霊界物語 第三八巻 舎身活躍 丑の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第三八巻』愛善世界社
2001(平成13)年04月08日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2005年06月06日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序歌《じよか》
|総説《そうせつ》
第一篇 |千万無量《せんまんむりやう》
第一章 |道《みち》すがら〔一〇三八〕
第二章 |吉崎仙人《よしざきせんにん》〔一〇三九〕
第三章 |帰郷《ききやう》〔一〇四〇〕
第四章 |誤親切《ごしんせつ》〔一〇四一〕
第五章 |三人組《さんにんぐみ》〔一〇四二〕
第六章 |曲《まが》の|猛《たけび》〔一〇四三〕
第七章 |火事蚊《くわじか》〔一〇四四〕
第二篇 |光風霽月《くわうふうせいげつ》
第八章 |三《み》ツ|巴《どもゑ》〔一〇四五〕
第九章 |稍安定《ややあんてい》〔一〇四六〕
第一〇章 |思《おも》ひ|出《で》(一)〔一〇四七〕
第一一章 |思《おも》ひ|出《で》(二)〔一〇四八〕
第一二章 |思《おも》ひ|出《で》(三)〔一〇四九〕
第三篇 |冒険神験《ばうけんしんけん》
第一三章 |冠島《をしま》〔一〇五〇〕
第一四章 |沓島《めしま》〔一〇五一〕
第一五章 |怒濤《どたう》〔一〇五二〕
第一六章 |禁猟区《きんりようく》〔一〇五三〕
第一七章 |旅装《りよさう》〔一〇五四〕
第四篇 |霊火山妖《れいくわさんえう》
第一八章 |鞍馬山《くらまやま》(一)〔一〇五五〕
第一九章 |鞍馬山《くらまやま》(二)〔一〇五六〕
第二〇章 |元伊勢《もといせ》〔一〇五七〕
第五篇 |正信妄信《せいしんばうしん》
第二一章 |凄《すご》い|権幕《けんまく》〔一〇五八〕
第二二章 |難症《なんしよう》〔一〇五九〕
第二三章 |狐狸々々《こりこり》〔一〇六〇〕
第二四章 |呪《のろひ》の|釘《くぎ》〔一〇六一〕
第二五章 |雑草《ざつさう》〔一〇六二〕
第二六章 |日《ひ》の|出《で》〔一〇六三〕
第二七章 |仇箒《あだぼうき》〔一〇六四〕
第二八章 |金明水《きんめいすゐ》〔一〇六五〕
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|序歌《じよか》
|洪大無辺《こうだいむへん》の|大宇宙《だいうちう》  |元《もと》つ|御祖《みおや》と|現《あ》れませる
|大国常立大神《おほくにとこたちおほかみ》の  |別《わけ》の|御霊《みたま》と|瑞穂国《みづほくに》
|天降《あも》りましまし|海原《うなばら》を  |修理固成《つくりかため》し|大御祖《おほみおや》
|国常立《くにとこたち》の|大神《おほかみ》の  |厳《いづ》の|御命《みこと》を|畏《かしこ》みて
|神《かみ》の|真道《まみち》を|開《ひら》きたる  |教御祖《をしへみおや》の|筆《ふで》に|成《な》る
|教《をしへ》の|光《ひか》り|幸《さちは》ひて  |荒《すさ》ぶる|神《かみ》や|醜御霊《しこみたま》
|一柱《ひとつ》も|残《のこ》らず|村肝《むらきも》の  |心《こころ》を|直《なほ》し|和《なご》めつつ
|善美《うまし》き|心《こころ》を|振《ふ》り|興《おこ》し  |中津御代《なかつみよ》より|入《い》り|来《き》たる
|醜《しこ》の|教《をしへ》に|惑《まど》はされ  |体主霊従《たいしゆれいじう》の|行動《おこなひ》を
|続《つづ》け|来《きた》りし|曲《まが》の|罪《つみ》  |宥《ゆる》したまひてこのさきは
|体主霊従《たいしゆれいじう》の|御教《みをしへ》の  |天地《てんち》の|神《かみ》の|御心《みこころ》に
|甚《いた》く|違《たが》へる|事《こと》の|由《よし》  この|物語《ものがたり》|読《よ》み|習《なら》ひ
おぼろげ|乍《なが》らも|天地《あめつち》の  |神《かみ》の|経綸《しぐみ》を|悟《さと》らしめ
|救《すく》はせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》  |神代《かみよ》の|儘《まま》の|大稜威《おほみいづ》
|発揮《はつき》し|玉《たま》ひて|各自《おのおの》が  |掌分《しりわ》け|玉《たま》ふ|功徳《いさをし》の
|随《ま》に|随《ま》に|宇豆那比《うづなひ》|玉《たま》ひつつ  |交《まじ》こり|口会《くちあ》ひ|今迄《いままで》に
|神《かみ》の|大道《おほぢ》を|知《し》らずして  |吾《わが》|大本《おほもと》を|弁《わきま》へず
|過《あやま》ち|犯《をか》せる|雑々《くさぐさ》の  |罪《つみ》や|怠《おこた》り|穢《けがれ》をば
|祓《はら》ひ|退《しり》ぞけ|神《かみ》の|子《こ》と  |生《うま》れ|出《い》でたる|人草《ひとぐさ》を
|導《みちび》き|玉《たま》へ|神《かみ》の|道《みち》  |教《をしへ》の|道《みち》を|踏《ふ》み|外《はづ》し
|経《たて》と|緯《よこ》との|御教《みをしへ》を  |色々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|批難《ひなん》しつ
|知《し》らず|知《し》らずに|日《ひ》に|夜《よる》に  |過失《あやまち》|犯《をか》せし|事《こと》あるも
この|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し  |宥《なだ》め|赦《ゆる》して|身魂《みたま》をば
|清《きよ》め|救《すく》はせ|玉《たま》へかし  |神《かみ》の|御典《みのり》は|言《い》ふも|更《さら》
|大本教《おほもとけう》の|御神諭《みさとし》は  |漏《も》れなく|遺《おち》なく|過《あや》またず
|真語《まこと》を|真教《まこと》と|悟《さと》らせつ  |教司《をしへつかさ》の|宣《の》り|伝《つた》ふ
|言葉《ことば》の|疵《きず》も|次々《つぎつぎ》に  |思《おも》ひ|出《い》でては|自《おの》づから
|改《あらた》め|直《なほ》し|正道《まさみち》を  |歩《あゆ》ませ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎ|奉《まつ》る  アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ。
大正十一年十月十六日
於竜宮館
|総説《そうせつ》
|本巻《ほんくわん》は|子《ね》の|巻《まき》に|続《つづ》き|瑞月《ずゐげつ》|王仁《おに》が|斯道《しだう》に|入信《にふしん》したる|経路《けいろ》の|大略《たいりやく》を|口述《こうじゆつ》したもので、|実際《じつさい》の|百分《ひやくぶん》の|一《いち》をも|尽《つく》しては|有《あ》りませぬ。|只《ただ》|子《ね》の|巻《まき》に|倣《なら》つて|巻頭《くわんとう》に|少《すこ》しく|霊界的《れいかいてき》|活動《くわつどう》の|経緯《いきさつ》を|表明《へうめい》しておきました。いよいよ|寅《とら》の|巻《まき》より|又《また》もや|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》が|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》を|退治《たいぢ》し|玉《たま》ひたる|神界《しんかい》の|物語《ものがたり》を|口述《こうじゆつ》する|事《こと》に|致《いた》します。|先《ま》づ|印度《いんど》|方面《はうめん》の|神々《かみがみ》の|御活動《ごくわつどう》より|口述《こうじゆつ》する|考《かんが》へであります。この『|舎身活躍《しやしんくわつやく》』の|子《ね》の|巻《まき》、|丑《うし》の|巻《まき》は|何《いづ》れも|断片的《だんぺんてき》|物語《ものがたり》で、|年次《ねんじ》を|逐《お》ふては|述《の》べてありませぬから、|其《その》おつもりで|読《よ》んで|頂《いただ》き|度《た》いものであります。
大正十一年十月十五日
第一篇 |千万無量《せんまんむりやう》
第一章 |道《みち》すがら〔一〇三八〕
『|天帝《てんてい》|一物《いちぶつ》を|創造《さうざう》す。|悉《ことごと》く|力徳《りきとく》による。|故《ゆゑ》に|善悪《ぜんあく》|相混《あひこん》じ|美醜《びしう》|互《たがひ》に|相交《あひまじ》はる』
これ|道《みち》の|大原《たいげん》の|初発《しよつぱつ》に|示《しめ》されたる|聖句《せいく》である。つらつら|考《かんがへ》ふるに、|蒼空《さうくう》を|仰望《ぎやうばう》しても|海原《うなばら》を|見《み》ても、|山川虫魚《さんせんちうぎよ》を|見《み》ても、|悉《ことごと》く|善悪美醜《ぜんあくびしう》の|区別《くべつ》が|様々《さまざま》あつて、『|此《この》|世界《せかい》は|至善《しぜん》|至美《しび》の|神様《かみさま》がお|造《つく》りになつた|以上《いじやう》は、|悪《あく》といふ|事《こと》は|微塵《みじん》もなく、|至善《しぜん》|至美《しび》の|物《もの》ばかりであらねばならぬ』と|云《い》ふ|人《ひと》がありますが、|決《けつ》してさうはゆきませぬ。|或《ある》|人《ひと》が、|喜楽《きらく》に|向《むか》つて|詰問《きつもん》して|曰《いは》く、
『|天帝《てんてい》|果《はた》して|全智全能《ぜんちぜんのう》にして、|万物《ばんぶつ》を|造《つく》りかつ|真善美《しんぜんび》を|好《この》むものならば、|何故《なにゆゑ》|其《その》|全智全能《ぜんちぜんのう》の|神徳《しんとく》によつて、|美《び》なるもの|善《ぜん》なるもののみを|拵《こしら》へて、|醜悪《しうあく》なるものを|拵《こしら》へぬ|筈《はず》である。|神《かみ》の|意志《いし》|果《はた》して|真善美《しんぜんび》を|愛《あい》するならば、|元《もと》より|善《ぜん》ばかりを|拵《こしら》へて|置《お》けば、|別《べつ》に|悪《あく》を|造《つく》つておいて|悪《あく》を|改《あらた》めしめむとて|宣伝《せんでん》に|努力《どりよく》するの|必要《ひつえう》は|無《な》いではないか。|要《えう》するに|天帝《てんてい》は|自分《じぶん》から|醜悪《しうあく》なるものを|造《つく》り、|其《その》|醜悪《しうあく》を|嫌《きら》ふと|云《い》ふのは|自家撞着《じかどうちやく》も|甚《はなは》だしい|矛盾《むじゆん》である。|吾等《われら》はここに|至《いた》つて|全智全能《ぜんちぜんのう》の|神《かみ》を|疑《うたが》はざるを|得《え》ず』
と|云《い》つた|人《ひと》が|沢山《たくさん》にあつた。|然《しか》し|乍《なが》ら|何人《なんぴと》と|雖《いへど》も|今日《こんにち》|迄《まで》の|諸々《もろもろ》の|宗教《しうけう》、|倫理《りんり》、|道徳説《だうとくせつ》が|貧弱《ひんじやく》なる|頭悩《づなう》に|浸《し》み|込《こ》んで|居《ゐ》る|人《ひと》の|考《かんが》へから|見《み》れば、|実《じつ》に|尤《もつと》も|至極《しごく》の|疑問《ぎもん》である。|喜楽《きらく》|等《ら》も|少年《せうねん》の|頃《ごろ》から|此《この》|問題《もんだい》には|大変《たいへん》に|心《こころ》を|砕《くだ》いて|来《き》たものである。|時《とき》の|古今《ここん》を|問《と》はず、|洋《やう》の|東西《とうざい》を|論《ろん》ぜず、|凡《すべ》ての|哲学者《てつがくしや》、|宗教家《しうけうか》も|此《この》|問題《もんだい》については|頻《しき》りに|研究《けんきう》をして|居《ゐ》た|様《やう》である。|世界皆善論《せかいかいぜんろん》を|唱《とな》へるものもあれば、|世界皆悪論《せかいかいあくろん》を|唱《とな》へるものも|現《あら》はれて|居《ゐ》る。|又《また》『|此《この》|世《よ》は|夢《ゆめ》の|浮世《うきよ》ぢや』と|云《い》つて|厭離穢土《えんりゑど》と|称《しよう》し、『|未来《みらい》の|天国《てんごく》|浄土《じやうど》を|楽《たの》しむのが|人生《じんせい》の|大目的《だいもくてき》だ』などと|区々《まちまち》の|説《せつ》を|立《た》て、|所説《しよせつ》|紛々《ふんぷん》として|落着《おちつ》く|所《ところ》を|知《し》らず、|宙《ちう》に|迷《まよ》ふて|居《を》る|姿《すがた》である。|古今《ここん》の|学者《がくしや》が|一人《ひとり》として|今日《こんにち》に|至《いた》る|迄《まで》、|大宇宙《だいうちう》の|本体《ほんたい》を|捉《とら》え、|人生《じんせい》の|真目的《しんもくてき》を|諒解《りやうかい》したる|者《もの》は|無《な》い|様《やう》である。|仏教《ぶつけう》にしても|儒教《じゆけう》にしても、|現代《げんだい》|我《わが》|国《くに》の|十三派《じふさんぱ》の|神道《しんだう》|宗教《しうけう》にしても、|其《その》|他《た》|種々雑多《しゆじゆざつた》の|宗教《しうけう》にしても、|決《けつ》して|宇宙《うちう》の|真相《しんさう》を|解決《かいけつ》し|得《え》た|者《もの》は|無《な》い。|然《しか》し|乍《なが》ら|尊《たふと》い|事《こと》には、|我《わが》|国《くに》には|皇祖皇宗《くわうそくわうそう》の|御遺訓《ごゐくん》なる|古事記《こじき》、|日本書紀《にほんしよき》|其《その》|他《た》の|古書《こしよ》が|伝《つた》はり、|言霊《ことたま》の|明鏡《めいきやう》が|歴然《れきぜん》として|輝《かがや》き、|宇宙《うちう》の|真理《しんり》を|解決《かいけつ》すべき|宝典《ほうてん》に|乏《とぼ》しくはなけれども、|闇黒《あんこく》なる|今日《こんにち》の|思想界《しさうかい》に|於《おい》ては、|此《この》|真理《しんり》を|諒解《りやうかい》する|丈《だ》けの|偉人《ゐじん》も|賢哲《けんてつ》も|学者《がくしや》も|現《あら》はれて|居《ゐ》ないと|云《い》ふ|事《こと》は、|国家《こくか》|社会《しやくわい》の|為《た》めに|実《じつ》に|慨嘆《がいたん》の|至《いた》りである。
|喜楽《きらく》は|幼時《えうじ》より|我《わが》|国体《こくたい》の|淵源《えんげん》を|極《きは》めむとし、|且《かつ》|明治《めいぢ》|卅一年《さんじふいちねん》|以後《いご》|今日《こんにち》に|至《いた》る|迄《まで》、|殆《ほとん》ど|廿五年間《にじふごねんかん》、|艱難辛苦《かんなんしんく》を|積《つ》み|神界《しんかい》の|真相《しんさう》の|一端《いつたん》を|極《きは》めた|結果《けつくわ》、|宇宙《うちう》|真理《しんり》の|一部《いちぶ》を『|霊界物語《れいかいものがたり》』として|発表《はつぺう》する|事《こと》となつたのである。|道《みち》の|大原《たいげん》の|聖句《せいく》にも、|天地間《てんちかん》の|万物《ばんぶつ》に|善悪美醜《ぜんあくびしう》の|混交《こんかう》せるは、|全《まつた》く|力徳《りきとく》の|塩梅《あんばい》によるものと|断定《だんてい》を|下《くだ》してあるのは、|実《じつ》に|万古不易《ばんこふえき》の|真理《しんり》である。
|偖《さて》|此《この》|力徳《りきとく》と|云《い》ふ|事《こと》は、|一朝一夕《いつてういつせき》に|説《と》き|明《あか》す|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬ。|約言《やくげん》すれば、|動《どう》、|静《せい》、|解《かい》、|凝《ぎよう》、|引《いん》、|弛《ち》、|合《がふ》、|分《ぶん》の|八力《はちりき》の|活動《くわつどう》の|如何《いかん》によつて、|善悪美醜《ぜんあくびしう》|大小《だいせう》|強弱《きやうじやく》が|分《わか》れるのである。『|人《ひと》は|天地《てんち》の|花《はな》、|万物《ばんぶつ》の|霊長《れいちやう》』と|称《とな》へられて|居《ゐ》るが、|大本《おほもと》では|一歩《いつぽ》|進《すす》んで、
『|神《かみ》は|万物《ばんぶつ》|普遍《ふへん》の|霊《れい》にして|人《ひと》は|天地《てんち》|経綸《けいりん》の|司宰者《しさいしや》なり』
と|断定《だんてい》を|下《した》して|居《ゐ》るのである。これも|出口教祖《でぐちけうそ》の|廿七年間《にじふしちねんかん》の|筆先《ふでさき》の|大精神《だいせいしん》を|通観《つうくわん》して|得《え》た|所《ところ》の|断案《だんあん》である。|斯《か》くの|如《ごと》く|尊《たふと》き|天地《てんち》|経綸《けいりん》の|司宰者《しさいしや》たる|人間《にんげん》にも、|亦《また》|善悪美醜《ぜんあくびしう》|大小《だいせう》|強弱《きやうじやく》の|区別《くべつ》があつて、|中《なか》には|天地《てんち》|経綸《けいりん》の|司宰者《しさいしや》どころか、|却《かへつ》て|天地《てんち》|経綸《けいりん》の|妨害《ばうがい》をなす|人間《にんげん》が|沢山《たくさん》に|出来《でき》て|居《ゐ》る。|斯《か》くの|如《ごと》き|人間《にんげん》が|現《あら》はれて|来《く》るのは、|要《えう》するに|一《ひと》つは|教育《けういく》の|如何《いかん》にもよるのは|無論《むろん》だが、|真《しん》の|原因《げんいん》は|決《けつ》してさうでは|無《な》い。|肝賢《かんじん》の|大原因《だいげんいん》は|天賦《てんぷ》の|力徳《りきとく》の|過不及《くわふきふ》による|処《ところ》の|結果《けつくわ》で、お|筆先《ふでさき》の|所謂《いはゆる》|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》|性来《しやうらい》によるものである。|概《がい》して|人間《にんげん》の|肉体《にくたい》の|善悪《ぜんあく》|強弱《きやうじやく》は、|凡《すべ》て|力徳《りきとく》の|過不及《くわふきふ》により|生《しやう》ずる|所《ところ》の|結果《けつくわ》である。|人《ひと》の|心《こころ》の|善悪《ぜんあく》|智愚《ちぐ》は|元《もと》より|教育《けういく》によつて|其《その》|一部分《いちぶぶん》は|左右《さいう》せらるるものである。|然《しか》し|人《ひと》は|神様《かみさま》に|次《つい》での|尊《たふと》きもので、|世界《せかい》を|善《ぜん》に|進《すす》め|美《び》に|開《ひら》くべき|天職《てんしよく》を|天賦的《てんぷてき》に|持《も》つて|居《ゐ》るものである。|人間《にんげん》は|小《せう》なる|神《かみ》として|又《また》|神《かみ》の|生宮《いきみや》として|此《この》|世《よ》に|生《うま》れ|出《い》でたる|以上《いじやう》は、|終生《しうせい》|神《かみ》の|御旨《みむね》を|奉戴《ほうたい》し|天地《てんち》の|御用《ごよう》を|助《たす》け|奉《まつ》らねば、|人《ひと》と|生《うま》れ|出《い》でたる|本分《ほんぶん》が|尽《つく》せないのである。|人間《にんげん》は|裸体《はだか》で|生《うま》れて|来《き》たのであるから、|又《また》|裸体《はだか》で|死《し》ねば|宜《よ》いと|云《い》ふ|様《やう》な|棄鉢《すてばち》|根性《こんじやう》では、|人生《じんせい》|天賦《てんぷ》の|職責《しよくせき》が|遂《と》げられぬのみならず、|折角《せつかく》|神界《しんかい》より|選《えら》まれて|神《かみ》の|生宮《いきみや》として|世《よ》に|生《うま》れさして|頂《いただ》いた、|大神《おほかみ》の|御聖旨《ごせいし》に|背《そむ》く|罪人《ざいにん》となるのである。
|人生《じんせい》の|本分《ほんぶん》としては、|第一《だいいち》に|天地神明《てんちしんめい》の|大業《たいげふ》に|奉仕《ほうし》し、|政治《せいぢ》をすすめ、|産業《さんげふ》を|拓《ひら》き、|且《かつ》|真《しん》の|宗教《しうけう》を|宣伝《せんでん》し、|道義心《だうぎしん》の|発達《はつたつ》を|助《たす》けて|世界《せかい》の|醜悪《しうあく》を|駆追《くつゐ》し、|真善美《しんぜんび》の|天地《てんち》に|進《すす》めて|行《ゆ》かねばならぬのである。|他人《たにん》は|如何《どう》でも|構《かま》はぬ、|自分《じぶん》のみ|清《きよ》く|正《ただ》しければ|宜《い》いのだと|云《い》つて、|聖人《せいじん》|気《き》どりで|済《す》まして|居《ゐ》る|様《やう》な|事《こと》では、|人間《にんげん》としての|天職《てんしよく》を|全《まつた》くしたものと|云《い》ふ|事《こと》は|出来《でき》ないのである。|喜楽《きらく》は|常《つね》に|政《せい》|教《けう》|慣《くわん》|造《ざう》の|進歩《しんぽ》|発達《はつたつ》を|祈願《きぐわん》し、|且《かつ》|完成《くわんせい》せしむるを|以《もつ》て|人《ひと》たるものの|天職《てんしよく》だと|考《かんが》へて|居《ゐ》る。|皇祖《くわうそ》|天照大神《あまてらすおほかみ》|様《さま》が|建国《けんこく》の|御趣旨《ごしゆし》は、|政《せい》|教《けう》|慣《くわん》|造《ざう》の|四大主義《よんだいしゆぎ》の|実行《じつかう》であつて、
一、|政《せい》は|万世一系《ばんせいいつけい》|也《なり》
一、|教《けう》は|天授《てんじゆ》の|真理《しんり》|也《なり》
一、|慣《くわん》は|天人道《てんじんだう》の|常《つね》|也《なり》
一、|造《ざう》は|適宜《てきぎ》の|事務《じむ》|也《なり》
|即《すなは》ち|此《この》|四大主義《よんだいしゆぎ》を|実践《じつせん》|躬行《きうかう》するのが|人生《じんせい》の|本分《ほんぶん》であつて、|特《とく》に|我《わが》|神国《しんこく》に|生《うま》れたものは、|一層《いつそう》|責任《せきにん》の|重《ぢゆう》|且《か》つ|大《だい》なるものである|事《こと》を|忘《わす》れてはならぬ。|吾人《ごじん》は|何《いづ》れも|此《この》|主義《しゆぎ》に|向《むか》つて、|最《もつと》も|忠実《ちうじつ》に|勤《つと》め|奉《まつ》らねばならぬのである。|吾人《ごじん》は|人生《じんせい》の|重大《ぢうだい》なる|責任《せきにん》を|感《かん》じ、|如何《どう》しても|肉体《にくたい》の|安楽《あんらく》のみを|貪《むさぼ》る|事《こと》は|出来《でき》ない。|人生《じんせい》の|本分《ほんぶん》を|幾分《いくぶん》なりとも|遂行《すゐかう》し|得《え》ざる|内《うち》は、|如何《いか》なる|栄華《えいぐわ》も|歓楽《くわんらく》も|自分《じぶん》の|心《こころ》を|満《み》たす|事《こと》は|出来《でき》ない。|美衣《びい》|美食《びしよく》|財宝《ざいほう》なども|到底《たうてい》|天授《てんじゆ》の|心魂《しんこん》を|喜《よろこ》ばすに|足《た》らぬ。|只《ただ》|天下《てんか》|公共《こうきよう》の|為《た》めに|自分《じぶん》としての|天職《てんしよく》を|尽《つく》し|得《う》る|事《こと》が|肝賢《かんじん》である。|一寸先《いつすんさき》の|見《み》えない|様《やう》な|不完全《ふくわんぜん》なる、|罪《つみ》に|穢《けが》れたる|吾人《ごじん》の|身《み》を|以《もつ》て、|到底《たうてい》|重大《ぢうだい》なる|天職《てんしよく》を|完《まつた》ふする|事《こと》は|出来《でき》ずとも、|其《その》|幾分《いくぶん》にても|奉仕《ほうし》し|得《え》たならば、これに|過《す》ぎたる|人生《じんせい》の|幸《さいはひ》はないのである。
|今日《こんにち》の|瑞月《ずゐげつ》としては、|浅薄《せんぱく》なる|肉体上《にくたいじやう》の|観察《くわんさつ》から|見《み》るならば、|実《じつ》に|安楽《あんらく》なものの|様《やう》であるが|自分《じぶん》としては|実《じつ》に|一日《いちにち》も|安《やす》んじては|居《ゐ》ないのである。|数多《あまた》の|役員《やくゐん》や|信者《しんじや》は|親《おや》の|様《やう》に|崇《あが》め『|先生《せんせい》|々々《せんせい》』と|云《い》つて|厚《あつ》く|遇《ぐう》して|呉《く》れて|居《ゐ》る|様《やう》であるが、|自分《じぶん》の|為《た》めには、|却《かへつ》てそれが|苦痛《くつう》の|種《たね》となるのである。|何故《なにゆゑ》なれば|役員《やくゐん》|信者《しんじや》の|親切《しんせつ》や|好意《かうい》は|大《おほい》に|有難迷惑《ありがためいわく》を|感《かん》ずる|事《こと》があるからである。|自分《じぶん》の|真《しん》の|使命《しめい》を|諒解《りやうかい》するのでもなく、|只《ただ》|単《たん》に|出口教祖《でぐちけうそ》のお|筆先《ふでさき》によつて、|色々《いろいろ》と|私《わたし》に|対《たい》する|空想《くうさう》を|描《ゑが》いて|居《ゐ》る|人《ひと》が|多《おほ》いからである。|又《また》|如何《いか》なる|立派《りつぱ》な|事《こと》を|話《はな》しても|説《と》いてもそれは|教祖《けうそ》の|筆先《ふでさき》に|出《で》てゐないから|用《もち》ゐられないとか|云《い》つて、|如何《いか》なる|真理《しんり》も|無造作《むざうさ》に|葬《はうむ》つて|了《しま》ふので、|何程《なにほど》|筆先《ふでさき》の|精神《せいしん》を|縦横無尽《じうわうむじん》に|説《と》いても、|十分《じふぶん》に|感得《かんとく》せしむる|事《こと》が|出来《でき》ぬのが|実《じつ》に|遺憾《ゐかん》である。|又《また》|自分《じぶん》の|肉体《にくたい》に|対《たい》し、|役員《やくゐん》|信者《しんじや》が|非常《ひじやう》に|気《き》をつけて|好意《かうい》を|表《へう》して|呉《く》れられるが、|肝賢要《かんじんかなめ》の|真実《しんじつ》の|精神《せいしん》を|汲《く》みとつて|呉《く》れるものが|少《すくな》いのは|最大《さいだい》の|苦痛《くつう》である。|今迄《いままで》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》は|自分《じぶん》を|妙《めう》な|事《こと》に|過信《くわしん》して、|堅実《けんじつ》な|教理《けうり》|等《など》は|頭《あたま》から|耳《みみ》に|入《い》れぬのみか、|今《いま》に|世界《せかい》の|救《すく》ひ|主《ぬし》にでもなる|様《やう》に、|身魂《みたま》も|研《みが》かずに|騒《さわ》ぎ|廻《まは》つて|居《ゐ》るのは|実《じつ》に|残念《ざんねん》であります。|自分《じぶん》に|少《すこ》しにても|権謀術数的《けんぼうじゆつすうてき》の|精神《せいしん》があるならば、|十年《じふねん》|以前《いぜん》の|大本《おほもと》は、|役員《やくゐん》|信者《しんじや》|等《など》とも|折合《をりあひ》がうまくついて、|極《きは》めて|平和《へいわ》であつたでせう。|役員《やくゐん》や|信者《しんじや》の|迷信《めいしん》を|利用《りよう》して|猫《ねこ》を|被《かぶ》つて|居《ゐ》やうものなら、|物質的《ぶつしつてき》|方面《はうめん》の|事《こと》などは|如何《どん》な|事《こと》でも|出来《でき》たでありませう。|然《しか》し|乍《なが》ら|自分《じぶん》の|天授《てんじゆ》の|良心《りやうしん》が|如何《どう》しても、そんな|事《こと》を|許《ゆる》さない。|今《いま》の|世《よ》の|中《なか》の|様《やう》に|神《かみ》の|道《みち》は|方便《はうべん》や|手段《しゆだん》では|行《ゆ》かぬ。|方便《はうべん》や|手段《しゆだん》を|以《もつ》てした|事《こと》は|何時《いつ》しか|化《ばけ》の|皮《かは》が|剥《は》げるものである。|況《いは》んや|至誠《しせい》|至直《しちよく》の|神《かみ》に|仕《つか》ふる|身分《みぶん》としては、|夢《ゆめ》にだにも|良心《りやうしん》の|許《ゆる》さぬ|事《こと》は|出来《でき》ない。|自分《じぶん》は|天地《てんち》と|共《とも》に|亡《ほろ》びざる|大真理《だいしんり》|即《すなは》ち|神《かみ》の|大道《だいだう》より|外《ほか》の|道《みち》を|歩《あゆ》む|事《こと》は|出来《でき》ぬ。|真理《しんり》の|為《た》めには|一身《いつしん》を|献《ささ》げて|悔《く》いないのである。|今日《こんにち》の|場合《ばあひ》は|如何《いか》にしても|社会《しやくわい》|一般《いつぱん》の|誤解《ごかい》を|正《ただ》し、|大本《おほもと》を|正解《せいかい》させることが|必要《ひつえう》であると|感《かん》じたから、|茲《ここ》に|天下《てんか》|修斎《しうさい》のため|真理《しんり》の|旗幟《きしき》を|翻《ひるがへ》し、|神様《かみさま》に|一身《いつしん》を|献《ささ》げて|口《くち》を|藉《か》し、|茲《ここ》に|愈《いよいよ》|此《この》|物語《ものがたり》を|発表《はつぺう》する|事《こと》となつたのである。|混濁《こんだく》せる|社会《しやくわい》のため|一身《いつしん》を|捧《ささ》げて|五六七《みろく》の|御世《みよ》に|奉仕《ほうし》せむと|云《い》ふ|誠《まこと》の|人《ひと》は、|一日《いちにち》も|早《はや》く|此《この》|物語《ものがたり》の|精神《せいしん》に|目《め》を|醒《さ》まし|天下万民《てんかばんみん》の|為《た》めに|誠《まこと》を|尽《つく》して|頂《いただ》き|度《た》いものである。
|選《えら》まれし|神《かみ》の|使《つかひ》の|甲斐《かひ》もなし
|人《ひと》を|導《みちび》く|力《ちから》なき|身《み》は
(大正一一・一〇・一四 旧八・二四 北村隆光録)
第二章 |吉崎仙人《よしざきせんにん》〔一〇三九〕
|丹波《たんば》|何鹿郡《いかるがぐん》|東八田村《ひがしやたむら》|字《あざ》|淤与岐《およぎ》といふ、|大本《おほもと》に|因縁《いんねん》|深《ふか》き|木花咲耶姫命《このはなさくやひめのみこと》を|斎《まつ》られたる|弥仙山《みせんざん》のある|小《ちひ》さき|村《むら》に、|吉崎《よしざき》|兼吉《かねきち》といふ|不思議《ふしぎ》な|人《ひと》があつて、|自《みづか》ら|九十九仙人《つくもせんにん》と|称《しよう》してゐる。
|彼《かれ》は|七才《しちさい》の|時《とき》、|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|老人《らうじん》に|山中《さんちう》に|出会《であ》ひ|種々《しゆじゆ》の|神秘《しんぴ》を|伝《つた》へられてから、|其《その》|言行《げんかう》は|俄然《がぜん》|一変《いつぺん》し、|日夜《にちや》|木片《もくへん》や|竹《たけ》の|端《はし》|等《など》にて、|金釘流《かなくぎりう》の|筆先《ふでさき》を|書《か》きあらはし、|天《てん》のお|宮《みや》の|一《いち》の|馬場《ばんば》の|大神様《おほかみさま》の|命令《めいれい》を|受《う》けて、|天地《てんち》の|神々《かみがみ》に|大神《おほかみ》の|神勅《しんちよく》を|宣伝《せんでん》するのを|以《もつ》て|一生《いつしやう》の|天職《てんしよく》となし、|親族《しんぞく》、|兄弟《きやうだい》、|村人《むらびと》よりは|発狂者《はつきやうしや》と|見做《みな》され、|一人《ひとり》も|相手《あひて》にする|者《もの》がない、それにも|屈《くつ》せず、|仙人《せんにん》は|自分《じぶん》の|書《か》く|筆先《ふでさき》は、|現代《げんだい》の|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|人間《にんげん》に|宣教《せんけう》するのではない、|宇宙《うちう》の|神々様《かみがみさま》に|大神《おほかみ》の|御心《みこころ》を|取次《とりつ》ぐのであるから、|到底《たうてい》|人間《にんげん》の|分際《ぶんざい》として、|自分《じぶん》の|書《か》いたことが|紙《かみ》|一枚《いちまい》だつて、|分《わか》るべき|道理《だうり》がないのだと|云《い》つてゐる。|二十五六才《にじふごろくさい》の|頃《ころ》から|郷里《きやうり》の|淤与岐《およぎ》を|立出《たちい》で、|口上林村《くちかんばやしむら》の|山奥《やまおく》に|忍《しの》び|入《い》り、|平素《へいそ》は|樵夫《きこり》を|職業《しよくげう》となし、|自分《じぶん》|一人《ひとり》の|食《く》ふ|丈《だけ》のものを|働《はたら》いて|拵《こしら》へ、チツとでも|米塩《べいえん》の|貯《たくは》へが|出来《でき》ると、それが|大方《おほかた》なくなるまで、|山中《さんちう》の|小屋《こや》に|立《たて》こもつて、|板《いた》の|引《ひき》わつたのに|竹《たけ》の|先《さき》を|叩《たた》き|潰《つぶ》して|拵《こしら》へた|筆《ふで》で|神勅《しんちよく》を|書《か》きあらはし、|日当《ひあた》りのよい|場所《ばしよ》を|選《えら》んで、|大空《おほぞら》を|向《む》けて|斜《ななめ》に|立《た》てて|日《ひ》にさらしておくのである。|其《その》|仙人《せんにん》の|書《か》いた|筆先《ふでさき》は、|大本《おほもと》の|教祖《けうそ》のお|筆先《ふでさき》と|対照《たいせう》して|見《み》ると、|余程《よほど》|面白《おもしろ》い|連絡《れんらく》がある。|其《その》|筆先《ふでさき》の|大要《たいえう》は|先《ま》づザツと|左《さ》の|通《とほ》りである。
『|今日《こんにち》|迄《まで》の|世界《せかい》は、|吾々《われわれ》|邪神《じやしん》|等《ら》の|自由自在《じいうじざい》、|跳梁《てうりやう》する|世界《せかい》であつたが、|愈《いよいよ》|天運《てんうん》|循環《じゆんかん》して、|吾々《われわれ》|大自在天派《だいじざいてんは》の|世界《せかい》はモウ|済《す》んで|了《しま》つたから、これからは|綾部《あやべ》の|大本《おほもと》へ|世《よ》を|流《なが》して、|神界《しんかい》の|一切《いつさい》の|権利《けんり》を、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》に|手渡《てわた》しせなくてはならぬ』
といふ|意味《いみ》の|事《こと》が|沢山《たくさん》に|書《か》いてある。|又《また》|出口《でぐち》|教祖《けうそ》の|古《ふる》き|神代《かみよ》からの|因縁《いんねん》などもあらまし|書《か》き|現《あら》はしてある。
|此《この》|九十九《つくも》|仙人《せんにん》の|精霊《せいれい》が、|上谷《うへだに》の|幽斎《いうさい》|修行場《しうぎやうば》へ|現《あら》はれて|来《き》て、|当年《たうねん》|十八才《じふはつさい》の|四方《しかた》|春三《はるざう》に|神懸《かむがかり》し|筆《ふで》を|取《と》らして、
『|此《この》|世《よ》|一切《いつさい》の|神界《しんかい》の|事《こと》を、|綾部《あやべ》の|大本《おほもと》へ|引《ひき》つがねばならぬから、|今度《こんど》みえた|霊学《れいがく》の|先生《せんせい》と、|足立《あだち》|先生《せんせい》、|四方《しかた》|春三《はるざう》と|三人《さんにん》|至急《しきふ》に|来《き》て|呉《く》れ』
とスラスラと|四方《しかた》の|手《て》を|通《つう》じて|依頼文《いらいぶん》を|書《か》いた。そこで|喜楽《きらく》は|霊学上《れいがくじやう》の|参考《さんかう》の|為《ため》、|一《ひと》つ|研究《けんきう》して|見《み》ようと|思《おも》ひ、|其《その》|翌日《よくじつ》|直様《すぐさま》、|口上林《くちかんばやし》の|山奥《やまおく》の|仙人《せんにん》の|許《もと》へ|出張《しゆつちやう》する|筈《はず》であつたのが、|折《をり》ふし|綾部《あやべ》に|急用《きふよう》が|出来《でき》たので、|帰《かへ》らねばならなくなつた。さうしてゐると|三日目《みつかめ》の|正午過《しやうごすぎ》に、|上谷《うへだに》の|修行場《しうぎやうば》から|四方《しかた》|祐助《いうすけ》といふ|老爺《ぢい》サンが|慌《あはた》だしく|大本《おほもと》へ|飛《と》んで|来《き》て、
|祐助《いうすけ》『|上田《うへだ》|先生《せんせい》、|大変《たいへん》なことが|出来《でき》ました。|今《いま》の|先《さき》|足立《あだち》サンと|春三《はるざう》サンが|諜《しめ》し|合《あは》せ、|上田《うへだ》|先生《せんせい》にかくれて、|九十九《つくも》|仙人《せんにん》に|会見《くわいけん》に|行《ゆ》き、|一切《いつさい》の|神界《しんかい》の|秘術《ひじゆつ》を|授《さづ》けて|貰《もら》ひ、|帰《かへ》つて|来《き》て、|上田《うへだ》をアフンとさせてやらう、|兎《と》も|角《かく》|十分《じふぶん》の|神力《しんりき》を|受《う》けて|居《を》らねば、|上田《うへだ》を|放《ほ》り|出《だ》すことが|出来《でき》ぬ。これは|大秘密《だいひみつ》だから、|決《けつ》して|上田《うへだ》には|知《し》らしてはならぬぞ……と|云《い》つて、|二人《ふたり》があわてて|出《で》て|行《ゆ》かはりました。あの|人達《ひとたち》|二人《ふたり》が、|先生《せんせい》に|隠《かく》れて|勝手《かつて》に|行《ゆ》くといふのは、|何《いづ》れ|碌《ろく》な|事《こと》ぢやありますまい。|又《また》|一《ひと》つ|何《なに》かよからぬことを|企《たく》むのでせう。|先生《せんせい》、グヅグヅして|居《を》つては|大変《たいへん》ですから、サアこれから|私《わたし》が|口上林《くちかんばやし》の|山《やま》の|口《くち》まで|御案内《ごあんない》|致《いた》しますから、|今《いま》から|二人《ふたり》の|後《あと》を|追《お》つかけて|行《い》つて|下《くだ》さい、サア|早《は》よ|早《は》よ!』
と|急《せ》き|立《た》てて|居《ゐ》る。そこで|喜楽《きらく》は|早速《さつそく》|教祖《けうそ》に|面会《めんくわい》して、|其《その》|報告《はうこく》|通《どほ》りの|事《こと》を|申上《まをしあ》げると、|教祖《けうそ》は、
『そんなら|一時《いつとき》も|早《はや》う、|御苦労《ごくらう》|乍《なが》ら|仙人《せんにん》に|会《あ》うて|来《き》て|下《くだ》さい』
と|云《い》はれた。|祐助《いうすけ》|爺《ぢい》サンの|案内《あんない》で、|口上林《くちかんばやし》の|仙人《せんにん》の|居《を》るといふ|杉山《すぎやま》の|一里《いちり》|程《ほど》|手前《てまへ》まで|送《おく》られ、そこから|祐助《いうすけ》|爺《ぢい》サンに|地理《ちり》を|詳《くは》しく|教《をし》へられ、|袂《たもと》を|分《わか》ち、|雑草《ざつさう》の|生《お》ひ|茂《しげ》る|羊腸《やうちやう》の|小路《こみち》を|只《ただ》|一人《ひとり》|登《のぼ》つていつた。
|案内《あんない》も|知《し》らぬ|草深《くさぶか》い|峻坂《しゆんぱん》を、|一枚《いちまい》の|紙《かみ》に|書《か》いた、そそかしい|地《ち》|図《づ》を|力《ちから》に|辿《たど》り|辿《たど》りつつ、|心《こころ》を|先《さき》に|進《すす》んで|行《い》つた。|半里《はんり》ばかり|登《のぼ》つたと|思《おも》ふ|時《とき》に|路《みち》の|傍《かたはら》の|林《はやし》の|中《なか》に|矮小《わいせう》な|小屋《こや》があつて、|其《その》|中《なか》には|何《なに》か|二三人《にさんにん》の|話声《はなしごゑ》が|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は|聞《き》くともなしに、|小屋《こや》の|傍《かたはら》に|佇立《ちよりつ》して|息《いき》を|休《やす》めてゐると、|六十余《ろくじふあま》りの|年《とし》よりの|声《こゑ》で、
『|一体《いつたい》お|前達《まへたち》は|神様《かみさま》の|御用《ごよう》を|致《いた》す|者《もの》であるならば、なぜに|世間《せけん》の|義務《ぎむ》や|人情《にんじやう》を|知《し》らぬのか、そんなことで|如何《どう》して|衆生済度《しうじやうさいど》が|出来《でき》る、|口先《くちさき》|計《ばか》りの|誠《まこと》で、|心《こころ》と|行《おこな》ひが|正反対《せいはんたい》だ。|衆生済度《しうじやうさいど》|所《どころ》か、|自分《じぶん》|一人《ひとり》の|済度《さいど》も|出来《でき》まいぞ。|僅《わづ》かに|一銭《いつせん》や|二銭《にせん》の|金《かね》が|惜《を》しいか、|口先《くちさき》で|甘《うま》いことをいうて、|信者《しんじや》から|金《かね》を|取《と》ること|許《ばか》り|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|考《かんが》へてゐる|神商売人《かみしやうばいにん》だらう。|此《この》|老人《らうじん》の|労苦《らうく》に|酬《むく》ゆることを|知《し》らぬか。|俺《わし》も|一旦《いつたん》それ|程《ほど》|惜《を》しい|金《かね》なら|要《い》らぬと|云《い》うた|以上《いじやう》は、|仮令《たとへ》|此《この》|山奥《やまおく》でかつえて|死《し》んでもお|前達《まへたち》の|金《かね》は|汚《けが》らはしい!』
とだんだん|声高《こわだか》になつて|罵《ののし》つてゐる。|一方《いつぱう》の|小《ちひ》さい|声《こゑ》はよく|聞《き》いて|見《み》れば、|聞覚《ききおぼ》えのある|足立《あだち》|正信《まさのぶ》|氏《し》の|声《こゑ》であつた。
|足立《あだち》『オイ|爺《ぢい》サン、|余《あま》り|劫託《がふたく》をつくものでない。|山路《やまみち》の|修繕料《しうぜんれう》をくれと|云《い》つたつて、どうしてそれがやれるものか。どこに|修繕《しうぜん》が|出来《でき》て|居《ゐ》る。|道草《みちくさ》|一本《いつぽん》|刈《か》つた|形跡《けいせき》もなし、|土《つち》|一所《ひとところ》|動《うご》かした|気配《けはい》もないぢやないか。|今《いま》|先《さき》も|道端《みちばた》の|芒《すすき》で|足《あし》を|此《この》|通《とほ》り|切《き》り、|高《たか》い|石《いし》に|躓《つまづ》いて|生爪《なまづめ》を|起《おこ》したり、これ|丈《だけ》|難儀《なんぎ》をして|居《を》る|旅人《たびびと》に、|山路《やまみち》の|修繕費《しうぜんひ》をよこせもないものだ。|金《かね》の|有余《ありあま》つた|気違《きちが》ひならいざ|知《し》らず、こんな|山子《やまこ》のイカサマ|爺《ぢ》イの|山賊《さんぞく》みたいな|奴《やつ》には、|淵川《ふちかは》へすてる|金《かね》があつても、|勿体《もつたい》なうてやれぬワイ。|世間《せけん》の|人間《にんげん》をバカにするにも|程《ほど》があるぞ。お|前《まへ》もよい|年《とし》しとつて、よい|加減《かげん》に|改心《かいしん》をしたら|如何《どう》だ。|乞食《こじき》のやうな|真似《まね》をして、|何《なん》の|事《こと》だ』
と|鼻先《はなさき》でからかつて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》はつと|其《その》|矮屋《わいをく》の|入口《いりくち》を|見《み》ると、
『|私《わたし》は|妻子《さいし》|眷族《けんぞく》も|親類《しんるゐ》もない|憐《あはれ》な|孤独者《ひとりもの》であります。|年《とし》は|六十七才《ろくじふしちさい》、|此《この》|奥山《おくやま》へ|通《かよ》ふ|人々《ひとびと》の|為《ため》に、|一年中《いちねんぢう》ここに|住居《ぢうきよ》して|山路《やまみち》を|直《なほ》し、|往来《わうらい》のお|方《かた》の|便利《べんり》をはかつて|居《を》る|者《もの》であります。どうぞ|御同情《ごどうじやう》のあるお|方《かた》は、|乞食《こじき》にやると|思《おも》うて、|一銭《いつせん》でも|半銭《はんせん》でも|宜《よろ》しいから、お|心持《こころもち》を|投《な》げてやつて|下《くだ》さい……|世界《せかい》の|慈善者《じぜんしや》さま……|年月日《ねんぐわつぴ》……|矮屋《わいをく》|主人《しゆじん》』
と|記《しる》してある。|右《みぎ》の|張札《はりふだ》を|見《み》て、|先程《さきほど》からの|小屋《こや》の|中《なか》の|争論《そうろん》の|理由《りいう》も|略《ほぼ》|推定《すいてい》することが|出来《でき》た。|喜楽《きらく》はよい|所《ところ》で|足立《あだち》、|四方《しかた》の|両人《りやうにん》に|出会《であ》うたと|打喜《うちよろこ》び、|直《ただち》に|其《その》|小屋《こや》へ、
|喜楽《きらく》『|御免《ごめん》|下《くだ》さい』
と|声《こゑ》をかけて|這入《はい》り、|爺《ぢ》イサンに、
|喜楽《きらく》『|御苦労《ごくらう》さまで|御座《ござ》います』
と|云《い》つて|十銭《じつせん》|銀貨《ぎんくわ》|一枚《いちまい》を|与《あた》へた。|老人《らうじん》は|別《べつ》に|喜《よろこ》んだ|顔《かほ》もせず、|喜楽《きらく》を|見《み》て、
|老人《らうじん》『ウンよし、|大《おほ》きな|顔《かほ》して|通《とほ》れ』
と|只《ただ》|一言《ひとこと》を|放《はな》つたきり、|穴《あな》のあく|程《ほど》|喜楽《きらく》の|顔《かほ》を|見《み》つめて|居《ゐ》たが、やがて|吾《わが》|膝《ひざ》をうつて、
『ウンウン』
と|何度《なんど》となく|諾《うなづ》いて|居《ゐ》た。|此《この》|老人《らうじん》こそ|実《じつ》に|不思議《ふしぎ》なものである。|虚構《きよこう》も|修飾《しうしよく》もない|実際話《じつさいばなし》であるから、|此処《ここ》に|読者《どくしや》は|注意《ちうい》して|貰《もら》ひたい。|要《えう》するに|九十九《つくも》|仙人《せんにん》の|守護神《しゆごじん》が、|此《この》|老人《らうじん》に|臨時《りんじ》|憑依《ひようい》して、|三人《さんにん》の|心《こころ》を|試《ため》したのであつたと|云《い》ふことが|後《のち》に|分《わか》つて|来《き》たのである。
|足立《あだち》、|四方《しかた》の|両人《りやうにん》は、ヨモヤ|後追《あとお》つかけて|来《こ》まいと|思《おも》うて|居《ゐ》た|喜楽《きらく》の|姿《すがた》が、|眼前《がんぜん》に|現《あら》はれたのに|一寸《ちよつと》|面《めん》くらつて、
|足立《あだち》『オヽ|上田《うへだ》サンですか、|只《ただ》|一人《ひとり》で|此《この》|山路《やまみち》をどこへお|越《こ》しですか。|私《わたし》は|一寸《ちよつと》|急用《きふよう》で|上林《かんばやし》の|某《ぼう》の|宅《たく》へ|行《い》つて|来《き》ますから、マア|御《ご》ゆるりとここで|休《やす》まして|貰《もら》うて|結構《けつこう》な|御話《おはなし》でも|爺《ぢ》イサンから|聞《き》かして|貰《もら》ひなさい。|老人《としより》の|云《い》ふことは|身《み》の|為《ため》になりますぞ』
と|捨科白《すてぜりふ》を|残《のこ》し、あわただしく|矮屋《わいをく》を|立《た》つて、|四方《しかた》と|共《とも》に|山路《やまみち》を|登《のぼ》つて|行《ゆ》く。
|喜楽《きらく》はすぐ|様《さま》|後追《あとお》つかけて|行《ゆ》かうとしてゐる|時《とき》、|其《その》|老人《らうじん》は|袖《そで》を|引《ひ》いて、
|老人《らうじん》『|一寸《ちよつと》お|待《ま》ちなさい、|愚老《ぐらう》が|近路《ちかみち》を|案内《あんない》して|上《あ》げませう』
ときせる|煙草《たばこ》を|一二服《いちにふく》グツと|喫《の》み、
|老人《らうじん》『サアサアこうお|出《い》で』
と|先《さき》に|立《た》ち、|老人《らうじん》にも|似《に》ず、|足《あし》も|軽々《かるがる》しく|仙人《せんにん》の|隠《かく》れてゐる、|杉山《すぎやま》の|麓《ふもと》の|谷川《たにがは》の|傍《そば》まで|送《おく》り、
『サア|此《この》|川《かは》を|向《むか》うへ|渡《わた》り、|右《みぎ》に|取《と》つて|一二丁《いちにちやう》|進《すす》めば、そこが|仙人《せんにん》の|隠《かく》れ|場所《ばしよ》だ。|左様《さやう》なら……』
と|云《い》つたきり、|早々《さうさう》|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
|喜楽《きらく》はよく|辷《すべ》る|谷川《たにがは》の|急流《きふりう》を|渡《わた》り、|樵夫小屋《きこりごや》をさして|急《いそ》いだ。|五六丁《ごろくちやう》も|登《のぼ》つたと|思《おも》ふ|頃《ころ》、|九十九《つくも》|仙人《せんにん》は|坂路《さかみち》の|中央《ちうあう》に|立《た》つて|待《ま》つてゐる。そして|喜楽《きらく》に|向《むか》ひ、|顔色《かほいろ》を|和《やはら》げ、さも|愉快《ゆくわい》げに、
|仙人《せんにん》『アヽ|先生《せんせい》、|此《この》|山路《やまみち》をはるばるとよく|訪《たづ》ねて|来《き》てくれましたなア。マアマアこちらへ|来《き》て|一服《いつぷく》なさい』
と|自分《じぶん》の|小《ちひ》さい|小屋《こや》へ|案内《あんない》し、|白湯《さゆ》を|黒《くろ》い|土瓶《どびん》から|汲《く》んですすめ、いろいろと|神界《しんかい》の|秘事《ひじ》を|一夜間《いちやかん》かかつて、|諄々《じゆんじゆん》と|説《と》き|諭《さと》した。|喜楽《きらく》は|高熊山《たかくまやま》の|第一次《だいいちじ》の|修行《しうぎやう》や、|第二回目《だいにくわいめ》の|修行《しうぎやう》の|時《とき》に、|神界《しんかい》から|見《み》せられてゐた|事実《じじつ》を|思《おも》ひ|出《だ》し、|符節《ふせつ》を|合《あは》すが|如《ごと》きに|益々《ますます》|感《かん》じ、|自分《じぶん》の|信念《しんねん》はいよいよ|強《つよ》くなつて|来《き》た。
|喜楽《きらく》は|矮屋《わいをく》の|老人《らうじん》の|親切《しんせつ》なる|案内《あんない》に|依《よ》つて、|恙《つつが》なく|九十九《つくも》|仙人《せんにん》の|小屋《こや》に|到着《たうちやく》し、いろいろと|有益《いうえき》な|神界《しんかい》の|経綸《けいりん》を|聞《き》かされ、|非常《ひじやう》に|満足《まんぞく》したが、|足立《あだち》、|四方《しかた》|両人《りやうにん》の、|一日《いちにち》たつてもここへ|出《で》て|来《こ》ぬのに|心配《しんぱい》し|始《はじ》め、|仙人《せんにん》に|向《むか》つて、
|喜楽《きらく》『|両人《りやうにん》はキツとここへ|訪《たづ》ねて|来《く》る|筈《はず》だのに、まだ|姿《すがた》を|見《み》せぬのは|如何《どう》なつたのでせう、|山奥《やまおく》へでも|迷《まよ》ひ|込《こ》んで|居《ゐ》るのではありますまいか』
と|尋《たづ》ねてみた。|仙人《せんにん》は|笑《わら》つて|答《こた》へて|云《い》ふ。
|仙人《せんにん》『アハヽヽヽ、|大変《たいへん》な|野心《やしん》を|起《おこ》し、お|前《まへ》さまを|出《だ》しぬいて、|大切《たいせつ》なる|神秘《しんぴ》の|鍵《かぎ》を|握《にぎ》らうとした、|腹《はら》の|黒《くろ》い|人物《じんぶつ》だから、|今日《けふ》も|到底《たうてい》ここへは|来《く》ることが|出来《でき》ぬやうに、|神界《しんかい》から|垣《かき》をされてゐるのだから、|明日《あす》の|朝《あさ》になつたら、ヤツとの|事《こと》で|来《く》るであらう。|憂慮《いうりよ》するには|及《およ》ばぬ。|天《てん》のお|宮《みや》の|一《いち》の|馬場《ばんば》のお|父様《とうさま》も、|天《てん》のお|宮《みや》の|二《に》の|馬場《ばんば》のお|父様《とうさま》も、|天《てん》のお|宮《みや》の|三《さん》の|馬場《ばんば》の|国族《こくぞく》|武蔵《むさし》|吉崎《よしざき》|兼吉《かねきち》も、|皆《みな》お|前《まへ》の|体《たい》を|守《まも》り、|此《この》|神秘《しんぴ》を|伝《つた》へむ|為《ため》に、|彼等《かれら》|両人《りやうにん》が|居《を》ると|邪魔《じやま》になるから、ワザとに|遅《おく》れさして|居《ゐ》るのだ』
といつて|微笑《びせう》して|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は|仙人《せんにん》の|言《ことば》を|一伍一什《いちぶしじふ》|聞《き》き|終《をは》り、|余《あま》り|教祖《けうそ》の|筆先《ふでさき》に|符合《ふがふ》せるに|驚《おどろ》き、|益々《ますます》|神界《しんかい》に|対《たい》して|一大責任《いちだいせきにん》の|身《み》にかかれることを|覚悟《かくご》し|信念《しんねん》はますます|堅《かた》くなつた。
|一方《いつぱう》の|二人《ふたり》は|喜楽《きらく》の|先《せん》を|越《こ》さうとして、|却《かへつ》て|山路《やまみち》にふみ|迷《まよ》ひ、|濃霧《のうむ》の|為《ため》に|方向《はうかう》を|誤《あやま》り、|深《ふか》い|谷底《たにそこ》へ|転落《てんらく》し、|身体《しんたい》の|各所《かくしよ》にすり|傷《きず》さへも|負《お》ひ、|迷《まよ》ひ|迷《まよ》うて|漸《やうや》く|又《また》|元《もと》の|老人《らうじん》の|小屋《こや》の|前《まへ》に|到着《たうちやく》し、|今度《こんど》は|老人《らうじん》に|目《め》が|剥《む》けるほど|呶鳴《どな》りつけられ、ブルブル|震《ふる》ひ|乍《なが》ら、|先《さき》の|無礼《ぶれい》を|陳謝《ちんしや》し、|漸《やうや》く|老人《らうじん》の|怒《いか》りも|解《と》け、|老人《らうじん》の|好意的《かういてき》|案内《あんない》に|依《よ》つて、|夜《よる》の|十一時《じふいちじ》|頃《ごろ》|漸《やうや》く|杉山《すぎやま》の|麓《ふもと》の|一軒《いつけん》の|宿屋《やどや》に|着《つ》いた。|其《その》|夜《よ》はそこで|一泊《いつぱく》し、|翌日《よくじつ》|早朝《さうてう》|登山《とざん》して|来《き》たのである。|二人《ふたり》は、
『|余《あま》り|心得《こころえ》|違《ちがひ》を|致《いた》したから、|神界《しんかい》から、お|気付《きづけ》をされたと|喜楽《きらく》サンは|思《おも》はれるか|知《し》らぬが、これも|何《なに》か|神様《かみさま》のお|仕組《しぐみ》でせう』
と|負惜《まけをし》みの|強《つよ》い|性質《せいしつ》とて、|表面《へうめん》|平気《へいき》を|装《よそほ》うてゐたが、|其《その》|顔《かほ》には|隠《かく》し|切《き》れぬやうな|不安《ふあん》な|血相《けつさう》が|見《み》えてゐた。|仙人《せんにん》は|足立《あだち》に|向《むか》ひ|厳然《げんぜん》として、
|仙人《せんにん》『お|前《まへ》の|面部《めんぶ》には|殺気《さつき》が|現《あら》はれてゐる。|何《なん》となく|心中《しんちう》|不穏《ふおん》だ。|一時《いちじ》も|早《はや》く|惟神《かむながら》の|道《みち》に|立帰《たちかへ》つて、|及《およ》ばぬ|企図《きと》を|止《や》めなさい。|今《いま》|改心《かいしん》せなくては|身《み》の|破滅《はめつ》を|招《まね》きますぞよ』
と|言《ことば》|強《つよ》く|言《い》ひ|放《はな》ち、|又《また》もや|四方《しかた》|春三《はるざう》に|向《むか》ひ、
|仙人《せんにん》『お|前《まへ》は|盤古《ばんこ》の|霊《れい》が|守護《しゆご》して|居《ゐ》る。|甚《はなはだ》|面白《おもしろ》くない、お|前《まへ》の|大望《たいまう》は、|丁度《ちやうど》|猿猴《ゑんこう》が|水《みづ》の|月《つき》を|捉《とら》へむとするやうなものだ。|今《いま》に|改《あらた》めなくてはキツと|身《み》を|亡《ほろ》ぼすことが|出《で》て|来《く》るぞ。|今日《こんにち》|只今《ただいま》|限《かぎ》り|良心《りやうしん》に|立《た》ち|復《かへ》り、|一心《いつしん》に|真心《まごころ》を|以《もつ》て|神界《しんかい》に|仕《つか》へなさい。さうすれば|昔《むかし》からの|霊《みたま》の|深《ふか》い|罪科《つみとが》を|赦《ゆる》された|上《うへ》、|天晴《あつぱ》れ|神界《しんかい》の|御用《ごよう》に|使《つか》つて|貰《もら》へるであらう。|併《しか》し|乍《なが》ら|今《いま》の|心《こころ》では|駄目《だめ》だ。|早《はや》く|改《あらた》めないと、|災《わざはい》|忽《たちま》ち|其《その》|身《み》に|至《いた》る|凶徴《きようちよう》が、お|前《まへ》の|顔《かほ》に|現《あら》はれて|居《ゐ》る。|此《この》|仙人《せんにん》の|云《い》ふことをゆめゆめ|疑《うたが》ふこと|勿《なか》れ』
ときめつける|様《やう》に|言《い》つた。|二人《ふたり》は|真青《まつさを》な|顔《かほ》をして|一言《いちごん》もよう|答《こた》へず、|体《からだ》をビリビリと|震《ふる》はせて|居《ゐ》た。|仙人《せんにん》は|更《あらた》めて|言《い》ふ。
|仙人《せんにん》『いよいよ|時節《じせつ》|到来《たうらい》して、|自分《じぶん》の|役目《やくめ》は|今日《こんにち》を|以《もつ》て|終《をは》りをつげた。|明日《あす》からは|人界《じんかい》へ|下《くだ》つて、|人場《ひとば》の|勤《つと》めに|従《したが》ひ、|余生《よせい》を|送《おく》りませう。|神場《かみば》の|用《よう》は|今日《けふ》で|終結《しうけつ》だから、|再《ふたた》び|訪《たづ》ねて|来《き》て|貰《もら》つても|最早《もはや》|駄目《だめ》だ。|左様《さやう》なら……』
と|云《い》ひすて、|大鋸《おほのこぎり》を|肩《かた》にひつかけ、|山奥《やまおく》|深《ふか》く|其《その》|姿《すがた》を|没《ぼつ》した|限《き》り、|出《で》て|来《こ》ないので、やむを|得《え》ず、|三人《さんにん》は|帰途《きと》に|就《つ》いた。
これから|以後《いご》の|四方《しかた》|春三《はるざう》は|盤古《ばんこ》の|悪霊《あくれい》に|憑依《ひようい》され、|邪心《じやしん》|日《ひ》に|日《ひ》に|募《つの》りて|喜楽《きらく》を|排斥《はいせき》し、|其《その》|後《ご》の|御用《ごよう》を|勤《つと》めむと|数多《あまた》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》を|籠絡《ろうらく》し、いろいろ|雑多《ざつた》の|計画《けいくわく》を|立《た》てて|居《ゐ》たが、|一年《いちねん》たつた|後《のち》に、|仙人《せんにん》の|云《い》ふた|如《ごと》く、|大変《たいへん》な|神罰《しんばつ》を|蒙《かうむ》りて|悶死《もんし》するに|至《いた》つた。|実《じつ》に|慎《つつし》むべきは|慢心《まんしん》と|取違《とりちがひ》とである。
|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・一〇・一四 旧八・二四 松村真澄録)
第三章 |帰郷《ききやう》〔一〇四〇〕
|心《こころ》なき|人《ひと》の|誹《そしり》も|何《なに》かあらむ
|神《かみ》に|任《ま》かせし|吾《わが》|身《み》なりせば
|上谷《うへだに》の|修業場《しうげふば》で、|二十《にじふ》|有余人《いうよにん》の|幽斎《いうさい》|修業者《しうげふしや》の|審神者《さには》に|奉仕《ほうし》しつつある|処《ところ》、|自分《じぶん》の|郷里《きやうり》から『|老母《らうぼ》|危篤《きとく》すぐ|帰《かへ》れ』との|電信《でんしん》が|着《つ》いた。|祖母《そぼ》の|急病《きふびやう》と|聞《き》いた|以上《いじやう》は、|是非《ぜひ》|共《とも》|一度《いちど》は|帰《かへ》つて|見舞《みまひ》うて|来《こ》ねばならぬ。|併《しか》しながら|一方《いつぱう》の|修業者《しうげふしや》の|様子《やうす》を|見《み》れば、|一日片時《いちじつかたとき》も|目《め》をはなすことが|出来《でき》ぬことになつてゐる。ぢやと|云《い》つて|祖母《そぼ》の|病気《びやうき》を|孫《まご》として、そ|知《し》らぬ|顔《かほ》に|打《うち》すてておく|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|修業者《しうげふしや》を|見放《みはな》しすれば、|又《また》しても|以前《いぜん》の|如《ごと》く|邪神《じやしん》が|襲来《しふらい》して、|修行場《しうぎやうば》をかき|乱《みだ》すに|違《ちが》ひない、|喜楽《きらく》が|失敗《しつぱい》するのを、|鵜《う》の|目《め》|鷹《たか》の|目《め》で|待構《まちかま》へ、|欠点《けつてん》を|捜《さが》して、|機会《きくわい》だにあらば|放逐《はうちく》せむとして|居《ゐ》る|某々《ぼうぼう》がある。|喜楽《きらく》は|神《かみ》さまの|御道《おみち》と|祖母《そぼ》の|危急《ききふ》の|場合《ばあひ》を|思《おも》ふと、|如何《どう》|決心《けつしん》したら|良《い》いか、|進退《しんたい》|谷《きは》まつて|途方《とはう》に|暮《く》れてゐた。|兎《と》にも|角《かく》にも|神界《しんかい》へ|伺《うかが》つて|見《み》た|所《ところ》、|神様《かみさま》のお|告《つげ》に|依《よ》れば、
『ここ|四五日《しごにち》の|間《あひだ》に|修業場《しうげふば》へ|帰《かへ》つて|来《く》れば|余《あま》り|大《たい》した|邪魔《じやま》は|在《あ》るまい……』
との|事《こと》であつた。そして、
『|祖母《そぼ》の|病気《びやうき》は|余程《よほど》|重態《ぢうたい》ではあるが、|生命《いのち》には|別状《べつじやう》はない、とは|言《い》ふものの|祖母《そぼ》のことであるから、|近所《きんじよ》の|人々《ひとびと》に|対《たい》しても、|帰《かへ》らずにはおかれまい、|早《はや》く|行《い》つて|来《く》るがよい、|一心《いつしん》になつて|鎮魂《ちんこん》をすれば、|八九分《はちくぶ》|通《どほ》りは|平癒《へいゆ》する』
とのことであつた。|無論《むろん》|出口教祖《でぐちけうそ》さまのお|口《くち》を|通《とほ》してのお|示《しめ》しである。そこで|四方《しかた》|藤太郎《とうたらう》を|不在中《ふざいちゆう》の|審神者《さには》に|依頼《いらい》しおき、|喜楽《きらく》の|帰郷中《ききやうちう》、|修行者《しうぎやうしや》|一同《いちどう》を|托《たく》して、|一先《ひとま》づ|穴太《あなを》へ|行《ゆ》くことになつた。|喜楽《きらく》は|出立《しゆつたつ》に|際《さい》し、|四方《しかた》|氏《し》に|命《めい》じたのは、
|喜楽《きらく》『|不在中《ふざいちゆう》に、|綾部《あやべ》から|教祖《けうそ》さまが|迎《むか》へに|来《こ》られても、|福島《ふくしま》が|来《き》ても、|又《また》|誰《たれ》が|何《なん》と|云《い》つて|来《き》ても|此処《ここ》の|修行者《しうぎやうしや》は|一人《ひとり》も|綾部《あやべ》へやつてはならぬ。わけて|四方《しかた》|春三《はるざう》、|塩見《しほみ》せい|子《こ》、|黒田《くろだ》きよ|子《こ》には|十分《じふぶん》|気《き》をつけて|貰《もら》ひ|度《た》い』
と|頼《たの》んでおいた。|四方《しかた》|藤太郎《とうたらう》|氏《し》は|喜楽《きらく》の|言《ことば》をよく|守《まも》つて|厳格《げんかく》に|審神者《さには》を|奉仕《ほうし》してゐた。さうすると|二三日《にさんにち》たつて、|教祖《けうそ》さまから|神《かみ》の|御命令《ごめいれい》だからと|云《い》つて、|右《みぎ》|三人《さんにん》の|修行者《しうぎやうしや》を|綾部《あやべ》の|金明会《きんめいくわい》へ|連《つ》れて|帰《かへ》られた。|四方《しかた》|氏《し》も|教祖《けうそ》の|命令《めいれい》には|抗弁《かうべん》しかねて、やむを|得《え》ず|三人《さんにん》を|渡《わた》して|了《しま》うた。|三人《さんにん》の|修行者《しうぎやうしや》は、|教祖《けうそ》がワザワザ|自分《じぶん》でお|迎《むか》いに|来《こ》られる|位《くらゐ》だから、|自分等《じぶんら》|三人《さんにん》は|大変《たいへん》に|神界《しんかい》の|思召《おぼしめし》に|叶《かな》うてゐるに|相違《さうゐ》ないと、|直様《すぐさま》|慢心《まんしん》をした|為《ため》に、|又《また》もや|妖魅《えうみ》が|急激《きふげき》に|襲来《しふらい》して、|恰《あたか》も|気違《きちがひ》|芝居《しばゐ》のやうなことを|演《えん》じ|出《だ》し、|金明会《きんめいくわい》の|広間《ひろま》は、|発狂者《はつきやうしや》の|巣窟《さうくつ》の|様《やう》になつて|了《しま》つたのである。
さて|喜楽《きらく》は|綾部《あやべ》から|只《ただ》|一人《ひとり》で、|十四里《じふより》の|山路《やまみち》をボツボツ|徒歩《かち》で|行《い》つて|見《み》ると、|吾《わが》|家《や》の|軒《のき》まで|差《さし》かかつた|時《とき》、|何《なん》とも|形容《けいよう》の|出来《でき》ない|一種《いつしゆ》の|悲哀《ひあい》の|感《かん》じが|胸《むね》に|浮《う》かんで|来《き》た。
『あゝ|祖母《そぼ》の|身《み》の|上《うへ》は|如何《どう》だらう。まだ|玉《たま》の|緒《を》の|命《いのち》は|切《き》れずにあるだらうか。|母《はは》は|如何《どう》して|居《を》るだらう……』
とくさぐさの|思《おも》ひに|胸《むね》は|張裂《はりさ》けるやうであつた。|急《いそ》いで|吾《わが》|家《や》に|入《い》り|見《み》れば、|母《はは》は|縁先《えんさき》の|障子《しやうじ》を|一枚《いちまい》|開《あ》けて|涼《すず》しい|風《かぜ》を|入《い》れつつ、|今年《こんねん》|八十六歳《はちじふろくさい》になつた|祖母《そぼ》の|看病《かんびやう》をしてゐる|処《ところ》であつた。|祖母《そぼ》も|今日《けふ》は|殊《こと》の|外《ほか》|気分《きぶん》が|良《よ》いといつて、|庭《には》の|若《わか》い|松《まつ》の|木《き》を|眺《なが》めて、|勢《いきほひ》のよい|枝振《えだぶり》りなどを|褒《ほ》めて|居《を》られた。|喜楽《きらく》の|妹《いもうと》の|君《きみ》といふ|八歳《はつさい》の|幼女《えうぢよ》が|学校《がくかう》から|帰《かへ》つて|来《き》て|枕許《まくらもと》で|何《なん》だか|無理《むり》を|言《い》つて、|母《はは》を|困《こま》らして|居《を》る|所《ところ》であつた。
|祖母《そぼ》は|喜楽《きらく》の|帰《かへ》つて|来《き》たことを|知《し》らずに、|又《また》|何時《いつ》とはなしにスヤスヤとよく|寝入《ねい》つて|居《を》られた。|折角《せつかく》|寝《ね》て|居《を》られるのを、|目《め》をさましては|却《かへつ》て|病気《びやうき》の|障《さは》りになつてはならぬと、|母《はは》は|自然《しぜん》に|目《め》のさめる|迄《まで》、|喜楽《きらく》の|帰《かへ》つて|来《き》たことを|知《し》らさぬ|様《やう》にしてゐた。|喜楽《きらく》は|先《ま》づ|母《はは》に|不在中《ふざいちゆう》の|辛労《しんらう》を|謝《しや》したり、|祖母《そぼ》の|病気《びやうき》の|様子《やうす》などを|尋《たづ》ねて|居《ゐ》た。
|折《をり》しも|今迄《いままで》|楽《らく》|相《さう》に|眠《ねむ》つて|居《を》られた|祖母《そぼ》は、|何者《なにもの》にか|襲《おそ》はれたやうに、|恐《おそ》ろしい|悶絶《もんぜつ》の|声《こゑ》を|出《だ》し、|稍《やや》|苦《くるし》みの|心《こころ》が|見《み》えた。|母《はは》も|喜楽《きらく》もあわてて|側《そば》へ|寄《よ》り、よくよく|見《み》れば、|祖母《そぼ》は|今《いま》|正《まさ》に|何者《なにもの》にかうなされて|居《ゐ》る|様子《やうす》である。|母《はは》と|喜楽《きらく》とが|左右《さいう》の|手《て》を|取《と》つて、|静《しづ》かに|起《おこ》し、|背《せな》をなでさすりなどして|居《ゐ》ると、やうやう|目《め》をさまし、|正気《しやうき》にかへられた。|老《おい》の|身《み》のやせ|衰《おとろ》へた|病人《びやうにん》の|事《こと》とて、|額《ひたひ》も|足《あし》も|手《て》も|冷汗《ひやあせ》にビシヨぬれになつて、|見《み》るからにいぢらしく、|自然《しぜん》に|喜楽《きらく》の|目《め》にも|涙《なみだ》が|一杯《いつぱい》にあふれて|来《き》た。|稍《やや》あつて|祖母《そぼ》は|力《ちから》なき|目《め》を|見《み》ひらき、
|祖母《そぼ》『あゝ|不思議《ふしぎ》な|夢《ゆめ》をみたものだ。お|米《よね》、そこにゐるか。よう|聞《き》いてお|呉《く》れ、|吾《わが》|家《や》の|御先祖様《ごせんぞさま》が、|只今《ただいま》の|先《さき》、|孫《まご》の|喜三郎《きさぶらう》を|殺《ころ》して|了《しま》うと|仰有《おつしや》つて、|長《なが》い|刀《かたな》を|引《ひき》ぬいて|追《おひ》かけまはして|居《を》られる。|喜三郎《きさぶろう》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|逃《に》げまはす。|見《み》るに|見《み》かねて|私《わたし》が|御先祖様《ごせんぞさま》に|対《たい》し、|暫《しばら》くの|御猶予《ごいうよ》をと、|泣《な》いてお|頼《たの》みしたら、|御先祖《ごせんぞ》さまも|少《すこ》し|顔色《かほいろ》を|和《やは》らげて、……そんならお|前《まへ》から|喜三郎《きさぶろう》に|諭《さと》してやるがよい。|上田《うへだ》の|家《いへ》は|藤原《ふぢはら》の|鎌足《かまたり》の|末《すゑ》である。うつり|行《ゆ》く|世《よ》の|慣《なら》ひ、|家《いへ》の|系図《けいづ》は|幾《いく》つにも|別《わか》れてゐるが、|中《なか》には|今《いま》に|歴然《れきぜん》として|時《とき》めいてゐる|子孫《しそん》もあり、|大商人《だいしやうにん》になつてゐる|子孫《しそん》もあり、|百姓《ひやくしやう》になつたのも|沢山《たくさん》ある。|又《また》|中途《ちうと》にして|家《いへ》の|断絶《だんぜつ》したのもあるが、|吾《わが》|家《や》こそは|百姓《ひやくしやう》になつた|人《ひと》の|家筋《いへすぢ》で、|先祖《せんぞ》から|代々《だいだい》お|国《くに》の|為《ため》になることを|勤《つと》めて|来《き》たのである。|併《しか》しモウ|斯《か》う|百姓《ひやくしやう》に|成《な》り|下《さが》つて|了《しま》うては、|如何《どう》することも|出来《でき》ぬと|幽界《いうかい》から|歎《なげ》いてゐたのである。|併《しか》しながら|有難《ありがた》き|御代《みよ》になつて、|百姓《ひやくしやう》でも|誠《まこと》があり|力《ちから》さへあれば、どんなことでも|出来《でき》るやうになつたのだから、どうかして|吾《わが》|子孫《しそん》から|世《よ》の|為《ため》になる|者《もの》を|現《あら》はしたいと|思《おも》ひ、|神界《しんかい》の|御許《おゆる》しを|受《う》けて、|神様《かみさま》の|尊《たふと》きお|道《みち》を|明《あきら》かに|世界《せかい》へ|現《あら》はし、|此《この》|世《よ》を|安楽《あんらく》な|神《かみ》の|世《よ》にしたい|為《ため》に、|喜三郎《きさぶろう》を|神様《かみさま》のお|使《つかひ》として、|一身《いつしん》を|捧《ささ》げて|世《よ》の|為《ため》に|尽《つく》さしたいと|思《おも》ひ、|其《その》|身辺《しんぺん》を|昼夜《ちうや》に|守護《しゆご》|致《いた》して|居《を》るのである。かかる|重《おも》き|使命《しめい》を|有《も》つてゐる|者《もの》が、|祖母《そぼ》の|病気《びやうき》のために|心《こころ》を|紊《みだ》し、|肝賢《かんじん》の|神界《しんかい》の|御用《ごよう》をすてて、のめのめと|吾《わが》|家《や》に|帰《かへ》り|来《く》るとは|不届《ふとど》き|千万《せんばん》な|奴《やつ》だ。|神界《しんかい》へ|対《たい》して|申訳《まをしわけ》が|立《た》たぬから、|一層《いつそう》のこと|切《き》り|捨《す》てて|了《しま》ふと|仰有《おつしや》つて、|大変《たいへん》な|御立腹《ごりつぷく》、そこで|私《わたし》がいろいろとお|詫《わび》をして、|暫《しばら》くの|御猶予《ごいうよ》を|願《ねが》うたと|思《おも》ふ|折《をり》、|不意《ふい》に|誰《たれ》にか|揺起《ゆりおこ》されたと|思《おも》ふたら、ヤツパリ|夢《ゆめ》であつた。アー|併《しか》し|乍《なが》ら|御先祖《ごせんぞ》さまのお|言葉《ことば》は|夢《ゆめ》とはいふものの、|等閑《なほざり》にすることは|出来《でき》ぬ。|喜三郎《きさぶろう》も|其《その》|心得《こころえ》で|世《よ》の|為《ため》に、|神《かみ》さまの|御用《ごよう》を|一心《いつしん》に|勤《つと》めて|貰《もら》へば、|先祖《せんぞ》さまに|対《たい》して|申訳《まをしわけ》が|立《た》つから、|中途《ちうと》に|気《き》をくぢかぬやうに|頼《たの》むぞ。|妾《わたし》は|老木《おいき》の|末短《すゑみじか》き|身《み》の|上《うへ》、お|前《まへ》はまだ|血気《けつき》|盛《ざか》り、|半時《はんとき》の|間《ま》も|無益《むえき》に|日《ひ》を|送《おく》ることは|出来《でき》ぬから、|妾《わたし》に|構《かま》はずお|道《みち》の|為《ため》に|潔《いさぎよ》く|尽《つく》して|呉《く》れ。|併《しか》し|乍《なが》ら|人間《にんげん》は|老少不定《らうせうふぢやう》だから、これが|別《わか》れになるかも|知《し》れぬ。ズイ|分《ぶん》|身体《からだ》を|大切《たいせつ》にせよ』
と|後《あと》は|言葉《ことば》もなく、|其《その》|目《め》には|涙《なみだ》が|泛《うか》んでゐた。|喜楽《きらく》の|目《め》にもいつの|間《ま》にやら|涙《なみだ》が|漂《ただよ》ひ、|腮辺《しへん》を|伝《つた》ふのを|押《おし》かくし、
|喜楽《きらく》『お|祖母《ば》アさま、そんならこれから|綾部《あやべ》へ|行《い》つて|来《き》ます。どうぞ|達者《たつしや》にしてゐて|下《くだ》さい』
と|門口《かどぐち》を|出《で》やうとする|時《とき》、いつの|間《ま》にか|母《はは》は|株内《かぶうち》の|次郎松《じろまつ》やお|政《まさ》|後家《ごけ》サンを|伴《ともな》うて|帰《かへ》り|来《きた》り、
|母《はは》『|喜三郎《きさぶろう》、お|前《まへ》に|一寸《ちよつと》|相談《さうだん》があるから、|今《いま》|帰《かへ》ることは|出来《でき》ぬ。どうぞ|二三日《にさんにち》|待《ま》つて|貰《もら》はねばならぬ』
と|引《ひき》とめられた。……サア|了《しま》つた。モウ|仕方《しかた》がない。せめて|二三分間《にさんぷんかん》|母《はは》の|帰宅《きたく》が|遅《おそ》かつたならば、|甘《うま》く|此《この》|場《ば》をぬけて|帰《かへ》られたのに、|又《また》もや|母《はは》や|次郎松《じろまつ》サンから、|沢山《たくさん》の|苦情《くじやう》をかまされることだらう……と|思《おも》ふたが、|最早《もはや》|仕方《しかた》がない。|先《ま》づ|二人《ふたり》に|時《とき》の|挨拶《あいさつ》や、|不在中《ふざいちゆう》お|世話《せわ》になつた|好意《かうい》を|陳謝《ちんしや》し、|座《ざ》につくや|否《いな》や、|次郎松《じろまつ》サンがいきなり、|目《め》をむいて、
|次郎《じろ》『コレ|喜三《きさ》ヤン、お|前《まへ》は|一体《いつたい》|全体《ぜんたい》、|何《なに》をト|呆《ぼ》けて|居《を》るのだ。こんな|老人《としより》や|母親《ははおや》を|見《み》すてて、|如何《いか》に|百姓《ひやくしやう》が|嫌《いや》ぢやとて、|勝手気儘《かつてきまま》にいなごの|様《やう》に、|朝夕《あさゆふ》そこらを|飛《とび》あるくとは、|余《あま》り|物《もの》が|分《わか》らぬすぎるぢやないか。それとも|如何《どう》しても|内《うち》を|出《で》て|極道《ごくだう》がしたいと|思《おも》うなら、|毎月《まいげつ》|金《かね》を|送《おく》つて|来《き》なさい。|其《その》|金《かね》でお|前《まへ》の|代《かは》りに|人足《にんそく》を|雇《やと》うて|百姓《ひやくしやう》さすから、|如何《どう》ぢや、|分《わか》つたかなア。|一体《いつたい》お|前《まへ》が|家《いへ》を|出《で》てから、|一年余《いちねんあま》りになるが、|金《かね》|一文《いちもん》|送《おく》つて|来《く》るでもなし、たより|一《いつ》ぺんするでもなし、|生《い》きて|居《を》るのか|死《し》んで|居《を》るのか、|但《ただし》は|家《いへ》を|忘《わす》れて|帰《かへ》つて|来《く》る|処《ところ》が|知《し》れなんだのか、|訳《わけ》が|分《わか》らぬといふても|余《あま》りぢやないか。|私《わたし》は|上田家《うへだけ》の|為《ため》に|先祖《せんぞ》に|成《な》り|代《かは》つて|意見《いけん》しに|来《き》たのだから、|私《わたし》の|忠告《ちうこく》をも|聞《き》かずに、|綾部《あやべ》へ|行《ゆ》くなら|行《い》つて|見《み》なさい。|不在中《ふざいちゆう》の|此《この》|家《いへ》の|御世話《おせわ》は|私《わたし》はお|断《ことわ》り|申《まを》す。|私《わたし》|計《ばか》りか|株内《かぶうち》も|近所《きんじよ》も|皆《みな》|其《その》|通《とほ》りだ。どんなことが|出来《しゆつたい》しても|構《かま》はぬから、|今《いま》ここでキツパリと|返答《へんたふ》をしてくれ』
と|真赤《まつか》な|顔《かほ》して|呶鳴《どな》つて|居《ゐ》る。|又《また》|一人《ひとり》の|別家《べつけ》のお|政《まさ》といふ|後家《ごけ》サンが、|喧《やかま》しう|泣《な》くやうに|綾部《あやべ》へ|行《ゆ》くなと|口説《くど》きたてる。|二人《ふたり》|共《とも》|神界《しんかい》のことはテンで|頭《あたま》にない。|只《ただ》|肉体上《にくたいじやう》から|見《み》て、|上田家《うへだけ》の|前途《ぜんと》を|案《あん》じての|親切《しんせつ》から|云《い》ふてくれるのであるから、|二人《ふたり》の|心情《しんじやう》を|察《さつ》してみると、|帰《かへ》りもならず、それぢやと|言《い》ふて|穴太《あなを》に|居《を》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|退引《のつぴき》ならぬ|仕儀《しぎ》となり|閉口《へいこう》をした。
(大正一一・一〇・一四 旧八・二四 松村真澄録)
第四章 |誤親切《ごしんせつ》〔一〇四一〕
|次郎松《じろまつ》サンやお|政《まさ》|後家《ごけ》サンに|忠告《ちうこく》の|矢《や》を|射《い》かけられ、|暫《しばら》く|閉口《へいこう》してゐたが……エヽこんな|気《き》のよわい|事《こと》で、|神界《しんかい》の|御用《ごよう》が|勤《つと》まるものか……と、|忽《たちま》ち|勇猛心《ゆうまうしん》を|発揮《はつき》し、|思《おも》ひ|切《き》つて、
|喜楽《きらく》『|皆《みな》さまの|上田家《うへだけ》を|思《おも》うて|下《くだ》さる|御親切《ごしんせつ》は|私《わたくし》も|骨身《ほねみ》にこたへて|有難《ありがた》う|厶《ござ》ります。|併《しか》し|乍《なが》ら|今《いま》|私《わたくし》は|神《かみ》さまの|御使《おつかひ》となつて、お|国《くに》の|為《ため》に|尽《つく》さねばならぬ|身《み》の|上《うへ》でありますから、|何《なん》と|云《い》つて|意見《いけん》をして|下《くだ》さつても、ここ|十年《じふねん》ばかりは|吾《わが》|家《や》へ|帰《かへ》つて|来《く》ることは|出来《でき》ませぬ。|又《また》|内《うち》へ|金《かね》を|送《おく》るといふ|様《やう》なことは、|到底《たうてい》|私《わたくし》には|出来《でき》ませぬ。それも|私《わたくし》|一人《ひとり》より|上田家《うへだけ》に|子《こ》がないのならば、|何《なん》とかしてでも|内《うち》に|居《を》つて|家《いへ》の|為《ため》に|働《はたら》かねばなりますまいが、|五人《ごにん》も|弟妹《けうだい》のあることですから、|家《いへ》のことは|私《わたくし》が|居《を》らなくても、|如何《どう》なりと|都合《つがふ》をつけて、|神《かみ》さまが|守《まも》つて|下《くだ》さるでせうから……』
といふや|否《いな》や、|別家《べつけ》の|次郎松《じろまつ》サンは、|忽《たちま》ち|目《め》をむき|口《くち》を|尖《とが》らし、
|次《じ》『ナニお|前《まへ》はそんなバカな|事《こと》を|言《い》ふのだ。|二言目《ふたことめ》には|口癖《くちぐせ》のやうに、お|道《みち》の|為《ため》ぢやの、お|国《くに》の|為《ため》ぢやのと、|小癪《こしやく》にさわることを|云《い》ふが、お|国《くに》の|為《ため》に|内《うち》を|出《で》るのなら、なぜにお|上《かみ》サンから|日給《につきふ》を|貰《もら》はぬのぢや。|又《また》お|国《くに》の|為《ため》になるやうな、ヘン、いふとすまぬが、エライ|人間《にんげん》なら、|仇恥《あたはづか》しい|乞食《こじき》の|真似《まね》をして|親《おや》の|家《いへ》を|飛出《とびだ》し、そこらあたりをウロウロと|歩《ある》かいでもよいぢやないか。|口《くち》に|番所《ばんしよ》がないかと|思《おも》うて、|法螺《ほら》を|吹《ふ》くにも|程《ほど》がある。|極道《ごくだう》|息子《むすこ》といふ|者《もの》は、|丁度《ちやうど》|三文《さんもん》の|獅子舞《ししまひ》のやうに|口《くち》ばかり|大《おほ》きなもんだ。アハヽヽヽ』
とあく|迄《まで》|嘲笑《てうせう》する。そこで|喜楽《きらく》は、
|喜《き》『|二人《ふたり》が|何《なん》と|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さつても、|私《わたくし》は|神《かみ》さまのお|道《みち》をすてるやうなことは|到底《たうてい》|出来《でき》ませぬ。|真理《しんり》の|為《ため》には|一歩《いつぽ》もあとへは|引《ひ》きませぬ。|凡《すべ》て|神《かみ》さまのお|道《みち》へ|入《はい》ると、いろいろさまざまの|妨害《ばうがい》や|圧迫《あつぱく》が|来《く》るといふことは|覚悟《かくご》してゐますから、どうぞ|十年《じふねん》がいかねば、せめて|二三年《にさんねん》の|間《あひだ》|暇《ひま》を|下《くだ》さい。|私《わたくし》は|今《いま》|綾部《あやべ》で|幽斎《いうさい》の|修行場《しうぎやうば》を|開《ひら》いてる|為《ため》に、|一日《いちにち》でも|手《て》ぬきが|出来《でき》ませぬ。けれ|共《ども》|大切《たいせつ》な|祖母《そぼ》の|病気《びやうき》と|聞《き》いて、|帰《かへ》らぬ|訳《わけ》には|行《い》かぬので、|忙《いそが》しい|中《なか》を|繰合《くりあは》せて|帰《かへ》つて|来《き》たのですから、どうぞそんなことを|言《い》はずに、|今度《こんど》は|見《み》のがして|下《くだ》さい。|一時《いちじ》も|早《はや》う|綾部《あやべ》へ|出《で》て|行《ゆ》かねばなりませぬから……』
とおとなしう|頼《たの》んでみた。さうすると|又《また》|次郎松《じろまつ》サンが|妙《めう》な|顔《かほ》をして、|蒼天《そら》を|仰《あふ》ぎ、|鼻《はな》の|先《さき》で『フフン』と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、
|次《じ》『|何《なん》とマア|甘《うま》いことを|仰有《おつしや》るワイ。かう|申《まを》すと|済《す》みませぬが、お|前等《まへら》に|修行《しうぎやう》をさして|貰《もら》ふの、|教《をし》へて|貰《もら》ふのといふ|者《もの》が、|此《この》|広《ひろ》い|世界《せかい》にあるものか。|遠《とほ》い|所《ところ》のこつちやから|分《わか》らぬと|思《おも》うて、そんなウソツパチを|垂《た》れても、|此《この》|黒《くろ》い|光《ひか》る|目《め》でチヤンと|睨《にら》んだら|間違《まちがひ》はないぞ。|深極道《しんごくだう》めが、おのれの|食《く》ふ|丈《だけ》なら|猫《ねこ》でも|犬《いぬ》でもするぢやないか。|又《また》|犬《いぬ》や|猫《ねこ》は|飼《か》うて|貰《もら》うた|家《いへ》は|能《よ》う|覚《おぼ》えてゐる。お|前《まへ》は|何《なん》ぢや、|廿八年《にじふはちねん》も|飼《か》うて|貰《もら》うた|大切《たいせつ》な|親《おや》の|家《いへ》を|忘《わす》れてるぢやないか。|畜生《ちくしやう》にも|劣《おと》つた|奴《やつ》ぢや。よう|考《かんが》へて|見《み》い、とぼけ|野郎《やろう》|奴《め》。|此《この》|穴太《あなを》の|在所《ざいしよ》には、|戸数《こすう》が|百三十《ひやくさんじふ》もあるが、|皆《みな》|先祖《せんぞ》から|仏法《ぶつぽふ》を|信心《しんじん》して|居《ゐ》るではないか。それにお|前《まへ》は|悪魔《あくま》に|魅入《みい》れられて、たつた|一人《ひとり》|偉相《えらさう》に、|神《かみ》さまぢやの|神道《しんだう》ぢやのと、|何《なん》といふ|不心得《ふこころえ》なことをさらすのだ。|先祖《せんぞ》さまに|対《たい》して|何《なん》と|言訳《いひわけ》をするのか。よう|考《かんが》へて|見《み》い。|貴様《きさま》がせうもないことをさらすものだから、|村《むら》の|交際《かうさい》もロクにして|貰《もら》へぬやうになつたぢやないか。|妙《めう》な|神《かみ》にトボけて、|家《いへ》の|名《な》|迄《まで》|悪《わる》うして、それで|先祖《せんぞ》さまに|孝行《かうかう》と|思《おも》ふか。それでもお|国《くに》の|為《ため》になるのか。|勿体《もつたい》なくも|花山天皇《くわざんてんのう》さまが|御信心《ごしんじん》|遊《あそ》ばした、|西国《さいこく》|廿一番《にじふいちばん》の|札所《ふだしよ》、|穴太寺《あなをじ》の|聖観世音菩薩《せいくわんぜおんぼさつ》の|膝元《ひざもと》に|生《うま》れて、|有難《ありがた》い|結構《けつこう》な|観音《くわんのん》さまも|拝《をが》まずに、|流行神《はやりがみ》にトチ|呆《はう》けてそれが|何《なん》になる。お|前《まへ》が|神《かみ》を|信心《しんじん》するので、|村中《むらぢう》からは|上田《うへだ》の|家《いへ》をのけ|者《もの》にして|居《ゐ》ることを|知《し》らぬか。|別家《べつけ》の|私《わたし》までが|村《むら》で|肩身《かたみ》が|狭《せま》いぢやないか。チツとしつかりして|目《め》をさましたら|如何《どう》だ。|親《おや》の|雪隠《せんち》でクソをせぬやうな|奴《やつ》に|碌《ろく》な|者《もの》があるか』
と|旧思想《きうしさう》をふりまはし、|口角泡《こうかくあわ》をとばしてきびしく|責《せ》め|立《た》てる。|又《また》|新別家《しんべつけ》のお|政《まさ》|後家《ごけ》サンがいふには、
お|政《まさ》『コレ|喜三《きさ》ヤン、それ|丈《だけ》|内《うち》に|居《ゐ》るのがいやならば|仕方《しかた》がない。たつて|綾部《あやべ》へ|行《ゆ》くなとは|言《い》はぬから、お|前《まへ》は|惣領《そうりやう》で、|此《この》|家《いへ》を|守《まも》らねばならぬ|義務《ぎむ》があるよつて、お|米《よね》サンにお|金《かね》を|渡《わた》して|行《ゆ》きなされ。なんぼ|神《かみ》さまの|道《みち》で、|金儲《かねまう》けにいて|居《ゐ》るのぢやないと|云《い》うても、|十円《じふゑん》や|二十円《にじふゑん》|位《ぐらゐ》は|懐《ふところ》に|持《も》つておいでるだろ。それを|悉皆《すつくり》|渡《わた》して|行《ゆ》きなさい。おばアサンも|何時《いつ》|死《し》なはるやら|分《わか》らぬから、|其《その》|時《とき》の|用意《ようい》もしておかねばならぬ』
と|二人《ふたり》が|右《みぎ》と|左《ひだり》からつめかける。|又《また》|母《はは》は|母《はは》で、
|母《はは》『|頼《たの》むから、どうぞ|内《うち》に|居《を》つておくれ。|大勢《おほぜい》の|子《こ》にも|代《か》へられぬ|兄《あに》のお|前《まへ》が、|内《うち》に|居《を》らぬのは、|何《なん》ともなしに|心淋《こころさび》しい。|去年《きよねん》|神《かみ》さまのことで|家《いへ》を|出《で》てからと|云《い》ふものは、|毎日《まいにち》|毎日《まいにち》お|前《まへ》のことが|心配《しんぱい》になつて、|夜《よる》もロクに|寝《ね》たこともない。|知《し》らぬとこへ|行《い》つて、いろいろと|苦労《くらう》や|難儀《なんぎ》をするよりも、|一日《いちにち》でも|親子《おやこ》が|側《そば》に|居《を》つて、|苦労《くらう》をしておくれ。お|前《まへ》と|一所《いつしよ》に|苦労《くらう》をするなら、どんな|辛《つら》いことがあつても|辛《つら》いと|思《おも》はぬから……』
と|泣《な》いて|頼《たの》まれる。|喜楽《きらく》は|進退《しんたい》|谷《きは》まつて、|如何《どう》ともすることが|出来《でき》なくなつた。|別家《べつけ》の|二人《ふたり》は|頭《あたま》から|火《ひ》のつくやうに|喧《やかま》しくいふ。ゴテゴテと|病人《びやうにん》の|枕許《まくらもと》で|談判《だんぱん》して|居《ゐ》るのを、|少《すこ》し|耳《みみ》の|遠《とほ》い|祖母《そぼ》に|聞《きこ》えたとみえて、|少《すこ》しく|頭《あたま》をあげて、
|祖母《そぼ》『アヽ|妾《わたし》の|病気《びやうき》も|神仏《しんぶつ》のおかげで、|八九分《はちくぶ》|通《どほ》り|快《よ》うなりました。|松《まつ》サンやお|政《まさ》ハンや、お|米《よね》のいふのも|無理《むり》はないが|内《うち》には|弟《おとうと》の|幸吉《かうきち》も|居《ゐ》るなり、|元吉《もときち》も|近《ちか》い|内《うち》にお|雪《ゆき》と|一所《いつしよ》に|手伝《てつだ》ひに|来《く》る|筈《はず》であるから|別《べつ》に|百姓《ひやくしやう》に|差支《さしつか》へもあるまい。|喜三郎《きさぶろう》は|一時《いちじ》も|早《はや》う|内《うち》を|出《で》て、|綾部《あやべ》で|神《かみ》さまの|為《ため》に|尽《つく》しておくれ。|老人《らうじん》の|差出口《さしでぐち》と、|皆《みな》サンに|怒《おこ》られるか|知《し》らぬが|今度《こんど》|丈《だけ》は|老人《らうじん》の|頼《たの》みぢや、|喜三郎《きさぶろう》のいふことを|聞《き》いてやつておくれ』
と|雄々《をを》しくも|云《い》つてくれられた。|老人《らうじん》の|言葉《ことば》には|三人《さんにん》も|反《そむ》くことは|出来《でき》ぬと、|少《すこ》し|鉾先《ほこさき》がにぶり|出《だ》した。|喜楽《きらく》は|其《その》|時《とき》にまるで|百万《ひやくまん》の|援軍《ゑんぐん》が|来《き》たやうな|気《き》がして、|思《おも》はず|知《し》らず、|手《て》を|合《あ》はして|祖母《おば》アさまを|拝《をが》んだ。
さうかうして|居《ゐ》る|所《ところ》へ、|弟《おとうと》の|幸吉《かうきち》が|田圃《たんぼ》から|鍬《くわ》を|肩《かた》にして|帰《かへ》つて|来《き》て|三人《さんにん》の|話《はなし》を|聞《き》き、いろいろと|喜楽《きらく》の|為《ため》に|弁護《べんご》の|労《らう》を|取《と》つてくれ、|其《その》|夜《よ》は|皆《みな》の|人《ひと》と|袂《たもと》を|別《わか》つた。|喜楽《きらく》は|真夜《しんや》の|十二時《じふにじ》|頃《ごろ》、|幸吉《かうきち》と|共《とも》に|産土《うぶすな》の|小幡神社《をばたじんしや》へ|参詣《さんけい》し、
|喜楽《きらく》『どうぞ|此《この》|度《たび》は|無事《ぶじ》に|納《をさ》まつて|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》れますやうに……』
と|祈願《きぐわん》をこらし、|帰《かへ》つて|寝《しん》についた。
|翌朝《よくてう》になると、|早々《さうさう》から|又《また》|株内《かぶうち》の|人々《ひとびと》が|出《で》て|来《きた》り、|千言万語《せんげんばんご》を|費《つひ》やして|喜楽《きらく》の|綾部行《あやべゆき》を|引止《ひきと》めようとする。|彼《かれ》|此《こ》れしてとうとう|三日間《みつかかん》|穴太《あなを》に|引《ひき》とめられて|了《しま》つたが、|漸《やうや》くにして、|弟《おとうと》の|幸吉《かうきち》を|伴《つ》れて、|一応《いちおう》|綾部《あやべ》まで|帰《かへ》つて|行《ゆ》くことになり、ホツと|一息《ひといき》つくことが|出来《でき》た。|併《しか》し|次郎松《じろまつ》サンやお|政《まさ》ハンや|相談《さうだん》の|上《うへ》で、|弟《おとうと》を|伴《つ》れて|行《ゆ》くことにしたのである。それは……|喜楽《きらく》がウソをついてをるのに|相違《さうゐ》ない、|大方《おほかた》|綾部《あやべ》の|方《はう》で|乞食《こじき》でもして|居《ゐ》るのだらう、|去年《きよねん》|着《き》て|出《で》たなりの|着物《きもの》を|着《き》て|帰《かへ》つて|来《き》た|以上《いじやう》は、|仮令《たとへ》|乞食《こじき》をせず|共《とも》、ヒドイ|難儀《なんぎ》をして|居《を》るのであらうから、お|前《まへ》は|兄《あに》に|従《つ》いて|十分《じふぶん》に|査《しら》べて|来《こ》い……と|云《い》ひふくめて|同道《どうだう》させることになつたのである。|幸吉《かうきち》も|神《かみ》さまのお|道《みち》には|元《もと》から|熱心《ねつしん》で、|幽斎《いうさい》の|修行《しうぎやう》|迄《まで》した|位《くらゐ》だから、|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで|喜楽《きらく》について|来《く》ることになつた。
|喜楽《きらく》はヤツと|安心《あんしん》して|母《はは》に|別《わか》れをつげ、|急《いそ》ぎ|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》らうとする|折《をり》しも、|例《れい》の|次郎松《じろまつ》サンが|又《また》もややつて|来《き》て、
|次《じ》『|一寸《ちよつと》|喜三《きさ》ヤンに|尋《たづ》ねたいことがあるから、|暫《しばら》く|待《ま》つておくれ。お|前《まへ》は|神《かみ》さまの|道《みち》とかで、|人《ひと》の|病気《びやうき》を|治《なほ》すとか、よう|治《なほ》さぬとか|云《い》ふことだが、|現在《げんざい》|親身《しんみ》のお|祖母《ばあ》サンの|病気《びやうき》はよう|治《なほ》さぬのかい、|伺《うかが》ひは|出来《でき》ぬかい。お|前《まへ》のお|自慢《じまん》の|天眼通《てんがんつう》がきくなら、|凡《およ》そ|何時《いつ》|頃《ごろ》に|死《し》なはると|云《い》ふこと|位《くらゐ》は|分《わか》るだらう。|葬式《さうしき》の|用意《ようい》もしておかんならぬし、もし|神《かみ》さまに|頼《たの》んで|治《なを》るものなら、|今《いま》|私《わたし》の|目《め》の|前《まへ》で|治《なを》して|見《み》せなさい。|中々《なかなか》|流行神《はやりがみ》サン|位《くらゐ》ではこんな|大病《たいびやう》は|治《なを》るまい。|治《なほ》らな|治《なを》らぬでよいから、せめて|何時《いつ》|頃《ごろ》に|命《いのち》がなくなると|云《い》ふことを|知《し》らしてくれ。これ|位《くらゐ》なことが|分《わか》らいで、|人《ひと》を|助《たす》けるの、|教《をし》へるの、お|国《くに》の|為《ため》だのと|大法螺《おほぼら》を|吹《ふ》いたとて、|世間《せけん》の|人《ひと》が|承知《しようち》いたさぬぞや。サア|如何《どう》ぢや|如何《どう》ぢや。|見《み》ん|事《ごと》|返答《へんたふ》が|出来《でき》ますのかな』
と|矢《や》つぎ|早《ばや》にせめかけて|来《く》る。そこで|喜楽《きらく》は|其《その》|場《ば》のがれの|出放題《ではうだい》に、
|喜《き》『お|祖母《ばあ》サンの|病気《びやうき》は|三日先《みつかさき》になつたら|全快《ぜんくわい》する。そして|命《いのち》は|八十八《はちじふはち》まで|大丈夫《だいぢやうぶ》だ』
と|云《い》つてみた。これを|聞《き》いた|次郎松《じろまつ》サンは|舌《した》をニユーツと|出《だ》し、|大《おほ》きな|声《こゑ》でこけて|笑《わら》ひ、
|次《じ》『ヘー、お|前《まへ》サンの|神《かみ》さまは、|何《なん》とマア、ドエライ|御方《おかた》ぢやな。こんな|大病《たいびやう》のしかも|死病《しにやまひ》が|三日《みつか》のあとに|治《なほ》りますかい。そらチツと|違《ちが》ひませう。|大方《おほかた》|仏壇《ぶつだん》へでも|位牌《ゐはい》になつてお|直《なほ》りなさるのと、|間違《まちが》つてゐやしませぬかな。おまけに|八十八《はちじふはち》まで|命《いのち》が|大丈夫《だいぢやうぶ》だと、フフーン|丹波《たんば》の|筍医者《たけのこいしや》が|聞《き》いて|呆《あき》れますワイ』
と|飽迄《あくまで》、|俄《にはか》に|丁寧《ていねい》な|言葉《ことば》を|使《つか》うて|嘲《あざけ》り|笑《わら》ふ。|併《しか》し|不思議《ふしぎ》にも|喜楽《きらく》の|言《い》つた|通《とほ》り、|三日《みつか》の|後《のち》に|祖母《そぼ》は|床払《とこばらひ》をすることになり、|八十八歳《ひちじふはつさい》まで|生《い》きて|居《を》られたのである。
|弟《おとうと》の|幸吉《かうきち》が|見《み》るに|見《み》かねて、|次郎松《じろまつ》サンやお|政《まさ》|後家《ごけ》サンに|向《むか》ひ、
|幸《かう》『ウチの|兄《に》イサンは|神《かみ》さまのお|道《みち》に|働《はたら》かれる|代《かは》りに、|私《わたし》が|二人前《ふたりまえ》|働《はたら》いて|百姓《ひやくしやう》を|勉強《べんきやう》しますから、|兄《に》いサンには|内《うち》のことを|心配《しんぱい》かけぬやうにしたいものです』
と|云《い》ふや|否《いな》や、|次郎松《じろまつ》サンは|大《おほ》きな|目《め》をむき、
|次《じ》『コレ|幸《かう》ヤン、|何《なん》としたバカなことを|言《い》うのだ。お|前《まへ》までお|紋狐《もんぎつね》につままれたのだなア。|飯綱狐《いづなぎつね》を|沢山《たくさん》に|懐《ふところ》に|隠《かく》して|居《ゐ》るから、グヅグヅしてると|険呑《けんのん》だ』
と|眉毛《まゆげ》に|唾《つばき》をつける|真似《まね》して、|長《なが》い|舌《した》をニユーと|出《だ》し、|腮《あご》をクイクイと|揺《ゆす》つて|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にしてゐる。|結局《けつきよく》|幸吉《かうきち》が|二人前《ににんまえ》の|仕事《しごと》をするといふ|条件付《でうけんつき》で、|漸《やうや》く|其《その》|場《ば》をのがれ、|綾部《あやべ》へ|一時《いちじ》|弟《おとうと》と|共《とも》に|同行《どうかう》することとなつた。
|這《は》うて|出《で》てはねる|蚯蚓《みみづ》や|雲《くも》の|峰《みね》
(大正一一・一〇・一四 旧八・二四 松村真澄録)
第五章 |三人組《さんにんぐみ》〔一〇四二〕
|喜楽《きらく》、|幸吉《かうきち》の|二人《ふたり》は、|道々《みちみち》|神話《しんわ》に|耽《ふけ》り|乍《なが》ら、|虎口《ここう》を|逃《のが》れた|様《やう》な|心持《こころもち》で|北《きた》へ|北《きた》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。
|穴《あな》を|出《で》て|穴《あな》に|入《い》るまで|穴《あな》の|世話《せわ》
|穴《あな》|恐《おそ》ろしい|穴《あな》の|世《よ》の|中《なか》
|一休禅師《いつきうぜんし》の|歌《うた》や、
|故郷《ふるさと》は|穴太《あなを》の|少《すこ》し|上小口《うはこぐち》
|只《ただ》|茫々《ばうばう》と|生《は》えし|叢《くさむら》
|等《など》と|観音《くわんおん》の|化身《けしん》が|詠《よ》んだと|云《い》ふ|狂歌《きやうか》を|謡《うた》ひ|乍《なが》ら、|足《あし》に|任《まか》せて|十余里《じふより》の|道程《だうてい》を、|漸《やうや》くにして|上谷《うへだに》の|修行場《しうぎやうば》へ|安着《あんちやく》した。|帰《かへ》つて|修行場《しうぎやうば》を|調《しら》べて|見《み》ると、|第一《だいいち》|懸念《けねん》して|居《ゐ》た|黒田《くろだ》きよ、|四方《しかた》|春三《はるざう》、|塩見《しほみ》せいの|三人《さんにん》の|姿《すがた》が|見《み》えぬので、|留守中《るすちう》を|依頼《いらい》したる|四方《しかた》|氏《し》に|尋《たづ》ねて|見《み》ると、
|四方《しかた》『|一昨日《おととひ》の|夕方《ゆふがた》|教祖《けうそ》が|態々《わざわざ》|御出《おい》でになつて……|神様《かみさま》の|御命令《ごめいれい》だ……と|仰有《おつしや》つて、|私《わたくし》の|留《と》めるのを|諾《き》かずに、|三人《さんにん》を|連《つ》れて|帰《かへ》られました』
との|答《こたへ》である。
『あゝ|頼《たの》み|甲斐《がひ》のない|人《ひと》ぢやなア…』と|思《おも》ひ|乍《なが》ら、|四方《しかた》|甚之丞《じんのじよう》と|云《い》ふ|修行者《しうぎやうしや》を|綾部《あやべ》へ|遣《つか》はして、|三人《さんにん》の|修行者《しうぎやうしや》を|今夜《こんや》の|中《うち》に|是非《ぜひ》とも|上谷《うへだに》へ|帰《かへ》つて|来《く》る|様《やう》にと|厳《きび》しく|申付《まをしつけ》たら、|側《そば》に|居《ゐ》た|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|氏《し》が|口《くち》を|出《だ》し、
|四方《しかた》『|上田《うへだ》|先生《せんせい》が|何《なん》と|云《い》はれても、|教祖様《けうそさま》の|御言葉《おことば》ですから、|御三体《ごさんたい》の|大神様《おほかみさま》のお|憑《うつ》り|遊《あそ》ばしたお|三人様《さんにんさま》を|今夜《こんや》の|中《うち》に|呼《よ》び|寄《よ》するなんて、そんな|途方《とはう》もない|事《こと》は|出来《でき》ませぬ』
と|首《くび》を|振《ふ》つてゐる。|自分《じぶん》は|重《かさ》ねて、
|喜楽《きらく》『|三人《さんにん》の|者《もの》を|明日《あす》の|朝《あさ》|迄《まで》|綾部《あやべ》へおく|事《こと》は|出来《でき》ぬ。|邪神《じやしん》が|憑《うつ》つて|又々《またまた》|狂態《きやうたい》を|演《えん》じ、|其《その》|筋《すぢ》のお|手数《てかず》に|預《あづか》らねばならぬ|様《やう》な|事《こと》が|出来《しゆつたい》するから、|是非《ぜひ》とも|今夜《こんや》の|中《うち》に、|三人《さんにん》を|此処《ここ》へ|連《つ》れて|帰《かへ》つて|貰《もら》ひ|度《た》い』
と|厳《きび》しく|云《い》ひ|張《は》つても、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|氏《し》|始《はじ》め|一同《いちどう》|腹《はら》を|合《あは》して|聞《き》き|入《い》れぬのみか、
|四方《しかた》『|先生《せんせい》に|今《いま》|帰《かへ》つて|貰《もら》ふと、|神《かみ》さまの|肝賢《かんじん》のお|仕組《しぐみ》の|邪魔《じやま》になるから、お|迎《むか》へに|来《く》る|迄《まで》|綾部《あやべ》へは|決《けつ》して|帰《かへ》つて|下《くだ》さるな。|貴方《あなた》は|緯役《よこやく》で、|大神様《おほかみさま》のお|仕組《しぐみ》の|反対《はんたい》をなさるお|役《やく》ぢやさうなから……』
と|妖魅《えうみ》の|言葉《ことば》を|信《しん》じきつて|居《ゐ》る。
|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|氏《し》は|自分《じぶん》に|隠《かく》れて、ソツと|綾部《あやべ》の|金明会《きんめいくわい》へ|馳《は》せ|帰《かへ》り、|幸吉《かうきち》と|云《い》ふ|弟《おとうと》と|共《とも》に|上谷《うへだに》|迄《まで》|帰《かへ》つた|事《こと》を|急告《きふこく》した。
サアさうすると、|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》を|始《はじ》め|三人《さんにん》が|慌出《あわてだ》し、
『|何《なに》、|上田《うへだ》が|上谷《うへだに》|迄《まで》|帰《かへ》つて|来《き》たか。そりや|大変《たいへん》ぢや、|早《はや》う|上田《うへだ》の|帰《かへ》らぬ|中《うち》に、|仕組《しぐみ》をせねばならぬぞ』
と|四人《よにん》は|襖《ふすま》を|閉《し》めきつて、|奇妙奇天烈《きめうきてれつ》の|神憑《かむがかり》を|続行《ぞくかう》してゐた。
|自分《じぶん》は|仕方《しかた》なしに|幸吉《かうきち》と|共《とも》に、|上谷《うへだに》に|残《のこ》つてる|修行者《しうぎやうしや》を|鎮魂《ちんこん》して|居《ゐ》た。|其《その》|翌日《よくじつ》の|十時《じふじ》|頃《ごろ》になると、|四方《しかた》|祐助《いうすけ》|爺《ぢい》サンが|顔色《かほいろ》を|変《か》へて|出《で》て|来《き》て、|震《ふる》うてゐるので|自分《じぶん》は、
|喜楽《きらく》『|祐助《いうすけ》サン、|碌《ろく》な|事《こと》で|来《き》たのぢやなからうな』
と|問《と》ひかくれば、|爺《ぢい》サンは|直《すぐ》に|大地《だいち》へ|手《て》をついて、
|祐助《いうすけ》『ハイハイ|恐《おそ》れ|入《い》りました。|外《ほか》の|事《こと》では|御座《ござ》りませぬが、|綾部《あやべ》は|大変《たいへん》で|御座《ござ》います。お|三体《さんたい》の|大神様《おほかみさま》がお|三人《さんにん》サンへお|憑《うつ》り|遊《あそ》ばして、|口々《くちぐち》に……|三人世《さんにんよ》の|元《もと》、|結構《けつこう》|々々《けつこう》……と|百遍《ひやつぺん》ほども|仰有《おつしや》つて、|終《しま》ひには|新宮《しんぐう》の|安藤《あんどう》|金助《きんすけ》サン|処《とこ》の|庭《には》に、|大地《だいち》の|金神《こんじん》|金勝要《きんかつかね》の|神《かみ》さまが|埋《うづ》もつて|居《ゐ》るから、|之《これ》を|掘《ほ》り|出《だ》して|鄭重《ていちよう》にお|祀《まつ》りせんならんと|云《い》つて、|三人《さんにん》がおいでになり|金助《きんすけ》サンとこの|大黒柱《だいこくばしら》の|根元《ねもと》を|三四尺《さんししやく》ばかり、|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|掘《ほ》り|出《だ》しなさつたけれども、|石《いし》|一《ひと》つ|碌《ろく》に|出《で》て|来《こ》ぬので|未《ま》だ|掘《ほ》り|様《やう》が|足《た》らぬのだ。もつともつとと|云《い》つて、|三人《さんにん》サンは|水《みづ》をかぶり|白衣《はくい》を|着《つ》け、|緋《ひ》の|袴《はかま》を|穿《は》いて|掘《ほ》つて|居《を》られた|処《ところ》へ、|警察《けいさつ》の|署長《しよちやう》サンが|前《まへ》を|通《とほ》つて、|此《この》|有様《ありさま》を|見《み》つけ、……|一体《いつたい》お|前等《まへら》はそんな|風《ふう》をして|何《なに》をしてゐるのか、|尋《たづ》ね|度《た》い|事《こと》があるから|一寸《ちよつと》|来《こ》い……と|云《い》つて、|三人《さんにん》|共《とも》|警察《けいさつ》へ|連《つ》れて|去《い》なはりましたので、|私《わたし》も|吃驚《びつくり》して|早速《さつそく》|其《その》|由《よし》を|教祖様《けうそさま》に|申《まをし》ましたら、|教祖《けうそ》さまは|平然《へいぜん》として……|何事《なにごと》も|皆《みな》|神様《かみさま》の|御都合《ごつがふ》ぢや、チツとも|心配《しんぱい》は|要《い》りませぬ、|又《また》|土《つち》の|中《なか》から|形《かたち》のある|御神体《ごしんたい》の|出《で》るのではない、|大地《だいち》の|金神様《こんじんさま》の|霊気《れいき》が、|地《ち》の|上《うへ》へおでましになる|事《こと》ぢや……と|仰有《おつしや》つて|居《を》られますが、|此《この》|爺《ぢい》には|根《ね》つから|合点《がてん》が|参《まゐ》りませぬ。|四方《しかた》|春三《はるざう》サンや|外《ほか》|二人《ふたり》は、|警察《けいさつ》へひかれたきりで|未《ま》だ|帰《かへ》つて|来《こ》られず、|如何《どう》しやうと|思案《しあん》に|暮《く》れて、|皆《みな》サンに|隠《かく》れて|爺《ぢい》の|心《こころ》で|先生《せんせい》にお|伺《うかが》ひに|出《で》ました』
とオドオドし|乍《なが》ら、|半泣《はんな》きになつて|居《ゐ》る。|然《しか》し|此《この》|事件《じけん》は|何《なん》ともなしに|治《おさ》まり、|自分《じぶん》は|依然《いぜん》として|幸吉《かうきち》と|共《とも》に|上谷《うへだに》で|審神《さには》をつとめて|居《ゐ》た。
|二三日《にさんにち》|経《た》つと、|今度《こんど》は|足立《あだち》|正信《まさのぶ》|氏《し》の|代理《だいり》として、|新宮《しんぐう》の|四方《しかた》|源之助《げんのすけ》、|西原《にしばら》の|西村《にしむら》|文右衛門《ぶんうゑもん》の|両氏《りやうし》が、|上谷《うへだに》へ|態々《わざわざ》やつて|来《き》てニコニコし|乍《なが》ら、
『|上田《うへだ》|先生《せんせい》、|喜《よろこ》んで|下《くだ》さいませ。|今日《けふ》から|教祖様《けうそさま》は、|出口《でぐち》お|直《なほ》さまと|申《まを》さずに、|信者《しんじや》|一同《いちどう》から|出口《でぐち》の|神《かみ》と|崇敬《すうけい》|致《いた》す|様《やう》になりました。|神《かみ》さまと|申《まを》す|訳《わけ》は、|二三日《にさんにち》|以前《いぜん》に|綾部《あやべ》の|警察《けいさつ》から、|署長《しよちやう》サンが|二人《ふたり》も|巡査《じゆんさ》をつれて|来《き》て、|何《なに》か|怪《あや》しいものを|祀《まつ》つて|沢山《たくさん》の|人《ひと》を|騙《だま》し|金儲《かねまう》けをして|居《ゐ》るのぢやないかと|疑《うたが》ふて、|大広前《おほひろまへ》を|隅《すみ》から|隅《すみ》|迄《まで》|調《しら》べて|見《み》ましたが、|別《べつ》に|胡乱《うろん》の|事《こと》がないので、|何《なん》とも|云《い》はれずに|帰《かへ》られましたが、|其《その》|時《とき》|教祖《けうそ》さまが|署長《しよちやう》サンに|向《むか》ひ、|大《おほ》きな|声《こゑ》で……|明治《めいぢ》|廿五年《にじふごねん》から|出口《でぐち》|直《なほ》は|神《かみ》の|因縁《いんねん》ありて、|表向《おもてむ》き|狂人《きちがひ》の|様《やう》に|致《いた》して、|警察《けいさつ》の|側《そば》において、|世界《せかい》の|事《こと》を|言《い》はして|気《き》を|付《つ》けてありたぞよ。それに|此《この》|神《かみ》の|誠《まこと》が|分《わか》らぬか……と|呶鳴《どな》られましたが、|相手《あひて》にもならず|帰《かへ》られましたが、これ|全《まつた》く|神《かみ》の|御神徳《ごしんとく》で|御座《ござ》います。|万一《まんいち》|私等《わたしら》が|警察《けいさつ》の|署長《しよちやう》サンに|向《むか》つて、そんな|事《こと》でも|云《い》はうものなら、|官史《くわんり》|侮辱《ぶじよく》だとか|云《い》つてやられて|了《しま》ひます。|何《なん》と|教祖様《けうそさま》の|御神徳《ごしんとく》といふものは|偉《えら》いもので|御座《ござ》います。も|一《ひと》つ|恐《おそ》れ|入《い》つた|御神徳《ごしんとく》は|外《ほか》でもありませぬが、|出口《でぐち》の|神《かみ》の|総領《そうりやう》|娘《むすめ》のお|米《よね》サンが、|西町《にしまち》の|大槻《おほつき》|鹿造《しかざう》の|嫁《よめ》になつて|居《を》られまして、|明治《めいぢ》|廿五年《にじふごねん》から|今年《ことし》|迄《まで》|足掛《あしかけ》け|九年《くねん》|振《ぶ》り、|神様《かみさま》の|罰《ばち》が|当《あた》つて|丸狂人《まるきちがひ》になつて|居《を》られた|所《ところ》、|一昨日《おととひ》|其《その》お|米《よね》サンが、|金明会《きんめいくわい》の|大広前《おほひろまへ》へおいでになると、|出口《でぐち》の|神《かみ》の|仰《あふ》せには……|大槻《おほつき》|鹿造《しかざう》は|大江山《おほえやま》の|酒天童子《しゆてんどうじ》の|霊魂《みたま》であるぞよ。|其《その》|女房《にようばう》となつて|居《ゐ》るお|米《よね》は|出口《でぐち》|直《なほ》の|子《こ》であれど、|大蛇《だいじや》の|霊魂《みたま》で|此《この》|世《よ》を|乱《みだ》して、|世界《せかい》の|人間《にんげん》を|苦《くる》しめた|極悪神《ごくあくがみ》であるから、|世界《せかい》の|見《み》せしめの|為《た》めに、|今日《こんにち》|迄《まで》|狂人《きちがひ》に|致《いた》して|懺悔《ざんげ》を|曝《さら》さして、|九年《くねん》|振《ぶ》り|懲戒《いましめ》|致《いた》したなれど、|今日《こんにち》|限《かぎ》り|改心《かいしん》したらば|許《ゆる》してやらう……と|仰有《おつしや》つたら、あら|有難《ありがた》や、あら|不思議《ふしぎ》や、|其《その》|場《ば》でお|米《よね》サンが|打倒《うちたふ》れ、サツパリ|正念《しやうねん》がない|様《やう》になつて|了《しま》ひ、|体《からだ》がダンダンと|冷《つめ》たくなつて|来《き》ました。|死人《しにん》|同様《どうやう》に|息《いき》|一《ひと》つ|出《で》ませぬので、|私《わたし》|達《たち》|役員《やくゐん》は……サア|水《みづ》ぢや、お|神酒《みき》ぢや、おひねりさまぢや……と|云《い》つて|騒《さわ》ぎ|出《だ》しましたら、|出口《でぐち》の|神《かみ》さまは|平気《へいき》な|者《もの》で……|何《なに》も|皆《みな》サン、|御心配《ごしんぱい》には|及《およ》びませぬ。|神様《かみさま》の|御都合《ごつがふ》ぢやから|後《あと》で|分《わか》ります……と|仰有《おつしや》つて、|奥《おく》の|間《ま》へ|這入《はい》つて、|知《し》らぬ|顔《かほ》でお|筆先《ふでさき》をお|書《か》きになつて|居《を》られましたが、|教祖様《けうそさま》の|仰《あふ》せの|通《とほ》り、|一時間《いちじかん》ばかり|経《た》つとお|米《よね》サンが|息《いき》を|吹《ふ》き|返《かへ》し、|元《もと》の|体《からだ》となり、|其《そ》れきりさしも|猛烈《まうれつ》な|狂乱《きやうらん》も|俄《にはか》に|平癒《へいゆ》しまして、|其《その》|言行《げんかう》が|普通《ふつう》の|人間《にんげん》とチツとも|変《か》はらぬ|様《やう》になつたので、|皆《みな》の|信者《しんじや》が|感心《かんしん》して、|思《おも》はず|知《し》らず|出口《でぐち》の|神様《かみさま》と|口《くち》で|一斉《いつせい》に|唱《とな》へたので|御座《ござ》ります。|九分九厘《くぶくりん》|迄《まで》|死《し》んで|生《い》きかへると|云《い》ふ|様《やう》な|事《こと》は|到底《たうてい》|普通《ふつう》の|神力《しんりき》では|出来《でき》ませぬ。|人間業《にんげんわざ》では|無《な》い。|正《まさ》しく|神様《かみさま》のお|力《ちから》である、|誠《まこと》の|艮《うしとら》の|金神様《こんじんさま》に|間違《まちが》ひはないと|合点《がてん》して、|今迄《いままで》|疑《うたが》ふて|居《ゐ》た|無礼《ぶれい》を|一同《いちどう》がお|詫《わび》|致《いた》しました。それだから|先生《せんせい》も|一時《いちじ》も|早《はや》う|我《が》を|折《お》つて、|出口《でぐち》の|神《かみ》さまにお|詫《わび》をして|下《くだ》さる|様《やう》にお|知《し》らせに|来《き》ました』
と|熱心《ねつしん》|面《おもて》に|現《あら》はしての|永《なが》い|物語《ものがたり》であつた。|自分《じぶん》は、
『はあはあ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|二人《ふたり》の|話《はなし》を|聞了《ききをは》り、|茶《ちや》|等《など》を|進《すす》めて|一寸《ちよつと》|一服《いつぷく》して|居《ゐ》ると、|二人《ふたり》は|又《また》ソロソロ|綾部《あやべ》の|話《はなし》をし|出《だ》し|始《はじ》めた。
(大正一一・一〇・一四 旧八・二四 北村隆光録)
第六章 |曲《まが》の|猛《たけび》〔一〇四三〕
|四方《しかた》|源之助《げんのすけ》、|西村《にしむら》|文右衛門《ぶんうゑもん》の|両氏《りやうし》は、|喜楽《きらく》のすすむる|茶《ちや》を|飲《の》み|乍《なが》ら、|又《また》|話《はなし》を|続《つづ》けられた。
『|金明会《きんめいくわい》の|御広間《おひろま》では、|先日《せんじつ》から|世《よ》に|落《お》ちて|御座《ござ》つた、|沢山《たくさん》の|金神様《こんじんさま》や|竜神様《りうじんさま》が、|今度《こんど》|勿体《もつたい》なくも|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまが、|此《この》|世《よ》へおでましなさるに|就《つい》て、|今度《こんど》の|際《さい》に、|今迄《いままで》おちてゐた|神《かみ》を|此《この》|世《よ》へ|上《あ》げて、|其《その》|霊魂《みたま》を|救《すく》ふてやらねば、モウ|此《この》|先《さき》|万劫末代《まんごふまつだい》あがることが|出来《でき》ぬから、|今《いま》|上田《うへだ》の|審神者《さには》が|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|来《き》たら、|邪神界《じやしんかい》の|神《かみ》ぢやといふて|封《ふう》じ|込《こ》めたり、|追《お》つ|払《ぱら》つたり、|霊縛《れいばく》をかけたり、いろいろと|神界《しんかい》の|邪魔《じやま》|許《ばか》り|致《いた》すに|依《よ》つて、|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら、|暫《しばら》くの|間《あひだ》|上田《うへだ》を|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》らぬ|様《やう》にしてやると|仰有《おつしや》つた。|教祖様《けうそさま》の|御言葉《おことば》の|通《とほ》り、|俄《にはか》に|大雨《おほあめ》が|降《ふ》つて|来《き》て、|和知川《わちがは》は|一升《いつしよう》|二合《にがふ》の|水《みづ》が|出《で》て、|綾部《あやべ》の|大橋《おほはし》が|流《なが》れて|了《しま》ひました|故《ゆゑ》、|上田《うへだ》サンが|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》れぬやうになつたのも、これも|全《まつた》く|出口《でぐち》の|神《かみ》の|広大無辺《くわうだいむへん》の|御神徳《ごしんとく》だと|思《おも》ひます。|神《かみ》さまは|大変《たいへん》に|先生《せんせい》を|嫌《きら》うて|居《を》られますから、|今度《こんど》|綾部《あやべ》へお|帰《かへ》りになつても、|今《いま》までみたやうに|我《が》を|出《だ》さぬ|様《やう》にして、|何事《なにごと》に|依《よ》らず、|出口《でぐち》の|神様《かみさま》と|神懸《かむがか》りサンの|言《ことば》に|従《したが》うて|下《くだ》さらぬと、いつもゴテゴテ|致《いた》しまして、|先生《せんせい》には|綾部《あやべ》に|居《を》つて|貰《もら》ふことが|出来《でき》ぬやうになりますから、|私《わたくし》たちは|先生《せんせい》を|大事《だいじ》に|思《おも》ふ|余《あま》り、ソツと|御意見《ごいけん》に|来《き》たのであります。|兎角《とかく》|出《で》る|杭《くひ》は|打《う》たれると|云《い》ひますから、|何神《なにがみ》さまにでも|敵対《てきたい》なさらぬが|天下《てんか》|泰平《たいへい》ぢや、|先生《せんせい》の|御身《おみ》の|得《とく》ぢや』
と|忠告《ちうこく》をする。|喜楽《きらく》は|相当《さうたう》|教育《けういく》あり、|村《むら》でも|町村会議員《ちやうそんくわいぎゐん》まで|勤《つと》めてゐる|様《やう》な|人《ひと》が、こんな|事《こと》を|云《い》ふと|思《おも》へば|余《あま》りのことで|呆《あき》れて|答《こた》へる|言《ことば》も|知《し》らなんだ。|二人《ふたり》はいろいろと|喜楽《きらく》に|意見《いけん》をした|後《のち》|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
それと|行違《ゆきちがひ》に、|喜楽《きらく》が|上谷《うへだに》まで|帰《かへ》つたと|聞《き》いて、|出口《でぐち》|澄子《すみこ》が|密《ひそ》かに|走《はし》つて|来《き》て、
|澄子《すみこ》『|先生《せんせい》、あなたの|御不在中《ごふざいちう》に、|四方《しかた》|春三《はるざう》サンやら|村上《むらかみ》サン、|黒田《くろだ》サン、|塩見《しほみ》サン|等《ら》が|御広間《おひろま》へ|帰《かへ》つて|来《き》て、|無茶苦茶《むちやくちや》な|神懸《かむがかり》をしたり、|他愛《たあい》もないこというたり、|飛《と》んだり、|跳《はね》たり、しまひには|裸《はだか》になつた|儘《まま》|屋外《をくぐわい》を|走《はし》つたり、|上田《うへだ》は|神界《しんかい》の|大敵役《だいかたきやく》だから、|今度《こんど》|帰《かへ》つて|来《き》ても|金明会《きんめいくわい》へ|入《い》れることはならぬ、|皆《みな》の|者《もの》がよつてたかつて|放《ほ》り|出《だ》して|了《しま》へ、|三人世《さんにんよ》の|元《もと》、これ|丈《だけ》|居《を》つたら|結構《けつこう》|々々《けつこう》、|上田《うへだ》は|悪神《あくがみ》の|守護神《しゆごじん》ぢや、|鬼《おに》の|霊《れい》だから、|鬼退治《おにたいぢ》をすると|云《い》つて、|春三《はるざう》サンが|先生《せんせい》の|顔《かほ》に|角《つの》の|生《は》えた|絵《ゑ》を|書《か》いて、|釘《くぎ》を|打《う》つたり|叩《たた》いたり、|唾《つば》を|吐《は》きかけたりして、|大変《たいへん》に|煙《けむ》たがつて、|悪《わる》い|口《くち》|許《ばか》り|言《い》ひますので、|皆《みな》の|信者《しんじや》がそれを|真《ま》に|受《う》け、そんな|先生《せんせい》なら|帰《い》んで|貰《もら》へと、|口々《くちぐち》に|言《い》ふので|仕方《しかた》がないので、|教祖《けうそ》さまにチツと|云《い》うて|聞《き》かして|貰《もら》はうと|思《おも》うて|申《まを》し|上《あ》げますと、|教祖《けうそ》ハンは|平気《へいき》な|顔《かほ》で、|何事《なにごと》も|神界《しんかい》へ|任《まか》すがよいと|云《い》うて|黙《だま》つて|居《を》られますなり、|一体《いつたい》|何《なに》が|何《なに》やら|訳《わけ》が|分《わか》りませぬ|故《ゆゑ》、|一時《いちじ》も|早《はや》う|帰《かへ》つて|貰《もら》うて、|皆《みな》の|人《ひと》|等《ら》の|目《め》を|醒《さ》ましたいと|思《おも》ひ、|役員《やくゐん》|信者《しんじや》に|隠《かく》れて、|知《し》らせに|一人《ひとり》で|走《はし》つて|来《き》ました』
と|気色《けしき》ばんで|報告《はうこく》するのであつた。そこで|喜楽《きらく》は、|後《あと》の|修業者《しうげふしや》を|四方《しかた》|藤太郎《とうたらう》|氏《し》に|任《まか》しておき、|一先《ひとま》づ|綾部《あやべ》へ|立帰《たちかへ》らうとしてゐる|所《ところ》へ、|又々《またまた》|例《れい》の|祐助《いうすけ》|爺《ぢい》サンが|走《はし》つて|来《き》て、|大地《だいち》へ|手《て》をついて|泣声《なきごゑ》を|出《だ》し|乍《なが》ら、
|祐助《いうすけ》『|一寸《ちよつと》|先生《せんせい》に|申上《まをしあ》げます。|昨日《きのふ》の|夕方《ゆふがた》からお|昼《ひる》までが|余《あま》り|騒《さわ》がしいので、|町中《まちぢう》の|人《ひと》が|芝居《しばゐ》でも|見《み》るやうに|面白《おもしろ》がつて|集《あつ》まり|来《きた》り、|門口《かどぐち》も|道《みち》も|山《やま》の|如《よ》うに、|大勢《おほぜい》が|冷笑《ひやかし》に|来《き》ますので、|大変《たいへん》に|困《こま》りましたけれ|共《ども》、|何《なん》にも|知《し》らぬ|盲人間《めくらにんげん》だと|思《おも》うて、|相手《あひて》にせずに|役員《やくゐん》も|信者《しんじや》も、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|幽斎《いうさい》を|修行《しうぎやう》して|居《ゐ》ました|所《ところ》、|夕方《ゆふがた》に|西八田《にしやた》の|小万《こまん》といふ|俥《くるま》ひきが、|横《よこ》の|細路《ほそみち》を|空車《からぐるま》をひき|乍《なが》ら……|金神々々《こんじんこんじん》|阿呆金神《あはうこんじん》、|気違《きちがひ》|金神《こんじん》、|夢金神《ゆめこんじん》、|乞食金神《こじきこんじん》、|根《ね》つからましな|人間《にんげん》が|来《こ》ん|神《じん》ぢや……と|大《おほ》きい|声《こゑ》でいろいろ|悪《わる》いことを|並《なら》べ|立《た》て、|沢山《たくさん》の|見物人《けんぶつにん》を|笑《わら》はして|通《とほ》りつつ、|俥《くるま》を|泥田《どろた》の|中《なか》へ|転覆《てんぷく》さしました|所《ところ》が、|丁度《ちやうど》そこを|通《とほ》りかかつた|人《ひと》が、それを|見《み》て……お|前《まへ》は|余《あま》り|金神《こんじん》さまの|悪口《わるくち》を|言《い》うたので、|神罰《しんばつ》が|当《あた》つたのぢやと|言《い》ひましたら、|人力曳《くるまひき》の|小万《こまん》が|怒《おこ》つて、|其《その》|人《ひと》を|殴《なぐ》りかけましたので、ビツクリして|西《にし》の|方《はう》へ|一目散《いちもくさん》に|逃出《にげだ》しました。サアさうすると|小万《こまん》が……|金神《こんじん》の|信者《しんじや》たるものが、|人《ひと》が|泥《どろ》まぶれになつて|困《こま》つて|居《ゐ》るに|罰《ばち》とは|何《なん》ぢや、そんなことを|吐《ぬか》した|奴《やつ》を、|今《いま》ここへ|引《ひき》ずり|出《だ》せ……と|呶鳴《どな》つて|広間《ひろま》へあばれ|込《こ》み、|西原《にしばら》の|善太郎《ぜんたらう》サンが|参《まゐ》つて|居《を》りましたら、|白《しろ》い|浴衣《ゆかた》を|着《き》てゐた|餓鬼《がき》ぢや、|此奴《こいつ》に|違《ちが》ひないと|云《い》つて、|土足《どそく》のままで|御神前《ごしんぜん》へあがり、あばれ|狂《くる》ひ、|神《かみ》さまの|御道具《おだうぐ》を|片《かた》つ|端《ぱし》からメチヤメチヤに|叩《たた》き|壊《こわ》して|了《しま》ひ、|沢山《たくさん》の|町《まち》の|人《ひと》が|面白《おもしろ》がつて、……ヤレ|金神《こんじん》|征伐《せいばつ》ぢや、ヤレヤレ……とケシをかけたり|嘲笑《あざわら》つたりして、|一人《ひとり》も|仲裁《ちうさい》する|者《もの》はなし、|散々《さんざん》に|神《かみ》さまの|悪口《あくこう》を|言《い》うた|揚句《あげく》ヤツとのことで|其《その》|晩《ばん》の|十二時《じふにじ》|頃《ごろ》に|帰《かへ》つて|行《ゆ》きました。|皆《みな》の|信者《しんじや》はチクチクと|怖《こは》がつてゐますなり、|警察《けいさつ》は|側《そば》にあつても、|常《つね》から|足立《あだち》サンの|行状《ぎやうじやう》が|悪《わる》いとか|云《い》つて、|保護《ほご》もして|下《くだ》さらぬなり、|此《この》|爺《ぢ》イも|誠《まこと》に|残念《ざんねん》で|残念《ざんねん》で|堪《たま》りませぬ』
とソロソロ|声《こゑ》を|放《はな》つて|泣《な》き|出《だ》した。
|凩《こがらし》や|犬《いぬ》の|吠《ほ》えつく|壁《かべ》の|蓑《みの》
|涙《なみだ》をふいて|又《また》|祐助《いうすけ》|爺《ぢい》サンがソロソロと|悔《くや》み|出《だ》した。
|祐助《いうすけ》『モシ|先生《せんせい》さま、よう|聞《き》いて|下《くだ》さいませ。|出口《でぐち》の|神《かみ》さまが、|日清《につしん》|戦争《せんそう》で|台湾《たいわん》で|亡《な》くなられた|清吉《せいきち》サンの|恩給《おんきふ》とか|年金《ねんきん》とかを、これは|生命《いのち》と|釣換《つりかへ》の|金《かね》ぢやからと|云《い》うて、|一文《いちもん》も|使《つか》はずに|貯《ため》ておかれたお|金《かね》を、|銀行《ぎんかう》からひつぱり|出《だ》して、|勿体《もつたい》ない|白米《はくまい》を|二石《にこく》も|買《か》うて|下《くだ》さりましたが、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|皆《みな》の|者《もの》が|出《で》て|来《き》て|食《く》ふので、|最早《もはや》|一升《いつしよう》もないやうになりましたから、|又《また》|出口《でぐち》の|神様《かみさま》が|銀行《ぎんかう》から|金《かね》を|出《だ》して|来《き》て、|白米《はくまい》や|油《あぶら》を|買《か》うて|下《くだ》さいましたが、|種油《たねあぶら》|丈《だけ》でも|五六升《ごろくしよう》も|一日《いちにち》に|此《この》|頃《ごろ》は|要《い》ります。それでもまだ|邪神界《じやしんかい》が|暗《くら》いから、マツと|灯明《とうみやう》をつけてくれと、お|三人《さんにん》サンの|神懸《かむがかり》の|口《くち》をかつて|仰有《おつしや》るので、|百目蝋燭《ひやくめらふそく》を|二三十本《にさんじつぽん》づつ|立《た》てますので、|大変《たいへん》な|物要《ものい》りで|御座《ござ》いますが、|金《かね》の|一銭《いつせん》も|上《あ》げやうとせず、どれもこれも|皆《みな》よいことにして、|出口《でぐち》の|神《かみ》さまの|手足《てあし》|許《ばか》りかぢつて、|心配《こころくば》り|気配《きくば》りする|誠《まこと》の|信者《しんじや》は|一人《ひとり》もなし、|誠《まこと》にお|気《き》の|毒《どく》|千万《せんばん》で、|此《この》|爺《ぢ》イも|神《かみ》さまに|申《まを》し|訳《わけ》がない、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》サンは|天眼通《てんがんつう》とかが|上手《じやうづ》だというて、お|三人《さんにん》サンと|一《ひと》つになつて、|望遠鏡《ばうゑんきやう》でも|覗《のぞ》くやうに|妙《めう》な|格好《かくかう》して、……|平蔵《へいざう》どのあれを|見《み》やいのう……と|三人《さんにん》サンが|仰有《おつしや》ると、|平蔵《へいざう》サンが|目《め》をふさいでハイハイ|拝《をが》めました|拝《をが》めました、|大《おほ》きな|竜神《りうじん》さまが|現《あら》はれましたとか|云《い》つて、|一心不乱《いつしんふらん》になつて|御座《ござ》るもんだから、|会計《くわいけい》のことは|一寸《ちよつと》も|構《かま》うて|下《くだ》さらず、|中村《なかむら》の|竹《たけ》サンは、お|筆先《ふでさき》を|一心不乱《いつしんふらん》に|朝《あさ》から|晩《ばん》まで、|晩《ばん》から|夜中《よなか》まで、|阿呆《あはう》のやうになつて、|節《ふし》を|附《つ》けては、|浮《う》かれ|節《ぶし》の|様《やう》に、|読《よ》んで|読《よ》んでよみ|倒《たふ》して、アハヽヽヽ、オホヽヽヽと|笑《わら》うて|許《ばか》り、|何《なん》にも|役《やく》には|立《た》たず、|出口《でぐち》の|神《かみ》さまはお|筆先《ふでさき》の|御用《ごよう》|計《ばか》りして、こんな|大騒《おほさわ》ぎをして|居《を》るのに、そしらぬ|顔《かほ》をして|居《を》られますなり、|私《わたし》もコラ|何《ど》うなることかと、|余《あま》り|心配《しんぱい》|致《いた》しますので、|元《もと》から|沢山《たくさん》ない|禿頭《はげあたま》が|一入《ひとしほ》|禿《はげ》て、|其《その》|上《うへ》|竈《かまど》の|煙《けむり》で|黒光《くろびかり》になつて|了《しま》ひまして、|皆《みな》の|役員《やくゐん》サンが……|御苦労《ごくらう》の|黒《くろ》うの|祐助《いうすけ》とひやかします、アタ|阿呆《あはう》らしい、|神《かみ》さまの|事《こと》でなかつたら、|隠居《いんきよ》の|身分《みぶん》で|安楽《あんらく》に|暮《くら》せるものを、|誰《たれ》がこんなことを|致《いた》しませうか』
と|涙交《なみだまじ》りの|黒《くろ》い|顔《かほ》を|黒《くろ》い|手《て》で|撫《な》で|廻《まは》し、|歯糞《はくそ》の|溜《たま》つた|口《くち》から|一口々々《ひとくちひとくち》|唾《つば》を|飛《と》ばして、|喜楽《きらく》の|顔《かほ》へ|吹《ふ》きかけ|乍《なが》ら、|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|喋《しやべ》り|立《た》ててゐる。そこで|喜楽《きらく》は|側《そば》にあつた|半紙《はんし》に|筆《ふで》を|走《はし》らせ、
|禿頭《はげあたま》|鳥居《とりゐ》もかみもなきままに
クロウクロウと|愚痴《ぐち》を|祐助《いうすけ》
と|書《か》いて|与《あた》へたら、
|祐助《いうすけ》『アハヽヽヽ|此奴《こいつ》ア|有難《ありがた》い』
と|喜《よろこ》んで|押頂《おしいただ》き、|懐《ふところ》に|捻込《ねぢこ》んで|一目散《いちもくさん》に|又《また》もや|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
それから|三日目《みつかめ》に|又《また》|此《この》|爺《ぢ》イさんがスタスタとやつて|来《き》て、|何《なに》か|大切《たいせつ》|相《さう》に|風呂敷包《ふろしきづつみ》から|手紙《てがみ》の|様《やう》な|物《もの》を|出《だ》し、
|祐助《いうすけ》『|先生《せんせい》、これは|畏《おそれおほ》くも、|牛人《うしうど》の|金神様《こんじんさま》から、|上田《うへだ》|先生《せんせい》に|対《たい》しお|気付《きづ》けのお|筆先《ふでさき》で|御座《ござ》いますから、|叮重《ていちやう》にして|御覧《ごらん》|下《くだ》さいませ』
と|差《さ》し|出《だ》す。|喜楽《きらく》は|直《ただち》に|披《ひら》いて|見《み》ると、|不規律《ふきりつ》な|乱雑《らんざつ》な|書方《かきかた》で、
『|牛人《うしうど》の|金神《こんじん》が|上田《うへだ》に|一寸《ちよつと》|気《き》をつけるぞよ。|神《かみ》の|都合《つがふ》があるから、|修業者《しうげふしや》|一統《いつとう》|引《ひき》つれて|帰《かへ》るべし、|此《この》|神《かみ》の|命令《めいれい》を|叛《そむ》いたら|怖《こは》いぞよ|云々《うんぬん》……』
と|記《しる》してある。|喜楽《きらく》は|祐助《いうすけ》|爺《ぢ》イサンの|迷《まよ》ひを|醒《さ》ます|為《ため》に、|其《その》|手紙《てがみ》を|目《め》の|前《まへ》でバリバリと|引《ひき》さいて|見《み》せた。|爺《ぢい》サン|吃驚《びつくり》して、
|祐助《いうすけ》『アヽ|先生《せんせい》|勿体《もつたい》ない、そんな|事《こと》をなさると|神罰《しんばつ》が|忽《たちま》ち|当《あた》りますぞ』
と|躍気《やくき》となる。|喜楽《きらく》は|祐助《いうすけ》サンに|向《むか》つて、
|喜楽《きらく》『ナアに|心配《しんぱい》が|要《い》るものか、お|前《まへ》が|牛人《うしうど》の|金神《こんじん》に|貰《もら》うたとかいふ|其《その》|扇子《せんす》を|一《ひと》つ|引裂《ひきさ》いてみるがよい。|決《けつ》して|罰《ばち》など|当《あた》るものでない』
と|励《はげ》ましてみると、どつちやへでも|人《ひと》の|言《い》ふことにつく、|阿呆正直者《あはうしやうぢきもの》の|祐助《いうすけ》サンは、|其《その》|場《ば》でベリベリと|破《やぶ》つて|了《しま》ひ、|別《べつ》に|手《て》も|足《あし》も|歪《ゆが》み|相《さう》にないので、|祐助《いうすけ》さんはソロソロ|地団駄《ぢだんだ》を|踏《ふ》み|出《だ》し、
|祐助《いうすけ》『|此《この》|頭《あたま》の|禿《は》げた|爺《ぢ》イが、まだ|十八《じふはち》やそこらの|村上《むらかみ》に|騙《だま》されたか、エヽ|残念《ざんねん》|至極《しごく》|口惜《くちを》しやなア』
と|其《その》|扇子《せんす》を|大地《だいち》に|投《な》げつけ、|踏《ふ》むやら|蹴《け》るやら、|其《その》|様子《やうす》の|可笑《おか》しさ、|気《き》の|毒《どく》さ、|何《なん》とも|云《い》ひやうがなかつた。
それから|祐助《いうすけ》サンと|同行《どうかう》して、|金明会《きんめいくわい》の|広間《ひろま》へ|帰《かへ》つてみると、|御広前《おひろまへ》には|信者《しんじや》が|溢《あふ》れて|居《を》り、|屋外《をくぐわい》には|見物人《けんぶつにん》が|山《やま》をなして、|邪神《じやしん》の|面白《おもしろ》い|神憑《かむがか》りをひやかして|居《を》る。|喜楽《きらく》はすぐに|内《うち》へ|這入《はい》ると、|村上《むらかみ》|房之助《ふさのすけ》に|何者《なにもの》かが|憑依《ひようい》して、|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》をたぶらかし、あつちやへ|行《ゆ》け、こつちやへ|行《ゆ》けと|嬲《なぶ》り|者《もの》にし|乍《なが》ら|荒《あ》れまはつてゐる。|何《なん》にも|訳《わけ》を|知《し》らぬ|信者《しんじや》が、|神様《かみさま》だと|思《おも》うて|怖《こは》がり、ヘイヘイハイハイと|言《い》ふが|儘《まま》になつてゐた。|村上《むらかみ》は|自分《じぶん》の|顔《かほ》を|見《み》るなり、
|村上《むらかみ》『オヽ|上田《うへだ》か、よく|帰《かへ》つた。|此《この》|方《はう》は|小松林命《こまつばやしのみこと》だ。その|方《はう》は|牛人《うしうど》の|金神《こんじん》の|命令《めいれい》をよく|聞《き》いた、|偉《えら》い|奴《やつ》だ、|其《その》|褒美《ほうび》として|之《これ》を|其《その》|方《はう》に|使《つか》はす|間《あひだ》、|大切《たいせつ》に|保存《ほぞん》するがよからうぞよ』
と|大《おほ》きな|骨《ほね》の|扇《あふぎ》に、|何《なに》かクシヤクシヤと|書《か》いて|勿体《もつたい》|振《ぶ》つて|差出《さしだ》すのを、|手《て》に|取《と》るより|早《はや》く、|数多《あまた》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》の|目《め》をさますにはよい|機会《きくわい》だと|思《おも》つて、|其《その》|大扇《おほあふぎ》で|村上《むらかみ》の|頭《あたま》を|三《み》つ|四《よ》つ|叩《たた》いてみせた。|信者《しんじや》は|各自《めいめい》|不思議《ふしぎ》な|顔《かほ》をして、|喜楽《きらく》の|顔《かほ》|許《ばか》りながめて|居《ゐ》る。|奥《おく》の|間《ま》の|方《はう》から|例《れい》の|三人《さんにん》|程《ほど》の|声《こゑ》として、
『|上田《うへだ》|殿《どの》が|今《いま》|帰《かへ》りよつた。|大神《おほかみ》さま|早《はや》く|神罰《しんばつ》を|当《あ》てて|下《くだ》さいよ』
と|細《ほそ》い|声《こゑ》で、|叫《さけ》んで|居《ゐ》た。
|心《こころ》なき|世人《よびと》の|誹《そしり》|何《なに》かせむ
|神《かみ》に|任《ま》かせし|吾《わが》|身《み》なりせば
(大正一一・一〇・一四 旧八・二四 松村真澄録)
第七章 |火事蚊《くわじか》〔一〇四四〕
|人《ひと》|盛《さかん》なれば|天《てん》に|勝《か》ち、|天《てん》|定《さだ》まつて|人《ひと》を|制《せい》すとかや、|喜楽《きらく》は|一身一家《いつしんいつか》を|抛《なげう》つて、|審神者《さには》の|奉仕《ほうし》に|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》すと|雖《いへど》も、|何《なに》を|云《い》つても|廿余名《にじふよめい》の、|元《もと》より|常識《じやうしき》の|欠《か》けた|人物《じんぶつ》の|修行者《しうぎやうしや》が|発動《はつどう》したこととて、どうにも|斯《か》うにも|鎮定《ちんてい》の|方法《はうはふ》がつかない。|正邪《せいじや》|理非《りひ》の|分別《ふんべつ》もなく、|金光教会《こんくわうけうくわい》の|旧信者《きうしんじや》|計《ばか》りで、|迷信《めいしん》と|盲信《まうしん》との|凝結《ぎようけつ》であるから、|到底《たうてい》|審神者《さには》の|云《い》ふ|事《こと》は|聞入《ききい》れないのである。|又《また》|神懸《かむがかり》といふ|者《もの》は|妙《めう》なもので、|金光教《こんくわうけう》の|信者《しんじや》が|修行《しうぎやう》すれば|金光教《こんくわうけう》の|神《かみ》が|憑《うつ》つて|来《く》る。どれもこれも|皆《みな》|金神《こんじん》と|称《とな》へる。|天理教《てんりけう》の|信者《しんじや》が|修行《しうぎやう》すれば、|十柱《とはしら》の|神《かみ》の|名《な》を|名告《なの》つて|現《あら》はれる。|妙霊教会《めうれいけうくわい》の|信者《しんじや》が|修行《しうぎやう》すれば、|又《また》|妙霊教会《めうれいけうくわい》の|奉斎神《ほうさいしん》の|名《な》を|名告《なの》つて|現《あら》はれて|来《く》る。|其《その》|外《ほか》|宗旨《しうし》|々々《しうし》で|奉斎主神《ほうさいしゆしん》の|神《かみ》や|仏《ぶつ》の|名《な》を|名告《なの》つて、いろいろの|霊《れい》が|現《あら》はれ|来《きた》るものである。|上谷《うへだに》の|修行場《しうぎやうば》では|金光教《こんくわうけう》の|信者《しんじや》|計《ばか》りであつたから、|牛人《うしうど》の|金神《こんじん》だとか、|巽《たつみ》の|金神《こんじん》、|天地《てんち》の|金神《こんじん》、|土戸《つちど》の|金神《こんじん》、|射析《いさく》の|金神《こんじん》などと、|何《いづ》れも|金神《こんじん》の|名《な》を|名告《なの》るのであつた。|又《また》|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》だとか、|其《その》|他《た》の|竜神《りうじん》の|名《な》を|以《もつ》て|現《あら》はれる|副守護神《ふくしゆごじん》も|沢山《たくさん》なものであつた。
|今日《こんにち》の|大本《おほもと》へ|修行《しうぎやう》に|来《く》る|人間《にんげん》は、|大部分《だいぶぶん》|中等《ちうとう》や|高等《かうとう》の|教育《けういく》を|受《う》けた|人《ひと》が|多《おほ》いから、|此《この》|時《とき》のやうな|余《あま》り|脱線的《だつせんてき》|低級《ていきふ》な|霊《れい》は|憑《かか》つて|来《こ》ない。が|大本《おほもと》の|最初《さいしよ》、|即《すなは》ち|明治《めいぢ》|卅二年《さんじふにねん》|頃《ごろ》の|神懸《かむがかり》といつたら、|実《じつ》に|乱雑《らんざつ》|極《きは》まつたもので、|丸《まる》で|癲狂院《てんきやうゐん》|其《その》|儘《まま》の|状態《じやうたい》であつた。|其《その》|上《うへ》|邪神《じやしん》の|奸計《たくみ》で、|審神者《さには》たる|者《もの》は|屡《しばしば》|危険《きけん》の|地位《ちゐ》に|陥《おちい》る|事《こと》があつて、|到底《たうてい》|筆《ふで》や|口《くち》で|尽《つく》せるやうな|事《こと》ではなかつた。|幽界《いうかい》の|事情《じじやう》を|少《すこ》しも|知《し》らない|人々《ひとびと》が|此《この》|物語《ものがたり》を|読《よ》んでも、|到底《たうてい》|信《しん》じられない|様《やう》な|事《こと》|許《ばか》りであるが、それでも|事実《じじつ》は|事実《じじつ》として|現《あら》はして|置《お》かねば、|今後《こんご》の|斯道《しだう》|研究者《けんきうしや》の|参考《さんかう》にならぬから、|有《あ》りし|儘《まま》を|包《つつ》まず|隠《かく》さず、|何人《なんぴと》にも|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》なく、|口述《こうじゆつ》する|事《こと》にしました。
|頃《ころ》は|明治《めいぢ》|卅二年《さんじふにねん》、|秋色《しうしよく》|漸《やうや》く|濃《こま》やかな|時《とき》、|金明会《きんめいくわい》の|広間《ひろま》では、|例《れい》の|福島《ふくしま》、|村上《むらかみ》、|四方《しかた》|春三《はるざう》、|塩見《しほみ》、|黒田《くろだ》を|先頭《せんとう》に、|日夜《にちや》|間断《かんだん》なき|邪神界《じやしんかい》の|襲来《しふらい》で、|教祖《けうそ》のいろいろの|御諭《おさと》しも、|喜楽《きらく》の|審神者《さには》も|少《すこ》しも|聞《き》き|入《い》れぬのみか、|却《かへつ》て|教祖《けうそ》や|喜楽《きらく》を|忌避《きひ》して、|福島《ふくしま》|氏《し》の|如《ごと》きは|別派《べつぱ》となり、|広前《ひろまへ》の|奥《おく》の|間《ま》を|占領《せんりやう》し、|四方《しかた》、|塩見《しほみ》、|黒田《くろだ》|三人《さんにん》の|修行者《しうぎやうしや》と|共《とも》に、|奇妙《きめう》な|神懸《かむがかり》を|続行《ぞくかう》して|居《ゐ》る。
『お|父《ちち》サン、|久《ひさ》しぶりでお|目《め》にかかりました』
『ヤア|吾《わが》|子《こ》であつたか、|会《あ》いたかつた……|見《み》たかつた……ヤア|其方《そなた》は|吾《わが》|妻《つま》か……』
『|吾《わが》|夫《をつと》で|御座《ござ》んすか、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまが|世《よ》にお|落《お》ち|遊《あそ》ばした|時《とき》に、|私《わたし》も|一所《いつしよ》に|落《おと》されて、|親子《おやこ》|兄弟《きやうだい》がチリヂリバラバラ、|時節《じせつ》|参《まゐ》りて、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまのおかげで、|久《ひさ》し|振《ぶ》りで|夫婦《ふうふ》|親子《おやこ》|兄弟《きやうだい》の|対面《たいめん》を|許《ゆる》して|貰《もら》ひました。あゝ|有難《ありがた》い|勿体《もつたい》ない、オーイオーイオーイアンアンアン』
と|愁歎場《しうたんば》を|演出《えんしゆつ》してゐる。|余《あま》りの|狂態《きやうたい》に、|平素《へいそ》から|忍耐《にんたい》の|強《つよ》い|教祖《けうそ》も、|已《や》むを|得《え》ず|箒《はうき》を|以《もつ》て、|福島《ふくしま》の|神懸《かむがかり》を|掃出《はきだ》し、
|教祖《けうそ》『お|前《まへ》は|金光教《こんくわうけう》を|守護《しゆご》する|霊《れい》であらう。|此《この》|大本《おほもと》をかき|紊《みだ》す|為《ため》に、|福島《ふくしま》の|肉体《にくたい》を|借《か》つて|居《ゐ》る|事《こと》は、|初発《しよつぱつ》から|能《よ》う|知《し》つて|居《ゐ》る。モウ|斯《か》うなつては|許《ゆる》す|事《こと》は|出来《でき》ぬから、|一時《いちじ》も|早《はや》く|退散《たいさん》せい』
と|厳《きび》しく|叱《しか》りつけられ、|半分《はんぶん》|肉体《にくたい》の|交《まじ》つた|神懸《かむがかり》の|福島《ふくしま》は、|大《おほ》いに|立腹《りつぷく》し、
|福島《ふくしま》『|此《この》|誠《まこと》の|艮《うしとら》の|大金神《だいこんじん》さまのお|憑《うつ》り|遊《あそ》ばした|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》を、|能《よ》う|見分《みわ》けぬやうな|教祖《けうそ》が|何《なん》になる。|勿体《もつたい》なくも|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|生宮《いきみや》を、|箒《はうき》で|掃出《はきだ》したぞよ。|又《また》|上田《うへだ》も|小松林《こまつばやし》のやうなガラクタ|神《かみ》が|憑《うつ》つてゐるから、|此《この》|結構《けつこう》な|大神《おほかみ》を|能《よ》う|見分《みわ》けぬとは|困《こま》つたものであるぞよ。|何《なん》の|為《ため》の|審神者《さには》ぢや、|分《わか》らぬといふても|程《ほど》があるぞよ。サアサア|皆《みな》の|神懸《かむがかり》|共《ども》、これから|丑《うし》の|年《とし》に|生《うま》れた|寅之助《とらのすけ》の、|艮大金神《うしとらだいこんじん》が|神力《しんりき》が|強《つよ》いか、|出口《でぐち》と|上田《うへだ》の|神力《しんりき》が|強《つよ》いか、|白《しろ》い|黒《くろ》いを|分《わ》けて|見《み》せてやるぞよ。|此《この》|方《はう》の|御伴《おとも》|致《いた》して|上谷《うへだに》へ|来《こ》いよ。もし|寅之助《とらのすけ》が|負《まけ》たら|従《したが》うてやるが、|此《この》|方《はう》が|勝《か》ちたら|出口《でぐち》|直《なほ》も|上田《うへだ》も、|誠《まこと》の|艮《うしとら》の|金神《こんじん》に|従《したが》はして、|家来《けらい》に|使《つか》うてやるぞよ。|今日《けふ》が|天晴《あつぱ》れ|勝負《しようぶ》の|瀬戸際《せとぎは》であるぞよ。|皆《みな》の|神懸《かむがかり》よ、|一時《いつとき》も|早《はや》く|上谷《うへだに》へ|行《ゆ》けよ。|出口《でぐち》と|上田《うへだ》の|改心《かいしん》が|出来《でき》ぬから、|今《いま》|目《め》をさまし|改心《かいしん》の|為《ため》に、|神《かみ》が|出口《でぐち》の|家《いへ》を|灰《はい》にして|了《しま》うぞよ。それから|町中《まちぢう》も|其《その》|通《とほ》りぢやぞよ。|噫《あゝ》|誠《まこと》に|気《き》の|毒《どく》なものぢやぞよ。|人民《じんみん》が|家《いへ》|一軒《いつけん》|建《た》てるのにも、|中々《なかなか》|並大抵《なみたいてい》の|事《こと》ではないが、|神《かみ》も|気《き》の|毒《どく》でたまらぬぞよ。これも|出口《でぐち》|直《なほ》が|我《が》が|強《つよ》うて、|上田《うへだ》の|改心《かいしん》が|出来《でき》ぬからぢやぞよ』
と|四辺《しへん》に|響《ひび》く|大音声《だいおんじやう》にて|呶鳴《どな》り|散《ち》らす。|喜楽《きらく》は|何程《なにほど》|福島《ふくしま》に|神懸《かむがかり》の|正邪《せいじや》を|説明《せつめい》しても、|聞《き》かばこそ……、|自分《じぶん》は|誠《まこと》の|艮《うしとら》の|金神《こんじん》ぢや、|上田《うへだ》の|審神者《さには》が|何《なに》を|知《し》るものか……と、|肩《かた》を|怒《いか》らし、|肘《ひぢ》をはり、|威丈高《ゐたけだか》になつて、|神懸《かむがかり》や|役員《やくゐん》|一統《いつとう》を|引連《ひきつ》れ、|韋駄天《ゐだてん》|走《ばし》りに|一里《いちり》|余《あま》りの|道《みち》を、|上谷《うへだに》の|修行場《しうぎやうば》さして|行《い》つて|了《しま》つた。
|出口《でぐち》|教祖《けうそ》と|喜楽《きらく》と|澄子《すみこ》の|三人《さんにん》を|広前《ひろまへ》に|残《のこ》して、|役員《やくゐん》も|神懸《かむがかり》も|悉皆《すつかり》、|福島《ふくしま》にうつつた|邪神《じやしん》の|妄言《ばうげん》を|固《かた》く|信《しん》じて、|上谷《うへだに》へ|行《い》つて|了《しま》つた。|喜楽《きらく》は|教祖《けうそ》の|命《めい》に|依《よ》りて、|二三時間《にさんじかん》|程《ほど》|経《た》つてから、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》の|妻《つま》の|中村《なかむら》|菊子《きくこ》と|只《ただ》|二人《ふたり》で、|上谷《うへだに》の|四方《しかた》|伊左衛門《いざゑもん》といふ|人《ひと》の|家《いへ》の|修行場《しうぎやうば》へ|出張《しゆつちやう》して|見《み》ると、|役員《やくゐん》も|神懸《かむがかり》も|村《むら》の|人達《ひとたち》も、|老若男女《らうにやくなんによ》の|分《わか》ちなく、|悉皆《しつかい》|福島《ふくしま》について、|高《たか》い|不動山《ふどうやま》の|上《うへ》へ|上《あが》つて|了《しま》ひ、あとには|黒田《くろだ》|清子《きよこ》と|野崎《のざき》|篤三郎《とくさぶらう》とが|修行場《しうぎやうば》の|留守《るす》をしてゐた。そして|黒田《くろだ》には|悪狐《あくこ》の|霊《れい》が|憑《うつ》つて、|喜楽《きらく》の|行《い》つたのも|知《し》らずに、|何事《なにごと》か|一人《ひとり》でベラベラと|喋《しやべ》り|立《た》てつつあつた。|野崎《のざき》は|其《その》|傍《そば》に|両手《りやうて》をついて、おとなしく|高麗狗然《こまいぬぜん》として|畏《かしこ》まつてゐた。|喜楽《きらく》の|顔《かほ》を|見《み》るなり、|野崎《のざき》は|驚《おどろ》いて、|黒田《くろだ》|清子《きよこ》に|耳打《みみうち》をすると、|黒田《くろだ》は|忽《たちま》ちに|仰向《あふむ》けになつて、
|黒田《くろだ》『|上田《うへだ》|来《き》たか、よく|聞《き》けよ。|此《この》|方《はう》は|勿体《もつたい》なくも|素盞嗚尊《すさのをのみこと》であるぞよ。お|前《まへ》が|改心《かいしん》|出来《でき》ぬ|為《た》めに、|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら|綾部《あやべ》の|金明会《きんめいくわい》は|灰《はい》にして|了《しま》うぞよ。お|前《まへ》は|何《なに》しに|来《き》たのぢや、|一時《いちじ》も|早《はや》う|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて、|火事《くわじ》の|消防《せうばう》にかからぬか。グヅグヅして|居《ゐ》る|時《とき》ではないぞよ、|千騎一騎《せんきいつき》の|此《この》|場合《ばあひ》でないか』
とベラベラと|際限《さいげん》もなく|喋《しやべ》り|立《た》てる。|喜楽《きらく》はいきなり、
|喜楽《きらく》『コラ|野狐《のぎつね》、|何《なに》を|吐《ぬか》すか。そんな|事《こと》があつてたまらうか。コリヤ|野狐《のぎつね》、|正体《しやうたい》をあらはせ!』
と|後《うしろ》から|手《て》を|組《く》んで『ウン』と|霊《れい》をかけると、|清子《きよこ》は|忽《たちま》ち|四《よ》つ|這《ばい》になつて、
『コーンコン』
と|鳴《な》き|乍《なが》ら、|家《いへ》の|裏山《うらやま》へ|一目散《いちもくさん》に|駆《か》け|出《だ》した。|野崎《のざき》はビツクリして、|後追《あとお》つかけ、|漸《やうや》く|三町《さんちやう》|許《ばか》りの|谷間《たにま》で|引捉《ひつとら》へ|連《つ》れて|帰《かへ》つて|見《み》ると、|清子《きよこ》は|正気《しやうき》になつたやうに|見《み》せて、
|黒田《くろだ》『あゝ|上田《うへだ》|先生《せんせい》、|誠《まこと》にすまぬ|事《こと》を|致《いた》しました。モウこれからは、|福島《ふくしま》|大先生《だいせんせい》の|事《こと》は|聞《き》きませぬ。|私《わたし》は|余《あま》り|慢心《まんしん》をしてゐましたので、|不動山《ふどうやま》の|狐《きつね》がついてゐました。あゝ|恥《はづ》かしい|残念《ざんねん》な』
と|顔《かほ》を|袂《たもと》で|押《お》しかくす。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『そんな|事《こと》にたばかられるものか、|詐《いつは》りを|云《い》ふな、|其《その》|場《ば》|逃《のが》れの|言《い》ひ|訳《わけ》だ。|審神者《さには》の|眼《め》で|睨《にら》んだら|間違《まちが》ひはあるまい。|四《よ》つ|堂《だう》の|古狐《ふるぎつね》|奴《め》!』
とにらみつくれば、|又《また》もや、
『コンコン』
と|鳴《な》き|乍《なが》ら、|一目散《いちもくさん》に|不動山《ふどうやま》を|指《さ》して|逃《に》げて|行《ゆ》く。|暫《しばら》くすると、|例《れい》の|祐助《いうすけ》|爺《ぢ》イサンが、|喜楽《きらく》の|前《まへ》に|走《は》せ|来《きた》り、
|祐助《いうすけ》『|上田《うへだ》|先生《せんせい》、あんたは|又《また》しても|神懸《かむがかり》サンを|叱《しか》りなさつたさうだ。|今《いま》|黒田《くろだ》サンに|素盞嗚尊《すさのをのみこと》さまがおうつりになつて、|山《やま》へ|登《のぼ》つて|来《き》て|大変《たいへん》に|怒《おこ》つてゐやはりますで。|大広前《おほひろまへ》が|御神罰《ごしんばつ》で|焼《や》けるのも、つまり|先生《せんせい》の|我《が》が|強《つよ》いからで|御座《ござ》います。|爺《ぢ》イも|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて、|大難《だいなん》を|小難《せうなん》にまつり|代《か》へて|下《くだ》さいと、お|詫《わび》を|致《いた》して、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまや|神懸《かむがかり》さまに|御願《おねがひ》|申《まを》して|居《を》りますのに、|先生《せんせい》とした|事《こと》が、お|三体《さんたい》の|大神《おほかみ》さまのお|懸《かか》り|遊《あそ》ばした|結構《けつこう》な|神懸《かむがかり》サンを、|野狐《のぎつね》だなんて|仰有《おつしや》るから、|大神《おほかみ》さまが|以《もつ》ての|外《ほか》の|御立腹《ごりつぷく》、どうしても|今度《こんど》は|許《ゆる》しは|致《いた》さぬと|仰有《おつしや》ります。|先生《せんせい》、|爺《ぢ》イが|一生《いつしやう》の|頼《たの》みで|御座《ござ》りますから、|黒田《くろだ》サンの|神《かみ》さまにお|詫《わび》を、|今《いま》|直《すぐ》にして|下《くだ》さりませ。|綾部《あやべ》の|御広前《おひろまへ》や|町中《まちぢう》の|大難《だいなん》になつてはたまりませぬから……』
とブルブル|震《ふる》ひ|乍《なが》ら、|泣《な》き|声《ごゑ》で|拝《をが》んで|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『|祐助《いうすけ》サン、|心配《しんぱい》するな、|決《けつ》してそんな|馬鹿《ばか》な|事《こと》があるものか。|誠《まこと》の|神《かみ》さまなら、そんな|無茶《むちや》な|事《こと》はなさる|筈《はず》がない。|皆《みな》|曲津神《まがつかみ》が|出鱈目《でたらめ》を|言《い》ふて|居《ゐ》るのだ。|万一《まんいち》|綾部《あやべ》にそんな|大変事《だいへんじ》があるものなら、|自分《じぶん》が|上谷《うへだに》へ|来《く》る|筈《はず》がないぢやないか。ジツクリと|物《もの》を|考《かんが》へて|見《み》よ』
と|諭《さと》せば、|爺《ぢ》イサンは|少《すこ》しは|安心《あんしん》したと|見《み》え、|始《はじ》めて|笑顔《ゑがほ》を|見《み》せた。|喜楽《きらく》は|直《ただち》に|不動山《ふどうやま》へ|登《のぼ》り、|数多《あまた》の|神懸《かむがかり》の|狂態《きやうたい》を|演《えん》じて|居《ゐ》るのを|鎮定《ちんてい》せむと、|修行場《しうぎやうば》を|立出《たちい》でた。|爺《ぢ》イサン|驚《おどろ》いて、|喜楽《きらく》の|袖《そで》を|控《ひかへ》え、
|祐助《いうすけ》『|先生《せんせい》、どうぞ|山《やま》へ|行《ゆ》くのはやめにして、これから|直《すぐ》|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|下《くだ》さい、|案《あん》じられてなりませぬ。|今《いま》|先生《せんせい》が|山《やま》へ|登《のぼ》られたら、|又々《またまた》|福島《ふくしま》の|神《かみ》さまが、|御立腹《ごりつぷく》なさると|大変《たいへん》で|厶《ござ》ります』
と|無理《むり》に|引止《ひきと》めようとする。|喜楽《きらく》は|懇々《こんこん》と|祐助《いうすけ》をさとし、|漸《やうや》くの|事《こと》で|納得《なつとく》させ、|中村《なかむら》|菊子《きくこ》と|同道《どうだう》にて、|綾部《あやべ》へ|立帰《たちかへ》らしめ、|喜楽《きらく》は|只《ただ》|一人《ひとり》|雑木《ざふき》|茂《しげ》る|叢《くさむら》をかきわけて|不動山《ふどうやま》に|登《のぼ》り、|松《まつ》の|木蔭《こかげ》に|隠《かく》れて、|神憑《かむがかり》|連中《れんちう》の|様子《やうす》を|覗《うかが》つてゐた。
|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》、|足立《あだち》|正信《まさのぶ》、|其《その》|外《ほか》|一統《いつとう》の|連中《れんちう》は、|喜楽《きらく》の|間近《まぢか》に|来《き》てゐる|事《こと》は|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、|一心不乱《いつしんふらん》になつて、
『|福島《ふくしま》|大先生《だいせんせい》さま、|艮《うしとら》の|大金神《だいこんじん》さま、|一時《いちじ》も|早《はや》く|教祖《けうそ》さまの|我《が》が|折《お》れまして、|上田《うへだ》が|往生《わうじやう》|致《いた》しまして……|綾部《あやべ》の|戒《いまし》めをお|許《ゆる》し|下《くだ》さいませ、|仮令《たとへ》|私《わたし》の|命《いのち》はなくなりましても、|教祖《けうそ》さまが|助《たす》かりなさりますように』
と|一同《いちどう》が|涙交《なみだまじ》りに|頼《たの》んでゐる。|四方《しかた》|春三《はるざう》の|声《こゑ》で、
|春三《はるざう》『|皆《みな》の|者《もの》よ、よく|聞《き》け。|出口《でぐち》|直《なほ》は|金光大神《こんくわうだいじん》の|反対役《はんたいやく》であるぞよ。|上田《うへだ》のやうな|悪《わる》い|奴《やつ》を|引張《ひつぱ》り|込《こ》んで、|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》を|潰《つぶ》したぞよ。あの|御広間《おひろま》は|元《もと》は|金光《こんくわう》の|広間《ひろま》ぢやぞよ。それに|出口《でぐち》と|上田《うへだ》とがワヤに|致《いた》したぞよ。|誠《まこと》の|艮《うしとら》の|金神《こんじん》が、|今度《こんど》は|勘忍袋《かんにんぶくろ》の|緒《を》が|切《き》れたから、|上田《うへだ》の|審神者《さには》を|放《はう》り|出《だ》さねば、|何遍《なんべん》でも|大広間《おほひろま》は|焼《や》いて|了《しま》ふぞよ。|四方《しかた》|平蔵《へいざう》も|又《また》|同類《どうるゐ》ぢや、|出口《でぐち》|直《なほ》と|相談《さうだん》を|致《いた》して、|上田《うへだ》をかくれて|迎《むか》へに|行《ゆ》きよつたぞよ。|出口《でぐち》と|上田《うへだ》と|平蔵《へいざう》と|三人《さんにん》が|心《こころ》を|合《あは》して、|金光《こんくわう》の|広間《ひろま》をつぶしたぞよ。|今度《こんど》は|改心《かいしん》して、|上田《うへだ》を|穴太《あなを》へ|追《お》ひかへせばよし、|何時《いつ》までも|其《その》|儘《まま》に|致《いた》してをるやうな|事《こと》なら、|此《この》|神《かみ》が|許《ゆる》さぬぞよ』
などと、もと|金光教《こんくわうけう》の|信者《しんじや》|計《ばか》りが|集《あつ》まつて、|神憑《かむがかり》の|口《くち》で|攻撃《こうげき》をやる。|黒田《くろだ》きよ|子《こ》が|又《また》|口《くち》を|切《き》つて、
|黒田《くろだ》『|足立《あだち》|正信《まさのぶ》どの、|其方《そなた》は|何《なん》と|心得《こころえ》て|居《を》るのぞえ。|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|取次《とりつぎ》ではないか、|今《いま》まで|出口《でぐち》の|神《かみ》の|側《そば》に|二三年《にさんねん》もついて|居《を》り|乍《なが》ら、|上田《うへだ》のやうなガラクタ|審神者《さには》に、|広間《ひろま》を|占領《せんりやう》しられて、|金光《こんくわう》どのへ|何《なん》と|申訳《まをしわけ》|致《いた》すのか。|上田《うへだ》の|行状《ぎやうじやう》を|見《み》たかい。|彼奴《あいつ》は、|毎日々々《まいにちまいにち》|朝寝《あさね》は|致《いた》す、|昼前《ひるまへ》に|起《おき》て|来《き》て、|手水《てうず》もつかはぬ、|猫《ねこ》より|劣《おと》つた|奴《やつ》ぢやぞよ。|寝所《ねどこ》の|中《なか》から|首《くび》|丈《だけ》|出《だ》して|飯《めし》を|食《くら》つたり、|茶《ちや》を|呑《の》んだり、|風呂《ふろ》へ|這入《はい》つても|顔《かほ》|一《ひと》つ|洗《あら》ふ|事《こと》も|知《し》らず、あんな|道楽《だうらく》な|奴《やつ》を、|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》ぢやから|大切《たいせつ》にしてやれ、と|教祖《けうそ》が|申《まを》すのは、チツと|物《もの》が|分《わか》らぬぞよ。|教祖《けうそ》の|目《め》をさますのは、|一番《いちばん》に|上田《うへだ》を|放《はう》り|出《だ》すに|限《かぎ》るぞよ。あとは|金光教《こんくわうけう》で|足立《あだち》|正信《まさのぶ》|殿《どの》が|御用《ごよう》|致《いた》せば|立派《りつぱ》に|教《をしへ》が|立《た》つぞよ。あれあれ|見《み》やれよ、|今《いま》|綾部《あやべ》の|金明会《きんめいくわい》が|焼《や》けるぞよ。|皆《みな》の|者《もの》よ、あれを|見《み》やいのう』
と|邪神《じやしん》が|憑《うつ》つて|妄言《ばうげん》を|吐《は》いてゐる。|一同《いちどう》は|目《め》を|遠《とほ》く|見《み》はつて、|綾部《あやべ》の|方《はう》を|覗《のぞ》く|可笑《おか》しさ。|折《をり》ふし|綾部《あやべ》の|上野《うへの》に|瓦屋《かはらや》があつて、|窯《かま》に|火《ひ》を|入《い》れて|居《ゐ》るのが、|夕《ゆふ》ぐれの|暗《やみ》を|照《てら》して、チヨロチヨロと|見《み》え|出《だ》した。さうすると、
|黒田《くろだ》『サア|大変《たいへん》ぢや|大変《たいへん》ぢや、|出口《でぐち》の|神《かみ》さまは|誠《まこと》に|以《もつ》てお|気《き》の|毒《どく》ぢやぞよ。|御心配《ごしんぱい》をして|御座《ござ》るぞよ。|今頃《いまごろ》は|上田《うへだ》の|審神者《さには》が|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|火傷《やけど》をし|乍《なが》ら|火《ひ》を|消《け》しにかかつて|居《ゐ》るぞよ。|大分《だいぶ》にエライ|火傷《やけど》を|致《いた》して|居《ゐ》るから、|今度《こんど》こそは|神罰《しんばつ》で|命《いのち》を|取《と》られるぞよ。|今《いま》|出口《でぐち》の|神《かみ》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|祈《いの》つてゐるぞよ、ぢやと|申《まを》して|此《この》|火《ひ》は|中々《なかなか》|消《き》えは|致《いた》さぬぞよ。|綾部《あやべ》の|大火事《おほくわじ》となるぞよ。|神《かみ》の|申《まを》す|事《こと》は|一分一厘《いちぶいちりん》|違《ちがひ》は|致《いた》さぬぞよ。これが|違《ちが》うたら|神《かみ》は|此《この》|世《よ》に|居《を》らぬぞよ。|慢心《まんしん》は|大怪我《おほけが》の|元《もと》だぞよ。|慢心《まんしん》|致《いた》すと|足許《あしもと》へ|火《ひ》がもえて|来《き》て……|熱《あつ》うなるまで|気《き》がつかぬぞよ。|行《ゆ》けば|行《ゆ》く|程《ほど》|茨《いばら》むろ、|行《ゆ》きも|戻《もど》りもならぬよになるぞよ。それそれあの|火《ひ》を|見《み》やいのう』
と|三人《さんにん》の|神懸《かむがかり》が|口《くち》を|切《き》る。|数多《あまた》の|村人《むらびと》も|神憑《かむがかり》も|泣《な》き|声《ごゑ》になり、
『|福島《ふくしま》|大先生《だいせんせい》|様《さま》、|中村《なかむら》|大先生《だいせんせい》|様《さま》、|四方《しかた》|大先生《だいせんせい》さま、|足立《あだち》|大先生《だいせんせい》さま、どうぞお|詫《わび》をして|下《くだ》さいませ』
と|手《て》を|合《あは》して|拝《をが》んでゐる。|時《とき》|正《まさ》に|一《いち》の|暗《くら》み、|瓦屋《かはらや》の|火《ひ》も|見《み》えなくなつた。
『|火事《くわじ》にしては|火《ひ》が|小《ちひ》さ|過《すぎ》る。|余《あま》り|消《き》えるのが|早《はや》かつた。これは|福島《ふくしま》|大先生《だいせんせい》さま、どういふ|訳《わけ》で|御座《ござ》いませうか……』
と|尋《たづ》ねて|居《ゐ》るのは|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|氏《し》であつた。|福島《ふくしま》は|横柄《わうへい》にかまへ|乍《なが》ら、
|福島《ふくしま》『ウン、|神《かみ》の|御仕組《おしぐみ》で|広前《ひろまへ》を|一軒《いつけん》|丈《だけ》|犠牲《いけにえ》に|焼《や》いたぞよ。|皆《みな》の|者《もの》よ|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて、|出口《でぐち》の|我《が》を|折《を》らして、|上田《うへだ》を|放《はう》り|出《だ》して|了《しま》へよ。|其《その》|後《あと》へ|誠《まこと》|生粋《きつすゐ》の|艮《うしとら》の|金神《こんじん》が、|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》|大明神《だいみやうじん》と|現《あら》はれて、|三千世界《さんぜんせかい》の|立替《たてかへ》を|致《いた》すから、|天下《てんか》|太平《たいへい》に|世《よ》が|治《をさ》まりて、|大難《だいなん》を|小難《せうなん》にまつり|代《か》へて|許《ゆる》してやるぞよ。|何程《なにほど》|人民《じんみん》がエライと|申《まを》しても|神《かみ》には|勝《か》てぬぞよ。|疑《うたがひ》を|晴《は》らせよ。|誠《まこと》の|丑寅《うしとら》の|金神《こんじん》の|申《まを》す|事《こと》は、|毛筋《けすぢ》の|横巾《よこはば》|程《ほど》も|間違《まちが》ひはないぞよ。|改心《かいしん》|致《いた》さぬと|足許《あしもと》から|鳥《とり》が|立《た》ちて、ビツクリ|致《いた》して|目《め》まひがくるぞよ。|改心《かいしん》するのは|今《いま》ぢやぞよ』
と|呶鳴《どな》り|散《ち》らしてゐる。|暗《やみ》の|帳《とばり》はますます|深《ふか》く|下《お》りて|来《き》た。|鼻《はな》をつままれても|分《わか》らぬやうに|暗《くら》い。|提灯《ちやうちん》もなければ、|上谷《うへだに》まで|帰《かへ》る|事《こと》も|出来《でき》ぬ|真《しん》の|暗《やみ》になつた。|村中《むらぢう》の|者《もの》が|家《いへ》を|空《から》にして、|残《のこ》らず|此処《ここ》へ|登《のぼ》つて|了《しま》つて|居《を》つたが、|山《やま》を|下《お》りるにも|下《お》りられず、|途方《とはう》に|暮《く》れて『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』と|合掌《がつしやう》してゐる。|其処《そこ》へ|暗《くら》がりの|中《なか》から、|喜楽《きらく》の|声《こゑ》として、
|喜楽《きらく》『|汝等《なんぢら》|一統《いつとう》の|者《もの》、|余《あま》り|慢心《まんしん》|強《つよ》き|故《ゆゑ》に|邪神《じやしん》にたぶらかされ、|上田《うへだ》の|審神者《さには》の|言《げん》も|用《もち》ひず、|極力《きよくりよく》|反対《はんたい》せし|結果《けつくわ》は、|今《いま》|汝等《なんぢら》の|云《い》ふ|如《ごと》く、|足許《あしもと》から|鳥《とり》が|立《た》つても|分《わか》るまい。|喜楽《きらく》は|数時間《すうじかん》|以前《いぜん》から、|此《この》|松《まつ》の|木蔭《こかげ》に|休息《きうそく》して、|汝等《なんぢら》の|暴言《ばうげん》|暴動《ばうどう》を|残《のこ》らず|目撃《もくげき》してゐた。|汝等《なんぢら》に|憑《うつ》つた|邪神《じやしん》は、|現在《げんざい》|此処《ここ》に|居《ゐ》る|喜楽《きらく》を|見《み》とめる|事《こと》も|出来《でき》ない|盲神《めくらがみ》だ。|又《また》|綾部《あやべ》の|広前《ひろまへ》は|決《けつ》して|焼《や》けてはゐないぞ。|最前《さいぜん》|見《み》えた|火《ひ》の|光《ひかり》は、|稍《やや》|大《だい》にして|火事《くわじ》の|卵《たまご》に|似《に》たれども、あれは|火事《くわじ》ではない、|上野《うへの》の|瓦屋《かはらや》が|窯《かま》に|火《ひ》を|入《い》れたのだ。|汝等《なんぢら》は|今《いま》|此処《ここ》で|目《め》を|醒《さ》まし、|悔《く》ゐ|改《あらた》めねば、|神罰《しんばつ》|忽《たちま》ち|下《くだ》るであらう。|現《げん》に|此《この》|山上《さんじやう》にさまようて、|帰路《きろ》|暗黒《あんこく》、|一寸《ちよつと》も|進《すす》む|能《あた》はざるは|神《かみ》の|懲戒《ちようかい》である。|汝等《なんぢら》|一同《いちどう》の|者《もの》、よく|冷静《れいせい》に|考《かんが》へ|見《み》よ。|万一《まんいち》|広前《ひろまへ》が|焼《や》けるものと|思《おも》へば、|何故《なにゆゑ》|大神《おほかみ》の|御霊《みたま》の|鎮座《ちんざ》ある、|広前《ひろまへ》につめきつて|保護《ほご》せないのか。なぜ|面白《おもしろ》さうに|火事《くわじ》|見物《けんぶつ》をし、|村中《むらぢう》が|弁当《べんたう》や|茶《ちや》などを|携帯《けいたい》して、|安閑《あんかん》と|見下《みお》ろそうとしてゐるその|有様《ありさま》は|何《なん》の|事《こと》か、これでも|誠《まこと》の|神《かみ》の|行《おこな》ひか、チツとは|胸《むね》に|手《て》を|当《あて》て|考《かんが》へてみよ』
と|呶鳴《どな》りつけた。サアさうすると……|上田《うへだ》は|綾部《あやべ》に|居《を》ると|固《かた》く|信《しん》じてゐた|一同《いちどう》の|者《もの》は、|藪《やぶ》から|棒《ぼう》をつき|出《だ》したやうに、|喜楽《きらく》が|現《あら》はれたのと、|其《その》|説諭《せつゆ》に|面食《めんくら》つて、|泣《な》く|者《もの》、|詫《わ》びる|者《もの》、|頼《たの》む|者《もの》が|出来《でき》て|来《き》た。|暗《くら》き|山路《やまぢ》を|下《くだ》りつつ、|躓《つまづ》き|倒《たふ》れてカスリ|傷《きず》をするやら、|茨《いばら》に|引《ひ》つかかつて|泣《な》き|叫《さけ》ぶやら、ヤツとの|事《こと》で|不動山《ふどうやま》から、|命《いのち》カラガラ|上谷《うへだに》の|伊左衛門《いざゑもん》|方《かた》の|修行場《しうぎやうば》へ|帰《かへ》つたのはその|夜《よ》の|十二時《じふにじ》|前《まへ》であつた。
|何《いづ》れの|人《ひと》を|見《み》ても、|顔《かほ》や|手足《てあし》に|茨《いばら》がきの|負傷《ふしやう》せぬ|者《もの》は|一人《ひとり》もなかつた。|四方《しかた》|平蔵《へいざう》は、|喜楽《きらく》に|手《て》を|引《ひ》かれて|下山《げざん》したので、|目《め》の|悪《わる》いにも|拘《かか》はらず、かき|傷《きず》|一《ひと》つして|居《ゐ》なかつた。|喜楽《きらく》は|一同《いちどう》の|者《もの》が|邪神《じやしん》の|神告《しんこく》の|全然《ぜんぜん》|虚言《きよげん》であつたので、|各自《かくじ》に|迷《まよ》ふてゐた|事《こと》を|悟《さと》つたであらうと|思《おも》ひ、|急《いそ》ぎ|綾部《あやべ》へ|只《ただ》|一人《ひとり》|帰《かへ》つて|来《き》た。|其《その》あとで|又々《またまた》|相変《あひかは》らず|邪神《じやしん》の|神憑《かむがかり》を|続行《ぞくかう》し、|其《その》|結果《けつくわ》|一同《いちどう》|鳩首《きうしゆ》|会議《くわいぎ》を|開《ひら》き、|其《その》|全権《ぜんけん》|大使《たいし》として|足立《あだち》|氏《し》と|四方《しかた》|春三《はるざう》、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》の|三人《さんにん》が|選《えら》まれた|訳《わけ》である。|要《えう》するに|甘《うま》く|喜楽《きらく》を|追放《つゐはう》するといふが|大問題《だいもんだい》であつた。
|審神者《さには》の|役《やく》といふものは|仲々《なかなか》|骨《ほね》の|折《を》れるもので、|正神界《せいしんかい》の|神《かみ》は|大変《たいへん》に|審神者《さには》を|愛《あい》されるが、|之《これ》に|反《はん》して|邪神界《じやしんかい》の|神《かみ》は|恐《おそ》れて|非常《ひじやう》に|忌《い》み|嫌《きら》ひ、|陰《いん》に|陽《やう》に|審神者《さには》を|排斥《はいせき》するものである。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・一〇・一五 旧八・二五 松村真澄録)
第二篇 |光風霽月《くわうふうせいげつ》
第八章 |三《み》ツ|巴《どもゑ》〔一〇四五〕
|明治《めいぢ》|三十二年《さんじふにねん》|十月《じふぐわつ》|十五日《じふごにち》の|事《こと》であつた。|足立《あだち》、|四方《しかた》、|中村《なかむら》の|三人《さんにん》は、|上谷《うへだに》の|修行場《しうぎやうば》にて、|神憑《かむがかり》|一統《いつとう》|鳩首《きうしゆ》|謀議《ぼうぎ》の|結果《けつくわ》、|喜楽《きらく》に|対《たい》し、|綾部《あやべ》|退却《たいきやく》の|勧告《くわんこく》をなさむと、|全権《ぜんけん》|公使《こうし》|格《かく》で|何喰《なにく》はぬ|顔《かほ》して、|金明会《きんめいくわい》へ|帰《かへ》り|来《きた》り、|言《ことば》|巧《たく》みに|本宮山上《ほんぐうさんじやう》に|誘《さそ》ひ|出《だ》し、|第一番《だいいちばん》に|四方《しかた》|春三《はるざう》は|口《くち》を|開《ひら》いて|云《い》ふ。
|四方《しかた》『|上田《うへだ》|先生《せんせい》に|申上《まをしあ》げますが、|夜前《やぜん》|上谷《うへだに》の|私《わたし》の|宅《うち》で、|金明会《きんめいくわい》の|役員《やくゐん》|一同《いちどう》が|集会《しふくわい》いたし、|相談《さうだん》の|結果《けつくわ》、|先生《せんせい》に|一日《いちにち》も|早《はや》う|綾部《あやべ》を|立《たち》のいて|貰《もら》ふ|事《こと》になりました。|私等《わたしら》|三人《さんにん》に|対《たい》し、|皆《みな》の|役員《やくゐん》サンから、|先生《せんせい》に|対《たい》し|談判《だんぱん》をしてくれと|頼《たの》まれ、|止《や》むを|得《え》ず|三人《さんにん》が|出《で》て|来《き》ましたのですから、どうぞシツカリ|聞《き》いて|下《くだ》され。|永《なが》らく|霊学《れいがく》を|教《をし》へて|貰《もら》うた|先生《せんせい》に|対《たい》して、すげなう|帰《かへ》つて|下《くだ》さいと|云《い》ふ|事《こと》は、|弟子《でし》の|私《わたくし》としては|誠《まこと》に|心苦《こころくるし》くて|気《き》の|毒《どく》でたまりませぬけれど、|先生《せんせい》が|綾部《あやべ》に|厶《ござ》ると、|第一《だいいち》|教祖《けうそ》さまの|教《をしへ》の|邪魔《じやま》になり、お|仕組《しぐみ》が|成就《じやうじゆ》しませぬので、|役員《やくゐん》|信者《しんじや》の|心《こころ》がハダハダになつて、|如何《どう》しても|一致《いつち》しませぬから、どうぞ|一年《いちねん》|程《ほど》|穴太《あなを》へ|帰《かへ》つて|下《くだ》され。|其《その》|上《うへ》で|又《また》|御縁《ごえん》がありましたら、|皆《みな》が|相談《さうだん》の|上《うへ》、こちらの|方《はう》からお|迎《むか》へに|参《まゐ》ります。|実際《じつさい》の|事《こと》を|言《い》へば、|先生《せんせい》が|綾部《あやべ》へお|出《い》でるのが|一二年《いちにねん》|許《ばか》り|早《はや》すぎました』
と|立退《たちの》き|勧告《くわんこく》を|臆面《おくめん》もなくやつて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は|黙然《もくねん》として|何《なん》の|答《こたへ》もなく、|春三《はるざう》の|顔《かほ》を|穴《あな》のあく|程《ほど》|見《み》つめて|少《すこ》しく|笑《わら》うてゐると、|春三《はるざう》は|気味《きみ》|悪《わる》|相《さう》に|真青《まつさを》な|顔《かほ》をして|俯《うつ》むいて|首《くび》を|頻《しき》りに|振《ふ》つてゐる。さうすると|足立《あだち》|正信《まさのぶ》が|全権《ぜんけん》|委員《ゐゐん》|顔《がほ》をして|曰《い》ふ。
|足立《あだち》『|足立《あだち》が|今日《こんにち》|先生《せんせい》にお|話《はなし》に|参《まゐ》つたのは、|一個人《いちこじん》の|考《かんが》へではありませぬ。|先《ま》づ|第一《だいいち》に|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまを|始《はじ》め、|役員《やくゐん》|信者《しんじや》|一同《いちどう》の|代表者《だいへうしや》として、|参《まゐ》つたのですから、あなたも|其《その》お|考《かんが》へで|聞《き》いて|頂《いただ》かねばなりませぬぞ。|抑《そもそ》も|綾部《あやべ》には、|天地金《てんちかね》の|神《かみ》さまのお|道《みち》を|開《ひら》く、|結構《けつこう》な|金光教会所《こんくわうけうくわいしよ》があつたのを、|出口《でぐち》お|直《なほ》さまが|気《き》をいらつて、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》サンとひそかに|相談《さうだん》して、|吾々《われわれ》|始《はじ》め|役員《やくゐん》|信者《しんじや》には|一言《いちごん》の|相談《さうだん》もなく、|派《は》の|違《ちが》ふ|霊学《れいがく》の|先生《せんせい》を|呼《よび》よせて、とうとう|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》を|丸潰《まるつぶ》しにしられたのは、お|前《まへ》サンも|御存《ごぞん》じの|通《とほ》りですが、|金光教《こんくわうけう》は|立派《りつぱ》な|公認《こうにん》の|神道本局《しんだうほんきよく》の|直轄《ちよくかつ》|教会《けうくわい》で、|天下《てんか》に|憚《はばか》らず|布教《ふけう》|伝道《でんだう》に|従事《じうじ》してゐるお|道《みち》です。かう|申《まを》すと|済《す》みませぬが、|上田《うへだ》サンの|立《た》てた|金明霊学会《きんめいれいがくくわい》は、|其《その》|筋《すぢ》の|認可《にんか》もうけずに、|偉相《えらさう》に|布教《ふけう》してゐられても、|到底《たうてい》、|駄目《だめ》です。|出口《でぐち》お|直《なほ》さまや|四方《しかた》|平蔵《へいざう》サン、お|前《まへ》サンの|三人《さんにん》|位《くらゐ》が|何程《なにほど》|骨《ほね》を|折《を》つても、|瞬《またた》く|内《うち》に|其《その》|筋《すぢ》から|叩《たた》き|潰《つぶ》されて|了《しま》ひますよ。さうなつてはお|前《まへ》サンも|皆《みな》サンに|合《あ》はす|顔《かほ》がないから、|足許《あしもと》の|明《あ》かい|内《うち》に|一時《いつとき》も|早《はや》くお|帰《かへ》りなされ。|今《いま》こそ|教祖《けうそ》だとか、|会長《くわいちやう》だとか|云《い》うてゐられますが|元《もと》を|糺《ただ》せば|紙屑買《かみくづかひ》の|無学《むがく》の|婆《ば》アサンや、|牛乳屋《ぎうにうや》|位《くらゐ》が、どれ|丈《だけ》|気張《きば》つて|見《み》ても、|到底《たうてい》お|話《はなし》にならぬから、|花《はな》のある|内《うち》にここを|引上《ひきあ》げなされ。|又《また》お|直《なほ》さまの|方《はう》は|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|方《はう》で|大切《たいせつ》に|世話《せわ》をしますから、|今《いま》の|内《うち》に|決心《けつしん》をきめて|確《たし》かな|御返答《ごへんたふ》を|願《ねが》ひます。お|前《まへ》サン、これ|丈《だけ》|皆《みな》の|者《もの》に|嫌《きら》はれて|居《を》つても|綾部《あやべ》を|帰《かへ》るのがおいやですか。よくよくお|前《まへ》サンも|行《ゆ》く|所《ところ》のない|困《こま》つた|人足《にんそく》と|見《み》えますな。|腹《はら》が|立《た》ちますかなア。|腹《はら》が|立《た》つならこれ|見《み》たかで、|一《ひと》つこんな|田舎《いなか》ではなく、|立派《りつぱ》な|大都会《だいとくわい》の|中央《まんなか》で、|一奮発《ひとふんぱつ》して|教会《けうくわい》でも|立《た》てて|御覧《ごらん》。イヤ|併《しか》し|人間《にんげん》と|云《い》ふ|者《もの》は|末《すゑ》を|見《み》な|分《わか》らぬから|何《なん》ぼ|訳《わけ》の|分《わか》らぬお|前《まへ》サンでも、|又《また》|犬《いぬ》も|歩《ある》けや|棒《ぼう》に|当《あた》ると|云《い》ふ|事《こと》があるよつて、どんな|偉《えら》い|者《もの》に、|此《この》|先《さき》に|於《おい》てなれぬとも|限《かぎ》りませぬワイ』
と|嘲弄的《てうろうてき》に|責《せめ》かける。|喜楽《きらく》は|余《あま》りの|侮辱《ぶじよく》と|暴言《ばうげん》に|何《なん》の|答《こたへ》もなく、|黙然《もくねん》として|俯《うつむ》いてゐた。|足立《あだち》は|心地《ここち》よげに|微笑《びせう》をうかべ、|喜楽《きらく》を|尻目《しりめ》にかけて|腕《うで》をふり|乍《なが》ら、コツコツと|細《ほそ》い|坂路《さかみち》を|降《くだ》つて|行《ゆ》く。|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》はニタニタ|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、
|中村《なかむら》『|上田《うへだ》サン、お|前《まへ》サンは|元《もと》を|糺《ただ》せば|百姓《ひやくしやう》の|蛙切《かはづき》り、|少《すこ》し|出世《しゆつせ》して|牛乳屋《ぎうにうや》になつてゐたのぢやありませぬか。それに|何《なん》ぞや、|霊学《れいがく》だとか|審神者《さには》ぢやとか|云《い》つて、|草深《くさふか》い|田舎《いなか》へ|人《ひと》をだましに|来《き》ても、|何時迄《いつまで》も|尻尾《しつぽ》が|見《み》えずには|居《を》りませぬぞ。なんぼ|綾部《あやべ》が|山家《やまが》だと|云《い》うても、|中《なか》には|目《め》のあいた|者《もの》が|居《を》りますでな。|百姓《ひやくしやう》の|伜《せがれ》が|大《だい》それた|神道家《しんだうか》になるなんて、そんな|謀反《むほん》を|起《おこ》してもだめですよ。ヤツパリ|蚯蚓切《みみづき》りの|蛙飛《かはずと》ばしは、どこともなく|土臭《つちくさ》い|所《ところ》がある。なんぼ|綾部《あやべ》の|小都会《せうとくわい》でも、お|前《まへ》サン|位《くらゐ》に|自由自在《じいうじざい》にしられて、|喜《よろこ》んでゐるやうな|馬鹿者《ばかもの》はありませぬぞや。そんな|性《しやう》に|合《あ》はぬ|事《こと》するより、|一日《いちにち》も|早《はや》く|穴太《あなを》へ|帰《かへ》つて|元《もと》のお|百姓《ひやくしやう》をしなさい。|蛙《かへる》の|子《こ》のお|玉杓子《たまじやくし》は、|何程《なにほど》|鯰《なまづ》の|子《こ》によく|似《に》て|居《を》つても、チツと|大《おほ》きうなりかけると、|手《て》が|生《は》えたり、|足《あし》がはえたり、いつのまにやら|尻尾《しつぽ》が|切《き》れて、ヤツパリ|先祖《せんぞ》|譲《ゆづ》りの|糞蛙《くそがへる》によりなれませぬぞや。どうしても|鯰《なまづ》になれぬのは|天地《てんち》の|道理《だうり》ぢや。|私《わたし》も|今年《ことし》で|九年振《くねんぶり》、|天地金《てんちかね》の|大神《おほかみ》さまのお|道《みち》を|学《まな》び、|八年《はちねん》の|間《あひだ》は|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまのお|筆先《ふでさき》を|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|拝読《いただ》いて|居《を》つても、まだ|満足《まんぞく》に|人《ひと》に|布教《ふけう》することが|出来《でき》ぬ|位《くらゐ》むつかしいものだのに、お|前《まへ》サンは|去年《きよねん》の|春《はる》まで、|蛙飛《かはづと》ばしや|牛乳《ぎうにう》|搾《しぼ》りをして|居《を》り|乍《なが》ら、|今《いま》から|審神者《さには》になるの、|神懸《かむがか》りを|人《ひと》に|教《をし》へるといふのはチツと|時節《じせつ》が|早《はや》すぎます。|一日《いちにち》も|早《はや》うどつかへ|行《い》つて、モツトモツト|神《かみ》さまのお|道《みち》の|勉強《べんきやう》をして|来《き》なさい。お|前《まへ》サンの|修行《しうぎやう》が|出来《でき》て、|立派《りつぱ》な|人《ひと》になりなさつたら、|又《また》お|世話《せわ》になるかも|知《し》れませぬ。|綾部《あやべ》には|四方《しかた》|春三《はるざう》サンのやうな|日本一《にほんいち》の|神懸《かむがかり》が|出来《でき》てゐる|上《うへ》に、|福島《ふくしま》|大先生《だいせんせい》のやうな|生神《いきがみ》さまが、|時節《じせつ》|参《まゐ》りて|現《あら》はれました。お|前《まへ》サンも|御存《ごぞん》じだらうが、|二三日前《にさんにちまへ》にも|穴太《あなを》のお|母《か》アさまから、|一日《いちにち》も|早《はや》う|帰《かへ》つて|百姓《ひやくしやう》の|手伝《てつだひ》ひをしてくれ、いつまでもウロウロしてをる|年《とし》ぢやないというて、|手紙《てがみ》が|来《き》たぢやありませぬか。|今《いま》お|前《まへ》サンが|快《こころよ》う|帰《かへ》つて|下《くだ》されば、|天地《てんち》の|大神《おほかみ》さまへもお|詫《わび》が|叶《かな》ひませうし、|大勢《おほぜい》の|役員《やくゐん》や|神懸《かむがか》りサンも|大喜《おほよろこ》び、|第一《だいいち》|穴太《あなを》のお|母《か》アさまに|孝行《かうかう》ぢや。|何程《なにほど》|教祖《けうそ》さまが|引《ひつ》ぱりなさつても、|大勢《おほぜい》の|者《もの》にこれ|程《ほど》|厭《いや》がられても、ヤツパリ|綾部《あやべ》に|居《を》りたいのですか。|見《み》かけにもよらぬ|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》な|御方《おかた》ぢやなア。よつ|程《ぽど》よい|腰抜《こしぬけ》だと|皆《みな》が|蔭《かげ》で|云《い》うて|居《を》りますで』
と|口《くち》を|極《きは》めて|嘲罵《てうば》をきわめ、|立腹《りつぷく》させて|喜楽《きらく》を|追《お》ひ|帰《かへ》すべく|手段《しゆだん》をめぐらしてゐる。|喜楽《きらく》の|胸《むね》はわき|返《かへ》る|計《ばか》りになつた。|最早《もはや》|勘忍袋《かんにんぶくろ》の|緒《を》が|切《き》れやうとする|一刹那《いちせつな》、|出口《でぐち》|澄子《すみこ》がエチエチと|本宮山《ほんぐうやま》へ|登《のぼ》つて|来《き》て、
|澄子《すみこ》『|先生《せんせい》、|最前《さいぜん》から|教祖《けうそ》さまが、|先生《せんせい》のお|姿《すがた》が|見《み》えぬと|云《い》うて、|大変《たいへん》に|心配《しんぱい》をして|居《を》られますので、|平蔵《へいざう》サンや|祐助《いうすけ》サンがそこら|中《ぢう》を|捜《さが》して|居《を》られます。|私《わたし》は|本宮山《ほんぐうやま》へ|上《のぼ》られたに|違《ちがひ》ないと|思《おも》うて、お|迎《むか》へに|来《き》ました。サア|早《はや》う|帰《かへ》つて、|教祖《けうそ》さまがお|待兼《まちかね》ですから、|一所《いつしよ》に|御飯《ごはん》をおあがりなされ』
と|促《うなが》すのをよい|機会《きかい》に、|喜楽《きらく》は|四方《しかた》、|中村《なかむら》を|後《あと》に|残《のこ》して|本宮山《ほんぐうやま》を|下《くだ》つて|行《ゆ》く。|二人《ふたり》は|後姿《うしろすがた》を|見送《みおく》つて、|手《て》を|切《しきり》に|打叩《うちたた》き、
『ワハイ ワハイ、|能《よ》う|似合《にあひ》ますで、|御夫婦《ごふうふ》|万歳《ばんざい》!』
などと|冷《ひや》かしてゐる。まだ|澄子《すみこ》とは|其《その》|時《とき》は|夫婦《ふうふ》でも|何《なん》でもない、|無関係《むくわんけい》の|仲《なか》であつた。|然《しか》るに|両人《りやうにん》は|妙《めう》な|所《ところ》へ|気《き》をまはして|笑《わら》うて|居《ゐ》る。|一時間《いちじかん》|程《ほど》|経《た》つてから、|以前《いぜん》の|三人《さんにん》は|落《おち》つかぬ|顔《かほ》して|広間《ひろま》へ|帰《かへ》つて|来《き》た。
|喜楽《きらく》は|一室《ひとま》に|端坐《たんざ》し、|首《くび》を|傾《かたむ》けて|一先《ひとま》づここを|退去《たいきよ》せむか、と|思案《しあん》にくれてゐた。が|直日《なほひ》の|霊《みたま》に|省《かへり》みて……イヤイヤ|目下《もつか》の|金明会《きんめいくわい》の|役員《やくゐん》や、|神憑《かむがかり》の|状態《じやうたい》を|見捨《みす》てて|帰《かへ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かぬ、|自分《じぶん》が|今《いま》|帰《かへ》つたならば、|何《なに》も|彼《か》もメチヤメチヤになつて|了《しま》うだらう、どこ|迄《まで》も|忍耐《にんたい》に|忍耐《にんたい》を|重《かさ》ね、|今《いま》|一度《いちど》|無念《むねん》を|怺《こら》へて、|彼等《かれら》の|精神《せいしん》を|鎮定《ちんてい》した|上《うへ》、|進退《しんたい》を|決《けつ》しやうかと|思《おも》うてゐる|折《をり》しも、|教祖《けうそ》は|平蔵《へいざう》|氏《し》と|共《とも》に、|静《しづ》かに|襖《ふすま》を|押《おし》あけ|入《い》り|来《きた》り、|自分《じぶん》の|前《まへ》に|座《ざ》を|占《し》めて、|教祖《けうそ》は|先《ま》づ|第一《だいいち》に|言《ことば》をかけ、
|教祖《けうそ》『|先生《せんせい》、あなたは|穴太《あなを》へ|帰《かへ》る|積《つもり》で|思案《しあん》をしてゐられるやうだが、それはなりませぬ。|神《かみ》さまの|御都合《ごつがふ》で|引《ひき》よせられたお|方《かた》ぢやから、どんなことがあつても|綾部《あやべ》を|立退《たちの》くことは|出来《でき》ませぬぞや。|御苦労《ごくらう》さまで|厶《ござ》いますけれど、|神《かみ》さまの|為《ため》にどこまでも|辛抱《しんばう》して|貰《もら》はねば、|肝腎《かんじん》の|御仕組《おしぐみ》が|成就《じやうじゆ》しませぬから、|役員《やくゐん》や|信者《しんじや》が|反対《はんたい》して、|一人《ひとり》も|寄《よ》りつかぬやうになつても、|出口《でぐち》|直《なほ》と|先生《せんせい》と|二人《ふたり》さへ|此《この》|広間《ひろま》に|居《を》れば、|神《かみ》さまのお|仕組《しぐみ》は|立派《りつぱ》に|成就《じやうじゆ》すると、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》が|仰有《おつしや》いますから、どんな|難儀《なんぎ》なことが|出《で》て|来《き》ても、|何《なに》ほど|反対《はんたい》があつても|此処《ここ》を|離《はな》れてはいけませぬ。|平蔵《へいざう》サン、チとしつかりして|下《くだ》され。|今《いま》|先生《せんせい》に|申《まを》した|通《とほ》り、|神《かみ》さまは|如何《どう》しても|御放《おはな》しなさらぬから、|平蔵《へいざう》サン、チとシヤンとして|先生《せんせい》の|教《をしへ》を|聞《き》き、|外《ほか》の|神憑《かむがかり》や|役員《やくゐん》の|言《い》ふ|事《こと》に|迷《まよ》うては|可《い》けませぬ。|金光《こんくわう》さまの|教《をしへ》が|開《ひら》きたい|人《ひと》は|勝手《かつて》に|開《ひら》いたが|宜《よろ》しい。|私等《わたしら》|三人《さんにん》はどこまでも|動《うご》かぬ|決心《けつしん》をせねばなりませぬから、|其《その》お|積《つもり》でゐて|下《くだ》され。|先生《せんせい》くれぐれも|頼《たの》みますぜ』
と|云《い》ひ|棄《す》てて|自分《じぶん》の|居間《ゐま》へ|引取《ひきと》られた。それから|四方《しかた》|平蔵《へいざう》の|態度《たいど》が|一変《いつぺん》して、|陰《いん》に|陽《やう》に|上田《うへだ》を|庇護《ひご》する|事《こと》となり、|漸《やうや》く|大本《おほもと》の|基礎《きそ》が|固《かた》まりかけたのである。
|元《もと》|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|教師《けうし》であつた|土田《つちだ》|雄弘《たかひろ》は、|喜楽《じぶん》の|霊学《れいがく》の|力《ちから》に|感《かん》じ|京都《きやうと》に|上《のぼ》り、|旧友《きういう》などを|集《あつ》めて|金明会《きんめいくわい》の|支部《しぶ》を、|塩小路七条下《しほこうぢしちでうさが》ル|谷口《たにぐち》|房次郎《ふさじらう》の|宅《たく》で|開設《かいせつ》し、|一同《いちどう》|協議《けふぎ》の|上《うへ》に|谷口《たにぐち》|熊吉《くまきち》なる|者《もの》を、|綾部《あやべ》へ|修行《しうぎやう》の|為《ため》に|差向《さしむ》けた。|喜楽《じぶん》の|熱心《ねつしん》なる|教《をしへ》に、|二三週間《にさんしうかん》の|後《のち》は、|一通《ひととほ》り|霊術《れいじゆつ》を|覚《おぼ》え、|第一《だいいち》に|天眼通《てんがんつう》が|利《き》くやうになつて|来《き》た。そこで|当人《たうにん》は|非常《ひじやう》に|慢心《まんしん》を|起《おこ》し、|自分《じぶん》|位《くらゐ》|霊術《れいじゆつ》に|到達《たうたつ》したものはない、|四方《しかた》|春三《はるざう》|位《くらゐ》は|物《もの》の|数《かず》でもない、|過去《くわこ》|現在《げんざい》|未来《みらい》に|通《つう》ずるやうになつたのは、|自分《じぶん》の|天賦《てんぷ》の|霊能《れいのう》が|然《しか》らしむる|所《ところ》であらうと、|得々《とくとく》として|教祖《けうそ》の|前《まへ》に|出《い》で、|厚顔《こうがん》にも、
|谷口《たにぐち》『|此《この》|谷口《たにぐち》が|神《かみ》から|選《えら》まれた|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》で、|将来《しやうらい》|大本《おほもと》の|教主《けうしゆ》になるべきものでせう。|然《しか》らざれば、|僅《わづか》|二三週間《にさんしうかん》の|修行《しうぎやう》でこんなに|上達《じやうたつ》する|事《こと》は|出来《でき》ますまい。|必《かなら》ず|昔《むかし》からの|因縁《いんねん》と|神助《しんじよ》の|然《しか》らしむる|所《ところ》に|違《ちがひ》|有《あ》りますまい。|今日《こんにち》|以後《いご》は|及《およ》ばず|乍《なが》ら、|私《わたし》が|御用《ごよう》をつとめ、|天晴《あつぱ》れ|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまを|表《おもて》へあらはし、|教主《けうしゆ》のつとめを|致《いた》す|考《かんが》へでありますから、|上田《うへだ》サンには|今《いま》まで|御世話《おせわ》になつた|御礼《おれい》に、|相当《さうたう》の|金《かね》を|与《あた》へて、|穴太《あなを》へ|御帰《おかへ》しなさつた|方《はう》がよろしからう』
と|教祖《けうそ》の|前《まへ》で|恐気《おそれげ》もなく|述《の》べ|立《た》てた。|教祖《けうそ》は|余《あま》りの|事《こと》に|呆《あき》れて|言《ことば》もなく、|谷口《たにぐち》の|顔《かほ》をジツと|見《み》つめてゐられた。|谷口《たにぐち》はモドかし|相《さう》に、|言《ことば》せわしく、
|谷口《たにぐち》『|教祖様《けうそさま》、どちらになされますか。|私《わたし》にも|御返答《ごへんたふ》|次第《しだい》で|一《ひと》つ|考《かんが》へがあります。|谷口《たにぐち》|熊吉《くまきち》が|金明会《きんめいくわい》をかまへば、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまの|御教《みをしへ》は|一年《いちねん》たたぬ|内《うち》に|日本国中《にほんこくぢう》に|拡《ひろ》まり、|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|全部《ぜんぶ》はキツと|綾部《あやべ》の|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまに|帰順《きじゆん》いたさせます。かう|申《まを》すと|慢心《まんしん》のやうで|厶《ござ》いますが、|上田《うへだ》サンの|様《やう》に、|役員《やくゐん》|信者《しんじや》|一般《いつぱん》に|受《う》けが|悪《わる》いやうな|人《ひと》が|居《を》つては|大本《おほもと》が|潰《つぶ》れるより|外《ほか》はありませぬ。とかく|斯《こ》ういふ|事《こと》は|人気《にんき》が|肝腎《かんじん》であります。|役員《やくゐん》も|信者《しんじや》も|神憑《かむがかり》も、|上田《うへだ》サンが|何時《いつ》までも|綾部《あやべ》に|居《ゐ》すわつてるやうなら|一人《ひとり》もよりつかぬと|云《い》つて、|昨夜《さくや》も|上谷《うへだに》の|四方《しかた》|春三《はるざう》サンとこで|相談《さうだん》がきまりました。|私《わたし》は|大本《おほもと》の|大事《だいじ》を|思《おも》ひ、|教祖《けうそ》さまのお|身《み》の|上《うへ》を|思《おも》ふ|余《あま》り、|何《なに》も|彼《か》も|隠《かく》さず|申上《まをしあ》げます。|一体《いつたい》|教祖《けうそ》さまは、|上田《うへだ》サンを|買被《かひかぶ》つてゐられますと|皆《みな》の|者《もの》が|云《い》うてゐます』
と|野心《やしん》を|包蔵《はうざう》する|谷口《たにぐち》は、|教祖《けうそ》がどういはれるかと、|其《その》|御返答《ごへんたふ》を|待《まち》かね|顔《がほ》であつた。
|教祖《けうそ》は|直《ただち》に|答《こた》へて、
|教祖《けうそ》『|谷口《たにぐち》サン、それは|誠《まこと》に|結構《けつこう》な|思召《おぼしめ》しで|厶《ござ》いますな、|皆《みな》さまの|御志《おこころざし》は|神《かみ》さまもさぞ|御喜《およろこ》びで|厶《ござ》いませう。|乍併《しかしながら》|誠《まこと》といふ|者《もの》はそんなものぢやありませぬ。お|前《まへ》サンも|上田《うへだ》サンに、|仮令《たとへ》|三日《みつか》でも|教《をし》へて|貰《もら》うたら|先生《せんせい》に|違《ちがひ》なからう。|其《その》|先生《せんせい》を|追出《おひだ》して|自分《じぶん》が|後《あと》にすわるといふやうな|御精神《ごせいしん》の|御方《おかた》は|私《わたし》は|嫌《いや》です。|誠《まこと》といふものはそんな|易《やす》いものとは|違《ちが》ひますで、|私《わたし》はどこ|迄《まで》も|上田《うへだ》サンと|手《て》を|曳《ひ》いて、|神《かみ》さまの|御用《ごよう》をする|覚悟《かくご》であります。そんな|事《こと》を|言《い》ふお|方《かた》は、どうぞ|一日《いちにち》も|早《はや》う|帰《かへ》つて|下《くだ》され』
とあべこべに|退却《たいきやく》を|請求《せいきう》され、|目算《もくさん》がガラリと|外《はづ》れた|谷口《たにぐち》は|青《あを》い|顔《かほ》して、|首尾《しゆび》|悪《わる》|相《さう》に|教祖《けうそ》の|前《まへ》を|下《さが》り、すぐさま|上谷《うへだに》へかけつけ、|第二《だいに》の|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》について|大運動《だいうんどう》を|始《はじ》めて|居《ゐ》た。
|教祖《けうそ》の|筆先《ふでさき》に、
『|御用継《ごようつぎ》は|末子《ばつし》の|澄子《すみこ》と|定《さだ》まりたぞよ』
と|繰返《くりかへ》し|繰返《くりかへ》し|現《あら》はれてゐるので、|第一《だいいち》に|出口《でぐち》の|養子《やうし》たらむとの|野心《やしん》を|起《おこ》してゐたのは、|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|足立《あだち》|正信《まさのぶ》|氏《し》であつた。|彼《かれ》は|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまの|教《をしへ》が|将来《しやうらい》|発達《はつたつ》するに|違《ちがひ》ない、さうすれば|第一《だいいち》|出口《でぐち》の|娘《むすめ》の|婿《むこ》となつておけば、|将来《しやうらい》の|権利《けんり》を|握《にぎ》る|事《こと》が|出来《でき》るといふので、|陰《いん》に|陽《やう》に|教祖《けうそ》に|近付《ちかづ》きつつあつたのである。|此《この》|男《をとこ》は|元《もと》は|淀《よど》の|藩士《はんし》で、|小学校《せうがくかう》の|教員《けうゐん》を|勤《つと》めてゐたが、そこに|金光《こんくわう》|教会所《けうくわいしよ》が|設《まう》けられてあつた、|其《その》|教会《けうくわい》へ|暇《ひま》ある|毎《ごと》に|通《かよ》うて|受持《うけもち》|教師《けうし》に|理屈《りくつ》をふきかけ、いろいろと|妨害《ばうがい》をなし、とうとう|其《その》|教会《けうくわい》をメチヤメチヤに|叩《たた》きつぶして|了《しま》うた|男《をとこ》である。それを|上級《じやうきふ》|教会《けうくわい》の、|京都《きやうと》|島原《しまばら》|支所長《ししよちやう》|杉田《すぎた》|政次郎《まさじらう》が|甘《うま》く|自分《じぶん》の|手元《てもと》へ|引入《ひきい》れ、|相当《さうたう》の|俸給《ほうきふ》をやつて|事務員《じむゐん》に|使《つか》うてゐた。
|出口《でぐち》|教祖《けうそ》が|始《はじ》めて|神懸《かむがかり》になられた|時《とき》、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|氏《し》が|妻君《さいくん》と|共《とも》に、|南桑田《みなみくはだ》の|土田村《つちだむら》といふ|所《ところ》へ|行《い》つて|居《を》つた。|其《その》|時《とき》|亀岡《かめをか》の|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|大橋《おほはし》|亀次郎《かめじらう》といふ|教師《けうし》について、|金光教《こんくわうけう》の|教《をしへ》を|聞《き》いてゐた|関係上《くわんけいじやう》から、|教祖《けうそ》の|事《こと》を|亀岡《かめをか》の|大橋《おほはし》に|話《はなし》をしてみた。さうすると|大橋《おほはし》は、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》というて|信者《しんじや》が|沢山《たくさん》によつて|来《く》る|相《さう》だから、|何《なん》とかして、|其《その》|出口《でぐち》お|直《なほ》サンを|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|教師《けうし》となし、|亀岡《かめをか》の|教会《けうくわい》の|部下《ぶか》として、|綾部《あやべ》に|一《ひと》つ|教会《けうくわい》を|立《た》てたいものだといふのが|手蔓《てづる》となり|西原《にしばら》の|西村《にしむら》|文右衛門《ぶんうゑもん》といふ|男《をとこ》が|教祖《けうそ》に|難病《なんびやう》を|助《たす》けて|貰《もら》うた|関係上《くわんけいじやう》、|亀岡《かめをか》の|教会《けうくわい》へ|行《い》つて|大橋《おほはし》|亀次郎《かめじらう》から、|金光教《こんくわうけう》の|剣先《けんさき》を|下《さ》げて|頂《いただ》き、|西村《にしむら》|文右衛門《ぶんうゑもん》|氏《し》が|背中《せなか》に|負《お》うて、|大島《おほしま》|景僕《けいぼく》といふ|人《ひと》の|離《はな》れの|六畳《ろくでふ》を|借《か》つて、|始《はじ》めて|金光《こんくわう》サンを|祭《まつ》つたのである。|其《その》|六畳《ろくでふ》のはなれは|今《いま》|大本《おほもと》に|保存《ほぞん》されてある。|大橋《おほはし》|亀次郎《かめじらう》は、|自分《じぶん》の|弟子《でし》の|奥村《おくむら》|定次郎《さだじらう》といふ|男《をとこ》を|遣《つか》はし、|教師《けうし》として|道《みち》を|開《ひら》かせ、|出口《でぐち》|直子《なほこ》をお|給仕役《きふじやく》の|様《やう》にして|道《みち》を|開《ひら》いて|居《を》つた。|乍併《しかしながら》|出口《でぐち》|教祖《けうそ》はそんな|事《こと》で|満足《まんぞく》しては|居《を》られず、
|教祖《けうそ》『|自分《じぶん》は|金光教《こんくわうけう》をひらくのではない、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまを|世《よ》に|出《だ》さねばならぬ|役《やく》だから……』
と|云《い》つて、|奥村《おくむら》|定次郎《さだじらう》に、|幾度《いくたぴ》となくお|筆先《ふでさき》を|出《だ》して|警告《けいこく》されたけれど、|上級《じやうきふ》|教会《けうくわい》を|憚《はばか》つて、|如何《どう》しても|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまを|表《おもて》にせうとはせず、とうとういろいろと|官《くわん》へ|手続《てつづ》きをして、|福知山《ふくちやま》|金光教会《こんくわうけうくわい》|支所長《ししよちやう》|青木《あをき》|松之助《まつのすけ》の|出張所《しゆつちやうしよ》といふ|名《な》で、|東四辻《ひがしよつつじ》の|古《ふる》い|家《いへ》を|借《か》つて、そこに|道場《だうぢやう》を|開《ひら》き、|奥村《おくむら》|定次郎《さだじらう》が|受持《うけもち》|教師《けうし》となつて、|金光教《こんくわうけう》を|開《ひら》いて|居《を》つた。
|出口《でぐち》|教祖《けうそ》は|神《かみ》さまの|命令《めいれい》によつて、|奥村《おくむら》に|別《わか》れ、|裏町《うらまち》の|土蔵《くら》を|借《か》つて、そこで|神《かみ》さまを|祀《まつ》つて、|筆先《ふでさき》をかいてゐられた。|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》はだんだん|淋《さび》しくなり、|火《ひ》が|消《き》えたやうになつて|了《しま》ひ|奥村《おくむら》|氏《し》は|止《や》むを|得《え》ず|夜逃《よに》げをして|了《しま》うた。これも|出口《でぐち》|教祖《けうそ》が……|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|言《い》ふ|事《こと》をきかねば、|夜《よ》の|間《ま》に|泣《な》きもつて|逃《に》げて|帰《かへ》らねばならぬぞよ……と|注意《ちうい》しておかれた|通《とほ》りになつたのである。|其《その》|後《あと》へ|島原《しまばら》の|杉田《すぎた》|氏《し》から、|足立《あだち》|正信《まさのぶ》を|受持《うけもち》|教師《けうし》として|綾部《あやべ》の|教会《けうくわい》へよこしたのであつた。
|次《つぎ》に|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》といふ|男《をとこ》は、|本町《ほんまち》の|播磨屋《はりまや》というて、|古物商《こぶつしやう》をやつてゐたが、|始《はじ》めから|教祖《けうそ》さまに|従《したが》ひ、|難病《なんびやう》を|助《たす》けて|貰《もら》ふてから|熱心《ねつしん》な|信者《しんじや》となり、|筆先《ふでさき》の|大熱心者《だいねつしんしや》であつた。これも|何時《いつ》の|間《ま》にか|慢心《まんしん》が|出《で》て|来《き》て、|自分《じぶん》の|女房《にようばう》を|離縁《りえん》し、|出口《でぐち》の|娘《むすめ》を|嫁《よめ》に|貰《もら》はうと|考《かんが》へてゐたのである。
|次《つぎ》に|四方《しかた》|春三《はるざう》は、|上谷《うへだに》で|相当《さうたう》な|財産家《ざいさんか》の|総領《そうりやう》|息子《むすこ》で、|邪神《じやしん》が|憑《うつ》つた|結果《けつくわ》、|弟《おとうと》に|後《あと》をゆづり、|相当《さうたう》の|財産《ざいさん》を|持《も》つて|出口家《でぐちけ》へ|養子《やうし》に|入《い》り|込《こ》まうと、|幾度《いくど》となく|申込《まをしこ》んで|居《ゐ》たのである。|斯《か》くの|如《ごと》く|三人《さんにん》の|養子《やうし》|候補者《こうほしや》が、|手《て》をかへ|品《しな》を|替《か》へ|暗中飛躍《あんちうひやく》を|試《こころ》みて|居《ゐ》た|有様《ありさま》は、|恰《あたか》も|古事記《こじき》にある|八十神《やそがみ》が|八上姫《やかみひめ》を|娶《めと》らむとして|争奪《そうだつ》に|余日《よじつ》なきと|同《おな》じことであつた。|足立《あだち》|正信《まさのぶ》は|塩見《しほみ》、|四方《しかた》の|二女《にぢよ》を|参謀《さんぼう》として、|教祖《けうそ》に|取入《とりい》り、それとはなしに|二ケ年間《にかねんかん》も|根気《こんき》よく|運動《うんどう》してゐたといふ|事《こと》である。|又《また》|中村《なかむら》|氏《し》は|四方《しかた》|源之助《げんのすけ》、|村上《むらかみ》|清次郎《せいじらう》を|参謀《さんぼう》として、これも|二三年間《にさんねんかん》|不断《ふだん》の|活動《くわつどう》をつづけてゐた。|四方《しかた》|春三《はるざう》は|自《みづか》ら|少々《せうせう》の|財富力《ざいふりよく》を|楯《たて》に|単独《たんどく》|運動《うんどう》をやつて、|自分《じぶん》は|十中《じつちう》の|九《く》まで|最早《もはや》|成功《せいこう》したものと|信《しん》じ、|互《たがひ》に|三人《さんにん》が|三巴《みつどもゑ》となつて|隙《すき》を|伺《うかが》うてゐる。そこへ|突然《とつぜん》|喜楽《きらく》を|神《かみ》さまから、|大本《おほもと》の|御用《ごよう》つぎと|致《いた》すぞよと|示《しめ》されたので|三人《さんにん》の|不平《ふへい》は|言《い》はず|語《かた》らず|一時《いちじ》に|爆発《ばくはつ》して、|喜楽《きらく》に|対《たい》しいろいろの|圧迫《あつぱく》を|加《くは》へ、|悪罵《あくば》を|試《こころ》み、|百方《ひやつぱう》|妨害《ばうがい》に|着手《ちやくしゆ》する|事《こと》となつたのである。
|又《また》もや|谷口《たにぐち》|熊吉《くまきち》が|出《で》て|来《き》て、|野心《やしん》を|抱《いだ》きいろいろの|運動《うんどう》を|開始《かいし》する。|喜楽《きらく》も|澄子《すみこ》もそんな|事《こと》は|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、|何事《なにごと》も|頓着《とんちやく》なく、|一意専心《いちいせんしん》に|霊学《れいがく》の|発達《はつたつ》と|筆先《ふでさき》の|研究《けんきう》とに、|心意《しんい》を|傾注《けいちう》してゐたのである。
(大正一一・一〇・一六 旧八・二六 松村真澄録)
第九章 |稍安定《ややあんてい》〔一〇四六〕
|福島《ふくしま》|氏《し》は|依然《いぜん》として|数多《あまた》の|役員《やくゐん》や|修行者《しうぎやうしや》と|共《とも》に、
|福島《ふくしま》『|丑《うし》の|年《とし》に|生《うま》れた|寅之助《とらのすけ》の|艮《うしとら》の|金神《こんじん》は|此《この》|方《はう》だ』
と|威張《ゐば》り|散《ち》らして|猛《たけ》り|狂《くる》うて|居《ゐ》る。そこへ|喜楽《じぶん》に|大反対《だいはんたい》の|足立《あだち》、|中村《なかむら》、|四方《しかた》|春三《はるざう》|等《ら》が、|益々《ますます》|反対《はんたい》の|気勢《きせい》を|煽《あふ》るので、|自称《ししよう》|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|狂態《きやうたい》は|愈《いよいよ》|激烈《げきれつ》を|加《くは》へるばかり、|遂《つひ》には|教祖《けうそ》を|退隠《たいいん》せしめ|喜楽《きらく》を|放逐《はうちく》し、|福島《ふくしま》を|以《もつ》て|綾部《あやべ》の|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|教祖《けうそ》となし、|足立《あだち》を|以《もつ》て|教主《けうしゆ》となすべく|熟議《じゆくぎ》を|凝《こ》らし、|着々《ちやくちやく》|実行《じつかう》の|歩《ほ》を|進《すす》めてゐた。|谷口《たにぐち》|熊吉《くまきち》も|無論《むろん》|共謀者《きようぼうしや》であつた。|勝《かち》に|乗《じやう》じて|心《こころ》|驕《おご》るは|凡夫《ぼんぶ》の|常《つね》、|福島《ふくしま》は|日《ひ》に|日《ひ》に|狂的《きやうてき》|行動《かうどう》を|加《くは》へて|来《く》るが、|足立《あだち》、|谷口《たにぐち》、|四方《しかた》、|中村《なかむら》|等《ら》は|深《ふか》い|計略《けいりやく》の|各自《めいめい》にある|事《こと》とて|少《すこ》しも|之《これ》を|制止《せいし》せず、|却《かへつ》て|煽動《せんどう》するばかりで|始末《しまつ》におへなくなつて|来《き》た。|要《えう》するに|穴太《あなを》から|喜楽《きらく》がやつて|来《き》て|神懸《かむがかり》を|始《はじ》めたから、こんな|狂乱《きやうらん》が|出来《でき》たのだと|云《い》つて|喜楽《きらく》を|失敗《しつぱい》せしめ、|且《かつ》|霊学《れいがく》の|弊害《へいがい》を|一般《いつぱん》に|認《みと》めさせ、|喜楽《きらく》の|立退《たちの》きを|余儀《よぎ》なくせしめんとの|策略《さくりやく》であるから|堪《たま》つたものでない。たまたま|修業者《しうげふしや》の|一人《いちにん》なる|村上《むらかみ》|房之助《ふさのすけ》が|少《すこ》しく|覚醒《かくせい》して|福島《ふくしま》の|乱暴《らんばう》を|改《あらた》めしめやうと|自分《じぶん》が|審神者《さには》に|着手《ちやくしゆ》したが、|一《ひと》つ|二《ふた》つ|問答《もんだふ》の|末《すゑ》、|福島《ふくしま》|虎之助《とらのすけ》は|答弁《たふべん》に|苦《くる》しみ、|直《ただ》ちに|立《た》ち|上《あが》つて、
|福島《ふくしま》『こりや|村上《むらかみ》の|奴《やつ》、|生意気《なまいき》な|事《こと》を|申《まを》すな。|此《この》|方《はう》は|理屈《りくつ》は|嫌《きら》ひだ。それよりも|実地《じつち》の|神力《しんりき》を|見《み》せてやらう』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|村上《むらかみ》の|首筋《くびすぢ》をつかんで|蛙《かへる》を|投《な》げる|様《やう》に、|二三間《にさんげん》|先《さき》へ|投《な》げつけて|了《しま》ふた。|村上《むらかみ》も|真蒼《まつさを》の|顔《かほ》になつて|低頭平身《ていとうへいしん》|只管《ひたすら》に|謝《あやま》つてばかり|居《ゐ》る。|福島《ふくしま》は|荒《あ》れに|荒《あ》れ、|狂《くる》ひに|狂《くる》つて、|今度《こんど》は|中村《なかむら》や|四方《しかた》の|手《て》にもあはなくなつて|了《しま》つた。|淵垣《ふちがき》の|駐在所《ちうざいしよ》から|巡査《じゆんさ》が|出張《しゆつちやう》して|来《き》て、|愚図々々《ぐづぐづ》と|小言《こごと》を|云《い》ふので、|例《れい》の|何方《どちら》へもつく|愚直爺《ぐちよくぢい》の|祐助《いうすけ》が|綾部《あやべ》へ|飛《と》ん|出来《でき》て|神懸《かむがかり》の|鎮定《ちんてい》を|歎願《たんぐわん》する。|見《み》るに|見《み》かねて|喜楽《きらく》は|鎮圧《ちんあつ》の|為《た》め|出張《しゆつちやう》せむとするや、|教祖《けうそ》はこれを|聞《き》いて、
|教祖《けうそ》『|先生《せんせい》|一人《ひとり》では|邪神《じやしん》の|群《むれ》へ|行《ゆ》く|事《こと》はなりませぬ。|澄子《すみこ》を|連《つ》れて|行《い》つて|下《くだ》さい』
との|言葉《ことば》に|従《したが》ひ、|自分《じぶん》は|澄子《すみこ》と|祐助《いうすけ》と|三人《さんにん》づれにて|上谷《うへだに》の|修行場《しうぎやうば》へと|駆《かけ》つけた。|行《い》つて|見《み》れば、|福島《ふくしま》を|始《はじ》め|一同《いちどう》は|家中《いへぢう》を|暴《あば》れ|狂《くる》ひ、
|福島《ふくしま》『|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|神力《しんりき》は|此《この》|通《とほ》りだ』
と|云《い》つて|始末《しまつ》がつかぬ。|足立《あだち》も|谷口《たにぐち》も|四方《しかた》も|手品《てじな》の|薬《くすり》が|利《き》きすぎて、|案外《あんぐわい》|猛烈《まうれつ》な|狂乱的《きやうらんてき》|憑霊《ひようれい》に|畏縮《ゐしゆく》して|了《しま》ひ、|家《いへ》の|隅《すみ》に|小《ちひ》さくなつて|震《ふる》ふて|居《ゐ》る。|福島《ふくしま》は|村中《むらぢう》に|響《ひび》く|様《やう》な|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
|福島《ふくしま》『|三千世界《さんぜんせかい》|一度《いちど》に|開《ひら》く|梅《うめ》の|花《はな》、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|世《よ》になりたぞよ。|須弥仙山《しゆみせんざん》に|腰《こし》をかけ|鬼門《きもん》の|金神《こんじん》|此《この》|世《よ》の|守護《しゆご》を|致《いた》すぞよ。|大《だい》の|字《じ》|逆様《さかさま》の|世《よ》になりたぞよ。|此《この》|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》は|世《よ》の|変《かは》り|目《め》に|神《かみ》の|御用《ごよう》に|立《た》てるために|三千年《さんぜんねん》の|昔《むかし》から|世《よ》に|落《おと》してかくしてありた|結構《けつこう》な|身魂《みたま》でありたぞよ。けれども|神《かみ》が|世《よ》に|落《おと》して|化《ば》かしてありたから|今《いま》の|人民《じんみん》は|侮《あなど》りて|居《を》るぞよ。|結構《けつこう》な|身魂《みたま》ほど|世《よ》に|落《おと》してありたぞよ。|牛《うし》の|糞《くそ》が|天下《てんか》をとると|申《まを》すのは|今度《こんど》の|譬《たと》えであるぞよ。|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて|善悪《ぜんあく》の|立替《たてかへ》を|致《いた》すぞよ』
と|筆先《ふでさき》の|真似《まね》をして、|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|連続的《れんぞくてき》に|叫《さけ》び|乍《なが》ら|荒《あ》れ|狂《くる》ふてゐる。|足立《あだち》を|始《はじ》め|其《その》|他《た》の|役員《やくゐん》|神憑《かむがかり》は、|平生《ふだん》から|筆先《ふでさき》の|聞《き》きかじりを|覚《おぼ》えて|居《を》るから、|今《いま》の|福島《ふくしま》の|憑霊《ひようれい》の|言葉《ことば》を|聞《き》いて、|真似《まね》をして|居《ゐ》るものとは|思《おも》はず、|誠《まこと》の|艮金神《うしとらのこんじん》に|相違《さうゐ》ないと|固《かた》く|信《しん》じて|居《を》るから|堪《たま》らぬ。|福島《ふくしま》は|喜楽《きらく》の|顔《かほ》を|見《み》るなり、
|福島《ふくしま》『サア|又《また》|上田《うへだ》が|来《き》たぞよ。|皆《みな》の|眷族《けんぞく》|共《ども》、|上田《うへだ》を|調伏《てうふく》|致《いた》して|改心《かいしん》させねばならぬぞよ。|今《いま》に|神《かみ》が|懲戒《みせしめ》を|致《いた》してアフンとさして|見《み》せるぞよ。おちぶれ|者《もの》を|侮《あなど》る|事《こと》はならぬぞよ。|結構《けつこう》な|方《かた》を|世《よ》に|落《おと》して|結構《けつこう》の|御用《ごよう》をさしてありたぞよ。|其《その》|御方《おんかた》と|申《まを》すのは|出口《でぐち》|直《なほ》ではなかりたぞよ。|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》でありたぞよ。サア|一同《いちどう》の|者《もの》よ、|上田《うへだ》を|早《はや》く|叩《たた》き|出《だ》して|了《しま》へよ。|神界《しんかい》の|仕組《しぐみ》の|邪魔《じやま》になるぞよ』
と|命令《めいれい》をする。|一同《いちどう》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|喜楽《じぶん》の|前《まへ》に|立《た》ち|塞《ふさ》がり、|両手《りやうて》を|組《く》んでウンウンと|力一杯《ちからいつぱい》|息《いき》をつめ|鎮魂《ちんこん》で|縛《しば》らうとしてゐる、|其《その》|可笑《おか》しさ。|何程《なにほど》ウンウンと|気張《きば》つても|喜楽《きらく》の|体《からだ》はビクともせない。|一同《いちどう》は|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|益々《ますます》ウンウンを|続《つづ》けて|居《ゐ》る。そこへ|澄子《すみこ》が|現《あら》はれてウンと|一息《ひといき》|呼吸《いき》を|込《こ》めて|睨《にら》むと、|二十余人《にじふよにん》が|一時《いちじ》にバタバタと|将棋倒《しやうぎだふ》しになり、|身体《しんたい》|強直《きやうちよく》して|動《うご》けぬ|様《やう》になつて|了《しま》つた。|足立《あだち》、|中村《なかむら》、|四方《しかた》|春三《はるざう》の|三人《さんにん》は|顔色《かほいろ》を|蒼白《まつさを》に|変《へん》じ、|許《ゆる》しを|乞《こ》ふ|事《こと》|頻《しき》りであつた。|澄子《すみこ》は|只《ただ》|一言《ひとこと》、
|澄子《すみこ》『|改心《かいしん》すれば|許《ゆる》す』
と|言《い》つた|言霊《ことたま》の|妙用《めうよう》|忽《たちま》ち|現《あら》はれ、|一同《いちどう》は|元《もと》の|体《からだ》に|帰《かへ》つた。これに|驚《おどろ》いて|村上《むらかみ》|房之助《ふさのすけ》、|野崎《のざき》|篤三郎《とくさぶらう》は|何処《どこ》ともなく|姿《すがた》を|隠《かく》し、|三日《みつか》も|四日《よつか》も|帰《かへ》つて|来《こ》ない。そこで|二人《ふたり》の|行衛《ゆくゑ》が|知《し》れぬと|云《い》つて|大騒動《おほさうどう》が|持《も》ち|上《あが》つた。|上谷《うへだに》の|修行者《しうぎやうしや》|一同《いちどう》は|残《のこ》らず|綾部《あやべ》の|広間《ひろま》へ|帰《かへ》つて|来《き》た。|村上《むらかみ》と|野崎《のざき》の|両親《りやうしん》が|非常《ひじやう》に|立腹《りつぷく》してつめかけ、
『|一体《いつたい》|私方《わたくしかた》の|掛替《かけがへ》のない|大切《たいせつ》の|息子《むすこ》を|全気狂《まるきちがひ》にして|了《しま》ふた|挙句《あげく》、|行衛《ゆくゑ》も|知《し》れぬ|様《やう》になつたのは|足立《あだち》サンや|中村《なかむら》サンが|行《ゆ》き|届《とど》かぬとは|云《い》へ、もとは|上田《うへだ》サンが|出《で》てきて|神懸《かむがかり》だ|等《など》と|申《まを》して、|狐《きつね》や|狸《たぬき》を|大切《たいせつ》の|息子《むすこ》に|憑《つ》けたからぢや。さあ|今《いま》|此処《ここ》へ|息子《むすこ》を|出《だ》して|返《かへ》して|呉《く》れ。|万々一《まんまんいち》|池河《いけかは》へでも|身《み》を|投《な》げて|死《し》んで|居《を》つたら|如何《どう》して|下《くだ》さる。さあ|早《はや》く|返答《へんたふ》を|聞《き》かせ。もう|了見《れうけん》ならぬ』
と|大《だい》の|男《をとこ》が|目《め》を|剥《む》いて|睨《にら》みつける。|喜楽《きらく》は|黙然《もくねん》として|暫《しば》し|考《かんが》へ、
|喜楽《きらく》『|御心配《ごしんぱい》は|入《い》りませぬ。|只今《ただいま》お|目《め》にかけて|安心《あんしん》さして|上《あ》げます』
と|言葉《ことば》の|終《をは》るや|否《いな》や、|村上《むらかみ》|房之助《ふさのすけ》は|生田村《いくたむら》の|旧《きう》|神官《しんくわん》|福林《ふくばやし》|安之助《やすのすけ》|氏《し》を|伴《とも》なひ、|意気《いき》|揚々《やうやう》として|帰《かへ》つて|来《き》た。|福林《ふくばやし》が|大本《おほもと》の|忠実《ちうじつ》な|役員《やくゐん》となつたのはこれが|動機《どうき》である。|次《つぎ》に|野崎《のざき》は|志賀郷村《しがさとむら》|字《あざ》|西方《にしがた》の|竹原《たけはら》|房太郎《ふさたらう》を|伴《ともな》ひ|帰《かへ》つて|来《き》た。|竹原《たけはら》はもとから|綾部《あやべ》|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|古《ふる》い|世話方《せわかた》であつたが、|金明会《きんめいくわい》へ|入会《にふくわい》した|動機《どうき》もこれが|始《はじ》めであつた。さうして|福島《ふくしま》は|一先《ひとま》づ|八木《やぎ》へ|立《た》ち|帰《かへ》る|事《こと》となり、|後《あと》は|喜楽《きらく》、|澄子《すみこ》の|二人《ふたり》が|審神者《さには》となり|何《いづ》れの|神懸《かむがかり》もよく|鎮《しづ》まりそれぞれの|神徳《しんとく》を|受《う》け、|金明会《きんめいくわい》は|一先《ひとま》づ|治《をさ》まり、|反対者《はんたいしや》も|我《が》を|折《を》つて|教祖《けうそ》や|喜楽《きらく》の|指図《さしづ》に|服《ふく》する|事《こと》となつた。
(大正一一・一〇・一六 旧八・二六 北村隆光録)
第一〇章 |思《おも》ひ|出《で》(一)〔一〇四七〕
|明治《めいぢ》|三十四年《さんじふよねん》|十月《じふぐわつ》、|大本《おほもと》の|祭壇《さいだん》が、|旧広前《きうひろまへ》の|二階《にかい》にあつた|頃《ころ》の|話《はなし》である。|警察署《けいさつしよ》から|毎日《まいにち》の|様《やう》にやつて|来《き》て、|宗教《しうけう》として|認可《にんか》を|受《う》けなければ|布教《ふけう》を|許《ゆる》さないと|云《い》つて|頑張《ぐわんば》るのである。|明治《めいぢ》|二十二年《にじふにねん》|憲法《けんぱふ》の|発布《はつぷ》によつて|信教《しんけう》の|自由《じいう》が|許《ゆる》されてから、そんな|筈《はず》はないと|理窟《りくつ》を|言《い》つて|見《み》ても|堂《どう》しても|承知《しようち》しない。|仕舞《しまひ》には|巡査《じゆんさ》を|前《まへ》に|張番《はりばん》させると|云《い》つた|様《やう》な|訳《わけ》で、|信者《しんじや》までが|嫌《きら》つて|遣《や》つて|来《こ》ない|様《やう》な|始末《しまつ》だ。|是《これ》では|困《こま》るから|思《おも》いきつて|皇道会《くわうだうくわい》といふ|法人《ほうじん》|組織《そしき》に|改《あらた》めやうとして、|静岡《しづをか》の|長沢《ながさは》|雄楯《かつたて》と|云《い》ふ|人《ひと》の|処《ところ》へ|相談《さうだん》に|行《ゆ》かうと|考《かんが》へたところが、|教祖様《けうそさま》は|神様《かみさま》に|伺《うかが》はれて、|仮令《たとへ》|警察《けいさつ》から|何《なん》と|云《い》つて|来《こ》ようと|構《かま》はぬから、|其《その》|儘《まま》に|打捨《うちす》てて|置《お》けと|云《い》ふお|話《はなし》であるが、|警察《けいさつ》の|干渉《かんせう》は|益々《ますます》|激《はげ》しくなる|一方《いつぱう》なので、|如何《どう》しても|打捨《うちす》てて|置《お》くといふ|訳《わけ》には|行《ゆ》かなくなつて|来《き》た。そこで|教祖様《けうそさま》へは|内密《ないみつ》にして、|木下《きのした》(|出口《でぐち》)|慶太郎《けいたらう》を|連《つ》れて|静岡《しづをか》へ|出掛《でか》けたのである。
|留守中《るすちう》に|教祖様《けうそさま》は|此《この》|事《こと》を|聞《き》かれて、|上田《うへだ》|喜三郎《きさぶらう》(|瑞月《ずゐげつ》|旧名《きうめい》)の|所業《しよげふ》は|神勅《しんちよく》に|反《そむ》く|怪《け》しからぬ|所業《しよげふ》だ、|神代《かみよ》の|須佐之男尊《すさのをのみこと》の|御行跡《おんぎやうせき》と|等《ひと》しきものだと|云《い》つて、|弥仙《みせん》の|中腹《ちうふく》にある|彦火々出見命《ひこほほでみのみこと》のお|社《やしろ》の|内《うち》へ|岩戸隠《いはとがく》れをされて|仕舞《しま》つた。
そんな|事《こと》とは|夢《ゆめ》にも|知《し》らぬ|両人《りやうにん》は、|静岡《しづをか》で|相談《さうだん》をして|帰《かへ》り、|京都府《きやうとふ》へよつて|手続《てつづき》をしようとしたのであつたが、|印形《いんぎやう》が|一《ひと》つ|足《た》らぬので|手続《てつづき》が|出来《でき》なくなり、|止《や》むを|得《え》ず|木下《きのした》に|命《めい》じて|印形《いんぎやう》を|取《と》りに|綾部《あやべ》へ|返《かへ》し、|自分《じぶん》は|京都《きやうと》に|滞在《たいざい》して|布教《ふけう》に|従事《じうじ》して|居《ゐ》た。
|其《その》|頃《ころ》の|大本《おほもと》の|幹部《かんぶ》は|実《じつ》に|混沌《こんとん》たるものであつて、|愚直《ぐちよく》な|連中《れんちう》は|迷信《めいしん》に|陥《おちい》つて|仕舞《しま》ひ、|野心家《やしんか》はそれを|利用《りよう》して、|隙《すき》があつたら|自分《じぶん》を|排斥《はいせき》しやうといふ|考《かんが》へであつた。そして|其《その》|野心家《やしんか》の|間《あひだ》にも|亦《また》|絶《た》えず|暗闘《あんとう》があつたのである。|印形《いんぎやう》を|取《と》りに|帰《かへ》つた|木下《きのした》は|梨《なし》の|礫《つぶて》で|一向《いつかう》|消息《せうそく》がない。そして|待《ま》つて|居《ゐ》ない|信者《しんじや》の|連中《れんちう》がやつて|来《き》て、|京都《きやうと》に|沢山《たくさん》ある|稲荷下《いなりさ》げの|様《やう》な|交霊術者《かうれいじゆつしや》を|一々《いちいち》|訪問《はうもん》して、|霊力《れいりよく》を|試《ため》して|見《み》やうと|云《い》ひ|出《だ》した。|仕方《しかた》がないから|片端《かたはし》から|廻《まは》つてあるいて、|沢山《たくさん》な|稲荷下《いなりさ》げを|縛《しば》つて|歩《ある》いた。
|伏見《ふしみ》の|横内《よこうち》に|青柴《あをしば》つゆといふ|稲荷下《いなりさ》げがゐて、|伏見《ふしみ》の|人《ひと》から|崇拝《すうはい》されて|居《ゐ》るといふ|噂《うはさ》を|聞《き》いてやつて|行《い》つた。とても|堂々《だうだう》とやつて|行《い》つては|断《ことわ》られるに|極《きま》つて|居《ゐ》ると|考《かんが》へたから、|百姓《ひやくしやう》の|様《やう》にして|化込《ばけこ》んだ。|同行者《どうげうしや》は|松井《まつゐ》、|松浦《まつうら》、|田中《たなか》|徳《とく》、|時田《ときだ》、|三牧《みまき》などと|云《い》ふ|連中《れんちう》であつた。|上田《うへだ》|喜三郎《きさぶろう》といふ|者《もの》が|家出《いへで》をして|行衛《ゆくゑ》が|分《わか》らぬから、|何処《どこ》に|居《ゐ》るか、|神様《かみさま》に|伺《うかが》つて|戴《いただ》きたいと|云《い》ふと、|勿体《もつたい》らしく|咳払《せきばら》ひなどして、|其《その》|人《ひと》は|百両《ひやくりやう》の|金子《きんす》を|持出《もちだ》して|逐電《ちくでん》したのであつて、|巽《たつみ》の|方角《はうがく》に|行《い》つたといふ。それなら|一《ひと》つ|金縛《かなしば》りにして|戴《いただ》きたいと|云《い》ふと、|縛《しば》るには|七両《しちりやう》|金《きん》が|要《い》ると|云《い》ふ。それから|自分《じぶん》が|進《すす》み|出《い》で、|実《じつ》は|病気《びやうき》で|困《こま》つて|居《ゐ》るのであるが、|何《なん》の|病気《びやうき》であるか|伺《うかが》つて|頂《いただ》きたいといふと、|短《みじか》い|御幣《ごへい》をトントンと|叩《たた》いて、|是《これ》は|腹中《ふくちう》に|大蛇《をろち》がゐる、|住宅《ぢうたく》の|乾《いぬゐ》の|方角《はうがく》に|当《あた》る|倉《くら》の|処《ところ》にゐた|大蛇《をろち》が|腹中《ふくちう》に|這入《はい》つたのだといふ。|住宅《ぢうたく》の|乾《いぬゐ》には|池《いけ》はあるが|倉《くら》はありませぬがといふと|神《かみ》に|向《むか》つて|無礼《ぶれい》な|事《こと》を|言《い》ふなと、とても|御話《おはなし》にならぬ|事《こと》を|言《い》ひ|出《だ》すから、|時田《ときだ》が|化《ばけ》の|皮《かは》を|現《あら》はして、|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|云《い》へ、|此《この》|人《ひと》が|上田《うへだ》|喜三郎《きさぶろう》の|本人《ほんにん》だ、|病気《びやうき》も|何《なに》もしてゐない。|吾々《われわれ》は|新聞《しんぶん》の|種《たね》をとりに|来《き》たのであるから、|今日《けふ》の|出来事《できごと》を|書面《しよめん》にして|事実《じじつ》|通《どほ》り|証明《しようめい》せよといつて|苛《いぢ》め|出《だ》した。|横内《よこうち》の|氏神《うぢがみ》の|祭礼《さいれい》が|十月《じふぐわつ》の|九日《ここのか》で、|祭礼《さいれい》の|翌日《よくじつ》であつたものだから、|御祭《おまつ》りの|後《あと》の|持越《もちこ》しか|何《なに》かで、|村《むら》の|若者《わかもの》がゴロゴロ|集《あつ》まつて|居《を》つた。それが|聞付《ききつ》けたからたまらない、お|台様《だいさま》の|処《ところ》へ|他国《たこく》の|奴《やつ》がグズリに|来《き》て|居《ゐ》る、やつ|付《つ》けて|了《しま》へ、|淀川《よどがは》の|水《みづ》を|飲《の》ませてやれ……などと|云《い》つて、|岡田《をかだ》|良仙《りやうせん》といふ|坊主《ばうず》|上《あが》りのゴロツキを|呼《よ》んで|来《く》るやら、|巡査《じゆんさ》が|駆付《かけつ》けるやら、|大騒《おほさわ》ぎになつた。|連《つ》れの|五人《ごにん》は|斯《か》うなつて|見《み》ると、|生命《いのち》が|惜《を》しいと|見《み》えて、|敵方《てきがた》へ|付《つ》いて|了《しま》つて|小《ちい》さくなつてゐる。|今《いま》から|考《かんが》へると、|同伴《どうはん》の|五人《ごにん》が|敵方《てきがた》へ|従《つ》いたのが|仕合《しあは》せだつたので、|群集《ぐんしふ》は|自分《じぶん》と|岡田《をかだ》|良仙《りやうせん》とをスツカリ|取《と》り|違《ちが》へて|了《しま》つて|同伴《つれ》の|五人《ごにん》と|良仙《りやうせん》とを|滅茶《めつちや》|々々《めつちや》に|殴《なぐ》り|付《つ》けて、|自分《じぶん》を|良仙《りやうせん》だと|思《おも》うてどうか|此方《こちら》へ|御出《おい》で|下《くだ》さいと|云《い》つて|家《いへ》の|中《なか》へ|連《つ》れて|行《い》つて|了《しま》つた。|自分《じぶん》は|何時《いつ》|露顕《ろけん》するか|分《わか》らず|気持《きもち》が|悪《わる》いから、コツソリ|逃《に》げ|出《だ》して|巡査《じゆんさ》|駐在所《ちうざいしよ》へ|囲《かこ》まつて|貰《もら》つたのであつた。|後《あと》になつて|聞《き》くと、|此《この》|時《とき》|大本《おほもと》では|神前《しんぜん》の|大《おほ》きな|水壺《みづつぼ》や|土器《かわらけ》が|突然《とつぜん》|破《わ》れたり|神酒徳利《みきどくり》が|引繰《ひつくり》|返《かへ》つたり、|京都《きやうと》の|信者《しんじや》の|家《うち》でも|神棚《かみだな》の|上《うへ》の|物《もの》が|落《お》ちたり|割《わ》れたりして、|何事《なにごと》だらうと|騒《さわ》いだそうである。|実母《じつぼ》は|天眼通《てんがんつう》で|多人数《たにんずう》で|取巻《とりま》かれ、|真《ま》ん|中《なか》に|泰然《たいぜん》と|坐《すわ》つて|居《ゐ》る|喜楽《じぶん》の|姿《すがた》を|見《み》たから、|安心《あんしん》をして|居《を》つたそうだ。|巡査《じゆんさ》|駐在所《ちうざいしよ》を|出《で》る|時《とき》|人違《ひとちがひ》の|事《こと》が|解《わか》つて、|又《また》|騒《さわ》ぎ|出《だ》したが、|巡査《じゆんさ》が|伏見《ふしみ》|迄《まで》|送《おく》つてくれるし、|京都《きやうと》の|信者《しんじや》は|心配《しんぱい》をして、|伏見《ふしみ》|迄《まで》|迎《むか》へに|来《き》てくれるし、|無事《ぶじ》に|京都《きやうと》へ|着《つ》いて|西洞院《にしのとうゐん》|西村《にしむら》|栄次郎《ゑいじらう》の|家《うち》へ|落付《おちつ》いた。|是《これ》で|安心《あんしん》と|思《おも》ふと、|今度《こんど》は|五人《ごにん》の|連中《れんちう》が|承知《しようち》しない。|自分等《じぶんら》が|敵方《てきがた》へ|従《つ》いた|事《こと》は|棚《たな》へ|上《あ》げて、|散々《さんざん》|欧打《おうだ》せられた|恨《うらみ》を|並《なら》べて、|霊力《れいりよく》があるなら|何故《なぜ》|数百人《すうひやくにん》の|暴行《ばうかう》を|差止《さしと》めなかつたか、|反対《はんたい》に|五人《ごにん》の|者《もの》をなぐらせたのは|四《よ》つ|足《あし》の|悪《あく》の|守護神《しゆごじん》に|相違《さうゐ》ない、|早《はや》く|化《ばけ》の|皮《かは》を|現《あら》はせ、なぐられた|痛《いた》い|所《ところ》を|治《なほ》せ、|癒《なほ》されねば|切腹《せつぷく》をしろ……と|云《い》つて|逼《せま》る。|国家《こくか》の|為《ため》とあれば|何時《いつ》でも|切腹《せつぷく》するがここで|切腹《せつぷく》をする|様《やう》な|安《やす》い|生命《いのち》ぢやないと|云《い》ふと、|腰抜《こしぬけ》め、|貴様《きさま》の|行《おこな》ひが|悪《わる》いから、|教祖様《けうそさま》が|岩戸隠《いはとがく》れをされて|了《しま》つた。モウ|大本《おほもと》へ|行《ゆ》く|必要《ひつえう》がないから、|何処《どこ》へでも|行《ゆ》け……と|云《い》ふ。それなら|仕方《しかた》がないから|他所《よそ》へ|行《ゆ》かうと|云《い》へば、|他所《よそ》へ|行《ゆ》くなら|謝罪《しやざい》せよ、|三遍《さんぺん》|廻《まは》つてワンと|云《い》へ……などと|理不尽《りふじん》な|事《こと》を|云《い》ひ|募《つの》る。ここは|一《ひと》つ|辛抱《しんばう》をする|所《ところ》だと、|韓信股《かんしんまた》くぐりの|故事《こじ》を|想《おも》つて|辛抱《しんばう》した。そして|済《す》まぬ|事《こと》をした、|堪《こら》へて|呉《く》れと|云《い》つて|謝罪《あや》まつてやつた。|丁度《ちやうど》|其《その》|時《とき》|京都《きやうと》の|侠客《けふかく》いろは|幸太郎《かうたらう》と|云《い》ふのが|来合《きあは》せて、|乾児《こぶん》の|山田《やまだ》|重太郎《ぢうたらう》を|付《つ》けて|送《おく》らせて|呉《く》れたので、|無事《ぶじ》に|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》る|事《こと》が|出来《でき》た。
|帰《かへ》つて|見《み》ると、|荷物《にもつ》は|引括《ひつくく》つて|片付《かたづ》けて|了《しま》つてあつて、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》や|四方《しかた》|平蔵《へいざう》が、……|此《この》|通《とほ》り|世《よ》を|紊《みだ》す|四《よ》つ|足《あし》の|守護神《しゆごじん》は|居《を》る|事《こと》はならぬ、|出《で》て|行《ゆ》け……と|云《い》つて|又《また》|苛《いぢ》める。さう|斯《か》うして|居《ゐ》ると|今度《こんど》は|警察署《けいさつしよ》から|教祖様《けうそさま》に|呼出《よびだ》しが|来《き》た、|何事《なにごと》だらうと|聞《き》いて|見《み》ると、|教祖様《けうそさま》が|弥仙山《みせんざん》の|神社《じんじや》の|錠前《ぢやうまへ》をちぎつて|籠《こも》られたのは|規則《きそく》|違反《ゐはん》だ、|罰金《ばつきん》を|出《だ》せといふのであつた。|教祖様《けうそさま》は|弥仙山《みせんざん》の|社《やしろ》に|籠《こも》つて、|静《しづか》にお|筆先《ふでさき》を|書《か》いてお|出《い》でになつたのであるが、|村《むら》の|者《もの》が|社前《しやぜん》へ|来《き》た|物音《ものおと》を|聞《き》いてヒヨイと|顔《かほ》を|出《だ》して|見《み》られたのである。|思《おも》ひがけぬ|処《ところ》から|白髪《はくはつ》の|老婆《らうば》が|突然《とつぜん》|顔《かほ》を|出《だ》したのであるから、|村人《むらびと》の|驚《おどろ》いたのは|無理《むり》もない|事《こと》であつて、|弥仙山《みせんざん》の|社内《しやない》には|狒々猿《ひひざる》が|居《を》ると|云《い》ひふらして|評判《へうばん》になつた。|今《いま》でこそ|樹木《じゆもく》を|伐《き》つて|明《あか》るくなつて|居《ゐ》るものの、|当時《たうじ》の|弥仙山《みせんざん》は|老樹《らうじゆ》|鬱蒼《うつさう》として|昼《ひる》|尚《なほ》|暗《くら》き|霊山《れいざん》であつた。|狒々猿《ひひざる》が|居《を》るといふ|評判《へうばん》が|高《たか》くなつて、|仕舞《しまひ》には|村中《むらぢう》|挙《こぞ》つて|狒々《ひひ》|退治《たいぢ》をしやうといふ|事《こと》になつた。|竹槍《たけやり》を|担《かつ》ぎ|出《だ》すやら、|巡査《じゆんさ》が|加《くは》はるやら、|神主《かむぬし》が|来《く》るやら|大騒《おほさわ》ぎになつた。|一同《いちどう》|弥仙山《みせんざん》へ|押寄《おしよ》せて|見《み》ると、|丁度《ちやうど》|教祖様《けうそさま》の|処《ところ》へ|弁当《べんたう》を|持《も》つて|行《ゆ》く|後野《ごの》|市太郎《いちたらう》が|居合《ゐあは》せたので、|狒々猿《ひひざる》ではないと|云《い》ふ|事《こと》が|分《わか》つた。|皆《みな》が|教祖様《けうそさま》を|取囲《とりかこ》んで……なぜこんな|処《ところ》へ|来《き》て|居《を》るか……と|云《い》つて|問《と》ふと、|教祖様《けうそさま》は|世《よ》の|中《なか》が|暗《くら》がりだから|隠《かく》れたのだ……と|云《い》つて|平然《へいぜん》として|居《を》られる。|皆《みな》が|口《くち》を|揃《そろ》へて、|綾部《あやべ》の|天理教《てんりけう》の|馬鹿《ばか》か、|早《はや》く|出《で》て|行《ゆ》けといふと、|教祖様《けうそさま》は|今日《けふ》はお|籠《こ》もりしてから|一週間目《いつしうかんめ》であるから、|皆《みな》が|出《で》るなと|云《い》つたつて|出《で》る|日《ひ》ぢや、|序《ついで》に|上杉《うへすぎ》|迄《まで》|送《おく》つてくれ……と|云《い》つて|済《す》まし|込《こ》んで|居《ゐ》られる。
|自分《じぶん》が|上杉《うへすぎ》へ|行《い》つて、|駐在所《ちうざいしよ》に|行《ゆ》くと、|教祖様《けうそさま》を|訊問所《じんもんしよ》へ|入《い》れやうとして|居《ゐ》る|所《ところ》であつた。|訊問所《じんもんしよ》へは|自分《じぶん》が|這入《はい》るから、|教祖様《けうそさま》は|御入《おい》れしないで|置《お》いてくれと|云《い》つて、それから|訊問《じんもん》を|受《う》けた。|何故《なにゆゑ》|女人《によにん》|禁制《きんせい》の|場所《ばしよ》へ|女人《によにん》が|這入《はい》つたか……と|問《と》ふから、|明治《めいぢ》|四年《よねん》の|布達《ふたつ》によつて|結界《けつかい》は|解《と》けて|居《ゐ》るのに、|女人《によにん》|禁制《きんせい》とは|何事《なにごと》かと|反対《はんたい》に|突込《つつこ》んでやつたので、|一言《いちごん》も|出《で》ない、さうすると|今度《こんど》は|他人《たにん》が|管理《くわんり》して|居《ゐ》る|建造物内《けんざうぶつない》に|錠《ぢやう》を|破《やぶ》つて|這入《はい》るのは|違法《ゐはふ》だと|思《おも》はぬか……といふ|問《とひ》で、|是《これ》には|一寸《ちよつと》|困《こま》つたが、|神社《じんじや》|法令《はふれい》の|中《うち》に|信仰《しんかう》により|立入《たちい》るものは|此《この》|限《かぎ》りにあらずとあるから、|差支《さしつかへ》ない|筈《はず》だと|出鱈目《でたらめ》を|云《い》つた。|手許《てもと》には|神社《じんじや》|法令《はふれい》がないから|調《しら》べる|事《こと》が|出来《でき》ぬので、|無事《ぶじ》に|帰《かへ》らしてくれた。|併《しか》し|教祖《けうそ》は|前《まへ》|以《もつ》て|神主《かむぬし》に|頼《たの》み、|神主《かむぬし》は|内々《ないない》で|此処《ここ》に|籠《こも》らしてゐたのであつた。
|教祖様《けうそさま》の|弥仙山《みせんざん》|籠《ごも》りの|騒《さわ》ぎはこれで|無事《ぶじ》に|済《す》んだのであるが、|済《す》まぬのは|幹部連中《かんぶれんちう》の|腹《はら》の|中《なか》だ。|自分《じぶん》の|所業《しよげふ》は|一々《いちいち》|腑《ふ》に|落《おち》かねる|所《ところ》から、|是《これ》は|小松林《こまつばやし》といふ|四足《よつあし》の|悪《あく》の|守護神《しゆごじん》の|所業《しよげふ》だといつて、|頻《しき》りにその|悪《あく》の|守護神《しゆごじん》を|罵《ののし》るのである。それなら|一層《いつそう》|喜楽《きらく》を|追《お》ひ|出《だ》してくれればよいのであるが、|喜楽《きらく》の|肉体《にくたい》は|教祖様《けうそさま》のお|筆先《ふでさき》に|依《よ》つて、|神業《しんげふ》の|為《ため》|居《を》らねばならぬ|肉体《にくたい》になつて|居《ゐ》るので|追《お》ひ|出《だ》す|事《こと》も|出来《でき》ず、|自分《じぶん》の|一《ひと》つの|身体《からだ》を|二様《にやう》に|見《み》て|居《ゐ》るのであるから、たまつたものでない。とうとう|六畳敷《ろくでふじき》の|一室《いつしつ》に|入《い》れられて、|一挙一動《いつきよいちどう》を|監視《かんし》される|様《やう》になつた。|自分《じぶん》の|傍《かたはら》へ|来《く》る|時《とき》は|塩《しほ》をふつてやつて|来《く》るから、お|前等《まへら》の|肉体《にくたい》が|汚《けが》れて|居《ゐ》るから|塩《しほ》をふつて|清《きよ》めて|近《ちか》づくのかなどと|云《い》つて|戯談《じやうだん》を|云《い》つてやると|真赤《まつか》になつて|怒《おこ》つて|居《ゐ》る。|福島《ふくしま》|久子《ひさこ》サンなどは、
|久子《ひさこ》『|先生《せんせい》|如何《どう》して|改心《かいしん》が|出来《でき》ませぬか、さういふ|御心得《おこころえ》だから、|教祖様《けうそさま》が|岩戸隠《いはとがく》れなどをされるのだ。|早《はや》く|改心《かいしん》をして|下《くだ》さい……』
などと|熱心《ねつしん》に|云《い》つて|来《く》る。|教祖様《けうそさま》の|岩戸隠《いはとがく》れなども、|年寄《としより》の|吾儘《わがまま》だから|仕方《しかた》がない……と|答《こた》へて、|何《なん》の|斯《か》のと|面倒《めんだう》だから、|腹《はら》が|痛《いた》いと|云《い》ふと……それ|見《み》なさい、|改心《かいしん》をしないから、|腹《はら》が|痛《いた》むのだといふ。
|喜楽《きらく》『よし|腹《はら》の|痛《いた》いのは|改心《かいしん》をしない|証拠《しようこ》か、それなら|証拠《しようこ》を|見《み》せてやる』
と|云《い》つて|鎮魂《ちんこん》をすると、|久子《ひさこ》サンが|俄《には》かに|腹痛《ふくつう》を|起《おこ》して、|痛《いた》い|痛《いた》いといつて|大苦《おほくる》しみに|苦《くる》しむで、|五日間《いつかかん》も|呻吟《しんぎん》した。|教祖《けうそ》さまが『|早《はや》く|先生《せんせい》に|謝罪《しやざい》せよ』と|云《い》はれたものだから、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》が|謝罪《しやざい》に|来《き》た。
|喜楽《きらく》『いや|代人《だいにん》では|無効《むかう》だから|本人《ほんにん》をよこせ』
と|云《い》つてやつたので、とうとう|久子《ひさこ》サンが|謝罪《しやざい》に|来《き》た|事《こと》もあつた。さうすると|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》が|又《また》やつて|来《き》て、
『|先生《せんせい》は|何《なん》といふ|悪《わる》い|事《こと》をする|人《ひと》であるか、|是《これ》は|如何《どう》しても|悪魔《あくま》だ、|術《じゆつ》を|見《み》せろ、|裸《はだか》になつて|見《み》せろ』
と|云《い》ふ。|五月蠅《うるさ》いから|近寄《ちかよ》つて|来《く》る|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》をウンと|睨《にら》んでやると、|又《また》|腹痛《ふくつう》を|起《おこ》して……|痛《いた》い|痛《いた》いと|云《い》つて|苦《くるし》み|出《だ》した。|斯《こ》う|云《い》つた|様《やう》な|次第《しだい》で、……|会長《くわいちやう》(|瑞月《ずゐげつ》)は|悪魔《あくま》だ、|会長《くわいちやう》のいふ|事《こと》を|聞《き》くな……と|云《い》つて、|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》が|切《しき》りに|方々《はうばう》へ|云《い》ひふらして|歩行《ある》いたものである。
(大正一一・一〇・一六 旧八・二六 松村真澄録)
第一一章 |思《おも》ひ|出《で》(二)〔一〇四八〕
|自分《じぶん》を|排斥《はいせき》しやうと|云《い》ふ、|幹部《かんぶ》の|中《うち》の|野心家《やしんか》|連中《れんちう》の|活動《くわつどう》が|段々《だんだん》|露骨《ろこつ》になつて|来《き》た。|川合《かはい》の|大原《おほはら》に|泊《とま》つた|時《とき》、|十人《じふにん》ばかりの|暗殺隊《あんさつたい》がやつて|来《き》た。|自分《じぶん》の|霊眼《れいがん》には|誰《たれ》と|誰《たれ》とが|来《き》て|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》がすつかり|分《わか》つて|居《ゐ》る。|翌日《よくじつ》|大原《おほはら》を|出発《しゆつぱつ》して|上谷《うへだに》と|西原《にしばら》との|間《あひだ》の、|俗《ぞく》に|地獄谷《ぢごくだに》と|云《い》つて|居《ゐ》る|処《ところ》へさしかかると、|如何《どう》したものか、|自分《じぶん》の|羽織《はおり》の|紐《ひも》がほどけて|羽織《はおり》が|脱《ぬ》げやうとする。|不思議《ふしぎ》だと|思《おも》つて|鎮魂《ちんこん》をして|見《み》ると、|暗殺隊《あんさつたい》の|待《ま》ち|伏《ぶ》せである|事《こと》が|分《わか》つた。|四方《しかた》|春三《はるざう》が|供《とも》をして|居《ゐ》たが、|是《これ》も|一《ひと》つ|穴《あな》の|貉《むじな》だから、|自分《じぶん》は|捩鉢巻《ねぢはちまき》|腕《うで》まくりをして|居《ゐ》たが、
|喜楽《きらく》『|大《おほ》きな|割木《わりき》を|握《にぎ》つて|後《うしろ》に|目《め》が|無《な》い。どんな|事《こと》をするか|知《し》れたものでないから|先《さき》へ|行《ゆ》け』
と|云《い》ひつけると|四方《しかた》は|吃驚《びつくり》して|逃《に》げ|出《だ》した。|少《すこ》し|行《ゆ》くと、|彼方《あちら》からも|此方《こちら》からもガサガサと|出《で》て|来《き》たが|機先《きせん》を|制《せい》せられて|張《は》り|合《あ》ひ|抜《ぬ》けがしたと|見《み》えて、
『|先生《せんせい》、お|迎《むか》へに|参《まゐ》りました』
などと|云《い》つて|居《ゐ》る。
|喜楽《きらく》『|馬鹿《ばか》を|云《い》へ、こんな|怪《け》しからぬお|迎《むか》へが|何処《どこ》にあるか、|後《うしろ》に|目《め》が|無《な》い、|先《さき》へ|行《ゆ》け』
と|云《い》つて|喜楽《きらく》は|一番《いちばん》|後《あと》から|跟《つ》いて|行《い》つた。|手持無沙汰《てもちぶさた》になつたものだから、|一人《ひとり》|逃《に》げ|二人《ふたり》|逃《に》げ、|到頭《たうとう》|四方《しかた》|権太郎《ごんたらう》、|王原《わうはら》|常太郎《つねたらう》、|村上《むらかみ》|春之助《はるのすけ》、|谷口《たにぐち》|熊吉《くまきち》、それに|喜楽《きらく》と|五人《ごにん》になつて|了《しま》つた。|一人《ひとり》が|股《また》を|広《ひろ》げて|放屁《はうひ》をやると|又《また》|一人《ひとり》が|放屁《はうひ》をやる、|自分《じぶん》も|負《ま》けぬ|気《き》になつて|復讐的《ふくしうてき》に|又《また》|放屁《はうひ》する。|誰《たれ》も|彼《かれ》も、やるともやるとも|能《よ》くも|出《で》たものだと|思《おも》ふ|位《くらゐ》|盛《さかん》に|連発《れんぱつ》して、|西原《にしばら》から|綾部《あやべ》の|大橋《おほはし》|迄《まで》|一里《いちり》の|間《あひだ》|放《ひ》りづめであつた。|帰《かへ》つて|来《く》ると、|教祖様《けうそさま》が|家《いへ》の|前《まへ》にある|岩《いは》に|赤《あか》い|真綿《まわた》と|白《しろ》い|真綿《まわた》とを|重《かさ》ねかけて、|縮緬《ちりめん》の|紐《ひも》で|縛《しば》つて|自分《じぶん》の|無事《ぶじ》な|様《やう》にお|呪《まじな》ひして|居《を》られた。|赤白《あかしろ》の|真綿《まわた》は、|艮《うしとら》と|坤《ひつじさる》の|金神様《こんじんさま》、|紐《ひも》は|竜宮様《りうぐうさま》だ。|逃《に》げて|帰《かへ》つた|連中《れんちう》は、|教祖様《けうそさま》から|叱《しか》られてお|互《たがひ》に|罪《つみ》のなすり|合《あ》ひを|始《はじ》めた。|喜楽《きらく》は|済《す》んだ|事《こと》だから|構《かま》はぬ|構《かま》はぬと|云《い》つて、|一場《いちぢやう》の|夢《ゆめ》と|観《くわん》じて|無事《ぶじ》に|済《す》ませた。
|無事《ぶじ》に|済《す》む|事《こと》は|済《す》んだが、|其《その》|後《ご》も|喜楽《きらく》の|云《い》ふ|事《こと》は|用《もち》ひて|呉《く》れない。
『|教祖様《けうそさま》は|経《たて》を|説《と》かれる、|会長《くわいちやう》は|教祖様《けうそさま》のお|話《はなし》の|分《わか》る|様《やう》に|緯《よこ》を|説《と》くのである』
と|説明《せつめい》しても|如何《どう》しても|信用《しんよう》せない。そして|自分《じぶん》の|肉体《にくたい》は|教祖様《けうそさま》のお|筆先《ふでさき》にある|通《とほ》り、|神業《しんげふ》のために|居《ゐ》なくてはならぬ|肉体《にくたい》であるが|守護神《しゆごじん》が|小松林《こまつばやし》と|云《い》ふ|四《よ》つ|足《あし》の|悪《あく》の|守護神《しゆごじん》だから、|如何《どう》しても|其《その》|化《ば》けの|皮《かは》を|剥《む》かさねばならぬと|考《かんが》へて|居《を》るのである。こんな|風《ふう》で|喜楽《きらく》の|云《い》ふ|事《こと》は|一向《いつかう》|聞《き》かぬから、いつそ|飛《と》び|出《だ》さうとすると、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|氏《し》が|仲裁《ちうさい》して、
|四方《しかた》『|百《ひやく》のものなら、|教祖様《けうそさま》のお|話《はなし》を|九十九《きうじふきう》|聞《き》いて、|先生《せんせい》の|話《はなし》を|一《ひと》つだけ|聞《き》かう』
と|云《い》ひ|出《だ》した。すると|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》が、
|中村《なかむら》『それも|可《い》かぬ』
と|云《い》ふ。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『|君等《きみら》は|教祖様《けうそさま》の|御馳走《ごちそう》される|糞尿《ふんねう》と、|喜楽《きらく》が|御馳走《ごちそう》する|飯《めし》と|鯛《たひ》と|何《ど》ちらを|取《と》るか』
と|聞《き》いて|見《み》ると、
|中村《なかむら》『|教祖様《けうそさま》の|糞尿《ふんねう》なら|有《あ》りがたく|頂戴《ちやうだい》する』
と|云《い》ふ。これでは|到底《たうてい》|駄目《だめ》と|考《かんが》へたから、|大阪《おほさか》の|内藤《ないとう》|七郎《しちらう》|氏《し》の|処《ところ》へ|行《い》つて|了《しま》つた。
|其《その》|後《ご》|用《よう》が|出来《でき》たので、|一度《いちど》|洋服《やうふく》を|着《き》て|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|来《き》た|事《こと》がある。すると|自分《じぶん》の|行衛《ゆくゑ》を|探《さが》して|居《を》つたと|見《み》えて、|喜楽《きらく》が|帰《かへ》つたのは|喜《よろこ》んだが、|又《また》|小松林《こまつばやし》の|四《よ》ツ|足《あし》の|悪《あく》の|守護神《しゆごじん》|呼《よ》ばはりを|始《はじ》め|出《だ》した。|洋服《やうふく》は|引《ひ》き|剥《む》いて|雪隠《せつちん》へ|投《ほ》り|込《こ》む。|誰《たれ》かの|着物《きもの》を|着《き》せて、|鞄《かばん》は|何処《どこ》へか|片付《かたづ》けて|了《しま》ふ。そして|張番《はりばん》をして|何処《どこ》へ|行《ゆ》くにも|附《つ》いて|来《く》る。|不自由《ふじゆう》|千万《せんばん》な|事《こと》、お|話《はなし》にならない。とても|辛抱《しんばう》しきれぬから、|出《で》て|行《ゆ》かうとするけれども|如何《どう》しても|出《だ》しては|呉《く》れぬ。|強《しひ》て|出《で》やうとすると『これでも|行《ゆ》くか』と|云《い》つて|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》、|後野《ごの》|市太郎《いちたらう》、|村上《むらかみ》|房之助《ふさのすけ》、|竹原《たけはら》|房太郎《ふさたらう》|等《ら》が|出刃庖丁《でばぼうちやう》を|持《も》つて|来《き》て|切腹《せつぷく》しやうとする。|嚇《おど》かしではなくて|本気《ほんき》なんだから|耐《たま》らない。|仕方《しかた》なしに|往生《わうじやう》して|一ケ年《いつかねん》ばかり、|又《また》|腰《こし》を|据《す》ゑる|事《こと》に|決心《けつしん》した。
|自分《じぶん》の|身体《からだ》は|自分《じぶん》の|自由《じいう》にならず、|幹部《かんぶ》は|依然《いぜん》として|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》かず、と|云《い》つて|一方《いつぱう》では|神様《かみさま》が|憑《うつ》られて|切《しき》りに|活動《くわつどう》せよ|活動《くわつどう》せよと|責《せ》められる。|自分《じぶん》としても|為《な》す|事《こと》もなく、|斯《こ》う|云《い》ふ|風《ふう》にボンヤリして|居《ゐ》る|訳《わけ》には|往《ゆ》かぬから、|分《わか》るやうに|平《ひら》たく|説明《せつめい》したものを|書《か》いて|西田《にしだ》|元吉《もときち》に|渡《わた》して、|布教《ふけう》のため|活動《くわつどう》の|余地《よち》を|作《つく》らうと|努力《どりよく》した。すると|京都《きやうと》から|杉浦《すぎうら》|万吉《まんきち》がやつて|来《き》て、|喜楽《きらく》に、
|杉浦《すぎうら》『|西田《にしだ》と|相談《さうだん》して|京都《きやうと》へ|来《こ》い』
と|勧《すす》めてくれた。|自分《じぶん》も|其《その》|気《き》になつて、|或《ある》|夜《よ》|用意《ようい》のためにお|守刀《まもりがたな》を|一本《いつぽん》|携《たづさ》へて|飛《と》び|出《だ》した。|綾部《あやべ》から|二里《にり》|八町《はつちやう》|向《むか》ふの|山路《やまみち》の|大原《おほはら》の|新屋《あたらしや》といふ|宿屋《やどや》の|便所《べんじよ》へ|這入《はい》ると、|便所《べんじよ》の|脇《わき》でヒソヒソ|話《ばなし》の|声《こゑ》がして|居《ゐ》る。|聞《き》くともなしに|聞《き》くと『|来《き》たか|来《き》たか』と|云《い》つて|居《ゐ》る。|段々《だんだん》|聞《き》くと、|杉浦《すぎうら》が|例《れい》の|野心家《やしんか》|連中《れんちう》と|喋《しめ》し|合《あは》せて、|先廻《さきまは》りをして|待《ま》ち|伏《ぶ》せして|居《ゐ》たので、|目的《もくてき》は|自分《じぶん》を|殺《ころ》さうと|云《い》ふのである|事《こと》が|分《わか》つた。|便所《べんじよ》の|壺《つぼ》をくぐつて|出《で》ると|其処《そこ》に|川《かは》がある、|川《かは》を|渡《わた》つて|藪《やぶ》の|中《なか》へ|這《は》ひ|込《こ》んで|一晩《ひとばん》|震《ふる》へて|居《ゐ》た。|其《その》|内《うち》|夜《よ》が|明《あ》けたから、|台頭《だいとう》と|云《い》ふ|処《ところ》へ|行《ゆ》くと、|暗殺隊《あんさつたい》の|連中《れんちう》が|自分《じぶん》の|行《ゆ》くのを|待《ま》ち|受《う》けて|居《ゐ》た。そして|短刀《たんたう》を|出《だ》して|決心《けつしん》を|示《しめ》したから、|喜楽《きらく》も|短刀《たんたう》を|出《だ》して|見《み》せて|勝負《しようぶ》しやうと|云《い》つてやつた。|自分《じぶん》の|決死《けつし》の|意《い》を|見《み》て|取《と》つて|少《すこ》しく|恐気《おぢけ》がついたものか、|到頭《たうとう》|勝負《しようぶ》はせずに|連《つ》れだつて|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つた|事《こと》があつた。
こんな|風《ふう》で、|自分《じぶん》の|体《からだ》は|何時《いつ》|何《ど》んな|目《め》に|遭《あ》はされるか|分《わか》らず、|活動《くわつどう》は|依然《いぜん》として|出来《でき》ぬ|不自由《ふじゆう》さに|耐《た》へず、|其《その》|後《ご》|又《また》|大阪《おほさか》へ|高飛《たかと》びして、|内藤《ないとう》|氏《し》の|家《うち》へ|落《お》ち|付《つ》いた。|大阪《おほさか》に|居《ゐ》て|稲荷下《いなりさ》げを|縛《しば》つて|歩《ある》いたり、|四千円《よんせんゑん》ばかりの|金《かね》を|出《だ》し|合《あ》つて|人造《じんざう》|精乳《せいにう》|会社《くわいしや》を|起《おこ》して、|京都《きやうと》に|店《みせ》を|出《だ》したりした。
さうして|居《ゐ》る|内《うち》、|或《あ》る|日《ひ》|四方《しかた》、|中村《なかむら》、|竹原《たけはら》|等《ら》が|偶然《ぐうぜん》|家《いへ》の|前《まへ》を|通《とほ》つた。|長髪《ちやうはつ》の|妙《めう》な|男《をとこ》が|揃《そろ》つて|通《とほ》るので|犬《いぬ》が|盛《さか》んに|吠《ほ》へつく。ヒヨイと|見《み》ると|四方《しかた》|等《ら》であるから、|声《こゑ》をかけてやると|吃驚《びつくり》した。|家《うち》へ|這入《はい》られると|煩《うる》さいから、|近松《ちかまつ》の|処《ところ》へ|同行《どうかう》すると、
『お|蔭《かげ》で|六ケ月《ろくかげつ》かかつて|漸《やうや》う|立替《たてかへ》の|御用《ごよう》をさせて|頂《いただ》いたから|誠《まこと》に|結構《けつこう》だ』
と|妙《めう》な|事《こと》を|云《い》ふ。|何《なん》の|事《こと》かと|聞《き》いて|見《み》ると、|自分《じぶん》の|書《か》いた|本《ほん》をスツカリ|集《あつ》めて|五百冊《ごひやくさつ》ばかりも|留守中《るすちう》に|焼《や》いて|了《しま》つたのださうだ。
|一緒《いつしよ》に|園部《そのべ》の|奥村《おくむら》の|内《うち》まで|行《い》つた。さうすると|四方《しかた》|平蔵《へいざう》が|又《また》、
|四方《しかた》『|小松林《こまつばやし》の|四《よ》つ|足《あし》の|守護神《しゆごじん》』
とやり|出《だ》す。|癪《しやく》に|触《さは》つて|耐《たま》らぬから、|一《ひと》つ、|四《よ》つ|足《あし》の|真似《まね》をしてやれと|思《おも》つて|赤小豆《あづき》の|飯《めし》を|焚《た》かせ、|揚豆腐《あげとうふ》と|牛乳《ぎうにう》と|牛肉《ぎうにく》とを|煮《に》させて|洋服《やうふく》を|着《き》たまま、|四《よ》つ|這《ばひ》になつて|口《くち》をつけてムシヤムシヤと|食《く》つた。さうすると、
『あゝお|筆先《ふでさき》は|争《あらそ》はれぬ、|四《よ》つ|足《あし》の|本性《ほんしやう》が|露《あら》はれた。|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い』
と|云《い》つて|無暗《むやみ》に|有《あ》り|難《がた》がつてゐる。|園部《そのべ》の|信者《しんじや》は、
『そんな|真似《まね》をなさると|益々《ますます》|誤解《ごかい》をさせる|基《もと》だから……』
と|云《い》つて|泣《な》いて|止《と》める。|煙草《たばこ》がのみ|度《た》いと|云《い》ふと、すぐ|傍《そば》に|火鉢《ひばち》があるにも|拘《かか》はらず、|火打石《ひうちいし》で|火《ひ》を|打《う》つて|煙草《たばこ》の|火《ひ》を|呉《く》れる。そして、
『|小松林《こまつばやし》の|四《よ》つ|足《あし》の|守護神《しゆごじん》は、もう|憑《うつ》らぬ。|上田《うへだ》|喜三郎《きさぶらう》の|肉体《にくたい》は|返上《へんじやう》すると|云《い》ふ|証文《しようもん》を|書《か》け』
と|云《い》ふ。|仕方《しかた》が|無《な》いから|漢字《かんじ》で|以《もつ》て|出鱈目《でたらめ》の|証文《しようもん》を|書《か》いてやる。|字《じ》の|読《よ》める|者《もの》が|一人《ひとり》も|無《な》いのであるから、|後生《ごしやう》|大事《だいじ》と|喜《よろこ》んで|受取《うけと》つたが|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて、それが|出鱈目《でたらめ》だと|云《い》ふ|事《こと》が|分《わか》つたので、|又《また》|四《よ》つ|足《あし》の|悪《あく》の|守護神《しゆごじん》が|役員《やくゐん》までも|騙《だま》したと|云《い》つて|怒《おこ》り|出《だ》した。
|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|見《み》ると、|自分《じぶん》の|苦心《くしん》して|書《か》いた|本《ほん》は|悉《ことごと》く|焼《や》かれて|了《しま》つて|居《を》る。|神《かみ》と|云《い》ふ|字《じ》は|勿体《もつたい》ないと|云《い》つて|御苦労《ごくらう》|千万《せんばん》にも|一々《いちいち》|調《しら》べて|神《かみ》の|字《じ》だけを|切《き》り|抜《ぬ》いて|焼《や》いて|了《しま》つたのだ。|其《その》|切《き》り|抜《ぬ》いた|神《かみ》の|字《じ》だけが|蜜柑箱《みかんばこ》に|数杯《すうはい》あつたが、その|一杯《いつぱい》|丈《だけ》は|今《いま》も|保存《ほぞん》してある。|八木《やぎ》|清太郎《せいたらう》と|云《い》ふ|男《をとこ》は|喜楽《きらく》の|書《か》いたもので、|方々《はうばう》へ|散《ち》つて|居《ゐ》るのを|軒別《けんべつ》に|廻《まは》つて|集《あつ》めて|歩《ある》いて、それを|表具屋《へうぐや》へ|売《う》つて|酒《さけ》を|飲《の》んで、|虎列剌《コレラ》に|罹《かか》つて|死《し》んで|了《しま》つた。こんな|風《ふう》で|喜楽《きらく》の|云《い》ふ|事《こと》は、|依然《いぜん》として|聞《き》きいれて|呉《く》れぬから、|今度《こんど》は|教祖様《けうそさま》に|会《あ》はして|呉《く》れと|云《い》つて|久《ひさ》し|振《ぶ》りでお|目《め》にかかつた。|教祖様《けうそさま》は|喜《よろこ》ばれて、
|教祖《けうそ》『|能《よ》う|帰《かへ》つて|来《き》て|呉《く》れた。もう|何処《どこ》へも|行《ゆ》かんといてくれ』
と|云《い》ふお|言葉《ことば》であつたから、これまでの|逐一《ちくいち》を|悉《ことごと》くお|話《はな》ししたら、|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》を|呼《よ》び|出《だ》されてお|叱《しか》りになり、|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》が|一同《いちどう》で|謝罪《しやざい》して、これで|又《また》|一段落《いちだんらく》がついた。
(大正一一・一〇・一六 旧八・二六 北村隆光録)
第一二章 |思《おも》ひ|出《で》(三)〔一〇四九〕
|京都《きやうと》の|南部《なんぶ》といふ|男《をとこ》、|是《これ》は|自分《じぶん》が|鎮魂《ちんこん》を|教《をし》へてやつた|男《をとこ》であるが、|一廉《ひとかど》の|活神《いきがみ》|様《さま》|気取《きど》りになつて、|金光先生《こんくわうせんせい》などと|称《とな》へ、|高町《たかまち》の|如《ごと》きは|夢中《むちう》になつて|信仰《しんかう》し|出《だ》した。それを|良《よ》い|事《こと》にして、とうとう|高町《たかまち》の|細君《さいくん》と|野合《くつつ》いて、|一人《ひとり》は|変性男子《へんじやうなんし》、|一人《ひとり》は|変性女子《へんじやうによし》と|云《い》つて、|一段《いちだん》|高《たか》い|処《ところ》へ|坐《すわ》り|込《こ》み、|高町《たかまち》は|一段下《いちだんした》の|結界《けつかい》の|外《ほか》に|平伏《へいふく》して|仕《つか》へて|居《ゐ》る。|高町《たかまち》に……|一体《いつたい》|如何《どう》したのかと|尋《たづ》ねると、|神様《かみさま》(|南部《なんぶ》)が|御入用《ごにふよう》と|仰有《おつしや》るから|家内《かない》を|差上《さしあ》げたのだ……と|云《い》ふ。
|喜楽《きらく》『|馬鹿《ばか》な、そんなことがあるものか、お|前《まへ》はすつかり|騙《だま》されて|居《ゐ》るのだ』
と|云《い》つてやると、|又《また》|其《その》|気《き》になつて、|一応《いちおう》は|南部《なんぶ》に|向《むか》つて、|嬶《かか》を|返《かへ》せと|迫《せま》つては|見《み》るものの、|家内《かない》から、
『|禿《はげ》ちやん|老爺《おやぢ》、|決《けつ》して|丹波《たんば》の|四《よ》つ|足《あし》の|云《い》ふ|事《こと》なんか|取上《とりあ》げて|神罰《しんばつ》に|触《ふ》れまいぞ』
とおどかされると、またグラグラと|其《その》|気《き》になつて|畏《かしこ》まつて|仕舞《しま》ふ。|材料《ざいれう》が|面白《おもしろ》い|材料《ざいれう》だから、|京都《きやうと》|大虎座《おほとらざ》の|馬鹿八《ばかはち》と|云《い》ふ|男《をとこ》が、|俄芝居《にはかしばゐ》に|仕組《しぐ》み、|業々《げふげふ》しい|絵看板《ゑかんばん》まで|拵《こしら》へた。|併《しか》し|俄芝居《にはかしばゐ》などでこんな|真似《まね》をされては|叶《かな》はぬから、|止《と》めさす|工夫《くふう》はなからうかと|云《い》つて、|高町《たかまち》から|泣《な》き|込《こ》まれた。|外《ほか》には|仕方《しかた》がないから、|是《これ》は|侠客《けふかく》いろは|幸太郎《かうたらう》に|頼《たの》んで、|看板代《かんばんだい》を|五十円《ごじふゑん》|出《だ》して、とうとう|止《や》めさせて|了《しま》つた。
|三十五年《さんじふごねん》|正月《しやうぐわつ》|直霊《なほひ》が|生《うま》れた|時《とき》、|教祖様《けうそさま》はお|筆先《ふでさき》|通《どほ》り、|此《この》|子《こ》は|水晶《すゐしやう》の|種《たね》だから、|種痘《しゆとう》は|出来《でき》ぬと|云《い》はれた。|自分《じぶん》が|所用《しよよう》で|大阪《おほさか》へ|行《い》つて|居《を》つた|留守中《るすちう》、|役場《やくば》からも|警察《けいさつ》からも|切《しき》りに|種痘《しゆとう》を|迫《せま》つて|来《き》たが、|其《その》|儘《まま》にうちやつてあつたのでとうとう|六月《ろくぐわつ》に|警察《けいさつ》から|呼出《よびだ》しがあつて、|種痘《しゆとう》をしなかつた|罰《ばつ》で|二十銭《にじつせん》の|科料《くわれう》に|処《しよ》せられた。|間《ま》もなく|規則《きそく》が|改正《かいせい》されて、|二十銭《にじつせん》の|科料《くわれう》が|一足飛《いつそくと》びに|二十円《にじふゑん》の|罰金《ばつきん》になつた。
|当時《たうじ》の|自分《じぶん》の|手前《てまへ》では|迚《とて》も|二十円《にじふゑん》の|支出《ししゆつ》は|出来《でき》ぬ|許《ばか》りでなく、|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》が|罰金《ばつきん》を|出《だ》す|事《こと》を|如何《どう》しても|承知《しようち》しない、|是《これ》が|御筆先《おふでさき》の|時節《じせつ》|到来《たうらい》で|世《よ》を|転覆《ひつくりかへ》すのだといふ。|時節《じせつ》|到来《たうらい》はこんな|事《こと》ぢやないと|云《い》つて|聞《き》かしても、|中々《なかなか》|承知《しようち》しない。|仕方《しかた》がないから、|次回《じくわい》の|種痘期《しゆとうき》には|家内《かない》とも|相談《さうだん》して、|箪笥《たんす》を|空《から》にして|漸《やうや》う|罰金《ばつきん》を|支払《しはら》つた。|罰金《ばつきん》は|納《をさ》まつたが、|治《をさ》まらぬのは|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》で、|自分《じぶん》が|罰金《ばつきん》を|支払《しはら》つたといふ|事《こと》が|分《わか》つたものだから、|蜂《はち》の|巣《す》を|崩《くづ》した|様《やう》に|騒《さわ》ぎ|出《だ》した。そして|一同《いちどう》|蓑笠《みのかさ》で|警察署《けいさつしよ》へ|押掛《おしか》けて、|支払《しはら》つた|罰金《ばつきん》を|返《かへ》して|呉《く》れといつて|談判《だんぱん》を|始《はじ》めた。
|種痘《しゆとう》をしなかつたと|云《い》つて|罰金《ばつきん》を|出《だ》しては|日本《にほん》が|外国《ぐわいこく》に|負《ま》けた|形《かたち》になるから、|出《だ》した|金《かね》を|惜《をし》むのではないが|返《かへ》して|貰《もら》ひたい、|返《かへ》して|呉《く》れねば|此処《ここ》|一寸《いつすん》も|動《うご》かぬ……と|云《い》つて、|駄々《だだ》をこね|出《だ》した。|警察《けいさつ》では|一旦《いつたん》|取《と》つた|罰金《ばつきん》を|返《かへ》さぬのは|知《し》れ|切《き》つた|事《こと》で、|如何《どう》しても|相手《あひて》になつてくれない。|仕方《しかた》がないから|今度《こんど》は|役場《やくば》へ|行《ゆ》く。|法律《はふりつ》できまつて|居《を》る|為《ため》に|仕方《しかた》がないと|云《い》ふのなら、|法律《はふりつ》を|改正《かいせい》せよ、|神《かみ》の|命令《めいれい》を|聞《き》かねば|役所《やくしよ》が|潰《つぶ》れるが|如何《どう》だ……などと|無理《むり》な|事《こと》を|云《い》つて、|役所《やくしよ》を|苦《くるし》めたが、|相手《あひて》にならないので、|仕舞《しまひ》には|検事局《けんじきよく》へ|行《い》つて、|警察《けいさつ》へ|出《だ》した|罰金《ばつきん》を|返《かへ》せと|云《い》つて|迫《せま》つた。|検事局《けんじきよく》でも|手古摺《てこず》つて、|国法《こくはふ》を|無視《むし》してそんな|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》を|云《い》へば、|軍隊《ぐんたい》をさし|向《む》けて|大本《おほもと》を|叩《たた》き|潰《つぶ》すが|如何《どう》だ……といつておどかした。さうすると|四方《しかた》|平蔵《へいざう》がムキになつて、……|面白《おもしろ》い、|神様《かみさま》と|軍隊《ぐんたい》と|何方《どちら》が|強《つよ》いか、|力比《ちからくら》べをせう、|何万《なんまん》の|軍隊《ぐんたい》でもさしむけろ……と|云《い》つて|威張《ゐば》るといふ|始末《しまつ》だ。|併《しか》しどこでも|取上《とりあ》げてくれぬので|其《その》|儘《まま》|泣寝入《なきねい》りになつて|了《しま》つた。
こんな|次第《しだい》であるから、|翌年《よくねん》からの|予定《よてい》の|罰金《ばつきん》|納《をさ》めは|余程《よほど》|秘密《ひみつ》にして、|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》には|知《し》れない|様《やう》に|済《す》ませて|来《き》た。そんな|事《こと》とは|夢《ゆめ》にも|知《し》らぬので、|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》は|大得意《だいとくい》だ。とうとう|神様《かみさま》の|方《はう》が|勝《か》つたから|罰金《ばつきん》を|取《と》りに|来《こ》ないのだ……と|云《い》つて|喜《よろこ》んで|居《ゐ》た。よせばよかつたのに、|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》が|余《あま》り|得意《とくい》がるから、|実《じつ》は|毎年《まいねん》|自分《じぶん》が|払《はら》つたのだと|話《はな》しをしてやつた。さうすると|又《また》|大騒《おほさわ》ぎになつて|四《よ》つ|足《あし》|呼《よ》ばはりをやり|出《だ》した。
|或《ある》|日《ひ》|園部《そのべ》の|青柴《あをしば》|仙吉《せんきち》、|田中《たなか》|仙吉《せんきち》、|上仲《うへなか》|儀太郎《ぎたらう》、|辻《つじ》フデなどがやつて|来《き》て、|支部《しぶ》の|発会式《はつくわいしき》をするから|来《き》てくれと|云《い》ふ|事《こと》であつた。|同行《どうかう》して|途中《とちう》の|観音様《くわんのんさま》の|池《いけ》のそばで|一服《いつぷく》やつて|居《ゐ》ると、|突然《とつぜん》|池《いけ》の|中《なか》へ|付《つ》き|落《お》とした、|狼狽《らうばい》して|這《は》ひ|上《あが》らうとすると、|竹《たけ》を|持《も》つて|居《ゐ》て、|又《また》|突込《つつこ》む。そして、
『|小松林《こまつばやし》の|悪《あく》の|守護神《しゆごじん》|去《い》ね|去《い》ね。|先生《せんせい》には|済《す》まぬが、|小松林《こまつばやし》が|不可《いか》ぬ。|外国魂《ぐわいこくだま》を|除《の》けねばならぬ』
と|泣《な》いて|意見《いけん》をする。|愚直《ぐちよく》な|迷信家《めいしんか》にかかつては|手《て》の|出《だ》し|様《やう》がない。やうやう|這《は》ひ|上《あが》つて|園部《そのべ》へ|行《ゆ》くと、|支部《しぶ》の|発会式《はつくわいしき》なんて|全然《ぜんぜん》|嘘《うそ》なんだ。|夜中《やちう》に|四人《よにん》でおさへつけて、|背中《せなか》に|大《おほ》きな|灸《きう》を|据《す》ゑて、
『コラ|小松林《こまつばやし》の|四《よ》つ|足《あし》|守護神《しゆごじん》、|何《なん》と|心得《こころえ》て|居《を》る。|此《この》|御方《おかた》は|貴様等《きさまら》の|容物《いれもの》になる|様《やう》な|御方《おかた》ぢやない、|早《はや》く|去《い》んだ|去《い》んだ』
と|云《い》つて|大《おほ》きな|灸《きう》を|据《す》ゑ|廻《まは》しにする。|今度《こんど》は|仰向《あふむ》けにして、|胸《むね》から|脇《わき》のあたりをくすぐる。たまらなくなつて|笑《わら》ふと、
『まだまだ|居《を》る|居《を》る』
と|云《い》つてくすぐり|乍《なが》ら……|去《い》なぬか|去《い》なぬか……と|責《せ》めつける。だんだん|調《しら》べて|見《み》ると|幹部《かんぶ》の|中村《なかむら》などが|二三人《にさんにん》|出《で》かけて|来《き》て|居《ゐ》て、|蔭《かげ》から|差図《さしづ》をして|居《を》るのであつた。
|何時《いつ》まで|経《た》つてもこんな|風《ふう》では、|何《なに》も|仕事《しごと》が|出来《でき》ぬから、|他処《よそ》へ|行《ゆ》かうと|思《おも》つても、|行《ゆ》けば|本気《ほんき》で|切腹《せつぷく》をするといふのだから、|如何《どう》することも|出来《でき》ぬ。|西田《にしだ》が|夜《よる》|隠《かく》れて|来《き》て、|打合《うちあは》せをして|北桑田《きたくはだ》へ|布教《ふけう》に|行《い》つた|事《こと》もあつた。
|三十七年《さんじふしちねん》に|北桑田《きたくはだ》へ|行《い》つた。|八木《やぎ》に|氏神《うぢがみ》の|祭礼《さいれい》と|福島《ふくしま》サンの|内《うち》のお|祭《まつり》とがあつたので、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》、|家内《かない》の|姉《あね》のお|竜《りよう》サンなどと|同行《どうかう》した。|是《これ》を|機会《きくわい》に|夜逃《よに》げをしやうといふ|考《かんが》へであつた。|予《かね》て|西田《にしだ》と|打合《うちあは》せがしてあつて、|檜山《ひのきやま》の|鍛冶屋《かぢや》に|待《ま》たしてあつた。|突然《とつぜん》|姿《すがた》を|隠《かく》しては|母《はは》が|心配《しんぱい》するから、|決《けつ》して|心配《しんぱい》せぬ|様《やう》に|耳打《みみうち》をして|置《お》いてくれと|云《い》ひたいのであるが、|皆《みな》が|側《そば》に|居《ゐ》るので、|先《さき》に|行《い》く|事《こと》が|出来《でき》ない。|仕方《しかた》がないからお|竜《りよう》サンに|腹痛《ふくつう》を|起《おこ》さした。|皆《みな》が|鎮魂《ちんこん》をして|上《あ》げてくれと|頼《たの》んだが、
|喜楽《きらく》『|自分《じぶん》は|四《よ》つ|足《あし》だ、|四《よ》つ|足《あし》の|鎮魂《ちんこん》なんか|利《き》くものか』
と|云《い》つてドンドン|先《さき》へ|行《い》つて、ゆつくりと|西田《にしだ》と|話《はなし》をした。それからいくら|待《ま》つて|居《ゐ》ても|皆《みな》やつて|来《こ》ない。|後《あと》から|聞《き》くと|同《おな》じ|道《みち》をクルクル|廻《まは》つて|居《を》つたのださうな。|仕舞《しまひ》には|二手《ふたて》に|分《わか》れてやつて|来《き》た。|四方《しかた》が|新道《しんだう》からやつて|来《き》たから|声《こゑ》をかけてやつた。
|八木《やぎ》へ|行《い》つて|氏神《うぢがみ》の|祭礼《さいれい》をすませ、|翌日《よくじつ》|一寸《ちよつと》|穴太《あなを》へ|寄《よ》つた。|中村《なかむら》と|四方《しかた》の|隙《すき》を|見《み》て、|母《はは》に|耳打《みみうち》をして|又《また》|八木《やぎ》へ|帰《かへ》つた。|福島《ふくしま》サンの|祭《まつり》をすませて、|其《その》|晩《ばん》|逃《に》げやうと|考《かんが》へたのであるが、|皆《みな》が|見張《みは》つて|居《ゐ》て|逃《に》げる|事《こと》が|出来《でき》ぬ。|仕方《しかた》がないから|足《あし》を|揉《も》め、|肩《かた》を|揉《も》めとヤンチヤを|云《い》つて|夜更《よふけ》までもませたら、|皆《みな》|草臥《くたび》れて|寝《ね》て|了《しま》つた。|其《その》|間《ま》に|手早《てばや》く|仕度《したく》して、|即興《そくきよう》の|書置《かきお》をかいた。
『たまたまの|旅《たび》につかれてグツと|寝《ね》る
|素人按摩《しろとあんま》が|肩《かた》ひねる
ねるは ねるは たわいもなしに
|寝《ね》る|間《ま》に|抜《ぬ》けた|目《め》の|玉《たま》は
|尋《たづ》ねる|由《よし》も|泣寝入《なきねい》り
|夜具《やぐ》のトンネル|穴《あな》|許《ばか》り
|寝《ね》てる|間《ま》に|知《し》れぬとそんな|事《こと》
|帰《かへ》つて|教祖《けうそ》に|云《い》ひかねる
ネルの|首巻《くびまき》ネルパツチ
|空《そら》から|雨《あめ》がフランネル
ヤキヤキと|熱《ねつ》を|福島会合所《ふくしまくわいがふしよ》
|跡《あと》の|祭《まつり》で|四方《しかた》|中村《なかむら》』
|自分《じぶん》|乍《なが》ら|可笑《おか》しくなつてクスクスと|笑《わら》ふと、お|竜《りよう》サンが|目《め》を|覚《さ》まして、|黙《だま》つて|行《ゆ》けと|手真似《てまね》で|知《し》らす。|外《そと》へ|出《で》ると|西田《にしだ》が|来《き》て|待《ま》つて|居《ゐ》る。それから|園部《そのべ》|迄《まで》|一走《ひとはし》りに|走《はし》つた。そして|港屋《みなとや》といふ|宿屋《やどや》の|二階《にかい》に|隠《かく》れてゐた。|自分《じぶん》が|夜逃《よにげ》したといふことが|分《わか》つて、|皆《みな》で|大騒《おほさわ》ぎをして|園部《そのべ》|穴太《あなを》をスツカリ|捜《さが》し|廻《まは》つたさうな。『|霊界物語《れいかいものがたり》』|霊主体従《れいしゆたいじう》|第二巻《だいにくわん》|其《その》|儘《まま》を|繰返《くりかへ》したのである。
|宮村《みやむら》の|内田《うちだ》|官吉《くわんきち》の|内《うち》に|二日《ふつか》|居《を》つて|宇津《うつ》へ|行《ゆ》き、|山国《やまくに》へ|行《ゆ》き、|山国《やまくに》で|二晩《ふたばん》とまつて|宇治《うぢ》まで|行《い》つた。それから|汽車《きしや》で|亀岡《かめをか》に|行《ゆ》き、|王子《わうじ》へ|行《ゆ》かうとすると、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》がやつて|来《き》た。
|八木《やぎ》で|心配《しんぱい》をしてゐるからと|云《い》ふので|八木《やぎ》へ|寄《よ》つた。|今夜《こんや》は|逃《に》げぬから|寝《ね》よといふけれど、|警戒《けいかい》をしてマンヂリともせずに|見張《みは》つて|居《ゐ》る。こんな|風《ふう》で|又《また》|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|来《き》た。そして|更《さら》に|半年《はんとし》|程《ほど》|六畳《ろくでふ》の|間《ま》に|押込《おしこ》められた。|代《かは》る|代《がは》る|張番《はりばん》をして|暫時《ざんじ》の|間《ま》も|自分《じぶん》の|自由《じいう》にはならぬのである。|古事記《こじき》を|研究《けんきう》しやうとすると、そんな|乞食《こじき》の|学問《がくもん》なんか、|釈迦《しやか》の|真似《まね》などする|事《こと》は|要《い》らぬと|云《い》つて|取《と》り|上《あ》げて|了《しま》ふ。それぢや|日本書紀《にほんしよき》を|読《よ》まうといふと、|日本《にほん》の|書紀《しよき》ならよからうといふ。|読《よ》んで|居《ゐ》ると|其《その》|本《ほん》を|見《み》て、|日本《にほん》の|書紀《しよき》などと|云《い》ふが、|是《これ》は|角文字《かくもじ》ぢやないかと|云《い》つて|取上《とりあ》げて|焼《や》いて|了《しま》ふ。|仕方《しかた》がないから|一部《いちぶ》|福林《ふくばやし》の|神官《しんくわん》から|借《か》りて、|蒲団《ふとん》を|被《かぶ》つて|豆《まめ》ランプの|火《ひ》で|調《しら》べた。|人《ひと》の|足音《あしおと》がすると、あわてて|消《け》すといふ|様《やう》な|次第《しだい》で、|骨《ほね》が|折《を》れる|事《こと》、|一通《ひととほ》りや|二通《ふたとほり》りではなかつた。|其《その》|後《ご》|事情《じじやう》があつて|四十一年《よんじふいちねん》|迄《まで》|某《ぼう》|官幣社《くわんぺいしや》の|神職《しんしよく》を|勤《つと》めた。
|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》は|立替立直《たてかへたてなほ》しは|三十七八年《さんじふしちはちねん》の|日露《にちろ》|戦争《せんそう》だと|誤解《ごかい》して|居《ゐ》たのだが、さうでなかつた|為《ため》に、|一人《ひとり》|減《へ》り|二人《ふたり》|減《へ》り、|野心家《やしんか》の|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》は|死《し》に、|四十二年《よんじふにねん》|頃《ごろ》には|教祖様《けうそさま》の|外《ほか》には|四方《しかた》|与平《よへい》、|田中善吉《たなかぜんきち》のみが|残《のこ》つて、|後《あと》は|皆《みな》ゐなくなつた。モウ|大丈夫《だいぢやうぶ》と|考《かんが》へたから|自分《じぶん》も|帰《かへ》つて|来《き》て、|熱心《ねつしん》に|布教《ふけう》に|従事《じゆうじ》し、|今日《こんにち》の|大本《おほもと》の|土台《どだい》がだんだん|出来《でき》て|来《く》る|様《やう》になつたのである。
(大正一一・一〇・一六 旧八・二六 松村真澄録)
第三篇 |冒険神験《ばうけんしんけん》
第一三章 |冠島《をしま》〔一〇五〇〕
|易《えき》に|曰《いは》く、|書《しよ》は|言《げん》を|尽《つく》す|能《あた》はず、|言《げん》は|意《い》を|尽《つく》す|能《あた》はず、|意《い》は|神《かみ》を|尽《つく》す|能《あた》はず、|然《しか》れども|言《げん》に|非《あら》ざれば|意《い》を|現《あらは》す|能《あた》はず、|書《しよ》に|非《あら》ざれば|言《げん》を|載《の》す|能《あた》はず、|抑《そもそ》も|聖賢《せいけん》の|言《げん》、|偉人《ゐじん》|君子《くんし》の|行《かう》、|忠臣《ちうしん》|義士《ぎし》の|偉挙《ゐきよ》、|貞女《ていぢよ》|節婦《せつぷ》の|美伝《びでん》、|悉《ことごと》く|文字《もんじ》に|依《よ》つて|伝《つた》へらるるものである。|喜楽《きらく》は|性来《しやうらい》の|人間《にんげん》として|鈍根劣機《どんこんれつき》|至愚《しぐ》|至痴《しち》|到底《たうてい》|教祖《けうそ》の|心言行《しんげんかう》を|述《の》べむとするは、|甚《はなは》だ|僣越《せんえつ》の|至《いた》りである。|併《しか》し|乍《なが》ら|其《その》|一小部分《いちせうぶぶん》にもせよ、|教祖《けうそ》の|実行《じつかう》された|心言《しんげん》を|伝《つた》へておかなくては、あたら|教祖《けうそ》の|心言《しんげん》を|土中《どちう》に|埋没《まいぼつ》する|如《ごと》きものであるから、|茲《ここ》に|教祖《けうそ》が|冠島《をしま》に|始《はじ》めて|神命《しんめい》を|奉《ほう》じて|御渡《おわた》りになつた|事実《じじつ》の|大要《たいえう》を|述《の》べて|見《み》やうと|思《おも》ふ。
|世《よ》|必《かなら》ず|非常《ひじやう》の|人《ひと》あつて、|而《しか》して|後《のち》|非常《ひじやう》の|事《こと》あり、|非常《ひじやう》の|事《こと》ありて|而《しか》して|後《のち》に|非常《ひじやう》の|功《こう》ありと|司馬相丞《しばしやうじよう》が|言《い》つた。|自分《じぶん》が|茲《ここ》に|口述《こうじゆつ》する|出口《でぐち》|直子《なほこ》も|亦《また》|非常《ひじやう》の|人《ひと》たるを|信《しん》ずる。|否《いな》|貴《とうと》き|神《かみ》の|代表者《だいへうしや》たるを|堅《かた》く|信《しん》じて、|茲《ここ》に|其《その》|一端《いつたん》を|物語《ものがた》らむとするのである。
|日清《につしん》|戦役《せんえき》の|後《のち》|独逸《どいつ》が|膠州湾《かうしうわん》を|占領《せんりやう》し、|露国《ろこく》が|旅順《りよじゆん》|大連《たいれん》を|租借《そしやく》した|行動《かうどう》は|甚《はなは》だ|列強国《れつきやうこく》の|精神《せいしん》を|刺激《しげき》し、|各《かく》|其《その》|均霑《きんてん》を|希望《きばう》する|結果《けつくわ》、|英国《えいこく》は|威海衛《ゐかいゑい》を、|仏国《ふつこく》は|広州湾《くわうしうわん》を|各《おのおの》|占領《せんりやう》し、|露国《ろこく》が|鉄道《てつだう》|布設権《ふせつけん》を|満洲《まんしう》に|得《え》たるに|倣《なら》ひ、|争《あらそ》うて|鉄道《てつだう》|布設権《ふせつけん》を|清国《しんこく》|各地方《かくちはう》に|獲得《くわくとく》せむとし、|各自《かくじ》に|所謂《いはゆる》|勢力《せいりよく》|範囲《はんゐ》を|策定《さくてい》し、|陰然《いんぜん》|支那《しな》|分割《ぶんかつ》の|状勢《じやうせい》を|馴致《じゆんち》し、|東洋《とうやう》の|危機《きき》|正《まさ》に|此《この》|時《とき》より|甚《はなは》だしきはなしと|思《おも》はれた。|加之《しかのみならず》|義和団《ぎわだん》と|称《しよう》する|時勢《じせい》の|大勢《たいせい》を|知《し》らざる|忠臣《ちうしん》|義士《ぎし》の|一団《いちだん》、これを|憤慨《ふんがい》すること|甚《はなはだ》しく、|遂《つひ》に|興清滅洋《こうしんめつやう》の|旗幟《きしき》を|翻《ひるがへ》して、|山東省《さんとうしやう》の|各地《かくち》に|蜂起《ほうき》し、|所在《あらゆる》キリスト|教徒《けうと》を|虐殺《ぎやくさつ》し|鉄道《てつだう》を|破壊《はくわい》し、|明治《めいぢ》|三十三年《さんじふさんねん》|四月《しぐわつ》|初旬《しよじゆん》、|進《すす》んで|直隷省《ちよくれいしやう》に|入《い》り、|忽《たちま》ち|清国《しんこく》の|宗室《そうしつ》|端郡王《たんぐんわう》を|擁《よう》し、|将軍《しやうぐん》|董福祥《とうふくしやう》を|中堅《ちうけん》とし、|五月《ごぐわつ》|以来《いらい》|勢《いきほひ》|益《ますま》す|猩獗《しやうけつ》をきはめ、|六月《ろくぐわつ》に|及《およ》んで|北京《ペキン》は|全《まつた》く|重囲《ぢうゐ》の|中《なか》に|陥《おちい》り、|独逸《どいつ》|公使《こうし》ケツトレル|先《ま》づ|惨殺《ざんさつ》せられ、|我《わが》|公使館《こうしくわん》|書記生《しよきせい》|杉山《すぎやま》|某《ぼう》|又《また》|殺害《さつがい》せられた。|日本《にほん》を|始《はじ》め|列国《れつこく》は|遂《つひ》に|独逸《どいつ》|元帥《げんすゐ》ワルデルデーを|総指揮官《そうしきくわん》となし、|聯合軍《れんがふぐん》を|組織《そしき》して、|太估《ターク》より|並進《へいしん》し、|将《まさ》に|北京《ペキン》の|団匪《だんぴ》に|迫《せま》らむとする|間際《まぎは》であつた。
|開闢《かいびやく》|以来《いらい》|未曾有《みぞう》の|世界《せかい》の|力比《ちからくら》べともいふべき|晴《は》れの|戦争《せんそう》である。|此《この》|檜舞台《ひのきぶたい》に|立《た》つて、|神国《しんこく》|神軍《しんぐん》の|武勇《ぶゆう》を|現《あらは》し、|列国《れつこく》の|侮《あなど》りを|防《ふせ》ぐ|必要《ひつえう》があるとの|御神勅《ごしんちよく》で、|教祖《けうそ》は|六十五才《ろくじふごさい》の|老躯《らうく》を|起《おこ》して、|昔《むかし》から|女人《によにん》の|渡《わた》つたことのない|丹後沖《たんごおき》の|無人島《むじんたう》、|冠島《をしま》|俗《ぞく》に|大島《おほしま》へ、|東洋《とうやう》|平和《へいわ》の|為《ため》、|皇軍《くわうぐん》|大勝利《だいしようり》の|祈願《きぐわん》をなさむと、|陰暦《いんれき》の|六月《ろくぐわつ》|八日《やうか》を|以《もつ》て、|上田《うへだ》|会長《くわいちやう》、|出口《でぐち》|澄子《すみこ》、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》、|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》の|四人《よにん》を|引連《ひきつ》れ、|五里半《ごりはん》の|路程《みちのり》を|徒歩《とほ》して、|黄昏《たそがれ》|頃《ごろ》|舞鶴《まひづる》の|船問屋《ふなどんや》、|大丹生屋《おほにふや》に|着《ちやく》し、|渡島《とたう》の|船頭《せんどう》を|雇《やと》ひ、これから|愈《いよいよ》|漕《こ》ぎ|出《だ》さうとする|時《とき》しも、|今《いま》まで|快晴《くわいせい》にして|極《ごく》|穏《おだや》かであつた|青空《あをぞら》が|俄《にはか》にかき|曇《くも》り、|満天《まんてん》|墨《すみ》を|流《なが》した|如《ごと》く|風《かぜ》は|海面《かいめん》をふきつけ、|波浪《はらう》の|猛《たけ》り|狂《くる》ふ|声《こゑ》、|刻々《こくこく》に|激《はげ》しく|聞《きこ》えて|来《き》た。|大丹生屋《おほにふや》の|主人《しゆじん》は、
『|此《この》|天候《てんこう》は|確《たしか》に|颶風《ぐふう》の|襲来《しふらい》なれば、|今晩《こんばん》の|舟出《ふなで》は|見合《みあ》はしませう。まして|海上《かいじやう》|十里《じふり》の|荒《あら》い|沖中《おきなか》の|一《ひと》つ|島《じま》へ、こんな|小《ちひ》さい|釣舟《つりぶね》にては|到底《たうてい》|安全《あんぜん》に|渡《わた》ることは|出来《でき》ませぬ、|一《ひと》つ|違《ちが》へば、|可惜《あたら》|貴重《きちよう》の|生命《せいめい》を|捨《す》てねばならぬ、|明日《あす》の|夜明《よあけ》を|待《ま》つて、|天候《てんこう》を|見《み》きわめ、これで|大丈夫《だいぢやうぶ》といふことがきまつてから|御参《おまゐ》りなさい』
としきりにとどめる。|又《また》|舟人《ふなびと》も|異口同音《いくどうおん》に、|到底《たうてい》|海上《かいじやう》の|安全《あんぜん》に|渡《わた》り|得《う》|可《べ》からざることを|主張《しゆちやう》して、|舟《ふね》を|出《だ》さうとは|言《い》はぬのみか、|一人《ひとり》|減《へ》り|二人《ふたり》|減《へ》り、コソコソとどこかへ|逃《に》げて|行《い》つて|了《しま》うのであつた。|教祖《けうそ》は、
|教祖《けうそ》『|神様《かみさま》の|御命令《ごめいれい》だから、そんなことを|言《い》つて|一時《いちじ》の|間《ま》も|猶予《いうよ》することは|出来《でき》ませぬ。|是《ぜ》が|非《ひ》でも|今《いま》から|舟《ふね》を|拵《こしら》へて|出《で》て|貰《もら》ひたい。|今晩《こんばん》|海《うみ》のあれるのは|竜宮様《りうぐうさま》が|私等《わしら》の|一行《いつかう》を、|喜《よろこ》び|勇《いさ》んでお|迎《むか》へに|来《き》て|下《くだ》さる|為《ため》に、|荒《あら》い|風《かぜ》が|吹《ふ》いたり、|雨《あめ》が|降《ふ》つたりするのだ。|浪《なみ》の|高《たか》いのは|当然《たうぜん》だ。|船頭《せんどう》サン、|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、|神《かみ》さまがついて|御座《ござ》るから、|少《すこ》しも|恐《おそ》れず、|早《はや》く|舟《ふね》を|漕《こ》ぎ|出《だ》して|下《くだ》さい。|博奕ケ崎《ばくちがさき》|迄《まで》|漕《こ》いで|行《ゆ》けば、|屹度《きつと》|風《かぜ》はなぎ、|雨《あめ》はやみ、|波《なみ》も|静《しづ》まります。|天下《てんか》|危急《ききふ》の|場合《ばあひ》だから、|一刻《いつこく》も|躊躇《ちうちよ》することは|出来《でき》ぬ。|死《し》ぬるのも|生《いき》るのも|皆《みな》|神様《かみさま》の|思召《おぼしめし》によるものだ。|神様《かみさま》が|死《し》なそまいと|思召《おぼしめ》すなら、どんなことがあつても|死《し》ぬものぢやない、|信仰《しんかう》のない|者《もの》は|一寸《ちよつと》したことに|恐《おそ》れるものだ、が|今度《こんど》は|大丈夫《だいぢやうぶ》だから、|是非々々《ぜひぜひ》|行《い》つておくれ』
と|雄健《をたけ》びして|船頭《せんどう》の|主人《しゆじん》の|言葉《ことば》を|聞《き》き|入《い》れる|気色《けしき》もなかつた。|大丹生屋《おほにふや》の|主人《しゆじん》を|始《はじ》め、|一同《いちどう》の|舟人《ふなびと》|等《ら》は|小《ちひ》さい|声《こゑ》で、
『|金《かね》もほしいが|命《いのち》が|大事《だいじ》だ。こんな|気違《きちが》ひ|婆《ば》アさんの|命《いのち》|知《し》らずの|馬鹿者《ばかもの》に|相手《あひて》になつて|居《を》つては|堪《たま》らぬ』
と|嘲笑的《てうせうてき》に|囁《ささや》き、|只《ただ》の|一人《ひとり》も|応《おう》ずるものが|無《な》い。|一行《いつかう》|五人《ごにん》は|如何《いかん》ともすること|能《あた》はず、|只管《ひたすら》|一時《ひととき》も|早《はや》く|出舟《でぶね》の|都合《つがふ》をつけて|下《くだ》さいと|橋《はし》の|上《うへ》に|合掌《がつしやう》して|祈《いの》りつつあつた。|木下《きのした》は|操舟《さうしう》に|鍛練《たんれん》の|聞《きこ》えある|漁師《れふし》、|田中《たなか》|岩吉《いはきち》、|橋本《はしもと》|六蔵《ろくざう》の|二人《ふたり》を|甘《うま》く|説《と》きつけて|帰《かへ》り|来《きた》り、
『|只今《ただいま》より|冠島《をしま》へ|連《つ》れて|行《い》てくれ』
と|改《あらた》めて|頼《たの》み|込《こ》むと、|二人《ふたり》は|目《め》を|丸《まる》うして、
『なんぼ|神《かみ》さまの|命令《めいれい》でも|此《この》|空《そら》では|行《ゆ》けませぬ。|私等《わたしら》も|永《なが》らくの|間《あひだ》、|舟《ふね》の|中《なか》を|家《いへ》のやうに|思《おも》ひ、|海上《かいじやう》|生活《せいくわつ》をやつて|居《を》ります|故《ゆゑ》、|大抵《たいてい》の|荒《あ》れならこぎ|出《だ》して|見《み》ますが、|此《この》|気色《けしき》では|到底《たうてい》|駄目《だめ》です。|一体《いつたい》あんた|等《ら》は|何処《どこ》の|人《ひと》ぢや|本当《ほんたう》に|無茶《むちや》な|人《ひと》ですなア』
と|呆《あき》れて|一行《いつかう》の|顔《かほ》を|見《み》つめて|居《ゐ》る。|教祖《けうそ》は|切《しき》りに|促《うなが》し、
|教祖《けうそ》『|早《はや》く|早《はや》く』
と|急《せ》き|立《た》てられる。|船頭《せんどう》は|返事《へんじ》をせぬ。かくては|果《はて》じと、|二人《ふたり》の|船頭《せんどう》に|向《むか》つて、
『|海上《かいじやう》|一町《いつちやう》でも|半里《はんみち》でもよいから、|冠島《をしま》までの|賃金《ちんぎん》を|払《はら》ふから、マア|中途《ちうと》から|帰《かへ》る|積《つも》りで|往《い》つてくれ』
と|木下《きのした》が|云《い》つた。|二人《ふたり》の|船頭《せんどう》は、
『お|前《まへ》さまたちが、そこまで|強《し》いて|仰《おつ》しやるのならば、キツと|神様《かみさま》の|教《をしへ》でありませう、|確信《かくしん》がなければ、|到底《たうてい》|此《この》|気色《けしき》に|行《ゆ》くといふ|気《き》にはなれますまい。|私《わたし》も|一寸《ちよつと》|冠島《をしま》さまに|伺《うかが》つてみて|決心《けつしん》します』
といひ|乍《なが》ら、|新橋《しんばし》の|上《うへ》に|立《た》つて、|冠島《をしま》の|方《はう》に|向《むか》ひ|合掌《がつしやう》|祈願《きぐわん》しつつ、|俄作《にはかづく》りのみくじを|引《ひ》いて|見《み》て、
『ヤツパリ|神様《かみさま》は|行《ゆ》けとありますから、|兎《と》も|角《かく》|行《い》ける|所《ところ》まで|漕《こ》ぎつけて|見《み》ませう』
と|半安半危《はんあんはんき》の|気味《きみ》で|承諾《しようだく》の|意《い》を|洩《も》らしつつ、|早速《さつそく》|用意《ようい》を|整《ととの》へ|五人《ごにん》を|乗《の》せて|潔《いさぎよ》く|舞鶴港《まひづるかう》を|後《あと》にして、|屋根無《たなな》し|小舟《をぶね》を|操《あやつ》り、|雨風《あめかぜ》の|中《なか》を|事《こと》ともせず、|自他《じた》|七人《しちにん》の|生霊《せいれい》を|乗《の》せ、|舟唄《ふなうた》|高《たか》く|漕《こ》ぎ|出《だ》した。
|海上《かいじやう》|二里《にり》|許《ばか》り|漕《こ》ぎ|出《で》たと|思《おも》ふ|頃《ころ》、|教祖《けうそ》のさして|居《を》られた|蝙蝠傘《かうもりがさ》が|如何《どう》した|機《はづ》みか、|俄《にはか》に|波《なみ》にさらはれ|取《とり》おとされたと|見《み》る|間《ま》に、|舳《とも》に|立《た》つて|艪《ろ》を|操《あやつ》つてゐた、|舟人《ふなびと》の|岩吉《いはきち》が|目《め》ざとく|見《み》とめて、|拾《ひろ》ひ|上《あ》げた。|時《とき》しも|舟底《ふなぞこ》に|肱《ひぢ》を|枕《まくら》にして、ウツウツ|眠《ねむ》つて|居《ゐ》た|澄子《すみこ》は|忽《たちま》ち|目《め》を|醒《さ》まし、
|澄子《すみこ》『アヽ|吃驚《びつくり》した、|今《いま》|平蔵《へいざう》サンが、|誤《あやま》つて|海中《かいちう》に|陥《おちい》り、|命《いのち》|危《あやふ》い|所《ところ》へ|教祖《けうそ》さまのうしろの|方《はう》から、|威容《ゐよう》|凛然《りんぜん》たる|神様《かみさま》が|現《あらは》れて、|平蔵《へいざう》サンを|救《すく》ひ|上《あ》げ、|息《いき》を|口《くち》から|吹《ふ》き|込《こ》んで|蘇生《そせい》せしめられたと|思《おも》へば、ヤツパリ|夢《ゆめ》であつたか』
と|不思議《ふしぎ》|相《さう》に|語《かた》り|出《だ》す。|一行《いつかう》|一層《いつそう》|異様《いやう》の|思《おも》ひを|為《な》し、|教祖《けうそ》の|持《も》つてこられた|蝙蝠傘《かうもりがさ》をよくよく|調《しら》べて|見《み》れば、|正《まさ》しく|平蔵《へいざう》サンの|傘《かさ》であつた。|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|大神《おほかみ》は、|教祖《けうそ》さまをして|身代《みがは》りの|為《ため》に、|平蔵《へいざう》|氏《し》の|傘《かさ》を|海《うみ》におとさしめて、|其《その》|危難《きなん》を|救《すく》ひ、|罪《つみ》を|浄《きよ》め、|新《あたら》しい|人間《にんげん》と|生《うま》れ|変《か》はらして|下《くだ》さつたのでせう……と|各自《かくじ》に|感歎《かんたん》し|乍《なが》ら、|狭《せま》い|舟《ふね》の|中《なか》に|静座《せいざ》し、|膝《ひざ》をつき|合《あは》せ|乍《なが》ら、|一同《いちどう》が|謝恩《しやおん》の|祝詞《のりと》を|奏《そう》しつつ、|勇《いさ》み|進《すす》んで、|雨中《うちう》を|漕《こ》ぎ|出《だ》した。
こんなことを|述《の》べ|立《た》てると、|信仰《しんかう》なき|人《ひと》は、|或《あるひ》は|狂妄《きやうもう》といひ|迷信《めいしん》と|誹《そし》り、|偶然《ぐうぜん》の|暗合《あんがふ》と|笑《わら》ふであらう。|神異霊怪《しんいれいくわい》なるものの|世《よ》にあるべき|道理《だうり》はないと|一笑《いつせう》に|附《ふ》して|顧《かへり》みないであらう。さり|乍《なが》ら|天地《てんち》の|間《あひだ》は、すべて|摩訶不思議《まかふしぎ》なものであることは、|本居《もとをり》|宣長《のりなが》の|玉鉾百首《たまほこひやくしゆ》にもよまれた|通《とほ》りである。
あやしきを|非《あら》じといふは|世《よ》の|中《なか》の
|怪《あや》しき|知《し》らぬしれ|心《ごころ》かも
しらゆべきものならなくに|世《よ》の|中《なか》の
くしき|理《ことわり》|神《かみ》ならずして
|右《みぎ》の|歌《うた》の|意《い》の|如《ごと》く、|天地間《てんちかん》は|凡《すべ》て|奇怪《きくわい》にして|人心小智《じんしんせうち》の|伺《うかが》ひ|知《し》るべき|限《かぎ》りではない。|然《しか》るに|中古《ちうこ》より|聖人《せいじん》などいふ|者《もの》|出《い》で|来《きた》りてより、|怪力乱神《くわいりきらんしん》を|語《かた》らずとか、|正法《しやうはふ》に|不思議《ふしぎ》なしとか|悟《さと》り|顔《がほ》に|屁理屈《へりくつ》を|振《ふ》りまはしてより、|世人《せじん》の|心《こころ》は|漸次《ぜんじ》|無神論《むしんろん》に|傾《かたむ》き、|神霊《しんれい》|霊怪《れいくわい》を|無視《むし》し、|宇宙《うちう》の|真理《しんり》を|得悟《さと》らざるに|至《いた》り、|至尊《しそん》|至貴《しき》|万邦《ばんぱう》|無比《むひ》の|神国《しんこく》を|知《し》らざるに|立到《たちいた》つたのである。|又《また》|玉鉾百首《たまほこひやくしゆ》に、
からたまのさかしら|心《ごころ》うつりてぞ
|世人《よびと》の|心《こころ》|悪《あ》しくなりぬる
しるべしと|醜《しこ》の|物知《ものし》りなかなかに
よこさの|道《みち》に|人《ひと》まどわすも
とよまれてあるのも|実《じつ》に|尤《もつと》もな|次第《しだい》である。|却説《さて》|舟人《ふなびと》の|一生懸命《いつしやうけんめい》にこぐ|舟《ふね》は|早《はや》くも|博奕ケ岬《ばくちがさき》についた。|教祖《けうそ》の|言《こと》あげせられた|如《ごと》く、ここ|迄《まで》|来《く》ると、|雨《あめ》は|俄《にはか》に|晴《は》れ、|風《かぜ》はなぎ|波《なみ》は|静《しづ》まつて、|満天《まんてん》の|星《ほし》の|光《ひかり》は|海《うみ》の|底《そこ》|深《ふか》く|宿《やど》つて、|波紋《はもん》|銀色《ぎんしよく》を|彩《いろ》どり、|雲《くも》の|上《うへ》も|海《うみ》の|底《そこ》も|合《あは》せ|鏡《かがみ》の|如《ごと》く、|昔《むかし》の|男《を》の|子《こ》の、
|棹《さを》はうがつ|波《なみ》の|上《うへ》の|月《つき》を、
|波《なみ》はおそふ|海《うみ》の|中《なか》の|舟《ふね》を
を|思《おも》ひうかべ|実《じつ》に|壮快《さうくわい》の|気分《きぶん》に|打《う》たれた。
|影《かげ》|見《み》れば|浪《なみ》のそこなる|久方《ひさかた》の
|空《そら》こぎわたる|我《われ》ぞわびしき
といふ|紀貫之《きのつらゆき》の|歌《うた》まで|思《おも》ひ|出《だ》され、|一《ひと》しほ|感興《かんきよう》|深《ふか》く|進《すす》む|折《をり》しも、ボーツと|海《うみ》のあなたに|黒《くろ》い|影《かげ》が|月《つき》を|遮《さへぎ》つた。|舟人《ふなびと》は、
『あゝ|冠島《をしま》さまが|見《み》えました』
と|叫《さけ》んだ|時《とき》の|一同《いちどう》の|嬉《うれ》しさは、|沖《おき》の|鴎《かもめ》のそれならで、|飛立《とびた》つ|許《ばか》り、|竜神《りうじん》が|天《てん》に|昇《のぼ》るの|時《とき》を|得《え》たる|喜《よろこ》びも|斯《か》くやあらむと|思《おも》はれ、|得《え》も|言《い》はれぬ|爽快《さうくわい》の|念《ねん》にうたれた。
|暫《しばら》くあつて|東《ひがし》の|空《そら》は|燦然《さんぜん》として|茜《あかね》さし、|若狭《わかさ》の|山《やま》の|上《うへ》より、|黄金《こがね》の|玉《たま》をかかげたる|如《ごと》く、|天津日《あまつひ》の|神《かみ》は|豊栄昇《とよさかのぼ》りに|輝《かがや》き|玉《たま》ひ、|早《はや》くも|冠島《をしま》は|手《て》に|取《と》る|許《ばか》り、|目《め》の|前《まへ》に|塞《ふさ》がり、|囀《さへづ》る|百鳥《ももどり》の|声《こゑ》は|百千万《ひやくせんまん》の|楽隊《がくたい》の|一斉《いつせい》に|楽《がく》を|奏《そう》したるかと|疑《うたが》はるる|計《ばか》りであつた。かの|昔語《むかしがたり》にとく|所《ところ》の|浦島子《うらしまし》が|亀《かめ》に|乗《の》つて、|竜宮《りうぐう》に|往《ゆ》き、|乙姫《おとひめ》|様《さま》に|玉手箱《たまてばこ》を|授《さづ》かつて|持《も》ち|帰《かへ》つたと|伝《つた》ふる|竜宮島《りうぐうじま》も、|安部《あべ》の|童子丸《どうしまる》がいろいろの|神宝《しんぽう》や|妙術《めうじゆつ》を|授《さづ》けられたといふ|竜宮島《りうぐうじま》も|亦《また》、|古事記《こじき》などに|記載《きさい》せられたる|彦火々出見命《ひこほほでみのみこと》が|塩土《しほつち》の|翁《おきな》に|教《をし》へられて、|海《うみ》に|落《お》ちたる|釣針《つりばり》を|捜《さが》し|出《だ》さむと|渡《わた》りましたる|海神《わだつみ》の|宮《みや》も|皆《みな》|此《この》|冠島《をしま》なりと|云《い》ひ|伝《つた》ふる|丈《だけ》あつて、どこともなく、|神仙《しんせん》の|境《きやう》に|進《すす》み|入《い》つたる|思《おも》ひが|浮《う》かんで|来《き》た。
|正像末和讃《しやうざうまつわさん》にも
|末法五濁《まつぽふごじよく》の|有情《うじやう》の|行証《ぎやうしよう》|叶《かな》はぬ|時《とき》なれば、|釈迦《しやか》の|遺法《ゆゐはふ》|悉《ことごと》く|竜宮《りうぐう》に|入《い》り|玉《たま》ひにき。
|正像末《しやうざうまつ》の|三時《さんじ》には|弥陀《みだ》の|本願《ほんぐわん》|広《ひろ》まれり、|澆季末法《げうきまつぽふ》の|此《この》|世《よ》には|諸善《しよぜん》|竜宮《りうぐう》に|入《い》り|玉《たま》ふ
とあるを|見《み》れば|仏教家《ぶつけうか》も|亦《また》|非常《ひじやう》に|竜宮《りうぐう》を|有難《ありがた》がつて|居《ゐ》るらしい、かかる|目出《めで》たき|蓬莱島《ほうらいじま》へ|恙《つつが》なく|舟《ふね》は|着《つ》いた。
|翠樹《すいじゆ》|鬱蒼《うつさう》たる|華表《とりゐ》の|傍《かたはら》、|老松《らうしよう》|特《とく》に|秀《ひい》でて|雲梯《うんてい》の|如《ごと》く|幹《みき》のまわり|三丈《さんぢやう》にも|余《あま》る|名木《めいぼく》の|桑《くは》の|木《き》は|冠島山《をしまやま》の|頂《いただき》に|立《た》ち|聳《そび》え、|幾十万《いくじふまん》の|諸鳥《もろとり》の|声《こゑ》は|教祖《けうそ》の|一行《いつかう》を|歓迎《くわんげい》するが|如《ごと》くに|思《おも》はれた。|実《じつ》に|竜宮《りうぐう》の|名《な》に|負《お》ふ|山海明媚《さんかいめいび》、|風光絶佳《ふうくわうぜつか》の|勝地《しようち》である。|教祖《けうそ》は|上陸《じやうりく》|早々《さうさう》、|波打際《なみうちぎは》に|御禊《みそぎ》された。|一同《いちどう》も|之《これ》に|倣《なら》うて|御禊《みそぎ》をなし、|神威《しんゐ》|赫々《かくかく》たる|老人島神社《おいとじまじんじや》の|神前《しんぜん》に|静《しづ》かに|進《すす》みて、|蹲踞《そんきよ》|敬拝《けいはい》し、|綾部《あやべ》より|調理《てうり》し|来《きた》れる、|山《やま》の|物《もの》|川《かは》の|魚《うを》うまし|物《もの》くさぐさを|献《たてまつ》り、|治国平天下安民《ちこくへいてんかあんみん》の|祈願《きぐわん》をこらす、|祝詞《のりと》の|声《こゑ》は|九天《きうてん》に|達《たつ》し、|拍手《はくしゆ》の|声《こゑ》は|六合《りくがふ》を|清《きよ》むる|思《おも》ひがあつた。これにて|先《ま》づ|冠島《をしま》|詣《まう》での|目的《もくてき》は|達《たつ》し、|帰路《きろ》は|波《なみ》もしづかに|九日《ここのか》の|夕方《ゆふがた》、|舞鶴港《まひづるかう》の|大丹生屋《おほにふや》に|立帰《たちかへ》り、|翌《あく》|十日《とをか》|又《また》もや|徒歩《とほ》にて、|数多《あまた》の|信者《しんじや》に|迎《むか》へられ、|目出度《めでた》く|綾部《あやべ》|本宮《ほんぐう》に|帰《かへ》ることを|得《え》たのである。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・一〇・一七 旧八・二七 松村真澄録)
第一四章 |沓島《めしま》〔一〇五一〕
|丹後《たんご》の|舞鶴《まひづる》からも|若狭《わかさ》の|小浜《をばま》からも、|縞《しま》の|財布《さいふ》が|空《から》になると|云《い》ふ|宮津《みやづ》からも、|丁度《ちやうど》|十里《じふり》あると|云《い》ふ|沖中《おきなか》の|一《ひと》つ|島《じま》で、|昔《むかし》から『|男《をとこ》は|一生《いつしやう》に|必《かなら》ず|一度《いちど》は|参《まゐ》れ、|二度《にど》は|参《まゐ》るな、|女《をんな》は|絶対《ぜつたい》に|禁制《きんせい》|万一《まんいち》|女《をんな》が|参拝《さんぱい》しやうものなら、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまの|怒《いか》りに|触《ふ》れて|海上《かいじやう》が|荒《あ》れ|出《だ》し、いろいろの|妖怪《えうくわい》が|出《で》たり|大蛇《をろち》が|沢山《たくさん》|現《あら》はれて|女《をんな》を|丸呑《まるの》みにする、さうして|子孫《しそん》の|代《だい》|迄《まで》|神罰《しんばつ》を|蒙《かうむ》る』と|云《い》ふ|古来《こらい》の|伝説《でんせつ》と|迷信《めいしん》とを|打破《だは》して、|教祖《けうそ》の|一行《いつかう》は|恙《つつが》なく|明治《めいじ》|三十三年《さんじふさんねん》|旧《きう》|六月《ろくぐわつ》|八日《やうか》|冠島《をしま》|参拝《さんぱい》を|遂《と》げ、|今度《こんど》|更《さら》に|古来《こらい》|人跡《じんせき》なき|神聖《しんせい》なる|沓島《めしま》へ|渡《わた》つて、|天神地祇《てんしんちぎ》を|初《はじ》め|奉《たてまつ》り、|生神《いきがみ》|艮《うしとら》の|鬼門大金神《きもんだいこんじん》を|奉祀《ほうし》して|天下《てんか》の|泰平《たいへい》や|皇軍《くわうぐん》の|大勝利《だいしようり》を|祈願《きぐわん》せむと、|陰暦《いんれき》|七月《しちぐわつ》|八日《やうか》|再《ふたた》び|本宮《ほんぐう》を|出立《しゆつたつ》、|一行《いつかう》|九人《くにん》は|前回《ぜんくわい》|同様《どうやう》|大丹生屋《おほにふや》で|船《ふね》を|雇《やと》ひ、|穏《おだや》やかな|海面《かいめん》を|辷《すべ》り|乍《なが》ら|沓島《めしま》に|向《むか》つて|漕《こ》ぎ|出《だ》した。
|埠頭《ふとう》の|万灯《まんとう》は|海水《かいすゐ》に|映《えい》じて|其《その》|色《いろ》|赤《あか》く|麗《うるは》しく、|港門《みなと》の|潮水《しほみづ》は|緑色《みどりいろ》をなし、|海湾《かいわん》|浪《なみ》|静《しづか》にして|磨《みが》ける|鏡《かがみ》の|如《ごと》く、|百鳥《ももとり》|群《むら》がり|飛《と》んで|磯端《いそばた》|静《しづか》に、|青松《せいしよう》|浜頭《ひんとう》に|列《つら》なり|梢《こずゑ》を|垂《た》れ|得《え》も|言《い》はれぬ|月夜《つきよ》の|景色《けしき》を|眺《なが》めつつ、|午後《ごご》|八時《はちじ》|半《はん》|二隻《にせき》の|小舟《こぶね》に|乗《の》り、|舟人《ふなびと》は|前回《ぜんくわい》の|如《ごと》く|橋本《はしもと》|六蔵《ろくざう》、|田中《たなか》|岩吉《いはきち》の|二名《にめい》これに|当《あた》り|声《こゑ》も|涼《すず》しく|船唄《ふなうた》を|唄《うた》ひ|乍《なが》ら|悠々《いういう》として|漕《こ》ぎ|出《だ》した。|満天《まんてん》|梨地色《なしぢいろ》に|星《ほし》|輝《かがや》き、|波《なみ》|至《いた》つて|平穏《へいおん》に、|恰《あたか》も|海面《かいめん》は|油《あぶら》を|流《なが》した|如《ごと》く、|星《ほし》が|映《うつ》つてキラキラと|光《ひか》つて|居《ゐ》る。|海月《くらげ》が|浮《う》いて|行《ゆ》くの|迄《まで》が|判然《はんぜん》と|見《み》える。|銀砂《ぎんしや》を|敷《し》いた|上《うへ》に|居《を》る|様《やう》な|心持《こころもち》がして|極《きは》めて|安全《あんぜん》な|航海《かうかい》である。|博奕ケ岬《ばくちがさき》|迄《まで》|行《い》つた|頃《ごろ》は、|八日《やうか》の|半絃《はんげん》の|月《つき》は|海《うみ》の|彼方《かなた》に|西渡《かたむ》き|経ケ岬《きやうがみさき》の|灯台《とうだい》は|明々滅々《めいめいめつめつ》|浪《なみ》のまにまに|漂《ただよ》ふて|見《み》える。|頭《あたま》の|上《うへ》にも|足《あし》の|下《した》にも、|銀河《ぎんが》が|横《よこたは》つて|其《その》|真中《まんなか》を|敏鎌《とがま》の|様《やう》に|冴《さ》えた|月《つき》が|静《しづ》かに|流《なが》れて、|海《うみ》の|果《はて》で|合《がつ》するかと|疑《うたが》はれるばかりであつた。|舟人《ふなびと》の|話《はなし》によれば、
『|茲《ここ》|三年《さんねん》や|五年《ごねん》に|今夜《こんや》|位《くらゐ》|静穏《せいをん》な|海上《かいじやう》はない。|大方《おほかた》|冠島《をしま》|沓島《めしま》の|神様《かみさま》の|御守護《ごしゆご》でありませう。ほんに|有《あ》り|難《がた》い、|勿体《もつたい》ない』
と|喜《よろこ》び|勇《いさ》み|乍《なが》ら、|赤《あか》い|褌《ふんどし》を|締《し》め|真裸《まつぱだか》となつて|節《ふし》|面白《おもしろ》く|船唄《ふなうた》を|唄《うた》ひ|出《だ》した。
|万波洋々《ばんぱやうやう》たる|海《うみ》の|彼方《かなた》には、|幾百《いくひやく》の|漁火《いさりび》が|波上《はじやう》に|浮《うか》み、|甲艇乙舸《かふていおつか》|競《きそ》ふて|海魚《かいぎよ》を|漁《すなど》りする|壮丁《さうてい》の|声《こゑ》は|波《なみ》の|音《おと》を|掠《かす》めて|高《たか》く|聞《きこ》えて|来《く》る。|此《この》|漁火《いさりび》を|打見《うちみ》やれば、|恰《あたか》も|海上《かいじやう》のイルミネーシヨンを|見《み》る|様《やう》である。|舟《ふね》は|容赦《ようしや》なく|東北《とうほく》さして|漕《こ》ぎ|出《だ》された。|二三《にさん》の|釣舟《つりぶね》が|二三丁《にさんちやう》ばかり|傍《かたはら》に|通《とほ》りかかるのを、|二人《ふたり》の|船頭《せんどう》は|大声《おほごゑ》で|呼《よ》びとめる。|船頭《せんどう》|同志《どうし》は|互《たがひ》に|分《わ》け|隔《へだ》てなき|間柄《あひだがら》とて、|極《きは》めて|乱雑《らんざつ》な|挨拶《あいさつ》|振《ぶ》り、|初《はじ》めて|聞《き》いたものは|喧嘩《けんくわ》ではないかと|疑《うたが》ふばかりである。|此《この》|釣舟《つりぶね》で|一尺《いつしやく》|二三寸《にさんずん》ばかりの|鯖《さば》を|二十尾《にじふび》ばかり|買《か》ひ|求《もと》めて、|冠島《をしま》|沓島《めしま》への|供《そな》へ|物《もの》とした。|東《ひがし》の|空《そら》はソロソロと|明《あか》くなり|出《だ》した。|舟人《ふなびと》は|褌《まはし》|一《ひと》つになつて、|汗《あせ》をタラタラ|流《なが》しつつ|力《ちから》の|極《きは》み、|根限《こんかぎ》り|漕《こ》ぎつける。|午前《ごぜん》|八時《はちじ》|半《はん》|無事《ぶじ》に|冠島《をしま》の|磯際《いそぎは》についた。『まあ|一安心《ひとあんしん》だ』と|上陸《じやうりく》し、|神前《しんぜん》に|向《むか》つて|教祖《けうそ》|以下《いか》|八人《はちにん》は|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|終《をは》つて、|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》、|福林《ふくばやし》|安之助《やすのすけ》、|四方《しかた》|祐助《いうすけ》、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》の|四名《よめい》を|冠島《をしま》に|残《のこ》しおき、|神社《じんじや》|境内《けいだい》の|掃除《さうぢ》を|命《めい》じおき、|帰途《かへりみち》に|改《あらた》めて|参拝《さんぱい》する|事《こと》とし|教祖《けうそ》を|始《はじ》め|出口《でぐち》|海潮《かいてう》、|出口《でぐち》|澄子《すみこ》、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》、|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》の|五人《ごにん》は|直《ただち》に|沓島《めしま》に|向《むか》つて|出発《しゆつぱつ》する。|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》は|冠島《をしま》から|沓島《めしま》へ|行《ゆ》く|間《あひだ》の|巨浪《きよらう》に|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|舟底《ふなぞこ》に|喰《くら》ひつき|時々《ときどき》|発動《はつどう》|気味《ぎみ》になつて|唸《うな》つて|居《ゐ》る。それきり|同人《どうにん》はコリコリしたと|見《み》え|沓島《めしま》へは|再《ふたた》び|参《まゐ》らないと|云《い》つて|居《ゐ》た。
さて|冠島《をしま》に|残《のこ》された|連中《れんちう》が|一尺《いつしやく》|以上《いじやう》も|堆高《うづたか》く|積《つも》つて|居《ゐ》る|庭《には》|一面《いちめん》の|鳥糞《てうふん》を|掻《か》き|浚《さら》へ、お|庭《には》を|清《きよ》める、|枯木《かれき》や|朽葉《くちば》を|集《あつ》めて|社《やしろ》の|傍《かたはら》の|林《はやし》の|中《なか》に|掃《は》き|寄《よ》せる|等《など》、|大活動《だいくわつどう》をやつて|居《ゐ》た。|忽《たちま》ち|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》が|激烈《げきれつ》な|腹痛《ふくつう》を|起《おこ》し|七顛八倒《しちてんばつたう》する。|全《まつた》く|神罰《しんばつ》が|当《あた》つたのだと|一同《いちどう》は|恐《おそ》れ|入《い》つて|謝罪《しやざい》をなし、|塵《ちり》|芥《あくた》を|一層《いつそう》|遠《とほ》き|林《はやし》の|中《なか》へ|持《も》ち|運《はこ》んだ。|神明《しんめい》|聴許《ちやうきよ》|遊《あそ》ばしたか、|俄《にはか》に|痛《いた》みも|止《と》まつたので|頑固《ぐわんこ》|一辺《いつぺん》の|中村《なかむら》も、|其《その》|神徳《しんとく》に|感激《かんげき》した|様《やう》であつた。|教祖《けうそ》の|一行《いつかう》は|漸《やうや》くにして|沓島《めしま》に|漕《こ》ぎついた。|流石《さすが》に|昔《むかし》から|人《ひと》の|恐《おそ》れて|近《ちか》づき|得《え》ない|神島《かみしま》だけありて、|冠島《をしま》とは|大変《たいへん》に|趣《おもむき》が|違《ちが》ふてゐる。|今日《けふ》は|格別《かくべつ》|穏《おだや》かな|海《うみ》だと|云《い》ふに|拘《かか》はらず、|山《やま》の|如《ごと》きウネリが|頻《しき》りに|打《う》ち|寄《よ》せて|来《く》る。|鴎《かもめ》や|信天翁《あはうどり》、|鵜《う》などが|岩《いは》|一面《いちめん》に|胡麻《ごま》を|振《ふ》りかけた|様《やう》に|止《と》まつて、|不思議《ふしぎ》|相《さう》に|一行《いつかう》を|見下《みお》ろして|居《ゐ》る。|波《なみ》の|上《うへ》には|数万《すうまん》の|海鳥《かいてう》が|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ、|悠々《いういう》と|遊《あそ》んでゐる。|音《おと》に|名高《なだか》き|断岩《だんがん》|絶壁《ぜつぺき》、|小舟《こぶね》を|漕《こ》ぎ|寄《よ》せる|場所《ばしよ》が|見《み》つからぬ。|兎《と》も|角《かく》も|此《この》|島《しま》を|一周《いつしう》して|適当《てきたう》な|上陸点《じやうりくてん》を|探《さぐ》らうと|評定《へうぢやう》して|居《ゐ》ると、|教祖《けうそ》が|是非《ぜひ》に|釣鐘岩《つりがねいは》へ|舟《ふね》を|着《つ》けよと|云《い》はれる。|命《めい》のまにまに|釣鐘岩《つりがねいは》の|直下《ちよつか》へ|漕《こ》ぎつけて|見《み》ると、|恰《あたか》も|人《ひと》の|背中《せなか》の|如《ごと》く|険峻《けんしゆん》な|断岩《だんがん》で|如何《どう》しても|掻《か》きつく|事《こと》が|出来《でき》ない。|愚図々々《ぐづぐづ》してゐると、|激浪《げきらう》のために|舟《ふね》を|岩《いは》に|衝突《しようとつ》させ、|破壊《はくわい》して|了《しま》ふ|虞《おそれ》があるから、|瞬時《しゆんじ》も|躊躇《ちうちよ》してをる|場合《ばあひ》でない。|海潮《かいてう》は『|地獄《ぢごく》の|上《うへ》の|一足飛《いつそくと》び』と|云《い》ふ|様《やう》な|肝《きも》を|放《ほ》り|出《だ》して|腰《こし》に|八尋繩《やひろなは》を|結《むす》びつけたまま、|舟《ふね》が|波《なみ》にうたれて|岩《いは》に|近《ちか》づいた|一刹那《いちせつな》を|睨《ねら》ひすまして、|岩壁《がんぺき》|目蒐《めが》けて|飛《と》びついた。|幸《さいはひ》にも|粗質《そしつ》な|岩《いは》で|手足《てあし》が|滑《すべ》らぬ、|一丈《いちぢやう》|四五尺《しごしやく》|程《ほど》の|上《うへ》の|方《はう》に|少《すこ》しばかりの|平面《へいめん》な|処《ところ》がある。そこから|舟《ふね》を|目蒐《めが》けて|繩《なは》の|片端《かたはし》を|投《な》げ|込《こ》めば、|舟人《ふなびと》が|手早《てばや》く|拾《ひろ》ふて|舟《ふね》に|結《むす》びつける。|最早《もはや》|大丈夫《だいぢやうぶ》だと|岩上《がんじやう》からは|上田《うへだ》の|海潮《かいてう》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|繩《なは》を|手繰《たぐ》り|寄《よ》せる。|下《した》からは|真正《しんせい》の|海潮《かいてう》が|教祖《けうそ》を|乗《の》せた|舟《ふね》を|目《め》がけて|押《お》し|寄《よ》せ、|来《く》るや|来《く》るや|母曾呂々々々《もそろもそろ》に|持《も》ち|渡《わた》す。|教祖《けうそ》は|手早《てばや》く|繩《なは》に|縋《すが》り|乍《なが》ら|漸《やうや》く|上陸《じやうりく》された。|続《つづ》いて|三人《さんにん》も|登《のぼ》つて|来《き》た。|綾部《あやべ》で|組《く》み|立《た》てて|持《も》つて|来《き》た|神祠《ほこら》をといて、|柱《はしら》|一本《いつぽん》づつ|舟人《ふなびと》が|繩《なは》で|縛《しば》る、|四方《しかた》と|福島《ふくしま》がひきあげる。|漸《やうや》く|百尺《ひやくしやく》ばかりもある|高所《かうしよ》の|二畳敷《にでふじき》ほどの|平面《へいめん》の|岩《いは》の|上《うへ》を|鎮祭所《ちんさいじよ》となし、|一時間《いちじかん》あまりもかかつて|漸《やうや》く|神祠《ほこら》を|建《た》て|上《あ》げ、|艮《うしとら》の|大金神《だいこんじん》|国常立尊《くにとこたちのみこと》、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》、|豊玉姫神《とよたまひめのかみ》、|玉依姫神《たまよりひめのかみ》を|始《はじ》め、|天地《てんち》|八百万《やほよろづ》の|神等《かみたち》を|奉斎《ほうさい》し、|山野河海《さんやかかい》の|珍物《うましもの》を|供《そな》へ|終《をは》り、|教祖《けうそ》は|恭《うやうや》しく|祠前《しぜん》に|静座《せいざ》して|声音《せいおん》|朗《ほがら》かに|天下《てんか》|泰平《たいへい》|神軍《しんぐん》|大勝利《だいしようり》の|祈願《きぐわん》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》される。
|話《はなし》は|一寸《ちよつと》|後前《あとさき》になつたが、|第一着《だいいちちやく》に|海潮《かいてう》が|遷座式《せんざしき》の|祝詞《のりと》を|恐《かしこ》み|恐《かしこ》み|白《まを》し|上《あ》げ、|最後《さいご》に|一同《いちどう》|打揃《うちそろ》ふて|大祓《おほはらひ》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》した。|島《しま》の|群鳥《むらどり》は|祝詞《のりと》を|拝聴《はいちやう》するものの|如《ごと》くである。|何分《なにぶん》|北《きた》は|露西亜《ロシア》の|浦塩斯徳港《ウラジオストツクかう》|迄《まで》つつ|放《ぱな》しの|島《しま》であるから、|日本海《にほんかい》の|激浪《げきらう》|怒濤《どたう》は|皆《みな》|此《この》|沓島《めしま》の|釣鐘岩《つりがねいは》に|打《ぶつ》かるので|一面《いちめん》に|洗《あら》ひ|去《さ》られて、|此《この》|方面《はうめん》は|岩《いは》ばかりで|土《つち》の|気《け》は|見《み》たいと|思《おも》ふても|見当《みあた》らなかつた。|沖《おき》の|方《はう》から|時々《ときどき》|寄《よ》せ|来《く》る|山《やま》の|様《やう》に|大《おほ》きな|浪《なみ》が|此《この》|釣鐘岩《つりがねいは》に|衝突《しようとつ》して、|百雷《ひやくらい》の|一時《いちじ》に|鳴《な》り|響《ひび》く|様《やう》に、ゴンゴン ドドンドドンと|烈《はげ》しき|音《おと》が|耳《みみ》を|刺戟《しげき》する。|舟人《ふなびと》は|今日《けふ》は|数年来《すうねんらい》に|見《み》た|事《こと》のない|穏《おだや》かの|波《なみ》だと|云《い》つた|浪《なみ》でさへも、これ|位《くらゐ》の|音《おと》がするのだもの、|海《うみ》の|荒《あ》れた|日《ひ》にはどんなに|烈《はげ》しからうと|思《おも》へば、|凄《すご》い|様《やう》な|心持《こころもち》がして|来《き》た。|船人《ふなびと》の|語《かた》る|所《ところ》によれば|此《この》|釣鐘岩《つりがねいは》には、|文禄《ぶんろく》|年間《ねんかん》に|三種四郎左衛門《みくさしらうざゑもん》と|云《い》ふ|男《をとこ》、|数百人《すうひやくにん》の|部下《ぶか》を|引率《ひきつ》れ|冠島《をしま》を|策源地《さくげんち》として|陣屋《ぢんや》を|構《かま》へ、|時《とき》の|天下《てんか》を|横領《わうりやう》せむと|軍資金《ぐんしきん》を|集《あつ》むるために|海上《かいじやう》|往来《わうらい》の|船舶《せんぱく》を|掠《かす》め|海賊《かいぞく》を|稼《かせ》いで、|此《この》|岩《いは》の|頂上《ちやうじやう》に|半鐘《はんしよう》を|釣《つ》り|斥候《せきこう》の|合図《あひづ》をし|冠島《をしま》との|連絡《れんらく》をとつて|居《ゐ》たので、|被害者《ひがいしや》は|数《かず》ふるに|暇《ひま》なき|迄《まで》|続出《ぞくしゆつ》したので、|武勇《ぶゆう》の|誉《ほまれ》|高《たか》き|豪傑《がうけつ》|岩見重太郎《いはみぢうたらう》がこれを|聞《き》いて|捨《す》ておけぬと|計略《けいりやく》を|以《もつ》て|呉服屋《ごふくや》に|化《ば》け、|一人《ひとり》|一人《ひとり》|舞鶴《まひづる》へ|引寄《ひきよ》せ|牢獄《らうごく》に|打《う》ち|込《こ》み、|悉皆《しつかい》|退治《たいぢ》したと|伝《つた》ふる|有名《いうめい》な|島《しま》で、|其《その》|後《ご》は|釣鐘島《つりがねしま》、|鬼門島《きもんじま》と|称《しよう》し、|誰《たれ》も|此《この》|沓島《めしま》へは|来《き》たものはないと|云《い》つてゐた。|然《しか》るに|今回《こんくわい》|初《はじ》めて|教祖《けうそ》が|世界《せかい》|万民《ばんみん》のために、|百難《ひやくなん》を|排《はい》して|渡《わた》り|来《こ》られ、|神々様《かみがみさま》を|奉祀《ほうし》し、|天下《てんか》|無事《ぶじ》の|祈祷《きたう》をされたのは|実《じつ》に|前代《ぜんだい》|未聞《みもん》の|壮挙《さうきよ》であると|云《い》ふので、|東京《とうきやう》の|富士新聞《ふじしんぶん》や|福知山《ふくちやま》の|三丹新聞《さんたんしんぶん》を|始《はじ》め|其《その》|他《た》の|諸新聞《しよしんぶん》に|連載《れんさい》された|事《こと》がある。
さて|此《この》|島《しま》を|一周《ひとめぐ》りして、|奇岩《きがん》|絶壁《ぜつぺき》を|嘆賞《たんしやう》しつつ|冠島《をしま》へ|再《ふたた》び|舟《ふね》を|漕《こ》ぎ|寄《よ》せ、|一行《いつかう》|九人《くにん》|打揃《うちそろ》ふて|神前《しんぜん》に|拝礼《はいれい》し、|供物《くぶつ》を|献《けん》じ|終《をは》つて|又《また》|此《この》|冠島《をしま》も|一周《いつしう》する|事《こと》となつた。|周囲《しうゐ》|四十有余丁《しじふいうよちやう》あり、|世界《せかい》の|所在《あらゆる》|草木《さうもく》の|種子《たね》は|皆《みな》|此《この》|島《しま》に|集《あつ》まつてあると|云《い》はれてある。|昔《むかし》は|陸稲《をかぼ》も|自然《しぜん》に|出来《でき》てゐたのを、|大浦村《おほうらむら》の|百姓《ひやくしやう》が|肥料《こやし》を|施《ほどこ》して|汚《けが》したので、|其《その》|後《ご》は|稲《いね》は|一株《ひとかぶ》も|出来《でき》なくなり、|雑草《ざつさう》が|密生《みつせい》する|様《やう》になつたのだと|二人《ふたり》が|話《はな》しつつ|覗《のぞ》き|岩《いは》|迄《まで》|漕《こ》ぎつけて|見《み》れば、|数十丈《すうじふぢやう》の|岩石《がんせき》に|自然《しぜん》の|隧道《トンネル》が|穿《うが》たれてある。|屏風《びやうぶ》を|立《た》てた|様《やう》な|岩《いは》や|書籍《しよせき》を|積《つ》み|重《かさ》ねた|様《やう》な|岩《いは》|立《た》ち|並《なら》び、|竜《りう》|飛《と》び|虎《とら》|馳《はし》る|如《ごと》き|不思議《ふしぎ》の|岩《いは》が|海中《かいちう》に|立《た》つてゐる。|少《すこ》しく|舟《ふね》を|西北《せいほく》へ|進《すす》めると、|一望《いちばう》|肝《きも》を|消《け》すの|断巌《だんがん》、|一瞻《いつせん》|胸《むね》を|轟《とどろ》かすの|碧潮《へきてう》に|鯛魚《たひぎよ》の|群《むれ》をなして|縦《たて》に|泳《およ》ぎ、|緯《よこ》に|潜《ひそ》み、|翠紅《すゐこう》、|色《いろ》|交々《こもごも》|乱《みだ》れて|恰《あたか》も|錦綾《きんれう》の|如《ごと》く、|感賞《かんしやう》|久《ひさ》しうして|帰《かへ》る|事《こと》を|忘《わす》れるに|至《いた》る。|此処《ここ》に|暫《しばら》く|遊《あそ》んでゐると、|十年《じふねん》も|寿命《じゆみやう》がのびる|様《やう》である。|世《よ》の|俗塵《ぞくぢん》|一切《いつさい》を|払拭《ふつしき》し|去《さ》つた|様《やう》な|観念《くわんねん》が|胸《むね》に|湧《わ》いて|来《く》る。|兎《と》に|角《かく》|男女《だんぢよ》を|問《と》はず|信徒《しんと》たるものは|一度《いちど》は|是非《ぜひ》|参詣《さんけい》すべき|処《ところ》である。
|九日《ここのか》の|夕方《ゆふがた》、|恙《つつが》なく|舞鶴《まひづる》へ|帰着《きちやく》し|翌《よく》|十日《とをか》|舞鶴《まひづる》|京口町《きやうぐちまち》で|一行《いつかう》|記念《きねん》の|撮影《さつえい》をなし、|目出度《めでたく》|本宮《ほんぐう》へ|帰《かへ》る|事《こと》となつた。
(大正一一・一〇・一七 旧八・二七 北村隆光録)
第一五章 |怒濤《どたう》〔一〇五二〕
|教祖《けうそ》や|会長《くわいちやう》に|反対《はんたい》の|連中《れんちう》がヒソビソと|首《くび》を|集《あつ》めて、|冠島《をしま》|丈《だ》けは|幸《さいは》ひに|教祖《けうそ》の|一行《いつかう》|五人《ごにん》が|無事《ぶじ》に|参《まゐ》つて|来《き》よつたが、|到底《たうてい》|沓島《めしま》へは|教祖《けうそ》のやうな|婆《ば》アさまが|行《ゆ》けるものでない、キツと|神《かみ》の|怒《いかり》にふれて、|舟《ふね》が|転覆《てんぷく》し、|海《うみ》の|藻屑《もくづ》になつて|了《しま》ふか、|但《ただし》は|不成功《ふせいこう》に|了《をは》つて|中途《ちうと》から|引返《ひつかへ》して|帰《かへ》るに|相違《さうゐ》ないとタカをくくつて|嘲笑《てうせう》を|逞《たくま》しうしてゐた|所《ところ》が、|見事《みごと》|今回《こんくわい》|又《また》もや|沓島開《めしまびら》きが|出来《でき》たといふ|成功談《せいこうだん》を|聞《き》き、|負《まけ》ぬ|気《き》になり、『ナニ|教祖《けうそ》のやうな|婆《ば》アさまや|娘《むすめ》が|行《ゆ》く|所《とこ》へ|行《ゆ》けないといふ|事《こと》があるものか』と、|二十人《にじふにん》の|頑固連中《ぐわんこれんぢう》が|沓島《めしま》|参拝《さんぱい》を|企《くはだ》て、|大暴風雨《だいばうふうう》に|遭《あ》ふて|命《いのち》カラガラ、|冠島《をしま》に|辛《から》うじて|避難《ひなん》し、|一命《いちめい》を|拾《ひろ》うた|物語《ものがたり》を|述《の》べておく。
|対岸《たいがん》の|清国《しんこく》では|団匪《だんぴ》の|騒乱《さうらん》で、|各国《かくこく》の|政府《せいふ》が|居留民《きよりうみん》|保護《ほご》の|為《ため》に|聯合軍《れんがふぐん》を|組織《そしき》して|北京城《ペキンじやう》へ|進軍中《しんぐんちう》であつた。|茲《ここ》に|出口《でぐち》の|教祖《けうそ》は|東洋《とうやう》の|前途《ぜんと》を|気《き》づかひ、|神命《しんめい》のまにまに、|二度《にど》までも|無人島《むじんたう》へ|渡《わた》り、|冒険的《ばうけんてき》の|企図《きと》をこらして、|艱難辛苦《かんなんしんく》を|嘗《な》め|玉《たま》ふにも|拘《かか》はらず、|足立《あだち》|其《その》|他《た》の|役員《やくゐん》に|誑惑《きやうわく》された|信徒等《しんとら》は、|利己《りこ》|一片《いつぺん》に|傾《かたむ》き、おのれが|卑劣心《ひれつしん》より|口々《くちぐち》に、|今回《こんくわい》の|教祖《けうそ》|一行《いつかう》の|冒険的《ばうけんてき》|渡海《とかい》を|非難《ひなん》し、|好奇心《かうきしん》にかられたり、|一方《いつぱう》には|信者《しんじや》|集《あつ》めの|手段《しゆだん》を|講《かう》じたものだなどと、|盛《さかん》に|熱罵《ねつば》を|逞《たくま》しうしてゐる|者《もの》のみである。|判事《はんじ》ハリバートンの|言《げん》に|曰《いは》く『|権威《けんゐ》のある|所《ところ》には|自然《しぜん》に|不従順《ふじゆうじゆん》の|傾向《けいかう》あり』と。|宜《むべ》なる|哉《かな》、|近来《きんらい》|教祖《けうそ》|及《および》|上田《うへだ》の|名声《めいせい》の|漸《やうや》く|大《だい》ならむとするを|嫉妬《しつと》し、いろいろと|排斥《はいせき》|防害《ばうがい》|運動《うんどう》に|余念《よねん》なき|連中《れんちう》が|二度《にど》までも|孤島《こたう》に|参拝《さんぱい》の|成功《せいこう》に|益々《ますます》|嫉視《しつし》|反抗《はんかう》の|気勢《きせい》を|高《たか》め、|今度《こんど》は|是非《ぜひ》|共《とも》|会長《くわいちやう》を|案内者《あんないしや》として|沓島《めしま》へつれ|行《ゆ》き、|鐘岩《つりがねいは》の|断岩《だんがん》へ|登《のぼ》り、いろいろとよからぬ|望《のぞ》みを|遂《と》げむと、|某々《ぼうぼう》|等《ら》|数名《すうめい》は|鳩首《きうしゆ》|謀議《ぼうぎ》の|結果《けつくわ》、|今《いま》|一度《いちど》|勝手《かつて》を|知《し》つた|会長《くわいちやう》に|同行《どうかう》|参拝《さんぱい》せむ|事《こと》を|強請《きやうせい》して|止《や》まなかつた。|万一《まんいち》にも|否《いな》まうものなら、|卑怯者《ひけふもの》と|誹《そし》るであらう、|今《いま》まで、|屡《しばしば》|彼等《かれら》が|奸計《かんけい》に|乗《の》せられ、|九死一生《きうしいつしやう》の|難《なん》に|遭遇《さうぐう》したる|記憶《きおく》の|新《あらた》なる|一身上《いつしんじやう》に|取《と》つては、|恰《あたか》も|狼虎《ろうこ》の|道《みち》づれも|同様《どうやう》である。|何時《なんどき》|間隙《かんげき》があつたら、|咬殺《かみころ》されるやら|計《はか》り|知《し》られぬ|危険《きけん》|極《きは》まる|島詣《しままう》でであつた。|然《しか》し|乍《なが》ら|敵《てき》を|恐《おそ》れて|旗《はた》を|捲《ま》くのも、|神《かみ》の|道《みち》を|宣伝《せんでん》する|者《もの》の|本意《ほんい》でないと、|確《かた》く|決心《けつしん》し、|日夜《にちや》|沐浴《もくよく》|斎戒《さいかい》|心身《しんしん》を|清《きよ》め、|神《かみ》の|加護《かご》と|教祖《けうそ》の|御神徳《ごしんとく》に|倚信《いしん》して、|彼等《かれら》と|共《とも》に|出舟《しゆつしう》|参拝《さんぱい》する|事《こと》を|承諾《しようだく》した。
|万一《まんいち》を|慮《おもんぱか》つて|平素《へいそ》|熱心《ねつしん》なる|信者《しんじや》、|竹原《たけはら》|房太郎《ふさたらう》、|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》、|森津《もりつ》|由松《よしまつ》、|福林《ふくばやし》|安之助《やすのすけ》、|時田《ときだ》、|四方《しかた》|安蔵《やすざう》、|甚之丞《じんのじよう》|等《ら》の|面々《めんめん》を|引《ひき》つれ、|心《こころ》の|合《あ》はない|敵味方《てきみかた》|合《あは》せて|廿一名《にじふいちめい》は|明治《めいぢ》|三十三年《さんじふさんねん》|七月《しちぐわつ》|二十日《はつか》を|卜《ぼく》し、いよいよ|決行《けつかう》することとなつた。
|二十一日《にじふいちにち》の|未明《みめい》、|四隻《しせき》の|漁舟《いさりぶね》は|罪《つみ》|重《おも》き|一行《いつかう》を|乗《の》せて、|舞鶴港《まひづるかう》を|漕《こ》ぎ|出《だ》し、|海上《かいじやう》|七里《しちり》|許《ばか》り、|冠島《をしま》は|手《て》に|取《と》るやうに|近《ちか》く|見《み》えて|来《き》た。モウ|一息《ひといき》といふ|所《ところ》で|俄《にはか》に|東《ひがし》の|空《そら》が|変《へん》な|色《いろ》になつて|来《き》た。|四人《よにん》の|船人《ふなびと》はあわてふためき、|口《くち》を|揃《そろ》へて、
『サア|皆《みな》サン、|覚悟《かくご》をなされ|大変《たいへん》なことになつて|来《き》た。あの|雲《くも》の|様子《やうす》では|大颶風《おほしけ》だ』
と|叫《さけ》んでゐる。|見《み》る|間《ま》に|東北《とうほく》の|空《そら》に|真黒《まつくろ》の|妖雲《えううん》がムラムラと|湧《わ》きだした。|追々《おひおひ》|風《かぜ》が|荒《あら》くなつたと|思《おも》ふ|間《ま》もなく、|颶風《ぐふう》|襲来《しふらい》、|潮《うしほ》を|蹴《け》り|飛《と》ばし、|波濤《はたう》|怒《いか》り|狂《くる》ひ、|勃乎《ぼつこ》たる|海風《かいふう》の|声《こゑ》は|轟々《ぐわうぐわう》と、|南《みなみ》に|北《きた》に|東《ひがし》に|西《にし》に|猛《たけ》び|廻《まは》る。|騒然《さうぜん》たる|声裡《せいり》、|山岳《さんがく》のやうな|波《なみ》、|堅乎《けんこ》たる|巌《いはほ》のやうな|波浪《はらう》が|来《く》る、|其《その》|物凄《ものすご》きこと|筆舌《ひつぜつ》の|尽《つく》す|限《かぎ》りではなかつた。|小舟《こぶね》を|木《こ》の|葉《は》の|如《ごと》くに|中天《ちうてん》にまき|上《あ》げるかと|見《み》れば、|直《ただち》に|千仭《せんじん》の|波《なみ》の|谷間《たにま》につき|落《おと》し、|無遠慮《ぶゑんりよ》に|舟玉《ふなたま》の|神《かみ》の|目《め》も|恐《おそ》れず、|勝手《かつて》|気儘《きまま》に|奔弄《ほんろう》し|出《だ》した。|波《なみ》と|波《なみ》との|間《あひだ》にかくれた|一行《いつかう》の|舟《ふね》は、どうなつて|了《しま》つたか、|其《その》|影《かげ》さへも|見《み》ることが|出来《でき》ぬので、|互《たがひ》に|胸《むね》を|轟《とどろ》かしつつあつた。|恰《あたか》も|地獄《ぢごく》の|旅行《りよかう》をしてゐるやうで、|何《いづ》れも|青息吐息《あをいきといき》の|為体《ていたらく》、|蛭《ひる》に|塩《しほ》、|猫《ねこ》に|出合《であ》ふた|鼠《ねずみ》の|如《ごと》く、|舟底《ふなそこ》にかぢりついて|縮《ちぢ》かんでゐる。|誰《たれ》もかれもウンともスンとも|得言《えい》はぬ|弱《よわ》り|方《かた》、|中《なか》にも|松井《まつゐ》|元利《げんり》といふ|京都《きやうと》の|信者《しんじや》は、|因果《いんぐわ》を|定《さだ》めたか、|生死《しやうし》の|外《ほか》に|超然《てうぜん》として|動《どう》ぜざること|岩石《がんせき》の|如《ごと》く、|頭《あたま》から|潮《しほ》を|浴《あ》び|乍《なが》ら、|泰然自若《たいぜんじじやく》として|只《ただ》|天《てん》の|一方《いつぱう》のみを|眺《なが》めて|居《ゐ》る。|時田《ときだ》|金太郎《きんたらう》が|小便《せうべん》のタンクが|破裂《はれつ》し|相《さう》なと|云《い》つて、|激浪《げきらう》|目《め》がけてコワゴワ|乍《なが》ら|放尿《はうねう》する。|舟人《ふなびと》が……そんな|大男《おほをとこ》が|立《た》つては|危険《きけん》だ……と|喧《やかま》しく|叱《しか》りつけるやうに|叫《さけ》ぶ。それに|引替《ひきか》へ、|臆病風《おくびやうかぜ》に|襲《おそ》はれた|中村《なかむら》は|震《ふる》ひ|戦《をのの》き、|始《はじ》めて|口《くち》を|開《ひら》き、
|中村《なかむら》『|会長《くわいちやう》さん、|一体《いつたい》どうなりますぢやいなア、|今《いま》あんたの|頭《あたま》の|上《うへ》の|所《ところ》に|大《おほ》きな|海坊主《うみばうず》がいやらしい|顔《かほ》で、|長《なが》い|舌《した》を|出《だ》して、|私《わたし》をつかんで|海《うみ》へ|投込《なげこ》むやうな|手《て》つきをし|乍《なが》ら……それ|今《いま》|其処《そこ》に|睨《にら》んで|居《を》りますわいな、どうぞ|坊主《ばうず》をいなして|下《くだ》され、あゝ|小便《せうべん》がしたくて|堪《たま》らぬ、どうしたらよからうか』
と|周章狼狽《しうしやうらうばい》のさま|実《じつ》に|見《み》るも|気《き》の|毒《どく》であつた。|小便《せうべん》がこらへきれなくなつたので、とうとう|自分《じぶん》の|飯碗《めしわん》の|中《なか》へ|放尿《はうねう》して、それを|海《うみ》へコワゴワ|投《な》げ|込《こ》んでゐる。|中村《なかむら》は|驚愕《きやうがく》の|余《あま》り|弱腰《よわごし》が|抜《ぬ》けたと|見《み》えて、チツとも|身動《みうご》きが|出来《でき》なくなつてゐたのである。
|烈然《れつぜん》たる|颶風《ぐふう》はよく|千里《せんり》の|境域《きやうゐき》に|達《たつ》し、|猛然《まうぜん》たる|旋風《せんぷう》は|万里《ばんり》の|高《たか》きに|依《よ》つて|廻《めぐ》るかと|怪《あや》しまれ、|竜《りう》ならずして|竜《りう》|吟《ぎん》じ、|虎《とら》ならずして|虎《とら》|嘯《うそぶ》く|如《ごと》き|光景《くわうけい》である。|一波《いつぱ》|忽《たちま》ち|来《きた》りて|漁舟《ぎよしう》に|咬《かみ》つく、|其《その》|度《たび》|毎《ごと》に|潮水《しほみづ》を|沢山《たくさん》において|行《ゆ》く、|又《また》|次《つぎ》の|一波《いつぱ》のお|見舞《みまひ》|迄《まで》にと、|一同《いちどう》が|力限《ちからかぎ》り|命《いのち》が|惜《をし》さに、|平常《ふだん》にはこけた|箒《はうき》もロクに|起《おこ》さぬやうな|不精男《ぶしやうをとこ》が|桶《をけ》や|茶碗《ちやわん》や|杓《しやく》などで、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|潮水《しほみづ》をかへ|出《だ》してゐる、|又《また》|一波《いつぱ》|来《きた》つて、|潮水《てうすゐ》を|頭《あたま》といはず、|背中《せなか》といはず、|無遠慮《ぶゑんりよ》に|浴《あ》びせて|通《とほ》る、|忙《いそが》しさ|恐《おそ》ろしさ、|到底《たうてい》|口《くち》で|言《い》ふやうな|事《こと》ではない。
|会長《くわいちやう》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。|天《てん》の|助《たす》けか|地《ち》の|救《すく》ひか、|少《すこ》し|許《ばか》り|風《かぜ》がやわらいで|来《き》た。|従《したが》つて|波《なみ》も|稍《やや》|低《ひく》くなつた。|此《この》|一刹那《いつせつな》に、|舟人《ふなびと》は|手早《てばや》く|四隻《しせき》の|舟《ふね》を|二ケ所《にかしよ》へ|漕《こ》ぎ|寄《よ》せて、|二隻《にせき》づつからくんでみた、かうすれば|舟《ふね》の|覆没《ふくぼつ》を|免《まぬが》れるからである。……サア|是《これ》で|一安心《ひとあんしん》だと|思《おも》ふ|間《ま》もなく、|今度《こんど》は|一層《いつそう》|激烈《げきれつ》な|大颶風《だいぐふう》の|襲来《しふらい》となつた。
|雨《あめ》は|沛然《はいぜん》として|盆《ぼん》を|覆《くつがへ》すが|如《ごと》く、|車軸《しやぢく》を|流《なが》すが|如《ごと》く、|手《て》きびしく|頭《あたま》の|上《うへ》から|叩《たた》きつけるやうに|降《ふ》つて|来《く》る。|漂渺《へうべう》として|際限《さいげん》なき|海原《うなばら》も|今《いま》は|咫尺《しせき》|弁《べん》ぜざる|迄《まで》に|暗黒《あんこく》に|包《つつ》まれた。|怒《いか》れる|浪《なみ》は|揉《もみ》つもまれつ、|荒磯《あらいそ》の|岩《いは》をも|粉砕《ふんさい》せずんばやまぬ|猛勢《まうせい》である。|白《しろ》き|鬣《たてがみ》を|振《ふる》ふて|立《た》てる|浪《なみ》は|真一文字《まいちもんじ》に|舟《ふね》に|組《く》みつく、|其《その》|度《たび》|毎《ごと》に|小舟《こぶね》がグラつき|転覆《てんぷく》せむとする|危《あやふ》さ、かくある|以上《いじやう》は、|平素《へいそ》から|教祖《けうそ》を|非難《ひなん》してゐた|連中《れんちう》も、|会長《くわいちやう》を|嫉視《しつし》してゐた|小人《せうじん》もチウの|声《こゑ》|一《ひと》つ|得上《えあ》げず、|震《ふる》ひ|戦《をのの》き、|今《いま》は|只《ただ》|神《かみ》に|依《よ》り、|教祖《けうそ》に|従《したが》ひ、|会長《くわいちやう》に|依頼《いらい》して、|命《いのち》の|安全《あんぜん》を|計《はか》るより|外《ほか》|途《みち》なきに|至《いた》つたのである。
|人間《にんげん》といふものは|斯《か》うなつては|実《じつ》に|弱《よわ》い|者《もの》である。|神《かみ》のおいましめを|蒙《かうむ》つたと|各自《かくじ》が|思《おも》ふたのか、|腹《はら》の|中《なか》に|企《たく》んでゐたごもくたを|悉皆《しつかい》|吐《は》き|出《だ》して|前非《ぜんぴ》を|悔悟《くわいご》する、|誰《たれ》も|彼《かれ》も|叶《かな》はぬ|時《とき》の|神頼《かみだの》みといふ|調子《てうし》で、|一心頂礼《いつしんちやうらい》|口々《くちぐち》に|神文《しんもん》を|唱《とな》へ、|神《かみ》にお|詫《わび》を|申《まを》してゐる。|村上《むらかみ》|清次郎《せいじらう》といふ|男《をとこ》は|天《てん》から|四十三本《しじふさんぼん》の|御幣《ごへい》が|吾《わが》|舟《ふね》にお|下《くだ》りになつて、|吾等《われら》を|保護《ほご》して|下《くだ》さるのが|拝《をが》めますから、|私《わたし》は|有難《ありがた》い|事《こと》だと|思《おも》ふて|安心《あんしん》してゐます……と|嬉《うれ》し|相《さう》に|感謝《かんしや》してゐる。これは|信仰《しんかう》の|力《ちから》に|依《よ》つて、|目《め》ざめ、|神《かみ》のお|守《まも》りあることを|天眼通《てんがんつう》で|見《み》せて|貰《もら》ふたものである。|森津《もりつ》|歌吉《うたきち》は|何《なん》ともかとも|得言《えい》はず、|目《め》をむき|口《くち》を|閉《と》ぢて、|波《なみ》|許《ばか》り|恐《おそ》ろし|相《さう》にながめ、|時々《ときどき》|扇子《せんす》を|以《もつ》て|波《なみ》を|片方《かたはう》へ|押《おし》のけるやうな|気取《きどり》で、|妙《めう》な|手附《てつき》をして|拝《をが》んでゐる。|舟《ふね》に|酔《よ》ひ、|泡《あわ》をば|福林《ふくばやし》|安之助《やすのすけ》が|八百屋店《やほやみせ》をたぐり|上《あ》げ|苦《くる》しんでゐる。|会長《くわいちやう》は|聖地《せいち》を|出立《しゆつたつ》の|際《さい》、|教祖《けうそ》より、
|教祖《けうそ》『|今度《こんど》は|余程《よほど》|神《かみ》さまを|頼《たの》んで|気《き》をつけて|参《まゐ》らぬと、|先日《せんじつ》の|参拝《さんぱい》のやうに|楽《らく》には|行《ゆ》きませぬぞや、|罪《つみ》の|塊《かたまり》|計《ばか》りだから、|万々一《まんまんいち》|危急《ききふ》の|場合《ばあひ》、|命《いのち》に|関《くわん》するやうなことのあつた|時《とき》には、|之《これ》を|開《ひら》いて|見《み》るがよい……』
と|密封《みつぷう》した|筆先《ふでさき》をお|授《さづ》けになつたのを、|大切《たいせつ》に|肌《はだ》の|守《まも》りとしてつけてゐたが、|披見《ひけん》するは|今《いま》|此《この》|時《とき》だと、|懐中《くわいちゆう》より|取出《とりいだ》し、|押《お》しいただいて|披《ひら》いて|見《み》れば、|中《なか》には|平仮名《ひらがな》|計《ばか》りで、|何事《なにごと》かが|記《しる》されてある。|其《その》|筆先《ふでさき》の|大要《たいえう》は、
『|艮《うしとら》の|金神《こんじん》が|出口《でぐち》の|手《て》をかつて|気《き》をつけるぞよ、|慢心《まんしん》は|大怪我《おほけが》の|元《もと》ぢやぞよと|毎度《まいど》|筆先《ふでさき》で|知《し》らしてあるが、|今《いま》の|人民《じんみん》は|知恵《ちゑ》と|学《がく》|計《ばか》りにこり|固《かた》まり、|途中《とちう》の|鼻高《はなだか》になりて、|神《かみ》の|教《をしへ》を|聞《き》く|精神《せいしん》の|者《もの》がなきやうになりて、|天地《てんち》の|御恩《ごおん》といふことを|知《し》らぬ|故《ゆゑ》、|世《よ》の|中《なか》に|悪魔《あくま》がはびこり、|世《よ》が|紊《みだ》れる|計《ばか》りで、|此《この》|地《ち》の|上《あが》むさ|苦《くるし》くて、|神《かみ》の|住居《すまゐ》いたす|所《ところ》がないやうになりたので、|誠《まこと》の|元《もと》の|活神《いきがみ》は|此《この》|沓島《めしま》|冠島《をしま》に|集《あつ》まりて|御座《ござ》るぞよ、それ|故《ゆゑ》に|余程《よほど》|身魂《みたま》の|研《みが》けた|者《もの》でないと、|此《この》|島《しま》へは|寄《よ》せつけぬぞよ、|此《この》|曇《くも》りた|世《よ》を|水晶《すゐしやう》にすまして、|元《もと》の|神国《しんこく》に|立直《たてなほ》さねばならぬ|大望《たいもう》がある|故《ゆゑ》に|明治《めいぢ》|廿五年《にじふごねん》から、|神《かみ》は|出口《でぐち》の|手《て》をかり、|口《くち》をかりて、いろいろと|苦労《くらう》をさして、|世間《せけん》へ|知《し》らせてゐるなれど、|余《あま》り|世《よ》におちぶれて|居《を》る|出口《でぐち》|直《なほ》に|御用《ごよう》をさす|事《こと》であるから、|今《いま》の|人民《じんみん》は|誠《まこと》に|致《いた》す|者《もの》がないぞよ、|人民《じんみん》は|此《この》|結構《けつこう》なお|土《つち》の|上《うへ》に|家倉《いへくら》を|建《た》て|青畳《あをだたみ》の|上《うへ》で、|安心《あんしん》に|月日《つきひ》を|送《おく》らして|貰《もら》ひ|乍《なが》ら、|天地《てんち》の|御恩《ごおん》を|知《し》らぬ|計《ばか》りか、|神《かみ》は|此《この》|世《よ》になきものぢやと|思《おも》ふて|居《ゐ》るものがちであるから、|神《かみ》の|守護《しゆご》がうすかりたなれど、|人間《にんげん》は|神《かみ》がかまはねば、|一息《ひといき》の|間《あひだ》も|生《いき》て|居《を》る|事《こと》は|出《で》けぬぞよ、|人間《にんげん》の|此《この》|世《よ》を|渡《わた》るのは、|丁度《ちやうど》|今《いま》|此《この》|小舟《こぶね》に|乗《の》り、|荒《あら》い|海《うみ》を、|風《かぜ》と|波《なみ》にもまれて|渡《わた》るよなものである、|誠《まこと》に|人《ひと》の|身《み》の|上《うへ》ほど|危《あぶな》いはかないものはない、もし|此《この》|舟《ふね》に|一人《ひとり》の|舟人《ふなびと》と|艪櫂《ろかい》がなかりたならば、|直《すぐ》に|行《ゆ》きも|戻《もど》りもならぬよになり、|舟《ふね》を|砕《くだ》くか、ひつくり|返《かへ》るか、|人《ひと》も|舟《ふね》も|海《うみ》の|藻屑《もくづ》とならねばなるまい、|人民《じんみん》も|神《かみ》の|御守護《ごしゆご》なき|時《とき》は|少時《しばらく》も|此《この》|世《よ》に|居《を》ることは|出来《でき》ぬ、|此《この》|世《よ》の|中《なか》は、|人《ひと》を|渡《わた》す|舟《ふね》のようなもので、|神《かみ》の|教《をしへ》は|艪櫂《ろかい》である、|出口《でぐち》|直《なほ》は|此《この》|舟《ふね》を|操《あやつ》る|舟人《ふなびと》のよな|者《もの》である。|今《いま》の|困難《こんなん》を|腹《はら》わたにしみ|込《こ》ませて、いつ|迄《まで》も|忘《わす》るる|事《こと》なく、|神《かみ》さまの|恵《めぐみ》を|悟《さと》つて|信心《しんじん》を|怠《おこた》るなよ、|何事《なにごと》も|皆《みな》|信心《しんじん》の|力《ちから》によつて、|成就《じやうじゆ》するのであるから、|神《かみ》の|御子《みこ》と|生《うま》れ|出《い》でたる|人民《じんみん》は、チツとの|間《ま》も|神《かみ》を|離《はな》れるな、|道《みち》をかへるな、|欲《よく》に|惑《まど》うな、|誠《まこと》|一《ひと》つで|神《かみ》の|教《をしへ》に|従《したが》へ、|災《わざはい》|多《おほ》き|暗《くら》がりの|世《よ》は|誠《まこと》の|活神《いきがみ》より|外《ほか》にたよりとなり|力《ちから》となる|者《もの》はないぞよ|云々《うんぬん》』
といふ|懇切《こんせつ》なる|神示《しんじ》であつた。あゝ|神《かみ》は|吾等《われら》|一行《いつかう》の|我慢《がまん》を|戒《いまし》め、|邪念《じやねん》を|払《はら》ひて、|誠《まこと》の|道《みち》に|導《みちび》き|至幸《しかう》|至福《しふく》ならしめむが|為《ため》に、|此《この》|荒《あら》き|海原《うなばら》へ|連《つ》れ|出《だ》し、かくも|懇切《こんせつ》なる|教訓《けうくん》を|垂《た》れさせ|玉《たま》ひしかと、|悪鬼《あくき》|邪神《じやしん》の|如《ごと》き|連中《れんちう》も、ここに|始《はじ》めて|神《かみ》の|厚恩《こうおん》を|悟《さと》り、|教祖《けうそ》の|非凡《ひぼん》なる|神人《しんじん》たるに|舌《した》をまくのみであつた。
|又《また》|其《その》|筆先《ふでさき》の|終《をは》りの|所《ところ》に|一段《いちだん》と|細《ほそ》い|字《じ》を|以《もつ》て、
『|上田《うへだ》の|持《も》ちて|居《を》る|巻物《まきもの》は、|此《この》|際《さい》|披《ひら》き|見《み》よ』
と|示《しめ》されてあつた。|此《この》|巻物《まきもの》は|本田《ほんだ》|親徳《ちかあつ》|先生《せんせい》より、|長沢《ながさは》|豊子《とよこ》の|手《て》を|通《つう》じて|授《さづ》けられたる|無二《むに》の|宝典《ほうてん》である。|片時《かたとき》も|肌《はだ》を|離《はな》さず、|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|場合《ばあひ》、|神《かみ》のお|許《ゆる》しあるまで、|決《けつ》して|開《ひら》くなとの|教《をしへ》を|確守《かくしゆ》し、|今迄《いままで》|大切《たいせつ》に|肌《はだ》の|守《まも》りにしてゐたのであるが、|今《いま》や|一行《いつかう》の|精霊《せいれい》を|救《すく》はねばならぬ|場合《ばあひ》に|当《あた》り、|始《はじ》めて|開《ひら》く|玉手箱《たまてばこ》、|何《なに》が|記《しる》してあるかと、|恐《おそ》る|恐《おそ》る|押頂《おしいただ》き|伏《ふ》し|拝《をが》み、|披《ひら》き|見《み》れば……
|尊《たふと》きかも、|畏《かしこ》きかも、|救世《きうせい》の|神法《しんぱふ》、|霊学《れいがく》の|大本《たいほん》と|数十百《すうじふひやく》に|亘《わた》る|神業《かむわざ》、|其《その》|大要《たいえう》は|喜楽《きらく》が|高熊山《たかくまやま》の|霊山《れいざん》にて|見聞《けんぶん》したる|事実《じじつ》と|符合《ふがふ》し、|神秘《しんぴ》に|属《ぞく》し、|他言《たげん》を|許《ゆる》されぬもののみであつた。|会長《くわいちやう》は|此《この》|一巻《いつくわん》に|納《をさ》めたる、|神法《しんぱう》を|実行《じつかう》する|時機《じき》|正《まさ》に|到来《たうらい》したりと、|天《てん》にも|昇《のぼ》るが|如《ごと》く|勇《いさ》み|立《た》ち、|心鏡《しんきやう》|正《まさ》に|玲瓏《れいろう》たり、|百折《ひやくせつ》|撓《たゆ》まず|屈《くつ》せず、|暴風《ばうふう》|強雨《きやうう》|何者《なにもの》ぞ、|水火《すいくわ》|何者《なにもの》ぞ、|満腔《まんこう》の|精神《せいしん》は|益々《ますます》|颶風《ぐふう》と|戦《たたか》ひ、|言霊《ことたま》の|神力《しんりき》を|以《もつ》て、どこまでも|之《これ》に|打克《うちか》たむとの|勢《いきほひ》|頓《とみ》に|加《くは》はり|来《きた》る、|慾《よく》を|離《はな》れ、|利《り》をはなれ、|家《いへ》を|離《はな》れ、|自己《じこ》を|離《はな》れ、|社会《しやくわい》を|離《はな》れて|只《ただ》|神《かみ》あるのみ、|全《まつた》く|神《かみ》の|御懐《みふところ》に|抱《いだ》かれゐる|身《み》は、|如何《いか》なる|事《こと》も|恐《おそ》るるに|及《およ》ばず、|大丈夫《だいぢやうぶ》|大安心《だいあんしん》なり、|怒《いか》れよ|狂瀾《きやうらん》、|躍《をど》れよ|波濤《はたう》、|吹《ふ》けよ|強風《きやうふう》、|荒《すさ》べよ|暴風《ばうふう》、|汝《なんぢ》の|怒《いか》りは|雄大《ゆうだい》なり、|壮烈《さうれつ》なり、|我《われ》は|今《いま》|汝《なんぢ》の|怒《いか》りに|依《よ》つて|生《い》ける|誠《まこと》の|神《かみ》の|教《をしへ》を|受《う》けたり、|今《いま》の|会長《くわいちやう》は|以前《いぜん》の|会長《くわいちやう》に|非《あら》ず、|今《いま》は|全《まつた》く|神《かみ》の|生宮《いきみや》となれり。|暴風《ばうふう》|強雨《きやうう》|来《きた》れと、|十曜《とえう》の|紋《もん》の|記《しる》されし、|神官扇《しんくわんあふぎ》を|差上《さしあ》げて、|天《あめ》の|御柱《みはしら》の|神《かみ》、|国《くに》の|御柱《みはしら》の|神《かみ》、|天《あめ》の|水分神《みくまりのかみ》、|国《くに》の|水分神《みくまりのかみ》、|大和田津見神《おほわだつみのかみ》|静《しづ》まり|玉《たま》へ……と|宣《の》る|言霊《ことたま》に、|不思議《ふしぎ》や|風《かぜ》やみ|雨《あめ》やみ|波《なみ》|従《したが》つて|静《しづ》まりぬ。|舟人《ふなびと》はおどろいて、
『|先生《せんせい》は|神《かみ》さまで|御座《ござ》いませう』
と|舌《した》をまいて|感嘆《かんたん》してゐる。|抑《そもそ》も|我《わが》|国《くに》は|神《かみ》の|御国《みくに》なれば、|惟神《かむながら》の|道《みち》と|称《しよう》し、|幽玄微妙《いうげんびめう》の|神教《しんけう》あり、|神力《しんりき》|無限《むげん》の|言霊《ことたま》あり、|実《じつ》に|尊《たふと》き|天国《てんごく》|浄土《じやうど》である。|舟《ふね》は|漸《やうや》くにして|冠島《をしま》へ|避難《ひなん》する|事《こと》を|得《え》た。|第一着《だいいちちやく》に|老人島神社《おいとじまじんじや》に|供物《くぶつ》を|献《けん》じ|救命《きうめい》|謝恩《しやおん》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|次《つ》いで|綾部《あやべ》|本宮《ほんぐう》を|遥拝《えうはい》し、|一行《いつかう》の|罪《つみ》|重《おも》き|者《もの》の|沓島《めしま》|参拝《さんぱい》は|到底《たうてい》|神慮《しんりよ》に|叶《かな》はざるべしと|再《ふたた》び|帰路《きろ》の|安全《あんぜん》を|祈《いの》りつつ|厚《あつ》き|神《かみ》の|守《まも》りの|下《もと》に|漸《やうや》く|舞鶴《まひづる》に|帰着《きちやく》し|一同《いちどう》|茲《ここ》に|一泊《いつぱく》することとなつた。
|大丹生屋《おほにふや》の|二階《にかい》の|一間《ひとま》に|横臥《わうぐわ》して|所労《しよらう》を|休《やす》めてゐる、|会長《くわいちやう》の|枕許《まくらもと》へ|杉浦《すぎうら》|万吉《まんきち》といふ|男《をとこ》|出《い》で|来《きた》り、|手《て》をつかへ、|面《おもて》に|改悛《かいしゆん》の|色《いろ》を|現《あら》はし、|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》し|乍《なが》ら、
|杉浦《すぎうら》『|先生《せんせい》にお|詫《わび》を|致《いた》さねばならぬ|事《こと》があります。|申上《まをしあ》ぐるのも|畏《おそれおほ》きことなれど、|実《じつ》の|所《ところ》は|吾々《われわれ》|数名《すうめい》は|相談《さうだん》の|上《うへ》、|先生《せんせい》の|懐《ふところ》にある|巻物《まきもの》を|預《あづか》り、|其《その》|上《うへ》○○せむと○○をなし、|本会《ほんくわい》の|為《ため》に|雲霧《くもきり》を|払《はら》ひ|清《きよ》め、|其《その》|後釜《あとがま》には|四方《しかた》|春三《はるざう》サンを|据《す》ゑて、|吾々《われわれ》が|思惑《おもわく》を|貫徹《くわんてつ》せむと|欲《ほつ》し、|其《その》|手段《しゆだん》として|先生《せんせい》に|対《たい》し、|沓島《めしま》|参拝《さんぱい》を|無理《むり》に|御願《おねがひ》したので|御座《ござ》います、|乍併《しかしながら》|神様《かみさま》の|厳《きび》しきおさばきにより、|命《いのち》|辛々《からがら》の|目《め》に|会《あ》ふたのは、|全《まつた》く|神《かみ》さまより|吾々《われわれ》に|改心《かいしん》せよとの|御戒《おいまし》めで|御座《ござ》いませう、|何《ど》うぞ|自分等《じぶんら》の|罪《つみ》を|赦《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
と|平身《へいしん》|低頭《ていとう》して|聞《き》くも|恐《おそ》ろしい|物語《ものがたり》をするのであつた。|会長《くわいちやう》は|前日《ぜんじつ》より|略《ほぼ》|探知《たんち》してゐたので、|今更《いまさら》|余《あま》り|驚《おどろ》きもなさず、|笑《わら》うてこれを|許《ゆる》した。|暫《しばら》くあつて|綾部《あやべ》の|本部《ほんぶ》より|教祖《けうそ》の|命令《めいれい》によつて|四方《しかた》|平蔵《へいざう》が|四方《しかた》|春三《はるざう》を|伴《ともな》ひ、|沓島《めしま》|行《ゆ》きの|一行《いつかう》を|迎《むか》ひに|来《きた》り、|一同《いちどう》の|無事《ぶじ》を|祝《しゆく》し、|冥土《めいど》の|旅《たび》から|帰《かへ》つたやうに|小《こ》をどりして|喜《よろこ》んだ。|四方《しかた》|春三《はるざう》も|杉浦《すぎうら》の|改悟《かいご》を|聞《き》いて|包《つつ》むに|包《つつ》みきれず、|陰謀《いんぼう》を|逐一《ちくいち》|自白《じはく》し、
|四方《しかた》『あゝ|私《わたし》の|心《こころ》には|悪神《あくがみ》が|潜《ひそ》んでゐたのでせう、これからキツと|改心《かいしん》|致《いた》します』
と|真心《まごころ》から|涙《なみだ》を|流《なが》して|有体《ありてい》に|謝罪《しやざい》するのを|見《み》ると、|却《かへ》つて|可哀相《かあいさう》になつて|来《き》た。|雨《あめ》|降《ふ》つて|地《ち》|固《かた》まるとやら、|今度《こんど》の|遭難《さうなん》にて|誰《たれ》も|彼《か》れも|一時《いちじ》に|悔《く》ゐ|改《あらた》め、|道《みち》の|曙光《しよくわう》を|認《みと》めるやうになつたのも、|全《まつた》く|神《かみ》の|深遠《しんゑん》なる|思召《おぼしめし》によることと、|会長《くわいちやう》は|益々《ますます》|其《その》|信念《しんねん》を|鞏固《きようこ》ならしめた。
|二十二日《にじふににち》の|夕方《ゆふがた》|無事《ぶじ》に|館《やかた》に|帰《かへ》り、|神前《しんぜん》に|一同《いちどう》|拝礼《はいれい》し|各々《おのおの》|家《いへ》に|帰《かへ》つた。
(大正一一・一〇・一七 旧八・二七 松村真澄録)
第一六章 |禁猟区《きんりようく》〔一〇五三〕
|梅雨《ばいう》|朦朧《もうろう》として|昼《ひる》|尚《なほ》|暗《くら》く、|湿潤《しつじゆん》|家《いへ》に|満《み》ちて|万物《ばんぶつ》|黴花《かび》を|生《しやう》じ、|山色空朦《さんしよくくうもう》|烟光霏々《えんくわうひひ》たる|六月《ろくぐわつ》の|二十一日《にじふいちにち》、|狭田《さだ》も|長田《ながた》も|手肱《たなひぢ》に|水泡《みなわ》かき|足《た》り、|向股《むかもも》に|泥《ひじ》かきよせて|早乙女《さおとめ》の|三々伍々《さんさんごご》|隊《たい》を|成《な》し、|蓑笠《みのかさ》の|甲冑《かつちう》を|取《とり》よろひ、|手覆脚絆《ておひきやはん》の|小手脛当《こてすねあて》、|声《こゑ》|勇《いさ》ましく|田歌《たうた》を|歌《うた》ひつつ、|国《くに》の|富貴《ふうき》を|植《う》ゑて|行《ゆ》く、|狗《いぬ》の|手《て》も|人《ひと》の|手《て》てふ|農家《のうか》の|激戦場裡《げきせんぢやうり》、|安閑坊《あんかんばう》|喜楽《きらく》、|梅田《うめだ》|柳月《りうげつ》、|大槻《おほつき》|伝吉《でんきち》の|三人《さんにん》の|土倒《どたふ》し|者《もの》は、|今《いま》しも|本院《ほんゐん》を|立出《たちい》でて、|本町《ほんまち》|西町《にしまち》とふみ|抜《ぬ》く|道《みち》は|狭《せま》くも|広小路《ひろこうぢ》、|駆《か》け|出《だ》す|馬場《ばば》や|六《む》つの|足《あし》、|綾部《あやべ》|停車場《ていしやば》にと|走《は》せ|付《つ》けた。|往《ゆ》くは|何処《いづこ》ぞ|和知《わち》の|川《かは》、|音無瀬鉄橋《おとなせてつけう》|音《おと》|高《たか》く、|梅雨《ばいう》を|犯《おか》して|梅迫駅《うめざこえき》、|停車《ていしや》|間《ま》もなく、|真倉《まくら》の|洞穴《トンネル》、|小暗《こぐら》き|中《なか》を|吾物顔《わがものがほ》に|轟々《ぐわうぐわう》と|脱《ぬ》け|出《い》づれば、|山媛《やまひめ》の|青《あを》き|御袖《みそで》を|振《ふり》はえて、|炭団《たどん》の|如《ごと》き|三人《さんにん》の|顔《かほ》を|暫《しば》し|掩《おほ》はせ|玉《たま》ふも、|時《とき》に|取《と》つての|風情《ふぜい》である。|車中《しやちう》|乍《なが》ら|心《こころ》も|勇《いさ》み|胆《きも》|躍《をど》り、|欣喜《きんき》の|余《あま》り|手《て》も|足《あし》も|舞鶴駅《まひづるえき》に|舞下《まひくだ》り、|新橋詰《しんばしづめ》の|船問屋《ふなどんや》|西川《にしかは》|方《かた》へと|流《なが》れ|込《こ》んだ。
|折柄《をりから》|切《しき》りに|降《ふ》り|注《そそ》ぐ|大粒《おほつぶ》の|雨《あめ》に|胆《きも》を|打《う》たれたか、|予約《よやく》の|水夫《すいふ》は|刻限《こくげん》|来《きた》るも|俤《おもかげ》だに|見《み》せぬ。|天道殿《てんだうどの》は|罪《つみ》|重《おも》き|三人《さんにん》の|参島《さんたう》の|企《くはだ》てをおぢやんにせむず|御心《みこころ》にや、|意地《いぢ》|悪《わる》く|間断《かんだん》なく、|無遠慮《ぶゑんりよ》に|天水分神《あめのみくまりのかみ》を|遣《つか》はせ|玉《たま》ふ。|何時迄《いつまで》|待《ま》つても|空《そら》が|晴《は》れさうにも|無《な》いが、|雨《あめ》は|元《もと》より|覚悟《かくご》の|前《まへ》だ。|併《しか》し|肝腎《かんじん》の|舟《ふね》の|神《かみ》が|御出《おいで》にならぬのには|大閉口《だいへいこう》、さりとて|中途《ちうと》に|帰《かへ》るのは|死《し》んでも|厭《いや》な|三人《さんにん》、|畳《たたみ》の|上《うへ》に|居《ゐ》ても|死《し》ぬ|時《とき》には|死《し》ぬる、|生死《せいし》は|天《てん》なり、|惟神《かむながら》なり、|是非《ぜひ》|水夫《すいふ》を|呼《よ》びにやつて|下《くだ》さいと|促《うなが》す。|西川《にしかは》の|後家《ごけ》サンも|止《や》むを|得《え》ず、|田中《たなか》、|橋本《はしもと》|二人《ふたり》を、|人《ひと》を|以《もつ》て|呼寄《よびよ》せた。|出口《でぐち》|教祖《けうそ》が|始《はじ》めて|沓島開《めしまびら》きをなされた|時《とき》に|御供《おとも》をした|水夫《すいふ》である。|数千《すうせん》の|漁夫《ぎよふ》の|中《なか》にて|最《もつと》も|剛胆《がうたん》な、|熟練《じゆくれん》な|聞《きこ》えある|選抜《よりぬ》きの|漁夫《ぎよふ》、これなら|大丈夫《だいぢやうぶ》、|何時《いつ》でも|二《ふた》つ|返辞《へんじ》で|往《い》つて|呉《く》れるだらうと|喜《よろこ》び|勇《いさ》んだ|甲斐《かひ》もなく、|案《あん》に|相違《さうゐ》した|弱音《よわね》を|吹《ふ》くのである。
『|何《なん》ぼ|信神《しんじん》で|参拝《まゐ》るにしても、|神様《かみさま》の|御守護《ごしゆご》があるにしても、|此《この》|気色《けしき》では|鬼《おに》で|無《な》くて|行《ゆ》けんでの、マア|二三日《にさんにち》ゆるりと|遊《あそ》んで|待《ま》つてお|呉《く》れ。|天候《けしき》が|定《き》まつたら、お|伴《とも》をさして|貰《もら》はうかいの、|明日《あす》は|又《また》|冠島様《をしまさま》の|一年《いちねん》|一度《いちど》の|御祭典《ごさいてん》で、|今晩《こんばん》は|冠島《をしま》の|明神《みやうじん》が|神船《かみふね》に|乗《の》つて、|対岸《たいがん》の|新井崎神社《にゐさきさん》に|御渡海《ごとかい》になるので|恐《おそ》ろしい|夜《よ》さだ。|中々《なかなか》|舟《ふね》は|出《だ》せぬでの、|若《も》し|神《かみ》の|御心《みこころ》にでも|障《さわ》つたら|大変《たいへん》だ。|桑名《くはな》の|亀造《かめざう》で|無《な》けら、|今晩《こんばん》|舟《ふね》を|出《だ》す|者《もの》は|無《な》いわいの』
と|臆病風《おくびやうかぜ》に|魅《みい》せられたか、|一向《いつかう》|色《いろ》よい|返事《へんじ》をしてくれぬ。|三人《さんにん》は|況《ま》して|今夜《こんや》の|様《やう》な|行《ゆ》けぬと|云《い》ふ|日《ひ》に|行《い》つて|見《み》たいのが|希望《きばう》だ。|是非々々《ぜひぜひ》|賃金《ちんぎん》は|厭《いと》はぬ、やつてくれい……と|泣《な》く|様《やう》に|頼《たの》む。|水夫《すいふ》は|益々《ますます》|恐怖心《きようふしん》に|駆《か》られ、ソロソロ|卑怯《ひけふ》にも|逃《に》げ|帰《かへ》らむとする。|逃《に》げられては|堪《たま》らぬので、|口々《くちぐち》に|宥《なだ》めつ|賺《すか》しつ、|直往勇進《ちよくわうゆうしん》|断々乎《だんだんこ》として|行《おこな》へば|鬼神《きじん》も|之《これ》を|避《さ》くとの|教祖《けうそ》の|神諭《をしへ》を|楯《たて》に|取《と》りて|動《うご》かぬ。|互《たがひ》に|押問答《おしもんだう》の|果《はて》しもなく、|遂《つひ》には|水夫《すいふ》も|口《くち》をとぢて|呆然《ばうぜん》として、|只々《ただただ》|謝絶《しやぜつ》|一点《いつてん》|張《ば》り、|波《なみ》に|取《と》られた|沖《おき》の|舟《ふね》で、|取付《とりつ》く|島《しま》がない、|吾等《われら》|平時《へいじ》に|於《おい》てこそ|温柔《おんじう》なること|綿羊《めんやう》の|如《ごと》くなれ、|目的《もくてき》|遂行《すゐかう》に|対《たい》しては|猛虎《まうこ》の|如《ごと》く、|一向《いつかう》|直進《ちよくしん》|眼中《がんちう》|風雨《ふうう》なく|海洋《かいやう》なし、|満腔《まんこう》の|勇気《ゆうき》は|烈火《れつくわ》の|如《ごと》く|挺身《ていしん》|突撃《とつげき》|死《し》を|見《み》る|帰《き》するが|如《ごと》き|覚悟《かくご》ありと|雖《いへど》も、|如何《いかん》せむ|舟《ふね》を|操《あやつ》ることを|知《し》らない|三人《さんにん》は、|肝腎《かんじん》の|機関士《きくわんし》に|見放《みはな》されたが|最後《さいご》、|神《かみ》ならぬ|石仏《いしぼとけ》|同様《どうやう》の|身《み》、|海上《かいじやう》|一寸《ちよつと》も|進航《しんかう》することが|出来《でき》ぬのである。|外《ほか》の|水夫《すいふ》も|雇入《やとひい》れむにも、|生憎《あひにく》|一人《いちにん》も|応《おう》ずる|者《もの》がない。とうとう|根負《こんまけ》して、
『そんなら|明朝《みやうてう》|一時《いちじ》まで|自分等《じぶんら》は|待《ま》つ|事《こと》にせう、キツと|雨《あめ》も|止《や》み、|快晴《くわいせい》になるは|請合《うけあひ》の|西瓜《すゐくわ》だ、|吾々《われわれ》の|出修《しゆつしう》には|必《かなら》ず|天祐《てんいう》があるから|安心《あんしん》して|行《い》つてお|呉《く》れ』
と|口《くち》から|出任《でまか》せ、|覚束《おぼつか》なき|予言《よげん》を|二人《ふたり》は|嘲笑《からか》ひ、|自分等《じぶんら》を|馬鹿《ばか》にした|様《やう》な|面付《つらつき》でシブシブ|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
|三人《さんにん》|問屋《とんや》の|部屋《へや》でガツト|虫《むし》の|様《やう》に|小《ちひ》さく|縮《ちぢ》かんで|寝《しん》に|就《つ》いた。|大方《おほかた》|白川《しらかは》|夜船《よぶね》でも|漕《こ》いで|居《ゐ》たであらう。|一眠《ひとねむり》したと|思《おも》ふ|時分《じぶん》に、|大丹生屋《おほにふや》の|門口《かどぐち》を|打叩《うちたた》き、
『お|客《きやく》さん|昼《ひる》の|船頭《せんどう》が|来《き》た』
と|叫《さけ》んでゐる。……サア|占《しめ》た……と|一度《いちど》にはね|起《お》き、|又《また》も|御意《ぎよい》の|変《かは》らぬ|内《うち》と、|直《ただち》に|支度《したく》に|取《とり》かかつた。
『|船頭《せんどう》さん、|天気《てんき》はゼロだらう』
とからかへば、
『イヤ|気色《けしき》は|大変《たいへん》よい|様《やう》だが、|往《ゆ》ける|丈《だけ》|行《い》つて|見《み》な|判《わか》らぬ』
とまだ|煮《に》え|切《き》らぬ|返事《へんじ》である。
|時節《じせつ》|到来《たうらい》|港口《かうこう》を|出《で》たのは|廿二日《にじふににち》の|正《まさ》に|午前《ごぜん》|二時《にじ》であつた。ヤハリ|空《そら》は|曇《くも》り|切《き》つて|星《ほし》|一《ひと》つ|青雲《あをくも》|一片《いつぺん》|見当《みあた》らぬが、|米価《べいか》のあがる|糠雨《ぬかあめ》が、ピリピリと|怖《こわ》|相《さう》に|一行《いつかう》の|顔《かほ》を|嘗《な》める|位《くらゐ》。|例《れい》の|南泊辺《みなみとまりへん》まで|乗《の》り|出《だ》すと、|火光《くわくわう》|海面《かいめん》を|照《て》らして|疾走《しつそう》せる|一隻《いつせき》の|大汽船《だいきせん》に|行違《ゆきちが》うた。|其《その》|動波《どうは》の|為《ため》に|吾《わが》|小舟《をぶね》を|自由自在《じいうじざい》に|翻弄《ほんろう》されたのは、|実《じつ》に|癪《しやく》にさわつて|堪《たま》らぬ。|暫《しばら》くすると|天《てん》は|所々《ところどころ》|雨雲《あまぐも》の|衣《ころも》を|脱《ぬ》いで、|蒼《あを》い|雲《くも》の|肌《はだへ》を|現《あら》はし、|点々明滅《てんてんめいめつ》、|天書《てんしよ》|現《あら》はるるも、|連日《れんじつ》の|降雨《あめ》で|内海《うちうみ》の|部分《ぶぶん》は|水《みづ》が|濁《にご》つて|居《を》るせいか、|今夜《こんや》は|清《きよ》き|星《ほし》が|波《なみ》に|宿《やど》を|借《か》りて|居《を》らぬ。|博奕ケ崎《ばくちがさき》も|後《あと》に|見《み》て|漕《こ》ぎ|行《ゆ》く|程《ほど》に、|東天《とうてん》|紅《くれない》を|潮《てう》して|遥《はるか》の|山頂《さんちやう》より|隆々《りうりう》|朝瞰《てうとん》を|吐出《はきだ》し、|冠島《をしま》|沓島《めしま》は|眼前《がんぜん》に|横《よこた》はり、|胸中濶然《きようちうくわつぜん》|欣〓歓呼《きんべんくわんこ》|覚《おぼ》えず|拍手《はくしゆ》|神島《しま》を|遥拝《えうはい》し、|各自《かくじ》に|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し|奉《たてまつ》る。|海上《かいじやう》は|至極《しごく》|平穏《へいおん》で、|縮緬《ちりめん》の|様《やう》な|波《なみ》が|奇麗《きれい》に|流《なが》れて|居《ゐ》る。|水夫《すいふ》は|汗水《あせみどろ》になつて|力限《ちからかぎ》り|艫《とも》と|舳《へさき》とから|漕《こ》ぎ|付《つ》ける。|小舟《こぶね》は|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く、|鳥《とり》の|翔《た》つ|如《ごと》く|冠島《をしま》へ|着《つ》いたのは|恰度《ちやうど》|六時《ろくじ》に|五分前《ごふんまへ》であつた。
|何時《いつ》でも|片道《かたみち》に|十時間《じふじかん》|以上《いじやう》|十二時間《じふにじかん》はかかるものを、|今回《こんくわい》に|限《かぎ》つて|僅《わづか》に|四時間《よじかん》|足《た》らずとは|実《じつ》に|意外《いぐわい》であつた。|喜楽《きらく》は|得意《とくい》|満面《まんめん》に|溢《あふ》れて、
|喜楽《きらく》『|罪《つみ》の|軽《かる》い|安閑坊《あんかんばう》が|参拝《さんぱい》すると|此《この》|通《とほ》りだ、|神様《かみさま》は|公平《こうへい》|無私《むし》で|在《あ》らせられる』
と|一人《ひとり》で|調子《てうし》に|乗《の》つて|居《ゐ》る。|冠装束《かむりしやうぞく》いかめしく|徐々《じよじよ》|神前《しんぜん》に|進《すす》み、|供物《くぶつ》を|献《けん》じ、|祝詞《のりと》を|奏《そう》し、|拝礼《はいれい》|了《をは》つて、|恭《うやうや》しく|社殿《しやでん》を|罷《まか》りさがつた。|記念《きねん》の|為《ため》に|自分《じぶん》は|神前《しんぜん》の|丸石《まるいし》を|一個《いつこ》|頂戴《ちやうだい》した。|勿論《もちろん》|交換《かうくわん》の|石《いし》を|持参《ぢさん》して|居《ゐ》るのであるから、|只《ただ》|頂戴《ちやうだい》したのではない、|今日《けふ》は|明神《みやうじん》の|祭日《さいじつ》とて、|前日《ぜんじつ》から|数名《すうめい》の|氏子《うぢこ》が|社務所《しやむしよ》に|出入《でい》りして、|境内《けいだい》の|掃除《さうぢ》を|行《や》つて|居《ゐ》る。
『|早《はや》うから|参詣《さんけい》でしたなア、マア|一服《いつぷく》なさい』
と|座《ざ》を|譲《ゆづ》る|親切《しんせつ》を|厚《あつ》く|感謝《かんしや》しつつ、|再《また》|海浜《かいひん》の|船繋場《ふなつなぎば》に|引返《ひきかへ》した。|名木《めいぼく》の|冠島桑《をしまくは》は|去年《きよねん》の|夏《なつ》、|或者《あるもの》の|為《ため》に|盗伐《たうばつ》されて|了《しま》つて|影《かげ》も|止《とど》めず、|僅《わづか》に|三尺《さんじやく》|許《ばか》り|周《まわ》つた|桑樹《さうじゆ》が|波打際《なみうちぎは》に|根《ね》こじに|古自《こじ》て|横《よこ》たへられてある。|実《じつ》に|憤慨《ふんがい》に|堪《た》へぬ|次第《しだい》である。
『|一昨年《いつさくねん》あたりから、|横浜《よこはま》や|神戸《かうべ》あたりから|六七十人《ろくしちじふにん》の|団体《だんたい》がやつて|来《き》て、|五六十万羽《ごろくじふまんば》の|鯖鳥《さばとり》を|密猟《みつれふ》したので、|近頃《ちかごろ》は|大変《たいへん》に|鳥《とり》が|減《へ》つて、|漁猟《ぎよれふ》に|差支《さしつかへ》て|皆《みな》の|者《もの》が|困《こま》つとるわいの』
と|水夫《すいふ》|二人《ふたり》が|悲《かな》しさうに|物語《ものがた》りつつ、|早《はや》くも|沓島《めしま》に|向《むか》つて|漕出《こぎだ》した。
|冠島《をしま》|沓島《めしま》の|中津神岩《なかつかみいは》には|数十羽《すうじつぱ》の|沖《おき》つ|鳥《とり》、|胸《むな》|見《み》る|姿《すがた》|羽《は》たたきも|此《こ》れ|宜《よ》しと|流《なが》し|目《め》に、|一行《いつかう》の|舟《ふね》を|見送《みおく》つて|居《ゐ》る。|浅久里《あさぐり》、|棚《たな》の|下《した》の|巌壁《がんぺき》を|面白《おもしろ》く|左手《ゆんで》に|眺《なが》めて、|諸鳥《もろどり》の|囀《さへづ》る|声《こゑ》は|鐘《つりがね》の|岩《いは》の|真下《ました》に|漕《こ》ぎつけた。|奇絶壮絶《きぜつさうぜつ》|胸為《むねため》に|清涼《せいりやう》を|覚《おぼ》ゆ。
|去《さ》る|明治《めいぢ》|三十四年《さんじふよねん》、|見渡《みわた》せば|山野《さんや》は|靉靆《あいたい》として|花《はな》の|香《か》に|匂《にほ》ひ、|淡糊《うすのり》を|解《と》いて|流《なが》したやうな|春霞《はるがすみ》はパノラマの|如《ごと》き|景色《けしき》の|配合《はいがふ》を|調和《てうわ》して、|鳥《とり》は|新緑《しんりよく》の|梢《こずゑ》に|謳《うた》ひ、|蝶《てふ》は|黄金《わうごん》の|菜《な》の|花《はな》に|舞《ま》うてゐる|好時節《かうじせつ》、|舞鶴《まひづる》の|海《うみ》は|白波《はくは》のゆるやかに|転《ころ》び|来《きた》つて、|遠《とほ》きは|黄《き》に|近《ちか》きは|白《しろ》く、それが|日光《につくわう》に|反射《はんしや》して、|水蒸気《すゐじようき》の|多《おほ》い|春《はる》の|海《うみ》を|縁取《ふちど》つて、|得《え》も|言《い》はれぬ|絶景《ぜつけい》|天下《てんか》|泰平《たいへい》の|真最中《まつさいちう》、|出口《でぐち》|教祖《けうそ》は|三十五名《さんじふごめい》の|教弟《をしへご》を|引連《ひきつ》れられて、|此《この》|鐘岩《つりがねいは》の|絶頂《ぜつちやう》に|登《のぼ》り|立《た》ち、|丹後国《たんごのくに》|宮川《みやがは》の|上流《じやうりう》、|天岩戸《あまのいはと》の|産水《うぶみづ》と|竜宮館《りうぐうやかた》の|真清水《ましみづ》を|汲《く》み|来《こ》られ、|眼下《がんか》の|海原《うなばら》|見《み》かけて、|恭《うやうや》しく|撒布《さんぷ》し|玉《たま》ひ、|祝《しゆく》して|仰《あふ》せらるるやう、
|教祖《けうそ》『|向後《こうご》|三年《さんねん》の|後《のち》には|必《かなら》ず|日露《にちろ》の|開戦《かいせん》がある。|其《その》|時《とき》は|巨人《きよじん》の|如《ごと》き|強大国《きやうだいこく》と|小児《せうに》の|如《ごと》き|小国《せうこく》とが、|世界《せかい》|列国《れつこく》|環視《くわんし》の|下《もと》で、|所謂《いはゆる》|晴《は》れの|場所《ばしよ》、|檜舞台《ひのきぶたい》の|上《うへ》での|腕比《うでくら》べの|大戦争《だいせんそう》であるから、|万々一《まんまんいち》|不幸《ふかう》にして、|我《わが》|国《くに》が|不利《ふり》の|戦争《せんそう》に|終《をは》るやうな|事《こと》になつたら、それこそ|大変《たいへん》、|万却末代《まんごふまつだい》|日本《にほん》|帝国《ていこく》の|頭《あたま》が|上《あが》らぬ。そこで|国祖《こくそ》の|神霊《しんれい》|大《おほい》に|之《これ》を|憂慮《いうりよ》し|玉《たま》ひ、|今《いま》|此《この》|老躯《らうく》をここに|遣《つか》はし、|世界《せかい》|平和《へいわ》の|為《ため》、|日東帝国《につとうていこく》の|国威《こくゐ》|宣揚《せんやう》の|為《ため》|祈願《きぐわん》せさせ|玉《たま》ふなり、あゝ|艮《うしとら》の|大金神《だいこんじん》|国常立尊《くにとこたちのみこと》よ、|仰《あふ》ぎ|願《ねが》はくは|太平洋《たいへいやう》の|如《ごと》く|広《ひろ》く、|日本海《にほんかい》の|如《ごと》く|深《ふか》き|御庇護《ごひご》を|我《わが》|神国《しんこく》|日本《にほん》の|上《うへ》に|降《くだ》し|玉《たま》ひて、|此《この》|清《きよ》けき|産水《うぶみづ》と|美《うる》はしき|真清水《ましみづ》の|海洋《かいやう》を|一周《いつしう》し、|雲《くも》となり、|雨《あめ》となり、|或《あるひ》は|雪《ゆき》となり|霰《あられ》となつて、|普《あまね》く|五大洲《ごだいしう》を|潤《うるほ》はし、|天下《てんか》の|曲霊《まがひ》を|掃蕩《さうたう》し、|汚穢《をゑ》を|洗滌《せんぜう》し、|天国《てんごく》を|地上《ちじやう》に|建設《けんせつ》し、|豊葦原瑞穂国《とよあしはらのみづほのくに》をして、|真《まこと》の|楽境《たかま》となさしめ、|黄金世界《わうごんせかい》を|現出《げんしゆつ》せしめ|玉《たま》へ』
と|満腔《まんこう》の|熱誠《ねつせい》と|信仰《しんかう》をこめ、|天地《てんち》も|崩《くづ》るる|許《ばか》りの|大音声《だいおんじやう》を|振《ふ》り|上《あ》げて|祈願《きぐわん》されし|断岩《だんがん》は|即《すなは》ち|此《こ》れであると、|喜楽《きらく》の|談《はなし》を|聞《き》いた|一行《いつかう》は、|是非《ぜひ》|一度《いちど》|登岩《とがん》して|見《み》たき|一念《いちねん》|期《き》せずしてムラムラと|湧起《ゆうき》し、|矢《や》も|楯《たて》も|堪《たま》らぬやうになつた。
|水夫《すいふ》に|頼《たの》んでカツカツにも|舟《ふね》を|着《つ》けて|貰《もら》ひ、かき|登《のぼ》つて|見《み》ると、|手足《てあし》がワナワナするやうな|心地《ここち》がして|教祖《けうそ》の|勇気《ゆうき》に|充《み》たせられて|居《を》られることを、|今更《いまさら》のやうに|感歎《かんたん》せずには|居《を》られぬやうになつた。|音《おと》に|名高《なだか》き|弥勒《みろく》|菩薩《ぼさつ》は|自然岩《しぜんがん》に|厳然《げんぜん》として|其《その》|英姿《えいし》を|顕《あら》はし、|恰《あたか》も|巨人《きよじん》が|豆《まめ》の|如《ごと》き|人間《にんげん》を|眼下《がんか》に|睥睨《へいげい》して|居《ゐ》るやうで、どこともなく|神聖《しんせい》|不可犯《をかすべからず》の|趣《おもむき》が|拝《をが》まれる。|遠《とほ》く|目《め》を|東北《とうほく》に|放《はな》てば|日本海《にほんかい》の|波浪《はらう》は|銀屏《ぎんぺい》を|連《つら》ねたるが|如《ごと》く、|黄金《こがね》の|大塊《たいくわい》|東天《とうてん》に|輝《かがや》き、|足下《そくか》の|海《うみ》は|翠絹《すゐけん》の|褥《しとね》の|如《ごと》く、|美絶壮絶《びぜつさうぜつ》|快感《くわいかん》|譬《たと》ふるに|物《もの》なし。|歎賞《たんしやう》|久《ひさし》うして|再《ふたたび》|舟《ふね》に|上《あが》り、|鰐《わに》の|巣《す》|突当岩《つきあていは》を|巡見《じゆんけん》するに、|奇《き》|又《また》|奇《き》、|怪《くわい》|又《また》|怪《くわい》、|妙《めう》と|手《て》を|拍《う》ち、|絶《ぜつ》と|叫《さけ》び、|精神《せいしん》|恍惚《くわうこつ》として|羽化登仙《うくわとうせん》したるの|思《おも》ひであつた。
|舟《ふね》は|容赦《ようしや》もなく|鬼岩《おにいは》の|眼下《がんか》を|脱《ぬ》け|出《い》で、|辛《から》うじて|戸隠岩《とがくしいは》に|漕付《こぎつ》いた。|到着《たうちやく》|早々《さうさう》|癪《しやく》にさわつたのは、|不届《ふとど》き|至極《しごく》にも|斯《か》かる|神聖《しんせい》なる|神島《しま》にまで、|密猟者《みつれふしや》が|入込《いりこ》み、|少《すこ》し|許《ばか》りの|平地《へいち》を|卜《ぼく》して|藁小屋《わらごや》を|結《むす》び、|雨露《うろ》を|凌《しの》ぎつつ、|日夜《にちや》|鳥網《とりあみ》を|張《は》りまはし、|棍棒《こんぼう》を|携帯《けいたい》し、|垢面《くめん》|八字髭《はちじひげ》を|貯《たくは》へた|見《み》ても|恐《おそ》ろしい|様子《やうす》、|腹《はら》でも|空《す》いたら|人間《にんげん》でも|容赦《ようしや》なく|餌食《ゑじき》にし|兼間《かねま》じき|五十男《ごじふをとこ》が、|張本人《ちやうほんにん》と|見《み》えて、|数多《あまた》の|壮丁《さうてい》を|使役《しえき》して|頻《しき》りに|信天翁《あはうどり》を|捕獲《ほくわく》して|居《ゐ》た|真最中《まつさいちう》であつたが、|彼等《かれら》は|教服姿《けうふくすがた》の|吾等《われら》|一行《いつかう》を|遥見《えうけん》して、|何故《なにゆゑ》か|右往左往《うわうさわう》にあわてふためき、|山上《さんじやう》|目《め》がけて|駆《か》け|登《のぼ》るあり、|断岩《だんがん》を|無暗《むやみ》に|疾走《しつそう》するあり、|何事《なにごと》の|起《おこ》りたるかと|怪《あや》しまるる|程《ほど》であつた。|稍《やや》|落付顔《おちつきがほ》の|一人《ひとり》を|近《ちか》く|招《まね》いて、
|喜楽《きらく》『あなた|等《ら》は|何《なに》を|以《もつ》てか|俄《にはか》にあわて|迷《まよ》ふぞ。|自分等《じぶんら》は|信仰上《しんかうじやう》より|梅雨《ばいう》を|冒《をか》して|今《いま》|此《この》|神島《しま》に|参詣《さんけい》した|者《もの》だが、|見《み》ればあんた|等《ら》は|海鳥《かいてう》の|密猟者《みつれふしや》と|見《み》えるが、|併《しか》し|商売《しやうばい》とは|云《い》ひ|乍《なが》ら、かかる|危険《きけん》な|殺伐《さつばつ》な|所業《しよげふ》を|止《や》めて、|他《た》の|正業《せいげふ》に|就《つ》き|玉《たま》へ』
と|三人《さんにん》は|熱誠《ねつせい》を|籠《こ》めて|説《と》き|諭《さと》せ|共《ども》、|固《もと》より|虎《とら》|狼《おほかみ》の|如《ごと》き|人物《じんぶつ》、|一言《ひとこと》も|耳《みみ》に|入《い》り|相《さう》な|気配《けはい》だにない。「|自由《じいう》の|権《けん》|構《かま》てなやホツチツチ」と|言《い》はぬ|許《ばか》りの|面構《つらがま》へ、|要《い》らぬ|奴《やつ》が|来《き》やがつて、|人《ひと》をビツクリさしやがつたが、マア|裁判官《さいばんくわん》でなくて|大安心《だいあんしん》……と|口走《くちばし》つたのは|滑稽《こつけい》の|極《きは》みであつた。|抑《そもそ》も|昨年来《さくねんらい》|出口教祖《でぐちけうそ》は|冠島《をしま》|沓島《めしま》の|密猟《みつれふ》を|非常《ひじやう》に|惜《をし》まれ、|且《か》つ|罪《つみ》もなき|鳥族《てうぞく》の|徒《いたづら》に|生命《せいめい》を|奪《うば》はるるを|憐《あはれ》み|玉《たま》ひ、|鳥族《てうぞく》|保護《ほご》の|祈願《きぐわん》まで、|朝夕《あさゆふ》|神前《しんぜん》にて|御執行《ごしつかう》あつたが、|本日《ほんじつ》は|満願《まんぐわん》の|日《ひ》なれば、|神明《しんめい》へ|謝礼《しやれい》の|為《ため》に|種々《しゆじゆ》の|供物《くもつ》を|持《も》たせ、|自分等《じぶんら》を|特《とく》に|御差遣《ごさけん》になつたのである。それが|又《また》|偶然《ぐうぜん》か|神《かみ》の|摂理《せつり》か、|不可思議《ふかしぎ》にも|今日《けふ》|即《すなは》ち|明治《めいじ》|四十二年《しじふにねん》|六月《ろくぐわつ》|廿二日《にじふににち》、|京都府《きやうとふ》|告示《こくじ》|第三百十九号《だいさんびやくじふくがう》を|以《もつ》て、|加佐郡《かさぐん》|西大浦村《にしおほうらむら》|大字《おほあざ》|三浜小橋《みはまこばし》|及《および》|此《この》|両島《りやうたう》の|区域《くゐき》を|禁猟《きんれふ》|区域《くゐき》となし、|今後《こんご》|十年間《じふねんかん》は|年内《ねんない》を|通《つう》じて|該区域内《がいくゐきない》に|棲息《せいそく》する|鳥類《てうるゐ》|及《およ》び|雛《ひな》の|捕獲《ほくわく》|又《また》は|採卵《さいらん》を|禁止《きんし》せられた|当日《たうじつ》であつた。
|十年《じふねん》|以前《いぜん》に|出口《でぐち》|教祖《けうそ》の|建設《けんせつ》せられた|神祠《しんし》は|積年《せきねん》の|風雨《ふうう》に|曝《さら》されて、|半《なかば》|朽廃《きうはい》に|帰《き》し、|見《み》るからに|畏《おそ》れ|多《おほ》く、|一日《いちにち》も|早《はや》く|改築《かいちく》し|奉《まつ》りたく、|是非《ぜひ》|来春《らいしゆん》までに|造営《ざうえい》せむことを|神前《しんぜん》に|祈誓《きせい》した。|畏《かしこ》み|慎《つつし》み|祠前《しぜん》に|進《すす》み、|各自《かくじ》に|供物《くもつ》を|献《けん》じ|灯火《とうくわ》を|奉点《ほうてん》し、|例《れい》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し|奉《たてまつ》る。|捕《と》り|残《のこ》された|数万《すうまん》の|信天翁《あはうどり》は|不遠慮《ぶゑんりよ》に|自分等《じぶんら》|斎員《さいゐん》の|頭上《づじやう》を|飛《と》びまはり、|神聖《しんせい》なる|教服《けうふく》の|袖《そで》に|糞汁《ふんじふ》の|雨《あめ》を|降《ふ》らせ、|一帳羅《いつちやうら》を|台無《だいな》しにする。まだ|其《その》|上《うへ》に|業《ごう》のわいた、|気楽《きらく》|相《さう》に|怪《あや》しい|声《こゑ》を|絞《しぼ》り|出《だ》して、|八釜《やかま》しく、|自分等《じぶんら》を|嘲笑《てうせう》して|居《ゐ》る|様《やう》に、|心《こころ》の|勢《せい》か、|感《かん》じられるのである。それから|肝《きも》を|投出《なげだ》して、お|籠《こも》り|岩《いは》に|辛《から》うじて|歩《ほ》を|進《すす》めた。
|見《み》れば|上《うへ》は|絶壁《ぜつぺき》に|隔《へだ》てられ、|眼下《がんか》は|深《ふか》き|谷底《たにそこ》に|海水《かいすい》が|青《あを》く|漂《ただよ》うて|物凄《ものすご》い。|足《あし》の|裏《うら》がウヂウヂするやうな|難所《なんしよ》に、|教祖《けうそ》の|真筆《しんぴつ》を|以《もつ》て|歴然《れきぜん》と|神《かみ》の|御名《みな》が|記《しる》されてある。|教祖《けうそ》の|豪胆《がうたん》と|熱誠《ねつせい》に|感《かん》じて、|思《おも》はず|拍手《はくしゆ》|九拝《きうはい》|感歎《かんたん》の|声《こゑ》|口《くち》をついて|出《で》て|来《き》た。|始終《しじう》|沈黙《ちんもく》を|守《まも》つて|居《ゐ》た|大槻《おほつき》は|此《この》|時《とき》|思《おも》ひ|出《だ》した|様《やう》に|語《かた》る。
|大槻《おほつき》『|日露《にちろ》|戦役《せんえき》の|真最中《まつさいちう》、|教祖《けうそ》のお|供《とも》をして、|十三ケ日間《じふさんかにちかん》|此《この》|岩窟《がんくつ》に|静坐《せいざ》し、|敵艦《てきかん》|全滅《ぜんめつ》、|我《わが》|軍《ぐん》|全勝《ぜんしよう》の|祈願《きぐわん》をこらした|時《とき》は、ズイ|分《ぶん》|困窮《こんきう》を|極《きは》めた。|清水《しみづ》は|一滴《いつてき》も|無《な》し、|三人《さんにん》の|中《なか》へ|僅《わづ》か|三升《さんぜう》の|煎米《いりごめ》がある|丈《だけ》、これを|生命《いのち》の|親《おや》として、|幾十日《いくじふにち》も|食《く》はねばならぬ、|昼夜《ちうや》にドンドンドンと|怪《あや》しい、|何《なん》とも|譬《たと》えやうの|無《な》い|音《おと》がして|寂《さび》しいやら、|凄《すさま》じい|様《やう》で、|人《ひと》|心地《ここち》はせず、|陸上《りくじやう》との|交通《かうつう》は|無論《むろん》|断絶《だんぜつ》なり、|雨《あめ》は|毎日毎夜《まいにちまいや》|勤務《つとめ》の|様《やう》に|降《ふ》り|続《つづ》ける、|喉《のど》はかはく、|腹《はら》はすく、|手足《てあし》はワナワナする、|目《め》はマクマクする、|腹《はら》はガクガクして、|死《し》んでるのか|生《い》きてるのか、|吾《われ》|乍《なが》ら|終《つひ》には|判別《はんべつ》が|付《つ》きかねる。そこへ|雨育《あめそだ》ちの|体《からだ》を|俄《にはか》の|暑熱《しよねつ》に|当《あ》てられる。|思《おも》ひ|出《だ》してもゾツとする。|教祖《けうそ》は|平素《へいそ》の|修行《しうぎやう》の|結果《けつくわ》にや、|神色自若《しんしよくじじやく》として|容顔《ようがん》|麗《うるは》しく、ますます|元気《げんき》が|増《ます》|許《ばか》り、|二十日《にじふにち》や|三十日《さんじふにち》の|辛抱《しんばう》が|出来《でき》ぬ|様《やう》では、|日本男児《につぽんだんじ》の|本領《ほんりやう》はどこに|在《あ》るか、チと|勇気《ゆうき》を|出《だ》したが|宜《よ》からうと|御叱《おしか》りになる、|自分等《じぶんら》はモウ|此《この》|上《うへ》|一片《いつぺん》の|勇気《ゆうき》も|精力《せいりよく》も|出《だ》すことが|出来《でき》ぬのである。|然《しか》るに|天《てん》の|与《あた》へか|向《むか》ふの|岸《きし》に|滴《したた》りおつる|水《みづ》に|塩気《しほけ》がないと|云《い》ふ|事《こと》を、フト|発見《はつけん》した。|恰《あたか》も|地下《ちか》の|世界《せかい》から|脱出《ぬけで》た|様《やう》な|心持《こころもち》で、|色々《いろいろ》と|工夫《くふう》をこらし、|携《たづさ》へ|持《も》てる|竹筒《たけづつ》を|受《う》けて|水《みづ》を|取《と》り、|漸《やうや》く|渇《かつ》を|医《い》したといふ|始末《しまつ》で、|万一《まんいち》|此《この》|水《みづ》が|無《な》かつたなら、|自分等《じぶんら》は|生命《いのち》を|全《まつた》うすることが|出来《でき》なかつたかも|知《し》れぬのであつた。|併《しか》し|一時《いちじ》は|水《みづ》で|息《いき》をしたが|何時迄《いつまで》も|水《みづ》|許《ばか》りでは|堪《たま》らない。|煎米《いりごめ》はモウ|三日前《みつかまへ》に|終《をは》りを|告《つ》げた。|斯《こ》んな|無人島《むじんたう》に|居《ゐ》て|死《し》ぬよりも、|陸上《りくじやう》にあつて|幾《いく》らでも|国家《こくか》の|為《ため》に|尽《つく》すことが|出来《でき》るであらうから、|一日《いちにち》も|早《はや》く|帰《かへ》らせて|貰《もら》ひたいと|教祖《けうそ》に|泣《な》きついた|所《ところ》が、|教祖《けうそ》も|可愛相《かあいさう》に|思召《おぼしめ》したか、……そんなら|明日《あす》は|迎《むか》への|舟《ふね》の|来《く》る|様《やう》に|神界《しんかい》へ|祈願《きぐわん》してやらう……と|仰《あふ》せられ、|早速《さつそく》|御願《おねがひ》になると、|天祐《てんいう》か|偶然《ぐうぜん》か、|但《ただし》は|島神《たうじん》|聴許《ちやうきよ》ましましたか、|翌朝《よくてう》|旭《あさひ》の|豊栄昇《とよさかのぼ》る|頃《ころ》、|遥《はるか》の|海上《かいじやう》より|七隻《しちせき》の|漁舟《ぎよしう》が|沓島《めしま》を|目《め》がけて|漕《こ》ぎ|寄《よ》せて|来《く》る。|其《その》|時《とき》の|嬉《うれ》しさは|死《し》んでも|忘《わす》れられないと|思《おも》ひました。|数名《すうめい》の|漁夫《りようし》は|自分等《じぶんら》|三人《さんにん》の|顔《かほ》を|熟視《じゆくし》して、てつきり|露探《ろたん》と|誤認《ごにん》し、|俄《にはか》に|顔色《がんしよく》を|変《か》へて|震《ふる》ひ|出《だ》し、……|露人《ろじん》が|一人《ひとり》に|日本人《にほんじん》が|二人《ふたり》だ。|恐《おそ》ろしい|迂濶《うくわつ》に|相手《あひて》に|成《な》れないぞ……と|互《たがひ》に|目《め》|曳《ひ》き、|袖《そで》|曳《ひ》き、|逸足早《いちあしはや》く|逃《に》げ|帰《かへ》らむとする。|逃《に》げ|帰《かへ》られては|堪《たま》らないから、|自分《じぶん》は|手《て》を|合《あは》さぬ|許《ばか》りにして、|事情《じじやう》を|逐一《ちくいち》|説明《せつめい》して|頼《たの》み|込《こ》んだ。|彼等《かれら》も|漸《やうや》くの|事《こと》に|納得《なつとく》し、|兎《と》も|角《かく》も|舞鶴《まひづる》まで|送《おく》つてくれることになつた。|所《ところ》が|其《その》|甲斐《かひ》もなく、|漁夫《れふし》は|体《てい》よく|口実《こうじつ》を|設《まう》けて、|自分等《じぶんら》を|安心《あんしん》させ、|油断《ゆだん》させて|置《お》いて、|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|逃《に》げ|帰《かへ》つて|了《しま》つたのである。|大方《おほかた》|村役場《むらやくば》へでも|報告《はうこく》する|為《ため》であつたのでせう。そこで|止《や》むを|得《え》ず|後野《ごの》|氏《し》が|断岩《だんがん》を|辷《すべ》りおりて、|鰐《わに》の|巣《す》まで|危難《きなん》を|冒《をか》し、|海水《かいすゐ》を|泳《およ》ぎなどして、|鐘岩《つりがねいは》の|真下《ました》|迄《まで》|行《い》つて|見《み》ると、|一人《ひとり》の|漁夫《ぎよふ》がそこに|波浪《はらう》を|避《さ》けて|糸《いと》を|垂《た》れ|鯛《たひ》を|釣《つ》つて|居《ゐ》る|最中《さいちう》で、|裸体《らたい》の|儘《まま》に|立《た》つて|居《ゐ》る|後野《ごの》|氏《し》の|姿《すがた》を|見《み》てビツクリし……|生命《いのち》|知《し》らずの|馬鹿者《ばかもの》|奴《め》、お|前《まへ》は|鰐《わに》の|巣窟《さうくつ》を|通《とほ》つて|来《き》たなアと|叫《さけ》びつつ、|直《ただち》に|船《ふね》に|乗《の》せて|戸隠岩《とがくしいは》の|真下《ました》に|漕《こ》ぎ|寄《よ》せた。|教祖《けうそ》は|漁夫《ぎよふ》に|向《むか》ひ、|厚《あつ》く|感謝《かんしや》せられ……さてバルチツク|艦隊《かんたい》も|近日《きんじつ》の|中《うち》に|対馬沖《つしまおき》にて|全滅《ぜんめつ》するから|安心《あんしん》ぢや、お|前《まへ》さまも|村《むら》へ|帰《かへ》つて|村《むら》の|人《ひと》に|知《し》らしてやつて|安心《あんしん》させるがよいと……|仰《あふ》せられたが、|果《はた》して|其《その》お|言葉《ことば》|通《どほ》り、|七日《なぬか》|程《ほど》|経《た》つた|所《ところ》で、|日本海《にほんかい》の|大海戦《だいかいせん》で、あの|通《とほ》りの|大勝利《だいしようり》、|自分《じぶん》も|其《その》|時《とき》は|余《あま》りの|事《こと》で|呆《あき》れました』
と|懐旧談《くわいきうだん》を|切《しき》りにやつて|居《ゐ》る。|二人《ふたり》の|水夫《すいふ》も|話《はなし》の|尾《を》に|付《つ》いて、
『|私等《わたしら》も|二人《ふたり》で|此島《ここ》へ|御伴《おとも》して|参《まゐ》りましたが、|教祖《かみ》さまが……モウお|前《まへ》サン|等《ら》は|帰《かへ》つてくれ、そして|四十日目《しじふにちめ》に|船《ふね》を|持《も》つて|迎《むか》ひに|来《き》てくれ、|万一《まんいち》|居《ゐ》なかつたら、|又《また》|四十日《しじふにち》|経《た》つた|所《ところ》で|来《き》てくれ……と|仰《あふ》せられたが、こんな|無人島《むじんたう》に|荒行《あらぎやう》なさるかと|思《おも》へば、|俄《にはか》に|悲《かな》しくなつて、|二人《ふたり》|共《とも》|泣《な》きました』
と|朴訥《ぼくとつ》な|口《くち》から|話《はな》して|居《ゐ》る。|帰路《きろ》|冠島《おしま》の|覗岩《のぞきいは》に|舟《ふね》を|泛《うか》べて|和布《わかめ》を|刈《か》り、|貝《かひ》や|蟹《かに》を|捕獲《ほくわく》しつつ、|五丈岩《ごぢやういは》|三丈岩《さんぢやういは》|等《とう》の|勝景《しようけい》を|感賞《かんしやう》しつつ、|順風《じゆんぷう》に|真帆《まほ》をあげ、|帰路《かへりぢ》に|就《つ》く。|正《まさ》に|午時《ひる》であつた。
|船中《せんちう》にて|昼飯《ちうはん》を|喫《きつ》し、|舞鶴《まひづる》|湾口《わんこう》の|蕪《かぶら》、|久里《くり》、|博奕ケ崎《ばくちがさき》、|白黒岩《しろくろいは》も|何時《いつ》しか|後《あと》に|見《み》て、|横波《よこなみ》、|南泊《みなみどまり》と|進《すす》む|程《ほど》に、|早《はや》|松原《まつばら》にと|差《さし》かかれば、|水夫《すいふ》は|潔《いさぎよ》く、
『|田辺《たなべ》|見《み》たさに|松原《まつばら》|越《こ》せば、|田辺《たなべ》がくしの|霧《きり》が|込《こ》む』
と|唄《うた》ひ|乍《なが》ら、|廿二日《にじふににち》の|午後《ごご》|四時《よじ》、|大丹生屋《おほにふや》へ|安着《あんちやく》した。
(大正一一・一〇・一七 旧八・二七 松村真澄録)
第一七章 |旅装《りよさう》〔一〇五四〕
|明治《めいぢ》|三十三年《さんじふさんねん》|八月《はちぐわつ》|一日《いちじつ》、|喜楽《きらく》は|郷里《きやうり》なる|穴太《あなを》より|義弟《ぎてい》|危篤《きとく》の|電報《でんぱう》に|接《せつ》し、|急《いそ》ぎ|故郷《こきやう》へ|帰《かへ》つた。|案《あん》の|如《ごと》く|大病《たいびやう》で|義弟《ぎてい》なる|西田《にしだ》|元吉《もときち》は|重態《ぢうたい》である。|早速《さつそく》|神界《しんかい》へ|祈願《きぐわん》の|上《うへ》、|全快《ぜんくわい》すべきことを|告《つ》げ、|其《その》|翌々《よくよく》|三日《みつか》|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つた。|大本《おほもと》の|布教者《ふけうしや》|西田《にしだ》|元教《げんけう》は|此《この》|時《とき》|始《はじ》めて|神《かみ》の|尊《たふと》き|事《こと》を|知《し》つて|信仰《しんかう》に|入《い》つた。|其《その》|動機《どうき》には|実《じつ》に|面白《おもしろ》い|次第《しだい》あれど|稿《かう》を|改《あらた》めて|口述《こうじゆつ》することとする。
さて|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|見《み》ると、|門口《かどぐち》に|喜楽《きらく》の|荷物《にもつ》|一切《いつさい》が|荒繩《あらなは》や|古新聞《ふるしんぶん》で|包《つつ》んで、|放《はう》り|出《だ》してある。|不思議《ふしぎ》に|思《おも》つて|四方《しかた》|春三《はるざう》を|呼《よ》んで、|誰《たれ》が|斯《こ》んな|事《こと》をしたのかと|尋《たづ》ねると、|彼《かれ》は|顔色《かほいろ》を|変《か》へて|奥《おく》の|間《ま》に|逃《に》げ|込《こ》んだ。|益々《ますます》|不思議《ふしぎ》だと|思《おも》つて|四方《しかた》|祐助《いうすけ》を|呼《よ》んで|委細《ゐさい》を|聞《き》くと|斯《こ》うである。
|祐助《いうすけ》『|先生《せんせい》の|御不在中《ごふざいちう》に|役員《やくゐん》|会議《くわいぎ》がありました。|其《その》|時《とき》に|四方《しかた》|春三《はるざう》サンが|発起人《ほつきにん》で、あんな|上田《うへだ》サンの|様《やう》な|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|先生《せんせい》は、|一日《いちにち》も|早《はや》く|追《お》ひ|返《かへ》すがよい。|天眼通《てんがんつう》も|天耳通《てんじつう》も|何《なに》もかも、|皆《みな》|上田《うへだ》サンの|知《し》つて|居《ゐ》る|事《こと》は、|四方《しかた》|春三《はるざう》が|皆《みな》|覚《おぼ》えたから、|今《いま》|故郷《こきやう》へ|帰《かへ》つて|居《を》られるのを|幸《さいは》ひ、|一時《いちじ》も|早《はや》く|荷物《にもつ》を|穴太《あなを》へ|送《おく》つて、|断《ことわ》りに|四方《しかた》|平蔵《へいざう》サンが|役員《やくゐん》|総代《そうだい》で|行《ゆ》かれる|処《ところ》でありました。あなたの|御帰《おかへ》りが|一日《いちにち》|遅《おそ》かつたら、|皆《みな》の|役員《やくゐん》サンの|思惑《おもわく》が|立《た》つのに|惜《をし》い|事《こと》ぢや』
と|頭《あたま》を|掻《か》いて|苦笑《にがわら》ひをして|居《ゐ》る。そこで、
|喜楽《きらく》『|此《この》|事《こと》は|教祖《けうそ》さまは|御承知《ごしようち》か』
と|尋《たづ》ねると、
|祐助《いうすけ》『イエイエあんたを|先《さき》へ|送《おく》つて|了《しま》ふた|上《うへ》で|教祖様《けうそさま》に|申上《まをしあ》げるのです。|前《さき》に|教祖様《けうそさま》に|申上《まをしあ》げたら、キツと|止《と》められるは|必定《ひつぢやう》ぢや。あんな|権太郎《ごんたらう》|先生《せんせい》に|永《なが》らく|居《を》つて|貰《もら》つては、|皆《みな》の|役員《やくゐん》が|困《こま》るから、|善《ぜん》は|急《いそ》げといふ|事《こと》があると|昨日《きのふ》から|皆《みな》の|者《もの》が|位田《ゐでん》の|村上《むらかみ》|新之助《しんのすけ》サンの|家《うち》で|集会《しふくわい》してます』
との|事《こと》である。|誠《まこと》に|油断《ゆだん》も|隙《すき》もあつたものでない。|又《また》|一方《いつぱう》の|四方《しかた》|春三《はるざう》は|陰謀《いんぼう》|露顕《ろけん》に|及《およ》んだので、|何《なん》とか|善後策《ぜんごさく》を|講《かう》ぜねばなるまいと、|位田《ゐでん》の|村上《むらかみ》|宅《たく》へ|自《みづか》ら|走《はし》つて|報告《はうこく》した。|反対者《はんたいしや》は|驚愕《きやうがく》の|余《あま》り|施《ほどこ》すべき|手段《しゆだん》がないので、とうとう|山家村《やまがむら》|鷹栖《たかのす》の|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|方《かた》へ、|謝罪《しやざい》して|貰《もら》ひたいと|歎願《たんぐわん》に|出《で》かけた。|平蔵《へいざう》|氏《し》の|取持《とりもち》で|双方《さうはう》|共《とも》に|一先《ひとま》づ|無事《ぶじ》に|治《おさ》まるは|治《おさ》まつたが、|機会《きくわい》さへあらば、|上田《じぶん》を|追出《おひだ》してやらうといふ|考《かんが》へは|少《すこ》しも|放《はな》れなかつたのである。|何《いづ》れも|皆《みな》|金光教会《こんくわうけうくわい》の|教師《けうし》や|役員《やくゐん》や|信者《しんじや》になつて|居《を》つた|人々《ひとびと》|計《ばか》りだから、|金光教《こんくわうけう》の|守護神《しゆごじん》が|憑《うつ》つて、|上田《じぶん》を|排斥《はいせき》せむとするので|其《その》|肉体《にくたい》は|実《じつ》に|気《き》の|毒《どく》なものである。
|喜楽《きらく》が|斯道《しだう》の|為《ため》に|満腔《まんこう》の|熱誠《ねつせい》をこめ、|寝食《しんしよく》を|忘《わす》れて|活動《くわつどう》せる|結果《けつくわ》は|大《おほい》に|功《こう》を|奏《そう》し、|日《ひ》に|月《つき》に|隆盛《りうせい》に|赴《おもむ》き、|教祖《けうそ》も|是非《ぜひ》|神勅《しんちよく》なれば|上田《うへだ》をして|事務《じむ》を|総理《そうり》せしめむとされたので、|例《れい》の|足立《あだち》|氏《し》は|憤怨《ふんゑん》|措《を》く|所《ところ》を|知《し》らず、|身《み》は|京都《きやうと》に|在《あ》り|乍《なが》ら、|従来《じうらい》の|部下《ぶか》を|使嗾《しそう》して|百方《ひやつぱう》|排斥《はいせき》を|試《こころ》み、|野心《やしん》|満々《まんまん》たりし|四方《しかた》|春三《はるざう》を|旗頭《はたがしら》となし、|今回《こんくわい》の|横暴《わうばう》を|繰返《くりかへ》したるなるに、|斯《かか》る|重大事件《ぢうだいじけん》を|傍観《ばうくわん》し|居《ゐ》られし|教祖《けうそ》の|心事《しんじ》|面白《おもしろ》からずと、|稍《やや》|捨鉢《すてばち》|気分《きぶん》に|成《な》り|居《を》れる|際《さい》、|四方《しかた》|祐助《いうすけ》の|使《つかい》を|以《もつ》て、|教祖《けうそ》は|上田《じぶん》を|招《まね》かれたれば、|心中《しんちう》に|積《つ》み|重《かさ》なれる|疑団《ぎだん》を|晴《は》らすには|好機《かうき》|逸《いつ》す|可《べ》からずと、|直《ただち》に|広前《ひろまへ》に|参《さん》じ|教祖《けうそ》に|故郷《こきやう》の|様子《やうす》などをお|話《はなし》し、|互《たがひ》に|義弟《ぎてい》の|病気《びやうき》の|快方《くわいはう》に|向《むか》へることを|喜《よろこ》び|合《あ》つて|居《ゐ》たが、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》は|奥《おく》の|一間《ひとま》より|御神諭《ごしんゆ》を|奉《ほう》じて|出《い》で|来《きた》り、さもおごそかに|喜楽《じぶん》に|向《むか》ひ、
|中村《なかむら》『|今回《こんくわい》|教祖《けうそ》|殿《どの》は|此《この》|寒空《さむぞら》に、|何国《なにくに》へか|神命《しんめい》を|奉《ほう》じて|御修行《ごしうぎやう》に|御出《おで》ましになり、|御老体《ごらうたい》の|身《み》として|御苦労《ごくらう》|遊《あそ》ばすこと、|吾々《われわれ》は|何《なん》とも|申様《まをしやう》がありませぬ。|是《これ》も|全《まつた》く|上田《うへだ》サンの|改心《かいしん》が|出来《でき》ぬからであります。|謹《つつし》んでお|筆先《ふでさき》を|拝読《いただ》きなされ。|神様《かみさま》や|御国《おくに》の|為《ため》に|尽《つく》さなならぬ|人《ひと》が、|病人《びやうにん》|位《くらゐ》で|郷里《きやうり》へ|帰《かへ》るなんて、|実《じつ》に|神様《かみさま》を|軽《かる》しめて|居《を》られるのぢや。|人《ひと》の|一人《ひとり》や|半分《はんぶん》|死《し》んだつて、|大切《たいせつ》の|御用《ごよう》に|代《か》へられますか、|此《この》|筆先《ふでさき》は|今度《こんど》|教祖《けうそ》さまが|御修行《ごしうぎやう》に|御出《おで》ましなさる|御神勅《ごしんちよく》でありますぞ、|改心《かいしん》の|出来《でき》ぬ|者《もの》は|教祖《けうそ》の|御伴《おとも》|叶《かな》ひませぬ。|上田《うへだ》を|伴《つ》れて|行《ゆ》くとありますが、あなたのやうなお|方《かた》のお|出《い》でになるべき|所《ところ》ぢやない。|何程《なにほど》|神勅《しんちよく》でも、|役員《やくゐん》として|御道《おみち》の|為《ため》に、|拙者《せつしや》が|今回《こんくわい》の|御供《おとも》は、|生命《いのち》に|代《か》へてもさせませぬ。|其《その》|代《かは》りに|拙者《せつしや》が|及《およ》ばず|乍《なが》ら|御供《おんとも》|仕《つかまつ》る。|上田《うへだ》サン|如何《いかが》で|御座《ござ》る。|只今《ただいま》|教祖《けうそ》の|前《まへ》で|御返答《ごへんたふ》なされ。トコトン|改心《かいしん》するから、|御供《おとも》をさして|下《くだ》さいと|契約書《けいやくしよ》を|御書《おか》きなさい』
|云々《しかじか》と|中村《なかむら》|氏《し》は|胸《むね》に|一物《いちもつ》ある|事《こと》とて、|口角泡《こうかくあわ》を|飛《と》ばして|上田《うへだ》に|毒《どく》|付《つ》いて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は|聞《き》かぬ|顔《かほ》して、|横《よこ》を|向《む》いて|庭《には》の|面《おも》を|眺《なが》めて|居《ゐ》ると、|教祖《けうそ》は|中村《なかむら》|氏《し》に|向《むか》ひ、
|教祖《けうそ》『|御神諭《おふでさき》は|上田《うへだ》さまの|事《こと》ぢやと|思《おも》ふたら|違《ちが》ひますぜ、|中村《なかむら》サン チと|胸《むね》に|手《て》をおいて、|先日《せんじつ》からの|皆《みな》サンの|行《おこな》ひを|考《かんが》へて、|取違《とりちが》ひを|成《な》さらぬやうに……』
と|一言《ひとこと》|柔《やはら》かな|針《はり》を|入《い》れられて、|中村《なかむら》は|首尾《しゆび》|悪《わる》さうに|教祖《けうそ》の|前《まへ》を|下《さ》がり、|御神諭《ごしんゆ》を|元《もと》の|所《ところ》へ|納《をさ》めて|了《しま》つた|限《ぎり》、|物《もの》も|言《い》はず|面《つら》ふくらしつつ、|足音《あしおと》|高《たか》く|畳《たたみ》ざわり|荒々《あらあら》しく、|自分《じぶん》の|居間《ゐま》へ|下《さが》つて|了《しま》つた。
|教祖《けうそ》は|自《みづか》ら|座《ざ》を|立《た》ち、|神前《しんぜん》の|三宝《さんぱう》の|上《うへ》に|置《お》かれたお|筆先《ふでさき》を|手《て》づから|喜楽《きらく》に|渡《わた》された。|恭《うやうや》しく|押戴《おしいただ》いて|直《ただち》に|其《その》|場《ば》で|拝読《はいどく》すると、|御神文《ごしんもん》の|中《なか》に、
『|今度《こんど》は|普通《ふつう》の|人間《にんげん》では|行《ゆ》かれぬ|処《ところ》ぢや。|実地《じつち》の|神《かみ》の|住居《すまゐ》いたして|居《ゐ》る、|結構《けつこう》な|所《とこ》の|怖《こわ》い|処《ところ》である。|皆《みな》の|改心《かいしん》の|為《ため》に|上田《うへだ》|海潮《かいてう》、|出口《でぐち》|澄子《すみこ》、|四方《しかた》|春三《はるざう》を|連《つ》れ|参《まゐ》るぞよ』
と|記《しる》されてあるので、|早速《さつそく》|教祖《けうそ》に|向《むか》つて|厳《きび》しく|談判《だんぱん》を|吹《ふ》きかけた。|其《その》|理由《りいう》は|四方《しかた》|春三《はるざう》の|御供《おとも》に|加《くは》はつて|居《ゐ》ることである。|彼《かれ》は|当年《たうねん》の|夏《なつ》|頃《ごろ》より|上田《うへだ》|排斥《はいせき》の|主謀者《しゆぼうしや》とも|云《い》ふべき|人物《じんぶつ》で、|西原《にしばら》と|上谷《うへだに》の|間《あひだ》の|峻坂《しゆんぱん》にて|上田《うへだ》を○○せむとなしたる|如《ごと》き|侫人《ねいじん》である。それでも|寛仁大度《くわんじんたいど》の|吾々《われわれ》は、|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|宣直《のりなほ》して|赦《ゆる》して|置《お》いたにも|係《かか》はらず、|又々《またまた》|今回《こんくわい》|吾《わが》|帰郷中《ききやうちう》に|大排斥運動《だいはいせきうんどう》の|原動力《げんどうりよく》となつて|駆廻《かけまは》つて|居《を》る。|然《しか》るに|世界《せかい》の|善悪正邪《ぜんあくせいじや》を|透見《とうけん》し|玉《たま》ふ|艮《うしとら》の|金神様《こんじんさま》が|彼《かれ》をお|供《とも》に|加《くは》へられるとは|如何《どう》しても|合点《がてん》が|出来《でき》ぬ、|艮金神《うしとらのこんじん》さまは|良《よ》い|加減《かげん》な|神《かみ》さまだ。|彼《かれ》の|如《ごと》き|者《もの》と|同行《どうかう》するは|恰《あたか》も|送《おく》り|狼《おほかみ》と|道《みち》づれになるやうなものだ。それを|知《し》つて|同行《どうかう》させると|神《かみ》から|言《い》はれるのは、|要《えう》するに|上田《うへだ》を|排斥《はいせき》されたのであらう。|表面《へうめん》は|体裁《ていさい》を|良《よ》くし、|裏面《りめん》には|上田《うへだ》を|同行《どうかう》させない|御神意《ごしんい》であらうから、|今度《こんど》の|御伴《おとも》は|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りたい……と|稍《やや》|憤怒《ふんど》の|情《じやう》を|以《もつ》て|教祖《けうそ》に|肉迫《にくはく》した。さうすると|教祖《けうそ》は、
|教祖《けうそ》『イエイエ|決《けつ》して|其《その》|様《やう》な|主意《しゆい》ではありませぬ。|最早《もはや》|此《この》|通《とほ》り|旅立《たびだち》の|用意《ようい》も|出来《でき》て|居《を》りますから、|今度《こんど》は|是非《ぜひ》|同行《どうかう》して|貰《もら》はねばなりませぬ』
と|蓑笠《みのかさ》に|杖《つゑ》|草履《ざうり》など|準備《じゆんび》の|出来上《できあが》つたのを、|見《み》せられたので、|漸《やうや》く|得心《とくしん》して|御供《おとも》することにした。|其《その》|日《ひ》は|八月《はちぐわつ》の|七日《なぬか》であつた。|教祖《けうそ》は|尚《なほ》も|上田《じぶん》に|向《むか》ひ、
|教祖《けうそ》『|海潮《かいてう》さん、|一寸《ちよつと》|裏口《うらぐち》を|開《あ》けて|御覧《ごらん》なさい、|恐《おそ》ろしい|事《こと》がありますからよく|見《み》ておいて|下《くだ》されや。|皆《みな》|戒《いまし》めの|為《ため》ぢやと|神様《かみさま》が|仰有《おつしや》りますぜ』
との|言《こと》である。|何《なん》となく|気味《きみ》が|悪《わる》いので|側《そば》に|居《ゐ》た|四方《しかた》|祐助《いうすけ》と|四方《しかた》|春三《はるざう》とを|誘《さそ》うて、|裏口《うらぐち》の|障子《しやうじ》を|開放《かいはう》して|見《み》たが、|教祖《けうそ》の|言《い》はれたやうな|恐《おそ》ろしいものは|一《ひと》つも|見当《みあた》らぬ。|何《なん》の|事《こと》か|合点《がてん》が|行《ゆ》かぬので、|三人《さんにん》がそこらをキヨロキヨロ|見廻《みまは》して|居《ゐ》ると、|裏口《うらぐち》の|柿《かき》の|木《き》の|下《した》に|蚯蚓《みみづ》が|一筋《ひとすぢ》|這《は》うて|居《を》る|斗《ばか》り、|暫時《しばらく》|経《た》つと|一疋《いつぴき》の|殿蛙《とのがへる》が|勢《いきほひ》よく|飛《と》んで|来《き》たかと|思《おも》ふと、|矢庭《やには》に|其《その》|蚯蚓《みみづ》を|呑《の》んで|了《しま》うた。|其《その》|後《あと》へ|又《また》|黒《くろ》い|可《か》なり|太《ふと》い|蛇《へび》が|出《で》て|来《き》て、|其《その》|蛙《かへる》を|一呑《ひとの》みにして|了《しま》うた。|併《しか》し|別《べつ》に|是《これ》|位《くらゐ》の|事《こと》が|何《なに》|恐《おそ》ろしいものかと|思《おも》つて|三人《さんにん》が|熟視《じゆくし》してゐると、|平素《へいそ》|上田《じぶん》が|寵愛《ちようあい》して|居《ゐ》るお|長《ちやう》といふ|雌猫《めすねこ》が|走《はし》つて|来《き》て|其《その》|蛇《へび》を|噛《か》み|殺《ころ》して|了《しま》うたと|見《み》る|間《ま》に、|何処《どこ》から|来《き》たか、|黒色《くろいろ》の|大猫《おほねこ》がお|長《ちやう》を|噛殺《かみころ》さむとする。お|長《ちやう》は|驚《おどろ》いて|直《ただち》に|柿《かき》の|木《き》へ|逃《に》げ|登《のぼ》つた。|黒猫《くろねこ》も|亦《また》|続《つづ》いてお|長《ちやう》の|跡《あと》を|追《お》うて|柿《かき》の|木《き》へ|登《のぼ》つた。|上田《じぶん》はお|長《ちやう》を|助《たす》けたさに|柿《かき》の|木《き》へ|続《つづ》いて|攀登《よぢのぼ》つたが、|一《いち》の|枝《えだ》まで|上《あが》つた|頃《ころ》、お|長《ちやう》は|黒猫《くろねこ》に|噛《か》まれて、|悲《かな》しい|声《こゑ》を|出《だ》して、|高《たか》い|枝《えだ》の|上《うへ》から|地上《ちじやう》に|墜落《つゐらく》しふンのびて|鳴《な》いてゐる。|上田《じぶん》はお|長《ちやう》の|仇敵《かたき》と|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|黒猫《くろねこ》をゆり|落《おと》さうとしたが、|何《ど》うしても|落《お》ちぬので、|止《や》むを|得《え》ず|下《した》へおりて|見《み》ると、|上田《じぶん》の|新《あたら》しい|浴衣《ゆかた》の|白《しろ》いのが、|猫《ねこ》の|糞《くそ》まぶれになつて|居《ゐ》た。|三人《さんにん》は|始《はじ》めて……あゝ|上《うへ》に|上《うへ》のあるものぢや、|如何《いか》にも|恐《おそ》ろしい|事《こと》ぢや……と|肌《はだ》に|粟粒《あはつぶ》を|生《しやう》ずる|程《ほど》に|驚《おどろ》いた。|其《その》|時《とき》|教祖《けうそ》はニコニコし|乍《なが》ら|三人《さんにん》の|前《まへ》に|現《あら》はれ、
|教祖《けうそ》『これで|何事《なにごと》も|分《わか》りませう』
と|言《い》はれたが、|其《その》|時《とき》には|余《あま》り|深《ふか》く|教祖《けうそ》の|御言葉《おことば》も|心《こころ》にとめなかつたけれど、|後《のち》に|至《いた》つて|其《その》|理由《りいう》が|判明《はんめい》したのである。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 松村真澄録)
第四篇 |霊火山妖《れいくわさんえう》
第一八章 |鞍馬山《くらまやま》(一)〔一〇五五〕
|世《よ》は|浮薄《ふはく》に|流《なが》れ、|人《ひと》は|狡猾《かうくわつ》に|陥《おちい》り|剛毅昂直《がうきかうちよく》の|気《き》|淪滅《りんめつ》し、|勇壮《ゆうさう》|快濶《くわいくわつ》の|風《ふう》|軟化《なんくわ》して|因循姑息《いんじゆんこそく》となり、|野鄙惰弱《やひだじやく》と|変《へん》じ、|虚誕百出《きよたんひやくしゆつ》|詐偽《さぎ》|自在《じざい》に|行《おこな》はれ、|或《あるひ》は|囁〓笑談《せつじゆせうだん》|他《た》の|意《い》に|投合《とうがふ》するを|勉《つと》め、|巧言令色《こうげんれいしよく》|頭《かうべ》を|垂《た》れ|腰《こし》を|曲《ま》げ、|以《もつ》て|其《その》|慾《よく》を|満《み》たさむとするの|卑劣《ひれつ》と|無節操《むせつさう》は、|社会《しやくわい》の|全体《ぜんたい》に|瀰漫《びまん》し、|我《わが》|神洲《しんしう》|神民《しんみん》たるの|高尚《かうしやう》|優美《いうび》の|気骨《きこつ》|雅量《がりやう》を|存《そん》せず、|国民《こくみん》の|基礎《きそ》たるべき|青年《せいねん》は|概《おほむ》ね|糸竹管絃《しちくくわんげん》の|響《ひび》きに|心耳《しんじ》を|蕩《とろ》かし、|婀娜嬋妍《あだせんけん》たる|花顔柳腰《くわがんりうやう》に|眩惑《げんわく》せられ、|奢侈淫逸《しやしいんいつ》の|慾《よく》を|逞《たくまし》ふして|空《むな》しく|有為《いうゐ》の|歳月《さいげつ》を|経過《けいくわ》する|者《もの》のみ。|国家《こくか》の|前途《ぜんと》|如何《いかん》を|思《おも》ふの|志士《しし》|仁人《じんじん》|無《な》く、|世《よ》は|将《まさ》に|常暗《とこやみ》ならむとするを|深《ふか》く|憂慮《いうりよ》し、|神示《しんじ》のまにまに|大本《おほもと》の|教祖《けうそ》は|抜山蓋世《ばつざんがいせい》の|勇《いさ》を|振《ふる》ひ、|百折不撓《ひやくせつふたう》の|胆《たん》を|発揮《はつき》し、|世道人心《せだうじんしん》を|振起《しんき》せむと、|上田《うへだ》|海潮《かいてう》、|出口《でぐち》|澄子《すみこ》、|四方《しかた》|春三《はるざう》の|三名《さんめい》を|従《したが》へ|菅《すげ》の|小笠《をがさ》に|茣蓙蓑《ござみの》、|手《て》には|芳《かんば》しき|白梅《しらうめ》の|枝《えだ》にて|作《つく》りたる|杖《つゑ》をつき|草鞋脚絆《わらぢきやはん》に|身《み》を|固《かた》め、|明治《めいじ》|卅三年《さんじふさんねん》|閏《うるふ》|八月《はちぐわつ》|八日《やうか》の|午前《ごぜん》の|一時《いちじ》、|正《まさ》に|広前《ひろまへ》の|門口《もんぐち》を|立出《たちい》でむとする|時《とき》、|前夜《ぜんや》より|集《あつ》まり|来《きた》りし|数多《あまた》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》|等《ら》は|各《おのおの》|教祖《けうそ》の|袖《そで》に|縋《すが》り|異口同音《いくどうおん》に『|何卒《どうぞ》|途中《とちう》までなりと|見送《みおく》らせ|下《くだ》さい』と|泣《な》きつつ|頼《たの》む|者《もの》ばかりであつた。|教祖《けうそ》も|役員《やくゐん》|等《ら》が、しほらしき|真心《まごころ》はよく|推知《すゐち》し|居《を》られたけれど、|只管《ひたすら》|神様《かみさま》の|命令《めいれい》を|畏《かしこ》みて|一人《ひとり》も|許《ゆる》されなかつた。|生別離苦《せいべつりく》の|悲《かな》しさに|何《いづ》れも|袖《そで》を|絞《しぼ》りつつ、|教祖《けうそ》が|平素《へいそ》に|於《お》ける|温言厚諭《をんげんこうゆ》の|情《なさけ》は、|人《ひと》を|動《うご》かし、|人《ひと》を|感《かん》ぜしめたのである。|別《わか》れに|臨《のぞ》んで、|今更《いまさら》の|如《ごと》く|其《その》|温容《おんよう》を|慕《した》ひ|和気《わき》に|懐《なつ》き|恰《あたか》も|小児《せうに》の|慈母《じぼ》に|別《わか》るる|如《ごと》く|焦《こが》れ|慕《した》ふたのである。さて|教祖《けうそ》は|梅《うめ》の|杖《つゑ》、|海潮《かいてう》は|雄松《をまつ》、|澄子《すみこ》は|雌松《めまつ》、|春三《はるざう》は|青竹《あをたけ》の|杖《つゑ》をつき|乍《なが》ら、|何処《いづこ》を|当《あて》ともなく|従《したが》ひ|行《ゆ》く。|秋《あき》すでに|深《ふか》く|木葉《このは》は|色《いろ》を|変《へん》じて|四尾《よつを》の|神山《しんざん》は|漸《やうや》く|紅《くれない》に|黄雲十里《くわううんじふり》|粛然《しゆくぜん》たるさまである。|和知《わち》の|清流《せいりう》は|淙々《そうそう》として|脚下《きやくか》に|白布《はくふ》を|曝《さら》し|一行《いつかう》の|前途《ぜんと》を|清《きよ》むる|如《ごと》くに|思《おも》はれた。|須知山峠《すちやまたうげ》の|峻坂《しゆんぱん》を|苦《く》もなく|登《のぼ》り、|狭《せま》き|山道《やまみち》を|辿《たど》りつつ|行《ゆ》けば|川合《かはひ》の|大原神社《おほはらじんじや》、|一行《いつかう》|恭《うやうや》しく|社前《しやぜん》に|跪坐《きざ》し、|前途《ぜんと》の|幸運《かううん》を|祈願《きぐわん》しつつ、|枯木峠《かれきたうげ》も|漸《やうや》く|踏《ふ》み|越《こ》えて、|今《いま》や|榎木峠《えのきたうげ》の|絶頂《ぜつちやう》に|差《さ》しかからむとする|時《とき》、|前途《ぜんと》にあたつて|怪《あや》しき|火光《くわくわう》のチラチラと|燃《も》ゆるを|見《み》とめた。|海潮《かいてう》は|盗賊《たうぞく》どもの|焚火《たきび》をなして|旅客《りよきやく》の|荷物《にもつ》を|掠《かす》めむとして|待《ま》ち|構《かま》へ|居《ゐ》るには|非《あら》ずやと|心《こころ》も|心《こころ》ならず、|不安《ふあん》の|念《ねん》に|包《つつ》まれ|乍《なが》ら|近《ちか》づき|見《み》れば、|豈《あに》|図《はか》らむや、|会員《くわいいん》の|一人《いちにん》なる|福林《ふくばやし》|安之助《やすのすけ》が|数多《あまた》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》を|出《だ》し|抜《ぬ》いてソツと|旅装《りよさう》を|整《ととの》へ、|梅《うめ》の|杖《つゑ》まで|用意《ようい》して|先《さき》へ|廻《まは》つて|待《ま》つてゐたのである。|教祖《けうそ》|一行《いつかう》の|姿《すがた》を|見《み》るや|忽《たちま》ち|大地《だいち》に|慴伏《ひれふ》し、
|福林《ふくばやし》『|何卒《なにとぞ》|今度《こんど》のお|伴《とも》をさして|下《くだ》さい。|私《わたし》は|猿田彦《さるたひこ》となつて|此処《ここ》にお|待《まち》|申《まを》して|居《を》りました。|願《ねが》はくば|異例《いれい》なれども|猿田彦《さるたひこ》と|思召《おぼしめし》、|特別《とくべつ》を|以《もつ》てお|伴《とも》をお|許《ゆる》し|下《くだ》さい』
と|頻《しき》りに|懇願《こんぐわん》して|居《ゐ》る。|教祖《けうそ》は、
|教祖《けうそ》『|何事《なにごと》も|神様《かみさま》の|御命令《ごめいれい》なれば|此《この》|三人《さんにん》の|外《ほか》には|如何《いか》なる|事情《じじやう》があるとも|随行《ずゐかう》して|貰《もら》ふ|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬ』
と|固辞《こじ》して|動《うご》き|玉《たま》ふ|気色《けしき》だになかつた。|福林《ふくばやし》は|詮方《せんかた》なくなく|腹《はら》の|底《そこ》から|湧《わ》き|出《だ》す|涙《なみだ》と|共《とも》に|嘆願《たんぐわん》し、
|福林《ふくばやし》『|今《いま》|此処《ここ》で|仮令《たとへ》|死《し》ぬとも|此《この》まま|家《うち》へは|帰《かへ》らぬ』
と|容易《ようい》に|初心《しよしん》を|変《へん》ずべくも|見《み》えなかつた。|海潮《かいてう》は|其《その》|真心《まごころ》を|推《お》し|量《はか》りて|気《き》の|毒《どく》に|堪《た》へ|兼《か》ね、|教祖《けうそ》にいろいろと|頼《たの》んだ|上《うへ》、
|海潮《かいてう》『|今度《こんど》に|限《かぎ》つて|破格《はかく》を|以《もつ》て|随行《ずゐかう》と|云《い》はず|荷物《にもつ》|持《も》ち|人足《にんそく》として|連《つ》れて|行《い》つて|上《あ》げたら|如何《どう》でせうか』
と|頼《たの》んで|見《み》た。|教祖《けうそ》も|其《そ》の|誠意《せいい》と|熱心《ねつしん》に|感《かん》じられ|漸《やうや》く|随行《ずゐかう》を|許《ゆる》された。|福林《ふくばやし》は|天《てん》にも|登《のぼ》るが|如《ごと》く|喜《よろこ》び|勇《いさ》み、|雀躍《こをどり》し|乍《なが》ら|四人《よにん》の|荷物《にもつ》を|棒《ぼう》もて|肩《かた》に|担《かつ》ぎ、|一行《いつかう》の|後《あと》に|跟《つ》いて|行《ゆ》く|事《こと》となつた。|老《おい》の|御足《みあし》も|健《すこや》かに|早《はや》くも、|質志《しづし》、|三《さん》の|宮《みや》に|到《いた》れば|東天《とうてん》|明《あか》く|旭日燦々《きよくじつさんさん》たる|処《ところ》なれども、|音《おと》に|名高《なだか》き|丹波《たんば》|船井《ふなゐ》の|霧《きり》の|海《うみ》に|天地《てんち》|万有《ばんいう》|包《つつ》まれて、|天《あま》の|原《はら》|射照《いて》り|透《とう》らす|日《ひ》の|大神《おほかみ》の|御影《みかげ》を|拝《はい》する|能《あた》はず、|前途《ぜんと》|朦々《もうもう》として|何《なん》と|無《な》く|物《もの》|悲《かな》しき|心地《ここち》がした。|行程《かうてい》|六里《ろくり》、|檜山《ひのきやま》に|達《たつ》し|会員《くわいゐん》|坂原《さかはら》|氏《し》|宅《たく》に|暫時《ざんじ》|息《いき》を|休《やす》め、|須知《すち》、|蒲生野《がまふの》や|水戸峠《みとたうげ》を|上《のぼ》りつ|下《くだ》りつ、|観音坂《くわんおんざか》の|頂上《ちやうじやう》に|辿《たど》り|着《つ》き|見《み》れば、|丹波《たんば》|名物《めいぶつ》の|霧《きり》の|海原《うなばら》|何時《いつ》しか|拭《ぬぐ》ふが|如《ごと》く|晴《は》れ|渡《わた》り、|船井郡《ふなゐぐん》の|一都会《いちとくわい》、|花《はな》の|園部《そのべ》や|小向山《をむかやま》、|天神山《てんじんやま》は|一眸《いちぼう》の|下《もと》に|横《よこ》たはり、|佐保姫《さほひめ》の|錦《にしき》|織《お》りなす|麗《うるは》しさは、|筆舌《ひつぜつ》の|克《よ》く|尽《つく》す|所《ところ》にあらず、|上村《うへむら》、|浅田《あさだ》|氏《し》|等《ら》の|同居《どうきよ》する|木崎《きざき》の|川原町《かははらまち》に|達《たつ》した。|偶《たまたま》|一行《いつかう》の|出修《しゆつしう》を|知《し》りて|急《いそ》ぎ|出迎《でむか》へ|是非《ぜひ》|一夜《いちや》|泊《とま》りて|旅《たび》の|御疲労《ごひらう》を|休《やす》められよと|請《こ》ふ|事《こと》|最《い》と|懇《ねんごろ》なりし|為《た》め|彼《かれ》の|家《いへ》に|入《い》る。|間《ま》もなく|中田《なかだ》、|辻村《つじむら》の|両会員《りやうくわいゐん》|入《い》り|来《きた》り、|教祖《けうそ》の|居《を》らるる|前《まへ》をも|憚《はばか》らず、|何《なん》の|挨拶《あいさつ》も|会釈《ゑしやく》も|碌々《ろくろく》せず、|開口《かいこう》|一番《いちばん》|上村《うへむら》|氏《し》が|平生《へいぜい》の|処置《しよち》|甚《はなは》だ|不公平《ふこうへい》なり、|依《よ》つて|吾々《われわれ》は|退会《たいくわい》せむなどと|不平《ふへい》を|訴《うつた》ふるので、|座上《ざじやう》の|上村《うへむら》|氏《し》は|大《おほい》に|怒《いか》り、これ|又《また》|口《くち》を|極《きは》めて|彼《かれ》が|不謹慎《ふきんしん》にして|予《かね》てより|深《ふか》き|野心《やしん》を|蔵《ざう》し、|現在《げんざい》|今《いま》お|供《とも》の|列《れつ》に|加《くは》はる|四方《しかた》|春三《はるざう》|等《ら》と|気脈《きみやく》を|通《つう》じ、|本会《ほんくわい》の|瓦解《ぐわかい》を|企《くはだ》てつつありなど、|双方《さうはう》|意外《いぐわい》の|事《こと》のみ|言《い》ひ|争《あらそ》ひ、はては|四方《しかた》、|中田《なかだ》を|速《すみや》かに|除名《ぢよめい》せられ|度《た》し、|然《しか》らざれば|小子《せうし》より|退会《たいくわい》すべし|等《など》、|得手《えて》|勝手《かつて》の|難問題《なんもんだい》を|提出《ていしゆつ》する。|中田《なかだ》、|辻村《つじむら》の|両人《りやうにん》は|一層《いつそう》|憤激《ふんげき》し、
『|否《いや》、|上村《うへむら》こそ|今回《こんくわい》の|瓦解《ぐわかい》の|謀主《ぼうしゆ》にして、|生等《せいら》は|只《ただ》|相談《さうだん》を|受《う》けたる|迄《まで》にて|始《はじ》めより|斯《かか》る|反逆《はんぎやく》には|賛成《さんせい》し|難《がた》し、と|一言《いちごん》の|許《もと》に|跳《はね》つけた。それ|故《ゆゑ》|今日《こんにち》|其《その》|真相《しんさう》の|暴露《ばくろ》せむ|事《こと》を|怖《おそ》れ、|先《さき》んずれば|克《よ》く|人《ひと》を|制《せい》すとの|兵法《へいはふ》を|以《もつ》て、|反対《はんたい》に|彼《かれ》より|生《せい》|等《ら》を|誣告《ぶこく》するのである』
と|逆捻《さかねぢ》に|一本《いつぽん》|参《まゐ》る。|互《たがひ》に|負《まけ》ず|劣《おと》らず、|争論《そうろん》の|何時《いつ》|果《は》つべしとも|見《み》えざれば、|海潮《かいてう》は|苦々《にがにが》しき|事《こと》に|思《おも》ひ、|種々《しゆじゆ》と|理非《りひ》を|噛分《かみわ》けて|諭《さと》せども、|固《もと》より|敬神《けいしん》|愛民《あいみん》の|思想《しさう》を|有《いう》せざる|頑迷不霊《ぐわんめいふれい》の|製糞器《せいふんき》、|只《ただ》|神《かみ》を|估《う》りて|糊口《ここう》の|資《し》に|供《きよう》するより|外《ほか》、|他《た》に|一片《いつぺん》の|希望《きばう》なきもの|共《ども》なれば、|済度《さいど》するには|此《この》|上《うへ》なく|骨《ほね》を|折《お》らざるべからざる、|最《いと》も|困《こま》つた|厄介《やくかい》|極《きは》まる|代物《しろもの》であつた。
|折柄《をりから》|庭前《ていぜん》に|嬉々《きき》として|四頭《しとう》の|犬《いぬ》|遊《あそ》び、|其《その》|状《さま》|誠《まこと》に|親睦《しんぼく》にして|羨《うらや》ましい|程《ほど》である。|何《なん》と|思《おも》はれしか|教祖《けうそ》は|懐中《くわいちゆう》より|一片《いつぺん》の|食物《しよくもつ》を|取出《とりだ》し、|犬《いぬ》に|投《な》げ|与《あた》へられしに、|犬《いぬ》は|忽《たちま》ち|争奪《そうだつ》|搏噬《はくぜい》を|初《はじ》め、|恰《あたか》も|不倶戴天《ふぐたいてん》の|親《おや》の|仇《かたき》に|出会《でくは》せしが|如《ごと》くである。|教祖《けうそ》はこれを|見《み》て、|人心《じんしん》の|奥底《おくそこ》は|大抵《たいてい》|斯《か》くの|如《ごと》しと|微笑《ほほゑ》みし|乍《なが》ら、|匆々《さうさう》に|此《この》|家《や》を|立出《たちい》でむとせらるる|時《とき》、|上村《うへむら》は|大《おほい》に|恐縮《きようしゆく》して|曰《いは》く、|生等《せいら》の|心《こころ》は|実《じつ》に|此《この》|犬《いぬ》のやうだと|稍《やや》|反省《はんせい》の|意《い》を|表《あら》はしたが|中田《なかだ》、|辻村《つじむら》は|劫々《なかなか》|承知《しようち》せず、|益々《ますます》|暴言《ばうげん》を|逞《たくま》しふし、|是非々々《ぜひぜひ》|教祖《けうそ》の|御入来《おいで》を|幸《さいは》ひ、|正邪《せいじや》|黒白《こくびやく》を|判別《はんべつ》されむ|事《こと》を|強請《がうせい》して|止《や》まなかつた。これには|海潮《かいてう》もほとほと|持《も》て|余《あま》し、|本会《ほんくわい》の|主義《しゆぎ》|精神《せいしん》は|一身一家《いつしんいつか》の|栄達《えいたつ》|名聞《めいぶん》を|企図《きと》するに|止《とど》まらず、|国家的《こくかてき》|観念《かんねん》を|養《やしな》ふにあるのに、|汝等《なんぢら》|会員《くわいいん》たるの|本旨《ほんし》を|忘《わす》れ、|教祖《けうそ》|折角《せつかく》の|苦行《くぎやう》の|首途《かどで》を|擁《よう》して、|非違《ひゐ》の|裁断《さいだん》を|請《こ》はむとするは、|実《じつ》に|時《とき》を|誤《あやま》りたる|非礼《ひれい》の|行為《かうゐ》なり、|教祖《けうそ》|多年《たねん》の|艱苦《かんく》は|実《じつ》に|汝等《なんぢら》の|如《ごと》き|会員《くわいいん》を|覚醒《かくせい》し|正道《せいだう》に|導《みちび》かむが|為《た》めのみ、|今《いま》|又《また》|六十有五歳《ろくじふいうごさい》の|教祖《けうそ》が|梅ケ枝《うめがえ》の|一杖《いちぢやう》に|身《み》を|托《たく》し、|凛烈《りんれつ》|肌《はだ》を|劈《つんざ》かむとする|寒天《かんてん》をめがけ|何地《いづこ》を|当《あて》ともなく|神命《しんめい》の|随々《まにまに》、|孤雁《こがん》|声《こゑ》|悲《かな》しく、|暮雲《ぼうん》に|彷徨《はうくわう》するが|如《ごと》く|将《まさ》に|遠《とほ》く|出修《しゆつしう》されむとす、|宜《よろ》しく|本然《ほんぜん》の|私《わたくし》に|還《かへ》り|教祖《けうそ》のお|心《こころ》を|推察《すいさつ》せば、|斯《か》くの|如《ごと》く|見苦《みぐる》しき|事《こと》をお|耳《みみ》に|入《い》れ|申《まを》すべき|場合《ばあひ》に|非《あら》ざるべし、と|事《こと》を|釈《わ》け、|理《り》を|解《と》きて|諭《さと》せども、|元来《ぐわんらい》|彼等《かれら》は|金光教《こんくわうけう》の|教師《けうし》にして、|自《みづか》ら|企《くはだ》て|自《みづか》ら|為《な》すの|勇《ゆう》なく、|徒《いたづら》に|他《た》の|覆轍《ふくてつ》に|做《なら》ひ、|其《その》|糟粕《さうはく》を|舐《ねぶ》りて|以《もつ》て|得《え》たりと|為《な》し、|信者《しんじや》の|争奪《そうだつ》にのみ|余念《よねん》なかりし|癖《へき》は|容易《ようい》に|改《あらた》まらず|教祖《けうそ》の|諭示《ゆじ》も|海潮《かいてう》の|説得《せつとく》も|寸効《すんかう》なく、|中田《なかだ》、|辻村《つじむら》の|両人《りやうにん》は|梟《ふくろどり》の|夜食《やしよく》を|取《と》り|外《はづ》せし|如《ごと》く|頬《ほほ》を|膨《ふく》らせ|席《せき》を|蹴立《けた》てて|帰《かへ》り、|四方《しかた》、|福林《ふくばやし》もこれに|従《つ》いて|行《い》つた。
|教祖《けうそ》は|上村《うへむら》|氏《し》|等《ら》に|慇懃《いんぎん》なる|謝詞《しやし》を|述《の》べ、|海潮《かいてう》、|澄子《すみこ》を|具《ぐ》して|立《た》ち|出《い》でられし|故《ゆゑ》、|上村《うへむら》|氏《し》も|大橋《おほはし》までお|見送《みおく》りの|為《た》めとて|従《したが》ひ|来《きた》つた。さて|四方《しかた》|春三《はるざう》は|中田《なかだ》|方《かた》に|至《いた》り|頻《しき》りに|何事《なにごと》か|善《よ》からぬ|事《こと》のみ|囁《ささや》きつつ|不興《ふきよう》の|顔色《かほいろ》|物凄《ものすご》く、|口《くち》を|極《きは》めて|海潮《かいてう》を|罵《ののし》り|是非《ぜひ》|排斥《はいせき》せずむば|止《や》まずと|息《いき》|捲《ま》く。|福林《ふくばやし》|氏《し》は|草臥《くたびれ》たりとて|中田《なかだ》が|家《いへ》に|入《い》るや、|直《ただち》に|昇《あが》り|口《くち》に|打倒《うちたふ》れ、|熟睡《じゆくすゐ》を|装《よそほ》ひつつ|狸《たぬき》の|空寝入《そらねい》り、|素知《そし》らぬ|振《ふり》にて|彼等《かれら》の|密談《みつだん》を|残《のこ》らず|聞《き》き|取《と》つた。|少時《しばらく》ありて|欠伸《あくび》と|共《とも》に|起《お》き|上《あが》り、|態《わざ》と|空惚《そらとぼ》けたる|面《おもて》を|擦《さす》り|乍《なが》ら|教祖《けうそ》は|何処《いづこ》にありやと|問《と》へば、
|中田《なかだ》『あの|気違《きちが》ひ|婆《ばば》か、|否《いな》|狂長殿《きやうちやうどの》か、|只今《ただいま》|然《しか》も|偉相《えらさう》に|上村《うへむら》|氏《し》を|随行《ずいかう》させて|出《で》て|行《い》つたから|大方《おほかた》|大橋《おほはし》の|詰《つめ》|辺《あた》りに|今頃《いまごろ》は|迂路《うろ》ついて|御座《ござ》らう』
と|会員《くわいいん》にあるまじき|言葉《ことば》を|弄《ろう》するも、|一味《いちみ》の|四方《しかた》は|咎《とが》めもせず|厭《いや》さうに|福林《ふくばやし》を|伴《ともな》ひて|教祖《けうそ》の|跡《あと》を|追《お》つかけた。|夕陽《ゆふひ》は|已《すで》に|西山《せいざん》に|没《ぼつ》し、|黄昏《たそがれ》の|霧《きり》は|一行《いつかう》を|包《つつ》まむとする。|四方《しかた》|春三《はるざう》は、
|四方《しかた》『|夜《よる》の|旅《たび》は|危険《きけん》ですし、さりとて|旅費《りよひ》も|豊《ゆたか》ならず、むしろ|中田《なかだ》|氏《し》に|一泊《いつぱく》しませう』
と|云《い》へば|教祖《けうそ》は|少《すこ》しく|怒《いか》つて、
|教祖《けうそ》『|仮令《たとへ》|野宿《のじゆく》をしても|彼等《かれら》の|家《いへ》に|泊《とま》るのは|厭《いや》ぢや』
とて|気色《けしき》|悪《あし》ければ、|一行《いつかう》は|不承々々《ふしようぶしよう》に|従《したが》ひ|行《ゆ》く。|小山《こやま》、|松原《まつばら》|乗《の》り|越《こ》えて|一里半《いちりはん》|行《ゆ》けば|鳥羽《とば》の|里《さと》、|広瀬《ひろせ》も|後《あと》に|八木《やぎ》の|町《まち》、|月《つき》は|照《て》れども|深更《しんかう》に|入《い》りて|漸《やうや》く|八木《やぎ》の|会合所《くわいがふしよ》|福島《ふくしま》|氏《し》|方《かた》へ|着《つ》いた。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 北村隆光録)
第一九章 |鞍馬山《くらまやま》(二)〔一〇五六〕
|折節《をりふし》|当夜《たうや》は|八木《やぎ》|会合所《くわいがふしよ》の|祭神《さいじん》|及《およ》び|会場《くわいぢやう》|移転式《いてんしき》|挙行日《きよかうび》にて|数多《あまた》の|会員《くわいいん》|参集《さんしふ》し|居《ゐ》たるに、|不意《ふい》に|教祖《けうそ》|一行《いつかう》の|御立寄《おたちよ》りと|聞《き》きて|驚喜《きやうき》し|俄《にはか》に|色《いろ》めき|立《た》ちて|上《うへ》を|下《した》への|大騒動《おほさうどう》、|見《み》るに|見《み》かねて|教祖《けうそ》は|之《これ》を|制《せい》し|慇懃《いんぎん》に|挨拶《あいさつ》あり。|畏《かしこ》くも|大神《おほかみ》の|奉斎所《ほうさいしよ》を|遷座《せんざ》する|大切《たいせつ》な|御式《おしき》を|軽率《けいそつ》に|執行《しつかう》して|神霊《しんれい》に|非礼《ひれい》の|罪《つみ》を|重《かさ》ね、|前《まへ》|以《もつ》て|詳細《しやうさい》の|報告《はうこく》も|出願《しゆつぐわん》にも|及《およ》ばざりし|会員《くわいいん》|一同《いちどう》の|不注意《ふちうい》は|今《いま》|眼前《がんぜん》に|報《むく》うて|来《き》て|気《き》の|毒《どく》であつた。|幸《さいは》ひにも|教祖《けうそ》に|祭主《さいしゆ》を|懇願《こんぐわん》して|移転式《いてんしき》を|完了《かんれう》し、|次《つぎ》に|教祖《けうそ》|及《およ》び|海潮《かいてう》の|講話《かうわ》あり、|午後《ごご》|十一時《じふいちじ》には|各《おのおの》|十二分《じふにぶん》の|神徳《しんとく》を|忝《かたじけ》なみ|会員《くわいいん》|一同《いちどう》|退散《たいさん》した。|印度坊主《いんどばうず》は|経《きやう》が|大切《たいせつ》、|自分等《じぶんら》は|明日《あす》が|大事《だいじ》、|夜更《よふか》しは|身《み》の|障《さは》りと|狭《せま》い|座敷《ざしき》に|雑魚寝《ざこね》をなし、|翌《よく》|九日《ここのか》、|旭日《きよくじつ》|東山《とうざん》の|端《は》に|円顔《ゑんがん》を|現《あら》はし|給《たま》ふの|頃《ころ》、|霧《きり》の|流《なが》るる|小川《をがは》に|手水《てうづ》を|使《つか》ひ|口《くち》|嗽《すす》ぎ、|恭《うやうや》しく|神前《しんぜん》に|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らし、|行途《かうと》の|如何《いかん》を|占《うら》なひ|奉《たてまつ》る。|時《とき》に|皇神《すめかみ》|海潮《かいてう》の|手《て》を|通《つう》じて|教《をし》へ|諭《さと》し|給《たま》ふ|様《やう》、
『|世《よ》の|中《なか》の|人《ひと》の|心《こころ》のくらま|山《やま》
|神《かみ》の|霊火《ひかり》に|開《ひら》くこの|道《みち》』
と、|此《この》|神詠《しんゑい》によりて|行途《かうと》の|城州《じやうしう》|鞍馬山《くらまやま》なる|事《こと》を|窺《うかが》ひ|知《し》り|得《え》たれば、|心《こころ》は|五条橋《ごでうばし》の|牛若丸《うしわかまる》の|如《ごと》く|飛《と》び|立《た》つばかり|勇《いさ》み|立《た》ち、|午後《ごご》|一時《いちじ》|福島《ふくしま》|氏《し》に|送《おく》られて|八木《やぎ》|停車場《ていしやば》へと|歩《ほ》を|運《はこ》ぶ。|折柄《をりから》|園部《そのべ》の|上《のぼ》り|列車《れつしや》、|幸《さち》|宜《よ》しと|飛乗《とびの》れば|二分《にふん》|停車《ていしや》の|忙《せは》しく|渡《わた》る|鉄橋《てつけう》|寅天《とらてん》の、|音《おと》|轟々《ぐわうぐわう》と|大堰川《おほゐがは》、|八木《やぎ》の|城山《しろやま》|跡《あと》に|見《み》て、|二条《にでう》の|軌道《レール》を|疾駆《しつく》して、|早《はや》くも|亀岡《かめをか》に|接近《せつきん》す。|海潮《かいてう》が|故郷《こきやう》なる|曽我部《そがべ》の|連山《れんざん》は|殊《こと》の|外《ほか》|眼《め》に|立《た》ち、|高熊山《たかくまやま》の|霊峰《れいほう》は|彼方《かなた》ならむと|思《おも》へば|不知不識《しらずしらず》に|拍手《はくしゆ》せられる。|愛宕《あたご》の|神峰《しんぽう》は|群山重畳《ぐんざんちようでふ》の|其《その》|中央《ちうあう》に|巍然《ぎぜん》として|聳《そび》え、|教祖《けうそ》|一行《いつかう》の|出修《しゆつしう》を|眺《なが》めて|山霊《さんれい》|行途《かうと》の|安全《あんぜん》|成功《せいこう》を|暗祈《あんき》|黙祷《もくたう》せらるるの|思《おも》ひがある。|車中《しやちう》|偶《たまたま》|曽我部《そがべ》の|里人《さとびと》|某《ぼう》を|見《み》る。|言葉《ことば》を|掛《か》けむとすれば|態《わざ》と|素知《そし》らぬ|振《ふ》りに|背面《はいめん》し、|時々《ときどき》|横目《よこめ》に|此方《こちら》の|身辺《しんぺん》を|覗《うかが》ふ|様《さま》、あまり|心地《ここち》|良《よ》きものに|非《あら》ず。|彼《かれ》は|曾《かつ》て|海潮《かいてう》が|故郷《こきやう》にありて|国家《こくか》の|大勢《たいせい》に|鑑《かんが》み、|憂国《いうこく》の|至情《しじやう》を|以《もつ》て|一身一家《いつしんいつか》を|抛《なげう》ち、|惟神《かむながら》の|大道《だいだう》たる|皇道霊学《くわうだうれいがく》の|教旗《けうき》を|翻《ひるがへ》したる|時《とき》、|陰《いん》に|陽《やう》に|極力《きよくりよく》|妨害《ばうがい》を|加《くは》へたる|枉津神《まがつかみ》なれば、|今更《いまさら》|面目《めんぼく》なくて|其《その》|鉄面皮《てつめんぴ》も|稍《やや》|良心《りやうしん》に|呵責《かしやく》され、|思《おも》はず|背面《はいめん》せしならむかと|思《おも》ひしに、|豈《あに》|図《はか》らむや、|然《さ》は|無《な》くて|彼《かれ》は|余《よ》|等《ら》|一行《いつかう》の|旅装《りよさう》を|注視《ちうし》し、|乞食《こじき》|巡礼《じゆんれい》に|零落《れいらく》せしものと|誤認《ごにん》し、|帰郷《ききやう》するや|嗤笑《しせう》して|告《つ》げて|曰《いは》く。
『|上田《うへだ》は|怪《あや》しき|教《をしへ》に|沈溺《ちんでき》せし|為《た》め|終《つひ》に|乞食《こじき》に|堕落《だらく》したり。|神道《しんだう》に|熱中《ねつちゆう》するもの|宜《よろ》しくこれを|以《もつ》て|殷鑑《いんかん》とし、|決《けつ》して|祖先《そせん》|伝来《でんらい》|遵奉《じゆんぽう》し|来《きた》りし|仏道《ぶつだう》を|捨《す》て|神道《しんだう》に|迷《まよ》ふが|如《ごと》き|愚挙《ぐきよ》を|演《えん》ずる|勿《なか》れ。|彼《か》れ|上田《うへだ》は|親族《しんぞく》には|絶交《ぜつかう》せられ、|朋友《ほういう》には|疎《うと》まれ、|弟妹《けうだい》には|見離《みはな》され、|吾《わが》|住《す》み|馴《な》れし|恋《こひ》しき|故郷《こきやう》を|捨《す》てて|是非《ぜひ》もなくなく|他所《たしよ》へ|流浪《るらう》し、|今《いま》|又《また》|養家《やうか》の|老母《らうぼ》や|妻《つま》を|携《たづさ》へ、|浮雲《ふうん》|流水《りうすゐ》の|身《み》となり|居《を》れり』
などと、|御苦労《ごくらう》にも|悪言醜語《あくげんしうご》を|遠近《ゑんきん》に|触《ふ》れまはし、|余《よ》が|郷里《きやうり》の|一族《いちぞく》も|少《すくな》からぬ|迷惑《めいわく》を|感《かん》じたと|云《い》ふことである。
|日本《にほん》|神国《しんこく》に|生《せい》を|享《う》け、|神国《しんこく》の|粟《あは》を|喰《は》み、|神恩《しんおん》に|浴《よく》し|乍《なが》ら、|報本反始《はうほんはんし》の|本義《ほんぎ》を|忘《わす》れて、|邪教《じやけう》に|魅《み》せられたる|印度霊《いんどみたま》の|小人《せうじん》の|言葉《ことば》|程《ほど》、|迂愚《うぐ》|頑迷《ぐわんめい》にして|斯道《しだう》に|害毒《がいどく》を|流《なが》すものはない。
|汽車《きしや》は|容赦《ようしや》なく|山本《やまもと》、|請田《うけだ》と|進《すす》み|行《ゆ》き、|第一《だいいち》|隧道《トンネル》を|潜《くぐ》り|抜《ぬ》け|第二《だいに》、|三《さん》、|四《し》と|貫《つらぬ》く|程《ほど》に、|流《なが》れも|清《きよ》き|保津川《ほづがは》の|激潭《げきたん》、|急流《きふりう》に|散在《さんざい》する|奇石《きせき》|怪岩《くわいがん》|面白《おもしろ》く、|読《よ》み|尽《つく》されぬ|書物岩《しよもついは》、|数《かぞ》へ|尽《つく》せぬ|算盤岩《そろばんいは》、|激潭《げきたん》|飛瀑《ひばく》の|中《なか》に|立《た》ち|並《なら》ぶ|屏風岩《びやうぶいは》、|仏者《ぶつしや》の|随喜《ずゐき》|渇仰《かつかう》する|蓮華岩《れんげいは》を|川底《かはそこ》に|見降《みくだ》しつつ、|渓間《たにま》の|鉄橋《てつけう》|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く、|早《はや》くも|嵐峡館《らんけふくわん》の|温泉場《をんせんば》、|感賞《かんしやう》|間《ま》もなく|君《きみ》が|代《よ》を|万代《よろづよ》|祝《いは》ふ|亀山隧道《かめやまトンネル》、|脱《ぬ》け|出《で》れば|花《はな》より|団子《だんご》の|嵯峨《さが》の|駅《えき》、|五分《ごふん》|停車《ていしや》の|其《その》|内《うち》に、|右手《みぎて》の|方《かた》を|眺《なが》むれば、|月雪花《つきゆきはな》と|楓《かへで》の|嵐山《あらしやま》、|秋季《しうき》に|花《はな》は|無《な》けれども、|松《まつ》の|木《こ》の|間《ま》を|彩《いろど》る|錦《にしき》、|神《かみ》の|随々《まにまに》|萠出《もえい》でて、|月《つき》|照《て》り|渡《わた》る|渡月橋《とげつけう》、|筏《いかだ》|流《なが》るる|桂川《かつらがは》、お|半長右衛門《はんちやううゑもん》|浮名《うきな》を|流《なが》す|涙川《なみだがは》、|流《なが》れも|清《きよ》き|天竜《てんりう》の|巨刹《きよさつ》は|松年《しようねん》|画伯《ぐわはく》の|筆《ふで》になる|天竜《てんりう》と|共《とも》に|高《たか》く|甍《いらか》を|雲表《うんぺう》に|現《あら》はし、|峨山《がざん》の|禅風《ぜんぷう》|薫《かほ》るあり。|十三詣《じふさんまゐ》りの|虚空蔵《こくうざう》の|祠《ほこら》、|千歳《ちとせ》|栄《さか》ゆる|松尾大社《まつをたいしや》、|神徳《しんとく》|薫《かほ》る|梅《うめ》の|宮《みや》の|森《もり》、|千葉《ちば》の|葛野《くづの》を|眺《なが》むれば、|百千足屋庭《ももちたるやには》も|見《み》え、|国《くに》の|秀《ほ》|見《み》ゆる|勇《いさ》ましさ。|左手《ひだりて》は|撰歌《せんか》に|名高《なだか》き|定家卿《ていかきやう》の|小倉山《をぐらやま》、|花《はな》と|紅葉《もみぢ》の|二尊院《にそんゐん》、|仏祖《ぶつそ》を|祀《まつ》つた|釈迦《しやか》の|堂《だう》、|北《きた》は|御室《おむろ》の|仁和寺《にんなでら》、|五重《ごぢう》の|塔《たふ》は|雲《くも》を|突《つ》く、|此処《ここ》に|昇降《しやうかう》する|客《きやく》の|大半《たいはん》はこれに|詣《まう》づる|信徒《ひと》なるべし。|汽笛《きてき》の|声《こゑ》に|動《うご》き|出《だ》す。|汽車《きしや》は|間《ま》もなく|花園駅《はなぞのえき》、|車掌《しやしやう》が|明《あ》くる|戸《と》を|待《ま》ち|兼《か》ねて|一行《いつかう》は|飛降《とびお》り、|禅宗《ぜんしう》の|本山《ほんざん》|妙心寺《めうしんじ》を|横手《よこて》に|眺《なが》めつつ、|教祖《けうそ》は|老《おい》の|御足《みあし》に|似《に》もやらず|一行《いつかう》の|先《さき》に|立《た》ちて|進《すす》まれ、|徒歩《かち》にて|北野《きたの》の|鳥居《とりゐ》|前《まへ》にと|衝立《つつた》つ|梅松竹《うめまつたけ》の|杖《つゑ》。|今日《けふ》は|陽暦《やうれき》|廿五日《にじふごにち》|当社《たうしや》の|祭典《さいてん》にて|神輿渡御《みこしとぎよ》の|真最中《まつさいちう》、|騎馬《きば》の|神職《しんしよく》は|冠装束《かむりしやうぞく》|厳《いか》めしく|劉喨《りうりやう》たる|音楽《おんがく》に|連《つ》れて、|神輿《みこし》の|前後《ぜんご》を|練《ね》り|出《いづ》る|有様《ありさま》、|最《いと》|殊勝《しゆしよう》に|見《み》ゆる。|数万《すうまん》の|賽者《さいしや》は|一時《いちじ》に|容《かたち》を|改《あらた》め|襟《えり》を|正《ただ》して|拍手《はくしゆ》するあり。|社頭《しやとう》には|千年《ちとせ》の|老松《らうしやう》|梅林《ばいりん》、|楓《かへで》|雑木《ざふぼく》も|苔蒸《こけむ》して|神《かむ》さび|立《た》てる|神々《かうがう》しさ。|教祖《けうそ》は|此処《ここ》に|歩《ほ》を|停《とど》め|拍手《はくしゆ》|再拝《さいはい》の|後《のち》、|余等《よら》|一行《いつかう》に|向《むか》ひ、
|教祖《けうそ》『|抑《そもそ》も|当社《たうしや》の|祭神《さいじん》は|今《いま》より|一千余年《いつせんよねん》の|昔《むかし》、|左大臣《さだいじん》|藤原時平《ふぢはらときひら》が|讒言《ざんげん》に|由《よ》つて|時《とき》の|帝王《ていわう》の|逆鱗《げきりん》に|触《ふ》れ、|無実《むじつ》の|罪《つみ》に|問《と》はせられ|親子《おやこ》|共《とも》に|四方《しはう》へ|流謫《るたく》の|身《み》となり、|御無念《ごむねん》やる|方《かた》なく、
|天《あめ》の|下《した》|乾《かわ》ける|程《ほど》のなければや
|着《き》てし|濡衣《ぬれぎぬ》ひる|由《よし》もなき
と|歎《なげ》き|給《たま》ひし|菅原道真公《すがはらみちざねこう》の|真心《まごころ》|終《つひ》に|天地《てんち》に|貫徹《くわんてつ》し、|鳴神《なるかみ》とまで|化《ば》けて|神異《しんい》|霊徳《れいとく》を|顕《あら》はし|一陽来復《いちやうらいふく》の|時《とき》|至《いた》つて|北野天神《きたのてんじん》と|祭《まつ》られ|後世《こうせい》までも|斯《か》くも|手厚《てあつ》き|官祭《くわんさい》に|与《あづか》り|給《たま》ふは、|実《じつ》に|聖明《せいめい》の|世《よ》の|賜《たまもの》と|云《い》ふべし。|然《しか》し|乍《なが》らここに|思《おも》ひ|出《いだ》されて|忍《しの》び|難《がた》きは|吾等《われら》の|奉仕《ほうし》する|艮《うしとら》の|大神《おほかみ》|国常立尊《くにとこたちのみこと》の|御上《おうへ》である。|大神《おほかみ》は|天地開闢《てんちかいびやく》の|太初《はじめ》にあたり、|海月《くらげ》なす|漂《ただよ》へる|国土《こくど》を|修理固成《しうりこせい》して|豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂《みづほ》の|国《くに》を|建設《けんせつ》し、|以《もつ》て|神人《しんじん》|安住《あんぢう》の|基礎《きそ》を|立《た》て|厳格《げんかく》なる|神政《しんせい》を|励行《れいかう》し|給《たま》ふや、|剛直峻正《がうちよくしゆんせい》にして|柔弱《じうじやく》なる|万神《ばんしん》の|忌憚《きたん》する|所《ところ》となり、|衆議《しうぎ》の|結果《けつくわ》|悪鬼《あくき》|邪神《じやしん》と|貶《へん》せられ、|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ひて|神域《しんゐき》の|外《そと》に|神退《かむやら》ひに|退《やら》はれて|其《その》|尊身《そんしん》を|隠《かく》し、|千万《ちよろづ》の|御無念《ごむねん》、|克《よ》く|忍《しの》び|克《よ》く|堪《こら》へ|天地《てんち》の|諸霊《しよれい》を|守護《しゆご》し|給《たま》へども、|盲《めくら》|千人《せんにん》|目明《めあき》|一人《ひとり》の|現社会《げんしやくわい》に|誰《たれ》ありて|神名《しんめい》を|称《とな》へ|奉《まつ》る|者《もの》なく、|神饌《しんせん》|一回《いつくわい》|献《けん》ずる|人《ひと》|無《な》く、|暗黒裡《あんこくり》に|血涙《けつるい》を|呑《の》み|落武者《おちむしや》の|悲境《ひきやう》に|在《おは》せ|給《たま》ひしに、|時節《じせつ》|到来《たうらい》、|大神《おほかみ》の|至誠《しせい》は|天地《てんち》に|通《つう》じ、|煎豆《いりまめ》に|花《はな》の|咲《さ》き|出《い》でしが|如《ごと》く|月日《つきひ》|並《なら》びて|治《おさ》まれる、|二十五年《にじふごねん》の|正月《しやうぐわつ》|元朝《ぐわんてう》|寅《とら》の|刻《こく》、|天津神《あまつかみ》の|任《よさ》しのまにまに、
「|三千世界《さんぜんせかい》|一度《いちど》に|開《ひら》く|梅《うめ》の|花《はな》、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|世《よ》になりたぞよ。|須弥仙山《しゆみせんざん》に|腰《こし》を|掛《か》け|丑寅《うしとら》の|金神《こんじん》|守《まも》るぞよ」
と|大歓喜《だいくわんき》と|大抱負《だいはうふ》とを|以《もつ》て|目出度《めでた》く|産声《うぶごゑ》を|挙《あ》げ、|再《ふたた》び|現在《げんざい》の|主宰《しゆさい》とならせ|給《たま》へり。あゝ|斯《か》くも|至尊《しそん》|至貴《しき》|至仁《しじん》|至愛《しあい》なる|大神《おほかみ》の|御心《みこころ》を|察《さつ》し|奉《たてまつ》りて|一日《いちにち》も|早《はや》く|片時《かたとき》も|速《すみやか》に、|大神《おほかみ》の|仮宮《かりみや》なりとも|造営《ざうえい》し|奉《たてまつ》り|我《わが》|神洲神民《しんしうしんみん》として|敬神《けいしん》|愛民《あいみん》の|至誠《しせい》を|養《やしな》ひ|神恩《しんおん》の|忝《かたじ》けなきを|覚悟《かくご》せしめ、|日本魂《やまとだましひ》を|錬磨《れんま》|修養《しうやう》せしめねば、|邦家《はうか》の|前途《ぜんと》は|実《じつ》に|寒心《かんしん》に|堪《た》へず。|瞬時《しゆんじ》も|速《すみや》かに|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|大神《おほかみ》の|御洪徳《ごこうとく》を|宣伝《せんでん》し、|悪鬼《あくき》|邪神《じやしん》との|冤罪《ゑんざい》を|雪《すす》ぎ|奉《たてまつ》るは|吾等《われら》の|大責任《だいせきにん》にして|又《また》|畢生《ひつせい》|必《かなら》ず|決行《けつかう》せざるべからざる|大願《たいぐわん》なり。|今《いま》や|北野《きたの》の|神《かみ》の|官祭《くわんさい》を|拝《はい》して|大神《おほかみ》の|御上《おんうへ》を|追懐《つゐくわい》し、|悲歎《ひたん》|遣《や》る|瀬《せ》なし』
とて|冴《さ》えたる|御声《みこゑ》は|愈《いよいよ》|曇《くも》り|光眼《くわうがん》|瞬《またた》く|事《こと》|切《しき》りと|見受《みうけ》られ……|草枕《くさまくら》|旅《たび》には|厭《いと》ふ|村時雨《むらしぐれ》はらはらかかるを|袖《そで》にうけつつ|語《かた》り|出《い》でらるる|其《その》|真情《まごころ》に|絆《ほだ》されて、|海潮《かいてう》も|澄子《すみこ》も|声《こゑ》をのみ、|貰《もら》ひ|泣《な》きせし|其《その》|顔《かほ》を、|菅《すげ》の|小笠《をがさ》に|隠《かく》して|同行《どうぎやう》|五人《ごにん》|杖《つゑ》を|曳《ひ》いて|鞍馬《くらま》を|指《さ》して|急《いそ》ぎ|行《ゆ》く。
|鞍馬《くらま》へ|愈《いよいよ》|到着《たうちやく》してより|其《その》|夜《よ》は|御宮《おみや》の|前《まへ》にて|御通夜《おつや》する|事《こと》とした。|四方《しかた》|春三《はるざう》は|寺前《じぜん》に|備《そな》へありし|御籤《みくじ》を|頂《いただ》きしに|余程《よほど》|悪《あし》かりしと|見《み》え、|思《おも》はず、
|春三《はるざう》『オウ|失敗《しま》つた』
などと|口外《こうぐわい》する。|其《その》|夜《よ》|福林《ふくばやし》は|旅《たび》の|疲労《ひらう》にて|前後《ぜんご》|不覚《ふかく》の|体《てい》に|寝入《ねい》りしが、|不図《ふと》|夜中《よなか》の|一時《いちじ》|頃《ごろ》|目《め》を|覚《さ》まし|見《み》れば、|傍《かたはら》にありし|四方《しかた》|春三《はるざう》の|姿《すがた》の|見《み》えざるに|驚《おどろ》き、|探《さが》し|見《み》るに|外《そと》の|方《はう》に|当《あた》つて『|起《お》きて|下《くだ》さい』と|頻《しき》りに|呼《よば》はる|声《こゑ》の|聞《きこ》ゆるままに|耳《みみ》をすませば|確《たしか》に|四方《しかた》の|声《こゑ》である。|福林《ふくばやし》は|急《いそ》ぎ|外《そと》へ|出《で》て|見《み》れば、|大《おほ》いなる|火《ひ》の|玉《たま》、お|宮《みや》の|前《まへ》を|行《ゆ》きつ|戻《もど》りつ|駆《か》けめぐり、|而《しか》も|其《その》|火《ひ》の|玉《たま》の|尾《を》には|正《まさ》しく|尋《たづ》ねる|四方《しかた》|春三《はるざう》の|姿《すがた》あるを|認《みと》め、|今《いま》の|声《こゑ》の|所在《ありか》も|始《はじ》めてわかつた。|薄気味《うすきみ》|悪《わる》く|見守《みまも》る|内《うち》、|火《ひ》の|玉《たま》は|次第《しだい》に|先方《むかう》へ|行《ゆ》きし|故《ゆゑ》|恐《おそ》る|恐《おそ》るも|其《その》|方角《はうがく》へ|行《ゆ》きて|見《み》れば|四方《しかた》は|大《おほ》きな|焚火《たきび》をして|居《ゐ》た。|福林《ふくばやし》は|近《ちか》づいて、
|福林《ふくばやし》『|一体《いつたい》|如何《どう》したのか』
と|聞《き》けば|四方《しかた》は|青《あを》い|顔《かほ》して|震《ふる》へ|乍《なが》ら、
|四方《しかた》『オヽ|恐《こは》い|恐《こは》い、こんなに|恐《こは》い|事《こと》はない、|今《いま》のを|見《み》て|呉《く》れたら|何《なに》も|云《い》ふ|事《こと》は|無《な》い』
と|云《い》ふのみにて|打《う》ち|明《あ》けもせず|泣《な》いて|居《ゐ》る。それから|連《つ》れ|立《だ》ちて|御宮《おみや》へ|戻《もど》り|再《ふたた》び|寝《しん》に|就《つ》き、|夜明《よあ》けてから|更《あらた》めて|四方《しかた》に|夜半《やはん》の|出来事《できごと》を|尋《たづ》ねたけれど、|四方《しかた》は|何《なに》も|知《し》らぬと|云《い》ふ。|念《ねん》の|為《た》め|昨夜《さくや》|焚火《たきび》せる|処《ところ》へ|行《い》つて|見《み》たが|其《その》|跡《あと》さへ|無《な》き|不思議《ふしぎ》に|福林《ふくばやし》は|只《ただ》|驚《おどろ》くばかりであつた。|海潮《かいてう》は|教祖《けうそ》に|向《むか》ひ|今度《こんど》|鞍馬参《くらままゐ》りの|神慮《しんりよ》を|伺《うかが》ひしに、|教祖《けうそ》は|只《ただ》、
|教祖《けうそ》『|先《さき》に|行《い》つたら|分《わか》りませう』
と|云《い》はれしのみであつた。
|帰途《きと》は|京都《きやうと》より|亀岡《かめをか》へ|出《い》で|八木《やぎ》にて|一泊《いつぱく》せしが|四方《しかた》は|終日《しうじつ》|蒼白《あをじろ》な|顔《かほ》して|悄気込《せうげこ》み|居《ゐ》たりし|様《さま》|見《み》るも|憐《あは》れであつた。|同人《どうにん》は|其《その》|夜《よ》|園部《そのべ》まで|二里《にり》の|行程《かうてい》を|走《はし》つて|友人《いうじん》に|会《あ》ひ、
|四方《しかた》『|今度《こんど》は|死《し》ぬやも|知《し》れぬ』
とて|暇乞《いとまご》ひを|成《な》して|帰《かへ》れる|由《よし》、|教祖《けうそ》は|此《この》|事《こと》を|聞《き》きて|叱《しか》つてゐられた。
|翌日《よくじつ》|綾部《あやべ》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》は|途中《とちう》|迄《まで》|出迎《でむか》ひに|出《で》て|無事《ぶじ》|大広前《おほひろまへ》に|帰《かへ》り|着《つ》く。|四方《しかた》|春三《はるざう》は|始終《しじう》|太息《といき》を|洩《も》らし|居《ゐ》たが|上谷《うへだに》の|宅《たく》より|迎《むか》ひに|来《きた》り、|帰宅《きたく》して|後《のち》|一ケ月《いつかげつ》ほど|煩《わづら》ひて|帰幽《きいう》して|了《しま》つた。|其《それ》より|前《まへ》、
|四方《しかた》『|生前《せいぜん》|是非《ぜひ》|先生《せんせい》に|一度《いちど》|来《き》て|貰《もら》はねば|死《し》ぬにも|死《し》なれぬ』
とて|使《つか》ひが|来《き》たから|海潮《かいてう》は|見舞《みまひ》に|行《ゆ》き、
|海潮《かいてう》『|許《ゆる》してやる』
と|言《い》へば|安心《あんしん》して|帰幽《きいう》した。|春三《はるざう》|時《とき》に|十八才《じふはつさい》、|実《じつ》に|霊学《れいがく》に|達《たつ》したる|男《をとこ》であつたが|慢心《まんしん》|取違《とりちが》ひの|末《すゑ》、|神罰《しんばつ》を|蒙《かうむ》りて|一命《いちめい》を|終《をは》はつたのは|遺憾《ゐかん》の|事《こと》であつた。
|或《ある》|夜《よ》|俄《にはか》に|大風《おほかぜ》|吹《ふ》きて|広前《ひろまへ》の|杉《すぎ》の|樹《き》、ゴウゴウと|唸《うな》りし|事《こと》がある。|後《のち》|教祖《けうそ》に|伺《うかが》ひしに、|鞍馬山《くらまやま》の|大僧正《だいそうじやう》|来《きた》りて|本宮山《ほんぐうやま》へ|鎮《しづ》まり|又《また》|其《その》|眷族《けんぞく》は|馬場《ばば》の|大杉《おほすぎ》へ|行《い》つたが|其《その》|後《ご》|大杉《おほすぎ》には|蜂《はち》の|如《ごと》く|沢山《たくさん》の|眷族《けんぞく》が|見《み》えたと|教祖《けうそ》は|物語《ものがた》られた。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 北村隆光録)
第二〇章 |元伊勢《もといせ》〔一〇五七〕
|明治《めいぢ》|三十四年《さんじふよねん》|旧《きう》|三月《さんぐわつ》|八日《やうか》、|元伊勢《もといせ》の|御水《おみづ》の|御用《ごよう》があつた。|世界《せかい》|広《ひろ》しと|云《い》へども、|生粋《きつすゐ》の|水晶《すゐしやう》の|御水《おみづ》と|云《い》ふのは、|実《じつ》に|元伊勢《もといせ》の|天《あま》の|岩戸《いはと》の|産盥《うぶだらひ》|産釜《うぶがま》の|御水《おみづ》より|外《ほか》には|無《な》いので、|其《その》|水晶《すゐしやう》の|御水《おみづ》を|汲《く》んで|来《こ》ねばならぬと|云《い》ふ|御筆先《おふでさき》が|旧《きう》|三月《さんぐわつ》|一日《いちじつ》に|出《で》たのである。
『|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|指図《さしづ》でないと|此《この》|水《みづ》は|滅多《めつた》に|汲《く》みには|行《ゆ》けぬのであるぞよ。|此《この》|神《かみ》が|許《ゆる》しを|出《だ》したら|何処《どこ》からも|指《ゆび》|一本《いつぽん》さへるものもないぞよ』
と|云《い》ふ|意味《いみ》の|御筆先《おふでさき》である。|極《きは》めて|大切《たいせつ》な|御用《ごよう》であるから、|六日前《むゆかまへ》に|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》が|調《しら》べに|行《い》つて|来《き》た。|此《この》|水《みづ》は|昔《むかし》から|汲取《くみとり》|禁制《きんせい》の|御水《おみづ》で|万一《まんいち》|禁《きん》を|犯《をか》した|場合《ばあひ》は|必《かなら》ず|大風《おほかぜ》|大洪水《だいこうずゐ》が|起《おこ》ると|伝《つた》へられ、|何人《なんぴと》も|触《ふ》れる|事《こと》の|出来《でき》ぬ|様《やう》に|特《とく》に|神官《しんくわん》が|見張《みはり》をして|居《を》るのみならず、|上《うへ》の|方《はう》から|見下《みおろ》した|処《ところ》では|小《ちひ》さい|流《なが》れがあつて、|二間《にけん》ばかりの|板《いた》を|渡《わた》さねば|行《ゆ》かれないと|云《い》ふ|事《こと》まで|確《たしか》めて|帰《かへ》つて|来《き》たのである。|愈《いよいよ》|当日《たうじつ》になつて、|教祖《けうそ》の|外《ほか》|海潮《かいてう》、|澄子《すみこ》を|初《はじ》め|一行《いつかう》|四十二名《しじふにめい》、|菅笠《すげがさ》、|茣蓙蓑《ござみの》の|扮装《いでたち》、|御水《おみづ》を|汲《く》み|取《と》る|為《ため》に|後野《ごの》|市太郎《いちたらう》が|拵《こしら》へし|青竹《あをたけ》の|一節《ひとふし》の|筒《つつ》|二本《にほん》を|携帯《けいたい》して|出発《しゆつぱつ》した。|丹後《たんご》の|内宮《ないぐう》の|松代屋《まつしろや》に|着《つ》いて|一行《いつかう》は|打《う》ち|寛《くつ》ろぎ、|前《まへ》に|木下《きのした》が|調《しら》べし|通《とほ》り|神官《しんくわん》が|見張《みは》つて|居《を》つては|汲《く》む|事《こと》が|出来《でき》ないから、|先《ま》づ|森津《もりつ》|由松《よしまつ》に|命《めい》じて|様子《やうす》を|見届《みとど》けにやつた。|日《ひ》が|暮《く》れかけたので、|見張《みはり》の|神官《しんくわん》が|内《うち》へ|引上《ひきあ》げるのを|見届《みとど》けて|森津《もりつ》は|早速《さつそく》|報告《はうこく》に|引返《ひきかへ》した。|草鞋《わらぢ》もとかずに|森津《もりつ》の|報告《はうこく》を|待《ま》ち|兼《かね》て|居《ゐ》た、|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》は|例《れい》の|用意《ようい》して|置《お》いた|青竹《あをたけ》の|筒《つつ》|二本《にほん》を|携《たづさ》へて|大急《おほいそ》ぎで|岩戸《いはと》へ|駆《か》けつけた。|六日前《むゆかまへ》に|調《しら》べた|時《とき》に|見《み》て|置《お》いた|小《ちひ》さな|流《ながれ》には|大《おほ》きな|朽木《くちき》が|流《なが》れ|寄《よ》つて|横《よこた》はつて|居《を》つたので、これ|幸《さいは》ひと|渡《わた》つて|行《い》つた。そして|産盥《うぶだらひ》と|産釜《うぶがま》の|水《みづ》を|青竹《あをだけ》の|筒《つつ》の|中《なか》へ|杓子《しやくし》で|汲取《くみと》るのであるが|筒《つつ》の|穴《あな》が|小《ちひさ》い|為《ため》、|仲々《なかなか》|手早《てばや》く|済《す》まず、|愚図々々《ぐづぐづ》して|邪魔《じやま》が|這入《はい》つては|今度《こんど》の|大切《たいせつ》の|御用《ごよう》が|勤《つと》まらぬと|心得《こころえ》た|木下《きのした》は、|二本《にほん》の|筒《つつ》を|両手《りやうて》に|持《も》つて|矢庭《やには》にヅブヅブと|突込《つきこ》んで、|漸《やうや》く|水《みづ》が|一杯《いつぱい》になつたので、|安心《あんしん》して|松代屋《まつしろや》へ|引揚《ひきあ》げた。|一行《いつかう》は|風呂《ふろ》から|上《あが》つて|夕食《ゆふしよく》の|最中《さいちう》であつたが|首尾《しゆび》よく|御用《ごよう》を|勤《つと》めた|事《こと》を|申《まを》し|上《あ》げると、|教祖《けうそ》は|非常《ひじやう》に|喜《よろこ》ばれた。そして|木下《きのした》は|大《おほ》きな|朽木《くちき》の|橋《はし》の|事《こと》を|申上《まをしあ》げると|教祖《けうそ》はそれは|正《まさ》しく|竜神様《りうじんさま》であると|云《い》はれた。|翌日《よくじつ》は|御礼《おれい》|参《まゐ》りに|行《い》つて|夕方《ゆふがた》|五時《ごじ》|出立《しゆつたつ》、|夜徹《よどほ》し|歩《ある》いて|帰《かへ》つたが、|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》るまで|何《なん》の|御用《ごよう》をして|来《き》たか|知《し》らぬ|者《もの》さへ|多《おほ》かつた。
|汲《く》んで|来《き》た|生粋《きつすゐ》の|水晶《すゐしやう》の|御水《おみづ》は|神様《かみさま》に|御供《おそな》へして|其《その》|御下《おさが》りを|皆《みな》で|少《すこ》しづつ|戴《いただ》き、|大本《おほもと》の|井戸《ゐど》と|元屋敷《もとやしき》の|角蔵《かくざう》|氏《し》|方《かた》の|井戸《ゐど》と|四方《しかた》|源之助《げんのすけ》|氏《し》|宅《たく》の|井戸《ゐど》とへ|五勺《ごしやく》ほどを|残《のこ》りは|丹後《たんご》の|沓島《めしま》|冠島《をしま》の|真中《まんなか》|即《すなは》ち|竜宮海《りうぐうかい》へさせとの|教祖《けうそ》の|吩咐《いひつけ》であつた。|第一着《だいいちちやく》に|大本《おほもと》の|井戸《ゐど》に|入《い》れたが、|教祖《けうそ》は、
|教祖《けうそ》『|今《いま》に|京都《きやうと》|大阪《おほさか》あたりから|此《この》お|水《みづ》を|頂《いただ》きに|来《く》る|様《やう》になる』
と|云《い》はれたが|今日《こんにち》では|已《すで》に|実現《じつげん》して|居《を》るのである。
|元屋敷《もとやしき》の|井戸《ゐど》と|云《い》ふのは、|西《にし》の|石《いし》の|宮《みや》の|処《ところ》の|井戸《ゐど》で|出口《でぐち》の|元屋敷《もとやしき》であるが、|角蔵《かくざう》に|売《う》つたのであるから|勝手《かつて》にさす|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬので|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》の|計《はか》らひで|釣瓶繩《つるべなは》が|切《き》れたから|水《みづ》を|貰《もら》ひに|来《き》たのだと|云《い》つてさし|込《こ》んで|来《き》たのである。|元屋敷《もとやしき》は|後《のち》に|角蔵《かくざう》から|買《か》ひ|戻《もど》して|大本《おほもと》の|所有《しよいう》になり、|今日《こんにち》では|石《いし》のお|宮《みや》が|立《た》ててある。|四方《しかた》|源之助《げんのすけ》の|内《うち》の|井戸《ゐど》にも|木下《きのした》が|同一《どういつ》|筆法《ひつぱふ》でさし|込《こ》んで|来《き》た。これは|今《いま》|統務閣《とうむかく》の|側《そば》の|井戸《ゐど》で|現今《げんこん》では|三《みつ》つとも|大本《おほもと》の|有《いう》となつて|居《を》る。
|此《この》|御水《おみづ》の|御用《ごよう》が|出来《でき》た|頃《ごろ》、|大本《おほもと》で|三《みつ》つの|火《ひ》の|不思議《ふしぎ》があつた。お|広前《ひろまへ》のランプが|落《お》ちて|大事《おほごと》になる|所《ところ》を|漸《やうや》く|消《け》し|止《と》めたが、それからまだ|二三分間《にさんぷんかん》も|経《た》たぬ|内《うち》に|風呂場《ふろば》から|火《ひ》が|出《で》て、これ|亦《また》|大事《おほごと》になる|所《ところ》を|海潮《かいてう》が|見付《みつ》けて|大騒《おほさわ》ぎとなり|漸《やうや》く|消《け》し|止《と》めた。すると|又《また》|役員《やくゐん》の|背中《せなか》へランプが|落《お》ちて|危《あやふ》い|所《ところ》を|無事《ぶじ》に|消《け》しとめた。|僅《わづか》|二三分《にさんぷん》の|間《あひだ》に|三《みつ》つも|火事沙汰《くわじざた》が|起《おこ》つたので|何《なに》か|神慮《しんりよ》のある|事《こと》だらうと|思《おも》つて|居《を》ると|海潮《かいてう》は|神懸《かむがか》りとなつて|深《ふか》い|神慮《しんりよ》を|洩《も》らされたのである。|御水《おみづ》は|後《のち》になつて|教祖様《けうそさま》が|役員《やくゐん》|信者《しんじや》の|大勢《おほぜい》と|共《とも》に|竜宮海《りうぐうかい》へさしに|行《ゆ》かれた。|此《この》|水《みづ》が|三年《さんねん》|経《た》てば|世界中《せかいぢう》へ|廻《まは》るから、そしたら|世界《せかい》が|動《うご》き|出《だ》すと|云《い》ふ|事《こと》であつたが|果《はた》して|三年後《さんねんご》には|日露《にちろ》|戦争《せんそう》が|始《はじ》まつたのである。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 北村隆光録)
第五篇 |正信妄信《せいしんばうしん》
第二一章 |凄《すご》い|権幕《けんまく》〔一〇五八〕
|明治《めいぢ》|卅七年《さんじふしちねん》になつてから、|日露《にちろ》|戦争《せんそう》が|勃発《ぼつぱつ》したので、ソロソロ|四方《しかた》|平蔵《へいざう》、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》、|村上《むらかみ》|房之助《ふさのすけ》、|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》、|田中《たなか》|善吉《ぜんきち》、|本田《ほんだ》|作次郎《さくじらう》、|小島《こじま》|寅吉《とらきち》、|安田《やすだ》|荘次郎《しやうじらう》、|四方《しかた》|与平《よへい》、|塩見《しほみ》じゆん、などの|連中《れんちう》が|俄《にはか》に|鼻息《はないき》が|荒《あら》くなり、|六畳《ろくでふ》の|離《はな》れに|喜楽《きらく》が|閉《と》ぢ|込《こ》められ、|隠《かく》れて|古事記《こじき》を|調《しら》べたり、|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》を|書《か》いてゐると、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》が|二三人《にさんにん》の|役員《やくゐん》と|共《とも》に|大手《おほで》をふつてやつて|来《き》た。そして|喜楽《きらく》に|向《むか》ひ、
|中村《なかむら》『|会長《くわいちやう》サン|如何《どう》です、|大望《たいまう》が|始《はじ》まつたぢやありませぬか、|早《はや》く|改心《かいしん》をなさらぬと、|今年中《こんねんぢう》に|世界《せかい》は|丸潰《まるつぶ》れになりますぞ、|露国《ろこく》から|始《はじ》まりてもう|一戦《ひといくさ》があるとお|筆先《ふでさき》に|出《で》て|居《を》りますだないか、ヘンこれでも|筆先《ふでさき》がちがひますかな、|霊学《れいがく》|三分《さんぶ》|筆先《ふでさき》|七分《しちぶ》にせいと、お|筆先《ふでさき》に|出《で》て|居《を》るのに、|一寸《ちよつと》も|筆先《ふでさき》をおよみにならぬから、|露国《ろこく》から|戦《いくさ》が|始《はじま》つても|何《なに》も|分《わか》りますまいがな、この|先《さき》はどうなるといふ|事《こと》を|御存《ごぞん》じですか、|早《はや》く|教祖《けうそ》さまにお|詫《わび》をなされ』
と|威丈高《ゐたけだか》になつて、|説諭《せつゆ》するやうな|気分《きぶん》で|喋《しやべ》り|立《たて》た。|丁度《ちやうど》|宣戦《せんせん》の|詔勅《せうちよく》が|下《くだ》つた|三日目《みつかめ》である。そこで|喜楽《きらく》は|自分《じぶん》の|随筆《ずいひつ》と|題《だい》した|一冊《いつさつ》の|書物《しよもつ》を|出《だ》して、|中村《なかむら》に|示《しめ》し、
|喜楽《きらく》『そんな|事《こと》はとうから|分《わか》つてゐるのだ、これを|見《み》てくれ、|明治《めいぢ》|卅五年《さんじふごねん》の|一月《いちぐわつ》にチヤンと|明治《めいぢ》|卅七年《さんじふしちねん》の|二月《にぐわつ》から|日露《にちろ》|戦争《せんそう》が|起《おこ》るといふ|事《こと》が|自分《じぶん》の|筆《ふで》でかいてある』
とそこを|広《ひろ》げてつき|出《だ》して|見《み》せると、|中村《なかむら》は|妙《めう》な|顔《かほ》をして、
|中村《なかむら》『そんな|角文字《かくもじ》をまぜて、|外国身魂《ぐわいこくみたま》で|何程《なにほど》|書《か》いても、そんな|事《こと》はここでは|通用《つうよう》しませぬ、|何《な》にも|知《し》らぬ|学《がく》のない|神力《しんりき》ばかりの|教祖《けうそ》のお|筆先《ふでさき》が|尊《たつと》いのです』
と|木《き》で|鼻《はな》をこすつた|様《やう》に、|冷笑的《れいせうてき》に|云《い》ふ。そこで|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『お|前《まへ》は|明治《めいぢ》|卅三年《さんじふさんねん》にも|今年《こんねん》に|日露《にちろ》|戦争《せんそう》が|起《おこ》るといひ、|三十四年《さんじふよねん》にも|三十五年《さんじふごねん》にも|毎年《まいねん》、|今年《ことし》は|日露《にちろ》|戦争《せんそう》が|起《おこ》る、|立替《たてかへ》が|始《はじ》まる、|目《め》も|鼻《はな》もあかぬ|事《こと》が|出来《でき》るというて|居《を》つたぢやないか、そんな|予言《よげん》でもしまひには|当《あた》るもんだ』
といふと|中村《なかむら》は|威丈高《ゐたけだか》になり、
|中村《なかむら》『|私《わたくし》は|自分《じぶん》が|言《い》ふたのではない、|勿体《もつたい》なくも|艮大金神《うしとらのだいこんじん》|変性男子《へんじやうなんし》|出口《でぐち》の|神《かみ》さまのお|筆先《ふでさき》に……|今年《こんねん》は|立替《たてかへ》が|始《はじ》まる、|露国《ろこく》との|戦《たたか》ひがある……と|現《あら》はれて|居《を》るので、さういふたのです、つまり|会長《くわいちやう》サンは|教祖《けうそ》ハンの|仰有《おつしや》つた|事《こと》や|神《かみ》さまの|御言《おことば》をこなすのですか、あなたの|御改心《ごかいしん》が|遅《おく》れた|為《ため》に|御仕組《おしぐみ》がおくれたので|御座《ござ》いますぞ。|会長《くわいちやう》サンが|明治《めいぢ》|卅三年《さんじふさんねん》に|改心《かいしん》が|出来《でき》て|居《を》つたら、|神《かみ》さまは|三十三年《さんじふさんねん》に|立替《たてかへ》をなさるなり、|三十四年《さんじふよねん》に|改心《かいしん》が|出来《でき》て|居《を》つたら、ヤツパリ|三十四年《さんじふよねん》に|立替《たてかへ》を|遊《あそ》ばす|御仕組《おしぐみ》にチヤンと|三千年前《さんぜんねんまへ》から|決《き》まつて|居《を》ります、|自分《じぶん》の|改心《かいしん》がおくれて|神《かみ》さまに|御迷惑《ごめいわく》をかけ、|御仕組《おしぐみ》を|延《の》ばして、|世界《せかい》の|人民《じんみん》を|苦《くる》しめておき|乍《なが》ら、|神《かみ》さまがウソを|言《い》ふたよに|仰有《おつしや》るのですか、そんな|事《こと》を|仰有《おつしや》ると、|綾部《あやべ》には|居《を》つて|貰《もら》へませぬ、|何《なん》というても|露国《ろこく》と|日本《にほん》との|戦争《せんそう》が|始《はじ》まつたのですから、きつと|日本《にほん》は|九分《くぶ》|九《く》りんまで、サア|叶《かな》はぬといふ|所《ところ》まで|行《ゆき》ますぞ、そうなつた|所《ところ》で|綾部《あやべ》の|大本《おほもと》から|艮金神《うしとらのこんじん》|変性男子《へんじやうなんし》の|身魂《みたま》が|大出口《おほでぐち》の|神《かみ》と|現《あらは》れて、|艮《とど》めをさして|三千世界《さんぜんせかい》をうでくり|返《かへ》し、|天下《てんか》|太平《たいへい》に|世《よ》を|治《おさ》めて、|後《あと》は|五六七《みろく》の|世《よ》|松《まつ》の|世《よ》と|遊《あそ》ばすのですから、|早《はや》く|改心《かいしん》をして|貰《もら》はぬと、お|仕組《しぐみ》の|邪魔《じやま》になりますぞや、|三千世界《さんぜんせかい》の|立替立直《たてかへたてなほ》しの|御用《ごよう》の|邪魔《じやま》を|致《いた》した|者《もの》は、|万劫末代《まんごまつだい》|書《か》きのこして、|見《み》せしめに|致《いた》して|其《その》|身魂《みたま》を|根《ね》の|国《くに》|底《そこ》の|国《くに》へおとすぞよ………と|神《かみ》さまがお|筆先《ふでさき》にお|示《しめ》しになつて|居《を》りますぞや、|会長《くわいちやう》サンの|改心《かいしん》が|一日《いちにち》|遅《おく》れたら|世界《せかい》の|人民《じんみん》が|一日《いちにち》|余計《よけい》|苦《くる》しむといふ、あんたの|身魂《みたま》は|極悪《ごくあく》の|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》|性来《しやうらい》だから、|何事《なにごと》も|改心《かいしん》が|一等《いつとう》ぞやとお|筆《ふで》に|出《で》て|居《ゐ》ますぞえ』
と|脱線《だつせん》だらけの|事《こと》を|云《い》ひ|並《なら》べて|攻《せ》め|立《た》てる。|会長《くわいちやう》は|可笑《おか》しさをこらへて、
|喜楽《きらく》『|自分《じぶん》が|一日《いちにち》|早《はや》く|改心《かいしん》した|為《ため》に|三千世界《さんぜんせかい》の|人間《にんげん》が|一日《いちにち》|早《はや》く|助《たす》かるといふよな、|善《ぜん》にもせよ|悪《あく》にもせよ、そんな|人物《じんぶつ》なら|結構《けつこう》だが、|自分等《じぶんら》|一人《ひとり》が|如何《どう》なつた|所《ところ》で、|世界《せかい》に|対《たい》して|何《なん》の|関係《くわんけい》があるものか、|余《あま》り|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》を|云《い》ふもんぢやない、そんな|事《こと》を|云《い》ふから、|綾部《あやべ》の|大本《おほもと》は、|気違《きちがひ》の|巣窟《さうくつ》だとか、|迷信家《めいしんか》の|寄合《よりあひ》だとか、|世界《せかい》から|悪罵《あくば》されて、はねのけ|者《もの》にされるのだ、チツとは|考《かんが》へて|貰《もら》はぬと|困《こま》るぢやないか』
と|言《い》へば|中村《なかむら》は|口《くち》をとがらし、
|中村《なかむら》『おだまりなされ|海潮《かいてう》サン|何程《なにほど》うまく|化《ば》けても|駄目《だめ》です。|世間《せけん》から|悪《わる》くいはれるのがそれ|程《ほど》|気《き》にかかりますかな、|何《なん》と|気《き》の|小《ちひ》さい|先生《せんせい》ですな、それだから|変性女子《へんじやうによし》は|反対役《はんたいやく》だと|神《かみ》さまが|仰有《おつしや》るのだ、|世界中《せかいぢう》|皆《みな》|曇《くも》つて|昼中《ひるなか》に|提灯《ちやうちん》を|持《も》つて|歩《ある》かなならぬ|暗《くら》がりの|世《よ》の|中《なか》になつてゐるのぢやから、|世界《せかい》の|人民《じんみん》にほめられるよな|教《をしへ》がそれが|誠《まこと》ですかい、トコトン|悪《わる》くいはれてトコトンよくなる|仕組《しぐみ》ですよ、|余《あま》りあんたは|角文字《かくもじ》や|外国《ぐわいこく》の|教《をしへ》にこるから、サツパリ|霊《みたま》がねぢけて|了《しま》うて、お|筆先《ふでさき》が|分《わか》らぬのだ。チツとお|筆先《ふでさき》を|聞《き》きなされ』
と|呶鳴《どな》りつけ|乍《なが》ら、|恭《うやうや》しく|三宝《さんぱう》にのせて|来《き》た|七八冊《しちはつさつ》の|筆先《ふでさき》をよみ|始《はじ》め|出《だ》した。
|喜楽《きらく》は|頭《あたま》が|痛《いた》くなつて|来《き》て、|気分《きぶん》が|悪《わる》くて|仕方《しかた》がない。そこで、
|喜楽《きらく》『|其《その》|筆先《ふでさき》なら|何《なん》べんも|聞《き》いて|居《を》るから、|聞《き》かして|貰《もら》はいでもよい、|何《なに》もかも|知《し》つてゐる』
というや|否《いな》や、
|中村《なかむら》『コラツ|小松林《こまつばやし》、お|筆先《ふでさき》が|苦《くる》しいか、サア|是《これ》からお|筆先《ふでさき》|攻《ぜめ》にして|退《ど》かしてやろ、サア|早《はや》く|小松林《こまつばやし》、|此《この》お|筆先《ふでさき》を|聞《き》いて、トツトと|会長《くわいちやう》サンの|肉体《にくたい》を|立去《たちさ》れ、そして|其《その》|後《あと》へ|変性女子《へんじやうによし》の|身魂《みたま》|坤《ひつじさる》の|金神《こんじん》さまがお|鎮《しづ》まり|遊《あそ》ばすのだ、|会長《くわいちやう》サンの|肉体《にくたい》は、|貴様《きさま》のよな|四足《よつあし》の|這入《はい》る|肉体《にくたい》だないぞ、コラ|退《ど》かぬか』
と|呶鳴《どな》りつける。|村上《むらかみ》や|四方《しかた》|平蔵《へいざう》が|傍《そば》から、
|村上《むらかみ》『コラ|小松林《こまつばやし》、|何《なに》を|愚図々々《ぐづぐづ》してゐるのだ、|早《はや》く|会長《くわいちやう》の|肉体《にくたい》を|飛出《とびだ》して、|園部《そのべ》の|内藤《ないとう》へしづまらぬか、|悪《あく》の|霊《みたま》の|年《ねん》の|明《あ》きだぞ』
と|三方《さんぱう》から|攻《せ》めかける。|四方《しかた》|平蔵《へいざう》は|口《くち》を|尖《とが》らして、
|四方《しかた》『コレ|小松林《こまつばやし》サン、お|前《まへ》サンもよい|加減《かげん》に|改心《かいしん》をなさつたら|如何《どう》どすか、お|前《まへ》サンの|改心《かいしん》が|出来《でき》ぬ|為《ため》に、|教祖《けうそ》さまが|有《あ》るに|有《あ》られぬ|苦労《くらう》をなされて|厶《ござ》るなり、|役員《やくゐん》|信者《しんじや》が|日々《にちにち》|心配《しんぱい》をいたし|世界《せかい》の|人民《じんみん》が|大変《たいへん》に|苦《くる》しんで|居《を》るぢやないか、サア|早《はや》く|駿河《するが》の|稲荷《いなり》へ|帰《かへ》りなさい、ここは|稲荷《いなり》のよな|下郎《げらう》の|寄《よ》る|所《ところ》ぢや|厶《ござ》いませぬぞや、|水晶魂《すゐしやうだま》の|誠《まこと》|生粋《きつすゐ》の|身魂《みたま》|斗《ばか》り|集《あつ》まつて|御用《ごよう》を|致《いた》す|竜門館《りうもんやかた》の|高天原《たかあまはら》で|厶《ござ》いますぞや』
ウンウンと|手《て》を|組《くん》で、|三方《さんぱう》から|鎮魂《ちんこん》をする、どうにも|斯《こ》うにも|仕方《しかた》がないので、|会長《くわいちやう》は、
|喜楽《きらく》『そんなら|仕方《しかた》がないから、|小松林《こまつばやし》は|今日《けふ》|限《かぎ》り、いんで|了《しま》ふ、そして|坤《ひつじさる》の|金神《こんじん》さまに|跡《あと》へ|這入《はい》つて|貰《もら》うて|御用《ごよう》をして|貰《もら》ひませう』
といふと、|竹蔵《たけざう》が、
|中村《なかむら》『コレ|平蔵《へいざう》サン、|用心《ようじん》しなされや、|又《また》|園部《そのべ》のよにだまされるかも|知《し》れませぬで。|悪神《あくがみ》といふ|奴《やつ》は|何処《どこ》までもしぶとい|奴《やつ》だから、ウツカリしとると|馬鹿《ばか》にしられますで。|本当《ほんたう》に|小松林《こまつばやし》は|改心《かいしん》しとるのだない、|偉相《えらさう》に|笑《わら》うて|居《を》るぢやありませぬか、コラ|小松林《こまつばやし》、そんな|甘《うま》い|事《こと》|吐《ぬか》して、|会長《くわいちやう》の|肉体《にくたい》を|使《つか》はうと|思《おも》つても、|此《この》|中村《なかむら》が|承知《しようち》をせぬぞ、サア|何《なん》ぞ|証拠《しようこ》を|出《だ》せ、いよいよ|会長《くわいちやう》の|肉体《にくたい》を|離《はな》れたといふ|事《こと》を|明《あきら》かに|示《しめ》して、|教祖《けうそ》にお|詫《わび》を|致《いた》さぬと、どこまでも|許《ゆる》さぬのだ。モウ|斯《こ》うなつた|以上《いじやう》は|三日《みつか》かかつても、|十日《とをか》かかつても、|会長《くわいちやう》の|肉体《にくたい》から|放《はう》り|出《だ》さなおかぬのだい』
と|四股《しこ》をふんで|雄健《をたけ》びをする、|千言万語《せんげんばんご》を|尽《つく》して|諭《さと》せば|諭《さと》す|程《ほど》|反対《はんたい》にとり、どうにも、かうにも|始末《しまつ》がつかぬやうになつて|来《き》た。そこへ|八木《やぎ》から|福島《ふくしま》|久子《ひさこ》がやつて|来《き》て、|教祖《けうそ》さまに|挨拶《あいさつ》をし、|終《をは》つて|慌《あは》ただしく|喜楽《きらく》の|前《まへ》に|来《きた》り、
|久子《ひさこ》『|何《なん》とマア|平蔵《へいざう》サン、お|筆先《ふでさき》は|恐《おそ》れ|入《い》つたもので|厶《ござ》いますな。とうとう|露国《ろこく》と|戦争《せんそう》が|起《おこ》つたぢやおへんか、まだ|会長《くわいちやう》サンは|御改心《ごかいしん》が|出来《でき》ませぬのかい』
|中村《なかむら》『コレはコレは|福島《ふくしま》ハンどすか、よう|来《き》て|下《くだ》さつた、|神《かみ》さまのお|筆先《ふでさき》は|恐《おそ》れ|入《い》つたもんどすな、こんな|御大望《ごたいまう》が|始《はじま》つて|居《を》るのに、まだ|小松林《こまつばやし》が|頑張《ぐわんば》つて、|会長《くわいちやう》サンの|肉体《にくたい》を|離《はな》れぬので、|今《いま》|皆《みな》の|役員《やくゐん》がよつて|説諭《せつゆ》をしとるのどすが、|中々《なかなか》ど|渋太《しぶと》うて|聞《き》いてくれませぬワ、どうぞあんたも|一《ひと》つ|言《い》うてきかして|下《くだ》さいな』
と|福島《ふくしま》の|弁舌家《べんぜつか》に|応援《おうゑん》をさせようとかかつてゐる。|又《また》こんな|口《くち》|喧《やかま》しい|女《をんな》にとつつかまつては|大変《たいへん》だと|思《おも》ひ、|便所《べんじよ》へ|行《ゆ》くやうな|顔《かほ》して、ソツと|裏口《うらぐち》から|飛出《とびだ》し、|西町《にしまち》の|大槻《おほつき》|鹿造《しかざう》の|宅《たく》へ|一目散《いちもくさん》に|逃《にげ》て|行《い》つた。
|大槻《おほつき》|鹿造《しかざう》とお|米《よね》サンとの|二人《ふたり》が|喜楽《きらく》の|走《はし》つて|行《い》つたのを|見《み》て、
|大槻《おほつき》『|会長《くわいちやう》サン、|又《また》|喧嘩《けんくわ》が|始《はじ》まつたのかな』
と|笑《わら》うてゐる。
|喜楽《きらく》『|八木《やぎ》の|福島《ふくしま》が|今《いま》やつて|来《き》よつたので、うるさいから|逃《に》げて|来《き》たのだ』
といふと|大槻《おほつき》|鹿造《しかざう》は、
|大槻《おほつき》『アハヽヽ|又《また》|例《れい》の|小松林《こまつばやし》サンかな、まアここに|久子《ひさこ》が|八木《やぎ》へ|帰《かへ》る|迄《まで》、ゆつくり|泊《とま》りなさい。|新宮《しんぐう》の|婆《ば》アさまも|婆《ば》アさまだ、|立替《たてかへ》だの|立直《たてなほ》しだのと、|第一《だいいち》それが|私《わたし》は|気《き》に|食《く》はぬのだ、|大槻《おほつき》|鹿造《しかざう》は|大江山《おほえやま》の|酒呑童子《しゆてんどうじ》のみたまだなんて、|婆《ば》アさまが|吐《ぬ》かすので、|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|人《ひと》を|鬼《おに》|扱《あつか》ひにしやがつて、むかつくのむかつかぬのつて、|外《ほか》の|婆《ばば》アぢやつたら、|此《この》|鹿造《しかざう》も|承知《しようち》をせぬのだけれど、|何《なん》と|云《い》うてもお|米《よね》や|伝吉《でんきち》の|母親《ははおや》なりするもんだから、|辛抱《しんばう》してゐるのだ、|本当《ほんたう》にトボケ|人足《にんそく》|計《ばか》り|集《あつ》まつたもんぢや、それよりも|牛肉《ぎうにく》でもここでたいて|食《く》ひなさい、|何《いづ》れ|久子《ひさこ》か|平蔵《へいざう》か|中村《なかむら》が|捜《さが》しに|来《く》るに|違《ちがひ》ないから、|牛肉《ぎうにく》の|臭《にほひ》で|往生《わうじやう》さしてやるのも|面白《おもしろ》かろ』
と|幸《さいは》ひ|牛肉屋《ぎうにくや》を|開業《かいげふ》してゐるので、|店《みせ》から|三百目《さんびやくめ》ほど|上等《じやうとう》を|持《も》つて|来《き》て、|裏《うら》の|離《はな》れでグヅグヅと|煮《た》いて|食《く》ひ|始《はじ》めた。そこへ|中村《なかむら》が、
|中村《なかむら》『|大槻《おほつき》サン、|会長《くわいちやう》サンはもしやここへ|見《み》えては|居《を》りませぬかな』
と|裏口《うらぐち》の|方《はう》から|尋《たづ》ねて|居《を》る。|鹿造《しかざう》はチツと|耳《みみ》が|遠《とほ》いので、|明瞬《はつきり》|分《わか》らなんだが、お|米《よね》サンが、
お|米《よね》『|中村《なかむら》ハンか、マア|這入《はい》つて|牛肉《ぎうにく》でも|食《く》ひなさい、|今《いま》|会長《くわいちやう》に|牛肉《ぎうにく》をすすめて|食《く》はしてる|処《ところ》ぢや、|樫《かし》の|実《み》|団子《だんご》を|食《く》つたり、|芋《いも》の|葉《は》のお|粥《かゆ》を|食《く》つとるより、|余程《よつぽど》|気《き》がきいてるで、ここは|大江山《おほえやま》の|酒呑童子《しゆてんどうじ》と|蛇《じや》との|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》の|夫婦《ふうふ》の|所《ところ》へ|鬼三郎《おにさぶらう》ハンが|来《き》て|居《を》るのだから、みたま|相応《さうおう》で|牛肉《ぎうにく》を|食《く》て|居《を》るのだから、お|前《まへ》もチと|鬼《おに》の|仲間入《なかまいり》したらどうぢや』
と|揶揄《からか》うてゐる。|中村《なかむら》は|鼻《はな》をつまみ|乍《なが》ら、|顔《かほ》しかめて|這入《はい》つて|来《き》て、
|中村《なかむら》『|御免《ごめん》なはれ、|大槻《おほつき》サン、あんたは|教祖《けうそ》ハンの|御総領娘《ごそうりやうむすめ》を|女房《にようばう》に|持《も》つたり、|結構《けつこう》な|御子《おんこ》を|貰《もら》うて|居《を》り|乍《なが》ら|会長《くわいちやう》サンにそんな|事《こと》を|勧《すす》めて|済《す》みますか、|四《よ》ツ|足《あし》を|食《く》はしたり、|余《あんま》りぢやおへんか』
と|不足《ふそく》らしく|呶鳴《どな》つてゐる。|鹿造《しかざう》は|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、
|大槻《おほつき》『|今《いま》の|世《よ》の|中《なか》は|一日《いちにち》でも|甘《うま》い|物《もの》|喰《く》て、|好《す》きな|事《こと》をするのが|賢《かしこ》いのぢや、お|前《まへ》もチと|改心《かいしん》して|牛肉《ぎうにく》でも|食《く》て、|元気《げんき》をつけ、|古物商《こぶつしやう》でもやつて|金儲《かねまう》けをし、|立派《りつぱ》な|着物《きもの》を|着《き》て|甘《うま》いものでも|食《く》つたらどうだ、|何程《なにほど》|善《ぜん》ぢや|善《ぜん》ぢやというてお|前等《まへら》|一人《ひとり》|位《ぐらゐ》がしやちんなつても、|誰《たれ》も|相手《あひて》にする|者《もの》がないぞ、|会長《くわいちやう》サンは|流石《さすが》は|能《よ》う|分《わか》つとるワ、|此《この》|時節《じせつ》に|四足《よつあし》の|肉《にく》が|食《く》へぬの|何《なん》のと、そんな|馬鹿《ばか》な|事《こと》をいふ|奴《やつ》がどこにあるものか、|余程《よつぽど》よい|阿呆《あはう》だなア』
とからかひ|半分《はんぶん》に|呶鳴《どな》つてゐる。お|米《よね》サンは|又《また》お|米《よね》サンで、
お|米《よね》『コレ|中村《なかむら》ハン、お|前《まへ》は|播磨屋《はりまや》の|竹《たけ》ハンというて、|随分《ずゐぶん》|博奕《ばくち》もうち、|女《をんな》も|拵《こしら》へ、|肉《にく》もドツサリ|食《く》た|男《をとこ》ぢやが、さう|俄《にはか》に|神《かみ》さまにならうと|思《おも》うたて、|到底《たうてい》|成《な》れはせぬぞえ、あんな|新宮《しんぐう》の|気違《きちがひ》|婆《ば》アさまにトボけて|居《を》らずに、チト|明日《あす》から|牛肉《ぎうにく》でもかついで、そこら|売《う》りに|往《い》つたら|如何《どう》だい、|誰《たれ》か|売《う》りにやらさうと|思《おも》うてる|処《ところ》ぢやが、|五円《ごゑん》がとこ|売《う》つて|来《く》ると|一円《いちゑん》|位《ぐらゐ》|儲《まう》かるから、そしたらどうだな』
と|厭《いや》がるのを|知《し》りつつ|態《わざ》とにからかうてゐる。|中村《なかむら》は|蒼白《まつさを》な|顔《かほ》になり、
|中村《なかむら》『|兎《と》も|角《かく》|会長《くわいちやう》サンを|返《かへ》して|下《くだ》され、|大本《おほもと》の|御用《ごよう》をなさる|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》だから、こんな|所《ところ》へ|来《き》て|貰《もら》ふと、だんだんに|身魂《みたま》が|曇《くも》つて|仕方《しかた》がないと|教祖《けうそ》さまが|仰有《おつしや》りました、サア|会長《くわいちやう》サン|早《はや》う|去《い》にませう』
と|引張《ひつぱ》らうとする。|会長《くわいちやう》は、
|喜楽《きらく》『コレ|中村《なかむら》はん、|最前《さいぜん》から|牛肉《ぎうにく》を|三百目《さんびやくめ》かけて|貰《もら》うて|一人《ひとり》で|食《く》つて|了《しま》うた、これは|小松林《こまつばやし》が|食《く》たのだから、これから|坤《ひつじさる》の|金神《こんじん》さまに|三百目《さんびやくめ》|程《ほど》お|供《そな》へしてから|帰《い》ぬから、|教祖《けうそ》ハンや、お|久《ひさ》ハンや、|平蔵《へいざう》サンに|宜《よろ》しうというといてくれ』
とワザとに|劫腹《ごうはら》が|立《た》つので、からかうてみると|中村《なかむら》は|躍気《やくき》となり、
|中村《なかむら》『どうも|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》といふものは|仕方《しかた》のないもんぢやな、|悪《あく》の|霊《れい》の|所《ところ》へはヤツパリ|悪《あく》がよりたがると|見《み》えます』
といふのを|聞咎《ききとが》めて、|鹿造《しかざう》は、
|大槻《おほつき》『コレ|中村《なかむら》、おれを|鬼《おに》とは|何《なん》だ、|貴様《きさま》に|三文《さんもん》も|損《そん》をかけた|事《こと》もなし、|貴様等《きさまら》に|悪《あく》といはれる|筋《すぢ》があるか』
といふより|早《はや》く、|二《ふた》つ|三《み》つポカポカと|拳骨《げんこつ》をくれた。|中村《なかむら》は、
|中村《なかむら》『ナアに|大和魂《やまとだましひ》の|生粋《きつすゐ》の、おれは|身魂《みたま》だから、|酒呑童子《しゆてんどうじ》の|霊《れい》|位《ぐらゐ》に|恐《おそ》れるものか』
と|言《い》ひ|乍《なが》らスタスタと|新宮《しんぐう》さして|帰《かへ》つて|了《しま》つた。さうかうして|居《を》る|所《ところ》へ、|園部《そのべ》の|浅井《あさゐ》みのといふ|支部長《しぶちやう》がやつて|来《き》て、それから|此処《ここ》にグヅグヅして|居《を》つては|又《また》うるさいといふので、お|米《よね》サンに|何事《なにごと》も|頼《たの》んでおき、|日《ひ》の|暮《くれ》|頃《ごろ》から、|園部《そのべ》へ|行《い》つて|隠《かく》れて|布教《ふけう》することになつた。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 松村真澄録)
第二二章 |難症《なんしよう》〔一〇五九〕
|明治《めいぢ》|三十七八年《さんじふしちはちねん》|頃《ごろ》は|日露《にちろ》|戦争《せんそう》の|勃発《ぼつぱつ》で|四方《しかた》|平蔵《へいざう》、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》|等《ら》|十二人《じふににん》の|所謂《いはゆる》|幹部《かんぶ》|役員《やくゐん》は|愈《いよいよ》|世《よ》の|立替《たてかへ》で、|五六七《みろく》の|世《よ》になる、それまでに|変性女子《へんじやうによし》を|改心《かいしん》をさしておかねばお|仕組《しぐみ》が|遅《おく》れると、しやちになつて、|信者《しんじや》の|家《うち》を|宣伝《せんでん》にまはり……|会長《くわいちやう》が|改心《かいしん》せず、|又《また》|小松林《こまつばやし》の|居《ゐ》る|内《うち》は、|門口《かどぐち》の|閾《しきゐ》|一《ひと》つ|跨《また》げさす|事《こと》はならぬ、|大変《たいへん》な|神罰《しんばつ》が|当《あた》ると|一生懸命《いつしやうけんめい》に|一軒《いつけん》も|残《のこ》らず|触《ふ》れ|歩《ある》いてゐる。そしてどんな|立派《りつぱ》な|事《こと》を|会長《くわいちやう》が|言《い》うても、|一《ひと》つも|聞《き》いてはならぬ、|小松林《こまつばやし》が|艮金神《うしとらのこんじん》さまの|御仕組《おしぐみ》を|取《と》りに|来《き》てるのだから……とふれまはした。|信者《しんじや》は|一人《ひとり》も|残《のこ》らず、|熱心《ねつしん》な|十二人《じふににん》の|活動《くわつどう》で、|彼等《かれら》の|云《い》ふ|事《こと》を|固《かた》く|信《しん》じて|了《しま》ひ、|且《か》つ|園部《そのべ》で|狐《きつね》の|真似《まね》したのが|大変《たいへん》に|祟《たた》つて、|信者《しんじや》|一般《いつぱん》から|四《よ》ツ|足《あし》の|守護神《しゆごじん》と|思《おも》ひこまれたからたまらぬ。|此《この》|時《とき》|喜楽《きらく》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて|布教《ふけう》に|従事《じゆうじ》してゐた|者《もの》は|西田《にしだ》|元教《げんけう》と|浅井《あさゐ》はなといふ|五十余《ごじふあま》りの|婆《ば》アサン|二人《ふたり》のみであつた。
|西田《にしだ》と|浅井《あさゐ》とは|代《かは》る|代《がは》る|園部《そのべ》を|十二時《じふにじ》|頃《ごろ》に|立《た》つて|三里《さんり》|計《ばか》り|日《ひ》をくらして|綾部《あやべ》へやつて|来《き》て、|大槻《おほつき》|鹿造《しかざう》の|家《いへ》で、|夜中《やちう》ソツと|会長《くわいちやう》と|会見《くわいけん》し、|教理《けうり》を|研究《けんきう》しては、|又《また》|夜《よる》の|間《ま》に|園部《そのべ》へ|帰《かへ》り、|園部《そのべ》を|根拠《こんきよ》として、|細々《ほそぼそ》と|宣伝《せんでん》をやつて|居《ゐ》た。|喜楽《きらく》は|意《い》を|決《けつ》して、|園部《そのべ》|迄《まで》|夜《よる》の|間《ま》に|浅井《あさゐ》に|伴《つ》れられて、|逃《に》げのび、|船井郡《ふなゐぐん》や|北桑田郡《きたくはだぐん》の|信者《しんじや》|未開《みかい》の|地《ち》を|宣伝《せんでん》して|居《ゐ》た。
|片山《かたやま》|源之助《げんのすけ》といふ|材木屋《ざいもくや》がふと|園部《そのべ》の|支部《しぶ》へ|参拝《さんぱい》して|来《き》て、|教理《けうり》を|聞《き》き、|俄《にはか》に|信者《しんじや》となつて、|幽斎《いうさい》の|修行《しうぎやう》を|始《はじ》め、|天眼通《てんがんつう》を|修得《しうとく》し、|旅順《りよじゆん》の|要塞《えうさい》を|透視《とうし》したり、|日露《にちろ》|戦争《せんそう》の|始末《しまつ》を|予言《よげん》したり、いろいろと|不思議《ふしぎ》な|事《こと》が|実現《じつげん》したので、|非常《ひじやう》に|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》が|集《あつ》まつて|来《き》た。さうすると|又《また》もや|綾部《あやべ》の|連中《れんちう》が|嗅《かぎ》つけやつて|来《き》て、|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》の|前《まへ》で、
『|会長《くわいちやう》は|小松林《こまつばやし》といふ|四《よ》ツ|足《あし》の|守護神《しゆごじん》が|憑《つ》いとるのだから、|相手《あひて》になつては|可《い》けませぬぞや、|貧之神《びんばふがみ》ですから』
と|吹聴《ふいちやう》する。|片山《かたやま》の|天眼通《てんがんつう》が|呼物《よびもの》となつて|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》が|集《あつ》まつて|来《き》た。そこへ|綾部《あやべ》から|来《き》て、|会長《くわいちやう》の|悪口雑言《あくこうざふごん》を|並《なら》べ|立《た》てるので、|訳《わけ》も|知《し》らぬ|信者《しんじや》は|一《いち》も|二《に》もなく|信《しん》じて|了《しま》ひ、|会長《くわいちやう》を|軽蔑《けいべつ》し、|片山《かたやま》|先生《せんせい》|片山《かたやま》|先生《せんせい》と|尊敬《そんけい》して、|遂《つひ》には|会長《くわいちやう》を|邪魔者《じやまもの》|扱《あつか》ひにするやうになつて|了《しま》つた。|西田《にしだ》は|大変《たいへん》に|憤慨《ふんがい》していろいろと|活動《くわつどう》したけれ|共《ども》、|綾部《あやべ》の|妨害《ばうがい》が|甚《はなはだ》しいので、|頽勢《たいせい》を|挽回《ばんくわい》する|事《こと》が|出来《でき》なかつた。それから|会長《くわいちやう》は|再《ふたた》び|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》り、|仮名《かりな》|計《ばか》りの|教典《けうてん》を|作《つく》り、|西田《にしだ》|元教《げんけう》に|持《も》たせて|宣伝《せんでん》に|歩《ある》かすこととしてゐた。
|再《ふたた》び|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》り、|離《はな》れの|六畳《ろくでう》に|蟄居《ちつきよ》して|教典《けうてん》を|書《か》いてゐると、|又《また》もや|四方《しかた》|中村《なかむら》の|幹部《かんぶ》がやつて|来《き》て、
|中村《なかむら》『|会長《くわいちやう》サン、|行《ゆ》けば|行《ゆ》く|程《ほど》|茨室《いばらむろ》、|神《かみ》に|反《そむ》いて|何《なん》なとして|見《み》よれ、|一《ひと》つも|思惑《おもわく》は|立《た》ちは|致《いた》さんぞよ、アフンとして|青《あを》い|顔《かほ》をして、|家《いへ》のすまくらに|引《ひ》つ|込《こ》んで、|人《ひと》に|顔《かほ》もよう|会《あ》はせず、|悄気《せうげ》てゐるのを|見《み》るがいやさに、|神《かみ》がくどう|気《き》をつけるぞよ……と|現《あら》はしなさつた|筆先《ふでさき》を|実地《じつち》に|御覧《ごらん》になつたでせうな。さうだからどつこへも|行《ゆ》くでないと|仰有《おつしや》るのに、|小松林《こまつばやし》の|四《よ》ツ|足《あし》にチヨロまかされて、|又《また》しても|又《また》しても、|綾部《あやべ》を|飛出《とびだ》しなさるもんだから、こんなザマに|会《あ》ふのです、モウこれからはどつこへも|行《ゆ》かず、|教祖《けうそ》さまの|御命令《ごめいれい》を|聞《き》いて|役員《やくゐん》の|言《い》ふ|通《とほ》りになされ、|世界《せかい》の|人民《じんみん》が|苦《くるし》みますから』
と|中村《なかむら》がそれみたか……といふやうな|冷笑《れいせう》を|浮《う》かべて|喋《しやべ》り|出《だ》した。|会長《くわいちやう》は、
|喜楽《きらく》『ナニ、|私《わたし》は|失敗《しつぱい》したんでも|何《なん》でもないワ、|自分《じぶん》の|心《こころ》がお|前《まへ》に|分《わか》るものか、|細工《さいく》は|流々《りうりう》|仕上《しあ》げを|見《み》て|貰《もら》はな|分《わか》らぬワイ』
と|言《い》はせも|果《は》てず、|中村《なかむら》は|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
|中村《なかむら》『コラ|小松林《こまつばやし》、まだ|改心《かいしん》を|致《いた》さぬか、ツツボにおとしてやろか、|慢心《まんしん》は|大怪我《おほけが》の|元《もと》だぞよ』
と|呶鳴《どな》りつける。|四方《しかた》|平蔵《へいざう》は|側《そば》から、
|四方《しかた》『|会長《くわいちやう》サン、あんたの|仰有《おつしや》る|事《こと》も|先《さき》になつたら|又《また》|聞《き》く|時節《じせつ》が|来《き》ますから、|今《いま》の|所《ところ》ではお|気《き》に|入《い》らいでも|辛抱《しんばう》して|御用《ごよう》|聞《き》いて|下《くだ》され、|今年《こんねん》|来年《らいねん》が|世界《せかい》の|大峠《おほたうげ》、グヅグヅしてる|時《とき》ぢや|厶《ござ》いませぬぞや、これ|程《ほど》|御大望《ごたいまう》が|差迫《さしせま》つて|来《き》て|居《ゐ》るのに、|大本《おほもと》の|御用継《ごようつぎ》ともある|人《ひと》が、そこらをウロウロとウロつきまはるとは|何《なん》の|事《こと》ですか、|教祖《けうそ》さまが、|又《また》|何時《いつ》もの|病《やまひ》が|出《で》て|小松林《こまつばやし》がそこら|中《ぢう》へつれて|歩《ある》くから、|役員《やくゐん》|気《き》をつけよ……と|厳《きび》しう|仰有《おつしや》るのですから、こうして|皆《みな》の|者《もの》があなた|一人《ひとり》の|事《こと》に|付《つ》いて|心配《しんぱい》して|居《ゐ》るのに、お|前《まへ》サンは|吾々《われわれ》|役員《やくゐん》が|可哀相《かあいさう》なとは|思《おも》ひませぬか』
と|詰《なぢ》りよる。|会長《くわいちやう》は、
|喜楽《きらく》『お|前《まへ》らがトボけてるのが|可哀相《かあいさう》なから、|早《はや》く|目《め》をさましてやろうと|思《おも》うて、いろいろと|気《き》をつけるけれども、|小松林《こまつばやし》の|四《よ》ツ|足《あし》が|吐《ぬか》すのだなどといつて|一口《ひとくち》もきかず、|目《め》をさましてくれぬので、|綾部《あやべ》に|居《を》つても|用《よう》がないので、|今《いま》の|内《うち》に|一《ひと》つでも|神界《しんかい》の|御用《ごよう》をしておかうと|思《おも》つて、そこら|中《ぢう》を|布教《ふけう》に|歩《ある》くのだ。|日露《にちろ》|戦争《せんそう》が|起《おこ》つても、それ|位《くらゐ》で|世界《せかい》の|立替《たてかへ》が|出来《でき》るものでない、まだまだ|世界《せかい》の|大戦争《だいせんそう》があり、それから|民族《みんぞく》|問題《もんだい》が|起《おこ》り、いろいろ|雑多《ざつた》な|事《こと》が|世界《せかい》に|勃発《ぼつぱつ》して、|最後《さいご》にならねば|立替《たてかへ》は|出《で》て|来《く》るものぢやない、ここ|十年《じふねん》や|二十年《にじふねん》で、そう|着々《ちやくちやく》と|埒《らち》があくものか、|今《いま》の|内《うち》にチツと|目《め》をさましておかぬと、|此《この》|戦争《せんそう》は|済《す》んで|了《しま》ふなり、|立替《たてかへ》は|出《で》て|来《こ》ぬなりすると、|又《また》|虚言《うそ》ぢやつたと|言《い》つて|信者《しんじや》が|一人《ひとり》も|寄《よ》りつかなくなつて|了《しま》ふ、つまりお|前達《まへたち》は|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|神《かみ》さまのお|道《みち》を|潰《つぶ》さうとかかつてるやうなものだ』
といふのを|皆《みな》まで|聞《き》かず、
『コレ|会長《くわいちやう》サン、お|前《まへ》サン|等《ら》が|何程《なにほど》|小賢《こざか》しい|理屈《りくつ》を|並《なら》べても|誰《たれ》も|聞《き》く|者《もの》はありませぬぞ、|一分一厘《いちぶいちりん》|違《ちが》はぬお|筆先《ふでさき》だと|仰有《おつしや》る|神《かみ》さまの|御言《おことば》が|違《ちが》うてたまりますか』
などと|頑張《ぐわんば》つて、|一言《ひとこと》も|聞入《ききい》れぬのみか、|益々《ますます》|四《よ》ツ|足《あし》|扱《あつか》ひを|始《はじ》めて|始末《しまつ》に|了《を》へぬので、|澄子《すみこ》と|相談《さうだん》の|上《うへ》、|何事《なにごと》も|沈黙《ちんもく》を|守《まも》り、|一時《いつとき》の|間《ま》も|時間《じかん》を|惜《をし》んで、|教典《けうてん》を|書《か》き|現《あら》はすことに|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》して|居《ゐ》た。
そうした|所《ところ》が|西田《にしだ》が|一《いつ》ぺん|北桑田《きたくはだ》へ|来《き》てくれと|秘《ひそ》かに|頼《たの》みに|来《き》たので、|何《なん》とかして|又《また》もや|綾部《あやべ》を|脱《ぬ》け|出《だ》さうと|考《かんが》へて|居《ゐ》た。|幸《さいはひ》に|八木《やぎ》の|祭典《さいてん》に|出張《しゆつちやう》する|事《こと》となり、|前《まへ》に|述《の》べた|如《ごと》く|八木《やぎ》を|夜《よ》ぬけして、|園部《そのべ》へ|走《はし》り、それから|人尾峠《ひとのをたうげ》を|乗越《のりこ》へて、|宇気《うけ》といふ|山里《やまざと》へ|日《ひ》の|暮《くれ》|頃《ごろ》に|落《おち》つき、|安井《やすゐ》|清兵衛《せいべゑ》といふリウマチスで|身体《からだ》の|自由《じいう》を|失《うしな》ひ|苦《くる》しんでゐる|老爺《ぢい》サンの|鎮魂《ちんこん》をなし、|其《その》|夜《よ》はそこで|一泊《いつぱく》する|事《こと》となつた。|西田《にしだ》が|鎮魂《ちんこん》をすると、|爺《ぢ》イサンは|其《その》|場《ば》で|足《あし》が|立《た》ち、|座敷中《ざしきぢう》を|歩《ある》いて|見《み》て、|大変《たいへん》に|喜《よろこ》び、それから|熱心《ねつしん》な|信者《しんじや》となつたが|元来《ぐわんらい》が|村中《むらぢう》でも|受《う》けの|悪《わる》い|親類《しんるゐ》の|財産《ざいさん》を|併合《へいがふ》して、|財産家《ざいさんか》になつたやうな|爺《おやぢ》だから、|金銭《きんせん》の|執着心《しふちやくしん》が|甚《ひど》うてモ|一《ひと》つといふ|改心《かいしん》が|出来《でき》ぬので、|僅《わづか》に|室内《しつない》を|歩《ある》くよにはして|貰《もら》うたが、まだ|外《そと》へ|出《で》て|働《はたら》くまでにはならなんだ。そこで|爺《ぢ》イサンが|西田《にしだ》に|対《たい》して|言《い》ふには、
|安井《やすゐ》『どうぞ|私《わたし》が|山《やま》へ|行《ゆ》けるよにして|下《くだ》さつたら、|内《うち》の|林《はやし》の|杉《すぎ》や|檜《ひのき》の|屑《くづ》をさがして|切《き》つて、それで|神《かみ》さまのお|祭《まつ》り|場所《ばしよ》を|建《た》て、|教会《けうくわい》を|開《ひら》き、|私《わたし》が|隠居《いんきよ》の|代《かは》りにお|守《もり》をさして|貰《もら》ふ』
と|虫《むし》のよい|事《こと》を|言《い》ひ|出《だ》した。そこで|元教《げんけう》が|大変《たいへん》に|腹《はら》を|立《た》て、
|西田《にしだ》『|神《かみ》さまの|御祭《おまつ》り|場所《ばしよ》を|建《た》てるのに、|屑《くづ》をよつて|建《た》てるといふ|様《やう》な|事《こと》を|云《い》ふ|爺《ぢ》イは|嫌《いや》だ。|一番《いちばん》よい|木《き》を|上《あ》げるのが|信神《しんじん》の|道《みち》ぢやないか、そんな|事《こと》|言《い》うとると、|又《また》|元《もと》の|通《とほ》りいざりになつて、|折角《せつかく》|拵《こしら》へた|財産《ざいさん》|迄《まで》なくなつて|了《しま》うぞ』
と|云《い》つたきり、サツサと|安井《やすゐ》の|内《うち》を|飛出《とびだ》し、それきり|変屈人《へんくつじん》の|西田《にしだ》は|寄《よ》りつかぬやうになつて|了《しま》うた。|果《はた》して|此《この》|爺《おやぢ》は|元《もと》の|通《とほ》りの|難病《なんびやう》になり、|欲《よく》にためた|財産《ざいさん》も|息子《むすこ》の|縫之助《ぬひのすけ》が|人《ひと》にだまされて、|一獲千金《いつくわくせんきん》のボロ|儲《まう》けをせうとして|大失敗《だいしつぱい》をなし、|財産《ざいさん》の|九分《くぶ》|通《どほり》まで、|三年《さんねん》ほどの|間《あひだ》になくして|了《しま》うた。
さて|会長《くわいちやう》は|西田《にしだ》と|共《とも》に|其《その》|時分《じぶん》これもリウマチで|平太《へた》つて|居《ゐ》た|小西《こにし》|松元《しようげん》といふ|男《をとこ》の|内《うち》へ|訪問《はうもん》して、|暫《しばら》く|其《その》|家《いへ》を|根拠《こんきよ》として|布教《ふけう》に|従事《じうじ》してゐた。|此《この》|小西《こにし》は|園部《そのべ》の|支部《しぶ》へ|駕籠《かご》に|乗《の》つて|出《で》て|来《き》て、|西田《にしだ》の|鎮魂《ちんこん》で|即座《そくざ》に|足《あし》が|立《た》ち、|大変《たいへん》に|喜《よろこ》んで、|材木《ざいもく》などを|献納《けんなふ》し、|支部《しぶ》の|拡張《くわくちやう》までやつた|位《くらゐ》な|熱心家《ねつしんか》であつた。|此《この》|小西《こにし》は|川漁《かはれふ》が|大変《たいへん》|上手《じやうづ》で|寒中《かんちう》でも|一寸《ちよつと》|出《で》て|来《く》ると、|三升《さんじよう》や|五升《ごしよう》の|川魚《かはうを》をとつて|来《く》る|河童《かつぱ》と|仇名《あだな》をつけられて|居《ゐ》る|酒飲《さけの》み|爺《おやぢ》である。|毎日《まいにち》|三升《さんじよう》|位《ぐらゐ》は|平気《へいき》で|平《たひら》げて、|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|女《をんな》を|相手《あひて》に|酒《さけ》を|呑《の》んで|居《を》つた。|西田《にしだ》が|小西《こにし》の|病気《びやうき》を|直《なほ》した|時《とき》|今後《こんご》は|決《けつ》して|魚《うを》をとつてはいかぬ、そして|酒《さけ》を|二三年《にさんねん》|呑《の》まぬやうにせぬと|今度《こんど》はリウマチ|所《どころ》か|中風《ちうぶう》になつて|了《しま》ふと|注意《ちうい》しておいたのも|聞《き》かずに、|寒《かん》の|内《うち》に|網《つな》を|持《も》つて|宇津《うつ》の|川原《かはら》へ|籠《こご》り|魚《うを》を|掬《すく》ひに|行《い》つて、|柳《やなぎ》のヌツと|川《かは》へ|出《で》た、|幹《みき》からふみ|外《はづ》し、|川《かは》へドンブとおち|込《こ》み、|再《ふたた》び|大熱《だいねつ》を|発《はつ》し、|元《もと》の|通《とほ》りにリウマチになり、|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なくウンウン|唸《うな》つて|苦《くるし》んでゐた。そこで|西田《にしだ》が|再《ふたた》び|鎮魂《ちんこん》をして|余程《よほど》よくなつたが|併《しか》し、|足《あし》の|痛《いた》みが|止《と》まつた|丈《だけ》で、|行歩《かうほ》の|自由《じいう》が|叶《かな》はぬ。そこで|喜楽《きらく》を|綾部《あやべ》から|引出《ひきだ》し、|小西《こにし》の|鎮魂《ちんこん》をして|貰《もら》ひ、|病気《びやうき》を|本復《ほんぷく》させて、|神《かみ》さまの|御用《ごよう》に|使《つか》はうとしたのであつた。|喜楽《きらく》は|西田《にしだ》と|二人《ふたり》で|小西《こにし》の|内《うち》へ|尋《たづ》ねてゆくと、|小西《こにし》は|宮村《みやむら》の|内田《うちだ》|官吉《くわんきち》といふ|弟《おとうと》の|家《いへ》に|世話《せわ》になり、|薬風呂《くすりぶろ》をわかして|養生《やうじやう》をし|乍《なが》ら、|神《かみ》さまを|念《ねん》じてゐた。そこで|会長《くわいちやう》が|始《はじ》めて|小西《こにし》に|面会《めんくわい》し、|二日《ふつか》|計《ばか》り|逗留《とうりう》の|間《あひだ》に|二三回《にさんくわい》|鎮魂《ちんこん》をしてやつた|所《ところ》、|漸《やうや》く|全快《ぜんくわい》し|六里《ろくり》|計《ばか》りの|道《みち》を|徒歩《とほ》で|宇津《うつ》へ|帰《かへ》り、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|神《かみ》さまを|念《ねん》じてゐた。|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》が|諸方《しよはう》から|集《あつ》まつて|来《き》て|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|二三十円《にさんじふゑん》|計《ばか》りのお|賽銭《さいせん》の|収入《しうにふ》があるので、|小西《こにし》がよい|気《き》になり、ソロソロ|信者《しんじや》の|女《をんな》に|手《て》をかけたり、|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|酒《さけ》を|呑《の》み|始《はじ》めた。|其《その》|時《とき》|喜楽《きらく》は|京都《きやうと》へ|行《い》つて|皇典講究所《くわうてんかうきうしよ》へ|通《かよ》うてゐるので、|西田《にしだ》に|任《まか》して|宇津《うつ》の|小西《こにし》の|広間《ひろま》の|方《はう》は|構《かま》う|事《こと》が|出来《でき》なんだ。さうすると|小西《こにし》がソロソロ|慢心《まんしん》をし|出《だ》して、|西田《にしだ》のいふ|事《こと》を|聞《き》かなくなつて|来《き》た。|一人《ひとり》|息子《むすこ》の|増吉《ますきち》といふのが|二十聯隊《にじふれんたい》へ|入営《にふえい》し、|日露《にちろ》|戦争《せんそう》に|出征《しゆつせい》してゐた。そして|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|自分《じぶん》の|息子《むすこ》の|無事《ぶじ》に|帰《かへ》る|事《こと》|計《ばか》りを|祈《いの》り|乍《なが》ら、|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》の|鎮魂《ちんこん》をやり、|日《ひ》に|日《ひ》に|信者《しんじや》はふえて|来《く》る|許《ばか》りであつた。さうした|所《ところ》が|俄《にはか》に|電報《でんぱう》の|間違《まちがひ》で|増吉《ますきち》が|戦死《せんし》したといふ|知《し》らせが、|北桑田《きたくはだ》の|郡役所《ぐんやくしよ》から|届《とど》いたので、|松元《しようげん》とお|末《すゑ》といふ|夫婦《ふうふ》が|西田《にしだ》を|前後《ぜんご》より|差挟《さしはさ》んで、ソロソロ|不足《ふそく》を|言《い》ひだした。|其《その》お|末《すゑ》|婆《ば》アサンの|言《ことば》はザツと|左《さ》の|通《とほ》りである。
|末《すゑ》『コレ|元《もと》はん|余《あま》りぢやないか、|内《うち》の|増吉《ますきち》は|信心《しんじん》さへして|居《を》れば|滅多《めつた》に|戦死《せんし》する|気遣《きづか》ひはない、|金鵄勲章《きんしくんしやう》を|持《も》つて|帰《かへ》らしてやるというたぢやないか、ソレに|此《この》|電報《でんぱう》は|何《なん》のこつちや、|奴狸《どたぬき》|奴《め》が|人《ひと》を【ダマ】しやがつてサア|早《はや》う|出《で》てゆけ、|内《うち》の|爺《おやぢ》も|爺《おやぢ》ぢや、|華《け》を|第一《だいいち》といふ|法華経《ほけきやう》の|信者《しんじや》が、|綾部《あやべ》の|狸《たぬき》にだまされて、|仕様《しやう》のない|神《かみ》をまつるもんだから、こんな|目《め》に|会《あ》うたのだ。|早《はや》う|神《かみ》さまを|叩《たた》きつぶして|川《かは》へ|流《なが》しなされ、コラ|元公《もとこう》|早《はや》ういなんか』
と|雪《ゆき》が|二尺《にしやく》ほど|積《つも》つてゐるのに|無惨《むざん》にも|外《そと》へつき|出《だ》した。|西田《にしだ》は|日《ひ》の|暮《くれ》|前《まへ》に|二尺《にしやく》|程《ほど》も|積《つも》つてゐる|雪《ゆき》の|中《なか》へ|放《はう》り|出《だ》され、|漸《やうや》くにして|半里《はんり》|許《ばか》りの|山路《やまみち》を|登《のぼ》り、|人尾峠《ひとのをたうげ》の|頂《いただ》きまで|登《のぼ》りつめると、|風《かぜ》の|吹《ふ》きよせで|雪《ゆき》が|五六尺《ごろくしやく》もつもり、|身動《みうご》きも|出来《でき》ぬやうになり、|其《その》|夜《よ》を|泣《な》きもつて|明《あ》かした|事《こと》もあつた。|然《しか》るに|小西《こにし》|増吉《ますきち》は|幾回《いくくわい》となく|危険《きけん》な|場合《ばあひ》を|神《かみ》さまに|助《たす》けられ、|同《おな》じ|村《むら》から|六人《ろくにん》|召集《せうしふ》されて|出征《しゆつせい》してゐた|者《もの》が、|五人《ごにん》まで|負傷《ふしやう》したり|戦死《せんし》したりしてゐるにも|拘《かか》はらず、|増吉《ますきち》|丈《だけ》は|怪我《けが》|一《ひと》つせず、|二十聯隊《にじふれんたい》の|全滅《ぜんめつ》した|時《とき》に|僅《わづ》か|二人《ふたり》|残《のこ》つた|其《その》|一人《いちにん》であつた。そして|金鵄勲章《きんしくんしやう》を|貰《もら》うて|聯隊長《れんたいちやう》の|従卒《じゆうそつ》となり|楽《らく》に|勤《つと》めて|帰《かへ》つて|来《き》たのである。それから|小西《こにし》がビツクリして|西田《にしだ》に|葉書《はがき》をよこしあやまつて|来《き》て、
『どうぞ|一《いつ》ぺん|遊《あそ》びに|来《き》てくれ』
というので|西田《にしだ》も|再《ふたた》び|小西《こにし》の|宅《たく》へ|行《ゆ》き、|一所《いつしよ》に|神《かみ》の|道《みち》を|開《ひら》いてゐたが、|又《また》もや|衝突《しようとつ》してそこを|飛出《とびだ》して|了《しま》うた。|其《その》|時《とき》は|会長《くわいちやう》はすでに|別格官幣社《べつかくくわんぺいしや》|建勲神社《けんくんじんじや》の|主典《すてん》をつとめてゐた。そこへ|小西《こにし》から|手紙《てがみ》が|来《き》て、
『|矢代《やしろ》といふ|所《ところ》に|大変《たいへん》キツイ|曲津《まがつ》が|居《ゐ》るから、|私《わたし》の|手《て》にあはぬよつて、|先生《せんせい》に|助太刀《すけだち》に|来《き》て|貰《もら》いたい』
といふので、|公務《こうむ》を|繰合《くりあ》はして|宇津《うつ》へはるばる|行《い》つて|見《み》ると、
『|周山村《しうざんむら》の|矢代《やしろ》といふ|所《ところ》に|吉田《よしだ》|竜次郎《りうじらう》といふ|人《ひと》がありますが、|其《その》|奥《おく》サンが|此《この》|間《あひだ》から|二度《にど》|許《ばか》り|参《まゐ》つて|来《こ》られますが、|主人《しゆじん》が|如何《どう》しても|博奕《ばくち》をやめぬから、やめるよに|祈祷《きたう》がして|貰《もら》ひたいといふのですが、|神《かみ》さまに|伺《うかが》うてみると|大変《たいへん》な|曲津《まがつ》があこには|巣《す》くうてゐるから、お|前《まへ》の|力《ちから》ではどうせだめだから、|会長《くわいちやう》サンに|御願《おねが》ひをせいと|云《い》はれましたから、|一寸《ちよつと》|御手紙《おてがみ》を|上《あ》げました』
と|云《い》うてゐる。それから|小西《こにし》の|信者《しんじや》に|案内《あんない》をして|貰《もら》うて|矢代《やしろ》へ|行《い》つた。|丁度《ちやうど》|明治《めいぢ》|四十年《しじふねん》の|夏《なつ》の|始《はじ》めで|田植《たうゑ》の|最中《さいちう》であつた。それから|吉田《よしだ》の|宅《たく》へ|行《い》つて|見《み》ると、|自分《じぶん》が|行《ゆ》くのを|知《し》つて、|曲津《まがつ》は|早《はや》くも|逃《に》げ|出《だ》し、|何《なん》にも|居《を》らぬやうになつて|居《ゐ》た。|其《その》|家《いへ》の|主人《しゆじん》の|竜次郎《りうじろう》|氏《し》はどつかへ|行《い》つて|居《を》つて|不在《ふざい》であつたが、|妻君《さいくん》のお|鶴《つる》サンに|面会《めんくわい》し|小西《こにし》の|言《い》うたやうな|事《こと》を|聞《き》かされ、そして|曲津《まがつ》が|居《を》りますか……と|尋《たづ》ねるので、|何《なに》も|居《を》りませぬと|答《こた》へると、たよりない|先生《せんせい》ぢやなアと|言《い》ふやうな|顔《かほ》をして、お|礼《れい》だというて|金《きん》|二円《にゑん》|包《つつ》んでくれた。それから|吉田家《よしだけ》と|懇意《こんい》になり|竜次郎《りうじろう》|氏《し》は|建勲《けんくん》|神社《じんじや》へ|二三回《にさんくわい》も|尋《たづ》ねて|来《き》て、いろいろと|神勅《しんちよく》を|伺《うかが》うたりし|乍《なが》ら、|妻君《さいくん》の|熱心《ねつしん》で|何時《いつ》とはなしに|大本《おほもと》へ|帰依《きえ》するやうになつたのである。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 松村真澄録)
第二三章 |狐狸々々《こりこり》〔一〇六〇〕
|明治《めいぢ》|卅八年《さんじふはちねん》の|八月《はちぐわつ》、|西田《にしだ》|元教《げんけう》は|種々《いろいろ》と|艱難辛苦《かんなんしんく》して|山城《やましろ》の|宇治《うぢ》で|数十人《すうじふにん》の|信徒《しんと》をこしらへ、|茨木《いばらき》|清次郎《せいじらう》と|云《い》ふ|人《ひと》の|座敷《ざしき》を|借《か》つて|盛《さか》んに|布教《ふけう》をやつて|居《ゐ》たが、あまりの|多忙《たばう》に|一度《いちど》|応援《おうゑん》に|来《き》て|呉《く》れと|云《い》ふ|端書《はがき》を|寄越《よこ》したので、|自分《じぶん》はソツと|綾部《あやべ》を|未明《みめい》に|飛《と》び|出《だ》し、|鞄《かばん》をさげて|須知山峠《しゆちやまたうげ》を|登《のぼ》つた|頃《ころ》、|太陽《たいやう》が|昇《のぼ》られた。それから|一生懸命《いつしやうけんめい》に|榎木峠《えのきたうげ》、|観音峠《くわんおんたうげ》を|越《こ》え、|園部《そのべ》の|支部《しぶ》へ|一寸《ちよつと》|立《た》ち|寄《よ》り|才《さい》|幸太郎《かうたらう》と|云《い》ふ|信者《しんじや》を|荷持《にも》ちとし、|徒歩《とほ》にて|亀岡《かめをか》、|王子《わうじ》を|越《こ》え|沓掛《くつかけ》から|道《みち》を|右《みぎ》にとつて|伏見《ふしみ》に|着《つ》いた|時《とき》は、|已《すで》に|太陽《たいやう》は|西《にし》の|山《やま》の|上《うへ》|一二間《いちにけん》ばかりの|処《ところ》にあつた。|伏見《ふしみ》の|安田《やすだ》|庄太郎《しやうたらう》と|云《い》ふ|信者《しんじや》の|家《うち》に|立寄《たちよ》つて|見《み》た|処《ところ》、|瓦屋《かはらや》で|今《いま》|竈《かま》へ|火《ひ》を|入《い》れて|居《を》る|最中《さいちう》、ユツクリ|話《はなし》も|出来《でき》ずして|居《ゐ》ると、|中村《なかむら》の|股肱《ここう》となつてゐる|男《をとこ》の|事《こと》とて、
|安田《やすだ》『|海潮《かいてう》ハン、|何《なん》で|綾部《あやべ》に|居《を》りなさらぬ。|又《また》しても|病気《びやうき》が|起《おこ》りましたか。|海潮《かいてう》のする|事《こと》は|何《なに》も|彼《か》も|後戻《あともど》りばかりぢやと|教祖《けうそ》さまは|仰有《おつしや》るのに|又《また》|行《ゆ》くのですか。さあ|帰《かへ》りなされ、それとも|今《いま》|竈《かま》へ|火《ひ》を|入《い》れて|居《ゐ》る|最中《さいちう》ですから|話《はな》しも|出来《でき》ませぬ、|今夜《こんや》|泊《とま》つて|下《くだ》さい。|又《また》|後《あと》で|話《はなし》をしますから………』
と|云《い》ふ。
『これはまだ|目《め》が|醒《さ》めぬのか、|愚図々々《ぐづぐづ》しては|大変《たいへん》………』
と|幸太郎《かうたろう》を|促《うなが》して|早々《さうさう》に|立別《たちわか》れ、|伏見《ふしみ》の|豊後橋《ぶんごばし》を|渡《わた》つて|宇治川《うぢがは》の|長《なが》い|土手《どて》を|遡《さかのぼ》り、|綾部《あやべ》から|二十四五里《にじふしごり》の|道《みち》を|漸《やうや》く|夜《よる》の|八時《はちじ》|頃《ごろ》|茨木《いばらき》の|宅《たく》へついた。|行《い》つて|見《み》れば|人《ひと》が|一杯《いつぱい》|詰《つま》つて|居《ゐ》る。|南郷《なんがう》|国松《くにまつ》、|茨木《いばらき》|清次郎《せいじらう》、|岡田《をかだ》|熊次郎《くまじらう》、|長谷川《はせがは》|仙吉《せんきち》、|其《その》|外《ほか》|七八人《しちはちにん》の|世話方《せわかた》が|出来《でき》て|大変《たいへん》な|勢《いきほひ》で|月例祭《つきなみさい》をやつてる|処《ところ》だつた。|家《いへ》の|内《うち》にも|外《そと》にも|参詣者《さんけいしや》が|一杯《いつぱい》|詰《つま》つてゐる。|海潮《かいてう》が|見《み》えたと|云《い》ふので|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》が|涙《なみだ》を|流《なが》して|喜《よろこ》んでゐた。それから|自分《じぶん》は|綾部《あやべ》の|者《もの》には|少《すこ》しも|知《し》らさず、|清次郎《せいじろう》の|家《うち》で|布教《ふけう》|宣伝《せんでん》をやつて|居《ゐ》ると、|毎日《まいにち》|五六十人《ごろくじふにん》から|百人《ひやくにん》|位《くらゐ》の|参詣者《さんけいしや》が|出《で》て|来《き》て、いろいろの|病人《びやうにん》がお|神徳《かげ》を|頂《いただ》いて|帰《かへ》るので|宇治《うぢ》の|町《まち》は|坊主《ばうず》と|医者《いしや》を|除《のぞ》く|外《ほか》、|全部《ぜんぶ》|信者《しんじや》になつて|了《しま》つた。そして|近村《きんそん》からも|三四里《さんより》の|処《ところ》から|日々《にちにち》|参拝《さんぱい》する|非常《ひじやう》な|盛況《せいきやう》である。|宇津《うつ》の|小西《こにし》|松元《しようげん》の|広間《ひろま》が|気《き》にかかつて|居《ゐ》るので、|一生《いつしやう》|小西《こにし》の|処《ところ》へ|行《ゆ》かぬと|云《い》ふた|西田《にしだ》|元教《げんけう》を|無理《むり》に|勧《すす》めて、|視察《しさつ》の|為《た》めに|才《さい》|幸太郎《かうたろう》と|共《とも》に|使《つかひ》にやつた。さうすると|松元《しようげん》は|自分《じぶん》の|宅《たく》が|狭《せま》いので|産土《うぶすな》の|八幡神社《はちまんじんじや》の|広《ひろ》い|社務所《しやむしよ》を|借《か》つて、そこで|神様《かみさま》を|祭《まつ》り|大変《たいへん》な|勢《いきほひ》で|布教《ふけう》|宣伝《せんでん》をやつて|居《を》つた。さうして|西田《にしだ》が|来《き》たのを|見《み》て|小西《こにし》は、
|小西《こにし》『よう|珍《めづら》しい、|能《よ》う|忘《わす》れずに|来《こ》られましたな』
と|横柄《わうへい》に|云《い》ふて|居《ゐ》る。さうした|処《ところ》が|小西《こにし》の|神懸《かむがかり》の|様子《やうす》が|大変《たいへん》に|怪《あや》しいので|一寸《ちよつと》|影《かげ》から|審神者《さには》をして|見《み》ると、|何《なん》でも|狸《たぬき》が|憑依《ひようい》してる|様《やう》なので|押戸《おしど》を|開《あ》けて|見《み》ると、|手《て》のとれた|古《ふる》い|仏《ほとけ》さまが|五《いつ》つ|六《む》つ|無雑作《むざふさ》に|突《つ》つ|込《こ》んである。そこで|西田《にしだ》が、
|西田《にしだ》『|小西《こにし》サン、こんな|虫《むし》の|喰《く》た|仏像《ぶつざう》は|川《かは》へ|流《なが》したら|如何《どう》だ。|此奴《こいつ》あ|屹度《きつと》|狸《たぬき》が|守護《しゆご》してゐるから、|其奴《そいつ》がお|前《まへ》に|憑《うつ》つて|居《ゐ》るのでお|前《まへ》の|神懸《かむがかり》が|可笑《おか》しうなつて、|一寸《ちよつと》もあはぬ|様《やう》になつたのだ』
と|云《い》ふと、|小西《こにし》が|大変《たいへん》に|怒《おこ》つて、
|小西《こにし》『|馬鹿《ばか》の|事《こと》|云《い》ふな。お|前《まへ》は|海潮《かいてう》の|狐《きつね》の|尾先《をさき》に|使《つか》はれて|来《き》たのだらう』
と|悪口《あくこう》をつき、|大勢《おほぜい》の|信者《しんじや》の|前《まへ》で|散々《さんざん》に|罵倒《ばたう》するので|西田《にしだ》は|立腹《りつぷく》し、そこを|立出《たちい》で|宮村《みやむら》へまはり、|芹生峠《せりふたうげ》を|越《こ》えて|貴船神社《きぶねじんじや》を|右《みぎ》に|見《み》|乍《なが》ら、|京都《きやうと》を|横断《わうだん》して|漸《やうや》く|宇治《うぢ》へ|帰《かへ》つて|来《き》てブツブツ|小言《こごと》を|云《い》つて|居《ゐ》た。さうすると|翌日《よくじつ》になると、|西田《にしだ》が|真青《まつさを》な|顔《かほ》になりブルブル|慄《ふる》ひ|出《だ》した。よくよく|調《しら》べて|見《み》ると|瘧《おこり》を|起《おこ》して|居《ゐ》るのである。そこで|海潮《かいてう》が|審神《さには》すると、|西田《にしだ》が|口《くち》を|切《き》つて、
『|俺《おれ》は|宇津《うつ》の|八幡様《はちまんさま》の|社務所《ながとこ》に|居《ゐ》る|仏像《ぶつざう》を|守護《しゆご》して|居《ゐ》る|狸《たぬき》だ。|俺《おれ》の|大切《たいせつ》な|御本尊《ごほんぞん》を|川《かは》へ|流《なが》せと|吐《ぬか》しやがつたから、|此奴《こやつ》の|生命《いのち》を|取《と》らにやおかぬ』
と|意地《いぢ》|張《ば》つて|益々《ますます》|身体《からだ》を|苦《くるし》めるので、|摺鉢《すりばち》を|西田《にしだ》の|頭《あたま》に|着《き》せ、|其《その》|上《うへ》に|艾《もぐさ》を|一掴《ひとつか》み|乗《の》せて|灸《やいと》を|据《す》えると『|熱《あつ》い、|苦《くるし》い』と|云《い》ひ|出《だ》し|到頭《たうとう》|落《お》ちて|了《しま》つた。それから|其《その》|翌日《よくじつ》は|何《なん》ともなかつたが、|三日目《みつかめ》の|同《おな》じ|時刻《じこく》になると|西田《にしだ》が、
|西田《にしだ》『|又《また》|来《き》やがつた。|何《なに》|糞《くそ》ツ』
と|気張《きば》つてゐる。されど|狸《たぬき》の|憑霊《ひようれい》は|猛烈《まうれつ》な|勢《いきほひ》で|襲《おそ》ひ|来《きた》り、|又《また》|瘧《おこり》を|慄《ふる》はせて|苦《くるし》めて|居《ゐ》る。|自分《じぶん》は|今度《こんど》は|西田《にしだ》の|頭《あたま》に|濡《ぬ》れた|手拭《てぬぐひ》を|着《き》せ|其《その》|上《うへ》に|摺鉢《すりばち》を|乗《の》せて、|百匁《ひやくめ》ばかりの|艾《もぐさ》をつけて|扇《あふぎ》で|煽《あふ》ぎ|乍《なが》ら|鎮魂《ちんこん》して|居《ゐ》ると、ヤツとの|事《こと》で|落《お》ちた。それから|二三遍《にさんぺん》チヨコチヨコやつて|来《き》たが|到頭《たうとう》|退散《たいさん》して|了《しま》ひ、|西田《にしだ》は|元《もと》の|通《とほ》り|元気《げんき》になつて|布教《ふけう》に|従事《じうじ》して|居《ゐ》た。
|話《はなし》は|後《あと》へ|戻《もど》るが、|西田《にしだ》の|手紙《てがみ》を|見《み》て|綾部《あやべ》を|立《た》つて|園部《そのべ》の|支部《しぶ》へ|立寄《たちよ》り、それから|小山《こやま》の|田井《たゐ》|儀兵《ぎへい》の|宅《うち》に|一寸《ちよつと》|一服《いつぷく》してゐると、|東《ひがし》から|園部《そのべ》へ|這入《はい》つて|来《き》た|汽車《きしや》の|汽笛《きてき》の|声《こゑ》が、|何《なん》とはなしに|驚《おどろ》きと|悲《かな》しみとを|含《ふく》んでをるので、|海潮《かいてう》は|田井《たゐ》|儀兵《ぎへい》に|向《むか》つて、
|海潮《かいてう》『あの|汽笛《きてき》の|声《こゑ》は|誰《たれ》か|轢死《れきし》したに|違《ちがひ》ない』
といふと、
|田井《たゐ》『|如何《いか》にも|何時《いつ》もとは|違《ちが》ふ、|烈《はげ》しい|声《こゑ》ですな』
と|外《そと》を|覗《のぞ》くと|野良《のら》に|居《ゐ》た|沢山《たくさん》の|人《ひと》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|鉄道《てつだう》へ|駆《か》けつける。|自分《じぶん》も|宇治《うぢ》へ|行《ゆ》く|道《みち》だから、|此処《ここ》でユツクリして|居《を》れぬと|鉄道《てつだう》の|側《そば》へ|行《い》つて|見《み》ると、|小《ちひ》さい|青《あを》い|顔《かほ》した|男《をとこ》が|胴《どう》から|二《ふた》つになつて|五六間《ごろくけん》ばかり|引《ひ》きずられて|真青《まつさを》な|顔《かほ》して|死《し》んで|居《ゐ》る。|西田《にしだ》が|自分《じぶん》を|迎《むか》へに|来《き》て|轢《し》かれて|死《し》んだのではないかと|思《おも》ふ|位《くらゐ》、|其《その》|顔《かほ》がよく|似《に》て|居《ゐ》たので|側《そば》へ|寄《よ》り、よくよく|見《み》れば、さうではなかつた。|其《その》|間《あひだ》に|巡査《じゆんさ》が|来《き》たりいろいろして|調《しら》べて|居《ゐ》た。|轢《し》かれた|処《ところ》の|砂《すな》の|上《うへ》に|新庄村《しんしやうむら》の|何某《なにぼう》と|木《き》の|先《さき》で|土《つち》に|書《か》いてあつた。|後《あと》にて|聞《き》けば|此《この》|男《をとこ》は|僅《たつ》た|一円《いちゑん》|五十銭《ごじつせん》の|主人《しゆじん》の|金《かね》を|使《つか》ひ|過《す》ごし、それを|園部《そのべ》の|親類《しんるゐ》へ|借《か》りに|来《き》て|拒絶《きよぜつ》せられ|轢死《れきし》したと|云《い》ふ|事《こと》を|新聞《しんぶん》で|知《し》つた。さて|才《さい》|幸太郎《かうたろう》の|顔《かほ》が|俄《にはか》に|其《その》|轢死《れきし》した|男《をとこ》に|見《み》え|出《だ》し|気分《きぶん》が|悪《わる》くて|仕方《しかた》がないのを|無理《むり》に|宇治《うぢ》|迄《まで》|荷《に》を|持《も》たして|居《ゐ》たのである。|才《さい》|幸太郎《かうたろう》は|時々《ときどき》|瘧《おこり》を|又《また》|慄《ふる》ひ|出《だ》し、|審神《さには》して|見《み》ると、
|才《さい》『|俺《おれ》は|小山《こやま》の|軋道《レール》の|上《うへ》で|轢死《れきし》した|男《をとこ》だ。|一番先《いちばんさき》にお|前《まへ》が|俺《おれ》の|顔《かほ》を|見《み》たので|憑《つ》いたのだ』
と|云《い》ふ。それから|又《また》|摺鉢《すりばち》の|灸《やいと》で、やつとの|事《こと》で|全快《ぜんくわい》させ|園部《そのべ》へ|帰《かへ》した。さうこうして|居《ゐ》ると、|伏見《ふしみ》の|安田《やすだ》から|聞《き》いたと|見《み》えて|三牧《みまき》|次三郎《じさぶらう》と|云《い》ふ|中村《なかむら》の|乾児《こぶん》が|宇治《うぢ》へやつて|来《き》て、|南郷《なんがう》|国松《くにまつ》や|長谷川《はせがは》|仙吉《せんきち》|其《その》|外《ほか》の|役員《やくゐん》に|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》の|海潮《かいてう》や|西田《にしだ》の|悪《わる》い|事《こと》を|云《い》ひ、
|三牧《みまき》『|艮《うしとら》の|金神様《こんじんさま》に|敵《てき》とうて|来《き》た|奴《やつ》だから|相手《あひて》になるな』
と|云《い》ひ|出《だ》し、|到頭《たうとう》|卅九年《さんじふくねん》の|一月《いちぐわつ》|元日《ぐわんじつ》の|朝《あさ》|大勢《おほぜい》|寄《よ》つて|自分《じぶん》を|放《ほ》り|出《だ》して|了《しま》つた。|自分《じぶん》は|一文《いちもん》も|旅費《りよひ》なしに|小山《こやま》の|田井《たゐ》|氏《し》の|宅《うち》|迄《まで》|帰《かへ》つて|来《く》ると|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》がよつて|来《き》て|泣《な》いて|喜《よろこ》び|四五円《しごゑん》ばかりの|小遣《こづか》ひを|呉《く》れた。それを|以《もつ》て|久《ひさ》し|振《ぶ》りに|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|来《き》た。それから|西田《にしだ》は|其《その》|月《つき》の|十五日《じふごにち》に|三牧《みまき》|次三郎《じさぶらう》や|南郷《なんがう》|其《そ》の|他《た》の|者《もの》の|計略《けいりやく》にかかつて|荷物《にもつ》|一切《いつさい》を|取《と》られた|上《うへ》、|放《ほ》り|出《だ》されてお|雪《ゆき》と|夫婦《ふうふ》|連《づ》れ|伏見《ふしみ》へ|行《ゆ》き、お|雪《ゆき》は|或《ある》|撚糸《ねんし》の|工場《こうば》へ|女工《ぢよこう》になつて|這入《はい》り、|西田《にしだ》は|按摩《あんま》を|稽古《けいこ》して、|商売《しやうばい》|片手《かたて》に|伏見《ふしみ》|地方《ちはう》に|布教《ふけう》して|居《ゐ》たが、|四十二年《しじふにねん》に|自分《じぶん》が|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|大広前《おほひろまへ》を|建《た》てたりお|宮《みや》を|建《た》てる|様《やう》になつてから、ソロソロ|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|来《き》て、|頻《しき》りに|宣伝《せんでん》する|事《こと》となつたのである。
これより|先《さき》、|西田《にしだ》と|三牧《みまき》は|宇治《うぢ》の|橋熊《はしぐま》と|云《い》ふ|顔役《かほやく》に|頼《たの》まれて|其《その》|乾児《こぶん》|等《ら》の|家《うち》の|祖霊祭《みたままつり》を|夜《よる》になると|頻《しき》りにやつてゐた。さうした|処《ところ》が|其《その》|祖霊箱《みたまばこ》が|時々《ときどき》|躍《をど》り|出《だ》し、お|供物《そなへもの》をすると|魚《さかな》のお|供《そなへ》の|方《はう》へカタツと|音《おと》をさしては|向《む》き|直《なほ》つたり、|階段《かいだん》を|下《お》りたりするので、|霊《れい》と|云《い》ふものは|偉《えら》いものだ。|本当《ほんたう》に|西田《にしだ》サンや|三牧《みまき》サンは|偉《えら》いと|云《い》ふ|評判《へうばん》になり、|何処《どこ》もかも|競《きそ》ふて|祖霊祭《みたままつり》を|頼《たの》んでゐた。|橋熊《はしぐま》は|親分《おやぶん》の|事《こと》とて|自分《じぶん》の|宅《うち》だけは|海潮《かいてう》にして|貰《もら》ひ|度《た》いと|云《い》つて|特別《とくべつ》に|頼《たの》みに|来《き》たので、|自分《じぶん》が|行《い》つて|祖霊祭《みたままつり》をすませ、|一服《いつぷく》をして|居《ゐ》ると|橋熊《はしぐま》が|妙《めう》な|顔《かほ》をして、
|橋熊《はしぐま》『もし|先生《せんせい》、|宅《うち》の|祖霊《みたま》さまはまだ|納《をさ》まらぬのですか、|他家《よそ》の|祖霊《みたま》さまは|皆《みな》|動《うご》くのに、|何故《なぜ》|宅《うち》|丈《だけ》は|動《うご》きませぬ。|貴方《あなた》は|先生《せんせい》であり|乍《なが》ら|霊《れい》が|利《き》かぬのですか』
と|不足《ふそく》|相《さう》に|云《い》ふので、|狸《たぬき》が|這入《はい》つて|動《うご》くのだと|明《あ》かす|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、
|喜楽《きらく》『|私《わたし》は|祖霊祭《みたままつり》は|今日《けふ》が|初《はじ》めてだから|勝手《かつて》を|知《し》りませぬ、|三牧《みまき》さんが|上手《じやうづ》ですからして|貰《もら》ひなさい』
と|体《てい》よく|云《い》ふた。さうすると|今度《こんど》は、|三牧《みまき》を|頼《たの》んで|祖霊祭《みたままつり》を|改《あらた》めてやつた|所《ところ》が、|大変《たいへん》に|箱《はこ》が|動《うご》き|出《だ》したので、|三牧《みまき》の|信用《しんよう》が|高《たか》まり、|西田《にしだ》がやつても|自分《じぶん》がやつてもチツとも|動《うご》かぬので|到頭《たうとう》|迷信家《めいしんか》の|信用《しんよう》を|失《うしな》ひ、|自分《じぶん》は|真先《まつさき》に|放《ほ》り|出《だ》され、|西田《にしだ》も|次《つい》で|追《お》ひ|払《はら》はれて|了《しま》ふたのである。|綴喜郡《つづきぐん》の|郷《がう》の|口《くち》の|浅田《あさだ》|安治《やすぢ》といふ|酒造屋《しゆざうや》の|妹《いもうと》に、お|鶴《つる》と|云《い》ふ|癲疳病者《てんかんやみ》があつた。|其《その》|女《をんな》の|病気《びやうき》を|癒《なほ》して|呉《く》れと|云《い》つて|頼《たの》みに|来《き》たので、|遥々《はるばる》と|郷《ごう》の|口《くち》へ|行《い》つて|鎮魂《ちんこん》した|処《ところ》、|一月《ひとつき》ばかり|癲疳《てんかん》は|止《と》まつて|居《ゐ》た。さうした|処《ところ》|酒倉《さかぐら》の|中《なか》で|又《また》もや|癲疳《てんかん》が|起《おこ》つたのでソロソロ|海潮《かいてう》の|信用《しんよう》が|薄《うす》くなつた|処《ところ》へ、|其《その》|村《むら》で|廿才《はたち》|位《くらゐ》の|娘《むすめ》で|永《なが》らく|足《あし》の|起《た》たぬ|病人《びやうにん》があつた。|自分《じぶん》は|再《ふたた》び|宇治《うぢ》へ|帰《かへ》つて|南郷《なんがう》の|宅《たく》に|居《ゐ》て|布教《ふけう》してゐると、|又《また》|頼《たの》みに|来《き》たので|今度《こんど》は|三牧《みまき》と|小竹《こたけ》が|鎮魂《ちんこん》に|行《い》つた。さうすると|其《その》|娘《むすめ》が、
『|俺《おれ》は|三年前《さんねんまへ》に|死《し》んだ|此処《ここ》の|婆《ばば》アぢやが|村中《むらぢう》の|誰《たれ》|彼《かれ》に|内所《ないしよ》で|金《かね》を|何程《なんぼ》|何程《なんぼ》|貸《か》した』
と|誠《まこと》しやかに|喋《しやべ》り|立《た》てるので、|合《あは》して|見《み》ると|千円《せんゑん》ばかりの|金《かね》だから、|病人《びやうにん》の|兄《あに》が、
『|家《うち》の|婆《ば》アサンの|霊《れい》がお|前《まへ》の|処《ところ》へ|金《かね》を|貸《か》したと|云《い》ふが|返《かへ》して|呉《く》れ』
と|其処《そこ》ら|中《ぢう》へ|歩《ある》いたので、|村中《むらぢう》の|大騒動《だいさうどう》となり、
『|一体《いつたい》|誰《たれ》がそんな|事《こと》|云《い》ふたか』
と|調《しら》べて|見《み》ると、|三牧《みまき》が|鎮魂《ちんこん》して|其《その》|娘《むすめ》が|喋《しやべ》り|出《だ》し、|小竹《こたけ》と|云《い》ふ|男《をとこ》と|二人《ふたり》がついて|居《ゐ》ると|云《い》ふので、|巡査《じゆんさ》がやつて|来《き》たり|色々《いろいろ》と|悶錯《もんさく》が|初《はじ》まつた。そこで|郷《がう》の|口《くち》から|自分《じぶん》を|呼《よ》びに|来《き》たので|行《い》つて|見《み》ると、|其《その》|娘《むすめ》は|頻《しき》りに|婆《ば》アサンの|声色《こわいろ》を|使《つか》ふて、『|如何《どう》しても|金《かね》を|貸《か》した』と|意地張《いぢば》つてゐる。それから|三牧《みまき》と|小竹《こたけ》を|宇治《うぢ》へ|帰《かへ》し、|自分《じぶん》が|一晩《ひとばん》|泊《とま》つて|様子《やうす》を|考《かんが》へた|処《ところ》が、|非常《ひじやう》に|怪《あや》しいので|刀《かたな》を|一本《いつぽん》|主人《しゆじん》から|貸《か》して|貰《もら》ふて|祝詞《のりと》をあげ|乍《なが》ら|空《くう》を|切《き》つて|見《み》ると|箪笥《たんす》の|横《よこ》から|昼《ひる》の|真中《まなか》に|七匹《しちひき》の|豆狸《まめだぬき》が|飛《と》び|出《だ》した。それと|共《とも》に|其《その》|娘《むすめ》は|病気《びやうき》が|癒《なほ》つて|了《しま》つた。さうすると|海潮《かいてう》にお|礼《れい》を|云《い》ふ|所《どころ》か、
『お|前《まへ》サンは|三牧《みまき》の|様《やう》な|弟子《でし》を|使《つか》ふて|宅《うち》の|娘《むすめ》に|狸《たぬき》を|憑《つ》けて、こんな|村中《むらぢう》の|騒動《さうだう》をさしたのだらう』
と|反対《はんたい》に|理屈《りくつ》を|云《い》ひ、
『ど|狸《たぬき》|奴《め》が、|早《はや》うかへれ』
と|呶鳴《どな》りつけられるので|到頭《たうとう》|狸憑《たぬきつ》けにしられて|了《しま》ひ|怨《うら》みを|呑《の》んで|宇治《うぢ》まで|帰《かへ》つて|来《き》た。さうすると、|南郷《なんがう》や|長谷川《はせがは》が|三牧《みまき》と|一《ひと》つになつて、|三十九年《さんじふくねん》の|正月《しやうぐわつ》|元日《ぐわんじつ》に|朝《あさ》つぱらから|自分《じぶん》を|放《ほ》り|出《だ》す|事《こと》となつたのである。|霊界《れいかい》の|事《こと》の|分《わか》らぬ|連中《れんちう》になると|困《こま》つたもので、|訳《わけ》を|云《い》へば|云《い》ふ|程《ほど》|益々《ますます》|疑《うたが》ふて|始末《しまつ》におへぬものである。それから|自分《じぶん》も|病人《びやうにん》の|鎮魂《ちんこん》がサツパリ|嫌《いや》になり、|神懸《かむがかり》の|修行《しうぎやう》も|断念《だんねん》して|了《しま》ふた。が|大正《たいしやう》|五年《ごねん》に|横須賀《よこすか》の|浅野《あさの》サンの|宅《たく》へ|行《い》つた|時《とき》、|参考《さんかう》のために|又《また》もや|幽斎《いうさい》の|修行《しうぎやう》をして|見《み》せたのが|元《もと》となつて|浅野《あさの》サンが|霊学《れいがく》を|熱心《ねつしん》に|研究《けんきう》し|始《はじ》める|事《こと》となつたのである。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 北村隆光録)
第二四章 |呪《のろひ》の|釘《くぎ》〔一〇六一〕
|明治《めいぢ》|卅三年《さんじふさんねん》|八月《はちぐわつ》|下旬《げじゆん》の|事《こと》であつた。|会長《くわいちやう》は|大本《おほもと》に|在《あ》つていろいろと|一心《いつしん》に|教典《けうてん》を|執筆《しつぴつ》してゐる|時《とき》、|郷里《きやうり》の|穴太《あなを》から……|元治郎《もとぢらう》|危篤《きとく》すぐ|帰《かへ》れ……といふ|電報《でんぱう》がついたので、|直《すぐ》に|教祖《けうそ》に|其《そ》の|由《よし》を|申上《まをしあ》げた。|教祖《けうそ》は|早速《さつそく》に|神《かみ》さまにお|伺《うかが》ひになり、
|教祖《けうそ》『|余程《よほど》の|大病《たいびやう》ぢやそうですから、|早《はや》う|行《い》つて|助《たす》けて|上《あ》げなされ、|元《もと》ハンもこれで|改心《かいしん》が|出来《でき》て、|反対《はんたい》をせんよにならはりませう』
との|言《ことば》に|早速《さつそく》|草鞋脚絆《わらぢきやはん》に|身《み》を|固《かた》め、|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》|氏《し》をつれて、|翌早朝《よくさうてう》から|竜宮館《りうぐうやかた》を|立出《たちい》で、|十四里《じふより》に|余《あま》る|山路《やまみち》を|辿《たど》りつつ|其《その》|日《ひ》の|黄昏時《たそがれどき》に|漸《やうや》く|穴太《あなを》の|自宅《じたく》に|着《つ》いた。|其《その》|夜《よ》は|二人《ふたり》|共《とも》|旅《たび》の|疲《つか》れで|前後《ぜんご》も|知《し》らずに|寝《ね》て|了《しま》つた。
|翌朝《よくてう》|早《はや》く|起《おき》て|病人《びやうにん》は|如何《どう》かと|調《しら》べてみるに、|手《て》もつけられぬやうな|熱《ねつ》と|痛《いたみ》の|為《ため》に、|一寸《ちよつと》も|身動《みうご》きならずウンウンと|唸《うな》り|声《ごゑ》を|立《た》てて|苦《くるし》んでゐる。|直《ただち》に|神前《しんぜん》に|向《む》かつて|元治郎《もとぢらう》の|病気《びやうき》|平癒《へいゆ》を|祈願《きぐわん》した。さうすると|喜楽《きらく》の|腹《はら》の|中《なか》から、|固《かた》まりがゴロゴロと|上《のぼ》つて|来《き》て、
|喜楽《きらく》『|此《この》|病《やまひ》は|商売敵《しやうばいがたき》で|十五人《じふごにん》の|鍛冶屋《かぢや》の|団体《だんたい》から|呪《のろ》はれてゐるのだから、これからすぐに|産土《うぶすな》さまへ|参拝《さんぱい》して|見《み》よ。お|宮《みや》の|裏《うら》の|二本《にほん》の|杉《すぎ》の|木《き》に、|元治郎《もとぢらう》の|姿《すがた》を|画《ゑが》き、|其《その》|上《うへ》に|七本《しちほん》の|釘《くぎ》がうつてあるから、|早《はや》う|行《い》つて|其《その》|釘《くぎ》を|抜《ぬ》き|取《と》り、|其《その》|釘跡《くぎあと》につき|立《たて》の|餅《もち》をうめておいたら、|此《この》|病気《びやうき》はキツと|直《なほ》る』
との|事《こと》であつた。かくと|聞《き》いた|傍《かたはら》の|人《ひと》は|半信半疑《はんしんはんぎ》の|体《てい》で、|会長《くわいちやう》の|顔《かほ》をポカンとして|見《み》つめて|居《ゐ》た。|弟《おとうと》の|幸吉《かうきち》と|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》|氏《し》と|下男《げなん》の|幸之助《かうのすけ》と|三人《さんにん》が、|神《かみ》のお|告《つげ》のままに、|直様《すぐさま》|産土《うぶすな》の|小幡神社《をばたじんじや》に|至《いた》り|捜《さが》してみれば、|果《はた》して|二本《にほん》の|大杉《おほすぎ》に|五寸《ごすん》|位《ぐらゐ》の|釘《くぎ》が|八本《はちほん》づつ|打込《うちこ》んである|事《こと》を|発見《はつけん》し、|直《ただち》に|釘《くぎ》を|抜《ぬ》き|取《と》つて|急《いそ》いで|帰《かへ》つて|来《き》た。そこへ|村《むら》の|衛生係《えいせいがかり》が|巡査《じゆんさ》と|医者《いしや》をつれて|入来《いりきた》り、
『|此《この》|病気《びやうき》は|猩紅熱《しやうこうねつ》だから、|伝染《でんせん》する|虞《おそれ》がある、|今《いま》すぐに|予防《よばう》の|手当《てあて》をしなくてはならぬ、|又《また》お|前《まへ》たちは|家《いへ》を|一歩《いつぽ》も|出《で》てはならぬ』
ときびしく|言《い》ひ|出《だ》した。|其《その》|当時《たうじ》は|村中《むらぢう》に|猩紅熱《しやうこうねつ》が|流行《りうかう》して、どこの|家《いへ》にも|二人《ふたり》|三人《さんにん》の|患者《くわんじや》が|唸《うな》つてゐたのだから、|医者《いしや》も|猩紅熱《しやうこうねつ》と|診察《しんさつ》したのであつた。|会長《くわいちやう》も|二三年《にさんねん》|計《ばか》り|医学《いがく》を|研究《けんきう》した|事《こと》があつたのを|幸《さいは》ひ、|病理上《びやうりじやう》から|伝染病《でんせんびやう》でない|事《こと》を|説明《せつめい》し、これはきつと|生霊《いきりやう》の|祟《たた》りだといふ|事《こと》を|主張《しゆちやう》した。|医者《いしや》|等《ら》は|嘲笑《あざわら》うて、
『|此《この》|開《ひら》けた|世《よ》の|中《なか》に、|生霊《いきりやう》の|祟《たた》りなどといふ|事《こと》があるものか』
と|一笑《いつせう》に|附《ふ》して|聞入《ききい》れぬ。|会長《くわいちやう》は|熱心《ねつしん》に|霊的《れいてき》の|作用《さよう》を|説《と》き、|且《かつ》|抜《ぬ》いて|来《き》た|其《その》|釘《くぎ》を|見《み》せて|証拠《しようこ》とした。|医者《いしや》を|始《はじ》め|巡査《じゆんさ》|衛生係《えいせいがかり》は|半信半疑《はんしんはんぎ》の|体《てい》で|一先《ひとま》づ|引取《ひきと》つて|了《しま》つた。|不思議《ふしぎ》にも|今《いま》まで|苦悶《くもん》してゐた|元治郎《もとぢらう》は、|社内《しやない》の|杉《すぎ》から|釘《くぎ》を|一本《いつぽん》|一本《いつぽん》ぬき|取《と》ると|同時刻《どうじこく》に|体《からだ》の|中《なか》が|涼《すず》しく|覚《おぼ》え、やがて|全部《ぜんぶ》の|釘《くぎ》をぬき|取《と》ると|同時《どうじ》に、やがて|熱《ねつ》も|痛《いたみ》も|拭《ぬぐ》ふが|如《ごと》く|去《さ》り、|今《いま》まで|身動《みうご》きだに|出来《でき》なんだ|者《もの》が、|俄《にはか》に|起上《おきあが》つて|喜《よろこ》び|勇《いさ》み、もうこれなら|大丈夫《だいぢやうぶ》だと|泣《な》き|笑《わら》ひをした。ここに|始《はじ》めて|見舞《みまひ》に|来《き》てゐた|人《ひと》も|神徳《しんとく》の|広大無辺《くわうだいむへん》なるに|驚《おどろ》いた。|元治郎《もとぢらう》は|喜楽《きらく》の|不在宅《るすたく》で|鍛冶屋《かぢや》を|職業《しよくげう》としてゐたが、|下男《げなん》の|幸之助《かうのすけ》は|沢山《たくさん》の|鍛冶《かぢ》|職人《しよくにん》から|頼《たの》まれて、|氏神《うぢがみ》の|杉《すぎ》の|木《き》に|元治郎《もとぢらう》の|姿《すがた》をかき、|釘《くぎ》を|打込《うちこ》んで|呪《のろ》ひ|殺《ころ》さうとしたのであつた。それを|神《かみ》さまの|霊眼《れいがん》に|依《よ》つて|発見《はつけん》し、|病気《びやうき》が|直《なほ》つたのだから、|俄《にはか》に|会長《くわいちやう》が|恐《おそろ》しうなり、|自分《じぶん》の|罪《つみ》が|発覚《はつかく》せむ|事《こと》を|恐《おそ》れて、|其《その》|夜《よ》の|中《うち》に|自分《じぶん》の|女房《にようばう》と|共《とも》に|何処《どこ》ともなく|逐電《ちくでん》して|了《しま》つた。あとにて|聞《き》けば|幸之助《かうのすけ》は|紀州《きしう》の|故郷《こきやう》へ|帰《かへ》ると|共《とも》に|元治郎《もとぢらう》と|同《おな》じ|重病《ぢうびやう》にかかり、|大変《たいへん》に|苦《くるし》んだと|云《い》ふ|事《こと》であつた。|二三日《にさんにち》|穴太《あなを》に|逗留《とうりう》してゐると、|近所《きんじよ》の|熱心《ねつしん》な|人《ひと》が|参《まゐ》つて|来《き》て、いろいろと|病気《びやうき》の|御祈願《ごきぐわん》を|頼《たの》むので|鎮魂《ちんこん》をし、|難病《なんびやう》を|癒《なほ》してゐた。やがて|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》らうとする|時《とき》、|元治郎《もとぢらう》に、
|喜楽《きらく》『お|前《まへ》は|神《かみ》さまの|思召《おぼしめし》に|依《よ》つて、こんな|目《め》に|会《あ》うたのだから、キツと|幸之助《かうのすけ》を|恨《うら》めてはならぬぞ、|一日《いちじつ》も|早《はや》く|真心《まごころ》に|立帰《たちかへ》つて、|神《かみ》さまの|御恵《みめぐみ》を|享《う》けるよに|祈《いの》つてやれ、|幸之助《かうのすけ》が|決《けつ》して|悪《わる》いのではない、|余《あま》りお|前《まへ》の|我《が》が|強《つよ》いから、|大勢《おほぜい》の|同職人《どうしよくにん》に|憎《にく》まれたのだ、お|前《まへ》もこれから|病気《びやうき》が|直《なほ》つたら、|心《こころ》を|入《い》れかへて|信神《しんじん》をせい』
といつて|木下《きのした》と|共《とも》に|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》る|事《こと》となつた。そして|帰《かへ》りがけに|重《かさ》ねて、
|喜楽《きらく》『お|前《まへ》の|病気《びやうき》は|呪《のろ》ひ|釘《くぎ》をぬいたのだから、|一旦《いつたん》は|全快《ぜんくわい》したやうであるけれど、お|前《まへ》の|罪《つみ》は|消《き》えてをらぬから、|再《ふたたび》|悩《なや》みが|出《で》て|来《く》るだろ、しかし|命《いのち》には|別状《べつじやう》ないから|安心《あんしん》せい、|二月《ふたつき》|計《ばか》りは|苦《くる》しいが、それを|越《こ》えたら|元《もと》の|体《からだ》になるだらう』
というておいた。|其《その》|後《ご》|又《また》もや|体《からだ》がそこら|中《ぢう》がウヅき|出《だ》し、|腰《こし》のあたりが|腫《は》れて、|再《ふたたび》|身動《みうご》きもならぬ|様《やう》になり、|困《こま》つてゐたが|六十日目《ろくじふにちめ》の|夜《よ》、|二三升《にさんぜう》の|膿汁《うみ》が|腰《こし》の|腫物《はれもの》からはぢけ|出《だ》し、|始《はじ》めて|病気《びやうき》が|全快《ぜんくわい》した。|今《いま》まで|信神《しんじん》の|嫌《いや》であつた|元治郎《もとぢらう》もこれより|御神徳《ごしんとく》の|有難《ありがた》い|事《こと》を|悟《さと》り、|今《いま》までのバクチを|止《や》めて|朝晩《あさばん》|神《かみ》さまを|拝《をが》む|心《こころ》になり、とうとう|神《かみ》の|道《みち》を|宣伝《せんでん》するやうになつたのである。
それから|八十八歳《はちじふはつさい》になつた|喜楽《きらく》の|祖母《そぼ》が|亡《な》くなり、|百日祭《ひやくにちさい》をすました|翌日《よくじつ》|家《いへ》が|焼《や》けて|了《しま》つたので
、|母《はは》と|共《とも》に|家族《かぞく》|一同《いちどう》が、|一先《ひとま》ず|綾部《あやべ》へ|引《ひ》つ|越《こ》して|来《く》ることとなつたのである。|自宅《じたく》の|焼《や》ける|事《こと》は|二三年前《にさんねんまへ》から、|神《かみ》さまに|知《し》らされてゐた。それ|故《ゆゑ》に|何時《いつ》も|元吉《もときち》に|気《き》を|付《つ》けて|村々《むらむら》の|百姓《ひやくしやう》から、|修繕《しうぜん》の|為《ため》に|預《あづか》つて|来《き》た|農具《のうぐ》を、|別《べつ》の|小屋《こや》の|中《なか》へしまつておけと|云《い》つておいたお|蔭《かげ》で、|上田家《うへだけ》の|物《もの》は|何《なに》もかも|残《のこ》らず|焼《や》けて|了《しま》つたが、|預《あづか》つた|農具《のうぐ》は|少《すこ》しも|焼《や》けなかつたのは|不幸中《ふかうちう》の|幸《さいはひ》であつた。
|家《いへ》の|焼《や》ける|前《まへ》の|日《ひ》、|西田《にしだ》は|弟《おとうと》の|幸吉《かうきち》と|綾部《あやべ》へ|一度《いちど》|参《まゐ》つて|来《こ》うと、|相談《さうだん》をきめ、|家《いへ》に|寝《ね》てゐると、|喜楽《きらく》が|黒木綿《くろもめん》の|紋付《もんつき》|羽織《はおり》を|着《き》て|帰《かへ》り|来《きた》り、|火《ひ》の|用心《ようじん》が|悪《わる》いから、|二三日《にさんにち》どこへも|出《で》るなと|云《い》つたと|思《おも》へば|夢《ゆめ》であつた。|又《また》|母《はは》の|耳《みみ》へ、どこからともなく、|火事《くわじ》があるから|気《き》をつけ、どこへも|行《ゆ》くなと|云《い》ふ|声《こゑ》が|聞《きこ》えたので、|不思議《ふしぎ》がつて|注意《ちうい》をしてゐた|所《ところ》、|俄《にはか》に|仏壇《ぶつだん》の|上《うへ》の|方《はう》から|火《ひ》が|出《で》て、|丸焼《まるや》けになつて|了《しま》うたのである。|其《そ》の|時《とき》|王子《わうじ》の|栗山《くりやま》のおことハンが|綾部《あやべ》へ|参《まゐ》つて|来《き》たので、|帰《かへ》りがけに|手紙《てがみ》を|書《か》いて、|亀岡《かめをか》の|古世《こせ》の|岩崎《いはさき》といふ|伯母《をば》の|内《うち》へ|言《こと》づて、|穴太《あなを》が|焼《や》け|相《さう》なから|気《き》をつけて|貰《もら》ひたいというてやつた。|伯母《をば》は|一日《いちにち》|二日《ふつか》グヅグヅしてゐる|内《うち》に|穴太《あなを》が|焼《や》け、|穴太《あなを》から|行《い》つてみると、|喜楽《きらく》の|手紙《てがみ》が|来《き》てゐるので、|驚《おどろ》いたといふ|事《こと》があつた。
|母《はは》|及《および》|弟妹《きやうだい》は|二三年《にさんねん》|綾部《あやべ》に|来《き》て|居《ゐ》たが、|余《あま》り|元《もと》の|役員《やくゐん》の|反対《はんたい》がきつく、|小松林《こまつばやし》の|親《おや》ぢやというて|虐待《ぎやくたい》をされ、しまひには|役員《やくゐん》に|蹴《け》り|倒《たふ》されて|息《いき》が|止《と》まり、|折《をり》よく|西田《にしだ》が|帰《かへ》つて|来《き》て|介抱《かいほう》して、|息《いき》を|吹《ふ》き|返《かへ》したといふやうな|塩梅《あんばい》で、|母《はは》は|大変《たいへん》に|怒《おこ》つて、|一生《いつしやう》|綾部《あやべ》の|方《はう》|向《む》いて|小便《せうべん》もこかぬと|云《い》つて、|明治《めいぢ》|卅五年《さんじふごねん》の|秋《あき》|一先《ひとま》づ|園部《そのべ》まで|引上《ひきあ》げ、それから|卅六年《さんじふろくねん》には、|元《もと》の|穴太《あなを》へ|帰《かへ》つて|了《しま》うたのである。
|併《しか》し|其《その》|時《とき》の|役員《やくゐん》は|或《ある》|迷信上《めいしんじやう》から|行《や》つたことで、|決《けつ》して|悪《わる》い|事《こと》とは|夢《ゆめ》にも|思《おも》うてゐなかつたのである。|御道《おみち》の|為《ため》|世界《せかい》の|為《ため》になることだと|固《かた》く|信《しん》じて、|喜楽《きらく》の|母《はは》の|横腹《よこばら》まで|蹴《け》つて|気絶《きぜつ》さすやうな|目《め》に|会《あ》はし|得々《とくとく》として|居《ゐ》たのであつた。|実《じつ》に|迷信《めいしん》|程《ほど》|恐《おそろ》しいものはないのである。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 松村真澄録)
第二五章 |雑草《ざつさう》〔一〇六二〕
|建勲神社《けんくんじんじや》に|奉仕中《ほうしちう》、|喜楽《きらく》は|休日《きうじつ》を|利用《りよう》して|宇津《うつ》の|小西《こにし》の|布教《ふけう》してゐる|八幡宮《はちまんぐう》の|社務所《しやむしよ》へ|出張《しゆつちやう》して|見《み》た。さうすると|沢山《たくさん》な|信者《しんじや》が|集《あつま》つて、|祈祷《きたう》して|貰《もら》うてゐる。|湯浅《ゆあさ》|仁斎《じんさい》|氏《し》の、|妻君《さいくん》も|満艦飾《まんかんしよく》をこらして|参拝《さんぱい》して|居《ゐ》た。さうすると|小西《こにし》が|大勢《おほぜい》の|前《まへ》で、
|小西《こにし》『あゝ|会長《くわいちやう》サン、|来《き》なさつたか、|狐《けつね》はモウ|去《い》にましたかなア』
とおチヨくる|様《やう》に|無礼《ぶれい》な|事《こと》を|言《い》ふ。|喜楽《きらく》はムツとしたが、いやいや|待《ま》て|待《ま》てと|胸《むね》をなでおろし、|喜楽《きらく》は|永《なが》らく|綾部《あやべ》で|大勢《おほぜい》に|圧迫《あつぱく》や|妨害《ばうがい》を|加《くは》へられ、|隠《かく》れ|忍《しの》んでやうやう|西田《にしだ》と|二人《ふたり》してここにお|広間《ひろま》を|拵《こしら》へ、ここを|根拠《こんきよ》として|大本《おほもと》の|教《をしへ》を|開《ひら》かねばならぬのだから、|今《いま》|怒《おこ》つては|大事《だいじ》の|前《まへ》の|小事《せうじ》だと、ワザと|平気《へいき》な|顔《かほ》をして|笑《わら》うて|居《ゐ》ると、|小西《こにし》は|尚《なほ》もつけ|上《あが》り、
|小西《こにし》『|皆《みな》サン|此《この》|人《ひと》は|綾部《あやべ》の|海潮《かいてう》と|云《い》ふ|人《ひと》で、|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|大神様《おほかみさま》が|御守護《ごしゆご》して|御座《ござ》つたのぢやが、|官幣社《くわんぺいしや》の|神主《かむぬし》になつたりするもんだから、|神様《かみさま》が|愛想《あいさう》を|尽《つ》かして、|此《この》|松元《しようげん》に|移《うつ》り|替《か》へなさつたのだから、|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御神徳《ごしんとく》は|皆《みな》|此《この》|松元《しようげん》におさまり、|海潮《かいてう》サンは|蝉《せみ》のぬけがらになつた|後《あと》へ、|稲荷山《いなりやま》のケツネがついて|居《ゐ》ますから、モウ|駄目《だめ》です。こんな|人《ひと》に|鎮魂《ちんこん》をうけてはいけませぬ』
と|人《ひと》の|前《まへ》で|臆面《おくめん》もなく|喋《しやべ》り|立《た》てる。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『あゝさうだ、|私《わたし》は|脱殻《ぬけがら》だ、どうぞ|松元《しようげん》サンに、|一時《いちじ》も|早《はや》く|綾部《あやべ》へ|来《き》て|御用《ごよう》をして|貰《もら》はねばなりませぬ』
といつたら、|松元《しようげん》は|得意《とくい》になつて、
|小西《こにし》『|綾部《あやべ》の|教祖様《けうそさま》が|変性男子《へんじやうなんし》の|御身魂《おんみたま》で、|此《この》|松元《しようげん》が|松《まつ》の|大本《おほもと》で、|変性女子《へんじやうによし》の|御用《ごよう》をするんだが、モチと|海潮《かいてう》の|改心《かいしん》が|出来《でき》ぬと、|中々《なかなか》|行《ゆ》けませぬワイ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|折角《せつかく》|開《ひら》いて|置《お》いた|北桑田《きたくはだ》の|信者《しんじや》を|小口《こぐち》から、|第二《だいに》の|中村《なかむら》のやうに|悪口《わるくち》を|言《い》うてふれまはして|了《しま》うた。|其《その》|時《とき》|湯浅《ゆあさ》|夫婦《ふうふ》も|松元《しようげん》の|教会《けうくわい》へ|病気《びやうき》の|為《ため》に|参拝《さんぱい》して|居《ゐ》たが、|湯浅《ゆあさ》はどうしても|松元《しようげん》の|行方《やりかた》が|気《き》にくはぬので、|自分《じぶん》は|船岡《ふなをか》の|妙霊教会《めうれいけうくわい》へ|月参《つきまゐ》りをし、|妻君《さいくん》のみが|隠《かく》れて|信仰《しんかう》をして|居《を》つた。それから|明治《めいぢ》|四十一年《よんじふいちねん》の|二月《にぐわつ》の|事《こと》であつた。|会長《くわいちやう》は|建勲《けんくん》|神社《じんじや》を|辞職《じしよく》して、|御嶽教《みたけけう》の|仮本庁《かりほんちやう》が|伏見《ふしみ》の|稲荷山《いなりやま》に|宏大《くわうだい》な|館《やかた》を|立《た》てて|設置《せつち》されてあつたので、|神宮官庁《じんぐうくわんちやう》から|頼《たの》まれて、|副管長《ふくくわんちやう》|格《かく》の|主事《しゆじ》といふ|役《やく》をつとめて|居《ゐ》た。|喜楽《きらく》が|御嶽教《みたけけう》へは|入《い》つたのは、|御祭神《ごさいしん》が|国常立命《くにとこたちのみこと》であるのと、|将来《しやうらい》|神《かみ》の|道《みち》を|布教《ふけう》するに|付《つ》いて|見学《けんがく》の|為《ため》に、|無報酬《むほうしう》でつとめて|居《ゐ》たのである。そこへ|湯浅《ゆあさ》|斎次郎《さいじらう》|氏《し》が|小西《こにし》に|頼《たの》まれたと|云《い》つて|使《つかひ》に|来《き》た。|其《その》|時《とき》|海潮《かいてう》は|大阪《おほさか》の|生玉《いくたま》に|設置《せつち》されてある、|御嶽教《みたけけう》|大教会《だいけうくわい》へ|教会長《けうくわいちやう》なので|二三日《にさんにち》|出張《しゆつちやう》して|居《ゐ》た。|其《その》|不在中《ふざいちゆう》に|湯浅《ゆあさ》は|御嶽教《みたけけう》の|本庁《ほんちやう》で|泊《と》めて|貰《もら》ひ、|喜楽《きらく》の|書《か》いた|沢山《たくさん》の|書物《しよもつ》を|半分《はんぶん》|計《ばか》り|読《よ》んで|了《しま》ひ、|非常《ひじやう》に|信仰《しんかう》を|固《かた》めて|居《ゐ》た。そこへ|喜楽《きらく》が|帰《かへ》つて|来《き》て|湯浅《ゆあさ》に|会《あ》ひ|来意《らいい》を|尋《たづ》ねると、
|湯浅《ゆあさ》『|小西《こにし》|松元《しようげん》サンの|息子《むすこ》の|嫁《よめ》に|妹《いもうと》のお|君《きみ》さまを|貰《もら》ひたい』
との|事《こと》であつた。|海潮《かいてう》は|小西《こにし》|松元《しようげん》の|為《ため》には|非常《ひじやう》に|侮辱《ぶじよく》されて、|余《あま》り|面白《おもしろ》くなかつたけれど、お|道《みち》が|大事《だいじ》だと|思《おも》うて|隠忍《いんにん》して|居《ゐ》た|所《ところ》である。|一層《いつそう》の|事《こと》|妹《いもうと》をやつたならば|小西《こにし》も|反対《はんたい》をせず、|自分《じぶん》の|云《い》ふことを|聞《き》くやうになるだらうと|思《おも》ひ、|早速《さつそく》|穴太《あなを》へ|帰《かへ》つて|母《はは》と|相談《さうだん》の|上《うへ》、|僅《わづか》に|十五才《じふごさい》の|妹《いもうと》を|無理《むり》にたらかして、|湯浅《ゆあさ》|氏《し》の|媒介《なかうど》で、|一先《ひとま》づ|湯浅《ゆあさ》の|宅《たく》へ|落着《おちつ》き、|結婚式《けつこんしき》を|挙《あ》げさしたのであつた。それから|小西《こにし》は|改心《かいしん》するかと|思《おも》ひの|外《ほか》、|益々《ますます》|増長《ぞうちよう》してどうにも|斯《か》うにもならぬやうになり、|遂《つひ》には|各信者《かくしんじや》の|小西《こにし》に|対《たい》する|不信任《ふしんにん》が|加《くは》はつて|来《き》て、|一人《ひとり》も|来《こ》ぬやうになつて|了《しま》つた。さうすると|小西《こにし》が|独断《どくだん》で|綾部《あやべ》の|大本《おほもと》へ、|明治《めいぢ》|四十三年《しじふさんねん》にやつて|来《き》て、お|広間《ひろま》に|先生顔《せんせいがほ》をして|坐《すわ》り|込《こ》み、|薬《くすり》の|指図《さしづ》をしたり、|鎮魂《ちんこん》を|始《はじ》め|出《だ》した。|教祖《けうそ》さまは|鎮魂《ちんこん》や|薬《くすり》の|指図《さしづ》が|大《だい》の|嫌《きら》ひなり、|二人《ふたり》の|中《なか》に|立《た》つて|大変《たいへん》に|気《き》をもんだ。さうかうして|居《ゐ》る|内《うち》に|御嶽教《みたけけう》の|機関《きくわん》|雑誌《ざつし》『|経世軍《けいせいぐん》』といふ|小《ちひ》さい|発刊物《はつかんぶつ》の|記者《きしや》をして|居《ゐ》た|千葉《ちば》|埴麿《はにまろ》が|御嶽教《みたけけう》を|放《ほ》り|出《だ》され、|食《く》ふことが|出来《でき》ぬから、|麦飯《むぎめし》でもよいから|綾部《あやべ》に|置《お》いてくれぬか……と|手紙《てがみ》をよこしたので、|承諾《しようだく》の|旨《むね》を|答《こた》へてやると、すぐに|夫婦《ふうふ》|二人《ふたり》で|綾部《あやべ》へやつて|来《き》て、それから|宮沢《みやざは》|円竜《ゑんりう》といふ|法華《ほつけ》|坊主《ばうず》|上《あが》りの|神道家《しんだうか》を|呼《よ》びよせ、|栃木県《とちぎけん》の|吉田村《よしだむら》に|二億万円《におくまんゑん》の|金《かね》がいけてあるから、|掘《ほ》り|出《だ》して|国家《こくか》の|為《ため》に|尽《つく》さうかといひ|出《だ》し、|千円《せんゑん》|許《ばか》りも|工面《くめん》して|大本《おほもと》から|金《かね》を|引出《ひきだ》し、そして|其《その》|実《じつ》は|半分《はんぶん》|以上《いじやう》|自分《じぶん》の|借金《しやくきん》なしをしたりして|了《しま》ひ、|大本《おほもと》から|小西《こにし》の|息子《むすこ》の|増吉《ますきち》と|田中《たなか》|善吉《ぜんきち》とが|吉田《よしだ》へ|金掘《かねほり》に|行《い》つた|事《こと》があつた。モツと|金《かね》をよこせ、キツと|出《で》ると|云《い》つて|来《き》たけれど、モウそれぎりで|金《かね》を|送《おく》らず|田中《たなか》と|増吉《ますきち》とを|綾部《あやべ》へ|呼《よ》び|返《かへ》した。サアさうすると|千葉《ちば》が|教祖《けうそ》さまに|甘《うま》く|取入《とりい》り、ソロソロ|会長《くわいちやう》の|排斥《はいせき》|運動《うんどう》に|着手《ちやくしゆ》し、|教祖《けうそ》の|命《めい》をうけてはそこら|中《ぢう》を|訪問《はうもん》して、|自分《じぶん》|勝手《かつて》なことをやつて|居《を》つた。
|小西《こにし》は|綾部《あやべ》に|居《を》れなくなつて、|再《ふたた》び|宇津《うつ》へ|帰《かへ》り、|神様《かみさま》を|拝《をが》んで|居《ゐ》たが、|二三十人《にさんじふにん》の|信者《しんじや》が|代《かは》る|代《がは》る|参拝《さんぱい》して|居《ゐ》た。|増吉《ますきち》は|千葉《ちば》と|宮沢《みやざは》にスツカリ|抱込《だきこ》まれ、|大本《おほもと》へ|反旗《はんき》を|翻《ひるがへ》して|両人《りやうにん》を|吾《わが》|家《や》へ|連《つ》れ|帰《かへ》り、|園部《そのべ》の|片山《かたやま》|源之助《げんのすけ》や|浅井《あさゐ》はな|等《ら》と|諜《しめ》し|合《あ》はして|大本《おほもと》|乗取《のつと》りの|策《さく》を|講《かう》じてゐた。そこで|湯浅《ゆあさ》がワザとに|小西《こにし》の|味方《みかた》となつて|陰謀《いんぼう》を|残《のこ》らず|探《さぐ》り|大本《おほもと》へ|報告《はうこく》したので、|彼等《かれら》も|策《さく》の|施《ほどこ》すべき|所《ところ》なく、とうとう|東京《とうきやう》へ|宮沢《みやざは》は|逃《に》げ|帰《かへ》り、|千葉《ちば》は|片山《かたやま》|源之助《げんのすけ》と|園部《そのべ》の|新町《しんまち》で|報公義会《はうこうぎくわい》といふ|会《くわい》を|拵《こしら》へて、|片山《かたやま》を|大将《たいしやう》とし、|浅井《あさゐ》はなをしまひには|放《はう》り|出《だ》して、|勝手《かつて》な|熱《ねつ》を|吹《ふ》き、|盛《さかん》に|大本《おほもと》に|反対《はんたい》をつづけてゐた。|小西《こにし》はとうとう|御嶽教《みたけけう》の|教導職《けうだうしよく》となつて、|京都《きやうと》の|大本《おほもと》の|信者《しんじや》の|宅《たく》へ|入《い》り|込《こ》み、|盛《さかん》に|病気《びやうき》|直《なほ》しをやつて、|流行《はや》らしてゐたが、|其《その》|家《いへ》の|妻君《さいくん》と|妙《めう》な|関係《くわんけい》が|出来《でき》、|主人《しゆじん》に|見《み》つけられ、|女房《にようばう》は|直《ただち》に|裏《うら》の|井戸《ゐど》へ|投身《とうしん》して|死《し》んで|了《しま》つた。それから|大変《たいへん》な|悶着《もんちやく》が|起《おこ》り、|法律《はふりつ》|問題《もんだい》が|持上《もちあが》らうとした。さうすると|小西《こにし》|増吉《ますきち》が|自分《じぶん》の|姉《あね》と|一緒《いつしよ》にやつて|来《き》て、|反対《はんたい》に|喜楽《きらく》に|熱《ねつ》を|吹《ふ》き、|此《この》|事件《じけん》を|甘《うま》く|事《こと》ずみさせるためのあやまり|金《きん》を|喜楽《きらく》の|貧弱《ひんじやく》な|懐《ふところ》から|無理《むり》に|出《だ》さして|帰《かへ》つた|事《こと》がある。
それから|小西《こにし》は|京都《きやうと》にも|居《を》れなくなり、|再《ふたた》び|宇津《うつ》へ|帰《かへ》り|中風《ちうぶ》の|気《け》になつて|弱《よわ》つてゐたが、|大正《たいしやう》|六年《ろくねん》|頃《ごろ》とうとう|帰幽《きいう》して|了《しま》つた。|小西《こにし》の|弟子《でし》に|小沢《をざは》|惣祐《そういう》といふ|男《をとこ》があつて、これが|又《また》|江州《ごうしう》の|貝津《かひつ》へ|支部《しぶ》を|開《ひら》きに|行《ゆ》き、そこの|娘《むすめ》と|妙《めう》な|関係《くわんけい》が|出来《でき》て|放《はう》り|出《だ》され、|綾部《あやべ》へもやつて|来《き》て|役員《やくゐん》と|始終《しじう》|喧嘩《けんくわ》|許《ばか》りしてゐたが、|遂《つひ》には|綾部《あやべ》を|飛出《とびだ》し|茨木《いばらぎ》や|肝川《きもがは》などにお|広間《ひろま》を|建《た》て、|暫《しばら》くすると|其《その》|土地《とち》の|役員《やくゐん》と|衝突《しようとつ》して|飛《と》び|出《だ》し、|遂《つひ》には|亀岡《かめをか》の|旅籠町《はたごまち》で|京都《きやうと》の|大内《おほうち》といふ|後家《ごけ》をチヨロまかし、|又《また》|失敗《しつぱい》して|大正《たいしやう》|六年《ろくねん》|頃《ごろ》|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|来《き》て、|元《もと》の|祖霊社《それいしや》で|腹《はら》を|十文字《じふもんじ》にかき|切《き》り、|喉《のど》をきつて|自殺《じさつ》して|了《しま》つた。それから|杉井《すぎゐ》|新之助《しんのすけ》といふ|男《をとこ》が|出《で》て|来《き》て、|大本《おほもと》を|交《ま》ぜ|返《かへ》し、|自分《じぶん》が|全権《ぜんけん》を|握《にぎ》らうとして、|二代《にだい》|澄子《すみこ》に|看破《かんぱ》され、|叱《しか》りつけられて、|柏原《かひはら》の|大本《おほもと》の|支部《しぶ》へまはされ、そこで|大本《おほもと》の|反対《はんたい》|運動《うんどう》を|起《おこ》し、|大社教《たいしやけう》の|教会《けうくわい》を|建《た》て、|今《いま》に|宣伝《せんでん》してゐるさうである。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 松村真澄録)
第二六章 |日《ひ》の|出《で》〔一〇六三〕
|明治《めいぢ》|三十二年《さんじふにねん》の|夏《なつ》、|上谷《うへだに》の|修行場《しうぎやうば》にて|幽斎《いうさい》|修行《しうぎやう》の|最中《さいちう》|審神者《さには》の|喜楽《きらく》に|小松林命《こまつばやしのみこと》|神懸《かむがかり》せられ、
『|如何《いか》なる|迫害《はくがい》や|圧迫《あつぱく》があつても|綾部《あやべ》を|去《さ》つてはならぬ。|兎《と》も|角《かく》|明治《めいぢ》|卅五年《さんじふごねん》の|正月《しやうぐわつ》|十五日《じふごにち》までは|綾部《あやべ》で|辛抱《しんばう》をせよ』
とのお|諭《さと》しであつた。それで|喜楽《きらく》はあらゆる|迫害《はくがい》と|侮辱《ぶじよく》を|隠忍《いんにん》して|卅五年《さんじふごねん》を|待《ま》ちつつ、|神妙《しんめう》に|神様《かみさま》の|道《みち》を|修行《しうぎやう》して|居《ゐ》た。|愈《いよいよ》|卅五年《さんじふごねん》|正月《しやうぐわつ》|十五日《じふごにち》が|来《き》たので、
|喜楽《きらく》『|今後《こんご》|如何《どう》しませうか』
と|伺《うかが》つて|見《み》た|所《ところ》、
『|明日《あす》の|朝《あさ》からソツと|園部《そのべ》の|方面《はうめん》を|指《さ》して|行《ゆ》け』
との|神示《しんじ》が|降《くだ》つたので|軽装《けいさう》を|整《ととの》へ、|只《ただ》|一人《ひとり》|澄子《すみこ》に|其《その》|意《い》を|告《つ》げ|布教《ふけう》|伝道《でんだう》の|途《と》に|上《のぼ》つた。|澄子《すみこ》は|初《はじ》めての|妊娠《にんしん》で|已《すで》に|臨月《りんげつ》であつた。|何時《いつ》|出産《しゆつさん》するかも|知《し》れない|場合《ばあひ》である。|自分《じぶん》も|大変《たいへん》に|初《はじ》めての|子《こ》の|出産《しゆつさん》であるから|気《き》にかかつて|仕方《しかた》がない。けれども|一旦《いつたん》|神様《かみさま》に|任《まか》した|身《み》の|上《うへ》、|妻《つま》の|為《ため》に|神務《しんむ》を|半時《はんとき》でも|〓《おろそか》にする|事《こと》は|出来《でき》ぬと|決心《けつしん》し、|夫婦《ふうふ》|相談《さうだん》の|上《うへ》|出立《しゆつたつ》したのである。
|先《ま》づ|園部《そのべ》|本町《ほんまち》の|奥村《おくむら》と|云《い》ふ|雑貨店《ざつくわてん》へ|落《お》ちつき、|主人《しゆじん》|夫婦《ふうふ》の|懇篤《こんとく》なる|世話《せわ》によつて|其《その》|家《いへ》の|別宅《べつたく》を|無料《むれう》で|貸《か》して|貰《もら》ひ、|且《か》つ|衣食《いしよく》|万端《ばんたん》を|奥村《おくむら》から|支給《しきふ》され|日夜《にちや》|宣伝《せんでん》に|従事《じうじ》しつつあつた。|奥村《おくむら》|氏《し》は|園部《そのべ》に|於《おい》て|相当《さうたう》の|地位《ちゐ》|名望《めいばう》もあり|財産《ざいさん》もあつた。さうして|清廉潔白《せいれんけつぱく》の|聞《きこ》えの|高《たか》い|紳士《しんし》である。|其《その》|奥村《おくむら》|氏《し》が|先頭《せんとう》に|立《た》つて|商業《しやうげふ》の|傍《かたはら》、|熱心《ねつしん》に|宣伝《せんでん》したので、|地方《ちはう》の|紳士《しんし》|連中《れんちう》は|先《さき》を|争《あらそ》うて|入信《にふしん》した。|園部《そのべ》へ|落《お》ちついてから|十二日目《じふににちめ》の|夜《よる》に、|綾部《あやべ》に|残《のこ》してある|澄子《すみこ》が|出産《しゆつさん》した|様《やう》な|夢《ゆめ》を|見《み》たので、|神様《かみさま》に|聞《き》いて|見《み》ると|出産《しゆつさん》をしたから|一先《ひとま》づ|帰《かへ》つてやれと|云《い》ふ|事《こと》であつた。そこで|奥村《おくむら》|氏《し》に|其《その》|旨《むね》を|告《つ》げ|留守中《るすちう》を|頼《たの》みおき、|浅井《あさゐ》はなと|云《い》ふ|婆《ばあ》サンに|神前《しんぜん》の|御給仕《おきふじ》を|命《めい》じて|只《ただ》|一人《ひとり》スタスタと|檜山《ひのきやま》の|坂原《さかはら》|巳之助《みのすけ》と|云《い》ふ|熱心《ねつしん》な|信者《しんじや》の|宅《たく》へ|立寄《たちよ》り|昼飯《ひるめし》を|供《きよう》せられ|一服《いつぷく》して|居《ゐ》ると、|其処《そこ》へ|慌《あわ》ただしく|綾部《あやべ》から|四方《しかた》|祐助《いうすけ》と|云《い》ふ|爺《ぢい》サンが|尋《たづ》ねて|来《きた》り|門口《かどぐち》から、
|祐助《いうすけ》『|海潮《かいてう》サンはお|内《うち》に|居《を》られますか』
と|尋《たづ》ねてゐる。|坂原《さかはら》|巳之助《みのすけ》は|綾部《あやべ》の|中村《なかむら》|一派《いつぱ》のやり|方《かた》に|愛想《あいさう》をつかし、|喜楽《きらく》の|教《をしへ》のみを|信従《しんじゆう》してゐたのだから、|屹度《きつと》|喜楽《きらく》は|此処《ここ》に|居《を》るだらうと|思《おも》つて|尋《たづ》ねて|来《き》たのである。|奥《おく》の|間《ま》で|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》して|居《ゐ》た|喜楽《きらく》は|此《この》|声《こゑ》を|聞《き》いて|静《しづ》かに|表《おもて》へ|出《で》て、
|喜楽《きらく》『あゝ|祐助《いうすけ》さん、|能《よ》う|来《き》て|呉《く》れた、まあ|一服《いつぷく》しなさい』
と|云《い》ふと|爺《おやぢ》サンは|庭《には》に|立《た》ちはだかつた|儘《まま》、
|祐助《いうすけ》『これ|海潮《かいてう》、|何《なに》をグヅグヅして|居《ゐ》るのだ。|綾部《あやべ》は|大変《たいへん》な|事《こと》が|出来《でき》て|居《を》りますぜ』
とゴツゴツした|声《こゑ》で|睨《にら》めつける|様《やう》に|云《い》ふ。|喜楽《きらく》も|何《なに》か|澄子《すみこ》の|身《み》の|上《うへ》に|就《つい》て|変事《へんじ》でも|出来《でき》たのではないかと、|少《すこ》しく|不安《ふあん》の|念《ねん》に|駆《か》られて、
|喜楽《きらく》『|祐助《いうすけ》サン、|澄子《すみこ》は|機嫌《きげん》よく|出産《しゆつさん》しましたかな』
と|尋《たづ》ねると、|祐助《いうすけ》は|首《くび》をブリブリと|振《ふ》つて、
|祐助《いうすけ》『えー、|出産《しゆつさん》も|糞《くそ》もあるものか。|自分《じぶん》の|女房《にようばう》が|臨月《りんげつ》になつてゐるのに|教祖様《けうそさま》に|隠《かく》れて|其処《そこ》ら|中《ぢう》をうろつき|廻《まは》り、|悠々閑々《いういうかんかん》と|何《なん》の|事《こと》ぢやい。|綾部《あやべ》には|大変《たいへん》の|事《こと》が|出来《でき》ましたぞ。それだから|教祖様《けうそさま》が|何処《どこ》へも|行《ゆ》くでないと|仰有《おつしや》るのだ。|教祖様《けうそさま》の|命令《めいれい》を|背《そむ》くと|何時《いつ》でもこの|通《とほ》りなりますのぢや』
と|息《いき》を|喘《はづ》ませて|諒解《りやうかい》し|難《がた》い|事《こと》を|呶鳴《どな》りたてる。|喜楽《きらく》は|益々《ますます》|不安《ふあん》の|雲《くも》に|包《つつ》まれて、
|喜楽《きらく》『|澄子《すみこ》は|安産《あんざん》しただらうなア。そして|男《をとこ》か|女《をんな》か|何方《どちら》が|出来《でき》た、|早《はや》く|知《し》らして|呉《く》れ』
と|云《い》はせも|果《は》てず、|祐助《いうすけ》は|又《また》もや|首《くび》を|頻《しき》りに|振《ふ》つて、
|祐助《いうすけ》『え、|凡夫《ぼんぶ》の|俺《わし》がそんな|事《こと》|分《わか》つて|堪《たま》るものか。|海潮《かいてう》サンは|天眼通《てんがんつう》が|利《き》くぢやないか、|小松林《こまつばやし》に|尋《たづ》ねたら、それ|位《ぐらゐ》の|事《こと》は|分《わか》りさうなものぢやないか。それが|分《わか》らない|様《やう》な|事《こと》で|偉《えら》さうに|神懸《かむがかり》ぢやの、|先生《せんせい》ぢやのとは|云《い》ふて|貰《もら》ひますまい。|綾部《あやべ》は|何《なん》どころの|騒《さわ》ぎぢやないわ。|改心《かいしん》をせぬと、こんな|事《こと》が|出来《でき》ると|何時《いつ》も|教祖《けうそ》さまが|仰有《おつしや》つたのを|尻《しり》に|聞《き》かして|居《ゐ》るものだから、こんな|不都合《ふつがふ》な|事《こと》が|出来《でき》たのぢや。|初産《うひざん》の|事《こと》とて|教祖《けうそ》さまも|大変《たいへん》な|心配《しんぱい》、|此《この》|祐助《いうすけ》も|何《ど》れ|丈《だけ》|心配《しんぱい》したかしれませぬぞや。お|前《まへ》サンも|綾部《あやべ》へヌケヌケと|帰《かへ》つて|来《く》る|顔《かほ》がありますまい。|帰《かへ》るのが|嫌《いや》なら|帰《かへ》らいでも|宜《よろ》しい|左様《さやう》なら』
と|云《い》ひ|乍《なが》らスタスタと|阪原《さかはら》の|家《いへ》を|出《で》て|行《ゆ》かうとする。|喜楽《きらく》は|益《ますま》す|気《き》になつて、
|喜楽《きらく》『これ|祐助《いうすけ》サン、|吉《きち》か|凶《きよう》か、どちらか、それだけ|聞《き》かして|呉《く》れ』
と|小《ちひ》さい|声《こゑ》で|尋《たづ》ねて|見《み》ると|祐助《いうすけ》は、
|祐助《いうすけ》『そんな|事《こと》の|分《わか》らぬ|様《やう》な|天眼通《てんがんつう》が|何《なん》になるものかい』
とブツブツ|囁《ささや》き|乍《なが》ら|委細《ゐさい》|構《かま》はず|駆《か》け|出《いだ》し、
|祐助《いうすけ》『よう|思案《しあん》するがよい』
と|捨台詞《すてぜりふ》を|残《のこ》して|早《はや》くも|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|喜楽《きらく》は|慌《あわて》て|阪原《さかはら》|氏《し》に|送《おく》られ|一目散《いちもくさん》に|祐助《いうすけ》の|後《あと》を|追《お》ひ|駆《か》けた。さうすると|祐助《いうすけ》は|三《さん》の|宮《みや》のある|茶店《ちやみせ》で|腰《こし》をかけ、
|祐助《いうすけ》『あゝ|云《い》つておけば|屹度《きつと》|帰《かへ》つて|来《く》るに|相違《さうゐ》ない』
と|高《たか》を|括《くく》つて|居《ゐ》る。
『|兎《と》に|角《かく》|安産《あんざん》した。そして|女《をんな》の|子《こ》が|出来《でき》た』と|云《い》つたら、『あゝさうか』と|云《い》つたきり|喜楽《きらく》は|帰《かへ》らぬから|心配《しんぱい》さしたら|帰《かへ》つて|来《く》るだらうと、|綾部《あやべ》で|役員《やくゐん》|信者《しんじや》|相談《さうだん》の|結果《けつくわ》|祐助《いうすけ》が|代表者《だいへうしや》になつて|選《えら》まれて|来《き》たのだと|云《い》ふことが|後《あと》になつて|分《わか》つた。|丁度《ちやうど》|自分《じぶん》が|園部《そのべ》で|夢《ゆめ》を|見《み》た|其《その》|日《ひ》に|直霊《なほひ》が|生《うま》れたのである。|其《その》|日《ひ》は|新《しん》|三月《さんぐわつ》|七日《なぬか》|旧《きう》|正月《しやうぐわつ》|二十八日《にじふはちにち》であつた。|祐助《いうすけ》と|三人連《さんにんづ》れで|綾部《あやべ》の|宅《たく》に|帰《かへ》つて|見《み》ると、|盛《さかん》に|赤児《あかご》の|泣《な》き|声《ごゑ》が|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。|初《はじ》めて|自分《じぶん》の|子《こ》の|声《こゑ》を|聞《き》いた|時《とき》は|何《なん》とも|云《い》はれぬ|感《かん》じがした。|然《しか》しあの|声《こゑ》で|子《こ》は|達者《たつしや》であるが、|澄子《すみこ》の|身体《からだ》は|如何《どう》だらうと|案《あん》じ|乍《なが》ら|門口《かどぐち》を|跨《また》げて|見《み》ると|母子《おやこ》とも|至極《しごく》|壮健《さうけん》であつた。それから|教祖《けうそ》さまに、
『|自分《じぶん》の|女房《にようばう》が|臨月《りんげつ》で|何時《いつ》|子《こ》が|出来《でき》るか|分《わか》らぬのに、|神様《かみさま》の|命令《めいれい》も|聞《き》かずに、そこら|中《ぢう》に|飛《と》び|出《だ》すのは|余《あま》り|水臭《みづくさ》いぢやないか』
と|散々《さんざん》|叱言《こごと》を|云《い》はれ、|謝《あやま》り|入《い》つて|三十日《さんじふにち》の|間《あひだ》、|宮詣《みやまゐ》りのすむ|迄《まで》|綾部《あやべ》に|蟄居《ちつきよ》して|居《ゐ》た。さうすると|園部《そのべ》の|奥村《おくむら》から『|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》が|待《ま》つて|居《ゐ》るから|早《はや》く|来《き》て|呉《く》れ』と|云《い》ふ|手紙《てがみ》が|毎日《まいにち》の|様《やう》に|出《で》て|来《く》るので、|四月《しぐわつ》の|三日《みつか》|再《ふたた》び|綾部《あやべ》を|飛《と》び|出《だ》し|園部《そのべ》で|布教《ふけう》をつづけて|居《ゐ》た。|其《その》|留守中《るすちう》に|自分《じぶん》が|明治《めいぢ》|三十一年《さんじふいちねん》、|穴太《あなを》に|居《を》つた|時《とき》から|三十四年《さんじふよねん》|一杯《いつぱい》かかつて|執筆《しつぴつ》しておいた|五百冊《ごひやくさつ》の|書物《しよもつ》を、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》の|発起《ほつき》で|立替《たてかへ》の|御用《ごよう》ぢやと|云《い》つて|悉皆《しつかい》|焼《や》いて|了《しま》つたのである。それから|園部《そのべ》を|根拠《こんきよ》として|大阪《おほさか》へ|教線《けうせん》を|開《ひら》き、|陸軍《りくぐん》|砲兵《はうへい》|中佐《ちうさ》の|溝口《みぞぐち》|清俊《きよとし》と|云《い》ふ|休職《きうしよく》|軍人《ぐんじん》と|心《こころ》を|協《あは》せて|大阪市《おほさかし》の|宣伝《せんでん》に|従事《じゆうじ》して|居《ゐ》た。|此《この》|中佐《ちうさ》の|宅《うち》へ|心《こころ》|安《やす》く|遊《あそ》びに|来《く》る、|背《せ》のスラツとした、|人品《じんぴん》のよい|少《すこ》し|頭《あたま》の|光《ひか》つた|男《をとこ》が|溝口《みぞぐち》|中佐《ちうさ》に|説《と》きつけられて|熱心《ねつしん》な|信者《しんじや》となり、|追々《おひおひ》|中流《ちうりう》|以上《いじやう》の|信者《しんじや》が|出来《でき》て|天王寺《てんのうじ》の|附近《ふきん》に|一万坪《いちまんつぼ》の|地面《ぢめん》を|買《か》ひ、|霊学会《れいがくくわい》の|本部《ほんぶ》を|設置《せつち》する|段取《だんどり》とまでなつてきた。さうして|其《その》|溝口《みぞぐち》の|宅《たく》へ|出入《でい》りして|居《ゐ》た|男《をとこ》と|云《い》ふのは、|大阪《おほさか》の|難波《なんば》|分所長《ぶんしよちやう》の|内藤《ないとう》|正照《まさてる》|氏《し》であつた。|内藤《ないとう》|正照《まさてる》|氏《し》と|溝口《みぞぐち》|中佐《ちうさ》と|喜楽《きらく》の|三人《さんにん》は|大阪市中《おほさかしちう》の|稲荷下《いなりさ》げの|教会《けうくわい》を|巡歴《じゆんれき》して|種々《いろいろ》と|霊術比《れいじゆつくら》べをやり、それを|唯一《ゆゐいつ》の|楽《たの》しみとして|布教《ふけう》は、そつちのけに|三百六十軒《さんひやくろくじつけん》ばかり|市中《しちう》の|神懸《かむがかり》を|探《さが》し|廻《まは》つて|霊縛《れいばく》をしたり、|色々《いろいろ》と|自分等《じぶんら》の|霊術《れいじゆつ》を|誇《ほこ》り|得意《とくい》になつて|居《ゐ》た。|今《いま》から|思《おも》へば|実《じつ》に|馬鹿《ばか》らしい|事《こと》を|得意《とくい》になつてしたと|思《おも》ふ。|然《しか》し|此《この》|間《あひだ》に|神懸《かむがかり》に|対《たい》する|非常《ひじやう》な|経験《けいけん》を|得《え》た|事《こと》を|思《おも》へば、これも|矢張《やつぱり》|御神慮《ごしんりよ》であつたかも|知《し》れぬ。それから|北海道《ほくかいだう》の|銀行《ぎんかう》の|頭取《とうどり》をやつて|居《ゐ》た|山田《やまだ》|文辰《ぶんしん》と|云《い》ふ|男《をとこ》や|内藤《ないとう》や、|京都《きやうと》|牧場《ぼくぢやう》の|松原《まつばら》|栄太郎《ゑいたらう》|等《ら》と|人造《じんざう》|精乳《せいにう》|会社《くわいしや》を、|京都《きやうと》、|大阪《おほさか》、|園部《そのべ》に|設置《せつち》し、|数千円《すうせんゑん》の|金《かね》を|醵出《きよしゆつ》して|一《ひと》つの|事業《じげふ》を|起《おこ》し|宣伝《せんでん》の|費用《ひよう》に|当《あ》てやうと|目論見《もくろみ》、|已《すで》に|着手《ちやくしゆ》して|居《ゐ》る|所《ところ》へ、|京都《きやうと》の|高松《たかまつ》|某《ぼう》が|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》の|指図《さしづ》によつて|会社《くわいしや》の|工場《こうぢやう》|修繕《しうぜん》の|大工《だいく》に|雇《やと》はれ|散々《さんざん》に|喜楽《きらく》の|悪口《あくこう》をなし、それが|基《もと》となつて|松原《まつばら》|栄太郎《ゑいたらう》、|若林《わかばやし》|某《ぼう》、|山田《やまだ》|文辰《ぶんしん》|等《ら》が|変心《へんしん》し|出《だ》し、|折角《せつかく》|組《く》み|立《た》てた|発頭人《ほつとうにん》の|喜楽《きらく》や|内藤《ないとう》を|放逐《はうちく》せむとした。|中村《なかむら》は|何《なん》とかして|喜楽《きらく》が|京阪《けいはん》|地方《ちはう》で|活動《くわつどう》するのを|妨害《ばうがい》し、|失敗《しつぱい》の|結果《けつくわ》|綾部《あやべ》へ|逃《に》げ|帰《かへ》り|一間《ひとま》へ|押《お》し|込《こ》めて|活動《くわつどう》の|出来《でき》ないやうにしてやらねば|此《この》|儘《まま》にして|置《お》いては|虎《とら》を|野《の》に|放《はな》つやうなもので、|大本《おほもと》の|教《をしへ》をとつて|了《しま》ふに|違《ちが》ひないと|役員《やくゐん》|一同《いちどう》が|相談《さうだん》の|結果《けつくわ》、かう|云《い》ふ|手段《しゆだん》をとつたのであつた。そこで|喜楽《きらく》は|已《やむ》を|得《え》ず|精乳《せいにう》|会社《くわいしや》を|脱退《だつたい》し、|内藤《ないとう》|正照《まさてる》と|愛善坂《あいぜんざか》の|麓《ふもと》で|神様《かみさま》を|祀《まつ》り、|布教《ふけう》|宣伝《せんでん》に|着手《ちやくしゆ》して|居《ゐ》た。|難波《なんば》|新地《しんち》の|婦人科《ふじんくわ》の|医者《いしや》で|杉村《すぎむら》|牧太郎《まきたらう》と|云《い》ふ|金光教《こんくわうけう》の|熱心《ねつしん》な|信者《しんじや》があり、|又《また》|杉本《すぎもと》|恵《さとし》と|云《い》ふ|御嶽教《みたけけう》の|教導職《けうだうしよく》や|大阪《おほさか》|大林区署《だいりんくしよ》に|勤《つと》めて|居《ゐ》た|高屋《たかや》|利太郎《りたらう》、|並《なら》びに|錻力職《ぶりきしよく》の|池田《いけだ》|大造《だいざう》らと|図《はか》り|大宣伝《だいせんでん》をやつて|居《ゐ》た。|大阪《おほさか》の|侠客《けふかく》の|団熊《だんぐま》や|山田《やまだ》|嘉平《かへい》|等《ら》も|信者《しんじや》となつて|大活動《だいくわつどう》を|始《はじ》め、|漸《やうや》く|曙光《しよくわう》を|認《みと》め、|高屋《たかや》|利太郎《りたらう》は|一同《いちどう》の|代表者《だいへうしや》として|一度《いちど》|綾部《あやべ》へ|参拝《さんぱい》して|来《こ》やうと|云《い》つて|詣《まゐ》つて|来《き》た|所《ところ》、|中村《なかむら》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|喜楽《きらく》の|悪口《あくこう》をついて|且《かつ》|脱線的《だつせんてき》の|言葉《ことば》を|並《なら》べ『|洋服《やうふく》を|着《き》た|様《やう》な|連中《れんちう》は|此処《ここ》には|来《く》る|事《こと》ならぬ』と|高屋《たかや》|氏《し》を|箒《はうき》で|掃《は》き|出《だ》したので、|高屋《たかや》|氏《し》が|大阪《おほさか》へ|帰《かへ》つて|来《き》て|憤慨《ふんがい》し|折角《せつかく》|組《く》み|立《た》てた|霊学会《れいがくくわい》へ【ひび】が|這入《はい》り、ゴタゴタして|居《ゐ》る|所《ところ》へ|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》の|内命《ないめい》で|三牧《みまき》|次三郎《じさぶらう》が|尋《たづ》ねて|来《き》て、|此《この》|男《をとこ》が|口《くち》を|極《きは》めて|喜楽《きらく》を|罵倒《ばたふ》したので|止《や》むを|得《え》ず|大阪《おほさか》を|立《た》ち|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|来《き》たのは|明治《めいぢ》|三十六年《さんじふろくねん》の|十一月《じふいちぐわつ》|頃《ごろ》であつた。さうすると|役員《やくゐん》が|寄《よ》つて|集《たか》つて|自分《じぶん》の|洋服《やうふく》を|剥《は》ぎとり、|帽《ばう》も|靴《くつ》も|服《ふく》も|引《ひき》|裂《さ》いて|雪隠《せんち》へ|突《つ》つ|込《こ》んで|了《しま》ひ、
『さあ、これで|四《よ》ツ|足《あし》の|皮《かは》を|剥《は》いでやつた。これで|海潮《かいてう》も|改心《かいしん》をして、おとなしくなるだらう。|神《かみ》に|背《そむ》いて|致《いた》した|事《こと》は|何事《なにごと》も|九分九厘《くぶくりん》でグレンと|覆《かへ》るとお|筆《ふで》に|出《で》て|居《を》りますが、これで|海潮《かいてう》サンも|気《き》がつくだらう』
と|自分等《じぶんら》が|極力《きよくりよく》|妨害《ばうがい》しておき|乍《なが》ら、|神《かみ》さまの|業《わざ》の|様《やう》にすまし|込《こ》んで|居《ゐ》る。それから|自分《じぶん》も|再《ふたた》び|離《はな》れの|六畳《ろくでふ》に|蟄居《ちつきよ》して|又《また》もや|隠《かく》れ|忍《しの》んで|古典学《こてんがく》を|研究《けんきう》したり、|筆《ふで》の|雫《しづく》や|道《みち》の|大本《おほもと》|等《とう》の|執筆《しつぴつ》にとりかかり、|明治《めいぢ》|三十八年《さんじふはちねん》の|八月《はちぐわつ》まで|綾部《あやべ》に|尻《しり》を|据《す》えて|時《とき》を|待《ま》つ|事《こと》としたのであつた。
(大正一一・一〇・一九 旧八・二九 北村隆光録)
第二七章 |仇箒《あだぼうき》〔一〇六四〕
|明治《めいぢ》|卅八年《さんじふはちねん》|二月《にぐわつ》の|事《こと》であつた。|大本《おほもと》の|四方《しかた》|平蔵《へいざう》、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》|其《その》|外《ほか》|十人《じふにん》の|幹部《かんぶ》は|本年中《ほんねんちう》に|世《よ》の|立替立直《たてかへたてなほ》しが|完成《くわんせい》し、|五六七《みろく》の|世《よ》が|出現《しゆつげん》すると、|脱線《だつせん》だらけの|法螺《ほら》を|吹《ふ》き|廻《まは》り、|日露《にちろ》|戦争《せんそう》の|最中《さいちう》なので、お|筆先《ふでさき》の|神示《しんじ》が|実現《じつげん》すると、|大変《たいへん》なメートルをあげて|逆上《のぼ》せあがり、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》の|如《ごと》きは|筆先《ふでさき》の|文句《もんく》の|中《なか》に、|道《みち》の|正中《まんなか》をまつすぐに|歩《ある》けといふ|語句《ごく》のあるのを|楯《たて》にとり、|暗《くら》やみの|世《よ》の|中《なか》といふ|文句《もんく》を|読《よ》み|覚《おぼ》えて、|昼《ひる》の|真最中《まつさいちう》に|十曜《とえう》の|紋《もん》のついた|提灯《ちやうちん》に|蝋燭《らふそく》をとぼし、|大道《だいだう》の|正中《せいちう》をすました|顔《かほ》して、|牛車《うしぐるま》が|出《で》て|来《こ》うが、|何《なに》が|来《こ》うが、|少《すこ》しもよけず、|左《ひだり》の|手《て》に|提灯《ちやうちん》を|持《も》ち、|右《みぎ》の|手《て》に|扇子《せんす》をすぼめて|握《にぎ》り、|肱《ひぢ》を|振《ふ》つて|歩《ある》くので、|牛車《うしぐるま》の|方《はう》からよけると、|神《かみ》さまの|御威勢《ごゐせい》といふものはエライものだ、|誠《まこと》の|道《みち》の|正中《まんなか》さへ|歩《ある》いて|居《を》れば、どんな|者《もの》でも|此《この》|通《とほり》よける……とますます|図《づ》に|乗《の》つて、|往来《わうらい》の|迷惑《めいわく》も|構《かま》はず、|筆先《ふでさき》の|文句《もんく》を|高《たか》らかに|読《よ》み|上《あ》げ|乍《なが》ら、|大道《だいだう》を|濶歩《くわつぽ》するといふ|逆上方《のぼせかた》であつた。|或《ある》|時《とき》|農具《のうぐ》を|車《くるま》に|満載《まんさい》して|売《う》りに|歩《ある》き|乍《なが》ら、|元伊勢《もといせ》の|方面《はうめん》まで|宣伝《せんでん》に|往《い》つて|居《を》つたが、|陰暦《いんれき》|二日《ふつか》の|月《つき》が|見《み》えたといふので、サア|大変《たいへん》だ、|三日月《みかづき》さまは|昔《むかし》から|拝《をが》んだ|事《こと》があるが、|二日《ふつか》のお|月《つき》さまが|拝《をが》めたのは|全《まつた》く|世《よ》の|変《かは》るのが|近《ちか》よつた|印《しるし》だ、グヅグヅしては|居《を》れぬと、|金《かね》の|財布《さいふ》も|荷物《にもつ》も|車《くるま》も、|由良川《ゆらがは》へ|放《ほ》り|込《こ》み、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|綾部《あやべ》へ|走《は》せ|帰《かへ》り、|大変《たいへん》|大変《たいへん》と|連呼《れんこ》し|乍《なが》ら、|二階《にかい》に|斎《まつ》つた|神壇《しんだん》の|前《まへ》へ|行《い》つて、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|祈願《きぐわん》を|込《こ》め、フツと|顔《かほ》をあげると、そこに|大《おほ》きな|水鉢《みづばち》に|清水《しみづ》が|汲《く》んで|供《そな》へてあつた。|二階《にかい》の|窓《まど》があけてあつたので、|雀《すずめ》が|飛込《とびこ》み、|水鉢《みづばち》の|上《うへ》に|糞《ふん》を|一片《ひときれ》たれたのが|面白《おもしろ》く|水《みづ》に|浮《う》いてるのを、フト|眺《なが》めて、……ヤア|愈《いよいよ》|立替《たてかへ》が|始《はじ》まつた。|水《みづ》の|中《なか》に|優曇華《うどんげ》の|花《はな》が|咲《さ》いてゐる……とさわぎまはるので、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|始《はじ》め|幹部《かんぶ》|連中《れんちう》が、|神前《しんぜん》へ|進《すす》んで|之《これ》を|眺《なが》め、ますます|有難《ありがた》がつて、|涙声《なみだごゑ》になり、|祝詞《のりと》を|幾回《いくくわい》となく|奏上《そうじやう》し、|六畳《ろくでふ》の|離《はなれ》に|居《を》つた|喜楽《きらく》の|前《まへ》へ|出《で》て|来《き》て、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》は|肱《ひぢ》を|張《は》り、さも|鷹揚《おうよう》に、
|中村《なかむら》『コレ|会長《くわいちやう》サン、よい|加減《かげん》に|改心《かいしん》をして、|小松林《こまつばやし》サンに|去《い》んで|貰《もら》ひ、|早《はや》く|坤《ひつじさる》の|金神《こんじん》さまになつて、|女房役《にようばうやく》をつとめて|貰《もら》はぬと、|時機《じき》が|切迫《せつぱく》|致《いた》しましたぞ、|昨日《きのふ》も|昨日《きのふ》とて、|元伊勢《もといせ》から|帰《かへ》つて|来《く》る|際《さい》|二日月《ふつかづき》が|拝《をが》めるなり、|今日《けふ》は|又《また》お|供《そな》への|水《みづ》の|中《なか》に|優曇華《うどんげ》の|花《はな》が|咲《さ》きました、グヅグヅしては|居《を》られますまい、|早《はや》く|改心《かいしん》なされ』
と|声高《こわだか》に|叱《しか》り|附《つ》けるやうに|云《い》ふ。そこで|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『|二日月《ふつかづき》さまを|拝《をが》めたのは|別《べつ》に|珍《めづら》し|事《こと》はない、|自分達《じぶんたち》は|穴太《あなを》に|居《を》つて、チヨコチヨコ|拝《をが》んだ|事《こと》がある、お|前達《まへたち》はこんな|山《やま》に|包《つつ》まれた|狭《せま》い|所《ところ》に|暮《く》らしてるから、|二日月《ふつかづき》さまが|拝《をが》めたというて|騒《さわ》ぐのだらうが、そんな|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|人《ひと》に|言《い》うと|気違《きちがひ》にしられるから、どうぞそれ|丈《だけ》は|言《い》はぬやうにしてくれ』
といはせも|果《は》てず、|中村《なかむら》は|口《くち》を|尖《とが》らし、
|中村《なかむら》『コラ|小松林《こまつばやし》、|昔《むかし》から|三日月《みかづき》といふ|事《こと》はあるが、|二日月《ふつかづき》といふ|事《こと》があるかい、|穴太《あなを》で|二日月《ふつかづき》をみたなんて、そんな|出放題《ではうだい》な|事《こと》をいうて、|水晶《すゐしやう》の|霊《みたま》を|曇《くも》らさうとかかつてもだめだ。|世《よ》の|立替《たてかへ》が|近《ちか》よつたといふ|事《こと》を、|艮金神《うしとらのこんじん》|変性男子《へんじやうなんし》の|御霊《みたま》が|大出口神《おほでぐちのかみ》とあらはれて、|日出神《ひのでのかみ》と|竜宮《りうぐう》さまの|御手伝《おてつだい》で|立替立直《たてかへたてなほし》をなさる|時節《じせつ》が|来《き》たのだ。|早《はや》く|小松林《こまつばやし》が|改心《かいしん》を|致《いた》して、|会長《くわいちやう》の|肉体《にくたい》を|去《さ》り、|園部《そのべ》の|内藤《ないとう》へ|鎮《しづ》まりて、|坤《ひつじさる》の|金神《こんじん》さまの|肉《にく》のお|宮《みや》とならぬ|事《こと》には、|世界《せかい》の|神《かみ》|仏事《ぶつじ》|人民《じんみん》が|何《なに》ほど|苦《くるし》むかしれぬぞよ、コラ|小松林《こまつばやし》、それが|嘘言《うそ》と|思《おも》ふなら、|一寸《ちよつと》|二階《にかい》の|御神前《ごしんぜん》へ|来《き》てみい、|水晶《すゐしやう》のお|水《みづ》に|優曇華《うどんげ》の|花《はな》が|咲《さ》いてる、それを|見《み》たら|如何《いか》な|小松林《こまつばやし》でも|往生《わうじやう》せずには|居《を》られまい』
と|得意《とくい》になつて|喋《しやべ》り|立《た》てるので、|不思議《ふしぎ》な|事《こと》をいふワイ、|又《また》ロクな|事《こと》ではあらうまいと、|早速《さつそく》|二階《にかい》へ|上《あが》つて|見《み》ると、|雀《すずめ》の|糞《ふん》がパツと|水《みづ》にういて、|白《しろ》く|垂《た》れ|下《さが》り、|丁度《ちやうど》|優曇華《うどんげ》の|花《はな》のやうに|見《み》えて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は|一寸《ちよつと》|木《き》の|箸《はし》の|先《さき》で|其《そ》れをすくうて、|中村《なかむら》の|鼻《はな》のそばへつきつけて、
|喜楽《きらく》『オイ|之《これ》は|優曇華《うどんげ》ぢやない、|雀《すずめ》の|糞《ふん》だ』
といつた|所《ところ》、|中村《なかむら》は|妙《めう》な|顔《かほ》をしてだまり|込《こ》んで|了《しま》うた。さうすると|外《ほか》の|役員《やくゐん》が|約《つま》らぬ|顔《かほ》をして、
『どうぞ|会長《くわいちやう》サン、こんな|事《こと》を|人《ひと》にいはぬやうにして|下《くだ》され、|笑《わら》はれますから』
と|頼《たの》み|込《こ》む|可笑《おか》しさ。
これより|先《さき》|中村《なかむら》の|女房《にようばう》であつた|菊子《きくこ》といふのは、|中村《なかむら》が|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|商売《しやうばい》もせず、|脱線《だつせん》だらけの|事《こと》をいひ|歩《ある》くので、|幾度《いくど》となく|意見《いけん》をしたが、とうとう|中村《なかむら》は|怒《おこ》つて、『お|菊《きく》に|小松林《こまつばやし》の|悪霊《あくれい》がついた』……といひ|出《だ》し、|放《ほ》り|出《だ》して|了《しま》つた。そして|教祖《けうそ》の|身内《みうち》から|女房《にようばう》を|貰《もら》はうと|考《かんが》へてゐたが、|福島《ふくしま》|久子《ひさこ》を|八木《やぎ》から|引戻《ひきもど》して|自分《じぶん》の|女房《にようばう》にしやうと|企《たく》んでゐたのを、|喜楽《きらく》に|妨《さまた》げられて|目的《もくてき》を|達《たつ》せず、それより|中村《なかむら》と|久子《ひさこ》とは|大変《たいへん》に|喜楽《きらく》のする|事《こと》|成《な》す|事《こと》に|一々《いちいち》|妨害《ばうがい》を|一層《いつそう》|猛烈《まうれつ》に|加《くは》へるやうになつて|来《き》た。
|四五年《しごねん》たつた|明治《めいぢ》|卅八年《さんじふはちねん》の|頃《ころ》には|愈《いよいよ》|中村《なかむら》に|教祖《けうそ》から|妻帯《さいたい》をせよと、|命令《めいれい》されたので、|役員《やくゐん》がよつてかかつて、いろいろ|信者《しんじや》の|娘《むすめ》を|中村《なかむら》に|紹介《せうかい》したが、|如何《どう》しても|首《くび》をふつて|応《おう》ぜなかつた。|中村《なかむら》は|澄子《すみこ》の|姉《あね》の|竜子《りようこ》を|女房《にようばう》に|貰《もら》はうと、|暗中飛躍《あんちうひやく》を|絶《た》えずやつてゐたからである。|竜子《りようこ》も|心《こころ》の|中《うち》にて|中村《なかむら》の|女房《にようばう》になり、|改心《かいしん》をさして、|会長《くわいちやう》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》かすやうにせうかと|迄《まで》|考《かんが》へてゐた。|併《しか》し|中村《なかむら》は|竜子《りようこ》を|自分《じぶん》の|妻《つま》となし、|喜楽《きらく》や|澄子《すみこ》を|退隠《たいいん》さして|威張《ゐば》つてみやうという|野心《やしん》があつたのである。|教祖《けうそ》から|竜子《りようこ》の|夫《をつと》は|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》、|竹原《たけはら》|房太郎《ふさたらう》、|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》の|三人《さんにん》の|内《うち》から|選《えら》めとの|命令《めいれい》が|下《さが》つたので|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|其《その》|他《た》の|幹部連《かんぶれん》が、とうとう|中村《なかむら》の|妻《つま》にすることにきめて|了《しま》つた。|今《いま》でさへ|喜楽《きらく》や|澄子《すみこ》はこれ|丈《だけ》|圧迫《あつぱく》や|妨害《ばうがい》をうけてゐるのに、|中村《なかむら》が|姉《あね》の|婿《むこ》となつて、|噪《はし》やぎ|出《だ》しては|堪《たま》らぬと|思《おも》ひ、|教祖《けうそ》に|向《むか》つて、
|喜楽《きらく》『どうぞ|今日《けふ》|限《かぎ》り|澄子《すみこ》と|離縁《りえん》して|下《くだ》さい、|帰《かへ》ります』
といつた|所《ところ》、|教祖《けうそ》も|大変《たいへん》に|当惑《たうわく》し、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》を|呼《よ》んで、
|教祖《けうそ》『どうぞ|会長《くわいちやう》サンの、|此《この》|事《こと》は、|意見《いけん》に|任《まか》してくれ』
といはれたので、|幹部《かんぶ》の|中《うち》でも|少《すこ》しく|喜楽《きらく》の|言《い》ふ|事《こと》を|耳《みみ》に|入《い》れる|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》を|養子《やうし》にしたがよいと|言《い》つたので、|竜子《りようこ》を|別家《べつけ》させ|木下《きのした》を|養子《やうし》に|入《い》れる|事《こと》とした。そして|八木《やぎ》の|福島《ふくしま》|久子《ひさこ》の|股肱《ここう》となつて|喜楽《きらく》の|布教先《ふけうさき》を|古物屋《ふるてや》に|化《ば》け|込《こ》んで、|軒別《けんべつ》に|邪魔《じやま》しに|歩《ある》かしてゐた|中村《なかむら》|小松《こまつ》といふ|女《をんな》を|中村《なかむら》の|女房《にようばう》にした。それから|中村《なかむら》はスツカリ|失望《しつばう》|落胆《らくたん》の|結果《けつくわ》、|発狂《はつきやう》|気味《ぎみ》になり、|遂《つひ》には|自分《じぶん》の|昔《むかし》からの|陰謀《いんぼう》を、あたりかまはず|自白《じはく》する|様《やう》になつて|来《き》た。
|余《あま》り|中村《なかむら》は|神《かみ》さまに|反対《はんたい》するので、|神罰《しんばつ》を|受《う》けて|糞壺《くそつぼ》へはまつて|死《し》んで|了《しま》ふといふ|事《こと》を|明治《めいぢ》|卅七年《さんじふしちねん》の|四月《しぐわつ》|三日《みつか》の|夜《よ》、|神《かみ》さまから|夢《ゆめ》に|見《み》せられ、|道《みち》の|栞《しをり》に|書《か》きとめておいたが、とうとう|明治《めいぢ》|卅九年《さんじふくねん》に|其《その》|夢《ゆめ》の|如《ごと》くになつて|狂《くる》ひ|死《じ》にをして|了《しま》つたのである。
|中村《なかむら》と|八木《やぎ》の|久子《ひさこ》とは|始終《しじう》|往復《わうふく》し、|内外《ないぐわい》|相応《あひおう》じて、|会長《くわいちやう》の|排斥《はいせき》|運動《うんどう》を|続行《ぞくかう》してゐた。|久子《ひさこ》は|最近《さいきん》に|至《いた》るまで、ヤハリ|喜楽《きらく》を|敵視《てきし》して|廿四年間《にじふよねんかん》|不断《ふだん》の|反対《はんたい》|運動《うんどう》を|継続《けいぞく》してゐたのである。
かういふ|具合《ぐあひ》で、|如何《どう》しても|迷信家《めいしんか》|連《れん》が|会長《くわいちやう》の|説《と》く|所《ところ》を|一《ひと》つも|用《もち》ひず、そんな|書物《しよもつ》や|学《がく》にあるやうな|教《をしへ》は|悪《あく》の|教《をしへ》だからと|云《い》つて、|一人《ひとり》も|聞《き》いてくれぬので、|澄子《すみこ》と|相談《さうだん》の|結果《けつくわ》、|再《ふたたび》|宣伝《せんでん》に|飛出《とびだ》し、|村上《むらかみ》|房之助《ふさのすけ》が|漸《やうや》く|目《め》が|醒《さ》めかけたので、|村上《むらかみ》を|従《したが》へ、|八木《やぎ》まで|行《い》つて|見《み》ると、|角文字《かくもじ》は|一切《いつさい》|使《つか》ふ|事《こと》はならぬ、|外国《ぐわいこく》の|行《や》り|方《かた》ぢやと、|盛《さか》んに|攻撃《こうげき》、|喜楽《きらく》の|書《か》いた|神号《しんがう》|迄《まで》も|焼《や》きすてさしたくせに、|八木《やぎ》の|神前《しんぜん》には|角文字《かくもじ》で、|艮金神《うしとらのこんじん》|国常立尊《くにとこたちのみこと》と|太《ふと》く|記《しる》した|提灯《ちやうちん》が|一対《いつつい》ブラ|下《さが》り、|其《その》|外《ほか》の|神具《しんぐ》にも|残《のこ》らず、|角文字《かくもじ》が|記《しる》してあつた。そこで|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『|福島《ふくしま》サン、|此《この》|字《じ》は|外国《ぐわいこく》の|文字《もじ》で、|神《かみ》さまにお|気障《きざわ》りにはなりませぬか』
と|尋《たづ》ねてみると、|福島《ふくしま》はビリビリと|眉毛《まゆげ》を|上《あ》げ|下《さ》げし、
|福島《ふくしま》『|此《この》|角文字《かくもじ》はお|前《まへ》に|懸《かか》つた|小松林《こまつばやし》が|書《か》いたのとは|違《ちが》うから|差支《さしつかへ》はない。|信者《しんじや》が|真心《まごころ》であげたのだから、|喧《やかま》しくいふな、|仮令《たとへ》|外国《ぐわいこく》の|字《じ》でも|日本人《にほんじん》の|手《て》で|書《か》いたのだ』
と|勝手《かつて》な|理屈《りくつ》をまくし|立《た》てる。そこで|喜楽《きらく》は|村上《むらかみ》と|二人《ふたり》、|八木《やぎ》を|立出《たちい》で、|北桑田《きたくはだ》|方面《はうめん》へ|布教《ふけう》に|行《い》つた。それから|二三ケ月《にさんかげつ》|経《た》つて|八木《やぎ》へ|立《たち》よつて|見《み》ると、|福島《ふくしま》は|痩衰《やせおとろ》へ、|骨《ほね》と|皮《かは》とになり、|夫婦《ふうふ》が|涙《なみだ》ぐんで|控《ひか》えて|居《ゐ》る。|様子《やうす》を|聞《き》いてみると、|艮金神《うしとらのこんじん》さまの|命令《めいれい》で、|三十日《さんじふにち》の|間《あひだ》|一日《いちにち》に|一食《いつしよく》の|修行《しうぎやう》をなし、あと|三十日《さんじふにち》は|生《なま》の|芋《いも》をかぢり、あと|三十日《さんじふにち》は|水《みづ》|許《ばか》りを|飲《の》み、あと|十日《とをか》は|水《みづ》|一滴《いつてき》も|飲《の》まずに|修行《しうぎやう》をした。|今日《けふ》が|丁度《ちやうど》|百日《ひやくにち》の|上《あが》りで、|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》は、これから|天《てん》へ|昇《のぼ》つて、|紊《みだ》れた|世《よ》の|中《なか》を|水晶《すゐしやう》に|致《いた》すお|役《やく》になつたから、|今《いま》|女房《にようばう》と|別《わか》れの|水盃《みづさかづき》をした|所《ところ》だ、|何《なん》だか|体《からだ》がフイフイとして、|独《ひと》りで|空《そら》へあがりそになつて|来《き》たといつてゐる。|喜楽《きらく》はそれとはなしに|丸山教会《まるやまけうくわい》の|或《ある》|教師《けうし》が|名古屋《なごや》で|屋上《をくじやう》|三丈《さんぢやう》|三尺《さんじやく》の|高台《たかだい》を|作《つく》り、これから|天上《てんじやう》するというて、|二百人《にひやくにん》|許《ばか》りの|信者《しんじや》は|三丈《さんぢやう》|三尺《さんじやく》の|高台《たかだい》の|下《した》から、|天明海天《てんめいかいてん》|天明海天《てんめいかいてん》と|祈《いの》つてゐた。|教師《けうし》はいつ|迄《まで》たつても|黒雲《くろくも》が|迎《むか》ひに|来《こ》ぬので、|気《き》をいらつて|宙《ちう》に|向《むか》つて|飛上《とびあが》つた|途端《とたん》に、|高台《たかだい》から|転落《てんらく》し、|大腿骨《だいたいこつ》をうつて|負傷《ふしやう》をしたといふ|事《こと》が|其《その》|頃《ころ》の|新聞《しんぶん》に|出《で》てゐたので、それを|話《はな》して|聞《き》かし|注意《ちうい》をすると、|妙《めう》な|顔《かほ》して|次《つぎ》の|間《ま》へ|入《い》つて|了《しま》ひ、|力《ちから》のない|声《こゑ》で、
|福島《ふくしま》『|今日《けふ》の|十二時《じふにじ》に|天上《てんじやう》をさす|所《ところ》であつたけれど、|小松林《こまつばやし》の|悪神《あくがみ》が|来《き》たによつて、|一時間《いちじかん》|仕組《しぐみ》をのばしたぞよ。|早《はや》く|家内《かない》の|久《ひさ》どの|小松林《こまつばやし》を|去《い》なせよ』
と|呶鳴《どな》つてゐる。|喜楽《きらく》は|福島《ふくしま》|久子《ひさこ》に|余《あま》り|気《き》の|毒《どく》でたまらぬので、|曲津《まがつ》がだましてるのだといふ|事《こと》も|出来《でき》ず、|大方《おほかた》|霊《れい》が|天《てん》へ|上《あが》るのだらうから、|肉体《にくたい》に|気《き》をつけて、|松《まつ》の|木《き》へでも|登《のぼ》りそうだつたら|止《と》めなされ……と|忠告《ちうこく》をして|帰《かへ》つたものの|心配《しんぱい》でたまらぬので、|八木《やぎ》の|或《ある》|茶店《ちやみせ》に|休《やす》んで、|福島《ふくしま》の|様子《やうす》を|遠《とほ》くから|考《かんが》へて|居《ゐ》た。もし|松《まつ》の|木《き》へでも|上《のぼ》りそうになつたら|止《と》めに|行《ゆ》かうと|思《おも》うたからである。
そしたら|福島《ふくしま》の|守護神《しゆごじん》は……|都合《つがふ》に|依《よ》つて|仕組《しぐみ》を|延《の》ばした、|明日《あす》の|朝《あさ》まで|延《の》ばした、|明後日《あさつて》まで|延《の》ばした、と|一週間《いつしうかん》|程《ほど》|延《の》ばした。|出鱈目《でたらめ》な|託宣《たくせん》をしたので、|福島《ふくしま》も|気《き》がつき、|久子《ひさこ》を|八木《やぎ》の|町《まち》へ|買物《かひもの》にやつた|不在《るす》の|間《ま》に、|四五年《しごねん》もかかつて|昼夜《ちうや》せつせと|書《か》いた|自分《じぶん》のお|筆先《ふでさき》を|一所《ひとところ》によせ、|石油《せきゆ》をかけて|一冊《いつさつ》も|残《のこ》らず|焼《や》いて|了《しま》ひ、
|福島《ふくしま》『コラおれを|騙《だま》しやがつた|悪神《あくがみ》|奴《め》が』
といきなり|御神前《ごしんぜん》をひつくりかへし、|神《かみ》さまの|祠《ほこら》を|残《のこ》らず|外《そと》へ|叩《たた》き|出《だ》して|了《しま》うたといふ|面白《おもしろ》い|物語《ものがたり》もあつた。
それから|又《また》|綾部《あやべ》より|役員《やくゐん》が|出張《しゆつちやう》して、|神《かみ》さまを|斎《まつ》り|直《なほ》し、|盛《さか》んに|会長《くわいちやう》の|攻撃《こうげき》を|続行《ぞくかう》してゐた。|会長《くわいちやう》は|澄子《すみこ》と|相談《さうだん》の|上《うへ》、|嵯峨《さが》|京都《きやうと》|伏見《ふしみ》の|支部《しぶ》などへ|気《き》をつけてやらうと|浦上《うらかみ》を|伴《つ》れて、|綾部《あやべ》を|立出《たちい》で、|園部《そのべ》に|一泊《いつぱく》してそれから|八木《やぎ》へ|立寄《たちよ》ると、|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》が|矢庭《やには》に|奥《おく》から|飛《と》んで|来《き》て、
|福島《ふくしま》『ヤア|四足《よつあし》が|来《き》よつたシーツシーツ』
と|追《お》ひまくり、ピユーピユーと|痰《たん》を|吐《は》きかけ、
|福島《ふくしま》『サア|早《はや》う|去《い》ね|去《い》ね、|汚《けが》らはしい』
と|箒《はうき》ではき|立《た》てる。モウ|斯《か》うなつては、|何程《なにほど》|事《こと》を|解《わ》けて|諭《さと》してもダメだと|思《おも》ひ、|匆々《さうさう》にここを|出立《しゆつたつ》して、|嵯峨《さが》の|信者《しんじや》の|友川《ともかは》|弥一郎《やいちらう》といふ|家《うち》に|出張《しゆつちやう》した。ここには|支部《しぶ》が|拵《こしら》へてあつて、|喜楽《きらく》の|教《をしへ》を|遵奉《じゆんぽう》してゐた|熱心《ねつしん》な|信者《しんじや》である。|然《しか》るに|友川《ともかは》の|態度《たいど》がいつとはなしに、|極《きは》めて|冷淡《れいたん》になつて|居《ゐ》るので|妻君《さいくん》に|聞《き》いて|見《み》ると……、|今朝《けさ》|大本《おほもと》から|畑中《はたなか》|伝吉《でんきち》サンが|出《で》て|来《き》て、|今《いま》|上田《うへだ》の|貧乏神《びんばふがみ》がお|前《まへ》の|所《ところ》へ|来《く》るだらうから、|敷居《しきゐ》|一《ひと》つまたげさしても|汚《けが》れる、キツと|貧乏《びんばふ》するか、|大病《たいびやう》になるによつて、|艮金神様《うしとらのこんじんさま》や|教祖《けうそ》の|御命令《ごめいれい》で|気《き》をつけに|来《き》たのだといつて、|帰《かへ》らはりました、そしてこれから|京都《きやうと》や|伏見《ふしみ》の|方《はう》へ|知《し》らしに|行《ゆ》くといつて|出《で》られました……と|包《つつ》まず|隠《かく》さず|述《の》べ|立《た》てた。そこで|海潮《かいてう》は|浦上《うらかみ》と|共《とも》に|京都《きやうと》の|三ケ所《さんかしよ》の|支部《しぶ》を|尋《たづ》ねて|見《み》たが、どこもかしこも|箒《はうき》で|掃《は》き|出《だ》したり、|敷居《しきゐ》を|跨《また》げさしてくれぬ、|仕方《しかた》がないので、|明治座《めいぢざ》の|少《すこ》し|東《ひがし》の|横町《よこちやう》に|畑中《はたなか》の|親類《しんるゐ》で、|高町《たかまち》といふ|信者《しんじや》があるので、そこを|訪問《はうもん》して|見《み》ると|家内中《かないぢう》|二階《にかい》へ|上《あが》つて|了《しま》ひ、|首《くび》のゆがんだ、|少《すこ》し|間《ま》のぬけたやうな|女《をんな》が|一人《ひとり》、|坐《すわ》つて|居《ゐ》る。それは|畑中《はたなか》の|妹《いもうと》でお|鯛《たひ》といふ|女《をんな》であつた。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『お|鯛《たひ》サン、|高町《たかまち》サンは|何処《どこ》へ|行《い》つたかな』
と|尋《たづ》ねると、
お|鯛《たひ》『|何処《どこ》へ|行《い》つたか|知《し》りませぬ、ここ|三日《みつか》や|十日《とをか》は|帰《かへ》らぬというて、|他所《よそ》へ|行《ゆ》かはりました』
と|云《い》ふ。
|喜楽《きらく》『そんならお|藤《ふぢ》サンは|何処《どこ》へ|行《い》つたか』
と|聞《き》いて|見《み》ると、
お|鯛《たひ》『|一寸《ちよつと》よそへ|行《い》かはりました』
といふ。
|喜楽《きらく》『|晩《ばん》には|帰《かへ》つて|来《く》るだらうな』
と|聞《き》いて|見《み》ると、
お|鯛《たひ》『イエ|晩《ばん》になつても|帰《かへ》らはりしまへん、|高町《たかまち》サンもお|藤《ふぢ》サンも|晩《ばん》にも|帰《かへ》らはりしまへん』
と|垣《かき》をする。|晩《ばん》に|帰《かへ》ると|云《い》へば|又《また》|夕方《ゆふがた》に|来《こ》られては|困《こま》ると、|予防線《よばうせん》をはつて|居《ゐ》たのである。それから|外《ほか》の|人《ひと》の|宿所《しゆくしよ》を|尋《たづ》ねて|見《み》たけれど、|何《なに》を|言《い》うても、|知《し》らぬ|知《し》らぬの|一点張《いつてんばり》で|仕方《しかた》がないので『|女《をんな》が|夜《よ》さり|内《うち》に|居《を》らぬ|様《やう》な|事《こと》では、どうで|碌《ろく》な|事《こと》をして|居《ゐ》るのではなからう……』と|腹立紛《はらたちまぎ》れに|二階《にかい》へワザと|聞《きこ》える|様《やう》に|言《い》ひ|放《はな》つてそこを|立《た》ち、|七条通《しちでうどほり》まで|下《くだ》つて|来《く》ると、|浦上《うらかみ》は|三牧《みまき》|次三郎《じさぶらう》や|西村《にしむら》|栄次郎《ゑいじらう》といふ|信者《しんじや》の|家《うち》を|訪問《はうもん》すると|云《い》うて|別《わか》れ、|西田《にしだ》が|伏見《ふしみ》|方面《はうめん》からやつて|来《き》たのに|出会《しゆつくわい》し、|一所《いつしよ》に|伏見《ふしみ》や|宇治《うぢ》の|方面《はうめん》へ|宣伝《せんでん》に|行《ゆ》く|事《こと》とした。
|高瀬川《たかせがは》に|添《そ》うて|勧進橋《くわんじんばし》の|傍《そば》まで|下《くだ》り|乍《なが》ら、
|西田《にしだ》『|畑中《はたなか》の|奴《やつ》、どこからどこ|迄《まで》も|自分等《じぶんら》の|邪魔《じやま》をしやがる、|大方《おほかた》|伏見《ふしみ》の|方《はう》へも|行《い》つてるに|違《ちがひ》ない。|彼奴《あいつ》がもしもここへやつて|来《き》やがつた|位《くらゐ》なら、|此《この》|高瀬川《たかせがは》へ|放《はう》り|込《こ》んでやるのだけれど』
などと|西田《にしだ》が|憤慨《ふんがい》し|乍《なが》らフト|顔《かほ》をあげて|見《み》ると、|畑中《はたなか》|伝吉《でんきち》が|風呂敷包《ふろしきづつみ》を|負《お》うて|真赤《まつか》な|顔《かほ》をして|出《で》て|来《く》るのにベツタリ|出会《でくわ》した。|京都《きやうと》|伏見《ふしみ》|間《かん》の|電鉄《でんてつ》がそこへ|来《き》て|停車《ていしや》した。|呶鳴《どな》る|訳《わけ》に|行《ゆ》かず、
|喜楽《きらく》『オイ|畑中《はたなか》|又《また》|邪魔《じやま》しにまはつたな』
といふと|畑中《はたなか》は『ホイホイホイ』といつて|走《はし》り|出《だ》し|二三丁《にさんちやう》|許《ばか》り|行《い》つて|振《ふ》り|返《かへ》り、ヤレまあ|安心《あんしん》だといふ|様《やう》な|風《ふう》をして|居《ゐ》る。|会長《くわいちやう》は|大声《おほごゑ》で……『|馬鹿《ばか》ツ』と|二口《ふたくち》|三口《みくち》|呶鳴《どな》ると|西田《にしだ》が、
|西田《にしだ》『こんな|所《とこ》で|大声《おほごゑ》で|呶鳴《どな》る|者《もの》が|馬鹿《ばか》です』
と|気《き》をつけたので、
|喜楽《きらく》『ホンに|呶鳴《どな》る|方《はう》が|馬鹿《ばか》だなア』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|伏見《ふしみ》の|信者《しんじや》を|二三《にさん》|尋《たづ》ねて|見《み》ると、|又《また》|箒《はうき》で|掃《は》き|出《だ》し、|閾《しきゐ》を|跨《また》がさぬ。
『|貧乏神《びんばふがみ》サン、|小松林《こまつばやし》サン|去《い》んで|下《くだ》され』
と|連呼《れんこ》し|冷遇《れいぐう》するので|這入《はい》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かずはるばる|宇治《うぢ》まで|行《い》つて、|御室《みむろ》の|支部《しぶ》を|訪問《はうもん》すると、ここも|又《また》|畑中《はたなか》の|注進《ちうしん》によつて|冷淡《れいたん》|至極《しごく》な|態度《たいど》を|示《しめ》して|居《ゐ》る。
そこで|西田《にしだ》と|別《わか》れ、|喜楽《きらく》は|只《ただ》|一人《ひとり》|京都《きやうと》まで|帰《かへ》り、|三牧《みまき》の|宅《うち》で|浦上《うらかみ》と|会《くわい》し、たつた|一銭《いつせん》|五厘《ごりん》より|二人《ふたり》の|中《なか》に|金子《きんす》がないので、|徒歩《とほ》で|愛宕山《あたごやま》を|越《こ》え、|保津《ほづ》へ|出《い》で、|八木《やぎ》へ|立寄《たちよ》り、|又《また》もや|放《はう》り|出《だ》され、|雨《あめ》のビシヨビシヨ|降《ふ》る|中《なか》を|震《ふる》ひ|震《ふる》ひ|園部《そのべ》の|浅井《あさゐ》まで|帰《かへ》つて、|麦飯《ばくはん》でも|喰《く》はして|貰《もら》はうと|思《おも》ひ、|立寄《たちよ》つて|見《み》ると、ここも|又《また》|冷淡《れいたん》な|態度《たいど》で|茶《ちや》も|呑《の》まさず|去《い》んでくれと|云《い》ふ。|仕方《しかた》なしに|又《また》もや|檜山《ひのきやま》まで|帰《かへ》り、|坂原《さかはら》へ|立寄《たちよ》ると|坂原《さかはら》は|折《をり》ふし|不在《ふざい》で、|妻君《さいくん》が|一人《ひとり》|残《のこ》つて|居《を》り、
『|今《いま》|綾部《あやべ》から|畑中《はたなか》サンが|出《で》て|来《き》て、|茶《ちや》|一杯《いつぱい》|呑《の》ましてはならぬ、|艮金神《うしとらのこんじん》さまのお|気障《きざわ》りになると|言《い》ははりましたから、どうぞこれぎり、あんたにはすみませぬけれど、|小松林《こまつばやし》サンが|改心《かいしん》しやはるまでよつて|下《くだ》さるな』
といふ。|二人《ふたり》は|破草鞋《やぶれわらぢ》を|拾《ひろ》つて|足《あし》につけ、|坂路《さかみち》を|上《のぼ》り|下《くだ》り、|漸《やうや》く|須知山《すちやま》の|峠《たうげ》まで|出《で》て|来《き》た。そこに|蒟蒻《こんにやく》を|売《う》つてるので、|蒟蒻《こんにやく》を|一銭《いつせん》|五厘《ごりん》で|三枚《さんまい》|買《か》ひ、|宇治《うぢ》から|二十四里《にじふより》の|道《みち》を|空腹《くうふく》を|抱《かか》えて|帰《かへ》つて|来《き》たこととて|何《なん》とも|知《し》れぬ|甘《うま》さであつた。それから|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》り、|浦上《うらかみ》はこりごりして|餅屋《もちや》を|始《はじ》め|出《だ》し、|喜楽《きらく》が|神様《かみさま》を|祭《まつ》つてやつて|非常《ひじやう》に|繁昌《はんぜう》をし|出《だ》した。さうするとソロソロ|浦上《うらかみ》が|慢心《まんしん》し|出《だ》し、|神様《かみさま》の|悪口《あくこう》や|喜楽《きらく》の|行方《やりかた》までも|非難《ひなん》し、|頻《しき》りに|反対《はんたい》を|始《はじ》めて|居《ゐ》たが、とうとう|養鶏場《やうけいぢやう》を|開設《かいせつ》して|大損失《だいそんしつ》を|招《まね》き、|折角《せつかく》|儲《まう》けた|金《かね》も|一文《いちもん》も|残《のこ》らずなくした|上《うへ》、|沢山《たくさん》の|借金《しやくきん》を|拵《こしら》へ、|親族《しんぞく》や|其《その》|外《ほか》の|人々《ひとびと》に|損害《そんがい》をかけて|綾部《あやべ》にも|居《を》られず|位田《ゐでん》へ|逃《に》げ|帰《かへ》り、|細々《ほそぼそ》と|豆腐屋《とうふや》を|営《いとな》んで|居《ゐ》る。
(大正一一・一〇・一九 旧八・二九 松村真澄録)
第二八章 |金明水《きんめいすゐ》〔一〇六五〕
|明治《めいぢ》|三十四年《さんじふよねん》|旧《きう》|五月《ごぐわつ》|十六日《じふろくにち》、|出口《でぐち》|教祖《けうそ》|始《はじ》め、|上田《うへだ》|会長《くわいちやう》、|出口《でぐち》|澄子《すみこ》、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》、|中村《なかむら》|竹蔵《たけざう》、|内藤《ないとう》|半吾《はんご》、|野崎《のざき》|宗長《むねなが》、|木下《きのした》|慶太郎《けいたらう》、|福林《ふくばやし》|安之助《やすのすけ》、|竹原《たけはら》|房太郎《ふさたらう》、|上田《うへだ》|幸吉《かうきち》、|杉浦《すぎうら》|万吉《まんきち》ら|一行《いつかう》|十五人《じふごにん》は、|皐月《さつき》の|曇《くも》つた|空《そら》を|目当《めあて》に|徒歩《とほ》にて|出雲《いづも》の|大社《おほやしろ》へ|神明《しんめい》を|奉《ほう》じて|参拝《さんぱい》することとなつた。|此《この》|参拝《さんぱい》が|無事《ぶじ》に|済《す》めば、|何《なに》もかも|神界《しんかい》の|因縁《いんねん》が|判《わか》り、|大望《たいもう》が|成就《じやうじゆ》するものだと、|役員《やくゐん》|一同《いちどう》の|考《かんが》へであつたらしい。
|先《ま》づ|立原《たつばら》で|一宿《いつしゆく》し、それから|十里《じふり》|程《ほど》|歩《ある》いては|泊《とま》りなどして、|漸《やうや》く|但馬《たじま》の|八鹿《やうか》へ|着《つ》いた。さうすると|道々《みちみち》|役員連《やくゐんれん》の|空想的《くうさうてき》|談話《だんわ》が|始《はじ》まつて|来《き》た。そこで|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『そんな|事《こと》|思《おも》うて|居《ゐ》るとあてが|違《ちが》ふ』
と|一口《ひとくち》|云《い》つたら|大変《たいへん》に|役員《やくゐん》の|機嫌《きげん》を|損《そん》じ、|喜楽《きらく》に|対《たい》して|余程《よほど》|冷淡《れいたん》な|扱《あつか》ひをするやうになり、『ナアニお|前等《まへら》がそんなことが|分《わか》るものか、|御筆先《おふでさき》に|出雲《いづも》へいつたら|因縁《いんねん》が|分《わか》ると|書《か》いてある』……と|威張《ゐば》りちらす。|教祖《けうそ》は|教祖《けうそ》で、|出雲《いづも》へさへいつてくれば|皆《みな》の|改心《かいしん》が|出来《でき》る……とすましたものである。|途中《とちう》で|四方《しかた》|春三《はるざう》の|亡霊《ばうれい》が|役員《やくゐん》にうつつて、|澄子《すみこ》と|会長《くわいちやう》との|間《あひだ》を|不和《ふわ》ならしめやうとかかり、|両人《りやうにん》は|其《その》|亡霊《ばうれい》の|為《ため》に|非常《ひじやう》に|悩《なや》まされ、|途々《みちみち》|議論《ぎろん》を|衝突《しようとつ》させ|乍《なが》ら、|日《ひ》を|重《かさ》ねて|鳥取《とつとり》に|着《つ》いた。それから|千代川《せんだいがは》を|汚《きたな》い|舟《ふね》に|乗《の》つて|加露ケ浜《かろがはま》に|出《い》で、|加露ケ浜《かろがはま》から|舟《ふね》に|乗《の》つて|三保《みほ》の|関《せき》に|着《つ》かうと|計画《けいくわく》したのである。
|恰度《ちやうど》|海《うみ》が|荒《あ》れて|三日間《みつかかん》|船《ふね》を|出《だ》す|事《こと》が|出来《でき》ず、|加露ケ浜《かろがはま》の|旅館《りよくわん》で|一行《いつかう》|十五人《じふごにん》が|泊《とま》り|込《こ》み|海上《かいじやう》の|凪《な》ぎ|渡《わた》るのを|待《ま》つこととした。|其《その》|時《とき》|恰《あたか》も|海軍《かいぐん》|中将《ちうじやう》|伊東《いとう》|祐亨《いうきよう》|氏《し》が|山陰《さんいん》|沿海《えんかい》|視察《しさつ》の|為《ため》にやつて|来《き》て|同《おな》じ|宿屋《やどや》に|泊《とま》つてゐた。|教祖《けうそ》が|筆先《ふでさき》を|一枚《いちまい》|書《か》いて、|伊東《いとう》|中将《ちうじやう》に|宿屋《やどや》の|亭主《おやぢ》の|手《て》から|渡《わた》され、よく|査《しら》べてくれ……といはれたが、それきりで|何《なん》の|返答《へんたふ》も|聞《き》かなかつた。
|喜楽《きらく》は|夜中《よなか》|頃《ごろ》に|妙《めう》な|夢《ゆめ》を|見《み》た。それは|海潮《かいてう》が|際限《さいげん》もなき|原野《げんや》に|立《た》つてゐると、|東《ひがし》の|方《はう》から|大《おほ》きな|太陽《たいやう》とも|月《つき》とも|分《わか》らぬが、|昇《のぼ》られてだんだんこちらへ|近付《ちかづ》き、|澄子《すみこ》の|懐《ふところ》へ|這入《はい》られた|夢《ゆめ》を|見《み》て|目《め》がさめた。|此《この》|月《つき》すでに|澄子《すみこ》は|妊娠《にんしん》してゐたのである。それから|翌年《よくねん》の|正月《しやうぐわつ》|二十八日《にじふはちにち》に|女子《ぢよし》が|生《うま》れたので、|朝野《あさの》に|立《た》つてゐた|夢《ゆめ》を|思《おも》ひ|出《だ》し、|朝野《あさの》と|名《な》をつけた。これは|在朝在野《ざいてうざいや》の|人々《ひとびと》を|済度《さいど》する|子《こ》になるだろうといふ|考《かんが》へと|二《ふた》つをかねて|命《つ》けたのであつた。さうすると|朝野《あさの》が|四《よつ》つになつた|年《とし》、|自分《じぶん》から……わしは|朝野《あさの》ぢやない|直日《なほひ》ぢやと|言《い》ひ|出《だ》したので、|直日《なほひ》と|呼《よ》ぶやうになつたのである。|三日目《みつかめ》の|朝《あさ》、|又《また》もや|磯端《いそばた》を|伝《つた》ひに|十里《じふり》|許《ばか》り|西《にし》へ|進《すす》んで|一泊《いつぱく》し|翌朝《よくてう》|船《ふね》を|仕立《した》てて、|三保《みほ》の|関《せき》に|渡《わた》り|神社《やしろ》に|参拝《さんぱい》し、|中《なか》の|海《うみ》|宍道湖《しんじこ》を|汽船《きせん》に|乗《の》つて|平田《ひらた》に|上陸《じやうりく》し、|徒歩《とほ》にて|大社《おほやしろ》の|千家《せんけ》|男爵《だんしやく》の|門前《もんぜん》の|宮亀《みやかめ》といふ|旅館《りよくわん》に|一行《いつかう》|十五人《じふごにん》|投宿《とうしゆく》した。
|二三日《にさんにち》|逗留《とうりう》の|上《うへ》|神火《しんくわ》と|御前井《ごぜんゐど》の|清水《せいすい》、|社《やしろ》の|砂《すな》を|戴《いただ》き、|二個《にこ》の|火繩《ひなは》に|火《ひ》をつけて|帰途《きと》につき、|稲佐《いなさ》の|小浜《こはま》から|松江丸《まつえまる》といふ|汽船《きせん》に|乗《の》つて|境港《さかひかう》につき、それから|徒歩《とほ》にて|米子《よなご》に|至《いた》り、|一日《いちにち》|計《ばか》り|歩《ある》いて|又《また》もや|今度《こんど》は|帆船《はんせん》に|乗《の》り、|加露ケ浜《かろがはま》の|少《すこ》し|東《ひがし》、|岩井《いはゐ》の|磯《いそ》ばたにつき、|行《ゆき》がけに|泊《とま》つた|駒屋《こまや》の|温泉場《をんせんば》に|再《ふたたび》|一泊《いつぱく》し、|又《また》もや|山坂《やまさか》を|越《こ》えて|旧《きう》|六月《ろくぐわつ》の|四日《よつか》|福知山《ふくちやま》まで、|数百人《すうひやくにん》の|信者《しんじや》に|迎《むか》へられ、|漸《やうや》く|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|来《き》た。|途中《とちう》|澄子《すみこ》は|産婦《さんぷ》に|免《まぬ》がれがたきツワリで|非常《ひじやう》に|苦《くるし》み、|石原《いさ》から|時田《ときだ》や|其《その》|外《ほか》の|大男《おほをとこ》の|背中《せなか》に|負《お》はれて|帰《かへ》つて|来《き》た。
それから|其《その》|火《ひ》を|百日間《ひやくにちかん》|埋《うづ》み|火《び》として|役員《やくゐん》|二人《ふたり》が|昼夜《ちうや》|保存《ほぞん》し、|百日目《ひやくにちめ》に|十五本《じふごほん》の|蝋燭《らふそく》に|火《ひ》を|点《てん》じ、|天照大御神《あまてらすおほみかみ》さまへ|捧《ささ》げることとした。|又《また》|砂《すな》を|本宮山《ほんぐうさん》や|竜宮館《りうぐうやかた》の|周囲《しうゐ》に|撒布《さんぷ》し|三四ケ所《さんしかしよ》の|井戸《ゐど》に|水《みづ》を|注《そそ》ぎ、|大島《おほしま》の|井戸《ゐど》へ|天《あま》の|岩戸《いはと》の|産盥《うぶだらひ》の|水《みづ》を|一所《いつしよ》にしてほり|込《こ》み、|金明水《きんめいすい》と|名《な》をつけたのである。|其《その》|水《みづ》を|竹筒《たけつつ》に|入《い》れ|其《その》|年《とし》の|旧《きう》|六月《ろくぐわつ》|八日《やうか》に|教祖《けうそ》は|会長《くわいちやう》、|澄子《すみこ》|其《その》|他《た》|四十人《よんじふにん》|計《ばか》りの|信者《しんじや》と|共《とも》に|沓島《めしま》へ|渡《わた》り、|其《その》|水《みづ》を|海《うみ》に|投《とう》じ、|此《こ》の|水《みづ》が|世界中《せかいぢう》を|廻《まは》つた|時分《じぶん》には|日本《にほん》と|露国《ろこく》との|戦争《せんそう》が|起《おこ》るから、どうぞ|大難《だいなん》を|小難《せうなん》に|祭《まつ》りかへて|貰《もら》ふやうに、|元伊勢《もといせ》の|御水《おみづ》と|出雲《いづも》の|御水《おみづ》と、|竜宮館《りうぐうやかた》の|御水《おみづ》と|一所《いつしよ》にして|竜神《りうじん》さまにお|供《そな》へするといつて|祈願《きぐわん》をこめて|帰《かへ》つて|来《こ》られたが、それから|丁度《ちやうど》|三年目《さんねんめ》に|日露《にちろ》|戦争《せんそう》が|起《おこ》つたのである。
|出雲《いづも》|参拝後《さんぱいご》は|教祖《けうそ》の|態度《たいど》がガラリと|変《かは》り、|会長《くわいちやう》に|対《たい》し|非常《ひじやう》に|峻烈《しゆんれつ》になつて|来《き》た。そして|反対的《はんたいてき》の|筆先《ふでさき》も|沢山《たくさん》|出《で》るやうになつて|来《き》た。|澄子《すみこ》が|妊娠《にんしん》したので、|最早《もはや》|会長《くわいちやう》は|何程《なにほど》|厳《きび》しく|云《い》つても|帰《かへ》る|気遣《きづかひ》はないと、|思《おも》はれたからであらうと|思《おも》ふ。それ|迄《まで》は|何事《なにごと》も|言《い》はず|何時《いつ》も|役員《やくゐん》が|反対《はんたい》しても|弁護《べんご》の|地位《ちゐ》に|立《た》つて|居《を》られたのである、いよいよ|明治《めいぢ》|卅四年《さんじふよねん》の|十月《じふぐわつ》|頃《ごろ》から、|会長《くわいちやう》が|変性男子《へんじやうなんし》に|敵対《てきた》うといつて、|弥仙山《みせんざん》へ|岩戸《いはと》がくれだといつて|逃《に》げて|行《い》つたりせられたので、|役員《やくゐん》の|反抗心《はんかうしん》をますます|高潮《かうてう》せしめ、|非常《ひじやう》に|海潮《かいてう》、|澄子《すみこ》は|苦心《くしん》をしたのであつた。それから|大正《たいしやう》|五年《ごねん》の|九月《くぐわつ》|九日《ここのか》まで|何《なに》かにつけて|教祖《けうそ》は|海潮《かいてう》の|言行《げんかう》に|対《たい》し、|一々《いちいち》|反抗的《はんかうてき》|態度《たいど》をとつてゐられたが、|始《はじ》めて|播州《ばんしう》の|神島《かみじま》へ|行《い》つて|神懸《かみがか》りになり、|今迄《いままで》の|自分《じぶん》の|考《かんがへ》が|間違《まちが》つてゐたと|仰《あふ》せられ、|例《れい》の|御筆先《おふでさき》まで|書《か》かれたのである。
|今日《こんにち》|迄《まで》の|経路《けいろ》を|述《の》べ|立《た》つれば|際限《さいげん》がなけれ|共《ども》|只《ただ》|霊界物語《れいかいものがたり》を|口述《こうじゆつ》するに|当《あた》り、|大本《おほもと》の|大要《たいえう》を|述《の》べておくのも|強《あなが》ち|無用《むよう》ではないと|信《しん》じ、ここに|其《その》|一端《いつたん》を|古《ふる》き|記憶《きおく》より|呼《よ》び|出《だ》し、|述《の》ぶることとした。まだまだ|口述《こうじゆつ》したきことは|沢山《たくさん》あれ|共《ども》、|紙面《しめん》の|都合《つがう》に|依《よ》つて|本巻《ほんくわん》にて|止《と》めおくことにする。|後日《ごじつ》|折《をり》を|見《み》て|詳《くは》しく|発表《はつぺう》するかも|知《し》れぬ。
|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・一〇・一九 旧八・二九 松村真澄録)
(昭和一〇・六・一〇 王仁校正)
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霊界物語 第三八巻 舎身活躍 丑の巻
終り