うかが》ひ、|姫様《ひめさま》に|仕《つか》へてゐた|僕《しもべ》のリーダーと|云《い》ふ|男《をとこ》が|牢獄《らうごく》を|叩《たた》き|破《やぶ》り、|何処《どこ》ともなく|逃《に》げ|失《う》せたと|云《い》ふ|事《こと》です。|大方《おほかた》|姫様《ひめさま》と|其《その》|僕《しもべ》との|間《あひだ》に|何《なに》か|深《ふか》い|関係《くわんけい》があつたのではなからうかとの|噂《うはさ》も|聞《き》きました。セーリス|姫様《ひめさま》も|大変《たいへん》に|姉《あね》の|不始末《ふしまつ》を|悔《くや》んで|居《を》られます。|昨夜《ゆうべ》|旦那様《だんなさま》の|御命令《ごめいれい》によつて|照山峠《てるやまたうげ》の|頂《いただき》まで|参《まゐ》りました|処《ところ》、テルマン|国《ごく》よりシヤールの|家《いへ》の|者《もの》|共《ども》|馬《うま》に|跨《またが》り、|五人連《ごにんづれ》にてやつて|参《まゐ》り「ヤスダラ|姫《ひめ》、リーダーに|会《あ》はなかつたか」と|尋《たづ》ねました。が|併《しか》し、ヒヨツとしたらセーラン|王《わう》の|廻《まは》し|者《もの》ではないかと|空惚《そらとぼ》けて|取《と》り|合《あ》はなかつた|所《ところ》、|五人《ごにん》の|騎士《きし》は|照山峠《てるやまたうげ》を|北《きた》へ|北《きた》へと|下《くだ》つて|行《ゆ》きます。|私《わたし》はセーリス|姫《ひめ》の|意見《いけん》を|聞《き》き、|屹度《きつと》ヤスダラ|姫《ひめ》は、|左守《さもり》の|司《かみ》の|父《ちち》の|館《やかた》へ|帰《かへ》るものと|存《ぞん》じまして、よくよく|調《しら》べて|見《み》ましたが|女《をんな》らしいものは|一人《ひとり》も|来《き》ませず、|五人《ごにん》の|騎士《きし》に|追《お》ひつき、|共々《ともども》に|馬《うま》に|乗《の》つて|都《みやこ》に|帰《かへ》り、|騎士《きし》を|一夜《ひとよ》さ|宿泊《しゆくはく》させ、|心当《こころあた》りを|捜索《そうさく》せよと|命《めい》じ|返《かへ》しまして|御座《ござ》ります』
『|折角《せつかく》|遠国《ゑんごく》からやつて|来《き》た|者《もの》を、|吾《われ》に|相談《さうだん》もなく【ぼつ】|返《かへ》すとはチツと|僣越《せんえつ》ぢやないか。なぜ|一目《ひとめ》|会《あ》はしてくれなかつたのか、エーン』
『それは|済《す》まない|事《こと》で|御座《ござ》りますが、|併《しか》し|私《わたし》は|左守《さもり》に|知《し》れてはならないと|気《き》を【いら】ち、|態《わざ》とおつ|返《かへ》したので|御座《ござ》ります。|屹度《きつと》ヤスダラ|姫《ひめ》は|照山峠《てるやまたうげ》を|越《こ》えて|帰《かへ》つて|来《く》るに|間違《まちがひ》は|御座《ござ》りませぬ。|愚図々々《ぐづぐづ》して|左守《さもり》の|部下《ぶか》|等《ら》にヤスダラ|姫《ひめ》を|捕《と》られようものなら|大変《たいへん》で|御座《ござ》りますからな。|左守《さもり》に|於《おい》てもヤスダラ|姫《ひめ》の|此方《こちら》へ|帰《かへ》つて|来《く》ると|云《い》ふ|事《こと》は|略《ほぼ》|承知《しようち》をしてゐるさうですから、|決《けつ》して|油断《ゆだん》はしてなりませぬ。|又《また》|昨夜《さくや》|参《まゐ》つた|五人《ごにん》の|騎士《きし》はヤスダラ|姫《ひめ》のスタイルをよく|知《し》つてゐる|者《もの》ばかりですから、|丁度《ちやうど》|都合《つがふ》が|好《よ》いと|存《ぞん》じまして|照山峠《てるやまたうげ》の|麓《ふもと》まで|差出《さしだ》しまして|御座《ござ》ります』
『それは|真《まこと》にいい|考《かんが》へだつた。|併《しか》し|乍《なが》ら、お|前《まへ》の|恋女《こひをんな》セーリス|姫《ひめ》はヤスダラ|姫《ひめ》の|妹《いもうと》だから|滅多《めつた》な|事《こと》はあるまいな。ウツカリした|事《こと》は|云《い》はれないぞや』
『|何《なに》を|仰有《おつしや》います。|同《おな》じ|姉妹《きやうだい》でも|心《こころ》は|黒白《こくびやく》の|違《ちが》ひ、セーリス|姫《ひめ》は|決《けつ》して|姉《あね》の|贔屓《ひいき》をしたり、|親《おや》の|贔屓《ひいき》をして|自分《じぶん》の|恋《こひ》を|犠牲《ぎせい》にするやうな|悪人《あくにん》では|御座《ござ》りませぬ。|極《きは》めて|私《わたし》のためには|大善人《だいぜんにん》で|御座《ござ》りますから』
『|大黒主神《おほくろぬしのかみ》|様《さま》の|御命令《ごめいれい》により|旦那様《だんなさま》が|刹帝利《せつていり》の|位《くらゐ》に|上《のぼ》られ、セーラン|王《わう》を|退隠《たいいん》させて|安楽《あんらく》に|暮《くら》させよとの|思召《おぼしめ》し、それも|全《まつた》く|吾《わが》|娘《むすめ》のサマリー|姫《ひめ》が|妃《きさき》になつてゐる|余徳《よとく》によつて、セーラン|王様《わうさま》の|身《み》が|安全《あんぜん》なのだ。サマリー|姫《ひめ》も|王様《わうさま》に|対《たい》しては|非常《ひじやう》に|恋慕《れんぼ》してゐるやうだから、|如何《どう》しても|末永《すえなが》く|添《そ》はしてやらねばなるまい。そこへヤスダラ|姫《ひめ》が|帰《かへ》つて|来《こ》ようものなら、|又《また》もや|王《わう》の|心《こころ》が|変《かは》りサマリー|姫《ひめ》は|恋《こひ》に|破《やぶ》れた|結果《けつくわ》どんな|無分別《むふんべつ》な|事《こと》をするか|分《わか》らず、|実《じつ》に|気《き》の|揉《も》める|事《こと》だよ。|一事《いちじ》も|早《はや》くヤスダラの|入城《にふじやう》を|遮《さへぎ》り、|之《これ》を|捉《とら》へて|人《ひと》の|知《し》らぬ|所《ところ》に|監禁《かんきん》し、|王《わう》との|接近《せつきん》を|妨《さまた》げねばなりませぬぞや。ユーフテス、|合点《がつてん》かな』
『ハイ、|万事万端《ばんじばんたん》|私《わたし》の|胸《むね》に|御座《ござ》ります。|御安心《ごあんしん》なさいませ』
かかる|所《ところ》へ|息《いき》せき|切《き》つて|駆込《かけこ》んだのはマンモスである。
テーナ『ヤア、そなたはマンモス、|城内《じやうない》の|様子《やうす》は|如何《どう》だつた』
『ハイ、|王様《わうさま》は|俄《にはか》の|御病気《ごびやうき》でお|引籠《ひきこも》りと|云《い》ふこと、|一切《いつさい》|面会《めんくわい》を|禁《きん》じられてゐますから、|詳《くは》しい|事《こと》は|存《ぞん》じませぬ。|併《しか》し|夜前《やぜん》|何《なん》でも|女《をんな》が|二人《ふたり》ばかり、|男《をとこ》が|二三人《にさんにん》|大奥《おほおく》へ|忍《しの》び|込《こ》んだと|云《い》ふことを|聞《き》きました』
テーナ|姫《ひめ》は|首《くび》をかしげて、
『はてな、|王様《わうさま》の|御病気《ごびやうき》、そして|二人《ふたり》の|女《をんな》に|三人《さんにん》の|男《をとこ》、|大方《おほかた》ヤスダラ|姫《ひめ》が|参《まゐ》つたのではあるまいかな』
カールチン『おい、ユーフテス、|其方《そなた》の|考《かんが》へは|如何《どう》だ』
『ハイ、セーリス|姫《ひめ》に|聞《き》きましたら、|俄《にはか》に|王様《わうさま》が|御不快《ごふくわい》なので、バラモン|教《けう》の|修験者《しゆげんじや》を|二三人《にさんにん》ばかり、お|招《まね》きになつたと|云《い》ふことで|御座《ござ》ります。|別《べつ》に|大《たい》したものぢや|御座《ござ》りますまい』
テーナ|姫《ひめ》は、
『アヽ、それだと|云《い》つて|警戒《けいかい》|厳《きび》しき|城下《じやうか》を、|誰《たれ》の|目《め》にもあまり|触《ふ》れないやうにやつて|来《く》ると|云《い》ふのが|怪《あや》しいぢやないか。ユーフテス、そなたは|一応《いちおう》|城内《じやうない》の|様子《やうす》を|調《しら》べて|来《き》ては|呉《く》れまいかな』
『ハイ、|畏《かしこ》まりました。|左様《さやう》ならば|之《これ》から|一足《ひとあし》、|何《なに》|知《し》らぬ|顔《かほ》して|登城《とじやう》|致《いた》し、|内部《ないぶ》の|様子《やうす》を|考《かんが》へて|来《き》ませう。マンモス、|其方《そなた》も|来《き》て|下《くだ》さるまいかな』
『いや、|私《わたし》は|少《すこ》しく|右守様《うもりさま》に|申上《まをしあ》げたきことあれば、|何卒《なにとぞ》|御苦労《ごくらう》ながら|貴方《あなた》お|一人《ひとり》お|出《い》でを|願《ねが》ひます。さうして|変《かは》つた|事《こと》があれば、|直様《すぐさま》お|知《し》らせ|下《くだ》さいませ。|右守様《うもりさま》のお|供《とも》をして、|直様《すぐさま》|登城《とじやう》|致《いた》しますから』
『|然《しか》らば|旦那様《だんなさま》、|一応《いちおう》|様子《やうす》を|考《かんが》へて|参《まゐ》ります』
と|云《い》ひながら|一生懸命《いつしやうけんめい》に|足《あし》を|早《はや》めてイルナ|城《じやう》の|王《わう》が|館《やかた》へ|進《すす》み|行《ゆ》く。
ユーフテスの|姿《すがた》が|隠《かく》れるのを|見《み》すまし、マンモスは|声《こゑ》を|潜《ひそ》めて、
『|旦那様《だんなさま》、|貴方《あなた》はユーフテスを|何処《どこ》までも|御信用《ごしんよう》なさいますか。|私《わたし》が|斯様《かやう》なことを|申上《まをしあ》げますのは、|何《なに》か|野心《やしん》があつて|彼《かれ》を|陥穽《かんせい》する|様《やう》に|思召《おぼしめ》すかも|知《し》れませぬが、|如何《どう》も|此《この》|頃《ごろ》の|彼《かれ》の|挙動《きよどう》、|怪《あや》しき|点《てん》が|沢山《たくさん》|御座《ござ》ります。|御両人様《ごりやうにんさま》、どうお|考《かんが》へ|遊《あそ》ばしますか』
カールチン『|彼《かれ》に|限《かぎ》つてそんな|二心《ふたごころ》があらう|筈《はず》がない。そりやマンモス、お|前《まへ》の|僻目《ひがめ》ではないか。|人《ひと》の|噂《うはさ》や|表面《うはべ》の|活動《くわつどう》を|見《み》て|直《すぐ》に|善悪《ぜんあく》の|批評《ひひやう》を|下《くだ》すものではない。ユーフテスはセーリス|姫《ひめ》を|薬籠中《やくろうちう》のものとし、|左守《さもり》の|味方《みかた》と|見《み》せかけて、|所在《あらゆる》|神算鬼謀《しんさんきぼう》を|廻《めぐ》らし|内外《ないぐわい》の|様子《やうす》を|隈《くま》なく|探《さぐ》り、|吾々《われわれ》に|報告《はうこく》する|探偵《たんてい》の|任《にん》に|当《あた》つてゐる|男《をとこ》だから、お|前《まへ》の|目《め》から|見《み》れば|怪《あや》しく|見《み》えるだらう。|決《けつ》してそんな|心配《しんぱい》は|要《い》らないよ』
『それでも|貴方《あなた》、どうも|怪《あや》しう|御座《ござ》ります。|決《けつ》して|気《き》を|許《ゆる》してはなりませぬ』
テーナ|姫《ひめ》は|大口《おほぐち》を|開《ひら》いて、
『ホヽヽヽヽ、|気《き》を|許《ゆる》されぬのはユーフテスだつてマンモスだつて|同《おな》じことぢやないか。|尊《たふと》き|誠《まこと》の|神様《かみさま》を|措《お》いて、|人間《にんげん》の|中《なか》に|一人《ひとり》だつて|気《き》を|許《ゆる》して|使《つか》へるものがあるか。|皆《みんな》|利己主義《われよし》の|集団《かたまり》ばかりだからな』
『さう|図星《づぼし》をさされては、|返《かへ》す|辞《ことば》も|御座《ござ》りませぬが、|併《しか》し|私《わたし》は、|決《けつ》して|敵《てき》に|欸《くわん》を|通《つう》ずる|様《やう》な|悪人《あくにん》では|御座《ござ》りませぬ。|併《しか》し|旦那様《だんなさま》は|誠《まこと》に|立派《りつぱ》なお|方《かた》ですから、|屹度《きつと》|天眼通《てんがんつう》も|開《ひら》けて|居《ゐ》るでせう。よもや|裏返《うらがへ》り|者《もの》を|信用《しんよう》してお|使《つか》ひ|遊《あそ》ばす|筈《はず》もありませぬから、|私《わたし》も|少《すこ》しばかり|安心《あんしん》して|居《ゐ》ますが、|何《なん》だかチツトばかり|気《き》にかかつてなりませぬ。|第一《だいいち》、|昨日《きのふ》|迄《まで》ピチピチして|居《を》られたセーラン|王様《わうさま》が|急病《きふびやう》ぢやと|云《い》つたり、|或《あるひ》は|修験者《しゆげんじや》が|夜中《やちう》に|招《まね》かれてお|館《やかた》へ|参《まゐ》るなどとは、|如何《どう》しても|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|節《ふし》が|御座《ござ》ります。ここは|篤《とく》と|調《しら》べなさらねばなりますまい』
カールチン『それなら|其方《そなた》は|是《これ》から|登城《とじやう》してユーフテスに|内証《ないしよう》で|様子《やうす》を|調《しら》べて|来《き》てくれ』
『ヤア|有難《ありがた》う、|待《ま》つてゐました……そのお|言葉《ことば》を|待《ま》つて|居《ゐ》ました』
とマンモスは、いそいそとして|館《やかた》を|立出《たちい》で|城内《じやうない》さして|進《すす》み|行《ゆ》く。
イルナの|城内《じやうない》セーリス|姫《ひめ》の|居間《ゐま》を|慌《あわただ》しく|訪《と》うたのは|例《れい》のユーフテスであつた。ユーフテスは|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》しながら|人影《ひとかげ》なきに|安心《あんしん》の|胸《むね》を|撫《な》で|下《おろ》し、|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせながら|姫《ひめ》の|居間《ゐま》に|進《すす》み|入《い》り、|耳許《みみもと》に|口《くち》を|寄《よ》せて、
『|姫様《ひめさま》、|御安心《ごあんしん》なさいませ。ハルナの|国《くに》から|大黒主《おほくろぬし》の|援軍《ゑんぐん》が|沢山《たくさん》に|来《く》る|所《ところ》で|御座《ござ》りましたが、|近国《きんごく》に|一騒動《ひとさうどう》が|起《おこ》つたと|云《い》ふので|軍隊《ぐんたい》の|派遣《はけん》が|暫時《ざんじ》|遅《おく》れる|事《こと》になりました。|此《この》|分《ぶん》ならば|一ケ月《いつかげつ》やそこらは|大丈夫《だいぢやうぶ》です。|併《しか》しながら|右守《うもり》は|大変《たいへん》に|力《ちから》を|落《おと》して|居《を》ります。それに|又《また》ヤスダラ|姫様《ひめさま》がテルマン|国《ごく》を|遁走《とんそう》|遊《あそ》ばしたので、やがて|都《みやこ》へお|帰《かへ》りになるだらう、さうなれば|大変《たいへん》だと|非常《ひじやう》に|気《き》を|揉《も》んでゐますが、そこも|私《わたし》がうまくチヨロまかして|置《お》きましたから|之《これ》も|御安心《ごあんしん》なさいませ。|併《しか》し|乍《なが》ら|王様《わうさま》の|急病《きふびやう》と|云《い》ひ、|女《をんな》の|修験者《しゆげんじや》が|入《い》りこんだと|云《い》ふ|事《こと》は|何《なに》かの|秘密《ひみつ》が|潜《ひそ》んで|居《ゐ》るに|違《ちが》ひないから、|一寸《ちよつと》|調《しら》べて|来《こ》いとカールチンが|申《まを》しましたので|様子《やうす》を|調《しら》べると|申《まを》してやつて|来《き》たのです。|何《なん》と|云《い》つて|返答《へんたふ》をしたら|宜《よろ》しいでせうかな』
『|何《なん》と|面白《おもしろ》い|事《こと》になつて|来《き》ましたな。|一月《ひとつき》ばかり|軍隊《ぐんたい》が|攻《せ》め|寄《よ》せて|来《く》るのが|遅《おく》れるとならば、|其《その》|間《あひだ》に、どんな|準備《じゆんび》も|出来《でき》ます。これから|一《ひと》つ|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》、|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》に|御相談《ごさうだん》|申上《まをしあ》げ、|何《なん》とか|考《かんが》へをつけませう』
と|云《い》ひながらユーフテスを|伴《ともな》ひ|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》の|居間《ゐま》に|進《すす》み|行《ゆ》く。
セーリス|姫《ひめ》は|襖《ふすま》の|外《そと》より|細《ほそ》き|声《こゑ》にて、
『|私《わたし》はセーリスで|御座《ござ》ります。|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》、|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》、お|邪魔《じやま》に|参《まゐ》りましたが|差支《さしつかへ》は|厶《ござ》りませぬか』
|黄金姫《わうごんひめ》は、
『いえいえ、チツとも|差支《さしつかへ》は|御座《ござ》りませぬ。サア|何卒《どうぞ》お|這入《はい》り|下《くだ》さいませ。|今朝《けさ》からお|目《め》にかからないので、|如何《どう》かとお|案《あん》じ|申《まを》して|居《を》りました』
と|座蒲団《ざぶとん》を|手《て》づから|二枚《にまい》|敷《し》いて、
『サアお|坐《すわ》りなさいませ』
とすすめる。セーリス|姫《ひめ》は、
『|御免《ごめん》|下《くだ》さいませ』
と|云《い》ひながら|黄金姫《わうごんひめ》と|向《むか》ひ|合《あは》せに|座《ざ》を|占《し》め、
『|時《とき》に|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》、|面白《おもしろ》い|事《こと》になりました。|大黒主《おほくろぬし》の|軍隊《ぐんたい》が|攻《せ》めて|来《く》るのは|近国《きんごく》に|騒擾《さうぜう》が|起《おこ》つたため|一月《ひとつき》ほど|遅《おく》れると|云《い》ふ|確報《かくはう》が|御座《ござ》りました。さうして|此《この》ユーフテスは|右守《うもり》の|股肱《ここう》の|重臣《ぢうしん》で|厶《ござ》りますが、|妾《わたし》と|割《わ》りなき|恋《こひ》に|落《お》ち、|其《その》|為《た》め|今《いま》は|妾《わたし》の|申《まを》す|事《こと》ならば、どんな|事《こと》でも|聞《き》いて|下《くだ》さる|善人《ぜんにん》で|御座《ござ》りますから|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ。|何《なに》をお|話《はな》し|下《くだ》さつても|大丈夫《だいぢやうぶ》ですから』
|黄金《わうごん》『オホヽヽヽ、セーリス|姫様《ひめさま》、|随分《ずゐぶん》|貴女《あなた》もお|転婆《てんば》ですな。やあ、ユーフテス|様《さま》とやら、|天下一《てんかいち》の|色男《いろをとこ》さま、オホヽヽヽ、|此《この》|黄金姫《わうごんひめ》も|感心《かんしん》|致《いた》しました』
とポンと|背中《せなか》を|二《ふた》つ|三《みつ》つ|叩《たた》いた。ユーフテスは|得意《とくい》になり|鼻《はな》をピコつかせながら、
『ハイ、カールチンは|私《わたし》の|主人《しゆじん》では|厶《ござ》いますれど、|神様《かみさま》のお|道《みち》に|反《はん》した|悪《あく》ばかりを|企《たく》む|奴《やつ》で|厶《ござ》りますから、|已《や》むを|得《え》ず|誠《まこと》の|方《かた》について|居《ゐ》るので|厶《ござ》ります。|別《べつ》にセーリス|姫様《ひめさま》の|容色《ようしよく》に|心魂《しんこん》を|蘯《とろ》かして|主人《しゆじん》に|背《そむ》き|反対《はんたい》をする|様《やう》な|野呂馬《のろま》では|厶《ござ》りませぬ。|只《ただ》|正義《せいぎ》のため|至誠《しせい》をささげて|活動《くわつどう》を|続《つづ》けて|居《ゐ》るので|厶《ござ》ります』
とうまく|心《こころ》の|生地《きぢ》を|隠《かく》さうとつとめてゐる。
『|城内《じやうない》|一般《いつぱん》に|姉《あね》のヤスダラ|姫《ひめ》が|逃《に》げ|帰《かへ》つて、|城内《じやうない》に|潜《ひそ》んで|居《ゐ》るとの|噂《うはさ》が|立《た》ちましたので、|右守《うもり》のカールチン|夫婦《ふうふ》が|気《き》を|揉《も》み、サマリー|姫《ひめ》の|迷惑《めいわく》になると|云《い》つて|非常《ひじやう》に|騒《さわ》いで|居《を》ります。|又《また》ヤスダラ|姫《ひめ》が|帰《かへ》つて|来《き》たならば、|屹度《きつと》|王様《わうさま》に|智慧《ちゑ》をつけて|左守《さもり》と|共《とも》に|何《なに》をするか|知《し》れない。さうすれば|折角《せつかく》の|企《たく》みも|水泡《すゐほう》に|帰《き》すると|云《い》つて|騒《さわ》いでゐるさうですから、|一《ひと》つ|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》にお|世話《せわ》になつて、|姉《あね》のヤスダラ|姫《ひめ》と|化《ば》けて|貰《もら》つては|如何《どう》でせう。うまいお|芝居《しばゐ》が|出来《でき》るでせう。|軍隊《ぐんたい》が|攻《せ》めて|来《く》るには|一ケ月《いつかげつ》も|間《ま》があるのですから、|右守《うもり》をうまく|引《ひ》き|寄《よ》せて|膏《あぶら》をとり、|誠《まこと》の|道《みち》へ|改心《かいしん》をさせたら|面白《おもしろ》からうと|存《ぞん》じまして、|実《じつ》は|御相談《ごさうだん》に|参《まゐ》りました』
『オホヽヽヽヽ|随分《ずゐぶん》|貴女《あなた》も|悪戯《いたづら》が|好《す》きですな。こんな|上下《うへした》|騒《さわ》がしい|時《とき》に、そんな|気楽《きらく》な|事《こと》をよく|思《おも》ひついたものですな。いや|感心《かんしん》|々々《かんしん》、|綽々《しやくしやく》として|余裕《よゆう》の|存《ぞん》する|其《その》|態度《たいど》、それでなくては|大事《だいじ》は|遂《と》げられますまい。|清照姫《きよてるひめ》、お|前《まへ》|暫《しばら》くヤスダラ|姫様《ひめさま》に|早変《はやがは》りして|見《み》たら|如何《どう》だらうな』
『ホヽヽヽヽ、|至極《しごく》|妙案《めうあん》ですな。|妾《わたし》はなりませう。|一《ひと》つ|辣腕《らつわん》を|揮《ふる》うて|右守《うもり》の|肝玉《きもだま》を|抜《ぬ》いてやりませう』
『|早速《さつそく》の|御承知《ごしようち》、|有難《ありがた》う|厶《ござ》います。これこれユーフテスさま、|早《はや》く|右守《うもり》の|館《やかた》へ|帰《かへ》つてヤスダラ|姫様《ひめさま》がお|帰《かへ》りだと|報告《はうこく》して|下《くだ》さい。|面白《おもしろ》い|事《こと》が|出来《でき》ますから』
『それでもヤスダラ|姫様《ひめさま》は|長面《ながおも》、|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》は|少《すこ》し|円顔《まるおもて》ぢや|厶《ござ》いませぬか。|右守《うもり》に|贋《にせ》ものだと|看破《かんぱ》される|様《やう》な|事《こと》は|厶《ござ》りますまいかな』
『|何《なに》|御心配《ごしんぱい》は|要《い》りますものか。|女《をんな》は|化物《ばけもの》と|申《まを》しまして|作《つく》り|次第《しだい》で|如何《どう》にも|化《ば》けられますよ。これから|一《ひと》つ|化粧《けしやう》でもして|化《ば》けてやりませう。|明日《あす》|早朝《さうてう》|右守《うもり》を|連《つ》れてお|出《い》で|下《くだ》さいませ。|妾《わたし》の|腕前《うでまへ》を|一《ひと》つ|見《み》せて|上《あ》げますから、オホヽヽヽヽ』
『|面白《おもしろ》からう』
と|黄金姫《わうごんひめ》はうなづく。セーリス|姫《ひめ》は|得意気《とくいげ》に、
『オホヽヽヽヽ』
と|笑《わら》ふ。ユーフテスは、
『エヘヽヽヽ、|此奴《こいつ》あ、チツトばかり|面白《おもしろ》くなつておいでたわい』
(大正一一・一一・一二 旧九・二四 北村隆光録)
第一八章 |替《か》へ|玉《だま》〔一一二二〕
イルナ|城《じやう》の|奥《おく》の|間《ま》には|黄金姫《わうごんひめ》、|清照姫《きよてるひめ》、セーリス|姫《ひめ》の|三人《さんにん》が|首《くび》を|鳩《あつ》めて|姦《かしま》しく|喋々喃々《てふてふなんなん》と|論戦《ろんせん》を|戦《たたか》はして|居《ゐ》る。
セーリス『あのまア、|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》のお|美《うつく》しい|事《こと》、ヤスダラ|姫様《ひめさま》そつくりですわ。ようまアお|顔《かほ》も|御覧《ごらん》になつたことがないのに、それ|程《ほど》|似《に》るやうに|造《つく》れましたねえ』
『|照山峠《てるやまたうげ》の|麓《ふもと》でお|目《め》にかかつたのですよ。|其《その》|時《とき》のお|顔《かほ》を|記憶《きおく》に|止《と》めて|居《ゐ》て|作《つく》つたのですから、|写真《しやしん》に|取《と》つたやうなものですわ。|何事《なにごと》も|新《あたら》しい|女《をんな》の|覇張《はば》る|世《よ》の|中《なか》ですから、|清照姫《きよてるひめ》もどうやら|新《あたら》しいヤスダラ|姫様《ひめさま》になつて|仕舞《しま》ひました。オホヽヽヽヽ』
『|併《しか》し、|新《あたら》しい|世《よ》の|中《なか》が|建設《けんせつ》されるとか、されたとか、|三五教《あななひけう》では|仰有《おつしや》るぢや|厶《ござ》いませぬか』
|黄金姫《わうごんひめ》はしたり|顔《がほ》にて|答《こた》ふ。
『|新《あたら》しき|天《てん》と|新《あたら》しき|地《ち》とが|今度《こんど》は|三五教《あななひけう》の|神力《しんりき》によつて|現《あら》はれるのですよ。|今迄《いままで》の|天《てん》と|今迄《いままで》の|地《ち》は|既《すで》に|過《す》ぎ|去《さ》つた|今日《こんにち》です。|是《これ》から|聖城《せいじやう》なる|新《あたら》しきヱルサレムが|地《ち》に|下《くだ》り、|国治立尊《くにはるたちのみこと》が|降《くだ》り|給《たま》うて|天下万民《てんかばんみん》も|亦《また》|新《あたら》しく|生《い》き|返《かへ》らせ|給《たま》ふ|時代《じだい》に|近《ちか》づいたのです。ヱルサレムの|城《しろ》は|四方《しはう》になつて|居《ゐ》て|長《なが》さと|幅《はば》と|同一《どういつ》です。|木花姫命《このはなひめのみこと》|様《さま》が|天教山《てんけうざん》より|出雲姫命《いづもひめのみこと》を|遣《つか》はし|給《たま》うて、|竿《さを》を|以《もつ》てエルサレムの|城《しろ》を|測量《そくりやう》させられた|所《ところ》が|一万二千《いちまんにせん》フアーロングあるといふことです。|城《しろ》の|長《なが》さも|広《ひろ》さも|高《たか》さも|皆《みな》|相等《あひひと》しく、|其《その》|石垣《いしがき》は|百四十四《ひやくしじふし》キユーピツトあつて、|碧玉《へきぎよく》にて|石垣《いしがき》を|築《きづ》き、|其《その》|城《しろ》は|清《きよ》らかな|玻璃《はり》の|如《ごと》き|純金《じゆんきん》で|造《つく》り、|城《しろ》の|石垣《いしがき》の|礎《いしずゑ》は|各《かく》|様々《さまざま》の|宝石《はうせき》で|飾《かざ》られてあります。|十二《じふに》の|門《もん》は|十二《じふに》の|真珠《しんじゆ》で|造《つく》られ、|透《す》き|徹《とほ》る|様《やう》な|黄金造《わうごんづく》りの|建物《たてもの》ばかりで|目《め》も|眩《まば》ゆきばかりであります』
セーリス|姫《ひめ》は|驚《おどろ》いて、
『|新《あたら》しい|天《てん》や|新《あたら》しい|地《ち》が|現《あら》はれるとはソリヤ|大変《たいへん》な|事《こと》ぢやありませぬか。|地異天変《ちいてんぺん》も|爰《ここ》に|到《いた》つて|極《きは》まれりと|謂《い》ふべしですな』
『|新《あたら》しき|天地《てんち》とは|新《あたら》しき|教会《けうくわい》のことで、|要《えう》するに|埴安彦《はにやすひこ》、|埴安姫《はにやすひめ》の|神様《かみさま》が|三五教《あななひけう》の|道場《だうぢやう》をお|開《ひら》き|遊《あそ》ばしたことを|指《さ》して|謂《い》ふのですワ』
『|天《てん》より|下《くだ》り|来《きた》るエルサレム|城《じやう》といふことは|全体《ぜんたい》|何《なに》をいふのでせうか』
『|救世主神《きうせいしゆしん》|埴安彦《はにやすひこ》の|神《かみ》の|示《しめ》し|給《たま》ふ|所《ところ》の|天地《てんち》の|誠《まこと》、|三五教《あななひけう》の|教説《けうせつ》のことであります』
『その|長《なが》さ|広《ひろ》さ|高《たか》さ|相《あひ》|等《ひと》しくして|各《かく》|一万二千《いちまんにせん》フアーロングあると|仰有《おつしや》つたのは、|如何《いか》なる|意味《いみ》で|厶《ござ》いますか』
『|三五教《あななひけう》の|教説中《けうせつちう》の|真《しん》と|善《ぜん》と|美《び》とを|合一《がふいつ》して|言《い》つたのです。|又《また》|城《しろ》の|石垣《いしがき》といふのは|此《この》|教《をしへ》を|守護《しゆご》し|宣伝《せんでん》する|神司《かむつかさ》のことです。|百四十四《ひやくしじふし》キユーピツトあるとは|三五教《あななひけう》の|真《しん》と|善《ぜん》と|美《び》の|三相《さんさう》を|悉《ことごと》く|挙《あ》げて|称讃《しようさん》したもので、|宣伝使《せんでんし》たるものの|純良《じゆんりやう》なる|性相《せいさう》を|言《い》つたのです。|又《また》|真珠《しんじゆ》より|成《な》つた|十二《じふに》の|門《もん》とは|能道《のうだう》の|真《しん》を|言《い》つたのです。|宝石《はうせき》より|成《な》れる|石垣《いしがき》の|礎《いしずゑ》といふのも|彼《かれ》の|説教《せつけう》を|聞《き》いて|立《た》つ|所《ところ》の|諸々《もろもろ》の|知識《ちしき》を|云《い》ふのであります。|城《しろ》を|造《つく》れる|清《きよ》く|透《とう》れる|玻璃《はり》に|似《に》たる|黄金《わうごん》とは|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|徳《とく》を|指《さ》して|言《い》つたのです。|教説《けうせつ》と|其《その》|真《しん》と|善《ぜん》と|美《び》は|愛《あい》の|力《ちから》に|由《よ》つて|倍々《ますます》|透明《とうめい》となるものですからなア』
『さうすると「|天地《てんち》が|逆様《さかさま》になるぞよ」といふ|三五教《あななひけう》の|御神諭《ごしんゆ》も|矢張《やはり》|右《みぎ》の|式《しき》で|解釈《かいしやく》すれば|宜《よ》いのですかなア』
『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》や|幹部《かんぶ》の|中《なか》には|今《いま》でも|天《てん》と|地《ち》とが|現実的《げんじつてき》に|顛覆《てんぷく》するやうに|思《おも》つて|居《を》る|人々《ひとびと》もあり、|御経綸《ごけいりん》の|霊地《れいち》に|真珠《しんじゆ》の|十二《じふに》の|門《もん》が|現実的《げんじつてき》に|建《た》つ|様《やう》に|思《おも》つて|居《ゐ》る|人々《ひとびと》があるのだから、それで|困《こま》るのですよ。セーリス|姫様《ひめさま》も|矢張《やつぱり》さう|思《おも》つて|居《を》られませうなア』
『ヘイヘイ、|最《もつと》も|現実《げんじつ》に|立派《りつぱ》な|宮《みや》が|建《た》つたり、お|城《しろ》が|築造《ちくざう》されるものだと、|思《おも》つて|居《ゐ》ましたワ』
『|現実的《げんじつてき》にソンナ|立派《りつぱ》な|宮《みや》を|建《た》てようものなら、|忽《たちま》ちウラルやバラモンから|睨《にら》まれて|叩《たた》き|潰《つぶ》されて|了《しま》ひますぞや。オホヽヽヽ』
『オホヽヽヽ』
『|本当《ほんたう》に|神様《かみさま》の|教《をしへ》といふものは|六ケ敷《むつかし》いもののやうな|易《やす》いものですなア。|何故《なぜ》コンナ|事《こと》が|肝腎《かんじん》の|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》さまに|解《わか》らなかつたのでせうかなア、お|母《かあ》さま』
『|是《これ》も|時世時節《ときよじせつ》だから|仕方《しかた》がありませぬわ、アーアー』
『かうして、|清照姫《きよてるひめ》|様《さま》のヤスダラ|姫《ひめ》は|出来上《できあが》りましたが、|右守《うもり》はもう|来《き》さうなものですなア。ユーフテスも|何《なに》を|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《ゐ》るのでせうか』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも|廊下《らうか》に|聞《きこ》ゆる|足音《あしおと》、|黄金姫《わうごんひめ》はツと|立《た》つて|王《わう》の|籠《こも》りし|室《しつ》に|身《み》を|隠《かく》し、|中《なか》より|錠《ぢやう》を|下《おろ》して|了《しま》つた。|清照姫《きよてるひめ》、セーリス|姫《ひめ》は|煙草盆《たばこぼん》を|前《まへ》に|置《お》きスパスパと|煙《けむり》を|吐《は》いて|居《ゐ》る。
そこへユーフテスの|案内《あんない》で|足音《あしおと》|高《たか》くやつて|来《き》たのは、カールチン、マンモスの|両人《りやうにん》である。|清照姫《きよてるひめ》は、ヤスダラ|姫《ひめ》の|声《こゑ》を|一度《いちど》|聞《き》き|覚《おぼ》えて|居《ゐ》るのを|幸《さいは》ひ、|作《つく》り|声《ごゑ》をして、
『オヽ|其方《そなた》は|右守《うもり》の|司《つかさ》カールチン|殿《どの》、|先《ま》づ|御無事《ごぶじ》で|重畳々々《ちようでふちようでふ》、ヤスダラ|姫《ひめ》も|其方《そなた》の|壮健《さうけん》の|姿《すがた》を|見《み》て|安心《あんしん》|致《いた》したぞや』
カールチンは|周章《あわ》てて、
『イヤ、|姫様《ひめさま》のお|帰《かへ》りと|承《うけたま》はり|早速《さつそく》お|伺《うかが》ひに|参《まゐ》るところで|厶《ござ》いましたが、あまり|突然《とつぜん》の|事《こと》で|信《しん》ずる|訳《わけ》にもゆかず、ユーフテスをして|実否《じつぴ》を|伺《うかが》はせました|処《ところ》、|正《まさ》しく|姫様《ひめさま》のお|帰《かへ》りと|聞《き》き、|取《と》るものも|取敢《とりあ》へず|伺《うかが》ひました。|先《ま》づ|御壮健《ごさうけん》で|何《なに》よりお|目出度《めでた》う|厶《ござ》います』
と|気乗《きの》らぬ|声《こゑ》で|嫌《いや》さうな|挨拶《あいさつ》をして|居《ゐ》る。
『コレ|右守殿《うもりどの》、|其方《そなた》の|言葉《ことば》には|極《きは》めて|冷淡《れいたん》の|色《いろ》が|現《あら》はれて|居《ゐ》ますぞや。|御叮嚀《ごていねい》にテーナ|姫《ひめ》を|遥々《はるばる》とテルマン|国《ごく》まで|使者《ししや》にお|立《た》て|下《くだ》さいまして、|罪《つみ》もない|妾《わらは》をシヤールに|牢獄《らうごく》を|作《つく》らして|投《な》げ|込《こ》んで|下《くだ》さつた|御親切《ごしんせつ》は|決《けつ》して|忘《わす》れはしませぬぞや。|弱《よわ》い|女《をんな》と|見《み》えても|左守《さもり》の|血統《けつとう》を|享《う》けた|刹帝利《せつていり》の|女《むすめ》、|如何《いか》なる|鉄牢《てつらう》でも、この|細腕《ほそうで》で|一《ひと》つ|押《お》せば、|何《なん》の|雑作《ざふさ》もありませぬ。|鼻糞《はなくそ》で|的《まと》をはつたやうな|牢獄《らうごく》に|繋《つな》がれて|苦《くる》しんで|居《ゐ》るやうな|女《をんな》だつたら、さつぱり|駄目《だめ》ですよ』
『これは|異《い》なことを|承《うけたま》はります。テーナ|姫《ひめ》は、|二三ケ月《にさんかげつ》の|間《あひだ》、|館《やかた》の|門《もん》を|潜《くぐ》つたことはありませぬ。そりや|何《なに》かの|間違《まちが》ひか、|但《ただし》は|何者《なにもの》かの|計画《けいくわく》で|厭《にせ》テーナ|姫《ひめ》が|貴女《あなた》を|苦《くる》しめるべく|参《まゐ》つたのでせう。|左様《さやう》なことを|仰《あふ》せらるるからは、キツト|貴女《あなた》も|此《この》|右守《うもり》がテーナと|腹《はら》を|合《あは》せ、|善《よ》からぬ|事《こと》を|企《たく》んで|居《ゐ》ると|思《おも》はれるでせう。これはこれは|近頃《ちかごろ》|大変《たいへん》な|迷惑《めいわく》、どうぞ|神直日《かむなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し、|疑《うたがひ》を|晴《は》らして|下《くだ》さいませ』
『あの|白々《しらじら》しい|右守殿《うもりどの》の|言葉《ことば》、|妾《わらは》はテーナ|殿《どの》の|顔《かほ》をよく|見知《みし》つて|居《ゐ》るから、|疑《うたがひ》が|晴《は》らしたくば|此処《ここ》へテーナ|殿《どの》を|連《つ》れて|来《き》なさい』
『ハイ、|何時《なんどき》でも|連《つ》れて|参《まゐ》るのが|本意《ほんい》で|御座《ござ》いますが、|昨夜《さくや》より|急病《きふびやう》が|起《おこ》り|大変《たいへん》|苦《くる》しんで|居《ゐ》るから、|本復《ほんぷく》|次第《しだい》お|目《め》に|懸《かか》らせませう』
『|妾《わらは》は|其方《そなた》に|対《たい》し|厚《あつ》くお|礼《れい》を|申上《まをしあ》げねばならぬ|事《こと》がある。|右守殿《うもりどの》、|決《けつ》してお|忘《わす》れではありますまいなア』
『これは|又《また》、|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬお|言葉《ことば》、|貴女様《あなたさま》にお|礼《れい》を|云《い》うて|頂《いただ》くやうな|事《こと》は|致《いた》した|覚《おぼ》えは|厶《ござ》いませぬがなア』
『オホヽヽヽ、|右守殿《うもりどの》も|年《とし》が|寄《よ》つたと|見《み》えて|健忘症《けんばうしやう》になられましたなア。|妾《わらは》は|親《おや》と|親《おや》との|許嫁《いひなづけ》でセーラン|王様《わうさま》と|夫婦《ふうふ》と|定《きま》つて|居《ゐ》たのを、|其方《そなた》は|御親切《ごしんせつ》にも|妾《わらは》をテルマン|国《ごく》の|毘舎《びしや》の|館《やかた》へ|無理《むり》に|追《お》ひやり、|吾《わが》|娘《むすめ》サマリー|様《さま》を|王《わう》の|妃《きさき》に|押《お》しつけなさいましたでせう。|其《その》|時《とき》の|妾《わらは》の|嬉《うれ》しさ、|否《いや》|腹立《はらだち》たしさ、これがどうして|寝《ね》ても|醒《さ》めても|忘《わす》れられませうぞいなア』
と|甲声《かんごゑ》を|張《は》り|上《あ》げて|呶鳴《どな》りつけた。
『|貴女《あなた》は、|一切《いつさい》の|経緯《いきさつ》を|御存《ごぞん》じないから、|左様《さやう》な|御立腹《ごりつぷく》をなさいますが、これには|深《ふか》い|様子《やうす》のあることで|厶《ござ》います。セーラン|王様《わうさま》や|左守《さもり》の|司《かみ》クーリンスは|大黒主《おほくろぬし》の|神様《かみさま》に|内々《ないない》|反対《はんたい》なされ、|鬼熊別《おにくまわけ》|様《さま》の|御贔屓《ごひいき》ばかり|遊《あそ》ばすと|云《い》ふことがハルナの|都《みやこ》に|知《し》れ|渡《わた》り、この|右守《うもり》に|対《たい》して|厳《きび》しい|御質問《ごしつもん》、お|家《いへ》の|一大事《いちだいじ》を|思《おも》ひ、イルナの|国《くに》を|救《すく》ふべく、また|王様《わうさま》を|安全《あんぜん》に|守《まも》るべく、|貴女《あなた》にはお|気《き》の|毒《どく》ながら、あゝいふ|手段《しゆだん》を|取《と》つたのです。さうして|吾《わが》|娘《むすめ》サマリー|姫《ひめ》を|妃《きさき》に|差《さ》し|上《あ》げたのも、|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》に|安心《あんしん》させる|為《ため》の|安全弁《あんぜんべん》、|何卒《どうぞ》この|右守《うもり》の|胸中《きようちう》を|御推察《ごすゐさつ》あらむ|事《こと》を|希望《きばう》|致《いた》します』
『あゝさうだつたかなア。|右守司《うもりつかさ》の|六韜三略《りくたうさんりやく》の|兵法《へいはふ》をも|知《し》らず、|貴方《そなた》を|今迄《いままで》|恨《うら》んで|居《ゐ》たのは|誠《まこと》にもつて|恥《はづ》かしい、|女《をんな》の|身《み》の|浅薄《あさはか》さ、それでは|妾《わらは》も|是《これ》から|再《ふたた》び|此処《ここ》を|立《た》ち|出《い》で、サマリー|姫様《ひめさま》のお|邪魔《じやま》をしないやうに|致《いた》しますから、|御安心《ごあんしん》なさいませ』
『|貴女《あなた》はこれからテルマン|国《ごく》のシヤールの|館《やかた》へ|帰《かへ》つて|下《くだ》さいますか。さう|願《ねが》へれば|大変《たいへん》|結構《けつこう》で|厶《ござ》いますが』
『そりや|真平《まつぴら》|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りませう。|又《また》してもギス|籠《かご》の|中《なか》へ|投込《なげこ》まれますと、|叩《たた》き|潰《つぶ》して|出《で》て|来《こ》ねばなりませぬからなア、ホヽヽヽヽ』
『キツト|此《この》|右守《うもり》が|保護《ほご》|致《いた》しまして|左様《さやう》な|不心得《ふこころえ》な|事《こと》は、シヤールに|厳命《げんめい》して|致《いた》させませぬから、どうぞお|帰《かへ》り|遊《あそ》ばして|下《くだ》さい。さうして|貴女《あなた》は|王様《わうさま》にお|会《あ》ひになりましたか』
『|折角《せつかく》お|目《め》にかからうと|思《おも》ひ、|遥々《はるばる》|虎口《ここう》を|遁《のが》れ、【ここう】|迄《まで》やつて|来《き》ました|所《ところ》、|拍子《ひやうし》の|悪《わる》い|時《とき》には|悪《わる》いものです。|王様《わうさま》は|俄《にはか》の|大病《たいびやう》でお|引《ひ》き|籠《こも》り|遊《あそ》ばし、|何人《なんぴと》にも|面会《めんくわい》せないとのこと、|妾《わらは》の|心《こころ》もちつとは|推量《すゐりやう》して|下《くだ》さいませ、|右守《うもり》|殿《どの》』
と|態《わざ》とに|泣声《なきごゑ》を|出《だ》して|芝居《しばゐ》をして|見《み》せた。
カールチンは|威丈高《ゐたけだか》になり、
『|王様《わうさま》が|御面会《ごめんくわい》せぬと|仰有《おつしや》るのに、|貴女《あなた》は|御命令《ごめいれい》に|背《そむ》き、たつて|会《あ》はうと|遊《あそ》ばすのか、|何《なん》と|云《い》ふ|不届《ふとど》きな|御心《おこころ》で|厶《ござ》る。|今日《けふ》は|右守《うもり》の|司《つかさ》、|王様《わうさま》に|代《かは》つてヤスダラ|姫《ひめ》を|放逐《はうちく》|致《いた》すから、サ|早《はや》くお|立《た》ち|召《め》され』
『セーラン|王《わう》の|許嫁《いひなづけ》の|誠《まこと》の|妻《つま》ヤスダラ|姫《ひめ》、|今日《けふ》より|汝《なんぢ》|右守《うもり》に|対《たい》して|退職《たいしよく》を|命《めい》ずる。エヽ|汚《けが》らはしい、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|退城《たいじやう》|召《め》され』
『これはしたり、ヤスダラ|姫《ひめ》は|狂気《きやうき》|召《め》されたなア。|狂人《きやうじん》をお|館《やかた》へ|置《お》くは|危険《きけん》|千万《せんばん》、|火《ひ》の|用心《ようじん》の|程《ほど》も|案《あん》ぜらるる。イヤ、マンモス、ユーフテス、|速《すみやか》にヤスダラ|姫《ひめ》を|捕縛《ほばく》して|座敷牢《ざしきろう》にぶち|込《こ》み|御静養《ごせいやう》をさせ|奉《たてまつ》れ。|彼様《かやう》な|事《こと》が|外部《ぐわいぶ》に|洩《も》れては|王様《わうさま》の|御信用《ごしんよう》に|関《くわん》する|一大事《いちだいじ》だから』
『アイヤ、ヤスダラ|姫《ひめ》が|命令《めいれい》する。ユーフテス、マンモス、セーリス|姫《ひめ》、|速《すみやか》にカールチンを|高手小手《たかてこて》に|縛《いまし》め|牢獄《らうごく》に|投入《とうにふ》せよ。|主《しゆ》に|向《むか》つて|無礼千万《ぶれいせんばん》の|行《や》り|方《かた》、|容赦《ようしや》はならぬぞ。セーラン|王《わう》に|代《かは》り|固《かた》く|申《まを》しつくる』
マンモスは|途方《とはう》に|暮《く》れながら、
『オイ、ユーフテス、どちらを|聞《き》いたらよいのだらうかなア』
セーリス|姫《ひめ》は、
『オホヽヽヽ。|一層《いつそう》の|事《こと》どちらも|牢獄《らうごく》に|投《な》げ|込《こ》んだらどうでせう。|喧嘩《けんくわ》|両成敗《りやうせいばい》と|云《い》ふから、まさか|片手落《かたておち》ちの|処置《しよち》も|取《と》れますまい』
『マンモス、ユーフテス、|主人《しゆじん》カールチンの|命令《めいれい》を|聞《き》かぬか』
『ハイハイ、|聞《き》かぬ|訳《わけ》では|厶《ござ》いませぬ、|一寸《ちよつと》|暫《しばら》くお|待《ま》ち|下《くだ》さいませ。マンモスは|俄《にはか》に|便所《べんじよ》へ|行《ゆ》きたくなりましたから』
『ユーフテス、|早《はや》く|捕縛《ほばく》せぬか』
『ハイ、|捕縛《ほばく》|致《いた》しませう、|併《しか》し|一《ひと》つ|考《かんが》へさして|下《くだ》さいませ。セーリス|姫様《ひめさま》に|篤《とく》と|相談《さうだん》を|致《いた》しますから』
『オホヽヽヽ、このヤスダラ|姫《ひめ》に|指一本《ゆびいつぽん》でも|触《さ》へるなら|触《さ》へて|御覧《ごらん》、|面白《おもしろ》い|活劇《くわつげき》が|演《えん》ぜられ、|手足《てあし》|首《くび》|胴《どう》|所《ところ》を|異《こと》にし、|小児《こども》のお|玩具箱《おもちやばこ》の|人形《にんぎやう》のやうになりますよ。それでも|構《かま》はねば|何人《なんぴと》に|限《かぎ》らず|手向《てむか》ひして|御覧《ごらん》』
|右守《うもり》の|司《かみ》は|眼《め》を|瞋《いか》らし、|清照姫《きよてるひめ》を|睨《ね》めつけて|居《ゐ》る。マンモスはブルブルブルと|地震《ぢしん》の|孫《まご》|宜《よろ》しく|慄《ふる》へて|居《ゐ》る。セーリス|姫《ひめ》、ユーフテスは|平然《へいぜん》として|沈黙《ちんもく》を|続《つづ》けてゐる。|其処《そこ》へスタスタ|駆《かけ》つて|来《き》たのはサマリー|姫《ひめ》である。
『ヤアお|前《まへ》はサマリー|姫《ひめ》、こんな|処《ところ》へ|来《く》るものでない、|控《ひか》へて|居《ゐ》なさい。|何故《なぜ》|家《うち》に|居《ゐ》ないのか、|誰人《だれ》に|聞《き》いてやつて|来《き》たのだ』
『|父上《ちちうへ》、そんな|気楽《きらく》なことが|云《い》うて|居《を》れますか。|王様《わうさま》は|御大病《ごたいびやう》、|妻《つま》の|私《わたし》として、どうして|知《し》らぬ|顔《かほ》がして|居《を》られませう』
『|其方《そなた》は|此《この》|間《あひだ》から|夫婦喧嘩《ふうふげんくわ》をおつ|始《ぱじ》め、|未《ま》だ|其《その》|和解《わかい》も|出来《でき》て|居《ゐ》ないのだから、|話《はなし》のつく|迄《まで》|早《はや》く|吾《わが》|館《やかた》へ|帰《かへ》つて|待《ま》つて|居《ゐ》るがよからうぞよ』
『ヤア|珍《めづ》らしや|其方《そなた》はサマリー|姫《ひめ》|殿《どの》、|妾《わらは》は|其方《そなた》の|為《ため》に|許嫁《いひなづけ》の|夫《をつと》に|添《そ》ふ|事《こと》も|出来《でき》ず、テルマンの|国《くに》に|追《お》ひやられたヤスダラ|姫《ひめ》で|厶《ござ》いますぞ。|日頃《ひごろ》の|恨《うらみ》を|晴《は》らすは|今《いま》|此《この》|時《とき》、よい|処《ところ》へ|出《で》て|厶《ござ》つた。サア|覚悟《かくご》なされ』
と|襷《たすき》|十字《じふじ》に|綾取《あやど》つて|見《み》せた。サマリー|姫《ひめ》は|打《う》ち|驚《おどろ》き、カールチンの|腰《こし》に|喰《くら》ひつき、ぶるぶる|慄《ふる》へながら、
『もしもしお|父様《とうさま》、どうしませう、|助《たす》けて|下《くだ》さいませな』
『ウン|今《いま》に|待《ま》て、ヤスダラ|姫《ひめ》をふん|縛《じば》つて、|其方《そなた》の|邪魔《じやま》を|除《のぞ》いてやるから』
と|云《い》ひつつ、|懐中《ふところ》より|呼子《よびこ》の|笛《ふえ》を|取《と》り|出《だ》し、ヒユウヒユウと|吹《ふ》き|立《た》つれば、|忽《たちま》ち|十数人《じふすうにん》の|捕手《とりて》、バラバラバラと|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|清照姫《きよてるひめ》に|向《むか》つて|武者振《むしやぶ》りつくを、|清照姫《きよてるひめ》は|両手《りやうて》を|拡《ひろ》げ|四股《しこ》を|踏《ふ》みしめながら、
『イヤ|面白《おもしろ》し|面白《おもしろ》し、ヤスダラ|姫《ひめ》が|武勇《ぶゆう》の|現《あら》はし|時《どき》、|木端武者《こつぱむしや》|共《ども》、|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|懲《こら》してくれむ。サア|来《こ》い|来《きた》れ』
と|身構《みがま》へする。|美人《びじん》の|雄々《をを》しき|権幕《けんまく》に|捕手《とりて》は|茫然《ばうぜん》として|手出《てだ》しもせず|遠巻《とほまき》に|巻《ま》いて|居《ゐ》る。|次《つぎ》の|間《ま》より|戸《と》を|隔《へだ》ててセーラン|王《わう》の|声《こゑ》、
『アイヤ|右守《うもり》の|司《つかさ》、|吾《われ》はセーラン|王《わう》なるぞ。サマリー|姫《ひめ》|静《しづ》かにせよ。ヤスダラ|姫《ひめ》に|向《むか》つて|手向《てむか》ひ|致《いた》せば、|最早《もはや》|吾《われ》は|許《ゆる》さぬぞよ。サマリー|姫《ひめ》、|吾《わが》|言《げん》を|用《もち》ひずば|唯今《ただいま》|限《かぎ》り|夫婦《ふうふ》の|縁《えん》を|切《き》る。それでもよいか』
と|呶鳴《どな》つたのは、|云《い》ふまでもなく、|隣室《りんしつ》に|隠《かく》れて|居《ゐ》た|黄金姫《わうごんひめ》の|作《つく》り|声《ごゑ》である。カールチンは|王《わう》の|声《こゑ》としては|少《すこ》し|年《とし》が|寄《よ》つて|居《ゐ》るやうである。|併《しか》し|病気《びやうき》のため|体《からだ》が|弱《よわ》り|声《こゑ》が|慄《ふる》うて|居《ゐ》るのであらうと|心《こころ》にきめて|了《しま》ひ、|俄《にはか》に|言葉《ことば》を|柔《やはら》げて、
『|御病気中《ごびやうきちう》をお|気《き》を|揉《も》ましまして|誠《まこと》に|済《す》みませぬ。|何卒《どうぞ》お|許《ゆる》しを|願《ねが》ひます』
『|王様《わうさま》、どうぞ|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
とサマリー|姫《ひめ》は|泣《な》きすする。
『|王様《わうさま》、|妾《わらは》はテルマン|国《ごく》から|貴方《あなた》を|慕《した》ひ|申《まを》し|遥々《はるばる》|参《まゐ》りました|許嫁《いひなづけ》の|妻《つま》、ヤスダラ|姫《ひめ》で|厶《ござ》います。|何卒《どうぞ》サマリー|姫《ひめ》との|縁《えん》を|切《き》り、|私《わたし》を|貴方《あなた》の|妻《つま》として|下《くだ》さいませ。さうしてどうぞ|一度《ひとたび》|尊《たふと》きお|顔《かほ》を|拝《をが》まして|下《くだ》さいませ』
と|態《わざ》と|涙《なみだ》を|流《なが》しさし|俯《うつむ》く。
|次《つぎ》の|間《ま》より|又《また》もや|王《わう》の|作《つく》り|声《ごゑ》にて、
『バラモン|教《けう》の|大棟梁《だいとうりやう》|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》は、|一夫多妻《いつぷたさい》|主義《しゆぎ》だ。|先《せん》の|妻《つま》を|逐出《おひだ》して|第二《だいに》の|石生能姫《いそのひめ》を|本妻《ほんさい》に|遊《あそ》ばし、|吾々《われわれ》に|手本《てほん》をお|示《しめ》し|下《くだ》さつた|以上《いじやう》は|何《なに》も|憚《はばか》る|事《こと》はない。サマリー|姫《ひめ》を|元《もと》の|如《ごと》く|本妻《ほんさい》と|致《いた》し、ヤスダラ|姫《ひめ》は|第二《だいに》|夫人《ふじん》として|上女中《かみぢよちう》の|取締《とりしま》りに|使《つか》うてやるから|安心《あんしん》を|致《いた》せ。|右守《うもり》の|司《つかさ》も、これに|違背《ゐはい》はあるまいがなア』
『ハイ、|理義《りぎ》|明白《めいはく》なる|御仰《おんあふ》せ、|決《けつ》して|違背《ゐはい》は|致《いた》しませぬ。サマリー|姫《ひめ》をどこ|迄《まで》も|本妻《ほんさい》として|愛《あい》してやつて|下《くだ》さいますか』
|次《つぎ》の|間《ま》より|王《わう》の|声《こゑ》、
『サマリー|姫《ひめ》の|心次第《こころしだい》だ。|次《つい》では|右守《うもり》の|司《つかさ》の|改心《かいしん》|次第《しだい》だ。|最早《もはや》|余《よ》も|刹帝利《せつていり》の|職《しよく》に|飽《あ》き|果《は》てたから、ここ|一二ケ月《いちにかげつ》の|間《あひだ》に|吾《わが》|位《くらゐ》を|汝《なんぢ》に|譲《ゆづ》る|程《ほど》に、|早《はや》くサマリー|姫《ひめ》を|連《つ》れ|帰《かへ》り、|余《よ》が|本復《ほんぷく》を|待《ま》つて|改《あらた》めて|登城《とじやう》|致《いた》すがよからう。|又《また》ヤスダラ|姫《ひめ》も、サマリー|姫《ひめ》に|余《よ》が|面会《めんくわい》するまでは|面会《めんくわい》は|許《ゆる》さぬぞ。さう|心得《こころえ》たらよからう。コンコンコン、あゝ|苦《くる》しい、|余《よ》は|咳《せき》に|悩《なや》んで|居《を》るから、|病気《びやうき》|本復《ほんぷく》する|迄《まで》|神殿《しんでん》に|籠《こも》り|御祈願《ごきぐわん》を|凝《こ》らすによつて、|右守殿《うもりどの》、|余《よ》が|後《あと》を|継《つ》ぐ|用意《ようい》を|万事《ばんじ》|万端《ばんたん》|館《やかた》に|帰《かへ》つて|整《ととの》へたがよからうぞ』
|右守《うもり》は|此《この》|言葉《ことば》を|聞《き》いて|雀躍《こをどり》しながら、
『ハイ|何分《なにぶん》|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|申《まを》します。|然《しか》らばサマリー|姫《ひめ》を|一先《ひとま》づ|吾《わが》|家《や》に|連《つ》れ|帰《かへ》り|本復《ほんぷく》を|待《ま》つて|登城《とじやう》|致《いた》させませう。|何卒《なにとぞ》|一日《いちにち》も|早《はや》く|御本復《ごほんぷく》あらむ|事《こと》をお|願《ねが》ひ|申《まを》します。サア、サマリー|姫《ひめ》、マンモス、|是《これ》より|館《やかた》へ|帰《かへ》らう。ヤア|者《もの》|共《ども》、|余《よ》を|館《やかた》へ|送《おく》つて|参《まゐ》れ。ユーフテス、|汝《なんぢ》はセーリス|姫《ひめ》と|共《とも》に|此処《ここ》に|止《とど》まり|万事《ばんじ》に|気《き》をつけ|召《め》され』
と|云《い》ひ|捨《す》て|意気《いき》|揚々《やうやう》と|己《おの》が|館《やかた》をさしてドヤドヤと|帰《かへ》り|往《ゆ》く。
|其《その》|後《あと》へ|黄金姫《わうごんひめ》は|戸《と》を|排《はい》して|現《あら》はれ|来《きた》り、|清照姫《きよてるひめ》、セーリス|姫《ひめ》ユーフテスと|顔《かほ》を|見合《みあは》せ、
『オホヽヽヽ、ウフヽヽヽ、エヘヽヽヽ、アハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|倒《こ》ける。|日《ひ》は|漸《やうや》く|西天《せいてん》に|姿《すがた》を|没《ぼつ》し、|双樹《さうじゆ》の|枝《えだ》に|止《とま》つた|九官鳥《からす》は|大口《おほぐち》を|開《あ》けて、|阿呆《あはう》|々々《あはう》と|鳴《な》き|立《た》てて|居《ゐ》る。
(大正一一・一一・一二 旧九・二四 加藤明子録)
第一九章 |当《あ》て|飲《の》み〔一一二三〕
イルナ|川《がは》の|清流《せいりう》の|一部《いちぶ》をとり|込《こ》んだ|泉水《せんすゐ》の|中《なか》に|瀟洒《せうしや》たる|茶室《ちやしつ》が|建《た》つている。これは|右守《うもり》の|館《やかた》で、|今朝《けさ》は|早朝《さうてう》よりカールチン、テーナ|姫《ひめ》、マンモス、サモア|姫《ひめ》、ユーフテスの|幹部連《かんぶれん》、|願望《ぐわんまう》|成就《じやうじゆ》の|前祝《まへいはひ》として|盛《さかん》に|酒《さけ》|酌《く》み|交《かは》し|浩然《こうぜん》の|気《き》を|養《やしな》つてゐる。カールチンはテーナ|姫《ひめ》、サモア|姫《ひめ》に|盛《も》り|潰《つぶ》され、|王者《わうじや》|気取《きど》りになつて|豪然《がうぜん》と|腹《はら》の|中《なか》の|泥《どろ》を|人《ひと》もなげに|吹《ふ》き|立《た》て|出《だ》した。
カールチンはまはらぬ|舌《した》を、|顔《かほ》を|顰《しか》めて|無理《むり》に|使《つか》ひながら、
(|酔泥《よひどれ》|口調《くてう》)『オイ|婆《ば》アさま……ではない、|昔《むかし》の|別嬪《べつぴん》のテーナ|姫《ひめ》、|此《この》|方《はう》の|智略《ちりやく》は|偉《えら》いものだらう。まるで|久延毘古神《くえびこのかみ》か|思兼神《おもひかねのかみ》の|様《やう》な|神智鬼策《しんちきさく》が|臍下丹田《せいかたんでん》から|湧《わ》いて|来《く》るのだからのう、エーン、|此《この》|神《かみ》は|足《あし》は|歩《ある》かねども|天ケ下《あめがした》の|事《こと》は|悉《ことごと》く|知《し》る|神《かみ》なり、|奇魂千憑彦《くしみたまちよりひこ》の|命《みこと》の|再来《さいらい》とは|此《この》|方《はう》の|事《こと》だ、エーン。|今《いま》に|入那《いるな》の|国《くに》、テルマン|国《ごく》を|併合《へいがふ》して、|大王国《だいわうこく》を|建設《けんせつ》し、テーナ|姫《ひめ》でなくてテーナ|妃《ひ》と|改名《かいめい》さしてやる。|何《なん》と|婆《ば》アさま、|嬉《うれ》しいだらうなア。エーン』
『あまり|悲《かな》しいことも|厶《ござ》りませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら、さうなると|私《わたし》は|却《かへつ》て|悲《かな》しうなるかも|知《し》れませぬ。|一層《いつそう》|今《いま》の|身《み》の|上《うへ》の|方《はう》が|夫婦《ふうふ》|睦《むつま》じく|暮《くら》せますから、|何程《なにほど》|結構《けつこう》だか|分《わか》りますまい。|又《また》|大黒主《おほくろぬし》の|神様《かみさま》の|真似《まね》をして|糟糠《さうかう》の|妻《つま》を|無残《むざん》におつ|放《ぽ》り|出《だ》し、ヤスダラ|姫《ひめ》の|様《やう》な|美人《びじん》を|後釜《あとがま》に|据《す》ゑられちや、まるつきり|鳶《とび》に|揚豆腐《あげどうふ》を|浚《さら》はれた|様《やう》なものですからなア。|旦那様《だんなさま》は|性《しやう》が|悪《わる》いから|案《あん》じられてなりませぬわ』
『そりや|何《なに》を|吐《ぬか》すのだ。いやしくもバラモン|教《けう》の|道《みち》を|奉《ほう》ずる|善一筋《ぜんひとすぢ》の|此《この》|方《はう》、そんな|没義道《もぎだう》な|事《こと》を|致《いた》しては|其《その》|方《はう》に|済《す》まぬじやないか。いや|其《その》|方《はう》ばかりぢやない、|此《この》|方《はう》の|心《こころ》も|頓《とん》と|済《す》まないから、|滅多《めつた》にそんな|事《こと》はないから|安心《あんしん》をしたが|宜《よ》からうぞ、エーン。|折角《せつかく》|酒《さけ》がうまく|廻《まは》つた|所《ところ》へ、そんな|取越《とりこし》|苦労《くらう》を|云《い》つてくれると、サツパリ|興《きよう》が|醒《さ》めて|了《しま》ふぢやないか。エーン』
『それ|聞《き》いてチツトばかり|安心《あんしん》を|致《いた》しました。|貴方《あなた》に|限《かぎ》つて、そんな|事《こと》をなさる|筈《はず》はありませぬわネー。|初《はじ》めて|会《あ》うた|時《とき》、あなたは|何《なん》と|仰有《おつしや》いました。よもや|忘《わす》れては|居《を》られますまい』
『こりやこりや、|何《なに》を|云《い》ふか。そんな|事《こと》を|喋《しやべ》るとユーフテスやマンモス、サモアが|気《き》を|揉《も》んで|嫉妬《やきもち》をやき|居《を》るから、|昔《むかし》のローマンスはここらで、うまく|切《き》りとしたら|如何《どう》だ。エーン』
『|若《わか》い|時《とき》の|蜜《みつ》の|様《やう》な|恋《こひ》を|時々《ときどき》|思《おも》ひ|出《だ》すのも、あまり|気《き》の|悪《わる》いものじや|厶《ござ》りませぬぜ。|人間《にんげん》の|楽《たの》しみは|若《わか》い|時《とき》のローマンスを|時々《ときどき》|思《おも》ひ|出《だ》す|位《くらゐ》|愉快《ゆくわい》なものはありませぬ。それを|忘《わす》れちや|人生《じんせい》の|趣味《しゆみ》も|何《なに》もあつたものぢやありませぬわ』
とテーナ|姫《ひめ》も|酒《さけ》に|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れた|勢《いきほひ》で、|四辺《あたり》|構《かま》はず|昔《むかし》の|恋《こひ》を|喋《しやべ》り|立《た》てようとする。
『|何《なん》とまア、|旦那様《だんなさま》、|奥様《おくさま》も|面白《おもしろ》い|時《とき》があつたのですな。|一遍《いつぺん》|聞《き》かして|下《くだ》さいませな。|私《わたし》もセーリス|姫《ひめ》と|云《い》ふ|恋《こひ》しい|女《をんな》が|出来《でき》て|居《ゐ》るのですから、|研究《けんきう》のために|聞《き》かして|貰《もら》へば|大変《たいへん》|都合《つがふ》が|宜《よろ》しいがな。あゝあ、|二夫婦《ふたふうふ》に|一人鰥《ひとりやもめ》か、セーリス|姫《ひめ》も|気《き》が|利《き》かないわい。ほんの|一寸《ちよつと》でいいから|顔《かほ》なつとつき|出《だ》してくれると、ユーフテスの|肩身《かたみ》も|広《ひろ》くなるのだけれど、まだ|公然《こうぜん》の|夫婦《ふうふ》でないから|仕方《しかた》ない。|先《さき》の|楽《たの》しみとしようかな、エーン』
『こりやこりやユーフテス、エーンとは|何《なん》ぢや。|俺《おれ》のお|株《かぶ》を|占領《せんりやう》しやがつて、|誰《たれ》に|断《ことわ》つて|其《その》エーンを|盗《ぬす》んだか、エーン』
『|別《べつ》に|盗《ぬす》んだのぢや|厶《ござ》いませぬ。あまり|沢山《たくさん》に|旦那様《だんなさま》がエーンを|落《おと》しなさるものですから、|一寸《ちよつと》|私《わたし》が|拾《ひろ》つたので|厶《ござ》りますよ。|一時《いつとき》も|早《はや》くセーリス|姫《ひめ》とエーンを|結《むす》びたう|厶《ござ》りますわい、エーン』
『オホヽヽヽヽ、エーンエーンの|掛合《かけあひ》だなア。チツトはエーン|慮《りよ》したら|如何《どう》だい。エーンと|月日《つきひ》は|待《ま》つがよいと|云《い》ふぢやありませぬか。エーンはテーナ』
『|何《なん》と|云《い》つても、|恋《こひ》の|情火《じやうくわ》にこがされて、|胸《むね》に|焔《ほのほ》がエーンエーンと|燃《も》え|立《た》ちますわい。|貴方《あなた》たちは、さうして|夫婦《ふうふ》|仲《なか》よく|笑《わら》つたり、|意茶《いちや》ついたりして|居《ゐ》ながら、まだ|未婚者《みこんしや》のユーフテスを|気《き》の|毒《どく》なとも、|可愛相《かあいさう》なとも|思《おも》はず、「お|前《まへ》のエーン|談《だん》|等《など》は|吾不関《われかんせず》エーン」と|云《い》ふやうな|態度《たいど》でゐらつしやいますから、つい|私《わたし》もエーン|世《せい》|主義《しゆぎ》になりかけは………しませぬわい』
『|何《なに》は|兎《と》もあれ、こんな|目出度《めでた》い|事《こと》はないぢやありませぬか。マンモスは|一日《いちにち》も|早《はや》く|成功《せいこう》の|日《ひ》を|見《み》たいもので|厶《ござ》りますなア』
『|成功《せいこう》の|日《ひ》は|已《すで》に|見《み》えてゐるぢやないか。|現《げん》にセーラン|王様《わうさま》が|右守《うもり》さまに|位《くらゐ》を|譲《ゆづ》つてやらうと|仰有《おつしや》つたぢやないか。|王者《わうじや》の|言葉《ことば》に|決《けつ》して|二言《にごん》はあるまい。これと|云《い》ふのもヤツパリ|旦那様《だんなさま》が|器量《きりやう》の|佳《よ》い|賢明《けんめい》なお|娘様《むすめさま》をお|持《も》ちなさつたからだ。あゝあ、|持《も》つべきものは|娘《むすめ》なりけりだ。ユーフテスも|早《はや》くセーリス|姫《ひめ》と|結婚《けつこん》して|美《うつく》しい|傾国《けいこく》の|娘《むすめ》を|生《う》み、|老後《らうご》を|楽《たの》しみたいものだわい、アーン』
『こりやこりやユーフテス、アーンなんて|吐《ぬか》すとサツパリ|貴様《きさま》の|縁談《えんだん》はアーンになつて|了《しま》ふぞ、アーン』
ユーフテス『こりやマンモス、|茶々《ちやちや》を|入《い》れるのか、|入《い》れるなら|入《い》れて|見《み》い。|俺《おれ》にも|了簡《れうけん》があるぞ』
『この|国《くに》は|茶々《ちやちや》が|名物《めいぶつ》だ。|碾茶《ひきちや》なつと|煎茶《せんちや》なつと|盛《も》つてやらうか。チヤチヤ ヤートコセ、ママチートコセ、セーリス|姫《ひめ》さまに、うまく【ちよろまか】されて、|終《しま》ひの|果《は》てには|肱鉄砲《ひぢでつぱう》、|日頃《ひごろ》の|思《おも》ひも|滅茶苦茶《めちやくちや》、|蜥蜴《とかげ》の|様《やう》な|面《つら》をして、あんなシヤンに|秋波《しうは》を|送《おく》るなんて、チヤンチヤラをかしい。しまひの|果《は》てにやチヤツチヤ、ムチヤに|此《この》|縁談《えんだん》は|揉《も》み|潰《つぶ》されて|了《しま》ふぞ。そんな|事《こと》は|此《この》マンモスの|天眼通《てんがんつう》でチヤーンと|分《わか》つて|居《ゐ》るのだ、エーン』
サモア『オホヽヽヽヽ|今日《けふ》はまア、|何《なん》とした|面白《おもしろ》い|日《ひ》でせう』
『おい、|貴様《きさま》|達《たち》、|今日《けふ》は|右守《うもり》の|祝宴《しゆくえん》だから、|何《なん》なつと|喋《しやべ》つたが|宜《よ》いが、もう|一二ケ月《いちにかげつ》すると|俺《おれ》は|刹帝利様《せつていりさま》だから、こんな|気楽《きらく》な|事《こと》は|出来《でき》ないぞ。|其《その》|位《くらゐ》の|事《こと》は|貴様《きさま》も|弁《わきま》へて|居《ゐ》るだらうな、エーン』
『そりや|弁《わきま》へて|居《ゐ》ますとも、このユーフテスは。|併《しか》し|貴方《あなた》だつて、あまり|良《よ》くない|事《こと》を|考《かんが》へてゐなさるのだから、|何《いづ》れどちらへなりと|埒《らち》がつきませうかい、アーン』
『こりやこりや、|善《よ》くない|事《こと》とは|何《なん》だ。チツと|無礼《ぶれい》ではないか、エーン』
『|貴方《あなた》は|寡慾恬淡《くわよくてんたん》な、チツとも|慾《よく》のないお|方《かた》と|云《い》つたのですよ。|凡《すべ》て|世《よ》の|中《なか》は|捉《とら》まへやうとすれば、|捉《とら》へられぬものです。|旦那様《だんなさま》は|万事《ばんじ》にかけて|抜《ぬ》け|目《め》なく、よくない|方《かた》だから|王様《わうさま》の|方《はう》から|昨日《きのふ》の|様《やう》にあんな|結構《けつこう》なことを|仰有《おつしや》るので|厶《ござ》りますわい。これを|思《おも》へば|時節《じせつ》は|待《ま》たねばならぬものですな。(|都々逸《どどいつ》)「|時世時節《ときよじせつ》の|力《ちから》と|云《い》へど、よくないお|方《かた》が|王《わう》となる」あゝヨイトセ ヨイトセぢや。おいマンモス、|貴様《きさま》も|一《ひと》つ|前祝《まへいはひ》に|歌《うた》はぬかい。|大蛇《をろち》の|子《こ》のやうにグイグイ|飲《の》んでばかり|居《ゐ》やがつて、|何《なん》の|態《ざま》だ。チとコケコーでも|唄《うた》つたら|如何《どう》だい、アーン』
マンモスは|鹿爪《しかつめ》らしく、
『|飲《の》む|時《とき》には|飲《の》む、|遊《あそ》ぶ|時《とき》には|遊《あそ》ぶ。|然《しか》り|而《しか》うして|聊《いささ》か|以《もつ》て|唄《うた》ふべき|時《とき》には|唄《うた》ふのだ。|俺《おれ》も|若《わか》い|時《とき》や、|千軍万馬《せんぐんばんば》の|中《なか》を|往来《わうらい》して|来《き》た|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》……ではない、|其《その》|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》の……|伝記《でんき》を|読《よ》んで、チツとばかり|感化力《かんくわりよく》を|養《やしな》ふ……たと|云《い》ふチーチヤーさまだからな、エーン。|貴様《きさま》の|如《ごと》き|燕雀輩《えんじやくはい》の|敢《あへ》て|窺知《きち》する|所《ところ》に|非《あら》ずだ。(|詩吟《しぎん》)「|月《つき》は|中空《ちうくう》に|皎々《かうかう》として|輝《かがや》き|渡《わた》り、マンモスは|悠々《いういう》として|酒杯《しゆはい》に|浸《ひた》る。|月影《げつえい》|映《うつ》す|杯洗《はいせん》の|中《なか》、|絶世《ぜつせい》の|美人《びじん》|吾《わが》|傍《かたはら》に|在《あ》り」とは|如何《どう》だ、うまいだらう。|俺《おれ》の|詩歌《しか》は|而《しか》も|特別《とくべつ》|誂《あつら》へだからなア、エーン』
『|貴様《きさま》の【|詩歌《しか》】はカイローカイローと|紅葉林《もみぢばやし》で|四足《よつあし》の|女房《にようばう》を|呼《よ》ぶ|先生《せんせい》の|声《こゑ》によく|似《に》て|居《ゐ》るわ。オツとそのカイローで|思《おも》ひ|出《だ》した、|俺《おれ》も|早《はや》くセー【チヤン】と|偕老同穴《かいらうどうけつ》の|契《ちぎり》を|結《むす》びたいものだ。|貴様《きさま》のやうなシヤツチもない【|詩歌《しか》】を|呻《うな》ると|気分《きぶん》が|悪《わる》うなつてくるわい。シカのシは【|死人《しにん》】の【|死《し》】だらうよ。もつと|生命《せいめい》のある|歌《うた》を|歌《うた》つたら|如何《どう》だい、アーン』
マンモスは|咳《せき》|一《ひと》つしながら、
『|詩歌《しか》の|詩《し》の|字《じ》は|言扁《ごんべん》に|寺《てら》と|云《い》ふ|字《じ》を|書《か》くぢやないか。|死人《しにん》の|納《をさ》まる|所《ところ》は|寺《てら》だよ』
ユーフテス『ヘーン、うまいこと|云《い》ふ【|寺《てら》】あ、|墓々死《ばかばかし》いことをユーフテスぢやないか、マンモス|奴《め》』
かく|管《くだ》を|巻《ま》く|処《ところ》へスタスタとやつて|来《き》た|一人《ひとり》の|男《をとこ》、|一通《いつつう》の|手紙《てがみ》を|差出《さしだ》し、
『|旦那様《だんなさま》、ハルナの|都《みやこ》から|急《いそ》ぎの|使《つかひ》が|此《この》|手紙《てがみ》を|持《も》つて|参《まゐ》りました』
と|恭《うやうや》しく|差出《さしだ》すを、カールチンは|酔眼《すゐがん》をカツと|見開《みひら》き、|手紙《てがみ》を|手早《てばや》く|受取《うけと》り|封《ふう》を|押切《おしき》つて|文面《ぶんめん》に|目《め》をそそぎ、
『エ、|何《なに》、むつかしい|文字《もじ》が|書《か》いてあるぞ、|何《なん》だかよく|動《うご》く|文面《ぶんめん》だなア。|二筋《ふたすぢ》にも|三筋《みすぢ》にも、|素麺《そうめん》の|行列《ぎやうれつ》のやうに|文字《もじ》が|活躍《くわつやく》してゐるわい。こりやヤツパリ|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|御筆蹟《ごひつせき》と|見《み》える、|活神様《いきがみさま》のお|筆《ふで》は|違《ちが》つたものだ。ようよう|益々《ますます》|活動《くわつどう》し|出《だ》したぞ』
と|目《め》をちらつかせ|手《て》を|震《ふる》はせ、|読《よ》まうとすれども|如何《どう》しても|読《よ》む|事《こと》が|出来《でき》ない。
『おい、テーナ|姫《ひめ》、|貴様《きさま》|一《ひと》つ|読《よ》んで|呉《く》れないか。|非常《ひじやう》に|墨痕淋漓《ぼくこんりんり》として|竜《りう》の|走《は》するが|如《ごと》き|活《い》きた|文字《もじ》だから|何処《どこ》かへ|逃《に》げさうだ、エーン』
『ホヽヽヽヽ、どれ|妾《わたし》が|読《よ》んで|見《み》ませう』
と|手紙《てがみ》を|受取《うけと》り、
『エヽ……|此《この》|度《たび》|汝《なんぢ》の|願《ねがひ》により|騎馬《きば》の|軍卒《ぐんそつ》|二千騎《にせんき》|派遣《はけん》|致《いた》すべき|所《ところ》、|隣国《りんごく》のセイナに|暴動《ばうどう》|起《おこ》り、これを|急々《きふきふ》|鎮定《ちんてい》すべく、アルマンをして|之《これ》を|率《ひき》ゐしめ|征討《せいたう》に|向《むか》はせたれば、|汝《なんぢ》が|請願《せいぐわん》に|応《おう》じ|難《がた》し。|併《しか》し|乍《なが》ら|何時《いつ》|擾乱《ぜうらん》|鎮定《ちんてい》すとも|量《はか》り|難《がた》ければ、|五百騎《ごひやくき》を|急々《きふきふ》|汝《なんぢ》が|許《もと》に|派遣《はけん》すべければ、|万事《ばんじ》|万端《ばんたん》の|用意《ようい》あつて|然《しか》るべし。|右守《うもり》の|司《かみ》カールチンへ、|大黒主《おほくろぬし》|宣示《せんじ》……』
『よしよし、それで|解《わか》つた。|併《しか》しながら、|隣国《りんごく》に|騒動《さうだう》が|起《おこ》つて|居《ゐ》るにも|拘《かかは》らず、|五百騎《ごひやくき》を|派遣《はけん》|下《くだ》さるとは、よくもよくも|吾々《われわれ》を|信用《しんよう》して|下《くだ》さつたものだ、|実《じつ》に|有難《ありがた》い、|併《しか》しながら|最早《もはや》セーラン|王《わう》の|口《くち》から、あゝ|言《い》つたのだから、|戦《たたか》ひの|必要《ひつえう》もあるまい。|併《しか》し|何時《なんどき》|悪智慧《わるぢゑ》をかふ|奴《やつ》があつて|変心《へんしん》されるかも|知《し》れない。|其《その》|時《とき》の|用意《ようい》に|五百騎《ごひやくき》の|勇者《ゆうしや》があれば|何事《なにごと》も|都合《つがふ》よく|行《ゆ》くと|云《い》ふもの、まア|謹《つつし》んでお|受《う》けをする|事《こと》に|致《いた》さうかなア。おい、ユーフテス、お|前《まへ》は|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|使者《ししや》に|会《あ》つて|宜《よろ》しくお|礼《れい》を|申上《まをしあ》げて|呉《く》れ。|俺《おれ》が|直接《ちよくせつ》にお|目《め》にかかるのが|本意《ほんい》なれども、|斯《か》う|気楽《きらく》さうに|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れた|処《ところ》を|使者《ししや》に|見《み》られたら|大変《たいへん》だ。|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|信用《しんよう》を|落《おと》してはならないからなア』
と|稍《やや》|酔《よ》ひも|醒《さ》め、|少《すこ》しく|真面目《まじめ》になつて|宣示《せんじ》した。
『|委細《ゐさい》|承知《しようち》|致《いた》しました。|使者《ししや》に|接見《せつけん》するのは、|此《この》ユーフテスを|措《お》いて、|外《ほか》に|適当《てきたう》な|人物《じんぶつ》は|憚《はばか》りながら|厶《ござ》いますまい。|左様《さやう》なれば、|特命《とくめい》|全権《ぜんけん》|公使《こうし》として|接見《せつけん》|仕《つかまつ》らう。いや|吾々《われわれ》|一人《ひとり》では|全権《ぜんけん》|公使《こうし》の|貫目《くわんめ》が|足《た》らぬ。マンモス、お|供《とも》を|致《いた》せ、アーン』
『エー、|馬鹿《ばか》にしやがるない。|誰《たれ》が|貴様《きさま》の|下《した》について|行《ゆ》く|奴《やつ》があるかい。|此《この》マンモスは、これから|出世《しゆつせ》をせにやならぬ|体《からだ》だ。|使者《ししや》に|顔《かほ》を|見《み》られ……マンモスはユーフテスの|下役《したやく》ぢや……と|思《おも》はれちや、|将来《しやうらい》のため|大変《たいへん》な|不利益《ふりえき》だから、|利害《りがい》の|打算上《ださんじやう》から|見《み》て、まア|止《や》めて|置《お》かうかい、エーン』
カールチンは、
『あゝ|酔《よ》うた|酔《よ》うた、こんなヨタンボで|如何《どう》して|使者《ししや》に|接見《せつけん》が|出来《でき》ようか。|大自在天《だいじざいてん》|大国彦命《おほくにひこのみこと》、|守《まも》り|給《たま》へ|幸《さきは》へ|給《たま》へ、ゲーウツプ、ガラガラ ガラガラ。|余《あま》り|俄《にはか》のお|使《つかひ》で|腹《はら》の|虫《むし》|奴《め》が|清潔法《せいけつはふ》を|始《はじ》めやがつて、|飲《の》んだ|酒《さけ》までが|逆流《ぎやくりう》しだした。あゝ|苦《くる》しい|事《こと》だ。|苦《くる》しい|中《なか》にも|楽《たの》しみありだ。あゝあ、ユーフテス、うまく|使者《ししや》に|会《あ》うたら|内兜《うちかぶと》を|見透《みす》かされぬ|様《やう》にユーフテスとやるのだよ、エーン』
『|旦那様《だんなさま》、|左様《さやう》ならば|今日《こんにち》は|貴方《あなた》の|代理《だいり》として|使者《ししや》に|接見《せつけん》して|参《まゐ》ります。|宜《よろ》しう|厶《ござ》りますかな』
『よしよし、|貴様《きさま》に|全権《ぜんけん》を|委任《ゐにん》するから、そこはうまくやつて|来《こ》い』
『|左様《さやう》ならば、これより|得意《とくい》の|外交的《ぐわいかうてき》|手腕《しゆわん》を|揮《ふる》つて|見《み》せませう』
と|云《い》ひすててバタバタと|表《おもて》へ|駆《か》け|出《だ》した。ユーフテスは|他《た》の|四人《よにん》の|様《やう》に|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れては|居《ゐ》なかつた。セーリス|姫《ひめ》の|注意《ちゆうい》によつてカールチン|夫婦《ふうふ》の|凡《すべ》ての|行動《かうどう》を|視察《しさつ》するのが|第一《だいいち》の|目的《もくてき》だつたからである。ユーフテスは|表《おもて》へ|出《い》で|態《わざ》とにヒヨロリ ヒヨロリと|千鳥足《ちどりあし》になりながら、
(|酔《よ》ひどれ|口調《くてう》)『ハルナの|国《くに》の|大黒主《おほくろぬし》の|神様《かみさま》のお|使《つかひ》はドヽヽヽ|何処《どこ》にケヽヽヽけつかるのだ。|特命《とくめい》………|全権《ぜんけん》|公使《こうし》の………|俺《おれ》はユーフテスさまだぞ。|早《はや》く|此処《ここ》へ………|俺《おれ》の|前《まへ》へ|出《で》て|来《こ》ぬか、アーン』
|門番《もんばん》のケールは|此《この》|態《てい》を|見《み》て|走《はし》り|来《きた》り、
『もしもし、|御家老様《ごからうさま》、ハルナの|国《くに》のお|使《つかひ》はあの|手紙《てがみ》を|渡《わた》したきり、これからカルマタ|国《こく》へお|使《つかひ》に|行《ゆ》くと|云《い》つて「|一寸《ちよつと》お|待《ま》ち|下《くだ》され」と|云《い》ふのも|聞《き》かずに|馬《うま》に|鞭韃《むちう》ち|一目散《いちもくさん》に|帰《かへ》つて|了《しま》はれました。そんな|足許《あしもと》で|追掛《おひか》けても|駄目《だめ》ですよ』
『ナヽヽヽ|何《なん》だ、サツパリ|後《あと》の|祭《まつり》で|持《も》ちも|卸《おろ》しも|出来《でき》なくなつた。|併《しか》し|乍《なが》ら、これも|何《なに》かの|神様《かみさま》の|御都合《ごつがふ》だらう』
と|云《い》ひながらヒヨロリ ヒヨロリと|足許《あしもと》|危《あや》ふく|奥《おく》を|目《め》がけて|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・一一・一二 旧九・二四 北村隆光録)
第二〇章 |誘惑《いうわく》〔一一二四〕
セーリス|姫《ひめ》はイルナ|城《じやう》の|吾《わが》|居間《ゐま》に|一弦琴《いちげんきん》を|弾《だん》じて|居《ゐ》た。
『|天《あめ》と|地《つち》とを|造《つく》らしし  |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》は
|百《もも》の|神《かみ》|等《たち》|人々《ひとびと》の  |誠《まこと》の|親《おや》にましまして
|仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|神徳《しんとく》を  |遍《あまね》く|下《くだ》し|給《たま》ふなり
イルナの|城《しろ》は|日《ひ》に|月《つき》に  |八岐大蛇《やまたをろち》や|醜狐《しこぎつね》
|曲鬼《まがおに》|共《ども》の|蔓《はびこ》りて  |首陀《しゆだ》の|姓《せい》より|生《うま》れたる
|右守司《うもりつかさ》のカールチン  |鰻登《うなぎのぼ》りに|登《のぼ》りつめ
|驕《おご》り|傲《たか》ぶり|今《いま》ははや  セーラン|王《わう》の|御位《みくらゐ》を
|狽《ねら》ひ|居《を》るこそうたてけれ  イルナの|城《しろ》は|風前《ふうぜん》の
|今《いま》|灯火《ともしび》となりし|時《とき》  |救《すく》ひの|神《かみ》の|現《あ》れまして
|傾《かたむ》く|城《しろ》を|立直《たてなほ》し  セーラン|王《わう》の|身《み》の|上《うへ》を
|安《やす》く|守《まも》らせたまひつつ  |魔神《まがみ》の|頭上《づじやう》に|鉄鎚《てつつゐ》を
|下《くだ》させ|給《たま》ふ|時《とき》は|来《き》ぬ  あゝ|面白《おもしろ》し|面白《おもしろ》し
ヤスダラ|姫《ひめ》の|妹《いもうと》と  |生《うま》れあひたる|吾《われ》こそは
イルナの|城《しろ》の|太柱《ふとばしら》  |非道《ひだう》の|事《こと》とは|知《し》りながら
|魔神《まがみ》に|従《したが》ふユーフテス  |言葉《ことば》の|先《さき》に|操《あやつ》りつ
|醜神《しこがみ》|共《ども》の|企《たく》らみを  |洩《も》れなく|落《お》ちなく|探《さぐ》らせつ
|神《かみ》の|御為《おんため》|君《きみ》の|為《ため》  |世人《よびと》のために|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|痛《いた》むる|苦《くる》しさよ  さはさりながら|天地《あめつち》の
|神《かみ》は|吾等《われら》の|真心《まごころ》を  |清《きよ》き|御目《おんめ》に|臠《みそな》はし
|必《かなら》ず|許《ゆる》したまふべし  |佯《いつは》られたるユーフテス
|彼《かれ》が|心《こころ》の|憐《あは》れさを  |妾《わらは》は|知《し》らぬにあらねども
|大事《だいじ》の|前《まへ》の|一小事《いちせうじ》  セーラン|王《わう》の|勅《みことのり》
|背《そむ》かむ|由《よし》もないぢやくり  |涙《なみだ》を|呑《の》みて|荒男《あらをとこ》
|操《あやつ》り|来《きた》る|苦《くる》しさよ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善神邪神《ぜんしんじやしん》を|別《わ》けたまふ
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》す  |尊《たふと》き|神《かみ》の|御教《おんをしへ》
セーリス|姫《ひめ》の|心根《こころね》を  |憐《あは》れみ|給《たま》ひて|逸早《いちはや》く
セーラン|王《わう》の|身《み》の|上《うへ》を  |守《まも》らせたまへ|惟神《かむながら》
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|大神《おほかみ》の  |御前《みまへ》に|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる
|御前《みまへ》に|慎《つつ》しみ|願《ね》ぎまつる』
と|歌《うた》を|終《をは》り、|合掌《がつしやう》して|声《こゑ》も|静《しづか》に「|国治立尊《くにはるたちのみこと》、|守《まも》り|給《たま》へ|幸倍《さちはへ》たまへ」と|祈《いの》る|折《をり》しも、|足音《あしおと》|忍《しの》ばせながら|入《い》り|来《きた》るはユーフテスである。セーリス|姫《ひめ》はユーフテスの|慌《あわただ》しく|入《い》り|来《きた》りしを|見《み》て、|言葉《ことば》|急《せは》しく、
『ヤア|其方《そなた》はなつかしきユーフテス|殿《どの》、|何《なに》か|変《かは》つた|事《こと》が|厶《ござ》いますかなア』
『ハイ、|俄《にはか》に|申上《まをしあ》げたき|事《こと》があつて|右守《うもり》の|前《まへ》をつくろひ|参《まゐ》りました。いよいよ|大黒主《おほくろぬし》の|神《かみ》が|五百騎《ごひやくき》の|軍隊《ぐんたい》を|派遣《はけん》し、|右守《うもり》と|力《ちから》を|合《あは》せ、セーラン|王様《わうさま》を|退隠《たいいん》させむとの|計略《けいりやく》が|整《ととの》ひました。|何《なん》とか|用意《ようい》を|致《いた》さねばなりますまい』
『|其《その》|軍隊《ぐんたい》は|何時《いつ》|頃《ごろ》|此処《ここ》へ|押《お》し|寄《よ》せて|参《まゐ》りますか、|分《わか》つて|居《を》りませうなア』
『あまり|長《なが》くはありますまい。カルマタ|国《こく》へ|派遣《はけん》された|大足別《おほだるわけ》の|所《ところ》へ|参《まゐ》る|使者《ししや》が|往《ゆ》きがけに|大黒主《おほくろぬし》|様《さま》の|信書《しんしよ》を|携《たづさ》へ、|右守《うもり》の|館《やかた》へ|放《はふ》り|込《こ》んで|参《まゐ》りました。|右守《うもり》もやや|安心《あんしん》して、もはや|軍隊《ぐんたい》の|必要《ひつえう》がないから、お|断《ことわ》り|申《まを》さうかと|迄《まで》|云《い》つて|居《ゐ》ました|処《ところ》へ、|五百騎《ごひやくき》の|応援軍《おうゑんぐん》を|送《おく》るとの|書面《しよめん》を|頂《いただ》き、|俄《にはか》に|鼻息《はないき》が|荒《あら》くなつて|参《まゐ》りました。それ|故《ゆゑ》|取《と》るものも|取《と》りあへず|貴女《あなた》|迄《まで》|報告《はうこく》にやつて|来《き》ました』
セーリス|姫《ひめ》は|平然《へいぜん》として|些《ちつと》も|騒《さわ》がず|微笑《びせう》を|浮《うか》べながら、
『それは|段々《だんだん》と|面白《おもしろ》くなつて|来《き》ましたなア。どちらになつても、|私《わたし》と|貴方《あなた》の|結婚《けつこん》さへ|都合《つがふ》よく|出来《でき》れば|好《い》いぢやありませぬか。オホヽヽヽ』
『そりやさうですが、|矢張《やつぱり》セーラン|王様《わうさま》が|押《お》し|込《こ》まれなさつては|貴女《あなた》だつてあまり|都合《つがふ》はよくありますまい。|従《したが》つて|私《わたし》だつて|羽振《はぶ》りが|利《き》きませぬからなア』
『|兎《と》も|角《かく》|黄金姫《わうごんひめ》|様《さま》に|一《ひと》つ|申上《まをしあ》げて|来《き》ますから、|貴方《あなた》|此処《ここ》に|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さい』
とツと|立《た》つて|黄金姫《わうごんひめ》の|居間《ゐま》に|進《すす》み|入《い》り、ユーフテスが|報告《はうこく》の|顛末《てんまつ》を|残《のこ》らず|物語《ものがた》つた。|茲《ここ》に|黄金姫《わうごんひめ》は|清照姫《きよてるひめ》、セーリス|姫《ひめ》と|三人《さんにん》|鼎坐《ていざ》して、ひそひそ|対抗策《たいかうさく》を|打《う》ち|合《あは》す|事《こと》となつた。
『|思《おも》ひの|外《ほか》|大黒主《おほくろぬし》の|軍勢《ぐんぜい》、|早《はや》く|押《お》し|寄《よ》せ|来《く》るさうだが、|何《なん》とかこれを|阻止《そし》する|考《かんが》へはあるまいかなア。|清照姫《きよてるひめ》』
と|云《い》ひつつ|清照姫《きよてるひめ》の|顔《かほ》を|覗《のぞ》き|込《こ》む。|清照姫《きよてるひめ》は|微笑《びせう》しながら、
『お|母《かあ》さま、そりや|何《なん》でもない|事《こと》ですわ。|私《わたし》が|其《その》|五百騎《ごひやくき》を|喰《く》ひ|止《と》めて|見《み》ませうか』
『それは|誠《まこと》に|結構《けつこう》だが、|其方《そなた》|一人《ひとり》でどうして|喰《く》ひ|止《と》める|考《かんが》へですか』
『|兎《と》も|角《かく》|右守《うもり》を|此処《ここ》へ|呼《よ》んで|下《くだ》さい。さうして|私《わたし》と|右守《うもり》と|只《ただ》|二人《ふたり》、|一室《いつしつ》に|入《い》つて|密談《みつだん》を|遂《と》げ、うまく|右守《うもり》より|喰《く》ひ|止《と》めさして|見《み》せませう』
|黄金姫《わうごんひめ》は|肯《うなづ》きながら、
『ホヽヽヽヽ|清《きよ》さま、お|前《まへ》の|美貌《びばう》と|弁舌《べんぜつ》とを|応用《おうよう》すれば|何《なん》の|事《こと》もありますまい。どうぞ|確《しつか》りやつて|下《くだ》さいや』
『|三寸《さんずん》の|舌鋒《ぜつぽう》をもつて、|五百《ごひやく》の|軍隊《ぐんたい》を|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|逐《お》ひ|散《ち》らすのも|亦《また》|愉快《ゆくわい》でせう、オホヽヽヽ』
セーリス|姫《ひめ》は|喜《よろこ》ばしげに、
『それならこれからユーフテスに|命《めい》じ、|右守《うもり》を|当城《たうじやう》へ|呼《よ》び|寄《よ》せませうか』
|清照《きよてる》『どうぞ|早《はや》く、|其《その》|手続《てつづ》きをして|下《くだ》さい』
『こんな|時《とき》にはお|転婆娘《てんばむすめ》も|亦《また》|必要《ひつえう》だ。|清《きよ》さまも|随分《ずゐぶん》こんな|事《こと》には|経験《けいけん》がつんで|居《ゐ》るからなア。オホヽヽヽ』
『お|母《かあ》さま、|冷《ひや》かして|下《くだ》さいますな。|何《なん》ぼ|秋《あき》だと|云《い》つても|余《あんま》りですわ』
『セーリス|姫様《ひめさま》、|何卒《どうぞ》|早《はや》く|頼《たの》みますよ』
セーリス|姫《ひめ》は「アイ」と|答《こた》へて|此《この》|場《ば》を|下《さが》り、|吾《わが》|居間《ゐま》に|待《ま》たせて|置《お》いたユーフテスの|耳《みみ》に|口《くち》を|寄《よ》せ|何事《なにごと》をか|囁《ささや》いた。ユーフテスは|一切万事《いつさいばんじ》|呑《の》み|込《こ》み|顔《がほ》で、セーリス|姫《ひめ》の|居間《ゐま》を|立《た》ち|出《い》で|表《おもて》に|出《い》で、|大地《だいち》をどんどん|威喝《ゐかつ》させながら、|木々《きぎ》の|梢《こずゑ》を|渡《わた》る|木枯《こがらし》の|風《かぜ》、|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》もなく|笛《ふえ》を|吹《ふ》いて|通《とほ》る|城《しろ》の|馬場《ばば》を|尻引《しりひつ》からげ、|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|右守《うもり》の|館《やかた》をさして|韋駄天《ゐだてん》|走《ばし》りに|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・一一・一二 旧九・二四 加藤明子録)
第二一章 |長舌《ちやうぜつ》〔一一二五〕
|右守司《うもりつかさ》のカールチンは|唯《ただ》|一人《ひとり》|奥《おく》の|間《ま》に|端坐《たんざ》して、やがて|二カ月《にかげつ》の|末《すゑ》には|日頃《ひごろ》の|願望《ぐわんばう》|成就《じやうじゆ》し、|刹帝利《せつていり》の|地位《ちゐ》に|進《すす》むだらう、さうすれば|城内《じやうない》の|大改革《だいかいかく》を|施《ほどこ》さねばなるまい。|先《ま》ず|第一着手《だいいちちやくしゆ》として|何《なに》から|始《はじ》めようかなどと、|猿猴《ゑんこう》が|水《みづ》の|月《つき》を|掴《つか》むやうな|虫《むし》のよい|考《かんが》へに|耽《ふけ》つて|居《ゐ》た。|其処《そこ》へユーフテスは|慌《あわただ》しく|入《い》り|来《きた》り、
『モシモシ|旦那様《だんなさま》、お|喜《よろこ》びなされませ。イヒヽヽヽヽ、お|目出度《めでた》う|御座《ござ》います。|貴方《あなた》は|本当《ほんたう》に|偉《えら》い|方《かた》ですなア、|偉大《ゐだい》の|人格者《じんかくしや》ですよ。ヤスダラ|姫様《ひめさま》が|此《この》|間《あひだ》|貴方《あなた》のお|顔《かほ》を|一寸《ちよつと》|拝《をが》み|遊《あそ》ばしてから、|俄《にはか》に|病気《びやうき》になられましてブラブラとして|居《を》られます。|何卒《どうぞ》|一遍《いつぺん》|見舞《みまひ》に|往《い》つてあげて|下《くだ》さいませな。ドクトル・オブ・メヂチーネでもイルナの|湯《ゆ》でも、どうしてもかうしても|治癒《なほ》らないと|云《い》ふ|御病気《ごびやうき》になられまして、|朝《あさ》から|晩《ばん》までウンウンと|唸《うな》り|通《とほ》し、それはそれは|気《き》の|毒《どく》で|目《め》を|開《あ》けて|見《み》ては|居《を》られませぬ。そこでセーリス|姫様《ひめさま》が|大変《たいへん》|御心配《ごしんぱい》|遊《あそ》ばして、|其《その》|病源《びやうげん》をお|探《さぐ》り|遊《あそ》ばしたところ、ヤスダラ|姫様《ひめさま》は、エヽヽヽヽと|細《ほそ》い|細《ほそ》い|柳《やなぎ》の|葉《は》の|様《やう》な|目《め》をして「|妾《わたし》の|病《やまひ》は|気《き》の|病《やまひ》だ、ウヽヽモヽヽリヽヽ』と|云《い》つて|俯《うつ》むいて|後《あと》は|何《なに》も|仰有《おつしや》いませぬ。そこで|呑《の》み|込《こ》みのよいセーリス|姫様《ひめさま》が「ハヽアこれは|右守《うもり》さまに【ホ】の|字《じ》と【レ】の|字《じ》だな。これは|到底《たうてい》|旦那様《だんなさま》のお|顔《かほ》を|見《み》せねば|本復《ほんぷく》は|出来《でき》まい」とちやんと|心《こころ》の|中《なか》で|裁判《さいばん》して、ヤスダラ|姫様《ひめさま》に|向《むか》ひ|言葉《ことば》|淑《しと》やかに「モシ|姉上様《あねうへさま》、|何《なに》か|心《こころ》に|秘密《ひみつ》があるのでせう。|妹《いもうと》の|私《わたし》に|云《い》はれない|事《こと》はありますまいから、|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ。どんな|事《こと》でも|姉様《ねえさま》の|事《こと》なら|御用《ごよう》を|承《うけたま》はりませう」と|鶯《うぐひす》か|鈴虫《すずむし》のやうな|声《こゑ》で|尋《たづ》ねられた|処《ところ》、ヤスダラ|姫様《ひめさま》はやうやう|涙《なみだ》の|顔《かほ》を|上《あ》げ「あゝ|妹《いもうと》、よう|親切《しんせつ》に|尋《たづ》ねて|下《くだ》さつた。お|前《まへ》の|心《こころ》は|嬉《うれ》しいが、|余《あま》り|恥《はづ》かしうて|口籠《くちごも》り|何《なに》も|云《い》へませぬ。もう|私《わたくし》は|生《い》きて|此《この》|世《よ》に|望《のぞ》みのない|身《み》の|上《うへ》だから、|潔《いさぎよ》う|死《し》にます」と、【とつけ】もない|事《こと》を|仰有《おつしや》るのでセールス|姫様《ひめさま》は|益々《ますます》|御心配《ごしんぱい》なされ、いろいろと|手《て》を|変《か》へ|品《しな》を|替《か》へ|探《さぐ》つて|見《み》なされた|処《ところ》、|姉計《あねはか》らむや|妹計《いもうとはか》らむや、|立派《りつぱ》な|奥様《おくさま》のある|旦那様《だんなさま》に|恋慕《れんぼ》して|厶《ござ》ると|云《い》ふ|事《こと》がハツキリと|分《わか》りました。エヘヽヽヽ、お|目出度《めでた》う|厶《ござ》います。お|浦山吹《うらやまぶき》で|厶《ござ》いますわい』
カールチンは|忽《たちま》ち|目《め》を|細《ほそ》うし|涎《よだれ》をくりながら、
『ウツフン、そんな|事《こと》があつたら、それこそ|天地《てんち》が【ひつくり】|返《かへ》るぢやないか。|若《わか》い|者《もの》なら|兎《と》も|角《かく》も、こんな|年寄《としよ》つた|五十男《ごじふをとこ》にそんな|事《こと》がありやうがないぢやないか。|腹《はら》の|悪《わる》い、そんなに|人《ひと》を|煽《おだ》てるものぢやないわ』
『イエイエ|決《けつ》して|決《けつ》して|旦那様《だんなさま》にそんな|嘘《うそ》を|申上《まをしあ》げて|済《す》みますか。|恋《こひ》と|云《い》ふものは|老若上下《らうにやくじやうげ》の|区別《くべつ》はありませぬ。|又《また》|女《をんな》と|云《い》ふものは|虚栄心《きよえいしん》の|強《つよ》いもので|厶《ござ》いますから、|旦那様《だんなさま》がやがて|刹帝利《せつていり》におなり|遊《あそ》ばすのを|聞《き》いて|益々《ますます》|恋《こひ》が|募《つの》つたものと|見《み》えます。|併《しか》し|乍《なが》ら、|貴方《あなた》|様《さま》には|立派《りつぱ》な|奥様《おくさま》がおありなさるのですから、そんな|事《こと》を|云《い》うては|済《す》まないと、セーリス|姫様《ひめさま》が|懇々《こんこん》と|説諭《せつゆ》をなさつたさうですけれど、ヤスダラ|姫様《ひめさま》はどうしてもお|聞《き》き|遊《あそ》ばさず「|此《この》|恋《こひ》が|叶《かな》はねば|淵川《ふちかは》に|身《み》を|投《な》げて|死《し》ぬから|後《あと》の|弔《とむら》ひを|頼《たの》むぞや」と、それはそれはエライ|御決心《ごけつしん》、どうにもかうにも、|手《て》に|合《あ》ひませぬ。どうぞ|一度《いちど》|姫様《ひめさま》の|館《やかた》へ、|助《たす》けると|思《おも》うて|奥様《おくさま》へ|内証《ないしよう》で|行《い》つて|上《あ》げて|下《くだ》さいませ。さうして|貴方《あなた》から|篤《とつ》くりと|説諭《せつゆ》して|下《くだ》さいましたら、|恋《こひ》の|夢《ゆめ》も|醒《さ》めるでせう』
カールチンは|目《め》を|細《ほそ》くしながら、
『|何《なん》と|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》たものだなア。どれどれそれなら|是《これ》からヤスダラ|姫《ひめ》に|会《あ》ひ、|篤《とつ》くり|道理《だうり》を|説《と》き|聞《き》かし|思《おも》ひ|切《き》らしてやらう』
といそいそとして|座《ざ》を|立《た》つ。ユーフテスは|後《うしろ》を|向《む》いて|舌《した》を|出《だ》し、|再《ふたた》び|向《む》き|直《なほ》つて|顔《かほ》を|元《もと》の|如《ごと》くキチンと|整理《せいり》し、
『|色男様《いろをとこさま》、オツトドツコイ、|大切《たいせつ》な|旦那様《だんなさま》、|左様《さやう》ならばユーフテスがお|供《とも》|致《いた》しませう。|万々一《まんまんいち》|情約締契《じやうやくていけい》が|調《ととの》ふやうな|事《こと》が|厶《ござ》いましたら、|貴方《あなた》は|私《わたし》の|相婿《あひむこ》のお|兄様《にいさま》、なるべくお|兄様《にいさま》と|云《い》はれるやうになつて|貰《もら》ひたいものですな。エヘヽヽヽヽ』
『ユーフテス、|矢釜《やかま》しいぞ、|女房《にようばう》に|悟《さと》られちや|大変《たいへん》だからなア』
『|奥様《おくさま》に|気兼《きがね》なさる|処《ところ》を|見《み》ると|矢張《やはり》ちつとは|脈《みやく》がありますなア。イヤお|目出度《めでた》う、お|祝《いは》ひ|申《まを》します』
カールチンは|押《おさ》へ|切《き》れぬやうな|嬉《うれ》しさうな|顔《かほ》を|晒《さら》しつつ、
『オイ、ユーフテス、しようもない|事《こと》を|云《い》ふものでないぞ。エヘヽヽヽヽ』
と|思《おも》はず|知《し》らず|笑《ゑみ》をこぼし|城内《じやうない》|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。ユーフテスも|後《あと》に|従《したが》ひ、|舌《した》を|出《だ》しながら|跟《つ》いて|行《ゆ》く。カールチンはフト|走《はし》りながら|後《あと》を|見《み》ると、ユーフテスが|長《なが》い|舌《した》を|出《だ》して|頤《あご》をシヤクつて|走《はし》つて|来《く》るのが|目《め》についた。
『こりや、ユーフテス、|何《なん》だ|長《なが》い|舌《した》を|出《だ》して|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にするない』
『|余《あま》りお|目出度《めでた》いので、きつと|結婚《けつこん》の|時《とき》にはどつさり|御馳走《ごちそう》をして|下《くだ》さると|思《おも》ひ、|今《いま》から|舌《した》なめずりを【した】ので|厶《ござ》います。これは|誠《まこと》に|失敬《しつけい》しま【した】、エヘヽヽヽヽ』
『こりや こりやユーフテス、|先《さき》へ|往《ゆ》け、|貴様《きさま》が|後《あと》から|来《く》ると|何《なん》だか|小忙《こぜは》しくつて|仕方《しかた》がないわい』
ユーフテスは、
『それなら|旦那様《だんなさま》、お|先《さき》に|御免《ごめん》|蒙《かうむ》ります』
と|云《い》ふより|早《はや》く|先《さき》に|立《た》ち、もうかうなつちや|後《あと》に|目鼻《めはな》はついて|居《ゐ》ない、|何程《なにほど》|舌《した》を|出《だ》したつて|見《み》とがめらるる|心配《しんぱい》はないと、|力《ちから》|一杯《いつぱい》|長《なが》い|舌《した》を|出《だ》し|頤《あご》をしやくりながら、とんとんとんと|駆《か》け|出《だ》す|途端《とたん》、|高《たか》い|石《いし》につまづいてバタリと|倒《たふ》れる|機《はづみ》に|舌《した》を|噛《か》み、ウンと|其《その》|場《ば》に|血《ち》を|吐《は》いて|打《う》ち|倒《たふ》れた。カールチンはヤスダラ|姫《ひめ》の|事《こと》のみに|現《うつつ》になつて、ユーフテスの|舌《した》を|噛《か》んで|倒《たふ》れて|居《ゐ》るのに|気《き》がつかず、|其《その》|体《からだ》に|躓《つまづ》いて|三間《さんげん》ばかり|前《まへ》の|方《はう》にドスンと|打《う》ち|倒《たふ》れ「アイタヽヽヽ」と|膝頭《ひざがしら》を|撫《な》でながら、まだ|気《き》がつかず、
『ユーフテスの|奴《やつ》|何《なん》だ、|俺《おれ》が|倒《たふ》れて|居《ゐ》るのも|知《し》らずに、|主人《しゆじん》を|後《あと》にして|雲《くも》を|霞《かすみ》と|何処《どこ》かへ|行《ゆ》きやがつた。|何《なん》と|脚《あし》の|早《はや》い|奴《やつ》ぢやなア』
と|呟《つぶや》きながら、とんとんとんと|道端《みちばた》のイトドやキリギリスを|驚《おどろ》かせて|城内《じやうない》|指《さ》して|一目散《いちもくさん》に|走《はし》り|行《ゆ》く。
(大正一一・一一・一二 旧九・二四 加藤明子録)
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霊界物語 第四一巻 舎身活躍 辰の巻
終り